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富士銀行
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株式会社富士銀行(ふじぎんこう、英称: The Fuji Bank, Limited)は、かつて東京都千代田区大手町に存在した日本の都市銀行。現みずほ銀行の前身のひとつ。2000年よりみずほホールディングス、2003年よりみずほフィナンシャルグループの傘下に入った。英略は「FBK」。芙蓉グループの中核企業。通称「都銀の雄」。
この項目では同行の前身である安田財閥の安田銀行についても説明する。
1864年、安田財閥の創始者・安田善次郎は江戸日本橋乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業した。2年後の1866年には日本橋小舟町へ移り安田商店と改称。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣や公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力。1870年に正金金札等価通用布告がなされると、これらを額面引き換えし更なる巨万の利益を得ることになる。
1876年、この強固な資本を基盤に川崎八右衛門と共に日本橋小舟町に第三国立銀行を開業。また1880年には、本体の安田商店を合本安田銀行に改組した。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3(本店、栃木支店、宇都宮支店)をもって銀行としての歴史が始まった。明治の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くする。そして、当時の東京府東京市や大阪府大阪市の二府もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務(指定金融機関)としての地位、「公金の安田」の名声を築いていくこととなる。
時代が大正に移ると、第一次世界大戦や関東大震災、それに続く不況によって社会情勢は不安定化。資金力・信用力が脆弱な中小の銀行は経営難に陥ったが、安田銀行はこれを援助し、時には吸収・合併を行い預金者の救済にあたった。こうして親密となった11行が1923年に大合同して新:安田銀行となる。資本金1億5000万円、預金5億4200万円、貸出金5億2100万円、店鋪数211、従業員数3,700人などいずれの分野においても国内首位となり、この座は1971年の第一勧業銀行誕生まで不動であった。
初代安田銀行末期の店舗網は栃木県から東北方向に伸びていた。
終戦後の財閥解体によって安田銀行は安田家と決別する意思のもとに、1948年(昭和23年)、富士銀行と改称。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、「国民」「共立」「日本商業」「富士」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった公金取り扱いに加えて、芙蓉グループの結成により一大企業系列の中核となった。1948年時点で新資本金13億5000万円、従業員数7899人、店舗数189であり、読んで字の如く「日本最大の銀行」が誕生した。
上記の通り富士銀行は終戦後、しばらく都市銀行界においてトップの地位にあった。だが、2位の三菱銀行、3位の住友銀行が企業集団を背景にトップの座を目指し猛攻を開始。旧安田財閥には事業部門に優良企業がなかったため、富士銀行は苦戦が目立ち始めた。そこで、案出された戦略が「経済主流取引」であった。「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体(当時は大企業)取引を強化しメインバンクとなることであり、富士銀行は東京大学(東京帝国大学)出身の優秀な行員を企画部に配置。「経済主流取引」を任せられる有為な人材の育成に力を注いだ。この「経済主流取引」が全店レベルで実践に移されると、重点を置く企業の取引担当店(主管店)が取引先を調べ、その取引先の所在地の支店と協力しながら、取引を開拓する「躍進三大運動」(預金の躍進、基盤の確立、合理化)を展開した。なお、この「経済主流取引」なる用語を考えた出したのは業務部綜合企画課課長代理であった松澤卓二(のち頭取)であった。
富士銀行を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1950年代のことである。当時常務であった岩佐凱実(のち頭取)が中心となって有力取引先の社長らと懇談を重ね、融資先とのコネクションの形成を担った。そうした中、髙島屋から分離して発足した商社の高島屋飯田が経営不安に陥り、再建策が俎上に載った。当初三井物産などに営業譲渡が模索されたが、結果として富士の主導で丸紅との合併話が進み、丸紅飯田(のち丸紅に改称)が誕生した。これに伴い、融資系列も住友銀行から富士の系列となり、丸紅は富士における融資系列を代表する企業となった。加えて丸紅は富士の融資系列企業との商取引も拡大。これによって、従前、繊維部門偏重だった丸紅は総合商社として脱皮することに成功した。こうして、資金の流れを管理する銀行・モノの流れを管理する商社からなる戦後高度経済成長の企業集団に必要な2つの要素が揃い、芙蓉グループの基礎が整った。
昭和40年代、日本企業の相次ぐ海外進出やユーロ市場拡大が目立ち始め、銀行業界にも本格的に国際化の波が押し寄せて来た。富士銀行は既に1952年の時点で、第二次世界大戦後初の海外拠点として富士銀行ロンドン支店(場所はフィンスベリーサーカス)を開設していたほか、1956年のニューヨーク支店開設により世界二大金融市場に進出するなど、国際化時代を見越した海外活動を展開していた。昭和40年代にはスイス、東南アジア等に駐在事務所や現地法人を開設して海外拠点網を整備、外国銀行との提携を推し進めた。
個人向け業務の分野でも「みなさまの富士銀行」をキャッチコピーに掲げ、創業80周年を迎える1960年には「カラコロ富士へ」(=下駄履きで気軽に入れる銀行)を新たに採用。法人・個人の双方に強い名門都銀として、また東京都及び特別区との強いつながりから「都銀の雄」、「東京の地銀」として長らく歩んだ。
こうして紛れもない上位行として君臨するが、1970年代以降は第一勧業銀行が発足して長年君臨していた預金量業界トップの座を奪われるなど、その地位は徐々に低下していた。このため、1970年代後半には同じく都銀上位行であった三和銀行との合併を画策し、業界トップの座の奪回を狙っていた。東京本店の富士銀行と大阪本店の三和銀行は店舗網のバランスでも補完性が非常に高く、経営状態、総資産も両行ほぼ同じで事実上の非財閥銀行同士であり、吸収されるリスクも皆無であったため互いに合併のメリットが大きかった。更に三和銀行系の多くの企業が富士銀行を準主力行、もしくは三和銀行と並ぶ主力行にしていたため、合併交渉も順調に進み三和とは合意寸前にまで達したが、金融業界全体が護送船団方式にどっぷりつかっていた当時では「巨大銀行の誕生は預金の寡占につながり、銀行業界にとって好ましくない」という理由で大蔵省からの認可が下りなかったため、この合併はご破算となってしまった。
1980年代に入ると、住友銀行が積極的な営業を展開する中、平和相互銀行を吸収合併。首都圏攻勢の足場を築き、バブル期に突入するとより一層営業に力を入れた。焦る富士は対抗して営業部隊を投入、白兵戦を繰り広げ「FS戦争」(両社の頭文字から。「富士住友戦争」とも言う)と呼ばれる熾烈な貸出競争を繰り広げ、1988年10月、住宅を担保にどんな使途でも自由に使えるカードローンである「住活ローン」の取り扱いを拡大し、翌年9月には「絵画担保ローン」も導入。バブル景気に踊った。ちなみに1989年(平成元年)に発表された世界時価総額ランキングではNTT、日本興業銀行、住友銀行に次いで世界第4位(670.8億ドル)であった。
また富士は、元々は三和銀行と繋がりの深かった大阪に本店を置く有力な信用組合であった大阪府民信用組合の経営に深く関与するようになり、富士から府民信組に対する紹介預金の過半がイトマン事件で逮捕された許永中や伊藤寿永光の関連企業に流れていたことが発覚した。さらに当時の府民信組理事長が画策していた大阪南部を基盤としていた河内信用組合と府民信組の合併が実現した際には、府民信組理事長は余剰となった店舗を富士に譲り渡すとの内諾を富士の関西駐在役員と交わしていた。
1990年代、不良債権問題・金融システム不安の拡大と並行して、富士銀行の経営は悪化の一途を辿る。金融ビッグバンの流れに乗って1994年に富士証券(現:みずほ証券)・1996年に富士信託銀行(現:みずほ信託銀行)を設立するなど業績改善を図ったが、いずれも収益の柱となるには至らなかった。また、前年に日本興業銀行に合併の打診をしたが、破談になった。しかし、これが第一勧銀・興銀との統合へとつながったことは否めない。
山一證券のメインバンクは富士銀行、三菱銀行、日本興業銀行の3行であった。山一の新体制発足後から再建案作成のために,担当者を派遣し本格的に山一の経営状態の実態把握に着手し始めた。3行のなかでは特に富士銀行が、この再建案作成の過程を先導していた。しかし、関連会社と山一との関係が不明確であるため作業は難航した。富士銀行の一角に「山一再建室」が設けられ、実態解明が進められた。作業に参加した大蔵省(現在の財務省)が調査した際、1965年3月末時点で山一證券の赤字は資本金60億円に対し実に282億円にまで膨張していたが、実際に公表されていた数字は84億円であった。
1965年5月21日の西日本新聞の朝刊記事によって「昭和40年の証券恐慌」下の日銀特融は始まった。大蔵省は報道による金融不安の発生を憂慮し、 在京報道機関に報道の自粛を要請していたが、西日本新聞はこの自粛協定に加わっていなかったため、独自取材に基づいて掲載に踏み切ったからである。28日、東京都港区赤坂の日銀氷川寮で、政府・金融界トップの極秘会談が行われた。出席者は田中角栄蔵相、佐藤一郎大蔵事務次官、高橋俊英銀行局長、加治木俊道財務局調査官、佐々木直日銀副総裁、中山素平興銀頭取、岩佐凱実富士頭取、田実渉三菱頭取の3銀行頭取であった。議論は百出し、2時間に及ぶ小田原評定となった。田実渉が「この際、証券取引所を閉めて、ゆっくり今後の方策を考えたらどうですか」と発言したのに対し、田中蔵相は「それでも銀行の頭取か。これがもし銀行のことだったらキミはどうするのか」と一喝した。驚いた中山らが取り直して急転直下、山一證券に対し日本銀行により日銀特融が行われることになった。 日本銀行法第25条発動の効果は直ちに現れたというわけではなかったが、次第に解約状況も落ち着きが見られるようになった。
1997年11月、山一證券が自主廃業した。四面楚歌の山一証券にとって頼みの綱はメインバンクの富士銀行と大蔵省だった。だが、この時「飛ばし」(すなわち顧客企業との取引で評価損を生じた場合、決算で損失が表面化しないよう決算期の異なる企業間で含み損のある有価証券を転売する行為)による簿外債務が2600億円にものぼっていた。これを織り込むと、証券会社の健全性を示す自己資本規制比率は危機ラインの120%を下回っていたため、大蔵省に報告すれば、直ちに業務停止命令を受けるのは確実であった。「メインバンクの富士銀行にすがるしかない」、と山一證券は一縷の望みを富士に託した。それまで飛ばしの疑惑が報道されるたびに、富士銀は真相をただしてきたが、山一證券首脳陣は一貫して否定してきた。富士の山一證券に対する不信感は根強く、1997年春に要請を受けた劣後ローンも拒否した 。富士銀行が簿外債務の件を知ったのは、10月6日に山一證券常務の渡辺と前副社長の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて簿外債務の存在を明らかにすると共に再建計画を説明し支援を求めたときだった。11月11日に出された山一證券への最終回答としては「劣後ローンは250億円程度が限度で、過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れること」だった。
親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、株価が暴落する事態になった。同年6月に1,860円だった富士銀行株は、翌1998年(平成10年)10月には252円まで値下がりしている。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて行員1,700名のリストラを余儀なくされた。金融早期健全化法に基づく公的資金注入は、都市銀行の中でも最大規模の1兆円に達した。
1999年には系列の安田信託銀行(現:みずほ信託銀行)が経営危機に陥り、第三者割当増資を引き受け救済子会社化するが、もはや富士独力での再建は不可能だった。ここで浮上したのが第一勧業銀行との連携であった。2行の傘下にあった富士信託銀行と第一勧業信託銀行を合併し、第一勧業富士信託銀行とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほFG発足へとつながっていった。この連携の素地には1969年にクレジットカード業務を行うために設立した合弁会社であるユニオンクレジットの成功による両行の信頼関係が存在していた。また、1960年代後半に地方店舗整理の際日本勧業銀行と一部店舗を交換(相手行店舗と統合)した。
合併統合を目前にした2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件で、ハイジャックされたユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟78-84階に衝突した。ニューヨーク支店および現地法人等は南棟79-82階に入居し、現地採用を含め約700人ほどが勤務に従事していた。このうち支店長のほか、米州営業部長、米州営業管理部長、みずほキャピタルマーケッツ社長など12名が犠牲となった。事件の翌年12月に犠牲となった1行員の妻がこれについて綴ったエッセイを上梓し、2004年9月11日には2時間ドラマ「9・11 NYテロ真実の物語」としてフジテレビ系のプレミアムステージ枠にて実写化・放映された。
国立9.11記念博物館(ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム)南プールにあるS-44からS-45番パネルは、富士銀行行員の氏名が刻まれている。2005年9月11日、みずほFG本部前(事件発生当時の富士銀行本店)に追悼の慰霊碑が設置された。ニューヨーク市消防局から寄贈されたもので、犠牲者の名が刻まれている。みずほFGが本社を置く大手町タワーの完成後には慰霊碑もタワーと同区画内に設けられた緑地である「大手町の森」の中に移設され、毎年9月11日には献花台が設けられる。
西側にある大手町フィナンシャルセンターの跡地には「大手町の森」と呼ばれる広場が整備されており、ヒートアイランド現象の緩和を目的とした約3,600mの緑地とされることになった。
この緑地には、約2mの厚さで千葉県で育成された森が土壌ごと移植され、コナラやケヤキなど広葉樹を含めて大小さまざまな樹木だけでなくその下に草本類が植えて生物多様性を配慮している。君津市から移植した200本余りの高木などが植樹されている。また、この緑地には、アメリカ同時多発テロ事件で犠牲となった富士銀行職員のための慰霊碑が建立されている。もともとこの慰霊碑は、みずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店ビル)に設置されていた。東京芸術大学美術学部教授を務めた山本正道により制作されたブロンズ像に加え、ニューヨーク市消防本部から寄贈された世界貿易センタービルの鉄骨の一部が安置されていた。しかし、大手町タワーの建設をはじめとする再開発にともない、みずほ銀行大手町本部ビルが取り壊されることになった。そのため、みずほ銀行の支店等が入居する丸の内二丁目ビルに、一時移転していた。その後、大手町タワー、および、大手町の森が完成したことから、再びこの地に移設された。富士銀行の流れを汲むみずほフィナンシャルグループでは、毎年この慰霊碑の前に献花台を設置している。また、在日本アメリカ合衆国大使館の関係者らも、折にふれ献花するのが恒例となっている。
富士銀行は、融資先の芙蓉グループ各企業が弱体化、親密な山一證券が破綻し、丸紅や日産自動車の経営不安が囁かれ、ゼネコンの会社更生法申請が相次いだ。公的資金の注入額は銀行最多の1兆円に達した。1998年には系列の安田信託銀行の救済にあたって第一勧銀の協力を得ており、また傘下の勧角証券の大株主だったこともあり、かねてから「合併の第一候補としてはまず第一勧銀」(山本惠朗頭取)と公言していた。
富士銀行は前年秋に芙蓉会の幹事を退き、幹事は丸紅、安田生命、安田火災の3交代制に移行。富士(みずほ銀行)は芙蓉会の一加盟社となった。さらに2000年9月には事務局を丸紅に移した。この後、安田火災は2002年に日産火災と合併し損害保険ジャパンとなった。(2010年に損害保険ジャパンは日本興亜損害保険と経営統合。2014年に両社は合併し損害保険ジャパン日本興亜となった。また2004年1月に安田生命も三菱グループの明治生命保険と合併し、明治安田生命保険となった。)
2002年4月1日に、第一勧業銀行に「カスタマー・コンシューマー銀行業務に関する諸営業(リテール部門)」を承継させ、また同行から「コーポレート銀行業務に関する諸営業」を承継し、並びに日本興業銀行を合併。みずほコーポレート銀行と改称した。2002年から2013年までの富士銀行の法定手続上の承継会社はみずほコーポレート銀行であった。2013年7月1日にみずほコーポレート銀行がみずほ銀行を吸収合併。行名をみずほ銀行に改めた。
出典。
富士銀行の融資系列企業は芙蓉グループとして捉えられる。芙蓉グループとは、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥等の系譜を引く企業と富士銀行の融資系列からなる企業集団である。芙蓉会、芙蓉懇談会に加盟する企業からなる。“芙蓉”の名は、中核だった富士銀行の“富士”の雅称に由来する。芙蓉のローマ字表記の頭文字を取って「Fグループ」とも呼ばれる。 富士銀行との“つながり”がベースとなって形成された企業集団であり、「富士銀行を筆頭とする垂直関係を具備したグループとしての経営支配」ではなく、「グループ企業が互いに対等な関係にあっての業種を超えた交流」といえる。
●(新)安田銀行に時代に店舗が存在した地域
■富士銀行になってから撤退した地域
(#統合直前のノーマークの県を除く)
○大正期に初出店した地域
□富士銀行になってから出店した地域
建築家の平田重雄(松田平田設計創設者のひとり)は以下のように述べる。「容積地区制が出来て最初に出来上がったこの建物は、その敷地が東京都心の丸の内地区にあるため、色々な意味で建築界に一つのエポックを画した」とした上で「建築主(富士銀行)の話によると、長期に渡って各種各様の検討に当たって最後に銀行首脳部の決断により、この進歩的な案を採用されたとのことだった。まず外部の構成は営業関係の低層部分と事務関係の高層部分とに判然と分かれ、その外装に用いられた材料はその質といい色調といい周辺の舗装と共によく調和され、真に優雅な気品のある風格を完璧な施工が一層これを盛り上げている」と高く評価した。1968年に日本建設業連合会主催の第9回BCS賞を受賞した。
本店左奥のビルは大手町フィナンシャルセンターであり、 安田火災海上ビルの跡地に安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)と富士銀行の共同開発により1992年に竣工した。両ビルは既に解体されている。
両ビルの跡地には大手町タワーが建設され、みずほ銀行本店など、みずほフィナンシャルグループの本社が置かれている。東京建物が開発業務を手掛け、大成建設が設計を担当した。高層階はホテル、商業施設などで構成されている。
旧富士銀行横浜支店は、神奈川県横浜市中区本町4丁目に所在する建築物である。1929年(昭和4年)に安田銀行横浜支店として完成し、2001年まで富士銀行の支店として利用された後、2005年より東京藝術大学大学院の校舎として使用されている。2003年に横浜市認定歴史的建造物に認定された。
1960年10月竣工、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC構造)、地下3階・地上9階建て、延床面積は30,248平方メートル。設計は松田平田設計。
1980年、従来の行章に代えて正方形の中に富士を台形で表した宣伝用ロゴマークを制定した。さらに1988年10月1日の行称変更40周年を機にコーポレートアイデンティティ(CI)の一要素であるビジュアル・アイデンティティ(VI)を導入した。VI導入は、「中期計画 109 - RCT作戦」の柱であるリテールバンキングを推進していくうえで、イメージ戦略を積極的に活用し、他行への優位性確保を図ろうとする理念のもとで実施され、製品・企業ブランディングを手掛ける企業としては世界最大規模であるランドーアソシエイツによる選定と、富士銀に関するイメージ調査をもとに、青・緑のグラデーションを地に先進的でダイナミックな銀行をイメージさせたいとの願いを込めた新ロゴを決定した。このロゴの愛称は行内で募集され、2万点の応募から「ダイナミック フジ」と決定された。
店舗についても視覚的な統一性を持たせるため什器、備品などの形状、素材までフルコーディネートするストア・アイデンティティ(SI)を1989年8月以降、順次導入。店舗新設の際には最初からフルコーディネートを施し、既存店に関しては店舗改築・改装時に実施することとして、二重投資や大幅な経費増を回避するとの方針を定めた。
1987年6月、宣伝用ポスターにポール・ニューマンを起用。1989年には指揮者の大友直人とピアニストの仲道郁代を起用、2人が共演する冠イベントコンサートをサントリーホールで開催するなどした。1991年1月からの銀行のTVCM解禁時には、インド人の女性シンガーであるナジマ・アフタール、カナダのエンターテイナーであるディアーヌ・デュフレーヌ、ドイツのバリトン歌手であるオラフ・ベーア、オペラ歌手のチェチーリア・バルトリ、イギリスのパーカッション奏者であるエヴェリン・グレニーらを起用。1992年夏のボーナス支給時には、先述の世界の新進気鋭の音楽家らが出演するシリーズに加え、新たに南果歩、田中律子が共演の上で商品やサービスを伝えるCMも出稿した。1993年、女性タレントをイメージキャラクターに起用する金融機関が多い中、異色ではあるが本木雅弘をあえて起用。これには当初行内から異論も出たが、若い女性顧客を中心に好評を博し、みずほ銀に再編される直前の2002年3月まで実に9年もの間、彼がイメージキャラクターを務め続けた。ほかにとんねるずらが起用された。
1989年には新社会人向けキャンペーンにウルトラマンを起用した。パンフレット『ウルトラ流3分間ビジネス術』を発行し、営業店で無料配布したほか、主な取引先企業の社員にも配布した。その他、新聞・雑誌広告を展開した。
1962年冬のボーナス支給による預金獲得キャンペーンを実施する際、ディズニーキャラクターを利用した販促品の頒布を企画した。しかし、ウォルト・ディズニー・カンパニー(ディズニー社)から利用許諾を得ることが出来なかったため、富士銀は「ボクちゃん」というオリジナルキャラクターを生み出した経緯があった。
1998年7月2日に埼玉県南埼玉郡宮代町で発生した殺人事件。富士銀行の現役銀行員が自行の顧客を殺害した事件として注目された。
埼玉県春日部市にある富士銀行春日部支店の行員だったO・T(当時32歳。以下「O」と表記)は、老夫婦AとBの担当だった。夫妻はいつも顔を見せてくれるOを懇意にし、定期預金の運用をOに任せていた。Oは夫妻から預かった金を別の運送業者へ融資するという不正な「浮貸し」を行ったが、2,500万円の債務を負ったため、発覚を恐れて夫妻を殺害した。
1991年9月、富士銀行赤坂支店を舞台に、幹部行員が銀行の信用を背景に取引先に架空の預金証書を発行、それを担保に都内の不動産業者ら27社7個人が、15のノンバンク(すなわち預金を受け入れないで融資をしている会社)から総額約8200億円(不正額累計)もの巨額を不正に引き出した詐欺事件である。
赤坂支店のN・M元渉外課長(当時38歳)は、1987年からコンピュータに架空預金額を打ち込んで預金証書を作り、その後で入金ミスだとしてこの記録を抹消した。預金証書は廃棄せず、偽造の質権設定承諾書(預金を担保にするのを銀行が認める書類)と共にノンバンクに持ち込んで融資を引き出し、同支店に開設した取引先口座に一時預金した。1週間以内に解約するなどして融資金を騙し取るという手口である。これらの資金は、おもに地上げや不動産投資に流れており、大手銀行の地価大暴騰元凶説が裏付けられた。この不正融資は、地上げへの批判から融資が締めつけられた結果考え出された方法と言われている。
N・MのほかS・A(赤坂支店営業課長代理、当時39歳)とS・K(日比谷支店次長兼渉外課長、当時36歳)ら元行員3人を有印私文書偽造および同行使と特別背任罪で丸の内警察署に告訴した。警視庁は知能犯を担当する捜査2課が、ロッキード事件以来15年ぶりという異例の特別捜査本部を設置、1991年9月12日、元課長と取引業者ら4人を逮捕。
被告に対する判決公判が1993年7月に東京地方裁判所(原田国男裁判長)で行われた。裁判長は「不正融資は総額6200億円に上るなど空前の規模。銀行の信用を利用した計画的な犯行で社会的影響も大きい。」と述べ、N・M被告に懲役12年が課せられた。元課長は融資の見返りに取引先から約2億円のリベートを受けていた。橋本龍太郎蔵相(のちに内閣総理大臣)の秘書がこの事件で約13億円の無担保融資に関与していたことで橋本は引責辞任する事になった。
更に暴力団に融資金が流れるなど関係者の裾野は広がるばかりで金の流れも複雑であり、相次いで発覚した架空預金・不正融資事件は、その不正規模8200億円という大きさにおいて日本金融市場かつて例を見ない金融犯罪であった。
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"text": "終戦後の財閥解体によって安田銀行は安田家と決別する意思のもとに、1948年(昭和23年)、富士銀行と改称。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、「国民」「共立」「日本商業」「富士」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった公金取り扱いに加えて、芙蓉グループの結成により一大企業系列の中核となった。1948年時点で新資本金13億5000万円、従業員数7899人、店舗数189であり、読んで字の如く「日本最大の銀行」が誕生した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "上記の通り富士銀行は終戦後、しばらく都市銀行界においてトップの地位にあった。だが、2位の三菱銀行、3位の住友銀行が企業集団を背景にトップの座を目指し猛攻を開始。旧安田財閥には事業部門に優良企業がなかったため、富士銀行は苦戦が目立ち始めた。そこで、案出された戦略が「経済主流取引」であった。「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体(当時は大企業)取引を強化しメインバンクとなることであり、富士銀行は東京大学(東京帝国大学)出身の優秀な行員を企画部に配置。「経済主流取引」を任せられる有為な人材の育成に力を注いだ。この「経済主流取引」が全店レベルで実践に移されると、重点を置く企業の取引担当店(主管店)が取引先を調べ、その取引先の所在地の支店と協力しながら、取引を開拓する「躍進三大運動」(預金の躍進、基盤の確立、合理化)を展開した。なお、この「経済主流取引」なる用語を考えた出したのは業務部綜合企画課課長代理であった松澤卓二(のち頭取)であった。",
"title": "歴史"
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"text": "富士銀行を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1950年代のことである。当時常務であった岩佐凱実(のち頭取)が中心となって有力取引先の社長らと懇談を重ね、融資先とのコネクションの形成を担った。そうした中、髙島屋から分離して発足した商社の高島屋飯田が経営不安に陥り、再建策が俎上に載った。当初三井物産などに営業譲渡が模索されたが、結果として富士の主導で丸紅との合併話が進み、丸紅飯田(のち丸紅に改称)が誕生した。これに伴い、融資系列も住友銀行から富士の系列となり、丸紅は富士における融資系列を代表する企業となった。加えて丸紅は富士の融資系列企業との商取引も拡大。これによって、従前、繊維部門偏重だった丸紅は総合商社として脱皮することに成功した。こうして、資金の流れを管理する銀行・モノの流れを管理する商社からなる戦後高度経済成長の企業集団に必要な2つの要素が揃い、芙蓉グループの基礎が整った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "昭和40年代、日本企業の相次ぐ海外進出やユーロ市場拡大が目立ち始め、銀行業界にも本格的に国際化の波が押し寄せて来た。富士銀行は既に1952年の時点で、第二次世界大戦後初の海外拠点として富士銀行ロンドン支店(場所はフィンスベリーサーカス)を開設していたほか、1956年のニューヨーク支店開設により世界二大金融市場に進出するなど、国際化時代を見越した海外活動を展開していた。昭和40年代にはスイス、東南アジア等に駐在事務所や現地法人を開設して海外拠点網を整備、外国銀行との提携を推し進めた。",
"title": "歴史"
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"text": "個人向け業務の分野でも「みなさまの富士銀行」をキャッチコピーに掲げ、創業80周年を迎える1960年には「カラコロ富士へ」(=下駄履きで気軽に入れる銀行)を新たに採用。法人・個人の双方に強い名門都銀として、また東京都及び特別区との強いつながりから「都銀の雄」、「東京の地銀」として長らく歩んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "こうして紛れもない上位行として君臨するが、1970年代以降は第一勧業銀行が発足して長年君臨していた預金量業界トップの座を奪われるなど、その地位は徐々に低下していた。このため、1970年代後半には同じく都銀上位行であった三和銀行との合併を画策し、業界トップの座の奪回を狙っていた。東京本店の富士銀行と大阪本店の三和銀行は店舗網のバランスでも補完性が非常に高く、経営状態、総資産も両行ほぼ同じで事実上の非財閥銀行同士であり、吸収されるリスクも皆無であったため互いに合併のメリットが大きかった。更に三和銀行系の多くの企業が富士銀行を準主力行、もしくは三和銀行と並ぶ主力行にしていたため、合併交渉も順調に進み三和とは合意寸前にまで達したが、金融業界全体が護送船団方式にどっぷりつかっていた当時では「巨大銀行の誕生は預金の寡占につながり、銀行業界にとって好ましくない」という理由で大蔵省からの認可が下りなかったため、この合併はご破算となってしまった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1980年代に入ると、住友銀行が積極的な営業を展開する中、平和相互銀行を吸収合併。首都圏攻勢の足場を築き、バブル期に突入するとより一層営業に力を入れた。焦る富士は対抗して営業部隊を投入、白兵戦を繰り広げ「FS戦争」(両社の頭文字から。「富士住友戦争」とも言う)と呼ばれる熾烈な貸出競争を繰り広げ、1988年10月、住宅を担保にどんな使途でも自由に使えるカードローンである「住活ローン」の取り扱いを拡大し、翌年9月には「絵画担保ローン」も導入。バブル景気に踊った。ちなみに1989年(平成元年)に発表された世界時価総額ランキングではNTT、日本興業銀行、住友銀行に次いで世界第4位(670.8億ドル)であった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "また富士は、元々は三和銀行と繋がりの深かった大阪に本店を置く有力な信用組合であった大阪府民信用組合の経営に深く関与するようになり、富士から府民信組に対する紹介預金の過半がイトマン事件で逮捕された許永中や伊藤寿永光の関連企業に流れていたことが発覚した。さらに当時の府民信組理事長が画策していた大阪南部を基盤としていた河内信用組合と府民信組の合併が実現した際には、府民信組理事長は余剰となった店舗を富士に譲り渡すとの内諾を富士の関西駐在役員と交わしていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1990年代、不良債権問題・金融システム不安の拡大と並行して、富士銀行の経営は悪化の一途を辿る。金融ビッグバンの流れに乗って1994年に富士証券(現:みずほ証券)・1996年に富士信託銀行(現:みずほ信託銀行)を設立するなど業績改善を図ったが、いずれも収益の柱となるには至らなかった。また、前年に日本興業銀行に合併の打診をしたが、破談になった。しかし、これが第一勧銀・興銀との統合へとつながったことは否めない。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "山一證券のメインバンクは富士銀行、三菱銀行、日本興業銀行の3行であった。山一の新体制発足後から再建案作成のために,担当者を派遣し本格的に山一の経営状態の実態把握に着手し始めた。3行のなかでは特に富士銀行が、この再建案作成の過程を先導していた。しかし、関連会社と山一との関係が不明確であるため作業は難航した。富士銀行の一角に「山一再建室」が設けられ、実態解明が進められた。作業に参加した大蔵省(現在の財務省)が調査した際、1965年3月末時点で山一證券の赤字は資本金60億円に対し実に282億円にまで膨張していたが、実際に公表されていた数字は84億円であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1965年5月21日の西日本新聞の朝刊記事によって「昭和40年の証券恐慌」下の日銀特融は始まった。大蔵省は報道による金融不安の発生を憂慮し、 在京報道機関に報道の自粛を要請していたが、西日本新聞はこの自粛協定に加わっていなかったため、独自取材に基づいて掲載に踏み切ったからである。28日、東京都港区赤坂の日銀氷川寮で、政府・金融界トップの極秘会談が行われた。出席者は田中角栄蔵相、佐藤一郎大蔵事務次官、高橋俊英銀行局長、加治木俊道財務局調査官、佐々木直日銀副総裁、中山素平興銀頭取、岩佐凱実富士頭取、田実渉三菱頭取の3銀行頭取であった。議論は百出し、2時間に及ぶ小田原評定となった。田実渉が「この際、証券取引所を閉めて、ゆっくり今後の方策を考えたらどうですか」と発言したのに対し、田中蔵相は「それでも銀行の頭取か。これがもし銀行のことだったらキミはどうするのか」と一喝した。驚いた中山らが取り直して急転直下、山一證券に対し日本銀行により日銀特融が行われることになった。 日本銀行法第25条発動の効果は直ちに現れたというわけではなかったが、次第に解約状況も落ち着きが見られるようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "1997年11月、山一證券が自主廃業した。四面楚歌の山一証券にとって頼みの綱はメインバンクの富士銀行と大蔵省だった。だが、この時「飛ばし」(すなわち顧客企業との取引で評価損を生じた場合、決算で損失が表面化しないよう決算期の異なる企業間で含み損のある有価証券を転売する行為)による簿外債務が2600億円にものぼっていた。これを織り込むと、証券会社の健全性を示す自己資本規制比率は危機ラインの120%を下回っていたため、大蔵省に報告すれば、直ちに業務停止命令を受けるのは確実であった。「メインバンクの富士銀行にすがるしかない」、と山一證券は一縷の望みを富士に託した。それまで飛ばしの疑惑が報道されるたびに、富士銀は真相をただしてきたが、山一證券首脳陣は一貫して否定してきた。富士の山一證券に対する不信感は根強く、1997年春に要請を受けた劣後ローンも拒否した 。富士銀行が簿外債務の件を知ったのは、10月6日に山一證券常務の渡辺と前副社長の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて簿外債務の存在を明らかにすると共に再建計画を説明し支援を求めたときだった。11月11日に出された山一證券への最終回答としては「劣後ローンは250億円程度が限度で、過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れること」だった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、株価が暴落する事態になった。同年6月に1,860円だった富士銀行株は、翌1998年(平成10年)10月には252円まで値下がりしている。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて行員1,700名のリストラを余儀なくされた。金融早期健全化法に基づく公的資金注入は、都市銀行の中でも最大規模の1兆円に達した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "1999年には系列の安田信託銀行(現:みずほ信託銀行)が経営危機に陥り、第三者割当増資を引き受け救済子会社化するが、もはや富士独力での再建は不可能だった。ここで浮上したのが第一勧業銀行との連携であった。2行の傘下にあった富士信託銀行と第一勧業信託銀行を合併し、第一勧業富士信託銀行とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほFG発足へとつながっていった。この連携の素地には1969年にクレジットカード業務を行うために設立した合弁会社であるユニオンクレジットの成功による両行の信頼関係が存在していた。また、1960年代後半に地方店舗整理の際日本勧業銀行と一部店舗を交換(相手行店舗と統合)した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "合併統合を目前にした2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件で、ハイジャックされたユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟78-84階に衝突した。ニューヨーク支店および現地法人等は南棟79-82階に入居し、現地採用を含め約700人ほどが勤務に従事していた。このうち支店長のほか、米州営業部長、米州営業管理部長、みずほキャピタルマーケッツ社長など12名が犠牲となった。事件の翌年12月に犠牲となった1行員の妻がこれについて綴ったエッセイを上梓し、2004年9月11日には2時間ドラマ「9・11 NYテロ真実の物語」としてフジテレビ系のプレミアムステージ枠にて実写化・放映された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "国立9.11記念博物館(ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム)南プールにあるS-44からS-45番パネルは、富士銀行行員の氏名が刻まれている。2005年9月11日、みずほFG本部前(事件発生当時の富士銀行本店)に追悼の慰霊碑が設置された。ニューヨーク市消防局から寄贈されたもので、犠牲者の名が刻まれている。みずほFGが本社を置く大手町タワーの完成後には慰霊碑もタワーと同区画内に設けられた緑地である「大手町の森」の中に移設され、毎年9月11日には献花台が設けられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "西側にある大手町フィナンシャルセンターの跡地には「大手町の森」と呼ばれる広場が整備されており、ヒートアイランド現象の緩和を目的とした約3,600mの緑地とされることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "この緑地には、約2mの厚さで千葉県で育成された森が土壌ごと移植され、コナラやケヤキなど広葉樹を含めて大小さまざまな樹木だけでなくその下に草本類が植えて生物多様性を配慮している。君津市から移植した200本余りの高木などが植樹されている。また、この緑地には、アメリカ同時多発テロ事件で犠牲となった富士銀行職員のための慰霊碑が建立されている。もともとこの慰霊碑は、みずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店ビル)に設置されていた。東京芸術大学美術学部教授を務めた山本正道により制作されたブロンズ像に加え、ニューヨーク市消防本部から寄贈された世界貿易センタービルの鉄骨の一部が安置されていた。しかし、大手町タワーの建設をはじめとする再開発にともない、みずほ銀行大手町本部ビルが取り壊されることになった。そのため、みずほ銀行の支店等が入居する丸の内二丁目ビルに、一時移転していた。その後、大手町タワー、および、大手町の森が完成したことから、再びこの地に移設された。富士銀行の流れを汲むみずほフィナンシャルグループでは、毎年この慰霊碑の前に献花台を設置している。また、在日本アメリカ合衆国大使館の関係者らも、折にふれ献花するのが恒例となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "富士銀行は、融資先の芙蓉グループ各企業が弱体化、親密な山一證券が破綻し、丸紅や日産自動車の経営不安が囁かれ、ゼネコンの会社更生法申請が相次いだ。公的資金の注入額は銀行最多の1兆円に達した。1998年には系列の安田信託銀行の救済にあたって第一勧銀の協力を得ており、また傘下の勧角証券の大株主だったこともあり、かねてから「合併の第一候補としてはまず第一勧銀」(山本惠朗頭取)と公言していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "富士銀行は前年秋に芙蓉会の幹事を退き、幹事は丸紅、安田生命、安田火災の3交代制に移行。富士(みずほ銀行)は芙蓉会の一加盟社となった。さらに2000年9月には事務局を丸紅に移した。この後、安田火災は2002年に日産火災と合併し損害保険ジャパンとなった。(2010年に損害保険ジャパンは日本興亜損害保険と経営統合。2014年に両社は合併し損害保険ジャパン日本興亜となった。また2004年1月に安田生命も三菱グループの明治生命保険と合併し、明治安田生命保険となった。)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2002年4月1日に、第一勧業銀行に「カスタマー・コンシューマー銀行業務に関する諸営業(リテール部門)」を承継させ、また同行から「コーポレート銀行業務に関する諸営業」を承継し、並びに日本興業銀行を合併。みずほコーポレート銀行と改称した。2002年から2013年までの富士銀行の法定手続上の承継会社はみずほコーポレート銀行であった。2013年7月1日にみずほコーポレート銀行がみずほ銀行を吸収合併。行名をみずほ銀行に改めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "出典。",
"title": "歴代富士銀行頭取一覧"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "富士銀行の融資系列企業は芙蓉グループとして捉えられる。芙蓉グループとは、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥等の系譜を引く企業と富士銀行の融資系列からなる企業集団である。芙蓉会、芙蓉懇談会に加盟する企業からなる。“芙蓉”の名は、中核だった富士銀行の“富士”の雅称に由来する。芙蓉のローマ字表記の頭文字を取って「Fグループ」とも呼ばれる。 富士銀行との“つながり”がベースとなって形成された企業集団であり、「富士銀行を筆頭とする垂直関係を具備したグループとしての経営支配」ではなく、「グループ企業が互いに対等な関係にあっての業種を超えた交流」といえる。",
"title": "融資系列"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "●(新)安田銀行に時代に店舗が存在した地域",
"title": "未出店地域"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "■富士銀行になってから撤退した地域",
"title": "未出店地域"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "(#統合直前のノーマークの県を除く)",
"title": "未出店地域"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "○大正期に初出店した地域",
"title": "未出店地域"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "□富士銀行になってから出店した地域",
"title": "未出店地域"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "建築家の平田重雄(松田平田設計創設者のひとり)は以下のように述べる。「容積地区制が出来て最初に出来上がったこの建物は、その敷地が東京都心の丸の内地区にあるため、色々な意味で建築界に一つのエポックを画した」とした上で「建築主(富士銀行)の話によると、長期に渡って各種各様の検討に当たって最後に銀行首脳部の決断により、この進歩的な案を採用されたとのことだった。まず外部の構成は営業関係の低層部分と事務関係の高層部分とに判然と分かれ、その外装に用いられた材料はその質といい色調といい周辺の舗装と共によく調和され、真に優雅な気品のある風格を完璧な施工が一層これを盛り上げている」と高く評価した。1968年に日本建設業連合会主催の第9回BCS賞を受賞した。",
"title": "富士銀行本店・その他支店の建設"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "本店左奥のビルは大手町フィナンシャルセンターであり、 安田火災海上ビルの跡地に安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)と富士銀行の共同開発により1992年に竣工した。両ビルは既に解体されている。",
"title": "富士銀行本店・その他支店の建設"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "両ビルの跡地には大手町タワーが建設され、みずほ銀行本店など、みずほフィナンシャルグループの本社が置かれている。東京建物が開発業務を手掛け、大成建設が設計を担当した。高層階はホテル、商業施設などで構成されている。",
"title": "富士銀行本店・その他支店の建設"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "旧富士銀行横浜支店は、神奈川県横浜市中区本町4丁目に所在する建築物である。1929年(昭和4年)に安田銀行横浜支店として完成し、2001年まで富士銀行の支店として利用された後、2005年より東京藝術大学大学院の校舎として使用されている。2003年に横浜市認定歴史的建造物に認定された。",
"title": "富士銀行本店・その他支店の建設"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1960年10月竣工、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC構造)、地下3階・地上9階建て、延床面積は30,248平方メートル。設計は松田平田設計。",
"title": "富士銀行本店・その他支店の建設"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1980年、従来の行章に代えて正方形の中に富士を台形で表した宣伝用ロゴマークを制定した。さらに1988年10月1日の行称変更40周年を機にコーポレートアイデンティティ(CI)の一要素であるビジュアル・アイデンティティ(VI)を導入した。VI導入は、「中期計画 109 - RCT作戦」の柱であるリテールバンキングを推進していくうえで、イメージ戦略を積極的に活用し、他行への優位性確保を図ろうとする理念のもとで実施され、製品・企業ブランディングを手掛ける企業としては世界最大規模であるランドーアソシエイツによる選定と、富士銀に関するイメージ調査をもとに、青・緑のグラデーションを地に先進的でダイナミックな銀行をイメージさせたいとの願いを込めた新ロゴを決定した。このロゴの愛称は行内で募集され、2万点の応募から「ダイナミック フジ」と決定された。",
"title": "広報・広告関連"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "店舗についても視覚的な統一性を持たせるため什器、備品などの形状、素材までフルコーディネートするストア・アイデンティティ(SI)を1989年8月以降、順次導入。店舗新設の際には最初からフルコーディネートを施し、既存店に関しては店舗改築・改装時に実施することとして、二重投資や大幅な経費増を回避するとの方針を定めた。",
"title": "広報・広告関連"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1987年6月、宣伝用ポスターにポール・ニューマンを起用。1989年には指揮者の大友直人とピアニストの仲道郁代を起用、2人が共演する冠イベントコンサートをサントリーホールで開催するなどした。1991年1月からの銀行のTVCM解禁時には、インド人の女性シンガーであるナジマ・アフタール、カナダのエンターテイナーであるディアーヌ・デュフレーヌ、ドイツのバリトン歌手であるオラフ・ベーア、オペラ歌手のチェチーリア・バルトリ、イギリスのパーカッション奏者であるエヴェリン・グレニーらを起用。1992年夏のボーナス支給時には、先述の世界の新進気鋭の音楽家らが出演するシリーズに加え、新たに南果歩、田中律子が共演の上で商品やサービスを伝えるCMも出稿した。1993年、女性タレントをイメージキャラクターに起用する金融機関が多い中、異色ではあるが本木雅弘をあえて起用。これには当初行内から異論も出たが、若い女性顧客を中心に好評を博し、みずほ銀に再編される直前の2002年3月まで実に9年もの間、彼がイメージキャラクターを務め続けた。ほかにとんねるずらが起用された。",
"title": "広報・広告関連"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1989年には新社会人向けキャンペーンにウルトラマンを起用した。パンフレット『ウルトラ流3分間ビジネス術』を発行し、営業店で無料配布したほか、主な取引先企業の社員にも配布した。その他、新聞・雑誌広告を展開した。",
"title": "広報・広告関連"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1962年冬のボーナス支給による預金獲得キャンペーンを実施する際、ディズニーキャラクターを利用した販促品の頒布を企画した。しかし、ウォルト・ディズニー・カンパニー(ディズニー社)から利用許諾を得ることが出来なかったため、富士銀は「ボクちゃん」というオリジナルキャラクターを生み出した経緯があった。",
"title": "広報・広告関連"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1998年7月2日に埼玉県南埼玉郡宮代町で発生した殺人事件。富士銀行の現役銀行員が自行の顧客を殺害した事件として注目された。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "埼玉県春日部市にある富士銀行春日部支店の行員だったO・T(当時32歳。以下「O」と表記)は、老夫婦AとBの担当だった。夫妻はいつも顔を見せてくれるOを懇意にし、定期預金の運用をOに任せていた。Oは夫妻から預かった金を別の運送業者へ融資するという不正な「浮貸し」を行ったが、2,500万円の債務を負ったため、発覚を恐れて夫妻を殺害した。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1991年9月、富士銀行赤坂支店を舞台に、幹部行員が銀行の信用を背景に取引先に架空の預金証書を発行、それを担保に都内の不動産業者ら27社7個人が、15のノンバンク(すなわち預金を受け入れないで融資をしている会社)から総額約8200億円(不正額累計)もの巨額を不正に引き出した詐欺事件である。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "赤坂支店のN・M元渉外課長(当時38歳)は、1987年からコンピュータに架空預金額を打ち込んで預金証書を作り、その後で入金ミスだとしてこの記録を抹消した。預金証書は廃棄せず、偽造の質権設定承諾書(預金を担保にするのを銀行が認める書類)と共にノンバンクに持ち込んで融資を引き出し、同支店に開設した取引先口座に一時預金した。1週間以内に解約するなどして融資金を騙し取るという手口である。これらの資金は、おもに地上げや不動産投資に流れており、大手銀行の地価大暴騰元凶説が裏付けられた。この不正融資は、地上げへの批判から融資が締めつけられた結果考え出された方法と言われている。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "N・MのほかS・A(赤坂支店営業課長代理、当時39歳)とS・K(日比谷支店次長兼渉外課長、当時36歳)ら元行員3人を有印私文書偽造および同行使と特別背任罪で丸の内警察署に告訴した。警視庁は知能犯を担当する捜査2課が、ロッキード事件以来15年ぶりという異例の特別捜査本部を設置、1991年9月12日、元課長と取引業者ら4人を逮捕。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "被告に対する判決公判が1993年7月に東京地方裁判所(原田国男裁判長)で行われた。裁判長は「不正融資は総額6200億円に上るなど空前の規模。銀行の信用を利用した計画的な犯行で社会的影響も大きい。」と述べ、N・M被告に懲役12年が課せられた。元課長は融資の見返りに取引先から約2億円のリベートを受けていた。橋本龍太郎蔵相(のちに内閣総理大臣)の秘書がこの事件で約13億円の無担保融資に関与していたことで橋本は引責辞任する事になった。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "更に暴力団に融資金が流れるなど関係者の裾野は広がるばかりで金の流れも複雑であり、相次いで発覚した架空預金・不正融資事件は、その不正規模8200億円という大きさにおいて日本金融市場かつて例を見ない金融犯罪であった。",
"title": "不祥事"
}
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株式会社富士銀行は、かつて東京都千代田区大手町に存在した日本の都市銀行。現みずほ銀行の前身のひとつ。2000年よりみずほホールディングス、2003年よりみずほフィナンシャルグループの傘下に入った。英略は「FBK」。芙蓉グループの中核企業。通称「都銀の雄」。 この項目では同行の前身である安田財閥の安田銀行についても説明する。
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{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社富士銀行
| 英文社名 = The Fuji Bank, Limited
| ロゴ = The Fuji Bank, Limited Logo.png
| 画像 = Mizuho Financial Group (headquarters).jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 富士銀行本店(2009年に解体)
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = {{上場情報|東証1部|8317|1949年5月16日|2000年9月22日}}{{上場情報|大証1部|8317|1949年5月16日|2000年9月22日}}{{上場情報|札証|8317|1950年4月1日|2000年9月22日}}{{上場情報|京証|8317|1949年8月|2000年9月22日}}
| 略称 = 富士銀、FBK
| 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]一丁目5番5号
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 100-0004
| 設立 = [[1923年]]([[大正]]12年)[[7月11日]]<ref>『[http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0103d.html [[2001年]]度版ディスクロージャー誌]』株式会社みずほホールディングス、2001年7月</ref><br />(株式会社保善銀行)
| 業種 = 7050
| 統一金融機関コード = 0003
| SWIFTコード = FUJIJPJT
| 代表者 = [[橋本徹]]([[代表取締役]][[会長]])<br>[[山本惠朗]]([[代表取締役]][[頭取]])
| 資本金 = 1兆395億円
| 売上高 = 9343億円
| 総資産 = 62兆5768億円
| 従業員数 = 12,940人
| 関係する人物 = [[安田善次郎]](創業者)
| 外部リンク = [https://web.archive.org/web/20010607190102/http://www.fujibank.co.jp/index.html みずほフィナンシャルグループ 富士銀行 公式サイト]<br/>([[インターネットアーカイブ]])
| 特記事項 = <br>
* 創業は[[1880年]]1月<ref name="disclosure">『[http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/fbk/data0103d_fbk.html 2001年度版ディスクロージャー誌] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070927100706/http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/fbk/data0103d_fbk.html |date=2007年9月27日 }}』株式会社富士銀行、2001年7月</ref>(初代 安田銀行)
* すべて2001年(平成13年)3月時点の情報、経営指標は2001年3月期連結決算<ref name="disclosure" />。
}}
'''株式会社富士銀行'''(ふじぎんこう、[[英語|英称]]: ''The Fuji Bank, Limited'')は、かつて[[東京都]][[千代田区]][[大手町駅 (東京都)|大手町]]に存在した[[日本]]の[[都市銀行]]。現[[みずほ銀行]]の前身のひとつ。[[2000年]]より[[みずほフィナンシャルストラテジー|みずほホールディングス]]、[[2003年]]より[[みずほフィナンシャルグループ]]の傘下に入った。英略は「FBK」。'''[[芙蓉グループ]]'''の中核企業<ref group="注">[[山梨県]]の[[富士急行]]を中核とする[[富士急グループ]]とは関係ない。</ref>。通称「都銀の雄」。
この項目では同行の前身である[[安田財閥]]の安田銀行についても説明する。
== 歴史 ==
=== 戦前 - 安田銀行 ===
[[File:Zenjiro Yasuda.jpg|thumb|200px|初代頭取[[安田善次郎]]]]
[[File:Yokohama bashamichi03s3200.jpg|thumb|[[旧富士銀行横浜支店|旧富士銀行(安田銀行)横浜支店]]、[[1929年]]建築<small>([[横浜市認定歴史的建造物]])</small>]]
[[1864年]]、[[安田財閥]]の創始者・[[安田善次郎]]は江戸日本橋乗物町(現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋堀留町]])に露天の[[乾物]]商兼[[両替商]]・安田屋を開業した。2年後の[[1866年]]には[[日本橋小舟町]]へ移り安田商店と改称。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の[[不換紙幣]]や[[公債]]を率先して引き受け、その流通に積極的に協力。[[1870年]]に正金金札等価通用布告がなされると、これらを額面引き換えし更なる巨万の利益を得ることになる。
[[1876年]]、この強固な資本を基盤に[[川崎八右衛門]]と共に日本橋小舟町に[[第三国立銀行]]を開業。また[[1880年]]には、本体の安田商店を合本'''安田銀行'''に改組した。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3(本店、栃木支店、宇都宮支店)をもって銀行としての歴史が始まった。[[明治]]の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くする。そして、当時の東京府[[東京市]]や大阪府[[大阪市]]の二府もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務([[指定金融機関]])としての地位、「公金の安田」の名声を築いていくこととなる。
時代が[[大正]]に移ると、[[第一次世界大戦]]や[[関東大震災]]、それに続く不況によって社会情勢は不安定化。資金力・信用力が脆弱な中小の銀行は経営難に陥ったが、安田銀行はこれを援助し、時には吸収・合併を行い預金者の救済にあたった。こうして親密となった11行が[[1923年]]に大合同して新:安田銀行となる。資本金1億5000万円、預金5億4200万円、貸出金5億2100万円、店鋪数211、従業員数3,700人などいずれの分野においても国内首位となり、この座は[[1971年]]の[[第一勧業銀行]]誕生まで不動であった。
初代安田銀行末期の店舗網は[[栃木県]]から東北方向に伸びていた。
==== 統合参加10行の概要 ====
{{節スタブ}}
; 第三銀行
: {{Main|第三国立銀行}}
: 同行は、[[大阪]]で国立銀行免許を安田が譲り受けて設立。安田系の大合同に参加したなかで、2番目の規模ではあったが、初代安田銀行との店舗の重複は東京(小舟町本店)と横浜の2店舗であり、その他は大阪、山陰地方などに店舗を有していた。
: 営業店としては現在のみずほ銀行函館支店がある.
:
; 明治商業銀行
: 同行はもともと安田と[[加賀前田家]]によって設立。安田系銀行として安田、第三に次ぐ規模の銀行であった。本店は[[東京]][[八重洲]]に置き東京府内を中心に群馬県数ヶ所と石川県金沢市、長野県松本市に計22店舗を有していた。
; 根室銀行
: 1898年に[[北海道]][[根室町]]に[[柳田藤吉]]が設立(設立時より安田善次郎が顧問就任)した。翌年の増資に際し安田が引き受けることになった。道内(道央・道南を除く)各地に全19店舗を置いていた。営業店として現存するのは、みずほ銀行釧路支店、帯広支店(当時の支店建物は[[十勝信用組合]]本店として利用されている)。 なお、昭和中期に日本勧業銀行帯広支店の営業権を富士銀行が引き受けた。みずほ帯広支店は旧日本勧業銀行帯広支店の場所にある。
; 神奈川銀行
: 現在の[[横浜市]][[神奈川区]]に本店を置き明治恐慌や大戦後不況などで不調となったのち全支店廃止し、本店内に第三銀行神奈川支店が設けられ有価証券も第三銀行に譲渡された。安田系となった銀行としては参加11行の中でもっとも遅い。営業店としては現在のみずほ銀行横浜駅前支店。現存する第二地銀の[[神奈川銀行|同名の銀行]]とは無関係である。
; 信濃銀行
: [[小坂善之助]]ら8名により私立銀行として設立したが[[1905年]]末に[[生糸]]価格の暴落もあり苦境に陥り[[1908年]]に安田の手により救済された。店舗は[[長野県]]中心に18店舗有していた。営業店としては現在のみずほ銀行長野支店。1928年(昭和3年)に設立された[[信濃銀行]]とは歴史的に全くの別銀行である。
; 京都銀行
: [[1894年]]に開業するも7年後の[[1901年]]の恐慌により経営は悪化。安田の手により救済された。現存する[[京都銀行|同名の銀行]]とは無関係である。店舗は[[京都府]]、[[福井県]]に6店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行京都支店。
; 百三十銀行
: [[1878年]]に[[松本重太郎]]が[[大阪市]]東区(現在の中央区)高麗橋に資本金25万円で第百三十国立銀行として設立した。旧[[徳島藩|徳島藩士]]の[[小室信夫]]と組んで、[[宮津藩|宮津]]や[[福知山藩|福知山]]の旧[[藩士]]を説き、[[金禄公債]]を資本金として出資させるのに成功した。初代頭取には、小室の父佐喜蔵が、取締役には渋谷、稲田、松本誠直が就任し、重太郎は取締役兼支配人となった。[[1880年]]には重太郎が頭取に就任した。こうして[[1896年]]には、貸出額は[[住友銀行]]をしのぎ、在阪銀行のトップの座を占めた。[[1898年]]、国立銀行の満期解散にともない、同行は普通銀行に転換し、百三十銀行と改称。同行は百三十六銀行、大阪興業銀行、小西銀行、西陣銀行、福知山銀行、八十七銀行を合併し、[[1902年]]末には資本金325万円、大阪・京都・滋賀(末期には撤退)・福井・福岡に15店舗をもつ大銀行となったがその後の1904年(明治37年)に休業・破綻により安田が救済しそれ以降安田系の銀行となる。安田銀行への大合同直前には前記の地域に加え、[[朝鮮半島]]にも4店舗所を含む27店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行大阪支店ほか。
; 日本商業銀行
: [[1895年]]に開業。翌年には[[福岡県]][[門司町]]と[[北海道]]小樽町に進出。さらには営業満期となった第百三国立銀行を吸収合併。現在の[[神戸市]][[兵庫区]]に本店を置き店舗は[[兵庫県]]内はもとより、[[山口県]]、福岡県、[[長崎県]]長崎市、北海道[[小樽市]]に全13店舗を有していた。本店は営業店としては現在のみずほ銀行神戸支店。
; 二十二銀行
: {{Main|二十二銀行}}
: [[1876年]]の国立銀行条例改正と共の有志により第二十二国立銀行を設立。その後[[1897年]]に二十二銀行と改称。当時の地方銀行としては屈指の規模を誇るが[[1901年]]に苦境に陥り安田の手に委ねられた。[[岡山市]]に本店を置き、店舗網は岡山県を中心に香川、広島県内に全23店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行岡山支店ほか4店舗。
[[ファイル:Mizuho Bank Okayama Branch.jpg|thumb|200px|二十二銀行本店の流れを汲むみずほ銀行岡山支店{{efn2|ただし、この場所は旧第一勧業銀行岡山支店があった旧岡山駅前支店であり、2003年10月に岡山支店が岡山市中山下一丁目3番3号からここに移転し、入れ替わりに2005年4月11日に岡山駅前支店は廃止された}}。]]
; 肥後銀行
: 前身は第六国立銀行。現在の[[肥後銀行|同名の銀行]]とは異なる。[[1877年]]に[[福島市]]で開業した後、[[1892年]]に本店を東京に移すものの最終的には[[熊本市]]に移転していた。そのなかで大阪支店の廃止や第九銀行の吸収合併などを行った。統合直前には[[熊本県]]を中心に全19店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行熊本支店。
=== 戦後 - 富士銀行 ===
[[File:Shimane Bank Tottori Branch.jpg|thumb|旧:富士銀行鳥取支店(1951年~1968年撤退・完全廃止まで使用 建物としては[[島根銀行]]鳥取支店)]]
終戦後の[[財閥解体]]によって安田銀行は安田家と決別する意思のもとに、[[1948年]](昭和23年)、'''富士銀行'''と改称。「富士」という新商号は、[[日本一の一覧|日本最高峰]]である[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]にちなんでおり、「国民<ref group="注">[[国民銀行|国民相互銀行の後身行]]とは無関係であり英称が当時存在した庶民金庫と同じとなるため見送られた。</ref>」「共立」「日本商業<ref group="注">1923年の(新)安田銀行発足に参加した銀行と名称が同じになるためこれも見送られた。</ref>」「富士<ref group="注">[[住友銀行]]も新行名の候補としていたが同行は大阪銀行と改称した。</ref>」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった[[公金]]取り扱いに加えて、[[芙蓉グループ]]の結成により一大企業系列の中核となった。1948年時点で新資本金13億5000万円、従業員数7899人、店舗数189であり、読んで字の如く「'''日本最大の銀行'''」が誕生した。
上記の通り富士銀行は終戦後、しばらく[[都市銀行]]界においてトップの地位にあった。だが、2位の[[三菱銀行]]、3位の[[住友銀行]]が[[企業集団]]を背景にトップの座を目指し猛攻を開始。旧安田財閥には事業部門に優良企業がなかったため、富士銀行は苦戦が目立ち始めた。そこで、案出された戦略が「経済主流取引」であった。「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体(当時は大企業)取引を強化し[[メインバンク]]となることであり、富士銀行は[[東京大学]](東京帝国大学)出身の優秀な行員を企画部に配置。「経済主流取引」を任せられる有為な人材の育成に力を注いだ<ref>『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』p.57 - 58</ref>。この「経済主流取引」が全店レベルで実践に移されると、重点を置く企業の取引担当店(主管店)が取引先を調べ、その取引先の所在地の支店と協力しながら、取引を開拓する「躍進三大運動」(預金の躍進、基盤の確立、合理化)を展開した。なお、この「経済主流取引」なる用語を考えた出したのは業務部綜合企画課課長代理であった[[松沢卓二|松澤卓二]](のち頭取)であった<ref>『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』p.202 - 203</ref>。
富士銀行を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1950年代のことである。当時常務であった[[岩佐凱実]](のち頭取)が中心となって有力取引先の社長らと懇談を重ね、融資先とのコネクションの形成を担った<ref name="kigyo58">『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』p.58</ref>。そうした中、[[髙島屋]]から分離して発足した[[商社]]の高島屋飯田が経営不安に陥り、再建策が俎上に載った。当初[[三井物産]]などに[[営業譲渡]]が模索されたが、結果として富士の主導で[[丸紅]]との合併話が進み、丸紅飯田(のち丸紅に改称)が誕生した。これに伴い、融資系列も[[住友銀行]]から富士の系列となり、丸紅は富士における融資系列を代表する企業となった。加えて丸紅は富士の融資系列企業との商取引も拡大。これによって、従前、繊維部門偏重だった丸紅は[[総合商社]]として脱皮することに成功した<ref name="kigyo58" />。こうして、資金の流れを管理する[[銀行]]・モノの流れを管理する商社からなる戦後[[高度経済成長]]の企業集団に必要な2つの要素が揃い、'''[[芙蓉グループ]]'''の基礎が整った。
昭和40年代、日本企業の相次ぐ海外進出や[[ユーロ市場]]拡大が目立ち始め、銀行業界にも本格的に国際化の波が押し寄せて来た。富士銀行は既に[[1952年]]の時点で、[[第二次世界大戦]]後初の海外拠点として富士銀行[[ロンドン]]支店(場所はフィンスベリーサーカス)を開設していたほか、[[1956年]]の[[ニューヨーク]]支店開設により世界二大金融市場に進出するなど、国際化時代を見越した海外活動を展開していた。昭和40年代には[[スイス]]、[[東南アジア]]等に駐在事務所や現地法人を開設して海外拠点網を整備、外国銀行との提携を推し進めた。
個人向け業務の分野でも「みなさまの富士銀行」をキャッチコピーに掲げ、創業80周年を迎える[[1960年]]には「カラコロ富士へ」(=下駄履きで気軽に入れる銀行)を新たに採用。法人・個人の双方に強い名門都銀として、また東京都及び特別区との強いつながりから「都銀の雄」、「東京の地銀」として長らく歩んだ。
こうして紛れもない上位行として君臨するが、[[1970年代]]以降は[[第一勧業銀行]]が発足して長年君臨していた預金量業界トップの座を奪われるなど、その地位は徐々に低下していた。このため、1970年代後半には同じく都銀上位行であった[[三和銀行]]との合併を画策し、業界トップの座の奪回を狙っていた。東京本店の富士銀行と大阪本店の三和銀行は店舗網のバランスでも補完性が非常に高く、経営状態、[[総資産]]も両行ほぼ同じで事実上の非財閥銀行同士であり、吸収されるリスクも皆無であったため互いに合併のメリットが大きかった。更に三和銀行系の多くの企業が富士銀行を準主力行、もしくは三和銀行と並ぶ[[メインバンク制|主力行]]にしていた<ref group="注">一例を挙げると、[[シャープ]]、[[髙島屋]]、[[日立製作所]]、[[ピップ]]などがある。ちなみに日立製作所は芙蓉グループ(芙蓉懇親会)と三和銀行の融資集団である[[みどり会]]の両方に加盟している。</ref>ため、合併交渉も順調に進み三和とは合意寸前にまで達したが、金融業界全体が[[護送船団方式]]にどっぷりつかっていた当時では「[[メガバンク|巨大銀行]]の誕生は預金の[[寡占]]につながり、銀行業界にとって好ましくない」という理由で[[大蔵省]]からの認可が下りなかったため、この合併はご破算となってしまった。
[[1980年代]]に入ると、[[住友銀行]]が積極的な営業を展開する中、[[平和相互銀行]]を吸収合併。[[首都圏 (日本)|首都圏]]攻勢の足場を築き、[[バブル景気|バブル期]]に突入するとより一層営業に力を入れた。焦る富士は対抗して営業部隊を投入、白兵戦を繰り広げ「FS戦争」(両社の頭文字から。「富士住友戦争」とも言う)と呼ばれる熾烈な貸出競争を繰り広げ、[[1988年]]10月、住宅を担保にどんな使途でも自由に使える[[カードローン]]である「住活ローン」の取り扱いを拡大し、翌年9月には「絵画担保ローン」も導入<ref>『検証バブル 犯意なき過ち』p.62 - 63</ref>。バブル景気に踊った。ちなみに1989年(平成元年)に発表された世界時価総額ランキングでは[[日本電信電話|NTT]]、[[日本興業銀行]]、[[住友銀行]]に次いで'''世界第4位'''(670.8億ドル)<ref>{{Cite web|和書|title=昭和という「レガシー」を引きずった平成30年間の経済停滞を振り返る |url=https://diamond.jp/articles/-/177641 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2018-08-20 |access-date=2022-04-16 |language=ja}}</ref>であった。
また富士は、元々は三和銀行と繋がりの深かった大阪に本店を置く有力な信用組合であった大阪府民信用組合の経営に深く関与するようになり、富士から府民信組に対する紹介預金の過半が[[イトマン事件]]で[[逮捕]]された[[許永中]]や[[伊藤寿永光]]の関連企業に流れていたことが発覚した<ref>『ドキュメント イトマン・住銀事件』p.201</ref>。さらに当時の府民信組理事長が画策していた大阪南部を基盤としていた河内信用組合と府民信組の合併が実現した際には、府民信組理事長は余剰となった店舗を富士に譲り渡すとの内諾を富士の関西駐在役員と交わしていた<ref>『イトマン事件の深層』p.165 - 168</ref>。
=== バブル崩壊 - 統合 ===
[[1990年代]]、不良債権問題・金融システム不安の拡大と並行して、富士銀行の経営は悪化の一途を辿る。[[金融ビッグバン]]の流れに乗って[[1994年]]に富士証券(現:[[みずほ証券]])・[[1996年]]に富士信託銀行(現:[[みずほ信託銀行]])を設立するなど業績改善を図ったが、いずれも収益の柱となるには至らなかった。また、前年に[[日本興業銀行]]に合併の打診をしたが、破談になった。しかし、これが第一勧銀・興銀との統合へとつながったことは否めない。
====山一證券の再建・自主廃業====
[[File:Kayabacho Tower.jpg|thumb|180px|かつて[[山一證券]]本社が入居していた[[茅場町タワー]]]]
山一證券の[[メインバンク制|メインバンク]]は富士銀行、[[三菱銀行]]、[[日本興業銀行]]の3行であった。山一の新体制発足後から再建案作成のために,[[担当者]]を派遣し本格的に山一の経営状態の実態把握に着手し始めた。3行のなかでは特に富士銀行が、この再建案作成の過程を先導していた<ref name=":0">{{Cite journal|author=服部泰彦|year=2002|title=山一証券の経営破綻とコーポレート・ガバナンス|journal=立命館経営学|volume=第40巻第6号|page=95頁}}</ref>。しかし、[[関連会社]]と山一との関係が不明確であるため作業は難航した。富士銀行の一角に「山一再建室」が設けられ、実態解明が進められた。作業に参加した[[大蔵省]](現在の[[財務省]])が調査した際、[[1965年]]3月末時点で山一證券の[[黒字と赤字|赤字]]は[[資本金]]60億円に対し実に282億円にまで膨張していたが<ref name=":0" />、実際に公表されていた数字は84億円であった。
1965年5月21日の[[西日本新聞]]の[[朝刊]][[記事]]によって「昭和40年の証券恐慌」下の日銀特融は始まった<ref>{{Cite web|和書|title=vol.97 特集:第29回 松下幸之助人生をひらく言葉{{!}}サン・リフォーム{{!}}リフォームを下松市 周南市 岩国市 光市でするなら |url=https://www.sunreform.net/m29.html |website=www.sunreform.net |access-date=2022-04-29}}</ref>。大蔵省は報道による[[金融不安]]の発生を憂慮し、 在京[[報道機関]]に報道の自粛を要請していたが、西日本新聞はこの自粛協定に加わっていなかったため、独自取材に基づいて掲載に踏み切ったからである。28日、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂]]の日銀氷川寮で、[[政府]]・[[金融界]]トップの極秘会談が行われた<ref name=":0" />。出席者は[[田中角栄]]蔵相、[[佐藤一郎 (政治家)|佐藤一郎]][[大蔵事務次官]]、[[高橋俊英]][[銀行局|銀行局長]]、[[加治木俊道]]財務局調査官、[[佐々木直]]日銀副総裁、[[中山素平]]興銀頭取、[[岩佐凱実]]富士頭取、[[田実渉]]三菱頭取の3銀行頭取であった。議論は百出し、2時間に及ぶ[[小田原評定]]となった。田実渉が「この際、[[証券取引所]]を閉めて、ゆっくり今後の方策を考えたらどうですか」と発言したのに対し、田中蔵相は「それでも銀行の頭取か。これがもし銀行のことだったらキミはどうするのか」と一喝した<ref>{{Cite book|和書|title=証券恐慌 山一事件と日銀特融|date=1989年3月7日|year=1989|publisher=講談社文庫}}</ref>。驚いた中山らが取り直して急転直下、山一證券に対し[[日本銀行]]により[[日銀特融]]が行われることになった。 [[日本銀行法]]第25条発動の効果は直ちに現れたというわけではなかったが、次第に解約状況も落ち着きが見られるようになった。
[[1997年]]11月、[[山一證券]]が[[自主廃業]]した。[[四面楚歌]]の山一証券にとって頼みの綱はメインバンクの富士銀行と大蔵省だった。だが、この時「'''飛ばし'''」(すなわち顧客企業との[[取引]]で[[評価損益|評価損]]を生じた場合、決算で損失が表面化しないよう決算期の異なる企業間で含み損のある[[有価証券]]を転売する行為<ref>{{Cite web|和書|title=月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識 |url=https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200604/topics01/topic01_04.html |website=www.jiyu.co.jp |access-date=2022-04-29}}</ref>)による[[簿外債務]]が2600億円にものぼっていた。これを織り込むと、[[証券会社]]の健全性を示す[[自己資本規制比率]]は危機ラインの120%を下回っていたため、大蔵省に報告すれば、直ちに[[業務停止命令]]を受けるのは確実であった。「メインバンクの富士銀行にすがるしかない」、と山一證券は一縷の望みを富士に託した。それまで飛ばしの疑惑が報道されるたびに、富士銀は真相をただしてきたが、山一證券首脳陣は一貫して否定してきた。富士の山一證券に対する不信感は根強く、1997年春に要請を受けた[[劣後ローン]]も拒否した <ref>{{Cite web|和書|title=高山 寛仁「山一証券崩壊」 |url=https://www2.kokugakuin.ac.jp/ogi1/2000/takayama.html |website=www2.kokugakuin.ac.jp |access-date=2022-04-29}}</ref>。富士銀行が簿外債務の件を知ったのは、10月6日に山一證券常務の渡辺と前副社長の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて簿外債務の存在を明らかにすると共に再建計画を説明し支援を求めたときだった。11月11日に出された山一證券への最終回答としては「劣後ローンは250億円程度が限度で、過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れること」だった。
親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、[[株価]]が暴落する事態になった<ref>{{Cite web|和書|title=大和証券、日本郵政と提携発表!山一破綻が加速させた、証券会社と銀行の合従連衡の結末 |url=https://biz-journal.jp/2019/06/post_28328.html |website=ビジネスジャーナル/Business Journal {{!}} ビジネスの本音に迫る |access-date=2022-04-29 |last=菊地浩之}}</ref>。同年6月に1,860円だった富士銀行株は、翌[[1998年]](平成10年)10月には252円まで値下がりしている。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、1998年(平成10年)から[[2000年]](平成12年)にかけて行員1,700名の[[リストラ]]を余儀なくされた。[[金融機能の早期健全化のための緊急措置に関する法律|金融早期健全化法]]に基づく[[公的資金]]注入は、[[都市銀行]]の中でも最大規模の1兆円に達した<ref>「公的資金、15行が正式申請」『朝日新聞』1999年3月5日</ref>。
====安田信託銀行の経営危機====
[[1999年]]には系列の[[安田信託銀行]](現:[[みずほ信託銀行]])が経営危機に陥り、[[第三者割当増資]]を引き受け救済子会社化するが、もはや富士独力での再建は不可能だった。ここで浮上したのが[[第一勧業銀行]]との連携であった。2行の傘下にあった[[富士信託銀行 (1996-1999)|富士信託銀行]]と[[第一勧業信託銀行]]を合併し、[[第一勧業富士信託銀行]]とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほFG発足へとつながっていった。この連携の素地には[[1969年]]に[[クレジットカード]]業務を行うために設立した[[合弁会社]]である[[ユーシーカード|ユニオンクレジット]]の成功による両行の信頼関係が存在していた。また、[[1960年代]]後半に地方店舗整理の際[[日本勧業銀行]]と一部店舗を交換(相手行店舗と統合)した。
==== 9.11ニューヨーク事業所の罹災 ====
[[File:Stanley hit.jpg|thumb|200px|ユナイテッド航空175便がツインタワー南棟に突入した瞬間を示す概略図。富士銀行ニューヨーク支店所在階や支店員だった生存者の{{仮リンク|スタンレー・プレムナス|en|Stanley Praimnath}}の位置も標記された。]]
合併統合を目前にした[[2001年]][[9月11日]]、'''[[アメリカ同時多発テロ事件]]'''で、ハイジャックされた[[ユナイテッド航空175便テロ事件|ユナイテッド航空175便]]が[[ニューヨーク世界貿易センタービル|世界貿易センタービル]]南棟78-84階に衝突した。ニューヨーク支店および現地法人等は南棟79-82階に入居し、現地採用を含め約700人ほどが勤務に従事していた。このうち支店長のほか、米州営業部長、米州営業管理部長、みずほキャピタルマーケッツ社長など12名が犠牲となった<ref>『富士銀行史 1981-2000』p.481 - 482</ref><ref>「富士銀行700人の明暗分けた「三つの選択」米同時多発テロ」『週刊朝日』2001年09月28日号</ref>。事件の翌年12月に犠牲となった1行員の妻がこれについて綴った[[エッセイ]]を上梓し<ref>『天に昇った命、地に舞い降りた命』</ref>、[[2004年]]9月11日には[[2時間ドラマ]]「9・11 NYテロ真実の物語」として[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系の[[土曜プレミアム|プレミアムステージ]]枠にて実写化・放映された。
[[File:Memorial 11 de Setembro - New York - USA - panoramio (3).jpg|thumb|200px|国立9.11記念博物館([[ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム]])南プールにあるS-44番パネルは、富士銀行行員たちのの氏名を刻まれている。]]
国立9.11記念博物館([[ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム]])南プールにあるS-44からS-45番パネルは、富士銀行行員の氏名が刻まれている。[[2005年]]9月11日、みずほFG本部前(事件発生当時の富士銀行本店)に追悼の[[慰霊碑]]が設置された。[[ニューヨーク市消防局]]から寄贈されたもので、犠牲者の名が刻まれている。みずほFGが本社を置く[[大手町タワー]]の完成後には慰霊碑もタワーと同区画内に設けられた緑地である「大手町の森」の中に移設され、毎年9月11日には献花台が設けられる。
[[ファイル:Caroline Kennedy 20140910 2.jpg|thumb|left|200px|[[アメリカ同時多発テロ事件]]で犠牲となった'''富士銀行'''職員の慰霊碑に献花するため大手町タワーを訪れた[[日本駐箚アメリカ合衆国特命全権大使]][[キャロライン・ケネディ]]]]
=== 大手町の森 ===
[[ファイル:Otemachi no Mori 20140910 1.jpg|thumb|left|200px|[[アメリカ同時多発テロ事件]]で犠牲となった'''富士銀行'''職員の慰霊碑(奥)と献花台(手前)]]
西側にある大手町フィナンシャルセンターの跡地には「大手町の森」と呼ばれる広場が整備されており、[[ヒートアイランド現象]]の緩和を目的とした約3,600[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]の緑地とされることになった<ref>{{Cite web|和書|title=屋根を蓋にして超高層ビル解体、跡地は「大手町の森」に |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK14038_U1A011C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2011-10-17 |access-date=2022-09-11 |language=ja}}</ref>。
この緑地には、約2mの厚さで[[千葉県]]で育成された森が土壌ごと移植され、コナラやケヤキなど広葉樹を含めて大小さまざまな樹木だけでなくその下に草本類が植えて生物多様性を配慮している<ref name="mainichi-np-2014-7-22">渡辺諒(2014年7月22日). “ビル緑化:在来樹木で 多様性に配慮、認証制度始まる”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。[[君津市]]から移植した200本余りの高木などが植樹されている。また、この緑地には、[[アメリカ同時多発テロ事件]]で犠牲となった富士銀行職員のための慰霊碑が建立されている。もともとこの慰霊碑は、みずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店ビル)に設置されていた<ref name="kazu200509">{{Cite web|和書
|url=http://jfam911.sakura.ne.jp/News3.html
|title=ニュースおよびお知らせの過去のデータ
|accessdate=2005-10-01
|author=KAZU
|date=2005-09
|work=東京・大手町にみずほグループのモニュメントが完成
|publisher=住山一貞
|language=[[日本語]]
}}</ref><ref name="sumiyama200509">{{Cite web|和書
|url=http://jfam911.sakura.ne.jp/MemorialJapan.html
|title=追悼式スナップ
|accessdate=2005-10-01
|date=2005-09
|work=みずほ銀行グループのモニュメント
|publisher=住山一貞
|language=[[日本語]]
}}</ref>。[[東京芸術大学]][[美術学部]][[教授]]を務めた[[山本正道]]により制作されたブロンズ像に加え、[[ニューヨーク市消防局|ニューヨーク市消防本部]]から寄贈された[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]の[[鉄骨]]の一部が安置されていた<ref name="kazu200509" /><ref name="sumiyama200509" />。しかし、大手町タワーの建設をはじめとする再開発にともない、みずほ銀行大手町本部ビルが取り壊されることになった<ref name="sumiyama20080715">{{Cite web|和書
|url=http://jfam911.sakura.ne.jp/News3.html
|title=ニュースおよびお知らせの過去のデータ
|accessdate=2008-07-15
|date=2008-07-15
|work=「みずほメモリアル」移転
|publisher=住山一貞
|language=[[日本語]]
}}</ref><ref name="sumiyama20080826">{{Cite web|和書
|url=http://jfam911.sakura.ne.jp/MemorialJapan.html
|title=追悼式スナップ
|accessdate=2008-08-26
|date=2008-08-26
|work=移転された「みずほ」モニュメント
|publisher=住山一貞
|language=[[日本語]]
}}</ref>。そのため、みずほ銀行の支店等が入居する丸の内二丁目ビルに、一時移転していた<ref name="sumiyama20080715" /><ref name="sumiyama20080826" /><ref name="jim20100913">{{Cite web
|url=http://zblog.japan.usembassy.gov/e/zblog-e20100913a.html
|title=U.S. Embassy Tokyo Blog - Remembering the victims of 9/11
|accessdate=2010-09-13
|author=Jim
|authorlink=ジェームス・ズムワルト
|date=2010-09-13
|work=Remembering the victims of 9/11
|publisher=[[アメリカ合衆国国務省|U.S. Department of State]]
|language=[[英語]]
}}</ref>。その後、大手町タワー、および、大手町の森が完成したことから、再びこの地に移設された<ref>{{Cite web|和書
|url=http://jfam911.sakura.ne.jp/News.html
|title=ニュースおよびお知らせ
|accessdate=2013-12-09
|date=2013-12-09
|work=「みずほ」のメモリアル移設
|publisher=住山一貞
|language=[[日本語]]
}}</ref>。富士銀行の流れを汲むみずほフィナンシャルグループでは、毎年この慰霊碑の前に献花台を設置している<ref name="nikkei20110911">{{Cite web|和書
|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG11004_R10C11A9000000/
|title=みずほ本社で米大使献花 同時テロから10年 :日本経済新聞
|accessdate=2011-09-11
|date=2011-09-11
|work=みずほ本社で米大使献花 同時テロから10年
|publisher=[[日本経済新聞社]]
|language=[[日本語]]
}}</ref>。また、[[在日本アメリカ合衆国大使館]]の関係者らも、折にふれ献花するのが恒例となっている<ref name="jim20100913" /><ref name="nikkei20110911" />。
{{main2|テロについての詳細は[[アメリカ同時多発テロ]]}}
=== 3行合併、みずほ銀行発足へ ===
[[ファイル:The Otemachi Tower.JPG|thumb|200px|富士銀行本店の跡地に建設された[[みずほ銀行]]本店([[大手町タワー]])]]
富士銀行は、融資先の[[芙蓉グループ]]各企業が弱体化、親密な[[山一證券]]が破綻し、[[丸紅]]や[[日産自動車]]の経営不安が囁かれ、[[ゼネコン]]の[[会社更生法]]申請が相次いだ。[[公的資金]]の注入額は銀行最多の1兆円に達した。[[1998年]]には系列の[[みずほ信託銀行|安田信託銀行]]の救済にあたって第一勧銀の協力を得ており、また傘下の[[みずほインベスターズ証券|勧角証券]]の大株主だったこともあり、かねてから「合併の第一候補としてはまず第一勧銀」([[山本惠朗]]頭取)と公言していた。
富士銀行は前年秋に芙蓉会の幹事を退き、幹事は丸紅、[[安田生命]]、[[安田火災]]の3交代制に移行。富士([[みずほ銀行]])は芙蓉会の一加盟社となった。さらに2000年9月には事務局を丸紅に移した。この後、安田火災は2002年に[[日産火災]]と合併し[[損害保険ジャパン]]となった。([[2010年]]に損害保険ジャパンは日本興亜損害保険と経営統合。[[2014年]]に両社は合併し損害保険ジャパン日本興亜となった。また[[2004年]]1月に安田生命も[[三菱グループ]]の明治生命保険と合併し、[[明治安田生命保険]]となった。)
[[2002年]]4月1日に、[[第一勧業銀行]]に「カスタマー・コンシューマー銀行業務に関する諸営業(リテール部門)」を承継させ、また同行から「コーポレート銀行業務に関する諸営業」を承継し、並びに[[日本興業銀行]]を合併。'''[[みずほコーポレート銀行]]'''と改称した。2002年から2013年までの富士銀行の法定手続上の承継会社はみずほコーポレート銀行であった<ref group="注">ただし、同行の業態は旧日本興業銀行に近く、一般には「富士銀行は(事実上)第一勧業銀行と合併してみずほ銀行となった。」といった方が分かりやすい。</ref>。[[2013年]]7月1日にみずほコーポレート銀行が[[みずほ銀行]]を吸収合併。行名をみずほ銀行に改めた。
{{Main|みずほフィナンシャルグループ}}
== 沿革 ==
[[ファイル:富士銀行の前身行.jpeg|right|1020px|富士銀行の前身行(前身行に統合された一部の銀行を省略)]]
* [[1864年]]3月 - [[安田善次郎]]、[[江戸]]日本橋乗物町(現:[[中央区 (東京都)|中央区]]堀留)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業。
* [[1866年]]4月 - 安田屋、店舗を持ち江戸日本橋小舟町に移転。両替商専業の安田商店と改称。
* [[1876年]]
**12月 - 安田善次郎、[[川崎八右衛門]]と共に[[第三国立銀行]](のちの初代第三銀行<ref name="bank">現存する同名の銀行とは無関係。</ref>)を設立。
* [[1880年]]
**1月 - 安田商店を合本安田銀行へ改組する。このときにのちの富士銀行が創業する。資本金は20万円、従業員は31名、店舗数は3(本店、栃木支店、宇都宮支店)だった。
* [[1893年]]
**7月 - [[合資会社]]に改組。
* [[1900年]]
**10月 - [[合名会社]]に改組。
* [[1912年]]
**1月 - [[株式会社 (日本)|株式会社]]に改組<ref group="注">手続上、新会社設立とともに合名会社安田銀行を吸収した。</ref>する。資本金は1000万円で店舗数は22(うち出張所8)。
* [[1923年]]
**7月 - 株式会社'''保善銀行<ref group="注">合併の準備会社であるため現在の会社法では銀行を冠してはならない。</ref>'''設立。
**11月 - 株式会社保善銀行を存続銀行として(旧)安田、[[第三国立銀行|第三]]<ref name="bank" />、明治商業(以上東京)、日本商業(兵庫)、京都<ref name="bank" />、百三十(大阪)、二十二(岡山)、根室(北海道)、肥後<ref name="bank" />(熊本)、信濃(長野)、神奈川<ref name="bank" />の11行が合併し、株式会社'''安田銀行'''と商号変更。資本金1億5000万円と巨額なものとなった。店舗数は211(うち出張所52)。預貸金ともに、当時の日本国最大の銀行となった。そして、このときに本店を現在地に移転。
* [[1924年]]
**12月 - 株式会社浜松商業銀行を浜松委托(現:浜松委托倉庫)より買収。
* [[1928年]]
**6月 - 合名会社毛利銀行を買収。
* [[1943年]]
**3月 - 株式会社京都大内銀行を株式会社[[京都銀行|丹和銀行]]と分割買収。
**4月 - 株式会社[[日本昼夜銀行]]を合併。
**12月 - 株式会社日本信託銀行(現:[[大和証券グループ本社]])から普通銀行業務を譲受。
* [[1944年]]
**5月 - 旧武陽銀行・三十六銀行→日本昼夜銀行の店舗を[[埼玉銀行]]に営業譲渡<ref group="注">埼玉県と多摩地域の店舗の大部分を譲渡することとなり、同地域での2002年現在に存在した店舗(埼玉県の4店舗と多摩地方の5店舗を除く)は高度成長期以降に設置した店舗である。</ref>。
**8月 - 株式会社安田銀行が株式会社[[昭和銀行]]ならびに株式会社第三銀行<ref name="bank" /><ref group="注">富士銀行80年史によると業務譲受と表記されていた。</ref>(二代目、旧帝国商業銀行)を合併。
* [[1946年]] - 財閥解体により、安田保善社との関係がなくなる。
* [[1948年]]
**10月 - 株式会社安田銀行が株式会社'''富士銀行'''と商号変更<ref group="注">当初、行名変更は、同年4月の予定だった。</ref>。新資本金13億5000万円で第1位となる。従業員数は7,899名。店舗数は189(うち出張所4)。
* [[1949年]] - 外国為替銀行に指定。
* [[1952年]] - 大正12年からの本店に隣接して新館が完成。以来、昭和41年まで本店として利用。
* 1952年 - 戦後初の海外支店として富士銀行[[ロンドン]]支店を開設。
* 1952年 - 富士銀行千住支店にフランス兵2名と日本人4名がピストルを手に押し入り、280万円を強奪<ref>[https://shouwashi.com/ziken.html 事件史]戦後昭和史</ref>。
* [[1956年]] - 富士銀行[[ニューヨーク]]支店を開設。世界の二大金融市場に進出。
* [[1960年]] - 日本初のカード会社、日本ダイナースクラブ設立。
* [[1963年]] - 富士銀行[[新宿西口駅|新宿西口]]・[[東武練馬駅|東武練馬]]・[[大阪駅|大阪駅前]]・[[玉川]]・[[デュッセルドルフ]]支店を開設。
* [[1966年]] - 1996年時点での新本店が完成する。また、このときに普通預金オンラインシステムの試行に成功。
* [[1967年]] - 富士銀行ソウル駐在員事業所(1972年に[[ソウル特別市|ソウル]]支店に昇格)を開設。
* [[1969年]] - 富士銀行ロサンゼルス駐在員事業所(1972年に[[ロサンゼルス]]支店に昇格)を開設。
* [[1972年]] - [[スイス]]富士銀行を設立。
* [[1978年]]
**[[2月20日]] - 第2次総合オンライン完成。
* [[1980年]]
**[[11月1日]] - 創業100周年を迎える。
* [[1984年]]
**[[1月26日]] - 米国大手金融会社ウォルター・イー・ヘラー・アンド・カンパニーおよびウォルター・イー・ヘラー・オーバーシーズ・コーポレーション(現社名・ヘラー・フィナンシャル・インクおよびヘラー・インターナショナル・グループ・インク)を買収。
* [[1987年]]
**[[9月18日]] - 日本の銀行として初めて[[ロンドン証券取引所]]へ上場。
* [[1988年]]
**[[10月1日]] - 富士総合研究所を設立。
* [[1989年]]
**[[7月1日]] - 米国有力投資銀行ウルフェンソーン社との合併企業富士ウルフェンソーン・インターナショナルを設立。
* [[1991年]]
**3月 - 「欧州アドバイザリーボード」が設置。
**[[9月12日]] - 富士銀行不正融資事件(以下参照)発覚。赤坂支店などの幹部行員が逮捕。
* [[1992年]]8月 - 「経営懇話会」が発足。
* [[1994年]]
**[[10月19日]] - 富士証券を設立。
* [[1995年]]
**[[11月1日]] - 富士銀投資顧問と富士投信が合併。また、富士投信投資顧問が発足。
* [[1996年]]
**[[6月11日]] - 富士信託銀行を設立。
* [[2000年]]
**[[9月29日]] - 株式会社富士銀行、株式会社第一勧業銀行及び株式会社日本興業銀行が株式移転により株式会社[[みずほフィナンシャルストラテジー|みずほホールディングス]]を設立し、3行はその完全子会社となり、事実上の傘下に入った。
* [[2001年]]
**[[9月11日]] - '''[[アメリカ同時多発テロ事件]]'''が発生、ニューヨーク支店罹災。
* [[2002年]]
**[[4月1日]] - 株式会社富士銀行を存続銀行として株式会社日本興業銀行と合併し、併せて株式会社第一勧業銀行よりコーポレートバンキング業務を分割承継して、株式会社'''[[みずほコーポレート銀行]]'''と商号変更<ref group="注">なお、コンシュマーバンキング業務は、第一勧業銀行に分割承継させ、第一勧銀は、みずほ銀行に行名変更。</ref>。[[みずほフィナンシャルグループ|みずほホールディングス]]傘下へ。
== 歴代富士銀行頭取一覧 ==
=== 歴代頭取・社長一覧 ===
{|class="wikitable"
! colspan="6" |安田銀行社長
!副頭取
|-
!代
!氏名
!就任日
!退任日
!出身大学・学部
!その他の役職・備考
!氏名
|-
|1
|[[安田善四郎]]
|1880年1月
|1883年1月
|
|
|
|-
|2
|[[安田善助]]
|1883年1月
|1890年10月
|
|
|
|-
|3
|[[安田忠兵衛]]
|1892年1月
|1896年4月
|
|
|
|-
|4
|[[安田善之助]]
|1896年4月
|1919年7月
|
|[[大垣共立銀行]]頭取
[[安田生命保険]]社長
|
|-
|5
|[[安田善五郎]]
|1919年7月
|1923年10月
|
|[[大垣共立銀行]]頭取
[[肥後銀行]]・[[四国銀行]]頭取
[[安田生命保険]]・[[京浜電気鉄道]]社長
|
|-
|6
|[[安田善次郎 (2代目)|安田善次郎]]
|1923年11月
|1936年10月
|
|[[大垣共立銀行]]頭取
[[安田生命保険]]社長
|
|-
|7
|[[安田一]]
|1936年10月
|1942年1月
|[[東京帝国大学文学部]]
|[[安田生命]]会長
[[日本経済団体連合会]]顧問
|
|-
|8
|[[園部潜]]
|1942年1月
|1945年5月
|[[東京高等商業学校]](現:[[一橋大学]])
|[[安田保善社]]理事
|
|-
|9
|[[武井大助]]
|1945年5月
|1945年10月
|[[東京高等商業学校]](現:[[一橋大学]])
|[[大日本帝国海軍]]中将
[[文化放送]]社長
|
|-
|10
|[[安念精一]]
|1945年10月
|1946年12月
|[[早稲田大学]]
|[[安田信託銀行]]社長
|
|-
|11
|[[井尻芳郎]]
|1946年12月
|1948年6月
|
|
|
|-
! colspan="6" |富士銀行頭取
!副頭取
|-
|12
|[[迫静二]]
|1948年6月
|1957年4月
|[[東京帝国大学法学部]]
|1949年11月から頭取に呼称変更。
[[全国銀行協会|全国銀行協会連合会]]会長
|
|-
|13
|[[金子鋭]]
|1957年4月
|1963年5月
|[[東京帝国大学]]
|
|
|-
|14
|[[岩佐凱実|岩佐凱實]]
|1963年5月
|1971年5月
|[[東京帝国大学法学部]]
|[[日本経済団体連合会]]副会長
[[経済同友会]]代表幹事
|
|-
|15
|[[佐々木邦彦]]
|1971年5月
|1975年5月
|[[東京帝国大学経済学部]]
|[[全国銀行協会|全国銀行協会連合会]]会長
[[日本経済団体連合会]]常任理事
|
|-
|16
|[[松沢卓二|松澤卓二]]
|1975年5月
|1981年6月
|[[東京帝国大学法学部]]
|[[全国銀行協会|全国銀行協会連合会]]会長
[[日本経済団体連合会]]副会長
|[[荒木義朗]]
|-
|17
|[[荒木義朗]]
|1981年6月
|1987年6月
|[[京都帝国大学法学部]]
|[[全国銀行協会|全国銀行協会連合会]]会長
|[[端田泰三]]
|-
|18
|[[端田泰三]]
|1987年6月
|1991年6月
|[[東京大学大学院経済学研究科・経済学部|東京大学経済学部]]
|[[みずほフィナンシャルグループ]]名誉顧問
[[全国銀行協会連合会]]会長
|[[橋本徹]]
|-
|19
|[[橋本徹]]
|1991年6月
|1996年6月
|[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]
|[[日本政策投資銀行]]社長
[[国際基督教大学]]理事長
|[[山本惠朗]]
[[南敬介]]
[[笠井和彦]]
|-
|20
|[[山本惠朗]]
|1996年6月
|2002年3月
|[[東京大学大学院経済学研究科・経済学部|東京大学経済学部]]
|[[みずほフィナンシャルグループ]]名誉顧問
[[全国銀行協会]]会長
|[[前田晃伸]]
|}
出典<ref>『富士銀行百年史 別巻』p.325</ref>。
<gallery>
Yasuda zenjiro jr.png|2代目安田善次郎
Yasuda Zennosuke.jpg|安田善之助
</gallery>
== 融資系列 ==
富士銀行の融資系列企業は'''芙蓉グループ'''として捉えられる。芙蓉グループとは、[[安田財閥]]、[[浅野財閥]]、[[大倉財閥]]等の系譜を引く企業と'''富士銀行'''の融資系列からなる[[企業集団]]である。芙蓉会、芙蓉懇談会に加盟する企業からなる。“[[芙蓉]]”の名は、中核だった富士銀行の“富士”の雅称に由来する<ref group="注">なお、富士銀の統合先である'''現在の[[みずほフィナンシャルグループ|“みずほFG”]]'''の'''みずほ'''は瑞穂で“日本国”の美称。</ref>。芙蓉のローマ字表記の頭文字を取って「'''Fグループ'''」とも呼ばれる。
富士銀行との“つながり”がベースとなって形成された企業集団であり、「富士銀行を筆頭とする垂直関係を具備したグループとしての経営支配」ではなく、「グループ企業が互いに対等な関係にあっての業種を超えた交流」といえる。
{{main|[[芙蓉グループ]]}}
== 未出店地域 ==
=== 統合直前 ===
●(新)安田銀行に時代に店舗が存在した地域
■富士銀行になってから撤退した地域
* ■[[秋田県]]、■[[福井県]]、[[岐阜県]]、[[三重県]]、[[滋賀県]]、[[和歌山県]]、■[[鳥取県]]、■[[島根県]]、■[[山口県]]、[[徳島県]]、[[愛媛県]]、[[高知県]]、[[佐賀県]]、●[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[沖縄県]]
=== 新安田銀行発足時点 ===
([[#統合直前]]のノーマークの県を除く)
○大正期に初出店した地域
□富士銀行になってから出店した地域
* [[新潟県]]、[[埼玉県]]、[[茨城県]]、[[千葉県]]、[[富山県]]、○[[静岡県]]、○[[愛知県]]、□[[奈良県]]
==富士銀行本店・その他支店の建設==
{{建築物
|名称 = 富士銀行本店
|旧名称 =
|画像 = Mizuho Financial Group (headquarters).jpg
|画像説明 = かつて存在した富士銀行本店ビル
|用途 = 銀行
|旧用途 =
|設計者 = [[三菱地所|三菱地所株式会社]]
|構造設計者 = [[三菱地所|三菱地所株式会社]]
|設備設計者 = [[三菱地所|三菱地所株式会社]]
|施工 = [[大成建設]]
|建築主 = 株式会社富士銀行
|事業主体 =
|管理運営 =
|構造形式 = [[鉄筋コンクリート構造]]<br />[[鉄骨構造|鉄骨造]]
|敷地面積= 11042 |敷地面積ref= |敷地面積備考=
|建築面積= 5936|建築面積ref=|建築面積備考=
|延床面積= 80818|延床面積ref= |延床面積備考=
|階数 = 地上16階(一部3階)、地下4階
|高さ = 67 [[メートル|m]]
|エレベーター数 = 客用12台、人荷用2台
|戸数 =
|駐車台数 =
|着工 = [[1964年]][[3月]]
|竣工 = [[1966年]][[8月]]
|開館開所 =
|改築 =
|解体 = [[2009年]]
|所在地郵便番号 = 100-0004
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]1丁目6番地
|緯度度 = 35|緯度分 = 41|緯度秒 = 8.18
|経度度 =139|経度分 = 45|経度秒 = 54.99
|座標右上表示 =
|文化財指定 =
|指定日 =
|備考 =
}}
===本店ビル工事概要===
*設計者:[[三菱地所|三菱地所株式会社]]
*施工者:[[大成建設]]
*敷地面積:11,042平方メートル
*建築面積:5,936平方メートル
*構造規模:地上16階(一部3階)[[鉄骨構造|鉄骨造]]、地下4階[[鉄骨鉄筋コンクリート構造|鉄骨鉄筋コンクリート造]]
建築家の平田重雄([[松田平田設計]]創設者のひとり)は以下のように述べる。「容積地区制が出来て最初に出来上がったこの建物は、その敷地が東京都心の[[丸の内]]地区にあるため、色々な意味で建築界に一つのエポックを画した」とした上で「建築主(富士銀行)の話によると、長期に渡って各種各様の検討に当たって最後に銀行首脳部の決断により、この進歩的な案を採用されたとのことだった。まず外部の構成は営業関係の低層部分と事務関係の高層部分とに判然と分かれ、その外装に用いられた材料はその質といい色調といい周辺の舗装と共によく調和され、真に優雅な気品のある風格を完璧な施工が一層これを盛り上げている」と高く評価した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkenren.com/kenchiku/pdf/101/0101.pdf |title=富士銀行本店 |access-date=2022/09/11 |publisher=日本建設業連合会 |page=126 |author=平田重雄}}</ref>。[[1968年]]に[[日本建設業連合会]]主催の第9回[[BCS賞]]を受賞した<ref>{{Cite web |title=受賞作品検索 {{!}} BCS賞 {{!}} 日本建設業連合会 |url=https://www.nikkenren.com/kenchiku/bcs/result_year.html?from=search&year=1968 |website=www.nikkenren.com |access-date=2022-09-11}}</ref>。
本店左奥のビルは[[大手町フィナンシャルセンター]]であり、 安田火災海上ビルの跡地に安田火災海上保険(現[[損害保険ジャパン日本興亜|損害保険ジャパン]])と富士銀行の共同開発により[[1992年]]に竣工した。両ビルは既に解体されている。
両ビルの跡地には[[大手町タワー]]が建設され、みずほ銀行本店など、[[みずほフィナンシャルグループ]]の本社が置かれている。東京建物が開発業務を手掛け、大成建設が設計を担当した。高層階は[[ホテル]]、[[商業施設]]などで構成されている<ref>{{Cite web|和書|title=設計は大成、大手町のみずほ銀跡開発 |url=https://xtech.nikkei.com/kn/article/building/news/20090526/532898/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-09-11 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。{{Main|大手町フィナンシャルセンター}}
===富士銀行横浜支店===
[[File:Yokohama bashamichi03s3200.jpg|thumb|[[旧富士銀行横浜支店|旧富士銀行(安田銀行)横浜支店]]、[[1929年]]建築</small>]]
旧富士銀行横浜支店は、[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[本町 (横浜市)|本町]]4丁目に所在する建築物である。[[1929年]]([[昭和]]4年)に安田銀行横浜支店として完成し、[[2001年]]まで富士銀行の支店として利用された後、[[2005年]]より[[東京芸術大学|東京藝術大学大学院]]の校舎として使用されている<ref>{{Cite web|和書|title=旧富士銀行横浜支店(東京芸術大学大学院映像研究科馬車道校舎)「JMAものづくりポータルコラム」 – JMA ものづくりポータルサイト |url=https://jma-column.com/column0016/ |website=jma-column.com |access-date=2022-09-11}}</ref>。[[2003年]]に[[横浜市認定歴史的建造物]]に認定された<ref>{{Cite web|和書|title=旧富士銀行横浜支店(元安田銀行横浜支店) |url=https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/toshiseibi/design/ikasu/rekishi/n63.html |website=www.city.yokohama.lg.jp |access-date=2022-09-11 |language=ja}}</ref>。
{{Main|旧富士銀行横浜支店}}
===富士銀行大阪支店===
[[1960年]]10月竣工、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC構造)、地下3階・地上9階建て、延床面積は30,248平方メートル。設計は[[松田平田設計]]<ref>{{Cite web|和書|title=富士銀行大阪支店 {{!}} オフィス・庁舎 {{!}} 実績紹介 |url=https://www.mhs.co.jp/work/fuji_bank_osaka/ |website=松田平田設計 |access-date=2022-09-11 |language=ja}}</ref>。
== 広報・広告関連 ==
=== ビジュアルアイデンティティ ===
[[1980年]]、従来の行章に代えて正方形の中に富士を台形で表した宣伝用[[ロゴタイプ|ロゴ]]マークを制定した。さらに[[1988年]]10月1日の行称変更40周年を機に[[コーポレートアイデンティティ]](CI)の一要素である[[ビジュアル・アイデンティティ]](VI)を導入した。VI導入は、「中期計画 109 - RCT作戦」の柱であるリテールバンキングを推進していくうえで、[[イメージ戦略]]を積極的に活用し、他行への優位性確保を図ろうとする理念のもとで実施され、製品・[[企業ブランディング]]を手掛ける企業としては世界最大規模である[[ランドーアソシエイツ]]による選定と、富士銀に関するイメージ調査をもとに、青・緑のグラデーションを地に先進的でダイナミックな銀行をイメージさせたいとの願いを込めた新ロゴ<ref>[http://www.brandsoftheworld.com/categories/banks/33946.html Fuji Bank logo | Best Brands Of The World] を参照</ref>を決定した。このロゴの愛称は行内で募集され、2万点の応募から「ダイナミック フジ」と決定された<ref>『富士銀行史 1981-2000』p.120 - 121</ref>。
=== ストア・アイデンティティ ===
店舗についても視覚的な統一性を持たせるため什器、備品などの形状、素材までフルコーディネートするストア・アイデンティティ(SI)を[[1989年]]8月以降、順次導入。店舗新設の際には最初からフルコーディネートを施し、既存店に関しては店舗改築・改装時に実施することとして、二重投資や大幅な経費増を回避するとの方針を定めた<ref>『富士銀行史 1981-2000』p.122</ref>。
=== イメージキャラクター ===
[[1987年]]6月、宣伝用ポスターに[[ポール・ニューマン]]を起用<ref>「三和銀行では ざん新に仕掛ける 広告戦略」『日経産業新聞』1987年9月22日</ref>。[[1989年]]には指揮者の[[大友直人]]とピアニストの[[仲道郁代]]を起用、2人が共演する冠イベントコンサートを[[サントリーホール]]で開催するなどした<ref>「銀行もPR時代 (上)タレント起用 とにかく、目を引け」『読売新聞』1990年2月14日</ref>。[[1991年]]1月からの銀行のTVCM解禁時には、インド人の女性シンガーであるナジマ・アフタール、カナダのエンターテイナーであるディアーヌ・デュフレーヌ、ドイツのバリトン歌手であるオラフ・ベーア、オペラ歌手の[[チェチーリア・バルトリ]]、イギリスのパーカッション奏者である[[エヴェリン・グレニー]]らを起用。[[1992年]]夏のボーナス支給時には、先述の世界の新進気鋭の音楽家らが出演するシリーズに加え、新たに[[南果歩]]、[[田中律子]]が共演の上で商品やサービスを伝えるCMも出稿した<ref>「金融機関のCM(2)富士銀行 タレント・アーチスト2本で」『日経金融新聞』1992年8月13日</ref>。[[1993年]]、女性タレントを[[イメージキャラクター]]に起用する金融機関が多い中、異色ではあるが[[本木雅弘]]をあえて起用。これには当初行内から異論も出たが、若い女性顧客を中心に好評を博し<ref>「金融各社イメージ戦略(4)都銀のアイドル信仰 高額なギヤラに難点も」『日経金融新聞』1995年8月25日</ref>、みずほ銀に再編される直前の[[2002年]]3月まで実に9年もの間、彼がイメージキャラクターを務め続けた。ほかに[[とんねるず]]らが起用された。
[[1989年]]には新社会人向けキャンペーンに[[ウルトラマン]]を起用した<ref name=nr890311>「お堅いはずの富士銀行、新社会人向けPRにウルトラマン起用」『日経流通新聞』1989年3月11日付、3頁。</ref>。パンフレット『ウルトラ流3分間ビジネス術』を発行し、営業店で無料配布したほか<ref name=nr890311 />、主な取引先企業の社員にも配布した<ref name=nr890311 /><ref>「経営 本当に帰って来たぞウルトラマン」『日経産業新聞』1989年6月13日付、28頁。</ref>。その他、新聞・雑誌広告を展開した<ref name=nr890311 />。
=== マスコットキャラクター ===
[[1962年]]冬のボーナス支給による預金獲得キャンペーンを実施する際、[[ディズニーキャラクター]]を利用した[[販促品]]の頒布を企画した。しかし、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]](ディズニー社)から利用許諾を得ることが出来なかったため、富士銀は「ボクちゃん」というオリジナルキャラクターを生み出した経緯があった<ref group="注">同業行にあたる[[三菱銀行]]が少し早い時期(富士銀に知られていなかった頃で、三菱銀行によるディズニーキャラクターの販促品が世に出回っていなかった)にディズニー社から利用許諾を得られていたことにより、ディズニーキャラクターをイメージキャラクターとしての採用に成功したことによる措置によるもので、[[三菱UFJ銀行]]となった2022年の現在も継続して使用している。</ref>。
== 不祥事 ==
===富士銀行行員顧客殺人事件===
[[1998年]][[7月2日]]に[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[宮代町]]で発生した[[殺人]]事件。富士銀行の現役[[銀行員]]が自行の顧客を殺害した事件として注目された。
埼玉県[[春日部市]]にある富士銀行春日部支店の行員だった'''O・T'''(当時32歳。以下「O」と表記)は、老夫婦AとBの担当だった。夫妻はいつも顔を見せてくれるOを懇意にし、[[定期預金]]の運用をOに任せていた。Oは夫妻から預かった金を別の[[運輸業|運送業]]者へ[[融資]]するという不正な「[[浮貸し]]」を行ったが、2,500万円の[[債務]]を負ったため、発覚を恐れて夫妻を殺害した。{{main2|事件についての詳細は[[富士銀行行員顧客殺人事件]]}}
===富士銀行巨額不正融資事件(赤坂支店事件)===
[[1991年]]9月、富士銀行[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]支店を舞台に、[[幹部]]行員が[[銀行]]の信用を背景に[[取引先]]に架空の預金証書を発行、それを担保に都内の[[不動産業者]]ら27社7個人が、15の[[ノンバンク]](すなわち預金を受け入れないで[[融資]]をしている会社)から総額約8200億円(不正額累計)もの巨額を不正に引き出した[[詐欺事件]]である<ref>{{Cite web|和書|title=月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識 |url=https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200604/topics01/topic01_06.html |website=www.jiyu.co.jp |access-date=2022-05-10}}</ref>。
赤坂支店の'''N・M'''元渉外課長(当時38歳)は、[[1987年]]から[[コンピュータ]]に架空預金額を打ち込んで預金証書を作り、その後で入金ミスだとしてこの記録を抹消した。預金証書は廃棄せず、偽造の[[質権設定登記|質権設定承諾書]](預金を担保にするのを銀行が認める書類)と共にノンバンクに持ち込んで融資を引き出し、同支店に開設した取引先[[口座]]に一時預金した。1週間以内に解約するなどして融資金を騙し取るという手口である。これらの資金は、おもに地上げや[[不動産投資]]に流れており、大手銀行の[[地価]]大暴騰元凶説が裏付けられた。この不正融資は、地上げへの批判から融資が締めつけられた結果考え出された方法と言われている。
'''N・M'''のほか'''S・A'''(赤坂支店営業課長代理、当時39歳)と'''S・K'''([[日比谷]]支店次長兼渉外課長、当時36歳)ら元行員3人を[[有印私文書偽造]]および同行使と[[特別背任罪]]で[[丸の内警察署]]に告訴した<ref>{{Cite journal|author=橋本光憲|title=一連の偽造預金証書事件について|journal=国際経営フォーラムNo.5|page=226頁}}</ref>。[[警視庁]]は[[知能犯]]を担当する捜査2課が、[[ロッキード事件]]以来15年ぶりという異例の[[特別捜査本部]]を設置、[[1991年]][[9月12日]]、元課長と取引業者ら4人を[[逮捕]]。
[[被告]]に対する判決公判が[[1993年]]7月に[[東京地方裁判所]]([[原田国男]]裁判長)で行われた。裁判長は「不正融資は総額6200億円に上るなど空前の規模。銀行の信用を利用した計画的な犯行で社会的影響も大きい。」と述べ、N・M被告に懲役12年が課せられた。元課長は融資の見返りに取引先から約2億円のリベートを受けていた。[[橋本龍太郎]]蔵相(のちに[[内閣総理大臣]])の[[秘書]]がこの事件で約13億円の無担保融資に関与していたことで橋本は引責辞任する事になった<ref>{{Cite web|和書|title="偽造預金証書" 26件 |url=https://kokalog.net/search.html?speech=%22%E5%81%BD%E9%80%A0%E9%A0%90%E9%87%91%E8%A8%BC%E6%9B%B8%22 |website=kokalog 国会議事録検索 |access-date=2022-05-10 |language=ja}}</ref>。
更に[[暴力団]]に融資金が流れるなど関係者の裾野は広がるばかりで金の流れも複雑であり、相次いで発覚した架空預金・不正融資事件は、その不正規模8200億円という大きさにおいて日本[[金融市場]]かつて例を見ない金融犯罪であった。
== その他 ==
* [[スコットランド]]出身の[[ポストロック]][[バンド (音楽)|バンド]]、[[モグワイ]]のファースト[[アルバム]] 『モグワイ・ヤング・ティーム』([[1997年]])は[[オリジナル]]の[[ディスクジャケット]]<ref>Amazon.co.jp:Young Team({{ASIN|B000023XD7}})</ref>に富士銀行[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]支店(現:みずほ銀行 [http://shop.www.mizuhobank.co.jp/b/mizuho/info/BA339761/ 恵比寿支店])の外観[[写真]]を色反転させたものが使われ、写りこんだ同行の[[ロゴタイプ]]が[[フィーチャー]]されている。このため、「富士銀行」という通称でファンに親しまれている。[[商標]]上の[[権利]]関係により、日本盤のみが店舗の全[[看板]]に[[バレ消し]][[技術]]を用いた[[モザイク処理|同色塗りつぶし]]の措置が施されている<ref>Amazon.co.jp: モグワイ・ヤング・ティーム{{ASIN|B000B52D9K}}</ref>。
* 2001年9月に[[小室哲哉]]に対し、本人所有の[[著作権]]を[[担保]]として事業資金10億円の融資を行った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0203di/pdf/17-19.pdf|title=中間期ディスクロージャー誌(2001年9月中間期)みずほフィナンシャルグループのトピックス |author= |publisher=[[みずほフィナンシャルグループ]]|accessdate=2013年5月 }}</ref>。
* 富士銀行の法定手続上の承継会社である[[みずほコーポレート銀行]]の[[ウェブサイト]]では、2006年12月のサイトリニューアル時に、[http://www.mizuhocbk.co.jp/ トップページ] の画像に[[葛飾北斎]]の『[[凱風快晴]]』([[赤富士]])を使用していた。
== 出身者 ==
{{main|[[:Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]}}
* [[安田善五郎]] - 安田銀行頭取
* [[迫静二]] - 1922年入行、元 頭取
* [[金子鋭]] - 1924年入行、元 頭取・会長
* [[水野衛夫]] - 1934年入行、元 [[安田生命]] 社長
* [[玉城俊一]] - 1946年入行、元 取締役[[日本橋小舟町|小舟町]]支店長、元 [[荘内銀行]] 頭取
* [[端田泰三]] - 1950年入行、元 頭取・会長
* [[稲垣精一]] - 1952年入行、元 [[肥後銀行]] 頭取
* [[唐沢俊二郎]] - 1953年入行、元 [[自由民主党 (日本)|自民党]][[衆議院議員]]・[[郵政大臣]]
* [[多田武彦]] - 1953年入行、作曲家
* [[笹原信一郎]] - 1956年入行、元 取締役 仙台支店長、元 荘内銀行 頭取
* [[橋本徹]] - 1957年入行、元 頭取・会長、元[[ドイツ証券取引所|ドイツ証券]]会長、元[[日本政策投資銀行]]社長
* [[北島義俊]] - 1958年入行、[[大日本印刷]] 社長
* [[南敬介]] - 1958年入行、元 副頭取、[[東京建物]] 社長・会長
* [[伊藤新造]] - 1959年入行、元 常務取締役、[[芙蓉総合リース]] 社長、[[いとうあさこ]]の父
* [[山本惠朗]] - 1959年入行、元 頭取、元 みずほホールディングス 会長
* [[和地孝]] - 1959年入行、元 取締役、[[テルモ]] 社長・会長
* [[笠井和彦]] - 1959年入行、元 副頭取、元 安田信託銀行 会長、元 [[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]取締役、元 [[福岡ソフトバンクホークス]]球団社長
* [[町田睿]] - 1962年入行、元 常務取締役、元 荘内銀行 頭取、[[北都銀行]] 会長、元 [[フィデアホールディングス]]取締役会議長
* [[衛藤博啓]] - 1964年入行、元 常務取締役、元 [[みずほ信託銀行]]社長
* [[小栗宏夫]] - 1965年入行、元 常務取締役、元 肥後銀行 頭取・会長
* [[前田晃伸]] - 1968年入行、元 副頭取、元 [[みずほフィナンシャルグループ]]社長・会長、現 [[日本放送協会]] 会長
* [[池田輝彦]] - 1969年入行、元 みずほコーポレート銀行 副頭取、元 みずほ信託銀行 社長・会長
* [[岡野光喜]] - 1969年入行、元[[スルガ銀行]] 社長
* [[里村正治]] - 1969年入行、元 代表取締役常務、元 荘内銀行 代表執行役会長、フィデアホールディングス代表執行役社長
* [[森俊英]] - 1969年入行、[[南日本銀行]] 会長
* [[高木勝]] - 1969年入行、[[明治大学]] 教授
* [[土屋嶢]] - 1970年入行、元[[大垣共立銀行]] 頭取、会長
* [[吉本和彦]] - 1970年入行、元 (旧) [[みずほ銀行]] 常務執行役員、元[[みずほ情報総研]]専務取締役、元 フィデアホールディングス代表執行役副社長、[[地方公共団体情報システム機構]]理事長
* [[上杉純雄]] - 1971年入行、元 常務執行役員、元 [[ユーシーカード]] 社長、元 [[みちのく銀行]] 会長
* [[荒牧幹人]] - 1972年入行、元 執行役員、元 [[パレスホテル]]社長
* [[木川眞]] - 1973年入行、元 みずほコーポレート銀行 常務取締役、元 [[ヤマト運輸]] 社長・会長、元[[ヤマトホールディングス]]取締役会長
* [[野中隆史]] - 1975年入行、元 (旧) みずほ銀行副頭取、元 みずほ信託銀行社長
* [[西堀利]] - 1975年入行、元 (旧) みずほ銀行頭取、フィデアホールディングス取締役会議長
* [[種橋牧夫]] - 1979年入行、[[東京建物]]会長、[[不動産協会]]副理事長
* [[林信秀]] - 1980年入行、元みずほ銀行頭取
* [[田尾祐一]] - 1981年入行、元(旧)みずほ銀行長野中央支店長、元[[みずほ総合研究所]]副社長、フィデアホールディングス代表執行役社長、荘内銀行頭取
* 黛円 - 1983年入行、俳人、[[黛まどか]]名義で活動
* [[笠原慶久]] - 1984年入行、元みずほ信託銀行常務執行役員、肥後銀行頭取、[[九州フィナンシャルグループ]]社長
* [[大内孝夫]] - 1984年入行、[[名古屋芸術大学]]教授
* [[北島義斉]] - 1987年入行、[[大日本印刷]] 副社長
* [[富岡由紀夫]] - 1987年入行、元 参議院議員
* [[小田原潔]] - 1987年入行、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] 衆議院議員
* [[富岡芳忠]] - 1989年入行、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]] [[衆議院議員]]
*{{仮リンク|スタンレー・プレムナス|en|Stanley Praimnath}} - 1989年入行<ref>{{Cite book|title=Fall and Rise: The Story of 9/11 |author=Mitchell Zuckoff |publisher=[[ハーパーコリンズ|HarperCollins]] |date=2021|isbn=978-0-0622-7564-6 |chapter=Chapter 11: "We Need You"}}</ref>、元ニューヨーク支店員、[[アメリカ同時多発テロ事件]]生存者
* [[奥村真介]] - 1990年入行、元 [[アデコ]] 社長
* [[福嶋健一郎]] - 1991年入行、元 [[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]] 衆議院議員、[[クロスランゲージ]] 社長、サッカービジネスアナリスト
* [[大塚久美子]] - 1991年入行、元 [[大塚家具]]社長
* [[江田良子]](旧姓・北島) - 女子陸上部に入部。元 女子陸上競技(長距離走・マラソン)選手(みずほ銀行→[[ヤマダ電機]])、元 [[レッズランド]]スクール・ランニングプロジェクト指導者、スポーツエイド・ジャパン「ランニング塾」指導者
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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<references group="注" />
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=== 出典 ===
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{{Reflist}}
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== 参考文献 ==
* 富士銀行調査部百年史編さん室 『富士銀行の百年』 株式会社富士銀行、1980年。
* 『開かれた銀行 富士銀行 ― リーディングバンクの素顔』 弘済出版社、1980年。
* 富士銀行編 『富士銀行百年史 別巻』富士銀行、1982年。
* 日本経済新聞社編『ドキュメント イトマン・住銀事件』[[日本経済新聞社]]、1991年。ISBN 4532160189
* 朝日新聞大阪社会部編『イトマン事件の深層』[[朝日新聞社]]、1992年。ISBN 4-02-256411-3
* 溝上幸伸 『富士銀行・危機の真相 ― 名門銀行に今、何が起きているのか』 あっぷる出版社、1998年。ISBN 4871771660
* 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社、2000年。ISBN 4532163617
* 『[https://web.archive.org/web/20070927100706/http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/fbk/data0103d_fbk.html 2001年度版ディスクロージャー誌]』 株式会社富士銀行、2001年。
* 杉山晴美 『天に昇った命、地に舞い降りた命』 [[マガジンハウス]]、 2002年。ISBN 978-4838714162
* 富士銀行企画部120年史編纂室編『富士銀行史 1981-2000』 富士銀行、2002年。
== 関連項目 ==
* [[レイトンハウス]]
* [[富士銀行行員顧客殺人事件]]
== 外部リンク ==
*[https://web.archive.org/web/19990219131542/http://www.fujibank.co.jp/index.html 富士銀行]
*[https://web.archive.org/web/20020223150907/http://www.fujibank.co.jp/investor/culture/sports_top.html FUJIBANK SPORTS TOPIC]
{{都市銀行 (1970年)}}
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[[Category:富士銀行|*]]
[[Category:芙蓉グループ|*ふしきんこう]]
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日本興業銀行
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株式会社日本興業銀行(にっぽんこうぎょうぎんこう、英称:The Industrial Bank of Japan, Limited)は、かつて存在した日本の特殊銀行・普通銀行・長期信用銀行。
明治維新後の重工業の発展や、軍需工業の拡大、第二次世界大戦後の復興と高度経済成長を外債発行により支え、日本からの資本輸出にも携わった。最末期の2000年からはみずほフィナンシャルグループの傘下に入っており、みずほコーポレート銀行を経て、みずほ銀行の前身行の一つとなった。
通称は「興銀(こうぎん)」、英略は「IBJ」。
官僚である前田正名の提言『興業意見』に基づき、農工業の振興を目的に1897年(明治30年)に設立された日本勧業銀行は、養蚕、紡織、食品など農業と密接した軽工業を主な融資対象としており、日露戦争を契機に急成長した製鉄、造船、電力などの重工業は除外されていた。一方、日露戦争後の日本経済の発展と、その副作用としての恐慌(特に1890年と1898年)は国内資本の不足を露呈し、産業界では外資導入の必要性が叫ばれた。しかし企業単独で外資を調達するのは困難であり、政府保証の下外債を発行し、国内重工業への融資を行う、いわば「工業の中央銀行」(後述の『日本興業銀行法』案提案趣旨説明より)たる新金融機関の構想が、産業界で立てられていった。
1899年1月、議員提出法案として「日本興業銀行法」案が第13帝国議会に提出された。しかし政府は、外債に限るとはいえ、元利金支払いを政府が保証するという条項に難色を示し、対案として「動産銀行法」案を上程した。内容は、外債債務の政府保証規定が無い点以外は、ほぼ「日本興業銀行法」案と同じだった。両法案は、政府案に政府保証規定を挿入する形で統合され、衆議院を通過したが、貴族院は政府保証規定を削除して修正可決した。衆議院は修正案を否決し直後に解散したので、一旦廃案となった。
次の第14帝国議会で再上程された「日本興業銀行法」案は、政府保証規定や外債発行を巡って紛糾したが、結局政府保証規定は削除、外債発行については法律では定めない事になり、紆余曲折を経て成立にこぎつけ、翌年3月に公布。1902年に設立総会を開き、資本金1000万円(当時の国家予算の1割強に相当)で営業を開始した。
後述する金融債を発売する際、一般大衆への知名度の低さがネックとなった。戦後の1952年頃より、興銀ではキューピー人形をキャラクターに採用。以降、債券窓口やショーウインドーにキューピー人形を設置し、グッズの配布や債券総合口座の「普通預金ご利用控え」(事実上の普通預金通帳)の表紙にキューピー人形の顔をあしらうなど周知徹底させ、「興銀はキューピーの銀行」のイメージ作りを行った。なお、大口顧客や個人投資家向けの相談窓口の名称は「キューピーファミリー相談室」で、債券総合口座の残高案内に添付されていた機関紙の題号は「きゅーぴーだより」であった。キューピーを用いた広告はみずほフィナンシャルグループ入り後の2002年1月頃まで『あるじゃん』などで出稿されていた。
1950年代から1960年代にかけて、川又克二、日高輝、水島廣雄ら興銀出身者が次々と問題企業の再建に成功し、興銀は当時の人気テレビドラマになぞらえて財界の益荒男派出夫会の異名をとった。
以下に示す個人でも購入可能な金融債商品は、後にみずほ銀行に引き継いでいる。
なお、現在は財形金融債のみ新規発行を受け付けており、窓口販売は終了している。
Category:みずほフィナンシャルグループの人物を参照。一覧にもれた人物の一部を以下に示す。
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"title": "設立の経緯"
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"text": "後述する金融債を発売する際、一般大衆への知名度の低さがネックとなった。戦後の1952年頃より、興銀ではキューピー人形をキャラクターに採用。以降、債券窓口やショーウインドーにキューピー人形を設置し、グッズの配布や債券総合口座の「普通預金ご利用控え」(事実上の普通預金通帳)の表紙にキューピー人形の顔をあしらうなど周知徹底させ、「興銀はキューピーの銀行」のイメージ作りを行った。なお、大口顧客や個人投資家向けの相談窓口の名称は「キューピーファミリー相談室」で、債券総合口座の残高案内に添付されていた機関紙の題号は「きゅーぴーだより」であった。キューピーを用いた広告はみずほフィナンシャルグループ入り後の2002年1月頃まで『あるじゃん』などで出稿されていた。",
"title": "世の中の認識"
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"text": "1950年代から1960年代にかけて、川又克二、日高輝、水島廣雄ら興銀出身者が次々と問題企業の再建に成功し、興銀は当時の人気テレビドラマになぞらえて財界の益荒男派出夫会の異名をとった。",
"title": "世の中の認識"
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"text": "以下に示す個人でも購入可能な金融債商品は、後にみずほ銀行に引き継いでいる。",
"title": "金融債商品"
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"text": "なお、現在は財形金融債のみ新規発行を受け付けており、窓口販売は終了している。",
"title": "金融債商品"
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"text": "Category:みずほフィナンシャルグループの人物を参照。一覧にもれた人物の一部を以下に示す。",
"title": "出身者"
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株式会社日本興業銀行は、かつて存在した日本の特殊銀行・普通銀行・長期信用銀行。 明治維新後の重工業の発展や、軍需工業の拡大、第二次世界大戦後の復興と高度経済成長を外債発行により支え、日本からの資本輸出にも携わった。最末期の2000年からはみずほフィナンシャルグループの傘下に入っており、みずほコーポレート銀行を経て、みずほ銀行の前身行の一つとなった。 通称は「興銀(こうぎん)」、英略は「IBJ」。
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{{Pathnav|みずほフィナンシャルグループ|みずほ銀行|frame=1}}
{{基礎情報 会社
|社名= 株式会社 日本興業銀行
|英文社名= The Industrial Bank of Japan, Limited
|ロゴ= [[画像:IBJ logo.svg|240px]]
| 画像 = [[ファイル:Industrial Bank of Japan Head Office.jpg|200px]]
| 画像説明 = 日本興業銀行本店<br/>(後の[[みずほ銀行前本店ビル]])
|種類= [[株式会社]]
|市場情報= {{上場情報 | 東証1部 | 8302 | | 2000年9月22日 }}{{上場情報 | 大証1部 | 8302 | | 2000年9月22日 }}
|略称= 興銀、[[IBJ_(曖昧さ回避)|IBJ]]など
|本社郵便番号 =
|本社所在地 =
|本店郵便番号 = 100-8210
|本店所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]一丁目3番3号
|国籍 = {{JPN}}
|設立 = [[1902年]]([[明治]]35年)[[3月27日]]
|業種 = 7050
|統一金融機関コード = 0396
|SWIFTコード = IBJTJPJT
|事業内容 = [[長期信用銀行]]
|代表者 = [[西村正雄]]<br />([[代表取締役]][[頭取]])
|資本金 = 6736億0500万円
|売上高 = 単体:1兆2588億1400万円<br />連結:1兆4142億8700万円<br />(経常収益、2001年3月期)
|営業利益 = 単体:1212億6300万円<br />連結:1402億6000万円<br />([[経常利益]]、同期)
|純利益 = 単体:619億3300万円<br />連結:584億9100万円<br />(同期)
|純資産 = 単体:1兆6954億2800万円<br />連結:1兆5964億4100万円<br />(同期末)
|総資産 = 単体:43兆7156億5900万円<br />連結:44兆7751億9000万円<br />(同)
|従業員数 = 単体:4,599人<br />連結:6,415人
|決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[みずほホールディングス]]100%
|外部リンク = 閉鎖
| 特記事項 = いずれも2001年3月期決算。数値は、後身である「[[みずほフィナンシャルグループ]]」ホームページに掲載されている同行のディスクロージャー誌({{PDFlink|[http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/ibj/pdf/data0103d_ibj/ibj01d.pdf 2001年度版ディスクロージャー誌(日本興業銀行)]}}、{{PDFlink|[http://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/report/pdf/8302-200103-50.pdf 有価証券報告書]}})によった。
}}
{{基礎情報 銀行
|銀行 = 日本興業銀行
|英名= The Industrial Bank of Japan, Limited
|英項目名= The Industrial Bank of Japan, Limited
|統一金融機関コード = '''0396'''
|SWIFTコード = IBJTJPJT
|店舗数 = 国内:'''24'''店<br />海外:'''12'''店<br />(※出張所・駐在員事務所を除)
|貸出金残高 = '''22'''兆'''4,800'''億'''1,400'''万円
|預金残高 = '''8'''兆'''7,828'''億'''5,600'''万円<br />(※単体。譲渡性預金を含む)
|特記事項 = ※ほかに金融債残高'''18'''兆'''3,958'''億'''0,100'''万円。
}}
'''株式会社日本興業銀行'''(にっぽんこうぎょうぎんこう、[[英語|英称]]:The Industrial Bank of Japan, Limited)は、かつて存在した[[日本]]の[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]]・[[普通銀行]]・[[長期信用銀行]]。
[[明治維新]]後の重工業の発展や、軍需工業の拡大、[[第二次世界大戦]]後の復興と[[高度経済成長]]を[[外債]]発行により支え、日本からの資本輸出にも携わった。最末期の2000年からは[[みずほフィナンシャルグループ]]の傘下に入っており、[[みずほコーポレート銀行]]を経て、[[みずほ銀行]]の前身行の一つとなった。
通称は「'''興銀(こうぎん)'''」、英略は「'''IBJ'''」。
== 設立の経緯 ==
官僚である[[前田正名]]の提言『興業意見』に基づき、農工業の振興を目的に[[1897年]](明治30年)に設立された[[日本勧業銀行]]は、養蚕、紡織、食品など農業と密接した軽工業を主な融資対象としており、[[日露戦争]]を契機に急成長した製鉄、造船、電力などの重工業は除外されていた。一方、日露戦争後の日本経済の発展と、その副作用としての恐慌(特に1890年と[[1898年]])は国内資本の不足を露呈し、産業界では外資導入の必要性が叫ばれた。しかし企業単独で外資を調達するのは困難であり、政府保証の下外債を発行し、国内重工業への融資を行う、いわば「工業の中央銀行」(後述の『日本興業銀行法』案提案趣旨説明より)たる新金融機関の構想が、産業界で立てられていった<ref name=kogin>『日本興業銀行七十五年史』(日本興業銀行年史編纂委員会、1982年)より要約。</ref>。
[[1899年]]1月、議員提出法案として「日本興業銀行法」案が第13帝国議会に提出された。しかし政府は、外債に限るとはいえ、元利金支払いを政府が保証するという条項に難色を示し、対案として「動産銀行法」案を上程した。内容は、外債債務の政府保証規定が無い点以外は、ほぼ「日本興業銀行法」案と同じだった。両法案は、政府案に政府保証規定を挿入する形で統合され、[[衆議院]]を通過したが、[[貴族院 (日本)|貴族院]]は政府保証規定を削除して修正可決した。衆議院は修正案を否決し直後に解散したので、一旦廃案となった<ref name=kogin />。
次の第14帝国議会で再上程された「日本興業銀行法」案は、政府保証規定や外債発行を巡って紛糾したが、結局政府保証規定は削除、外債発行については法律では定めない事になり、紆余曲折を経て成立にこぎつけ、翌年3月に公布。[[1902年]]に設立総会を開き、資本金1000万円(当時の国家[[予算]]の1割強に相当)で営業を開始した<ref name=kogin />。
== 沿革 ==
* [[1900年]][[3月23日]] - [[日本興業銀行法]]が公布される。
* [[1902年]][[3月27日]] - '''株式会社日本興業銀行'''が設立される。資本金は1000万円が用意された。
* 1902年3月 - 初代総裁に[[添田壽一]]が就任する。
* 1902年10月 - 第1回興業債券として200万円が発行される。
* 1902年10月 - 銭瓶町の営業所が東京府東京市麹町区銭瓶町一番地(現在の東京都千代田区大手町二丁目)に新設される。
* 1913年2月 - 第2代総裁に[[志立鐵次郎]]が就任する。
* 1914年1月 - 大阪支店が開店する。
* 1916年7月 - 外国為替の業務を開始する。
* 1918年2月 - 第3代総裁に[[土方久徴]]が就任する。
* 1918年7月 - 神戸支店が開店する。
* 1922年8月 - 第1回割引興業債券が発行される。
* 1923年2月 - 第4代総裁に[[小野英二郎]]が就任する。
* 1923年6月 - 本店営業所が落成し、東京府東京市麹町区永楽二丁目(最終的な日本興業銀行本店の所在地)に移転する。
* 1923年9月 - [[関東大震災]]の発生に伴い、震災復旧救済金融を実施する。
* 1927年3月 - [[昭和恐慌]]に際し、中小商工業者などに応急資金の融通を開始する。
* 1927年12月 - 第5代総裁に鈴木嶋吉が就任する。
* 1928年7月 - 名古屋支店が開店する。
* 1930年9月 - 第6代総裁に[[結城豊太郎]]が就任する。
* 1932年4月 - 福岡支店が開店する。
* 1935年9月 - 福島県内に東北支店が開店する。
* 1936年2月 - 富山支店が開店する。
* 1937年2月 - 第7代総裁に[[寶來市松]]が就任する。
* 1937年3月 - 広島支店が開店する。
* 1937年11月 - 北海道支店が開店する。
* 1940年12月 - 第8代総裁に[[河上弘一]]が就任する。
* 1944年8月 - 東北支店が福島県福島市から宮城県仙台市に移転。福島出張所が開設される。
* [[1945年]] - 敗戦により、閉鎖の危機に瀕する。元々、日本興業銀行は重工業向けの金融機関であり、[[中島飛行機]](現在の[[SUBARU]])をはじめとする軍需産業への融資が大半を占めていたことから、このことをもって[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から「戦争への協力である」と見なされたのが災いしたとされている。
* 1946年2月 - [[伊藤謙二]]が第9代総裁に就任する。
* 1946年8月 - 復興金融部が創設される。これに合わせて復興特別融資が開始された。
* 1946年8月 - 高松に駐在員事務所が開設される。
* 1946年8月 - 新潟に駐在員事務所が開設される。
* 1946年10月 - 新潟駐在員事務所が出張所に昇格し、営業を開始する。
* 1946年10月 - 高松駐在員事務所が出張所に昇格し、営業を開始する。
* 1947年5月 - [[栗栖赳夫]]が第10代総裁に就任する。
* 1947年7月 - [[岸喜二雄]]が第11代総裁に就任する。
* 1948年4月 - 外国為替取扱銀行の指定を受ける。
* 1948年7月 - 意見書「長期金融機関の必要性」をGHQに提出する。
* 1949年4月 - 高松出張所が支店に昇格する。
* 1949年6月 - [[川北禎一]]が第12代総裁に就任する。
* [[1950年]]4月 - 日本勧業銀行法等を廃止する法律の施行により日本興業銀行法が廃止され、銀行法に基づく普通銀行へ転換。この時、日本勧業銀行との合併話(興勧合同)が取り沙汰されるが、引き続き長期金融を中心とした銀行を志向した興銀と、短期金融を中心とした都市銀行への鞍替えを志向した勧銀とで方向性が合わず、立ち消えになる。
* 1950年4月 - 川北禎一が初代頭取に就任する。
* 1950年10月 - 甲種外国為替銀行の指定を受ける。
* 1950年12月 - 新潟出張所が支店に昇格する。
* 1951年8月 - 福島出張所が支店へと昇格する。
* 1951年10月 - 北海道支店が「札幌支店」に改称する。
* 1951年10月 - 東北支店が仙台支店へと名称を変更する。
* [[1952年]] - [[長期信用銀行法]]が施行されたことにより、同法に基づく長期信用銀行へ転換する。資本金は当時の価格で26億9000万円が用意された。
* 1956年10月 - ニューヨークに事務所が開設される。
* 1957年4月 - [[割引興業債券]]が売出発行方式を採用する。
* 1961年11月 - [[中山素平]]が第2代頭取に就任する。
* 1962年7月 - ニューヨークに事務所が開設され、駐在員事務所となる。
* 1962年7月 - フランクフルトに駐在員事務所が開設される。
* 1962年7月 - 東南アジア産業金融セミナーが開始される。
* 1965年3月 - ロンドンに駐在員事務所が開設される。
* 1967年11月 - 本店が仮店舗(現在の東京駅八重洲南口)へ移転する。
* 1967年11月 - 中小工業部が東京支店(末期は中堅企業センターとしてその姿を残していた)として発足する。
* 1968年5月 - [[正宗猪早夫]]が第3代頭取に就任する。
* 1969年7月 - 利付興業債券が売出発行方式を採用する。
* 1969年12月 - 株式会社パシフィックリース(末期は興銀リース株式会社としてその姿を残していた)が設立される。
* 1970年3月 - 債券オンラインがスタートする。
* 1970年5月 - 日本経営システム(株)が設立される。
* 1970年11月 - 横浜支店が開店する。
* 1971年9月 - ロンドン駐在員事務所が支店に昇格する。
* 1972年12月 - ニューヨーク駐在員事務所が支店に昇格する。
* 1973年10月 - サンパウロ駐在員事務所が開設される。
* 1973年11月 - ルクセンブルグ興銀が設立される。
* 1974年2月 - 新本店が竣工し、最終的な現在の地に移転する。
* 1974年3月 - ロサンゼルス支店が開店する。
* 1974年11月 - 興銀信託(後のIBJトラストカンパニー)が設立される。
* 1975年3月 - 新宿支店が開店する。
* 1975年4月 - '''ロンドン興銀'''が設立される。
* 1975年5月 - [[池浦喜三郎]]が第4代頭取に就任する。
* 1975年8月 - 香港駐在員事務所が開設される。
* 1976年2月 - 渋谷支店が開店する。
* 1976年11月 - パリ駐在員事務所が開設される。
* 1977年11月 - 梅田支店が開店する。
* 1977年11月 - 静岡支店が開店する。
* 1978年3月 - ジャカルタ駐在員事務所が開設される。
* 1979年2月 - スイス興銀が設立される。
* 1979年3月 - ヒューストン駐在員事務所開設
* 1979年6月 - 香港駐在員事務所が香港支店に昇格し、営業を開始する。
* 1979年8月 - メキシコ駐在員事務所が開設される。
* 1979年11月 - 池袋支店が開店する。
* 1980年2月 - 日中米間初の合弁金融会社 CCICファイナンスリミテッド(中芝興業財務有限公司)を香港に設立する。
* 1981年3月 - マドリード駐在員事務所が開設される。
* 1981年3月 - クアラルンプール駐在員事務所が開設される。
* 1981年5月 - 長期信用銀行法が改正され、債券発行限度が自己資本の20倍から30倍へ拡大される。
* 1981年9月 - 北京駐在員事務所が開設される。
* 1981年10月 - 新型商品「[[リッキーワイド]]」の発売を開始する。
* 1982年1月 - カナダ興銀が設立される。
* 1982年3月 - [[バハレーン]]駐在員事務所が開設される。
* 1982年3月 - パナマ駐在員事務所が開設される。
* 1982年4月 - 『金』の店頭販売が開始される。
* 1982年6月 - 吉祥寺支店が開店する。
* 1982年10月 - [[勤労者財産形成貯蓄制度#財形年金貯蓄|財形年金貯蓄]]の発売を開始する。
* 1982年12月 - 上海駐在員事務所が開設される。
* 1983年1月 - シカゴ駐在員事務所が開設される。
* 1983年3月 - サンフランシスコ駐在員事務所が開設される。
* 1983年4月 - 公共債の窓口販売業務を開始する。
* 1983年4月 - アトランタ駐在員事務所が開設される。
* 1983年6月 - パリ駐在員事務所がパリ支店に昇格し、営業を開始する。
* 1983年10月 - 証券3社([[新日本証券]]・[[和光証券]]・[[岡三証券]])と共同コンピュータサービス株式会社を設立する。
* 1983年11月 - 藤沢支店が開店する。
* 1983年12月 - バンコク駐在員事務所が開設される。
* 1984年3月 - 広州駐在員事務所が開設される。
* 1984年4月 - [[日興證券]]株式会社と合弁で株式会社アイ・エヌ情報センターを設立する。
* 1984年6月 - 公共債ディーリング業務を開始する。
* 1984年6月 - インドネシア国営商業銀行バンク・ブミダヤと合弁でブミダヤ興銀リースを設立する。
* 1984年6月 - [[中村金夫]]が第5代頭取に就任する。
* 1984年10月 - 日本橋支店が開店する。
* 1984年12月 - 町田支店が開店する。
* 1985年1月 - 「債券総合口座」の取り扱いを開始する。
* 1985年4月 - 市場金利連動型預金・MMCの取り扱いを開始する。
* 1985年4月 - 大連駐在員事務所が開設される。
* 1985年9月 - オーストラリア興銀が設立される。
* 1985年10月 - 興銀投資顧問株式会社(後の[[DIAMアセットマネジメント]])が設立される。
* 1985年10月 - 自由金利定期預金の取り扱いを開始する。
* 1985年10月 - 東証の特別参加者として債券先物市場に参加する。
* 1985年12月 - 米国[[シュローダー]]銀行に資本参加する。そして、日本興業銀行の現地法人になる。
* 1986年3月 - 興銀ビジネスサービス株式会社が設立される。
* 1986年6月 - 難波支店が開店する。
* 1986年7月 - 興銀カードサービス株式会社が設立される。
* 1986年12月 - IBJシュローダー銀行が米国プライマリーディーラーのA.G.ランストンを買取する。
* 1987年4月 - シカゴ駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1987年9月 - シンガポール興銀が設立される。
* 1987年10月 - 当行初の株主割当による中間発行増資が実施され、新資本金は2125億7858万9526円となった。
* 1988年4月 - ソウル駐在員事務所が開設される。
* 1988年4月 - [[ケイマン]]支店が開店する。
* 1988年7月 - 興銀信用保証株式会社が設立される。
* 1988年10月 - 株主割当による中間発行増資が実施され、新資本金は3520億4532万4686円となった。
* 1988年11月 - 金投資口座の発売が開始される。
* 1988年12月 - ミラノ駐在員事務所が開設される。
* 1989年2月 - 興銀ファイナンス株式会社が設立される。
* 1989年6月 - マドリード駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1989年6月 - 金融先物商品取引の業務を開始する。
* 1989年9月 - インドネシア興銀が設立される。
* 1990年1月 - ナッソー支店が開店する。
* 1990年4月 - 英国3i社と合弁で興銀インベストメント株式会社を設立する。
* 1990年6月 - [[黒澤洋]]が第6代頭取に就任する。
* 1990年7月 - オーストリアの[[オーストリア銀行|クレディタンシュタルト銀行]]と合弁で、IBJ-CAコンサルトを設立する。
* 1990年9月 - ブリッジフォード・グループを設立する。
* 1990年9月 - パリ興銀が設立される。
* 1991年3月 - スペイン興銀が設立される。
* 1991年4月 - ミラノ駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1991年6月 - アトランタ駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1991年8月 - サンフランシスコ駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1991年8月 - 上海駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1991年10月 - 興銀不動産調査サービス株式会社を設立する。
* 1991年11月 - 「興業債券(2年)」の発行を開始する。
* 1991年11月 - 神田支店が開店する。
* 1992年3月 - クルンタイ興銀リースの営業を開始する。
* 1992年11月 - 大連駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1993年5月 - 新総合オンラインシステムの稼働を開始する。
* 1993年5月 - 千葉支店が開店する。
* 1993年5月 - バンコク駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1993年7月 - 興銀証券株式会社が設立される。
* 1993年10月 - 興業債券の募集・売出要領等を変更する。
* 1993年12月 - ラブアン支店が開店する。
** ラブアン支店の出張所として、クアラルンプール出張所が開設され、営業を開始する。
* 1994年5月 - スウィングサービスの開始
* 1994年7月 - 日本興業投信株式会社が設立される。
* 1994年10月 - チューリッヒ支店が開店する。
* 1994年11月 - 長信銀・商工中金・都銀とのCDオンライン提携を実施する。
* 1994年11月 - ハノイ駐在員事務所が開設される。
* 1995年4月 - チョンブリ支店が開店する。
* 1995年4月 - アユタヤ支店が開店する。
* 1995年5月 - 首都圏の5店舗を、日比谷支店と神田支店の2つの支店に統合する。
* 1995年6月 - 興銀ビジネス・エージェンシー株式会社が設立される。
* 1995年8月 - A.G.ランストンがIBJシュローダー銀行より分離し、日本興業銀行の100%子会社になる。
* 1995年10月 - 興銀信託銀行株式会社が設立される。
* 1995年12月 - 武漢駐在員事務所が開設される。
* 1996年3月 - 北京駐在員事務所が支店に昇格し、営業を開始する。
* 1996年4月 - ヒューストン駐在員事務所が、新たにニューヨーク支店ヒューストン出張所として開設される。
* 1996年6月 - [[西村正雄]]が第7代頭取に就任する。
* 1996年6月 - 興銀オフィスサービス株式会社が設立される。
* 1996年11月 - 株主割当による中間発行増資が実施され、新資本金は4651億527万9846円となった。
* 1996年12月 - 池袋支店が債券専業店舗化される。
* 1997年1月 - フランクフルト駐在員事務所が廃止され、駐在員事務所が支店に昇格することなく、新たにフランクフルト支店が開設される。
* 1997年1月 - バンコク支店がフルバンキング業務を開始する。
* 1997年3月 - 上海支店が人民元業務取り扱いを開始する。
* 1997年3月 - 上海支店の出張所として、浦西出張所が開設される。
* [[2000年]] - [[富士銀行]]・[[第一勧業銀行]] の2行と共に[[金融持株会社]]となる[[みずほフィナンシャルストラテジー|みずほホールディングス]]・みずほフィナンシャルグループを設立する。
* [[2002年]]4月1日 - グループにおいて、コンシューマー(リテール)バンキング部門は'''[[みずほ統合準備銀行]]'''に吸収分割・承継した上で'''第一勧業銀行に吸収合併'''させ第一勧業銀行は'''[[みずほ銀行]]へ商号変更を行う'''が、日本興業銀行本体については、富士銀行に吸収合併させ解散となり、富士銀行は[[みずほコーポレート銀行]](2002年 - 2013年)へ商号変更を行った。ただし、みずほコーポレート銀行は、本店所在地・業務内容・勘定系システム等外見上は2002年当時の日本興業銀行とほとんどが同じであるため、事実上は日本興業銀行から個人向け業務と[[金融債]]業務を みずほ銀行に移し、富士銀行・第一勧業銀行のホールセール部門を移管したのが、みずほコーポレート銀行であった。
* [[2013年]]7月1日 - みずほコーポレート銀行が みずほ銀行を吸収合併し、みずほコーポレート銀行は みずほ銀行に商号変更した。
== 世の中の認識 ==
[[ファイル:Industrial Bank of Japan Head Office in 1950s.JPG|thumb|left|250px|1950年代の日本興業銀行本店]]
後述する金融債を発売する際、一般大衆への知名度の低さがネックとなった。戦後の1952年頃より、興銀では[[キューピー]]人形をキャラクターに採用。以降、債券窓口やショーウインドーにキューピー人形を設置し、グッズの配布や債券総合口座の「普通預金ご利用控え」(事実上の普通預金通帳)の表紙にキューピー人形の顔をあしらうなど周知徹底させ、「興銀はキューピーの銀行」のイメージ作りを行った。なお、大口顧客や個人投資家向けの相談窓口の名称は「キューピーファミリー相談室」で、債券総合口座の残高案内に添付されていた機関紙の題号は「きゅーぴーだより」であった。キューピーを用いた広告はみずほフィナンシャルグループ入り後の2002年1月頃まで『[[あるじゃん]]』などで出稿されていた。
1950年代から1960年代にかけて、[[川又克二]]、[[日高輝]]、[[水島廣雄]]ら興銀出身者が次々と問題企業の再建に成功し、興銀は[[ますらを派出夫会|当時の人気テレビドラマ]]になぞらえて'''財界の<ruby><rb>益荒男派出夫</rb><rp>(</rp><rt>ますらおはしゅつふ</rt><rp>)</rp></ruby>会'''の異名をとった。
{{-}}
== 金融債商品 ==
以下に示す個人でも購入可能な[[金融債]]商品は、後に[[みずほ銀行]]に引き継いでいる。
なお、現在は[[財形]]金融債のみ新規発行を受け付けており、窓口販売は終了している。
[[File:KurobeSyowa.JPG|thumb|[[富山地方鉄道本線]]・[[電鉄黒部駅]]に残っていた「興銀のワリコー/リッキーワイド」の広告看板(2010年)]]
* [[ワリコー]]
* [[ワリコーアルファ]]
* [[リッキー (みずほ銀行)|リッキー]]
* [[リッキーワイド]]
== 歴代総裁 ==
# [[添田壽一]] (1902年3月27日 - 1913年2月1日)
# 志立鉄次郎 (1913年2月10日 - 1918年2月9日)
# [[土方久徴]] (1918年2月10日 - 1923年2月9日) ※第12代[[日本銀行]]総裁
# [[小野英二郎]] (1923年2月10日 - 1927年11月26日) ※副総裁
# [[鈴木島吉]] (1927年12月8日 - 1930年9月11日
# [[結城豊太郎]] (1930年9月11日 - 1937年2月2日) ※[[大蔵大臣]]・第15代日本銀行総裁
# 宝来市松 (1937年2月8日 - 1940年12月4日)
# 河上弘一 (1940年12月4日 - 1946年2月1日) ※大正5年入行 [[日本輸出入銀行]]初代総裁
# [[伊藤謙二]] (1946年2月1日 - 1947年5月13日) ※[[復興金融金庫]]初代理事長
# [[栗栖赳夫]] (昭和22年) ※大蔵大臣
# 岸喜二雄 (昭和22年)
# [[川北禎一]] (昭和24年) ※[[1950年]](昭和25年)初代頭取
== 出身者 ==
[[:Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]を参照。一覧にもれた人物の一部を以下に示す。
* 樫田邦雄 - 昭和15年入行、元登録部長、元[[日本曹達]]社長
* 藤澤義之 - 昭和36年入行、[[2000年]](平成12年)会長、元[[メリルリンチ日本証券]]株式会社代表取締役会長
* 西澤宏繁 - 昭和36年入行、元常務取締役、元[[東京都民銀行]]頭取・会長、元[[企業再生支援機構]]社長
* 中山恒博 - 昭和46年入行、[[2004年]](平成16年)[[みずほコーポレート銀行]]副頭取、[[2007年]]4月(平成19年4月)[[メリルリンチ日本証券]]株式会社代表取締役会長
* 北川洋 - 昭和48年入行、元国際営業部長、[[沖縄セルラー電話]]代表取締役社長
* 桂木明夫 - 昭和52年入行、[[リーマン・ブラザーズ]]証券会社在日代表
* 福田勝之 - 昭和54年入行、[[福田組]]社長、会長
== 融資系列 ==
{{see|興銀グループ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* [[高杉良]]『小説日本興業銀行(第一部 - 第四部)』(角川書店、1986年 - 1988年) - 文庫化にあたり加筆され5分冊(講談社文庫、1990年-1991年)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Industrial Bank of Japan}}
* [[みずほフィナンシャルグループ]]
** [[みずほ銀行]]
** [[みずほコーポレート銀行]]
* [[みずほ統合準備銀行]]
* [[第一勧業銀行]]
** [[第一銀行]]
** [[日本勧業銀行]]
* [[富士銀行]]
* [[エムエイチカードサービス]](旧・興銀カードサービス)
* [[日本興業銀行法]]
* [[日本興業銀行キューピーズ]]
* [[半沢直樹シリーズ|半沢直樹]] - 主人公が、合併前に入行した銀行のロゴマークが、興銀に酷似している。
== 出典 ==
# [https://web.archive.org/web/19980211164119/http://www.ibjbank.co.jp/Japanese/jouhou/fdownload.html IBJのあゆみ公式 サイト]<br/>([[インターネットアーカイブ]])
== 外部リンク ==
* [https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%88%E6%A5%AD%E9%8A%80%E8%A1%8C 日本興業銀行とは] - コトバンク
{{normdaten}}
{{みずほフィナンシャルグループ}}
{{DEFAULTSORT:にほんこうきようきんこう}}
[[Category:興銀グループ|にほんこうきようきんこう]]
[[Category:みずほ銀行の前身行|*IBJ]]
[[Category:長期信用銀行]]
[[Category:かつて存在した日本の銀行]]
[[Category:特殊銀行 (日本金融史)]]
[[Category:外国為替銀行]]
[[Category:丸の内の歴史]]
[[Category:1900年設立の企業]]
[[Category:2002年廃止の企業]]
[[Category:千代田区の企業|廃]]
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AIR
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AIRは、フランス語や英語で空気、空、空中などの意味。
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AIRは、フランス語や英語で空気、空、空中などの意味。
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'''AIR'''は、[[フランス語]]や[[英語]]で[[空気]]、[[空]]、空中などの意味。
== 音楽 ==
* [[アリア]] - [[クラシック音楽]]における叙情的、旋律的な独唱曲、または類似の曲に付けられる曲。アリア(Aria)。英語にしたがってエア(Air)ともいう。
* AIR - [[車谷浩司]](元[[BAKU (バンド)|BAKU]]、元[[Spiral Life]])のソロユニット。
** [[AIR (AIRのアルバム)]] - 車谷浩司のAIR名義によるミニアルバム。
* [[A.I.R]] - [[愛内里菜]]のアルバム。
* [[Air (上原多香子の曲)]] - [[上原多香子]]のシングル曲。[[TBS]]系『[[ランク王国]]』2002年8・9月度OPテーマ。
* [[AIR (RAG FAIRのアルバム)]] - [[RAG FAIR]]の[[アルバム]]
* [[エール (バンド)]] - [[フランス]]のポップサウンドユニット
* [[AIR (デュオ)]] - [[中西雅世]]と[[西高志]]によって2005年に結成された男女ジャズボーカルデュオユニット。[https://www.tunecore.co.jp/artist/air]
* AIR - [[Genuine Grace]]のミニアルバム。
* Air - [[V6 (グループ)|V6]]のアルバム「[[READY?]]」収録曲。[[フジテレビ]]系『[[VivaVivaV6]]』テーマソング。
* [[air (EPOのアルバム)]]
== 人物 ==
* [[バスケットボール]]選手[[マイケル・ジョーダン]]のニックネーム - 空(英語でair)を飛んでいるかのような滞空時間の長いジャンプ、シュートをすることからついた。
== 著作物 ==
* [[Adobe AIR]] - [[アドビ]]が開発する[[ランタイムライブラリ]]。
* 前述のアリアからとられた劇場版『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』、第25話のタイトル「Air」。
* [[AIR (ゲーム)]] - ゲームブランド[[Key (ゲームブランド)|Key]]が制作した[[アダルトゲーム]]・[[パソコンゲーム]][[コンシューマゲーム]]の題名、およびこれを原作としたアニメーションなどのメディアミックス作品。
* AiR - 合同会社電気本が発行する[[iPad]]向け[[電子書籍]]。
* AIR - [[長崎国際テレビ|NIB]](長崎国際テレビ)の深夜音楽情報番組。
==組織==
* [[:en:All India Radio|オール・インディア・ラジオ]] {{lang|en|(All India Radio)}} - インドのラジオ放送局
* [[代官山 AIR]] - [[日本]]の[[東京都]][[渋谷区]]にある[[ディスコ|クラブ]]
*[[国際外語・観光・エアライン専門学校]] - 日本の新潟県新潟市にある専門学校(英略:''AIR'')
* [[アソシエイテッド・インディペンデント・レコーディング]] {{lang|en|(Associated Independent Recording)}} - ロンドンを拠点とするレコーディング会社
== 関連項目 ==
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*[[エア]](曖昧さ回避)
*[[エール]](曖昧さ回避)
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田浦駅
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田浦駅(たうらえき)は、神奈川県横須賀市田浦町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)横須賀線の駅である。駅番号はJO 04。
京浜急行電鉄本線の京急田浦駅とは直線距離で北西へ約1.5 km離れており、乗り換えには適さない(距離的には南東へ約1 kmの安針塚駅がより近い)。
島式ホーム1面2線を持つ地上駅。駅舎は橋上駅舎であり、跨線橋の両端に入口が設けられ、跨線橋の中央部に改札口が設置されている。駅の前後にトンネルがある関係で、11両編成の車両がホームに収まらないため、該当列車は一番前の車両の全てのドアと前から2両目の一番前(進行方向前寄り計5か所)のドアが締め切り(ドアカット)となる。エレベーターはホーム - 改札階間と南口に設置されている。
業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)で、お客さまサポートコールシステムが導入されており、一部時間帯は遠隔対応のため改札係員は不在となる。多機能券売機が設置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
かつては横須賀駅方面へ向けて相模運輸倉庫が保有する専用線が分岐していた。この路線は長浦港に張り巡らされ、一部は在日米軍の施設である田浦送油施設へ続いていた。その施設から発送されるジェット燃料や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていたが、1998年より使用を中止し、2006年にはJR貨物の駅も廃止となっている。2007年のリフレッシュ工事で本線から分断された後も線路の大部分はしばらく放置されていたが、2012年より道路改良工事などで撤去された箇所も増えている。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は1,962人で、横須賀線の駅では最も乗車人員が少ない。近年、当駅の乗車人員は減少傾向にある。
近年の推移は下記の通り。
北口は狭いため、南口にのみ小さな駅前広場が存在し、路線バスが発着する。
北口周辺は近年建設されたマンションがある他は住宅はあまりなく、海上自衛隊の関連施設・倉庫群やいくつかの工場が立地する(長浦倉庫群)。旧海軍時代に建てられた古い建築物も多く残っているのが特徴。また前述の専用線の跡も確認できる。
南口は住宅地となっている。その先の山林には梅の名所で知られる田浦梅林があり、春頃には賑わう。
田浦変電所近くの山中に、かつて開発途中で放棄された田浦廃村と呼ばれる廃墟の住宅地があり、治安上の懸念から問題になっていた。2019年になってメガソーラー建設のためにすべて除却された。
駅南口ロータリーおよび国道16号上にある「田浦駅」が最寄りバス停。国道側の乗り場は「田浦駅(国道)」と表記される。発着する路線の詳細は京浜急行バス追浜営業所・京浜急行バス逗子営業所を参照。
当駅から程近い、横須賀寄りにある長浦トンネルは芥川龍之介の小説『蜜柑』のモデルとなったといわれている。なお、近隣の吉倉公園には文学碑がある。
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"text": "駅南口ロータリーおよび国道16号上にある「田浦駅」が最寄りバス停。国道側の乗り場は「田浦駅(国道)」と表記される。発着する路線の詳細は京浜急行バス追浜営業所・京浜急行バス逗子営業所を参照。",
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"text": "当駅から程近い、横須賀寄りにある長浦トンネルは芥川龍之介の小説『蜜柑』のモデルとなったといわれている。なお、近隣の吉倉公園には文学碑がある。",
"title": "その他"
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田浦駅(たうらえき)は、神奈川県横須賀市田浦町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)横須賀線の駅である。駅番号はJO 04。 京浜急行電鉄本線の京急田浦駅とは直線距離で北西へ約1.5 km離れており、乗り換えには適さない(距離的には南東へ約1 kmの安針塚駅がより近い)。
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{{Otheruses|日本の神奈川県横須賀市にあるJR東日本横須賀線の駅}}
{{出典の明記|date=2012年5月}}<!--駅施設の詳細、専用線について等々、出典が一切無いため。-->
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 田浦駅
|画像 = Taura-Sta-S.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2012年5月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|17|33.7|N|139|38|15.5|E}}}}
|よみがな = たうら
|ローマ字 = Taura
|副駅名 =
|前の駅 = JO 05 [[東逗子駅|東逗子]]
|駅間A = 3.4
|駅間B = 2.1
|次の駅 = [[横須賀駅|横須賀]] JO 03
|電報略号 = タウ
|駅番号 = {{駅番号r|JO|04|#0067c0|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀線]]
|キロ程 = 13.8 km([[大船駅|大船]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から[[品鶴線]]経由で63.2
|起点駅 =
|所在地 = [[神奈川県]][[横須賀市]][[田浦 (横須賀市)|田浦町]]一丁目6
|座標 = {{coord|35|17|33.7|N|139|38|15.5|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
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|廃止年月日 =
|乗車人員 = 1,962
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="JRE">[https://www.je-ss.co.jp/pdf/jess_service_area.pdf 事業エリアマップ] - JR東日本ステーションサービス.2021年9月14日閲覧</ref>
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅}}
}}
[[File:Taura-Sta-N.JPG|thumb|北口(2012年5月)]]
'''田浦駅'''(たうらえき)は、[[神奈川県]][[横須賀市]][[田浦 (横須賀市)|田浦町]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[横須賀線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は'''JO 04'''。
[[京浜急行電鉄]][[京急本線|本線]]の[[京急田浦駅]]とは直線距離で北西へ約1.5 [[キロメートル|km]]離れており、乗り換えには適さない(距離的には南東へ約1 kmの[[安針塚駅]]がより近い)。
== 歴史 ==
* [[1904年]]([[明治]]37年)[[5月1日]]:[[鉄道省|官設鉄道]]の[[逗子駅|逗子]] - [[横須賀駅|横須賀]]間に駅を設置し開業する。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[横須賀線]]所属駅となる。
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[4月15日]]:一般大貨物の取扱を開始<ref>[{{NDLDC|2953819}} 大正7年4月13日付官報(第1706号)]鉄道院告示第二十四号 - 国立国会図書館デジタルコレクション</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、JR東日本・JR貨物の駅となる。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[10月21日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の供用を開始する。
* [[2006年]](平成18年)[[5月1日]]:貨物取扱の廃止に伴い、JR貨物の駅が廃止となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrfreight.co.jp/storage/upload/b28ffdfef63004276740e6dca3a48f75.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210317072100/https://www.jrfreight.co.jp/storage/upload/b28ffdfef63004276740e6dca3a48f75.pdf|format=PDF|language=日本語|title=貨物駅の廃止及び呼称の統一について|publisher=日本貨物鉄道|date=2006-03-16|accessdate=2021-03-17|archivedate=2021-03-17}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を持つ[[地上駅]]。駅舎は[[橋上駅|橋上駅舎]]であり、[[跨線橋]]の両端に入口が設けられ、跨線橋の中央部に[[改札|改札口]]が設置されている。駅の前後に[[トンネル]]がある関係で、11両編成の車両がホームに収まらないため、該当列車は一番前の車両の全てのドアと前から2両目の一番前(進行方向前寄り計5か所)のドアが締め切り([[ドアカット]])となる。[[エレベーター]]はホーム - 改札階間と南口に設置されている。
[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[JR東日本ステーションサービス]]委託)<ref name="JRE"/>で、[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、一部時間帯は遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=929_231022">{{Cite web|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=929|title=駅の情報(田浦駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231022140840/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=929|archivedate=2023-10-22}}</ref>。多機能券売機が設置されている<ref name="StationCd=929_231022" />。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px]] 横須賀・総武線(快速)
|style="text-align:center"|上り
|[[横浜駅|横浜]]・[[東京駅|東京]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|-
!2
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px]] 横須賀線
|style="text-align:center"|下り
|[[横須賀駅|横須賀]]・[[久里浜駅|久里浜]]方面
|}
(出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/929.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Yokosuka-Line Taura Station Gates.jpg|改札口(2019年6月)
JREast-Yokosuka-line-Taura-station 2010-03-17 part2.JPG|駅構内は、かつては貨車が行き来していた(2010年3月)
JR Yokosuka-Line Taura Station Platform.jpg|ホーム(2019年6月)
Taura-Sta-Doorcut.JPG|ドアカットの様子(2012年5月)
</gallery>
=== 専用線 ===
かつては[[横須賀駅]]方面へ向けて[[相模運輸倉庫]]が保有する[[専用鉄道|専用線]]が分岐していた。この路線は[[長浦港]]に張り巡らされ、一部は[[在日米軍]]の施設である[[吾妻倉庫地区|田浦送油施設]]へ続いていた。その施設から発送される[[ケロシン|ジェット燃料]]や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていたが、[[1998年]]より使用を中止し、[[2006年]]にはJR貨物の駅も廃止となっている。[[2007年]]のリフレッシュ工事で本線から分断された後も線路の大部分はしばらく放置されていたが、[[2012年]]より道路改良工事などで撤去された箇所も増えている<ref>{{Cite news|url=https://www.townnews.co.jp/0501/2012/12/07/168656.html|title=田浦港町の廃線跡 偶然残った平面交差|newspaper=タウンニュース横須賀版|publisher=[[タウンニュース社]]|date=2012-12-07|accessdate=2020-04-06}}</ref>。
<gallery>
Taura Industrial railway.JPG|分岐器と米国政府による警告看板
田浦専用線 2010 0421.JPG|[[平面交差]]
Line only for Taura 4.JPG|道路に沿って残る線路
Line only for Taura 3.JPG|港方面へ延びる線路
田浦専用線 2010 0421 4.JPG|使われなくなった踏切
田浦専用線 2010 0421 2.JPG|アスファルトで埋設された線路跡
Taura Warehouse 1.JPG|旧海軍軍需部長浦倉庫と線路
</gallery>
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''1,962人'''で、横須賀線の駅では最も乗車人員が少ない。近年、当駅の乗車人員は減少傾向にある。
近年の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/ 神奈川県県勢要覧]</ref><ref>[https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0210/data/t-k-syo/now.html 横須賀市統計書] - 横須賀市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 17ページ</ref>3,710
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>3,235
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>3,132
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>3,129
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>3,089
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>2,995
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>2,915
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>2,768
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>2,673
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>2,687
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>2,650
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>2,561
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>2,515
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_04.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>2,530
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_04.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>2,504
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_04.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>2,372
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_04.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>2,353
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_04.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>2,304
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_04.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>2,292
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_04.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>2,278
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_04.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>2,232
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_04.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>1,816
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_04.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>1,938
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_04.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>1,962
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:田浦駅南口遠景.jpg|thumb|駅前広場遠景(2004年11月)]]
北口は狭いため、南口にのみ小さな[[駅前広場]]が存在し、[[路線バス]]が発着する。
北口周辺は近年建設された[[マンション]]がある他は住宅はあまりなく、[[海上自衛隊]]の関連施設・[[倉庫]]群やいくつかの[[工場]]が立地する(長浦倉庫群)。[[旧海軍]]時代に建てられた古い建築物も多く残っているのが特徴。また前述の専用線の跡も確認できる。
南口は[[住宅地]]となっている。その先の山林には梅の名所で知られる[[田浦梅林]]があり、春頃には賑わう。
田浦変電所近くの山中に、かつて開発途中で放棄された田浦[[廃村]]と呼ばれる廃墟の住宅地があり、治安上の懸念から問題になっていた。2019年になって[[日本の太陽光発電所|メガソーラー]]建設のためにすべて解体された。
{{columns-list|2|
* [[長浦港]]
** 長浦倉庫群
** [[相模運輸倉庫]]本社
* [[田浦郵便局]]
* [[横須賀基地 (海上自衛隊)|海上自衛隊横須賀基地船越地区]]([[自衛艦隊]]司令部・潜水艦隊司令部) ※海上自衛隊の公式サイトでは京急田浦駅を最寄り駅としている。
* 自衛隊横須賀病院
* [[海上自衛隊第2術科学校]]
* [[海上自衛隊艦船補給処]]
* [[海上自衛隊潜水医学実験隊]]
* 田浦梅林
* [[国道16号]]
* [[神奈川県道206号田浦停車場線]]
* 吉倉公園
|}}
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
駅南口[[ロータリー交差点|ロータリー]]および国道16号上にある「'''田浦駅'''」が最寄り[[バス停留所|バス停]]。国道側の乗り場は「'''田浦駅(国道)'''」と表記される。発着する路線の詳細は[[京浜急行バス追浜営業所]]・[[京浜急行バス逗子営業所]]を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!colspan="3"|田浦駅
|-
!1
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[京浜急行バス]]
|[[京浜急行バス逗子営業所#田浦線|'''逗20'''・'''逗21''']]:[[逗子駅]]
|-
!2
|[[京浜急行バス追浜営業所#田浦線|'''田17''']]:[[追浜駅]]
|-
!colspan="3"|田浦駅(国道)
|-
!-
|style="text-align:center;"|京浜急行バス
|{{Unbulleted list|'''田17'''・[[京浜急行バス追浜営業所#安浦二丁目線|'''追34''']]:追浜駅|'''逗20'''・'''逗21''':逗子駅|'''八31''':内川橋 / 安浦二丁目}}
|}
== その他 ==
当駅から程近い、横須賀寄りにある長浦トンネルは[[芥川龍之介]]の小説『[[蜜柑 (小説)|蜜柑]]』のモデルとなったといわれている。なお、近隣の吉倉公園には文学碑がある。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JO line symbol.svg|15px]] 横須賀線
:: [[東逗子駅]] (JO 05) - '''田浦駅 (JO 04)''' - [[横須賀駅]] (JO 03)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====-->
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Taura Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[田浦町 (神奈川県)]]
* [[田浦 (横須賀市)]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=929|name=田浦}}
{{総武快速線・横須賀線}}
{{DEFAULTSORT:たうら}}
[[Category:横須賀市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 た|うら]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の廃駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1904年開業の鉄道駅]]
[[Category:横須賀・総武快速線|たうらえき]]
[[Category:田浦 (横須賀市)|たうらえき]]
|
2003-08-21T10:46:52Z
|
2023-12-19T03:21:46Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B5%A6%E9%A7%85
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13,683 |
横田飛行場
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横田飛行場(よこたひこうじょう)は、日本の東京都多摩地域中部にある軍用飛行場。アメリカ空軍の横田基地(よこたきち、英語: Yokota Air Base)が設置され、航空自衛隊も所在している。
大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、第二次世界大戦中は、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本の長距離飛行を行ったり、大戦末期には首都圏防衛の戦闘機基地となった。
戦後連合国軍に接収され、以来在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ空港(兵站基地)としての機能を有している。また朝鮮戦争休戦協定における国連軍の後方司令部も置かれている。
2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。
拝島駅の北側で、東福生駅や牛浜駅の東側に位置し、福生市、西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市の5市1町(構成面積順)に跨がっている。沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地であるが、沖縄県の在日米軍基地のように民有地の借り入れがなく、そのほとんどが国有地で占められている。
日米の軍用機の運用のほか、近年ではアメリカと同じく北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本土からニューカレドニアなどのフランス海外県への移動の際に、テクニカルランディング地として使用されることもある。
東京都調べによる、2005年(平成17年)5月時点の基地関係者数は、軍人3,600人、軍属700人、家族4,500人、日本人従業員2,200人の、合計約11,000人である。
アメリカ軍人および、その家族のアメリカ本土帰省用に、アメリカ軍と契約している航空会社の定期チャーター便(パトリオット・エクスプレス)の民間旅客機が飛来する。さらに、ユナイテッド航空やデルタ航空など、アメリカ国籍の航空会社の定期便ダイバートや、米本国間米軍チャーター (AMC) などで使用されることがある(通常は発着しないものの、何らかの理由によるチャーター便運行時や、ダイバート発生時に着陸できる許可を得ているため)。貨物便はカリッタエアなど、複数の航空会社が乗り入れている。
税関は東京税関立川出張所の管轄である。
なお、日米地位協定により、アメリカ軍人は出入国管理の搭乗手続きを必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本国政府はその事実を知ることができない。2017年には大統領専用機でドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領(当時)が、2022年にはジョー・バイデン大統領が出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。なお、軍属および家族は入国時にパスポートが必要である。
施設建設やメンテナンスのためなど、一時的に横田飛行場に入場する際には、入場者の日本国籍確認のため、運転免許証(ICカード化され本籍欄が削除されたため、本籍確認のため「2つの4桁暗証番号入力」が必要)、日本国旅券、住民基本台帳カード、マイナンバーカードによる身分証明書の提出が必要である。それ以外の国籍については、入場者のパスポートや在留カードの提出が必須で求められるが、中華人民共和国や北朝鮮、イランなどの保有国籍によっては、横田飛行場への入場が拒否される。
1940年、帝国陸軍航空部隊の立川陸軍飛行場(立川飛行場)の付属施設として建設された多摩陸軍飛行場(たまりくぐんひこうじょう、多摩飛行場)が前身。同年4月1日、新鋭戦闘機を筆頭とする各種航空兵器の審査を行う官衙である飛行実験部が立川より多摩に移転。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年10月15日には、飛行実験部は拡充改編され陸軍航空審査部となり審査業務を行いつつ、末期の本土空襲時には部員と器材を使用し臨時防空飛行部隊(通称・福生飛行隊)を編成し戦果をあげた。戦中、アメリカ軍は偵察機から従来把握していなかった日本軍飛行場の報告を受け、その基地を横田飛行場と名づけたため、また横田基地と呼ばれるようになった。終戦時点でおよそ180機以上の航空機があったとされる。
敗戦後の1945年9月3日、連合国軍の1国として日本の占領業務にあたったアメリカ軍が陸路から来訪し、9月6日に正式に引き渡された。接収後に基地の拡張工事が行われ、1960年頃にはおおむね現在の規模となった。拡張に際しては、北側で国鉄八高線や国道16号の経路が変更され、南側で五日市街道が分断された(このため、この周辺では常時渋滞している)。朝鮮戦争当時はB-29爆撃機の出撃基地として機能し、ベトナム戦争時も補給拠点として積極活用されていた基地である。
1969年10月21日、何者かが基地外周の金属フェンスを破り侵入。軍用機にガソリン10リットルをかけて放火する事件が発生した。後日、京浜安保共闘のメンバー、柴野春彦らが指名手配された(柴野は翌年に自ら起こした上赤塚交番襲撃事件で死亡)。
2012年3月26日、航空自衛隊の航空総隊司令部などが府中基地より移転し、航空自衛隊横田基地の運用が開始された。
(基地の沿革についての詳細は、瑞穂町の資料等を参照)
多摩飛行場の敷地大部分が当時の西多摩郡福生町(現在の福生市)にあったことから、地元や陸軍航空審査部では福生飛行場(ふっさひこうじょう)あるいは福生陸軍飛行場(ふっさりくぐんひこうじょう)と呼ばれていた。
戦中のアメリカ軍は偵察飛行によって飛行場の存在自体は把握していたが、正式名称は把握できていなかった。しかし、少なくとも1945年頃の資料では「YOKOTA」と呼称されるようになったことが確認できる。近隣の地名の中でYOKOTAが用いられたのは、アメリカ陸軍地図サービスが1944年に作成した地図資料『JAPANESE AIRFIELDS』では、「Yokota」が、「Fussa」や「Hakonegasaki」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており、アメリカ軍も「横田の名は、基地の北にある集落に由来しており、運航乗務員の地図に載っていたものであろう」としている。
終戦後、1946年に飛行場がアメリカ軍に移管され、正式にYokota Airbaseへと改称された。
行政区域としての横田村は1908年(明治41年)に廃止されているものの、北多摩郡村山町(現在の武蔵村山市)の大字名としての「横田」は1925年(大正14年)~1985年(昭和60年)発行の国土地理院地形図に掲載されている。
少なくとも平成6年発行の地理院地図からはその表記が消滅しているものの、2023年現在も「武蔵村山市役所」の西隣のバス停名称(都営バス・立川バス)として残っている。その後は、横田基地が存在していることにより、「横田」を冠したトンネルや店舗、教会が点在するようになっている。
横田飛行場には、現在も戦争継続中の朝鮮戦争における国連軍の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また国連軍参加国のうち、8か国の駐日大使館付駐在武官が参加する合同会議が、3か月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には日章旗、星条旗の他に、国連旗が常時掲揚されている。
国連軍後方司令部は、朝鮮戦争休戦協定成立後、1954年(昭和29年)に、日本とイギリス、アメリカ、フランスなど10か国(のちにタイ王国も加わる)が「国連軍地位協定」を結んだことが始まりで、現在でも朝鮮戦争が戦時国際法上「休戦」中(戦争継続中)であることが、日本に設置する根拠となっている。かつてはキャンプ座間に設置されていたが、2007年(平成19年)11月2日に横田飛行場へ移転した。
2010年12月17日に閣議決定・公開された22大綱および23中期防に基づき、以下の部隊等が府中基地より移駐および新編されることが発表された。2012年3月21日付で移転を完了し、26日から「航空自衛隊横田基地」として運用を開始した。基地司令は作戦システム運用隊(旧・防空指揮群)司令が兼任(施設所在地:東京都福生市大字福生2552)。
なお、海上自衛隊は航空総隊司令官のもとに設けられる航空自衛隊中央救難調整所(RCC)から海難救助や航空救難の情報を得るために、基地内に航空救難情報中枢(RIC)と呼ばれる機能を府中基地から移転・設置し、海上自衛官の救難連絡員が配置されていた。
中期防衛力整備計画 (2014)により実施された、海上自衛隊および航空自衛隊が担う陸上配備の航空救難機能の航空自衛隊への一元化が図られた2017年3月31日以降は、統合幕僚監部が航空救難機能の一部を航空救難情報中枢(RIC)として基地内に置き、救難情報連絡員が配置されている。
警察は軍法(統一軍事裁判法)が適用され空軍警備隊の管轄になる。
いずれの無線局も、24時間運用を行っている。
毎年8月、9月頃の連続した土曜日と日曜日に「横田基地日米友好祭」が開催され、普段は立ち入ることの出来ない一般人(原則は日本国籍者とアメリカ合衆国国籍者の身分証明書所持者)も、第5ゲート(最寄駅は青梅線牛浜駅)から横田基地に入場できる。友好祭では米軍機や自衛隊機の軍用機展示を行う航空ショー、バンド演奏、レーションのMREやスパムの販売、米兵による模擬店出店、子供向けの遊戯施設の設置などがおこなわれ、最終日の終了直前には、花火の打ち上げもおこなわれる。2013年は米軍の経費縮減のために「無期限の延期」となったが、2014年から再開された。また毎年1月に「フロストバイトロードレース」(マラソン大会)が開催される。
2020年・2021年は新型コロナウイルス感染拡大の為、中止となったが、2022年より再開。以降は熱中症防止の為、開催時期を3ヶ月早め、5月中旬の連続した土日に開催されている。尚、2022年の2日目・5月22日は第46代合衆国大統領ジョー・バイデンの訪日と重なったが、区画を分ける事で友好祭は予定通り実施された。その結果、友好祭開催中に一般客の目の前で専用機エアフォースワンを含む関係機材の飛来と言う異例の出来事が起きた。
2012年まで東京都知事を務めた石原慎太郎は、横田基地を民間航空機にも開放する「軍民共用化」を2003年都知事選で公約しており、石原の任期中には実現しなかったが、後任の猪瀬直樹知事も実現に意欲を示していた。一方、一部の地元自治体の間では反対意見もある。
在日米軍再編に絡む横田基地の軍民共用化は「検討開始から12か月以内に終了する」という日米の合意に沿って、2006年10月より検討会において協議されてきている。しかし、2007年10月半ば、日本政府関係者の報道人への発言によれば、アメリカ側は横田基地への民間旅客機乗り入れに難色を示しており、2007年11月8日、来日中の国防長官ロバート・ゲーツと外務大臣高村正彦との会談において、協議の継続を求めた高村外相の要請にも同長官は首肯せず、厚木基地や入間基地の軍民共用化を逆提案した。
猪瀬直樹知事の辞任後、後任の都知事が取り組まないことから実現することなく、没交渉となっていたが、2019年4月19日、日本国政府が2020年東京オリンピック・パラリンピックの期間中に、横田基地の臨時的な軍民共用化を打診したと報道された。
これに対して東京都知事小池百合子は、都としても国に要望を行ってきた経緯に触れながら「ぜひ活用させていただきたい。都としても望むところ」と所見を述べたほか、在日米軍のクリストファー・マホーニー副司令官も「現時点では何も決まっていない。日米間の事務レベルで軍民共用化に必要な条件を協議している。日本側からどのような要求があるのか、駐日アメリカ合衆国大使館を通じて待っている段階だ。共用化はできるのではないかとの意見がある。承認された場合は100パーセント支援したい」とマスメディアに語り、日米間で調整を進めていることを示唆した。
日米両政府はアメリカ空軍と航空自衛隊による「軍軍共用化」で合意しており、航空管制権が日本側に返還され、航空自衛隊が受け持つことになる。
この合意は実現し、同基地には空軍第5・第13航空軍司令部と、東京都府中市から移転してくる航空自衛隊航空総隊司令部が同居することになった。共用化や総隊司令部の移転など、当初の予定では2010年(平成22年)となっていたが、2012年(平成24年)3月26日、移転が完了し、同日から総隊司令部ほかが運用を開始した。同庁舎地下には空自と米軍が一堂に会する「共同統合運用調整所」が設けられ、地下通路でアメリカ空軍の指揮所とも行き来できる。
全世界的な米軍再編の動きに従って、キャンプ座間(神奈川県)へのアメリカ陸軍第一軍団司令部移転計画(現在は米ワシントン州フォートルイス(英語版)に所在)が存在し、これが実現した場合、四軍の司令部が日本に揃うことになる。「日米軍事一体化・アメリカの世界戦略への協力だ」とする一部の反発もあるが、日本国政府は米軍再編へ協力する姿勢を示している。
だが、2010年(平成22年)12月17日に閣議決定し公表された『中期防衛力整備計画』の内容に、「米軍とのインターオペラビリティを向上するため、横田基地を新設し、航空総隊司令部等を移転する」との表現があることが判明。沖縄県以外の日本では唯一、狭小な行政面積の3分の1を基地に提供している福生市が、航空自衛隊横田基地の新設は、単なる呼称上の問題に留まらず、基地機能の強化、基地態様の変化に直結するものだとして、内閣総理大臣・防衛大臣などに強く抗議、申し入れを行っていたが、航空自衛隊横田基地は実現して現在に至る。
計器飛行方式(IFR)による出発機・到着機が多い空港には、安全のために「進入管制区」が設けられる。2023年現在、日本には30カ所の進入管制区が設けられており、日本国内の進入管制区は国土交通省管轄が14カ所、防衛省(自衛隊)管轄が14カ所、米軍管轄が2カ所となっている。横田飛行場には横田進入管制区(横田ラプコン)、通称「横田空域」が存在しており、エリア内に存在する基地や飛行場(横田基地、厚木海軍飛行場、キャンプ座間、入間基地、立川飛行場、調布飛行場)を発着する航空機に対して米軍が航空管制を行っている。
日本国内の他の空域では国土交通省あるいは自衛隊の指示を受ける必要があるが、横田空域を飛行する航空機は米軍の指示を受ける必要がある。
1975年(昭和50年)の日米合同委員会による「航空交通管制に関する合意」において、「日本政府は、米国政府が地位協定に基づきその使用を認められている飛行場およびその周辺において引続き管制業務を行うことを認める」とされた。これにより、日本占領時代に開始された米軍による管制が継続されることになった。
1992年(平成4年)6月、羽田空港の拡張に対応するため、空域のうち10%(日野市から三浦半島にかけての南側一部)が削減(返還)された。
2007年(平成19年)5月、横田空域管制施設に日本側(自衛隊)の管制官が併設されるようになった。
2008年(平成20年)9月25日、南側の一部(20%)が返還された。これに伴って羽田空港の出発経路が改訂された。国土交通省によれば、行先によって異なるものの、最大で5分、平均で3分の時間短縮効果があるという。
2019年(令和元年)、東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴い羽田空港の旅客数が増大すると見込まれたことにより、発着経路の見直しが行われた。この際、都心上空を経由して北から羽田に進入する経路を設定するには横田空域内を通過する必要があり、当初米軍は難色を示していた。日本側が「新ルートを設定できなければ、オリンピックの運営に支障が出かねない」と理解を求めた結果、最終的にはアメリカ側が受け入れることになった。これにより、新ルートは横田空域内を通過するものの、国土交通省が管制を行うようになっている。
進入管制区は米軍の排他的使用が認められる空域ではなく、飛行禁止区域でもないため、日本の民間航空機も飛行可能である。
そのため、2008年の空域返還前の時点で羽田発の大阪(伊丹・関西)行きの定期便が横田空域内を通過していたほか、現在も調布飛行場を発着する東京都島嶼部への定期便(IFRによる運航)や前述の羽田空港着陸便が横田空域を飛行している。また、日本のマスコミによる報道ヘリコプターが横田基地上空を飛行・空撮する例や、グライダーなど有視界飛行で運航される小型航空機が横田の管制と連絡を取って飛行する例もある。
しかしながら、横田空域が民間機の運航に少なからず影響を与えているのは事実である。例えば、飛行経路の設定には米軍との協議が必要であるため、羽田発の民間機は東京湾上空で高度を稼いだ上で横田空域の上空を飛行し、空域内の飛行を避けている。この状況を踏まえ、2006年(平成18年)には当時の小泉政権が「横田空域の存在が民間航空交通に影響を与えている」として、「安全かつ円滑な航空交通管制を実施するためには、少なくとも横田空域の削減が必要である」と答弁している。東京都も同様の認識を示し、日本による一体的な航空管制が必要であるとして、国に空域の全面返還を働きかけている。また、千葉県はWebサイトにて、羽田空港への着陸機が千葉県上空を飛行する理由として横田空域の存在を挙げている
元航空管制官の園山耕司によれば、2010年時点で羽田空港から西に向かう出発経路は横田空域の上あるいは中を通過できるため、問題はほとんどないという。ただし、西からの到着経路に関しては横田空域の南辺外を回って、東京湾の入口と房総半島南端の狭隘域から進入する必要があり、依然として難点が残っているとしている。
日本政府は再三にわたって返還を求めており、「日本による一体的な航空管制が行われるべきである」との姿勢を示している。
日本共産党は「日本の空の主権が侵害されている」として、全面返還を求めている。立憲民主党は空域の縮小を求めている。
一方、返還によって羽田空港の発着経路の自由度が高まるということは、これまで横田空域の下に存在していた地域の上空に民間定期便の飛行ルートが設定可能になるということでもある。千葉県や大田区など、横田空域の返還(削減)によって新たに設定されたルート下に位置する自治体では、これに伴って発生する騒音問題から、ルートの撤回や見直しを求める声もある。
鉄道貨物によってジェット燃料の輸送が行われている。JR鶴見線安善駅に隣接する米軍鶴見貯油施設より、平成26年3月15日ダイヤ改正よりJR鶴見線・浜川崎支線・尻手短絡線・武蔵野貨物線・南武線・青梅線経由で運行される専用貨物列車(通称「米タン(べいたん)」)が、平日1日1往復設定されている(平成26年4月時点で火・木曜の週2日が中心)。使用されるタンク車は、米軍輸送隊が日本石油輸送より借り受けているJP-8(航空用ジェット燃料の名称・JP-8は軍用)と車体に書かれた専用タンク車であり、45t積みのタキ1000形を使用した12両編成で運行される。拝島駅に到着した貨車は、駅構内でディーゼル機関車に付け替えられ、基地内まで伸びる単線非電化の専用線(米軍横田基地線)を経由して運び込まれる。以前は定期列車であったが、現在は臨時列車となっている。ただし、定期列車時代から運行有無は荷主である米軍の都合で決定されており、臨時列車化された現在と運行頻度はほとんど変りない。
1967年(昭和42年)8月8日の新宿駅で発生した米軍燃料輸送列車事故は、隣接する米軍立川基地へ運転されていた同種の貨物列車で起こったものである。この事故は、当時のベトナム戦争反対運動や反米学生運動等を刺激し、運動の更なる激化により新宿騒乱事件が発生した。
基地問題は進駐直後から発生し、滑走路建設のための砂利採取は多摩川の河床を低下させ、下流の府中用水などに影響を及ぼした。また、航空燃料や廃油の流出による地下水や井戸水の汚染、異臭や引火事故、騒音および、たび重なる墜落事故など、周辺住民の日常生活へも深刻な被害を及ぼした。詳細は関連項目にある日本におけるアメリカ軍機事故の一覧や、埼玉県金子村B29墜落事故、八王子市F80機墜落事故、砂川村B29爆撃機墜落事故などを参照のこと。
立川基地が返還された一方、横田基地は年間の離着陸数が約2万回であり(東京国際空港の1年間の航空機発着回数である約38万4000回の5%程度)、また年に数回実施されていた空母艦載機着陸訓練は夜間にも行われていた。このような訓練と、日常的に行われている飛行およびエンジンテストなどにより、周辺住民に多大な騒音被害を与えているため、日本国政府やアメリカ合衆国連邦政府に対し、飛行差し止めと騒音被害に対する損害賠償を求める訴訟が、1976年以降に度々行われており、過去分の損害賠償の一部についてのみ認める判決の流れがほぼ定着している。
東京地裁立川支部に提訴され係争中のものとしては、2012年12月12日に起こされた「第9次横田基地公害訴訟」、2013年3月26日に起こされた「第2次新横田基地公害訴訟」がある。
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"text": "横田飛行場(よこたひこうじょう)は、日本の東京都多摩地域中部にある軍用飛行場。アメリカ空軍の横田基地(よこたきち、英語: Yokota Air Base)が設置され、航空自衛隊も所在している。",
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"text": "大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設され、第二次世界大戦中は、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本の長距離飛行を行ったり、大戦末期には首都圏防衛の戦闘機基地となった。",
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"text": "戦後連合国軍に接収され、以来在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ空港(兵站基地)としての機能を有している。また朝鮮戦争休戦協定における国連軍の後方司令部も置かれている。",
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"text": "2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。",
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"text": "拝島駅の北側で、東福生駅や牛浜駅の東側に位置し、福生市、西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市の5市1町(構成面積順)に跨がっている。沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地であるが、沖縄県の在日米軍基地のように民有地の借り入れがなく、そのほとんどが国有地で占められている。",
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"text": "日米の軍用機の運用のほか、近年ではアメリカと同じく北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本土からニューカレドニアなどのフランス海外県への移動の際に、テクニカルランディング地として使用されることもある。",
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"text": "東京都調べによる、2005年(平成17年)5月時点の基地関係者数は、軍人3,600人、軍属700人、家族4,500人、日本人従業員2,200人の、合計約11,000人である。",
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"text": "アメリカ軍人および、その家族のアメリカ本土帰省用に、アメリカ軍と契約している航空会社の定期チャーター便(パトリオット・エクスプレス)の民間旅客機が飛来する。さらに、ユナイテッド航空やデルタ航空など、アメリカ国籍の航空会社の定期便ダイバートや、米本国間米軍チャーター (AMC) などで使用されることがある(通常は発着しないものの、何らかの理由によるチャーター便運行時や、ダイバート発生時に着陸できる許可を得ているため)。貨物便はカリッタエアなど、複数の航空会社が乗り入れている。",
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"text": "税関は東京税関立川出張所の管轄である。",
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"text": "なお、日米地位協定により、アメリカ軍人は出入国管理の搭乗手続きを必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本国政府はその事実を知ることができない。2017年には大統領専用機でドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領(当時)が、2022年にはジョー・バイデン大統領が出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。なお、軍属および家族は入国時にパスポートが必要である。",
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"text": "施設建設やメンテナンスのためなど、一時的に横田飛行場に入場する際には、入場者の日本国籍確認のため、運転免許証(ICカード化され本籍欄が削除されたため、本籍確認のため「2つの4桁暗証番号入力」が必要)、日本国旅券、住民基本台帳カード、マイナンバーカードによる身分証明書の提出が必要である。それ以外の国籍については、入場者のパスポートや在留カードの提出が必須で求められるが、中華人民共和国や北朝鮮、イランなどの保有国籍によっては、横田飛行場への入場が拒否される。",
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"text": "1940年、帝国陸軍航空部隊の立川陸軍飛行場(立川飛行場)の付属施設として建設された多摩陸軍飛行場(たまりくぐんひこうじょう、多摩飛行場)が前身。同年4月1日、新鋭戦闘機を筆頭とする各種航空兵器の審査を行う官衙である飛行実験部が立川より多摩に移転。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年10月15日には、飛行実験部は拡充改編され陸軍航空審査部となり審査業務を行いつつ、末期の本土空襲時には部員と器材を使用し臨時防空飛行部隊(通称・福生飛行隊)を編成し戦果をあげた。戦中、アメリカ軍は偵察機から従来把握していなかった日本軍飛行場の報告を受け、その基地を横田飛行場と名づけたため、また横田基地と呼ばれるようになった。終戦時点でおよそ180機以上の航空機があったとされる。",
"title": "沿革"
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"text": "敗戦後の1945年9月3日、連合国軍の1国として日本の占領業務にあたったアメリカ軍が陸路から来訪し、9月6日に正式に引き渡された。接収後に基地の拡張工事が行われ、1960年頃にはおおむね現在の規模となった。拡張に際しては、北側で国鉄八高線や国道16号の経路が変更され、南側で五日市街道が分断された(このため、この周辺では常時渋滞している)。朝鮮戦争当時はB-29爆撃機の出撃基地として機能し、ベトナム戦争時も補給拠点として積極活用されていた基地である。",
"title": "沿革"
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"text": "1969年10月21日、何者かが基地外周の金属フェンスを破り侵入。軍用機にガソリン10リットルをかけて放火する事件が発生した。後日、京浜安保共闘のメンバー、柴野春彦らが指名手配された(柴野は翌年に自ら起こした上赤塚交番襲撃事件で死亡)。",
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"text": "2012年3月26日、航空自衛隊の航空総隊司令部などが府中基地より移転し、航空自衛隊横田基地の運用が開始された。",
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"text": "(基地の沿革についての詳細は、瑞穂町の資料等を参照)",
"title": "沿革"
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"text": "多摩飛行場の敷地大部分が当時の西多摩郡福生町(現在の福生市)にあったことから、地元や陸軍航空審査部では福生飛行場(ふっさひこうじょう)あるいは福生陸軍飛行場(ふっさりくぐんひこうじょう)と呼ばれていた。",
"title": "名称の由来と変遷"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "戦中のアメリカ軍は偵察飛行によって飛行場の存在自体は把握していたが、正式名称は把握できていなかった。しかし、少なくとも1945年頃の資料では「YOKOTA」と呼称されるようになったことが確認できる。近隣の地名の中でYOKOTAが用いられたのは、アメリカ陸軍地図サービスが1944年に作成した地図資料『JAPANESE AIRFIELDS』では、「Yokota」が、「Fussa」や「Hakonegasaki」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており、アメリカ軍も「横田の名は、基地の北にある集落に由来しており、運航乗務員の地図に載っていたものであろう」としている。",
"title": "名称の由来と変遷"
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"text": "終戦後、1946年に飛行場がアメリカ軍に移管され、正式にYokota Airbaseへと改称された。",
"title": "名称の由来と変遷"
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"text": "行政区域としての横田村は1908年(明治41年)に廃止されているものの、北多摩郡村山町(現在の武蔵村山市)の大字名としての「横田」は1925年(大正14年)~1985年(昭和60年)発行の国土地理院地形図に掲載されている。",
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"text": "少なくとも平成6年発行の地理院地図からはその表記が消滅しているものの、2023年現在も「武蔵村山市役所」の西隣のバス停名称(都営バス・立川バス)として残っている。その後は、横田基地が存在していることにより、「横田」を冠したトンネルや店舗、教会が点在するようになっている。",
"title": "名称の由来と変遷"
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"text": "横田飛行場には、現在も戦争継続中の朝鮮戦争における国連軍の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また国連軍参加国のうち、8か国の駐日大使館付駐在武官が参加する合同会議が、3か月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には日章旗、星条旗の他に、国連旗が常時掲揚されている。",
"title": "部隊"
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"text": "国連軍後方司令部は、朝鮮戦争休戦協定成立後、1954年(昭和29年)に、日本とイギリス、アメリカ、フランスなど10か国(のちにタイ王国も加わる)が「国連軍地位協定」を結んだことが始まりで、現在でも朝鮮戦争が戦時国際法上「休戦」中(戦争継続中)であることが、日本に設置する根拠となっている。かつてはキャンプ座間に設置されていたが、2007年(平成19年)11月2日に横田飛行場へ移転した。",
"title": "部隊"
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"text": "2010年12月17日に閣議決定・公開された22大綱および23中期防に基づき、以下の部隊等が府中基地より移駐および新編されることが発表された。2012年3月21日付で移転を完了し、26日から「航空自衛隊横田基地」として運用を開始した。基地司令は作戦システム運用隊(旧・防空指揮群)司令が兼任(施設所在地:東京都福生市大字福生2552)。",
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"text": "なお、海上自衛隊は航空総隊司令官のもとに設けられる航空自衛隊中央救難調整所(RCC)から海難救助や航空救難の情報を得るために、基地内に航空救難情報中枢(RIC)と呼ばれる機能を府中基地から移転・設置し、海上自衛官の救難連絡員が配置されていた。",
"title": "部隊"
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"text": "中期防衛力整備計画 (2014)により実施された、海上自衛隊および航空自衛隊が担う陸上配備の航空救難機能の航空自衛隊への一元化が図られた2017年3月31日以降は、統合幕僚監部が航空救難機能の一部を航空救難情報中枢(RIC)として基地内に置き、救難情報連絡員が配置されている。",
"title": "部隊"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "警察は軍法(統一軍事裁判法)が適用され空軍警備隊の管轄になる。",
"title": "基地データ"
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"text": "いずれの無線局も、24時間運用を行っている。",
"title": "航空保安無線施設"
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"text": "毎年8月、9月頃の連続した土曜日と日曜日に「横田基地日米友好祭」が開催され、普段は立ち入ることの出来ない一般人(原則は日本国籍者とアメリカ合衆国国籍者の身分証明書所持者)も、第5ゲート(最寄駅は青梅線牛浜駅)から横田基地に入場できる。友好祭では米軍機や自衛隊機の軍用機展示を行う航空ショー、バンド演奏、レーションのMREやスパムの販売、米兵による模擬店出店、子供向けの遊戯施設の設置などがおこなわれ、最終日の終了直前には、花火の打ち上げもおこなわれる。2013年は米軍の経費縮減のために「無期限の延期」となったが、2014年から再開された。また毎年1月に「フロストバイトロードレース」(マラソン大会)が開催される。",
"title": "基地公開"
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"text": "2020年・2021年は新型コロナウイルス感染拡大の為、中止となったが、2022年より再開。以降は熱中症防止の為、開催時期を3ヶ月早め、5月中旬の連続した土日に開催されている。尚、2022年の2日目・5月22日は第46代合衆国大統領ジョー・バイデンの訪日と重なったが、区画を分ける事で友好祭は予定通り実施された。その結果、友好祭開催中に一般客の目の前で専用機エアフォースワンを含む関係機材の飛来と言う異例の出来事が起きた。",
"title": "基地公開"
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"text": "2012年まで東京都知事を務めた石原慎太郎は、横田基地を民間航空機にも開放する「軍民共用化」を2003年都知事選で公約しており、石原の任期中には実現しなかったが、後任の猪瀬直樹知事も実現に意欲を示していた。一方、一部の地元自治体の間では反対意見もある。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"text": "在日米軍再編に絡む横田基地の軍民共用化は「検討開始から12か月以内に終了する」という日米の合意に沿って、2006年10月より検討会において協議されてきている。しかし、2007年10月半ば、日本政府関係者の報道人への発言によれば、アメリカ側は横田基地への民間旅客機乗り入れに難色を示しており、2007年11月8日、来日中の国防長官ロバート・ゲーツと外務大臣高村正彦との会談において、協議の継続を求めた高村外相の要請にも同長官は首肯せず、厚木基地や入間基地の軍民共用化を逆提案した。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "猪瀬直樹知事の辞任後、後任の都知事が取り組まないことから実現することなく、没交渉となっていたが、2019年4月19日、日本国政府が2020年東京オリンピック・パラリンピックの期間中に、横田基地の臨時的な軍民共用化を打診したと報道された。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "これに対して東京都知事小池百合子は、都としても国に要望を行ってきた経緯に触れながら「ぜひ活用させていただきたい。都としても望むところ」と所見を述べたほか、在日米軍のクリストファー・マホーニー副司令官も「現時点では何も決まっていない。日米間の事務レベルで軍民共用化に必要な条件を協議している。日本側からどのような要求があるのか、駐日アメリカ合衆国大使館を通じて待っている段階だ。共用化はできるのではないかとの意見がある。承認された場合は100パーセント支援したい」とマスメディアに語り、日米間で調整を進めていることを示唆した。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "日米両政府はアメリカ空軍と航空自衛隊による「軍軍共用化」で合意しており、航空管制権が日本側に返還され、航空自衛隊が受け持つことになる。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"text": "この合意は実現し、同基地には空軍第5・第13航空軍司令部と、東京都府中市から移転してくる航空自衛隊航空総隊司令部が同居することになった。共用化や総隊司令部の移転など、当初の予定では2010年(平成22年)となっていたが、2012年(平成24年)3月26日、移転が完了し、同日から総隊司令部ほかが運用を開始した。同庁舎地下には空自と米軍が一堂に会する「共同統合運用調整所」が設けられ、地下通路でアメリカ空軍の指揮所とも行き来できる。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"text": "全世界的な米軍再編の動きに従って、キャンプ座間(神奈川県)へのアメリカ陸軍第一軍団司令部移転計画(現在は米ワシントン州フォートルイス(英語版)に所在)が存在し、これが実現した場合、四軍の司令部が日本に揃うことになる。「日米軍事一体化・アメリカの世界戦略への協力だ」とする一部の反発もあるが、日本国政府は米軍再編へ協力する姿勢を示している。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"text": "だが、2010年(平成22年)12月17日に閣議決定し公表された『中期防衛力整備計画』の内容に、「米軍とのインターオペラビリティを向上するため、横田基地を新設し、航空総隊司令部等を移転する」との表現があることが判明。沖縄県以外の日本では唯一、狭小な行政面積の3分の1を基地に提供している福生市が、航空自衛隊横田基地の新設は、単なる呼称上の問題に留まらず、基地機能の強化、基地態様の変化に直結するものだとして、内閣総理大臣・防衛大臣などに強く抗議、申し入れを行っていたが、航空自衛隊横田基地は実現して現在に至る。",
"title": "軍民共用化・中期防衛力整備計画"
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"text": "計器飛行方式(IFR)による出発機・到着機が多い空港には、安全のために「進入管制区」が設けられる。2023年現在、日本には30カ所の進入管制区が設けられており、日本国内の進入管制区は国土交通省管轄が14カ所、防衛省(自衛隊)管轄が14カ所、米軍管轄が2カ所となっている。横田飛行場には横田進入管制区(横田ラプコン)、通称「横田空域」が存在しており、エリア内に存在する基地や飛行場(横田基地、厚木海軍飛行場、キャンプ座間、入間基地、立川飛行場、調布飛行場)を発着する航空機に対して米軍が航空管制を行っている。",
"title": "横田空域"
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"text": "日本国内の他の空域では国土交通省あるいは自衛隊の指示を受ける必要があるが、横田空域を飛行する航空機は米軍の指示を受ける必要がある。",
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1975年(昭和50年)の日米合同委員会による「航空交通管制に関する合意」において、「日本政府は、米国政府が地位協定に基づきその使用を認められている飛行場およびその周辺において引続き管制業務を行うことを認める」とされた。これにより、日本占領時代に開始された米軍による管制が継続されることになった。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)6月、羽田空港の拡張に対応するため、空域のうち10%(日野市から三浦半島にかけての南側一部)が削減(返還)された。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)5月、横田空域管制施設に日本側(自衛隊)の管制官が併設されるようになった。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)9月25日、南側の一部(20%)が返還された。これに伴って羽田空港の出発経路が改訂された。国土交通省によれば、行先によって異なるものの、最大で5分、平均で3分の時間短縮効果があるという。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2019年(令和元年)、東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴い羽田空港の旅客数が増大すると見込まれたことにより、発着経路の見直しが行われた。この際、都心上空を経由して北から羽田に進入する経路を設定するには横田空域内を通過する必要があり、当初米軍は難色を示していた。日本側が「新ルートを設定できなければ、オリンピックの運営に支障が出かねない」と理解を求めた結果、最終的にはアメリカ側が受け入れることになった。これにより、新ルートは横田空域内を通過するものの、国土交通省が管制を行うようになっている。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "進入管制区は米軍の排他的使用が認められる空域ではなく、飛行禁止区域でもないため、日本の民間航空機も飛行可能である。",
"title": "横田空域"
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{
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"tag": "p",
"text": "そのため、2008年の空域返還前の時点で羽田発の大阪(伊丹・関西)行きの定期便が横田空域内を通過していたほか、現在も調布飛行場を発着する東京都島嶼部への定期便(IFRによる運航)や前述の羽田空港着陸便が横田空域を飛行している。また、日本のマスコミによる報道ヘリコプターが横田基地上空を飛行・空撮する例や、グライダーなど有視界飛行で運航される小型航空機が横田の管制と連絡を取って飛行する例もある。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、横田空域が民間機の運航に少なからず影響を与えているのは事実である。例えば、飛行経路の設定には米軍との協議が必要であるため、羽田発の民間機は東京湾上空で高度を稼いだ上で横田空域の上空を飛行し、空域内の飛行を避けている。この状況を踏まえ、2006年(平成18年)には当時の小泉政権が「横田空域の存在が民間航空交通に影響を与えている」として、「安全かつ円滑な航空交通管制を実施するためには、少なくとも横田空域の削減が必要である」と答弁している。東京都も同様の認識を示し、日本による一体的な航空管制が必要であるとして、国に空域の全面返還を働きかけている。また、千葉県はWebサイトにて、羽田空港への着陸機が千葉県上空を飛行する理由として横田空域の存在を挙げている",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "元航空管制官の園山耕司によれば、2010年時点で羽田空港から西に向かう出発経路は横田空域の上あるいは中を通過できるため、問題はほとんどないという。ただし、西からの到着経路に関しては横田空域の南辺外を回って、東京湾の入口と房総半島南端の狭隘域から進入する必要があり、依然として難点が残っているとしている。",
"title": "横田空域"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本政府は再三にわたって返還を求めており、「日本による一体的な航空管制が行われるべきである」との姿勢を示している。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本共産党は「日本の空の主権が侵害されている」として、全面返還を求めている。立憲民主党は空域の縮小を求めている。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "一方、返還によって羽田空港の発着経路の自由度が高まるということは、これまで横田空域の下に存在していた地域の上空に民間定期便の飛行ルートが設定可能になるということでもある。千葉県や大田区など、横田空域の返還(削減)によって新たに設定されたルート下に位置する自治体では、これに伴って発生する騒音問題から、ルートの撤回や見直しを求める声もある。",
"title": "横田空域"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "鉄道貨物によってジェット燃料の輸送が行われている。JR鶴見線安善駅に隣接する米軍鶴見貯油施設より、平成26年3月15日ダイヤ改正よりJR鶴見線・浜川崎支線・尻手短絡線・武蔵野貨物線・南武線・青梅線経由で運行される専用貨物列車(通称「米タン(べいたん)」)が、平日1日1往復設定されている(平成26年4月時点で火・木曜の週2日が中心)。使用されるタンク車は、米軍輸送隊が日本石油輸送より借り受けているJP-8(航空用ジェット燃料の名称・JP-8は軍用)と車体に書かれた専用タンク車であり、45t積みのタキ1000形を使用した12両編成で運行される。拝島駅に到着した貨車は、駅構内でディーゼル機関車に付け替えられ、基地内まで伸びる単線非電化の専用線(米軍横田基地線)を経由して運び込まれる。以前は定期列車であったが、現在は臨時列車となっている。ただし、定期列車時代から運行有無は荷主である米軍の都合で決定されており、臨時列車化された現在と運行頻度はほとんど変りない。",
"title": "燃料輸送"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1967年(昭和42年)8月8日の新宿駅で発生した米軍燃料輸送列車事故は、隣接する米軍立川基地へ運転されていた同種の貨物列車で起こったものである。この事故は、当時のベトナム戦争反対運動や反米学生運動等を刺激し、運動の更なる激化により新宿騒乱事件が発生した。",
"title": "燃料輸送"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "基地問題は進駐直後から発生し、滑走路建設のための砂利採取は多摩川の河床を低下させ、下流の府中用水などに影響を及ぼした。また、航空燃料や廃油の流出による地下水や井戸水の汚染、異臭や引火事故、騒音および、たび重なる墜落事故など、周辺住民の日常生活へも深刻な被害を及ぼした。詳細は関連項目にある日本におけるアメリカ軍機事故の一覧や、埼玉県金子村B29墜落事故、八王子市F80機墜落事故、砂川村B29爆撃機墜落事故などを参照のこと。",
"title": "訴訟"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "立川基地が返還された一方、横田基地は年間の離着陸数が約2万回であり(東京国際空港の1年間の航空機発着回数である約38万4000回の5%程度)、また年に数回実施されていた空母艦載機着陸訓練は夜間にも行われていた。このような訓練と、日常的に行われている飛行およびエンジンテストなどにより、周辺住民に多大な騒音被害を与えているため、日本国政府やアメリカ合衆国連邦政府に対し、飛行差し止めと騒音被害に対する損害賠償を求める訴訟が、1976年以降に度々行われており、過去分の損害賠償の一部についてのみ認める判決の流れがほぼ定着している。",
"title": "訴訟"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "東京地裁立川支部に提訴され係争中のものとしては、2012年12月12日に起こされた「第9次横田基地公害訴訟」、2013年3月26日に起こされた「第2次新横田基地公害訴訟」がある。",
"title": "訴訟"
}
] |
横田飛行場(よこたひこうじょう)は、日本の東京都多摩地域中部にある軍用飛行場。アメリカ空軍の横田基地が設置され、航空自衛隊も所在している。
|
{{Infobox 空港
| 空港名 = 横田基地
| 英語名 = Yokota Air Base
| 画像 = YokotaAirBaseGate2.jpg
| 画像サイズ = 280px
| 画像説明 = 横田基地第2ゲート
| IATA = OKO
| ICAO = RJTY
| 国 = {{JPN}}
| 所在地 = [[東京都]][[福生市]]、[[瑞穂町]]、[[武蔵村山市]]、[[羽村市]]、[[立川市]]、[[昭島市]]<ref>
{{Cite web|和書|url=http://www.city.akishima.lg.jp/s009/010/010/020/20140905184548.html |title=横田基地に関する情報 概要 |publisher=昭島市 企画部 基地・渉外担当 |accessdate=2017-09-03}}</ref>
| 種類 = [[軍用飛行場]]
| 所有者 = [[在日米軍]]
| 運営者 = [[アメリカ空軍]]、[[航空自衛隊]]
| 運用時間 = 24時間
| 開設 = 1940年
| 閉鎖 =
| 所在部隊 = [[在日米軍|在日アメリカ軍]]司令部<br />在日アメリカ空軍司令部<br />アメリカ[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]司令部<br />アメリカ第5空軍第374空輸航空団<br />[[航空自衛隊]][[航空総隊]]司令部<br />航空自衛隊[[航空戦術教導団]]司令部<br />[[アメリカ沿岸警備隊]]極東支部
| 標高 m =
| 標高 ft =
| 座標 = {{Coord|35|44|55|N|139|20|55|E|region:JP-13_type:airport|display=inline}}
| ウェブサイト = https://www.yokota.af.mil/
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 44 | 緯度秒 = 55 | 緯度NS = N
| 経度度 = 139 | 経度分 = 20 | 経度秒 = 55 | 経度EW = E
| 座標地域 =
| 地図名 = Japan Western Tokyo#Japan Tokyo#Japan
| 地図ラベル = '''RJTY'''
| 地図サイズ =
| 地図説明 = 飛行場の位置図
| 滑走路1方向 = 18/36
| 滑走路1ILS = I
| 滑走路1長さ m = 3,353
| 滑走路1幅 m = 60
| 滑走路1表面 = [[アスファルト]]
| 脚注 =
}}
'''横田飛行場'''(よこたひこうじょう)は、[[日本]]の[[東京都]][[多摩地域]]中部にある[[軍用飛行場]]。[[アメリカ空軍]]の'''横田基地'''(よこたきち、{{lang-en|Yokota Air Base}})が設置され、[[航空自衛隊]]も所在している。
== 概要 ==
[[File:Savoia-Marchetti_SM.75_GA_RT_in_East_Asia.jpg|thumb|left|横田基地内でサヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月)]]
[[File:Fussashi-Landsat001.jpg|thumb|福生市域の[[衛星写真]]。右側が横田基地。左側が[[多摩川]]。下部左から合流しているのが[[秋川 (東京都)|秋川]]。]]
[[ファイル:Defense.gov photo essay 110311-F-LX290-002.jpg|thumb|left|[[東北地方太平洋沖地震]]の影響で[[成田国際空港]]が閉鎖されたため、横田基地に[[ダイバート]]した[[アメリカ合衆国]]国籍の[[航空会社]]の[[旅客機]]([[2011年]][[3月11日]])]]
[[大日本帝国陸軍]]の航空部隊の基地として開設され、[[第二次世界大戦中]]は、[[イタリア軍]]の大型輸送機の「[[サヴォイア・マルケッティ SM.75]] GA RT」により、イタリアと日本の長距離飛行を行ったり<ref>Rosselli, p. 20.</ref>、大戦末期には首都圏防衛の戦闘機基地となった。
戦後[[連合国軍]]に接収され、以来[[在日米軍|在日アメリカ軍]][[司令部]]および在日[[アメリカ空軍]]司令部と、アメリカ[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]司令部が置かれている、[[東アジア]]における[[アメリカ軍]]の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継[[ハブ空港]]([[兵站|兵站基地]])としての機能を有している。また[[朝鮮戦争休戦協定]]における[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の後方司令部も置かれている。
[[2012年]]3月からは、移転再編された航空自衛隊の[[航空総隊]]司令部なども常駐するようになり、日米両国の[[空軍]]基地となった。
[[拝島駅]]の北側で、[[東福生駅]]や[[牛浜駅]]の東側に位置し、[[福生市]]、[[西多摩郡]][[瑞穂町]]、[[武蔵村山市]]、[[羽村市]]、[[立川市]]、[[昭島市]]の5市1町(構成[[面積]]順)に跨がっている。[[沖縄県]]以外では日本国内最大の[[アメリカ空軍]]基地であるが、[[沖縄県]]の[[在日米軍]]基地のように[[民有地]]の借り入れがなく、そのほとんどが[[国有地]]で占められている。
日米の[[軍用機]]の運用のほか、近年ではアメリカと同じく[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟国である、[[フランス空軍]]輸送機([[エアバスA340]]-200型機)の、[[フランス・メトロポリテーヌ|フランス本土]]から[[ニューカレドニア]]などの[[フランスの海外県・海外領土|フランス海外県]]への移動の際に、[[テクニカルランディング]]地として使用されることもある。
東京都調べによる、[[2005年]]([[平成]]17年)5月時点の基地関係者数は、軍人3,600人、[[軍属]]700人、家族4,500人、日本人従業員2,200人の、合計約11,000人である<ref>[http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/kiti/minkan/minkan.htm 横田飛行場の民間航空利用>横田飛行場ってどんなところ?>(1)横田飛行場の概要] 東京都</ref>。
アメリカ[[軍人]]および、その家族の[[アメリカ本土]]帰省用に、アメリカ軍と契約している航空会社の定期[[チャーター便]]([[パトリオット・エクスプレス]])の民間[[旅客機]]が飛来する。さらに、[[ユナイテッド航空]]や[[デルタ航空]]など、アメリカ国籍の[[航空会社]]の定期便[[ダイバート]]や、米本国間米軍チャーター (AMC) などで使用されることがある(通常は発着しないものの、何らかの理由によるチャーター便運行時や、ダイバート発生時に着陸できる許可を得ているため)。貨物便は[[カリッタエア]]など、複数の航空会社が乗り入れている。
税関は[[東京税関]]立川出張所の管轄である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202110/202110p.html |title=各地の話題/「ファイナンス」令和3年10月号 |accessdate=2023-06-26}}</ref>。
なお、[[日米地位協定]]により、アメリカ軍人は[[出入国管理]]の[[搭乗手続き]]を必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、[[日本国政府]]はその事実を知ることができない。[[2017年]]には[[エアフォースワン|大統領専用機]]で[[ドナルド・トランプ]][[アメリカ合衆国大統領]](当時)が、[[2022年]]には[[ジョー・バイデン]]大統領が出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。なお、軍属および家族は入国時にパスポートが必要である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/qa06.html |title=日米地位協定Q&A |accessdate=2023-06-26}}</ref>。
施設建設や[[メンテナンス]]のためなど、一時的に横田飛行場に入場する際には、入場者の[[日本国籍]]確認のため、[[運転免許証]]([[ICカード]]化され本籍欄が削除されたため、本籍確認のため「2つの4桁[[暗証番号]]入力」が必要)、[[日本国旅券]]、[[住民基本台帳カード]]、[[マイナンバーカード]]による[[身分証明書]]の提出が必要である。それ以外の国籍については、入場者の[[パスポート]]や[[在留カード]]の提出が必須で求められるが、[[中華人民共和国]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[イラン]]などの保有[[国籍]]によっては、横田飛行場への入場が拒否される。
{{-}}
== 沿革 ==
[[File:The Nakajima Ki-84 Hayate additional prototype of the Army Air Force.jpg|thumb|1943年、多摩飛行場(現・横田基地)において[[陸軍航空審査部]]により試験中のキ84増加試作機(のちの[[四式戦闘機|四式戦「疾風」]])]]
[[File:旧五日市街道西砂中里西.jpg|thumb|基地南東、立川方。分断されたかつての五日市街道。]]
[[1940年]]、[[陸軍飛行戦隊|帝国陸軍航空部隊]]の[[立川飛行場|立川陸軍飛行場(立川飛行場)]]の付属施設として建設された'''多摩陸軍飛行場'''(たまりくぐんひこうじょう、'''多摩飛行場''')が前身。同年4月1日、新鋭[[戦闘機]]を筆頭とする各種航空兵器の審査を行う官衙である[[陸軍航空審査部#飛行実験部|飛行実験部]]が立川より多摩に移転。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])中の[[1942年]]10月15日には、飛行実験部は拡充改編され[[陸軍航空審査部]]となり審査業務を行いつつ、末期の[[日本本土空襲|本土空襲]]時には部員と器材を使用し臨時防空飛行部隊(通称・福生飛行隊)を編成し戦果をあげた。戦中、アメリカ軍は[[偵察機]]から従来把握していなかった日本軍飛行場の報告を受け、その基地を'''横田飛行場'''と名づけたため、また'''横田基地'''と呼ばれるようになった。終戦時点でおよそ180機以上の航空機があったとされる。
敗戦後の[[1945年]]9月3日、連合国軍の1国として日本の占領業務にあたったアメリカ軍が陸路から来訪し、9月6日に正式に引き渡された。接収後に基地の拡張工事が行われ、[[1960年]]頃にはおおむね現在の規模となった。拡張に際しては、北側で[[日本国有鉄道|国鉄]][[八高線]]や[[国道16号]]の経路が変更され、南側で[[五日市街道]]が分断された(このため、この周辺では常時[[渋滞]]している)。[[朝鮮戦争]]当時は[[B-29 (航空機)|B-29]][[爆撃機]]の出撃基地として機能し、[[ベトナム戦争]]時も[[補給]]拠点として積極活用されていた基地である。
[[1969年]][[10月21日]]、何者かが基地外周の金属フェンスを破り侵入。軍用機に[[ガソリン]]10リットルをかけて[[放火]]する事件が発生した。後日、[[日本共産党(革命左派)神奈川県委員会|京浜安保共闘]]のメンバー、[[柴野春彦]]らが指名手配された(柴野は翌年に自ら起こした[[上赤塚交番襲撃事件]]で死亡)<ref>死んだのは横浜国大生『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月18日夕刊 3版 1面</ref>。
2012年3月26日、航空自衛隊の航空総隊司令部などが[[府中基地]]より移転し、航空自衛隊横田基地の運用が開始された。
(基地の沿革についての詳細は、瑞穂町の資料<ref>{{PDFlink|[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/yokota-kichi/siryou/23.pdf 3.基地の沿革]}} 瑞穂町</ref>等を参照)
== 名称の由来と変遷 ==
多摩飛行場の敷地大部分が当時の[[西多摩郡]]福生町(現在の[[福生市]])にあったことから、地元や陸軍航空審査部では'''福生飛行場'''(ふっさひこうじょう)あるいは'''福生陸軍飛行場'''(ふっさりくぐんひこうじょう)と呼ばれていた<ref name="history_AFD-150928-037">{{Cite web|和書|url=https://www.yokota.af.mil/Portals/44/Documents/Yokota_Journal/History/AFD-150928-037.pdf |title=横田基地の歴史 第二次世界大戦時の横田 |accessdate=2023-06-23}}</ref><ref name="374th_Airlift_Wing_History">{{Cite web |url=https://www.yokota.af.mil/About-Us/Fact-Sheets/Display/Article/410655/374th-airlift-wing-history/ |title=374th Airlift Wing - History |accessdate=2023-06-23}}</ref>。
戦中のアメリカ軍は偵察飛行によって飛行場の存在自体は把握していたが、正式名称は把握できていなかった<ref name="374th_Airlift_Wing_History" />。しかし、少なくとも1945年頃の資料では「'''{{en|YOKOTA}}'''」と呼称されるようになったことが確認できる<ref name="yokota_history_ww2">{{Cite web |url=https://www.yokota.af.mil/News/Article/774059/yokota-history-part-1-yokota-during-wwii/ |title=Yokota History Part 1: Yokota during WWII|accessdate=2023-06-23}}</ref>。近隣の地名の中でYOKOTAが用いられたのは、[[アメリカ陸軍]]地図サービスが[[1944年]]に作成した地図資料『{{en|JAPANESE AIRFIELDS}}』では、「{{en|Yokota}}」が、「{{en|Fussa}}」や「{{en|Hakonegasaki}}」より飛行場近くに記載されていたためと考えられており<ref>[https://web.archive.org/web/20080408180724/http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/yokota-name.html 横田基地命名の由来] 横田基地とことんウオッチング(アーカイブ)</ref>、アメリカ軍も「横田の名は、基地の北にある集落に由来しており、運航乗務員の地図に載っていたものであろう」としている<ref name="yokota_history_ww2" />。
終戦後、1946年に飛行場がアメリカ軍に移管され、正式にYokota Airbaseへと改称された<ref name="374th_Airlift_Wing_History" />。
=== 地名としての横田 ===
行政区域としての[[横田村 (東京府)|横田村]]は[[1908年]](明治41年)に廃止されているものの、[[北多摩郡]]村山町(現在の[[武蔵村山市]])の[[大字]]名としての「横田」は[[1925年]](大正14年)~[[1985年]](昭和60年)発行の[[国土地理院]][[地形図]]に掲載されている<ref name="yokota_name_on_map">「横田」を示す過去の地理院地図へのリンク
*{{Cite web|和書|url=https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.759111&lng=139.386721&zoom=16&dataset=tokyo50&age=1&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 |title=大正14年(1925年)発行の地理院地図 |publisher=国土地理院・今昔マップ |accessdate=2023-11-06}}
*{{Cite web|和書|url=https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.759111&lng=139.386721&zoom=16&dataset=tokyo50&age=2&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 |title=昭和22年(1947年)発行の地理院地図 |publisher=国土地理院・今昔マップ |accessdate=2023-11-06}}
*{{Cite web|和書|url=https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.759111&lng=139.386721&zoom=16&dataset=tokyo50&age=4&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 |title=昭和42年(1967年)発行の地理院地図 |publisher=国土地理院・今昔マップ |accessdate=2023-11-06}}
*{{Cite web|和書|url=https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.759111&lng=139.386721&zoom=16&dataset=tokyo50&age=5&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 |title=昭和52年(1977年)発行の地理院地図 |publisher=国土地理院・今昔マップ |accessdate=2023-11-06}}
*{{Cite web|和書|url=https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.759111&lng=139.386721&zoom=16&dataset=tokyo50&age=6&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 |title=昭和60年(1985年)発行の地理院地図 |publisher=国土地理院・今昔マップ |accessdate=2023-11-06}}
*{{Cite web|和書|url=https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.759111&lng=139.386721&zoom=16&dataset=tokyo50&age=7&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 |title=平成6年(1994年)発行の地理院地図 |publisher=国土地理院・今昔マップ |accessdate=2023-11-06}}</ref>。
少なくとも平成6年発行の地理院地図からはその表記が消滅しているものの<ref name="yokota_name_on_map" />、2023年現在も「武蔵村山市役所」の西隣の[[バス停]]名称([[都営バス]]・[[立川バス]])として残っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.navitime.co.jp/bus/diagram/direction/00017777/ |title=横田(東京都)の時刻表 路線一覧 - NAVITIME |accessdate=2023-11-06}}</ref><ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/map/ 東京都交通局ホーム > 都営バス > 路線図(みんくるガイド) > 駅名で探す > 箱根ヶ崎] [[都営バス]]</ref>。その後は、横田基地が存在していることにより、「横田」を冠したトンネルや店舗、[[教会 (キリスト教)|教会]]が点在するようになっている<ref>【東京探Q】「横田」基地 呼称の由来は?/戦時中 近くの集落名から/住居表示には残らず『読売新聞』朝刊2018年5月28日(都民面)。</ref>。
{{Gallery
|width=300
|height=200
|File:Yokota and Airfield in map 1944.jpg|1944年頃のアメリカ軍による地図。'''Airfield'''(飛行場)の北東に'''Yokota'''という地名が確認できる。
|File:Yokota Airfield in the US Document 1945.jpg|1945年に発行されたアメリカ軍陸海軍合同情報調査によるの空襲目標情報。偵察による航空写真と共に'''Yokota Airfield'''と記載されている。
|File:Yokota Airfield information in US force document July 1945.jpg|1945年7月のアメリカ軍による文書。Yokota Airfieldとして多摩飛行場の偵察結果が記載されている。
}}
== 部隊 ==
=== アメリカ軍 ===
* 米軍司令部:在日米軍司令部、在日米空軍司令部、第5空軍司令部、日米共同統合作戦調整センター
* 駐留部隊:第374空輸航空団、第730航空機動中隊、第374空輸航空団憲兵中隊、第353特殊作戦群第21特殊作戦中隊、第353特殊作戦群第753特殊作戦航空機整備中隊、[[アメリカ沿岸警備隊]]極東支部(連絡官のみ)、DFAS-J([[会計]]業務隊)、第10[[報道]]分遣隊、空軍[[軍楽隊]]、[[郵便]]中隊等
=== 国連軍後方司令部 ===
横田飛行場には、現在も戦争継続中<ref group="注釈">[[朝鮮戦争休戦協定]]は成立しているが、[[平和条約]]は成立していない。</ref>の[[国連軍 (朝鮮半島)|朝鮮戦争における国連軍]]の後方司令部が存在しており、常勤の要員として軍人3名・軍属1名が配置されている。また国連軍参加国のうち、8か国の[[駐日外国公館の一覧|駐日大使館]]付駐在武官が参加する合同会議が、3か月に1回程度の割合で開かれており、事実上の駐日武官の連絡詰所となっている。飛行場には[[日本の国旗|日章旗]]、[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]の他に、[[国際連合の旗|国連旗]]が常時掲揚されている。
国連軍後方司令部は、[[朝鮮戦争休戦協定]]成立後、[[1954年]](昭和29年)に、日本とイギリス、アメリカ、フランスなど10か国(のちにタイ王国も加わる)が「[https://worldjpn.net/documents/texts/JPUS/19540219.T1J.html 国連軍地位協定]」を結んだことが始まりで、現在でも朝鮮戦争が[[戦時国際法]]上「[[休戦]]」中(戦争継続中)であることが、日本に設置する根拠となっている。かつては[[キャンプ座間]]に設置されていたが、[[2007年]](平成19年)[[11月2日]]に横田飛行場へ移転した。
=== 航空自衛隊 ===
2010年12月17日に[[閣議決定]]・公開された[[防衛計画の大綱#平成23年度以降に係る防衛計画の大綱について(22大綱)|22大綱]]および[[中期防衛力整備計画 (2011)|23中期防]]に基づき、以下の部隊等が[[府中基地]]より移駐および新編されることが発表された。2012年3月21日付で移転を完了し、26日から「航空自衛隊横田基地」として運用を開始した<ref>{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11488652/www.mod.go.jp/j/yosan/yosan_gaiyo/2011/kankei.pdf 平成23年度防衛予算の概要]}} 防衛省</ref><ref>[https://kanpou.npb.go.jp/old/20120322/20120322g00063/20120322g000630005f.html 自衛隊法施行令及び防衛省の職員の給与等に関する法律施行令の一部を改正する政令(平成24年政令第53号)](官報平成24年3月22日、号外第63号第5面)</ref>。基地司令は作戦システム運用隊(旧・防空指揮群)司令が兼任(施設所在地:東京都福生市大字福生2552)<ref group="注釈">航空総隊ホームページより。</ref>。
* [[航空総隊]]司令部
* [[航空戦術教導団]]司令部
* [[作戦情報隊]]
* [[作戦システム運用隊]]
* [[警務隊#航空警務隊|横田地方警務隊]]
* [[航空気象群]]横田気象隊
なお、[[海上自衛隊]]は航空総隊司令官のもとに設けられる航空自衛隊中央救難調整所(RCC)から海難救助や航空救難の情報を得るために、基地内に航空救難情報中枢(RIC)と呼ばれる機能を府中基地から移転・設置し、[[海上自衛官]]の救難連絡員が配置されていた<ref>{{WAP|pid=11181270|url=www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/f_fd/2012/fz20130326_00083_000.pdf|title=自衛隊の航空救難に関する協定(平成25年3月25日)|date= 2018-11-01}} 自衛隊の航空救難に関する協定について(通達)(陸幕運支第83号。平成25年3月26日)より </ref>。
[[中期防衛力整備計画 (2014)]]により実施された、海上自衛隊および航空自衛隊が担う陸上配備の航空救難機能の航空自衛隊への一元化が図られた2017年3月31日以降は、[[統合幕僚監部]]が航空救難機能の一部を航空救難情報中枢(RIC)として基地内に置き、救難情報連絡員が配置されている<ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/h_fd/2017/hy20180327_00014_000.pdf 自衛隊の航空救難に関する達] 平成30年自衛隊統合達第14号</ref>。
== 基地データ ==
[[File:YOKOTA.airports.Aerial Shoot.jpg|thumb|横田飛行場空撮(2021年)]]
[[ファイル:Yokota Community Center.jpg|thumb|横田コミュニティーセンター]]
[[ファイル:C-130J_14-5807_arrives_at_Yokota_AB_(170306-F-PM645-232).jpg|thumb|横田基地のC-130J-30]]
* 基地総面積:7.136[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]
:(南北約4.5[[キロメートル|km]] 東西約2.9km 周囲約14km)
* [[滑走路]]:3,350[[メートル|m]]×幅員60m 1本
* [[方位]]:18/36
* [[オーバーラン]]:南側305m/北側300m
* [[着陸]]方式:ILS(18、36双方向)
* 付帯設備:[[管制塔]]、[[誘導路]]、[[格納庫]]、[[駐機場]]、[[整備]]工場、[[通信]]施設、[[空港ターミナルビル|旅客ターミナル]]、[[東京税関]]立川出張所横田旅具検査場
* その他施設:[[消防署]]、[[兵員]][[宿舎]]、[[将校]]宿舎、家族住宅、[[スーパーマーケット]]、[[病院]]、[[診療所]]、[[教会 (キリスト教)|教会]]、[[幼稚園]]・[[小学校]]・[[アメリカ合衆国の中等教育|中等教育]]の学校([[横田ハイスクール]])・[[大学]]、小銃射撃訓練場、[[清掃工場]]、[[図書館]]、[[郵便局]]、[[放送局]](「[[AFN]] Tokyo」) 、フードコート(チャーリーズ・ステーカリー、[[ポパイズ・ルイジアナ・キッチン|ポパイズ]]、[[タコベル]]、[[サーティワン]]<ref>[https://yokotafss.com/wp-content/uploads/AroundKantoMap2013.pdf= YoKoTA LoDGING MAP - Yokota FSS]</ref>、ピザハット、サブウェイ)、[[チリーズ・グリル・アンド・バー|チリーズ]]、[[バーガーキング]]、[[スターバックス]]、[[映画館]]、[[体育]]施設([[野球場]]、[[ボウリング場]]、[[ゴルフコース]]等)
* 基地内人口:約8,800人(内訳 軍人・軍属:約4,300人、家族:約4,500人)
* 日本人従業員:約2,200人
* 基地内の車両移動通行方法は、日本の公道と同じ左側通行。交差点通行方法は、基本的に[[ラウンドアバウト]]を利用している。
* 常駐航空機:[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]第374空輸航空団第36輸送飛行隊所属「[[C-130J (航空機)|C-130J-30]]」14機、第5空軍第374空輸航空団第459輸送飛行隊所属「[[C-12 (航空機)|C-12J]]」3機、同隊所属「[[UH-1 (航空機)|UH-1N]]」4機、[[アメリカ空軍特殊作戦コマンド|空軍特殊作戦コマンド]]第353特殊作戦群第21特殊作戦中隊所属「[[V-22 (航空機)|CV-22B]]」5機
警察は軍法(統一軍事裁判法)が適用され[[空軍警備隊]]の管轄になる。
{| class="wikitable" style="text-align:right;width:100%;"
|+土地所有者別内訳
|-
!
!提供面積(km<sup>2</sup>)
!基地面積割合(%)
|-
|国有地
|7.073
|99.1
|-
|都有地
|0.034
|0.5
|-
|公有地
|0.029
|0.4
|}
{| class="wikitable" style="text-align:right;width:100%;"
|+各市町ごとの横田基地への提供面積と、基地全面積に占める割合、および自治体全面積に占める割合
|-
!自治体名
!自治体面積(km<sup>2</sup>)
!提供面積(km<sup>2</sup>)
!基地面積割合(%)
!自治体面積割合(%)
|-
|福生市
|10.16
|3.317
|46.5
|32.6
|-
|瑞穂町
|16.83
|2.101
|29.4
|12.5
|-
|武蔵村山市
|15.37
|0.990
|13.9
|6.4
|-
|羽村市
|9.91
|0.417
|5.8
|4.2
|-
|立川市
|24.38
|0.290
|4.1
|1.2
|-
|昭島市
|17.33
|0.021
|0.3
|0.1
|}
== 航空管制 ==
[[ファイル:Yokota Air Base - Control Tower - 2011.jpg|thumb|横田基地の管制塔]]
{| class="wikitable"
!種類
!周波数 ([[超短波|VHF]])
!周波数 ([[極超短波|UHF]])
!運用時間(Z)
|-
!CLR
|131.400MHz
|249.950MHz
|2100-1300
|-
!GND
|133.200MHz
|308.600MHz
|2100-1300
|-
!TWR
|134.300MHz
|315.800MHz
|2100-1300
|-
!DEP
|122.100MHz
|363.800MHz
|24H
|-
!APP/ARRIVAL(AREA A)
|123.800MHz
|317.850MHz
|24H
|-
!APP/ARRIVAL(AREA B)
|120.700MHz
|261.400MHz
|24H
|-
!APP/ARRIVAL(AREA C)
|118.300MHz
|270.600MHz
|24H
|-
!ATIS
|128.400MHz
|281.000MHz
|2100-1300
|-
!METRO
|
|344.600MHz
|24H
|}
== 航空保安無線施設 ==
{| class="wikitable"
!局名
!種類
!周波数
!識別信号
|-
|横田
|TACAN
|1172 MHz(CH-85x)
|YOK
|-
|横田
|ILS(R/W 36)
|109.7MHz
|I-YOK
|-
|横田
|ILS(R/W 18)
|108.7MHz
|I-YAS
|}
いずれの[[無線局]]も、24時間運用を行っている。
== 基地公開 ==
毎年8月、9月頃の連続した[[土曜日]]と[[日曜日]]に「横田基地日米友好祭」が開催され、普段は立ち入ることの出来ない一般人(原則は日本国籍者とアメリカ合衆国国籍者の[[身分証明書]]所持者)も、第5ゲート(最寄駅は[[青梅線]][[牛浜駅]])から横田基地に入場できる。友好祭では米軍機や[[自衛隊]]機の[[軍用機]]展示を行う[[航空ショー]]、[[バンド (音楽)|バンド]][[演奏]]、[[レーション]]の[[MRE]]や[[スパム]]の販売、米兵による[[模擬店]]出店、[[子供]]向けの遊戯施設の設置などがおこなわれ、最終日の終了直前には、[[花火]]の打ち上げもおこなわれる。2013年は米軍の経費縮減のために「無期限の延期」となったが<ref>{{PDFlink|[http://www.yokota.af.mil/shared/media/document/AFD-130324-006.pdf 友好祭無期限延期、2013年は地域友好行事参加へ]}} 在日米空軍横田基地第374空輸航空団広報部</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20130323ddlk13040369000c.html 日米友好祭:米軍横田基地、来年度は中止 /東京] 毎日新聞 2013年3月23日 地方版</ref>、2014年から再開された。また毎年1月に「フロストバイトロードレース」(マラソン大会)が開催される。
2020年・2021年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]感染拡大の為、中止となったが、2022年より再開。以降は[[熱中症]]防止の為、開催時期を3ヶ月早め、5月中旬の連続した土日に開催されている<ref>[https://web.archive.org/web/20220521135837/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052100148 3年ぶり日米友好祭開催 地元は感染対策要請 - 横田基地] - 時事通信社 2022年5月21日</ref>。尚、2022年の2日目・[[5月22日]]は第46代[[アメリカ合衆国大統領|合衆国大統領]][[ジョー・バイデン]]の訪日と重なったが<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220522/k10013638291000.html 米バイデン大統領が日本到着 あす23日に日米首脳会談へ] - [[日本放送協会]](NHK NEWS WEB) 2022年5月22日 21時10分</ref>、区画を分ける事で友好祭は予定通り実施された。その結果、友好祭開催中に一般客の目の前で専用機[[エアフォースワン]]を含む関係機材の飛来と言う異例の出来事が起きた<ref>[https://bestcarweb.jp/feature/column/427365 マジか! 横田基地祭のどまん中に、アメリカ大統領専用機「エアフォースワン」が着陸。世界で最も特別な機体に迫る] - ベストカー 2022年5月29日</ref>。
<gallery>
ファイル:Yokota friendship festival.JPG|航空機展示
ファイル:Yokota friendship festival3.jpg|航空機展示
ファイル:Yokota friendship festival2.JPG|バンド演奏
ファイル:Fireworks_over_Yokota_Air_Base_-_090823-F-0938O-938.jpg|花火打ち上げ
ファイル:C-17 GlobemasterⅢ displayed in Yokota Frendship Festival.JPG|C-17グローブマスターⅢ(友好祭2014)
ファイル:MV-22 Osprey displayed in Yokota Frendship Festival.jpg|初展示となったMV-22(友好祭2014)
ファイル:F-2 fighter and The F-15 series displayed in Yokota Frendship Festival.JPG|自衛隊機の展示(友好祭2014)
ファイル:US Airforce Express "Yokota" in Yokota Frendship Festival.JPG|バルクカーゴに観覧客を乗せてのファンサービス(友好祭2014)
</gallery>
== 軍民共用化・中期防衛力整備計画 ==
=== 軍民共用化構想 ===
[[ファイル:軍民共用化反対看板.JPG|thumb|瑞穂町内の軍民共用化反対看板]]
[[2012年]]まで[[東京都]][[知事]]を務めた[[石原慎太郎]]は、横田基地を[[民間航空機]]にも開放する「軍民共用化」を[[2003年東京都知事選挙|2003年都知事選]]で公約しており<ref>[https://web.archive.org/web/20090305073954/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/090226/tky0902262316019-n1.htm 「横田ターミナル「造るつもりだった」 石原知事」] [[MSN産経ニュース]]</ref>、石原の任期中には実現しなかったが、後任の[[猪瀬直樹]]知事も実現に意欲を示していた<ref>[http://j-net21.smrj.go.jp/watch/news_tyus/entry/20130108-03.html インタビュー/東京都知事・猪瀬直樹氏「五輪で“心のデフレ”脱却」]</ref>。一方、一部の地元[[地方公共団体|自治体]]の間では反対意見もある<ref>{{PDFlink|[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/yokota-kichi/yousei/h19/americataishikan19.10j.pdf 米軍横田基地の軍民共用化に反対する陳情書]}} 瑞穂町長・瑞穂町議会議長・同議会基地対策特別委員会委員長</ref>。
在日米軍再編に絡む横田基地の軍民共用化は「検討開始から12か月以内に終了する」という日米の合意に沿って、[[2006年]]10月より検討会において協議されてきている。しかし、[[2007年]]10月半ば、日本政府関係者の報道人への発言によれば、アメリカ側は横田基地への民間[[旅客機]]乗り入れに難色を示しており、2007年[[11月8日]]、来日中の国防長官[[ロバート・ゲーツ]]と外務大臣[[高村正彦]]との会談において、協議の継続を求めた高村外相の要請にも同長官は首肯せず、[[厚木基地]]や[[入間基地]]の軍民共用化を逆提案した<ref>[http://yaplog.jp/sdf8j7hsd/archive/5 「横田基地、軍民共用合意見送り 米が難色」] [[朝日新聞]]の[[アーカイブ]]</ref>。
=== 2020年東京五輪・パラリンピック期間中の軍民共用化についての協議 ===
猪瀬直樹知事の辞任後、後任の都知事が取り組まないことから実現することなく、没交渉となっていたが、2019年4月19日、[[日本国政府]]が[[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]の期間中に、横田基地の臨時的な軍民共用化を打診したと報道された<ref>{{Cite web|和書|title=米軍横田基地の軍民共用化を打診 政府「五輪・パラ臨時措置」 |url=https://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20190418/k00/00m/010/220000c | newspaper =毎日新聞 | accessdate = 2019-05-19 |language=ja}}</ref>。
これに対して東京都知事[[小池百合子]]は、都としても国に要望を行ってきた経緯に触れながら「ぜひ活用させていただきたい。都としても望むところ」と所見を述べたほか、在日米軍のクリストファー・マホーニー副司令官も「現時点では何も決まっていない。日米間の事務レベルで軍民共用化に必要な条件を協議している。日本側からどのような要求があるのか、[[駐日アメリカ合衆国大使館]]を通じて待っている段階だ。共用化はできるのではないかとの意見がある。承認された場合は100パーセント支援したい」と[[マスメディア]]に語り、日米間で調整を進めていることを示唆した<ref>{{Cite news |title=横田基地軍民共用承認なら 米軍幹部「全力で支援」|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201904/CK2019042302000135.html| newspaper =東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2019-05-19|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=五輪パラ期間の横田基地活用 知事「都も望むところ」 |url=https://www.sankei.com/article/20190420-GYCCQC3EZFLKHG3YYXFQFXCCMY/| newspaper =産経ニュース|date=2019-04-20|accessdate=2019-05-19|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。
=== 中期防衛力整備計画 ===
日米両政府はアメリカ空軍と[[航空自衛隊]]による「軍軍共用化」で合意しており、航空管制権が日本側に返還され、航空自衛隊が受け持つことになる。
この合意は実現し、同基地には空軍第5・第13航空軍司令部と、東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]から移転してくる航空自衛隊[[航空総隊]]司令部が同居することになった。共用化や総隊司令部の移転など、当初の予定では[[2010年]](平成22年)となっていたが、[[2012年]]([[平成]]24年)[[3月26日]]、移転が完了し、同日から総隊司令部ほかが運用を開始した<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201203/2012032600027 航空総隊司令部、横田基地に移転=ミサイル防衛など連携強化-空自] [[時事ドットコム]]</ref>。同庁舎地下には空自と米軍が一堂に会する「共同統合運用調整所」が設けられ、地下通路でアメリカ空軍の指揮所とも行き来できる<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012032602000170.html 日米ミサイル防衛一体化 横田基地 運用開始] [[東京新聞]]2012年3月26日夕刊</ref>。
全世界的な米軍再編の動きに従って、[[キャンプ座間]]([[神奈川県]])への[[アメリカ陸軍]][[第1軍団 (アメリカ陸軍)|第一軍団]]司令部移転計画(現在は米[[ワシントン州]]{{仮リンク|フォートルイス|en|Fort Lewis (Washington) }}に所在)が存在し、これが実現した場合、四軍の司令部が日本に揃うことになる。「日米軍事一体化・アメリカの世界戦略への協力だ」とする一部の反発もあるが、[[日本国政府]]は米軍再編へ協力する姿勢を示している。
だが、2010年(平成22年)[[12月17日]]に閣議決定し公表された『[[中期防衛力整備計画 (2011)|中期防衛力整備計画]]』の内容に、「米軍との[[相互運用性|インターオペラビリティ]]を向上するため、横田基地を新設し、航空総隊司令部等を移転する」との表現があることが判明。沖縄県以外の日本では唯一、狭小な[[行政]][[面積]]の3分の1を基地に提供している福生市が、航空自衛隊横田基地の新設は、単なる呼称上の問題に留まらず、基地機能の強化、基地態様の変化に直結するものだとして、[[内閣総理大臣]]・[[防衛大臣]]などに強く抗議、申し入れを行っていた<ref>{{PDFlink|[http://www.city.fussa.tokyo.jp/assembly/motion/request/m1cpmb000001q33o-att/2.pdf 中期防衛力整備計画(平成23年度〜平成27年度)に対する抗議・申入れ書]}} [[福生市議会]]議長</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.city.fussa.tokyo.jp/assembly/motion/request/m1cpmb000001q33o-att/3.pdf 中期防衛力整備計画(平成23年度〜平成27年度)に対する抗議・申入れ書について(回答)]}} [[北関東防衛局]]長</ref>が、航空自衛隊横田基地は実現して現在に至る。
==横田空域==
[[File:ATC Approach Control Areas in Japan (2023).png|thumb|right|2023年4月現在の日本における進入管制区]]
[[計器飛行方式]](IFR)による出発機・到着機が多い空港には、安全のために「[[進入・ターミナルレーダー管制#進入管制区|進入管制区]]」が設けられる。2023年現在、日本には30カ所の進入管制区が設けられており、日本国内の進入管制区は国土交通省管轄が14カ所、防衛省(自衛隊)管轄が14カ所、米軍管轄が2カ所となっている。横田飛行場には'''横田進入管制区'''(横田ラプコン<ref group="注釈">'''R'''adar '''Ap'''proach '''Con'''trolの略</ref>)、通称「'''横田空域'''」が存在しており、エリア内に存在する基地や飛行場(横田基地、[[厚木海軍飛行場]]、[[キャンプ座間]]、[[入間基地]]、[[立川飛行場]]、[[調布飛行場]])を発着する航空機に対して米軍が航空管制を行っている。
日本国内の他の空域では国土交通省あるいは自衛隊の指示を受ける必要があるが、横田空域を飛行する航空機は米軍の指示を受ける必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000164767.pdf |title=航空管制業務について |publisher=国土交通省 |accessdate=2023-07-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/koku/content/001358786.pdf |title=日本の空の概要 |publisher=国土交通省 |accessdate=2023-07-21}}</ref><ref group="注釈">もう1カ所の米軍管轄である岩国進入管制区も同様である</ref>。
===横田空域の歴史と段階的返還===
[[1975年]](昭和50年)の[[日米合同委員会]]による「航空交通管制に関する合意」において、「日本政府は、米国政府が地位協定に基づきその使用を認められている飛行場およびその周辺において引続き管制業務を行うことを認める」とされた。これにより、日本占領時代に開始された米軍による管制が継続されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000516050.pdf |title=航空交通管制(改正)|publisher=外務省|date=1975-06 |accessdate=2023-07-21}}</ref>。
[[1992年]](平成4年)6月、[[羽田空港]]の拡張に対応するため、空域のうち10%([[日野市]]から[[三浦半島]]にかけての南側一部)が削減(返還)された<ref name="hamura-h30">{{Cite web|和書|url=https://www.city.hamura.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000012/12432/H30_all_editing.pdf |title=平成30年度版 羽村市と横田基地|publisher=羽村市企画総務部企画政策課|date=2019-03|page=16-28 |accessdate=2023-07-21}}</ref>。
[[2007年]](平成19年)5月、横田空域管制施設に日本側(自衛隊)の管制官が併設されるようになった<ref name="hamura-h30" />。
[[2008年]](平成20年)9月25日、南側の一部(20%)が返還された。これに伴って羽田空港の出発経路が改訂された。国土交通省によれば、行先によって異なるものの、最大で5分、平均で3分の時間短縮効果があるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000018787.pdf |title=横田空域の一部削減に伴う羽田空港出発経路の設定について |publisher=国土交通省航空局|date=2008-07 |accessdate=2023-07-21}}</ref>。
[[2019年]](令和元年)、[[2020年東京オリンピック・パラリンピック|東京オリンピック・パラリンピック]]の開催に伴い羽田空港の旅客数が増大すると見込まれたことにより、発着経路の見直しが行われた。この際、都心上空を経由して北から羽田に進入する経路を設定するには横田空域内を通過する必要があり、当初米軍は難色を示していた。日本側が「新ルートを設定できなければ、オリンピックの運営に支障が出かねない」と理解を求めた結果、最終的にはアメリカ側が受け入れることになった<ref name="nhk_haneda_new_route">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/900/317563.html |title=「羽田国際線増便と横田空域」(キャッチ!ワールドアイ) |publisher=NHK|date=2019-04-03 |accessdate=2023-07-21}}</ref><ref group="注釈">この交渉に際して、経路変更によって増加した羽田空港の発着枠の半数がアメリカ路線に割り当てられており、通過を認めた配慮ではないかとの指摘があるとNHKなどから指摘されている。</ref>。これにより、新ルートは横田空域内を通過するものの、国土交通省が管制を行うようになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/58009 |title=羽田新ルート 80デシベルでも住宅の防音工事は補助の対象外、国の「裏技」が明らかに |publisher=東京新聞|date=2020-09-27 |accessdate=2023-07-21}}</ref>。
{{also|羽田空港新飛行経路 (南風運用)}}
===民間機の飛行と影響===
進入管制区は米軍の排他的使用が認められる空域ではなく<ref name="shugiin_2022">{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009920820220422011.htm|title=第208回国会 国土交通委員会 第11号(令和4年4月22日(金曜日))|publisher=衆議院|accessdate=2023-07-21}}</ref>、飛行禁止区域でもないため、日本の民間航空機も飛行可能である。
そのため、2008年の空域返還前の時点で羽田発の大阪(伊丹・関西)行きの定期便が横田空域内を通過していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_sisetsu/pdf/yokota.pdf |title=横田空域 |publisher=防衛省|accessdate=2023-07-21}}</ref>ほか、現在も調布飛行場を発着する[[東京都島嶼部]]への定期便(IFRによる運航)<ref>{{Cite web|和書|url=https://flyteam.jp/news/article/23843 |title=調布飛行場、6月18日からIFR運航が可能に |publisher=Flyteam |date=2013-06-18 |accessdate=2023-07-14}}</ref>や前述の羽田空港着陸便が横田空域を飛行している。また、日本の[[マスメディア|マスコミ]]による報道[[ヘリコプター]]が横田基地上空を飛行・空撮する例<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/c827945a8e18e32da0d876a4043293e153d55ed7 |title=米軍戦略爆撃機B-52が横田基地に飛来 エンジントラブルで着陸か |publisher=日テレNEWS |date=2023-07-12 |accessdate=2023-07-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000303483.html |title=一時警戒 横田基地に“爆破予告” 退避騒動中に…滑走路に民間機 |publisher=テレ朝NEWS |date=2023-06-15 |accessdate=2023-07-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230620051255/https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000303483.html |archivedate=2023-06-20}}</ref>や、グライダーなど有視界飛行で運航される小型航空機が横田の管制と連絡を取って飛行する例もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsal.or.jp/uploads/2023/04/13/%E8%87%AA%E5%AE%B6%E7%94%A8%E5%AD%A6%E7%A7%91%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%80%E5%A6%BB%E6%B2%BC%E6%BB%91%E7%A9%BA%E5%A0%B4%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AE%E7%A9%BA%E5%9F%9F%E3%80%802023.04.01.pdf |title=妻沼滑空場周辺の空域(解説)|publisher=公益財団法人日本学生航空連盟|date=2023-04-01 |accessdate=2023-07-21}}</ref>。
しかしながら、横田空域が民間機の運航に少なからず影響を与えているのは事実である。例えば、飛行経路の設定には米軍との協議が必要であるため、羽田発の民間機は東京湾上空で高度を稼いだ上で横田空域の上空を飛行し、空域内の飛行を避けている。この状況を踏まえ、[[2006年]](平成18年)には当時の[[第3次小泉内閣 (改造)|小泉政権]]が「横田空域の存在が民間航空交通に影響を与えている」として、「安全かつ円滑な航空交通管制を実施するためには、少なくとも横田空域の削減が必要である」と答弁している。[[東京都]]も同様の認識を示し、日本による一体的な航空管制が必要であるとして、国に空域の全面返還を働きかけている<ref name="koizumi_2006">{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/base_measures/torikumi/torikumi.htm|title=東京都の取組み|publisher=東京都都市整備局|accessdate=2023-07-21}}</ref>。また、[[千葉県]]はWebサイトにて、羽田空港への着陸機が千葉県上空を飛行する理由として横田空域の存在を挙げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kuushin/haneda/saikakuchou/|title=羽田再拡張時の飛行ルートについて|publisher=千葉県|date=2021-01-27|accessdate=2023-07-21}}</ref>
元航空管制官の園山耕司によれば、2010年時点で羽田空港から西に向かう出発経路は横田空域の上あるいは中を通過できるため、問題はほとんどないという。ただし、西からの到着経路に関しては横田空域の南辺外を回って、東京湾の入口と房総半島南端の狭隘域から進入する必要があり、依然として難点が残っているとしている<ref name="sonoyama">{{Cite book |和書 |title=くらべてわかる航空管制 |publisher=秀和システム |year=2011|author=園山耕司 |page=190-191}}</ref>。
===返還に関する政治の動き===
日本政府は再三にわたって返還を求めており、「日本による一体的な航空管制が行われるべきである」との姿勢を示している<ref name="koizumi_2006" /><ref name="shugiin_2022" />。
[[日本共産党]]は「日本の空の主権が侵害されている」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-12/2020011203_02_0.html|title=なんだっけ 「横田空域」って?|publisher=日本共産党|date=2020-01-12|accessdate=2023-07-21}}</ref>として、全面返還を求めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-11-04/2006110402_01_0.html|title=横田空域 米軍支配排し全面返還を急げ|publisher=日本共産党|date=2006-11-04|accessdate=2023-07-21}}</ref>。[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]は空域の縮小を求めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://cdp-japan.jp/news/20220603_3805|title=【政調】外交・安保・主権調査会「外交・安保政策のアップデートに関する取りまとめ(中間報告)」を公表|publisher=立憲民主党|date=2022-06-03|accessdate=2023-07-21}}</ref>。
一方、返還によって羽田空港の発着経路の自由度が高まるということは、これまで横田空域の下に存在していた地域の上空に民間定期便の飛行ルートが設定可能になるということでもある。千葉県や[[大田区]]など、横田空域の返還(削減)によって新たに設定されたルート下に位置する自治体では、これに伴って発生する騒音問題から、ルートの撤回や見直しを求める声もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kuushin/haneda/kyougi/moushiire/haneda-h210826.html|title=羽田再拡張後の飛行ルートについての申し入れ|publisher=千葉県|date=2023-03-27|accessdate=2023-07-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://nasurie.com/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF/6612/|title=「横田空域の壁が1万2フィートから9千フィートに下がって大混乱した大田区、今度は3千フィートですか!?」|publisher=奈須りえ(大田区議会議員)|date=2017-06-28|accessdate=2023-07-21}}</ref>。
== 燃料輸送 ==
[[ファイル:Yokota-Beitan.jpg|thumb|米タン(拝島駅)]]
[[鉄道]][[貨物]]によって[[ジェット燃料]]の輸送が行われている。JR[[鶴見線]][[安善駅]]に隣接する米軍[[鶴見貯油施設]]より、平成26年3月15日ダイヤ改正よりJR鶴見線・[[浜川崎支線]]・[[尻手短絡線]]・[[武蔵野線|武蔵野貨物線]]・[[南武線]]・[[青梅線]]経由で運行される専用[[貨物列車]](通称「米タン(べいたん)」)が、平日1日1往復設定されている(平成26年4月時点で火・木曜の週2日が中心)。使用されるタンク車は、米軍輸送隊が[[日本石油輸送]]より借り受けている[[JP-8]](航空用ジェット燃料の名称・JP-8は軍用)と車体に書かれた専用タンク車であり、45t積みの[[JR貨物タキ1000形貨車|タキ1000形]]を使用した12両編成で運行される。[[拝島駅]]に到着した貨車は、駅構内で[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|ディーゼル機関車]]に付け替えられ、基地内まで伸びる[[単線]][[非電化]]の[[専用鉄道|専用線]](米軍横田基地線)を経由して運び込まれる。以前は定期列車であったが、現在は臨時列車となっている。ただし、定期列車時代から運行有無は荷主である米軍の都合で決定されており、臨時列車化された現在と運行頻度はほとんど変りない。
[[1967年]](昭和42年)[[8月8日]]の[[新宿駅]]で発生した[[米軍燃料輸送列車事故]]は、隣接する米軍[[立川飛行場|立川基地]]へ運転されていた同種の貨物列車で起こったものである。この事故は、当時の[[ベトナム戦争]]反対運動や反米[[学生運動]]等を刺激し、運動の更なる激化により[[新宿騒乱|新宿騒乱事件]]が発生した。
== 訴訟 ==
基地問題は進駐直後から発生し、滑走路建設のための[[砂利]]採取は[[多摩川]]の[[河床]]を低下させ、下流の[[府中用水]]などに影響を及ぼした。また、航空燃料や廃油の流出による[[地下水]]や[[井戸水]]の汚染、異臭や引火事故、[[騒音]]および、たび重なる墜落事故など、周辺[[住民]]の日常[[生活]]へも深刻な被害を及ぼした。詳細は関連項目にある[[日本におけるアメリカ軍機事故の一覧]]や、[[埼玉県金子村B29墜落事故]]、[[八王子市F80機墜落事故]]、[[砂川村B29爆撃機墜落事故]]などを参照のこと。
立川基地が返還された一方、横田基地は年間の離着陸数が約2万回であり([[東京国際空港]]の1年間の航空機発着回数である約38万4000回の5%程度)、また年に数回実施されていた[[空母]][[艦載機]]着陸[[訓練]]は夜間にも行われていた<ref group="注釈">脚注2.参照</ref>。このような訓練と、日常的に行われている飛行およびエンジンテストなどにより、周辺住民に多大な騒音被害を与えているため、[[日本国政府]]や[[アメリカ合衆国連邦政府]]に対し、飛行差し止めと騒音被害に対する損害賠償を求める訴訟が、[[1976年]]以降<ref>「静かな夜を求めて 横田騒音公害提訴」『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月28日夕刊、3版、11面</ref>に度々行われており、過去分の損害賠償の一部についてのみ認める判決の流れがほぼ定着している<ref>[http://www.city.fussa.tokyo.jp/municipal/yokotabase/problems/m1cpmb0000009oqe.html 市政情報>基地の所在による諸問題 横田基地騒音公害訴訟] 福生市</ref>。
[[東京地方裁判所|東京地裁]]立川支部に提訴され係争中のものとしては、2012年12月12日に起こされた「第9次横田基地公害訴訟」<ref>[http://www.geocities.jp/yokota_nakusukai/sosho/index.html 横田・基地被害をなくす会 第9次横田基地公害訴訟原告団]</ref>、2013年3月26日に起こされた「第2次新横田基地公害訴訟」<ref>[http://www.yokota-kougai.com/index.html 第2次新横田基地公害訴訟原告団] </ref>がある。
== アクセス ==
=== 鉄道 ===
* 第2ゲート(メインゲート)- [[福生駅]](東口)、[[東福生駅]](東口)
* 第5ゲート(日米友好祭入場ゲート)- [[牛浜駅]](東口)、[[拝島駅]](北口)
=== 自動車 ===
* {{Ja Exp Route Sign|E20}} [[中央自動車道]][[八王子インターチェンジ|八王子IC]](下りは第2出口)から[[国道16号]](東京環状)昭島方面
* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]][[日の出インターチェンジ|日の出IC]]から[[東京都道184号奥多摩あきる野線]] - [[東京都道165号伊奈福生線]]
* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]][[あきる野インターチェンジ|あきる野IC]]から[[国道411号]](滝山街道)- [[東京都道7号杉並あきる野線]](睦橋通り)- 国道16号(東京環状)
== 登場作品 ==
{{出典の明記|date=2021-12|section=1}}
* 『[[スノーデン (映画)]]』
: ノンフィクション作品『[[The Snowden Files: The Inside Story of the World's Most Wanted Man]]』が原作の映画。2013年6月にコンピュータ専門家の[[エドワード・スノーデン]]が[[アメリカ国家安全保障局]](NSA)の機密情報を『[[ガーディアン]]』誌に暴露した事件の詳細が描かれる。作中では日本勤務時のエドワード・スノーデンが[[DELL]]の職員として横田基地内のNSAの関連施設で日本の通信を掌握し日本のインフラ設備破壊、日本全国を停電させるプログラムを開発、設置するシーンで登場。
* 『[[限りなく透明に近いブルー]]』
: [[村上龍]]のデビュー出世作。横田基地近くの「ハウス」が舞台。
* 『[[BLOOD THE LAST VAMPIRE]]』
: ベトナム戦争中の横田基地内のアメリカンスクールが舞台。
* 『RAID ON TOKYO』 / 『TOKYO WARS』
: [[小林源文]]著。日本に親ソ政権が成立し在日米軍が撤収した世界で、自衛隊の反乱鎮圧のためとの名目で進駐して来たソ連軍が横田基地を確保、首都東京占領への前進拠点として使用する。終盤に自衛隊による反撃が始まり奪還作戦が行われる。
* 『[[ぼくらの]]』
: 設定ではアメリカから奪還し、そのまま国防軍の基地になったという設定。ゲームの契約をした中学生を保護する重要拠点になっているためたびたび登場する。
* 『[[ミッドナイト・イーグル]]』
: 本基地でテロが発生するという設定。
* 『[[シュガー&スパイス_風味絶佳]]』
:基地に沿う16号線沿いが舞台設定。第2ゲートやフェンスや[[東福生駅]]も登場する。
* 『[[機動警察パトレイバー]]』
: 旧[[OVA]]シリーズ第2話で香貫花・クランシーが来日したのは横田基地。また第6話で[[ガトリング砲]]([[GAU-8]])を受け取ったのも横田基地である。
* 『[[ガサラキ]]』
: 劇中では横田基地から[[F-22 (戦闘機)|F-22A]]が発進し、基地内に侵入したTA(タクティカル・アーマー)と交戦した。
* 『[[西部警察]]』
: 第1期で「横田基地」という名称は登場しないが、基地北側のフェンス沿いで撮影。劇中に離陸する[[C-5 (航空機)|C-5]]が登場する。
* 『[[相棒]]』
: season8 第6話「フェンスの町で」において、横田基地という名称は使用していないが「米軍基地」という名称で登場。フェンス沿いの風景や着陸する[[P-3 (航空機)|P-3]]、[[C-130 (航空機)|C-130]]が登場する。
* 『[[9番目のムサシ]]』
: 主人公の「篠塚高(No.9)」と彼女の所属する組織「Ultimate Blue / 通称UB」が頻繁に使用する。作中では「米軍基地」としか呼ばれないが、コミックス第8巻の「DUTY19:Ω -オメガ-II」での基地の入り口のプレートに「UNITED STATES AIR FORCE Yokota Air Base」とあることから横田基地である。篠塚らが組織の専用機の発着に利用したり、公私混同ながら任務で知り合った篠塚の恋人が失踪した時、彼の居場所である山中に急行するため、篠塚が当基地で[[C-5 (航空機)|C-5A]]輸送機を借用した。
* 『[[シャーマンキング]]』
: 「横茶基地」として登場。シャーマンファイト本戦に出場する登場人物たちの集合場所となっている。宿敵であるハオと主人公の麻倉葉が初めて対峙した場所ともなった。
* 『[[アイアムアヒーロー]]』
: 漫画版で登場。街に[[アイアムアヒーロー#感染者(ZQN)|ZQN]]が溢れる中で主人公が立ち寄るが、すでに基地内とその周辺もZQNにより混乱状態と化していた。
* 『交戦規則ROE』
: [[黒崎視音]]の小説。終盤に登場し、[[大韓民国空軍]]所属の[[C-130 (航空機)|C-130]]輸送機が飛来する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[航空自衛隊]] - [[航空総隊]]
* [[アメリカ軍]] - [[在日米軍]]
** [[アメリカ空軍]] - [[第5空軍 (アメリカ軍)]]
** [[赤坂プレスセンター]]
** [[立川飛行場]]
** [[相模総合補給廠]]
** [[由木通信所]]
** [[在日米軍再編]]
* [[日本におけるアメリカ軍機事故の一覧]]
** [[埼玉県金子村B29墜落事故]]
** [[八王子市F80機墜落事故]]
** [[砂川村B29爆撃機墜落事故]]
* [[日本航空123便墜落事故]]
* [[AFN]](旧称:FEN)
* [[エドワード・スノーデン]]
* [[対米従属論]]
== 外部リンク ==
* [[アメリカ空軍]]
** [https://www.yokota.af.mil/ Yokota Air Base] - 横田基地公式Webサイト{{en icon}}
** [https://twitter.com/374AirliftWing Yokota Air Base(@374AirliftWing)] - Twitter(日英2か国語)
* [[防衛省]]
** [https://www.mod.go.jp/asdf/adc/ 航空総隊] - 航空自衛隊航空総隊のサイト
** [https://www.mod.go.jp/asdf/yokota/ 航空自衛隊横田基地] - 航空自衛隊横田基地(航空総隊司令部等)のサイト
** [https://twitter.com/JASDF_adc_pao 航空総隊(@JASDF_adc_pao)] - Twitter
** [https://twitter.com/JasdfYokota 航空自衛隊横田基地(@JasdfYokota)] - Twitter
* 国土交通省[[国土地理院]]
** [https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=1050797&dispType=1 基地北部の空中写真(1989年撮影)] - 地図・空中写真閲覧サービス
** [https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=1051411&dispType=1 基地南西部の空中写真(1989年撮影)] - 地図・空中写真閲覧サービス
** [https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=1051412&dispType=1 基地南東部の空中写真(1989年撮影)] - 地図・空中写真閲覧サービス
* 東京都
** [https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bunyabetsu/kichitaisaku.html 東京都の米軍基地対策]
* 地元自治体
** [https://www.city.fussa.tokyo.jp/municipal/yokotabase/index.html 横田基地関連] - 東京都福生市のサイト
** [https://www.town.mizuho.tokyo.jp/tyosei/021/index.html 瑞穂町と横田基地] - 東京都西多摩郡瑞穂町のサイト
** [https://www.city.akishima.lg.jp/li/060/110/010/index.html 横田基地関連] - 東京都昭島市のサイト
* [http://www.fussakanko.jp/ 福生市観光協会] - 福生市観光協会のサイト
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/rhpqq324/ |title=素顔の横田基地 |date=20190331142400}} - 元横田基地日本人職員のサイト
* [http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/ 横田基地とことんウオッチング] - ジャーナリストの調査研究サイト
* [http://www.rimpeace.or.jp// 追跡!在日米軍] - 在日米軍基地問題サイト
* {{Wayback|url=http://www12.ocn.ne.jp/~syokota/ |title=新横田基地公害訴訟団 |date=20000510032622}} - 再度の、飛行差し止め要求と、爆音に対する損害賠償請求訴訟(終結)
* {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/yokotatekkyo/index.htm/ |title=横田基地の撤去を求める西多摩の会 |date=20120121055347}} - 横田基地撤去運動サイト
* [http://www16.plala.or.jp/santama-roren/yokota/ 横田基地撤去と基地被害をなくす共同行動連絡センター] - 横田基地撤去運動サイト
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/yokota_nakusukai/ |title=横田・基地被害をなくす会 |date=20190330044029}} - 横田基地撤去運動サイト
* [http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Tokyo.htm InfoAtlas>東京都>市>福生市>横田基地>友好祭] - 「日米友好祭」を写真と動くパノラマ、動画で紹介
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近藤効果
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近藤効果(こんどうこうか、Kondo effect)とは、磁性を持った極微量な不純物(普通磁性のある鉄原子など)がある金属では、温度を下げていくとある温度以下で電気抵抗が上昇に転じる現象である。これは通常の金属の、温度を下げていくとその電気抵抗も減少していくという一般的な性質とは異なっている。現象そのものは電気抵抗極小現象とよばれ、1930年頃から知られていたが、その物理的機構は1964年(昭和39年)に日本の近藤淳が初めて理論的に解明した。近藤はこの業績によって1973年(昭和48年)に日本学士院恩賜賞を受章した。
金属は電圧を加えると、金属内の伝導電子が加速され電流が流れる。これを電気伝導という。
一方で、この伝導電子には電気抵抗がはたらく。金属の電気抵抗の主な要因は、金属内に含まれる不純物などによる格子欠陥と、原子の熱振動の2つである。不純物による抵抗は温度に依存せず一定である。熱振動による抵抗は、温度を下げると小さくなり、低温では抵抗は温度Tの5乗に比例する。そのため、金属の電気抵抗は通常、温度を下げると減少し、絶対零度で、一定値(=不純物による抵抗値)に落ち着く。
しかし、金属によっては、ある温度までは温度が下がると電気抵抗も減少するが、さらに温度を下げると電気抵抗は逆に増大するという、通常では起こりえないふるまいを見せる。この現象は、1933年、ド・ハース、ド・ブール、ファン・デン・バーグが、金の電気抵抗を測定したときに初めて観測された。
その後の研究により、この現象は金(Au)、銀(Ag)、銅(Cu)などに鉄(Fe)、マンガン(Mn)、クロム(Cr)などの磁性不純物を微量に加えた金属で起こることが明らかになった。
低温における電気伝導度の増加の原因については長年未解決であったが、後に、近藤効果(磁性不純物の磁気モーメントと伝導電子の磁気モーメントの交換相互作用〈s-d交換相互作用〉)によるものであることが明らかになった。
磁性不純物の一番外側の電子殻である3d電子殻は、スピン角運動量を持っている。このスピンと、伝導電子(s)が相互作用するのがs-d交換相互作用である。近藤は、アンダーソン模型とボルン=オッペンハイマー近似を用いて摂動の2次の効果まで考慮し、この作用が温度Tの対数(lnT)に比例することを導いた。交換相互作用の係数が負のとき、この値は温度が減少するにつれて増大することになる。この項と、熱振動の項を合わせることで、電気抵抗が極小になることが説明できたのである。
近藤の理論では電気抵抗は絶対零度で無限大に発散する。しかし実際には、電気抵抗は絶対零度に近づくにつれ正常な振る舞いとなり、有限値へと収束する。これは低温においては、磁性不純物の磁気モーメントと伝導電子の磁気モーメントが反強磁性的に結合した一重項基底状態 (Kondo singlet) として磁性不純物の磁気モーメントが見かけ上消滅するためであり、このことは芳田奎によって示された。
この近藤による磁気モーメントの交換相互作用による異常な振る舞いから、磁性不純物の磁気モーメントが基底状態となった正常な振る舞いへと移り変わる温度を近藤温度 T K {\displaystyle T_{\mathrm {K} }} とよぶ。よって k B T K {\displaystyle k_{\mathrm {B} }T_{\mathrm {K} }} はほぼ磁性不純物の磁気モーメントと自由電子の磁気モーメントの結合エネルギーに相当する( k B {\displaystyle k_{\mathrm {B} }} はボルツマン定数)。ウィルソンの理論によれば、近藤温度は比熱が極大となるときの温度の3倍となる。また、近藤温度を基準とした T / T K {\displaystyle T/T_{\mathrm {K} }} を考えると、様々な物質で電気抵抗率、磁化率、比熱が同じ温度依存性を示す(スケーリング則)。近藤温度は数 mK 程度のものもある一方、中には1000 K程度のものもあるなど、それぞれの合金によって大きく異なる。
以上のことを数式を用いて述べると以下のようになる。
まず、近藤の論文によれば、近藤効果を含めた電気抵抗の温度依存性は
ρ ( T ) = c ρ 0 + a T 5 − c ρ 1 ln T {\displaystyle \rho (T)=c\rho _{0}+aT^{5}-c\rho _{1}\ln T}
とかける。ここで c {\displaystyle c} は不純物濃度であり、 c ρ 0 {\displaystyle c\rho _{0}} は残留抵抗、 a T 5 {\displaystyle aT^{5}} は格子振動の寄与を表す。近藤は右辺第三番目の対数依存の項を導いた。伝導電子の磁気モーメントと不純物の磁気モーメントの交換相互作用が強磁性的である場合、近藤の項の符号は正となり、近藤効果は発生しない。フェルミ液体ではフェルミ液体の性質による抵抗への寄与 b T 2 {\displaystyle bT^{2}} が加わる。
抵抗が最小となる温度は
d ρ ( T ) d T = 5 a T 4 − c ρ 1 T = 0 {\displaystyle {\frac {d\rho (T)}{dT}}=5aT^{4}-{\frac {c\rho _{1}}{T}}=0}
により求めることができ、
T min = ( c ρ 1 5 a ) 1 / 5 {\displaystyle T_{\min }=\left({\frac {c\rho _{1}}{5a}}\right)^{1/5}}
が電気抵抗極小の温度である。この温度は不純物濃度 c {\displaystyle c} の 1 / 5 {\displaystyle 1/5} 乗に比例している。
アブリコソフは1965年に摂動による高次の寄与も考慮に入れ、近藤効果による抵抗Rを
R = R B ( 1 − J ρ N l n k B T D ) − 2 {\displaystyle R=R_{B}(1-{\frac {J\rho }{N}}{\rm {ln}}{\frac {k_{B}T}{D}})^{-2}}
と計算した(Jは交換相互作用の強さを表す定数、Dは伝導電子のバンド幅の半分、 ρ {\displaystyle \rho } はフェルミエネルギーの状態密度)。この式によれば、電気抵抗は近藤温度 T K {\displaystyle T_{\mathrm {K} }} で発散することとなる。
また磁化率は
χ i m p ( T ) = C T [ 1 + J ρ N ( 1 − J ρ N l n k B T D ) − 1 ] {\displaystyle \chi _{\mathrm {imp} }(T)={\frac {C}{T}}\left[1+{\frac {J\rho }{N}}\left(1-{\frac {J\rho }{N}}{\rm {ln}}{\frac {k_{B}T}{D}}\right)^{-1}\right]}
と書け、電気抵抗と同じく T K {\displaystyle T_{\mathrm {K} }} で発散する(Cはキュリー定数)。これは芳田・興地によって示された。また、比熱にも同様の異常があらわれる。
近藤効果が起きるためには、金属中の磁性原子は相互作用を起こさない程度に希薄でなければならない。このような合金を希薄磁性合金、または近藤合金とよぶ。
近藤の理論は絶対零度では物理量にlog発散をともなう。また近藤は摂動の2次の効果を計算し、 log T {\displaystyle \log T} の項を導いたが、さらに高次の摂動計算を行うと ( log T ) 2 {\displaystyle (\log T)^{2}} 、 ( log T ) 3 {\displaystyle (\log T)^{3}} を含む項があらわれ、低温ではこれらの項も無視できない。これはある温度以下では摂動論が破綻するということを意味している。この困難は後にフィリップ・アンダーソンのpoor man's scaling (1970年) や、ケネス・ウィルソンの繰り込み群 (1975年)によって解決され、局在スピンの状態からパウリ常磁性の状態に連続的に移り変わることが示された。ウィルソンはこの業績により1982年にノーベル物理学賞を受賞した。その後、Nozieres、山田耕作らによって局所フェルミ液体として近藤効果を捉えられることが示された。また、低温度に近づくにつれ、エネルギーギャップが生じ、フェルミ面がギャップ中に埋もれてしまうことに起因し、電気的特性の温度依存性が半導体(あるいは絶縁体)的に振舞う相領域におけるものを近藤絶縁体という。
近藤効果は物理学において漸近的自由性の最初に知られた例である。近藤効果では、漸近的自由性は磁気不純物の局在モーメントと伝導電子間の相互作用が低温/低エネルギーで摂動では取り扱えないほど強くなることにあたる。漸近的自由性のより複雑な形式としては量子色力学の理論での漸近的自由性があり、クォークにおける強い相互作用が高エネルギーでは弱く、低エネルギーでは強く働くことに相当する。これにより、クォークの閉じ込めがおきているが、近藤効果もこれに類似した現象であるといえる。なお、フランク・ウィルチェック、デイビッド・グロス、H. デビッド・ポリツァーの3人は強い相互作用の理論における漸近的自由性の発見で2004年にノーベル物理学賞を受賞している。
主に「磁性不純物」によって構成されている合金についても理論を拡張し、それらの合金でみられる重いフェルミ粒子は近藤効果が元となって生じていると考えられている。これは特にセリウム、プラセオジム、イッテルビウムのような希土類元素(レアアース)や、ウランのようなアクチノイドを基本とした金属間化合物で起きる。これらの物質では、非摂動的な相互作用が強いため、自由電子の有効質量が1000倍にも増加したようにみえる。言い換えると、自由電子は相互作用により劇的に運動速度が遅くなっている。その結果として、これらの物質の中には超伝導を起こすものがある。
更に最近では、プルトニウムの普通でない金属δ相(面心立方格子構造)を理解するためには、近藤効果の現れが必要であると考えられている。また、量子ドットにおける近藤効果も報告されている。近藤の業績を引用する論文も増えつつあり、ノーベル賞の候補とされていた。
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"text": "近藤効果(こんどうこうか、Kondo effect)とは、磁性を持った極微量な不純物(普通磁性のある鉄原子など)がある金属では、温度を下げていくとある温度以下で電気抵抗が上昇に転じる現象である。これは通常の金属の、温度を下げていくとその電気抵抗も減少していくという一般的な性質とは異なっている。現象そのものは電気抵抗極小現象とよばれ、1930年頃から知られていたが、その物理的機構は1964年(昭和39年)に日本の近藤淳が初めて理論的に解明した。近藤はこの業績によって1973年(昭和48年)に日本学士院恩賜賞を受章した。",
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"text": "その後の研究により、この現象は金(Au)、銀(Ag)、銅(Cu)などに鉄(Fe)、マンガン(Mn)、クロム(Cr)などの磁性不純物を微量に加えた金属で起こることが明らかになった。",
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"text": "磁性不純物の一番外側の電子殻である3d電子殻は、スピン角運動量を持っている。このスピンと、伝導電子(s)が相互作用するのがs-d交換相互作用である。近藤は、アンダーソン模型とボルン=オッペンハイマー近似を用いて摂動の2次の効果まで考慮し、この作用が温度Tの対数(lnT)に比例することを導いた。交換相互作用の係数が負のとき、この値は温度が減少するにつれて増大することになる。この項と、熱振動の項を合わせることで、電気抵抗が極小になることが説明できたのである。",
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"text": "近藤効果が起きるためには、金属中の磁性原子は相互作用を起こさない程度に希薄でなければならない。このような合金を希薄磁性合金、または近藤合金とよぶ。",
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"text": "近藤の理論は絶対零度では物理量にlog発散をともなう。また近藤は摂動の2次の効果を計算し、 log T {\\displaystyle \\log T} の項を導いたが、さらに高次の摂動計算を行うと ( log T ) 2 {\\displaystyle (\\log T)^{2}} 、 ( log T ) 3 {\\displaystyle (\\log T)^{3}} を含む項があらわれ、低温ではこれらの項も無視できない。これはある温度以下では摂動論が破綻するということを意味している。この困難は後にフィリップ・アンダーソンのpoor man's scaling (1970年) や、ケネス・ウィルソンの繰り込み群 (1975年)によって解決され、局在スピンの状態からパウリ常磁性の状態に連続的に移り変わることが示された。ウィルソンはこの業績により1982年にノーベル物理学賞を受賞した。その後、Nozieres、山田耕作らによって局所フェルミ液体として近藤効果を捉えられることが示された。また、低温度に近づくにつれ、エネルギーギャップが生じ、フェルミ面がギャップ中に埋もれてしまうことに起因し、電気的特性の温度依存性が半導体(あるいは絶縁体)的に振舞う相領域におけるものを近藤絶縁体という。",
"title": "理論の拡張と応用"
},
{
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"text": "近藤効果は物理学において漸近的自由性の最初に知られた例である。近藤効果では、漸近的自由性は磁気不純物の局在モーメントと伝導電子間の相互作用が低温/低エネルギーで摂動では取り扱えないほど強くなることにあたる。漸近的自由性のより複雑な形式としては量子色力学の理論での漸近的自由性があり、クォークにおける強い相互作用が高エネルギーでは弱く、低エネルギーでは強く働くことに相当する。これにより、クォークの閉じ込めがおきているが、近藤効果もこれに類似した現象であるといえる。なお、フランク・ウィルチェック、デイビッド・グロス、H. デビッド・ポリツァーの3人は強い相互作用の理論における漸近的自由性の発見で2004年にノーベル物理学賞を受賞している。",
"title": "理論の拡張と応用"
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"text": "主に「磁性不純物」によって構成されている合金についても理論を拡張し、それらの合金でみられる重いフェルミ粒子は近藤効果が元となって生じていると考えられている。これは特にセリウム、プラセオジム、イッテルビウムのような希土類元素(レアアース)や、ウランのようなアクチノイドを基本とした金属間化合物で起きる。これらの物質では、非摂動的な相互作用が強いため、自由電子の有効質量が1000倍にも増加したようにみえる。言い換えると、自由電子は相互作用により劇的に運動速度が遅くなっている。その結果として、これらの物質の中には超伝導を起こすものがある。",
"title": "理論の拡張と応用"
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{
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"tag": "p",
"text": "更に最近では、プルトニウムの普通でない金属δ相(面心立方格子構造)を理解するためには、近藤効果の現れが必要であると考えられている。また、量子ドットにおける近藤効果も報告されている。近藤の業績を引用する論文も増えつつあり、ノーベル賞の候補とされていた。",
"title": "理論の拡張と応用"
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] |
近藤効果とは、磁性を持った極微量な不純物(普通磁性のある鉄原子など)がある金属では、温度を下げていくとある温度以下で電気抵抗が上昇に転じる現象である。これは通常の金属の、温度を下げていくとその電気抵抗も減少していくという一般的な性質とは異なっている。現象そのものは電気抵抗極小現象とよばれ、1930年頃から知られていたが、その物理的機構は1964年(昭和39年)に日本の近藤淳が初めて理論的に解明した。近藤はこの業績によって1973年(昭和48年)に日本学士院恩賜賞を受章した。
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[[Image:Classickondo.png|thumb|320px|近藤効果: 磁性不純物の入った[[金]]の電気抵抗の低温での振る舞い]]
[[ファイル:Jun Kondo.jpg|200px|サムネイル|[[近藤淳]]]]
'''近藤効果'''(こんどうこうか、Kondo effect)とは、[[磁性]]を持った極微量な[[不純物]](普通磁性のある[[鉄]]原子など)がある金属では、温度を下げていくとある温度以下で[[電気抵抗]]が上昇に転じる現象である。これは通常の[[金属]]の、温度を下げていくとその[[電気抵抗]]も減少していくという一般的な性質とは異なっている。現象そのものは'''電気抵抗極小現象'''とよばれ、[[1930年]]頃から知られていたが、その物理的機構は[[1964年]]([[昭和]]39年)に日本の[[近藤淳]]が初めて理論的に解明した<ref>{{Cite journal |author=Jun Kondo |authorlink=近藤淳 |year=1964 |month=3 |title=Resistance Minimum in Dilute Magnetic Alloys |journal=[[Progress of Theoretical Physics]] |volume=32 |issue=1 |pages=37-49 |publisher=[[京都大学基礎物理学研究所]] |location=Kyoto, JAPAN |doi=10.1143/PTP.32.37 |id=ISSN 1347-4081 (オンライン), 0033-068X (紙媒体) |url=http://ptp.ipap.jp/link?PTP/32/37/ |accessdate=2008-10-09 }}</ref>。近藤はこの業績によって[[1973年]](昭和48年)に[[恩賜賞 (日本学士院)|日本学士院恩賜賞]]を受章した。
== 現象 ==
金属は[[電圧]]を加えると、金属内の[[伝導電子]]が加速され[[電流]]が流れる。これを[[電気伝導]]という。
一方で、この伝導電子には電気抵抗がはたらく。金属の電気抵抗の主な要因は、金属内に含まれる不純物などによる[[格子欠陥]]と、原子の[[熱振動]]の2つである。不純物による抵抗は温度に依存せず一定である。熱振動による抵抗は、温度を下げると小さくなり、低温では抵抗は温度Tの5乗に比例する。そのため、金属の電気抵抗は通常、温度を下げると減少し、[[絶対零度]]で、一定値(=不純物による抵抗値)に落ち着く。
しかし、金属によっては、ある温度までは温度が下がると電気抵抗も減少するが、さらに温度を下げると電気抵抗は逆に増大するという、通常では起こりえないふるまいを見せる。この現象は、[[1933年]]、ド・ハース、ド・ブール、ファン・デン・バーグが、金の電気抵抗を測定したときに初めて観測された<ref>W. J. de Haas, J. de Boer and G. J. van den Berg, ''Physica'','''1''' (1933/34) 1115</ref>。
その後の[[研究]]により、この現象は[[金]](Au)、[[銀]](Ag)、[[銅]](Cu)などに[[鉄]](Fe)、[[マンガン]](Mn)、[[クロム]](Cr)などの磁性不純物を微量に加えた金属で起こることが明らかになった。
== 理論 ==
[[Image:Kscheme.jpg|thumb|320px|高温と低温での伝導電子の[[磁気モーメント]]と不純物の磁気モーメントの結びつきの様子。左)高温での弱く結合した伝導電子の磁気モーメントと不純物の磁気モーメント。伝導電子は[[フェルミ面|フェルミ速度]]<math>v_F</math>で不純物の磁気モーメントのそばを通る際、弱い[[反強磁性]]的な[[交換相互作用]]を受ける。右)低温(0 K付近)では不純物の磁気モーメントと伝導電子の磁気モーメントが強く結合し、全体として非磁性的な状態にある。]]
低温における電気伝導度の増加の原因については長年未解決であったが、後に、近藤効果(磁性不純物の[[磁気モーメント]]と伝導電子の磁気モーメントの[[交換相互作用]]〈s-d交換相互作用〉)によるものであることが明らかになった。
磁性不純物の一番外側の電子殻である3d電子殻は、[[スピン角運動量]]を持っている。このスピンと、伝導電子(s)が相互作用するのがs-d交換相互作用である。近藤は、[[アンダーソン模型]]と[[ボルン-オッペンハイマー近似|ボルン=オッペンハイマー近似]]を用いて[[摂動]]の2次の効果まで考慮し、この作用が温度Tの対数(lnT)に比例することを導いた。交換相互作用の係数が負のとき、この値は温度が減少するにつれて増大することになる。この項と、熱振動の項を合わせることで、電気抵抗が極小になることが説明できたのである。
近藤の理論では電気抵抗は絶対零度で無限大に発散する。しかし実際には、電気抵抗は絶対零度に近づくにつれ正常な振る舞いとなり、有限値へと収束する。これは低温においては、磁性不純物の磁気モーメントと伝導電子の磁気モーメントが反強磁性的に結合した一重項[[基底状態]] (Kondo singlet) として磁性不純物の磁気モーメントが見かけ上消滅するためであり、このことは芳田奎によって示された。
この近藤による磁気モーメントの交換相互作用による異常な振る舞いから、磁性不純物の磁気モーメントが基底状態となった正常な振る舞いへと移り変わる温度を'''近藤温度'''<math>T_\mathrm{K}</math>とよぶ。よって<math>k_\mathrm{B}T_\mathrm{K}</math>はほぼ磁性不純物の磁気モーメントと自由電子の磁気モーメントの[[結合エネルギー]]に相当する(<math>k_\mathrm{B}</math>は[[ボルツマン定数]])。ウィルソンの理論によれば、近藤温度は比熱が極大となるときの温度の3倍となる。また、近藤温度を基準とした<math>T/T_\mathrm{K}</math>を考えると、様々な物質で[[電気抵抗率]]、[[磁化率]]、[[比熱容量|比熱]]が同じ温度依存性を示す([[スケーリング則]])。近藤温度は数 mK 程度のものもある一方、中には1000 K程度のものもあるなど、それぞれの合金によって大きく異なる。
以上のことを数式を用いて述べると以下のようになる。
まず、近藤の論文によれば、近藤効果を含めた[[電気抵抗]]の温度依存性は
{{Indent|<math>\rho(T) = c\rho_0 + aT^5 - c\rho_1\ln T</math>}}
とかける。ここで<math>c</math>は不純物濃度であり、<math>c\rho_0</math>は残留抵抗、<math>aT^5</math>は[[格子振動]]の寄与を表す。近藤は右辺第三番目の対数依存の項を導いた。伝導電子の磁気モーメントと不純物の磁気モーメントの交換相互作用が強磁性的である場合、近藤の項の符号は正となり、近藤効果は発生しない。[[フェルミ液体]]ではフェルミ液体の性質による抵抗への寄与<math>bT^2</math>が加わる。
抵抗が最小となる温度は
{{Indent|<math>\frac{d\rho(T)}{dT} = 5aT^4 - \frac{c\rho_1}{T} = 0</math>}}
により求めることができ、
{{Indent|<math>T_{\min} = \left(\frac{c\rho_1}{5a}\right)^{1/5}</math>}}
が電気抵抗極小の温度である。この温度は不純物濃度<math>c</math>の<math>1/5</math>乗に比例している。
アブリコソフは[[1965年]]に摂動による高次の寄与も考慮に入れ、近藤効果による抵抗Rを
{{Indent|<math>R = R_B(1-\frac{J\rho}{N}{\rm ln}\frac{k_BT}{D})^{-2}</math>}}
と計算した(Jは交換相互作用の強さを表す定数、Dは伝導電子のバンド幅の半分、<math>\rho</math>はフェルミエネルギーの状態密度)。この式によれば、電気抵抗は近藤温度<math>T_\mathrm{K}</math>で発散することとなる<ref>芳田(1990)p34</ref>。
また[[磁化率]]は
{{Indent|<math>\chi_\mathrm{imp}(T) = \frac{C}{T}\left[1+\frac{J\rho}{N}\left(1-\frac{J\rho}{N}{\rm ln}\frac{k_BT}{D}\right)^{-1}\right]</math>}}
と書け、電気抵抗と同じく<math>T_\mathrm{K}</math>で発散する(Cは[[キュリー定数]])。これは芳田・興地によって示された<ref>K.Yoshida and A.Okiji, ''Prog. Theor. Phys.'', '''34''' (1965) 505</ref><ref>山田耕作「金属中の磁気モーメント」 『日本物理学会誌』、vol.60(2)、2005年</ref>。また、比熱にも同様の異常があらわれる。
近藤効果が起きるためには、金属中の磁性原子は相互作用を起こさない程度に希薄でなければならない。このような合金を'''希薄磁性合金'''、または'''近藤合金'''とよぶ。
== 理論の拡張と応用 ==
近藤の理論は絶対零度では物理量にlog発散をともなう。また近藤は[[摂動]]の2次の効果を計算し、<math>\log T</math>の項を導いたが、さらに高次の摂動計算を行うと<math>(\log T)^2</math>、<math>(\log T)^3</math>を含む項があらわれ、低温ではこれらの項も無視できない。これはある温度以下では[[摂動|摂動論]]が破綻するということを意味している。この困難は後に[[フィリップ・アンダーソン]]のpoor man's scaling (1970年)<ref>P. W. Anderson and G. Yuval, "[http://prola.aps.org/abstract/PRB/v1/i11/p4464_1 Exact Results in the Kondo Problem. II. Scaling Theory, Qualitatively Correct Solution, and Some New Results on One-Dimensional Classical Statistical Models]", ''Phys. Rev. B'' '''1''':4464-4473 (1970)</ref> や、[[ケネス・ウィルソン]]の[[繰り込み群]] (1975年)<ref>K.G. Wilson, [http://prola.aps.org/abstract/RMP/v47/i4/p773_1 "The renormalization group: critical phenomena and the Kondo problem"], ''Rev. Mod. Phys''. '''47''', 4, 773.</ref>によって解決され、局在スピンの状態からパウリ常磁性の状態に連続的に移り変わることが示された。ウィルソンはこの業績により[[1982年]]に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。その後、Nozieres、山田耕作らによって局所フェルミ液体として近藤効果を捉えられることが示された。また、低温度に近づくにつれ、[[エネルギーギャップ]]が生じ、[[フェルミ面]]がギャップ中に埋もれてしまうことに起因し、電気的特性の温度依存性が[[半導体]](あるいは[[絶縁体]])的に振舞う相領域におけるものを'''近藤絶縁体'''という。
近藤効果は[[物理学]]において[[漸近的自由性]]の最初に知られた例である。近藤効果では、漸近的自由性は磁気不純物の局在モーメントと伝導電子間の相互作用が低温/低エネルギーで[[摂動]]では取り扱えないほど強くなることにあたる。漸近的自由性のより複雑な形式としては[[量子色力学]]の理論での漸近的自由性があり、[[クォーク]]における[[強い相互作用]]が高エネルギーでは弱く、低エネルギーでは強く働くことに相当する。これにより、[[クォークの閉じ込め]]がおきているが、近藤効果もこれに類似した現象であるといえる。なお、[[フランク・ウィルチェック]]、[[デイビッド・グロス]]、[[H. デビッド・ポリツァー]]の3人は強い相互作用の理論における漸近的自由性の発見で2004年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞している。
主に「磁性不純物」によって構成されている[[合金]]についても理論を拡張し、それらの合金でみられる[[重いフェルミ粒子]]は近藤効果が元となって生じていると考えられている。これは特に[[セリウム]]、[[プラセオジム]]、[[イッテルビウム]]のような[[希土類元素]]([[レアアース]])や、[[ウラン]]のような[[アクチノイド]]を基本とした金属間化合物で起きる。これらの物質では、非摂動的な相互作用が強いため、自由電子の有効質量が1000倍にも増加したようにみえる。言い換えると、自由電子は相互作用により劇的に運動速度が遅くなっている。その結果として、これらの物質の中には[[超伝導]]を起こすものがある。
更に最近では、[[プルトニウム]]の普通でない金属δ相([[面心立方格子構造]])を理解するためには、近藤効果の現れが必要であると考えられている。また、[[量子ドット]]における近藤効果も報告されている<ref>D. Goldhaber-Gordon et al., “Kondo effect in a single-electron transistor”, Nature 391, 156–159 (1998).</ref>。近藤の業績を引用する論文も増えつつあり、ノーベル賞の候補とされていた<ref>2011年1月24日の東京新聞朝刊21面</ref>。
== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* ''The Kondo Problem to Heavy Fermions'' - Monograph on the Kondo effect by A.C. Hewson (ISBN 0-521-59947-4)
* ''Exotic Kondo Effects in Metals'' - Monograph on newer versions of the Kondo effect in non-magnetic contexts especially by D.L. Cox and A. Zawadowski (ISBN 0-7484-0889-4) - 多チャンネル近藤効果等
* 芳田奎『近藤効果とは何か』 丸善、1990年、ISBN 978-4621034408
* 斯波弘行 『新版 固体の電子論』 和光システム、2010年、『固体の電子論』 丸善、1996年、ISBN 978-4621041352
* 近藤淳 『金属電子論―磁性合金を中心として』 裳華房、1983年、ISBN 978-4785323172 厳密解や繰り込み群等様々なアプローチ
== 関連項目 ==
* [[物性物理学]]
* [[RKKY相互作用]] - 近藤効果同様にs-d交換相互作用から生じるが、近藤効果と両立することはない
* [[超交換相互作用]]
* [[漸近的自由性]]
== 外部リンク ==
* [http://www.ipap.jp/jpsj/announcement/announce2004Dec.htm JPSJ 近藤効果40周年記念論文集]
* [http://www.aist.go.jp/aist_j/information/emeritus_advisor/index.html 産業技術総合研究所特別顧問]
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jps/jps/butsuri/50th/noframe/50(6)/50th-p415.html Fermi面効果] - 近藤淳による近藤効果などの発展の振り返り
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jps/jps/butsuri/50th/noframe/50(6)/50th-p401.html 磁性研究50年のあゆみ]
* [http://xstructure.inr.ac.ru/x-bin/theme2.py?arxiv=cond-mat&level=2&index1=35 Kondo effect on arxiv.org]
* [http://www.phys.shimane-u.ac.jp/mutou_lab/zakki/Kondo/Kondo.pdf 近藤効果とその周辺の物理]
* [http://shrcat.cocolog-nifty.com/kondo2.pdf 近藤効果のまとめテキスト]
* [http://www.scholarpedia.org/article/Kondo_effect scholarpediaにおける近藤効果の解説 (A. C. Hewsonによる)]
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ヤングアダルト
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ヤングアダルト(英: young adult)とは、子供と大人の間の世代を指す。心理学と文学において対象とする年齢が異なる。
なお、精神的に子供のまま大人になりきれない大人についてはピーターパン症候群を、機能不全家庭で育ち成人してもトラウマを持つ大人についてはアダルトチルドレンを参照。
発達心理学では成人期前期(前成人期)を迎えた人間のこと。段階としては英語ではyoung adulthoodと呼ぶ。エリク・H・エリクソンのライフサイクル論における段階の1つで、典型的には31歳から40歳頃にこの段階に至る。発達課題としては親密性と孤独の対立があり、友達やパートナーが主な関係を構成する。
英語圏の図書館においては児童文学と文学一般の間、12歳から18歳までの読者を対象に書かれた文学に対してYoung adult (YA)というカテゴリーを設けている。日本では13歳から19歳を読者層として想定している図書館が最も多い。日本にはかつて「ジュブナイル」が用いられた時期があるが、21世紀初頭には「ヤングアダルト図書(YA図書)」、図書館における「ヤングアダルトコーナー(YAコーナー)」の設置など用語として用いられるようになった。講談社の書籍レーベル「YA!ENTERTAINMENT」のYAはヤングアダルトの略である。
YAで扱われるジャンルは文学一般とほぼ変わらない。想定読者層である12歳から18歳を主人公に据える傾向はあるが、YAの必須条件という訳ではない。21世紀にとてもよく売れた作品として、『トワイライト』や『ハンガー・ゲーム』が挙げられる。YAは幅広い層に読まれており、その7割近くが18歳から64歳だとする市場推計がある。
YAに日本のライトノベルを含める見方もある。日本の図書館においては、ライトノベルがYAコーナーに置かれるケースが多く、YA図書を占めるライトノベルの割合が高い図書館も多い。一方米国では、現地出版社の意向もあり、YAにライトノベルは含めない方針が主流である。そうするに至った理由として、図書館における未成年者も手にできる本の基準が非常に厳しいことが挙げられる。エン・プレスの創業者の一人であるカート・ハスラーによれば、性的暴力やマイノリティへの差別を含むもの、セクシーな少女が表紙を飾っているものなどは、YAとして認めてもらうのは困難であるという。
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ヤングアダルトとは、子供と大人の間の世代を指す。心理学と文学において対象とする年齢が異なる。 なお、精神的に子供のまま大人になりきれない大人についてはピーターパン症候群を、機能不全家庭で育ち成人してもトラウマを持つ大人についてはアダルトチルドレンを参照。
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{{Otheruses||2011年の映画作品|ヤング≒アダルト}}
'''ヤングアダルト'''({{lang-en-short|young adult}})とは、子供と大人の間の世代を指す<ref name="yanet">{{Cite web|和書|url=http://young-adult.net |title=ヤングアダルト出版会(YA) |accessdate=2018-08-31}}</ref>。[[心理学]]と[[文学]]において対象とする年齢が異なる。
なお、精神的に子供のまま大人になりきれない大人については[[ピーターパン症候群]]を、[[機能不全家庭]]で育ち成人しても[[トラウマ]]を持つ大人については[[アダルトチルドレン]]を参照。
== 心理学におけるヤングアダルト ==
[[発達心理学]]では[[成年|成人]]期前期(前成人期)を迎えた人間のこと。段階としては英語では{{lang|en|young adulthood}}と呼ぶ。[[エリク・H・エリクソン]]のライフサイクル論における段階の1つで、典型的には31歳から40歳頃にこの段階に至る。[[発達課題]]としては親密性と孤独の対立があり、[[友達]]や[[パートナー]]が主な関係を構成する<ref>{{cite book | last=Erikson |first=E.H. |year=1959 | title=Identity and the life cycle | place= New York|publisher=International Universities Press}} {{cite book | 和書 | last=エリクソン| first = E.H. |translator=小此木啓吾|year=1973|title= 自我同一性—アイデンティティとライフサイクル |publisher=誠心書房}}</ref>。
== 文学におけるヤングアダルト ==
[[英語圏]]の[[図書館]]においては[[児童文学]]と文学一般の間、12歳から18歳までの読者を対象に書かれた文学に対して'''Young adult (YA)'''というカテゴリーを設けている<ref name="thebalancecareers.com">{{Cite web |url=https://www.thebalancecareers.com/the-young-adult-book-market-2799954 |title=Young Adult and New Adult Book Markets |accessdate=2022-07-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180612163338/https://www.thebalancecareers.com/the-young-adult-book-market-2799954 |archivedate=2018-06-12}}</ref>。日本では13歳から19歳を読者層として想定している図書館が最も多い<ref name="toshokankai.68.2_cover1">「目次」 『図書館界』 2016年 68巻 2号 p.cover1, {{doi|10.20628/toshokankai.68.2_cover1}}, 日本図書館研究会</ref>。日本にはかつて「[[ジュブナイル]]」が用いられた時期があるが、21世紀初頭には「ヤングアダルト図書(YA図書)」、図書館における「ヤングアダルトコーナー(YAコーナー)」の設置など用語として用いられるようになった<ref name="toshokankai.68.2_cover1"/>。[[講談社]]の書籍レーベル「[[YA!ENTERTAINMENT]]」のYAはヤングアダルトの略である。
YAで扱われるジャンルは文学一般とほぼ変わらない。想定読者層である12歳から18歳を主人公に据える傾向はあるが、YAの必須条件という訳ではない。21世紀にとてもよく売れた作品として、『[[トワイライト (小説)|トワイライト]]』や『[[ハンガー・ゲーム]]』が挙げられる。YAは幅広い層に読まれており、その7割近くが18歳から64歳だとする市場推計がある<ref name="thebalancecareers.com"/>。
YAに日本の[[ライトノベル]]を含める見方もある。日本の図書館においては、ライトノベルがYAコーナーに置かれるケースが多く、YA図書を占めるライトノベルの割合が高い図書館も多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shuppan.jp/reports/shunkikenkyu/2015/11/20/828/ |title=ライトノベル図書の変遷とメディアとしての可能性 斎藤 純 (2015年5月 春季研究発表会) |website=[[日本出版学会]] |date=2015-11-20 |accessdate=2018-08-31}}</ref>。一方[[米国]]では、現地出版社の意向もあり、YAにライトノベルは含めない方針が主流である。そうするに至った理由として、図書館における未成年者も手にできる本の基準が非常に厳しいことが挙げられる。[[エン・プレス]]の創業者の一人であるカート・ハスラーによれば、性的暴力やマイノリティへの差別を含むもの、セクシーな少女が表紙を飾っているものなどは、YAとして認めてもらうのは困難であるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2018/06/post-46_2.php |title=アメリカでようやく根付き始めた日本のライトノベル |website=[[ニューズウィーク|ニューズウィーク日本版]] |date=2018-06-22 |accessdate=2022-07-31}}</ref>。
== 関連項目 ==
* [[ヤング≒アダルト]] - [[2011年]]のアメリカの映画。[[シャーリーズ・セロン]]演じる主人公がYA作家として登場する。
* [[アメリカ図書館協会]]
* [[日本図書館協会]]
* [[ティーンエイジャー]]
* [[ライトノベル]]
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://young-adult.net/ ヤングアダルト出版会]
* [http://yalib1994.web.fc2.com/ ヤングアダルトサービス研究会]
* [http://www.nal-lib.jp/groups/YA/index.html 児童・YAサービス研究グループ(日図研)] - [http://www.nal-lib.jp/index.html 日本図書館研究会]
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皮蛋
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皮蛋(ピータン)は、アヒルの卵を強いアルカリ性の条件で熟成させて製造する中国の食品。鶏卵やウズラの卵などでつくられる場合もある。高級品には白身の表面にアミノ酸の結晶による松の枝のような紋様がつくことから、松花蛋と呼ぶ(「花」は“紋様”を意味し、全体として「松の紋様の卵」の意)。英語ではcentury egg(100年たった卵)といい、アラビア語ではبيض القرنという。
皮蛋は、アンモニアや硫化水素を含む独特の匂いと刺激的な味を持つ。なお、食べるときは殻についた粘土や籾殻などを洗い落としてから殻を剥いて食べる。できればスライスしてしばらく空気にさらし、匂いが減ったころに食べるとよい。
黄身が半熟状で匂いの弱い溏心皮蛋と黄身が硬く保存性の高い硬心皮蛋の2種類に大別される。一般的には匂いが弱く、味も良い溏心皮蛋の方が好まれる傾向にある。
前菜として、そのまま食べるだけではなく、食材として、皮蛋豆腐や皮蛋粥といった中華料理に使われることも多い。また、さくさくしたパイ生地で餡と皮蛋を包んだ皮蛋酥など、菓子の具としても使われることがある。
記録によると、明代初期にアヒルの卵を灰の中に埋めて忘れてしまい、2か月後に発見された卵が熟成していたことから偶然に製法が発見されたとある。
石灰や木炭を混ぜた粘土を卵殻に塗りつけ、さらに籾殻をまぶして甕の中のような冷暗所に2か月程貯蔵する、とされているが、消石灰、炭酸ナトリウム、塩、黄丹粉(一酸化鉛)で作ることもできる。
石灰によって徐々に殻の内部がアルカリ性となり、タンパク質が変性して固化してゆく。白身部分は褐色のゼリー状、黄身部分は暗緑色になる。
ピータンは製造過程で蛋白の凝固を促進するため「黄丹粉」と呼ばれる一酸化鉛の化合物を使用する。1971年に台湾大学の劉伯文教授がピータンには人体に有害な鉛成分が含まれるとの研究結果を発表し、中国政府は1988年よりピータンの鉛含有量に基準値を設定し、1000グラム当たり3ミリグラム未満とした。さらに2015年12月1日より、1000グラム当たり0.5ミリグラム未満に厳格化されている。
以後、黄丹粉を使用しない「無鉛ピータン」と銘打った製品が流通するようになった。だが別種の鉛化合物が使用されるなど鉛中毒のリスクは解消されていない。2015年2月「微量の鉛が入っているのに『無鉛ピータン』の名前で売るのは詐欺行為だ」として損害賠償を求める訴訟が起こされ、北京の裁判所は消費者側の訴えを認める判決を下した。
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皮蛋(ピータン)は、アヒルの卵を強いアルカリ性の条件で熟成させて製造する中国の食品。鶏卵やウズラの卵などでつくられる場合もある。高級品には白身の表面にアミノ酸の結晶による松の枝のような紋様がつくことから、松花蛋と呼ぶ(「花」は“紋様”を意味し、全体として「松の紋様の卵」の意)。英語ではcentury egg(100年たった卵)といい、アラビア語ではبيض القرنという。
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'''皮蛋'''(ピータン)は、[[アヒル]]の[[卵]]を強い[[アルカリ性]]の条件で熟成させて製造する<!--発酵が行われるかどうかについては議論がありました。ノートを参照下さい。-->[[中華人民共和国|中国]]の食品。[[鶏卵]]や[[ウズラ]]の卵などでつくられる場合もある<ref name="jp.gr.lin.egg03">{{Cite web|和書|url=http://karagochi.lin.gr.jp/process/egg03.html |title=ピータン(石灰卵) |publisher=[[中央畜産会]] |work=畜産物加工データベース |accessdate=2021-04-09}}</ref>。高級品には白身の表面に[[アミノ酸]]の[[結晶]]による松の枝のような紋様がつくことから、'''松花蛋'''と呼ぶ(「花」は“紋様”を意味し、全体として「松の紋様の卵」の意)。英語では'''century egg'''(100年たった卵)といい、アラビア語ではبيض القرنという。
==食べ方==
皮蛋は、[[アンモニア]]や[[硫化水素]]を含む独特の[[匂い]]と刺激的な[[味]]を持つ。なお、食べるときは殻についた粘土や籾殻などを洗い落としてから殻を剥いて食べる。できればスライスしてしばらく空気にさらし、匂いが減ったころに食べるとよい。
黄身が半熟状で匂いの弱い'''溏心皮蛋'''と黄身が硬く保存性の高い'''硬心皮蛋'''の2種類に大別される。一般的には匂いが弱く、味も良い溏心皮蛋の方が好まれる傾向にある。
[[前菜]]として、そのまま食べるだけではなく、[[食材]]として、皮蛋豆腐や皮蛋粥といった[[中華料理]]に使われることも多い。また、[[サクサク|さくさく]]した[[パイ]]生地で[[餡]]と皮蛋を包んだ皮蛋酥など、菓子の具としても使われることがある。
==製造法==
記録によると、[[明]]代初期にアヒルの卵を灰の中に埋めて忘れてしまい、2か月後に発見された卵が熟成していたことから偶然に製法が発見されたとある。
[[石灰]]や[[木炭]]を混ぜた粘土を卵殻に塗りつけ{{R|jp.gr.lin.egg03}}、さらに籾殻をまぶして甕の中のような冷暗所に2か月程貯蔵する{{R|jp.gr.lin.egg03}}、とされているが、消石灰、炭酸ナトリウム、塩、黄丹粉(一酸化鉛)で作ることもできる。
石灰によって徐々に殻の内部が[[アルカリ]]性となり、[[タンパク質]]が[[変性]]して固化してゆく{{R|jp.gr.lin.egg03}}。白身部分は褐色のゼリー状、黄身部分は暗緑色になる{{R|jp.gr.lin.egg03}}。
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ファイル:Centuryeggwithpickledginger.jpg|[[紅しょうが]]をあしらった溏心皮蛋。
ファイル:Century egg1.jpg|籾殻をまぶしたままの皮蛋。
ファイル:Century egg2.jpg|白身の表面に紋様がある皮蛋。
ファイル:Century eggs for sale in Hong Kong by tracyhunter.jpg|売りものの皮蛋(香港)。
ファイル:2015-12-16 Pitan tofu in Ishigakijima ピータン豆腐DSCF2187.jpg|皮蛋豆腐([[石垣島]]の[[沖縄料理]]レストラン)。
ファイル:Trứng vịt Bắc Thảo century egg pinyin.jpg|ベトナムの市場にて。
ファイル:Trứng vịt Bắc Thảo century egg pinyin black.jpg|同じくベトナム、白黒2種類の籾殻に覆われる。
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===鉛の含有===
ピータンは製造過程で蛋白の凝固を促進するため「黄丹粉」と呼ばれる[[一酸化鉛]]の化合物を使用する。1971年に[[台湾大学]]の劉伯文教授がピータンには人体に有害な鉛成分が含まれるとの研究結果を発表し、中国政府は1988年よりピータンの鉛含有量に基準値を設定し、1000グラム当たり3ミリグラム未満とした。さらに2015年12月1日より、1000グラム当たり0.5ミリグラム未満に厳格化されている<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.newsclip.be/article/2016/01/05/27928.html#:~:text=%E3%80%90%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%91%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%8D%B5%E3%82%92,%E3%81%A8%E8%A6%8F%E5%AE%9A%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82|title = ピータンの鉛含有量基準、27年ぶり改定|publisher = 亜州IR株式会社|date = 2016-1-5|accessdate = 2020-06-23}}</ref>。
以後、黄丹粉を使用しない「無鉛ピータン」と銘打った製品が流通するようになった。だが別種の鉛化合物が使用されるなど[[鉛中毒]]のリスクは解消されていない<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.recordchina.co.jp/b33766-s0-c70-d0000.html|title = ピータンの食べ過ぎで鉛中毒に=「無鉛」ピータンも危険?!―中国|publisher = [[レコードチャイナ]]|date = 2009-07-26|accessdate = 2013-06-09}}</ref>。2015年2月「微量の鉛が入っているのに『無鉛ピータン』の名前で売るのは詐欺行為だ」として損害賠償を求める訴訟が起こされ、北京の裁判所は消費者側の訴えを認める判決を下した<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.newsclip.be/article/2015/02/25/24864.html|title = 『無鉛ピータン』は誤認招く表示、販売元に罰金命令|publisher = 亜州IR株式会社|date = 2015-2-25|accessdate = 2020-06-23}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Century egg|Century Egg}}
* [[バロット]]
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アレン・ニューウェル
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アレン・ニューウェル(Allen Newell, 1927年3月19日 - 1992年7月19日)は、初期の人工知能研究の研究者。計算機科学および認知心理学の研究者であり、ランド研究所やカーネギーメロン大学の計算機科学科、テッパー・スクール・オブ・ビジネスに勤務した。ハーバート・サイモンと共に開発した Information Processing Language (1956) や2つの初期のAIプログラムである Logic Theory Machine (1956) と General Problem Solver (1957) で知られている。1975年、人工知能と認知心理学への基礎的貢献が認められ、ハーバート・サイモンと共にACMチューリング賞を受賞。
1949年、スタンフォード大学で学士号を取得。プリンストン大学に進学し1949年から1950年にかけて数学を学んだ。ゲーム理論という新たな領域にも出会い、自分が「純粋数学よりも実験と理論の結合領域を好む」(サイモン)ということを見出した。その後プリンストンからサンタモニカのランド研究所に移り、「空軍のロジスティック問題を研究していたグループ」(サイモン)に参加した。ここでジョゼフ・クラスカル(英語版)に出会い、2つの理論を生み出した。それは組織理論のモデル (A Model for Organization Theory) と組織理論の公式化された精密な概念 (Formulating Precise Concepts in Organization Theory) である。その後カーネギーメロン大学(の現在ではテッパー・スクール・オブ・ビジネスと呼ばれているビジネススクール部門)でハーバート・サイモンに師事し、博士号を取得。
その後、ニューウェルは「小集団における意思決定に関する実験の設計と指導に転じた」(サイモン)。しかし、彼は小集団の実験では正確で満足できる結果を得られないのではないかと考えた。そこで彼はランド研究所の仲間である John Kennedy、Bob Chapman、Bill Bielと共に Air Force Early Warning Station で「組織的処理の詳細を研究するための」大規模なシミュレーションを計画し、1952年に空軍から資金を提供された(サイモン)。この実験では、隊員間の相互のやり取りやレーダースクリーンの情報や妨害飛行機などを入力情報として組織がどのように意思決定し情報を扱うかを調査した。この実験からニューウェルは組織活動の本質は情報処理であると確信した。
1954年9月、ニューウェルはオリバー・セルフリッジのセミナーに参加した。これは「文字などのパターンを認識し学習するコンピュータプログラムの動作を説明する」ものであった(サイモン)。このときにニューウェルは知能を持ち適応能力のあるシステムを作成できるかもしれないと考えた。その考えを考察したニューウェルは1955年に論文 The Chess Machine: An Example of Dealing with a Complex Task by Adaptation(チェスマシン:適応によって複雑なタスクを扱う例)を書いた。これは「チェスを人間のように実行できるコンピュータプログラムの概念的な設計」である(サイモン)。
ニューウェルの業績は経済学者(後のノーベル賞受賞者でもある)ハーバート・サイモンの目にとまり、プログラマの J. C. Shaw と共に世界初の真の人工知能プログラム Logic Theorist を共同で開発した。このプログラムにおけるニューウェルの仕事は人工知能という領域の基礎を築いた。彼の技術革新としては、AIで最も重要なプログラミングパラダイムであるリスト処理、一般的推論への手段目標分析の応用(探索としての推論)、探索空間を限定するためのヒューリスティクスの利用、などがある。
このプログラムは1956年のダートマス会議で発表された。ダートマス会議は草創期の人工知能に関心を寄せる研究者らの非公式の会合だった。その会議が今では一般に「人工知能の誕生」とみなされており、その後20年間にわたってニューウェルを含む会議参加者がAI研究のリーダーとなった。
ニューウェルとサイモンはしばらく共同研究を続けた。彼らはカーネギーメロン大学に人工知能研究所を創設し、1950年代末から1960年代にかけて一連の重要なプログラムを生み出し、理論的洞察ももたらした。例えば、General Problem Solver は手段目標分析の実装例として大きな影響を及ぼし、あらゆる知的行動がニューウェルのプログラムが行っているような記号操作に還元されるという哲学的主張「物理記号システム仮説(英語版)」を提唱した。
Soar (1973) という認知アーキテクチャは、『認知の統一理論』(UTC)という著作 (1990) を執筆する過程でニューウェルが具体化したものである。ニューウェルは死ぬまでその改良に務めた。
アレン・ニューウェル賞はアメリカ人工知能学会 (AAAI) とAssociation for Computing Machinery (ACM)が、計算機科学の領域拡大や他の学問領域との架け橋となるような貢献をした人物に授与する賞である。
他にも、カーネギーメロン大学計算機科学科が授与する Allen Newell Award for Research Excellence という賞もある。
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アレン・ニューウェルは、初期の人工知能研究の研究者。計算機科学および認知心理学の研究者であり、ランド研究所やカーネギーメロン大学の計算機科学科、テッパー・スクール・オブ・ビジネスに勤務した。ハーバート・サイモンと共に開発した Information Processing Language (1956) や2つの初期のAIプログラムである Logic Theory Machine (1956) と General Problem Solver (1957) で知られている。1975年、人工知能と認知心理学への基礎的貢献が認められ、ハーバート・サイモンと共にACMチューリング賞を受賞。
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{{Infobox Scientist
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'''アレン・ニューウェル'''('''Allen Newell''', [[1927年]][[3月19日]] - [[1992年]][[7月19日]])は、初期の[[人工知能]]研究の研究者。[[計算機科学]]および[[認知心理学]]の研究者であり、[[ランド研究所]]や[[カーネギーメロン大学]]の[[計算機科学]]科、[[テッパー・スクール・オブ・ビジネス]]に勤務した。[[ハーバート・サイモン]]と共に開発した [[Information Processing Language]] (1956) や2つの初期の[[人工知能|AI]]プログラムである [[:en:Logic Theorist|Logic Theory Machine]] (1956) と [[General Problem Solver]] (1957) で知られている。1975年、人工知能と認知心理学への基礎的貢献が認められ、[[ハーバート・サイモン]]と共に[[Association for Computing Machinery|ACM]][[チューリング賞]]を受賞<ref name="NYT-AllenNewell-died">{{Cite web|url= http://www.nytimes.com/1992/07/20/us/allen-newell-65-scientist-founded-a-computing-field.html |title=Allen Newell, 65; Scientist Founded A Computing Field |publisher=The New York Times |date=1992-07-20 |accessdate=2010-11-28}}</ref><ref name="NAS-AllenNewell-Biography">{{Cite web|url= http://www.nap.edu/html/biomems/anewell.html |title=Allen Newell, Biographical Memoirs | author=Herbert A. Simon |publisher=[[米国科学アカデミー|United States National Academy of Sciences]] |accessdate=2010-11-28}}</ref>。
== 初期の研究 ==
1949年、[[スタンフォード大学]]で学士号を取得。[[プリンストン大学]]に進学し1949年から1950年にかけて数学を学んだ。[[ゲーム理論]]という新たな領域にも出会い、自分が「純粋数学よりも実験と理論の結合領域を好む」(サイモン)ということを見出した。その後プリンストンからサンタモニカの[[ランド研究所]]に移り、「空軍のロジスティック問題を研究していたグループ」(サイモン)に参加した。ここで{{仮リンク|ジョゼフ・クラスカル|en|Joseph Kruskal}}に出会い、2つの理論を生み出した。それは組織理論のモデル (A Model for Organization Theory) と組織理論の公式化された精密な概念 (Formulating Precise Concepts in Organization Theory) である。その後[[カーネギーメロン大学]](の現在では[[テッパー・スクール・オブ・ビジネス]]と呼ばれているビジネススクール部門)でハーバート・サイモンに師事し、博士号を取得。
その後、ニューウェルは「小集団における意思決定に関する実験の設計と指導に転じた」(サイモン)。しかし、彼は小集団の実験では正確で満足できる結果を得られないのではないかと考えた。そこで彼はランド研究所の仲間である John Kennedy、Bob Chapman、Bill Bielと共に Air Force Early Warning Station で「組織的処理の詳細を研究するための」大規模なシミュレーションを計画し、1952年に空軍から資金を提供された(サイモン)。この実験では、隊員間の相互のやり取りやレーダースクリーンの情報や妨害飛行機などを入力情報として組織がどのように意思決定し情報を扱うかを調査した。この実験からニューウェルは組織活動の本質は[[情報処理]]であると確信した。
== 人工知能 ==
1954年9月、ニューウェルは[[オリバー・セルフリッジ]]のセミナーに参加した。これは「文字などのパターンを認識し学習するコンピュータプログラムの動作を説明する」ものであった(サイモン)。このときにニューウェルは知能を持ち適応能力のあるシステムを作成できるかもしれないと考えた。その考えを考察したニューウェルは1955年に論文 ''The Chess Machine: An Example of Dealing with a Complex Task by Adaptation''(チェスマシン:適応によって複雑なタスクを扱う例)を書いた。これは「[[チェス]]を人間のように実行できるコンピュータプログラムの概念的な設計」である(サイモン)。
ニューウェルの業績は経済学者(後のノーベル賞受賞者でもある)[[ハーバート・サイモン]]の目にとまり、プログラマの [[:en:Cliff Shaw|J. C. Shaw]] と共に世界初の真の[[人工知能]]プログラム [[Logic Theorist]] を共同で開発した。このプログラムにおけるニューウェルの仕事は人工知能という領域の基礎を築いた。彼の技術革新としては、AIで最も重要なプログラミングパラダイムである[[Information Processing Language|リスト処理]]、一般的推論への[[手段目標分析]]の応用(探索としての推論)、探索空間を限定するための[[ヒューリスティクス]]の利用、などがある。
このプログラムは1956年の[[ダートマス会議]]で発表された。ダートマス会議は草創期の人工知能に関心を寄せる研究者らの非公式の会合だった。その会議が今では一般に「人工知能の誕生」とみなされており<ref>{{Harvnb|Crevier|1993|pp=49–51}}</ref>、その後20年間にわたってニューウェルを含む会議参加者がAI研究のリーダーとなった。
== その後の業績 ==
ニューウェルとサイモンはしばらく共同研究を続けた。彼らは[[カーネギーメロン大学]]に人工知能研究所を創設し、1950年代末から1960年代にかけて一連の重要なプログラムを生み出し、理論的洞察ももたらした。例えば、[[General Problem Solver]] は[[手段目標分析]]の実装例として大きな影響を及ぼし、あらゆる知的行動がニューウェルのプログラムが行っているような記号操作に還元されるという哲学的主張「{{仮リンク|物理記号システム|en|physical symbol system|label=物理記号システム仮説}}」を提唱した。
[[Soar (認知アーキテクチャ)|Soar]] (1973) という[[認知アーキテクチャ]]は、『[[認知の統一理論]]』(UTC)という著作 (1990) を執筆する過程でニューウェルが具体化したものである。ニューウェルは死ぬまでその改良に務めた<ref>[http://erg4146.casaccia.enea.it/Newell-L.htm one of the last Newell's letters]</ref>。
== 受賞歴など ==
* 1972年 — [[米国科学アカデミー]]会員<ref>{{Cite web|url= http://www.nasonline.org/site/Dir?sid=1021&view=basic&pg=srch |title=Search Deceased Member Data |publisher=United States National Academy of Sciences |accessdate=2011-07-16}} Search with Newell as last name.</ref>
* 1972年 — [[アメリカ芸術科学アカデミー]]フェロー<ref name=AAAS>{{Cite web |title=Book of Members, 1780-2010: Chapter N |url= http://www.amacad.org/publications/BookofMembers/ChapterN.pdf |publisher=[[アメリカ芸術科学アカデミー|American Academy of Arts and Sciences]] |accessdate=2011-07-16}}</ref>
* 1975年 — [[チューリング賞]]([[ハーバート・サイモン]]と同時), [[Association for Computing Machinery]]<ref>{{Cite web |url= http://awards.acm.org/homepage.cfm?srt=all&awd=140 |title=A. M. Turing Award |publisher=[[Association for Computing Machinery]] |accessdate=2011-02-10}}</ref>
* 1980年 — [[全米技術アカデミー]]会員<ref name="NAE">{{Cite web |url= http://www.nae.edu/MembersSection/Directory20412/28821.aspx |title=NAE Members Directory - Dr. Allen Newell |publisher=[[全米技術アカデミー|United States National Academy of Engineering]] |accessdate=2011-01-22}}</ref>
* 1980年 — [[アメリカ人工知能学会]]初代会長
* 1981年 — [[IEEE Computer Society]] が[[コンピュータパイオニア賞]]を創設した際にまとめて授与した中 (Charter Recipients) の1人だった<ref>{{Cite web|url= http://www.computer.org/portal/web/awards/pioneer#_118_tabs_WAR_pluginsui_INSTANCE_d0QT_tab2 |title=Computer Pioneer Charter Recipients |publisher=[[IEEE Computer Society]] |accessdate=2011-07-16}}</ref>。
* 1985年 — Distinguished Scientific Contribution Award([[アメリカ心理学会]])
* 1986年 — 名誉博士号([[ペンシルベニア大学]])
* 1989年 — Award for Research Excellence([[国際人工知能会議]])
* 1989年 — 名誉博士号([[フローニンゲン大学]])
* 1989年 — William James Fellow Award (charter recipient), [[科学的心理学会]]
* 1990年 — [[:en:IEEE Emanuel R. Piore Award|IEEE Emanuel R. Piore Award]]<ref>{{Cite web |url= http://www.ieee.org/documents/piore_rl.pdf |title=IEEE Emanuel R. Piore Award Recipients |publisher=IEEE |accessdate=2010-12-30}}</ref>
* 1990年 — [[:en:IEEE W.R.G. Baker Prize Paper Award|IEEE W.R.G. Baker Prize Paper Award]]<ref>{{Cite web |url= http://www.ieee.org/documents/baker_rl.pdf |title=IEEE W.R.G. Baker Prize Paper Award Recipients |publisher=IEEE |accessdate=2010-11-28}}</ref>
* 1992年 — [[アメリカ国家科学賞]]<ref name="AllenNewell-MedalFromBush">{{Cite web |url= http://www.nsf.gov/od/nms/recip_details.cfm?recip_id=254 |title=The President's National Medal of Science: Recipient Details Allen Newell |publisher=US National Science Foundation |accessdate=2010-11-28}}</ref>
* 1992年 — Louis E. Levy Medal([[:en:Franklin Institute|Franklin Institute]])<ref name="LevyMedal_Laureates">{{Cite web |url= http://www.fi.edu/winners/show_results.faw?gs=&ln=&fn=&keyword=&subject=&award=LEVY+&sy=1923&ey=1999&name=Submit |title=Franklin Laureate Database - Louis E. Levy Medal Laureates |publisher=Franklin Institute |accessdate=2011-01-22}}</ref>
== 顕彰 ==
[[アレン・ニューウェル賞]]は[[アメリカ人工知能学会]] (AAAI) と[[Association for Computing Machinery]] (ACM)が、計算機科学の領域拡大や他の学問領域との架け橋となるような貢献をした人物に授与する賞である<ref>{{Cite web |url= http://awards.acm.org/homepage.cfm?srt=all&awd=150 |title=Allen Newell Award |publisher=Association for Computer Machinery |accessdate=2012-04-26}}</ref>。
他にも、[[カーネギーメロン大学]]計算機科学科が授与する Allen Newell Award for Research Excellence という賞もある。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{MathGenealogy|id=13114 |title=Allen Newell}}
* [http://aigp.eecs.umich.edu/researcher/show/297 Allen Newell] at the [http://aigp.eecs.umich.edu/about AI Genealogy Project]
* {{Citation | first = Daniel | last = Crevier | year = 1993 | title = AI: The Tumultuous Search for Artificial Intelligence | publisher = BasicBooks| id=ISBN 0-465-02997-3| publication-place=New York, NY }}
* [http://purl.umn.edu/107544 Oral history interview with Allen Newell] at [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota, Minneapolis.
* [http://diva.library.cmu.edu/Newell/ Allen Newell Collection] 論文集。カーネギーメロン大学
** [http://diva.library.cmu.edu/Newell/biography.html Biography]
* [http://shelf1.library.cmu.edu/IMLS/MindModels/index.html Mind Models] online Artificial Intelligence exhibit
* [http://www.interaction-design.org/references/authors/allen_newell.html Publications by Allen Newell] Interaction-Design.org より
* [http://www.umsl.edu/~piccininig/Newell%205.htm] Allen Newell by Gualtiero Piccinini in New Dictionary of Scientific Biography, Thomson Gale, ed.
{{チューリング賞}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:にゆううえる あれん}}
[[Category:アメリカ合衆国の工学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の人工知能学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の認知心理学者]]
[[Category:意識の研究者と理論家]]
[[Category:チューリング賞受賞者]]<!-- 1975年 -->
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秦野市
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秦野市(はだのし)は、神奈川県の湘南地域北部に位置する市。神奈川県の広域拠点に位置づけられている。
市域は、東西約13.6キロメートル、南北は約12.8キロメートル、面積は103.61平方キロメートルで、県内19市中5位の広さを持つ。神奈川県の行政区域は湘南に含まれる。丹沢の麓に位置し、市域の半分は山林である。市街地は四方を山に囲まれている。
市内の標高最高地点は、標高1490.9メートルの塔ノ岳。最低地点は、鶴巻地区の16.2メートルである。 北部と西部に丹沢山地が連なり、東は相模平野の間に大根台地があり、南には大磯丘陵が横たわる盆地(秦野盆地)が市の中心部である。また、秦野盆地は県内唯一の盆地である。豊富な地下水が湧出しており、 秦野盆地湧水群として、1985年名水百選の一つに指定されている。 盆地内には金目川水系の河川により複合扇状地が展開する。直下には秦野断層が所在する。
太平洋岸気候に属し、海洋気象の影響を受けるため降霜・降雪が少なく、冬期は西北西、夏期は南方の風が多いが、風速は弱く一年を通じて比較的温暖である。 そのため、盆地特有の気候の厳しさは少なく、山に囲まれた市街地は、夏は涼しく、冬はあまり雪が降らず住みやすい山紫水明な気候が特徴である。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が1030年ごろ秦野に移り住んで波多野氏を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部が相当し、波多野城は一族の居館であった。その後、鎌倉幕府の御家人となり、後の戦国大名の波多野氏となった。
現在の市名は「はだの」であるが、古くは『和名抄』に「波多野郷」とあり、万葉仮名は清濁を区別することから「はたの」であったと考えられる。しかし、波多野郷が秦氏に由来するとして「はだの」であったとも考えられる。明治以降、西部の上秦野村は「はたの」、他は「はだの」と称した。
小田急電鉄の駅名も現在は秦野駅(はだのえき)だが、かつては大秦野駅(おおはたのえき)だった。現在でも学校名や企業施設名などで「はたの」、"Hatano" が用いられているものがある。
秦野市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。
合併前の旧行政地域(秦野市に合併する直前の旧町村はすべて中郡に属していた。旧・西秦野町の地域のみ、さらに以前の西秦野村・足柄上郡上秦野村の界で分けられる)での区分けが一般である。中学校区にもほぼ対応する。
1955年の市制施行以降
令和元年の指数を掲載。財政力は、県平均から下回るが、地方財政の健全化指標は、安定しており、特に将来負担比率は、県内33市町村中小田原市に次ぎ、2位となっており、財政の健全化が確認できる。
就業人口割合は第一次産業:第二次産業:第三次産業= 2.1% : 28.9% : 69.0% となっている。(2015年国勢調査)
農業産出額 24億7000万円 (農林水産省「令和元年市町村別農業産出額データベース」)
郵便貯金銀行
都市銀行
地方銀行
第二地方銀行
信用金庫
労働金庫
新たな形態の銀行
証券
平塚、藤沢、小田原及び秦野高等職業技術校を統合し、神奈川県立大秦野高等学校の広大な跡地20,669平方メートルに平成25年4月に開校。
「人づくりの基本は、幼児教育にあり」と大正4年から幼稚園教育を推進してきた同市では、県内でも珍しく私立幼稚園が存在せず、全て市立幼稚園(一部公私連携幼保連携型)である。
日本医師会2020年11月現在の地域内医療機関情報の集計値(人口10万人あたりは、2015年国勢調査総人口で計算)によると、近隣(湘南西部)の平塚市・伊勢原市と比較すると地域医療資源は若干劣る一方、大磯町・二宮町と比較すると充実している。地域介護資源は湘南西部地域で最も充実している傾向にある。
市内に11ヶ所の公民館を設置。
児童に健全な遊びの機会を与え、その健康を増進し、情操を豊かにすることを目的に、市内に18館の児童館(児童センター)を設置。
温水プール、トレーニングルーム、テニスコート、スポーツ広場、スケートパークを備える大型公園
同公園内に2021年に新築された秦野市営のボルダリング施設。スポーツクライミング競技の3種目が可能。 東京2020オリンピックスポーツクライミング競技の代表選考会を兼ねて開催されたIFSCクライミング世界選手権八王子大会」で実際に使用されたボルダリングウォールを移設。また、裏面には、2016希望郷いわて国体で使用されたボルダリングウォールを移設し、幅20メートルのボルダリングウォールを2面完備。
集配郵便局
市内南部を横断する形で、小田急線が運行しており、上記4駅とも快速急行・急行・各駅停車の停車駅である。 同線において快速急行・急行が一市町村あたりに停車する駅数としては、路線内最多である。
秦野駅は、市内唯一の特急ロマンスカー停車駅であり、朝の通勤時間帯は、当駅始発の特急ロマンスカーも数本発車される。 1996年に現在の駅舎が完成し、翌年に当時の通商産業省(現:経済産業省)のグッドデザイン商品(現:グッドデザイン賞)に選定された。 また、関東の駅百選にも選定されている。
上記、高速バス路線が秦野バスストップに停車する。
2025年度を目標に、電動自走式ロープウェイシステム「Zippar」の導入が検討されている。
神奈川県による令和4年における県内33市町村を対象とした観光客データによると、秦野市を訪れた延べ観光客数は、年間4,154千人であり、県内11位の観光客数を誇る。
「宿泊」が6,7千人。「日帰り」が408,6千人と日帰り観光客が多い。特にヤビツ峠の47万人、神奈川県立秦野戸川公園の53,7千人など山の人気や秦野たばこ祭の23,7千人、秦野市市民の日の13万人の再開などがコロナ禍以来の来訪者の増加につながっている。
以下の特産物が「かながわの名産100選」に選定されている。
日本経済新聞社と日経BP『日経xwoman』が、全国165自治体を対象に「自治体の子育て支援制度に関する調査」を実施した「共働き子育てしやすい街ランキング2022」にて、全国16位の評価を得ている。 また、同市では、市内への移住・定住を推進する目的として、下記のような施策を展開している。
旧日産車体の社宅をリノベーションし、40歳以下の夫婦、子育て夫婦を対象に、子育てしやすい魅力的な住宅を整備。将来の住宅購入費助成などの入居特典などを提供。
丹沢の豊かな自然を感じながら、本市の生活を体験することができる移住お試し住宅(ログハウス)「TANZAWA LIFE」を提供
高品質が評価され歌舞伎座の舞台や花道にも使用されている秦野産ヒノキに着目し、秦野産木材を使用して家を建築する場合に一部費用を補助する制度。新築だけではなく、リフォームも対象。
中央労働金庫と提携して、市内に居住する労働者に生活資金を低利で融資。
一定の条件を満たす市内への住宅購入者に対し助成を実施。
妊婦健康診査費用(計75,000円分)及び妊婦歯科健康診査(1,000円)の補助により、妊婦さんとお腹の赤ちゃんの健康管理を市が支援。
保育園や学校に行かせるには心配な病気の回復期の児童を、仕事や病気等により自宅での保育が困難な保護者に代わって専任の看護師や保育士が専用の保育室でサポート
1999年までは平塚市1市がホームタウンであったが、2000年よりJリーグで「広域ホームタウン制度」が認められたことを受けて、湘南地域の5市(厚木市・伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、藤沢市)、3町(中郡・高座郡)ともにホームタウンに制定された。2017年10月24日には鎌倉市、南足柄市と足柄上郡・足柄下郡の8町をホームタウンも加わり、広域ホームタウンを形成する。 市内では、湘南ベルマーレサッカースクールを開校している。1シーズンに一度広域ホームタウンを形成する各自治体に対し、各自治体の冠試合として「ホームタウンデー」を開催。秦野市のホームタウンデーでは、市民は、特別価格でチケットを購入可能である。
2016年創立の女子バスケットボールクラブ。神奈川県実業団連盟及び関東実業団連盟に所属し、将来的には女子バスケのトップリーグ入りを目指す。
(五十音順、wikipediaに項目のある人物)
秦野市観光協会が2006年1月25日から「秦野フィルムコミッション」活動を行っており、市内は数多くの映画・ドラマ・CM・MV等のロケ地になっている。ロケ地となった主な映画の1つに周防正行監督『それでもボクはやってない』がある。同映画では市役所庁舎が警視庁岸川警察署庁舎として登場する。
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"text": "秦野市(はだのし)は、神奈川県の湘南地域北部に位置する市。神奈川県の広域拠点に位置づけられている。",
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"text": "市域は、東西約13.6キロメートル、南北は約12.8キロメートル、面積は103.61平方キロメートルで、県内19市中5位の広さを持つ。神奈川県の行政区域は湘南に含まれる。丹沢の麓に位置し、市域の半分は山林である。市街地は四方を山に囲まれている。",
"title": "地理"
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"text": "市内の標高最高地点は、標高1490.9メートルの塔ノ岳。最低地点は、鶴巻地区の16.2メートルである。 北部と西部に丹沢山地が連なり、東は相模平野の間に大根台地があり、南には大磯丘陵が横たわる盆地(秦野盆地)が市の中心部である。また、秦野盆地は県内唯一の盆地である。豊富な地下水が湧出しており、 秦野盆地湧水群として、1985年名水百選の一つに指定されている。 盆地内には金目川水系の河川により複合扇状地が展開する。直下には秦野断層が所在する。",
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"text": "太平洋岸気候に属し、海洋気象の影響を受けるため降霜・降雪が少なく、冬期は西北西、夏期は南方の風が多いが、風速は弱く一年を通じて比較的温暖である。 そのため、盆地特有の気候の厳しさは少なく、山に囲まれた市街地は、夏は涼しく、冬はあまり雪が降らず住みやすい山紫水明な気候が特徴である。",
"title": "地理"
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"text": "平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が1030年ごろ秦野に移り住んで波多野氏を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部が相当し、波多野城は一族の居館であった。その後、鎌倉幕府の御家人となり、後の戦国大名の波多野氏となった。",
"title": "歴史"
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"text": "現在の市名は「はだの」であるが、古くは『和名抄』に「波多野郷」とあり、万葉仮名は清濁を区別することから「はたの」であったと考えられる。しかし、波多野郷が秦氏に由来するとして「はだの」であったとも考えられる。明治以降、西部の上秦野村は「はたの」、他は「はだの」と称した。",
"title": "歴史"
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"text": "小田急電鉄の駅名も現在は秦野駅(はだのえき)だが、かつては大秦野駅(おおはたのえき)だった。現在でも学校名や企業施設名などで「はたの」、\"Hatano\" が用いられているものがある。",
"title": "歴史"
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"text": "秦野市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。",
"title": "地域"
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"text": "合併前の旧行政地域(秦野市に合併する直前の旧町村はすべて中郡に属していた。旧・西秦野町の地域のみ、さらに以前の西秦野村・足柄上郡上秦野村の界で分けられる)での区分けが一般である。中学校区にもほぼ対応する。",
"title": "地域"
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"text": "1955年の市制施行以降",
"title": "行政"
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"text": "令和元年の指数を掲載。財政力は、県平均から下回るが、地方財政の健全化指標は、安定しており、特に将来負担比率は、県内33市町村中小田原市に次ぎ、2位となっており、財政の健全化が確認できる。",
"title": "行政"
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"text": "就業人口割合は第一次産業:第二次産業:第三次産業= 2.1% : 28.9% : 69.0% となっている。(2015年国勢調査)",
"title": "経済"
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"text": "農業産出額 24億7000万円 (農林水産省「令和元年市町村別農業産出額データベース」)",
"title": "経済"
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"text": "郵便貯金銀行",
"title": "経済"
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"text": "都市銀行",
"title": "経済"
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"text": "地方銀行",
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"text": "第二地方銀行",
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"text": "信用金庫",
"title": "経済"
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"text": "労働金庫",
"title": "経済"
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"text": "新たな形態の銀行",
"title": "経済"
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"text": "証券",
"title": "経済"
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"text": "平塚、藤沢、小田原及び秦野高等職業技術校を統合し、神奈川県立大秦野高等学校の広大な跡地20,669平方メートルに平成25年4月に開校。",
"title": "教育"
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"text": "「人づくりの基本は、幼児教育にあり」と大正4年から幼稚園教育を推進してきた同市では、県内でも珍しく私立幼稚園が存在せず、全て市立幼稚園(一部公私連携幼保連携型)である。",
"title": "教育"
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"text": "日本医師会2020年11月現在の地域内医療機関情報の集計値(人口10万人あたりは、2015年国勢調査総人口で計算)によると、近隣(湘南西部)の平塚市・伊勢原市と比較すると地域医療資源は若干劣る一方、大磯町・二宮町と比較すると充実している。地域介護資源は湘南西部地域で最も充実している傾向にある。",
"title": "施設"
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"text": "市内に11ヶ所の公民館を設置。",
"title": "施設"
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"text": "児童に健全な遊びの機会を与え、その健康を増進し、情操を豊かにすることを目的に、市内に18館の児童館(児童センター)を設置。",
"title": "施設"
},
{
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"text": "温水プール、トレーニングルーム、テニスコート、スポーツ広場、スケートパークを備える大型公園",
"title": "施設"
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"text": "同公園内に2021年に新築された秦野市営のボルダリング施設。スポーツクライミング競技の3種目が可能。 東京2020オリンピックスポーツクライミング競技の代表選考会を兼ねて開催されたIFSCクライミング世界選手権八王子大会」で実際に使用されたボルダリングウォールを移設。また、裏面には、2016希望郷いわて国体で使用されたボルダリングウォールを移設し、幅20メートルのボルダリングウォールを2面完備。",
"title": "施設"
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"text": "集配郵便局",
"title": "施設"
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"text": "市内南部を横断する形で、小田急線が運行しており、上記4駅とも快速急行・急行・各駅停車の停車駅である。 同線において快速急行・急行が一市町村あたりに停車する駅数としては、路線内最多である。",
"title": "交通"
},
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"text": "秦野駅は、市内唯一の特急ロマンスカー停車駅であり、朝の通勤時間帯は、当駅始発の特急ロマンスカーも数本発車される。 1996年に現在の駅舎が完成し、翌年に当時の通商産業省(現:経済産業省)のグッドデザイン商品(現:グッドデザイン賞)に選定された。 また、関東の駅百選にも選定されている。",
"title": "交通"
},
{
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"text": "上記、高速バス路線が秦野バスストップに停車する。",
"title": "交通"
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"text": "2025年度を目標に、電動自走式ロープウェイシステム「Zippar」の導入が検討されている。",
"title": "交通"
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"text": "神奈川県による令和4年における県内33市町村を対象とした観光客データによると、秦野市を訪れた延べ観光客数は、年間4,154千人であり、県内11位の観光客数を誇る。",
"title": "観光・文化財"
},
{
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"text": "「宿泊」が6,7千人。「日帰り」が408,6千人と日帰り観光客が多い。特にヤビツ峠の47万人、神奈川県立秦野戸川公園の53,7千人など山の人気や秦野たばこ祭の23,7千人、秦野市市民の日の13万人の再開などがコロナ禍以来の来訪者の増加につながっている。",
"title": "観光・文化財"
},
{
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"text": "以下の特産物が「かながわの名産100選」に選定されている。",
"title": "特産物"
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"text": "日本経済新聞社と日経BP『日経xwoman』が、全国165自治体を対象に「自治体の子育て支援制度に関する調査」を実施した「共働き子育てしやすい街ランキング2022」にて、全国16位の評価を得ている。 また、同市では、市内への移住・定住を推進する目的として、下記のような施策を展開している。",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "旧日産車体の社宅をリノベーションし、40歳以下の夫婦、子育て夫婦を対象に、子育てしやすい魅力的な住宅を整備。将来の住宅購入費助成などの入居特典などを提供。",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "丹沢の豊かな自然を感じながら、本市の生活を体験することができる移住お試し住宅(ログハウス)「TANZAWA LIFE」を提供",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "高品質が評価され歌舞伎座の舞台や花道にも使用されている秦野産ヒノキに着目し、秦野産木材を使用して家を建築する場合に一部費用を補助する制度。新築だけではなく、リフォームも対象。",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
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{
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"text": "中央労働金庫と提携して、市内に居住する労働者に生活資金を低利で融資。",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
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{
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"text": "一定の条件を満たす市内への住宅購入者に対し助成を実施。",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
},
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"text": "妊婦健康診査費用(計75,000円分)及び妊婦歯科健康診査(1,000円)の補助により、妊婦さんとお腹の赤ちゃんの健康管理を市が支援。",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
},
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"text": "保育園や学校に行かせるには心配な病気の回復期の児童を、仕事や病気等により自宅での保育が困難な保護者に代わって専任の看護師や保育士が専用の保育室でサポート",
"title": "移住・定住・子育てへの取組み・評価"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "1999年までは平塚市1市がホームタウンであったが、2000年よりJリーグで「広域ホームタウン制度」が認められたことを受けて、湘南地域の5市(厚木市・伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、藤沢市)、3町(中郡・高座郡)ともにホームタウンに制定された。2017年10月24日には鎌倉市、南足柄市と足柄上郡・足柄下郡の8町をホームタウンも加わり、広域ホームタウンを形成する。 市内では、湘南ベルマーレサッカースクールを開校している。1シーズンに一度広域ホームタウンを形成する各自治体に対し、各自治体の冠試合として「ホームタウンデー」を開催。秦野市のホームタウンデーでは、市民は、特別価格でチケットを購入可能である。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "2016年創立の女子バスケットボールクラブ。神奈川県実業団連盟及び関東実業団連盟に所属し、将来的には女子バスケのトップリーグ入りを目指す。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "(五十音順、wikipediaに項目のある人物)",
"title": "著名な出身者、ゆかりの人物"
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"text": "秦野市観光協会が2006年1月25日から「秦野フィルムコミッション」活動を行っており、市内は数多くの映画・ドラマ・CM・MV等のロケ地になっている。ロケ地となった主な映画の1つに周防正行監督『それでもボクはやってない』がある。同映画では市役所庁舎が警視庁岸川警察署庁舎として登場する。",
"title": "秦野フィルムコミッション"
}
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秦野市(はだのし)は、神奈川県の湘南地域北部に位置する市。神奈川県の広域拠点に位置づけられている。
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{{日本の市
| 画像 = {{Multiple image
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| image1 = Nanohanadai and Mt.Fuji.jpg
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| image5 = Hadano_Togawa_Park.jpg
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|画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto;border-collapse:collapse">
<tr><td colspan="2">[[ヤビツ峠]]から見た菜の花台と[[富士山]]</tr>
<tr><td style="width:50%">[[震生湖]]<td>[[出雲大社相模分祠]]</tr>
<tr><td style="width:50%">[[弘法山]]からの眺望<td>[[神奈川県立秦野戸川公園|県立戸川公園]]</tr>
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| 市旗 = [[ファイル:Flag of Hadano, Kanagawa.svg|border|100px|秦野市旗]]
| 市旗の説明 = 秦野[[市町村旗|市旗]]<br><small>[[1958年]][[1月1日]]制定</small>
| 市章 = [[ファイル:神奈川県秦野市市章.svg|75px|秦野市章]]
| 市章の説明 = 秦野[[市町村章|市章]]<br><small>1958年1月1日制定</small>
| 自治体名 = 秦野市
| 都道府県 = 神奈川県
| コード = 14211-5
| 隣接自治体 = [[厚木市]]、[[伊勢原市]]、[[平塚市]]、[[足柄上郡]][[大井町]]、[[中井町]]、[[松田町]]、[[山北町]]、[[愛甲郡]][[清川村]]
| 木 = [[サザンカ]]、[[コブシ]]
| 花 = [[ナデシコ]]、[[アジサイ]]
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など = [[ウグイス]]
| 郵便番号 = 257-8501
| 所在地 = 秦野市桜町一丁目3番2号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-14|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:Hadano City Hall 20120623.JPG|250px|center|秦野市役所庁舎]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|211|image=Hadano in Kanagawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}<br/>{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}<br />{{ウィキ座標度分秒|35|22|29|N|139|13|12|E|}}
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:Hadano-Basin from Mt.Kunugi 01.jpg|thumb|300px|[[丹沢山地]]・[[櫟山]]より見た[[秦野盆地]]と[[相模湾]]]]
{{Wide image|Hadano city center area Aerial photograph.1988.jpg|400px|1988年(昭和63年)撮影の秦野市中心部周辺の空中写真。1988年撮影の14枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。|310px|right}}
'''秦野市'''(はだのし)は、[[神奈川県]]の[[湘南地域]]北部に位置する[[市]]。神奈川県の広域拠点に位置づけられている。
== 地理 ==
市域は、東西約13.6キロメートル、南北は約12.8キロメートル、面積は103.61平方キロメートルで、県内19市中5位の広さを持つ。神奈川県の行政区域は[[湘南]]に含まれる。[[丹沢山地|丹沢]]の麓に位置し、市域の半分は山林である。市街地は四方を山に囲まれている。
=== 地形 ===
市内の標高最高地点は、標高1490.9メートルの[[塔ノ岳]]。最低地点は、[[鶴巻]]地区の16.2メートルである。
北部と西部に丹沢山地が連なり、東は[[相模平野]]の間に大根台地があり、南には[[大磯丘陵]]が横たわる[[盆地]]([[秦野盆地]])が市の中心部である。また、秦野盆地は県内唯一の盆地である。豊富な[[地下水]]が湧出しており、 '''秦野盆地湧水群'''として、[[1985年]][[名水百選]]の一つに指定されている。 盆地内には金目川水系の河川により複合[[扇状地]]が展開する。直下には[[秦野断層]]が所在する。
* 市内の山:[[大山 (神奈川県)|大山]]、[[行者岳]]、[[塔ノ岳]]、[[新大日]]、[[烏尾山]]、[[二ノ塔]]、[[三ノ塔]]、[[鍋割山 (神奈川県)|鍋割山]]、櫟山、[[弘法山]]、権現山、[[岳ノ台]]
* 市内の河川
** [[相模川]][[水系]]:[[中津川 (相模川水系)|藤熊川]]、[[中津川 (相模川水系)|中津川]]
** [[金目川]]水系:[[室川]]、[[水無川 (神奈川県)|水無川]]、[[葛葉川]]、[[金目川]]、[[大根川 (神奈川県)|大根川]]、[[善波川]]
** [[酒匂川]]水系:[[四十八瀬川]]
=== 気候 ===
[[太平洋岸気候]]に属し、海洋気象の影響を受けるため降霜・[[降雪]]が少なく、冬期は西北西、夏期は南方の風が多いが、風速は弱く一年を通じて比較的温暖である。
そのため、[[盆地]]特有の気候の厳しさは少なく、山に囲まれた市街地は、夏は涼しく、冬はあまり雪が降らず住みやすい山紫水明な気候が特徴である<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000004140/index.html 秦野市 気候・地形・水系]</ref>。
=== 隣接している自治体 ===
* [[厚木市]]
* [[伊勢原市]]
* [[平塚市]]
* [[足柄上郡]]:[[大井町]]、[[中井町]]、[[松田町]]、[[山北町]]
* [[愛甲郡]]:[[清川村]]
== 歴史 ==
[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]にかけて、[[平将門]]を討伐したことで有名な[[藤原秀郷]]の子孫・佐伯経範が[[1030年]]ごろ秦野に移り住んで[[波多野氏]]を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部が相当し、波多野城は一族の居館であった。その後、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]となり、後の[[戦国大名]]の波多野氏となった。
* [[1890年]]([[明治]]23年)3月:市内の水道給水が開始。[[横浜市|横浜]]、[[函館市|函館]]とほぼ同時期に、全国的にも極めて早い時期に水道が建設され、簡易陶管水道・自営水道としては日本初の曽屋水道が発祥。
* [[1906年]](明治36年)[[8月1日]]:秦野で産出されていた[[タバコ|葉タバコ]]を[[東海道本線|東海道線]]の[[二宮駅|二宮]]まで輸送することを主目的として[[湘南軌道]]が開業。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]]:小田原急行鉄道(現在の[[小田急電鉄]])[[小田急小田原線|小田原線]]が開通。同時に鶴巻駅(現・[[鶴巻温泉駅]])、大根駅(現・[[東海大学前駅]])、大秦野駅(現・[[秦野駅]])、[[渋沢駅]]が開設される。
* [[1981年]](昭和56年)[[4月25日]]:[[東名高速道路]][[秦野中井インターチェンジ|秦野中井IC]]が完成。
* [[1996年]](平成8年)[[12月14日]]:[[秦野駅]]新駅舎の一部が供用開始される。
* [[2008年]](平成20年)[[5月27日]]:災害相互応援協定を静岡県[[富士宮市]]と協定書を交わす。
* [[2010年]](平成22年)[[5月23日]]:第61回[[全国植樹祭]]が秦野戸川公園で開催される。
* [[2022年]](令和4年)[[4月16日]]:[[新東名高速道路]][[新秦野インターチェンジ|新秦野IC]]が開通<ref>[https://www.townnews.co.jp/0610/2022/03/04/615191.html 新東名高速道路 4月16日に開通決定] - [[タウンニュース]]</ref>。
=== 行政区域変遷 ===
* [[1955年]](昭和30年)
** [[1月1日]]:[[中郡]][[秦野町]]、[[南秦野町]]、[[東秦野村]]、[[北秦野村]]の2町2村が[[日本の市町村の廃置分合#新設合併|新設合併]]し、'''秦野市'''が発足。
** [[4月15日]]:中郡[[大根村]](真田を除く)を編入。
* [[1963年]](昭和38年)1月1日:中郡[[西秦野町]]を秦野市に編入、現在の市域が確定する。
<!--{{hidden begin
|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:x-small"
|-
!明治22年以前
!明治22年4月1日
!明治22年 - 大正15年
! colspan="3" |昭和元年 - 昭和19年
! colspan="2" |昭和20年 - 昭和29年
! colspan="3" |昭和30年 - 昭和64年
!平成元年 - 現在
|-
|-
| '''足柄上郡'''
| 足柄上郡<br />上秦野村
| 足柄上郡<br />上秦野村
| colspan="3" | 足柄上郡<br />上秦野村
| colspan="2" | 足柄上郡<br />上秦野村
| colspan="2" rowspan="2" style="background-color:#6ff;" | 昭和30年7月28日<br />西秦野町
| rowspan="2" | 昭和38年1月1日<br />秦野市に編入
| rowspan="7" | 秦野市
|-
| rowspan="11" | '''大住郡'''
| style="background-color:#9cf;" | 西秦野村
| style="background-color:#9cf;" | 西秦野村
| colspan="3" style="background-color:#9cf;" | 西秦野村
| colspan="2" style="background-color:#9cf;" | 西秦野村
|-
| style="background-color:#6ff;" | 秦野町
| style="background-color:#6ff;" | 秦野町
| colspan="3" style="background-color:#6ff;" | 秦野町
| colspan="2" style="background-color:#6ff;" | 秦野町
| colspan="3" rowspan="4" | 昭和30年1月1日<br />秦野市
|-
| style="background-color:#9cf;" | 北秦野村
| style="background-color:#9cf;" | 北秦野村
| colspan="3" style="background-color:#9cf;" | 北秦野村
| colspan="2" style="background-color:#9cf;" | 北秦野村
|-
| style="background-color:#9cf;" | 東秦野村
| style="background-color:#9cf;" | 東秦野村
| colspan="3" style="background-color:#9cf;" | 東秦野村
| colspan="2" style="background-color:#9cf;" | 東秦野村
|-
| style="background-color:#9cf;" | 南秦野村
| style="background-color:#9cf;" | 南秦野村
| colspan="3" style="background-color:#6ff;" | 昭和15年6月1日<br />町制施行
| colspan="2" style="background-color:#6ff;" | 南秦野町
|-
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 大根村
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 大根村
| colspan="3" rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 大根村
| colspan="2" rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 大根村
| rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 大根村
| colspan="2" | 昭和30年4月15日<br />秦野市に編入<br />(真田地区を除く)
|-
| style="background-color:#9cf;" | 昭和30年3月2日<br />金目村に編入<br />(真田地区)
| rowspan="2" | 昭和32年10月1日<br />平塚市に編入
| rowspan="13" | 平塚市
|}
{{hidden end}}-->
=== 市名の由来 ===
現在の市名は「はだの」であるが、古くは『[[和名抄]]』に「波多野郷」とあり、[[万葉仮名]]は清濁を区別することから「はたの」であったと考えられる。しかし、波多野郷が[[秦氏]]に由来するとして「はだの」であったとも考えられる<ref group="注釈">秦氏については、肌(はだ)に馴染む機(はた)を織る技術を持つ故に「はだ」と号したという説話がある。</ref>。明治以降、西部の上秦野村は「はたの」、他は「はだの」と称した。
[[小田急電鉄]]の駅名も現在は[[秦野駅]](は'''だ'''のえき)だが、かつては大秦野駅(おおは'''た'''のえき)だった。現在でも学校名や企業施設名などで「はたの」、"Hatano" が用いられているものがある。
== 人口 ==
{{人口統計|code=14211|name=秦野市|image=Population distribution of Hadano, Kanagawa, Japan.svg}}
== 地域 ==
=== 町名 ===
{{出典の明記|section=1|date=2020年8月}}
秦野市では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部である。
<!-- 町名の順序は、秦野市統計書等公的資料の順序による。 -->
{{hidden begin
|title = 本町地区(20町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|本町一〜三丁目
|ほんちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|河原町
|かわらまち
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋、大字上大槻、大字下大槻
|
|-
|元町
|もとまち
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|末広町
|すえひろちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|[[入船町 (秦野市)|入船町]]
|いりふねちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|[[曽屋]]一・二丁目
|そや
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋、大字東田原、大字西田原
|
|-
|寿町
|ことぶきちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|栄町
|さかえちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|文京町
|ぶんきょうちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|幸町
|さいわいちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|桜町一・二丁目
|さくらちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|水神町
|すいじんちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|ひばりケ丘
|ひばりがおか
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|富士見町
|ふじみちょう
|1966年7月1日
|1966年7月1日
|大字曽屋
|
|-
|[[曽屋]]
|そや
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|上大槻
|かみおおづき
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|title = 南地区(23町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|新町
|しんちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|鈴張町
|すずはりちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|緑町
|みどりちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|清水町
|しみずちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|[[平沢 (秦野市)|平沢]]
|ひらさわ
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|上今川町
|かみいまがわちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|今川町
|いまがわちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|今泉
|いまいずみ
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|[[大秦町]]
|たいしんちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|室町
|むろまち
|年月日
|年月日
|
|
|-
|尾尻
|おじり
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|西大竹
|にしおおだけ
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|南が丘一〜五丁目
|みなみがおか
|年月日
|未実施
|
|
|-
|立野台一〜三丁目
|たてのだい
|年月日
|未実施
|
|
|-
|今泉台一〜三丁目
|いまいずみだい
|年月日
|未実施
|
|
|-
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|title = 東地区(8町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|落合
|おちあい
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|[[名古木]]
|ながぬき
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|[[寺山 (秦野市)|寺山]]
|てらやま
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|小蓑毛
|こみのげ
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|蓑毛
|みのげ
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|東田原
|ひがしたわら
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|西田原
|にしたわら
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|下落合
|しもおちあい
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|title = 北地区(5町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|'''羽根'''
|はね
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''菩提'''
|ぼだい
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''横野'''
|よこの
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''戸川'''
|とかわ
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''三屋'''
|さんや
|1955年1月1日
|未実施
|
|
|-
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|title = 大根・鶴巻地区(17町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|'''鶴巻'''
|つるまき
|1955年4月15日
|未実施
|
|
|-
|'''[[北矢名]]'''
|きたやな
|1955年4月15日
|未実施
|
|
|-
|'''[[南矢名]]'''
|みなみやな
|1955年4月15日
|未実施
|
|
|-
|'''下大槻'''
|しもおおづき
|1955年4月15日
|未実施
|
|
|-
|'''鶴巻北一丁目'''
|rowspan="3" |つるまききた
|1991年11月5日
|1991年11月5日
|大字鶴巻字根丸島・字宮地・字芦屋・字芦谷前・字三ノ輪・字雨沼前
|
|-
|'''鶴巻北二丁目'''
|1991年11月5日
|1991年11月5日
|大字鶴巻<u>字雨沼</u>・字芦谷前・字雨沼前・字蛇久保・字不弓引・字三ノ輪・字芦屋
|
|-
|'''鶴巻北三丁目'''
|1991年11月5日
|1991年11月5日
|大字鶴巻字塩貝・字蛇久保・字芦谷屋前・字鶴巻・字大椿・字不弓引
|
|-
|'''鶴巻南一丁目'''
|rowspan="5" |つるまきみなみ
|1992年11月2日
|1992年11月2日
|大字鶴巻字大原・字三ノ輪・字請地・字塩貝・字宮ノ下・字鳥膚・字上ノ原・字巻頭、大字南矢名字塩河内
|
|-
|'''鶴巻南二丁目'''
|1992年11月2日
|1992年11月2日
|大字鶴巻字大原・字宮ノ上・<u>字井ノ下</u>・字下谷戸・字長町・字烏膚・<u>字桜井</u>、大字南矢名字塩河内
|
|-
|'''鶴巻南三丁目'''
|1992年11月2日
|1992年11月2日
|大字鶴巻字下谷戸・<u>字堀之内</u>・字広町・字島ノ崎・字身洗戸
|
|-
|'''鶴巻南四丁目'''
|1992年11月2日
|1992年11月2日
|大字鶴巻字三ノ輪・<u>字北ノ下</u>・字下谷戸・字大原・字宮ノ上・字杉ノ木・<u>字芦谷前</u>
|
|-
|'''鶴巻南五丁目'''
|1992年11月2日
|1992年11月2日
|大字鶴巻<u>字宮地</u>・<u>字根丸島</u>・<u>字芦屋</u>・字杉ノ木
|
|-
|'''[[南矢名|南矢名一丁目]]'''
|rowspan="5"|みなみやな
|1993年11月1日
|1993年11月1日
|大字南矢名<u>字塩河内</u>・字雑敷、大字北矢名<u>字下塩河内</u>・<u>字雑敷</u>・字南太夫窪・字尾崎・字上塩河内
|
|-
|'''[[南矢名|南矢名二丁目]]'''
|1993年11月1日
|1993年11月1日
|大字南矢名<u>字鳥啼</u>・<u>字五反田</u>・<u>字鳥啼谷戸</u>
|
|-
|'''[[南矢名|南矢名三丁目]]'''
|1993年11月1日
|1993年11月1日
|大字南矢名<u>字大原</u>・<u>字山伏</u>・字砂田台、大字北矢名字矢名原
|
|-
|'''[[南矢名|南矢名四丁目]]'''
|1993年11月1日
|1993年11月1日
|大字南矢名<u>字砂田</u>・<u>字桂窪東</u>・字髭取・字砂田台・字清水、大字北矢名字刈上・字矢名原
|
|-
|'''[[南矢名|南矢名五丁目]]'''
|1993年11月1日
|1993年11月1日
|大字南矢名<u>字桂窪</u>・字佃・字清水、大字北矢名字矢名原
|
|-
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|title = 西地区(27町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|[[並木町 (秦野市)|並木町]]
|なみきちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|[[弥生町 (秦野市)|弥生町]]
|やよいちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|[[春日町 (秦野市)|春日町]]
|かすがちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|[[松原町 (秦野市)|松原町]]
|まつばらちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|堀西
|ほりにし
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|堀川
|ほりかわ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|堀山下
|ほりやました
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|沼代新町
|ぬましろしんちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|[[柳町 (秦野市)|柳町]]一・二丁目
|やなぎちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|若松町
|わかまつちょう
|年月日
|年月日
|
|
|-
|萩が丘
|はぎがおか
|年月日
|年月日
|
|
|-
|曲松一・二丁目
|まがりまつ
|年月日
|年月日
|
|
|-
|渋沢
|しぶさわ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|栃窪
|とちくぼ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|千村
|ちむら
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|渋沢一〜三丁目
|しぶさわ
|1990年10月1日
|1990年10月1日
|大字渋沢、大字栃窪
|
|-
|渋沢上一・二丁目
|しぶさわかみ
|1998年6月1日
|1998年6月1日
|大字渋沢
|
|-
|千村一〜五丁目
|ちむら
|1998年6月1日
|1998年6月1日
|大字千村、大字渋沢、大字堀西
|
|-
|}
{{hidden end}}
{{hidden begin
|title = 上地区(4町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!町名
!町名の読み
!町区域新設年月日
!住居表示実施年月日
!住居表示実施前の町名等
!備考
|-
|'''菖蒲'''
|しょうぶ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''三廻部'''
|みくるべ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''柳川'''
|やながわ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|'''八沢'''
|はっさわ
|1963年1月1日
|未実施
|
|
|-
|}
{{hidden end}}
=== 市内の各地域 ===
合併前の旧行政地域(秦野市に合併する直前の旧町村はすべて[[中郡]]に属していた。旧・[[西秦野町]]の地域のみ、さらに以前の[[西秦野村]]・[[足柄上郡]][[上秦野村]]の界で分けられる)での区分けが一般である。中学校区にもほぼ対応する。
; 本町地区
* 旧・[[秦野町]]にあたる地域。[[秦野盆地]]の経済の中心だった十日市場(現本町四つ角)を中心に発展してきた。
; 南地区
* 旧・[[南秦野町]]にあたる。[[新興住宅地]]が多い。また湧水群が集中する。
; 東地区
* 旧・[[東秦野村]]にあたる。農村的な[[景観]]が色濃く残っており、田原ふるさと公園がある。また[[大山 (神奈川県)|大山]]への登山口もある。
; 北地区
* 旧・[[北秦野村]]にあたる。ここも農村的な[[景観]]が色濃いが、本町地区に近い地域は工場が多く進出している。
; 西地区
* 旧・[[西秦野村]]にあたる。渋沢丘陵やその麓の地域など。[[渋沢駅]]周辺や[[国道246号]]沿いを中心に[[都市化]]が進む。
; 上地区
* 旧・[[上秦野村]]にあたる地域。地区のほとんどが[[農業振興地域]]の為、他地区と比較して同じ秦野市とは思えない程のどかな風景が広がっている。
; 大根地区
* 旧・[[大根村]]の秦野市内にあたる地域。[[東海大学前駅]]を中心に新興住宅地が広がる。[[鶴巻温泉]]もこの地区にある。人口(大部分が[[新住民]])の割に、交通の都合([[秦野盆地]]の外縁に位置する)で秦野市の中心部へ出にくいこと、また盆地内部の地区と比べると、歴史的なつながりが薄いこと(この地区だけは旧名に「秦野」の名が含まれていないことからもわかる)などから、秦野市内でも扱いが小さくなってしまう傾向がある。たとえば秦野市立の公共機関は他地区と比べて格段に少ない。また、秦野市議会・市長選挙などでも地区投票率は他地区よりも低い。
== 行政 ==
* 市長:[[高橋昌和]] [[2018年]][[1月31日]]~[[2022年]][[1月30日]](1期目) [[2022年]][[1月31日]]~[[2026年]][[1月30日]](2期目)
* 副市長:金丸美彦、八木優一
=== 歴代市長 ===
1955年の市制施行以降
* [[中村新治]] 1955年から1957年
* [[清水虎吉]] 1957年から1961年
* [[加藤喜太郎]] 1961年から1965年
* 加藤喜太郎 1965年から1969年
* [[栗原藤次]] 1969年から1973年
* 栗原藤次 1973年から1977年
* 栗原藤次 1977年から1981年
* 栗原藤次 1981年3月から同年12月
* [[柏木幹雄]] 1982年から1986年
* 柏木幹雄 1986年から1990年
* 柏木幹雄 1990年から1994年
* [[二宮忠夫]] 1994年から1998年
* 二宮忠夫 1998年から2002年
* 二宮忠夫 2002年から2006年
* [[古谷義幸]] 2006年から2010年
* 古谷義幸 2010年から2014年
* 古谷義幸 2014年から2018年
* [[高橋昌和]] 2018年から
=== 財政 ===
[[令和元年]]の指数を掲載。財政力は、県平均から下回るが、地方財政の健全化指標は、安定しており、特に将来負担比率は、県内33市町村中[[小田原市]]に次ぎ、2位となっており、財政の健全化が確認できる<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/v2x/cnt/f360417/p1223728.html 令和2年度版 神奈川県市町村税財政データ集]</ref>。
* [[地方財政|財政力]]
** [[財政力指数]]は0.89%(県平均0.92%)
** [[財政#地方財政用語|実質収支比率]]は3.3%(県平均2.6%)
** [[財政#地方財政用語|経常収支比率]]は95.3%(県平均94.8%)
* [[地方財政#財政指標|健全化判断比率]]
** [[地方財政#財政指標|実質公債費比率]]は0.6%
** [[地方財政#財政指標|将来負担比率]]は17.6%
=== 環境への取組み ===
* 2001年より[[持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテスト]]に参加。第5回コンテストにおいて「奨励賞」を受賞。
* [[環境省]]が推進する「2050年ゼロカーボンシティ」に取り組むことを表明している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.env.go.jp/policy/zerocarbon.html|title=地方公共団体における2050年二酸化炭素排出実質ゼロ表明の状況 |publisher=環境省|date=2023-03-31|accessdate=2023-06-29}}</ref>。実現に向けて市内に所在する事業者や、市内を拠点に活動する事業者を中心に「はだの脱炭素コンソーシアム」を形成し、国際的課題である地球温暖化に取り組んでいる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2023/06/16/683173.html|title=脱炭素に向け共同体設立 市内など35事業所参画|publisher=タウンニュース|date=2023-06-16|accessdate=2023-06-29}}</ref>。
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|秦野市議会}}
* 定数:24名
* 任期:2023年(令和元年)9月11日~2027年(令和5年)9月10日
* 議長:横山むらさき([[公明党]]、5期)
* 副議長:原聡(無所属、2期)
{| class="wikitable"
!会派名!!議席数!!議員名(◎は代表)
|-
| 志政会 || style="text-align:right" | 6 || ◎小菅基司、相原學、今井実、川口薫、風間正子、高橋文雄
|-
| 創和会・市民クラブ || style="text-align:right" | 6 || ◎福森真司、大野祐司、八尋伸二、大野祐司、阿蘇佳一、横溝泰世
|-
| 公明党 || style="text-align:right" | 3 || ◎中村英仁、間地薫、横山むらさき
|-
| ともにつくる秦野 || style="text-align:right" | 3 || ◎古木勝久、田中めぐみ、桑原昌之
|-
| みらいを変える || style="text-align:right" | 2 || ◎大塚毅、中村友也
|-
| 無所属 || style="text-align:right" | 4 || 吉村慶一、原聡、伊藤大輔、石川潤
|-
| 計 || style="text-align:right" | 24 ||
|}
=== 神奈川県議会 ===
{{See also|神奈川県議会}}
;[[2023年神奈川県議会議員選挙]]
* 選挙区:秦野市選挙区
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:181,871人
* 投票率:36.64%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || 神倉寛明 || align="center" | 45 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 21,731票
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || 谷和雄 || align="center" | 62 || 無所属 || align="center" | 新 || 14,130票
|-
| align="center" | 落 || [[古谷一郎]] || align="center" | 48 || 無所属 || align="center" | 新 || 11,435票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[神奈川県第17区|神奈川17区]]([[小田原市]]、秦野市、[[南足柄市]]、[[足柄上郡]]、[[足柄下郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:424,659人
* 投票率:56.98%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[牧島かれん]] || align="center" | 45 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 131,284票 || align="center" | ○
|-
| || [[神山洋介]] || align="center" | 46 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 元 || align="right" | 89,837票 || align="center" | ○
|-
| || 山田正 || align="center" | 70 || [[日本共産党]] || align="center" | 新 || align="right" | 16,202票 ||
|}
== 経済 ==
就業人口割合は[[第一次産業]]:[[第二次産業]]:[[第三次産業]]= 2.1% : 28.9% : 69.0% となっている。(2015年[[国勢調査]])
=== 第一次産業 ===
; 農業
農業産出額 24億7000万円 ([[農林水産省]]「令和元年市町村別農業産出額データベース」)
* [[農業協同組合]]の所管
** [[秦野市農業協同組合|JAはだの]]
* 主な生産物
** [[米]]([[水稲]])
** [[小麦]](県内一位の産出額)
** [[蕎麦#神奈川県|そば]](県内一位の産出額)
** [[いちご]]
** [[ほうれんそう]]
** [[きゅうり]]
** [[落花生]]
** [[シクラメン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2016/12/01/360050.html|title=シクラメン 出荷期迎える 県内シェア上位の特産花|publisher=タウンニュース|date=2016-12-01|accessdate=2023-06-26}}</ref>
** [[ヤエザクラ|八重桜]](全国シェア1位<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/entry-28336.html|title=一気に開花、収穫急げ 全国1位の食用八重桜 助っ人確保に苦労 秦野の農家|publisher=神奈川新聞 経済面|date=2018-04-05|accessdate=2023-07-02}}</ref>)
=== 第二次産業 ===
; 工業
* 1950年代より、工業誘致を進め、[[1981年]]の[[東名高速道路]][[秦野中井IC]]開通で企業立地が加速。
* 製造品出荷額等 584,437(百万円) 、県内市町村別では第7位の出荷額を誇る(平成31年県工業統計調査結果報告)
* 大きく下記4ヶ所の工業団地を構える(かながわ産業立地情報)
**大秦野工業団地
**堀山下テクノパーク
**平沢工業団地
**東名秦野テクノパーク
=== 第三次産業 ===
;商業
* 小売業年間販売額 126,889(百万円)(2015年の総務省による統計ダッシュボード調査)
=== 市内に本社・拠点・工場を置く主な企業 ===
* [[日立製作所]] - 神奈川事業所
* [[京セラ]] - 秦野工場([[半導体|パワー半導体]]の研究・開発・製造)
* [[日産車体]] - 秦野事業所(テストコースや実験設備を備える)
* [[日立Astemo]] - 秦野工場(旧[[ショーワ]])
* [[神戸製鋼所|コベルコマテリアル銅管]] - 秦野工場
* [[しまむら]] - 秦野商品センター
* [[島津製作所]] - 秦野工場・研究所
* [[スタンレー電気]] - 秦野テクニカルセンター(世界最長級の屋内試験施設等を備える)
* [[全国農業協同組合連合会#組織|JA全農かながわ]] - 秦野綜合工場(全農で唯一の直営乾麺工場)
* [[アズビル]] - 秦野事業所
* [[レイモン|レイモンジャパン]] - [[フランス]]の部品メーカー レイモン社の日本法人本社・工場
* [[シュッツ (化学メーカー)|シュッツ・コンテナ・システムズ]] - [[ドイツ]]の化学メーカー シュッツ社の日本法人本社・工場
* [[イノアックコーポレーション|イノアック技術研究所]] - 秦野研究所
* [[高砂香料工業|高砂スパイス]] - 秦野工場
* [[ユー・エム・シー・エレクトロニクス]] - 神奈川事業所
* [[日本瓦斯]] - 秦野デポステーション
* [[ティラド]] - 秦野製作所
* [[不二家]] - 秦野工場([[カントリーマアム]]や[[キャンディ]]等を生産。同社内最大規模の工場)
* [[荒川化学工業|ペルノックス]] - 本社、開発センター([[2006年]]に[[荒川化学工業]]が100%の株式取得)
* [[大日本塗料|DNライティング株式会社]] - 工場
* [[クアーズテック]] - 秦野事業所(新製品・新技術の開発を行う技術開発センターなど同社の中枢拠点)
* [[新晃工業]] - 神奈川工場
* [[NITTAN]] - 本社工場、堀山下工場
* [[タカキベーカリー]] - 秦野工場
* [[リンレイ]] - 秦野工場、技術研究所
* [[大成化工|茨木・大成化工]]
* [[トープラ]] - 本社、秦野工場
* [[JR東日本環境アクセス]] - 弘済学園事業所
* [[YDKテクノロジーズ]] - 秦野事業所(旧旧社名:横河電子機器株式会社)
* [[山本海苔店]] - 秦野工場
* [[山王 (金属製品)|山王]] - 秦野プレス技術センター
* [[横浜油脂工業]] - 秦野研究工場
* [[中栄信用金庫]] - 本店、支店
* [[多治見無線電機]] - 秦野工場
* [[秦野ガス]] - 本社
* [[金井酒造店]] - 本店
* [[Zippar|Zip Infrastructure]] - 本社
<!--際限なく社名の列挙が続くおそれがあるため、wikipediaにページのあるものに限定します。-->
=== 市内で創業し移転した主な企業 ===
* [[ダイクマ]] - [[1951年]]呉服店として創業。[[2013年]][[6月1日]]に株式会社[[ヤマダ電機]](現:ヤマダホールディングス)に吸収合併。
* [[オーイズミ]] - [[1974年]]株式会社大泉製作所をとして市内に設立。[[2002年]]に本社を[[厚木市]]に移転。
* [[タウンニュース]] - [[1977年]]前身を市内にて設立。タウンニュース秦野版を発行。[[2012年]]に[[横浜市]][[青葉区 (横浜市)|青葉区]]に本社移転。
=== 金融機関 ===
'''[[郵便貯金|郵便貯金銀行]]'''
* [[ゆうちょ銀行]]秦野店
'''[[都市銀行]]'''
* [[みずほ銀行]]秦野支店
'''[[地方銀行]]'''
* [[横浜銀行]](市内に3支店)
* [[静岡銀行]](市内に1支店)
* [[スルガ銀行]](市内に1支店)
'''[[第二地方銀行]]'''
* [[神奈川銀行]](市内に1支店)
* [[静岡中央銀行]](市内に1支店)
'''[[信用金庫]]'''
* [[中栄信用金庫]](市内に8本支店)
* [[平塚信用金庫]](市内に1支店)
* [[さがみ信用金庫]](市内に2支店)
'''[[労働金庫]]'''
* [[中央労働金庫]]秦野支店
'''[[新たな形態の銀行]]'''
* [[イオン銀行]]イオン秦野店舗
'''[[証券]]'''
* [[水戸証券]]秦野支店
* 共和証券株式会社 秦野支店
* [[大和証券]]厚木支店 秦野営業所
== 姉妹都市・提携都市 ==
=== 国内 ===
* 姉妹都市
** [[諏訪市]]([[長野県]])
*** [[1984年]](昭和59年)10月25日提携
* 提携都市
** [[富士宮市]]([[静岡県]])
*** [[2008年]](平成20年) 5月27日防災協定締結
=== 海外 ===
* 姉妹都市
* {{Flagicon|USA}} [[パサデナ (カリフォルニア州)|パサデナ]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]])
* {{Flagicon|USA}} [[パサデナ (テキサス州)|パサデナ]](アメリカ合衆国[[テキサス州]])
** 両市とも[[1964年]](昭和39年)9月29日提携
* 友好都市
* {{Flagicon|KOR}} [[坡州市]]([[大韓民国]][[京畿道]])
** [[2005年]](平成17年)10月20日提携
== 教育 ==
=== 大学・短期大学 ===
* [[上智大学短期大学部]](2025年度より募集停止)
=== 専修学校 ===
* [[技能連携校一覧#神奈川県|アイム湘南理容美容専門学校]]
* [[マジオネット#都道府県労働局長登録教習機関|マジオワークライセンススクール秦野校]]
=== 職業能力開発校 ===
* [[職業能力開発校#都道府県による呼称の違い|神奈川県立西部総合職業技術校]](愛称:かなテクカレッジ西部)
平塚、藤沢、小田原及び秦野高等職業技術校を統合し、[[神奈川県立大秦野高等学校]]の広大な跡地20,669平方メートルに平成25年4月に開校。
=== 高等学校 ===
* [[神奈川県立秦野高等学校]]
* [[神奈川県立秦野総合高等学校]]
* [[神奈川県立秦野曽屋高等学校]]
=== 中学校 ===
* [[秦野市立大根中学校]]
* [[秦野市立北中学校]]
* [[秦野市立渋沢中学校]]
* [[秦野市立鶴巻中学校]]
* [[秦野市立西中学校]]
* [[秦野市立東中学校]]
* [[秦野市立本町中学校]]
* [[秦野市立南中学校]]
* [[秦野市立南が丘中学校]]
=== 小学校 ===
* 秦野市立大根小学校
* 秦野市立上小学校([[特認校|小規模特認校]])
* [[秦野市立北小学校]]
* 秦野市立渋沢小学校
* 秦野市立末広小学校
* 秦野市立鶴巻小学校
* 秦野市立西小学校
* 秦野市立東小学校
* 秦野市立広畑小学校
* 秦野市立堀川小学校
* 秦野市立本町小学校
* 秦野市立南小学校
* 秦野市立南が丘小学校
=== 幼稚園 ===
「人づくりの基本は、幼児教育にあり」と[[大正4年]]から幼稚園教育を推進してきた同市では、県内でも珍しく私立幼稚園が存在せず、全て市立幼稚園(一部公私連携幼保連携型)である。
* 秦野市立本町幼稚園
* 秦野市立南幼稚園
* 秦野市立東幼稚園
* 秦野市立北幼稚園
* 秦野市立大根幼稚園
* 秦野市立西幼稚園
* 秦野市立上幼稚園
* 秦野市立ほりかわ幼稚園
* サンキッズみなみがおかこども園(公私連携幼保連携型)(旧秦野市立みなみがおか幼稚園)
=== 特別支援学校 ===
* [[神奈川県立秦野支援学校]]
== 施設 ==
=== 警察 ===
; 警察署
* [[神奈川県警察]] [[秦野警察署]]
; 交番・駐在所
* [[秦野駅]]前交番
* 渋沢交番
* 鶴巻交番
* [[東海大学前駅|東海大学駅]]前交番
* 南が丘交番
* 桜町交番
* 斉ヶ分駐在所
* 名古木駐在所
* 東田原駐在所
* 菩提駐在所
* 戸川駐在所
* 堀西駐在所
* 菖蒲駐在所
=== 消防 ===
; 消防本部
* [[秦野市消防本部]] - 管轄区域は秦野市全域、[[山岳救助隊 (消防)|山岳救助隊]]を配置
; 消防署・分署
* [[秦野市消防本部|秦野市消防署]]
* 西分署
* 大根分署
* 南分署
* 鶴巻分署
=== 医療・福祉 ===
[[日本医師会]][[2020年]]11月現在の地域内医療機関情報の集計値(人口10万人あたりは、2015年国勢調査総人口で計算)によると、近隣(湘南西部)の[[平塚市]]・[[伊勢原市]]と比較すると地域医療資源は若干劣る一方、[[大磯町]]・[[二宮町]]と比較すると充実している。地域介護資源は湘南西部地域で最も充実している傾向にある<ref>[https://jmap.jp/cities/detail/city/14211 地域医療情報システム 神奈川県秦野市]</ref>。
; 主な病院
* [[国立病院機構神奈川病院]]
* [[秦野赤十字病院]]([[神奈川DMAT]]指定医療機関)
* [[丹沢病院]]
* 秦野市休日夜間急患診療所
<!--際限なく社名の列挙が続くおそれがあるため、wikipediaにページのあるものに限定します。-->
=== 交流施設 ===
; 公民館
市内に11ヶ所の公民館を設置。
; 児童館
児童に健全な遊びの機会を与え、その健康を増進し、情操を豊かにすることを目的に、市内に18館の児童館(児童センター)を設置。
; その他の主な会館
* 秦野市保健福祉センター
** 子育て世代包括支援センター(同センター内に常駐)
* 秦野市観光協会
* 秦野市商工会議所
=== 文化・体育施設 ===
* カルチャーパーク(中央運動公園を中心とした文化・スポーツ・教養・余暇の拠点。全体の面積は30.76ヘクタールで[[東京ドーム]]約6個分の広さを誇り、主に以下の施設を構える)
** [[秦野市文化会館|クアーズテック秦野カルチャーホール]]
** 秦野市立図書館(本館を中心に市内11ヶ所の公民館に図書室を設置)
** 秦野市総合体育館
** [[不二家|ペコちゃん]]公園はだの(中央こども公園)
** 陸上競技場
** [[秦野市カルチャーパーク野球場]]([[中栄信用金庫|中栄信金]]スタジアム秦野)
** 庭球場
** ジョギングコース
** 水泳プール
** みずなし川緑地
** じょうや児童遊園地
** 平和の森
** 噴水広場
** バラ園
* おおね公園
温水プール、トレーニングルーム、テニスコート、スポーツ広場、スケートパークを備える大型公園
* [[神奈川県立秦野戸川公園]](市内西部に位置する広さ36.1haの都市公園)
** はだの丹沢クライミングパーク
同公園内に[[2021年]]に新築された秦野市営のボルダリング施設。[[スポーツクライミング]]競技の3種目が可能。
[[東京2020オリンピック]]スポーツクライミング競技の代表選考会を兼ねて開催された[[IFSCクライミング世界選手権]]八王子大会」で実際に使用されたボルダリングウォールを移設。また、裏面には、[[第71回国民体育大会|2016希望郷いわて国体]]で使用されたボルダリングウォールを移設し、幅20メートルのボルダリングウォールを2面完備。
* [[桜土手古墳群|桜土手古墳公園]][[はだの歴史博物館]]
* 秦野市立宮永岳彦記念美術館
* はだの浮世絵ギャラリー(秦野市役所内)
* [[前田夕暮]]記念室(秦野市立図書内)
* [[奥津国道|奥津国道美術館]]
=== 郵便局 ===
'''[[集配郵便局]]'''
* [[秦野郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]直営店)
* 北秦野郵便局
* [[渋沢駅]]前郵便局
* 鶴巻郵便局
* 西秦野郵便局
* [[秦野駅]]前郵便局
* 秦野北矢名郵便局
* 秦野下大槻郵便局
* 秦野東海大学前郵便局
* 秦野文京郵便局
* 秦野曲松郵便局
* 秦野緑郵便局
* 秦野南が丘郵便局
* 東秦野郵便局
=== 研究施設 ===
; 独立行政法人
* [[日本バイオアッセイ研究センター]]
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
; [[小田急電鉄]](小田急)
* [[小田急小田原線|小田原線]]
** [[鶴巻温泉駅]] - [[東海大学前駅]] - [[秦野駅]] - [[渋沢駅]]
市内南部を横断する形で、[[小田急小田原線|小田急線]]が運行しており、上記4駅とも[[快速急行]]・[[急行]]・[[各駅停車]]の停車駅である。
同線において[[快速急行]]・[[急行]]が一市町村あたりに停車する駅数としては、路線内最多である。
秦野駅は、市内唯一の[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]停車駅であり、朝の通勤時間帯は、当駅始発の特急ロマンスカーも数本発車される。
[[1996年]]に現在の駅舎が完成し、[[1997年|翌年]]に当時の通商産業省(現:[[経済産業省]])のグッドデザイン商品(現:[[グッドデザイン賞]])に選定された。
また、[[関東の駅百選]]にも選定されている。
==== かつて存在した鉄道 ====
* [[湘南軌道]](1937年8月25日廃止)
=== バス ===
==== 高速バス ====
* JR[[東名ハイウェイバス]]([[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[JRバステック]]・[[JR東海バス]]) - ([[東京駅バス乗り場|東京]]・[[静岡駅|静岡]]線)
* [[小田急ハイウェイバス]] - ([[バスタ新宿|新宿]]・[[桃源台駅|箱根]]線)、([[桃源台駅|箱根]]・[[羽田空港]]線)
上記、高速バス路線が[[秦野中井インターチェンジ#秦野バスストップ|秦野バスストップ]]に停車する。
==== 路線バス ====
* [[神奈川中央交通|神奈川中央交通西]](神奈中バス)
** [[神奈川中央交通西・秦野営業所]](高砂車庫)
** [[神奈川中央交通西・伊勢原営業所]]
==== コミュニティバス ====
* [[日本のコミュニティバス一覧#神奈川県|行け行けぼくらのかみちゃん号]] - (市内上地区にて運行)<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000000464/index.html 上地区乗合自動車「行け行けぼくらのかみちゃん号」]</ref>
=== 道路 ===
==== 高速道路・有料道路 ====
* [[東名高速道路]]:[[秦野中井インターチェンジ|秦野中井IC]] - [[秦野バスストップ]]
* [[新東名高速道路]]:[[秦野丹沢サービスエリア|秦野丹沢SA/SIC]] - [[新秦野インターチェンジ|新秦野IC]]
* [[厚木秦野道路]](計画中):秦野中井IC - 渋沢IC - 秦野西IC
==== 一般国道 ====
* [[国道246号]]
* [[国道255号]]
==== 主要地方道 ====
* [[神奈川県道62号平塚秦野線]]
* [[神奈川県道70号秦野清川線]]
* [[神奈川県道71号秦野二宮線]]
==== 一般県道 ====
* [[神奈川県道612号上粕屋南金目線]]
* [[神奈川県道613号曽屋鶴巻線]]
* [[神奈川県道614号南矢名東海大学前停車場線]]
* [[神奈川県道701号大山秦野線]]
* [[神奈川県道704号秦野停車場線]]
* [[神奈川県道705号堀山下秦野停車場線]]
* [[神奈川県道706号丹沢公園松原町線]]
* [[神奈川県道707号渋沢停車場線]]
* [[神奈川県道708号秦野大井線]]
* [[神奈川県道710号神縄神山線]]
=== 索道 ===
2025年度を目標に、電動自走式[[索道|ロープウェイ]]システム「[[Zippar]]」の導入が検討されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1680047497900/index.html |title=次世代交通システムの開発及びまちづくりへの活用に関する連携協定 |access-date=2023年9月23日 |publisher=秦野市}}</ref>。
=== 隣接・近接市町村・県内主要都市への公共交通機関での連絡 ===
* 平塚市・二宮町・中井町 - 秦野駅から神奈川中央交通バス
* 厚木市・伊勢原市・松田町・[[小田原市]]・[[開成町]]・[[海老名市]]・[[相模原市]]・[[藤沢市]] -[[大和市]]- 市内各駅から小田急小田原線・小田急江ノ島線
* 山北町・大井町 - 市内各駅から小田急小田原線で[[新松田駅]]へ。新松田駅から[[御殿場線]]
* 清川村 - 市内各駅から小田急小田原線で[[本厚木駅]]へ。本厚木駅から神奈川中央交通バス
* [[大磯町]] - 秦野駅から[[二宮駅]]へ。二宮駅から[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]
* [[横浜市]] - 市内各駅から小田急小田原線で[[海老名駅]]へ。海老名駅から[[相鉄本線]]
* [[川崎市]] - 市内各駅から小田急小田原線で[[登戸駅]]へ。登戸駅から[[南武線]]
== 観光・文化財 ==
神奈川県による令和4年における県内33市町村を対象とした観光客データによると、秦野市を訪れた延べ観光客数は、年間4,154千人であり、県内11位の観光客数を誇る<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.pref.kanagawa.jp/docs/b6m/cnt/f80022/r4irikomi.html|title=令和4年入込観光客調査|publisher=神奈川県|date=2023-08-03|accessdate=2023-08-26}}</ref>。
「宿泊」が6,7千人。「日帰り」が408,6千人と日帰り観光客が多い。特に[[ヤビツ峠]]の47万人、[[神奈川県立秦野戸川公園]]の53,7千人など山の人気や[[秦野たばこ祭]]の23,7千人、秦野市市民の日の13万人の再開などがコロナ禍以来の来訪者の増加につながっている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2023/08/25/693902.html|title=2022年秦野市観光客数 「日帰り客」が回復基調|publisher=タウンニュース|date=2023-08-25|accessdate=2023-08-26}}</ref>。
=== 名所・旧跡 ===
[[ファイル:Sanetomo kubizuka.JPG|thumb|源実朝公御首塚]]
[[File:Koubounoshimizu.jpg|thumb|弘法の清水]]
[[File:東田原神社拝殿.jpg|thumb|東田原神社]]
* [[曽屋神社]]([[曾屋神社]])
* [[出雲大社相模分祠]]
* [[白笹稲荷神社]]
* [[桜土手古墳]]公園
** [[はだの歴史博物館]]
* [[金剛寺 (秦野市)|金剛寺]]
** [[源実朝]]公御首塚
* 宝蓮寺大日堂 - [[神奈川県指定文化財一覧#彫刻|神奈川県指定文化財]]
* [[秦野盆地湧水群]]([[名水百選]])
** 弘法の清水
** 若竹の泉
** 今泉名水桜公園
* [[潭廣院]]
* 延命地蔵
* 波多野城址
* 白泉寺のシダレザクラ
* 浄徳寺菖蒲園
* 医王山東光寺(矢名薬師)
* まほろば大橋([[かながわの橋100選]])
=== レジャー・温泉 ===
[[ファイル:Mt.Tonodake from Mt.Sannoto 01.jpg|thumb|[[三ノ塔]]から望む秋の塔ノ岳]]
[[画像:Mizuhi Falls 01.jpg|thumb|鍋割山の南、[[四十八瀬川]]支流のミズヒ沢にかかるミズヒ大滝。]]
* [[丹沢山地]]
** [[塔ノ岳]]
** [[鍋割山 (神奈川県)|鍋割山]]
** [[大山 (神奈川県)|大山]]
** [[三ノ塔]]
** [[二ノ塔]]
** [[ヤビツ峠]]
** 菜の花台([[日本の夜景100選]])
* [[丹沢大山国定公園]]
* [[神奈川県立丹沢大山自然公園]]
* [[県民の森#関東|神奈川県表丹沢県民の森]]
* [[震生湖]]([[文化財|国指定文化財]]、[[かながわの探鳥地50選]])
* [[弘法山]]公園([[かながわの景勝50選]]、かながわの探鳥地50選、[[かながわの花の名所100選]][[ソメイヨシノ]])
* [[四十八瀬川]]([[小田急ロマンスカー]]のポスター撮影地でもある)
* [[名古木]]の[[棚田]]([[農林水産省]]ポスト棚田百選)
* [[鶴巻温泉]]
* [[秦野温泉]]
* [[葛葉川|葛葉峡谷]]
* [[神奈川県立秦野戸川公園]]
** はだの丹沢クライミングパーク
* [[秦野市運動公園]]([[日本の都市公園100選]]、[[かながわの公園50選]])
=== 祭り・催事 ===
* 白笹稲荷初午
* [[弘法山]]桜まつり
* [[鶴巻温泉]]まつり
* 秦野丹沢まつり(春、[[丹沢山]][[山開き|開き]])
* 丹沢ボッカ駅伝競走大会
* 秦野市商工まつり
* 曾屋神社{{small|(曽屋神社)}}(水神) – 例大祭、太鼓囃子、花火大会<ref>[http://www.soyajinja.com/ 曾屋神社]</ref>
* [[秦野たばこ祭]]
=== 文化財 ===
{{hidden begin
|title = 市内の'''[[文化財|国指定文化財]]'''一覧
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!番号
!名称
!種別
!登録年月日
!所在地
!時代区分
!備考
|-
|1
|[[震生湖]]
|登録記念物(動物植物地質鉱物関係)
|[[2021年]][[3月26日]]
|秦野市,[[足柄上郡]][[中井町]]
|
|
|-
|2
|曽屋水道
|登録記念物(遺跡関係)
|[[2017年]][[10月13日]]
|秦野市
|[[明治]]~[[大正]]
|全国に先駆けた[[土管]]による[[近代#日本|近代]][[上水道]]
|-
|3
|五十嵐商店第一号倉庫
|産業3次建築物
|[[2017年]][[10月27日]]
|本町二丁目2687
|[[昭和初期]]
|
|-
|4
|五十嵐商店第二号倉庫
|産業3次建築物
|[[2017年]][[10月27日]]
|本町二丁目2687
|[[昭和初期]]
|
|-
|5
|五十嵐商店第三号倉庫
|産業3次建築物
|[[2017年]][[10月27日]]
|本町二丁目2687-1
|[[昭和初期]]
|
|-
|6
|五十嵐商店第四号倉庫及び第五号倉庫
|産業3次建築物
|[[2017年]][[10月27日]]
|本町二丁目2687
|[[昭和初期]]
|
|-
|7
|五十嵐商店店舗兼主屋
|産業3次建築物
|[[2017年]][[10月27日]]
|本町二丁目2687
|[[昭和初期]]
|現在1階部分は喫茶店として営業してる<ref>[https://www.odakyu-life.jp/entry/002947.html 文化財の古い商店が喫茶店に]</ref>
|-
|8
|宇山商事店舗兼主屋
|産業3次建築物
|[[2017年]][[6月28日]]
|寿町2202
|[[昭和初期]]
|現在でも燃料や米を販売<ref>[https://www.townnews.co.jp/0610/2017/03/16/374432.html 宇山商事が有形文化財に]</ref>
|-
|9
|旧芦川家住宅主屋(緑水庵)
|住宅建築物
|[[2020年]][[4月3日]]
|蓑毛字中里269-2
|[[昭和初期]]
|[[1991年]]現在地に移築<ref>[https://www.townnews.co.jp/0610/2019/11/22/507429.html 国登録有形文化財緑水庵を登録へ]</ref>
|-
|10
|猿渡堰堤
|[[治水|治山治水]]土木構造物
|[[2003年]][[3月18日]]
|堀山下・戸川
|[[昭和初期]]
|神奈川県所有
|-
|11
|戸川堰堤
|[[治水|治山治水]]土木構造物
|[[2003年]][[3月18日]]
|堀山下・戸川
|[[昭和初期]]
|神奈川県所有
|-
|12
|山ノ神堰堤
|[[治水|治山治水]]土木構造物
|[[2003年]][[3月18日]]
|堀山下・戸川
|[[江戸時代|江戸]]
|神奈川県所有
|-
|13
|蓑毛大日堂
|[[寺院|宗教建築物]]
|[[2017年]][[10月27日]]
|蓑毛字上川原721
|[[江戸時代|江戸]]
|[[大山 (神奈川県)|大山]]の登山口にあり[[山岳信仰]]の拠点として信仰を集めた
|-
|14
|蓑毛不動堂
|[[寺院|宗教建築物]]
|[[2017年]][[10月27日]]
|蓑毛字上川原723
|[[江戸時代|江戸]]
|
|-
|15
|蓑毛地蔵堂
|[[寺院|宗教建築物]]
|[[2017年]][[10月27日]]
|蓑毛字上川原724
|[[江戸時代|江戸]]
|
|-
|16
|蓑毛大日堂仁王門
|[[寺院|宗教建築物]]
|[[2017年]][[10月27日]]
|蓑毛字上川原721
|[[江戸時代|江戸]]
|
|-
|}
{{hidden end}}
=== 野外彫刻 ===
* [[1986年]]に21のシンボル事業からなる「秦野アメニティタウン計画」を策定。その中で、水や緑を背景に、その場にふさわしい[[彫刻]]を設置し、人々にうるおいと安らぎを与える都市空間の創出を目指した「彫刻のあるまちづくり事業」が発足した。
* [[1987年]]に開催した「丹沢野外彫刻展」を契機に、駅前広場や公園などの公共空間に野外彫刻を設置している。
* [[1989年]]には「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体表彰を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1511247561577/index.html|title=彫刻のあるまちづくり|publisher=秦野市役所|date=2022-05-26|accessdate=2023-06-30}}</ref>。
{{hidden begin
|title = 市内の主な'''野外彫刻'''一覧
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-
!番号
!作品名
!作者
!素材
!寸法(センチメートル)
!設置場所
!設置時期
!備考
|-
|1
|窓
|北島一夫
|[[花崗岩]](白糸)
|260×230×80
|[[秦野市運動公園|秦野市カルチャーパーク]]陸上競技場沿い
|rowspan=2|昭和62年9月
|丹沢野外彫刻展入選作品(優秀賞)
|-
|2
|集積I
|岡本勝利
|石、[[ステンレス]]、[[セメント]]、[[ポリエステル樹脂]]
|90×300
|中栄信金スタジアム秦野前
|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|3
|Od octave-2
|若江漢字
|コールテン鋼 ステンレス
|300×290×170
|rowspan=8|秦野市立図書館前自由広場
|昭和63年5月
|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|4
|あなたと・・・(時は流れて)
|武荒信顕
|[[鋼板]]、合成樹脂ペイント、ステンレス、[[ボールベアリング]]
|458×500×500
|平成2年9月
|丹沢野外彫刻展 入選作品(最優秀賞)
|-
|5
|紙の塔
|山縣壽夫
|キャストブロンズ
|320×60
|rowspan=4|昭和62年9月
|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|6
|悠 I
|[[速水史朗]]
|[[御影石|黒御影石]]
|400×140×40
|丹沢野外彫刻展 入選作品(優秀賞)
|-
|7
|五日食石:1987~2000A.D.III
|濱坂渉
|[[大理石]]、花崗岩
|150×500×300
|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|8
|石・もの性の崩壊(for Pavement)
|岡本敦生
|白御影石
|140×1200×1000
|丹沢野外彫刻展 入選作品(優秀賞)
|-
|9
|FIGURES-LINE
|[[松尾光伸]]
|[[セラミック]]、ステンレス
|250×1010×115
|平成3年2月
|rowspan=3|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|10
|ROPE I
|岸豊治
|[[ステンレススチール]]
|520×160×190
|昭和62年9月
|-
|11
|ふたたび
|井上玲子
|[[アルミニウム]]
|240×250×110
|rowspan=6|[[秦野市文化会館|クアーズテック秦野カルチャーホール]]
|昭和63年5月
|-
|12
|門状彫刻 メタモルフェー
|林田滋
|rowspan=2|石
|153×95×34
|rowspan=2|昭和55年10月
|
|-
|13
|石塔状彫刻 魂
|伊藤正人
|70×168×60
|
|-
|14
|LOUCUS IN THE SKY 87
|大隅秀雄
|ステンレス、[[真鍮]]、[[銅]]、鉄、アルミニウム、ベアリング
|580×780×420
|昭和63年5月
|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|15
|噴水状彫刻 メタモルフェー
|林田滋
|石
|128×89×32
|rowspan=3|昭和55年10月
|
|-
|16
|風
|[[井上久照]]
|ブロンズ
|84×320×86
|
|-
|17
|階段状彫刻 メタモルフェー
|林田滋
|石
|25×80×75
|クアーズテック秦野カルチャーホール市民広場西側
|
|-
|18
|INTERSECTION
|内田晴之
|ステンレス、鋼板、[[マグネット]]、塗料
|250×445×260
|メタックス体育館はだの(総合体育館)南側
|昭和62年9月
|丹沢野外彫刻展 入選作品(優秀賞)
|-
|19
|よいとまけの歌
|[[中垣克久]]
|ブロンズ、ポリエステル
|300×300×300
|曽屋水道記念公園
|平成2年2月
|rowspan=2|丹沢野外彫刻展 入選作品
|-
|20
|丹沢の木
|[[空充秋]]
|白、黒御影石
|600×100×100
|秦野市役所構内
|昭和63年5月
|-
|21
|君を待つ風
|会田富二男
|rowspan=2|黒御影石
|100×100×100
|しもかわらぶち公園
|平成元年4月
|rowspan=3|‘89夢のかけ橋彫刻展 本制作作品
|-
|22
|COSMIC RING
|横山徹
|300×300×70
|rowspan=2|まほろば大橋
|rowspan=2|平成元年10月
|-
|23
|生命の詩
|西巻一彦
|[[本小松石]]
|300×300×90
|-
|24
|地球環境保全像
|後藤良二
|[[FRP]]、白御影石、ステンレス
|285×250×168
|rowspan=2|[[秦野駅]]北口広場
|平成3年3月
|秦野ロータリークラブ創立30周年記念に伴う寄附
|-
|25
|母子像
|[[佐藤助雄]]
|ブロンズ
|184×90×75
|平成元年9月
|遺族から市へ寄贈
|-
|26
|雲のある風景
|村中保彦
|ステンレス、SUS304(キャスト部分SUS303)
|235×740×630
|rowspan=6|秦野駅南口広場
|rowspan=6|平成9年11月
|rowspan=6|水とみどりの彫刻 本制作作品
|-
|27
|異石風景
|佐藤尚宏
|白御影石
|975×890×260
|-
|28
|風
|永廣隆次
|白御影石
|630×550×700
|-
|29
|COSMIC IN HADANO-contour「切り取られた地層」
|楠田信吾
|黒御影石、[[強化ガラス]]
|300×577×309
|-
|30
|CHAIR OF SKY「空の椅子」
|今村巖
|[[ステンレススチール]]、磁気タイル
|306×495×495
|-
|31
|重力の無い風景
|斎藤史門
|コールテン鋼
|500×450×70
|-
|32
|まほらの奏で
|眞板雅文
|白御影石、鉄
|1060×1000×680
|[[桜土手古墳群|桜土手古墳公園]]
|平成2年3月
|堀山下土地区画整理事業
|-
|33
|浮くかたち
|[[植松奎二]]
|ステンレス・スチール、鉄石
|300×80×80
|rowspan=3|[[渋沢駅]]北口広場
|rowspan=3|平成6年10月
|rowspan=3|ハミングデイルしぶさわ彫刻展 本制作作品
|-
|34
|風景の器
|横山徹
|御影石
|315×390×195
|-
|35
|MY FAMILY
|中岡慎太郎
|花崗岩
|185×300×70
|-
|36
|幸福を運ぶ風
|西巻一彦
|御影石
|260×70×200
|渋沢駅南口
|平成19年3月
|渋沢駅南口駅前広場野外彫刻設置事業
|-
|37
|森に生きる
|会田富二男
|黒御影石
|295×250×150
|弘法山公園
|平成3年9月
|
|-
|38
|LIGHT TRIANGLE
|鈴木明
|鉄、アクリル、ステンレス
|400×600×500
|立野緑地
|昭和63年5月
|丹沢野外彫刻展入選作品
|-
|39
|翔べ
|高田大
|黒御影石
|200×135×30
|秦野市立南が丘公園
|平成3年3月
|
|-
|40
|飛翔
|ティエリー・ヴィデ([[:fr:Thierry Vidé]])
|ステンレス
|385×315×400
|[[鶴巻温泉駅]]北口広場
|rowspan=2|平成8年5月
|rowspan=2|北口広場整備と併せて制作
|-
|41
|おかえりなさい
|西巻一彦
|黒御影石、白御影石
|385×315×400
|鶴巻温泉駅北口改札前
|-
|42
|MANAZASI(まなざし)
|大隅秀雄
|ステンレス、銅、真鍮、[[チタン]]、コールテン鋼
|350×650×540
|rowspan=3|秦野市立おおね公園
|rowspan=3|平成16年1月
|rowspan=3|おおね公園スポーツとレクリエーションの彫刻本制作作品
|-
|43
|みどりの星
|井上なぎさ
|銅、ステンレス
|350×300×420
|-
|44
|天空の塔
|横山徹
|黒御影石
|270×270×270
|-
|}
{{hidden end}}
=== 主な宿泊施設 ===
* [[元湯・陣屋]]([[鶴巻温泉]]) - 陣屋オーナー家は[[宮崎駿]]監督の親類であり、作品に影響を与えたという。庭園内に「[[トトロ]]の木」があり、館内には宮崎の色紙が展示されている。
* [[万葉倶楽部#万葉の湯・万葉倶楽部|はだの万葉倶楽部]]
* [[グランドホテル神奈中|グランドホテル神奈中秦野]]
* [[鍋割山 (神奈川県)#鍋割山荘|鍋割山荘]]
* [[塔ノ岳|尊仏山荘]]
* [[神奈川県立秦野戸川公園|神奈川県立 山岳スポーツセンター]]
== 特産物 ==
以下の特産物が「かながわの名産100選」に選定されている<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/b6m/cnt/f300096/index.html 神奈川県かながわの名産100選]</ref>。
* おいしい秦野の水 ‐丹沢の雫‐([[環境省]]による「名水百選選抜総選挙」おいしさがすばらしい名水部門で全国第1位を獲得)<ref>[http://www.hadano-brand.jp/brandninshouhin/Oishii_Hadano_no_mizu.html はだのブランド認証品]</ref>
* [[蕎麦#神奈川県|秦野のそば]]([[タバコ]]耕作の裏作としてソバが作られ神奈川県内一の産地となっている。「[[丹沢]]そば」は乾麺・生麺ともに人気が高い)<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/y2w/cnt/f417343/p523192.html 水の味わい] - [[神奈川県]] 2020年1月28日閲覧</ref>
* [[桜湯#桜漬け|八重桜の塩漬け]](江戸時代末期から生産を始め、全国生産の約8割を生産している。五分咲き程度の八重桜の晩生種・[[カンザン|関山]]を用い、毎年4月中旬頃から加工している)
* [[ラッカセイ#食用|相州落花生・うでピー]](秦野盆地などに代表される[[火山灰土壌]]での栽培に適しており、香り高く味も濃厚。掘りたての落花生を茹でて瞬間冷凍した冷凍ゆで落花生「うでピー」は、旬の味を一年中楽しめる。[[大正10年]]に市内に[[陸軍飛行戦隊|軍]]の飛行場が建設されることとなり、10月上旬に収穫が強制されたものを塩水につけて茹でたところ味がよかったので、徐々に神奈川県西部地域に広がった)
* 神奈川のいちご
== 移住・定住・子育てへの取組み・評価 ==
[[日本経済新聞社]]と[[日経BP]]『日経xwoman』が、全国165自治体を対象に「自治体の子育て支援制度に関する調査」を実施した「共働き子育てしやすい街ランキング2022」にて、全国16位の評価を得ている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/column/22/112200009/122300002/|title=共働き子育てしやすい街2022 総合編ベスト50|publisher=日経xwoman|date=2022-12-23|accessdate=2023-02-27}}</ref>。
また、同市では、市内への移住・定住を推進する目的として、下記のような施策を展開している<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/genre/1526350767013/index.html 秦野市移住・定住]</ref>。
* '''定住促進住宅「ミライエ秦野」'''
旧[[日産車体]]の社宅をリノベーションし、40歳以下の夫婦、子育て夫婦を対象に、子育てしやすい魅力的な住宅を整備。将来の住宅購入費助成などの入居特典などを提供<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000000150/index.html 子育て応援!定住化促進住宅「ミライエ秦野」]</ref>。
* '''移住お試し住宅「TANZAWA LIFE」'''
丹沢の豊かな自然を感じながら、本市の生活を体験することができる移住お試し住宅([[ログハウス]])「TANZAWA LIFE」を提供<ref>[https://www.tanzawalife.net/ 移住お試し住宅TANZAWA LIFE]</ref>
* '''上地区いなか暮らし体験ツアー'''
* '''秦野産材を使用する快適な住まいづくり補助金'''
高品質が評価され[[歌舞伎座]]の舞台や花道にも使用されている秦野産ヒノキに着目し、秦野産木材を使用して家を建築する場合に一部費用を補助する制度。新築だけではなく、リフォームも対象<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1506666728148/index.html 秦野産木材を使用する快適な住まいづくり補助金]</ref>。
* '''生活資金の融資'''
[[中央労働金庫]]と提携して、市内に居住する労働者に生活資金を低利で融資<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000001321/index.html 生活資金の融資]</ref>。
* '''はだの丹沢ライフ応援事業助成金'''
一定の条件を満たす市内への住宅購入者に対し助成を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2022/12/16/655870.html|title=移住・定住者金利で優遇 中栄信金が市と協定締結|publisher=タウンニュース |accessdate=2023-06-23}}</ref>。
* '''妊娠中の費用補助'''
妊婦健康診査費用(計75,000円分)及び妊婦歯科健康診査(1,000円)の補助により、妊婦さんとお腹の赤ちゃんの健康管理を市が支援<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000002528/index.html 妊婦健康診査]</ref>。
* '''子育て世代包括支援センター、楽しい子育て講座、児童ホームを提供'''
* '''おひさまルーム(病後児保育室)'''
保育園や学校に行かせるには心配な病気の回復期の児童を、仕事や病気等により自宅での保育が困難な保護者に代わって専任の看護師や保育士が専用の保育室でサポート<ref>[https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000002690/index.html おひさまルーム(ひろはたこども園 病後児保育室)]</ref>
== スポーツ ==
=== サッカー ===
* [[湘南ベルマーレ]] - [[Jリーグ]]
[[1999年]]までは平塚市1市がホームタウンであったが、2000年よりJリーグで「広域ホームタウン制度」が認められたことを受けて、湘南地域の5市(厚木市・伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、藤沢市)、3町(中郡・高座郡)ともにホームタウンに制定された。2017年10月24日には鎌倉市、南足柄市と足柄上郡・足柄下郡の8町をホームタウンも加わり、広域ホームタウンを形成する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-51320/|title=湘南ベルマーレ ホームタウン追加について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2017-10-24|accessdate=2017-10-24}}</ref>。
市内では、湘南ベルマーレサッカースクールを開校している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.bellmare.co.jp/258902|title=湘南ベルマーレサッカースクール「秦野校」再開のお知らせ|publisher=湘南ベルマーレ|date=2021-04-24|accessdate=2023-02-27}}</ref>。1シーズンに一度広域ホームタウンを形成する各自治体に対し、各自治体の冠試合として「ホームタウンデー」を開催。秦野市のホームタウンデーでは、市民は、特別価格でチケットを購入可能である<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.bellmare.co.jp/278981|title=2022シーズン「ホームタウンデー」開催日程決定のお知らせ|publisher=湘南ベルマーレ|date=2022-02-24|accessdate=2023-06-26}}</ref>。
=== 野球 ===
* [[全日本女子野球連盟]]により、「'''女子野球タウン'''」に認定されている。神奈川県内では唯一の認定であり、全国では13自治体目(2022年11月14日現在)である。元女子プロ野球選手で[[加藤優 (外野手)|加藤優]]が市内出身ということもあり、野球教室などを開催。女子学童野球秦野市選抜チーム「秦野桜エンジェルス」の活躍や、中学女子硬式野球クラブチーム「西湘Future」といった女子野球の下地もあったことから認定となった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2022/12/09/654854.html|title=女子野球タウンに認定 県内では初|publisher=タウンニュース|date=2022-12-09|accessdate=2023-06-26}}</ref>。[[2023年]]より[[全国女子中学硬式野球大会]]の開催地となることが決まった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2023/07/21/688700.html|title=女子中学生硬式野球 秦野で初の全国大会|publisher=タウンニュース|date=2023-07-21|accessdate=2023-08-26}}</ref>。
=== バスケットボール ===
* [[地域リーグ (バスケットボール)#各地域リーグ|VamoS シルキーエアーズ]] - [[地域リーグ (バスケットボール)|Wリーグ下部リーグ]]
[[2016年]]創立の女子バスケットボールクラブ。神奈川県実業団連盟及び関東実業団連盟に所属し、将来的には女子バスケのトップリーグ入りを目指す<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0610/2016/03/05/323074.html|title=VamoS秦野立ち上げ|publisher=タウンニュース|date=2016-03-05|accessdate=2023-02-27}}</ref>。
== 著名な出身者、ゆかりの人物 ==
(五十音順、'''wikipediaに項目のある人物''')
=== 政治・実業 ===
{{colbegin|2}}
* [[井上純一 (自治体公務員)|井上純一]](元[[平塚市]]副市長)
* [[梅原修平]]([[幕末]]から[[明治]]時代の[[政治家]]、[[銀行家]])
* [[栗原宣太郎]](明治から昭和前期の[[衆議院議員]]、[[神職]])
* [[小泉晨一]](元衆議院議員)
* [[小泉光臣]]([[日本たばこ産業]]社長)
* [[佐谷恭]]([[実業家]])
* [[佐藤政吉]](第二代秦野町長、銀行家、[[実業家]])
* [[内藤誉三郎]]([[昭和]]期の政治家。[[文部大臣]]、[[大妻女子大学]]学長などを歴任)
* [[中屋優大]](実業家、[[美術家]])
* [[古谷義幸]](秦野市長、[[神奈川県議会議員]]、秦野市議会議員などを歴任)
* [[古谷一郎]](実業家、[[有限会社]][[なんつッ亭]]の創業者兼社長)
* [[柳川覚治]](元[[参議院議員]])
{{colend}}
=== 学問・文化 ===
{{colbegin|2}}
* [[安居院義道]]([[報徳思想|報徳]]運動家)
* [[浅田有信]](報徳運動家)
* [[石井隆士]]([[スポーツ科学]]者、[[日本体育大学]]教授)
* [[イシグロキョウヘイ]]([[アニメーション監督]])
* [[井上久照]]([[彫刻家]]、[[秦野市運動公園]]のシンボル像「健康の泉」をはじめ、市内に多くの作品が建立)
* [[太田靖久]]([[小説家]])
* [[小形誠]]([[作曲家]])
* [[奥津国道]]([[画家]]、市内[[曽屋]]に美術館が開館)
* [[奥村鶴吉]]([[医学者]]、専門は[[細菌学]]。[[東京歯科大学]]学長などを歴任)
* [[恩藏直人]]([[マーケティング]]学者、[[早稲田大学]]商学学術院長などを歴任)
* [[鍵和田秞子]]([[俳人]])
* [[神奈幸子]]([[漫画家]])
* [[北村敬]]([[ウイルス学|ウイルス]][[学者]]、国立予防衛生研究所(現 [[国立感染症研究所]])ウイルス第一部長などを歴任)
* [[草山貞胤]](篤農家)
* [[近藤いね子]]([[イギリス文学者|英文学者]]、[[津田塾大学]]名誉教授)
* [[春風亭一左]]([[落語家]])
* [[関野作次郎]](篤農家、農業技術者)
* [[谷鼎]]([[歌人]]・[[国文学者]]、元[[大東文化大学]]教授)
* [[谷口菜津子]](漫画家)
* [[原淳一郎]](史学者、[[山形県立米沢女子短期大学]]教授)
* [[原久胤]]([[江戸時代]]後期の[[国学者]]、歌人)
* [[前田夕暮]](歌人)
* [[諸星静次郎]]([[農学者]]、専門は[[蚕糸]]学。[[東京農工大学]]学長などを歴任)
* [[山田和樹]](指揮者)
{{colend}}
=== 報道・芸能 ===
{{colbegin|2}}
* [[Aive]]([[グラビアアイドル]]、[[シンガーソングライター]])
* [[伊藤ゆき]](ラジオパーソナリティ、声優、ディレクター、プロデューサー、ナレーター)
* [[INORAN]]([[ミュージシャン]]、[[LUNA SEA]])
* [[内海啓貴]]([[俳優]])
* [[近江七恵]]([[フリーアナウンサー]])
* [[岡元夕紀子]](俳優)
* [[川崎泰輔]](俳優)
* [[菊地凛子]](俳優)
* [[岸井ゆきの]](俳優)
* [[久保寺瑞紀]]([[ファッションモデル]])
* [[合田雅吏]](俳優) - 2020年に「はだのふるさと大使」に任命される。
* [[後藤果萌]](俳優)
* [[坂井泉水]](歌手・作詞家、[[ZARD]])
* [[佐久間由枝]](俳優)
* [[J (ミュージシャン)|J]](ミュージシャン、LUNA SEA)
* [[淳士]](ミュージシャン、[[SIAM SHADE]])
* [[庄司龍成]]([[子役]])
* [[真矢 (ドラマー)|真矢]](ミュージシャン、LUNA SEA)
* [[SUGIZO]](ミュージシャン、LUNA SEA、[[X JAPAN]])
* [[スマイリー小原]]([[ジャズ]][[ミュージシャン]])
* [[関口英司]]([[声優]])
* [[近田雄一]]([[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]])
* [[高本彩花]]([[アイドル]]、ファッションモデル、[[日向坂46]])
* [[徳永暁人]](ミュージシャン、[[doa (バンド)|doa]])
* [[トーマス・栗原]](俳優、[[映画監督]])
* [[服部浩子]]([[演歌歌手]])
* [[山田涼介]](アイドル、[[Hey! Say! JUMP]])- 出生は東京都<ref>{{Cite web|和書| url = https://mdpr.jp/news/detail/3316102 | title = Hey! Say! JUMP山田涼介、自身の出身地について言及 | website = モデルプレス | publisher = ネットネイティブ | date = 2022-08-23 | accessdate = 2023-04-30 }}</ref>
* [[吉田栄作]](俳優、歌手)
{{colend}}
=== スポーツ ===
{{colbegin|2}}
* [[今成正和]]([[格闘家]])
* [[大石治寿]]([[サッカー選手]])
* [[小野寺健也]](サッカー選手)
* [[加藤優 (外野手)|加藤優]](女子野球選手)
* [[河野諒祐]](サッカー選手)
* [[久保谷健一]]([[プロゴルファー]])
* [[郷州征宜]]([[キックボクサー]])
* [[小林直己 (陸上選手)|小林直己]]([[陸上選手]])
* [[込山龍哉]]([[柔道家]])
* [[関忠則]](格闘家、[[空手家]])
* [[聳城巧]](サッカー[[プロフェッショナルレフェリー]])
* [[多田健蔵]]([[オートバイ]]レーサー。アジア人として初めて[[マン島TTレース]]に参加)
* [[友永翔太]]([[プロ野球選手]]、元[[中日ドラゴンズ]])
* [[新田渉世]](元[[プロボクサー]]、[[日本プロボクシング協会]]理事)
* [[成瀬佑太]](サッカー選手)
* [[林忠明]]([[卓球]]選手、日本が初出場となった[[世界卓球選手権]]にて男子ダブルス優勝)
* [[原俊介]](プロ野球選手、元[[読売ジャイアンツ]])
* [[日暮矢麻人]](プロ野球選手、元[[福岡ソフトバンクホークス]])
* [[堀岡隼人]](プロ野球選手、[[横浜DeNAベイスターズ]])
* [[三塚龍哉]](サッカー選手)
* [[三平和司]](サッカー選手)
* [[望月雄太]]([[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手)
* [[山口祥吾]](プロ野球選手、元[[千葉ロッテマリーンズ]])
{{colend}}
=== ゆかりの人物 ===
{{colbegin|2}}
* [[会津太郎]]([[俳人]]、[[詩人]]、市内在住)
* [[足利晴氏]](戦国時代の武将、[[河越城の戦い]]にて[[後北条氏|北条家]]に敗戦後、[[北条氏康]]によって[[相模国]]波多野に一時幽閉)
* [[井上真吾]]([[実業家]]、[[プロボクシング]]トレーナー。[[井上尚弥]]の父。秦野市でアマチュアジムを設立)
* [[井上康生]]([[柔道家]])、[[東原亜希]]([[タレント]])夫妻([[2008年]][[1月15日]]秦野市役所へ婚姻届を提出し、井上の練習場である[[東海大学#湘南キャンパス|東海大学湘南校舎]]柔道場で記者会見を行った)
* [[大岡怪童]]([[昭和時代|昭和初期]]の[[俳優]]。市内にあった川野興行場での出演中に死去)
* [[太田敏孝]](木工造形家、市内にアトリエを構えていた)
* [[大藤信基]]([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[北条氏綱]]により[[相模国]][[中郡]][[郡代]]に任じられ田原城主(現秦野市)となった)
* [[大藤政信]](戦国時代の武将、田原城主。菩提寺である香雲寺(市内西田原)を再興)
* [[苅谷俊介]]([[俳優]]、アマチュア[[考古学者]])(市内在住)
* [[鬼頭莫宏]]([[漫画家]]、[[イラストレーター]]、市内在住)
* [[黒田長成]]([[政治家]]、[[華族]]([[侯爵]])。[[明治天皇]]宿泊のために[[大磯町|大磯]]に構えていた別邸が市内[[鶴巻温泉]]にある[[元湯・陣屋]]へ[[三井財閥]]によって移築)
* [[関健作]](ドキュメンタリー[[写真家]]、市内在住)
* [[立石純子]]([[タレント]]・[[シンガーソングライター]])([[横浜市]]生まれ、秦野市育ち)
* [[舘野鴻]]([[絵本]]作家、市内在住)
* [[辻久吉]]([[江戸時代]]の[[旗本]]。[[上田七本槍]]の一人。[[本多忠政]]により現市内一部を領する)
* [[中野重治]]([[小説家]])
* [[中村弘道 (建築家)|中村弘道]]([[建築家]])、1997年度に[[グッドデザイン賞]]を受賞した[[秦野駅]]橋上駅舎建築に従事)
* [[波多野氏#相模波多野氏|波多野氏]]一族([[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]にかけて、[[摂関]]家領である相模国波多野荘(現秦野市)を本領とした[[豪族]])
* [[平岡千代]](シンガーソングライター、市内在住)
* [[比留木忠治]]([[日本専売公社]]秦野たばこ試験場での勤務を経て、アルバータ大学農生命環境学部[[教授]]などを歴任)
* [[水の江瀧子]]([[俳優#性別での分類|女優]]、[[映画プロデューサー]]。[[石原裕次郎]]との確執後、秦野市郊外に転居)
* [[源実朝]](首が市内の大聖山金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬られたとされ、同地は御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。胴体の墓は、[[寿福寺]]([[鎌倉市]])に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている)
* [[宮永岳彦]]([[画家]]、市内にアトリエを構えていた。[[鶴巻温泉]]に秦野市立宮永岳彦記念美術館が開館)
* [[吉村益信]]([[美術家]]、市内にアトリエを構えていた。[[前衛美術|前衛芸術]]集団「[[ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ|ネオ・ダダ]]」の主宰者)
* [[米倉昌尹]]([[江戸時代]]の[[大名]]、市内堀山下の蔵林寺に墓所がある)
{{colend}}
== 秦野フィルムコミッション ==
秦野市観光協会が[[2006年]][[1月25日]]から「秦野フィルムコミッション」活動を行っており、市内は数多くの映画・ドラマ・CM・MV等のロケ地になっている。ロケ地となった主な映画の1つに[[周防正行]]監督『[[それでもボクはやってない]]』がある<ref name="hatano2007">{{Cite web|和書|title=最新情報【平成19年1月】|url=http://www.kankou-hadano.org/hadano_lug8/topics_top-200701.html|publisher=秦野市観光協会|accessdate=2018-10-03}}</ref>。同映画では市役所庁舎が[[警視庁]]岸川警察署庁舎として登場する<ref>{{Cite web|和書|title=それでもボクはやってない|url=https://www.youtube.com/watch?v=ccmaet30GWU|publisher=YouTubeムービー|accessdate=2018-10-03}}</ref>。
* 市内がロケ地となった主な映画作品
** [[免許がない!]](監督:[[森田芳光]]、出演:[[舘ひろし]]、[[墨田ユキ]]他)
** [[それでもボクはやってない]](監督:[[周防正行]]、出演:[[加瀬亮]]、[[瀬戸朝香]]他)
** [[ジェネラル・ルージュの凱旋#映画|ジェネラル・ルージュの凱旋]](監督:[[中村義洋]]、出演:[[竹内結子]]、[[阿部寛]]他)
** [[忘れないと誓ったぼくがいた]](監督:[[堀江慶]]、出演:[[村上虹郎]]、[[早見あかり]]他)
** [[母と暮せば]](監督:[[山田洋次]]、出演:[[吉永小百合]]、[[二宮和也]]他)
** [[ヒメアノ〜ル#映画|ヒメアノ〜ル]](監督:[[吉田恵輔]]、出演:[[森田剛]]、[[濱田岳]]他)
** [[にがくてあまい#映画|にがくてあまい]](監督:[[草野翔吾]]、出演:[[川口春奈]]、[[林遣都]]他)
** [[永い言い訳#映画|永い言い訳]](監督:[[西川美和]]、出演:[[本木雅弘]]、[[竹原ピストル]]他)
** [[東京喰種トーキョーグール#映画|東京喰種トーキョーグール]](監督:[[萩原健太郎]]、出演:[[窪田正孝]]、[[清水富美加]]他)
** [[勝手にふるえてろ#映画|勝手にふるえてろ]](監督:[[大九明子]]、出演:[[松岡茉優]]、[[北村匠海]]他)
** [[チェリーボーイズ#実写映画|チェリーボーイズ]](監督:[[西海謙一郎]]、出演:[[林遣都]]、[[柳俊太郎]]他)
** [[猫は抱くもの#映画|猫は抱くもの]](監督:[[犬童一心]]、出演:[[沢尻エリカ]]、[[吉沢亮]]他)
** [[スマホを落としただけなのに#映画|スマホを落としただけなのに]](監督:[[中田秀夫]]、出演:[[北川景子]]、[[千葉雄大]]他)
** [[友罪#映画|友罪]](監督:[[瀬々敬久]]、出演:[[生田斗真]]、[[瑛太]]他)
** [[WE ARE LITTLE ZOMBIES]](監督:[[長久允]]、出演:[[二宮慶多]]、[[水野哲志]]他)
** [[閉鎖病棟 Closed Ward#映画|閉鎖病棟 -それぞれの朝]](監督:[[平山秀幸]]、出演:[[笑福亭鶴瓶]]、[[綾野剛]]他)
** [[宇宙でいちばんあかるい屋根#映画|宇宙でいちばんあかるい屋根]](監督:[[藤井道人]]、出演:[[清原果耶]]、[[伊藤健太郎 (俳優)|伊藤健太郎]]他)
** [[星の子#映画|星の子]](監督:[[大森立嗣]]、出演:[[芦田愛菜]]、[[岡田将生]]他)
** [[あのこは貴族#映画|あのこは貴族]](監督:[[岨手由貴子]]、出演:[[門脇麦]]、[[水原希子]]他)
** [[きのう何食べた? (テレビドラマ)#映画|きのう何食べた?]](監督:[[中江和仁]]、出演:[[西島秀俊]]、[[内野聖陽]]他)
** [[ブラッシュアップライフ]](脚本:[[バカリズム]]、出演:[[安藤サクラ]]、[[夏帆]]他)
<!--際限なく社名の列挙が続くおそれがあるため、wikipediaにページのあるものに限定します。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
<!-- 文献、参照ページ -->
{{Reflist|2}}
<!--
== 参考文献 == -->
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|wikt=no|b=no|q=no|s=|commons=秦野市|commonscat=Hadano, Kanagawa|n=|v=no|voy=no|species=no}}
{{See also|Category:秦野市}}
* [[秦野 (小惑星)]]
* [[日本の地方公共団体一覧]]
* [[相模国]]
* [[烏啼]]
* [[神奈川県方言]]
== 外部リンク ==
{{osm box|r|2689438}}
* {{ウィキトラベル インライン|秦野市|秦野市}}
* {{Official website}}
* {{Twitter|hadano_koho}}
* {{LINE公式アカウント|hadano_city}}
* {{YouTube|channel=UC8c3LHWRYvVkkqOyg-1QUyQ|はだのモーピク}}
* [https://www.kankou-hadano.org/ 秦野市観光協会]
* [http://kankou-hadano.org/info/hadanofc/ 秦野フィルムコミッション]
{{神奈川県の自治体}}
{{秦野市の町・字}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:はたのし}}
[[Category:神奈川県の市町村]]
[[Category:大住郡]]
[[Category:中郡]]
[[Category:足柄上郡]]
[[Category:秦野市|*]]
[[Category:1955年設置の日本の市町村]]
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1698年
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1698年(1698 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1698年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[戊寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]11年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2358年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]37年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]24年
** [[檀君紀元|檀紀]]4031年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]19年
* [[仏滅紀元]] : 2240年 - 2241年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1109年 - 1110年
* [[ユダヤ暦]] : 5458年 - 5459年
* [[ユリウス暦]] : 1697年12月22日 - 1698年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1698}}
== できごと ==
* [[ロンドン]]のホワイトホール宮殿の大半が火事により焼失{{要出典|date=2021-05}}。
* 7月-8月 - [[イングランド王国|イングランド]]で{{仮リンク|1698年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, 1698}}。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1698年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* 2月 - [[コリン・マクローリン]]、[[数学者]](+ [[1746年]])
* [[6月19日]]([[元禄]]11年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[青木昆陽]]、[[蘭学|蘭学者]](+ [[1769年]])
* [[6月25日]](元禄11年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]])- [[松平宣維]]、第5代[[松江藩|松江藩主]](+ [[1731年]])
* [[6月27日]](元禄11年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]])- [[宇野明霞]]、[[儒学者]](+ [[1745年]])
* [[7月2日]] - [[フランチェスコ3世・デステ]]、[[モデナ|モデナ公]](+ [[1780年]])
* [[7月17日]] - [[ピエール・ルイ・モーペルテュイ]]、数学者(+ [[1759年]])
* [[7月19日]] - [[ヨハン・ヤーコプ・ボードマー]]、[[言語学者]](+ [[1783年]])
* [[7月30日]](元禄11年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]])- [[立花貞俶]]、第5代[[柳河藩|柳河藩主]](+ [[1744年]])
* [[8月13日]] - [[ルイーズ・アデライード・ドルレアン]]、[[フランス王国|フランス]]の王族(+ [[1743年]])
* [[9月14日]] - [[シャルル・フランソワ・デュ・フェ]]、[[化学者]](+ [[1739年]])
* [[ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマー]]、[[ヴュルテンベルク]]の[[財務官]](+ [[1738年]])
* [[松下烏石]]、[[書道|書家]](+ [[1779年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1698年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月23日]] - [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]、初代[[ハノーファー選帝侯]](* [[1629年]])
* [[7月10日]](元禄11年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[佐々宗淳]]、[[徳川光圀]]の側近、『[[水戸黄門]]』の[[佐々木助三郎]]のモデルとされる人物(* [[1640年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1698}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,696 |
1696年
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1696年(1696 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
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1696年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
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{{年代ナビ|1696}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2356年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]35年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]22年
** [[檀君紀元|檀紀]]4029年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]17年
* [[仏滅紀元]] : 2238年 - 2239年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1107年 - 1108年
* [[ユダヤ暦]] : 5456年 - 5457年
* [[ユリウス暦]] : 1695年12月22日 - 1696年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1696}}
== できごと ==
* [[長野県]][[木曽谷]]と[[伊那谷]]を結ぶ[[古畑権兵衛|権兵衛峠]]が完成。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1696年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月5日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]、[[画家]](+ [[1770年]])
* [[8月12日]] - [[モーリス・グリーン (作曲家)|モーリス・グリーン]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1755年]])
* [[11月22日]](元禄9年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[徳川宗春]]<ref>『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収</ref>、[[尾張徳川家]]第7代藩主(+ [[1764年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1696年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月29日]] - [[イヴァン5世]]、[[ツァーリ|ロシア皇帝]](* [[1666年]])
* [[6月17日]] - [[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]、[[ポーランド王国|ポーランド]]王(* [[1629年]])
* [[10月25日]]([[元禄]]9年[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]) - [[東皐心越]]、中国から来日した曹洞宗の僧(* [[1639年]])
* [[12月4日]](元禄9年[[11月10日 (旧暦)|11月10日]]) - [[明正天皇]]、第109代[[天皇]](* [[1624年]])
* 月日不明 - [[ジャン・リシェ]]、天文学者(* [[1630年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1696}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1692年
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1692年(1692 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
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1692年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
|
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2352年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]31年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]18年
** [[檀君紀元|檀紀]]4025年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]13年
* [[仏滅紀元]] : 2234年 - 2235年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1103年 - 1104年
* [[ユダヤ暦]] : 5452年 - 5453年
* [[ユリウス暦]] : 1691年12月22日 - 1692年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1692}}
== できごと ==
* [[2月13日]] - [[グレンコーの虐殺]]事件([[スコットランド]])。首謀者は[[ジョン・ダルリンプル (初代ステア伯爵)|ジョン・ダルリンプル]]
* [[3月1日]] - [[セイラム魔女裁判]]がはじまる([[アメリカ合衆国]])。
* 広南阮氏、占城を制圧
== 誕生 ==
{{see also|Category:1692年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月25日]](元禄5年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[徳川継友]]、[[尾張徳川家]]第6代藩主(+ [[1731年]])
* [[4月8日]] - [[ジュゼッペ・タルティーニ]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1770年]])
* [[11月2日]] - [[ウニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール]]、[[貴族]]、アマチュア作曲家(+ [[1766年]])
* [[11月6日]] - [[ルイ・ラシーヌ]]([[:en:Louis Racine|Louis Racine]])、[[詩人]]、[[ジャン・ラシーヌ]]の息子(+ [[1763年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1692年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月27日]]([[元禄]]5年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]) - [[有馬康純]]、[[日向国]][[延岡藩]]の[[肥前有馬氏|有馬氏]]第2代藩主(* [[1613年]])
* [[10月12日]] - [[ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィターリ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[歌手]]・[[作曲家]](* [[1632年]])
* [[王夫之]]、[[中国]]の[[儒学者]](* [[1619年]])
* [[ヘニッヒ・ブラント]]、[[錬金術師]](* [[1630年]]頃)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1692}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/1692%E5%B9%B4
|
13,698 |
1691年
|
1691年(1691 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
|
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1691年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
|
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2351年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]30年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]17年
** [[檀君紀元|檀紀]]4024年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]12年
* [[仏滅紀元]] : 2233年 - 2234年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1102年 - 1103年
* [[ユダヤ暦]] : 5451年 - 5452年
* [[ユリウス暦]] : 1690年12月22日 - 1691年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1691}}
== できごと ==
* [[9月22日]](元禄4年[[閏月|閏]][[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[住友家]]が[[別子銅山]]の採鉱を開始。
*[[オランダ]]・[[スヒーダム]] ‐ ノレット蒸留所設立
== 誕生 ==
{{see also|Category:1691年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月27日]] - [[エドワード・ケイヴ]]、[[イギリス]]の[[印刷会社|印刷業者]]、[[編集者]]、[[出版|出版業者]](+ [[1754年]])
* [[4月5日]] - [[ルートヴィヒ8世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ8世]]、[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]](+ [[1768年]])
* [[6月2日]] - [[ニコロ・ナッツオーニ]]、[[イタリア]]の[[フィレンツェ]]の[[建築家]](+ [[1773年]])
* [[6月17日]] - [[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]]、イタリアの[[ピアチェンツァ]]の建築家(+ [[1765年]])
* [[8月28日]] - [[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1691-1750)|エリーザベト・クリスティーネ]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の皇后(+ [[1750年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1691年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月13日]] - [[ジョージ・フォックス]]、[[イギリス]]出身の[[クエーカー]]の創始者(* [[1624年]])
* [[2月1日]] - [[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]]、第241代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1610年]])
* [[2月12日]] - [[御復活のラウレンシオ]]、[[カルメル会]]の[[修道士]](* [[1611年]])
* 4月 - [[澄一道亮]]、[[明]]末[[清]]初に来日した中国僧(* [[1608年]])
* [[4月23日]] - [[ジャン=アンリ・ダングルベール]]、[[フランス]]の[[バロック音楽]]の作曲家、宮廷[[チェンバロ]]奏者(* [[1629年]])
* [[5月23日]] - [[アドリアン・オーズー]]、フランスの[[天文学者]](* [[1622年]])
* [[6月23日]] - [[スレイマン2世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Suleyman-II-Ottoman-sultan Süleyman II Ottoman sultan] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[オスマン帝国]]の第20代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](* [[1642年]])
* [[7月16日]] - [[フランソワ=ミシェル・ル・テリエ]]、フランスの[[政治家]](* [[1641年]])
* [[8月19日]] - [[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]、オスマン帝国の[[大宰相]](* [[1637年]])
* [[9月9日]]([[元禄]]4年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[熊沢蕃山]]、[[陽明学者]](* [[1619年]])
* [[9月12日]] - [[ヨハン・ゲオルク3世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク3世]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]](* [[1647年]])
* [[11月14日]](元禄4年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]) - [[土佐光起]]、[[絵師]](* [[1617年]])
* [[11月15日]] - [[アルベルト・カイプ]]、画家(* [[1620年]])
* [[12月30日]] - [[ロバート・ボイル]]、[[アイルランド]]出身の貴族、[[物理学者]](* [[1627年]])
* [[12月31日]] - [[ダドリー・ノース]]、イギリスの[[経済学者]](* [[1641年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1691}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,706 |
血の日曜日事件 (1905年)
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血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)とは、1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月22日。以下、日付はすべてユリウス暦による)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。ロシア第一革命のきっかけとなった。また、皇帝も殺されかけた。
1905年1月9日は日曜日で、請願行進はガポン神父が計画したものだった。ガポンは教会司祭であり、独自の労働者組織を設立した人物である。
請願の内容は、憲法制定会議(英語版)の召集、労働者の諸権利の保障、敗北を重ねつつあった日露戦争の中止、各種の自由権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。
当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝は東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想である。このため民衆は皇帝ニコライ2世への直訴によって情勢が改善されると信じていた。
行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルクの全労働者18万人中、10万5千人に及んだと言われ、行進参加者は6万人ほどに達した。
当局は軍隊を動員してデモ隊を中心街へ入れない方針であったが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。
発砲による死者の数は不明確である。反政府運動側の報告では、4,000人以上に達したと主張される。一方、より慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。事件の話はモスクワ市内に速やかに広まり、市内各所で暴動と略奪が行われた。
ガポンが事件以前から組織していた労働者の集会は即日解散させられ、ガポンは直ちにロシアを離れた。ガポンは同年10月に帰国したが、翌1906年4月に社会革命党によって暗殺された。
この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、全国規模の反政府運動がこの年勃発した(ロシア第一革命)。
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血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)とは、1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月22日。以下、日付はすべてユリウス暦による)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。ロシア第一革命のきっかけとなった。また、皇帝も殺されかけた。
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{{Otheruses|1905年に[[サンクトペテルブルク]]で発生した血の日曜日事件|その他|血の日曜日事件}}
[[ファイル:Vladimirov-krocvavoe-voskr.jpg|300px|thumb|血の日曜日事件の絵画]]
'''血の日曜日事件'''(ちのにちようびじけん)とは、[[1905年]][[1月9日]]([[ユリウス暦]]。[[グレゴリオ暦]]では[[1月22日]]。以下、日付はすべてユリウス暦による)、[[ロシア帝国]]の当時の首都[[サンクトペテルブルク]]で行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が[[発砲]]し、多数の死傷者を出した事件。[[ロシア第一革命]]のきっかけとなった。また、皇帝も殺されかけた。
== 経緯 ==
[[ファイル:Bloody sunday.jpg|250px|thumb|当時の行進する群集の写真]]
[[ファイル:U Troitskogo mosta.jpg|250px|サムネイル|軍隊に銃撃されている群衆を描いた絵画]]
[[1905年]][[1月9日]]は[[日曜日]]で、請願行進は[[ゲオルギー・ガポン|ガポン神父]]が計画したものだった{{Sfn|田中他|1994|pp=346-349}}。ガポンは教会司祭であり、独自の労働者組織を設立した人物である{{Sfn|田中他|1994|pp=345-346}}{{Efn|ガポンは[[ロシア帝国内務省警察部警備局|警察当局]]の幹部{{仮リンク|セルゲイ・ズバートフ|en|Sergei Zubatov}}とも接触していたが、これは必ずしもガポンが当局の工作員であったことを意味せず、労働者運動の便宜を得るためであったと考えられている{{Sfn|田中他|1994|pp=345-346}}。}}。
請願の内容は、{{仮リンク|全ロシア憲法制定会議|label=憲法制定会議|en|All Russian Constituent Asemmbly}}の召集、[[労働者]]の諸権利の保障、敗北を重ねつつあった[[日露戦争]]の中止、各種の[[自由権]]の確立などで{{Sfn|田中他|1994|pp=346-349}}、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。
当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、[[君主崇拝|皇帝崇拝]]の観念をもっていた。これは、[[皇帝]]の権力は[[王権神授説|王権神授]]によるものであり、またロシア皇帝は[[東ローマ帝国]]を受け継ぐ[[キリスト教]]([[正教会]])の守護者であるという[[思想]]である。このため民衆は皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]への直訴によって情勢が改善されると信じていた。
行進に先立って挙行された[[ストライキ]]への参加者は、{{要出典範囲|サンクトペテルブルクの全労働者18万人|date=2017年11月28日 (火) 04:04 (UTC)}}中、10万5千人に及んだと言われ{{Sfn|田中他|1994|p=347}}<ref>{{Cite book|和書 |author=中野京子|authorlink=中野京子 |year = 2014 |title = 名画で読み解く ロマノフ家12の物語 |publisher = [[光文社]] |page = 202 |isbn = 978-4-334-03811-3}}</ref>、行進参加者は6万人ほどに達した{{Sfn|田中他|1994|p=349}}。
当局は軍隊を動員してデモ隊を中心街へ入れない方針であったが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した{{Sfn|藤沼|2009|p=555}}。
発砲による死者の数は不明確である。反政府運動側の報告では、4,000人以上に達したと主張される。一方、より慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。{{要出典範囲|事件の話はモスクワ市内に速やかに広まり、市内各所で暴動と略奪が行われた|date=2017年11月28日 (火) 04:04 (UTC)}}。
ガポンが事件以前から組織していた労働者の集会は即日解散させられ、ガポンは直ちにロシアを離れた。ガポンは同年10月に帰国したが、翌1906年4月に[[社会革命党]]によって[[暗殺]]された。
この事件の結果、[[君主崇拝|皇帝崇拝]]の幻想は打ち砕かれ、全国規模の反政府運動がこの年勃発した{{Sfn|田中他|1994|p=349}}([[ロシア第一革命]])。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor1-first=陽兒|editor1-last=田中|editor1-link=田中陽兒|editor2-first=俊一|editor2-last=倉持|editor2-link=倉持俊一|editor3-first=春樹|editor3-last=和田|editor3-link=和田春樹|year=1997|title=世界歴史大系 ロシア史 2 18~19世紀|publisher=山川出版社|isbn=9784634460706|ref={{Sfnref|田中他|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author=藤沼貴|authorlink=藤沼貴|year=2009|title=トルストイ|publisher=第三文明社|isbn=9784634460706|ref={{Sfnref|藤沼|2009}}}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Bloody Sunday}}
* [[ロシア革命]]
* [[ロシア第一革命]]
* [[ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)]]
* [[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)]]「[[1905年]]」 - この事件を題材にした音楽作品
*[[イサドラ・ダンカン]] - アメリカ出身で20世紀を代表するダンサーであり、この事件の2日後にペテルブルクを訪れて、この騒然とした状況を自伝「わが生涯」に記録している。
{{DEFAULTSORT:ちのにちようひしけん1905}}
[[Category:ロシア第一革命]]
[[Category:ロシア帝国の政治]]
[[Category:サンクトペテルブルクの歴史]]
[[Category:ロシアの事件]]
[[Category:1905年の戦闘]]
[[Category:1905年のロシア]]
[[Category:1905年1月]]
[[Category:ゲオルギー・ガポン]]
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13,707 |
代数
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代数(だいすう)
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代数(だいすう) 特定の数の代わりとして用いられる文字・記号などのこと。
代数学のこと。またそこで扱われる手法・対象などのこと。
多元環とも呼ばれる代数的構造のこと。
同一名の君主を区別するために付けられる数字のこと。○○1世、○○2世など。
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'''代数'''(だいすう)
# 特定の[[数]]の代わりとして用いられる[[文字]]・[[記号]]などのこと。
# [[代数学]]のこと。またそこで扱われる手法・対象などのこと。
# [[多元環]]とも呼ばれる[[代数的構造]]のこと。
# 同一名の君主を区別するために付けられる数字のこと。○○1世、○○2世など。
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[[Category:数学に関する記事]]
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13,710 |
1676年
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1676年(1676 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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1676年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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{{年代ナビ|1676}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延宝]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2336年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]15年
*** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]30年
*** [[楊起隆]] : [[広徳 (楊起隆)|広徳]]4年
*** [[呉三桂]] : [[昭武|周王]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]2年
** [[檀君紀元|檀紀]]4009年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永治 (黎朝)|永治]]元年
* [[仏滅紀元]] : 2218年 - 2219年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1086年 - 1087年
* [[ユダヤ暦]] : 5436年 - 5437年
* [[ユリウス暦]] : 1675年12月22日 - 1676年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1676}}
== できごと ==
* [[9月]] - [[天文学者]][[オーレ・レーマー]]が初めて[[光速度]]を測定{{要出典|date=2021-03}}。
* [[加賀藩]]が[[日本庭園]]「蓮池庭(れんちてい)」(後の[[兼六園]])を造園{{要出典|date=2021-04}}。
* [[グリニッジ天文台]]が完成する。
* [[フランシス・ウィラビイ]]の鳥類図譜Ornithologiaが出版される。
* フランスの[[モーズ・シャラス]]が『欽定薬局方と化学』(Pharmacopée royale galénique et chimique)を出版した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1676年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月23日]] - [[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]、[[スウェーデン]][[国王]](+ [[1751年]])
* [[5月23日]] - [[ヨハン・ベルンハルト・バッハ]]、[[バッハ家]]の[[作曲家]](+ [[1749年]])
* [[8月26日]] - [[ロバート・ウォルポール]]、イギリス初代首相(+ [[1745年]])
* [[12月19日]] - [[ルイ=ニコラ・クレランボー]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1749年]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Louis-Nicholas-Clerambault Louis-Nicholas Clérambault French musician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)
* [[小野寺秀富]]、[[赤穂浪士]](+ [[1703年]])
* [[杉野次房]]、赤穂浪士(+ [[1703年]])
* [[早野巴人]]、[[俳人]](1677年説あり、+ [[1742年]])
* [[アレキサンダー・セルカーク]]、[[ロビンソン・クルーソー]]のモデルではないかとされる[[水夫]](+ [[1721年]])
* [[フィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク]]([[w:Philip Johan von Strahlenberg|Philip Johan von Strahlenberg]])、[[地理学者]](+ [[1747年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1676年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月14日]] - [[ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ]]、作曲家(* [[1602年]])
* [[1月29日]] - [[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ・ミハイロヴィチ]]、[[ツァーリ|ロシア皇帝]](* [[1629年]])
* [[2月14日]] - [[アブラハム・ボス]]([[w:Abraham Bosse|Abraham Bosse]])、画家(* [[1603年]]前後)
* [[2月16日]](延宝4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[井伊直澄]]、[[大老]]、[[近江国|近江]][[彦根藩]]第3代藩主(* [[1625年]])
* [[4月29日]] - [[ミヒール・デ・ロイテル]]、[[海軍]][[提督]](* [[1607年]])
* [[6月7日]] - [[パウル・ゲルハルト]]、[[賛美歌]][[作詞家]](* [[1606年]])
* [[7月22日]] - [[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]]、[[ローマ教皇]](* [[1590年]])
* [[8月17日]] - [[ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼン]]、[[作家]](* [[1621年]])
* [[8月28日]] - [[ジョアン・セレロールス]]、[[修道士]]、作曲家(* [[1618年]])
* [[9月]] - [[ジャック・ド・ジャン]]、[[著述家]](* [[1626年]])
* [[10月25日]] - [[ユーストゥス・ゲオルク・ショッテル]]、[[文法]]学者(* [[1612年]])
* [[10月28日]] - [[ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1595年]])
* [[11月2日]] - [[アダム・ヴァーツラフ・ミフナ]]、[[詩人]]、作曲家、オルガニスト(* [[1600年]]頃)
* [[12月20日]](延宝4年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - [[藤堂高次]]、[[伊勢国]][[津藩]]の第2代藩主、[[藤堂高虎]]の嫡男(* [[1602年]])
==フィクションのできごと==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1676|date=2015年6月}}
* 不明 - フランシス・アドック卿指揮下のフランス軍艦ユニコーン号が、[[西インド諸島]]からフランスへ向かう途中に海賊レッド・ラッカムの襲撃を受ける。(漫画・アニメ『[[タンタンの冒険|タンタンの冒険旅行]]』)
* 不明 - 宇宙を航行中のガイラー星人が母船「ゲルモス」(後のガイラー帝国空中要塞)の故障で地球の[[北極]]に不時着し、眠りに着く。(アニメ『[[グロイザーX]]』)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1676}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
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[[Category:1676年|*]]
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2022-03-16T05:06:41Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1676%E5%B9%B4
|
13,711 |
根
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根 (ね、root) は、葉や茎とともに、維管束植物 (広義のシダ植物と種子植物) の体を構成する器官の1つである。ふつう地中にあって植物体を基質に固定し、地上部を支えるとともに (図A)、水や無機養分を吸収する役割を担っている (→#根の機能)。
根は先端成長を行い (基本的に先端部だけで細胞分裂を行う)、それを司る根端分裂組織は根冠とよばれる保護構造で覆われている (→#根端)。根は外側から表皮、皮層、中心柱からなり、先端付近の表皮からは根毛とよばれる細長い突起が生じ、吸水面積を広げ、根を土壌に密着させる (図B) (→#内部構造)。中心柱内には吸収した水や無機栄養分を茎や葉に運ぶ木部と葉からの光合成産物が通る師部が放射状に配置しており (放射中心柱)、中心柱は外部との物質連絡を調節する内皮で囲まれている。多くの維管束植物では、内部で形成された新たな根が外側を突き破って伸びることで内生的に側方分枝するが (図C)、小葉植物では外生的に二又分枝する (→#分枝)。胚の時期 (種子の中など) に形成された幼根に由来する根を定根、二次的に茎から生じたものなどそれ以外の根を不定根とよぶ (→#定根と不定根)。木本植物 (木) では、茎と同様に根も維管束形成層による二次成長を行う (→#一次成長と二次成長)。
根はふつう地中にあるが、地上部にあって呼吸や支持、付着、光合成など特殊な機能を担っていることがある (→#さまざまな根)。根はふつう菌根菌と共生して菌根を形成しており、マツタケやトリュフは菌根菌の例である (→#他生物と共生した根)。窒素固定を行う細菌が根に共生している例もある (シロツメクサなど)。また寄生植物は、根を使って他の植物に寄生している。根の中には、食用 (ダイコン、サツマイモ、ニンジンなど) や薬用 (高麗人参やハシリドコロなど) とされるものがある (→#人間との関わり)。
上記のように根は基本的に維管束植物の器官を意味するが、コケ植物や藻類、固着動物など他の生物群がもつ類似の構造を便宜的に根とよぶこともある。以下では維管束植物の器官である根について解説する。
維管束植物の生活環において主要な世代である胞子体 (ゲノムを2セットもち、減数分裂によって胞子を形成する体) は、茎と葉 (シュートとしてまとめられることもある) および根からなる。例外的に、マツバラン類 (ハナヤスリ亜綱) やコイチヨウラン、オニノヤガラ (ラン科) など菌根菌に大きく依存している植物、サンショウモ属 (薄嚢シダ類) やミジンコウキクサ (サトイモ科) など一部の浮水植物、エアープランツであるサルオガセモドキ (パイナップル科) などは少なくとも成熟した状態では根をもたない。
根はふつう細長い軸状の構造であり、先端成長する。根の先端部分は根端 (root apex) とよばれる。根端の中には根端分裂組織 (root apical meristem, RAM) とよばれる分裂組織が存在し、活発な細胞分裂を行っている (図1a)。茎のシュート頂分裂組織とは異なり、根端分裂組織の先端側は根冠 (root cap) とよばれる多細胞層の柔組織によって覆われている (図1a)。根端分裂組織は先端側に根冠を、基部側に新たな根の組織を作り出して成長していく。
根は土壌中を伸びていくため、先端表面にある根冠の細胞は次第にはがれ落ちていくが (ふつう1個の根冠細胞の寿命は1〜9日ほど)、根端分裂組織によって内側から順次新たな根冠細胞が供給され、根冠には一定量の細胞が維持されている (図1a)。根冠の細胞はムシゲル (粘質ゲル、mucigel) を分泌し、根端を保護すると共に根を伸長しやすくする。根はふつう正の重力屈性 (屈地性; 下方へ伸びる性質) を示すが、根冠中央基部付近の細胞 (平衡細胞) 内でアミロプラスト (光合成能を欠き、デンプン粒を多く含む色素体) が沈降することが重力方向の感知に関わっていると考えられている。
根端分裂組織からは基部側へも新たな細胞が付加され、これが拡大伸長し、それに伴い組織分化していくことで根が伸長していく。根端分裂組織から基部側へつくられた組織は、外側から前表皮 (protoderm)、基本分裂組織 (ground meristem)、前形成層 (procambium) とよばれ、これがそれぞれ表皮、皮層、中心柱へと分化する。構成する細胞の状態に応じて、根は先端側から大まかに (重なりながら) 分裂帯 (細胞分裂帯、分裂領域 meristematic zone)、伸長帯 (伸長領域 elongation zone)、成熟帯 (分化帯、分化領域 differentiation zone) に分けられる。根端分裂組織を含む部分が分裂帯であり、細胞数が増加していく。ふつう根端から数 mm のところが伸長帯であり、細胞が拡大伸長している。根の伸長はこの部分で最も活発であり、細胞はときに10倍以上に伸長する。細胞はこの部分で分化し始め、やがて成熟帯において細胞分化が完了する。
根は、基本的に外側から表皮、皮層、中心柱 (維管束柱) からなる (図2a, b)。ただし活発な二次成長を行った根ではほとんどが二次維管束からなり、表面は周皮で覆われている (下記)。
根の表面はふつう1層の細胞からなる表皮 (epidermis; 根の表皮は特に rhizodermis とも表記される) によって囲まれている (図2a, b)。地上部のシュート (茎や葉) とは異なり、地中の根の表皮ではクチクラ層があまり発達しておらず (そのため吸水できる)、また気孔も存在しない。根の表皮は、根端分裂組織からやや離れたところで根毛 (root hair) を形成する。シロイヌナズナ (アブラナ科) などでは、不等分裂によって形成された小型の根毛形成細胞 (原根毛、trichoblast) が伸長して根毛となる。根毛は直径 10 μm ほどであり、ふつう短命であるが、半年以上残存するものもある (宿存根毛)。根毛の存在は、土壌粒子との密着や吸水する根の表面積の増大に寄与すると考えられている。
表皮の内側には、皮層 (cortex) が存在する。皮層は主に柔細胞からなり、デンプンなどの養分貯蔵に重要な役割を果たすことがある。また根の皮層には大きな細胞間隙が存在することが多く (特に水生植物など)、根の呼吸におけるガス交換に有用であると考えられている (図2a)。皮層の最外層 (表皮のすぐ内側) にある1〜数層は、下皮 (hypodermis) とよばれる。下皮はときにスベリンやリグニンを沈着して細胞壁が厚化し、またカスパリー線が存在することがあり、このような下皮は外皮 (exodermis) とよばれる。外皮は、はがれ落ちた表皮に代わって根の保護構造となる。一方、皮層の最内層には、1層の細胞層からなる内皮 (endodermis) が存在する (図2b)。内皮にはカスパリー線が存在し (細胞壁を通した物質輸送を遮断し、原形質を通した輸送のみを可能にしている)、中心柱への物質の出入りを調節している。古くなった内皮ではしばしばほとんどの細胞壁が木化し (中心柱からの水の漏出を防ぐ)、肥厚していない一部の内皮細胞 (通過細胞 passage cell) を通して通水する。
内皮より内側の部分は、中心柱 (stele, central cylinder, central column) とよばれ、主に維管束からなる。中心柱の周縁部には1〜数層の柔細胞からなる内鞘 (pericycle) があり、新たな側根はふつうここから (または内皮から) 生じる (下記)。中心柱は放射中心柱 (actinostele) であり、中央に位置する木部 (一次木部) は横断面で放射状に突出部 (腕、ray) をもち、腕の間に師部 (一次師部) が位置する (図2c)。木部の中心が髄になり、木部の腕がそれぞれ独立していることもある (図2b)。木部はふつう外原型 (外側から求心的に形成される) であるが、小葉植物の根では木部は内原型 (内側から遠心的に形成される) である。
中心柱における木部の突出部 (腕) の数 (原生木部の数) は同一個体内でも変化することがあるが、ふつう種によってほぼ一定である。根の木部は、原生木部の数に応じて二原型 (diarch)、三原型 (triarch; 図2c)、四原型 (tetrarch)、五原型 (pentarch) とよばれ、また6個以上の場合は多原型 (polyarch) とよばれる (単子葉類に多い; 図2a, b)。ミズニラ属 (小葉植物) の根の中心柱は特異であり、一原型 (monoarch) である (古生代のリンボク類と共通)。
根は、ふつう根端から比較的離れた場所で、側根 (lateral root; 分枝根 branch root) を形成して側方分枝 (中軸分枝) する。根の内部の中心柱の最外層にある内鞘 (またはその外側の内皮) から新たな側根の原基が生じ、これが皮層や表皮を突き破って伸長する (図3a)。すなわち根の分枝は内生的 (endogenous; 新たな根が内部に形成される) であり、茎の分枝が外生的 (exogenous; 新たな茎が表面から形成される) であるのとは対照的である。
根はしばしば分枝を繰り返す。主となる根から生じた側根は一次側根 (primary lateral root)、そこから生じた側根は二次側根 (secondary lateral root) のように順によばれることがある。
側根はふつう根の中心柱に対して特定の位置に由来し、特に原生木部に面する部分 (横断面で木部が外側へ突出している部分) から生じることが多いが、他にも原生師部に面する部分や原生木部と原生師部の間から生じる例も知られている。そのため、側根は縦列 (または螺生) して生じることが多く、その列数から中心柱の構造が推定できる。側根が2列であるダイコン (アブラナ科) は二原型木部、側根が4列であるニンジン (セリ科) は四原型木部、側根が5列であるサツマイモ (ヒルガオ科) は五原型木部をもつ。
上記のように根の分枝はふつう内生的であり側方分枝であるが、例外的に小葉植物の根はその茎と同様に、根端分裂組織が2分することによって二又分枝する (図3b)。つまり小葉植物の根の分枝は外生的 (新たな根が表面から形成される) である。また小葉植物は、根の木部が内原型である点でも他の維管束植物とは異なっている (上記)。このように小葉植物とそれ以外の維管束植物 (大葉植物、真葉植物) の根は大きく異なる特徴を示し、一般的にこれらの根は異なる起源をもつものと考えられている。ただし小葉植物の根も、根冠や根毛をもつ点や、茎から内生発生する点では大葉植物の根と共通している。
ある植物において地下部または根全体、あるいは1個の根とそこから生じている根を合わせたものは、根系 (こんけい、root system) とよばれる。地下部全体とする場合、根系は根と共に地下茎なども含む。この場合、維管束植物の植物体は、地上部のシュート系と地下部の根系からなる。
太さに応じて根を太根と細根に類別することがある。樹木では、一部の根が太く肥大し、それに細い根をまじえている。一方、イネ科の草本などでは、全ての根が肥大せず同様な太さになっている。このような中で、太く肥大した根を太根 (woody root, thick root)、太根を主とする根系は太根型根系 (woody root system) とよぶことがある。一方、細いままである根を細根 (fine root, rootlet)、細根を主とする根系は細根型根系 (fine root system) とよぶことがある。
維管束植物において、根は胚の段階 (種子の中など) で幼根 (radicle) として形成される。これが成長して一次根 (初生根、primary root) となり、発達したものは主根 (main root、直根 taproot) になる。主根からは側根が生じる。このように幼根に由来する根、およびそこから生じた根を定根とよぶ。定根からなる根系は、一次根系 (primary root system) とよばれ、また主根型根系 (主根系、直根系、taproot system) ともよばれる (図4a)。
定根に対して、幼根以外に由来する根は不定根 (adventitious root) とよばれる。不定根は、ふつう茎の維管束周辺から内生的に生じるが、まれに外生的に生じる例も知られている (例:ベゴニアの葉挿し)。不定根は茎の節から生じることが多く、このような根は節根 (nodal root) ともよばれる (図4c)。そのため、挿し木にはふつう節を残した茎が用いられる。また定根と同様、不定根も側根を生じて側方分枝する (小葉植物以外; 上記参照)。シダ植物 (広義) や単子葉植物では、ふつうほとんどの根が不定根からなる。このような根系は二次根系 (secondary root system) または不定根系 (adventitious root system) とよばれる。また多数まとまって生じている一様な不定根はひげ根 (fibrous root) とよばれ、ひげ根からなる根系はひげ根型根系 (ひげ根系、fibrous root system) とよばれる (図4b)。
種子植物において、種子から生じる根は種子根 (seminal root) とよばれる。種子根はふつう幼根であるが、既に幼根から側根 (種子側根) が生じている例もある。またイネ科などでは、胚軸から生じた不定根が種子根となることもある (種子不定根 seminal adventitious root)。
上記のように、根は頂端分裂組織 (apical meristem) である根端分裂組織における細胞分裂とそれに続く細胞の拡大伸長によって成長する。この成長は一次成長 (primary growth) とよばれ、基本的に長さを増す成長である。一方、一次成長がほぼ完了した部位において新たな分裂組織が生じることがあり、これによる成長は二次成長 (secondary growth) とよばれる。二次成長は基本的に太さを増す成長であり、これを司る分裂組織は側部分裂組織 (lateral meristem) である。側部分列組織には、維管束形成層やコルク形成層がある。
単子葉植物などを除き、多くの種子植物の根は二次成長を行う。一次木部と一次師部の間に (木部を取り囲むように) 維管束形成層 (vascular cambium) がつくられ、内側に二次木部を、外側に二次師部を形成していく。根はふつう放射中心柱をもつため、維管束形成層の横断面は最初は星状だが、二次成長によってやがて円形になる。木本植物の根では、茎と同様に二次木部は主に仮道管や道管要素、木部繊維など木化した細胞からなるが (図5a, b)、サツマイモ (ヒルガオ科) などの根では多量の柔細胞が形成される。
茎の二次成長と同様、活発な二次成長によって直径が増すと、表皮、さらに皮層は裂けて剥がれることがある。この際には、皮層や内鞘などに1層の細胞からなる側部分裂組織であるコルク形成層 (phellogen) が形成される。コルク形成層は外側にコルク組織 (phellem)、内側にコルク皮層 (phelloderm) を形成し、これらは合わせて周皮 (periderm) とよばれる。コルク組織の細胞は原形質を欠き、細胞壁にスベリン、ときにリグニンが沈着して根の表面を保護している (図5a, b)。
根はふつう地中にあり、水やそこに含まれる窒素塩 (硝酸塩など) やカリウム、カルシウム、リン酸などの無機養分を吸収し、維管束の木部を通して植物体全体に送る (木部輸送)。根は分枝することで表面積を広げ、このような水や無機養分を吸収している。ライムギ (イネ科) の場合、根の表面積は地上部のシュート系 (茎と葉) の表面積の40倍に達すると試算されている。根は効率的な無機栄養吸収のための応答を示し、例えば硝酸塩が多い場所では根はよく分枝し、またその細胞は効率よく硝酸塩を吸収できるような遺伝子発現を行う。根毛や菌根菌の存在は根の表面積を広げ、根の吸収効率を高めている。
土壌粒子はふつう負に帯電しているため、硝酸、リン酸、硫酸などの陰イオンは土壌粒子には結合しない。そのためこれらの無機栄養は容易に土壌溶液に溶脱し、根によって吸収される。一方、カリウム、カルシウム、マグネシウムなど陽イオンは土壌粒子に結合しており、容易には溶脱しない。根は呼吸によって土壌中に二酸化炭素を放出し、土壌溶液を酸性化する。その結果水素イオン (H) が供給される。この水素イオンが土壌粒子を中和、結合していた陽イオンが土壌溶液に溶脱し、根が吸収する。この過程は陽イオン交換 (cation exchange) とよばれる。
根の表面で吸収された無機養分を含む水溶液は、細胞壁内や細胞間隙など原形質外の通路 (アポプラスト経路) や原形質を通る通路 (シンプラスト経路) を通って維管束の木部へ輸送される。根では、維管束は内皮に囲まれているため、吸収された水溶液が木部に輸送される際には必ず内皮を通る。内皮細胞どうしの接着部には疎水性物質であるスベリンが蓄積してカスパリー線が形成され、さらに細胞膜がカスパリー線に密着している。そのため、アポプラスト経路で輸送されてきた水溶液も、内皮では細胞壁を通ることはできず、必ず内皮細胞の原形質を通らなければならない。内皮細胞は木部へ送られる物質の選別を行い、必要な物質を通し、不必要な物質は透過しない。また、内皮細胞は中心柱から外側へ物質が逆流することを防いでいる。さらに、皮層の最外層にカスパリー線をもつ外皮が形成されることもある (上記)。
根は植物ホルモンであるサイトカイニンの主な生成場所であり、他にもオーキシンやジベレリン、ストリゴラクトンなどの植物ホルモンを生成する。サイトカイニンは細胞分裂を制御し、オーキシンは側根や不定根の形成を促進する。またオーキシンは高濃度では細胞伸長を抑制するが、この伸長抑制が根の重力屈性に関わっていると考えられている。エチレンによって根や根毛形成が促進され、ブラシノステロイドは低濃度で根の成長促進、高濃度で根の成長阻害をする。ストリゴラクトンは菌根菌を根に誘因するが、ストリゴラクトンを感知して宿主の根に寄生する寄生植物も知られている。
根はふつう地中にあり、植物体の固定と水・無機養分の吸収という機能をもつ。しかし地中部にあってもこれ以外の機能をもつ根も存在する。また地中ではなく地上に伸びて機能する根もある (気根)。さらに、根はしばしば他生物 (菌根菌、根粒菌、宿主植物など) と密接な共生関係を結んでいる。
地中にある根は地中根 (terrestrial root) と総称される。
地上部にある根は気根 (aerial root) と総称される。地下茎から生じるものや、地上茎、水中茎から生じるものなどがある。
通常の状態として水中に伸びている根を水中根 (aquatic root) という (図8)。このような根は、根冠や根毛を欠いていることがある。ミズキンバイ (アカバナ科) は、水底を横走する根茎の背面から列状に生じて水中に浮かんでいる根をもち、特に浮根 (floating root) とよばれる。
根はふつうは地中にあり、他生物と密接な共生関係を築いている例が多い。根は特に根冠や根毛を通じて有機物 (光合成産物の20%にも達することもある) を土壌中に分泌・放出しており、根の周囲に特異な環境を形成している。このような環境は根圏 (rhizosphere) とよばれ、さまざまな微生物が植物と共生関係を結んで生育している。また下記のように、ほとんどの維管束植物は根において菌類と直接的に共生して菌根を形成しており、さらに窒素固定を行う生物と共生して特異な構造を形成している例もある。
共生の1形態として、寄生がある。他の植物に寄生し養分を奪う植物は寄生植物とよばれ、自ら光合成を行いながら宿主からも栄養分を奪う半寄生植物 (ヤドリギなど) と、光合成能を欠き、有機物も含めた栄養分を宿主から奪う全寄生植物 (ネナシカズラなど) がある。寄生植物は栄養分を吸収するために宿主に吸器 (haustorium, pl. haustoria) を付着させているが、寄生植物における吸器は特殊化した根であり、この根は寄生根 (parasitic root) ともよばれる。寄生根では、しばしば寄生植物と宿主の維管束 (木部) がつながっている (木部架橋、xylem bridge) (図10b)。寄生根は、以下のようにいくつかのタイプに類別されることがある。
根菜とよばれる野菜の中には、サトイモ (サトイモ科)、タマネギ (ヒガンバナ科)、レンコン (ハス科)、ジャガイモ (ナス科) など実際には根ではなく茎 (根茎、塊茎など) に由来するものも多い。根 (ときにそれに続く胚軸も含めて) を食用として利用するものとしては、ダイコンやカブ、ハツカダイコン、ホースラディッシュ、ルタバガ、マカ (アブラナ科)、キャッサバ (トウダイグサ科)、クズ、ホドイモ (マメ科)、ビート、テンサイ (図11a) (ヒユ科)、サツマイモ (図11b) (ヒルガオ科)、ニンジン、パースニップ (セリ科)、ゴボウ、モリアザミ、サルシファイ、ヤーコン (キク科) などがある。
一方、薬用とされる根もあり (地下茎と区別せずに共に用いられる例もある)、テンダイウヤク (クスノキ科)、ジャノヒゲ (キジカクシ科)、トリカブト、サキシマボタンヅル (キンポウゲ科)、シャクヤク、ボタン (ボタン科)、キバナオウギ、カンゾウ、クララ (マメ科)、イトヒメハギ、セネガ (ヒメハギ科)、オオカラスウリ (ウリ科)、ヒナタイノコヅチ (ヒユ科)、ツルドクダミ (タデ科)、トコン (アカネ科)、ゲンチアナ (図11c)、トウリンドウ (リンドウ科)、インドジャボク (キョウチクトウ科)、ムラサキ (ムラサキ科)、コガネバナ (シソ科)、ベラドンナ、ハシリドコロ (ナス科)、オタネニンジン (高麗人蔘; 図11d) (ウコギ科)、ミシマサイコ、ノダケ、トウキ、トウスケボウフウ、ヨロイグサ (セリ科)、キキョウ (キキョウ科)、カノコソウ、オミナエシ (スイカズラ科)、モッコウ (キク科) の根が利用される。
またアカネ (アカネ科) や ムラサキ (ムラサキ科) の根は、古くから染料として用いられてきた。
上記のように、マメ科植物の多くは根において窒素固定細菌と共生して根粒を形成している。そのため、耕作地にマメ科植物 (シロツメクサ、ミヤコグサなど) を栽培し、窒素栄養分などを土地に供給する緑肥として利用することがある (図11e)。マメ科植物の利用は、18世紀の農業革命において重要な役割を演じた。
根は地中を伸長し、また肥大成長することで母岩などを破壊し、このような働きは土壌形成に重要な役割を果たしている。このような働きにより、舗装道路など人工構造が破壊されることもある。また根の成長によって、アンコール遺跡などの遺跡が被害を受けることもある (一方でこのような景観が観光スポットにもなっている) (図11f)。
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"text": "表皮の内側には、皮層 (cortex) が存在する。皮層は主に柔細胞からなり、デンプンなどの養分貯蔵に重要な役割を果たすことがある。また根の皮層には大きな細胞間隙が存在することが多く (特に水生植物など)、根の呼吸におけるガス交換に有用であると考えられている (図2a)。皮層の最外層 (表皮のすぐ内側) にある1〜数層は、下皮 (hypodermis) とよばれる。下皮はときにスベリンやリグニンを沈着して細胞壁が厚化し、またカスパリー線が存在することがあり、このような下皮は外皮 (exodermis) とよばれる。外皮は、はがれ落ちた表皮に代わって根の保護構造となる。一方、皮層の最内層には、1層の細胞層からなる内皮 (endodermis) が存在する (図2b)。内皮にはカスパリー線が存在し (細胞壁を通した物質輸送を遮断し、原形質を通した輸送のみを可能にしている)、中心柱への物質の出入りを調節している。古くなった内皮ではしばしばほとんどの細胞壁が木化し (中心柱からの水の漏出を防ぐ)、肥厚していない一部の内皮細胞 (通過細胞 passage cell) を通して通水する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "内皮より内側の部分は、中心柱 (stele, central cylinder, central column) とよばれ、主に維管束からなる。中心柱の周縁部には1〜数層の柔細胞からなる内鞘 (pericycle) があり、新たな側根はふつうここから (または内皮から) 生じる (下記)。中心柱は放射中心柱 (actinostele) であり、中央に位置する木部 (一次木部) は横断面で放射状に突出部 (腕、ray) をもち、腕の間に師部 (一次師部) が位置する (図2c)。木部の中心が髄になり、木部の腕がそれぞれ独立していることもある (図2b)。木部はふつう外原型 (外側から求心的に形成される) であるが、小葉植物の根では木部は内原型 (内側から遠心的に形成される) である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "中心柱における木部の突出部 (腕) の数 (原生木部の数) は同一個体内でも変化することがあるが、ふつう種によってほぼ一定である。根の木部は、原生木部の数に応じて二原型 (diarch)、三原型 (triarch; 図2c)、四原型 (tetrarch)、五原型 (pentarch) とよばれ、また6個以上の場合は多原型 (polyarch) とよばれる (単子葉類に多い; 図2a, b)。ミズニラ属 (小葉植物) の根の中心柱は特異であり、一原型 (monoarch) である (古生代のリンボク類と共通)。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "根は、ふつう根端から比較的離れた場所で、側根 (lateral root; 分枝根 branch root) を形成して側方分枝 (中軸分枝) する。根の内部の中心柱の最外層にある内鞘 (またはその外側の内皮) から新たな側根の原基が生じ、これが皮層や表皮を突き破って伸長する (図3a)。すなわち根の分枝は内生的 (endogenous; 新たな根が内部に形成される) であり、茎の分枝が外生的 (exogenous; 新たな茎が表面から形成される) であるのとは対照的である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "根はしばしば分枝を繰り返す。主となる根から生じた側根は一次側根 (primary lateral root)、そこから生じた側根は二次側根 (secondary lateral root) のように順によばれることがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "側根はふつう根の中心柱に対して特定の位置に由来し、特に原生木部に面する部分 (横断面で木部が外側へ突出している部分) から生じることが多いが、他にも原生師部に面する部分や原生木部と原生師部の間から生じる例も知られている。そのため、側根は縦列 (または螺生) して生じることが多く、その列数から中心柱の構造が推定できる。側根が2列であるダイコン (アブラナ科) は二原型木部、側根が4列であるニンジン (セリ科) は四原型木部、側根が5列であるサツマイモ (ヒルガオ科) は五原型木部をもつ。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "上記のように根の分枝はふつう内生的であり側方分枝であるが、例外的に小葉植物の根はその茎と同様に、根端分裂組織が2分することによって二又分枝する (図3b)。つまり小葉植物の根の分枝は外生的 (新たな根が表面から形成される) である。また小葉植物は、根の木部が内原型である点でも他の維管束植物とは異なっている (上記)。このように小葉植物とそれ以外の維管束植物 (大葉植物、真葉植物) の根は大きく異なる特徴を示し、一般的にこれらの根は異なる起源をもつものと考えられている。ただし小葉植物の根も、根冠や根毛をもつ点や、茎から内生発生する点では大葉植物の根と共通している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ある植物において地下部または根全体、あるいは1個の根とそこから生じている根を合わせたものは、根系 (こんけい、root system) とよばれる。地下部全体とする場合、根系は根と共に地下茎なども含む。この場合、維管束植物の植物体は、地上部のシュート系と地下部の根系からなる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "太さに応じて根を太根と細根に類別することがある。樹木では、一部の根が太く肥大し、それに細い根をまじえている。一方、イネ科の草本などでは、全ての根が肥大せず同様な太さになっている。このような中で、太く肥大した根を太根 (woody root, thick root)、太根を主とする根系は太根型根系 (woody root system) とよぶことがある。一方、細いままである根を細根 (fine root, rootlet)、細根を主とする根系は細根型根系 (fine root system) とよぶことがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "維管束植物において、根は胚の段階 (種子の中など) で幼根 (radicle) として形成される。これが成長して一次根 (初生根、primary root) となり、発達したものは主根 (main root、直根 taproot) になる。主根からは側根が生じる。このように幼根に由来する根、およびそこから生じた根を定根とよぶ。定根からなる根系は、一次根系 (primary root system) とよばれ、また主根型根系 (主根系、直根系、taproot system) ともよばれる (図4a)。",
"title": "定根と不定根"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "定根に対して、幼根以外に由来する根は不定根 (adventitious root) とよばれる。不定根は、ふつう茎の維管束周辺から内生的に生じるが、まれに外生的に生じる例も知られている (例:ベゴニアの葉挿し)。不定根は茎の節から生じることが多く、このような根は節根 (nodal root) ともよばれる (図4c)。そのため、挿し木にはふつう節を残した茎が用いられる。また定根と同様、不定根も側根を生じて側方分枝する (小葉植物以外; 上記参照)。シダ植物 (広義) や単子葉植物では、ふつうほとんどの根が不定根からなる。このような根系は二次根系 (secondary root system) または不定根系 (adventitious root system) とよばれる。また多数まとまって生じている一様な不定根はひげ根 (fibrous root) とよばれ、ひげ根からなる根系はひげ根型根系 (ひげ根系、fibrous root system) とよばれる (図4b)。",
"title": "定根と不定根"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "種子植物において、種子から生じる根は種子根 (seminal root) とよばれる。種子根はふつう幼根であるが、既に幼根から側根 (種子側根) が生じている例もある。またイネ科などでは、胚軸から生じた不定根が種子根となることもある (種子不定根 seminal adventitious root)。",
"title": "定根と不定根"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "上記のように、根は頂端分裂組織 (apical meristem) である根端分裂組織における細胞分裂とそれに続く細胞の拡大伸長によって成長する。この成長は一次成長 (primary growth) とよばれ、基本的に長さを増す成長である。一方、一次成長がほぼ完了した部位において新たな分裂組織が生じることがあり、これによる成長は二次成長 (secondary growth) とよばれる。二次成長は基本的に太さを増す成長であり、これを司る分裂組織は側部分裂組織 (lateral meristem) である。側部分列組織には、維管束形成層やコルク形成層がある。",
"title": "一次成長と二次成長"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "単子葉植物などを除き、多くの種子植物の根は二次成長を行う。一次木部と一次師部の間に (木部を取り囲むように) 維管束形成層 (vascular cambium) がつくられ、内側に二次木部を、外側に二次師部を形成していく。根はふつう放射中心柱をもつため、維管束形成層の横断面は最初は星状だが、二次成長によってやがて円形になる。木本植物の根では、茎と同様に二次木部は主に仮道管や道管要素、木部繊維など木化した細胞からなるが (図5a, b)、サツマイモ (ヒルガオ科) などの根では多量の柔細胞が形成される。",
"title": "一次成長と二次成長"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "茎の二次成長と同様、活発な二次成長によって直径が増すと、表皮、さらに皮層は裂けて剥がれることがある。この際には、皮層や内鞘などに1層の細胞からなる側部分裂組織であるコルク形成層 (phellogen) が形成される。コルク形成層は外側にコルク組織 (phellem)、内側にコルク皮層 (phelloderm) を形成し、これらは合わせて周皮 (periderm) とよばれる。コルク組織の細胞は原形質を欠き、細胞壁にスベリン、ときにリグニンが沈着して根の表面を保護している (図5a, b)。",
"title": "一次成長と二次成長"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "根はふつう地中にあり、水やそこに含まれる窒素塩 (硝酸塩など) やカリウム、カルシウム、リン酸などの無機養分を吸収し、維管束の木部を通して植物体全体に送る (木部輸送)。根は分枝することで表面積を広げ、このような水や無機養分を吸収している。ライムギ (イネ科) の場合、根の表面積は地上部のシュート系 (茎と葉) の表面積の40倍に達すると試算されている。根は効率的な無機栄養吸収のための応答を示し、例えば硝酸塩が多い場所では根はよく分枝し、またその細胞は効率よく硝酸塩を吸収できるような遺伝子発現を行う。根毛や菌根菌の存在は根の表面積を広げ、根の吸収効率を高めている。",
"title": "根の機能"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "土壌粒子はふつう負に帯電しているため、硝酸、リン酸、硫酸などの陰イオンは土壌粒子には結合しない。そのためこれらの無機栄養は容易に土壌溶液に溶脱し、根によって吸収される。一方、カリウム、カルシウム、マグネシウムなど陽イオンは土壌粒子に結合しており、容易には溶脱しない。根は呼吸によって土壌中に二酸化炭素を放出し、土壌溶液を酸性化する。その結果水素イオン (H) が供給される。この水素イオンが土壌粒子を中和、結合していた陽イオンが土壌溶液に溶脱し、根が吸収する。この過程は陽イオン交換 (cation exchange) とよばれる。",
"title": "根の機能"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "根の表面で吸収された無機養分を含む水溶液は、細胞壁内や細胞間隙など原形質外の通路 (アポプラスト経路) や原形質を通る通路 (シンプラスト経路) を通って維管束の木部へ輸送される。根では、維管束は内皮に囲まれているため、吸収された水溶液が木部に輸送される際には必ず内皮を通る。内皮細胞どうしの接着部には疎水性物質であるスベリンが蓄積してカスパリー線が形成され、さらに細胞膜がカスパリー線に密着している。そのため、アポプラスト経路で輸送されてきた水溶液も、内皮では細胞壁を通ることはできず、必ず内皮細胞の原形質を通らなければならない。内皮細胞は木部へ送られる物質の選別を行い、必要な物質を通し、不必要な物質は透過しない。また、内皮細胞は中心柱から外側へ物質が逆流することを防いでいる。さらに、皮層の最外層にカスパリー線をもつ外皮が形成されることもある (上記)。",
"title": "根の機能"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "根は植物ホルモンであるサイトカイニンの主な生成場所であり、他にもオーキシンやジベレリン、ストリゴラクトンなどの植物ホルモンを生成する。サイトカイニンは細胞分裂を制御し、オーキシンは側根や不定根の形成を促進する。またオーキシンは高濃度では細胞伸長を抑制するが、この伸長抑制が根の重力屈性に関わっていると考えられている。エチレンによって根や根毛形成が促進され、ブラシノステロイドは低濃度で根の成長促進、高濃度で根の成長阻害をする。ストリゴラクトンは菌根菌を根に誘因するが、ストリゴラクトンを感知して宿主の根に寄生する寄生植物も知られている。",
"title": "根の機能"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "根はふつう地中にあり、植物体の固定と水・無機養分の吸収という機能をもつ。しかし地中部にあってもこれ以外の機能をもつ根も存在する。また地中ではなく地上に伸びて機能する根もある (気根)。さらに、根はしばしば他生物 (菌根菌、根粒菌、宿主植物など) と密接な共生関係を結んでいる。",
"title": "さまざまな根"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "地中にある根は地中根 (terrestrial root) と総称される。",
"title": "さまざまな根"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "地上部にある根は気根 (aerial root) と総称される。地下茎から生じるものや、地上茎、水中茎から生じるものなどがある。",
"title": "さまざまな根"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "通常の状態として水中に伸びている根を水中根 (aquatic root) という (図8)。このような根は、根冠や根毛を欠いていることがある。ミズキンバイ (アカバナ科) は、水底を横走する根茎の背面から列状に生じて水中に浮かんでいる根をもち、特に浮根 (floating root) とよばれる。",
"title": "さまざまな根"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "根はふつうは地中にあり、他生物と密接な共生関係を築いている例が多い。根は特に根冠や根毛を通じて有機物 (光合成産物の20%にも達することもある) を土壌中に分泌・放出しており、根の周囲に特異な環境を形成している。このような環境は根圏 (rhizosphere) とよばれ、さまざまな微生物が植物と共生関係を結んで生育している。また下記のように、ほとんどの維管束植物は根において菌類と直接的に共生して菌根を形成しており、さらに窒素固定を行う生物と共生して特異な構造を形成している例もある。",
"title": "さまざまな根"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "共生の1形態として、寄生がある。他の植物に寄生し養分を奪う植物は寄生植物とよばれ、自ら光合成を行いながら宿主からも栄養分を奪う半寄生植物 (ヤドリギなど) と、光合成能を欠き、有機物も含めた栄養分を宿主から奪う全寄生植物 (ネナシカズラなど) がある。寄生植物は栄養分を吸収するために宿主に吸器 (haustorium, pl. haustoria) を付着させているが、寄生植物における吸器は特殊化した根であり、この根は寄生根 (parasitic root) ともよばれる。寄生根では、しばしば寄生植物と宿主の維管束 (木部) がつながっている (木部架橋、xylem bridge) (図10b)。寄生根は、以下のようにいくつかのタイプに類別されることがある。",
"title": "さまざまな根"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "根菜とよばれる野菜の中には、サトイモ (サトイモ科)、タマネギ (ヒガンバナ科)、レンコン (ハス科)、ジャガイモ (ナス科) など実際には根ではなく茎 (根茎、塊茎など) に由来するものも多い。根 (ときにそれに続く胚軸も含めて) を食用として利用するものとしては、ダイコンやカブ、ハツカダイコン、ホースラディッシュ、ルタバガ、マカ (アブラナ科)、キャッサバ (トウダイグサ科)、クズ、ホドイモ (マメ科)、ビート、テンサイ (図11a) (ヒユ科)、サツマイモ (図11b) (ヒルガオ科)、ニンジン、パースニップ (セリ科)、ゴボウ、モリアザミ、サルシファイ、ヤーコン (キク科) などがある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "一方、薬用とされる根もあり (地下茎と区別せずに共に用いられる例もある)、テンダイウヤク (クスノキ科)、ジャノヒゲ (キジカクシ科)、トリカブト、サキシマボタンヅル (キンポウゲ科)、シャクヤク、ボタン (ボタン科)、キバナオウギ、カンゾウ、クララ (マメ科)、イトヒメハギ、セネガ (ヒメハギ科)、オオカラスウリ (ウリ科)、ヒナタイノコヅチ (ヒユ科)、ツルドクダミ (タデ科)、トコン (アカネ科)、ゲンチアナ (図11c)、トウリンドウ (リンドウ科)、インドジャボク (キョウチクトウ科)、ムラサキ (ムラサキ科)、コガネバナ (シソ科)、ベラドンナ、ハシリドコロ (ナス科)、オタネニンジン (高麗人蔘; 図11d) (ウコギ科)、ミシマサイコ、ノダケ、トウキ、トウスケボウフウ、ヨロイグサ (セリ科)、キキョウ (キキョウ科)、カノコソウ、オミナエシ (スイカズラ科)、モッコウ (キク科) の根が利用される。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "またアカネ (アカネ科) や ムラサキ (ムラサキ科) の根は、古くから染料として用いられてきた。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "上記のように、マメ科植物の多くは根において窒素固定細菌と共生して根粒を形成している。そのため、耕作地にマメ科植物 (シロツメクサ、ミヤコグサなど) を栽培し、窒素栄養分などを土地に供給する緑肥として利用することがある (図11e)。マメ科植物の利用は、18世紀の農業革命において重要な役割を演じた。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "根は地中を伸長し、また肥大成長することで母岩などを破壊し、このような働きは土壌形成に重要な役割を果たしている。このような働きにより、舗装道路など人工構造が破壊されることもある。また根の成長によって、アンコール遺跡などの遺跡が被害を受けることもある (一方でこのような景観が観光スポットにもなっている) (図11f)。",
"title": "人間との関わり"
}
] |
根 (ね、root) は、葉や茎とともに、維管束植物 (広義のシダ植物と種子植物) の体を構成する器官の1つである。ふつう地中にあって植物体を基質に固定し、地上部を支えるとともに (図A)、水や無機養分を吸収する役割を担っている (→#根の機能)。 根は先端成長を行い (基本的に先端部だけで細胞分裂を行う)、それを司る根端分裂組織は根冠とよばれる保護構造で覆われている (→#根端)。根は外側から表皮、皮層、中心柱からなり、先端付近の表皮からは根毛とよばれる細長い突起が生じ、吸水面積を広げ、根を土壌に密着させる (図B) (→#内部構造)。中心柱内には吸収した水や無機栄養分を茎や葉に運ぶ木部と葉からの光合成産物が通る師部が放射状に配置しており (放射中心柱)、中心柱は外部との物質連絡を調節する内皮で囲まれている。多くの維管束植物では、内部で形成された新たな根が外側を突き破って伸びることで内生的に側方分枝するが (図C)、小葉植物では外生的に二又分枝する (→#分枝)。胚の時期 (種子の中など) に形成された幼根に由来する根を定根、二次的に茎から生じたものなどそれ以外の根を不定根とよぶ (→#定根と不定根)。木本植物 (木) では、茎と同様に根も維管束形成層による二次成長を行う (→#一次成長と二次成長)。 根はふつう地中にあるが、地上部にあって呼吸や支持、付着、光合成など特殊な機能を担っていることがある (→#さまざまな根)。根はふつう菌根菌と共生して菌根を形成しており、マツタケやトリュフは菌根菌の例である (→#他生物と共生した根)。窒素固定を行う細菌が根に共生している例もある (シロツメクサなど)。また寄生植物は、根を使って他の植物に寄生している。根の中には、食用 (ダイコン、サツマイモ、ニンジンなど) や薬用 (高麗人参やハシリドコロなど) とされるものがある (→#人間との関わり)。 上記のように根は基本的に維管束植物の器官を意味するが、コケ植物や藻類、固着動物など他の生物群がもつ類似の構造を便宜的に根とよぶこともある。以下では維管束植物の器官である根について解説する。
|
{{Otheruses}}
'''根''' (ね、root) は、[[葉]]や[[茎]]とともに、[[維管束植物]] (広義の[[シダ植物]]と[[種子植物]]) の体を構成する[[器官]]の1つである。ふつう地中にあって植物体を基質に固定し、地上部を支えるとともに (図A)、[[水]]や[[栄養塩|無機養分]]を吸収する役割を担っている (→''[[#根の機能]]'')。
{{multiple image
| total_width = 800
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Exposed mango tree roots.jpg
| caption1 = '''A'''. [[マンゴー]] ([[ウルシ科]]) の木の地下部断面. 発達した根が地上部を支えている.
| image2 = Mycorhizae fungus (10333483254).jpg
| caption2 = '''B'''. 多数の[[根毛]]が生じている根の先端部.
| image3 = Lamium amplexicaule root close-up.JPG
| caption3 = '''C'''. [[ホトケノザ]] ([[シソ科]]) の根. 多数の側根が生じている.
}}
根は[[先端成長]]を行い (基本的に先端部だけで[[細胞分裂]]を行う)、それを司る[[根端分裂組織]]は[[根冠]]とよばれる保護構造で覆われている (→''[[#根端]]'')。根は外側から[[表皮]]、[[細胞皮層|皮層]]、[[中心柱]]からなり、先端付近の表皮からは[[根毛]]とよばれる細長い突起が生じ、吸水面積を広げ、根を土壌に密着させる (図B) (→''[[#内部構造]]'')。中心柱内には吸収した水や無機栄養分を茎や葉に運ぶ[[木部]]と葉からの光合成産物が通る[[師部]]が放射状に配置しており (放射中心柱)、中心柱は外部との物質連絡を調節する[[内皮 (植物)|内皮]]で囲まれている。多くの維管束植物では、内部で形成された新たな根が外側を突き破って伸びることで内生的に側方分枝するが (図C)、[[小葉植物]]では外生的に二又分枝する (→''[[#分枝]]'')。[[胚]]の時期 ([[種子]]の中など) に形成された幼根に由来する根を[[#定根|定根]]、二次的に茎から生じたものなどそれ以外の根を[[#不定根|不定根]]とよぶ (→''[[#定根と不定根]]'')。[[木本植物]] (木) では、茎と同様に根も[[維管束形成層]]による[[肥大成長|二次成長]]を行う (→''[[#一次成長と二次成長]]'')。
根はふつう地中にあるが、地上部にあって呼吸や支持、付着、光合成など特殊な機能を担っていることがある (→''[[#さまざまな根]]'')。根はふつう[[菌根菌]]と共生して[[菌根]]を形成しており、[[マツタケ]]や[[セイヨウショウロ|トリュフ]]は菌根菌の例である (→''[[#他生物と共生した根]]'')。[[窒素固定]]を行う細菌が根に共生している例もある ([[シロツメクサ]]など)。また[[寄生植物]]は、根を使って他の植物に寄生している。根の中には、食用 ([[ダイコン]]、[[サツマイモ]]、[[ニンジン]]など) や薬用 ([[高麗人参]]や[[ハシリドコロ]]など) とされるものがある (→''[[#人間との関わり]]'')。
上記のように根は基本的に[[維管束植物]]の[[器官]]を意味するが、[[コケ植物]]や[[藻類]]、固着動物など他の生物群がもつ類似の構造を便宜的に根とよぶこともある<ref name="Iwasa2013根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1053}}</ref>。以下では維管束植物の器官である根について解説する。
{{-}}
== 構造 ==
[[維管束植物]]の[[生活環]]において主要な世代である[[胞子体]] ([[ゲノム]]を2セットもち、[[減数分裂]]によって[[胞子]]を形成する体) は、[[茎]]と[[葉]] ([[シュート (植物)|シュート]]としてまとめられることもある) および'''根'''からなる<ref name="Hara1994基本構造">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=植物の基本構造|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=5–11}}</ref><ref name="キャンベル35" /><ref name="Gifford2002基本構造">{{cite book|author=アーネスト・ギフォード & エイドリアンス・フォスター (著) 長谷部光泰, 鈴木武 & 植田邦彦 (監訳)|year=2002|chapter=シュートと根|editor=|title=維管束植物の形態と進化|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829921609|pages=32–33}}</ref>。例外的に、[[マツバラン]]類 ([[ハナヤスリ亜綱]])<ref name="Kato1997マツバラン">{{cite book|author=[[加藤雅啓]] (編)|year=1997|chapter=2-1 マツバラン綱|title=バイオディバーシティ・シリーズ (2) 植物の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=198–199|isbn=978-4-7853-5825-9}}</ref> や[[コイチヨウラン]]、[[オニノヤガラ]] ([[ラン科]]) など[[菌根菌]]に大きく依存している植物、[[サンショウモ]]属 ([[薄嚢シダ類]])<ref name="Gifford2002サンショウモ">{{cite book|author=アーネスト・ギフォード & エイドリアンス・フォスター (著) 長谷部光泰, 鈴木武 & 植田邦彦 (監訳)|year=2002|chapter=サンショウモ目|editor=|title=維管束植物の形態と進化|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829921609|pages=321–325}}</ref> や[[ミジンコウキクサ]] ([[サトイモ科]]) など一部の[[浮水植物]]、[[エアープランツ]]である[[サルオガセモドキ]] ([[パイナップル科]]) などは少なくとも成熟した状態では根をもたない<ref name="熊沢1979根" />。
=== 根端 ===
[[ファイル:Root-tip-tag.png|thumb|200px|'''1a'''. 根端の縦断面. 1 = [[根端分裂組織]]、2, 3 = [[根冠]]、4 = 剥離した根冠細胞 (境界細胞)、5 = 前形成層.]]
根はふつう細長い軸状の構造であり、[[先端成長]]する<ref name="Ne1998根">{{cite book|author=河野恭廣|year=1998|chapter=根の基本的構造|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=1–2}}</ref><ref name="Hara1994根">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=根|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=12–16}}</ref>。根の先端部分は'''根端''' (root apex) とよばれる<ref name="Hara1994根" /><ref name="Iwasa2013根端">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=根端|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|pages=502–503}}</ref>。根端の中には'''[[根端分裂組織]]''' (root apical meristem, RAM) とよばれる[[分裂組織]]が存在し、活発な[[細胞分裂]]を行っている<ref name="キャンベル35">{{cite book|author=池内昌彦, [[伊藤元己]], 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=35 維管束植物の構造、生長、発生|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=869–897}}</ref><ref name="Hara1994根端" /><ref name="Iwasa2013RAM">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=根端分裂組織|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=503}}</ref> (図1a)。[[茎]]の[[シュート頂分裂組織]]とは異なり、根端分裂組織の先端側は'''[[根冠]]''' (root cap) とよばれる多細胞層の柔組織によって覆われている<ref name="Shimizu2001根" /><ref name="キャンベル35" /><ref name="Hara1994根の構造">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=根の構造|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=47–55}}</ref> (図1a)。根端分裂組織は先端側に根冠を、基部側に新たな根の組織を作り出して成長していく。
根は土壌中を伸びていくため、先端表面にある[[根冠]]の細胞は次第にはがれ落ちていくが (ふつう1個の根冠細胞の寿命は1〜9日ほど)、根端分裂組織によって内側から順次新たな根冠細胞が供給され、根冠には一定量の細胞が維持されている<ref name="Shimizu2001根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall1997根">{{cite book|author=ポーラ・ルダル (著) 鈴木三男 & 田川裕美 (翻訳)|year=1997|chapter=茎の肥大成長|editor=|title=植物解剖学入門 ―植物体の構造とその形成―|publisher=八坂書房|isbn=978-4896946963|pages=55–69}}</ref><ref name="Ne1998根冠" /> (図1a)。根冠の細胞は[[ムシゲル]] (粘質ゲル<ref name="Hara1994根の構造" />、mucigel) を分泌し、根端を保護すると共に根を伸長しやすくする<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Ne1998根冠">{{cite book|author=飯嶋盛雄|year=1998|chapter=根冠|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=3–5}}</ref>。根はふつう正の重力屈性 (屈地性; 下方へ伸びる性質) を示すが、根冠中央基部付近の細胞 ([[平衡細胞]]) 内で[[アミロプラスト]] ([[光合成]]能を欠き、[[デンプン]]粒を多く含む[[色素体]]) が沈降することが重力方向の感知に関わっていると考えられている<ref name="キャンベル重力">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=重力|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|page=983}}</ref>。
[[根端分裂組織]]からは基部側へも新たな細胞が付加され、これが拡大伸長し、それに伴い組織分化していくことで根が伸長していく<ref name="キャンベル35" /><ref name="Ne1998RAM">{{cite book|author=森田茂紀|year=1998|chapter=根端分裂組織|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=5–6}}</ref><ref name="Ne1998根の成長">{{cite book|author=谷本英一|year=1998|chapter=根の生長と細胞分裂|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=30–33}}</ref>。根端分裂組織から基部側へつくられた組織は、外側から前表皮 (protoderm)、基本分裂組織 (ground meristem)、前形成層 (procambium) とよばれ、これがそれぞれ表皮、皮層、中心柱へと分化する<ref name="キャンベル35" /><ref name="Hara1994根端">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=根端|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=129–134}}</ref><ref name="Iwasa2013RAM" />。構成する細胞の状態に応じて、根は先端側から大まかに (重なりながら) 分裂帯 (細胞分裂帯<ref name="キャンベル35" />、分裂領域 meristematic zone<ref name="テイツ2017発生">{{cite book|author=L. テイツ, E. ザイガー, I.M. モーラー & A. マーフィー (編)|year=2017|chapter=根の成長と分化|editor=|title=植物生理学・発生学 原著第6版|publisher=講談社|isbn=978-4061538962|pages=544–549}}</ref>)、伸長帯 (伸長領域 elongation zone<ref name="テイツ2017発生" />)、成熟帯 (分化帯<ref name="キャンベル35" />、分化領域 differentiation zone<ref name="テイツ2017発生" />) に分けられる<ref name="根1998双子葉">{{cite book|author=河合義隆|year=1998|chapter=双子葉植物における根の始原体の形成|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=9784254420210|pages=24–26}}</ref>。根端分裂組織を含む部分が分裂帯であり、細胞数が増加していく。ふつう根端から数 mm のところが伸長帯であり、細胞が拡大伸長している<ref name="キャンベル35" />。根の伸長はこの部分で最も活発であり、細胞はときに10倍以上に伸長する。細胞はこの部分で分化し始め、やがて成熟帯において細胞分化が完了する<ref name="キャンベル35" />。
{{-}}
=== 内部構造 ===
[[ファイル:Tertiary Endodermis Iris florentina.png|thumb|right|250px|'''1'''. ニオイアヤメ (アヤメ科) の根の横断面 (1, 3 が[[#3rd|第3段階]]の'''内皮'''): 1 = 通過細胞、2 = 皮層、3 = 細胞壁が肥厚した内皮細胞、4 = 内鞘、5 = [[師部]]、 6 = [[木部]]]]
[[ファイル:Monocot_Root_Acorus_(35399384203).jpg|thumb|300px|'''2a'''. [[ショウブ属]] ([[ショウブ科]]) の根の横断面: 最外部が[[表皮]]で覆われ、中央には[[内皮 (植物)|内皮]]で囲まれた[[中心柱]]がある。皮層には多数の間隙が見られる。]]
[[ファイル:Monocot_Root_Endodermis_in_Smilax_(35615771550).jpg|thumb|300px|'''2b'''. [[シオデ属]] ([[サルトリイバラ科]]) の根の横断面: 最外層に[[表皮]]があり、[[中心柱]]は[[細胞壁]]が肥厚した内皮で囲まれている。[[木部]]は多原型、中央には大きな髄がある。]]
[[ファイル:Herbaceous_Dicot_Root_Closed_Vascular_Bundle_in_Mature_Ranunculus_(35613584780).jpg|thumb|300px|'''2c'''. [[キンポウゲ属]] ([[キンポウゲ科]]) の根の横断面: [[木部]]は三原型]]
根は、基本的に外側から[[表皮]]、[[皮層]]、[[中心柱]] ([[維管束]]柱<ref name="キャンベル35" />) からなる<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Shimizu2001根内部" /> (図2a, b)。ただし活発な二次成長を行った根ではほとんどが二次維管束からなり、表面は周皮で覆われている ([[#一次成長と二次成長|下記]])。
<span id="表皮"></span>根の表面はふつう1層の細胞からなる'''[[表皮]]''' (epidermis; 根の表皮は特に rhizodermis とも表記される<ref name="Rudall2007" />) によって囲まれている<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Shimizu2001根内部" /> (図2a, b)。地上部の[[シュート (植物)|シュート]] (茎や葉) とは異なり、地中の根の表皮では[[クチクラ層]]があまり発達しておらず (そのため吸水できる)、また[[気孔]]も存在しない<ref name="Hara1994表皮">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=表皮|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=75–76}}</ref>。根の表皮は、[[根端分裂組織]]からやや離れたところで'''[[根毛]]''' (root hair) を形成する<ref name="Hara1994根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Ne1998根毛">{{cite book|author=森田茂紀|year=1998|chapter=根毛|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=7–8}}</ref><ref name="Iwasa2013根毛">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=根毛|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=506}}</ref>。[[シロイヌナズナ]] ([[アブラナ科]]) などでは、不等分裂によって形成された小型の根毛形成細胞 (原根毛、trichoblast) が伸長して根毛となる<ref name="Shimizu2001根" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Rudall2007" /><ref name="Ne1998根毛" />。根毛は直径 10 µm ほどであり、ふつう短命であるが、半年以上残存するものもある (宿存根毛)<ref name="Shimizu2001根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Ne1998根毛" />。根毛の存在は、土壌粒子との密着や吸水する根の表面積の増大に寄与すると考えられている<ref name="Hara1994根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Ne1998根毛" />。
<span id="皮層"></span>表皮の内側には、'''皮層''' (cortex) が存在する<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Shimizu2001根内部">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=根の内部構造|editor=|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|pages=246–249}}</ref><ref name="Ne1998皮層">{{cite book|author=森田茂紀|year=1998|chapter=皮層|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=8–10}}</ref>。皮層は主に柔細胞からなり、[[デンプン]]などの養分貯蔵に重要な役割を果たすことがある。また根の皮層には大きな細胞間隙が存在することが多く (特に水生植物など)、根の呼吸におけるガス交換に有用であると考えられている<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994根端" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Ne1998通気組織">{{cite book|author=巽二郎|year=1998|chapter=通気|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=14–16}}</ref> (図2a)。皮層の最外層 (表皮のすぐ内側) にある1〜数層は、'''下皮''' (hypodermis) とよばれる<ref name="Ne1998根" />。下皮はときに[[スベリン]]や[[リグニン]]を沈着して細胞壁が厚化し、また[[カスパリー線]]が存在することがあり、このような下皮は'''外皮''' (exodermis) とよばれる<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Shimizu2001根内部" /><ref name="Ne1998下皮">{{cite book|author=山内章|year=1998|chapter=下皮|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=10–12}}</ref>。外皮は、はがれ落ちた表皮に代わって根の保護構造となる。一方、皮層の最内層には、1層の細胞層からなる'''[[内皮 (植物)|内皮]]''' (endodermis) が存在する<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Ne1998内皮">{{cite book|author=唐原一郎|year=1998|chapter=内皮とカスパリー線|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=12–14}}</ref> (図2b)。内皮には[[カスパリー線]]が存在し (細胞壁を通した物質輸送を遮断し、原形質を通した輸送のみを可能にしている)、中心柱への物質の出入りを調節している。古くなった内皮ではしばしばほとんどの細胞壁が木化し (中心柱からの水の漏出を防ぐ)、肥厚していない一部の内皮細胞 (通過細胞 passage cell) を通して通水する<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Rudall2007" />。
<span id="中心柱"></span>内皮より内側の部分は、'''[[中心柱]]''' (stele, central cylinder, central column) とよばれ、主に[[維管束]]からなる<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Shimizu2001根内部" /><ref name="Beck2005PrimaryRoot">{{cite book|author=Beck, C. B.|year=2005|chapter=Primary tissues and tissue regions|editor=|title=An Introduction to Plant Structure and Development|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0521837408|pages=281–289}}</ref>。中心柱の周縁部には1〜数層の柔細胞からなる'''内鞘''' (pericycle) があり、新たな側根はふつうここから (または内皮から) 生じる<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Shimizu2001根内部" /><ref name="Rudall2007" /> ([[#分枝|下記]])。中心柱は'''放射中心柱''' (actinostele) であり、中央に位置する[[木部]] ([[木部#一次木部|一次木部]]) は横断面で放射状に突出部 (腕、ray) をもち、腕の間に[[師部]] ([[師部#一次師部|一次師部]]) が位置する<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall2007" /> (図2c)。木部の中心が髄になり、木部の腕がそれぞれ独立していることもある<ref name="Hara1994根の構造" /> (図2b)。木部はふつう[[木部#一次木部|外原型]] (外側から求心的に形成される) であるが<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Shimizu2001根内部" />、[[小葉植物]]の根では木部は[[木部#一次木部|内原型]] (内側から遠心的に形成される) である<ref name="Simpson2006Lyco">{{cite book|author=Simpson, M.|year=2006|chapter=|editor=|title=Plant Systematics|publisher=Academic Press|isbn=978-0126444605|page=78}}</ref>{{efn|[[小葉植物]]の根の木部も外原型とする記述もある<ref name="長谷部2020">{{cite book|author=長谷部光泰|year=2020|chapter=|editor=|title=陸上植物の形態と進化|publisher=裳華房|isbn=978-4785358716|page=132}}</ref>。}}。
中心柱における[[木部]]の突出部 (腕) の数 ([[木部#一次木部|原生木部]]の数) は同一個体内でも変化することがあるが、ふつう種によってほぼ一定である<ref name="Rudall2007" />。根の木部は、原生木部の数に応じて二原型 (diarch)、三原型 (triarch; 図2c)、四原型 (tetrarch)、五原型 (pentarch) とよばれ、また6個以上の場合は多原型 (polyarch) とよばれる ([[単子葉類]]に多い; 図2a, b)<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Shimizu2001根内部" />。[[ミズニラ属]] ([[小葉植物]]) の根の中心柱は特異であり、一原型 (monoarch) である ([[古生代]]の[[リンボク (化石植物)|リンボク]]類と共通)<ref name="Shimizu2001根内部" /><ref name="Gifford2002ミズニラ">{{cite book|author=アーネスト・ギフォード & エイドリアンス・フォスター (著) 長谷部光泰, 鈴木武 & 植田邦彦 (監訳)|year=2002|chapter=|editor=|title=維管束植物の形態と進化|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829921609|pages=168–169}}</ref>。
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=== 分枝 ===
[[ファイル:Salix root L.jpg|thumb|300px|'''3a'''. [[ヤナギ]] ([[ヤナギ科]]) の根の側根伸長部横断面: 側根 (E) は[[中心柱]] (C) から内生的に生じ、皮層 (B) や表皮 (A) を突き破って伸長する。D = 内皮、右下スケールバーは 0.2 mm]]
根は、ふつう根端から比較的離れた場所で、'''側根''' (lateral root; 分枝根 branch root<ref name="Ne1998分枝">{{cite book|author=山内章|year=1998|chapter=根の分枝|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=33–35}}</ref>) を形成して'''側方分枝''' (中軸分枝) する<ref name="Shimizu2001根" /><ref name="Hara1994根端" /><ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall1997根" />。根の内部の[[中心柱]]の最外層にある内鞘 (またはその外側の[[内皮 (植物)|内皮]]) から新たな側根の原基が生じ、これが皮層や表皮を突き破って伸長する (図3a)。すなわち根の分枝は'''内生的''' (endogenous; 新たな根が内部に形成される) であり、茎の分枝が外生的 (exogenous; 新たな茎が表面から形成される) であるのとは対照的である<ref name="熊沢1979根" /><ref name="Rudall1997根" />。
根はしばしば分枝を繰り返す。主となる根から生じた側根は一次側根 (primary lateral root)、そこから生じた側根は二次側根 (secondary lateral root) のように順によばれることがある<ref name="Shimizu2001根の分類" />。
側根はふつう根の[[中心柱]]に対して特定の位置に由来し、特に[[木部#一次木部|原生木部]]に面する部分 (横断面で木部が外側へ突出している部分) から生じることが多いが、他にも[[師部#一次師部|原生師部]]に面する部分や原生木部と原生師部の間から生じる例も知られている<ref name="Hara1994根の構造" /><ref name="Rudall1997根" />。そのため、側根は縦列 (または螺生) して生じることが多く<ref name="熊沢1979根" />、その列数から中心柱の構造が推定できる。側根が2列である[[ダイコン]] ([[アブラナ科]]) は二原型木部、側根が4列である[[ニンジン]] ([[セリ科]]) は四原型木部、側根が5列である[[サツマイモ]] ([[ヒルガオ科]]) は五原型木部をもつ<ref name="Hara1994根の構造" />。
[[ファイル:Lycopodium roots.png|thumb|300px|'''3b'''. [[ヒカゲノカズラ]] ([[小葉植物]]) の根(c, dは連続した不等二又分枝による分枝を含む)]]
上記のように根の分枝はふつう内生的であり側方分枝であるが、例外的に[[小葉植物]]の根はその[[茎]]と同様に、[[根端分裂組織]]が2分することによって'''二又分枝'''する<ref name="Kato1997根">{{cite book|author=[[加藤雅啓]] (編)|year=1997|chapter=7-2-3 根|title=バイオディバーシティ・シリーズ (2) 植物の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=83–84|isbn=978-4-7853-5825-9}}</ref><ref name="Ne1998原始的">{{cite book|author=[[加藤雅啓]]|year=1998|chapter=原始的維管束植物の体制と根の起源|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=152–154}}</ref><ref name="Gifford2002ヒカゲノカズラ">{{cite book|author=アーネスト・ギフォード & エイドリアンス・フォスター (著) 長谷部光泰, 鈴木武 & 植田邦彦 (監訳)|year=2002|chapter=ヒカゲノカズラ属 器官学|editor=|title=維管束植物の形態と進化|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829921609|pages=116–119}}</ref> (図3b)。つまり小葉植物の根の分枝は'''外生的''' (新たな根が表面から形成される) である。また小葉植物は、根の木部が内原型である点でも他の維管束植物とは異なっている ([[#中心柱|上記]])。このように小葉植物とそれ以外の維管束植物 ([[大葉植物]]、真葉植物) の根は大きく異なる特徴を示し、一般的にこれらの根は異なる起源をもつものと考えられている<ref name="Kato1997根" /><ref name="Ne1998原始的" />。ただし小葉植物の根も、[[根冠]]や[[根毛]]をもつ点や、[[茎]]から内生発生する点では大葉植物の根と共通している。
=== 根系 ===
ある植物において地下部または根全体、あるいは1個の根とそこから生じている根を合わせたものは、'''根系''' (こんけい、root system) とよばれる<ref name="Iwasa2013根系">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=根系|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=501}}</ref><ref name="熊沢1979根">{{cite book|author=熊沢正夫|year=1979|chapter=根の通性|editor=|title=植物器官学|publisher=裳華房|isbn=978-4785358068|pages=304−312}}</ref><ref name="Ne1998根系の形態">{{cite book|author=中元朋実|year=1998|chapter=根系の形態|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|page=76}}</ref><ref name="Hara1994基本構造" />。地下部全体とする場合、根系は根と共に[[地下茎]]なども含む<ref name="Shimizu2001根">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=根|editor=|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|pages=233–236}}</ref>。この場合、維管束植物の植物体は、地上部のシュート系と地下部の根系からなる<ref name="Iwasa2013シュート系">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=シュート系|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|pages=643–644}}</ref>。
=== 太根と細根 ===
太さに応じて根を[[太根]]と[[細根]]に類別することがある<ref name="Shimizu2001根の分類" />。[[樹木]]では、一部の根が太く肥大し、それに細い根をまじえている。一方、[[イネ科]]の[[草本]]などでは、全ての根が肥大せず同様な太さになっている。このような中で、太く肥大した根を'''太根''' (woody root, thick root)、太根を主とする根系は太根型根系 (woody root system) とよぶことがある。一方、細いままである根を'''細根''' (fine root, rootlet)、細根を主とする根系は細根型根系 (fine root system) とよぶことがある。
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== 定根と不定根 ==
{{multiple image
| total_width = 300
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Arbuscular_mycorrhizal_root_tuber.GIF
| caption1 = '''4a'''. 主根型根系 (紫色は[[菌根菌]]{{efn|name="菌根菌"|[[菌根菌]]は主根型根系に特徴的というわけではなく、ひげ根型根系にもふつうに見られる。}}).
| image2 = Homorhizal_root_system.GIF
| caption2 = '''4b'''. ひげ根型根系.
}}
[[ファイル:Adventitious roots on Odontonema aka Firespike.jpg|thumb|300px|'''4c'''. 茎の節から生じた不定根 (節根)]]
<span id="定根"></span>維管束植物において、根は[[胚]]の段階 ([[種子]]の中など) で'''幼根''' (radicle) として形成される<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" />。これが成長して'''一次根'''<ref name="学術用語集一次根">{{cite book|author=日本植物学会|year=1990|chapter=|editor=|title=文部省 学術用語集 植物学編 (増訂版)|publisher=丸善|isbn=978-4621035344|page=533}}</ref> (初生根<ref name="Shimizu2001根の分類" />、primary root) となり、発達したものは'''主根'''<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013主根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=主根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=633}}</ref>{{efn|name="主根"|広義には、側根が生じている母軸となる根 (定根か不定根かを問わない) を主根とよぶことがある<ref name="Iwasa2013主根" />。}} (main root、直根<ref name="Hara1994根" /> taproot) になる。主根からは側根が生じる。このように幼根に由来する根、およびそこから生じた根を'''定根'''とよぶ<ref name="Shimizu2001根" />。定根からなる根系は、'''一次根系''' (primary root system) とよばれ<ref name="Shimizu2001根" />、また'''主根型根系'''<ref name="Shimizu2001根の分類" /> (主根系<ref name="学術用語集主根系">{{cite book|author=日本植物学会|year=1990|chapter=|editor=|title=文部省 学術用語集 植物学編 (増訂版)|publisher=丸善|isbn=978-4621035344|page=587}}</ref>、直根系<ref name="Hara1994基本構造" />、taproot system) ともよばれる (図4a)。
<span id="不定根"></span>定根に対して、幼根以外に由来する根は'''不定根''' (adventitious root) とよばれる<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013不定根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=不定根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1207}}</ref>。不定根は、ふつう[[茎]]の維管束周辺から内生的に生じるが、まれに外生的に生じる例も知られている (例:[[ベゴニア]]の葉挿し)<ref name="Rudall1997根" /><ref name="Bowes2008Root" />。不定根は茎の節から生じることが多く、このような根は節根 (nodal root) ともよばれる<ref name="Shimizu2001根の分類" /> (図4c)。そのため、[[挿し木]]にはふつう節を残した茎が用いられる<ref name="Rudall2007" />。また定根と同様、不定根も側根を生じて側方分枝する ([[小葉植物]]以外; [[#分枝|上記参照]])。[[シダ植物]] (広義) や[[単子葉植物]]では、ふつうほとんどの根が不定根からなる。このような根系は'''二次根系''' (secondary root system) または'''不定根系''' (adventitious root system) とよばれる<ref name="Shimizu2001根" />。また多数まとまって生じている一様な不定根は'''ひげ根''' (fibrous root) とよばれ<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013ひげ根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1139}}</ref>、ひげ根からなる根系は'''ひげ根型根系'''<ref name="Shimizu2001根の分類" /> (ひげ根系<ref name="Hara1994基本構造" />、fibrous root system) とよばれる (図4b)。
[[種子植物]]において、[[種子]]から生じる根は'''種子根''' (seminal root) とよばれる<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" />。種子根はふつう幼根であるが、既に幼根から側根 (種子側根) が生じている例もある<ref name="山内1993">{{cite journal|author=山内章|year=1993|title=根の種類 (1)|journal=根の研究|volume=2|pages=20-23|doi=10.3117/rootres.2.20}}</ref>。またイネ科などでは、[[胚軸]]から生じた不定根が種子根となることもある (種子不定根 seminal adventitious root)<ref name="山内1993" />。
{{-}}
== 一次成長と二次成長 ==
[[ファイル:Gymnosperm_Root_Pinus_(36128249361).jpg|thumb|300px|'''5a'''. [[マツ属]] ([[マツ科]]) の根の横断面: 中央2/3ほどは[[木部#二次木部|二次木部]]からなり、その周囲は[[師部#二次師部|二次師部]]と皮層、周縁部はコルク組織で覆われている。]]
[[ファイル:Woody_Dicot_Root_Quercus_(36248756335).jpg|thumb|300px|'''5b'''. [[ナラ]] ([[ブナ科]]) の根の横断面: 大部分は放射組織を含む[[木部#二次木部|二次木部]]からなり、周縁部はコルク組織で覆われている。]]
[[#根端|上記]]のように、根は'''頂端分裂組織''' (apical meristem) である[[根端分裂組織]]における細胞分裂とそれに続く細胞の拡大伸長によって成長する<ref name="キャンベル35" /><ref name="Ne1998RAM" /><ref name="Ne1998根の成長" />。この成長は'''一次成長''' (primary growth) とよばれ、基本的に長さを増す成長である<ref name="Iwasa2013分裂組織">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=分裂組織|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1256}}</ref>。一方、一次成長がほぼ完了した部位において新たな分裂組織が生じることがあり、これによる成長は'''二次成長''' (secondary growth) とよばれる<ref name="Iwasa2013分裂組織" />。二次成長は基本的に太さを増す成長であり、これを司る分裂組織は'''側部分裂組織''' (lateral meristem) である<ref name="Iwasa2013分裂組織" />。側部分列組織には、維管束形成層やコルク形成層がある。
[[単子葉植物]]などを除き、多くの種子植物の根は二次成長を行う<ref name="Ne1998根" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Ne1998根の2次肥大生長">{{cite book|author=田中典幸|year=1998|chapter=根の2次肥大生長|editor=根の事典編集委員会 (編)|title=根の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254420210|pages=36–37}}</ref>。[[木部#一次木部|一次木部]]と[[師部#一次師部|一次師部]]の間に (木部を取り囲むように) '''[[維管束形成層]]''' (vascular cambium) がつくられ、内側に[[木部#二次木部|二次木部]]を、外側に[[師部#二次師部|二次師部]]を形成していく<ref name="Ne1998根" /><ref name="Hara1994形成層">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=形成層と二次組織|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=134–139}}</ref>。根はふつう放射中心柱をもつため、維管束形成層の横断面は最初は星状だが、二次成長によってやがて円形になる<ref name="Rudall1997根" /><ref name="Ne1998根の2次肥大生長" /><ref name="Hara1994形成層" />。[[木本植物]]の根では、茎と同様に二次木部は主に仮道管や道管要素、木部繊維など木化した細胞からなるが (図5a, b)、[[サツマイモ]] ([[ヒルガオ科]]) などの根では多量の柔細胞が形成される<ref name="熊沢1979異形根" />。
茎の二次成長と同様、活発な二次成長によって直径が増すと、表皮、さらに皮層は裂けて剥がれることがある。この際には、皮層や内鞘などに1層の細胞からなる側部分裂組織である'''コルク形成層''' (phellogen) が形成される<ref name="Ne1998根" /><ref name="Rudall2007" /><ref name="Hara1994コルク">{{cite book|author=原襄|year=1994|chapter=コルク形成層と周皮|editor=|title=植物形態学|publisher=朝倉書店|isbn=978-4254170863|pages=139–141}}</ref><ref name="Iwasa2013コルク">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=コルク形成層|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=493}}</ref>。コルク形成層は外側に'''コルク組織''' (phellem)、内側に'''コルク皮層''' (phelloderm) を形成し、これらは合わせて'''周皮''' (periderm) とよばれる。コルク組織の細胞は原形質を欠き、[[細胞壁]]に[[スベリン]]、ときに[[リグニン]]が沈着して根の表面を保護している (図5a, b)。
{{-}}
== 根の機能 ==
根はふつう地中にあり、[[水]]やそこに含まれる窒素塩 ([[硝酸塩]]など) や[[カリウム]]、[[カルシウム]]、[[リン酸]]などの[[栄養塩|無機養分]]を吸収し、[[維管束]]の[[木部]]を通して植物体全体に送る ([[道管#木部輸送|木部輸送]])。根は分枝することで表面積を広げ、このような水や無機養分を吸収している。[[ライムギ]] ([[イネ科]]) の場合、根の表面積は地上部のシュート系 (茎と葉) の表面積の40倍に達すると試算されている<ref name="Bowes2008Root">{{cite book|author=Bowes, B. & Mauseth, J. D.|year=2008|chapter=The Root|editor=|title=Plant Structure: A Colour Guide 2nd Edition|publisher=Jones & Bartlett Learning|isbn=978-0763763862|pages=185–189}}</ref>。根は効率的な無機栄養吸収のための応答を示し、例えば硝酸塩が多い場所では根はよく分枝し、またその細胞は効率よく硝酸塩を吸収できるような遺伝子発現を行う<ref name="キャンベル36">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=36 維管束植物の栄養吸収と輸送|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=899–920}}</ref>。[[根毛]]や[[菌根菌]]の存在は根の表面積を広げ、根の吸収効率を高めている。
土壌粒子はふつう負に帯電しているため、[[硝酸]]、[[リン酸]]、[[硫酸]]などの陰イオンは土壌粒子には結合しない。そのためこれらの[[栄養塩|無機栄養]]は容易に土壌溶液に溶脱し、根によって吸収される<ref name="キャンベル37">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=37 土壌と植物の栄養|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=921–939}}</ref>。一方、[[カリウム]]、[[カルシウム]]、[[マグネシウム]]など陽イオンは土壌粒子に結合しており、容易には溶脱しない。根は呼吸によって土壌中に二酸化炭素を放出し、土壌溶液を酸性化する。その結果[[水素イオン]] (H<sup>+</sup>) が供給される。この水素イオンが土壌粒子を中和、結合していた陽イオンが土壌溶液に溶脱し、根が吸収する。この過程は陽イオン交換 (cation exchange) とよばれる<ref name="キャンベル37" />。
根の表面で吸収された無機養分を含む水溶液は、[[細胞壁]]内や細胞間隙など原形質外の通路 ([[アポプラスト]]経路) や[[原形質]]を通る通路 ([[シンプラスト]]経路) を通って[[維管束]]の[[木部]]へ輸送される<ref name="キャンベル36" />。根では、維管束は'''[[内皮 (植物)|内皮]]'''に囲まれているため、吸収された水溶液が木部に輸送される際には必ず内皮を通る。内皮細胞どうしの接着部には疎水性物質である[[スベリン]]が蓄積して[[カスパリー線]]が形成され、さらに細胞膜がカスパリー線に密着している<ref name="Ne1998内皮" /><ref name="Ne1998皮層" /><ref name="キャンベル36" />。そのため、アポプラスト経路で輸送されてきた水溶液も、内皮では細胞壁を通ることはできず、必ず内皮細胞の原形質を通らなければならない。内皮細胞は木部へ送られる物質の選別を行い、必要な物質を通し、不必要な物質は透過しない<ref name="キャンベル36" />。また、内皮細胞は中心柱から外側へ物質が逆流することを防いでいる<ref name="キャンベル36" />。さらに、皮層の最外層にカスパリー線をもつ外皮が形成されることもある ([[#皮層|上記]])。
根は[[植物ホルモン]]である[[サイトカイニン]]の主な生成場所であり、他にも[[オーキシン]]や[[ジベレリン]]、[[ストリゴラクトン]]などの植物ホルモンを生成する<ref name="キャンベル39" />。サイトカイニンは[[細胞分裂]]を制御し、オーキシンは[[#分枝|側根]]や[[#不定根|不定根]]の形成を促進する<ref name="キャンベル39" />。またオーキシンは高濃度では細胞伸長を抑制するが、この伸長抑制が根の重力屈性に関わっていると考えられている<ref name="キャンベル39" />。[[エチレン]]によって根や根毛形成が促進され、[[ブラシノステロイド]]は低濃度で根の成長促進、高濃度で根の成長阻害をする<ref name="キャンベル39" />。ストリゴラクトンは[[菌根菌]]を根に誘因するが、ストリゴラクトンを感知して宿主の根に寄生する寄生植物も知られている<ref name="米山2010">{{cite journal|author=米山弘一, 謝肖男 & 米山香織|year=2010|title=根寄生植物の発芽シグナルとしてのストリゴラクトン|journal=植物の生長調節|volume=45|pages=83-94|doi=10.18978/jscrp.45.2_83}}</ref>。
== さまざまな根 ==
根はふつう地中にあり、植物体の固定と水・[[無機塩|無機養分]]の吸収という機能をもつ。しかし地中部にあってもこれ以外の機能をもつ根も存在する。また地中ではなく地上に伸びて機能する根もある (気根)。さらに、根はしばしば他生物 ([[菌根菌]]、[[根粒菌]]、宿主植物など) と密接な共生関係を結んでいる。
=== 地中根 ===
地中にある根は地中根 (terrestrial root) と総称される<ref name="Shimizu2001根の分類" />。
{{multiple image
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| caption_align = left
| image1 = Dicotyledoneae Asteraceae herb - root system, primary root becomes tap root and lateral roots.JPG
| caption1 = '''6a'''. [[キク科]]草本の普通根 (定根)
| image2 = Adventitious_roots_on_a_Rubus_fruticosus_%27hoop%27_terminus._Barrmill_Park,_Scotland.jpg
| caption2 = '''6b'''. [[ブラックベリー]] ([[バラ科]]) の普通根 (不定根)
}}
*<span id="普通根"></span>'''普通根''' (ordinary root)<ref name="Shimizu2001根の分類">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=根の分類|editor=|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|pages=236–246}}</ref>
*:形態的にも機能的にもふつうの根のこと。[[#定根|定根]]の場合も[[#不定根|不定根]]の場合もある (図6a, b)。
{{multiple image
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| caption_align = left
| image1 = Tapioca - മരച്ചീനി 10.JPG
| caption1 = '''6c'''. [[キャッサバ]] ([[トウダイグサ科]]) の塊根
| image2 = Ipomoea_batatasL_ja01.jpg
| caption2 = '''6d'''. [[サツマイモ]] ([[ヒルガオ科]]) の塊根
}}
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Daikon.Japan.jpg
| caption1 = '''6e'''. [[ダイコン]] ([[アブラナ科]]) の多肉根 (青首の部分は胚軸)
| image2 = Red_beet_(Beta_vulgaris_L.).jpg
| caption2 = '''6f'''. [[ビート (植物)|ビート]] ([[ヒユ科]]) の多肉根
}}
*<span id="貯蔵根"></span>'''貯蔵根''' (storage root)<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="熊沢1979異形根" />
*:肥大して水や養分を貯蔵する特殊化した根のこと。貯蔵された栄養は、一定期間の後に、または母体から離れて分散された後に新たな地上部を生じることに用いられる。以下では塊根と多肉根に類別したが<ref name="Shimizu2001根の分類" />、その区分はかならずしも一定していない<ref name="Iwasa2013塊根" />。また[[球根]]とよばれるものは、塊根などのほかに、[[鱗茎]]や[[塊茎]]など貯蔵器官となった[[地下茎]]も含む。
**<span id="塊根"></span>'''塊根''' (塊状根、tuberous root, root tuber)<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013塊根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=塊根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=180}}</ref>
**:根が不定形に肥大成長した貯蔵根 (図6c, d)。定根である場合もあるが、不定根が肥大したものが多い。[[サギソウ]] ([[ラン科]])、[[ジャノヒゲ]] ([[キジカクシ科]])、[[トリカブト]] ([[キンポウゲ科]])、[[ホドイモ]] ([[マメ科]])、[[サツマイモ]] ([[ヒルガオ科]])、[[ダリア]]、[[ヤーコン]] ([[キク科]]) などに見られる。また塊根の一形で、一部の根が紡錘形になったものは紡錘根 (spindle root) ともよばれ、[[アキギリ]] ([[シソ科]]) などに見られる<ref name="Shimizu2001根の分類" />。
**<span id="多肉根"></span>'''多肉根''' (succulent root)<ref name="Shimizu2001根の分類" />
**:主根が、ときに上部に連なる[[胚軸]] (最初の"茎") とともに肥大した貯蔵根 (図6e, f)。[[ムラサキケマン]] ([[ケシ科]]) や[[ダイコン]] ([[アブラナ科]])、[[ニンジン]] ([[セリ科]])、[[ゴボウ]] ([[キク科]]) などに見られる。ニンジンではほとんどが主根に相当するが、ダイコンでは上部の側根が生じていない部分 (2列のくぼみがない部分) は根ではなく、胚軸である。また[[カブ]] (アブラナ科) では肥大した部分は全て胚軸であり、下に細長く伸びている部分が主根に由来する<ref name="Hara1994根" />。
{{multiple image
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| caption_align = left
| image1 = Hyacinth_roots_-_contractile_and_standard_types_in_air.jpg
| caption1 = '''6g'''. [[ヒアシンス]] ([[キジカクシ科]]) の収縮根 (環状のしわが見える)
| image2 = Leucospermum cordifolium proteoid roots 290805.jpg
| caption2 = '''6h'''. [[レウコスペルムム属]] ([[ヤマモガシ科]]) のクラスター根
}}
*<span id="収縮根"></span>'''収縮根''' (contractile root; 牽引根 traction root)<ref name="Hara1994根" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013収縮根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=収縮根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=623}}</ref>
*:[[地下茎]]が成長に伴って地上部に出るのを防ぐために、これを地中に引き込む機能をもつ根のこと。伸長後に収縮するため、表面に環状のしわが生じる (図6g)。地下茎から生じる不定根である。[[ユリ]] ([[ユリ科]]) や[[グラジオラス]] ([[アヤメ科]])、[[リンドウ]] ([[リンドウ科]])、[[シシウド属]] ([[セリ科]])、[[アザミ]] ([[キク科]]) などに見られる。
*<span id="クラスター根"></span>'''クラスター根''' (cluster root, proteoid root)<ref name="クラスター根">{{Cite book|author=de Kroon, H. & Visser, E.J.W. (著) 森田茂紀 & 田島亮介 (監修)|year=2008|chapter=|editor=|title=根の生態学|publisher=シュプリンガー・ジャパン|isbn=978-4431727354|page=22}}</ref>
*: 短い側根が密生して試験管ブラシ状に変形した根 (図6h) であり、また有機酸分泌能力が一般的な根よりも高く、土壌中の難利用性の[[リン]]を溶解し吸収しやすくすることでリン欠乏土壌に適応している。[[ヤマモガシ科]] (学名: Proteaceae) の植物から発見されたため、かつては proteoid root とよばれていた。しかし後に[[マメ科]]、[[クワ科]]、[[ヤマモモ科]]などからも見つかったため、形態的特徴に基づいてクラスター根(房のような根の意味)とよばれるようになった。また側根ではなく[[根毛]]が房状に形成されたダウシフォーム根(dauciform root)が[[カヤツリグサ科]]や[[イグサ科]]の一部に、同様のキャピラロイド根が[[サンアソウ科]]に見られ、これらもクラスター根と同様にリン吸収に適応したものであると考えられている<ref name="丸山2017">{{Cite journal|author=丸山隼人・和崎淳|year=2017|title=低リン条件で房状の根を形成する植物の機能と分布 -低リンストレスに対する植物の適応機構-|journal=化学と生物|volume=55|issue=3|pages=189-195|doi=10.1271/kagakutoseibutsu.55.189}}</ref>。
{{-}}
=== 気根 ===
地上部にある根は'''気根''' (aerial root) と総称される<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013気根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=気根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|pages=283–284}}</ref>。[[地下茎]]から生じるものや、地上茎、水中茎から生じるものなどがある。
{{multiple image
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| caption_align = left
| image1 = Bruguiera gymnorhiza roots.jpg
| caption1 = '''7a'''. [[オヒルギ]] ([[ヒルギ科]]) の呼吸根 (屈曲膝根) (奥に支柱根も見られる)
| image2 = Léggyökérzet.JPG
| caption2 = '''7b'''. [[ヌマスギ]] ([[ヒノキ科]]) の呼吸根 (直立膝根)
}}
*<span id="呼吸根"></span>'''呼吸根''' (通気根<ref name="熊沢1979異形根" />、respiratory root, pneumatophore)<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013呼吸根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=呼吸根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=471}}</ref> (→''詳細は「[[呼吸根]]」を参照'')
*:地上に露出し、地下部の呼吸のための酸素を取り入れる根のことであり、内部に通気のための組織をもつ。沼沢地など地中の酸素に乏しい環境に多い。上へ垂直に伸びる直立根 (erect root) (例:[[ハマザクロ]])、上下に屈曲しながら伸びる屈曲膝根 (curved knee-root) (例:[[オヒルギ]]; 図7a)、根の背面が所々で上部に向かって肥大する直立膝根 (erect knee-root) (例:[[ヌマスギ]]; 図7b) に類別される。
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| caption_align = left
| image1 = Semi-hydro33.jpg
| caption1 = '''7c'''. [[カトレア]] ([[ラン科]]) の吸水根
| image2 = Taeniophyllum glandulosum kumoran12.jpg
| caption2 = '''7d'''. [[クモラン]] ([[ラン科]]) の同化根
}}
*<span id="吸水根"></span>'''吸水根''' (absorptive root)<ref name="Shimizu2001根の分類" />
*:空気中の水分を吸収するための根のこと。表皮が多層化して死細胞となり (ときに木化する)、空気中の水分を吸収・貯蔵することができる。このような表皮は根被 (velamen) とよばれる<ref name="Shimizu2001根内部" /><ref name="Rudall2007">{{cite book|author=Rudall, P. J.|year=2007|chapter=Root|editor=|title=Anatomy of Flowering Plants: An Introduction to Structure and Development|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0521692458|pages=43–56}}</ref>。[[サトイモ科]]や[[ラン科]]の[[着生植物]]に例がある (図7c)。また「吸水根」という用語は全く別の意味で用いられることがあり、1つの植物において、土壌深くまで伸びて主に水を吸収する根を吸水根、浅く広がって主に無機養分を吸収する根を吸肥根とよぶことがある<ref name="札幌">{{cite journal|author=札幌市公園緑化協会 豊平公園緑のセンター|year=2012|title=|journal=札幌市 緑のセンターだより|volume=156|pages=|doi=}}</ref>。
*<span id="同化根"></span>'''同化根''' (assimilation root, assimilatory root)<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013同化根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=同化根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=977}}</ref>
*:多数の[[葉緑体]]を含み、扁平化して[[光合成]]を行う根 (図7d)。[[カワゴケソウ科]]や[[クモラン]] ([[ラン科]]) では[[葉]]が退化しており、同化根が光合成器官となる。
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| image1 = Ceiba_pentandra_MS4104.JPG
| caption1 = '''7e'''. [[カポック]] ([[アオイ科]]) の板根
| image2 = Cap méchant.jpg
| caption2 = '''7f'''. [[タコノキ属]] ([[タコノキ科]]) の支柱根
}}
*<span id="板根"></span>'''板根''' (buttress root)<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013板根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=板根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=1119}}</ref>
*:横走する根の背面が極度に偏って肥大し、屏風のようになったもの (図7e)。根を深く張れない植物の地上部の支持に寄与する<ref name="キャンベル35" />。呼吸根としての役割をもつ場合もある<ref name="Shimizu2001根の分類" />。[[サキシマスオウノキ]] ([[アオイ科]]) や[[ラワン (植物)|ラワン]] ([[フタバガキ科]]) など[[熱帯]]の木本に多く見られる。
*<span id="支柱根"></span>'''支柱根''' (支持根、prop root、支柱気根、支持気根、prop aerial root)<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013気根" /> (→''詳細は「[[支柱根]]」を参照'')
*:地上茎から放射状に生じて土壌へ伸び、植物体を支持する根のこと (図7f)。呼吸根としての役割をもつ場合もある。[[タコノキ]] ([[タコノキ科]]) や[[トウモロコシ]] ([[イネ科]])、[[オヒルギ]] ([[ヒルギ科]]) などに見られる。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Curtain Fig Tree, Queensland, Australia.JPG
| caption1 = '''7g'''. 多数の気根を垂らした {{Snamei||Ficus virens}} ([[クワ科]])
| image2 = Ficus Barbata - ചേല 01.JPG
| caption2 = '''7h'''. 気根によって他の木を覆う {{Snamei||Ficus barbata}} (クワ科)
}}
*<span id="絞め殺し植物"></span>'''絞め殺し植物''' (strangler)<ref name="多田2002">{{cite book|author=多田多恵子|year=2002|chapter=|editor=|title=したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦|publisher=エスシーシー|isbn=978-4886479228|pages=126–133}}</ref> (→''詳細は「[[絞め殺しの木]]」を参照'')
*:他の植物 (宿主) の[[樹冠]]で発芽し、成長する。[[寄生植物]]ではないため宿主となった植物から栄養を奪うことはないが、地面に向けて多数の気根を伸ばし (図7g)、やがてこの気根が宿主の幹を覆うとともに (図7h)、茎は葉を付けて宿主の樹冠を覆う。宿主植物が枯死した場合には ("絞め殺し") その部分が空洞になり、かご状になった絞め殺し植物の気根が残る。[[ガジュマル]]など[[イチジク属]] ([[クワ科]]) に例が多いが、他にも[[ヤドリフカノキ]] ([[ウコギ科]]) や[[ヤマグルマ]] ([[ヤマグルマ科]]) が絞め殺し植物となることがある。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Iwagarami Root 20080513.jpg
| caption1 = '''7i'''. [[イワガラミ]] ([[アジサイ科]]) の付着根
| image2 = Vanilla (Vanilla planifolia) 1.jpg
| caption2 = '''7j'''. [[バニラ]] ([[ラン科]]) の節からは、巻ひげになる気根が生じている。
}}
*<span id="付着根"></span>'''付着根''' (着生根<ref name="熊沢1979異形根" /><ref name="学術用語集着生根">{{cite book|author=日本植物学会|year=1990|chapter=|editor=|title=文部省 学術用語集 植物学編 (増訂版)|publisher=丸善|isbn=978-4621035344|page=320}}</ref>、adhesive root, adhering root、よじのぼり根<ref name="学術用語集よじのぼり">{{cite book|author=日本植物学会|year=1990|chapter=|editor=|title=文部省 学術用語集 植物学編 (増訂版)|publisher=丸善|isbn=978-4621035344|page=366}}</ref>、climbing root)<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="Iwasa2013気根" />
*:地上茎から生じ、基物に付着して植物体を支える根のこと (図7i)。[[イワガラミ]] ([[アジサイ科]]) や[[テイカカズラ]] ([[キョウチクトウ科]])、[[キヅタ]] ([[ウコギ科]]) などに見られる。
*<span id="根性巻ひげ"></span>'''根性巻ひげ''' (root tendril)<ref name="熊沢1979異形根">{{cite book|author=熊沢正夫|year=1979|chapter=異形根|editor=|title=植物器官学|publisher=裳華房|isbn=978-4785358068|pages=313−325}}</ref>
*:茎から生じて基物に巻き付く根 (図7j)。一部の[[つる植物]]に例があり、[[フィロデンドロン]] ([[サトイモ科]]) や[[バニラ]] ([[ラン科]]) などに見られる。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Cyathea glauca aerial roots.jpg
| caption1 = '''7k'''. [[ヘゴ属]] ([[薄嚢シダ類]]) の茎を覆う保護根
| image2 = Cryosophila guagara 0zz.jpg
| caption2 = '''7l'''. クリオソフィラ属 ([[ヤシ科]]) の根針
}}
*<span id="保護根"></span>'''保護根''' (protecive root)<ref name="Shimizu2001根の分類" />
*:茎から生じ、多数が密に絡み合って茎を厚く覆う根であり (図7k)、茎を保護し機械的支持を与える。いわゆる[[木生シダ]]とよばれる植物に見られ、[[ヘゴ]] ([[薄嚢シダ類]]) では茎の直径 13 cm に対して保護根の厚さ 56 cm に達した例がある。
*<span id="根針"></span>'''根針''' (根刺、root spine, root thorn)<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="熊沢1979異形根" /><ref name="Iwasa2013根針">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=同化根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|page=502}}</ref>
*:茎から生じ、硬い棘になった根 (図7l)。[[ヤシ科]]に例が多く、その他に {{Snamei||Moraea}} ([[アヤメ科]])、ヤマノイモ属 ([[ヤマノイモ科]]) などで見られることがある。
{{-}}
=== 水中根 ===
[[ファイル:Lemna minor Subaquatic view Lamiot 11.JPG|thumb|250px|right|'''8'''. [[コウキクサ]] ([[サトイモ科]]) はそれぞれ1本の水中根をもつ.]]
<span id="水中根"></span>通常の状態として水中に伸びている根を'''水中根''' (aquatic root) という<ref name="Shimizu2001根の分類" /> (図8)。このような根は、根冠や根毛を欠いていることがある<ref name="熊沢1979根" /><ref name="Ne1998根毛" />。[[ミズキンバイ]] ([[アカバナ科]]) は、水底を横走する[[根茎]]の背面から列状に生じて水中に浮かんでいる根をもち、特に浮根 (floating root) とよばれる<ref name="Shimizu2001根の分類" />。
{{-}}
=== 他生物と共生した根 ===
根はふつうは地中にあり、他生物と密接な共生関係を築いている例が多い。根は特に根冠や根毛を通じて有機物 (光合成産物の20%にも達することもある) を土壌中に分泌・放出しており、根の周囲に特異な環境を形成している<ref name="キャンベル37" />。このような環境は[[根圏]] (rhizosphere) とよばれ、さまざまな微生物が植物と共生関係を結んで生育している。また下記のように、ほとんどの維管束植物は根において菌類と直接的に共生して菌根を形成しており、さらに窒素固定を行う生物と共生して特異な構造を形成している例もある。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Mycorrhizal_root_tips_(amanita).jpg
| caption1 = '''9a'''. 菌鞘に覆われている[[外生菌根]]
| image2 = Gigaspora_margarita.JPG
| caption2 = '''9b'''. [[アーバスキュラー菌根]]は外見的な特殊化は見られない。写真では根から伸びる菌糸と胞子 (褐色の球) が見られる。
}}
{{File clip | Abb. 6 Interaktions-Typen.tif | width = 400 | 0 | 0 | 17 | 0 | w = 3216 | h = 2028 | '''9c'''. '''a'''. ラン型菌根菌のペロトン. '''b'''. [[アーバスキュラー菌根]]菌の樹枝状体. '''c'''. 根の細胞 (大型で液胞で占められた細胞) の間隙を占める[[外生菌根]]菌のハルティッヒネット断面. }}
*<span id="菌根"></span>'''菌根''' (mycorrhiza, [[複数形|''pl.'']] mycorrhizae)<ref name="Shimizu2001根の分類" /> (→''詳細は「[[菌根]]」を参照'')
*:維管束植物のほとんどは根において菌類 ([[菌根菌]]、mycorrhizal fungus) と共生し、菌根を形成している<ref name="Wang2006">{{cite journal|author=Wang, B. & Qiu, Y. L.|year=2006|title=Phylogenetic distribution and evolution of mycorrhizas in land plants|journal=Mycorrhiza|volume=16|pages=299-363|doi=10.1007/s00572-005-0033-6}}</ref>。ただし水生植物や[[ウラボシ科]]、[[アブラナ科]]、[[ヒユ科]]、[[ナデシコ科]]、[[タデ科]]などでは菌根をもたない種が比較的多く知られている。菌根の形態や菌根菌のグループにはさまざまなタイプが知られており、それに応じて[[外生菌根]] (外菌根; 図9a, 9c-c)、[[アーバスキュラー菌根]] (図9b, 9c-b)、ツツジ型菌根 (エリコイド菌根)、イチヤクソウ型菌根 (アルブトイド菌根)、シャクジョウソウ型菌根 (モノトロポイド菌根)、ラン型菌根 (図9c-a) などに類別されている<ref name="Iwasa2013菌根">{{cite book|author=巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也 & 塚谷裕一 (編)|year=2013|chapter=菌根|editor=|title=岩波 生物学辞典 第5版|publisher=岩波書店|isbn=978-4000803144|pages=333–335}}</ref>。この中ではアーバスキュラー菌根が最も普遍的であり、進化的にも最も祖先的な菌根であると考えられている<ref name="Wang2006" />。根が合成する[[植物ホルモン]]である[[ストリゴラクトン]]は、アーバスキュラー菌根菌を根に誘引する<ref name="キャンベル39">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=39 内外のシグナルに対する植物の応答|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=963–994}}</ref>。菌根菌が根の表層や細胞間隙に菌糸を張り巡らせるものや、植物細胞内 (正確には[[細胞壁]]と[[細胞膜]]の間) に侵入して栄養交換用の構造を形成するものがいる<ref name="キャンベル37" /><ref name="キャンベル31" /> (図9c)。菌根菌の菌糸は根毛よりも細く、遥かに長く土壌中に張巡らされており、より効率的に[[栄養塩|無機養分]]や水を吸収し、これを植物に供給している<ref name="市石">{{cite journal|author=市石博|year=2007|title=学校便り(3)生態系をみる新たな視点 土の中に広がるネットワーク『菌根菌』研究の現場を見聞きして|journal=日本生態学会誌|volume=57|pages=277–280|doi=10.18960/seitai.57.2_277}}</ref>。また菌根菌は、植物に病害や乾燥ストレスに対する耐性を付与することも知られている<ref name="松崎2009">{{cite journal|author=松崎克彦|year=2009|title=アーバスキュラー菌根菌とその利用|journal=農業および園芸|volume=841|pages=170-175|doi=}}</ref>。一方、植物は菌根菌に[[有機物]]を与えており、菌根菌との間に相利共生関係が築かれている。ただし植物の中には、自らは[[光合成]]せずに有機物も菌根菌から得ている例がある ([[腐生植物]] = 菌従属栄養植物、菌寄生植物)<ref name="辻田2014">{{cite journal|author=辻田有紀 & 遊川知久 (編)|year=2014|title=光合成をやめた植物ー菌従属栄養植物のたどった進化の道のり|journal=植物科学最前線|volume=5|pages=84–139|url=https://bsj.or.jp/jpn/general/bsj-review/BSJ-Review5C.pdf}}</ref>。また菌根菌は、異種間を含むさまざまな植物の根をつなぎ (菌根菌ネットワーク)、その間で糖などの物質転送が起こっていることが知られている<ref name="キャンベル31">{{cite book|author=池内昌彦, 伊藤元己, 箸本春樹 & 道上達男 (監訳)|year=2018|chapter=31 菌類|editor=|title=キャンベル生物学 原書11版|publisher=丸善出版|isbn=978-4621302767|pages=753–773}}</ref><ref name="宝月2010">{{cite journal|author=宝月岱造|year=2010|title=外生菌根菌ネットワークの構造と機能|journal=土と微生物|volume=64|pages=57–63|doi=10.18946/jssm.64.2_57}}</ref>。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Vicia sepium10 ies.jpg
| caption1 = '''9d'''. エンドウ属 ([[マメ科]]) の[[根粒]]
| image2 = Root-nodule01.jpg
| caption2 = '''9e'''. [[ダイズ]] ([[マメ科]]) 根粒内の[[根粒菌]] (濃色部) ([[透過型電子顕微鏡]]像)
}}
*<span id="根粒"></span>'''根粒''' (根瘤、root nodule)<ref name="Shimizu2001根の分類" /> (→''詳細は「[[根粒]]」を参照'')
*:マメ科の植物では、根に[[根粒菌]]と総称される[[窒素固定]]能をもつ細菌が共生し、根粒とよばれる粒状の構造を形成する (図9d, e)。根粒菌は窒素化合物を供給し、植物は有機物を供給する相利共生関係が築かれている。マメ科植物と共生する根粒菌は[[プロテオバクテリア門]]に属するが、マメ目に比較的近縁な[[バラ目]] ([[グミ (植物)|グミ]])、[[ブナ目]] ([[ヤマモモ]]、[[ハンノキ]]、[[モクマオウ科|モクマオウ]])、[[ウリ目]] ([[ドクウツギ]]、ナギナタソウ) の中には、窒素固定能をもつ[[放線菌]]の[[フランキア属]]と共生して根粒を形成するものが知られている<ref name="山中2008">{{cite journal|author=山中高史 & 岡部宏秋|year=2008|title=わが国に生育する放線菌根性植物とフランキア菌|journal=森林総合研究所研究報告|volume=7|pages=67–80|naid=40016000067}}</ref>。このような植物はアクチノリザル植物 (actinorhizal plant)、形成される根粒は放線菌根 (actinorhiza) やハンノキ型根粒ともよばれる<ref name="九町2013">{{cite journal|author=九町健一|year=2013|title=共生窒素固定放線菌フランキア|journal=生物工学会誌|volume=91|pages=24-27|naid=110009580287}}</ref><ref name="植村1977">{{cite journal|author=植村誠次|year=1977|title=根粒菌と根粒植物|journal=URBAN KUBOTA|volume=14|pages=22–25|doi=}}</ref> (図9f)。マメ目、バラ目、ブナ目、ウリ目は単系統群を形成しており、この系統群は窒素固定クレードとよばれる<ref name="林2015">{{cite journal|author=林誠|year=2015|title=植物の窒素固定:植物と窒素固定細菌との共生の進化|journal=領域融合レビュー|volume=4|pages=e010|doi=10.7875/leading.author.4.e010}}</ref>。根粒形成の機構は、[[アーバスキュラー菌根]]形成の機構をもとにしたものであることが示されている<ref name="林2015" />。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Frankia_alni.jpg
| caption1 = '''9f'''. ヨーロッパハンノキ ([[カバノキ科]]) のハンノキ型根粒
| image2 = Cycas_Circinalis_-_Coralloid_Roots500.jpg
| caption2 = '''9g'''. ナンヨウソテツ ([[ソテツ科]]) のサンゴ状根
}}
*<span id="サンゴ状根"></span>'''サンゴ状根''' (coralloid root)<ref name="Gifford2002サンゴ状根">{{cite book|author=アーネスト・ギフォード & エイドリアンス・フォスター (著) 長谷部光泰, 鈴木武 & 植田邦彦 (監訳)|year=2002|chapter=背地性根|editor=|title=維管束植物の形態と進化|publisher=文一総合出版|isbn=978-4829921609|page=370}}</ref><ref name="Kato1997ソテツ">{{cite book|author=[[加藤雅啓]] (編)|year=1997|chapter=3-3 ソテツ綱|title=バイオディバーシティ・シリーズ (2) 植物の多様性と系統|publisher=裳華房|pages=218–219|isbn=978-4-7853-5825-9}}</ref> (図9g)
*:[[ソテツ類]] ([[裸子植物]]) は、根の一部が負の重力屈性 (背地性; 上方に生長する性質) を示し、サンゴ状根とよばれる特殊な根を形成する。この根には[[ネンジュモ属]] ({{Snamei||Nostoc}}) の[[シアノバクテリア]] ([[藍藻]]) が共生している。ネンジュモ属は[[窒素固定]]能をもち、窒素化合物をソテツ類に供給する。ソテツ類はさまざまな[[毒素]]をもつことが知られているが、そのうち BMAA (β-methylamino-L-alanine) はソテツ類自身が生成したものではなく、共生藍藻が生成したものであると考えられている<ref name="Cox2003">{{cite journal|author=Cox, P.A., Banack, S.A. & Murch, S.J.|year=2003|title=Biomagnification of cyanobacterial neurotoxins and neurodegenerative disease among the Chamorro people of Guam|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=100|pages=13380-13383|doi=10.1073/pnas.2235808100}}</ref>。
{{-}}
=== 寄生根 ===
[[ファイル:Haustorium Mistel Sachs.jpg|thumb|250px|right|'''10a'''. [[ヤドリギ]] (h = [[茎]]): 宿主の[[師部]] (c) 内を横走する不定根 (寄生根、f) が宿主の[[木部]] (b) へ側根 (e) を伸ばし、また不定芽 (g) をつける。]]
[[ファイル:Haustorium Cuscuta epilinum.jpg|thumb|250px|right|'''10b'''. 上が[[ネナシカズラ]] (e = [[表皮]]、r = 皮層、g = [[維管束]])、 下が宿主である[[アマ]] (E = 表皮、R = 皮層と[[師部]]、H = [[木部]])。寄生根の[[木部]]が宿主の木部とつながっている (木部架橋)。]]
<span id="寄生根"></span>共生の1形態として、寄生がある。他の植物に寄生し養分を奪う植物は[[寄生植物]]とよばれ、自ら光合成を行いながら宿主からも栄養分を奪う半寄生植物 ([[ヤドリギ]]など) と、光合成能を欠き、有機物も含めた栄養分を宿主から奪う全寄生植物 ([[ネナシカズラ]]など) がある<ref name="Shimizu2001寄生">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=有機栄養に関する区分|editor=|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|pages=13–15}}</ref>。寄生植物は栄養分を吸収するために宿主に{{ill2|吸器|en|Haustorium}} (haustorium, ''[[複数形|pl.]]'' haustoria) を付着させているが、寄生植物における吸器は特殊化した根であり、この根は寄生根 (parasitic root) ともよばれる<ref name="Hara1994根" /><ref name="Rudall1997根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" />。寄生根では、しばしば寄生植物と宿主の[[維管束]] ([[木部]]) がつながっている (木部架橋、xylem bridge)<ref name="Rudall2007" /> (図10b)。寄生根は、以下のようにいくつかのタイプに類別されることがある<ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="熊沢1979異形根" />。
*シオガマギク型 (''Pedicularis'' type)
*:根が発達するが、その一部が寄生根として宿主の地中根に侵入するものであり、半寄生植物である[[コゴメグサ属]]、[[シオガマギク属]] ([[ハマウツボ科]])、[[カナビキソウ]]、[[ツクバネ]] ([[ビャクダン科]]) などに見られる。
*ハマウツボ型 (''Orobanche'' type)
*:[[種子]]が発芽すると幼根が宿主の根に侵入し、分枝する。成長につれて最初の寄生根は退化し、代わりに[[根茎]]が発達して宿主の根を取り込むものもある。[[ツチトリモチ科]]や[[ヤッコソウ科]]、[[ハマウツボ科]] (全寄生植物種) に見られる。
*ヤドリギ型 (''Viscum'' type) (図10a)
*:[[種子]]が発芽すると[[胚軸]]下部が吸盤状になり宿主の茎に固着し、そこから不定根を出して樹皮内に侵入、分枝する。分枝した根が宿主[[木部]]に侵入して吸器になる。幼根は伸張しない。半寄生植物である[[ヤドリギ]]など ([[ビャクダン科]]) に見られる。
*ネナシカズラ型 (''Cuscuta'' type) (図10b)
*:種子発芽後、主根はまもなく退化し、宿主に巻き付いた枝の随所から不定根である寄生根を出して宿主に侵入する。つる性の全寄生植物である[[スナヅル]] ([[クスノキ科]]) や[[ネナシカズラ]] ([[ヒルガオ科]]) に見られる。
{{-}}
== 人間との関わり ==
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Burak selerowaty.jpg
| caption1 = '''11a'''. [[テンサイ]] ([[ヒユ科]]) の根 (多肉根) は[[砂糖]]の原料とされる。
| image2 = Ipomoea batatas 006.JPG
| caption2 = '''11b'''. [[サツマイモ]] ([[ヒルガオ科]]) の根 (塊根)
}}
[[根菜]]とよばれる野菜の中には、[[サトイモ]] ([[サトイモ科]])、[[タマネギ]] ([[ヒガンバナ科]])、[[レンコン]] (ハス科)、[[ジャガイモ]] ([[ナス科]]) など実際には根ではなく[[茎]] ([[根茎]]、[[塊茎]]など) に由来するものも多い。根 (ときにそれに続く[[胚軸]]も含めて) を食用として利用するものとしては、[[ダイコン]]や[[カブ]]、[[ハツカダイコン]]、[[ホースラディッシュ]]、[[ルタバガ]]、[[マカ]] ([[アブラナ科]])、[[キャッサバ]] ([[トウダイグサ科]])、[[クズ]]、[[ホドイモ]] ([[マメ科]])、[[ビート (植物)|ビート]]、[[テンサイ]] (図11a) ([[ヒユ科]])、[[サツマイモ]] (図11b) ([[ヒルガオ科]])、[[ニンジン]]、[[パースニップ]] ([[セリ科]])、[[ゴボウ]]、[[モリアザミ]]、[[サルシファイ]]、[[ヤーコン]] ([[キク科]]) などがある<ref name="Hara1994根" /><ref name="Shimizu2001根の分類" /><ref name="牧野1978">{{cite book|author=牧野晩成 |year=1978|chapter=|editor=|title=果物と野菜の観察|publisher=ニュー・サイエンス社|asin=B000J8B2FA|pages=58–70}}</ref><ref name="牧田1994">{{cite journal|author=牧田道夫|year=1994|title=我が国が未利用の資源植物に関する調査|journal=農業生物資源研究所研究資料|volume=6|pages=103-172|url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010841286.pdf}}</ref><ref name="食品標準成分表">[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂).] 文部科学省.</ref><ref name="藤本1984">{{cite journal|author=藤本滋生|year=1984|title=「葛粉 (くづこ) 一覧」 および 「澱粉 (くずこ) 一覧」 について|journal=鹿兒島大學農學部學術報告|volume=34|pages=17-28|ncid=AN00040603}}</ref>。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = Radix Gentianae by Danny S. - 001.JPG
| caption1 = '''11c'''. 生薬とされる[[ゲンチアナ]] ([[リンドウ科]]) の根
| image2 = Ginseng_in_Korea.jpg
| caption2 = '''11d'''. 生薬とされる[[オタネニンジン]] ([[ウコギ科]]) の根 (高麗人参)
}}
一方、薬用とされる根もあり ([[地下茎]]と区別せずに共に用いられる例もある)、[[テンダイウヤク]] ([[クスノキ科]])、[[ジャノヒゲ]] ([[キジカクシ科]])、[[トリカブト]]、[[サキシマボタンヅル]] ([[キンポウゲ科]])、[[シャクヤク]]、[[ボタン (植物)|ボタン]] ([[ボタン科]])、[[キバナオウギ]]、[[カンゾウ属|カンゾウ]]、[[クララ]] ([[マメ科]])、[[イトヒメハギ]]、[[セネガ]] ([[ヒメハギ科]])、[[オオカラスウリ]] ([[ウリ科]])、[[ヒナタイノコヅチ]] ([[ヒユ科]])、[[ツルドクダミ]] ([[タデ科]])、[[トコン]] ([[アカネ科]])、[[ゲンチアナ]] (図11c)、[[リンドウ|トウリンドウ]] ([[リンドウ科]])、[[インドジャボク]] ([[キョウチクトウ科]])、[[ムラサキ]] ([[ムラサキ科]])、[[コガネバナ]] ([[シソ科]])、[[ベラドンナ]]、[[ハシリドコロ]] ([[ナス科]])、[[オタネニンジン]] (高麗人蔘; 図11d) ([[ウコギ科]])、[[ミシマサイコ]]、[[ノダケ]]、[[トウキ]]、[[トウスケボウフウ]]、[[ヨロイグサ]] ([[セリ科]])、[[キキョウ]] ([[キキョウ科]])、[[カノコソウ]]、[[オミナエシ]] ([[スイカズラ科]])、[[モッコウ]] ([[キク科]]) の根が利用される<ref>[http://mpdb.nibiohn.go.jp/mpdb-bin/top.cgi?lang=ja 薬用植物総合情報データベース.] 薬用植物資源研究センター. (2020年5月27日閲覧)</ref>。
また[[アカネ]] ([[アカネ科]]) や [[ムラサキ]] ([[ムラサキ科]]) の根は、古くから[[染料]]として用いられてきた<ref name="下山2017">{{cite journal|author=下山進, 下山裕子 & 大下浩司|year=2017|title=衣裳を彩る色材の分析―日本における染色の歴史と琉球紅型衣装にみられる色材―|journal=文化財情報学研究: 吉備国際大学文化財総合研究センター紀要|volume=14|pages=53-62|naid=40021343738}}</ref>。
{{multiple image
| total_width = 400
| align = right
| caption_align = left
| image1 = 20121023Trifolium repens3.jpg
| caption1 = '''11e'''. シロツメクサ ([[マメ科]])
| image2 = Taprohmroots01.JPG
| caption2 = '''11f'''. [[アンコール]]遺跡に生えた {{snamei||Tetrameles nudiflora}} ([[テトラメレス科]])
}}
[[#根粒|上記]]のように、[[マメ科]]植物の多くは根において[[窒素固定菌|窒素固定細菌]]と共生して根粒を形成している。そのため、耕作地にマメ科植物 ([[シロツメクサ]]、[[ミヤコグサ]]など) を栽培し、窒素栄養分などを土地に供給する[[緑肥]]として利用することがある (図11e)。マメ科植物の利用は、18世紀の[[農業革命]]において重要な役割を演じた<ref name="間藤2015">{{cite journal|author=間藤徹|year=2015|title=有機農業 2.0|journal=日本農薬学会誌|volume=40|pages=31-34|doi=10.1584/jpestics.W14-39}}</ref>。
根は地中を伸長し、また肥大成長することで母岩などを破壊し、このような働きは[[土壌]]形成に重要な役割を果たしている。このような働きにより、[[舗装道路]]など人工構造が破壊されることもある。また根の成長によって、[[アンコール遺跡]]などの遺跡が被害を受けることもある (一方でこのような景観が観光スポットにもなっている)<ref name="古部2004">{{cite journal|author=古部浩|year=2004|title=カンボジアのアンコール遺跡とその修復|journal=地学雑誌|volume=113|pages=539-544|doi=10.5026/jgeography.113.4_539}}</ref> (図11f)。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* 構造:[[根端分裂組織]]、[[根冠]]、[[根毛]]
* 根のいろいろ:[[呼吸根]]、[[支柱根]]
* 共生:[[菌根]]、[[菌根菌]]、[[根粒]]、[[根圏]]
* 園芸:[[球根]]、[[直根性]]、[[根詰まり]]、[[接ぎ木]](根側に問題のある植物を問題のない木の根に接ぐ。)
* [[土壌]]/ {{ill2|腐植物質|en|Humic substance}} / [[土壌改良]] / [[水耕栽培]]
* {{ill2|根圧|en|Root pressure}} ‐ 浸透圧などを利用して根が吸い上げた水によって、内部の道管内の液体を輸送する。
* {{ill2|通気組織|en|Aerenchyma}} ‐ 水草などにある根や茎などにある空気を通す組織。
* {{ill2|付着器|en|Holdfast (biology)}}(仮根) ‐ 海藻が海底に生やして流されないようにするもの。
==外部リンク==
{{Commonscat|Roots}}
{{Wiktionary}}
* 福原 達人 (2020) [https://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/3-1.html 3. 根.] ''[https://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/ 植物形態学.]'' 福岡教育大学. (2020年5月5日閲覧)
* {{Kotobank|根(植物)}}
{{植物学}}
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[[Category:植物形態学]]
[[Category:維管束植物]]
[[Category:根|*]]
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エノラ・ゲイ
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エノラ・ゲイ(アメリカ英語: Enola Gay)は、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。
1945年8月6日午前8時15分に広島県広島市に原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を投下したことで知られる。また、同年8月9日の長崎県長崎市への原爆投下の際にも、投下の第1目標となった小倉市(現北九州市)の天候観測機として作戦に参加している。
エノラ・ゲイは、ネブラスカ州に存在したグレン・L・マーティン・カンパニー ベルビュー工場(現オファット空軍基地)で製造された。その後、ポール・ティベッツ大佐により1945年5月18日に陸軍航空隊509混成部隊へ配属されることとなる。1945年7月6日にはアメリカ本土からテニアン島へ到着し、その日のうちに原爆を搭載するため、爆弾倉の改造が行われている。
配属当初、ビクターナンバー「12」が割り当てられたが、所属部隊を表す垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である「第6爆撃隊」表示である大型円中心にRへと変更したため、誤認防止のため「82」へ変更された。初期は特殊任務機表示である大型円中心に左向きの矢印である。なお、原子爆弾投下に関する作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島北飛行場に於いてビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元に戻している。
エノラ・ゲイは8回の訓練ののち、神戸・名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、「模擬リトルボーイ」を投下する。
機体名称の由来は、機長であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)から採られたものである。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。
1945年11月8日にニューメキシコ州、ロズウェル陸軍航空基地(現ウォーカー空軍基地)に到着。1946年4月29日にクロスロード作戦に参加するためクェゼリン環礁に向かうが、投下作戦がビキニ環礁に変更となったため、翌日にカリフォルニア州トラビス空軍基地へと帰還している。その後、機体保存が決定され、1946年7月24日にアリゾナ州デビスモンサン空軍基地へと移送された。1946年8月30日には陸軍航空隊を除籍し、スミソニアン博物館名義へと変更されている。その後1953年12月2日メリーランド州、アンドルーズ空軍基地へ移送、そこで解体保存されることとなる。
1995年に、国立航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めて、レストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、アメリカ退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任した。
その後、レストアが完了し、スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。
前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。
出撃当時の乗組員構成(全12名)。2014年7月28日、同機最後の生存者であったセオドア・ヴァン・カークが93歳で死去したため、ボックスカーを含め、原爆投下に参加した搭乗員の存命者はいなくなった。
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エノラ・ゲイは、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。 1945年8月6日午前8時15分に広島県広島市に原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を投下したことで知られる。また、同年8月9日の長崎県長崎市への原爆投下の際にも、投下の第1目標となった小倉市(現北九州市)の天候観測機として作戦に参加している。
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{{複数の問題 |出典の明記=2017年7月 |参照方法=2017年7月}}
[[画像:Tibbets-wave.jpg|250px|thumb|[[広島市への原子爆弾投下|広島]]出撃に際し機長席から手を振るポール・ティベッツ大佐]]
[[File:Silverplate B-29 Enola Gay.jpg|250px|thumb|原爆投下終了後[[テニアン島]]に帰投したエノラ・ゲイ。[[テールコード]]が変更されている]]
'''エノラ・ゲイ'''({{lang-en-us|Enola Gay}})は、[[太平洋戦争]]末期に運用された[[アメリカ陸軍航空軍]][[第509混成部隊]]第393爆撃戦隊所属の[[B-29_(航空機)|B-29]]の機名。B-29の中で原爆投下用の改造([[シルバープレート]]形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。
[[1945年]][[8月6日]]午前8時15分に[[広島県]][[広島市]]に[[原子爆弾]](原爆)「[[リトルボーイ]]」を[[広島市への原子爆弾投下|投下]]したことで知られる。また、同年[[8月9日]]の[[長崎県]][[長崎市]]への原爆[[長崎市への原子爆弾投下|投下]]の際にも、投下の第1目標となった[[小倉市]](現[[北九州市]])の天候観測機として作戦に参加している。
== 概要 ==
エノラ・ゲイは、[[ネブラスカ州]]に存在した[[グレン・L・マーティン・カンパニー]] ベルビュー工場(現オファット空軍基地)で製造された。その後、[[ポール・ティベッツ]]大佐により[[1945年]][[5月18日]]に陸軍航空隊509混成部隊へ配属されることとなる。[[1945年]][[7月6日]]にはアメリカ本土から[[テニアン島]]へ到着し、その日のうちに[[原子爆弾|原爆]]を搭載するため、爆弾倉の改造が行われている。
配属当初、ビクターナンバー「'''12'''」が割り当てられたが、所属部隊を表す[[垂直尾翼]]のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である「第6爆撃隊」表示である大型円中心に'''R'''へと変更したため、誤認防止のため「'''82'''」へ変更された。初期は特殊任務機表示である大型円中心に左向きの矢印である。なお、原子爆弾投下に関する作戦任務終了後の1945年[[8月]]中には、テニアン島北飛行場に於いてビクターナンバーは「'''82'''」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元に戻している。
エノラ・ゲイは8回の訓練ののち、[[神戸市|神戸]]・[[名古屋市|名古屋]]への[[パンプキン爆弾]]を使用した爆撃を行った。7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、「模擬リトルボーイ」を投下する。
機体名称の由来は、[[機長]]であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ({{en|Enola Gay Tibbets}})から採られたものである<ref>[http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/031yudaya.htm ユダヤ陰謀説のウソ]レムナント出版公式サイト</ref>。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。
== 作戦終了後 ==
[[1945年]][[11月8日]]に[[ニューメキシコ州]]、[[ロズウェル]]陸軍航空基地(現[[ウォーカー空軍基地]])に到着。[[1946年]][[4月29日]]に[[クロスロード作戦]]に参加するため[[クェゼリン環礁]]に向かうが、投下作戦が[[ビキニ環礁]]に変更となったため、翌日に[[カリフォルニア州]]トラビス空軍基地へと帰還している。その後、機体保存が決定され、1946年[[7月24日]]に[[アリゾナ州]][[デビスモンサン空軍基地]]へと移送された。1946年[[8月30日]]には陸軍航空隊を除籍し、[[スミソニアン博物館]]名義へと変更されている。その後[[1953年]][[12月2日]][[メリーランド州]]、[[アンドルーズ空軍基地]]へ移送、そこで解体保存されることとなる。
==スミソニアン博物館展示騒動 ==
[[Image:Enola Gay-27527-1.jpg|right|250px|thumb|スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターに展示されているエノラゲイ]]
[[1995年]]に、[[国立航空宇宙博物館]]側が原爆被害や歴史的背景も含めて、[[レストア]]中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、[[アメリカ合衆国退役軍人省|アメリカ退役軍人団体]]などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任した。
その後、レストアが完了し、スミソニアン航空宇宙博物館の別館となる[[スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター]]([[ワシントン・ダレス国際空港]]近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の[[監視カメラ|監視モニター]]にて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。
前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。
==乗組員==
[[Image:B-29 Enola Gay w Crews.jpg|thumb|250px|作戦を実行した乗員達。中央がティベッツ大佐]]
出撃当時の乗組員構成(全12名)。[[2014年]][[7月28日]]、同機最後の生存者であった[[セオドア・ヴァン・カーク]]が93歳で死去したため、ボックスカーを含め、原爆投下に参加した搭乗員の存命者はいなくなった<ref>{{Cite news |title=広島に原爆投下最後の生存者死去 T・カーク氏、93歳 |newspaper=[[共同通信]] |date=2014-07-30 |url=http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014073001000833.html |accessdate=2014-07-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140805064227/http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014073001000833.html |archivedate=2014-08-05}}</ref>。
*機長・操縦士:[[ポール・ティベッツ]](Paul W. Tibbets, Jr.)
*副操縦士:ロバート・A・ルイス([[w:Robert A. Lewis|Robert A. Lewis]])
*爆撃手:[[トーマス・フィアビー|トーマス・フィヤビー]](Thomas Ferebee)
*レーダー士:ジェイコブ・ビーザー(Jacob Beser 1921〜92) - [[ボックスカー]]にも搭乗し、長崎の原爆投下にも参加した唯一の人物<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ted.com/talks/ari_beser_we_are_only_human_ari_beser_tedxsaikai?language=ja |title=私たちは互いに人間にすぎない|アリ・ビーザー|TEDxSaikai |publisher = |accessdate=2023-04-07}}</ref>。71歳で死去<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ted.com/talks/ari_beser_we_are_only_human_ari_beser_tedxsaikai?language=ja |title=私たちは互いに人間にすぎない|アリ・ビーザー|TEDxSaikai |publisher = |accessdate=2023-04-07}}</ref>。
*航法士:[[セオドア・ヴァン・カーク]] (Theodore Van Kirk)- 原爆投下は「奪った命より多くの命を救った」戦争終結に必要な手段だったとしつつも、繰り返してはならない「過ち」であると語っている<ref>{{Cite news |title=エノラ・ゲイ元航空士が遺した、原爆の「過ち」と誓い 広島に原爆投下のB29に搭乗|newspaper=日本経済新聞|date=2015-08-06|author=中前博之|url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO90168730V00C15A8000000/|accessdate=2017-07-15}}</ref>。
*無線通信士:リチャード・H・ネルソン(Richard H. Nelson 1925〜2003)- 「亡くなった人に対しては気の毒に思うが、原爆投下に参加したこと自体に後悔はない」と語っている<ref>{{Cite web|title=Why the Aircraft That Dropped the First Atomic Bomb Will Always Inspire Debate|url=https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/why-aircraft-dropped-first-atomic-bomb-will-always-inspire-debate-180975421/|website=Smithsonian Magazine|accessdate=2020-08-16|language=en|first=David|last=Kindy}}</ref>。
*原爆点火装置設定担当:ウィリアム・S・パーソンズ([[w:William Sterling Parsons|William S.Parsons]])
*電気回路制御・計測士:[[モリス・ジェプソン]](Morris R. Jeppson)
*後尾機銃手・写真撮影係:ジョージ・R・キャロン([[:en:George R. Caron|George R. Caron]])
*胴下機銃手・電気士:ロバート・H・シューマード(Robert H. Shumard 1920〜67)
*航空機関士:ワイアット・E・ドゥゼンベリー(Wyatt E. Duzenberry 1913〜92)
*レーダー技術士官:ジョー・S・スティボリック(Joe S. Stiborik 1914〜84)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連文献==
*{{Cite journal |和書|author =城由紀子|title =スミソニアン協会原爆展に対する米国主要紙の論調分析|date =1996|publisher =日本メディア英語学会|journal =時事英語学研究|volume =1996|issue =35|doi=10.11293/jaces1962.1996.35_51|pages = |ref = }}
== 関連項目 ==
*[[広島市への原子爆弾投下]]
*[[オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク]] - 上記を題材にした曲(「エノラ・ゲイの悲劇」)が存在する。
{{B-29}}
{{DEFAULTSORT:えのらけい}}
[[Category:第509混成部隊]]
[[Category:アメリカ合衆国の爆撃機]]
[[Category:広島原爆]]
[[Category:ポール・ティベッツ]]
[[Category:1940年代]]
[[Category:呼称問題]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%A4
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13,713 |
元 (王朝)
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元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。
正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。
伝統的に「中国を征服したモンゴル帝国が南北に分裂した内紛を経て、正統な中華帝国になった国」とされていたが、「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」するものなど様々な意見がある。
中国王朝としての元は唐崩壊(907年)以来の中国統一王朝であり、大都(現在の北京)から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を支配したが、明(1368年 - 1644年)に追われて北元になってからはモンゴル高原まで支配領域を縮小した。
中国の歴史には複数の征服王朝(遼・金・清など)があったが、元は政治制度・民族運営において中国漢人の伝統体制に同化されず、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特徴を保ったまま統治し続けたのが特徴的であった。一方、後述するように行政制度や経済運営では南宋の仕組みをほぼそのまま継承した。
元は、1260年、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (、ローマ字表記:Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元」と称した。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが、中国王朝史において唐や宋など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称される。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い。
クビライは兄弟のアリクブケと帝位を争って帝国が南北に分裂した内戦に至り、これを武力によって打倒し単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった。特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家のカイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、『集史』をはじめペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」(mamlakat-i Qāīdū'ī)と呼ばれたような自立した勢力を成した。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領(ウルス)となったのである。
一方中国からの視点で見たとき、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、遼(契丹)や金の統治を受けた北中国と、南宋の統治を受けてきた南中国が統合された。チンギス・カン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行った。また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われている。首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価される。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した。
モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入した。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた類書などが大量に出版された。南宋末期から大元朝初期の『事林広記』や大元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたる。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。鎌倉時代後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧一山一寧もこれらの学統に属する。
14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われた(北元)。明朝の始祖洪武帝(朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることが象徴するように影響を受けていたことが近年指摘されている。
クビライ登位以前についてはモンゴル帝国を参照。
1259年、第4代皇帝モンケが南宋遠征中に病死したとき、モンゴル高原にある当時の首都カラコルムの留守を預かっていた末弟アリクブケは、モンケ派の王族を集めてクリルタイを開き、西部のチャガタイ家ら諸王の支持を取り付けて皇帝位に即こうとしていた。これに対し、モンケと共に南宋へ遠征を行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴルに入り、東方三王家(チンギスの弟の家系)などの東部諸王の支持を得て、翌年の3月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府(のちの上都)でクリルタイを開き、皇帝位に就いた。アリクブケは1か月遅れて皇帝となり、モンゴル帝国には南北に2人の皇帝が並存し、帝国史上初めて皇帝位を武力争奪する事態となった。この時点では、モンケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリクブケが正当な皇帝であった。カラコルムにも戻らず、帝国全土の王侯貴族の支持もなく、勝手に皇帝を称したクビライは、この時点ではクーデター政権であった。
クビライとアリクブケの両軍は何度となく激突するが、カラコルムは中国からの物資に依存していたために、中国を抑えたクビライ派に対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ、劣勢を余儀なくされた。緒戦の1261年のシムトノールの会戦ではクビライが勝利するが、アリクブケは北西モンゴルのオイラトの支援を受けて抵抗を続けた。しかし、最終的にはアリクブケの劣勢と混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王がアリクブケから離反し、1264年、アリクブケはクビライに降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライを正統とする立場から、「アリクブケの乱」という。
アリクブケの降伏によりモンゴル皇帝の位は再び統合されたが、西の中央アジア方面では、アリクブケの乱がもたらした混乱が皇帝の権威に決定的な打撃を与えていた。1265年、クビライは西方の諸王家の当主たちに呼び掛けて統一クリルタイを開催を計画したが、ほどなく西方遠征軍の司令でイルハン朝の始祖となった次弟フレグ、ジョチ・ウルス当主ベルケ、クビライを支持していたチャガタイ家の当主アルグが次々と死去し、この統一クリルタイによって自身の全モンゴル帝国規模の正式なモンゴル皇帝位の承認を目論んでいたクビライの計画は、大きく頓挫した。
1266年、クビライはアルグの死による欠を補いチャガタイ家と中央アジアの動向を掌握するため、チャガタイ家の傍流バラクをチャガタイ家の本領であるイリ方面へ派遣した。しかし、バラクはクビライから共同統治を指示されていたにもかかわらず、クビライの命と称してチャガタイ家新当主ムバーラク・シャーから権力を奪い取り、自ら新当主を宣言してクビライに叛乱を起こした。バラクはカイドゥの領土を侵犯しマー・ワラー・アンナフルへ侵攻する構えを見せ、カイドゥはこれに対抗するためジョチ・ウルスへ救援を求めた。これに応えてジョチ・ウルス東方の総帥であるオルダ家の当主コニチは5万の軍勢を率いて加勢し、バラクは敗走したが、バラクは中央アジアの権益についての合議をカイドゥ、ジョチ・ウルス新当主モンケ・テムルへ申し入れた。1269年、中央アジアを支配するチャガタイ家のバラクとオゴデイ家のカイドゥ、そしてジョチ家当主モンケ・テムルの名代(ベルケの同母弟ベルケチェル)の諸王がタラス河畔で会盟し(タラス会盟)、中央アジアのモンゴル皇帝領の争奪を止め、このうち、マー・ワラー・アンナフルの3分の2をバラクに、残り3分の1をジョチ家とカイドゥで折半することが決まった。
1270年、バラクはイルハン朝のアバカとの会戦に大敗してブハラで客死し、アバカとのマーワーアンナフル争奪に敗れカイドゥとの紛争にも敗れたチャガタイ家の王族たちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順してアフガニスタンのガズニーを所領として分与され、バラクの子ドゥアはカイドゥに応じて中央アジアのチャガタイ家当主となり、アルグの遺児チュベイらの一門は東方へ赴いてクビライに帰順した。クビライは南宋がバヤンに降服した1267年、第4皇子ノムガンを主将とするカイドゥ討伐軍を中央アジアへ派遣し、同時にアバカにも正式な封冊によって「カアンの代官(ダルガ)」の称号を与えてカイドゥを挟撃する作戦に出た。ところが、ノムガンの遠征軍は、アルマリクで遠征軍に参加していたモンケの子シリギらに叛乱を起こされ、ノムガンは副将アントンや同じく第9皇子ココチュらともども捕縛されてしまった。シリギら叛乱王族たちはカイドゥやモンケ・テムルに共に決起するよう呼び掛けたノムガンとココチュ兄弟をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質として送ったが、両者はノムガンらを保護したものの決起には全くに応じなかった。クビライは南宋戦線からバヤンをカラコルムへ転戦させると、反乱軍は速やかに鎮圧されてしまった。反乱軍に加わっていたアリク・ブケ家のヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰を恐れてカイドゥのもとに逃れた。こうしてシリギの叛乱は収束したが、クビライによる中央アジア直接支配の計画は2度にわたり頓挫し、代わりに、カイドゥは自らの所領に加え、ドゥアの西部のチャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリクブケ家の3つのウルスを勢力下に収めることができた(シリギの乱)。
その間、クビライは政治機関として中書省を設置しカラコルムにかわる新都として中国北部に大都(現在の北京)を造営、地方ではモンゴル帝国の金攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、1271年に国号を大元とした。モンゴル帝国西部に対するモンゴル皇帝直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しいモンゴル皇帝政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。
大元を建てた当初のクビライは、金を滅ぼして領有した華北を保有するだけで、中国全体の支配はいまだ不完全であり、南宋の治下で発展した江南(長江下流域南岸)の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、1268年漢水の要衝襄陽の攻囲戦を開始する。
クビライは、皇后チャブイに仕える用人であった中央アジア出身の商人アフマドを財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた高麗を通じ、南宋と通商していた日本にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の鎌倉幕府はこれを拒否したため、クビライは南宋と日本が連合して元に立ち向かうをの防ぐため、1274年にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、対馬・壱岐島、九州の大宰府周辺を席巻しただけに終わった(文永の役)。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の征東行省と高麗政府が一体化し、新服の属国であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。
1273年になると、襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなどして南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。1274年、旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると、防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、1276年に首都臨安(杭州)が無血開城する。恭帝をはじめとした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の残党を1279年の崖山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後述する経済制度を整備した。
しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。1281年には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり(弘安の役)、1285年と1288年にはベトナムに侵攻した軍が陳朝に相次いで敗れた(白藤江の戦い)。1284年から1286年にかけての樺太遠征でアイヌを樺太から排除し、ビルマへの遠征では1287年に首都パガンの占領に成功したが、現地のシャン人の根強い抵抗に遭い恒久的な支配を得ることはできなかった。さかのぼって1276年には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子シリギが反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは3度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、1287年には、即位時の支持母体であった東方三王家がナヤンを指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。また、1292年にジャワ遠征を行っているが、これも失敗に終わっている。もっとも、東南アジアへの遠征は商業ルートの開拓の意味合いが強く、最終的には海上ルートの安全が確保されたため、結果的には成功したと言える。
クビライの死後、1294年に孫のテムルが継ぐがその治世期の1301年にカイドゥが死に、1304年に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は皇帝を頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆるシルクロード交易は唐代以来の活況を呈した。この状況を指して「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ぶことがある。
元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ・ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられた。江南の港湾諸都市の海上貿易も宋代よりは衰退したものの繁栄しており、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本とも、官貿易や密貿易船はある程度の往来が確認される。
1307年、テムルが皇子を残さずに死ぬとモンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。
まず権力争いの中心となったのは、チンギスの母ホエルンと皇后ボルテ、クビライの皇后チャブイ、テムルの母ココジンらの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても外戚として権勢をふるってきたコンギラト部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后ブルガンはコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王アナンダを皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちはクーデターを起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥カイシャンを皇帝に迎えた。
カイシャンの死後は弟アユルバルワダが帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母ダギ・カトンが宮廷内の権力を掌握し、皇帝の命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が1320年に終わり、1322年にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌1323年にアユルバルワダの後を継いでいたシデバラが殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから1333年にトゴン・テムルが即位するまで、11年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。
ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に広西で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルに疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後はアスト親衛軍の司令官であるバヤンがエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、1340年にはバヤンの甥トクトが伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやほとんどが軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人した皇帝も権力を巡る対立に加わり、1347年から1349年までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。
元朝は理財派色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用故の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていたが、この政治混乱はさらに農村を荒廃させた。ただし、この14世紀には折しも小氷期の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因するペストのパンデミックが元朝の直轄支配地であるモンゴル高原や中国本土のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていき、元朝は1世紀にも満たない極めて短命な王朝としての幕を閉じた。
1348年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、1351年には賈魯による黄河の改修工事をきっかけに白蓮教徒の紅巾党が蜂起した。1354年には、大規模な討伐軍を率いたトクトが強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これは皇帝の権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。
朱元璋の軍は、即位するや大規模な北伐を開始して元の都・大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと敗走した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの敗走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでそれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)が、1388年にトグス・テムルが殺害されクビライ以来の直系の王統は断絶する。
この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉えることには問題がある。まず、華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られたことによって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、1367年に明軍に捕らえられた戸部尚書の張昶は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。
北元では1388年にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の皇帝世襲が終焉し、クビライ家政権としての大元は断絶した。しかし、その後もチンギスの子孫がモンゴル高原で優勢となった遊牧集団に、大元の皇帝として代わる代わる擁立されつづけた。クビライ家の断絶後はアリクブケ家の皇帝が続き、一時は非チンギス裔のオイラト族長に皇帝位を簒奪された(エセン・ハーン)が、1438年にはクビライ家の末裔とされる王家が復権を果たし(ただし第2代モンゴル皇帝の末裔のオゴデイ家である可能性も指摘されている)、15世紀末にはそこから出たダヤン・ハーンにより、いったん大元皇帝のもとでのモンゴル高原の遊牧民の再統合が果たされる。大元皇帝位が最終的に終焉を迎えたのは、ダヤン・ハーンの末裔のリンダン・ハーンが死に、モンゴル諸部族がリンダンの代わりに満州人の建てた後金皇帝ホンタイジをモンゴルのハーンに推戴した1636年であった(詳細は北元を参照)。
元の政治制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されたため、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。
元の首都は大都(現在の北京)であるが、皇帝は遊牧国家の伝統に則り、都城の城壁内では暮らさずに冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕(ゲル)群が宮廷(オルド)となっていた。
モンゴル帝国の皇帝のもとには、第二代オゴデイの時代から時代と設置状況により、漢語で「中書省」、「尚書省」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々な頭脳集団を集めていたクビライは、即位するとまず漢人の側近を中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に六部を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。
1263年には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として枢密院が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子チンキムが総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父にかわって代行した。しかし、中央政府の全機能を中書令チンキムの下に束ねたわけではなく、1270年にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。遡って1268年には中国王朝にならって御史台を設置し、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官の個性や宮廷での力関係などに左右された。
なお、元代の中書省では総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国は古くから貴右賤左という観念があった。漢書·周昌傳:「左遷」、顔師古注:“是の時、右を尊い而して左を卑しみ、故に秩位を貶するを謂い左遷と為す。宋.戴埴《鼠璞》:「漢は右を以て尊と為し、貶秩を謂いて左遷と為す、仕诸侯は左官と為り、高位に居り右職と為る。
元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する征服王朝である遼や金と比較すると民族固有の支配体制を維持していたため、元では律令のような体系立った法令を編纂せず、モンゴル時代や元初は法や裁定が紊乱して民衆の困窮を招いた。次第に政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねを法令と成し、中でも皇帝の名をもって出される聖旨(ジャルリグ)や令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書(ウゲ)が高い権威を持った。しかし、元末まで法体系の不備は解消されず縁故による汚職がはびこる温床の一つとなった。モンゴル人は文字としてモンゴル文字と、クビライが新たに作らせたパスパ文字をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれたモンゴル語を正文としていた。漢文の翻訳も付いたが口語的・直訳的な文体が用いられた。なお、積み上げられた法令は、『元典章』という漢文の書物に編纂されて現存しているが、文章は直訳体に加え当時の官吏が用いた特殊な文体であり、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。元の世祖の時に比較的体系立った『至元新格』が、英宗の時(至治3年、1332年)に体系的な法令である『大元通制』が編纂された。
元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。
腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で使われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。
行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。
また、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じく季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、個々の所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する封土であり、自治に委ねられていた。しかも個々の位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状に散った領民・領地を持っていた。定住地帯では、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任じて、皇帝の直接の支配権が及ばない位下領・投下領が、封土を含んで地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。
元に服属した天山ウイグル王国は、内政に関しては高昌王を授けられ従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿、つまりは外戚である)としてモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。また、元に服属した高麗は12省に組み込まれて高麗省となり同じく行政に就いて自治を認められたが、高官の人事権や政治・軍事は所属する行省のモンゴル人によって支配された。忠宣王以降の国王は名目的な存在となり、モンゴル皇女を母とし即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようであった。
このように元の地方制度は、中国王朝に伝統的な中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配下にありながら異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府、地方政府共に人材登用では能力ではなく縁者の階級が重視され高官の子弟は修養や実務を積む前から権限のある役職に就いた、またチンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に就き政治に携わる者の多くは、皇帝との個人的主従関係に基づき登用されたケシクテン所属者(ケシク)からの出向であった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。
宰相など最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(駙馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。
皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲社会の元朝では能力に基づく選抜採用は必要がなく、また大量の増員があった元朝による南宋滅亡に際しても、投降した旧官吏を大量採用したため、科挙によって新たに官僚を登用する必要が存在せず、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われなかった(耶律楚材の実施した科挙によって一次登録された4000人のうち、中央高官や県長以上の官職に就いた24人などの例もなくはない)。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によって賄われていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。
このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、皇帝家との姻戚関係などの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の科挙試験による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギスの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。その結果、元朝の官吏は文官としての能力を著しく欠いた無能者が多く、汚職や悪政と搾取を繰り返す元凶となった。
貴族の家門に属さなくとも出世できた者もいたが、主に彼らはモンゴル帝国の初期から政商として重用され、元朝初期に高官として財務を担っていた色目人(モンゴル人、漢人、南家以外の総ての人々)貴族だった。オルトクと呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じて皇帝や貴族と金銭を通じたつながりをもった彼らは財務に明るく重用された。しかし、徴税や専売税の請負いなどで度重なる臨時増税を課して過重な負担を負わせ、汚職と曲法を極めて搾取を行ったことは「税人白骨」に代表される民衆の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。
南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなかった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、漢民族と漢化した渤海人、契丹人、女真人などからなる)と南家(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。
もっとも、官吏・軍人・儒戸としての出仕、縁故・推挙などによる出仕、国子監などの国の教育機関を通じた出仕、科挙及第による出仕と出仕経路の多様性をモンゴル帝国・元朝の人材登用の特徴として捉え、元代の知識人の多くは自分に有利な方法での仕官を目指したのであって、「進士及第」という社会的名誉にこだわらない限りは、どの方法でも構わなかった(科挙を受ける必然性はなかった)とする指摘もある。
民間の掌握にあたっても、元では、個々の民と皇帝との個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上ですでに触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。
こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに厳格な格差が存在した。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度である。四等身分制度が実施されたため、漢人南家の高級官吏は万人無二と称される様に非常な小数に抑えられていた。但しこの身分制度で支配の頂点に立っていたモンゴル人でも没落して奴隷になる者もいた。クビライも皇帝即位以前からウイグル人・契丹人・漢人・女真人などからなる多種族混成のブレイン・実務集団を抱えている。元王朝では財務に優れた色目人(ムスリム)たちには財政部門を、文化・宗教関係部門にはチベット人やインド、ネパール、カシミール地方の出身者を、そして科学・学術・情報・技術分野にはあらゆる地域出身の人々が登用され、各人の特性や能力に応じた職務を分担した。そして元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のように元々モンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右し、漢民族出身者でも元王朝に忠誠を誓うものが現れた。台北市の国立故宮博物院に収められているクビライの狩猟の様子を描いた「世祖出猟図」では黒人と思われる黒い肌をした馬に乗った人物がクビライの近くに描かれる。
このようにモンゴルの慣習に固執し、科挙によらず縁故主義(科挙は実力に基づく)により人材を登用し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その分権的で中世的な支配は、唐代以来貴族階層及び農奴制の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。また、流通や貿易の振興を図り、紙幣を流通させるなど経済・商業政策は南宋の施行を引き継いだものの、奴隷制へ逆行した弊害は大きく広範な産業(特に農業全般、漁業、鉱業全般)において停滞期に入り、宋代の水準へ回復するのは明代中期まで待つ事となる。
(単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム)
元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興した。また、塩の国家専売による莫大な収入と莫大な農業生産力による穀物が国庫を支えた。経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からも商税が得られた。元での経済政策を担当していた者の多くは色目人であった。
中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。
江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の田地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する収穫が得られる奴婢を用いた官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『農桑輯要』という官撰の農書を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、国家の政策として同書が編纂されたということは、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進されたことを物語っている。さらに虞集に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。しかし、金代に農地1畝当たり1.5石程度だった華北の生産性が元代には1畝当たり0.6程度にまで激減しており、戦乱や奴隷制による農業技術の大きな衰退が確認される。
また、クビライは海に面した現在の天津から大都まで80kmほどの運河を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物を大都へ運送するのに手間の掛かる運河ではなく海運を使用するようにしたことで京杭大運河は完成した。
さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える塩・茶(酒・明礬は江南に偏らない)などの専売品の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に欠かせないことから厳重に管理され、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。
この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で相次いだ反乱により元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。
(政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は1260年のクビライ即位の年の例に拠っている。)
元の税制は、かつての金の領土(漢地)と、南宋の領土(江南)とで異なっていた。
漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。
税糧は、各戸の壮丁(労働に耐えうる男性)ごとに粟(穀物)1石、あるいは土地1畝ごとに畑は3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、人頭税と面積に対してかかる一般的な田税の両建てだった歴代中国王朝とは趣が異なる。
もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で絹糸を22両4銭(重量)を収め、包銀は銀6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられた。この2つの税の徴税事務は、金を滅ぼし華北へ進出した当初は委託された徴税人によって行われていたが、モンケの治世期以降は次第にかつてモンゴルへ投降した在地の金人・漢人の世候によって代替されるようになり、それに伴って中間での抜き取りは減ったものの元朝政府は税額を2倍前後としたため民衆の過重な負担は変わらなかった。
一方、江南の方では、南宋から引き継いだ両税法をそのまま用いていた。両税法では、各戸が夏に木綿などの物産、秋に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。
しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入に依存する割合が他の王朝よりも高かった。
元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税は、金や南宋と同じく奢侈品や非日用品が州府間を移動するときや港湾を商品が通過するときに関税を課され、日用品は最終売却地で売却時に商税を支払えばよかった。反面、海外との交易は厳格に統制が敷かれたが、国庫に入る商税の総額は歳入の1~3割にのぼった。
しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。
中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔(こうしょう、あるいは単に鈔とも)と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。
交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。
これに対して1287年に中統鈔の五倍の価値に当たる至元通行宝鈔(通称・至元鈔)を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、消費財である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。
さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。
こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。
元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギスの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていた君主は、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。皇帝の側から見れば、皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。
このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、14世紀に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は1356年に廃止された。
元は権利を授与した政商や王侯が委託する海商以外の海外交易を厳禁とし、私貿易に対する海禁政策(外国からの交易船は禁止していない)を執っていた。金銀銅鉄貨や奴婢・武器防具・絹・馬匹・兵糧を持ち出しが発覚した場合は、船主以下棒叩き107回・船舶積荷没収の罰が課され、外国からの交易船に対しても徴税と取引の監視と規制が為された。
船舶は決まった港湾への登録が義務付けられ、それ以外の都市に停泊した場合は罪に問われた。また乗員も厳格な管理が行われ船長から水夫に至るまで全員に登録の義務があり、漏れがあった場合は関係者の家族諸共罪に問われた。交易先も厳重に管理され、申告した国以外との貿易は認められず、大船には官吏が乗り込み取引内容などの監視が行われた。
元では船舶税として出国と帰国の際に積荷の1/30を、交易許可として細貨から1/10を粗貨から1/15を現物で徴収した。
元来シャーマニを信仰してきたモンゴルは、チンギスの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた。
中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、教主丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギスの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにモンゴル皇帝のために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になった。金朝の首都であった中都(のちの大都が建設される)を拠点として、教団は金朝滅亡後に失職した官吏を保護し、さらに全真教系列の各地の道観は漢人官僚組織の育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下の漢地領土において行政組織の運営に携わった。しかし、この急激な教団の拡大は浄土教系や禅宗などの華北の中国仏教教団との深刻な対立を生み出した。特に、全真教の道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存の仏教寺院を不法に接収し道観に作り替えたり、寺院付属の荘園を没収して私領するなどの事件が多発したため、仏教諸派はモンゴル宮廷にこの事態を直訴する事態となった。モンケの治世にカラコルムと中都で都合3回行われたといういわゆる「道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題を詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席のもと開催された時は、ルイ9世から派遣されたウィリアム・ルブルックも出席しており、帝国内外のキリスト教徒やイスラム教徒の知識人たちも参加していた)
京兆府(現在の西安)から中都(燕京)に派遣されたクビライのもとで開催された時、華北仏教諸派の嘆願を汲んで全真教団はチンギス以来任されていた華北宗教界における政治権力を剥奪され、代わりに中都での宗教行政の総監であったカシュミール出身の仏僧「国師」那摩(ナーモ)の後任として招かれたチベット仏教サキャ派の高僧サキャ・パンディタ、およびパスパに宗教界を監督する権限を与えた。全真教はこの「道仏論争」に敗れて勢力を一時的に後退させた。しかしながら、これは根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、後漢の五斗米道の系譜をひく正一教が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。この前後から全真教のみならず少林寺、玄中寺などの浄土宗、禅宗の仏教大寺院をはじめ曲阜などの孔子廟などに加え、チベット仏教へも歴代モンゴル皇帝や王族、貴族層から多大な保護と寄進を受ける。
仏教は、はじめに保護を獲得したのは禅宗で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に杭州の中峰明本(1263年 - 1323年)がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ(パスパ)に対し、1260年に「国師」、1269年に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認めた。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。元代後期から末期になると、これに耽溺するモンゴル王侯が増え、ラマに過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。
また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。現在の北京にある中国でも最古級のモスクである牛街清真寺はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元ウルス時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつである。もうひとつの大宗教はキリスト教で、ケレイト王国や陰山山脈方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていた。例として、モンテ・コルヴィノは、1307年に初の大都管区大司教に任じられている。
ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子や孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである。儒者の排斥は、旧金・南宋の知識人層の間でも多くの者が名を飾って実を顧みず党争と些末な字句解釈に拘り国を滅ぼした儒教・科挙に不信感を抱いていたことも大きい。
なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で朱子の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる朱子学が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している。
モンゴル・元代には有名なマルコ・ポーロ、イブン=バットゥータのように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより幾つかの西方の情報と技術が持ち込まれた。
例えば、モンケの時代にモンゴル宮廷に招聘されたイラン出身のジャマールッディーンにより暦法が持ち込まれた。1271年に回回司天台と呼ばれる天文台が作られた際の天体観測機器には国内の技術と観測形態が使用されている。クビライの側近であった中国人学者郭守敬は、回回司天台の観測結果をもとに新しい暦である授時暦を作り1年を365.243日と定め、この暦は明の滅亡まで使用された。大元朝と友好関係にあったイルハン朝のフレグによって創設されナスィールッディーン・トゥースィーらによって運営されたマラーゲの天文台と天体観測データーの交換が活発に行われた。
回回(ふいふい)は、本来は「ウイグル」の音写である「回鶻」に由来する単語であるが、「回回教」「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことであり、元朝時代において語源である「ウイグル」が「畏兀児」と音写され、「回回語」が実際にはペルシア語のことを指していたように、具体的にはマー・ワラー・アンナフルやホラーサーンなど広く西方のイラン系の人々に由来する事物を指した。元は南宋の拠点であった襄陽の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、投擲距離が数百メートルに達する可動式の「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」(トレビュシェット)というペルシャ式の投石機をつくった。このマンジャニークも、中国では回回砲という名で知られた。金攻略に際しては、初期の作戦は攻壁攻撃力の欠如により失敗したが、投石器の利用により成功にいたる。
中国科学史の大家であるジョゼフ・ニーダムは、優れた実用技術の利用に反し元・明代は中国において科学技術の停滞期であり、宋代からの水準低下は天文学・暦学や数学を始めとした科学分野に見られると指摘した。
元の時代の文学で特筆すべきは雑劇と呼ばれる戯曲の作品である。漢文、唐詩、宋詞、元曲など言われるようにこの時代の「曲」は歴代でも最高とされる。
小説にも才能のある作者が集まり、西遊記、水滸伝や三国志演義などはこの時代に原型が出来たとされる。
このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは漢詩と歴史であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。
一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である趙孟頫(子昂)、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族(色目人)の詩人があらわれ、ムスリムの進士(科挙合格者)である薩都剌を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。
書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、書は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、絵画は北宋以来の院体画を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、南宗画とも後に区分される山水画の技法を確立していった。
陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には染付などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの青磁などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対照をなす。青花と呼ばれる染付に使われているコバルト顔料は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。
元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコ、イスタンブールのオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イラン、アルダビールのサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。
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"text": "伝統的に「中国を征服したモンゴル帝国が南北に分裂した内紛を経て、正統な中華帝国になった国」とされていたが、「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」するものなど様々な意見がある。",
"title": "定義と名称"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "中国王朝としての元は唐崩壊(907年)以来の中国統一王朝であり、大都(現在の北京)から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を支配したが、明(1368年 - 1644年)に追われて北元になってからはモンゴル高原まで支配領域を縮小した。",
"title": "定義と名称"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "中国の歴史には複数の征服王朝(遼・金・清など)があったが、元は政治制度・民族運営において中国漢人の伝統体制に同化されず、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特徴を保ったまま統治し続けたのが特徴的であった。一方、後述するように行政制度や経済運営では南宋の仕組みをほぼそのまま継承した。",
"title": "定義と名称"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "元は、1260年、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (、ローマ字表記:Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元」と称した。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが、中国王朝史において唐や宋など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称される。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い。",
"title": "概要"
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{
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"text": "クビライは兄弟のアリクブケと帝位を争って帝国が南北に分裂した内戦に至り、これを武力によって打倒し単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった。特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家のカイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、『集史』をはじめペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」(mamlakat-i Qāīdū'ī)と呼ばれたような自立した勢力を成した。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領(ウルス)となったのである。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "一方中国からの視点で見たとき、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、遼(契丹)や金の統治を受けた北中国と、南宋の統治を受けてきた南中国が統合された。チンギス・カン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行った。また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われている。首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価される。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入した。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた類書などが大量に出版された。南宋末期から大元朝初期の『事林広記』や大元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたる。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。鎌倉時代後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧一山一寧もこれらの学統に属する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われた(北元)。明朝の始祖洪武帝(朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることが象徴するように影響を受けていたことが近年指摘されている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 10,
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"text": "クビライ登位以前についてはモンゴル帝国を参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1259年、第4代皇帝モンケが南宋遠征中に病死したとき、モンゴル高原にある当時の首都カラコルムの留守を預かっていた末弟アリクブケは、モンケ派の王族を集めてクリルタイを開き、西部のチャガタイ家ら諸王の支持を取り付けて皇帝位に即こうとしていた。これに対し、モンケと共に南宋へ遠征を行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴルに入り、東方三王家(チンギスの弟の家系)などの東部諸王の支持を得て、翌年の3月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府(のちの上都)でクリルタイを開き、皇帝位に就いた。アリクブケは1か月遅れて皇帝となり、モンゴル帝国には南北に2人の皇帝が並存し、帝国史上初めて皇帝位を武力争奪する事態となった。この時点では、モンケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリクブケが正当な皇帝であった。カラコルムにも戻らず、帝国全土の王侯貴族の支持もなく、勝手に皇帝を称したクビライは、この時点ではクーデター政権であった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "クビライとアリクブケの両軍は何度となく激突するが、カラコルムは中国からの物資に依存していたために、中国を抑えたクビライ派に対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ、劣勢を余儀なくされた。緒戦の1261年のシムトノールの会戦ではクビライが勝利するが、アリクブケは北西モンゴルのオイラトの支援を受けて抵抗を続けた。しかし、最終的にはアリクブケの劣勢と混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王がアリクブケから離反し、1264年、アリクブケはクビライに降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライを正統とする立場から、「アリクブケの乱」という。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "アリクブケの降伏によりモンゴル皇帝の位は再び統合されたが、西の中央アジア方面では、アリクブケの乱がもたらした混乱が皇帝の権威に決定的な打撃を与えていた。1265年、クビライは西方の諸王家の当主たちに呼び掛けて統一クリルタイを開催を計画したが、ほどなく西方遠征軍の司令でイルハン朝の始祖となった次弟フレグ、ジョチ・ウルス当主ベルケ、クビライを支持していたチャガタイ家の当主アルグが次々と死去し、この統一クリルタイによって自身の全モンゴル帝国規模の正式なモンゴル皇帝位の承認を目論んでいたクビライの計画は、大きく頓挫した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1266年、クビライはアルグの死による欠を補いチャガタイ家と中央アジアの動向を掌握するため、チャガタイ家の傍流バラクをチャガタイ家の本領であるイリ方面へ派遣した。しかし、バラクはクビライから共同統治を指示されていたにもかかわらず、クビライの命と称してチャガタイ家新当主ムバーラク・シャーから権力を奪い取り、自ら新当主を宣言してクビライに叛乱を起こした。バラクはカイドゥの領土を侵犯しマー・ワラー・アンナフルへ侵攻する構えを見せ、カイドゥはこれに対抗するためジョチ・ウルスへ救援を求めた。これに応えてジョチ・ウルス東方の総帥であるオルダ家の当主コニチは5万の軍勢を率いて加勢し、バラクは敗走したが、バラクは中央アジアの権益についての合議をカイドゥ、ジョチ・ウルス新当主モンケ・テムルへ申し入れた。1269年、中央アジアを支配するチャガタイ家のバラクとオゴデイ家のカイドゥ、そしてジョチ家当主モンケ・テムルの名代(ベルケの同母弟ベルケチェル)の諸王がタラス河畔で会盟し(タラス会盟)、中央アジアのモンゴル皇帝領の争奪を止め、このうち、マー・ワラー・アンナフルの3分の2をバラクに、残り3分の1をジョチ家とカイドゥで折半することが決まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1270年、バラクはイルハン朝のアバカとの会戦に大敗してブハラで客死し、アバカとのマーワーアンナフル争奪に敗れカイドゥとの紛争にも敗れたチャガタイ家の王族たちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順してアフガニスタンのガズニーを所領として分与され、バラクの子ドゥアはカイドゥに応じて中央アジアのチャガタイ家当主となり、アルグの遺児チュベイらの一門は東方へ赴いてクビライに帰順した。クビライは南宋がバヤンに降服した1267年、第4皇子ノムガンを主将とするカイドゥ討伐軍を中央アジアへ派遣し、同時にアバカにも正式な封冊によって「カアンの代官(ダルガ)」の称号を与えてカイドゥを挟撃する作戦に出た。ところが、ノムガンの遠征軍は、アルマリクで遠征軍に参加していたモンケの子シリギらに叛乱を起こされ、ノムガンは副将アントンや同じく第9皇子ココチュらともども捕縛されてしまった。シリギら叛乱王族たちはカイドゥやモンケ・テムルに共に決起するよう呼び掛けたノムガンとココチュ兄弟をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質として送ったが、両者はノムガンらを保護したものの決起には全くに応じなかった。クビライは南宋戦線からバヤンをカラコルムへ転戦させると、反乱軍は速やかに鎮圧されてしまった。反乱軍に加わっていたアリク・ブケ家のヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰を恐れてカイドゥのもとに逃れた。こうしてシリギの叛乱は収束したが、クビライによる中央アジア直接支配の計画は2度にわたり頓挫し、代わりに、カイドゥは自らの所領に加え、ドゥアの西部のチャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリクブケ家の3つのウルスを勢力下に収めることができた(シリギの乱)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "その間、クビライは政治機関として中書省を設置しカラコルムにかわる新都として中国北部に大都(現在の北京)を造営、地方ではモンゴル帝国の金攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、1271年に国号を大元とした。モンゴル帝国西部に対するモンゴル皇帝直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しいモンゴル皇帝政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "大元を建てた当初のクビライは、金を滅ぼして領有した華北を保有するだけで、中国全体の支配はいまだ不完全であり、南宋の治下で発展した江南(長江下流域南岸)の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、1268年漢水の要衝襄陽の攻囲戦を開始する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "クビライは、皇后チャブイに仕える用人であった中央アジア出身の商人アフマドを財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた高麗を通じ、南宋と通商していた日本にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の鎌倉幕府はこれを拒否したため、クビライは南宋と日本が連合して元に立ち向かうをの防ぐため、1274年にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、対馬・壱岐島、九州の大宰府周辺を席巻しただけに終わった(文永の役)。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の征東行省と高麗政府が一体化し、新服の属国であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1273年になると、襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなどして南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。1274年、旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると、防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、1276年に首都臨安(杭州)が無血開城する。恭帝をはじめとした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の残党を1279年の崖山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後述する経済制度を整備した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。1281年には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり(弘安の役)、1285年と1288年にはベトナムに侵攻した軍が陳朝に相次いで敗れた(白藤江の戦い)。1284年から1286年にかけての樺太遠征でアイヌを樺太から排除し、ビルマへの遠征では1287年に首都パガンの占領に成功したが、現地のシャン人の根強い抵抗に遭い恒久的な支配を得ることはできなかった。さかのぼって1276年には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子シリギが反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは3度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、1287年には、即位時の支持母体であった東方三王家がナヤンを指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。また、1292年にジャワ遠征を行っているが、これも失敗に終わっている。もっとも、東南アジアへの遠征は商業ルートの開拓の意味合いが強く、最終的には海上ルートの安全が確保されたため、結果的には成功したと言える。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "クビライの死後、1294年に孫のテムルが継ぐがその治世期の1301年にカイドゥが死に、1304年に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は皇帝を頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆるシルクロード交易は唐代以来の活況を呈した。この状況を指して「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ぶことがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ・ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられた。江南の港湾諸都市の海上貿易も宋代よりは衰退したものの繁栄しており、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本とも、官貿易や密貿易船はある程度の往来が確認される。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1307年、テムルが皇子を残さずに死ぬとモンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "まず権力争いの中心となったのは、チンギスの母ホエルンと皇后ボルテ、クビライの皇后チャブイ、テムルの母ココジンらの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても外戚として権勢をふるってきたコンギラト部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后ブルガンはコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王アナンダを皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちはクーデターを起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥カイシャンを皇帝に迎えた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "カイシャンの死後は弟アユルバルワダが帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母ダギ・カトンが宮廷内の権力を掌握し、皇帝の命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が1320年に終わり、1322年にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌1323年にアユルバルワダの後を継いでいたシデバラが殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから1333年にトゴン・テムルが即位するまで、11年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に広西で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルに疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後はアスト親衛軍の司令官であるバヤンがエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、1340年にはバヤンの甥トクトが伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやほとんどが軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人した皇帝も権力を巡る対立に加わり、1347年から1349年までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "元朝は理財派色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用故の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていたが、この政治混乱はさらに農村を荒廃させた。ただし、この14世紀には折しも小氷期の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因するペストのパンデミックが元朝の直轄支配地であるモンゴル高原や中国本土のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていき、元朝は1世紀にも満たない極めて短命な王朝としての幕を閉じた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1348年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、1351年には賈魯による黄河の改修工事をきっかけに白蓮教徒の紅巾党が蜂起した。1354年には、大規模な討伐軍を率いたトクトが強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これは皇帝の権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "朱元璋の軍は、即位するや大規模な北伐を開始して元の都・大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと敗走した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの敗走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでそれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)が、1388年にトグス・テムルが殺害されクビライ以来の直系の王統は断絶する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉えることには問題がある。まず、華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られたことによって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、1367年に明軍に捕らえられた戸部尚書の張昶は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "北元では1388年にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の皇帝世襲が終焉し、クビライ家政権としての大元は断絶した。しかし、その後もチンギスの子孫がモンゴル高原で優勢となった遊牧集団に、大元の皇帝として代わる代わる擁立されつづけた。クビライ家の断絶後はアリクブケ家の皇帝が続き、一時は非チンギス裔のオイラト族長に皇帝位を簒奪された(エセン・ハーン)が、1438年にはクビライ家の末裔とされる王家が復権を果たし(ただし第2代モンゴル皇帝の末裔のオゴデイ家である可能性も指摘されている)、15世紀末にはそこから出たダヤン・ハーンにより、いったん大元皇帝のもとでのモンゴル高原の遊牧民の再統合が果たされる。大元皇帝位が最終的に終焉を迎えたのは、ダヤン・ハーンの末裔のリンダン・ハーンが死に、モンゴル諸部族がリンダンの代わりに満州人の建てた後金皇帝ホンタイジをモンゴルのハーンに推戴した1636年であった(詳細は北元を参照)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "元の政治制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されたため、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "元の首都は大都(現在の北京)であるが、皇帝は遊牧国家の伝統に則り、都城の城壁内では暮らさずに冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕(ゲル)群が宮廷(オルド)となっていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "モンゴル帝国の皇帝のもとには、第二代オゴデイの時代から時代と設置状況により、漢語で「中書省」、「尚書省」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々な頭脳集団を集めていたクビライは、即位するとまず漢人の側近を中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に六部を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1263年には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として枢密院が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子チンキムが総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父にかわって代行した。しかし、中央政府の全機能を中書令チンキムの下に束ねたわけではなく、1270年にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。遡って1268年には中国王朝にならって御史台を設置し、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官の個性や宮廷での力関係などに左右された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、元代の中書省では総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国は古くから貴右賤左という観念があった。漢書·周昌傳:「左遷」、顔師古注:“是の時、右を尊い而して左を卑しみ、故に秩位を貶するを謂い左遷と為す。宋.戴埴《鼠璞》:「漢は右を以て尊と為し、貶秩を謂いて左遷と為す、仕诸侯は左官と為り、高位に居り右職と為る。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する征服王朝である遼や金と比較すると民族固有の支配体制を維持していたため、元では律令のような体系立った法令を編纂せず、モンゴル時代や元初は法や裁定が紊乱して民衆の困窮を招いた。次第に政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねを法令と成し、中でも皇帝の名をもって出される聖旨(ジャルリグ)や令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書(ウゲ)が高い権威を持った。しかし、元末まで法体系の不備は解消されず縁故による汚職がはびこる温床の一つとなった。モンゴル人は文字としてモンゴル文字と、クビライが新たに作らせたパスパ文字をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれたモンゴル語を正文としていた。漢文の翻訳も付いたが口語的・直訳的な文体が用いられた。なお、積み上げられた法令は、『元典章』という漢文の書物に編纂されて現存しているが、文章は直訳体に加え当時の官吏が用いた特殊な文体であり、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。元の世祖の時に比較的体系立った『至元新格』が、英宗の時(至治3年、1332年)に体系的な法令である『大元通制』が編纂された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で使われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じく季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、個々の所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する封土であり、自治に委ねられていた。しかも個々の位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状に散った領民・領地を持っていた。定住地帯では、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任じて、皇帝の直接の支配権が及ばない位下領・投下領が、封土を含んで地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "元に服属した天山ウイグル王国は、内政に関しては高昌王を授けられ従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿、つまりは外戚である)としてモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。また、元に服属した高麗は12省に組み込まれて高麗省となり同じく行政に就いて自治を認められたが、高官の人事権や政治・軍事は所属する行省のモンゴル人によって支配された。忠宣王以降の国王は名目的な存在となり、モンゴル皇女を母とし即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようであった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このように元の地方制度は、中国王朝に伝統的な中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配下にありながら異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府、地方政府共に人材登用では能力ではなく縁者の階級が重視され高官の子弟は修養や実務を積む前から権限のある役職に就いた、またチンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に就き政治に携わる者の多くは、皇帝との個人的主従関係に基づき登用されたケシクテン所属者(ケシク)からの出向であった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "宰相など最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(駙馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲社会の元朝では能力に基づく選抜採用は必要がなく、また大量の増員があった元朝による南宋滅亡に際しても、投降した旧官吏を大量採用したため、科挙によって新たに官僚を登用する必要が存在せず、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われなかった(耶律楚材の実施した科挙によって一次登録された4000人のうち、中央高官や県長以上の官職に就いた24人などの例もなくはない)。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によって賄われていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、皇帝家との姻戚関係などの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の科挙試験による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギスの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。その結果、元朝の官吏は文官としての能力を著しく欠いた無能者が多く、汚職や悪政と搾取を繰り返す元凶となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "貴族の家門に属さなくとも出世できた者もいたが、主に彼らはモンゴル帝国の初期から政商として重用され、元朝初期に高官として財務を担っていた色目人(モンゴル人、漢人、南家以外の総ての人々)貴族だった。オルトクと呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じて皇帝や貴族と金銭を通じたつながりをもった彼らは財務に明るく重用された。しかし、徴税や専売税の請負いなどで度重なる臨時増税を課して過重な負担を負わせ、汚職と曲法を極めて搾取を行ったことは「税人白骨」に代表される民衆の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなかった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、漢民族と漢化した渤海人、契丹人、女真人などからなる)と南家(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "もっとも、官吏・軍人・儒戸としての出仕、縁故・推挙などによる出仕、国子監などの国の教育機関を通じた出仕、科挙及第による出仕と出仕経路の多様性をモンゴル帝国・元朝の人材登用の特徴として捉え、元代の知識人の多くは自分に有利な方法での仕官を目指したのであって、「進士及第」という社会的名誉にこだわらない限りは、どの方法でも構わなかった(科挙を受ける必然性はなかった)とする指摘もある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "民間の掌握にあたっても、元では、個々の民と皇帝との個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上ですでに触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに厳格な格差が存在した。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度である。四等身分制度が実施されたため、漢人南家の高級官吏は万人無二と称される様に非常な小数に抑えられていた。但しこの身分制度で支配の頂点に立っていたモンゴル人でも没落して奴隷になる者もいた。クビライも皇帝即位以前からウイグル人・契丹人・漢人・女真人などからなる多種族混成のブレイン・実務集団を抱えている。元王朝では財務に優れた色目人(ムスリム)たちには財政部門を、文化・宗教関係部門にはチベット人やインド、ネパール、カシミール地方の出身者を、そして科学・学術・情報・技術分野にはあらゆる地域出身の人々が登用され、各人の特性や能力に応じた職務を分担した。そして元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のように元々モンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右し、漢民族出身者でも元王朝に忠誠を誓うものが現れた。台北市の国立故宮博物院に収められているクビライの狩猟の様子を描いた「世祖出猟図」では黒人と思われる黒い肌をした馬に乗った人物がクビライの近くに描かれる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このようにモンゴルの慣習に固執し、科挙によらず縁故主義(科挙は実力に基づく)により人材を登用し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その分権的で中世的な支配は、唐代以来貴族階層及び農奴制の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。また、流通や貿易の振興を図り、紙幣を流通させるなど経済・商業政策は南宋の施行を引き継いだものの、奴隷制へ逆行した弊害は大きく広範な産業(特に農業全般、漁業、鉱業全般)において停滞期に入り、宋代の水準へ回復するのは明代中期まで待つ事となる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "(単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム)",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興した。また、塩の国家専売による莫大な収入と莫大な農業生産力による穀物が国庫を支えた。経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からも商税が得られた。元での経済政策を担当していた者の多くは色目人であった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の田地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する収穫が得られる奴婢を用いた官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『農桑輯要』という官撰の農書を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、国家の政策として同書が編纂されたということは、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進されたことを物語っている。さらに虞集に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。しかし、金代に農地1畝当たり1.5石程度だった華北の生産性が元代には1畝当たり0.6程度にまで激減しており、戦乱や奴隷制による農業技術の大きな衰退が確認される。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また、クビライは海に面した現在の天津から大都まで80kmほどの運河を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物を大都へ運送するのに手間の掛かる運河ではなく海運を使用するようにしたことで京杭大運河は完成した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える塩・茶(酒・明礬は江南に偏らない)などの専売品の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に欠かせないことから厳重に管理され、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で相次いだ反乱により元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "(政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は1260年のクビライ即位の年の例に拠っている。)",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "元の税制は、かつての金の領土(漢地)と、南宋の領土(江南)とで異なっていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "税糧は、各戸の壮丁(労働に耐えうる男性)ごとに粟(穀物)1石、あるいは土地1畝ごとに畑は3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、人頭税と面積に対してかかる一般的な田税の両建てだった歴代中国王朝とは趣が異なる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で絹糸を22両4銭(重量)を収め、包銀は銀6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられた。この2つの税の徴税事務は、金を滅ぼし華北へ進出した当初は委託された徴税人によって行われていたが、モンケの治世期以降は次第にかつてモンゴルへ投降した在地の金人・漢人の世候によって代替されるようになり、それに伴って中間での抜き取りは減ったものの元朝政府は税額を2倍前後としたため民衆の過重な負担は変わらなかった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一方、江南の方では、南宋から引き継いだ両税法をそのまま用いていた。両税法では、各戸が夏に木綿などの物産、秋に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入に依存する割合が他の王朝よりも高かった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税は、金や南宋と同じく奢侈品や非日用品が州府間を移動するときや港湾を商品が通過するときに関税を課され、日用品は最終売却地で売却時に商税を支払えばよかった。反面、海外との交易は厳格に統制が敷かれたが、国庫に入る商税の総額は歳入の1~3割にのぼった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔(こうしょう、あるいは単に鈔とも)と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "これに対して1287年に中統鈔の五倍の価値に当たる至元通行宝鈔(通称・至元鈔)を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、消費財である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギスの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていた君主は、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。皇帝の側から見れば、皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、14世紀に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は1356年に廃止された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "元は権利を授与した政商や王侯が委託する海商以外の海外交易を厳禁とし、私貿易に対する海禁政策(外国からの交易船は禁止していない)を執っていた。金銀銅鉄貨や奴婢・武器防具・絹・馬匹・兵糧を持ち出しが発覚した場合は、船主以下棒叩き107回・船舶積荷没収の罰が課され、外国からの交易船に対しても徴税と取引の監視と規制が為された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "船舶は決まった港湾への登録が義務付けられ、それ以外の都市に停泊した場合は罪に問われた。また乗員も厳格な管理が行われ船長から水夫に至るまで全員に登録の義務があり、漏れがあった場合は関係者の家族諸共罪に問われた。交易先も厳重に管理され、申告した国以外との貿易は認められず、大船には官吏が乗り込み取引内容などの監視が行われた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "元では船舶税として出国と帰国の際に積荷の1/30を、交易許可として細貨から1/10を粗貨から1/15を現物で徴収した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "元来シャーマニを信仰してきたモンゴルは、チンギスの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、教主丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギスの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにモンゴル皇帝のために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になった。金朝の首都であった中都(のちの大都が建設される)を拠点として、教団は金朝滅亡後に失職した官吏を保護し、さらに全真教系列の各地の道観は漢人官僚組織の育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下の漢地領土において行政組織の運営に携わった。しかし、この急激な教団の拡大は浄土教系や禅宗などの華北の中国仏教教団との深刻な対立を生み出した。特に、全真教の道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存の仏教寺院を不法に接収し道観に作り替えたり、寺院付属の荘園を没収して私領するなどの事件が多発したため、仏教諸派はモンゴル宮廷にこの事態を直訴する事態となった。モンケの治世にカラコルムと中都で都合3回行われたといういわゆる「道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題を詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席のもと開催された時は、ルイ9世から派遣されたウィリアム・ルブルックも出席しており、帝国内外のキリスト教徒やイスラム教徒の知識人たちも参加していた)",
"title": "文化"
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"text": "京兆府(現在の西安)から中都(燕京)に派遣されたクビライのもとで開催された時、華北仏教諸派の嘆願を汲んで全真教団はチンギス以来任されていた華北宗教界における政治権力を剥奪され、代わりに中都での宗教行政の総監であったカシュミール出身の仏僧「国師」那摩(ナーモ)の後任として招かれたチベット仏教サキャ派の高僧サキャ・パンディタ、およびパスパに宗教界を監督する権限を与えた。全真教はこの「道仏論争」に敗れて勢力を一時的に後退させた。しかしながら、これは根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、後漢の五斗米道の系譜をひく正一教が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。この前後から全真教のみならず少林寺、玄中寺などの浄土宗、禅宗の仏教大寺院をはじめ曲阜などの孔子廟などに加え、チベット仏教へも歴代モンゴル皇帝や王族、貴族層から多大な保護と寄進を受ける。",
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"text": "仏教は、はじめに保護を獲得したのは禅宗で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に杭州の中峰明本(1263年 - 1323年)がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ(パスパ)に対し、1260年に「国師」、1269年に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認めた。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。元代後期から末期になると、これに耽溺するモンゴル王侯が増え、ラマに過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。",
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"text": "また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。現在の北京にある中国でも最古級のモスクである牛街清真寺はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元ウルス時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつである。もうひとつの大宗教はキリスト教で、ケレイト王国や陰山山脈方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていた。例として、モンテ・コルヴィノは、1307年に初の大都管区大司教に任じられている。",
"title": "文化"
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"text": "ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子や孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである。儒者の排斥は、旧金・南宋の知識人層の間でも多くの者が名を飾って実を顧みず党争と些末な字句解釈に拘り国を滅ぼした儒教・科挙に不信感を抱いていたことも大きい。",
"title": "文化"
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"text": "なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で朱子の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる朱子学が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している。",
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"text": "モンゴル・元代には有名なマルコ・ポーロ、イブン=バットゥータのように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより幾つかの西方の情報と技術が持ち込まれた。",
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"text": "例えば、モンケの時代にモンゴル宮廷に招聘されたイラン出身のジャマールッディーンにより暦法が持ち込まれた。1271年に回回司天台と呼ばれる天文台が作られた際の天体観測機器には国内の技術と観測形態が使用されている。クビライの側近であった中国人学者郭守敬は、回回司天台の観測結果をもとに新しい暦である授時暦を作り1年を365.243日と定め、この暦は明の滅亡まで使用された。大元朝と友好関係にあったイルハン朝のフレグによって創設されナスィールッディーン・トゥースィーらによって運営されたマラーゲの天文台と天体観測データーの交換が活発に行われた。",
"title": "文化"
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"text": "回回(ふいふい)は、本来は「ウイグル」の音写である「回鶻」に由来する単語であるが、「回回教」「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことであり、元朝時代において語源である「ウイグル」が「畏兀児」と音写され、「回回語」が実際にはペルシア語のことを指していたように、具体的にはマー・ワラー・アンナフルやホラーサーンなど広く西方のイラン系の人々に由来する事物を指した。元は南宋の拠点であった襄陽の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、投擲距離が数百メートルに達する可動式の「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」(トレビュシェット)というペルシャ式の投石機をつくった。このマンジャニークも、中国では回回砲という名で知られた。金攻略に際しては、初期の作戦は攻壁攻撃力の欠如により失敗したが、投石器の利用により成功にいたる。",
"title": "文化"
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"text": "中国科学史の大家であるジョゼフ・ニーダムは、優れた実用技術の利用に反し元・明代は中国において科学技術の停滞期であり、宋代からの水準低下は天文学・暦学や数学を始めとした科学分野に見られると指摘した。",
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"text": "元の時代の文学で特筆すべきは雑劇と呼ばれる戯曲の作品である。漢文、唐詩、宋詞、元曲など言われるようにこの時代の「曲」は歴代でも最高とされる。",
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"text": "小説にも才能のある作者が集まり、西遊記、水滸伝や三国志演義などはこの時代に原型が出来たとされる。",
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"text": "このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは漢詩と歴史であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。",
"title": "文化"
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"text": "一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である趙孟頫(子昂)、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族(色目人)の詩人があらわれ、ムスリムの進士(科挙合格者)である薩都剌を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。",
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"text": "書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、書は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、絵画は北宋以来の院体画を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、南宗画とも後に区分される山水画の技法を確立していった。",
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"text": "陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には染付などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの青磁などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対照をなす。青花と呼ばれる染付に使われているコバルト顔料は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。",
"title": "文化"
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"text": "元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコ、イスタンブールのオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イラン、アルダビールのサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。",
"title": "文化"
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"title": "系図"
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] |
元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。
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{{Redirectlist|元朝|元旦を意味する元朝(がんちょう)|元日|元朝(もととも)の名を持つ人物|{{intitle|元朝}}}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = 元
|日本語国名 = 大元
|公式国名 = {{native name|zh|大元|italic=no}}<br>{{MongolUnicode|ᠳᠠᠢ ᠦᠨ<br>ᠶᠡᠬᠡ<br>ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ<br>ᠤᠯᠤᠰ}}
|建国時期 = [[1271年]]
|亡国時期 = [[1368年]]
|先代1 = モンゴル帝国
|先旗1 =
|先旗1縁 = no
|先代2 = 南宋
|先旗2 =
|先代3 = 大理国
|先旗3 =
|先代4 =
|先旗4 = Royal flag of Goryeo (Bong-gi).svg
|先代5 = パガン王朝
|先旗5 =
|次代1 = 北元
|次旗1 =
|次旗1縁 = no
|次代2 = 明
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|次旗2縁 = no
|次代3 = 韓林児
|次旗3 =
|次代4 = 夏 (元末)
|次旗4 =
|次代5 = パクモドゥパ政権
|次旗5 = Snow Lion.svg
|国旗画像 =
|国旗リンク =
|国旗幅 = 155px
|国旗縁 = no
|位置画像 = Yuen Dynasty 1294 - Goryeo as vassal.png
|位置画像説明 = 元の版図疆域1372萬平方公里(1294年)
|国歌 =
|国歌追記 =
|公用語 = [[古官話]]([[パスパ文字]]で書かれる)、[[モンゴル語]](公文書)<br>[[ウイグル語]]、[[女真語]]、[[契丹語]]など
|首都 = [[大都]]
|元首等肩書 =[[#元の皇帝|皇帝]]([[ハーン|大ハーン]])
|元首等年代始1 = 1260年
|元首等年代終1 = 1294年
|元首等氏名1 = [[クビライ|世祖 セチェン・ハーン]]
|元首等年代始2 = 1333年
|元首等年代終2 = 1370年
|元首等氏名2 = [[トゴン・テムル|恵宗 ウカアト・ハーン]]
|首相等肩書 = [[中国の宰相|宰相]]
|首相等年代始1 = 1264年
|首相等年代終1 = 1282年
|首相等氏名1 = [[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]
|首相等年代始2 = 1340年
|首相等年代終2 = 1355年
|首相等氏名2 = [[トクト]]
|人口測定時期1 = 1290年
|人口値1 = 58,834,711
|人口測定時期2 = 1293年
|人口値2 = 79,816,000
|人口測定時期3 = 1330年
|人口値3 = 73,873,000
|人口測定時期4 = 1350年
|人口値4 = 87,147,000
|面積測定時期1 = 1310年
|面積値1 = 11,000,000
|面積測定時期2 = 1330年
|面積値2 = 13,720,000
|変遷1 = クビライ・ハーンが「大元」の称号を発表
|変遷年月日1 = 1271年12月18日
|変遷2 = [[南宋]]を滅ぼし、中国を統一
|変遷年月日2 = 1279年3月19日
|変遷3 = [[文永の役]]・[[弘安の役]]
|変遷年月日3 = 1274年・1281年
|変遷4 = [[モンゴルのビルマ侵攻|元緬戦争]]
|変遷年月日4 = 1277年 - 1287年
|変遷5 = [[白藤江の戦い]]
|変遷年月日5 = 1288年
|変遷6 = [[紅巾の乱]]勃発
|変遷年月日6 = 1351年
|変遷7 = [[明]]によって中国領土を喪失
|変遷年月日7 = 1368年
|通貨 = [[交鈔]]など
|通貨追記 =
|時間帯 =
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|注記 = 北走後も[[北元]]のクビライ家皇統は1388年まで存続。モンゴル・ハン国は1635年まで存続した。
|先代6=高麗|現在={{MNG}}<br>{{CHN}}<br>{{RUS}}<br>{{KOR}}<br>{{PRK}}|次代6=高麗}}
{{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}}
{{モンゴルの歴史}}
'''元'''(げん)は、中東アジアから[[東ヨーロッパ]]まで広大な領域にまたがった[[モンゴル帝国]]の後裔の一国であり、そのうち[[中国本土]]と[[モンゴル高原]]を中心領域に[[モンゴル帝国#歴代皇帝|モンゴル帝国皇帝]]の直轄地として、[[1271年]]から[[1368年]]まで[[東アジア]]と[[北アジア]]を支配した[[モンゴル民族|モンゴル人]]が建てた[[征服王朝]]である。
正式国号は、'''大元'''(だいげん)で、ほかに'''元朝'''(げんちょう)、'''元国'''(げんこく)、'''大元帝国'''(だいげんていこく)、'''元王朝'''(げんおうちょう)、'''大モンゴル国'''(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人の[[キヤト氏|キヤト]]・[[ボルジギン氏]]が建国した[[征服王朝]]で、国姓は「奇渥温」である。
== 定義と名称 ==
伝統的に「中国を征服した[[モンゴル帝国]]が南北に分裂した内紛を経て、正統な[[中華帝国]]になった国」とされていたが、「元は中国では無く、'''大元ウルス'''と呼ばれる[[モンゴル民族|モンゴル遊牧民]]の国」するものなど様々な意見がある{{efn|以下にあるように、クビライによって国号が改められてから、同王朝では「大元」がひとつの固有のタームとして使用されていたことが近年の研究で明らかにされており、特にモンゴル帝国時代では形容詞の「大」が国家やモンゴル王室に関わるキータームであったことが判明している(モンゴル帝国での「大」の問題については、志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説』(東京大学出版、1995年)などに詳しい)。そのため、近年では「元」などでは呼称上からもモンゴル政権としての実態について不正確な認識を生むとして、モンゴル帝国史研究の[[杉山正明]]に代表される元朝関係の研究者の間で「大元ウルス」という呼称を用いる頻度が増えている。}}。
中国王朝としての元は[[唐]]崩壊([[907年]])以来の中国統一王朝であり、[[大都]](現在の[[北京]])から中国とその[[冊封国]]やモンゴル帝国全体を支配したが、[[明]]([[1368年]] - [[1644年]])に追われて[[北元]]になってからはモンゴル高原まで支配領域を縮小した。
中国の歴史には複数の征服王朝([[遼]]・[[金 (王朝)|金]]・[[清]]など)があったが、元は政治制度・民族運営において中国[[漢民族|漢人]]の伝統体制に同化されず、[[モンゴル帝国]]から受け継がれた[[遊牧国家]]の特徴を保ったまま統治し続けたのが特徴的であった。一方、後述するように行政制度や経済運営では[[南宋]]の仕組みをほぼそのまま継承した。
== 概要 ==
元は、[[1260年]]、[[チンギス・ハン]]の孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位した[[クビライ]](フビライ)が[[1271年]]にモンゴル帝国の国号を'''大元'''と改めたことにより成立し、[[モンゴル語]]では'''ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス''' ([[File:Dai Ön Yeke Mongghul Ulus.PNG|70px]]、ローマ字表記:''Dai-ön Yeke Mongγol Ulus'') すなわち「大元」と称した<ref>「[[元史]]」世祖本紀巻七 [[至元 (元世祖)|至元]]八年十一月乙亥([[1271年]][[12月18日]])条の詔に、「可建國號曰'''大元'''、蓋取[[易経|易經]]「乾元」之義。」とあり、「易経」巻一 乾 に「彖曰、'''大'''哉乾'''元'''、萬物資始。」とある。また、「ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス」という呼称の同時代的例証としては、以下の2つのモンゴル語碑文が知られている。ひとつは、かつての[[熱河省]]烏丹県(現[[中華人民共和国]][[内モンゴル自治区]][[赤峰市]][[オンニュド旗]]烏丹鎮)付近にあった、[[至元 (元順帝)|至元]]四年五月(1338年5月20日- 6月18日)に魯国大長公主の媵臣であったという竹温台(Jigüntei)の功績を顕彰するために建立された"大元勅賜故諸色人匠府達魯華赤竹公神道碑(碑文本文冒頭では:大元勅賜故中順大夫諸色人匠都總管府達魯花赤竹公之碑)"で、その碑陰のウイグル文字モンゴル語文面に「大元(ダイ・オン)と呼ばれるイェケ・モンゴル・ウルス([[ファイル:Dai_Ön_Kemekü_Yeke_Mongghul_Ulus.PNG|70x70ピクセル]]、ローマ字表記:''Dai-Ön kemekü Yeke Mongγol Ulus'')」とある。もうひとつは、同じく同地にあった「至正二十三年歳壬寅十月吉日立石」(至正23年10月=[[1363年]]11月6日 - 12月5日)という記年がある、西寧王 忻都(Hindu/Indu)が建立した"大元勅賜追封西寧王忻都神道碑"で、やはりウイグル文字モンゴル語で「ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス(Dai-Ön Yeke Mongγol Ulus)」とある。(F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1338 in Memory of Jigüntei", ''Journal of Asiatic Studies'', vol.14, no.1/2 Jun., 1951, pp. 1-104./F. W. Cleaves "The Sino-Mongolian Inscription of 1362 in Memory of Prince Hindu", ''Journal of Asiatic Studies'', vol.12, no.1/2 Jun., 1949, pp. 1-113./前田直典「元朝行省の成立過程」「元朝史の研究」p.190(初出:「元朝行省の成立過程」『史学雑誌』56編6号、1945年6月)) 両碑文については田村実造「烏丹城附近に元碑を探る」(『蒙古学』1号,1937年、p.68-82, +2 plate)が詳しい。</ref>。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。国号である「'''大元'''」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが{{efn|モンゴル帝国では、例えばモンゴル皇帝が主催する[[クリルタイ]]を「大クリルタイ」(Yeke Qurilta ;Qūrīltāī-yiBuzurg ;大集会)と呼んだり、チンギス・カン以降の歴代モンゴル皇帝の墓所を「大禁地」(ghurūq-i buzurg)と呼ぶなど、モンゴル王家やモンゴル帝国の国政に関わる重要な事柄について、中国での行政用語である漢文では「大〜」、これと同義で支配階級が用い、勅令などでも使用されるモンゴル語では "Yeke ~" 、帝国全体で行政用語として広く用いられたペルシア語では "~ buzurg" という表現を附し、ひとつながりの固有名詞として用いていた<ref>志茂碩敏「モンゴル帝国の国家構造 第1章 amīr-i buzurg」『モンゴル帝国史研究序説』 東京大学出版会、1995年 p.451-476</ref><ref>志茂碩敏「モンゴルとペルシア語史書 -- 遊牧国家史研究の再検討 -- 」『岩波講座 世界歴史 11 中央ユーラシアの統合』岩波書店、1997年 p.263-268</ref><ref>杉山正明「序章 世界史の時代と研究の展望」『モンゴル帝国と大元ウルス』p.14-16</ref>。}}<ref name="Dai-On">杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』p. 40-43/</ref>、中国王朝史において[[唐]]や[[宋 (王朝)|宋]]など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「'''元'''」と略称される。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い<ref name="Dai-On"/>。
クビライは兄弟の[[アリクブケ]]と帝位を争って帝国が南北に分裂した内戦に至り、これを武力によって打倒し単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにも[[クリルタイ]]による全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった<ref>杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店(角川選書)、1992年6月 p.179-189</ref>。特に、大元の国号が採用された前後に[[中央アジア]]で[[オゴデイ・ウルス|オゴデイ家]]の[[カイドゥ]]がクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけて[[イリ地方|イリ]]から[[アムダリヤ川]]方面までを接収し、『[[集史]]』をはじめ[[ペルシア語]]の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」(mamlakat-i Qāīdū'ī)と呼ばれたような自立した勢力を成した<ref> 杉山正明「第2章 モンゴル帝国の変容」『モンゴル帝国と大元ウルス』p.119-120</ref>。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方の[[ジョチ・ウルス]]や[[フレグ]]家の[[イルハン朝]]といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後[[1301年]]にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領(ウルス)となったのである<ref>杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店(角川選書)、1992年6月 p.219-230</ref>。
一方中国からの視点で見たとき、[[北宋]]以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、[[遼]]([[契丹]])や[[金 (王朝)|金]]の統治を受けた北中国<!--南北朝以来古代中国の伝統をより濃く残すのは江南-->と、[[南宋]]の統治を受けてきた南中国が統合された<!--元代の華北と江南は文化は元より制度からして大きく異なる-->。チンギス・カン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行った。また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われている。首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価される。元々モンゴル帝国は傘下に[[天山ウイグル王国]]や[[ケレイト]]王国、オングト王国などの[[テュルク]]系や[[ホラーサーン]]や[[マー・ワラー・アンナフル]]などのイラン系の[[ムスリム]]たちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方から[[ウイグル]]系や[[チベット]]系の仏教文化や[[ケレイト]]部族やオングト部族などが信仰していた[[ネストリウス派]]などの[[キリスト教]]、イラン系の[[イスラーム]]の文化などもまた、首都の[[大都]]や[[泉州市|泉州]]など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した<ref>松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」『講座イスラーム世界 3 世界に広がるイスラーム』(板垣雄三 監修)栄光教育文化研究所、1995年1月、p.157-192/ 佐口透「第4章 東アジアのイスラム 第1節 元朝のイスラム教徒」『東西文化の交流 4 モンゴル帝国と西洋』(佐口透 編)平凡社、1970年 p.248-260</ref>。
モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入した。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた[[類書]]などが大量に出版された<ref>宮紀子「第8章 「対策」の対策」『モンゴル時代の出版文化』p.380-484</ref>。南宋末期から大元朝初期の『[[事林広記]]』や大元朝末期『[[南村輟耕録]]』などがこれにあたる。[[朱子学]]の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。[[鎌倉時代]]後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧[[一山一寧]]もこれらの学統に属する<ref name="名前なし-1">野口善敬「第2章 元・明の仏教」『新アジア仏教史 08 中国III 宋元明清 中国文化としての仏教』佼成出版社 2010年9月</ref>。
14世紀末の農民反乱によって中国には[[明|明朝]]が成立し、大元朝のモンゴル勢力は[[ゴビ砂漠]]以南を放棄して北方へ追われた([[北元]])。明朝の始祖[[洪武帝]]([[朱元璋]])や[[紅巾の乱]]を引き起こした[[白蓮教]]団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることが象徴するように影響を受けていたことが近年指摘されている<ref name="名前なし-1"/>。
== 歴史 ==
クビライ登位以前については[[モンゴル帝国]]を参照。
=== モンゴル帝国の再編 ===
{{中国の歴史}}
{{満州の歴史}}
{{main|モンゴル帝国帝位継承戦争}}
[[File:元世祖忽必烈在庚申年(1260年)农历四月发布的即位诏书《皇帝登宝位诏》全文(节选自《大元圣政国朝典章》台北国立故宫博物院藏元刊本之影印本).jpg|250px|left|thumb|『[[大元聖政国朝典章]]』に記されたクビライ・ハーンの即位の詔勅(1260年)]]
[[1259年]]、第4代皇帝[[モンケ]]が[[南宋]]遠征中に病死したとき、[[モンゴル高原]]にある当時の首都[[カラコルム]]の留守を預かっていた末弟[[アリクブケ]]は、モンケ派の王族を集めて[[クリルタイ]]を開き、西部の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]ら諸王の支持を取り付けて皇帝位に即こうとしていた。これに対し、モンケと共に南宋へ遠征を行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴルに入り、[[東方三王家]](チンギスの弟の家系)などの東部諸王の支持を得て、翌年の3月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府(のちの[[上都]])でクリルタイを開き、皇帝位に就いた。アリクブケは1か月遅れて皇帝となり、モンゴル帝国には南北に2人の皇帝が並存し、帝国史上初めて皇帝位を武力争奪する事態となった。この時点では、モンケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリクブケが正当な皇帝であった。カラコルムにも戻らず、帝国全土の王侯貴族の支持もなく、勝手に皇帝を称したクビライは、この時点では[[クーデター]]政権であった。
クビライとアリクブケの両軍は何度となく激突するが、カラコルムは中国からの物資に依存していたために、中国を抑えたクビライ派に対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ、劣勢を余儀なくされた。緒戦の[[1261年]]の[[シムルトゥ・ノールの戦い|シムトノールの会戦]]ではクビライが勝利するが、アリクブケは北西モンゴルの[[オイラト]]の支援を受けて抵抗を続けた。しかし、最終的にはアリクブケの劣勢と混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王がアリクブケから離反し、[[1264年]]、アリクブケはクビライに降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライを正統とする立場から、「[[モンゴル帝国帝位継承戦争|アリクブケの乱]]」という。
アリクブケの降伏によりモンゴル皇帝の位は再び統合されたが、西の[[中央アジア]]方面では、アリクブケの乱がもたらした混乱が皇帝の権威に決定的な打撃を与えていた。[[1265年]]、クビライは西方の諸王家の当主たちに呼び掛けて統一クリルタイを開催を計画したが、ほどなく西方遠征軍の司令でイルハン朝の始祖となった次弟[[フレグ]]、[[ジョチ・ウルス]]当主[[ベルケ]]、クビライを支持していた[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]の当主[[アルグ]]が次々と死去し、この統一クリルタイによって自身の全モンゴル帝国規模の正式なモンゴル皇帝位の承認を目論んでいたクビライの計画は、大きく頓挫した。
[[1266年]]、クビライはアルグの死による欠を補いチャガタイ家と中央アジアの動向を掌握するため、チャガタイ家の傍流[[バラク (チャガタイ家)|バラク]]をチャガタイ家の本領である[[イリ]]方面へ派遣した。しかし、バラクはクビライから共同統治を指示されていたにもかかわらず、クビライの命と称してチャガタイ家新当主ムバーラク・シャーから権力を奪い取り、自ら新当主を宣言してクビライに叛乱を起こした。バラクはカイドゥの領土を侵犯し[[マー・ワラー・アンナフル]]へ侵攻する構えを見せ、カイドゥはこれに対抗するためジョチ・ウルスへ救援を求めた。これに応えてジョチ・ウルス東方の総帥であるオルダ家の当主コニチは5万の軍勢を率いて加勢し、バラクは敗走したが、バラクは中央アジアの権益についての合議をカイドゥ、ジョチ・ウルス新当主[[モンケ・テムル]]へ申し入れた。[[1269年]]、中央アジアを支配するチャガタイ家のバラクとオゴデイ家のカイドゥ、そして[[ジョチ・ウルス|ジョチ家]]当主モンケ・テムルの名代(ベルケの同母弟ベルケチェル)の諸王が[[タラス河]]畔で会盟し([[タラス会盟]])、中央アジアのモンゴル皇帝領の争奪を止め、このうち、マー・ワラー・アンナフルの3分の2をバラクに、残り3分の1をジョチ家とカイドゥで折半することが決まった。
[[1270年]]、バラクは[[イルハン朝]]の[[アバカ]]との[[カラ・スゥ平原の戦い|会戦]]に大敗して[[ブハラ]]で客死し、アバカとのマーワーアンナフル争奪に敗れカイドゥとの紛争にも敗れたチャガタイ家の王族たちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順してアフガニスタンの[[ガズニー]]を所領として分与され、バラクの子[[ドゥア]]はカイドゥに応じて中央アジアのチャガタイ家当主となり、アルグの遺児[[チュベイ]]らの一門は東方へ赴いてクビライに帰順した。クビライは[[南宋]]が[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]に降服した[[1267年]]、第4皇子[[ノムガン]]を主将とするカイドゥ討伐軍を中央アジアへ派遣し、同時にアバカにも正式な封冊によって「カアンの代官([[ダルガチ|ダルガ]])」の称号を与えてカイドゥを挟撃する作戦に出た。ところが、ノムガンの遠征軍は、[[アルマリク]]で遠征軍に参加していたモンケの子[[シリギ]]らに叛乱を起こされ、ノムガンは副将[[アントン (ジャライル部)|アントン]]や同じく第9皇子ココチュらともども捕縛されてしまった。シリギら叛乱王族たちはカイドゥやモンケ・テムルに共に決起するよう呼び掛けたノムガンとココチュ兄弟をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質として送ったが、両者はノムガンらを保護したものの決起には全くに応じなかった。クビライは南宋戦線から[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]を[[カラコルム]]へ転戦させると、反乱軍は速やかに鎮圧されてしまった。反乱軍に加わっていたアリク・ブケ家のヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰を恐れてカイドゥのもとに逃れた。こうしてシリギの叛乱は収束したが、クビライによる中央アジア直接支配の計画は2度にわたり頓挫し、代わりに、カイドゥは自らの所領に加え、ドゥアの西部のチャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリクブケ家の3つの[[ウルス]]を勢力下に収めることができた([[シリギの乱]])。
その間、クビライは政治機関として[[中書省]]を設置しカラコルムにかわる新都として中国北部に[[大都]](現在の[[北京市|北京]])を造営、地方ではモンゴル帝国の[[金 (王朝)|金]]攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、[[1271年]]に国号を大元とした。モンゴル帝国西部に対するモンゴル皇帝直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しいモンゴル皇帝政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。
=== 中国の統一支配 ===
[[ファイル:Yuan Provinces.png|左|サムネイル|300x300ピクセル|元の版図(1330年)]]
{{main|モンゴル・南宋戦争}}
大元を建てた当初のクビライは、金を滅ぼして領有した[[華北]]を保有するだけで、中国全体の支配はいまだ不完全であり、南宋の治下で発展した[[江南]]([[長江]]下流域南岸)の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、[[1268年]]漢水の要衝[[襄陽・樊城の戦い|襄陽の攻囲戦]]を開始する。
クビライは、皇后[[チャブイ]]に仕える用人であった中央アジア出身の商人[[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]を財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた[[高麗]]を通じ、南宋と通商していた[[日本]]にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の[[鎌倉幕府]]はこれを拒否したため、クビライは南宋と日本が連合して元に立ち向かうをの防ぐため、[[1274年]]にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、[[対馬]]・[[壱岐島]]、九州の[[大宰府]]周辺を席巻しただけに終わった([[元寇|文永の役]])。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の[[征東行省]]と高麗政府が一体化し、新服の[[属国]]であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。
[[1273年]]になると、襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなどして南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。[[1274年]]、旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると、防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、[[1276年]]に首都臨安([[杭州市|杭州]])が無血開城する。[[恭帝 (宋)|恭帝]]をはじめとした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の残党を[[1279年]]の[[崖山の戦い]]で滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後述する経済制度を整備した。
しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。[[1281年]]には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり([[元寇|弘安の役]])、[[1285年]]と[[1288年]]には[[ベトナム]]に侵攻した軍が[[陳朝]]に相次いで敗れた([[白藤江の戦い (1288年)|白藤江の戦い]])。[[1284年]]から[[1286年]]にかけての[[モンゴルの樺太侵攻|樺太遠征]]で[[アイヌ]]を樺太から排除し、[[モンゴルのビルマ侵攻|ビルマへの遠征]]では[[1287年]]に首都[[パガン]]の占領に成功したが、現地のシャン人の根強い抵抗に遭い恒久的な支配を得ることはできなかった。さかのぼって[[1276年]]には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子[[シリギ]]が反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは3度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、[[1287年]]には、即位時の支持母体であった東方三王家が[[ナヤン]]を指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。また、[[1292年]]に[[モンゴルのジャワ侵攻|ジャワ遠征]]を行っているが、これも失敗に終わっている。もっとも、東南アジアへの遠征は商業ルートの開拓の意味合いが強く、最終的には海上ルートの安全が確保されたため、結果的には成功したと言える。
クビライの死後、[[1294年]]に孫の[[テムル]]が継ぐがその治世期の[[1301年]]にカイドゥが死に、[[1304年]]に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は皇帝を頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆる[[シルクロード]]交易は唐代以来の活況を呈した。この状況を指して「[[パクス・モンゴリカ]]」(モンゴルの平和)と呼ぶことがある。
元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、[[マルコ・ポーロ]]など数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄は[[ヨーロッパ]]にまで伝えられた。江南の港湾諸都市の海上貿易も宋代よりは衰退したものの繁栄しており、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本とも、官貿易や密貿易船はある程度の往来が確認される。
=== 衰退への道 ===
[[ファイル:Asia in 1345.svg|thumb|300px|left|1345年当時の世界]]{{朝鮮の歴史}}
[[1307年]]、テムルが皇子を残さずに死ぬとモンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。
まず権力争いの中心となったのは、チンギスの母[[ホエルン]]と皇后[[ボルテ]]、クビライの皇后チャブイ、テムルの母[[ココジン]]らの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても外戚として権勢をふるってきた[[コンギラト]]部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后[[ブルガン]]はコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王[[アナンダ]]を皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちは[[クーデター]]を起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥[[カイシャン]]を皇帝に迎えた。
カイシャンの死後は弟[[アユルバルワダ]]が帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母[[ダギ|ダギ・カトン]]が宮廷内の権力を掌握し、皇帝の命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が[[1320年]]に終わり、[[1322年]]にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌[[1323年]]にアユルバルワダの後を継いでいた[[シデバラ]]が殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから[[1333年]]に[[トゴン・テムル]]が即位するまで、11年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。
ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に[[広西チワン族自治区|広西]]で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていた[[キプチャク]]親衛軍の司令官[[エル・テムル]]に疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後は[[オセット人|アスト]]親衛軍の司令官である[[バヤン (メルキト部)|バヤン]]がエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、[[1340年]]にはバヤンの甥[[トクト]]が伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやほとんどが軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人した皇帝も権力を巡る対立に加わり、[[1347年]]から[[1349年]]までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。
元朝は理財派色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用故の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていたが<ref>『元史』王磐伝・アフマド伝、『雪楼集』巻十、『廿二史札記』巻33</ref>、この政治混乱はさらに農村を荒廃させた。ただし、この[[14世紀]]には折しも[[小氷期]]の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因する[[ペスト]]の[[パンデミック]]が元朝の直轄支配地である[[モンゴル高原]]や[[中国本土]]のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていき、元朝は1世紀にも満たない極めて短命な王朝<ref>1271年 - 1368年</ref>としての幕を閉じた。
=== 元の敗走 ===
[[1348年]]、[[浙江省|浙江]]の[[方国珍]]が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、[[1351年]]には[[賈魯]]による[[黄河]]の改修工事をきっかけに[[白蓮教|白蓮教徒]]の[[紅巾の乱|紅巾党]]が蜂起した。[[1354年]]には、大規模な討伐軍を率いたトクトが強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これは皇帝の権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた[[朱元璋]]が他の反乱者たちをことごとく倒して[[華南]]を統一し、[[1368年]]に[[南京市|南京]]で皇帝に即位して[[明]]を建国した。
朱元璋の軍は、即位するや大規模な北伐を開始して元の都・大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、[[1368年]]にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと敗走した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの敗走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は'''[[北元]]'''と呼んでそれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子である[[アユルシリダラ]]と[[トグス・テムル]]が相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず[[韃靼]]という別称を用いた)が、[[1388年]]にトグス・テムルが殺害されクビライ以来の直系の王統は断絶する。
この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉えることには問題がある。まず、華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られたことによって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、[[1367年]]に明軍に捕らえられた[[戸部尚書]]の[[張昶]]は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。
=== その後の北元 ===
北元では[[1388年]]にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の皇帝世襲が終焉し、クビライ家政権としての大元は断絶した。しかし、その後もチンギスの子孫がモンゴル高原で優勢となった遊牧集団に、大元の皇帝として代わる代わる擁立されつづけた。クビライ家の断絶後はアリクブケ家の皇帝が続き、一時は非チンギス裔の[[オイラト]]族長に皇帝位を簒奪された([[エセン・ハーン]])が、[[1438年]]にはクビライ家の末裔とされる王家が復権を果たし(ただし第2代モンゴル皇帝の末裔のオゴデイ家である可能性も指摘されている)、[[15世紀]]末にはそこから出た[[ダヤン・ハーン]]により、いったん大元皇帝のもとでのモンゴル高原の遊牧民の再統合が果たされる。大元皇帝位が最終的に終焉を迎えたのは、ダヤン・ハーンの末裔の[[リンダン・ハーン]]が死に、[[モンゴル]]諸部族がリンダンの代わりに[[満州民族|満州人]]の建てた[[後金]]皇帝[[ホンタイジ]]をモンゴルのハーンに推戴した[[1636年]]であった(詳細は[[北元]]を参照)。
== 政治 ==
元の政治制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されたため、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。
=== 中央政府 ===
元の首都は[[大都]](現在の北京)であるが、皇帝は遊牧国家の伝統に則り、都城の城壁内では暮らさずに冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕([[ゲル (家屋)|ゲル]])群が宮廷([[オルド]])となっていた。
モンゴル帝国の皇帝のもとには、第二代オゴデイの時代から時代と設置状況により、漢語で「[[中書省]]」、「[[尚書省]]」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々な頭脳集団を集めていたクビライは、即位するとまず漢人の側近を中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に[[三省六部|六部]]を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。
[[1263年]]には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として[[枢密院 (中国)|枢密院]]が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子[[チンキム]]が総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父にかわって代行した。しかし、中央政府の全機能を中書令チンキムの下に束ねたわけではなく、[[1270年]]にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。遡って[[1268年]]には中国王朝にならって[[御史台]]を設置し、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官の個性や宮廷での力関係などに左右された。
なお、元代の中書省では総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国は古くから貴右賤左という観念があった。漢書·周昌傳:「左遷」、顔師古注:“是の時、右を尊い而して左を卑しみ、故に秩位を貶するを謂い左遷と為す。宋.戴埴《鼠璞》:「漢は右を以て尊と為し、貶秩を謂いて左遷と為す、仕诸侯は左官と為り、高位に居り右職と為る。
元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する征服王朝である[[遼]]や[[金 (王朝)|金]]と比較すると民族固有の支配体制を維持していたため、元では[[律令]]のような体系立った法令を編纂せず、モンゴル時代や元初は法や裁定が紊乱して民衆の困窮を招いた。次第に政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねを法令と成し、中でも皇帝の名をもって出される聖旨(ジャルリグ)や令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書(ウゲ)が高い権威を持った。しかし、元末まで法体系の不備は解消されず縁故による汚職がはびこる温床の一つとなった。モンゴル人は文字として[[モンゴル文字]]と、クビライが新たに作らせた[[パスパ文字]]をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれた[[モンゴル語]]を正文としていた。[[漢文]]の翻訳も付いたが口語的・直訳的な文体が用いられた。なお、積み上げられた法令は、『元典章』という漢文の書物に編纂されて現存しているが、文章は直訳体に加え当時の官吏が用いた特殊な文体であり、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。元の世祖の時に比較的体系立った『至元新格』が、英宗の時(至治3年、1332年)に体系的な法令である『大元通制』が編纂された。
=== 地方制度 ===
[[ファイル:Yuan provinces (2).png|thumb|300px|left|行中書省の配置]]
{{seealso|元朝の行政区分}}
元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「'''[[腹裏]]'''」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、[[河北省|河北]]・[[山東省|山東]]・[[山西省|山西]]の華北一帯においてのみである。
腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「[[行中書省]]」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で使われている地方区分としての[[省 (行政区分)|省]]は、元代の行省制度を起源とする。
行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、[[ダルガチ]]が負った。
また、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じく季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、個々の所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する封土であり、自治に委ねられていた。しかも個々の位下・投下は[[中国内地]]の定住地帯にモザイク状に散った領民・領地を持っていた。定住地帯では、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任じて、皇帝の直接の支配権が及ばない位下領・投下領が、封土を含んで地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。
元に服属した[[天山ウイグル王国]]は、内政に関しては高昌王を授けられ従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿、つまりは外戚である)としてモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。また、元に服属した高麗は12省に組み込まれて高麗省となり同じく行政に就いて自治を認められたが、高官の人事権や政治・軍事は所属する行省のモンゴル人によって支配された。[[忠宣王]]以降の国王は名目的な存在となり、モンゴル皇女を母とし即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようであった<ref name=山川201105>森平雅彦「世界帝国のなかの高麗王」『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(世界史リブレット, 山川出版社.2011年5月) pp.32〜55</ref>。
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天山ウイグル王国と高麗はどちらも王府の設置を許可されていたのですが、非チンギス裔かつ外戚ではない貴族が王府の設置を許可された例はありました? 無ければ、「王府の設置を認められていた点で、コンギラト・オングトなどの他の駙馬と同じく王族に準じる扱いを受けていた」という意味合い(だと思う)の2011年6月23日以前の文に戻しておいた方が無難だと思うのですが。
女婿であっても、『集史』の記述では高麗省はあくまでも12省の中の1省です。かつ王と称したが彼はその地域の王ではないとも、はっきり書かれている。タリム盆地のウイグル人は高昌王を授けられてるのに対して。-->
このように元の地方制度は、中国王朝に伝統的な中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配下にありながら異なる制度に置かれる例外として、[[チベット]]([[吐蕃]])があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、[[土司]]として掌握され、[[チベット仏教]]の[[サキャ派]]の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。
=== 人材運用 ===
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府、地方政府共に人材登用では能力ではなく縁者の階級が重視され高官の子弟は修養や実務を積む前から権限のある役職に就いた、またチンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する[[家政機関]]である[[ケシク|ケシクテン]]が重要な意味をもち、政府の要職に就き政治に携わる者の多くは、皇帝との個人的主従関係に基づき登用されたケシクテン所属者(ケシク)からの出向であった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。
宰相など最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に[[千戸制|千人隊長]](千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣[[ムカリ]]、[[ボオルチュ]]、[[チラウン]]、[[ボロクル]]の子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿({{Lang|zh|駙}}馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な[[耶律楚材]]のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。
皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲社会の元朝では能力に基づく選抜採用は必要がなく、また大量の増員があった元朝による南宋滅亡に際しても、投降した旧官吏を大量採用したため<ref>『元史』世祖紀、汪世顕伝</ref>、[[科挙]]によって新たに官僚を登用する必要が存在せず、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われなかった(耶律楚材の実施した科挙によって一次登録された4000人のうち、中央高官や県長以上の官職に就いた24人などの例もなくはない<ref>『蒙元制度与政治文化』5章1節</ref>)。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され[[戸籍]]に登録された人々、「儒戸」によって賄われていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。
このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、皇帝家との姻戚関係などの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の[[封建制|封権制度]]が元を支えており、宋以来の科挙試験による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『[[元朝秘史]]』が、チンギスの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。その結果、元朝の官吏は文官としての能力を著しく欠いた無能者が多く、汚職や悪政と搾取を繰り返す元凶となった。
貴族の家門に属さなくとも出世できた者もいたが、主に彼らはモンゴル帝国の初期から政商として重用され、元朝初期に高官として財務を担っていた[[色目人]](モンゴル人、漢人、南家以外の総ての人々)貴族だった。[[オルトク]]と呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じて皇帝や貴族と金銭を通じたつながりをもった彼らは財務に明るく重用された。しかし、徴税や専売税の請負いなどで度重なる臨時増税を課して過重な負担を負わせ、汚職と曲法を極めて搾取を行ったことは「税人白骨」に代表される民衆の怨嗟のまととなった<ref>『元史』王磐伝・アフマド伝、『雪楼集』巻十、『紫山集』巻22</ref>。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。
南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなかった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、[[漢民族]]と漢化した[[渤海 (国)|渤海人]]、[[契丹|契丹人]]、[[女真|女真人]]などからなる)と南家(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。
もっとも、官吏・軍人・儒戸としての出仕、縁故・推挙などによる出仕、国子監などの国の教育機関を通じた出仕、科挙及第による出仕と出仕経路の多様性をモンゴル帝国・元朝の人材登用の特徴として捉え、元代の知識人の多くは自分に有利な方法での仕官を目指したのであって、「進士及第」という社会的名誉にこだわらない限りは、どの方法でも構わなかった(科挙を受ける必然性はなかった)とする指摘もある<ref>飯山知保『金元時代の華北社会と科挙制度』早稲田大学出版部(早稲田大学学術叢書)、2011年3月 p.290-307 </ref>。
=== 民政制度 ===
民間の掌握にあたっても、元では、個々の民と皇帝との個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上ですでに触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。
[[File:KhubilaiOnTheHunt.jpg|thumb|240px|世祖出猟図 [[国立故宮博物院]]]]
こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに厳格な格差が存在した。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度である。四等身分制度が実施されたため、漢人南家の高級官吏は万人無二と称される様に非常な小数に抑えられていた。但しこの身分制度で支配の頂点に立っていたモンゴル人でも没落して奴隷になる者もいた。クビライも皇帝即位以前から[[ウイグル]]人・[[契丹]]人・漢人・[[女真族|女真人]]などからなる多種族混成のブレイン・実務集団を抱えている。元王朝では財務に優れた色目人([[ムスリム]])たちには財政部門を、文化・宗教関係部門には[[チベット]]人や[[インド]]、[[ネパール]]、[[カシミール]]地方の出身者を、そして科学・学術・情報・技術分野にはあらゆる地域出身の人々が登用され、各人の特性や能力に応じた職務を分担した。そして元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のように元々モンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右し、漢民族出身者でも元王朝に忠誠を誓うものが現れた。[[台北市]]の[[国立故宮博物院]]に収められているクビライの狩猟の様子を描いた「世祖出猟図」では黒人と思われる黒い肌をした馬に乗った人物がクビライの近くに描かれる<ref>大半は『中国の歴史8-疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元』のp344からp346より引用</ref>。
このようにモンゴルの慣習に固執し、科挙によらず[[縁故主義]](科挙は実力に基づく)により人材を登用し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その分権的で[[中世]]的な支配は、[[唐]]代以来貴族階層及び農奴制の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。また、流通や貿易の振興を図り、紙幣を流通させるなど経済・商業政策は南宋の施行を引き継いだものの、奴隷制へ逆行した弊害は大きく広範な産業(特に農業全般、漁業、鉱業全般)において停滞期に入り、宋代の水準へ回復するのは明代中期まで待つ事となる。<ref>『宋代経済史』緒論、漆侠</ref>
== 経済 ==
(単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム)
元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興した。また、塩の国家専売による莫大な収入と莫大な農業生産力による穀物が国庫を支えた。経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からも商税が得られた。元での経済政策を担当していた者の多くは色目人であった。
=== 中国統一の経済効果 ===
中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の[[隋]][[唐]]時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の[[1271年]]とした後の[[1285年]]では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。<ref>『世界歴史大系 中国史 3 五代〜元』、p494。ただしこれは華北の土地を広くモンゴル貴族の所領としたためでもある</ref>
江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の田地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する収穫が得られる奴婢を用いた官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『[[農桑輯要]]』という官撰の[[農書]]を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、国家の政策として同書が編纂されたということは、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進されたことを物語っている。さらに[[虞集]]に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。しかし、金代に農地1畝当たり1.5石程度だった華北の生産性が元代には1畝当たり0.6程度にまで激減しており、戦乱や奴隷制による農業技術の大きな衰退が確認される。
また、クビライは海に面した現在の[[天津市|天津]]から大都まで80kmほどの[[運河]]を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物を大都へ運送するのに手間の掛かる運河ではなく海運を使用するようにしたことで[[京杭大運河]]は完成した。
さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える[[塩]]・[[茶]]([[酒]]・[[明礬]]は江南に偏らない)などの専売品の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に欠かせないことから厳重に管理され、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。
この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で相次いだ反乱により元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。
=== 税制 ===
(政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は[[1260年]]のクビライ即位の年の例に拠っている。)
元の税制は、かつての金の領土(漢地)と、南宋の領土(江南)とで異なっていた。
漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。
税糧は、各戸の壮丁(労働に耐えうる男性)ごとに粟(穀物)1石、あるいは土地1畝ごとに畑は3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、人頭税と面積に対してかかる一般的な田税の両建てだった歴代中国王朝とは趣が異なる。
もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で[[絹|絹糸]]を22両4銭(重量)を収め、包銀は[[銀]]6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられた。この2つの税の徴税事務は、金を滅ぼし華北へ進出した当初は委託された徴税人によって行われていたが、モンケの治世期以降は次第にかつてモンゴルへ投降した在地の金人・漢人の[[世候]]によって代替されるようになり、それに伴って中間での抜き取りは減ったものの元朝政府は税額を2倍前後としたため民衆の過重な負担は変わらなかった。
一方、江南の方では、南宋から引き継いだ[[両税法]]をそのまま用いていた。両税法では、各戸が夏に[[木綿]]などの物産、秋に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。
しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入に依存する割合が他の王朝よりも高かった。
元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税は、金や南宋と同じく奢侈品や非日用品が州府間を移動するときや港湾を商品が通過するときに関税を課され、日用品は最終売却地で売却時に商税を支払えばよかった。反面、海外との交易は厳格に統制が敷かれたが、国庫に入る商税の総額は歳入の1~3割にのぼった。
しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。
=== 金融政策と塩専売制度 ===
中国では[[北宋]]代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた[[紙幣]]を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る[[交鈔]](こうしょう、あるいは単に鈔とも)と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した[[1260年]]に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。
交鈔は[[金]][[銀]]との兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。
[[File:Yuan dynasty banknote with its printing plate 1287.jpg|thumb|320px|至元通行寳鈔とその原版。上段左の欄に[[パスパ文字]]で「至元寳鈔(jˇi ’ŭen baw č‘aw)」と書かれている。]]
これに対して[[1287年]]に中統鈔の五倍の価値に当たる至元通行宝鈔(通称・至元鈔)を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、[[消費財]]である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。
さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。
=== 歳出と国際商業 ===
こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。
元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギスの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていた君主は、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。皇帝の側から見れば、皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。
このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、[[14世紀]]に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は[[1356年]]に廃止された。
元は権利を授与した政商や王侯が委託する海商以外の海外交易を厳禁とし、私貿易に対する海禁政策(外国からの交易船は禁止していない)を執っていた。金銀銅鉄貨や奴婢・武器防具・絹・馬匹・兵糧を持ち出しが発覚した場合は、船主以下棒叩き107回・船舶積荷没収の罰が課され、外国からの交易船に対しても徴税と取引の監視と規制が為された。
船舶は決まった港湾への登録が義務付けられ、それ以外の都市に停泊した場合は罪に問われた。また乗員も厳格な管理が行われ船長から水夫に至るまで全員に登録の義務があり、漏れがあった場合は関係者の家族諸共罪に問われた。交易先も厳重に管理され、申告した国以外との貿易は認められず、大船には官吏が乗り込み取引内容などの監視が行われた。
元では船舶税として出国と帰国の際に積荷の1/30を、交易許可として細貨から1/10を粗貨から1/15を現物で徴収した。
== 文化 ==
=== 宗教 ===
元来[[シャーマニズム|シャーマニ]]を信仰してきたモンゴルは、チンギスの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神([[テングリ]])を祀るものとして保護してきた。
==== 道教と仏教 ====
<!-- [[File:Pure Land of Bhaisajyaguru, Yuan Dynasty.JPG|thumb|320px|]] -->
中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた[[全真教]]を始めとする[[道教]]教団で、教主[[丘長春]]自らが[[サマルカンド]]滞在中のチンギスの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにモンゴル皇帝のために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になった。[[金 (王朝)|金朝]]の首都であった中都(のちの[[大都]]が建設される)を拠点として、教団は金朝滅亡後に失職した官吏を保護し、さらに全真教系列の各地の[[道観]]は漢人官僚組織の育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下の漢地領土において行政組織の運営に携わった。しかし、この急激な教団の拡大は[[浄土教]]系や[[禅宗]]などの華北の中国仏教教団との深刻な対立を生み出した。特に、全真教の道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存の仏教寺院を不法に接収し道観に作り替えたり、寺院付属の荘園を没収して私領するなどの事件が多発したため、仏教諸派はモンゴル宮廷にこの事態を直訴する事態となった。[[モンケ]]の治世に[[カラコルム]]と中都で都合3回行われたといういわゆる「道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題を詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席のもと開催された時は、[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]から派遣された[[ウィリアム・ルブルック]]も出席しており、帝国内外の[[キリスト教徒]]や[[イスラム教徒]]の知識人たちも参加していた)<ref>カルピニ、ルブルク(護雅夫 訳)『中央アジア・蒙古旅行記』(東西交渉旅行記全集 1)桃源社、1965年p.263-274</ref>
京兆府(現在の[[西安]])から中都(燕京)に派遣された[[クビライ]]のもとで開催された時、華北仏教諸派の嘆願を汲んで全真教団はチンギス以来任されていた華北宗教界における政治権力を剥奪され、代わりに中都での宗教行政の総監であった[[カシュミール]]出身の仏僧「国師」那摩(ナーモ)の後任として招かれた[[チベット仏教]]サキャ派の高僧[[サキャ・パンディタ]]、および[[パスパ]]に宗教界を監督する権限を与えた<ref>中村淳「モンゴル時代の「道仏論争」の実像--クビライの中国支配への道」『東洋学報』Vol.75, No.3・4 (1994/03) pp.229〜259. </ref>。全真教はこの「道仏論争」に敗れて勢力を一時的に後退させた。しかしながら、これは根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、[[後漢]]の[[五斗米道]]の系譜をひく[[正一教]]が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。この前後から全真教のみならず[[少林寺]]、[[玄中寺]]などの[[浄土宗]]、[[禅宗]]の仏教大寺院をはじめ[[曲阜]]などの孔子廟などに加え、[[チベット仏教]]へも歴代モンゴル皇帝や王族、貴族層から多大な保護と寄進を受ける<ref>野口善敬「第2章 元・明の仏教」『新アジア仏教史 08 中国III 宋元明清 中国文化としての仏教』佼成出版社 2010年9月</ref>。
仏教は、はじめに保護を獲得したのは[[禅宗]]で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に[[杭州市|杭州]]の[[中峰明本]]([[1263年]] - [[1323年]])がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ(パスパ)に対し、[[1260年]]に「国師」、[[1269年]]に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認めた。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。元代後期から末期になると、これに耽溺するモンゴル王侯が増え、[[ラマ (チベット)|ラマ]]に過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。
==== イスラム教およびキリスト教 ====
また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方から[[イスラム教]]が流入し、[[泉州市|泉州]]などの沿岸部や[[雲南省]]などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。現在の北京にある中国でも最古級の[[モスク]]である[[牛街清真寺]]はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元ウルス時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつである<ref>松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」『(講座イスラーム世界 3 )世界に広がるイスラーム』(堀川徹 編)栄光教育文化研究所、1995年、p.157-192</ref>。もうひとつの大宗教は[[キリスト教]]で、[[ケレイト|ケレイト王国]]や[[陰山山脈]]方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていた[[ネストリウス派]]のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、また[[ローマ教皇]]の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていた<ref>佐伯好郎『元時代の支那基督教(支那基督教の研究 第2巻)』名著普及会、1979年(初版:春秋社松柏館、1943年)</ref>。例として、[[ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ|モンテ・コルヴィノ]]は、1307年に初の大都管区大司教に任じられている。
==== 儒教 ====
ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は[[儒教]]を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は[[孔子]]や[[孟子]]の子孫の保護、[[曲阜]]の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである<ref>高橋文治「太宗オゴデイ癸巳年皇帝聖旨訳註」『追手門学院大学文学部紀要 』25号、1991年、p.422-405 ;森田憲司「曲阜地域の元代石刻群をめぐって」『奈良史学』19号、2001年12月 ;宮紀子「第5章 大徳十一年『加封孔子制』をめぐって」「第6章 『廟学典礼』箚記」『モンゴル時代の出版文化』[[名古屋大学出版会]]、2006年</ref>。儒者の排斥は、旧金・南宋の知識人層の間でも多くの者が名を飾って実を顧みず党争と些末な字句解釈に拘り国を滅ぼした儒教・科挙に不信感を抱いていたことも大きい。
なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で[[朱子]]の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる[[朱子学]]が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している<ref>宮紀子「第2章 鄭鎮孫と『直説通略』」「第8章 「対策」の対策」『モンゴル時代の出版文化』名古屋大学出版会、2006年</ref>。
=== 科学技術 ===
モンゴル・元代には有名な[[マルコ・ポーロ]]、[[イブン=バットゥータ]]のように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより幾つかの西方の情報と技術が持ち込まれた。
例えば、[[モンケ]]の時代にモンゴル宮廷に招聘された[[イラン]]出身の[[ジャマールッディーン]]により暦法が持ち込まれた。[[1271年]]に回回司天台と呼ばれる天文台が作られた際の天体観測機器には国内の技術と観測形態が使用されている。クビライの側近であった中国人学者[[郭守敬]]は、回回司天台の観測結果をもとに新しい暦である[[授時暦]]を作り1年を365.243日と定め、この暦は明の滅亡まで使用された。大元朝と友好関係にあった[[イルハン朝]]の[[フレグ]]によって創設され[[ナスィールッディーン・トゥースィー]]らによって運営された[[マラーゲ]]の天文台と天体観測データーの交換が活発に行われた。
[[ファイル:Trebuchet2.png|thumb|240px|12-13世紀に西アジア一帯で流行した物と同形態の投石機]]
回回(ふいふい)は、本来は「[[ウイグル]]」の音写である「[[回鶻]]」に由来する単語であるが、「回回教」「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことであり、元朝時代において語源である「ウイグル」が「畏兀児」と音写され、「回回語」が実際には[[ペルシア語]]のことを指していたように、具体的には[[マー・ワラー・アンナフル]]や[[ホラーサーン]]など広く西方のイラン系の人々に由来する事物を指した。元は南宋の拠点であった[[襄陽市|襄陽]]の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、投擲距離が数百メートルに達する可動式の「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」([[トレビュシェット]])というペルシャ式の投石機をつくった{{efn|「マンジャニーク( منجنيق manjanīq < pl. مناجيق manājīq )」という単語自体は[[カタパルト (投石機)|投石機]]一般を指すギリシア語由来のアラビア語の単語であるが、12世紀後半に[[歴史的シリア|シリア]]において十字軍諸侯とムスリム諸政権との戦争が激化し、攻城戦において攻撃力の高い投石機([[トレビュシェット]])が開発された。}}{{efn|従来の中国式の投石機は人力で投石するものであったが、おもりの力を利用するマンジャニークはその3倍程度の重量物を約1.5倍の射程まで撃ち込んだ。}}。このマンジャニークも、中国では[[回回砲]]という名で知られた。金攻略に際しては、初期の作戦は攻壁攻撃力の欠如により失敗したが、投石器の利用により成功にいたる。
中国科学史の大家である[[ジョゼフ・ニーダム]]は、優れた実用技術の利用に反し元・明代は中国において科学技術の停滞期であり、宋代からの水準低下は天文学・暦学や数学を始めとした科学分野に見られると指摘した<ref>『中国の科学と文明』4・5・7、ジョゼフ・ニーダム</ref>。
=== 服飾 ===
{{Main|{{仮リンク|元時代の服飾|en|Fashion in the Yuan dynasty}}}}
=== 文学 ===
元の時代の文学で特筆すべきは[[雑劇]]と呼ばれる[[戯曲 (中国)|戯曲]]の作品である。[[漢文]]、[[唐詩]]、[[宋詞]]、[[元曲]]など言われるようにこの時代の「曲」は歴代でも最高とされる。
[[小説]]にも才能のある作者が集まり、[[西遊記]]、[[水滸伝]]や[[三国志演義]]などはこの時代に原型が出来たとされる。
このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは[[漢詩]]と[[歴史]]であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。
一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である[[趙孟頫]](子昂)、元の四大家と言われる[[虞集]]・[[楊載]]・[[范梈]]・[[掲傒斯]]などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族(色目人)の詩人があらわれ、ムスリムの[[進士]](科挙合格者)である[[薩都剌]]を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。
=== 美術 ===
{{also|中国の陶磁器 #元の陶磁}}
書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、[[書道|書]]は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、[[絵画]]は[[北宋]]以来の[[院体画]]を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には[[黄公望]]、[[倪瓚]]、[[呉鎮]]、[[王蒙 (画家)|王蒙]]の「[[元末四大家]]」が趙孟頫の画風を発展させ、[[南宗画]]とも後に区分される[[山水画]]の技法を確立していった。
陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には[[染付]]などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの[[青磁]]などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対照をなす。青花と呼ばれる染付に使われている[[コバルト]]顔料は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。
元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠く[[トルコ]]、[[イスタンブール]]の[[オスマン帝国]]の宮廷[[トプカプ宮殿]]や、[[イラン]]、[[アルダビール]]の[[サファヴィー朝]]の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。
== 歴代皇帝 ==
[[ファイル:元朝系図.png|thumb|240px|元朝系図]]
=== モンゴル帝国以前のキヤト・ボルジキン氏当主 ===
: [[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]はクビライにより「烈祖神元皇帝」と[[諡|追諡]]された。
=== 元朝以前のモンゴル帝国皇帝 ===
# 太祖[[チンギス・カン]]([[1206年]] - [[1227年]]) イェスゲイの長男。
# 太宗[[オゴデイ]]([[1229年]] - [[1241年]]) チンギスの三男。
# 定宗[[グユク]]([[1246年]] - [[1248年]]) オゴデイの長男。
# 憲宗[[モンケ]]([[1251年]] - [[1259年]])チンギスの四男のトルイの長男。
# [[アリクブケ]](1259年 - [[1264年]]) トルイの六男。
# 世祖[[クビライ]]([[1260年]] - [[1271年]]) トルイの四男。[[モンゴル帝国帝位継承戦争|アリクブケと帝位を争う]]。
=== 元の皇帝 ===
# 世祖[[クビライ]](1271年 - [[1294年]])
# 成宗[[テムル]](1294年 - [[1307年]]) クビライの次男の[[チンキム]](裕宗)の三男。
# 武宗[[カイシャン]](1307年 - [[1311年]]) チンキムの次男の[[ダルマバラ]](順宗)の子。テムルの甥。
# 仁宗[[アユルバルワダ]](1311年 - [[1320年]]) ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。
# 英宗[[シデバラ]](1320年 - [[1323年]]) アユルバルワダの長男。
# 泰定帝[[イェスン・テムル]](1323年 - [[1328年]]) チンキムの子の[[カマラ (元朝)|カマラ]](顕宗)の長男。
# 天順帝[[アリギバ]](1328年) イェスン・テムルの長男。
# 文宗[[トク・テムル]](1328年 - [[1329年]]) カイシャンの次男。
# 明宗[[コシラ]](1329年) カイシャンの長男。トク・テムルの兄。
# 文宗トク・テムル(復位、1329年 - [[1332年]])
# 寧宗[[イリンジバル|リンチンバル]](1332年) コシラの次男。
# 恵宗[[トゴン・テムル]]([[1333年]] - [[1368年]]) コシラの長男。リンチンバルの兄。
=== クビライ家の北元皇帝 ===
{{See also|北元#北元/モンゴル帝国の皇帝}}
# 恵宗[[トゴン・テムル]](1368年 - [[1370年]])
# 昭宗[[アユルシリダラ]](1370年 - [[1378年]]) トゴン・テムルの子。
# 天元帝[[トグス・テムル]](1378年 - [[1388年]]) アユルシリダラの弟。
==系図==
[[ファイル:キヤト・ボルジギン氏系図.png|800px|キヤト・ボルジギン氏系図]]
== 元の年号 ==
# [[中統]]([[1260年]] - [[1264年]])
# [[至元 (元世祖)|至元]](1264年 - [[1294年]])
# [[元貞]]([[1295年]] - [[1297年]])
# [[大徳 (元)|大徳]](1297年 - [[1307年]])
# [[至大]]([[1308年]] - [[1311年]])
# [[皇慶 (元)|皇慶]]([[1312年]] - [[1313年]])
# [[延祐]]([[1314年]] - [[1320年]])
# [[至治 (元)|至治]]([[1321年]] - [[1323年]])
# [[泰定 (元)|泰定]]([[1324年]] - [[1328年]])
# [[致和]](1328年)
# [[天順 (元)|天順]](1328年)
# [[天暦 (元)|天暦]](1328年 - [[1330年]])
# [[至順]](1330年 - [[1333年]])
# [[元統 (元)|元統]](1333年 - [[1335年]])
# [[至元 (元順帝)|至元]](1335年 - [[1340年]])
# [[至正]]([[1341年]] - [[1368年]])
=== 北元の年号 ===
# [[至正]](1368年 - [[1370年]])
# [[宣光]]([[1371年]] - [[1379年]])
# [[天元 (北元)|天元]](1379年 - [[1388年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2011年7月22日 (金) 19:15 (UTC)}}
* [[愛宕松男]] 『アジアの征服王朝』 [[河出書房]]、1968年。
* 愛宕松男・[[寺田隆信]] 『元・明』 [[講談社]]、1974年。
* [[岡田英弘]] 『モンゴル帝国の興亡』 [[筑摩書房]]〈[[ちくま新書]]〉2001年。
* [[小松久男]]編 『中央ユーラシア史』 [[山川出版社]]、2000年。
* [[斯波義信]]ほか編 『世界歴史大系 中国史 3 五代〜元』 山川出版社、1997年。
* [[杉山正明]] 『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』 [[朝日新聞社]]〈[[朝日選書]]〉1995年。
* 杉山正明 『モンゴル帝国の歴史』全2巻、講談社〈[[講談社現代新書]]〉1996年。
* 杉山正明 『遊牧民からの世界史 民族も国境もこえて』 [[日本経済新聞社]]、1997年。
* 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』 講談社〈講談社現代新書〉1996年5月、{{ISBN2|4-06-149306-X}}。
* 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』 講談社〈講談社現代新書〉1996年6月、{{ISBN2|4-06-149307-8}}。
* 杉山正明 『モンゴル帝国と大元ウルス』 [[京都大学学術出版会]]、2004年2月、{{ISBN2|4-87698-522-7}}。
* 杉山正明 『中国の歴史8-疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元』 講談社、2005年。
* [[宮脇淳子]] 『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』 [[刀水書房]]、2002年。
* 宮紀子 『モンゴル時代の出版文化』 [[名古屋大学出版会]]、2006年。
== 関連項目 ==
* [[元寇]]
* [[Ghost of Tsushima]]
* [[039A型潜水艦]]
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|大元<br>([[モンゴル帝国]])
|1271年 - 1368年<br>(1206年 - 1634年)
|[[宋_(王朝)|宋]]<br>[[金 (王朝)|金]]
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金 (王朝)
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金(きん、拼音:Jīn、女真語: [amba-an antʃu-un]、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝。
国姓は完顔氏(ワンヤン し、女真語:)。12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の遼、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングートの西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。
金を建国する前の女真(ジュシェン)は、満洲(マンチュリア)の地域すなわち、現在の遼寧省、吉林省、黒龍江省、ロシア連邦の沿海州(外満洲)という広い地域に住んでいた。ジュシェンはツングース系民族に属し、紀元前2世紀頃からの夫余、紀元前1世紀頃に貊族によって建てられた高句麗、紀元後5世紀頃から一定の勢力を有していた 勿吉や靺鞨、そして粟末靺鞨に高句麗遺民を加えて7世紀末葉に建国された「海東の盛国」渤海は、いずれもツングース系の集団とみられ、狩猟や牧畜を主な生業としながらも、比較的早い段階から農耕を取り入れていた。
「女真」は本来、靺鞨五部のうちの「黒水部」と称された集団の一部族の自称であるといわれている。渤海国が926年にモンゴル系契丹(キタン)人によって滅ぼされると、遼の太祖耶律阿保機の長男の耶律突欲は渤海国の領域を受け継いだ東丹国の王となったが、彼は父の太祖の死後故郷に戻り、東丹の官庁や人民を東平(現在の遼陽市)に移したため、旧渤海領は支配者不在の状態となった。そこで黒竜江(アムール川)の下流にいた黒水靺鞨の人びとが南下し、やがて各地に住み着いた。遼の時代、女真人たちは松花江・豆満江流域、朝鮮半島北部の咸鏡南道・咸鏡北道方面に居住域を広げ、遼や高麗に朝貢し、「黒水女真」や「東女真」などと称されていた。女真人は、農耕・牧畜・狩猟・採集・漁撈などに従事し、中国内地との間で朝鮮人参(オタネニンジン)やクロテンなど獣の毛皮を交易していた。また、宋の人びとが珍重した「北珠」と称する真珠の産地でもあった。馬や金の産地でもあって、これらの品は高麗や契丹とも交易されて、武器や軍事物資などを得た。契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、女真族は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真(生女直)と、遼にしたがっていた熟女真(係遼籍女真)に大別された。
生女真に属していた完顔(ワンヤン)氏は、現在の黒竜江省の松花江(スンガリ川)の支流アシュ川(中国語版)(按出虎水)流域に生活し、キタン人国家の遼に服属していたが、キタン人支配者たちは奢侈的な生活にふけり、女真に対して過酷な搾取を行った。遼は、南方の宋と交易するのみならず、ウイグルを通して西域とも交易し、西域の奢侈品を輸入していたが、遼の支配域にはこれといった産品がなく、宋から歳幣として銀と絹を受け取っていたものの、多くは宋の産品を購入するために消費されていた。聖宗、興宗、道宗3代の黄金時代の後を受けたキタン最後の皇帝、天祚帝耶律阿果は、華美な中国の文物を愛好して狩猟に熱をあげ、深酒をするようになり、その政治はしだいに放漫なものとなっていた。キタンはもともと、女真族の住む東北地方の経営には必ずしも積極的ではなかったが、毎年、狩猟に用いるための松花江下流域に使臣を派遣しており、この使者たちの横暴なふるまいは女真の人びとを怒らせた。使臣たちは海東青を求める名目でジュシェンの人びとに黄金を献上させ、またジュシェンの婦人たちに暴行を加えることもしばしばあったという。
完顔氏より出た劾里鉢(ヘリンボ)には烏雅束(ウヤス)、阿骨打(アクダ)、呉乞買(ウキマイ)らの子があった。ヘリンボ死後、首長権は頗剌淑(中国語版)(ポラシェ)、盈歌(インコ)、烏雅束(ウヤス)と移り、ウヤスは生女真諸部を統合した。ウヤスが死去してのちは、弟の阿骨打(アクダ)が首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた。
約200年におよび遼の圧政下にあった女真人であったが、完顔阿骨打は1113年、熟女真を臣伏させて遼に対して反乱を起こし、1114年の寧江の戦いで勝利して勢力を伸ばした。1115年には遼から独立して按出虎(アルチュフ)水の河畔で即位し、「大金」を国号とし、「収国」の元号を定めた。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。『金史』(1345年成立)によれば、アクダは、遼に対する対抗心をあらわにしている。
アクダの軍が、キタンの熟女真支配の拠点に遠征し、アクダ軍の大勝利に終わった。1116年、アクダ率いるジュシェン軍は、東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)も陥落させて遼東地方を支配下に収めた。遼の権威は地に墜ちた。一方、アクダの快進撃の報に接した宋王朝も金王朝に接近し、1118年、宋と金で遼を挟み撃ちにすることをもちかけた。
キタンとの講和交渉が進まないなか、金は宋の提案に乗ることとし、1120年に北宋との間で「海上の盟」と称される盟約を結んだ。条件は、従来キタン国家の遼に支払ってきた歳幣(絹30万匹、銀20万両)をジュシェン国家の金にまわすこと、金は戦闘において万里の長城よりも南に越えないこと、金・宋同盟が成ったのちは金・遼講和を進めないことの3つであった。さらに宋側から追加された条件は燕雲十六州に関してであった。それは、燕京(現在の北京市)については宋が攻めるが、雲州(西京。現在の山西省大同市)の攻撃は金が担当すること、ただし、占領後は宋に引き渡してほしいというものであった。アクダは、あまりに身勝手な宋の申し出に反駁し、宋もそれに答えられない状況が続いたが、結局は約束通り、雲州を制圧して天祚帝耶律阿果を陰山山脈方面に敗走させた。一方の宋は南方で方臘の乱が起こったため、燕京攻撃のために用意した軍の一部をこれに派した。しかも宋は、キタン最後の砦としてのこした耶律淳らの守る守備軍に敗北を喫したため、当初提示した条件を自ら破って金に援軍を要請した。結局、金が燕京を落として宋に割譲し、代償として大量の銭と糧食を得ることとなった。しかし、宋朝は歳幣を支払わない。なお、『金史』によれば、この間、太祖アクダは同族の完顔希尹(中国語版)や完顔葉魯らにジュシェン語をあらわす文字の創成を命じ、彼らは1119年(天輔3年)8月、契丹文字や漢字を参考にして女真文字(「女真大字」)を完成させたという。
阿骨打(アクダ)は1123年に死去するが、弟の太宗呉乞買(ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した。降伏した天祚帝はジュシェン民族の聖なる山、長白山(朝鮮名、白頭山)の麓に送られた。太宗ウキマイは1125年9月、宋への侵攻を開始し、アクダの子の斡離不(オリブ、完顔宗望)は河北方面から、撒改の子の粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)は山西方面から宋に侵入して華北一帯を席巻、1126年正月には宋の首都の開封を包囲した。宋朝廷では和戦両様で方針の定まらない状態が続き、結果としては金は莫大な賠償を獲得して和議を結び、金は北方に引き揚げた。宋では徽宗がおびえて退位し、子の欽宗が新たに即位した。しかし、金軍が撤退すると宋は再び背信し、雲州方面に金への反抗を命ずるなど攪乱を画策して和約を破ったので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させて占領し、欽宗を北方に連行して北宋を滅ぼした。このたびは、ウキマイの宋を廃する決意が固く、宋に対して天文学的な軍事賠償を要求し、また上皇・皇帝を人質として差し出すことを命じ、賠償が十分に払われないとみるや兵に開封の略奪を命じた。北宋滅亡に至る、1125年9月から1127年3月までの一連の事件を靖康の変と称する。靖康の変では、欽宗のみならず上皇となっていた徽宗、および多くの皇族や官僚、妃や公主たちを含め3,000人を連行し、燕京やジュシェンの故郷である東北部に連れ去った。
破竹の勢いの金の強さは、時の勢いもおおいに手伝っているが、後述する勃極烈(ボギレ)制や猛安・謀克(ミンガン・ムクン)制によるところも大きかった。しかし、北宋を滅ぼした金の中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点を示し、統治の面でも慣れない漢民族支配に自信が持てない状況にあった。そこで太宗ウキマイが採った方法は、過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にすることであった。ウキマイは1127年3月、宋の宰相であった張邦昌を皇帝にすえ、国号を楚とさせて、名目上の首都を金陵(現在の南京)とした。しかし張邦昌は、その4月、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の康王(趙構)を皇帝位につける運動を主導した。南に逃れた康王は、江南の北宋残存勢力を糾合して南京応天府(河南省商丘市)で高宗として皇帝に即位し、宋王朝を復活させた。金は南宋懲罰軍による再度の南征を開始し(宋金戦争)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦い、明州(寧波)まで南宋皇帝を追跡して引き揚げた。
1130年、金の左副元帥であったネメガは南宋の力を弱めるため、河南、山東以南の地に宋の済南府知府(地方知事)であった劉豫を皇帝に立て、開封を都として斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。一方、金は徽宗や欽宗を黒竜江省依蘭県まで移送し、宋人の反抗・奪還の芽をつぶした。斉国は金の傀儡政権として南宋に対峙していたが、1137年には廃された。
金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、和約が金に不利な内容だったため、1142年にあらためて両国の間で結ばれた(紹興の和議)。この和約は、両国は大散関(中国語版)(陝西省)と淮河を結ぶ線を以て国の境とし、宋は金に対して臣下の礼をとり、歳貢として銀25万両、絹25万匹を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。金は、四海の君としての名義を得た。ただ、金が支配する華北の地は、ジュシェン(女真)人が大量に移住したとはいえ、なおも圧倒的に漢人が多く住む世界であった。
1135年に第3代皇帝となった熙宗合剌(ホラ)の時代から、金はしだいにジュシェンの独自性は失われ、中華の風にそまっていった。漢地を直接支配することになった金朝が中国式国家体制を採用したのは、それが便利だったためであったが、しかし、中国式の独裁体制を布くにはジュシェンの上層部にあっては皇族の力が強大にすぎた。熙宗は、宗室最有力者のネメガを兵権から切り離し、斉国を廃止した。官僚制度は三省を中核にして整備され、皇帝の尊厳を高める擬制や禁衛の組織が整備され、皇統制条が発布された。猛安・謀克の制度は女真人のみに限定して強化し、かれらを華北に移住させた。華北の漢人たちは州県制のもとで一元的に支配した。
熙宗は治世の中頃から精神を病み、皇族を弾圧して大量の殺戮をあえておこない、自らの求心力を高めようとしたが、その結果、人心は不安定さを増し、熙宗自身も人望を失った。1149年、熙宗の従弟にあたる迪古乃(テクナイ)は宗室の者とはかり、皇帝を殺害して帝位を簒奪し、海陵王となった。海陵王は、宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、また、1153年には、都を会寧から燕京(中都大興府)に遷都して中華風の国家に改造した。身内を信じられなくなった海陵王はさかんに漢人官僚を登用した。それまで北選(遼制)・南選(宋制)に分けてきた科挙も一本化された。
海陵王はまた、財政を顧みず中都の造成に傾注した。『金史』は、そのさまを以下のように記している。
宮殿の造営には、1本の木を運ぶのに2000万を費やし、一車を引くのに500人を使った。宮殿のかざりはすべて黄金をはりめぐらし、ために一殿の費用は億万をもって計え、しかもできあがってもこわし、ひたすら華麗をきわめようとした。
金の中都は、遼の南京析津府を基として、その規模を拡大させたもので、『大金国志』によれば、都城の周囲は75里で、城門は12におよび、各辺に3門ずつを開き、内部の宮殿の数は36、楼閣はこの倍あるという。明代の謝肇淛は、「遼、金および元は、みな燕山(北京)に都したが、制度文物は金が最も盛んであった。今、禁中の梳粧台、瓊花島、それに小海、南海などは、みな金の物である」と述べている。
1161年、海陵王はこの時代の征服者として初めて中国(天下)の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。海陵王は皇族や重臣たちの忠告も無視し、20年来の平和条約をも破って南征軍を組織し、従来のような陸上部隊だけではなく軍艦を建造して海軍を創設し、一方は山東半島から杭州の横を突き、他方は運河を利用して江蘇方面に南下しようという戦略を立てた。金軍は60万と号する大軍を組織し、初めは優勢であったが、慣れない水戦に苦戦し、宋軍が火砲を用いた采石磯の戦いでは手痛い敗北を喫している。その間、各地で契丹の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても宋征服に固執したが、海陵王の恐怖政治をきらったジュシェンの有力者たちが東京(遼陽府)にいた皇族で彼の従弟にあたる烏禄(ウル)を擁立し、人々は雪崩を打ってウルに味方した。ウルが金の皇帝世宗として東京遼陽府で即位し、海陵王は軍中で部下に殺害された。なお、海陵王の南宋攻略に際しては戦費調達のために交鈔が初めて紙幣として発行された。
世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年に乾道の和約(中国語版)を結んだ。その内容は、従来の君臣関係を叔姪関係へと緩和し、歳貢を歳幣と呼び換え、25万両ずつの銀・絹をそれぞれ20万両に減額するというものであった。その一方でキタン人の反乱を速やかに収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大きく損なわれた財政の再建をめざし、増税をおこない官吏を削減した。南宋でも、同じ時期、名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれ、金朝にあっては繁栄と安定の時代をむかえたといわれる。
平和が長引き、女真(ジュシェン)の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(キタン族を含む)との割合は当初は1:6程度、漢人の人口増でそれが1割弱にまで拡大したので、女真の軍事力の弱体化が問題となってきた。世宗もまた1162年に燕京を都を定めたが、ジュシェンの民は中華の華美な風俗に染まり、固有の文化を忘れ、漢化の進行はいっそう顕著になっていった。また、京師や地方に女真文字・女真語を用いた学校をつくり、1171年には女真進士科をつくって女真語による科挙もおこない、女真人が女真人を教育する仕組みをつくりあげた。さらに、四書五経などの漢文献の女真文字への翻訳事業も行った。
女真人・女真文化保護のための諸政策が展開されたにもかかわらず、かれらの経済的な没落は著しかった。ジュシェン人貧窮化の原因としては、海陵王時代の外征の徴発、猛安・謀克戸間相互の階層分化、給与された農地の土地生産性の低さなどが挙げられる。ジュシェン人は華北移住の初期には相応の田畑をあたえられたが、彼らのなかには、その土地を漢族農民に小作させ、小作料に依存して徒食することが多くなり、宴楽にふけって貧窮化し、最終的に農奴に成り下がる者もあった。また、農耕技術はもとより商業・交易においては漢人の才覚がすぐれ、人口も多かったので、ジュシェンの固有性を維持していくことは難しかった。金の税制の基本は北宋のそれを踏襲して両税法であったが、世宗は財政難を克服するため、「物力銭」という一種の財産税を設け、「通検推排」と称する財産調査を行って猛安・謀克戸を除く全戸に課税した。これは財政再建には大きな役割を果たす一方、不満も多かった。また、旧来の官有地を漢人が私有地のように用いている土地、税を負担していない土地、富裕な女真人が不当に所有している広大な土地などを没収し、貧しい女真人に分与しようとした。しかし、この再分配政策は、漢人からは先祖伝来の土地が奪われたと受け止められて、かえって女真人・漢人の間に軋轢を生み、その効果も薄かった。
世宗の時代は後世「大定の治(中国語版)」と称され、彼自身は「小堯舜」と称えられた。しかし、一方では、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったという指摘もある。
世宗の皇太孫であった麻達葛(マダガ)が第6代章宗として即位した1189年頃から、モンゴル民族の北からの侵入が活発化しはじめた。章宗は、即位のときの曲折を遺恨に感じ、自身の権力を脅かしそうな皇族を粛清した。文化面では、章宗自身が北宋の徽宗のような金朝随一の文人皇帝で、絵画・書の作品を残した。章宗は豪奢な生活を好み、官吏の数も世宗時代の3倍に増やした。一方、もともと金の北方防衛を任されていたはずのキタン人、テュルク人、タングート人、モンゴル人などが金の統制を離れはじめ、その防禦のために金の財政は圧迫されるようになった。章宗は10年にわたって「界壕(中国語版)」と称される土塁をチチハルの北からフフホトの北まで延々と築いたが、これは北方遊牧民に脅威をいだいて草原に造られた新たな長城であり、もはや、心理的には従来の漢族王朝と変わるところがなかった。「界壕」建設に加え、1194年には黄河の大決壊が生じ、金はいっそう経済的苦境に立たされた。モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタル部やキタンの反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトのトオリルやモンゴルのテムジンの助けを借りた。
章宗は、皇統制条を改めて泰和律令を定め、礼制・法典・格式をはじめとして科挙・官制などの体制整備や常平倉の設置などの改革を行って中国王朝としての姿を完成させた。この時期の金朝の政治を「明昌の治」と称することもある。また、海陵王時代以来発行してきた交鈔は世宗時代には順調に流通していたが、ここにおいて財政の窮乏を切り抜けるために大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、それではインフレーションを招いて交鈔の信用失墜を招きかねないので、章宗は当時定められていた通用期限を撤廃し、いつでも通用することで信用のある紙幣にしようとした。しかし、発行額の増大は交鈔流通の停滞と銀の貨幣使用が広がるという結果をもたらした。
金の疲弊に乗じようと考えた南宋の宰相韓侂冑は、これを好機として1205年に戦端を開き、金に攻め込んだが逆に撃退され、金は国境線である淮河を越えて長江のラインにまで迫る勢いを示した。予想外の展開に南宋政府はあわて、財政難だったのは南宋も同じであったところから、金と南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ(開禧用兵)。和約では、1142年の国境線にもどり、金・宋の関係が叔姪の関係から伯姪の関係となり、宋から金への歳幣は1142年の取り決めより銀・絹5万ずつ増額された。一方、ウルジャ河の戦いでケレイトやモンゴルと連合したことは、結果的に彼らの勢力を伸張させることとなり、モンゴルでのテムジンの高原統一を間接的に促す結果となった。1206年、テムジンはチンギス・カンと称し、モンゴル帝国が成立した。
1208年、「風流天子」にして恐怖の専制君主であった章宗が41歳の若さで急逝した。猜疑心の強い章宗が心を許したのが叔父にあたる果繩(ガジェン)であった。章宗は、金帝国をまとめるカリスマ性を有していたが、章宗がガジェンを好んだのは、その暗愚さゆえともいわれている。結局、ガジェンが7代衛紹王として即位すると、チンギス・カンは彼に対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した(第一次蒙金戦争)。衛紹王の治世においては、中央権力の空洞化が進んでいて、これに対応することができなかった。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は野狐嶺の戦いで金の大軍を破って長城を突破し、河北・山東をも攻略して、2年あまりにわたって金の国土を蹂躙した。1212年には遼の皇統を継ぐキタン人の耶律留哥が、自ら「遼王」と称して反乱を起こし、現在の吉林省から遼寧省にかけて支配地を広げ、モンゴルの配下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では、1213年に首都の中都でクーデターが起こって女真人の将軍の胡沙虎(クシャク)によって衛紹王が殺され、胡沙虎は章宗の庶兄であった吾睹補(ウトゥプ)を立てて権力を握ったが、胡沙虎自身は2カ月後、別の女真人の武将の高琪により殺された。
ウトゥプが8代皇帝宣宗として即位すると、徒単鎰らはこれを補佐し、主戦派が力を失ったのち、1213年、モンゴルに対する和議に踏み切った。ここでは、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、一族の福興(フシン)の建言を受け入れて岐国公主(衛紹王の皇女)をチンギス・カンに嫁がせた。講和によりチンギスは撤兵したが、1214年、金は中都(燕京)を捨て、北宋の旧都である河南の開封に突如、遷都を決めた。このとき、金の南遷に動揺したキタンの一部が燕京で反乱してモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を誠実さを欠くものと受け止め、和約違反と責めて金に対する侵攻を再開した。将来を嘱望されていた徒単鎰は、中都に踏みとどまるのが上策、満洲の故地に退くのが中策、開封に逃れるのは下策であると論じて、宣宗の開封遷都を諫めたが、受け入れられず遷都宣言の3日前に没している。
1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都の戦いで燕京が陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。チンギス・カンは、金朝に対してこのとき和平条件として「帝号」を放棄するよう要求している。黄河の南、開封を本拠にした金は河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止めることができなかった。また、防戦のために多額の軍事費を必要としたため、人民の負担は増し、各地で反乱が絶えなかった。100万におよぶ猛安謀克軍が河北から河南に移ったものの、河南にはそれを養う余力がなく、漢人はジュシェン人による搾取を深く恨んだ。同じ1215年、満洲では耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していたジュシェンの蒲鮮万奴が独立して大真国(東夏国)を建て、遼東半島の一部から吉林省、咸鏡道、沿海州南部までを支配するようになった。これにより、金の帝室は満洲に逃れることもできなくなってしまった。宣宗は高汝礪のような有能な家臣に恵まれたが、時の勢いをはね返すことはできなかった。1217年、宋は金に戦端をひらいた。1224年には戦闘もいったん収束し、講和にいたった。
宣宗の子の寧甲速(ニンキャス)が1224年、皇位を継承した(9代哀宗)。哀帝は、タングート西夏との同盟に活路を見いだそうとしたが、正大4年(1227年)に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。金の窮状をみてとった宋は歳幣を送ることを停止し、復讐の姿勢を示すようになり、金は南北から脅威を受けるようになった。1227年にチンギス・カンの後を継いだオゴデイは南宋と連合して金を挟撃することを提案した。モンゴルは成功のあかつきには、南宋に河南の地をあたえることを約束した。宋朝では、モンゴルと結ぶことについて一部の反対論があったものの、結局この提案に乗り、共同作戦が始まった(第二次蒙金戦争)。こうしたなか、陳和尚はモンゴル支配を避けて金に亡命してきた多民族からなる亡命者を「忠孝軍」と名付け、寡兵をもってしばしばモンゴル軍に勝利し禦侮中郎将にまで昇進した。
1232年、トルイの軍が漢水を渡って河南に入ってきた情報に、黄河の南に大軍勢を配置していた金の政府は驚愕した。すぐさま、猛安謀克軍に南方への転戦が命じられた。開封南郊の平原でトルイの軍と金軍主力が激突した。強行軍で疲弊していたトルイは三峰山麓に陣を張り、馬をおり、塹壕を掘って猛烈な寒波から身を守った。蒙金ともに余力はなかったが、雪中移動や厳冬期の用兵に慣れたモンゴル軍に一日の長があった。この三峰山の戦いで金は大敗を喫して金軍主力は壊滅、完顔合達は戦死、敗軍の将となった陳和尚は自らモンゴルの陣営に赴いて処刑された。以後は抵抗もままならず、1234年には開封攻囲戦により、首都が陥落した。哀宗は開封から脱出して帰徳に逃げ、さらに淮河上流の蔡州へと逃れるところを、モンゴル・南宋の連合軍に挟撃され、みずから首をくくって死んだ。哀宗に後続を託されていた遠縁の呼敦(ホトン、金の末帝)も即位してわずか半日後にモンゴル軍によって殺害され、ここに金は滅亡した。
モンゴル帝国によって滅ぼされた金の遺民、とりわけジュシェンの人びとがその後どうなったかについて、文献資料は多くを語らないが、幸運にも生き残った人びとは故郷のマンチュリア(中国東北部)に帰ったものと推測される。そして、古くからの住民と新しい住民も含め、東北部に住むジュシェン人はやがて元の遼陽等処行中書省という行政区画に編入されてモンゴル人の支配を受けるようになった。
なお、17世紀になって女真族・ジュシェン人は愛新覚羅(アイシンギョロ)氏出身のヌルハチが「金」を名乗る王朝を興したが、これは「後金」と呼ばれて区別される。後金は、1636年にホンタイジによって「清」と改称され、大帝国を築いた。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたって同じ民族が歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例である。
完顔(ワンヤン)氏の祖先の世系を記した書は『金史』「世紀」であり、その巻頭には始祖以来太祖アクダがある。うち、始祖以下昭祖に至る5代については、その事績は歴史的事実とは考えられず、多分に空想的で、その実在も疑問視される。6代景祖の事績も史実とするにはあやしい部分もあるが、このころから完顔氏が有力な勢力になり始めたとみられる。7代世祖劾里鉢(ヘリンボ)、8代粛宗頗剌淑(中国語版)(ポラシェ)の時期には、完顔氏の勢力は松花江流域や牡丹江上流地方にまで勢力を拡大したと考えられる。9代穆宗の盈歌(インコ)は豆満江上流域に自ら遠征し、綏芬河やハンカ湖地方にも遠征軍を送っていて、完顔氏の支配圏は満洲東部の全域におよぶようになった。このため遼の朝廷は盈歌に「生女直節度使」の職を与えた。10代康宗の烏雅束(ウヤス)は節度使の職を継いで完顔氏の首長となり、朝鮮半島北東部の咸鏡道方面にまで勢力を伸ばし、その支配地はかつての渤海国のそれに匹敵するようになった。金を建国したアクダは、このウヤスの弟である。
順に廟号または諡号(廃帝は王号)、女真名、中国名、在位年、続柄を示す。
太字は皇帝、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。
王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた。金には建国以前から勃極烈(ボギレ)と呼ばれる君長層がおり、阿骨打は皇帝に即位する以前、その君長の筆頭として都勃極烈(トボギレ)を称していた。ボギレは、このように一応のランク分けがなされていたが、あくまでも法制上のことであり、現実には大きな身分的隔たりをともなうものではなく、全体であった。6名のうち国論忽魯(グルンフル)ボギレの撒改はアクダと国家を二分し、その一半を担うほどの豪族であった。ボギレの職掌や数には変動もあった。ボギレは主に皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、国政の定める議事は全ボギレ各員の合議制によって金の政治を決定される慣行だったので、皇帝が独裁権をふるう余地は少なかった。
太宗ウキマイの1126年に新たな占領地となった華北の一部で中華式の三省制(中書省、門下省、尚書省)が導入されたがボギレ制も依然のこっていた。こうしてウキマイの時代には、女真人統治にはボギレ制、漢人統治には三省制の二重体制がしかれた。熙宗が即位した1135年にはボギレ制が廃され、全面的に三省制に切り替わった。宰相格であった領三省事にはそれまでボギレであった宗室の一族や有力者が任命された。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されたが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたため、これに反発する形でなされたという側面がある。
一般の女真人は猛安(ミンガン)と謀克(ムクン)の二段階の組織構造をもった集団に編成された。猛安・謀克は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした。太祖アクダは即位前、女真の旧慣にしたがって300戸を1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)とした。ムクンとは女真語で「族」「郷里」の意味であり、そのリーダーもムクン(族長、里長)と称し、ミンガンは「千」の意味で、そのリーダーもミンガン(千戸長)と称した。軍事組織としてこれをみれば、300家族から武器・食糧をみずから携帯した100人の兵がムクン軍として徴兵され、さらにその10倍の組織から千人隊が組織される。これが同時に新しい行政組織となった。ここに編入されたジュシェン人たちは、戦闘のないときには、狩猟や牧畜、農耕といった日常的な生業を営んでいる。これは、徴兵の面でも地域支配の上でも効率的な仕組みであった。金が成立すると、各地のジュシェン人たちが金に帰属したが、アクダはその首長を、勢力の大小にしたがいミンガンやムクンに任命した。アクダの統治は万事おおまかであり、劉邦時代の漢に似ているといわれる。しかし、この組織は単なる氏族集団の寄せ集めではなかったので、ジュシェン人が遼を倒し、さらに華北へ進出する際の基盤となった。金が華北を占領するとジュシェン人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安(ミンガン)は氏族単位から地方単位に再編成された。猛安・謀克制は、華北進出前のジュシェン人、キタン人、渤海人、漢人にも適用された。
ジュシェン進出後の漢地では都市を把握し、定着農耕民の土地を掌握する観点から中華風の州県制が採用され、猛安・謀克制から変わっていった。世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると、ジュシェン人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。また、漢人に取り囲まれて居住しているため文化面での漢化が進み、ジュシェン人の組織力はゆるんでいった。
金は遼の複都制(五京制)を継承した。1138年(天眷元年)、会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨潢府」を「北京臨潢府」に改称、北宋の首都であった開封を「汴京開封府」として、七京とした。 1150年(天徳2年)、臨潢府から京号を除いた。1153年(天徳5年)、会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、「南京析津府」を「中都大興府」に改称した。これにともない、「中京大定府」を「北京大定府」に改称、また、「汴京開封府」を「南京開封府」に改称して五京とした。1173年(大定13年)、会寧府を再び「上京会寧府」に戻し、以降、滅亡まで六京制を採用した。
金では当初10、最終的には19の路に分け、その下に府(州)、その下に県を置いた。
ジュシェン人の言語女真語は、アルタイ語系のツングース・満洲語のひとつである。12世紀に金が建国され、中国内地北部に進出したのにともない、分布が拡大した。金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は明代まで引き続き話された。その言語は、満洲語と姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる。
ジュシェン(女真)は、ツングース系の人びとのなかでは最も早く文字を作成した民族であるが、そこではキタン人(モンゴル系)の契丹文字からの刺激をおおいに受けている。契丹文字は、残っている資料の絶対量が圧倒的に少なく、他文字・他言語との対訳という手がかりにも乏しいため、いまだ充分な解読には至っていない。契丹大字が漢字と同じ表意文字、契丹小字が表音文字であることは判明しており、女真文字の創成にも影響をあたえた。また、金朝においてもキタン人と漢人の翻訳官が採用されており、女真文字は契丹文字と漢字とに翻訳されていた。1191年、世宗の国粋主義的政策のなかで、公文書における契丹文字の使用が廃止された。
当初、文字を持たなかったジュシェン人であったが、金朝創始者のアクダの時代にはキタン、宋それぞれが新興ジュシェンとさかんに交渉をおこなっており、キタンとの交渉に際しては文書を契丹文字に直していた。ジュシェンの人びと、ことに熟女真と称されていた人びとはまず契丹文字を習い知っていたのである。こうした情勢のなかで、アクダは契丹文字・漢字に通じていた同族の希尹と葉魯に女真大字をつくらせ、1119年8月に完成させた。3代熙宗の1138年、女真小字が創案され、1145年からは大字とならんで使用された。大小の文字の違いは充分に説明されていないが、女真大字は漢字をなぞった表意文字、小字は音節をあらわす表音文字であり、表意文字だけで書く方法があった。小字の使用法は日本語表記における仮名文字に似ている。金石文の発見や辞書『華夷訳語』に収録された「女真館訳語」における対訳単語集・文例集によって漢字と同様、進んだ。13世紀に入り、モンゴル軍が華北に侵攻した。金の滅亡後の華北には契丹文字・女真文字を使う人はいなくなったが満洲・朝鮮の地域では廃絶されていなかった。1407年に設置された女真館があったが、1445年にはモンゴル文字に切り替わり、以後は女真人による女真文字はまったく使われなくなった。
文学では、宋代に発生した雑劇を継承し、元曲の祖形となった「院本」や「諸宮調」と呼ばれる一種の古典劇がつくられた。代表的なものとして、金朝に仕えた董解元(中国語版)による語りもの文学『西廂記諸宮調』がある。元曲の『西廂記』と区別するため、作者の名をとって通常『董西廂』と称される。
詩人では金朝の地方官を歴任した元好問が有名で、金朝滅亡時の悲憤慷慨の詞は「喪乱詩」として著名である。その詩風は陶淵明、杜甫、蘇軾、黄庭堅、とりわけ杜甫の詩に学び、重厚と評される金代随一の詩人であった。元好問の著『中州集』は金代文学の粋を集めたものとして高く評価される。また、金史の撰述を企図して各地を歴遊した。各地から収集した史料は未完に終わったが、元代末葉に編纂されたのは大きいとされる。
詩人として他に、熊岳(現、遼寧省蓋州市)出身の王庭筠がおり、七言の長編を得意とした。王庭筠は漢民族ではなく、渤海人ともいわれる。
中国の歴代王朝によって保護されてきた道教は、しだいに宗教的な清純さを失って迷信的要素が色濃くなり、腐敗も進んだ。金代にこうした道教に革新の気風を呼び起こしたのが王重陽であった。彼は華北が金に占領された12世紀中葉、山東省において、厳しい修行生活を唱えて新道教を開いた。これが全真教であり、第二祖の馬丹陽(中国語版)が教団組織を固めた。ただし、この流れは宋代からの三教融合の傾向を引き継いだものでもあった。当時まだ若かった邱処機(長春真人)が教主になると全真教はいっそう発展し、江南の正一教と道教界を二分する勢力となった。
金代の代表的な建築としては仏教に帰依した熙宗が皇統3年(1143年)に造営を命じた朔県(現、山西省朔州市)の崇福寺弥陀堂が有名であり、中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。山西省大同市の善化寺は遼代から金代にかけて建造された建物を含んでいるが、そのうち、三聖殿は普賢閣や大雄宝殿とは細部の手法が明らかに異なり、天会6年(1128年)以降の建造と考えられる。同じ大同の上華厳寺は遼代に創建されたものの、その後の兵火で焼失し、金の天眷3年(1140年)に再建された。この寺の建物の多くは再び被災したが、大雄宝殿は金代建築の名残をとどめている。「中国十大名寺」の1つと称される河北省正定県の隆興寺(中国語版)の伽藍もまた、金代に整えられた。北京市の広安門外に位置する天寧寺(中国語版)の塔は、12世紀前葉のものと考えられ、類例は中国東北部に多くみられる。似た形式では1175年建造の河南省洛陽市の白馬寺の塔がある。臨済禅発祥の寺として知られる河北省正定県の臨済寺では、世宗が1183年に澄霊塔および寺院伽藍の修復を命じており、現存する澄霊塔には、遼・金代の典型的な様式がみられる。
それ以外で著名なものに、
などがある。
陶磁器の生産については、鈞窯の濃い赤紫色の澱青釉や紫紅釉と呼ばれる釉薬のかけられた瓶子や盤の優品が作られた。河北省曲陽県にあった定窯の白磁も引き続き生産され、優れたものが多く見られる。北宋後期から金代にかけては型押しで施文した印花装飾がおこなわれた。定窯白磁は華北の磁器生産に大きな影響をあたえ、中原から東北・内蒙古にかけて数多くの模倣を生み出した。また、最大の民窯であった磁州窯で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られたのも金代のことといわれる。磁州窯系では、とりわけ陶枕において絵画的意匠がさかんに取り入れられている。
書画では、金皇帝の章宗が文人として傑出した存在であり、北宋の徽宗風の痩金体による書を能くした。作品に「伝顧愷之女史箴図鑑」の女史箴がある。章宗は、党懐英、王庭筠、趙秉文(中国語版)などの文人を重用して文化振興に努めた。王庭筠は詩文書画を能くし、その才能を愛した章宗によって翰林修撰に取り立てられ、宮中の書画の品評にもあたった。
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"text": "金(きん、拼音:Jīn、女真語: [amba-an antʃu-un]、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝。",
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"text": "国姓は完顔氏(ワンヤン し、女真語:)。12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の遼、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングートの西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。",
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"text": "金を建国する前の女真(ジュシェン)は、満洲(マンチュリア)の地域すなわち、現在の遼寧省、吉林省、黒龍江省、ロシア連邦の沿海州(外満洲)という広い地域に住んでいた。ジュシェンはツングース系民族に属し、紀元前2世紀頃からの夫余、紀元前1世紀頃に貊族によって建てられた高句麗、紀元後5世紀頃から一定の勢力を有していた 勿吉や靺鞨、そして粟末靺鞨に高句麗遺民を加えて7世紀末葉に建国された「海東の盛国」渤海は、いずれもツングース系の集団とみられ、狩猟や牧畜を主な生業としながらも、比較的早い段階から農耕を取り入れていた。",
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"text": "「女真」は本来、靺鞨五部のうちの「黒水部」と称された集団の一部族の自称であるといわれている。渤海国が926年にモンゴル系契丹(キタン)人によって滅ぼされると、遼の太祖耶律阿保機の長男の耶律突欲は渤海国の領域を受け継いだ東丹国の王となったが、彼は父の太祖の死後故郷に戻り、東丹の官庁や人民を東平(現在の遼陽市)に移したため、旧渤海領は支配者不在の状態となった。そこで黒竜江(アムール川)の下流にいた黒水靺鞨の人びとが南下し、やがて各地に住み着いた。遼の時代、女真人たちは松花江・豆満江流域、朝鮮半島北部の咸鏡南道・咸鏡北道方面に居住域を広げ、遼や高麗に朝貢し、「黒水女真」や「東女真」などと称されていた。女真人は、農耕・牧畜・狩猟・採集・漁撈などに従事し、中国内地との間で朝鮮人参(オタネニンジン)やクロテンなど獣の毛皮を交易していた。また、宋の人びとが珍重した「北珠」と称する真珠の産地でもあった。馬や金の産地でもあって、これらの品は高麗や契丹とも交易されて、武器や軍事物資などを得た。契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、女真族は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真(生女直)と、遼にしたがっていた熟女真(係遼籍女真)に大別された。",
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"text": "生女真に属していた完顔(ワンヤン)氏は、現在の黒竜江省の松花江(スンガリ川)の支流アシュ川(中国語版)(按出虎水)流域に生活し、キタン人国家の遼に服属していたが、キタン人支配者たちは奢侈的な生活にふけり、女真に対して過酷な搾取を行った。遼は、南方の宋と交易するのみならず、ウイグルを通して西域とも交易し、西域の奢侈品を輸入していたが、遼の支配域にはこれといった産品がなく、宋から歳幣として銀と絹を受け取っていたものの、多くは宋の産品を購入するために消費されていた。聖宗、興宗、道宗3代の黄金時代の後を受けたキタン最後の皇帝、天祚帝耶律阿果は、華美な中国の文物を愛好して狩猟に熱をあげ、深酒をするようになり、その政治はしだいに放漫なものとなっていた。キタンはもともと、女真族の住む東北地方の経営には必ずしも積極的ではなかったが、毎年、狩猟に用いるための松花江下流域に使臣を派遣しており、この使者たちの横暴なふるまいは女真の人びとを怒らせた。使臣たちは海東青を求める名目でジュシェンの人びとに黄金を献上させ、またジュシェンの婦人たちに暴行を加えることもしばしばあったという。",
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"text": "完顔氏より出た劾里鉢(ヘリンボ)には烏雅束(ウヤス)、阿骨打(アクダ)、呉乞買(ウキマイ)らの子があった。ヘリンボ死後、首長権は頗剌淑(中国語版)(ポラシェ)、盈歌(インコ)、烏雅束(ウヤス)と移り、ウヤスは生女真諸部を統合した。ウヤスが死去してのちは、弟の阿骨打(アクダ)が首長の地位を継承し、節度使の称号を得ていた。",
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"text": "約200年におよび遼の圧政下にあった女真人であったが、完顔阿骨打は1113年、熟女真を臣伏させて遼に対して反乱を起こし、1114年の寧江の戦いで勝利して勢力を伸ばした。1115年には遼から独立して按出虎(アルチュフ)水の河畔で即位し、「大金」を国号とし、「収国」の元号を定めた。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。『金史』(1345年成立)によれば、アクダは、遼に対する対抗心をあらわにしている。",
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"text": "アクダの軍が、キタンの熟女真支配の拠点に遠征し、アクダ軍の大勝利に終わった。1116年、アクダ率いるジュシェン軍は、東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)も陥落させて遼東地方を支配下に収めた。遼の権威は地に墜ちた。一方、アクダの快進撃の報に接した宋王朝も金王朝に接近し、1118年、宋と金で遼を挟み撃ちにすることをもちかけた。",
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"text": "キタンとの講和交渉が進まないなか、金は宋の提案に乗ることとし、1120年に北宋との間で「海上の盟」と称される盟約を結んだ。条件は、従来キタン国家の遼に支払ってきた歳幣(絹30万匹、銀20万両)をジュシェン国家の金にまわすこと、金は戦闘において万里の長城よりも南に越えないこと、金・宋同盟が成ったのちは金・遼講和を進めないことの3つであった。さらに宋側から追加された条件は燕雲十六州に関してであった。それは、燕京(現在の北京市)については宋が攻めるが、雲州(西京。現在の山西省大同市)の攻撃は金が担当すること、ただし、占領後は宋に引き渡してほしいというものであった。アクダは、あまりに身勝手な宋の申し出に反駁し、宋もそれに答えられない状況が続いたが、結局は約束通り、雲州を制圧して天祚帝耶律阿果を陰山山脈方面に敗走させた。一方の宋は南方で方臘の乱が起こったため、燕京攻撃のために用意した軍の一部をこれに派した。しかも宋は、キタン最後の砦としてのこした耶律淳らの守る守備軍に敗北を喫したため、当初提示した条件を自ら破って金に援軍を要請した。結局、金が燕京を落として宋に割譲し、代償として大量の銭と糧食を得ることとなった。しかし、宋朝は歳幣を支払わない。なお、『金史』によれば、この間、太祖アクダは同族の完顔希尹(中国語版)や完顔葉魯らにジュシェン語をあらわす文字の創成を命じ、彼らは1119年(天輔3年)8月、契丹文字や漢字を参考にして女真文字(「女真大字」)を完成させたという。",
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"text": "阿骨打(アクダ)は1123年に死去するが、弟の太宗呉乞買(ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した。降伏した天祚帝はジュシェン民族の聖なる山、長白山(朝鮮名、白頭山)の麓に送られた。太宗ウキマイは1125年9月、宋への侵攻を開始し、アクダの子の斡離不(オリブ、完顔宗望)は河北方面から、撒改の子の粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)は山西方面から宋に侵入して華北一帯を席巻、1126年正月には宋の首都の開封を包囲した。宋朝廷では和戦両様で方針の定まらない状態が続き、結果としては金は莫大な賠償を獲得して和議を結び、金は北方に引き揚げた。宋では徽宗がおびえて退位し、子の欽宗が新たに即位した。しかし、金軍が撤退すると宋は再び背信し、雲州方面に金への反抗を命ずるなど攪乱を画策して和約を破ったので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させて占領し、欽宗を北方に連行して北宋を滅ぼした。このたびは、ウキマイの宋を廃する決意が固く、宋に対して天文学的な軍事賠償を要求し、また上皇・皇帝を人質として差し出すことを命じ、賠償が十分に払われないとみるや兵に開封の略奪を命じた。北宋滅亡に至る、1125年9月から1127年3月までの一連の事件を靖康の変と称する。靖康の変では、欽宗のみならず上皇となっていた徽宗、および多くの皇族や官僚、妃や公主たちを含め3,000人を連行し、燕京やジュシェンの故郷である東北部に連れ去った。",
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"text": "破竹の勢いの金の強さは、時の勢いもおおいに手伝っているが、後述する勃極烈(ボギレ)制や猛安・謀克(ミンガン・ムクン)制によるところも大きかった。しかし、北宋を滅ぼした金の中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点を示し、統治の面でも慣れない漢民族支配に自信が持てない状況にあった。そこで太宗ウキマイが採った方法は、過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にすることであった。ウキマイは1127年3月、宋の宰相であった張邦昌を皇帝にすえ、国号を楚とさせて、名目上の首都を金陵(現在の南京)とした。しかし張邦昌は、その4月、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の康王(趙構)を皇帝位につける運動を主導した。南に逃れた康王は、江南の北宋残存勢力を糾合して南京応天府(河南省商丘市)で高宗として皇帝に即位し、宋王朝を復活させた。金は南宋懲罰軍による再度の南征を開始し(宋金戦争)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦い、明州(寧波)まで南宋皇帝を追跡して引き揚げた。",
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"text": "1130年、金の左副元帥であったネメガは南宋の力を弱めるため、河南、山東以南の地に宋の済南府知府(地方知事)であった劉豫を皇帝に立て、開封を都として斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。一方、金は徽宗や欽宗を黒竜江省依蘭県まで移送し、宋人の反抗・奪還の芽をつぶした。斉国は金の傀儡政権として南宋に対峙していたが、1137年には廃された。",
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"text": "金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、和約が金に不利な内容だったため、1142年にあらためて両国の間で結ばれた(紹興の和議)。この和約は、両国は大散関(中国語版)(陝西省)と淮河を結ぶ線を以て国の境とし、宋は金に対して臣下の礼をとり、歳貢として銀25万両、絹25万匹を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。金は、四海の君としての名義を得た。ただ、金が支配する華北の地は、ジュシェン(女真)人が大量に移住したとはいえ、なおも圧倒的に漢人が多く住む世界であった。",
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"text": "1135年に第3代皇帝となった熙宗合剌(ホラ)の時代から、金はしだいにジュシェンの独自性は失われ、中華の風にそまっていった。漢地を直接支配することになった金朝が中国式国家体制を採用したのは、それが便利だったためであったが、しかし、中国式の独裁体制を布くにはジュシェンの上層部にあっては皇族の力が強大にすぎた。熙宗は、宗室最有力者のネメガを兵権から切り離し、斉国を廃止した。官僚制度は三省を中核にして整備され、皇帝の尊厳を高める擬制や禁衛の組織が整備され、皇統制条が発布された。猛安・謀克の制度は女真人のみに限定して強化し、かれらを華北に移住させた。華北の漢人たちは州県制のもとで一元的に支配した。",
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"text": "熙宗は治世の中頃から精神を病み、皇族を弾圧して大量の殺戮をあえておこない、自らの求心力を高めようとしたが、その結果、人心は不安定さを増し、熙宗自身も人望を失った。1149年、熙宗の従弟にあたる迪古乃(テクナイ)は宗室の者とはかり、皇帝を殺害して帝位を簒奪し、海陵王となった。海陵王は、宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、また、1153年には、都を会寧から燕京(中都大興府)に遷都して中華風の国家に改造した。身内を信じられなくなった海陵王はさかんに漢人官僚を登用した。それまで北選(遼制)・南選(宋制)に分けてきた科挙も一本化された。",
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"text": "海陵王はまた、財政を顧みず中都の造成に傾注した。『金史』は、そのさまを以下のように記している。",
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"text": "宮殿の造営には、1本の木を運ぶのに2000万を費やし、一車を引くのに500人を使った。宮殿のかざりはすべて黄金をはりめぐらし、ために一殿の費用は億万をもって計え、しかもできあがってもこわし、ひたすら華麗をきわめようとした。",
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"text": "金の中都は、遼の南京析津府を基として、その規模を拡大させたもので、『大金国志』によれば、都城の周囲は75里で、城門は12におよび、各辺に3門ずつを開き、内部の宮殿の数は36、楼閣はこの倍あるという。明代の謝肇淛は、「遼、金および元は、みな燕山(北京)に都したが、制度文物は金が最も盛んであった。今、禁中の梳粧台、瓊花島、それに小海、南海などは、みな金の物である」と述べている。",
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"text": "1161年、海陵王はこの時代の征服者として初めて中国(天下)の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。海陵王は皇族や重臣たちの忠告も無視し、20年来の平和条約をも破って南征軍を組織し、従来のような陸上部隊だけではなく軍艦を建造して海軍を創設し、一方は山東半島から杭州の横を突き、他方は運河を利用して江蘇方面に南下しようという戦略を立てた。金軍は60万と号する大軍を組織し、初めは優勢であったが、慣れない水戦に苦戦し、宋軍が火砲を用いた采石磯の戦いでは手痛い敗北を喫している。その間、各地で契丹の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても宋征服に固執したが、海陵王の恐怖政治をきらったジュシェンの有力者たちが東京(遼陽府)にいた皇族で彼の従弟にあたる烏禄(ウル)を擁立し、人々は雪崩を打ってウルに味方した。ウルが金の皇帝世宗として東京遼陽府で即位し、海陵王は軍中で部下に殺害された。なお、海陵王の南宋攻略に際しては戦費調達のために交鈔が初めて紙幣として発行された。",
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"text": "世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年に乾道の和約(中国語版)を結んだ。その内容は、従来の君臣関係を叔姪関係へと緩和し、歳貢を歳幣と呼び換え、25万両ずつの銀・絹をそれぞれ20万両に減額するというものであった。その一方でキタン人の反乱を速やかに収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大きく損なわれた財政の再建をめざし、増税をおこない官吏を削減した。南宋でも、同じ時期、名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれ、金朝にあっては繁栄と安定の時代をむかえたといわれる。",
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"text": "平和が長引き、女真(ジュシェン)の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(キタン族を含む)との割合は当初は1:6程度、漢人の人口増でそれが1割弱にまで拡大したので、女真の軍事力の弱体化が問題となってきた。世宗もまた1162年に燕京を都を定めたが、ジュシェンの民は中華の華美な風俗に染まり、固有の文化を忘れ、漢化の進行はいっそう顕著になっていった。また、京師や地方に女真文字・女真語を用いた学校をつくり、1171年には女真進士科をつくって女真語による科挙もおこない、女真人が女真人を教育する仕組みをつくりあげた。さらに、四書五経などの漢文献の女真文字への翻訳事業も行った。",
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"text": "女真人・女真文化保護のための諸政策が展開されたにもかかわらず、かれらの経済的な没落は著しかった。ジュシェン人貧窮化の原因としては、海陵王時代の外征の徴発、猛安・謀克戸間相互の階層分化、給与された農地の土地生産性の低さなどが挙げられる。ジュシェン人は華北移住の初期には相応の田畑をあたえられたが、彼らのなかには、その土地を漢族農民に小作させ、小作料に依存して徒食することが多くなり、宴楽にふけって貧窮化し、最終的に農奴に成り下がる者もあった。また、農耕技術はもとより商業・交易においては漢人の才覚がすぐれ、人口も多かったので、ジュシェンの固有性を維持していくことは難しかった。金の税制の基本は北宋のそれを踏襲して両税法であったが、世宗は財政難を克服するため、「物力銭」という一種の財産税を設け、「通検推排」と称する財産調査を行って猛安・謀克戸を除く全戸に課税した。これは財政再建には大きな役割を果たす一方、不満も多かった。また、旧来の官有地を漢人が私有地のように用いている土地、税を負担していない土地、富裕な女真人が不当に所有している広大な土地などを没収し、貧しい女真人に分与しようとした。しかし、この再分配政策は、漢人からは先祖伝来の土地が奪われたと受け止められて、かえって女真人・漢人の間に軋轢を生み、その効果も薄かった。",
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"text": "世宗の時代は後世「大定の治(中国語版)」と称され、彼自身は「小堯舜」と称えられた。しかし、一方では、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったという指摘もある。",
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"text": "世宗の皇太孫であった麻達葛(マダガ)が第6代章宗として即位した1189年頃から、モンゴル民族の北からの侵入が活発化しはじめた。章宗は、即位のときの曲折を遺恨に感じ、自身の権力を脅かしそうな皇族を粛清した。文化面では、章宗自身が北宋の徽宗のような金朝随一の文人皇帝で、絵画・書の作品を残した。章宗は豪奢な生活を好み、官吏の数も世宗時代の3倍に増やした。一方、もともと金の北方防衛を任されていたはずのキタン人、テュルク人、タングート人、モンゴル人などが金の統制を離れはじめ、その防禦のために金の財政は圧迫されるようになった。章宗は10年にわたって「界壕(中国語版)」と称される土塁をチチハルの北からフフホトの北まで延々と築いたが、これは北方遊牧民に脅威をいだいて草原に造られた新たな長城であり、もはや、心理的には従来の漢族王朝と変わるところがなかった。「界壕」建設に加え、1194年には黄河の大決壊が生じ、金はいっそう経済的苦境に立たされた。モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタル部やキタンの反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトのトオリルやモンゴルのテムジンの助けを借りた。",
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"text": "章宗は、皇統制条を改めて泰和律令を定め、礼制・法典・格式をはじめとして科挙・官制などの体制整備や常平倉の設置などの改革を行って中国王朝としての姿を完成させた。この時期の金朝の政治を「明昌の治」と称することもある。また、海陵王時代以来発行してきた交鈔は世宗時代には順調に流通していたが、ここにおいて財政の窮乏を切り抜けるために大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、それではインフレーションを招いて交鈔の信用失墜を招きかねないので、章宗は当時定められていた通用期限を撤廃し、いつでも通用することで信用のある紙幣にしようとした。しかし、発行額の増大は交鈔流通の停滞と銀の貨幣使用が広がるという結果をもたらした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "金の疲弊に乗じようと考えた南宋の宰相韓侂冑は、これを好機として1205年に戦端を開き、金に攻め込んだが逆に撃退され、金は国境線である淮河を越えて長江のラインにまで迫る勢いを示した。予想外の展開に南宋政府はあわて、財政難だったのは南宋も同じであったところから、金と南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ(開禧用兵)。和約では、1142年の国境線にもどり、金・宋の関係が叔姪の関係から伯姪の関係となり、宋から金への歳幣は1142年の取り決めより銀・絹5万ずつ増額された。一方、ウルジャ河の戦いでケレイトやモンゴルと連合したことは、結果的に彼らの勢力を伸張させることとなり、モンゴルでのテムジンの高原統一を間接的に促す結果となった。1206年、テムジンはチンギス・カンと称し、モンゴル帝国が成立した。",
"title": "歴史"
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"text": "1208年、「風流天子」にして恐怖の専制君主であった章宗が41歳の若さで急逝した。猜疑心の強い章宗が心を許したのが叔父にあたる果繩(ガジェン)であった。章宗は、金帝国をまとめるカリスマ性を有していたが、章宗がガジェンを好んだのは、その暗愚さゆえともいわれている。結局、ガジェンが7代衛紹王として即位すると、チンギス・カンは彼に対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した(第一次蒙金戦争)。衛紹王の治世においては、中央権力の空洞化が進んでいて、これに対応することができなかった。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は野狐嶺の戦いで金の大軍を破って長城を突破し、河北・山東をも攻略して、2年あまりにわたって金の国土を蹂躙した。1212年には遼の皇統を継ぐキタン人の耶律留哥が、自ら「遼王」と称して反乱を起こし、現在の吉林省から遼寧省にかけて支配地を広げ、モンゴルの配下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では、1213年に首都の中都でクーデターが起こって女真人の将軍の胡沙虎(クシャク)によって衛紹王が殺され、胡沙虎は章宗の庶兄であった吾睹補(ウトゥプ)を立てて権力を握ったが、胡沙虎自身は2カ月後、別の女真人の武将の高琪により殺された。",
"title": "歴史"
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"text": "ウトゥプが8代皇帝宣宗として即位すると、徒単鎰らはこれを補佐し、主戦派が力を失ったのち、1213年、モンゴルに対する和議に踏み切った。ここでは、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、一族の福興(フシン)の建言を受け入れて岐国公主(衛紹王の皇女)をチンギス・カンに嫁がせた。講和によりチンギスは撤兵したが、1214年、金は中都(燕京)を捨て、北宋の旧都である河南の開封に突如、遷都を決めた。このとき、金の南遷に動揺したキタンの一部が燕京で反乱してモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を誠実さを欠くものと受け止め、和約違反と責めて金に対する侵攻を再開した。将来を嘱望されていた徒単鎰は、中都に踏みとどまるのが上策、満洲の故地に退くのが中策、開封に逃れるのは下策であると論じて、宣宗の開封遷都を諫めたが、受け入れられず遷都宣言の3日前に没している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都の戦いで燕京が陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。チンギス・カンは、金朝に対してこのとき和平条件として「帝号」を放棄するよう要求している。黄河の南、開封を本拠にした金は河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止めることができなかった。また、防戦のために多額の軍事費を必要としたため、人民の負担は増し、各地で反乱が絶えなかった。100万におよぶ猛安謀克軍が河北から河南に移ったものの、河南にはそれを養う余力がなく、漢人はジュシェン人による搾取を深く恨んだ。同じ1215年、満洲では耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していたジュシェンの蒲鮮万奴が独立して大真国(東夏国)を建て、遼東半島の一部から吉林省、咸鏡道、沿海州南部までを支配するようになった。これにより、金の帝室は満洲に逃れることもできなくなってしまった。宣宗は高汝礪のような有能な家臣に恵まれたが、時の勢いをはね返すことはできなかった。1217年、宋は金に戦端をひらいた。1224年には戦闘もいったん収束し、講和にいたった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "宣宗の子の寧甲速(ニンキャス)が1224年、皇位を継承した(9代哀宗)。哀帝は、タングート西夏との同盟に活路を見いだそうとしたが、正大4年(1227年)に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。金の窮状をみてとった宋は歳幣を送ることを停止し、復讐の姿勢を示すようになり、金は南北から脅威を受けるようになった。1227年にチンギス・カンの後を継いだオゴデイは南宋と連合して金を挟撃することを提案した。モンゴルは成功のあかつきには、南宋に河南の地をあたえることを約束した。宋朝では、モンゴルと結ぶことについて一部の反対論があったものの、結局この提案に乗り、共同作戦が始まった(第二次蒙金戦争)。こうしたなか、陳和尚はモンゴル支配を避けて金に亡命してきた多民族からなる亡命者を「忠孝軍」と名付け、寡兵をもってしばしばモンゴル軍に勝利し禦侮中郎将にまで昇進した。",
"title": "歴史"
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"text": "1232年、トルイの軍が漢水を渡って河南に入ってきた情報に、黄河の南に大軍勢を配置していた金の政府は驚愕した。すぐさま、猛安謀克軍に南方への転戦が命じられた。開封南郊の平原でトルイの軍と金軍主力が激突した。強行軍で疲弊していたトルイは三峰山麓に陣を張り、馬をおり、塹壕を掘って猛烈な寒波から身を守った。蒙金ともに余力はなかったが、雪中移動や厳冬期の用兵に慣れたモンゴル軍に一日の長があった。この三峰山の戦いで金は大敗を喫して金軍主力は壊滅、完顔合達は戦死、敗軍の将となった陳和尚は自らモンゴルの陣営に赴いて処刑された。以後は抵抗もままならず、1234年には開封攻囲戦により、首都が陥落した。哀宗は開封から脱出して帰徳に逃げ、さらに淮河上流の蔡州へと逃れるところを、モンゴル・南宋の連合軍に挟撃され、みずから首をくくって死んだ。哀宗に後続を託されていた遠縁の呼敦(ホトン、金の末帝)も即位してわずか半日後にモンゴル軍によって殺害され、ここに金は滅亡した。",
"title": "歴史"
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"text": "モンゴル帝国によって滅ぼされた金の遺民、とりわけジュシェンの人びとがその後どうなったかについて、文献資料は多くを語らないが、幸運にも生き残った人びとは故郷のマンチュリア(中国東北部)に帰ったものと推測される。そして、古くからの住民と新しい住民も含め、東北部に住むジュシェン人はやがて元の遼陽等処行中書省という行政区画に編入されてモンゴル人の支配を受けるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、17世紀になって女真族・ジュシェン人は愛新覚羅(アイシンギョロ)氏出身のヌルハチが「金」を名乗る王朝を興したが、これは「後金」と呼ばれて区別される。後金は、1636年にホンタイジによって「清」と改称され、大帝国を築いた。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたって同じ民族が歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "完顔(ワンヤン)氏の祖先の世系を記した書は『金史』「世紀」であり、その巻頭には始祖以来太祖アクダがある。うち、始祖以下昭祖に至る5代については、その事績は歴史的事実とは考えられず、多分に空想的で、その実在も疑問視される。6代景祖の事績も史実とするにはあやしい部分もあるが、このころから完顔氏が有力な勢力になり始めたとみられる。7代世祖劾里鉢(ヘリンボ)、8代粛宗頗剌淑(中国語版)(ポラシェ)の時期には、完顔氏の勢力は松花江流域や牡丹江上流地方にまで勢力を拡大したと考えられる。9代穆宗の盈歌(インコ)は豆満江上流域に自ら遠征し、綏芬河やハンカ湖地方にも遠征軍を送っていて、完顔氏の支配圏は満洲東部の全域におよぶようになった。このため遼の朝廷は盈歌に「生女直節度使」の職を与えた。10代康宗の烏雅束(ウヤス)は節度使の職を継いで完顔氏の首長となり、朝鮮半島北東部の咸鏡道方面にまで勢力を伸ばし、その支配地はかつての渤海国のそれに匹敵するようになった。金を建国したアクダは、このウヤスの弟である。",
"title": "金の皇帝"
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"text": "順に廟号または諡号(廃帝は王号)、女真名、中国名、在位年、続柄を示す。",
"title": "金の皇帝"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "太字は皇帝、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。",
"title": "金の皇帝"
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"text": "王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた。金には建国以前から勃極烈(ボギレ)と呼ばれる君長層がおり、阿骨打は皇帝に即位する以前、その君長の筆頭として都勃極烈(トボギレ)を称していた。ボギレは、このように一応のランク分けがなされていたが、あくまでも法制上のことであり、現実には大きな身分的隔たりをともなうものではなく、全体であった。6名のうち国論忽魯(グルンフル)ボギレの撒改はアクダと国家を二分し、その一半を担うほどの豪族であった。ボギレの職掌や数には変動もあった。ボギレは主に皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、国政の定める議事は全ボギレ各員の合議制によって金の政治を決定される慣行だったので、皇帝が独裁権をふるう余地は少なかった。",
"title": "政治"
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"text": "太宗ウキマイの1126年に新たな占領地となった華北の一部で中華式の三省制(中書省、門下省、尚書省)が導入されたがボギレ制も依然のこっていた。こうしてウキマイの時代には、女真人統治にはボギレ制、漢人統治には三省制の二重体制がしかれた。熙宗が即位した1135年にはボギレ制が廃され、全面的に三省制に切り替わった。宰相格であった領三省事にはそれまでボギレであった宗室の一族や有力者が任命された。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されたが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたため、これに反発する形でなされたという側面がある。",
"title": "政治"
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"text": "一般の女真人は猛安(ミンガン)と謀克(ムクン)の二段階の組織構造をもった集団に編成された。猛安・謀克は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした。太祖アクダは即位前、女真の旧慣にしたがって300戸を1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)とした。ムクンとは女真語で「族」「郷里」の意味であり、そのリーダーもムクン(族長、里長)と称し、ミンガンは「千」の意味で、そのリーダーもミンガン(千戸長)と称した。軍事組織としてこれをみれば、300家族から武器・食糧をみずから携帯した100人の兵がムクン軍として徴兵され、さらにその10倍の組織から千人隊が組織される。これが同時に新しい行政組織となった。ここに編入されたジュシェン人たちは、戦闘のないときには、狩猟や牧畜、農耕といった日常的な生業を営んでいる。これは、徴兵の面でも地域支配の上でも効率的な仕組みであった。金が成立すると、各地のジュシェン人たちが金に帰属したが、アクダはその首長を、勢力の大小にしたがいミンガンやムクンに任命した。アクダの統治は万事おおまかであり、劉邦時代の漢に似ているといわれる。しかし、この組織は単なる氏族集団の寄せ集めではなかったので、ジュシェン人が遼を倒し、さらに華北へ進出する際の基盤となった。金が華北を占領するとジュシェン人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安(ミンガン)は氏族単位から地方単位に再編成された。猛安・謀克制は、華北進出前のジュシェン人、キタン人、渤海人、漢人にも適用された。",
"title": "政治"
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"text": "ジュシェン進出後の漢地では都市を把握し、定着農耕民の土地を掌握する観点から中華風の州県制が採用され、猛安・謀克制から変わっていった。世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると、ジュシェン人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。また、漢人に取り囲まれて居住しているため文化面での漢化が進み、ジュシェン人の組織力はゆるんでいった。",
"title": "政治"
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"text": "金は遼の複都制(五京制)を継承した。1138年(天眷元年)、会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨潢府」を「北京臨潢府」に改称、北宋の首都であった開封を「汴京開封府」として、七京とした。 1150年(天徳2年)、臨潢府から京号を除いた。1153年(天徳5年)、会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、「南京析津府」を「中都大興府」に改称した。これにともない、「中京大定府」を「北京大定府」に改称、また、「汴京開封府」を「南京開封府」に改称して五京とした。1173年(大定13年)、会寧府を再び「上京会寧府」に戻し、以降、滅亡まで六京制を採用した。",
"title": "政治"
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"text": "金では当初10、最終的には19の路に分け、その下に府(州)、その下に県を置いた。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "ジュシェン人の言語女真語は、アルタイ語系のツングース・満洲語のひとつである。12世紀に金が建国され、中国内地北部に進出したのにともない、分布が拡大した。金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は明代まで引き続き話された。その言語は、満洲語と姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "ジュシェン(女真)は、ツングース系の人びとのなかでは最も早く文字を作成した民族であるが、そこではキタン人(モンゴル系)の契丹文字からの刺激をおおいに受けている。契丹文字は、残っている資料の絶対量が圧倒的に少なく、他文字・他言語との対訳という手がかりにも乏しいため、いまだ充分な解読には至っていない。契丹大字が漢字と同じ表意文字、契丹小字が表音文字であることは判明しており、女真文字の創成にも影響をあたえた。また、金朝においてもキタン人と漢人の翻訳官が採用されており、女真文字は契丹文字と漢字とに翻訳されていた。1191年、世宗の国粋主義的政策のなかで、公文書における契丹文字の使用が廃止された。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "当初、文字を持たなかったジュシェン人であったが、金朝創始者のアクダの時代にはキタン、宋それぞれが新興ジュシェンとさかんに交渉をおこなっており、キタンとの交渉に際しては文書を契丹文字に直していた。ジュシェンの人びと、ことに熟女真と称されていた人びとはまず契丹文字を習い知っていたのである。こうした情勢のなかで、アクダは契丹文字・漢字に通じていた同族の希尹と葉魯に女真大字をつくらせ、1119年8月に完成させた。3代熙宗の1138年、女真小字が創案され、1145年からは大字とならんで使用された。大小の文字の違いは充分に説明されていないが、女真大字は漢字をなぞった表意文字、小字は音節をあらわす表音文字であり、表意文字だけで書く方法があった。小字の使用法は日本語表記における仮名文字に似ている。金石文の発見や辞書『華夷訳語』に収録された「女真館訳語」における対訳単語集・文例集によって漢字と同様、進んだ。13世紀に入り、モンゴル軍が華北に侵攻した。金の滅亡後の華北には契丹文字・女真文字を使う人はいなくなったが満洲・朝鮮の地域では廃絶されていなかった。1407年に設置された女真館があったが、1445年にはモンゴル文字に切り替わり、以後は女真人による女真文字はまったく使われなくなった。",
"title": "文化"
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{
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"text": "文学では、宋代に発生した雑劇を継承し、元曲の祖形となった「院本」や「諸宮調」と呼ばれる一種の古典劇がつくられた。代表的なものとして、金朝に仕えた董解元(中国語版)による語りもの文学『西廂記諸宮調』がある。元曲の『西廂記』と区別するため、作者の名をとって通常『董西廂』と称される。",
"title": "文化"
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"text": "詩人では金朝の地方官を歴任した元好問が有名で、金朝滅亡時の悲憤慷慨の詞は「喪乱詩」として著名である。その詩風は陶淵明、杜甫、蘇軾、黄庭堅、とりわけ杜甫の詩に学び、重厚と評される金代随一の詩人であった。元好問の著『中州集』は金代文学の粋を集めたものとして高く評価される。また、金史の撰述を企図して各地を歴遊した。各地から収集した史料は未完に終わったが、元代末葉に編纂されたのは大きいとされる。",
"title": "文化"
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"text": "詩人として他に、熊岳(現、遼寧省蓋州市)出身の王庭筠がおり、七言の長編を得意とした。王庭筠は漢民族ではなく、渤海人ともいわれる。",
"title": "文化"
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"text": "中国の歴代王朝によって保護されてきた道教は、しだいに宗教的な清純さを失って迷信的要素が色濃くなり、腐敗も進んだ。金代にこうした道教に革新の気風を呼び起こしたのが王重陽であった。彼は華北が金に占領された12世紀中葉、山東省において、厳しい修行生活を唱えて新道教を開いた。これが全真教であり、第二祖の馬丹陽(中国語版)が教団組織を固めた。ただし、この流れは宋代からの三教融合の傾向を引き継いだものでもあった。当時まだ若かった邱処機(長春真人)が教主になると全真教はいっそう発展し、江南の正一教と道教界を二分する勢力となった。",
"title": "文化"
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"text": "金代の代表的な建築としては仏教に帰依した熙宗が皇統3年(1143年)に造営を命じた朔県(現、山西省朔州市)の崇福寺弥陀堂が有名であり、中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。山西省大同市の善化寺は遼代から金代にかけて建造された建物を含んでいるが、そのうち、三聖殿は普賢閣や大雄宝殿とは細部の手法が明らかに異なり、天会6年(1128年)以降の建造と考えられる。同じ大同の上華厳寺は遼代に創建されたものの、その後の兵火で焼失し、金の天眷3年(1140年)に再建された。この寺の建物の多くは再び被災したが、大雄宝殿は金代建築の名残をとどめている。「中国十大名寺」の1つと称される河北省正定県の隆興寺(中国語版)の伽藍もまた、金代に整えられた。北京市の広安門外に位置する天寧寺(中国語版)の塔は、12世紀前葉のものと考えられ、類例は中国東北部に多くみられる。似た形式では1175年建造の河南省洛陽市の白馬寺の塔がある。臨済禅発祥の寺として知られる河北省正定県の臨済寺では、世宗が1183年に澄霊塔および寺院伽藍の修復を命じており、現存する澄霊塔には、遼・金代の典型的な様式がみられる。",
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"text": "それ以外で著名なものに、",
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"text": "などがある。",
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"text": "陶磁器の生産については、鈞窯の濃い赤紫色の澱青釉や紫紅釉と呼ばれる釉薬のかけられた瓶子や盤の優品が作られた。河北省曲陽県にあった定窯の白磁も引き続き生産され、優れたものが多く見られる。北宋後期から金代にかけては型押しで施文した印花装飾がおこなわれた。定窯白磁は華北の磁器生産に大きな影響をあたえ、中原から東北・内蒙古にかけて数多くの模倣を生み出した。また、最大の民窯であった磁州窯で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られたのも金代のことといわれる。磁州窯系では、とりわけ陶枕において絵画的意匠がさかんに取り入れられている。",
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"text": "書画では、金皇帝の章宗が文人として傑出した存在であり、北宋の徽宗風の痩金体による書を能くした。作品に「伝顧愷之女史箴図鑑」の女史箴がある。章宗は、党懐英、王庭筠、趙秉文(中国語版)などの文人を重用して文化振興に努めた。王庭筠は詩文書画を能くし、その才能を愛した章宗によって翰林修撰に取り立てられ、宮中の書画の品評にもあたった。",
"title": "文化"
}
] |
金は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝。 国姓は完顔氏。12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の遼、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングートの西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。
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{{Redirect|金王朝|}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = 金
|日本語国名 = 金
|公式国名 ={{lang|lzh|大金}}<br>[[ファイル:Amba-an Ancu-un.svg|65px]]
|建国時期 = [[1115年]]
|亡国時期 = [[1234年]]
|先代1 = 遼
|先旗1 = blank.png
|先代2 = 北宋
|先旗2 = blank.png
|先代3 = 斉 (劉予)
|先旗3 = blank.png
|次代1 = モンゴル帝国
|次旗1 = blank.png
|次代2 = 南宋
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|次代3 = 東遼
|次旗3 = blank.png
|次代4 = 大真国
|次旗4 = blank.png
|位置画像 = 南宋疆域图(繁).png
|位置画像説明 =
|公用語 = [[女真語]]、[[中国語|漢語]]、[[契丹語]]
|首都 = [[上京会寧府|会寧]]([[1115年]] - [[1153年]])<br>[[北京市|燕京]]([[1153年]] - [[1215年]])<br>[[開封市|開封]]([[1215年]] - [[1234年]])
|元首等肩書 = [[金朝の君主一覧|皇帝]]
|元首等年代始1 = [[1115年]]
|元首等年代終1 = [[1123年]]
|元首等氏名1 = [[阿骨打|太祖]]
|元首等年代始2 = [[1234年]]
|元首等年代終2 = [[1234年]]
|元首等氏名2 = [[末帝 (金)|末帝]]
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
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|首相等氏名2 =
|面積測定時期1 = [[1126年]]
|面積値1 = 2,300,000
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|面積値2 =
|人口測定時期1 = [[1142年]]
|人口値1 = 32,700,000
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|変遷1 = 建国
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|変遷2 = [[遼]]を滅ぼす
|変遷年月日2 = [[1125年]]
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|変遷5 = [[モンゴル帝国]]によって[[蔡州の戦い|滅亡]]
|変遷年月日5 = [[1234年]][[2月9日]]
|通貨 = [[交鈔]]、[[銅貨]]、[[銀]]
|通貨追記 =
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|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{PRC}}<br>{{DPRK}}<br>{{RUS2}}{{Refnest|group="注釈"|[[沿海地方]]。}}<br>{{MNG}}
|注記 =
}}
{{満洲の歴史}}
{{中国の歴史}}
'''金'''(きん、[[拼音]]:Jīn、[[女真文字|女真語]]:[[File:Amba-an Ancu-un.svg|55px]] {{IPA|amba-an antʃu-un}}<ref>{{Harvnb|金啓孮|1984|p=224}}</ref>、[[1115年]] - [[1234年]])は、'''金朝'''(きんちょう)ともいい、[[12世紀]]前半から[[13世紀]]前葉まで[[満洲]]([[中国東北部]])から[[中国]]北半にかけての地域を支配した'''[[女真]]'''(ジュシェン)族の[[征服王朝]]<ref name="kotobank">{{kotobank|金(中国の王朝)}}</ref>。
[[国姓]]は'''[[完顔氏]]'''(ワンヤン し、女真語:[[File:Wo-on gia-an.png|55px]])<ref name="kotobank" />。[[12世紀]]に勃興し、[[契丹]](キタン)人王朝の[[遼]]、漢族王朝の[[北宋]]を滅ぼし、[[タングート]]の[[西夏]]を服属させ、中国南半の[[南宋]]と対峙したが、[[13世紀]]に[[モンゴル帝国]]に滅ぼされた。都は初め[[上京会寧府]](現在の[[中華人民共和国]][[黒竜江省]][[ハルビン市]])に置かれ、のち、[[1153年]]に燕京([[析津府|中都大興府]]。現在の[[北京市]])に遷り、13世紀に入って[[モンゴル帝国]]の攻勢を受けると、最終的には[[南京開封府]](現在の[[河南省]][[開封市]])を[[首都]]とした。
== 歴史 ==
=== 遼支配下の女真人 ===
{{see also|女真}}
金を建国する前の[[女真]](ジュシェン)は、[[満洲]](マンチュリア)の地域すなわち、現在の[[遼寧省]]、[[吉林省]]、[[黒竜江省|黒龍江省]]、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[沿海州]]([[外満洲]])という広い地域に住んでいた<ref name="kotobank" /><ref name="umemura415">[[#梅村|梅村(2008)pp.415-418]]</ref>。ジュシェンは[[ツングース系民族]]に属し、[[紀元前2世紀]]頃からの[[夫余]]、[[紀元前1世紀]]頃に[[濊貊|貊]]族によって建てられた[[高句麗]]、紀元後[[5世紀]]頃から一定の勢力を有していた [[勿吉]]や[[靺鞨]]、そして[[粟末靺鞨]]に高句麗遺民を加えて[[7世紀]]末葉に建国された「海東の盛国」[[渤海 (国)|渤海]]は、いずれもツングース系の集団とみられ、狩猟や牧畜を主な生業としながらも、比較的早い段階から農耕を取り入れていた<ref name="umemura415" /><ref name="kakkokushi206">[[#宮澤杉山|宮澤・杉山(1998)pp.206-210]]</ref>。
「女真」は本来、靺鞨五部のうちの「[[黒水部]]」と称された集団の一部族の自称であるといわれている<ref name="miyawaki62">[[#宮脇|宮脇(2018)pp.62-64]]</ref>。渤海国が926年に[[モンゴル系民族|モンゴル系]][[契丹]](キタン)人によって滅ぼされると、[[遼]]の太祖[[耶律阿保機]]の長男の[[耶律突欲]]は渤海国の領域を受け継いだ[[東丹国]]の王となったが、彼は父の太祖の死後故郷に戻り、東丹の官庁や人民を東平(現在の[[遼陽市]])に移したため、旧渤海領は支配者不在の状態となった<ref name="miyawaki62" />。そこで[[アムール川|黒竜江]](アムール川)の下流にいた黒水靺鞨の人びとが南下し、やがて各地に住み着いた<ref name="miyawaki62" />。遼の時代、女真人たちは[[松花江]]・[[豆満江]]流域、[[朝鮮半島]]北部の[[咸鏡南道]]・[[咸鏡北道]]方面に居住域を広げ、遼や[[高麗]]に朝貢し、「黒水女真」や「東女真」などと称されていた<ref name="joshin">{{kotobank|女真}}</ref>。女真人は、農耕・牧畜・狩猟・採集・[[漁撈]]などに従事し、中国内地との間で[[オタネニンジン|朝鮮人参]](オタネニンジン)や[[クロテン]]など獣の[[毛皮]]を交易していた<ref name="ishibashi64">[[#石橋|石橋(2000)pp.64-66]]</ref><ref name="matsumura145">[[#松村|松村(2006)pp.145-147]]</ref><ref name="kishimoto239">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.239-242]]</ref><ref name="saeki253">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.253-254]]</ref>。また、[[宋 (王朝)|宋]]の人びとが珍重した「北珠」と称する[[真珠]]の産地でもあった<ref name="saeki253" />。[[ウマ|馬]]や[[金]]の産地でもあって、これらの品は高麗や契丹とも交易されて、武器や軍事物資などを得た<ref name="kotobank" /><ref name="umemura415" /><ref name="saeki253" />。契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、女真族は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた'''生女真'''(生女直)と、遼にしたがっていた'''熟女真'''(係遼籍女真)に大別された<ref name="kotobank" /><ref name="umemura415" /><ref name="kakkokushi206" /><ref name="miyawaki62" /><ref name="joshin" /><ref name="saeki253" />。
生女真に属していた完顔(ワンヤン)氏は、現在の黒竜江省の[[松花江]](スンガリ川)の支流{{仮リンク|アシュ川|zh|阿什河}}(按出虎水)流域に生活し、キタン人国家の遼に服属していたが、キタン人支配者たちは奢侈的な生活にふけり、女真に対して過酷な搾取を行った<ref name="saeki251">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.251-253]]</ref>。遼は、南方の宋と交易するのみならず、[[ウイグル]]を通して[[西域]]とも交易し、西域の奢侈品を輸入していたが、遼の支配域にはこれといった産品がなく、宋から歳幣として[[銀]]と[[絹]]を受け取っていたものの、多くは宋の産品を購入するために消費されていた<ref name="saeki251" />。[[聖宗 (遼)|聖宗]]、[[興宗 (遼)|興宗]]、[[道宗 (遼)|道宗]]3代の黄金時代の後を受けたキタン最後の皇帝、[[天祚帝]]耶律阿果は、華美な中国の文物を愛好して狩猟に熱をあげ、深酒をするようになり、その政治はしだいに放漫なものとなっていた<ref name="kotobank" /><ref name="umemura415" />。キタンはもともと、女真族の住む東北地方の経営には必ずしも積極的ではなかったが、毎年、狩猟に用いるための松花江下流域に使臣を派遣しており、この使者たちの横暴なふるまいは女真の人びとを怒らせた<ref name="kotobank" /><ref name="umemura415" /><ref name="saeki251" /><ref name="kawachi230">[[#河内|河内(1989)pp.230-232]]</ref>。使臣たちは海東青を求める名目でジュシェンの人びとに黄金を献上させ、またジュシェンの婦人たちに暴行を加えることもしばしばあったという<ref name="saeki251" />{{refnest|group="注釈"|ジュシェンの黄金は、もともとキタン人の官吏や商人によって開発されたものではあった<ref name="saeki251" />。宋では比較的銀の価値が高かったが西域では金の価値が高かったので、遼では西域との交易には金を充当したと推定される<ref name="saeki251" />。}}。
完顔氏より出た[[劾里鉢]](ヘリンボ)には[[烏雅束]](ウヤス)、[[阿骨打]](アクダ)、[[呉乞買]](ウキマイ)らの子があった。ヘリンボ死後、首長権は{{仮リンク|頗剌淑|zh|完颜颇剌淑}}(ポラシェ)、[[完顔盈歌|盈歌]](インコ)、烏雅束(ウヤス)と移り、ウヤスは生女真諸部を統合した<ref name="kotobank" /><ref name="saeki254" /><ref name="kawachi228" />{{refnest|group="注釈"|ヘリンボの父の[[烏古廼]](ウクナイ)は長男の[[劾者]](ヘテェ)と次男のヘリンボを一緒に住まわせ、ヘテェが家政の一切を、ヘリンボには主として外事を担当させた。そのため、ヘテェの子の[[撒改]](サガイ)や孫の[[粘没喝]](ネメガ)はヘリンボの子孫であるアクダやウキマイと並んで一族内で大きな勢力をふるった<ref name="2kawachi44">[[#河内2|河内(1970)pp.44-48]]</ref>。}}。ウヤスが死去してのちは、弟の阿骨打(アクダ)が首長の地位を継承し、[[節度使]]の称号を得ていた<ref name="kotobank" /><ref name="saeki254" />。
=== 金の建国と華北進出 ===
{{see also|靖康の変}}
約200年におよび遼の圧政下にあった女真人であったが、完顔阿骨打は[[1113年]]、熟女真を臣伏させて遼に対して反乱を起こし、[[1114年]]の[[寧江区|寧江]]の戦いで勝利して勢力を伸ばした<ref name="kakkokushi206" />。[[1115年]]には遼から独立して按出虎(アルチュフ)水{{Refnest|group="注釈"|按出虎水の女真名アルチュフは、女真語で"黄金"を意味しており、「金(アルチュフ)」の国号は、女真族が按出虎水から産出する[[砂金]]の交易によって栄えたことによるとされる<ref name="umemura415" /><ref name="miyawaki62" /><ref name="kawachi230" /><ref name="saeki254" />。ジュシェンの富強の源泉となった物資は、砂金以外では[[鉄]]が考えられる<ref name="kawachi230" />。阿城区の南東約30キロメートル地点に金代とみられる製鉄遺跡が確認され、[[発掘調査]]も[[1960年代]]になされている<ref name="kawachi230" />。沿海州からも金代の製鉄遺跡が見つかっており、そこでは[[精錬]]や[[鍛造]]の技術をともなっており、[[工程]]に応じた地域間[[分業]]がある程度成立していたことも判明している<ref name="kawachi230" />。}}の河畔で即位し、「大金」を国号とし、「[[収国]]」の元号を定めた<ref name="kotobank" /><ref name="umemura415" /><ref name="kakkokushi206" /><ref name="miyawaki62" /><ref name="saeki254">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.254-256]]</ref><ref name="kawachi228">[[#河内|河内(1989)pp.228-230]]</ref>。最初の首都となった会寧([[上京会寧府]])は按出虎水の河畔にあり、現在の[[ハルビン市]][[阿城区]]にあたる<ref name="umemura415" />。『'''[[金史]]'''』([[1345年]]成立)によれば、アクダは、遼に対する対抗心をあらわにしている<ref name="umemura415" />。
アクダの軍が、キタンの熟女真支配の拠点に遠征し、アクダ軍の大勝利に終わった<ref name="saeki254" />。[[1116年]]、アクダ率いるジュシェン軍は、東京[[遼陽府]](現在の[[遼寧省]][[遼陽市]])も陥落させて遼東地方を支配下に収めた<ref name="umemura415" /><ref name="saeki254" />。遼の権威は地に墜ちた。一方、アクダの快進撃の報に接した宋王朝も金王朝に接近し、[[1118年]]、宋と金で遼を挟み撃ちにすることをもちかけた<ref name="umemura418">[[#梅村|梅村(2008)pp.418-420]]</ref>{{refnest|group="注釈"|当初馬政が使者として送られたこの交渉で暗躍したのが、宦官の[[童貫]]であった<ref name="saeki261">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.261-262]]</ref>。童貫は、徽宗の文人趣味に取り入って帝に重用され、軍事権を専断し<ref name="saeki261" />、方臘の乱鎮圧の任にもあたった<ref name="saeki263">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.263-264]]</ref>。なお、『[[水滸伝]]』で有名な[[宋江]]は童貫にしたがって方臘征討軍に加わり、いくらかの功績をなしたといわれている<ref name="saeki263" />。}}。
キタンとの講和交渉が進まないなか、金は宋の提案に乗ることとし、[[1120年]]に北宋との間で「[[海上の盟]]」と称される盟約を結んだ<ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura418" /><ref name="saeki256">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.256-257]]</ref>。条件は、従来キタン国家の遼に支払ってきた歳幣(絹30万匹、銀20万両)をジュシェン国家の金にまわすこと、金は戦闘において[[万里の長城]]よりも南に越えないこと、金・宋同盟が成ったのちは金・遼講和を進めないことの3つであった<ref name="umemura418" /><ref name="saeki256" />。さらに宋側から追加された条件は[[燕雲十六州]]に関してであった<ref name="umemura418" />。それは、燕京(現在の[[北京市]])については宋が攻めるが、雲州(西京。現在の[[山西省]][[大同市]])の攻撃は金が担当すること、ただし、占領後は宋に引き渡してほしいというものであった<ref name="umemura418" />。アクダは、あまりに身勝手な宋の申し出に反駁し、宋もそれに答えられない状況が続いたが、結局は約束通り、雲州を制圧して天祚帝耶律阿果を[[陰山山脈]]方面{{Refnest|group="注釈"|当時は[[西夏]]の領域。}}に敗走させた<ref name="umemura418" /><ref name="saeki256" />。一方の宋は南方で[[方臘の乱]]が起こったため、燕京攻撃のために用意した軍の一部をこれに派した<ref name="saeki257">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.257-259]]</ref>。しかも宋は、キタン最後の砦としてのこした[[耶律淳]]らの守る守備軍に敗北を喫したため、当初提示した条件を自ら破って金に援軍を要請した<ref name="umemura418" /><ref name="saeki257" />{{refnest|group="注釈"|耶律淳は、漢人官僚[[李処温]]らに推されて皇帝位についた([[北遼]])<ref name="saeki257" />。当時、耶律淳とともに燕京を守っていた遼の皇族に、太祖[[耶律阿保機]]の八世の孫と称する[[耶律大石]]がおり、彼は支配下にあった部族を率いて西走し、陰山の天祚帝のもとへ向かったが、天祚帝とも意見があわず、さらに西に向かい、[[中央アジア]]の東西[[トルキスタン]]に帝国を建国した<ref name="saeki277">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.277-279]]</ref>。これが[[西遼]](カラ・キタイ)であり、[[カラハン朝|東カラハン朝]]の首都の[[ベラサグン]]を占領して国都とした<ref name="saeki277" />。}}。結局、金が燕京を落として宋に割譲し、代償として大量の銭と糧食を得ることとなった<ref name="umemura418" />{{refnest|group="注釈"|燕京を陥落させたアクダに対し、部下が宋にあたえることなくずっと金が占領したらいかがかと進言すると、アクダは「燕京ほか六州はすでに返還を約束した。自分は男子であり、二言はない」と答えたという<ref name="saeki257" />。}}。しかし、宋朝は歳幣を支払わない。なお、『金史』によれば、この間、太祖アクダは同族の{{仮リンク|完顔希尹|zh|完顏希尹}}や完顔葉魯らにジュシェン語をあらわす文字の創成を命じ、彼らは[[1119年]]([[天輔 (金)|天輔]]3年)8月、[[契丹文字]]や[[漢字]]を参考にして[[女真文字]](「女真大字」)を完成させたという<ref name="umemura465">[[#梅村|梅村(2008)pp.465-469]]</ref>{{refnest|group="注釈"|「女真小字」の方は、[[1138年]]([[天眷]]元年)に第3代皇帝の熙宗ホラが制定し、[[1145年]]([[皇統 (金)|皇統]]5年)に公布したというが、大字小字ともに『金史』に具体的な文字の詳細は記述されていない<ref name="umemura465" />。}}。
阿骨打(アクダ)は[[1123年]]に死去するが、弟の太宗[[呉乞買]](ウキマイ)が後を継いで遼との戦いを続け、[[1125年]]に逃れていた皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]を支配した<ref name="kakkokushi206" /><ref name="miyawaki62" /><ref name="umemura418" /><ref name="saeki260">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.260-261]]</ref><ref name="kawachi232">[[#河内|河内(1989)pp.232-235]]</ref>{{refnest|group="注釈"|金はキタンの領域に加え、新たに華北も支配したが、遊牧民の世界であるモンゴル高原にまでは支配が及ばなかった。それゆえ、その支配が緩むと遊牧諸部族の主導権争いが発生し、これがやがてチンギス・カンの台頭につながったとみることができる<ref name="miyawaki62" />。}}。降伏した天祚帝はジュシェン民族の聖なる山、長白山(朝鮮名、[[白頭山]])の麓に送られた。太宗ウキマイは[[1125年]]9月、宋への侵攻を開始し、アクダの子の[[斡離不]](オリブ、完顔宗望)は河北方面から、[[撒改]]の子の[[粘没喝]](ネメガ、完顔宗翰)は山西方面から宋に侵入して華北一帯を席巻<ref name="kotobank" />、[[1126年]]正月には宋の首都の[[開封府|開封]]を包囲した<ref name="umemura418" /><ref name="kawachi232" /><ref name="saeki266">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.266-268]]</ref>{{refnest|group="注釈"|太宗ウキマイの時代も君主と臣下の身分的へだたりは緩かった<ref name="kawachi232" />。臣下が[[キジ]]を料理したからとウキマイに気軽に声をかけると彼も気軽に立ち寄ってキジを御馳走になり、ときに君臣一緒になって川遊びをするなど、中華ではみられない気さくさと親愛に裏打ちされた君臣関係がみられた<ref name="kawachi232" />。}}。宋朝廷では和戦両様で方針の定まらない状態が続き、結果としては金は莫大な賠償{{Refnest|group="注釈"|金500万両、銀5,000万両、牛馬1万頭、布帛100万匹。}}を獲得して和議を結び、金は北方に引き揚げた<ref name="saeki266" />{{refnest|group="注釈"|[[岳飛]]らの軍人は主戦論を展開し、知識階級もこれに同調した者が多かった<ref name="saeki268">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.268-270]]</ref>。宰相の[[秦檜]]らを代表とする講和派は、使者として北方に出向いたり、[[捕虜]]にされるなどしてジュシェン金の実力を知悉している現実主義者が多かった<ref name="saeki268" />。}}。宋では[[徽宗]]がおびえて退位し、子の[[欽宗]]が新たに即位した<ref name="saeki266" />。しかし、金軍が撤退すると宋は再び背信し、雲州方面に金への反抗を命ずるなど攪乱を画策して和約を破ったので、[[1127年]]に金軍は再び南下して開封を陥落させて占領し、欽宗を北方に連行して北宋を滅ぼした<ref name="miyawaki62" /><ref name="umemura418" /><ref name="kawachi232" /><ref name="saeki271">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.271-273]]</ref>。このたびは、ウキマイの宋を廃する決意が固く、宋に対して[[天文学]]的な軍事賠償を要求し、また上皇・皇帝を人質として差し出すことを命じ、賠償が十分に払われないとみるや兵に開封の略奪を命じた<ref name="umemura418" /><ref name="saeki271" />。北宋滅亡に至る、[[1125年]]9月から[[1127年]]3月までの一連の事件を[[靖康の変]]と称する<ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura418" /><ref name="saeki271" />。靖康の変では、欽宗のみならず上皇となっていた徽宗、および多くの皇族や官僚、[[妃]]や[[公主]]たちを含め3,000人を連行し、燕京やジュシェンの故郷である東北部に連れ去った<ref name="umemura418" /><ref name="kawachi232" /><ref name="saeki271" />{{refnest|group="注釈"|皇室の妃や公主たちは全員が金の[[後宮]]に送られるか、[[洗衣院]]と呼ばれる[[売春宿|売春施設]]に送られて[[娼婦]]にさせられたという<ref>{{Harvnb|靖康稗史箋證|p={{要ページ番号|date=2023年7月}}}}</ref>。}}。
<gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="初代アクダ・2代ウキマイ期 関連画像">
ファイル:金滅遼與北宋形勢圖.png|建国期の金とその進路
ファイル:Wanggiyan Aguda.jpg|金朝を建てたアクダ(阿骨打)
ファイル:Wanyan Aguda.jpg|金朝初代アクダの銅像(ハルビン市の{{仮リンク|金上京歴史博物館|zh|金上京历史博物馆}})
ファイル:Wanyan Wuqimai.jpg|金朝第2代皇帝[[呉乞買|ウキマイ]](呉乞買)の銅像(金上京歴史博物館)
ファイル:Ussuriysk-Stone-Tortoise-3815.jpg|[[ウスリースク]]の公園にある亀の形をした石([[亀趺]])。12世紀にこの地を支配した女真首長墓で、石碑が上にあった。
ファイル:Am ma ni ba mi xu.svg|[[女真文字]]による[[六字大明呪]]
</gallery>
=== 華北支配へ ===
{{see also|宋金戦争|紹興の和議}}
破竹の勢いの金の強さは、時の勢いもおおいに手伝っているが、後述する[[勃極烈]](ボギレ)制や[[猛安・謀克]](ミンガン・ムクン)制によるところも大きかった<ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura420">[[#梅村|梅村(2008)pp.420-423]]</ref>。しかし、北宋を滅ぼした金の中国への急速な拡大は{{疑問点範囲|金の軍事的な限界点を示し|date=2023年7月}}、統治の面でも慣れない漢民族支配に自信が持てない状況にあった{{refnest|group="注釈"|太宗ウキマイは、1126年、華北を支配するため三省を設けたが、ここで短時間ではあったがボギレ制と三省制度が共存した<ref name="kawachi232" />。}}。そこで太宗ウキマイが採った方法は、過度の負担を避けるため、華北に漢人による[[傀儡政権|傀儡国家]]を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にすることであった<ref name="umemura420" />。ウキマイは1127年3月、宋の[[宰相]]であった[[張邦昌]]を皇帝にすえ、国号を'''[[楚 (張邦昌)|楚]]'''とさせて、名目上の首都を金陵(現在の[[南京市|南京]])とした<ref name="umemura420" /><ref name="saeki280">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.280-281]]</ref>。しかし張邦昌は、その4月、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の康王(趙構){{Refnest|group="注釈"|康王は、徽宗の第九皇子で、靖康の変の際、開封にいなかったため皇族のなかで唯一難を逃れていた<ref name="umemura420" /><ref name="saeki281" />。}}を皇帝位につける運動を主導した<ref name="umemura420" /><ref name="saeki281">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.281-283]]</ref>。南に逃れた康王は、江南の北宋残存勢力を糾合して[[南京応天府 (北宋)|南京応天府]](河南省[[商丘市]])で[[高宗 (宋)|高宗]]として皇帝に即位し{{refnest|group="注釈"|康王はしかし、父も兄も生きている以上、皇帝として即位するわけにはいかないと当初は固辞し、張邦昌のやり方にも批判的であった<ref name="saeki281" />。張邦昌は、[[哲宗 (宋)|哲宗]]の皇后を廃されて尼僧となっていた孟氏([[元祐皇后]])を皇太后として[[垂簾聴政]]をおこない、群臣を集めた<ref name="kakkokushi206" /><ref name="saeki281" />。群臣は、こぞって康王に帝位に就くことを要請し、時勢ただならぬことを理解した康王が即位を了承した<ref name="saeki281" />。}}、宋王朝を復活させた<ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura420" /><ref name="saeki281" />{{Refnest|group="注釈"|これ以降の宋朝を[[南宋]]という<ref name="kakkokushi206" /><ref name="miyawaki62" />。}}。金は南宋懲罰軍による再度の南征を開始し([[宋金戦争]])、[[淮河]]の線まで南下して[[岳飛]]らが率いる義勇軍と戦い、明州([[寧波市|寧波]])まで南宋皇帝を追跡して引き揚げた。
[[1130年]]、金の左副元帥であったネメガは南宋の力を弱めるため、河南、山東以南の地に宋の済南府知府(地方知事)であった[[劉豫]]を皇帝に立て、開封を都として'''[[斉 (劉予)|斉]]'''を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した<ref name="kotobank" /><ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura420" />{{refnest|group="注釈"|しかし、[[1135年]]にウキマイが死去、1137年にネメガが没すると後ろ盾を失った劉豫も皇帝の座を降ろされ、斉国は廃止された。}}。同年、宋の官僚[[秦檜]]が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。一方、金は徽宗や欽宗を黒竜江省[[依蘭県]]まで移送し、宋人の反抗・奪還の芽をつぶした<ref name="umemura420" />。斉国は金の傀儡政権として南宋に対峙していたが、[[1137年]]には廃された。
金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、和約が金に不利な内容だったため、[[1142年]]にあらためて両国の間で結ばれた([[紹興の和議]])<ref name="umemura423">[[#梅村|梅村(2008)pp.423-431]]</ref>。この和約は、両国は{{仮リンク|大散関|zh|大散關}}([[陝西省]])と[[淮河]]を結ぶ線を以て国の境とし、宋は金に対して臣下の礼をとり、歳貢として銀25万両、絹25万匹を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった<ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura423" /><ref name="saeki287">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.287-288]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|主戦派の岳飛は講和成立後まもなく処刑された<ref name="kakkokushi206" />。}}。金は、四海の君としての名義を得た。ただ、金が支配する華北の地は、ジュシェン(女真)人が大量に移住したとはいえ、なおも圧倒的に漢人が多く住む世界であった<ref name="umemura423" />。
[[1135年]]に第3代皇帝となった熙宗[[熙宗 (金)|合剌]](ホラ)の時代から、金はしだいにジュシェンの独自性は失われ、中華の風にそまっていった<ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi219">[[#宮澤杉山|宮澤・杉山(1998)pp.219-222]]</ref>。漢地を直接支配することになった金朝が中国式国家体制を採用したのは、それが便利だったためであったが、しかし、中国式の独裁体制を布くにはジュシェンの上層部にあっては皇族の力が強大にすぎた<ref name="saeki297">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.297-300]]</ref>。熙宗は、宗室最有力者のネメガを兵権から切り離し、斉国を廃止した<ref name="kakkokushi219" />。官僚制度は三省を中核にして整備され、皇帝の尊厳を高める擬制や禁衛の組織が整備され、皇統制条が発布された<ref name="kakkokushi219" />{{refnest|group="注釈"|この法令は、歴代の中華王朝の[[律令]]を参照してつくられた<ref name="kakkokushi219" />。}}。猛安・謀克の制度は女真人のみに限定して強化し、かれらを華北に移住させた<ref name="kakkokushi219" />。華北の漢人たちは州県制のもとで一元的に支配した<ref name="kakkokushi219" />。
{{multiple image
| total_width = 750
| align = center
| caption_align = left
| image1 = 南宋疆域图(繁).png
| caption1 = [[1142年]]における女真族王朝「金」と周辺諸王朝<br/>[[宋 (王朝)|宋]]([[南宋]])は漢民族王朝、[[西夏]]はチベット系[[タングート]]の王朝、[[西遼]]は遼の王族[[耶律大石]]の建てたキタン人王朝、[[大理国|大理]]はチベット系[[ペー族]]の王朝
|image2 =Jurchen Jin Circuits.png
| caption2 = 金の疆界図
}}
=== 漢化の進展とその抑制 ===
{{see also|采石磯の戦い|通検推排}}
熙宗は治世の中頃から精神を病み、皇族を弾圧して大量の殺戮をあえておこない、自らの求心力を高めようとしたが、その結果、人心は不安定さを増し、熙宗自身も人望を失った<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="saeki297" />。[[1149年]]、熙宗の従弟にあたる迪古乃(テクナイ)は[[完顔秉徳|宗室]][[烏帯|の者]]とはかり、皇帝を殺害して帝位を簒奪し、[[海陵王]]となった<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi219" /><ref name="saeki297" />{{refnest|group="注釈"|海陵王は、彼の死後、帝位に就いたことも否定され、単に海陵王とのみ記録されている<ref name="umemura423" />。}}。海陵王は、宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し<ref name="kakkokushi219" /><ref name="saeki297" />{{refnest|group="注釈"|海陵王は目的達成のために、自身の母親さえ殺している<ref name="saeki297" />。}}、また、[[1153年]]には、都を会寧から燕京([[析津府|中都大興府]])に[[遷都]]して中華風の国家に改造した<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi219" /><ref name="saeki297" />{{refnest|group="注釈"|海陵王の北京遷都は、彼が漢人の文明に心酔していたためもあり<ref name="saeki297" />、また、彼の理想が中国的な専制国家の完成にあったということも理由として掲げられるが<ref name="kawachi232" />、当時の経済事情もこれにあずかっていた<ref name="umemura423" />。経済的には、物産豊富な江南が華北よりも実力が勝り、当時としては巨大な人口を擁していた<ref name="umemura423" />。莫大な人口をもち、南宋との経済関係が密接な華北の統治を、[[中原]]から遠く離れた会寧で統制するのはもはや困難になっていた<ref name="umemura423" />。}}。身内を信じられなくなった海陵王はさかんに漢人官僚を登用した<ref name="saeki300" />。それまで北選(遼制)・南選(宋制)に分けてきた科挙も一本化された<ref name="kakkokushi219" />。
海陵王はまた、財政を顧みず中都の造成に傾注した<ref name="mitamura160">[[#三田村|三田村(1991)pp.160-162]]</ref>。『金史』は、そのさまを以下のように記している<ref name="mitamura160" />。
{{quotation|
宮殿の造営には、1本の木を運ぶのに2000万を費やし、一車を引くのに500人を使った。宮殿のかざりはすべて黄金をはりめぐらし、ために一殿の費用は億万をもって計え、しかもできあがってもこわし、ひたすら華麗をきわめようとした<ref name="mitamura160" />。
}}
金の中都は、遼の[[析津府|南京析津府]]を基として、その規模を拡大させたもので、『[[大金国志]]』によれば、[[都城]]の周囲は75里で、[[城門]]は12におよび、各辺に3門ずつを開き、内部の[[宮殿]]の数は36、[[楼閣]]はこの倍あるという<ref name="mitamura160" />。明代の[[謝肇淛]]は、「遼、金および元は、みな燕山(北京)に都したが、制度文物は金が最も盛んであった。今、禁中の梳粧台、瓊花島、それに小海、南海などは、みな金の物である」と述べている<ref name="mitamura160" />。
[[1161年]]、海陵王はこの時代の征服者として初めて中国(天下)の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" /><ref name="saeki300">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.300-302]]</ref><ref name="kakkokushi210">[[#宮澤杉山|宮澤・杉山(1998)pp.210-214]]</ref>{{refnest|group="注釈"|海陵王は帝位に就く前から熙宗の皇后([[悼平皇后]])とも仲がよく、女色家として知られていた<ref name="saeki297" />。「天下統一」の野望も、宋に劉貴妃([[劉希]])という絶世の美女がいるという評判を側近(宦官)から聞いたためだったともいわれている<ref name="saeki297" />。}}。海陵王は皇族や重臣たちの忠告も無視し、20年来の平和条約をも破って南征軍を組織し、従来のような陸上部隊だけではなく[[軍艦]]を建造して[[海軍]]を創設し、一方は[[山東半島]]から[[杭州]]の横を突き、他方は[[運河]]を利用して[[江蘇省|江蘇]]方面に南下しようという戦略を立てた<ref name="umemura423" /><ref name="saeki300" />。金軍は60万と号する大軍を組織し、初めは優勢であったが、慣れない水戦に苦戦し<ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi219" />、宋軍が[[大砲|火砲]]を用いた[[采石磯の戦い]]では手痛い敗北を喫している<ref name="saeki300" />。その間、各地で契丹の反乱が勃発した<ref name="umemura423" />。海陵王はその知らせを聞いても宋征服に固執したが、海陵王の[[恐怖政治]]をきらったジュシェンの有力者たちが東京([[遼陽府]])にいた皇族で彼の従弟にあたる烏禄(ウル)を擁立し、人々は雪崩を打ってウルに味方した<ref name="kawachi232" /><ref name="saeki300" />。ウルが金の皇帝[[世宗 (金)|世宗]]として東京遼陽府で即位し、海陵王は軍中で部下に殺害された<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi219" /><ref name="saeki300" /><ref name="kakkokushi210" />。なお、海陵王の南宋攻略に際しては戦費調達のために[[交鈔]]が初めて[[紙幣]]として発行された。
世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、[[1164年]]に{{仮リンク|隆興の和議|zh|隆興和議|label=乾道の和約}}を結んだ<ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi210" />。その内容は、従来の君臣関係を叔姪関係へと緩和し、歳貢を歳幣と呼び換え、25万両ずつの銀・絹をそれぞれ20万両に減額するというものであった<ref name="umemura423" /><ref name="kakkokushi210" />{{refnest|group="注釈"|世宗が南宋との講和を急いだ理由は、キタン人がかつての遼王家の治める中央アジアの西遼と連携して行動することを警戒してのことであった<ref name="umemura423" />。}}。その一方でキタン人の反乱を速やかに収めて国内を安定させた<ref name="umemura423" />。さらに世宗は海陵王の遠征で大きく損なわれた財政の再建をめざし、増税をおこない官吏を削減した<ref name="saeki300" />。南宋でも、同じ時期、名君とされる[[孝宗 (宋)|孝宗]]が立ち<ref name="saeki307">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.307-310]]</ref>、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれ、金朝にあっては繁栄と安定の時代をむかえたといわれる<ref name="kakkokushi210" /><ref name="saeki304">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.304-305]]</ref>。
平和が長引き、女真(ジュシェン)の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(キタン族を含む)との割合は当初は1:6程度、漢人の人口増でそれが1割弱にまで拡大したので、女真の軍事力の弱体化が問題となってきた<ref name="kakkokushi219" />。世宗もまた[[1162年]]に燕京を都を定めたが、ジュシェンの民は中華の華美な風俗に染まり、固有の文化を忘れ、[[漢化]]の進行はいっそう顕著になっていった<ref name="kawachi232" />。また、京師や地方に[[女真文字]]・[[女真語]]を用いた学校をつくり、[[1171年]]には女真進士科をつくって女真語による[[科挙]]もおこない、女真人が女真人を教育する仕組みをつくりあげた<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="saeki304" />。さらに、[[四書五経]]などの漢文献の女真文字への[[翻訳]]事業も行った<ref name="kotobank" /><ref name="saeki304" />{{refnest|group="注釈"|衛兵にも漢語を使わせなかったという。しかし、漢化の勢いは止めようがなく、猛安・謀克の世襲においてもほどこしたほどであった。}}。
女真人・女真文化保護のための諸政策が展開されたにもかかわらず、かれらの経済的な没落は著しかった<ref name="saeki304" />。ジュシェン人貧窮化の原因としては、海陵王時代の外征の徴発、猛安・謀克戸間相互の階層分化、給与された農地の土地生産性の低さなどが挙げられる<ref name="kakkokushi219" />。ジュシェン人は華北移住の初期には相応の田畑をあたえられたが、彼らのなかには、その土地を漢族農民に[[小作制度|小作]]させ、小作料に依存して徒食することが多くなり、宴楽にふけって貧窮化し、最終的に[[農奴制|農奴]]に成り下がる者もあった<ref name="kawachi232" />。また、農耕技術はもとより商業・交易においては漢人の才覚がすぐれ、人口も多かったので、ジュシェンの固有性を維持していくことは難しかった<ref name="saeki304" />。金の税制の基本は北宋のそれを踏襲して[[両税法]]であったが、世宗は財政難を克服するため、「物力銭」という一種の[[財産税]]を設け、「[[通検推排]]」と称する財産調査を行って猛安・謀克戸を除く全戸に課税した<ref name="kakkokushi219" />。これは財政再建には大きな役割を果たす一方、不満も多かった<ref name="kakkokushi219" /><ref name="saeki304" />。また、旧来の官有地を漢人が私有地のように用いている土地、税を負担していない土地、富裕な女真人が不当に所有している広大な土地などを没収し、貧しい女真人に分与しようとした<ref name="kotobank" /><ref name="saeki304" /><ref name="saeki302">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.302-304]]</ref>。しかし、この再分配政策は、漢人からは先祖伝来の土地が奪われたと受け止められて、かえって女真人・漢人の間に軋轢を生み、その効果も薄かった<ref name="kotobank" /><ref name="saeki302" />。
世宗の時代は後世「{{仮リンク|大定の治|zh|大定之治}}」と称され、彼自身は「小[[堯]][[舜]]」と称えられた<ref name="saeki304" />。しかし、一方では、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったという指摘もある<ref name="saeki304" />。
<gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="4代海陵王・5代世宗期 関連画像">
ファイル:Wanyan Digunai.jpg|海陵王(金上京歴史博物館)
ファイル:金中都水关遗址.JPG|金の中都(北京)の水利施設遺構
ファイル:Songrivership3.jpg|采石磯の戦い(1161年)で活躍した弾薬投石機搭載の宋の軍艦
ファイル:Shaigino-Jurchen-paizi.png|[[ナホトカ]]出土の金朝猛克の銀牌
</gallery>
=== 金王朝の衰退 ===
{{see also|明昌の治|ウルジャ河の戦い|蒙金戦争|野狐嶺の戦い}}
[[ファイル:Jin earth wall at Qingzhou 2.jpg|300px|right|thumb|金の界壕。外壕・主壁・内壕・側壁という構造をなし、壕自体は太宗ウキマイの時代にさかのぼる。壁(土塁)の造成は[[1190年代]]より始まった。]]
世宗の皇太孫であった麻達葛(マダガ)が第6代[[章宗 (金)|章宗]]として即位した[[1189年]]頃から、[[モンゴル民族]]の北からの侵入が活発化しはじめた<ref name="kawachi232" /><ref name="saeki315">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.315-316]]</ref>。章宗は、即位のときの曲折を遺恨に感じ、自身の権力を脅かしそうな皇族を粛清した<ref name="sugiyama96">[[#杉山|杉山(2008)pp.96-99]]</ref>。文化面では、章宗自身が北宋の[[徽宗]]のような金朝随一の文人皇帝で、[[絵画]]・[[書道|書]]の作品を残した<ref name="kotobank" />。章宗は豪奢な生活を好み、官吏の数も世宗時代の3倍に増やした<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" />。一方、もともと金の北方防衛を任されていたはずのキタン人、[[テュルク系民族|テュルク人]]、タングート人、モンゴル人などが金の統制を離れはじめ<ref name="umemura423" />、その防禦のために金の財政は圧迫されるようになった<ref name="kawachi232" /><ref name="saeki315" />。章宗は10年にわたって「{{仮リンク|界壕|zh|金界壕}}」と称される[[土塁]]を[[チチハル市|チチハル]]の北から[[フフホト市|フフホト]]の北まで延々と築いたが、これは北方[[遊牧民]]に脅威をいだいて草原に造られた新たな長城であり、もはや、心理的には従来の漢族王朝と変わるところがなかった<ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" />。「界壕」建設に加え、[[1194年]]には[[黄河]]の大決壊が生じ、金はいっそう経済的苦境に立たされた<ref name="umemura423" />。[[モンゴル高原]]では部族勢力の動きが活発化して[[タタル部]]やキタンの反乱が激しくなり、金は鎮圧に際して[[ケレイト]]の[[オン・カン|トオリル]]やモンゴルのテムジンの助けを借りた<ref name="kawachi232" /><ref name="ebisawa">{{Harvnb|海老澤|1998|p={{要ページ番号|date=2023年7月}}}}</ref>{{refnest|group="注釈"|1194年から95年にかけて、いまだ弱小勢力であったテムジンは金朝のタタル族討伐に協力してジャウトクリの称号が金の将軍[[完顔襄]]より授けられたが、この時点でのテムジンと金朝皇帝との力関係では、当然のことながら後者が圧倒的優位に立っていた<ref name="ebisawa" />。そればかりではなく、トオリルの与えられた称号は[[オン・カン]](「オン」は王の意)であって、テムジンからすれば主筋にあたった<ref name="sugiyama82">[[#杉山|杉山(2008)pp.82-83]]</ref>。テムジンは[[1203年]]、一瞬の隙をついてトオリル(オン・カン)を奇襲で倒している<ref name="sugiyama82" />。}}。
章宗は、皇統制条を改めて[[泰和律令]]を定め<ref name="kakkokushi219" />、[[礼]]制・法典・[[格式]]をはじめとして[[科挙]]・[[官制]]などの体制整備や[[常平倉]]の設置などの改革を行って中国王朝としての姿を完成させた。この時期の金朝の政治を「[[明昌の治]]」と称することもある。また、海陵王時代以来発行してきた交鈔は世宗時代には順調に流通していたが、ここにおいて財政の窮乏を切り抜けるために大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、それでは[[インフレーション]]を招いて交鈔の信用失墜を招きかねないので、章宗は当時定められていた通用期限を撤廃し、いつでも通用することで信用のある紙幣にしようとした<ref name="kakkokushi219" />。しかし、発行額の増大は交鈔流通の停滞と[[銀]]の貨幣使用が広がるという結果をもたらした<ref name="kakkokushi219" />{{refnest|group="注釈"|通用期限なしの紙幣はのちの元朝に引き継がれた<ref name="kakkokushi219" />。}}。
金の疲弊に乗じようと考えた南宋の宰相[[韓侂冑]]は、これを好機として[[1205年]]に戦端を開き、金に攻め込んだが逆に撃退され、金は国境線である淮河を越えて[[長江]]のラインにまで迫る勢いを示した<ref name="sugiyama90">[[#杉山|杉山(2008)pp.90-95]]</ref>。予想外の展開に南宋政府はあわて、財政難だったのは南宋も同じであったところから、金と南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ([[開禧用兵]])<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" /><ref name="umemura423" />。和約では、1142年の国境線にもどり、金・宋の関係が叔姪の関係から伯姪の関係となり、宋から金への歳幣は1142年の取り決めより銀・絹5万ずつ増額された{{refnest|group="注釈"|しかし、以前から、[[モンゴル高原]]に少しでも有力な勢力があらわれると、すぐに介入して強力な統一権力を阻止してきた金朝からすれば、この金・南宋戦争はまことに不運であり、モンゴルからすればたいへん幸運だったということができる<ref name="sugiyama96" /><ref name="sugiyama90" />。[[杉山正明]](東洋史)は、金帝国からモンゴルをたたく機会はこのときしかなかったのではないかと指摘している<ref name="sugiyama90" />。}}。一方、[[ウルジャ河の戦い]]でケレイトやモンゴルと連合したことは、結果的に彼らの勢力を伸張させることとなり、モンゴルでのテムジンの高原統一を間接的に促す結果となった<ref name="kawachi235">[[#河内|河内(1989)pp.235-237]]</ref>。[[1206年]]、テムジンは[[チンギス・カン]]と称し、[[モンゴル帝国]]が成立した<ref name="ebisawa" />。
[[1208年]]、「風流天子」にして恐怖の専制君主であった章宗が41歳の若さで急逝した<ref name="sugiyama96" />。猜疑心の強い章宗が心を許したのが叔父にあたる果繩(ガジェン)であった<ref name="sugiyama96" />。章宗は、金帝国をまとめるカリスマ性を有していたが<ref name="sugiyama99">[[#杉山|杉山(2008)pp.99-102]]</ref>、章宗がガジェンを好んだのは、その暗愚さゆえともいわれている<ref name="sugiyama96" />。結局、ガジェンが7代[[衛紹王]]として即位すると、チンギス・カンは彼に対する[[朝貢]]を拒否して金と断交し、[[1211年]]に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した([[第一次蒙金戦争]])<ref name="ebisawa" /><ref name="kawachi235" />。衛紹王の治世においては、中央権力の空洞化が進んでいて、これに対応することができなかった<ref name="sugiyama99" />。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は[[野狐嶺の戦い]]で金の大軍を破って長城を突破し、河北・山東をも攻略して、2年あまりにわたって金の国土を蹂躙した<ref name="kotobank" /><ref name="kakkokushi219" />。[[1212年]]には遼の皇統を継ぐキタン人の[[耶律留哥]]が、自ら「遼王」と称して反乱を起こし、現在の[[吉林省]]から[[遼寧省]]にかけて支配地を広げ、モンゴルの配下に入った([[東遼]])。敗北を重ねた金では、[[1213年]]に首都の中都で[[クーデター]]が起こって女真人の将軍の[[胡沙虎]](クシャク)によって衛紹王が殺され、胡沙虎は章宗の庶兄であった吾睹補(ウトゥプ)を立てて権力を握ったが、胡沙虎自身は2カ月後、別の女真人の武将の[[高琪]]により殺された<ref name="sugiyama99" />。
<gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="6代章宗・7代衛紹王期 関連画像">
ファイル:1211-1215 Mongol invasion of Jin.jpg|モンゴルの華北侵入経路(1211-1215)
ファイル:Bataille entre mongols & chinois (1211).jpeg|1211年の[[野狐嶺の戦い]]での金軍とモンゴル軍
ファイル:Genghis Khan empire-en.svg|チンギス・カン在世中の諸遠征
</gallery>
=== 金の滅亡 ===
{{see also|大真国|中都の戦い|開封攻囲戦}}
[[ファイル:Djengiz Khân et les envoyés chinois.jpeg|300px|right|thumb|1214年4月、金朝の宣宗とチンギス・カンの講和によりモンゴルに嫁いだ[[岐国公主]](画面左の馬上の人物)]]
ウトゥプが8代皇帝[[宣宗 (金)|宣宗]]として即位すると、[[徒単鎰]]らはこれを補佐し、主戦派が力を失ったのち、1213年、モンゴルに対する和議に踏み切った<ref name="saeki315" /><ref name="ebisawa" />。ここでは、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、一族の[[福興]](フシン)の建言を受け入れて[[岐国公主]](衛紹王の皇女)をチンギス・カンに嫁がせた<ref name="saeki315" /><ref name="ebisawa" />。講和によりチンギスは撤兵したが、[[1214年]]、金は中都(燕京)を捨て、北宋の旧都である[[河南省|河南]]の開封に突如、遷都を決めた<ref name="kotobank" /><ref name="umemura423" /><ref name="ebisawa" /><ref name="kawachi235" />。このとき、金の南遷に動揺したキタンの一部が燕京で反乱してモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を誠実さを欠くものと受け止め、和約違反と責めて金に対する侵攻を再開した<ref name="kakkokushi219" /><ref name="ebisawa" />。将来を嘱望されていた徒単鎰は、中都に踏みとどまるのが上策、満洲の故地に退くのが中策、開封に逃れるのは下策であると論じて、宣宗の開封遷都を諫めたが、受け入れられず遷都宣言の3日前に没している<ref name="sugiyama99" />{{refnest|group="注釈"|徒単鎰急死の直後に開封遷都への宣言がなされており、彼が宣宗により粛清されたことも疑われる<ref name="sugiyama99" />。}}。
[[1215年]]夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に[[中都の戦い]]で燕京が陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った<ref name="ebisawa" />。チンギス・カンは、金朝に対してこのとき和平条件として「帝号」を放棄するよう要求している<ref name="ebisawa" />。黄河の南、開封を本拠にした金は河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止めることができなかった<ref name="saeki315" />。また、防戦のために多額の軍事費を必要としたため、人民の負担は増し、各地で反乱が絶えなかった<ref name="saeki315" />。100万におよぶ猛安謀克軍が河北から河南に移ったものの、河南にはそれを養う余力がなく、漢人はジュシェン人による[[搾取]]を深く恨んだ<ref name="kawachi235" />。同じ1215年、満洲では耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していたジュシェンの[[蒲鮮万奴]]が独立して[[大真国]](東夏国)を建て、[[遼東半島]]の一部から[[吉林省]]、[[咸鏡道]]、沿海州南部までを支配するようになった<ref name="saeki315" /><ref name="kawachi235" />{{refnest|group="注釈"|[[1333年]]、蒲鮮万奴がオゴデイの息子の[[グユク]]が率いるモンゴル軍によって捕らえられ、大真国も滅亡した<ref name="kawachi235" />。}}。これにより、金の帝室は満洲に逃れることもできなくなってしまった<ref name="saeki315" />。宣宗は[[高汝礪]]のような有能な家臣に恵まれたが、時の勢いをはね返すことはできなかった。[[1217年]]、宋は金に戦端をひらいた<ref name="kotobank" />。[[1224年]]には戦闘もいったん収束し、講和にいたった。
宣宗の子の寧甲速(ニンキャス)が1224年、皇位を継承した(9代[[哀宗 (金)|哀宗]])。哀帝は、タングート西夏との同盟に活路を見いだそうとしたが、[[正大]]4年([[1227年]])に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。金の窮状をみてとった宋は歳幣を送ることを停止し、復讐の姿勢を示すようになり、金は南北から脅威を受けるようになった<ref name="saeki315" />。1227年にチンギス・カンの後を継いだ[[オゴデイ]]は南宋と連合して金を挟撃することを提案した<ref name="umemura423" />。モンゴルは成功のあかつきには、南宋に河南の地をあたえることを約束した<ref name="saeki315" />。宋朝では、モンゴルと結ぶことについて一部の反対論があったものの、結局この提案に乗り、共同作戦が始まった([[第二次蒙金戦争]])<ref name="umemura423" />{{refnest|group="注釈"|[[理宗]]に仕えた南宋の高官{{仮リンク|趙范|zh|趙范 (南宋)}}は、「かつて北方から興った金と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と述べ、モンゴルとの同盟に慎重な意見を進言したが、弟の{{仮リンク|趙葵|zh|趙葵}}は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗・欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った<ref name="umemura423" />。}}。こうしたなか、[[完顔陳和尚|陳和尚]]はモンゴル支配を避けて金に亡命してきた多民族からなる亡命者を「忠孝軍」と名付け、寡兵をもってしばしばモンゴル軍に勝利し禦侮中郎将にまで昇進した。
[[1232年]]、[[トルイ]]の軍が[[漢江 (中国)|漢水]]を渡って河南に入ってきた情報に、黄河の南に大軍勢を配置していた金の政府は驚愕した<ref name="sugiyama121">[[#杉山|杉山(2008)pp.121-122]]</ref>。すぐさま、猛安謀克軍に南方への転戦が命じられた<ref name="sugiyama121" />。開封南郊の平原でトルイの軍と金軍主力が激突した<ref name="sugiyama121" />。強行軍で疲弊していたトルイは三峰山麓に陣を張り、馬をおり、塹壕を掘って猛烈な寒波から身を守った<ref name="sugiyama121" />。蒙金ともに余力はなかったが、雪中移動や厳冬期の用兵に慣れたモンゴル軍に一日の長があった<ref name="sugiyama121" />。この[[三峰山の戦い]]で金は大敗を喫して金軍主力は壊滅<ref name="sugiyama121" />、[[完顔合達]]は戦死、敗軍の将となった陳和尚は自らモンゴルの陣営に赴いて処刑された。以後は抵抗もままならず、[[1234年]]には[[開封攻囲戦]]により、首都が陥落した<ref name="umemura423" /><ref name="saeki315" /><ref name="kawachi235" />。哀宗は開封から脱出して[[帰徳府|帰徳]]に逃げ、さらに淮河上流の[[蔡州 (河南省)|蔡州]]へと逃れるところを、モンゴル・南宋の連合軍に[[蔡州の戦い|挟撃]]され、みずから首をくくって死んだ<ref name="kotobank" /><ref name="saeki315" /><ref name="ebisawa" /><ref name="kawachi235" /><ref name="sugiyama121" />。哀宗に後続を託されていた遠縁の呼敦(ホトン、金の[[末帝 (金)|末帝]])も即位してわずか半日後にモンゴル軍によって殺害され、ここに金は滅亡した。
モンゴル帝国によって滅ぼされた金の遺民、とりわけジュシェンの人びとがその後どうなったかについて、[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]は多くを語らないが、幸運にも生き残った人びとは故郷のマンチュリア(中国東北部)に帰ったものと推測される<ref name="kawachi235" />。そして、古くからの住民と新しい住民も含め、東北部に住むジュシェン人はやがて[[元 (王朝)|元]]の[[遼陽等処行中書省]]という行政区画に編入されてモンゴル人の支配を受けるようになった<ref name="kawachi235" />。
<gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="8代宣宗・9代哀宗期 関連画像">
ファイル:五贯宝卷.jpg|五貫宝券:金朝政府発行の交鈔([[貞祐 (金)|貞祐]]年間のもの)
ファイル:1227 Southern Song.jpg|1227年の東アジア情勢
ファイル:1230-1234 Mongol Invasion of Jin.jpg|モンゴルの華北侵入経路(1230-1234)
</gallery>
なお、[[17世紀]]になって女真族・ジュシェン人は[[愛新覚羅氏|愛新覚羅]](アイシンギョロ)氏出身の[[ヌルハチ]]が「金」を名乗る王朝を興したが、これは「'''[[後金]]'''」と呼ばれて区別される<ref name="ishibashi64" />。後金は、[[1636年]]にホンタイジによって「[[清]]」と改称され、大帝国を築いた<ref name="ishibashi64" />。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたって同じ民族が歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例である<ref name="ishibashi64" />。
== 金の皇帝 ==
完顔(ワンヤン)氏の祖先の世系を記した書は『金史』「世紀」であり、その巻頭には始祖以来太祖アクダがある。うち、始祖以下昭祖に至る5代については、その事績は歴史的事実とは考えられず、多分に空想的で、その実在も疑問視される<ref name="kotobank" />。6代景祖の事績も史実とするにはあやしい部分もあるが、このころから完顔氏が有力な勢力になり始めたとみられる<ref name="kotobank" />。7代世祖[[劾里鉢]](ヘリンボ)、8代粛宗{{仮リンク|頗剌淑|zh|完颜颇剌淑}}(ポラシェ)の時期には、完顔氏の勢力は[[松花江]]流域や[[牡丹江]]上流地方にまで勢力を拡大したと考えられる<ref name="kotobank" />。9代穆宗の[[完顔盈歌|盈歌]](インコ)は[[豆満江]]上流域に自ら遠征し、[[綏芬河]]や[[ハンカ湖]]地方にも遠征軍を送っていて、完顔氏の支配圏は満洲東部の全域におよぶようになった<ref name="kotobank" />。このため遼の朝廷は盈歌に「生女直節度使」の職を与えた<ref name="kotobank" />。10代康宗の[[烏雅束]](ウヤス)は節度使の職を継いで完顔氏の首長となり、朝鮮半島北東部の[[咸鏡道]]方面にまで勢力を伸ばし、その支配地はかつての渤海国のそれに匹敵するようになった<ref name="kotobank" />。金を建国したアクダは、このウヤスの弟である<ref name="kotobank" />。
=== 歴代皇帝 ===
{{see also|完顔氏|金朝の君主一覧}}
順に廟号または諡号(廃帝は王号)、女真名、中国名、在位年、続柄を示す。
# [[阿骨打|太祖]](阿骨打=アクダ、完顔旻 [[1115年]] - [[1123年]])世祖・劾里鉢=ヘリンボの次男。
# [[呉乞買|太宗]](呉乞買=ウキマイ、完顔晟 1123年 - [[1135年]])劾里鉢の四男。太祖の末弟。
# [[熙宗 (金)|熙宗]](合剌=ホラ、完顔亶 1135年 - [[1149年]])太祖の嫡子の[[繩果]]=ジェンガ(徽宗/完顔宗峻)の長男。
# [[海陵王|海陵煬王]](迪古乃=テクナイ、完顔亮 1149年 - [[1161年]])太祖の庶長子の[[斡本]]=オベン(完顔宗幹)の次男。
# [[世宗 (金)|世宗]](烏禄=ウル、完顔雍・褎 1161年 - [[1189年]])太祖の庶子の[[訛里朶]]=オリド(睿宗/完顔宗堯)の嫡子。
# [[章宗 (金)|章宗]](麻達葛=マダガ、完顔璟 1189年 - [[1208年]])世宗の次男の[[完顔允恭|胡土瓦]]=クトゥハ(顕宗/宣孝太子・完顔允恭)の次子。
# [[衛紹王]](果繩=ガジェン、完顔永済・允済 1208年 - [[1213年]])世宗の七男。章宗の叔父。
# [[宣宗 (金)|宣宗]](吾睹補=ウトゥプ、完顔珣 1213年 - [[1223年]])胡土瓦(完顔允恭)の庶長子。章宗の異母兄。
# [[哀宗 (金)|哀宗]](寧甲速=ニンキャス、完顔守緒・守礼 1223年 - [[1234年]])宣宗の三男。別称:義宗。
# [[末帝 (金)|末帝]](呼敦=ホトン、完顔承麟 1234年)劾里鉢の末裔。
=== 系図 ===
{{familytree/start|style="font-size:80%; margin:0 auto;"}}
{{familytree | | | | | | | | | G01 | | | | | | | | |G01=<sup>(追)</sup>景祖<br>[[烏古廼|完顔烏古廼]]}}
{{familytree | | | | | | | | | |)|-|-|-|v|-|-|-|.| | }}
{{familytree | | | | | | | | | H01 | | H02 | | H03 |H01=<sup>(追)</sup>世祖<br>[[劾里鉢|完顔劾里鉢]]|H02=<sup>(追)</sup>粛宗<br>[[頗剌淑|完顔頗剌淑]]|H03=<sup>(追)</sup>穆宗<br>[[完顔盈歌]]|H04=<sup>(追)</sup>康宗<br>[[烏雅束]] }}
{{familytree | |,|-|-|-|v|-|-|-|+|-|-|-|-|-|-|-|.| | }}
{{familytree |??? | | I03 | | I01 | | | | | | I02 |I01=<sup>(1)</sup>太祖{{0}}<br>'''[[阿骨打|完顔阿骨打]]''' / 王旻|I02=<sup>(2)</sup>太宗{{0}}<br>'''[[呉乞買|完顔呉乞買]]''' / 王晟|I03=<sup>(追)</sup>康宗{{0}}<br>[[烏雅束|完顔烏雅束]]|???=}}
{{familytree | |:| | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | | }}
{{familytree | |:| | | J01 | | J02 | | J03 | | | | |J01=<sup>(追)</sup>徳宗{{0}}<br>[[斡本|完顔斡本]] / 王宗幹|J02=<sup>(追)</sup>徽宗{{0}}<br>[[繩果|完顔繩果]] / 王宗峻|J03=<sup>(追)</sup>睿宗{{0}}<br>[[訛里朶|完顔訛里朶]] / 王宗堯}}
{{familytree | |:| | | |!| | | |!| | | |!| | | | | | }}
{{familytree | |:| | | K02 | | K01 | | K03 | | | | |K01=<sup>(3)</sup>熙宗{{0}}<br>'''[[熙宗 (金)|完顔合剌]]''' / 王亶|K02=<sup>(4)</sup>海陵王{{0}}<br>'''[[海陵王|完顔迪古乃]]''' / 王亮|K03=<sup>(5)</sup>世宗{{0}}<br>'''[[世宗 (金)|完顔烏禄]]''' / 王雍}}
{{familytree | |:| | | |!| | | | | | | |)|-|-|-|.| | }}
{{familytree | |:| | |KE | | | | | | L02 | | L01 |L01=<sup>(7)</sup>衛紹王{{0}}<br>'''[[衛紹王|完顔果繩]]''' / 王允済|L02=<sup>(追)</sup>顕宗{{0}}<br>[[完顔允恭|完顔胡土瓦]] / 王允恭|KE=皇太子<br>[[完顔光英|完顔阿魯補]] / 王光英}}
{{familytree | |:| | | | | | | |,|-|-|-|(| | | |!| | }}
{{familytree | |:| | | | | | | M02 | | M01 | |JK |M01=<sup>(6)</sup>章宗{{0}}<br>'''[[章宗 (金)|完顔麻達葛]]''' / 王璟|M02=<sup>(8)</sup>宣宗{{0}}<br>'''[[宣宗 (金)|完顔吾睹補]]''' / 王珣|JK=梁王<br>[[完顔従恪|完顔??]] / 王従恪}}
{{familytree | |:| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }}
{{familytree | N02 | | | | | | N01 | | | | | | | | |N01=<sup>(9)</sup>哀宗{{0}}<br>'''[[哀宗 (金)|完顔寧甲速]]''' / 王守緒|N02=<sup>(10)</sup>末帝{{0}}<br>'''[[末帝 (金)|完顔呼敦]]''' / 王承麟}}
{{familytree/end}}
太字は皇帝、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。
== 政治 ==
=== 勃極烈(ボギレ)制と三省制 ===
王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた<ref name="kakkokushi206" />。金には建国以前から{{疑問点範囲|[[勃極烈]](ボギレ)と呼ばれる君長層がおり|date=2023年7月}}、阿骨打は皇帝に即位する以前、その君長の筆頭として都勃極烈(トボギレ)を称していた<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi228" />。ボギレは、このように一応のランク分けがなされていたが、あくまでも法制上のことであり、現実には大きな身分的隔たりをともなうものではなく、全体であった<ref name="2kawachi44" />。6名のうち国論忽魯(グルンフル)ボギレの[[撒改]]はアクダと国家を二分し、その一半を担うほどの豪族であった<ref name="kotobank" /><ref name="2kawachi44" />。ボギレの職掌や数には変動もあった<ref name="2kawachi44" />。ボギレは主に皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、国政の定める議事は全ボギレ各員の[[合議制]]によって金の政治を決定される慣行だったので、皇帝が独裁権をふるう余地は少なかった<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi230" /><ref name="2kawachi44" /><ref name="umemura420" />。
太宗ウキマイの[[1126年]]に新たな占領地となった華北の一部で中華式の三省制([[中書省]]、[[門下省]]、[[尚書省]])が導入されたがボギレ制も依然のこっていた<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi232" />。こうしてウキマイの時代には、女真人統治にはボギレ制、漢人統治には三省制の二重体制がしかれた<ref name="kotobank" />。熙宗が即位した[[1135年]]にはボギレ制が廃され、全面的に三省制に切り替わった。宰相格であった領三省事にはそれまでボギレであった宗室の一族や有力者が任命された<ref name="kotobank" />。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されたが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたため、これに反発する形でなされたという側面がある<ref name="saeki297" />。
=== 猛安(ミンガン)・謀克(ムクン)制 ===
{{see also|猛安・謀克}}
一般の女真人は猛安(ミンガン)と謀克(ムクン)の二段階の組織構造をもった集団に編成された<ref name="kakkokushi206" /><ref name="umemura420" />。[[猛安・謀克]]は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした<ref name="umemura420" />。太祖アクダは即位前、女真の旧慣にしたがって300戸を1謀克(ムクン)に組織し、それが10集まって1猛安(ミンガン)とした<ref name="kotobank" /><ref name="kakkokushi206" /><ref name="miyawaki62" /><ref name="kawachi230" /><ref name="umemura420" />。ムクンとは女真語で「族」「郷里」の意味であり、そのリーダーもムクン(族長、里長)と称し、ミンガンは「千」の意味で、そのリーダーもミンガン(千戸長)と称した<ref name="miyawaki62" /><ref name="kawachi230" /><ref name="umemura420" />。軍事組織としてこれをみれば、300家族から武器・食糧をみずから携帯した100人の兵がムクン軍として徴兵され、さらにその10倍の組織から千人隊が組織される<ref name="umemura420" />。これが同時に新しい行政組織となった<ref name="kotobank" /><ref name="kawachi230" /><ref name="umemura420" />。ここに編入されたジュシェン人たちは、戦闘のないときには、狩猟や牧畜、農耕といった日常的な生業を営んでいる<ref name="umemura420" />。これは、徴兵の面でも地域支配の上でも効率的な仕組みであった<ref name="umemura420" />。金が成立すると、各地のジュシェン人たちが金に帰属したが、アクダはその首長を、勢力の大小にしたがいミンガンやムクンに任命した<ref name="kawachi230" />。アクダの統治は万事おおまかであり、[[劉邦]]時代の[[漢]]に似ているといわれる<ref name="kawachi230" />。しかし、この組織は単なる氏族集団の寄せ集めではなかったので、ジュシェン人が遼を倒し、さらに華北へ進出する際の基盤となった<ref name="umemura420" />。金が華北を占領するとジュシェン人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安(ミンガン)は氏族単位から地方単位に再編成された。猛安・謀克制は、華北進出前のジュシェン人、キタン人、[[渤海 (国)|渤海]]人、漢人にも適用された<ref name="kotobank" /><ref name="umemura420" />。
ジュシェン進出後の漢地では[[都市]]を把握し、定着農耕民の土地を掌握する観点から中華風の[[州県制]]が採用され、猛安・謀克制から変わっていった。世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると、ジュシェン人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。また、漢人に取り囲まれて居住しているため文化面での漢化が進み、ジュシェン人の組織力はゆるんでいった<ref name="umemura423" />。
=== 複都制 ===
金は遼の[[複都制]](五京制)を継承した<ref name="mitamura160" />。[[1138年]]([[天眷]]元年)、会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨潢府」を「北京臨潢府」に改称、[[北宋]]の首都であった[[開封府|開封]]を「汴京開封府」として、七京とした。 [[1150年]]([[天徳 (金)|天徳]]2年)、臨潢府から京号を除いた。[[1153年]](天徳5年)、会寧府から燕京に遷都、会寧府の京号を除き、「南京析津府」を「中都大興府」に改称した<ref name="mitamura160" />。これにともない、「中京大定府」を「北京大定府」に改称、また、「汴京開封府」を「南京開封府」に改称して五京とした。[[1173年]]([[大定 (金)|大定]]13年)、会寧府を再び「上京会寧府」に戻し、以降、滅亡まで六京制を採用した。
*[[上京会寧府]](現在の[[黒竜江省]][[ハルビン市]][[阿城区]]白城)
*[[臨潢府|北京臨潢府]](現在の[[内モンゴル自治区]][[バイリン左旗]]南波羅城。遼の上京臨潢府を継承、1150年に京号を除いた)
*[[遼陽府|東京遼陽府]](現在の[[遼寧省]][[遼陽市]]。遼の東京遼陽府を継承)
*[[大定府|北京大定府]](現在の内モンゴル自治区[[赤峰市]]の南、[[河北省]]との境あたり。遼の中京大定府を継承)
*[[中都大興府]](現在の[[北京市]]。遼の南京析津府を継承)
*[[西京大同府]](現在の[[山西省]][[大同市]]。遼の西京大同府を継承)
*[[南京開封府]](現在の[[河南省]][[開封市]]。北宋の首都であった)
=== 行政区画 ===
[[ファイル:金.PNG|thumb|450px|right|金朝の各府]]
金では当初10、最終的には19の路に分け、その下に[[府]]([[州]])、その下に[[県]]を置いた。
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* {{仮リンク|上京路|zh|上京路}}
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* {{仮リンク|北京路 (金)|label=北京路|zh|北京路 (金朝)}}
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* {{仮リンク|南京路 (金)|label=南京路|zh|南京路 (金朝)}}
* {{仮リンク|河北東路|zh|河北東路}}
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* {{仮リンク|山東東路|zh|山東東路}}
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== 文化 ==
=== 言語・文字 ===
{{see also|女真語|女真文字}}
[[ファイル:Bushell Juchen 21.svg|200px|right|thumb|女真文字「明王慎德、四夷咸賓」の印]]
[[ファイル:山西省忻州市忻府區韓岩村元好問墓的元好問銅像.jpg|200px|right|thumb|[[元好問]]銅像(山西省[[忻州市]])]]
ジュシェン人の言語[[女真語]]は、[[アルタイ諸語|アルタイ語系]]の[[ツングース語族|ツングース・満洲語]]のひとつである<ref name="ikegami158">[[#池上|池上(1989)pp.158-159]]</ref>。12世紀に金が建国され、中国内地北部に進出したのにともない、分布が拡大した<ref name="ikegami158" />。金はモンゴルによって滅ぼされたが、女真語は[[明]]代まで引き続き話された<ref name="ikegami158" />。その言語は、満洲語と姉妹語関係にあったというよりは、むしろ[[方言]]的関係にあって、広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる<ref name="ikegami158" /><ref name="umemura464">[[#梅村|梅村(2008)pp.464-465]]</ref>。
ジュシェン(女真)は、ツングース系の人びとのなかでは最も早く文字を作成した民族であるが、そこではキタン人(モンゴル系)の[[契丹文字]]からの刺激をおおいに受けている<ref name="umemura464" />。契丹文字は、残っている資料の絶対量が圧倒的に少なく、他文字・他言語との対訳という手がかりにも乏しいため、いまだ充分な解読には至っていない。契丹大字が漢字と同じ[[表意文字]]、契丹小字が[[表音文字]]であることは判明しており、[[女真文字]]の創成にも影響をあたえた<ref name="umemura460">[[#梅村|梅村(2008)pp.460-464]]</ref>。また、金朝においてもキタン人と漢人の翻訳官が採用されており、女真文字は契丹文字と漢字とに翻訳されていた<ref name="umemura460" />。[[1191年]]、世宗の国粋主義的政策のなかで、[[公文書]]における契丹文字の使用が廃止された<ref name="umemura460" />。
当初、文字を持たなかったジュシェン人であったが、金朝創始者のアクダの時代にはキタン、宋それぞれが新興ジュシェンとさかんに交渉をおこなっており、キタンとの交渉に際しては文書を契丹文字に直していた<ref name="umemura464" />。ジュシェンの人びと、ことに熟女真と称されていた人びとはまず契丹文字を習い知っていたのである<ref name="umemura464" />。こうした情勢のなかで、アクダは契丹文字・漢字に通じていた同族の希尹と葉魯に女真大字をつくらせ、[[1119年]]8月に完成させた<ref name="umemura465" />。3代熙宗の[[1138年]]、女真小字が創案され、[[1145年]]からは大字とならんで使用された<ref name="umemura465" />。大小の文字の違いは充分に説明されていないが、女真大字は漢字をなぞった表意文字、小字は[[音節]]をあらわす表音文字であり、表意文字だけで書く方法があった。小字の使用法は[[日本語]]表記における[[仮名 (文字)|仮名文字]]に似ている<ref name="umemura465" />。[[金石文]]の発見や[[辞典|辞書]]『華夷訳語』に収録された「女真館訳語」における対訳単語集・文例集によって漢字と同様、進んだ。13世紀に入り、モンゴル軍が華北に侵攻した。金の滅亡後の華北には契丹文字・女真文字を使う人はいなくなったが満洲・朝鮮の地域では廃絶されていなかった<ref name="umemura465" />。[[1407年]]に設置された女真館があったが、[[1445年]]には[[モンゴル文字]]に切り替わり、以後は女真人による女真文字はまったく使われなくなった。
=== 文学・歴史 ===
文学では、宋代に発生した[[雑劇]]を継承し、[[元曲]]の祖形となった「院本」や「諸宮調」と呼ばれる一種の古典劇がつくられた。代表的なものとして、金朝に仕えた{{仮リンク|董解元|zh|董解元}}による[[語りもの]]文学『[[西廂記]]諸宮調』がある<ref name="dong">{{kotobank|董西廂}}</ref>。元曲の『西廂記』と区別するため、作者の名をとって通常『董西廂』と称される<ref name="dong" />。
[[詩人]]では金朝の地方官を歴任した[[元好問]]が有名で、金朝滅亡時の悲憤慷慨の[[詞]]は「喪乱詩」として著名である<ref name="yuan">{{kotobank|元好問}}</ref>。その詩風は[[陶淵明]]、[[杜甫]]、[[蘇軾]]、[[黄庭堅]]、とりわけ杜甫の詩に学び、重厚と評される金代随一の詩人であった<ref name="kakkokushi219" />。元好問の著『中州集』は金代文学の粋を集めたものとして高く評価される<ref name="kakkokushi219" />。また、金史の撰述を企図して各地を歴遊した。各地から収集した[[史料]]は未完に終わったが、元代末葉に編纂されたのは大きいとされる。
詩人として他に、[[熊岳県|熊岳]](現、[[遼寧省]][[蓋州市]])出身の[[王庭筠]]がおり、七言の長編を得意とした。王庭筠は漢民族ではなく、渤海人ともいわれる<ref name="meikan96">[[#名鑑|『中国書人名鑑』(2007)p.96]]</ref>。
=== 宗教 ===
{{see also|全真教}}
[[ファイル:Changchun-Temple-Master-and-disciples-painting-0316.jpg|300px|right|thumb|[[全真教]]の開祖[[王重陽]]と七真人]]
中国の歴代王朝によって保護されてきた[[道教]]は、しだいに宗教的な清純さを失って迷信的要素が色濃くなり、腐敗も進んだ<ref name="saeki306">[[#佐伯|佐伯(1975)pp.306-307]]</ref>。金代にこうした道教に革新の気風を呼び起こしたのが[[王重陽]]であった<ref name="saeki306" />。彼は華北が金に占領された12世紀中葉、[[山東省]]において、厳しい[[修行]]生活を唱えて新道教を開いた<ref name="saeki306" />。これが[[全真教]]であり、第二祖の{{仮リンク|馬丹陽|zh|馬鈺}}が教団組織を固めた<ref name="saeki306" />。ただし、この流れは宋代からの三教融合の傾向を引き継いだものでもあった<ref name="kakkokushi219" />。当時まだ若かった[[丘長春|邱処機]](長春真人)が教主になると全真教はいっそう発展し<ref name="saeki306" />、江南の[[正一教]]と道教界を二分する勢力となった{{Refnest|group="注釈"|長春真人はのちにチンギス・カンの招きを受けて西征途上のチンギスと[[ヒンドゥークシュ山脈]]の南で会見し、その信任を受けるようになると教勢はさらに拡大し、華北における道教の主流として大勢力を確立した<ref name="saeki306" />。}}。
=== 建築 ===
金代の代表的な建築としては仏教に帰依した熙宗が[[皇統 (金)|皇統]]3年([[1143年]])に造営を命じた朔県(現、[[山西省]][[朔州市]])の[[崇福寺 (朔州市)|崇福寺]]弥陀堂が有名であり、[[中華人民共和国全国重点文物保護単位]]に指定されている。[[山西省]][[大同市]]の[[善化寺]]は遼代から金代にかけて建造された建物を含んでいるが、そのうち、三聖殿は普賢閣や大雄宝殿とは細部の手法が明らかに異なり、[[天会 (金)|天会]]6年([[1128年]])以降の建造と考えられる<ref name="kokenchiku111">[[#古建築|『中国の古建築』(1980)p.111]]</ref>。同じ大同の[[上華厳寺]]は遼代に創建されたものの、その後の兵火で焼失し、金の[[天眷]]3年([[1140年]])に再建された<ref name="kokenchiku102">[[#古建築|『中国の古建築』(1980)pp.102-105]]</ref>。この寺の建物の多くは再び被災したが、大雄宝殿は金代建築の名残をとどめている<ref name="kokenchiku102" />。「中国十大名寺」の1つと称される[[河北省]][[正定県]]の{{仮リンク|隆興寺 (河北省)|zh|隆興寺|label=隆興寺}}の伽藍もまた、金代に整えられた<ref name="kokenchiku106">[[#古建築|『中国の古建築』(1980)pp.106-107]]</ref>。[[北京市]]の広安門外に位置する{{仮リンク|天寧寺 (北京市)|zh|天宁寺 (北京)|label=天寧寺}}の塔は、12世紀前葉のものと考えられ、類例は中国東北部に多くみられる<ref name="kokenchiku120">[[#古建築|『中国の古建築』(1980)pp.120-129]]</ref>。似た形式では[[1175年]]建造の[[河南省]][[洛陽市]]の[[白馬寺 (洛陽)|白馬寺]]の塔がある<ref name="kokenchiku120" />。[[臨済宗|臨済禅]]発祥の寺として知られる河北省正定県の[[臨済寺 (河北省)|臨済寺]]では、世宗が[[1183年]]に澄霊塔および寺院[[伽藍]]の修復を命じており、現存する澄霊塔には、遼・金代の典型的な様式がみられる。
それ以外で著名なものに、
* [[佛光寺 (山西省)|佛光寺]]文殊殿(山西省大同市、1137年)
* [[平遥文廟]]大成殿(山西省[[平遥県]]、1163年)
* {{仮リンク|晋祠|zh|晋祠}}聖母殿・献殿(山西省[[太原市]]、1168年)
* [[浄土寺 (山西省)|浄土寺]]大殿(山西省[[応県]]、1184年)
などがある<ref name="kokenchiku209">[[#古建築|『中国の古建築』(1980)p.209]]</ref>。
<gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="金代建築">
ファイル:朔州崇福寺.jpg|崇福寺弥陀殿(山西省朔州市)
ファイル:Datong Shanhua Si 2013.08.29 12-28-45.jpg|善化寺三聖殿(大同市)
ファイル:Datong Huayan Si 2013.08.29 08-27-51.jpg|上華厳寺大雄宝殿(大同市)
ファイル:Foguang Temple 3.JPG|佛光寺文殊堂(大同市)
ファイル:Jing Tu Temple in Yingxian 2011-07.JPG|浄土寺大雄宝殿(山西省応県)
ファイル:People's Republic of China Beijing Tianningsi Tianing Temple David McBride Photography-0045 03.jpg|天寧寺舎利塔(北京市)
ファイル:洛阳白马寺齐云塔.jpg|白馬寺斉雲塔(洛陽市)
ファイル:Chenglingpagodazhengding.jpg|臨済寺澄霊塔(河北省正定県)
ファイル:Pingyao Wenmiao 2013.08.25 10-26-03.jpg|平遥文廟大成殿(山西省平遥県)
ファイル:Goddess Temple Jinsi.JPG|晋祠聖母殿(太原市)
</gallery>
=== 美術・工芸・書画 ===
{{see also|中国の陶磁器|中国の書道史}}
[[陶磁器]]の生産については、[[鈞窯]]の濃い赤紫色の澱青釉や紫紅釉と呼ばれる[[釉薬]]のかけられた[[瓶子]]や[[盤]]の優品が作られた。[[河北省]][[曲陽県]]にあった[[定窯]]の[[白磁]]も引き続き生産され、優れたものが多く見られる。北宋後期から金代にかけては型押しで施文した印花装飾がおこなわれた<ref name="yuba44">[[#弓場|弓場(1999)pp.44-50]]</ref>。定窯白磁は華北の[[磁器]]生産に大きな影響をあたえ、中原から東北・内蒙古にかけて数多くの模倣を生み出した<ref name="yuba44" />。また、最大の民窯であった[[磁州|磁州窯]]で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られたのも金代のことといわれる。磁州窯系では、とりわけ[[陶枕]]において絵画的意匠がさかんに取り入れられている<ref name="yuba44" />。
書画では、金皇帝の章宗が文人として傑出した存在であり<ref name="kakkokushi219" />、北宋の徽宗風の[[痩金体]]による書を能くした<ref name="meikan97">[[#名鑑|『中国書人名鑑』(2007)p.97]]</ref>。作品に「伝顧愷之女史箴図鑑」の女史箴がある<ref name="meikan97" />。章宗は、党懐英、[[王庭筠]]、{{仮リンク|趙秉文|zh|趙秉文}}などの文人を重用して文化振興に努めた<ref name="meikan97" />。王庭筠は詩文書画を能くし、その才能を愛した章宗によって翰林修撰に取り立てられ、宮中の書画の品評にもあたった<ref name="meikan96" /><ref name="wang">{{kotobank|王庭筠}}</ref>。
<gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="金代美術">
ファイル:Kin Dynasty (1115-1234) fresco in Ch'ung-fu Temple, Shuo-chou 15.jpg|金代の崇福寺壁画
ファイル:Zhang-Gui-Shen-gui-tu.jpg|張珪『神亀図』(1156-1161)
ファイル:文姬歸漢圖.jpg|張瑀『文姫帰漢図』(1200年頃):女真族のファッションで描かれた[[蔡琰|蔡文姫]]{{Refnest|group="注釈"|才色兼備で有名な古代中国の女性。}}
ファイル:Wood Bodhisattva 2.jpg|金代菩薩漆金彩木像([[上海博物館]])
ファイル:Guanyin, AK-MAK-84.jpg|金代[[観音菩薩]]木像([[アムステルダム国立美術館]])
ファイル:Jin (1115-1234 AD) White glaze Ewer decorated with floral motif.jpg|金代白磁水注
ファイル:Ding ware ewer, China, Jin dynasty, 1115-1234, glazed porcellanous ware - Royal Ontario Museum - DSC04246.JPG|金代白磁(定窯)
ファイル:Jin Dynasty tiger-shaped pillow.jpg|金代の白地鉄絵褐彩虎形陶枕(磁州窯)
ファイル:Jin dynasty double fish mirror.jpg|金代の双魚文銅鏡
ファイル:Jin gold plates.JPG|金代の黄金製品
ファイル:Jade ornament grapes jin dynasty shanghai museum 2004 07 22.jpg|金代の翡翠装飾
</gallery>
== 金の元号 ==
# [[収国]]([[1115年]] - [[1116年]])
# [[天輔 (金)|天輔]]([[1117年]] - [[1123年]])
# [[天会 (金)|天会]](1123年 - [[1137年]])
# [[天眷]]([[1138年]] - [[1140年]])
# [[皇統 (金)|皇統]]([[1141年]] - [[1149年]])
# [[天徳 (金)|天徳]](1149年 - [[1153年]])
# [[貞元 (金)|貞元]](1153年 - [[1156年]])
# [[正隆]](1156年 - [[1161年]])
# [[大定 (金)|大定]](1161年 - [[1189年]])
# [[明昌 (金)|明昌]]([[1190年]] - [[1196年]])
# [[承安 (金)|承安]](1196年 - [[1200年]])
# [[泰和 (金)|泰和]]([[1201年]] - [[1208年]])
# [[大安 (金)|大安]]([[1209年]] - [[1211年]])
# [[崇慶]]([[1212年]] - [[1213年]])
# [[至寧]](1213年)
# [[貞祐 (金)|貞祐]](1213年 - [[1217年]])
# [[興定]](1217年 - [[1222年]])
# [[元光 (金)|元光]](1222年 - [[1223年]])
# [[正大]]([[1224年]] - [[1231年]])
# [[開興]]([[1232年]])
# [[天興 (金)|天興]](1232年 - [[1234年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈|3}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=石橋崇雄|authorlink=石橋崇雄|year=2000|month=1|title=大清帝国|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4-06-258174-4|ref=石橋}}
* {{Citation|和書|author=梅村坦|authorlink=梅村坦|year=2008|month=6|chapter=第2部 中央ユーラシアのエネルギー|title=世界の歴史7 宋と中央ユーラシア|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-204997-0|ref=梅村}}
* {{Cite book|和書|author1=岡田英弘|authorlink1=岡田英弘|author2=神田信夫|authorlink2=神田信夫|author3=松村潤|authorlink3=松村潤|year=2006|month=5|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159784-1}}
** {{Citation|和書|author=松村潤|authorlink=松村潤|year=2006|chapter=第7章 大元伝国の璽|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=松村}}
* {{Cite book|和書|editor1=尾形勇|editor1-link=尾形勇|editor2=岸本美緒|year=1998|month=6|title=中国史|series=新版 世界各国史3|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4-634-41330-6}}
** {{Citation|和書|author1=宮澤知之|authorlink1=宮澤知之|author2=杉山正明|authorlink2=杉山正明|chapter=第4章 東アジア世界の変容|editor1=尾形|editor2=岸本|year=1998|title=中国史|series=新版 世界各国史3|publisher=山川出版社|ref=宮澤杉山}}
* {{Citation|和書|author=河内良弘|authorlink=河内良弘|year=1970|month=2|chapter=内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造|title=岩波講座 世界歴史9 中世3|publisher=[[岩波書店]]|ref=河内2}}
* {{Citation|和書|author1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|authorlink2=宮嶋博史|year=2008|month=9|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205054-9}}
** {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|year=2008|chapter=5章 華夷変態|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=中央公論新社|ref=岸本宮嶋}}
* {{Citation|和書|author=佐伯富|authorlink=佐伯富|editor=[[宮崎市定]]|year=1975|month=1|chapter=金国の侵入/宋の南渡|title=世界の歴史6 宋と元|series=中公文庫|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|ref=佐伯}}
* {{Cite book|和書|author=杉山正明|year=2008|month=8|chapter=第1部 はるかなる大モンゴル帝国|title=世界の歴史9 大モンゴルの時代|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205044-0|ref=杉山}}
* {{Cite book|和書|editor1=鈴木洋悦|editor1-link=鈴木洋悦|editor2=弓野隆之|editor2-link=弓野隆之|editor3=菅野智明|editor3-link=菅野智明|year=2007|month=9|title=中国書人名鑑|publisher=[[二玄社]]|isbn=978-4-544-01078-7|ref=名鑑}}
* {{Cite book|和書|editor1=長谷部楽爾|editor1-link=長谷部楽爾|year=1999|month=5|title=【カラー版】世界やきもの史|publisher=[[美術出版社]]|isbn=4-568-40049-X}}
** {{Citation|和書|author=弓場紀知|authorlink=弓場紀知|chapter=第4章 中国の陶磁II|editor=長谷部|year=1999|title=【カラー版】世界やきもの史|publisher=美術出版社|ref=弓場}}
* {{Cite book|和書|editor1=三上次男|editor1-link=三上次男|editor2=神田信夫|editor2-link=神田信夫|year=1989|month=9|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|isbn=4-634-44030-X}}
** {{Citation|和書|author=池上二良|authorlink=池上二良|chapter=第1部第III章2 東北アジアの言語分布の変遷|editor1=三上|editor2=神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=池上}}
** {{Citation|和書|author=河内良弘|chapter=第2部第I章2 契丹・女真|editor1=三上|editor2=神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=河内}}
* {{Cite book|和書|author=三田村泰助|authorlink=三田村泰助|year=1991|month=5|title=生活の世界歴史2 黄土を拓いた人びと|series=河出文庫|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=4-309-47212-5|ref=三田村}}
* {{Cite book|和書|author=宮脇淳子|authorlink=宮脇淳子|year=2018|month=10|title=モンゴルの歴史 - 遊牧民の誕生からモンゴル国まで -|series=刀水歴史全書59|publisher=[[刀水書房]]|isbn=978-4-88708-446-9|ref=宮脇}}
* {{Cite book|和書|editor1=村田治郎|editor1-link=村田治郎|editor2=田中淡|editor2-link=田中淡|year=1980|month=10|title=世界の文化史蹟 第17巻 中国の古建築|publisher=講談社|ref=古建築}}
* {{Cite book|和書|title=[[女真文辭典]]|author=[[金啓孮]]編著|publisher=[[文物出版社]]|date=1984|ref={{SfnRef|金啓孮|1984}}}}
* {{Cite book|和書|title=靖康稗史箋證・卷3|ref={{SfnRef|靖康稗史箋證}}}}
* {{Cite journal|和書|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac//repository/all/15110/KJ00005097220.pdf|title=モンゴルの対金朝外交|author=海老澤哲雄|authorlink=海老澤哲雄|date=1998-06|accessdate=2022-10-9|periodical=駒沢史學|volume=52|publisher=駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会|ref={{SfnRef|海老澤|1998}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Jin Dynasty (1115-1234)|金王朝 (1115-1234)}}
* [[金朝の君主一覧]]
* [[満洲民族]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|金(中国の王朝)}}
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[[Category:金朝|*]]
[[Category:中国の王朝]]
[[Category:満洲の歴史]]
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13,716 |
箱根観光船
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箱根観光船(はこねかんこうせん)は、神奈川県箱根町の芦ノ湖で運航する観光船。運航上の愛称は箱根海賊船(はこねかいぞくせん)で、海賊船風の船が就航している。
また、箱根観光船株式会社(英: Hakone Sightseeing Cruise Co.,Ltd.)は、これを運航している会社で、小田急箱根ホールディングスの完全子会社(小田急グループ)である。
開業当初、客船としては世界初の双胴船を運航している伊豆箱根鉄道に対して苦戦していたが、アメリカ合衆国のディズニーランドを視察した社長のアイデアにより、海賊船の導入を決定。
2013年の輸送人員は約182万人で、一般客が約135万人、団体客が約47万人となっている。また1990年代には約7万 - 8万人だった外国人客が約36万人に増加している。外国人客は台湾、タイ王国の順に多く、近年はイスラム諸国からの客が増加している。
これらの船舶は、いずれも臨海部の造船所で建造後、ブロックに分解されて芦ノ湖に運搬し、桃源台港にある同社船舶工場で再組み立てされて進水している。
芦ノ湖湖畔を中心に、飲食・宿泊施設を経営している。
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{{基礎情報 会社
|社名 = 箱根観光船株式会社
|英文社名 = Hakone Sightseeing Cruise Co.,Ltd.
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|画像 = Royal 20121110.jpg
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = ロワイヤル号
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
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|略称 = 箱根海賊船・海賊船
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 250-0045
|本社所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]城山1丁目15番1号<br />[[小田急箱根ビル]]
|本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 15|本社緯度秒 = 29.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
|本社経度度 = 139|本社経度分 = 9|本社経度秒 = 21.6|本社E(東経)及びW(西経) = E
|座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード = JP-14
|本店郵便番号 = 250-0521
|本店所在地 = 神奈川県[[足柄下郡]][[箱根町]]箱根161番地
|設立 = 1950年3月10日
|業種 = 倉庫・運輸関連業
|事業内容 = 湖沼水運業
|代表者 = 長峯 昭彦([[代表取締役]][[社長]])
|資本金 = 6000万円(2012年3月31日時点)
|売上高 =
|営業利益 =
|経常利益 =
|純利益 = 1億4407万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/78ee7/313287 箱根観光船株式会社 第74期決算公告]</ref>
|純資産 =
|総資産 = 24億6843万1000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|従業員数 =
|決算期 = [[3月31日|3月末日]]
|主要株主 = [[小田急箱根ホールディングス]] 100%
|主要子会社 = [[箱根プレザント]]
|関係する人物 =
|外部リンク = {{URL|https://www.hakonenavi.jp/hakone-kankosen/}}
|特記事項 =
}}
'''箱根観光船'''(はこねかんこうせん)は、[[神奈川県]][[箱根町]]の[[芦ノ湖]]で運航する[[遊覧船|観光船]]。運航上の愛称は'''箱根海賊船'''(はこねかいぞくせん)で、[[海賊]]船風の船が就航している。
また、'''箱根観光船株式会社'''({{Lang-en-short|Hakone Sightseeing Cruise Co.,Ltd.}})は、これを運航している会社で、[[小田急箱根ホールディングス]]の[[完全子会社]]([[小田急グループ]])である。
== 歴史 ==
開業当初、客船としては世界初の[[双胴船]]を運航している[[伊豆箱根鉄道]]に対して苦戦していたが、[[アメリカ合衆国]]の[[ディズニーランド]]を視察した社長のアイデアにより、海賊船の導入を決定。
* [[1964年]]7月 - 1630年代の[[フランス]]船「セント・フィリップス号」をモデルとした「パイオニア号」を[[日立造船]]に発注<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO76267980Y4A820C1000000/?df=2|title=小田急vs西武「箱根山戦争」が生んだ海賊船の50年 2/3|accessdate=2014-09-11|date=2014-08-30|publisher=『[[日本経済新聞]]』}}</ref>、就航して子どもたちの圧倒的な人気を得た。
* [[1980年]] - 17世紀の[[イギリス]][[戦列艦]]「[[ソブリン・オブ・ザ・シーズ]]」をモデルとした「ビクトリア号」就航。
* [[1987年]] - 17世紀のフランス戦列艦をモデルとした「ロワイヤル号」就航。
* [[1991年]]3月19日 - [[スウェーデン]]戦列艦「[[ヴァーサ (戦列艦)|ヴァーサ]]」をモデルとした「バーサ号」就航<ref name="nikkei3">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXMZO76267980Y4A820C1000000/?df=3|title=小田急vs西武「箱根山戦争」が生んだ海賊船の50年 3/3|accessdate=2014-09-11|date=2014-08-30|publisher=『日本経済新聞』}}</ref>。 入れ替わりに1964年就航の「パイオニア号」が退役。
* [[2007年]]3月20日 - イギリス戦列艦「[[ヴィクトリー_(戦列艦)|ヴィクトリー]]」をモデルとした「ビクトリー号」就航。入れ替わりに1980年就航の「ビクトリア号」が退役。
* 2007年5月10日 - [[関東地方]]の観光船で初めて[[グリーン経営認証]]を取得した<ref>[http://www.hakone-kankosen.co.jp/information/information197.html 「グリーン経営認証を更新いたしました。」(箱根観光船株式会社ホームページ)]</ref>。
* [[2013年]]3月20日 - フランス戦列艦「[[ロワイヤル・ルイ]]」をモデルとした「ロワイヤルII号」就航。入れ替わりに1987年就航の「ロワイヤル号」が退役。
* [[2019年]]4月25日 - [[ドーンデザイン研究所]]の[[水戸岡鋭治]]がデザインを担当した「クイーン芦ノ湖」就航。入れ替わりに1991年就航の「バーサ号」が退役。
2013年の輸送人員は約182万人で、一般客が約135万人、団体客が約47万人となっている。また1990年代には約7万 - 8万人だった外国人客が約36万人に増加している。外国人客は[[台湾]]、[[タイ王国]]の順に多く、近年は[[イスラム圏|イスラム諸国]]からの客が増加している<ref name="nikkei3"/>。
== 運航情報 ==
=== 停泊港 ===
* 2014年1月より、[[小田急小田原線]]・[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]](箱根登山電車)・[[箱根登山鉄道鋼索線|箱根登山ケーブルカー]]・[[箱根ロープウェイ]]から続く[[駅ナンバリング]]を各港に導入している<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します!]}} - 小田急電鉄、2013年12月24日</ref>。
* 全港[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]内に所在。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
! style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f15a22;" |港番号
! style="width:6em; border-bottom:solid 3px #f15a22;" |港名
! style=" border-bottom:solid 3px #f15a22;" |接続路線・備考
|-
!OH65
|[[桃源台駅|桃源台港]]
|[[箱根ロープウェイ]]:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px|OH]] 箱根ロープウェイ (OH65)
|-
!OH66
|[[箱根町港]]
|
|-
!OH67
|[[元箱根港]]
|
|-
!OH65
|桃源台港
|箱根ロープウェイ:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px|OH]] 箱根ロープウェイ (OH65)
|}
==== 過去 ====
* [[小田急山のホテル|山のホテル港]](回遊航路のみ)
=== 運航ルート ===
* 定期航路
** 海賊船風の「ビクトリー」「ロワイヤルII」「クイーン芦ノ湖」が就航。
** 桃源台→箱根町→元箱根→桃源台の周回を基本とする航路。一部便は逆の周回となっている。
==== 過去 ====
* 回遊航路
** [[外輪船]]風の「フロンティア」が就航。
** 箱根町 - 元箱根 - 山のホテル - 箱根町の周回を基本とする航路。
** [[2008年]][[11月24日]]をもって廃止<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20090220010425/http://hakone-kankosen.co.jp/topics/img/kaiyu-haishi-pdf.pdf 【お知らせ】回遊航路の廃止について]}} - 箱根観光船株式会社、2008年11月(2009年2月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
== 所有船 ==
=== 就航船 ===
* 海賊船風
** 「ビクトリー」 : [[2007年]](平成19年)[[3月20日]] - 定員 500名(うち特別船室 91名)
*** [[ユニバーサル造船]]建造
*** 全長 - 35m、全幅 - 10m、総トン数 - 282t、速力 - 10.5[[ノット]](最大速力 - 11.7ノット)、519馬力(387kW)x2
** 「ロワイヤルII」 : [[2013年]](平成25年)3月20日 - 定員 565名(うち特別船室 111名)
*** [[ジャパンマリンユナイテッド]]建造
*** 全長 - 35m、全幅 - 10m、総トン数 - 315t、速力 - 10.5ノット(最大速力 - 11.8ノット)、423[[馬力]](315kW)x2
** 「クイーン芦ノ湖」(QUEEN ASHINOKO) : [[2019年]]([[平成]]31年)[[4月25日]] - 定員 541名(うち特別船室 87名)
*** [[ジャパンマリンユナイテッド]]建造
*** 全長 - 35m、全幅 - 10m、総トン数 - 318t、速力 - 10.5ノット(最大速力 - 11.7ノット)、567馬力(423kW)x2
<gallery>
ファイル:Hakone_Sightseeing_Cruise,_Victory_02.jpg|「ビクトリー」
Hakone-loyal-II.JPG|「ロワイヤルII」
Queen Ashinoko 20190608 091925.jpg|「クイーン芦ノ湖」(2019年6月撮影)
</gallery>
=== 退役船 ===
; 普通船
:; 乙姫丸
:: [[1950年]](昭和25年) - [[1964年]](昭和39年)
:: 箱根観光船就航当時の船。当時は小型船だった。「パイオニア」と入れ替わりに退役。以降は海賊船風の大型の船舶に切り替え。
:; 早雲丸<ref name="明細書1985">日本船舶明細書 1985 (日本海運集会所 1984)</ref>
:: 1960年6月竣工、[[横浜ヨット]]建造
:: 281.22総トン、全長32.80m、型幅6.80m、型深さ2.53m、ディーゼル1基、機関出力320ps、航海速力10ノット、旅客定員570名
:; たいかん丸<ref name="明細書1985"/>
:: 1962年4月竣工、横浜ヨット建造
:: 250.00総トン、全長35.00m、型幅6.80m、型深さ2.59m、ディーゼル1基、機関出力320ps、航海速力10ノット、旅客定員623名
; 海賊船風
:; パイオニア<ref name="明細書1985"/>
:: [[1964年]](昭和39年) - 1991年(平成3年)
:: 1964年7月竣工、[[日立造船]]神奈川工場建造
:: 471.66総トン、全長33.90m、型幅10.00m、型深さ2.75m、ディーゼル1基、機関出力320ps、航海速力10ノット、旅客定員650名
:: 「バーサ」と入れ替わりに退役。
:; ビクトリア<ref name="明細書1985"/>
:: [[1980年]](昭和55年) - 2007年(平成19年)3月
:: 1980年3月竣工、[[日立造船]]神奈川工場建造
:: 498.99総トン、全長37.63m、型幅10.00m、型深さ2.89m、ディーゼル1基、機関出力700ps、航海速力10.9ノット、旅客定員650名
:: 「ビクトリー」と入れ替わりに退役。
:; ロワイヤル<ref name="明細書1997">日本船舶明細書 1997 (日本海運集会所 1996)</ref>
:: [[1987年]](昭和62年) - 2013年(平成25年)1月
:: 1987年3月竣工、[[日立造船]]神奈川工場建造
:: 315総トン、全長37.75m、型幅10.00m、型深さ2.89m、ディーゼル1基、機関出力700ps、航海速力10.9ノット、旅客定員650名
:: 「ロワイヤルII」と入れ替わりに退役。
:; バーサ<ref name="明細書1997"/>
:: [[1991年]](平成3年)[[3月19日]] - 2019年(平成31年)4月
:: 1991年2月竣工、[[日立造船]]神奈川工場建造
:: 308総トン、全長35.67m、型幅10.00m、型深さ2.90m、ディーゼル1基、機関出力700ps、航海速力10.5ノット、旅客定員650名(うち特別船室152名)
:: 「クイーン芦ノ湖」と入れ替わりに退役。
<gallery>
Pioneer_Hakonekankosen.jpg|パイオニア
庐之湖海盗船.JPG|ロワイヤル
Hakone Sightseeing Cruise, Vasa 02.jpg|バーサ
The-Hakone-Frontier.jpg|フロンティア(2008年11月撮影)
</gallery>
; 外輪船風
:; フロンティア
:: [[1996年]](平成8年) - 2008年(平成20年)11月23日 - 定員 350名
:: 回遊航路廃止のため退役<ref>[https://odawara-hakone.keizai.biz/headline/103/ 箱根・芦ノ湖「フロンティア号」がさよなら航海-回遊航路廃止に伴い] - 小田原箱根経済新聞 2008年11月25日。2018年8月2日閲覧。</ref>。
=== 建造 ===
これらの船舶は、いずれも臨海部の[[造船所]]で建造後、ブロックに分解されて芦ノ湖に運搬し、桃源台港にある同社船舶工場で再組み立てされて進水している。
<gallery>
Hakone Kankosen Victory2007 20061230 125850.jpg|就航3箇月前の「ビクトリー」遠景。写真右側の船は「バーサ」(2006年12月撮影)
Hakone Kankosen Victory2007 20061230 130202.jpg|就航3箇月前の「ビクトリー」(2006年12月撮影)
</gallery>
== その他事業 ==
芦ノ湖湖畔を中心に、飲食・宿泊施設を経営している。
* 桃源台ビューレストラン
** レストラン・土産
** [[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]元箱根164(桃源台のりば構内)
* そば処小田急あしのこ茶屋
** そば・うどん・土産
** 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根6-8(元箱根港前)
* Shake & Dog
** ホットドッグ・スイーツ・シェイク
** 神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300([[強羅駅]]構内)
* 茶屋本陣 畔屋
** レストラン・甘味・土産
** 神奈川県足柄下郡箱根町箱根161-1(箱根町港前)
* FUJIMI CAFE
** ハンバーガー・パンガレット・スイーツ
** [[静岡県]][[御殿場市]]深沢1816([[乙女峠 (神奈川県・静岡県)|乙女峠]])
* 小田急箱根レイクホテル
** レストラン・宿泊・土産
** 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根164(桃源台)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[箱根山戦争]]
* [[芦ノ湖遊覧船]] - [[富士急行]]グループの箱根遊船株式会社が運営する航路。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Ships of Hakone Kankosen}}
* [https://www.odakyu-hakone.jp/group/ 小田急箱根グループ会社紹介] - [[小田急箱根ホールディングス]]公式サイト(箱根観光船の会社紹介を含む)
* [https://www.hakonenavi.jp/hakone-kankosen/ 箱根海賊船] - 箱根ナビ Powered by 小田急箱根グループ
* [https://www.hakone-lakehotel.com/ 小田急箱根レイクホテル]
{{小田急グループ}}
{{DEFAULTSORT:はこねかんこうせん}}
[[Category:日本の遊覧船]]
[[Category:神奈川県の観光地]]
[[Category:日本の株式会社]]
[[Category:小田原市の企業]]
[[Category:小田急箱根グループ]]
[[Category:芦ノ湖]]
[[Category:箱根町の交通]]
|
2003-08-22T00:42:31Z
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2023-11-30T11:54:54Z
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13,719 |
遼
|
遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。
中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。
建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。
現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。
太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
さらに2代耶律徳光は五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。
宋の太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。
6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り「澶淵の盟」を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。
女真は次第に強大になり、1115年には自らの金王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。
この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。
遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。
北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。
南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。
この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。
遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。
遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(→複都制)。
首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の大興安嶺山脈の麓)の南に置かれた。遼の五京制は、女真(ジュシェン)国家の金朝にも引き継がれた。
中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある。
また日本側の『中右記』によれば寛治6年(1092年)9月13日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で検非違使から取り調べを受けている。
続いて、嘉保2年(1094年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。
なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。
『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には
「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」
との一文がある。
993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するためにはじめて高麗に進攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。
その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に、高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。
高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道郭山郡)を攻陥した。
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"text": "その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。",
"title": "歴史"
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"text": "女真は次第に強大になり、1115年には自らの金王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。",
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"text": "この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。",
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"text": "遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。",
"title": "政治"
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"text": "北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。",
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"text": "南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。",
"title": "政治"
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"text": "この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。",
"title": "政治"
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"text": "遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。",
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"text": "遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(→複都制)。",
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"text": "首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の大興安嶺山脈の麓)の南に置かれた。遼の五京制は、女真(ジュシェン)国家の金朝にも引き継がれた。",
"title": "政治"
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"text": "中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある。",
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"text": "また日本側の『中右記』によれば寛治6年(1092年)9月13日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で検非違使から取り調べを受けている。",
"title": "日本との関係"
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"text": "続いて、嘉保2年(1094年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。",
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"text": "なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。",
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"text": "『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には",
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"text": "「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」",
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"text": "との一文がある。",
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"text": "993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するためにはじめて高麗に進攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。",
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"text": "その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に、高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。",
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"text": "高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道郭山郡)を攻陥した。",
"title": "高麗との関係"
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] |
遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。 中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。
|
{{出典の明記|date=2020年10月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 =大遼
|日本語国名 =遼
|公式国名 =契丹國<br>[[ファイル:契丹國.png|80px]]
|建国時期 = [[916年]]
|亡国時期 = [[1125年]]
|先代1 = 契丹
|先旗1 = blank.png
|先代2 = 唐
|先旗2 = blank.png
|先代3 = 渤海 (国)
|先旗3 = blank.png
|先代4 = 後晋
|先旗4 = blank.png
|次代1 = 金 (王朝)
|次旗1 = blank.png
|次代2 = 西遼
|次旗2 = blank.png
|次代3 = 北遼
|次旗3 = blank.png
|次代4 = 南遼
|次旗4 = blank.png
|次代5 = カムク・モンゴル
|次旗5 = blank.png
|国旗画像 =
|位置画像 = KhitanAD1000.png
|位置画像説明 = 遼の最大版図(1000年頃)
|位置画像幅 = 290
|公用語 = [[契丹語]]、[[中古音|中古漢語]]
|宗教 = [[仏教]]、[[道教]]、[[アニミズム]]
|首都 = [[上京臨潢府]](現[[バイリン左旗]])
|元首等肩書 = [[中国帝王一覧|皇帝]]
|元首等年代始1 = 916年
|元首等年代終1 = 926年
|元首等氏名1 = [[耶律阿保機|太祖]]
|元首等年代始2 = 927年
|元首等年代終2 = 947年
|元首等氏名2 = [[耶律堯骨|太宗]]
|元首等年代始3 = 947年
|元首等年代終3 = 951年
|元首等氏名3 = [[世宗 (遼)|世宗]]
|元首等年代始4 = 951年
|元首等年代終4 = 969年
|元首等氏名4 = [[穆宗 (遼)|穆宗]]
|元首等年代始5 = 969年
|元首等年代終5 = 982年
|元首等氏名5 = [[景宗 (遼)|景宗]]
|元首等年代始6 = 982年
|元首等年代終6 = 1031年
|元首等氏名6 = [[聖宗 (遼)|聖宗]]
|元首等年代始7 = 1031年
|元首等年代終7 = 1055年
|元首等氏名7 = [[興宗 (遼)|興宗]]
|元首等年代始8 = 1055年
|元首等年代終8 = 1101年
|元首等氏名8 = [[道宗 (遼)|道宗]]
|元首等年代始9 = 1101年
|元首等年代終9 = 1125年
|元首等氏名9 = [[天祚帝]]
|面積測定時期1 = 947年
|面積値1 = 2,600,000
|面積測定時期2 = 1111年
|面積値2 = 4,500,000
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = 916年3月17日
|変遷2 = 国号を「遼」と改称する
|変遷年月日2 = 947年2月24日
|変遷3 = [[契丹の高麗侵攻|高麗侵攻]]
|変遷年月日3 = 993年-1020年
|変遷4 = [[北宋]]と[[澶淵の盟]]を締結する
|変遷年月日4 = 1004年
|変遷5 = [[金 (王朝)|金]]によって滅亡
|変遷年月日5 = 1125年3月26日
|変遷6 = [[耶律大石|徳宗]]が[[西遼]]を建国する
|変遷年月日6 = 1132年
|通貨 = [[銅銭]]、[[紙幣]]
|現在 = {{PRC}}<br>{{MNG}}<br>{{RUS}}<br>{{PRK2}}
|注記 =
}}
{{中華圏の事物
|タイトル= 遼
|画像種別=
|画像=
|画像の説明=
|簡体字= 辽
|繁体字= 遼
|ピン音= Liáo
|注音符号=
|ラテン字=
|広東語=
|上海語=
|台湾語=
|カタカナ=
|英文=
}}
{{中国の歴史}}
'''遼'''(りょう)は、'''遼朝'''(りょうちょう)ともいい、[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]を中心に[[中国]]の北辺を支配した[[契丹|契丹人]](キタイ人)[[耶律氏]](ヤリュート氏)の[[征服王朝]]である。[[916年]]から[[1125年]]まで続いた。
[[中原]]に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝([[金 (王朝)|金]]・[[元 (王朝)|元]]・[[清]]が続く)とされる。ただし、領有したのは[[燕雲十六州]]と[[遼寧省|遼寧]]のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。
== 名称 ==
建国当初の[[国号]]は'''大契丹国'''(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは[[947年]]である。さらに[[983年]]には再び契丹に戻され、[[1066年]]にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。
== 歴史 ==
[[File:11世紀のアジア.png|360px|thumb|11世紀のアジア]]
{{モンゴルの歴史}}
現在の内モンゴル自治区の東南部、[[遼河]]の上流域にいた契丹族の[[耶律阿保機]](太祖)が[[907年]]、契丹[[可汗]]の位について勢力を蓄え、[[916年]]に[[天皇 (三皇)|天皇帝]]と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。
太祖耶律阿保機は西は[[モンゴル高原]]東部の[[モンゴル民族|モンゴル族]]を攻め、[[926年]]東は[[渤海 (国)|渤海]]を滅ぼして[[東丹国]]を建て、[[満州]]からモンゴル高原東部までに及ぶ[[帝国]]を作り上げた。
さらに2代[[耶律徳光]]は[[五代十国時代|五代]]の[[後晋]]から[[華北]]の[[北京市|北京]]・[[大同市|大同]]近辺([[燕雲十六州]])の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼は[[モンゴル高原]]の遊牧民統治機構([[北面官]])と[[宋 (王朝)|宋]]式の定住民統治機構([[南面官]])を持つ二元的な国制を発展させ、最初の[[征服王朝]]と評価されている。
[[宋 (王朝)|宋]]の[[太宗 (宋)|太宗]]は[[燕雲十六州]]の奪還をもくろんで、[[北伐|北伐軍]]を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。
6代[[聖宗 (遼)|聖宗]]は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。[[1004年]]、再び宋へ遠征軍を送り「[[澶淵の盟]]」を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の[[絹]]と[[銀]]を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の[[西夏]]を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている[[女真|女真族]]などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。
[[女真]]は次第に強大になり、[[1115年]]には自らの[[金 (王朝)|金]]王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。
この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は[[1125年]]に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の[[耶律大石]]に率いられて[[中央アジア]]に移住し、[[西遼]](カラ・キタイ)を立てた(他に王族の[[耶律淳]]の[[北遼]]や[[13世紀]]に成立した旧王族[[耶律留哥]]の[[東遼]]などもある)。
== 政治 ==
遼の政治体制は、[[遊牧民]]と[[農耕民族|農耕民]]をそれぞれ別の法で治める[[二元政治]]であり、契丹族を代表とする遊牧民には[[北面|北面官]]があたり、[[燕雲十六州]]の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。
北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。
南面官の機関は南枢密院を頂点とし、[[三省六部]]や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。
この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを[[宋 (王朝)|宋]]の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、[[滅亡]]の原因の一端となった。
遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる[[徴兵制度|徴兵制]]を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って[[遠征|遠征軍]]に入ることもあった。
{{満州の歴史}}
=== 地方行政 ===
遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(→[[複都制]])<ref name="miyawaki60">[[#宮脇|宮脇(2018)pp.60-62]]</ref>。
* 上京[[臨潢府]](現在の[[内モンゴル自治区]][[赤峰市]][[バイリン左旗]]南波羅城)…キタイ人の本拠
* 東京[[遼陽府]](現在の[[遼寧省]][[遼陽市]])…[[渤海 (国)|渤海]]人の中心地
* 中京[[大定府]](現在の内モンゴル自治区赤峰市[[寧城県]])…[[奚]]人の中心地
* 西京[[大同府]](現在の[[大同市]])…[[沙陀族|沙陀]][[チュルク系民族|チュルク人]]の中心地
* 南京[[析津府]]([[燕京]]:現在の[[北京市]])
首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の[[大興安嶺山脈]]の麓)の南に置かれた<ref name="miyawaki60" />。遼の五京制は、[[女真]](ジュシェン)国家の[[金 (王朝)|金朝]]にも引き継がれた<ref name="miyawaki60" />。
== 日本との関係 ==
中国(遼)と[[日本]]との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年([[925年]])冬十月[[庚辰]]に「日本国、来貢す」との一文がある<ref>{{Cite book|和書|editor=杉山正明|editor-link=杉山正明|date=2021-02-09|title=中国の歴史8 疾走する草原の征服者|series=|publisher=[[講談社]]|ISBN=978-4062060165|page=91}}</ref>。
また日本側の『[[中右記]]』によれば[[寛治]]6年([[1092年]])[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で[[検非違使]]から取り調べを受けている<ref>{{Cite book|和書|author=野口実|authorlink=野口実|date=2015-10-09|title=東国武士と京都|series=同成社 中世史選書|publisher=[[同成社]]|ISBN=4886217117|page=93}}</ref>。
続いて、[[嘉保]]2年([[1094年]])[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]、[[大宰帥|前大宰権帥]]の[[正二位]][[権官|権]][[中納言]][[藤原伊房]]が[[対馬国|前対馬守]][[藤原敦輔]]と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は[[従二位]]に降格の上、敦輔は[[従五位|従五位下]]の[[位階]]を剥奪された<ref>{{Cite book|和書|editor1-first=裕子|editor1-last=池上|editor1-link=池上裕子|editor2-first=哲男|editor2-last=小和田|editor2-link=小和田哲男|editor3-first=清治|editor3-last=小林|editor3-link=小林清治|editor4-first=享|editor4-last=池|editor4-link=池享|date=1995-12-01|title=クロニック戦国全史|series=|publisher=[[講談社]]|ISBN=978-4065223109|page=201}}</ref>。
なお、[[平将門]]が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。
『[[将門記]]』によれば、[[939年]]の[[承平天慶の乱]]の折、将門が時の[[太政大臣]]・[[藤原忠平]]の四男の[[藤原師氏]]に当てた奏状には
「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る[[延長 (元号)|延長]]年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に[[渤海国]]を討ち取り、[[東丹国]]を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」
との一文がある<ref>{{Cite book|和書|editor=杉山正明|editor-link=杉山正明|date=2021-02-09|title=中国の歴史8 疾走する草原の征服者|series=|publisher=[[講談社]]|ISBN=978-4062060165|pages=83-84}}</ref>。
== 高麗との関係 ==
[[993年]]、契丹は[[鴨緑江|鴨緑江以南]]の[[高句麗]]の故地を獲得するためにはじめて[[高麗]]に進攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。
その後、[[顕宗 (高麗王)|顕宗元年]]([[1010年]])に至る時期に、高麗は契丹に[[方物]]を献じ、[[契丹語]]を習い、[[結婚|婚]]を請い、[[貨幣|幣]]を納め、[[冊封]]を乞い、[[誕生日|生辰]]を賀するなどの修好をおこなった<ref name="愛新覚羅烏拉熙春9" />。『[[高麗史]]』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している<ref name="愛新覚羅烏拉熙春9" />。
[[高麗王]][[顕宗 (高麗王)|顕宗]]が即位すると、契丹は[[王殺し|康兆の弑君]]を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の[[聖宗 (遼)|聖宗]]は高麗に親征し、この年([[1010年]])十二月[[郭山郡|郭州]](現在の[[朝鮮民主主義人民共和国]][[平安北道]]郭山郡)を攻陥した<ref name="愛新覚羅烏拉熙春9">{{Cite news|author=[[愛新覚羅烏拉熙春|吉本智慧子]]|date=2008-12|title=Original meaning of Dan gur in Khitai scripts: with a discussion of state name of the Dong Dan Guo|publisher=[[立命館大学人文学会]]|newspaper=立命館文學 (609)|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/yosimoto.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161019143454/http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/yosimoto.pdf|format=PDF|archivedate=2016-10-19|page=9}}</ref>。
== 遼の皇帝 ==
{|class="wikitable"
! colspan=7 style="background: #ccf;" | 契丹と遼 [[907年]] - [[1125年]]
|-
!廟号
!諡号
!漢名
!契丹名
!常用名称
!在位時間
!年号
|-
|style="white-space: nowrap"|太祖
|大聖大明神烈天皇帝
|億
|style="white-space: nowrap"|阿保機
|style="white-space: nowrap"|[[耶律阿保機]]
|[[907年]] - [[926年]]7月
|{{plainlist|
* [[神冊]] [[916年]]12月 - [[922年]]1月
* [[天賛]] 922年2月 - 926年2月
* [[天顕]] 926年2月 }}
|-
|─
|淳欽皇后
|平
|月里朶
|[[述律平]]
|926年7月 - [[927年]]11月
|天顕 926年 - 927年
|-
|太宗
|孝武恵文皇帝
|徳光
|堯骨
|[[耶律堯骨|耶律徳光]]
|926年11月 - [[947年]]4月
|{{plainlist|
* 天顕 [[927年]] - [[938年]]11月
* [[会同]] 938年 - 947年1月
* [[大同 (遼)|大同]] 947年2月 - 9月 }}
|-
|世宗
|孝和荘憲皇帝
|阮
|兀欲
|[[世宗 (遼)|耶律阮]]
|947年4月 - [[951年]]9月
|[[天禄 (遼)|天禄]] 947年9月 - 951年9月
|-
|穆宗
|孝安敬正皇帝
|璟/明
|述律
|[[穆宗 (遼)|耶律璟]]
|951年9月 - [[969年]]2月
|[[応暦]] 951年9月 - 969年2月
|-
|景宗
|孝成康靖皇帝
|賢
|明扆
|[[景宗 (遼)|耶律賢]]
|969年2月 - [[982年]]9月
|{{plainlist|
* [[保寧]] 969年2月 - [[979年]]11月
* [[乾亨 (遼)|乾亨]] 979年11月 - [[983年]]6月 }}
|-
|聖宗
|文武大孝宣皇帝
|隆緒
|文殊奴
|[[聖宗 (遼)|耶律隆緒]]
|982年9月 - [[1031年]]6月
|{{plainlist|
* [[統和]] 983年6月 - [[1012年]]閏10月
* [[開泰 (遼)|開泰]] 1012年11月 - [[1021年]]11月
* [[太平 (遼)|太平]] 1021年11月 - 1031年6月 }}
|-
|興宗
|神聖孝章皇帝
|宗真
|只骨
|[[興宗 (遼)|耶律宗真]]
|1031年6月 - [[1055年]]8月
|{{plainlist|
* [[景福 (遼)|景福]] 1031年6月 - [[1032年]]11月
* [[重熙]] 1032年11月 - 1055年8月 }}
|-
|道宗
|孝文皇帝
|洪基
|査剌
|[[道宗 (遼)|耶律洪基]]
|1055年8月 - [[1101年]]1月
|{{plainlist|
* [[清寧]] 1055年8月 - [[1064年]]
* [[咸雍]] [[1065年]] - [[1074年]]
* [[太康 (遼)|太康]] [[1075年]] - [[1084年]]
* [[太安 (遼)|太安]] [[1085年]] - [[1095年]]
* [[寿昌]] 1095年 - 1101年1月 }}
|-
|─
|─
|延禧
|阿果
|[[天祚帝|耶律延禧]]
|1101年2月 - [[1125年]]2月
|{{plainlist|
* [[乾統 (遼)|乾統]] 1101年2月 - [[1110年]]
* [[天慶 (遼)|天慶]] [[1111年]] - [[1120年]]
* [[保大 (遼)|保大]] [[1121年]] - 1125年 }}
|-
! colspan=7 style="background: #ccf;" | 南遼 [[1122年]]
|-
!廟号
!諡号
!漢名
!契丹名
!常用名称
!在位時間
!年号
|-
|宣宗
|
|淳
|涅里
|[[耶律淳]]
|1122年3月 - 6月
|[[建福 (北遼)|建福]] 1122年3月 - 6月
|-
|─
|─
|定
|─
|[[耶律定]]([[摂政]]:[[蕭普賢女]])
|1122年6月 - 12月
|[[徳興]] 1122年6月 - 12月
|-
! colspan=7 style="background: #ccf;" | 北遼 [[1123年]]
|-
|─
|─
|─
|雅里
|[[耶律雅里]]
|1123年5月 - 10月
|[[神暦]] 1123年5月 - 10月
|-
|─
|─
|─
|朮烈
|[[耶律朮烈]]
|1123年10月 - 11月
|神暦 1123年10月 - 11月
|-
! colspan=7 style="background: #ccf;" | 西遼 [[1132年]] - [[1218年]]
|-
!廟号
!諡号
!漢名
!契丹名
!常用名称
!在位時間
!年号
|-
|徳宗
|
|─
|大石
|[[耶律大石]]
|[[1124年]]7月 - [[1143年]]
|{{plainlist|
* [[延慶 (西遼)|延慶]] [[1132年]]2月 - [[1134年]]
* [[康国]] 1134年 - 1143年 }}
|-
|仁宗
|
|─
|夷列
|[[耶律夷列]]
|[[1151年]] - [[1163年]]
|[[紹興 (西遼)|紹興]] 1151年 - 1163年
|-
|─
|
|─
|直魯古
|[[耶律直魯古]]
|[[1179年]] - [[1211年]]
|[[天禧 (西遼)|天禧]] 1179年 - 1211年
|-
|─
|
|─
|屈出律
|[[クチュルク|屈出律]]
|[[1212年]] - [[1218年]]
|天禧 1212年 - 1218年
|}
=== 系図 ===
* 遼史より
{{familytree/start|style="font-size:90%;"}}
{{familytree |ABK | | | | | | | | | | | | | | | | |ABK=<sup>(1)</sup>太祖{{0}}<br>'''[[耶律阿保機]]'''}}
{{familytree | |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | }}
{{familytree |TY | |GK | |RK | |GRK | | | | |TY=<sup>(追)</sup>義宗{{0}}<br>[[耶律突欲]]|GK=<sup>(2)</sup>太宗{{0}}<br>'''[[耶律堯骨]]'''|RK=<sup>(追)</sup>章肅帝{{0}}<br>[[耶律李胡]]|GRK={{仮リンク|耶律牙里果|zh|耶律牙里果|label=耶律牙里果<br> }}}}
{{familytree | |!| | | |!| | | |!| | | |:| | | | | | }}
{{familytree |KY | |JR | |KI | | |:| | | | | |KY=<sup>(3)</sup>世宗{{0}}<br>'''[[世宗 (遼)|耶律兀欲]]'''|JR=<sup>(4)</sup>穆宗{{0}}<br>'''[[穆宗 (遼)|耶律述律]]'''|KI=宋王<br>[[耶律喜隠]]}}
{{familytree | |!| | | | | | | | | | | |:| | | | | | }}
{{familytree | K01 | | | | | | | | | | |:| | | | | |K01=<sup>(5)</sup>景宗{{0}}<br>'''[[景宗 (遼)|耶律明扆]]'''}}
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{{familytree |BSD | | | | | | | | | | |:| | | | | |BSD=<sup>(6)</sup>聖宗{{0}}<br>'''[[聖宗 (遼)|耶律文殊奴]]'''}}
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{{familytree |SK | |JG | |GK | | |:| | | | | |SK=<sup>(7)</sup>興宗{{0}}<br>'''[[興宗 (遼)|耶律只骨]]'''|JG=秦王<br>[[耶律重元]]|GK=燕王<br>[[耶律呉哥]]}}
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{{familytree |SS | |WRK | | |:| | | |:| | | | | |SS=<sup>(8)</sup>道宗{{0}}<br>'''[[道宗 (遼)|耶律査剌]]'''|WRK=宋魏王<br>[[耶律和魯斡]]}}
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{{familytree |Shun | | O02 | | |:| | | |!| | | | | |Shun=<sup>(追)</sup>順宗{{0}}<br>[[耶律濬]]|O02=<sup>(北1)</sup>宣宗<br>'''[[耶律淳]]'''}}
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{{familytree/end}}{{朝鮮の歴史}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考資料 ==
* {{Cite book|和書|author1=葛華廷|author2=高雅輝|date=2013|title=耶律淳政権“世号為北遼”之説質疑|series=遼金歴史与考古 第四輯|publisher=遼寧教育出版社}}
* {{Cite book|和書|editor1-first=裕子|editor1-last=池上|editor1-link=池上裕子|editor2-first=哲男|editor2-last=小和田|editor2-link=小和田哲男|editor3-first=清治|editor3-last=小林|editor3-link=小林清治|editor4-first=享|editor4-last=池|editor4-link=池享|date=1995-12-01|title=クロニック戦国全史|series=|publisher=[[講談社]]|ISBN=978-4062060165}}
* {{Cite book|和書|editor=杉山正明|editor-link=杉山正明|date=2021-02-09|title=[[中国の歴史 (講談社)|中国の歴史]]8 疾走する草原の征服者|series=|publisher=[[講談社学術文庫]]|ISBN=978-4065223109}}
* {{Cite book|和書|author=宮脇淳子|authorlink=宮脇淳子|year=2018|month=10|title=モンゴルの歴史 - 遊牧民の誕生からモンゴル国まで -|series=刀水歴史全書59|publisher=[[刀水書房]]|isbn=978-4-88708-446-9|ref=宮脇}}
* 『[[遼史]]』
== 関連項目 ==
*[[南遼]]
*[[北遼]]
*[[東遼]]
*[[西遼]]
*[[燕雲十六州]]
*[[契丹]]
*[[契丹の高麗侵攻]]
*[[契丹文字]]
*[[契丹国志]]
*[[高麗]]
*[[五代十国時代]]
*[[西夏]]
*[[澶淵の盟]]
*[[テュルク諸語]]
*[[東丹国]]
*[[北宋]]
*[[モンゴル諸語]]
*[[耶律氏]]
*[[遊牧民]]
*{{仮リンク|全モンゴル|en|Khamag Mongol|label=全モンゴリア}}
{{五代十国}}
{{Normdaten}}
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[[Category:遼朝|*]]
[[Category:契丹|*りよう]]
[[Category:モンゴルの歴史]]
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[[Category:中国の王朝]]
[[Category:10世紀]]
[[Category:11世紀]]
[[Category:12世紀]]
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13,721 |
伊豆国
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伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。
伊豆国の記載は記紀や六国史には見られない。「国造本紀」によれば、神功皇后の時に服部氏族の伊豆国造を定めたが、孝徳天皇の時に駿河国に合わせ、天武天皇の時に再び元のように分けたという。また『扶桑略記』によれば、天武天皇9年(680年)7月駿河国から2郡(田方郡と賀茂郡か)を分割して伊豆国としたという。また藤原宮跡出土の木簡に「伊豆国仲郡」とあることから、遅くとも和銅3年(710年)までの間に那賀郡が成立していることになる。
しかし伊豆国が成立後に一旦駿河国に併合されたという「国造本紀」の記述には積極的な裏付けがないとする意見がある。伊豆は前方後円墳や前方後方墳がそれほどなく独立勢力があったと考えにくいということから、天武天皇9年まで伊豆は駿河国の支配下にあったと考える説がある。ただし波多国造、都佐国造、島津国造、久比岐国造、洲羽国造のように国造が設置されれば必ず大型の古墳が多数築造されたわけではない。一方、賀茂郡について氏族構成などの独自性を認め、大化改新以前に伊豆国造の支配する伊豆国が存在していたとする論考もある。
律令法においては遠流の対象地となった。これは伊豆諸島が隠岐・佐渡と並んで辺境の島であると考えられ、伊豆半島はその入り口とされた事が背景にあると言われている。
戦国時代には堀越公方の足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊勢盛時(北条早雲)が伊豆の国主となる。江戸時代(文禄から元禄の間)に君沢郡が分けられ、4郡となった。中世、金の産出では東北地方と並んでいた。
なお、伊豆諸島については律令制においては賀茂郡に属していたが、江戸時代に入ると江戸幕府の直轄とされた。
国司が政務を執る国庁が置かれた国府は、『和名類聚抄』によれば田方郡にあった。仁治3年(1242年)以後に成立した『東関紀行』には、「伊豆の國府(こふ)に到りぬれば、三島の社の...」とあり、現在の三島市に鎮座する三嶋大社の近くに所在したとみられるが、国府跡はまだ発掘されていない。
延喜式内社
総社・一宮以下
そのほか、三島市北田町の楊原神社を三宮とする説、三島市大社町の日隅神社を五宮とする説がある。
国府に重なるか近隣にあったと推定されるが未詳。
※官位相当:従六位下※定員:1名 ※日付は旧暦のもの ※在任期間中、「」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
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] |
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
|
{{Otheruses|令制国の伊豆国|地域名としての伊豆|伊豆半島|[[静岡県]]にある市|伊豆の国市}}
{{基礎情報 令制国
|国名 = 伊豆国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|伊豆国}}
|別称 = 豆州(ずしゅう)<ref group="注釈">[[伊勢国]](勢州)や[[伊予国]](予州)との重複を回避するため二文字目を用いる。「伊州」は[[伊賀国]]を指すが、[[伊東市]]のように伊豆国を指して「伊」と略す事例も稀に存在する。</ref>
|所属 = [[東海道]]
|領域 = [[静岡県]][[伊豆半島]]、[[東京都]][[伊豆諸島]]
|国力 = [[下国]]
|距離 = [[中国 (令制国)|中国]]
|郡 = 3郡21郷(近世頃から4郡)
|国府 = (推定)静岡県[[三島市]]
|国分寺 = 静岡県三島市([[伊豆国分寺|伊豆国分寺塔跡]])
|国分尼寺 = 静岡県三島市
|一宮 = [[三嶋大社]](静岡県三島市)
}}
'''伊豆国'''(いずのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。
* [[静岡県]]
** [[熱海市]]の大部分(泉・泉元門川分・泉元宮上分を除く<ref group="注釈">泉・泉元門川分・泉元宮上分は[[相模国]]であったが、[[1878年]]([[明治]]11年)に伊豆国に編入。</ref>)
** [[伊東市]]
** [[三島市]]
** [[田方郡]][[函南町]]の大部分(日守を除く<ref group="注釈">日守は[[駿河国]]であったが、[[1889年]](明治22年)に伊豆国に編入。</ref>)
** [[伊豆の国市]]
** [[伊豆市]]
** [[沼津市]]の南部(内浦重寺以南)
** [[賀茂郡]][[東伊豆町]]・[[河津町]]・[[南伊豆町]]・[[松崎町]]・[[西伊豆町]]
** [[下田市]]
* [[東京都]]
** [[伊豆諸島]]([[大島町]]・[[利島村]]・[[新島村]]・[[神津島村]]・[[三宅村]]・[[御蔵島村]]・[[八丈町]]・[[青ヶ島村]])
== 沿革 ==
[[ファイル:Izu no kuni rotation Tempo Kuniezu Izu no kuni Frame 1.jpg|thumb|250px|「伊豆國」(『天保國繪圖』[[天保]]9年)。原図では西が上になっているが、90度左回転させて北を上にして表示している]]
伊豆国の記載は[[記紀]]や[[六国史]]には見られない。「[[国造本紀]]」によれば、[[神功皇后]]の時に[[服部氏]]族の[[伊豆国造]]を定めたが、[[孝徳天皇]]の時に[[駿河国]]に合わせ、[[天武天皇]]の時に再び元のように分けたという。また『[[扶桑略記]]』によれば、天武天皇9年([[680年]])7月駿河国から2郡([[田方郡]]と[[賀茂郡]]か)を分割して伊豆国としたという。また[[藤原宮]]跡出土の木簡に「伊豆国仲郡」とあることから、遅くとも[[和銅]]3年([[710年]])までの間に[[那賀郡 (静岡県)|那賀郡]]が成立していることになる。
しかし伊豆国が成立後に一旦駿河国に併合されたという「国造本紀」の記述には積極的な裏付けがないとする意見がある。伊豆は[[前方後円墳]]や[[前方後方墳]]がそれほどなく独立勢力があったと考えにくいということから、天武天皇9年まで伊豆は駿河国の支配下にあったと考える説がある<ref>{{Cite book|和書|author=仁藤敦史|authorlink=仁藤敦史|chapter=伊豆国造と伊豆国の成立|title=古代国家と東国社会|editor=千葉歴史学会|publisher=高科書店|year=1994|series=千葉史学叢書|volume=1|pages=143-166|id={{全国書誌番号|94066841}}}}</ref>。ただし[[波多国造]]、[[都佐国造]]、[[島津国造]]、[[久比岐国造]]、[[洲羽国造]]のように国造が設置されれば必ず大型の古墳が多数築造されたわけではない。一方、賀茂郡について氏族構成などの独自性を認め、[[大化改新]]以前に伊豆国造の支配する伊豆国が存在していたとする論考もある<ref>{{cite journal|和書|author=[[篠川賢]]|year=1999|title=伊豆国造再論|journal=日本常民文化紀要|volume=20|pages=85-109|url=http://id.nii.ac.jp/1109/00000451/ }}</ref>。
[[律令法]]においては[[遠流]]の対象地となった。これは[[伊豆諸島]]が[[隠岐国|隠岐]]・[[佐渡国|佐渡]]と並んで辺境の島であると考えられ、[[伊豆半島]]はその入り口とされた事が背景にあると言われている。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[堀越公方]]の[[足利茶々丸]]を攻め滅ぼし、伊勢盛時([[北条早雲]])が伊豆の国主となる。江戸時代([[文禄]]から[[元禄]]の間)に[[君沢郡]]が分けられ、4郡となった。中世、金の産出では[[東北地方]]と並んでいた。
なお、伊豆諸島については律令制においては賀茂郡に属していた<ref>『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220。「伊豆国」の項目(P75.)。</ref>が、[[江戸時代]]に入ると[[江戸幕府]]の直轄とされた。
=== 近代以降の沿革 ===
* 「旧高旧領取調帳」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(287村・83,557石余)。[[天領|幕府領]]は[[韮山代官所]]が管轄。[[藩|藩領]]はすべて[[飛地]]領。なお、同帳に記載されていないが、[[伊豆諸島]]は幕府直轄であった。
** [[君沢郡]](70村・22,945石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、[[相模国|相模]][[小田原藩]]、相模[[荻野山中藩]]、[[駿河国|駿河]][[沼津藩]]
** [[田方郡]](69村・25,233石余) - 幕府領、旗本領、相模小田原藩、相模荻野山中藩、駿河沼津藩、[[三河国|三河]][[西端藩]]
** [[賀茂郡]](130村・30,754石余) - 幕府領、旗本領、相模小田原藩、相模荻野山中藩、駿河沼津藩、[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]、三河西端藩
** [[那賀郡 (静岡県)|那賀郡]](18村・4,623石余) - 旗本領、遠江掛川藩
* [[1868年]]([[慶応]]4年)
** [[5月24日 (旧暦)|5月24日]] - [[徳川将軍家|徳川宗家]]が[[駿府藩|駿河府中藩]]に転封。それにともない遠江・駿河・伊豆国内で領地替えが行われ、国内の荻野山中藩領、西端藩領が消滅。
** 6月 - 小田原藩の領地替えによって国内の小田原藩領が消滅。
** [[6月29日 (旧暦)|6月29日]] - 新政府が韮山代官所に'''[[韮山県]]'''を設置。幕府領・旗本領および伊豆諸島を管轄。
** [[7月13日 (旧暦)|7月13日]] - 沼津藩が[[上総国]][[菊間藩]]に転封。
* 1868年(明治元年)
** [[11月7日 (旧暦)|11月7日]] - 掛川藩が上総国[[柴山藩]]に転封。
** 以上の変更により、全域が韮山県の管轄となる。
* [[1871年]](明治4年)[[11月14日 (旧暦)|11月14日]] - 第1次府県統合により全域が'''[[足柄県]]'''の管轄となる。
* [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - 第2次府県統合により全域が'''[[静岡県]]'''の管轄となる。
* [[1878年]](明治11年)[[1月11日]] - 伊豆諸島を'''[[東京府]]'''に移管。
* [[1943年]]([[昭和]]18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行により伊豆諸島が'''[[東京都]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
国司が政務を執る国庁が置かれた[[国府]]は、『[[和名類聚抄]]』によれば田方郡にあった。仁治3年([[1242年]])以後に成立した『[[東関紀行]]』には、「伊豆の國府(こふ)に到りぬれば、三島の社の…」とあり<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/tokan.htm]。</ref>、現在の[[三島市]]に鎮座する[[三嶋大社]]の近くに所在したとみられるが、国府跡はまだ発掘されていない。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[伊豆国分寺|伊豆国分寺跡]] (三島市泉町)
:: 塔跡は国の史跡。跡地上の[[伊豆国分寺|最勝山国分寺]](本尊:釈迦如来、{{Coord|35|07|12.30|N|138|54|35.06|E|region:JP-22_type:landmark|name=伊豆国分寺(塔跡、後継寺院)}})が法燈を伝承する。
* [[伊豆国分尼寺|伊豆国分尼寺跡]]
:: 未詳。三島市二日町の[[曹洞宗]]法華寺周辺の市ケ原廃寺、六ノ条廃寺などに比定される。法燈は、曹洞宗三島山法華寺(三島市東本町({{Coord|35|07|03.80|N|138|55|16.27|E|region:JP-22_type:landmark|name=法華寺(国分尼寺後継)}})、本尊:阿弥陀如来)が受け継ぐ。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社5座5社・小社87座83社の計92座88社が記載されている([[伊豆国の式内社一覧]]参照)。大社5社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
* [[賀茂郡]] 伊豆三島神社
** 比定社:[[三嶋大社]](静岡県三島市、{{Coord|35|07|20.61|N|138|55|07.77|E|region:JP-22_type:landmark|name=伊豆国一宮、伊豆国総社、名神大社:伊豆三島神社(三嶋大社)}})
* 賀茂郡 伊古奈比咩命神社
** 比定社:[[伊古奈比咩命神社]] (静岡県下田市、{{Coord|34|41|37.21|N|138|58|22.87|E|region:JP-22_type:landmark|name=名神大社:伊古奈比咩命神社(白浜神社)}})
* 賀茂郡 物忌奈命神社
** 比定社:[[物忌奈命神社]] (東京都神津島村、{{Coord|34|12|30.65|N|139|08|21.77|E|region:JP-13_type:landmark|name=名神大社:物忌奈命神社}})
* 賀茂郡 阿波神社
** 比定社:[[阿波命神社]] (東京都神津島村、{{Coord|34|13|45.38|N|139|08|21.77|E|region:JP-13_type:landmark|name=名神大社:阿波神社(阿波命神社)}})
* [[田方郡]] 楊原神社
** 比定社:[[楊原神社]] (静岡県沼津市、{{Coord|35|05|08.19|N|138|52|16.40|E|region:JP-22_type:landmark|name=名神大社:楊原神社}})
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 160-162。</ref>。
* 総社:[[三嶋大社]] (三島市大宮町)
* 一宮:三嶋大社
* 二宮:[[三嶋大社#摂社|二宮八幡宮]] (三嶋大社境内摂社の若宮神社、{{Coord|35|7|20.39|N|138|55|6.89|E|region:JP-22_type:landmark|name=伊豆国元二宮:二宮八幡宮(三嶋大社境内社)}})
*: 三島市西若町付近からの遷座という。二宮八幡宮の遷座に伴い、浅間神社(三宮)の二宮格上げがあったとされる。
* 三宮:[[浅間神社 (三島市)|浅間神社]] (三島市芝本町、{{Coord|35|7|22.97|N|138|54|49.13|E|region:JP-22_type:landmark|name=伊豆国三宮のち二宮:浅間神社}}) - のち二宮。
* 四宮:[[三嶋大社#元摂末社|広瀬神社]] (三島市一番町、{{Coord|35|7|21.48|N|138|54|42.80|E|region:JP-22_type:landmark|name=伊豆国四宮:広瀬神社}})
そのほか、三島市北田町の[[三嶋大社#元摂末社|楊原神社]]を三宮とする説、三島市大社町の[[三嶋大社#元摂末社|日隅神社]]を五宮とする説がある<ref>現地説明板。</ref>。
=== 守護所 ===
国府に重なるか近隣にあったと推定されるが未詳。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 未詳
* 利生塔 - [[修禅寺|曹洞宗肖盧山修禅寺]] (静岡県[[伊豆市]][[修善寺町|修善寺]]、本尊:大日如来)
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[那賀郡 (静岡県)|那賀郡]]
*[[賀茂郡]]
*[[君沢郡]]
*[[田方郡]]
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 伊豆守 ====
※官位相当:従六位下※定員:1名 ※日付は旧暦のもの ※在任期間中、「」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
*[[御長仲継]](大同元年〈806年〉2月10日 - )従五位下
*[[大伴人益]](大同元年〈806年〉2月16日 - )従五位下
*(権守)[[藤原真夏]](弘仁元年〈810年〉9月10日 - 弘仁元年〈810年〉9月15日)正四位下
*(権守)[[礒野王]](弘仁元年〈810年〉9月15日 - )従五位上
*[[氷上河継]](弘仁3年〈812年〉1月12日 - )従五位下
*[[上毛野清湍]](天長11年〈834年〉1月12日 - )外従五位下
*[[飯高常比麻呂]](承和7年〈840年〉1月30日 - )外従五位下
*[[高原王]](承和7年〈840年〉3月5日 - )従五位下
*[[神服清継]](承和12年〈845年〉1月11日 - )外従五位下
*[[高村武主]](嘉祥2年〈849年〉2月27日 - )外従五位下
*[[高原王]](仁寿2年〈852年〉11月7日 - )従五位上
*[[津良友]](斉衡3年〈856年〉9月27日 - )従五位下
*[[善道継根]](貞観3年〈861年〉1月13日 - )従五位下
*[[長峯恒範]](貞観8年〈866年〉1月13日 - 866〈貞観8年〉1月23日)外従五位下
*[[善道根莚]](貞観12年〈870年〉1月15日 - )外従五位下
*[[山口岑世]](仁和3年〈887年〉2月2日 - )外従五位下
*[[源忠]](延喜15年〈915年〉1月12日 - 延喜20年〈920年〉9月21日)従五位上
*[[内蔵連忠]](天延2年〈974年〉4月10日 - )
*(権守)[[高階信綱]](長徳2年〈996年〉4月24日 - )
*[[惟宗茂経]](永承8年〈1053年〉1月 - )
*[[橘則経]](延久4年〈1072年〉 - )
*[[源国房]](嘉保3年〈1096年〉1月23日 - )
*[[大江通国]](康和6年〈1104年〉2月6日 - 「嘉承2年〈1107年〉1月19日」)
*[[中原宗政]](嘉承3年〈1108年〉1月24日 - 「天仁2年〈1109年〉12月24日」)
*[[平祐俊]](天永3年〈1112年〉1月27日 - )
*[[平経兼]](永久4年〈1116年〉1月 - )従五位上
*[[源盛雅]](保安5年〈1124年〉1月22日~大治2年〈1127年〉12月重任 - )
*[[藤原為兼]](天承2年〈1132年〉1月22日 - )
*[[藤原信方]](久安4年〈1148年〉1月28日 - 仁平元年〈1151年〉)
*[[藤原経房]](仁平元年〈1151年〉7月24日 - 保元3年〈1158年〉11月26日)従五位下→従五位上
*[[平義範]](保元3年〈1158年〉11月26日 - )従五位上
*[[源頼政]](平治元年〈1159年〉12月10日 - )従五位上
*[[源仲綱]]
*[[源頼兼]]
*[[源頼貞]]
*[[源政義]]
*[[源氏兼]]
*[[源頼隆]]従五位下
*[[山名義範|新田(山名)義範]] (文治元年(1185年)8月任官 - 建久6年(1195年)10月7日以後不明)
*[[森頼定]]正五位下
*[[森氏清]]
==== 伊豆介 ====
*[[工藤茂光]]
*[[北条時方]]
*[[北条時政]]
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1185年 - 1195年 : [[北条時政]]
*1210年 - 1219年 : [[北条義時]]
*1227年 - 1231年 : [[北条泰時]]
*1272年 - 1279年 : [[北条時宗]]
*1279年 - ? : [[北条時守]]
*1292年 - 1311年 : [[北条貞時]]
*1311年 - 1333年 : [[北条高時]]
==== 室町幕府 ====
*1337年 - 1338年 : [[石塔義房]]
*1346年 - 1349年 : [[上杉重能]]
*1349年 - 1351年 : 高氏
*1351年 - ? : 石塔義房
*1352年 - 1361年 : [[畠山国清]]
*1362年 - 1367年 : [[高坂氏重]]
*1369年 - 1376年 : [[上杉能憲]]
*1376年 - 1394年 : [[上杉憲方]]
*1395年 - 1412年 : [[上杉憲定]]
*1417年 - 1418年 : [[上杉憲基]]
*1419年 - 1439年 : [[上杉憲実]]
=== 戦国時代 ===
==== 戦国大名 ====
*[[後北条氏]]:1493年、初代[[北条早雲]]が伊豆に討ち入り、1497年には平定した。後に相模小田原に本拠を移し、関東8カ国250万石の大大名となるが、1590年[[豊臣秀吉]]に敗れ戦国大名としての北条家は滅亡
==== 豊臣政権の大名 ====
*[[徳川家康]]:1590年、北条氏の旧領を受け継ぎ、伊豆も家康の領国となった
**[[内藤信成]]:[[韮山城|韮山]]1万石、1590年 - 1601年(関ヶ原の戦い後、[[駿府藩]]4万石に移封)
=== 武家官位としての伊豆守 ===
*[[武田信政]]:[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]第六代当主。
*[[武田信武]]:甲斐武田氏の第十代当主。
*[[武田信春]]:甲斐武田氏の第十二代当主。
*[[荒川長実]]
*[[竹中重利]]
*[[真田信之]](文禄2年〈1593年〉9月1日 - 万治元年〈1658年〉7月16日)従五位下→従四位下。[[上野国]][[沼田藩]]藩主→[[信濃国]][[松代藩]]藩主。
*[[松平信綱]](元和9年〈1623年〉12月30日 - 寛文2年〈1662年〉3月16日)従五位下→従四位下。老中。[[武蔵国]][[忍藩]]藩主→武蔵国[[川越藩]]主。知恵伊豆。
*[[真田幸道]](寛文9年〈1669年〉12月25日 - 享保12年〈1727年〉5月27日)従五位下→従四位下。信濃国松代藩の第三代藩主。
*[[松平信輝]](寛文12年〈1672年〉12月28日 - 宝永6年〈1709年〉6月18日)従五位下。武蔵国川越藩主→[[下総国]][[古河藩]]主→[[遠江国]][[浜松藩]]主。
*[[松平信祝]](宝永6年〈1709年〉7月1日 - 延享元年〈1744年〉4月19日)従五位下→従四位下。老中。遠江国浜松藩主。
*[[永井直陳]](1714年〈正徳4年〉12月28日 - )従五位下
*[[真田信弘]](享保12年〈1727年〉7月19日 - 享保15年〈1730年〉7月22日)従五位下。信濃国松代藩の第四代藩主。
*[[松平信復]](延享元年〈1744年〉6月10日 - 明和5年〈1768年〉9月22日)従五位下。三河国浜松藩主→三河国吉田藩主。
*[[真田信安]](延享元年〈1744年〉6月18日 - 宝暦2年〈1752年〉4月29日)従五位下。信濃国松代藩の第五代藩主。
*[[真田幸弘]](宝暦5年〈1755年〉12月18日 - 天明3年〈1783年〉4月18日)従五位下。信濃国松代藩の第六代藩主。
*[[松平信礼]]:(明和5年〈1768年〉12月17日 - 明和7年〈1769年〉6月20日)従五位下。奏者番。三河国吉田藩主。
*[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]](安永6年〈1777年〉12月18日 - 文化14年〈1817年〉9月29日)従五位下→従四位下。老中。三河国吉田藩主。小知恵伊豆。
*[[真田幸専]](文政6年〈1798年〉 - 天保8年〈1837年〉)信濃国松代藩の第七代藩主。
*[[市橋長発]](1814年? - 1822年?)従五位下近江仁正寺藩第8代藩主。
*[[松平信順]](文化14年〈1817年〉10月 - 天保13年〈1842年〉12月)従五位下→従四位下。老中。三河国吉田藩主。
*[[真田幸貫]](文政6年〈1823年〉10月 - 天保8年〈1837年〉1月)従五位下。老中。信濃国松代藩の第八代藩主。
*[[松平信宝 (三河吉田藩主)|松平信宝]](天保13年〈1842年〉12月 - 天保15年〈1844年〉)従五位下。三河国吉田藩主。
*[[松平信璋]](天保15年〈1844年〉12月 - 嘉永2年〈1849年〉)従五位下。三河国吉田藩主。
*[[真田幸教]](嘉永2年〈1849年〉12月 - 嘉永5年〈1852年〉5月)従五位下。信濃国松代藩の第九代藩主。
*[[大河内信古|松平信古]](嘉永2年〈1849年〉12月 - )従五位下→従四位下。大坂城代。三河国吉田藩主。
== 脚注 ==
===注釈===
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===出典===
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== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 22 静岡県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
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* [[伊豆諸島]]
* [[伊豆市]]
* [[伊豆の国市]]
* [[伊東市]]
* [[堀越公方]]
* [[松平伊豆守]]
{{令制国一覧}}
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13,722 |
北区 (東京都)
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北区(きたく)は、東京都の区部北部に位置する特別区。
東京23区の北部に位置し、東西に約2.9km、南北に約9.3kmと南北に細長い形状で、面積は20.59平方キロメートルと東京23区中第11位。
北は荒川および荒川放水路を隔てて埼玉県川口市、戸田市に、東は荒川区と隅田川を隔てて足立区に、西は板橋区に、南は文京区、豊島区に接する。尚、区南端から台東区の区界までは100m程の近距離にある。
田端の大部分と中里の一部はJR山手線の内側に位置する。都県境に接しつつ山手線内のエリアを共有しているのは、23区では唯一である。
明治通り、環七通り(東京都道318号環状七号線)、環八通り(東京都道311号環状八号線)、中山道、本郷通りという幹線道路が通っており、千代田区などの都心へのアクセスは比較的便利である。また、JRの駅数が23区中で最も多く(10駅)、区内のほとんどの住宅地が駅からの徒歩圏内にある。特に区北部に位置する赤羽駅はJRが4路線乗り入れる交通の結節点である。
北区は地理的に概ね、東北本線(宇都宮線・京浜東北線)を境に南西側は武蔵野台地の北東端にあたり、北東側は荒川の沖積平野にある。
平成27年度国勢調査(2015)で夜間人口は341,076人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は329,753人で昼は夜の0.97倍の人口になる
王子区・滝野川区の合併した新区の名称については、「城北区」「京北区」「飛鳥山区」「赤羽区」「武蔵野区」「田端区」「十条区」「王龍区」「龍王区」、また瑞祥地名として「桜区」「紅葉区」「花園区」などが候補としてあげられていた。中でも「飛鳥山区」は大きな支持を受けていたが、読みが難解であるという議論が上がりより簡潔で平易な方角地名に帰した。
行政の成り立ちから、王子地区、赤羽地区、ならびに滝野川地区に区分されている。
当区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。
1986年3月15日に平和都市宣言を行った。
以下3市と交流を有する。1995年(平成7年)10月には3市と災害時相互応援協定を締結。1997年(平成9年)4月19日に「北とぴあ」において3市との友好都市交流協定の調印をおこなった。
北区の病院・診療所 歯科診療所一覧
東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅の数が11駅と23区内で最多である。
交通機関のうち、特に鉄道は赤羽に一極集中している。また、東北新幹線が赤羽駅以南は京浜東北線と、以北は埼京線と並走する。
なお、都営地下鉄三田線、日暮里・舎人ライナーもわずかに区内を通るが、いずれも駅はない。
2路線運行しているが、乗入は日中の2本と月 - 金曜日の深夜バス1本とごく僅か。
かつて存在していた幼稚園
北区における工産の発端は、江戸幕府末期に滝野川反射炉が、現在の醸造試験所跡地公園の場所に設営されたこととされている。また、この反射炉(大砲工場)の建設が、北区が明治期より昭和中期に至る時期に軍都となるきっかけになった。この滝野川反射炉への用水の供給を目的に掘削された、王子分水の水力が利用できることから、王子地区に鹿島紡績所、王子製紙が明治初期に開設され、この出来事が昭和中期までに紙業・食品製造業などの消費財生産業が発達する先駆けとなった。
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北区(きたく)は、東京都の区部北部に位置する特別区。
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{{東京都の特別区
|画像 = Asukayama Park.jpg
|画像の説明 = [[飛鳥山公園]]
|区旗 = [[ファイル:Flag of Kita, Tokyo.svg|border|100px]]
|区旗の説明 = 北[[市町村旗|区旗]]
|区章 = [[ファイル:Emblem of Kita, Tokyo.svg|75px]]
|区章の説明 = 北[[市町村章|区章]]<br />[[1952年]][[7月1日]]制定
|自治体名 = 北区
|コード = 13117-2
|隣接自治体 = [[文京区]]、[[豊島区]]、[[板橋区]]、[[荒川区]]、[[足立区]]<br />[[埼玉県]]:[[川口市]]、[[戸田市]]
|木 = [[サクラ]]<br />(1972年12月25日制定)
|花 = [[ツツジ]]<br />(1972年12月25日制定)
|シンボル名 =区歌
|鳥など =「北区のうた」<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11449462/www.city.kita.tokyo.jp/yoran/documents/kitacitysong.mp3]</ref>
|郵便番号 = 114-8508
|所在地 = 北区[[王子本町]]一丁目15番22号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title|name=北区}}<br/>[[ファイル:Kita Ward Office (Tokyo).JPG|250px|center|北区役所]]
|外部リンク = {{Official website}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|117|image=Kita-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
|特記事項 =
}}
'''北区'''(きたく)は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]北部に位置する[[特別区]]<ref>大辞林 第三版</ref>。
== 地理 ==
[[東京都区部|東京23区]]の北部に位置し、東西に約2.9km、南北に約9.3kmと南北に細長い形状で、面積は20.59[[平方キロメートル]]と東京23区中第11位。
北は[[荒川 (関東)|荒川]]および荒川放水路を隔てて[[埼玉県]][[川口市]]、[[戸田市]]に、東は[[荒川区]]と[[隅田川]]を隔てて[[足立区]]に、西は板橋区に、南は[[文京区]]、[[豊島区]]に接する。尚、区南端から[[台東区]]の区界までは100m程の近距離にある。
[[田端 (東京都北区)|田端]]の大部分と[[中里 (東京都北区)|中里]]の一部は[[山手線|JR山手線]]の内側に位置する。都県境に接しつつ山手線内のエリアを共有しているのは、23区では唯一である。
[[明治通り (東京都)|明治通り]]、環七通り([[東京都道318号環状七号線]])、環八通り([[東京都道311号環状八号線]])、[[中山道]]、[[本郷通り (東京都)|本郷通り]]という幹線道路が通っており、[[千代田区]]などの[[都心]]へのアクセスは比較的便利である。また、[[東日本旅客鉄道|JR]]の駅数が23区中で最も多く(10駅)、区内のほとんどの住宅地が駅からの徒歩圏内にある。特に区北部に位置する[[赤羽駅]]はJRが4路線乗り入れる交通の結節点である。
北区は地理的に概ね、[[東北本線]]([[宇都宮線]]・[[京浜東北線]])を境に南西側は[[武蔵野台地]]の北東端にあたり、北東側は荒川の[[沖積平野]]にある。
=== 河川・湖沼 ===
* 河川
** [[荒川 (関東)|荒川]]
** [[新河岸川]]
** [[隅田川]]
** [[石神井川]](音無川)
** [[石神井川#谷田川|谷田川]] - [[明治|明治時代]]より[[溝渠#暗渠|暗渠]]になっている。
** [[稲付川]](北耕地川)
** [[谷端川]] - かつて、区内では滝野川付近を流れていた河川。学校、公園名に名残がある。
** 王子分水 - 幕末に[[千川上水]]から、現在の滝野川6-9-1(明治通り)の位置で分水され王子方面に掘削された上水。
* 湖沼
** [[浮間公園|浮間ヶ池]]
== 人口 ==
{{人口統計|code=13117|name=北区|image=Population distribution of Kita, Tokyo, Japan.svg}}
===昼夜間人口===
平成27年度国勢調査(2015)で夜間人口は341,076人であるが、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内に昼間残留する[[人口]]の合計である[[昼間人口]]は329,753人で[[昼]]は[[夜]]の0.97倍の人口になる
== 歴史 ==
=== 区の沿革 ===
* [[1932年]]([[昭和]]7年)[[10月1日]] [[東京府]][[北豊島郡]][[岩淵町]]・[[王子町]]・滝野川町が[[東京市]]に編入され、岩淵町と王子町は[[王子区]]、滝野川町は単独で[[滝野川区]]となる。
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] [[東京都制]]施行で東京都王子区・滝野川区となる。
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] 王子区・滝野川区の合併で北区が発足。
=== シンボルなど ===
* [[1952年]](昭和27年)[[7月1日]] 紋章制定。「北」の字を図案化して、円形に翼形を付し、力強くダイナミックで飛躍する北区の将来を表徴する、という。1952年7月1日告示第44号。
* [[1996年]](平成8年)[[4月3日]] コミュニケーションマーク制定。北区側によれば、「さくら」の花びらで北区のイニシャル「K」をデザインしたもので、「花いっぱいの北区」をイメージした。北区のイメージを明るいさくら色に転換させるものである。また輪のつながりは「交通」のネットワーク、そして区民、企業、区を訪れる人々と区のコミュニケーションや交流を表し、さらに、さくらの開花は、春の生命の息吹、「誕生」や出発をイメージさせる。なお、「さくら」「K」とも世界中の人々にわかりやすく、国際的なデザインといえる、という。当区内の駅などに積極的に用いられている。
==== 区歌 ====
* [[1990年]](平成2年)[[1月28日]] 制定。北区のうた(作詞:井関謙、作曲:[[團伊玖磨]])
:※この曲にあわせて軽度の運動をする北区オリジナルの健康体操として「北区さくら体操」が[[2003年]](平成15年)に公開され、[[北ケーブルネットワーク|北Qチャンネル]]では連日放送されている(2011年現在)。
===区名の由来===
[[王子区]]・[[滝野川区]]の合併した新区の名称については、「城北区」「京北区」「飛鳥山区」「赤羽区」「武蔵野区」「田端区」「十条区」「王龍区」「龍王区」、また[[瑞祥地名]]として「桜区」「紅葉区」「花園区」などが候補としてあげられていた。中でも「飛鳥山区」は大きな支持を受けていたが、読みが難解であるという議論が上がりより簡潔で平易な[[方角地名]]に帰した。
==町名==
===赤羽区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+赤羽区民事務所管内(38町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:15%"|町区域新設年月日
!style="width:15%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[赤羽]]'''|あかばね}}'''一丁目'''
|1971年7月1日
|
|赤羽町1・2、岩淵町1・2、袋町2、稲付町1・3
|
|-
|'''赤羽二丁目'''
|1971年7月1日
|
|赤羽町1・2、岩淵町1・2、袋町2、稲付町1・3
|
|-
|'''赤羽三丁目'''
|1972年2月1日
|
|赤羽町1・2、岩淵町1・2、袋町2、稲付町1・3
|
|-
|'''赤羽四丁目'''
|1964年6月15日
|
|袋町1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[赤羽北]]'''|あかばねきた}}'''一丁目'''
|1964年6月15日
|
|袋町1〜3
|
|-
|'''赤羽北二丁目'''
|1964年6月15日
|
|袋町1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[赤羽台]]'''|あかばねだい}}'''一丁目'''
|1965年11月1日
|
|赤羽台1・2(全)、赤羽町2・3・5、袋町1〜3
|
|-
|'''赤羽台二丁目'''
|1965年11月1日
|
|赤羽台1・2(全)、赤羽町2・3・5、袋町1〜3
|
|-
|'''赤羽台三丁目'''
|1964年6月15日
|
|赤羽台1・2(全)、赤羽町2・3・5、袋町1〜3
|
|-
|'''赤羽台四丁目'''
|1964年6月15日
|
|赤羽台1・2(全)、赤羽町2・3・5、袋町1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[赤羽西]]'''|あかばねにし}}'''一丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付町4・5(全)、稲付庚塚町(全)、稲付島下町、稲付町2・3、稲付西町1・2・6、赤羽町1・2・4・5、赤羽台2
|
|-
|'''赤羽西二丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付町4・5(全)、稲付庚塚町(全)、稲付島下町、稲付町2・3、稲付西町1・2・6、赤羽町1・2・4・5、赤羽台2
|
|-
|'''赤羽西三丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付町4・5(全)、稲付庚塚町(全)、稲付島下町、稲付町2・3、稲付西町1・2・6、赤羽町1・2・4・5、赤羽台2
|
|-
|'''赤羽西四丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付町4・5(全)、稲付庚塚町(全)、稲付島下町、稲付町2・3、稲付西町1・2・6、赤羽町1・2・4・5、赤羽台2
|
|-
|'''赤羽西五丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付町4・5(全)、稲付庚塚町(全)、稲付島下町、稲付町2・3、稲付西町1・2・6、赤羽町1・2・4・5、赤羽台2
|
|-
|'''赤羽西六丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付町4・5(全)、稲付庚塚町(全)、稲付島下町、稲付町2・3、稲付西町1・2・6、赤羽町1・2・4・5、赤羽台2
|
|-
|{{ruby|'''[[赤羽南]]'''|あかばねみなみ}}'''一丁目'''
|1971年7月1日
|
|稲付町1〜3、岩淵町2、赤羽町1
|
|-
|'''赤羽南二丁目'''
|1971年7月1日
|
|稲付町1〜3、岩淵町2、赤羽町1
|
|-
|{{ruby|'''[[岩淵町 (東京都北区)|岩淵町]]'''|いわぶちまち}}
|1972年2月1日
|
|岩淵町1、赤羽町1
|
|-
|{{ruby|'''[[浮間]]'''|うきま}}'''一丁目'''
|1966年10月1日
|
|浮間町(全)
|
|-
|'''浮間二丁目'''
|1966年10月1日
|
|浮間町(全)
|
|-
|'''浮間三丁目'''
|1966年10月1日
|
|浮間町(全)
|
|-
|'''浮間四丁目'''
|1966年10月1日
|
|浮間町(全)
|
|-
|'''浮間五丁目'''
|1966年10月1日
|
|浮間町(全)
|
|-
|{{ruby|'''[[西が丘]]'''|にしがおか}}'''一丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付西町3〜5、稲付梅木町、稲付出井頭町(以上全)、稲付西町1・2・6、稲付西山町、稲付島下町
|
|-
|'''西が丘二丁目'''
|1965年11月1日
|
|稲付西町3〜5、稲付梅木町、稲付出井頭町(以上全)、稲付西町1・2・6、稲付西山町、稲付島下町
|
|-
|'''西が丘三丁目'''
|1971年7月1日
|
|稲付西町3〜5、稲付梅木町、稲付出井頭町(以上全)、稲付西町1・2・6、稲付西山町、稲付島下町
|
|-
|'''西が丘四丁目'''
|1971年7月1日
|
|稲付西町3〜5、稲付梅木町、稲付出井頭町(以上全)、稲付西町1・2・6、稲付西山町、稲付島下町
|
|-
|{{ruby|'''[[上中里]]'''|かみなかざと}}'''一丁目'''
|1965年7月1日
|
|上中里1・2(全)、上中里町(全)
|
|-
|'''上中里二丁目'''
|1965年7月1日
|
|上中里1・2(全)、上中里町(全)
|
|-
|'''上中里三丁目'''
|1966年2月1日
|
|上中里1・2(全)、上中里町(全)
|
|-
|{{ruby|'''[[桐ケ丘 (東京都北区)|桐ケ丘]]'''|きりがおか}}'''一丁目'''
|968年5月15日
|
|赤羽町3・5、袋町1・3
|
|-
|'''桐ケ丘二丁目'''
|1964年6月15日
|
|赤羽町3・5、袋町1・3
|
|-
|{{ruby|'''[[志茂]]'''|しも}}'''一丁目'''
|1967年5月1日
|
|志茂1〜5
|町名は1957年成立、直前は志茂町1〜3
|-
|'''志茂二丁目'''
|1967年5月1日
|
|志茂1〜5
|町名は1957年成立、直前は志茂町1〜3
|-
|'''志茂三丁目'''
|1967年5月1日
|
|志茂1〜5
|町名は1957年成立、直前は志茂町1〜3
|-
|'''志茂四丁目'''
|1967年5月1日
|
|志茂1〜5
|町名は1957年成立、直前は志茂町1〜3
|-
|'''志茂五丁目'''
|1967年5月1日
|
|志茂1〜5
|町名は1957年成立、直前は志茂町1〜3
|-
|}
{{Reflist|group="a"}}
===王子区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+王子区民事務所管内(43町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:15%"|町区域新設年月日
!style="width:15%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[王子 (東京都北区)|王子]]'''|おうじ}}'''一丁目'''
|1965年7月1日
|
|王子1・4(全)、王子2・3・5
|
|-
|'''王子二丁目'''
|1965年7月1日
|
|王子1・4(全)、王子2・3・5
|
|-
|'''王子三丁目'''
|1965年7月1日
|
|王子1・4(全)、王子2・3・5
|
|-
|'''王子四丁目'''
|1965年7月1日
|
|王子1・4(全)、王子2・3・5
|
|-
|'''王子五丁目'''
|1965年7月1日
|
|王子1・4(全)、王子2・3・5
|
|-
|'''王子六丁目'''
|1965年7月1日
|
|王子1・4(全)、王子2・3・5
|
|-
|{{ruby|'''[[王子本町]]'''|おうじほんちょう}}'''一丁目'''
|1966年11月15日
|
|王子本町1・2(全)、王子本町3、下十条町
|
|-
|'''王子本町二丁目'''
|1966年11月15日
|
|王子本町1・2(全)、王子本町3、下十条町
|
|-
|'''王子本町三丁目'''
|1966年11月15日
|
|王子本町1・2(全)、王子本町3、下十条町
|
|-
|{{ruby|'''[[上十条]]'''|かみじゅうじょう}}'''一丁目'''
|1966年11月15日
|
|上十条2〜5(全)、上十条町、上十条1、下十条町、十条仲原2、稲付西山町
|
|-
|'''上十条二丁目'''
|1967年5月1日
|
|上十条2〜5(全)、上十条町、上十条1、下十条町、十条仲原2、稲付西山町
|
|-
|'''上十条三丁目'''
|1967年5月1日
|
|上十条2〜5(全)、上十条町、上十条1、下十条町、十条仲原2、稲付西山町
|
|-
|'''上十条四丁目'''
|1967年5月1日
|
|上十条2〜5(全)、上十条町、上十条1、下十条町、十条仲原2、稲付西山町
|
|-
|'''上十条五丁目'''
|1967年5月1日
|
|上十条2〜5(全)、上十条町、上十条1、下十条町、十条仲原2、稲付西山町
|
|-
|{{ruby|'''[[十条台]]'''|じゅうじょうだい}}'''一丁目'''
|1966年11月15日
|
|下十条町、王子本町3
|
|-
|'''十条台二丁目'''
|967年5月1日
|
|下十条町、王子本町3
|
|-
|{{ruby|'''[[十条仲原]]'''|じゅうじょうなかはら}}'''一丁目'''
|1967年5月1日
|
|十条仲原1・3・4(全)、十条仲原2
|
|-
|'''十条仲原二丁目'''
|1967年5月1日
|
|十条仲原1・3・4(全)、十条仲原2
|
|-
|'''十条仲原三丁目'''
|1967年5月1日
|
|十条仲原1・3・4(全)、十条仲原2
|
|-
|'''十条仲原四丁目'''
|1967年5月1日
|
|十条仲原1・3・4(全)、十条仲原2
|
|-
|{{ruby|'''[[中十条]]'''|なかじゅうじょう}}'''一丁目'''
|1966年11月15日
|
|中十条1〜4(全)、上十条1
|
|-
|'''中十条二丁目'''
|1966年11月15日
|
|中十条1〜4(全)、上十条1
|
|-
|'''中十条三丁目'''
|1966年11月15日
|
|中十条1〜4(全)、上十条1
|
|-
|'''中十条四丁目'''
|1966年11月15日
|
|中十条1〜4(全)、上十条1
|
|-
|{{ruby|'''[[東十条]]'''|ひがしじゅうじょう}}'''一丁目'''
|1964年12月1日
|
|東十条1〜6(全)、上十条町、王子5、神谷町1、稲付町2
|
|-
|'''東十条二丁目'''
|1964年12月1日
|
|東十条1〜6(全)、上十条町、王子5、神谷町1、稲付町2
|
|-
|'''東十条三丁目'''
|1964年12月1日
|
|東十条1〜6(全)、上十条町、王子5、神谷町1、稲付町2
|
|-
|'''東十条四丁目'''
|1964年12月1日
|
|東十条1〜6(全)、上十条町、王子5、神谷町1、稲付町2
|
|-
|'''東十条五丁目'''
|1964年12月1日
|
|東十条1〜6(全)、上十条町、王子5、神谷町1、稲付町2
|
|-
|'''東十条六丁目'''
|1964年12月1日
|
|東十条1〜6(全)、上十条町、王子5、神谷町1、稲付町2
|
|-
|{{ruby|'''[[神谷 (東京都北区)|神谷]]'''|かみや}}'''一丁目'''
|1967年5月1日
|
|神谷町2(全)、神谷町1
|町名成立は1957年
|-
|'''神谷二丁目'''
|1967年5月1日
|
|神谷町2(全)、神谷町1
|町名成立は1957年
|-
|'''神谷三丁目'''
|1967年5月1日
|
|神谷町2(全)、神谷町1
|町名成立は1957年
|-
|{{ruby|'''[[岸町 (東京都北区)|岸町]]'''|きしまち}}'''一丁目'''
|1966年11月15日
|
|岸町1・2(全)
|町名成立は1939年、直前は王子区王子町・下十条町・下十条町
|-
|'''岸町二丁目'''
|1966年11月15日
|
|岸町1・2(全)
|町名成立は1939年、直前は王子区王子町・下十条町・下十条町
|-
|{{ruby|'''[[豊島 (東京都北区)|豊島]]'''|としま}}'''一丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島二丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島三丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島四丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島五丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島六丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島七丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|'''豊島八丁目'''
|1966年3月1日
|
|豊島1〜8、王子2・3
|
|-
|}
===滝野川区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+滝野川区民事務所管内(33町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:15%"|町区域新設年月日
!style="width:15%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]'''|たきのがわ}}'''一丁目'''
|1964年11月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|'''滝野川二丁目'''
|1964年11月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|'''滝野川三丁目'''
|1964年11月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|'''滝野川四丁目'''
|1964年11月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|'''滝野川五丁目'''
|1964年11月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|'''滝野川六丁目'''
|1964年11月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|'''滝野川七丁目'''
|1968年2月1日
|
|滝野川1〜7
|町名成立は1953年、直前は滝野川町
|-
|{{ruby|'''[[田端 (東京都北区)|田端]]'''|たばた}}'''一丁目'''
|1976年5月1日
|
|田端町
|
|-
|'''田端二丁目'''
|1976年5月1日
|
|田端町
|
|-
|'''田端三丁目'''
|1976年5月1日
|
|田端町
|
|-
|'''田端四丁目'''
|1976年5月1日
|
|田端町
|
|-
|'''田端五丁目'''
|1976年5月1日
|
|田端町
|
|-
|'''田端六丁目'''
|1976年5月1日
|
|田端町
|
|-
|{{ruby|'''[[田端新町]]'''|たばたしんまち}}'''一丁目'''
|1966年2月1日
|
|田端新町1〜3
|町名成立は1947年
|-
|'''田端新町二丁目'''
|1966年2月1日
|
|田端新町1〜3
|町名成立は1947年
|-
|'''田端新町三丁目'''
|1966年2月1日
|
|田端新町1〜3
|町名成立は1947年
|-
|{{ruby|'''[[東田端]]'''|ひがしたばた}}'''一丁目'''
|1969年5月15日
|
|田端町
|
|-
|'''東田端二丁目'''
|1969年5月15日
|
|田端町
|
|-
|{{ruby|'''[[栄町 (東京都北区)|栄町]]'''|さかえちょう}}
|1966年2月1日
|
|栄町(全)
|町名成立は1953年、直前は西ヶ原町
|-
|{{ruby|'''[[昭和町 (東京都北区)|昭和町]]'''|しょうわまち}}'''一丁目'''
|1966年2月1日
|
|昭和町1〜3
|町名成立は1930年、直前は北豊島郡滝野川町大字中里・上中里
|-
|'''昭和町二丁目'''
|1966年2月1日
|
|昭和町1〜3
|町名成立は1930年、直前は北豊島郡滝野川町大字中里・上中里
|-
|'''昭和町三丁目'''
|1966年2月1日
|
|昭和町1〜3
|町名成立は1930年、直前は北豊島郡滝野川町大字中里・上中里
|-
|{{ruby|'''[[中里 (東京都北区)|中里]]'''|なかざと}}'''一丁目'''
|1976年5月1日
|
|中里町、西ケ原1、田端町
|
|-
|'''中里二丁目'''
|1976年5月1日
|
|中里町、西ケ原1、田端町
|
|-
|'''中里三丁目'''
|1976年5月1日
|
|中里町、西ケ原1、田端町
|
|-
|{{ruby|'''[[西ケ原]]'''|にしがはら}}'''一丁目'''
|1976年5月1日
|
|西ケ原1〜4(全)、西ヶ原町
|
|-
|'''西ケ原二丁目'''
|1965年7月1日
|
|西ケ原1〜4(全)、西ヶ原町
|
|-
|'''西ケ原三丁目'''
|1965年7月1日
|
|西ケ原1〜4(全)、西ヶ原町
|
|-
|'''西ケ原四丁目'''
|1965年7月1日
|
|西ケ原1〜4(全)、西ヶ原町
|
|-
|{{ruby|'''[[堀船]]'''|ほりふね}}'''一丁目'''
|1964年12月1日
|
|堀船1〜4(全)
|町名成立は1956年、直前は堀船町1・2
|-
|'''堀船二丁目'''
|1964年12月1日
|
|堀船1〜4(全)
|町名成立は1956年、直前は堀船町1・2
|-
|'''堀船三丁目'''
|1964年12月1日
|
|堀船1〜4(全)
|町名成立は1956年、直前は堀船町1・2
|-
|'''堀船四丁目'''
|1964年12月1日
|
|堀船1〜4(全)
|町名成立は1956年、直前は堀船町1・2
|-
|}
{{Reflist|group="b"}}
== 地域 ==
=== 祭・イベント など ===
* [[北区花火会]]
* 初午祭 稲付の餅つき唄([[太田道灌|道灌]]山稲荷社)※北区指定無形民俗文化財
* 熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)※北区指定無形民俗文化財
* 王子神社例大祭[[王子田楽]]([[王子神社 (東京都北区)|王子神社]])※北区指定[[無形民俗文化財]]
* 王子狐の行列([[装束稲荷神社]]から[[王子稲荷神社]]にかけて)
* 萬垢離(まんごり)
* 十条冨士神社大祭(お富士さん)
* [[赤羽馬鹿祭り|大赤羽祭]](赤羽馬鹿祭り)
* [[北区 内田康夫ミステリー文学賞]]
=== 地区 ===
行政の成り立ちから、'''王子地区'''、'''[[赤羽]]地区'''、ならびに'''[[滝野川]]地区'''に区分されている。
* 王子地区:旧王子区のうち概ね[[王子町]]の区域に相当する。東北本線を境に''王子西地区''<ref group="注釈">王子西地区は王子本町、岸町、中十条1-3丁目、十条台、十条仲原1-2丁目、上十条1-4丁目、滝野川4丁目を指す。</ref>、''王子東地区''<ref group="注釈">王子東地区は王子、豊島、堀船、東十条1-4丁目、神谷1丁目を指す。</ref>に細分化される<ref>東京都北区「[http://www.city.kita.tokyo.jp/kikaku/kuse/joho/shiryoshu/documents/29gyouseisiryousyuu.pdf 北区行政資料集(平成29年度版)]」、2017年9月、13-19頁</ref>。
* 赤羽地区:旧王子区のうち[[岩淵町]]の区域に相当する。隅田川を境に''浮間地区''<ref group="注釈">浮間地区は浮間を指す。</ref>、東北本線を境に''赤羽西地区''<ref group="注釈">赤羽西地区は中十条4丁目、十条仲原3-4丁目、上十条5丁目、西が丘、赤羽西、赤羽台、赤羽北、桐ケ丘を指す。</ref>、''赤羽東地区''<ref group="注釈">赤羽東地区は東十条5-6丁目、神谷2-3丁目、赤羽、志茂、岩淵町、赤羽南を指す。</ref>に細分化される<ref>東京都北区「[http://www.city.kita.tokyo.jp/kikaku/kuse/joho/shiryoshu/documents/29gyouseisiryousyuu.pdf 北区行政資料集(平成29年度版)]」、2017年9月、5-12頁</ref>。
* 滝野川地区:旧滝野川区の区域に相当する。京浜東北線を境に''滝野川西地区''<ref group="注釈">滝野川西地区は滝野川(4丁目を除く)、西ケ原、上中里1丁目、中里、田端を指す。</ref>、''滝野川東地区''<ref group="注釈">滝野川東地区は栄町、上中里2-3丁目、昭和町、田端新町、東田端を指す。</ref>に細分化される<ref>東京都北区「[http://www.city.kita.tokyo.jp/kikaku/kuse/joho/shiryoshu/documents/29gyouseisiryousyuu.pdf 北区行政資料集(平成29年度版)]」、2017年9月、20-25頁</ref>。
=== ナンバープレート ===
当区は、練馬ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられている。
=== ケーブルテレビ ===
* [[ジェイコム東京北]] 区内全域
== 区政 ==
=== 区長 ===
* [[山田加奈子]](やまだ かなこ、1期目)
** 任期:[[2023年]](令和5年)[[4月27日]] - 2027年(令和9年)4月26日<ref>{{Cite web|和書|title=任期満了日(定数)一覧 {{!}} 東京都選挙管理委員会 |url=https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/ |website=www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp |access-date=2023-05-02}}</ref>
=== 歴代区長 ===
# 田口安蔵(たぐち やすぞう) [[1947年]] - 1951年
# 高木惣市(たかぎ そういち) [[1951年]] - 1958年
# 小林正千代(こばやし まさちよ) [[1958年]] - 1983年
# [[北本正雄]](きたもと まさお) [[1983年]] - 2003年
# [[花川與惣太]](はなかわ よそうた)[[2003年]] - [[2023年]]
=== 平和都市宣言 ===
1986年3月15日に[[非核平和都市宣言|平和都市宣言]]を行った。
=== 元気環境共生都市宣言 ===
* 2005年10月29日
=== 友好都市 ===
==== 海外 ====
* {{Flagicon|China}} [[北京市]][[西城区]]([[中華人民共和国]])
**1993年4月22日 北京市[[宣武区]]と友好都市提携 <ref name="clair">{{Cite web|和書| url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2016-05-18 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20121027200400/http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | archivedate=2012年10月27日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
**2011年11月9日 友好都市提携 <ref name="clair" /><ref name="kitaku-saijo">{{Cite web|和書| url=http://www.city.kita.tokyo.jp/somu/bunka/gakushu/kokusai/yuko.html | title=中国北京市西城区と友好交流合意書締結 | publisher=東京都北区 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>
:1985年に[[北区立王子小学校]]と[[北京第一実験小学校]]との交流が始まり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kita-tky.ed.jp/~es01/oji_education.html|title=特色ある教育活動|publisher=北区立王子小学校| accessdate=2016-05-17}}</ref>、1985年9月に宣武区長が北区を訪問したことが都市間交流の契機となっている<ref name="clair" />。1991年度より交流事業が実施され<ref name="clair" />、1993年に正式の提携が結ばれた<ref name="clair" />。2010年7月に宣武区が(旧)西城区と合併、(新)西城区が発足したため、2011年に改めて提携を結んだ<ref name="clair" /><ref name="kitaku-saijo" />。なお、(旧)西城区はこれ以前に[[中野区]]と友好提携を結んでいた。
==== 国内 ====
以下3市と交流を有する。1995年(平成7年)10月には3市と[[災害時相互応援協定]]を締結<ref name="kitaku-yukotoshi">{{Cite web|和書| url=http://www.city.kita.tokyo.jp/chiikishinko/kurashi/volunteer/kyote/index.html | title=友好都市交流協定 | publisher=北区 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>。1997年(平成9年)4月19日に「[[北とぴあ]]」において3市との友好都市交流協定の調印をおこなった<ref name="kitaku-yukotoshi" />。
* {{Flagicon|JPN}} {{Flagicon|山形県}} [[山形県]][[酒田市]]
** 1995年(平成7年)10月21日 災害時相互応援協定締結<ref name="sakata-kitaku" />
** 1997年(平成9年)4月19日 友好都市交流協定締結<ref name="sakata-kitaku">{{Cite web|和書| url=http://www.city.sakata.lg.jp/ou/shimin/machi/kokusai/files/kitaku.pdf |format=PDF| title=酒田市と東京都北区との交流の記録 | publisher=酒田市 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>
:[[1925年]](大正14年)、酒田を含む[[庄内地方]]出身者のための学生寮(荘内館)が[[中里 (東京都北区)|中里]]に建設されたことが縁となっている<ref name="kitaku-sakata">{{Cite web|和書| url=http://www.city.kita.tokyo.jp/chiikishinko/kurashi/volunteer/kyote/sakatashi.html | title=国内友好都市(山形県酒田市)| publisher=東京都北区 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>。1992年(平成4年)に酒田市が「ふるさと北区区民まつり」に参加したことから交流が活発化<ref name="kitaku-sakata" />。北区の児童の農業体験事業などが行われている<ref name="kitaku-sakata" />。
* {{Flagicon|JPN}} {{Flagicon|群馬県}} [[群馬県]][[甘楽郡]][[甘楽町]]
** 1986年(昭和61年)4月12日 自然休暇村事業協定締結<ref name="kitaku-kanra">{{Cite web|和書| url=http://www.city.kita.tokyo.jp/chiikishinko/kurashi/volunteer/kyote/kanramachi.html | title=国内友好都市(群馬県甘楽町)| publisher=東京都北区 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>
** 1995年(平成7年)10月 災害時相互応援協定締結
** 1997年(平成9年)4月19日 友好都市交流協定締結<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.town.kanra.gunma.jp/archives50/801.html | title=友好都市交流協定締結(東京都北区飛鳥山公園) | work=甘楽町デジタルアーカイブ | publisher=甘楽町 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>
:北区の自然休暇村構想と、甘楽町の農業活性化構想が合致し<ref name="kitaku-kanra" />、1986年(昭和61年)に自然休暇村協定が結ばれた<ref name="kitaku-kanra" /><ref name="kanra-kitaku">{{Cite web|和書| url=http://www.town.kanra.gunma.jp/kikaku/chousei/city/017.html | title= 都市と農村との交流~東京都北区 |publisher=甘楽町 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>。なお、第二次世界大戦末期には王子区立第二岩淵国民学校の児童が甘楽町小幡に学童[[疎開]]した縁もある<ref name="kitaku-kanra" />。
* {{Flagicon|JPN}} {{Flagicon|群馬県}} [[群馬県]][[吾妻郡]][[中之条町]]
**1995年(平成7年)10月21日 災害時相互応援協定締結<ref name="nakanojo-kitaku" />
** 1997年(平成9年)4月19日 友好都市交流協定締結<ref name="nakanojo-kitaku">{{Cite web|和書| url=http://www.town.nakanojo.gunma.jp/~info/2-kikakuseisaku/link/link-bosai.html | title=防災関連リンク集 | publisher=中之条町 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>
:第二次世界大戦末期、滝野川区の児童2000人が、[[四万温泉]]を中心とする地域に学童疎開していた縁による<ref name="kitaku-nakanojo">{{Cite web|和書| url=http://www.city.kita.tokyo.jp/chiikishinko/kurashi/volunteer/kyote/nakanojo.html | title=国内友好都市(群馬県中之条町)| publisher=東京都北区 | accessdate=2016-05-17 }}</ref>。1986年、かつての疎開児童(当時の北区長を含む)が中之条町に招待されたことが自治体間交流の契機となった<ref name="kitaku-nakanojo" />。
== 議会 ==
=== 北区議会 ===
{{main|北区議会}}
=== 東京都議会 ===
;2021年東京都議会議員選挙
* 選挙区:北区選挙区
* 定数:3人
* 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日
* 投票日:2021年7月4日
* 当日有権者数:285,161人
* 投票率:47.03%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考
|-
| 山田加奈子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 30,417票 || 2023年4月16日に辞職
|-
| 曽根肇 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 69 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 29,416票 ||
|-
| 大松成 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 60 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 27,580票 ||
|-
| 佐藤古都 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 33 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center" | 新 || 23,323票 ||
|-
| 林元真季 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 25 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 新 || 20,755票 ||
|}
;2020年東京都議会議員補欠選挙
* 選挙区:北区選挙区
* 定数:1人
* 投票日:2020年7月5日
* 当日有権者数:286,350人
* 投票率:57.33%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 山田加奈子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 49 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 52,225票
|-
| [[斉藤里恵]] || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 36 || 立憲民主党 || style="text-align:center" | 新 || 36,215票
|-
| 佐藤古都 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 32 || 日本維新の会 || style="text-align:center" | 新 || 33,903票
|-
| 天風いぶき || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 35 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 23,186票
|-
| 新藤加菜 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 27 || ホリエモン新党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right;" | 6,125票
|}
;2017年東京都議会議員選挙
* 選挙区:北区選挙区
* 定数:3人(※2017年の選挙から4人→3人に変更)
* 投票日:2017年7月2日
* 当日有権者数:282,128人
* 投票率:57.16%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考
|-
| [[音喜多駿]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 33 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 56,376票 || 2019年3月31日に辞職
|-
| 大松成 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 56 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 34,501票 ||
|-
| 曽根肇 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 30,374票 ||
|-
| [[高木啓]] || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 52 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 29,135票 ||
|-
| [[和田宗春]] || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 73 || [[民進党]] || style="text-align:center" | 元 || style="text-align:right" | 8,316票 ||
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[東京都第12区|東京12区]](北区、[[豊島区]]の一部、[[足立区]]の一部、[[板橋区]]の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:462,732人
* 投票率:57.45%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[岡本三成]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 56 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[公明党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 101,020票 || style="background-color:#ffc0cb;" |
|-
| style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[阿部司]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 39 || style="background-color:#ffdddd;" | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffdddd; text-align:right;" | 80,323票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○
|-
| || [[池内沙織]] || style="text-align:center;" | 39 || [[日本共産党]] || style="text-align:center;" | 元 || style="text-align:right;" | 71,948票 || style="text-align:center;" | ○
|}
== 警察署・消防署 ==
*[[警視庁]]
** [[王子警察署]]
** [[赤羽警察署]]
** [[滝野川警察署]]
*[[東京消防庁]]
** 王子消防署 [[救急隊]]1
*** 十条出張所 [[特別消火中隊]]・救急隊1
*** 東十条出張所 救急隊無
** 赤羽消防署 救急隊1
*** 志茂出張所 特別消火中隊・救急隊無
*** 浮間出張所 救急隊無
*** 西が丘出張所 救急隊1
*** 赤羽台出張所 救急隊1
** 滝野川消防署 特別消火中隊・救急隊1
*** 三軒家出張所 救急隊1
*** 田端出張所 救急隊1
== 病院・医療機関 ==
[https://www.city.kita.tokyo.jp/seikatsueisei/kenko/iryo/byoin/index.html 北区の病院・診療所 歯科診療所一覧]
=== 閉院した病院 ===
* [[国立印刷局東京病院]] - [[2013年]](平成25年)4月に社会医療法人社団 正志会に委譲され、 正志会 '''花と森の東京病院'''となった。
== 交通 ==
=== 鉄道路線 ===
東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅の数が11駅と23区内で最多である。
交通機関のうち、特に鉄道は[[赤羽]]に一極集中している。また、[[東北新幹線]]が[[赤羽駅]]以南は京浜東北線と、以北は埼京線と並走する。
; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
: [[ファイル:JR JU line symbol.svg|17px|JU|left]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]]
::* [[尾久駅]] - [[赤羽駅]]
: [[ファイル:JR JS line symbol.svg|17px|JS|left]] [[湘南新宿ライン]]
::* 赤羽駅
: [[ファイル:JR JA line symbol.svg|17px|JA|left]] [[埼京線]]([[赤羽線]])
::* [[板橋駅]] - [[十条駅 (東京都)|十条駅]] - 赤羽駅 - [[北赤羽駅]] - [[浮間舟渡駅]]
: [[ファイル:JR JK line symbol.svg|17px|JK|left]] [[京浜東北線]]
::* [[田端駅]] - [[上中里駅]] - [[王子駅]] - [[東十条駅]] - 赤羽駅
: [[ファイル:JR JY line symbol.svg|17px|JY|left]] [[山手線]]
::* 田端駅 - [[駒込駅]](豊島区だが、山手線ホームの最東端が北区中里に位置している)
:* [[東北新幹線]] - 区内に駅は未設置。上中里駅および田端駅付近には[[東京新幹線車両センター]]が運用されている。
; [[東京都交通局]]
: [[ファイル:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|17px|SA|left]] [[都電荒川線]](東京さくらトラム)
::* [[西ヶ原四丁目停留場]] - [[滝野川一丁目停留場]] - [[飛鳥山停留場]] - [[王子駅|王子駅前停留場]] - [[栄町停留場 (東京都)|栄町停留場]] - [[梶原停留場]]
; [[東京地下鉄]](東京メトロ)
: [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|17px|N|left]] [[東京メトロ南北線|南北線]]
::* [[西ケ原駅]] - 王子駅 - [[王子神谷駅]] - [[志茂駅]] - [[赤羽岩淵駅]]
; [[埼玉高速鉄道]]
: [[ファイル:Saitama Stadium Line symbol.svg|17px|SR|left]] [[埼玉高速鉄道線]]
::* 赤羽岩淵駅
なお、[[都営地下鉄三田線]]、[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]もわずかに区内を通るが、いずれも駅はない。
=== バス路線 ===
* [[北区コミュニティバス]](Kバス)運行:[[日立自動車交通]]
* [[都営バス]] - 区内に[[都営バス北営業所|北営業所]]が設けられている。
* [[国際興業バス]] - 区内に[[国際興業バス赤羽営業所|赤羽営業所]]が設けられている。
* [[関東バス]]
* [[東武バス|東武バスセントラル]]
** 王30 [[王子駅]] - 北区神谷町 - 環七 - [[亀有駅]]北口 <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu-bus.com/pc/search/rosenzu/katsushika_hanahata.pdf?201811|title=葛飾営業所・花畑営業所管内バス路線図|accessdate=20200126|publisher=東武バスセントラル}}</ref>
**深夜31 [[王子駅]] → 北区神谷町 → 環七 → [[西新井駅]]西口
2路線運行しているが、乗入は日中の2本と月 - 金曜日の深夜バス1本とごく僅か<ref>{{Cite web|和書|url=https://transfer.navitime.biz/tobubus/pc/diagram/OriginalDiagram?stopCode=02459&stopName=王子駅&destinationCode=02&destinationName=亀有駅北口(西新井大師前経由)&date=2019-07-01|title=王子駅 時刻表 行先:亀有駅北口|accessdate=20200126|publisher=東武バス}}</ref>。
=== 水上バス路線 ===
* [[東京水辺ライン]]
** [[神谷発着場]]([[都営バス]]「豊島8丁目」下車徒歩6分、[[王子神谷駅]]3番出口より徒歩10分)
=== 道路 ===
* 高速道路
** [[首都高速道路|首都高速]][[首都高速中央環状線|中央環状線]]
* 一般道路
** [[国道17号]]([[中山道]])
** 北本通り([[国道122号]])
** 環七通り([[東京都道318号環状七号線]])
** 環八通り([[東京都道311号環状八号線]])
** [[明治通り (東京都)|明治通り]]
** [[東京都道445号常盤台赤羽線]]
** [[本郷通り]]([[東京都道455号本郷赤羽線]])
** [[東京都道・千葉県道501号王子金町市川線|東京都道501号王子金町市川線]]
== 名所・旧跡 ==
=== 史跡 ===
[[画像:Iwabuchi Floodgate or Akasuimon (Red Sluice Gate) - Kita section of Tokyo - Japan - 9 May 2014.jpg|thumb|300px|旧岩淵水門]]
* [[稲付城]]跡 - 赤羽西。[[太田道灌]]が築城。
* 十条[[富士塚|冨士塚]] - 中十条二丁目の[[十条冨士神社]]境内に在る。北区指定有形民俗文化財。
* 田端富士塚 - 田端二丁目の田端八幡神社境内にある。
* 西ヶ原[[一里塚]] - 西ケ原二丁目にあり、[[日光御成道]]の本郷追分の次の一里塚にあたる。[[1922年]]([[大正]]11年)[[3月8日]]、国の史跡に指定される。都区内でも板橋区志村・小豆沢の一里塚とともに旧位置に保存されている一里塚。
* [[平塚城]]跡 - 上中里。別名、豊島城。
* [[岩淵水門]] - 志茂。旧赤水門と新青水門。
* [[中里貝塚]] - 上中里。「縄文時代の水産加工場」と大々的に報道された。現在では公園に表示版があるだけである。
=== 神社・仏閣など ===
* [[王子神社 (東京都北区)|王子神社]]
* [[王子稲荷神社]]
* [[近藤勇]]と[[新選組]]隊士の墓
* [[城官寺]] - 西ケ原。江戸時代将軍の奥医師、幕府医学館総裁を務めた多紀家の菩提寺。[[東京都指定文化財一覧#史跡|東京都指定史跡]]。
* [[昌林寺 (東京都北区)|昌林寺]] - [[曹洞宗]]
* [[七社神社 (東京都北区)|七社神社]]
* [[平塚神社]]
* [[無量寺 (東京都北区)|無量寺]] - 西ケ原。江戸時代から続く名寺で西ケ原、栄町の地主でもある。
=== 公園・庭園など ===
* [[赤羽自然観察公園]]
* [[飛鳥山公園]] - 江戸時代、八代将軍[[徳川吉宗]]の命によって造成された[[サクラ|桜]]の名所。
* 浮間つり堀公園
* 都立[[浮間公園]]([[浮間公園|浮間ヶ池]])
* [[音無親水公園]]
* [[醸造試験所]]跡地公園 - 滝野川。[[滝野川反射炉]]跡。
* [[滝野川公園]](旧[[農林水産省]]農業技術研究所)
* 中央公園(旧[[東京兵器補給廠|王子キャンプ]])
* 都立[[旧古河庭園]]
* [[名主の滝公園]]
{{日本の都市公園100選}}
== 文化・スポーツ・芸術 ==
=== 博物館・美術館・劇場など ===
* [[北区飛鳥山博物館|飛鳥山博物館]]
* [[荒川知水資料館]](amoa、アモア)
* [[王子シネマ]](現在は閉鎖)
* [[王子小劇場]]
* [[お札と切手の博物館]] - 王子。
* [[紙の博物館]] - 飛鳥山。
* [[北区ふるさと農家体験館]] - 赤羽自然観察公園内施設。
* さくらホール、つつじホール ※[[北とぴあ]]内施設
* [[シアター・バビロンの流れのほとりにて]] - 王子。
* [[自然ふれあい情報館]]([[清水坂公園]]内)
* [[篠原演芸場]] - 中十条。
* [[渋沢史料館]] - 飛鳥山。日本資本主義の父 [[渋沢栄一]]の邸宅跡。重要文化財の晩香廬、青淵文庫が設けられている。
* [[田端文士村記念館]]
* [[東京都北区防災センター 地震の科学館]] - 西ケ原。
* [[東書文庫]] - 栄町。[[東京書籍]]が運営する教科書図書館。[[近代化産業遺産]]。
* [[pit 北/区域]] - 王子。※小劇場
=== スポーツ施設 ===
* [[赤羽スポーツの森公園競技場]] - 赤羽西。
* [[国立スポーツ科学センター]] - 西が丘。
* [[国立西が丘サッカー場]] - 西が丘。
* [[ナショナルトレーニングセンター]] - 西が丘、赤羽西。
* [[赤羽ゴルフ場]] - 浮間。
=== 文化・芸能 ===
* [[北区つかこうへい劇団]]
* [[北区民オーケストラ]]
* [[滝野川少年少女合唱団]] - 北区内の小中学校の音楽教師により、1954年に創立された合唱団。
* [[豊島音頭]]
== 教育機関 ==
=== 大学 ===
* [[東洋大学]] 赤羽台キャンパス
* [[東京成徳大学]] 十条台キャンパス
**[[東京成徳短期大学]]
* [[東京福祉大学]] 王子キャンパス
*[[星美学園短期大学]]
;かつて所在していた大学
* [[東京外国語大学]] - 西ケ原。2000年に[[府中市 (東京都)|府中市]]へ転出。
* [[東京山林学校]] - 西ケ原。明治中期に開校後、[[駒場 (目黒区)|駒場]]へ転出。
* [[東京高等蚕糸学校]] - 西ケ原。明治中期に開校。東京農工大学工学部の前身。
=== 専修学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[王子経理専門学校]]
* [[コーセー美容専門学校]]
* [[中央工学校]]
* [[中央動物専門学校]]
* [[東京歯科衛生専門学校]]
}}
;かつて所在していた専修学校
* [[アクト情報スポーツ保育専門学校]]
* [[北区医師会看護高等専修学校]]
=== 外国政府による教育機関 ===
* [[東京国際フランス学園]](旧[[東京都立千早高等学校|都立池袋商業高校]]跡地)
: <small>フランス海外教育庁が運営。幼児教育科、初等教育科、中等教育科、高等教育科を擁する。</small>
=== 東京都立高等学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[東京都立赤羽北桜高等学校]]
* [[東京都立飛鳥高等学校]]
* [[東京都立王子総合高等学校]]
* [[東京都立桐ケ丘高等学校]]<ref>旧・東京都立城北高等学校</ref>
}}
;かつて存在していた高等学校
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[東京都立千早高等学校|東京都立池袋商業高校]]
* [[東京都立王子工業高等学校]]
* [[東京都立赤羽商業高等学校]]
}}
=== 北区立の中学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[北区立赤羽岩淵中学校|赤羽岩淵中学校]]
* [[北区立飛鳥中学校|飛鳥中学校]]
* [[北区立稲付中学校|稲付中学校]]
* [[北区立浮間中学校|浮間中学校]]
* [[北区立王子桜中学校|王子桜中学校]]
* [[北区立神谷中学校|神谷中学校]]
* [[北区立桐ヶ丘中学校|桐ヶ丘中学校]]
* [[北区立十条富士見中学校|十条富士見中学校]]
* [[北区立滝野川紅葉中学校|滝野川紅葉中学校]]
* [[北区立田端中学校|田端中学校]]
* [[北区立堀船中学校|堀船中学校]]
* [[北区立明桜中学校|明桜中学校]]
}}
;かつて存在していた中学校
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[北区立王子中学校]]
* [[北区立桜田中学校]]
* [[北区立豊島中学校]]
* [[北区立十条中学校]]
* [[北区立富士見中学校]]
* [[北区立豊島北中学校]]
* [[北区立清至中学校]]
* (旧)北区立田端中学校
* [[北区立新町中学校]]
* [[北区立赤羽台中学校]]
* [[北区立北中学校]]
* [[北区立赤羽中学校]]
* [[北区立岩淵中学校]]
* [[北区立滝野川中学校]]
* [[北区立紅葉中学校]]
}}
=== 私立の中学校・高等学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[安部学院高等学校]]
* [[桜丘中学校・高等学校 (東京都)|桜丘中学校・高等学校]]
* [[駿台学園中学校・高等学校]]
* [[順天中学校・高等学校]]
* [[女子聖学院中学校・高等学校]]
* [[聖学院中学校・高等学校]]
* [[サレジアン国際学園中学校・高等学校]]
* [[成立学園中学校・高等学校]]
* [[瀧野川女子学園中学校・高等学校]]
* [[東京成徳大学中学校・高等学校]]
* [[東京朝鮮中高級学校]]
* [[武蔵野中学校・高等学校]]
}}
;かつて存在していた学校
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[東洋大学京北中学高等学校|京北中学校・高等学校]]
*[[京北学園白山高等学校]]
* [[昌平高等学校_(1948-1969)|昌平高等学校]]
* [[扶桑女子商業学校]]
}}
=== 北区立の小学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[北区立王子小学校]]
* [[北区立王子第一小学校]]
* [[北区立王子第二小学校]]
* [[北区立王子第三小学校]]
* [[北区立王子第五小学校]]
* [[北区立豊川小学校]]
* [[北区立堀船小学校]]
* [[北区立柳田小学校]]
* [[北区立東十条小学校]]
* [[北区立としま若葉小学校]]
* [[北区立赤羽小学校]]
* [[北区立岩淵小学校]]
* [[北区立なでしこ小学校]]
* [[北区立西が丘小学校]]
* [[北区立第四岩淵小学校]]
* [[北区立梅木小学校]]
* [[北区立神谷小学校]]
* [[北区立稲田小学校]]
* [[北区立桐ヶ丘郷小学校]]
* [[北区立袋小学校]]
* [[北区立八幡小学校]]
* [[北区立浮間小学校]]
* [[北区立西浮間小学校]]
* [[北区立赤羽台西小学校]]
* [[北区立滝野川小学校]]
* [[北区立滝野川第二小学校]]
* [[北区立滝野川第三小学校]]
* [[北区立滝野川第四小学校]]
* [[北区立滝野川第五小学校]]
* [[北区立西ケ原小学校]]
* [[北区立谷端小学校]]
* [[北区立田端小学校]]
* [[北区立滝野川もみじ小学校]]
* [[北区立十条小学校]]
}}
;かつて存在していた小学校
{{columns-list|colwidth=16em|
* (旧)北区立王子小学校
* [[北区立王子小学校|北区立桜田小学校]]
* [[北区立豊島東小学校]]
* [[北区立豊島西小学校]]
* [[北区立北ノ台小学校]]
* [[北区立神谷第二小学校]]
* [[北区立志茂小学校]]
* [[北区立赤羽台東小学校]]
* [[北区立桐ヶ丘小学校]]
* [[北区立桐ヶ丘北小学校]]
* [[北区立北園小学校]]
* [[北区立清水小学校]]
* [[北区立第三岩淵小学校]]
* [[北区立滝野川第一小学校]]
* [[北区立滝野川第七小学校]]
* [[北区立滝野川第六小学校]]
* [[北区立紅葉小学校]]
* [[北区立荒川小学校]]
* [[北区立十条台小学校]]
}}
=== 私立の小学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* [[聖学院小学校]]
* [[星美学園小学校]]
}}
=== 特別支援学校 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
* 東京都立王子第二特別支援学校
* 東京都立王子特別支援学校
* 東京都立北特別支援学校
}}
=== 北区立のこども園 ===
*さくらだこども園
=== 北区立の幼稚園 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
*うめのき幼稚園
*じゅうじょうなかはら幼稚園
*たきさん幼稚園
*ふくろ幼稚園
}}
'''かつて存在していた幼稚園'''
*さくらだ幼稚園
=== 私立の幼稚園 ===
{{columns-list|colwidth=16em|
*あかいとり幼稚園
*赤羽幼稚園
*明日香幼稚園
*飛鳥すみれ幼稚園
*いなり幼稚園
*桜輪幼稚園
*樫の木幼稚園
*石川幼稚園
*上中里幼稚園
*木内鳩の家幼稚園
*北幼稚園
*光明院幼稚園
*島田第一幼稚園
*城北ひまわり幼稚園
*すずらん幼稚園
*[[学校法人聖学院|聖学院幼稚園]]
*[[学校法人星美学園|星美学園幼稚園]]
*聖母の騎士幼稚園
}}
== 経済・産業 ==
=== 工業 ===
北区における工産の発端は、江戸幕府末期に[[滝野川反射炉]]が、現在の醸造試験所跡地公園の場所に設営されたこととされている。また、この反射炉(大砲工場)の建設が、北区が明治期より昭和中期に至る時期に軍都となるきっかけになった。この滝野川反射炉への用水の供給を目的に掘削された、[[王子分水]]の水力が利用できることから、王子地区に[[鹿島紡績所]]、[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]が明治初期に開設され、この出来事が昭和中期までに紙業・食品製造業などの消費財生産業が発達する先駆けとなった。
==== 主な事業所 ====
{{節スタブ}}
* 紙・印刷・出版流通業関連
**[[奥村印刷]] - 栄町
** [[杏林舍]] - 西ケ原。出版・印刷
** [[国立印刷局]] 王子工場、東京工場
** [[大日本印刷]] - 赤羽工場、王子工場など。近隣に関連事業所が所在。
** [[宝印刷]] 浮間工場
** [[竹田印刷]] 関東事業部 - 上中里
** [[東京書籍]] - 堀船
** [[図書印刷]] - 東十条
** [[日刊スポーツ]]印刷社 王子工場 - 堀船
** [[日本出版販売]] 王子流通センター
** [[日本製紙]] - 前身となる十條製紙十條工場が操業されていた事から、関連事業所が現在でも所在。
** [[日本フエルト]] - 赤羽西
** [[二葉製本]] 浮間工場、神谷工場、北工場
** [[明治図書出版]] - 滝野川
** [[読売新聞東京本社]] 東京北工場 - 堀船
北区、板橋区、足立区などのエリアには、関連の事業所が集積されている。
* 製造業
** 亀の子束子西尾商店 - 滝野川
** [[中外製薬工業]] - 浮間
** [[トンボ鉛筆]] - 豊島
** [[ミヤリサン製薬]] - 上中里
* 食品関係
** [[あみ印食品工業]] - 東田端
** [[イトウ製菓]] - 田端
** [[なとり]] - 王子
*鉄道業
**[[東日本旅客鉄道東京支社]]-東田端
*化粧品卸業
**[[株式会社PALTAC 東京支社]]
* 過去に所在した事業所
** [[小山酒造]] - 岩淵町、2018年ごろまで東京23区内で唯一残る[[日本酒]]の造り酒屋だった 小山酒造が製造していた銘柄「丸眞正宗」などの銘柄は同年3月1日以降、遠縁にあたる埼玉県さいたま市にある小山本家酒造が製造を継続
** [[麒麟麦酒]]東京工場 - 堀船、1998年閉鎖
** [[カルビー]] - 東十条→赤羽南→赤羽→赤羽南、1972年〜2010年、現在の本社は[[千代田区]][[丸の内]]
** [[吉野家]] - 赤羽南 中央区日本橋箱崎町のリバーゲートへ2016年移転
** [[雪印乳業]] 東京工場 - 桐ヶ丘、2002年閉鎖
=== 商業 ===
==== 主な商店街・大型商業施設 ====
{{節スタブ}}
{{columns-list|colwidth=20em|
'''赤羽地区'''
* 赤羽一番街商店街
* 赤羽スズラン通り商店街 LaLaガーデン
* アピレ
* [[ジェイアール東日本都市開発|ビーンズ赤羽]]
* [[イトーヨーカドー]] 赤羽店
* [[エキュート|エキュート赤羽]]
<!-- * [[西友]] 赤羽店 -->
* [[ダイエー赤羽店]]
* [[イオンスタイル赤羽]]
* ビビオ
* [[ニトリ]] 赤羽店
'''王子地区'''
* 王子銀座商店街
* [[十条銀座]]商店街
* 東十条南口通り商店会
'''滝野川地区'''
* [[アトレ|アトレヴィ]]田端
* 霜降銀座栄会
* 滝野川さくら通り商栄会
}}
==== 郵便局 ====
*[[王子郵便局]](00244)
*東十条郵便局(00051)
*東十条駅前郵便局(00553)
*東十条六郵便局(00645)
*王子三郵便局(00131)
*王子五郵便局(01337)
*北豊島三郵便局(00228)
*北豊島二郵便局(00307)
*北豊島団地内郵便局(00822)
*北堀船郵便局(01167)
*北田端新町郵便局(00302)
*東田端郵便局(00554)
*田端郵便局(00396)
*北田端郵便局(01192)
*中里郵便局(01385)
*王子本町郵便局(00892)
*滝野川六郵便局(00713)
*滝野川三郵便局(00872)
*滝野川郵便局(01216)
*飛鳥山前郵便局(01222)
*西ヶ原四郵便局(00319)
*西ヶ原郵便局(01107)
*十条仲原郵便局(01278)
*中十条郵便局(00115)
*上十条四郵便局(00144)
*上十条郵便局(01196)
*[[赤羽郵便局]]《[[ゆうちょ銀行]]赤羽店》(01017)
*北志茂一郵便局(00132)
*北志茂郵便局(01321)
*北神谷郵便局(00170)
*赤羽二郵便局(00644)
*赤羽岩淵駅前郵便局(01339)
*北浮間郵便局(00355)
*北浮間二郵便局(00598)
*赤羽北二郵便局(00052)
*赤羽台郵便局(00441)
*北桐ケ丘郵便局(00579)
*赤羽西四郵便局(00024)
*赤羽西六郵便局(00325)
*赤羽駅前郵便局(00673)
*赤羽西二郵便局(01289)
== 住宅団地 ==
{{columns-list|colwidth=20em|
* [[都営桐ヶ丘団地]] - 平成17年最終変更 : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* UR[[赤羽台団地]](北区赤羽台、賃貸3373 1962年 一部建替え工事中) 全面建替え)
* 都営稲付二丁目アパート(赤羽南 2-7、1968 - 1969年)
* 都営稲付第2アパート(西が丘 3-1、1968 - 1970年)
* 都営王子アパート(王子本町 2-32、1956 - 1960年)
* 都営王子五丁目アパート(王子 5-17、1969年)
* 都営王子三丁目アパート(王子 3-23、1967 - 1970年)
* 都営王子本町アパート(王子本町 3-2、1965 - 1971年)
* 都営王子本町第2アパート(王子本町 3-8、1967 - 1968年)
* 都営王子六丁目アパート(王子 6-2、1971年)
* 都営桐ケ丘アパート(桐ケ丘 1-22、1957 - 1975年)
* 都営上十条アパート(上十条 1-5、1966年)
* 都営上中里二丁目アパート(上中里 2-13、1970年)
* 都営神谷三丁目アパート(神谷 3-16、1967 - 1969年)
* 都営神谷三丁目第2アパート(神谷 3-13、1968 - 1970年)
* 都営神谷三丁目第3アパート(神谷 3-14、1993 - 1996年)
* 都営神谷町アパート(神谷 2-50、1962 - 1966年)
* 都営神谷二丁目アパート(神谷 2-43、2007年)
* 都営西が丘三丁目アパート(西が丘 3-8、2006年)
* 都営西ケ丘二丁目第2アパート(西が丘 2-17、1976 - 1979年)
* 都営西ケ原一丁目アパート(西ケ原 1-19、1968年)
* URシャレール西ヶ原(旧西ヶ原団地)(西ケ原 1-31 賃貸68 2010年)
* UR赤羽一丁目団地(北区赤羽 市街地住宅 賃貸20 1959年 現存譲渡)
* 都営赤羽西五丁目アパート(赤羽西 5-12、1969 - 1974年)
* 都営赤羽西六丁目アパート(赤羽西 6-3、1973年)
* 都営[[赤羽北]]三丁目アパート(赤羽北 3-7、1977 - 1981年)
* 都営赤羽北二丁目第2アパート(赤羽北 2-36、1968年)
* 都営赤羽北二丁目第3アパート(赤羽北 2-31、1992年)
* 都営赤羽北二丁目第4アパート(赤羽北 2-7、2001年)
* UR滝野川団地(北区滝野川 市街地住宅 賃貸25 1959年)
* 都営滝野川三丁目アパート(滝野川 3-65、1968 - 1971年)
* 都営滝野川三丁目第2アパート(滝野川 3-79、1970 - 1971年)
* 都営滝野川二丁目アパート(滝野川 2-30、1966年)
* 都営滝野川二丁目第2アパート(滝野川 2-55、1973 - 1974年)
* 都営中十条第1アパート(中十条 1-1、1966年)
* 都営中十条第2アパート(中十条 1-8、1966年)
* 都営田端新町一丁目アパート(田端新町 1-15、1967 - 1969年)
* 都営浮間一丁目アパート(浮間 1-1、1967年)
* 都営浮間一丁目第2アパート(浮間 1-5、1976 - 1981年)
* 都営浮間一丁目第3アパート(浮間 1-15、1989年)
* 都営浮間三丁目アパート(浮間 3-4、1967 - 1969年)
* 都営浮間三丁目第2アパート(浮間 3-1、1968 - 1969年)
* 都営浮間三丁目第5アパート(浮間 3-1、1994年)
* 都営浮間二丁目アパート(浮間 2-26、1980年)
* 都営豊島三丁目アパート(豊島 3-11、1970 - 1971年)
* UR豊島五丁目団地
* 都営豊島七丁目アパート(豊島 7-7、1970年)
* UR豊島八丁目団地
* 都営北栄町アパート(栄町 24-13、1969年)
* 都営北栄町第2アパート(栄町 7-12、1970年)
* 都営堀船三丁目アパート(堀船 3-16、1967 - 1978年)
* 都営堀船三丁目第2アパート(堀船 3-1、1967年)
* 都営堀船四丁目アパート(堀船 4-4、1967年)
* 都営堀船二丁目アパート(堀船 2-24、1968年)
* 都営堀船二丁目第2アパート(堀船 2-25、1969年)
}}
== ゆかりの作品 ==
=== 小説 ===
* [[浅見光彦シリーズ]] - 内田康夫の推理小説。主人公の浅見光彦が西ケ原の出身・在住という設定。
* [[剣客商売]] 〜狐雨〜 - [[池波正太郎]]による時代小説。王子界隈で物語が展開。お狐民話のエピソードが記されている。
=== 漫画 ===
* [[東京都北区赤羽]] - 赤羽を舞台にする[[清野とおる]]によるエッセイ漫画。
=== 落語 ===
* [[王子の狐]] - 初代[[三遊亭圓右]]が上方噺の「高倉狐」を江戸の王子に噺の舞台を移した作品。
=== 映画・テレビ ===
* [[喜劇 駅前開運]] - 映画。1968年/監督:[[豊田四郎]]/主演;[[森繁久彌]] 赤羽駅周辺の商店街を舞台としたコメディ。1960年代後期の街並みが映像に記録されている。
* [[もう一度君に、プロポーズ]] - テレビドラマ。2012年/主演の[[和久井映見]]が演じる宮本可南子の勤務先が[[北区立中央図書館]]に設定されており、物語の舞台となっている。
* [[よろず占い処 陰陽屋へようこそ]] - 北区にある[[王子稲荷神社]]が主な舞台となっている。
* [[おかしな刑事]] - 作品中に登場する架空の施設名などは北区の地名であり、実際に一部のカットは北区内で撮影が行われている。
*[[天気の子]] - 本作のヒロイン、天野陽菜がJR[[田端駅]]周辺の高台のアパートにて弟(凪)と二人で暮らしている。特に田端駅南口を出ると始まる上り坂は映画の重要なシーンの舞台となっている。
== 著名な出身者・ゆかりのある人物 ==
=== 著名な出身者 ===
==== 政治・行政・産業・経済 ====
* [[石川一郎]] - [[日産化学工業]]元社長、初代[[経団連]]会長
* [[石川六郎]] - 西ケ原。[[鹿島建設|鹿島]]会長、[[日本商工会議所]]会頭。
* [[音喜多駿]] - 王子。政治家。
* [[國弘正雄]] - 元[[日本社会党]]参議院議員、文化人類学者、同時通訳者、ニュースキャスター。
* [[高橋高望]] - 岩渕町。政治家。
* [[成田修造]] - 元[[クラウドワークス]]取締役兼CINO。兄は[[成田悠輔]]
* [[藤山愛一郎]] - 政治家・実業家。元外務大臣・経済企画庁長官。元[[日本航空]]会長。
* [[前田裕二]] - [[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]社長。
* [[渡辺滉]] - 赤羽。元[[三和銀行]]頭取、元[[経済同友会]]副代表幹事。
* [[吉田雄人]] - 元[[神奈川県]][[横須賀市]]長
==== 文化・芸術・科学 ====
* [[芥川也寸志]] - 田端。作曲家、指揮者。
* [[安部公房]] - 西ケ原。小説家、劇作家、演出家。
* [[石井茂吉]] - 堀船町。[[写真植字機]]の共同発明者。[[写研]]の設立者。
* [[稲岡耕二]] - 滝野川。国文学者。
* [[井原高忠]] - 王子。テレビディレクター、プロデューサー、演出家。
* [[内田康夫]] - 作家。北区[[西ケ原]]生まれ。北区[[大使|アンバサダー]](1996年(平成8年)就任)。
* [[上野英雄]] - 王子。独語学者。
* [[大川慶次郎]] - 王子。競馬評論家。
* [[小田嶋隆]] - 赤羽。コラムニスト、テクニカルライター。
* [[北洋]] - 王子。作家、物理学者。
* [[五箇公貴]] - 映像プロデューサー
* [[五社英雄]] - 西ケ原。映画監督。
* [[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]] - 滝野川出身。文芸評論家。
* [[津田大介]] - ジャーナリスト。
* [[中井英夫]] - 田端。小説家、詩人。
* [[永島慎二]] - 漫画家。
* [[中平康]] - 滝野川。映画監督。
* [[西村博之]] - 桐ヶ丘<ref>{{Cite web|和書|title=ひろゆきが語るメディアの未来「テレビが本気出したら、ネットは勝てない」|url=https://bizspa.jp/post-157450/|website=[[SPA!|bizSPA!]]フレッシュ|date=2019-05-18|accessdate=2020-05-06|language=ja|publisher=[[扶桑社]]}}</ref>(出生は[[神奈川県]]<ref name="cybozu">{{Cite web|和書|title=ひろゆきさん「天職なんてないんじゃない? やりたい仕事より、苦じゃない仕事を選ぶくらいがちょうど良い」|url=https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001470.html|website=サイボウズ式|accessdate=2020-05-06|language=ja|publisher=[[サイボウズ]]|date=2018年6月12日}}</ref>)。[[2ちゃんねる]]開設者。
* [[沼田識史]] - [[現代美術家]]。
* [[羽田健太郎]] - 作曲家、編曲家、ピアニスト。
* [[長谷部勇一]] - 豊島。経済学者。第15代[[横浜国立大学]]学長。
* [[花くまゆうさく]] - イラストレーター、漫画家。
* [[林正明]] - 映画監督、脚本家。
* [[福田和也]] - 田端。文芸評論家。
* [[藤水名子]] - 小説家。
* [[堀越孝一]] - 滝野川出身。西洋史学者。
* [[宮田親平]] - 医学・科学ジャーナリスト。
* [[やなせたかし]] - 西ケ原。漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人。
* [[矢野利裕]] - 批評家・ライター。
* [[山田昌弘]] - 社会学者、[[中央大学]]文学部教授。
* [[ジャンクハンター吉田]](吉田武)
* [[米田利昭]] - 滝野川。歌人、日本文学研究者。
* [[ルミナックス]] - AV監督。
* [[成田悠輔]] - 経済学者。
* [[KOHH]] - ラッパー。
==== 芸能・放送 ====
* [[愛原実花]] - 元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]トップ娘役
* [[芥川比呂志]] - 田端。俳優、演出家。
* [[芦川いづみ]] - 田端。女優。
* [[麻生美代子]] - 田端。声優、女優。
* [[荒川務]] - 王子。歌手、ミュージカル俳優。
* [[池田美優]] - 神谷。ファッションモデル、タレント。(出生は[[静岡県]][[引佐郡]][[細江町]](現・[[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]))
* [[イジリー岡田]] - タレント。
* [[乾貴美子]] - タレント、女優。
* [[江口洋介]] - 西ヶ原。俳優。
* [[丘みつ子]] - 王子。女優、陶芸家。
* [[オリエ津阪]] - 王子区。女優。[[松竹歌劇団|松竹少女歌劇]][[男役]]スター。
* [[桂三木助 (4代目)]] - 田端。落語家。
* [[北村燦來]] - 女優。
* [[FLOW|KEIGO]](林圭吾) - [[FLOW]]のボーカル
* [[草薙幸二郎]] - 王子区。俳優。
* [[小池清]] - [[滝野川区]]。元[[毎日放送]][[アナウンサー]]。
* [[小池春枝]] - 滝野川。女優。
* [[児玉清]] - 滝野川区。俳優。
* [[斎藤清六]] - 俳優、コメディアン。
* [[酒井宏之]] - 元ラグビー選手、俳優。
* [[酒井蘭]] - アイドル。
* [[貴家堂子]] - 王子。声優
* [[さとなかほがらか]] - お笑い芸人
* [[春風亭小朝]] - 落語家。
* [[曾我泰久]] - 赤羽出身。シンガーソングライター、ミュージカル俳優。
* [[多田慎也]] - シンガーソングライター。
* [[立川志遊]] - 赤羽。落語家。
* [[中丸雄一]] - [[KAT-TUN]]
* [[夏八木勲]] - 俳優。
* [[倍賞千恵子]] - 女優、歌手。北区立滝野川第六小学校、北区立紅葉中学校出身。北区アンバサダー(2006年(平成18年)就任)。
* [[林原めぐみ]] - 滝野川。声優、歌手。
* [[左とん平]] - 王子区。俳優。
* [[深田恭子]] - 王子。歌手、女優。
* [[福永俊介]] - [[札幌テレビ]]アナウンサー。
* [[古舘伊知郎]] - 滝野川。[[ニュースキャスター]]、[[司会者]]。元[[テレビ朝日]]アナウンサー。
* [[細井学]] - 俳優。
* [[堀内貴司]] - [[コンマニセンチ]]
* [[水森かおり]] - 歌手。北区アンバサダー(2008年(平成20年)就任)。
* [[南美希子]] - [[フリーアナウンサー]]/元[[テレビ朝日]]の[[テレビ朝日のアナウンサー一覧|アナウンサー]]。
* [[宮本浩次 (エレファントカシマシ)|宮本浩次]]、石森敏行、冨永義之 - ミュージシャン。ロックバンド「[[エレファントカシマシ]]」のメンバー。
* [[やまがたすみこ]] - シンガーソングライター。
* [[山本紗衣]] - ミュージカル女優
* [[吉井和哉]] - ミュージシャン。ロックバンド「[[THE YELLOW MONKEY]]」のボーカル。
* [[吉田雅英]] - [[北海道文化放送]](UHB)アナウンサー。
* [[渡辺晋]] - 芸能プロモーター、ベーシスト、[[渡辺プロダクション]]創業者。
* [[渡辺やよい (女優)|渡辺やよい]] - 女優。
==== スポーツ ====
* [[樋口豊 (フィギュアスケート選手)|樋口豊]] - 東十条。フィギュアスケート選手。
* [[根本康広]] - 中央競馬元騎手、調教師。第54回東京優駿(日本ダービー)優勝騎手。
* [[佐藤亮 (サッカー選手)|佐藤亮]] - [[サッカー選手]]。
* [[中村航輔]] - サッカー選手。[[サッカー日本代表|日本代表]]経験者。
* [[長谷川涼香]] - 競泳(バタフライ)選手。リオデジャネイロオリンピック日本代表。
* [[小川仁士]] - [[車いすラグビー]]選手。[[車いすラグビー日本代表]]。
* [[小林敦司]] - 元プロ野球選手、パティシエ
* [[常幸龍貴之]] - 元大相撲力士。
=== ゆかりのある人物 ===
==== 政治・行政 ====
* [[小渕恵三]] - 政治家。[[内閣総理大臣]]([[小渕内閣|第84代]])。1950年前後より2000年まで王子本町に東京の居を構えていた。
* [[川島浪速]] - [[大陸浪人]]、{{仮リンク|満蒙独立運動|zh|滿蒙獨立運動}}家。大正期から昭和初期に赤羽・十条付近に居住。川島芳子の養父。
* [[川島芳子]] - [[清朝]]の皇族[[粛親王]]の第十四王女。1915年に来日し、赤羽・十条付近で子供時代を過ごす。
* [[陸奥宗光]] - 幕末から明治時代の武士、政治家、外交官。西ケ原に居住。
==== 産業・経済 ====
* [[鹿島万平]] - 1872年(明治5年)、滝野川に日本最初の民間紡績所である[[鹿島紡績所]]を創業<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E4%B8%87%E5%B9%B3-1065068 鹿島万平(読み)かしま まんぺい]コトバンク</ref>。
* [[古河市兵衛]] - [[古河財閥]]の創業者。
* [[小林孝三郎]] - 王子にて[[コーセー]]を創業。
* [[渋沢栄一]] - 官僚、実業家。[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]の創業者の一人。明治後期〜昭和初期、[[飛鳥山]]に居住。
* [[駒崎弘樹]] - 認定NPO法人フローレンス創業者。北区赤羽に在住。
* [[松野礀]] - [[林学者]]。林学教育者。[[東京山林学校]]の初代校長。西ケ原に山林局樹木試験場を設置した。
* [[藤原銀次郎]] - 王子製紙の元社長、政治家。
==== 文化・芸術・科学 ====
* [[芥川龍之介]] - 小説家。大正初期〜昭和初期、田端に居住。
* [[井崎脩五郎]] - 競馬評論家、豊島に居住。
* [[沖中重雄]] - 内科学者。王子に幼少期に居住。
* [[川口松太郎]] - 小説家・劇作家・演出家 昭和初期、田端に居住。
* [[北村西望]] 彫刻家。大正初期から昭和中期に居住。北区の名誉区民第1号。
* [[北村治禧]] 彫刻家。
* [[弦哲也]] - 作曲家。北区在住。北区アンバサダー。
* [[清野とおる]] - マンガ家。赤羽在住。
* [[実相寺昭雄]] - 滝野川に幼少期に居住。映画監督、演出家。
* [[田河水泡]] - 漫画家・前衛美術家。昭和初期、田端に居住。
* [[多紀元孝]]
* [[多紀元堅]] - 江戸幕府将軍奥医師。丹波康頼の末裔で多紀家は世襲の将軍奥医師、法印。幕府医学館総裁を務める。
* [[多紀元簡]]
* [[つかこうへい]] - 作家・演出家。[[1994年]]([[平成]]6年)から「北区つかこうへい劇団」を主宰。北区[[大使|アンバサダー]]。
* [[ドナルド・キーン]] - 日本文学者。[[ニューヨーク]]生まれ。北区西ケ原に在住して30年以上。[[コロンビア大学]][[名誉教授]]。[[東京外国語大学]]など8つの大学の[[名誉博士]]。北区アンバサダー。
* [[野間清治]] - [[講談社]]創業者。赤羽西の現北区立稲付公園の場所に別邸を構えていた。
* [[松江哲明]] - 映画監督。
* [[原ゆたか]] - 児童文学作家、絵本作家、イラストレーター。小学生時代、赤羽台に居住。
* [[平塚らいてう]] - 社会運動家・評論家。大正後期、田端に居住。
* [[本多まつ江]] - 教師、司法[[保護司]]、[[教誨師]]。[[川島芳子]]の家庭教師として、大正期に赤羽の川島家に同居。
* [[光瀬龍]] - SF作家。1962年より赤羽台の居住。
* [[横尾和博]] - 文芸評論家・作家・報道番組構成家。赤羽・志茂地区の居住。
==== 芸能・放送 ====
* [[Nゼロ]] - 赤羽を拠点とするローカルアイドルグループ。
* [[大原麗子]] - 女優。幼少時母の実家である赤羽に居住。
* [[小川知子 (女優)|小川知子]] - 歌手、女優。王子に居住。羽田健太郎は王子小学校の同級生。
* [[宍戸錠]] - 俳優。滝野川に幼少時に居住。
* [[宝田明]] - 俳優。個人事務所「宝田企画」を設け豊島に居住。
* [[武田久美子]] - 女優。田端に幼少時に居住。
* [[高井正憲]] - 元テレビ朝日アナウンサー。[[新潟県]][[見附市]]生まれ。旧東京都立城北高校卒業。
* [[林家パー子]] - 落語家。元ミス赤羽小町。
* [[林家ペー]] - 落語家。
* [[山内賢]] - 俳優。北区立滝野川第四小学校、北区立新町中学校卒業。
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
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== 関連項目 ==
* [[特別区]]
* [[北区役所 (東京都)]]
== 外部リンク ==
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* {{Official website|name=東京都北区}}
{{Geographic Location
|Centre = 北区
|North = [[埼玉県]][[戸田市]] [[川口市]]
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{{東京都北区の町名}}
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[[Category:北区 (東京都)|*]]
[[Category:東京都の特別区]]
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駿河国
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駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。現在の静岡県中部。上国。
明治維新直前の領域は、現在の静岡県の下記の区域に相当する。
7世紀に朝廷が珠流河国造(現在の静岡県東部)と廬原国造(現在の静岡県中部)の領域を合併して駿河国とした。『旧事本紀』の「国造本紀」に静岡県内の国造として6国造が書かれている。素賀国造・遠淡海国造・珠流河国造・廬原国造・久努国造・伊豆国造の六国造。古墳群の分布の検討から素賀は原野谷川・逆川流域、遠淡海を磐田原台地西南部、珠流河を富士・愛鷹山麓、廬原を清水平野、久努を太田川流域、伊豆を伊豆半島のそれぞれの地域に国造領域を比定している。(『静岡県史』通史編1)
※この時点では伊豆半島と伊豆諸島(後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。
駿河は当初、須流加(『和名類聚抄』)、須留可(「東遊駿河舞歌」)、薦河(『駿河国風土記』)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたといわれている。富士川の流れが急峻であることに由来するというものである。
西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった。
680年(天武天皇9年)に東部の2郡を分離して伊豆国を設置した。それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市大岡付近)にあった国府が安倍郡に移った。
1096年(永長元年)には、永長地震が発生。当時の関白、藤原師通の日記『後二条師通記』に、駿河国から報告として神社仏閣、百姓の家々四百戸余りが津波により流出したとの記述が残されている。
1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開き、畿内の朝廷と東国の幕府二つの政権が並立する時代では、両地域を結ぶ東海道の要衝。また、鎌倉時代には、円爾が安倍川流域で緑茶栽培を広めた。
室町時代には今川氏の地盤となる。義元の時代には、駿府(静岡市)には、戦乱を逃れた京の都の公家や文化人が転入し「東(国)の都」、あるいは「東(国)の京」、と呼ばれる繁盛を見せた。
義元が桶狭間の戦いで戦死すると、武田信玄や徳川家康の統治下に置かれた。駿府の今川館は、家康の時代に駿府城として改修された。1590年に家康が駿府から江戸に移ると、中村一氏が入った。
江戸時代初期には、江戸幕府を開いた家康が、大御所として再び駿府で過ごした。江戸時代には、直轄地である駿府の西の守りとして田中藩が、東の守りとして小島藩が置かれた。この他にも、東海道の宿場町が多く誕生した。中でも、大井川は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は川越によって渡川するほかなく、両岸に位置する島田宿と金谷宿は、川越で盛えた。
『和名類聚抄』では国府の所在地は安倍郡とある。ただし『拾芥抄』では、安倍郡・豊田郡の両方に「府」と記載がある。
静岡市の中心部と考えられるが、正確な位置は不明である。静岡県立静岡高等学校が所在する長谷(はせ)を「ちょうや」と読み替え、庁屋と解する推定があったが、古くは長谷を初瀬と書いていたことがわかり、根拠が失われた。瓦・畿内産土師器・輸入陶磁器の出土により、駿府城東南地区をあてる説があるが、決め手となる遺跡遺物は見つかっていない。中世に駿府と呼ばれ、静岡市葵区と駿河区に当たるが、正確な位置は明らかでない。
延喜式内社
総社・一宮以下
国府周辺にあったと考えられるが、確認されていない。
定員:1名。官位相当:従五位下※日付=旧暦※在任期間中、「」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
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] |
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。現在の静岡県中部。上国。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 駿河国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|駿河国}}
|別称 = 駿州(すんしゅう)
|所属 = [[東海道]]
|領域 = [[静岡県]]中部・北東部([[大井川]]以東)
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[中国 (令制国)|中国]]
|郡 = 7郡59郷
|国府 = 静岡県[[静岡市]]
|国分寺 = (推定)静岡県静岡市
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[富士山本宮浅間大社]](静岡県[[富士宮市]])
}}
'''駿河国'''(するがのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。現在の[[静岡県]]中部。[[上国]]。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[静岡県]]の下記の区域に相当する。
* [[駿東郡]][[小山町]]・[[長泉町]]・[[清水町 (静岡県)|清水町]]
* [[御殿場市]]
* [[裾野市]]
* [[沼津市]]の大部分(内浦重寺以南を除く)
* [[田方郡]][[函南町]]の一部(日守)
* [[富士市]]
* [[富士宮市]]
* [[静岡市]]
* [[焼津市]]の大部分(下小杉・上小杉以南を除く<ref>下小杉・上小杉以南も[[1879年]]([[明治]]12年)に駿河国に編入。</ref>)
* [[藤枝市]]
* [[島田市]]の東部([[大井川]]以東)
* [[榛原郡]][[川根本町]]の東部(大井川以東)
== 沿革 ==
=== 古代 ===
[[7世紀]]に[[朝廷 (日本)|朝廷]]が[[珠流河国造]](現在の静岡県東部)と[[廬原国造]](現在の静岡県中部)の領域を合併して駿河国とした。『[[旧事本紀]]』の「国造本紀」に静岡県内の国造として6国造が書かれている。[[素賀国造]]・[[遠淡海国造]]・珠流河国造・廬原国造・[[久努国造]]・[[伊豆国造]]の六国造。古墳群の分布の検討から素賀は原野谷川・逆川流域、遠淡海を磐田原台地西南部、珠流河を富士・愛鷹山麓、廬原を清水平野、久努を太田川流域、伊豆を伊豆半島のそれぞれの地域に国造領域を比定している。(『静岡県史』通史編1)<ref>荒木敏夫「静岡の夜明けと律令体制の成立」 本多隆成・荒木敏夫・杉橋隆夫・山本義彦『静岡県の歴史』山川出版社 1998年 27ページ</ref>
※この時点では[[伊豆半島]]と[[伊豆諸島]](後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。
駿河は当初、須流加(『[[和名類聚抄]]』)、須留可(「[[東遊]]駿河舞歌」)、薦河(『[[駿河国風土記]]』)などとも表記され、'''尖川'''ないし'''駿馬の如き'''つまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたといわれている。[[富士川]]の流れが急峻であることに由来するというものである。
西隣の[[遠江国]]との境は[[大井川]]であった。[[奈良時代]]の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の[[栃山川]]を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった<ref>『静岡県史』通史編1(原始・古代編)481-484頁。</ref>。
[[680年]]([[天武天皇]]9年)に東部の2郡を分離して[[伊豆国]]を設置した。それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の[[沼津市]]大岡付近)にあった国府が[[安倍郡]]に移った。
[[1096年]](永長元年)には、[[永長地震]]が発生。当時の[[関白]]、[[藤原師通]]の日記『後二条師通記』に、駿河国から報告として神社仏閣、百姓の家々四百戸余りが[[津波]]により流出したとの記述が残されている<ref>安田政彦『災害復興の日本史』p16 吉川弘文館 2013年2月1日発行 {{全国書誌番号|22196456}}</ref>。
=== 中世・近世 ===
[[ファイル:Tempo Kuniezu Suruga no kuni Frame 1.jpg|thumb|250px|「駿河國」(『天保國繪圖』[[天保]]9年。)]]
[[1192年]]に[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を開き、[[畿内]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]と[[東国]]の[[鎌倉幕府|幕府]]二つの政権が並立する時代では、両地域を結ぶ[[東海道]]の要衝。また、[[鎌倉時代]]には、[[円爾]]が[[安倍川]]流域で緑茶栽培を広めた。
[[室町時代]]には[[今川氏]]の地盤となる。[[今川義元|義元]]の時代には、[[駿府]](静岡市)には、戦乱を逃れた[[京の都]]の[[公家]]や文化人が転入し「東(国)の都」、あるいは「東(国)の京」、と呼ばれる繁盛を見せた。
義元が[[桶狭間の戦い]]で戦死すると、[[武田信玄]]や[[徳川家康]]の統治下に置かれた。[[駿府]]の今川館は、家康の時代に[[駿府城]]として改修された。[[1590年]]に家康が駿府から[[江戸]]に移ると、[[中村一氏]]が入った。
[[江戸時代]]初期には、[[江戸幕府]]を開いた家康が、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として再び駿府で過ごした。江戸時代には、[[天領|直轄地]]である駿府の西の守りとして[[田中藩]]が、東の守りとして[[小島藩]]が置かれた。この他にも、東海道の[[宿場町]]が多く誕生した。中でも、[[大井川]]は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は[[川越制度|川越]]によって渡川するほかなく、両岸に位置する[[島田宿]]と[[金谷宿]]は、川越で盛えた。
=== 近代以降の沿革 ===
* 「旧高旧領取調帳」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(850村・251,420石余)。'''太字'''は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[駿東郡]](177村・52,530石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、'''[[沼津藩]]'''、田中藩、[[相模国|相模]][[小田原藩]]、相模[[荻野山中藩]]、[[三河国|三河]][[西尾藩]]
** [[富士郡]](162村・51,333石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、相模小田原藩、相模荻野山中藩、三河西尾藩
** [[庵原郡]](87村・22,229石余) - 幕府領、旗本領、小島藩
** [[有渡郡]](105村・37,551石余) - 幕府領、旗本領、小島藩、[[美濃国|美濃]][[岩村藩]]
** [[安倍郡]](142村・21,167石余) - 幕府領、旗本領、'''[[小島藩]]'''
** [[志太郡]](141村・54,470石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、田中藩、[[遠江国|遠江]][[横須賀藩]]、遠江[[掛川藩]]、美濃岩村藩
** [[益津郡]](36村・12,136石余) - 幕府領、旗本領、沼津藩、'''[[田中藩]]'''、美濃岩村藩
* [[1868年]]([[慶応]]4年)
** [[5月24日 (旧暦)|5月24日]] - [[徳川将軍家|徳川宗家]]が[[駿府藩|駿河府中藩]]に[[転封]]。それにともない遠江・駿河・[[伊豆国|伊豆]]国内で領地替えが行われ、荻野山中藩領が相模国[[愛甲郡]]、西尾藩領が[[安房国]][[平郡]]、岩村藩領が美濃国[[土岐郡]]に転封、旧幕府領・旗本領が消滅。
** [[7月13日 (旧暦)|7月13日]] - 沼津藩が[[上総国|上総]][[菊間藩]]、小島藩が上総[[請西藩#桜井藩|金ヶ崎藩]](後に桜井藩)、田中藩が安房[[長尾藩]]に転封。
** [[9月5日 (旧暦)|9月5日]] - 横須賀藩が安房[[花房藩]]に転封。
* 1868年(明治元年)
** [[11月7日 (旧暦)|11月7日]] - 掛川藩が上総[[柴山藩]]に転封。
** 以上の変更により、全域が府中藩の管轄となる。
* [[1869年]](明治2年)[[8月7日 (旧暦)|8月7日]] - 府中藩が'''静岡藩'''に改称。
* [[1871年]](明治4年)[[7月14日 (旧暦)|7月14日]] - [[廃藩置県]]により'''[[静岡県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
『[[和名類聚抄]]』では[[国府]]の所在地は[[安倍郡]]とある。ただし『[[拾芥抄]]』では、安倍郡・豊田郡の両方に「府」と記載がある。
静岡市の中心部と考えられるが、正確な位置は不明である。[[静岡県立静岡高等学校]]が所在する長谷(はせ)を「ちょうや」と読み替え、庁屋と解する推定があったが、古くは長谷を初瀬と書いていたことがわかり、根拠が失われた。瓦・畿内産[[土師器]]・輸入陶磁器の出土により、[[駿府城]]東南地区をあてる説があるが、決め手となる遺跡遺物は見つかっていない<ref>『静岡県史』通史編1(原始・古代編)508頁。</ref>。中世に[[駿府]]と呼ばれ、[[静岡市]]葵区と駿河区に当たるが、正確な位置は明らかでない。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* 駿河国分寺跡<br>創建時の位置は不詳。静岡市[[駿河区]]大谷の[[片山廃寺跡]](国の史跡、{{Coord|34|57|51.23|N|138|25|35.84|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=片山廃寺跡(駿河国分寺跡か)}})が有力候補地とされる<ref name="一宮制 p.153">『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、p. 153。</ref>。塔跡が未発見であったこともあり、片山廃寺の国分寺説を否定する意見も挙げられているが、[[平成]]21年([[2009年]])の調査で塔跡と推定される[[版築]]が見つかり、国分寺の可能性を高めている<ref>『ふちゅ~る No. 21(平成23年度 静岡市文化財年報)』 静岡市教育委員会、2013年、p. 31。</ref>。片山廃寺を否定する説では、静岡市[[葵区]]長谷町付近や[[駿府城]]内東北部を候補に挙げる<ref name="一宮制 p.153"/>。<br>国分寺の法燈は、静岡市葵区長谷町の[[駿河国分寺|龍頭山国分寺]]({{Coord|34|59|3.74|N|138|22|51.20|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=国分寺(伝駿河国分寺後継寺院)}})が伝承する(詳しくは「[[駿河国分寺]]」参照)。
* 駿河国分尼寺跡<br>創建時の位置は不詳。国分尼寺の法燈は、静岡市葵区沓谷の正覚山菩提樹院({{Coord|34|59|37.89|N|138|24|48.94|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=菩提樹院(伝駿河国分尼寺後継寺院)}})が伝承する<ref>『日本歴史地名体系 22 静岡県の地名』 平凡社、2000年、「菩提樹院跡」項。</ref>(詳しくは「[[駿河国分寺#駿河国分尼寺]]」参照)。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小社21座21社の計22座22社が記載されている(「[[駿河国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。
* [[富士郡]] 浅間神社
** 比定社:[[富士山本宮浅間大社]] ([[富士宮市]][[大宮町 (静岡県)|大宮町]])
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 150-153。</ref>。
* 総社:[[静岡浅間神社|神部神社]] (静岡市葵区宮ヶ崎町、{{Coord|34|59|1.07|N|138|22|31.25|E|region:JP-22_type:landmark|name=駿河国総社:神部神社(静岡浅間神社の1社)}}) - [[静岡浅間神社]]を構成する1社。
* 一宮:[[富士山本宮浅間大社]] ([[富士宮市]][[大宮町 (静岡県)|大宮町]]、{{Coord|35|13|38.66|N|138|36|36.01|E|region:JP-22_type:landmark|name=駿河国一宮、名神大社:富士山本宮浅間大社}})
* 二宮:[[豊積神社]] (静岡市[[清水区]][[由比町|由比]]町屋原、{{Coord|35|6|18.88|N|138|33|29.84|E|region:JP-22_type:landmark|name=駿河国二宮:豊積神社}})
* 三宮:[[御穂神社]] (静岡市清水区三保、{{Coord|35|0|0.40|N|138|31|15.16|E|region:JP-22_type:landmark|name=駿河国三宮:御穂神社}})
=== 守護所 ===
国府周辺にあったと考えられるが、確認されていない。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 神護山承元寺(静岡市[[清水区]](旧[[清水市]])承元寺町、本尊:薬師如来)
* 利生塔 - 巨鼇山求王院[[清見寺]](静岡市清水区興津清見寺町、本尊:釈迦如来)
== 地域 ==
=== 郡 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[駿東郡]](旧称:駿河郡)
* [[富士郡]]
* [[庵原郡]]
* [[安倍郡]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[有渡郡]]
* [[志太郡]]
* [[益津郡]]
</div>{{clear|left}}
=== 江戸時代の藩 ===
{| class="wikitable"
|+ 駿河国の藩の一覧
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
|-
! [[駿府藩]]
| [[駿府城]]
||
*[[内藤信成]]:4万石。1601年- 1606年(近江[[長浜藩]]4万石に移封)
*[[徳川家康|大御所]]直轄領:1606年 - 1609年
*[[徳川頼宣]]:50万石。1609年 - 1619年(紀伊[[和歌山藩]]55万5千石に移封)
*[[天領]]:1619年 - 1625年
*[[徳川忠長]]:1625年 - 1632年(改易)
*幕府直轄(駿府[[城代]]:1633年-、駿府[[城番]]:1649年-)
|-
! [[駿府藩|静岡藩]]
| [[駿府城]]
||
*[[徳川家達]]:70万石。1868年 - 1871年
|-
! [[沼津藩]]
| [[沼津城]]
||
*[[大久保忠佐]]:2万石。1601年 - 1613年(無嗣断絶で改易)
*天領・駿府藩領:1613年 - 1777年
*[[水野氏|水野家]]: 2万石→3万石→5万石。1777年 - 1868年(上総[[菊間藩]]5万石に移封)
|-
! [[田中藩]]
| [[田中城]]
||
*[[酒井忠利]]:1万石。1601年 - 1609年(武蔵[[川越藩]]2万石に移封)
*天領・駿府藩領:1609年 - 1633年
*[[松平忠重]]:2万5千石。1633年 - 1635年(遠江[[掛川藩]]4万石に移封 )
*[[水野忠善]]:4万5千石。1635年 - 1642年([[三河吉田藩]]4万5千石に移封)
*[[松平忠晴]]:2万5千石。1642年 - 1644年(遠江[[掛川藩]]2万5千石に移封)
*[[北条氏重]]:2万5千石。1644年 - 1648年(遠江[[掛川藩]]3万石に移封)
*西尾家:2万5千石。1649年 - 1679年(信濃[[小諸藩]]2万5千石に移封)
*[[酒井忠能]]:4万石。1679年 - 1681年(改易)
*[[土屋政直]]:4万5千石。1682年 - 1684年([[大坂城代]]として摂津方面に転出)
*[[太田氏|太田家]]:5万石。1684年 - 1705年(陸奥[[棚倉藩]]5万石に移封)
*[[内藤弌信]]:5万石。1705年 - 1712年(大坂城代として転出)
*[[土岐氏|土岐家]]:3万5千石。1712年 - 1730年(大坂城代として転出)
*[[本多氏#弥八郎家 (正信の家系)|本多家]]:4万石:1730年 - 1868年(安房[[長尾藩]]に移封)
|-
! [[小島藩]]
| 小島陣屋
||
*[[滝脇松平家]]:1万石。1689年 - 1868年(上総[[請西藩|金ヶ崎藩]]に移封)
|-
! [[松長藩]]
| 松長陣屋
||
*[[大久保氏|大久保家]]:1万1千石→1万6千石→1万3千石。1706年 - 1783年(相模[[荻野山中陣屋]]に移転)
|-
! [[興国寺藩]]
| [[興国寺城]]
||
*[[天野康景]]:1万石。1601年 - 1607年(改易)
|-
! [[川成島藩]]
|
||
*[[本郷泰固]]:1万石。1857年 - 1858年(改易)
|}
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 駿河守 ====
定員:1名。官位相当:従五位下※日付=旧暦※在任期間中、「」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
* [[大和長岡]]
* [[高橋祖麻呂]](延暦16年〈797年〉1月13日~延暦19年〈800年〉12月19日)従五位下
* [[高倉殿継]](延暦23年〈804年〉1月24日~延暦25年〈806年〉1月28日)従五位上
* [[礒野王]](延暦25年〈806年〉~大同4年〈809年〉3月11日)従五位下
* [[和建男]](大同4年〈809年〉3月11日~)従五位上
* [[藤原山人]](大同5年〈810年〉9月10日~)従五位上
* [[安倍弟雄]](弘仁4年〈813年〉1月10日~)従五位下
* [[藤原承之]](弘仁6年〈815年〉6月1日~)従五位下
* [[藤原吉野]](弘仁10年〈819年〉1月10日~弘仁14年〈823年〉4月19日)従五位下
* [[賀茂伊勢麻呂]](承和元年〈834年〉1月12日~)従五位下
* [[在原仲平]](承和6年〈839年〉1月11日~承和7年〈840年〉)従五位下
* [[文屋氏雄]](承和7年〈840年〉10月16日~)従五位下
* [[藤原高直]](承和14年〈847年〉1月13日~)従五位下
* [[丹墀良岑]](嘉祥3年〈850年〉5月17日~ )従五位下※丹と良の間には、土へんに、尸。尸の中には、=と=が横に並び、その下には牛の字が入る
* [[楠野王]](嘉祥4年〈851年〉1月11日~)正五位下
* [[高橋浄野]](仁寿4年〈854年〉1月16日~斉衡3年〈856年〉1月12日)従五位下
*(権守) [[清原清海]](斉衡2年〈855年〉~天安2年〈858年〉5月11日)従五位下
* [[礒江王]](斉衡3年〈856年〉1月12日~)従五位下
* [[清原清海]](天安2年〈858年〉5月11日~)従五位下
* [[巨勢夏井]](天安3年〈859年〉1月13日~)従五位下
*(権守) [[大枝直臣]](貞観3年〈861年〉2月25日~)従五位下
* [[県犬養貞守]](貞観5年〈863年〉2月10日~)従五位下
* [[橘主雄]](貞観8年〈866年〉2月13日~)従五位下
* [[清原道雄]](貞観9年〈867年〉1月12日~)従五位下
* [[春澄魚水]](元慶8年〈884年〉3月9日~)従五位下
* [[大蔵是明]](延喜6年〈906年〉3月25日~)従五位下
* (権守)[[出雲有持]](天暦4年〈950年〉1月30日~)従五位下
* [[平兼盛]](天元2年〈979年〉8月17日~)従五位下
* [[藤原惟孝]](天元6年〈983年〉1月~)
*(権守) [[懐行王]](天元6年〈983年〉~永観2年〈984年〉)従五位下
* [[藤原貞材]](正暦5年〈994年〉1月26日~)従五位下
* [[藤原高扶]](寛弘5年〈1006年〉7月13日~寛弘5年〈1008年〉1月17日)※1006年より延任しているのでそれ以前に任官している。
* [[藤原知光]](寛弘6年〈1009年〉~寛弘7年〈1010年〉3月30日)
*(権守) [[大中臣頼宣]](長元8年〈1035年〉1月~)
* [[平維盛(平安中期)]](~康平5年〈1062年〉)
* [[伴広貞]](嘉保2年〈1095年〉1月29日~)※1095年に復任している。
* [[源俊兼]](承徳3年〈1099年〉1月22日~)従五位下
* [[藤原親信]](康和5年〈1103年〉2月30日~)
* [[平為俊]](嘉承3年〈1107年〉1月24日~「天永2年〈1111年〉10月7日」)
* [[藤原説定]](天永2年〈1112年〉1月27日~「永久元年〈1113年〉8月7日」)
* [[藤原行佐]](永久4年〈1116年〉1月~「天永2年〈1111年〉10月7日」)
* [[平宗実]](保安5年〈1124年〉1月22日~大治4年〈1129年〉)
* [[藤原忠能]](大治4年〈1129年〉2月17日~「長承2年〈1133年〉7月3日」)正四位下
* [[藤原経雅]](保延2年〈1136年〉12月29日~「保延5年〈1139年〉2月22日」)
* (権守)[[中原貞宗]](康治2年〈1143年〉1月27日~)正六位上
* [[藤原雅教]](天養2年〈1145年〉4月15日~仁平2年〈1152年〉12月30日)正五位下
*(権守) [[田使季俊]](久安4年〈1148年〉2月1日~)従五位下
* [[藤原忠弘]](仁平2年〈1152年〉12月30日~)
* [[藤原俊教]](仁平4年〈1154年〉9月12日~「保元2年〈1157年〉10月22日」)
* [[藤原雅長]](平治元年〈1159年〉8月14日~)
* [[源広綱]](寿永3年〈1184年〉6月5日~建久元年〈1190年〉12月14日)従五位下
* [[大内惟義]]
* [[北条時房]](元久2年〈1205年〉9月21日~承元元年〈1207年〉1月14日)従五位下
* [[大内惟信]]
* [[北条泰時]](承久元年〈1219年〉1月22日~承久元年〈1219年〉11月13日)従五位上
* [[三浦義村]](承久元年〈1219年〉11月13日~貞応2年〈1223年〉4月10日)従五位下
* [[北条重時]](貞応2年〈1223年〉4月10日~嘉禎3年〈1237年〉11月29日)従五位下→従五位上
* [[北条有時]](嘉禎3年〈1237年〉11月29日~文永7年〈1270年〉3月1日)従五位上→正五位下
* [[北条義政]](文永7年〈1270年〉5月20日~文永10年〈1273年〉7月1日)従五位下
* [[北条義宗]](嘉禎3年〈1277年〉6月17日~嘉禎3年〈1277年〉8月17日)従五位下
* [[北条業時]](弘安3年〈1280年〉11月4日~弘安7年〈1284年〉8月8日)従五位下→正五位下
* [[北条政長]](弘安7年〈1284年〉8月~正安3年〈1301年〉7月14日)従五位下→正五位下
* [[北条宗方]](正安3年〈1301年〉8月20日~寛元3年〈1305年〉5月4日)従五位上
* [[北条斎時]]
* [[北条顕実|甘縄顕実]]( ~嘉暦2年〈1327年〉3月26日)
* [[北条範貞]](元徳元年〈1329年〉12月13日~元弘3年〈1333年〉5月22日)正五位下
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1180年~1184年 - [[武田信義]]
*1185年~1195年 - [[北条時政]]
*1210年~1219年 - [[北条義時]]
*1227年~1231年 - [[北条泰時]]
*1272年~1279年 - [[北条時宗]]
*1279年~? - [[北条時守]]
*1292年~1311年 - [[北条貞時]]
*1311年~1333年 - [[北条高時]]
==== 室町幕府 ====
*1336年~? - [[石塔義房]]
*1338年~1353年 - [[今川範国]]
*1353年~1365年 - [[今川範氏]]
*1365年~1367年 - [[今川氏家]]
*1369年~1394年 - [[今川泰範]]
*1395年~1398年 - [[今川貞世]]
*1395年~1413年 - [[今川泰範]]
*1414年~1433年 - [[今川範政]]
*1433年~1461年 - [[今川範忠]]
*1461年~1476年 - [[今川義忠]]
*1479年~1526年 - [[今川氏親]]
*1526年~1536年 - [[今川氏輝]]
*1536年~1560年 - [[今川義元]]
*1560年~1569年 - [[今川氏真]]
=== 戦国時代 ===
==== 戦国大名 ====
*[[今川氏]]:駿河・遠江守護、戦国大名。1568年、[[今川氏真]]が[[後北条氏|小田原北条氏]]に亡命
*[[武田信玄]]・[[武田勝頼|勝頼]]:1568年 - 1582年(武田家滅亡)
*[[徳川家康]]([[駿府城]]):1582年駿河を自領とする。[[小田原征伐]]後の1590年、北条氏旧領である関東8カ国250万石に移封
==== 豊臣政権の大名 ====
*[[中村一氏]]・[[中村一忠|一忠]]:[[駿府城]]14万5千石。1590年 - 1600年([[関ヶ原の戦い]]後、伯耆[[米子藩]]17万5千石に移封)
=== 武家官位としての駿河守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*安芸・石見の国人領主[[吉川氏]]<br>駿河国吉川郷(現静岡市清水区)に居住した武士。承久の乱の戦功により播磨国~安芸国の地頭職を与えられたが、清水から遠方のため現地国人に地頭職を掠め盗られぬよう[[吉川経高|吉川次郎経高]]が現地に遷り、永住することになった。吉川家嫡男は吉川郷に留まった。経高の子孫は戦国大名を経た後貴族院議員となった。子孫が清水区吉川の吉川館跡を時折訪れている)<ref>{{Cite book|和書|author=中国新聞社|authorlink=中国新聞社|chapter=発祥と駿河丸時代|title=歴史紀行 安芸吉川氏|publisher=[[新人物往来社]]|date=1988年6月|isbn=4-404-01517-8}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hamadayori.com/hass-col/uji/Kikkawa.html|title=吉川氏発祥の旧跡|work=発祥の地コレクション|date=|accessdate=2014/06/29}}</ref>。
**[[吉川経秋]]:鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。安芸吉川氏7代当主
**[[吉川経見]]:南北朝時代か・室町時代中期の武将。安芸吉川氏8代当主
**[[吉川経信]]:室町時代中期の武将。安芸吉川氏の9代当主
**[[吉川経基]]:戦国時代の武将。安芸吉川氏11代当主
**[[吉川元春]]:戦国時代・安土桃山時代の武将。安芸吉川氏15代当主。[[毛利元就]]の次男
**[[吉川経兼]]:南北朝時代初期の武士。石見吉川氏の2代当主
*その他
**[[大内惟義]]:平安時代末期・鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光の曾孫
**[[三浦義村]]:平安時代末期・鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人
**[[石川光貞]]:鎌倉時代前期の武将。大和源氏の流れを汲む[[陸奥石川氏]]8代目当主
**[[石川家光]]:鎌倉時代後期の武将。[[陸奥石川氏]]12代目当主
**[[佐竹貞義]]:鎌倉時代末期・南北朝時代の武将、常陸守護。[[佐竹氏]]の第8代当主
**[[高重茂]]:南北朝時代の武将、武蔵守護、関東執事。[[高師直]]と[[高師泰]]の弟
**[[桃井直常]]:南北朝時代の武将、伊賀・若狭・越中守護
**[[板垣信方]]:戦国時代の甲斐[[武田氏]]の武将。[[武田四天王]]の一人
**[[宇佐美定満]]:戦国時代の越後[[上杉氏]]の武将。上杉四天王の一人
**[[鍋島清房]]:戦国時代の武将。[[佐賀藩]]の藩祖[[鍋島直茂]]の父
**[[戸田勝隆]]:戦国時代・安土桃山時代の武将、[[豊臣政権]]の大名、伊予[[大洲]]7万石
==== 江戸時代 ====
*上総佐貫藩[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]](分家)
**[[阿部正賀]]:第3代藩主
**[[阿部正簡]]:第5代藩主
**[[阿部正身]]:第7代藩主
**[[阿部正恒]]:第8代藩主
*大和[[高取藩]]植村家
**[[植村家長]]:第9代藩主・老中格
**[[植村家貴]]:第11代藩主
**[[植村家保]]:第13代藩主
*常陸[[麻生藩]]新庄家
**[[新庄直頼]]:初代藩主
**[[新庄直祐]]:第8代藩主
**[[新庄直規]]:第11代藩主
**[[新庄直彪]]:第13代藩主
*[[越後長岡藩]]系[[牧野氏|牧野家]]宗家
**[[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野忠成]]:上野[[大胡藩]]第2代藩主、越後長岡藩初代藩主
**[[牧野忠辰]]:長岡藩第3代藩主
**[[牧野忠寿]]:長岡藩第4代藩主
**[[牧野忠敬]]:長岡藩第6代藩主
**[[牧野忠利]]:長岡藩第7代藩主
**[[牧野忠寛]]:長岡藩第8代藩主
**[[牧野忠訓]]:長岡藩第12代藩主
*その他
**[[青木重龍]]:摂津[[麻田藩]]第11代藩主
**[[岡部長修]]:和泉[[岸和田藩]]第7代藩主
**[[加納久徴]]:上総[[一宮藩]]第2代藩主
**[[松平定陳]]:伊予[[今治藩]]第3代藩主
**[[松平勝道]]:[[今治藩]]第9代藩主
**[[松平典信]]:丹波[[篠山藩]]第2代藩主
**[[松平親賢]]:豊後[[杵築藩]]第7代藩主
**[[松平直興]]:出雲[[母里藩]]第8代藩主
**[[松平信順]]:三河[[三河吉田藩|吉田藩]]第4代藩主
**[[毛利高久]]:豊後[[佐伯藩]]第5代藩主
**[[最上家親]]:出羽[[山形藩]]第2代藩主
**[[渡辺豪綱]]:和泉[[伯太藩]]第5代藩主
== 人文 ==
*[[民話]]では、[[竹取物語|かぐや姫]]や[[羽衣]]が有名である。
*[[方言]]では、[[静岡弁|静岡辯]]の地域。
*[[ヤマトタケル]][[日本神話|神話]]に因んだ地名が点在する。[例][[日本平]]、[[草薙]]、[[焼津市|焼津]]。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 22 静岡県
* 静岡県『静岡県史』通史編1(原始・古代篇)、静岡県、1994年。
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Suruga Province}}
{{令制国一覧}}
{{駿河国の郡}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:するかのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:東海道|国するか]]
[[Category:静岡県の歴史]]
[[Category:駿河国|*]]
|
2003-08-22T03:35:06Z
|
2023-12-05T03:45:00Z
| false | false | false |
[
"Template:令制国一覧",
"Template:Normdaten",
"Template:基礎情報 令制国",
"Template:座標一覧",
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"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Cite web",
"Template:Clear",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:全国書誌番号",
"Template:Commonscat",
"Template:駿河国の郡"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%9B%BD
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13,724 |
尾張徳川家
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尾張徳川家(おわりとくがわけ)もしくは尾州徳川家(びしゅうとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の筆頭であり、江戸時代には名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家とも言った。明治維新後には華族の侯爵家に列した。
徳川家康の九男・徳川義直を家祖とする。義直は1603年(慶長8年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代・平岩親吉によって担われており、義直自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の1606年(慶長11年)に義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて名古屋藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀伊徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後は御三卿が創設されたり、御三卿の系統が名古屋藩主になった影響もあって、尾張家や義直の直系子孫からは結局将軍を出せなかった。藩祖・義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家の家であった。
尾張徳川家の支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、1799年(寛政11年)に尾張徳川家、1801年(享和元年)には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し、19世紀以降の尾張家は養子相続を繰り返して現在に至っている。第10代・斉朝から第13代・慶臧まで吉宗(一橋徳川家・宗尹)の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は第14代・慶勝を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。
慶勝は1858年(安政5年)に大老井伊直弼と対立して安政の大獄により謹慎を命じられた。井伊暗殺後に復権して第一次長州征伐の征長総督となったが、乗り気ではなく再征には反対した。明治維新後には新政府の議定を務めた。続く戊辰戦争に名古屋藩軍は官軍として従軍し、戦勝後の1869年(明治2年)には軍功により慶勝に賞典禄1万5000石が永世下賜された。
同年の版籍奉還によって、第16代・義宜は華族に叙せられ名古屋藩知事となった。また秩禄処分後、約74万円という高額の金禄公債証書を受領した。資産のうち約43万円を第15国立銀行に出資して配当金を再投資し、また士族授産のため北海道・遊楽部原野の土地を開拓して八雲町を拓くなどして、維新後も高い政治的・経済的地位を維持した。1884年(明治17年)の華族令公布の際、第18代・義礼は叙爵内規の規定通り、旧御三家紀伊・水戸の両徳川家当主とともに侯爵に叙せられた。また分家の徳川義恕も父慶勝の維新の功績により男爵に叙された。
1871年(明治4年)の廃藩置県により旧大名家が東京に拠点を移し、旧藩地の財産を処分する中、義礼は名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を置き、1900年(明治33年)に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどしていたが、第19代・義親のとき、尾張家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器等の整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した。その旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。義親は1931年(昭和6年)に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益等により大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設した。
戦後、1946年(昭和21年)に義親が戦争協力者として公職追放にあい、1947年(昭和22年)に華族制度廃止により爵位を喪失。財産税の適用により資産の約8割を喪失、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり、八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された。
財政難のため目白の邸宅は西武に売却され、蓬左文庫は1950年(昭和25年)に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は1970年(昭和45年)に閉鎖、施設はヤクルトに売却された。
2016年(平成28年)現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており、尾張家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している。
太字は正室所生。
尾張徳川家との旧臣関係による家政の顧問会。1908年に19代・義親が家督を相続したときには田中不二麿を御相談人長とし、加藤高明、永井久一郎、成瀬正雄、中村修、横井時儀、片桐助作の6人が御相談人となっていた。のちに八代六郎、渡辺錠太郎、大角岑生、松井石根ら陸海軍の将校が御相談人となった。
1908年に19代・義親が家督を相続したとき、東京(別邸)には家扶・水野正則以下3人、名古屋・大曽根の本邸に家令・海部昂蔵以下、家扶4人、家従8名が勤務していた。
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。
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尾張徳川家(おわりとくがわけ)もしくは尾州徳川家(びしゅうとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の筆頭であり、江戸時代には名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家とも言った。明治維新後には華族の侯爵家に列した。
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{{日本の氏族
|家名=尾張徳川家
|家紋=Japanese crest Owari mitu Aoi.svg
|家紋名称=尾州中納言葵<ref>「紋章・マーク・シンボル」野ばら社。</ref>
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'''尾張徳川家'''(おわりとくがわけ)もしくは'''尾州徳川家'''(びしゅうとくがわけ)は、[[徳川宗家|徳川将軍家]]の分家である[[徳川御三家|御三家]]の筆頭であり、[[江戸時代]]には[[尾張藩|名古屋藩]]主を世襲し、諸[[大名]]の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。'''尾張大納言家'''、単に'''尾張家'''、'''尾州家'''とも言った。[[明治維新]]後には[[華族]]の[[侯爵]]家に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=323}}。
== 歴史 ==
=== 江戸時代 ===
[[徳川家康]]の九男・[[徳川義直]]を家祖とする。義直は[[1603年]]([[慶長]]8年)に家康から[[甲斐国]]に封じられるが、甲斐統治は甲府城代・[[平岩親吉]]によって担われており、義直自身は在国せず[[駿府城]]に在城した。[[元服]]後の[[1606年]](慶長11年)に義直は、兄・[[松平忠吉]]の遺跡を継ぐ形で[[尾張国]]清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は[[江戸時代]]を通じて[[尾張藩|名古屋藩]]を治めた。[[徳川将軍家]]に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代[[征夷大将軍|将軍]]の[[徳川家継]]没後、[[紀州徳川家|紀伊徳川家]]出身の[[徳川吉宗]]が尾張家の[[徳川継友]]を制して8代将軍に就任した。その後は[[御三卿]]が創設されたり、御三卿の系統が名古屋藩主になった影響もあって、尾張家や義直の直系子孫からは結局将軍を出せなかった。藩祖・義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた[[勤王|勤皇]]家の家であった。
尾張徳川家の支系([[御連枝]])として、[[美濃国]][[高須藩]]を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、[[1799年]]([[寛政]]11年)に尾張徳川家、[[1801年]]([[享和]]元年)には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し<ref>他家へ養子入りした男系子孫までたどると、8代藩主[[徳川宗勝|宗勝]]の子で尾張藩[[御附家老|付家老]][[竹腰氏]]へ養子に入った[[竹腰勝起]]を経て[[高岡藩]][[井上氏]]、[[櫛羅藩]][[永井氏]]へと血統が連なり、永井氏の血統は現在も存続している。</ref>、[[19世紀]]以降の尾張家は養子相続を繰り返して現在に至っている。第10代・[[徳川斉朝|斉朝]]<ref>斉朝は母方の高祖母が4代[[徳川吉通|吉通]]の長女[[信受院]]であるため、義直の血を引いている。</ref>から第13代・[[徳川慶臧|慶臧]]まで吉宗([[一橋徳川家]]・[[徳川宗尹|宗尹]])の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は第14代・[[徳川慶勝|慶勝]]<ref>もっとも、慶勝も血統上は[[水戸徳川家]]出身の9代高須藩主[[松平義和]]の孫である。</ref>を高須家から迎えることに成功し、[[江戸幕府|幕府]]からの干渉を弱めた。
慶勝は[[1858年]](安政5年)に大老[[井伊直弼]]と対立して[[安政の大獄]]により謹慎を命じられた。井伊暗殺後に復権して第一次長州征伐の征長総督となったが、乗り気ではなく再征には反対した。[[明治維新]]後には新政府の議定を務めた<ref>{{Kotobank|尾張藩|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。続く[[戊辰戦争]]に名古屋藩軍は官軍として従軍し、戦勝後の1869年(明治2年)には軍功により慶勝に[[賞典禄]]1万5000石が永世下賜された{{sfn|新田完三|1984|p=619}}。
=== 明治以降 ===
[[ファイル:Yatsugatake Kōgen Hutte.jpg|thumb|昭和9年に[[徳川義親]]侯爵が建築家[[渡辺仁]]に東京・目白に建設させたイギリス風[[ハーフティンバー様式]]の邸宅。昭和43年に[[西武百貨店]]が取得して八ヶ岳高原に移築し、現在はレストラン「[[八ヶ岳高原海ノ口自然郷|八ヶ岳高原ヒュッテ]]」となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yatsugatake.co.jp/stay/information/hut.html|title=八ヶ岳高原ヒュッテ|publisher=八ヶ岳高原ロッジ|accessdate=2023-06-7}}</ref>]]
同年の[[版籍奉還]]によって、第16代・[[徳川義宜|義宜]]は[[華族]]に叙せられ[[尾張藩|名古屋藩]][[知藩事|知事]]となった{{Sfn|小田部|1988|pp=39-41}}。また[[秩禄処分]]後、約74万円という高額の[[金禄公債]]証書<ref>薩摩島津家、加賀前田家、長門毛利家、肥後細川家に次ぐ第5位の高禄だった{{Harv|小田部|1988|p=39}}</ref>を受領した{{Sfn|小田部|1988|pp=39-41}}。資産のうち約43万円を[[十五銀行|第15国立銀行]]に出資して配当金を再投資し、また[[士族授産]]のため[[北海道]]・[[遊楽部]]原野の土地を開拓して[[八雲町]]を拓くなどして、[[明治維新|維新]]後も高い政治的・経済的地位を維持した<ref>{{Harvtxt|小田部|1988|pp=39-41}}。1898(明治31)年当時、尾張徳川家の所得は約11万6千円で、所得番付の12位、華族の中で第7位だった(同)。なお、財務収支の改善は1890年から同家の御相談人となった[[加藤高明]]によるところが大きく、それ以前は収支がトントンだったが、加藤によって収支が大幅に改善し、資産が3倍-10倍になった、とされている{{Harv|小田部|1988|pp=42-43}}。</ref>。[[1884年]](明治17年)の[[華族令]]公布の際、第18代・[[徳川義礼|義礼]]は叙爵内規の規定通り、旧御三家紀伊・水戸の両徳川家当主とともに[[侯爵]]に叙せられた。また分家の[[徳川義恕]]も父慶勝の維新の功績により[[男爵]]に叙された{{sfn|小田部雄次|2006|p=344}}。
[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]により旧大名家が[[東京]]に拠点を移し、旧藩地の財産を処分する中、義礼は[[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]][[大曽根 (名古屋市)|大曽根]](現在の[[徳川園]])に本邸を置き、[[1900年]](明治33年)に[[愛知県立明和高等学校|明倫中学校]]を開設、家財の保存に努めるなどしていたが{{Sfn|香山|2015|p=30}}{{Sfn|香山|2014|pp=17-18,28}}、第19代・[[徳川義親|義親]]のとき、尾張家の事務所([[1913年]])と本籍([[1920年]])を名古屋から東京<ref>[[麻布区]][[南麻布|富士見町]]、1932年から[[豊島区]][[目白]]{{Harv|香山|2016|pp=124-125}}</ref>へ移し、[[1910年代]]以降、明倫中学校を[[愛知県]]に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器等の整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した{{Sfn|香山|2015|pp=3,27-28,30-32}}。その旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』([[宮帯出版社]])に編集・収録されている。義親は[[1931年]]([[昭和]]6年)に財団法人[[徳川黎明会|尾張徳川黎明会]]を設立し、処分した什宝の売却益等により{{Sfn|香山|2015|p=36}}大曽根の義礼邸跡地に[[徳川美術館]]、目白に[[蓬左文庫]]・[[徳川生物学研究所]]を開設した{{Sfn|香山|2016|p=121}}。
戦後、[[1946年]](昭和21年)に義親が戦争協力者として[[公職追放]]にあい、[[1947年]](昭和22年)に[[華族#華族身分の剥奪・返上|華族制度廃止]]により[[爵位]]を喪失{{Sfn|小田部|1988|pp=209-210}}。[[財産税法|財産税]]の適用により資産の約8割を喪失{{Sfn|小田部|1988|pp=209-210}}、保有していた[[南満州鉄道]]の株券が無価値になり{{Sfn|徳川|1963|p=146}}、[[八雲町 (名古屋市)|八雲町]]の徳川農場は[[農地法]]の適用を受け、一部の山林を残して解放された{{Sfn|徳川|1963|pp=110,146}}。
財政難のため[[目白]]の邸宅は[[西武グループ|西武]]に売却され{{Sfn|小田部|1988|p=209}}、蓬左文庫は[[1950年]](昭和25年)に藩政資料などを[[徳川林政史研究所]]に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は[[1970年]](昭和45年)に閉鎖、施設は[[ヤクルト本社|ヤクルト]]に売却された<ref>{{Cite book|和書|author= 科学朝日|year= 1991 |title= 殿様生物学の系譜 |editor= 科学朝日 |publisher= 朝日新聞社 |isbn= 4022595213 |page= 200 |ref= harv }}</ref><ref>{{Cite journal|和書|last1= 中村 |last2= 増田 |year= 1996 |first1= 輝子 |first2= 芳雄 |title= 山口清三郎博士の戦中日記 |journal= 人間環境科学 |volume= 5 |pages= 85-112 |publisher= 帝塚山大学 |naid= 110000481506 |page= 89 |ref=harv}}</ref>{{Sfn|小田部|1988|p=29}}。
[[2016年]]([[平成]]28年)現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営<ref>{{Cite web|和書|author= 徳川黎明会 |year= 2016b |url= http://www.tokugawa.or.jp/index-right.htm |title= 公益財団法人徳川黎明会 |publisher= 公益財団法人徳川黎明会(総務部) |accessdate=2016-09-29|ref= harv}}</ref>、株式会社[[八雲産業]]が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と[[八雲町]]に残された山林を運営しており<ref>{{Cite web|和書|author= 八雲産業 |year= 2016 |url= http://www.tokugawa-dormitory.jp/about/company.html |title= Tokugawa dormitory トップページ > 徳川ドーミトリーとは |publisher= YAKUMO SANGYO CO.,LTD. |accessdate=2016-10-27 |ref= harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= 八雲産業 |year= 2015 |url= http://www.tokugawa-village.jp/about/index.html |title= Tokugawa Village トップページ > 徳川ビレッジとは |publisher= Yakumo Sangyo Co., Ltd. |accessdate=2016-10-27 |ref= harv}}</ref>{{Sfn|小田部|1988|pp=40-41}}、尾張家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している{{Sfn|八雲産業|2016}}<ref>{{Cite report|author=徳川黎明会|year=2016a|title=平成27年度事業報告書|url=http://www.tokugawa.or.jp/image02-PDF/H27-houkoku.pdf|format=PDF|publisher=公益財団法人徳川黎明会|date=2016-07-04|accessdate=2016-09-29}}</ref>。
== 歴代当主と後嗣たち ==
太字は正室所生。
* 初代(藩主) [[徳川義直]] - 敬公
** 光友(2代)
* 2代(藩主) [[徳川光友]] - 正公
** 綱誠(3代)
** [[松平義行]](四谷松平家=[[高須藩]]初代藩主)
** [[松平義昌]](大窪松平家=[[梁川藩]]初代藩主)
** [[松平友著]](川田窪松平家祖)
*** 友淳(のち高須藩3代藩主義淳、さらに宗家を継ぎ、名古屋藩8代藩主[[徳川宗勝]])
* 3代(藩主) '''[[徳川綱誠]]''' - 誠公
** 吉通(4代)
** 松平通顕(のち名古屋藩第6代藩主[[徳川継友]])
** [[松平義孝]](高須藩2代藩主)
** 松平通春(陸奥梁川藩主、のち名古屋藩7代藩主[[徳川宗春]])
* 4代(藩主) [[徳川吉通]] - 立公
** 五郎太(5代)
* 5代(藩主) '''[[徳川五郎太]]''' - 誉公
** (実子なし)
* 6代(藩主) [[徳川継友]](3代藩主綱誠の子) - 曜公
** (実子なし)
* 7代(藩主) [[徳川宗春]](3代藩主綱誠の子) - 逞公
** (実子なし)
* 8代(藩主) [[徳川宗勝]](支藩高須藩3代藩主から襲封、名古屋藩2代藩主光友の孫) - 戴公
** 宗睦(9代)
** [[松平義敏]](高須藩4代藩主)
*** 義柄(高須藩5代藩主、のち名古屋藩9代藩主宗睦世子、[[徳川治行]])
*** [[松平義裕|義裕]](高須藩6代藩主)
** [[松平義当|松平勝当]](高須藩7代藩主、高須松平家における義直系最後の当主)
* 9代(藩主) [[徳川宗睦]] - 明公
** [[徳川治休|治休]](嗣子、早世)
** [[徳川治興|治興]](嗣子、早世)
* 10代(藩主) '''[[徳川斉朝]]'''([[一橋徳川家]]から養子) - 順公
** (実子なし)
* 11代(藩主) [[徳川斉温]]([[徳川将軍家]]から養子、11代将軍[[徳川家斉]]の実子) - 僖公
** (実子なし)
* 12代(藩主) [[徳川斉荘]]([[田安徳川家]]から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 懿公
** 昌丸(一橋徳川家8代当主、夭折)
* 13代(藩主) [[徳川慶臧]](田安徳川家から養子)- 欽公
** (実子なし)
* 14代(藩主) '''[[徳川慶勝]]'''(初め慶恕/支藩高須藩から養子、[[水戸藩]]6代藩主[[徳川治保]]の曾孫)- 文公
** 義宜(16代)
* 15代(藩主) [[徳川茂徳]](支藩高須藩11代藩主から襲封、14代慶勝の実弟、のち一橋徳川家10代茂栄)
** [[松平義端]](高須藩12代藩主)
** [[徳川達道]](一橋徳川家11代当主、伯爵)
* 16代(藩主) [[徳川義宜]](養子、14代慶勝の実子) - 靖公
** (実子なし)
* 17代<!-- 慶勝の当主復帰は廃藩置県後(藩主) --> [[徳川慶勝]](14代慶勝の再勤)- 文公
** [[徳川義恕]](尾張徳川家分家祖、[[男爵]])
*** [[徳川義寛|義寛]](尾張徳川家分家当主、男爵、[[昭和天皇]]の侍従長)
== 尾張徳川侯爵家 ==
=== 当主 ===
* 18代([[侯爵]]) [[徳川義礼]]([[高松松平家]]から養子、夫人は17代慶勝の娘)
* 19代(侯爵) [[徳川義親]]([[越前松平家]]から養子、夫人は18代義礼の娘)
* 20代 [[徳川義知]](義親の長男。終戦を期に家督を継承{{Sfn|徳川|1963|p=148}}、1947年5月、華族制度廃止により爵位喪失{{Sfn|小田部|1988|p=209}})
=== 御相談人会 ===
尾張徳川家との旧臣関係による家政の顧問会{{Sfn|小田部|1988|p=42}}。1908年に19代・義親が家督を相続したときには[[田中不二麿]]を御相談人長とし、[[加藤高明]]、[[永井久一郎]]、[[成瀬氏|成瀬]]正雄、[[中村修 (名古屋市長)|中村修]]、横井時儀、[[片桐助作 (1851年生)|片桐助作]]の6人が御相談人となっていた{{Sfn|香山|2014|pp=2-3}}{{Sfn|小田部|1988|p=42}}。のちに[[八代六郎]]、[[渡辺錠太郎]]、[[大角岑生]]、[[松井石根]]ら陸海軍の将校が御相談人となった{{Sfn|小田部|1988|p=42}}。
==== 御相談人長 ====
*[[田中不二麿]] 1908年の義親家督相続時の御相談人長{{Sfn|香山|2014|pp=2-3}}
*[[加藤高明]] 1909年-1926年{{Sfn|香山|2016|p=104}}財政を取り仕切る{{Sfn|小田部|1988|pp=42-43}}。義禮の養嗣子候補に義親を選んだ{{Sfn|小田部|1988|p=42}}。
==== 御相談人 ====
*加藤高明 1890年-1926在任{{Sfn|小田部|1988|pp=42-43}}。
*[[永井久一郎]] 1890年12月-1913年在任{{Sfn|香山|2016|p=122}}
*[[成瀬氏|成瀬]]正雄{{Sfn|香山|2014|pp=2-3}}
*[[中村修 (名古屋市長)|中村修]]{{Sfn|香山|2014|pp=2-3}}
*横井時儀{{Sfn|香山|2014|pp=2-3}}
*[[片桐助作 (1851年生)|片桐助作]] 1903年-1915年在任{{Sfn|香山|2015|p=27}}{{Sfn|香山|2014|pp=2-3,25}}
*[[堀鉞之丞]] 1908年10月30日-1914年4月30日在任{{Sfn|香山|2015|p=1}}。
*[[海部昂蔵]] 1914年-在任{{Sfn|香山|2015|p=1}}。
*[[阪本釤之助]] 1920年-在任{{Sfn|香山|2016|p=122}}
*[[松井石根]]{{Sfn|小田部|1988|p=42}}
*[[八代六郎]]{{Sfn|小田部|1988|p=42}}
*[[渡辺錠太郎]]{{Sfn|小田部|1988|p=42}}
*[[大角岑生]]{{Sfn|小田部|1988|p=42}}
*[[佐藤鋼次郎]]{{Sfn|香山|2015|p=33}}
*[[間島弟彦]]{{Sfn|香山|2015|p=33}}
=== 家職 ===
1908年に19代・義親が家督を相続したとき、東京(別邸)には家扶・水野正則以下3人、名古屋・[[大曽根 (名古屋市)|大曽根]]の本邸に[[家令]]・[[海部昂蔵]]以下、家扶4人、家従8名が勤務していた{{Sfn|香山|2014|p=3}}。
==== 家令 ====
*[[海部昂蔵]] 1903年(明治36年)12月19日-1914年(大正3年)5月1日在任{{Sfn|香山|2015|p=1}}。
*[[堀鉞之丞]] 1914年(大正3年)9月-在任{{Sfn|香山|2015|p=1}}
*[[鈴木信吉]] 1929年(昭和4年)-在任{{Sfn|香山|2016|p=104}}
==== 家扶 ====
*水野正則{{Sfn|香山|2014|p=3}}
*五味末吉{{Sfn|香山|2016|p=103}}
== 戦後の尾張徳川宗家 ==
* 20代当主 [[徳川義知]]
* 21代当主 [[徳川義宣]]([[堀田氏|堀田家]]から養子、夫人は20代義知の娘)
* 22代当主 [[徳川義崇]](現当主)
== 系譜 ==
'''凡例''':太線は実子、破線は養子、太字は当主
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{{familytree|border=0|yoshinao|yoshinao='''[[徳川義直|義直]]'''<sup>1</sup>}}
{{familytree|border=0| |!|}}
{{familytree|border=0|mitsutomo|mitsutomo='''[[徳川光友|光友]]'''<sup>2</sup>}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|v|-|-|.| |}}
{{familytree|border=0|tsunanari|tsunanari='''[[徳川綱誠|綱誠]]'''<sup>3</sup>| | | | | | | | | | | | |yoshiyuki|yoshiyuki=(四谷)<br>[[松平義行]]| | | |yoshimasa|yoshimasa=(大窪)<br>[[松平義昌]]|tomoaki|tomoaki=(川田窪)<br>[[松平友著]]}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| | |}|-|-|.| | |!| | |!}}
{{familytree|border=0|yoshimichi|yoshimichi='''[[徳川吉通|吉通]]'''<sup>4</sup>|tsugutomo|tsugutomo=[[徳川継友|松平通顕]]<br/>(継友)|yoshitaka|yoshitaka=[[松平義孝]]|mitchimasa|mitchimasa=[[松平通温]]|muneharu|muneharu=[[徳川宗春|松平通春]]<br/>(宗春)|yoshitaka|takemasa|takemasa=[[松平武雅]]|yoshikata|yoshikata=[[松平義方]]|munekatsu|munekatsu=[[徳川宗勝|松平友淳]]<br/>(宗勝)}}
{{familytree|border=0| |!| | | | | | | | | | | | | | |:| | | | | |!| | | }}
{{familytree|border=0|goro|goro='''[[徳川五郎太|五郎太]]'''<sup>5</sup>| | | | | | | | | | | | |yoshiatsu|yoshiatsu=[[徳川宗勝|松平義淳]]<br/>(宗勝)| | | |yoshizane|yoshizane=[[松平義真]]}}
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{{familytree|border=0|tsugutomo|tsugutomo='''[[徳川継友|継友]]'''<sup>6</sup>| | | | | | | | | | | | | | | | | | |michiharu|michiharu=[[徳川宗春|松平通春]]<br/>(宗春)}}
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{{familytree|border=0|muneharu|muneharu='''[[徳川宗春|宗春]]'''<sup>7</sup>}}
{{familytree/end}}
宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。
{{familytree/start|style=font-size:85%}}
{{familytree|border=0|munekatsu|munekatsu='''[[徳川宗勝|宗勝]]'''<sup>8</sup>}}
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{{familytree|border=0|muneyoshi|muneyoshi='''[[徳川宗睦|宗睦]]'''<sup>9</sup>| | | | | | | | | | | | | | | |yoshitoshi|yoshitoshi=(四谷)<br>[[松平義敏]]|yoshimasa|yoshimasa=[[松平義当]]|katsuoki|katsuoki=[[竹腰勝起]]|masakuni|masakuni=[[井上正国]]|yorita|yorita=[[内藤頼多]]|masanobu|masanobu=[[内藤政脩]]}}
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{{familytree|border=0|haruyoshi|haruyoshi=[[徳川治休|治休]]|haruoki|haruoki=[[徳川治興|治興]]|haruyuki|haruyuki=[[徳川治行|治行]]|naritomo|naritomo='''[[徳川斉朝|斉朝]]'''<sup>10</sup>| | | |yoshie|yoshie=[[徳川治行|松平義柄]]<br/>(治行)|yoshihiro|yoshihiro=[[松平義裕]]}}
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{{familytree|border=0| | | | | | | | | |nariharu|nariharu='''[[徳川斉温|斉温]]'''<sup>11</sup>| | | | | | |yoshimasa|yoshimasa=[[松平義当]]}}
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== 関連寺院 ==
*[[建中寺]](名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]])
*[[興正寺 (名古屋市)|興正寺]](名古屋市[[昭和区]])
*[[定光寺]](愛知県[[瀬戸市]])
== 尾張徳川家の別荘 ==
*[[小牧御殿]](愛知県[[小牧市]])
*[[坂下御殿]](愛知県[[春日井市]])
*[[朝宮御殿]](愛知県[[春日井市]])
*[[横須賀御殿]](愛知県[[東海市]]高横須賀町御亭)徳川光友が、寛文6年(1669年)に建てた別荘。臨江亭とも言ったが、光友が亡くなった後の正徳5年(1715年)に取り壊されたが、その70年後の天明5年(1785年)に、新しく[[横須賀代官所]]が置かれた。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
=== 尾張徳川侯爵家関連 ===
* {{Cite journal|和書|last= 香山 |year= 2016 |first= 里絵 |title= 「尾張徳川美術館」設計懸賞 |journal=金鯱叢書 |volume= 43 |pages= 103-131 |publisher= 徳川美術館 |date= 2016-03 |issn= 2188-7594 |url= http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/bcd297314498ffc33ee5c1ce05ca0657a85cb7b9.pdf |format= pdf |accessdate= 2016-10-03 |ref= harv }}
* {{Cite journal|和書|last= 香山 |year= 2015 |first= 里絵 |title= 明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備 |journal=金鯱叢書 |volume= 42 |pages= 27-41 |publisher= 徳川美術館 |date= 2015-03 |issn= 2188-7594 |url= http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf |format= pdf |accessdate= 2016-10-03 |ref= harv }}
* {{Cite journal|和書|last= 香山 |year= 2014 |first= 里絵 |title= 徳川義親の美術館設立想起 |journal=金鯱叢書 |volume= 41 |pages= 1-29 |publisher= 徳川美術館 |date= 2014-03 |issn= 2188-7594 |url= http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/41.pdf |format= pdf |accessdate= 2016-10-03 |ref= harv }}
* {{Cite book|和書|last= 小田部 |year= 1988 |first= 雄次 |authorlink= 小田部雄次 |title= 徳川義親の十五年戦争 |publisher= 青木書店 |isbn= 4250880192 |ref= harv }}
*{{Cite book|和書|last= 徳川 |year= 1963 |first= 義親 |<!--authorlink= 徳川義親 |-->author-mask= 2 |chapter= 私の履歴書‐徳川義親 |editor= 日本経済新聞社 |title= 私の履歴書 |volume= 文化人 16 |publisher= 日本経済新聞社 |id= {{全国書誌番号 |73011083}} |date= 1984 |origdate= 1963-12 |pages= 85-151 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1984年(昭和59年)|title=内閣文庫蔵諸侯年表|author=新田完三|authorlink=新田完三|publisher=[[東京堂出版]]|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[名古屋城]]
* [[建中寺]]
* [[河文]]
* [[鸚鵡籠中記]]
* [[このわた]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Owari branch}}
* [https://www.tokugawa-art-museum.jp/about/owari-family/ 尾張徳川家について] - 徳川美術館
* {{Kotobank}}
* [http://www.tokugawa-art-museum.jp/ 徳川美術館 公式サイト]
* [http://www.tokugawa.or.jp/ (財)徳川黎明会 公式サイト]
<!--私設サイトへの外部リンク * [http://www.tokugawa.org/~toku/ 徳川義崇のページ] {{ja icon}} -->
* [http://www.yakumo.co.jp/ 八雲産業株式会社 公式サイト]
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{{デフォルトソート:おわりとくかわけ}}
[[Category:尾張徳川家|!]]
[[Category:徳川御三家]]
[[Category:日本の侯爵家|とくかわけ おわり]]
[[Category:日本の男爵家|とくかわけ おわり]]<!--徳川義恕家-->
[[Category:尾張国|とくかわけ]]
[[Category:愛知県の歴史]]
[[Category:名古屋市の歴史]]
[[Category:豊島区の歴史]]
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ザップ (音楽グループ)
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ザップ (Zapp) は、ロジャー・トラウトマンが中心となり、レスター、ラリー、テリーらトラウトマン兄弟を中心として1970年代に結成されたアメリカ合衆国のファンク・バンドである。
トラウトマン兄弟はオハイオ州ハミルトン出身。デイトンでバンド活動を続けていた頃、幼なじみであったブーツィー・コリンズの紹介でジョージ・クリントンに見いだされる。ロジャーたちはPファンクの前座として経験を積んだ後、1980年にデビューを実現した。特にトーク・ボックスを自在に操るロジャーのヴォーカルは独特のもので、21世紀に至るまで後進に影響を与え続けている。
ファースト・アルバムには「モア・バウンス・トゥ・ジ・アウンス」が収録され、同曲はR&Bチャートで2位となり、アルバムはゴールド・ディスクに認定された。また、セカンド・アルバムには「ドゥー・ワ・ディティ」などの曲が収録された。また81年にはロジャーのソロ・アルバムが発表され「悲しいうわさ」「ドゥ・イット・ロジャー」「ソー・ラフ、ソー・タフ」などのファンク・ナンバーがソウル・チャートでヒットした。「悲しいうわさ」はマーヴィン・ゲイのカバーである。ロジャーとザップは、この後もウィルソン・ピケットやミラクルズなどの曲をカバーした。1980年代を通してザップはコンスタントにアルバムを発表し、一時はジェームス・ブラウンやPファンクの後継者はロジャーとプリンスであるとも見られた。1980年代末から90年代前半には、サンプラーの普及により、1980年代のザップのレコードが若いラップ世代の音楽製作の素材になり始めた。ロジャーは、1990年にはバンドで稼いだ資金をもとに建設会社を創業したが、これが仇となった。建設会社は多額の負債を抱えて倒産し、兄弟間に亀裂が入り始める。バンドの活動も、アフリカン・アメリカン音楽の主流がヒップホップに移っていったことや音楽性の行き詰りで、1980年代ほどの勢いを継続出来なくなった。ただし来日公演は何回も行っていた。
破局は1999年の4月に訪れた。ザップの元メンバーであったラリー・トラウトマンが、金銭上のトラブルからロジャーをショットガンで射殺し、自らも自殺してしまったのである。リーダーを失ったザップは99年に解散。その後、テリーがロジャー譲りのトーク・ボックスをプレイし、ZAPP名義での通算6作目のZAPP VIをリリース。ライブを中心に活動している。
1990年代にザップの日本でのプロモーターだったM&Iカンパニーの社員は、ロジャーはバンドのメンバーに厳格なルールの遵守を求め、バンドマンにありがちな自堕落な行動は許さなかったと証言した。その一方でユーモアに富んだ人物でもあり、M&Iカンパニーの社員たちからは尊敬と敬愛の念を持って見られていたという。
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ザップ (Zapp) は、ロジャー・トラウトマンが中心となり、レスター、ラリー、テリーらトラウトマン兄弟を中心として1970年代に結成されたアメリカ合衆国のファンク・バンドである。
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{{出典の明記| date = 2022年4月}}
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
|名前 = ザップ<br />Zapp
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|画像説明 =
|画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
|画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
|背景色 = <!-- singer/group/bandなど -->
|別名 =
|出身地 = [[オハイオ州]]
|ジャンル = [[ファンク]]、ソウル、R&B、ドゥーワップ、スウィート・ソウル、ジャズ
|活動期間 = 1977年 - 1999年。2003年 -
|レーベル =
|事務所 =
|共同作業者 =
|公式サイト =
|メンバー = レスター・トラウトマン<br />テリー・トラウトマン<br />グレゴリー・ジャクソン<br />ボビー・グローヴァー
|旧メンバー = [[ロジャー・トラウトマン]]<br />ラリー・トラウトマン<br />トーマス・トラウトマン<br />ロジャー・トラウトマン・ジュニア
}}
'''ザップ''' ({{en|Zapp}}) は、[[ロジャー・トラウトマン]]が中心となり、レスター、ラリー、テリーらトラウトマン兄弟を中心として1970年代に結成された[[アメリカ合衆国]]の[[ファンク]]・[[バンド (音楽)|バンド]]である。
== 歴史 ==
トラウトマン兄弟は[[オハイオ州]][[ハミルトン (オハイオ州)|ハミルトン]]出身。[[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]でバンド活動を続けていた頃、幼なじみであった[[ブーツィー・コリンズ]]の紹介で[[ジョージ・クリントン (ミュージシャン)|ジョージ・クリントン]]に見いだされる。ロジャーたちは[[Pファンク]]の前座として経験を積んだ後、1980年にデビューを実現した。特に[[トーキング・モジュレーター|トーク・ボックス]]を自在に操るロジャーのヴォーカルは独特のもので、21世紀に至るまで後進に影響を与え続けている。
ファースト・アルバムには「モア・バウンス・トゥ・ジ・アウンス」が収録され、同曲はR&Bチャートで2位となり、アルバムはゴールド・ディスクに認定された<ref>[https://www.riaa.com/goldandplatinumdata.php?artist=%22Zapp%22 RIAA Gold & Platinum Database ザップ RIAA ゴールド]. Riaa.com, Retrieved 2021-8-5</ref>。また、セカンド・アルバムには「ドゥー・ワ・ディティ」<ref>[https://www.discogs.com/Zapp-Doo-Wa-Ditty-Blow-That-Thing-Come-On/release/596996 ドーワディティ] 2021-8-5閲覧</ref>などの曲が収録された。また81年にはロジャーのソロ・アルバムが発表され「悲しいうわさ」「ドゥ・イット・ロジャー」「ソー・ラフ、ソー・タフ」などのファンク・ナンバーがソウル・チャートでヒットした。「悲しいうわさ」は[[マーヴィン・ゲイ]]のカバーである。ロジャーとザップは、この後も[[ウィルソン・ピケット]]やミラクルズなどの曲をカバーした。1980年代を通してザップはコンスタントにアルバムを発表し、一時は[[ジェームス・ブラウン]]やPファンクの後継者はロジャーと[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]であるとも見られた。1980年代末から90年代前半には、[[サンプラー]]の普及により、1980年代のザップのレコードが若いラップ世代の音楽製作の素材になり始めた。ロジャーは、1990年にはバンドで稼いだ資金をもとに建設会社を創業したが、これが仇となった。建設会社は多額の負債を抱えて倒産し、兄弟間に亀裂が入り始める。バンドの活動も、[[アフリカン・アメリカン]]音楽の主流が[[ヒップホップ]]に移っていったことや音楽性の行き詰りで、1980年代ほどの勢いを継続出来なくなった。ただし来日公演は何回も行っていた。
破局は1999年の4月に訪れた。ザップの元メンバーであったラリー・トラウトマンが、金銭上のトラブルからロジャーをショットガンで射殺し、自らも自殺してしまったのである。リーダーを失ったザップは99年に解散。その後、テリーがロジャー譲りのトーク・ボックスをプレイし、ZAPP名義での通算6作目のZAPP VIをリリース。ライブを中心に活動している。
1990年代にザップの日本でのプロモーターだったM&Iカンパニーの社員は、ロジャーはバンドのメンバーに厳格なルールの遵守を求め、バンドマンにありがちな自堕落な行動は許さなかったと証言した。その一方でユーモアに富んだ人物でもあり、M&Iカンパニーの社員たちからは尊敬と敬愛の念を持って見られていたという。
== ディスコグラフィ ==
* ''[[:w:Zapp (album)|Zapp]]'' (1980)
* ''[[:w:Zapp II|Zapp II]]'' (1982)
* ''[[:w:Zapp III|Zapp III]]'' (1983)
* ''[[:w:The New Zapp IV U|The New Zapp IV U]]'' (1985)
* ''[[:w:Zapp Vibe|Zapp V]]'' (1989)
* ''[[:w:Zapp VI: Back By Popular Demand|Zapp VI: Back By Popular Demand]]'' (2002)
== 関連項目 ==
*[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]
*[[クール&ザ・ギャング]]
*[[オハイオ・プレイヤーズ]]
*[[ジョージ・クリントン (ミュージシャン)|ジョージ・クリントン]]
*[[パーラメント (バンド)|パーラメント]]
*[[ファンカデリック]]
*[[ジェームス・ブラウン]]
*[[ロジャー・トラウトマン]]
*[[グラハム・セントラル・ステーション]]
*[[ファンク]]
*[[トーキング・モジュレーター]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://wmg.jp/zapp/ ワーナーミュージック・ジャパン - ザップ]
* [http://www.heybiggrobb.com/ BIGG ROBB]
* [http://daytonproject.jpn.ch/ Dayton Project]
* [http://www.funkateerz.com/revue/zapp/zapp.html HEAVY FUNK SYSTEM - ZAPP & ROGER の巻]
* [http://www.rsi.gr.jp/s1/archives/rogerinterview/ S1のページ - Interview with Roger Troutman]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さつふ}}
[[Category:アメリカ合衆国の音楽グループ]]
[[Category:アメリカ合衆国のR&Bグループ]]
[[Category:ファンク]]
[[Category:1977年に結成した音楽グループ]]
[[Category:サマーソニック出演者]]
[[Category:兄弟姉妹の音楽グループ]]
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|
13,727 |
田沢湖町
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田沢湖町(たざわこまち)は、かつて秋田県仙北郡にあった町。日本一深い湖として知られる田沢湖の東の畔に面していた。
2003年(平成15年)8月には田沢湖町、角館町、西木村との間で合併が協議され、2005年(平成17年)9月20日に3町村が合併し仙北市となった。
町の大部分は山岳地帯だが角館町との境付近にわずかに傾斜した平地を有する。降雨・降雪が多く名前のついた物だけでも100以上ある小川が、玉川に合流し南西に向かって流れる。町内には小規模な縄文遺跡が点在し、北部に位置する玉川温泉の北投石は国の特別天然記念物である。
林業・観光業が盛んである。
田沢湖町は観光地が多く年間300万人前後の観光客が訪れる。
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田沢湖町(たざわこまち)は、かつて秋田県仙北郡にあった町。日本一深い湖として知られる田沢湖の東の畔に面していた。 2003年(平成15年)8月には田沢湖町、角館町、西木村との間で合併が協議され、2005年(平成17年)9月20日に3町村が合併し仙北市となった。
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{{日本の町村 (廃止)
|画像 = Tazawako_tatsuko.jpg
|画像の説明 = [[田沢湖]]
|廃止日 = 2005年9月20日
|廃止理由 = 新設合併
|廃止詳細 = '''田沢湖町'''、[[角館町]]、[[西木村]]→[[仙北市]]
|現在の自治体 = [[仙北市]]
|自治体名 = 田沢湖町
|よみがな = たざわこまち
|区分 = 町
|旗 = [[File:Flag of Tazawako Akita.JPG|100px]]
|旗の説明 = 田沢湖町旗
|紋章 = [[File:Tazawako Akita chapter.JPG|80px]]
|紋章の説明 = 田沢湖町章
|都道府県 = 秋田県
|郡 = [[仙北郡]]
|コード = 05426-7
|面積 = 672.06
|境界未定 = なし
|人口 = 12285
|人口の出典 = [[推計人口]]
|人口の時点 = 2005年9月1日
|隣接自治体 = [[秋田県]]<br /> [[鹿角市]]、[[北秋田市]]<br /> [[仙北郡]]:[[角館町]]、[[西木村]]<br />[[岩手県]]<br /> [[八幡平市]]<br /> [[岩手郡]]:[[雫石町]]<br /> [[和賀郡]]:[[沢内村]]
|木 = [[ブナ]]
|花 = [[コマクサ]]([[ケシ科]])
|シンボル名 = 町の鳥
|鳥など = [[イヌワシ]]
|郵便番号 = 014-1201
|所在地 = 仙北郡田沢湖町生保内字宮ノ後30番地
|InternetArchive=www.town.tazawako.akita.jp/
|座標 = {{Coord|format=dms|type:city(12285)_region:JP-05|display=inline,title}}
|位置画像 = [[ファイル:Akita_Tazawako.png|田沢湖町、県内位置図]]
|特記事項 =
}}
'''田沢湖町'''(たざわこまち)は、かつて[[秋田県]][[仙北郡]]にあった[[町]]。日本一深い湖として知られる[[田沢湖]]の東の畔に面していた。
[[2003年]](平成15年)8月には田沢湖町、[[角館町]]、[[西木村]]との間で合併が協議され、[[2005年]](平成17年)[[9月20日]]に3町村が合併し[[仙北市]]となった。
== 町のシンボル ==
* 町の花はコマクサ、[[1986年]](昭和61年)制定。
* 町の木はブナ、[[1967年]](昭和42年)制定。
* 町の鳥はイヌワシ、1986年(昭和61年)制定。
== 地理 ==
町の大部分は山岳地帯だが角館町との境付近にわずかに傾斜した平地を有する。降雨・降雪が多く名前のついた物だけでも100以上ある小川が、玉川に合流し南西に向かって流れる。町内には小規模な縄文遺跡が点在し、北部に位置する玉川温泉の[[北投石]]は国の[[特別天然記念物]]である。
* 山: [[八幡平]]、[[秋田駒ヶ岳]]、烏帽子岳([[乳頭山]])、[[倉沢山]]、[[秋田焼山|焼山]]
* 河川: [[玉川 (秋田県)|玉川]]、[[生保内川]]
* 湖沼: [[田沢湖]]、[[神代調整地]]、[[秋扇湖]]、[[宝仙湖]]
== 歴史 ==
* [[1889年]](明治22年)4月1日 - 生保内村・[[神代村 (秋田県)|神代村]]・[[田沢村 (秋田県)|田沢村]]が発足。
* [[1953年]](昭和28年)10月1日 - 生保内村が町制施行し、[[生保内町]]となる。
* [[1956年]](昭和31年)9月30日 - 生保内町・田沢村・神代村の3町村が合併して'''田沢湖町'''が発足する。
* [[1958年]](昭和33年)5月 - 田沢湖町国民健康保険直営病院(現在の[[市立田沢湖病院]])が生保内字武蔵野に開設。
* [[1967年]](昭和42年)4月 - 田沢湖町国民健康保険直営病院が田沢湖町立田沢湖病院に改称。
* [[1971年]](昭和46年)6月 - 田沢湖町立田沢湖病院が生保内字水尻に新築移転。
* [[2005年]](平成17年)9月20日 - [[角館町]]・[[西木村]]と合併し[[仙北市]]となり、同時に田沢湖町は廃止される。
== 地域 ==
=== 産業 ===
[[林業]]・[[観光業]]が盛んである。
=== 医療 ===
* 田沢湖町立田沢湖病院(合併後は[[市立田沢湖病院]])
=== 教育 ===
==== 中学校 ====
* 田沢湖町立生保内中学校
* 田沢湖町立神代中学校
==== 小学校 ====
* 田沢湖町立生保内小学校
:: [[田沢湖町立生保内小学校潟分校]](廃校)
* 田沢湖町立神代小学校
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Tazawako-sta.jpg|thumb|[[田沢湖駅]]]]
* [[東日本旅客鉄道]]
** [[秋田新幹線]]:[[田沢湖駅]]
** [[田沢湖線]]:[[生田駅 (秋田県)|生田駅]] - [[神代駅 (秋田県)|神代駅]] - [[刺巻駅]] - [[田沢湖駅]]
* [[秋田内陸縦貫鉄道]]
** [[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線|秋田内陸線]]:[[羽後太田駅]]
=== バス ===
[[ファイル:Tazawako choeibus.jpg|thumb|田沢湖町営バス当時の車両]]
* [[羽後交通]]
** 田沢湖営業所
* [[仙北市民バス#田沢湖地区|田沢湖町営バス]]
=== 道路 ===
==== 一般国道 ====
* [[国道46号]]
* [[国道105号]]
* [[国道341号]]
==== 県道 ====
===== 主要地方道 =====
* [[岩手県道・秋田県道23号大更八幡平線|秋田県道23号大更八幡平線]](八幡平アスピーテライン)
* [[秋田県道38号田沢湖西木線]]
* [[秋田県道50号大曲田沢湖線]]
* [[秋田県道60号田沢湖畔線]]
===== 一般県道 =====
* [[秋田県道127号駒ケ岳線]]
* [[秋田県道181号神代停車場線]]
* [[秋田県道182号田沢湖停車場線]](合併後、2006年に県道から仙北市道へ指定替え)
* [[岩手県道・秋田県道194号西山生保内線|秋田県道194号西山生保内線]]
* [[秋田県道248号春山田沢線]]
* [[秋田県道・岩手県道318号八幡平公園線|秋田県道318号八幡平公園線]](八幡平樹海ライン)
* [[秋田県道321号上桧木内玉川線]]
== 名所・旧跡・観光スポット ==
田沢湖町は観光地が多く年間300万人前後の観光客が訪れる。
* [[田沢湖]]
* [[田沢湖スキー場]]
* [[田沢湖高原温泉郷]]([[国民保養温泉地]])
** [[水沢温泉]]
* [[乳頭温泉郷]](国民保養温泉地)
** [[田沢湖高原温泉]]
* [[八幡平温泉郷]](国民保養温泉地)
** [[玉川温泉 (秋田県)|玉川温泉]]
** [[大深温泉]]
* [[抱返り渓谷]]
* [[あきた芸術村]]
** [[わらび劇場]]
* [[刺巻湿原]]
== 出身有名人 ==
* [[佐藤貞子]]、[[民謡歌手]]
* [[御法川英文]](元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]]、元秋田県議会議員)
* [[椿千代]](舞台女優)
* [[三重野葵]](舞台女優)
* [[水沢英樹]](プロ野球選手)
== 関連項目 ==
* [[秋田県の廃止市町村一覧]]
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{{DEFAULTSORT:たさわこまち}}
[[Category:仙北市域の廃止市町村]]
[[Category:仙北郡]]
[[Category:1956年設置の日本の市町村]]
[[Category:2005年廃止の日本の市町村]]
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|
13,728 |
ロボット工学
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ロボット工学(ロボットこうがく、英語:robotics)は、ロボットに関する技術を研究する学問。ロボットの手足などを構成するためのアクチュエータや機構に関する分野、外界の情報を認識・知覚するためのセンサやセンシング手法に関する分野、ロボットの運動や行動ロボットの制御に関する分野、ロボットの知能など人工知能に関する分野などに大別される。
語源としてはアイザック・アシモフが自著の一連のロボットが登場するSF小説のために、robotに物理学(physics)などに使われている語尾「-ics」を付けることで作った造語である。アシモフの小説内に出てくる「ロボット工学三原則」は、以降のロボット物SFに大きな影響を与えたのみならず、現実のロボット工学においても研究上の倫理的指標のひとつとなっている。また、「ロボティクスの父」や「ロボットの父」と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフの小説に影響されていた。
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ロボット工学は、ロボットに関する技術を研究する学問。ロボットの手足などを構成するためのアクチュエータや機構に関する分野、外界の情報を認識・知覚するためのセンサやセンシング手法に関する分野、ロボットの運動や行動ロボットの制御に関する分野、ロボットの知能など人工知能に関する分野などに大別される。 語源としてはアイザック・アシモフが自著の一連のロボットが登場するSF小説のために、robotに物理学(physics)などに使われている語尾「-ics」を付けることで作った造語である。アシモフの小説内に出てくる「ロボット工学三原則」は、以降のロボット物SFに大きな影響を与えたのみならず、現実のロボット工学においても研究上の倫理的指標のひとつとなっている。また、「ロボティクスの父」や「ロボットの父」と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフの小説に影響されていた。
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'''ロボット工学'''(ロボットこうがく、{{Lang-en-short|robotics}})は、[[ロボット]]に関する技術を研究する学問。ロボットの手足などを構成するための[[アクチュエータ]]や機構に関する分野、外界の情報を認識・知覚するための[[センサ]]やセンシング手法に関する分野、ロボットの運動や行動[[ロボット]]の制御に関する分野、ロボットの知能など[[人工知能]]に関する分野などに大別される。
語源としては[[アイザック・アシモフ]]が自著の一連のロボットが登場する[[サイエンス・フィクション|SF]][[小説]]のために、robotに[[物理学]](physics)などに使われている語尾「-ics」を付けることで作った造語である{{R|Asimov1996|Asimov1983}}{{Efn|"Robotics has become a sufficiently well developed technology to warrant articles and books on its history and I have watched this in amazement, and in some disbelief, because I invented … the word"{{R|Asimov1983}}. }}。アシモフの小説内に出てくる「[[ロボット工学三原則]]」{{Efn|「ロボティクスの三原則」とされる場合もある{{R|日本国際賞}}。}}は、以降のロボット物SFに大きな影響を与えたのみならず、現実のロボット工学においても研究上の倫理的指標のひとつとなっている。また、「ロボティクスの父」{{R|Father1|Father2}}や「ロボットの父」{{R|安川電機|川崎重工}}と呼ばれることもある[[ジョセフ・F・エンゲルバーガー]][[博士]]はアシモフの小説に影響されていた{{R|EETimes|FT}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="Asimov1996">Asimov, Isaac (1996) [1995]. "The Robot Chronicles". Gold. London: Voyager. pp. 224–225. ISBN 0-00-648202-3.</ref>
<ref name="Asimov1983">Asimov, Isaac (1983). "4 The Word I Invented". Counting the Eons. Doubleday. </ref>
<ref name="Father1">“[http://www.robotics.org/joseph-engelberger/about.cfm JOSEPH ENGELBERGER // The Father of Robotics]”. Robotics Industries Association. 2015年12月1日閲覧。</ref>
<ref name="Father2">“[http://www.mmh.com/article/joseph_f._engelberger_the_father_of_robotics_turns_90 Joseph F. Engelberger, the "Father of Robotics," turns 90]”. ''Modern Materials Handling'' (2015年7月27日) 2016年5月16日閲覧。</ref>
<ref name="日本国際賞">“[http://www.japanprize.jp/data/prize/summary/1997.pdf#page=17&view=Fit 1997年日本国際賞記念講演会]” (PDF). [[国際科学技術財団]]. 2018年11月30日閲覧。</ref>
<ref name="EETimes">“[http://www.eetimes.com/author.asp?section_id=36&doc_id=1328428 Farewell, Joe Engelberger]”. ''EE Times''. 2016年5月16日閲覧。</ref>
<ref name="FT">“[http://www.ft.com/cms/s/0/1350d3cc-9f7f-11e5-beba-5e33e2b79e46.html Joe Engelberger, robotics pioneer, 1925-2015]”. ''[[フィナンシャル・タイムズ|Financial Times]]'' (2015年12月18日) 2016年5月16日閲覧。</ref>
<ref name="安川電機">「[https://www.yaskawa.co.jp/wp-content/uploads/2011/06/P10_11.pdf ロボットゼミナール第1回]」、『Yasukawa News』295号([[安川電機]])、10頁、2018年11月30日閲覧。</ref>
<ref name="川崎重工">“[https://robotics.kawasaki.com/ja1/xyz/jp/1807-01/ 日本に産業用ロボットが来た日。 なぜ「ロボットの父」はカワサキに託したのか?]”. ''XYZ''. [[川崎重工]] (2018年7月27日) 2018年11月30日閲覧。</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[産業用ロボット]]
* [[協働ロボット]]
* [[家庭用ロボット]]
* [[ロボットコンテスト]]
* [[ロボット工学三原則]]
* [[人工知能]]
* [[パワードスーツ]]
* [[テレロボティクス]]
== 外部リンク ==
* {{機械工学事典|id=13:1013894}}
* [https://jrecin.jst.go.jp/html/compass/e-learning/31-458/index.html 事例に学ぶロボティクスコース] - 研究人材のためのe-learning([[科学技術振興機構]])
{{Tech-stub}}
{{Engineering fields}}
{{ロボティクス}}
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{{新技術|topics=yes|robotics=yes|manufacture=yes|materials=yes}}
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ろほつとこうかく}}
[[Category:ロボット工学|*]]
[[Category:制御工学]]
[[Category:機械工学]]
[[Category:電気工学]]
[[Category:電子工学]]
[[Category:情報工学]]
|
2003-08-22T06:16:57Z
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2023-10-31T18:00:50Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E5%B7%A5%E5%AD%A6
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村井純
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村井 純(むらい じゅん、1955年3月29日 - )は、日本の計算機科学者。工学博士(慶應義塾大学・1987年取得)。専門は情報工学(コンピュータネットワーク)。慶應義塾大学教授(有期)、慶應義塾大学名誉教授。JUNET設立者。WIDEプロジェクトFounder。内閣官房参与(デジタル政策担当)、デジタル庁顧問。
父は、教育学者で慶應義塾大学名誉教授の村井実。母は、音楽学者でフェリス女学院大学音楽学部名誉教授の村井範子。外祖父(母方の祖父)は、教育学者で広島大学名誉教授の長田新。その他、親族に学者が多くいる。
日本におけるインターネット黎明期からインターネットの技術基盤作り、運用、啓蒙活動等に関わり続けている。インターネットが日本国内で一般開放・商業利用された1993年にはインターネットイニシアティブ (IIJ) 特別技術顧問やJPINCの理事省に就任するなどネット普及期に貢献を続けて1995年の新語・流行語大賞に「インターネット」でトップテン入賞し、受賞した。「日本のインターネットの父」とされ、「ミスター・インターネット」と呼ばれることもある。英語圏では「インターネット・サムライ」のニックネームを持つ。
広域ネットワーク上で日本語を使えるようにすることにも尽力し、UNIXやC言語を国際化する動きと連携をとりながら、英語中心だった初期のインターネットを多言語対応へと導いた。
1995年より東南アジアの研究教育ネットワークの開発、発展に尽力し、東南アジア各国のインターネットを牽引する研究運用人材を多数輩出。
2000年から2009年及び2012年から2021年、内閣高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部(IT総合戦略本部)有識者本部員 として、e-Japanの実現に向けた数々の提言と施策の推進に貢献したほか、内閣府のみならず、各省庁委員会の主査や委員を多数務める。2020年10月より内閣官房参与(デジタル政策担当)。2021年9月よりデジタル庁顧問。
2007年8月2日総務省の諮問機関である情報通信審議会において、「コピーワンス」(デジタル放送の著作権保護方式)の代わりに子コピー9回、10回目にムーブという「ダビング10」を提案した。
他
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村井 純は、日本の計算機科学者。工学博士(慶應義塾大学・1987年取得)。専門は情報工学(コンピュータネットワーク)。慶應義塾大学教授(有期)、慶應義塾大学名誉教授。JUNET設立者。WIDEプロジェクトFounder。内閣官房参与(デジタル政策担当)、デジタル庁顧問。
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{{別人|村井順|x1=[[綜合警備保障]]創業者の|村井順 (国文学者)|x3=キリスト教伝道者の|村井ジュン}}
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'''村井 純'''(むらい じゅん、[[1955年]][[3月29日]] - )は、日本の[[計算機科学|計算機科学者]]。[[博士(工学)|工学博士]]([[慶應義塾大学]]・1987年取得)。専門は[[情報工学]]([[コンピュータネットワーク]])。[[慶應義塾大学]][[教授]](有期)、[[慶應義塾大学]][[名誉教授]]。[[JUNET]]設立者。[[WIDEプロジェクト]]Founder。[[内閣官房参与]](デジタル政策担当)、[[デジタル庁]]顧問。
== 概要 ==
父は、[[教育学者]]で[[慶應義塾大学]]名誉教授の[[村井実]]。母は、[[音楽学者]]で[[フェリス女学院大学]]音楽学部名誉教授の[[村井範子 (音楽史学者)|村井範子]]。外祖父(母方の祖父)は、教育学者で[[広島大学]]名誉教授の[[長田新]]。その他、親族に学者が多くいる。
日本におけるインターネット黎明期からインターネットの技術基盤作り、運用、啓蒙活動等に関わり続けている。インターネットが日本国内で一般開放・商業利用された[[1993年]]には[[インターネットイニシアティブ]] (IIJ) 特別技術顧問やJPINCの理事省に就任するなどネット普及期に貢献を続けて[[1995年]]の[[新語・流行語大賞]]に「[[インターネット]]」でトップテン入賞し、受賞した<ref>{{Cite web|和書|title=「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞|url=https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00012|website=「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>。「日本のインターネットの父」とされ、「ミスター・インターネット」と呼ばれることもある。英語圏では「インターネット・サムライ」のニックネームを持つ。
広域ネットワーク上で[[日本語]]を使えるようにすることにも尽力し、[[UNIX]]や[[C言語]]を国際化する動きと連携をとりながら、[[英語]]中心だった初期のインターネットを多言語対応へと導いた。
1995年より東南アジアの研究教育ネットワークの開発、発展に尽力し、東南アジア各国のインターネットを牽引する研究運用人材を多数輩出。
2000年から2009年及び2012年から2021年、内閣高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部(IT総合戦略本部)有識者本部員<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/|title=高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部(IT総合戦略本部)|accessdate=2021/3/10|publisher=首相官邸}}</ref> として、e-Japanの実現に向けた数々の提言と施策の推進に貢献したほか、内閣府のみならず、各省庁委員会の主査や委員を多数務める。2020年10月より[[内閣官房参与]](デジタル政策担当)<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/content/20201013_houdou.pdf|title=内閣総理大臣辞令|accessdate=2021/03/10|publisher=首相官邸}}</ref>。2021年9月より[[デジタル庁]]顧問<ref>https://www.digital.go.jp/about/member/</ref>。
2007年8月2日総務省の諮問機関である情報通信審議会において、「[[コピーワンス]]」(デジタル放送の著作権保護方式)の代わりに子コピー9回、10回目にムーブという「[[ダビング10]]」を提案した。
== 経歴 ==
[[ファイル:Jun Murai.jpg|thumb|200px|[[2007年]][[9月15日]]、[[Mozilla 24]]にて]]
* [[1955年]]3月 [[東京都]][[世田谷区]][[成城]]生まれ<ref>{{Cite web|和書|title=夢中になって、何が悪い |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20120330/210496/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-05-30 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>
* [[1967年]]3月 [[世田谷区立明正小学校]]卒業<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=我々の日常を徹底的に変えた行動力 |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20120330/210495/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-05-30 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>
*[[1970年]]3月 [[世田谷区立千歳中学校]]卒業<ref name=":1" />
*[[1973年]]3月 [[慶應義塾高等学校]]卒業<ref>{{Cite web|和書|title=慶應SFC編②◆新学部長は40代のアーティスト{{!}}慶應SFC30年、立命館APU20年――日本の大学をどう変えたか{{!}}朝日新聞EduA |url=https://www.asahi.com/edua/article/13497612 |website=www.asahi.com |access-date=2022-05-30 |language=ja}}</ref>
* [[1979年]]3月 [[慶應義塾大学]][[工学部]][[数理工学]]科卒業<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=研究者詳細 - 村井 純 |url=https://k-ris.keio.ac.jp/html/100012650_ja.html |website=k-ris.keio.ac.jp |access-date=2022-05-30}}</ref>
* [[1984年]]7月 [[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|慶應義塾大学大学院工学研究科]][[後期博士課程]]単位取得退学<ref name=":2" />
*1984年8月 - 1987年3月 [[東京工業大学]]総合情報処理センター助手
*[[1987年]]3月 工学博士号(慶應義塾大学)取得。博士論文題目は、「分散環境用オペレーティングシステムのためのネットワークソフトウェアに関する研究」。
*[[1987年]]4月 - [[1990年]]3月 [[東京大学]]大型計算機センター助手
*[[1988年]]7月 [[WIDEプロジェクト|WIDE (Widely Integrated Distributed Environment) プロジェクト]]発足。代表就任([[2010年]]3月よりFounder(現任))
* [[1990年]]4月 - [[1997年]]3月 [[慶應義塾大学環境情報学部]]助教授
*[[1993年]] [[インターネットイニシアティブ]] (IIJ) 特別技術顧問
* [[1993年]]3月 - [[1995年]]4月 Member of Internet Architecture Board (IAB)<ref>{{Cite web|title=IAB Minutes 1995-04-02 {{!}} Internet Architecture Board|url=https://www.iab.org/documents/minutes/minutes-1995/iab-minutes-1995-04-02/|accessdate=2021-03-10|language=en-US}}</ref>
*[[1993年]]5月 日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)理事長就任([[2005年]]より理事、[[2012年]]より顧問(現任))
*[[1997年]]4月 - [[2020年]]3月 [[慶應義塾大学環境情報学部]]教授
*[[1997年]]6月 - [[2000年]] Board of trustee of Internet Society ([[ISOC]])<ref>{{Cite web|title=List of Trustees|url=https://www.internetsociety.org/board-of-trustees/list-of-trustees/|website=Internet Society|accessdate=2021-03-10|language=en-US}}</ref>
*[[1998年]]10月 - [[2003年]]6月 Board of Director of the Internet Corporation for Assigned Names and Numbers ([[ICANN]])<ref>{{Cite web|title=Minutes Regular Meeting of the Board - Montréal - ICANN|url=https://www.icann.org/resources/board-material/minutes-2003-06-26-en|website=www.icann.org|accessdate=2021-03-10}}</ref>
*[[1999年]]1月 Root Server System Advisory Committee 就任(現任) [[1999年]]1月 – [[2014年]]12月までChairとして活動<ref>{{Cite web|title=Root Server System Advisory Committee - ICANN|url=https://www.icann.org/groups/rssac|website=www.icann.org|accessdate=2021-03-10}}</ref>
*[[1999年]]6月 - [[2011年]] [[ソフトバンク|ソフトバンク株式会社]] 社外取締役<ref>{{Cite web|和書|title=取締役及び監査役の選任について|url=https://group.softbank/news/press/19990531|website=ソフトバンクグループ株式会社|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>
*[[1999年]]10月 - [[2005年]]5月 [[慶應義塾大学SFC研究所]]所長
* [[2005年]]5月 - [[2009年]]5月 [[慶應義塾]]常任理事
*[[2007年]]4月 [[Yahoo! JAPAN]]研究所最高技術顧問<ref>{{Cite web|和書|title=「Yahoo! JAPAN研究所」設立 - ニュース - ヤフー株式会社|url=https://about.yahoo.co.jp/pr/release/2007/03/26a/|website=会社概要 - ヤフー株式会社|accessdate=2023-11-20|language=ja}}</ref>
*[[2007年]]4月 - [[2010年]] スカパーJSAT株式会社(現[[スカパーJSATホールディングス|株式会社スカパーJSATホールディングス]])取締役
*[[2008年]]5月 - [[2023年]] 一般社団法人 [https://www.iptvforum.jp/ IPTVフォーラム] 理事長<ref>{{Cite web|和書|title=役員・組織構成|url=https://www.iptvforum.jp/about-iptv/organization.html|website=IPTV FORUM JAPAN(一般社団法人IPTVフォーラム)|date=2013-02-19|accessdate=2021-03-10|language=ja|last=一般社団法人IPTVフォーラム}}</ref>
* [[2009年]]10月 - [[2017年]]9月 [[慶應義塾大学環境情報学部]]長
* [[2011年]] 9月 [[ブロードバンドタワー|株式会社ブロードバンドタワー]]社外取締役(現任)<ref>{{Cite web|和書|title=会社概要 {{!}} 会社情報|url=https://www.bbtower.co.jp/corporate/overview/|website=株式会社ブロードバンドタワー|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>
*[[2012年]]3月 [[楽天グループ|楽天株式会社]]社外取締役(現任)<ref>{{Cite web|和書|title=役員紹介|楽天株式会社|url=https://corp.rakuten.co.jp/about/management.html|website=Rakuten, Inc.|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>
*[[2017年]]10月 - [[2019年]]9月 [[慶應義塾大学]]大学院政策・メディア研究科委員長
*[[2018年]]4月 [[慶應義塾大学]][https://www.ccrc.keio.ac.jp/ サイバー文明研究センター] 共同センター長(現任)
*[[2018年]]6年 株式会社ラック社外取締役(現任)<ref>{{Cite web|和書|title=役員構成・組織図|url=https://www.lac.co.jp/corporate/org.html|website=セキュリティ対策のラック|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>
*[[2019年]]11月 - [[2021年]]3月 [[HAPSモバイル|HAPSモバイル株式会社]]社外取締役<ref>{{Cite web|和書|title=取締役人事について {{!}} 2019年 {{!}} プレスリリース {{!}} ニュース|url=https://www.hapsmobile.com/ja/news/press/2019/20191118_01/|website=HAPS Mobile|accessdate=2021-03-10|language=ja}}</ref>
*[[2020年]]1月 [[慶應義塾大学環境情報学部]]教授として最後の講義が行われた。
*[[2020年]]4月 - [[2022年]]6月 [[アジア・パシフィック・イニシアティブ|一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ]] API地経学研究所所長兼APIシニアフェロー<ref>{{Cite web|和書|title=スカラー・シニアフェロー・顧問|url=https://apinitiative.org/about-us/scholarsandseniorfellows/|website={{!}} AP Initiative 一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ|date=2013-07-05|accessdate=2021-03-10}}</ref>
*[[2020年]]4月 特定の学部に所属しない[[慶應義塾大学]]教授(有期)(現任)
*[[2020年]]10月 [[内閣官房参与]](デジタル政策担当)(現任)<ref name=":0" />
*[[2021年]]9月 [[デジタル庁]]顧問(現任)
*[[2022年]]7月 - [[2023年]]6月 [[国際文化会館|公益財団法人国際文化会館 ]] 顧問 兼 シニアフェロー(一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブと国際文化会館との合併に伴い以下に肩書変更)
== インターネット発展への貢献 ==
*[[1984年]] [[JUNET]]を設立([[東京工業大学|東工大]]と[[慶應義塾大学|慶應義塾]]を接続)
*[[1985年]]1月 [[JUNET]]をアメリカのUSENETと接続
*[[1986年]]1月 [[JUNET]]をアメリカのCSNETと接続(日本ネットワーク初の海外接続)
* [[1986年]]8月 [[IANA]]の[[ジョン・ポステル]]氏より、[[.jp]] ccTLDの権限を氏個人に委任される
*[[1987年]]5月 InetClub設立に貢献
*[[1987年]]10月 [[JUNET]]を[[東京大学|東大]]と接続
*[[1988年]]7月 [[WIDEプロジェクト|WIDE (Widely Integrated Distributed Environment) プロジェクト]]発足。[[WIDEプロジェクト]]初の回線開設([[東京大学|東大]]-[[東京工業大学|東工大]]間64kbps)
*[[1989年]]1月 専用線でのアメリカ ([[全米科学財団ネットワーク|NSFNET]]) との接続を実現させる
* [[1989年]]2月 アドレス調整委員会がIPアドレスの割り当てを開始
*[[1989年]]4月 [[JUNET]]が.JPへ移行
* [[1991年]]12月 [[JNIC]](のちの日本ネットワークインフォメーションセンター ([[日本ネットワークインフォメーションセンター|JPNIC]]))発足
* [[1992年]] 第1回インターネット協会 (ISOC) 総会が神戸で開催される
* [[1992年]] [[WIDEプロジェクト]]が[[ニフティ|Nifty-Serve]]、[[PC-VAN]]との接続実験を開始
* [[1993年]] 日本初の商用インターネットサービスプロバイダ[[インターネットイニシアティブ|IIJ]]の設立に貢献
* [[1993年]] [[WIDEプロジェクト]]が[[ニフティサーブ|Nifty-Serve]]、[[PC-VAN]]と相互に電子メール送受を開始
* [[2001年]]12月 IANAは.jp ccTLDの委任先について、氏から[[JPRS]]への移管請求を受理<ref>[http://jprs.co.jp/doc/redelegation/ianareport_j.html]</ref>
== 主な受賞歴 ==
*[[1986年]] 第一回 元岡達賞
*[[1999年]] [[大川出版賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=公益財団法人 大川情報通信基金:[顕彰・助成事業] 大川出版賞 : 大川出版賞受賞図書|url=http://www.okawa-foundation.or.jp/activities/publications_prize/list.html|website=www.okawa-foundation.or.jp|accessdate=2021-03-10}}</ref>
*[[2001年]] 情報通信月間 総務大臣表彰
*[[2002年]] 情報化月間 経済産業大臣表彰
*[[2004年]] 国際協力の日 総務大臣表彰
*[[2005年]] [[インターネットソサエティ|Internet Society]] Jonathan B. Postel Service Award<ref>{{Cite web|title=Postel Service Award|url=https://www.internetsociety.org/grants-and-awards/postel-service-award/|website=Internet Society|accessdate=2021-03-10|language=en-US}}</ref>
*[[2006年]] 情報通信月間 総務大臣表彰
*[[2007年]] [[情報処理学会]] FIT船井業績賞<ref>{{Cite web|和書|title=FIT船井業績賞-情報処理学会|url=https://www.ipsj.or.jp/award/funai.html|website=www.ipsj.or.jp|accessdate=2021-03-10}}</ref>
*[[2011年]] [[IEEEインターネット賞]]<ref>{{Cite web|url=https://www.ieee.org/content/dam/ieee-org/ieee/web/org/about/awards/recipients/internet_rl.pdf|title=IEEE Internet Award; Recipient List|accessdate=2021/3/10|publisher=IEEE}}</ref>
*[[2012年]] [[大川賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=公益財団法人 大川情報通信基金:[顕彰・助成事業] 大川賞 : 大川賞受賞者|url=http://www.okawa-foundation.or.jp/activities/prize/list.html|website=www.okawa-foundation.or.jp|accessdate=2021-03-10}}</ref>
* [[2013年]] [[インターネットソサエティ]]の[[インターネットの殿堂]](パイオニア部門)殿堂入り<ref>{{Cite web|title=2013 INTERNET HALL of FAME INDUCTEES {{!}} Internet Hall of Fame|url=https://www.internethalloffame.org/inductees/2013|website=www.internethalloffame.org|accessdate=2021-03-10}}</ref>
*[[2017年]] 情報通信技術賞 総務大臣表彰
*[[2019年]] フランス共和国[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]](シュヴァリエ)<ref>{{Cite web|title=Remise de la Légion d’honneur au Pr Jun Murai de l’Université Keio|url=https://jp.ambafrance.org/Remise-de-la-Legion-d-honneur-au-Pr-Jun-Murai-de-l-Universite-Keio|website=La France au Japon|accessdate=2021-03-10|language=fr}}</ref>
*[[2019年]] [[福澤賞]]
*[[2020年]] [[C&C賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=グループA 2020年度C&C賞受賞者 | 公益財団法人 NEC C&C財団|url=https://www.candc.or.jp/kensyo/2020/group_a.html|website=www.candc.or.jp|accessdate=2021-03-10}}</ref>
== エピソード ==
* '''教育'''
** '''1980年代'''
*** 東京大学の助手を勤めていた1980年代の終わりに慶應義塾大学の新しいキャンパス(湘南藤沢キャンパス)創設にあたり、教員の誘いがあった。村井は当時、正統派とされていた通信工学の系統でない自覚があったが、全く新しい教育にチャレンジする新しいキャンパスという前提があったため、インターネットを前提とする世界で初めてのキャンパスを作ることに挑戦した。そのためにまず村井が準備したことは、1)まだ出始めのIBM PCアーキテクチャーの可搬コンピューター(ラップトップコンピューター)を全学生に持たせること。2)教室で授業中にラップトップコンピューターを使わせるために、全教室の全ての学生用の机にAC電源を配置すること。3)学生のコンピューターが常にインターネットに繋がるためにネットワーク接続のコネクターを全ての座席に配置することであった。当時としてはとんでもないことであり、世界中のどのキャンパスもこの様な環境はまだなかった。<ref>{{Cite book|和書 |title=アンワイヤード デジタル社会基盤としての6Gへ |date=2021/10/10 |year=2021 |publisher=株式会社インプレスR&D |page=2-3}}</ref>
* '''社会'''
** '''[[e-Japan構想]]'''
*** '''[[IT戦略会議]]について'''
*** プロバイダが続々と誕生し始めた1995年、[[テレホーダイ]]が登場し、[[ヤフー!|ヤフー]]などの検索サービスが登場するなど、一般ユーザーにとってもインターネットが使いやすくなり始めた。一方、98年には失業率が史上初めて4パーセントを突破するなど、先行きの見えない経済不安を日本は抱えていた。90年代後半、アジアの中でも日本と韓国は同様に落ち込んだが、韓国では[[ADSL]]を国内インフラにするなどのIT政策が成功して一気に立ち上がり始めていた。そこで日本では98年11月に打ち出された政府の緊急経済対策の内、情報通信分野では[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]推進に乗り出し、先端電子立国を形成し、[[光ファイバー網|光ファイバ網]]を整備すると謳われた。[[所信表明演説]]で[[森喜朗]]首相が[[E-Japan|e-Japan構想]]を打ち出す。2000年にはIT戦略会議が設置され、[[IT基本法]]が成立した。2001年には内閣に[[IT戦略本部]]が作られた。IT戦略本部のメンバーだった村井は、''「経済が落ち込む、これはインターネットがちゃんと使われてないからじゃないか?という議論がまず起こりました。技術的なことは僕らがずっとやってたんで、僕らとしては日本は進んでると思ってた。でも良く考えてみると社会の中での普及が遅れてるんですね。これは社会制度や法的規制の問題です。で、政府としてやらなきゃダメな部分があるな、という話になったんです。」''とIT戦略会議の経緯を説明する。<ref>{{Cite book|和書 |title=ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け |date=2005年8月25日 |publisher=RBB PRESS |page=108-110}}</ref>
*** '''[[IT基本法]]について'''
*** ''「(略)..........とにかくインターネットという技術が何を意味するのか、どなたも分かってなかったですからね。ITがなぜ経済の振興に役立つのか、日本の活性化のためになるのか。これらの結びつきが誰も説明できないんです。コンピュータでどう経営がよくなり、行政が変わるのか?と言われても難しいですよね。............ (略)」''日本国民全員がデジタル情報を自由にやりとりする。また、様々な知識や情報を交換することで日本を活性化する。これを基本法としてまず決めた。IT基本法が3年で見直されることになってのも、村井のアイデアだった。''「デジタル情報を使ってみんなんが生き生きする国を作るんだ、と基本法で定めたことは大きな礎です。このコンセンサスをまず最初に作っておかなければ、じゃあそれでどうなるの?みたいな話になっちゃう。これでは議論が拡散してしまいますからね。それからインターネットの世界では必ず新しい技術が出てくる。だから僕は2年で見直したいと言ったんです。........(略)」''<ref>{{Cite book|和書 |title=ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け |date=2005/8/25 |publisher=RBB PRESS |page=112-113}}</ref>
**** 以降、村井は政府のIT政策に有識者として関わり続けるが、常に高いボール(例えば新しい担当省庁の設立)を投げかけ続けて約20年後、[[菅政権]]時に[[デジタル庁]]が誕生する(村井は設立当初から顧問)。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/chikyo/documents/kichokoen.pdf |title=第3回 地域共生社会推進全国サミット in かまくら 基調講演 p.24-25 |access-date=2023/11/19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/member/field_member_list_files/db1eec34-48cf-4066-9ea2-1eb45997688a/993068ce/20210914_member_01.pdf |title=デジタル庁幹部名簿(2021 年 9 月 1 日時点) |access-date=2023/11/19}}</ref>
** '''[[Winny事件]]'''
*** 2006/2/16 京都地方裁判所でファイル交換ソフト「[[Winny]]」を開発した[[金子勇 (プログラマー)|金子勇]]氏が著作権法違反幇助の罪にあたるとして争われた裁判の第19回公判が開かれた。弁護側の証人として村井が出廷。村井は検察側の質問に、''「P2Pのコンセプトに基づいて、ファイルを共有するソフトだと理解した。ファイルを発見して共有する性能が優れており、中央のサーバーを持たない純粋のP2P型ソフト」、「ネットワークの効率を上げるための洗練された技法と、それを利用の目的と結び付けて考えるのは理解できない。」、「[[Peer to Peer|P2P]]は大事な概念だが、その研究開発にブレーキがかかったと思う。」''などと答えた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/02/16/10925.html |title=Winny開発者の裁判に村井教授が証人として出廷、検察側の主張に異議 |access-date=2023/11/16}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://joho-triangle.hatenadiary.org/entry/20060216/p2 |title=市民裁判員先行記第36回/Winny事件第19回公判 |access-date=2023/11/16}}</ref>
*** 2009年WIDEプロジェクトの研究報告書の第一部にて、ーWinny開発者に対する大阪高等裁判所の判決と技術者の社会的・道義的責任についてー意見表明を掲載。<ref>{{Cite web |title=WIDE Report 2009 |url=https://www.wide.ad.jp/About/report/pdf2009/part01.html |website=www.wide.ad.jp |access-date=2023-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wide.ad.jp/About/report/pdf2009/part01.pdf |title=第 I 部 ネットワークおよびソフトウェア 技術者・研究者連盟 |access-date=2023/11/16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=WIDE - ヒストリー - |url=https://www.wide.ad.jp/About/history.html |website=www.wide.ad.jp |access-date=2023-11-16}}</ref>
*** 2010/3/11 逆転無罪に導いた弁護士 壇俊光氏が第25回 WIDE賞を受賞。<ref>{{Cite web|和書|url=http://danblog.cocolog-nifty.com/index/2010/03/wide-84d9.html |title=壇弁護士の事務室 |access-date=2023/11/16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wide.ad.jp/About/wideshow/wideshow25.html |title=第二十五回 WIDE賞(2010年春) |access-date=2023/11/16}}</ref>
*** 2013/7/6 [[金子勇 (プログラマー)|金子勇]]氏死去。当時、慶應義塾大学環境情報学部長だった村井は、日経コンピュータ誌電子版に追悼のコメントを寄せた。以下一部コメントから引用「''金子勇さんが受け止めた困難の社会的要因を追求し、金子勇さんのスピリットが健全に羽ばたける世に治すことは、金子勇さんとのお別れに際し私たちの硬い約束とさせていただきたいと思います。」''<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20130707/489582/ |title=「金子勇さんの遺志が健全に羽ばたける世に」、慶応大環境情報学部長 村井純氏が追悼の言葉 |access-date=2023/11/16}}</ref>
*** 2023/3/10 [[Winny事件]]をモデルにした映画『[[Winny (2023年の映画)|Winny]]』が公開された。脚本・監督は[[松本優作]]。村井は映画の公開に際しての取材で、「''WinnyはP2Pを使った洗練された日本製の技術で、当時の技術力としては他国を遥かに超越しており、金子氏が生きていればその後の[[ビッグ・テック|GAFA]]の景色は変わっていたかもしれない」''などと述べる。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=i4Yru8RHD5E |title=【特集】映画で再び注目される「Winny」 開発者は逮捕され…その後に無罪確定、そして急逝 「GAFAの景色変わってたかも」インターネット先駆者から惜しむ声【報道ランナー】 |access-date=2023/11/16}}</ref> 映画を見て、''「証言内容について、こちらが言いたいことは決まっていました。それは、Winnyが大事なソフトウェアであること、こういう事件が起きてしまうと、今後、技術の発展に支障が出るということです。劇中で金子さんがプログラムを直させてほしいと言ったのに、それができなかった。もしも修正できていたらこんな問題にはならなかったのにと、ご本人がすごく悔しがっていたのが印象的でした」''と村井が言うと壇弁護士もうなずいた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/news/article/1128871/ |title=セキュリティ基盤の専門家たちが抱いた映画『Winny』への想いとは?「金子勇という栄光なき天才を知ってほしい」 |access-date=2023/11/16}}</ref>
*'''インターネットを繋ぐための活動'''
**'''1970年代'''
***キャンプに勤しむ活発な青年であった村井は当時の[[メインフレーム]]コンピューターが大嫌いだった。計算機室の前で行列して、パンチカードを打ってプログラムをつくり、計算させて、3日経ったらようやく結果がプリンターで出力されるというものでコンピューターが偉すぎて不愉快であり、以後、人間が真ん中にいて、周りにコンピューターがあるというイメージを持ち、人間のためのコンピュータネットワークの世界を模索することになる。<ref>{{Cite web|和書|url=https://tokyo.ymca.or.jp/about/interview_murai.html |title=YMCAでの学びとこれからの社会 |access-date=2023/11/19}}</ref>
**'''1980年代 '''
***'''下水道に潜ってコンピュータを接続/S&Tnet/慶應キャンパスLANプロジェクト<ref>{{Cite journal|author=村井純|year=1984|title=コンピュータネットワークを用いたソフトウェア開発環境|url=file:///Users/hitomisano/Downloads/IPSJ-OS84024003.pdf|journal=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=インターネット 歴史の一幕/JUNETの誕生 - JPNIC |url=https://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No29/060.html |website=www.nic.ad.jp |access-date=2023-11-18}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=インターネット宣言 |date=1995/2/1 |publisher=講談社 |page=82-87 |author=村井純}}</ref>'''
***慶應大学工学部数理工学科斉藤信雄研究室では、1978年に[[PDP-11]]上に[[UNIX]] version6を導入し計算機科学の基盤にしようとしていた。斎藤研の院生だった村井は当時数少ないUNIXの専門家に近い状況にあり、後輩にUNIXや[[C言語|C]]プログラミングを教えていた。
****黎明期のインターネットの成長は[[UNIX]]の存在が大きく影響する。
***同時期にコンピュータの世界では[[イーサネット]]の標準化の議論が進み始めていて、慶應でも電気工学科[[相磯秀夫|相磯秀雄]]研究室でAcknowledging Ethernetが研究され、自作した[[イーサネット]]のハードウェアでキャンパス[[Local area network|LAN]]を構築し、UNIX上のソフトウェアで繋ごうとした。このUNIX使いとして村井に白羽の矢が立てられた。キャンパスネットワークを構築するプロジェクトはS&Tnetプロジェクトと呼ばれ、2つの研究室で共同して進められた。この時、相磯研究室と斎藤研究室が矢上キャンパス内部の別の棟にあったため、マンホールの中に潜り込んで下水道にこっそり回線を引いて2つの研究室を回線で繋いだ。
***81年の夏、はじめて斎藤研と相磯研の間でパケットの送信実験が成功した時、喜びのあまり村井は床を転げ回ったという話も伝わっている。<ref>{{Cite book|和書 |title=電脳のサムライたち3 電網創世記 インターネットにかけた男たちの軌跡1 |date=2014/5/9 |publisher=小学館eBooks |page=第一章}}</ref>
***当時の村井は、全学科をつなぐネットワークを目標にして、暇を見つけては他の学科の先生に話しに行き、UNIXを買わせてネットワーク作りに精を出していた。一方で、当時のネットワークは遅く犬にフロッピーを背負わせてデータを運ばせた方が早い、犬に勝てないという問題には頭を悩ませながらも、なかなかUNIXを購入してくれない先生らにネットワークの利点を啓蒙してキャンパスを回った。
****初歩的なネットワークであるが、当時はアメリカのネットワークも試作段階で、[[IEEE]]でイーサネットが標準化したのが83年、TCP/IPが動き出すのは85年であることから、この頃の村井らの努力も決して世界に遅れを取っていたわけではない。しかし、83年[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC社]]の[[PDP-11]]の継続である[[VAX]]上のUNIX4.2BSDに[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]が組み込まれる所からインターネットは一気に広まりをみせる。その後[[Java|JAVA]]を生む[[サン・マイクロシステムズ]]の創業に関わった[[ビル・ジョイ]]がこの開発を先導していた。
***'''[[IPアドレス]]の割り当てと[[ドメイン名]]の分散管理を求める'''
*** 日本でコンピュータネットワークが本格的に構築され始めた1980年代、日本の大学や研究機関などがインターネットに接続するためには、当時全世界のIPアドレスの割り当て業務を行っていた米国のSRI-NIC(Stanford Research Institute - Network Information Center)へ、それぞれの組織から個別に申請しなければならず、その申請作業は全て英語で行われた。また、日本のインターネットの現状には必ずしも適したものではなかったため、村井はインターネットの神様と呼ばれる[[ジョン・ポステル|Jon Postel]]を訪ね、世界的に広がっていくであろうインターネットの資源管理、つまり、IPアドレスの割り当てとドメイン名の登録管理を今後どのように進めていけばよいのか、話し合った。(非英語圏の国々を多く抱えるヨーロッパ地域では日本と同様の問題を抱えており、当時同地域でインターネットの構築に携わっていた[[Daniel Karrenberg]]が、Postelに似たような相談をしていた)その後日本では、1989年2月より、SRI-NICからIPアドレスブロックの委任を受けた「ネットワークアドレス調整委員会」が、日本でのIPアドレスの割り当て業務を行うことになり、ドメイン名についても、1988年8月に村井がPostelからJPドメイン名の割り当てを受け、[[JUNET]]の管理グループであるjunet-adminが管理してきたjunetドメイン名を、1989年にJPドメイン名に移行しました。その後JPドメイン名は、JUNET以外のネットワークにおいても使用されることになるが、実質的なドメイン名割り当て組織の不在から、引き続きjunet-adminがボランタリーに登録管理を行っていた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No40/0320.html |title=インターネット歴史の一幕: JNICからJPNICへ、そしてAPNICの設立 ~平原正樹さんとの思い出 |access-date=2023/11/15}}</ref>
*** 地域レジストリーへの移譲は、日本から実験的に始まっている。[[IPアドレス]]の配布と[[ドメイン名]]の登録は日本で引き受けるから、運用をIANAから移譲してほしいとかけ合い、やがて世界もそうなるから日本から始めてみようとした。その際に、[[.jp]]などの[[国別コードトップレベルドメイン|ccTLD]](国別コードトップレベルドメイン)が考え出された。地域レジストリーでの運用は、日本で問題ないことがわかり、世界でも展開されることになった。<ref>{{Cite book|和書 |title=インターネットの基礎 情報革命を支えるインフラストラクチャー |date=2014/10/25 |publisher=角川学芸出版 |page=212-213}}</ref>
*** '''日本初IX([[インターネットエクスチェンジ|インターネット・エクスチェンジ]])を作る 1989'''
*** 会員が増大し続ける[[JUNET]]の管理は限られた研究資金で運用しており、需要が伸び続けるインターネットの今後に悩んだ村井はインターネット分野そのものを学術研究範囲を超えたビジネス領域に広め、民間企業の領域にネットワークを拡張する。1989年1月岩波書店の地下にNOC(ネットワーク・オペレーション・センター/ネットワークを管理する拠点)、後のIX([[インターネットエクスチェンジ|インターネット・エクスチェンジ]])を作る。国家資産である国立大学と民間企業が専用線で直接的につなぐことを潔しとしない人が必ずいることを考慮し、[[岩波書店]]というアカデミックなブランドにより、学術と民間を繋ごうとしたのである。これにより、東大、東工大、慶應大、岩波書店が専用線で結ばれ、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]で常時接続されたネットワーク、日本版インターネットを使う環境が整った。<ref>{{Cite book|和書 |title=ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け |date=2005/8/25 |publisher=RBB PRESS |page=54-58}}</ref>
** '''2010年代'''
*** '''技術・工学エミー賞受賞式''' <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.w3.org/Consortium/Hosts/Keio/ |title=W3C (WORLD WIDE WEB CONSORTIUM)とは |access-date=2023/11/19}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://theemmys.tv/tech-70th-award-recipients/ |title=70th Award Recipients |access-date=2023/11/19 |publisher=THE NATIONAL ACADEMY OF TELEVISION ARTS & SCIENCES}}</ref>
*** 2019/04/08 [[World Wide Web Consortium|W3C]]を代表して[[エミー賞]]受賞式に出席。第70回技術・工学エミー賞 (Technology & Engineering Emmy Award)を受賞。Standardization of HTML5, Encrypted Media Extensions (EME) and Media Source Extensions (MSE) for a Full TV Experience部門。
*** 村井による受賞時のコメント''「ウェブには境界線はありません。そしてウェブ上の各メディアの視聴者は、世界で40億人を超えています。 [[World Wide Web Consortium|W3C]]は[[World Wide Web|ウェブ]]上で動画再生を可能にし、ウェブ上の完全なFull TV experienceを実現するための技術標準に取り組んでいます。これはW3Cが取り組んできた多くの分野の1つですが、W3Cが開発したウェブ技術の中でも[[HTML5]]はウェブに動画をもたらし、メディア再生のためのプラグイン方式を収束しました。現在ではW3Cの技術が全てのウェブメディアアプリケーションの中核となっています。ウェブは今や、いつでもどこでも、どんなデバイスでも、どんな解像度でも、そして誰にでも利用できるプラットフォームとなりました。 私は[[World Wide Web Consortium|W3C]]を代表して、私たちの技術を評価したNATASに感謝します。そしてFull TV experienceの標準化に貢献されてきた各企業・個人にも深い謝意を表したく思います。」''
*** W3Cが技術・工学部門でエミー賞を受賞するのは、2016年にW3C TTML (Timed Text Mark-up Language) 技術に対する受賞に次ぐ2回目。
*** 2008年頃からのW3Cを舞台にした[[HTML5]]開発はビデオストリームの配信交換をWEBのアーキテクチャ上でいかに共通化できるかが中核にあった。それまではプラグイン方式で異なるビデオストリームがあり知財が絡むなどした部分を統一しセキュアなストリームをWEB基盤に組み込んだことが受賞対象となった。[[YouTube|Youtube]]や[[Netflix]]などのビデオストリームによる産業が創出できた背景には、このような商用サービスの根幹となる技術標準が実現したことにある。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wide.ad.jp/About/report/pdf2019/part00.pdf |title=2019年度WIDEプロジェクト研究報告書 |access-date=2023/11/19}}</ref>Web and TVは過去20年間にわたり[[World Wide Web Consortium|W3C]]議論のテーマであり開発技術だが、もはやウェブ上の動画は当たり前のものとなっている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sfc.keio.ac.jp/news/013364.html |title=SFC研究所W3Cが2回目のテクノロジー&エンジニアリング・エミー賞を受賞 |access-date=2023/11/19}}</ref>
== 著書 ==
* 自著
** 『インターネット』 (岩波新書) 岩波書店 ISBN 4004304164 1995年
** 『インターネットII〜次世代への扉〜』 (岩波新書)岩波書店 ISBN 4004305713 1998年
** 『インターネット「宣言」―急膨張する超モンスターネットワーク インターネットがよくわかる入門書』講談社 ISBN 406207480X 1995年
** 『インターネットの不思議、探検隊!』太郎次郎社エディタス ISBN 4811807510 2003年(絵本形式)
** 『インターネット新世代』 (岩波新書)岩波書店 ISBN 4004312272 2010年
**『角川インターネット講座』第1巻「インターネットの基礎 情報革命を支えるインフラストラクチャー」(角川学芸出版)ISBN 4046538813 2014年
* 共著
** 『インターネット 法学案内―電脳フロンティアの道しるべ』(日本評論社、1998年)共著:インターネット弁護士協議会著
** 『IT2001 なにが問題か』岩波書店 ISBN 4000098497 2000年 共著:[[林紘一郎]]・[[牧野二郎]]との共同監修
** 『コンピューターってどんなしくみ?』誠文堂新光社 ISBN 9784416518069 2018年 共同監修:佐藤雅明
** 『日本大災害の教訓―複合危機とリスク管理』10章「災害時情報通信基盤マネジメント」(東洋経済新報社)
** 『DX時代に考える シン・インターネット』(インターナショナル新書)共著:[[竹中 直純]] ISBN 4797680806 2021年
** 『アンワイアード デジタル社会基盤としての6Gへ』(インプレスR&D)共著:湧川 隆次 ISBN 4844379941 2021年
* 監訳
** ダニエル・C. リンチほか『インターネットシステムハンドブック』インプレス ISBN 4844347462 1996年
** 『IPv6:次世代インターネットプロトコル』プレンティスホール出版 ISBN 4887350104 1996年
** アレックス・ライトマン『アンワイアード 果てしなきインターネットの未来-4Gへのシナリオ』(インプレス、2005年)村井純監修
他
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[JUNET]]
* [[World Wide Web Consortium]]
* [[通信・放送の在り方に関する懇談会]]
== 外部リンク ==
* [https://k-ris.keio.ac.jp/html/100012650_ja.html 慶應義塾研究者情報データベース]
<!-- * [http://vu9.sfc.keio.ac.jp/faculty_profile/cgi/f_profile.cgi?id=859452959bdc256a 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス 教員プロフィール] -->
* [https://www.wide.ad.jp/ WIDE Project]
* {{Wayback|url=http://www.cyber-u.ac.jp/faculty/common/teacher/murai_jun.html |title=サイバー大学|date=20140928204819}}
* {{Wayback|url=http://www.upunet.or.jp/INTER-IT/view/jyohogi/murai.html |title= IT's Point of View|date=19980127201109}}
* [https://www.nic.ad.jp/ JPNIC]:(社)日本ネットワークインフォメーションセンター
* [https://www.internetsociety.org/ ISOC]:Inernet Society
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/policyreports/joho_tsusin/chijo-digital.html 総務省情報通信審議会地上デジタル放送推進に関する検討委員会]
* [https://www.iptvforum.jp/ 一般社団法人IPTVフォーラム]
* {{Kaken|50174256}}
* {{研究者リゾルバー|1000050174256|cinii=1|jairo=1}}
* {{researchmap|read0075074}}
* {{JGLOBAL_ID|200901035253791469}}
* [https://wired.jp/waia/2018/20_jun-murai/ インターネットの父、戦いの歴史。“アンワイアード”な現在に思うこと。(2018年12月11日、Wired.jp、インタビュー記事)]
{{先代次代|慶應義塾大学環境情報学部長|2009年 - 2017年|[[徳田英幸]]|[[濱田庸子]]}}
{{先代次代|慶應義塾大学政策・メディア研究科委員長|2017年 - 2019年|[[清木康]]|[[加藤文俊]]}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:むらい しゆん}}
[[Category:日本のインターネットの人物]]
[[Category:日本の計算機科学者]]
[[Category:日本の情報工学者]]
[[Category:UNIXに関係する人物]]
[[Category:慶應義塾大学の教員]]
[[Category:慶應義塾大学SFC研究所の人物]]
[[Category:東京大学情報基盤センターの人物]]
[[Category:サイバー大学の教員]]
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EDICOLOR
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EDICOLOR (エディカラー)は、キヤノンITソリューションズが開発・販売していたDTPソフトウェアである。
WindowsとmacOSとの間で完全なクロスプラットフォーム互換性を実現しており、仮想フォントによるレイアウトワークや、日本語組版(特に縦組み処理)に強いという特徴を持つ。なお、公には発表されてはいないがエフテル日東組版はEDICOLORの機能限定版である。
Macintosh版の7.0以降はmacOS専用アプリケーションとなっており、Classic Mac OSの環境では動作しない。そのため、ベンダー側ではバージョン6および7系統の販売・サポートも継続している。なお、Snow Leopardには非対応となっている。
最新バージョンは10(2012年6月現在)。macOSやOpenTypeに完全対応し、パッケージにはイワタのフォントが添付されている。
2016年12月に販売・開発を終了し、2018年12月でサポートも終了した。
仮想フォント機構の搭載により、オペレーティングシステムでなくアプリケーションのレベルでフォントを管理しており、起動時に総ての実フォント・仮想フォント情報を読み込む。この理由もあって、起動時間は他のDTPツールと比してかなり長いが、これは使用しないフォントを外すことで短縮できる。
DTP業界全体としてはAdobe InDesign・QuarkXPressなどに比してシェアは微弱であるが、官公庁などでの使用実績が高い。また、電算写植レベルの綿密な日本語組版を要求する出版社などで使用されている。
Adobe InDesign・QuarkXPressなどの欧米原産ソフトと異なり、純日本製である。基本設計レベルで日本語組版に対応しているため、日本語CTSによく見られる原稿用紙のような文字枠(後に発売されたAdobe InDesignも、日本語版において同様のグリッド機能を実装することになる)を持ち、禁則処理などもカスタマイズが可能。ただし細かい「ハウスルール」(出版社や媒体における組版ルールの微妙な差異)に関しては一部対応できない場合もあるため、この場合は他のレイアウトソフト同様手作業で「それらしく組み上げる」必要がある。 また、「日本語組版」に重きを置きすぎたためか、バージョン6.0まではウムラウト(トレマ)やアクサンテギュなどを付加した1バイト文字が入力できない(シフトJIS以外の文字コード使用を想定していない)プログラムの構造になっていた(無理に入力しようとすると「半角カナ」に置き換わる)。なお、バージョン7.0以降ではUnicodeも扱うことができる。
EDICOLORはDTPに必要とされる機能を詰め込んだオールインワン構成となっており、基本的には追加でプラグインを購入する必要がない。
仮想フォント機構とは、コンピュータにインストールされていないフォントを使って組版することを可能にするもので、Windows版でもOCFあるいはCIDのPostScriptフォントが扱えるようになり、これによってEDICOLORはWindows版とMacintosh版の間の完全な互換性を確保している。
原理的には、詰め情報をAFMファイルから取得し、画面表示には代用書体を用いる。そのため仕様は不完全なWYSIWYGとなるが、フォント運用のTCOを低下させるのに役立つ。
当初は住友金属工業株式会社(後に部門が切り離され、住友金属システムソリューションズに合流)から「SMI EDICOLOR」という製品名でリリースされていたが、住友金属システムソリューションズがキヤノンマーケティングジャパンに売却されたのに伴い名称変更された。
EDICOLORは、住友金属の大型DTP(CTS)システムSMI EDIANの弟分という位置づけで、当時パソコンDTPとしては珍しいカラー対応がなされていたためEDICOLORの名を冠した。その後カラー対応は珍しいことではなくなったが、そのまま名称は定着している。
なお、バージョン1.0のリリース当時の定価は150万円であったという。その後大きく価格を下げ、10万円強で落ち着いている。
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EDICOLOR (エディカラー)は、キヤノンITソリューションズが開発・販売していたDTPソフトウェアである。
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{{出典の明記|date=2023年1月3日 (火) 01:17 (UTC)}}
'''EDICOLOR''' (エディカラー)は、[[キヤノンITソリューションズ]]が開発・販売していた[[DTP]]ソフトウェアである。
== 概要 ==
[[Microsoft Windows|Windows]]と[[macOS]]との間で完全なクロスプラットフォーム互換性を実現しており、[[仮想フォント]]によるレイアウトワークや、日本語組版(特に[[縦組み]]処理)に強いという特徴を持つ。なお、公には発表されてはいないが[[エフテル日東組版]]はEDICOLORの機能限定版である。
Macintosh版の7.0以降はmacOS専用アプリケーションとなっており、[[Classic Mac OS]]の環境では動作しない。そのため、ベンダー側ではバージョン6および7系統の販売・サポートも継続している。なお、[[Mac OS X v10.6|Snow Leopard]]には非対応となっている。
最新バージョンは10([[2012年]]6月現在)。[[macOS]]や[[OpenType]]に完全対応し、[[パッケージ]]には[[イワタ]]の[[フォント]]が添付されている。
2016年12月に販売・開発を終了し、2018年12月でサポートも終了した。
== 特徴 ==
仮想フォント機構の搭載により、[[オペレーティングシステム]]でなくアプリケーションのレベルで[[フォント]]を管理しており、起動時に総ての実フォント・仮想フォント情報を読み込む。この理由もあって、起動時間は他のDTPツールと比してかなり長いが、これは使用しないフォントを外すことで短縮できる。
DTP業界全体としては[[Adobe InDesign]]・[[QuarkXPress]]などに比してシェアは微弱であるが、官公庁などでの使用実績が高い。また、[[電算写植]]レベルの綿密な日本語組版を要求する出版社などで使用されている。
=== 日本語組版能力 ===
Adobe InDesign・QuarkXPressなどの欧米原産ソフトと異なり、純日本製である。基本設計レベルで日本語組版に対応しているため、日本語[[Computer Typesetting System|CTS]]によく見られる[[原稿用紙]]のような文字枠(後に発売されたAdobe InDesignも、日本語版において同様のグリッド機能を実装することになる)を持ち、[[禁則]]処理などもカスタマイズが可能。ただし細かい「ハウスルール」(出版社や媒体における組版ルールの微妙な差異)に関しては一部対応できない場合もあるため、この場合は他のレイアウトソフト同様手作業で「それらしく組み上げる」必要がある。
また、「日本語組版」に重きを置きすぎたためか、バージョン6.0までは[[ウムラウト]]([[トレマ]])や[[アクサンテギュ]]などを付加した[[1バイト]]文字が入力できない(シフトJIS以外の文字コード使用を想定していない)プログラムの構造になっていた(無理に入力しようとすると「半角カナ」に置き換わる)。なお、バージョン7.0以降ではUnicodeも扱うことができる。
=== オールインワンパッケージ ===
EDICOLORはDTPに必要とされる機能を詰め込んだ'''オールインワン'''構成となっており、基本的には追加で[[プラグイン]]を購入する必要がない。
;表組機能
:例えばQuark XPress4.1以前では表を作成する機能を実装しておらず(6.0で導入された)、表組を行う場合は多数の罫線を組み合わせるか、サードパーティから販売されている専用のプラグイン(QuarkXPressの場合、特に[[XTension]]という)を購入することが必要になる。
:それに対してEDICOLORやInDesignは表組機能を標準で搭載している。両者の表組機能はそれぞれ全く違う指向性を持ち、EDICOLORは表枠内での複雑な体裁指定に優れ、逆にInDesignではページや段をまたがった表の作成、表内テキストの差し替え(訂正)などに弱い。表枠を「インラインオブジェクト」として文字枠内に流すこともできるが、修正作業が煩雑になるうえアプリケーションがエラーを起こし停止してしまうケースもある。
;外字
:日本語の書籍制作に当たっては、人名などで[[日本工業規格|JIS]]第2水準外の[[異体字]]や、また丸付き数字や記号類など、通常の[[文字コード]]にない文字が必要になることが多い。
:こういった文字は[[外字]]で対応することになる。一般にMacintoshDTPでは、サードパーティ製の外字フォントを購入して使用する。日本ではDTPセンタービブロスの発売している[[ビブロス外字]]が絶大なシェアを持っている。
:EDICOLORには記号類用のシステム外字(SMI外字、SMI外字Plusを経て現在は「Edisys-OTF-Gaiji」)、記号と漢字を含む'''EDI外字'''が標準でバンドルされており、追加購入なしで書籍制作のニーズに応えることができる。
:このEDI外字にはEdiGaiMinIwataとEdiGaiGoIwataの2種類(バージョン7.0からはEdigai-OTF-MinIwata、同GoIwata)があるが、イワタエンジニアリングの制作した外字フォントで、それぞれ同社の[[明朝体]]と[[ゴシック体]]に合わせた書体デザインが行われている。これらの外字を扱う際は、「文字パレット」を表示させて任意の文字をクリックすることにより、自動的に入力した文字だけが外字フォントに置き換わるため、前記のビブロスフォントを利用する場合のように「外字部分を別のフォントに置き換える手作業」をする必要はない。
;自動ルビ振り
:[[ルビ]](振り仮名)処理は日本語の書籍を制作する上で大きな課題となり、その作業を簡素化すべく自動的にルビを振る、あるいはルビ振りを支援するソフトウェアが様々に開発されている。
:EDICOLORには'''HummingBird'''(ハミングバード)というルビ振りプラグインが標準で搭載されており、[[常用漢字]]外や、[[学年別漢字配当表]]の各学年ごと、といった細かい設定の元、かなりの高精度で自動的にルビ振り処理ができる。
:このルビ振りプラグインに搭載されている日本語解析プログラムは、キヤノンITソリューションズが販売している[[RubyNavigation]]というルビ振りアプリケーションと同等のものとされる。<!--なお、ルビ辞書のカスタマイズはできない-->
=== 仮想フォント ===
[[仮想フォント]]機構とは、[[コンピュータ]]にインストールされていない[[フォント]]を使って組版することを可能にするもので、Windows版でもOCFあるいはCIDのPostScriptフォントが扱えるようになり、これによってEDICOLORはWindows版とMacintosh版の間の完全な互換性を確保している。
原理的には、詰め情報を[[AFMファイル]]から取得し、画面表示には代用書体を用いる。そのため仕様は不完全な[[WYSIWYG]]となるが、フォント運用の[[TCO]]を低下させるのに役立つ。
== 製品名とその経緯 ==
当初は住友金属工業株式会社(後に部門が切り離され、[[住友金属システムソリューションズ]]に合流)から「SMI EDICOLOR」という製品名でリリースされていたが、住友金属システムソリューションズがキヤノンマーケティングジャパンに売却されたのに伴い名称変更された。
EDICOLORは、住友金属の大型DTP(CTS)システム[[Edian|SMI EDIAN]]の弟分という位置づけで、当時パソコンDTPとしては珍しいカラー対応がなされていたためEDI'''COLOR'''の名を冠した。その後カラー対応は珍しいことではなくなったが、そのまま名称は定着している。
なお、バージョン1.0のリリース当時の定価は150万円であったという。その後大きく価格を下げ、10万円強で落ち着いている。
== 関連項目 ==
*[[組版]] - [[DTP]] - [[PostScript]]
*[[QuarkXPress]]
*[[アドビ]] - [[Adobe InDesign|InDesign]] - [[Adobe PageMaker|PageMaker]] - [[Adobe Illustrator|Illustlator]]
*[[キヤノンITソリューションズ]] - [[Edian]] -[[RubyNavigation]]
== 外部リンク ==
*[http://ps.canon-its.jp/ec/ EDICOLOR 10 - キヤノンITソリューションズ]
[[Category:DTP]]
[[Category:キヤノンの製品]]
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RubyNavigation
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RubyNavigation(ルビナビゲーション)は、キヤノンITソリューションズが販売しているDTP用自動ルビ振りソフトウェア。
Windows用で、Macintosh版は販売されていない。
約15万語の日本語辞書を用いて日本語解析を行うことで、品詞や活用の違いに応じてかなりの高精度でルビ振り処理が可能。小学校学年別漢字配当表の各学年別の設定や、常用漢字表外音、拗促音(捨て仮名の使用/不使用などを含む)などの詳細な設定が可能。解析できなかった部分にはゲタ(〓)で出力される。
同社のDTPソフトEDICOLORには、ルビ振り機能のみを取り出したプラグインHummingBirdが標準同梱されている。
RubyNavigationでは、専用のエディタ画面でルビ処理と推敲、プリンタ印字で校正した後、各種DTPソフト用のタグテキストデータとして出力し、ルビ自動処理ができる。また、作業途中での保存なども可能。
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RubyNavigation(ルビナビゲーション)は、キヤノンITソリューションズが販売しているDTP用自動ルビ振りソフトウェア。 Windows用で、Macintosh版は販売されていない。 約15万語の日本語辞書を用いて日本語解析を行うことで、品詞や活用の違いに応じてかなりの高精度でルビ振り処理が可能。小学校学年別漢字配当表の各学年別の設定や、常用漢字表外音、拗促音(捨て仮名の使用/不使用などを含む)などの詳細な設定が可能。解析できなかった部分にはゲタ(〓)で出力される。 同社のDTPソフトEDICOLORには、ルビ振り機能のみを取り出したプラグインHummingBirdが標準同梱されている。 RubyNavigationでは、専用のエディタ画面でルビ処理と推敲、プリンタ印字で校正した後、各種DTPソフト用のタグテキストデータとして出力し、ルビ自動処理ができる。また、作業途中での保存なども可能。 以下の各タグテキストデータ出力に対応している。 HTML
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QuarkXPress4.0
EDICOLOR
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'''RubyNavigation'''(ルビナビゲーション)は、[[キヤノンITソリューションズ]]が販売している[[DTP]]用自動[[ルビ]]振り[[ソフトウェア]]。
[[Microsoft Windows|Windows]]用で、[[Macintosh]]版は販売されていない。
約15万語の日本語[[辞書]]を用いて日本語解析を行うことで、[[品詞]]や活用の違いに応じてかなりの高精度でルビ振り処理が可能。小学校[[学年別漢字配当表]]の各学年別の設定や、[[常用漢字]]表外音、拗促音([[捨て仮名]]の使用/不使用などを含む)などの詳細な設定が可能。解析できなかった部分には[[下駄|ゲタ]](〓)で出力される。
同社のDTPソフト[[EDICOLOR]]には、ルビ振り機能のみを取り出したプラグイン'''HummingBird'''が標準同梱されている。
RubyNavigationでは、専用のエディタ画面でルビ処理と推敲、プリンタ印字で校正した後、各種[[DTP]]ソフト用の[[タグ]]テキストデータとして出力し、ルビ自動処理ができる。また、作業途中での保存なども可能。
以下の各タグテキストデータ出力に対応している。
*[[HyperText Markup Language|HTML]]
*[[InDesign|InDesign2.0]]
*[[Quark XPress|QuarkXPress4.0]]
*[[EDICOLOR]]
*[[Edian|EdianWing]]
== 外部リンク ==
*[http://ps.canon-its.jp/rn/index.html 公式サイト]
[[Category:DTP]]
[[Category:キヤノンの製品]]
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13,732 |
Adobe PageMaker
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Adobe PageMaker(アドビ・ページメーカー)とは、かつてアドビシステムズ(現アドビ)の開発・販売していたDTPソフト。当初アルダスによって開発されたが、バージョン5時にアドビシステムズによりアルダスごと買収された。
最終バージョンは7.0.2(2001年11月リリース)。
1985年に最初のバージョンが発表され、当時唯一のWYSIWYG環境であったMacintoshによるDTPという市場を切り拓いた。DTPという概念自体、このアプリケーションを世に問うために、アルダス社社長ポール・ブレイナードが考案したものである。
ボックスを使わずに、紙面上の任意の場所に文字や画像を配置することができるなど、直感的な操作性を特徴とする。また、パソコンによるDTPソフトとしてはかなり初期の段階でカラー対応を果たしている。
1999年にアドビシステムズではアルダスが開発していたInDesignを継続開発し、QuarkXPressに対抗するDTPソフトとして販売を始めた。同社によると、デザイン要素の強いレイアウトワークにはInDesignを、ビジネスドキュメントにはPageMakerを、大量のマニュアルなどにはFrameMakerを、というように分類していたが、PageMakerからInDesignへの移行を推進し、2005年にはアドビストアでは PageMaker 7からInDesign CS2へのアップグレード版が販売された(InDesign CS2ではPageMaker 6.0以降のファイルを変換出来る)。
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Adobe PageMaker(アドビ・ページメーカー)とは、かつてアドビシステムズ(現アドビ)の開発・販売していたDTPソフト。当初アルダスによって開発されたが、バージョン5時にアドビシステムズによりアルダスごと買収された。 最終バージョンは7.0.2(2001年11月リリース)。
|
{{Infobox Software
| 名称 = Adobe PageMaker
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| 説明文 =
| 開発元 = [[アドビ|アドビシステムズ]]
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| 最新版 = 7.0.2
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| 種別 = [[DTP]]
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|
}}
'''Adobe PageMaker'''('''アドビ・ページメーカー''')とは、かつてアドビシステムズ(現[[アドビ]])の開発・販売していた[[DTP]]ソフト。当初[[アルダス]]によって開発されたが、バージョン5時にアドビシステムズによりアルダスごと買収された。
最終バージョンは7.0.2([[2001年]]11月リリース)。
== 来歴 ==
[[1985年]]に最初のバージョンが発表され、当時唯一の[[WYSIWYG]]環境であった[[Macintosh]]によるDTPという市場を切り拓いた。DTPという概念自体、このアプリケーションを世に問うために、アルダス社社長ポール・ブレイナードが考案したものである<ref>[https://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/gyoukai/022/01.html IT業界の開拓者たち 第22回 ページメーカーを作った男 脇英世]</ref><ref>
{{Cite book|和書
|author=小平 尚典
|coauthors=
|others=
|year=1993
|title=シリコンロード―日米46人のキーマンによる“パーソナルコンピュータ”史
|publisher=ソフトバンククリエイティブ
|id=ISBN 978-4890523245
}}</ref>。
== 特徴 ==
ボックスを使わずに、紙面上の任意の場所に文字や画像を配置することができるなど、直感的な操作性を特徴とする。また、パソコンによるDTPソフトとしてはかなり初期の段階で[[色|カラー]]対応を果たしている。
1999年にアドビシステムズではアルダスが開発していた[[Adobe InDesign|InDesign]]<ref>
{{Cite book|和書
|author=Pamela Pfiffner
|coauthors=井上 務、新丈 径
|others=
|year=2003
|title=The Adobe Story -出版革命をデザインした男たち-
|publisher=アスキー
|id=ISBN 978-4756143754
}}</ref>を継続開発し、[[QuarkXPress]]に対抗するDTPソフトとして販売を始めた。同社によると、デザイン要素の強いレイアウトワークにはInDesignを、ビジネスドキュメントにはPageMakerを、大量のマニュアルなどには[[Adobe FrameMaker|FrameMaker]]を、というように分類していたが、PageMakerからInDesignへの移行を推進し<ref>[https://www.adobe.com/jp/products/pagemaker/ 最新情報 InDesignへの移行 InDesignへの移行について詳しくはこちら。PageMakerユーザ用のInDesignコンバージョンガイドや豊富なリソースを紹介]</ref>、2005年にはアドビストアでは PageMaker 7からInDesign CS2へのアップグレード版が販売された(InDesign CS2ではPageMaker 6.0以降のファイルを変換出来る)<ref>[http://www.adobe.com/jp/aboutadobe/pressroom/pressreleases/200506/20050607idcs2.html アドビ システムズ 株式会社がパブリッシングとデザインに革新をもたらすAdobe InDesign CS2 日本語版を発表]</ref>。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
* 1985年 - PageMaker 1.0リリース。
* 1989年 - PageMaker 3.0Jリリース<ref>{{Cite book|author=MS‐Windowsとは何か ウィンドウがパソコンを変える|title=Emuesu uindōzu towa nanika|url=https://www.worldcat.org/oclc/673235775|date=1991|year=|accessdate=|publisher=講談社|isbn=4061328530|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|others=Waki, Hideyo, 1947-, 脇, 英世, 1947-|oclc=673235775}}</ref>。
* 1994年 - PageMaker 5.0Jリリース。
* 1996年 - PageMaker 6.0Jリリース<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960429/pagemake.htm DTPソフトの元祖「Adobe PageMaker 6.0J」が、4月22日に発表された。]</ref>。
* 1997年 - PageMaker 6.5Jリリース<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970619/adobe.htm アドビ、ページレイアウトソフト「Adobe PageMaker 6.5J」を発表 ]</ref>。
* 2001年 - PageMaker 7.0 日本語版リリース<ref>[https://www.adobe.com/jp/aboutadobe/pressroom/pressreleases/pdfs/20011001pm7.pdf アドビ システムズ 株式会社、Adobe® PageMaker® 7.0 日本語版を発表]</ref>。
== 関連用語 ==
*[[PostScript]]
*[[QuarkXPress]]
*[[Adobe InDesign|InDesign]]
==脚注==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
*[http://www.adobe.com/jp/products/pagemaker/ Adobe Pagemaker(日本語版)]
{{アドビ}}
[[Category:アドビのソフトウェア|PageMaker]]
[[Category:DTPソフト]]
[[Category:1985年のソフトウェア]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Adobe_PageMaker
|
13,733 |
Adobe FrameMaker
|
Adobe FrameMaker(アドビ・フレームメーカー)とは、アドビの販売するDTPソフトで、大規模な構造化文書に特化している。Frame Technologyという企業によって開発され、後にアドビに買収された。
専門オペレータでなくとも操作できる簡便性(ただし、そのためにはオペレーション前の緻密な文章構造の設計が必要になるので、専門の技術力をもった人材が不可欠)と、強力なXML対応を特徴とする。バージョン6.0以前のXMLやSGML対応版では、エレメントをドラッグ&ドロップにて追加・編集することが可能で、レイアウトにも即時反映されるようになっている。この機能は7.0以降で標準装備された。また、しおりやハイパーリンク(相互参照)のポインタ情報をもつPDFを直接生成することが可能。
バージョン8では、Windows、Solarisに対応。Macintosh版は2004年4月15日をもって販売終了している。
最新バージョン2022では、Windows 11に対応。
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Adobe FrameMaker(アドビ・フレームメーカー)とは、アドビの販売するDTPソフトで、大規模な構造化文書に特化している。Frame Technologyという企業によって開発され、後にアドビに買収された。 専門オペレータでなくとも操作できる簡便性(ただし、そのためにはオペレーション前の緻密な文章構造の設計が必要になるので、専門の技術力をもった人材が不可欠)と、強力なXML対応を特徴とする。バージョン6.0以前のXMLやSGML対応版では、エレメントをドラッグ&ドロップにて追加・編集することが可能で、レイアウトにも即時反映されるようになっている。この機能は7.0以降で標準装備された。また、しおりやハイパーリンク(相互参照)のポインタ情報をもつPDFを直接生成することが可能。 バージョン8では、Windows、Solarisに対応。Macintosh版は2004年4月15日をもって販売終了している。 最新バージョン2022では、Windows 11に対応。 旅客機ボーイング787のフライトマニュアル執筆に利用されている。
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{{Infobox Software
| 名称 = Adobe FrameMaker
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}}
'''Adobe FrameMaker'''('''アドビ・フレームメーカー''')とは、[[アドビ]]の販売する[[DTP]]ソフトで、大規模な構造化文書に特化している。Frame Technologyという企業によって開発され、後にアドビに買収された。
専門オペレータでなくとも操作できる簡便性(ただし、そのためにはオペレーション前の緻密な文章構造の設計が必要になるので、専門の技術力をもった人材が不可欠)と、強力な[[Extensible Markup Language|XML]]対応を特徴とする。バージョン6.0以前のXMLやSGML対応版では、エレメントをドラッグ&ドロップにて追加・編集することが可能で、レイアウトにも即時反映されるようになっている。この機能は7.0以降で標準装備された。また、しおりやハイパーリンク(相互参照)のポインタ情報をもつPDFを直接生成することが可能。
バージョン8では、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[Solaris]]に対応。[[Macintosh]]版は2004年4月15日をもって販売終了している。
最新バージョン2022では、[[Microsoft Windows 11|Windows 11]]に対応。
旅客機[[ボーイング787]]のフライトマニュアル執筆に利用されている<ref>[http://wwwimages.adobe.com/content/dam/Adobe/en/customer-success/pdfs/all-nippon-airways-case-study.pdf ANA (All Nippon Airways Co., Ltd.) Manual management solution]</ref>。
== 関連用語 ==
*[[DTP]]
*[[Adobe InDesign|InDesign]]
*[[Adobe PageMaker|PageMaker]]
*[[PostScript]]
*[[Quark XPress]]
*[[NeWS]]
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://www.adobe.com/jp/products/framemaker.html 公式サイト]
{{software-stub}}
{{アドビ}}
{{DEFAULTSORT:Adobe FrameMaker}}
[[Category:アドビのソフトウェア|FrameMaker]]
[[Category:DTPソフト]]
[[Category:1986年のソフトウェア]]
[[Category:テクニカル・コミュニケーション・ツール]]
|
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13,734 |
Edian
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Edian(エディアン)は、NECネクサソリューションズから販売されていた業務用DTPシステムのシリーズ名である。
2020年に同社の製品「SUPER DIGITORIAL」シリーズに統合されて「SUPER DIGITORIAL/EW」となった。
多ページ数の書籍や、数式を含む学習参考書などの複雑な組版にまで幅広く対応していた。
商品カタログなどに対しては、データベースと連動したバッチ処理により高速に自動組版を行うことができた。
クライアントサーバモデルを基本とし、分散作業による効率化を実現しているがPC1台でのスタンドアローン運用も可能。ハードウェアも含めたWindowsベースのシステムであり、アプリケーションソフト単体での販売は行われてなかった。
本システムは2018年までキヤノンITソリューションズ(2003年にキヤノン販売に企業買収される前は住友金属システムソリューションズ)から販売されていたが、2019年1月1日にNECネクサソリューションズに事業譲渡された。システム名は、住友金属システムソリューションズから販売されていたときはSMI EDIAN(エスエムアイ エディアン)という表記だったが、キヤノン販売による買収の際にSMIを外し、大文字表記ではなくなった。
NECネクサソリューションズは2020年に、同社の印刷ソリューション「SUPER DIGITORIAL」シリーズにEdianWingを統合し、「SUPER DIGITORIAL/EW」とした。
本システムの開発はSMI EDIAN時代から管理工学研究所が担当していた。なお、SUPER DIGITORIALシリーズの開発も管理工学研究所が行っていた。
1989年に登場した最初のシステム。ハードウェアにUNIXワークステーションであるSony NEWSを用いていた。(販売終了)
機能強化とともにUNIXからWindowsに移行したシステム。1996年登場。1999年、日本新聞協会から技術開発奨励賞を受賞。(販売終了)
PostScript対応の、最終版のシステム。
大量の書籍、雑誌、カタログなどの組版に強い。数式などの処理にも強く、学習参考書などの組版で実績があった。
新聞組版のために機能強化されたシステム。NPSとはNews Paper Systemのこと。
たたみ流しなど、新聞独特の組み方が簡単に実現できる。XMLを用いて、大量の文書の自動組版に対応。オプションで記事管理システムや、選挙組み、証券自動組み、スポーツ組みなどの機能が追加できた。
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Edian(エディアン)は、NECネクサソリューションズから販売されていた業務用DTPシステムのシリーズ名である。 2020年に同社の製品「SUPER DIGITORIAL」シリーズに統合されて「SUPER DIGITORIAL/EW」となった。
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'''Edian'''('''エディアン''')は、[[NECネクサソリューションズ]]から販売されていた業務用[[DTP]]システムのシリーズ名である。
2020年に同社の製品「SUPER DIGITORIAL」シリーズに統合されて「'''[[SUPER DIGITORIAL]]/EW'''」となった。
== 概要 ==
多ページ数の書籍や、[[数式]]を含む[[学習参考書]]などの複雑な[[組版]]にまで幅広く対応していた。
商品カタログなどに対しては、[[データベース]]と連動した[[バッチ処理]]により高速に自動組版を行うことができた。
[[クライアントサーバモデル]]を基本とし、分散作業による効率化を実現しているがPC1台での[[スタンドアローン]]運用も可能。ハードウェアも含めた[[Microsoft Windows|Windows]]ベースのシステムであり、アプリケーションソフト単体での販売は行われてなかった。
本システムは[[2018年]]まで[[キヤノンITソリューションズ]](2003年に[[キヤノンマーケティングジャパン|キヤノン販売]]に企業買収される前は住友金属システムソリューションズ)から販売されていたが、2019年1月1日にNECネクサソリューションズに事業譲渡された<ref name="nexs20190116">{{Cite web|和書|url=https://www.nec-nexs.com/news/press/2019/0116.html |title=プレスリリース2019年 組版ソフト「EdianWing」をキヤノンITソリューションズより事業譲受 |author= |format= |date=2019年1月16日 |work= |publisher=NECネクサソリューションズ |accessdate=2019年1月28日}}</ref>。システム名は、住友金属システムソリューションズから販売されていたときは'''[[住友金属工業|SMI]] EDIAN'''(エスエムアイ エディアン)という表記だったが、キヤノン販売による買収の際にSMIを外し、大文字表記ではなくなった。
NECネクサソリューションズは[[2020年]]に、同社の印刷ソリューション「[[SUPER DIGITORIAL]]」シリーズにEdianWingを統合し、「SUPER DIGITORIAL/EW」とした<ref>{{Cite web|和書|title=NECネクサソリューションズ、「SUPER DIGITORIAL/EW Ver12.5」を提供開始 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP601273_X01C20A2000000/ |publisher=日本経済新聞 |date=2020-12-07 |accessdate=2023-08-29}}</ref>。
本システムの開発はSMI EDIAN時代から[[管理工学研究所]]が担当していた。なお、SUPER DIGITORIALシリーズの開発も管理工学研究所が行っていた<ref name="k3_history">{{Cite web|和書|title=会社沿革 |url=https://www.kthree.co.jp/company/company04_history.html |publisher=管理工学研究所 |accessdate=2023-08-29}}</ref>。
== ファミリー ==
=== SMI EDIAN ===
[[1989年]]に登場した<ref name="k3_history" />最初のシステム。ハードウェアに[[UNIX]][[ワークステーション]]である[[NEWS (ソニー)|Sony NEWS]]を用いていた。(販売終了)
=== SMI EDIAN PLUS ===
機能強化とともにUNIXからWindowsに移行したシステム。[[1996年]]登場<ref name="k3_history" />。[[1999年]]、[[日本新聞協会]]から技術開発奨励賞を受賞<ref name="pressnet">{{Cite web|和書|url=https://www.pressnet.or.jp/about/commendation/gijutsu_kaihatsu/index.html |title=技術開発賞・技術開発奨励賞 |author= |format= |date= |work= |publisher=日本新聞協会 |accessdate=2019年4月24日}}</ref>。(販売終了)
=== EdianWing ===
[[PostScript]]対応の、最終版のシステム。
大量の書籍、雑誌、カタログなどの組版に強い。数式などの処理にも強く、学習参考書などの組版で実績があった。
=== EdianWing NPS ===
[[新聞]]組版のために機能強化されたシステム。NPSとはNews Paper Systemのこと。
たたみ流しなど、新聞独特の組み方が簡単に実現できる。[[Extensible Markup Language|XML]]を用いて、大量の文書の自動組版に対応。オプションで記事管理システムや、選挙組み、証券自動組み、スポーツ組みなどの機能が追加できた。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[DTP]]
*[[EDICOLOR]]
*[[SUPER DIGITORIAL]]
== 外部リンク ==
*[https://www.nec-nexs.com/sl/edianwing/ NECネクサソリューションズ](販売元)
*[http://www.kthree.co.jp/ 管理工学研究所](開発元)
[[Category:DTP|えていあん]]
[[Category:管理工学研究所|えていあん]]
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地下鉄博物館
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地下鉄博物館(ちかてつはくぶつかん 英:Tokyo Metro Museum)は、東京都江戸川区の東京メトロ東西線葛西駅の高架下にある、地下鉄を専門に扱った博物館である。東京地下鉄株式会社(東京メトロ)の関連公益法人である公益財団法人メトロ文化財団(旧・財団法人地下鉄互助会)が運営している。愛称は「ちかはく」。
地下鉄互助会による公益事業活動の一環として1983年(昭和58年)から地下鉄博物館の建設が検討され、1985年(昭和60年)2月に着工し、22億5,000万円の建設費を投入して1986年(昭和61年)7月12日に開館した。開館前に短期間であるが、千代田区神田須田町の交通博物館付近に資料展示施設を設置していたことがある。
阪神・淡路大震災後に日本各地の高架橋で行われた耐震補強工事が東西線地上区間においても施工されるのに伴い、2002年(平成14年)7月1日から翌2003年(平成15年)5月31日まで約1年間閉鎖され、この時に展示品を一新する工事を行い、同年6月1日にリニューアルオープンした。
館内の一部で銀座線開通時の上野駅ホームを再現している。地下鉄で実際に使用された車両の展示(銀座線旧車両、およびリニューアル後は丸ノ内線の一号車(300形)、さらに地下トンネル点検車等も追加された)のほか、地下鉄運転シミュレーター、鉄道模型レイアウトや模型の展示もあり、地下鉄クイズ、映画の上映(後述)なども行われている。
図書室もあり、専門図書館としての専門書や専門誌の他、鉄道関係の一般書や絵本なども少々置いている。『東京地下鉄道史』や各路線の建設史等、貴重書や非売品のため、他にはまずない資料もある。土・日・祝日のみ開放、資料帯出・コピーはできない。
入口は営団地下鉄および東京メトロで実際に使われていた自動改札機と同様のものを使用しており、自動券売機で入館券を購入し、改札機を通過して入館するシステムになっている。なお、入館券の回収はなく、記念に持ち帰ることができる。2011年の東日本大震災以降、節電対策として土・日・祝日に限り自動改札の使用を停止し、改札鋏を使用した有人改札を実施していたが、2020年以降は新型コロナウイルス感染症対策として終日自動改札に戻った。
また、併設されたホールでは「メトロコンサート」と題して、クラシック音楽を中心としたコンサートを多く開催するほか、鉄道映画や地下鉄建設に関する記録映画などの上映会を定期的に行っている。
地下鉄運転シミュレーターは、運転士候補生(動力車操縦者養成)研修に使用されているものと同一の機器を使用している。入館客に人気があるのは千代田線用で、6000系の実物大カットモデルを使用し、床下に揺動装置を組み込んで車両の揺れも再現されている(小学生以上限定)。他にカットモデルではない銀座線01系(実車は2017年3月10日に銀座線での営業運転を終了。2010年にリニューアルされる前は丸ノ内線で、車両は02系の扱いであった)や半蔵門線8000系(映像は有楽町線、実際に新木場CRでのB修工事入出場で市ヶ谷 - 新木場間を走行した経験がある)、東西線5000系(実車は2007年3月17日に東西線での営業運転を終了)のシミュレーターもあり、こちらは小学生未満も体験できる。2019年10月1日からは、東西線と有楽町線のシミュレーターに組み込む形で日比谷線と半蔵門線が追加で収録された。いずれも製作は三菱プレシジョンが担当している。
博物館内には地下鉄の父、早川徳次の胸像も展示されている。
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"text": "博物館内には地下鉄の父、早川徳次の胸像も展示されている。",
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地下鉄博物館は、東京都江戸川区の東京メトロ東西線葛西駅の高架下にある、地下鉄を専門に扱った博物館である。東京地下鉄株式会社(東京メトロ)の関連公益法人である公益財団法人メトロ文化財団(旧・財団法人地下鉄互助会)が運営している。愛称は「ちかはく」。
|
{{博物館
|名称=地下鉄博物館
|画像=[[画像:Chikatetsu_Museum.jpg|300px|地下鉄博物館外観(2005年4月)]]
{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=300}}
|愛称=ちかはく
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|map_caption = 地下鉄博物館の位置
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|専門分野=[[地下鉄]]
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|研究職員=
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|所在地=[[東京都]][[江戸川区]][[東葛西]]6丁目3番1号<br />[[東京地下鉄]][[東京メトロ東西線|東西線]][[葛西駅]]高架下
|URL = http://www.chikahaku.jp/
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = <!-- N -->
|経度度 = |経度分 = |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = <!-- E -->
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|公式サイト ={{URL|https://www.chikahaku.jp}}
}}
'''地下鉄博物館'''(ちかてつはくぶつかん 英:''Tokyo Metro Museum'')は、[[東京都]][[江戸川区]]の[[東京メトロ東西線]][[葛西駅]]の高架下にある、[[地下鉄]]を専門に扱った[[博物館]]である<ref name="RP759-1">[[#RP759|鉄道ピクトリアル759号]]、p.156。</ref>。[[東京地下鉄]]株式会社(東京メトロ)の関連[[公益法人]]である[[公益財団法人]][[メトロ文化財団]](旧・財団法人地下鉄互助会)が運営している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.metrocf.or.jp/about.html |title=メトロ文化財団について |publisher=メトロ文化財団 |accessdate=2014-11-30}}</ref>。愛称は「'''ちかはく'''」。
== 歴史 ==
地下鉄互助会による公益事業活動の一環として[[1983年]]([[昭和]]58年)から地下鉄博物館の建設が検討され、[[1985年]](昭和60年)2月に着工し<ref name="eidan109">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.109。</ref>、22億5,000万円の建設費を投入して[[1986年]](昭和61年)[[7月12日]]に開館した<ref name="eidan109" />。開館前に短期間であるが、[[千代田区]][[神田須田町]]の[[交通博物館]]付近に資料展示施設を設置していたことがある。
[[阪神・淡路大震災]]後に[[日本]]各地の[[高架橋]]で行われた耐震補強工事が東西線地上区間においても施工されるのに伴い、[[2002年]]([[平成]]14年)[[7月1日]]から翌[[2003年]](平成15年)[[5月31日]]まで約1年間閉鎖され、この時に展示品を一新する工事を行い、同年[[6月1日]]にリニューアルオープンした<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.627。</ref>。
== 保存車両 ==
[[Image:TRT-301-Tokyo-Metro-Museum.jpg|thumb|250px|営団300形電車301号車]]
[[Image:Eidan300_in.jpg|thumb|250px|営団300形電車301号車の車内]]
[[ファイル:Tkosoku100_1.jpg|thumb|200px|東京高速鉄道100形電車]]
[[ファイル:TRT-1001-Tokyo-Metro-Museum.jpg|thumb|240px|東京地下鉄道1000形電車]]
* [[東京高速鉄道100形電車]]129号(カットボディ)<ref name="RP759-3">[[#RP759|鉄道ピクトリアル759号]]、p.158。</ref>
* [[東京地下鉄道1000形電車]]1001号<ref name="RP759-2">[[#RP759|鉄道ピクトリアル759号]]、p.157。</ref> - 2017年に[[重要文化財]]指定。
* [[営団500形電車#300形|営団300形電車]]301号<ref name="RP759-2" />
* [[営団01系電車]] 01-129(カットボディ)
* [[モーターカー]](点検車)
== 館内展示 ==
館内の一部で[[東京メトロ銀座線|銀座線]]開通時の[[上野駅]][[プラットホーム|ホーム]]を再現している<ref name="RP759-2" />。地下鉄で実際に使用された車両の展示(銀座線旧車両、およびリニューアル後は[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の一号車([[営団500形電車#300形|300形]])<ref name="RP759-2" />、さらに地下トンネル点検車等も追加された)のほか、地下鉄運転[[シミュレーション|シミュレーター]]<ref name="RP759-3" />、[[鉄道模型]][[レイアウト (鉄道模型)|レイアウト]]や模型の展示もあり<ref name="RP759-4">[[#RP759|鉄道ピクトリアル759号]]、p.159。</ref>、地下鉄クイズ、映画の上映(後述)なども行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chikahaku.jp/contents/facilities/enjoy.html#hall |title=ホール|楽しむ|施設のご案内 |publisher=地下鉄博物館 |accessdate=2014-11-30}}</ref>。
[[図書館|図書室]]もあり、専門図書館としての専門書や専門誌の他、鉄道関係の一般書や絵本なども少々置いている<ref name="tosho">{{Cite web|和書|url=http://www.chikahaku.jp/contents/facilities/learn.html#tosho |title=図書室|学ぶ|施設のご案内 |publisher=地下鉄博物館 |accessdate=2014-11-30}}</ref>。『東京地下鉄道史』や各路線の建設史等、貴重書や非売品のため、他にはまずない資料もある。土・日・祝日のみ開放<ref name="tosho" />、資料帯出・コピーはできない。
入口は[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]および[[東京地下鉄|東京メトロ]]で実際に使われていた[[自動改札機]]と同様のもの<!--PASMO導入に伴い、現在では使用されなくなりました。-->を使用しており、[[自動券売機]]で[[入場券|入館券]]を購入し、改札機を通過して入館するシステムになっている<ref name="RP759-1" />。なお、入館券の回収はなく、記念に持ち帰ることができる<ref name="RP759-1" />。2011年の[[東日本大震災]]以降、節電対策として土・日・祝日に限り自動改札の使用を停止し、[[改札鋏]]を使用した有人改札を実施していたが、2020年以降は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策として終日自動改札に戻った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chikahaku.jp/contents/notification/before/20120425_setsuden-taisaku.html |title=2012年4月25日 節電対策実施のご案内|お知らせ |publisher=地下鉄博物館 |accessdate=2014-11-30}}</ref>。
また、併設された[[多目的ホール|ホール]]では「メトロコンサート」と題して、[[クラシック音楽]]を中心とした[[演奏会|コンサート]]を多く開催するほか、鉄道映画や地下鉄建設に関する記録映画などの上映会を定期的に行っている。
地下鉄運転シミュレーターは、[[運転士]]候補生([[動力車操縦者]]養成)研修に使用されているものと同一の機器を使用している。入館客に人気があるのは[[東京メトロ千代田線|千代田線]]用で、[[営団6000系電車|6000系]]の実物大カットモデルを使用し、床下に揺動装置を組み込んで車両の揺れも再現されている(小学生以上限定)<ref name="RP759-3" />。他にカットモデルではない[[東京メトロ銀座線|銀座線]][[営団01系電車|01系]](実車は[[2017年]][[3月10日]]に銀座線での営業運転を終了。2010年にリニューアルされる前は[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]で、車両は[[営団02系電車|02系]]の扱いであった<ref name="RP759-3" />)や[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]][[営団8000系電車|8000系]](映像は[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、実際に新木場CRでのB修工事入出場で市ヶ谷 - 新木場間を走行した経験がある)、[[東京メトロ東西線|東西線]][[営団5000系電車|5000系]](実車は[[2007年]][[3月17日]]に東西線での営業運転を終了)のシミュレーターもあり<ref name="RP759-3" />、こちらは小学生未満も体験できる。[[2019年]][[10月1日]]からは、東西線と有楽町線のシミュレーターに組み込む形で[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]と半蔵門線が追加で収録された。いずれも製作は[[三菱プレシジョン]]が担当している。
博物館内には地下鉄の父、[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]の[[胸像]]も展示されている。
== 案内 ==
; 開館時間: 10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
; 定休日: 月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日)、年末年始(12月30日 - 1月3日)
; 入館料: 大人220円、小児(満4歳以上中学生まで)100円。また障害者手帳を提示すると入場料が半額になる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[電気車研究会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』1986年10月号(通巻470号)財団法人地下鉄互助会 地下鉄博物館の開館
* {{Cite journal |和書 |author = 塩塚陽介 |title = リニューアルされた地下鉄博物館の展示を見る |date = 2005-03-10 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 55 |issue = 3 |pages = 156-159 |ref = RP759}}
* {{Cite book |和書 |title=[[帝都高速度交通営団]]史 |publisher=[[東京地下鉄]]株式会社 |date=2004-12 |ref=eidan}}
* {{Cite book |和書 |title=全国鉄道アミューズメント完全ガイド |publisher=[[講談社]] |date=2011-06-01 |isbn=9784062168335 |pages=72-75 }}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Metro Museum}}
* [[鉄道博物館 (さいたま市)]]
* [[電車とバスの博物館]]
* [[東武博物館]]
* [[京王れーるランド]]
== 外部リンク ==
* [https://www.chikahaku.jp/ 地下鉄博物館]
* {{Twitter|MetroMuseum|地下鉄博物館【公式】}}
* [https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄株式会社]
* [https://web.archive.org/web/20211202103823/https://www.chikahaku.jp/contents/event/special/ex2016/0712_30th-anniv/spex_page01.html 地下鉄博物館特別展「地下鉄博物館開館30周年記念展」](インターネットアーカイブ・2021年時点の版)
* {{Artscape|1195789_1900}}
* {{インターネットミュージアム|2399}}
{{日本の科学館}}
{{Normdaten}}
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[[Category:東京地下鉄]]
[[Category:日本の鉄道博物館]]
[[Category:日本の企業博物館]]
[[Category:東京都の登録博物館]]
[[Category:東京都区部の博物館]]
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[[Category:日本の教育機関 (20世紀設立)]]
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[[Category:江戸川区の教育]]
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ベータ粒子
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ベータ粒子(ベータりゅうし、β粒子、英: beta particle)は、放射線の一種で、その実体は電子または陽電子である。ベータ粒子の流れを、ベータ線(ベータせん、β線、英: beta ray)と呼ぶ(ベータ線、およびアルファ線はラザフォードが発見)。普通は単に「ベータ線」という場合は、核反応により放たれる負電荷を持ったいわゆる普通の電子の流れを指す(下記も参照されたい)。
原子核(中性子)がβ崩壊する際に高速で放出される電子、または陽電子のことをベータ粒子という。β崩壊で発生するベータ粒子は負の電荷を持った電子、β崩壊で発生するベータ粒子は正の電荷を持った陽電子である。なお、熱電子や光電効果により放出された電子、オージェ電子など、あるいは対生成によって発生する電子対、三対子生成により軌道電子殻から弾き出される電子などの、中性子のβ崩壊以外の原因で放出された電子はベータ粒子とは呼ばれない。また、クライストロンやベータトロン、リニアックなど加速器によって加速された高速な電子は電子線、特に指向性と密度の高い物は電子ビームと呼ばれる。
粒子としての性質は、電子または陽電子と全く同じフェルミ粒子であり、スピンや質量についてもそれに従う。β崩壊で発生した陽電子と遮蔽物の電子が対消滅した際には消滅放射線と呼ばれる 0.511 MeV の光子が2個発生する。
β崩壊後、高速で放出されるベータ粒子の流れをベータ線という。ベータ線は、アルファ線や中性子線などと同じ粒子放射線の一種で、アルファ線と同じ電離放射線である。放出されてエネルギーを失うまでの移動距離(飛程)は、β崩壊時に受け取ったエネルギーを使い切るまでであるが、同じ放射性物質から放出されるベータ粒子であっても、常に同じエネルギーを受け取るとは限らず、ほぼ全ての場合において広いエネルギーの幅(連続エネルギースペクトル)を持つ。そのためベータ粒子の飛程を表すときは、放出される最大のエネルギーを持つベータ粒子の飛程とする。また、β+線(陽電子)に於いては、低エネルギーの陽電子は直ちに周囲の電子と対消滅を起こすため観測されず、電荷の符号が逆のため、空気や放射線源中での相互作用もβ-線と異なる。そのため、β-線とβ+線は仮に最大エネルギーが同じであったとしても異なったスペクトル形状を示す。
ベータ粒子は電荷を持っているため、その移動過程で物質中の原子核や軌道電子と影響を及ぼしあう。ベータ粒子は電子そのものなので、電子と比べて非常に大きい質量を持つ原子核には影響をほとんど与えないが、ベータ粒子は原子核のクーロン場により大きな加速度を受け制動放射が発生する。
その一方、軌道電子には電離作用や励起作用を起こす。それによりベータ粒子もエネルギーを失うが、アルファ粒子の電離作用や励起作用と比べるとかなり小さく、一気にエネルギーを失うことはない。従って、アルファ粒子と比べてエネルギーを失うまでに長い距離を移動し広範囲に影響を及ぼす。下記の遮蔽対比図でアルファ粒子と比べて厚い板が必要なのはこのためである。
また、電離や励起を起こす際、斥力(電子)や引力(陽電子)の影響で運動の方向を曲げられるため、原子核や電子による影響でベータ粒子は直進できずに曲がりくねりながら進むことになる。
透過力は弱く、通常は数 mm のアルミ板や 1 cm 程度のプラスチック板で十分遮蔽できる。ただし、ベータ粒子が遮蔽物によって減速する際には制動放射によりX線が発生するため、その発生したX線についての遮蔽も必要となる。
遮蔽物に使われる物質の原子番号が大きくなるほど制動放射が強くなることから、ベータ線の遮蔽にはプラスティックなどの低原子番号の物質を使い、そこで発生したX線を鉛などの高原子番号の物質で遮蔽する、という二段構えの遮蔽を行う。
ベータ線放出核種は、ベータ線が有する強い電離作用や、ガンマ線やX線と比べると比較的飛程が短いことを利用して、がんの小線源治療に用いられている。小線源治療には放射性同位元素が容器内に密封されており、それを腫瘍組織内に直接刺入する(舌や前立腺など)または腫瘍近傍の腔内(食道や膣など)に挿入する密封小線源治療と、放射性同位元素そのものや放射性同位元素によって標識された薬剤を体内または直接腫瘍に投与する非密封小線源治療がある。
密封小線源治療で利用されるベータ線放出核種には、I、Cs、Ir、Auなどがある。 密封小線源治療においては使用する核種の比放射能や最大エネルギーの違いにより高線量率照射と低線量率照射の別が有り、低線量率線源は腫瘍内に一生涯または長期間留置されベータ線を照射し続けるが、高線量率線源では「RALS (Remote After-Loading System, ラルス)」 と呼ばれる装置を用いて、腫瘍に穿刺された配管を通し、短時間留置して照射を行う。
非密封小線源治療で用いられるベータ線放出核種標識薬剤には、「I-Bexxar(ベキサール)」、「Sr-Metastron (メタストロン)」、「Sm-Quadramet(クアドラメット)」、「Y-Zevalin(ゼヴァリン)」、「Lu-DOTA-TATE(ルタセラ)」などがある。なお、この内、甲状腺がんの治療に用いられるIはベータ線と同時にガンマ線も放射するため、どの程度の放射性ヨウ素が甲状腺に吸収されたかを定量的に評価することが可能になっている。
さらに2000年代以降にはベータ線よりも強い電離作用、より短い飛程を持つアルファ線を放射線治療に利用する事が模索されている。詳しくはアルファ線#医用放射性同位元素としてを参照せよ。
1898年、アーネスト・ラザフォードが、天然ウランから2種類の放射線が出ていることを発見し、それぞれアルファ粒子、ベータ線と名付けた。ベータ線の正体である電子は1897年に、陽電子は1932年にそれぞれ発見された。
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"text": "1898年、アーネスト・ラザフォードが、天然ウランから2種類の放射線が出ていることを発見し、それぞれアルファ粒子、ベータ線と名付けた。ベータ線の正体である電子は1897年に、陽電子は1932年にそれぞれ発見された。",
"title": "発見"
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ベータ粒子は、放射線の一種で、その実体は電子または陽電子である。ベータ粒子の流れを、ベータ線と呼ぶ(ベータ線、およびアルファ線はラザフォードが発見)。普通は単に「ベータ線」という場合は、核反応により放たれる負電荷を持ったいわゆる普通の電子の流れを指す(下記も参照されたい)。
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{{Infobox particle
| 背景色 =
| 名前 = ベータ粒子
| 画像 = [[File:Beta-minus Decay.svg]]
| 説明 = 中性子が[[ベータ崩壊|β崩壊]]する際に高速で放出される[[電子]]、または[[陽電子]]
| 型数 =
| 分類 =
| 組成 = [[素粒子]]
| 統計 = [[フェルミ粒子]]
| グループ = [[レプトン (素粒子)|レプトン]]
| 世代 = 第一世代
| 相互作用 = [[弱い相互作用]]<br />[[電磁相互作用]]<br />[[重力相互作用]]
| 粒子 =
| 反粒子 =
| ステータス =
| 理論化 =
| 発見 = [[アーネスト・ラザフォード]](1898年)
| 記号 =
| 質量 = {{val|9.1093837015|(28)|e=-31|ul=kg}}<ref>{{Cite web|url=https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?me|title=CODATA Value: electron mass|work=[[科学技術データ委員会|CODATA]]|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|date=20 May 2019|accessdate=2022-11-19}}</ref><br>{{Val|510.99895000|(15)|ul=keV/c2}}<ref>{{Cite web|url=https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mec2mev|title=CODATA Value: electron mass energy equivalent in MeV|work=CODATA|publisher=NIST|date=20 May 2019|accessdate=2022-11-19}}</ref><br>{{Val|5.48579909065|(16)|e=-4|ul=u}}<ref>{{Cite web|url=https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?meu|title=CODATA Value: electron mass in u|work=CODATA|publisher=NIST|date=20 May 2019|accessdate=2022-11-19}}</ref>
| 平均寿命 =
| 崩壊粒子 =
| 電荷 = ±[[素電荷|e]]<br />±{{val|1.602176634|e=-19|ul=C}}<ref>{{Cite web|url=https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?e|title=CODATA Value: elementary charge|work=CODATA|publisher=NIST|date=20 May 2019|accessdate=2022-11-19}}</ref>
| 荷電半径 =
| 電気双極子モーメント =
| 電気的分極率 =
| 磁気モーメント =
| 磁気的分極率 =
| 色荷 = 持たない
| スピン = {{frac|1|2}}
| スピン状態数 =
| レプトン数 =
| バリオン数 =0
| ストレンジネス =
| チャーム =
| ボトムネス =
| トップネス =
| アイソスピン =
| 弱アイソスピン =
| 弱アイソスピン_3 =
| 超電荷 =
| 弱超電荷 =
| カイラリティ =
| B-L =
| X荷 =
| パリティ =
| Gパリティ =
| Cパリティ =
| Rパリティ =
}}
'''ベータ粒子'''(ベータりゅうし、β粒子、{{lang-en-short|beta particle}})は、[[放射線]]の一種で、その実体は[[電子]]または[[陽電子]]である。ベータ粒子の流れを、'''ベータ線'''(ベータせん、β線、{{lang-en-short|beta ray}})と呼ぶ(ベータ線、およびアルファ線は[[アーネスト・ラザフォード|ラザフォード]]が発見)。普通は単に「ベータ線」という場合は、[[核反応]]により放たれる[[負電荷]]を持った[[電子|いわゆる普通の電子の流れ]]を指す(下記も参照されたい)。
== 概要 ==
[[Image:Betadecay.jpg|thumb|原子核が[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>崩壊]]してベータ粒子(電子)を放出している]]
原子核(中性子)が[[ベータ崩壊|β崩壊]]する際に高速で放出される[[電子]]、または[[陽電子]]のことをベータ粒子という。'''β<sup>-</sup>崩壊'''で発生するベータ粒子は負の電荷を持った電子、'''β<sup>+</sup>崩壊'''で発生するベータ粒子は正の電荷を持った陽電子である。なお、[[熱電子]]や[[光電効果]]により放出された[[光電子|電子]]、[[オージェ電子]]など、あるいは[[対生成]]によって発生する電子対、[[三対子生成]]により軌道電子殻から弾き出される電子などの、中性子のβ崩壊以外の原因で放出された電子はベータ粒子とは呼ばれない。また、[[クライストロン]]や[[ベータトロン]]、[[リニアック]]など[[加速器]]によって加速された高速な電子は[[電子線]]、特に指向性と密度の高い物は[[電子ビーム]]と呼ばれる。
[[素粒子|粒子]]としての性質は、電子または陽電子と全く同じ[[フェルミ粒子]]であり、スピンや質量についてもそれに従う。[[ベータ崩壊|β<sup>+</sup>崩壊]]で発生した陽電子と遮蔽物の電子が[[対消滅]]した際には[[消滅放射線]]と呼ばれる {{Val|0.511|ul=MeV}} の[[光子]]が2個発生する。
== 飛程 ==
[[Image:BetaRaysTrack.jpg|thumb|ベータ粒子が原子と作用して軌道が曲げられる様子]]
β崩壊後、高速で放出されるベータ粒子の流れをベータ線という。ベータ線は、[[アルファ粒子|アルファ線]]や[[中性子線]]などと同じ[[粒子放射線]]の一種で、アルファ線と同じ[[電離放射線]]である。放出されてエネルギーを失うまでの移動距離(飛程)は、β崩壊時に受け取ったエネルギーを使い切るまでであるが、同じ放射性物質から放出されるベータ粒子であっても、常に同じエネルギーを受け取るとは限らず、ほぼ全ての場合において広いエネルギーの幅(連続[[エネルギースペクトル]])を持つ。そのためベータ粒子の飛程を表すときは、放出される最大のエネルギーを持つベータ粒子の飛程とする。また、β+線(陽電子)に於いては、低エネルギーの陽電子は直ちに周囲の電子と対消滅を起こすため観測されず、電荷の符号が逆のため、空気や放射線源中での相互作用もβ-線と異なる。そのため、β-線とβ+線は仮に最大エネルギーが同じであったとしても異なったスペクトル形状を示す。
ベータ粒子は[[電荷]]を持っているため、その移動過程で物質中の[[原子核]]や[[軌道電子]]と影響を及ぼしあう。ベータ粒子は電子そのものなので、電子と比べて非常に大きい質量を持つ原子核には影響をほとんど与えないが、ベータ粒子は原子核の[[クーロン場]]により大きな[[加速度]]を受け[[制動放射]]が発生する。
その一方、軌道電子には[[電離|電離作用]]や[[励起|励起作用]]を起こす。それによりベータ粒子もエネルギーを失うが、アルファ粒子の電離作用や励起作用と比べるとかなり小さく、一気にエネルギーを失うことはない。従って、アルファ粒子と比べてエネルギーを失うまでに長い距離を移動し広範囲に影響を及ぼす。下記の遮蔽対比図でアルファ粒子と比べて厚い板が必要なのはこのためである。
また、電離や励起を起こす際、斥力(電子)や引力(陽電子)の影響で運動の方向を曲げられるため、原子核や電子による影響でベータ粒子は直進できずに曲がりくねりながら進むことになる。
== 遮蔽 ==
[[Image:Alfa_beta_gamma_radiation.svg|thumb|ヘリウム4の原子核である[[アルファ粒子]]は一枚の紙で遮蔽できる。[[ベータ線]]の実体である[[電子]]では 1 cm のプラスチック板で十分遮蔽できる。電磁波であるガンマ線では {{Val|10|ul=cm}} の鉛板が必要となる。]]
透過力は弱く、通常は数 [[ミリメートル|mm]] の[[アルミ]]板や {{Val|1|ul=cm}} 程度の[[プラスチック]]板で十分遮蔽できる。ただし、ベータ粒子が遮蔽物によって減速する際には[[制動放射]]により[[X線]]が発生するため、その発生したX線についての遮蔽も必要となる。
遮蔽物に使われる物質の[[原子番号]]が大きくなるほど制動放射が強くなることから、ベータ線の遮蔽にはプラスティックなどの低原子番号の物質を使い、そこで発生したX線を[[鉛]]などの高原子番号の物質で遮蔽する、という二段構えの遮蔽を行う。
== 医療での利用 ==
ベータ線放出核種は、ベータ線が有する強い電離作用や、ガンマ線やX線と比べると比較的飛程が短いことを利用して、がんの[[小線源治療]]に用いられている。小線源治療には放射性同位元素が容器内に密封されており、それを腫瘍組織内に直接刺入する([[舌癌|舌]]や[[前立腺癌|前立腺]]など)または腫瘍近傍の腔内([[食道がん|食道]]や[[子宮頸がん|膣]]など)に挿入する密封小線源治療と、放射性同位元素そのものや放射性同位元素によって標識された薬剤を体内または直接腫瘍に投与する[[RI内用療法|非密封小線源治療]]がある。
密封小線源治療で利用されるベータ線放出核種には、<sup>125</sup>[[ヨウ素|I]]、<sup>137</sup>[[セシウム|Cs]]、<sup>192</sup>[[イリジウム|Ir]]、<sup>198</sup>[[金|Au]]などがある。
密封小線源治療においては使用する核種の比放射能や最大エネルギーの違いにより高線量率照射と低線量率照射の別が有り、低線量率線源は腫瘍内に一生涯または長期間留置されベータ線を照射し続けるが、高線量率線源では「RALS (Remote After-Loading System, ラルス)」 と呼ばれる装置を用いて、腫瘍に穿刺された配管を通し、短時間留置して照射を行う。
非密封小線源治療で用いられるベータ線放出核種標識薬剤には、「<sup>131</sup>[[ヨウ素|I]]-Bexxar(ベキサール)<sup>®</sup>」、「<sup>89</sup>[[ストロンチウム|Sr]]-[[メタストロン|Metastron (メタストロン)]]<sup>®</sup>」、「<sup>153</sup>[[サマリウム|Sm]]-Quadramet(クアドラメット)<sup>®</sup>」、「<sup>90</sup>[[イットリウム|Y]]-[[イブリツモマブ チウキセタン|Zevalin(ゼヴァリン)]]<sup>®</sup>」、「<sup>177</sup>[[ルテチウム|Lu]]-[[ドータオクトレオテート|DOTA-TATE]](ルタセラ<sup>®</sup>)」などがある。なお、この内、甲状腺がんの治療に用いられる<sup>131</sup>[[ヨウ素|I]]はベータ線と同時にガンマ線も放射するため、どの程度の放射性ヨウ素が甲状腺に吸収されたかを定量的に評価することが可能になっている。
さらに2000年代以降にはベータ線よりも強い電離作用、より短い飛程を持つアルファ線を放射線治療に利用する事が模索されている。詳しくは[[アルファ線#医用放射性同位元素として]]を参照せよ。
== 発見 ==
[[1898年]]、[[アーネスト・ラザフォード]]が、天然[[ウラン]]から2種類の放射線が出ていることを発見し、それぞれ[[アルファ線|アルファ粒子]]、ベータ線と名付けた。ベータ線の正体である[[電子]]は[[1897年]]に、[[陽電子]]は[[1932年]]にそれぞれ発見された。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{No footnotes|section=1|date=2021年8月}}
*{{Cite book|和書|author=多田順一郎|title=わかりやすい放射線物理学|publisher=[[オーム社]]|date=1997-12-20|id={{全国書誌番号|98067127}}|ISBN=4-274-13123-8|ncid=BA34009167|oclc=675387874|asin=4274131238}}
*{{Cite book|和書|author=安斎育郎|authorlink=安斎育郎|title=放射線と放射能|publisher=[[ナツメ社]]|date=2007-02-14|id={{全国書誌番号|21185315}}|ISBN=978-4-8163-4255-4|ncid=BA80499168|oclc=675536796|asin=4816342559}}
==関連項目==
*アルファ線 → [[アルファ粒子]]
*[[ガンマ線]]
*[[放射線]]
{{放射線}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:へえたりゆうし}}
[[Category:放射線]]
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2023-06-28T09:47:50Z
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"Template:放射線",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B2%92%E5%AD%90
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福岡ドーム
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福岡ドーム(ふくおかドーム)は、福岡県福岡市中央区地行浜2丁目(シーサイドももち)にある、開閉式屋根を持つ多目的ドーム球場。プロ野球・パシフィック・リーグの福岡ソフトバンクホークスが専用球場(本拠地)として使用しており、日本野球機構(NPB)所属球団の本拠地球場の中で最も西に位置している。
建築面積は69,130m、最高所は83.96mと地上7階建てとなっており、立体駐車場を兼ねる広大な外周デッキを持つこともありドーム球場の建築面積では日本一。「第35回BCS賞」受賞。
2020年2月29日よりPayPayが命名権を取得しており、名称を「福岡PayPayドーム」(ふくおかペイペイドーム)としている。
1993年3月、福岡市中央区地行浜2丁目のアジア太平洋博覧会(よかトピア)会場(駐車場)跡地に、福岡ダイエーホークス(以下、“ホークス”と記述されている場合は全て球団の略称)の新本拠地として、多目的に利用できる円形球場として建造された。日本のドーム球場としては2番目に建造されており、最も南に所在する。フィールドが広く外野フェンスも高いことからかなり本塁打の出にくい球場とされていたが、2015年にホームランテラス設置に伴い、新たなフェンスが追加されたことでフェアグラウンド面積が縮小され、現在はリーグ平均より少し出やすい球場となっている。
建造後から現在まで数回所有企業が変わっている。
※施設概要を参照
大きさは公認野球規則2.01の規定を満たす両翼100m、中堅122mとなっている。建造時の左右中間はパ・リーグ公式HPによれば118mであり、両翼と中堅が同じような数値となっている他の球場よりもやや深い。ただしドーム全体が真円形であった場合の数値に近い115.8mという説、116mとするものもある。2015年のホームランテラス設置後の左右中間は約110mと日本プロ野球の本拠地としては最も短く、直線的な外野フェンスを持つ東京ドームに酷似したフェアグラウンド形状となっている。
日本にある球場としてはファウルグラウンドが標準的な広さとなっていたが、フィールドシートの設置以後は外野部分が非常に狭くなっている。フィールドシートのフェンスが低いため、一塁手や三塁手の後方で跳ねたフライがスタンドに入るエンタイトルツーベースが増えるようになった。
フィールド面には開場から、ショートパイル人工芝の大塚ターフテック社製グランドターフ(2003年に一度張替え)が敷かれていたが、2009年よりフィールドターフ・ターケット社製ロングパイル人工芝「フィールドターフOSI」を導入。2017年には新ロングパイル人工芝「フィールドターフHD」に張り替えた。
内野下段にある可動席が外野席の前にスライドしてくるシステムのため、元来の外野フェンスが非常に高く5.84mとなっていた。2008年には、ラバーをメジャーリーグベースボール(MLB)の各球場などで採用されている、衝撃吸収性に優れた柔らかいソフトラバーフェンスに張り替えている(本塁後方のフェンスも含む)。更にオフシーズンに、2009年からホークス監督となった秋山幸二の「球場内のイメージを明るくしたい」という要望により、外野フェンス上半分がバックスクリーン直下を除いて明るい緑色に塗り直された(一塁側ダッグアウトの天井も空色に塗り替えられている)。しかし、オープン戦でその色合いが不評であったため、公式戦開幕直前に下から上に明るくなっていくグラデーションに塗り替えられた。また最上部に関しては、審判団より「明るい色では本塁打の判定に支障が出る」と指摘されたため、元のダークグリーンに塗り直している。2015年追加の新規フェンスは高さ4.2m(ラバー2.7m、ネット1.5m)で、従来のフェンスは撤去されないが色は戻される。
毎年行われている「鷹の祭典」では、広告の文字の色がユニフォームと同じ色に変更される。
2022年シーズン、グラウンドの両翼に設置されているファウルポールのネーミングライツ契約を福岡の食品加工会社マルタイと締結。同社の主力製品である棒ラーメンにちなんで「マルタイ棒ラーメンポール」と命名された。ホークス主催の公式戦においてホークスの選手がポールに打球を当てた場合、マルタイから棒ラーメン1年分が贈呈される。ファウルポールに対するネーミングライツ契約は日本初とされる。
スタンドは1960年代から1970年代にアメリカで流行し、日本では横浜スタジアムで採用されたフットボール兼用式のものとなっている。フットボールの開催時には内野下段可動席が外野側にスライドし(移動部分の人工芝は撤去)、平行に向き合う角度まで移動する。外野フェンス上部にある扉(両翼に5つずつ)やバックネット裏スタンド両脇にある柵はその時に使用されるものである。ただし実際に使用されたことは少なく、また2009年より採用されたロングパイル人工芝は撤去・再敷設に手間がかかるため、横浜スタジアムと同様に事実上廃止となった可能性もある。なお2008年に増設されたフィールドシートエリアの取り外しは可能となっている。
座席はフィールドシートエリアを除き内野席・外野席とも緑色である。内野席には跳ね上げ式の背もたれとカップホルダーがあるが、外野席には背もたれがない。2006年オフ、内野バックネット裏下段席にテンピュールのクッションが備え付けられ、2011年オフには内野バックネット裏の座席を「プレミアムシート」として座席を座・背クッションがついたものに取替えている。プレミアムシート両脇には仕切りが設けられ独立したエリアとなっている。
スコアボードの下にも座席が設けてあり、野球開催時以外に使用される。野球開催時には下段側を黒系の幕で覆って事実上のバックスクリーンの代用としている。1993年の開場当初のオープン戦では上段の部分だけ観客に開放していたが、バックスクリーンとしての機能が低下するという意見があり上段も全面立ち入り禁止となった。2010年6月12日・13日の対巨人戦ではチケット販売における不手際があり、これに対処するためにバックスクリーンの両側340席を急遽設定した。なおバックスクリーン中央部にはホークスのホームラン時に出現する巨大ハリーホークの装置が置かれている。
他の都心部の球場で制限されている「午後10時以降の鳴り物応援禁止」は行われておらず、試合終了が22時を過ぎても花火、ルーフオープンショー(内野席上の屋根からのキャノン砲を使った紙テープ祝福も)は行われている。ジェット風船飛ばしは国内にある密閉型ドームの中で唯一開場時から認められている(京セラドーム大阪・札幌ドームは途中からの解禁、ナゴヤドームはジェット風船デーでの試合日に限り解禁)。ただし2009年のシーズンの大半は新型インフルエンザ感染拡大・2020年のシーズンはCOVID-19感染拡大を防ぐため、他球場同様に観客へ自粛のお願いが出された。ただ、2023年から福岡ペイペイドームで専用ポンプを使ったジェット風船が使用することを許された。
場内コンコースとスタンドをつなぐ15番通路にはダイエーホークス在籍中に31歳で肺癌に倒れた藤井将雄の背番号15にちなみ、コンコース側出入り口上に藤井を記念するプレート2枚(成績と最後のメッセージ)が掲げられている。これは球団の親会社がダイエーからソフトバンクに変わった後も続いており、「藤井ゲート」と呼ばれている。なお当ドームにおけるゲートは、正確には場外から場内への入り口に当たる。
2005年オフに増設されたフィールドシートである。ネーミングライツ購入社はコカ・コーラウエストジャパン(現:コカ・コーラウエスト)である。
ホークス主催試合では価格が他球場の2倍近い料金に設定されており、最安値の席でもそれまで最高値のバックネット裏下段と同料金という高額なチケット料金が設定されている(上位クラスの座席では、座席一つあたりの占有面積が大きいことや革張りの座席を使用しているためである)。しかしフィールドシートはいずれの席種も座席数が少なく、チケット発売と同時に売切れてしまうことがほとんどである。
2006年オフには3人掛けソファシート「コカ・コーラソファシート」が設置された。
フィールドシート・エリアへの入り口はネットで仕切られており、チケットを持っていない人は入れないようになっている。打球が飛んでくると非常に危険であるために売り子は立ち入らない。また、観客にはヘルメットとグラブが無料で貸し出され、試合開始前のスコアボードなどにヘルメットの着用を促す表示がされるなど注意喚起がされている。
内野席の上部、4・5・6階にはフィールドを取り囲むように「スーパーボックス」という120室前後の特別観覧室を設けている。グラウンドに面したバルコニー付きの個室で、ホテルの一室のように落ちついた個室でプライバシーを保ちながら自由に野球観戦ができ、入場ゲートもスーパーボックス専用のゲートが用意されている。主に法人利用向けで基本的に年間契約、価格帯は年900 - 1,900万円となっている。2009年シーズンでは一般向けに限定発売もされた。コンサートなど、野球以外のイベントでは開放されない。開場当初は現在よりも多く設置されていたが、ウィングシート等の客席に転用されてその数を減らしている。
2008年オフにスーパーボックスの外野側(両翼ファウルポール周辺部)を改装して作られた特別席である。シスコシステムズが協賛し様々な試合の情報が表示される端末ディスプレイが設置された「シスコシート」、畳スペースもある「JA全農なごみシート」、団体向けの「JALスカイビューシート」、遊具などが設置された「ECCキッズパーク」などがある。こちらは一般向けチケットとして発売されている。7回裏までバイキング方式で料理・デザートとソフトドリンクが食べ飲み放題を売りとしている。全てネーミングライツが導入されているが、2009年はJALスカイビューシートには導入されておらず「グループシート」という名称だった。スカイビューシートは2013年に本多雄一とのJALのCA監修の元、人気インテリアショップであるアクタスとコンランショップとのコラボレーションにより、女性向けにリニューアルを実施した。
2015年より追加された外野フィールドシートエリア。一塁側は2017年までは全日空がスポンサーとなった「ANAホームランテラス」、2018年からは福岡トヨタ自動車がスポンサーとなって「福岡トヨタホームランテラス」と称し、全席カウンター席となっている。三塁側は山九がスポンサーで「SANKYUホームランテラス」と称し、テーブル席とデッキチェア席となっている。
ホームランテラスエリアもフィールドシート同様、取り外しは可能となっている。
2018年シーズンオフからのリニューアルの一環で、外野席後方のライト・レフト側両方にボックス型シート「やまやめんたいこBOX」が完成し2019年シーズンから稼動している。明太子を使用したオードブル等が提供されるほか、後方の明太子型オブジェは電光式となっており、各種アミューズメントでも光る仕組みとなっている。
スタンドの収容人員(野球開催時)は当初の公称値で48,000人とされたが、実際のところはそれよりも約13,000人分少ない35,157人(当時)しか収容できなかった。これに対し、ソフトバンクはホークスを買収した直後から増席を度々計画している。
メインスコアボードは2006年より大型映像装置・松下電器製アストロビジョンのLED全面フルカラーフリーボードとなっている。「ホークスビジョン」という愛称がつけられており、スコアは右側3分の1に表示される。2011年より、試合進行中は左側3分の1にホークス投手・打者の成績を顔写真入りで表示、残りの中央部は球場ロゴを最上段に表示する。
オープン時から2005年まではスコア表示と映像装置(当時の呼称もホークスビジョン)は別で、スコア表示はオレンジ色の単色表示。映像装置はソニー製のジャンボトロンであった。2005年オフにホークスビジョンとスコアボードを一体型とし、東京ドームと同等の1,024階調(10億7,000万色以上)かつ、国内球場設備唯一(当時)のハイビジョン(720P)対応で高精密な表現が可能なものに取り替えられた。これにより、新しいホークスビジョンは縦9.984 m×横52.992 mの国内球場で最大、ハイビジョン対応スクリーンでは世界最大(当時)となるビジョンとなり、同時にスタメン発表時などのアニメーションも豪華なものに更新された。ジャンボトロンはアビスパ福岡の本拠地である博多の森球技場に当時ビジョンがなかったため、同じ福岡が本拠地という縁もあってか売却されようとしたが、折り合いがつかず破談になった。テレビサイズに直すと2,123インチである。
スコア表示部分は改修後の2006年から2014年まで、チームロゴや広告以外はオレンジ色のみ使用で、2005年までと同じレイアウトとなっていた。なお、旧スコアボードでのチーム表記はアルファベット1文字または2文字で表していた(例:ホークス→H)。バックネット裏にあるサブスコアボードは現在もこのような表記がされている。2009年頃より審判の下のスペースに、投手の投球数が球速と交互に表示されるようになった。スコア表示は基本的に9回までだが、延長戦が行われた場合は全部を消去するのではなく、延長戦が開かれたイニング分だけ左にスライドしていく形になる(例えば延長10回の場合、1回のスコアだけ消去され、2 - 10回のスコアが表示される)。後述するホークスビジョン拡大後もアマチュアでの使用時には当初のレイアウトに近いものを使用している。
球団名の表示は「ホークス」「イーグルス」のような愛称名でなく、「ソフトバンク」「東北楽天」「埼玉西武」「日本ハム」「千葉ロッテ」「オリックス」と企業名である。
全面フリーボードのためレイアウトの変更は容易であり、2006年の日米野球と2007年11月22日・23日に行われた北京オリンピック野球日本代表とオーストラリア代表による壮行試合、2013年のワールド・ベースボール・クラシックでは、東京ドームで行われる日米野球のように、全てアルファベット表記・横書きのデザインで表示され、審判団はダイヤモンドの図の回りに表示された。この表示は2014年の福岡クラシック・福岡ソフトバンクホークス対埼玉西武ライオンズ戦の際に流用され、平和台野球場のスコアボードに近づけるために文字の色を白、選手・審判名を日本語表記、チーム名表記を西武が「L」、ホークスがダイエー時代のオレンジ色の「H」(Hawksのロゴの頭文字と同じデザイン)に変えている。
福岡クラシックで使用されたデザインは、スコア表示部分のチーム表記が各チームの帽子のロゴマーク(日本ハムとDeNAはホーム用)に、選手名表示部分のチーム名表記を企業名に変更した上で、翌年の2015年に通常の試合でも使用された。2016年公式戦からはカラー化(選手表記に各チームのチームカラー)され、2017年には選手名の右に打率・本塁打数・打点数が表示されるようになった。
2011年より、「鷹の祭典」では文字の色が特別ユニフォームの色に変更されている。秋山幸二監督から「暗くて見えにくい」という意見もあったが、「鷹の祭典」の間は続けられた。しかし、2013年に紫色にしたところ、文字が見えにくいという意見が多く集まったが、翌年以降も継続されている。
2010年シーズンからはホークスビジョンとは別に、レフト及びライトスタンド後方に大型映像装置を設置。それぞれ「レフトウイングビジョン」「ライトウイングビジョン」と命名され、既存の「ホークスビジョン」と合わせて「新ホークスビジョン」と総称される。サイズは縦5.7m、横33m。3ビジョンの合計面積は905.2mで、野球場としては世界一の規模となる。システム・ソリューションはソニーブロードバンドソリューションが担当している。映像表示装置自体の製造会社は未公表。
また同年より、ビジョンの左側にホークス攻撃時は打席に入っている選手の、守備時は投げている投手の画像と個人成績が表示されている。
2011年シーズンからはNPBの方針により、メイン・サブともにボールカウントがストライク(S) ボール(B) アウト(O)の『SBO』からボール(B) ストライク(S) アウト(O)の『BSO』表示に変更された。
2013年より、メインスコアボードとレフト・ライト両ウイングビジョンの中間にある大型広告スペースのフリーボード化改修工事が行われた。これによりレフト・ライト両ウイングビジョン間の5ビジョン合計面積が1,542.83 m(これはボーイング747が3機、横に並んだ時の端から端までの長さに匹敵する)となり、これまで世界最大だったアラブ首長国連邦のメイダン競馬場にある世界最大ビジョン(1,169.8 m)を上回るサイズとなった。
2015年シーズン途中より、ホークス選手の成績の左側に、相手チームの投手・打者の成績を顔写真入りで表示している部分が、打席に立つ選手の応援歌の歌詞が表示されるようにもなっている。
2016年シーズンより、バックネット裏のサブボードの上部に野球場としては国内初常設(コンサートなどでは多用されている)の吊り下げ式大型映像装置「スカイスクリーン」が設置された。縦6m、幅32.1m。3分割表示が可能で、試合中はホークス選手のスタッツなどを表示する。当初は同年5月6日からの運用を予定していたが、表示部電装装置の不具合により稼働日の延期が発表され、翌5月7日より稼働している。2018年にはスカイスクリーンをリニューアル。縦10.8m、幅43.5mと、約2.5倍大型化された。
2018年シーズンオフからのリニューアルの一環で、センターの大型ビジョン(ホークスビジョン)を更に大型化。ホークスビジョン右に設置されていた時計やボールカウントランプを撤去し5ビジョンを一繋ぎにする改修を行い、2019年シーズンより稼動した。5ビジョンの合計面積は1,923mと更に拡張し、世界一を謳っている。
バックネット裏にはサブスコアボードがあり、こちらはオレンジ色の単色表示、打席に立っている選手の打率・本塁打数が表示される。
スコアボードには、2018年まで大型のアナログ式の時計が存在したが、2019年の改修工事により撤去され、大型ビジョン上部にデジタル式の時計表示を行っている。同時期に、バックネット裏のサブスコアボード左側に存在したアナログ式の時計も撤去されており、時刻が分かりにくいとの意見が続出している。
福岡ドームには日本の野球場初の屋根開閉機構が備えられている。屋根は厚さ4メートルの3枚のパネルからなり、このうちの2枚が左右に120度旋回移動することにより約20分で全開閉する(全開時の開口率は60%)。屋根部分の総重量は約1万2000トン。一度の開閉にかかる費用は一部スポーツ紙で約100万円(屋根を開閉する電気代が20万円で、人件費など諸費用が80万円)と報じられたことがある。なお、開閉は通常試合前の練習(初期のみの実施)やホークスがホームゲームで勝利した後の「ルーフオープンショー」実施時などに限られている。
元々は天候に合わせて晴れの時は開いた状態で試合をすることを想定しており、当初は屋根が開いた状態での試合も行われたが、光の傾斜などが10月の日本シリーズ開催時期にベストの条件になるように設計されたため「(全ての屋根が開くわけではないため)構造上反射角の違いが選手のプレーに支障をきたす」と選手会からクレームが付いたことや、近くに病院(国立病院機構九州医療センターと福岡市立こども病院・感染症センター、感染症センターは2014年に移転)が存在すること、シーサイドももち周辺は高級住宅地となっていることなどから騒音問題があり、1999年6月19日(西武戦)を最後に開いた状態での試合はしばらく行われなかった。
かつて、KinKi Kidsがここでコンサートを行なう際「自分達でお金を払うから、演出の一環として公演中に屋根を開けて欲しい」という要望が行われたが、騒音問題を理由に実現しなかった。ホークス主催の少年野球トーナメントなどでは屋根が開いた状態での試合が行われている。
2008年9月10日の楽天戦で9年ぶりに屋根を開けて行なわれた。9月としては11年ぶりの5位転落や、連敗という悪い流れを断ち切ろうとしたもので、楽天球団や選手会、隣接する病院にも了解を得た上で行われた(この時は天候不良のため4回終了時点で閉じられた)。
2011年6月21日には、迷い込んだカラスを追い払うためだけに開閉が行われている。
2012年4月26日の対西武戦では「ルーフオープンデー」として屋根を全開して試合が開催された(この時は球場内の気温が下がったため20時をもって閉じられた)。これを皮切りに、毎年特定の1カード2〜3試合で「ルーフオープンデー」が実施されている。
2021年5月11日の対ロッテ戦では、「ルーフオープンデー」に備えて試合前から屋根を開けていたところ想定外に雨が降り込み、外野グラウンドや観客席も雨水で濡れたためスタッフが開門まで清掃作業に追われるというハプニングがあった。この関係で天候は回復したもののこの日は試合開始当初から屋根を閉じる状態で行い、開放は断念した。
なおルーフオープンデーが実施される日に以下の条件に当てはまる場合は、開催時間前、ないしは開催途中であっても屋根を閉じる場合がある。
テレビ中継で映るバックネットのフェンス広告は大型LEDで2016年から設置されており、常時6~8社の広告がLEDに表示されている。旧回転式広告、周辺のステッカー広告、旧LED広告を全て纏めたもので、打者交代毎に表示スポンサーを代えて運用している。2023年には、大関友久が先発登板した際に限り、関家具が小さい「大」を追加し、「大関家具」にする取り組みを行っている。
2015年までは下に回転式広告、上にLED仕様のプレートが設置されていた。回転式広告は2002年に設置されたもので複数社がスポンサーとなっている。それ以前から神宮球場・横浜スタジアム・ナゴヤドームにこの回転式広告はあったが、すべて1社のみの広告で、複数社による回転式広告は日本初。それまでローソンや三洋信販、アサヒビールの広告を縦に並べていたものが、現在では回転式によりイニング毎に出すことが出来るようになった。LEDプレート広告は2008年に設置されたもので、それまでは回転式広告上に広告盤を置き、1~3社分のステッカーやプレートを貼って運用していた。
2004年までは、かつてダイエー傘下であったコンビニエンスストアチェーンのローソンがバックネット広告のメインスポンサーであり、「がんばれ!ホークス LAWSON」という広告を出していた。当時の日本の球場で、このようなあからさまな応援広告が、テレビ中継でも必ず映るバックネットに存在したのは福岡ドームのみであった(この応援広告は、日本シリーズなどでも使用されている)。
2007年シーズン途中からは、人工芝を塗り分けることで外野グラウンドのレフト・ライトにセブン-イレブンの広告が掲示されている。また、バックネットフェンス前にはJリーグなどで使用されている錯覚広告が存在する。この錯覚広告は2006年に初めて掲示されたあと同年末で一旦取りやめとなったが、2008年シーズン途中より復活した。
建設当時は照明に主流のメタルハライドランプが使用されたが、2015年よりコイト電工社のLED照明に取り替えられている。
ドームの周りは遊歩道となっており、シーホークホテルと連絡するデッキには「暖手(だんて)の広場」と呼ばれる場所がある。ここには、文化・スポーツ・芸術・学術など各分野で活躍した著名人の立体手形を再現したブロンズ製のモニュメントが、それぞれのサインを記したプレートとともに展示されており、総勢200体以上と自由に“握手”ができるように展示されている。
ホークスの選手・監督の手形はドームが完成した1993年から追加され、選手では佐々木誠、村田勝喜、秋山幸二、渡辺秀一、小久保裕紀、監督では1994年オフに就任した監督の王貞治などが存在する。また、他チームではあるが、ドームで完全試合を達成した読売ジャイアンツの槙原寛己の手形もある。
2010年7月3日に福岡ソフトバンクホークス元監督で現球団会長の王貞治の偉業を称えて開館。入退場ゲートは7番ゲートの隣。一部エリアは客席となっている。
2018年シーズンオフからのリニューアル改修により、一時閉館された。2019年シーズンからは跡地は外野スタンド席に改修された。同ミュージアムは2020年に隣接するエンターテインメントビルBOSS E・ZO FUKUOKA(ボス イーゾ フクオカ)に移設された。
※グルメを参照
球場の弁当販売店は「鷹の弁当」という表記がされている。
ゲート内には、ホークスカフェ(ロイヤルの経営)、モスバーガー、ピエトロ、築地銀だこ、フレッシュネスバーガー、サブウェイ、ケンタッキーフライドチキンなどの店舗があるほか、7ゲート前には球界初となる支配下全選手のご当地グルメを取り扱う「スタジアム横丁」、8ゲート前には京都勝牛とからあげグランプリ手羽先部門において3度の最高金賞に輝いた「とめ手羽」、三塁側には「博多とりかわ竹乃屋」がある。また、通路に軽食のワゴンが並んでいる。
ドーム外周には居酒屋の「鷹正」、ケンタッキーフライドチキン、ピザクックがある。
2015年より、ドーム内や周辺の売店・飲食店での支払いにnimocaはじめ全国共通の交通系ICカード(PiTaPaを除く)やWAON・nanacoなどが使用できる。ただしカードにポイントはつかない。ドーム内でのチャージはできないので、入場前にバス車内や地下鉄の駅券売機やコンビニでチャージしておく必要がある。
ホークス主催試合での場内放送は、ホークスの選手をスターティングメンバー発表時と先発選手の第1打席、及び交代投手、選手の登場時にフルネーム、背番号、出身地(日本人は都道府県と市区町村、外国人は国。ただし、アメリカ人・カナダ人の場合は州までで、韓国・台湾出身の場合は出身国と出身都市)をコールする。これはダイエー時代、九州出身の選手を多く獲得しており、また九州全土のファン獲得を目指していたためで、親会社がソフトバンクに代わった現在でも続いている。
2014年シーズンからスタジアムDJ・藤澤翼(DJツバサ、2023年シーズンからはフラッシュ嶋田)が登場し、ホークス選手の紹介アナウンスを担当している。また、同年からスタメンや打席数、代打問わず選手をフルネームで呼ぶようになっている。
また、パ・リーグの週末の試合は夏を除きほとんどデーゲームで開催されているが、当ドームでのホークス主催試合は、夏を除き、土曜日も18時開始となっているケースがある(日曜日は13時開始のケースが多い)。2005年からは、巨人も春先や秋を中心に週末はデーゲームで開催されるケースが増えてきたことから、この時期の他球場の試合はヤクルトなどを除いて、ほとんどがデーゲームで開催されるため、当ドームだけがナイトゲームとなるケースもある。
2000年シーズンでホークスはリーグで優勝し日本シリーズへ戦いを進めるも、その日程にこのドームを日本脳外科学会に貸し出す予定を組んでいたため(契約は3年前に締結)、シリーズ日程の一部変更を余儀なくされるなど運営の失態を露呈し、球団には日程確保義務違反として3,000万円の制裁金が科された。この際ダイエーは準本拠地の北九州市民球場や長崎ビッグNスタジアムでの開催も想定したものの、学会側の厚意により4日間使用予定だったのが3日間(最終日は午前中まで)に短縮されたため、日程を変更して執り行われた。
公式戦や交流戦などでホークスが勝利した場合はスポンサーの協賛で「ルーフオープンショー」が行われる。これはヒーローインタビュー終了後、球場内の照明を落とし、「ホークスビジョン」にホークス選手の映像を上映する。(1999年までは映像の上映はなく、ドームの上部にレーザーを投影するレーザーショーを実施していた。)その後「勝利の花火(天井からの仕掛け花火)」が上げられ、球団歌『いざゆけ若鷹軍団』を流しながら屋根を開ける。通常の勝利では2番まで、リーグ優勝か日本一を決めた試合では3番までが流される。
2008年までは、選手映像は前半の1分間は当該年度用の映像、後半の1分間は本日のハイライトを映していた。また、花火の前にレーザー光線でのイルミネーションが存在し、鷹のマークと"VICTORY"の文字がレーザーで表示されていた。
いざゆけ若鷹軍団の後は、セレモニーソング『勝利の空へ』を流すことが通例となっている。2004年まではクイーン(Queen)の「伝説のチャンピオン」(We Are the Champions)が流れていた。
悪天候の場合、屋根は開けられず、ドーム内にはその旨告知がある。
1993年から2008年までの長期間、勝利の花火時に流れていた音楽(ヤニーの"Standing in Motion"の一部分)はファンの間で人気が高く、ダイエー時代・ソフトバンク時代を問わず球団事務所に問い合わせが殺到し、福岡のホークス応援番組でも紹介され名物となっていた。しかし、2009年以降球団オリジナルのものになっている。同時期に球場に流れる多くの音楽がオリジナルのものと化したが、詳細理由は不明である。
なお、敗退後は早めに照明を落とし相手チームのヒーローインタビュー音声が流される。
地元福岡のイベントに合わせ、ホークス主催試合では「どんたくシリーズ」「山笠シリーズ」と銘打った連戦が行われる(この両シリーズは平和台球場での西鉄ライオンズ時代から行われている)。
その他、本拠地開幕シリーズやどんたくシリーズや山笠シリーズは「アサヒスーパードライスペシャル」として行われ、ドーム前の大階段には「アサヒ・スーパードライ」の広告が大々的に描かれていた。2010年より、アーティストを招いての試合前ミニライブを開催するなど、野球以外の楽しみも提供されている。渡辺美里、ヒルクライム、ナオト・インティライミ、杏子、キマグレン、Rake、植村花菜などが出演、年間7 - 8試合が開催されている。
2020年シーズンは新型コロナウイルス感染拡大の影響により、公式戦開始当初無観客試合がしばらく続いた。そこでスタンドを埋めるため、まずペッパー5体による応援をスタートさせた。その後「入団希望者」が相次ぎ、最終的に100体まで増えた。法人向けのペッパー1体が200万円かかるとされ、総勢で2億円の費用が掛かるとされる。
2021年シーズンも引き続き入場制限が敷かれていることもあり、ソフトバンクロボティクスとホークス球団の合同企画として、レフトスタンドの左中間付近に、ペッパー総勢100体を整えたロボット応援団のステージが設けられた。試合中は、球団公認のチアダンスチーム「ハニーズ」とのコラボレーションを含め様々な応援パフォーマンスを展開する。
当ドームで開催されたオールスターゲームは、1996年と2001年、2010年、2016年、2022年(いずれも第1戦)である。2001年から2010年まで9年間隔が空いたのは、2002年以降は年2試合制で固定されたことと、随時地方球場での開催試合が組み込まれるようになったためで、この間に2006年第2戦がホークス主管相当試合としてサンマリンスタジアム宮崎で開催されている(他に長崎ビッグNスタジアムで開催された2000年の第3戦、リブワーク藤崎台球場で開催された2018年の第2戦がホークス主管相当試合として行われている)。本拠地での開催間隔が空いた事例としては広島(1995年第2戦を広島市民球場(当時)で開催→2009年第2戦をマツダスタジアムで開催し、14年の間隔が空いている)に次ぐもの。なお、ホークスの前本拠地である平和台球場で最後に開催されたのは1990年である。
読売ジャイアンツは、1975年から始まった九州シリーズを、開場した1993年から公式戦で1 - 3試合程主催試合を行っていた。2005年からは交流戦の影響もあり、2007年までは毎年継続されたものの、2009年4月23日の東京ヤクルト戦を最後に開催されていない。オープン戦では2002年から2009年までホークスを対戦相手に毎年1試合のジャイアンツ主催試合を実施し、翌日にホークス主催で行われる試合と併せ2連戦という形で行っていた。ただし両日ともベンチは三塁側を使用している。なおオープン戦は1992年から2001年まで北九州市民球場で行われていた。
ヤクルトスワローズ(当時)は1979年から1988年まで行われた平和台球場での福岡シリーズを復活させる形で開場後から2001年まで公式戦で3試合の主催試合を行っていた。2002年以降は、福岡から瀬戸内海を挟んだ愛媛県松山市の松山坊っちゃんスタジアムに舞台を移して松山を準本拠地として主催試合を年間2 - 3試合行っている。
横浜ベイスターズ(当時)は、1988年のかつての本拠地・下関球場の移設オープンに併せて翌年1989年から復活した九州シリーズの舞台として2004年に公式戦主催試合を1試合のみ開催した(2004年4月17日 中日戦)。他に下関球場と併せて開催された球場は、熊本・藤崎台球場、佐賀・みどりの森県営野球場、山口・西京スタジアムなどである。2008年からは下関球場から北九州市民球場に場所を移して3年に1回のペースで行われる。なお、横浜の福岡市での主催試合は、洋松時代の1954年4月14日の中日ドラゴンズ戦以来。
1999年6月に、オリックス・ブルーウェーブ(当時)が梅雨時の雨天中止を避けるための措置として主催試合のホークス戦を行っている。詳細はこちらを参照。これは、営業優先との批判がオリックスファンから起こり、集客も普段のホークス主催の時よりも1万人程少なかったためこの年限りとなった。
2010年には、阪神タイガースが地元九州(長崎県佐世保市)出身でかつてホークスに在籍していた城島健司の入団から福岡でのファン拡大を狙ってオープン戦で1試合の主催試合を開催した(2010年3月20日 広島戦)。ただし、ホークスの開幕戦(日本ハム戦・札幌ドーム)と被り、多くのホークスファンが開幕戦のTV中継を優先したこと、城島の阪神移籍に対する反発などから観衆は7,394人と奮わなかったためこの年限りとなった。
2021年、埼玉西武ライオンズは同年行われる日本シリーズにおいて、同球団が進出かつ、第6・7戦までもつれ込んだ場合、本球場を使用する可能性があった。これは新型コロナウイルスや天候の影響による、レギュラーシーズン延長でクライマックスシリーズと日本シリーズの日程もそれぞれ1週間後ろ倒しになったため、既に同年11月27日と28日に『うたの☆プリンスさまっ♪』のライブイベントが西武の本拠地である埼玉県所沢市のメットライフドームで開催されることによる兼ね合いに加え、西武の前身である福岡野球(西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター)が福岡県を本拠地としていた歴史的経緯によるもので西武主催による日本シリーズが福岡県内で開催された場合、58年ぶりになる予定だった。
しかし、西武のクライマックスシリーズ進出の可能性が同年10月13日に完全消滅したことによって、西武主催の日本シリーズで本球場やメットライフドームを使用しないことが確定した。
2013年3月には『2013 WBC』第1ラウンドA組の試合が開催された。『第1回』・『第2回』大会の第1ラウンドは東京ドーム開催だったため、東京以外で初めて開催された。その直前には強化試合としてA組4チームとNPB球団(ソフトバンク・巨人)の対戦で計4試合が行われている。
2012年11月16日には侍ジャパンとキューバとの国際親善試合が開催された。
2020年8月3日、新型コロナウイルスの影響で中止された第102回全国高等学校野球選手権大会の福岡県大会に代わって実施された「がんばれ福岡2020高等学校野球大会」福岡地区大会の決勝戦が行われ、県立福岡高校が福岡大附属大濠高校を4-3で下して優勝した。
全国高等学校野球選手権大会の福岡県大会は2012年にも行われたほか、2018年にも開会式と北福岡大会・南福岡大会の開幕戦を行う予定があったが、梅雨前線に伴う大雨の影響により中止された。
当ドームは見本市やコンサート会場としての利用も考えて設計されている。屋内コンサート会場としては九州最大規模であり、通称「5大ドームツアー(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)」と呼ばれるコンサートツアー開催地の1つになっている。
一般利用も可能で草野球では25万円(税別)から利用できる。また「PayPay ドームツアー」(以前はバックステージツアーと称していた)でフィールドやブルペン、ダグアウトなどを見学する事も可能である。案内はドームガイドによって行われ、「ドーム内見学コース」「OB解説付練習見学コース」「学習コース」が選べる。
映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年公開)では、物語の進行にまつわる重要な舞台に設定されて登場。このドームの売りものである開閉式屋根が題材に取り上げられた(演出上、左右を反転している)。
フットボールではサッカーで浦和レッズが、オリンピア(パラグアイのクラブ)とのフレンドリーマッチを開催したことがある。
テレビ番組『はなまるマーケット』放送開始9周年(九州年)の2005年9月30日に、初めてのスタジオ外からの生放送として福岡ドームからの生中継を行った。
珍しい事例では2020年11月2日、直方市の大和青藍高等学校が新型コロナウイルスの感染拡大に伴い中止になった体育祭と文化祭の代替イベントを本ドームを借りた上で開催したことがある。
福岡ドームで行われるプロ野球公式戦では、看板等に打球を当てると賞品が進呈される。主なものは下記の通り。なお一部の賞はホークス主催試合のみ有効で、ほぼ毎試合、試合開始前に紹介されている。
以下の記述は、福岡ソフトバンクホークス公式サイトのアクセスマップ、西鉄グループ公式サイトの臨時バス情報に基づく。ただし、ダイヤ改正により系統番号が変更、廃止になっている場合は一部修正している。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "福岡ドーム(ふくおかドーム)は、福岡県福岡市中央区地行浜2丁目(シーサイドももち)にある、開閉式屋根を持つ多目的ドーム球場。プロ野球・パシフィック・リーグの福岡ソフトバンクホークスが専用球場(本拠地)として使用しており、日本野球機構(NPB)所属球団の本拠地球場の中で最も西に位置している。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "建築面積は69,130m、最高所は83.96mと地上7階建てとなっており、立体駐車場を兼ねる広大な外周デッキを持つこともありドーム球場の建築面積では日本一。「第35回BCS賞」受賞。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "2020年2月29日よりPayPayが命名権を取得しており、名称を「福岡PayPayドーム」(ふくおかペイペイドーム)としている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "1993年3月、福岡市中央区地行浜2丁目のアジア太平洋博覧会(よかトピア)会場(駐車場)跡地に、福岡ダイエーホークス(以下、“ホークス”と記述されている場合は全て球団の略称)の新本拠地として、多目的に利用できる円形球場として建造された。日本のドーム球場としては2番目に建造されており、最も南に所在する。フィールドが広く外野フェンスも高いことからかなり本塁打の出にくい球場とされていたが、2015年にホームランテラス設置に伴い、新たなフェンスが追加されたことでフェアグラウンド面積が縮小され、現在はリーグ平均より少し出やすい球場となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "建造後から現在まで数回所有企業が変わっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "※施設概要を参照",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "大きさは公認野球規則2.01の規定を満たす両翼100m、中堅122mとなっている。建造時の左右中間はパ・リーグ公式HPによれば118mであり、両翼と中堅が同じような数値となっている他の球場よりもやや深い。ただしドーム全体が真円形であった場合の数値に近い115.8mという説、116mとするものもある。2015年のホームランテラス設置後の左右中間は約110mと日本プロ野球の本拠地としては最も短く、直線的な外野フェンスを持つ東京ドームに酷似したフェアグラウンド形状となっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "日本にある球場としてはファウルグラウンドが標準的な広さとなっていたが、フィールドシートの設置以後は外野部分が非常に狭くなっている。フィールドシートのフェンスが低いため、一塁手や三塁手の後方で跳ねたフライがスタンドに入るエンタイトルツーベースが増えるようになった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "フィールド面には開場から、ショートパイル人工芝の大塚ターフテック社製グランドターフ(2003年に一度張替え)が敷かれていたが、2009年よりフィールドターフ・ターケット社製ロングパイル人工芝「フィールドターフOSI」を導入。2017年には新ロングパイル人工芝「フィールドターフHD」に張り替えた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "内野下段にある可動席が外野席の前にスライドしてくるシステムのため、元来の外野フェンスが非常に高く5.84mとなっていた。2008年には、ラバーをメジャーリーグベースボール(MLB)の各球場などで採用されている、衝撃吸収性に優れた柔らかいソフトラバーフェンスに張り替えている(本塁後方のフェンスも含む)。更にオフシーズンに、2009年からホークス監督となった秋山幸二の「球場内のイメージを明るくしたい」という要望により、外野フェンス上半分がバックスクリーン直下を除いて明るい緑色に塗り直された(一塁側ダッグアウトの天井も空色に塗り替えられている)。しかし、オープン戦でその色合いが不評であったため、公式戦開幕直前に下から上に明るくなっていくグラデーションに塗り替えられた。また最上部に関しては、審判団より「明るい色では本塁打の判定に支障が出る」と指摘されたため、元のダークグリーンに塗り直している。2015年追加の新規フェンスは高さ4.2m(ラバー2.7m、ネット1.5m)で、従来のフェンスは撤去されないが色は戻される。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "毎年行われている「鷹の祭典」では、広告の文字の色がユニフォームと同じ色に変更される。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2022年シーズン、グラウンドの両翼に設置されているファウルポールのネーミングライツ契約を福岡の食品加工会社マルタイと締結。同社の主力製品である棒ラーメンにちなんで「マルタイ棒ラーメンポール」と命名された。ホークス主催の公式戦においてホークスの選手がポールに打球を当てた場合、マルタイから棒ラーメン1年分が贈呈される。ファウルポールに対するネーミングライツ契約は日本初とされる。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "スタンドは1960年代から1970年代にアメリカで流行し、日本では横浜スタジアムで採用されたフットボール兼用式のものとなっている。フットボールの開催時には内野下段可動席が外野側にスライドし(移動部分の人工芝は撤去)、平行に向き合う角度まで移動する。外野フェンス上部にある扉(両翼に5つずつ)やバックネット裏スタンド両脇にある柵はその時に使用されるものである。ただし実際に使用されたことは少なく、また2009年より採用されたロングパイル人工芝は撤去・再敷設に手間がかかるため、横浜スタジアムと同様に事実上廃止となった可能性もある。なお2008年に増設されたフィールドシートエリアの取り外しは可能となっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "座席はフィールドシートエリアを除き内野席・外野席とも緑色である。内野席には跳ね上げ式の背もたれとカップホルダーがあるが、外野席には背もたれがない。2006年オフ、内野バックネット裏下段席にテンピュールのクッションが備え付けられ、2011年オフには内野バックネット裏の座席を「プレミアムシート」として座席を座・背クッションがついたものに取替えている。プレミアムシート両脇には仕切りが設けられ独立したエリアとなっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "スコアボードの下にも座席が設けてあり、野球開催時以外に使用される。野球開催時には下段側を黒系の幕で覆って事実上のバックスクリーンの代用としている。1993年の開場当初のオープン戦では上段の部分だけ観客に開放していたが、バックスクリーンとしての機能が低下するという意見があり上段も全面立ち入り禁止となった。2010年6月12日・13日の対巨人戦ではチケット販売における不手際があり、これに対処するためにバックスクリーンの両側340席を急遽設定した。なおバックスクリーン中央部にはホークスのホームラン時に出現する巨大ハリーホークの装置が置かれている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "他の都心部の球場で制限されている「午後10時以降の鳴り物応援禁止」は行われておらず、試合終了が22時を過ぎても花火、ルーフオープンショー(内野席上の屋根からのキャノン砲を使った紙テープ祝福も)は行われている。ジェット風船飛ばしは国内にある密閉型ドームの中で唯一開場時から認められている(京セラドーム大阪・札幌ドームは途中からの解禁、ナゴヤドームはジェット風船デーでの試合日に限り解禁)。ただし2009年のシーズンの大半は新型インフルエンザ感染拡大・2020年のシーズンはCOVID-19感染拡大を防ぐため、他球場同様に観客へ自粛のお願いが出された。ただ、2023年から福岡ペイペイドームで専用ポンプを使ったジェット風船が使用することを許された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "場内コンコースとスタンドをつなぐ15番通路にはダイエーホークス在籍中に31歳で肺癌に倒れた藤井将雄の背番号15にちなみ、コンコース側出入り口上に藤井を記念するプレート2枚(成績と最後のメッセージ)が掲げられている。これは球団の親会社がダイエーからソフトバンクに変わった後も続いており、「藤井ゲート」と呼ばれている。なお当ドームにおけるゲートは、正確には場外から場内への入り口に当たる。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2005年オフに増設されたフィールドシートである。ネーミングライツ購入社はコカ・コーラウエストジャパン(現:コカ・コーラウエスト)である。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ホークス主催試合では価格が他球場の2倍近い料金に設定されており、最安値の席でもそれまで最高値のバックネット裏下段と同料金という高額なチケット料金が設定されている(上位クラスの座席では、座席一つあたりの占有面積が大きいことや革張りの座席を使用しているためである)。しかしフィールドシートはいずれの席種も座席数が少なく、チケット発売と同時に売切れてしまうことがほとんどである。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2006年オフには3人掛けソファシート「コカ・コーラソファシート」が設置された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "フィールドシート・エリアへの入り口はネットで仕切られており、チケットを持っていない人は入れないようになっている。打球が飛んでくると非常に危険であるために売り子は立ち入らない。また、観客にはヘルメットとグラブが無料で貸し出され、試合開始前のスコアボードなどにヘルメットの着用を促す表示がされるなど注意喚起がされている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "内野席の上部、4・5・6階にはフィールドを取り囲むように「スーパーボックス」という120室前後の特別観覧室を設けている。グラウンドに面したバルコニー付きの個室で、ホテルの一室のように落ちついた個室でプライバシーを保ちながら自由に野球観戦ができ、入場ゲートもスーパーボックス専用のゲートが用意されている。主に法人利用向けで基本的に年間契約、価格帯は年900 - 1,900万円となっている。2009年シーズンでは一般向けに限定発売もされた。コンサートなど、野球以外のイベントでは開放されない。開場当初は現在よりも多く設置されていたが、ウィングシート等の客席に転用されてその数を減らしている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2008年オフにスーパーボックスの外野側(両翼ファウルポール周辺部)を改装して作られた特別席である。シスコシステムズが協賛し様々な試合の情報が表示される端末ディスプレイが設置された「シスコシート」、畳スペースもある「JA全農なごみシート」、団体向けの「JALスカイビューシート」、遊具などが設置された「ECCキッズパーク」などがある。こちらは一般向けチケットとして発売されている。7回裏までバイキング方式で料理・デザートとソフトドリンクが食べ飲み放題を売りとしている。全てネーミングライツが導入されているが、2009年はJALスカイビューシートには導入されておらず「グループシート」という名称だった。スカイビューシートは2013年に本多雄一とのJALのCA監修の元、人気インテリアショップであるアクタスとコンランショップとのコラボレーションにより、女性向けにリニューアルを実施した。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2015年より追加された外野フィールドシートエリア。一塁側は2017年までは全日空がスポンサーとなった「ANAホームランテラス」、2018年からは福岡トヨタ自動車がスポンサーとなって「福岡トヨタホームランテラス」と称し、全席カウンター席となっている。三塁側は山九がスポンサーで「SANKYUホームランテラス」と称し、テーブル席とデッキチェア席となっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ホームランテラスエリアもフィールドシート同様、取り外しは可能となっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2018年シーズンオフからのリニューアルの一環で、外野席後方のライト・レフト側両方にボックス型シート「やまやめんたいこBOX」が完成し2019年シーズンから稼動している。明太子を使用したオードブル等が提供されるほか、後方の明太子型オブジェは電光式となっており、各種アミューズメントでも光る仕組みとなっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "スタンドの収容人員(野球開催時)は当初の公称値で48,000人とされたが、実際のところはそれよりも約13,000人分少ない35,157人(当時)しか収容できなかった。これに対し、ソフトバンクはホークスを買収した直後から増席を度々計画している。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "メインスコアボードは2006年より大型映像装置・松下電器製アストロビジョンのLED全面フルカラーフリーボードとなっている。「ホークスビジョン」という愛称がつけられており、スコアは右側3分の1に表示される。2011年より、試合進行中は左側3分の1にホークス投手・打者の成績を顔写真入りで表示、残りの中央部は球場ロゴを最上段に表示する。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "オープン時から2005年まではスコア表示と映像装置(当時の呼称もホークスビジョン)は別で、スコア表示はオレンジ色の単色表示。映像装置はソニー製のジャンボトロンであった。2005年オフにホークスビジョンとスコアボードを一体型とし、東京ドームと同等の1,024階調(10億7,000万色以上)かつ、国内球場設備唯一(当時)のハイビジョン(720P)対応で高精密な表現が可能なものに取り替えられた。これにより、新しいホークスビジョンは縦9.984 m×横52.992 mの国内球場で最大、ハイビジョン対応スクリーンでは世界最大(当時)となるビジョンとなり、同時にスタメン発表時などのアニメーションも豪華なものに更新された。ジャンボトロンはアビスパ福岡の本拠地である博多の森球技場に当時ビジョンがなかったため、同じ福岡が本拠地という縁もあってか売却されようとしたが、折り合いがつかず破談になった。テレビサイズに直すと2,123インチである。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "スコア表示部分は改修後の2006年から2014年まで、チームロゴや広告以外はオレンジ色のみ使用で、2005年までと同じレイアウトとなっていた。なお、旧スコアボードでのチーム表記はアルファベット1文字または2文字で表していた(例:ホークス→H)。バックネット裏にあるサブスコアボードは現在もこのような表記がされている。2009年頃より審判の下のスペースに、投手の投球数が球速と交互に表示されるようになった。スコア表示は基本的に9回までだが、延長戦が行われた場合は全部を消去するのではなく、延長戦が開かれたイニング分だけ左にスライドしていく形になる(例えば延長10回の場合、1回のスコアだけ消去され、2 - 10回のスコアが表示される)。後述するホークスビジョン拡大後もアマチュアでの使用時には当初のレイアウトに近いものを使用している。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "球団名の表示は「ホークス」「イーグルス」のような愛称名でなく、「ソフトバンク」「東北楽天」「埼玉西武」「日本ハム」「千葉ロッテ」「オリックス」と企業名である。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "全面フリーボードのためレイアウトの変更は容易であり、2006年の日米野球と2007年11月22日・23日に行われた北京オリンピック野球日本代表とオーストラリア代表による壮行試合、2013年のワールド・ベースボール・クラシックでは、東京ドームで行われる日米野球のように、全てアルファベット表記・横書きのデザインで表示され、審判団はダイヤモンドの図の回りに表示された。この表示は2014年の福岡クラシック・福岡ソフトバンクホークス対埼玉西武ライオンズ戦の際に流用され、平和台野球場のスコアボードに近づけるために文字の色を白、選手・審判名を日本語表記、チーム名表記を西武が「L」、ホークスがダイエー時代のオレンジ色の「H」(Hawksのロゴの頭文字と同じデザイン)に変えている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "福岡クラシックで使用されたデザインは、スコア表示部分のチーム表記が各チームの帽子のロゴマーク(日本ハムとDeNAはホーム用)に、選手名表示部分のチーム名表記を企業名に変更した上で、翌年の2015年に通常の試合でも使用された。2016年公式戦からはカラー化(選手表記に各チームのチームカラー)され、2017年には選手名の右に打率・本塁打数・打点数が表示されるようになった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2011年より、「鷹の祭典」では文字の色が特別ユニフォームの色に変更されている。秋山幸二監督から「暗くて見えにくい」という意見もあったが、「鷹の祭典」の間は続けられた。しかし、2013年に紫色にしたところ、文字が見えにくいという意見が多く集まったが、翌年以降も継続されている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2010年シーズンからはホークスビジョンとは別に、レフト及びライトスタンド後方に大型映像装置を設置。それぞれ「レフトウイングビジョン」「ライトウイングビジョン」と命名され、既存の「ホークスビジョン」と合わせて「新ホークスビジョン」と総称される。サイズは縦5.7m、横33m。3ビジョンの合計面積は905.2mで、野球場としては世界一の規模となる。システム・ソリューションはソニーブロードバンドソリューションが担当している。映像表示装置自体の製造会社は未公表。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また同年より、ビジョンの左側にホークス攻撃時は打席に入っている選手の、守備時は投げている投手の画像と個人成績が表示されている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2011年シーズンからはNPBの方針により、メイン・サブともにボールカウントがストライク(S) ボール(B) アウト(O)の『SBO』からボール(B) ストライク(S) アウト(O)の『BSO』表示に変更された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2013年より、メインスコアボードとレフト・ライト両ウイングビジョンの中間にある大型広告スペースのフリーボード化改修工事が行われた。これによりレフト・ライト両ウイングビジョン間の5ビジョン合計面積が1,542.83 m(これはボーイング747が3機、横に並んだ時の端から端までの長さに匹敵する)となり、これまで世界最大だったアラブ首長国連邦のメイダン競馬場にある世界最大ビジョン(1,169.8 m)を上回るサイズとなった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2015年シーズン途中より、ホークス選手の成績の左側に、相手チームの投手・打者の成績を顔写真入りで表示している部分が、打席に立つ選手の応援歌の歌詞が表示されるようにもなっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2016年シーズンより、バックネット裏のサブボードの上部に野球場としては国内初常設(コンサートなどでは多用されている)の吊り下げ式大型映像装置「スカイスクリーン」が設置された。縦6m、幅32.1m。3分割表示が可能で、試合中はホークス選手のスタッツなどを表示する。当初は同年5月6日からの運用を予定していたが、表示部電装装置の不具合により稼働日の延期が発表され、翌5月7日より稼働している。2018年にはスカイスクリーンをリニューアル。縦10.8m、幅43.5mと、約2.5倍大型化された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2018年シーズンオフからのリニューアルの一環で、センターの大型ビジョン(ホークスビジョン)を更に大型化。ホークスビジョン右に設置されていた時計やボールカウントランプを撤去し5ビジョンを一繋ぎにする改修を行い、2019年シーズンより稼動した。5ビジョンの合計面積は1,923mと更に拡張し、世界一を謳っている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "バックネット裏にはサブスコアボードがあり、こちらはオレンジ色の単色表示、打席に立っている選手の打率・本塁打数が表示される。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "スコアボードには、2018年まで大型のアナログ式の時計が存在したが、2019年の改修工事により撤去され、大型ビジョン上部にデジタル式の時計表示を行っている。同時期に、バックネット裏のサブスコアボード左側に存在したアナログ式の時計も撤去されており、時刻が分かりにくいとの意見が続出している。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "福岡ドームには日本の野球場初の屋根開閉機構が備えられている。屋根は厚さ4メートルの3枚のパネルからなり、このうちの2枚が左右に120度旋回移動することにより約20分で全開閉する(全開時の開口率は60%)。屋根部分の総重量は約1万2000トン。一度の開閉にかかる費用は一部スポーツ紙で約100万円(屋根を開閉する電気代が20万円で、人件費など諸費用が80万円)と報じられたことがある。なお、開閉は通常試合前の練習(初期のみの実施)やホークスがホームゲームで勝利した後の「ルーフオープンショー」実施時などに限られている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "元々は天候に合わせて晴れの時は開いた状態で試合をすることを想定しており、当初は屋根が開いた状態での試合も行われたが、光の傾斜などが10月の日本シリーズ開催時期にベストの条件になるように設計されたため「(全ての屋根が開くわけではないため)構造上反射角の違いが選手のプレーに支障をきたす」と選手会からクレームが付いたことや、近くに病院(国立病院機構九州医療センターと福岡市立こども病院・感染症センター、感染症センターは2014年に移転)が存在すること、シーサイドももち周辺は高級住宅地となっていることなどから騒音問題があり、1999年6月19日(西武戦)を最後に開いた状態での試合はしばらく行われなかった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "かつて、KinKi Kidsがここでコンサートを行なう際「自分達でお金を払うから、演出の一環として公演中に屋根を開けて欲しい」という要望が行われたが、騒音問題を理由に実現しなかった。ホークス主催の少年野球トーナメントなどでは屋根が開いた状態での試合が行われている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2008年9月10日の楽天戦で9年ぶりに屋根を開けて行なわれた。9月としては11年ぶりの5位転落や、連敗という悪い流れを断ち切ろうとしたもので、楽天球団や選手会、隣接する病院にも了解を得た上で行われた(この時は天候不良のため4回終了時点で閉じられた)。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2011年6月21日には、迷い込んだカラスを追い払うためだけに開閉が行われている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2012年4月26日の対西武戦では「ルーフオープンデー」として屋根を全開して試合が開催された(この時は球場内の気温が下がったため20時をもって閉じられた)。これを皮切りに、毎年特定の1カード2〜3試合で「ルーフオープンデー」が実施されている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2021年5月11日の対ロッテ戦では、「ルーフオープンデー」に備えて試合前から屋根を開けていたところ想定外に雨が降り込み、外野グラウンドや観客席も雨水で濡れたためスタッフが開門まで清掃作業に追われるというハプニングがあった。この関係で天候は回復したもののこの日は試合開始当初から屋根を閉じる状態で行い、開放は断念した。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "なおルーフオープンデーが実施される日に以下の条件に当てはまる場合は、開催時間前、ないしは開催途中であっても屋根を閉じる場合がある。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "テレビ中継で映るバックネットのフェンス広告は大型LEDで2016年から設置されており、常時6~8社の広告がLEDに表示されている。旧回転式広告、周辺のステッカー広告、旧LED広告を全て纏めたもので、打者交代毎に表示スポンサーを代えて運用している。2023年には、大関友久が先発登板した際に限り、関家具が小さい「大」を追加し、「大関家具」にする取り組みを行っている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2015年までは下に回転式広告、上にLED仕様のプレートが設置されていた。回転式広告は2002年に設置されたもので複数社がスポンサーとなっている。それ以前から神宮球場・横浜スタジアム・ナゴヤドームにこの回転式広告はあったが、すべて1社のみの広告で、複数社による回転式広告は日本初。それまでローソンや三洋信販、アサヒビールの広告を縦に並べていたものが、現在では回転式によりイニング毎に出すことが出来るようになった。LEDプレート広告は2008年に設置されたもので、それまでは回転式広告上に広告盤を置き、1~3社分のステッカーやプレートを貼って運用していた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2004年までは、かつてダイエー傘下であったコンビニエンスストアチェーンのローソンがバックネット広告のメインスポンサーであり、「がんばれ!ホークス LAWSON」という広告を出していた。当時の日本の球場で、このようなあからさまな応援広告が、テレビ中継でも必ず映るバックネットに存在したのは福岡ドームのみであった(この応援広告は、日本シリーズなどでも使用されている)。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2007年シーズン途中からは、人工芝を塗り分けることで外野グラウンドのレフト・ライトにセブン-イレブンの広告が掲示されている。また、バックネットフェンス前にはJリーグなどで使用されている錯覚広告が存在する。この錯覚広告は2006年に初めて掲示されたあと同年末で一旦取りやめとなったが、2008年シーズン途中より復活した。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "建設当時は照明に主流のメタルハライドランプが使用されたが、2015年よりコイト電工社のLED照明に取り替えられている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ドームの周りは遊歩道となっており、シーホークホテルと連絡するデッキには「暖手(だんて)の広場」と呼ばれる場所がある。ここには、文化・スポーツ・芸術・学術など各分野で活躍した著名人の立体手形を再現したブロンズ製のモニュメントが、それぞれのサインを記したプレートとともに展示されており、総勢200体以上と自由に“握手”ができるように展示されている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ホークスの選手・監督の手形はドームが完成した1993年から追加され、選手では佐々木誠、村田勝喜、秋山幸二、渡辺秀一、小久保裕紀、監督では1994年オフに就任した監督の王貞治などが存在する。また、他チームではあるが、ドームで完全試合を達成した読売ジャイアンツの槙原寛己の手形もある。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2010年7月3日に福岡ソフトバンクホークス元監督で現球団会長の王貞治の偉業を称えて開館。入退場ゲートは7番ゲートの隣。一部エリアは客席となっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2018年シーズンオフからのリニューアル改修により、一時閉館された。2019年シーズンからは跡地は外野スタンド席に改修された。同ミュージアムは2020年に隣接するエンターテインメントビルBOSS E・ZO FUKUOKA(ボス イーゾ フクオカ)に移設された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "※グルメを参照",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "球場の弁当販売店は「鷹の弁当」という表記がされている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ゲート内には、ホークスカフェ(ロイヤルの経営)、モスバーガー、ピエトロ、築地銀だこ、フレッシュネスバーガー、サブウェイ、ケンタッキーフライドチキンなどの店舗があるほか、7ゲート前には球界初となる支配下全選手のご当地グルメを取り扱う「スタジアム横丁」、8ゲート前には京都勝牛とからあげグランプリ手羽先部門において3度の最高金賞に輝いた「とめ手羽」、三塁側には「博多とりかわ竹乃屋」がある。また、通路に軽食のワゴンが並んでいる。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ドーム外周には居酒屋の「鷹正」、ケンタッキーフライドチキン、ピザクックがある。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2015年より、ドーム内や周辺の売店・飲食店での支払いにnimocaはじめ全国共通の交通系ICカード(PiTaPaを除く)やWAON・nanacoなどが使用できる。ただしカードにポイントはつかない。ドーム内でのチャージはできないので、入場前にバス車内や地下鉄の駅券売機やコンビニでチャージしておく必要がある。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ホークス主催試合での場内放送は、ホークスの選手をスターティングメンバー発表時と先発選手の第1打席、及び交代投手、選手の登場時にフルネーム、背番号、出身地(日本人は都道府県と市区町村、外国人は国。ただし、アメリカ人・カナダ人の場合は州までで、韓国・台湾出身の場合は出身国と出身都市)をコールする。これはダイエー時代、九州出身の選手を多く獲得しており、また九州全土のファン獲得を目指していたためで、親会社がソフトバンクに代わった現在でも続いている。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2014年シーズンからスタジアムDJ・藤澤翼(DJツバサ、2023年シーズンからはフラッシュ嶋田)が登場し、ホークス選手の紹介アナウンスを担当している。また、同年からスタメンや打席数、代打問わず選手をフルネームで呼ぶようになっている。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "また、パ・リーグの週末の試合は夏を除きほとんどデーゲームで開催されているが、当ドームでのホークス主催試合は、夏を除き、土曜日も18時開始となっているケースがある(日曜日は13時開始のケースが多い)。2005年からは、巨人も春先や秋を中心に週末はデーゲームで開催されるケースが増えてきたことから、この時期の他球場の試合はヤクルトなどを除いて、ほとんどがデーゲームで開催されるため、当ドームだけがナイトゲームとなるケースもある。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2000年シーズンでホークスはリーグで優勝し日本シリーズへ戦いを進めるも、その日程にこのドームを日本脳外科学会に貸し出す予定を組んでいたため(契約は3年前に締結)、シリーズ日程の一部変更を余儀なくされるなど運営の失態を露呈し、球団には日程確保義務違反として3,000万円の制裁金が科された。この際ダイエーは準本拠地の北九州市民球場や長崎ビッグNスタジアムでの開催も想定したものの、学会側の厚意により4日間使用予定だったのが3日間(最終日は午前中まで)に短縮されたため、日程を変更して執り行われた。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "公式戦や交流戦などでホークスが勝利した場合はスポンサーの協賛で「ルーフオープンショー」が行われる。これはヒーローインタビュー終了後、球場内の照明を落とし、「ホークスビジョン」にホークス選手の映像を上映する。(1999年までは映像の上映はなく、ドームの上部にレーザーを投影するレーザーショーを実施していた。)その後「勝利の花火(天井からの仕掛け花火)」が上げられ、球団歌『いざゆけ若鷹軍団』を流しながら屋根を開ける。通常の勝利では2番まで、リーグ優勝か日本一を決めた試合では3番までが流される。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2008年までは、選手映像は前半の1分間は当該年度用の映像、後半の1分間は本日のハイライトを映していた。また、花火の前にレーザー光線でのイルミネーションが存在し、鷹のマークと\"VICTORY\"の文字がレーザーで表示されていた。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "いざゆけ若鷹軍団の後は、セレモニーソング『勝利の空へ』を流すことが通例となっている。2004年まではクイーン(Queen)の「伝説のチャンピオン」(We Are the Champions)が流れていた。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "悪天候の場合、屋根は開けられず、ドーム内にはその旨告知がある。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1993年から2008年までの長期間、勝利の花火時に流れていた音楽(ヤニーの\"Standing in Motion\"の一部分)はファンの間で人気が高く、ダイエー時代・ソフトバンク時代を問わず球団事務所に問い合わせが殺到し、福岡のホークス応援番組でも紹介され名物となっていた。しかし、2009年以降球団オリジナルのものになっている。同時期に球場に流れる多くの音楽がオリジナルのものと化したが、詳細理由は不明である。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なお、敗退後は早めに照明を落とし相手チームのヒーローインタビュー音声が流される。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "地元福岡のイベントに合わせ、ホークス主催試合では「どんたくシリーズ」「山笠シリーズ」と銘打った連戦が行われる(この両シリーズは平和台球場での西鉄ライオンズ時代から行われている)。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "その他、本拠地開幕シリーズやどんたくシリーズや山笠シリーズは「アサヒスーパードライスペシャル」として行われ、ドーム前の大階段には「アサヒ・スーパードライ」の広告が大々的に描かれていた。2010年より、アーティストを招いての試合前ミニライブを開催するなど、野球以外の楽しみも提供されている。渡辺美里、ヒルクライム、ナオト・インティライミ、杏子、キマグレン、Rake、植村花菜などが出演、年間7 - 8試合が開催されている。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2020年シーズンは新型コロナウイルス感染拡大の影響により、公式戦開始当初無観客試合がしばらく続いた。そこでスタンドを埋めるため、まずペッパー5体による応援をスタートさせた。その後「入団希望者」が相次ぎ、最終的に100体まで増えた。法人向けのペッパー1体が200万円かかるとされ、総勢で2億円の費用が掛かるとされる。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2021年シーズンも引き続き入場制限が敷かれていることもあり、ソフトバンクロボティクスとホークス球団の合同企画として、レフトスタンドの左中間付近に、ペッパー総勢100体を整えたロボット応援団のステージが設けられた。試合中は、球団公認のチアダンスチーム「ハニーズ」とのコラボレーションを含め様々な応援パフォーマンスを展開する。",
"title": "ホークスによる利用"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "当ドームで開催されたオールスターゲームは、1996年と2001年、2010年、2016年、2022年(いずれも第1戦)である。2001年から2010年まで9年間隔が空いたのは、2002年以降は年2試合制で固定されたことと、随時地方球場での開催試合が組み込まれるようになったためで、この間に2006年第2戦がホークス主管相当試合としてサンマリンスタジアム宮崎で開催されている(他に長崎ビッグNスタジアムで開催された2000年の第3戦、リブワーク藤崎台球場で開催された2018年の第2戦がホークス主管相当試合として行われている)。本拠地での開催間隔が空いた事例としては広島(1995年第2戦を広島市民球場(当時)で開催→2009年第2戦をマツダスタジアムで開催し、14年の間隔が空いている)に次ぐもの。なお、ホークスの前本拠地である平和台球場で最後に開催されたのは1990年である。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "読売ジャイアンツは、1975年から始まった九州シリーズを、開場した1993年から公式戦で1 - 3試合程主催試合を行っていた。2005年からは交流戦の影響もあり、2007年までは毎年継続されたものの、2009年4月23日の東京ヤクルト戦を最後に開催されていない。オープン戦では2002年から2009年までホークスを対戦相手に毎年1試合のジャイアンツ主催試合を実施し、翌日にホークス主催で行われる試合と併せ2連戦という形で行っていた。ただし両日ともベンチは三塁側を使用している。なおオープン戦は1992年から2001年まで北九州市民球場で行われていた。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ヤクルトスワローズ(当時)は1979年から1988年まで行われた平和台球場での福岡シリーズを復活させる形で開場後から2001年まで公式戦で3試合の主催試合を行っていた。2002年以降は、福岡から瀬戸内海を挟んだ愛媛県松山市の松山坊っちゃんスタジアムに舞台を移して松山を準本拠地として主催試合を年間2 - 3試合行っている。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "横浜ベイスターズ(当時)は、1988年のかつての本拠地・下関球場の移設オープンに併せて翌年1989年から復活した九州シリーズの舞台として2004年に公式戦主催試合を1試合のみ開催した(2004年4月17日 中日戦)。他に下関球場と併せて開催された球場は、熊本・藤崎台球場、佐賀・みどりの森県営野球場、山口・西京スタジアムなどである。2008年からは下関球場から北九州市民球場に場所を移して3年に1回のペースで行われる。なお、横浜の福岡市での主催試合は、洋松時代の1954年4月14日の中日ドラゴンズ戦以来。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "1999年6月に、オリックス・ブルーウェーブ(当時)が梅雨時の雨天中止を避けるための措置として主催試合のホークス戦を行っている。詳細はこちらを参照。これは、営業優先との批判がオリックスファンから起こり、集客も普段のホークス主催の時よりも1万人程少なかったためこの年限りとなった。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2010年には、阪神タイガースが地元九州(長崎県佐世保市)出身でかつてホークスに在籍していた城島健司の入団から福岡でのファン拡大を狙ってオープン戦で1試合の主催試合を開催した(2010年3月20日 広島戦)。ただし、ホークスの開幕戦(日本ハム戦・札幌ドーム)と被り、多くのホークスファンが開幕戦のTV中継を優先したこと、城島の阪神移籍に対する反発などから観衆は7,394人と奮わなかったためこの年限りとなった。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2021年、埼玉西武ライオンズは同年行われる日本シリーズにおいて、同球団が進出かつ、第6・7戦までもつれ込んだ場合、本球場を使用する可能性があった。これは新型コロナウイルスや天候の影響による、レギュラーシーズン延長でクライマックスシリーズと日本シリーズの日程もそれぞれ1週間後ろ倒しになったため、既に同年11月27日と28日に『うたの☆プリンスさまっ♪』のライブイベントが西武の本拠地である埼玉県所沢市のメットライフドームで開催されることによる兼ね合いに加え、西武の前身である福岡野球(西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター)が福岡県を本拠地としていた歴史的経緯によるもので西武主催による日本シリーズが福岡県内で開催された場合、58年ぶりになる予定だった。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "しかし、西武のクライマックスシリーズ進出の可能性が同年10月13日に完全消滅したことによって、西武主催の日本シリーズで本球場やメットライフドームを使用しないことが確定した。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2013年3月には『2013 WBC』第1ラウンドA組の試合が開催された。『第1回』・『第2回』大会の第1ラウンドは東京ドーム開催だったため、東京以外で初めて開催された。その直前には強化試合としてA組4チームとNPB球団(ソフトバンク・巨人)の対戦で計4試合が行われている。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2012年11月16日には侍ジャパンとキューバとの国際親善試合が開催された。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2020年8月3日、新型コロナウイルスの影響で中止された第102回全国高等学校野球選手権大会の福岡県大会に代わって実施された「がんばれ福岡2020高等学校野球大会」福岡地区大会の決勝戦が行われ、県立福岡高校が福岡大附属大濠高校を4-3で下して優勝した。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "全国高等学校野球選手権大会の福岡県大会は2012年にも行われたほか、2018年にも開会式と北福岡大会・南福岡大会の開幕戦を行う予定があったが、梅雨前線に伴う大雨の影響により中止された。",
"title": "ホークス以外の利用"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "当ドームは見本市やコンサート会場としての利用も考えて設計されている。屋内コンサート会場としては九州最大規模であり、通称「5大ドームツアー(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)」と呼ばれるコンサートツアー開催地の1つになっている。",
"title": "コンサート・イベント・その他"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "一般利用も可能で草野球では25万円(税別)から利用できる。また「PayPay ドームツアー」(以前はバックステージツアーと称していた)でフィールドやブルペン、ダグアウトなどを見学する事も可能である。案内はドームガイドによって行われ、「ドーム内見学コース」「OB解説付練習見学コース」「学習コース」が選べる。",
"title": "コンサート・イベント・その他"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年公開)では、物語の進行にまつわる重要な舞台に設定されて登場。このドームの売りものである開閉式屋根が題材に取り上げられた(演出上、左右を反転している)。",
"title": "コンサート・イベント・その他"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "フットボールではサッカーで浦和レッズが、オリンピア(パラグアイのクラブ)とのフレンドリーマッチを開催したことがある。",
"title": "コンサート・イベント・その他"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "テレビ番組『はなまるマーケット』放送開始9周年(九州年)の2005年9月30日に、初めてのスタジオ外からの生放送として福岡ドームからの生中継を行った。",
"title": "コンサート・イベント・その他"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "珍しい事例では2020年11月2日、直方市の大和青藍高等学校が新型コロナウイルスの感染拡大に伴い中止になった体育祭と文化祭の代替イベントを本ドームを借りた上で開催したことがある。",
"title": "コンサート・イベント・その他"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "福岡ドームで行われるプロ野球公式戦では、看板等に打球を当てると賞品が進呈される。主なものは下記の通り。なお一部の賞はホークス主催試合のみ有効で、ほぼ毎試合、試合開始前に紹介されている。",
"title": "賞制度"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "以下の記述は、福岡ソフトバンクホークス公式サイトのアクセスマップ、西鉄グループ公式サイトの臨時バス情報に基づく。ただし、ダイヤ改正により系統番号が変更、廃止になっている場合は一部修正している。",
"title": "交通機関"
}
] |
福岡ドーム(ふくおかドーム)は、福岡県福岡市中央区地行浜2丁目(シーサイドももち)にある、開閉式屋根を持つ多目的ドーム球場。プロ野球・パシフィック・リーグの福岡ソフトバンクホークスが専用球場(本拠地)として使用しており、日本野球機構(NPB)所属球団の本拠地球場の中で最も西に位置している。 建築面積は69,130m2、最高所は83.96mと地上7階建てとなっており、立体駐車場を兼ねる広大な外周デッキを持つこともありドーム球場の建築面積では日本一。「第35回BCS賞」受賞。 2020年2月29日よりPayPayが命名権を取得しており、名称を「福岡PayPayドーム」(ふくおかペイペイドーム)としている。
|
<!--注意 この項目名は「福岡ドーム」です。命名権取得後の「福岡PayPayドーム(PayPayドーム)」に編集・移動しないで下さい。-->
{{Notice|年月日へのリンクはガイドラインに則り、過度な使用は避けてください。<br />「[[Wikipedia:記事どうしをつなぐ#リンクすべきでないもの]]」、「[[Wikipedia:素晴らしい記事を書くには]]」を参照|お願い}}
{{Pathnav|シーサイドももち|frame=1}}
{{野球場情報ボックス
| スタジアム名称 = 福岡ドーム<br />(福岡PayPayドーム)
| 愛称 =
| 画像 =[[File:Paypaydome.jpg|300px|福岡PayPayドーム]]
| 所在地 = [[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[シーサイドももち|地行浜]]2丁目2番2号
| 緯度度 = 33 | 緯度分 = 35 | 緯度秒 = 43.2 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 130 |経度分 = 21 | 経度秒 = 43.2 | E(東経)及びW(西経) = E
| pushpin_map = Fukuoka city
| 地図国コード = JP-40
| 起工 = 1991年4月1日<ref>松尾健次郎,宮川治雄,荒巻利男 ほか、「[https://doi.org/10.3151/coj1975.31.6_33 開閉式屋根をもつ大規模スタジアムの建設 福岡ドーム]」 コンクリート工学 1993年 31巻 6号 p.33-44. {{doi|10.3151/coj1975.31.6_33}}</ref>
| 開場 = 1993年4月2日 <ref>[http://www.worldofstadiums.com/asia/japan/fukuoka-yafuoku-dome/]</ref>
| 所有者 = 福岡ソフトバンクホークス株式会社
| グラウンド = ロングパイル[[人工芝]](フィールドターフHD)
| ダグアウト = ホーム - 一塁側<br />ビジター - 三塁側
| 照明 = 照明灯 - 528灯<br />照度 - バッテリー間:2,500ルクス、<br />内外野:2,000ルクス
| 建設費 = 760億円(総事業費)
| 設計者 = [[竹中工務店]]、[[前田建設工業]]<br />共同企業体
| 建設者 = 竹中工務店、前田建設工業<br />共同企業体
| 使用チーム、大会 = [[福岡ソフトバンクホークス]](開場 - 現在)
| 旧称 = 福岡 Yahoo! JAPANドーム(2005年 - 2013年1月31日)<br />福岡 ヤフオク!ドーム(2013年2月1日 - 2020年2月28日)
| 収容能力 = 40,062人<ref>{{Cite news2|title=2023年度 福岡PayPayドームの定員について|url=https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/202300232267.html|newspaper=公式サイト|date=2023-01-30|accessdate=2023-06-23|publisher=福岡ソフトバンクホークス}}</ref>
| 規模 = 両翼 - 100 m (約328.1 ft)<br />中堅 - 122 m (約400.3 ft)<br /> 左右中間 - 約110 m<ref name="縮小">[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/11596.html 2015年ヤフオクドームに、新しいシートが続々登場!]</ref><br />屋根の高さ - 68 m (約223.1 ft)
| フェンスの高さ = 4.2 m (約13.8 ft)
}}
'''福岡ドーム'''(ふくおかドーム)は、[[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]地行浜2丁目([[シーサイドももち]])にある、開閉式屋根を持つ多目的[[ドーム球場]]。[[日本野球機構|プロ野球]]・[[パシフィック・リーグ]]の[[福岡ソフトバンクホークス]]が[[専用球場]](本拠地)として使用しており、[[日本野球機構]](NPB)所属球団の本拠地球場の中で最も西に位置している。
建築面積は69,130m<sup>2</sup>、最高所は83.96mと地上7階建てとなっており、立体駐車場を兼ねる広大な外周デッキを持つこともありドーム球場の建築面積では日本一。「第35回BCS賞」受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkenren.com/kenchiku/bcs/detail.html?r=1994&ci=527 |title=BCS賞受賞作品 |work=[[BCS賞]] |publisher=一般社団法人 [[日本建設業連合会]] |accessdate=2014-09-04}}</ref>。
2020年2月29日より[[PayPay]]が[[命名権]]を取得しており、名称を「'''福岡PayPayドーム'''」(ふくおかペイペイドーム)としている<ref>{{Cite news |title=「ペイペイドーム」に名称変更…ソフトバンク本拠地 |url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/20191030-OYT1T50266/ |work=[[読売新聞|読売新聞オンライン]] |publisher=[[読売新聞社]] |date=2019-10-30 |accessdate=2019-10-30 }}</ref>。
== 概要 ==
[[File:Fukuoka Seaside Momochi Aerial Shoot.jpg|300px|thumb|福岡ドームとその周辺(東側より空撮)]]
[[ファイル:Fukuoka dome01.jpg|300px|thumb|福岡ドーム外観(南西方向より撮影)]]
[[ファイル:Fukuoka dome02.jpg|300px|thumb|福岡ドーム外観<br />(福岡 Yahoo! JAPANドーム時代)]]
1993年3月、福岡市中央区地行浜2丁目の[[アジア太平洋博覧会]](よかトピア)会場(駐車場)跡地に、福岡ダイエーホークス(以下、“ホークス”と記述されている場合は全て球団の略称)の新本拠地として、多目的に利用できる[[野球場#アメフト兼用球場(円形兼用球場)|円形球場]]として建造された。日本のドーム球場としては2番目に建造されており、最も南に所在する。フィールドが広く外野フェンスも高いことからかなり[[本塁打]]の出にくい球場とされていたが、2015年に[[#ホームランテラス|ホームランテラス]]設置に伴い、新たなフェンスが追加されたことでフェアグラウンド面積が縮小され、現在はリーグ平均より少し出やすい球場となっている<ref name="縮小"/>。
=== 所有企業の変遷 ===
建造後から現在まで数回所有企業が変わっている。
; ダイエー時代
: 初代所有企業はホークスの当時の親会社・[[ダイエー]]。建設も同社が行った(厳密な施設の所有企業は現[[ホークスタウン]]の前身である株式会社福岡ダイエー・リアル・エステート)。建設当初の構想では当時のダイエー会長・[[中内㓛]]の発案で、高層リゾートホテル(旧シーホークホテル&リゾート。後に[[JALホテルズ|JALリゾート]]シーホークホテル福岡を経て、現在は[[ヒルトン福岡シーホーク]])を間に挟み、当ドームと、同じスペック・形状のアミューズメントドーム(屋内型遊園地)を併設する“ツインドーム構想”が計画されていた。しかしダイエーの経営環境悪化から思うように進まず、結局アミューズメントドームの建設は見送りとなり、代わりに総合商業施設・ホークスタウンモールが完成。運営会社も社名を「株式会社ツインドームシティ」から「株式会社ホークスタウン」(現在の同名企業とは別会社)に変更した。
; 海外企業時代
: 2003年オフ、ダイエーが企業本体の経営悪化によりドーム、ホテル、モールを米国の投資会社[[コロニー・キャピタル]](コロニー福岡有限会社)に売却した(ホークスも2004年オフに[[ソフトバンク]]へ売却された)。2005年1月28日には50億円でダイエーより取得した球団株式譲渡と150億円で株式会社ホークスタウンより野球場等スポーツ施設の営業権譲渡契約と年間48億円(5年毎に金額見直し)の20年(球団に10年延長オプション)長期リース契約が 福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社と締結された。また、ソフトバンクの子会社でありポータルサイトYahoo! JAPANを運営する[[ヤフー (企業)|ヤフー]]が命名権を取得、新名称が「'''福岡 Yahoo! JAPANドーム'''」(ふくおか ヤフー!ジャパンドーム、通称「'''ヤフードーム'''」)となった。当時交わした契約期間は5年で契約金は25億円。契約金には球場の広告看板や[[冠スポンサー|冠協賛]]大会の開催なども含まれている。
: 2007年4月13日、コロニーキャピタルはホークスタウンをシンガポール政府系の投資会社「[[シンガポール政府投資公社]]リアルエステート」(GIC)に売却したことを発表した。ただし運営会社がそのままGICの傘下に入ったので、実際の設備や運営に変化はなかった。
; ソフトバンク時代
: 2012年3月24日、ソフトバンクはシンガポール政府投資公社より福岡ドームを約860億円で取得することで合意した。これにより、年間約50億円の賃借費用の負担がなくなり、球場の運営を迅速に行えるようになる<ref>{{Cite news|和書 |title=ヤフードーム:ソフトバンクが870億円で買収 |url=http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/news/20120324k0000e050189000c.html |newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=毎日新聞社 |date=2012-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120326154907/http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/news/20120324k0000e050189000c.html |archivedate=2012-03-26 |accessdate=2014-05-01}}</ref><ref group="注">なおヤフオクドームが厳密な意味でソフトバンクの所有物になった日時は2015年7月1日。</ref>。
: 2013年1月25日、同年2月1日よりドームの名称をYahoo! JAPANのサービスのひとつである[[Yahoo!オークション]](同年3月27日から2023年10月31日までは「ヤフオク!」に名称変更)に由来する「'''福岡 ヤフオク!ドーム'''」(通称「ヤフオクドーム」)と変更することを発表した<ref>{{Cite news |title=福岡 Yahoo! JAPANドーム、「福岡 ヤフオク!ドーム」に名称変更 |url=https://www.rbbtoday.com/article/2013/01/25/101843.html |newspaper=RBB TODAY |date=2013-01-25 |accessdate=2013-01-25}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=福岡 Yahoo! JAPANドームの名称を 「福岡 ヤフオク!ドーム(略称:ヤフオクドーム)」に変更 |publisher=福岡ソフトバンクホークス |date=2013-01-25 |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/9418.html |accessdate=2013-01-25}}</ref><ref name="ヤフオク">{{Cite web|和書|url=http://topic.auctions.yahoo.co.jp/promo/dome/p/ |title=ヤフオク! - 福岡Yahoo! Japanドーム名称変更のお知らせ |work=[[ヤフオク!]] |publisher=[[ヤフー (企業)|ヤフー]] |accessdate=2014-09-04}}</ref>。
: {{要出典範囲|2014年|date=2016年2月}}、球場名の英字表記がそれまでの「Fukuoka Yafuoku! DOME」から、「Fukuoka Ya'''h'''uoku! DOME」に変更された。
: 2015年7月1日汐留エステート株式会社が信託受益権を取得し、これを譲渡された福岡ソフトバンクホークス株式会社が名実ともに福岡ヤフオクドームの所有者となった。なおホークスタウンモールについては引き続きシンガポール政府投資公社が所有、信託受益権は[[三菱地所]]が保有している。
: 2019年11月1日、[[PayPay]]株式会社が命名権を取得し、2020年2月29日より名称を「'''福岡PayPayドーム'''」(通称「PayPayドーム」)と変更することを発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-1 |url=https://paypay.ne.jp/notice/20191101/02/ |title=「福岡PayPayドーム」について |publisher=PayPay |accessdate=2020-02-29}}</ref>。
: 2020年7月20日、ドーム横にエンターテイメントビル[[E・ZO FUKUOKA|BOSS E・ZO FUKUOKA]]を開業。
== 施設概要 ==
=== 施設データ ===
※施設概要を参照<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.softbankhawks.co.jp/stadium/institution.html |title=施設概要 |publisher=福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト |accessdate=2020-03-17}}</ref>
* 所在地:福岡県福岡市中央区地行浜2丁目2番2号
* オープン:1993年4月2日
* 収容人数:40,062人(プロ野球開催時)※うち車椅子席は総数65席。
** [[演奏会|コンサート]]開催時は52,500人、[[バックスクリーン]]部分を含んだ[[消防法]]上の実数定員は現在不明。
* 建築面積:70,000 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]
* 延床面積:176,000 m²
* 高さ:83.96 m(地上7階)
* 直径:212m(突出部除く)
* 屋根の開閉時間:20分
* 両翼:100 m、中堅:122 m、左右中間:110 m (2014年までは116 m)
* 外野フェンスの高さ:4.2 m (2014年までは5.84 m)
* グラウンド面積:1万3,500 m²([[フィールドシート]]・2015年の外野新規フェンス設置以前の数値)
* フィールド面からの高さ:68 m
* 内・外野ともロングパイル[[人工芝]]・「フィールドターフHD」
* メインスコアボード:[[発光ダイオード|LED]]全面フルカラーフリーボード(縦9.984 m×横52.992 m)
* 照明灯:668台(フィールド照明554台、空間照明90台、客席照明24台)<ref name="LED">[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/11516.html 福岡 ヤフオク!ドーム グラウンド照明の全面LED化について]</ref>
=== フィールド ===
大きさは[[公認野球規則]]2.01の規定を満たす両翼100m、中堅122mとなっている。建造時の左右中間はパ・リーグ公式HPによれば118mであり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.npb.or.jp/pl/pacific/stadium2014.html#hawks |title=パ・リーグ/球場 |publisher=パシフック野球連盟 |accessdate=2014-09-04}}</ref>、両翼と中堅が同じような数値となっている他の球場よりもやや深い。ただしドーム全体が真円形であった場合の数値に近い115.8mという説<ref>沢柳政義「最新野球場大事典」大空社、1999年4月発行</ref>、116mとするものもある<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://pr.yahoo.co.jp/release/2005/0225b.html |title=Yahoo! JAPAN が福岡ドームのネーミング・ライツ(命名権)を取得 |date=2005-02-25 |publisher=ヤフー |accessdate=2014-09-04}}</ref>。2015年のホームランテラス設置後の左右中間は約110m<ref>{{Cite web|和書|url=http://yakyujo.com/ha01/ |title=福岡ヤフオク!ドーム |publisher=yakyujo.com |accessdate=2016-07-13}}</ref>と日本プロ野球の本拠地としては最も短く、直線的な外野フェンスを持つ[[東京ドーム]]に酷似したフェアグラウンド形状となっている。
日本にある球場としてはファウルグラウンドが標準的な広さとなっていたが、フィールドシートの設置以後は外野部分が非常に狭くなっている。フィールドシートのフェンスが低いため、一塁手や三塁手の後方で跳ねたフライがスタンドに入るエンタイトルツーベースが増えるようになった。
フィールド面には開場から、ショートパイル人工芝の[[大塚ターフテック]]社製グランドターフ(2003年に一度張替え)が敷かれていたが、2009年よりフィールドターフ・ターケット社製ロングパイル[[人工芝]]「フィールドターフOSI」を導入。2017年には新ロングパイル人工芝「フィールドターフHD」に張り替えた。
==== 外野フェンス ====
内野下段にある可動席が外野席の前にスライドしてくるシステムのため、元来の外野フェンスが非常に高く5.84mとなっていた。2008年には、ラバーを[[メジャーリーグベースボール]](MLB)の各球場などで採用されている、衝撃吸収性に優れた柔らかいソフトラバーフェンスに張り替えている(本塁後方のフェンスも含む)。更にオフシーズンに、2009年からホークス監督となった[[秋山幸二]]の「球場内のイメージを明るくしたい」という要望により、外野フェンス上半分が[[バックスクリーン]]直下を除いて明るい緑色に塗り直された(一塁側ダッグアウトの天井も空色に塗り替えられている)。しかし、[[オープン戦]]でその色合いが不評であったため、公式戦開幕直前に下から上に明るくなっていく[[グラデーション]]に塗り替えられた。また最上部に関しては、審判団より「明るい色では本塁打の判定に支障が出る」と指摘されたため、元のダークグリーンに塗り直している。2015年追加の新規フェンスは高さ4.2m(ラバー2.7m、ネット1.5m)で、従来のフェンスは撤去されないが色は戻される<ref name="縮小"/>。
毎年行われている「[[福岡ソフトバンクホークス#鷹の祭典|鷹の祭典]]」では、広告の文字の色がユニフォームと同じ色に変更される。
==== ファウルポール ====
2022年シーズン、グラウンドの両翼に設置されているファウルポールの[[ネーミングライツ]]契約を福岡の食品加工会社[[マルタイ]]と締結<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=【ソフトバンク】日本初! ファウルポールとネーミングライツ 直撃で味のマルタイから棒ラーメン1年分贈呈 |url=https://hochi.news/articles/20220301-OHT1T51089.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-03-01 |accessdate=2022-03-01}}</ref>。同社の主力製品である[[棒ラーメン]]にちなんで「マルタイ棒ラーメンポール」と命名された<ref name=":1" />。ホークス主催の公式戦においてホークスの選手がポールに打球を当てた場合、マルタイから棒ラーメン1年分が贈呈される<ref name=":1" />。ファウルポールに対するネーミングライツ契約は日本初とされる<ref name=":1" />。
=== スタンド ===
[[ファイル:Baseball Game in Yahoo Fukuoka Dome.JPG|thumb|300px|ジェット風船を持ち応援する外野席のファン]]
[[ファイル:FUKUOKADOME HOMERUN1.JPG|thumb|300px|ホームラン時に出現するハリーホークのバルーン。同時に「HOMERUN」の文字が点滅する。鷹の祭典時のため文字の色が変更されている]]
スタンドは1960年代から1970年代にアメリカで流行し、日本では[[横浜スタジアム]]で採用されたフットボール兼用式のものとなっている。フットボールの開催時には内野下段可動席が外野側にスライドし(移動部分の人工芝は撤去)、平行に向き合う角度まで移動する。外野フェンス上部にある扉(両翼に5つずつ)やバックネット裏スタンド両脇にある柵はその時に使用されるものである。ただし実際に使用されたことは少なく、また2009年より採用されたロングパイル人工芝は撤去・再敷設に手間がかかるため、横浜スタジアムと同様に事実上廃止となった可能性もある。なお2008年に増設された[[#コカ・コーラシート|フィールドシート]]エリアの取り外しは可能となっている。
座席はフィールドシートエリアを除き内野席・外野席とも緑色である。内野席には跳ね上げ式の背もたれとカップホルダーがあるが、外野席には背もたれがない。2006年オフ、内野バックネット裏下段席にテンピュールのクッションが備え付けられ、2011年オフには内野バックネット裏の座席を「プレミアムシート」として座席を座・背クッションがついたものに取替えている。プレミアムシート両脇には仕切りが設けられ独立したエリアとなっている。
スコアボードの下にも座席が設けてあり、野球開催時以外に使用される。野球開催時には下段側を黒系の幕で覆って事実上の[[バックスクリーン]]の代用としている。1993年の開場当初の[[オープン戦]]では上段の部分だけ観客に開放していたが、バックスクリーンとしての機能が低下するという意見があり上段も全面立ち入り禁止となった。2010年6月12日・13日の対巨人戦ではチケット販売における不手際があり、これに対処するためにバックスクリーンの両側340席を急遽設定した。なおバックスクリーン中央部にはホークスのホームラン時に出現する巨大[[ホークファミリー|ハリーホーク]]の装置が置かれている。
他の都心部の球場で制限されている「午後10時以降の鳴り物応援禁止」は行われておらず、試合終了が22時を過ぎても花火、[[#ホークスによる利用|ルーフオープンショー]](内野席上の屋根からの[[キャノン砲]]を使った[[紙テープ]]祝福も)は行われている。[[ジェット風船]]飛ばしは国内にある密閉型ドームの中で唯一開場時から認められている([[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]・[[札幌ドーム]]は途中からの解禁、[[ナゴヤドーム]]はジェット風船デーでの試合日に限り解禁)。ただし2009年のシーズンの大半は新型インフルエンザ感染拡大・2020年のシーズンはCOVID-19感染拡大を防ぐため、他球場同様に観客へ自粛のお願いが出された。ただ、2023年から福岡ペイペイドームで専用ポンプを使ったジェット風船が使用することを許された。
[[ファイル:FujiiFujii-left.JPG|thumb|300px|藤井ゲートにある左側のプレート]]
場内コンコースとスタンドをつなぐ15番通路にはダイエーホークス在籍中に31歳で肺癌に倒れた[[藤井将雄]]の背番号15にちなみ、コンコース側出入り口上に藤井を記念するプレート2枚(成績と最後のメッセージ)が掲げられている。これは球団の親会社がダイエーからソフトバンクに変わった後も続いており、「藤井ゲート」と呼ばれている。なお当ドームにおけるゲートは、正確には場外から場内への入り口に当たる。
==== コカ・コーラシート ====
[[ファイル:Cocacola.jpg|300px|thumb|コカ・コーラシートの例 コカ・コーラファミリーシート]]
2005年オフに増設された[[フィールドシート]]である。ネーミングライツ購入社はコカ・コーラウエストジャパン(現:[[コカ・コーラウエスト]])である。
ホークス主催試合では価格が他球場の2倍近い料金に設定されており、最安値の席でもそれまで最高値のバックネット裏下段と同料金という高額なチケット料金が設定されている(上位クラスの座席では、座席一つあたりの占有面積が大きいことや革張りの座席を使用しているためである)。しかしフィールドシートはいずれの席種も座席数が少なく、チケット発売と同時に売切れてしまうことがほとんどである。
2006年オフには3人掛けソファシート「コカ・コーラソファシート」が設置された。
フィールドシート・エリアへの入り口はネットで仕切られており、チケットを持っていない人は入れないようになっている。打球が飛んでくると非常に危険であるために売り子は立ち入らない。また、観客にはヘルメットとグラブが無料で貸し出され、試合開始前のスコアボードなどにヘルメットの着用を促す表示がされるなど注意喚起がされている。
==== スーパーボックス ====
内野席の上部、4・5・6階にはフィールドを取り囲むように「スーパーボックス」という120室前後の特別観覧室を設けている。グラウンドに面したバルコニー付きの個室で、ホテルの一室のように落ちついた個室でプライバシーを保ちながら自由に野球観戦ができ、入場ゲートもスーパーボックス専用のゲートが用意されている。主に法人利用向けで基本的に年間契約、価格帯は年900 - 1,900万円となっている。2009年シーズンでは一般向けに限定発売もされた。コンサートなど、野球以外のイベントでは開放されない。開場当初は現在よりも多く設置されていたが、ウィングシート等の客席に転用されてその数を減らしている。
==== ビクトリーウイング ====
[[File:ヴィクトリウィングシートの様子.JPG|300px|thumb|ビクトリーウイングのシート]]
2008年オフにスーパーボックスの外野側(両翼ファウルポール周辺部)を改装して作られた特別席である。[[シスコシステムズ]]が協賛し様々な試合の情報が表示される端末ディスプレイが設置された「シスコシート」、畳スペースもある「[[全国農業協同組合連合会|JA全農]]なごみシート」、団体向けの「[[日本航空|JAL]]スカイビューシート」、遊具などが設置された「[[ECC総合教育機関|ECC]]キッズパーク」などがある。こちらは一般向けチケットとして発売されている。7回裏まで[[バイキング方式]]で料理・デザートとソフトドリンクが食べ飲み放題を売りとしている。全てネーミングライツが導入されているが、2009年はJALスカイビューシートには導入されておらず「グループシート」という名称だった。スカイビューシートは2013年に[[本多雄一]]とのJALのCA監修の元、人気インテリアショップである[[アクタス (家具・インテリア)|アクタス]]と[[テレンス・コンラン|コンランショップ]]とのコラボレーションにより、女性向けにリニューアルを実施した。
==== ビジターシート ====
{{main|ビジター応援席#福岡ソフトバンクホークス(福岡ヤフオク!ドーム・鷹の祭典の地方開催)}}
==== ホームランテラス ====
{{main|ラッキーゾーン}}
2015年より追加された外野フィールドシートエリア。一塁側は2017年までは[[全日本空輸|全日空]]がスポンサーとなった「ANAホームランテラス」、2018年からは福岡トヨタ自動車がスポンサーとなって「福岡トヨタホームランテラス」と称し、全席カウンター席となっている。三塁側は[[山九]]がスポンサーで「SANKYUホームランテラス」と称し、テーブル席とデッキチェア席となっている<ref name="縮小"/>。
ホームランテラスエリアもフィールドシート同様、取り外しは可能となっている。
==== やまやめんたいこBOX ====
2018年シーズンオフからのリニューアルの一環で、外野席後方のライト・レフト側両方にボックス型シート「[[やまやコミュニケーションズ|やまや]]めんたいこBOX」が完成し2019年シーズンから稼動している<ref>[https://www.yamaya.com/recruit/blog/detail.html?id=205 ヤフオクドームに新名所「やまや めんたいこBOX」誕生]</ref>。明太子を使用したオードブル等が提供されるほか、後方の明太子型オブジェは電光式となっており、各種アミューズメントでも光る仕組みとなっている。
==== 増席計画 ====
スタンドの収容人員(野球開催時)は当初の公称値で48,000人とされたが、実際のところはそれよりも約13,000人分少ない35,157人(当時)しか収容できなかった。これに対し、ソフトバンクはホークスを買収した直後から増席を度々計画している。
* 2005年にホークスの球団取締役に就任した[[小林至]]は、2005年2月に宮崎で行われたキャンプの席上で2006年度をメドに[[フィールドシート]]やVIPシートの建設を中心とした座席の増設計画を明らかにした。
** その内容は一塁側と三塁側のファウルゾーンを中心にそれぞれ200席分(計400席)のフィールドシートを設けるなど計1万席の増設を2006年度末工事完了予定で行うことであった。またこれに合わせてスタンド[[コンコース]]にミニバスケットボールコートやミニパットゴルフ場を建設することも目指すとしていた。
** この計画の一歩目として2005年オフに532席のフィールドシート(コカ・コーラシート)を設置。2月24日の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]壮行試合で初お目見えした。
** 2006年オフには、バックネット裏のSS指定席全席にテンピュールクッションを設置、バックネット裏上段の記者席の一部を観客席に改造したカウンターシートの設置、三塁側内野席上段の一部を定員5人のボックスタイプの席(ボックスファイブ)に改造、フィールドシートエリアに3人掛けソファシート(コカ・コーラソファシート)を増設する工事を行ったが、結局増席は少数に止まり収容人数は35,773人になった。
* 2007年オフにも2008年オフを目処に1万席規模の増席を検討していると報じられ、また2008年11月27日のホークス球団によるスポンサー感謝の集いで、笠井オーナー代行が6,000席の増席の意向を示したと報じられている。
** これはスーパーボックスの全面改装ではないかと言われていたが、結局2008年オフの改装はスーパーボックスの一部をビクトリーウイングに改装しただけで、収容人数は36,253人となる微増に止まった。
* 2010年シーズン途中には「王貞治ベースボールミュージアム」内ミュージアムシートの設置および全域の販売可能席数の見直しによって収容人数は36,723人になった。2011年度には、バックスクリーンの一部を観客席にするなどの見直しを行い、収容人数は37,025人になっている。
* 2012年のシーズンには、スーパーボックスの4階部分の一部を改修して内野席(立ち見含む)へ変更することなどにより、収容人員は38,561人に増加した。
* 2015年のシーズンには、外野フィールドシートが新たに設置されるものの、2012年に改装された部分がベンチシートに変更され逆に収容人員は38,500人へ減少した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/22/kiji/K20150122009674850.html ソフトB 本拠地ヤフオクDの収容人数が減少に]</ref>。
* 2018年シーズンオフ大規模リニューアルが行われており、「王貞治ベースボールミュージアム」を2020年に新設する予定のアミューズメントビル「[[E・ZO FUKUOKA]](イーゾ フクオカ)」に移転させる計画であることから、ベースボールミュージアム部分(旧:ザ・ビッグライフ)を外野席に改修。2019年シーズンより、収容人数が40,178人に増加した<ref>[https://www.sanspo.com/baseball/news/20190228/haw19022815070002-n1.html ソフトB本拠地、新ヤフオクドームお披露目 王会長「素晴らしい変化」]</ref>。
=== スコアボード ===
[[ファイル:Fukuokadome scoreboad.jpg|300px|thumb|ホークスビジョン]]
[[ファイル:Fukuoka dome 2011.JPG|300px|thumb|新ホークスビジョン設置後の外野スタンド全景(2010年から2012年)]]
[[ファイル:Fukuoka Dome Score Board 2014 1028.JPG|300px|thumb|5面構成のホークスビジョン(2013年以降)]]
[[ファイル:Softbankhawks20150509.jpeg|300px|thumb|タカガールデーで文字の色がピンクになっている]]
メインスコアボードは2006年より大型映像装置・[[パナソニック|松下電器]]製[[アストロビジョン]]のLED全面フルカラーフリーボードとなっている。「ホークスビジョン」という愛称がつけられており、スコアは右側3分の1に表示される。2011年より、試合進行中は左側3分の1にホークス投手・打者の成績を顔写真入りで表示、残りの中央部は球場ロゴを最上段に表示する。
オープン時から2005年まではスコア表示と映像装置(当時の呼称もホークスビジョン)は別で、スコア表示はオレンジ色の単色表示。映像装置は[[ソニー]]製の[[ジャンボトロン]]であった。2005年オフにホークスビジョンとスコアボードを一体型とし、[[東京ドーム]]と同等の1,024階調(10億7,000万色以上)かつ、国内球場設備唯一(当時)の[[ハイビジョン]](720P)対応で高精密な表現が可能なものに取り替えられた。これにより、新しいホークスビジョンは縦9.984 m×横52.992 mの国内球場で最大、ハイビジョン対応スクリーンでは世界最大(当時)となるビジョンとなり、同時にスタメン発表時などのアニメーションも豪華なものに更新された。ジャンボトロンは[[アビスパ福岡]]の本拠地である[[博多の森球技場]]に当時ビジョンがなかったため、同じ福岡が本拠地という縁もあってか売却されようとしたが、折り合いがつかず破談になった。テレビサイズに直すと2,123インチである。
スコア表示部分は改修後の2006年から2014年まで、チームロゴや広告以外はオレンジ色のみ使用で、2005年までと同じレイアウトとなっていた。なお、旧スコアボードでのチーム表記はアルファベット1文字または2文字で表していた(例:ホークス→H)。バックネット裏にあるサブスコアボードは現在もこのような表記がされている。2009年頃より審判の下のスペースに、投手の投球数が球速と交互に表示されるようになった。スコア表示は基本的に9回までだが、延長戦が行われた場合は全部を消去するのではなく、延長戦が開かれたイニング分だけ左にスライドしていく形になる(例えば延長10回の場合、1回のスコアだけ消去され、2 - 10回のスコアが表示される)。後述するホークスビジョン拡大後もアマチュアでの使用時には当初のレイアウトに近いものを使用している。
球団名の表示は「ホークス」「イーグルス」のような愛称名でなく、「ソフトバンク」「東北楽天」「埼玉西武」「日本ハム」「千葉ロッテ」「オリックス」と企業名である。
全面フリーボードのためレイアウトの変更は容易であり、2006年の日米野球と2007年11月22日・23日に行われた[[北京オリンピック野球日本代表]]とオーストラリア代表による壮行試合、2013年の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック]]では、東京ドームで行われる[[日米野球]]のように、全てアルファベット表記・横書きのデザインで表示され、審判団はダイヤモンドの図の回りに表示された。この表示は2014年の福岡クラシック・福岡ソフトバンクホークス対埼玉西武ライオンズ戦の際に流用され、[[平和台野球場]]のスコアボードに近づけるために文字の色を白、選手・審判名を日本語表記、チーム名表記を西武が「L」、ホークスがダイエー時代のオレンジ色の「H」(Hawksのロゴの頭文字と同じデザイン)に変えている。
福岡クラシックで使用されたデザインは、スコア表示部分のチーム表記が各チームの帽子のロゴマーク(日本ハムとDeNAはホーム用)に、選手名表示部分のチーム名表記を企業名に変更した上で、翌年の2015年に通常の試合でも使用された。2016年公式戦からはカラー化(選手表記に各チームのチームカラー)され、2017年には選手名の右に打率・本塁打数・打点数が表示されるようになった。
2011年より、「[[福岡ソフトバンクホークス#鷹の祭典|鷹の祭典]]」では文字の色が特別ユニフォームの色に変更されている。秋山幸二監督から「暗くて見えにくい」という意見もあったが、「鷹の祭典」の間は続けられた。しかし、2013年に紫色にしたところ、文字が見えにくいという意見が多く集まったが、翌年以降も継続されている。
2010年シーズンからはホークスビジョンとは別に、レフト及びライトスタンド後方に大型映像装置を設置。それぞれ「レフトウイングビジョン」「ライトウイングビジョン」と命名され、既存の「ホークスビジョン」と合わせて「新ホークスビジョン」と総称される。サイズは縦5.7m、横33m。3ビジョンの合計面積は905.2m<sup>2</sup>で、野球場としては世界一の規模となる<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/5066.html |title=新・ホークスビジョン 設置について |date=2010-02-25 |publisher=福岡ソフトバンクホークスマーケティング |accessdate=2014-09-03}}</ref>。システム・[[ソリューション]]は[[ソニーブロードバンドソリューション]]が担当している。映像表示装置自体の製造会社は未公表。
また同年より、ビジョンの左側にホークス攻撃時は打席に入っている選手の、守備時は投げている投手の画像と個人成績が表示されている。
2011年シーズンからはNPBの方針により、メイン・サブともに[[ボールカウント]]がストライク(S) ボール(B) アウト(O)の『SBO』からボール(B) ストライク(S) アウト(O)の『BSO』表示に変更された。
2013年より、メインスコアボードとレフト・ライト両ウイングビジョンの中間にある大型広告スペースのフリーボード化改修工事が行われた。これによりレフト・ライト両ウイングビジョン間の5ビジョン合計面積が1,542.83 m<sup>2</sup>(これは[[ボーイング747]]が3機、横に並んだ時の端から端までの長さに匹敵する)となり、これまで世界最大だった[[アラブ首長国連邦]]の[[メイダン競馬場]]にある世界最大ビジョン(1,169.8 m<sup>2</sup>)を上回るサイズとなった<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/9422.html |title=合計表示面積は世界最大級。超!迫力満点の映像演出にこうご期待! ホークスビジョンが5画面構成へ拡大 |date=2013-01-26 |publisher=福岡ソフトバンクホークスマーケティング |accessdate=2014-09-04}}</ref>。
2015年シーズン途中より、ホークス選手の成績の左側に、相手チームの投手・打者の成績を顔写真入りで表示している部分が、打席に立つ選手の応援歌の歌詞が表示されるようにもなっている。
2016年シーズンより、バックネット裏のサブボードの上部に野球場としては国内初常設(コンサートなどでは多用されている)の吊り下げ式大型映像装置「スカイスクリーン」が設置された。縦6m、幅32.1m。3分割表示が可能で、試合中はホークス選手のスタッツなどを表示する。当初は同年5月6日からの運用を予定していたが、表示部電装装置の不具合により稼働日の延期が発表され<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/05/06/kiji/K20160506012536210.html ヤフオクDのビジョン「スカイスクリーン」運用延期、部品の不具合] - スポーツニッポン、2016年5月6日</ref>、翌5月7日より稼働している。2018年にはスカイスクリーンをリニューアル。縦10.8m、幅43.5mと、約2.5倍大型化された<ref>[https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00000972.html 2018年 「ホークス球団創設80周年記念」企画の実施について]</ref>。
2018年シーズンオフからのリニューアルの一環で、センターの大型ビジョン(ホークスビジョン)を更に大型化。ホークスビジョン右に設置されていた時計やボールカウントランプを撤去し5ビジョンを一繋ぎにする改修を行い、2019年シーズンより稼動した。5ビジョンの合計面積は1,923m<sup>2</sup>と更に拡張し、世界一を謳っている<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019022800856&g=spo 大型ビジョンなどお披露目=大規模改修のヤフオクドーム-プロ野球]</ref>。
バックネット裏にはサブスコアボードがあり、こちらはオレンジ色の単色表示、打席に立っている選手の打率・本塁打数が表示される。
スコアボードには、2018年まで大型のアナログ式の時計が存在したが、2019年の改修工事により撤去され、大型ビジョン上部にデジタル式の時計表示を行っている。同時期に、バックネット裏のサブスコアボード左側に存在したアナログ式の時計も撤去されており、時刻が分かりにくいとの意見が続出している。
=== 開閉式屋根 ===
[[ファイル:FUKUOKA YAHOO JAPAN DOME ROOF OPEN.jpg|300px|thumb|デーゲームのループオープンショーの様子。奥にシーホークホテルが見える。]]
[[ファイル:Y!Dome-RoofOpen.JPG|300px|thumb|開閉式屋根を全開にした状態。2016年5月25日のルーフオープンデーにて。]]
福岡ドームには'''日本の野球場初の屋根開閉機構が備えられている'''<ref group="注">2023年現在、日本国内で開閉式屋根としているのは本球場と[[エスコンフィールドHOKKAIDO]](2023年開場)の2球場のみである。</ref>。屋根は厚さ4メートルの3枚のパネルからなり、このうちの2枚が左右に120度旋回移動することにより約20分で全開閉する(全開時の開口率は60%)。屋根部分の総重量は約1万2000トン。一度の開閉にかかる費用は一部スポーツ紙で約100万円(屋根を開閉する電気代が20万円で、人件費など諸費用が80万円)と報じられたことがある<ref>西日本スポーツ、2008年6月6日「異例のヤフD全開 屋外対策」</ref><ref>サンケイスポーツ、2008年9月11日「王ソフト、屋根開けたら白星キラリ!」</ref>。なお、開閉は通常試合前の練習(初期のみの実施)やホークスがホームゲームで勝利した後の「ルーフオープンショー」実施時などに限られている。
元々は天候に合わせて晴れの時は開いた状態で試合をすることを想定しており、当初は屋根が開いた状態での試合も行われたが、光の傾斜などが10月の日本シリーズ開催時期にベストの条件になるように設計されたため「(全ての屋根が開くわけではないため)構造上反射角の違いが選手のプレーに支障をきたす」と選手会からクレームが付いたことや、近くに病院([[国立病院機構九州医療センター]]と[[福岡市立こども病院・感染症センター]]、感染症センターは2014年に移転)が存在すること、シーサイドももち周辺は高級住宅地となっていることなどから騒音問題があり、1999年6月19日(西武戦)を最後に開いた状態での試合はしばらく行われなかった。
かつて、[[KinKi Kids]]がここでコンサートを行なう際「自分達でお金を払うから、演出の一環として公演中に屋根を開けて欲しい」という要望が行われたが、騒音問題を理由に実現しなかった。ホークス主催の少年野球トーナメントなどでは屋根が開いた状態での試合が行われている。
2008年9月10日の[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦で9年ぶりに屋根を開けて行なわれた。9月としては11年ぶりの5位転落や、連敗という悪い流れを断ち切ろうとしたもので、楽天球団や選手会、隣接する病院にも了解を得た上で行われた(この時は天候不良のため4回終了時点で閉じられた)。
2011年6月21日には、迷い込んだカラスを追い払うためだけに開閉が行われている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/22/kiji/K20110622001062890.html ヤフードームにカラス“侵入”…追い払い費用は100万円]</ref>。
2012年4月26日の対西武戦では「ルーフオープンデー」として屋根を全開して試合が開催された<ref name="spo">{{Cite news |title=今回も先発は新垣!26日、4年ぶりにヤフーDの屋根開放 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/24/kiji/K20120424003109170.html |work=[[スポーツニッポン]] |date=2012-04-24 |accessdate=2012-04-26}}</ref>(この時は球場内の気温が下がったため20時をもって閉じられた)。これを皮切りに、毎年特定の1カード2〜3試合で「ルーフオープンデー」が実施されている<ref>{{Cite news |title=5/24~26は開放感あふれるルーフオープンシリーズを実施! |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/13078.html |work=福岡ソフトバンクホークス公式サイト |date=2016-03-22 |accessdate=2016-05-25}}</ref><ref>{{Cite news |title=ドームの屋根を開けての試合!ルーフオープンシリーズを5/30~6/1で開催! |url=http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00000229.html |work=福岡ソフトバンクホークス公式サイト |date=2017-03-05 |accessdate=2017-05-14}}</ref>。
2021年5月11日の対ロッテ戦では、「ルーフオープンデー」に備えて試合前から屋根を開けていたところ想定外に雨が降り込み、外野グラウンドや観客席も雨水で濡れたためスタッフが開門まで清掃作業に追われるというハプニングがあった。この関係で天候は回復したもののこの日は試合開始当初から屋根を閉じる状態で行い、開放は断念した<ref>{{Cite news|和書 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202105110000742.html |title=屋根開けたペイペイドームに雨「ペッパー君軍団」濡れて応援できず |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2021-05-11 |accessdate=2021-05-11}}</ref>。
なおルーフオープンデーが実施される日に以下の条件に当てはまる場合は、開催時間前、ないしは開催途中であっても屋根を閉じる場合がある。
* 当日の試合開始前の風速8m以上である場合、または試合開始時間の段階での降水確率が30%以上である場合は試合開始時における屋根のオープンは行わない。
* 屋根は試合終了後の演出などの都合もあるため、一度8回裏の攻撃時から屋根を閉じる状態にするが、それ以前にも降雨・気温・強風などの理由によりやむを得ず早めに屋根を閉じる場合がある<ref>[https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00004277.html 5/11-12「ルーフオープンシリーズ」開催](2021年4月23日)</ref>。
=== 広告 ===
テレビ中継で映るバックネットのフェンス広告は大型LEDで2016年から設置されており、常時6~8社の広告がLEDに表示されている。旧回転式広告、周辺のステッカー広告、旧LED広告を全て纏めたもので、打者交代毎に表示スポンサーを代えて運用している。2023年には、[[大関友久]]が先発登板した際に限り、[[関家具]]が小さい「大」を追加し、「大関家具」にする取り組みを行っている。
2015年までは下に回転式広告、上にLED仕様のプレートが設置されていた。回転式広告は2002年に設置されたもので複数社がスポンサーとなっている。それ以前から[[明治神宮野球場|神宮球場]]・[[横浜スタジアム]]・[[ナゴヤドーム]]にこの回転式広告はあったが、すべて1社のみの広告で<ref group="注">神宮は[[ブリヂストン]](1983年~2013年オープン戦まで)→[[マルハン]](2013年シーズン)→[[ヤクルト本社]](2014年シーズンより)、横浜スタジアムは[[日産自動車]]([[1980年代]]前半~1991年)→[[リョービ]](1992年~1993年)→[[パロマ (企業)|パロマ]](1994年~2005年)、2006年からは[[ファンケル]]のLED式に更新。ナゴヤドームは開場以来[[トヨタ自動車]]。</ref><ref group="注">ただしその後、神宮に関しては2015年よりヤクルト本社と神宮記念館の複数社広告となっている。</ref>、複数社による回転式広告は日本初。それまで[[ローソン]]や[[三洋信販]]、[[アサヒビール]]の広告を縦に並べていたものが、現在では回転式によりイニング毎に出すことが出来るようになった。LEDプレート広告は2008年に設置されたもので、それまでは回転式広告上に広告盤を置き、1~3社分のステッカーやプレートを貼って運用していた。
2004年までは、かつてダイエー傘下であったコンビニエンスストアチェーンのローソンがバックネット広告のメインスポンサーであり、「がんばれ!ホークス LAWSON」という広告を出していた。当時の日本の球場で、このようなあからさまな応援広告が、テレビ中継でも必ず映るバックネットに存在したのは福岡ドームのみであった(この応援広告は、日本シリーズなどでも使用されている)。
2007年シーズン途中からは、人工芝を塗り分けることで外野グラウンドのレフト・ライトに[[セブン-イレブン]]の広告が掲示されている。また、バックネットフェンス前には[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]などで使用されている錯覚広告が存在する。この錯覚広告は2006年に初めて掲示されたあと同年末で一旦取りやめとなったが、2008年シーズン途中より復活した。
=== 照明 ===
建設当時は照明に主流の[[メタルハライドランプ]]が使用されたが、2015年より[[KIホールディングス|コイト電工]]社のLED照明に取り替えられている<ref name="LED"/>。
=== 暖手の広場 ===
[[ファイル:Dante monument.JPG|300px|thumb|暖手の広場にあるモニュメント]]
ドームの周りは遊歩道となっており、シーホークホテルと連絡するデッキには「暖手(だんて)の広場」と呼ばれる場所がある。ここには、文化・スポーツ・芸術・学術など各分野で活躍した著名人の立体手形を再現したブロンズ製のモニュメントが、それぞれのサインを記したプレートとともに展示されており、総勢200体以上と自由に“握手”ができるように展示されている。
ホークスの選手・監督の手形はドームが完成した1993年から追加され、選手では[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]、[[村田勝喜]]、[[秋山幸二]]、[[渡辺秀一]]、[[小久保裕紀]]、監督では1994年オフに就任した監督の[[王貞治]]などが存在する。また、他チームではあるが、ドームで[[槙原寛己の完全試合|完全試合]]を達成した[[読売ジャイアンツ]]の[[槙原寛己]]の手形もある。
=== 王貞治ベースボールミュージアム ===
2010年7月3日に福岡ソフトバンクホークス元監督で現球団会長の王貞治の偉業を称えて開館<ref group="注">2009年までは、「ザ・ビッグライフ」という[[バー (酒場)|スポーツバー]]が設けられていた。グラウンド側はガラス張りで、ガラスに沿って世界最長のカウンター席が設置してあった。チケットにはカウンター指定席と自由(立見)があり、カウンター指定席以外の客はカウンターに近寄れず、バー内に約70台あるモニターで観戦することになっていた。<!--このほか外野席のチケットでもカウンター席を除けば利用できるが、2009年7月頃より週末祝日及び特定日以外は立ち入れなくなった。-->
</ref>。入退場ゲートは7番ゲートの隣。一部エリアは客席となっている。
2018年シーズンオフからのリニューアル改修により、一時閉館された。2019年シーズンからは跡地は外野スタンド席に改修された。同ミュージアムは2020年に隣接するエンターテインメントビル[[E・ZO FUKUOKA|BOSS E・ZO FUKUOKA]](ボス イーゾ フクオカ)に移設された。
{{main|王貞治ベースボールミュージアム}}
=== 売店 ===
※グルメを参照<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.softbankhawks.co.jp/gourmet/list.php |title=グルメ {{!}} 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト |publisher=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2014-09-04}}</ref>
球場の弁当販売店は「鷹の弁当」という表記がされている。
ゲート内には、ホークスカフェ([[ロイヤル]]の経営)、[[モスバーガー]]、[[ピエトロ (食品メーカー)|ピエトロ]]、[[築地銀だこ]]、[[フレッシュネスバーガー]]、[[サブウェイ]]、[[日本ケンタッキー・フライド・チキン|ケンタッキーフライドチキン]]などの店舗があるほか、7ゲート前には球界初となる支配下全選手のご当地グルメを取り扱う「スタジアム横丁」、8ゲート前には[[京都勝牛]]とからあげグランプリ手羽先部門において3度の最高金賞に輝いた「とめ手羽」、三塁側には「博多とりかわ竹乃屋」がある。また、通路に軽食のワゴンが並んでいる。
ドーム外周には[[居酒屋]]の「鷹正」、ケンタッキーフライドチキン、[[ピザクック]]がある。
2015年より、ドーム内や周辺の売店・飲食店での支払いに[[nimoca]]はじめ全国共通の交通系ICカード([[PiTaPa]]を除く)や[[WAON]]・[[nanaco]]などが使用できる<ref>[https://www.nimoca.jp/melmag2/yfuokudo-mu_top.html ヤフオクドームでnimocaが使える!] - nimoca公式サイト、2015年3月31日閲覧</ref>。ただしカードにポイントはつかない。ドーム内でのチャージはできないので、入場前にバス車内や地下鉄の駅券売機やコンビニでチャージしておく必要がある。
== ホークスによる利用 ==
[[ファイル:FUKUOKADOME FIREWORKS1.JPG|thumb|300px|ホークス勝利時に上がる勝利の花火。写真は2012年7月18日に行われた鷹の祭典でのもの。]]
ホークス主催試合での場内放送は、ホークスの選手をスターティングメンバー発表時と先発選手の第1打席、及び交代投手、選手の登場時にフルネーム<ref group="注">2013年までは、2打席目以降及び、代打の場合は苗字のみ。</ref>、背番号、出身地(日本人は[[都道府県]]と[[市区町村]]、外国人は国。ただし、アメリカ人・カナダ人の場合は州までで、韓国・台湾出身の場合は出身国と出身都市)をコールする。これはダイエー時代、九州出身の選手を多く獲得しており、また九州全土のファン獲得を目指していたためで、親会社がソフトバンクに代わった現在でも続いている。
2014年シーズンから[[スタジアムDJ]]・[[藤澤翼]](DJツバサ、2023年シーズンからは[[フラッシュ嶋田]])が登場し、ホークス選手の紹介アナウンスを担当している。また、同年からスタメンや打席数、代打問わず選手をフルネームで呼ぶようになっている。
また、パ・リーグの週末の試合は夏を除きほとんどデーゲームで開催されているが、当ドームでのホークス主催試合は、夏を除き、土曜日も18時開始となっているケースがある(日曜日は13時開始のケースが多い)。2005年からは、巨人も春先や秋を中心に週末はデーゲームで開催されるケースが増えてきたことから、この時期の他球場の試合は[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]などを除いて、ほとんどがデーゲームで開催されるため、当ドームだけがナイトゲームとなるケースもある。
2000年シーズンでホークスはリーグで優勝し[[2000年の日本シリーズ|日本シリーズ]]へ戦いを進めるも、その日程にこのドームを日本脳外科学会に貸し出す予定を組んでいたため(契約は3年前に締結)、シリーズ日程の一部変更を余儀なくされるなど運営の失態を露呈し、球団には日程確保義務違反として3,000万円の制裁金が科された。この際ダイエーは準本拠地の[[北九州市民球場]]や[[長崎県営野球場|長崎ビッグNスタジアム]]での開催も想定したものの、学会側の厚意により4日間使用予定だったのが3日間(最終日は午前中まで)に短縮されたため、日程を変更して執り行われた。
=== ルーフオープン・勝利の花火 ===
公式戦や交流戦などでホークスが勝利した場合はスポンサーの協賛で「ルーフオープンショー」が行われる。これはヒーローインタビュー終了後、球場内の照明を落とし、「ホークスビジョン」にホークス選手の映像を上映する。(1999年までは映像の上映はなく、ドームの上部にレーザーを投影するレーザーショーを実施していた。)その後「勝利の花火(天井からの仕掛け花火)」が上げられ、球団歌『[[いざゆけ若鷹軍団]]』を流しながら屋根を開ける。'''通常の勝利では2番まで、リーグ優勝か日本一を決めた試合では3番までが流される。'''
2008年までは、選手映像は前半の1分間は当該年度用の映像、後半の1分間は本日のハイライトを映していた。また、花火の前にレーザー光線でのイルミネーションが存在し、鷹のマークと"VICTORY"の文字がレーザーで表示されていた。
いざゆけ若鷹軍団の後は、セレモニーソング『[[勝利の空へ]]』を流すことが通例となっている。2004年までは[[クイーン (バンド)|クイーン]](''Queen'')の「[[伝説のチャンピオン]]」(''We Are the Champions'')が流れていた。
悪天候の場合、屋根は開けられず、ドーム内にはその旨告知がある。
1993年から2008年までの長期間、勝利の花火時に流れていた音楽([[ヤニー]]の"Standing in Motion"の一部分)はファンの間で人気が高く、ダイエー時代・ソフトバンク時代を問わず球団事務所に問い合わせが殺到し、福岡のホークス応援番組でも紹介され名物となっていた。しかし、2009年以降球団オリジナルのものになっている。同時期に球場に流れる多くの音楽がオリジナルのものと化したが、詳細理由は不明である。
なお、敗退後は早めに照明を落とし相手チームのヒーローインタビュー音声が流される。
=== ○○シリーズ ===
地元福岡のイベントに合わせ、ホークス主催試合では「[[博多どんたく|どんたく]]シリーズ」「[[博多祇園山笠|山笠]]シリーズ」と銘打った連戦が行われる(この両シリーズは[[平和台野球場|平和台球場]]での[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]時代から行われている)。
その他、本拠地開幕シリーズやどんたくシリーズや山笠シリーズは「[[アサヒスーパードライ]]スペシャル」として行われ、ドーム前の大階段には「アサヒ・スーパードライ」の広告が大々的に描かれていた。2010年より、アーティストを招いての試合前ミニライブを開催するなど、野球以外の楽しみも提供されている。渡辺美里、ヒルクライム、ナオト・インティライミ、杏子、キマグレン、Rake、植村花菜などが出演、年間7 - 8試合が開催されている。
===ペッパー応援団===
2020年シーズンは[[Covid-19|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響により、公式戦開始当初[[無観客試合]]がしばらく続いた。そこでスタンドを埋めるため、まずペッパー5体による応援をスタートさせた。その後「入団希望者」が相次ぎ、最終的に100体まで増えた。法人向けのペッパー1体が200万円かかるとされ、総勢で2億円の費用が掛かるとされる<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202104260000478.html ソフトバンク総額2億円の「ペッパー応援団」ロボット100体が踊る舞台裏](日刊スポーツ)</ref>。
2021年シーズンも引き続き入場制限が敷かれていることもあり、[[ソフトバンクロボティクス]]とホークス球団の合同企画として、レフトスタンドの左中間付近に、[[ペッパー]]総勢100体を整えたロボット応援団のステージが設けられた。試合中は、球団公認のチアダンスチーム「ハニーズ」とのコラボレーションを含め様々な応援パフォーマンスを展開する<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20210326-1843695/ PayPayドームのレフトスタンドで100体のPepperがホークスを応援](マイナビニュース)</ref>。
== ホークス以外の利用 ==
=== オールスターゲームの開催 ===
当ドームで開催された[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]は、1996年と2001年、2010年、2016年、2022年(いずれも第1戦)である。2001年から2010年まで9年間隔が空いたのは、2002年以降は年2試合制で固定されたことと、随時地方球場での開催試合が組み込まれるようになったためで、この間に2006年第2戦がホークス主管相当試合として[[宮崎県総合運動公園硬式野球場|サンマリンスタジアム宮崎]]で開催されている(他に[[長崎県営野球場|長崎ビッグNスタジアム]]で開催された2000年の第3戦、[[藤崎台県営野球場|リブワーク藤崎台球場]]で開催された2018年の第2戦がホークス主管相当試合として行われている)。本拠地での開催間隔が空いた事例としては広島(1995年第2戦を[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場(当時)]]で開催→2009年第2戦を[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]で開催し、14年の間隔が空いている)に次ぐもの。なお、ホークスの前本拠地である平和台球場で最後に開催されたのは1990年である<ref>{{Cite press release|和書|date=2021-09-16|url=https://npb.jp/news/detail/20210916_02.html|title=「マイナビオールスターゲーム2022」開催について|publisher=日本野球機構|accessdate=2021-10-10}}</ref>。
=== NPB他球団の主催試合 ===
==== 読売ジャイアンツ ====
[[読売ジャイアンツ]]は、1975年から始まった九州シリーズを、開場した1993年から公式戦で1 - 3試合程主催試合を行っていた。2005年からは[[セ・パ交流戦|交流戦]]の影響もあり、2007年までは毎年継続されたものの、2009年4月23日の東京ヤクルト戦を最後に開催されていない。オープン戦では2002年から2009年までホークスを対戦相手に毎年1試合のジャイアンツ主催試合を実施し、翌日にホークス主催で行われる試合と併せ2連戦という形で行っていた。ただし両日ともベンチは三塁側を使用している。なおオープン戦は1992年から2001年まで[[北九州市民球場]]で行われていた。
===== 公式戦開催実績 =====
* 1993年5月18日 巨人2-4横浜 観衆:48,000 勝:[[小桧山雅仁]] S:[[佐々木主浩]] 敗:[[香田勲男]]
* 1993年5月19日 巨人3-4横浜 観衆:48,000 勝:[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]] S:[[佐々木主浩]] 敗:[[斎藤雅樹]] 本:[[吉村禎章]](G)、[[ジェシー・バーフィールド|バーフィールド]](G)
===== オープン戦開催実績 =====
* 2001年3月3日 巨人9-13ダイエー 観衆:48,000 勝:[[斉藤和巳]] 敗:[[桑田真澄]] 本:[[阿部慎之助]](G)、[[二岡智宏]](G)
* 2002年3月3日 巨人3-0ダイエー 観衆:48,000 勝:[[桑田真澄]] S:[[河原純一]] 敗:[[寺原隼人]]
* 2003年3月2日 巨人3-4ダイエー 観衆:48,000 勝:[[新垣渚]] 敗:[[コリー・ベイリー|ベイリー]] 本:[[松田匡司]](H)
* 2004年3月6日 巨人12-8ダイエー 観衆:48,000 勝:[[三澤興一]] S:[[條辺剛]] 敗:[[斉藤和巳]] 本:[[小久保裕紀]](G)、[[松中信彦]](H)
* 2005年3月5日 巨人8-1ソフトバンク 観衆:26,660 勝:[[真田裕貴]] 敗:[[斉藤和巳]] 本:[[タフィ・ローズ|ローズ]](G)
* 2006年3月4日 巨人0-2ソフトバンク 観衆:18,493 勝:[[斉藤和巳]] S:[[馬原孝浩]] 敗:[[工藤公康]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://npb.jp/bis/2006/games/ops2006030400022.html|title=2006年3月4日 (土)|accessdate=2021-06-22|publisher=npb}}</ref>
* 2007年3月3日 巨人4-6ソフトバンク 観衆:18,607 勝:[[山村路直]] S:[[柳瀬明宏]] 敗:[[西村健太朗]] 本:[[松田宣浩]](H)
* 2008年3月1日 巨人4-10ソフトバンク 観衆:17,775 勝:[[大場翔太]] 敗:[[上原浩治]]
* 2009年3月9日 巨人2-5ソフトバンク 観衆:16,105 勝:[[攝津正]] 敗:[[ディッキー・ゴンザレス|ゴンザレス]] 本:[[アレックス・ラミレス|ラミレス]](G)
* 2013年2月28日 巨人1-6[[侍ジャパン]] 観衆:19,662 勝:[[大隣憲司]] 敗:[[福田聡志]] 本:[[矢野謙次]](G)
* 2013年3月1日 巨人8-1中国代表 観衆:1,859 勝:[[松本竜也 (左投手)|松本竜也]] 敗:[[李鑫]]
==== 東京ヤクルトスワローズ ====
[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ(当時)]]は1979年から1988年まで行われた平和台球場での福岡シリーズを復活させる形で開場後から2001年まで公式戦で3試合の主催試合を行っていた。2002年以降は、福岡から[[瀬戸内海]]を挟んだ[[愛媛県]][[松山市]]の[[松山坊っちゃんスタジアム]]に舞台を移して松山を準本拠地として主催試合を年間2 - 3試合行っている。
==== 横浜DeNAベイスターズ ====
[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ(当時)]]は、1988年のかつての本拠地・[[下関球場]]の移設オープンに併せて翌年1989年から復活した九州シリーズの舞台として2004年に公式戦主催試合を1試合のみ開催した(2004年4月17日 [[中日ドラゴンズ|中日]]戦)。他に下関球場と併せて開催された球場は、[[藤崎台県営野球場|熊本・藤崎台球場]]、[[佐賀県立森林公園野球場|佐賀・みどりの森県営野球場]]、[[西京スタジアム|山口・西京スタジアム]]などである。2008年からは[[下関球場]]から[[北九州市民球場]]に場所を移して3年に1回のペースで行われる。なお、横浜の福岡市での主催試合は、洋松時代の1954年4月14日の[[中日ドラゴンズ]]戦以来。
===== 公式戦開催実績 =====
* 2004年4月17日 横浜3-3中日 観衆:14,000
==== オリックス・バファローズ ====
1999年6月に、[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ(当時)]]が梅雨時の雨天中止を避けるための措置として主催試合のホークス戦を行っている。詳細は[[オリックス・バファローズ#敵地での主催ゲーム|こちら]]を参照。これは、営業優先との批判がオリックスファンから起こり、集客も普段のホークス主催の時よりも1万人程少なかったためこの年限りとなった。
==== 阪神タイガース ====
2010年には、[[阪神タイガース]]が地元九州([[長崎県]][[佐世保市]])出身でかつてホークスに在籍していた[[城島健司]]の入団から福岡でのファン拡大を狙ってオープン戦で1試合の主催試合を開催した(2010年3月20日 [[広島東洋カープ|広島]]戦<ref group="注">この当時は阪神の本来の本拠地・[[阪神甲子園球場]]では[[第82回選抜高等学校野球大会]]が行われており、それを優先するため甲子園は使用不可だった。また、福岡市での阪神主催試合は、公式戦として[[1988年]][[9月]]に行われた[[横浜DeNAベイスターズ|大洋戦]]以来だった</ref>)。ただし、ホークスの開幕戦(日本ハム戦・札幌ドーム)と被り、多くのホークスファンが開幕戦のTV中継を優先したこと、城島の阪神移籍に対する反発などから観衆は7,394人と奮わなかったためこの年限りとなった。
===== オープン戦開催実績 =====
* 2010年3月20日 阪神0-7広島 観衆:7,394 勝:[[前田健太]] S:[[ジャンカルロ・アルバラード|ジオ]] 敗:[[安藤優也]]
==== 埼玉西武ライオンズ ====
2021年、[[埼玉西武ライオンズ]]は同年行われる[[2021年の日本シリーズ|日本シリーズ]]において、同球団が進出かつ、第6・7戦までもつれ込んだ場合、本球場を使用する可能性があった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=西武が日本シリーズ進出していたら、西鉄時代以来58年ぶり福岡開催だった|url=https://www.nikkansports.com/baseball/column/bankisha/news/202111210000736.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2021-11-27|date=2021-11-22}}</ref>。これは新型コロナウイルスや天候の影響による、レギュラーシーズン延長でクライマックスシリーズと日本シリーズの日程もそれぞれ1週間後ろ倒しになったため、既に同年11月27日と28日に『[[うたの☆プリンスさまっ♪]]』のライブイベントが西武の本拠地である埼玉県[[所沢市]]の[[西武ドーム|メットライフドーム]]で開催されることによる兼ね合いに加え、西武の前身である[[福岡野球]](西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター)が福岡県を本拠地としていた歴史的経緯によるもので西武主催による日本シリーズが福岡県内で開催された場合、58年ぶりになる予定だった<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=シーズン延長でまた「日本シリーズ日程問題」勃発 巨人進出なら2年連続“間借り”か|url=https://www.zakzak.co.jp/spo/news/210706/bas2107060004-n1.html|website=夕刊フジ|date=2021-07-06|accessdate=2021-11-27}}</ref>。
しかし、西武のクライマックスシリーズ進出の可能性が同年10月13日に完全消滅したことによって、西武主催の日本シリーズで本球場やメットライフドームを使用しないことが確定した<ref>{{Cite web|和書|title=西武CS消滅、迫る42年ぶり最下位危機 語気強める辻監督「選手がどういう気持ちでやるかが問題」|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/815538/|website=西日本スポーツ|accessdate=2021-11-27|date=2021-10-13}}</ref>。
=== 国際野球大会 ===
2013年3月には『[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|2013 WBC]]』第1ラウンドA組の試合が開催された。『第1回』・『第2回』大会の第1ラウンドは東京ドーム開催だったため、東京以外で初めて開催された。その直前には強化試合としてA組4チームとNPB球団(ソフトバンク・巨人)の対戦で計4試合が行われている。
==== 親善試合 ====
2012年11月16日には[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|侍ジャパン]]と[[野球キューバ代表|キューバ]]との国際親善試合が開催された。
=== 高校野球 ===
2020年8月3日、新型コロナウイルスの影響で中止された[[第102回全国高等学校野球選手権大会]]の福岡県大会に代わって実施された「がんばれ福岡2020高等学校野球大会」福岡地区大会の決勝戦が行われ、[[福岡県立福岡高等学校|県立福岡高校]]が[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大附属大濠高校]]を4-3で下して優勝した<ref>{{Cite news |url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/632293/ |title=甲子園出場経験がない「福高」が逆転サヨナラで夏の王者に 九州大志望の背番号13が代打でプロ注目の剛腕沈める |newspaper=西日本スポーツ |date=2020-08-04 |accessdate=2020-09-07}}</ref>。
全国高等学校野球選手権大会の福岡県大会は2012年にも行われたほか、2018年にも開会式と北福岡大会・南福岡大会<ref group="注">2018年の全国高等学校野球選手権大会は第100回記念として、福岡県から北福岡・南福岡の2代表が出場することになっていた。</ref>の開幕戦を行う予定があったが、梅雨前線に伴う大雨の影響により中止された<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASL763RCYL76TGPB003.html |title=福岡)開会式は2年連続中止 高校野球南・北福岡大会 |newspaper=朝日新聞 |date=2018-07-07 |accessdate=2020-09-07}}</ref>。
== コンサート・イベント・その他 ==
当ドームは見本市やコンサート会場としての利用も考えて設計されている。<!--人工芝が剥がせるようになっている。-->屋内コンサート会場としては九州最大規模であり、通称「'''5大ドームツアー'''(札幌・東京・名古屋・大阪・福岡)」と呼ばれるコンサートツアー開催地の1つになっている。
=== 音楽イベント ===
* 『'''ドリームライブ in 福岡ドーム'''』(出演:[[井上陽水]]・[[甲斐よしひろ]]・[[財津和夫]]・[[武田鉄矢]] 他)
: 1993年4月10日に当ドームで最初に行われたコンサート。福岡県出身のミュージシャンが集まって行われた。
* 『'''Super Concert '99 in Fukuoka'''』 (出演:[[ホセ・カレーラス]]、[[プラシド・ドミンゴ]]、[[ダイアナ・ロス]])
: 1999年7月28日に開催された。
* 『'''[[NUMBER SHOT]]'''』
: 2021年より開催。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの流行]]による観客のマスク着用での熱中症リスクなどを考慮し、これまでの会場であった[[海の中道海浜公園]]野外劇場から会場を変更。
=== 単独コンサートを開催したアーティスト ===
==== 国内アーティスト(50音順) ====
* [[安室奈美恵]]
* [[嵐 (グループ)|嵐]]
* [[EXILE]]([[EXILE TRIBE]]、[[EXILE ATSUSHI]])
* [[AKB48]]
* [[小田和正]]
* [[関ジャニ∞]]
* [[Kis-My-Ft2]]
* [[King & Prince]]
* [[KinKi Kids]]
* [[GLAY]]
* [[globe]]
* [[桑田佳祐]]
* [[サザンオールスターズ]]
* [[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE]]
* [[GENERATIONS from EXILE TRIBE]]
* [[すとぷり]]
* [[Snow Man]]
* [[SPEED]]
* [[SMAP]]
* [[SEKAI NO OWARI]]
* [[Sexy Zone]]
* [[CHAGE and ASKA|CHAGE & ASKA]]
* [[DREAMS COME TRUE]]
* [[AAA (音楽グループ)|AAA]]
* [[西島隆弘|Nissy]]
* [[乃木坂46]]
* [[back number]]
* [[Perfume]]
* [[浜崎あゆみ]]
* [[BUMP OF CHICKEN]]
* [[B'z]]
* [[氷室京介]]
* [[福山雅治]]
* [[Hey! Say! JUMP]]
* [[星野源]]
* [[MISIA]]
* [[ももいろクローバーZ]]
* [[Mr.Children]]
* [[矢沢永吉]]
* [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]
* [[RADWIMPS]]
* [[L'Arc〜en〜Ciel]]
* [[レペゼン地球]]
* [[ONE OK ROCK]]
==== 国外アーティスト(50音順) ====
* [[イーグルス]]
* [[エアロスミス]]
* [[エルトン・ジョン]]
* [[クイーン+ポール・ロジャース]]
* [[サイモン&ガーファンクル]]
* [[G-DRAGON]]
* [[JYJ]]
* [[ダイアナ・ロス]]
* [[東方神起]]
* [[BIGBANG]]
* [[ビリー・ジョエル]]
* [[フィル・コリンズ]]
* [[フランク・シナトラ]]
* [[ホイットニー・ヒューストン]]
* [[ポール・マッカートニー]]
* [[ボン・ジョヴィ]]
* [[マイケル・ジャクソン]]
* [[マドンナ (歌手)|マドンナ]]
* [[ローリング・ストーンズ]]
* [[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]]
* [[BLACKPINK]]
* [[Stray Kids|StrayKids]]
=== 例年開催される主なイベント ===
* [[福岡県警察|福岡県警察年頭視閲]]
* [[次世代ワールドホビーフェア]]
* 福岡カスタムカーショー(2010年 -、それまでの福岡オートサロン中止に伴う代替イベントとして開始)<ref>{{Cite web|和書|url=http://fukuokacustom.com/ |title=福岡カスタムショー |accessdate=2014-09-04}}</ref>
* [[NPB12球団ジュニアトーナメント]](2005、2006年、2010年、2014年)
* [[コミックシティ]] (年に3回程度開催される九州最大規模の[[同人誌即売会]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akaboo.jp/ |title=赤ブーブー通信社 {{!}} 総合トップ |work=ケイ・コーポレーション |accessdate=2014-09-04}}</ref>
=== これまでに開催されたその他イベント ===
* [[レスリングどんたく]] in 福岡ドーム([[新日本プロレス]]、1993年 - 1995年、2000年、2001年、2022年)
* [[1995年夏季ユニバーシアード]](開閉会式・野球が行われ、マラソンのスタートゴールにもなった)
* レスリングとんこつ in 福岡ドーム([[DDTプロレスリング]]、2001年)
* 福岡オートサロン(2001年 - 2009年)
* [[全国健康福祉祭|ねんりんピックふくおか2005]](2005年、総合開会式が行われた)
* [[プロ野球マスターズリーグ]]:所属する福岡ドンタクズの本拠地とされていた。
* 福岡国際らん展<ref>{{Cite web|和書|url=http://www18.ocn.ne.jp/~mayatake/sub10.html |title=福岡蘭会 展示会案内 |work=福岡蘭会 |accessdate=2014-09-04}}</ref>
* FUKUOKA LOVE&COLLECTION(ラブコレ福岡)(2008年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cafetribe.com/archive/lovecolle/lovecolle.html |title=ラブコレ福岡「LOVE & CAFE」特集 |work=CAFE@TRIBE |accessdate=2014-09-04}}</ref>
* [[シティマラソン福岡]]:スタート・ゴール地点となっていた。
* 史上最大のワンピースイベント! 「[[ONE PIECE|ワンピース]]ドームツアー」(2011年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://softbankhawks.co.jp/news/detail/7470.html |title=史上最大のワンピースイベント 「ワンピースドームツアー福岡公演」をヤフードームで開催 |date=2011-04-25 |work=福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト |publisher=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2014-08-31}}</ref>
* [[リアル脱出ゲーム]] あるドーム球場からの脱出福岡公演(2014年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://realdgame.jp/event/fukuokadome.html |title=リアル脱出ゲーム OFFICIAL WEB SITE |publisher=[[SCRAP]] |accessdate=2014-09-04}}</ref>
* [[進撃の巨人]]×リアル脱出ゲーム ある城塞都市からの脱出福岡公演(2014年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://realdgame.jp/shingeki/ |title=進撃の巨人×リアル脱出ゲーム ある城塞都市からの脱出 |publisher=SCRAP |accessdate=2014-09-04}}</ref>
* [[ONE PIECE]]×リアル脱出ゲーム 頂上戦争からの脱出福岡公演(2015年)
* 第99回LCIコン([[ライオンズクラブ]]国際大会、2016年)
* [[キングダム (漫画)|キングダム]]×リアル脱出ゲーム 大戦場からの脱出福岡公演(2017年)
=== その他利用について ===
一般利用も可能で[[日本のアマチュア野球|草野球]]では25万円(税別)から利用できる。また「PayPay ドームツアー」(以前はバックステージツアーと称していた)でフィールドやブルペン、ダグアウトなどを見学する事も可能である。案内はドームガイドによって行われ、「ドーム内見学コース」「OB解説付練習見学コース」「学習コース」が選べる。
映画『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』(1995年公開)では、物語の進行にまつわる重要な舞台に設定されて登場。このドームの売りものである開閉式屋根が題材に取り上げられた(演出上、左右を反転している)。
フットボールではサッカーで[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]が、[[オリンピア・アスンシオン|オリンピア]]([[パラグアイ]]のクラブ)とのフレンドリーマッチを開催したことがある。
テレビ番組『[[はなまるマーケット]]』放送開始9周年(九州年)の2005年9月30日に、初めてのスタジオ外からの生放送として福岡ドームからの生中継を行った。
珍しい事例では2020年11月2日、[[直方市]]の[[大和青藍高等学校]]が[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染拡大に伴い中止になった[[運動会|体育祭]]と[[文化祭]]の代替イベントを本ドームを借りた上で開催したことがある<ref>{{Cite web|和書|title=コロナ中止の体育祭・文化祭 タカ本拠地でまとめて開催 |url=https://www.asahi.com/articles/ASNC26X5CNC2TGPB001.html |website=朝日新聞 |accessdate=2020-11-03 |publisher= |date=2020-11-03}}</ref>。
== 賞制度 ==
福岡ドームで行われるプロ野球公式戦では、看板等に打球を当てると賞品が進呈される。主なものは下記の通り。なお一部の賞はホークス主催試合のみ有効で、ほぼ毎試合、試合開始前に紹介されている。
* 外野フェンスの右翼ポール際にある[[福岡銀行]]の広告には、グラブを持った同行のマスコットキャラクター「ユーモ」が描かれている。このグローブの箇所にダイレクトすなわちノーバウンドで見事に打球が当たると、同行から「ふくぎん賞」として賞金100万円が進呈される(後にマスコット全体、さらにマスコットを囲む楕円部分に拡大)。これまで、この制度で賞金を獲得したのは8人。
{| class="wikitable
|+ふくぎん賞達成者
|-
! 達成日 || 選手名 || 対戦カード
|-
| 2004年8月1日 || [[柴原洋]] || ダイエー × [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]
|-
| 2006年3月26日 || [[辻俊哉]]([[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]) || ソフトバンク × ロッテ
|-
| 2007年5月26日 || [[田上秀則]] || ソフトバンク × [[広島東洋カープ|広島]]
|-
| 2013年6月16日 || [[ジョン・ボウカー]]([[読売ジャイアンツ|巨人]]) ||ソフトバンク × 巨人
|-
| 2015年8月11日 || [[吉村裕基]] ||ソフトバンク × [[オリックス・バファローズ|オリックス]]
|-
|2016年7月16日
|[[ブライアン・ボグセビッチ|ボグセビック]](オリックス)
|ソフトバンク × オリックス
|-
|2017年7月22日
|今宮健太
|ソフトバンク × ロッテ
|-
|2023年8月20日
|[[栗山巧]]([[埼玉西武ライオンズ|西武]])
|ソフトバンク × 西武
|}
* 2022年より、両翼ポールは[[マルタイ]]の広告があり、このポールに打球が当たると、同社から「マルタイ棒ラーメンポール賞」としてマルタイ棒ラーメン1年分が進呈される。これまで、この制度で棒ラーメンを獲得したのは2人。
{| class="wikitable
|+マルタイ棒ラーメンポール賞達成者
|-
! 達成日 || 選手名 || 対戦カード
|-
| 2022年4月27日 || [[中村晃 (野球)|中村晃]] || ソフトバンク × 西武
|-
| 2023年5月30日 || [[鵜飼航丞]]([[中日ドラゴンズ|中日]]) || ソフトバンク × 中日
|}
* 打球がフェアゾーン内の天井に当たり、骨組みなどに引っかかって落下してこなかった際、記録は二塁打となり、賞金として現金500万円が渡される。2015年現在、達成されていない(ただし、2004年に[[井口資仁]]がファウルゾーン内の天井に打球を当て、骨組みにひっかけたことはある。しかし、フェアゾーン内では無かったため、打球はファウルとして記録された)。
* かつてライトスタンド上方にあった[[アサヒビール]]のパネル看板に打球が当たった場合は缶ビール10年分(3,650本)が打った打者に、また、レフトスタンド上方にある[[ヨドバシカメラ]]のパネル看板に当たった場合には打った打者とその打球を拾った観客に1,000万ポイントが贈呈されることになっていた。しかし、広告パネルがあった場所に2010年シーズンよりライト・レフトウィングビジョンが設置され、アサヒビールの看板に打球を当てた選手は現れなかった。「ヨドバシカメラ」賞のみ継続され、エリア幅が広くなったものの、広告が表示されている時しか有効でなく、設置位置も遠いため、現在まで打球を当てた選手はいない。
== 福岡ドームにおける主な試合の記録 ==
* 1993年4月2日、ダイエー対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]が[[こけら落し]]。同日行われた[[千葉ロッテマリーンズ]]対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]のオープン戦で、[[リック・シュー]]内野手(日本ハム)が福岡ドーム第1号本塁打を放つ。
* 1993年4月4日、ダイエー対日本ハムのオープン戦で日本ハムが5-0で勝利し、平成5年度パシフィックリーグトーナメントの優勝を決める。
* 1993年[[4月17日]]、福岡ドーム初の[[日本プロ野球]]公式戦。[[野茂英雄]](近鉄)は[[村田勝喜]](ダイエー)と投げ合い、1-0の[[完封]]勝利で福岡ドーム初の勝利投手となる。
* 1993年[[4月18日]]、[[ラルフ・ブライアント]](近鉄)が[[若田部健一]](ダイエー)から福岡ドーム公式戦第1号本塁打。若田部は4失点完投でホークス初の福岡ドームでの勝利投手、[[山本和範]]はホークス初の福岡ドームでの公式戦本塁打を記録。
* 1994年5月18日、[[槙原寛己]](巨人)が対[[広島東洋カープ]]戦で[[完全試合]]を達成([[槙原寛己の完全試合]])<ref group="注">槇原は、完全試合を記念して他球団の選手で唯一「暖手(だんて)の広場」に手形が設置されている。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.npb.or.jp/history/list_nohitnorun.html |title=無安打無得点試合(ノーヒットノーラン) |publisher=[[日本野球機構]](NPB) |accessdate=2014-09-01}}</ref>。日本プロ野球における平成時代唯一の完全試合である。
* 1997年5月7日、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]がダイエーを相手に史上6度目の[[毎回得点]]を記録。
* 1999年6月13日、[[イチロー]](オリックス)が最初で最後の三塁守備に就く(オリックス主催)。
* 1999年9月25日、ダイエーが[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]を5-4で破り、福岡にフランチャイズ移転後初のリーグ[[優勝]]を決める。
* 1999年9月30日、山本和範(近鉄)が現役最後となる試合に出場、現役最終打席で[[篠原貴行]]から決勝本塁打を放ち、篠原の勝率10割を阻止した。
* 2000年10月7日、ダイエーがオリックスを1-0で破り、パ・リーグ2連覇。
* 2000年10月27日、[[高橋尚成]](巨人)が対ダイエーの日本シリーズでシリーズ史上初の新人投手初登板初完封勝利を達成。
* 2002年6月7日、[[メルビン・バンチ]](中日)が対巨人戦で投手で初めて当球場で本塁打を放つ。
* 2002年10月6日、[[秋山幸二]]引退試合(対ロッテ戦)。
* 2003年5月21日、[[クリス・レイサム (野球)|クリス・レイサム]]左翼手(巨人)が対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で[[クリス・レイサム (野球)#アウトカウント勘違い事件|アウトカウント勘違い事件]]を起こす。
* 2003年7月27日、ダイエー対オリックス戦でダイエーが32安打、オリックスが13安打を放つ。ダイエーの32安打は1チーム1試合の安打数として日本プロ野球新記録。また両チーム計45安打も1試合の安打数として日本プロ野球新記録。
* 2003年10月27日、ダイエーが[[2003年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[阪神タイガース]]を4勝3敗で破り、ダイエーとして2度目の日本一。この日本一は福岡県を本拠地とする球団が初めて地元開催の試合で決めたものとなった。また、この試合での引退を表明していた[[広澤克実]](阪神)が、事実上の引退試合で日本シリーズ最年長本塁打(41歳6か月)を放ち、有終の美を飾る。
* 2004年10月11日、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]が[[2004年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ第2ステージ]]でダイエーを3勝2敗で破り、レギュラーシーズン2位から優勝。
* 2005年10月17日、ロッテが[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ第2ステージ]]でソフトバンクを3勝2敗で破り、レギュラーシーズン2位から優勝。
* 2006年4月15日、日本ハムが対ソフトバンク戦で3投手<ref group="注">この日、先発投手の[[八木智哉]](日本ハム)は10回裏までソフトバンク打線を無安打・無得点に抑えた。</ref>の継投による[[ノーヒットノーラン]](参考記録)を達成。延長戦での継投によるノーヒットノーランはプロ野球史上初<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/10/kiji/K20120610003435790.html |title=日本での継投によるノーヒットノーランは3度 |date=2012-06-10 |work=スポーツニッポン |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714165247/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/10/kiji/K20120610003435790.html |archivedate=2014-07-14 |accessdate=2014-09-04}}</ref>。
* 2008年3月20日、[[柴原洋]](ソフトバンク)が西武の[[伊東勤]]以来14年ぶりのプロ野球史上2人目の開幕戦逆転サヨナラ本塁打を放つ。
* 2008年8月29日 - 31日、ソフトバンク対西武の同一カード3連戦が3戦連続で引き分けとなる。
* 2009年6月13日、ソフトバンクが2リーグ制度導入後通算4,000勝を達成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20090614-506416.html |title=ソフトB松田「M3」弾で球団4000勝 |date=2009-06-14 |work=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100205000136/http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20090614-506416.html |archivedate=2010-02-05 |accessdate=2014-09-04}}</ref>。
* 2010年10月19日、ロッテが[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]でアドバンテージ1敗含む4勝3敗でソフトバンクを下し、レギュラーシーズン3位から日本シリーズ出場権を獲得。
* 2011年11月5日、ソフトバンクが[[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]で4勝0敗(アドバンテージ1勝含む)で西武を下し、日本シリーズ出場権を獲得。ホークスとしてリーグ内でのポストシーズンを制したのは前身の南海時代以来38年ぶり。福岡にフランチャイズ移転以降では2004年 - 2006年に行われたプレーオフも含め、ポストシーズン導入後7度目で初の制覇を果たした。
* 2011年11月20日、ソフトバンクが[[2011年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で中日を4勝3敗で破り、現球団名としては初、前身の南海・ダイエー時代を含めると8年ぶり5度目の日本一。
* 2012年6月24日、[[小久保裕紀]](ソフトバンク)が対日本ハム戦で、プロ野球史上41人目となる2,000安打達成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.softbankhawks.co.jp/team/kokubo_2000/ |title=小久保選手2000本安打記念ページ |publisher=福岡ソフトバックホークス |accessdate=2014-09-04}}</ref>。
* 2012年10月8日、[[西勇輝]](オリックス)が対ソフトバンク戦でノーヒットノーランを達成。なお、この試合は両チームともレギュラーシーズン最終戦、また、小久保裕紀(ソフトバンク)の引退試合であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/09/kiji/K20121009004287250.html |title=小久保の最終打席で迷いも…西 ノーヒッター「どうしようかと」 |date=2012-10-09 |work=スポーツニッポン |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131203044021/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/09/kiji/K20121009004287250.html |archivedate=2013-12-03 |accessdate=2014-09-01}}</ref>。
* 2014年10月2日、ソフトバンクがオリックスに延長10回2x-1でサヨナラ勝ちし、3年ぶり通算18度目、現球団となって3度目のリーグ優勝を決める。
* 2014年10月20日、ソフトバンクが[[2014年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]で4勝3敗(アドバンテージ1勝含む)で日本ハムを下し、日本シリーズ出場権を獲得。
* 2014年10月30日、ソフトバンクが[[2014年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で阪神を4勝1敗で下し、現球団名として3年ぶり2度目、前身の南海・ダイエー時代を含め6度目の日本一。
* 2015年9月17日、ソフトバンクが西武に5-3で勝利し、2年連続通算19度目、現球団となって4度目のリーグ優勝を決める。9月17日の優勝決定は当時、パ・リーグ最速であったが、2017年、ソフトバンクが9月16日に優勝を決め記録を塗り替えた(優勝を決めた球場は[[西武ドーム|メットライフドーム]])。
* 2015年10月16日、ソフトバンクが[[2015年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]で4勝0敗(アドバンテージ1勝含む)でロッテを下し、2年連続で日本シリーズ出場権を獲得。
* 2017年11月4日、ソフトバンクが[[2017年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でDeNAに延長11回4×-3で勝利し、通算成績4勝2敗、現球団名として2年ぶり4度目、前身の南海・ダイエー時代を含め8度目の日本一。日本シリーズがサヨナラ勝利で決着したのは、[[1988年の日本シリーズ]]第5戦における西武以来29年ぶり史上4度目となった。
* 2018年10月31日、[[2018年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第4戦でソフトバンクが広島に4-1で勝利し、[[2011年の日本シリーズ]]対中日第7戦での勝利以来、日本シリーズにおける本拠地球場11連勝となり、巨人が[[1970年の日本シリーズ|1970年]]から[[1973年の日本シリーズ|1973年]]にかけて達成した本拠地([[後楽園球場]])10連勝を超え日本シリーズ新記録達成<ref group="注">翌[[11月1日]]の試合、[[2019年の日本シリーズ]]のホームゲーム2試合、[[2020年の日本シリーズ]]のホームゲーム2試合も勝利し、本拠地連勝記録('''16連勝'''・2020年度シーズン終了時点)を継続させている。</ref>。
* 2019年9月6日、ソフトバンクの[[千賀滉大]]が育成出身選手として初のノーヒットノーランを達成。
* 2020年7月10日、ソフトバンクがダイエー時代から数えて当球場通算1,000勝を達成。
* 2020年11月25日、ソフトバンクが[[2020年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で巨人を前年に続き無傷のストレート4連勝で下し、現球団名として4年連続7度目、前身の南海・ダイエー時代を含め11度目の日本一。
* 2022年5月11日、ソフトバンクの[[東浜巨]]が対[[埼玉西武ライオンズ|埼玉西武]]戦でノーヒットノーランを達成<ref>{{Cite news2|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/921237/|title=東浜ノーヒットノーラン!球団3人目の快挙 今季は佐々木朗に続き2人目|newspaper=西日本スポーツ|agency=西日本新聞社|date=2022-05-11|accessdate=2022-05-11}}</ref>。プロ野球史上84人目、95度目での達成となった。
* 2023年8月18日、ソフトバンクの[[石川柊太]]が対埼玉西武戦でノーヒットノーランを達成。プロ野球史上88人目、99度目、育成選手出身では史上2人目のノーヒットノーランとなった。
== 交通機関 ==
[[画像:Nishitetsu Bus 2739 AKB48 General Election.JPG|thumb|250px|[[西鉄天神高速バスターミナル]]で発車を待つ[[AKB48 41stシングル 選抜総選挙|AKB48総選挙会場]]の福岡ヤフオク!ドーム行きの臨時[[西鉄バス]]]]
以下の記述は、福岡ソフトバンクホークス公式サイトのアクセスマップ<ref>{{Cite web|和書|url=https://sp.softbankhawks.co.jp/stadium/access.html |title=アクセスマップ福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト |publisher=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2022-12-22}}</ref>、西鉄グループ公式サイトの臨時バス情報<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nnr.co.jp/bus/rinjibus/default.php?extra_kbn=1 |title=西鉄グループ臨時バス情報 |publisher=西鉄グループ |accessdate=2022-12-22}}</ref>に基づく。ただし、ダイヤ改正により系統番号が変更、廃止になっている場合は一部修正している。
; 地下鉄
:* [[福岡市交通局|福岡市地下鉄]] [[福岡市地下鉄空港線|空港線]] [[唐人町駅]] 3番出口より徒歩約15分
; バス
: 以下のバス(すべて[[西鉄バス]]による運行)で「PayPayドーム前」「九州医療センター」「ヒルトン福岡シーホーク」下車
:*[[天神 (福岡市)|天神]]地区から
:** 「[[西鉄天神高速バスターミナル]]前」1Aのりば「天神北(3)」のりばから[[西日本鉄道愛宕浜自動車営業所#シーサイドももち線|300・301・333]]・[[西日本鉄道百道浜自動車営業所#渡辺通幹線|W1]]番乗車
:* [[博多駅]]地区から
:** 「[[博多バスターミナル]]」1階6番のりばから[[西日本鉄道吉塚自動車営業所#金武線|306]]番乗車
:** 「博多駅前A」のりばから[[西日本鉄道愛宕浜自動車営業所#シーサイドももち線|300・301・333]]・[[西日本鉄道吉塚自動車営業所#金武線|305]]番乗車
:* 「[[福岡空港]]国内線ターミナル南」2番のりばから[[西日本鉄道宇美自動車営業所#坂瀬線|139]]番乗車
:* 「[[西新]]パレス前」(地下鉄[[西新駅]]そば)から[[西日本鉄道百道浜自動車営業所#西新(城南)九大線|10・15]]・[[西日本鉄道片江自動車営業所#小笹~天神線|54-1]]・[[西日本鉄道片江自動車営業所#福大線|94]]番乗車
:* 「[[藤崎バス乗継ターミナル|藤崎バスターミナル]]」1番のりばから[[西日本鉄道壱岐自動車営業所#姪浜フィーダー線|1・1-5]]・[[西日本鉄道百道浜自動車営業所#賀茂〜藤崎線|2-9]]・[[西日本鉄道吉塚自動車営業所#金武線|306]]・[[西日本鉄道百道浜自動車営業所#渡辺通幹線|W1]]
: なお、プロ野球公式戦やコンサートなどの開催日では、博多バスターミナル1階6番のりば・西鉄天神高速バスターミナル3階6番のりばから直行臨時バスも運行される(上記の定期路線と異なり、ホークスタウン敷地内にある専用乗降場に直接乗り入れる)。他にも一部の公式戦やイベント開催日には、北九州(門司・小倉・黒崎地区)、久留米(久留米・八女地区)、筑豊(飯塚・田川地区)から臨時高速バスが運行される(各方面から1往復程度)。
; 車
: [[福岡高速道路|福岡都市高速道路]][[福岡高速環状線|環状線]] [[百道出入口|百道ランプ]]または[[西公園出入口|西公園ランプ]]より約5分。
:* イベント開催時は駐車場が大変混み合うため、公共交通機関での来場を勧めている。
:* ドーム敷地内に約1,700台収容の駐車場あり(通常時は時間制、野球・イベント時は定額制、夜間留め置き不可)。
:* 近隣のコインパーキング利用も可能。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Fukuoka Dome}}
* [[日本の野球場一覧]]
* [[日本の見本市会場一覧]]
* [[スポーツに関する日本初の一覧]]
* [[日本の命名権導入施設一覧]]
* [[ホークスタウン]]
* [[唐人町商店街 (福岡市)|唐人町商店街]]
* [[福岡オリンピック構想]]
== 外部リンク ==
* [https://www.softbankhawks.co.jp/stadium/ 福岡 PayPayドーム {{!}} 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト]
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{{本拠地の変遷|[[平和台球場]]|1989|1992|[[福岡ソフトバンクホークス]]|1993|現在|n/a| | }}
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大正新脩大蔵経
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大正新脩大蔵経(大正新脩大藏經、たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)は、大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)までの10年間をかけて日本の大正一切経刊行会が編纂した大蔵経。北宋代に蜀(四川省)で開版された漢訳大蔵経である『開宝蔵』を最もよく保存していた朝鮮海印寺の高麗大蔵経再彫本を底本としつつ、日本にあった各地・各種の漢訳仏典をすべて調査校合した民間人の手による「漢訳仏典の総集」とも言えるものである。大正大蔵経、大正蔵ともいう。
編纂責任者は、高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙(おの げんみょう、1883-1939年、浄土宗僧侶)の3名。当時の仏教関係の大学研究者が一致協力し、校訂作業に当たった。
出版・刊行は大蔵出版が担っており、同社からは大正蔵を底本として新たな学術研究の成果を踏まえた現代日本語訳の大蔵経である『新国訳大蔵経』も、1990年代から刊行中である。大正蔵を底本とした日本語訳の大蔵経としては、他には、大東出版社から「印度撰述部155巻」と「和漢撰述部100巻」が刊行されている、より文量・翻訳量が多く網羅性が高い『国訳一切経』がある(なお、その他の日本語訳大蔵経としては、日本の各宗派の需要が高い仏典だけに的を絞った、比較的小部の『国訳大蔵経』『昭和新纂国訳大蔵経』などがある)。
2008年、大蔵経テキストデータベース研究会によって『大正新脩大蔵経』テキストデータベースがインターネット上で公開された。
17字詰29行3段組、各巻平均1,000ページになっている。正蔵(中国所伝)55巻、続蔵(日本撰述)30巻、別巻15巻(図像部12巻、昭和法宝総目録3巻)の全100巻から成り、漢訳の仏典の最高峰と呼ばれている。校訂不備多しとの批判はあるものの、世界における仏教界や仏教研究に寄与している。
日本撰述の仏典に関しては、主要なものだけであり、日本仏教を研究する場合には、別の文献を参照する必要がある。
大正新脩大藏經は、各図書館のリファレンスブックに指定されているので、主な図書館は所蔵している。
近年では、東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース(SAT)や台北の中華電子佛典協會(CBETA)といったプロジェクトが、大正藏の電子テキスト化を推進している。それらは、一定の制約内ではありながら自由に使用できる。
大乗経典の五部(般若・宝積・大集・華厳・涅槃)を筆頭に持ってくる伝統的な中国大蔵経の構成を廃し、近代仏教学の成果を踏まえて『阿含経』を筆頭に年代順・地域順に並べる構成となっている。通し番号は1から2920まで。
仏教関係論文に、しばしば「Txx-yyyz」とあるのは、大正蔵経のxx巻のyyyページz段の略である。
上述の如く、大正蔵の底本は高麗版であるが、高麗版に未収の仏典の場合は、他本が底本とされており、そのことは、各テキストの脚注および「大正新脩大蔵経勘同目録」(『昭和法宝総目録』第1巻)で確認できる。また、底本に対する「宋本」「元本」「明本」などの校勘本も記号化して脚注に記されている。但し、大正蔵、なかでも正編に関しては、月1冊という非常に速い間隔で、毎月出版されており、校勘の際に原典に当たらずに、先行する『大日本校訂大蔵経』(縮蔵)の校勘をそのまま引き継いでいる場合が多い。
また、短期間に完成したこともあって、間々誤植が見られる点も、利用の際に考慮する必要がある。また、校勘の漏れが見られる箇所もある。また、大正蔵のテキストには、句点「。」のみによって、区切りが施されている。これは、高麗版にしろ、他本にしろ、木版本である底本には無かったものであり、大正蔵の編集によって新たに加えられたものである。句点があることで、読みやすく使いやすいテキストとなった反面、誤植と同様、句点の打ち誤り、文意の通じない区切りがなされている場合も見られるので、その点も考慮する必要がある。
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大正新脩大蔵経(大正新脩大藏經、たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)は、大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)までの10年間をかけて日本の大正一切経刊行会が編纂した大蔵経。北宋代に蜀(四川省)で開版された漢訳大蔵経である『開宝蔵』を最もよく保存していた朝鮮海印寺の高麗大蔵経再彫本を底本としつつ、日本にあった各地・各種の漢訳仏典をすべて調査校合した民間人の手による「漢訳仏典の総集」とも言えるものである。大正大蔵経、大正蔵ともいう。 編纂責任者は、高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙の3名。当時の仏教関係の大学研究者が一致協力し、校訂作業に当たった。 出版・刊行は大蔵出版が担っており、同社からは大正蔵を底本として新たな学術研究の成果を踏まえた現代日本語訳の大蔵経である『新国訳大蔵経』も、1990年代から刊行中である。大正蔵を底本とした日本語訳の大蔵経としては、他には、大東出版社から「印度撰述部155巻」と「和漢撰述部100巻」が刊行されている、より文量・翻訳量が多く網羅性が高い『国訳一切経』がある(なお、その他の日本語訳大蔵経としては、日本の各宗派の需要が高い仏典だけに的を絞った、比較的小部の『国訳大蔵経』『昭和新纂国訳大蔵経』などがある)。 2008年、大蔵経テキストデータベース研究会によって『大正新脩大蔵経』テキストデータベースがインターネット上で公開された。
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{{基礎情報 書籍
| title = 大正新脩大蔵経
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| author = [[高楠順次郎]]、[[渡辺海旭]]、小野玄妙
| editor = 大正一切経刊行会
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'''大正新脩大蔵経'''(大正新脩大藏經、たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)は、[[大正]]13年([[1924年]])から[[昭和]]9年([[1934年]])までの10年間をかけて[[日本]]の大正一切経刊行会が編纂した[[大蔵経]]。[[北宋]]代に蜀([[四川省]])で開版された漢訳大蔵経である『開宝蔵』を最もよく保存していた朝鮮[[海印寺 (陜川郡)|海印寺]]の[[高麗大蔵経]]再彫本を底本としつつ、日本にあった各地・各種の漢訳[[仏典]]をすべて調査校合した民間人の手による「漢訳仏典の総集」とも言えるものである。'''大正大蔵経'''、'''大正蔵'''ともいう。
編纂責任者は、[[高楠順次郎]]・[[渡辺海旭]]<ref>評伝に、『紫雲の人、渡辺海旭 壺中に月を求めて』(前田和男、ポット出版、2011年)</ref>・小野玄妙(おの げんみょう、1883-1939年、浄土宗僧侶)の3名。当時の仏教関係の大学研究者が一致協力し、校訂作業に当たった。
出版・刊行は[[大蔵出版]]が担っており、同社からは大正蔵を底本として新たな学術研究の成果を踏まえた現代日本語訳の大蔵経である『[[新国訳大蔵経]]』も、[[1990年代]]から刊行中である。大正蔵を底本とした日本語訳の大蔵経としては、他には、[[大東出版社]]から「印度撰述部155巻」と「和漢撰述部100巻」が刊行されている、より文量・翻訳量が多く網羅性が高い『[[国訳一切経]]』がある(なお、その他の日本語訳大蔵経としては、日本の各宗派の需要が高い仏典だけに的を絞った、比較的小部の『[[国訳大蔵経]]』『[[昭和新纂国訳大蔵経]]』などがある)。
[[2008年]]、大蔵経テキストデータベース研究会によって『大正新脩大蔵経』テキストデータベースがインターネット上で公開された。
== 概要 ==
17字詰29行3段組、各巻平均1,000ページになっている。正蔵(中国所伝)55巻、続蔵(日本撰述)30巻、別巻15巻(図像部12巻、昭和法宝総目録3巻)の全100巻から成り、漢訳の仏典の最高峰と呼ばれている。校訂不備多しとの批判はあるものの、世界における仏教界や仏教研究に寄与している。
日本撰述の仏典に関しては、主要なものだけであり、日本仏教を研究する場合には、別の文献を参照する必要がある。
大正新脩大藏經は、各図書館のリファレンスブックに指定されているので、主な図書館は所蔵している。
近年では、東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース(SAT)<ref>[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/ SAT大正新脩大藏經テキストデータベース] 東京大学大学院人文社会系研究科 大藏經テキストデータベース研究会(SAT)</ref>や台北の中華電子佛典協會(CBETA)<ref>[http://www.cbeta.org/ 中華電子佛典協會(CBETA)]</ref>といったプロジェクトが、大正藏の電子テキスト化を推進している。それらは、一定の制約内ではありながら自由に使用できる。
{{Wide image|Daizoukyou.png|800px|大正新脩大藏經までの主要な漢訳大蔵経系列}}
==構成==
大乗経典の五部([[般若経|般若]]・[[宝積経|宝積]]・[[大集経|大集]]・[[華厳経|華厳]]・[[涅槃経|涅槃]])を筆頭に持ってくる伝統的な中国大蔵経の構成を廃し、近代仏教学の成果を踏まえて『[[阿含経]]』を筆頭に年代順・地域順に並べる構成となっている。通し番号は1から2920まで。
仏教関係論文に、しばしば「Txx-yyyz」とあるのは、大正蔵経のxx巻のyyyページz段の略である。
*インド撰述部(No1-No1692)
**[[阿含部 (大正蔵)|阿含部]](No1-No151)
**[[本縁部 (大正蔵)|本縁部]](No152-No219)
**[[般若部 (大正蔵)|般若部]](No220-No261)
**[[法華部 (大正蔵)|法華部]](No262-No277)
**[[華厳部 (大正蔵)|華厳部]](No278-No309)
**[[宝積部 (大正蔵)|宝積部]](No310-No373)
**[[涅槃部 (大正蔵)|涅槃部]](No374-No396)
**[[大集部 (大正蔵)|大集部]](No397-No424)
**[[経集部 (大正蔵)|経集部]](No425-No847)
**[[密教部 (大正蔵)|密教部]](No848-No1420)
**[[律部 (大正蔵)|律部]](No1421-No1504)
**[[釈経論部 (大正蔵)|釈経論部]](No1505-No1535)
**[[毘曇部 (大正蔵)|毘曇部]](No1536-No1563)
**[[中観部 (大正蔵)|中観部]](No1564-No1578)
**[[瑜伽部 (大正蔵)|瑜伽部]](No1579-No1627)
**[[論集部 (大正蔵)|論集部]](No1628-No1692)
*中国撰述部(No1693-No2184)
**[[経疏部 (大正蔵)|経疏部]](No1693-No1803)
**[[律疏部 (大正蔵)|律疏部]](No1804-No1815)
**[[論疏部 (大正蔵)|論疏部]](No1816-No1850)
**[[諸宗部 (大正蔵)|諸宗部]](No1851-No2025)
**[[史伝部 (大正蔵)|史伝部]](No2026-No2120)
**[[事彙部 (大正蔵)|事彙部]](No2121-No2136)
**[[外教部 (大正蔵)|外教部]](No2137-No2144)
**[[目録部 (大正蔵)|目録部]](No2145-No2184)
*日本撰述部(No2185-No2731)
**[[続経疏部 (大正蔵)|続経疏部]](No2185-No2245)
**[[続律疏部 (大正蔵)|続律疏部]](No2246-No2248)
**[[続論疏部 (大正蔵)|続論疏部]](No2249-No2295)
**[[続諸宗部 (大正蔵)|続諸宗部]](No2296-No2700)
**[[悉曇部 (大正蔵)|悉曇部]](No2701-No2731)
*[[古逸部 (大正蔵)|古逸部]](No2732-No2864)
*[[疑似部 (大正蔵)|疑似部]](No2865-No2920)
== 校勘 ==
上述の如く、大正蔵の底本は[[高麗]]版であるが、高麗版に未収の仏典の場合は、他本が底本とされており、そのことは、各テキストの脚注および「大正新脩大蔵経勘同目録」(『昭和法宝総目録』第1巻)で確認できる。また、底本に対する「宋本」「元本」「明本」などの校勘本も記号化して脚注に記されている。但し、大正蔵、なかでも正編に関しては、月1冊という非常に速い間隔で、毎月出版されており、校勘の際に原典に当たらずに、先行する『大日本校訂大蔵経』(縮蔵)の校勘をそのまま引き継いでいる場合が多い。
また、短期間に完成したこともあって、間々[[誤植]]が見られる点も、利用の際に考慮する必要がある。また、校勘の漏れが見られる箇所もある。また、大正蔵のテキストには、[[句点]]「。」のみによって、区切りが施されている。これは、高麗版にしろ、他本にしろ、木版本である底本には無かったものであり、大正蔵の編集によって新たに加えられたものである。句点があることで、読みやすく使いやすいテキストとなった反面、誤植と同様、句点の打ち誤り、文意の通じない区切りがなされている場合も見られるので、その点も考慮する必要がある。
==出版・閲覧==
===書籍===
*『大正新脩大蔵経』(全88巻)1924-1932年 大正一切経刊行会 [[大蔵出版]] (普及版のみ販売中 四六倍判/ソフトカバー装)
**『インド部』(全32巻)
**『中国部』(全24巻)
**『日本部』(全29巻)
**『目録部』(全3巻)
== 参考文献 ==
* 船山徹「大正蔵について」([[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター]]編『漢籍はおもしろい』所収「漢語仏典」1, [[2008年]])
==注・出典==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Wikisource|大正新脩大蔵経|大正新脩大藏經}}
* [https://id.ndl.go.jp/bib/000000879836 国会図書館収蔵書誌情報]
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html SAT大正新脩大藏經テキストデータベース] - [[東京大学大学院]]人文社会系研究科 大藏經テキストデータベース研究会(SAT)
* [http://daizoshuppan.azurewebsites.net/usr/info/WEB%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C%E7%9B%AE%E9%8C%B2.pdf WEB大正新脩大蔵経 目録(PDF)] - [[大蔵出版]]サイト内にある目録
* [http://tripitaka.cbeta.org/T CBETA 漢文大蔵経 - 大正藏 (T)] - CBETA(中華電子仏典協会)
* [https://digitalnagasaki.hatenablog.com/entry/20140226/1393417764 『大正新脩大藏經刊行に関わるあれこれ』] - 一般財団法人人文情報学研究所 所長/主席研究員 東京大学大学院情報学環特任准教授 永崎研宣氏個人ブログ
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13,740 |
キヤノンITソリューションズ
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キヤノンITソリューションズ株式会社(キヤノンアイティーソリューションズ、Canon IT Solutions Inc.)は、キヤノングループ最大のシステムインテグレーターである。
キヤノンマーケティングジャパンの連結子会社であり、キヤノングループにおけるIT分野の中核を担う企業である。
キヤノンシステムソリューションズとアルゴ21が2008年(平成20年)4月1日に合併し、発足した。東京、小杉、西東京、大阪、名古屋、刈谷、宇都宮に事業所を置く。2009年(平成21年)、中国ソリューション事業推進室を設置し、2014年にはタイのIT会社を傘下に加えるなど、海外事業を強化している。
2019年9月に本社を港区のキヤノンSタワーへ移転し、東京23区内に天王洲事業所、三田事業所がある。
製造業と金融業を中心に、流通・サービス業、公共・公益、医療、文教など、業種別に扱う。
コンシューマー機器、オフィス機器、産業機器、車載製品などの組み込みソフトウエアや制御システムを開発する。
コンピュータネットワークの設計・構築、データベースの構築・サポート、運用管理システムの構築、ハイパフォーマンスコンピューティング (HPC) 環境の構築、ディザスタリカバリ対策、24時間365日の運用サポートサービスなどを手掛ける。
西東京データセンターと子会社のクオリサイトテクノロジーズが運営する名護市のデータセンターを用い、ホスティング、ハウジング、ISPサービスを提供している。キヤノンの法人向けISP・ASPである「Canonet」のサーバを運用する。
ファイアウォールやアンチウイルスソフトウェア、コンテンツフィルタリング製品などのセキュリティ製品を開発・販売し、マルウェア解析サービスを提供する。2019年から本領域の企画・開発はキヤノンマーケティングジャパンへ移管している。
DTPソフトウエアの開発と販売を手がけ、電子帳票システムやOCRシステムの構築、キヤノン製複合機・プリンターのアプリケーションプラットフォームであるMEAPに対応したシステム開発する。
オブジェクト指向開発技術、クラウドなどの基盤開発、オープンソースソフトウエア、パターン認識などの影像認識、自然言語処理を研究する。オペレーションズリサーチ (Operations Research) を用いたシステム開発やコンサルティングを提供する数理技術部門は、同技術を活用したソリューションパッケージを開発する。
など。
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キヤノンITソリューションズ株式会社は、キヤノングループ最大のシステムインテグレーターである。
|
{{基礎情報 会社
|社名 = キヤノンITソリューションズ株式会社
|英文社名 = Canon IT Solutions Inc.
|ロゴ = [[ファイル:Canon_wordmark.svg|250px]]
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|略称 = キヤノンITS
|本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]] 2-16-6キヤノンSタワー
|天王洲事業所所在地 = 東京都[[品川区]][[東品川]] 2-4-11野村不動産天王洲ビル
|国籍 = {{JPN}}
|設立 = [[1982年]]([[昭和]]57年)[[7月1日]]
|業種 = 5250
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 情報システムのコンサルティング・設計・構築、運用管理・保守サービスの提供<br>ソフトウエアの開発・販売
|代表者 = 金澤明(代表取締役社長)
|資本金 = 36億1700万円
|売上高 = 1095億4800万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/5d04b/293172 キヤノンITソリューションズ株式会社 第41期決算公告]</ref>
|営業利益 = 114億5700万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
|経常利益 = 116億9200万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
|純利益 = 82億4900万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
|純資産 = 570億6100万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
|総資産 = 811億5500万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
|従業員数 = 単体:3,740名(2021年[[12月31日]]現在)
|決算期 = [[12月31日]]
|主要株主 = [[キヤノンマーケティングジャパン]](100%)
|主要子会社 = 佳能信息系統(上海)有限公司
|関係する人物 = 佐藤雄二郎<br>太田清史<br>[[浅田和則]]
|外部リンク = https://www.canon-its.co.jp/
|特記事項 =
|
}}
'''キヤノンITソリューションズ株式会社'''(キヤノンアイティーソリューションズ、''Canon IT Solutions Inc.'')は、[[キヤノン|キヤノングループ]]最大の[[システムインテグレーター]]である。
== 概要 ==
[[キヤノンマーケティングジャパン]]の[[連結子会社]]であり、キヤノングループにおけるIT分野の中核を担う企業<ref>
[https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/1199179.html 真に頼れるITパートナーへの脱皮を目指す――、キヤノンITS・金澤明社長が経営戦略を説明]</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20190801-869451/ キヤノンITSの金澤新社長が2019年下期の戦略を説明]</ref>である。
キヤノンシステムソリューションズとアルゴ21が[[2008年]]([[平成]]20年)4月1日に合併し、発足した。[[東京]]、[[川崎市|小杉]]、[[西東京市|西東京]]、[[大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[刈谷市|刈谷]]、[[宇都宮市|宇都宮]]に事業所を置く。[[2009年]](平成21年)、中国ソリューション事業推進室を設置し、2014年にはタイのIT会社を傘下に加えるなど、海外事業を強化している。
2019年9月に本社を港区のキヤノンSタワーへ移転し、東京23区内に天王洲事業所、三田事業所がある。
== 主な事業 ==
=== 業種別のSI ===
製造業と金融業を中心に、流通・サービス業、公共・公益、医療、文教など、業種別に扱う。
=== エンベデッド ===
コンシューマー機器、オフィス機器、産業機器、車載製品などの[[組み込みシステム|組み込みソフトウエア]]や制御システムを開発する。
=== IT基盤構築 ===
[[コンピュータネットワーク]]の設計・構築、[[データベース]]の構築・サポート、運用管理システムの構築、[[高性能計算|ハイパフォーマンスコンピューティング (HPC) ]]環境の構築、[[ディザスタリカバリ]]対策、24時間365日の運用サポートサービスなどを手掛ける。
=== iDC ===
西東京[[データセンター]]と子会社の[[クオリサイトテクノロジーズ]]が運営する[[名護市]]のデータセンターを用い、ホスティング、ハウジング、ISPサービスを提供している。[[キヤノン]]の法人向け[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]・[[アプリケーションサービスプロバイダ|ASP]]である「Canonet」のサーバを運用する。
=== セキュリティ ===
[[ファイアウォール]]や[[アンチウイルスソフトウェア]]、コンテンツフィルタリング製品などの[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]製品を開発・販売し、[[マルウェア]]解析サービスを提供する。2019年から本領域の企画・開発はキヤノンマーケティングジャパンへ移管している。
=== ドキュメント ===
[[DTP]]ソフトウエアの開発と販売を手がけ、[[電子帳票システム]]や[[光学文字認識|OCR]]システムの構築、キヤノン製複合機・プリンターのアプリケーションプラットフォームである[[MEAP]]に対応したシステム開発する。
=== ソリューション事業 ===
*[[企業資源計画|ERP]]/[[顧客関係管理|CRM]]:[[mcframe]]、[[salesforce]]、経営基盤ソリューション[[SuperStream]]などを活用したシステム構築、[[ビジネスインテリジェンス]]/[[企業パフォーマンス管理]]のシステム構築を手掛ける。
*[[電子データ交換|EDI]]:各種規格に準拠したソフトウエアを自社開発する。
*マイグレーション:[[メインフレーム]]環境を中心とした[[レガシーマイグレーション|マイグレーション]]を提供する。
*環境:[[グリーン購入|グリーン調達]]支援システムや[[環境会計|MFCA]]分析システムを開発・販売する。
*モバイルシステム:[[キヤノン電子]]製の[[ハンディターミナル]]を用い、製造・金融・流通などの各業種向けシステムを開発・販売する。
=== 研究開発 ===
[[オブジェクト指向]]開発技術、[[クラウドコンピューティング|クラウド]]などの基盤開発、[[オープンソース]]ソフトウエア、[[パターン認識]]などの影像認識、[[自然言語処理]]を研究する。[[オペレーションズリサーチ]] (Operations Research) を用いたシステム開発やコンサルティングを提供する数理技術部門は、同技術を活用したソリューションパッケージを開発する。
== 主な自社開発製品 ==
*in Campus Device(教育支援情報プラットフォーム)<ref>{{Cite web|和書|title=in Campus Device|キヤノンITソリューションズ |url=https://www.canon-its.co.jp/products/incampus_device/ |website=www.canon-its.co.jp |access-date=2023-08-12}}</ref>
*[[WebPerformer]](超高速開発ツール)
*AgentSquare(シンジケートローンエージェント支援システム)
*C2V Conected(正規品判定クラウドサービス)
*テレワークサポーター(テレワーカーの勤務支援クラウドサービス)
*FORMAST(需要予測・需給計画システム)
*GUARDIANWALL(電子メール監査、コンテンツフィルタリング) 2019年にキヤノンマーケティングジャパンへ移管した。
*RouteCreator(物流・輸配送・配車計画)
*各種EDI製品等
など。
== 沿革 ==
=== キヤノンシステムソリューションズ株式会社 ===
* [[1982年]]([[昭和]]57年)- [[住友金属工業]]子会社として'''住金システム開発株式会社'''を設立。
* [[1989年]]([[平成]]元年)- 住友金属システム開発に社名変更。
* [[1991年]](平成3年)- [[通商産業省]]システムインテグレータ企業に認定。
* [[1995年]](平成7年)‐ サンネットと合併。
* [[1997年]](平成9年)
** 住友金属工業システム事業部より、ソフト商品開発・販売業務および社内システム開発業務を編入。
** 住金控制系統(上海)有限公司を設立。
* [[2000年]](平成12年)- 住友金属情報システム、住金ソフトウエアファクトリー、住金制御エンジニアリングの3社と合併し、'''株式会社住友金属システムソリューションズ'''に社名変更。
* [[2003年]](平成15年)- キヤノン販売(現・キヤノンMJ)傘下となり、'''キヤノンシステムソリューションズ株式会社'''に社名変更。住金控制系統(上海)有限公司を[[佳能控制系統(上海)有限公司]]に社名変更。
* [[2004年]](平成16年)- キヤノン販売の基幹SI部門を編入。
* [[2005年]](平成17年)- [[アステラス製薬]]から株式会社[[キヤノンITSメディカル|FMS]]の株式譲渡を受け、同社を子会社化。
* [[2006年]](平成18年)
** キヤノンMJのドキュメントソリューション開発部門を編入。同時に、[[キヤノン]]製品向けドライバー開発事業を譲受。
** クボタソリッドテクノロジーから[[CAD]]事業([[SolidWorks]])の販売部門を譲受。
* [[2007年]](平成19年)- キヤノンMJの医療向けソリューション事業を編入。
* [[2008年]](平成20年)- キヤノンMJの[[高性能計算|ハイパフォーマンスコンピューティング(HPC)]]事業(旧・キヤノン・スーパーコンピューティング・エスアイ)、環境ソリューション事業、特許ソリューション事業、コンサルティング事業を編入。
=== 株式会社アルゴ21 ===
* [[1984年]](昭和59年)- 日本ユニバック(のちの日本ユニシス、現・[[BIPROGY]])に在籍していた技術者が中心となり、'''株式会社アルゴ二十一'''を設立。
* [[1985年]](昭和60年)- アルゴグラフィックスおよびマーテック二十一を設立。
* [[1988年]](昭和63年)- 通商産業省システムインテグレータ企業に認定。
* [[1989年]](平成元年)- 日本テクノシステム株式会社を吸収合併し、社名を'''株式会社アルゴテクノス二十一'''に変更。
* [[1997年]](平成9年)‐ 株式を店頭公開。
* [[1999年]](平成11年)
** ERPベンダーの[[エス・エス・ジェイ|SSJ]]を子会社化。
** [[東京証券取引所]]2部上場。
* [[2000年]](平成12年)
** 東京証券取引所1部指定替え。
** 内外データサービスを子会社化するとともに、同社とマーテック二十一とを合併しアルゴインテリジェントサービスに社名変更。
** 社名を'''株式会社アルゴ二十一'''に変更。
* [[2001年]](平成13年)
** システムインを子会社化し、株式会社アルゴコンサルティングサービスに社名変更
** 株式会社ユニテル(現・[[Pro-SPIRE]])に出資し、同社との協業でITコーディネータ育成教育事業を開始。
* [[2002年]](平成14年)
** 住金物産情報システムを吸収合併。
** ユニテルの教育事業を譲り受け、株式会社アルゴエデュケーションサービスを設立。
* [[2003年]](平成15年)- 社名を'''株式会社アルゴ21'''に変更。
* [[2004年]](平成16年)
** アルゴコンサルティングサービスを吸収合併。
** デジタルエンジニアリング部門をアルゴグラフィックスに譲渡。
** パソコンの保守サービス事業の一部を日本オフィス・システム株式会社に譲渡。
* [[2006年]](平成18年)- NRIガーデンネットワークを子会社化し、[[ガーデンネットワーク]]に社名変更。
* [[2007年]](平成19年)
** [[株式公開買い付け]](TOB)により[[キヤノンマーケティングジャパン]]の子会社となる。
** アルゴグラフィックスの自社株式買付に応募し、同社との資本関係を解消。
** Pro-SPIREとの資本提携を解消。
** キヤノンマーケティングジャパンの完全子会社となり、上場廃止。
* [[2008年]](平成20年)- ホテル向けソリューション事業をガーデンネットワークに移管。
=== キヤノンITソリューションズ株式会社 ===
* [[2008年]](平成20年)
** 株式会社アルゴ21とキヤノンシステムソリューションズ株式会社が合併し、'''キヤノンITソリューションズ株式会社'''が発足。同時にアルゴインテリジェントサービスの社名をAISに、アルゴエデュケーションサービスの社名を[[AES (企業)|AES]]にそれぞれ変更。
** ニイウスコーならびに[[ビックカメラ]]より、ビックニイウスの全株式を取得し、社名を[[クオリサイトテクノロジーズ]]に変更。
* [[2009年]](平成21年)
** キヤノンネットワークコミュニケーションズ株式会社を吸収合併。
** 医療ソリューション事業をFMSに移管し、同社社名を[[キヤノンITSメディカル]]に変更。
** 傘下のAISと[[キヤノンマーケティングジャパン|キヤノンMJ]]の子会社ソリューションサービスが合併し、[[キヤノンビズアテンダ]]に社名変更。
** 中国ソリューション事業推進室を設置し、現地企業向けのSI事業を本格化。
** キヤノンMJの中堅企業向けシステム営業部門を編入。
** [[エス・エス・ジェイ|SSJ]]の開発部門を編入<ref>[http://award.computernews.com/article/news/0911/091117_120917.html BCN] 2009年11月17日付記事「SSJ、販売に徹する新体制へ、開発部門を親会社のキヤノンITSに移管」</ref>。
* [[2010年]](平成22年)- [[キヤノンMJアイティグループホールディングス]]株式会社(キヤノンMJ-ITHD)傘下となる。
* [[2012年]](平成24年)
** 傘下のキヤノンビズアテンダが[[AES (企業)|株式会社AES]]を合併。
** [[Canon Software America|Canon Software America, Inc.]]を子会社化。
** SuperStream事業を傘下のSSJに統合し、SSJを[[スーパーストリーム]]に社名変更。
* [[2014年]](平成26年)- 傘下の[[ガーデンネットワーク]]の全株式を[[電算システム]]に譲渡。
* [[2015年]](平成27年)- [[キヤノンソフトウェア]]よりソリューション事業を継承。
* [[2016年]](平成28年)‐ キヤノンMJ内のIT事業再編に伴い、株主がキヤノンMJに変更。キヤノンMJ-ITHDの子会社であった、キヤノンソフトウェアと[[エディフィストラーニング]]を子会社化。
* [[2017年]](平成29年)
** キヤノンソフトウェア株式会社を吸収合併<ref>[https://www.canon-its.co.jp/news/detail/20170703.html キヤノンITソリューションズ株式会社とキヤノンソフトウェア株式会社を合併]</ref>。
** 傘下のキヤノンITSメディカル及びキヤノンビズアテンダの株式を、キヤノンMJへ譲渡。
** APTJ株式会社へ追加出資、車載制御システム向けプラットフォーム開発の参画強化。
** 西東京データセンターが国内で2社目のM&O認証(データセンターグローバル基準)を獲得。
* [[2023年]](令和5年)
** [[佳能信息系統(上海)]]有限公司の全持分を[[日本海隆]]に譲渡。
** スーパーストリーム株式会社を吸収合併。
== 関連会社 ==
=== 連結子会社 ===
*[[クオリサイトテクノロジーズ|クオリサイトテクノロジーズ株式会社]] - Javaに特化したシステム開発、データセンター運営・維持と付帯するサービス
* Canon Software America, Inc. - グループ企業向けの各種ビジネスアプリケーションの開発
* Canon IT Solutions (Thailand) Co., Ltd. - タイ、ベトナムのグループ企業の事業統括
* Material Automation (Thailand) Co., Ltd. - ITハードウエアからソフトウエアに関わる提案、販売、サービスの提供
*MAT Vietnam Company Limited - ITハードウエアからソフトウエアに関わる提案、販売、サービスの提供
=== その他の関連企業 ===
*[[エディフィストラーニング|エディフィストラーニング株式会社]] - 企業向けIT研修・マネジメント研修事業
*[https://www.bbsec.co.jp/ 株式会社ブロードバンドセキュリティ] - セキュリティサービスの提供
*[http://www.abmc.co.jp/ 株式会社ABM] - [[活動基準原価計算]]の支援サービスの提供
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{雑多|date=2017年8月|section=20}}
* [[ユーザー系]] : コンピューターメーカー以外を親会社に持つシステムインテグレータを指す。キヤノンITソリューションズもキヤノングループのIT革新やエンベデッド開発の一端を担う。
* [[形式手法]] : ソフトウエア開発手法の一つ。キヤノンITソリューションズの子会社であるAESが、同手法を用いた組込ソフトウエアの技術者育成研修を手掛ける[http://www.argo-aes.co.jp/download/news070724.pdfで参照]。
* [[公立はこだて未来大学]] :産学連携による寄付講座として「実践的IT人材育成講座」が開設され、講演協力を行う [http://codepro.c.fun.ac.jp/で参照]。
* [[日本オペレーションズ・リサーチ学会]] : OR理論ならびに手法の研究・開発を行い、経営・行政課題での活用を図る社団法人。賛助会員の1社。
* [[情報サービス産業協会|情報サービス産業協会(JISA)]]: 同社元顧問の佐藤雄二郎(アルゴ21設立者)が会長、太田清史([[野村総合研究所|NRI]]出身)が副会長を務めていた社団法人。
* [[バーチャルリアリティ]] : 同技術の一種である[[拡張現実]]/[[複合現実]] ([[:en:Mixed reality]])を実現する機器([[ヘッドマウントディスプレイ]])やプラットフォームを、キヤノン株式会社で開発しており、それを用いたシステム構築をキヤノンITソリューションズで行う。旧キヤノン・スーパーコンピューティング・エスアイで手掛けてきた[[高性能計算|ハイパフォーマンスコンピューティング(HPC)]]事業のひとつ。
* [[TouchUpWeb]] : 特定のウェブブラウザでの閲覧を前提に最適化されたウェブサイトを、[[FireFox]]で適切に表示させるためのシステム。[[情報処理推進機構|情報処理推進機構 (IPA)]] の 2005 年度下期オープンソースソフトウェア活用基盤整備事業の一環として、旧アルゴ21が[[Mozilla Japan]]と[[三菱総合研究所]]とともに開発した。
* [[アルゴ船]] : ギリシャ神話で、王子イアソンが英雄とともに大海原に船出した船の名前。旧アルゴ21の社名の由来となった。
== 外部リンク ==
* [https://www.canon-its.co.jp/ キヤノンITソリューションズ]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きやのんあいていそりゆしよんす}}
[[Category:キヤノン|あいていそりゆしよんす]]
[[Category:日本のシステムインテグレータ]]
[[Category:日本のソフトウェア会社]]
[[Category:日本のインターネットサービスプロバイダ]]
[[Category:組み込みシステム|業]]
[[Category:品川区の企業]]
[[Category:1982年設立の企業]]
[[Category:港南 (東京都港区)]]
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2023-11-03T15:26:14Z
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"Template:雑多",
"Template:Normdaten"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%B3IT%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA
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MUSICMATCH MP3 Jukebox
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MUSICMATCH MP3 Jukebox(ミュージックマッチ・エムピースリー・ジュークボックス)は、アメリカのMusicmatch社が開発していた、MP3の生成・再生ソフトウェア。MP3ファイルへの高速変換や、多彩なプラグインによる拡張性が特徴。
通常版と、本格的なマスタリングを可能とするPRO版の2種類のエディションがあった。最終バージョンは10.0(日本語版は9.0で販売終了)。2004年にMusicmatch社がYahoo!に買収され、翌2005年にMUSICMATCH MP3 Jukeboxをベースとした無料のYahoo! Music Jukeboxがリリースされた。
日本での単体パッケージとしては、キヤノンシステムソリューションズが2005年12月まで日本語ローカライズ、販売を担当していた。また、AppleのWindows版iPodの同期用ソフトウェアとして製品に添付されていたMUSICMATCH Jukebox PlusはiPod向け機能を搭載したバリエーションである。なお、現在はアップル純正のiPod管理用ソフトのiTunesがWindowsプラットフォームにも対応したため、そちらが添付されるようになっている。MP3のエンコーダには、独Fraunhofer Institute製のものが採用されている。
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== 外部リンク ==
*[http://canon-sol.jp/product/jb/ キヤノンシステムソリューションズのページ]
*[http://music.yahoo.com/jukebox/ Yahoo! Music Jukebox]
[[Category:メディアプレーヤーソフト]]
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電算写植
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電算写植(でんさんしゃしょく)とは、手動写植による組版作業を電算機=コンピュータで行えるようにしたシステムのこと。電算植字(でんさんしょくじ)ともいわれる。
新聞社を含む印刷会社ごとに異なるシステム(CTS)と写植会社の写植機のシステムの双方を指し、印刷・出版業界内では「電算」と言えば電算写植のことを意味する。
本項目では日本の電算写植について述べる。海外での写植システムがコンピュータ化されていった過程はen:Phototypesettingを参照。
旧来の活版印刷や手動写植の欠点を補い、ワークフローを一新するものとして1960年代に登場した。日本では写研が開発したSAPTONシステムが初の電算写植システムで、まず大手新聞社の支社や地方新聞社などの小規模印刷から導入が進み、その後に朝日新聞社や凸版印刷といった大規模出版社による独自のシステムが開発された(朝日新聞社の「NELSON」、神戸新聞社の「六甲」等)。
1950年代に開発された「漢字テレタイプ」(通称「漢テレ」)というシステムの装置を受け継いでおり、アルファベットやかなが並んだ現在のコンピュータのキーボードではなく、打鍵する漢字の「要素」(部品)が大量に並び、文字の形で植字する文字を選んで打鍵する極めて複雑な打鍵装置を使う。写研の初期の電算写植機で採用された51種類の要素が並んだ(文字の並びから「一寸ノ巾配列」と呼ばれる)ものが有名だが、後期にはより複雑化した。
電算写植機の打鍵は慣れるとDTPより速いとされたが、オペレーターには活字の文選工と同じだけの熟練を要求された。電算機上で動作する編集組版ソフトウェアも、プログラミング言語と同様のコマンドの羅列で行う(「バッチ組版」「コマンド組版」などと呼ばれる)ため、取り扱いに熟練を要する上に、印刷するまで出力結果が全く分からなかった(後期の製品にはディスプレイが搭載され、ある程度は確認できるようになった)。写植においては、編集組版の工程だけでなく、下版までの製版の各工程ごとに、高価で複雑な装置と専門のオペレーターを必要とした。さらに、ほとんどの小規模出版で導入されていた写研のシステムは、導入コストもさることながら、フォントが活字時代のような買い切りではなく、印刷するたびに写研にフォント使用料を払う従量制であった。そのため普通のパソコン1台で組版から下版までの作業が行え、パソコンの画面に表示されたものと印刷される出力結果が同じであるWYSIWYGを実現し、モリサワのフォントが買い切りで使えるDTPが1989年に登場すると、そのコストの低さ・取り扱いの簡易さ・版下をすぐ確認できる高速性が評価され、まず小規模印刷からDTPに置き換えられていった。モリサワの書体は、写植時代は写研の書体よりも「ダサい」と考えられており、写研の書体よりも安価でありながら使用者が少なかったが、初期のDTPで唯一の選択肢だったということもあり、便利さにはかなわず、1990年代以降は写研に代わってモリサワの書体が広く使われるようになった。
電算写植は初期のDTPよりも高速印刷・大量印刷に適しており、また初期のDTPよりも「美しい」組版が可能だったため、大手新聞社や大手出版社では1990年代以後も電算写植が生き残ったが、DTPソフトの機能が向上した2000年代からDTPベースのシステムに次第に置き換えられている。
写研は出版の電算化と写植化を共にリードし、電算写植システムとフォント使用料で大きな利益を上げたが、そのためにDTPに乗り遅れ、1998年には組版業界の最大手の座をモリサワに奪われることとなった。
電算写植機は複数の専用ハードウェアで構成され、複雑かつ導入コストが極めて高かったため、DTPが一般化する1990年代までは予算や規模や用途に従ってさまざまな印刷機が存在していた。中でも、手動写植機から発展した電子制御式手動写植機や、電動和文タイプライターやワープロから発展した電子組版システムは、高機能化するに従って最終的に電算写植機とほとんど同じシステムを用いるようになっており、それらのシステムと電算写植システムとの差は曖昧である(広い意味で「電算写植機」に含まれることもある)。なお電算写植も最終的にDTPとほとんど同じシステムを用いるようになっており、その差は曖昧になっている。
手動写植機の開発は、電算写植機の開発とは別に1980年代まで続いており、その堅牢性や低コストが評価され、1990年代までは一定の需要があった。最終的には手動写植機もディスプレイ、メモリー、フロッピーディスク装置などを搭載した電子制御式手動写植機となり、電算写植機と遜色ない機能を備えるようになっている。特にモリサワが1986年に発売した手動写植機の最終形態「ROBO 15XY型」は、電算写植機と同様に組版を自動で行う上に、仮印字した写植の位置をディスプレイ上で確認して調整でき、さらに簡単な作図機能も備えるなど、写植機の内部で歯車が物理的に動作して文字盤を動かしている点を無視すればDTPに近い機能すら備えていた(手動写植機の詳細は写植機を参照)。
1980年代には電子組版というシステムも登場した。これは日本語ワープロ(ワープロ専用機)の登場後、その装置を編集組版機として流用したもので、CRTモニタで文字が確認できるなど電算写植と同様の利点がありながら、電算写植よりも安価に装置を導入でき、しかも操作に電算写植のような専門知識を必要としない。東レが1982年に発売した「FX500」を皮切りに、ワープロメーカーのNECや富士通、電動和文タイプメーカーのモトヤ(「LASER7」シリーズ)、電算写植機メーカーのリョービ(「RECS」シリーズ)、などから製品がリリースされていた。和文タイプの置き換えを狙って、和文タイプと同じ全文字配列の文字盤を用意していた製品が多かった。ワープロおよび和文タイプの装置をベースとしているため電算写植機と比べてレイアウトやフォントなどに制約があり、当初は企業内印刷物を印刷するために一般企業で導入されるのがメインだったが、次第に高機能化し、例えば活字ではなくレーザ出力に対応したモトヤの「LASER7」(1985年)や、手動写植の印字装置に対応したリョービの「RECS200」(1986年)などは「簡易電算写植」として、単色・小ロットの軽印刷をメインとしている印刷所でも導入する事例が増えた。これらのシステムは、1990年代にはワープロの代わりにパソコンを使うようになり、パソコンで動く編集組版ソフト、すなわちDTPとなった(モトヤの「ELWIN」シリーズ、リョービの「EP-X」など)。
その他にも、電子制御式ではない旧来の手動写植機や活版印刷機、和文タイプなども存在したが、これらは「経営者が高齢で新規の投資が難しい」などの特別な理由がない限り、2000年代までには全てDTPに一本化された。
日本における電算写植の歴史は、写研の「SAPTON」システムの歴史でもあるので、「SAPTON」システムを中心に記述する。DTPが普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。
電算写植システムの前史として、漢字テレタイプ(通称「漢テレ」)と呼ばれるシステムがある。
1950年代以前、文書を遠隔通信する際は、モールス信号などの電信符号を機械で仮名に翻訳する「かな印刷電信」が使われていたが、同音異義語を漢字変換する際のミスが起こりがちだったことから、漢字仮名交じり文を高速に遠隔通信するためには主に伝書鳩が使われていた。
そんな中、1954年に読売新聞社と防衛庁によって、漢字仮名交じり文を電信で遠隔通信する「漢テレ」と呼ばれるシステムと、人間がキーボードで打字した文字を自動で活字として鋳造し自動で植字まで行う「全自動活字鋳植機」(モノタイプ)と呼ばれるシステムが試作される。1955年には、朝日新聞社と新興製作所によっても同様の物が試作されるなど、日本の大手新聞社において、漢字仮名交じり文の遠隔通信システムの研究と自動鋳植機の導入が同時に進められていた。
そして1958年、ついに新興製作所が「漢テレ」を実用化する。これは、漢字仮名交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤(キーボード)付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取って符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」(当時はディスプレイがまだ発明されていなかったので、プリンタで印字することで受信した文字を確認する)などからなるものであった。
1959年には、各新聞社の統一文字コードであるCO-59が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社において漢テレによる自動活字鋳植システムが急速に普及した。これは記事の受信から活字の鋳植(鋳造・植字)までを自動化し、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が受信して漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、その紙テープの内容を自動活字鋳植機(モノタイプ)が読み取って全自動で鋳植まで行うシステムで、従来の文選や、人間が手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べても圧倒的な高速化が可能となった(自社取材記事の場合はテレタイプを使って自分で鑽孔しないといけない)。
この当時のシステムは、まだ金属活字であり、写植ではなかったが、統一文字コードCO-59、文字を紙テープに記録する鑽孔機、紙テープの内容を読み取る装置などは、初期の電算写植システムにも流用されることとなる。
一方、大手新聞社以外のほとんどの印刷所は、依然として人間の文選工が活字を一つ一つ手で拾って版を作る活版印刷を用いていた。このような状況の中、出版業界では1960年代前半から後半にかけて、写植の導入とコンピュータの導入がほぼ同時に進められ、まず写研が「SAPTONシステム」を実用化した。
なお漢テレおよび初期の電算写植で使われた「SCK-201形漢字鍵盤さん孔機」が1台だけ現存し、2010年に情報処理技術遺産に指定され保護されている。鑽孔機のキーボードは192個のキーと12個のシフトキーで構成され、合計192×12=2304字種を入力できる。一方、鑽孔テープの各文字に相当するコードは6穴2行で構成され、1行あたり2=64パターンのうち48パターンを使用するので、合計48×48=2304字種を記録できる。
日本で初めて開発された電算写植機が、写研の「SAPTONシステム」である。この時期の電算写植機は、写植機の中で文字盤が歯車で物理的に動作しているというアナログ方式なので、後のデジタルフォントを利用した方式と対比して「アナログ写植機」という。世界的には「第2世代電算写植機」に相当する(なお「第1世代電算写植機」は、写植する文字を一旦文字コードの形で紙テープに記録する方式を取らず、キーボードから直接文字盤を駆動して写植する方式で、日本ではこれに該当する製品はない)。
1920年代に写研の石井茂吉と森澤信夫(のちに写研を退職してモリサワを創業)によって写植が発明されたが、写植は主に端物に用いられ、本文組みには従来通りの活字組版が用いられていた。写研は写植を本文組版へも使用されることを目指し、1960年に全自動写植機「SAPTONシステム」を発表。
まず、1965年に全自動写植機サプトンの実用機「SAPTON-N3110」が完成し、1966年に日本社会党機関紙印刷局に最初に導入された。印字速度は毎分300字と、従来の全自動鋳植機の3倍相当にまで高速化されたが、この時点ではSAPTON-Nを利用するには、漢テレ用の漢字さん孔機で別途に編集した紙テープが必要とされたため、システムとして単体で完結するものではなかった。1966年には編集組版処理機能を組み込んだ紙テープ編集機の「SAPTEDITOR-N」が完成し、ようやく紙テープ編集機「SAPTEDITOR(サプテジタ)」と全自動写植機「SAPTON(サプトン)」を組み合わせた、実用的な写植システム「SAPTONシステム」が完成した。
新聞社向けの写植システム「SAPTON-N」は、1967年に朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に最初に納入された。書籍や雑誌などの本文組版を対象とした一般向けの写植システム「SAPTON-P」も1968年に実用化され、1969年8月にダイヤモンド社に最初に納入された。SAPTONシステムの導入と同時にダイヤモンド社は活字を廃止した。
「SAPTON」システムは、全自動写植機「SAPTON」とテープ編集機「SAPTEDITOR」で構成されており、テープ編集機「SAPTEDITOR」で紙テープ(鑽孔テープ)に記録された文字コードを、全自動写植機「SAPTON」で読み取って組版する形であった。「SAPTEDITOR-P」では制御部にリレーを用いた組版処理機能が組み込まれた。
「SAPTEDITOR」は後にトランジスタを用いて電子化され、より高度な組版処理機能が組み込まれたが、ユーザーからのテープ編集機に対する組版処理機能の拡張要求は増加する一方であり、その全てをハードウェア的に搭載するのは困難だと判断された。そのため、写研はハードウェアを標準化し、各種のユーザーからの要望に対してはソフトウェアの変更で対処することにし、コンピュータを用いた編集組版ソフトウェアの開発に着手する。
1969年に発表された「SAPTON-A」システム用に開発された「SAPCOL(サプコル)」が日本初の一般印刷向けの組版ソフトウェアである。編集組版用ミニコンピュータとしてはPDP-8が用いられ(これは1971年に日立製作所のHITAC-10に置き換えられた)、当時のコンピュータにはOSに相当するものがなかったため、OS相当のプログラムなども写研が自社で開発した。電算機(コンピュータ)上で動く紙テープ編集ソフトウェア「SAPCOL」の登場で、紙テープ編集機「SAPTEDITOR」はその役目を終えた。
「SAPTON-A」は1970年に群馬県の朝日印刷工業に納入された。これが日本初の電算写植システムである。また、新聞社向けのシステム「SAPTON-N」用のSAPCOLも同時に開発され、これを搭載したシステムは同年に神奈川新聞社に納入された。
1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、日本交通公社発行の時刻表が電算写植となった。
SAPTONシステムに収録される文字数の増加とともに、それまでのSAPTONシステムで使っていた漢テレ用の物を流用したキーボードではキーが不足してきたことから、1972年には「SAPTON-A」用の漢字さん孔機「SABEBE-N」のキーボードとして、左手側に15個のシフトキーを搭載した写研の独自のキーボード「SABEBE」が開発された。文字コードも漢テレの「CO-59」(2304字に対応)から、写研独自の「SKコード」(約20,000字種に対応)に移行。1972年発売の「SAPTON-Spits」に搭載された「SABEBE-S3001」ではシフトキーを30個搭載し、「一寸ノ巾」式見出しを割り当てた「一寸ノ巾式左手見出しキー」が採用され、これは「一寸ノ巾配列」として、写研のほかモリサワの電算写植機においても後々まで採用されることになる。
1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められた。仮印字した写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。
1970年代後半に登場した電算写植機は、これまでの写植機のような文字盤を使用せず、コンピュータのメモリにデジタルフォントを記憶させ、コンピュータの指令に応じて所定の文字を取り出し、CRTの蛍光面上にその文字を表示させ、それを感材に露光して写植する方式であり、「CRT写植機」と呼ばれる。文字盤を動かす「歯車」という機械的な稼働部品をなくすことで、さらなる印字の高速化が可能になった。文字の数が少ない欧米では1970年代後半の時点ですでに主流の方式で、日本でも更なる電算写植の高速化の為に求められていたが、日本語の写植では6000字を超えるデジタルフォントを扱う必要があるため、開発は難航していた。しかし写研が1977年に実現した。
まず、従来のSAPTONを改良し、システム内に実装されたアナログの文字円盤の中から従来と同様に1文字を選択し、それをブラウン管に投影して文字情報を電子信号化するという「アナログフォント方式」のCRT写植機「SAPTRON-G1」が1977年に開発された。8書体までの文字が利用可能となった「SAPTRON-G8N」は、1980年にサンケイ新聞大阪本社に導入され稼働を開始した。
その後、写研が1976年より提携していた米オートロジック社のCRT写植機「APS-5」を和文化し、デジタル化された明朝体とゴシック体を搭載した「デジタルフォント方式」のCRT写植機である「SAPTRON-APS5」を1977年に発表。株式会社電算プロセス(後にJTB印刷→佐川印刷)に導入され、時刻表の印刷がさらに高速化された。
文字と画像を一括して出力するシステムが求められていた。そのため写研は、CRT写植機の開発のために写研が提携したオートロジック社の「APS SCAN」を利用し、図版原稿をレーザーでスキャンするスキャナの「SAPGRAPH-L」を1979年に発表。また文字と画像を一括して出力する「レーザ出力機」の「SAPLS」を1979年に発表。
レーザ出力機だとドットフォントでは実用に耐えないことから、これまでのようなドットのデジタルフォントではなく、レーザ出力機でも文字が崩れずに出力できる「アウトラインフォント」も開発された。1981年、写研はアウトラインフォントの制作の為に、独URW社製のタイポグラフィー制作ソフト「IKARUS」(イカルス)を導入。写研は1981年当時「ゴナ」のファミリー化を進めており、書体デザイナーの中村征宏がデザインした「ゴナU」「ゴナE」をベースに光学処理によって「ゴナO」を制作・発表したところだったが、このイカルスシステムを用いてゴナのアウトライン化と同時に多ファミリー化を行うことにする。それまではファミリー書体の制作は全て人力で行っており、一つのファミリー書体の制作に1年はかかったが、イカルスシステムを用いることでコンピュータによって中間のウエイトの文字を自動的に作成でき、ファミリー書体の製作の効率化と統一したデザインが可能となった。写研は「ゴナL」「ゴナM」などを制作し1983年に発表、1985年にはさらに「ゴナH」「ゴナOH」などを発表し、「ゴナ」においてそれまで前例のない書体の大ファミリーを完成させる。イカルスシステムがアウトラインフォントの制作と書体のファミリー制作に有用であることが分かったので、写研は続いてイカルスシステムを用いた「本蘭明朝」と「ナール」のファミリー化およびアウトラインフォント化に着手する。1985年以降もファミリーが拡充され大ファミリーを形成した「ゴナ」は、写研の電算写植機とともに1980年代から1990年代にかけての日本の出版業界において多用されることになった。
写研による「レーザ写植機」の実用機は、1980年代前半より相次いで市販された。当時は日本の写植業界2位であったモリサワも、1980年に独ライノタイプ社と提携して電算写植機に参入し、同時期の写研の「SAPTONシステム」と同様のレーザ写植機「ライノトロン・システム」を展開している。
組み上がりを確認しながら(WYSIWYG)編集組版できるシステムが求められていたことから、写研は1984年にワークステーションPERQを利用した編集組版レイアウトターミナル「SAIVERT-N」を発売。画面への表示にアウトラインフォントではなくドットフォントを利用しているという制限はあったものの、電算写植システムにおいてほぼWYSIWYGが実現された。さらに1989年に発売された「SAIVERT-P」は、文字と画像を一緒に扱えるだけでなくペンタブレットを利用した簡単な作図機能も有しており、これを利用することで、従来のように写植で出力された文字と画像を切り貼りした後に烏口などで線を引いて版下を作るという「フィニッシュワーク」が必要なくなることから、従来は手動写植機が使われていたチラシや雑誌広告の制作においても電算写植システムが導入されるようになった。
この「レーザ写植機」が、写研を除く各メーカーの電算写植機の最終形態である。レーザ写植機は、1980年代から1990年代にかけて「写真が高精細になる」「CRTが液晶になる」などの改良が行われた。
「レーザ写植機」で実現された「文字と画像の統合処理」「アウトラインフォント」などの流れの先に、デスクトップ・パブリッシング(DTP)が登場する。レーザ写植システムで使用された「レーザ出力機」は、後にPostScriptに対応させ、初期のDTPでもMacからの出力機として流用されることとなる。
史上初の「PostScript対応のレーザ出力機」が、モリサワが提携していたライノタイプ社の「ライノトロン・システム」で用いられていた1985年発売の「ライノトロニック100」であった。
この当時使われていた「レーザ出力機」は、PC用として使われているレーザープリンターと同じ原理だが、紙にトナーを定着させるのではなく印画紙やフィルムに感光させる点が異なる。旧来の電算写植システムで利用された、文字だけを出力できる出力機を「タイプセッタ」と呼ぶのに対し、第4世代電算写植システムで使用された、文字と画像を一括して出力できるレーザ出力機を「イメージセッタ」と呼ぶ。もしイメージセッタがPostScriptに対応していた場合は電算写植システムとDTPのどちらでも出力が可能である(つまり、電算写植用に導入したレーザ出力機をDTPに流用できる)。電算写植またはDTPで制作した組版データを、「イメージセッタ」を使って一旦フィルムに出力し、それを元に改めて刷版を作成するという「CTF(Computer to Film)方式」は、電算写植からDTPへの過渡期にかけてよく行われていたが、組版データから直接刷版を作成する「CTP(Computer to Plate)方式」や、刷版を作成せずに組版データをプリンターで直接印刷する「オンデマンド方式」と比較すると手間がかかる上に、フィルムに起因する品質不良が発生する恐れがあるため、DTPの標準化に伴ってほとんど行われなくなった。
モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。電算写植機への参入は遅かったものの、「ライノトロン」シリーズの最初の製品であるデジタルフォント式電算写植機「ライノトロン202E」は、発売から3年で100台を納品するヒット商品となった。1986年には、電算写植用の新しいゴシック体ファミリーを制作するためにイカルスシステムを導入し、4年がかりで「新ゴシック体」を制作、1990年に発表する(「新ゴシック体」は、1993年にPostScriptフォント化され、DTP用の「新ゴ」として再発表される)。
写研・モリサワに次ぐ業界3位だったリョービ印刷機販売(リョービイマジクス)も、1983年に同社初の電算写植機となる「REONET300」を発表。1986年ごろには、自社のフォントをアウトラインフォント化するためにイカルスシステムを導入。
このような状況の日本に、DTPを引っ提げて米アドビ社がやって来る。
1986年当時、米アドビ社は日本のDTP業界への進出をもくろんでいたが、当時社員数十名のベンチャー企業であったアドビ社は、膨大な文字数に及ぶ日本語のPostScriptフォントを自社単独で制作することは不可能であると考えた。そのため、まず写研に提携を持ち掛けるが、断られた(写研の社長・石井裕子は情報公開に消極的でインタビューなどは断っていたため2018年に死去するまでの思惑は不明)。次にアドビはリョービに提携の話を持ち掛けるが、当時のリョービは自社システム向けのフォントのデジタル化だけで手いっぱいであり、DTP向けに新たにPostScriptフォントを制作することには前向きではなかった。そのため、アドビは最後にモリサワに話を持ち掛けた。
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携し、DTP(PostScript)に対応したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表。一方、日本でライノトロン社の製品を販売するモリサワ2代目社長の森澤嘉昭は「(自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで、後に3代目社長)にDTPを身に付けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる。日本語PostScriptフォントの制作にあたっては、イカルスシステムが使い物にならなかったためアドビ製のソフトウェアを導入し、20人体制で1年以上の制作期間となるなど難航したが、モリサワは1989年にアドビよりPostScript日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のPostScript書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
1987年、写研は自社の電算写植機において、ISDN回線を利用し電算機が写研のサーバーに接続されてフォントの使用1文字あたりで課金されるという「従量課金制」を導入する。その効果もあって、1991年には写研の年商が史上最高となる350億円に達した。この頃が日本における電算写植の全盛期である。しかし1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換えていく。DTPで利用できるフォントは、当初はモリサワの2書体だけであったものの、1989年には財団法人日本規格協会文字フォント開発・普及センターによる平成書体がリリースされ、また1991年にはフォントワークス(日本代理店ではなく香港の本社)からアップルのサードパーティ製としては初となる日本語フォントがリリースされるなど徐々に増えていく。なお工業技術院の求めに応じて写研が制作し、平成書体に収録された「平成丸ゴシック」が、2020年時点でDTPで利用可能な唯一の写研フォントである。特に、当時の製版業界で多用されていた写研の電算写植システム用フォント「ゴナ」とよく似たモリサワの電算写植用フォント「新ゴシック」がPostScriptフォント化され、DTPで使える「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。1992年リリースの日本語版「漢字Talk 7.1」では、アドビのPostScriptフォントに対抗すべくアップルが開発したTrueTypeフォントがOSレベルで標準サポートされ(それまでのMacでは、PostScriptフォントがプリンターに搭載されていたのに対し、OS側ではビットマップフォントしかサポートされていなかったため、画面に表示される文字はギザギザだった)、モリサワフォント、フォントワークス、平成書体など、DTPを扱う環境も整備されていった。
特に小規模印刷で大きなシェアを得ていた写研のSAPTONシステムだが、印刷までの工程ごとに複数の高価な専用ハードウェアが必要とされる電算写植に対して、市販のMac1台とDTPソフトの「QuarkXPress」「Illustrator」「Photoshop」で完結するDTPの方が圧倒的に安価であり、また従来は複数の専門オペレータによって分業されていた工程をDTPでは1人で行えるようになるという点でも、小規模システムはDTPへの移行が早く、電算写植のシステムは1990年代前半から後半にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。写研はDTPの流れに対抗すべく、MacやWindowsなどで作成されたデータもSAPCOLで編集できる「SAMPRAS」(サンプラス)システムを1997年に発表したが、DTPベースのシステムと比較すると極めて高価であり、またフォントが他社のDTPシステムのような「買い切り」ではなく「従量課金制」という点でも、小規模印刷所には受け入れられなかった。
なお写研の「SAMPRAS」システムは、UNIX(HI-UX)を搭載した日立のワークステーションがベースのカラー集版システム「SAMPRAS-C」、文章データと画像データを読み込んで保管するデータベースサーバ「IMERGE II」など、市販のサーバーをベースとした複数のハードウェアで構成されている。その中のテキスト編集機「GRAF」は、1960年代から使われている写研の伝統のテキスト編集ソフトウェア「SAPCOL」を内蔵してはいるものの、Windowsを搭載した市販のPCと同じAT互換機であるため、この時代になると電算写植機はDTPと全く同じハードウェアを用いるようになっている。電算写植はDTPと比べると複数の独自ハードウェアを用いる複雑なシステムに見えるが、熟練オペレーターにとってはこちらの方が逆にDTPよりも扱いやすく、DTPよりも美しい版がより迅速に作成できるという点でも、特に大手出版社においては電算写植を支持するオペレーターがいまだ多かったのも、1990年代当時においては事実である。
モリサワの電算写植機は、Windows 95の登場後にWindows PCベースのシステムにリプレースされた。しかし1997年当時、モリサワの売上の大半はすでに写植事業ではなくPostScriptフォント事業によるものとなっていた。写植業界1位の写研と比べると、モリサワの規模はもともとそれほど大きくなかったということもあり、DTP業界の拡大とともにモリサワの業績は拡大。電算写植システムの売り上げの急激な減少を「従量課金制」で補いながらも年商が下がり続ける写研に対し、多言語対応フォントの制作などDTP時代に対応し続けるモリサワは、1998年には年商ベースで写研を抜いてトップとなった。
大規模出版においては2000年代ごろまで電算写植が使われていたが、1999年にQuarkXPressを上回る機能を持つDTPソフトウェアAdobe InDesignが発売され、その機能が向上するにつれて、大規模出版を含むほとんどの出版がInDesignベースのDTPに置き換えられた。
2000年代以降にはPCで利用可能なデジタルフォントも充実し、写研を除くかつての写植メーカーがDTP向けのフォントの販売を行っているほか、InDesignでは扱うのが面倒な日本語の大規模自動組版向けのソリューション(モリサワの「MC-Smart」など)も存在している。かつて写植機という「ハードウェア」を販売していたモリサワは、デジタルフォントやDTPソフトその他をまとめ上げた「ソリューション」を販売する業態に転換した。リョービ(リョービ印刷機販売→CI導入でリョービイマジクスに社名変更→2012年にリョービ本体に吸収→2014年にオフセット部門が三菱重工印刷紙工機械と合併してリョービMHIグラフィックテクノロジー)はDTP時代においても中小型オフセット印刷機においては世界的な大手メーカーであり続けているが、フォント部門は2011年にモリサワに譲渡した。
写研は2000年代以降もDTPへの対応を全く行なわなかった。そもそも写研は情報公開に消極的で、2000年に電算写植用書体「本蘭ゴシック」を発表して以降の新作書体の発表がなく、公式ウェブサイトが2021年まで存在しなかったため、DTP時代への対処を検討しているのかしていないのか、何を商売にしているのかすらよく知られていなかった。そんな中、2011年の「第15回電子出版EXPO」に写研が突如として出展し、写研の名作フォントである「ゴナ」や「ナール」をOpenTypeフォント化する予定があるとのアナウンスを行ったが、2021年にモリサワとの共同開発が発表されるまで具体的な進展はなかった。
2000年に発売された写研の組版システム「Singis」はWindowsベースのシステムで、PhotoshopやIllustratorなども利用できるが、Singisに搭載された写研のフォントは独自形式で、写研のソフトウェアからしか利用できない。Singisと組み合わせる写植の各工程の専用ハードウェアはそれぞれ数百万円するため、Mac1台で完結するDTPと比較すると著しく高価であり、さらに使用するたびに使用料がかかる「従量課金制」である。SingisにはSAPCOLで記述された過去の電算写植データをPDF化する機能もあるため、いくつかの業者においては2010年代以降の電子書籍時代においても活用されているが、写研の閉鎖的なシステムは複数のソフトウェアやフォントを自由に利用する前提のDTPとは正反対で、ほとんどの業者においては電算写植時代のデータが2000年代以降に受け継がれることがないまま、電算写植機オペレータの廃業とともに歴史のかなたに消えることとなった。
鉄道のサインシステムは写研のフォントが使われていたが(JR東海は旧国鉄の「すみ丸ゴシック」も混用)、電算写植の技術を持つオペレーターが少なくなっていたため、DTPを使用せざるをえなくなり、看板が古くなって交換する2010年代以後に「写研のフォントとよく似たデジタルフォント」に次第に置き換えられている。
放送業界においては、1984年に写研の電子テロップシステム「TELOMAIYER」(テロメイヤー)が発売され、これは写植を介さずに直接感熱記録紙に印字できるので、その時点で写植ではなくなっている。放送業界ではその後もしばらく写研の電子テロップシステムによるものと並行して、写研の電算写植機によるテロップが使われていたが、例えばNHK年鑑では1994年度以降は「写植」の文字が登場しなくなり、そのころに電算が廃止されたようである。ちなみに放送業界においても、番組制作のデジタル化が進むとともに、やはり電算機と同様に「わざわざ写研の電子テロップシステムを使わなくても、Macに元から入っているフォントで十分」ということになり、写研のフォントは2000年代以降にはほとんど使われなくなった。しかし2021年現在でもアニメ業界ではシンエイ動画制作の『クレヨンしんちゃん』において写研のフォントを使用している。他にも東映アニメーション制作の『プリキュアシリーズ』が2011年の『スイートプリキュア♪』まで写研のフォントを使い続けていたが、2012年の『スマイルプリキュア!』からフォントワークスのフォントに移行した。
漫画においては、2000年代前半までは講談社を除くほとんどの出版社では写研の電算写植機でネームを印字して貼り込んでおり、例えば集英社の『週刊少年ジャンプ』で必殺技を叫ぶ際などに使われている書体は写研の「ゴナ」であった(一方、講談社はモリサワの「アンチックAN」をよく使っていた)。写研はSAMPRAS-C上で動くマンガ編集システム「ハヤテ」を2000年に開発し、Macと比べて著しく高価なWindowsベースのシステムではあるものの、これを使えば編集者が生原稿の手書きネームを消しゴムで消して写植のネームを水平垂直がズレないよう丁寧に貼り込んだりする必要もなく、原稿をスキャンしてPC上で一括で処理できるようになり、またPCの画面でラフ画稿に写植を貼り込んで初稿を出したりもできるようになることから、『週刊少年マガジン』など講談社グループの漫画の製版を手掛ける豊国印刷も2001年に「ハヤテ」を導入した。一方で豊国印刷では漫画製版のMac製版(DTP)への移行が進められており、2003年にモリサワに依頼してMac(DTP)用としては初となる「アンチック体」(漫画で最も一般的に用いられるフォント)をリリースさせ、2005年にはInDesignをベースとした漫画製版システムを自社開発する。『週刊少年サンデー』を印刷する大日本印刷も、2003年にアドビと提携してInDesignを導入する。『週刊少年ジャンプ』の印刷を手がける共同印刷では、『週刊少年ジャンプ』の原稿を入稿して2〜3時間で出稿まで持っていくというような高速性を「職人技」に頼っていたため、コミック製版のDTP化が遅れていたが、この職人技をDTPに置き換えるため、2003年にInDesignをコアに使用した漫画用の組版システム「ComicPacker」を自社開発した。2006年より共同印刷がソフトバンクと共同で漫画のデジタル配信サービスを手掛けるようになると、「ComicPacker」は漫画のデジタル配信用データの作成ソフトとしても注目されるようになり、その過程で出た「DTPにはコミック特有の書体バリエーション(例えばホラー用の「イナクズレ」など)がない」という出版社からの要求に答えるため、共同印刷はフォントワークスに働き掛けてDTP用の漫画用フォントを制作させた。このような経緯で漫画におけるDTPの環境が整い、2000年代後半より順次に漫画製版のDTP化がなされた。連載漫画においては切りのいいところまで従来のフォントを使い続ける場合もあるため、漫画ごとに電算写植(写研の写植機を用いた製版)からDTP(MacとInDesignを用いた製版)への移行が順次に進むことになるが、例えば『週刊少年サンデー』では2007年から写研(電算写植)の「中見出しアンチック」に代わってモリサワ(DTP)の「学参かなアンチック」が、大手漫画雑誌の中では最もDTP化が遅れていた『週刊少年ジャンプ』でも2010年春ごろから写研(電算写植)の「ゴナ」に代わってモリサワ(DTP)の「新ゴ」が使われ始めたことが確認されている。「イナクズレ」「淡古印」も、DTP用に新たに開発された「コミックミステリ」または「万葉古印ラージ」に置き換えられた。
一方、どうしても「シリーズの途中でフォントを変えたくない」「写研のフォントが使いたい」というニーズもあることから、2010年代以降もInDesignと並んで写研の電算写植機が現役で稼働している製版会社もある。例えば、文芸誌や漫画の製版・集版を手掛ける株式会社ステーションエスでは、2019年現在もInDesignと並んで8台の電算写植機が稼働しているという。2019年現在では紙に書かれる漫画も少なくなったが、いまだにマンガ編集システム「ハヤテ」のユーザーも存在するとのこと。
電算写植からDTPに移行した2009年当時の講談社『モーニング』誌の編集者によると、編集者としてはフォントの形が微妙に違うことを気にしていたが、読者も作家もそれほど気にしていなかったという。
日本の電算写植の創始であるSAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースのXSL Formatting Objectsの普及に携わっていた。
写研の創業者である石井茂吉の三女で、1963年より写研の2代目社長を務めた石井裕子が2018年に死去。その後、写研の工場が解体・売却されるなど、写研の解体が進んでいる。
2020年夏ごろより、「ナール」や「ゴナ」と言った電算写植の時代を象徴する数々の書体を生み出した「写研文字部」が存在した写研の埼玉和光工場が解体された。埼玉工場はその時点で10年ほど稼働しておらず、建物(第一工場は1963年竣工、第二工場は1965年に竣工。1970年に第二工場の増築工事が行われ、その後「写研文字部」が東京大塚本社ビルから移転してきた)や看板(1972年、社名を「写真植字機研究所」から「写研」へと変更した際に橋本和夫が設計。この看板の文字をベースに中村征宏が写植用フォント「ファン蘭」を設計した)は老朽化していた。
2021年1月、モリサワは写研と共同で、2024年より写研の書体をOpenTypeフォント化することを発表した。2024年は、写研の創業者である石井茂吉とモリサワの創業者である森澤信夫が、邦文写真植字機の特許を1924年に共同で申請してから100周年に当たる。
写研の電算写植システムが利用しているNTTのISDN回線サービスは、2024年に廃止される。写研は2024年までは、写研のフォントが利用できることをセールスポイントとする電算写植システムの販売・レンタル・フォント使用料の徴収などを軸とした、独自のビジネスモデルを続ける予定である(その意味で、日本における電算写植の時代はまだ終わっていないともいえる)。
写研やモリサワなどの写植機メーカーが開発して各社に販売した電算写植機とは別に、日本の大手印刷会社や新聞社などでは自社向けに自力で開発した専用の電算写植システムも存在する。これは「Computer Typesetting System」(CTS)と呼ばれる。1960年代から2000年代にかけて使われた。
NELSON(New Editing & Layout System Of Newspaper、ネルソン)は、朝日新聞社とIBMが共同開発した電算写植システムである。1980年に稼働し、2005年まで使われた。新聞製作に特化したシステムで、インターネットに記事が流用できないなど問題があり、またメインフレーム上に構築されているので維持費がかかったため、2005年にはオープンサーバー上に構築された「メディア系システム」に置き換えられた。
日経新聞社のANNECSも朝日新聞社のものと同時期にIBMが開発した。
凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe InDesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。
1960年代から1970年代にかけての手動写植に対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。
一方で、電算写植の「早く組める」「大幅に直せる」という利点は、「後で直せるから」という意識につながり、原稿を組版工程に回す前段階で綿密に行われるべき編集者の原稿整理や校正、レイアウトなどがおろそかになった(誤植・誤報につながる)という指摘も多かった。暗算による字数計算に基づく紙面レイアウトなどの、活字時代には編集者の基本とされた技能が、組版技術の進化と反比例するように衰退したともいわれる。それはDTP時代になると、かつてならばあり得なかったであろう「仮組み」(とりあえず組んでみて、レイアウトを調節する)などが行われることにつながる。
1960年代当時は文字通り全て手動でハードウェアを管理・制御する形式であった「手動写植機」であるが、1980年代には「電子制御手動写植機」となり、コマンドをフロッピーディスクに記録できるなど電算写植機に近い機能を備えるようになり、電算写植機との差はあまりなくなっていた。
1980年代から1990年代にかけての初期のDTPに対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。
一方で、上記のDTPの欠点は1990年代から2000年代にかけて解消されていった。電算写植からDTPの移行においては、電算写植機の「コード」をAdobe InDesignの「スクリプト」やXMLで置き換える試みがなされ、また日本語の大量ページ物の組版の効率化への要求に対しては、モリサワがMC-Smartを用意した。
なお電算写植は1960年代には旧来の写真植字の機構を電算機で管理・制御する形式であったが、1990年代には市販のサーバーやPCベースのシステムとなり、PostScriptへの対応やWYSIWYGを実現したシステムも登場するなどDTPに近い機能を備えるようになり、DTPとの差はあまりなくなっていた。
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"text": "電算写植(でんさんしゃしょく)とは、手動写植による組版作業を電算機=コンピュータで行えるようにしたシステムのこと。電算植字(でんさんしょくじ)ともいわれる。",
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"text": "新聞社を含む印刷会社ごとに異なるシステム(CTS)と写植会社の写植機のシステムの双方を指し、印刷・出版業界内では「電算」と言えば電算写植のことを意味する。",
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"text": "本項目では日本の電算写植について述べる。海外での写植システムがコンピュータ化されていった過程はen:Phototypesettingを参照。",
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"text": "旧来の活版印刷や手動写植の欠点を補い、ワークフローを一新するものとして1960年代に登場した。日本では写研が開発したSAPTONシステムが初の電算写植システムで、まず大手新聞社の支社や地方新聞社などの小規模印刷から導入が進み、その後に朝日新聞社や凸版印刷といった大規模出版社による独自のシステムが開発された(朝日新聞社の「NELSON」、神戸新聞社の「六甲」等)。",
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"text": "1950年代に開発された「漢字テレタイプ」(通称「漢テレ」)というシステムの装置を受け継いでおり、アルファベットやかなが並んだ現在のコンピュータのキーボードではなく、打鍵する漢字の「要素」(部品)が大量に並び、文字の形で植字する文字を選んで打鍵する極めて複雑な打鍵装置を使う。写研の初期の電算写植機で採用された51種類の要素が並んだ(文字の並びから「一寸ノ巾配列」と呼ばれる)ものが有名だが、後期にはより複雑化した。",
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"text": "電算写植機の打鍵は慣れるとDTPより速いとされたが、オペレーターには活字の文選工と同じだけの熟練を要求された。電算機上で動作する編集組版ソフトウェアも、プログラミング言語と同様のコマンドの羅列で行う(「バッチ組版」「コマンド組版」などと呼ばれる)ため、取り扱いに熟練を要する上に、印刷するまで出力結果が全く分からなかった(後期の製品にはディスプレイが搭載され、ある程度は確認できるようになった)。写植においては、編集組版の工程だけでなく、下版までの製版の各工程ごとに、高価で複雑な装置と専門のオペレーターを必要とした。さらに、ほとんどの小規模出版で導入されていた写研のシステムは、導入コストもさることながら、フォントが活字時代のような買い切りではなく、印刷するたびに写研にフォント使用料を払う従量制であった。そのため普通のパソコン1台で組版から下版までの作業が行え、パソコンの画面に表示されたものと印刷される出力結果が同じであるWYSIWYGを実現し、モリサワのフォントが買い切りで使えるDTPが1989年に登場すると、そのコストの低さ・取り扱いの簡易さ・版下をすぐ確認できる高速性が評価され、まず小規模印刷からDTPに置き換えられていった。モリサワの書体は、写植時代は写研の書体よりも「ダサい」と考えられており、写研の書体よりも安価でありながら使用者が少なかったが、初期のDTPで唯一の選択肢だったということもあり、便利さにはかなわず、1990年代以降は写研に代わってモリサワの書体が広く使われるようになった。",
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"text": "電算写植は初期のDTPよりも高速印刷・大量印刷に適しており、また初期のDTPよりも「美しい」組版が可能だったため、大手新聞社や大手出版社では1990年代以後も電算写植が生き残ったが、DTPソフトの機能が向上した2000年代からDTPベースのシステムに次第に置き換えられている。",
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"text": "写研は出版の電算化と写植化を共にリードし、電算写植システムとフォント使用料で大きな利益を上げたが、そのためにDTPに乗り遅れ、1998年には組版業界の最大手の座をモリサワに奪われることとなった。",
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"text": "電算写植機は複数の専用ハードウェアで構成され、複雑かつ導入コストが極めて高かったため、DTPが一般化する1990年代までは予算や規模や用途に従ってさまざまな印刷機が存在していた。中でも、手動写植機から発展した電子制御式手動写植機や、電動和文タイプライターやワープロから発展した電子組版システムは、高機能化するに従って最終的に電算写植機とほとんど同じシステムを用いるようになっており、それらのシステムと電算写植システムとの差は曖昧である(広い意味で「電算写植機」に含まれることもある)。なお電算写植も最終的にDTPとほとんど同じシステムを用いるようになっており、その差は曖昧になっている。",
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"text": "手動写植機の開発は、電算写植機の開発とは別に1980年代まで続いており、その堅牢性や低コストが評価され、1990年代までは一定の需要があった。最終的には手動写植機もディスプレイ、メモリー、フロッピーディスク装置などを搭載した電子制御式手動写植機となり、電算写植機と遜色ない機能を備えるようになっている。特にモリサワが1986年に発売した手動写植機の最終形態「ROBO 15XY型」は、電算写植機と同様に組版を自動で行う上に、仮印字した写植の位置をディスプレイ上で確認して調整でき、さらに簡単な作図機能も備えるなど、写植機の内部で歯車が物理的に動作して文字盤を動かしている点を無視すればDTPに近い機能すら備えていた(手動写植機の詳細は写植機を参照)。",
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"text": "1980年代には電子組版というシステムも登場した。これは日本語ワープロ(ワープロ専用機)の登場後、その装置を編集組版機として流用したもので、CRTモニタで文字が確認できるなど電算写植と同様の利点がありながら、電算写植よりも安価に装置を導入でき、しかも操作に電算写植のような専門知識を必要としない。東レが1982年に発売した「FX500」を皮切りに、ワープロメーカーのNECや富士通、電動和文タイプメーカーのモトヤ(「LASER7」シリーズ)、電算写植機メーカーのリョービ(「RECS」シリーズ)、などから製品がリリースされていた。和文タイプの置き換えを狙って、和文タイプと同じ全文字配列の文字盤を用意していた製品が多かった。ワープロおよび和文タイプの装置をベースとしているため電算写植機と比べてレイアウトやフォントなどに制約があり、当初は企業内印刷物を印刷するために一般企業で導入されるのがメインだったが、次第に高機能化し、例えば活字ではなくレーザ出力に対応したモトヤの「LASER7」(1985年)や、手動写植の印字装置に対応したリョービの「RECS200」(1986年)などは「簡易電算写植」として、単色・小ロットの軽印刷をメインとしている印刷所でも導入する事例が増えた。これらのシステムは、1990年代にはワープロの代わりにパソコンを使うようになり、パソコンで動く編集組版ソフト、すなわちDTPとなった(モトヤの「ELWIN」シリーズ、リョービの「EP-X」など)。",
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"text": "その他にも、電子制御式ではない旧来の手動写植機や活版印刷機、和文タイプなども存在したが、これらは「経営者が高齢で新規の投資が難しい」などの特別な理由がない限り、2000年代までには全てDTPに一本化された。",
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"text": "日本における電算写植の歴史は、写研の「SAPTON」システムの歴史でもあるので、「SAPTON」システムを中心に記述する。DTPが普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。",
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"text": "電算写植システムの前史として、漢字テレタイプ(通称「漢テレ」)と呼ばれるシステムがある。",
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"text": "1950年代以前、文書を遠隔通信する際は、モールス信号などの電信符号を機械で仮名に翻訳する「かな印刷電信」が使われていたが、同音異義語を漢字変換する際のミスが起こりがちだったことから、漢字仮名交じり文を高速に遠隔通信するためには主に伝書鳩が使われていた。",
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"text": "そんな中、1954年に読売新聞社と防衛庁によって、漢字仮名交じり文を電信で遠隔通信する「漢テレ」と呼ばれるシステムと、人間がキーボードで打字した文字を自動で活字として鋳造し自動で植字まで行う「全自動活字鋳植機」(モノタイプ)と呼ばれるシステムが試作される。1955年には、朝日新聞社と新興製作所によっても同様の物が試作されるなど、日本の大手新聞社において、漢字仮名交じり文の遠隔通信システムの研究と自動鋳植機の導入が同時に進められていた。",
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"text": "そして1958年、ついに新興製作所が「漢テレ」を実用化する。これは、漢字仮名交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤(キーボード)付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取って符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」(当時はディスプレイがまだ発明されていなかったので、プリンタで印字することで受信した文字を確認する)などからなるものであった。",
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"text": "1959年には、各新聞社の統一文字コードであるCO-59が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社において漢テレによる自動活字鋳植システムが急速に普及した。これは記事の受信から活字の鋳植(鋳造・植字)までを自動化し、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が受信して漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、その紙テープの内容を自動活字鋳植機(モノタイプ)が読み取って全自動で鋳植まで行うシステムで、従来の文選や、人間が手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べても圧倒的な高速化が可能となった(自社取材記事の場合はテレタイプを使って自分で鑽孔しないといけない)。",
"title": "歴史"
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"text": "この当時のシステムは、まだ金属活字であり、写植ではなかったが、統一文字コードCO-59、文字を紙テープに記録する鑽孔機、紙テープの内容を読み取る装置などは、初期の電算写植システムにも流用されることとなる。",
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一方、大手新聞社以外のほとんどの印刷所は、依然として人間の文選工が活字を一つ一つ手で拾って版を作る活版印刷を用いていた。このような状況の中、出版業界では1960年代前半から後半にかけて、写植の導入とコンピュータの導入がほぼ同時に進められ、まず写研が「SAPTONシステム」を実用化した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "なお漢テレおよび初期の電算写植で使われた「SCK-201形漢字鍵盤さん孔機」が1台だけ現存し、2010年に情報処理技術遺産に指定され保護されている。鑽孔機のキーボードは192個のキーと12個のシフトキーで構成され、合計192×12=2304字種を入力できる。一方、鑽孔テープの各文字に相当するコードは6穴2行で構成され、1行あたり2=64パターンのうち48パターンを使用するので、合計48×48=2304字種を記録できる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本で初めて開発された電算写植機が、写研の「SAPTONシステム」である。この時期の電算写植機は、写植機の中で文字盤が歯車で物理的に動作しているというアナログ方式なので、後のデジタルフォントを利用した方式と対比して「アナログ写植機」という。世界的には「第2世代電算写植機」に相当する(なお「第1世代電算写植機」は、写植する文字を一旦文字コードの形で紙テープに記録する方式を取らず、キーボードから直接文字盤を駆動して写植する方式で、日本ではこれに該当する製品はない)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1920年代に写研の石井茂吉と森澤信夫(のちに写研を退職してモリサワを創業)によって写植が発明されたが、写植は主に端物に用いられ、本文組みには従来通りの活字組版が用いられていた。写研は写植を本文組版へも使用されることを目指し、1960年に全自動写植機「SAPTONシステム」を発表。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "まず、1965年に全自動写植機サプトンの実用機「SAPTON-N3110」が完成し、1966年に日本社会党機関紙印刷局に最初に導入された。印字速度は毎分300字と、従来の全自動鋳植機の3倍相当にまで高速化されたが、この時点ではSAPTON-Nを利用するには、漢テレ用の漢字さん孔機で別途に編集した紙テープが必要とされたため、システムとして単体で完結するものではなかった。1966年には編集組版処理機能を組み込んだ紙テープ編集機の「SAPTEDITOR-N」が完成し、ようやく紙テープ編集機「SAPTEDITOR(サプテジタ)」と全自動写植機「SAPTON(サプトン)」を組み合わせた、実用的な写植システム「SAPTONシステム」が完成した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "新聞社向けの写植システム「SAPTON-N」は、1967年に朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に最初に納入された。書籍や雑誌などの本文組版を対象とした一般向けの写植システム「SAPTON-P」も1968年に実用化され、1969年8月にダイヤモンド社に最初に納入された。SAPTONシステムの導入と同時にダイヤモンド社は活字を廃止した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "「SAPTON」システムは、全自動写植機「SAPTON」とテープ編集機「SAPTEDITOR」で構成されており、テープ編集機「SAPTEDITOR」で紙テープ(鑽孔テープ)に記録された文字コードを、全自動写植機「SAPTON」で読み取って組版する形であった。「SAPTEDITOR-P」では制御部にリレーを用いた組版処理機能が組み込まれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "「SAPTEDITOR」は後にトランジスタを用いて電子化され、より高度な組版処理機能が組み込まれたが、ユーザーからのテープ編集機に対する組版処理機能の拡張要求は増加する一方であり、その全てをハードウェア的に搭載するのは困難だと判断された。そのため、写研はハードウェアを標準化し、各種のユーザーからの要望に対してはソフトウェアの変更で対処することにし、コンピュータを用いた編集組版ソフトウェアの開発に着手する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1969年に発表された「SAPTON-A」システム用に開発された「SAPCOL(サプコル)」が日本初の一般印刷向けの組版ソフトウェアである。編集組版用ミニコンピュータとしてはPDP-8が用いられ(これは1971年に日立製作所のHITAC-10に置き換えられた)、当時のコンピュータにはOSに相当するものがなかったため、OS相当のプログラムなども写研が自社で開発した。電算機(コンピュータ)上で動く紙テープ編集ソフトウェア「SAPCOL」の登場で、紙テープ編集機「SAPTEDITOR」はその役目を終えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "「SAPTON-A」は1970年に群馬県の朝日印刷工業に納入された。これが日本初の電算写植システムである。また、新聞社向けのシステム「SAPTON-N」用のSAPCOLも同時に開発され、これを搭載したシステムは同年に神奈川新聞社に納入された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、日本交通公社発行の時刻表が電算写植となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "SAPTONシステムに収録される文字数の増加とともに、それまでのSAPTONシステムで使っていた漢テレ用の物を流用したキーボードではキーが不足してきたことから、1972年には「SAPTON-A」用の漢字さん孔機「SABEBE-N」のキーボードとして、左手側に15個のシフトキーを搭載した写研の独自のキーボード「SABEBE」が開発された。文字コードも漢テレの「CO-59」(2304字に対応)から、写研独自の「SKコード」(約20,000字種に対応)に移行。1972年発売の「SAPTON-Spits」に搭載された「SABEBE-S3001」ではシフトキーを30個搭載し、「一寸ノ巾」式見出しを割り当てた「一寸ノ巾式左手見出しキー」が採用され、これは「一寸ノ巾配列」として、写研のほかモリサワの電算写植機においても後々まで採用されることになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められた。仮印字した写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半に登場した電算写植機は、これまでの写植機のような文字盤を使用せず、コンピュータのメモリにデジタルフォントを記憶させ、コンピュータの指令に応じて所定の文字を取り出し、CRTの蛍光面上にその文字を表示させ、それを感材に露光して写植する方式であり、「CRT写植機」と呼ばれる。文字盤を動かす「歯車」という機械的な稼働部品をなくすことで、さらなる印字の高速化が可能になった。文字の数が少ない欧米では1970年代後半の時点ですでに主流の方式で、日本でも更なる電算写植の高速化の為に求められていたが、日本語の写植では6000字を超えるデジタルフォントを扱う必要があるため、開発は難航していた。しかし写研が1977年に実現した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "まず、従来のSAPTONを改良し、システム内に実装されたアナログの文字円盤の中から従来と同様に1文字を選択し、それをブラウン管に投影して文字情報を電子信号化するという「アナログフォント方式」のCRT写植機「SAPTRON-G1」が1977年に開発された。8書体までの文字が利用可能となった「SAPTRON-G8N」は、1980年にサンケイ新聞大阪本社に導入され稼働を開始した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後、写研が1976年より提携していた米オートロジック社のCRT写植機「APS-5」を和文化し、デジタル化された明朝体とゴシック体を搭載した「デジタルフォント方式」のCRT写植機である「SAPTRON-APS5」を1977年に発表。株式会社電算プロセス(後にJTB印刷→佐川印刷)に導入され、時刻表の印刷がさらに高速化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "文字と画像を一括して出力するシステムが求められていた。そのため写研は、CRT写植機の開発のために写研が提携したオートロジック社の「APS SCAN」を利用し、図版原稿をレーザーでスキャンするスキャナの「SAPGRAPH-L」を1979年に発表。また文字と画像を一括して出力する「レーザ出力機」の「SAPLS」を1979年に発表。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "レーザ出力機だとドットフォントでは実用に耐えないことから、これまでのようなドットのデジタルフォントではなく、レーザ出力機でも文字が崩れずに出力できる「アウトラインフォント」も開発された。1981年、写研はアウトラインフォントの制作の為に、独URW社製のタイポグラフィー制作ソフト「IKARUS」(イカルス)を導入。写研は1981年当時「ゴナ」のファミリー化を進めており、書体デザイナーの中村征宏がデザインした「ゴナU」「ゴナE」をベースに光学処理によって「ゴナO」を制作・発表したところだったが、このイカルスシステムを用いてゴナのアウトライン化と同時に多ファミリー化を行うことにする。それまではファミリー書体の制作は全て人力で行っており、一つのファミリー書体の制作に1年はかかったが、イカルスシステムを用いることでコンピュータによって中間のウエイトの文字を自動的に作成でき、ファミリー書体の製作の効率化と統一したデザインが可能となった。写研は「ゴナL」「ゴナM」などを制作し1983年に発表、1985年にはさらに「ゴナH」「ゴナOH」などを発表し、「ゴナ」においてそれまで前例のない書体の大ファミリーを完成させる。イカルスシステムがアウトラインフォントの制作と書体のファミリー制作に有用であることが分かったので、写研は続いてイカルスシステムを用いた「本蘭明朝」と「ナール」のファミリー化およびアウトラインフォント化に着手する。1985年以降もファミリーが拡充され大ファミリーを形成した「ゴナ」は、写研の電算写植機とともに1980年代から1990年代にかけての日本の出版業界において多用されることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "写研による「レーザ写植機」の実用機は、1980年代前半より相次いで市販された。当時は日本の写植業界2位であったモリサワも、1980年に独ライノタイプ社と提携して電算写植機に参入し、同時期の写研の「SAPTONシステム」と同様のレーザ写植機「ライノトロン・システム」を展開している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "組み上がりを確認しながら(WYSIWYG)編集組版できるシステムが求められていたことから、写研は1984年にワークステーションPERQを利用した編集組版レイアウトターミナル「SAIVERT-N」を発売。画面への表示にアウトラインフォントではなくドットフォントを利用しているという制限はあったものの、電算写植システムにおいてほぼWYSIWYGが実現された。さらに1989年に発売された「SAIVERT-P」は、文字と画像を一緒に扱えるだけでなくペンタブレットを利用した簡単な作図機能も有しており、これを利用することで、従来のように写植で出力された文字と画像を切り貼りした後に烏口などで線を引いて版下を作るという「フィニッシュワーク」が必要なくなることから、従来は手動写植機が使われていたチラシや雑誌広告の制作においても電算写植システムが導入されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "この「レーザ写植機」が、写研を除く各メーカーの電算写植機の最終形態である。レーザ写植機は、1980年代から1990年代にかけて「写真が高精細になる」「CRTが液晶になる」などの改良が行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "「レーザ写植機」で実現された「文字と画像の統合処理」「アウトラインフォント」などの流れの先に、デスクトップ・パブリッシング(DTP)が登場する。レーザ写植システムで使用された「レーザ出力機」は、後にPostScriptに対応させ、初期のDTPでもMacからの出力機として流用されることとなる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "史上初の「PostScript対応のレーザ出力機」が、モリサワが提携していたライノタイプ社の「ライノトロン・システム」で用いられていた1985年発売の「ライノトロニック100」であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "この当時使われていた「レーザ出力機」は、PC用として使われているレーザープリンターと同じ原理だが、紙にトナーを定着させるのではなく印画紙やフィルムに感光させる点が異なる。旧来の電算写植システムで利用された、文字だけを出力できる出力機を「タイプセッタ」と呼ぶのに対し、第4世代電算写植システムで使用された、文字と画像を一括して出力できるレーザ出力機を「イメージセッタ」と呼ぶ。もしイメージセッタがPostScriptに対応していた場合は電算写植システムとDTPのどちらでも出力が可能である(つまり、電算写植用に導入したレーザ出力機をDTPに流用できる)。電算写植またはDTPで制作した組版データを、「イメージセッタ」を使って一旦フィルムに出力し、それを元に改めて刷版を作成するという「CTF(Computer to Film)方式」は、電算写植からDTPへの過渡期にかけてよく行われていたが、組版データから直接刷版を作成する「CTP(Computer to Plate)方式」や、刷版を作成せずに組版データをプリンターで直接印刷する「オンデマンド方式」と比較すると手間がかかる上に、フィルムに起因する品質不良が発生する恐れがあるため、DTPの標準化に伴ってほとんど行われなくなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。電算写植機への参入は遅かったものの、「ライノトロン」シリーズの最初の製品であるデジタルフォント式電算写植機「ライノトロン202E」は、発売から3年で100台を納品するヒット商品となった。1986年には、電算写植用の新しいゴシック体ファミリーを制作するためにイカルスシステムを導入し、4年がかりで「新ゴシック体」を制作、1990年に発表する(「新ゴシック体」は、1993年にPostScriptフォント化され、DTP用の「新ゴ」として再発表される)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "写研・モリサワに次ぐ業界3位だったリョービ印刷機販売(リョービイマジクス)も、1983年に同社初の電算写植機となる「REONET300」を発表。1986年ごろには、自社のフォントをアウトラインフォント化するためにイカルスシステムを導入。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "このような状況の日本に、DTPを引っ提げて米アドビ社がやって来る。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1986年当時、米アドビ社は日本のDTP業界への進出をもくろんでいたが、当時社員数十名のベンチャー企業であったアドビ社は、膨大な文字数に及ぶ日本語のPostScriptフォントを自社単独で制作することは不可能であると考えた。そのため、まず写研に提携を持ち掛けるが、断られた(写研の社長・石井裕子は情報公開に消極的でインタビューなどは断っていたため2018年に死去するまでの思惑は不明)。次にアドビはリョービに提携の話を持ち掛けるが、当時のリョービは自社システム向けのフォントのデジタル化だけで手いっぱいであり、DTP向けに新たにPostScriptフォントを制作することには前向きではなかった。そのため、アドビは最後にモリサワに話を持ち掛けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携し、DTP(PostScript)に対応したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表。一方、日本でライノトロン社の製品を販売するモリサワ2代目社長の森澤嘉昭は「(自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで、後に3代目社長)にDTPを身に付けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる。日本語PostScriptフォントの制作にあたっては、イカルスシステムが使い物にならなかったためアドビ製のソフトウェアを導入し、20人体制で1年以上の制作期間となるなど難航したが、モリサワは1989年にアドビよりPostScript日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のPostScript書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1987年、写研は自社の電算写植機において、ISDN回線を利用し電算機が写研のサーバーに接続されてフォントの使用1文字あたりで課金されるという「従量課金制」を導入する。その効果もあって、1991年には写研の年商が史上最高となる350億円に達した。この頃が日本における電算写植の全盛期である。しかし1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換えていく。DTPで利用できるフォントは、当初はモリサワの2書体だけであったものの、1989年には財団法人日本規格協会文字フォント開発・普及センターによる平成書体がリリースされ、また1991年にはフォントワークス(日本代理店ではなく香港の本社)からアップルのサードパーティ製としては初となる日本語フォントがリリースされるなど徐々に増えていく。なお工業技術院の求めに応じて写研が制作し、平成書体に収録された「平成丸ゴシック」が、2020年時点でDTPで利用可能な唯一の写研フォントである。特に、当時の製版業界で多用されていた写研の電算写植システム用フォント「ゴナ」とよく似たモリサワの電算写植用フォント「新ゴシック」がPostScriptフォント化され、DTPで使える「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。1992年リリースの日本語版「漢字Talk 7.1」では、アドビのPostScriptフォントに対抗すべくアップルが開発したTrueTypeフォントがOSレベルで標準サポートされ(それまでのMacでは、PostScriptフォントがプリンターに搭載されていたのに対し、OS側ではビットマップフォントしかサポートされていなかったため、画面に表示される文字はギザギザだった)、モリサワフォント、フォントワークス、平成書体など、DTPを扱う環境も整備されていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "特に小規模印刷で大きなシェアを得ていた写研のSAPTONシステムだが、印刷までの工程ごとに複数の高価な専用ハードウェアが必要とされる電算写植に対して、市販のMac1台とDTPソフトの「QuarkXPress」「Illustrator」「Photoshop」で完結するDTPの方が圧倒的に安価であり、また従来は複数の専門オペレータによって分業されていた工程をDTPでは1人で行えるようになるという点でも、小規模システムはDTPへの移行が早く、電算写植のシステムは1990年代前半から後半にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。写研はDTPの流れに対抗すべく、MacやWindowsなどで作成されたデータもSAPCOLで編集できる「SAMPRAS」(サンプラス)システムを1997年に発表したが、DTPベースのシステムと比較すると極めて高価であり、またフォントが他社のDTPシステムのような「買い切り」ではなく「従量課金制」という点でも、小規模印刷所には受け入れられなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "なお写研の「SAMPRAS」システムは、UNIX(HI-UX)を搭載した日立のワークステーションがベースのカラー集版システム「SAMPRAS-C」、文章データと画像データを読み込んで保管するデータベースサーバ「IMERGE II」など、市販のサーバーをベースとした複数のハードウェアで構成されている。その中のテキスト編集機「GRAF」は、1960年代から使われている写研の伝統のテキスト編集ソフトウェア「SAPCOL」を内蔵してはいるものの、Windowsを搭載した市販のPCと同じAT互換機であるため、この時代になると電算写植機はDTPと全く同じハードウェアを用いるようになっている。電算写植はDTPと比べると複数の独自ハードウェアを用いる複雑なシステムに見えるが、熟練オペレーターにとってはこちらの方が逆にDTPよりも扱いやすく、DTPよりも美しい版がより迅速に作成できるという点でも、特に大手出版社においては電算写植を支持するオペレーターがいまだ多かったのも、1990年代当時においては事実である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "モリサワの電算写植機は、Windows 95の登場後にWindows PCベースのシステムにリプレースされた。しかし1997年当時、モリサワの売上の大半はすでに写植事業ではなくPostScriptフォント事業によるものとなっていた。写植業界1位の写研と比べると、モリサワの規模はもともとそれほど大きくなかったということもあり、DTP業界の拡大とともにモリサワの業績は拡大。電算写植システムの売り上げの急激な減少を「従量課金制」で補いながらも年商が下がり続ける写研に対し、多言語対応フォントの制作などDTP時代に対応し続けるモリサワは、1998年には年商ベースで写研を抜いてトップとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "大規模出版においては2000年代ごろまで電算写植が使われていたが、1999年にQuarkXPressを上回る機能を持つDTPソフトウェアAdobe InDesignが発売され、その機能が向上するにつれて、大規模出版を含むほとんどの出版がInDesignベースのDTPに置き換えられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2000年代以降にはPCで利用可能なデジタルフォントも充実し、写研を除くかつての写植メーカーがDTP向けのフォントの販売を行っているほか、InDesignでは扱うのが面倒な日本語の大規模自動組版向けのソリューション(モリサワの「MC-Smart」など)も存在している。かつて写植機という「ハードウェア」を販売していたモリサワは、デジタルフォントやDTPソフトその他をまとめ上げた「ソリューション」を販売する業態に転換した。リョービ(リョービ印刷機販売→CI導入でリョービイマジクスに社名変更→2012年にリョービ本体に吸収→2014年にオフセット部門が三菱重工印刷紙工機械と合併してリョービMHIグラフィックテクノロジー)はDTP時代においても中小型オフセット印刷機においては世界的な大手メーカーであり続けているが、フォント部門は2011年にモリサワに譲渡した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "写研は2000年代以降もDTPへの対応を全く行なわなかった。そもそも写研は情報公開に消極的で、2000年に電算写植用書体「本蘭ゴシック」を発表して以降の新作書体の発表がなく、公式ウェブサイトが2021年まで存在しなかったため、DTP時代への対処を検討しているのかしていないのか、何を商売にしているのかすらよく知られていなかった。そんな中、2011年の「第15回電子出版EXPO」に写研が突如として出展し、写研の名作フォントである「ゴナ」や「ナール」をOpenTypeフォント化する予定があるとのアナウンスを行ったが、2021年にモリサワとの共同開発が発表されるまで具体的な進展はなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2000年に発売された写研の組版システム「Singis」はWindowsベースのシステムで、PhotoshopやIllustratorなども利用できるが、Singisに搭載された写研のフォントは独自形式で、写研のソフトウェアからしか利用できない。Singisと組み合わせる写植の各工程の専用ハードウェアはそれぞれ数百万円するため、Mac1台で完結するDTPと比較すると著しく高価であり、さらに使用するたびに使用料がかかる「従量課金制」である。SingisにはSAPCOLで記述された過去の電算写植データをPDF化する機能もあるため、いくつかの業者においては2010年代以降の電子書籍時代においても活用されているが、写研の閉鎖的なシステムは複数のソフトウェアやフォントを自由に利用する前提のDTPとは正反対で、ほとんどの業者においては電算写植時代のデータが2000年代以降に受け継がれることがないまま、電算写植機オペレータの廃業とともに歴史のかなたに消えることとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "鉄道のサインシステムは写研のフォントが使われていたが(JR東海は旧国鉄の「すみ丸ゴシック」も混用)、電算写植の技術を持つオペレーターが少なくなっていたため、DTPを使用せざるをえなくなり、看板が古くなって交換する2010年代以後に「写研のフォントとよく似たデジタルフォント」に次第に置き換えられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "放送業界においては、1984年に写研の電子テロップシステム「TELOMAIYER」(テロメイヤー)が発売され、これは写植を介さずに直接感熱記録紙に印字できるので、その時点で写植ではなくなっている。放送業界ではその後もしばらく写研の電子テロップシステムによるものと並行して、写研の電算写植機によるテロップが使われていたが、例えばNHK年鑑では1994年度以降は「写植」の文字が登場しなくなり、そのころに電算が廃止されたようである。ちなみに放送業界においても、番組制作のデジタル化が進むとともに、やはり電算機と同様に「わざわざ写研の電子テロップシステムを使わなくても、Macに元から入っているフォントで十分」ということになり、写研のフォントは2000年代以降にはほとんど使われなくなった。しかし2021年現在でもアニメ業界ではシンエイ動画制作の『クレヨンしんちゃん』において写研のフォントを使用している。他にも東映アニメーション制作の『プリキュアシリーズ』が2011年の『スイートプリキュア♪』まで写研のフォントを使い続けていたが、2012年の『スマイルプリキュア!』からフォントワークスのフォントに移行した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "漫画においては、2000年代前半までは講談社を除くほとんどの出版社では写研の電算写植機でネームを印字して貼り込んでおり、例えば集英社の『週刊少年ジャンプ』で必殺技を叫ぶ際などに使われている書体は写研の「ゴナ」であった(一方、講談社はモリサワの「アンチックAN」をよく使っていた)。写研はSAMPRAS-C上で動くマンガ編集システム「ハヤテ」を2000年に開発し、Macと比べて著しく高価なWindowsベースのシステムではあるものの、これを使えば編集者が生原稿の手書きネームを消しゴムで消して写植のネームを水平垂直がズレないよう丁寧に貼り込んだりする必要もなく、原稿をスキャンしてPC上で一括で処理できるようになり、またPCの画面でラフ画稿に写植を貼り込んで初稿を出したりもできるようになることから、『週刊少年マガジン』など講談社グループの漫画の製版を手掛ける豊国印刷も2001年に「ハヤテ」を導入した。一方で豊国印刷では漫画製版のMac製版(DTP)への移行が進められており、2003年にモリサワに依頼してMac(DTP)用としては初となる「アンチック体」(漫画で最も一般的に用いられるフォント)をリリースさせ、2005年にはInDesignをベースとした漫画製版システムを自社開発する。『週刊少年サンデー』を印刷する大日本印刷も、2003年にアドビと提携してInDesignを導入する。『週刊少年ジャンプ』の印刷を手がける共同印刷では、『週刊少年ジャンプ』の原稿を入稿して2〜3時間で出稿まで持っていくというような高速性を「職人技」に頼っていたため、コミック製版のDTP化が遅れていたが、この職人技をDTPに置き換えるため、2003年にInDesignをコアに使用した漫画用の組版システム「ComicPacker」を自社開発した。2006年より共同印刷がソフトバンクと共同で漫画のデジタル配信サービスを手掛けるようになると、「ComicPacker」は漫画のデジタル配信用データの作成ソフトとしても注目されるようになり、その過程で出た「DTPにはコミック特有の書体バリエーション(例えばホラー用の「イナクズレ」など)がない」という出版社からの要求に答えるため、共同印刷はフォントワークスに働き掛けてDTP用の漫画用フォントを制作させた。このような経緯で漫画におけるDTPの環境が整い、2000年代後半より順次に漫画製版のDTP化がなされた。連載漫画においては切りのいいところまで従来のフォントを使い続ける場合もあるため、漫画ごとに電算写植(写研の写植機を用いた製版)からDTP(MacとInDesignを用いた製版)への移行が順次に進むことになるが、例えば『週刊少年サンデー』では2007年から写研(電算写植)の「中見出しアンチック」に代わってモリサワ(DTP)の「学参かなアンチック」が、大手漫画雑誌の中では最もDTP化が遅れていた『週刊少年ジャンプ』でも2010年春ごろから写研(電算写植)の「ゴナ」に代わってモリサワ(DTP)の「新ゴ」が使われ始めたことが確認されている。「イナクズレ」「淡古印」も、DTP用に新たに開発された「コミックミステリ」または「万葉古印ラージ」に置き換えられた。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、どうしても「シリーズの途中でフォントを変えたくない」「写研のフォントが使いたい」というニーズもあることから、2010年代以降もInDesignと並んで写研の電算写植機が現役で稼働している製版会社もある。例えば、文芸誌や漫画の製版・集版を手掛ける株式会社ステーションエスでは、2019年現在もInDesignと並んで8台の電算写植機が稼働しているという。2019年現在では紙に書かれる漫画も少なくなったが、いまだにマンガ編集システム「ハヤテ」のユーザーも存在するとのこと。",
"title": "歴史"
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"text": "電算写植からDTPに移行した2009年当時の講談社『モーニング』誌の編集者によると、編集者としてはフォントの形が微妙に違うことを気にしていたが、読者も作家もそれほど気にしていなかったという。",
"title": "歴史"
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"text": "日本の電算写植の創始であるSAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースのXSL Formatting Objectsの普及に携わっていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "写研の創業者である石井茂吉の三女で、1963年より写研の2代目社長を務めた石井裕子が2018年に死去。その後、写研の工場が解体・売却されるなど、写研の解体が進んでいる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "2020年夏ごろより、「ナール」や「ゴナ」と言った電算写植の時代を象徴する数々の書体を生み出した「写研文字部」が存在した写研の埼玉和光工場が解体された。埼玉工場はその時点で10年ほど稼働しておらず、建物(第一工場は1963年竣工、第二工場は1965年に竣工。1970年に第二工場の増築工事が行われ、その後「写研文字部」が東京大塚本社ビルから移転してきた)や看板(1972年、社名を「写真植字機研究所」から「写研」へと変更した際に橋本和夫が設計。この看板の文字をベースに中村征宏が写植用フォント「ファン蘭」を設計した)は老朽化していた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2021年1月、モリサワは写研と共同で、2024年より写研の書体をOpenTypeフォント化することを発表した。2024年は、写研の創業者である石井茂吉とモリサワの創業者である森澤信夫が、邦文写真植字機の特許を1924年に共同で申請してから100周年に当たる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "写研の電算写植システムが利用しているNTTのISDN回線サービスは、2024年に廃止される。写研は2024年までは、写研のフォントが利用できることをセールスポイントとする電算写植システムの販売・レンタル・フォント使用料の徴収などを軸とした、独自のビジネスモデルを続ける予定である(その意味で、日本における電算写植の時代はまだ終わっていないともいえる)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "写研やモリサワなどの写植機メーカーが開発して各社に販売した電算写植機とは別に、日本の大手印刷会社や新聞社などでは自社向けに自力で開発した専用の電算写植システムも存在する。これは「Computer Typesetting System」(CTS)と呼ばれる。1960年代から2000年代にかけて使われた。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "NELSON(New Editing & Layout System Of Newspaper、ネルソン)は、朝日新聞社とIBMが共同開発した電算写植システムである。1980年に稼働し、2005年まで使われた。新聞製作に特化したシステムで、インターネットに記事が流用できないなど問題があり、またメインフレーム上に構築されているので維持費がかかったため、2005年にはオープンサーバー上に構築された「メディア系システム」に置き換えられた。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
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"text": "日経新聞社のANNECSも朝日新聞社のものと同時期にIBMが開発した。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
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"text": "凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe InDesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
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"paragraph_id": 70,
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"text": "1960年代から1970年代にかけての手動写植に対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "一方で、電算写植の「早く組める」「大幅に直せる」という利点は、「後で直せるから」という意識につながり、原稿を組版工程に回す前段階で綿密に行われるべき編集者の原稿整理や校正、レイアウトなどがおろそかになった(誤植・誤報につながる)という指摘も多かった。暗算による字数計算に基づく紙面レイアウトなどの、活字時代には編集者の基本とされた技能が、組版技術の進化と反比例するように衰退したともいわれる。それはDTP時代になると、かつてならばあり得なかったであろう「仮組み」(とりあえず組んでみて、レイアウトを調節する)などが行われることにつながる。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
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"paragraph_id": 72,
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"text": "1960年代当時は文字通り全て手動でハードウェアを管理・制御する形式であった「手動写植機」であるが、1980年代には「電子制御手動写植機」となり、コマンドをフロッピーディスクに記録できるなど電算写植機に近い機能を備えるようになり、電算写植機との差はあまりなくなっていた。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
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"paragraph_id": 73,
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"text": "1980年代から1990年代にかけての初期のDTPに対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "一方で、上記のDTPの欠点は1990年代から2000年代にかけて解消されていった。電算写植からDTPの移行においては、電算写植機の「コード」をAdobe InDesignの「スクリプト」やXMLで置き換える試みがなされ、また日本語の大量ページ物の組版の効率化への要求に対しては、モリサワがMC-Smartを用意した。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "なお電算写植は1960年代には旧来の写真植字の機構を電算機で管理・制御する形式であったが、1990年代には市販のサーバーやPCベースのシステムとなり、PostScriptへの対応やWYSIWYGを実現したシステムも登場するなどDTPに近い機能を備えるようになり、DTPとの差はあまりなくなっていた。",
"title": "Computer Typesetting System(CTS)"
}
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電算写植(でんさんしゃしょく)とは、手動写植による組版作業を電算機=コンピュータで行えるようにしたシステムのこと。電算植字(でんさんしょくじ)ともいわれる。 新聞社を含む印刷会社ごとに異なるシステム(CTS)と写植会社の写植機のシステムの双方を指し、印刷・出版業界内では「電算」と言えば電算写植のことを意味する。 本項目では日本の電算写植について述べる。海外での写植システムがコンピュータ化されていった過程はen:Phototypesettingを参照。
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{{出典の明記|date=2018年5月}}
'''電算写植'''(でんさんしゃしょく)とは、手動[[写真植字|写植]]による[[組版]]作業を電算機=[[コンピュータ]]で行えるようにしたシステムのこと。'''電算植字'''(でんさんしょくじ)ともいわれる。
新聞社を含む印刷会社ごとに異なるシステム([[Computer Typesetting System|CTS]])と写植会社の写植機のシステムの双方を指し、[[印刷]]・[[出版]]業界内では「電算」と言えば電算写植のことを意味する。
本項目では日本の電算写植について述べる。海外での写植システムがコンピュータ化されていった過程は[[:en:Phototypesetting]]を参照。
== 概要 ==
旧来の[[活版印刷]]や手動写植の欠点を補い、[[ワークフロー]]を一新するものとして1960年代に登場した。日本では[[写研]]が開発したSAPTONシステムが初の電算写植システムで、まず大手新聞社の支社や地方新聞社などの小規模印刷から導入が進み、その後に朝日新聞社や凸版印刷といった大規模出版社による独自のシステムが開発された(朝日新聞社の「NELSON」、神戸新聞社の「六甲」等)。
1950年代に開発された「漢字テレタイプ」(通称「漢テレ」)というシステムの装置を受け継いでおり、アルファベットやかなが並んだ現在のコンピュータのキーボードではなく、打鍵する漢字の「要素」(部品)が大量に並び、文字の形で植字する文字を選んで打鍵する極めて複雑な打鍵装置を使う。写研の初期の電算写植機で採用された51種類の要素が並んだ(文字の並びから「一寸ノ巾配列」と呼ばれる)ものが有名だが、後期にはより複雑化した。
電算写植機の打鍵は慣れると[[DTP]]より速いとされたが、オペレーターには活字の文選工と同じだけの熟練を要求された。電算機上で動作する編集組版ソフトウェアも、プログラミング言語と同様のコマンドの羅列で行う(「バッチ組版」「コマンド組版」などと呼ばれる)ため、取り扱いに熟練を要する上に、印刷するまで出力結果が全く分からなかった(後期の製品にはディスプレイが搭載され、ある程度は確認できるようになった)。写植においては、編集組版の工程だけでなく、下版までの製版の各工程ごとに、高価で複雑な装置と専門のオペレーターを必要とした。さらに、ほとんどの小規模出版で導入されていた写研のシステムは、導入コストもさることながら、フォントが活字時代のような買い切りではなく、印刷するたびに写研にフォント使用料を払う従量制であった。そのため普通のパソコン1台で組版から下版までの作業が行え、パソコンの画面に表示されたものと印刷される出力結果が同じである[[WYSIWYG]]を実現し、[[モリサワ]]のフォントが買い切りで使えるDTPが1989年に登場すると、そのコストの低さ・取り扱いの簡易さ・版下をすぐ確認できる高速性が評価され、まず小規模印刷からDTPに置き換えられていった。モリサワの書体は、写植時代は写研の書体よりも「ダサい」と考えられており、写研の書体よりも安価でありながら使用者が少なかったが、初期のDTPで唯一の選択肢だったということもあり、便利さにはかなわず、1990年代以降は写研に代わってモリサワの書体が広く使われるようになった。
電算写植は初期のDTPよりも高速印刷・大量印刷に適しており、また初期のDTPよりも「美しい」組版が可能だったため、大手新聞社や大手出版社では1990年代以後も電算写植が生き残ったが、DTPソフトの機能が向上した2000年代からDTPベースのシステムに次第に置き換えられている。
写研は出版の電算化と写植化を共にリードし、電算写植システムとフォント使用料で大きな利益を上げたが、そのためにDTPに乗り遅れ、1998年には組版業界の最大手の座をモリサワに奪われることとなった。
=== 類似するシステム ===
電算写植機は複数の専用ハードウェアで構成され、複雑かつ導入コストが極めて高かったため、DTPが一般化する1990年代までは予算や規模や用途に従ってさまざまな印刷機が存在していた。中でも、手動写植機から発展した電子制御式手動写植機や、電動[[和文タイプライター]]や[[ワープロ]]から発展した電子組版システムは、高機能化するに従って最終的に電算写植機とほとんど同じシステムを用いるようになっており、それらのシステムと電算写植システムとの差は曖昧である(広い意味で「電算写植機」に含まれることもある)。なお電算写植も最終的にDTPとほとんど同じシステムを用いるようになっており、その差は曖昧になっている。
手動写植機の開発は、電算写植機の開発とは別に1980年代まで続いており、その堅牢性や低コストが評価され、1990年代までは一定の需要があった。最終的には手動写植機もディスプレイ、メモリー、フロッピーディスク装置などを搭載した'''電子制御式手動写植機'''となり、電算写植機と遜色ない機能を備えるようになっている。特にモリサワが1986年に発売した手動写植機の最終形態「ROBO 15XY型」は、電算写植機と同様に組版を自動で行う上に、仮印字した写植の位置をディスプレイ上で確認して調整でき、さらに簡単な作図機能も備えるなど、写植機の内部で歯車が物理的に動作して文字盤を動かしている点を無視すればDTPに近い機能すら備えていた(手動写植機の詳細は[[写植機]]を参照)。
1980年代には'''電子組版'''というシステムも登場した。これは日本語ワープロ(ワープロ専用機)の登場後、その装置を編集組版機として流用したもので、CRTモニタで文字が確認できるなど電算写植と同様の利点がありながら、電算写植よりも安価に装置を導入でき、しかも操作に電算写植のような専門知識を必要としない。[[東レ]]が1982年に発売した「FX500」を皮切りに、ワープロメーカーのNECや富士通、電動和文タイプメーカーの[[モトヤ]](「LASER7」シリーズ)、電算写植機メーカーの[[リョービ]](「RECS」シリーズ)、などから製品がリリースされていた。和文タイプの置き換えを狙って、和文タイプと同じ全文字配列の文字盤を用意していた製品が多かった。ワープロおよび和文タイプの装置をベースとしているため電算写植機と比べてレイアウトやフォントなどに制約があり、当初は企業内印刷物を印刷するために一般企業で導入されるのがメインだったが、次第に高機能化し、例えば活字ではなくレーザ出力に対応したモトヤの「LASER7」(1985年)や、手動写植の印字装置に対応したリョービの「RECS200」(1986年)などは「簡易電算写植」として、単色・小ロットの[[軽印刷]]をメインとしている印刷所でも導入する事例が増えた。これらのシステムは、1990年代にはワープロの代わりにパソコンを使うようになり、パソコンで動く編集組版ソフト、すなわちDTPとなった(モトヤの「ELWIN」シリーズ、リョービの「EP-X」など)。
その他にも、電子制御式ではない旧来の手動写植機や活版印刷機、和文タイプなども存在したが、これらは「経営者が高齢で新規の投資が難しい」などの特別な理由がない限り、2000年代までには全てDTPに一本化された。
== 歴史 ==
日本における電算写植の歴史は、写研の「SAPTON」システムの歴史でもあるので、「SAPTON」システムを中心に記述する。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。
=== 漢字テレタイプ(漢テレ) ===
電算写植システムの前史として、漢字テレタイプ(通称「漢テレ」)と呼ばれるシステムがある。
1950年代以前、文書を遠隔通信する際は、モールス信号などの電信符号を機械で仮名に翻訳する「かな印刷電信」が使われていたが、同音異義語を漢字変換する際のミスが起こりがちだったことから、漢字仮名交じり文を高速に遠隔通信するためには主に[[伝書鳩]]が使われていた。
そんな中、1954年に読売新聞社と防衛庁によって、漢字仮名交じり文を電信で遠隔通信する「漢テレ」と呼ばれるシステムと、人間がキーボードで打字した文字を自動で[[活字]]として鋳造し自動で植字まで行う「全自動活字鋳植機」([[モノタイプ]])と呼ばれるシステムが試作される。1955年には、朝日新聞社と新興製作所によっても同様の物が試作されるなど、日本の大手新聞社において、漢字仮名交じり文の遠隔通信システムの研究と自動鋳植機の導入が同時に進められていた。
そして1958年、ついに新興製作所が「漢テレ」を実用化する。これは、漢字仮名交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤(キーボード)付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取って符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」(当時はディスプレイがまだ発明されていなかったので、プリンタで印字することで受信した文字を確認する)などからなるものであった。
1959年には、各新聞社の統一文字コードである[[CO-59]]が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社において漢テレによる自動活字鋳植システムが急速に普及した。これは記事の受信から活字の鋳植(鋳造・植字)までを自動化し、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が受信して漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、その紙テープの内容を自動活字鋳植機(モノタイプ)が読み取って全自動で鋳植まで行うシステムで、従来の[[文選 (出版)|文選]]や、人間が手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べても圧倒的な高速化が可能となった(自社取材記事の場合はテレタイプを使って自分で鑽孔しないといけない)。
この当時のシステムは、まだ金属活字であり、写植ではなかったが、統一文字コードCO-59、文字を紙テープに記録する鑽孔機、紙テープの内容を読み取る装置などは、初期の電算写植システムにも流用されることとなる。
一方、大手新聞社以外のほとんどの印刷所は、依然として人間の文選工が活字を一つ一つ手で拾って版を作る[[活版印刷]]を用いていた。このような状況の中、出版業界では1960年代前半から後半にかけて、写植の導入とコンピュータの導入がほぼ同時に進められ、まず写研が「SAPTONシステム」を実用化した。
なお漢テレおよび初期の電算写植で使われた「SCK-201形漢字鍵盤さん孔機」が1台だけ現存し、2010年に[[情報処理技術遺産]]に指定され保護されている。鑽孔機のキーボードは192個のキーと12個のシフトキーで構成され、合計192×12=2304字種を入力できる。一方、鑽孔テープの各文字に相当するコードは6穴2行で構成され、1行あたり2<sup>6</sup>=64パターンのうち48パターンを使用するので、合計48×48=2304字種を記録できる。
=== アナログ写植機(第2世代電算写植機) ===
日本で初めて開発された電算写植機が、写研の「SAPTONシステム」である。この時期の電算写植機は、写植機の中で文字盤が歯車で物理的に動作しているというアナログ方式なので、後のデジタルフォントを利用した方式と対比して「アナログ写植機」という。世界的には「第2世代電算写植機」に相当する(なお「第1世代電算写植機」は、写植する文字を一旦文字コードの形で紙テープに記録する方式を取らず、キーボードから直接文字盤を駆動して写植する方式で、日本ではこれに該当する製品はない)。
1920年代に写研の[[石井茂吉]]と[[森澤信夫]](のちに写研を退職して[[モリサワ]]を創業)によって写植が発明されたが、写植は主に端物に用いられ、本文組みには従来通りの活字組版が用いられていた。写研は写植を本文組版へも使用されることを目指し、1960年に全自動写植機「SAPTONシステム」を発表。
まず、1965年に全自動写植機サプトンの実用機「SAPTON-N3110」が完成し、1966年に[[日本社会党]]機関紙印刷局に最初に導入された<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/10887.html 電算写植システムの開発(その1)] - 公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)</ref>。印字速度は毎分300字と、従来の全自動鋳植機の3倍相当にまで高速化されたが、この時点ではSAPTON-Nを利用するには、漢テレ用の漢字さん孔機で別途に編集した紙テープが必要とされたため、システムとして単体で完結するものではなかった。1966年には編集組版処理機能を組み込んだ紙テープ編集機の「SAPTEDITOR-N」が完成し、ようやく紙テープ編集機「SAPTEDITOR(サプテジタ)」と全自動写植機「SAPTON(サプトン)」を組み合わせた、実用的な写植システム「SAPTONシステム」が完成した。
新聞社向けの写植システム「SAPTON-N」は、1967年に朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に最初に納入された。書籍や雑誌などの本文組版を対象とした一般向けの写植システム「SAPTON-P」も1968年に実用化され、1969年8月に[[ダイヤモンド社]]に最初に納入された。SAPTONシステムの導入と同時にダイヤモンド社は活字を廃止した。
「SAPTON」システムは、全自動写植機「SAPTON」とテープ編集機「SAPTEDITOR」で構成されており、テープ編集機「SAPTEDITOR」で紙テープ(鑽孔テープ)に記録された文字コードを、全自動写植機「SAPTON」で読み取って組版する形であった。「SAPTEDITOR-P」では制御部にリレーを用いた組版処理機能が組み込まれた。
「SAPTEDITOR」は後にトランジスタを用いて電子化され、より高度な組版処理機能が組み込まれたが、ユーザーからのテープ編集機に対する組版処理機能の拡張要求は増加する一方であり、その全てをハードウェア的に搭載するのは困難だと判断された。そのため、写研はハードウェアを標準化し、各種のユーザーからの要望に対してはソフトウェアの変更で対処することにし、コンピュータを用いた編集組版ソフトウェアの開発に着手する。
1969年に発表された「SAPTON-A」システム用に開発された「SAPCOL(サプコル)」が日本初の一般印刷向けの組版ソフトウェアである。編集組版用ミニコンピュータとしては[[PDP-8]]が用いられ(これは1971年に[[日立製作所]]の[[HITAC|HITAC-10]]に置き換えられた)、当時のコンピュータにはOSに相当するものがなかったため、OS相当のプログラムなども写研が自社で開発した。電算機(コンピュータ)上で動く紙テープ編集ソフトウェア「SAPCOL」の登場で、紙テープ編集機「SAPTEDITOR」はその役目を終えた。
「SAPTON-A」は1970年に群馬県の[[朝日印刷工業]]<ref>官報などを印刷している印刷会社である。</ref>に納入された。これが'''日本初の電算写植システム'''である。また、新聞社向けのシステム「SAPTON-N」用のSAPCOLも同時に開発され、これを搭載したシステムは同年に神奈川新聞社に納入された。
1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、[[時刻表#JTBパブリッシング発行|日本交通公社発行の時刻表]]が電算写植となった。
SAPTONシステムに収録される文字数の増加とともに、それまでのSAPTONシステムで使っていた漢テレ用の物を流用したキーボードではキーが不足してきたことから、1972年には「SAPTON-A」用の漢字さん孔機「SABEBE-N」のキーボードとして、左手側に15個のシフトキーを搭載した写研の独自のキーボード「SABEBE」が開発された。文字コードも漢テレの「CO-59」(2304字に対応)から、写研独自の「SKコード」(約20,000字種に対応)に移行。1972年発売の「SAPTON-Spits」に搭載された「SABEBE-S3001」ではシフトキーを30個搭載し、「一寸ノ巾」式見出しを割り当てた「一寸ノ巾式左手見出しキー」が採用され、これは「一寸ノ巾配列」として、写研のほかモリサワの電算写植機においても後々まで採用されることになる。
=== CRT写植機(第3世代電算写植機) ===
[[File:Linotype CRTronic 360.jpg|thumb|独ライノタイプ社のCRT写植機(海外版。モリサワより展開された「ライノタイプ」の日本語版は、モリサワ独自の打鍵装置が付く)]]
1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められた。仮印字した写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープから[[フロッピーディスク]]となった。
1970年代後半に登場した電算写植機は、これまでの写植機のような文字盤を使用せず、コンピュータのメモリにデジタルフォントを記憶させ、コンピュータの指令に応じて所定の文字を取り出し、CRTの蛍光面上にその文字を表示させ、それを感材に露光して写植する方式であり、「CRT写植機」と呼ばれる<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/4364.html 電算写植の歴史-印刷100年の変革] - 公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)</ref>。文字盤を動かす「歯車」という機械的な稼働部品をなくすことで、さらなる印字の高速化が可能になった。文字の数が少ない欧米では1970年代後半の時点ですでに主流の方式で、日本でも更なる電算写植の高速化の為に求められていたが、日本語の写植では6000字を超えるデジタルフォントを扱う必要があるため、開発は難航していた。しかし写研が1977年に実現した。
まず、従来のSAPTONを改良し、システム内に実装されたアナログの文字円盤の中から従来と同様に1文字を選択し、それをブラウン管に投影して文字情報を電子信号化するという「アナログフォント方式」のCRT写植機「SAPTRON-G1」が1977年に開発された。8書体までの文字が利用可能となった「SAPTRON-G8N」は、1980年にサンケイ新聞大阪本社に導入され稼働を開始した。
その後、写研が1976年より提携していた米オートロジック社のCRT写植機「APS-5」を和文化し、デジタル化された明朝体とゴシック体を搭載した「デジタルフォント方式」のCRT写植機である「SAPTRON-APS5」を1977年に発表。株式会社電算プロセス(後に[[JTB印刷]]→[[佐川印刷]])に導入され、時刻表の印刷がさらに高速化された。
=== レーザ写植機(第4世代電算写植機) ===
文字と画像を一括して出力するシステムが求められていた。そのため写研は、CRT写植機の開発のために写研が提携したオートロジック社の「APS SCAN」を利用し、図版原稿をレーザーでスキャンするスキャナの「SAPGRAPH-L」を1979年に発表。また文字と画像を一括して出力する「レーザ出力機」の「SAPLS」を1979年に発表。
レーザ出力機だとドットフォントでは実用に耐えないことから、これまでのようなドットのデジタルフォントではなく、レーザ出力機でも文字が崩れずに出力できる「アウトラインフォント」も開発された。1981年、写研はアウトラインフォントの制作の為に、独URW社製のタイポグラフィー制作ソフト「[[:en:Ikarus (typography software)|IKARUS]]」(イカルス)を導入。写研は1981年当時「[[ゴナ]]」のファミリー化を進めており、書体デザイナーの[[中村征宏]]がデザインした「ゴナU」「ゴナE」をベースに光学処理によって「ゴナO」を制作・発表したところだったが、このイカルスシステムを用いてゴナのアウトライン化と同時に多ファミリー化を行うことにする。それまではファミリー書体の制作は全て人力で行っており、一つのファミリー書体の制作に1年はかかったが、イカルスシステムを用いることでコンピュータによって中間のウエイトの文字を自動的に作成でき、ファミリー書体の製作の効率化と統一したデザインが可能となった。写研は「ゴナL」「ゴナM」などを制作し1983年に発表、1985年にはさらに「ゴナH」「ゴナOH」などを発表し、「ゴナ」においてそれまで前例のない書体の大ファミリーを完成させる。イカルスシステムがアウトラインフォントの制作と書体のファミリー制作に有用であることが分かったので、写研は続いてイカルスシステムを用いた「[[本蘭明朝]]」と「[[ナール]]」のファミリー化およびアウトラインフォント化に着手する。1985年以降もファミリーが拡充され大ファミリーを形成した「ゴナ」は、写研の電算写植機とともに1980年代から1990年代にかけての日本の出版業界において多用されることになった。
写研による「レーザ写植機」の実用機は、1980年代前半より相次いで市販された。当時は日本の写植業界2位であったモリサワも、1980年に独ライノタイプ社と提携して電算写植機に参入し、同時期の写研の「SAPTONシステム」と同様のレーザ写植機「ライノトロン・システム」を展開している。
組み上がりを確認しながら([[WYSIWYG]])編集組版できるシステムが求められていたことから、写研は1984年にワークステーション[[PERQ]]を利用した編集組版レイアウトターミナル「SAIVERT-N」を発売。画面への表示にアウトラインフォントではなくドットフォントを利用しているという制限はあったものの、電算写植システムにおいてほぼWYSIWYGが実現された。さらに1989年に発売された「SAIVERT-P」は、文字と画像を一緒に扱えるだけでなくペンタブレットを利用した簡単な作図機能も有しており、これを利用することで、従来のように写植で出力された文字と画像を切り貼りした後に烏口などで線を引いて版下を作るという「フィニッシュワーク」が必要なくなることから、従来は手動写植機が使われていたチラシや雑誌広告の制作においても電算写植システムが導入されるようになった。
この「レーザ写植機」が、写研を除く各メーカーの電算写植機の最終形態である。レーザ写植機は、1980年代から1990年代にかけて「写真が高精細になる」「CRTが液晶になる」などの改良が行われた。
「レーザ写植機」で実現された「文字と画像の統合処理」「アウトラインフォント」などの流れの先に、デスクトップ・パブリッシング([[DTP]])が登場する。レーザ写植システムで使用された「レーザ出力機」は、後にPostScriptに対応させ、初期のDTPでもMacからの出力機として流用されることとなる。
史上初の「PostScript対応のレーザ出力機」が、モリサワが提携していたライノタイプ社の「ライノトロン・システム」で用いられていた1985年発売の「ライノトロニック100」であった。
この当時使われていた「レーザ出力機」は、PC用として使われている[[レーザープリンター]]と同じ原理だが、紙にトナーを定着させるのではなく印画紙やフィルムに感光させる点が異なる。旧来の電算写植システムで利用された、文字だけを出力できる出力機を「タイプセッタ」と呼ぶのに対し、第4世代電算写植システムで使用された、文字と画像を一括して出力できるレーザ出力機を「イメージセッタ」と呼ぶ。もしイメージセッタがPostScriptに対応していた場合は電算写植システムとDTPのどちらでも出力が可能である(つまり、電算写植用に導入したレーザ出力機をDTPに流用できる)。電算写植またはDTPで制作した組版データを、「イメージセッタ」を使って一旦フィルムに出力し、それを元に改めて刷版を作成するという「CTF(Computer to Film)方式」は、電算写植からDTPへの過渡期にかけてよく行われていたが、組版データから直接刷版を作成する「CTP(Computer to Plate)方式」や、刷版を作成せずに組版データをプリンターで直接印刷する「オンデマンド方式」と比較すると手間がかかる上に、フィルムに起因する品質不良が発生する恐れがあるため、DTPの標準化に伴ってほとんど行われなくなった。
=== DTPへの移行 ===
[[File:High-Speed CRT Computer Phototypesetter Linotron-202E.jpg|thumb|高速CRT電算写植機 ライノトロン202E(モリサワ-ライノタイプ株式会社)]]
[[File:Shinkansen_Shinagawa_Station_South_gate.jpg|thumb|電算写植で印刷された写研の「ゴナ」と、DTPで印刷されたモリサワの「新ゴ」が混在している。「きっぷうりば」は新ゴ、「Shinkansen Tracks」は[[Helvetica]]、他の文字はゴナ]]
モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。電算写植機への参入は遅かったものの、「ライノトロン」シリーズの最初の製品であるデジタルフォント式電算写植機「ライノトロン202E」は、発売から3年で100台を納品するヒット商品となった。1986年には、電算写植用の新しいゴシック体ファミリーを制作するためにイカルスシステムを導入し<ref>[https://www.morisawa.co.jp/culture/inside-story/1996 story 第一回 新ゴ(上)] - 株式会社モリサワ</ref>、4年がかりで「新ゴシック体」を制作、1990年に発表する(「新ゴシック体」は、1993年にPostScriptフォント化され、DTP用の「[[新ゴ]]」として再発表される)。
写研・モリサワに次ぐ業界3位だったリョービ印刷機販売(リョービイマジクス)も、1983年に同社初の電算写植機となる「REONET300」を発表。1986年ごろには、自社のフォントをアウトラインフォント化するためにイカルスシステムを導入。
このような状況の日本に、DTPを引っ提げて米[[アドビ]]社がやって来る。
1986年当時、米[[アドビ]]社は日本のDTP業界への進出をもくろんでいたが、当時社員数十名のベンチャー企業であったアドビ社は、膨大な文字数に及ぶ日本語のPostScriptフォントを自社単独で制作することは不可能であると考えた。そのため、まず写研に提携を持ち掛けるが、断られた(写研の社長・石井裕子は情報公開に消極的でインタビューなどは断っていたため2018年に死去するまでの思惑は不明)。次にアドビはリョービに提携の話を持ち掛けるが、当時のリョービは自社システム向けのフォントのデジタル化だけで手いっぱいであり、DTP向けに新たにPostScriptフォントを制作することには前向きではなかった。そのため、アドビは最後にモリサワに話を持ち掛けた。
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいて[[Apple|アップル]]やアドビなどと提携し、DTP(PostScript)に対応したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表。一方、日本でライノトロン社の製品を販売するモリサワ2代目社長の森澤嘉昭は「(自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで、後に3代目社長)にDTPを身に付けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる<ref>[https://www.weeklybcn.com/journal/hitoarite/detail/20160926_32876.html モリサワ 代表取締役社長 森澤彰彦] - 週刊BCN+</ref>。日本語PostScriptフォントの制作にあたっては、イカルスシステムが使い物にならなかったためアドビ製のソフトウェアを導入し、20人体制で1年以上の制作期間となるなど難航したが、モリサワは1989年にアドビよりPostScript日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のPostScript書体となる「[[リュウミン]]L-KL」と「[[中ゴシックBBB]]」が搭載されたプリンター「[[LaserWriter NTX-J]]」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
1987年、写研は自社の電算写植機において、[[ISDN]]回線を利用し電算機が写研のサーバーに接続されてフォントの使用1文字あたりで課金されるという「従量課金制」を導入する。その効果もあって、1991年には写研の年商が史上最高となる350億円に達した。この頃が日本における電算写植の全盛期である。しかし1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換えていく。DTPで利用できるフォントは、当初はモリサワの2書体だけであったものの、1989年には財団法人日本規格協会文字フォント開発・普及センターによる[[平成書体]]がリリースされ、また1991年には[[フォントワークス]](日本代理店ではなく香港の本社)からアップルのサードパーティ製としては初となる日本語フォントがリリースされるなど徐々に増えていく。なお[[工業技術院]]の求めに応じて写研が制作し、平成書体に収録された「[[平成丸ゴシック]]」が、2020年時点でDTPで利用可能な唯一の写研フォントである。特に、当時の製版業界で多用されていた写研の電算写植システム用フォント「ゴナ」とよく似たモリサワの電算写植用フォント「新ゴシック」がPostScriptフォント化され、DTPで使える「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。1992年リリースの日本語版「漢字Talk 7.1」では、アドビのPostScriptフォントに対抗すべくアップルが開発した[[TrueType]]フォントがOSレベルで標準サポートされ(それまでのMacでは、PostScriptフォントがプリンターに搭載されていたのに対し、OS側ではビットマップフォントしかサポートされていなかったため、画面に表示される文字はギザギザだった)、モリサワフォント、フォントワークス、平成書体など、DTPを扱う環境も整備されていった。
特に小規模印刷で大きなシェアを得ていた写研のSAPTONシステムだが、印刷までの工程ごとに複数の高価な専用ハードウェアが必要とされる電算写植に対して、市販のMac1台とDTPソフトの「QuarkXPress」「Illustrator」「Photoshop」で完結するDTPの方が圧倒的に安価であり、また従来は複数の専門オペレータによって分業されていた工程をDTPでは1人で行えるようになるという点でも、小規模システムはDTPへの移行が早く、電算写植のシステムは1990年代前半から後半にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。写研はDTPの流れに対抗すべく、MacやWindowsなどで作成されたデータもSAPCOLで編集できる「SAMPRAS」(サンプラス)システムを1997年に発表したが、DTPベースのシステムと比較すると極めて高価であり、またフォントが他社のDTPシステムのような「買い切り」ではなく「従量課金制」という点でも、小規模印刷所には受け入れられなかった。
なお写研の「SAMPRAS」システムは、[[UNIX]]([[HI-UX]])を搭載した日立のワークステーションがベースのカラー集版システム「SAMPRAS-C」、文章データと画像データを読み込んで保管するデータベースサーバ「IMERGE II」など、市販のサーバーをベースとした複数のハードウェアで構成されている。その中のテキスト編集機「GRAF」は、1960年代から使われている写研の伝統のテキスト編集ソフトウェア「SAPCOL」を内蔵してはいるものの、Windowsを搭載した市販のPCと同じAT互換機であるため、この時代になると電算写植機はDTPと全く同じハードウェアを用いるようになっている。電算写植はDTPと比べると複数の独自ハードウェアを用いる複雑なシステムに見えるが、熟練オペレーターにとってはこちらの方が逆にDTPよりも扱いやすく、DTPよりも美しい版がより迅速に作成できるという点でも、特に大手出版社においては電算写植を支持するオペレーターがいまだ多かったのも、1990年代当時においては事実である。
モリサワの電算写植機は、Windows 95の登場後にWindows PCベースのシステムにリプレースされた。しかし1997年当時、モリサワの売上の大半はすでに写植事業ではなくPostScriptフォント事業によるものとなっていた<ref>[https://www.pictex.jp/wp/2018/11-120 電子の文字 ── モリサワと写研(再掲)] – PICTEX BLOG</ref>。写植業界1位の写研と比べると、モリサワの規模はもともとそれほど大きくなかったということもあり、DTP業界の拡大とともにモリサワの業績は拡大。電算写植システムの売り上げの急激な減少を「従量課金制」で補いながらも年商が下がり続ける写研に対し、多言語対応フォントの制作などDTP時代に対応し続けるモリサワは、1998年には年商ベースで写研を抜いてトップとなった。
=== 2000年代以降 ===
大規模出版においては2000年代ごろまで電算写植が使われていたが、1999年にQuarkXPressを上回る機能を持つDTPソフトウェア[[Adobe InDesign]]が発売され、その機能が向上するにつれて、大規模出版を含むほとんどの出版がInDesignベースのDTPに置き換えられた。
2000年代以降にはPCで利用可能なデジタルフォントも充実し、写研を除くかつての写植メーカーがDTP向けのフォントの販売を行っているほか、InDesignでは扱うのが面倒な日本語の大規模自動組版向けのソリューション(モリサワの「[[MC-Smart]]」など)も存在している。かつて写植機という「ハードウェア」を販売していたモリサワは、デジタルフォントやDTPソフトその他をまとめ上げた「ソリューション」を販売する業態に転換した。リョービ(リョービ印刷機販売→CI導入でリョービイマジクスに社名変更→2012年にリョービ本体に吸収→2014年にオフセット部門が三菱重工印刷紙工機械と合併してリョービMHIグラフィックテクノロジー)はDTP時代においても中小型オフセット印刷機においては世界的な大手メーカーであり続けているが、フォント部門は2011年にモリサワに譲渡した。
写研は2000年代以降もDTPへの対応を全く行なわなかった。そもそも写研は情報公開に消極的で、2000年に電算写植用書体「本蘭ゴシック」を発表して以降の新作書体の発表がなく、公式ウェブサイトが2021年まで存在しなかったため、DTP時代への対処を検討しているのかしていないのか、何を商売にしているのかすらよく知られていなかった。そんな中、2011年の「第15回電子出版EXPO」に写研が突如として出展し、写研の名作フォントである「ゴナ」や「ナール」を[[OpenType]]フォント化する予定があるとのアナウンスを行ったが、2021年にモリサワとの共同開発が発表されるまで具体的な進展はなかった。
2000年に発売された写研の組版システム「Singis」はWindowsベースのシステムで、PhotoshopやIllustratorなども利用できるが、Singisに搭載された写研のフォントは独自形式で、写研のソフトウェアからしか利用できない。Singisと組み合わせる写植の各工程の専用ハードウェアはそれぞれ数百万円するため、Mac1台で完結するDTPと比較すると著しく高価であり、さらに使用するたびに使用料がかかる「従量課金制」である。SingisにはSAPCOLで記述された過去の電算写植データをPDF化する機能もあるため、いくつかの業者においては2010年代以降の電子書籍時代においても活用されているが、写研の閉鎖的なシステムは複数のソフトウェアやフォントを自由に利用する前提のDTPとは正反対で、ほとんどの業者においては電算写植時代のデータが2000年代以降に受け継がれることがないまま、電算写植機オペレータの廃業とともに歴史のかなたに消えることとなった。
鉄道のサインシステムは写研のフォントが使われていたが(JR東海は旧国鉄の「すみ丸ゴシック」も混用)、電算写植の技術を持つオペレーターが少なくなっていたため、DTPを使用せざるをえなくなり、看板が古くなって交換する2010年代以後に「写研のフォントとよく似たデジタルフォント」に次第に置き換えられている。
放送業界においては、1984年に写研の電子テロップシステム「TELOMAIYER」(テロメイヤー)が発売され、これは写植を介さずに直接感熱記録紙に印字できるので、その時点で写植ではなくなっている。放送業界ではその後もしばらく写研の電子テロップシステムによるものと並行して、写研の電算写植機によるテロップが使われていたが、例えばNHK年鑑では1994年度以降は「写植」の文字が登場しなくなり、そのころに電算が廃止されたようである。ちなみに放送業界においても、番組制作のデジタル化が進むとともに、やはり電算機と同様に「わざわざ写研の電子テロップシステムを使わなくても、Macに元から入っているフォントで十分」ということになり<ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2014_01/20140103.pdf 【放送のオーラル・ヒストリー】「テレビ美術」の成立と変容 (1)文字のデザイン] - NHK『放送研究と調査』 2014年1月号</ref>、写研のフォントは2000年代以降にはほとんど使われなくなった。しかし2021年現在でもアニメ業界では[[シンエイ動画]]制作の『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』において写研のフォントを使用している。他にも[[東映アニメーション]]制作の『[[プリキュアシリーズ]]』が2011年の『[[スイートプリキュア♪]]』まで写研のフォントを使い続けていたが、2012年の『[[スマイルプリキュア!]]』から[[フォントワークス]]のフォントに移行した。
漫画においては、2000年代前半までは講談社を除くほとんどの出版社では写研の電算写植機でネームを印字して貼り込んでおり、例えば集英社の『[[週刊少年ジャンプ]]』で必殺技を叫ぶ際などに使われている書体は写研の「ゴナ」であった(一方、講談社はモリサワの「アンチックAN」をよく使っていた)。写研はSAMPRAS-C上で動くマンガ編集システム「ハヤテ」を2000年に開発し、Macと比べて著しく高価なWindowsベースのシステムではあるものの、これを使えば編集者が生原稿の手書きネームを消しゴムで消して写植のネームを水平垂直がズレないよう丁寧に貼り込んだりする必要もなく、原稿をスキャンしてPC上で一括で処理できるようになり、またPCの画面でラフ画稿に写植を貼り込んで初稿を出したりもできるようになることから、『週刊少年マガジン』など講談社グループの漫画の製版を手掛ける豊国印刷も2001年に「ハヤテ」を導入した。一方で豊国印刷では漫画製版のMac製版(DTP)への移行が進められており、2003年にモリサワに依頼してMac(DTP)用としては初となる「[[アンチック体]]」(漫画で最も一般的に用いられるフォント)をリリースさせ、2005年にはInDesignをベースとした漫画製版システムを自社開発する。『週刊少年サンデー』を印刷する[[大日本印刷]]も、2003年にアドビと提携してInDesignを導入する。『週刊少年ジャンプ』の印刷を手がける[[共同印刷]]では、『週刊少年ジャンプ』の原稿を入稿して2〜3時間で出稿まで持っていくというような高速性を「職人技」に頼っていたため、コミック製版のDTP化が遅れていたが、この職人技をDTPに置き換えるため、2003年にInDesignをコアに使用した漫画用の組版システム「ComicPacker」を自社開発した<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/content/view/5428.html コミックの電子化と出版の変遷] - JAGAT</ref>。2006年より[[共同印刷]]がソフトバンクと共同で漫画のデジタル配信サービスを手掛けるようになると、「ComicPacker」は漫画のデジタル配信用データの作成ソフトとしても注目されるようになり、その過程で出た「DTPにはコミック特有の書体バリエーション(例えばホラー用の「イナクズレ」など)がない」という出版社からの要求に答えるため、共同印刷はフォントワークスに働き掛けてDTP用の漫画用フォントを制作させた。このような経緯で漫画におけるDTPの環境が整い、2000年代後半より順次に漫画製版のDTP化がなされた。連載漫画においては切りのいいところまで従来のフォントを使い続ける場合もあるため、漫画ごとに電算写植(写研の写植機を用いた製版)からDTP(MacとInDesignを用いた製版)への移行が順次に進むことになるが、例えば『週刊少年サンデー』では2007年から写研(電算写植)の「中見出しアンチック」に代わってモリサワ(DTP)の「学参かなアンチック」が、大手漫画雑誌の中では最もDTP化が遅れていた『週刊少年ジャンプ』でも2010年春ごろから写研(電算写植)の「ゴナ」に代わってモリサワ(DTP)の「新ゴ」が使われ始めたことが確認されている。「イナクズレ」「淡古印」も、DTP用に新たに開発された「コミックミステリ」または「万葉古印ラージ」に置き換えられた。
一方、どうしても「シリーズの途中でフォントを変えたくない」「写研のフォントが使いたい」というニーズもあることから、2010年代以降もInDesignと並んで写研の電算写植機が現役で稼働している製版会社もある。例えば、文芸誌や漫画の製版・集版を手掛ける株式会社ステーションエスでは、2019年現在もInDesignと並んで8台の電算写植機が稼働しているという。2019年現在では紙に書かれる漫画も少なくなったが、いまだにマンガ編集システム「ハヤテ」のユーザーも存在するとのこと<ref>『+DESIGNING』 VOLUME 48、p.40、マイナビ出版、2019年</ref>。
電算写植からDTPに移行した2009年当時の講談社『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』誌の編集者によると、編集者としてはフォントの形が微妙に違うことを気にしていたが、読者も作家もそれほど気にしていなかったという<ref>[https://www.cinra.net/article/column-morisawa-morisawa05-3-php 連載『嘘じゃない、フォントの話』(supported by モリサワ) 第5回:マンガの空気を生み出す「文字」 ] - CINRA.NET</ref>。
日本の電算写植の創始であるSAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースの[[XSL Formatting Objects]]の普及に携わっていた。
=== 終焉 ===
写研の創業者である石井茂吉の三女で、1963年より写研の2代目社長を務めた石井裕子が2018年に死去。その後、写研の工場が解体・売却されるなど、写研の解体が進んでいる。
2020年夏ごろより、「ナール」や「ゴナ」と言った電算写植の時代を象徴する数々の書体を生み出した「写研文字部」が存在した写研の埼玉和光工場が解体された。埼玉工場はその時点で10年ほど稼働しておらず、建物(第一工場は1963年竣工、第二工場は1965年に竣工。1970年に第二工場の増築工事が行われ、その後「写研文字部」が東京大塚本社ビルから移転してきた)や看板(1972年、社名を「写真植字機研究所」から「写研」へと変更した際に[[橋本和夫]]が設計。この看板の文字をベースに[[中村征宏]]が写植用フォント「ファン蘭」を設計した)は老朽化していた。
2021年1月、モリサワは写研と共同で、2024年より写研の書体をOpenTypeフォント化することを発表した<ref>[https://www.morisawa.co.jp/about/news/5280 モリサワ OpenTypeフォントの共同開発で株式会社写研と合意] - 株式会社モリサワ</ref>。2024年は、写研の創業者である石井茂吉とモリサワの創業者である森澤信夫が、邦文写真植字機の特許を1924年に共同で申請してから100周年に当たる。
写研の電算写植システムが利用しているNTTのISDN回線サービスは、2024年に廃止される。写研は2024年までは、写研のフォントが利用できることをセールスポイントとする電算写植システムの販売・レンタル・フォント使用料の徴収などを軸とした、独自のビジネスモデルを続ける予定である(その意味で、日本における電算写植の時代はまだ終わっていないともいえる)。
== Computer Typesetting System(CTS) ==
{{See also|Computer Typesetting System}}
写研やモリサワなどの写植機メーカーが開発して各社に販売した電算写植機とは別に、日本の大手印刷会社や新聞社などでは自社向けに自力で開発した専用の電算写植システムも存在する。これは「[[Computer Typesetting System]]」(CTS)と呼ばれる。1960年代から2000年代にかけて使われた。
NELSON(New Editing & Layout System Of Newspaper、ネルソン)は、朝日新聞社とIBMが共同開発した電算写植システムである。1980年に稼働し、2005年まで使われた。新聞製作に特化したシステムで、インターネットに記事が流用できないなど問題があり、またメインフレーム上に構築されているので維持費がかかったため、2005年にはオープンサーバー上に構築された「メディア系システム」に置き換えられた。
日経新聞社のANNECSも朝日新聞社のものと同時期にIBMが開発した。
凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe InDesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。
=== 手動写植に対する電算写植の利点 ===
1960年代から1970年代にかけての手動写植に対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。
*手動写植は基本的に文字入力と組版が一体化しており、写植機で1文字ずつ文字を入力(感材に印字)していくことで同時に組版が行われるが、電算写植では文字入力と組版を分業化できるようになった。
*そのため、誤植や変更があった場合、手動写植の場合は版下を1文字単位で切り貼りする必要があり、大変な労力を要していたが、電算写植では保存しておいた組版データ上で修正を行うようになり、大幅な修正も簡単になった。
*組版データを保存しておくことができるということは、版下と校正紙が切り離されることを意味し、校正紙を複数出力することなども可能になった。
*歯車の動作に依存する手動機では不可能なような、複雑なデザインがこなせるようになった。
一方で、電算写植の「早く組める」「大幅に直せる」という利点は、「後で直せるから」という意識につながり、原稿を組版工程に回す前段階で綿密に行われるべき[[編集者]]の原稿整理や校正、レイアウトなどがおろそかになった([[誤植]]・[[誤報]]につながる)という指摘も多かった。暗算による字数計算に基づく紙面レイアウトなどの、活字時代には編集者の基本とされた技能が、組版技術の進化と反比例するように衰退したともいわれる。それはDTP時代になると、かつてならばあり得なかったであろう「仮組み」(とりあえず組んでみて、レイアウトを調節する)などが行われることにつながる。
1960年代当時は文字通り全て手動でハードウェアを管理・制御する形式であった「手動写植機」であるが、1980年代には「電子制御手動写植機」となり、コマンドをフロッピーディスクに記録できるなど電算写植機に近い機能を備えるようになり、電算写植機との差はあまりなくなっていた。
=== 初期のDTPに対する電算写植の利点 ===
1980年代から1990年代にかけての初期のDTPに対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。
*[[写研]]のSAPCOL(サプコル)に代表される組版プログラムの開発は、日本語組版のルールに基づくページレイアウトを可能にし、DTPよりも「美しい」組版ができた。
*DTPでは希望する書体が使えない、和文の組版ルールへの対応が甘い、あるいは数式と和文の混在したページを満足に組めない
*対話型の組版(マウスやキーボードでフォントや位置をいちいち指定するような組版)では大量のページ物を組む効率が悪く、「コード」を使った自動組みでは電算写植に一日の長がある
一方で、上記のDTPの欠点は1990年代から2000年代にかけて解消されていった。電算写植からDTPの移行においては、電算写植機の「コード」をAdobe InDesignの「スクリプト」やXMLで置き換える試みがなされ、また日本語の大量ページ物の組版の効率化への要求に対しては、モリサワが[[MC-Smart]]を用意した。
なお電算写植は1960年代には旧来の写真植字の機構を電算機で管理・制御する形式であったが、1990年代には市販のサーバーやPCベースのシステムとなり、PostScriptへの対応やWYSIWYGを実現したシステムも登場するなどDTPに近い機能を備えるようになり、DTPとの差はあまりなくなっていた。
==関連用語==
*[[出版]]
*[[印刷]]
*[[Adobe InDesign]]
*[[Computer Typesetting System]](CTS)
== 出典 ==
<references />
{{タイポグラフィ用語}}
{{DEFAULTSORT:てんさんしやしよく}}
[[Category:印刷]]
[[Category:印刷史]]
[[Category:コンピュータ史]]
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AA, Aa, aa
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'''AA''', '''Aa''', '''aa'''
== 学術的な記号・単位 ==
* '''AA''' - [[ABO式血液型]]の[[遺伝子型]]の1つ。
* '''a. a.''' - [[数学]]における慣用表現「ほとんど全ての」 (almost all) の略記。「[[ほとんど (数学)]]」を参照。
== 規格・階級 ==
* AA (評価レベル) - [[A#Aの意味|A]]やA+よりも高く、[[AAA]]よりも低い。'''[[ダブル]]エー'''。また、'''2A'''と表記されることもある。[[格付け会社]]などで用いられる。
* AA (野球) - [[メジャーリーグ]]の球団傘下のマイナーチームのクラス(ダブルA、2Aとも) ⇒ [[マイナーリーグベースボール]]
* AA (乾電池) - 日本では「単3形」と呼ばれる[[乾電池]]の種類 (AA battery) 。
* AA (カップサイズ) - [[ブラジャー]]のサイズの一つ。Aよりも2.5cm小さいサイズである。
== 正式名称 ==
* [[アー川]](Aa) - [[フランス]]の[[川]]
* '''AA'''(ダブルエー) - 音楽批評家・[[間章]]についての[[ドキュメンタリー映画]] ⇒ '''[[AA (映画)]]'''
* '''AA'''(ダブルエー) - [[川澄綾子]]と[[清水愛]]によるCDアルバム<!--ユニットではない-->
* '''AA'''(ダブルエース) - D.J.Amuro([[石川貴之]])作曲の曲
* '''AA''' - [[アスキーアート]]を扱う[[2ちゃんねる]]のカテゴリ ⇒ '''[[AA (2ちゃんねるカテゴリ)]]'''
== 略語・略称 ==
=== 一般名詞・術語 ===
* [[副学士 (香港)|副学士]] (Associate of Arts) - 香港の学位
* [[アフリカ系アメリカ人]] (African American)
* [[積極的差別是正措置]] (affirmative action)
* [[アルコホーリクス・アノニマス]] (Alcoholics Anonymous) - [[アルコール依存症]]を持つ人たちの[[ピアサポート]]グループ。断酒自助会(固有名詞に非ず)
* [[アミノ酸]] (amino acid)
* [[再生不良性貧血]] (aplastic anemia)
* [[アラキドン酸]] (arachidonic acid)
* [[アンチエイリアス|アンチエイリアシング]] (anti-aliasing)
* [[Atlas Autocode]] - プログラミング言語のひとつ
*[[オートオークション]](auto auction)
* アマゾン・アソシエイト(アフィリエイト) Amazon Associates(Affiliate) - [[Amazon.co.jp]]の[[成功報酬型広告]](アフィリエイト)
* [[アスキーアート]] (ASCII art)
* [[対空兵器]] (anti-aircraft warfare)
* アティテュード・アジャストメント (Attitude Adjustment) - アメリカのプロレスラー[[ジョン・シナ]]の必殺技
* [[AppArmor]]
* [[ソニー]]が開発した薄型[[非球面レンズ]] 、AA(Advanced Aspherical)レンズ。
=== 固有名詞 ===
*企業・組織
**[[ドイツ外務省]] (Auswärtiges Amt)
** 英国建築協会付属建築学校(Architectural Association School of Architecture) ⇒ [[AAスクール]]
** [[アルコア]] (Alcoa) - アルミニウム製品メーカー
** [[アーサー・アンダーセン]] (Arthur Andersen) - 大手監査法人
** [[あすかActavis製薬]]が製造・販売を手掛ける[[後発医薬品]]につけられるメーカー符丁。
**[[アメリカン航空]] (American Airlines) -アメリカ合衆国内の大手航空会社
*(人の)ユニット名
** [[アコースティック・アルケミー]] (Acoustic Alchemy)
** 政治思想の近しい[[安倍晋三]]と[[麻生太郎]]の2人を指すことがある。
** AA(ダブルエー)- [[アメリカ合衆国]]の元[[プロレスラー]]、[[アーン・アンダーソン]] (Arn Anderson)の愛称。
*作品名
** [[America's Army]] - 米国陸軍が開発したFPSゲーム
** [[頭文字D ARCADE STAGE|頭文字D ARCADE STAGE6 AA]] - セガの[[頭文字D]]を題材としたアーケードゲーム。AAはダブルエースと読む。
== コード・形式名 ==
=== コード ===
* [[世界気象機関]]の国名コードで、'''[[南極大陸]]'''を示す
* [[連邦情報処理標準|米国連邦情報処理標準]]の国名コード(FIPS 10-4)で、'''[[アルバ]]'''を示す。
* [[国際標準化機構]]の[[ISO 639|言語コード]](ISO 639-1)で、'''[[アファル語]]'''を示す。
* [[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]で、'''[[アメリカン航空]]'''を示す。
=== 形式 ===
* [[GAZ-AA]] - ソ連の軍用車両
* [[三菱ふそう・エアロスター#エアロスター-S|三菱ふそう・エアロスターS]]の型式。[[日産ディーゼル・スペースランナーRA]]の[[OEM]]供給車。
== 他の記号等を付して用いるもの ==
* [[A×A ダブルエー]] - [[テレビ東京]]で放送されていた広報番組。また、出演者の[[相内優香]]・[[秋元玲奈]]の2名を指す。
== 関連項目 ==
* [[ダブルエー]](曖昧さ回避)
* [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]]
* [[特別:Prefixindex/AA|AAで始まる記事の一覧]]
* [[特別:Prefixindex/Aa|Aa,aaで始まる記事の一覧]]
* [[ああ]](曖昧さ回避)
* [[アア]]
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写植
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写植(しゃしょく、しゃちょく)
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写植(しゃしょく、しゃちょく) 写真植字の略。「写植機」は写真植字機の略。
電算写植の意。
手動ないし電算の写真植字機によって出力された「写植版下」の意。漫画のセリフ部分の文字などにも使用されている。「写植を貼る」などと表現する。
(印刷・出版業界において)写真植字機の代表的メーカーである株式会社写研のことを指す言葉。モリサワ、モトヤなどとメーカー名を特定せずに「写植」とだけ言う場合、写研を指すことが多い。(モトヤはTrendAceやビデオジャムにおいて、「電算植字機」という表記を用いた)
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'''写植'''(しゃしょく、しゃちょく)
# [[写真植字]]の略。「写植機」は[[写真植字機]]の略。
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# 手動ないし電算の写真植字機によって出力された「写植版下」の意。[[漫画]]のセリフ部分の文字などにも使用されている。「写植を貼る」などと表現する。
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写真植字機
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写真植字機(しゃしんしょくじき)は、写真技術を応用し、作業者の入力に応じて印画紙に文字を印字することで組版を行い、印字された文字や表組を現像した物をイラストなどと貼り込み印刷用の版下を作成する。写植機と通称される。光とレンズを使って文字を作るタイプライターとでもいうべきコンセプトで作られている。
ここでは手動写植機について扱う。電算写植については当該記事を参照。
写真植字機は、19世紀末に開発された鋳植機(1886年)やモノタイプ(1887年)など、先に実用化された技術である鋳植機の延長・発展として着想された。写真技術を用いて、鋳植機における母型を文字盤に、鋳造部分をレンズと印画紙に置き換え、装置全体の小型化を狙ったものが写真植字機であると言える。1890年前後から主にイギリスとドイツで研究が進められ、後に試作機も製作されていたが、実用化・商用販売に至ったのは日本の石井茂吉と森澤信夫によるものが最初であった。日本が世界に先んじた背景には、欧文活字が文字ごとにそれぞれ固有の幅をもっており、文字盤の送り装置に複雑な機構が要求されたのに比べ、和文組版では基本的に文字が等距離に並ぶため、そのような問題を回避できたということがある。また、活字一揃いの字数が少ない欧米ではすでに鋳植機が発達・普及していたが、日本語の文字の多さから見て活字を印刷物用に大量に準備するにはスペースの問題もあり文字盤から無限に印字できる写植機はこの問題を解決できる必要なものになっていた。
1924年3月、新聞記事で写真植字機について知った森澤が石井に相談を持ちかけたのが開発のきっかけとなり、同年7月には国内で特許を出願する。1925年6月に認可を受け、開発を始めて8ヶ月後の同年10月に試作第一号機を完成させた。そして1926年11月、石井の自宅に写真植字機研究所(後の写研)が設立された。開発にあたっては、主に石井がレンズと文字盤を、森澤が他の装置部分を担当したとされる。商用販売が実現したのは1929年であるが、これは印刷会社5社がそれぞれ1台ずつ、厚意によって試験的に導入したものである。開発と比べ普及は進まず、森澤は1933年に同研究所を退社し、他業に転ずる。戦前、写真植字機は装置が小型で運搬しやすいところから、機密保持や外地での宣伝用印刷物製作に向くとされ、主として軍関係に利用された。
戦後、写真植字機研究所の設備は戦災により全て焼失していたため、理研工業から製造権の譲渡が打診された。しかし石井は提示された条件を良しとしなかった。そこで共同発明者である森澤と相談のうえ、再び森澤と結び、機械本体を森澤が、レンズと文字盤を石井が製作する共同事業として、写真植字機の開発が再開する。当時は印刷物の需要が非常に大きく、活版印刷と比べて設備の簡便な写真植字機は積極的に導入され、急速に普及していった。
当初は文字盤の書体として金属活字のそれを流用していたが、のちに平版オフセット印刷の特性を考慮した、いわゆる写植文字としての開発・改良がなされていく。石井と森澤はそれぞれ写研とモリサワという二大企業に分かれ、両社が国内の業界を牽引していった。
機械装置としての写真植字機は、
などで構成される。
光源ランプからの光が、左右が反対の文字部分のみが透明になったガラス製の文字盤、級数レンズ、変形レンズの順で通り、オペレータ正面右のハンドルを押し下げることで、文字盤が固定しシャッターが切られ、暗箱に入った印画紙に植字される仕組みである。ただし、ファインダーを開いている時は、シャッターを切っても暗箱まで光が届かない構造になっている。(ファインダーは空打ちをする場合、そして形が複雑で文字盤の目視だけでは正しい文字を拾えているか確認が困難な場合に使用される)
一文字植字するごとに、点字板に水性マーカー等で、植字した場所に点字が打たれる。点字の大きさは文字サイズ変更でも変わることはない。新しい機種になるとCRT画面搭載により、文字の実画像でのレイアウト表示が可能になっている。
光源の明るさは、印画紙の種類や文字の形状によって変化させる。白抜き用の印画紙を入れることで黒地に白抜きでの植字が可能になるが、白抜き用の印画紙使用の場合は、光源の明るさを大幅に上げ、複数回シャッターを切ることで植字する。また、ゴナUなどの様に極太ウェイトの文字を拾う場合、光源が明るすぎるとハレーションを起こし、文字がにじんでしまうこともあるため、足下のペダル操作で一時的に光源を落として植字をする場合もある。
印画紙に感光させることで植字するため、作業後に現像処理をする必要がある。現像は自動現像機で行うことが多いが、予算的に自動現像機が購入出来ない場合や、厳密な濃度管理が要求される場合は、暗室にて手作業で現像が行われることもあった。
写真植字機で利用される単位として、文字サイズはQ数、送り量は歯数で指定する。Qとは英語のquarter(=1/4)の意であり、1Qは1/4mm(0.25mm)である。このQに同音の漢字をあてて級と表記することが多い。しかし写真植字機では、文字を使用頻度によって分類する単位として「級」が使用されるので、両者の混同を避ける意味もあり、文字サイズについては「Q」と表記するほうが正確だとされる。また歯数は、文字盤を歯車で機械的に操作していた時の移動量に由来しており、1歯は0.25mmである。歯数はQに倣ってHと略記されることがある。
そもそも初期の写真植字機において、文字のサイズは、レンズ番号(最小が4.5ポイントに近似する1、最大が31ポイントに近似する10)で指示するか、または号数制やポイント制など、既存の単位系の相当値を用いることで表されていた。送り量も当初は縦横共に0.5mmであったが、1935年にまず縦送りだけが0.25mmに改良された。(当時の印刷物の多くが縦組みであったので、これをより精密に組むことが優先されたためである。)そして1938年に縦横の送り量が共に0.25mmとなるよう改良された時、送り量(歯数)をもとにした、文字サイズを表す新しい単位として、Q数制が確立された。すなわち、ある送り量でベタとなる文字サイズのQ数は、その歯数と等しい。例えば10歯送りでベタとなる文字サイズが10Qである。後に送り量を0.25mm以下のさらに小さな数値で制御できるようになってからも、単位としての歯に変更はなかった。
Qと歯は同一の量であるが、文字サイズについてのみQ、送り量については歯と使い分けることで、版面体裁の指定で混同を避けられるという利点がある。また送り量の単位に当初からメートル法が採用されていた結果として、Q数制もメートル法に基づく単位となったが、戦後になると、同様にメートル法で規定されている日本国内の紙の寸法に合わせやすいという利点が生じた。このような特長から、Q数制は電算写植やDTPの時代においても利用されている。(ポイント活字、号数活字を参照)
追記:広告用に写植が使われるようになると文字の間隔を詰める(カーニング)の流行があり0.25mmより詰める必要もあり自在に詰められるように細かいピッチでも字詰めができるように機械的に改善されブラウン管モニターがついたパボでは画面で状態を見ながら作業・印字できるようになった。
(参考:山岡勤七 「写真植字」 『日本百科大事典』 小学館、1962年)
文字サイズごとに一揃いの活字を用意しなければならなかった活版印刷では、一書体あたりの専有面積が大きく、管理する費用も嵩むため、利用できる書体の数はごく限られていた。これに対し写真植字では、一つの文字盤からあらゆるサイズの文字が出力できるため、より多くの種類の書体を利用することが可能になった。
また書体の開発においても、活字と比べて文字盤の製作は簡便であったため、日本で初めて欧文組版のように多彩な書体を用意することが可能になった。一方で、本文用に設計された文字を大きく拡大して使うと痩せて見えたり、逆に見出し用に設計された文字を縮小して使うと潰れてしまうことから、さまざまな太さ(ウェイト)を揃えたファミリーとしての書体が要求されるなど、金属活字の時代とは異なる課題も生じた。ウェイトという概念そのものは写真植字が登場する前から存在していたものの、日本では、一書体に必要な字数の多さなど開発にかかる負担が大きく、それまで実現していなかったものであり、日本のタイプフェイスデザインは、写真植字の時代に大きな発展を遂げた。
文字盤とそれに付随する書体は、各社の写真植字機を特徴づける大きな要素で、非常に高価であり、多くの場合メーカーは自社の文字盤を他社製写真植字機で使用できないよう図っていた。しかし、実際には別会社の書体を混植した印刷物も多く見られ、形状に互換性がなくとも、文字盤が小さければ位置を調整してそのまま用いたり、補助枠を取り付けたりして対応させ、逆に大きすぎる場合には文字盤そのものを加工するといった、様々な策がとられていた。さらに、文字盤の構造はそれほど複雑なものではなかったので、特異な書体を用いるために、私的に文字盤を製作することも行われた。また、会社ロゴや独自記号などを写植機上で使用できるようにするために、ネガフィルム状態の文字・図像を貼ることでサブプレートとして使用可能な、「四葉(しよう)」といったプレートも販売されていた。
活版と異なり、レンズを使って自由に文字を拡大縮小あるいは変形レンズにより長体や平体そして斜体などに変化させることができたことや、多彩な書体が使用できたことなどから、組版の自由度が飛躍的に上昇した。また、活版の設備に比して場所を取らず、習熟に必要な期間も短く、また低コストで導入することができた。
ただし、初期の写植機は、印字する度に打ち込まれる点字で大まかなレイアウトを確認しながらの作業であり、打ち終えた印画紙を現像するまでは正確な仕上がりは分からなかった。そのため経験や勘に頼る所も多く、仕上がり品質は写植オペレータにより大きく左右された。
また先述の通り、変形レンズを使用することで長体・平体・斜体の変形が自由に行えるようになったが、斜体の場合、右上がり又は左上がりに印字されていたため、ライン合わせという斜め方向への印字をしていかなければならなかった。そのため、斜体を機械で混植することができず、斜体部分だけを別の場所にバラ打ちをしておいて、版下手作業において斜体部分を貼り込んでいくという作業が必要だった。
だが時代が進むにつれ、制御が機械工学的なものから徐々にマイコン制御に代わることで、詰め打ち用文字盤と併せて字送りを自動制御できるようになり、回転レンズの搭載で斜体の混植も可能になり、さらにその後のCRT搭載機の登場により、ほぼ正確なレイアウトを目で確認しながら作業できるようになった。 一番新しい機種では、斜め組や円組の混植も可能で、かなり複雑な版下も一枚の印画紙の中で組むことができる。
文字のサイズは当初、あらかじめ定められた倍率にしか指定できなかったが、JQレンズの登場によって中間の値を指定できるようになり、デザイナーの要望に応えられるようになった。
写植機の操作は版下の作成に直結するので、平版オフセット印刷工程において工数の減少につながった。しかし一方、文字の訂正が必要な場合、版下を薄く切り取って貼り替えるという作業が必要になり、行単位で少しずつずれるような場合には大変な労力を必要とした。ただし、この欠点はデータの状態で組版結果を保存することで訂正を容易にする電算写植において解消された。
DTPに完全に駆逐されたかに見える技術だが、現在でも一部では手動写植機が現役で活動している。
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"text": "ただし、初期の写植機は、印字する度に打ち込まれる点字で大まかなレイアウトを確認しながらの作業であり、打ち終えた印画紙を現像するまでは正確な仕上がりは分からなかった。そのため経験や勘に頼る所も多く、仕上がり品質は写植オペレータにより大きく左右された。",
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写真植字機(しゃしんしょくじき)は、写真技術を応用し、作業者の入力に応じて印画紙に文字を印字することで組版を行い、印字された文字や表組を現像した物をイラストなどと貼り込み印刷用の版下を作成する。写植機と通称される。光とレンズを使って文字を作るタイプライターとでもいうべきコンセプトで作られている。 ここでは手動写植機について扱う。電算写植については当該記事を参照。
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{{出典の明記|date=2018年5月5日 (土) 06:02 (UTC)}}
'''写真植字機'''(しゃしんしょくじき)は、[[写真]]技術を応用し、作業者の入力に応じて[[印画紙]]に[[文字]]を印字することで[[組版]]を行い、印字された文字や表組を現像した物をイラストなどと貼り込み[[印刷]]用の[[版下]]を作成する。'''写植機'''と通称される。[[光]]とレンズを使って文字を作る[[タイプライター]]とでもいうべきコンセプトで作られている。
ここでは手動写植機について扱う。[[電算写植]]については当該記事を参照。
[[Image:Shaken subplate1.jpg|thumb|200px|[[写研]]の写植文字盤(サブプレート)]]
==開発==
写真植字機は、[[19世紀]]末に開発された[[ライノタイプ|鋳植機]]([[1886年]])やモノタイプ([[1887年]])など、先に実用化された技術である鋳植機の延長・発展として着想された。写真技術を用いて、鋳植機における母型を文字盤に、鋳造部分を[[レンズ]]と印画紙に置き換え、装置全体の小型化を狙ったものが写真植字機であると言える。1890年前後から主に[[イギリス]]と[[ドイツ]]で研究が進められ、後に試作機も製作されていたが、実用化・商用販売に至ったのは日本の[[石井茂吉]]と[[森澤信夫]]によるものが最初であった。[[日本]]が世界に先んじた背景には、欧文活字が文字ごとにそれぞれ固有の幅をもっており、文字盤の送り装置に複雑な機構が要求されたのに比べ、和文組版では基本的に文字が等距離に並ぶため、そのような問題を回避できたということがある。また、活字一揃いの字数が少ない欧米ではすでに鋳植機が発達・普及していたが、日本語の文字の多さから見て活字を印刷物用に大量に準備するにはスペースの問題もあり文字盤から無限に印字できる写植機はこの問題を解決できる必要なものになっていた。
[[1924年]]3月、新聞記事で写真植字機について知った森澤が石井に相談を持ちかけたのが開発のきっかけとなり、同年7月には国内で[[特許]]を出願する。[[1925年]]6月に認可を受け、開発を始めて8ヶ月後の同年10月に試作第一号機を完成させた。そして[[1926年]]11月、石井の自宅に写真植字機研究所(後の[[写研]])が設立された。開発にあたっては、主に石井がレンズと文字盤を、森澤が他の装置部分を担当したとされる。商用販売が実現したのは[[1929年]]であるが、これは印刷会社5社がそれぞれ1台ずつ、厚意によって試験的に導入したものである。開発と比べ普及は進まず、森澤は[[1933年]]に同研究所を退社し、他業に転ずる。戦前、写真植字機は装置が小型で運搬しやすいところから、機密保持や外地での宣伝用印刷物製作に向くとされ、主として軍関係に利用された。
戦後、写真植字機研究所の設備は戦災により全て焼失していたため、[[理研工業]]から製造権の譲渡が打診された。しかし石井は提示された条件を良しとしなかった。そこで共同発明者である森澤と相談のうえ、再び森澤と結び、機械本体を森澤が、レンズと文字盤を石井が製作する共同事業として、写真植字機の開発が再開する。当時は印刷物の需要が非常に大きく、[[活版印刷]]と比べて設備の簡便な写真植字機は積極的に導入され、急速に普及していった。
当初は文字盤の[[書体]]として[[活字|金属活字]]のそれを流用していたが、のちに平版[[オフセット印刷]]の特性を考慮した、いわゆる'''写植文字'''としての開発・改良がなされていく。石井と森澤はそれぞれ[[写研]]と[[モリサワ]]という二大企業に分かれ、両社が国内の業界を牽引していった。
==構造==
[[ファイル:All-round Phototypesetter MC-6.jpg|サムネイル|万能写真植字機MC-6型(モリサワ) ]]
機械装置としての写真植字機は、
*光源
*[[文字盤]]
*レンズ群
*[[ファインダー]]
*暗箱
*送り装置
*点字板又は[[ブラウン管|CRT]]画面
などで構成される。
光源ランプからの光が、左右が反対の文字部分のみが透明になったガラス製の文字盤、級数レンズ、変形レンズの順で通り、オペレータ正面右のハンドルを押し下げることで、文字盤が固定しシャッターが切られ、暗箱に入った印画紙に植字される仕組みである。ただし、ファインダーを開いている時は、シャッターを切っても暗箱まで光が届かない構造になっている。(ファインダーは空打ちをする場合、そして形が複雑で文字盤の目視だけでは正しい文字を拾えているか確認が困難な場合に使用される)
一文字植字するごとに、点字板に水性マーカー等で、植字した場所に点字が打たれる。点字の大きさは文字サイズ変更でも変わることはない。新しい機種になるとCRT画面搭載により、文字の実画像でのレイアウト表示が可能になっている。
光源の明るさは、印画紙の種類や文字の形状によって変化させる。白抜き用の印画紙を入れることで黒地に白抜きでの植字が可能になるが、白抜き用の印画紙使用の場合は、光源の明るさを大幅に上げ、複数回シャッターを切ることで植字する。また、[[ゴナ]]Uなどの様に極太ウェイトの文字を拾う場合、光源が明るすぎると[[ハレーション]]を起こし、文字がにじんでしまうこともあるため、足下のペダル操作で一時的に光源を落として植字をする場合もある。
印画紙に感光させることで植字するため、作業後に現像処理をする必要がある。現像は自動現像機で行うことが多いが、予算的に自動現像機が購入出来ない場合や、厳密な濃度管理が要求される場合は、暗室にて手作業で現像が行われることもあった。
==Q数制==
写真植字機で利用される単位として、文字サイズは'''Q数'''、送り量は'''[[歯 (単位)|歯数]]'''で指定する。Qとは英語のquarter(=1/4)の意であり、1Qは1/4mm(0.25mm)である。このQに同音の漢字をあてて'''級'''と表記することが多い。しかし写真植字機では、文字を使用頻度によって分類する単位として「級」が使用されるので、両者の混同を避ける意味もあり、文字サイズについては「Q」と表記するほうが正確だとされる。また歯数は、文字盤を歯車で機械的に操作していた時の移動量に由来しており、1歯は0.25mmである。歯数はQに倣ってHと略記されることがある。
そもそも初期の写真植字機において、文字のサイズは、レンズ番号(最小が4.5ポイントに近似する1、最大が31ポイントに近似する10)で指示するか、または号数制やポイント制など、既存の単位系の相当値を用いることで表されていた。送り量も当初は縦横共に0.5mmであったが、[[1935年]]にまず縦送りだけが0.25mmに改良された。(当時の印刷物の多くが[[縦書きと横書き|縦組み]]であったので、これをより精密に組むことが優先されたためである。)そして[[1938年]]に縦横の送り量が共に0.25mmとなるよう改良された時、送り量(歯数)をもとにした、文字サイズを表す新しい単位として、'''Q数制'''が確立された。すなわち、ある送り量でベタとなる文字サイズのQ数は、その歯数と等しい。例えば10歯送りでベタとなる文字サイズが10Qである。後に送り量を0.25mm以下のさらに小さな数値で制御できるようになってからも、単位としての歯に変更はなかった。
Qと歯は同一の量であるが、文字サイズについてのみQ、送り量については歯と使い分けることで、版面体裁の指定で混同を避けられるという利点がある。また送り量の単位に当初からメートル法が採用されていた結果として、Q数制もメートル法に基づく単位となったが、戦後になると、同様にメートル法で規定されている日本国内の紙の寸法に合わせやすいという利点が生じた。このような特長から、Q数制は[[電算写植]]や[[DTP]]の時代においても利用されている。([[ポイント活字]]、[[号数活字]]を参照)
追記:広告用に写植が使われるようになると文字の間隔を詰める(カーニング)の流行があり0.25mmより詰める必要もあり自在に詰められるように細かいピッチでも字詰めができるように機械的に改善されブラウン管モニターがついたパボでは画面で状態を見ながら作業・印字できるようになった。
===写植のQ数と活字の比較===
{| class="wikitable"
|-
! Q数
| 7 || 8 || 9 || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 18 || 20 || 24 || 28 || 32 || 38 || 44 || 50 || 56 || 62
|-
!ポイント
| 5 || 5.5 || 6 || 7 || 7.5 || 8 || 9 || 10 || 10.5 || 11 || 12 || 14 || 16 || 18 || 22 || 26 || 31 || 34 || 38 || 42
|-
!号数
| 8 || 7 || - || - || 6 || - || - || - || 5 || - || - || 4 || 3 || - || 2 || 1 || - || - || - || 初
|}
(参考:山岡勤七 「写真植字」 『日本百科大事典』 [[小学館]]、1962年)
==写植文字==
文字サイズごとに一揃いの活字を用意しなければならなかった活版印刷では、一書体あたりの専有面積が大きく、管理する費用も嵩むため、利用できる書体の数はごく限られていた。これに対し写真植字では、一つの文字盤からあらゆるサイズの文字が出力できるため、より多くの種類の書体を利用することが可能になった。
また書体の開発においても、活字と比べて文字盤の製作は簡便であったため、日本で初めて欧文組版のように多彩な書体を用意することが可能になった。一方で、本文用に設計された文字を大きく拡大して使うと痩せて見えたり、逆に見出し用に設計された文字を縮小して使うと潰れてしまうことから、さまざまな太さ(ウェイト)を揃えたファミリーとしての書体が要求されるなど、金属活字の時代とは異なる課題も生じた。ウェイトという概念そのものは写真植字が登場する前から存在していたものの、日本では、一書体に必要な字数の多さなど開発にかかる負担が大きく、それまで実現していなかったものであり、日本の[[タイプフェイス]]デザインは、写真植字の時代に大きな発展を遂げた。
文字盤とそれに付随する書体は、各社の写真植字機を特徴づける大きな要素で、非常に高価であり、多くの場合メーカーは自社の文字盤を他社製写真植字機で使用できないよう図っていた。しかし、実際には別会社の書体を混植した印刷物も多く見られ、形状に互換性がなくとも、文字盤が小さければ位置を調整してそのまま用いたり、補助枠を取り付けたりして対応させ、逆に大きすぎる場合には文字盤そのものを加工するといった、様々な策がとられていた。さらに、文字盤の構造はそれほど複雑なものではなかったので、特異な書体を用いるために、私的に文字盤を製作することも行われた。また、会社ロゴや独自記号などを写植機上で使用できるようにするために、<!--サードパーティーから?-->ネガフィルム状態の文字・図像を貼ることでサブプレートとして使用可能な、「四葉(しよう)」といったプレートも販売されていた。
==特徴==
活版と異なり、レンズを使って自由に文字を拡大縮小あるいは変形レンズにより長体や平体そして斜体などに変化させることができたことや、多彩な書体が使用できたことなどから、組版の自由度が飛躍的に上昇した。また、活版の設備に比して場所を取らず、習熟に必要な期間も短く、また低コストで導入することができた。
ただし、初期の写植機は、印字する度に打ち込まれる点字で大まかなレイアウトを確認しながらの作業であり、打ち終えた印画紙を現像するまでは正確な仕上がりは分からなかった。そのため経験や勘に頼る所も多く、仕上がり品質は写植オペレータにより大きく左右された。
また先述の通り、変形レンズを使用することで長体・平体・斜体の変形が自由に行えるようになったが、斜体の場合、右上がり又は左上がりに印字されていたため、ライン合わせという斜め方向への印字をしていかなければならなかった。そのため、斜体を機械で混植することができず、斜体部分だけを別の場所にバラ打ちをしておいて、版下手作業において斜体部分を貼り込んでいくという作業が必要だった。
だが時代が進むにつれ、制御が機械工学的なものから徐々に[[マイコン]]制御に代わることで、詰め打ち用文字盤と併せて字送りを自動制御できるようになり、回転レンズの搭載で斜体の混植も可能になり、さらにその後のCRT搭載機の登場により、ほぼ正確なレイアウトを目で確認しながら作業できるようになった。
一番新しい機種では、斜め組や円組の混植も可能で、かなり複雑な版下も一枚の印画紙の中で組むことができる。
文字のサイズは当初、あらかじめ定められた倍率にしか指定できなかったが、JQレンズの登場によって中間の値を指定できるようになり、デザイナーの要望に応えられるようになった。
写植機の操作は版下の作成に直結するので、平版オフセット印刷工程において工数の減少につながった。しかし一方、文字の訂正が必要な場合、版下を薄く切り取って貼り替えるという作業<!--「うすはぎ」って言ってなかったですか?-->が必要になり、行単位で少しずつずれるような場合には大変な労力を必要とした。ただし、この欠点はデータの状態で組版結果を保存することで訂正を容易にする電算写植において解消された。
DTPに完全に駆逐されたかに見える技術だが、現在でも一部では手動写植機が現役で活動している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[写植]]
*[[電算写植]]
*[[DTP]]
*[[Computer Typesetting System]](CTS)
*[[出版]]
*[[印刷]]
*[[写研]]、[[モリサワ]]、[[リョービ]] : 写植機メーカ
*[[漫画]]
== 外部リンク ==
* {{YouTube|o1XtiG0wvDg|インタビュー「写真植字の時代」(DTPニュースvol.12)}}
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[[Category:印刷]]
[[Category:機器]]
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13,749 |
210年
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210年(210 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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210年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[神功皇后]]摂政10年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]870年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[後漢]] : [[建安 (漢)|建安]]15年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[山上王]]14年
** [[新羅]] : [[奈解尼師今|奈解王]]15年
** [[百済]] : [[肖古王]]45年
** [[檀君紀元|檀紀]]2543年
* [[仏滅紀元]] : 753年
* [[ユダヤ暦]] : 3970年 - 3971年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* 呉の周瑜が死去し、[[魯粛]]が後任の司令官となる。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:210年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[周瑜]]、[[呉 (三国)|呉]]の武将(* [[175年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,750 |
275年
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275年(275 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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275年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[応神天皇]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]935年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[西晋]] : [[咸寧 (晋)|咸寧]]元年
** [[呉 (三国)|呉]] : [[天冊]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[西川王]]6年
** [[新羅]] : [[味鄒尼師今|味鄒王]]14年
** [[百済]] : [[古尓王]]42年
** [[檀君紀元|檀紀]]2608年
* [[仏滅紀元]] : 818年
* [[エチオピア暦]] : 267年 - 268年
* [[コプト暦]] : 紀元前9年 - 紀元前8年
* [[タイ太陽暦]] : 818年
* [[ユダヤ暦]] : 4035年 - 4036年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
=== ローマ帝国([[3世紀の危機]]) ===
* [[9月25日]] - [[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]即位。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月]] - [[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]{{要出典|date=2021-02}}、ローマ皇帝(* 214年)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,752 |
767年
|
767年(767 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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767年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丁未]]
* [[日本]]
** [[天平神護]]3年、[[神護景雲]]元年
** [[皇紀]]1427年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[大暦]]2年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=767|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 3月 - 法王宮職を置く。
* 7月 - [[内賢省]]を置く。
* 10月 - [[陸奥国]]に[[伊治城]]を築く。
== 誕生 ==
{{see also|Category:767年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月15日]](神護景雲元年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[最澄]]、[[平安時代]]の[[僧]]、[[天台宗]]の開祖(+ [[822年]])
* [[杲隣]]、平安時代の[[真言宗]]の僧(+ 没年未詳)
* [[藤原真雄]]、平安時代の[[貴族]](+ [[811年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:767年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月20日]](神護景雲元年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[泰澄]]、[[奈良時代]]の[[修験道]]の[[僧]](* [[682年]])
* [[6月28日]] - [[パウルス1世 (ローマ教皇)|パウルス1世]]、[[教皇|ローマ教皇]]
* [[12月16日]](神護景雲元年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[山村王]]、奈良時代の[[貴族]](* [[722年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|767}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,753 |
822年
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822年(822 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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822年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[壬寅]]
* [[日本]]
** [[弘仁]]13年
** [[皇紀]]1482年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[長慶]]2年
* [[渤海 (国)|渤海]] : [[建興 (渤海)|建興]]5年
* [[朝鮮]]
** [[新羅]] : [[憲徳王]]14年
** [[長安国]] : [[慶雲 (金憲昌)|慶雲]]元年(私年号)
* [[ベトナム]]
* [[仏滅紀元]] : 1367年
* [[ユダヤ暦]]:
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=822|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 6月 - 朝廷が[[比叡山]]に[[大乗戒壇]]の建立を許可する<ref>『性と宗教』、2022年1月発行、島田裕巳、講談社現代新書、P83</ref>。
* 7月 - 新羅人40人、帰化する。
* [[アブド・アッラフマーン2世]]が即位。([[スペイン]]・[[後ウマイヤ朝]])
* [[唐蕃会盟]] - [[唐]]と[[吐蕃]]が同盟
* [[金憲昌]]、長安国 開国
== 誕生 ==
{{see also|Category:822年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[紀安雄]]、[[平安時代]]の[[公家]]、[[学者]] (+ [[886年]])
* [[雪峰義存]]、[[唐]]、[[五代十国時代]]の[[禅宗]]の[[僧]] (+ [[908年]])
* [[源融]]、平安時代の[[皇族]]、[[歌人]] (+ [[895年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:822年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月27日]](弘仁13年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]])- [[藤原藤成]]、[[平安時代]]の[[貴族]]、(*[[776年]])
* [[6月26日]] (弘仁13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[最澄]]、[[平安時代]]の[[僧]]、[[天台宗]]の開祖 (* [[767年]])
<!--* [[金憲昌]]-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|822}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=9|年代=800}}
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[[Category:822年|*]]
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Video Graphics Array
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Video Graphics Array(ビデオ グラフィックス アレイ、略称:VGA)は、IBMがEGAの後継として、1987年に発表した表示回路規格である。代表的な表示モードに 640×480 ピクセル・16色がある。転じて、640×480 ピクセルの画面解像度を俗に「VGA」と呼ぶようにもなった。
1987年にIBMのパーソナルコンピューターであるIBM PS/2に初めて搭載された。PS/2ではマザーボード上に搭載されていたが、その後、PC/AT用にATバス用VGAカードも発売された。各社のPC/AT互換機でも、VGAおよびSVGA(VGA上位互換の表示回路規格の総称)が普及し、事実上の標準となった。
VGAは英数テキストモードおよびAPA(All Points Addressable、全点アドレス割り当て可能)グラフィックモードをサポートする。
標準のグラフィックモードは次の4つが存在する。このうち、640×480の縦横比は当時のテレビの縦横比に近く、マルチメディアを想定した設計と言われている。
640×480ドット16色および320×200ドット256色モードは完全に再定義可能なパレットを持ち、それぞれ18ビット(262,144色)のRGBテーブルから色を選択する。もっとも、高解像度モードはMicrosoft Windows上の固定パレットでの使用をきっかけに一般化した。他のカラーモードはEGAまたはCGA互換のパレット(プログラム用に64色テーブルから16色EGAパレットを再定義する機能を含む)に準じるが、VGA特有のプログラム手法を用いることで再定義することも可能である。
今日ではCGA/EGAとの互換機能は忘れ去られ、変換アダプタが用途不明の商品として出回っていたこともある。 なお、規格制定者の意図は不明だが9ピンのVGA端子とCGA/EGAはピンアサインが異なり変換アダプタも相互利用は出来ない。
この他にも画面解像度や画面モードをカスタマイズすることで様々な表示モードの画面信号を生成できる。
VGAの"A"は従来の"adapter"に代わって"array"を指しており、初めからシングルチップ(ASIC)として実装された。これはMotorola 6845ビデオアドレス発生器だけでなくMDA、CGAおよびEGAのフルサイズISAボードの機能をカバーするいくつものディスクリート論理チップを置き換えるものであった。このシングルチップ実装によってVGA機能は、ビデオメモリ、タイミング発生器(クロック発振器)、外部RAMDACだけ用意すれば、PC本体のマザーボードに最小限の労力で搭載することができ、部品点数が減ったことで信頼性も向上した。その結果、最初のIBM PS/2モデルはマザーボード上にVGAが搭載された。これは、全てのIBM PCデスクトップモデル(PC、PC/XT、PC/AT)がモニターに接続するためにディスプレイアダプターをスロットに装着する必要があったことに比べると、対照的であった。
オリジナルのVGAの仕様は次の通りである。
標準モードと同様に、VGAはそれまでのEGA、CGA、MDAの様々なモードをエミュレートするよう設定することができる。互換性はBIOSレベルで完全に持っているが、レジスタレベルでもなお高い互換性を持っている。VGAはIBM PCjrまたはHerculesの特殊な表示モードとは(解像度・色・リフレッシュレート・メモリが十分であっても)直接の互換性はなく、これらのモードのエミュレーションはソフトウェアによって代替された。
VGAの水平同期周波数の標準値はNTSC-M表示システムで使われている数値のちょうど2倍である。これはVGAの開発時点ではオプションのテレビ出力機構やVGA-TV変換ボックスの提供を容易にする意図があった。VGA水平同期周波数の公式は (60 ÷ 1001) × 525 kHz = 4500 ÷ 143 kHz ≈ 31.4685 kHz。VGAカードで使われる全ての他の周波数はこの値の整数倍または分周数で供給される。水晶振動子の精度の限界により、実際のカードはこれより若干高く、あるいは低くなる。
全てのVGA供給タイミング(つまり、25.2MHzまたは28.3MHzのマスタクロックと31.5kHzの水平レートを使用するもの)はVGAファームウェアインターフェースを介さずにVGAハードウェアに直接アクセスすることで、ソフトウェアによって幅広く変化させることができた。多くのMS-DOSベースのゲームソフトがこれを行っていた。しかし、標準モードのみ、または最低でも標準モードの一つと同じ水平同期・垂直同期タイミングを使用しているモードのみが、1980年代後期から1990年代前期のオリジナルのVGAモニターで動作すると保証されていた。他のタイミングを使用すると、そのモニターに損傷を与える恐れがあり、故に基本的にソフトウェアメーカーはこれを避けていた。後のマルチシンクCRTモニターはより柔軟で、SVGAグラフィックカードとの組み合わせによって、完全に任意の同期周波数とピクセルクロック周波数でより幅広い解像度やリフレッシュレートを表示することができた。
最も一般的なVGAモード(640x480ドット、60Hzノンインターレース)について、水平同期タイミングは次のようになっている。
水平同期と空白時間の合計 = 6.356us、A=16、B=96、C=48、D=640で、1ライン=800ピクセル。
この画像に示されている図は正確ではなく、上の表とは完全には一致しない。
これらのタイミングは高周波数モードでも同じだが、全てのピクセルは9/8倍になる。つまり、アクティブ720ピクセル、1ラインあたり900ピクセル、バックポーチ54ピクセル。
垂直同期と空白時間の合計は1.43ms、A=10、B=2、C=33、D=480で、1フレーム=525ライン。
VGAはDE-15コネクタを使用している。
VGA機器と接続する別の方法として、信号品質を維持できるBNCコネクタがある。これは赤、緑、青、水平同期、垂直同期の5本のケーブルをセットにして使う。BNCでは信号線が端から端まで完全にシールドされた状態になるので、クロストークや外部ノイズの影響を受けにくい。
しかしながら、BNCコネクタはDE-15コネクタに比べると場所を取ってしまう。また、各ケーブルのコネクタを正しいソケットに接続するように注意しなければならない。BNCコネクタではVESA DDCがサポートされないため、オペレーティングシステム側でモニターの情報を得ることができない。従って、ユーザーはモニターがサポートする画面モードを把握した上で、オペレーティングシステムに適切な設定を施す必要がある。
BNCコネクタがVESA DDCに対応出来ない問題を解決するため、カナレ電気など各社から変換ケーブルに専用のコネクタを設けて対応しているほか、EDIDエミュレータという機器を使うことで疑似的にVESA DDCと同じ信号を生成することで対処する。
VGAのビデオメモリはPCのリアルモードアドレス空間のセグメント0xA0000 - 0xBFFFF(セグメント:オフセット表記でA000:0000 - B000:FFFF)間の範囲にウィンドウとして割り当てられる。一般的に、これらの開始セグメントは次のようになっている。
各モードで異なるアドレス割り当てを使用しているため、同じシステムに装着したモノクロアダプター(MDAまたはHercules)およびVGA、EGA、CGAカラーアダプターは共存できた。1980年代初めは、これはモノクロディスプレイで高解像度テキストにLotus 1-2-3シートを表示すると同時に低解像度CGAディスプレイ上に関連するグラフィックを表示するために使われた。多くのプログラマーは、他のカードのグラフィックモードでプログラムを動かしている間、モノクロカードでデバッグ情報を表示させるといった構成を利用することもあった。ボーランドのTurbo Debugger(英語版)、D86(英語版)、およびマイクロソフトのCodeView(英語版)といったデバッガはデュアルモニター構成で動作させることができた。Turbo DebuggerまたはCodeViewはWindowsのデバッグにも使われていた。それらにはWindowsをデバッグするために使うox.sys(モノクロディスプレイ上のシリアルインターフェースシミュレーション機能を実装している)というDOSデバイスドライバが存在し、実際の端末を使わずともデバッグ版Windowsからクラッシュメッセージを受け取ることができた。また、DOSプロンプトで「MODE MONO」コマンドを使うと出力をモノクロディスプレイにリダイレクトすることができた。モノクロアダプターが使われていないとき、0xB000-0xB7FFアドレス空間は他のプログラム用の追加メモリとして使うことができた。(例えば、CONFIG.SYSにDEVICE=EMM386.EXE I=B000-B7FFを加えると、プログラムはこのメモリをアッパーメモリブロックとして使用することができた。)
当時のPC/ATおよびPC/AT互換機では、CADやLotus 1-2-3などの表計算など、高解像度が必要とされる用途のために、IBM自身の8514/Aの他、EGAに独自の画面モードを追加した各種グラフィックチップや、EGAと共存できる高解像度グラフィックチップ(Herculesなど)が発売されていた。これらは独自の画面モード間の互換性は無く、それぞれ専用の(DOSまたはWindowsの)ドライバが必要だった。
VGAの登場により、VGA互換およびVGA上位互換のグラフィックチップ (Super VGA、SVGAとも言う) が普及し、VGAはPC/AT互換機での事実上の業界標準となった。
このため、各種のOSでもVGAを最小要件としたものが多い。また、表示関連の問題が発生した場合でもメーカーや機種を問わず表示できる共通画面モードのため、インストール時や非常用の画面で使われている。
PC/AT互換機用のWindowsをセーフモードやVGAモードで起動すると、VGAの640×480ピクセル 16色画面モードで表示が行われる。
しかしディスプレイの高精細化が進んだこともあり、Windows XP以上はSVGAにより表示される。パソコン用ディスプレイとしては最低1024×768ピクセル、いわゆるXGA相当の画面解像度が、最低ラインとして一般化した。PDAのような小型の端末にもVGAと同等の画素数を搭載する例が見られる。携帯電話端末ではSoftBank 904SHを皮切りとして、高級機種を中心に高精細な液晶ディスプレイが搭載されている。
日本ではDOS/Vの登場まではPC/AT互換機自体が普及しておらず、VGAもDOS/Vと共に普及した。なお「DOS/V」の「V」は「VGA」から来ている。
日本語をグラフィック表示するDOS/Vや、日本語Windowsの標準機能では、VGAの640×480ピクセル 1677万7216色中16色の表示モードを利用している。
この際に「PC-9800シリーズなどの大半は640×400ピクセルだが、DOS/Vは640×480なので、DOS画面では行間が開き、Windows上でも画面が広い」という比較が盛んに行われた。また、日本では最初からVGAが普及したため、DOS/V登場以前よりAT互換機に触っていたユーザーを除けば、VGAが下位の各種の画面モードを持っている事は余り知られていない。
東芝のJ-3100・ダイナブックや、AX協議会の各社AXパソコン(JEGAボードを搭載)は、当初はEGAをベースに独自に日本語化していたが、後にVGAを採用し、更にPC/AT互換機に移行した。
転じて、画面解像度として640×480ピクセル表示のことをVGAと言うようになった。これは、誤用が一般化したものである。
例えば、日本電気 (NEC) のPC-9821シリーズや富士通のFM TOWNSも、640×480ピクセルの解像度のモードを持っていたが、これらは別規格であり、「VGA」とは言わない。
また本来のVGAでは640×480画素での表示色数は16色のため、「640×480 256色」などは「VGA互換画面モード」と呼ぶのも正確ではなく、単に「VGAと同じ解像度」「VGA互換画素数表示」などと呼ぶのが妥当である。
ビデオカード一般を「VGAカード」と称するなど、コンピューターの画面出力=VGAという誤用も散見される。VGAはあくまで、複数の画面モードを持っている、特定の画面表示規格であり、「VGAカード」という語は(本来であれば)その規格に沿っており、それらの画面モード(のみ)を持つビデオカード、を特に指して使われるべきである。
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Video Graphics Arrayは、IBMがEGAの後継として、1987年に発表した表示回路規格である。代表的な表示モードに 640×480 ピクセル・16色がある。転じて、640×480 ピクセルの画面解像度を俗に「VGA」と呼ぶようにもなった。
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{{Infobox graphics processing unit
| name = Video Graphics Array
| image = IBM_VGA_graphics_card.jpg
| caption = VGAを搭載したIBM PS/2 Display Adapter
| codename =
| created = {{Start date and age|1987|04}}
| transistors =
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}}
'''Video Graphics Array'''(ビデオ グラフィックス アレイ、略称:'''VGA''')は、[[IBM]]が[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]の後継として、[[1987年]]に発表した表示回路規格である。代表的な表示モードに 640×480 [[ピクセル]]・16色がある。転じて、640×480 ピクセルの[[画面解像度]]を俗に「VGA」と呼ぶようにもなった。
== 歴史 ==
[[1987年]]にIBMの[[パーソナルコンピューター]]である[[IBM PS/2]]に初めて搭載された。PS/2では[[マザーボード]]上に搭載されていたが、その後、[[PC/AT]]用に[[Industry Standard Architecture|ATバス]]用VGAカードも発売された。各社の[[PC/AT互換機]]でも、VGAおよび[[Super Video Graphics Array|SVGA]](VGA上位互換の表示回路規格の総称)が普及し、事実上の標準となった。
== 機能 ==
[[File:Birds_VGA16.png|サムネイル|VGAグラフィック 解像度640×480×16色]]
[[File:Birds_VGA256.png|サムネイル|VGAグラフィック 解像度320×200×256色]]
VGAは英数テキストモードおよびAPA(''All Points Addressable''、全点アドレス割り当て可能)グラフィックモードをサポートする。
===グラフィックモード===
標準のグラフィックモードは次の4つが存在する。このうち、640×480の縦横比は当時のテレビの縦横比に近く、[[マルチメディア]]を想定した設計と言われている。
*640×480ドット、16色またはモノクロ<ref>{{cite web|url=http://martin.hinner.info/vga/timing.html|title=VGA Timings|accessdate=7 November 2012|last=Hinner|first=Martin}}</ref>。(後者はIBM [[Multicolor Graphics Adapter|MCGA]]規格と同等。)
*640×350または640×200ドット16色またはモノクロ([[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]互換モード)
*320×200ドット、4色または16色
*320×200ドット、256色(モード13h)
640×480ドット16色および320×200ドット256色モードは完全に再定義可能なパレットを持ち、それぞれ18ビット(262,144色)の[[RGB]]テーブルから色を選択する。もっとも、高解像度モードは[[Microsoft Windows]]上の固定パレットでの使用をきっかけに一般化した<ref group="注">日本ではVGAの高解像度モードを標準的に使用する[[DOS/V]]が登場し、その後からPC/AT互換機が普及したため、経緯がこれとは少し異なる。</ref>。他のカラーモードはEGAまたは[[Color Graphics Adapter|CGA]]互換のパレット(プログラム用に64色テーブルから16色EGAパレットを再定義する機能を含む)に準じるが、VGA特有のプログラム手法を用いることで再定義することも可能である。
今日ではCGA/EGAとの互換機能は忘れ去られ、変換アダプタが用途不明の商品として出回っていたこともある<ref>[http://blog.siliconhouse.jp/archives/51451342.html シリコンハウスへようこそ発掘!!あるあ・・・ねーよww]</ref>。
なお、規格制定者の意図は不明だが9ピンのVGA端子とCGA/EGAはピンアサインが異なり変換アダプタも相互利用は出来ない<ref>[http://info-coach.fr/atari/hardware/interfaces.php#EGA_DB9_Connector EGA/CGA/VGA9 DB9 Connector]</ref>。
===テキストモード===
*80字×25行、9×16ドットフォント、有効解像度は720×400ドット、16色またはモノクロ。後者は旧来の[[Monochrome Display Adapter|MDA]]ベースのアプリケーションと互換性がある。
*40字×25行、同じフォントサイズを持ち、有効解像度は360×400ドット。
*80字×43行、80字×50行(8×8ドットフォント)16色、有効解像度は640×344(EGA互換)または640×400ドット。
この他にも画面解像度や画面モードをカスタマイズすることで様々な表示モードの画面信号を生成できる。
==技術詳細==
[[ファイル:IBM VGA 90X8941 on PS55.jpg|サムネイル|[[PS/55]]のVGAとその周辺回路]]
===回路設計===
VGAの"A"は従来の"adapter"に代わって"array"を指しており、初めからシングルチップ([[ASIC]])として実装された。これは[[CRTC (LSI)|Motorola 6845]]ビデオアドレス発生器だけでなくMDA、CGAおよびEGAのフルサイズ[[Industry Standard Architecture|ISA]]ボードの機能をカバーするいくつものディスクリート論理チップを置き換えるものであった。このシングルチップ実装によってVGA機能は、[[VRAM|ビデオメモリ]]、タイミング発生器([[発振回路|クロック発振器]])、外部[[RAMDAC]]だけ用意すれば、PC本体の[[マザーボード]]に最小限の労力で搭載することができ、部品点数が減ったことで信頼性も向上した<ref>{{Cite journal|last=Thompson|first=Stephen|date=1988|title=VGA ‒ Design choices for a new video subsystem|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/5387622|journal=IBM Systems Journal|volume=27|issue=2|pages=185‒197|publisher=IBM}}</ref>。その結果、最初の[[IBM PS/2]]モデルはマザーボード上にVGAが搭載された。これは、全てのIBM PCデスクトップモデル([[IBM PC|PC]]、[[PC/XT]]、[[PC/AT]])がモニターに接続するためにディスプレイアダプターをスロットに装着する必要があったことに比べると、対照的であった。
===仕様===
[[File:Vector_Video_Standards2.svg|サムネイル|256px|VGAと他の標準解像度との比較]]
オリジナルのVGAの仕様は次の通りである。
*256KBのビデオメモリ(初期のVGAカードは64KB、128KBのRAMを搭載し、いくつか、または全ての高解像度16色モードが省略された。)
*16色および256色パレットの表示モード
*262,144色グローバルパレット(赤・緑・青各色が6ビット・64階層のRAMDACを使用)
*25.175MHz<ref>{{cite web|url=http://www.tinyvga.com/vga-timing/640x350@70Hz|title=VGA 640x350 Signal timing|accessdate=2016-06-17}}</ref>または28.322MHzから選択可能なマスターピクセルクロック
*通常の水平同期周波数は31.469kHz固定
*最大800水平ピクセル<ref name="ps2_refman19922">PS/2 Video Subsystem Technical Reference Manual 1992</ref>
*最大600垂直ライン<ref name="ps2_refman19922"/>
*最高70Hz<ref>{{cite web|url=http://www.tinyvga.com/vga-timing|title=VGA Signal timings|accessdate=2016-06-17}}</ref>の[[リフレッシュレート]](垂直同期)
*垂直ブランク[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]](全ての互換カードがサポートしているわけではない。)
*プレーンモード、最高16色(4ビットプレーン)
*パックドピクセルモード、256色(モード13h)
*ハードウェアスムーススクロールサポート
*ハードウェア[[スプライト (映像技術)|スプライト]]は非搭載
*ブリッターは非搭載だが、VGAラッチレジスタによる高速データ転送をサポート
*いくつかの"Raster Ops"をサポート
*[[バレルシフタ]]をサポート
*分割画面をサポート
*0.7Vピーク電圧幅<ref>{{cite web|url=http://www.microvga.com/faq/electrical|title=VGA Electrical FAQ|accessdate=2016-06-17}}</ref>
*75Ω二重終端[[インピーダンス整合|インピーダンス]]
標準モードと同様に、VGAはそれまでのEGA、CGA、MDAの様々なモードをエミュレートするよう設定することができる。互換性は[[Basic Input/Output System|BIOS]]レベルで完全に持っているが、[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]レベルでもなお高い互換性を持っている。VGAは[[IBM PCjr]]または[[Hercules Graphics Card|Hercules]]の特殊な表示モードとは(解像度・色・リフレッシュレート・メモリが十分であっても)直接の互換性はなく、これらのモードのエミュレーションはソフトウェアによって代替された。
===信号タイミング===
VGAの水平同期周波数の標準値は[[NTSC|NTSC-M]]表示システムで使われている数値のちょうど2倍である。これはVGAの開発時点ではオプションのテレビ出力機構やVGA-TV変換ボックスの提供を容易にする意図があった。VGA水平同期周波数の公式は (60 ÷ 1001) × 525 kHz = 4500 ÷ 143 kHz ≈ 31.4685 kHz。VGAカードで使われる全ての他の周波数はこの値の整数倍または分周数で供給される。[[水晶振動子]]の精度の限界により、実際のカードはこれより若干高く、あるいは低くなる。
全てのVGA供給タイミング(つまり、25.2MHzまたは28.3MHzのマスタクロックと31.5kHzの水平レートを使用するもの)はVGAファームウェアインターフェースを介さずにVGAハードウェアに直接アクセスすることで、ソフトウェアによって幅広く変化させることができた。多くの[[MS-DOS]]ベースのゲームソフトがこれを行っていた。しかし、標準モードのみ、または最低でも標準モードの一つと同じ水平同期・垂直同期タイミングを使用しているモードのみが、1980年代後期から1990年代前期のオリジナルのVGAモニターで動作すると保証されていた。他のタイミングを使用すると、そのモニターに損傷を与える恐れがあり、故に基本的にソフトウェアメーカーはこれを避けていた。後のマルチシンク[[ブラウン管|CRT]]モニターはより柔軟で、[[Super Video Graphics Array|SVGA]]グラフィックカードとの組み合わせによって、完全に任意の同期周波数とピクセルクロック周波数でより幅広い解像度やリフレッシュレートを表示することができた<ref group="注">後の[[液晶ディスプレイ]]ではその仕組み上の制限により対応可能なタイミングが絞られているため、標準でない画面モードは表示できないことが多い。</ref>。
最も一般的なVGAモード(640x480ドット、60Hzノン[[インターレース]])について、水平同期タイミングは次のようになっている。<ref name="Javier Valcarce timings list">{{cite web|url=http://www.javiervalcarce.eu/wiki/VGA_Video_Signal_Format_and_Timing_Specifications|title=Javier Valcarce VGA timings page|accessdate=2016-06-17}}</ref><ref>HP D1194A Super VGA Display & HP D1195A Erognomic Super VGA Display Installation Guide, Hewlett Packard</ref>
{| class="wikitable"
|-
!パラメーター !! 値 !! 単位
|-
|ピクセルクロック周波数 || 25.175 || [[ヘルツ|MHz]]<ref>Article [https://groups.google.com/g/sci.electronics.design/c/bb4D4zYcrYY/m/oQ_lN9kV7rgJ "Re: VGA specifications ,where ?"] posted 19 November 1997 to sci.electronics.design newsgroup by Jeroen Stessen</ref>
|-
|水平周波数 || 31.469 || kHz<!--as per above-->
|-
|水平ピクセル数 || 640 ||
|-
|水平同期信号の極性 || 負極性 ||
|-
|1ラインあたりの合計時間 || 31.778 || [[1 E-6 s|µs]]
|-
|フロントポーチ (A) || 0.636 || µs
|-
|同期パルス長 (B) || 3.813 || µs
|-
|バックポーチ (C) || 1.907 || µs
|-
|アクティブピクセル (D) || 25.422 || µs
|}
水平同期と空白時間の合計 = 6.356us、A=16、B=96、C=48、D=640で、1ライン=800ピクセル。{{Wide image|VGA 640x480 H-Timing.png|1004px|VGA 640x480の水平タイミング}}この画像に示されている図は正確ではなく、上の表とは完全には一致しない。
これらのタイミングは高周波数モードでも同じだが、全てのピクセルは9/8倍になる。つまり、アクティブ720ピクセル、1ラインあたり900ピクセル、バックポーチ54ピクセル。
{| class="wikitable"
|-
!パラメーター !! 値 !! 単位
|-
|垂直ライン数 || 480 ||
|-
|垂直同期信号の極性 || 負極性 ||
|-
|垂直周波数 || 59.94 || Hz
|-
|1フレームあたり合計時間 || 16.683 || ms
|-
|フロントポーチ (A) || 0.318 || [[ミリ秒|ms]]
|-
|同期パルス長 (B) || 0.064 || ms
|-
|バックポーチ (C) || 1.048 || ms
|-
|アクティブピクセル (D) || 15.253 || ms
|}
垂直同期と空白時間の合計は1.43ms、A=10、B=2、C=33、D=480で、1フレーム=525ライン。
===コネクタ===
[[File:Vga-cable.jpg|thumb|ミニD-Sub 15ピン端子([[VGA端子]])]]
{{main|VGA端子}}
VGAはDE-15コネクタを使用している。
VGA機器と接続する別の方法として、信号品質を維持できる[[コネクタ#BNCコネクタ|BNCコネクタ]]がある。これは赤、緑、青、水平同期、垂直同期の5本のケーブルをセットにして使う。BNCでは信号線が端から端まで完全にシールドされた状態になるので、[[クロストーク]]や外部ノイズの影響を受けにくい。
しかしながら、BNCコネクタはDE-15コネクタに比べると場所を取ってしまう。また、各ケーブルのコネクタを正しいソケットに接続するように注意しなければならない。BNCコネクタでは[[VESA Display Data Channel|VESA DDC]]がサポートされないため、[[オペレーティングシステム]]側でモニターの情報を得ることができない。従って、ユーザーはモニターがサポートする画面モードを把握した上で、オペレーティングシステムに適切な設定を施す必要がある。
BNCコネクタがVESA DDCに対応出来ない問題を解決するため、[[カナレ電気]]など各社から変換ケーブルに専用のコネクタを設けて対応している<ref>[https://ameblo.jp/holycater/entry-12467348575.html 『CANARE VVBOX VESA DDC対応同軸コネクタ変換ボックスの紹介』]</ref>ほか、EDIDエミュレータという機器を使うことで疑似的にVESA DDCと同じ信号を生成することで対処する<ref>[https://ameblo.jp/holycater/entry-12467341220.html 『VESA DDC(EDID)ってなんだ?』]</ref>。
===アドレス割り当ての詳細===
VGAのビデオメモリはPCの[[リアルモード]]アドレス空間の[[セグメント方式|セグメント]]0xA0000 - 0xBFFFF(セグメント:オフセット表記でA000:0000 - B000:FFFF)間の範囲にウィンドウとして割り当てられる。一般的に、これらの開始セグメントは次のようになっている。
*0xA0000 - [[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]/VGAグラフィックモード(64KB)
*0xB0000 - モノクロテキストモード(32KB)
*0xB8000 - カラーテキストモードおよび[[Color Graphics Adapter|CGA]]互換グラフィックモード(32KB)
各モードで異なるアドレス割り当てを使用しているため、同じシステムに装着したモノクロアダプター([[Monochrome Display Adapter|MDA]]または[[Hercules Graphics Card|Hercules]])およびVGA、EGA、CGAカラーアダプターは共存できた。1980年代初めは、これはモノクロディスプレイで高解像度テキストに[[Lotus 1-2-3]]シートを表示すると同時に低解像度CGAディスプレイ上に関連するグラフィックを表示するために使われた。多くのプログラマーは、他のカードのグラフィックモードでプログラムを動かしている間、モノクロカードでデバッグ情報を表示させるといった構成を利用することもあった。[[ボーランド]]の{{仮リンク|Turbo Debugger|en|Borland Turbo Debugger}}、{{仮リンク|D86|en|D86 (debugger)}}、および[[マイクロソフト]]の{{仮リンク|CodeView|en|CodeView}}といった[[デバッガ]]はデュアルモニター構成で動作させることができた。Turbo DebuggerまたはCodeViewはWindowsのデバッグにも使われていた。それらにはWindowsをデバッグするために使うox.sys(モノクロディスプレイ上の[[シリアルポート|シリアルインターフェース]]シミュレーション機能を実装している)というDOSデバイスドライバが存在し、実際の端末を使わずともデバッグ版Windowsからクラッシュメッセージを受け取ることができた。また、DOSプロンプトで「MODE MONO」コマンドを使うと出力をモノクロディスプレイに[[リダイレクト (CLI)|リダイレクト]]することができた。モノクロアダプターが使われていないとき、0xB000-0xB7FFアドレス空間は他のプログラム用の追加メモリとして使うことができた。(例えば、[[CONFIG.SYS]]に<code>DEVICE=EMM386.EXE I=B000-B7FF</code>を加えると、プログラムはこのメモリを[[Upper Memory Area|アッパーメモリブロック]]として使用することができた。)
== 影響 ==
=== 世界 ===
当時の[[PC/AT]]および[[PC/AT互換機]]では、[[CAD]]や[[Lotus 1-2-3]]などの表計算など、高解像度が必要とされる用途のために、IBM自身の[[8514/A]]の他、EGAに独自の画面モードを追加した各種グラフィックチップや、EGAと共存できる高解像度グラフィックチップ([[Hercules Graphics Card|Hercules]]など)が発売されていた。これらは独自の画面モード間の互換性は無く、それぞれ専用の(DOSまたはWindowsの)ドライバが必要だった。
VGAの登場により、VGA互換およびVGA上位互換のグラフィックチップ (Super VGA、SVGAとも言う) が普及し、VGAは[[PC/AT互換機]]での事実上の業界標準となった。
このため、各種の[[オペレーティングシステム|OS]]でもVGAを最小要件としたものが多い。また、表示関連の問題が発生した場合でもメーカーや機種を問わず表示できる共通画面モードのため、インストール時や非常用の画面で使われている。
PC/AT互換機用の[[Microsoft Windows|Windows]]をセーフモードやVGAモードで起動すると、VGAの640×480ピクセル 16色画面モードで表示が行われる。
しかしディスプレイの高精細化が進んだこともあり、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]以上はSVGAにより表示される。パソコン用ディスプレイとしては最低1024×768ピクセル、いわゆる[[Extended Graphics Array|XGA]]相当の画面解像度が、最低ラインとして一般化した。[[携帯情報端末|PDA]]のような小型の端末にもVGAと同等の画素数を搭載する例が見られる。[[携帯電話]]端末では[[SoftBank 904SH]]を皮切りとして、高級機種を中心に高精細な液晶ディスプレイが搭載されている。
=== 日本 ===
日本では[[DOS/V]]の登場までは[[PC/AT互換機]]自体が普及しておらず、VGAもDOS/Vと共に普及した。なお「DOS/V」の「V」は「VGA」から来ている。
日本語をグラフィック表示する[[DOS/V]]や、日本語Windowsの標準機能では、VGAの640×480ピクセル 1677万7216色中16色の表示モードを利用している。
この際に「[[PC-9800シリーズ]]などの大半は640×400ピクセルだが、[[DOS/V]]は640×480なので、DOS画面では行間が開き、Windows上でも画面が広い」という比較が盛んに行われた。また、日本では最初からVGAが普及したため、DOS/V登場以前よりAT互換機に触っていたユーザーを除けば、VGAが下位の各種の画面モードを持っている事は余り知られていない。
[[東芝]]の[[J-3100]]・[[ダイナブック (東芝)|ダイナブック]]や、[[AX]]協議会の各社AXパソコン([[Japanese Enhanced Graphics Adapter|JEGA]]ボードを搭載)は、当初はEGAをベースに独自に日本語化していたが、後にVGAを採用し、更に[[PC/AT互換機]]に移行した。
== 一般化した誤用 ==
転じて、[[画面解像度]]として640×480ピクセル表示のことをVGAと言うようになった。これは、誤用が一般化したものである。
例えば、[[日本電気]] (NEC) の[[PC-9821シリーズ]]や[[富士通]]の[[FM TOWNS]]も、640×480ピクセルの解像度のモードを持っていたが、これらは別規格であり、「VGA」とは言わない。
また本来のVGAでは640×480画素での表示色数は16色のため、「640×480 256色」などは「VGA互換画面モード」と呼ぶのも正確ではなく、単に「VGAと同じ解像度」「VGA互換画素数表示」などと呼ぶのが妥当である。
[[ビデオカード]]一般を「VGAカード」と称するなど、コンピューターの画面出力=VGAという誤用も散見される。VGAはあくまで、複数の画面モードを持っている、特定の画面表示規格であり、「VGAカード」という語は(本来であれば)その規格に沿っており、それらの画面モード(のみ)を持つビデオカード、を特に指して使われるべきである。
== 画像解像度としてのVGAの派生用語 ==
{{see also|画面解像度}}
;VGA+(ブイジーエープラス)
:690×480ドットで、アスペクト比は23:16。NECが開発。自社製携帯電話端末に採用している。
;ワイドVGA(ワイドブイジーエー、WVGA)
:800×480ドットで、アスペクト比は5:3。[[日立製作所]]、東芝、[[カシオ計算機]]、[[シャープ]]などが自社製携帯電話端末に採用している。
;ワイドVGA+(ワイドブイジーエープラス、WVGA+)
:854×480ドットで、アスペクト比は16:9。VGA+と同じくNECが開発。NEC、[[パナソニック モバイルコミュニケーションズ]]、シャープなどが自社製携帯電話端末に採用している。フルワイドVGAと長辺方向が10ドットしか違わないため、フルワイドVGAと記述されることがある。
;フルワイドVGA(フルワイドブイジーエー、FWVGA)
:864×480ドットで、アスペクト比は16.2:9。[[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]]が開発。同社のほか、[[三菱電機]]、富士通が自社製携帯電話端末に採用している。
;フルワイドVGA++(FWVGA++)
:960×480ドット。アスペクト比は2:1。シャープの[[IS01]]や[[SH-10B]]等に採用されている。
== 参考文献 ==
*{{Cite book|title=IBM Personal System/2 Hardware Interface Technical Reference|year=1988|publisher=International Business Machines Corporation}} IBM Part Number 68X2330.
*{{Cite book|author=日本アイ・ビー・エム株式会社|title=IBM PS/55・ハードウェア ハードウェア・インターフェース技術解説書|year=1990|publisher=オーム社|ISBN=4274076261}}
*{{cite web|url=http://osdever.net./FreeVGA/vga/vga.htm|title=VGA Chipset Reference|accessdate=2016-06-17|author=J. D. Neal|year=1997|work=Hardware Level VGA and SVGA Video Programming Information Page}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[VGA端子]]
*[[DOS/V]]
*[[画面解像度]]
*[[Quarter Video Graphics Array]](QVGA)
*[[DisplayPort]]
*[[ブルースクリーン]]
== 外部リンク ==
* [http://www.saturn.dti.ne.jp/~p8490261/syuuri.htm 今回のターゲット! PC-TV454] - 日本で9ピン規格VGA入力端子を実装した商品の例。ピンアサインを記した説明書のスキャンを含む。
{{IBM PCファミリーのビデオハードウェア}}
{{DEFAULTSORT:ひてお くらふいつくす あれい}}
[[Category:グラフィックカード]]
|
2003-08-22T12:44:05Z
|
2023-11-27T05:33:26Z
| false | false | false |
[
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite journal",
"Template:IBM PCファミリーのビデオハードウェア",
"Template:Infobox graphics processing unit",
"Template:Wide image",
"Template:Main",
"Template:仮リンク",
"Template:Cite book",
"Template:Cite web",
"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Video_Graphics_Array
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13,755 |
ウォー・シミュレーションゲーム
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ウォー・シミュレーションゲームあるいはウォー・ゲームとは、戦争を題材としその戦闘を再現したシミュレーションゲーム。ボードゲーム、コンピューターゲームの形式をとるものが多い。戦略シミュレーションゲーム、戦争シミュレーションゲーム、軍事シミュレーションゲームなどの呼び方もある。英語では"Wargame"と呼ばれる。
登場する部隊やキャラクターを駒に見立てて、将棋のように盤面の上で駒を動かし、目的を達成していくゲームのこと。そのため、敵味方双方のキャラクターの特性を知り、それを生かす作戦を練ることが重要となってくるが、「目的の達成」とは、必ずしも敵を倒すことばかりでなく、敵から逃げる、敵を倒さないようにある地点に到達するなど、様々である。
シミュレーションゲームの典型例で、単に「シミュレーション」「シミュレーションゲーム」と言えばこのウォー・シミュレーションゲームを指すことも多い。
ウォー・シミュレーションゲームで使用される盤面(マップ)は通常、均質なマス目(四角形の「スクエア」または六角形の「ヘクス」)で覆われているか、地理的に意味を持つエリアに分割されている。そして部隊駒をマス目やエリアの中に配置することで、部隊の移動や攻撃のための位置関係を表現する。ただしミニチュアゲームではヘクスやエリアがなく、マップ上を自由に移動できるのが原則である。
実際のゲーム進行は、野球のイニングに似たターンと呼ばれる単位で行われ(ターン制ストラテジー、略称 TBS)、プレイヤーは「1ターンの間に手持ちの部隊駒すべてに移動、戦闘などの行動を行わせる」という行為を数十ターンにわたって繰り返す。中にはターン制ではなく実時間制(敵味方同時に駒を操作する)で進行するものもあり、それらはリアルタイムシミュレーションあるいはリアルタイムストラテジー(略称 RTS)と呼ばれる。
通常、各ウォー・シミュレーションゲームには、マップスケール(地理的縮尺)とタイムスケール(時間的縮尺)が定められている。地理的縮尺は、1ヘクスが何メートル/何キロに相当するかで表される。時間的縮尺は、ターン制のゲームの場合、1ターンが何分/何時間/何日/何ヶ月に相当するのかで表され、リアルタイム制の場合は実時間に対してゲーム時間がどれくらいに相当するのかで表される。そして、地理的縮尺やシミュレートする戦闘の規模、性質によって、戦略(級)シミュレーションゲーム、作戦(級)シミュレーションゲーム、戦術(級)シミュレーションゲームの三種に分類される(詳細は後述)。
1980年代までは紙のマップ上で紙の駒を動かすタイプがほとんどだったが、1990年代以降、家庭用TVゲーム機や個人用コンピュータが普及し始めると、コンピュータゲームソフト化され、ゲームソフトの一分野を確立するまでになった。ボード時代は基本的に対戦相手を必要とする社交性を帯びたものだったのに対し、コンピュータ化後は一人プレイ中心となったという意味では、コンピュータ化により、趣味としての性格が変化した例ともいえるが、近年ではネットワーク対戦機能も付加され、それまでは対戦できなかった遠くの相手ともゲームが可能になった。さらには既存のボードゲームをソフト上に再現し、情報をやり取りして通信対戦できるソフトも登場している。
コンピュータ・ウォー・シミュレーションゲームの中には、シミュレーションロールプレイングゲームと呼ばれる、物語の要素が強いものもある。
現代的なウォー・シミュレーションゲームの先祖にあたるものはボードゲーム等の伝統的な「戦場を模したゲーム」である。歴史上、ボードゲームの亜種となるルールは多数が作られてきたが、その流れの果てに、19世紀のプロイセンにおいて、戦場で兵を指揮する訓練として研究・教育手段となるクリークシュピールというものが生まれた。戦場を精巧に再現した箱庭の中で部隊の動きをシミュレートするそれは兵棋演習として後の世に根付くこととなる。
また、欧米では19世紀以前から模型は一部の層の趣味として存在していた。やがて陳列するだけでは飽き足らなくなった模型ファンたちは、動力を付けて動かすようになり、鉄道模型を始めとする可動式模型を生んだが、軍隊模型ファンの中にはただ動かすのではなく、兵棋演習のようなことを「遊び」として行ってみようという流れが生まれ、ミニチュア・ウォーゲームと呼ばれる娯楽が誕生する。ただし、この当時のミニチュア・ウォーゲームは鉛製のおもちゃの兵隊を使った戦争ごっこにルールを定めたような素朴なものにすぎなかった。
第二次世界大戦後の1954年、アメリカのチャールズ・S・ロバーツ(en:Charles S. Roberts)が、ミニチュア・ウォーゲームや兵棋演習の戦略的な部分のみに着目して、マス目が印刷された紙製の地図と、厚紙で作られた駒を使う自作のボードゲーム『タクテクス』を自費出版で販売。このゲームは彼我の戦力比によって戦闘結果が多様に変化するという概念を初めてホビー用のゲームに持ち込んだんものでもあり、ウォー・シミュレーションゲームと呼ばれるジャンルの元祖ともされている。ロバーツは1958年にアバロンヒル社を設立し、紙製の地図と駒を使ったボードゲームとしてのウォー・シミュレーションゲームを多数開発していく。その後もSPI社、GDW社などが中心となって開発が進んだ結果、徐々にアメリカ人の間に普及してゆき、1970年代には数多くのファンを獲得するに至った。
日本には1970年代後半に、主に『月刊ホビージャパン』誌上で紹介され、一部に熱狂的なファンを生み、やがてエポック、バンダイ等国産メーカーの参入もなされた。1980年代前半にはテレビニュースなどでも報じられるまでになった。当初は「ウォーゲーム」という名称が一般的だったが、やがて「シミュレーション」という名称で呼ばれることが多くなった。当時の日本では「ゲーム」といえば『人生ゲーム』、『億万長者ゲーム』など、余興、暇つぶし、子供の戯れというイメージが強く、大人が真剣に打ち込む趣味として認知されにくいと考えられたため、「ウォーゲーム」という名称は敬遠されたと言われている。
また、これらボードゲームが普及する以前、70年代の前半では紙製のボードやユニットではなく、ミニスケール(陸戦ならHOスケール前後の)プラモデルとジオラマを利用したミニチュアウォーゲームのプレイも『月刊ホビージャパン』の記事では行われており、ウォーゲームと言った場合、当時はこのジオラマを利用したものを指す場合が多かったようである。
これらは『ウォーハンマー』などの、メタルフィギュアを利用した現在のミニチュア・ウォーゲームの直系と言える。物差しや分度器を駆使しして、射界や射線、移動判定を行っていた。ただし、統一ルールは存在しないに近く、仲間内で独自に作成されたものが使用されることがほとんどであった。しかし、戦闘級であってもジオラマベースとしては大きなものが必要な事(当時はゲーム向きの極小スケールモデルが市販されていなかった)、プラモデルを使用する事(作成の手間や、せっかく作ったもので遊ぶ事への抵抗感。又、数が必要になる制作費の問題。保管場所に対する収納問題) などから間口が狭く、認知度はかなり低いままに姿を消した。
1990年代以降、ボードゲームのウォー・シミュレーションゲームは下火になったが、それに代わってコンピューターゲームのウォー・シミュレーションゲームが台頭するようになった。今日ではシミュレーションといえば後者のことをさす場合が圧倒的に多い。
ボード・ウォーゲームが確立してからは逆輸入の形で、ミニチュア・ウォーゲームにも本格的なゲーム性が導入されるようになり、ゲーム性の高いミニチュア・ウォーゲームが新しく作られるようになった。ミニチュア・ウォーゲームでは「一人の人間個人」を象った人形を使うことから、「兵士一人一人の能力を個性化する」ことに注目するルールが発展していった。また、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(1974年)を元祖とするロールプレイングゲーム の出発点は、ミニチュア・ウォーゲームと『指輪物語』などのファンタジー小説の世界観を組み合わせたものであった。
上記で述べたボードゲーム形式、コンピューターゲーム形式の他に、カードゲーム形式をとったものも存在する。
過去に行われた戦いを扱ったもの、現在行われている紛争を扱ったもの、小説、アニメ、漫画などに描かれた架空の戦いを扱ったもの、現代、近未来を舞台にした架空戦(例:米中戦争)、架空の過去を扱ったもの(例:第二次世界大戦で勝利した日本とドイツの戦い)など。
ほとんどは戦争が絡むものだが、中にはゾンビで溢れているショッピングモールから散弾銃で身を守りつつ逃げ出すもの(SPI『ゾンビ!』)、どたばたラブコメを題材にし、ライバルを蹴落としながら町中を走り回って買い食いをするものなどもかつて存在した(ツクダホビー『うる星やつら「友引町買い食いウォーズ」』)。
主に近代以降の戦争を扱ったものを例にして説明する。中世以前の戦いを扱ったものの場合は、部隊規模はもっと小さくなる。
1ターンは数週間から数ヶ月、1ヘクスは数十から数百キロに相当し、1つの部隊駒は1個師団、1個軍団(数個師団)ないし1個軍(五〜十五個師団)程度を表す。プレイヤーは一方面軍の総司令官か1国の国軍総司令官(数十〜百個師団を統率)、ないし1国の元首の立場をプレイする。部隊が射程を持つことはない(となりのヘクスの敵しか攻撃できない。ただし大陸間弾道弾や中長距離ミサイルなどの戦略兵器が登場する場合、希に射程や影響範囲を持つ場合がある)。海軍や空軍は、部隊の移動、戦闘という形ではなく、ある海域/空域に対する制海権/制空権といった形で表現される場合もある。大抵は、資源を集め兵器を生産するといった生産システムが備わっている。
ヘクス制のマップではなく、エリア制のマップを採用しているものも多い。
1ターンは半日から一週間、1ヘクスは数キロから数十キロに相当し、1つの部隊駒は1個大隊、1個連隊ないし1個師団程度を表す。プレイヤーは軍団長(数個師団を統率)、軍司令官(五〜十五個師団を統率)ないし軍集団司令官(数十個師団を統率)の立場をプレイする。一般の部隊が射程を持つことはない(となりのヘクスにしか攻撃できない)が、砲兵は射程を持つ(2ヘクス以上離れたところを攻撃できる)ことがある。空軍は、比較的規模の大きい作戦級の場合は部隊駒として表され、移動、戦闘という形で数日間にわたる数次の出撃を抽象的に表現するものもあるが、小規模作戦級の場合は、航空支援ポイントなどの形に極めて抽象化されていることが多い。
コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームの分野では、純粋な作戦級はほとんどなく、戦略級ゲームでありながら局地戦を再現する際に一時的に作戦級に切り替わるという形をとる。コーエーの信長の野望シリーズにおけるエリア内戦闘マップなどがその例である。
実際の軍隊で使われる兵棋演習に一番近く、かつてのボード・ウォー・シミュレーションゲームはこの作戦級が定番だった。
なお、1941年から1945年にわたる独ソ戦全体などを扱った、比較的規模の大きい作戦級を、「キャンペーン(戦役)級」などと称して区別する場合もある。
また、地理的縮尺は作戦級と同程度ながら、時間的縮尺が1ターン=数時間程度の、空母同士の戦いを扱ったゲームは「空母戦作戦級」などと呼ばれる。他の作戦級に比べると、兵器の個性が出るためか、一般にも人気が高い。
1ターンは数秒から数時間、1ヘクスは数メートルから数百メートルに相当し、1つの部隊駒は1個人、1兵器から1個中隊程度を表す。プレイヤーは小隊長(数十人を統率)から師団長(一万数千人を統率)の立場をプレイする。ほとんどの部隊が射程を持っている(何ヘクスも離れた敵を攻撃できる)。
1駒=1兵器単位の戦術級ゲームの中には、兵器操縦シミュレータや、チェスや将棋などの伝統的なボードゲームに近い性格を持ったものもあり、この規模のゲームを特に「戦闘級」と呼称する事もある。「戦術級」と「戦闘級」の境界は抽象化された部隊の有無が大きく、仮に兵器などがユニット名(零戦、IV号戦車など)として登場する場合でも、それが部隊単位として集団で登場すれば戦術級、兵器が1機単位でユニットになり、兵士やパイロットなどキャラクター要素がある物を主に戦闘級に分類する場合が多い。
ウォー・シミュレーションゲームで使用される盤面(マップ)にはさまざまなタイプがある。
後に現れたコンピューター・ゲームの場合、初期にはマス目やエリアを使うものがほとんどだったが、処理能力の向上に伴ってミニチュアゲームのように自由に移動できる方式も増えている。特にリアルタイムストラテジーはほとんどがそうである。
マップには地形が描かれていることが多く、部隊が移動、戦闘を行う際に影響を及ぼす。たとえば道路に沿って移動すると移動距離を通常より長くできる、山岳が描かれたヘクスに陣取る部隊は防御が有利になるなどの効果を持つ。戦術級においては、射程内の敵であっても地形によって射線が遮られ攻撃不可となるなどの効果もある。
部隊駒のことを「ユニット」と呼ぶ。
ユニットには攻撃力、防御力、移動力などの数値が定められている。ボード・ウォー・シミュレーションゲームの場合はそれらが紙の駒の上に印刷されている。コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームの場合は「情報を見る」などのコマンドでそれらの数値を参照することができる。
戦術級ボード・ウォー・シミュレーションゲームのユニットには普通、数値以外に、他との識別のために兵器のグラフィックが描かれている。一方、近代以降を扱った作戦級、戦略級ではNATOで採用されている兵科記号が印刷されているのが一般的である。コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームにおいてはユニット自体が兵器の形のグラフィックで表されることが多い。
空母戦作戦級などでは、敵の部隊の位置や内容がわからないようになっていて偵察行為によって探り出すことがプレイの重要な部分を占める。ボード・ウォー・シミュレーションゲームでは、印刷された数値が相手のプレイヤーに見えないように、本物のユニットの代わりに、ダミー駒をマップ上に配置するというシステムをとる。
コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは、選択したシナリオ(後述)に応じて、敵味方の部隊駒が自動的にマップ上に配置されるが、ボードゲームではプレイヤーの手でシナリオに従い配置しなければならない。
概要でも述べた通り、ウォー・シミュレーションゲームの進行は、野球の回に似たターンと呼ばれる単位で行われることが多い。1ターンの間に両陣営は、自分の指揮下にあるすべての部隊駒に移動、戦闘といった行動を行わせる。両軍のすべての部隊駒が行動を終えた時点で次のターンへ移行する。
部隊のとる行動によって、1ターンを複数の「フェイズ」に分割する場合もある。例えば、「移動フェイズ」と「戦闘フェイズ」に分割されている場合、プレイヤーは移動フェイズ中にすべての自軍部隊に移動を行わせ、次に戦闘フェイズにおいてすべての自軍部隊に戦闘を行わせる、という手順となる。
ボードタイプのウォー・シミュレーションゲームではフェイズ制をとる場合がほとんどであるのに対し、コンピューターのウォー・シミュレーションゲームではあまり用いられず、一部隊ごとに移動と戦闘を両方解決してしまうことが多い。
多くのウォー・シミュレーションゲームでは、一方の陣営がすべての部隊に任意の順で行動を行わせた後、他方の陣営の行動に移るという手順を踏む。野球でいえば各回における「表」「裏」に相当する。この「表」「裏」の一つ一つをプレイヤーターンと呼ぶ。
プレイヤーターン制を採用していない場合、各フェイズごとに先攻、後攻が決まるものもあれば、ランダムに、あるいは一定の条件に従って敵味方関係なく部隊の行動順が決まるものもある。
移動は一般には強制されるものではなく、すべての部隊が行動してもよいし、一部の部隊のみが行動してもよい。全てのユニットに行動させずターンを終えてもよい。また、大抵の場合どの部隊から行動を行わせるかの決定権もプレイヤーにある(強制的に決まる場合もある)。 逆に、行動可能な部隊数などが自動またはランダムで制限される場合もある。
一般に戦闘は会戦級または戦術級に多い「射撃戦闘型」と、作戦級以上に多い「戦力比型(又は戦力差型)」に大別される。 前者は射撃可能なユニットは全て攻撃できる「相互射撃」か「手番側のみの射撃(またはそのフェイズに指定された側のみの射撃)」に大別される。射撃を行うユニットの攻撃力合計でその戦闘における火力が決まり、その打撃を対象ユニットが受ける。 後者では、戦闘に参加する双方の部隊が双方のその戦闘における参加戦力差または戦力比とダイス目を元に戦闘結果表(CRT)で結果を求めるやり方で、比較的手間がかからない。損害は両軍が受ける可能性もあり、どちらかのみが一方的な損害を受ける可能性もある。
戦力比(戦力差)型においては、一般に隣接しているユニット同士が戦闘を行うが、「マストアタック」と「メイアタック」に大別される。 「マストアタック」においては、敵ユニットに隣接しているなどの条件を満たすユニットは全て攻撃を行わなければならず、また味方ユニットに隣接している敵ユニットは全て攻撃されなければならない。そのため、攻撃を行うプレイヤーに条件が厳しい。 「メイアタック」においては、戦闘を行うかどうかは一切の自由であり、攻撃を行わないユニット、攻撃を行われない敵ユニットが存在しても構わない。 「選択式マストアタック」などと呼ばれる、攻撃を行うかは自由であるが、行う場合にはマストアタック同様の制限がかかる、などのシステムも少数ながら存在する。
一般に射撃戦闘型と戦力比(戦力差)のどちらかを使用するが、両方を使用するものもある。例えば射撃戦を「射撃戦闘型」で行い白兵戦を「戦力差型」で行う、または砲兵射撃を「射撃戦型」で行ってそれ以外の攻撃を「戦力比型」で行う、などである。
プレイヤーターン制、フェイズ制ボードゲームの例
プレイヤーターン制、非フェイズ制コンピューターゲームの例
非プレイヤーターン制、フェイズ制(フェイズ内先攻後攻制)ボードゲームの例
非プレイヤーターン制、非フェイズ制コンピューターゲームの例
また、戦術級ボードゲームではもっと複雑な手順をとることも多い。以下はその一例
この他、敵味方が一部隊ずつ交互に行動させるという、将棋やチェスに似た手順をとるものもある。
より実戦に近づけるため、両軍の進行を同時に行うリアルタイム制の導入は度々模索された。しかし、ボードゲームでは困難で、本格的に導入されたのはコンピューターゲーム化してからである。
リアルタイム制と言っても完全に同時進行であることは少ない。ゲームにより呼称が異なるが、「作戦フェイズ」と呼ばれるフェイズでプレイヤーが各ユニットの行動を決定し、「行動フェイズ」と呼ばれるフェイズで移動、戦闘が行われる。プレーヤーは行動フェイズ中にも各ユニットへの行動修正命令を出せ、戦場での不確定要素に対応する。
ユニットの移動と行動を、あらかじめ記録用紙に記入するリアルタイム制のバリエーション。その性質上、通常は敵味方の二勢力が基本で、ゲームに導入が難しい同盟軍や中立軍と言った第三以上の勢力を簡単に導入出来るメリットがある。
記録用紙へ駒毎に記入の必要がある為、『ディプロマシー』等、移動ユニット数の少ないマルチプレイヤーズゲームに導入される場合が多いが、空戦、海戦、戦車戦等の戦闘級ゲームにも用いられている。ただし、プレイヤー個人が扱うユニット数が増えれば増えるだけ時間が掛かる負の側面があり、特に戦闘級で敵味方入り乱れての大会戦をプレイアブルに進めたい場合、多人数プレイでなければ難しくなってしまう。
部隊はとなりのヘクス、エリアに進入する際に定められた移動力を消費してゆき、移動力がゼロになったらそのターンはそれ以上移動することができない。陸軍部隊の場合、進入するヘクス、エリアの地形によってはより多くの移動力を消費することになる。例えば、平地ヘクスに進入する際の消費移動力が1、山岳ヘクスに進入する際の消費移動力が3と定められているゲームにおいて、15の移動力を持つ部隊は、平地ヘクスだけを移動するなら15ヘクス移動できるが、途中で二回山岳ヘクスに進入してしまったら11ヘクスしか移動できないことになる。
当然ではあるが、陸軍部隊は海上ヘクス/エリアには進入できず、海軍部隊は陸地ヘクス/エリアには進入できない(ただし『ディプロマシー』のように上陸作戦との形で、海軍ユニットが沿岸エリアへ進入可能なゲームもある)。
エリア制の場合、基本的に敵の部隊が存在するエリアへの進入が認められているが、ヘクス制の場合は通常、敵味方の陸軍部隊が同一ヘクスに存在することは許されない(空軍、海軍は許される)。
移動力は一ターンごとに定められた一部隊固有の数値であり、次のターンに持ち越したり、他の部隊に譲ることはできない。但し、一部隊に与えられた移動力のうちいくつを消費するかはプレイヤーの任意である。上記の例でいうと、15の移動力を持つ部隊が平地を10ヘクス移動しただけで移動をやめてしまってもかまわない(しかし、残りの5移動力を次のターンに持ち越したり他の部隊に譲ることはできない)。
ゲームの途中でマップ外から援軍が進入してくるものもある。
将棋やチェスと違い、一つのヘクス/エリアに自軍部隊駒を複数配置することが許可されている場合が多い。一つのヘクス/エリアに複数の部隊駒を配置することをスタック、もしくはスタッキングと呼ぶ。また、一つのヘクス/エリアに配置された部隊駒の「一かたまり」をもスタックと呼ぶことがある。
ヘクス制をとるゲームにおいては、各部隊は配置されているヘクスに隣接する六ヘクスに対し、ZOC(Zone of Control:支配地域)と呼ばれる特殊な影響力を及ぼす範囲を持っている。普通、移動中の部隊は敵部隊のZOCに進入したら、まだすべての移動力を使いきっていなくても、それ以上移動できなくなる(「進入停止」と呼ぶ)。但し、移動開始時点にすでに敵のZOC内にある場合は、まずZOC外のヘクスに出るのであれば、以降は何の制限もなく移動を続けることができる(再びZOCに入ればそこでまた進入停止)。逆にいうと、移動開始時点に敵のZOC内にあり、かつ周囲を完全に敵のZOCで囲まれている部隊は、全く移動することができない(包囲されていることになる)。
包囲されると援軍が送れない、不利でも撤退することができない、より多くの敵から攻撃を受けるなどの不利益を被るため、実際のプレイでは、部隊を1〜2ヘクスおきに配置した列(戦線)を作ることによって包囲を避ける戦術をとることが多い。
進入停止制ではなく、通常より多くの移動力を消費することによってZOCを突破できるシステムを持つものもある。
戦術級の場合は射程内の敵部隊を、砲兵やミサイルユニットのない作戦級と戦略級の場合はとなりのヘクスにいる部隊(ZOC内の部隊)を攻撃することができる。エリア制マップを採用しているゲームでは同じエリアにいる敵だけが攻撃対象である。
基本的に敵部隊を攻撃するかしないかは任意だが、エリア制の場合は普通、敵部隊が同じエリアに存在する限り必ず敵を攻撃しなければならない。また、初期のボード・ウォー・シミュレーションゲームでは、ZOC内にいる敵はすべて攻撃しなければならないシステムを採用している。敵を必ず攻撃しなければならないシステムをマスト・アタックと呼び、攻撃相手を選択可能なのをメイ・アタックという。
個々の戦闘は、戦術級においては、まず攻撃側部隊の攻撃の命中判定が行われ、命中した場合はその攻撃力から防御側に与えられるダメージが算出され、それが防御側の防御力によって減じられた後、防御側部隊に適用されるというシステムをとる。作戦級や戦略級においては、コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは同様のシステムをとるものが多いが、ボードゲームでは、味方の攻撃力と敵の防御力を「いくつ対いくつ」という比率の形にし、そこから戦闘結果を算出するシステムが一般的である(同規模の大軍同士が戦った場合、前者なら双方とも大ダメージを被るのに対し、後者なら小競り合いに終わるという点で違いがある。どちらのシステムが正しいかは、扱っている戦闘の性質により異なるため、一概には言えない)。
戦闘結果は、コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームではダメージ値に応じて敵の兵士、兵器の数が減少してゆくという形で反映されるのが一般的である。一方ボードゲームでは、それに加え、敵部隊の退却と自軍部隊による相手陣地の占拠、および追撃が盛り込まれていることが多い。その他、兵士個人や1兵器=1駒タイプの戦闘級では、「主砲が破壊、攻撃不能」、「士気崩壊、混乱状態、行動不能」など、より細かい戦闘結果を設定している場合もある。
作戦級、および、戦略級ボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、戦闘フェイズの後に機械化移動フェイズを設け、戦車部隊や自動車化歩兵部隊などの機械化部隊にだけもう一度移動する機会を与えているものもある。これにより、第二次世界大戦でドイツ軍が採用した電撃戦のように、機械化部隊による前線突破が再現できる。
兵站とは部隊に補給が供給されているか否かを判定し、敵部隊やそのZOCで妨害されることなく自軍部隊から補給拠点(首都や港湾など)までたどってゆくことのできるヘクスの連続体、補給線のことを普通は指す。補給拠点までたどることができない部隊は「非補給下」にあると見なされ、移動力や攻撃力や防御力が減少する。非補給下にあるかどうかは普通、プレイヤーターンの開始時に判定する。
兵站を補給線ではなく、実際に補給物資をユニット(補給駒)で表現して、それをスタックした部隊で運ばなければならないシステムもある。この場合、ユニットが運べる補給駒には限界があって、また、戦闘結果によっては敵に補給を掠奪されることもある。
兵站システムは多くのボード・ウォー・シミュレーションゲームで採用されている。
敵の攻撃により部隊内の兵士数や兵器数が減少した場合、補充することができるシステムを持つゲームも多い。補充は移動フェイズ中に行われるものもあれば、戦闘フェイズの後だったり、下記の生産システムと同一に扱われているものもある。
戦略級ウォー・シミュレーションゲームは大抵の場合、生産ルールを備えている。占領下にある拠点から人員、資源などを集め、それに応じて部隊の動員、兵器の生産などを行うものである。移動、戦闘とは別に生産フェイズが設けられているゲームも多い。
戦略級ウォー・シミュレーションゲームの中には、自軍占領地域に内政を施すことで生産力を上げたり、敵軍占領地域に外交を行うことで敵の生産力を下げたりすることができるものがある。特に戦略級コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは、部隊の移動、戦闘よりも、生産、外交、内政のほうがゲームの主眼となっていることも多い。
コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは勝利条件を満たせばプレイ終了となることが多い。ボードゲームでは普通、規定のターン数プレイしたら、そこでプレイは終了となり、定められた勝利条件に従って勝敗を判定する。ある条件を満たしてしまったら規定のターン数に達していなくても終了となる(サドンデス方式)場合もあるし、コンピューターゲームのように勝利するまで続ける場合もある。
概要でも述べた通り、勝利条件はさまざまであり、かつ(特に歴史上の戦いを扱ったボードゲームの場合は)それぞれの陣営について別の条件が定められているのが普通である。これは、歴史上の戦いでは双方が互角の兵力を有することはほとんどなく、大抵は、防御している陣営に対し別の陣営が大軍で攻撃をかけるというシチュエーションになっているからである。そのため、守勢側の陣営はある拠点を守りきれば勝利、攻勢側の陣営はある拠点を占領すれば勝利、などとなっているものが多い。
一つのゲームパッケージに入っているマップと部隊駒を使い回すことで、同じ地域で行われた複数の戦闘を再現できることもある。例えば、戦国時代の関東・甲信越地方を描いたマップと1560〜70年頃の武田軍部隊駒と上杉軍部隊駒と北条軍部隊駒があれば、1561年の第四回川中島の戦いを再現することもできるし、1569年の三増峠の戦いを再現することもできる。このように、一つのゲームパッケージで複数の状況設定をプレイすることができる場合、個々の状況設定を「シナリオ」と呼ぶ。
戦術級ボードゲームでは、マップは特定の場所を描いたものではなく、典型的な地形が描かれたものであり、また海軍や空軍の戦いを扱った戦術級であれば最初から地形が描かれていないため、それらのマップと登場部隊駒の組み合わせより数多くのシナリオが設定されている。
戦略級のボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、三人以上のプレイヤーがそれぞれ自分の陣営を率いてプレイすることを前提としたものもある。このようなゲームにおいては「ゲームシステム上の外交」ではなく、実際に他のプレイヤーと交渉したり、取引したり、場合によっては傘下に入ったりすることが認められている。
ボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、一人プレイ専用のものもある。このようなゲームは、一般的に「ソリティア」もしくは「ソロプレイ専用ゲーム」と言われる。ソリティアゲームでは、ゲーム上の勢力の一部をプレイヤーが担当し、残りの勢力をゲームのシステムが制御する。具体的には、敵側の行動の番に、プレイヤーがルールにしたがって敵方のユニットを動かしたり、判定のためにダイスを振ったりする。敵側の行動がカードなどによって規定されており、これをランダムに引いて指示に従うという手法もある。多くの場合、敵側の行動についてはルールで全て決められているため、プレイヤーの意志は関与できない。
よく似たものにソロプレイがある。これは、通常二人以上のプレイヤーで対戦するゲームを、一人で全プレイヤーを受け持ってプレイすることである。これはボード・ウォー・シミュレーションゲームのユーザーの間では、作戦研究のためなどに広く行われている。ただしソロプレイは、ゲーム情報の一部を相手に隠匿するタイプのゲーム(手札を使うなど)ではできない。
ソリティアゲームとソロプレイには、上記の違いがあるため、一人プレイ専用ゲームのことを「ソロプレイ専用ゲーム」と称すると誤解される可能性もあり、近年では「ソリティア」の呼称が一般的になりつつある。
機動戦士ガンダムなどのアニメを題材にしたウォー・シミュレーションゲームや、空戦や戦車戦などの戦闘級ゲーム。ナポレオニックや戦国時代を題材にしたウォー・シミュレーションゲームでは、キャラクター(個人や、その個人中心の幕僚を含む小規模直轄部隊)ユニットが登場し、部隊の指揮官として戦局に大きな影響を与えるシステムを採用しているものが多い。例えば「アムロ」「シャア」、「リヒトホーフェン」「ヴィットマン」、「ナポレオン」「ネルソン」、「織田信長」「山本勘助」などである。
登場するボードゲームでは普通、キャラクターが駒になっている。戦略級コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームにおいては、人材の発掘、敵の武将の調略などもプレイの重要な要素である。古代や戦国時代、ナポレオン戦争頃までの戦いでは指揮官が部隊に与える影響力は大きかったので、こうした処理が行われることが多い。反面、キャラクターユニット自身が敵のターゲットになり、討ち取られる(エリミネートされる)可能性も考慮に入れる必要性もある(討ち取られると士気低下などで、そのユニット麾下の部隊は能力が大幅に低下する)。
ただし、20世紀以降を舞台にするゲームの場合、指揮官個人に対する影響範囲はそれ以前に比較して小さくなるので、作戦級以上で個人がキャラクターユニットになる可能性はほとんどなく、あったとしてもおまけ程度の意味合いが強い(『アフリカンギャンビット』の「ロンメル」ユニット。『独ソ戦(ロシアンキャンペーン)』の「ヒトラー」ユニットや「スターリン」ユニットなど)。
一般的に、ウォー・シミュレーションゲームは地理的縮尺に応じて戦略級、作戦級、戦術級に分類されるが、実際にはメインとなるのが陸戦なのか、海戦なのか、空戦なのかによって、さらに細分される。陸軍は週単位で、海軍は日単位で、空軍は時間単位で行動するため、別の時間的縮尺の中で扱う必要があるからである。一畳ほどの大きさに日本本土の地図を描き、それを用いて作戦級ウォー・シミュレーションゲームを作ると仮定した場合、行動速度の違いを考えれば、空戦ゲームなら1ターンは1時間程度、海戦ゲームなら6時間程度、陸戦ゲームなら3日程度とならざるを得ない(空戦作戦級で1ターンを数日にしてしまうと、航空基地からの複数回の出撃を一括して解決するなど抽象化する必要が出てくる。また、陸戦作戦級で1ターンを数時間にしてしまうと、地図上に1ヘクス分の戦況の変化が現れるまでに何十ターンもかかるため、退屈なゲームになってしまう)。
陸海空の三軍すべてが登場するゲームの場合、陸戦をメインにして海空軍を抽象化することが多い。すなわち、ある海域/空域に対する複数回の出撃、哨戒活動などをゲーム上では一回の「基地からの出撃&戦闘&帰還」で表現する、といった手法をとる。太平洋戦争戦略級ゲームなどの海空軍が主役であるゲームでも、同様の手法をとるものが多いが、中には1ターン=1週間の陸軍ターンの間に1ターン=半日の海空軍ターンを14回挿入して時間的縮尺の調整を図っているものもある。
実際に起きた戦いを扱うウォー・シミュレーションゲームを、特に1980年代に流行した(一般的なブームとはいかないまでも、一定の隆盛を見せた)ボードゲームタイプのものを中心に俗に「ヒストリカル・ウォー・ゲーム」と呼ぶ。これは、より新しい語である「歴史シミュレーションゲーム」とは異なるものである(但し、一部メーカーにおいてシリーズ呼称として『歴史シミュレーションゲーム』としていたものは存在する)。
この種のゲームではそのテーマとする戦いを再現するために、その戦いの戦局を決定付けた事象をルール化していたり、ゲームの流れの中で史実と近似した結果が出る様にデザインされていることが多い。例を挙げるとミッドウェー海戦を扱うゲームでは空母艦載機の搭載兵器交換に関するルールや空母被弾時に甲板上の待機艦載機や弾薬の誘爆に関するルールがあるとか、太平洋戦争を扱うゲームなら戦争が長期化すると物量に勝る連合軍が圧倒的に有利になるデザインになっている、などである。こうした再現性を「シミュレーション性」と呼び、ヒストリカル・ウォー・ゲームの評価で特に重視されるポイントである。
ただ、シミュレーション性の高いゲームは、殊にその扱うテーマとなる戦いに有利・不利の関係があった場合、当然ながら往々にしてゲーム上にもその有利・不利の関係が再現される。しかしそれではゲーム性を大きく損なってしまうと考えられる場合、状況的には史実を再現しても別の形で勝敗が判定されるルールになっていたりする(プレイヤーに対して史実であることを敢えて了解させ、ゲーム性の維持に特に何の注意を払わないタイトルも一部には存在する)。例えば太平洋戦争を扱うゲームで、各戦略拠点の占領や敵主力艦船撃沈によって「勝利ポイント」を獲得し、ゲーム終了時に両者の勝利ポイントを比較することによって勝者を決定する、などである。
一方で、シミュレーション性の高いヒストリカル・ウォー・ゲームはルールが難解かつ複雑になりがちで、プレイに手間がかかる・終了までに膨大な時間を要する、などの理由から初心者などには向かず、このため再現性を多少抑えても理解し易いルール、プレイしやすいゲーム性を確保することもある。これを「プレイアビリティ」と呼び、この種のゲームにおいて「シミュレーション性」と相反しながらも双璧を為す評価ポイントと見られる。
ヒストリカル・ウォー・ゲーム開発においては、この「シミュレーション性」と「プレイアビリティ」のバランスをいかに取るかが大きく問われる。1980年代アメリカでこの種のゲームを二分したメーカーはそれぞれ、SPI社はシミュレーション性重視、アバロンヒル社(AH)はプレイアビリティ重視、と特色を持っていた。日本においてはホビージャパン・ツクダホビーなどがシミュレーション性を重視、バンダイ・エポック社などがプレイアビリティ重視の傾向にあった。特にバンダイの製品、およびエポック社が展開していた玩具性の高いシリーズ製品(紙媒体ではなく金属製マップとマグネット仕掛けの駒を使い、サイコロではなく戦闘判定を電子機器によって行っていた)などは、マップの縮尺に対して軍隊の移動速度や射程を正しく定めるという、シミュレーションの基本原則さえ無視したものがほとんどだった。東京から九州まで魚雷が届いてしまうようなゲームもあった(ただし、ゲームとしての完成度は高いものもあった)。
なお、ツクダホビーが得意としていたものに『機動戦士ガンダム』などのアニメ作品をシミュレーションゲームとしたシリーズがあったが、劇中に多く描かれる「ガンダムが弾切れとなった銃火器を放棄して敵に近接戦闘を挑む」というシーンが再現できない(近接する前に敵の銃弾を浴びてガンダムが破壊されてしまう)との指摘に対し、同社開発者は「実際の戦闘において銃器を射撃してくる相手に突進して被弾しないということは、いかにニュータイプという概念を盛り込むとしても考えにくい」と回答をしていた。シミュレーション性を重視していた同社ならではのスタンスであった。また、伝説巨神イデオンのシミュレーションゲームに至っては、最終シナリオでは地球・バッフクラン連合軍側に勝利条件は存在しない。イデオン1機に対して盤面を埋め尽くしたユニットが1回の攻撃で100個単位で損失していく中、たとえイデオンを破壊した(それさえ極めて困難であるが)としても、その時点でイデが発動し全ては因果地平へと飛ばされてしまうため、勝敗は無意味となってゲーム終了である。
2015年末時点で、日本でウォー・シミュレーションゲームまたはその専門誌を発行する出版社は以下のとおり。海外についてはen: List of wargame publishers参照。
リストの並びは、数字、アルファベット、50音の順。
一連の戦国作戦級をすべて繋ぐことで、関ヶ原の戦いを全国規模で扱う巨大作戦級にする。(戦国の一番長い日)
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"text": "ウォー・シミュレーションゲームあるいはウォー・ゲームとは、戦争を題材としその戦闘を再現したシミュレーションゲーム。ボードゲーム、コンピューターゲームの形式をとるものが多い。戦略シミュレーションゲーム、戦争シミュレーションゲーム、軍事シミュレーションゲームなどの呼び方もある。英語では\"Wargame\"と呼ばれる。",
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"text": "登場する部隊やキャラクターを駒に見立てて、将棋のように盤面の上で駒を動かし、目的を達成していくゲームのこと。そのため、敵味方双方のキャラクターの特性を知り、それを生かす作戦を練ることが重要となってくるが、「目的の達成」とは、必ずしも敵を倒すことばかりでなく、敵から逃げる、敵を倒さないようにある地点に到達するなど、様々である。",
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"text": "シミュレーションゲームの典型例で、単に「シミュレーション」「シミュレーションゲーム」と言えばこのウォー・シミュレーションゲームを指すことも多い。",
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"text": "ウォー・シミュレーションゲームで使用される盤面(マップ)は通常、均質なマス目(四角形の「スクエア」または六角形の「ヘクス」)で覆われているか、地理的に意味を持つエリアに分割されている。そして部隊駒をマス目やエリアの中に配置することで、部隊の移動や攻撃のための位置関係を表現する。ただしミニチュアゲームではヘクスやエリアがなく、マップ上を自由に移動できるのが原則である。",
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"text": "実際のゲーム進行は、野球のイニングに似たターンと呼ばれる単位で行われ(ターン制ストラテジー、略称 TBS)、プレイヤーは「1ターンの間に手持ちの部隊駒すべてに移動、戦闘などの行動を行わせる」という行為を数十ターンにわたって繰り返す。中にはターン制ではなく実時間制(敵味方同時に駒を操作する)で進行するものもあり、それらはリアルタイムシミュレーションあるいはリアルタイムストラテジー(略称 RTS)と呼ばれる。",
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"text": "通常、各ウォー・シミュレーションゲームには、マップスケール(地理的縮尺)とタイムスケール(時間的縮尺)が定められている。地理的縮尺は、1ヘクスが何メートル/何キロに相当するかで表される。時間的縮尺は、ターン制のゲームの場合、1ターンが何分/何時間/何日/何ヶ月に相当するのかで表され、リアルタイム制の場合は実時間に対してゲーム時間がどれくらいに相当するのかで表される。そして、地理的縮尺やシミュレートする戦闘の規模、性質によって、戦略(級)シミュレーションゲーム、作戦(級)シミュレーションゲーム、戦術(級)シミュレーションゲームの三種に分類される(詳細は後述)。",
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"text": "1980年代までは紙のマップ上で紙の駒を動かすタイプがほとんどだったが、1990年代以降、家庭用TVゲーム機や個人用コンピュータが普及し始めると、コンピュータゲームソフト化され、ゲームソフトの一分野を確立するまでになった。ボード時代は基本的に対戦相手を必要とする社交性を帯びたものだったのに対し、コンピュータ化後は一人プレイ中心となったという意味では、コンピュータ化により、趣味としての性格が変化した例ともいえるが、近年ではネットワーク対戦機能も付加され、それまでは対戦できなかった遠くの相手ともゲームが可能になった。さらには既存のボードゲームをソフト上に再現し、情報をやり取りして通信対戦できるソフトも登場している。",
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"text": "コンピュータ・ウォー・シミュレーションゲームの中には、シミュレーションロールプレイングゲームと呼ばれる、物語の要素が強いものもある。",
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"text": "現代的なウォー・シミュレーションゲームの先祖にあたるものはボードゲーム等の伝統的な「戦場を模したゲーム」である。歴史上、ボードゲームの亜種となるルールは多数が作られてきたが、その流れの果てに、19世紀のプロイセンにおいて、戦場で兵を指揮する訓練として研究・教育手段となるクリークシュピールというものが生まれた。戦場を精巧に再現した箱庭の中で部隊の動きをシミュレートするそれは兵棋演習として後の世に根付くこととなる。",
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"paragraph_id": 9,
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"text": "また、欧米では19世紀以前から模型は一部の層の趣味として存在していた。やがて陳列するだけでは飽き足らなくなった模型ファンたちは、動力を付けて動かすようになり、鉄道模型を始めとする可動式模型を生んだが、軍隊模型ファンの中にはただ動かすのではなく、兵棋演習のようなことを「遊び」として行ってみようという流れが生まれ、ミニチュア・ウォーゲームと呼ばれる娯楽が誕生する。ただし、この当時のミニチュア・ウォーゲームは鉛製のおもちゃの兵隊を使った戦争ごっこにルールを定めたような素朴なものにすぎなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後の1954年、アメリカのチャールズ・S・ロバーツ(en:Charles S. Roberts)が、ミニチュア・ウォーゲームや兵棋演習の戦略的な部分のみに着目して、マス目が印刷された紙製の地図と、厚紙で作られた駒を使う自作のボードゲーム『タクテクス』を自費出版で販売。このゲームは彼我の戦力比によって戦闘結果が多様に変化するという概念を初めてホビー用のゲームに持ち込んだんものでもあり、ウォー・シミュレーションゲームと呼ばれるジャンルの元祖ともされている。ロバーツは1958年にアバロンヒル社を設立し、紙製の地図と駒を使ったボードゲームとしてのウォー・シミュレーションゲームを多数開発していく。その後もSPI社、GDW社などが中心となって開発が進んだ結果、徐々にアメリカ人の間に普及してゆき、1970年代には数多くのファンを獲得するに至った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "日本には1970年代後半に、主に『月刊ホビージャパン』誌上で紹介され、一部に熱狂的なファンを生み、やがてエポック、バンダイ等国産メーカーの参入もなされた。1980年代前半にはテレビニュースなどでも報じられるまでになった。当初は「ウォーゲーム」という名称が一般的だったが、やがて「シミュレーション」という名称で呼ばれることが多くなった。当時の日本では「ゲーム」といえば『人生ゲーム』、『億万長者ゲーム』など、余興、暇つぶし、子供の戯れというイメージが強く、大人が真剣に打ち込む趣味として認知されにくいと考えられたため、「ウォーゲーム」という名称は敬遠されたと言われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "また、これらボードゲームが普及する以前、70年代の前半では紙製のボードやユニットではなく、ミニスケール(陸戦ならHOスケール前後の)プラモデルとジオラマを利用したミニチュアウォーゲームのプレイも『月刊ホビージャパン』の記事では行われており、ウォーゲームと言った場合、当時はこのジオラマを利用したものを指す場合が多かったようである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "これらは『ウォーハンマー』などの、メタルフィギュアを利用した現在のミニチュア・ウォーゲームの直系と言える。物差しや分度器を駆使しして、射界や射線、移動判定を行っていた。ただし、統一ルールは存在しないに近く、仲間内で独自に作成されたものが使用されることがほとんどであった。しかし、戦闘級であってもジオラマベースとしては大きなものが必要な事(当時はゲーム向きの極小スケールモデルが市販されていなかった)、プラモデルを使用する事(作成の手間や、せっかく作ったもので遊ぶ事への抵抗感。又、数が必要になる制作費の問題。保管場所に対する収納問題) などから間口が狭く、認知度はかなり低いままに姿を消した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降、ボードゲームのウォー・シミュレーションゲームは下火になったが、それに代わってコンピューターゲームのウォー・シミュレーションゲームが台頭するようになった。今日ではシミュレーションといえば後者のことをさす場合が圧倒的に多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ボード・ウォーゲームが確立してからは逆輸入の形で、ミニチュア・ウォーゲームにも本格的なゲーム性が導入されるようになり、ゲーム性の高いミニチュア・ウォーゲームが新しく作られるようになった。ミニチュア・ウォーゲームでは「一人の人間個人」を象った人形を使うことから、「兵士一人一人の能力を個性化する」ことに注目するルールが発展していった。また、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(1974年)を元祖とするロールプレイングゲーム の出発点は、ミニチュア・ウォーゲームと『指輪物語』などのファンタジー小説の世界観を組み合わせたものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "上記で述べたボードゲーム形式、コンピューターゲーム形式の他に、カードゲーム形式をとったものも存在する。",
"title": "媒体"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "過去に行われた戦いを扱ったもの、現在行われている紛争を扱ったもの、小説、アニメ、漫画などに描かれた架空の戦いを扱ったもの、現代、近未来を舞台にした架空戦(例:米中戦争)、架空の過去を扱ったもの(例:第二次世界大戦で勝利した日本とドイツの戦い)など。",
"title": "題材"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ほとんどは戦争が絡むものだが、中にはゾンビで溢れているショッピングモールから散弾銃で身を守りつつ逃げ出すもの(SPI『ゾンビ!』)、どたばたラブコメを題材にし、ライバルを蹴落としながら町中を走り回って買い食いをするものなどもかつて存在した(ツクダホビー『うる星やつら「友引町買い食いウォーズ」』)。",
"title": "題材"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "主に近代以降の戦争を扱ったものを例にして説明する。中世以前の戦いを扱ったものの場合は、部隊規模はもっと小さくなる。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1ターンは数週間から数ヶ月、1ヘクスは数十から数百キロに相当し、1つの部隊駒は1個師団、1個軍団(数個師団)ないし1個軍(五〜十五個師団)程度を表す。プレイヤーは一方面軍の総司令官か1国の国軍総司令官(数十〜百個師団を統率)、ないし1国の元首の立場をプレイする。部隊が射程を持つことはない(となりのヘクスの敵しか攻撃できない。ただし大陸間弾道弾や中長距離ミサイルなどの戦略兵器が登場する場合、希に射程や影響範囲を持つ場合がある)。海軍や空軍は、部隊の移動、戦闘という形ではなく、ある海域/空域に対する制海権/制空権といった形で表現される場合もある。大抵は、資源を集め兵器を生産するといった生産システムが備わっている。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ヘクス制のマップではなく、エリア制のマップを採用しているものも多い。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1ターンは半日から一週間、1ヘクスは数キロから数十キロに相当し、1つの部隊駒は1個大隊、1個連隊ないし1個師団程度を表す。プレイヤーは軍団長(数個師団を統率)、軍司令官(五〜十五個師団を統率)ないし軍集団司令官(数十個師団を統率)の立場をプレイする。一般の部隊が射程を持つことはない(となりのヘクスにしか攻撃できない)が、砲兵は射程を持つ(2ヘクス以上離れたところを攻撃できる)ことがある。空軍は、比較的規模の大きい作戦級の場合は部隊駒として表され、移動、戦闘という形で数日間にわたる数次の出撃を抽象的に表現するものもあるが、小規模作戦級の場合は、航空支援ポイントなどの形に極めて抽象化されていることが多い。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームの分野では、純粋な作戦級はほとんどなく、戦略級ゲームでありながら局地戦を再現する際に一時的に作戦級に切り替わるという形をとる。コーエーの信長の野望シリーズにおけるエリア内戦闘マップなどがその例である。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "実際の軍隊で使われる兵棋演習に一番近く、かつてのボード・ウォー・シミュレーションゲームはこの作戦級が定番だった。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、1941年から1945年にわたる独ソ戦全体などを扱った、比較的規模の大きい作戦級を、「キャンペーン(戦役)級」などと称して区別する場合もある。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、地理的縮尺は作戦級と同程度ながら、時間的縮尺が1ターン=数時間程度の、空母同士の戦いを扱ったゲームは「空母戦作戦級」などと呼ばれる。他の作戦級に比べると、兵器の個性が出るためか、一般にも人気が高い。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1ターンは数秒から数時間、1ヘクスは数メートルから数百メートルに相当し、1つの部隊駒は1個人、1兵器から1個中隊程度を表す。プレイヤーは小隊長(数十人を統率)から師団長(一万数千人を統率)の立場をプレイする。ほとんどの部隊が射程を持っている(何ヘクスも離れた敵を攻撃できる)。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1駒=1兵器単位の戦術級ゲームの中には、兵器操縦シミュレータや、チェスや将棋などの伝統的なボードゲームに近い性格を持ったものもあり、この規模のゲームを特に「戦闘級」と呼称する事もある。「戦術級」と「戦闘級」の境界は抽象化された部隊の有無が大きく、仮に兵器などがユニット名(零戦、IV号戦車など)として登場する場合でも、それが部隊単位として集団で登場すれば戦術級、兵器が1機単位でユニットになり、兵士やパイロットなどキャラクター要素がある物を主に戦闘級に分類する場合が多い。",
"title": "種別"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ウォー・シミュレーションゲームで使用される盤面(マップ)にはさまざまなタイプがある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "後に現れたコンピューター・ゲームの場合、初期にはマス目やエリアを使うものがほとんどだったが、処理能力の向上に伴ってミニチュアゲームのように自由に移動できる方式も増えている。特にリアルタイムストラテジーはほとんどがそうである。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "マップには地形が描かれていることが多く、部隊が移動、戦闘を行う際に影響を及ぼす。たとえば道路に沿って移動すると移動距離を通常より長くできる、山岳が描かれたヘクスに陣取る部隊は防御が有利になるなどの効果を持つ。戦術級においては、射程内の敵であっても地形によって射線が遮られ攻撃不可となるなどの効果もある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "部隊駒のことを「ユニット」と呼ぶ。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ユニットには攻撃力、防御力、移動力などの数値が定められている。ボード・ウォー・シミュレーションゲームの場合はそれらが紙の駒の上に印刷されている。コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームの場合は「情報を見る」などのコマンドでそれらの数値を参照することができる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "戦術級ボード・ウォー・シミュレーションゲームのユニットには普通、数値以外に、他との識別のために兵器のグラフィックが描かれている。一方、近代以降を扱った作戦級、戦略級ではNATOで採用されている兵科記号が印刷されているのが一般的である。コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームにおいてはユニット自体が兵器の形のグラフィックで表されることが多い。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "空母戦作戦級などでは、敵の部隊の位置や内容がわからないようになっていて偵察行為によって探り出すことがプレイの重要な部分を占める。ボード・ウォー・シミュレーションゲームでは、印刷された数値が相手のプレイヤーに見えないように、本物のユニットの代わりに、ダミー駒をマップ上に配置するというシステムをとる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは、選択したシナリオ(後述)に応じて、敵味方の部隊駒が自動的にマップ上に配置されるが、ボードゲームではプレイヤーの手でシナリオに従い配置しなければならない。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "概要でも述べた通り、ウォー・シミュレーションゲームの進行は、野球の回に似たターンと呼ばれる単位で行われることが多い。1ターンの間に両陣営は、自分の指揮下にあるすべての部隊駒に移動、戦闘といった行動を行わせる。両軍のすべての部隊駒が行動を終えた時点で次のターンへ移行する。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "部隊のとる行動によって、1ターンを複数の「フェイズ」に分割する場合もある。例えば、「移動フェイズ」と「戦闘フェイズ」に分割されている場合、プレイヤーは移動フェイズ中にすべての自軍部隊に移動を行わせ、次に戦闘フェイズにおいてすべての自軍部隊に戦闘を行わせる、という手順となる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ボードタイプのウォー・シミュレーションゲームではフェイズ制をとる場合がほとんどであるのに対し、コンピューターのウォー・シミュレーションゲームではあまり用いられず、一部隊ごとに移動と戦闘を両方解決してしまうことが多い。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "多くのウォー・シミュレーションゲームでは、一方の陣営がすべての部隊に任意の順で行動を行わせた後、他方の陣営の行動に移るという手順を踏む。野球でいえば各回における「表」「裏」に相当する。この「表」「裏」の一つ一つをプレイヤーターンと呼ぶ。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーターン制を採用していない場合、各フェイズごとに先攻、後攻が決まるものもあれば、ランダムに、あるいは一定の条件に従って敵味方関係なく部隊の行動順が決まるものもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "移動は一般には強制されるものではなく、すべての部隊が行動してもよいし、一部の部隊のみが行動してもよい。全てのユニットに行動させずターンを終えてもよい。また、大抵の場合どの部隊から行動を行わせるかの決定権もプレイヤーにある(強制的に決まる場合もある)。 逆に、行動可能な部隊数などが自動またはランダムで制限される場合もある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一般に戦闘は会戦級または戦術級に多い「射撃戦闘型」と、作戦級以上に多い「戦力比型(又は戦力差型)」に大別される。 前者は射撃可能なユニットは全て攻撃できる「相互射撃」か「手番側のみの射撃(またはそのフェイズに指定された側のみの射撃)」に大別される。射撃を行うユニットの攻撃力合計でその戦闘における火力が決まり、その打撃を対象ユニットが受ける。 後者では、戦闘に参加する双方の部隊が双方のその戦闘における参加戦力差または戦力比とダイス目を元に戦闘結果表(CRT)で結果を求めるやり方で、比較的手間がかからない。損害は両軍が受ける可能性もあり、どちらかのみが一方的な損害を受ける可能性もある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "戦力比(戦力差)型においては、一般に隣接しているユニット同士が戦闘を行うが、「マストアタック」と「メイアタック」に大別される。 「マストアタック」においては、敵ユニットに隣接しているなどの条件を満たすユニットは全て攻撃を行わなければならず、また味方ユニットに隣接している敵ユニットは全て攻撃されなければならない。そのため、攻撃を行うプレイヤーに条件が厳しい。 「メイアタック」においては、戦闘を行うかどうかは一切の自由であり、攻撃を行わないユニット、攻撃を行われない敵ユニットが存在しても構わない。 「選択式マストアタック」などと呼ばれる、攻撃を行うかは自由であるが、行う場合にはマストアタック同様の制限がかかる、などのシステムも少数ながら存在する。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "一般に射撃戦闘型と戦力比(戦力差)のどちらかを使用するが、両方を使用するものもある。例えば射撃戦を「射撃戦闘型」で行い白兵戦を「戦力差型」で行う、または砲兵射撃を「射撃戦型」で行ってそれ以外の攻撃を「戦力比型」で行う、などである。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーターン制、フェイズ制ボードゲームの例",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーターン制、非フェイズ制コンピューターゲームの例",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "非プレイヤーターン制、フェイズ制(フェイズ内先攻後攻制)ボードゲームの例",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "非プレイヤーターン制、非フェイズ制コンピューターゲームの例",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、戦術級ボードゲームではもっと複雑な手順をとることも多い。以下はその一例",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この他、敵味方が一部隊ずつ交互に行動させるという、将棋やチェスに似た手順をとるものもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "より実戦に近づけるため、両軍の進行を同時に行うリアルタイム制の導入は度々模索された。しかし、ボードゲームでは困難で、本格的に導入されたのはコンピューターゲーム化してからである。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "リアルタイム制と言っても完全に同時進行であることは少ない。ゲームにより呼称が異なるが、「作戦フェイズ」と呼ばれるフェイズでプレイヤーが各ユニットの行動を決定し、「行動フェイズ」と呼ばれるフェイズで移動、戦闘が行われる。プレーヤーは行動フェイズ中にも各ユニットへの行動修正命令を出せ、戦場での不確定要素に対応する。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ユニットの移動と行動を、あらかじめ記録用紙に記入するリアルタイム制のバリエーション。その性質上、通常は敵味方の二勢力が基本で、ゲームに導入が難しい同盟軍や中立軍と言った第三以上の勢力を簡単に導入出来るメリットがある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "記録用紙へ駒毎に記入の必要がある為、『ディプロマシー』等、移動ユニット数の少ないマルチプレイヤーズゲームに導入される場合が多いが、空戦、海戦、戦車戦等の戦闘級ゲームにも用いられている。ただし、プレイヤー個人が扱うユニット数が増えれば増えるだけ時間が掛かる負の側面があり、特に戦闘級で敵味方入り乱れての大会戦をプレイアブルに進めたい場合、多人数プレイでなければ難しくなってしまう。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "部隊はとなりのヘクス、エリアに進入する際に定められた移動力を消費してゆき、移動力がゼロになったらそのターンはそれ以上移動することができない。陸軍部隊の場合、進入するヘクス、エリアの地形によってはより多くの移動力を消費することになる。例えば、平地ヘクスに進入する際の消費移動力が1、山岳ヘクスに進入する際の消費移動力が3と定められているゲームにおいて、15の移動力を持つ部隊は、平地ヘクスだけを移動するなら15ヘクス移動できるが、途中で二回山岳ヘクスに進入してしまったら11ヘクスしか移動できないことになる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "当然ではあるが、陸軍部隊は海上ヘクス/エリアには進入できず、海軍部隊は陸地ヘクス/エリアには進入できない(ただし『ディプロマシー』のように上陸作戦との形で、海軍ユニットが沿岸エリアへ進入可能なゲームもある)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "エリア制の場合、基本的に敵の部隊が存在するエリアへの進入が認められているが、ヘクス制の場合は通常、敵味方の陸軍部隊が同一ヘクスに存在することは許されない(空軍、海軍は許される)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "移動力は一ターンごとに定められた一部隊固有の数値であり、次のターンに持ち越したり、他の部隊に譲ることはできない。但し、一部隊に与えられた移動力のうちいくつを消費するかはプレイヤーの任意である。上記の例でいうと、15の移動力を持つ部隊が平地を10ヘクス移動しただけで移動をやめてしまってもかまわない(しかし、残りの5移動力を次のターンに持ち越したり他の部隊に譲ることはできない)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ゲームの途中でマップ外から援軍が進入してくるものもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "将棋やチェスと違い、一つのヘクス/エリアに自軍部隊駒を複数配置することが許可されている場合が多い。一つのヘクス/エリアに複数の部隊駒を配置することをスタック、もしくはスタッキングと呼ぶ。また、一つのヘクス/エリアに配置された部隊駒の「一かたまり」をもスタックと呼ぶことがある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ヘクス制をとるゲームにおいては、各部隊は配置されているヘクスに隣接する六ヘクスに対し、ZOC(Zone of Control:支配地域)と呼ばれる特殊な影響力を及ぼす範囲を持っている。普通、移動中の部隊は敵部隊のZOCに進入したら、まだすべての移動力を使いきっていなくても、それ以上移動できなくなる(「進入停止」と呼ぶ)。但し、移動開始時点にすでに敵のZOC内にある場合は、まずZOC外のヘクスに出るのであれば、以降は何の制限もなく移動を続けることができる(再びZOCに入ればそこでまた進入停止)。逆にいうと、移動開始時点に敵のZOC内にあり、かつ周囲を完全に敵のZOCで囲まれている部隊は、全く移動することができない(包囲されていることになる)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "包囲されると援軍が送れない、不利でも撤退することができない、より多くの敵から攻撃を受けるなどの不利益を被るため、実際のプレイでは、部隊を1〜2ヘクスおきに配置した列(戦線)を作ることによって包囲を避ける戦術をとることが多い。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "進入停止制ではなく、通常より多くの移動力を消費することによってZOCを突破できるシステムを持つものもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "戦術級の場合は射程内の敵部隊を、砲兵やミサイルユニットのない作戦級と戦略級の場合はとなりのヘクスにいる部隊(ZOC内の部隊)を攻撃することができる。エリア制マップを採用しているゲームでは同じエリアにいる敵だけが攻撃対象である。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "基本的に敵部隊を攻撃するかしないかは任意だが、エリア制の場合は普通、敵部隊が同じエリアに存在する限り必ず敵を攻撃しなければならない。また、初期のボード・ウォー・シミュレーションゲームでは、ZOC内にいる敵はすべて攻撃しなければならないシステムを採用している。敵を必ず攻撃しなければならないシステムをマスト・アタックと呼び、攻撃相手を選択可能なのをメイ・アタックという。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "個々の戦闘は、戦術級においては、まず攻撃側部隊の攻撃の命中判定が行われ、命中した場合はその攻撃力から防御側に与えられるダメージが算出され、それが防御側の防御力によって減じられた後、防御側部隊に適用されるというシステムをとる。作戦級や戦略級においては、コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは同様のシステムをとるものが多いが、ボードゲームでは、味方の攻撃力と敵の防御力を「いくつ対いくつ」という比率の形にし、そこから戦闘結果を算出するシステムが一般的である(同規模の大軍同士が戦った場合、前者なら双方とも大ダメージを被るのに対し、後者なら小競り合いに終わるという点で違いがある。どちらのシステムが正しいかは、扱っている戦闘の性質により異なるため、一概には言えない)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "戦闘結果は、コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームではダメージ値に応じて敵の兵士、兵器の数が減少してゆくという形で反映されるのが一般的である。一方ボードゲームでは、それに加え、敵部隊の退却と自軍部隊による相手陣地の占拠、および追撃が盛り込まれていることが多い。その他、兵士個人や1兵器=1駒タイプの戦闘級では、「主砲が破壊、攻撃不能」、「士気崩壊、混乱状態、行動不能」など、より細かい戦闘結果を設定している場合もある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "作戦級、および、戦略級ボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、戦闘フェイズの後に機械化移動フェイズを設け、戦車部隊や自動車化歩兵部隊などの機械化部隊にだけもう一度移動する機会を与えているものもある。これにより、第二次世界大戦でドイツ軍が採用した電撃戦のように、機械化部隊による前線突破が再現できる。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "兵站とは部隊に補給が供給されているか否かを判定し、敵部隊やそのZOCで妨害されることなく自軍部隊から補給拠点(首都や港湾など)までたどってゆくことのできるヘクスの連続体、補給線のことを普通は指す。補給拠点までたどることができない部隊は「非補給下」にあると見なされ、移動力や攻撃力や防御力が減少する。非補給下にあるかどうかは普通、プレイヤーターンの開始時に判定する。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "兵站を補給線ではなく、実際に補給物資をユニット(補給駒)で表現して、それをスタックした部隊で運ばなければならないシステムもある。この場合、ユニットが運べる補給駒には限界があって、また、戦闘結果によっては敵に補給を掠奪されることもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "兵站システムは多くのボード・ウォー・シミュレーションゲームで採用されている。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "敵の攻撃により部隊内の兵士数や兵器数が減少した場合、補充することができるシステムを持つゲームも多い。補充は移動フェイズ中に行われるものもあれば、戦闘フェイズの後だったり、下記の生産システムと同一に扱われているものもある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "戦略級ウォー・シミュレーションゲームは大抵の場合、生産ルールを備えている。占領下にある拠点から人員、資源などを集め、それに応じて部隊の動員、兵器の生産などを行うものである。移動、戦闘とは別に生産フェイズが設けられているゲームも多い。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "戦略級ウォー・シミュレーションゲームの中には、自軍占領地域に内政を施すことで生産力を上げたり、敵軍占領地域に外交を行うことで敵の生産力を下げたりすることができるものがある。特に戦略級コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは、部隊の移動、戦闘よりも、生産、外交、内政のほうがゲームの主眼となっていることも多い。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは勝利条件を満たせばプレイ終了となることが多い。ボードゲームでは普通、規定のターン数プレイしたら、そこでプレイは終了となり、定められた勝利条件に従って勝敗を判定する。ある条件を満たしてしまったら規定のターン数に達していなくても終了となる(サドンデス方式)場合もあるし、コンピューターゲームのように勝利するまで続ける場合もある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "概要でも述べた通り、勝利条件はさまざまであり、かつ(特に歴史上の戦いを扱ったボードゲームの場合は)それぞれの陣営について別の条件が定められているのが普通である。これは、歴史上の戦いでは双方が互角の兵力を有することはほとんどなく、大抵は、防御している陣営に対し別の陣営が大軍で攻撃をかけるというシチュエーションになっているからである。そのため、守勢側の陣営はある拠点を守りきれば勝利、攻勢側の陣営はある拠点を占領すれば勝利、などとなっているものが多い。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "一つのゲームパッケージに入っているマップと部隊駒を使い回すことで、同じ地域で行われた複数の戦闘を再現できることもある。例えば、戦国時代の関東・甲信越地方を描いたマップと1560〜70年頃の武田軍部隊駒と上杉軍部隊駒と北条軍部隊駒があれば、1561年の第四回川中島の戦いを再現することもできるし、1569年の三増峠の戦いを再現することもできる。このように、一つのゲームパッケージで複数の状況設定をプレイすることができる場合、個々の状況設定を「シナリオ」と呼ぶ。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "戦術級ボードゲームでは、マップは特定の場所を描いたものではなく、典型的な地形が描かれたものであり、また海軍や空軍の戦いを扱った戦術級であれば最初から地形が描かれていないため、それらのマップと登場部隊駒の組み合わせより数多くのシナリオが設定されている。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "戦略級のボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、三人以上のプレイヤーがそれぞれ自分の陣営を率いてプレイすることを前提としたものもある。このようなゲームにおいては「ゲームシステム上の外交」ではなく、実際に他のプレイヤーと交渉したり、取引したり、場合によっては傘下に入ったりすることが認められている。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、一人プレイ専用のものもある。このようなゲームは、一般的に「ソリティア」もしくは「ソロプレイ専用ゲーム」と言われる。ソリティアゲームでは、ゲーム上の勢力の一部をプレイヤーが担当し、残りの勢力をゲームのシステムが制御する。具体的には、敵側の行動の番に、プレイヤーがルールにしたがって敵方のユニットを動かしたり、判定のためにダイスを振ったりする。敵側の行動がカードなどによって規定されており、これをランダムに引いて指示に従うという手法もある。多くの場合、敵側の行動についてはルールで全て決められているため、プレイヤーの意志は関与できない。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "よく似たものにソロプレイがある。これは、通常二人以上のプレイヤーで対戦するゲームを、一人で全プレイヤーを受け持ってプレイすることである。これはボード・ウォー・シミュレーションゲームのユーザーの間では、作戦研究のためなどに広く行われている。ただしソロプレイは、ゲーム情報の一部を相手に隠匿するタイプのゲーム(手札を使うなど)ではできない。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ソリティアゲームとソロプレイには、上記の違いがあるため、一人プレイ専用ゲームのことを「ソロプレイ専用ゲーム」と称すると誤解される可能性もあり、近年では「ソリティア」の呼称が一般的になりつつある。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "機動戦士ガンダムなどのアニメを題材にしたウォー・シミュレーションゲームや、空戦や戦車戦などの戦闘級ゲーム。ナポレオニックや戦国時代を題材にしたウォー・シミュレーションゲームでは、キャラクター(個人や、その個人中心の幕僚を含む小規模直轄部隊)ユニットが登場し、部隊の指揮官として戦局に大きな影響を与えるシステムを採用しているものが多い。例えば「アムロ」「シャア」、「リヒトホーフェン」「ヴィットマン」、「ナポレオン」「ネルソン」、「織田信長」「山本勘助」などである。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "登場するボードゲームでは普通、キャラクターが駒になっている。戦略級コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームにおいては、人材の発掘、敵の武将の調略などもプレイの重要な要素である。古代や戦国時代、ナポレオン戦争頃までの戦いでは指揮官が部隊に与える影響力は大きかったので、こうした処理が行われることが多い。反面、キャラクターユニット自身が敵のターゲットになり、討ち取られる(エリミネートされる)可能性も考慮に入れる必要性もある(討ち取られると士気低下などで、そのユニット麾下の部隊は能力が大幅に低下する)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ただし、20世紀以降を舞台にするゲームの場合、指揮官個人に対する影響範囲はそれ以前に比較して小さくなるので、作戦級以上で個人がキャラクターユニットになる可能性はほとんどなく、あったとしてもおまけ程度の意味合いが強い(『アフリカンギャンビット』の「ロンメル」ユニット。『独ソ戦(ロシアンキャンペーン)』の「ヒトラー」ユニットや「スターリン」ユニットなど)。",
"title": "システム"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "一般的に、ウォー・シミュレーションゲームは地理的縮尺に応じて戦略級、作戦級、戦術級に分類されるが、実際にはメインとなるのが陸戦なのか、海戦なのか、空戦なのかによって、さらに細分される。陸軍は週単位で、海軍は日単位で、空軍は時間単位で行動するため、別の時間的縮尺の中で扱う必要があるからである。一畳ほどの大きさに日本本土の地図を描き、それを用いて作戦級ウォー・シミュレーションゲームを作ると仮定した場合、行動速度の違いを考えれば、空戦ゲームなら1ターンは1時間程度、海戦ゲームなら6時間程度、陸戦ゲームなら3日程度とならざるを得ない(空戦作戦級で1ターンを数日にしてしまうと、航空基地からの複数回の出撃を一括して解決するなど抽象化する必要が出てくる。また、陸戦作戦級で1ターンを数時間にしてしまうと、地図上に1ヘクス分の戦況の変化が現れるまでに何十ターンもかかるため、退屈なゲームになってしまう)。",
"title": "陸海空軍の行動速度と時間的縮尺"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "陸海空の三軍すべてが登場するゲームの場合、陸戦をメインにして海空軍を抽象化することが多い。すなわち、ある海域/空域に対する複数回の出撃、哨戒活動などをゲーム上では一回の「基地からの出撃&戦闘&帰還」で表現する、といった手法をとる。太平洋戦争戦略級ゲームなどの海空軍が主役であるゲームでも、同様の手法をとるものが多いが、中には1ターン=1週間の陸軍ターンの間に1ターン=半日の海空軍ターンを14回挿入して時間的縮尺の調整を図っているものもある。",
"title": "陸海空軍の行動速度と時間的縮尺"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "実際に起きた戦いを扱うウォー・シミュレーションゲームを、特に1980年代に流行した(一般的なブームとはいかないまでも、一定の隆盛を見せた)ボードゲームタイプのものを中心に俗に「ヒストリカル・ウォー・ゲーム」と呼ぶ。これは、より新しい語である「歴史シミュレーションゲーム」とは異なるものである(但し、一部メーカーにおいてシリーズ呼称として『歴史シミュレーションゲーム』としていたものは存在する)。",
"title": "シミュレーション性とプレイアビリティ"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "この種のゲームではそのテーマとする戦いを再現するために、その戦いの戦局を決定付けた事象をルール化していたり、ゲームの流れの中で史実と近似した結果が出る様にデザインされていることが多い。例を挙げるとミッドウェー海戦を扱うゲームでは空母艦載機の搭載兵器交換に関するルールや空母被弾時に甲板上の待機艦載機や弾薬の誘爆に関するルールがあるとか、太平洋戦争を扱うゲームなら戦争が長期化すると物量に勝る連合軍が圧倒的に有利になるデザインになっている、などである。こうした再現性を「シミュレーション性」と呼び、ヒストリカル・ウォー・ゲームの評価で特に重視されるポイントである。",
"title": "シミュレーション性とプレイアビリティ"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ただ、シミュレーション性の高いゲームは、殊にその扱うテーマとなる戦いに有利・不利の関係があった場合、当然ながら往々にしてゲーム上にもその有利・不利の関係が再現される。しかしそれではゲーム性を大きく損なってしまうと考えられる場合、状況的には史実を再現しても別の形で勝敗が判定されるルールになっていたりする(プレイヤーに対して史実であることを敢えて了解させ、ゲーム性の維持に特に何の注意を払わないタイトルも一部には存在する)。例えば太平洋戦争を扱うゲームで、各戦略拠点の占領や敵主力艦船撃沈によって「勝利ポイント」を獲得し、ゲーム終了時に両者の勝利ポイントを比較することによって勝者を決定する、などである。",
"title": "シミュレーション性とプレイアビリティ"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "一方で、シミュレーション性の高いヒストリカル・ウォー・ゲームはルールが難解かつ複雑になりがちで、プレイに手間がかかる・終了までに膨大な時間を要する、などの理由から初心者などには向かず、このため再現性を多少抑えても理解し易いルール、プレイしやすいゲーム性を確保することもある。これを「プレイアビリティ」と呼び、この種のゲームにおいて「シミュレーション性」と相反しながらも双璧を為す評価ポイントと見られる。",
"title": "シミュレーション性とプレイアビリティ"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ヒストリカル・ウォー・ゲーム開発においては、この「シミュレーション性」と「プレイアビリティ」のバランスをいかに取るかが大きく問われる。1980年代アメリカでこの種のゲームを二分したメーカーはそれぞれ、SPI社はシミュレーション性重視、アバロンヒル社(AH)はプレイアビリティ重視、と特色を持っていた。日本においてはホビージャパン・ツクダホビーなどがシミュレーション性を重視、バンダイ・エポック社などがプレイアビリティ重視の傾向にあった。特にバンダイの製品、およびエポック社が展開していた玩具性の高いシリーズ製品(紙媒体ではなく金属製マップとマグネット仕掛けの駒を使い、サイコロではなく戦闘判定を電子機器によって行っていた)などは、マップの縮尺に対して軍隊の移動速度や射程を正しく定めるという、シミュレーションの基本原則さえ無視したものがほとんどだった。東京から九州まで魚雷が届いてしまうようなゲームもあった(ただし、ゲームとしての完成度は高いものもあった)。",
"title": "シミュレーション性とプレイアビリティ"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "なお、ツクダホビーが得意としていたものに『機動戦士ガンダム』などのアニメ作品をシミュレーションゲームとしたシリーズがあったが、劇中に多く描かれる「ガンダムが弾切れとなった銃火器を放棄して敵に近接戦闘を挑む」というシーンが再現できない(近接する前に敵の銃弾を浴びてガンダムが破壊されてしまう)との指摘に対し、同社開発者は「実際の戦闘において銃器を射撃してくる相手に突進して被弾しないということは、いかにニュータイプという概念を盛り込むとしても考えにくい」と回答をしていた。シミュレーション性を重視していた同社ならではのスタンスであった。また、伝説巨神イデオンのシミュレーションゲームに至っては、最終シナリオでは地球・バッフクラン連合軍側に勝利条件は存在しない。イデオン1機に対して盤面を埋め尽くしたユニットが1回の攻撃で100個単位で損失していく中、たとえイデオンを破壊した(それさえ極めて困難であるが)としても、その時点でイデが発動し全ては因果地平へと飛ばされてしまうため、勝敗は無意味となってゲーム終了である。",
"title": "シミュレーション性とプレイアビリティ"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2015年末時点で、日本でウォー・シミュレーションゲームまたはその専門誌を発行する出版社は以下のとおり。海外についてはen: List of wargame publishers参照。",
"title": "シミュレーションゲーム (ボードゲーム) の出版社一覧"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "リストの並びは、数字、アルファベット、50音の順。",
"title": "媒体別タイトル一覧"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "一連の戦国作戦級をすべて繋ぐことで、関ヶ原の戦いを全国規模で扱う巨大作戦級にする。(戦国の一番長い日)",
"title": "媒体別タイトル一覧"
}
] |
ウォー・シミュレーションゲームあるいはウォー・ゲームとは、戦争を題材としその戦闘を再現したシミュレーションゲーム。ボードゲーム、コンピューターゲームの形式をとるものが多い。戦略シミュレーションゲーム、戦争シミュレーションゲーム、軍事シミュレーションゲームなどの呼び方もある。英語では"Wargame"と呼ばれる。
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{{Pathnav|frame=1|コンピュータゲームのジャンル|シミュレーションゲーム}}
{{出典の明記|date=2015年2月}}
{{独自研究|date=2017年7月}}
[[File:CosimAmphibious.svg|thumb|緑のプレイヤーが守る島を左下側から赤のプレイヤーが攻撃する]]
'''ウォー・シミュレーションゲーム'''あるいは'''ウォー・ゲーム'''とは、[[戦争]]を題材としその[[戦闘]]を再現した[[シミュレーションゲーム]]。[[ボードゲーム]]、[[コンピューターゲーム]]の形式をとるものが多い。'''[[戦略ゲーム|戦略シミュレーションゲーム]]'''、戦争シミュレーションゲーム、[[軍事]]シミュレーションゲームなどの呼び方もある。英語では"Wargame"と呼ばれる。
== 概要 ==
登場する[[部隊]]やキャラクターを[[駒]]に見立てて、[[将棋]]のように盤面の上で駒を動かし、目的を達成していくゲームのこと。そのため、敵味方双方のキャラクターの特性を知り、それを生かす作戦を練ることが重要となってくるが、「目的の達成」とは、必ずしも敵を倒すことばかりでなく、敵から逃げる、敵を倒さないようにある地点に到達するなど、様々である。
シミュレーションゲームの典型例で、単に「シミュレーション」「シミュレーションゲーム」と言えばこのウォー・シミュレーションゲームを指すことも多い。
ウォー・シミュレーションゲームで使用される盤面(マップ)は通常、均質なマス目(四角形の「スクエア」または六角形の「ヘクス」)で覆われているか、地理的に意味を持つエリアに分割されている。そして部隊駒をマス目やエリアの中に配置することで、部隊の移動や攻撃のための位置関係を表現する。ただし[[ミニチュアゲーム]]ではヘクスやエリアがなく、マップ上を自由に移動できるのが原則である。
実際のゲーム進行は、[[野球]]のイニングに似たターンと呼ばれる単位で行われ('''[[ターン制ストラテジー]]'''、略称 '''TBS''')、プレイヤーは「1ターンの間に手持ちの部隊駒すべてに移動、戦闘などの行動を行わせる」という行為を数十ターンにわたって繰り返す。中にはターン制ではなく実時間制(敵味方同時に駒を操作する)で進行するものもあり、それらはリアルタイムシミュレーションあるいは'''[[リアルタイムストラテジー]]'''(略称 '''RTS''')と呼ばれる。
通常、各ウォー・シミュレーションゲームには、マップスケール(地理的縮尺)とタイムスケール(時間的縮尺)が定められている。地理的縮尺は、1ヘクスが何メートル/何キロに相当するかで表される。時間的縮尺は、ターン制のゲームの場合、1ターンが何分/何時間/何日/何ヶ月に相当するのかで表され、リアルタイム制の場合は実時間に対してゲーム時間がどれくらいに相当するのかで表される。そして、地理的縮尺やシミュレートする戦闘の規模、性質によって、戦略(級)シミュレーションゲーム、作戦(級)シミュレーションゲーム、戦術(級)シミュレーションゲームの三種に分類される(詳細は後述)。
[[1980年代]]までは紙のマップ上で紙の駒を動かすタイプがほとんどだったが、[[1990年代]]以降、家庭用TVゲーム機や個人用コンピュータが普及し始めると、コンピュータ[[ゲームソフト]]化され、ゲームソフトの一分野を確立するまでになった。ボード時代は基本的に対戦相手を必要とする社交性を帯びたものだったのに対し、コンピュータ化後は一人プレイ中心となったという意味では、コンピュータ化により、趣味としての性格が変化した例ともいえるが、近年ではネットワーク対戦機能も付加され、それまでは対戦できなかった遠くの相手ともゲームが可能になった。さらには既存のボードゲームをソフト上に再現し、情報をやり取りして通信対戦できるソフトも登場している。
コンピュータ・ウォー・シミュレーションゲームの中には、[[シミュレーションロールプレイングゲーム]]と呼ばれる、物語の要素が強いものもある。
== 歴史 ==
現代的なウォー・シミュレーションゲームの先祖にあたるものは[[ボードゲーム]]等の伝統的な「戦場を模したゲーム」である。歴史上、ボードゲームの亜種となるルールは多数が作られてきたが、その流れの果てに、19世紀の[[プロイセン]]において、戦場で兵を指揮する訓練として研究・教育手段となるクリークシュピールというものが生まれた。戦場を精巧に再現した[[箱庭]]の中で部隊の動きをシミュレートするそれは[[兵棋演習]]として後の世に根付くこととなる。
また、欧米では[[19世紀]]以前から[[模型]]は一部の層の趣味として存在していた。やがて陳列するだけでは飽き足らなくなった模型ファンたちは、動力を付けて動かすようになり、[[鉄道模型]]を始めとする可動式模型を生んだが、軍隊模型ファンの中にはただ動かすのではなく、[[兵棋演習]]のようなことを「遊び」として行ってみようという流れが生まれ、[[ミニチュアゲーム|ミニチュア・ウォーゲーム]]と呼ばれる娯楽が誕生する。ただし、この当時のミニチュア・ウォーゲームは鉛製の[[スズの兵隊|おもちゃの兵隊]]を使った戦争ごっこにルールを定めたような素朴なものにすぎなかった。
[[第二次世界大戦]]後の[[1954年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[チャールズ・ロバーツ|チャールズ・S・ロバーツ]]([[:en:Charles S. Roberts|en:Charles S. Roberts]])が、ミニチュア・ウォーゲームや兵棋演習の戦略的な部分のみに着目して、マス目が印刷された紙製の地図と、厚紙で作られた駒を使う自作のボードゲーム『[[タクテクス (ゲーム)|タクテクス]]』を自費出版で販売。このゲームは彼我の戦力比によって戦闘結果が多様に変化するという概念を初めてホビー用のゲームに持ち込んだんものでもあり、ウォー・シミュレーションゲームと呼ばれるジャンルの元祖ともされている。ロバーツは1958年に[[アバロンヒル]]社を設立し、紙製の地図と駒を使ったボードゲームとしてのウォー・シミュレーションゲームを多数開発していく。その後も[[Simulations Publications Inc.|SPI]]社、[[ゲームデザイナーズ・ワークショップ|GDW]]社などが中心となって開発が進んだ結果、徐々に[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]の間に普及してゆき、[[1970年代]]には数多くのファンを獲得するに至った。
日本には1970年代後半に、主に『[[月刊ホビージャパン]]』誌上で紹介され、一部に熱狂的なファンを生み、やがて[[エポック社]]、[[バンダイ]]等国産メーカーの参入もなされた。1980年代前半にはテレビニュースなどでも報じられるまでになった。当初は「ウォーゲーム」という名称が一般的だったが、やがて「シミュレーション」という名称で呼ばれることが多くなった。当時の日本では「ゲーム」といえば『[[人生ゲーム]]』、『[[億万長者ゲーム]]』など、余興、暇つぶし、子供の戯れというイメージが強く、大人が真剣に打ち込む趣味として認知されにくいと考えられたため、「ウォーゲーム」という名称は敬遠されたと言われている。
また、これらボードゲームが普及する以前、70年代の前半では紙製のボードやユニットではなく、ミニスケール(陸戦なら[[HOスケール]]前後の)[[プラモデル]]と[[ジオラマ]]を利用したミニチュアウォーゲームのプレイも『月刊ホビージャパン』の記事では行われており、ウォーゲームと言った場合、当時はこのジオラマを利用したものを指す場合が多かったようである。
これらは『[[ウォーハンマー (ミニチュアゲーム)|ウォーハンマー]]』などの、メタルフィギュアを利用した現在のミニチュア・ウォーゲームの直系と言える。物差しや分度器を駆使しして、射界や射線、移動判定を行っていた。ただし、統一ルールは存在しないに近く、仲間内で独自に作成されたものが使用されることがほとんどであった。しかし、戦闘級であってもジオラマベースとしては大きなものが必要な事(当時はゲーム向きの極小スケールモデルが市販されていなかった)、プラモデルを使用する事(作成の手間や、せっかく作ったもので遊ぶ事への抵抗感。又、数が必要になる制作費の問題。保管場所に対する収納問題)<ref group="注">ただし、これらの諸問題は現代のミニチュア・ウォーゲームにもつきまとう問題でもある。</ref> などから間口が狭く、認知度はかなり低いままに姿を消した。
[[1990年代]]以降、ボードゲームのウォー・シミュレーションゲームは下火になったが、それに代わってコンピューターゲームのウォー・シミュレーションゲームが台頭するようになった。今日ではシミュレーションといえば後者のことをさす場合が圧倒的に多い。
ボード・ウォーゲームが確立してからは逆輸入の形で、ミニチュア・ウォーゲームにも本格的なゲーム性が導入されるようになり、ゲーム性の高いミニチュア・ウォーゲームが新しく作られるようになった。ミニチュア・ウォーゲームでは「一人の人間個人」を象った人形を使うことから、「兵士一人一人の能力を個性化する」ことに注目するルールが発展していった。また、『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』(1974年)を元祖とする<ref name="Yasuda">[[安田均]] 『ゲームを斬る』 新紀元社、2006年、5頁。</ref>[[ロールプレイングゲーム]]<ref group="注">日本では元来のロールプレイングゲームは[[コンピュータRPG]]と区別して[[テーブルトークRPG]]と称される。</ref> の出発点は、ミニチュア・ウォーゲームと『[[指輪物語]]』などのファンタジー小説の世界観を組み合わせたものであった<ref name="Yasuda"/>。
== 媒体 ==
上記で述べたボードゲーム形式、コンピューターゲーム形式の他に、カードゲーム形式をとったものも存在する。
== 題材 ==
過去に行われた戦いを扱ったもの、現在行われている紛争を扱ったもの、[[小説]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[漫画]]などに描かれた架空の戦いを扱ったもの、現代、近未来を舞台にした架空戦(例:米中戦争)、架空の過去を扱ったもの(例:第二次世界大戦で勝利した日本とドイツの戦い)など。
ほとんどは戦争が絡むものだが、中には[[ゾンビ]]で溢れている[[ショッピングモール]]から[[散弾銃]]で身を守りつつ逃げ出すもの(SPI『ゾンビ!』)、どたばた[[ラブコメ]]を題材にし、ライバルを蹴落としながら町中を走り回って買い食いをするものなどもかつて存在した(ツクダホビー『うる星やつら「友引町買い食いウォーズ」』)。
== 種別 ==
主に近代以降の戦争を扱ったものを例にして説明する。中世以前の戦いを扱ったものの場合は、部隊規模はもっと小さくなる。
=== 戦略級 ===
1ターンは数週間から数ヶ月、1ヘクスは数十から数百キロに相当し、1つの部隊駒は1個[[師団]]、1個[[軍団]](数個師団)ないし1個[[軍]](五〜十五個師団)程度を表す。プレイヤーは一方面軍の総司令官か1国の国軍総司令官(数十〜百個師団を統率)、ないし1国の[[元首]]の立場をプレイする。部隊が射程を持つことはない(となりのヘクスの敵しか攻撃できない。ただし大陸間弾道弾や中長距離ミサイルなどの戦略兵器が登場する場合、希に射程や影響範囲を持つ場合がある)。[[海軍]]や[[空軍]]は、部隊の移動、戦闘という形ではなく、ある海域/空域に対する制海権/制空権といった形で表現される場合もある。大抵は、資源を集め兵器を生産するといった生産システムが備わっている。
ヘクス制のマップではなく、エリア制のマップを採用しているものも多い。
=== 作戦級(戦役級) ===
1ターンは半日から一週間、1ヘクスは数キロから数十キロに相当し、1つの部隊駒は1個[[大隊]]、1個[[連隊]]ないし1個[[師団]]程度を表す。プレイヤーは軍団長(数個師団を統率)、軍[[司令官]](五〜十五個師団を統率)ないし軍集団司令官(数十個師団を統率)の立場をプレイする。一般の部隊が射程を持つことはない(となりのヘクスにしか攻撃できない)が、[[砲兵]]は射程を持つ(2ヘクス以上離れたところを攻撃できる)ことがある。空軍は、比較的規模の大きい作戦級の場合は部隊駒として表され、移動、戦闘という形で数日間にわたる数次の出撃を抽象的に表現するものもあるが、小規模作戦級の場合は、航空支援ポイントなどの形に極めて抽象化されていることが多い。
コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームの分野では、純粋な作戦級はほとんどなく、戦略級ゲームでありながら局地戦を再現する際に一時的に作戦級に切り替わるという形をとる。[[コーエー]]の[[信長の野望シリーズ]]におけるエリア内戦闘マップなどがその例である。
実際の軍隊で使われる兵棋演習に一番近く、かつてのボード・ウォー・シミュレーションゲームはこの作戦級が定番だった。
なお、1941年から1945年にわたる[[独ソ戦]]全体などを扱った、比較的規模の大きい作戦級を、「キャンペーン(戦役)級」などと称して区別する場合もある。
また、地理的縮尺は作戦級と同程度ながら、時間的縮尺が1ターン=数時間程度の、[[航空母艦|空母]]同士の戦いを扱ったゲームは「空母戦作戦級」などと呼ばれる。他の作戦級に比べると、兵器の個性が出るためか、一般にも人気が高い。
=== 戦術級(戦闘級) ===
1ターンは数秒から数時間、1ヘクスは数メートルから数百メートルに相当し、1つの部隊駒は1個人、1兵器から1個[[中隊]]程度を表す。プレイヤーは[[小隊]]長(数十人を統率)から師団長(一万数千人を統率)の立場をプレイする。ほとんどの部隊が射程を持っている(何ヘクスも離れた敵を攻撃できる)。
1駒=1兵器単位の戦術級ゲームの中には、兵器操縦シミュレータや、チェスや将棋などの伝統的なボードゲームに近い性格を持ったものもあり、この規模のゲームを特に「戦闘級」と呼称する事もある。「戦術級」と「戦闘級」の境界は抽象化された部隊の有無が大きく、仮に兵器などがユニット名(零戦、IV号戦車など)として登場する場合でも、それが部隊単位として集団で登場すれば戦術級、兵器が1機単位でユニットになり、兵士やパイロットなどキャラクター要素がある物を主に戦闘級に分類する場合が多い。
== システム ==
=== マップ ===
ウォー・シミュレーションゲームで使用される盤面(マップ)にはさまざまなタイプがある。
* 定形のマス目で覆われているもの。マス目の形には「'''[[ヘクス]]'''」('''ヘックス''')(hex。hexagonの略)と呼ばれる正[[六角形]]と「'''スクエア'''」(square)と呼ばれる[[正方形]](または長方形)とがある。ヘクスは移動方向の自由度を重視するものによく用いられ、スクエアはゲームルールやゲームデザインの簡略化などを目的として使用される傾向がある。
** マスの形はスクエアだが、列ごとに[[レンガ]]積みのようにずらして、マスどうしの位置関係をヘクスの場合と同じにしているマップもある。四角いコマを六角形のマス(ヘクス)に置くと無駄なスペースが生じるが、列をずらしたスクエアなら無駄がなく、わずかながらマップの面積を節約できる。
* 不定形の領域('''エリア''')に分割されているもの。エリアは通常、政治・地理的な意味によって分割される。たとえば日本史物なら[[相模国]]、[[加賀国]]、[[アメリカ独立戦争]]なら[[ヴァージニア]]、[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]、[[三国志]]物なら[[汝南郡|汝南]]、[[漢中郡|漢中]]などである。
** 変種として、エリアを点に、エリア間の境界を線に置き替えた'''ポイント・トゥー・ポイント'''式と呼ばれるマップもあり、機能としてはエリア式と同じである。
* 小単位に分割せず、実際の地形と同様に自由に移動できるもの。ボードゲームでは少ないが、[[ミニチュアゲーム]]の場合はこれが原則である。
後に現れたコンピューター・ゲームの場合、初期にはマス目やエリアを使うものがほとんどだったが、処理能力の向上に伴って[[ミニチュアゲーム]]のように自由に移動できる方式も増えている。特に[[リアルタイムストラテジー]]はほとんどがそうである。
マップには地形が描かれていることが多く、部隊が移動、戦闘を行う際に影響を及ぼす。たとえば道路に沿って移動すると移動距離を通常より長くできる、山岳が描かれたヘクスに陣取る部隊は防御が有利になるなどの効果を持つ。戦術級においては、射程内の敵であっても地形によって射線が遮られ攻撃不可となるなどの効果もある。
=== ユニット ===
部隊駒のことを「ユニット」と呼ぶ。
ユニットには攻撃力、防御力、移動力などの数値が定められている。ボード・ウォー・シミュレーションゲームの場合はそれらが紙の駒の上に印刷されている。コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームの場合は「情報を見る」などの[[メニュー (コンピュータ)|コマンド]]でそれらの数値を参照することができる。
戦術級ボード・ウォー・シミュレーションゲームのユニットには普通、数値以外に、他との識別のために兵器のグラフィックが描かれている。一方、近代以降を扱った作戦級、戦略級では[[北大西洋条約機構|NATO]]で採用されている[[兵科記号 (北大西洋条約機構)|兵科記号]]が印刷されているのが一般的である。コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームにおいてはユニット自体が兵器の形のグラフィックで表されることが多い。
空母戦作戦級などでは、敵の部隊の位置や内容がわからないようになっていて[[偵察]]行為によって探り出すことがプレイの重要な部分を占める。ボード・ウォー・シミュレーションゲームでは、印刷された数値が相手のプレイヤーに見えないように、本物のユニットの代わりに、ダミー駒をマップ上に配置するというシステムをとる。
=== 初期配置 ===
コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは、選択したシナリオ(後述)に応じて、敵味方の部隊駒が自動的にマップ上に配置されるが、ボードゲームではプレイヤーの手でシナリオに従い配置しなければならない。
=== ターン ===
概要でも述べた通り、ウォー・シミュレーションゲームの進行は、野球の回に似たターンと呼ばれる単位で行われることが多い。1ターンの間に両陣営は、自分の指揮下にあるすべての部隊駒に移動、戦闘といった行動を行わせる。両軍のすべての部隊駒が行動を終えた時点で次のターンへ移行する。
==== フェイズ ====
部隊のとる行動によって、1ターンを複数の「フェイズ」に分割する場合もある。例えば、「移動フェイズ」と「戦闘フェイズ」に分割されている場合、プレイヤーは移動フェイズ中にすべての自軍部隊に移動を行わせ、次に戦闘フェイズにおいてすべての自軍部隊に戦闘を行わせる、という手順となる。
ボードタイプのウォー・シミュレーションゲームではフェイズ制をとる場合がほとんどであるのに対し、コンピューターのウォー・シミュレーションゲームではあまり用いられず、一部隊ごとに移動と戦闘を両方解決してしまうことが多い。
==== プレイヤーターン ====
多くのウォー・シミュレーションゲームでは、一方の陣営がすべての部隊に任意の順で行動を行わせた後、他方の陣営の行動に移るという手順を踏む。野球でいえば各回における「表」「裏」に相当する。この「表」「裏」の一つ一つをプレイヤーターンと呼ぶ。
プレイヤーターン制を採用していない場合、各フェイズごとに先攻、後攻が決まるものもあれば、ランダムに、あるいは一定の条件に従って敵味方関係なく部隊の行動順が決まるものもある。
==== 行動の任意性 ====
移動は一般には強制されるものではなく、すべての部隊が行動してもよいし、一部の部隊のみが行動してもよい。全てのユニットに行動させずターンを終えてもよい。また、大抵の場合どの部隊から行動を行わせるかの決定権もプレイヤーにある(強制的に決まる場合もある)。
逆に、行動可能な部隊数などが自動またはランダムで制限される場合もある。
==== 戦闘の解決 ====
一般に戦闘は会戦級または戦術級に多い「射撃戦闘型」と、作戦級以上に多い「戦力比型(又は戦力差型)」に大別される。
前者は射撃可能なユニットは全て攻撃できる「相互射撃」か「手番側のみの射撃(またはそのフェイズに指定された側のみの射撃)」に大別される。射撃を行うユニットの攻撃力合計でその戦闘における火力が決まり、その打撃を対象ユニットが受ける。
後者では、戦闘に参加する双方の部隊が双方のその戦闘における参加戦力差または戦力比とダイス目を元に戦闘結果表(CRT)で結果を求めるやり方で、比較的手間がかからない。損害は両軍が受ける可能性もあり、どちらかのみが一方的な損害を受ける可能性もある。
戦力比(戦力差)型においては、一般に隣接しているユニット同士が戦闘を行うが、「マストアタック」と「メイアタック」に大別される。
「マストアタック」においては、敵ユニットに隣接しているなどの条件を満たすユニットは全て攻撃を行わなければならず、また味方ユニットに隣接している敵ユニットは全て攻撃されなければならない。そのため、攻撃を行うプレイヤーに条件が厳しい。
「メイアタック」においては、戦闘を行うかどうかは一切の自由であり、攻撃を行わないユニット、攻撃を行われない敵ユニットが存在しても構わない。
「選択式マストアタック」などと呼ばれる、攻撃を行うかは自由であるが、行う場合にはマストアタック同様の制限がかかる、などのシステムも少数ながら存在する。
一般に射撃戦闘型と戦力比(戦力差)のどちらかを使用するが、両方を使用するものもある。例えば射撃戦を「射撃戦闘型」で行い白兵戦を「戦力差型」で行う、または砲兵射撃を「射撃戦型」で行ってそれ以外の攻撃を「戦力比型」で行う、などである。
==== ターン進行の例 ====
プレイヤーターン制、フェイズ制ボードゲームの例
* 第一ターン
** A軍プレイヤーターン
*** 移動フェイズ:A軍プレイヤーが指揮下にある任意の部隊を任意の順に移動させる。すべて移動させてもよいし、一部を移動させてもよいし、一つも移動させなくてもよい。
*** 戦闘フェイズ:A軍プレイヤーが指揮下にある任意の部隊で任意の順に任意の敵部隊を攻撃する。すべての部隊で攻撃してもよいし、一部の部隊で攻撃してもよいし、全く攻撃しなくてもよい。
** B軍プレイヤーターン
*** 移動フェイズ:B軍プレイヤーが(以下A軍プレイヤーターンに同じ)
*** 戦闘フェイズ:B軍プレイヤーが(以下A軍プレイヤーターンに同じ)
* 第二ターン(以下繰り返し)
プレイヤーターン制、非フェイズ制コンピューターゲームの例
* 第一ターン
** A軍プレイヤーターン(プレイヤー):プレイヤーが指揮下にある任意の部隊を任意の順に行動(移動&攻撃)させる。すべて行動させてもよいし、一部に行動させただけでターンを終了してもよいし、一つも行動させずにターンを終了してもよい。
** B軍プレイヤーターン(CPU):CPUが指揮下にある任意の部隊を任意の順で行動させる。
* 第二ターン(以下繰り返し)
非プレイヤーターン制、フェイズ制(フェイズ内先攻後攻制)ボードゲームの例
* 第一ターン
** 行動順決定フェイズ:どのプレイヤーが先に行動するかをランダムに決める。
** 移動フェイズ:まず先攻プレイヤー指揮下にある任意の部隊を任意の順に移動させる。次に後攻プレイヤーが(以下同)
** 戦闘フェイズ:まず先攻プレイヤー指揮下にある任意の部隊で任意の順に任意の敵を攻撃する。次に後攻プレイヤーが(以下同)
* 第二ターン(以下繰り返し)
非プレイヤーターン制、非フェイズ制コンピューターゲームの例
* 第一ターン
** 最初に行動する部隊がランダムに決まる。その部隊を指揮するプレイヤーが行動(移動&戦闘)させたら、次に行動する部隊がランダムに決まる。その部隊を指揮するプレイヤーが(以下同)
* 第二ターン(以下繰り返し)
また、戦術級ボードゲームではもっと複雑な手順をとることも多い。以下はその一例
* 第一ターン
** A軍プレイヤーターン
*** 第一行動フェイズ:A軍プレイヤーが指揮下にある任意の部隊を任意の順で行動(移動か戦闘かどちらか)を行わせる。すべてに行動させてもよいし、一部にだけ行動させてもよいし、一つも行動させなくてもよい。
*** 第二行動フェイズ:A軍プレイヤーが(以下同)
*** 敵軍反応フェイズ:B軍プレイヤーが(以下同)
*** 第三行動フェイズ:A軍プレイヤーが(以下同)
** B軍プレイヤーターン
*** 第一行動フェイズ:B軍プレイヤーが(以下同)
*** 第二行動フェイズ:B軍プレイヤーが(以下同)
*** 敵軍反応フェイズ:A軍プレイヤーが(以下同)
*** 第三行動フェイズ:B軍プレイヤーが(以下同)
* 第二ターン(以下繰り返し)
この他、敵味方が一部隊ずつ交互に行動させるという、将棋やチェスに似た手順をとるものもある。
=== リアルタイム制 ===
より実戦に近づけるため、両軍の進行を同時に行うリアルタイム制の導入は度々模索された。しかし、ボードゲームでは困難で、本格的に導入されたのはコンピューターゲーム化してからである。
リアルタイム制と言っても完全に同時進行であることは少ない。ゲームにより呼称が異なるが、「作戦フェイズ」と呼ばれるフェイズでプレイヤーが各ユニットの行動を決定し、「行動フェイズ」と呼ばれるフェイズで移動、戦闘が行われる。プレーヤーは行動フェイズ中にも各ユニットへの行動修正命令を出せ、戦場での不確定要素に対応する。
=== プロット制 ===
ユニットの移動と行動を、あらかじめ記録用紙に記入するリアルタイム制のバリエーション。その性質上、通常は敵味方の二勢力が基本で、ゲームに導入が難しい同盟軍や中立軍と言った第三以上の勢力を簡単に導入出来るメリットがある。
記録用紙へ駒毎に記入の必要がある為、『[[ディプロマシー]]』等、移動ユニット数の少ないマルチプレイヤーズゲームに導入される場合が多いが、空戦、海戦、戦車戦等の戦闘級ゲームにも用いられている。ただし、プレイヤー個人が扱うユニット数が増えれば増えるだけ時間が掛かる負の側面があり、特に戦闘級で敵味方入り乱れての大会戦をプレイアブルに進めたい場合、多人数プレイでなければ難しくなってしまう。
=== 部隊の移動 ===
部隊はとなりのヘクス、エリアに進入する際に定められた移動力を消費してゆき、移動力がゼロになったらそのターンはそれ以上移動することができない。[[陸軍]]部隊の場合、進入するヘクス、エリアの地形によってはより多くの移動力を消費することになる。例えば、平地ヘクスに進入する際の消費移動力が1、山岳ヘクスに進入する際の消費移動力が3と定められているゲームにおいて、15の移動力を持つ部隊は、平地ヘクスだけを移動するなら15ヘクス移動できるが、途中で二回山岳ヘクスに進入してしまったら11ヘクスしか移動できないことになる。
当然ではあるが、陸軍部隊は海上ヘクス/エリアには進入できず、海軍部隊は陸地ヘクス/エリアには進入できない(ただし『ディプロマシー』のように[[上陸作戦]]との形で、海軍ユニットが沿岸エリアへ進入可能なゲームもある)。
エリア制の場合、基本的に敵の部隊が存在するエリアへの進入が認められているが、ヘクス制の場合は通常、敵味方の陸軍部隊が同一ヘクスに存在することは許されない(空軍、海軍は許される)。
移動力は一ターンごとに定められた一部隊固有の数値であり、次のターンに持ち越したり、他の部隊に譲ることはできない。但し、一部隊に与えられた移動力のうちいくつを消費するかはプレイヤーの任意である。上記の例でいうと、15の移動力を持つ部隊が平地を10ヘクス移動しただけで移動をやめてしまってもかまわない(しかし、残りの5移動力を次のターンに持ち越したり他の部隊に譲ることはできない)。
ゲームの途中でマップ外から援軍が進入してくるものもある。
=== スタック ===
将棋やチェスと違い、一つのヘクス/エリアに自軍部隊駒を複数配置することが許可されている場合が多い。一つのヘクス/エリアに複数の部隊駒を配置することをスタック、もしくはスタッキングと呼ぶ。また、一つのヘクス/エリアに配置された部隊駒の「一かたまり」をもスタックと呼ぶことがある。
=== ZOC ===
{{main|ZOC}}
ヘクス制をとるゲームにおいては、各部隊は配置されているヘクスに隣接する六ヘクスに対し、ZOC(Zone of Control:支配地域)と呼ばれる特殊な影響力を及ぼす範囲を持っている。普通、移動中の部隊は敵部隊のZOCに進入したら、まだすべての移動力を使いきっていなくても、それ以上移動できなくなる(「進入停止」と呼ぶ)。但し、移動開始時点にすでに敵のZOC内にある場合は、まずZOC外のヘクスに出るのであれば、以降は何の制限もなく移動を続けることができる(再びZOCに入ればそこでまた進入停止)。逆にいうと、移動開始時点に敵のZOC内にあり、かつ周囲を完全に敵のZOCで囲まれている部隊は、全く移動することができない(包囲されていることになる)。
包囲されると援軍が送れない、不利でも撤退することができない、より多くの敵から攻撃を受けるなどの不利益を被るため、実際のプレイでは、部隊を1〜2ヘクスおきに配置した列([[戦線]])を作ることによって包囲を避ける戦術をとることが多い。
進入停止制ではなく、通常より多くの移動力を消費することによってZOCを突破できるシステムを持つものもある。
=== 戦闘 ===
戦術級の場合は射程内の敵部隊を、砲兵やミサイルユニットのない作戦級と戦略級の場合はとなりのヘクスにいる部隊(ZOC内の部隊)を攻撃することができる。エリア制マップを採用しているゲームでは同じエリアにいる敵だけが攻撃対象である。
基本的に敵部隊を攻撃するかしないかは任意だが、エリア制の場合は普通、敵部隊が同じエリアに存在する限り必ず敵を攻撃しなければならない。また、初期のボード・ウォー・シミュレーションゲームでは、ZOC内にいる敵はすべて攻撃しなければならないシステムを採用している。敵を必ず攻撃しなければならないシステムをマスト・アタックと呼び、攻撃相手を選択可能なのをメイ・アタックという。
個々の戦闘は、戦術級においては、まず攻撃側部隊の攻撃の命中判定が行われ、命中した場合はその攻撃力から防御側に与えられるダメージが算出され、それが防御側の防御力によって減じられた後、防御側部隊に適用されるというシステムをとる。作戦級や戦略級においては、コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは同様のシステムをとるものが多いが、ボードゲームでは、味方の攻撃力と敵の防御力を「いくつ対いくつ」という比率の形にし、そこから戦闘結果を算出するシステムが一般的である(同規模の大軍同士が戦った場合、前者なら双方とも大ダメージを被るのに対し、後者なら小競り合いに終わるという点で違いがある。どちらのシステムが正しいかは、扱っている戦闘の性質により異なるため、一概には言えない)。
戦闘結果は、コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームではダメージ値に応じて敵の兵士、兵器の数が減少してゆくという形で反映されるのが一般的である。一方ボードゲームでは、それに加え、敵部隊の退却と自軍部隊による相手陣地の占拠、および追撃が盛り込まれていることが多い。その他、兵士個人や1兵器=1駒タイプの戦闘級では、「主砲が破壊、攻撃不能」、「士気崩壊、混乱状態、行動不能」など、より細かい戦闘結果を設定している場合もある。
=== 機械化移動 ===
作戦級、および、戦略級ボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、戦闘フェイズの後に機械化移動フェイズを設け、[[戦車]]部隊や自動車化[[歩兵]]部隊などの機械化部隊にだけもう一度移動する機会を与えているものもある。これにより、第二次世界大戦で[[ドイツ軍]]が採用した[[電撃戦]]のように、機械化部隊による前線突破が再現できる。
=== 個々の部隊行動以外の活動 ===
==== 兵站 ====
[[兵站]]とは部隊に補給が供給されているか否かを判定し、敵部隊やそのZOCで妨害されることなく自軍部隊から補給拠点(首都や港湾など)までたどってゆくことのできるヘクスの連続体、'''補給線'''のことを普通は指す。補給拠点までたどることができない部隊は「非補給下」にあると見なされ、移動力や攻撃力や防御力が減少する。非補給下にあるかどうかは普通、プレイヤーターンの開始時に判定する。
兵站を補給線ではなく、実際に補給物資をユニット(補給駒)で表現して、それをスタックした部隊で運ばなければならないシステムもある。この場合、ユニットが運べる補給駒には限界があって、また、戦闘結果によっては敵に補給を掠奪されることもある。
兵站システムは多くのボード・ウォー・シミュレーションゲームで採用されている。
==== 補充 ====
敵の攻撃により部隊内の兵士数や兵器数が減少した場合、補充することができるシステムを持つゲームも多い。補充は移動フェイズ中に行われるものもあれば、戦闘フェイズの後だったり、下記の生産システムと同一に扱われているものもある。
==== 生産 ====
戦略級ウォー・シミュレーションゲームは大抵の場合、生産ルールを備えている。占領下にある拠点から人員、資源などを集め、それに応じて部隊の動員、兵器の生産などを行うものである。移動、戦闘とは別に生産フェイズが設けられているゲームも多い。
==== 外交、内政 ====
戦略級ウォー・シミュレーションゲームの中には、自軍占領地域に内政を施すことで生産力を上げたり、敵軍占領地域に外交を行うことで敵の生産力を下げたりすることができるものがある。特に戦略級コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは、部隊の移動、戦闘よりも、生産、外交、内政のほうがゲームの主眼となっていることも多い。
=== ゲームの終了と勝利条件 ===
コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームでは勝利条件を満たせばプレイ終了となることが多い。ボードゲームでは普通、規定のターン数プレイしたら、そこでプレイは終了となり、定められた勝利条件に従って勝敗を判定する。ある条件を満たしてしまったら規定のターン数に達していなくても終了となる([[サドンデス]]方式)場合もあるし、コンピューターゲームのように勝利するまで続ける場合もある。
概要でも述べた通り、勝利条件はさまざまであり、かつ(特に歴史上の戦いを扱ったボードゲームの場合は)それぞれの陣営について別の条件が定められているのが普通である。これは、歴史上の戦いでは双方が互角の兵力を有することはほとんどなく、大抵は、防御している陣営に対し別の陣営が大軍で攻撃をかけるというシチュエーションになっているからである。そのため、守勢側の陣営はある拠点を守りきれば勝利、攻勢側の陣営はある拠点を占領すれば勝利、などとなっているものが多い。
=== シナリオ ===
一つのゲームパッケージに入っているマップと部隊駒を使い回すことで、同じ地域で行われた複数の戦闘を再現できることもある。例えば、戦国時代の関東・甲信越地方を描いたマップと1560〜70年頃の[[武田氏|武田]]軍部隊駒と[[上杉氏|上杉]]軍部隊駒と[[後北条氏|北条]]軍部隊駒があれば、[[1561年]]の第四回[[川中島の戦い]]を再現することもできるし、[[1569年]]の[[三増峠の戦い]]を再現することもできる。このように、一つのゲームパッケージで複数の状況設定をプレイすることができる場合、個々の状況設定を「シナリオ」と呼ぶ。
戦術級ボードゲームでは、マップは特定の場所を描いたものではなく、典型的な地形が描かれたものであり、また海軍や空軍の戦いを扱った戦術級であれば最初から地形が描かれていないため、それらのマップと登場部隊駒の組み合わせより数多くのシナリオが設定されている。
=== マルチプレイヤーゲーム ===
戦略級のボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、三人以上のプレイヤーがそれぞれ自分の陣営を率いてプレイすることを前提としたものもある。このようなゲームにおいては「ゲームシステム上の外交」ではなく、実際に他のプレイヤーと交渉したり、取引したり、場合によっては傘下に入ったりすることが認められている。
=== ソリティアゲームとソロプレイ ===
ボード・ウォー・シミュレーションゲームの中には、一人プレイ専用のものもある。このようなゲームは、一般的に「[[ソリティア]]」もしくは「ソロプレイ専用ゲーム」と言われる。ソリティアゲームでは、ゲーム上の勢力の一部をプレイヤーが担当し、残りの勢力をゲームのシステムが制御する。具体的には、敵側の行動の番に、プレイヤーがルールにしたがって敵方のユニットを動かしたり、判定のためにダイスを振ったりする。敵側の行動がカードなどによって規定されており、これをランダムに引いて指示に従うという手法もある。多くの場合、敵側の行動についてはルールで全て決められているため、プレイヤーの意志は関与できない。
よく似たものにソロプレイがある。これは、通常二人以上のプレイヤーで対戦するゲームを、一人で全プレイヤーを受け持ってプレイすることである。これはボード・ウォー・シミュレーションゲームのユーザーの間では、作戦研究のためなどに広く行われている。ただしソロプレイは、ゲーム情報の一部を相手に隠匿するタイプのゲーム(手札を使うなど)ではできない。
ソリティアゲームとソロプレイには、上記の違いがあるため、一人プレイ専用ゲームのことを「ソロプレイ専用ゲーム」と称すると誤解される可能性もあり、近年では「ソリティア」の呼称が一般的になりつつある。
=== キャラクター性 ===
[[機動戦士ガンダム]]などのアニメを題材にしたウォー・シミュレーションゲームや、空戦や戦車戦などの戦闘級ゲーム。ナポレオニックや戦国時代を題材にしたウォー・シミュレーションゲームでは、キャラクター(個人や、その個人中心の[[幕僚]]を含む小規模直轄部隊)ユニットが登場し、部隊の指揮官として戦局に大きな影響を与えるシステムを採用しているものが多い。例えば「[[アムロ・レイ|アムロ]]」「[[シャア・アズナブル|シャア]]」、「[[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]]」「[[ミハエル・ヴィットマン|ヴィットマン]]」、「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]」「[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]」、「[[織田信長]]」「[[山本勘助]]」などである。
登場するボードゲームでは普通、キャラクターが駒になっている。戦略級コンピューター・ウォー・シミュレーションゲームにおいては、人材の発掘、敵の武将の調略などもプレイの重要な要素である。古代や戦国時代、ナポレオン戦争頃までの戦いでは指揮官が部隊に与える影響力は大きかったので、こうした処理が行われることが多い。反面、キャラクターユニット自身が敵のターゲットになり、討ち取られる(エリミネートされる)可能性も考慮に入れる必要性もある(討ち取られると士気低下などで、そのユニット麾下の部隊は能力が大幅に低下する)。
ただし、20世紀以降を舞台にするゲームの場合、指揮官個人に対する影響範囲はそれ以前に比較して小さくなるので、作戦級以上で個人がキャラクターユニットになる可能性はほとんどなく、あったとしてもおまけ程度の意味合いが強い(『アフリカンギャンビット』の「[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]]」ユニット。『独ソ戦(ロシアンキャンペーン)』の「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]」ユニットや「[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]」ユニットなど)。
== 陸海空軍の行動速度と時間的縮尺 ==
一般的に、ウォー・シミュレーションゲームは地理的縮尺に応じて戦略級、作戦級、戦術級に分類されるが、実際にはメインとなるのが陸戦なのか、海戦なのか、空戦なのかによって、さらに細分される。陸軍は週単位で、海軍は日単位で、空軍は時間単位で行動するため、別の時間的縮尺の中で扱う必要があるからである。一畳ほどの大きさに日本本土の地図を描き、それを用いて作戦級ウォー・シミュレーションゲームを作ると仮定した場合、行動速度の違いを考えれば、空戦ゲームなら1ターンは1時間程度、海戦ゲームなら6時間程度、陸戦ゲームなら3日程度とならざるを得ない(空戦作戦級で1ターンを数日にしてしまうと、航空基地からの複数回の出撃を一括して解決するなど抽象化する必要が出てくる。また、陸戦作戦級で1ターンを数時間にしてしまうと、地図上に1ヘクス分の戦況の変化が現れるまでに何十ターンもかかるため、退屈なゲームになってしまう)。
陸海空の三軍すべてが登場するゲームの場合、陸戦をメインにして海空軍を抽象化することが多い。すなわち、ある海域/空域に対する複数回の出撃、哨戒活動などをゲーム上では一回の「基地からの出撃&戦闘&帰還」で表現する、といった手法をとる。太平洋戦争戦略級ゲームなどの海空軍が主役であるゲームでも、同様の手法をとるものが多いが、中には1ターン=1週間の陸軍ターンの間に1ターン=半日の海空軍ターンを14回挿入して時間的縮尺の調整を図っているものもある。
== シミュレーション性とプレイアビリティ ==
実際に起きた戦いを扱うウォー・シミュレーションゲームを、特に[[1980年代]]に流行した(一般的な[[流行|ブーム]]とはいかないまでも、一定の隆盛を見せた)ボードゲームタイプのものを中心に俗に「ヒストリカル・ウォー・ゲーム」と呼ぶ。これは、より新しい語である「[[歴史シミュレーションゲーム]]」とは異なるものである(但し、一部メーカーにおいてシリーズ呼称として『歴史シミュレーションゲーム』としていたものは存在する)。
この種のゲームではそのテーマとする戦いを再現するために、その戦いの戦局を決定付けた事象をルール化していたり、ゲームの流れの中で史実と近似した結果が出る様にデザインされていることが多い。例を挙げると[[ミッドウェー海戦]]を扱うゲームでは[[航空母艦|空母]][[艦載機]]の搭載兵器交換に関するルールや空母被弾時に甲板上の待機艦載機や弾薬の誘爆に関するルールがあるとか、[[太平洋戦争]]を扱うゲームなら戦争が長期化すると物量に勝る連合軍が圧倒的に有利になるデザインになっている、などである。こうした再現性を「シミュレーション性」と呼び、ヒストリカル・ウォー・ゲームの評価で特に重視されるポイントである。
ただ、シミュレーション性の高いゲームは、殊にその扱うテーマとなる戦いに有利・不利の関係があった場合、当然ながら往々にしてゲーム上にもその有利・不利の関係が再現される。しかしそれではゲーム性を大きく損なってしまうと考えられる場合、状況的には史実を再現しても別の形で勝敗が判定されるルールになっていたりする(プレイヤーに対して史実であることを敢えて了解させ、ゲーム性の維持に特に何の注意を払わないタイトルも一部には存在する)。例えば太平洋戦争を扱うゲームで、各戦略拠点の占領や敵主力艦船撃沈によって「勝利ポイント」を獲得し、ゲーム終了時に両者の勝利ポイントを比較することによって勝者を決定する、などである。
一方で、シミュレーション性の高いヒストリカル・ウォー・ゲームはルールが難解かつ複雑になりがちで、プレイに手間がかかる・終了までに膨大な時間を要する、などの理由から初心者などには向かず、このため再現性を多少抑えても理解し易いルール、プレイしやすいゲーム性を確保することもある。これを「プレイアビリティ」と呼び、この種のゲームにおいて「シミュレーション性」と相反しながらも双璧を為す評価ポイントと見られる。
ヒストリカル・ウォー・ゲーム開発においては、この「シミュレーション性」と「プレイアビリティ」のバランスをいかに取るかが大きく問われる。1980年代アメリカでこの種のゲームを二分したメーカーはそれぞれ、[[シミュレーションズ・パブリケイションズ|SPI]]社はシミュレーション性重視、[[アバロンヒル]]社(AH)はプレイアビリティ重視、と特色を持っていた。日本においては[[ホビージャパン]]・[[ツクダホビー]]などがシミュレーション性を重視、[[バンダイ]]・[[エポック社]]などがプレイアビリティ重視の傾向にあった。特に[[バンダイ]]の製品、および[[エポック社]]が展開していた玩具性の高いシリーズ製品(紙媒体ではなく金属製マップとマグネット仕掛けの駒を使い、サイコロではなく戦闘判定を電子機器によって行っていた)などは、マップの縮尺に対して軍隊の移動速度や射程を正しく定めるという、シミュレーションの基本原則さえ無視したものがほとんどだった。東京から九州まで魚雷が届いてしまうようなゲームもあった(ただし、ゲームとしての完成度は高いものもあった)。
なお、ツクダホビーが得意としていたものに『[[機動戦士ガンダム]]』などの[[テレビアニメ|アニメ]]作品をシミュレーションゲームとしたシリーズがあったが、劇中に多く描かれる「ガンダムが弾切れとなった銃火器を放棄して敵に近接戦闘を挑む」というシーンが再現できない(近接する前に敵の銃弾を浴びてガンダムが破壊されてしまう)との指摘に対し、同社開発者は「実際の戦闘において銃器を射撃してくる相手に突進して被弾しないということは、いかにニュータイプという概念を盛り込むとしても考えにくい」と回答をしていた。シミュレーション性を重視していた同社ならではのスタンスであった。また、[[伝説巨神イデオン]]のシミュレーションゲームに至っては、最終シナリオでは地球・バッフクラン連合軍側に勝利条件は存在しない。イデオン1機に対して盤面を埋め尽くしたユニットが1回の攻撃で100個単位で損失していく中、たとえイデオンを破壊した(それさえ極めて困難であるが)としても、その時点でイデが発動し全ては因果地平へと飛ばされてしまうため、勝敗は無意味となってゲーム終了である。
== シミュレーションゲーム (ボードゲーム) の出版社一覧 ==
2015年末時点で、日本でウォー・シミュレーションゲームまたはその専門誌を発行する出版社は以下のとおり。海外については[[:en: List of wargame publishers]]参照。
* [[国際通信社 (出版社)|国際通信社]] - 「[[コマンドマガジン日本版]]」「[[ウォーゲーム日本史]]」を発行。一般書店で購入可能。ホビーショップでも入手できる。
* [[六角堂出版]] - 「シックス・アングルズ」を発行。ゲームはホビーショップで購入可能。記事を電子書籍で配信している。
* [[サンセットゲームズ]] - 「プランサンセット」を発行。書店流通なし。
* [[シミュレーションジャーナル]] - 「ゲームジャーナル」を発行。書店流通なし。ホビーショップで購入可能。
* [[Si-phon]] - Si-phonBoardGameシリーズの出版社。書店流通なし。ホビーショップで購入可能。
== 媒体別タイトル一覧 ==
リストの並びは、数字、アルファベット、50音の順。
=== ボードゲーム ===
==== 戦略(級)シミュレーションゲーム ====
<!--数字・アルファベット-->
; 7 years World war (7年世界戦争)…近代戦 植民地獲得戦争 - S&T
: [[七年戦争]]と言えば、[[プロイセン]]の[[フリードリヒ大王]]の欧州での陸戦が著名である。しかし、この戦争は欧州諸国の様々な思惑と連動しており、世界規模での勢力争いの一部分である。本作は、世界地図を舞台に、[[イギリス]]、[[フランス]]、ロシア、スペインなどが争う。英仏の[[新大陸]]での覇権争いが焦点の一つで、イギリスは北米でのフランスの活動を間接的に妨害するために欧州の新興勢力プロイセンを金銭支援したという構図が見えてくる。[[ミランダ]]の作品。
; American Revolution (アメリカ革命、北米の決断))…近代戦 陸戦 - S&T/[[コマンドマガジン]]
: [[アメリカ独立戦争]]を扱った戦略級ゲーム。ウォーゲーム界のカリスマ、ミランダの作品。軍事作戦だけでなく、ランダムイベントや、作戦チットにより政治、経済的要素も網羅している。
; CHINA WAR(中ソ戦争)…架空戦 陸戦 - SPI
: ソ連の中国侵攻を扱った架空戦。
; Civilization([[シヴィライゼーション#ボードゲーム版|文明の曙]])…古代 外交戦 - アバロンヒル
: 地中海沿岸を舞台にした、文明民族の成長を競う、マルチ・プレイヤー・ゲーム。
: プレイヤーはバビロニア、クレタ、エジプトといった古代の文明国家を受け持ち、人口を増やして都市を築いていく。飢饉や洪水等の災害を乗り越えつつ貿易カードを集め、ある意味このゲームの目標である 「文明の進歩」 の証となる文明カードを集める。それによって、新石器時代から青銅器時代、そして鉄器時代へと文明を成長させる。
; Cybernaut(サイバーノート)…架空戦 電脳戦 - GAMEFIX誌
: 当時ムーブメントだった[[サイバーパンク]]を題材にしたボードゲーム。グローバル規模での[[ハッカー]]対管理組織の戦いを描く。世界地図のリアルワールドマップと、そこからアクセスする[[電脳空間]]のサイバーマップを併用する。両者の使うプログラムには、[[ウィルス]]、アイス(プログラム防壁)、[[トロイの木馬 (ソフトウェア)|トロイの木馬]]など、サイバーパンクで有名になったツールがそろっている。デザイナーは、ウォーゲーム界のカリスマ、ミランダ。
; Diplomacy([[ディプロマシー]])…WWI 外交戦 - アバロンヒル
: 第一次世界大戦をモチーフとしたマルチプレイヤーズゲーム。軍事面は極度に抽象化されており、外交交渉が主眼。ウォー・シミュレーションゲームではなく外交シミュレーションゲームに分類されることもある。
; For the People(フォーザピープル)…南北戦争 - アバロンヒル/GMT
: カードドリブンシステムによる南北戦争キャンペーンゲーム。アバロンヒル倒産直前に発売されたためエラータなどのサポートが不十分となった。GMTから新版が出され、さらにGMTの第2版が出されることで完成度が向上し、南北戦争戦略級の代表作の一つに数えられるようになった。
; Freedom in the Galaxy (銀河革命)…遠未来 SF - SPI/アバロンヒル
: 腐敗した大銀河帝国の圧政に対して立ち上がる革命軍の戦いを描いた戦略級ゲーム。映画[[スターウォーズ]]の大ヒットを契機としてデザインされたので、テイストは良く似ている。しかし、正式な版権を取っていないので別世界。その後のスターウォーズシリーズの発展的な展開で、両者のテイストの乖離は広がった。両軍ともに主要人物は個人単位のユニットになっており、任務という形で行動する。さらに、通常のウォーゲームのような部隊戦闘も並行して実施される。[[デススター]]に相当する惑星破壊級のアルマゲドン兵器が3種類も登場する。
; Guerra Amuerte(グエラアムエルテ)…中南米独立戦争 - ATO誌
: [[シモン・ボリバル]]に代表される中南米諸国の独立戦争。エリア式のマップであるが、歩兵、騎兵、砲兵と言った兵科の違いのあるユニットを編成して、対抗する勢力と国土を争う。題材の性質上、スペイン語資料を基盤としており、スペイン語圏デザイナーのハヴィエルロメロの作品である。メキシコ、コロンビア、ペルー、チリなどが、順次独立勢力の圧倒する処になっていく過程が見られる。
; Hannibal ([[ハンニバル]])…古代戦 陸戦 - アバロンヒル/ヴァレーゲームズ
: 第二次ポエニ戦争の全体を扱った戦略級ゲーム。カードを交互に使用してアクションを実施するカードドリブンシステムを世に定着させた作品(最初に世に示したのは、ハーマンの「ウィー・ザ・ピープル」)。デザインは、シモニッチであり、彼の出世作である。高い人気を誇っており、アバロンヒル倒産後に別出版社での再版が実現した。
; History of the World(世界史)…世界史 - ギブソンゲームズ、アバロンヒル
: [[シュメール人]]の文明から[[第二次世界大戦]]期までの全世界史をエリア式のマルチプレイヤーズゲームとして扱った作品。ゲームは7つのエポックに分かれており、各プレイヤーは各エポックに当時活躍した国を一つ担当する。戦闘は[[リスク (ボードゲーム)|リスク]]と類似した簡潔なもの。各地域を制圧するか、歴史的建造物を構築することで勝利点が得られ、累積得点で勝敗を決定する。イギリスのギブソンの秀逸なデザインを、アバロンヒルがライセンスして世界に広く普及させた。
; [[:en:Imperium (board game)|Imperium]](インペリウム)…SF - GDW
: SF宇宙艦隊戦。ジャンプドライブを開発し、恒星間航行で銀河へ進出した地球人類は衰退しつつある銀河帝国と戦端を開く。
: 後にTRPG『[[トラベラー (TRPG)|トラベラー]]』の世界観に組み込まれて、本作の帝国は第1銀河帝国(ヴィラニ帝国)であるとの設定になった。
: 1ターン2年なため、恒星間航行可能なユニットはジャンプルートを進む限り、ジャンプによって距離無制限で進む事が出来る。戦いは敵軍がジャンプに不可欠な燃料補給が可能な星系に存在する事で発生する。地球軍はビーム戦。帝国軍はミサイル戦に長ける特徴があり、それぞれ短/長距離で威力を発揮する。惑星制圧や軌道からの上陸戦もある。一度の戦闘で決着は付かず、戦いは星系を巡る数ターン続く戦役と途中に数十ターンの停戦状態(この間に技術開発。老朽化した艦隊の整備。惑星開発などを行う)を挟んだ長期戦であり、プレイヤーは数百年単位の先を見据えて戦略を練らなければならない。
: 帝国側プレイヤーの立場が地球の存在する辺境領の総督であるのがミソで、強大な力を持ちながら自由に軍を動かす事が出来ないのが(戦力を持つと謀反と疑われるので、通常は重巡以上の建造は禁止。また、開戦するのにも皇帝の許可が必要。総督の勝利条件は自身の勝利ポイントを稼ぐことなので、勝利ポイント稼ぎの対象となる戦争以外の戦は基本的にやれない)、まだ若く、国力も未熟な地球軍との戦力バランスを取っている。総督は戦況とは無関係な帝国中央の政治的動向にも左右されるので、優勢に進めていた戦争を強制的に停戦させられたり、次期皇帝争いに巻き込まれてどちらへ付くか決断を迫られたり(いずれにせよ、艦隊を引き抜かれる)、逆に皇帝の気紛れで中央から強力な援軍を増派されたりするので、タクテクス誌No4では「中間管理職の悲哀をたっぷり味わえる」とのレビューもあった。
: 過去にホビージャパンでライセンスされた日本版では、実際にゲームで使用可能な冗談ユニットとして「[[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|愛で動く戦艦]]」「[[イデオン (架空の兵器)|伝説の巨神]]」「[[可変戦闘機]]」「[[シャア専用ザク|角付きの赤いパワードスーツ]]」などが追加されていた。
; Imperium Romanium 2(インペリウムローマニウム2)…古代戦 - ウェストエンドゲーム
: 古代[[ローマ帝国]]の歴史で戦われた著名な戦いのほとんどを、シナリオでプレイできる大作。扱われている時代範囲が広いため、マップ上の都市が発生したり消滅したりする。このため、シナリオごとにマップに記載されている都市の存否が定義されている。同様に、登場する部隊や戦術の進歩も大きいため、ルールの量も多い。雑誌によっては「プレイするためのゲームというより、ローマ史を勉強するための教材」と評したものもあった。
; KREMLIN(クレムリン)…冷戦時代 -ファタ・モルガーナ/アバロンヒル(英語版)/ニューゲームズオーダー(日本語版)
: 旧[[ソビエト連邦]]体制下における共産党内派閥党争をテーマにした珍しい作品。
: プレイヤーは、自身の影響下にある書記長(党首)を革命記念パレードで3回演説(手を振る)をさせると勝者となる。
: ゲーム開始時に各プレイヤーは[[クレムリン]]の要職に就いている政治局員に影響ポイント(IP)を割り当てて自身の派閥に取り込む。
: 書記長が最も大きな権限を持つのは当然だが、[[粛清]]を行って同志を[[シベリア]]送りにする事のできる[[KGB]]長官、スパイ嫌疑に関わる捜査・裁判を行う事のできる国防長官、書記長死亡時の書記長候補者選出に際して多大な影響力を持つ外務大臣等々、主席(第1レベル)政治局員がゲーム上で重要な位置を占めている。
: 病気やその療養、アクションやトラブルによるストレス・ポイント(本ゲームにおいては老化と同意)の蓄積、粛清の矢面に立たされたり嫌疑を掛けられたりと、様々な困難や陰謀をかいくぐりながら書記長の地位を守らなければならず、他の政治局員は書記長をその椅子から引きずり降ろさなければならない。
: 上級ゲームになると、IPポイントの処理方法や、ゲーム途中でのIPポイントの増減、さらに、いわゆるイベント・カードである 「陰謀カード」(感染症や、密告、暗殺、航空機の撃墜、[[近代オリンピック|オリンピック]]での勝利、[[キューバ危機|キューバのミサイル危機]]など) が導入される。
; [[:en:Machiavelli (board game)|Machiavelli]](マキャベリ)…ルネサンス 外交戦 - バトルライン/アバロンヒル
: [[ルネサンス]]期イタリアを舞台にしたマルチプレイヤーズゲーム。ディプロマシーのバリアントだが、領地収入や財政支出。そして疫病などのランダム要素が付加されている。
; Path of Glory(パスオブグローリー)…WWI - GMT
:{{節スタブ}}
; [[:en:Rise and Decline of the Third Reich|Third Reich]](第三帝国)…WWII - アバロンヒル
: 第二次世界大戦(欧州戦域)をモチーフとした戦略級ゲーム。マップとしては欧州・北アフリカをカバーしている。
; Stellar Conquest(ステラー・コンクエスト)…SF - アバロンヒル
: 我々の住む太陽系にほど近い、銀河系の一部を舞台としている。エイリアンの4大勢力が、銀河系に散在する54ヶ所の太陽系の覇権を巡って争う SFマルチ・プレイヤー・ゲーム(2 - 4人によるプレイが可能で4人がベスト)。元はメタ・ゲーミング社から出版されていたが、AH社が版権を買い取って発売したもの。
: このゲームの特徴を一言で表すならば 「生産発展系秘匿マルチ」 と言うことができる。オープン系(公開型)のSFマルチ・プレイヤー・ゲームと言うと、同AH社 AMOEBA WARS 等が挙げられるが、敵プレイヤーの情勢が分からないまま 独自に開拓・発展を行わなければならず、接敵するまではほとんどソロ・プレイ状態でゲームを進めなければならない。
: 実際に探査してみると実は小艦隊だったり護衛が存在せずに植民地丸儲け的な好機にも頻繁に遭遇するため暗いイメージはない。
: 偵察艇、コルベット艦、移民船、から成る艦隊を恒星のある星系ヘクスへと向かわせて星系ヘクス(太陽系)内で探査を行う。探査に成功すると恒星色と同色のカードを引いて、その星系ヘクス内に居住可能な惑星や鉱物資源に富んだ惑星があるのかどうか、またその惑星の最大収容人口(単位は100万人)はどの程度か、等の情報を得る。居住可能な惑星なら移民を降ろして 植民地 を築き、惑星に居住する人口に応じて人口増加や生産ポイントが得られる様になる。その生産ポイントを使用して様々な科学技術を研究・購入し、より強力な宇宙船である戦闘艇やデス・スター(移動要塞)を建造したり、最初は1ターンに2ヘクスまでしか移動する事ができないスピードを上昇させたり、ミサイル基地や工場、惑星シールド等を建設する事ができる様になる。
: 各居住可能な惑星には最大収容人口が設定されているために、それを越えて増えた人口は自ずと他の惑星への移住を目指し支配エリアが拡大する。こうしてプレイヤーのエリア同士が重なってくると自然発生的に衝突が起こり始めるが、相手となるのが未確認の敵艦隊なので、ここでの戦闘はより一層スリリングなものとなる。
; War At Seaシリーズ…WWII 海戦 - アバロンヒル
:; 英独大西洋の戦い(War At Sea)
:: エリア制の海戦ゲーム。両軍戦力が存在するエリア毎に、どちらかの戦力が無くなるまで戦闘を続ける殲滅戦が基本となる。システム自体は抽象化されて、極めてシンプルながら白熱した戦いとなり、手軽に欧州戦線のキャンペーン・ゲームを行う事ができる。
:; 太平洋の覇者(Victory In The Pacific)
:: 第2次世界大戦の太平洋戦線全般をテーマにし、日本軍による真珠湾攻撃から1944年末のフィリピン沖海戦までをカバーしている。
:: ゲーム・システムは同じアバロンヒル社の War At Sea(英独大西洋の戦い)のシステムを継承したものである。過去、『タクテクス誌』1-2号では両ゲームを連結して空母[[アーガス (空母)|アーガス]]や[[仮装巡洋艦]][[アトランティス (仮装巡洋艦)|アトランティス]]他の追加ユニットと、[[カリブ海]]と[[喜望峰]]のマップを追加し、WWIIにおける全世界規模の海戦を再現する「海洋の覇者」という拡張ルールも発表されている。
:
; War In Europe(第二次欧州大戦)…WWII - SPI
: ※実体は四畳分ほどの巨大なマップ上でプレイされる作戦級だが、部隊生産などの戦略システムもあるため、全体としては戦略級。
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; 元亀争乱 ソリティア信長包囲網…戦国時代 - ウォーゲーム日本史
: 信長上洛以後の戦いを再現した一人プレイ専用ゲーム。プレイヤーは織田信長の立場となり、家臣団を指揮して他勢力と戦う。他勢力の行動はカードイベントによってコントロールされていて、どのタイミングで参戦してくるかによってゲームの展開が大きく変わる。歴史通りに敵が行動するヒストリカルゲームと、仮想展開を体験するオルタナティブプレイが選べて、プレイ時間は2時間と手頃。家臣の成長要素もあるのがこの手のゲームとしては珍しい。
<!--さ行-->
; 関ヶ原…戦国時代 陸戦 - エポック社/サンセットゲームズ
: 天下分け目の関ヶ原を日本全国規模で再現した野心作。この規模になると、戦闘行動だけでなく、事前の調略行動も含んでいる。また、毎ターン、武将ごとに戦意チットを引き、攻撃可能かと行軍範囲を定める方式になっており、ランダム性が高かった。実際の史実でも、同床異夢の諸将の思惑は総司令官が必ずしもコントロールしきれていなかったことを再現している。独創性が高いため、ルール運用解釈の透明性に難があった。
; 戦争と平和…ナポレオニック 陸戦
:{{節スタブ}}
; [[戦国大名 (ゲーム)|戦国大名]]…戦国時代 外交戦 - エポック社/[[サンセットゲームズ]]
: 戦国時代を舞台にした、戦国大名に寄る領地拡大を競う、マルチプレイヤーズゲーム。多数の武将が実名で登場し、カードイベントによる雰囲気作り、全国規模でプレイできる点で定番となった(エポックで一番売れたゲームとの評判あり)。その後、ルールに一部調整を加えたバージョンがサンセットゲームズより販売された。また、スケールを日本中部に絞り、戦国中後期の戦術、経済の変化などをカードで制御して歴史再現性を高めた同題作品がウォーゲーム日本史から発売されたが、ほぼ別作品。
; 戦略/戦術…架空戦 陸/空戦 - バンダイifシリーズ
: 『[[バンダイifシリーズ#シリーズ一覧]]』を参照。
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; 第一次世界大戦…WWI - コマンドマガジン日本版
: 1914年から18年までの4年間を、同盟国と協商国に別れて競う合う2人用ゲームで、動員ポイントによる作戦・生産管理が必要で、長期戦略を要求される。デザインは、同誌編集長だった[[中黒靖]]。
; 大戦略南北戦争…南北戦争 陸戦
: 1861年から1865年までのアメリカ内戦[[南北戦争]]を扱う2人用ゲーム。実際の南北戦争でも大きな問題となった将軍人事の問題がクローズアップされている。SPI社末期にデザインされたが、同社の倒産によりVG社から発売された。日本では、HJ社が翻訳ルールを付属して販売した。デザインはエリック・スミス。
; 第三帝国の興亡…WWII - コマンドマガジン日本版
: 『第二次世界大戦(バンダイ)』の流れをくむ戦略級ゲームで、生産マネジメントの要素がより重要となっている。戦略級ゲームとしてはめずらしく、西アジアとアフリカにも焦点が当てられていて、歴史の可能性と必然を実感できる。1939年シナリオと、ミュンヘン会議から始まる1938年シナリオがプレイ可能。
; 第二次世界大戦…WWII 陸戦 - [[バンダイifシリーズ]]
: 『[[バンダイifシリーズ#2800円タイプ]]』を参照。
; 太平洋艦隊…WWII 陸/海/空戦 - ホビージャパン/サンセットゲームズ
: 1941年から1945年までの太平洋全域を題材にした陸・海・空戦が題材。タイトルから判るが主役は大日本帝国では無く、[[アメリカ太平洋艦隊]]である。
; チトーパルチザンの戦い…WWII 陸戦 - SPI/S&T誌
: [[ユーゴスラビア]]の地下抵抗運動を扱った異色のゲーム。国土をファシストに占領されたユーゴでチトー率いる[[パルチザン]]は[[枢軸軍]]を駆逐し、戦後独立のため支配固めを目指す。マップはエリア制。パルチザン、枢軸軍の他に[[チェトニク]]が登場するのが珍しい。
; [[超人ロック#カードゲーム|超人ロック Locke the superman]]… SF 外交戦 - エポック
: 漫画『[[超人ロック]]』を原作とするボードカードゲーム。個々の戦いは戦闘級だが、プレイヤーは正体を隠して宇宙を渡り歩き、自己の目標を達成して勝利を目指すので戦略眼(と演技)が要求される。
; 東国争乱…戦国時代 - ウォーゲーム日本史
: 農地改革による生産、動員力の変化や、季節感、各大名ごとの戦略戦術の違いを再現した、戦国大名による領地拡大をテーマとしたマルチ・プレイヤー・ゲーム。二人プレイからシナリオが用意されていて、極めてシンプルなルールながら、現在の歴史解釈により近いリアルなシミュレーションとなっている。
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; ヒトラー帝国の興亡…WWII - [[翔企画]]/コマンドマガジン日本版
: 第二次世界大戦・ヨーロッパ戦域の戦いを、枢軸軍、連合軍の二人(または連合軍二人の計三人)でプレイ可能。1ターン半年、ユニット軍〜軍集団、海空軍は抽象的ながら三軍立体作戦を表現しており、ミニゲームながら戦略級に必要な要素を包括している。デザインは、中黒靖。
; ヒトラー電撃戦…WWII - LUDIC/コマンドマガジン日本版
: 第二次世界大戦のヨーロッパ戦域を扱う。枢軸軍、連合軍の二人(または連合軍二人の計三人)でプレイ可能。カードによる生産管理が特長。
; ファクトリー…アニメ/超時空世紀オーガス SF・外交戦 - ツクダホビー
: 混乱時空世界の国家間の貿易・軍事・技術開発などを競い、国家の領域を広げる外交戦。特異点の獲得、またはD計画の完成によって時空修復の主導権を握った陣営の勝利だが、物語の二大勢力であるエマーンとチラムは互いの存在が相容れずに、片方しか勝利出来ないルールになっている。
; 本能寺への道…戦国時代 陸戦 - [[ゲームジャーナル]]
: [[池田康隆]]がデザインした戦国マルチの佳作。一般的にマルチプレイヤーズゲームは、先に動いた者が「世界の敵」呼ばわりされて狙われるため、誰も先に動こうとせず膠着してしまい、最終ターンにバタバタと事が動き出す(最終ターン効果)。本作はそうした問題が発生しないように、[[本能寺の変]]直後を起点として、[[織田信長]]の仇を誰が討つかという先陣争いの勝利得点を設定している。また、プレイヤーは信長配下の有力諸将だが、盤上には反信長勢力も存在しており、何もせずに様子を窺っていても外敵から攻撃されることもある。加えてゲームターン数の設定が短いこともあり、プレイ開始から決着まで常に局面が動き続けるエキサイティングな作品になっている。
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; [[レッドサン ブラッククロス]]シリーズ…架空戦 - [[アドテクノス]]
: 架空の日独戦 後に同名タイトルで小説化。
:; レッドサン ブラッククロス
:: 第二次世界大戦(ただし、アメリカは参戦せず)に勝利した日独が、戦後、インド亜大陸で衝突する模様を陸・海・空戦で再現する。デザインは、[[佐藤大輔]]。
:; リターン・トゥ・ヨーロッパ
:: 「レッドサン・ブラッククロス」の続編。ドイツが制圧した欧州に、欧州大戦時は中立を守った米国が満を持して侵攻する。
:
; 連合艦隊…WWII 陸/海戦 - [[バンダイifシリーズ]]
: 『[[バンダイifシリーズ#シリーズ一覧]]』を参照。
==== 作戦/戦役(級)シミュレーションゲーム ====
<!--数字・アルファベット-->
; 1809…ナポレオニック 陸戦 作戦級 - ビクトリーゲームズ
: ナポレオニックゲームの巨匠、ケヴィン・ザッカーのキャンペーンオブナポレオンシリーズの作品。このシリーズの他の作品としては「ナポレオンアットベイ」が有名。本作は1809年のダニューブ戦役を描いている。シリーズ中唯一、VG社から出版された。
; 1940…WW2 WW2 陸戦 作戦級 - GDW/コマンドマガジン日本版
: ユニット数120個。120分以内にゲームの決着が可能とされるGDWの120シリーズの一つ。ドイツ軍によるフランス侵攻を扱う。大抵のゲームでは進入不可の[[スイス]]に侵入可であり、スイス軍ユニットも用意されている。
; 1941…WW2 WW2 陸戦 作戦/戦役級 - GDW/コマンドマガジン日本版
: 120シリーズの一つ。1941年の独ソ戦を扱う。
; 1942…WW2 WW2 陸戦 作戦級 - GDW/コマンドマガジン日本版
: 120シリーズの一つ。日本軍による東南アジア侵攻を扱う。
; Across 5 Aprils…南北戦争 作戦級
: 南北戦争の5つの会戦を同じシステムでプレイできる作品。両軍の部隊移動、攻撃などのチットをカップに入れておき、1枚ずつランダムに引いて指定された行動を実施していく。固定された位置に攻撃フェイズがなく、いつ攻撃が発生するか判らないことが大きな特徴。「大戦略南北戦争」をデザインしたエリック・スミスの作品。
; [[:en:Afrika Korps (game)|Afrika Korps]](ドイツアフリカ軍団)…WWII 陸戦 戦役級 - アバロンヒル(1964, 1965, 1977)
: アバロンヒルクラシックシリーズの一つ。北アフリカの戦いを扱う。改良され、第三版まで発表されている。
; Alesia…古代戦 陸戦 作戦級 - AH
: 古代ローマ帝国のガリア戦記最大の戦い、[[アレシア]]の二重包囲戦を描く。
; Alexander the Great…古代戦 陸戦 作戦級 - AH
: [[アレクサンダー大王]]の[[ガウガメラの戦い]]を描く。デザイナーは著名なRPG「[[ダンジョンズアンドドラゴンズ]]」のデザイナーでもあるゲイリー・ガイジャックスである。
; Art of Siege(アートオブシエージ)…古代から近代戦 包囲戦 - SPI
: さまざまな時代の包囲戦のゲームを4つまとめた作品。デザイナーもシステムも共通性はないので、いわゆるクワドリゲームではない。築濠から要塞への突撃を描いた[[セバストポリ]]([[クリミア戦争]])が中でも評判が高い。
; Atlantic Wall(大西洋の壁)…WWII 陸戦 戦役級 - SPI,1978
: 1944年の連合軍による欧州大陸反攻を扱う。
; Battle for Italy…ナポレオニック 作戦級
:{{節スタブ}}
; Beriin'85(鉄のカーテン))…架空戦 陸戦 - SPI
: ベルリン包囲戦。[[1985年]]、ベルリンへ侵攻を開始したソ連・東独連合軍にNATOが立ち向かう。
; Druid …古代戦 陸戦 - ウェストエンドゲームズ
: [[ブーディカ]]の反乱を扱う古代作戦級ゲーム。デザインは、リチャード・バーグ。毎ターン、両軍は自軍の行動できる規模を決めるアクションポイントチットを引く。この多寡によって出来ることの規模が大きく変わってしまうため、かなり運の要素が強いのが難点だった。特に、ブーディカ側には「0」ポイントのチットがあり、まったく何もできないことがある。ATO誌でリメイクの「ブーディカ」が発表されたが、この点は改良された。
; the Burning Blue…WWII 空戦 - GMT
: 同じシステムの「[[ダウンタウン]]」を、[[バトルオブブリテン]]に応用した空戦作戦級ゲーム。ドイツ側は空襲計画をプロット用紙にプロットし、それを秘密マーカーで盤上に展開する。それを見て英軍側は迎撃部隊を出撃させる。対空砲火や爆撃も扱われる。本命の爆撃隊の他に、迎撃機を狩るためのハンティング空襲も混在している。その意図を迎撃側はどのように推理して対処するかが焦点になる。
; Chennault's First Fight (シェンノート最初の戦い)…WW2 空陸戦 作戦級 - ATO誌
: 日本軍の[[ラングーン]]侵攻を描く作戦級ゲーム。大枠は陸戦作戦級であるが、爆撃任務や、それに対する迎撃任務が発生すると、個別の空戦戦術マップで解決する。このため、テイスト的には空戦ゲームである。英軍のラングーンレーダーに対する爆撃が焦点になる。デザイナーは、ロールボー。デザイナーはこのシステムを気に入っているらしく、ニューギニア方面の海空戦に利用した作品(オペレーションカートホイール、将棋、打ち捨てられた希望)も後に発表している。
; Carrier…WWII 作戦級 空母戦 - ビクトリーゲームズ
: 南太平洋の空母戦を題材としたソロプレイゲーム。ソロプレイゲームとしては、かなり詳細な内容を持っており、一人で学習してプレイするには敷居が高い印象があった。デザイナーはサウザード。同じようなパッケージングで、水上戦を中心とした「トーキョーエクスプレス」も同じデザイナー、同じ出版社で発売された。
; Crete(クレタ降下作戦)…WWII 陸戦 - SPI,(S&T #18, 1969)
: ドイツ軍のクレタ島降下作戦を扱った作戦級ゲーム。他に、
; [[:en:Air Assault on Crete|Air assault on Crete]](クレタ島降下作戦))…WWII 陸戦 - アバロンヒル(1978)
: クレタ島を舞台に独空挺部隊が侵攻する。史実では幻に終わったマルタ島降下作戦を扱うゲームが同梱されていた。さらに同社のサポート誌、Generalにキプロス島を扱った拡張が掲載された。
; [[:en:D-Day (game)|D-DAY]]…WWII - アバロンヒル,(1961, 1965, 1971, 1977, 1991)
: アバロンヒルクラシックシリーズの一つ。[[ノルマンディー上陸作戦]]のゲーム化。同タイトルだが、改良され第五版まで発売されている。
; Devil's Den…南北戦争 作戦級
:{{節スタブ}}
; Europa(ヨーロッパ)シリーズ…WWII 陸戦 作戦級 - GDW
: ※連作の作戦級をすべて繋いで全ヨーロッパを扱う超巨大な戦略級にするという野心作。シリーズが完成する前に出版元が存続できなくなり、出版元が移り変わっている。
:; ナルビク強襲(Narvik)WWII 作戦級 陸/空戦
:: ノルウェー侵攻作戦。Europaシリーズ日本語ライセンスの第一作として選ばれた。
:; 英国本土上陸作戦(Their Finest Hour)
:: 架空戦。ゼーレーヴェ作戦を扱う。
:; フランス崩壊(Fall Of France)
:: フランス電撃戦。
:; バルバロッサ作戦(Fire In The East)
:: バルバロッサ作戦を扱う。「Drang naha Osten」のタイトルでシリーズ第1作であったが、ありがちなことだがシリーズ継続に伴う仕様変更に合わせて別題で新版として再登場した作品である。日本語版では拡張キットである「ウラル」もセットで出版された。
:; 北アフリカ中東戦域
:: チュニジアやエジプトもマップに納められている。
:; ポーランド電撃戦 (Case White)
:: 1939年戦役。
:
; FORTRESS(激戦ア・バオア・クー)…アニメ ガンダム 宇宙戦 作戦級 - ツクダホビー
: アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』の宇宙艦隊戦。艦船は1ユニット1隻。[[モビルスーツ|MS]]・戦闘機は1ユニット小隊単位。[[RX-78-2|ガンダム]]や[[モビルアーマー|MA]]のようなエース機は1ユニット1機。
: [[ソロモン (ガンダムシリーズ)|ソロモン]]や[[ア・バオア・クー]]のような[[宇宙要塞]]攻略戦が主なテーマで、戦術・戦闘級中心のガンダムゲームには珍しく、[[艦隊]]単位の大部隊を指揮できる作戦級である。
; France,1940(激突マジノ線)…WWII 陸戦 - アバロンヒル
: [[1940年]]のフランス戦役を扱う。
; FLAT TOP(日米航空母艦の戦い)…WWII 海/空戦 - バトルライン/アバロンヒル
: 太平洋戦争の空母戦を扱う。
; [[:en:Gettysburg (game)|Gettysburg]](米国南北戦争)…南北戦争 陸戦 - アバロンヒル
: アバロンヒルクラシックシリーズの一つ。[[ゲティスバーグの戦い]]を扱う。一時、ゲティスバーグ歴史博物館の売店向け専用パッケージがあった。
; Hundred Days Battles…ナポレオニック 作戦級
:{{節スタブ}}
; La Patrie en Danger 1814 (祖国の危機)…ナポレオニック 作戦級
: 「ナポレオンズラストバトルズ」に代表される「ライブラリーオブナポレオン」シリーズの一作品。デザイナーはケヴィン・ザッカー。本作は1814年のフランス国内戦役三部作の第1作とされ、[[シャンポーベル]]、[[モンミライユ]]、[[ヴォーシャン]]と続く、いわゆる6日間の戦いを再現できる。この戦いは、[[ナポレオン]]の生涯最高傑作とも言われる華麗な機動防御戦である。
; the Legend Begins(レジェンドビギンズ)…WWII 陸戦 - ライノゲーム、テランゲームズ/国際通信社
: 伝説的名将[[ロンメル]]の北アフリカ戦を扱ったビッグゲーム。デザイナーはシモニッチ。彼自身のメーカーであるライノゲームから出版され、ウォーゲーム専門誌の直売広告で購入できた。購入者の口コミで評判が広がり、出版社を移りながら版を重ねた。日本では、国際通信社がライセンス版を出版した。<!-- [[北アフリカ戦]]は人気のあるテーマだが、その中でも評価の高い作品。-->
; Mare Nostrum…WW2 作戦級 陸海戦 - S&T誌
: ラテン語で「我らが海」の意味。ローマ帝国が地中海を呼んだ呼称である。それをWW2に照らして、主としてイタリア海軍を軸とした地中海での全作戦行動を描くビッグゲームである。陸戦も含まれているが、戦場の特性上、海戦や空戦の比重が大きい。爆撃の効果が強すぎるため、ドイツ空軍がカイロやアレクサンドリアを爆撃で制圧してしまう問題点がある。<!-- しかし、この題材のゲームとしては、現時点でのベターチョイス。!-->
; NATO…現代戦 作戦級 陸戦 - ビクトリーゲームズ
: NATOとワルシャワ条約機構の第三次欧州大戦を扱う作品。同テーマの作品の中ではプレイしやすかったが、マップのスケールが大きすぎるため現代戦ならではの戦術を感じさせる部分が弱かった。
; NAPOLEON AT BAY… ナポレオニック 作戦級 - アバロンヒル
: ケヴィン・ザッカーのキャンペーンオブナポレオンシリーズの作品。1814年の国内戦役を描いており、同盟軍に本土に侵入された窮地のナポレオンの華麗な機動を扱う。最大手のAH社から出版されたので広く知られており、同社の倒産後はOSG社から再版されている。シリーズ中でも普及度が高いので代表的な存在である。このシリーズの他の作品として、AH社からは[[1813年]]のライプツィヒキャンペーンを扱った「[[ストラグルオブネイションズ]]」も発売されていた。
; [[:en:Panzergruppe Guderian (game)|Panzer Gruppe Guderian]](パンツァーグルッペ グーデリアン)…WWII 陸戦 - SPI
: 独ソ戦。[[バルバロッサ作戦]]のピーク時期の[[スモレンスク]]方面の戦い。戦闘結果を、損害と退却の選択方式にし、退却した分や未引き当ての損害分を戦闘後前進できるようにした流動型の戦闘システムを最初に開発した作品である。このシステムは、本作名から「PGGシステム」と呼ばれ作戦級ウォーゲームのスタンダードの一つとして多くのゲームに採用された。
; Road to Gettysburg…南北戦争 作戦級 - アバロンヒル
: AH社が開発したGCACW(Great Campaign of American Civil War)シリーズの第3作。このシリーズは、[[南北戦争]]では空白領域だった作戦級規模の機動に焦点を当てている。このため、ゲティスバーグ戦役全体を扱う本作品では、そもそもゲティスバーグのような大会戦を望むのか、望むとしても場所はゲティスバーグなのかの駆け引きが作戦の主眼となる。このため、必ずしもゲティスバーグで大会戦が発生しない。
; Sideshow(サイドショウ)…作戦級 陸戦 - S&T誌
: 第一次世界大戦時に、イギリス軍に包囲されたドイツ領[[タンザニア]]を舞台にしたゲーム。[[パウル・フォン・レットウ=フォルベック]]の指揮する少数精鋭のドイツ/アスカリ混合部隊が終戦まで抵抗し続ける奮闘を再現する。デザイナーは、リチャード・バーグ。雑誌の版元変更時期に発表されたため、エラータが不十分だが、特異で興味深い題材を面白くゲーム化している。
; [[:en:Tactics (game)|Tactics]]([[タクテクス (ゲーム)|タクテクス]])…架空戦 - アバロンヒル
: アバロンヒルクラシックシリーズ(品番500番台の古典)第一弾。世界初の商業ウォーシミュレーションゲーム。のちに改良版の「タクテクスII」も発売された。[[アオイホノオ]]第11巻第62章では、最先端の知的なオトナのゲームとして紹介される。ルール説明で30分、プレイに最低3時間、ちゃんとやったら5・6時間かかると解説されている。なお、ドラマ版ではこのシーンはカット。
; The Battle Of Bulge(バルジ大作戦)…WWII 陸戦 - アバロンヒル,(1964, 1981, 1991)
: アバロンヒルクラシックシリーズの一つ。ドイツ最後の反攻、アルデンヌの戦いを扱う。
; The Korean War…作戦級 陸戦 - ビクトリーゲームズ
: WW2作戦級陸戦ゲームの重鎮、バルコスキーが朝鮮戦争前半を扱った作品。北朝鮮の奇襲、米軍の大反撃、中共軍介入と大きくモーメンタムが揺れ動いた再現の難しい戦争を、アクションポイント配分システムを導入して再現した佳作。VG社から発売され評価が高い事もあり、後に再販もされた。
; [[:en:The Longest Day (game)|The Longest Day]](史上最大の作戦))…WWII 陸戦 - アバロンヒル,(1980)
: ノルマンディー上陸作戦を題材としたモンスターゲーム。フルマップ7枚、ユニット数1,600を誇り、セットアップだけでも半日以上掛かると言われた。また、ユニットの記号がNATO式ではなくドイツ式であったことも珍しい。全体はモンスターだが、規模の小さいシナリオも用意されていた。
; [[:en:The Russian Campaign|The Russian Campaign]](独ソ戦)…WWII 陸戦 戦役級 - ジェドコゲームズ/アバロンヒル,(1974, 1976)
: ジェドコゲームズがデザインし、AHがライセンスして発売。日本にはAH版がHJの和訳付き販売で登場した。独ソ戦の全体を、ダブルインパルスシステムで描くゲームで、独ソ戦全体をプレイアブルにまとめた傑作。このため、メーカー、ルールを変えながら新版が登場して、初版から40年を越えた今も現役という息の長い作品。
; Luftwaffe(ナチドイツ空軍)…WWII 空戦 - アバロンヒル,(1971)
: ドイツ本土上空の防空戦がテーマ。
; Midway(ミッドウエイ海戦)…WWII 空/海戦 - アバロンヒル
: 空母作戦級。
; Waterloo(ワーテルロー)…ナポレオニツク - アバロンヒル
: ナポレオン最後の大勝負、[[ワーテルロー]]の戦いを扱う。
<!--あ行-->
; 会津戊辰戦争…幕末 - ウォーゲーム日本史
: 大河ドラマ「[[八重の桜]]」の放送時期に合わせて付録ゲーム化された会津戦争のミニゲーム。小さいながらもカードドリブンの入門編としての内容を備えており、二本松藩の動向など軍事作戦以外の要素も網羅している。白河関、会津城などの重要拠点の防御力は高く、官軍は勝つための戦略的プランを持って挑まなければ史実のように勝利できないこともあり得る。
; アイラウの戦い(THE BATTLE OF EYLAU February7-8,1807)…ナポレオニック 陸戦 作戦/戦術級 - ホビージャパン
: 1807年に起きたアイラウ村における仏露の会戦を扱う。[[タクテクス]]誌第10号付録。マップとユニットは自作の必要がある。
; アフリカンギャンビット…WWII 陸戦 作戦/戦役級 - アドテクノス
: シナリオは作戦級だが、キャンペーンゲームも可能。その際はイタリア軍の一次攻勢からロンメルの登場。エルアラメイン(までアフリカ軍団が到達できれば、だが)を経て、チュニジアでの終焉までを扱う。北アフリカの作戦級ゲームの多くは、ロンメル到着からエルアラメインまでしか描かないので、本当の北アフリカ全体像が見える貴重な作品の一つ。[[高梨俊一]]デザイン。
: 補給が重要なファクターを占め、移動/戦闘。果ては盤上で存在するためにも(抽象化された補給線ではなく、トラック部隊でわざわざ輸送する必要がある)補給駒が必要になる。北アフリカ戦では例外的に1ユニット師団単位なのはこのためである。1ヘクスは100Km。
; アルンヘム強襲([[:en:Storm Over Arnhem|STORM OVER ARNHEM]])…WWII 作戦/戦術級 陸戦 - アバロンヒル
: [[マーケット・ガーデン作戦]]がテーマ。橋奪取を目指して空挺降下し、アルンヘム市中に立て籠もる英軍フロスト大隊と、市を包囲する独第9SS装甲師団との市街戦をエリアマップで再現している。
; アンツィオ上陸作戦(ANZIO)…WWII 作戦級 陸戦 - アバロンヒル
:{{節スタブ}}
; エスコート・フリート…海戦 作戦/戦役級 -アドテクノス
: レッドサン ブラッククロスシリーズの一つ。インド洋の海上護衛戦に主眼を置いた海戦ゲーム。
; 応仁記 - ウォーゲーム日本史
:{{節スタブ}}
; オペレーション・グレネード(Operation Grenade)…WWII 陸戦 - SPI/ホビージャパン
: グレネード作戦。
<!--か行-->
; 河越合戦…戦国時代 - コマンドマガジン日本版
:{{節スタブ}}
; 黒木軍の初陣…日露戦争 作戦級 陸戦 - 大日本絵画
: 日露戦争の鴨緑江会戦を題材。[[ゲームグラフィックス]]誌7号付録。
; 激闘スターリングラード(Battle for Stalingrad)…WW2 陸戦 - SPI/ホビージャパン
: エキサイティングな戦術色を持つゲームをデザインさせると右に出る者のなかった[[ジョン・ヒル]]の代表作。[[スターリングラード]]の市街戦を描いているが、互いのモーメンタムが移動するタイミングをチットでランダムに決める独創的なシステムを採用している。1ターンの間にも両軍の攻防が行き来するようになっており、独特の戦術的フレーバーがあった。このため、人気が高く、日本でHJ社がライセンス版を出した。
; 源平合戦 寿永の乱…源平 陸戦 - ウォーゲーム日本史
:{{節スタブ}}
; 謙信上洛-戦国時代 - ツクダホビー
:{{節スタブ}}
; 航空母艦(※空対艦戦闘は戦術級)…WWII 海/空戦 - ツクダホビー
:{{節スタブ}}
; コブラ作戦…WWII 陸戦 - コマンドマガジン日本版
:{{節スタブ}}
<!--さ行-->
; 砂漠の狐…WWII 陸戦 - エポック社
: トブルクを巡る戦い、クルセーダー作戦を扱う。ダミーカウンターを使用する。
; 史上最大の作戦…WWII 陸戦 - エポック社/サンセットゲームズ
: ノルマンディー上陸作戦がテーマ。アメリカ軍とイギリス軍の担当戦区が分かれており、連合軍は補給の分配や戦区境界線(手薄になりやすい)防衛に注意を払う必要がある。
; シシリー上陸作戦(Sicily)…WWII 陸戦 - SPI/ホビージャパン
:{{節スタブ}}
; 常徳殲滅作戦…WWII 陸戦 - SPI/DG/コマンドマガジン日本版
:{{節スタブ}}
; 上陸作戦…架空戦 陸戦 - ツクダホビー
: 連合軍が守るシンガポール島をモデルとした小島へ、日本軍が上陸する入門向けの架空戦。1ユニット大隊規模。スタックはない。アニメ・SFの戦術/戦闘級オンリーであったツクダホビーが、最初に兵科ユニット駒を出した作戦級である。
; スターリングラード…WWII 陸戦 - エポック社/コマンドマガジン日本版(ワールド・ウォー・シリーズ)
:{{節スタブ}}
; 赤軍大反攻 (White Death)…WWII 陸戦 - アバロンヒル
:{{節スタブ}}
; 戦国群雄伝シリーズ…戦国時代 - ツクダホビー
一連の戦国作戦級をすべて繋ぐことで、関ヶ原の戦いを全国規模で扱う巨大作戦級にする。(戦国の一番長い日)
:; 信玄上洛…戦国時代
::{{節スタブ}}
:; 関東制圧…戦国時代
::{{節スタブ}}
:; 独眼竜政宗…戦国時代
::{{節スタブ}}
:; 西国の雄…戦国時代
::{{節スタブ}}
:; 九州三国志…戦国時代
::{{節スタブ}}
:; 秀吉軍記…戦国時代
::{{節スタブ}}
:
<!--た行-->
; 第三次世界大戦…架空戦 陸戦 戦役級 - [[バンダイifシリーズ]]
: 『[[バンダイifシリーズ#2800円タイプ]]』を参照。
; タイフーン作戦…WWII 作戦級 陸戦 - SPI
:フルマップ3枚を使用する所謂ビッグゲーム。第二次世界大戦の東部戦線のクライマックスの一つ、モスクワ侵攻作戦を扱う。ビッグゲームの中ではプレイしやすいもので、4人ないし5人でプレイすれば1日で帰趨が見える処までプレイ可能であった。
; 地中海キャンペーン…WWII 作戦/戦役級 陸海空戦 - ホビージャパン
: ホビージャパンが海外デザイナーに依頼したオリジナルゲームの一作品。デザイナーはマーチン・アンダーソン。地中海という切り取りでWW2の作戦を描く興味深い企画だった。しかし、プレイすると艦隊稼働率の制限がないために開戦直後に両軍が壊滅的に疲弊してしまう問題が発生し、あまりプレイされているのを見掛けなかった。ただ、企画のユニークさから、今でも時折話題になる。同じ視点のビッグゲーム、マーレ・ノストラムが登場したことで役目を終えた。
; 朝鮮戦争…朝鮮戦争 陸戦 - エポック社/サンセットゲームズ
: [[1950年]]の[[朝鮮戦争]]初期(北朝鮮による侵攻から国連軍による仁川上陸作戦まで)を扱う。北朝鮮軍の[[T-34]]戦車連隊だけが機械化移動を行うことができ、初期の国連軍の戦線崩壊が見事に再現できる。ゲーム後半は、補給不足の北朝鮮軍と、上陸作戦の機会をうかがう国連軍との駆け引きが展開される。北朝鮮軍には「マンセー突撃」ルールがあり、終盤、これを発動して損害を顧みずに国連軍の戦線(史実通りなら釜山橋頭堡戦線)を突破して一発勝利を狙うかどうかの選択を迫られる。このゲームに関し、[[大韓民国|韓国]]のある団体(詳細不明)がエポック社に「戦争を遊戯化している」と抗議する事件が起こった。エポック社はこれに対し「『朝鮮戦争』はすでに生産していないし、これからも生産しない」と回答して決着した。なお、同種のゲームはアメリカの会社からも出版されていたが、この団体がその会社に抗議したかどうかは不明。
; ドイツ戦車軍団 …WWII - エポック社/コマンドマガジン日本版(ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス)
: 入門編としてデザインされた。易しい順に「エルアラメイン」「ダンケルク」「ハリコフ」の3ゲームがセットされている。
:; エルアラメイン
:: 北アフリカのターニングポイント、エルアラメインを扱う。全4ターンで戦闘の基礎を教える。
:; ダンケルク
:: ダンケルク撤退戦のみならず、西部戦線の崩壊がテーマ。機動力のあるドイツ軍に対して、連合軍が防御のために戦線の張り方を学習させる事がテーマ。
:; ハリコフ
:: マンシュタインの奇跡、ハリコフ攻防戦。スタックの概念が導入され、攻防がドラマチックに逆転する本格的な機動戦を体験させる物となっている。
:
; ドイツ装甲軍団(「スモレンスク攻防戦」「マーケットガーデン作戦」)…WWII 陸戦 - コマンドマガジン日本版
:{{節スタブ}}
; 東部戦線 冬期戦41-42…WWII 陸戦 作戦/戦役級 - アドテクノス
: 独ソ戦を開戦からモスクワ前面の戦いまでを扱う。巻末のデザイナーズノートによると「アフリカンギャンビットと同じ土俵(1ユニット師団単位)で、これと全く逆なゲームを作りたかった」との意図で制作されており、戦闘ユニットよりも補給駒が大半を占めるアフリカンギャンビットとは逆に、駒の実に95%が戦闘ユニットという極端な構成になっている。1ヘクス28km。
; 独ソ電撃戦…WWII 陸戦 - エポック社/コマンドマガジン日本版
: 独ソ戦序盤を扱う。ソ連軍軍ユニットが未確認ユニット(裏返すまで本当の戦力が不明。0戦力もある)なので不確定要素が多い。
; 突撃レニングラード…WWII 陸戦 - WWW/ホビージャパン/シックスアングルズ
: [[レニングラード]]攻防戦を扱う。ドイツ軍は3ヘクスあるレニングラード市内へ突入すると、ユニットは市内マップへ移されて市街戦になる珍しいルールが採用されている。
; 電撃作戦(Britzkrieg)…架空戦 作戦級 - アバロンヒル
: それぞれWWIIの枢軸軍と連合軍を模した架空の軍隊、レッド軍とブルー軍との戦い。
<!--な行-->
; 日露戦争…日露戦争 陸戦 戦役級 - エポック社/コマンドマガジン日本版(ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス)
: 日露戦争の陸戦を扱う。[[鴨緑江]]作戦から始まり、[[旅順]]他、複数に戦線が出来るので両軍共に戦力の割り振りが鍵となる。
; 日本機動部隊…WWII 空/海戦 - エポック社/コマンドマガジン日本版(ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス)
: 空母戦。開戦から[[1943年]]頃までを扱う。
; 日本の進撃…WWII 陸戦 - ホビージャパン
: 太平洋戦争前半のマレー・シンガポール戦のゲームとビルマ侵攻戦のゲームをセットにしたもの。
; 信長軍記…戦国時代 - [[ウォーゲーム日本史]]
:{{節スタブ}}
; ノモンハン1939…WWII 陸戦 - コマンドマガジン日本版
:{{節スタブ}}
; ノルウェイ1940…WWII 海戦 - WWW/ホビージャパン
: 1940年のノルウェイ侵攻作戦を扱う。面白いのはGDWのEuropaシリーズ「ナルビク強襲」との連動ルールがあり、両ゲームを使うと陸海全てを使うノルウェイ侵攻ゲームになる。
;<!--は行-->
; 白ロシア大作戦(Red Army)…WWII 陸戦 - ホビージャパン
: [[バグラチオン作戦]]をテーマとしたフルマップ2枚のゲーム。マップは広いが展開するユニット数が少なく、また1ターンの移動距離が短い。このため、目先の移動戦闘に集中していると、長期展望を持った部隊機動を見失いやすい。
; 箱館戦争…幕末 - ウォーゲーム日本史
: ドナルド・ブースのデザイン。函館戦争は、[[五稜郭]]での[[土方歳三]]の最後の突撃が人気があり、いくつかのゲームが出ているが戦力差が大きいので競技ゲームとしては成功しにくい。本作は、変形のカードドリブンシステムを利用し、五稜郭から遠い地点に上陸する新政府軍が複数の進撃路にどうリソースを配分するかの駆け引きに焦点を当てて興味深くプレイできる。
; 長篠・設楽原合戦…戦国時代 - ウォーゲーム日本史
:{{節スタブ}}
; パットン第3軍(猛将パットン)(Patton's 3rd Army)…WWII 陸戦 - SPI/ホビージャパン/コマンドマガジン日本版
: 米第3軍によるメッツ攻防戦を扱う。
; バルジ大作戦…WWII 陸戦 - エポック社/コマンドマガジン日本版
: ヒトラー最後の賭け、バルジ大作戦がテーマ。[[オットー・スコルツェニー|スコルツェニー]]のコマンド部隊がルール化されている(コマンドを投入せず、代わりに第150装甲旅団としての参加も可能)。
; ブダペスト救出作戦(Bitter end)…WWII 陸戦 - ホビージャパン
: ウォーゲームブームの時期に、それまで海外作品の輸入販売をしていたホビージャパン社がオリジナル作品に挑戦した初期作品の一つ。邦題よりも「ビターエンド」の副題で呼ばれることが多い。第二次世界大戦の東部戦線のブダペスト救出作戦を描いている。世評の高いPGGシステムの進化形を採用している。海外デザイナーのリック・スペンスを起用しており、後にデザイナーがアメリカの別会社にてコンポーネント規模を拡大した新作を発売した。
; ブラウ作戦(Fall Blau)…WWII 陸戦 - コンパスゲームズ
: [[2016年]]に出版されたWW2[[東部戦線]]の山場、[[ブラウ作戦]]を扱うビッグゲーム。スターリングラードからコーカサス方面までを舞台にしており、全マップを連結するとカフカス油田の遠さに嘆息させられる。しかし、プレイアビリティは高く、二日間あれば全体を概観することができるようになっている。ディティールの再現と全体のプレイしやすさのバランスが取れた良い作品である。
; フリートシリーズ…現代戦/架空戦 作戦級 海戦 - ビクトリーゲームズ
: 冷戦期、1980年代を舞台にして米ソ激突をシミュレートする現代海戦ゲーム。シリーズ全てを統合して世界的規模の海戦ゲームになる予定であった。
:; 第6艦隊(6th Fleet)
::VG社が開発した現代海戦フリートシリーズの第1作。地中海に展開するアメリカ第6艦隊を中心に、主として冷戦末期のソビエト陣営との戦いに焦点を当てている。ジョセフ・バルコスキのデザイン。
:; 第2艦隊(2nd Fleet)
:: フリートシリーズの第2作。北大西洋に展開するアメリカ第2艦隊を中心に、主として冷戦末期のソビエト陣営との戦いに焦点を当てている。
:; 第7艦隊(7th Fleet)
:: フリートシリーズの第3作。太平洋に展開するアメリカ第7艦隊を中心に、主として冷戦末期のソビエト陣営との戦いに焦点を当てている。太平洋が舞台であるため、日本周辺がマップにあり、日本の自衛隊兵力も登場する。このため、日本では高い人気があった。
:
; ベーシック3 - ホビージャパン(SPI)
: 入門編として、SPI社製のクワドリ(小型)ゲーム「スエズを渡れ」「レニングラード」「バルジ大作戦」の三作セットにしたもの。
:; スエズを渡れ
:: 第三次中東戦争がテーマ。
:; レニングラード
:: レニングラード攻防戦。ソ連軍は駒を裏返した未確認ユニットになっており、戦闘が起きないと敵味方共に本当の戦力が判らない。
:; バルジ大作戦
:: アルデンヌの戦い。
:
; 北海道共和国シリーズ - [[アドテクノス]]
:; 北海道共和国…幕末 架空戦 陸/海戦 戦役級
:: 榎本武揚率いる旧幕軍は北海道に新たな共和国政府の建国を宣言したが、[[官軍]]はこれを認めず、両者は蝦夷地にて激突する。ユニットは[[土方歳三]]ら新撰組の残党などの史実部隊の他、史実では戦争前に嵐で喪失してしまった軍艦[[開陽丸]]。[[ジュール・ブリュネ|ブリュネ大尉]]率いる[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]。騎兵隊を指揮して「赤鬼」と恐れられた[[ジョージ・アームストロング・カスター|カスター将軍]]率いるアメリカ義勇軍等の架空ユニットが加わっている。
:; ニイタカヤマノボレ…架空戦 海戦
:: 1941年。日本艦隊の根拠地、'''ハワイ王国真珠湾'''は突如、米軍の空襲にさらされる。ここに太平洋戦争の幕は切って落とされた。
:: 1ユニット1隻単位のオーソドックスな海戦ゲームだが、蝦夷で敗れ共和国を失った榎本らはハワイへ移住し、ハワイ王族と日本皇族との姻戚を結ぶ工作を推し進め、ハワイ王国はアメリカの併合を免れる、北海道共和国の後日談的歴史が舞台。
:
<!--ま行-->
; マーケットガーデン作戦…WWII 陸戦 - GDW
:{{節スタブ}}
<!--や行-->
; ユキムラズ・ラスト・バトル 大坂夏の陣…戦国時代 - ウォーゲーム日本史
:{{節スタブ}}
<!--ら行-->
; ラインへの道(Road To Rhine)…WWII 陸戦
:{{節スタブ}}
; ラストギャンブル…WWII 陸戦
:{{節スタブ}}
==== 戦術/戦闘(級)シミュレーションゲーム ====
<!--数字・アルファベット-->
; Air Force-Planet to Plane Combat in Europe-1939-1945- エアフォース(シリーズ)…WWII 空戦 戦闘級 - アバロンヒル
: 1機1ユニットのプロット制戦闘級空戦ゲーム。データカードを使う。
:; エアフォース
:: 基本セット。欧州戦線が舞台で、登場機種は独、米英軍中心。
:; ドーントレス
:: 追加モジュール。太平洋戦線を扱う。日本軍とアメリカ海軍機中心。反跳爆撃や雷撃による対艦攻撃ルールが追加された。
:; エクスパンションキット
:: 追加モジュール。日独英米のマイナー機種他、フランス軍、ソ連軍、イタリア軍の機体を扱う。
:
; Ambush!!(アンブッシュ)シリーズ…WWII 陸戦 戦闘級 - ビクトリーゲームズ・ホビージャパン
:; アンブッシュ!!
:: 第二次大戦における米軍1個分隊の戦いを描くソリティアゲーム。
:; Moveout ムーブアウト
:: アンブッシュモジュール。追加シナリオ集。
:; パープルハート
:: アンブッシュモジュール。追加シナリオ集。
:; バトルヒム
:: 追加モジュールではなく、太平洋戦線を舞台にしたアンブッシュ!!システムの独立作品。ただし、欧州(アンブッシュ!!)で育てた分隊を太平洋へ転属させ、こちらで戦い続けるのも可能である。
:
; B-17…WWII 空戦 戦闘級 - アバロンヒル
: 一人用のソリティアゲーム。英国に展開した[[B-17 (航空機)|B-17]]爆撃機の機長となり、設定した自機のクルー各人と共にドイツ本土への爆撃任務を全25ミッション戦い抜く。
: 1943年が舞台なのでフランスを過ぎると護衛戦闘機が随伴せず、自機もチンターレットのないF型以前である。毎回被弾によって各種機器が壊れたり、クルーが死傷したりと無傷で帰れることは奇跡に近く、昼間爆撃を強行する米第8空軍の無謀さを追体験できる。
; Bismarck(戦艦ビスマルクの戦い)…WWII 海戦 戦闘級 - アバロンヒル
: 1ユニット1隻単位の艦隊戦ゲーム。
; Blue Max ブルーマックス…WWI 空戦 戦闘級 - GDW
: 第一次世界大戦時の航空戦をあつかう。1機1ユニットのプロット制戦闘級空戦ゲーム。タイトルは[[マックス・インメルマン]]が受賞した[[プール・ル・メリット勲章]]の俗称にちなむ。
; Eastern Front Tank Leader …現代戦 戦術級 陸戦 - ウェストエンド
: 第二次世界大戦の東部戦線を扱った戦術級ゲーム。フォーメーションごとのカードを使用して、ランダムな順序でフォーメーションを活性化させていく方式。タンクリーダーシリーズの第1作であり、西部戦線、北アフリカ戦線の続編も登場した。西部戦線の第2作は、ホビージャパンにより日本語版が発売された。
; Firepower ファイアーパワー…現代戦 戦闘級 陸戦 - SPI
:{{節スタブ}}
; Fire Team (ファイアーティーム)…現代戦 戦術級 陸戦 - [[ウェストエンドゲーム]]
: 現代戦の戦術戦闘を扱った作品。チットアクティベーション方式を使用しており、戦場の中で激戦区では他より多くのアクションが展開されることを表現していた。デザインは、サウザード。システムの評価は高かったが、冷戦終結でSF化してしまったため、知名度は低い。
; Gladiator(剣闘士の戦い)…古代ローマ 戦闘級 陸戦 - アバロンヒル
: [[コロッセオ]]で行われる[[剣闘士]]の死闘を再現。互いの行動を事前に用紙に計画して同時に公開して解決する、いわゆるプロット方式のゲーム。
; Gunslinger(真昼の決闘)…西部劇 戦闘級 - アバロンヒル・ホビージャパン
: アウトロー達による[[西部劇]]。1ユニットは1人である。各自の行動を事前に計画して同時に公開するプロット方式であるが、用紙に記入するのではなく各キャラクターに与えられたカードを行動順に並べる方式である。与えられるカードによって、キャラクターの個性や、練度が表現されている(ベテラン程、与えられるカードが多い)。
: 舞台は大通り、宿屋、保安官事務所、サルーン等がある典型的な西部のタウン。屋根や二階など高度の概念がある。[[ガンマン]]の他にナイフ投げの名人やトマホーク使いの[[インディアン]]もおり、ベアハッグのような力技も仕えた。格闘戦は射程が短いが、成功率はむしろ高く、接近してしまうと優れたガンマンでも叩きのめされるので油断ならない。
; IDEON([[伝説巨神イデオン]])…アニメ/イデオン 戦術/戦闘級 宇宙戦 - ツクダホビー
: アニメ『伝説巨神イデオン』の宇宙戦。1ユニットは艦船1隻、機動兵器1機単位。ソロ星駐留軍(ソロシップ)、[[バッフ・クラン]]、地球連合軍の主な機体が登場する。[[イデオン (架空の兵器)|イデオン]]は登場シナリオ毎にイデLvが設定されており、数値が高くなるとダメージをほとんど与えられなくなるので、バッフ・クラン側は通常攻撃よりも強電磁界攻撃でパイロットを弱らせる方が重要となる。終盤のシナリオで[[イデオン (架空の兵器)#イデオン波導ガン(イデオンガン)|波導ガン]]や[[イデオン (架空の兵器)#イデオンソード|イデオンソード]]が発動した際に、無数のユニットが豪快に駆逐されるさまは、[[伝説巨神イデオン#劇場版|劇場版『THE IDEON 発動篇 Be INVOKED』]]を完全に再現している。
; PLATOON…ベトナム戦 戦術級 陸戦
:{{節スタブ}}
; S.F.3.D.オリジナル…SF 戦術/戦闘級 - ホビージャパン
: 模型企画『[[S.F.3.D.]]』における戦闘を再現。
; Space Hulk…SF 戦闘級 - ゲームズワークショップ
: 「ウォーハンマー40,000」の世界を舞台に、遭難した宇宙船内でのブラッドエンジェルとジーンスチーラーの戦闘をマルチシナリオで描く。初版では本体+拡張キット(デスウィング)だったものを第2版では一体化して発売。さらに第3版では最新の模型デザイン技術の粋を投入してリニューアルした。同社では同じような戦闘級ゲームが他にもいくつか発売されている。
; STAR FLEET BATTLES(スターフリートバトルズ)…SF 戦術/戦闘級 - FASA
: SFドラマ「STAR TREK」の世界の艦対艦戦闘がテーマ。かなりの数の拡張キットが発売されており、作品世界の諸勢力、諸艦種を網羅している。艦の平面図のログシートに鉛筆で損害を記録していくことが特徴的である。同じようなシステムにSJGの「カーウォーズ」がある。
; [[SPQR]]…戦術級 陸戦 - GMT
: 共和政時代のローマの著名な戦いをシナリオ形式でプレイできる戦術級ゲーム。古代戦全体を同じシステムでカバーする「Great battles of History」シリーズの第2作。この時代のローマ軍の特徴的な戦術、マニプルスエクステンションが盤上で再現されることで発売当時、古代戦ファンの間で話題になった。デザイナーは、ハーマンとバーグ。
; Squad Leader(スコード・リーダー 戦闘指揮官)シリーズ…戦術級 陸戦 - アバロンヒル
:; [[:en:Squad Leader|Squad Leader]](スコード・リーダー 戦闘指揮官)
:: 第2次世界大戦の東部・西部戦線がテーマ。スコード・リーダーシリーズの基本パッケージで、続編をプレイするのに必要となっている。1ユニットが分隊や分隊長、または戦車1台、砲1門のレベルで、1ターン2分、ヘクス対向距離40m。
:; Cross of Iron(クロスオブアイアン)
:: 東部戦線初期を扱った追加ルール・シナリオ集。
:; Crescendo of Doom(電撃ドイツ戦車隊)
:: 西部戦線電撃戦を扱った追加ルール・シナリオ集。
:; G.I. Anvil of Victory(ジーアイ、勝利への道)
:: アメリカ軍を扱った追加ルール・シナリオ集。
:
; NAVAL WAR…WWII 海戦カードゲーム - アバロンヒル
: 戦艦同士の砲撃戦ゲーム。戦艦カードの他に口径別の砲弾カード。修理用の絆創膏カードなどがある。攻撃は口径に合う砲弾カードがないと射撃不可能なため、18吋砲を持つ大和級などマイナーな口径の主砲を持つ艦はなかなか砲撃できず、多数派である14吋や16吋砲の搭載艦の方が活躍する場合が多い。
; Tank Battles 戦車戦…WWII 陸戦 戦闘級 - ホビージャパン
: 車両や砲は一両(一門)1ユニット。歩兵は小隊単位。東部戦線の戦車戦を扱う。
:; Tank Battles 戦車戦II…WWII 陸戦 戦闘級 - ホビージャパン
:: 西部戦線を扱った続編。両者の駒を混在させて遊ぶのも可能。
:
; The Creatures that ate Sheboygan(怪獣征服)…SF 陸戦 戦術級 - SPI
: 直訳すると「シーボイガン市を喰った奴」である。アメリカの田舎町シーボイガンに[[怪獣]]が出現し、街を喰いながら暴れ回るそれを人間側が迎撃する古典的な怪獣映画のシミュレート。登場する怪獣は恐竜タイプの他、飛行タイプ他のオリジナルデザインも可能。マップはスクエアで地方都市シーボイガン市を表し、ユニットは怪獣、破壊される街の残骸や火災マーカー。逃げ惑う避難民の他に[[パトカー]](警官隊)、[[消防車]]、[[在郷軍人会]]の[[M4中戦車]]も登場する。
; Up Front(アップフロント)シリーズ…WWII 戦術級 陸戦 カードゲーム - アバロンヒル
:; Up Front(アップフロント)
:: 分隊を編成して敵と戦うカードゲーム。戦闘ユニットもダイス判定も全てカード化されていた。登場する軍は米英独ソの四カ国。
:; Banzai(バンザイ)
:: 追加モジュール。タイトルは[[バンザイ突撃]]の意であり、太平洋戦線と日本軍、アメリカ海兵隊を扱う。
:; The Desert War(ジ・デザートウォー)
:: 追加モジュール。北アフリカ砂漠戦とイタリア軍、フランス軍を扱う。
:
; UP SCOPE!(潜水艦の戦い)…WWII 戦術級 海戦 - SPI
: 潜水艦対水上艦の戦い。1ユニット1隻。
; Wooden ship and iron men(帆船の戦い)…大航海時代 海戦 戦術/戦闘級 - アバロンヒル
: [[帆船]]同士の海戦を扱う。
<!--あ行-->
; アイアンボトムサウンド…WWII 海戦 戦術/戦闘級
: 1ユニット1隻単位の海戦ゲームだが、ガダルカナル戦役でのサボ島沖夜戦に特化しているのが特徴。プロット制。
; アドバンスト・スコードリーダー(Advanced Squad Leader)…WWII 戦術級 陸戦(シリーズ)- アバロンヒル
: スコード・リーダーシリーズの第2版。拡張セットになると日本軍、中国軍など前シリーズではオミットされていた欧州以外の戦場も再現可能になっている。
; 宇宙の戦士(Starship Troopers)…SF 戦術/戦闘級 - アバロンヒル
: [[ロバート・A・ハインライン]]の同名小説のゲーム化作品。地下に巣を作る蜘蛛型生命体アレクニドと強化服を着込んだテラン(地球)機動歩兵との戦いを描く。他にアレクニドの同盟者であるヒューマノイドも登場する。機動歩兵は1人。アレクニドは1体。ヒューマノイドは分隊単位。光線砲などの重火器は1基単位。
; オーラバトラーシリーズ…アニメ/ダンバイン 空戦 戦闘級 - ツクダホビー
: アニメ『[[聖戦士ダンバイン]]』に登場する[[オーラマシン]]同士のプロット制空中戦ゲーム。機体よりもオーラ力が性能を左右するのが特徴。[[オーラマシン#搭載兵器|オーラ・キャノン]]などの射撃武器もあるが、剣格闘がメインになる。
:; オーラバトラー
:: シリーズ第1弾。登場ユニットは[[オーラバトラー]]のみ。番組放映中に制作されたので、登場オーラバトラーは[[レプラカーン (聖戦士ダンバイン)|レプラカーン]]までとなっている。
:; ウイングキャリバー
:: シリーズ第2弾。拡張セットに近いが単独でもプレイ可能。[[ビアレス]]など番組後期のオーラバトラーとウイングキャリバー他、オーラバトラー以外のオーラマシン(オーラシップや[[オーラマシン#ブブリィ|ブブリィ]]、グライウイングは除く)がセットされている。
:
<!--か行-->
; ギリシャ・ローマ海戦…古代 戦術級 海戦 - アバロンヒル
: [[ガレー船]]の海戦を扱う。
; 空戦マッハの戦い(エアーウォー)…現代 空戦 戦闘級 - SPI/ホビージャパン
: 1ユニットが戦闘機1機(またはミサイル1発)、1ターンは1秒でジェット戦闘機同士による航空戦をあつかう。超精密ルールなので単に飛行させるだけでも一苦労。
<!--さ行-->
; 最前線…WWII 陸戦 戦闘級 - [[バンダイifシリーズ]]
: 『[[バンダイifシリーズ#シリーズ一覧]]』を参照。
; 親衛隊…WWII 陸戦 戦術/戦闘級 - バンダイifシリーズ
: 『[[バンダイifシリーズ#1500円タイプ]]』を参照。
; 装甲擲弾兵…WWII 戦術級 陸戦 - エポック社/国際通信社
: 中隊規模の戦車戦を中心とした戦術級ゲーム。特徴的なルールとして非手番側の射程内を1ヘクス移動するごとに射撃を受けるルールがあった。これに対して応射もできるが手番側は一回の手番で一回しか射撃できない。非手番側の射撃は無制限であるが、実際には弾薬欠乏ルールが適用されるため無制限という訳ではない。デザイナーは、[[鈴木銀一郎]]。続編に「[[東部戦線]]」も登場したが、こちらは[[黒田幸弘]]のデザイン。
<!--た行-->
; 大日本帝国海軍(IJN)…WWII 海戦 戦術/戦闘級 - ホビージャパン
: 1ユニット1隻単位。対空や対潜戦闘はオミットされており、砲、雷撃による水上戦のみに特化している。
; ドイツ装甲師団長…WWII 陸戦 戦術級 - アドテクノス
: プレイヤーの立場は東部戦線の一師団を任される装甲師団長。戦闘のみではなく、部隊の損耗、補充。燃料・弾薬などの補給に気を遣いつつ、任期の間、戦い抜くことが要求される。
; トップガン…現代空戦 戦闘級
: 同名映画を扱う。戦闘機模型の駒が特徴。
<!--な行-->
; 日本海海戦…WWII 海戦 戦闘級 - [[バンダイifシリーズ]]
: 『[[バンダイifシリーズ#シリーズ一覧]]』を参照。
<!--は行-->
; パンツァー・ブリッツシリーズ…陸戦 戦術級 - アバロンヒル
:; パンツァー・ブリッツ (Panzer Blitz)
:: 第2次世界大戦の東部戦線を扱う。ユニットは小隊、中隊単位。
:; パンツァー・リーダー (Panzer Leader)
:: 第2次世界大戦の西部戦線を扱う。システム的にはパンツァー・ブリッツと同じであり、登場するユニットを混在させ、ソ連軍とアメリカ軍を戦わせることもできる。
:; アラブ・イスラエル戦(Arab-Israeli Wars)
:: [[中東戦争]]を扱う。システム的にはパンツァー・ブリッツと同じであるが、さすがにブリッツやリーダーのユニットと混用させるには無理があった。
:
; フライトリーダー(日本語版)…現代 空戦 戦術/戦闘級
: 1ユニット1機単位の空戦ゲーム。交互移動制なので多数の機体を扱いやすい。
; ベンハー…古代戦車競争…古代ローマ 戦闘級 - アバロンヒル
: [[チャリオット]]による戦車戦競技を扱う。
<!--ま行-->
; 幻の八八艦隊…架空戦 海戦 戦闘級 - [[アドテクノス]]
: ロンドンやワシントン軍縮会議がなかったらを仮定として、[[八八艦隊]]による海戦をシミュレートする。
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; ワールドタンクバトルズ(WTB)…WWII 陸戦 戦闘級 - 国際通信社
: 第二次世界大戦の戦車戦がテーマ。1ユニットが1両の戦闘級で、厚紙製ユニットの他に[[ワールドタンクミュージアム]]のミニチュアを使ってもプレイ可能。
:; [[戦車道ボードゲーム ぱんつぁー・ふぉー!]]…架空戦 陸戦 戦闘級 - 国際通信社
:: アニメ「[[ガールズ&パンツァー]]」の戦車戦(戦車道競技)をWTBのシステムを用いて再現したシミュレーションゲーム。プレイ方法を解説したDVDが付属している。
=== コンピューターゲーム ===
==== 戦略(級)コンピューターシミュレーションゲーム ====
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; [[Gyokuji]]
: {{節スタブ}}
; [[Hearts of Iron]]シリーズ
:WW2の世界で生き残ることが目標の戦略ゲーム。開始する年代は1936年と1939年の2パターン。
:他のゲームと比べると内政が少なく、陸,海,空軍を操作して戦闘を繰り広げる。{{節スタブ}}
; Pacific War
: {{節スタブ}}
<!--あ行-->
; [[エイジ オブ エンパイア シリーズ]]
: {{節スタブ}}
:* [[エイジ オブ エンパイア]]
:* [[エイジ オブ エンパイアII]]
:* [[エイジ オブ エンパイアIII]]
:* [[エイジ オブ ミソロジー]]
:
; [[エンド ウォー]]
: {{節スタブ}}
; [[エンパイア・アース]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[王賊]] - [[ソフトハウスキャラ]]
: 個々の戦闘は戦術級。
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; [[カンパニー・オブ・ヒーローズ]]
: {{節スタブ}}
; [[機動戦士ガンダム ギレンの野望]]シリーズ
: {{節スタブ}}
: 拠点攻略戦は戦闘級。
; [[銀河英雄伝説 (ゲーム)|銀河英雄伝説]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; グランデスト・フリート (Grandest Fleet)
: バンダイの連合艦隊を思わせる海軍戦闘ゲーム。時代設定はWW-1から1988年で、アドミラルとして、空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などを駆使し、敵艦隊と戦う。
; グロス・ドイッチュラントシリーズ
: {{節スタブ}}
<!--さ行-->
; [[三國志シリーズ]]
: {{節スタブ}}
; [[シヴィライゼーション]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[シュヴァルツシルト (ゲーム)|シュヴァルツシルト]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[戦国史 (ゲーム)|戦国史]]
: {{節スタブ}}
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; [[太平洋戦記]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[太平洋の嵐 (ゲーム)|太平洋の嵐]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[D〜欧州蜃気楼〜]]
: {{節スタブ}}
; [[提督の決断シリーズ]]
: {{節スタブ}}
; [[天下統一シリーズ]]
: {{節スタブ}}
; [[天下布武〜英雄たちの咆哮〜]]
: {{節スタブ}}
<!--な行-->
; [[信長の野望シリーズ]]
: エリア攻略戦は戦術級。
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; [[フル スペクトラム ウォリアー]]
: {{節スタブ}}
<!--ら行-->
; [[ライズ オブ ネイション 〜民族の興亡〜]]
: {{節スタブ}}
<!--や行-->
; [[ヨーロッパ戦線]]
==== 作戦(級)コンピューターシミュレーションゲーム ====
<!--か行-->
; 海賊王冠 - [[ソフトハウスキャラ]]
: 対艦戦は戦闘級。
<!--な行-->
; [[日露戦争 (コンピュータゲーム)|日露戦争]]
: {{節スタブ}}
==== 戦術/戦闘(級)コンピューターシミュレーションゲーム ====
<!--数字・アルファベット-->
; [[After Devil Force〜狂王の後継者〜]] - [[コンパイル (企業)|コンパイル]]
: [[ファンタジー]][[架空戦記]]だが、部隊は[[マスケット銃]]が主要兵器([[魔法]]部隊は準備が必要な[[砲兵]]で接近戦では無力)。ユニットは[[大隊]]規模。
: どちらかと言うなら作戦/戦術級。士気が重要であり、モラル崩壊すると部隊に大兵力が残っていても脆く崩れてしまう。
; [[:en:Harpoon (computer game)|Harpoon]]
: {{節スタブ}}
; [[SDガンダム GGENERATION]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[Steel Panthers]]
: {{節スタブ}}
<!--あ行-->
; [[ヴァンテージ・マスター]]シリーズ
:; [[VM JAPAN]]
:: {{節スタブ}}
:
<!--か行-->
; [[凱歌の号砲 エアランドフォース]]
: {{節スタブ}}
; [[キングオブキングス (ゲーム)|キングオブキングス]]
: {{節スタブ}}
; [[空母戦記]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[激闘!ソロモン海戦史]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[激闘!八八艦隊海戦史DX(ジュトランド海戦付)]]
: {{節スタブ}}
; [[鋼鉄の騎士]]シリーズ
: {{節スタブ}}
<!--さ行-->
; [[サクラ大戦シリーズ]] - セガ(シミュレーションパートのみが相当)
: {{節スタブ}}
; [[星界の戦旗]]
: {{節スタブ}}
; [[戦闘国家]]シリーズ
: {{節スタブ}}
<!--た行-->
; [[大戦略シリーズ]]
:; [[アドバンスド大戦略]]
:: {{節スタブ}}
:; [[ワールドアドバンスド大戦略 〜鋼鉄の戦風〜]]
:: 部隊やマップは戦術級風だが、生産システムは戦略級風。
:
<!--な行-->
; [[ネクタリス]]
: {{節スタブ}}
<!--は行-->
; [[ハイブリッド・フロント]]
: {{節スタブ}}
; [[パワードール]]シリーズ
: {{節スタブ}}
; [[ファミコンウォーズ]]
: {{節スタブ}}
<!--ま行-->
; [[メビウスリンク]](姉妹作には[[アルファリンク]])
: {{節スタブ}}
; [[モルダヴァイト]] - [[オービット|CLOVER]]
: ファンタジー[[アダルトゲーム]]だが、主要なパートは1駒1人のヘックス制戦闘級ゲームである。魔法使い(召喚師)は自ら戦闘する他に、最大3体までマップ上へユニットを召喚して戦うことができる。
; [[門を守るお仕事]] - [[ソフトハウスキャラ]]
: {{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献==
=== ウォー・シミュレーションゲームの歴史 ===
*『ウォーゲームハンドブック』 ジェームズ・F・ダニガン著 ホビージャパン [[1985年]]
*『ゲームジャーナル』No.1-10 シミュレーションジャーナル
=== ウォー・シミュレーションゲーム全般 ===
*「見敵必殺」鹿内靖 国際通信社
* ピーター・P・パーラ(Peter P. Perla)井川宏訳『無血戦争』ホビージャパン [[1993年]]
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2019年12月2日 (月) 09:07 (UTC)}}
{{ウィキプロジェクトリンク|コンピュータゲーム}}
{{ウィキポータルリンク|コンピュータゲーム}}
* [[ボード・ウォー・シミュレーションゲーム のタイトル一覧]]
* [[ストラテジーゲーム]]
* [[ボードゲーム]]
* [[ミニチュアゲーム]]
* [[ヘクス]]
* [[兵棋演習]]
* [[軍隊符号]]
===企業===
* [[アバロンヒル]]
* [[サンセットゲームズ]]
* [[ジェネラル・サポート]](会社)
* [[コーエー]](会社)
* [[ホビージャパン]]
* [[アドテクノス]]
* [[翔企画]]
* [[バンダイifシリーズ]]
* [[ツクダホビー]]
* [[エポック社]]
===雑誌===
* [[シミュレイター]]
* [[タクテクス]]
* [[ゲームグラフィックス]]
* [[コマンドマガジン日本版]]
* [[ゲームジャーナル]]
* [[ウォーゲーム日本史]]
* [[歴史群像]]
===人物===
* [[鈴木銀一郎]]
* [[高梨俊一]]
* [[佐藤大輔]]
* [[山崎雅弘]]
* [[シブサワ・コウ]]
* [[チャールズ・ロバーツ]]
* {{仮リンク|ジェームズ・F・ダニガン|en|Jim Dunnigan}}
* [[グレッグ・コスティキャン]]
===その他===
* [[ウォー・ゲーム (映画)]]
* [[征服王]]
== 外部リンク ==
=== ボードゲーム ===
* [http://www54.atwiki.jp/cmjwgj/ ほぼ日刊ウォーゲーム情報]
* [http://commandmagazine.jp 国際通信社] - 「[[コマンドマガジン日本版]](ゲーム付き雑誌)の出版社」
* [http://wargamejapan.jp 国際通信社] - 「[[ウォーゲーム日本史]](ゲーム付き雑誌)の出版社」
* [http://www.gamejournal.net/ シミュレーションジャーナル] - 「[[ゲームジャーナル]](ゲーム付き雑誌)の出版社」
* [http://www.sunsetgames.co.jp/ サンセットゲームズ] - 「過去のゲームの販売を行っているゲーム会社」
* [https://www.mustattack.net/ MustAttack] - 「ウォーゲーム専門SNS」
* [http://members.cox.net/mboone5/wgdb_main.html#byper/Wargames Database Page] - リンク切れ「シミュレーションゲームのデータベース(英語)」
* [http://www.takasawas.jp/gameapes/ A Home Of Game Apes]-「シミュレーションゲームのリンク集」
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~motoi-s/link.html 旧ゲーム猿]-「シミュレーションゲームのリンク集」
=== ウォー・シミュレーションゲームの歴史 ===
* {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/toshi51/sen00.html |title=Toshi's Den |date=20030218131740}}
* [http://gold.natsu.gs/WG/Spectrum/20050521.html En hommage a SPI SPIへのオマージュ]
* [http://www.jimdunnigan.com/ James F. Dunniganのウェブサイト]
* [http://commandmagazine.jp/download/index.html#beginner シミュレーションゲーム15年史]
* [https://gginc.hatenadiary.jp/entry/20090330/1238410142 G&G, Inc. blog『無血戦争』年表ノート]
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画面解像度
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画面解像度(がめんかいぞうど、display resolution, screen resolution)は、慣用的にコンピュータ等のディスプレイに表示される総画素数を指す。
本来の「解像度」の言葉通り、画面の精細さを指すこともあるが、区別する場合は画素密度またはピクセル密度 (pixel density) と称される。
画素数を表す場合は「横×縦」や「横x縦」などの形(例えば1024×768, 1920×1080)で示され、密度を表す場合は「○ dpi」や「○ ppi」の形(例えば96 dpi, 600 ppi)で示される。
ドットマトリクス型の電子ディスプレイ(以下、ディスプレイ)では画素(ピクセル、pixel)と呼ばれる小さな点を縦横に並べ、それらの点を別々に制御することで画面を表示している。
現在、一般に使用されている液晶ディスプレイでは赤・緑・青の3つの副画素(サブピクセル)のそれぞれの輝度を制御することで多様な色を生み出しており、通常は副画素3つ合わせて1つの正方形画素になっている。例外として、シャープの『クアトロン』では赤・緑・青・黄の4色、ジャパンディスプレイの『WhiteMagic』では赤・緑・青・白の4色で正方形画素を構成している。
一般的には、ディスプレイ上で平面的に展開する画素の総数を、仕様における画面解像度としている。したがって、副画素の総数ではない。 ただし、一部の機種では、ベイヤー配列に似たペンタイル配列など、副画素の色と配置構成を変えることで実際よりも見掛け上の画素数を上げている場合があり、この場合正方形画素とはならないが、全体として正方画素と近似するように配置しているため、見掛け上の画素数を仕様における画面解像度としている。
通常は同一の表示サイズで比較する場合、画素数が多いほど細やかで綺麗な表示が可能となる。つまり、表示画面上の長さ当たりに存在する画素数(解像度)によって表示の精細度が定められる。例えば「表示領域の水平長が10 cmで水平方向画素数が1,000個」の場合と「表示領域の水平長が20 cmで水平方向画素数が2,000個」であった場合、水平方向の画面解像度は同一の10 pixels/mmとなる。 ただし、実際には、歴史上フラスコの底の形をした円形ブラウン管の直径の解像度を表した経緯から、現在でも水平長ではなく、画面外接円の直径となる、対角線の精細度として表示される。
印刷分野においてインチ単位での解像度(スクリーン線数)が用いられていたことからコンピュータ等もこの単位長さにはインチが用いられておりISO加盟国においても、解像度の単位は1インチ (= 25.4 mm) 当たりの画素数(単位は dpi: dots per inch または ppi: pixels per inch)で表示されることが多い。
ドットの物理的な並びは「ドットピッチ」、1インチの長さあたりのドット数は「dpi」と表記されるが、最近では、画面解像度をあらわす単位として印刷分野の単位と区別する目的でppiがしばしば用いられる。これは階調表現能力が異なる別の技術に、同一の単位を用いることで発生すると思われる混同を防止するためである。
例えば印刷の100 dpiとディスプレイの100 pixels/inchを同じ単位 (dpi) で表現すると、あたかも同じ表現能力であるかのような誤解を生じる。単色2値データのみで比較すると同等であるが、印刷においては網点を用いて多色・多階調を表現するため、物理的解像度は落ちてしまう(周囲のドットを利用するため)。一方、ディスプレイの画素では256階調や4096階調といった多値表示が可能であるためディスプレイの100 pixels/inchのほうが表示能力が高く情報量が多いことになる。なお、本稿においては誤解を生じる恐れがないため、dpiとppiを同じとして記載している。これは例えば1,000ピクセルの画像を100 %表示すれば1,000ドットとなることによる。
Classic Mac OS/macOSの場合、1984年に初代Macintoshがリリースされた後、Retinaディスプレイが登場するまでの間、画面解像度は72 dpiに統一されていた。これは、WYSIWYG設計思想の実装に基づき1ポイントを1ピクセルに相当させたためである。ディスプレイの大きさが同じならばピクセル数は一定で、本体側のソフトウェアやハードウェアでは変更できないため、拡大率を100 %にしたときディスプレイで見たままの大きさの文字や図形をプリンターにて印刷できる仕組みであった。
Microsoft Windowsの場合、Windows XPよりも前のバージョンでは、ディスプレイ解像度は96 dpiであると仮定されてきた。XPでは96 dpiおよび120 dpiの2つのDPI値と、カスタムDPI設定が導入されたが、XPのDPIスケーリングは実質的に前述2つの値で決め打ちだった。これは、下位レベルのグラフィックスAPIであるGDIの座標系が、整数にしか対応していなかったためでもある。また、ほとんどのアプリケーションはシステムのDPI設定が96 dpiであるという前提であったため、100 %の設定以外では正常に描画されないという問題もあった。Windows VistaではDesktop Window Manager (DWM) とともにDPI仮想化の技術が導入され、システムDPI認識(System DPI Aware)に対応していない(マニフェストで宣言していない)古いアプリケーションは96 dpiの仮想環境で強制的に動作させることが可能となったが、テキストの描画結果がぼやけるなどの問題が発生した。Vistaとともにリリースされた.NET Framework 3.0では、倍精度浮動小数点数によるデバイス非依存の論理ピクセルを採用したWPFが導入され、またWindows 7では単精度浮動小数点数によるデバイス非依存の論理ピクセルを採用したDirect2Dが導入されたことで、アプリケーションの高DPI対応が容易になった。Windows 7およびWindows 8では、以下のような解像度が選択肢として規定されていた。デフォルト値(既定値)は実際のハードウェアによって異なり、またハードウェアによっては表示されない選択肢もある。
Windows 8まではシステム全体で1つのDPI値しか設定できなかったが、Windows 8.1ではさらにディスプレイごとのDPI設定と認識(Per-Monitor DPI Aware)が可能となった。この機能を利用するには、アプリケーション側の対応も必要となる。
モバイルデバイス環境や4Kディスプレイなど、画面解像度(密度)は多様化する傾向にあるが、プラットフォームごとに用意された方法に従うことで、アプリケーションを様々な画面解像度に対応させることができる。
画面モードとはディスプレイに表示される総画素数(横×縦のピクセル数)、またはそれに加えてリフレッシュレート、色深度などの値を定義したものでコンピュータの歴史上さまざまな規格が利用されてきた。
特定のコンピュータでどの画面モードが表示できるのかは、そのコンピュータに搭載されているビデオカードの性能に依存している。よって特定の画面モードを得たい場合はそのビデオカードが必要な容量のビデオメモリを搭載していることと、ディスプレイのインタフェース仕様に合致する適切な信号を生成できるものであることが条件となる。また当然であるが、その画面モードの画面解像度を表示できる能力を備えたディスプレイを用いる必要がある。ただし、表示内容を観察するためだけであればその信号を表示できるディスプレイを用いれば十分である場合もある。
画素数で示される類似のものとしては、デジタルカメラのカラー撮像装置があるが、カラー撮像装置の光感「画素」については、ディスプレイでは副画素として扱っているものを「画素」として扱い、その総数を画素数としている場合が多い。このため、仕様画素数が同じであればカラー撮像装置よりディスプレイのほうが高精細である傾向にある。例えば、カラー撮像装置の撮像「画素」が正方形のベイヤー配列ならば、通常ディスプレイのほうが4倍解像度が高い。
消費者向けカラーテレビ製品においては、画面解像度とほぼ同義語である「definition」が「画質」として呼ばれることが多いが、直訳すれば「image quality」となるように、本来なら画面解像度だけで画質が決まるわけではない。画質を左右する要素は、それぞれの画素が表示できる色数や、その再現性など、他にも多くの要素を考慮に入れる必要がある。
以下の表はピクセル数の少ない順に画面モードの種類を並べたものである。
多くの解像度で4で割り切れる偶数が用いられるが、4で割り切れない単偶数が用いられることもある。また、アスペクト比を優先するために奇数が採用される場合もある。
「比」はピクセル数の比で、ピクセルが正方形ならば画面アスペクト比に等しいが、一部の規格(主に古い規格)はピクセルが正方形ではないので画面アスペクト比は異なる。
ピクセルが正方形ならば、画素密度による画面解像度はピタゴラスの定理から
で求まる。
なお、ブラウン管には表示されない領域(ブランキング期間)があるが、仕様上のインチ数は表示領域の対角長ではなく管自体の対角長となる。
アナログ放送においては、各ドットが正方形ではなく長方形になっているものがほとんどであった。デジタル放送ではパソコンのモニター同様、各ドットが正方形になっている。
PCでは一般のアナログテレビの画面に倣った横:縦の比率4:3のもの(640×480、800×600、1024×768など)が長く使用されていたが、Windows Vistaが登場した2005年ごろからハイビジョン(国内外のデジタルテレビを含む)や映画などとの比率に近い16:10 (8:5) や16:9といった横長(ワイド)の画面が多くなっている。2016年現在、16:9のアスペクト比(1280×720、1366×768、1920×1080など)が主流である。このため、アスペクト比は、互いに素となる整数のほか、4:3または16:9に比してどのくらい違うのかという数値で表されることがおおい。インフォメーションディスプレイやスマートフォン、タブレット端末ではしばしば90度回転させて、縦横の長さが入れ替わった状態で使用される。
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"text": "特定のコンピュータでどの画面モードが表示できるのかは、そのコンピュータに搭載されているビデオカードの性能に依存している。よって特定の画面モードを得たい場合はそのビデオカードが必要な容量のビデオメモリを搭載していることと、ディスプレイのインタフェース仕様に合致する適切な信号を生成できるものであることが条件となる。また当然であるが、その画面モードの画面解像度を表示できる能力を備えたディスプレイを用いる必要がある。ただし、表示内容を観察するためだけであればその信号を表示できるディスプレイを用いれば十分である場合もある。",
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"text": "画素数で示される類似のものとしては、デジタルカメラのカラー撮像装置があるが、カラー撮像装置の光感「画素」については、ディスプレイでは副画素として扱っているものを「画素」として扱い、その総数を画素数としている場合が多い。このため、仕様画素数が同じであればカラー撮像装置よりディスプレイのほうが高精細である傾向にある。例えば、カラー撮像装置の撮像「画素」が正方形のベイヤー配列ならば、通常ディスプレイのほうが4倍解像度が高い。",
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"text": "消費者向けカラーテレビ製品においては、画面解像度とほぼ同義語である「definition」が「画質」として呼ばれることが多いが、直訳すれば「image quality」となるように、本来なら画面解像度だけで画質が決まるわけではない。画質を左右する要素は、それぞれの画素が表示できる色数や、その再現性など、他にも多くの要素を考慮に入れる必要がある。",
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"text": "以下の表はピクセル数の少ない順に画面モードの種類を並べたものである。",
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"text": "PCでは一般のアナログテレビの画面に倣った横:縦の比率4:3のもの(640×480、800×600、1024×768など)が長く使用されていたが、Windows Vistaが登場した2005年ごろからハイビジョン(国内外のデジタルテレビを含む)や映画などとの比率に近い16:10 (8:5) や16:9といった横長(ワイド)の画面が多くなっている。2016年現在、16:9のアスペクト比(1280×720、1366×768、1920×1080など)が主流である。このため、アスペクト比は、互いに素となる整数のほか、4:3または16:9に比してどのくらい違うのかという数値で表されることがおおい。インフォメーションディスプレイやスマートフォン、タブレット端末ではしばしば90度回転させて、縦横の長さが入れ替わった状態で使用される。",
"title": "画素数としての画面解像度"
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] |
画面解像度は、慣用的にコンピュータ等のディスプレイに表示される総画素数を指す。 本来の「解像度」の言葉通り、画面の精細さを指すこともあるが、区別する場合は画素密度またはピクセル密度 と称される。 画素数を表す場合は「横×縦」や「横x縦」などの形で示され、密度を表す場合は「○ dpi」や「○ ppi」の形で示される。
|
{{重複|date=2021年6月|dupe=ディスプレイ解像度}}
'''画面解像度'''(がめんかいぞうど、{{Interlang|en|Display resolution|display resolution}}, {{Lang|en|screen resolution}})は、慣用的に[[コンピュータ]]等の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に表示される総画素数を指す。
本来の「解像度」の言葉通り、画面の精細さを指すこともあるが、区別する場合は画素密度またはピクセル密度 (pixel density) と称される。
{{Main|解像度|dpi|ppi}}
画素数を表す場合は「横×縦」や「横x縦」などの形(例えば1024×768, 1920×1080)で示され、密度を表す場合は「○ dpi」や「○ ppi」の形(例えば96 dpi, 600 ppi)で示される。
== 概要 ==
{{Double image aside|right|LCD pixels RGB (cropped).jpg|140|Galaxy Note II subpixels representation.png|130|'''RGB''' 液晶(左)と有機EL(右)の例<br>赤1個、緑1個、青1個の3つのサブピクセルで、1つのフルカラー正方形のユニットを構成し、1ユニットで1ピクセルとなる。}}
{{Triple image aside|right|Nexus one screen microscope.jpg|105|Diamond pentile.jpg|80|RGBW PenTile image.jpg|80|'''RGBG''' , '''RGBW''' ペンタイル配列<br>RGBGは、赤2個、緑4個、青2個、RGBWは、赤2個、緑2個、青2個、白2個のそれぞれ8つのサブピクセルで、1つのフルカラー正方形のユニットを構成するが、縦または横方向に2つのフルカラー長方形となることから、仕様上では1ユニットで2×2ピクセルとされる。}}
{{Double image aside|right|Aperture grille closeup.jpg|157|CRT screen. closeup.jpg|120|'''[[ブラウン管]]'''の蛍光体配列 [[アパーチャーグリル]](左)と[[シャドーマスク]](右)の例<br>アパーチャグリルは液晶のRGB配列に近く、シャドーマスクはペンタイル配列に類似したサブピクセル構成。}}
=== 画素と画素数 ===
[[ドットマトリクス]]型の電子ディスプレイ(以下、ディスプレイ)では画素([[ピクセル]]、pixel)と呼ばれる小さな点を縦横に並べ、それらの点を別々に制御することで画面を表示している。
現在、一般に使用されている液晶ディスプレイでは赤・緑・青の3つの副画素(サブピクセル)のそれぞれの輝度を制御することで多様な色を生み出しており、通常は副画素3つ合わせて1つの正方形画素になっている。例外として、[[シャープ]]の『[[クアトロン]]』では赤・緑・青・黄の4色、[[ジャパンディスプレイ]]の『WhiteMagic』<ref>[http://www.j-display.com/technology/jdilcd/lowp.html WhiteMagic™ | JDIの液晶ディスプレイ技術]</ref>では赤・緑・青・白の4色で正方形画素を構成している。
一般的には、ディスプレイ上で平面的に展開する画素の総数を、仕様における画面解像度としている。したがって、副画素の総数ではない。
ただし、一部の機種では、[[CCDイメージセンサ#CCDイメージセンサによるカラー撮像|ベイヤー配列]]に似た[[:en:PenTile matrix family|ペンタイル]]配列など、副画素の色と配置構成を変えることで実際よりも見掛け上の画素数を上げている場合があり、この場合正方形画素とはならないが、全体として正方画素と近似するように配置しているため、見掛け上の画素数を仕様における画面解像度としている。
=== 画素密度(表示精細度)と長さの単位 ===
通常は同一の表示サイズで比較する場合、画素数が多いほど細やかで綺麗な表示が可能となる。つまり、表示画面上の長さ当たりに存在する画素数([[解像度]])によって表示の精細度が定められる。例えば「表示領域の水平長が10 cmで水平方向画素数が1,000個」の場合と「表示領域の水平長が20 cmで水平方向画素数が2,000個」であった場合、水平方向の画面解像度は同一の10 pixels/mmとなる。
ただし、実際には、歴史上フラスコの底の形をした円形[[ブラウン管]]の直径の解像度を表した経緯から、現在でも水平長ではなく、画面[[外接円]]の直径となる、[[対角線]]の精細度として表示される。
印刷分野においてインチ単位での解像度(スクリーン線数)が用いられていたことからコンピュータ等もこの単位長さにはインチが用いられており[[国際標準化機構|ISO]]加盟国においても、解像度の単位は1[[インチ]] (= 25.4 mm) 当たりの画素数(単位は [[dpi]]: dots per inch または [[ppi]]: pixels per inch)で表示されることが多い。
== 画素密度(ピクセル密度)としての画面解像度 ==
=== 単位 ===
ドットの物理的な並びは「ドットピッチ」、1インチの長さあたりのドット数は「dpi」と表記されるが、{{いつ範囲|date=2023-01|最近}}では、画面解像度をあらわす単位として印刷分野の単位と区別する目的で'''ppi'''がしばしば用いられる。これは階調表現能力が異なる別の技術に、同一の単位を用いることで発生すると思われる混同を防止するためである。
例えば印刷の100 dpiとディスプレイの100 pixels/inchを同じ単位 (dpi) で表現すると、あたかも同じ表現能力であるかのような誤解を生じる。単色2値データのみで比較すると同等であるが、印刷においては[[網点]]を用いて多色・多階調を表現するため、物理的解像度は落ちてしまう(周囲のドットを利用するため)。一方、ディスプレイの画素では256階調や4096階調といった多値表示が可能であるためディスプレイの100 pixels/inchのほうが表示能力が高く情報量が多いことになる。なお、本稿においては誤解を生じる恐れがないため、dpiとppiを同じとして記載している。これは例えば1,000ピクセルの画像を100 %表示すれば1,000ドットとなることによる。
=== 代表的な解像度 ===
[[Classic Mac OS]]/[[macOS]]の場合、[[1984年]]に初代[[Macintosh]]がリリースされた後、[[Retinaディスプレイ]]が登場するまでの間、画面解像度は72 dpiに統一されていた<ref name="Hitchcock">
{{cite web
|url=http://blogs.msdn.com/fontblog/archive/2005/11/08/490490.aspx
|title=Where does 96 DPI come from in Windows?
|accessdate=2019-11-17
|last=Hitchcock
|first=Greg
|date=2005-10-08
|work=Microsoft Developer Network Blog
|publisher=Microsoft
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191117040931/https://blogs.msdn.microsoft.com/fontblog/2005/11/08/where-does-96-dpi-come-from-in-windows/
|archivedate=2019-11-17
}}</ref><ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/archive/blogs/fontblog/where-does-96-dpi-come-from-in-windows Where does 96 DPI come from in Windows? | Microsoft Learn]</ref>。これは、[[WYSIWYG]]設計思想の実装に基づき1ポイントを1ピクセルに相当させたためである。ディスプレイの大きさが同じならばピクセル数は一定で、本体側のソフトウェアやハードウェアでは変更できないため、拡大率を100 %にしたときディスプレイで見たままの大きさの文字や図形をプリンターにて印刷できる仕組みであった。
[[Microsoft Windows]]の場合、[[Windows XP]]よりも前のバージョンでは、ディスプレイ解像度は96 dpiであると仮定されてきた<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/901/901046/ ASCII.jp:Windowsと高DPIディスプレイ【その1】 8までのDPIスケーリング (1/2)]</ref>。XPでは96 dpiおよび120 dpiの2つのDPI値と、カスタムDPI設定が導入されたが、XPのDPIスケーリングは実質的に前述2つの値で決め打ちだった。これは、下位レベルのグラフィックスAPIである[[Graphics Device Interface|GDI]]の座標系が、整数にしか対応していなかったためでもある。また、ほとんどのアプリケーションはシステムのDPI設定が96 dpiであるという前提であったため、100 %の設定以外では正常に描画されないという問題もあった。[[Windows Vista]]では[[Desktop Window Manager]] (DWM) とともにDPI仮想化の技術が導入され、システムDPI認識(System DPI Aware)<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/win32/hidpi/setting-the-default-dpi-awareness-for-a-process Setting the default DPI awareness for a process (Windows) - Win32 apps | Microsoft Learn]</ref>に対応していない(マニフェストで宣言していない)古いアプリケーションは96 dpiの仮想環境で強制的に動作させることが可能となったが、テキストの描画結果がぼやけるなどの問題が発生した。Vistaとともにリリースされた[[.NET Framework]] 3.0では、[[倍精度浮動小数点数]]によるデバイス非依存の論理ピクセルを採用した[[Windows Presentation Foundation|WPF]]が導入され、また[[Windows 7]]では[[単精度浮動小数点数]]によるデバイス非依存の論理ピクセルを採用した[[Direct2D]]が導入されたことで、アプリケーションの高DPI対応が容易になった<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/win32/learnwin32/dpi-and-device-independent-pixels DPI and device-independent pixels - Win32 apps | Microsoft Learn]</ref>。Windows 7および[[Windows 8]]では、以下のような解像度が選択肢として規定されていた。デフォルト値(既定値)は実際のハードウェアによって異なり、またハードウェアによっては表示されない選択肢もある。
* 小 - 100 % (96 dpi)
* 中 - 125 % (120 dpi)
* 大 - 150 % (144 dpi)
* 特大 - 200 % (192 dpi)
* カスタムDPI設定
Windows 8まではシステム全体で1つのDPI値しか設定できなかったが、Windows 8.1ではさらにディスプレイごとのDPI設定と認識(Per-Monitor DPI Aware)が可能となった<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/905/905248/ ASCII.jp:Windowsと高DPIディスプレイ【その2】 8.1では異なるDPIを設定可 (1/2)]</ref>。この機能を利用するには、アプリケーション側の対応も必要となる。
モバイルデバイス環境や4Kディスプレイなど、画面解像度(密度)は多様化する傾向にあるが、プラットフォームごとに用意された方法に従うことで、アプリケーションを様々な画面解像度に対応させることができる<ref>[https://developer.android.com/training/multiscreen/screendensities?hl=ja 各種のピクセル密度をサポートする | Android デベロッパー | Android Developers]</ref><ref>[http://developer.android.com/reference/android/util/DisplayMetrics DisplayMetrics | Android Developers]</ref><ref>
[https://developer.apple.com/design/human-interface-guidelines/foundations/images Images - Foundations - Human Interface Guidelines - Design - Apple Developer]</ref><ref>
[https://learn.microsoft.com/en-us/windows/apps/design/layout/screen-sizes-and-breakpoints-for-responsive-design Screen sizes and break points for responsive design - Windows apps | Microsoft Learn]</ref><ref>
[https://www.paintcodeapp.com/news/ultimate-guide-to-iphone-resolutions The Ultimate Guide To iPhone Resolutions] PaintCode</ref>。
== 画素数としての画面解像度 ==
=== 画面(ディスプレイ)モード ===
画面モードとはディスプレイに表示される総画素数(横×縦のピクセル数)、またはそれに加えて[[リフレッシュレート]]、[[色深度]]などの値を定義したものでコンピュータの歴史上さまざまな規格が利用されてきた。
特定のコンピュータでどの画面モードが表示できるのかは、そのコンピュータに搭載されている[[ビデオカード]]の性能に依存している。よって特定の画面モードを得たい場合はそのビデオカードが必要な容量の[[VRAM|ビデオメモリ]]を搭載していることと、ディスプレイの[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]仕様に合致する適切な信号を生成できるものであることが条件となる。また当然であるが、その画面モードの画面解像度を表示できる能力を備えたディスプレイを用いる必要がある。ただし、表示内容を観察するためだけであればその信号を表示できるディスプレイを用いれば十分である場合もある。
画素数で示される類似のものとしては、デジタルカメラのカラー撮像装置があるが、カラー撮像装置の光感「画素」については、ディスプレイでは副画素として扱っているものを「画素」として扱い、その総数を画素数としている場合が多い。このため、仕様画素数が同じであればカラー撮像装置よりディスプレイのほうが高精細である傾向にある。例えば、カラー撮像装置の撮像「画素」が正方形のベイヤー配列ならば、通常ディスプレイのほうが4倍解像度が高い。
消費者向けカラーテレビ製品においては、画面解像度とほぼ同義語である「''definition''」が「画質」として呼ばれることが多いが、直訳すれば「''image quality''」となるように、本来なら画面解像度だけで画質が決まるわけではない。画質を左右する要素は、それぞれの画素が表示できる色数や、その再現性など、他にも多くの要素を考慮に入れる必要がある。
=== 代表的な画面モードの表示総画素数 ===
[[ファイル:Vector Video Standards8.svg|thumb|300px|「画面解像度の通称名と総画素数」、色別に分けられた「画面の大きさの比較」とその「[[アスペクト比]]」]]
[[File:Display resolution and pixel density.png|thumb|300px|画面解像度によるサイズと画素密度の関係]]
以下の表はピクセル数の少ない順に画面モードの種類を並べたものである。
多くの解像度で4で割り切れる偶数が用いられるが、4で割り切れない[[単偶数]]が用いられることもある。また、アスペクト比を優先するために奇数が採用される場合もある。
「比」はピクセル数の比で、ピクセルが[[正方形]]ならば[[画面アスペクト比]]に等しいが、一部の規格(主に古い規格)はピクセルが正方形ではないので画面アスペクト比は異なる。
ピクセルが正方形ならば、画素密度による画面解像度は[[ピタゴラスの定理]]から
: <math>\mbox{Resolution} = \frac{\sqrt{\mbox{Width}^2 + \mbox{Height}^2}}{\mbox{inch}}</math>
で求まる。
なお、ブラウン管には表示されない領域(ブランキング期間)があるが、仕様上のインチ数は表示領域の対角長ではなく管自体の対角長となる。
{{-}}
==== テレビジョン放送 ====
アナログ放送においては、各ドットが正方形ではなく長方形になっているものがほとんどであった。デジタル放送ではパソコンのモニター同様、各ドットが正方形になっている。
* [[標準画質映像|SDTV]]
** [[480i]] - [[走査|走査線]]243本の[[インターレース|インターレース方式]]。主に南北アメリカと日本周辺(有効垂直解像度480本)
** [[576i]] - 走査線288本のインターレース方式。主にヨーロッパ諸国(有効垂直解像度576本)
* [[クリアビジョン]]
** [[480p]] - 720 × 480 [[プログレッシブ・スキャン|プログレッシブ方式]]
** [[576p]] - 720 × 576 プログレッシブ方式
* [[高精細度テレビジョン放送|HDTV]]
** [[720p|HD]] - 1280 × 720 プログレッシブ方式 (有効垂直解像度720本)
** [[1080i|Full HDi]] - 1920 × 1080 走査線540本のインターレース方式(有効垂直解像度1080本)
** [[1080p|Full HD]] - 1920 × 1080 プログレッシブ方式(有効垂直解像度1080本)
* [[UHDTV]]
** [[2160p|4K UHDTV]] - 3840 × 2160 プログレッシブ方式
** [[4320p|8K UHDTV]] - 7680 × 4320 プログレッシブ方式
==== コンピュータ・映画 ====
{{see also|ビデオカード}}
PCでは一般のアナログテレビの画面に倣った横:縦の比率'''4:3'''のもの(640×480、800×600、1024×768など)が長く使用されていたが、Windows Vistaが登場した[[2005年]]ごろから[[ハイビジョン]](国内外の[[デジタルテレビ放送|デジタルテレビ]]を含む)や[[映画]]などとの比率に近い16:10 (8:5) や16:9といった横長(ワイド)の画面が多くなっている。2016年現在、'''16:9'''の[[アスペクト比]](1280×720、1366×768、1920×1080など)が主流である。このため、アスペクト比は、[[互いに素 (整数論)|互いに素]]となる整数のほか、4:3または16:9に比してどのくらい違うのかという数値で表されることがおおい。インフォメーションディスプレイやスマートフォン、タブレット端末ではしばしば90度回転させて、縦横の長さが入れ替わった状態で使用される。
=== 規格 ===
{{Legend|#ffffa2|は過去を含め主流とされた画面モードを示す。}}
{| class="wikitable sortable" style="width:80%; font-size:80%"
! class="unsortable" style="width:12em" | 通称
! style="width:1.5em; text-align:right" | 横(px)
! style="width:1.5em | 縦(px)
! class="unsortable" style="width:2.5em" | アスペクト比
! style="width:2em" | 総画素数
! class="unsortable" | 備考
<!--
|-
| {{lang|en|sQCIF (Sub QCIF)}}
| 128
| 96
| 4:3
| style="text-align:right" | 12,288
| 代表例:[[カメラ付き携帯電話]]の最低画質モード
-->
|-
| {{lang|en|QQVGA (Quarter QVGA)}}
| 160
| 120
| 4:3
| style="text-align:right" | 19,200
| 代表例:2002年ごろまでの携帯電話
|-
| {{lang|en|QCIF (Quarter CIF)}}
| 176
| 144
| 4:3
| style="text-align:right" | 25,344
| 代表例:2003年ごろまでの携帯電話
|-
| {{lang|en|[[Quarter Video Graphics Array|QVGA]] (Quarter VGA)}}
| 320
| 240
| 4:3
| style="text-align:right" | 76,800
| 代表例:2002年ごろの携帯電話、2011年2月に任天堂が発売した携帯型ゲーム機「[[ニンテンドー3DS]]」(下画面)<br />(日本の携帯電話)2002年7月16日にNTTドコモが発売したシャープ製「[[SH2101V]]」の3.5型液晶<br />(日本の折りたたみ式携帯電話)2002年12月21日にJ-PHONEが発売した東芝製「[[J-T08]]」の2.2型液晶<br />(Android端末)2010年12月25日に[[日本通信]]が発売した「[[IDEOS]]」の2.8型液晶。<br />[[ワンセグ]]の解像度<ref group=注>ただしアナログ放送停波後はほとんどの番組が縦横比16:9で収録・放送されているので、アナログ放送末期のレターボックス放送に似た形で320x180の解像度で放送されている</ref>
<!--
|-
| {{lang|en|QVGA+ (Quarter VGA+)}}
| 345
| 240
| 23:16 (約4.3:3)
| style="text-align:right" | 82,800
| 代表例:[[日本電気|NEC]]の携帯電話
-->
|-
| {{lang|en|SIF (Source Input Format)}}
| 352
| 240
| 4:3
| style="text-align:right" | 84,480
| 代表例:NTSC圏の[[ビデオCD]]など
<!--
|-
| {{lang|en|WQVGA (Wide QVGA)}}
| 400
| 240
| 5:3 (15:9)
| style="text-align:right" | 96,000
| 代表例:ワイド画面の携帯電話やPDA、2011年2月に任天堂が発売した携帯型ゲーム機「ニンテンドー3DS」(上画面・3D表示時<ref group="注">2D表示時は800×240。</ref>)
|-
| {{lang|en|CIF (Common Intermediate Format)}}
| 352
| 288
| 4:3
| style="text-align:right" | 101,376
| 代表例:旧来の[[テレビ電話#テレビ会議システム|テレビ会議]]やPAL圏のビデオCD
|-
| {{lang|en|WQVGA+ (Wide QVGA+)}}
| 427
| 240
| 16:9
| style="text-align:right" | 102,480
| rowspan="2" | 代表例:ワイド画面の携帯電話
|-
| {{lang|en|FWQVGA (Full Wide QVGA)}}
| 432
| 240
| 9:5 (16.2:9)
| style="text-align:right" | 103,680
-->
|-
| {{lang|en|[[Color Graphics Adapter|CGA]] (Color Graphics Adapter)}}
| 640
| 200
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 128,000
| IBM PC, IBM PC XTのグラフィック用ビデオアダプタ。同じ解像度は[[PC-9800シリーズ|PC-98]]/[[PC-8800シリーズ|88]] 200ライン など。
|-
| {{lang|en|HVGA (Half VGA)}}
| 480
| 320
| 3:2
| style="text-align:right" | 153,600
| VGAの横が半分になった規格。<br />代表例:初代iPhone, 3G, 3GS、iPod touch(第1 - 3世代)、[[HT-03A]]などのスマートフォン<br />(Android端末、液晶)2008年9月24日に発表され、2008年10月22日に発売した「[[T-Mobile G1|T-Mobile G1 (HTC Dream)]] 」の3.2型<br />(Android端末、有機EL)2009年6月に[[サムスン電子]]が発売した「[[:en:Samsung Galaxy (original)|Galaxy]]」の3.2型
<!--
|-
| {{lang|en|Mac 9″ gray}}
| 512
| 342
| 約3:2
| style="text-align:right" | 175,104
| (一体型パソコン)Appleが発売した「[[Macintosh 128K]]」の9型モノクロCRT
|-
| {{lang|en|Mac 9″ color}}
| 512
| 384
| 4:3
| style="text-align:right" | 196,608
|
-->
|-
| {{lang|en|[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]] (Enhanced Graphics Adapter)}}
| 640
| 350
| 4:3
| style="text-align:right" | 224,000
| IBM PC AT標準のビデオ規格。MDA, CGAの上位互換。
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|PC-98<br />DCGA (Double Scan CGA)}}
| 640
| 400
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 256,000
| 代表例:Apple Macintosh Portableおよび初代PowerBook、J-3100、[[FMRシリーズ|FMR-50]]など
<!--
|-
| {{lang|en|[[X68000]] 16bit}}
| 512
| 512
| 1:1
| style="text-align:right" | 262,144
| SHARP X68000 の[[16ビットカラー|65,536色カラーモード]]での表示画面解像度
-->
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|[[Video Graphics Array|VGA]] (Video Graphics Array)<br />SD}}
| 640
| 480
| 4:3
| style="text-align:right" | 307,200
| [[IBM PS/2]]で採用のビデオ規格。MDA, CGA, EGA, MCGA 上位互換。[[DOS/V]]でサポート。単に640x480解像度の通称としても使われている。同一の解像度はAX (JEGA)など。<br />代表例:Mac 13インチ、初期液晶テレビ、2010年代のキッズ用デジタルカメラの高画質モード、1996年6月に任天堂が発売した据え置き型ゲーム機「[[NINTENDO64]]」など。[[Multiple Sub-Nyquist Sampling Encoding|MUSE]]などを除くアナログ放送(特にNTSC、[[480i]])やDVDをパソコン用正方画素モニタに出力する時に一般的な解像度。(アナログテレビの規格自体はそもそもドットが正方形ではなく長方形なので、これとは解像度がやや異なる。)
<!--
|-
| {{lang|en|WVGA (Wide VGA)}}
| 800
| 480
| 5:3 (15:9)
| style="text-align:right" | 384,000
| 代表例:2006年ごろの携帯電話<br />(Android端末、有機EL)2010年4月27日に[[Google]]が発売した[[HTC (企業)|HTC]]製「[[Nexus One]]」の3.7型
|-
| {{lang|en|X68000 4bit}}
| 768
| 512
| 3:2
| style="text-align:right" | 393,216
| SHARP X68000 の[[4ビット|16色カラーモード]]での表示画面解像度。実画面は1024x1024
|-
| {{lang|en|FWVGA (Full Wide VGA)}}
| 854
| 480
| 427:240<br>(約16:9)
| style="text-align:right" | 409,920
| 代表例:(日本の携帯電話、液晶)2007年4月23日にNTTドコモが発表した日本電気製「[[N904i]]」の3型<br />(Android端末、液晶)2010年1月21日にNTTドコモが発表したソニー・エリクソン製「[[SO-01B|Xperia SO-01B]]」の4型
| 初期のプラズマテレビはFWXGAや720pでも40インチ程度のサイズへの小型化が難しかったために、852x480(縦横比71:40。長辺がわずかに短い)の解像度の製品が複数あり、これもFWVGAと呼ばれる。
|-
| {{lang|en|FWVGA+ (Full Wide VGA+)}}
| 864
| 480
| 9:5 (16.2:9)
| style="text-align:right" | 414,720
|
|-
| {{lang|en|FWVGA++ (Full Wide VGA++)}}
| 960
| 480
| 2:1 (18:9)
| style="text-align:right" | 460,800
|(日本の携帯電話、液晶)2009年5月25日にKDDIと東芝が発表した東芝製「[[biblio|biblio (TSY01)]]」の3.5型<br />(Android端末、液晶)2010年3月30日にKDDIが発表したシャープ製「[[IS01]]」の5型
-->
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|[[Super Video Graphics Array|SVGA]] (Super-VGA)}}
| 800
| 600
| 4:3
| style="text-align:right" | 480,000
| VGA上位互換ビデオ規格の総称。日本ではDOS/V初期の[[ハイテキスト]] ([[V-text]]) などでサポート。
<!--
|-
| {{lang|en|UWVGA (Ultra Wide VGA)<br />HXGA (Half XGA)}}
| 1024
| 480
| 32:15 (約21:9)
| style="text-align:right" | 491,520
| 代表例:1998年9月19日にソニーが発売したノートパソコン「[[VAIOの機種一覧#VAIO_C1|VAIO C1 (PCG-C1)]]」の8.9型液晶<ref>{{Cite press release|title=小型CCDビデオカメラを内蔵し、取り込んだ動画や静止画等を手軽に電子メールで送信できる“VAIO(バイオ)” 『PCG-C1』 発売|publisher=[[ソニー]]|date=1998-09-03|url=http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199809/98-085/|accessdate= 2015-04-02}}</ref><br />(日本の携帯電話、液晶)2008年10月30日にソフトバンクモバイルが発表したシャープ製「[[SoftBank 931SH|AQUOSケータイ FULLTOUCH SoftBank 931SH]]」の3.8型
|-
| {{lang|en|qHD (Quarter HD)}}
| 960
| 540
| 16:9
| style="text-align:right" | 518,400
| 縦と横の画素数がFullHDの半分(HDの半分ではない)。
| 代表例:スマートフォン<br />(有機ELテレビ)2007年10月1日にソニーが発表した11型「XEL-1」<ref>{{Cite news|title=ソニー、薄さ3mmの11型有機ELテレビを12月発売-20万円。「技術のソニー復活の象徴に」|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2007-10-01|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20071001/sony.htm|accessdate=2015-04-01}}</ref><br />
(Android端末、液晶)2011年5月11日にシャープが発表した「[[SH-12C|AQUOS PHONE SH-12C]]」の4.2型<ref>{{Cite press release|title=株式会社NTTドコモ向け「ドコモ スマートフォン AQUOS PHONE SH-12C」を製品化|publisher=[[シャープ]]|date=2011-05-11|url=http://www.sharp.co.jp/corporate/news/110511-b.html|accessdate= 2015-04-01}}</ref>
|-
| {{lang|en|Mac 16″}}
| 832
| 624
| 4:3
| style="text-align:right" | 519,168
|
|-
| {{lang|en|Mac 15″}}
| 640
| 870
| 64:87 (約3:4)
| style="text-align:right" | 556,800
|
|-
| rowspan="2" | {{lang|en|WSVGA (Wide Super VGA)}}
| 1024
| 576
| 16:9
| style="text-align:right" | 589,824
| 代表例:低価格帯ネットブック
|-
| 1024
| 600
| 128:75 (約17:10)
| style="text-align:right" | 614,400
| 代表例:低価格帯ネットブック<br />(Android端末、液晶)2010年6月21日に東芝が発表した「[[dynabook AZ]]」の10.1型<ref>{{Cite news|title=東芝がAndroid搭載“クラウドブック”「dynabook AZ」を発表|newspaper=ITpro|date=2010-06-21|author=高橋信頼|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20100621/349475/|accessdate=2015-04-01}}</ref>。より最近の例では、Amazon製の[[Kindle Fire]] 7 タブレット。
|-
| {{lang|en|DoubleVGA}}
| 960
| 640
| 3:2
| style="text-align:right" | 614,400
| HVGAの縦と横が2倍になった規格。<br />代表例:iPhone 4, 4s, iPod touch(第4世代)<br />(Android端末、液晶)2010年10月4日にKDDIとシャープが発表した「[[IS03]]」の3.5型
|-
| {{lang|en|iPhone 4″}}
| 1136
| 640
| 71:40<br>(約16:9)
| style="text-align:right" | 727,040
| 16:9より短方向が1画素多い。<br />代表例:[[iPhone 5]], 5s, 5c, SE, iPod touch(第5世代)
|-
| {{lang|en|UWSVGA (Ultra Wide SVGA)}}
| 1280
| 600
| 32:15 (約21:9)
| style="text-align:right" | 768,000
| 代表例:[[VAIOの機種一覧#VAIO_C1|VAIO C1]]、[[リブレット]]の一部機種
-->
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|[[Extended Graphics Array|XGA]] (eXtended Graphics Array)}}
| 1024
| 768
| 4:3
| style="text-align:right" | 786,432
| [[IBM PS/2]]後期のビデオ規格。[[8514/A]]に由来し、MDA, CGA, MCGA, EGA, VGA 上位互換。単に1024x768解像度の通称としても使われている。
<!--
|-
| PC-98 [[ハイレゾ|ハイレゾモード]]
| 1120
| 750
| 112:75 (約3:2)
| style="text-align:right" | 840,000
| 他、FMR-60・70のモード
-->
|-
| {{lang|en|HD ([[720p]])}}
| 1280
| 720
| 16:9
| style="text-align:right" | 921,600
| 欧米の第一世代のデジタル放送・デジタルテレビにおいて一般的な解像度である。代表例:2011年ごろからのスマートフォン(4インチクラス)<br />(Android端末)2011年11月17日にGoogleが発売した「[[Galaxy Nexus]]」の4.65型有機EL
|-
| {{lang|en|WXGA (Wide XGA)}}
| 1280
| 768
| 5:3 (15:9)
| style="text-align:right" | 983,040
| 代表例:B5サイズ程度のノートパソコンやネットブック<br />(液晶ディスプレイ)2002年11月28日に[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]が発表した17型「FTD-W17VS」<ref>{{Cite press release|和書|title=TVチューナ搭載、マルチメディア対応17.0型ワイド液晶ディスプレイ 新発売!|publisher=株式会社メルコ|date=2002-11-28|url=http://buffalo.jp/products/new/2002/060_2.html|accessdate=2015-04-01}}</ref>
<!--
|-
| {{lang|en|XGA+}}
| 1152
| 864
| 4:3
| style="text-align:right" | 995,328
|
|-
| {{lang|en|iPhone 4.7″}}
| 1334
| 750
| 667:375<br>(約16:9)
| style="text-align:right" | 1,000,500
| 16:9には短方向に0.375ピクセル足りない。<br />代表例:[[iPhone 6]], [[iPhone 6s|6s]], [[iPhone 7|7]]
|-
| {{lang|en|Mac 21″}}
| 1152
| 870
| 192:145 (約4:3)
| style="text-align:right" | 1,002,240
| Two-Page(A4判2枚を並べて表示できるサイズ)
-->
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|WXGA (Wide XGA)}}
| 1280
| 800
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 1,024,000
| 2006年ごろからのノートパソコン(14 - 15型クラス)の主流。2009年ごろよりFWXGAへ移行。<br />代表例:タブレット端末
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|FWXGA (Full-WXGA)<br />HD}}
| 1366
| 768
| 683:384<br>(16:9に非常に近い。16.0078125:9)
| style="text-align:right" | 1,049,088
| 16:9には縦方向に0.375ピクセル足りない。ピクセル数が2の20乗をわずかに超える。<br />
代表例:低価格・小型の液晶テレビの主流(ただし4K・8K画質の衛星放送開始後は低価格・小型のフルハイビジョンテレビが増加)。2008年ごろからのノートパソコン(14 - 15型クラス)の主流(2010年代後半はローエンドを除き減少傾向)、ほかにも浴室用テレビ、液晶モニタ一体型ポータブルDVDプレイヤー、電子POPなどに見られる。<br />デジタルチューナー搭載液晶テレビの例:2002年9月25日にシャープが発表した37型「LC-37BT5」<br/> <ref>{{Cite news|title=シャープ、高精細37V型など液晶TV「AQUOS」7機種を発表|newspaper=[[ITmedia]]|date=2002-09-25|url=https://www.itmedia.co.jp/news/0209/25/nj00_aquos.html|accessdate=2015-04-01}}</ref>
|-
| {{lang|en|HD+}}
| 1520
| 720
| 19:9
| style="text-align:right" | 1,094,400
| スマートフォン、6.3型液晶。「[[ASUS ZenFone]] Max (M2)」
|-
| {{lang|en|HD+}}
| 1600
| 720
| 20:9
| style="text-align:right" | 1,152,000
| スマートフォン、6.5型液晶。「[[OPPO]] A5 2020」
<!--
|-
| {{lang|en|Ultra Wide XGA}}
| 1600
| 768
| 25:12 (約21:10)
| style="text-align:right" | 1,228,800
| 代表例:2009年1月8日にソニーが発表したノートパソコン「[[VAIOの機種一覧#type_P|VAIO Type P]]」の8型液晶
-->
|-
| {{lang|en|QVGA (Quad VGA)}}
| 1280
| 960
| 4:3
| style="text-align:right" | 1,228,800
|
|-
| {{lang|en|WXGA+ (Wide XGA+)}}
| 1440
| 900
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 1,296,000
| 2000年代初頭以降、各社ノートパソコンや、一体型パソコンの液晶で採用される。
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|SXGA (Super XGA)}}
| 1280
| 1024
| 5:4
| style="text-align:right" | 1,310,720
| 2000年代中盤の17-20インチのディスプレイに多く採用された。
|-
| {{lang|en|HD+<br />WXGA++ (Wide XGA++)}}
| 1600
| 900
| 16:9
| style="text-align:right" | 1,440,000
|
|-
| {{lang|en|SXGA+}}
| 1400
| 1050
| 4:3
| style="text-align:right" | 1,470,000
| 各社のノートパソコンに採用される。
|-
| {{lang|en|HD+}}
| 1792
| 828
| 約19.5:9
| style="text-align:right" | 1,483,776
| スマートフォン、6.1型液晶。「[[iPhone XR]]、[[iPhone 11]]」
|-
| {{lang|en|WSXGA}}
| 1600
| 1024
| 25:16(約16:10)
| style="text-align:right" | 1,638,400
|
|-
| {{lang|en|WSXGA+}}
| 1680
| 1050
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 1,764,000
| 各社ノートパソコンに採用される。辺の長さが縦横ともにWUXGAとWXGA+の中間。
代表例:(液晶ディスプレイ)2003年1月28日にアップルが発表した20型「Apple Cinema Display」<ref>{{Cite press release|和書|title=アップル、20インチのCinema Displayをお求めやすい価格で発表|publisher=[[Apple]]|date=2003-01-28|url=https://www.apple.com/jp/pr/library/2003/01/28Apple-Introduces-20-Cinema-Display-at-Breakthrough-Price.html|accessdate=2015-04-01}}</ref>
<!--
|-
| {{lang|en|SXGA+ (Super XGA+)}}
| 1400
| 1050
| 4:3
| style="text-align:right" | 1,470,000
| 代表例:(ノートパソコン、液晶)2000年11月にコンパックが発売した「Armada E500」の15型
|-
| {{lang|en|WSXGA (Wide Super XGA)}}
| 1600
| 1024
| 25:16 (約16:10)
| style="text-align:right" | 1,638,400
|代表例:(ブラウン管ディスプレイ)1996年10月にソニーが発表した24型「GDM-W900」で表示可能な解像度の一つ<ref name="GDM-W900">{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961003/sonycrt.htm|title=ソニー、アスペクト比16:10の24型ワイドディスプレイ発売|publisher=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=1996-10-03|accessdate=2015-04-01}}</ref><br />(液晶ディスプレイ)1999年9月1日に[[Apple]]が発表した22型「Apple Cinema Display」<ref>{{Cite press release|title=アップル、プロフェッショナルパブリッシング向け究極のシステム、Power Mac G4とApple Cinema Displayを発表|publisher=[[Apple|Apple Computer]]|date=1999-09-01|url=http://www.apple.co.jp/news/1999/sep/01wrapper.html|accessdate=2015-04-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000523030306/http://www.apple.co.jp/news/1999/sep/01wrapper.html|archivedate=2000-05-23}}</ref>
-->
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|[[UXGA]] (Ultra XGA)}}
| 1600
| 1200
| 4:3
| style="text-align:right" | 1,920,000
| 各社ノートパソコンに採用される。
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|FHD (Full-HD, [[1080p]])<br>2K}}
| 1920
| 1080
| 16:9
| style="text-align:right" | 2,073,600
| 日本の液晶テレビに多い解像度の一つであり、日本では「フルハイビジョン」の別名も多く用いられる。ピクセル数が2の21乗よりやや少ない。<br />
(ブラウン管ディスプレイ)1996年10月にソニーが発表した24型「GDM-W900」で表示可能な解像度の一つ<ref name="GDM-W900">{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961003/sonycrt.htm|title=ソニー、アスペクト比16:10の24型ワイドディスプレイ発売|publisher=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=1996-10-03|accessdate=2015-04-01}}</ref><!--<br />(デジタルチューナー非搭載液晶テレビ)2004年6月10日にサムスンが発表した46型「LT46G15W」<ref>{{Cite news|title=サムスン、フルHDパネル搭載の世界最大46V型液晶テレビ-DVI入力搭載の32V型も|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2004-06-10|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040610/samsung.htm|accessdate=2015-04-01}}</ref><br />(デジタルチューナー搭載液晶テレビ)2004年5月26日に三菱が発表した37型「LCD-H37MRH4」<ref>{{Cite news|title=三菱、液晶テレビシリーズ「REAL」7製品で本格市場参入-フルHD対応の37V型を9月1日発売。実売65万円|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2004-05-26|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040526/mitsu1.htm|accessdate=2016-01-14}}</ref><br />(デジタルチューナー搭載プラズマテレビ)2005年8月25日にパナソニックが発表した65型「TH-65PX500」<ref>{{Cite news|title=松下、世界初の65型フルHD対応プラズマテレビ-実売99万円で11月発売。「VIERAは国民的ブランド」 |newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2005-08-25|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20050825/pana1.htm|accessdate=2016-01-08}}</ref>--><br />(液晶ディスプレイ)2008年8月26日に[[BenQ]]が発表した21.5型「M2200HD」および「E2200HD」<ref>{{Cite news|title=ベンキュー、16:9比パネル採用の21.5型ワイド液晶「M2200HD」「E2200HD」|newspaper=[[ITmedia|ITmedia PC USER]]|date=2008-08-26|url=https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0808/26/news063.html|accessdate=2015-03-28}}</ref><br />(業務用有機ELディスプレイ)2011年2月にソニーが発売した16.5型「BVM-E170」および24.5型 「BVM-E250」<ref>{{Cite press release|和書|title=業界初 25型/17型有機ELパネルを搭載した業務用マスターモニターを発売|publisher=[[ソニー]]|date=2011-02-16|url=http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/201102/11-021/|accessdate=2015-04-02}}</ref><br />(スマートフォン、液晶)2012年7月にKDDIが発表したHTC製「[[HTL21|HTC J butterfly (HTL21)]]」の5型
<!--
|-
| {{lang|en|DCI 2K}}<ref name="DCI" />
| 2048
| 1080
| 256:135 (約17:9)
| style="text-align:right" | 2,211,840
| 映画のデジタル撮影規格として有名。(プロジェクタ)2006年3月にコダックが発表した「JMN3000」
-->
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|WUXGA (Wide Ultra-XGA)}}
| 1920
| 1200
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 2,304,000
| (ブラウン管ディスプレイ)1996年10月にソニーが発表した24型「GDM-W900」で表示可能な解像度の一つ<ref name="GDM-W900" /><br />(液晶ディスプレイ)2002年3月21日にAppleが発表した23型「[[Apple Cinema Display|Apple Cinema HD Display]] M8536」<ref>{{Cite press release|和書|title=アップル、23インチのApple Cinema HD Displayを発表|publisher=アップル|date=2002-03-21|url=https://www.apple.com/jp/pr/library/2002/03/20Apple-Unveils-Cinema-HD-23-inch-Flat-Panel-Display.html|accessdate= 2015-04-01}}</ref><br />(タブレット、液晶)2012年9月7日にAmazonが発表した「Kindle Fire HD 8.9」の8.9型<ref>{{Cite press release|和書|title=Amazon.co.jp、「Kindle Fire HD 8.9」の予約販売を本日より開始|publisher=[[Amazon.co.jp]]|date=2013-02-27|url=https://www.amazon.co.jp/gp/press/pr/20130227|accessdate=2015-04-03}}</ref> Panasonic の Let' note シリーズで採用。
<!--
|-
| {{lang|en|QWXGA}}
| 2048
| 1152
| 16:9
| style="text-align:right" | 2,359,296
| (液晶ディスプレイ)2008年11月17日に[[日本サムスン]]が発表した23型「SyncMaster 2343BW」<ref>{{Cite news|title=日本サムスン、2,048×1,152ドット表示対応の23型液晶~実売35,000円前後|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2008-11-17|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/1117/samsung.htm|accessdate=2015-04-02}}</ref>
|-
| {{lang|en|FHD+<br />WUXGA+}}
| 1920
| 1280
| 3:2
| style="text-align:right" | 2,457,600
| (タブレット、液晶)2015年3月31日にマイクロソフトが発表した「[[Microsoft Surface|Surface 3]]」の10.8型
|-
| {{lang|en|QHD (Quad HD)}}
| 2160
| 1440
| 3:2
| style="text-align:right" | 3,110,400
| (タブレット、液晶)[[2014年]]5月にマイクロソフトが発表したタブレット「[[Microsoft Surface|Surface Pro 3]]」の12型
-->
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2160
| 1080
| 18:9 (2:1)
| style="text-align:right" | 2,332,800
|スマートフォン、5型液晶。「SONY [[Xperia Ace]]」
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2280
| 1080
| 19:9
| style="text-align:right" | 2,462,400
| スマートフォン、6.3型液晶。「[[ASUS ZenFone]] Max Pro (M2)」
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2312
| 1080
| 約19.3:9
| style="text-align:right" | 2,496,960
|スマートフォン、約6.15型液晶。「[[Huawei]] P30 lite」
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2340
| 1080
| 19.5:9<br> (6.5:3=13:6)
| style="text-align:right" | 2,527,200
|スマートフォン、6.65型有機EL。「[[OPPO]] Reno 10x Zoom」
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2520
| 1080
| 21:9
| style="text-align:right" | 2,721,600
|スマートフォン、6.1型有機EL。「SONY [[Xperia 5]]」
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2436
| 1125
| 約19.5:9
| style="text-align:right" | 2,740,500
| スマートフォン、5.8型有機EL。「[[iPhone XS]]、[[iPhone 11 Pro]]」
|-
| {{lang|en|UltraWide FHD}}
| 2560
| 1080
| 64:27=4^3:3^3 <br />(約21:9=7:3)
| style="text-align:right" | 2,764,800
|アスペクト比16:9よりも横幅が広いウルトラワイドモニターで採用される。<br />FHDより左右320ピクセルずつ計640ピクセル横に広い。<br />製品例:「(液晶ディスプレイ)2012年11月8日にLGが発表した29型「EA93」<ref>{{Cite news|title=LG、2,560×1,080ドット/21:9の29型IPS液晶|newspaper=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=2012-11-15|author=若杉紀彦|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/571621.html|accessdate=2015-04-02}}</ref>」
|-
| {{lang|en|QXGA (Quad XGA)}}
| 2048
| 1536
| 4:3
| style="text-align:right" | 3,145,728
| VGA端子の出力の規格上の最大解像度(設計上はフレームレート60Hzでは2560×1600まで表示できるが、QXGAを超える解像度でのVGAの採用はごくわずか)。<br />
代表例:2012年3月7日にAppleが発表したタブレット「[[iPad (第3世代)]]」とそれ以降のiPad 9.7″<br />(ブラウン管ディスプレイ)1999年4月8日に[[iiyama]]が発売した22型「A201H」で表示可能な解像度の一つ<ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990408/iiyama.htm|title=飯山、低価格の22インチダイヤモンドトロンCRT|publisher=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=1999-04-08|accessdate=2014-11-18}}</ref><br />(液晶ディスプレイ)2001年4月18日にIBMが発表した20.8型「T210」<br />(プロジェクタ)2002年6月にビクターが発表した「DLA-QX1」<ref>{{Cite news|title=ビクター、世界初の解像度QXGA D-ILA3板式プロジェクタ-HD信号のリアル投影に初対応|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2002-06-12|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20020612/victor.htm|accessdate=2015-04-01}}</ref><br />(ノートパソコン、液晶)2002年7月にNECが発売した「VA20S/AE」の15型<ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2002/0701/nec.htm|title=NEC、2,048×1,536ドット液晶搭載のノートPC|publisher=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=2002-07-01|accessdate=2014-11-18}}</ref>
<!--
|-
| {{lang|en|MacBook 12″}}
| 2304
| 1440
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 3,317,760
| (ノートパソコン、液晶)2015年3月に発表された「MacBook」の12型。(ブラウン管ディスプレイ)2000年7月20日にソニーが発売した24型「GDM-FW900」<ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000705/sony1.htm|title=ソニー、半額以下の24インチワイドCRTディスプレイの新モデル|publisher=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=2000-07-05|accessdate=2015-04-01}}</ref>、同社の旧モデル「GDM-W900」、およびヒューレットパッカードの「HP A7217A」で表示可能な最大の解像度<br />。
|-
| {{lang|en|FHD Square}}
| 1920
| 1920
| 1:1
| style="text-align:right" | 3,686,400
| (液晶ディスプレイ)2014年12月18日に[[EIZO]]が発表した26.5型「EV2730Q」<ref>{{Cite web|url=http://www.eizo.co.jp/products/lcd/ev2730q/|title=FlexScan EV2730Q|publisher=EIZO|accessdate=2015年2月22日}}</ref>
-->
|-
| {{lang|en|FHD+}}
| 2688
| 1242
| 約19.5:9
| style="text-align:right" | 3,338,496
| スマートフォン、6.5型有機EL。「[[iPhone XS Max]]、[[IPhone 11 Pro/11 Pro Max|iPhone 11 Pro Max]]」
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|WQHD (Wide Quad-HD),[[1440p]]}}
| 2560
| 1440
| 16:9
| style="text-align:right" | 3,686,400
| 単にQHDというとこの画質を指すことも多い。画素数がHD(Full HDとは異なる)の四倍で、縦横のピクセル数は共にHDの二倍。(ノートパソコン、液晶)2013年4月18日に東芝が発表した「dynabook KIRA V832」の13.3型<br />(スマートフォン、液晶)2014年5月8日にKDDIとLGが発表した「[[LGL24|isai FL LGL24]]」の5.5型
|-
| {{lang|en|WQXGA}}
| 2560
| 1600
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 4,096,000
| (液晶ディスプレイ)2004年6月29日にアップルが発表した30型「Apple Cinema HD Display A1083」<br />(ノートパソコン、液晶)2012年6月12日に同社が発表した「[[MacBook Pro]]」の一部モデルの13.3型<ref>[http://www.apple.com/jp/pr/library/2012/06/11Apple-Introduces-All-New-MacBook-Pro-with-Retina-Display.html Apple、まったく新しいMacBook Pro Retinaディスプレイモデルを発表] アップル プレスリリース 2012年6月12日</ref><br />(タブレット、液晶)2012年10月29日にGoogleが発売した「[[Nexus 10]]」の10型
|-
| {{lang|en|Full Vision QHD}}
| 2880
| 1440
| 2:1 (18:9)
| style="text-align:right" | 4,147,200
| (スマートフォン、液晶)2017年2月7日にLGが発表した「G6」
|-
| {{lang|en|2K Square}}
| 2048
| 2048
| 1:1
| style="text-align:right" | 4,194,304
| (液晶ディスプレイ)2008年5月1日にEIZOが[[航空管制]]市場向けに発売した28.05型「SQ2801」<ref>{{cite web|url=http://www.eizo.co.jp/support/db/products/model/SQ2801 |title=SQ2801 |publisher=EIZO |date= |accessdate=2014年11月1日}}</ref>および「SQ2802」<ref>{{cite web |url=http://www.eizo.co.jp/products/atc/sq2802/ |title=Raptor SQ2802 | EIZO株式会社 |publisher=EIZO |date= |accessdate=2014年11月1日}}</ref>に搭載
|-
| {{lang|en|WQHD+}}
| 2960
| 1440
| 37:18 (18.5:9)
| style="text-align:right" | 4,262,400
| (スマートフォン、液晶)2017年3月30日にSamsungが発表した「Galaxy S8」
|-
| {{lang|en|Pixel A5}}
| 2560
| 1800
| 64:45 (約:√2:1)
| style="text-align:right" | 4,608,000
| (タブレット、液晶)2015年9月30日にgoogleが発表した「Pixel C」の10.2型、[[ISO 216|A5規格用紙]]に近似させた
|-
| {{lang|en|3K}}
| 2880
| 1620
| 16:9
| style="text-align:right" | 4,665,600
| (ノートパソコン、液晶)2013年12月7日にソニーが発売した「VAIO Fit 15A」の15.5型
|-
| {{lang|en|Ultra-Wide QHD (UWQHD)}}
| 3440
| 1440
| 43:18 (21.5:9)
| style="text-align:right" | 4,953,600
| アスペクト比16:9よりも横幅が広いウルトラワイドモニターで採用される。<br />WQHDより左右440ピクセル、計880ピクセル横に広い。<br />(液晶ディスプレイ)2013年12月17日にLGが発表した34型および24型「UM95」<ref>{{Cite news|title=ワイド画面好き垂涎? アスペクト比21:9で3440×1440ドットを実現した34インチ&29インチ液晶ディスプレイをLGが発表|newspaper=[[4Gamer.net]]|date=2013-12-17|author=小西利明|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999902/20131217088/|accessdate=2015-04-02}}</ref>
|-
| {{lang|en|Surface 12.3″}}
| 2736
| 1824
| 3:2
| style="text-align:right" | 4,990,964
| (タブレット、液晶)2015年10月6日にMicrosoftが発表したSurface Pro 4
|-
|{{lang|en|3K (QHD+)}}
| 3008
| 1692
| 16:9
| style="text-align:right" | 5,089,536
|4Kディスプレイの疑似解像度での表示など<ref>{{Cite web|和書|title=macOS / OS Xの表示サイズ変更設定(HiDPI表示)|publisher=[[EIZO]]|date=2014-11-01|url=https://www.eizo.co.jp/support/compati/software/mac/mac_os_x_hidpi/ |accessdate=2020-06-05}}</ref>。
|-
| {{lang|en|QWXGA+ (Quad WXGA+)}}
| 2880
| 1800
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 5,184,000
| (ノートパソコン、液晶)2012年6月12日にAppleが発表した「MacBook Pro」の一部モデルの15.4型
|-
| {{lang|en|QSXGA (Quad SXGA)}}
| 2560
| 2048
| 5:4
| style="text-align:right" | 5,242,880
| (液晶パネル)2002年10月29日にNECが発表した20.1型<ref>{{Cite press release|和書|title=524万画素の大表示容量を超広視野角で実現した20.1型TFT液晶ディスプレイモジュールの開発について|publisher=日本電気株式会社|date=2002-10-29|url=http://www.nec.co.jp/press/ja/0210/2902.html|accessdate=2015-04-15}}</ref>
|-
| {{lang|en|[[iPad Pro]] 12.9″}}
| 2732
| 2048
| 683:512 (約4:3)
| style="text-align:right" | 5,595,136
| 4:3より短方向が1画素足りない
|-
| {{lang|en|QHD+ (Quad HD+)<br />WQXGA+}}<br />3K
| 3200
| 1800
| 16:9
| style="text-align:right" | 5,760,000
| (液晶パネル)2013年6月にシャープが生産開始したノートPC向け14・15.6インチ<ref>{{Cite press release|和書|title=ノートPC向けIGZO液晶パネル 3タイプを生産開始|publisher=シャープ|date=2013-05-14|url=http://www.sharp.co.jp/corporate/news/130514-f.html|accessdate=2015-04-15}}</ref><br />(ノートパソコン、液晶)富士通が発表した「FMV UH90/L」の14型<ref>{{Cite press release|和書|title=個人向けパソコン「FMV」新製品3シリーズ4機種を発表|publisher=[[富士通]]|date=2013-06-05|url=http://pr.fujitsu.com/jp/news/2013/06/5.html|accessdate=2015-04-03}}</ref>
|-
| {{lang|en|Surface 13.5″}}
| 3000
| 2000
| 3:2
| style="text-align:right" | 6,000,000
| (タブレット、液晶)2015年10月6日にMicrosoftが発表したSurface Book
|-
| {{lang|en|UltraWide QHD+}}
| 3840
| 1600
| 21:9 (7:3)
| style="text-align:right" | 6,144,000
|通常の[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]よりも横幅が広いウルトラワイドモニターで採用される。
|-
| {{lang|en|UltraWide QHD+<br />(4K HDR)}}
| 3840
| 1644
| 21:9
| style="text-align:right" | 6,312,960
|スマートフォン、6.5型有機EL。「SONY [[Xperia 1]]」
|-
| {{lang|en|QUXGA (Quad UXGA)}}
| 3200
| 2400
| 4:3
| style="text-align:right" | 7,680,000
| (液晶ディスプレイ)2000年11月16日に東芝が発表した20.8型<ref>{{Cite press release|和書|title=高精細カラー液晶ディスプレイ20.8型の発売について|publisher=[[東芝]]|date=2000-11-16|url=http://www.toshiba.co.jp/about/press/2000_11/pr_j1601.htm|accessdate=2015-04-02}}</ref>
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|4K<br />QFHD (Quad Full-HD)<br />UHD 4K ([[2160p]])}}<ref name="ITU">[http://www.itu.int/net/pressoffice/press_releases/2012/31.aspx ITU勧告のthe first level UHDTV] 及び全米家電協会による定義</ref>
| 3840
| 2160
| 16:9
| style="text-align:right" | 8,294,400
| (業務用液晶ディスプレイ)2007年4月に東芝ライテックが発売した56型「P56QHD」<ref>{{Cite news|title=東芝ライテック,QFHDの業務用液晶ディスプレイの受注を4月に開始|newspaper=日経テクノロジーオンライン|date=2007-03-06|author=大西順雄|url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20070306/128460/|accessdate=2015-04-15}}</ref><br />(液晶ディスプレイ)2012年11月28日にシャープが発表した32型「PN-K321」<br />(ノートパソコン、液晶)2014年4月に東芝が発表した「dynabook T954」の15.6型<br />(スマートフォン、液晶)2015年9月に[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]]が発表した「Xperia Z5 Premium」の5.5型
|-
| {{lang|en|[[4096×2160|DCI 4K]]}}<ref group=注>Digital Cinema Initiatives</ref>
| 4096
| 2160
| 256:135 (約17:9)
| style="text-align:right" | 8,847,360
| 2009年5月に発表されたHDMI 1.4の最大解像度。映画のデジタル撮影規格として有名。<br>(液晶ディスプレイ)2011年10月26日にEIZOが発売した36.4型「FDH3601」<ref>{{Cite news|title=ナナオ、36.4型/4K×2Kディスプレイ「FDH3601」-直販288万円。航空管制や地図測量向け|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2011-06-20|author=山崎健太郎|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/454630.html|accessdate=2015-04-02}}</ref><br />(業務用有機ELディスプレイ)2015年2月にソニーが発売した30型「BVM-X300」
|-
| {{lang|en|WQUXGA (Wide QUXGA)}}
| 3840
| 2400
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 9,216,000
| デュアルリンク DVI-D 出力の最大解像度<br />(液晶ディスプレイ)2000年11月10日にIBMが発表した22型「T221」<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/116/116807.html IBM、22型で3840×2400ドットの液晶ディスプレイ] nikkei BPnet 2000年11月10日</ref>
|-
| {{lang|en|iMac Retina 4K}}
| 4096
| 2304
| 16:9
| style="text-align:right" | 9,437,184
| (一体型パソコン、液晶)2015年10月13日にAppleが発表した「[[iMac]] Retina 4Kディスプレイモデル」の21.5型
|-
| {{lang|en|DCI 4K+}}
| 4096
| 2560
| 8:5 (16:10)
| style="text-align:right" | 10,485,760
| (業務用液晶ディスプレイ)2014年1月に[[キヤノン]]が発売した30型「DP-V3010」<ref>{{cite news|title=キヤノン、4Kモニター「DP-V3010」発売日を1月28日に決定|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2014-01-24|author=臼田勤哉|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/632301.html|accessdate=2014年11月1日}}</ref>
|-
|iMac Retina 4.5K
|4480
|2520
|16:9
|11,289,600
|(一体型パソコン、液晶)2021年4月20日にAppleが発表した「新しい24インチiMac」<ref>{{Cite web|和書|title=あざやかなカラーでデザインを一新したiMacが、M1チップと4.5K Retinaディスプレイを搭載して登場|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/04/imac-features-all-new-design-in-vibrant-colors-m1-chip-and-45k-retina-display/|website=Apple Newsroom (日本)|accessdate=2021-12-03|language=ja-JP}}</ref>
|-
| {{lang|en|[[5K解像度|5K]]<br />UHD+}}
| 5120
| 2880
| 16:9
| style="text-align:right" | 14,745,600-
| 縦横のドット数がWQHDの2倍になった規格であり、qHDの5倍(=FHDの2.5倍)ではない。縦横の長さが4Kの5/4倍よりも大きい4/3倍になっている。<br />(一体型パソコン、液晶)2014年10月17日にAppleが発表した「[[iMac]] Retina 5Kディスプレイモデル」の27型<br />(液晶ディスプレイ)2014年11月27日に[[デル]]が発表した27型「UP2715K」<ref>{{Cite news|title=デル、世界初の5K対応液晶を20万円切りで国内販売|newspaper=[[Impress Watch|Impress PC Watch]]|date=2014-11-27|author=劉尭|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/677853.html|accessdate=2015-03-28}}</ref>
|-
|{{lang|en|6K<br />XDR(Extreme Dynamic Range)}}
| 6016
| 3384
| 16:9
| style="text-align:right" | 20,358,144
| 2019年6月3日にAppleが発表したMac Pro用の32型「[[Apple Pro Display XDR|Pro Display XDR]]」
|- style="background-color:#ffffa2"
| {{lang|en|8K FUHD ([[4320p]])<br />[[スーパーハイビジョン]]}}<ref name="ITU" />
| 7680
| 4320
| 16:9
| style="text-align:right" | 33,177,600
| (業務用液晶ディスプレイ)2014年6月に[[アストロデザイン]]が発売した98型<ref>{{Cite news|title=アストロデザイン、初の8K/98型液晶モニタ。約3,000万円|newspaper=[[Impress Watch|Impress AV Watch]]|date=2014-06-19|author=中林暁|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/654196.html|accessdate=2015-04-02}}</ref><br />2014年9月に発表された[[VESA]] [[DisplayPort]] 1.3規格最大解像度。<br />(液晶ディスプレイ)2015年9月16日にシャープが発表した85型「LV-85001」<ref>{{Cite press release|和書|title=8K映像モニター 第1弾モデル<LV-85001>を発売|publisher=[[シャープ]]|date=2015-09-16|url=http://www.sharp.co.jp/corporate/news/150916-a.html|accessdate=2015-09-18}}</ref>
<!--
|-
| {{lang|en|8K}}
| 8192
| 4320
| 256:135 (約17:9)
| style="text-align:right" | 35,389,440
| (プロジェクタ)2009年5月に[[日本ビクター]]が発表<ref>{{Cite press release|title=スーパーハイビジョンフル解像度D-ILAプロジェクターを新開発|publisher=[[日本ビクター]]|date=2009-05-12|url=http://www3.jvckenwood.com/press/2009/3xd-ila.html|accessdate=2015-04-02}}</ref>
-->
|-
| {{lang|en|10K}}
| 10240
| 4320
| 64:27 (約21:9)
| style="text-align:right" | 44,236,800
| 2017年1月に発表されたHDMI 2.1の最大解像度。上下方向のピクセル数は8Kテレビと同一である一方、左右方向のピクセル数が多くなっている。その結果、縦横比がHD/Full-HD/4K/8Kと比べてさらに横長で、[[シネスコープ]]に近い。
|-
| {{lang|en|16K}}
| 15360
| 4320
| 32:9
| style="text-align:right" | 66,355,200
| 2019年4月に16Kディスプレイを[[ソニービジネスソリューション]]が納入<ref>{{cite news|title=ソニー、世界最大19m幅の16K「Crystal LEDディスプレイ」納入。横浜・資生堂ラボ |publisher=Av Watch|date=2019-04-02|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1177870.html |accessdate=2020-06-05}}</ref>。
|-
|16K
|15360
|8640
|16:9
|132,710,400
|2019年6月に発表されたDisplayPort2.0の最大解像度。
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[動作環境]]
*[[ピクセル]]
*[[色深度]]
*[[画面サイズ]]
*[[リフレッシュレート]]
*[[解像度]] - [[ビットマップ画像]] - [[動画解像度]]
*[[ビデオカード]]
*[[WYSIWYG]]
*[[SDTV]] - [[高精細度テレビジョン放送|HDTV]] - [[UHDTV]]
*[[ディスプレイ解像度]]
*[[高解像度スマートフォンディスプレイの比較]]
== 外部リンク ==
* [http://home.jeita.or.jp/is/publica/2007/07-syu-7.pdf 社団法人 電子情報技術産業協会 "ディスプレイ装置カタログ用語集 第1版"]
* [https://www.sid.org/Standards/ICDM#8271483-idms-download Society for Information Display "Information Display Measurements Standard version1.1"]
{{DEFAULTSORT:かめんかいそうと}}
[[Category:ディスプレイ技術]]
[[Category:グラフィックカード]]
|
2003-08-22T12:57:03Z
|
2023-11-28T16:09:32Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E9%9D%A2%E8%A7%A3%E5%83%8F%E5%BA%A6
|
13,757 |
Super Video Graphics Array
|
Super Video Graphic Array (スーパービデオグラフィックアレイ、SVGA) は、Super VGAの略称。VGAの上位互換のビデオ規格の総称である。転じて、初期のSVGAで有力であった800×600ピクセルの画面解像度の事を呼ぶようにもなった。
「スーパーVGA」という名称の通り「VGAの上位互換のビデオ規格の総称」である。VGAの各画面モードに加え、1つでも追加の画面モード(画素数/色数)があれば全て「SVGA」と言える。例えば「VGAおよび 640×480ピクセル 256色」でも「VGAおよび800×600ピクセル 16色」でも「VGAおよび1280×1024ピクセル」でも、全てSVGAである。明示的にはVESAにより事後的に制定された定義に基づき、遡ってそれ以前から存在したVGA互換かつ上位のグラフィック・アダプタ(アレイ)もそう呼ばれるようになった。VESAによる定義より現在(執筆時点 2020年12月時点)におけるまで販売されているPC/AT互換機にチップセット内蔵などで搭載、もしくは拡張カードとして販売されている表示回路は、すべてSVGAである。なお、類似の表示能力を持つJEGAはあくまでEGAの拡張であるため、またPC-9821シリーズもVGA互換ではないため、定義から外れる。
原義のVGAは最大640×480ピクセル 16色しか表示できなかった。まずはMS-DOSユーザーの中から高解像度を求める声が高まり、ソフトウェア的な手法で疑似的に表示限界を越える文字数の表示が行われるようになった。のちにMicrosoft Windowsの利用者が増加するとともに、抜本的な高解像度化・高性能化が求められた。そのため、各グラフィックコントローラメーカーから様々なビデオチップが開発され、ビデオカードに搭載されたのだが、それらはもっぱらWindowsを高解像度化、高速化するために用いられたためにウィンドウアクセラレータと称された。その際、メーカーが独自の拡張を施していったため、表示モードには非互換が生じ、デバイスドライバの作成はグラフィックコントローラやビデオカード製造者が別個に行うものであり、動作は必ずしも保証されなかった。
そのため、VESAによって画面のサイズや色数やリフレッシュレート変更手順、フレームバッファの開始アドレスやアクセス方法の違いをBIOSで吸収する事を目的としたVESA BIOS Extensionsが定められた。
なお、VESAにより定義された当初のSVGAにおける代表的な画面解像度が800×600ピクセルであったため、転じて「SVGAとは800×600ピクセル解像度のこと」という意味でも広く使われている。だが正確には、800×600ピクセルであってもVGA互換でないものはSVGAではなく、640×480ピクセルであっても256色同時表示できるのであればSVGAであるし、1024×768ピクセル(広義の意味で俗にXGAとも称される)や1280×1024ピクセルであってもVGAとの互換性を有しているなら広義のSVGAに含まれる。
|
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Super Video Graphic Array (スーパービデオグラフィックアレイ、SVGA) は、Super VGAの略称。VGAの上位互換のビデオ規格の総称である。転じて、初期のSVGAで有力であった800×600ピクセルの画面解像度の事を呼ぶようにもなった。
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'''Super Video Graphic Array''' (スーパービデオグラフィックアレイ、'''SVGA''') は、'''Super VGA'''の略称。'''[[Video_Graphics_Array|VGA]]'''の上位互換のビデオ規格の総称である。転じて、初期のSVGAで有力であった800×600[[ピクセル]]の画面解像度の事を呼ぶようにもなった。
== 概要 ==
「スーパーVGA」という名称の通り「VGAの上位互換のビデオ規格の総称」である。VGAの各画面モードに加え、1つでも追加の画面モード([[画面解像度|画素数]]/色数)があれば全て「SVGA」と言える。例えば「VGAおよび 640×480ピクセル 256色」でも「VGAおよび800×600ピクセル 16色」でも「VGAおよび1280×1024ピクセル」でも、全てSVGAである。明示的には[[VESA]]により事後的に制定された定義に基づき、遡ってそれ以前から存在したVGA互換かつ上位のグラフィック・アダプタ(アレイ)もそう呼ばれるようになった。VESAによる定義より現在(執筆時点 2020年12月時点)におけるまで販売されている[[PC/AT互換機]]に[[チップセット]]内蔵などで搭載、もしくは[[拡張カード]]として販売されている表示回路は、すべてSVGAである。なお、類似の表示能力を持つ[[Japanese Enhanced Graphics Adapter|JEGA]]はあくまで[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]の拡張であるため、また[[PC-9821シリーズ]]もVGA互換ではないため、定義から外れる。
原義のVGAは最大640×480ピクセル 16色しか表示できなかった。まずは[[MS-DOS]]ユーザーの中から高解像度を求める声が高まり、ソフトウェア的な手法で疑似的に表示限界を越える文字数の表示が行われるようになった。のちに[[Microsoft Windows]]の利用者が増加するとともに、抜本的な高解像度化・高性能化が求められた。そのため、各[[グラフィックコントローラ]]メーカーから様々なビデオチップが開発され、[[ビデオカード]]に搭載されたのだが、それらはもっぱらWindowsを高解像度化、高速化するために用いられたために[[ウィンドウアクセラレータ]]と称された。その際、メーカーが独自の拡張を施していったため、表示モードには非互換が生じ、[[デバイスドライバ]]の作成はグラフィックコントローラやビデオカード製造者が別個に行うものであり、動作は必ずしも保証されなかった。
そのため、VESAによって画面のサイズや色数やリフレッシュレート変更手順、フレームバッファの開始アドレスやアクセス方法の違いを[[Basic Input/Output System|BIOS]]で吸収する事を目的とした[[VESA BIOS Extensions]]が定められた。
なお、VESAにより定義された当初のSVGAにおける代表的な画面解像度が800×600ピクセルであったため、転じて「SVGAとは800×600ピクセル解像度のこと」という意味でも広く使われている。だが正確には、800×600ピクセルであってもVGA互換でないものはSVGAではなく、640×480ピクセルであっても256色同時表示できるのであればSVGAであるし、1024×768ピクセル(広義の意味で俗に[[Extended Graphics Array|XGA]]とも称される)や1280×1024ピクセルであってもVGAとの互換性を有しているなら広義のSVGAに含まれる。
== 関連項目 ==
*[[VESA]]
*[[VESA BIOS Extensions]]
*[[画面解像度]](代表的な画面モード)
{{IBM PCファミリーのビデオハードウェア}}
[[Category:グラフィックカード]]
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13,758 |
経営シミュレーションゲーム
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経営シミュレーションゲーム (けいえいシミュレーションゲーム) とは、都市や企業等の経営を行うシミュレーションゲームである。主なジャンルは都市、鉄道、遊園地、博物館、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、ラーメン店、運送業、学校、解体業、ビルやマンションなど様々である。
尚、様々なプラットホームにて公開されている作品は特記している。
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"title": "主な経営シミュレーションゲーム(プラットホーム別)"
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経営シミュレーションゲーム (けいえいシミュレーションゲーム) とは、都市や企業等の経営を行うシミュレーションゲームである。主なジャンルは都市、鉄道、遊園地、博物館、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、ラーメン店、運送業、学校、解体業、ビルやマンションなど様々である。
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{{出典の明記|date=2018年10月}}
[[File:Openttd interface.png|thumb|[[運輸]][[会社]]を[[経営]]するゲーム[[OpenTTD]]]]
'''経営シミュレーションゲーム''' (けいえいシミュレーションゲーム) とは、都市や企業等の経営を行う[[シミュレーションゲーム]]である。主なジャンルは都市、鉄道、遊園地、博物館、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、ラーメン店、運送業、学校、解体業、ビルやマンションなど様々である。
== 主な経営シミュレーションゲーム(プラットホーム別) ==
尚、様々なプラットホームにて公開されている作品は特記している。
=== パソコン用のもの ===
* [[A列車で行こうシリーズ]] - 初代A列車でいこう~A列車で行こうIV、A列車で行こう5、A列車で行こう The 21st Century、A列車で行こう7、A列車で行こう8、A列車で行こう9、みんなのA列車で行こうPC、A列車で行こう はじまる観光計画
* [[ザ・コンビニ]]
* [[ザ・ファミレス]] - ザ・ファミレス ~あの町を独占せよ~
* [[テーマパーク (ゲーム)|テーマパーク]] - テーマパーク、新テーマパーク、テーマパークワールド、(株)テーマパーク
* [[テーマホスピタル]]
* [[テーマアクアリウム]](移植版)
* [[エアーマネジメント]] - エアーマネジメント 大空に賭ける、エアーマネジメント'96
* [[トップマネジメント]]
* [[シムシティシリーズ]]
* [[タイクーン (ゲーム)|タイクーン]]シリーズ
* [[ザ・タワー (ゲーム)|ザ・タワー]]
* [[トロピコ]]
* [[キャピタリズムII]]
* [[バーガーバーガー]]
* [[しろつく]]
* [[Mr.CEO]]
* [[セガガガ]]
* [[カイロソフト]]
* [[Planet Coaster]]
*[[Cities: Skylines|Cities:Skylines]]
=== ゲーム機用のもの ===
* [[A列車で行こうシリーズ]]
**初代A列車で行こう([[ファミリーコンピュータ]])
**A.IV.EVOLUTION({{lang|en|[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]}})
**A.IV.EVOLUTION GLOBAL({{lang|en|[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]}}、{{lang|en|[[PlayStation 3]]}}、{{lang|en|[[PlayStation Portable]]}})
**A列車で行こう5 家庭用版({{lang|en|PlayStation (ゲーム機)|PlayStation}}、{{lang|en|PlayStation 3}}、{{lang|en|PlayStation Portable}})
**A列車で行こうZ -めざせ!大陸横断-({{lang|en|PlayStation (ゲーム機)|PlayStation}})
**リサと一緒に大陸横断 〜A列車で行こう〜({{lang|en|PlayStation Portable}})
**A列車で行こう6({{lang|en|[[PlayStation 2]]}})
**A列車で行こう2001({{lang|en|PlayStation 2}})
**A列車で行こうHX({{lang|en|[[Xbox 360]]}})
**A列車で行こうDS([[ニンテンドーDS|ニンテンドー{{lang|en|DS}}]]、[[ニンテンドー3DS|ニンテンドー{{lang|en|3DS}}]])
**A列車で行こうExp.({{lang|en|[[PlayStation 4]]}}、{{lang|en|[[PlayStation VR]]}})
**A列車で行こう3D(ニンテンドー{{lang|en|3DS}})
**A列車で行こう3D NEO(ニンテンドー{{lang|en|3DS}})、
**A列車で行こう はじまる観光計画([[Nintendo Switch]])
**A列車で行こう ひろがる観光ライン(Nintendo Switch)
* [[学校をつくろう!!]]シリーズ
* [[どうぶつの森シリーズ]]
* [[牧場物語シリーズ]]
== 関連項目 ==
*[[ミニスケープ]]
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|
13,759 |
育成シミュレーションゲーム
|
育成シミュレーションゲーム(いくせいシミュレーションゲーム)とは、成長するモノの能力などを上げること及びその成長過程に主眼を置いたシミュレーションゲーム。育成対象には競走馬や子供(主に娘)、あるいはプレイヤーキャラクター自身などが挙げられる。野球やサッカーなどのチームを強くするタイプのゲームも、「上達」を「育成」ととらえて育成シミュレーションゲームの中に入れることがある。俗称・育てゲー。
多くの一般的なゲームではキャラクターの能力は数値として表現されていて、数値を上げることがゲームを有利に進め勝利するための重要な手段になっている。その数値を上げることを主目的としたのが育成シミュレーションゲームである。例えばRPGでは、物語の進行に合わせて数々の敵と遭遇し、戦いを経ることでキャラクターの能力(数値)が上がっていき、最終的な敵を倒せるようになる。育成シミュレーションゲームでは、制作者から用意された物語を単純になぞるだけに留まらず、プレイヤーが繰り返す選択やそれによる数値の上下によって様々な出来事が起こる。
キャラクターを育成すること自体が目的のゲームと、キャラクターの育成によって大会制覇など何らかの結果を目的とするゲームに大別できる。いずれもキャラクターの寿命などの期限が過ぎるとそれ以上数値を上げられなくなり、ゲームは一つの区切りを迎える。ゲームオーバーとなって成果に応じたエンディングが表示されたり、次の育成対象(交配などによって前のキャラクターの能力を引き継げる場合もある)に取りかかって引き続き目標達成を目指すことになる。限られた期間内で高い数値を達成するために、様々な選択肢を選ぶタイミングを見極めることがゲームの決め手となる。
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育成シミュレーションゲーム(いくせいシミュレーションゲーム)とは、成長するモノの能力などを上げること及びその成長過程に主眼を置いたシミュレーションゲーム。育成対象には競走馬や子供(主に娘)、あるいはプレイヤーキャラクター自身などが挙げられる。野球やサッカーなどのチームを強くするタイプのゲームも、「上達」を「育成」ととらえて育成シミュレーションゲームの中に入れることがある。俗称・育てゲー。
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'''育成シミュレーションゲーム'''(いくせいシミュレーションゲーム)とは、成長するモノの能力などを上げること及びその成長過程に主眼を置いた[[シミュレーションゲーム]]。育成対象には競走馬や子供(主に娘)、あるいは[[プレイヤーキャラクター]]自身などが挙げられる。[[野球]]や[[サッカー]]などのチームを強くするタイプのゲームも、「上達」を「育成」ととらえて育成シミュレーションゲームの中に入れることがある。俗称・'''育てゲー'''。
==解説==
多くの一般的なゲームではキャラクターの能力は数値として表現されていて、数値を上げることがゲームを有利に進め勝利するための重要な手段になっている。その数値を上げることを主目的としたのが育成シミュレーションゲームである。例えば[[コンピュータRPG|RPG]]では、物語の進行に合わせて数々の敵と遭遇し、戦いを経ることでキャラクターの能力(数値)が上がっていき、最終的な敵を倒せるようになる。育成シミュレーションゲームでは、制作者から用意された物語を単純になぞるだけに留まらず、プレイヤーが繰り返す選択やそれによる数値の上下によって様々な出来事が起こる。
キャラクターを育成すること自体が目的のゲームと、キャラクターの育成によって大会制覇など何らかの結果を目的とするゲームに大別できる。いずれもキャラクターの寿命などの期限が過ぎるとそれ以上数値を上げられなくなり、ゲームは一つの区切りを迎える。[[ゲームオーバー]]となって成果に応じたエンディングが表示されたり、次の育成対象(交配などによって前のキャラクターの能力を引き継げる場合もある)に取りかかって引き続き目標達成を目指すことになる。限られた期間内で高い数値を達成するために、様々な選択肢を選ぶタイミングを見極めることがゲームの決め手となる。
== 主な育成シミュレーションゲーム ==
=== 人物育成ゲーム===
* [[プリンセスメーカー]]シリーズ
* [[卒業 (ゲーム)|卒業]]シリーズ
* [[Tomak〜Save the Earth〜Love Story]] - [[恋愛シミュレーションゲーム]]の要素も強い。<!--育成するのは生首なので"人物"育成ではないかもしれませんが、"架空の生物の育成ゲーム"よりはこちらのほうが適していると考えられるのでこちらにカテゴライズ。-->
* [[実況パワフルプロ野球]]シリーズ - 「[[実況パワフルプロ野球 サクセスモード|サクセスモード]]」はプレイヤーキャラの野球選手を育てる。
* [[俺の屍を越えてゆけ]]
* [[THE IDOLM@STER]]シリーズ
==== 育成対象が擬人化されているゲーム ====
* [[艦隊これくしょん -艦これ-]]
* [[刀剣乱舞]]
* [[戦艦少女R]]
* [[ウマ娘 プリティーダービー]] - 擬人化対象は競走馬。
===競走馬育成ゲーム===
* [[ダービースタリオン]]シリーズ
* [[ウイニングポストシリーズ]]
===スポーツチーム育成ゲーム===
* [[プロサッカークラブをつくろう!]]シリーズ
* [[プロ野球チームをつくろう!]]シリーズ
===架空の生物の育成ゲーム===
* [[たまごっち]]シリーズ
* [[デジタルモンスター]]シリーズ
* [[シーマン]]
* [[モンスターファームシリーズ]]
==関連項目==
* [[飼育]]
* [[バーチャルペット]]
* [[ミニスケープ]]
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13,762 |
1548年
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1548年(1548 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1548年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[戊申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]17年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2208年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]27年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]]3881年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[景暦]]元年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]16年
* [[仏滅紀元]] : 2090年 - 2091年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 954年 - 955年
* [[ユダヤ暦]] : 5308年 - 5309年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1548|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[シュターツカペレ・ドレスデン|ドレスデン・シュターツカペレ(ザクセン州立歌劇場管弦楽団)]]が設立(世界で2番目に古いといわれるオーケストラ)。
* [[3月23日]](天文17年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]])- [[上田原の戦い]]。[[信濃国]]へ出兵した[[武田信玄|武田晴信]]が[[村上義清]]に大敗する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1548年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[榊原康政]]、[[徳川家康]]の家臣、[[徳川四天王]]の1人。[[上野国]][[館林藩]]の初代藩主(+ [[1606年]])
* [[本多忠勝]]、徳川家康の家臣、徳川四天王の1人。[[伊勢国]][[桑名藩]]の初代藩主(+ [[1610年]])
* [[高橋紹運]]、[[大友義鎮|大友宗麟]]の家臣。[[立花宗茂]]の実父にあたる(+ [[1586年]])
* [[田中吉政]]、戦国時代の武将。[[筑後国]][[柳河藩]]初代藩主(+[[1609年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1548年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月23日]](天文17年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[甘利虎泰]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将、[[武田二十四将]]の一人(* [[1498年]])
* 3月23日(天文17年2月14日) - [[板垣信方]]、戦国時代の武将、武田二十四将の一人(* [[1489年]]?)
* [[4月30日]](天文17年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]) - [[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]]、戦国時代の武将、[[越前国]]の[[戦国大名]](* [[1493年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1548}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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|
13,763 |
1539年
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1539年(1539 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1539年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2199年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]18年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]34年
** [[檀君紀元|檀紀]]3872年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[大正 (莫朝)|大正]]10年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]7年
* [[仏滅紀元]] : 2081年 - 2082年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 945年 - 946年
* [[ユダヤ暦]] : 5299年 - 5300年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1539|Type=J|表題=可視}}
<!--== できごと ==-->
== 誕生 ==
{{see also|Category:1539年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月15日]]([[天文 (元号)|天文]]7年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[前田利家]]、[[武将]]、[[五大老]](+ [[1599年]])
* [[長宗我部元親]]、戦国大名(+ 1599年)
* [[安東愛季]]、武将(+ 1587年)
== 死去 ==
{{see also|Category:1539年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1539}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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|
13,764 |
たまごっち
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たまごっち(英:Tamagotchi)は1996年11月23日に日本のバンダイから発売されたキーチェーンタイプの電子ゲームであり、登場するキャラクターのことでもある。名称の由来は「たまご(Tamago)」と「ウオッチ(Watch、腕時計)」。企画、開発は横井昭裕。
「たまごっち」をローマ字で表記するとTamagotchまたはTamagotchi。略称はTMGC。
画面の中に登場する「たまごっち」と呼ばれる生物にえさ(ご飯)を与えたり、糞の掃除をしたり「たまごっち」と遊んだりしながら育てていく。こまめにコミュニケーションをとっていれば機嫌がいいが、餌をやり忘れたり、糞の掃除が滞ったりすると機嫌が悪くなり最悪の場合には死に至ることもある。こうして育てていくと、ある程度時間が経てば「おやじっち」や「にょろっち」など様々な生物に変身する。どの生物になるかは、生物のその時の体重や機嫌に左右されるよう設定されている。その他、名称の由来どおり単なる時計としても利用することができる。
大きさは高さ53mmで、白黒液晶画面の下部に3つのボタンを備えている。ボタンは左からコマンドの選択・決定・キャンセルに割り当てられ、この操作体系は同社の『デジタルモンスター』、他社の『ドラゴンクエスト あるくんです』など多くのゲームに引き継がれた。
バンダイ公式では1996年から1998年発売機種を「誕生期」、2004年から2007年発売機種を「ツーしん期」、2008年から現在発売している機種は「カラー期」に分類されている。
2023年7月15日に「たまごっちユニ」が発売された。
その他、バンダイのぬいぐるみ『プリモプエル』のコンセプトは「リアルな立体版たまごっち」である。
第1話「グシシシ おやじっち」(1997年7月7日放送)
第2話「ヒネヒネ ますくっち」(1997年7月14日放送)
第3話「バクバク にょろっち」(1997年8月4日放送)
第4話「キビキビ まめっち」(1997年8月11日放送)
第5話「フリフリ ぎんじろっち」(1997年8月18日放送)
第6話「モンモン ポチっち」(1997年8月25日放送)
第7話「ナゾナゾ ズキっち」(1997年9月1日放送)
第8話「ハナハナ とんがりっち」(1997年9月8日放送)
第9話「ぶっタマゲ てんしっち」(1997年10月13日放送)
以降はVHS版未収録
第10話「ウロウロ せきとりっち」(1997年10月20日放送)
第11話「パクパク まるっち」(1997年10月27日放送)
第12話「ワクワク くちぱっち」(1997年11月10日放送)
第13話「グツグツ たこっち」(1997年11月17日放送)
第14話「どどどど ゴッチ大王」(1997年11月24日放送)
第15話「チョキチョキ はしぞーっち」(1997年12月1日放送)
第16話「ピィ! ピィ! ピィ! NOKKOっち」(1997年12月8日放送)
第17話「チャリチャリ チャリっち」(1997年12月15日放送)
第18話「バリバリ ズキっち」(1998年1月12日放送)
第19話「ウハウハ はしぞーっち」(1998年1月19日放送)
第20話「びゅんびゅん ポチっち」(1998年1月26日放送)
第21話「プクプク ぎんじろっち」(1998年2月2日放送)
第22話「コチコチ にゃっち」(1998年2月9日放送)
第23話「ノリノリ NOKKOっち」(1998年2月16日放送)
第24話「くれくれ デビルっち」(1998年3月2日放送)
第25話「ラブリー たらこっち」(1998年3月9日放送)
第26話「キラリン にゃっち」(1998年3月16日放送)
第27話(最終話)「ラブラブ たまごっち」(1998年3月21日放送)
どれも現在は絶版で、入手困難である。
作者: りっち
連載誌:ちゃお、学年誌
単行本:全2巻(LOVE♥LOVEを入れると全3巻)
登場たまごっち:実機のたまごっち(元祖、新種、森、海、てんしっち、オスメス、デビルっち)とゲームのたまごっち(ゲーム発見2オリジナルむしっちとさかなっち、64版の熟たまごっち、PS版の星で発見たまごっち)
舞台:たまごっち星
人語:話す
性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する
家族:同上(まめっち一家など)
世界観と特色:コミカライズ版では唯一、GB版や64版やPS版のゲームオリジナルたまごっちが登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観になっている。最終回では全てのたまごっち達がばんぞー博士がたまごっち星に来る事を信じて、星空を見上げるシーンで本作は締めくくられた。たまごっちらしい、ほのぼのした描写が非常に多い。絵柄が非常に愛らしく、特にメスっち、にんぎょっち、デビルコっちなどの女の子たまごっちや、動物型のたまごっちが非常に愛くるしいのが特徴。基本的に女の子たまごっち(メスっち、にんぎょっち、デビルコっち)を除き、本作のたまごっちはオス扱いされていて、一人称は「ぼく」であり、くん付けで呼ばれている。他のコミカライズもだが、現在はメス設定のしろベビっちやみみっちもオス扱いされている。ばんぞー博士とミカチューが登場する。
1.1997年12月1日発売 ISBN-4092-5327-17
2.1998年10月1日発売 ISBN-4092-5327-25
作者:同上
連載誌:同上
単行本:全1巻
舞台:たまごっち星
登場キャラクター:同上
人語:話す
性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する
家族:同上
世界観と特色:
LOVE♥LOVE編はオスっちとメスっちの恋をテーマにした、非常に恋愛色が濃厚な内容になっている。オスっちとメスっちは恋愛色が濃厚なたまごっちの為、コロコロ版やボンボン版などの男児向けの作品では未登場で、子供向けの作品では出番が少ないが、本作は少女漫画である為、オスっちとメスっちをレギュラーにし、彼らの恋愛を描いている希少なコミカライズである。デビルコっちが女の子に変身して、オスメスのカップルにちょっかいを出して2匹を別れさせようとするが、失敗して2匹の絆はより深まり、デビルコっちは悔しがりながら退散するのがお約束の流れになっている。モリっちとモルっちの回では、読者の公募から生まれたオリジナルたまごっちが登場している。
1.2000年2月25日発売 ISBN-4091-4961-13
1期のたまごっちは、ばんぞー博士が失恋の傷心で隅田川のほとりをぶらついている時に、謎の生物が乗った小さなUFOが溺れているのを発見して持ち帰り、ふしぎ生物研究所でたまごっちHOUSEを開発、その生物が中に入り、時計をセットすると5分後に卵が現れ、世話や言動などで理解できるものとなっており、たまごっち星生まれの地球外生命という設定である。人間の言葉は理解できるが、人語は話せず、「ピー」という鳴き声や表情、仕草で意思を伝えている。実機の他、アニメやゲーム版、コロコロコミック版の『まんがで発見!たまごっち』ではたまごっちは人間の言葉を話せない。
1期のたまごっちはデビルっちを除き性善説で善の存在であり、基本的に悪い心は無く、あったとしても弱いのでいたずらっ子な程度である(ますくっち、ズキっちなど)。実機ではたまごっちは「たまごっちHOUSEを持つ人間しか感知出来ず、一般人は邂逅する機会も無い特別な存在」として描かれている。
種類は実機では「元祖」「新種」「むしっち」「さかなっち」「てんしっち」「オスっち」「メスっち」「デビルっち」「やさしい」「サンタクロっち」の全10種類(ゲームオリジナルたまごっちを含めると、64版『みんなでたまごっちワールド』の熟たまごっち、PS版『星で発見』の全12種類)が存在する。尚、「デビルっち」「やさしい」「サンタクロっち」はブーム終焉時にリリースされたたまごっちである為、ゲーム化はされていない。てんしっちとデビルっちは死んだたまごっちの霊魂(おばけっち)が転生した存在であり、たまごっちの死後の存在で、それ以外は生きているたまごっちである。
ペットとしては通常のたまごっちが犬や猫などの愛玩動物、むしっちとさかなっちは野生動物、てんしっちは天使や妖精、精霊や幽霊などのポジションである。
『たまごっちボン』ではたまごっちの身体を構成する物質は「金属、空気、ふくらし粉、羽毛、何だか分からないスウィートなもの」と説明されている。
公式絵ではたまごっちが人語を話している描写もあるが、それはばんぞー博士とミカチューの翻訳によるものである(『どこどこたまごっち』『たまごっちボン』では「ミカチュー翻訳済み」という単語が出てくる)。
実機のさかなっち(にんぎょっち)、オスっち・メスっち、デビルっち(デビルコっち、クリデビっち)以外のたまごっちは女性たまごっちがグループに存在せず、無性別とオスが基本の「女性を排除した、男性優位社会」になってしまっているのが特徴である(元祖、新種、むしっち、GB2のさかなっち、てんしっちなど)。メスっちも登場したが、「たまごっちに普通に女性もいて、女性たまごっちも仲間として輪に入っている世界」では無かった為評価は低く、実機のさかなっち(にんぎょっち)が登場するまでは、メスっち以外の女性たまごっちは実機には存在しなかった。尚、にんぎょっちは実機限定キャラである為、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』には登場しない。
第2期からは、たまごっちの基本設定が全面的に一新された。地球外生命という設定は健在だが、ばんぞー博士と助手のミカチューが登場しなくなり(「Tamagotchi iD L 15th Anniversary ver.」で再登場している)、その分たまごっち星の社会や文化が続々と判明する。2009年に発売したTamagotchi iDでは液晶のドット数が大幅に増え複雑なキャラクターが描写出来るようになったためにラブリっちを皮切りに新たなデザインのキャラクターが登場した。第2期以後のアニメ化作品では、たまごっち星の世界観が詳細に描かれているが、第1期との相違点が多くみられる。例としては、たまごっち星の外観・地理の違いなど。1期ではポコポコ火山(噴火する度にたまごっちの卵を産み出す不思議な火山)、寒冷地のクリスタルキングダムなどがある(公式ガイドブック『たまごっちボン』参照)。
キャラクターのデザインは、第1期は渡辺けんじがβバージョンをデザイン開発担当して解雇された黒柳陽子から仕事を引き継ぎ、第2期からはJINCOが担当している。なお、漫画連載は雑誌によって、あべさより、きむらひろき、かがり淳子、ヤスコーン、河井リツ子(りっち名義)、後藤英貴など複数の漫画家が担当している。
たまごっちを数える助数詞は公的に「匹」だが、アニメ版『たまごっち!』や、ゲーム版、3期以降は「人」と数えられる事もある。
1期ではオスっちとメスっち、『星で発見』のたまごっちやにんぎょっちなどの一部のたまごっちを除き性別の概念が存在しないが、2期以降は性別の概念が存在するようになった。1期では男性的、中世的なデザインのたまごっちが多くみられる。
1期ではまめっち、みみっちといった知能の高いたまごっちや、にんぎょっち(公的に女性)、ほとんどのメスっちなどの女性たまごっちは公式イラストで排泄を便器でし、恥ずかしがる描写が多いが、それ以外のたまごっちは基本的に排泄を恥ずかしがらず、便器でするキャラは少ない。
1期でのサイズは普通の卵と同じ位で(ゲーム版では人間より少し小さい位)、1期では公式イラストには台詞があるが基本的に人語は話せず、実機やゲーム版、漫画版の『まんがで発見!たまごっち』では人語を話せず、「ピー(たまごっちの呼び出し音)」という鳴き声で意思を伝えていて、鳴き声のバリエーションは豊富。
1期はシンプルでシュールなデザインで、たまごっちには服を着る文化がないため、一部を除きたまごっちは基本的に服を着ないが、3期以降は女児向けに移行した事もあり、目がキラキラしている可愛さ特化のデザインになり、服を着る文化が登場し、服を着るたまごっちが多くなった。2期以降は1期のようなシンプルなデザインのたまごっちは少なくなり、複雑で凝ったデザインのたまごっちが多くなった。
1期のたまごっちは一部を除き2期以降には登場しないが、「たまごっちiD L 15周年記念バージョン」ではむしっちはカブトっちとイモっち、さかなっちはあしぎょっち、てんしっちはぷくてん、「デビルっち」はデビルっちが再登場している。他、たまごっちが死亡する時のお迎えの演出としてくりてんが登場する。
・ベビっち(♂設定)
・まるっち(♀設定)
・まめっち(♂設定)
・ぎんじろっち(♂設定)
・くちぱっち(♂設定)
・ますくっち(♂設定)
・たらこっち(♂設定)
・にょろっち(♂設定)
・おやじっち(♂設定)
・しろベビっち(♀設定)
・みみっち(♀設定)
・ポチっち(♂設定)
・くさっち(♀設定)
・おじっち♂(オスっち)
・おトキっち♀(メスっち)
・ゴッチ大王♂(2期以降は『ごっち大王』とひらがな表記である)
1期ではたまごっちにとって地球の空気は有毒なので、たまごっちHOUSE(実機)を介さないと地球で暮らせなかったり、たまごっちは地球上では電子のような物体になってしまうため、そのままでは人間に姿も見えず声も聞こえず触れることもできないが、たまごっちHOUSEに入ることで実体化し人間とたまごっちの交信が可能になり、HOUSEの中に入ったたまごっち達は電波でメッセージを飛ばし合って交信しているという設定があった。基本的にたまごっちHOUSE(実機)を持つ人間だけが、たまごっちを感知し交流することができる。
1期ではたまごっちは8つの種族に分類されていて、「まめ属(祖先のたまごっちのキュートさと頭脳が発達した理想的な進化タイプ。まめっち、みみっちなど)」、「くち属(のんびり屋でお人好しな種族、今では最もたまごっちらしいタイプと言われている。くちぱっち、はしぞーっちなど)」、「あし属(体力が無くひ弱な遺伝子を受け継いだが、強い食欲で生き延びた種族。にょろっち、たらこっちなど)」、「アニマ属(動物の遺伝子が入る事によって生まれた種族、まめ属の血も引いているので、どことなく育ちが良い。ぎんじろっち、ポチっち、にゃっちなど)」、「かぶき属(まめ属の賢さが悪知恵として発達してしまった種族、ますくっち、ズキっちなど。その突然変異がおやじっち、せきとりっち、チャリっち、サム(アメリカ原種)。突然変異体はかぶき属の怪しさがパワーアップしていて、人間の遺伝子が入る事によって生まれたらしい)」、「ばけ属」、かぶき属とあし属から生まれた「たこ属(たこっちなど)」あし属から派生した「くさ属(くさっちなど)」の8種類が存在する。
2期以降は「まめ族(まめっちなど)」「めめ族(めめっちなど)」「くち族(くちぱっちなど)」の3種類に新たに分類された。
1期ではオスっちとメスっちを除き単体生殖が可能であり、寿命を過ぎると死に際に卵を産む事がある。2期からは性別が登場した為、オスとメスのたまごっちが結婚して子孫を残し、その子供を育てていくシステムに変更された。
1期ではオスっちとメスっちを除き、親は寿命を過ぎると1個だけ卵を産んですぐに死んでしまう為、子供が産まれた時には既に親は亡く、親は卵を1個しか産めないので子供には兄弟もおらず、産まれた時から大人と同じご飯を食べていた(PS版の星で発見では、ベビー期のご飯は哺乳瓶に入ったミルクになっている)。子供は産まれた時から一人前のたまごっちとして生きなければならず、家族や家族関係も存在しない、現在と比べるとシビアな環境だった(現在のたまごっちは両親や兄弟が存在し、ベビー期には哺乳瓶に入ったミルクを飲むなど、手厚く保護されている)。
『ゲームで発見!!たまごっち』シリーズでは一部のキャラやシステムが、実機と大きく異なっている(特に『2』)。
たまごっち星では通常のたまごっちは「たまゴーシティ」、むしっちは「ステキな森」、さかなっちは「ウキウキビーチ」、オスっちとメスっちは「ラヴリー学園都市」、てんしっちは「てんしっちの都」、デビルっちは「デビル界」に暮らしている。ラヴリー学園都市はまめっちなど、オスっちとメスっち以外のたまごっちはここに来るとそわそわしてしまう(『たまごっちボン1・2』参照)。
たまごっちiD L15周年記念バージョン(2011年発売)では「ステキな森」は「むしっちの森」、「ウキウキビーチ」は「さかなっちの海」に地名が変更されている。
たまごっちの種類によってシステムやご飯の種類が変わり、実機では元祖は白ご飯、新種はおにぎり、むしっちは基本の食事は葉っぱだが、通常のたまごっちと異なりご飯とおやつの区別が無く、グルメなので時間ごとにメニューが変わり、さくらんぼ(朝食)やソフトクリーム(昼食)やめけめけの実(夕食)が用意されていて、成虫っちになると好物の専用メニュー(カブトっちがキャンディー、スイカ、プリン、DXケーキ、コガネっちとてんとっちがナツメ、ちょびタマっちとものっちはドングリA、フンコロガっちはフン、ゲジっちはドングリB、ふたごアリっちは角砂糖、ムシばっちとヘルメっちはキノコ)が追加されたり、ご飯の種類は豊富。さかなっちはおでん、てんしっちは天使のパイ、デビルっちはイカスミパイになっている。ベビーっちも大人と同じご飯を食べるが、PS版『星で発見』ではご飯がベビー期は哺乳瓶に入ったミルクに変更される(こどもっちからはおにぎりになる)。むしっちとさかなっちは野生動物モチーフの為、通常のたまごっちのように人間の食べ物を食べる事が出来ない。
『ゲームで発見!! たまごっち』や『たまごっちパーク』ではご飯やおやつの種類が増えている(たまごっちパークでは、たまごっちはご飯はおにぎり、お肉、魚、苺、おやつはケーキ、アイス、饅頭。てんしっちはご飯はパイ、クレープ、ケーキ、おやつはキャラメル、キャンディーなど)。「たまごっちタウン」では全てのたまごっち(元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっち)のご飯がおにぎりで統一され、原作と異なりむしっちもさかなっちもてんしっちもおにぎりを食べられるようになっている。
寝る時は基本的にたまごっちは布団で寝るが、むしっちは葉っぱを布団代わりにし、てんしっちは白い雲に乗り、さかなっちは水中生活をしている為、布団はかけずそのまま寝ている。
対になるたまごっちは元祖と新種は「似た者同士」、むしっちとさかなっちは「食物連鎖(むしっちとケロぴょんっち)」、オスっちとメスっちは「恋愛」、てんしっちとデビルっちは「加害者が一方的に、被害者を虐げる関係」で結び付いている。また、元祖たまごっちは亜種のたまごっちとの関係をそれぞれ持っている(たまごっちにてんしっちは視認出来ないが、てんしっちはたまごっちを幸せの方向へと導き、見守る立場である)。
1期ではたまごっちの各成長形態の人数は、種類によって違いもあるが「ベビーっち1匹→幼児1匹→こどもっち2匹→アダルトっち5匹~8匹→隠しキャラ1匹」が基本であり、ゲーム版(『ゲームで発見2』、『たまごっちタウン』、『星で発見』など)は、その設定準拠である。
たまごっちは1期の頃は『TVで発見!! たまごっち』や、『たまごっちボン1・2』などの公式ムック、ゲーム版、アニメ版では「同種の別個体」が複数存在し、各たまごっちはそれぞれ「種族の内の一個体」として描かれていた(『TVで発見!! たまごっち』の「ハナハナとんがりっち」回で、たまっちの大群が登場している等)。各種コミカライズでは基本的に1種類につき1匹しか登場しない事が多いが、登場しないだけで同種の別個体は存在しており、『まんがで発見!! たまごっち』ではまめっちは初期の頃はもう1匹の別個体が登場しており、おやじっち、みのっち、ゲジっち、ヘルメっちなどは大量の別個体が登場していた。『だいすき♥たまごっち』(りっち作)ではまめっちと幼年体のたまごっち(まるっち、とんまるっち、たまっち、とんがりっち、まるてんなど)を中心に、複数の別個体が同時に登場するエピソードがある。
しかしアニメ版『たまごっち!』や、3期以降のたまごっちは「種族の内の一個体」ではなく、「個人」として扱われるようになり、同種の別個体が存在する事は無く、仮に存在したとしても同時に一画面には出て来ない。『たまごっち!』や現在の設定では「まめっち」などは1匹しかいない固有の存在であり、1期のように「同種の別個体」は存在しなくなり、「種族の内の複数いる一個体」としては描かれなくなった。
亜種のたまごっちの一種。むしっちを最初に発見したのはギュルルンゴーに乗って地下を散歩していたたまごっちであり、後にたまごっちがむしっちをUFOに招待したのをきっかけに、ばんぞー博士のむしっちの研究が始まった。
1期の通常のたまごっちと派生たまごっちの主な違いは、むしっちはこどもっちの時期が無く(メディアミックスゲームの『ゲームで発見2』ではある。『ゲームで発見2』では、むしっちは通常のたまごっちと同じシステムや育て方になっていて、ご飯やおやつのメニューとマユっちに変身する事以外は独自性が薄れている)、ご飯とおやつの区別が無く、ご飯の種類が豊富で、地球の虫のようなものなのでしつけようがないため、躾コマンドがオミットされていたり、イモっちから成虫っちに変身する前に繭形態になったり(『ゲームで発見2』ではマユっちという独立したたまごっちになっている)、むしっちは体が強いので病気をしなかったり、足やカエル(ケロぴょんっち)に襲われて追い払えないと怪我をしてミイラっちになり、治療するイベントがある。また、むしっちは寿命が短く、死亡するとむしっちおばけになり(通常のおばけっちとはデザインが異なる)、通常のたまごっちとはシステムや育て方の違いが大きく、育成ルールも変化している。布団は葉っぱ。天敵は足(人間かどうかは不明)とカエル(ケロぴょんっち)。通常のたまごっちのお腹とご機嫌のメーターはハートマークだが、『森で発見』では葉っぱマークに変更されている。
むしっちの体重は肥満と言うより体長を反映するものなので無理に体重は下げなくていいが、たまごっちと同じくごきげんUPゲームで遊ぶと体重が1g下がる。もちろんごきげんUPゲームで手をかけた度合いにより、成長の仕方は変化する。ちなみにゲーム版では「体重が増え過ぎる=肥満」であり、ストレスの元になる為、健康的な育児を心がけるなら体重を下げる必要がある。
むしっちは基本的に飛べないが、カブトっちと͡コガネっちは飛行能力があり、公式イラストやファンブックなどで羽を出して飛行するシーンが確認出来る。むしっちは昆虫がモチーフなので触角の生えている種類が多く、触角が生えていないのはベビモっち、イモっち、みのっち、カブトっち(角)、てんぐっちのみである。
実機では「カブトっちを大きく育てるモード(変身はカブトっち固定)」と「カブトっち以外の様々なむしっちを育てるモード(カブトっちは別モードにいる為、登場しない)」の2つのモードがあるが、『ゲームで発見2』では前者は省略され、カブトっちを含む様々なむしっちを育てるモードに統合されている。実機ではカブトっちと他の成虫っちはモードが違う為同じ世界線では共存出来ないが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』、各コミカライズ版、公式イラスト、『たまごっちボン1・2』といった公式ガイドブックなどではカブトっちと他の成虫っちが共存しているメディアが多い。
ケロぴょんっちがむしっちを襲うのは虫とカエルの食物連鎖を表す為であり、本能に従っているだけなのでケロぴょんっちにデビルっちのような悪意は無い。ケロぴょんっちはさかなっちにとっては仲間だが、むしっち達には凶悪な顔のカエルに見えているなど、立場によっての二面性を表しているたまごっちである。
むしっちはグルメなので、むしっちのご飯は、時間帯によってメニューが変わり、基本の食事は葉っぱだが、朝食はサクランボ、昼食はソフトクリーム、夕食はめけめけの実である。
成虫っちになると食事に専用メニューが出てくる事がある。専用メニューはカブトっちがキャンディー、プリン、スイカ、DXケーキ、ちょびタマっちとみのっちがドングリA、コガネっちとてんとっちはナツメ、フンコロガっちがフン、ふたごアリっちは角砂糖、ゲジっちはどんぐりB、ムシばっちとヘルメっちはキノコである。むしっちのご飯はスイーツが主食だが、たまごっちとは体の作りが違う為、スイーツはご飯である為スイーツを食べても病気にならない(『ゲームで発見2』ではなる)。尚、『たまごっちタウン』でのむしっちのご飯はおにぎりに変更されている。葉っぱ、ソフトクリーム、どんぐり以外は『ゲームで発見2』には存在しない、実機限定メニューである。
コロコロ版『まんがで発見!! たまごっち』では、2巻からレギュラーとして追加登場している。コロコロ版、ボンボン版などのコミカライズ版では実機準拠の作品が多い為、『ゲームで発見2』のオリジナルむしっち(てんぐっち)は登場しない事が多いが、『みんなでたまごっち』『だいすき♥たまごっち』では実機とゲーム版が融合した世界観である為、てんぐっちも登場する。
公式ガイドブックの『たまごっちボン1・2』は実機準拠である為、ゲームオリジナルたまごっちは登場しないが、むしっちのページに『星で発見!!』オリジナルキャラであるバタフライっちが登場していた。また、むしっちはたまごっち星の「ステキな森」に暮らしていて、「クリスマスが近くなると、みんなで森の木をクリスマスツリー風に飾り付けする」という記述がある為、本物の昆虫とは異なり、冬眠はしない模様。また、たまごっちにも慣れており、まめっちなどに対しても警戒する描写が無い。
むしっちは通常のたまごっちに比べると非常に小さく(たまごっちは鶏卵サイズ、カブトっちは地球のカブトムシ位、ちょびタマっちは1.78センチ、イモっちは地球の青虫位、ふたごアリっちは地球のアリ位、コガネっちは500円玉サイズなど)、実機では通常時は森と小さな点が表示され、ボタンを押すと虫眼鏡モードでむしっちが大きく表示される演出があるが、公式ムックや絵本(どこどこたまごっちなど)、コミカライズ版では通常のたまごっちと同じ位だったり、たまごっちの手や頭に乗るサイズとして描かれているメディアミックスも多い。
実機のむしっちは躾けられなかったり、お菓子が主食だったり、昆虫の常識しか持っていなかったり、たまごっちや人間との意思疎通や、言葉が通じているかも危うい「野生の昆虫らしさ」を持っている。その為「意思疎通が困難で、たまごっちとは違う常識を持つ生き物」という側面が強いが、ゲーム版やコミカライズなどのメディアミックスではそういう面はオミットされるか、抑えられている。むしっちは排泄を恥ずかしがらなかったり(ほとんどのたまごっちに共通するが)、マナーの概念も無いが、例外としてコガネっちは公式絵で金のおまるで排泄をしたり、食事をする時に首にナプキンを巻いてお皿に食事を置き、食器で食べるなどテーブルマナーの概念がある。
世界観とキャラクターは実機世界と『ゲームで発見2』世界の2種類の世界が存在しており、メディアミックスではどちらかが採用されている(さかなっち同様、コミカライズ版では2種類の世界が統合されているものもある)。
亜種のたまごっちの一種。さかなっちとばんぞー博士の出会いは、たまごっち達が地球にやって来た際、UFOの中に釣り堀がありそこにさかなっちも乗っていた為。
さかなっちは基本的なシステムは通常のたまごっちに準じているが、水質という概念があり、水が汚れると病気になりやすくなる。ごきげんアップゲームに出てくるタコに墨を吐かれて、水質とご機嫌が悪くなったり、白熊に襲われた時に追い払えないと、怪我をするイベントがある。ご飯はおでんで、おやつはソフトクリーム。メディアミックスゲーム『ゲームで発見2』ではご飯やおやつの種類が増えている(ゲーム版オリジナルメニューはご飯はミミズ、魚、おやつはビスケットが追加された)。『たまごっちタウン』ではさかなっちのご飯はおにぎりに変更されている。
さかなっちは寿命が短く、死亡するとこんぶーおばけという昆布型のおばけっちになる。天敵は白クマとタコ。画面には水槽のように常に泡が表示される。たまごっち星でさかなっち達が暮らす場所は「たまリンカイシティ」である(『たまごっちボン』1-2参照)。
本作はごきげんUPゲームが2つの宝箱から宝石の入った宝箱(当たり)を当てるゲームなのだが、外れ以外にタコが出て来て墨を吐かれ、ご機嫌がゼロになり、水質が悪化してしまう事がある。
実機のたまごっちの中では比較的育成が難しく、何もしないとすぐ死んでしまう事が多い。
さかなっちは水中生活を送っていてえら呼吸をしている為、基本的に陸では息が出来ず一部の例外を除き、陸に上がる事は出来ず生活も出来ない。しかし、『ゲームで発見!! たまごっち2』のCMや、各種コミカライズ、絵本『どこどこたまごっち』などのメディアミックスでは、さかなっちが陸に上がっていても平気そうにしている演出がある。また、『星で発見!! たまごっち』にはゲームオリジナルキャラである亜種のさかなっちが登場する。
さかなっちは魚類(海の生物)モチーフなので足を持たない種類が多く、足を持っているのはあしぎょっち、ケロぴょんっち、ペンギンっち、カメっち、かいぞくっちのみである。
さかなっちはおでん好きであり、それぞれ好きなおでんの具の設定がある。プランクトンっちは卵、くらげっちは糸こんにゃく、オトトっちはごぼう巻き、きんぎょっちはちくわぶ、くじらっちとあしぎょっちは大根、ケロぴょんっちはハンペン、たいやきっちはじゃがいも、かいっちはバクダン、にんぎょっちは昆布が好物。『ゲームで発見2』に登場するゲームオリジナルさかなっちの好きなおでんの具は不明。また、『ゲームで発見2』にはおでん嫌いなさかなっち(プランクトンっち、きんぎょっち、あざらっち、かいっち)もいる為、原作と設定が矛盾している。
コロコロ版『まんがで発見!! たまごっち』では、2巻からむしっちと共にレギュラーとして追加登場しているが、「陸上生活が出来ない」という制約がある為、むしっちに比べると出番は少ない。
むしっちと同じ理由で実機準拠のコミカライズが多い為、『ゲームで発見2』のオリジナルさかなっち(ペンギンっち、あざらっち、アンコっち、カメっち、かいぞくっち)は登場しない事が多いが、『みんなでたまごっち(あべさより版)』『だいすき♥たまごっち(りっち版)』は実機とGB版が融合された世界観で、実機限定キャラとゲームオリジナルキャラが共存している。『みんなでたまごっち』では実機の隠しキャラのにんぎょっちを『ゲームで発見2』の隠しキャラのかいぞくっちが、監禁してお嫁さんにしようとしたエピソードもある。
さかなっちの特色は、実機限定キャラだが「メスっち以外の女性たまごっちであるにんぎょっち(公式でミーハー娘と呼ばれている)」が存在する事。無性別とオスが基本のたまごっち社会は女性を排除したグループになってしまっているが、さかなっちは彼女がいる事で、「仲間として、無性別とオスが基本のさかなっちの輪の中に入っている、女性さかなっちが存在するグループ」になっている。
なお、『ゲームで発見2』では隠しキャラがにんぎょっちからかいぞくっちに変更されている為、本作のさかなっちは他のたまごっち同様、無性別とオスが基本の社会になっている。
『森で発見』同様、世界観とキャラクターは実機世界と『ゲームで発見2』世界の2種類の世界が存在しており、メディアミックスではどちらかが採用されている。
てんしっちはたまごっちの死後の幽霊から生まれた天使で、たまごっちを幸せに導く上位の存在であり(厳密にはたまごっちでは無いが、亜種のたまごっちとして扱われている)、死んだたまごっちの救済として生み出された。
てんしっちの都から感謝の気持ちを伝える為にやってきたてんしっちを育成し、立派に修行を努めさせ上げて都へ返すのが目的。なお、てんしっちとばんぞー博士の出会いは、徹夜明けの博士の前におばけっちがやって来た為である(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ てんしっちの育て方編fly』参照)。
てんしっちはたまごっちの死後の魂である為、不死身だが「堕天」という概念があり、ガイコっちの誘惑に負けるとデビルっちに堕天してしまい、バッドエンド状態になってしまう。デビルっちに堕天させずに、てんしっちを一人前の天使にして、てんしっちの都に帰すのが本作の目的である。てんしっちにはしつけが必要なほどの悪い子はいないので、「叱る」コマンドは「褒める」に変更されている。
食事は天使のパイで、おやつはホワイトチョコ。メディアミックスゲームの『たまごっちパーク』ではご飯はケーキ、天使のパイ、クレープ、おやつはキャラメル、キャンディーで、ゲーム版ではご飯やおやつの種類が増えている。他、『たまごっちタウン』でのてんしっちのご飯はおにぎりに変更されている。てんしっちはむしっち同様、スイーツが主食だが霊魂である為、食べ過ぎても病気にはならない。
「しつけ」は「しあわせ度」、「ごきげん」は「ガンバル度」、「年齢」は「人間界滞在日数」、「体重」は「TP(てんしパワー)に変更されている。てんしっちはTPが溜まるとおいのりをし(アダルてんにならないと出来ず、その前は真似事である)、時々どこかにお出かけする事がある。
てんしっちは通常のたまごっちとは食べ方が異なり、食べ物をかじらず、そのまま食べ物のエネルギーを吸収する為、てんしっちが食事をする演出はパイが小さくなっていく事で表現されている(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ』参照)。『森で発見』同様、通常のたまごっちとシステムや、育成ルールが変化している。
てんしっちはおばけっちが転生した存在である為、生きているたまごっちのような繁殖能力は持たず、新たなてんしっちを自分で産む事は出来ない(『たまごっちタウン』除く)。
死んでしまったたまごっちはてんしっちになり、てんしっち達はてんしっちパワーを高める為に日々幸せに過ごしている。てんしっちの仕事はたまごっち星にじょうろで雨を降らせたり、くまさんかきごおり機で雪を降らせたり、美味しいパイを上手に焼き上げたり、そして何より楽しく幸せに暮らす事である。てんしっちはこうして仕事をしながら幸せに暮らし、たまごっちや人間達の幸せの為にお祈りする毎日を過ごしている。てんしっちが焼くパイの種類はチェリーパイにパンプキンパイ、クリームチーズパイやアップルン♪パイが基本で、中でもアップルン♪パイはみんなのお得意メニューの一つである。てんしっちの都では「ジャンピングスター」という遊びが大流行している。
てんしっちのお祈りの方法、効果はてんしっちによって異なり、くりてんはステキなステッキ「スーパーエターナルッチョマロンタクト(本物)」を使用し、効果は「元気UP」、ぷくてんは浅草のおもちゃ屋で買ったピロピロ笛を使用し、効果は「ダイエット成功」、ぎんじろてんしは「勝負運UP」、たらてんは「勉強運UP」、おやじてんしは「健康運UP」、ふたごてんしは「恋愛成就」、さぼてんしは「やる気UP」、おとのてんは「アッパレ!」を司っている(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ』参照)。てんしっちのお祈りは、みんなの悪い事や嫌な事を食べる為に行われている。
ふたごてんしは恋愛成就のお祈りが得意な為、オスっちとメスっちの恋のキューピッドとしての役目も担っている。
なお、こどてんはアダルてんではない為、本物のお祈りはまだ出来ないが、お祈りごっこが好きでステキなステッキ「スパイラルジュテームエンジェルロッド(おもちゃ)」を振り回して遊んでいる。てんしっちはお祈り後に星屑のフンをして、褒めてあげるとしあわせ度が上がる。てんしっちが何もしていないのに褒めると、調子に乗ってガンバル度が下がってしまう。てんしっちのガンバル度(たまごっちで言うご機嫌に相当)アップゲームは「シューティングスターゲーム」である。
天敵はデビル界のコウモリ、ガイコっち、デビルっちの3匹。コウモリはチョコを横取りしに来て、追い払えないとしあわせ度が下がり、ガイコっちはてんしっちを堕天させるために取り付いて誘惑し、注射コマンドで退治しないとデビルっちにされてしまう。デビルっちは堕天した元てんしっちそのものである。てんしっちが寝ていないのに電気を消すと、ガイコっちが来てしまう。
てんしっちが修行を終えててんしっちの都に帰天するか(グッドエンド)、ガイコっちの誘惑に負けてデビルっちに堕天(たまごっちで言う病死扱い)してしまうと育成は終了する。他、死んだたまごっちの魂(おばけっち)を迎えに来て、てんしっちの都に連れて行きおばけっちがが一人前のてんしっちになれるように導くのも、てんしっちの役目である。
てんしっちは全てのたまごっちを統括する上位の存在であり、生きているたまごっち(元祖、新種、むしっち、さかなっち、オスっち、メスっちなど)が死んでおばけっちになった時に、てんしっちの都へ連れて行き、おばけっちをてんしっちに変え、てんしっちとしてみんなを幸せにできるように教育している。
たまごっちが死んでおばけっちになり、てんしっちになると頭に天使の輪が付き、背中に白い羽が生える。
『たまごっちボン』などではてんしっちにモデルがいないまめっち、くちぱっち、みみっち、ズキっち、ポチっち、カブトっち、コガネっち、ヘルメっち、ケロぴょんっち、あしぎょっち、にんぎょっちなどは元の姿のままてんしっち化していた為、元の姿を残したままてんしっちになる事も可能。たまごっちの姿のままてんしっちになった者もいれば、違う姿になって生まれ変わったてんしっちも存在する(生きているたまごっちにモデルがいないくりてんやぷくてんなどは、違う姿になって生まれ変わったたまごっちである模様)。
むしっちはてんしっち化すると通常のたまごっちと同じ位のサイズになり(『たまごっちボン』のてんしっちパートでは、むしっちおばけはおばけっち、こんぶーおばけと同じ位のサイズとして描かれていた。またコガネっちはまるてんと同じ位のサイズで描かれている為、個体差もある模様)、羽があるカブトっちやコガネっちなどはむしっちの羽がてんしっちの羽に変わり、さかなっちは陸上でも活動出来るようになる(『たまごっちボン1・2』参照)。
『TVで発見!! たまごっち』では、おばけっちはてんしっちの都の門を潜るとおばけっち2号になるが、『たまごっちボン1・2』ではおばけっち(通常、むしっち、さかなっち)のまま、てんしっちの都に来ていたので、メディアによって設定に差異がある。『星で発見』ではたまごっちが死ぬと、おばけっちを介さずそのままおばけっち2号になり、『ゲームで発見』ではたまごっちがそのまま幽霊化する為、おばけっちの姿にはならない。てんしっちは生きているたまごっちには姿も声も感知出来ないが、コミカライズ版などでは見えている媒体が多い。
『TVで発見!! たまごっち』の「ぶっタマゲてんしっち」回では、くりてんがぎんじろてんしを助ける際、デビルっち達を追い払う時に弓矢を使用していた。
亜種のたまごっちの中では登場が一番早い為、メディアミックスゲーム(『星で発見』、『たまごっちパーク』、『たまごっちタウン』)やコミカライズでは出番が多いが、当初は他のたまごっちとは異なり、対になる存在がいなかった為(てんしっちは1997年8月、デビルっちは1998年9月発売)、対になるたまごっちを育成する『ゲームで発見!! たまごっち』の移植には恵まれず、むしっちとさかなっちに譲る形になった。てんしっちと対になる存在はデビルっちだが、デビルっちは1期の終焉時に後付けで追加されたたまごっちの為、デビルっち登場前はむしっちとさかなっちが対なので、てんしっちと対になる存在はたまごっちとされていた。
てんしっち及びてんしっちの都は、たまごっちや人間など下界に幸福を与える存在であり、善の心を呼び起こす力を持っている。その為デビルっちはてんしっちを誘惑し堕天させる事で仲間を増やし、イタズラし放題の世界にしようと企んでいる。
コロコロ版『まんがで発見!! たまごっち』では、てんしっちは未登場である。
なかよし版『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ作)ではタイトル名を冠していて、主役級の扱いを受けている。
亜種のたまごっちの一種。オスっちとメスっちは育成ルールが変化したむしっちやてんしっちと異なり、大まかな育成ルールは通常のたまごっちと同じだが、地球でラヴラヴカップルの手に渡った事で、たまごっちがラヴパワーに目覚めて、性別が分かれ恋に目覚めた。他、「たまごっちらしさを測る基準」としてTMP(たまごっちパワー)がパラメーターとして新たに設けられ、ブリードして世代を重ねていくとTMPが変化していくようになった。TMPは世話をサボると変身時に下がる事がある。尚、隠れキャラになると恋愛事から離れてしまい、ブリード出来なくなる。
ご飯とおやつの種類はTMP1がご飯1・5倍盛り(子供に分け与える為)、おやつはキャンディー。
TMP2はご飯は缶詰め、おやつはケーキ、TMP3はご飯はおにぎり、おやつは串団子、TMP4はご飯はパン、おやつはショートケーキ。
隠れキャラはおじっち、おトキっちはご飯はキノコでおやつはお酒、ステボっち、ツケっちはご飯はケーキでおやつはお酒。
オスっちとメスっちは地球で生まれ、地球にしか生息していない新種のたまごっちであり、通常のたまごっちとは異なり性別と恋愛とブリードの概念がある(後にPS版の『星で発見!!』にもこのシステムが採用された)。その為通常のたまごっちとは異なり単為生殖ではなく、恋愛してブリードしてオスとメスの2匹の双子を産み、その子供を育てるシステムである。通常のたまごっちは親や兄弟は存在せず家族関係も無いが、オスっちとメスっちには親子関係、兄弟関係、夫婦関係といった家族関係が存在する。
本作は非常に恋愛色が濃厚なのが特徴で、その為コミカライズではちゃお版、『だいすきLOVE♥LOVEたまごっち』(りっち)、なかよし版『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ)の少女漫画作品ではオスっちとメスっちはレギュラーキャラとして登場したが、他の作品では出番が少なく、少年誌のコロコロ版(『まんがで発見!! たまごっち』)、ボンボン版(『ぼちぼちたまごっち』)では未登場であり、次回作のむしっちとさかなっちに登場機会と出番を譲っている。
むしっち、さかなっち、てんしっちといった他の亜種のたまごっちと比べるとメディアミックスに恵まれておらず、『ゲームで発見!! たまごっちオスっちとメスっち』は前作や前々作と異なり外注ソフトであり、『たまごっちタウン』は集大成を売りにしたゲームで、今まで登場したたまごっちは全員登場するが(元祖、新種、森、海、てんしっちの5種類が登場)、オスっちとメスっちは登場しなかった。
コミカライズ化も出番が削られており、オスっちとメスっちがレギュラーとして登場する作品は少女漫画作品の『だいすき♥たまごっち(ちゃお版)』『てんしっちのたまごっち(なかよし版)』の2作品のみである。
・ゲームで発見三部作(ゲームボーイ版)
・たまごっちタウン(SFC版、ニンテンドウパワー)
・みんなでたまごっちワールド(NINNTENDO64版)
・たまごっちパーク(セガサターン版)
・星で発見(PlayStation版)
派生たまごっちが育成できるメディアミックスゲームは『たまごっちパーク』(元祖、新種、てんしっち)はてんしっちの育成方法は実機準拠だが、『ゲームで発見2』(むしっちとさかなっち)、『ゲームで発見3』(オスっちとメスっち)、『たまごっちタウン』(元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっち)では通常のたまごっちと同じ育て方、システムになっている。
通常のたまごっちは『ゲームで発見!! たまごっち』(ゲームボーイ)、『みんなでたまごっちワールド』(NINNTENDO64)、『たまごっちパーク』(セガサターン)、『星で発見!!』(PS、ゲスト枠)、『たまごっちタウン』(SFC)に登場し、育成できる。
1999年5月1日に発売。種類はニンテンドウパワー。『たまごっちタウン』は5種族のたまごっちを卵から育て、成長させて卵を産ませ、99日以内にたまごっちを100匹以上に増やしてたまごっち星を繁栄させる事と、全75種類のたまごっち(オリジナル10種含む)をコンプリートするのが目的の内容である。オスっちとメスっちはキャラが多いのと性別、恋愛、ブリードという独自要素が単為生殖させる本作のシステムに合わなかった為、除外されている。本作ではむしっち、さかなっち、てんしっちといった亜種のたまごっちは独自要素が薄められ、通常のたまごっちと同じ育て方、システムになっている。たまごっちの集大成ゲームで、最終作である。
むしっちとさかなっちは『ゲームで発見2』準拠のキャラ、設定になっており、てんしっちは大幅な設定改変が行われており、「死んだたまごっちの霊魂」ではなく、「生きているたまごっち」という設定に変更され、卵から生まれ、卵を産んで死んで行くシステムになっている。むしっちもさかなっちもてんしっちも本作では、通常のたまごっちと同じ食べ物(おにぎり)を食べる設定に変更されている。亜種のたまごっちは通常のたまごっちとシステムが同じなので、むしっちもさかなっちもてんしっちも「通常のたまごっち」という設定に変更されている。
ゲーム内のたまごっち達のグラフィックは実機のドット絵が使用され、ゲームで発見2のオリジナルたまごっちは新規にドット絵を描き下ろしている。本作は実機限定むしっち、さかなっちのヘルメっち、たいやきっち、にんぎょっち(女性たまごっち)は登場しない為、「無性別とオスが基本の、女性を排除した男性優位社会」になっている。
尚、むしっちはゲーム版同様、こどむしっちから繭になるが繭のデザインはフィールドでは実機準拠である(名前はまゆっち表記、図鑑ではゲームで発見2のマユっちのデザインである)。なお、まゆっちもむしっちとして図鑑に登録されている。まゆっちは原作と異なり、お世話が出来てまゆっちの状態でも寝たり、ご飯を食べたり、フンをする。
本作ではてんしっちは生きているたまごっちの一種として下界に生息している為、「てんしっちの都」という概念は存在せず、通常のたまごっちにも感知出来、原作とは大きく設定が異なる。原作ではてんしっちは死んだたまごっちの霊魂が転生した存在で、生きているたまごっち達を統括する上位の存在だが、本作ではただの生きているたまごっちなので、下界でたまごっち達と一緒に暮らしている。
また、本作は地形(フィールド)があり、山、海、森、草の4種類存在する。地形ごとに生息するたまごっちの種類が異なり、草は元祖と新種、森はむしっち、海はさかなっち、山はてんしっちが生息している。最初は2個の卵を入手し、それを孵化させてたまごっちを育てて卵を産ませ、繁殖させていく流れになっている。
本作は『ゲームで発見!! たまごっち』のように、元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっちの全5種類のたまごっちが一つの系統に統合されていて、地形を変えたり移動させる事で、地形に対応する別の種類のたまごっちに変身する。本作には「汚染度」というシステムがブロックごとにあり、汚染度が全てに対し影響を与え、汚染度が高くなるとたまごっちは上手く成長出来なくなってしまう。汚染度を上げないコツは掃除をするタイミングで、掃除は一日何回でも出来るが、夜(出来れば23時に)には必ず掃除するのが理想である。掃除方法はフィールドによって異なり、風は「草原を掃除」、波は「海を掃除」、雨は「森と山を掃除」である。なお、掃除する度に特定のフィールドにいるたまごっちにストレスを与えてしまうので注意が必要。ストレスは遊具を置く事で減らす事が出来る。
こどもっちは1日におにぎりを1個、アダルトっちは2個食べ、それ以上置くと食べ残してしまい汚染度が上がってしまう。たまごっちは、タウンの居心地が悪いと夜逃げしてしまう事がある。たまごっちはアダルトっちまで成長するとすぐ卵を産む為、本作のたまごっちは原作と異なり、親子関係や兄弟関係が存在する。本作のたまごっちはフィールドでは、機嫌が良い時と悪い時では表情や動きが変わる。
本作のごきげんアップゲームは「みんなであっちむいてホイ!」「なんばんめはだれ?」の2種類。
上述以外にも、にゃっちとチャリっち(新種発見の新色機差し替えキャラ)、サム(ゲームで発見無印の隠れキャラ、海外版が元ネタ)、まゆっち(むしっち、フィールドのデザインは実機のマユ、図鑑ではゲームで発見2のマユっちのデザイン)ベーダーちゃん(海外版・新種発見のせきとりっちまたはチャリっちの差し替えキャラ)、ラッキーうんちくん(てんしっちのレアな隠しキャラ)、デビルっち(てんしっちの天敵、本作ではてんしっちの1匹枠)といった、ゲーム版ではなかなか登場しないキャラや、レアなキャラも登場している。
『無印』は1997年6月27日発売、『2』は同年10月17日発売、『オスっちとメスっち』は1998年1月15日に発売。種類はゲームボーイ。全三部作であり、『無印』は元祖と新種、『2』はむしっちとさかなっち、『オスっちとメスっち』は(これのみ外注ソフト)はオスっちとメスっちを題材にした内容である。2種類の対になるたまごっちを一つの種族に統合、またはセットにして飼育する内容であり、題材になっているキャラクターは全員生きているたまごっちである。
本作のたまごっちは言葉を話せず、「ピー」という鳴き声や、表情、仕草で意思を表現する。『無印』と『オスっちとメスっち』は実機準拠のシステムだが、『2』は実機先行メディアミックスである為、実機は通常のたまごっちと育成ルールが変化し、独自要素満載の内容である為、通常のたまごっち準拠の『2』の育成システムやキャラクターが実機と本作で大きく乖離している。キャラクターは基本的に原作準拠だが、『2』はバンダイがゲーム用に描き下ろしたキャラクターが多数登場し、実機とはお互いに補完し合う関係であり、パラレルワールドのような立ち位置である。
コミカライズでは『だいすき♥たまごっち』(りっち作)、『みんなでたまごっち』(あべさより作)、『まるごとまんがでたまごっち』(きむらひろき他作、サムのみ)に本作オリジナルのたまごっちが登場している。
1998年2月19日発売。種類はプレイステーション。亜種のたまごっちの一種。本作の『星で発見!! たまごっち』ではばんぞー博士とミカチューがたまごっち星の隠れ里に不時着し、そこで隠れ里に住んでいる野生のたまごっちの生態を調査する為に、野生のたまごっちを勧誘し、全てのたまごっちを育成しブリードさせ、生態表とブリード表を完成させるのが本作の目的である。
本作のたまごっちはゲストの元祖、新種、てんしっちを除き、フィールドにいる野生のたまごっちは全てゲームオリジナルキャラクターである。ゲストはてんしっちは撮影専用キャラであり育成出来ず、元祖と新種はフィールドには出現しないが、Dグループ同士をブリードすると卵から生まれて来る。たまごっち星が舞台である為、たまごっちはHOUSEに入らなくても実体化していて、大きさは元の鶏卵サイズではなく、人間より少し小さい程度になっている。本作ではたまごっちが死ぬとおばけっちを介さず、そのままおばけっち2号になる。たまごっちは部屋の居心地が悪いと、置手紙を残して家出してしまう事がある。
『ゲームで発見』同様、名前を付ける事が出来る(その際、性別が表示される)。
本作のたまごっち達は普段は野生としてフィールドを徘徊しているが、初めて見るはずの人間(ミカチュー)に対しても警戒心を抱かず、仲良くなると後ろを付いて来てくれる。たまごっちと仲良くなる為のパフォーマンスは「なかよしチャンス」と呼ばれており、「歌」「手品」「ダンス」「キス」の4種類が存在し、たまごっちによって好きなパフォーマンスが異なる。好きなパフォーマンスならたまごっちは付いて来てくれるが、気に入らないパフォーマンスだとたまごっちはその場から立ち去ってしまう。稀になかよしチャンスの演出が派手になる事があり、その場合はどんなパフォーマンスをしてもたまごっちは気に入ってくれる。
また、夜には夜行性のたまごっちが徘徊しているが、稀に二種類の「くろまめっちナイト」「ジュエルっちナイト」というレアな夜行性のたまごっちしか出現しない特別な夜になる事があり、くろまめっちとジュエルっちはこの時しか出現しない。尚、くろまめっちとジュエルっちは同時に出現しない。
『ゲームで発見』では第一形態のベビーっちはわがままは言わないが、本作ではわがままを言う設定に変更されている。
尚、こどもっち以上はたまごっちをフィールドで連れ歩くことが出来る。ミカチューは普段は徒歩だが、自転車で移動する事も出来、たまごっちを自転車のかごに乗せられる(自転車に乗っていたり、たまごっちを連れ歩いている状態ではなかよしチャンスは起こらない)。
フィールドには青い石が落ちていて、100個まで拾える。青い石は主に福引でてんしっちが撮影できるフィルムを入手するのに使用し、てんしっちはたまごっちの霊体である為、通常のフィルムでは撮影出来ないが、特殊なフィルムを使用する事で撮影出来る。また、てんしっちは各地にある噴水の前に夜のみ出現する。
たまごっちを20種類以上図鑑に記録すると、博士から「もぐるん号」という水中を移動できる乗り物を入手出来、水中のたまごっちも記録出来る様になる(水中に潜っている間も、時間が経つので注意)。
実機と異なり、たまごっちは20歳位になるとパラメータが完璧でも突然死してしまう。
本作には「たまごっち風邪」という伝染病があり、1匹がかかってしまうと他の部屋のたまごっちにも伝染してしまう為、ベビーっちの時点で予防接種を打ち、かからないようにする必要がある(予防接種が出来るのは1匹に付き1回だけ)。
フィールドには競技場があり、こどもっち以上は競技(カーニバル)に出る事ができ、クリアするとおつむやからだのパラメータが増える(失敗すると下がる)。
『ゲームで発見』同様、第一形態のベビーっちのお腹とご機嫌の減り方は異様にハイスピードである。第一形態のベビーっち(たらベビっち、うさいもっち、モスピっち、しっぽっち)はゲート内のフィールドには出現せず、ゲート外の特定の場所にしか出現しない野生個体としてはレアなたまごっちである(第二形態のベビーっちはゲート内にも通常出現している)。
ごきげんアップゲームは元祖と新種から「こっちむいてホイ!」と「数字でドン!」の2種類が採用されている。
本作のオリジナルたまごっちが通常のたまごっちと違う点は「オスっちとメスっち」から性別、ブリード、TMPシステムが採用されている点。異性のアダルトっちをブリードさせ、成功すると卵が生まれる。「オスっちとメスっち」同様、年齢、TMPが近くないと成功しにくい。なお、本作ではキャラクターにオスっちとメスっちのような性差による外見の区別は存在せず、全てのたまごっちにオスとメスが存在し、男性的なたまごっちのメス、女性的なたまごっちのオスも普通に存在する。元祖と新種は原種である為、性別の概念は存在せず(ステータス画面にも性別の表記は無い)、ブリードは不可能である。性別、ブリードの概念が存在するが、オスっち・メスっちとは異なり、恋愛色は薄い。尚、本作のたまごっちは「オスっちとメスっち」とは異なり、ベビーっち(第一形態)の頃から性別が分かれている(オスっち・メスっちはヤングっち(たまごっちで言うこどもっち、第三形態)から性別が分かれる)。
「オスっちとメスっち」から性別とブリードのシステムを導入し、オスっちとメスっちの他、むしっちとさかなっちの補完、フォローも兼ねていて、本作ではむしっちとさかなっちに使用されていないモチーフの昆虫、魚類のキャラが多く登場している(特にさかなっちは本作オリジナルの亜種のさかなっちが育成は出来ないものの、多数登場する。むしっちは実機、ゲーム版にいない蝶、カマキリ、ホタルモチーフのたまごっちが存在している)。
なお、初代では性別のあるたまごっちは地球出身であり、オスっちとメスっちしか存在しないとされているが、本作のオリジナルたまごっちはたまごっち星出身だが性別がある(公式ファンブックではたまごっち星にもオスっちとメスっちが暮らしている設定になっている)。
本作のたまごっちの鳴き声(効果音)はベビーっち→幼児→こどもっち→アダルトっちと年齢によって異なる。
ゲームオリジナルキャラクターである為、「みんなでたまごっちワールド」の熟たまごっち同様、コミカライズには基本的に登場しないが、「だいすき♥たまごっち(りっち作)」では熟たまごっちと共に登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観であり、2巻の表紙にはバタフライっちとさかだるっち、3巻の表紙にはチュリっち黄色が描かれている。
それぞれA~Fの6グループが存在し、グループごとに変身系統が異なる。Eグループ、Fグループは原種の元祖・新種が相当し、Dグループ同士をブリードさせる事で生まれる。
1998年1月29日発売。種類はセガサターン。登場たまごっちは元祖、新種、てんしっちの3種類。たまごっちはプレイ時に卵を貰い、てんしっちは死んだたまごっちの墓参りをした時に出て来る幽霊から育てる事が出来、てんしっちの育成システムは実機準拠。ゲームボーイ版同様、たまごっちやてんしっちに名前を付ける事が出来る。食べ物の種類は実機やゲームボーイ版より増えており、本作独自のメニューも多い(魚、苺、アイスクリーム、饅頭、クレープ、キャラメルなど)。最大8匹まで育成できる。
1997年12月19日発売。種類はNINTENDO64。熟たまごっちの形態では育成不可能。おやじっちとせきとりっちとチャリっちを除くと全34匹。「星で発見」同様、ゲームオリジナルたまごっちなのでコミカライズには基本的に登場しないが、「だいすき♥たまごっち(りっち作)」では星で発見たまごっちと共に登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観になっている。3巻ではすいかっち、おかねもっち、アフロおやじっちが描かれている。
※1 デビルっちは デビル初級→デビル中級→デビル上級→デビルハイパー というように、階級で成長の度合いを表すため、他のたまごっちのように年齢の概念は存在せず、デビル中級のおやじデビルはこどもっち期に相当する事になる。本稿では簡便のため上記のとおりとした。
※2 ちょびタマっちとみのっちは実機では「成虫っち(アダルトっち)」で、むしっちのこどもっち期は存在しないが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン(SFC)』では「こどむしっち(こどもっち)」という設定に変更されていて、メディアによって年齢が異なる。本稿では実機の設定であるアダルトっちとしてカウントした。
※3 ふたごアリっちは実機ではヘルメっちと並ぶむしっちの隠しキャラだが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』では通常キャラに変更されている。
※4 むしっちのてんぐっち(隠しキャラ)、さかなっちのペンギンっち、あざらっち、アンコっち、カメっち、かいぞくっち(隠しキャラ)の6匹は『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』にのみ登場するゲームオリジナルたまごっちであり、実機には登場しない。
※5 たまごっちは種類によって成長段階の呼び方が異なり、通常のたまごっちは「ベビーっち→こどもっち→アダルトっち→隠しキャラ」に成長するが、むしっちは「幼虫っち→(こどむしっち※GB2、たまごっちタウンのみ)→繭(GB2ではマユっち)→成虫っち(隠しキャラ含む、GB2では成虫っちから隠しキャラに変身)」の3段階(GB2では6段階)であり、さかなっちは「ベビフィッシュ→こどもッシュ→アダルトッシュ→隠しキャラ」で、てんしっちは「ベビーてん→チルドてん→アダルてん→隠しキャラ」に成長し、種類によって呼び分けられている。基本は「ベビーっち→幼児期→こどもっち→アダルトっち→隠しキャラ(特定のキャラのみ)」の順で5段階に成長するが、例外としてむしっちは、実機ではこどもっちと呼ばれる2匹のキャラ(元祖では、たまっちとくちたまっちが相当)が存在しない。
ごっちポイントが導入される。ゲームや通信で増える。
通信できない。
お見合いができなくなる。お世話ミスを5回したり、99歳になったりすると死んでしまう。
括弧内はウラたまでの名称。
ガッツポイントで進化キャラクター、たまごっちスクールのクラス、就職先が決まる。
親の属性で子の属性が決まる。
結婚できるようになる。
お見合いができなくなる。お世話ミスを5回すると死んでしまう。
「まめ属(ウラまめ属)」、「めめ属(ウラめめ属)」、「くち属(ウラくち属)」のたまごっちが産卵期になって2日後以降に、レアアイテム「お見合い紹介カード1」、「お見合い紹介カード2」、「お見合い紹介カード3」のどれかを使うと、おせっかいばあさんがカーテンで隠された謎のお見合い相手を連れて来る。お見合い相手と結婚すると、「?属(!属)」の子供「はてなっち(びっくりっち)」が産まれる。「?属(!属)」は育ての親の属性を引き継ぐので、「?属(!属)」同士で結婚した場合は育ての親の属性によって産まれる子供の属性が決まり、他の属性のたまごっちと結婚した場合は「?属(!属)」の育ての親の属性と結婚相手の属性によって子供の属性が決まる。「?属(!属)」はレアアイテム「お見合い紹介カード」が使用できないので、「?属(!属)」から「?属(!属)」の子供は産めない。
全員♂である。
☆は新キャラ
バンダイ直営のオフィシャルショップ。なお「たまごっちデパート」はアニメ『たまごっち!』などで実際に登場するデパートである。
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"text": "たまごっち(英:Tamagotchi)は1996年11月23日に日本のバンダイから発売されたキーチェーンタイプの電子ゲームであり、登場するキャラクターのことでもある。名称の由来は「たまご(Tamago)」と「ウオッチ(Watch、腕時計)」。企画、開発は横井昭裕。",
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"text": "「たまごっち」をローマ字で表記するとTamagotchまたはTamagotchi。略称はTMGC。",
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"text": "画面の中に登場する「たまごっち」と呼ばれる生物にえさ(ご飯)を与えたり、糞の掃除をしたり「たまごっち」と遊んだりしながら育てていく。こまめにコミュニケーションをとっていれば機嫌がいいが、餌をやり忘れたり、糞の掃除が滞ったりすると機嫌が悪くなり最悪の場合には死に至ることもある。こうして育てていくと、ある程度時間が経てば「おやじっち」や「にょろっち」など様々な生物に変身する。どの生物になるかは、生物のその時の体重や機嫌に左右されるよう設定されている。その他、名称の由来どおり単なる時計としても利用することができる。",
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"text": "大きさは高さ53mmで、白黒液晶画面の下部に3つのボタンを備えている。ボタンは左からコマンドの選択・決定・キャンセルに割り当てられ、この操作体系は同社の『デジタルモンスター』、他社の『ドラゴンクエスト あるくんです』など多くのゲームに引き継がれた。",
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"text": "バンダイ公式では1996年から1998年発売機種を「誕生期」、2004年から2007年発売機種を「ツーしん期」、2008年から現在発売している機種は「カラー期」に分類されている。",
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"text": "2023年7月15日に「たまごっちユニ」が発売された。",
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"text": "その他、バンダイのぬいぐるみ『プリモプエル』のコンセプトは「リアルな立体版たまごっち」である。",
"title": "コラボレーション・派生商品"
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{
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"text": "第1話「グシシシ おやじっち」(1997年7月7日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第2話「ヒネヒネ ますくっち」(1997年7月14日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第3話「バクバク にょろっち」(1997年8月4日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第4話「キビキビ まめっち」(1997年8月11日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第5話「フリフリ ぎんじろっち」(1997年8月18日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第6話「モンモン ポチっち」(1997年8月25日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第7話「ナゾナゾ ズキっち」(1997年9月1日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第8話「ハナハナ とんがりっち」(1997年9月8日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第9話「ぶっタマゲ てんしっち」(1997年10月13日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "以降はVHS版未収録",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第10話「ウロウロ せきとりっち」(1997年10月20日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第11話「パクパク まるっち」(1997年10月27日放送)",
"title": "テレビアニメ"
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{
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"tag": "p",
"text": "第12話「ワクワク くちぱっち」(1997年11月10日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第13話「グツグツ たこっち」(1997年11月17日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第14話「どどどど ゴッチ大王」(1997年11月24日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第15話「チョキチョキ はしぞーっち」(1997年12月1日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第16話「ピィ! ピィ! ピィ! NOKKOっち」(1997年12月8日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第17話「チャリチャリ チャリっち」(1997年12月15日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "第18話「バリバリ ズキっち」(1998年1月12日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "第19話「ウハウハ はしぞーっち」(1998年1月19日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第20話「びゅんびゅん ポチっち」(1998年1月26日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "第21話「プクプク ぎんじろっち」(1998年2月2日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第22話「コチコチ にゃっち」(1998年2月9日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第23話「ノリノリ NOKKOっち」(1998年2月16日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第24話「くれくれ デビルっち」(1998年3月2日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "第25話「ラブリー たらこっち」(1998年3月9日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "第26話「キラリン にゃっち」(1998年3月16日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第27話(最終話)「ラブラブ たまごっち」(1998年3月21日放送)",
"title": "テレビアニメ"
},
{
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"text": "どれも現在は絶版で、入手困難である。",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"tag": "p",
"text": "作者: りっち",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "連載誌:ちゃお、学年誌",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "単行本:全2巻(LOVE♥LOVEを入れると全3巻)",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "登場たまごっち:実機のたまごっち(元祖、新種、森、海、てんしっち、オスメス、デビルっち)とゲームのたまごっち(ゲーム発見2オリジナルむしっちとさかなっち、64版の熟たまごっち、PS版の星で発見たまごっち)",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "舞台:たまごっち星",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "人語:話す",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "家族:同上(まめっち一家など)",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"tag": "p",
"text": "世界観と特色:コミカライズ版では唯一、GB版や64版やPS版のゲームオリジナルたまごっちが登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観になっている。最終回では全てのたまごっち達がばんぞー博士がたまごっち星に来る事を信じて、星空を見上げるシーンで本作は締めくくられた。たまごっちらしい、ほのぼのした描写が非常に多い。絵柄が非常に愛らしく、特にメスっち、にんぎょっち、デビルコっちなどの女の子たまごっちや、動物型のたまごっちが非常に愛くるしいのが特徴。基本的に女の子たまごっち(メスっち、にんぎょっち、デビルコっち)を除き、本作のたまごっちはオス扱いされていて、一人称は「ぼく」であり、くん付けで呼ばれている。他のコミカライズもだが、現在はメス設定のしろベビっちやみみっちもオス扱いされている。ばんぞー博士とミカチューが登場する。",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "1.1997年12月1日発売 ISBN-4092-5327-17",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "2.1998年10月1日発売 ISBN-4092-5327-25",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"tag": "p",
"text": "作者:同上",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "連載誌:同上",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "単行本:全1巻",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "舞台:たまごっち星",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "登場キャラクター:同上",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "人語:話す",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "家族:同上",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
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"text": "世界観と特色:",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "LOVE♥LOVE編はオスっちとメスっちの恋をテーマにした、非常に恋愛色が濃厚な内容になっている。オスっちとメスっちは恋愛色が濃厚なたまごっちの為、コロコロ版やボンボン版などの男児向けの作品では未登場で、子供向けの作品では出番が少ないが、本作は少女漫画である為、オスっちとメスっちをレギュラーにし、彼らの恋愛を描いている希少なコミカライズである。デビルコっちが女の子に変身して、オスメスのカップルにちょっかいを出して2匹を別れさせようとするが、失敗して2匹の絆はより深まり、デビルコっちは悔しがりながら退散するのがお約束の流れになっている。モリっちとモルっちの回では、読者の公募から生まれたオリジナルたまごっちが登場している。",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1.2000年2月25日発売 ISBN-4091-4961-13",
"title": "漫画作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1期のたまごっちは、ばんぞー博士が失恋の傷心で隅田川のほとりをぶらついている時に、謎の生物が乗った小さなUFOが溺れているのを発見して持ち帰り、ふしぎ生物研究所でたまごっちHOUSEを開発、その生物が中に入り、時計をセットすると5分後に卵が現れ、世話や言動などで理解できるものとなっており、たまごっち星生まれの地球外生命という設定である。人間の言葉は理解できるが、人語は話せず、「ピー」という鳴き声や表情、仕草で意思を伝えている。実機の他、アニメやゲーム版、コロコロコミック版の『まんがで発見!たまごっち』ではたまごっちは人間の言葉を話せない。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1期のたまごっちはデビルっちを除き性善説で善の存在であり、基本的に悪い心は無く、あったとしても弱いのでいたずらっ子な程度である(ますくっち、ズキっちなど)。実機ではたまごっちは「たまごっちHOUSEを持つ人間しか感知出来ず、一般人は邂逅する機会も無い特別な存在」として描かれている。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "種類は実機では「元祖」「新種」「むしっち」「さかなっち」「てんしっち」「オスっち」「メスっち」「デビルっち」「やさしい」「サンタクロっち」の全10種類(ゲームオリジナルたまごっちを含めると、64版『みんなでたまごっちワールド』の熟たまごっち、PS版『星で発見』の全12種類)が存在する。尚、「デビルっち」「やさしい」「サンタクロっち」はブーム終焉時にリリースされたたまごっちである為、ゲーム化はされていない。てんしっちとデビルっちは死んだたまごっちの霊魂(おばけっち)が転生した存在であり、たまごっちの死後の存在で、それ以外は生きているたまごっちである。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ペットとしては通常のたまごっちが犬や猫などの愛玩動物、むしっちとさかなっちは野生動物、てんしっちは天使や妖精、精霊や幽霊などのポジションである。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "『たまごっちボン』ではたまごっちの身体を構成する物質は「金属、空気、ふくらし粉、羽毛、何だか分からないスウィートなもの」と説明されている。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "公式絵ではたまごっちが人語を話している描写もあるが、それはばんぞー博士とミカチューの翻訳によるものである(『どこどこたまごっち』『たまごっちボン』では「ミカチュー翻訳済み」という単語が出てくる)。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "実機のさかなっち(にんぎょっち)、オスっち・メスっち、デビルっち(デビルコっち、クリデビっち)以外のたまごっちは女性たまごっちがグループに存在せず、無性別とオスが基本の「女性を排除した、男性優位社会」になってしまっているのが特徴である(元祖、新種、むしっち、GB2のさかなっち、てんしっちなど)。メスっちも登場したが、「たまごっちに普通に女性もいて、女性たまごっちも仲間として輪に入っている世界」では無かった為評価は低く、実機のさかなっち(にんぎょっち)が登場するまでは、メスっち以外の女性たまごっちは実機には存在しなかった。尚、にんぎょっちは実機限定キャラである為、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』には登場しない。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "第2期からは、たまごっちの基本設定が全面的に一新された。地球外生命という設定は健在だが、ばんぞー博士と助手のミカチューが登場しなくなり(「Tamagotchi iD L 15th Anniversary ver.」で再登場している)、その分たまごっち星の社会や文化が続々と判明する。2009年に発売したTamagotchi iDでは液晶のドット数が大幅に増え複雑なキャラクターが描写出来るようになったためにラブリっちを皮切りに新たなデザインのキャラクターが登場した。第2期以後のアニメ化作品では、たまごっち星の世界観が詳細に描かれているが、第1期との相違点が多くみられる。例としては、たまごっち星の外観・地理の違いなど。1期ではポコポコ火山(噴火する度にたまごっちの卵を産み出す不思議な火山)、寒冷地のクリスタルキングダムなどがある(公式ガイドブック『たまごっちボン』参照)。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "キャラクターのデザインは、第1期は渡辺けんじがβバージョンをデザイン開発担当して解雇された黒柳陽子から仕事を引き継ぎ、第2期からはJINCOが担当している。なお、漫画連載は雑誌によって、あべさより、きむらひろき、かがり淳子、ヤスコーン、河井リツ子(りっち名義)、後藤英貴など複数の漫画家が担当している。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "たまごっちを数える助数詞は公的に「匹」だが、アニメ版『たまごっち!』や、ゲーム版、3期以降は「人」と数えられる事もある。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1期ではオスっちとメスっち、『星で発見』のたまごっちやにんぎょっちなどの一部のたまごっちを除き性別の概念が存在しないが、2期以降は性別の概念が存在するようになった。1期では男性的、中世的なデザインのたまごっちが多くみられる。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1期ではまめっち、みみっちといった知能の高いたまごっちや、にんぎょっち(公的に女性)、ほとんどのメスっちなどの女性たまごっちは公式イラストで排泄を便器でし、恥ずかしがる描写が多いが、それ以外のたまごっちは基本的に排泄を恥ずかしがらず、便器でするキャラは少ない。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1期でのサイズは普通の卵と同じ位で(ゲーム版では人間より少し小さい位)、1期では公式イラストには台詞があるが基本的に人語は話せず、実機やゲーム版、漫画版の『まんがで発見!たまごっち』では人語を話せず、「ピー(たまごっちの呼び出し音)」という鳴き声で意思を伝えていて、鳴き声のバリエーションは豊富。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1期はシンプルでシュールなデザインで、たまごっちには服を着る文化がないため、一部を除きたまごっちは基本的に服を着ないが、3期以降は女児向けに移行した事もあり、目がキラキラしている可愛さ特化のデザインになり、服を着る文化が登場し、服を着るたまごっちが多くなった。2期以降は1期のようなシンプルなデザインのたまごっちは少なくなり、複雑で凝ったデザインのたまごっちが多くなった。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1期のたまごっちは一部を除き2期以降には登場しないが、「たまごっちiD L 15周年記念バージョン」ではむしっちはカブトっちとイモっち、さかなっちはあしぎょっち、てんしっちはぷくてん、「デビルっち」はデビルっちが再登場している。他、たまごっちが死亡する時のお迎えの演出としてくりてんが登場する。",
"title": "キャラクター"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "・ベビっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "・まるっち(♀設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "・まめっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "・ぎんじろっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "・くちぱっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "・ますくっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "・たらこっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "・にょろっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "・おやじっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "・しろベビっち(♀設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "・みみっち(♀設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "・ポチっち(♂設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "・くさっち(♀設定)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "・おじっち♂(オスっち)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "・おトキっち♀(メスっち)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "・ゴッチ大王♂(2期以降は『ごっち大王』とひらがな表記である)",
"title": "2期以降も登場している主な1期のたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1期ではたまごっちにとって地球の空気は有毒なので、たまごっちHOUSE(実機)を介さないと地球で暮らせなかったり、たまごっちは地球上では電子のような物体になってしまうため、そのままでは人間に姿も見えず声も聞こえず触れることもできないが、たまごっちHOUSEに入ることで実体化し人間とたまごっちの交信が可能になり、HOUSEの中に入ったたまごっち達は電波でメッセージを飛ばし合って交信しているという設定があった。基本的にたまごっちHOUSE(実機)を持つ人間だけが、たまごっちを感知し交流することができる。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1期ではたまごっちは8つの種族に分類されていて、「まめ属(祖先のたまごっちのキュートさと頭脳が発達した理想的な進化タイプ。まめっち、みみっちなど)」、「くち属(のんびり屋でお人好しな種族、今では最もたまごっちらしいタイプと言われている。くちぱっち、はしぞーっちなど)」、「あし属(体力が無くひ弱な遺伝子を受け継いだが、強い食欲で生き延びた種族。にょろっち、たらこっちなど)」、「アニマ属(動物の遺伝子が入る事によって生まれた種族、まめ属の血も引いているので、どことなく育ちが良い。ぎんじろっち、ポチっち、にゃっちなど)」、「かぶき属(まめ属の賢さが悪知恵として発達してしまった種族、ますくっち、ズキっちなど。その突然変異がおやじっち、せきとりっち、チャリっち、サム(アメリカ原種)。突然変異体はかぶき属の怪しさがパワーアップしていて、人間の遺伝子が入る事によって生まれたらしい)」、「ばけ属」、かぶき属とあし属から生まれた「たこ属(たこっちなど)」あし属から派生した「くさ属(くさっちなど)」の8種類が存在する。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2期以降は「まめ族(まめっちなど)」「めめ族(めめっちなど)」「くち族(くちぱっちなど)」の3種類に新たに分類された。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1期ではオスっちとメスっちを除き単体生殖が可能であり、寿命を過ぎると死に際に卵を産む事がある。2期からは性別が登場した為、オスとメスのたまごっちが結婚して子孫を残し、その子供を育てていくシステムに変更された。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1期ではオスっちとメスっちを除き、親は寿命を過ぎると1個だけ卵を産んですぐに死んでしまう為、子供が産まれた時には既に親は亡く、親は卵を1個しか産めないので子供には兄弟もおらず、産まれた時から大人と同じご飯を食べていた(PS版の星で発見では、ベビー期のご飯は哺乳瓶に入ったミルクになっている)。子供は産まれた時から一人前のたまごっちとして生きなければならず、家族や家族関係も存在しない、現在と比べるとシビアな環境だった(現在のたまごっちは両親や兄弟が存在し、ベビー期には哺乳瓶に入ったミルクを飲むなど、手厚く保護されている)。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "『ゲームで発見!!たまごっち』シリーズでは一部のキャラやシステムが、実機と大きく異なっている(特に『2』)。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "たまごっち星では通常のたまごっちは「たまゴーシティ」、むしっちは「ステキな森」、さかなっちは「ウキウキビーチ」、オスっちとメスっちは「ラヴリー学園都市」、てんしっちは「てんしっちの都」、デビルっちは「デビル界」に暮らしている。ラヴリー学園都市はまめっちなど、オスっちとメスっち以外のたまごっちはここに来るとそわそわしてしまう(『たまごっちボン1・2』参照)。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "たまごっちiD L15周年記念バージョン(2011年発売)では「ステキな森」は「むしっちの森」、「ウキウキビーチ」は「さかなっちの海」に地名が変更されている。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 97,
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"text": "たまごっちの種類によってシステムやご飯の種類が変わり、実機では元祖は白ご飯、新種はおにぎり、むしっちは基本の食事は葉っぱだが、通常のたまごっちと異なりご飯とおやつの区別が無く、グルメなので時間ごとにメニューが変わり、さくらんぼ(朝食)やソフトクリーム(昼食)やめけめけの実(夕食)が用意されていて、成虫っちになると好物の専用メニュー(カブトっちがキャンディー、スイカ、プリン、DXケーキ、コガネっちとてんとっちがナツメ、ちょびタマっちとものっちはドングリA、フンコロガっちはフン、ゲジっちはドングリB、ふたごアリっちは角砂糖、ムシばっちとヘルメっちはキノコ)が追加されたり、ご飯の種類は豊富。さかなっちはおでん、てんしっちは天使のパイ、デビルっちはイカスミパイになっている。ベビーっちも大人と同じご飯を食べるが、PS版『星で発見』ではご飯がベビー期は哺乳瓶に入ったミルクに変更される(こどもっちからはおにぎりになる)。むしっちとさかなっちは野生動物モチーフの為、通常のたまごっちのように人間の食べ物を食べる事が出来ない。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "『ゲームで発見!! たまごっち』や『たまごっちパーク』ではご飯やおやつの種類が増えている(たまごっちパークでは、たまごっちはご飯はおにぎり、お肉、魚、苺、おやつはケーキ、アイス、饅頭。てんしっちはご飯はパイ、クレープ、ケーキ、おやつはキャラメル、キャンディーなど)。「たまごっちタウン」では全てのたまごっち(元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっち)のご飯がおにぎりで統一され、原作と異なりむしっちもさかなっちもてんしっちもおにぎりを食べられるようになっている。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "寝る時は基本的にたまごっちは布団で寝るが、むしっちは葉っぱを布団代わりにし、てんしっちは白い雲に乗り、さかなっちは水中生活をしている為、布団はかけずそのまま寝ている。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "対になるたまごっちは元祖と新種は「似た者同士」、むしっちとさかなっちは「食物連鎖(むしっちとケロぴょんっち)」、オスっちとメスっちは「恋愛」、てんしっちとデビルっちは「加害者が一方的に、被害者を虐げる関係」で結び付いている。また、元祖たまごっちは亜種のたまごっちとの関係をそれぞれ持っている(たまごっちにてんしっちは視認出来ないが、てんしっちはたまごっちを幸せの方向へと導き、見守る立場である)。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
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"text": "1期ではたまごっちの各成長形態の人数は、種類によって違いもあるが「ベビーっち1匹→幼児1匹→こどもっち2匹→アダルトっち5匹~8匹→隠しキャラ1匹」が基本であり、ゲーム版(『ゲームで発見2』、『たまごっちタウン』、『星で発見』など)は、その設定準拠である。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
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"text": "たまごっちは1期の頃は『TVで発見!! たまごっち』や、『たまごっちボン1・2』などの公式ムック、ゲーム版、アニメ版では「同種の別個体」が複数存在し、各たまごっちはそれぞれ「種族の内の一個体」として描かれていた(『TVで発見!! たまごっち』の「ハナハナとんがりっち」回で、たまっちの大群が登場している等)。各種コミカライズでは基本的に1種類につき1匹しか登場しない事が多いが、登場しないだけで同種の別個体は存在しており、『まんがで発見!! たまごっち』ではまめっちは初期の頃はもう1匹の別個体が登場しており、おやじっち、みのっち、ゲジっち、ヘルメっちなどは大量の別個体が登場していた。『だいすき♥たまごっち』(りっち作)ではまめっちと幼年体のたまごっち(まるっち、とんまるっち、たまっち、とんがりっち、まるてんなど)を中心に、複数の別個体が同時に登場するエピソードがある。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
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"paragraph_id": 103,
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"text": "しかしアニメ版『たまごっち!』や、3期以降のたまごっちは「種族の内の一個体」ではなく、「個人」として扱われるようになり、同種の別個体が存在する事は無く、仮に存在したとしても同時に一画面には出て来ない。『たまごっち!』や現在の設定では「まめっち」などは1匹しかいない固有の存在であり、1期のように「同種の別個体」は存在しなくなり、「種族の内の複数いる一個体」としては描かれなくなった。",
"title": "基本設定(全てのたまごっちに共通する)"
},
{
"paragraph_id": 104,
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"text": "亜種のたまごっちの一種。むしっちを最初に発見したのはギュルルンゴーに乗って地下を散歩していたたまごっちであり、後にたまごっちがむしっちをUFOに招待したのをきっかけに、ばんぞー博士のむしっちの研究が始まった。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 105,
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"text": "1期の通常のたまごっちと派生たまごっちの主な違いは、むしっちはこどもっちの時期が無く(メディアミックスゲームの『ゲームで発見2』ではある。『ゲームで発見2』では、むしっちは通常のたまごっちと同じシステムや育て方になっていて、ご飯やおやつのメニューとマユっちに変身する事以外は独自性が薄れている)、ご飯とおやつの区別が無く、ご飯の種類が豊富で、地球の虫のようなものなのでしつけようがないため、躾コマンドがオミットされていたり、イモっちから成虫っちに変身する前に繭形態になったり(『ゲームで発見2』ではマユっちという独立したたまごっちになっている)、むしっちは体が強いので病気をしなかったり、足やカエル(ケロぴょんっち)に襲われて追い払えないと怪我をしてミイラっちになり、治療するイベントがある。また、むしっちは寿命が短く、死亡するとむしっちおばけになり(通常のおばけっちとはデザインが異なる)、通常のたまごっちとはシステムや育て方の違いが大きく、育成ルールも変化している。布団は葉っぱ。天敵は足(人間かどうかは不明)とカエル(ケロぴょんっち)。通常のたまごっちのお腹とご機嫌のメーターはハートマークだが、『森で発見』では葉っぱマークに変更されている。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "むしっちの体重は肥満と言うより体長を反映するものなので無理に体重は下げなくていいが、たまごっちと同じくごきげんUPゲームで遊ぶと体重が1g下がる。もちろんごきげんUPゲームで手をかけた度合いにより、成長の仕方は変化する。ちなみにゲーム版では「体重が増え過ぎる=肥満」であり、ストレスの元になる為、健康的な育児を心がけるなら体重を下げる必要がある。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 107,
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"text": "むしっちは基本的に飛べないが、カブトっちと͡コガネっちは飛行能力があり、公式イラストやファンブックなどで羽を出して飛行するシーンが確認出来る。むしっちは昆虫がモチーフなので触角の生えている種類が多く、触角が生えていないのはベビモっち、イモっち、みのっち、カブトっち(角)、てんぐっちのみである。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 108,
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"text": "実機では「カブトっちを大きく育てるモード(変身はカブトっち固定)」と「カブトっち以外の様々なむしっちを育てるモード(カブトっちは別モードにいる為、登場しない)」の2つのモードがあるが、『ゲームで発見2』では前者は省略され、カブトっちを含む様々なむしっちを育てるモードに統合されている。実機ではカブトっちと他の成虫っちはモードが違う為同じ世界線では共存出来ないが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』、各コミカライズ版、公式イラスト、『たまごっちボン1・2』といった公式ガイドブックなどではカブトっちと他の成虫っちが共存しているメディアが多い。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "ケロぴょんっちがむしっちを襲うのは虫とカエルの食物連鎖を表す為であり、本能に従っているだけなのでケロぴょんっちにデビルっちのような悪意は無い。ケロぴょんっちはさかなっちにとっては仲間だが、むしっち達には凶悪な顔のカエルに見えているなど、立場によっての二面性を表しているたまごっちである。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "むしっちはグルメなので、むしっちのご飯は、時間帯によってメニューが変わり、基本の食事は葉っぱだが、朝食はサクランボ、昼食はソフトクリーム、夕食はめけめけの実である。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "成虫っちになると食事に専用メニューが出てくる事がある。専用メニューはカブトっちがキャンディー、プリン、スイカ、DXケーキ、ちょびタマっちとみのっちがドングリA、コガネっちとてんとっちはナツメ、フンコロガっちがフン、ふたごアリっちは角砂糖、ゲジっちはどんぐりB、ムシばっちとヘルメっちはキノコである。むしっちのご飯はスイーツが主食だが、たまごっちとは体の作りが違う為、スイーツはご飯である為スイーツを食べても病気にならない(『ゲームで発見2』ではなる)。尚、『たまごっちタウン』でのむしっちのご飯はおにぎりに変更されている。葉っぱ、ソフトクリーム、どんぐり以外は『ゲームで発見2』には存在しない、実機限定メニューである。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 112,
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"text": "コロコロ版『まんがで発見!! たまごっち』では、2巻からレギュラーとして追加登場している。コロコロ版、ボンボン版などのコミカライズ版では実機準拠の作品が多い為、『ゲームで発見2』のオリジナルむしっち(てんぐっち)は登場しない事が多いが、『みんなでたまごっち』『だいすき♥たまごっち』では実機とゲーム版が融合した世界観である為、てんぐっちも登場する。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 113,
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"text": "公式ガイドブックの『たまごっちボン1・2』は実機準拠である為、ゲームオリジナルたまごっちは登場しないが、むしっちのページに『星で発見!!』オリジナルキャラであるバタフライっちが登場していた。また、むしっちはたまごっち星の「ステキな森」に暮らしていて、「クリスマスが近くなると、みんなで森の木をクリスマスツリー風に飾り付けする」という記述がある為、本物の昆虫とは異なり、冬眠はしない模様。また、たまごっちにも慣れており、まめっちなどに対しても警戒する描写が無い。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 114,
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"text": "むしっちは通常のたまごっちに比べると非常に小さく(たまごっちは鶏卵サイズ、カブトっちは地球のカブトムシ位、ちょびタマっちは1.78センチ、イモっちは地球の青虫位、ふたごアリっちは地球のアリ位、コガネっちは500円玉サイズなど)、実機では通常時は森と小さな点が表示され、ボタンを押すと虫眼鏡モードでむしっちが大きく表示される演出があるが、公式ムックや絵本(どこどこたまごっちなど)、コミカライズ版では通常のたまごっちと同じ位だったり、たまごっちの手や頭に乗るサイズとして描かれているメディアミックスも多い。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 115,
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"text": "実機のむしっちは躾けられなかったり、お菓子が主食だったり、昆虫の常識しか持っていなかったり、たまごっちや人間との意思疎通や、言葉が通じているかも危うい「野生の昆虫らしさ」を持っている。その為「意思疎通が困難で、たまごっちとは違う常識を持つ生き物」という側面が強いが、ゲーム版やコミカライズなどのメディアミックスではそういう面はオミットされるか、抑えられている。むしっちは排泄を恥ずかしがらなかったり(ほとんどのたまごっちに共通するが)、マナーの概念も無いが、例外としてコガネっちは公式絵で金のおまるで排泄をしたり、食事をする時に首にナプキンを巻いてお皿に食事を置き、食器で食べるなどテーブルマナーの概念がある。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "世界観とキャラクターは実機世界と『ゲームで発見2』世界の2種類の世界が存在しており、メディアミックスではどちらかが採用されている(さかなっち同様、コミカライズ版では2種類の世界が統合されているものもある)。",
"title": "森で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "亜種のたまごっちの一種。さかなっちとばんぞー博士の出会いは、たまごっち達が地球にやって来た際、UFOの中に釣り堀がありそこにさかなっちも乗っていた為。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "さかなっちは基本的なシステムは通常のたまごっちに準じているが、水質という概念があり、水が汚れると病気になりやすくなる。ごきげんアップゲームに出てくるタコに墨を吐かれて、水質とご機嫌が悪くなったり、白熊に襲われた時に追い払えないと、怪我をするイベントがある。ご飯はおでんで、おやつはソフトクリーム。メディアミックスゲーム『ゲームで発見2』ではご飯やおやつの種類が増えている(ゲーム版オリジナルメニューはご飯はミミズ、魚、おやつはビスケットが追加された)。『たまごっちタウン』ではさかなっちのご飯はおにぎりに変更されている。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "さかなっちは寿命が短く、死亡するとこんぶーおばけという昆布型のおばけっちになる。天敵は白クマとタコ。画面には水槽のように常に泡が表示される。たまごっち星でさかなっち達が暮らす場所は「たまリンカイシティ」である(『たまごっちボン』1-2参照)。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "本作はごきげんUPゲームが2つの宝箱から宝石の入った宝箱(当たり)を当てるゲームなのだが、外れ以外にタコが出て来て墨を吐かれ、ご機嫌がゼロになり、水質が悪化してしまう事がある。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "実機のたまごっちの中では比較的育成が難しく、何もしないとすぐ死んでしまう事が多い。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "さかなっちは水中生活を送っていてえら呼吸をしている為、基本的に陸では息が出来ず一部の例外を除き、陸に上がる事は出来ず生活も出来ない。しかし、『ゲームで発見!! たまごっち2』のCMや、各種コミカライズ、絵本『どこどこたまごっち』などのメディアミックスでは、さかなっちが陸に上がっていても平気そうにしている演出がある。また、『星で発見!! たまごっち』にはゲームオリジナルキャラである亜種のさかなっちが登場する。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "さかなっちは魚類(海の生物)モチーフなので足を持たない種類が多く、足を持っているのはあしぎょっち、ケロぴょんっち、ペンギンっち、カメっち、かいぞくっちのみである。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "さかなっちはおでん好きであり、それぞれ好きなおでんの具の設定がある。プランクトンっちは卵、くらげっちは糸こんにゃく、オトトっちはごぼう巻き、きんぎょっちはちくわぶ、くじらっちとあしぎょっちは大根、ケロぴょんっちはハンペン、たいやきっちはじゃがいも、かいっちはバクダン、にんぎょっちは昆布が好物。『ゲームで発見2』に登場するゲームオリジナルさかなっちの好きなおでんの具は不明。また、『ゲームで発見2』にはおでん嫌いなさかなっち(プランクトンっち、きんぎょっち、あざらっち、かいっち)もいる為、原作と設定が矛盾している。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 125,
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"text": "コロコロ版『まんがで発見!! たまごっち』では、2巻からむしっちと共にレギュラーとして追加登場しているが、「陸上生活が出来ない」という制約がある為、むしっちに比べると出番は少ない。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 126,
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"text": "むしっちと同じ理由で実機準拠のコミカライズが多い為、『ゲームで発見2』のオリジナルさかなっち(ペンギンっち、あざらっち、アンコっち、カメっち、かいぞくっち)は登場しない事が多いが、『みんなでたまごっち(あべさより版)』『だいすき♥たまごっち(りっち版)』は実機とGB版が融合された世界観で、実機限定キャラとゲームオリジナルキャラが共存している。『みんなでたまごっち』では実機の隠しキャラのにんぎょっちを『ゲームで発見2』の隠しキャラのかいぞくっちが、監禁してお嫁さんにしようとしたエピソードもある。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "さかなっちの特色は、実機限定キャラだが「メスっち以外の女性たまごっちであるにんぎょっち(公式でミーハー娘と呼ばれている)」が存在する事。無性別とオスが基本のたまごっち社会は女性を排除したグループになってしまっているが、さかなっちは彼女がいる事で、「仲間として、無性別とオスが基本のさかなっちの輪の中に入っている、女性さかなっちが存在するグループ」になっている。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "なお、『ゲームで発見2』では隠しキャラがにんぎょっちからかいぞくっちに変更されている為、本作のさかなっちは他のたまごっち同様、無性別とオスが基本の社会になっている。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "『森で発見』同様、世界観とキャラクターは実機世界と『ゲームで発見2』世界の2種類の世界が存在しており、メディアミックスではどちらかが採用されている。",
"title": "海で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "てんしっちはたまごっちの死後の幽霊から生まれた天使で、たまごっちを幸せに導く上位の存在であり(厳密にはたまごっちでは無いが、亜種のたまごっちとして扱われている)、死んだたまごっちの救済として生み出された。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "てんしっちの都から感謝の気持ちを伝える為にやってきたてんしっちを育成し、立派に修行を努めさせ上げて都へ返すのが目的。なお、てんしっちとばんぞー博士の出会いは、徹夜明けの博士の前におばけっちがやって来た為である(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ てんしっちの育て方編fly』参照)。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "てんしっちはたまごっちの死後の魂である為、不死身だが「堕天」という概念があり、ガイコっちの誘惑に負けるとデビルっちに堕天してしまい、バッドエンド状態になってしまう。デビルっちに堕天させずに、てんしっちを一人前の天使にして、てんしっちの都に帰すのが本作の目的である。てんしっちにはしつけが必要なほどの悪い子はいないので、「叱る」コマンドは「褒める」に変更されている。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "食事は天使のパイで、おやつはホワイトチョコ。メディアミックスゲームの『たまごっちパーク』ではご飯はケーキ、天使のパイ、クレープ、おやつはキャラメル、キャンディーで、ゲーム版ではご飯やおやつの種類が増えている。他、『たまごっちタウン』でのてんしっちのご飯はおにぎりに変更されている。てんしっちはむしっち同様、スイーツが主食だが霊魂である為、食べ過ぎても病気にはならない。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "「しつけ」は「しあわせ度」、「ごきげん」は「ガンバル度」、「年齢」は「人間界滞在日数」、「体重」は「TP(てんしパワー)に変更されている。てんしっちはTPが溜まるとおいのりをし(アダルてんにならないと出来ず、その前は真似事である)、時々どこかにお出かけする事がある。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 135,
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"text": "てんしっちは通常のたまごっちとは食べ方が異なり、食べ物をかじらず、そのまま食べ物のエネルギーを吸収する為、てんしっちが食事をする演出はパイが小さくなっていく事で表現されている(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ』参照)。『森で発見』同様、通常のたまごっちとシステムや、育成ルールが変化している。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "てんしっちはおばけっちが転生した存在である為、生きているたまごっちのような繁殖能力は持たず、新たなてんしっちを自分で産む事は出来ない(『たまごっちタウン』除く)。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "死んでしまったたまごっちはてんしっちになり、てんしっち達はてんしっちパワーを高める為に日々幸せに過ごしている。てんしっちの仕事はたまごっち星にじょうろで雨を降らせたり、くまさんかきごおり機で雪を降らせたり、美味しいパイを上手に焼き上げたり、そして何より楽しく幸せに暮らす事である。てんしっちはこうして仕事をしながら幸せに暮らし、たまごっちや人間達の幸せの為にお祈りする毎日を過ごしている。てんしっちが焼くパイの種類はチェリーパイにパンプキンパイ、クリームチーズパイやアップルン♪パイが基本で、中でもアップルン♪パイはみんなのお得意メニューの一つである。てんしっちの都では「ジャンピングスター」という遊びが大流行している。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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{
"paragraph_id": 138,
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"text": "てんしっちのお祈りの方法、効果はてんしっちによって異なり、くりてんはステキなステッキ「スーパーエターナルッチョマロンタクト(本物)」を使用し、効果は「元気UP」、ぷくてんは浅草のおもちゃ屋で買ったピロピロ笛を使用し、効果は「ダイエット成功」、ぎんじろてんしは「勝負運UP」、たらてんは「勉強運UP」、おやじてんしは「健康運UP」、ふたごてんしは「恋愛成就」、さぼてんしは「やる気UP」、おとのてんは「アッパレ!」を司っている(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ』参照)。てんしっちのお祈りは、みんなの悪い事や嫌な事を食べる為に行われている。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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"paragraph_id": 139,
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"text": "ふたごてんしは恋愛成就のお祈りが得意な為、オスっちとメスっちの恋のキューピッドとしての役目も担っている。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
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"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "なお、こどてんはアダルてんではない為、本物のお祈りはまだ出来ないが、お祈りごっこが好きでステキなステッキ「スパイラルジュテームエンジェルロッド(おもちゃ)」を振り回して遊んでいる。てんしっちはお祈り後に星屑のフンをして、褒めてあげるとしあわせ度が上がる。てんしっちが何もしていないのに褒めると、調子に乗ってガンバル度が下がってしまう。てんしっちのガンバル度(たまごっちで言うご機嫌に相当)アップゲームは「シューティングスターゲーム」である。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "天敵はデビル界のコウモリ、ガイコっち、デビルっちの3匹。コウモリはチョコを横取りしに来て、追い払えないとしあわせ度が下がり、ガイコっちはてんしっちを堕天させるために取り付いて誘惑し、注射コマンドで退治しないとデビルっちにされてしまう。デビルっちは堕天した元てんしっちそのものである。てんしっちが寝ていないのに電気を消すと、ガイコっちが来てしまう。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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"paragraph_id": 142,
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"text": "てんしっちが修行を終えててんしっちの都に帰天するか(グッドエンド)、ガイコっちの誘惑に負けてデビルっちに堕天(たまごっちで言う病死扱い)してしまうと育成は終了する。他、死んだたまごっちの魂(おばけっち)を迎えに来て、てんしっちの都に連れて行きおばけっちがが一人前のてんしっちになれるように導くのも、てんしっちの役目である。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 143,
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"text": "てんしっちは全てのたまごっちを統括する上位の存在であり、生きているたまごっち(元祖、新種、むしっち、さかなっち、オスっち、メスっちなど)が死んでおばけっちになった時に、てんしっちの都へ連れて行き、おばけっちをてんしっちに変え、てんしっちとしてみんなを幸せにできるように教育している。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "たまごっちが死んでおばけっちになり、てんしっちになると頭に天使の輪が付き、背中に白い羽が生える。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 145,
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"text": "『たまごっちボン』などではてんしっちにモデルがいないまめっち、くちぱっち、みみっち、ズキっち、ポチっち、カブトっち、コガネっち、ヘルメっち、ケロぴょんっち、あしぎょっち、にんぎょっちなどは元の姿のままてんしっち化していた為、元の姿を残したままてんしっちになる事も可能。たまごっちの姿のままてんしっちになった者もいれば、違う姿になって生まれ変わったてんしっちも存在する(生きているたまごっちにモデルがいないくりてんやぷくてんなどは、違う姿になって生まれ変わったたまごっちである模様)。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 146,
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"text": "むしっちはてんしっち化すると通常のたまごっちと同じ位のサイズになり(『たまごっちボン』のてんしっちパートでは、むしっちおばけはおばけっち、こんぶーおばけと同じ位のサイズとして描かれていた。またコガネっちはまるてんと同じ位のサイズで描かれている為、個体差もある模様)、羽があるカブトっちやコガネっちなどはむしっちの羽がてんしっちの羽に変わり、さかなっちは陸上でも活動出来るようになる(『たまごっちボン1・2』参照)。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 147,
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"text": "『TVで発見!! たまごっち』では、おばけっちはてんしっちの都の門を潜るとおばけっち2号になるが、『たまごっちボン1・2』ではおばけっち(通常、むしっち、さかなっち)のまま、てんしっちの都に来ていたので、メディアによって設定に差異がある。『星で発見』ではたまごっちが死ぬと、おばけっちを介さずそのままおばけっち2号になり、『ゲームで発見』ではたまごっちがそのまま幽霊化する為、おばけっちの姿にはならない。てんしっちは生きているたまごっちには姿も声も感知出来ないが、コミカライズ版などでは見えている媒体が多い。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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{
"paragraph_id": 148,
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"text": "『TVで発見!! たまごっち』の「ぶっタマゲてんしっち」回では、くりてんがぎんじろてんしを助ける際、デビルっち達を追い払う時に弓矢を使用していた。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
},
{
"paragraph_id": 149,
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"text": "亜種のたまごっちの中では登場が一番早い為、メディアミックスゲーム(『星で発見』、『たまごっちパーク』、『たまごっちタウン』)やコミカライズでは出番が多いが、当初は他のたまごっちとは異なり、対になる存在がいなかった為(てんしっちは1997年8月、デビルっちは1998年9月発売)、対になるたまごっちを育成する『ゲームで発見!! たまごっち』の移植には恵まれず、むしっちとさかなっちに譲る形になった。てんしっちと対になる存在はデビルっちだが、デビルっちは1期の終焉時に後付けで追加されたたまごっちの為、デビルっち登場前はむしっちとさかなっちが対なので、てんしっちと対になる存在はたまごっちとされていた。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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{
"paragraph_id": 150,
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"text": "てんしっち及びてんしっちの都は、たまごっちや人間など下界に幸福を与える存在であり、善の心を呼び起こす力を持っている。その為デビルっちはてんしっちを誘惑し堕天させる事で仲間を増やし、イタズラし放題の世界にしようと企んでいる。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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"text": "コロコロ版『まんがで発見!! たまごっち』では、てんしっちは未登場である。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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"paragraph_id": 152,
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"text": "なかよし版『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ作)ではタイトル名を冠していて、主役級の扱いを受けている。",
"title": "てんしっちのたまごっち"
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"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "亜種のたまごっちの一種。オスっちとメスっちは育成ルールが変化したむしっちやてんしっちと異なり、大まかな育成ルールは通常のたまごっちと同じだが、地球でラヴラヴカップルの手に渡った事で、たまごっちがラヴパワーに目覚めて、性別が分かれ恋に目覚めた。他、「たまごっちらしさを測る基準」としてTMP(たまごっちパワー)がパラメーターとして新たに設けられ、ブリードして世代を重ねていくとTMPが変化していくようになった。TMPは世話をサボると変身時に下がる事がある。尚、隠れキャラになると恋愛事から離れてしまい、ブリード出来なくなる。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "ご飯とおやつの種類はTMP1がご飯1・5倍盛り(子供に分け与える為)、おやつはキャンディー。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "TMP2はご飯は缶詰め、おやつはケーキ、TMP3はご飯はおにぎり、おやつは串団子、TMP4はご飯はパン、おやつはショートケーキ。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "隠れキャラはおじっち、おトキっちはご飯はキノコでおやつはお酒、ステボっち、ツケっちはご飯はケーキでおやつはお酒。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "オスっちとメスっちは地球で生まれ、地球にしか生息していない新種のたまごっちであり、通常のたまごっちとは異なり性別と恋愛とブリードの概念がある(後にPS版の『星で発見!!』にもこのシステムが採用された)。その為通常のたまごっちとは異なり単為生殖ではなく、恋愛してブリードしてオスとメスの2匹の双子を産み、その子供を育てるシステムである。通常のたまごっちは親や兄弟は存在せず家族関係も無いが、オスっちとメスっちには親子関係、兄弟関係、夫婦関係といった家族関係が存在する。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "本作は非常に恋愛色が濃厚なのが特徴で、その為コミカライズではちゃお版、『だいすきLOVE♥LOVEたまごっち』(りっち)、なかよし版『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ)の少女漫画作品ではオスっちとメスっちはレギュラーキャラとして登場したが、他の作品では出番が少なく、少年誌のコロコロ版(『まんがで発見!! たまごっち』)、ボンボン版(『ぼちぼちたまごっち』)では未登場であり、次回作のむしっちとさかなっちに登場機会と出番を譲っている。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "むしっち、さかなっち、てんしっちといった他の亜種のたまごっちと比べるとメディアミックスに恵まれておらず、『ゲームで発見!! たまごっちオスっちとメスっち』は前作や前々作と異なり外注ソフトであり、『たまごっちタウン』は集大成を売りにしたゲームで、今まで登場したたまごっちは全員登場するが(元祖、新種、森、海、てんしっちの5種類が登場)、オスっちとメスっちは登場しなかった。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "コミカライズ化も出番が削られており、オスっちとメスっちがレギュラーとして登場する作品は少女漫画作品の『だいすき♥たまごっち(ちゃお版)』『てんしっちのたまごっち(なかよし版)』の2作品のみである。",
"title": "オスっちとメスっち"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "・ゲームで発見三部作(ゲームボーイ版)",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "・たまごっちタウン(SFC版、ニンテンドウパワー)",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "・みんなでたまごっちワールド(NINNTENDO64版)",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "・たまごっちパーク(セガサターン版)",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "・星で発見(PlayStation版)",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "派生たまごっちが育成できるメディアミックスゲームは『たまごっちパーク』(元祖、新種、てんしっち)はてんしっちの育成方法は実機準拠だが、『ゲームで発見2』(むしっちとさかなっち)、『ゲームで発見3』(オスっちとメスっち)、『たまごっちタウン』(元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっち)では通常のたまごっちと同じ育て方、システムになっている。",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "通常のたまごっちは『ゲームで発見!! たまごっち』(ゲームボーイ)、『みんなでたまごっちワールド』(NINNTENDO64)、『たまごっちパーク』(セガサターン)、『星で発見!!』(PS、ゲスト枠)、『たまごっちタウン』(SFC)に登場し、育成できる。",
"title": "初代たまごっちのメディアミックスゲーム"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "1999年5月1日に発売。種類はニンテンドウパワー。『たまごっちタウン』は5種族のたまごっちを卵から育て、成長させて卵を産ませ、99日以内にたまごっちを100匹以上に増やしてたまごっち星を繁栄させる事と、全75種類のたまごっち(オリジナル10種含む)をコンプリートするのが目的の内容である。オスっちとメスっちはキャラが多いのと性別、恋愛、ブリードという独自要素が単為生殖させる本作のシステムに合わなかった為、除外されている。本作ではむしっち、さかなっち、てんしっちといった亜種のたまごっちは独自要素が薄められ、通常のたまごっちと同じ育て方、システムになっている。たまごっちの集大成ゲームで、最終作である。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "むしっちとさかなっちは『ゲームで発見2』準拠のキャラ、設定になっており、てんしっちは大幅な設定改変が行われており、「死んだたまごっちの霊魂」ではなく、「生きているたまごっち」という設定に変更され、卵から生まれ、卵を産んで死んで行くシステムになっている。むしっちもさかなっちもてんしっちも本作では、通常のたまごっちと同じ食べ物(おにぎり)を食べる設定に変更されている。亜種のたまごっちは通常のたまごっちとシステムが同じなので、むしっちもさかなっちもてんしっちも「通常のたまごっち」という設定に変更されている。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "ゲーム内のたまごっち達のグラフィックは実機のドット絵が使用され、ゲームで発見2のオリジナルたまごっちは新規にドット絵を描き下ろしている。本作は実機限定むしっち、さかなっちのヘルメっち、たいやきっち、にんぎょっち(女性たまごっち)は登場しない為、「無性別とオスが基本の、女性を排除した男性優位社会」になっている。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "尚、むしっちはゲーム版同様、こどむしっちから繭になるが繭のデザインはフィールドでは実機準拠である(名前はまゆっち表記、図鑑ではゲームで発見2のマユっちのデザインである)。なお、まゆっちもむしっちとして図鑑に登録されている。まゆっちは原作と異なり、お世話が出来てまゆっちの状態でも寝たり、ご飯を食べたり、フンをする。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "本作ではてんしっちは生きているたまごっちの一種として下界に生息している為、「てんしっちの都」という概念は存在せず、通常のたまごっちにも感知出来、原作とは大きく設定が異なる。原作ではてんしっちは死んだたまごっちの霊魂が転生した存在で、生きているたまごっち達を統括する上位の存在だが、本作ではただの生きているたまごっちなので、下界でたまごっち達と一緒に暮らしている。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "また、本作は地形(フィールド)があり、山、海、森、草の4種類存在する。地形ごとに生息するたまごっちの種類が異なり、草は元祖と新種、森はむしっち、海はさかなっち、山はてんしっちが生息している。最初は2個の卵を入手し、それを孵化させてたまごっちを育てて卵を産ませ、繁殖させていく流れになっている。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "本作は『ゲームで発見!! たまごっち』のように、元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっちの全5種類のたまごっちが一つの系統に統合されていて、地形を変えたり移動させる事で、地形に対応する別の種類のたまごっちに変身する。本作には「汚染度」というシステムがブロックごとにあり、汚染度が全てに対し影響を与え、汚染度が高くなるとたまごっちは上手く成長出来なくなってしまう。汚染度を上げないコツは掃除をするタイミングで、掃除は一日何回でも出来るが、夜(出来れば23時に)には必ず掃除するのが理想である。掃除方法はフィールドによって異なり、風は「草原を掃除」、波は「海を掃除」、雨は「森と山を掃除」である。なお、掃除する度に特定のフィールドにいるたまごっちにストレスを与えてしまうので注意が必要。ストレスは遊具を置く事で減らす事が出来る。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "こどもっちは1日におにぎりを1個、アダルトっちは2個食べ、それ以上置くと食べ残してしまい汚染度が上がってしまう。たまごっちは、タウンの居心地が悪いと夜逃げしてしまう事がある。たまごっちはアダルトっちまで成長するとすぐ卵を産む為、本作のたまごっちは原作と異なり、親子関係や兄弟関係が存在する。本作のたまごっちはフィールドでは、機嫌が良い時と悪い時では表情や動きが変わる。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "本作のごきげんアップゲームは「みんなであっちむいてホイ!」「なんばんめはだれ?」の2種類。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "上述以外にも、にゃっちとチャリっち(新種発見の新色機差し替えキャラ)、サム(ゲームで発見無印の隠れキャラ、海外版が元ネタ)、まゆっち(むしっち、フィールドのデザインは実機のマユ、図鑑ではゲームで発見2のマユっちのデザイン)ベーダーちゃん(海外版・新種発見のせきとりっちまたはチャリっちの差し替えキャラ)、ラッキーうんちくん(てんしっちのレアな隠しキャラ)、デビルっち(てんしっちの天敵、本作ではてんしっちの1匹枠)といった、ゲーム版ではなかなか登場しないキャラや、レアなキャラも登場している。",
"title": "たまごっちタウン"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "『無印』は1997年6月27日発売、『2』は同年10月17日発売、『オスっちとメスっち』は1998年1月15日に発売。種類はゲームボーイ。全三部作であり、『無印』は元祖と新種、『2』はむしっちとさかなっち、『オスっちとメスっち』は(これのみ外注ソフト)はオスっちとメスっちを題材にした内容である。2種類の対になるたまごっちを一つの種族に統合、またはセットにして飼育する内容であり、題材になっているキャラクターは全員生きているたまごっちである。",
"title": "ゲームで発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "本作のたまごっちは言葉を話せず、「ピー」という鳴き声や、表情、仕草で意思を表現する。『無印』と『オスっちとメスっち』は実機準拠のシステムだが、『2』は実機先行メディアミックスである為、実機は通常のたまごっちと育成ルールが変化し、独自要素満載の内容である為、通常のたまごっち準拠の『2』の育成システムやキャラクターが実機と本作で大きく乖離している。キャラクターは基本的に原作準拠だが、『2』はバンダイがゲーム用に描き下ろしたキャラクターが多数登場し、実機とはお互いに補完し合う関係であり、パラレルワールドのような立ち位置である。",
"title": "ゲームで発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "コミカライズでは『だいすき♥たまごっち』(りっち作)、『みんなでたまごっち』(あべさより作)、『まるごとまんがでたまごっち』(きむらひろき他作、サムのみ)に本作オリジナルのたまごっちが登場している。",
"title": "ゲームで発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "1998年2月19日発売。種類はプレイステーション。亜種のたまごっちの一種。本作の『星で発見!! たまごっち』ではばんぞー博士とミカチューがたまごっち星の隠れ里に不時着し、そこで隠れ里に住んでいる野生のたまごっちの生態を調査する為に、野生のたまごっちを勧誘し、全てのたまごっちを育成しブリードさせ、生態表とブリード表を完成させるのが本作の目的である。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "本作のたまごっちはゲストの元祖、新種、てんしっちを除き、フィールドにいる野生のたまごっちは全てゲームオリジナルキャラクターである。ゲストはてんしっちは撮影専用キャラであり育成出来ず、元祖と新種はフィールドには出現しないが、Dグループ同士をブリードすると卵から生まれて来る。たまごっち星が舞台である為、たまごっちはHOUSEに入らなくても実体化していて、大きさは元の鶏卵サイズではなく、人間より少し小さい程度になっている。本作ではたまごっちが死ぬとおばけっちを介さず、そのままおばけっち2号になる。たまごっちは部屋の居心地が悪いと、置手紙を残して家出してしまう事がある。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "『ゲームで発見』同様、名前を付ける事が出来る(その際、性別が表示される)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "本作のたまごっち達は普段は野生としてフィールドを徘徊しているが、初めて見るはずの人間(ミカチュー)に対しても警戒心を抱かず、仲良くなると後ろを付いて来てくれる。たまごっちと仲良くなる為のパフォーマンスは「なかよしチャンス」と呼ばれており、「歌」「手品」「ダンス」「キス」の4種類が存在し、たまごっちによって好きなパフォーマンスが異なる。好きなパフォーマンスならたまごっちは付いて来てくれるが、気に入らないパフォーマンスだとたまごっちはその場から立ち去ってしまう。稀になかよしチャンスの演出が派手になる事があり、その場合はどんなパフォーマンスをしてもたまごっちは気に入ってくれる。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "また、夜には夜行性のたまごっちが徘徊しているが、稀に二種類の「くろまめっちナイト」「ジュエルっちナイト」というレアな夜行性のたまごっちしか出現しない特別な夜になる事があり、くろまめっちとジュエルっちはこの時しか出現しない。尚、くろまめっちとジュエルっちは同時に出現しない。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "『ゲームで発見』では第一形態のベビーっちはわがままは言わないが、本作ではわがままを言う設定に変更されている。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "尚、こどもっち以上はたまごっちをフィールドで連れ歩くことが出来る。ミカチューは普段は徒歩だが、自転車で移動する事も出来、たまごっちを自転車のかごに乗せられる(自転車に乗っていたり、たまごっちを連れ歩いている状態ではなかよしチャンスは起こらない)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "フィールドには青い石が落ちていて、100個まで拾える。青い石は主に福引でてんしっちが撮影できるフィルムを入手するのに使用し、てんしっちはたまごっちの霊体である為、通常のフィルムでは撮影出来ないが、特殊なフィルムを使用する事で撮影出来る。また、てんしっちは各地にある噴水の前に夜のみ出現する。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "たまごっちを20種類以上図鑑に記録すると、博士から「もぐるん号」という水中を移動できる乗り物を入手出来、水中のたまごっちも記録出来る様になる(水中に潜っている間も、時間が経つので注意)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "実機と異なり、たまごっちは20歳位になるとパラメータが完璧でも突然死してしまう。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "本作には「たまごっち風邪」という伝染病があり、1匹がかかってしまうと他の部屋のたまごっちにも伝染してしまう為、ベビーっちの時点で予防接種を打ち、かからないようにする必要がある(予防接種が出来るのは1匹に付き1回だけ)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "フィールドには競技場があり、こどもっち以上は競技(カーニバル)に出る事ができ、クリアするとおつむやからだのパラメータが増える(失敗すると下がる)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "『ゲームで発見』同様、第一形態のベビーっちのお腹とご機嫌の減り方は異様にハイスピードである。第一形態のベビーっち(たらベビっち、うさいもっち、モスピっち、しっぽっち)はゲート内のフィールドには出現せず、ゲート外の特定の場所にしか出現しない野生個体としてはレアなたまごっちである(第二形態のベビーっちはゲート内にも通常出現している)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "ごきげんアップゲームは元祖と新種から「こっちむいてホイ!」と「数字でドン!」の2種類が採用されている。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "本作のオリジナルたまごっちが通常のたまごっちと違う点は「オスっちとメスっち」から性別、ブリード、TMPシステムが採用されている点。異性のアダルトっちをブリードさせ、成功すると卵が生まれる。「オスっちとメスっち」同様、年齢、TMPが近くないと成功しにくい。なお、本作ではキャラクターにオスっちとメスっちのような性差による外見の区別は存在せず、全てのたまごっちにオスとメスが存在し、男性的なたまごっちのメス、女性的なたまごっちのオスも普通に存在する。元祖と新種は原種である為、性別の概念は存在せず(ステータス画面にも性別の表記は無い)、ブリードは不可能である。性別、ブリードの概念が存在するが、オスっち・メスっちとは異なり、恋愛色は薄い。尚、本作のたまごっちは「オスっちとメスっち」とは異なり、ベビーっち(第一形態)の頃から性別が分かれている(オスっち・メスっちはヤングっち(たまごっちで言うこどもっち、第三形態)から性別が分かれる)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "「オスっちとメスっち」から性別とブリードのシステムを導入し、オスっちとメスっちの他、むしっちとさかなっちの補完、フォローも兼ねていて、本作ではむしっちとさかなっちに使用されていないモチーフの昆虫、魚類のキャラが多く登場している(特にさかなっちは本作オリジナルの亜種のさかなっちが育成は出来ないものの、多数登場する。むしっちは実機、ゲーム版にいない蝶、カマキリ、ホタルモチーフのたまごっちが存在している)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "なお、初代では性別のあるたまごっちは地球出身であり、オスっちとメスっちしか存在しないとされているが、本作のオリジナルたまごっちはたまごっち星出身だが性別がある(公式ファンブックではたまごっち星にもオスっちとメスっちが暮らしている設定になっている)。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "本作のたまごっちの鳴き声(効果音)はベビーっち→幼児→こどもっち→アダルトっちと年齢によって異なる。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "ゲームオリジナルキャラクターである為、「みんなでたまごっちワールド」の熟たまごっち同様、コミカライズには基本的に登場しないが、「だいすき♥たまごっち(りっち作)」では熟たまごっちと共に登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観であり、2巻の表紙にはバタフライっちとさかだるっち、3巻の表紙にはチュリっち黄色が描かれている。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "それぞれA~Fの6グループが存在し、グループごとに変身系統が異なる。Eグループ、Fグループは原種の元祖・新種が相当し、Dグループ同士をブリードさせる事で生まれる。",
"title": "星で発見!! たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "1998年1月29日発売。種類はセガサターン。登場たまごっちは元祖、新種、てんしっちの3種類。たまごっちはプレイ時に卵を貰い、てんしっちは死んだたまごっちの墓参りをした時に出て来る幽霊から育てる事が出来、てんしっちの育成システムは実機準拠。ゲームボーイ版同様、たまごっちやてんしっちに名前を付ける事が出来る。食べ物の種類は実機やゲームボーイ版より増えており、本作独自のメニューも多い(魚、苺、アイスクリーム、饅頭、クレープ、キャラメルなど)。最大8匹まで育成できる。",
"title": "セガサターンで発見!! たまごっちパーク"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "1997年12月19日発売。種類はNINTENDO64。熟たまごっちの形態では育成不可能。おやじっちとせきとりっちとチャリっちを除くと全34匹。「星で発見」同様、ゲームオリジナルたまごっちなのでコミカライズには基本的に登場しないが、「だいすき♥たまごっち(りっち作)」では星で発見たまごっちと共に登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観になっている。3巻ではすいかっち、おかねもっち、アフロおやじっちが描かれている。",
"title": "「64で発見!! たまごっち みんなでたまごっちワールド」での本作オリジナルの熟たまごっち"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "※1 デビルっちは デビル初級→デビル中級→デビル上級→デビルハイパー というように、階級で成長の度合いを表すため、他のたまごっちのように年齢の概念は存在せず、デビル中級のおやじデビルはこどもっち期に相当する事になる。本稿では簡便のため上記のとおりとした。",
"title": "第1期(初代たまごっち、その他)"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "※2 ちょびタマっちとみのっちは実機では「成虫っち(アダルトっち)」で、むしっちのこどもっち期は存在しないが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン(SFC)』では「こどむしっち(こどもっち)」という設定に変更されていて、メディアによって年齢が異なる。本稿では実機の設定であるアダルトっちとしてカウントした。",
"title": "第1期(初代たまごっち、その他)"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "※3 ふたごアリっちは実機ではヘルメっちと並ぶむしっちの隠しキャラだが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』では通常キャラに変更されている。",
"title": "第1期(初代たまごっち、その他)"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "※4 むしっちのてんぐっち(隠しキャラ)、さかなっちのペンギンっち、あざらっち、アンコっち、カメっち、かいぞくっち(隠しキャラ)の6匹は『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』にのみ登場するゲームオリジナルたまごっちであり、実機には登場しない。",
"title": "第1期(初代たまごっち、その他)"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "※5 たまごっちは種類によって成長段階の呼び方が異なり、通常のたまごっちは「ベビーっち→こどもっち→アダルトっち→隠しキャラ」に成長するが、むしっちは「幼虫っち→(こどむしっち※GB2、たまごっちタウンのみ)→繭(GB2ではマユっち)→成虫っち(隠しキャラ含む、GB2では成虫っちから隠しキャラに変身)」の3段階(GB2では6段階)であり、さかなっちは「ベビフィッシュ→こどもッシュ→アダルトッシュ→隠しキャラ」で、てんしっちは「ベビーてん→チルドてん→アダルてん→隠しキャラ」に成長し、種類によって呼び分けられている。基本は「ベビーっち→幼児期→こどもっち→アダルトっち→隠しキャラ(特定のキャラのみ)」の順で5段階に成長するが、例外としてむしっちは、実機ではこどもっちと呼ばれる2匹のキャラ(元祖では、たまっちとくちたまっちが相当)が存在しない。",
"title": "第1期(初代たまごっち、その他)"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "ごっちポイントが導入される。ゲームや通信で増える。",
"title": "第2期(赤たま・ケーたま)"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "通信できない。",
"title": "第2期(赤たま・ケーたま)"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "お見合いができなくなる。お世話ミスを5回したり、99歳になったりすると死んでしまう。",
"title": "第2期(赤たま・ケーたま)"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "括弧内はウラたまでの名称。",
"title": "第2期(エンたま、ウラたま)"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "ガッツポイントで進化キャラクター、たまごっちスクールのクラス、就職先が決まる。",
"title": "第2期(エンたま、ウラたま)"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "親の属性で子の属性が決まる。",
"title": "第2期(エンたま、ウラたま)"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "結婚できるようになる。",
"title": "第2期(エンたま、ウラたま)"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "お見合いができなくなる。お世話ミスを5回すると死んでしまう。",
"title": "第2期(エンたま、ウラたま)"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "「まめ属(ウラまめ属)」、「めめ属(ウラめめ属)」、「くち属(ウラくち属)」のたまごっちが産卵期になって2日後以降に、レアアイテム「お見合い紹介カード1」、「お見合い紹介カード2」、「お見合い紹介カード3」のどれかを使うと、おせっかいばあさんがカーテンで隠された謎のお見合い相手を連れて来る。お見合い相手と結婚すると、「?属(!属)」の子供「はてなっち(びっくりっち)」が産まれる。「?属(!属)」は育ての親の属性を引き継ぐので、「?属(!属)」同士で結婚した場合は育ての親の属性によって産まれる子供の属性が決まり、他の属性のたまごっちと結婚した場合は「?属(!属)」の育ての親の属性と結婚相手の属性によって子供の属性が決まる。「?属(!属)」はレアアイテム「お見合い紹介カード」が使用できないので、「?属(!属)」から「?属(!属)」の子供は産めない。",
"title": "第2期(エンたま、ウラたま)"
},
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たまごっちは1996年11月23日に日本のバンダイから発売されたキーチェーンタイプの電子ゲームであり、登場するキャラクターのことでもある。名称の由来は「たまご(Tamago)」と「ウオッチ(Watch、腕時計)」。企画、開発は横井昭裕。 「たまごっち」をローマ字で表記するとTamagotchまたはTamagotchi。略称はTMGC。
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{{百科事典的でない|date=2023年3月|t=Wikipedia‐ノート:ウィキペディアは何ではないか}}
'''たまごっち'''(英:Tamagotchi)は[[1996年]][[11月23日]]に[[日本]]の[[バンダイ]]から発売された[[キーホルダー|キーチェーン]]タイプの[[電子ゲーム]]であり、[[#キャラクター|登場するキャラクター]]のことでもある。名称の由来は「[[卵|たまご]](Tamago)」と「ウオッチ(Watch、[[腕時計]])」<ref name="asahi_000628">「1996・たまごっち 世界に飛び火(今日的遺跡探検)【大阪】」『[[朝日新聞]]』2000年6月28日付夕刊、3頁。</ref>。企画、開発は[[横井昭裕]]。
「たまごっち」を[[ローマ字]]で表記すると'''Tamagotch'''または'''Tamagotchi'''<ref group="注">後者(iがついている)は海外版での表記だが、日本版でも第3期<!--たまごっちプラスカラー、iD以後-->ではこちらに統一された。</ref>。略称はTMGC。
== 概要 ==
[[ディスプレイ (コンピュータ)|画面]]の中に登場する「たまごっち」と呼ばれる[[生物]]に[[餌|えさ]](ご飯)を与えたり、[[糞]]の[[掃除]]をしたり「たまごっち」と遊んだりしながら育てていく。こまめに[[コミュニケーション]]をとっていれば機嫌がいいが、餌をやり忘れたり、糞の掃除が滞ったりすると機嫌が悪くなり最悪の場合には死に至ることもある。こうして育てていくと、ある程度時間が経てば「[[おやじっち]]」や「にょろっち」など様々な生物に変身する。どの生物になるかは、[[生物]]のその時の[[体重]]や[[wikt:機嫌|機嫌]]に左右されるよう設定されている。その他、名称の由来どおり単なる[[時計]]としても利用することができる。
大きさは高さ53mmで、白黒[[液晶ディスプレイ|液晶画面]]の下部に3つのボタンを備えている。ボタンは左から[[メニュー (コンピュータ)|コマンド]]の選択・決定・[[キャンセル]]に割り当てられ、この操作体系は同社の『[[デジタルモンスター]]』、他社の『[[ドラゴンクエスト あるくんです]]』など多くのゲームに引き継がれた。
== 『たまごっち』シリーズ ==
バンダイ公式では[[1996年]]から[[1998年]]発売機種を「誕生期」、[[2004年]]から[[2007年]]発売機種を「ツーしん期」、[[2008年]]から現在発売している機種は「カラー期」に分類されている<ref>小学館「たまごっちファン premium」2014年7月10日発行「たまごっちクロニクル」14、15頁参照</ref>。
=== 第1期(誕生期) ===
==== 企画段階 ====
: 第1期たまごっちは、[[1995年]]6月、[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]の[[横井昭裕]]が[[バンダイ]]の[[本郷武一]]に原案となる企画書を提出したのが発端である{{Sfn|横井|1997|p=30}}。これは横井が1996年の年末商戦用にバンダイに提案した企画であり、[[女子高生|女子高校生]]をメインターゲットとして開発された<ref name="Ni_chara0509_87">{{cite journal|journal=日経キャラクターズ!|id=2005年9月号|page=87頁|publisher=[[日経BP]]社}}(横井昭裕へのインタビュー記事)</ref>。第1期たまごっちは「携帯ペット」と銘打っていたが、開発者の[[横井昭裕]]が[[動物]]好きであったことから「ペットを育てる」という発想が生まれたものである<ref name="Ni_chara0509_87" />。
: 携帯に便利ということで時計型にする発想が生まれ{{Sfn|横井|1997|p=38}}、「卵型の玩具は売れる<ref group="注">横井は、前例としてバンダイがかつて発売した「タマゴラス」や「ちゃ卵ぽ卵」を挙げている。</ref>」ということで卵型にする発想が生まれた{{Sfn|横井|1997|pp=39–40}}。当初は名称の由来どおり腕時計型にしてベルトも付ける予定であったが、安い電子製品を使い製造するとかさばるという理由から撤回し、最終的にキーチェーン型となった{{Sfn|横井|1997|pp=87–89}}。1996年[[11月23日]]、初代たまごっちが正式発売された{{Sfn|横井|1997|p=12}}。
==== 社会現象化 ====
: [[1997年]]を中心に、[[社会現象]]になるほど爆発的な人気を誇った。人気は本来想定していた女子高生以外にまで広まった<ref name="asahi_000628" />。[[口コミ]]の評判に[[マスメディア|マスコミ]]の煽りが相まって異常人気となり{{Sfn|横井|1997|pp=122–124, 141–144}}、入荷の情報を聞きつけた人々が[[徹夜]]で店に並ぶ様子が連日新聞やテレビで報道された<ref name="nikki9803_52">{{cite journal|和書|journal=[[日経エンタテインメント!]]|id= 1998年3月号|number=12|publisher=[[日経BP社]]|page=52}}</ref>。入荷の情報はテレビでは取り上げられず、もっぱら[[インターネット]]{{Refnest|group="注"|ブームの頃は、ちょうど日本でインターネットが個人の趣味として一般家庭に普及し始めた時期であり、個人サイトでの情報交換も目立った。横井は、インターネット・携帯電話・PHSといった「新しいメディア」の口コミに乗ったことが大ヒットの要因の一つではないかと述べている{{Sfn|横井|1997|p=143}}。}}と[[ラジオ番組]]によって発信された<ref name="nikki9803_52" />。
: その結果、たまごっちを持っていることが一種のステータスとなり、街には数個たまごっちを所有していたり、忙しい人向けの「たまごっち託児所」なる預かり所が登場したりもした。「飼育」していたたまごっちの「死」によって[[ペットロス症候群]]に似た現象が一部のユーザーで見られるようになるなど、たまごっちブームは社会現象化した。50個のたまごっちの抽選販売に対して、抽選整理券が4000枚配られた所もある。
: ブームの火付け役は、音楽番組で[[安室奈美恵]]が持っていたからだとも、テレビドラマ『[[踊る大捜査線]]』で[[和久平八郎]]([[いかりや長介]])が育成していたためだとも、[[客室乗務員|スチュワーデス]]が持っていたからだとも言われる<ref>『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』38頁。</ref>。
: 初代たまごっちの初回オーダーは当初6万個を予定していたが、販売価格を引き下げるため30万個に変更した{{Sfn|横井|1997|pp=96–101}}。その後テストセールスの結果、大きな反響があったため100万個に再変更された{{Sfn|横井|1997|pp=110–112}}。しかし正式発売後、人気の過熱により慢性的な品薄状態が続き「生産調整をしている」という噂も流れた{{Sfn|横井|1997|pp=120–122}}。バンダイには問い合わせの電話が1日に5000件かかり、バンダイの公式ウェブサイトは1日に1万件を超すアクセスが殺到した{{Sfn|横井|1997|p=124}}。バンダイに直接出向いてたまごっちを求める人まで現れた{{Sfn|横井|1997|pp=125–126}}が、実際にはバンダイやウィズの社員でさえたまごっちは入手できないほどだった{{Sfn|横井|1997|pp=125–134}}{{Refnest|group="注"|バンダイの従業員向けの社内販売もたまごっちでは行われなかった{{Sfn|横井|1997|p=125}}。}}。[[1997年]]6月のバンダイの株主総会では株主にたまごっち1個が贈呈された{{Sfn|横井|1997|p=133}}。
: [[1997年]][[2月]]には[[ニッポン放送]]のラジオ番組で行ったたまごっちのプレゼント告知に15万通の応募が殺到した<ref name="nikki9803_52" />。
: たまごっちの[[パロディ]]本として『[https://www.amazon.com/%E6%96%B0%E3%83%8D%E3%82%BF%E7%99%BA%E8%A6%8B-%E3%83%96%E3%83%83%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%94%E3%81%A3%E3%81%A1/dp/4594022219 新ネタ発見!!ブッたまごっち]』<ref group="注">ニッポン放送のラジオ番組『[[オールナイトニッポン|シャ乱Qつんくのオールナイトニッポン]]』から派生した書籍</ref>も[[扶桑社]]から出版され、話題になった<ref>[https://web.archive.org/web/20001008111601/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-April97/nws779.html 「新種!芸能人たまごっち?」の本が出現]、ZAKZAK、1997年4月26日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。
: ウィズは前述のように当時のたまごっちを女子高校生向けに開発していたが、タイアップした雑誌は小・中学生向け少女マンガ雑誌の『[[なかよし]]』(講談社)と『[[ちゃお]]』(小学館)、男子小学生向け雑誌『[[コミックボンボン]]』(講談社)『[[月刊コロコロコミック]]』(小学館)に限られていた。
: 日本以外にも世界30カ国で発売され、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[アジア]]各国でも{{要出典範囲|大流行|date=2013年10月}}。アメリカの人気ドラマ『[[ER緊急救命室|ER]]』にも登場した。1997年、「数百万人分の労働時間を仮想ペットの養育に費やさせた」功績により、[[ノーベル賞]]の[[パロディ]]的な賞である[[イグノーベル賞]]の経済学賞を受賞している{{Refnest|group="注"|イグノーベル賞経済賞: たまごっちの父と母――横井昭裕氏(千葉県・ウィズ)、真板亜紀氏(東京都・バンダイ)<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.improbable.com/ig/ig-pastwinners.html#ig1997 |title= 1997年イグノーベル賞受賞者 <nowiki>[</nowiki>The 1997 Ig Nobel Prize Winners<nowiki>]</nowiki> |publisher= |language= en|accessdate= 2018-06-09}}</ref>。<blockquote>数百万人分の労働時間を仮想ペットの養育に費やさせた功績に対して。[ECONOMICS: Akihiro Yokoi of Wiz Company in Chiba, Japan and Aki Maita of Bandai Company in Tokyo, the father and mother of Tamagotchi, for diverting millions of person-hours of work into the husbandry of virtual pets.](同賞公式サイトより)</blockquote>}}。また、同年には[[新語・流行語大賞]]のトップテン、[[DIME (雑誌)|DIME]]トレンド大賞<ref name="plus_40">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』40頁。</ref>を受賞している。
==== さまざまな社会問題 ====
: ブームの全盛期には、白いデザインのたまごっちが非常に稀少だとして特に人気が集中したことがあったが、横井は「単なる噂」としている{{Sfn|横井|1997|pp=122–123}}。実際には他にも生産量の少ないたまごっちは存在していた{{Sfn|横井|1997|p=122}}。横井は、稀少価値があるとされた白いデザインの商品が1個9万円で取引されたり、色を塗り替えて稀少品であるように見せかけた商品が1個18万円で取引された話を聞いたという{{Sfn|横井|1997|p=134}}。
: 仕入れをした販売店によっては、100個仕入れたうちの50個だけ定価で店頭販売して、プレミア価格がついた5~20万円以上になっている人気のたまごっちは裏で売りさばいていたという。さらに転売屋が、たまごっちを組み立てていた韓国の工場から直接たまごっちを卸してもらって[[密輸]]し、20億円もの利益を得たケースもあったという<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/42638 20億円を売り上げた“伝説の転売ヤー”が告白する「僕がマスクよりも大儲けした商材」]、文春オンライン、2021年1月6日。</ref>。
: [[1997年]][[2月14日]]には、[[日の丸自動車グループ|日の丸タクシー]]・[[イースタンモータース]]・[[宮園自動車]]・[[コンドルタクシーグループ|東京コンドルタクシー]]が東京都内で新たにスタートさせる初乗り運賃1kmまで340円のタクシー<ref>{{cite news|和書|title= タクシー多重運賃に|newspaper= [[日本経済新聞]] 朝刊|date= 1997年2月15日|page= 8}}</ref>{{#tag:ref|追随した他社を含め、全社とも2002年までに終了している<ref>{{cite news|和書|url= https://mainichi.jp/articles/20160213/k00/00m/020/152000c |title= タクシー料金 割高な「初乗り」引き下げの効果実験へ|newspaper= 毎日新聞|accessdate=2016年2月12日 21時46分|date= 2016年2月12日 23時43分}}。</ref>。|group="注"}}の愛称を「たまごっちタクシー」と発表したところ、バンダイから「[[日本の商標制度|商標]]の無断使用」と警告される事態も発生した<ref>{{cite news|和書|title= 愛称は『たまごっち』|newspaper=日本経済新聞 朝刊|date= 1997年2月15日|page=8}}</ref>。
==== ブーム終息による赤字 ====
: しかし、[[1998年]]に入るとブームが沈静化<ref name="asahi_000628" />。それまでに経験したことがない大ブームに大増産を行ったバンダイは[[不良在庫]]の山を抱えることになり、在庫保管費などが経営を圧迫、[[1999年]]3月にメーカー在庫250万個を処分。不良在庫の処分により'''60億円の特別損失'''を計上し<ref name="nmj050603">{{cite news|和書|title= 品薄続くバンダイ『たまごっちプラス』定番化へブームを制御|newspaper= [[日経MJ|日経流通新聞MJ]]|date= 2005年6月3日|page= 11}}</ref>、最終的に45億円の[[黒字と赤字|赤字]]となった。大ヒットしたにもかかわらず、社内では失敗という声も出た<ref name="nikki050718">{{cite news|和書|title= 旬の人 たまごっち、再びブームに 本郷武一さん|newspaper= [[日本経済新聞]] 朝刊|date= 2005年7月18日 |page=17}}</ref>。これを上回る赤字を出したものは、損失額270億円を出した「[[ピピンアットマーク]]」がある。
: 本郷武一によれば、第1期たまごっちシリーズがブーム定着に失敗した理由は「社内で情報を共有できなかったことに尽きる」という。バンダイの各部門は予約状況などを元にして独断で出荷台数を決めており、品薄状態の店舗に随時出荷していた。しかし、実際にたまごっちを欲しがっている一般顧客は'''複数店舗にそれぞれ予約'''しており、実際の需要は予約件数よりずっと少なかった<ref name="ns050606">{{cite news|和書|title= こうすれば売れる 我が社のこだわり バンダイ たまごっちプラス 小学女児の心くすぐる」|newspaper=[[日経産業新聞]]|date= 2005年6月6日|page=18}}</ref>。
: 発売元のバンダイによれば、これら第1期のたまごっちシリーズは全世界で4000万個(日本国内で2000万個、日本国外で2000万個)を販売したという<ref name="ns050606" />。
=== 第2期(ツーしん期) ===
==== 企画段階 ====
: 横井昭裕によると[[2001年]]頃に[[杉浦幸昌]](当時バンダイ会長)が横井に「たまごっちを復活させよう」と働きかけたことがシリーズ復活の一つのきっかけだという<ref name="Ni_chara0509_87" />。[[2002年]]末頃からバンダイ社内でのたまごっち復活の動きが本格化<ref name="nr040302">「着眼 着想 育成ゲーム かえってきた!たまごっちプラス」『日経流通新聞MJ』2004年3月2日付、3頁。</ref>。さらに[[2003年]]頃、当時の高校生の間で初代のたまごっちが再燃しているという情報をバンダイの開発チームが聞きつけたことがきっかけとなって開発が始まった<ref name="nikki050718" /><ref>『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』48頁。</ref>。
: 第2期では小学生がメインターゲットとなった<ref name="Ni_chara0509_87" /><ref name="nikki050718" />。これは「今の女子高生は[[携帯電話]]ばかりで玩具が生活に入り込むのは難しい」との開発側の判断によるもの<ref name="ns050606" />。以前の「たまごっち」に[[赤外線通信]]を追加している<ref name="nr040302" />。第1期はブームの過熱によりかえって短命化を招いたことの反省から、メディア露出を従来より控えめにして人気の長期持続を狙った<ref name="nr040302" />。
==== 販売開始 ====
: 第2期たまごっちシリーズは「[[かえってきたたまごっちプラス]]」として[[2004年]]3月20日に発売された。
: 第1期に登場したキャラクターも一部登場している。また、第1期と同名だが別のキャラクターも登場している。たまごっちの基本設定が全面的に一新された。
: また、第1期ではタイアップする出版社が[[講談社]]・[[小学館]]と出版社2社体制で展開されていたが、第2期では小学館<ref group="注">[[小学館の学年別学習雑誌|学習雑誌]]、『[[ちゃお]]』、『[[月刊コロコロコミック]]』。</ref>のみとなっている。アニメ映画の配給会社が第1期の[[東映]]から第2期では[[東宝]]に変更された。
: 1990年代のブームほどではないが小学生を中心に受け入れられ、国内外での売上個数は2007年6月末までに3000万個を超えた<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160213/k00/00m/020/152000c 『たまごっち』初のオフィシャルショップ「たまごっちデパート」2007年8月10日(金)オープン 東京ドームに「たまごっち」の情報発信基地が誕生] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071116092220/http://www.bandai.co.jp/releases/J2007072601.html |date=2007年11月16日 }} バンダイ [[2007年]][[7月26日]]</ref>。そして、本来のターゲットだった小学生の上や下の世代にも人気が拡大した<ref name="Ni_chara0509_87" />。
: [[2004年]]11月23日には「祝ケータイかいツー! たまごっちプラス」(ケーたま)が発売された。
: その人気に応えて、2005年に玩具屋店頭に[[通信機能抑止装置|通信機能]]を使って[[アイテム]]の[[ダウンロード]]や連動ミニゲームのできる「でかたまごっち」(後に「おうちのでかたまごっち」の商品名で一般にも販売)を設置、さらに「[[超じんせーエンジョイたまごっちプラス]]」(エンたま)を発表、[[2006年]]にはゲームセンターには[[データカードダス]]シリーズに属する[[トレーディングカードアーケードゲーム]]機『たまごっちカップ』などの展開を始めた。
==== ブームの収束 ====
: 2007年、『たまごっちカップ』の後継である『[[オールシーズンさぁイコー!カードでエントリー!たまごっちコンテスト|たまごっちコンテスト]]』は、『[[オシャレ魔女♥ラブandベリー]]』や『[[きらりん☆レボリューション]] ハッピーアイドルライフ→クルキラアイドルDays』など他社のゲーム機に押されて売り上げ不振が続いていた。同年秋、一部の筐体は『[[Yes!プリキュア5]]』をキャラクターとして起用した『[[うたって!プリキュアドリームライブ 〜スピッチュカードでメタモルフォーゼ!?〜]]』に置き換えられ、残った筐体は『[[たまごっちとふしぎな絵本]]』にリニューアルされたが、稼働不振は止まらず、2009年2月から3月に男児向けの『[[仮面ライダーバトル ガンバライド]]』や『[[大怪獣バトル ULTRA MONSTERS]]』に置き換えられる形で稼働終了した。
: 2007年8月10日には、初のたまごっちオフィシャルショップ「たまごっちデパート」が[[東京ドーム]]に開業した。同年11月23日には「いぇー!ふぁみりーイロイロ!たまごっちプラス」(ふぁみたま)が発売された。同年12月15日には、本格的なアニメ映画「[[えいがでとーじょー! たまごっち ドキドキ! うちゅーのまいごっち!?]]」が公開された。
: [[2008年]]頃からは人気が沈静化し、玩具店・量販店によっては商品の在庫処分が行なわれた。
=== 第3期(カラー期) ===
=== たまごっちプラスカラー ===
: [[2008年]]9月25日に「たまごっちプラスカラー」を発表。シリーズで初めて[[液晶]]がカラー化されるとともに、ドット数が大幅に増え複雑なキャラクターが描写出来るようになった。電源が[[ボタン電池]]から単四電池2本へ変更。また[[2009年]]には、人気ユニットである[[EXILE]]と[[コラボレーション]]をしたモデルも発売された<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/enta/mantan/graph/game/20080925/|title=たまごっち:誕生12年、ついにカラー化 EXILEとコラボも|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2008-09-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080926121713/http://mainichi.jp/enta/mantan/graph/game/20080925/|archivedate=2008-09-26|accessdate=2015-10-17}}</ref>。
: 同年12月20日には、映画第2作目「[[映画! たまごっち うちゅーいちハッピーな物語!?]]」が公開された。
: 2009年10月12日にたまごっちシリーズとしては初の30分テレビアニメ「[[たまごっち!]]」が放送を開始し、2015年9月24日までの6年間放送された。
:
=== たまごっち iD(Tamagotchi iD) ===
: [[2009年]][[11月23日]](初代たまごっち発売日から14年目)には「[[たまごっち iD|Tamagotchi iD(たまごっち iD)]]」が発売された。<!--この機種より、たまごっちがローマ字で表記されるようになった。-->[[ダウンロード]]により、自分だけのオリジナルたまごっちを作れるようになった。「産卵期」が「フレンド期」に変更され、また「フレンド期」においては世話を怠った際の演出が死亡から家出に変更された<ref>[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/626/2626857/?r=1 バンダイに学ぶ“いたわり”論 最新たまごっちに注射がない理由]、週刊アスキー、2014年10月19日 8:00。</ref>(幼児期〜思春期については従来通り、死亡する)。
: 発売同日の2009年11月23日には『たまごっち大感謝祭』と称して、これまでのたまごっちシリーズをいずれか1つでも持参した者に、感謝状とたまごギフト券が配られた。
: [[2010年]]3月には、2009年の稼働終了以来の1年ぶりのデータカードダス、「[[カードでちゃくしん!たまごっち!]]」の稼働が開始した。システムが大幅に一新され、キャラクターデザインがアニメ「たまごっち!」に準じる物となった。今までのカードとの互換性がない。
: [[2011年]]3月19日にはiDのマイナーチェンジ版、「[[Tamagotchi iD#Tamagotchi iD L|Tamagotchi iD L(たまごっち iD L)]]」が発売され、一部の機能が強化された。
: 女児をターゲットに絞った<ref name="denshi">コアムックシリーズNO.682『電子ゲーム なつかしブック』p.64.</ref>iDは、2010年のバンダイこどもアンケートレポートでは4年ぶりに女子部門第7位にランクイン<ref>[https://www.inside-games.jp/article/2010/12/07/46160.html 保護者の子供へのクリスマスプレゼント予算、昨年を364円上回る ― バンダイこどもアンケート] iNSIDE 2010年12月7日</ref>。さらにiDは2010年12月末までに累計80万個を出荷、これは2008年の前機種出荷数の3倍に上り、店舗によっては品薄となる人気になっている<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/business/update/1216/TKY201012160516.html|title=「たまごっち」カムバック 女児に照準、Xマス前に品薄|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2010-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101218040625/http://www.asahi.com/business/update/1216/TKY201012160516.html|archivedate=2010年12月18日|accessdate=2015-10-17}}</ref>。
=== たまごっち P's(Tamagotchi P's) ===
: [[2012年]]11月23日(初代たまごっち発売日から16年目)には「Tamagotchi P's(たまごっち P's)」が発売<ref>[https://www.bandainamco.co.jp/files/E3819FE381BEE38194E381A3E381A1_2.pdf 『Tamagotchi P's』 2012年11月23日(祝・金)発売]</ref>。本体の大きさは前作とは変わっていないが、育てるキャラクターの種類が大幅に一新された。別売りの「たまデコピアス」(拡張ROM)を付けることによってキャラクター、アイテム、ゲームなどの追加が出来る。
: 2012年12月13日には、「[[たまごっちリズム TamaRiz]]」が稼働が開始され、Tamagotchi iDLとP’sとの連動ができる。
=== たまごっち 4U(Tamagotchi 4U){{Anchors|4U系}} ===
: [[2014年]]9月27日には「TAMAGOTCHI 4U(たまごっち 4U)」が発売された。<!--この機種より、たまごっちのローマ字表記が全部大文字に変更された。-->通信方法が赤外線通信から、[[近距離無線通信|NFC]]通信に変更されており、タッチすることで通信ができる。また、ダウンロード機能が大幅に拡張され、これまでの服、アクセサリー、食事、ゲームなどに加え、キャラクターや、店で使えるクーポンもダウンロードできる。
: [[2015年]]7月18日には、マイナーチェンジ版の「TAMAGOTCHI 4U+(たまごっち 4U+)」が発売され、一部の仕様変更や、通信機能の強化、一部キャラクターの個性が追加された。
: 2015年10月1日、バンダイによる公式[[YouTube]]チャンネル「たまごっちTV」が開設された<ref>[https://www.famitsu.com/news/201509/15088528.html 『たまごっち』YouTubeチャンネル“たまごっちTV”が10月1日よりスタート]、ファミ通.com、2015年9月15日 11:55:00。</ref>。
=== たまごっち みくす(Tamagotchi m!x) ===
: [[2016年]]7月16日に「Tamagotchi m!x(たまごっち みくす)」が発売された。同年11月23日に初代たまごっち発売20周年を迎えることから育成ゲームとしての原点回帰をコンセプトに開発された。
: 新たにたまごっち同士が結婚すると両親の遺伝子を受け継いだ孫から子孫を残す事ができるようになった。また、結婚した親から生まれたたまごっちは両親の姿を受け継いだ姿になる。遺伝の要素を盛り込むにあたり、たまごっちiD以後にみられた家出の演出が死亡に戻された<ref>[https://xtrend.nikkei.com/atcl/trn/column/16/060600046/060600001/?P=4 たまごっち最新作が「初代の面白さ」に回帰する理由 新機種では「結婚」と「子孫」がテーマに]、日経トレンディネット、2016年6月9日。</ref>。また、通信方法がNFC通信から赤外線通信に戻された。
: 2017年4月28日には9年ぶりに短編映画作品「[[たまごっち!#2017年版|映画 たまごっち ヒミツのおとどけ大作戦!]]」が公開された。
=== たまごっちみーつ ===
: [[2018年]]11月23日に「たまごっちみーつ」が発売された。
=== Tamagotchi Pix ===
: [[2021年]]7月1日に「Tamagotchi Pix」が発売された。
=== たまごっちスマート ===
: 2021年11月23日に「たまごっちスマート」が発売された。シリーズ開始25周年を経て、当初の企画案であった「腕時計型」の機種が発売されることになった<ref>[https://toy.bandai.co.jp/series/tamagotchi/topics/detail/2099/ たまごっち25周年 ~すべてはこの企画書から始まった~ 前編]、バンダイ、2021年6月23日。</ref>。また、なつきアイコンも登場した。たまごっちみくすから変更された死亡の概念がある他、なつき度が低いまま放置していると、手紙を残して家出してしまうイベントもある。たまごっちが[[結婚]]するか死亡すると、部屋に新しい卵が現れ次のたまごっちを育てるシステムになっている。なお、たまごっちの結婚は結婚相手と[[接吻|キス]]をして、卵を残す事で表現されている。たまごっちの性別により、結婚相手が異なる。
=== たまごっちユニ ===
2023年7月15日に「たまごっちユニ」が発売された。
== シリーズ一覧 ==
=== 第1期 ===
* [[たまごっち (初代)|たまごっち]](1996年11月23日)<ref name="plus_41">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』41頁。</ref>
** 1996年12月に金銀バージョンが限定5000個で販売され、1997年3月には新色バージョンが販売された<ref name="plus_41" />。
** 日本航空(2種)・ロッテ・NTT・森永乳業・東映アニメ・バンダイ株主(2種)といった限定バージョンも存在した<ref name="plus_41" />。
* [[新種発見!!たまごっち]](1997年2月1日)<ref name="plus_42">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』42頁。</ref>
** 1997年5月に新色バーションが販売された<ref name="plus_42" />。
* TAMAGOTCHI(海外版たまごっち)(1997年5月)<ref name="plus_42" />
** 香港珍蔵版などの限定バージョンが存在した<ref name="plus_42" />。
* 英語版たまごっち(1997年6月)<ref group="注">海外版「TAMAGOTCHI」の逆輸入版。パッケージ以外は海外版と同じ。</ref><ref name="plus_43">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』43頁。</ref>
* てんしっちのたまごっち(1997年8月)<ref name="plus_43" />
** たけしのてんしっちのたまごっち(1997年12月)<ref group="注">『[[HANA-BI]]』公開記念。パッケージと本体デザイン以外は通常版と同じ。</ref><ref name="plus_43" />。
* たまごっちオスっちメスっち(1997年12月)<ref group="注">オスとメスができた。本体同士を合体させることで、オスとメスなら子供を生むことができる。</ref><ref name="plus_44">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』44頁。</ref>
** たまごっち1周年記念バージョンが限定15000ペア製造された。また、1998年4月には新色バージョンが販売された<ref name="plus_44" />。
* 森で発見!!たまごっち(1998年2月)<ref name="plus_45">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』45頁。</ref>
* 海で発見!!たまごっち(1998年3月)<ref name="plus_45" />
* デビルっちのたまごっち(1998年9月)<ref name="plus_46">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』46頁。</ref>
* やさしいたまごっち(1998年10月)<ref name="plus_47">『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』47頁。</ref>
* サンタクロっちのたまごっち(1998年11月)<ref name="plus_46" />
=== 第2期 ===
* [[かえってきたたまごっちプラス]](2004年3月20日)<ref group="注">再びオスとメスができた。別の個体と通信ができるようになった。通信をすると、「なかよし度」が上がり、オスとメスなら結婚できる。</ref>
* 祝ケータイかいツー!たまごっちプラス(2004年11月23日)<ref group="注">ごっちポイントができた。携帯と通信できるようになった。ごっちポイントでいろいろな物を買ったり、ゲームでごっちポイントを増やしたりできる。たまごっちが死にそうになったとき、前にたまごっちが死んでいた場合は[[供養]]すると一度だけ助けてくれるようになった。</ref>
* 祝ケータイかいツー!たまごっちプラス赤いシリーズ(2005年7月23日)
* [[ちびたまごっち]](2005年4月28日)
* おうちのでかたまごっち(2005年7月16日)
* [[超じんせーエンジョイたまごっちプラス]](2005年11月23日)<ref group="注">PCと通信できるようになった。</ref>
* [[ウラじんせーエンジョイたまごっちプラス]](2006年7月22日)
* おうちのでかたまごっち ゲーム王けってーせん(2006年10月28日)
* たまごっちスクール せーとぜーいんしゅーごっち!(2006年11月23日)
* たまごっちスクール せーとぜーいんしゅーごっち!2時間目(2007年2月24日)<ref group="注">以前のたまごっちとは違い、たまごっちの先生になる設定へと変わった。</ref>
* いぇー!ふぁみりーイロイロ!たまごっちプラス(2007年11月23日)
* 夢のロイヤルふぁみりーたまごっちプラス(2008年3月29日)
* Tamagotchi Music Star(2008年11月28日)
* TamaTown Tama-Go(2010年8月)
=== 第3期 ===
* たまごっちプラスカラー(2008年11月22日)<ref group="注">再びごっちポイントができた。</ref>
* [[Tamagotchi iD]](2009年11月23日)
* Tamagotchi nano(2010年10月16日)
* Tamagotchi iD もっとiD!おうちdeたまごっちステーション+(2010年10月30日)
* Tamagotchi iD Lovely Melody ver.(2010年11月23日)
* [[Tamagotchi iD L]](2011年3月19日)
* Tamagotchi iD L 15th Anniversary ver.(2011年11月23日)
* Tamagotchi iD L Princess Spacy ver.(2012年3月17日)
* Tamagotchi P's(2012年11月23日)
* Tamagotchi Friends: Digital Friend(2013年12月26日)
* TAMAGOTCHI 4U(2014年9月27日)
* Tamagotchi Friends: Dream Town Digital Friend(2015年5月)
* TAMAGOTCHI 4U+(2015年7月18日)
* TAMAGOTCHI 4U+ Anniversary ver.(2015年11月21日)
* Tamagotchi m!x Melody m!x ver.(2016年7月16日)
* Tamagotchi m!x Spacy m!x ver.(2016年7月16日)
* Tamagotchi m!x 20th Anniversary m!x ver.(2016年11月23日)
* Tamagotchi m!x Anniversary Gift m!x ver.(2017年11月23日)
** Tamagotchi m!x アニバーサリーギフトセットに付属。
* Tamagotchi m!x Dream m!x ver.(2018年4月21日)
* たまごっちみーつ マジカルみーつver.(2018年11月23日)
* たまごっちみーつ メルヘンみーつver.(2018年11月23日)
* たまごっちみーつ パステルみーつver.(2019年3月30日)
* たまごっちみーつ ファンタジーみーつver.(2019年7月13日)
* たまごっちみーつ スイーツみーつver.(2019年11月23日)
* Tamagotchi Pix(2021年7月1日)
* Tamagotchi Smart 25th アニバーサリーセット(2021年8月28日)<ref>抽選による先行販売で、ゲーム内容自体はTamagotchi Smartと変わらないが本体が白い。</ref>
* Tamagotchi Smart(2021年11月23日)
* Tamagotchi Smart アニバーサリーパーティーセット(2022年11月23日)<ref>本セット限定デザインの『Tamagotchi Smart アニバーサリーパープル』本体とたまスマカード『アニバーサリーパーティーフレンズ』、限定冊子『Tamagotchi 25th Character Special book』をセットにしたもの。</ref>
* Tamagotchi Uni(2023年7月15日)
* Tamagotchi Uni Blue(2023年11月23日)
== コラボレーション・派生商品 ==
* [[デジタルモンスター]](1997年6月)<ref group="注">コンセプトは「戦うたまごっち」であり、独自展開で現在も継続中。</ref>
* ポケットビスケッた(1997年6月7日)<ref group="注">発売:マークス、販売:[[バンダイ・ミュージックエンタテインメント]]。プレイヤーは[[マネージャー#芸能界のマネージャー|マネージャー]]として[[ポケットビスケッツ]]を育てる。また、裏モードとして[[ブラックビスケッツ]]を育てるモードも存在する。</ref>
* たまぴっち(1997年6月16日、[[PHS]]){{#tag:ref|ベースモデルは「新種発見!!たまごっち」。たまごっちシリーズ初のオンラインネットワークによる通信機能搭載機種である<ref name="たまぴっち"/>。|group="注"}}
* 原人っちのたまごっち(1997年11月)<ref group="注">『[[北京原人 Who are you?]]』公開記念。DNAっちを育てる。</ref><ref name="plus_46" />
* モスラのたまごっち(1997年12月)<ref group="注">『[[モスラ2 海底の大決戦]]』公開記念、限定生産。モスラを育てる。前売り券購入者5000名に配布された限定版が存在する。</ref><ref name="plus_45" />
* 玉緒っち(1998年5月)<ref group="注">[[中村玉緒]]を育てる。</ref><ref name="plus_46" />
* ドラえもんっち(1998年8月)<ref group="注">[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]を育てる。</ref><ref name="plus_47" />
* ドラミっち(1998年10月)<ref group="注">[[ドラミ]]を育てる。システムは『ドラえもんっち』と同じ。</ref><ref name="plus_47" />
* であい発見!!あるこっち(1999年)<ref group="注">育成システムは存在せず、主人公の少女「あるこっち」としてアイテムを集める歩数計ゲーム。</ref><ref name="plus_47" />
* はねるっち(2005年2月)<ref group="注"> 『[[はねるのトびら]]』とのタイアップ商品。入手困難となり、インターネットオークションなどでは元値よりも高値で販売されたりしていた。ベースモデルは「[[祝ケータイかいツー!たまごっちプラス]]」。</ref>
* はねるっち2(2006年8月26日)<ref group="注">ベースモデルは「[[超じんせーエンジョイたまごっちプラス]]」</ref>
* 恋するたまごっちゅ(2007年1月20日)<ref group="注">男性用と女性用の2セットペアで1つの商品となる。後に「[[あいのり]]」とのコラボレーションモデルも発売された。</ref>
* おでんくんのたまごっち(2007年3月31日)<ref group="注">[[おでんくん]]を育てる。ベースモデルは「かえってきたたまごっちプラス」。</ref>
* エグモっち(2008年11月29日)<ref group="注">[[EXILE]]とのコラボレーション。EXILEのメンバーが登場する。ベースモデルは「たまごっちプラスカラー」。</ref>
* ヘキサゴンっち(2008年7月25日)<ref group="注">『[[クイズ!ヘキサゴンII]]』とのコラボレーション。ベースモデルは「たまごっちプラスカラー」だが、一部システムが特殊仕様。</ref>
* Tamagotchi iD Conan ver.(2010年)
* Tamagotchi m!x サンリオキャラクターズ m!x ver.(2017年4月15日)<ref group="注">[[サンリオキャラクターズ]]とのコラボレーション。</ref>
* イーブイ×たまごっち(2019年1月26日)<ref group="注">『[[ポケットモンスター]]』とのコラボレーション。しんかポケモンの[[イーブイ]]を育てる。</ref>
* たまごっちみーつ サンリオキャラクターズみーつver.(2019年6月15日)<ref group="注">[[サンリオキャラクター|サンリオキャラクターズ]]とのコラボレーション。</ref>
* パックマン たまごっち(2020年3月15日)
* 汎用卵型決戦兵器エヴァっち(2020年6月13日)<ref group="注">『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』とのコラボレーション。20種類以上の[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)|使徒]]を育てることができる。</ref>
* きめつたまごっち(2020年10月17日)<ref group="注">『[[鬼滅の刃]]』とのコラボレーション。鬼殺隊の隊士を育てる。</ref>
* ツイステっち(2021年6月24日発送<ref group="注">2021年1月25日〜3月19日の予約販売のみ。</ref>)<ref group="注">『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』とのコラボレーション。ナイトイレブンカレッジに体験入学し、グリムと共に学園生活を送る。</ref>
* BT21 Tamagotchi(2021年9月25日)<ref group="注">防弾少年団(BTS)とLINE FRIENDSのコラボレーションにより誕生したキャラクターブランド『BT21』とのコラボレーション。オリジナルキャラクターのBT21を育てる。</ref>
* PUI PUI モルカっち(2021年10月9日)<ref group="注">『[[PUI PUI モルカー]]』とのコラボレーション。オリジナルキャラクターのベビモルカーを育てる。</ref>
* STAR WARS R2-D2 TAMAGOTCHI(2021年11月23日)<ref group="注">『[[スター・ウォーズ]]』とのコラボレーション。同作に登場するドロイド「[[R2-D2]]」のお世話を楽しめる</ref>
* 仮面ライダーっち 50th アニバーサリー Ver.(2021年12月) <ref group="注">昭和~平成~令和の[[仮面ライダー]]を育成することが可能なたまごっち。お世話の仕方によって、40種類以上の仮面ライダーに育てることができる。</ref>
* じゅじゅつっち(2021年1月29日)<ref group="注">『[[呪術廻戦]]』とのコラボレーション。呪術高専に入学した見習い呪術師を育成し、呪術高専生や教師などのキャラクターに成長させることができる。</ref>
* Tamagotchi Smart サンリオキャラクターズスペシャルセット(2022年6月4日)
* ジュラシックワールド・たまごっち ダイナソーアンバーバージョン(2022年7月23日)
* Tiny TAN Tamagotch(2022年9月17日)
* キングダムハーツ たまごっち 20周年記念 Dark mode KINGDOM HEARTS Tamagotchi 20th Anniversary(2022年10月22日)
* Tamagotchi Smart ワンピーススペシャルセット(2022年11月23日)
* ピアプロキャラクターズ×たまごっち 初音ミクっち キュートミクver./サイバーミクver.(2023年3月発売予定)
* 東京リベンジャーズ×たまごっち とうりべっち(2022年9月)
* SPY×FAMILY TAMAGOTCH(2022年12月17日発売)
* グローグーたまごっち(2023年1月発売)
* PUIPUI モルカっち DRIVING SCHOOL Ver.(2023年2月4日発売)
* ONE PIECE チョッパーっち(2023年2月25日発売)
* 劇場版 呪術廻戦0 じゅじゅつっち0(2023年3月16日発売)
* Supreme×たまごっち(2023年発売予定)
* 全人類兎化計画ぺこらっち(2024年1月発送)
その他、バンダイのぬいぐるみ『[[プリモプエル]]』のコンセプトは「リアルな立体版たまごっち」である<ref name="Ni_chara0509_87" />。
== メディアミックス、関連作品 ==
=== 家庭用ゲーム ===
* たまごっちCD-ROM(1997年6月16日、[[Microsoft Windows|Windows]])<ref name="plus_40" />
* [[ゲームで発見!!たまごっち]](1997年6月27日、[[ゲームボーイ]])<ref name="plus_40" />
* たまごっちCD-ROM(1997年8月8日、[[Macintosh|Mac]] / [[ピピンアットマーク|PiPPiN]])<ref name="plus_40" />{{#tag:ref|数多くのバグを抱えており、「内服薬」(アップデート用フロッピーディスク)なしではまともにプレイできる代物ではなく、バンダイによるソフトウェアの回収が行われる事はなかった<ref name="たまごっち for Mac"/> 。|group="注"}}
* [[ゲームで発見!!たまごっち2]](1997年10月17日、ゲームボーイ)<ref name="plus_40" />
* [[64で発見!!たまごっち みんなでたまごっちワールド]](1997年12月19日、[[NINTENDO64]])<ref name="plus_40" />
* スーパーノートで発見!!たまごっち 〜たまごっち星大冒険〜(1997年、[[スーパーノートクラブ]])
* [[ゲームで発見!!たまごっち オスっちとメスっち]](1998年1月15日、ゲームボーイ)<ref name="plus_40" />
* [[セガサターンで発見!!たまごっちパーク]](1998年1月29日、[[セガサターン]])<ref name="plus_40" />
* 星で発見!!たまごっち(1998年2月19日、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]])<ref name="plus_40" />
* たまごっちタウン(1999年5月1日、[[ニンテンドウパワー]])<ref group="注">第2期以後のシリーズにおいて中心となる舞台「たまごっちタウン」とは一切関係がない。</ref>
* [[たまごっちのプチプチおみせっち]](2005年9月15日、[[ニンテンドーDS]])
* [[たまごっちのプチプチおみせっち ごひーきに]](2006年7月27日、ニンテンドーDS)
* たまごっちのピカピカだいとーりょー!(2006年12月2日、[[Wii]])
* たまごっちのアッパレ! にじべんちゃー(2007年3月27日、ニンテンドーDS)
* [[たまごっちのプチプチおみせっち みなサンきゅ〜!]](2007年9月27日、ニンテンドーDS)
* たまごっちのフリフリ歌劇団(2007年12月6日、Wii)
* [[たまごっちのキラキラおみせっち]](2008年11月27日、ニンテンドーDS)
* [[たまごっちのなりきりチャンネル]](2009年11月5日、ニンテンドーDS)
* [[たまごっちのピチピチおみせっち]](2010年6月17日、ニンテンドーDS)
* [[たまごっちのなりきりチャレンジ]](2010年11月11日、ニンテンドーDS)
* たまごっちコレクション(2011年11月10日、ニンテンドーDS)
* [[ちょ〜りっち!たまごっちのプチプチおみせっち]](2012年4月19日、[[ニンテンドー3DS]])
* おうちまいにち たまごっち(2012年11月22日、ニンテンドー3DS)
* たまごっちのドキドキドリームおみせっち(2013年5月23日、ニンテンドー3DS)
* [[たまごっち!せーしゅんのドリームスクール]](2013年11月7日、ニンテンドー3DS)
* ぐるぐるたまごっち!(2014年4月24日、ニンテンドー3DS)
* たまごっちのプチプチおみせっち~にんきのおみせあつめました~(2017年11月16日、ニンテンドー3DS)
=== アーケードゲーム ===
* 1997年2月、[[プリント倶楽部]]に「たまごっち」のキャラクターを使用したフレームが登場した<ref name="plus_40" />。
* [[超ねんじゅーかいさい カードでおーえん! たまごっちカップ]](2005年4月、[[データカードダス]])
* [[マリオカート アーケードグランプリ|マリオカート アーケードグランプリ2]](2007年3月、アーケード)<ref group="注">任天堂とナムコによる開発時点では未出演だったが、「2」稼動の際に[[バンダイ]]と[[ナムコ]]が合併し「[[バンダイナムコ]]」となっていた為、まめっちが特別出演となった。たまごっちに関係した看板がワルイージコースに存在する。なお、稼動開始時はまだ第2期シリーズのアニメが始まっておらず、まめっちの声優は[[釘宮理恵]]ではない。</ref>
* [[オールシーズンさぁイコー!カードでエントリー!たまごっちコンテスト]](2007年3月、データカードダス)
* [[たまごっちとふしぎな絵本]](2008年4月、データカードダス)
* [[カードでちゃくしん!たまごっち!]](2010年3月11日、データカードダス)
* [[カードでちゃくしん!たまごっち!|カードでハッピー!たまごっち!]](2011年10月27日、データカードダス)
* [[たまごっちリズム TamaRiz]](2012年12月13日、データカードダス)
== テレビアニメ ==
=== TVで発見!!たまごっち ===
: 1997年[[7月7日]]から1998年[[3月23日]]までの間、[[フジネットワーク|フジテレビ系列]](一部地域のみ)で毎週月曜日19時56分-20時00分(JST)にて放送。全27話。
: 基本的にキャラクターに[[台詞]]はなく、[[擬音]]のみ<ref>[https://web.archive.org/web/20011007162229/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_July97/nws1001.html たまごっちTVで「フ化」]</ref>。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]以外にも、[[北海道文化放送]]、[[秋田テレビ]]、[[仙台放送]]、[[石川テレビ放送|石川テレビ]]、[[テレビ静岡]]、[[テレビ愛媛]]、[[高知さんさんテレビ]]、[[テレビ西日本]]、[[鹿児島テレビ]]でも放送された。
: 登場たまごっちは[[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、てんしっちの3種類。各たまごっちに同種の別個体が複数存在している。
: 映画『たまごっちホントのはなし』と共に1話 - 9話までVHS化されているが、その後の10話 - 27話まではレンタル版含め未発売となっている。同作品にはたまっちを赤くした別個体のキャラクター「[[NOKKO]]っち」が登場している。
==== 全話タイトルリスト ====
第1話「グシシシ おやじっち」(1997年7月7日放送)
第2話「ヒネヒネ ますくっち」(1997年7月14日放送)
第3話「バクバク にょろっち」(1997年8月4日放送)
第4話「キビキビ まめっち」(1997年8月11日放送)
第5話「フリフリ ぎんじろっち」(1997年8月18日放送)
第6話「モンモン ポチっち」(1997年8月25日放送)
第7話「ナゾナゾ ズキっち」(1997年9月1日放送)
第8話「ハナハナ とんがりっち」(1997年9月8日放送)
第9話「ぶっタマゲ てんしっち」(1997年10月13日放送)
'''以降はVHS版未収録'''
第10話「ウロウロ せきとりっち」(1997年10月20日放送)
第11話「パクパク まるっち」(1997年10月27日放送)
第12話「ワクワク くちぱっち」(1997年11月10日放送)
第13話「グツグツ たこっち」(1997年11月17日放送)
第14話「どどどど ゴッチ大王」(1997年11月24日放送)
第15話「チョキチョキ はしぞーっち」(1997年12月1日放送)
第16話「ピィ! ピィ! ピィ! NOKKOっち」(1997年12月8日放送)
第17話「チャリチャリ チャリっち」(1997年12月15日放送)
第18話「バリバリ ズキっち」(1998年1月12日放送)
第19話「ウハウハ はしぞーっち」(1998年1月19日放送)
第20話「びゅんびゅん ポチっち」(1998年1月26日放送)
第21話「プクプク ぎんじろっち」(1998年2月2日放送)
第22話「コチコチ にゃっち」(1998年2月9日放送)
第23話「ノリノリ NOKKOっち」(1998年2月16日放送)
第24話「くれくれ デビルっち」(1998年3月2日放送)
第25話「ラブリー たらこっち」(1998年3月9日放送)
第26話「キラリン にゃっち」(1998年3月16日放送)
第27話(最終話)「ラブラブ たまごっち」(1998年3月21日放送){{前後番組|
放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]|
放送枠=[[月曜日]]19:56枠|
番組名=TVで発見!!たまごっち|
前番組=[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP|HEY!HEY!HEY<br />COMING SOON]]|
次番組=[[ピンカちゃん#ピンカと海のお友達|ピンカと海のお友達]]|
}}
=== [[さぁイコー! たまごっち]] ===
: 2007年[[12月1日]]より[[日本BS放送|BS11]]で放送。全12話。
=== [[たまごっち!]] ===
: 2009年[[10月12日]]より[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]で放送。全271話。
: 2012年9月からは第2期『たまごっち! ゆめきらドリーム』、2013年9月からは第3期『たまごっち! みらくるフレンズ』、2014年4月からは第4期『GO-GO たまごっち!』が放送された。
: 2015年4月2日から『たまごっち! たまともだいしゅーGO』が放送された。過去シリーズのセレクション放送に加え実写パートが放送された。本作でたまごっちのテレビアニメの放送が完全に終了。全シリーズ合わせて6年間全297回の放送だった。
== 劇場アニメ ==
; [[たまごっちホントのはなし]]
: [[1997年]][[7月12日]]に公開。「'97夏[[東映アニメフェア]]」にて同時上映4作品中の1作品として上映。
: 正味10分の短編映画で、たまごっちと[[ばんぞー博士]]の邂逅までの出来事を描いた[[導入部|プロローグ]]的作品。後に上記『TVで発見!!たまごっち』1~9話と共にVHS化された。おやじっち以外のたまごっちは言葉を話さず、擬音で話している。
: 登場たまごっちは元祖、新種、むしっち(カブトっち)、さかなっち(くじらっち)、てんしっち(くりてん)の5種類。当時はまだ実機としてリリースされていなかったむしっち、さかなっち、てんしっちは本作でゲストとして先行登場している。
; [[えいがでとーじょー! たまごっち ドキドキ! うちゅーのまいごっち!?]]
: [[2007年]][[12月15日]]公開。[[東宝]]系。
; [[映画! たまごっち うちゅーいちハッピーな物語!?]]
: [[2008年]][[12月20日]]公開。東宝系。
; [[映画 たまごっち ヒミツのおとどけ大作戦!|映画たまごっち ヒミツのおとどけ大作戦!]]
: [[2017年]][[4月28日]]公開。『映画 かみさまみならい ヒミツのここたま 奇跡をおこせ♪テップルとドキドキここたま界』との同時上映作品<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20161101/5/|title=映画「ヒミツのここたま」タイトル&新キャラ発表!同時上映は「たまごっち」短編|newspaper=映画.com|date=2016-11-01|accessdate=2016-11-01}}</ref>。
== ラジオ ==
=== TOKYO FM ホリデースペシャル たまごっち25しゅーねんBINGO!!!~ヒットソングをかけまくるだっち!~ ===
: 2021年11月23日の祝日([[勤労感謝の日]])の11:30 - 16:50に、[[エフエム東京|TOKYO FM]]の『TOKYO FM ホリデースペシャル』で放送された特別番組。
: 同日で第1期たまごっちが発売から25周年を記念した特番で、パーソナリティは遠山大輔([[グランジ (お笑いトリオ)|グランジ]])が担当。ゲストに[[Ado (歌手)|Ado]]、[[ハマ・オカモト]]([[OKAMOTO'S]])、[[ハナコ (お笑いトリオ)|ハナコ]]、[[木村柾哉]]・[[藤牧京介]]・[[佐野雄大]]([[INI]])、[[NiziU]]が出演。
: 1996年から2021年までの25年間想い出に残っている楽曲をエピソードを兼ねて流す『25しゅーねん メモリアルソングリクエスト』や、特別企画として番組特設サイトからビンゴゲームに参加出来る企画が用意されており、ビンゴが成立しプレゼントに応募すると抽選で同日発売の『Tamagotchi Smart』、または25周年を記念したたまごっちのポップアップストア限定商品がそれぞれ10名に貰える内容となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tfm.co.jp/hitsongbingo/ |title=TOKYO FM ホリデースペシャル たまごっち25しゅーねんBINGO!!!~ヒットソングをかけまくるだっち!~ |accessdate=2021-11-23 |publisher=エフエム東京}}</ref>。
== 漫画作品一覧 ==
=== 1期のコミカライズ作品 ===
どれも現在は絶版で、入手困難である。
==== 『だいすき♥たまごっち』 ====
作者: [[河井リツ子|りっち]]
連載誌:[[ちゃお]]、[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]]
単行本:全2巻(LOVE♥LOVEを入れると全3巻)
登場たまごっち:実機のたまごっち([[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、森、海、てんしっち、オスメス、デビルっち)とゲームのたまごっち([[ゲームで発見!!たまごっち|ゲーム発見2]]オリジナルむしっちとさかなっち、[[64で発見!!たまごっち みんなでたまごっちワールド|64版]]の熟たまごっち、PS版の星で発見たまごっち)
舞台:たまごっち星
人語:話す
性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する
家族:同上(まめっち一家など)
世界観と特色:[[コミカライズ]]版では唯一、[[ゲームで発見!!たまごっち|GB版]]や[[64で発見!!たまごっち みんなでたまごっちワールド|64版]]やPS版のゲームオリジナルたまごっちが登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観になっている。最終回では全てのたまごっち達が[[ばんぞー博士]]がたまごっち星に来る事を信じて、星空を見上げるシーンで本作は締めくくられた。たまごっちらしい、ほのぼのした描写が非常に多い。絵柄が非常に愛らしく、特にメスっち、にんぎょっち、デビルコっちなどの女の子たまごっちや、動物型のたまごっちが非常に愛くるしいのが特徴。基本的に女の子たまごっち(メスっち、にんぎょっち、デビルコっち)を除き、本作のたまごっちはオス扱いされていて、一人称は「ぼく」であり、くん付けで呼ばれている。他のコミカライズもだが、現在はメス設定のしろベビっちやみみっちもオス扱いされている。尚、1巻でたこっちが水着ギャルのメスのたまごっち(みみっち、くちぱっち、くりてん)を望遠鏡で覗こうとしているシーンがあった。ばんぞー博士とミカチューが登場する。
1.1997年12月1日発売 ISBN-4092-5327-17
2.1998年10月1日発売 ISBN-4092-5327-25
==== 『だいすきLOVE♥LOVEたまごっち』 ====
作者:同上
連載誌:同上
単行本:全1巻
舞台:たまごっち星
登場キャラクター:同上
人語:話す
性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する
家族:同上
世界観と特色:
LOVE♥LOVE編はオスっちとメスっちの恋をテーマにした、非常に恋愛色が濃厚な内容になっている。オスっちとメスっちは恋愛色が濃厚なたまごっちの為、コロコロ版やボンボン版などの男児向けの作品では未登場で、子供向けの作品では出番が少ないが、本作は少女漫画である為、オスっちとメスっちをレギュラーにし、彼らの[[恋愛]]を描いている希少なコミカライズである。デビルコっちが女の子に変身して、オスメスのカップルにちょっかいを出して2匹を別れさせようとするが、失敗して2匹の絆はより深まり、デビルコっちは悔しがりながら退散するのがお約束の流れになっている。モリっちとモルっちの回では、読者の公募から生まれたオリジナルたまごっちが登場している。
1.2000年2月25日発売 ISBN-4091-4961-13
==== 『ゆでたてたまごっち』 りっち(登場キャラは同上) ====
* 舞台:たまごっち星
*
==== 『まんがで発見たまごっち 爆笑4コマ劇場』 ====
* 作者: [[後藤英貴]]
* 連載誌:[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]、[[別冊コロコロコミック]]
* 単行本:全2巻(終盤は単行本未収録)
* 登場たまごっち:[[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、森、海の4種類。実機準拠の為、『ゲームで発見2』オリジナルたまごっちは登場しない
* 舞台:地球(人間界)
* 人語:話さない
* 性別:にんぎょっち(公式女性たまごっち)、まめっち、たまっち以外は男役が基本である
* 家族:存在しない
* 世界観と特色
* くちぱっちが主人公。たまごっちが[[人間]]の世界で暮らす[[世界観]]になっている。たまごっち達は人語は理解できるものの、話す事が出来ず、[[表情]]や仕草で[[ジェスチャー|意思を表現]]する。コミカライズでは唯一、ばんぞー博士とミカチュー以外の人間が登場するコミカライズである。自分絵の癖が強く、公式絵をアレンジした絵柄になっている。[[最終回]]は[[単行本]]未収録。「たまごっちと人間の絆、共生」がテーマになっている。
*
==== 『みんなでたまごっち』 ====
* 作者: [[あべさより]]
* 連載誌:[[小学一年生|小学2年生]]
* 単行本:全1巻(後期は単行本未収録、終盤は[[キャラクター|オリジナルキャラ]]・まめっちの妹(ちゃまめっちではない)が登場していた)
* 登場たまごっち:実機のたまごっち([[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、森、海、てんしっち、オスメス、デビルっち、サンタクロっち)と[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームのたまごっち]](ゲームで発見2オリジナルむしっちとさかなっち)
* 舞台:たまごっち星
* 人語:話す
* 性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する(まめっちが妹に「お兄ちゃん」と呼ばれているなど)
* 家族:同上
* テーマ:「友情」
* 世界観と特色
* まめっちが主人公。元祖と新種がメインキャラ。キャラクターや基本的な設定は開発元であるバンダイの説明・解説に準じている。中期からたまごっち達にデビルっち一味(特にデビルコっち)が、ちょっかいを出す内容になった。『だいすき』同様、実機とゲーム版(ゲームで発見2のみ)が融合した世界観になっている。キャラクターは実機とゲーム版のたまごっちが共演しているが、本作のさかなっちはゲームオリジナルさかなっちを含め全員[[おでん]]好きで、みんなでおでんを美味しそうに食べるシーンがあるので(ゲーム版のさかなっちは実機ほどおでん好きではなくプランクトンっち、きんぎょっち、あざらっち、かいっちはおでん嫌い設定である)、「さかなっちはみんなおでん好きで、それぞれ好きな具がある」という設定は実機に寄り添っている。コミカライズでは最も完結が遅い作品である(1998年から1999年まで連載され、同年9月に最終回を迎えた。最終回は単行本未収録)。ばんぞー博士とミカチューも登場する。 本作オリジナルたまごっちは読者の公募から生まれた「おザブっち」、「ぷらてん(たこっちの描いた海老天の落書きが実体化したもの)」、「ぎんじろっちのおじさん(ぎんじろっちは甥っ子に当たる)」「まめっちの妹(単行本未収録)」が登場する。 本作はまめっちを主人公に添え、たまごっち達の日常を描いていくハートフルコメディ作品だが、時に「友情」というテーマを扱っていたり、むしっちやさかなっち、てんしっちやデビルっちなど他の種類のたまごっちとの邂逅も描かれていく。
* 1999年1月発売
*ISBN-9784-0914-94818
==== 『てんしっちのたまごっち』 ====
* 作者:[[かなしろにゃんこ]]
* 連載誌:[[なかよし]](単行本化はされていない。97年10月から98年10月まで連載)
* 登場たまごっち:てんしっち(主役)、[[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、オスメスの5種類)
* 舞台:たまごっち星(時に地球)
* 人語:話す
* 性別:オスっちメスっち以外のたまごっちにも存在する
* 家族:オスっちメスっち以外のたまごっちには存在しない
* 世界観と特色
* タイトル通り、てんしっちが主人公。少女漫画である為、『だいすきLOVE♥LOVEたまごっち』同様恋愛色が強く、オスっちとメスっちを登場させ、恋愛を描いている希少なコミカライズである。なお、本作ではふたごてんしを女の子として描いている(一人称が「わたしたち」、[[女性語|女性言葉]]で話す、排泄を恥ずかしがるなど)。ばんぞー博士とミカチューも登場する。
*
==== 『まるごとまんがでたまごっち(ぼちぼちたまごっち)』 ====
* 作者: [[きむらひろき]](全巻)、大丸ロケット、平野豊、小川京美、うり坊、水戸いずみ(1巻のみ)
* 連載誌:[[コミックボンボン]]
* 単行本:全2巻(1巻はアンソロジー)
* 登場たまごっち:[[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、森、海、てんしっちの5種類。実機準拠の為サムを除き、ゲームで発見オリジナルたまごっちは登場しない。1巻は元祖、新種、てんしっち。2巻からはむしっち、さかなっちが登場する(ゲスト扱い)。
* 舞台:たまごっち星(時に地球?)
* 人語:話す
* 性別:基本的にオスであり、本作に女性たまごっちは登場しない
* 家族:存在する
* 世界観と特色(ぼちぼちたまごっち)
* たまごっち星が舞台のはずだが、日本の地名が度々出て来る。本作のたまごっちは基本的にオス扱いされていて、一人称が「ボク」であり、三人称は彼である。コロコロ版同様、自分絵の癖が強く、公式絵をアレンジした絵柄になっている。特定の主人公は存在せず、回によって主人公が変わるオムニバス形式である(グループは元祖、新種、てんしっちのローテーション)。回によって設定の違うキャラが登場している。作者がお気に入りと公言しているぎんじろっち、ぎんじろてんしの出番が多い。むしっちは小さいが(ちょびタマっちがぎんじろっちの頭に乗るサイズ)、描き下ろしでは通常のたまごっちと同じサイズで描かれる事もある。原作のたまごっちに家族はいないが、本作では2巻でたまっちととんまるっちが兄弟である為、家族が存在する設定である(親はみみっち)。後期は単行本未収録になっている。
*1.1997年12月1日発売 ISBN-9784-0631-98881
*2.1998年6月1日発売 ISBN-9784-0631-99406
==== 『半熟たまごっち』 [[渡辺けんじ]](ヤングジャンプ) ====
*
== 2期以降~現在のコミカライズ作品 ==
*『GOGO! たまたま・たまごっち』 [[杉木ヤスコ|ヤスコーン]]
*『GOGO♪ たまごっち!』
*『未確認ギャグ生命体 たまごっち!』 [[立川史]]
*『[[あっちこっち たまごっちタウン]]』 [[かがり淳子]]
*『あっちこっち たまごっちタウン はいぱー』
*
* 『たまごっちのキラキラおみせっち』あくるみアスカ
* 『たまごっちのなりきりチャンネル』 あくるみアスカ
* 『みんなでハッピー☆たまごっち!』 [[あさだみほ]]
* 『ドレみふぁ♪たまごっちーず』 [[加藤みのり]]
* 『たまごっちなのだ!!』 [[赤塚不二夫]] ※単行本『[[夜の赤塚不二夫]]』に収録
== 小説 ==
* 万里アンナ・著者、BANDAIWiZ・作、[[角川つばさ文庫]]・刊、全10冊
* 『たまごっち!1 ラブリンとメロディっちの出会い』
* 『たまごっち!2 ハロー!メロディランド&もりりっち』
* 『たまごっち!3 あつめるのじゃ!たまハート』
* 『たまごっち!4 ともみ…さよなら&よろしく!ひめスペっち 』
* 『たまごっち!5 メロディバイオリンとハートかみっちのひみつ』
* 『たまごっち! ゆめキラ たまごっち星のピンチ!…ドリームタウンへ!』
* 『たまごっち! ゆめキラ ドリームタウンのなかまたち』
* 『たまごっち! ゆめキラ バンドしようよ! キラキラガールズ☆デビュー』
* 『たまごっち! みらくる タイムスリップ! ? きせきの出会い』
* 『たまごっち! みらくる 未来へつなげ! たまとものきずな』
* その他コンテンツ
== オリジナルアニメ ==
:* [[たまごっちオリジナルアニメ]](2008年12月12日、WEBアニメ)<ref group="注">Youtubeの[[バンダイチャンネル]]で公開。全3話。</ref>
:* たまごっち!×[[秘密結社鷹の爪|鷹の爪]] たまごっちで世界征服(2012年、OVA)<ref group="注">『[[ちゃお]]』2012年10月号付録DVDに収録。『秘密結社鷹の爪』とのコラボアニメ。</ref>
:* [[それって、くちぱっち。]](2013年、OVA)<ref group="注">『ちゃお』2013年1月号の付録DVDに収録。短編FLASHアニメ。</ref>
:
== モバイルアプリ ==
:* ケータイで発見!!たまごっち
:* 元祖たまごっち
:* たまごっちRPG
:* 育てて!たまごっちタウン
:* みんなであそぼう!たまごっち
:* ケータイ住人ごっち〜ズ
:* たまごっち占い{{#tag:ref|本作のキャラクターを用いた西洋占星術や古代数秘術を応用した占い<ref name="たまごっち占い"/>。|group="注"}}
:
== スマートフォンアプリ ==
:* スマホで発見!!たまごっち
:* スマホで新種発見!!たまごっち
:* てんしっちのたまごっちSP
:* たまごっち くるくるかいたくプラネット
:* マイたまごっち
:
== ソーシャルゲーム ==
:* モバゲーであそぼ!たまごっち
:* ホッコリ!たまごっち~な
:* たまごっちのさかなつり
:* LINEで発見‼︎たまごっち(2018年9月18日、LINE QUICK GAME)
:
== モールアドベンチャー ==
:* たまごっち! あるいてかいけつ!? わくわくツアー
== キャラクター ==
{{出典の明記|section=1|date=2023年3月}}
[[ファイル:バンダイキャラクターストリートまめっち.jpg|thumb|upright|バンダイ本社ビル前の[[まめっち]]像 (2010年撮影)]]1期のたまごっちは、[[ばんぞー博士]]が失恋の傷心で[[隅田川]]のほとりをぶらついている時に、謎の生物が乗った小さな[[未確認飛行物体|UFO]]が溺れているのを発見して持ち帰り、ふしぎ生物研究所でたまごっちHOUSEを開発、その生物が中に入り、時計をセットすると5分後に卵が現れ、世話や言動などで理解できるものとなっており、たまごっち星生まれの[[地球外生命]]という設定である。人間の言葉は理解できるが、人語は話せず、「ピー」という鳴き声や表情、仕草で意思を伝えている。実機の他、アニメやゲーム版、[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]版の『まんがで発見!たまごっち』ではたまごっちは人間の言葉を話せない。
1期のたまごっちはデビルっちを除き[[性善説]]で[[善]]の存在であり、基本的に悪い心は無く、あったとしても弱いのでいたずらっ子な程度である(ますくっち、ズキっちなど)。実機ではたまごっちは「たまごっちHOUSEを持つ人間しか感知出来ず、一般人は邂逅する機会も無い特別な存在」として描かれている。
種類は実機では「[[たまごっち (初代)|元祖]]」「[[新種発見!!たまごっち|新種]]」「むしっち」「さかなっち」「てんしっち」「オスっち」「メスっち」「デビルっち」「やさしい」「サンタクロっち」の全10種類(ゲームオリジナルたまごっちを含めると、64版『[[64で発見!!たまごっち みんなでたまごっちワールド|みんなでたまごっちワールド]]』の熟たまごっち、PS版『星で発見』の全12種類)が存在する。尚、「デビルっち」「やさしい」「サンタクロっち」はブーム終焉時にリリースされたたまごっちである為、ゲーム化はされていない。てんしっちとデビルっちは死んだたまごっちの霊魂(おばけっち)が転生した存在であり、たまごっちの死後の存在で、それ以外は生きているたまごっちである。
ペットとしては通常のたまごっちが犬や猫などの愛玩動物、むしっちとさかなっちは野生動物、てんしっちは天使や妖精、精霊や幽霊などのポジションである。
『たまごっちボン』ではたまごっちの身体を構成する物質は「金属、空気、ふくらし粉、羽毛、何だか分からないスウィートなもの」と説明されている。
公式絵ではたまごっちが人語を話している描写もあるが、それはばんぞー博士とミカチューの翻訳によるものである(『どこどこたまごっち』『たまごっちボン』では「ミカチュー翻訳済み」という単語が出てくる)。
実機のさかなっち(にんぎょっち)、オスっち・メスっち、デビルっち(デビルコっち、クリデビっち)以外のたまごっちは女性たまごっちがグループに存在せず、無性別とオスが基本の「女性を排除した、男性優位社会」になってしまっているのが特徴である(元祖、新種、むしっち、GB2のさかなっち、てんしっちなど)。メスっちも登場したが、「たまごっちに普通に女性もいて、女性たまごっちも仲間として輪に入っている世界」では無かった為評価は低く、実機のさかなっち(にんぎょっち)が登場するまでは、メスっち以外の女性たまごっちは実機には存在しなかった。尚、にんぎょっちは実機限定キャラである為、『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見2]]』『たまごっちタウン』には登場しない。
第2期からは、たまごっちの基本設定が全面的に一新された。[[地球外生命]]という設定は健在だが、ばんぞー博士と助手のミカチューが登場しなくなり(「Tamagotchi iD L 15th Anniversary ver.」で再登場している)、その分たまごっち星の[[社会]]や[[文化_(代表的なトピック)|文化]]が続々と判明する。2009年に発売したTamagotchi iDでは液晶のドット数が大幅に増え複雑なキャラクターが描写出来るようになったためにラブリっちを皮切りに新たなデザインのキャラクターが登場した。第2期以後のアニメ化作品では、たまごっち星の世界観が詳細に描かれているが、第1期との相違点が多くみられる。例としては、たまごっち星の外観・地理の違いなど{{Refnest|group="注"|第1期でのたまごっち星<ref>[https://web.archive.org/web/20101102224945/http://tamagotch.channel.or.jp/tamagotch/map/map.html たまごっちマップ](インターネットアーカイブ)。</ref>と第3期でのたまごっち星<ref>[https://tamagotch.channel.or.jp/tamagotchiplanet/ たまごっち星 ネットで発見!!たまごっち 公式ホームページ] - 2019年11月22日閲覧。</ref>を参照。}}。1期ではポコポコ火山(噴火する度にたまごっちの卵を産み出す不思議な火山)、寒冷地のクリスタルキングダムなどがある(公式ガイドブック『たまごっちボン』参照)。
キャラクターのデザインは、第1期は[[渡辺けんじ]]がβバージョンをデザイン開発担当して解雇された[[黒柳陽子]]から仕事を引き継ぎ、第2期からは[[JINCO]]が担当している。なお、漫画連載は雑誌によって、[[あべさより]]、[[きむらひろき]]、[[かがり淳子]]、[[ヤスコーン]]、[[河井リツ子]](りっち名義)、[[後藤英貴]]など複数の漫画家が担当している。
たまごっちを数える[[助数詞]]は公的に「匹」だが、アニメ版『[[たまごっち!]]』や、ゲーム版、3期以降は「人」と数えられる事もある。
1期ではオスっちとメスっち、『星で発見』のたまごっちやにんぎょっちなどの一部のたまごっちを除き[[性別]]の概念が存在しないが、2期以降は性別の概念が存在するようになった。1期では男性的、中世的なデザインのたまごっちが多くみられる。
1期ではまめっち、みみっちといった知能の高いたまごっちや、にんぎょっち(公的に女性)、ほとんどのメスっちなどの女性たまごっちは公式イラストで排泄を便器でし、恥ずかしがる描写が多いが、それ以外のたまごっちは基本的に排泄を恥ずかしがらず、便器でするキャラは少ない。
1期でのサイズは普通の卵と同じ位で(ゲーム版では人間より少し小さい位)、1期では公式イラストには台詞があるが基本的に人語は話せず、実機やゲーム版、漫画版の『[[まんがで発見たまごっち 爆笑4コマ劇場|まんがで発見!たまごっち]]』では人語を話せず、「[[電子音|ピー(たまごっちの呼び出し音)]]」という鳴き声で意思を伝えていて、鳴き声のバリエーションは豊富。
1期はシンプルでシュールなデザインで、たまごっちには服を着る文化がないため、一部を除きたまごっちは基本的に服を着ないが、3期以降は女児向けに移行した事もあり、目がキラキラしている可愛さ特化のデザインになり、服を着る文化が登場し、服を着るたまごっちが多くなった。2期以降は1期のようなシンプルな[[キャラクターデザイン|デザイン]]のたまごっちは少なくなり、複雑で凝ったデザインのたまごっちが多くなった。
1期のたまごっちは一部を除き2期以降には登場しないが、「[[Tamagotchi iD|たまごっちiD L 15周年記念バージョン]]」ではむしっちはカブトっちとイモっち、さかなっちはあしぎょっち、てんしっちはぷくてん、「デビルっち」はデビルっちが再登場している。他、たまごっちが死亡する時のお迎えの演出としてくりてんが登場する。
== 2期以降も登場している主な1期のたまごっち ==
=== 元祖たまごっち ===
・ベビっち(♂設定)
・まるっち(♀設定)
・[[まめっち]](♂設定)
・[[ぎんじろっち]](♂設定)
・[[くちぱっち]](♂設定)
・ますくっち(♂設定)
・たらこっち(♂設定)
・にょろっち(♂設定)
・[[おやじっち]](♂設定)
=== 新種発見!! たまごっち ===
・しろベビっち(♀設定)
・みみっち(♀設定)
・ポチっち(♂設定)
・くさっち(♀設定)
=== その他 ===
・おじっち♂(オスっち)
・おトキっち♀(メスっち)
・ゴッチ大王♂(2期以降は『ごっち大王』とひらがな表記である)
== 1期のたまごっちの主な設定 ==
*たまごっちは地球上だと電子のような物体になってしまい、人間に姿も見えず声も聞こえず、触れられない状態になる。しかし、たまごっちHOUSEに入る事で実体化し、HOUSEの翻訳機能で語る言葉を持たないたまごっちは意思を人間に伝えられるようになる。
*地球の空気はたまごっちに有毒で、HOUSEに入れて保護しないとたまごっちは地球では生きられない。
*基本的にオスっちメスっちと『星で発見』のたまごっち以外は性別が無く、大人のたまごっちは単為生殖をしていた。
*たまごっちは寿命を過ぎて安らかな死を迎えると1個だけ卵を産み、卵が孵った時には親は既に天国で兄弟もいない為、ベビーっちは産まれた時から一人前のたまごっちとして生きなければならなかった。
*たまごっちの出生方法は寿命を過ぎて安らかな死を迎えたたまごっちが死に際に1個だけ卵を産むか、たまごっち星ではポコポコ火山が噴火する際、大量にたまごっちの卵を産み出す事、オスっちメスっちのブリードによるものの主な三つである。尚、たまごっちは死ぬとてんしっちに転生し、てんしっちは役目を果たすと、たまごっちの卵として転生する[[輪廻|輪廻転生]]のサイクルになっている。
*通常のたまごっちに親や兄弟は存在しなかった(オスっちメスっちには夫婦関係や親子関係、兄弟関係が存在する)。
*新種、オスっちメスっち、ゲーム版のむしっちとさかなっち、やさたまは地球由来のたまごっちである。
*たまごっちにはまめ属、くち属、あし属、アニマ属、かぶき属、たこ属、くさ属、ばけ属という8種類の種族があり、おやじっち、せきとりっち、チャリっち、サムといった隠しキャラはかぶき属突然変異体である。
*性別のあるたまごっちは地球出身だが、『星で発見』のたまごっちはたまごっち星出身だが性別がある。
*基本的に人語を話さず、独自の言語を話す(各種ゲーム版、『TVで発見』、『たまごっちホントのはなし』※おやじっち除く、コロコロ版など)。
*服を着る文化が無い為、基本的に服は着ない(ブンブっちなど例外はいる)が、女性たまごっちでも服は着ない事が多い。当時は服が着られない自由な体型のキャラが多かった。
*たまごっちにお金の概念は無い。
*たまごっちに職業に就いたり、学校に通う概念は無い。しかしコミカライズ版など、メディアミックスではその限りでは無い。
*むしっちとてんしっちは育成ルール、育成システムが変化している(さかなっちは通常のたまごっちの育成システムに準じている)。
*たまごっちの大きさは地球の鶏卵サイズであり、むしっちはもっと小さい。
*通常のたまごっちはたまゴーシティ、むしっちはステキな森、さかなっちはウキウキビーチ、オスっちとメスっちはラヴリー学園都市、てんしっちはてんしっちの都に暮らしている。
*てんしっちは死んだたまごっちの霊魂であり、死んだたまごっちをてんしっちに変え、たまごっちを幸せに導く上位かつ別世界の存在である。たまごっちにてんしっちは視認出来ず、てんしっちはてんしっちの都という別世界に暮らしている。
*てんしっちは死んだたまごっちの霊魂から生まれる為、卵を産まないし、卵から産まれないが、『たまごっちタウン』では生きているたまごっちの一種という設定の為、アダルてんに成長すると卵を産み、卵からおばけっち2号が産まれる設定に変更されている。
*むしっちはもっと小さく、カブトっちが地球のカブトムシ位、ふたごアリっちが地球のアリ位、コガネっちが500円玉サイズ、イモっちが地球の青虫位、ちょびタマっちが1.78センチなどであり、メディアミックスでは大きく描かれている事が多い。
*さかなっちは水中生物モチーフの為、一部を除き陸上では生活出来ない(メディアミックスでは陸に上がっている事も)。
*体の大きさは『たまごっちボン』によると、むしっち<ベビーっち(大きさ30)<幼児(大きさ60)<こどもっち(大きさ100)<アダルトっち(大きさ150)が基本であり、基本的にこどもっちはアダルトっちより体が小さい。
*基本的にベビーっち、幼児期はたらこ唇では無いが(『星で発見』のたらベビっち、びるたまっちなどは除く)、こどもっちからたらこ唇の概念が登場する。
*基本的にこどもっちは各種類ごとに2匹ずつ存在し、育ちの悪い子はたらこ唇になる傾向がある(ゲーム版のむしっち、さかなっち、『星で発見』のたまごっちなどは例外)。
*こどもっちは育ちの良い子は元気で活発な性格で、育ちの悪い子は大人しい性格である傾向が強い(さかなっち除く)。
*育ちの良いこどもっちは全てのアダルトっちになれる万能株だが、育ちの悪いこどもっちは優等生のアダルトっちにはなれない(実際に実機ではくちたまっちは、まめっち、ぎんじろっち、ますくっちにはなれない)。
*たまごっちが寝る時は鼻ちょうちんを出す演出が多い(特に幼年体)。
*まめっちの一人称は「わたし」で、相手をさん付けで呼んでいた。
*みみっちは1期のほとんどのコミカライズでは一人称が「ぼく」で、男の子として描かれていた。
*コミカライズの出番は元祖と新種が主役格で、むしっち、さかなっち、てんしっちなど亜種のたまごっちはたまに登場する準レギュラー的な扱いが多い(なかよし版ではてんしっちが主人公、コロコロ版ではむしっちとさかなっちは2巻からの追加レギュラー、だいすきでは3巻はオスっちメスっちが主役の話になっている)。
*たまごっちにはそれぞれ、同種の別個体が存在していた(『TVで発見』、各種ゲーム版、『たまごっちボン』、『だいすき♥たまごっち』など)。
*たまごっちは死亡するとおばけっちになり、てんしっちになり、てんしっちの都で幸せに暮らす。そしててんしっちは役目を果たすと、たまごっちに転生し、輪廻転生を繰り返している。
*亜種のたまごっち(むしっち、さかなっち、オスっち・メスっちなど)は通常のたまごっち(元祖・新種)の仲間として扱われているが、てんしっちは「たまごっちの善の心を呼び起こし、幸せに導く上位の存在」として扱われている。ちなみにデビルっちは悪さをする悪霊であり、「たまごっちとてんしっちの共通の敵」というポジションである。
*通常のたまごっちは性別が無く単為生殖をしていて、性別や性差や恋愛が理解出来ない為、性別があり恋愛やブリードの概念があるオスっち・メスっちは彼らにとって謎の存在である。
*元祖と新種、むしっちとさかなっち、てんしっちとデビルっち、オスっちとメスっちは2種類の対になるたまごっちとして扱われている(デビルっちはブーム終焉時に追加された後付け)。
*ゲームやコミカライズ、公式ファンブック、グッズなどのメディアミックス展開では元祖と新種(主役格)、むしっちとさかなっち、てんしっちの5種類がメインで、オスっちとメスっちはあまり採用されない。グッズでは「元祖と新種」「むしっち」「さかなっち」「てんしっち」の4種類がよくセットで描かれていて、デビルっち登場前はてんしっちと対になる存在はたまごっちとして扱われていた。
*てんしっちは「死んだたまごっちの救済」目的で生まれたたまごっちである。
*デビルっちはてんしっちを誘惑して堕天させて生まれる存在であり、ブーム終焉時に追加された後付けの存在なのと、たまごっち社会の力のバランスを崩した事、たまごっちとてんしっちの敵である事、「たまごっちは死んでもてんしっちになって、てんしっちの都で幸せに暮らし転生する」というてんしっちの救済を台無しにしてしまった事などが原因で、評価は低い。しかし、コミカライズ版『だいすき♥たまごっち』『みんなでたまごっち』では悪役として出番が多い(特にデビルコっち)。
== 基本設定(全てのたまごっちに共通する) ==
1期ではたまごっちにとって[[地球]]の空気は[[毒|有毒]]なので、たまごっちHOUSE(実機)を介さないと地球で暮らせなかったり、たまごっちは地球上では[[電子]]のような物体になってしまうため、そのままでは人間に姿も見えず声も聞こえず触れることもできないが、たまごっちHOUSEに入ることで実体化し人間とたまごっちの交信が可能になり、HOUSEの中に入ったたまごっち達は[[電波]]でメッセージを飛ばし合って[[交信]]しているという設定があった。基本的にたまごっちHOUSE(実機)を持つ人間だけが、たまごっちを感知し交流することができる。
1期ではたまごっちは8つの種族に分類されていて、「'''まめ属'''(祖先のたまごっちのキュートさと頭脳が発達した理想的な進化タイプ。[[まめっち]]、みみっちなど)」、「'''くち属'''(のんびり屋でお人好しな種族、今では最もたまごっちらしいタイプと言われている。[[くちぱっち]]、はしぞーっちなど)」、「'''あし属'''(体力が無くひ弱な遺伝子を受け継いだが、強い[[食欲]]で生き延びた種族。にょろっち、たらこっちなど)」、「'''アニマ属'''([[動物]]の遺伝子が入る事によって生まれた種族、まめ属の血も引いているので、どことなく育ちが良い。ぎんじろっち、ポチっち、にゃっちなど)」、「'''かぶき属'''(まめ属の賢さが悪知恵として発達してしまった種族、ますくっち、ズキっちなど。その[[突然変異]]がおやじっち、せきとりっち、チャリっち、サム(アメリカ原種)。突然変異体はかぶき属の怪しさがパワーアップしていて、人間の遺伝子が入る事によって生まれたらしい)」、「'''ばけ属'''」、かぶき属とあし属から生まれた「'''たこ属'''(たこっちなど)」あし属から派生した「'''くさ属'''(くさっちなど)」の8種類が存在する<ref name="名前なし">『たまごっち研究レポート たまごっちボン1』、『2』より</ref>。
2期以降は「まめ族(まめっちなど)」「めめ族(めめっちなど)」「くち族(くちぱっちなど)」の3種類に新たに分類された。
1期ではオスっちとメスっちを除き[[単為生殖|単体生殖]]が可能であり、[[寿命]]を過ぎると死に際に[[卵]]を産む事がある。2期からは[[性別]]が登場した為、オスとメスのたまごっちが[[結婚]]して[[親族|子孫]]を残し、その子供を育てていくシステムに変更された。
1期ではオスっちとメスっちを除き、親は寿命を過ぎると1個だけ卵を産んですぐに死んでしまう為、子供が産まれた時には既に親は亡く、親は卵を1個しか産めないので子供には[[兄弟]]もおらず、産まれた時から大人と同じご飯を食べていた(PS版の星で発見では、ベビー期のご飯は[[哺乳瓶]]に入った[[牛乳|ミルク]]になっている)。子供は産まれた時から一人前のたまごっちとして生きなければならず、[[家族]]や家族関係も存在しない、現在と比べるとシビアな環境だった(現在のたまごっちは[[親|両親]]や兄弟が存在し、ベビー期には哺乳瓶に入ったミルクを飲むなど、手厚く保護されている)。
『[[ゲームで発見!!たまごっち]]』シリーズでは一部のキャラやシステムが、実機と大きく異なっている(特に『2』)。
たまごっち星では通常のたまごっちは「'''たまゴーシティ'''」、むしっちは「'''ステキな森'''」、さかなっちは「'''ウキウキビーチ'''」、オスっちとメスっちは「'''ラヴリー学園都市'''」、てんしっちは「'''てんしっちの都'''」、デビルっちは「'''デビル界'''」に暮らしている<ref name="名前なし"/>。ラヴリー学園都市はまめっちなど、オスっちとメスっち以外のたまごっちはここに来るとそわそわしてしまう(『たまごっちボン1・2』参照)。
[[Tamagotchi iD|たまごっちiD L15周年記念バージョン]](2011年発売)では「ステキな森」は「むしっちの森」、「ウキウキビーチ」は「さかなっちの海」に地名が変更されている。
たまごっちの種類によってシステムやご飯の種類が変わり、実機では元祖は白ご飯、新種はおにぎり、むしっちは基本の食事は葉っぱだが、通常のたまごっちと異なりご飯とおやつの区別が無く、グルメなので時間ごとにメニューが変わり、さくらんぼ(朝食)やソフトクリーム(昼食)やめけめけの実(夕食)が用意されていて、成虫っちになると好物の専用メニュー(カブトっちがキャンディー、スイカ、プリン、DXケーキ、コガネっちとてんとっちがナツメ、ちょびタマっちとものっちはドングリA、フンコロガっちはフン、ゲジっちはドングリB、ふたごアリっちは角砂糖、ムシばっちとヘルメっちはキノコ)が追加されたり、ご飯の種類は豊富。さかなっちはおでん、てんしっちは天使のパイ、デビルっちはイカスミパイになっている。ベビーっちも大人と同じご飯を食べるが、PS版『星で発見』ではご飯がベビー期は哺乳瓶に入ったミルクに変更される(こどもっちからはおにぎりになる)。むしっちとさかなっちは野生動物モチーフの為、通常のたまごっちのように人間の食べ物を食べる事が出来ない。
『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見!! たまごっち]]』や『[[セガサターンで発見!!たまごっちパーク|たまごっちパーク]]』ではご飯やおやつの種類が増えている(たまごっちパークでは、たまごっちはご飯はおにぎり、お肉、魚、苺、おやつはケーキ、アイス、饅頭。てんしっちはご飯はパイ、クレープ、ケーキ、おやつはキャラメル、キャンディーなど)。「たまごっちタウン」では全てのたまごっち(元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっち)のご飯がおにぎりで統一され、原作と異なりむしっちもさかなっちもてんしっちもおにぎりを食べられるようになっている。
寝る時は基本的にたまごっちは布団で寝るが、むしっちは葉っぱを布団代わりにし、てんしっちは白い雲に乗り、さかなっちは水中生活をしている為、布団はかけずそのまま寝ている。
対になるたまごっちは'''[[たまごっち (初代)|元祖]]'''と'''[[新種発見!!たまごっち|新種]]'''は「似た者同士」、むしっちとさかなっちは「食物連鎖(むしっちとケロぴょんっち)」、オスっちとメスっちは「恋愛」、てんしっちとデビルっちは「加害者が一方的に、被害者を虐げる関係」で結び付いている。また、元祖たまごっちは亜種のたまごっちとの関係をそれぞれ持っている(たまごっちにてんしっちは視認出来ないが、てんしっちはたまごっちを幸せの方向へと導き、見守る立場である)。
1期ではたまごっちの各成長形態の人数は、種類によって違いもあるが「ベビーっち1匹→幼児1匹→こどもっち2匹→アダルトっち5匹~8匹→隠しキャラ1匹」が基本であり、ゲーム版(『ゲームで発見2』、『たまごっちタウン』、『星で発見』など)は、その設定準拠である。
たまごっちは1期の頃は『TVで発見!! たまごっち』や、『たまごっちボン1・2』などの公式ムック、ゲーム版、アニメ版では「同種の別個体」が複数存在し、各たまごっちはそれぞれ「種族の内の一個体」として描かれていた(『TVで発見!! たまごっち』の「ハナハナとんがりっち」回で、たまっちの大群が登場している等)。各種コミカライズでは基本的に1種類につき1匹しか登場しない事が多いが、登場しないだけで同種の別個体は存在しており、『[[まんがで発見たまごっち 爆笑4コマ劇場|まんがで発見!! たまごっち]]』ではまめっちは初期の頃はもう1匹の別個体が登場しており、おやじっち、みのっち、ゲジっち、ヘルメっちなどは大量の別個体が登場していた。『だいすき♥たまごっち』([[河井リツ子|りっち]]作)ではまめっちと幼年体のたまごっち(まるっち、とんまるっち、たまっち、とんがりっち、まるてんなど)を中心に、複数の別個体が同時に登場するエピソードがある。
しかしアニメ版『[[たまごっち!]]』や、3期以降のたまごっちは「種族の内の一[[個体]]」ではなく、「[[個人]]」として扱われるようになり、同種の別個体が存在する事は無く、仮に存在したとしても同時に一画面には出て来ない。『たまごっち!』や現在の設定では「[[まめっち]]」などは1匹しかいない固有の存在であり、1期のように「同種の別個体」は存在しなくなり、「種族の内の複数いる一個体」としては描かれなくなった。
== 森で発見!! たまごっち ==
=== 設定と育成方法 ===
亜種のたまごっちの一種。むしっちを最初に発見したのはギュルルンゴーに乗って地下を散歩していたたまごっちであり、後にたまごっちがむしっちをUFOに招待したのをきっかけに、ばんぞー博士のむしっちの研究が始まった。
1期の通常のたまごっちと[[派生作品|派生たまごっち]]の主な違いは、むしっちはこどもっちの時期が無く(メディアミックスゲームの『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見2]]』ではある。『ゲームで発見2』では、むしっちは通常のたまごっちと同じシステムや育て方になっていて、ご飯や[[おやつ]]のメニューと[[繭|マユっち]]に変身する事以外は独自性が薄れている)、ご飯とおやつの区別が無く、ご飯の種類が豊富で、[[昆虫|地球の虫]]のようなものなのでしつけようがないため、[[しつけ|躾]]コマンドがオミットされていたり、イモっちから[[成虫|成虫っち]]に変身する前に繭形態になったり(『ゲームで発見2』ではマユっちという独立したたまごっちになっている)、むしっちは体が強いので[[病気]]をしなかったり、足や[[カエル|カエル(ケロぴょんっち)]]に襲われて追い払えないと怪我をして[[ミイラ]]っちになり、治療するイベントがある。また、むしっちは寿命が短く、死亡するとむしっちおばけになり(通常のおばけっちとはデザインが異なる)、通常のたまごっちとはシステムや育て方の違いが大きく、育成ルールも変化している。布団は葉っぱ。天敵は足(人間かどうかは不明)と[[カエル]](ケロぴょんっち)。通常のたまごっちのお腹とご機嫌のメーターはハートマークだが、『森で発見』では葉っぱマークに変更されている。
むしっちの体重は肥満と言うより体長を反映するものなので無理に体重は下げなくていいが、たまごっちと同じくごきげんUPゲームで遊ぶと体重が1g下がる。もちろんごきげんUPゲームで手をかけた度合いにより、成長の仕方は変化する。ちなみにゲーム版では「体重が増え過ぎる=肥満」であり、ストレスの元になる為、健康的な育児を心がけるなら体重を下げる必要がある。
むしっちは基本的に飛べないが、カブトっちと͡コガネっちは[[飛翔|飛行能力]]があり、公式イラストやファンブックなどで羽を出して飛行するシーンが確認出来る。むしっちは[[昆虫]]がモチーフなので[[触角]]の生えている種類が多く、触角が生えていないのはベビモっち、イモっち、みのっち、カブトっち([[角]])、てんぐっちのみである。
実機では「カブトっちを大きく育てるモード([[変態|変身]]はカブトっち固定)」と「カブトっち以外の様々なむしっちを育てるモード(カブトっちは別モードにいる為、登場しない)」の2つのモードがあるが、『ゲームで発見2』では前者は省略され、カブトっちを含む様々なむしっちを育てるモードに統合されている。実機ではカブトっちと他の成虫っちはモードが違う為同じ[[世界線]]では共存出来ないが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』、各コミカライズ版、公式イラスト、『たまごっちボン1・2』といった公式ガイドブックなどではカブトっちと他の成虫っちが共存しているメディアが多い。
ケロぴょんっちがむしっちを襲うのは虫とカエルの[[食物連鎖]]を表す為であり、本能に従っているだけなのでケロぴょんっちにデビルっちのような悪意は無い。ケロぴょんっちはさかなっちにとっては仲間だが、むしっち達には凶悪な顔のカエルに見えているなど、立場によっての二面性を表しているたまごっちである。
むしっちはグルメなので、むしっちのご飯は、時間帯によってメニューが変わり、基本の食事は[[葉|葉っぱ]]だが、朝食は[[サクランボ]]、昼食は[[ソフトクリーム]]、夕食はめけめけの実である。
成虫っちになると食事に専用メニューが出てくる事がある。専用メニューはカブトっちが[[キャンディ|キャンディー]]、[[カスタードプディング|プリン]]、[[スイカ]]、[[ケーキ|DXケーキ]]、ちょびタマっちとみのっちが[[ドングリ]]A、コガネっちとてんとっちは[[ナツメ]]、フンコロガっちがフン、ふたごアリっちは[[角砂糖]]、ゲジっちはどんぐりB、ムシばっちとヘルメっちは[[キノコ]]である。むしっちのご飯は[[菓子|スイーツ]]が主食だが、たまごっちとは体の作りが違う為、スイーツはご飯である為スイーツを食べても病気にならない(『ゲームで発見2』ではなる)。尚、『たまごっちタウン』でのむしっちのご飯は[[おにぎり]]に変更されている。葉っぱ、ソフトクリーム、どんぐり以外は『ゲームで発見2』には存在しない、実機限定メニューである。
コロコロ版『[[まんがで発見たまごっち 爆笑4コマ劇場|まんがで発見!! たまごっち]]』では、2巻からレギュラーとして追加登場している。コロコロ版、ボンボン版などのコミカライズ版では実機準拠の作品が多い為、『ゲームで発見2』のオリジナルむしっち(てんぐっち)は登場しない事が多いが、『みんなでたまごっち』『だいすき♥たまごっち』では実機とゲーム版が融合した世界観である為、てんぐっちも登場する。
公式ガイドブックの『たまごっちボン1・2』は実機準拠である為、ゲームオリジナルたまごっちは登場しないが、むしっちのページに『星で発見!!』オリジナルキャラであるバタフライっちが登場していた。また、むしっちはたまごっち星の「ステキな森」に暮らしていて、「クリスマスが近くなると、みんなで森の木を[[クリスマスツリー]]風に飾り付けする」という記述がある為、本物の昆虫とは異なり、[[冬眠]]はしない模様。また、たまごっちにも慣れており、まめっちなどに対しても警戒する描写が無い。
むしっちは通常のたまごっちに比べると非常に小さく(たまごっちは鶏卵サイズ、カブトっちは地球の[[カブトムシ]]位、ちょびタマっちは1.78センチ、イモっちは地球の[[アオムシ|青虫]]位、ふたごアリっちは地球の[[アリ]]位、[[プラチナコガネ|コガネっち]]は[[五百円硬貨|500円玉]]サイズなど)、実機では通常時は森と小さな点が表示され、ボタンを押すと[[レンズ#ルーペ|虫眼鏡モード]]でむしっちが大きく表示される演出があるが、公式ムックや絵本(どこどこたまごっちなど)、コミカライズ版では通常のたまごっちと同じ位だったり、たまごっちの手や頭に乗るサイズとして描かれているメディアミックスも多い。
実機のむしっちは躾けられなかったり、お菓子が主食だったり、昆虫の常識しか持っていなかったり、たまごっちや人間との意思疎通や、言葉が通じているかも危うい「野生の昆虫らしさ」を持っている。その為「意思疎通が困難で、たまごっちとは違う常識を持つ生き物」という側面が強いが、ゲーム版やコミカライズなどのメディアミックスではそういう面はオミットされるか、抑えられている。むしっちは排泄を恥ずかしがらなかったり(ほとんどのたまごっちに共通するが)、[[マナー]]の概念も無いが、例外としてコガネっちは公式絵で金のおまるで排泄をしたり、食事をする時に首にナプキンを巻いてお皿に食事を置き、食器で食べるなど[[テーブルマナー]]の概念がある。
世界観とキャラクターは実機世界と『ゲームで発見2』世界の2種類の世界が存在しており、メディアミックスではどちらかが採用されている(さかなっち同様、コミカライズ版では2種類の世界が統合されているものもある)。
== 海で発見!! たまごっち ==
=== 設定と育成方法 ===
亜種のたまごっちの一種。さかなっちとばんぞー博士の出会いは、たまごっち達が地球にやって来た際、UFOの中に釣り堀がありそこにさかなっちも乗っていた為。
さかなっちは基本的なシステムは通常のたまごっちに準じているが、[[水質]]という概念があり、水が汚れると[[病気]]になりやすくなる。ごきげんアップゲームに出てくる[[タコ]]に[[墨]]を吐かれて、水質とご機嫌が悪くなったり、[[ホッキョクグマ|白熊]]に襲われた時に追い払えないと、怪我をするイベントがある。ご飯は[[おでん]]で、おやつは[[ソフトクリーム]]。メディアミックスゲーム『ゲームで発見2』ではご飯やおやつの種類が増えている(ゲーム版オリジナルメニューはご飯はミミズ、魚、おやつはビスケットが追加された)。『たまごっちタウン』ではさかなっちのご飯はおにぎりに変更されている。
さかなっちは寿命が短く、死亡するとこんぶーおばけという[[コンブ|昆布]]型のおばけっちになる。天敵は白クマとタコ。画面には水槽のように常に泡が表示される。たまごっち星でさかなっち達が暮らす場所は「たまリンカイシティ」である(『たまごっちボン』1-2参照)。
本作はごきげんUPゲームが2つの宝箱から宝石の入った宝箱(当たり)を当てるゲームなのだが、外れ以外にタコが出て来て墨を吐かれ、ご機嫌がゼロになり、水質が悪化してしまう事がある。
実機のたまごっちの中では比較的育成が難しく、何もしないとすぐ死んでしまう事が多い。
さかなっちは水中生活を送っていて[[えら|えら呼吸]]をしている為、基本的に陸では息が出来ず一部の例外を除き、陸に上がる事は出来ず生活も出来ない。しかし、『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見!! たまごっち2]]』のCMや、各種コミカライズ、絵本『どこどこたまごっち』などの[[メディアミックス]]では、さかなっちが陸に上がっていても平気そうにしている演出がある。また、『星で発見!! たまごっち』にはゲームオリジナルキャラである亜種のさかなっちが登場する。
さかなっちは[[魚類]](海の生物)モチーフなので足を持たない種類が多く、足を持っているのはあしぎょっち、ケロぴょんっち、ペンギンっち、カメっち、かいぞくっちのみである。
さかなっちはおでん好きであり、それぞれ好きなおでんの具の設定がある。プランクトンっちは[[卵]]、くらげっちは[[コンニャク|糸こんにゃく]]、オトトっちは[[ごぼう巻き]]、きんぎょっちは[[ちくわぶ]]、くじらっちとあしぎょっちは[[ダイコン|大根]]、ケロぴょんっちは[[半片|ハンペン]]、たいやきっちは[[ジャガイモ|じゃがいも]]、かいっちはバクダン、にんぎょっちは昆布が好物。『ゲームで発見2』に登場するゲームオリジナルさかなっちの好きなおでんの具は不明。また、『ゲームで発見2』にはおでん嫌いなさかなっち(プランクトンっち、きんぎょっち、あざらっち、かいっち)もいる為、原作と設定が矛盾している。
コロコロ版『[[まんがで発見たまごっち 爆笑4コマ劇場|まんがで発見!! たまごっち]]』では、2巻からむしっちと共にレギュラーとして追加登場しているが、「陸上生活が出来ない」という制約がある為、むしっちに比べると出番は少ない。
むしっちと同じ理由で実機準拠のコミカライズが多い為、『ゲームで発見2』のオリジナルさかなっち(ペンギンっち、あざらっち、アンコっち、カメっち、かいぞくっち)は登場しない事が多いが、『みんなでたまごっち([[あべさより]]版)』『だいすき♥たまごっち([[河井リツ子|りっち]]版)』は実機とGB版が融合された世界観で、実機限定キャラとゲームオリジナルキャラが共存している。『みんなでたまごっち』では実機の隠しキャラのにんぎょっちを『ゲームで発見2』の[[隠れキャラクター|隠しキャラ]]のかいぞくっちが、監禁してお嫁さんにしようとしたエピソードもある。
さかなっちの特色は、実機限定キャラだが「メスっち以外の女性たまごっちであるにんぎょっち(公式でミーハー娘と呼ばれている)」が存在する事。無性別とオスが基本のたまごっち社会は女性を排除したグループになってしまっているが、さかなっちは彼女がいる事で、「仲間として、無性別とオスが基本のさかなっちの輪の中に入っている、女性さかなっちが存在するグループ」になっている。
なお、『ゲームで発見2』では隠しキャラがにんぎょっちからかいぞくっちに変更されている為、本作のさかなっちは他のたまごっち同様、無性別とオスが基本の社会になっている。
『森で発見』同様、世界観とキャラクターは実機世界と『ゲームで発見2』世界の2種類の世界が存在しており、メディアミックスではどちらかが採用されている。
== てんしっちのたまごっち ==
=== 設定と育成方法 ===
てんしっちはたまごっちの死後の幽霊から生まれた[[天使]]で、たまごっちを幸せに導く[[上位概念、下位概念、同位概念および同一概念|上位]]の存在であり(厳密にはたまごっちでは無いが、亜種のたまごっちとして扱われている)、死んだたまごっちの救済として生み出された。
てんしっちの都から感謝の気持ちを伝える為にやってきたてんしっちを育成し、立派に修行を努めさせ上げて都へ返すのが目的。なお、てんしっちとばんぞー博士の出会いは、徹夜明けの博士の前におばけっちがやって来た為である(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ てんしっちの育て方編fly』参照)。
[[天使|てんしっち]]はたまごっちの[[幽霊|死後の魂]]である為、不死身だが「[[堕天]]」という概念があり、ガイコっちの誘惑に負けると[[悪魔|デビルっち]]に堕天してしまい、バッドエンド状態になってしまう。デビルっちに堕天させずに、てんしっちを一人前の天使にして、てんしっちの都に帰すのが本作の目的である。てんしっちには[[しつけ]]が必要なほどの悪い子はいないので、「叱る」コマンドは「褒める」に変更されている。
食事は天使のパイで、おやつは[[ホワイトチョコレート|ホワイトチョコ]]。メディアミックスゲームの『たまごっちパーク』ではご飯はケーキ、天使のパイ、クレープ、おやつはキャラメル、キャンディーで、ゲーム版ではご飯やおやつの種類が増えている。他、『たまごっちタウン』でのてんしっちのご飯はおにぎりに変更されている。てんしっちはむしっち同様、スイーツが主食だが霊魂である為、食べ過ぎても病気にはならない。
「しつけ」は「しあわせ度」、「ごきげん」は「ガンバル度」、「年齢」は「人間界滞在日数」、「体重」は「TP(てんしパワー)に変更されている。てんしっちはTPが溜まるとおいのりをし(アダルてんにならないと出来ず、その前は真似事である)、時々どこかにお出かけする事がある。
てんしっちは通常のたまごっちとは食べ方が異なり、食べ物をかじらず、そのまま食べ物のエネルギーを吸収する為、てんしっちが食事をする演出はパイが小さくなっていく事で表現されている(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ』参照)。『森で発見』同様、通常のたまごっちとシステムや、育成ルールが変化している。
てんしっちはおばけっちが転生した存在である為、生きているたまごっちのような繁殖能力は持たず、新たなてんしっちを自分で産む事は出来ない(『たまごっちタウン』除く)。
死んでしまったたまごっちはてんしっちになり、てんしっち達はてんしっちパワーを高める為に日々幸せに過ごしている。てんしっちの仕事はたまごっち星に[[じょうろ]]で[[雨]]を降らせたり、くまさん[[かき氷|かきごおり]]機で[[雪]]を降らせたり、美味しいパイを上手に焼き上げたり、そして何より楽しく幸せに暮らす事である。てんしっちはこうして仕事をしながら幸せに暮らし、たまごっちや人間達の幸せの為に[[祈り|お祈り]]する毎日を過ごしている。てんしっちが焼く[[パイ]]の種類は[[サクランボ|チェリー]]パイに[[パンプキンパイ]]、[[クリームチーズ]]パイや[[アップルパイ|アップルン♪パイ]]が基本で、中でもアップルン♪パイはみんなのお得意メニューの一つである。てんしっちの都では「ジャンピングスター」という遊びが大流行している。
てんしっちのお祈りの方法、効果はてんしっちによって異なり、くりてんはステキなステッキ「スーパーエターナルッチョマロンタクト(本物)」を使用し、効果は「元気UP」、ぷくてんは[[浅草]]のおもちゃ屋で買ったピロピロ笛を使用し、効果は「ダイエット成功」、ぎんじろてんしは「勝負運UP」、たらてんは「勉強運UP」、おやじてんしは「健康運UP」、ふたごてんしは「恋愛成就」、さぼてんしは「やる気UP」、おとのてんは「アッパレ!」を司っている(『親切丁寧! てんしっちのたまごっちビデオ』参照)。てんしっちのお祈りは、みんなの悪い事や嫌な事を食べる為に行われている。
ふたごてんしは恋愛成就のお祈りが得意な為、オスっちとメスっちの[[クピードー|恋のキューピッド]]としての役目も担っている。
なお、こどてんはアダルてんではない為、本物のお祈りはまだ出来ないが、お祈りごっこが好きでステキなステッキ「スパイラルジュテームエンジェルロッド(おもちゃ)」を振り回して遊んでいる。てんしっちはお祈り後に星屑のフンをして、褒めてあげるとしあわせ度が上がる。てんしっちが何もしていないのに褒めると、調子に乗ってガンバル度が下がってしまう。てんしっちのガンバル度(たまごっちで言うご機嫌に相当)アップゲームは「シューティングスターゲーム」である。
天敵はデビル界のコウモリ、ガイコっち、デビルっちの3匹。コウモリはチョコを横取りしに来て、追い払えないとしあわせ度が下がり、ガイコっちはてんしっちを[[堕天]]させるために取り付いて誘惑し、注射コマンドで退治しないとデビルっちにされてしまう。デビルっちは堕天した元てんしっちそのものである。てんしっちが寝ていないのに電気を消すと、ガイコっちが来てしまう。
てんしっちが[[修行]]を終えててんしっちの都に帰天するか([[ハッピーエンド|グッドエンド]])、ガイコっちの誘惑に負けてデビルっちに堕天(たまごっちで言う病死扱い)してしまうと育成は終了する。他、死んだたまごっちの魂(おばけっち)を迎えに来て、てんしっちの都に連れて行きおばけっちがが一人前のてんしっちになれるように導くのも、てんしっちの役目である。
てんしっちは全てのたまごっちを統括する上位の存在であり、生きているたまごっち(元祖、新種、むしっち、さかなっち、オスっち、メスっちなど)が死んでおばけっちになった時に、てんしっちの都へ連れて行き、おばけっちをてんしっちに変え、てんしっちとしてみんなを幸せにできるように教育している。
たまごっちが死んでおばけっちになり、てんしっちになると頭に天使の輪が付き、背中に白い羽が生える。
『たまごっちボン』などではてんしっちにモデルがいないまめっち、くちぱっち、みみっち、ズキっち、ポチっち、カブトっち、コガネっち、ヘルメっち、ケロぴょんっち、あしぎょっち、にんぎょっちなどは元の姿のままてんしっち化していた為、元の姿を残したままてんしっちになる事も可能。たまごっちの姿のままてんしっちになった者もいれば、違う姿になって生まれ変わったてんしっちも存在する(生きているたまごっちにモデルがいないくりてんやぷくてんなどは、違う姿になって生まれ変わったたまごっちである模様)。
むしっちはてんしっち化すると通常のたまごっちと同じ位のサイズになり(『たまごっちボン』のてんしっちパートでは、むしっちおばけはおばけっち、こんぶーおばけと同じ位のサイズとして描かれていた。またコガネっちはまるてんと同じ位のサイズで描かれている為、個体差もある模様)、羽があるカブトっちやコガネっちなどはむしっちの羽がてんしっちの羽に変わり、さかなっちは陸上でも活動出来るようになる(『たまごっちボン1・2』参照)。
『TVで発見!! たまごっち』では、おばけっちはてんしっちの都の門を潜るとおばけっち2号になるが、『たまごっちボン1・2』ではおばけっち(通常、むしっち、さかなっち)のまま、てんしっちの都に来ていたので、[[メディアミックス|メディア]]によって設定に差異がある。『星で発見』ではたまごっちが死ぬと、おばけっちを介さずそのままおばけっち2号になり、『ゲームで発見』ではたまごっちがそのまま[[幽霊]]化する為、おばけっちの姿にはならない。てんしっちは生きているたまごっちには姿も声も感知出来ないが、コミカライズ版などでは見えている媒体が多い。
『TVで発見‼ たまごっち』の「ぶっタマゲてんしっち」回では、くりてんがぎんじろてんしを助ける際、デビルっち達を追い払う時に[[弓矢]]を使用していた。
亜種のたまごっちの中では登場が一番早い為、[[メディアミックス|メディアミックスゲーム]](『星で発見』、『[[セガサターンで発見!!たまごっちパーク|たまごっちパーク]]』、『たまごっちタウン』)やコミカライズでは出番が多いが、当初は他のたまごっちとは異なり、対になる存在がいなかった為(てんしっちは1997年8月、デビルっちは1998年9月発売)、対になるたまごっちを育成する『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見!! たまごっち]]』の移植には恵まれず、むしっちとさかなっちに譲る形になった。てんしっちと対になる存在はデビルっちだが、デビルっちは1期の終焉時に後付けで追加されたたまごっちの為、デビルっち登場前はむしっちとさかなっちが対なので、てんしっちと対になる存在はたまごっちとされていた。
てんしっち及びてんしっちの都は、たまごっちや人間など下界に幸福を与える存在であり、善の心を呼び起こす力を持っている。その為デビルっちはてんしっちを誘惑し堕天させる事で仲間を増やし、イタズラし放題の世界にしようと企んでいる。
コロコロ版『[[まんがで発見たまごっち 爆笑4コマ劇場|まんがで発見!! たまごっち]]』では、てんしっちは未登場である。
なかよし版『てんしっちのたまごっち』([[かなしろにゃんこ]]作)ではタイトル名を冠していて、主役級の扱いを受けている。
== オスっちとメスっち ==
=== 設定と育成方法 ===
亜種のたまごっちの一種。オスっちとメスっちは育成ルールが変化したむしっちやてんしっちと異なり、大まかな育成ルールは通常のたまごっちと同じだが、地球で[[恋人|ラヴラヴカップル]]の手に渡った事で、たまごっちがラヴパワーに目覚めて、[[性別]]が分かれ[[恋愛|恋]]に目覚めた。他、「たまごっちらしさを測る基準」としてTMP(たまごっちパワー)がパラメーターとして新たに設けられ、ブリードして世代を重ねていくとTMPが変化していくようになった。TMPは世話をサボると変身時に下がる事がある。尚、隠れキャラになると恋愛事から離れてしまい、ブリード出来なくなる。
ご飯とおやつの種類はTMP1がご飯1・5倍盛り(子供に分け与える為)、おやつはキャンディー。
TMP2はご飯は缶詰め、おやつはケーキ、TMP3はご飯はおにぎり、おやつは串団子、TMP4はご飯はパン、おやつはショートケーキ。
隠れキャラはおじっち、おトキっちはご飯はキノコでおやつはお酒、ステボっち、ツケっちはご飯はケーキでおやつはお酒。
オスっちとメスっちは[[地球]]で生まれ、地球にしか生息していない新種のたまごっちであり、通常のたまごっちとは異なり性別と恋愛と[[交配|ブリード]]の概念がある(後にPS版の『星で発見!!』にもこのシステムが採用された)。その為通常のたまごっちとは異なり[[単為生殖]]ではなく、恋愛してブリードしてオスとメスの2匹の[[双生児|双子]]を産み、その子供を育てるシステムである。通常のたまごっちは親や兄弟は存在せず家族関係も無いが、オスっちとメスっちには[[親子]]関係、[[兄弟姉妹|兄弟]]関係、[[夫婦]]関係といった家族関係が存在する。
本作は非常に恋愛色が濃厚なのが特徴で、その為コミカライズではちゃお版、『だいすきLOVE♥LOVEたまごっち』([[河井リツ子|りっち]])、なかよし版『てんしっちのたまごっち』([[かなしろにゃんこ]])の少女漫画作品ではオスっちとメスっちはレギュラーキャラとして登場したが、他の作品では出番が少なく、少年誌のコロコロ版(『まんがで発見!! たまごっち』)、ボンボン版(『ぼちぼちたまごっち』)では未登場であり、次回作のむしっちとさかなっちに登場機会と出番を譲っている。
むしっち、さかなっち、てんしっちといった他の亜種のたまごっちと比べるとメディアミックスに恵まれておらず、『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見!! たまごっちオスっちとメスっち]]』は前作や前々作と異なり[[アウトソーシング|外注]]ソフトであり、『たまごっちタウン』は集大成を売りにしたゲームで、今まで登場したたまごっちは全員登場するが(元祖、新種、森、海、てんしっちの5種類が登場)、オスっちとメスっちは登場しなかった。
コミカライズ化も出番が削られており、オスっちとメスっちがレギュラーとして登場する作品は[[少女漫画]]作品の『だいすき♥たまごっち([[ちゃお]]版)』『てんしっちのたまごっち([[なかよし]]版)』の2作品のみである。
== 初代たまごっちのメディアミックスゲーム ==
・[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見三部作]]([[ゲームボーイ]]版)
・たまごっちタウン([[スーパーファミコン|SFC]]版、ニンテンドウパワー)
・[[64で発見!!たまごっち みんなでたまごっちワールド|みんなでたまごっちワールド]]([[NINTENDO64|NINNTENDO64]]版)
・[[セガサターンで発見!!たまごっちパーク|たまごっちパーク]]([[セガサターン]]版)
・星で発見([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版)
派生たまごっちが育成できるメディアミックスゲームは『たまごっちパーク』([[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、てんしっち)はてんしっちの育成方法は実機準拠だが、『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見2]]』(むしっちとさかなっち)、『ゲームで発見3』(オスっちとメスっち)、『たまごっちタウン』(元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっち)では通常のたまごっちと同じ育て方、システムになっている。
通常のたまごっちは『ゲームで発見!! たまごっち』(ゲームボーイ)、『みんなでたまごっちワールド』(NINNTENDO64)、『たまごっちパーク』(セガサターン)、『星で発見!!』(PS、ゲスト枠)、『たまごっちタウン』(SFC)に登場し、育成できる。
== たまごっちタウン ==
1999年5月1日に発売。種類は[[ニンテンドウパワー]]。『たまごっちタウン』は5種族のたまごっちを卵から育て、成長させて卵を産ませ、99日以内にたまごっちを100匹以上に増やしてたまごっち星を繁栄させる事と、全75種類のたまごっち(オリジナル10種含む)をコンプリートするのが目的の内容である。オスっちとメスっちはキャラが多いのと性別、恋愛、ブリードという独自要素が単為生殖させる本作のシステムに合わなかった為、除外されている。本作ではむしっち、さかなっち、てんしっちといった亜種のたまごっちは独自要素が薄められ、通常のたまごっちと同じ育て方、システムになっている。たまごっちの集大成ゲームで、最終作である。
むしっちとさかなっちは『ゲームで発見2』準拠のキャラ、設定になっており、てんしっちは大幅な設定改変が行われており、「死んだたまごっちの[[霊魂]]」ではなく、「生きているたまごっち」という設定に変更され、卵から生まれ、卵を産んで死んで行くシステムになっている。むしっちもさかなっちもてんしっちも本作では、通常のたまごっちと同じ食べ物([[おにぎり]])を食べる設定に変更されている。亜種のたまごっちは通常のたまごっちとシステムが同じなので、むしっちもさかなっちもてんしっちも「通常のたまごっち」という設定に変更されている。
ゲーム内のたまごっち達のグラフィックは実機のドット絵が使用され、ゲームで発見2のオリジナルたまごっちは新規にドット絵を描き下ろしている。本作は実機限定むしっち、さかなっちのヘルメっち、たいやきっち、にんぎょっち(女性たまごっち)は登場しない為、「無性別とオスが基本の、女性を排除した男性優位社会」になっている。
尚、むしっちはゲーム版同様、こどむしっちから繭になるが繭のデザインはフィールドでは実機準拠である(名前はまゆっち表記、図鑑ではゲームで発見2のマユっちのデザインである)。なお、まゆっちもむしっちとして図鑑に登録されている。まゆっちは原作と異なり、お世話が出来てまゆっちの状態でも寝たり、ご飯を食べたり、フンをする。
本作ではてんしっちは生きているたまごっちの一種として下界に生息している為、「てんしっちの都」という概念は存在せず、通常のたまごっちにも感知出来、原作とは大きく設定が異なる。原作ではてんしっちは死んだたまごっちの霊魂が転生した存在で、生きているたまごっち達を統括する上位の存在だが、本作ではただの生きているたまごっちなので、下界でたまごっち達と一緒に暮らしている。
また、本作は[[地形]](フィールド)があり、[[山]]、[[海]]、[[森林|森]]、[[草原|草]]の4種類存在する。地形ごとに生息するたまごっちの種類が異なり、草は元祖と新種、森はむしっち、海はさかなっち、山はてんしっちが生息している。最初は2個の[[卵]]を入手し、それを[[孵化]]させてたまごっちを育てて卵を産ませ、繁殖させていく流れになっている。
本作は『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見!! たまごっち]]』のように、元祖、新種、むしっち、さかなっち、てんしっちの全5種類のたまごっちが一つの系統に統合されていて、地形を変えたり移動させる事で、地形に対応する別の種類のたまごっちに変身する。本作には「汚染度」というシステムがブロックごとにあり、汚染度が全てに対し影響を与え、汚染度が高くなるとたまごっちは上手く成長出来なくなってしまう。汚染度を上げないコツは掃除をするタイミングで、掃除は一日何回でも出来るが、夜(出来れば23時に)には必ず掃除するのが理想である。掃除方法はフィールドによって異なり、風は「草原を掃除」、波は「海を掃除」、雨は「森と山を掃除」である。なお、掃除する度に特定のフィールドにいるたまごっちにストレスを与えてしまうので注意が必要。ストレスは遊具を置く事で減らす事が出来る。
こどもっちは1日におにぎりを1個、アダルトっちは2個食べ、それ以上置くと食べ残してしまい汚染度が上がってしまう。たまごっちは、タウンの居心地が悪いと[[夜逃げ]]してしまう事がある。たまごっちはアダルトっちまで成長するとすぐ卵を産む為、本作のたまごっちは原作と異なり、親子関係や兄弟関係が存在する。本作のたまごっちはフィールドでは、機嫌が良い時と悪い時では表情や動きが変わる。
本作のごきげんアップゲームは「みんなであっちむいてホイ!」「なんばんめはだれ?」の2種類。
=== 「たまごっちタウン」オリジナルの特殊たまごっち(全10匹) ===
* ネッシっち(初代たまごっちのこどもっちをおにぎりで海へ移動させる)
* くまっち(初代たまごっちのこどもっちをおにぎりで森へ移動させる)
* リスっち(初代たまごっちのこどもっちをおにぎりで山へ移動させる)
* けがにっち(むしっちのこどもっちをおにぎりで海へ移動させる)
* バッタっち(むしっちのこどもっちをおにぎりで草へ移動させる)
* わたりどりっち(むしっちのこどもっちをおにぎりで山へ移動させる)
* トンボっち(さかなっちのこどもっちをおにぎりで森へ移動させる)
* さんぞくっち(さかなっちのこどもっちをおにぎりで山へ移動させる)
* はんぎょっち(さかなっちのこどもっちをおにぎりで草へ移動させる)
* はぐれおばけっち
上述以外にも、にゃっちとチャリっち(新種発見の新色機差し替えキャラ)、サム(ゲームで発見無印の隠れキャラ、海外版が元ネタ)、まゆっち(むしっち、フィールドのデザインは実機のマユ、図鑑ではゲームで発見2のマユっちのデザイン)ベーダーちゃん(海外版・新種発見のせきとりっちまたはチャリっちの差し替えキャラ)、ラッキーうんちくん(てんしっちのレアな隠しキャラ)、デビルっち(てんしっちの天敵、本作ではてんしっちの1匹枠)といった、ゲーム版ではなかなか登場しないキャラや、レアなキャラも登場している。
== ゲームで発見!! たまごっち ==
『無印』は1997年6月27日発売、『2』は同年10月17日発売、『オスっちとメスっち』は1998年1月15日に発売。種類は[[ゲームボーイ]]。全三部作であり、『無印』は[[たまごっち (初代)|元祖]]と[[新種発見!!たまごっち|新種]]、『2』はむしっちとさかなっち、『オスっちとメスっち』は(これのみ外注ソフト)はオスっちとメスっちを題材にした内容である。2種類の対になるたまごっちを一つの種族に統合、またはセットにして飼育する内容であり、題材になっているキャラクターは全員生きているたまごっちである。
本作のたまごっちは言葉を話せず、「ピー」という鳴き声や、表情、仕草で意思を表現する。『無印』と『オスっちとメスっち』は実機準拠のシステムだが、『2』は実機先行メディアミックスである為、実機は通常のたまごっちと育成ルールが変化し、独自要素満載の内容である為、通常のたまごっち準拠の『2』の育成システムやキャラクターが実機と本作で大きく乖離している。キャラクターは基本的に原作準拠だが、『2』は[[バンダイ]]がゲーム用に描き下ろしたキャラクターが多数登場し、実機とはお互いに補完し合う関係であり、[[パラレルワールド]]のような立ち位置である。
コミカライズでは『だいすき♥たまごっち』([[河井リツ子|りっち]]作)、『みんなでたまごっち』([[あべさより]]作)、『まるごとまんがでたまごっち』([[きむらひろき]]他作、サムのみ)に本作オリジナルのたまごっちが登場している。
=== 『ゲームで発見!! たまごっち』シリーズのゲームオリジナルたまごっち一覧 ===
*サム(ゲームで発見無印の隠しキャラ、海外版がモチーフ)
*てんぐっち(ゲームで発見2、ゲーム版の隠れ成虫っち)
*ペンギンっち(ゲームで発見2、アダルトッシュ)
*あざらっち(ゲームで発見2、アダルトッシュ)
*カメっち(ゲームで発見2、アダルトッシュ)
*アンコっち(ゲームで発見2、アダルトッシュ)
*かいぞくっち(ゲームで発見2、ゲーム版の隠れアダルトッシュ)
*ステボっちGB(ゲームで発見オスっちとメスっち、隠しキャラ、性別不詳だがオスのヤングっちから変身する、ステボっちとは別人)
== 星で発見!! たまごっち ==
1998年2月19日発売。種類はプレイステーション。亜種のたまごっちの一種。本作の『星で発見!! たまごっち』ではばんぞー博士とミカチューがたまごっち星の隠れ里に不時着し、そこで隠れ里に住んでいる野生のたまごっちの生態を調査する為に、野生のたまごっちを勧誘し、全てのたまごっちを育成しブリードさせ、生態表とブリード表を完成させるのが本作の目的である。
本作のたまごっちはゲストの[[たまごっち (初代)|元祖]]、[[新種発見!!たまごっち|新種]]、てんしっちを除き、フィールドにいる野生のたまごっちは全てゲームオリジナルキャラクターである。ゲストはてんしっちは撮影専用キャラであり育成出来ず、元祖と新種はフィールドには出現しないが、Dグループ同士をブリードすると卵から生まれて来る。たまごっち星が舞台である為、たまごっちはHOUSEに入らなくても実体化していて、大きさは元の鶏卵サイズではなく、人間より少し小さい程度になっている。本作ではたまごっちが死ぬとおばけっちを介さず、そのままおばけっち2号になる。たまごっちは部屋の居心地が悪いと、置手紙を残して家出してしまう事がある。
『ゲームで発見』同様、名前を付ける事が出来る(その際、性別が表示される)。
本作のたまごっち達は普段は野生としてフィールドを徘徊しているが、初めて見るはずの人間(ミカチュー)に対しても警戒心を抱かず、仲良くなると後ろを付いて来てくれる。たまごっちと仲良くなる為のパフォーマンスは「なかよしチャンス」と呼ばれており、「歌」「手品」「ダンス」「キス」の4種類が存在し、たまごっちによって好きなパフォーマンスが異なる。好きなパフォーマンスならたまごっちは付いて来てくれるが、気に入らないパフォーマンスだとたまごっちはその場から立ち去ってしまう。稀になかよしチャンスの演出が派手になる事があり、その場合はどんなパフォーマンスをしてもたまごっちは気に入ってくれる。
また、夜には夜行性のたまごっちが徘徊しているが、稀に二種類の「くろまめっちナイト」「ジュエルっちナイト」というレアな夜行性のたまごっちしか出現しない特別な夜になる事があり、くろまめっちとジュエルっちはこの時しか出現しない。尚、くろまめっちとジュエルっちは同時に出現しない。
『ゲームで発見』では第一形態のベビーっちはわがままは言わないが、本作ではわがままを言う設定に変更されている。
尚、こどもっち以上はたまごっちをフィールドで連れ歩くことが出来る。ミカチューは普段は徒歩だが、自転車で移動する事も出来、たまごっちを自転車のかごに乗せられる(自転車に乗っていたり、たまごっちを連れ歩いている状態ではなかよしチャンスは起こらない)。
フィールドには青い石が落ちていて、100個まで拾える。青い石は主に福引でてんしっちが撮影できるフィルムを入手するのに使用し、てんしっちはたまごっちの霊体である為、通常のフィルムでは撮影出来ないが、特殊なフィルムを使用する事で撮影出来る。また、てんしっちは各地にある噴水の前に夜のみ出現する。
たまごっちを20種類以上図鑑に記録すると、博士から「もぐるん号」という水中を移動できる乗り物を入手出来、水中のたまごっちも記録出来る様になる(水中に潜っている間も、時間が経つので注意)。
実機と異なり、たまごっちは20歳位になるとパラメータが完璧でも突然死してしまう。
本作には「たまごっち風邪」という伝染病があり、1匹がかかってしまうと他の部屋のたまごっちにも伝染してしまう為、ベビーっちの時点で予防接種を打ち、かからないようにする必要がある(予防接種が出来るのは1匹に付き1回だけ)。
フィールドには競技場があり、こどもっち以上は競技(カーニバル)に出る事ができ、クリアするとおつむやからだのパラメータが増える(失敗すると下がる)。
『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見]]』同様、第一形態のベビーっちのお腹とご機嫌の減り方は異様にハイスピードである。第一形態のベビーっち(たらベビっち、うさいもっち、モスピっち、しっぽっち)はゲート内のフィールドには出現せず、ゲート外の特定の場所にしか出現しない野生個体としてはレアなたまごっちである(第二形態のベビーっちはゲート内にも通常出現している)。
ごきげんアップゲームは[[たまごっち (初代)|元祖]]と[[新種発見!!たまごっち|新種]]から「こっちむいてホイ!」と「数字でドン!」の2種類が採用されている。
本作のオリジナルたまごっちが通常のたまごっちと違う点は「オスっちとメスっち」から性別、ブリード、TMPシステムが採用されている点。異性のアダルトっちをブリードさせ、成功すると卵が生まれる。「オスっちとメスっち」同様、年齢、TMPが近くないと成功しにくい。なお、本作ではキャラクターにオスっちとメスっちのような[[性差]]による外見の区別は存在せず、全てのたまごっちにオスとメスが存在し、男性的なたまごっちのメス、女性的なたまごっちのオスも普通に存在する。元祖と新種は[[原種]]である為、性別の概念は存在せず(ステータス画面にも性別の表記は無い)、ブリードは不可能である。性別、ブリードの概念が存在するが、オスっち・メスっちとは異なり、恋愛色は薄い。尚、本作のたまごっちは「オスっちとメスっち」とは異なり、ベビーっち(第一形態)の頃から性別が分かれている(オスっち・メスっちはヤングっち(たまごっちで言うこどもっち、第三形態)から性別が分かれる)。
「オスっちとメスっち」から性別とブリードのシステムを導入し、オスっちとメスっちの他、むしっちとさかなっちの補完、フォローも兼ねていて、本作ではむしっちとさかなっちに使用されていないモチーフの昆虫、魚類のキャラが多く登場している(特にさかなっちは本作オリジナルの亜種のさかなっちが育成は出来ないものの、多数登場する。むしっちは実機、ゲーム版にいない[[チョウ|蝶]]、[[カマキリ]]、[[ホタル]]モチーフのたまごっちが存在している)。
なお、初代では性別のあるたまごっちは地球出身であり、オスっちとメスっちしか存在しないとされているが、本作のオリジナルたまごっちはたまごっち星出身だが性別がある(公式ファンブックではたまごっち星にもオスっちとメスっちが暮らしている設定になっている)。
本作のたまごっちの鳴き声(効果音)はベビーっち→幼児→こどもっち→アダルトっちと年齢によって異なる。
ゲームオリジナルキャラクターである為、「みんなでたまごっちワールド」の熟たまごっち同様、コミカライズには基本的に登場しないが、「だいすき♥たまごっち([[河井リツ子|りっち]]作)」では熟たまごっちと共に登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観であり、2巻の表紙にはバタフライっちとさかだるっち、3巻の表紙にはチュリっち黄色が描かれている。
=== 「星で発見!! たまごっち」の登場たまごっち一覧 ===
それぞれA~Fの6グループが存在し、グループごとに変身系統が異なる。Eグループ、Fグループは原種の元祖・新種が相当し、Dグループ同士をブリードさせる事で生まれる。
==== ベビーっち ====
* たらベビっち(Aグループ)
* うさいもっち(Bグループ)
* モスピっち(Cグループ)
* しっぽっち(Dグループ)
* ベビっち(Eグループ、原種、原作たまごっち)
* しろベビっち(Fグループ、新種、原作たまごっち)
==== ベビーっち(幼児) ====
* びるたまっち(Aグループ)
* にょきっち(Bグループ)
* ぎりっち(Cグループ、夜行性)
* まげたまっち(Dグループ)
* まるっち(Eグループ、原種、原作たまごっち)
* とんまるっち(Fグループ、新種、原作たまごっち)
==== こどもっち ====
* チュリっち赤(Aグループ)
* ピヨっち黄色(Aグループ)
* チュリっち白(Bグループ)
* ピヨっち赤(Bグループ)
* チュリっち黄色(Cグループ)
* とまっち(Cグループ)
* ベアっち(Dグループ)
* サムライっち(Dグループ)
* たまっち(Eグループ、原種、原作たまごっち)
* くちたまっち(同上)
* とんがりっち(Fグループ、新種、原作たまごっち)
* はしたまっち(同上)
==== アダルトっち ====
===== Aグループ(6匹) =====
* ちゅんちゅんっち
* おめんっち
* ジャグっち
* はなびっちみならい
* でんでんっち
* ポンプっち
===== Bグループ(6匹) =====
* さかだるっち
* モグラっち
* スフィンクスっち
* ねずっち(夜行性)
* ポップコーンっち
* モチつきっち
===== Cグループ(6匹) =====
* ほたるっち(夜行性)
* カマっち
* バタフライっち
* ちんどんっちA
* ちんどんっちB
* ちんどんっちC
===== Dグループ(8匹) =====
* にゃんこっち(夜行性)
* げんしっち
* どんぐりっち
* なわとびっち
* ニンジャっち2号
* はなびっちおやかた(夜行性)
* '''くろまめっち(レア、夜行性)'''
* '''ジュエルっち(レア、夜行性)'''
==== Eグループ(原種、原作たまごっち) ====
*まめっち
*ぎんじろっち
*くちぱっち
*ますくっち
*たらこっち
*にょろっち
==== Fグループ(新種、原作たまごっち) ====
*みみっち
*ポチっち
*にゃっち
*はしぞーっち
*ズキっち
*たこっち
*くさっち
==== 隠れたまごっち(主にPiT君) ====
*ベビーPiT(ベビーっち)
*チルドPiT(こどもっち)
*アダルトPiT(アダルトっち)
*ゴールドPiT
*おやじっち(Eグループ、原種、原作たまごっち)
*せきとりっち(Fグループ、新種、原作たまごっち)
*チャリっち(同上)
=== さかなっち(もぐるん号での撮影専用であり、育成出来ない) ===
* まりもっち
* マンボっち
* イカっち
* うみうっち
* アンモナイっち
* やどかりっち
* アメバっち
* バブギョっち(ベビーっち)
* おたまっち(ベビーっち)
* いそぎっち(こどもっち)
* ちぎょっち(こどもっち)
* かにぎりっち(こどもっち)
* ひとでっち
*いそむっち(こどもっち)
== セガサターンで発見!! たまごっちパーク ==
1998年1月29日発売。種類は[[セガサターン]]。登場たまごっちは元祖、新種、てんしっちの3種類。たまごっちはプレイ時に卵を貰い、てんしっちは死んだたまごっちの墓参りをした時に出て来る幽霊から育てる事が出来、てんしっちの育成システムは実機準拠。ゲームボーイ版同様、たまごっちやてんしっちに名前を付ける事が出来る。食べ物の種類は実機やゲームボーイ版より増えており、本作独自のメニューも多い(魚、苺、アイスクリーム、饅頭、クレープ、キャラメルなど)。最大8匹まで育成できる。
;『たまごっちパーク』オリジナルのたまごっち(全15匹)
{{div col}}
*そにっくっち
*ぺんごっち
*おぱおぱっち
*ふりっきっち
*あれくっち
*ろむっち
*ちびろむっち
*でぃすくっち
*かーとりっち
*うにっち
*ちびうにっち
*こどもうにっち
*でかうにっち
*うみうっち
*ひとでっち
{{div col end}}
== 「64で発見!! たまごっち みんなでたまごっちワールド」での本作オリジナルの熟たまごっち ==
1997年12月19日発売。種類は[[NINTENDO64]]。熟たまごっちの形態では育成不可能。おやじっちとせきとりっちとチャリっちを除くと全34匹。「星で発見」同様、ゲームオリジナルたまごっちなのでコミカライズには基本的に登場しないが、「だいすき♥たまごっち([[河井リツ子|りっち]]作)」では星で発見たまごっちと共に登場していて、実機とゲーム版が融合した世界観になっている。3巻ではすいかっち、おかねもっち、アフロおやじっちが描かれている。
*くりおねっち
*カッパっち
*フネっち
*はるかぜっち
*まほうつかいっち
*おかねもっち
*ホネっち
*ひろうっち
*ポケっち
*ケンタウロっち
*パタパタっち
*コギャルっち
*かぶりものっち
*ばくはつおやじっち
*サンタおやじっち
*かみなりおやじっち
*アフロおやじっち
*こづれおやじっち
*おもりおやじっち
*ヨーヨーアフロっち
*ふえふきっち
*ヤムチャっち
*フラダンスっち
*くさっちもどき
*'''マリオっち(レア熟)'''
*'''ワル男っち(レア熟)'''、
*マイカーっち
*にんじゃっち
*つのっち
*とげっち
*スイカっち
*たこにゃっち
*ドロねこっち
*UFOっち
*[[おやじっち]](原作たまごっち)
*せきとりっち(原作たまごっち)
*チャリっち(原作たまごっち)
== 第1期(初代たまごっち、その他) ==
; ベビーっち(赤ちゃん、第1形態)
{{Col|
* ベビっち(たまごっち)
* しろベビっち(新種発見)
*ベビモっち(森で発見)
*プランクトっち(海で発見)
* おばけっち2号(てんしっち)
* くりっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ツブっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* テレっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* カクっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* プチチョコっち(オスっちメスっち・TMPレベル3)
* プチテレっち(オスっちメスっち・TMPレベル4)
|* デビルっち(デビルっち)
* ズキデビっち(デビルっち)
* チカチカベビっち(やさたまごっち)
*たらベビっち(星で発見・Aグループ)
*うさいもっち(星で発見・Bグループ)
*モスピっち(星で発見・Cグループ)
*しっぽっち(星で発見・Dグループ)
}}
; ベビーっち(幼児、第2形態)
{{div col}}
*まるっち(たまごっち)
*とんまるっち(新種発見)
*イモっち(森で発見)
*くらげっち(海で発見)
*まるてん(てんしっち)
*もひたまっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
*ヒュルっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
*プチっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
*カレーパンっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
*みずたまっち(オスっちメスっち・TMPレベル3)
*ハルっち(オスっちメスっち・TMPレベル4)
*ほっぺっち(やさたまごっち)
*びるたまっち(星で発見・Aグループ)
*にょきっち(星で発見・Bグループ)
*ぎりっち(星で発見・Cグループ)
*まげたまっち(星で発見・Dグループ)
{{div col end}}
; こどもっち(子供、第3形態)
{{div col}}
* たまっち(たまごっち)
* くちたまっち(たまごっち)
* とんがりっち(新種発見)
* はしたまっち(新種発見)
*オトトっち(海で発見)
*きんぎょっち(海で発見)
* こどてん(てんしっち)
* たこてん(てんしっち)
* おぼっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* おじょっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* はわいのっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* はわいこっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ヒコっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* ユーホっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* モリっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* モルっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* ピロリロっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* ピロリンっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* プロペラっち(オスっちメスっち・TMPレベル3)
* パタパっち(オスっちメスっち・TMPレベル3)
* クリぼっち(オスっちメスっち・TMPレベル4)
* ピュキっち(オスっちメスっち・TMPレベル4)
* ばけデビルっち(デビルっち)
* ぷくデビルっち(デビルっち)
* おやじデビル(デビルっち)
* めるへっち(やさたまごっち)
* まるまゆっち(やさたまごっち)
*チュリっち赤(星で発見・Aグループ)
*ピヨっち黄色(星で発見・Aグループ)
*ピヨっち赤(星で発見・Bグループ)
*チュリっち白(星で発見・Bグループ)
*チュリっち黄色(星で発見・Cグループ)
*とまっち(星で発見・Cグループ)
*ベアっち(星で発見・Dグループ)
*サムライっち(星で発見・Dグループ)
{{div col end}}
; アダルトっち(大人、第4形態)
{{div col}}
* [[くちぱっち]](たまごっち)
* ますくっち(たまごっち)
* ぎんじろっち(たまごっち)
* たらこっち(たまごっち)
* [[まめっち]](たまごっち)
* にょろっち(たまごっち)
* みみっち(新種発見)
* ポチっち(新種発見)
* にゃっち(新種発見新色バージョンにて、ポチっちとの差し替え)
* ズキっち(新種発見)
* はしぞーっち(新種発見)
* たこっち(新種発見)
* くさっち(新種発見)
*カブトっち(森で発見)
*コガネっち(森で発見)
*てんとっち(森で発見)
*ちょびタマっち(森で発見、『ゲームで発見2』と『たまごっちタウン』ではこどもっち)
*みのっち(森で発見、『ゲームで発見2』と『たまごっちタウン』ではこどもっち)
*ムシばっち(森で発見)
*ゲジっち(森で発見)
*フンコロガっち(森で発見)
*くじらっち(海で発見)
*ケロぴょんっち(海で発見)
*あしぎょっち(海で発見)
*かいっち(海で発見)
*たいやきっち(海で発見、実機限定さかなっち)
*ペンギンっち(ゲームで発見2、ゲームオリジナルさかなっち)
*あざらっち(ゲームで発見2、ゲームオリジナルさかなっち)
*カメっち(ゲームで発見2、ゲームオリジナルさかなっち)
*アンコっち(ゲームで発見2、ゲームオリジナルさかなっち)
* くりてん(てんしっち)
* ぎんじろてんし(てんしっち)
* ぷくてん(てんしっち)
* たらてん(てんしっち)
* おやじてんし(てんしっち)
* ぴょんちっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ぴょんこっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* キウイっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* キコっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ブンブっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ブンコっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* メガっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ガンコっち(オスっちメスっち・TMPレベル1)
* ヒラっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* ピラっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* まるみみっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* みみこっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* ビルオっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* ビルコっち(オスっちメスっち・TMPレベル2)
* カブっち(オスっちメスっち・TMPレベル3)
* ピポっち(オスっちメスっち・TMPレベル3)
* ちょまめっち(オスっちメスっち・TMPレベル4)
* ちょヒメっち(オスっちメスっち・TMPレベル4)
* デビルまめっち(デビルっち)
* デビルどり(デビルっち)
* カボデビっち(デビルっち)
* デビルコっち(デビルっち、メスっち以外では珍しい女性たまごっち)
* おしゃまっち(やさたまごっち)
* やさまめっち(やさたまごっち)
* たまべえっち(やさたまごっち)
* パンたろっち(やさたまごっち)
* やさぎんじろっち(やさたまごっち)
* かぶとおやじっち(やさたまごっち)
* ミシェルっち(やさたまごっち)
*ちゅんちゅんっち(星で発見・Aグループ)
*ジャグっち(星で発見・Aグループ)
*おめんっち(星で発見・Aグループ)
*はなびっちみならい(星で発見・Aグループ)
*でんでんっち(星で発見・Aグループ)
*ポンプっち(星で発見・Aグループ)
*さかだるっち(星で発見・Bグループ)
*モグラっち(星で発見・Bグループ)
*スフィンクスっち(星で発見・Bグループ)
*ねずっち(星で発見・Bグループ、夜行性)
*ポップコーンっち(星で発見・Bグループ)
*モチつきっち(星で発見・Bグループ)
*ほたるっち(星で発見・Cグループ、夜行性)
*カマっち(星で発見・Cグループ)
*バタフライっち(星で発見・Cグループ)
*ちんどんっちA(星で発見・Cグループ)
*ちんどんっちB(星で発見・Cグループ)
*ちんどんっちC(星で発見・Cグループ)
*にゃんこっち(星で発見・Dグループ、夜行性)
*げんしっち(星で発見・Dグループ)
*どんぐりっち(星で発見・Dグループ)
*なわとびっち(星で発見・Dグループ)
*ニンジャっち2号(星で発見・Dグループ)
*はなびっちおやかた(星で発見・Dグループ、夜行性)
*くろまめっち(星で発見・Dグループ、夜行性、レア)
*ジュエルっち(星で発見・Dグループ、夜行性、レア)
{{div col end}}
; 隠れたまごっち(第5形態)
{{div col}}
* [[おやじっち]](たまごっち)
* サム(ゲームで発見、海外版がモデル)
* せきとりっち(新種発見)
* チャリっち(新種発見新色バージョン、せきとりっちとの差し替え)
* ベーターちゃん<ref group="注">海外では「Zatch」。日本では『であい発見!!あるこっち』で本格的に登場した。</ref>(英語版新種発見(日本未発売)、せきとりっち及びチャリっちとの差し替え)
*ふたごアリっち(森で発見、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』では通常キャラ)
*ヘルメっち(森で発見、実機限定むしっち)
*てんぐっち(ゲームで発見2、ゲームオリジナルむしっち)
*にんぎょっち(海で発見、実機限定さかなっち、メスっち以外では珍しい女性たまごっち)
*かいぞくっち(ゲームで発見2、ゲームオリジナルさかなっち)
* ふたごてんし(てんしっち)
* おとのてん(てんしっち)
* さぼてんし(てんしっち)
* ラッキーウンチくん(てんしっち)
* ステボっち(オスっちメスっち)
* ツケっち(オスっちメスっち)
* おじっち(オスっちメスっち、シルバーっち)
* オトキっち(オスっちメスっち、シルバーっち)
*デブっち(オスっちメスっち)
* ステボっちGB(ゲームで発見オスっちメスっち、ゲームオリジナルたまごっち)
* キングデビルっち(デビルっち)
* クリデビっち(デビルっち、メスっち以外では珍しい女性たまごっち)
* ふたごデビル(デビルっち)
*くりおねっち(みんなでたまごっちワールド、熟たまごっち)
*カッパっち(同上)
*フネっち(同上)
*はるかぜっち(同上)
*ばくはつおやじっち(同上)
*サンタおやじっち(同上)
*かみなりおやじっち(同上)
*アフロおやじっち(同上)
*こづれおやじっち(同上)
*おもりおやじっち(同上)
*まほうつかいっち(同上)
*おかねもっち(同上)
*ホネっち(同上)
*ひろうっち(同上)
*ポケっち(同上)
*ケンタウロっち(同上)
*パタパタっち(同上)
*コギャルっち(同上、女性たまごっち)
*かぶりものっち(同上)
*ヨーヨーアフロっち(同上)
*ふえふきっち(同上)
*ヤムチャっち(同上)
*フラダンスっち(同上)
*くさっちもどき(同上)
*マイカーっち(同上)
*にんじゃっち(同上)
*つのっち(同上)
*とげっち(同上)
*スイカっち(同上)
*たこにゃっち(同上)
*ドロねこっち(同上)
*UFOっち(同上)
*マリオっち(同上、レア熟)
*ワル男っち(同上、レア熟)
*ベビーPiT(星で発見、ベビーっち)
*チルドPiT(星で発見、こどもっち)
*アダルトPiT(星で発見、アダルトっち)
*ゴールドPiT(星で発見)
{{div col end}}
; 補足、注釈
'''※1''' デビルっちは デビル初級→デビル中級→デビル上級→デビルハイパー というように、階級で成長の度合いを表すため、他のたまごっちのように年齢の概念は存在せず、デビル中級のおやじデビルはこどもっち期に相当する事になる。本稿では簡便のため上記のとおりとした。
'''※2''' ちょびタマっちとみのっちは実機では「成虫っち(アダルトっち)」で、むしっちのこどもっち期は存在しないが、『[[ゲームで発見!!たまごっち|ゲームで発見2]]』『たまごっちタウン(SFC)』では「こどむしっち(こどもっち)」という設定に変更されていて、メディアによって年齢が異なる。本稿では実機の設定であるアダルトっちとしてカウントした。
'''※3''' ふたごアリっちは実機ではヘルメっちと並ぶむしっちの[[隠れキャラクター|隠しキャラ]]だが、『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』では通常キャラに変更されている。
'''※4''' むしっちのてんぐっち(隠しキャラ)、さかなっちのペンギンっち、あざらっち、アンコっち、カメっち、かいぞくっち(隠しキャラ)の6匹は『ゲームで発見2』『たまごっちタウン』にのみ登場するゲームオリジナルたまごっちであり、実機には登場しない。
'''※5''' たまごっちは種類によって成長段階の呼び方が異なり、通常のたまごっちは「ベビーっち→こどもっち→アダルトっち→隠しキャラ」に成長するが、むしっちは「幼虫っち→'''(こどむしっち※GB2、たまごっちタウンのみ)'''→繭(GB2ではマユっち)→成虫っち(隠しキャラ含む、GB2では成虫っちから隠しキャラに変身)」の3段階(GB2では6段階)であり、さかなっちは「ベビフィッシュ→こどもッシュ→アダルトッシュ→隠しキャラ」で、てんしっちは「ベビーてん→チルドてん→アダルてん→隠しキャラ」に成長し、種類によって呼び分けられている。基本は「ベビーっち→幼児期→こどもっち→アダルトっち→隠しキャラ(特定のキャラのみ)」の順で5段階に成長するが、例外としてむしっちは、実機ではこどもっちと呼ばれる2匹のキャラ(元祖では、たまっちとくちたまっちが相当)が存在しない。
== 第2期(赤たま・ケーたま) ==
ごっちポイントが導入される。ゲームや通信で増える。
=== 幼児期 ===
通信できない。
* ぷちっち オス おじっちとおトキっちの子供は必ずなる
* しろぷちっち メス
* はーとっち オス おじっちとおトキっちの子供は必ずなる
* しろはーとっち メス
=== 反抗期 ===
* ひとでっち 1世代目は必ずなる
* くりぼっち 2世代目からなる
* ちぇりっち 赤たま 1世代目は必ずなる
=== 思春期 ===
* りんごっち 1世代目は必ずなる。
* いちごっち 奇数世代 3世代目から出る。くりぼっちでお世話◯
* やんぐまめっち 偶数世代 ひとでっち、ちぇりっちからは出ない。くりぼっちでお世話◯
* にかっち 奇数世代 あまり世話をしない。
* ひなっち 偶数世代 くりぼっちからは出ない。ひとでっちでお世話◯
* やんぐおやじっち 4世代目から出る。
* とまっち 赤たま 奇数世代 お世話△
* だるまっち 赤たま 偶数世代 くりぼっちからは出ない。ちぇりっちでお世話◯
=== 産卵期 ===
* りぼっち 奇数世代 赤たま 心のお世話◯ 体のお世話◯
* ふらわっち 奇数世代 心のお世話◯ 体のお世話◯
* [[まめっち]] 偶数世代 心のお世話◯ 体のお世話◯
* めめっち 奇数世代 心のお世話◯ 体のお世話△
* [[くちぱっち]] 偶数世代 心のお世話◯ 体のお世話△
* でばっち 奇数世代 心のお世話◯ 体のお世話×
* どろっち 偶数世代 心のお世話◯ 体のお世話×
* てんぐっち 偶数世代 赤たま 心のお世話◯ 体のお世話×
* ござるっち 奇数世代 心のお世話× 体のお世話×
* くろこっち 偶数世代 心のお世話× 体のお世話×
* うーるっち くろこっちからわたをつかう
* [[おやじっち]] おじっちとおトキっちの子供しかならない
* ぱぱらっち 隠しキャラクター
=== 老後 ===
お見合いができなくなる。お世話ミスを5回したり、99歳になったりすると死んでしまう。
* おじっち オス おトキっちとしか結婚できない。その子供は必ずぷちっち(赤たまでははーとっち)が生まれ、成長するといきなり産卵期になる。
* おトキっち メス おじっちとしか結婚できない。その子供は必ずぷちっち(赤たまでははーとっち)が生まれ、成長するといきなり産卵期になる。
== 第2期(エンたま、ウラたま) ==
括弧内はウラたまでの名称。
=== 新機能 ===
==== 給料の量 ====
* 星1つ 1000
* 星2つ 3000
* 星3つ 5000
==== 郵便 ====
* 「ごっち(ウラたま)新聞」 9時に来る
* 「たまてがみ(ウラたまレター)」 16時に来る
* 「そくたつ」 時間指定はない。「じんせー」に重要な手紙が来る
==== 「そくたつ」の種類 ====
* たまごっち(ウラたま) 幼稚園の入園案内
* たまごっち(ウラたま) スクールの入学案内
* 就職試験の案内
* 給料
==== ガッツポイント ====
ガッツポイントで進化キャラクター、たまごっちスクールのクラス、就職先が決まる。
* かしこさ(ひょうきん)ガッツポイント これが一番高いとたまごっちスクールの「かしこ(ひょうきん)クラス」に入れる
* オシャレ(ゴージャス)ガッツポイント これが一番高いとたまごっちスクールの「オシャレ(ゴージャス)クラス」に入れる
* やさしさ(ねっけつ)ガッツポイント これが一番高いとたまごっちスクールの「やさし(ねっけつ)クラス」に入れる
==== 属性 ====
* まめ(ウラまめ)属 かしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが生まれつき高い
* めめ(ウラめめ)属 オシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが生まれつき高い
* くち(ウラくち)属 やさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが生まれつき高い
* ?(!) 属 生まれつき高いガッツポイントは無い
==== クメマの法則 ====
親の属性で子の属性が決まる。
{| class="wikitable" border="1"
|-
!colspan="2"|親!!子
|-
|まめ(ウラまめ)属||まめ(ウラまめ)属||まめ(ウラまめ)属
|-
|めめ(ウラめめ)属||めめ(ウラめめ)属||めめ(ウラめめ)属
|-
|くち(ウラくち)属||くち(ウラくち)属||くち(ウラくち)属
|-
|まめ(ウラまめ)属||めめ(ウラめめ)属||めめ(ウラめめ)属
|-
|めめ(ウラめめ)属||くち(ウラくち)属||くち(ウラくち)属
|-
|くち(ウラくち)属||まめ(ウラまめ)属||まめ(ウラまめ)属
|}
=== エンたま・ウラたまのキャラクター ===
==== 幼児期(第3期) ====
{| class="wikitable" border="1"
|-
!名前!!性別!!属性
|-
|まめおっち(ウラまめおっち)||オス||rowspan=2|まめ(ウラまめ)属
|-
|まめこっち(ウラまめこっち)||メス
|-
|めめおっち(ウラめめおっち)||オス||rowspan=2|めめ(ウラめめ)属
|-
|めめぷっち(ウラめめぷっち)||メス
|-
|くちおっち(ウラくちおっち)||オス||rowspan=2|くち(ウラくち)属
|-
|くちこっち(ウラくちこっち)||メス
|}
==== 反抗期(第3期) ====
{| class="wikitable" border="1"
|-
!名前!!性別!!属性!!条件
|-
|まめぼっち(しっぽっち)||オス||rowspan=2|まめ(ウラまめ)属||まめおっち(ウラまめおっち)を育てる
|-
|みみぺっち(しっぽこっち)||メス||まめこっち(ウラまめこっち)を育てる
|-
|めめぼっち(はねおっち)||オス||rowspan=2|めめ(ウラめめ)属||めめおっち(ウラめめおっち)を育てる
|-
|めめぺっち(はねこっち)||メス||めめぷっち(ウラめめぷっち)を育てる
|-
|くちぼっち(つのおっち)||オス||rowspan=2|くち(ウラくち)属||くちおっち(ウラくちおっち)を育てる
|-
|くちぺっち(つのこっち)||メス||くちこっち(ウラくちこっち)を育てる
|}
==== 思春期(第3期) ====
{| class="wikitable" border="1"
|-
!名前!!性別!!属性!!条件
|-
|やんぐまめっち(ウラやんぐまめっち)||rowspan=2|オス||rowspan=4|まめ(ウラまめ)属||まめぼっち(しっぽっち)のお世話ミス3回以下
|-
|やんぐろぼっち(くらっかっち)||まめぼっち(しっぽっち)のお世話ミス4回以上
|-
|やんぐみみっち(ぞうりっち)||rowspan=2|メス||みみぺっち(しっぽこっち)のお世話ミス3回以下
|-
|りんごっち(ウラやんぐまろっち)||みみぺっち(しっぽこっち)のお世話ミス4回以上
|-
|ぐるめっち(だいやっち)||rowspan=2|オス||rowspan=4|めめ(ウラめめ)属||めめぼっち(はねおっち)のお世話ミス3回以下
|-
|ひのたまっち(くじゃくっち)||めめぼっち(はねおっち)のお世話ミス4回以上
|-
|やんぐめめっち(ウラやんぐめめっち)||rowspan=2|メス||めめぺっち(はねこっち)のお世話ミス3回以下
|-
|いちごっち(ウラやんぐふらわっち)||めめぺっち(はねこっち)のお世話ミス4回以上
|-
|やんぐくちぱっち(こめっち)||rowspan=2|オス||rowspan=4|くち(ウラくち)属||くちぼっち(つのおっち)のお世話ミス3回以下
|-
|おにおっち(ぼくさっち)||くちぼっち(つのおっち)のお世話ミス4回以上
|-
|やんぐどろっち(ウラやんぐやったっち)||rowspan=2|メス||くちぺっち(つのこっち)のお世話ミス3回以下
|-
|にかっち(やかんっち)||くちぺっち(つのこっち)のお世話ミス4回以上
|}
==== 産卵期(第3期) ====
結婚できるようになる。
{| class="wikitable" border="1"
|-
!名前!!性別!!属性!!条件
|-
| style="width:24%" |まめっち(ウラまめっち)||rowspan=3| オス||rowspan=7|まめ(ウラまめ)属|| style="width:55%"| やんぐまめっち(ウラやんぐまめっち)か、やんぐろぼっち(くらっかっち)のかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|ずぎゅっち(さむらいっち)||やんぐまめっち(ウラやんぐまめっち)か、やんぐろぼっち(くらっかっち)のオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|ろぼっち(まつりっち)||やんぐまめっち(ウラやんぐまめっち)か、やんぐろぼっち(くらっかっち)のやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|みみっち(ほろよっち)||rowspan=3|メス||やんぐみみっち(ぞうりっち)か、りんごっち(ウラやんぐまろっち)のかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|めいどっち(つっこみっち)||やんぐみみっち(ぞうりっち)か、りんごっち(ウラやんぐまろっち)のオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|まろっち(ウラずきゅこっち)||やんぐみみっち(ぞうりっち)か、りんごっち(ウラやんぐまろっち)のやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|てんさいっち(ひょっとこっち)||rowspan=1|オス||まめっち(ウラまめっち)をかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントを200まで上げておき「けんきゅうじょ(お祭りやさん)」に就職させ、3日以内に「かしこさ(ひょうきん)」を999まであげるとなる
|-
|とさかっち(せれぶっち)||rowspan=3|オス||rowspan=7|めめ(ウラめめ)属|| ぐるめっち(だいやっち)か、ひのたまっち(くじゃくっち)のかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|とげっち(やさぐれっち)||ぐるめっち(だいやっち)か、ひのたまっち(くじゃくっち)のオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|しましまっち(ウラとげっち)||ぐるめっち(だいやっち)か、ひのたまっち(くじゃくっち)のやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|ぽにっち(ぷりまっち)||rowspan=4|メス||やんぐめめっち(ウラやんぐめめっち)か、いちごっち(ウラやんぐふらわっち)のかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|めめっち(ウラめめっち)||やんぐめめっち(ウラやんぐめめっち)か、いちごっち(ウラやんぐふらわっち)のオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|ふらわっち(ウラふらわっち)||やんぐめめっち(ウラやんぐめめっち)か、いちごっち(ウラやんぐふらわっち)のやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|まきこ(はながたっち)||めめっち(ウラめめっち)をオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントを200まで上げておき「げいのうプロダクション(演歌歌手)」に就職させ、3日以内に「おしゃれ(ゴージャス)」を999まであげるとなる
|-
|みのっち(てんぱっち)||rowspan=3|オス||rowspan=7|くち(ウラくち)属||やんぐくちぱっち(こめっち)か、おにおっち(ぼくさっち)のかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|たらこっち(とうぎゅっち)||やんぐくちぱっち(こめっち)か、おにおっち(ぼくさっち)のオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|くちぱっち(ウラくちぱっち)||やんぐくちぱっち(こめっち)か、おにおっち(ぼくさっち)のやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|ぷかっち(ウラでばっち)||rowspan=3|メス||やんぐどろっち(ウラやんぐやったっち)か、にかっち(やかんっち)のかしこさ(ひょうきん)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|せびれっち(ウラやったっち)||やんぐどろっち(ウラやんぐやったっち)か、にかっち(やかんっち)のオシャレ(ゴージャス)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|やったっち(してきっち)||やんぐどろっち(ウラやんぐやったっち)か、にかっち(やかんっち)のやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントが一番高いとなる
|-
|のんびりっち(むきむきっち)||rowspan=1|オス||くちぱっち(ウラくちぱっち)をやさしさ(ねっけつ)ガッツポイントを200まで上げておき「温泉(冒険家)」に就職させ、3日以内に「やさしさ(ねっけつ)」を999まであげるとなる
|-
|おやじっち(ウラおやじっち)||rowspan=1|オス||rowspan=1|共通||おじっち(ウラおじっち)とおトキっち(ウラおトキっち)を結婚させて子供を産み、反抗期、思春期をとばしてなる
|}
==== 老後(共通) ====
お見合いができなくなる。お世話ミスを5回すると死んでしまう。
* おじっち(ウラおじっち) オス おトキっち(ウラおトキっち)としか結婚できない。その子供はおやじっち(ウラおやじっち)になる
* おトキっち (ウラおトキっち)メス おじっち(ウラおじっち)としか結婚できない。その子供はおやじっち(ウラおやじっち)になる
==== ?属 エンたま(!属 ウラたま) ====
「まめ属(ウラまめ属)」、「めめ属(ウラめめ属)」、「くち属(ウラくち属)」のたまごっちが産卵期になって2日後以降に、レアアイテム「お見合い紹介カード1」、「お見合い紹介カード2」、「お見合い紹介カード3」のどれかを使うと、おせっかいばあさんがカーテンで隠された謎のお見合い相手を連れて来る。お見合い相手と結婚すると、「?属(!属)」の子供「はてなっち(びっくりっち)」が産まれる。「?属(!属)」は育ての親の属性を引き継ぐので、「?属(!属)」同士で結婚した場合は育ての親の属性によって産まれる子供の属性が決まり、他の属性のたまごっちと結婚した場合は「?属(!属)」の育ての親の属性と結婚相手の属性によって子供の属性が決まる。「?属(!属)」はレアアイテム「お見合い紹介カード」が使用できないので、「?属(!属)」から「?属(!属)」の子供は産めない。
; ?属(!属)
:; 幼児期
::* はてなっち(びっくりっち)
:; 反抗期
::* めがねっち(つえっち)
::* げたっち(まきがみっち)
::* おくっち(もくっち)
:; 思春期
::* おひげっち(かぼっち)
::* らくごっち(べんざっち)
::* しりぷりっち(ごろごろっち)
:; 産卵期
::* ねくたいっち(ごすっち)
::* かぶきっち(わしきっち)
::* あしっち(れいんぼっち)
== 第3期(プラスカラー) ==
{{節スタブ}}
=== プラスカラー系 ===
; たまごっちプラスカラー
:; 幼児期(世代関係なし)
::* きのっち(オス)、のこっち(メス)
:; 反抗期
::* くりぼっち(オス、奇数世代)、あひるくっち(オス、偶数世代)
::* さくらもっち(メス、奇数世代)、めめぺっち(メス、偶数世代)
:; 思春期(世代関係なし)
::* やんぐまめっち(オス、きちんと育てる)、ききっち(オス、お世話ミスがある)
::* ちゃまめっち(メス、きちんと育てる)、いちごっち(メス、お世話ミスがある)
:; 産卵期
::; 奇数世代
:::* まめっち(オス、きちんと育てる)、くちぱっち(オス、お世話ミスが少しある)、ござるっち(オス、お世話ミスが多い)
:::* めめっち(メス、きちんと育てる)、らぶずきんっち(メス、お世話ミスが少しある)、まろっち(メス、お世話ミスが多い)
::; 偶数世代
:::* くろまめっち(オス、きちんと育てる)、しましまっち(オス、お世話ミスが少しある)、ねむっち(オス、お世話ミスが多い)
:::* ふらわっち(メス、きちんと育てる)、めいどっち(メス、お世話ミスが少しある)、まきこ(メス、お世話ミスが多い)
:; 老後(産卵期になってから1週間経過、世代関係なし)
::* おじっち(オス)、おトキっち(メス)
:; 特殊例 おじっちとおトキっちが結婚し、その子供が産卵期になると次のキャラに成長する。
::* おやじっち(オス)、ごりっぱっち(メス)
== 第3期(iD以降) ==<!--
==== iD系 ====
==== iDL系 ====
==== P's系 ====
==== 4U系 ====
==== 4U+系 ====
'''みくす系'''
'''みーつ系'''
'''Pix系'''
'''スマート系'''
-->
=== たまごっちスマート(☆は新キャラ) ===
==== ベビー期(ベビーっち) ====
* ぷちおっち♂☆
* ぷちこっち♀☆
==== キッズ期(幼児) ====
* もふわっち♂☆
* ちゃめこっち♀☆
* おむちゅっち♂☆
* くるまりっち♀☆
==== ヤング期(こどもっち) ====
* あちあっち♂☆
* らびらびっち♀☆
* ぐんちっち♂☆
* さっくっち♀☆
* つのっち♂☆
* きゅぴっち♀☆
==== フレンド期(アダルトっち) ====
* まめっち♂
* みるくっち♀☆
* ぴゅえるっち♂☆
* ぽぷっち♀☆
* くちぱっち♂
* ぎゃおぎゃるっち♀☆
* わわっち♂☆
* あわもこっち♀☆
* からぱっち♂☆
* つよみさん♀☆
==== 96フレンズ(ドット絵表記、販売終了) ====
全員♂である。
* 1996まめっち
* 1996ぎんじろっち
* 1996にょろっち
* 1996おやじっち
==== レインボーフレンズ ====
* ゆにぺがさっち♂
* ぴかごろっち♂
* にじふわっち♀
* わたわたっち♀
==== コスメフレンズ(全員♀) ====
* めめっち
* まきこ
* コフレっち
* ぱふわっち☆
==== グルメフレンズ ====
* オムチャプっち♂
* かっぱっぱっち♂
* りんごっち♀
* コルネっち♀☆
==== スイーツフレンズ ====
* ほっとけーきっち♂
* みみぷるっち♂☆
* いちごっち♀
* まかもこっち♀☆
==== パステルフレンズ ====
* ぷらんたっち♂☆
* ぴよたまうさっち♂
* みみっち♀
* ふらわっち♀
==== メロディフレンズ ====
* オーケストロっち♂
* チェケラっち♂☆
* ラブリっち♀
* メロディっち♀
==== アニバーサリーパーティーフレンズ ====
* ぎんじろっち♂(人気投票で選ばれた)
* ますくっち♂
* ポチっち♂([[新種発見!!たまごっち|新種発見]]からの復活キャラ)
* スペイシーっち♂
* ききっち♂
* くろまめっち♂
* ござるっち♂
* ゆめみっち♀
* キラリっち♀
* ちゃまめっち♀
==== ケーたまフレンズ(受注生産) ====
* うーるっち♂
* どろっち♂
* でばっち♂
* りぼっち♀
==== エンたまフレンズ(受注生産) ====
* ウラまめっち♂
* とげっち♂
* しましまっち♂
* めいどっち♀
==== マリンチェンジ(アレンジキャラ、元キャラとは別の存在) ====
* マメノオトシゴ♂☆([[タツノオトシゴ]])
* じぇりーぴゅえる♂☆([[クラゲ]])
* くりおねぱっち♂☆([[クリオネ]])
* たこわわっち♂☆([[タコ]])
* やどからぱっち♂☆([[ヤドカリ]])
* まーめいどみるく♀☆([[人魚]])
* ぽぷおとひめっち♀☆([[浦島太郎|乙姫]])
* あめもこふらし♀☆([[アメフラシ]])
* ぎゃおるかっち♀☆([[イルカ]])
* ごまみさん♀☆([[ゴマフアザラシ]])
==== マジカルチェンジ(同上) ====
* まめキュラっち♂☆([[吸血鬼|ドラキュラ]])
* ぴゅえでびっち♂☆([[悪魔]])
* と~め~ぱっち♂☆([[透明人間]])
* わわフォーチュン♂☆([[占い|占い師]])
* からぱフランケン☆([[フランケンシュタインの怪物|フランケン]])
* みるくうぃっち♀☆([[魔女]])
* ぽぷぴえろっち♀☆([[道化師|ピエロ]])
* あわもこゴースト♀☆([[幽霊]])
* ぎゃおファイヤー♀☆([[ドラゴン]])
* つよミイラさん♀☆([[ミイラ]])
=== コラボレーション作品 ===
==== Nizooフレンズ(NiziU、全員♀) ====
* らこっち
* りよっち
* まやんっち
* りちゅっち
* あのっち
* るきゃっち
* らーぬっち
* ぴょんぴょんっち
* きなっち
==== サンリオフレンズ(サンリオ、アレンジキャラ) ====
* キティなまめっち♂([[ハローキティ]])
* リトルなぴゅえる♂([[リトルツインスターズ]])
* プリンなぱっち♂([[ポムポムプリン]])
* サムなわわっち♂([[タキシードサム]])
* ぐでたまなからぱ♂([[ぐでたま]])
* シナモンなみるく♀([[シナモロール]])
* メロディなぽぷ♀([[マイメロディ]])
* ゴロ2なあわもこ♀(ゴロピカドン)
* クロミなぎゃお♀([[クロミ]])
* ばつまるなつよみ♀([[バッドばつ丸]])
==== モルカーフレンズ(PUI PUI モルカー、アレンジキャラ) ====
* ポテトまめっち♂
* アビーぴゅえる♂
* シロモくちぱっち♂
* わわトレジャー♂
* すしからぱっち♂
* チョコみるくっち♀
* DJぽぷっち♀
* きゅうきゅうあわ♀
* ローズぎゃお♀
* テディつよみさん♀
==== ONE PIECEフレンズ(ONE PIECE、アレンジキャラ) ====
* ルフィまめっち♂([[モンキー・D・ルフィ]])
* ゾロくちぱっち♂([[ロロノア・ゾロ]])
* ロビぴゅえるっち♂([[ニコ・ロビン]])
* ジンベエわわっち♂([[ジンベエ (ONE PIECE)|ジンベエ]])
* ウソからぱっち♂([[ウソップ]])
* チョパみるくっち♀([[トニートニー・チョッパー|トニー・トニー・チョッパー]])
* ナミぽぷっち♀([[ナミ (ONE PIECE)|ナミ]])
* ブルックもこっち♀([[ブルック (ONE PIECE)|ブルック]])
* フランぎゃるっち♀([[フランキー (ONE PIECE)|フランキー]](カティ・フラム))
* サンジつよみ♀([[サンジ|ヴィンスモーク・サンジ]])
==== ピクサーフレンズ(PIXAR、アレンジキャラ) ====
* ウッディまめっち♂
* ニモぴゅえるっち♂
* バズくちぱっち♂
* ヨロコビわわっち♂
* ミゲルからぱっち♂
* メイみるくっち♀
* ジェシーぽぷっち♀
* メリダぎゃるっち♀
* サリーもこっち♀
* ミス・つよみ♀
=== たまごっちUni ===
☆は新キャラ
*ベビー期(ベビーっち)
**ゆーゆっち♂☆
**にーにっち♀☆
*キッズ期(幼児)
**うぇるこっち♂☆
**みつまるっち♂☆
**りおねっち♀
**おたまっち♀☆
*ヤング期(こどもっち)
**くりりっち♂☆
**ぐんちっち♂
**カールっち♂☆
**らびらびっち♀
**てふてっち♀☆
**たすたすっち♀☆
*フレンド期(アダルトっち)
**しましまっち♂☆
**ハイパーっち♂☆
**まめっち♂
**ぴゅえるっち♂
**しまぐるっち♂
**くちぱっち♂
**シェイクっち♂☆
**ビッグスマイル♂☆
**ききっち♂
**ゆにまるっち♂☆
**ござるっち♂
**やったっち♀
**バブルっち♀☆
**ねりあっち♀☆
**みるくっち♀
**ももっち♀
**うーぱっち♀☆
**めめっち♀
**ぴこちゅっち♀☆
**みみっち♀
**ゆにまるっち♀(♂とは別種扱い)☆
**せびれっち♀
== たまごっちデパート ==
[[File:Tamagotchi Official shop in Harajuku 20121019.jpg|thumb|270px|原宿店(2012年10月19日)]]
バンダイ直営のオフィシャルショップ<ref name="bandai110719">{{PDF|[https://www.bandainamco.co.jp/files/E3819FE381BEE38194E381A3E381A1E38387E38391E383BCE3.pdf 〜「たまごっち」のオフィシャルショップ が名古屋に初上陸♪〜「たまごっちデパート名古屋店」2011年7月23日(土)オープン]、株式会社バンダイ、2011年7月19日。}}</ref>。なお「たまごっちデパート」はアニメ『たまごっち!』などで実際に登場する[[デパート]]である。
; 東京ドーム店(ちきゅう1号店)
: 東京ドーム3F22番ゲート
: 2007年8月10日<ref>[http://www.m-and-a-net.com/dg/07.html キャラクターショップ 出店|キャラクターショップたまごっちデパート出店の流れ]、店舗デザイン事務所エムアンドアソシエイツ - 2017年2月17日閲覧。</ref> - 2008年8月31日<ref name="tamadepa080911">[https://tamagotch.channel.or.jp/tamadepa/blog.php?id=22 たまごっちデパートが・・・★]、たまごっちオフィシャルショップスタッフブログ(ネットで発見!!たまごっち)、2008年9月11日。</ref>
; 原宿店(初代)
: はらじゅくアッシュビル
: 2008年9月20日<ref name="tamadepa080911" /> - 2012年10月21日<ref name="tamadepa121012">[https://tamagotch.channel.or.jp/tamadepa/blog.php?id=281 お引っこしのご連絡!!]、たまごっちオフィシャルショップスタッフブログ(ネットで発見!!たまごっち)、2012年10月12日。</ref>
; 原宿店(2代目)
: ラヴィックストレーディングビル 1階<ref>[http://tamagotch.channel.or.jp/tamadepa/blog.php?id=283 お引っこしかんりょー☆]、たまごっちオフィシャルショップスタッフブログ(ネットで発見!!たまごっち)、2012年11月8日。</ref>
: 2012年11月3日<ref name="tamadepa121012" /> - 2014年9月23日<ref name="tamadepa140922">[https://tamagotch.channel.or.jp/tamadepa/blog.php?id=335 たまごっちデパート出張所のお知らせ☆]、たまごっちオフィシャルショップスタッフブログ(ネットで発見!!たまごっち)、2014年9月22日。</ref>
; 原宿店(3代目)
: はらじゅくアッシュビル<ref name="tamadepa140922" />
: 2014年11月28日<ref name="tamadepa140922" /> - 2017年2月26日<ref>[https://tamagotch.channel.or.jp/tamadepa/blog.php?id=396 全品50%オフ!2月26日まで!]、たまごっちオフィシャルショップスタッフブログ(ネットで発見!!たまごっち)、2017年2月4日。</ref>
; 名古屋店
: オアシス21 B1F<ref name="bandai110719" />
: 2011年7月23日<ref name="bandai110719" /> - 2013年11月
; たまごっちストア東京
: [[東京駅一番街]] [[東京キャラクターストリート]]
: 2013年12月9日<ref>[https://tamagotch.channel.or.jp/gotchishinbun/201311.html ごっちしんぶん 2013年11月号]、ネットで発見!!たまごっち、2013年11月1日頃発行。</ref> - 2016年6月5日<ref>[https://tamagotch.channel.or.jp/tamadepa/blog.php?id=385 たまごっちストア東京スタッフより]、たまごっちオフィシャルショップスタッフブログ(ネットで発見!!たまごっち)、2016年6月10日。</ref>
== 関連曲 ==
; テーマソング
:* あっちむいて どっちむいて たまごっち([[木屋響子|KYOKO Sound Laboratory]]&[[小林亜星]])
:* 愛はたまごの中に(KYOKO Sound Laboratory&小林亜星)
:* アイのきもち(miyuki)※日本版オフィシャルテーマソング
:* 大きくなりたい(chihiro)
:* [[w:en:Tamagotchi (Tschoopapa...)|Tamagotchi (Tschoopapa...)]]([[w:en:Sqeezer|Sqeezer]]) ※ドイツ版オフィシャルテーマソング。Sqeezer自身のアルバムには未収録で、コンピレーション・アルバム『Tamagotchi Smash Hits!』『Bravo Hits 19』に収録。
:* たまごっちフリーク(diezel from JPS)
:* たまごっち音頭(歌手名未公表)※2017年7月22日開催の「たまごっち20しゅーねん お祝い夏まつり たま祭」テーマソング<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000015.000007972.html 20周年の感謝を込めた「たまごっち」満載の夏まつりイベント「たまごっち20しゅーねん お祝い夏まつり たま祭」を開催]、バンダイ、2017年7月24日。</ref>
:* 涙くん、今日もおはようっ([[あの|ano]])※「Tamagotchi Uni」CMソング<ref>[https://rockinon.com/news/detail/207661 ano、新曲“涙くん、今日もおはようっ”がバンダイ「たまごっち」CMソングに起用。10/18配信リリース]、rockinon.com、2023年10月12日。</ref>
:
; 劇場アニメ関連曲
:* レッツゴー(ピキピキ5)※映画『[[たまごっちホントのはなし]]』テーマ曲
:* たまごっち([[キグルミ]])※映画『[[えいがでとーじょー! たまごっち ドキドキ! うちゅーのまいごっち!?]]』主題歌。
:* グリーンフラッシュ伝説([[Pabo]])※『[[映画! たまごっち うちゅーいちハッピーな物語!?]]』主題歌。
:
; ゲーム関連曲
:* ちきゅうはたまごっち?!(歌手名未公表)※『[[たまごっちのプチプチおみせっち]]』テーマ曲で、PS2用ソフト『[[太鼓の達人]] ドカッ!と大盛り七代目』にも収録。
:* ふしぎボーケンたまごっち([[キグルミ]])※データカードダス『[[たまごっちとふしぎな絵本]]』主題歌。2018年10月現在、公式の音源が存在せず、キグルミのディスコグラフィ上は欠番扱いである。
:
; テレビアニメ関連曲
:* GO-GO たまごっち!([[ならゆりあ]])※テレビアニメ『[[たまごっち!]]』OP主題歌。
:** GO-GO たまごっち!~ラブリン&メロディっち&くろまめっち~([[真堂圭]]、[[三瓶由布子]]、[[加藤奈々絵]])
:** GO-GO たまごっち!~めめっち&まきこ&くちぱっち~([[柚木涼香]]、[[岡村明美]]、[[矢口アサミ]])
:** GO-GO たまごっち!~ちゃまめっち&ハピハピっち&まめっち~([[儀武ゆう子]]、[[こおろぎさとみ]]、[[釘宮理恵]])
:** GO-GO たまごっち!~テルリン&ふらわっち&ラブリっち~([[金田朋子]]、[[佐々木日菜子]]、真堂圭)
:** GO-GO たまごっち!~まめっち&どれみっち&そぷらっち&メロディっち~(釘宮理恵、[[植竹香菜]]、こおろぎさとみ、三瓶由布子)
:** GO-GO たまごっち!~たまとものみんな~
:*: ※以上の6曲は、原曲のアレンジであり、テレビアニメ『[[たまごっち!]]』OP主題歌。
:* たまともフォーエバー([[はいだしょうこ]])※テレビアニメ『たまごっち!』ED主題歌。
:* エブリーラブリー([[真堂圭]])※テレビアニメ『たまごっち!』キャラクターソング。
:* もしも☆パラダイス!([[Mao (歌手)|mao]])※テレビアニメ『たまごっち!』ED主題歌。
:* ミラクルキッチン(真堂圭)※テレビアニメ『たまごっち!』キャラクターソング。
:* ハッピーハッピーハーモニー(真堂圭)※テレビアニメ『たまごっち!』ED主題歌。
:* ハッピーハート(真堂圭)※テレビアニメ『たまごっち!』キャラクターソング。
:* 明日の笑顔(真堂圭)※テレビアニメ『たまごっち!』キャラクターソング。
:* キラキラ☆ドリーム([[福圓美里]]、[[豊口めぐみ]])※テレビアニメ『たまごっち! ゆめキラドリーム』キャラクターソング。
:* ロックン・ハート! ※テレビアニメ『たまごっち!』OP主題歌
:* パワフル・ビート! ※テレビアニメ『たまごっち!』ED主題歌。
:* みらくる☆トラベル ([[加藤英美里]]、[[斎藤千和]])
:* いつかいつか(釘宮理恵)
:* GO-GO たまごっち!([[hitomi]])
:*: ※2009年の主題歌のカバー曲
:* RAINBOW(hitomi)
:
;その他
:* [[w:en:Together Forever (The Cyber Pet Song)|Tamagotchi]]({{仮リンク|デイズ (音楽グループ)|en|Daze (band)|label=デイズ}})※デンマーク出身のダンス・ユニット。アルバム『SUPER HEROES』に収録。アメリカ盤やスウェーデン盤などでは「Together Forever (The Cyber Pet Song)」という曲題に変更され、また日本盤では「Takanutchi」(タカヌッチ)に差し替えられている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group = "注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="たまぴっち">{{Cite web|和書|publisher=PC Watch|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970318/phs.htm|title=バンダイ、たまごっち内蔵のPHS「たまぴっち」を6月に発売|accessdate=2017-03-24}}</ref>
<ref name="たまごっち for Mac">{{Cite web|和書|publisher=たまごっち for MacUsersのお部屋|url=http://www005.upp.so-net.ne.jp/mi-ki/tamagoti/tamag_01.htm|title=「謎の急死現象」情報|accessdate=2017-03-24}}</ref>
<ref name="たまごっち占い">{{Cite web|和書|publisher=バンダイナムコエンターテインメント公式サイト|url=https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/bandainetworks/news/index.php?view=1175|title=ズバリ当たる不思議占い『たまごっち占い』初登場!|accessdate=2017-03-24}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|last= 横井|first=昭裕|title= たまごっち誕生記 超ヒット商品はこうしてつくられた!|publisher= [[ベストセラーズ]]|year= 1997|isbn= 4-584-18312-0|ref=harv}}
* 週刊ファミ通編集部『かえってきた!たまごっちプラスとあそぶほん』エンターブレイン、2004年、ISBN 4-7577-1867-5。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tamagotchi}}
* [https://tamagotch.channel.or.jp/ ネットで発見!!たまごっち 公式ホームページ](バンダイ)<!--http://tamatv.com/ で転送可-->
* [https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/tamagotchi/index2.html テレビ東京・あにてれ たまごっち!](2009年のテレビアニメ)
* {{Twitter|TMGC_net|たまごっち}}
* {{YouTube|channel=UCboqxDSqMY9FJMORETbm42w|たまごっちTV}}
* {{YouTube|4h1MMltKe6s|「たまごっち」誕生から25年 “初代”発売に長蛇の列(TBSアーカイブ)}}(TBS NEWS)
{{たまごっち}}
{{デフォルトソート:たまこつち}}
[[Category:たまごっち|*]]
[[Category:1990年代の玩具]]
[[Category:2000年代の玩具]]
[[Category:2010年代の玩具]]
[[Category:バンダイ]]
[[Category:日本の登録商標]]
[[Category:流行語]]
[[Category:フジテレビ系アニメ]]
[[Category:ニッポン放送の番組の歴史]]
[[Category:1997年のテレビアニメ]]
[[Category:バンダイビジュアルのアニメ作品]]
[[Category:幼稚園 (雑誌)]]
[[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]]
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13,767 |
毛巣洞
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毛巣洞(もうそうどう、もうそとう)は、毛巣洞炎、毛巣嚢(もうそうのう)、毛巣嚢胞(もうそうのうほう)、毛巣瘻(もうそうろう)、毛巣病ともいう病気で、英語ではpilonidal disease(毛巣病)、pilonidal cyst(毛巣洞/嚢),pilonidal sinus(毛巣瘻)、hair granuloma などという。毛深い体質で若い男性に多く見られ、ジープに長時間乗る米軍兵士などに多く見られることから別名ジープ病(jeep disease)ともいう。しかしながら、稀にだが毛深くもない人にも見られることがある。この病気自体が稀でもあるので、一般にはあまり周知されてはいない。
ふつうはお尻の仙骨部(尾底骨の正中部分、割れ目の上側)が圧迫されることによって、体毛が毛穴の中に入り込んで皮膚の内部で瘻孔(ろうこう、sinus)を形成し、炎症を起こす感染症である。皮膚の表面には嚢腫(袋状の腫瘍)が形成され、瘻管から膿が出ることが多い。腫瘍が形成されている間、本人は日常生活(椅子に座る等)が困難になるほどの痛みを伴う場合もあり、この腫瘍そのものは時間が経つと小さく、または破損し膿や血を出すが、また時間が経つと腫瘍が形成されるといったことを繰り返す場合も多い。
肛門の上の部分なので、痔瘻と誤診されることがある。外科手術(毛巣洞根治術)は、患部を切開して瘻孔を完全に摘出し、縫合してガーゼで圧迫して、排膿させる。術後10日ほどで抜糸すれば2週間ほどで治ることが多いが、雑菌に感染したり、再発することもある。切開・排膿で治らない場合は、消毒しながら肉芽組織が盛り上がるのを促進し、1~2か月で治癒する。また再発率が高く、術後1年間で2~3割ほどの高確率で再発する可能性がある。再発後は、腫瘍形成前の比較的早い段階で発見が出来れば、簡単な外科手術で取り除くことが可能な場合もある。
なお、pilonidal disease/sinus は、病理的には耳前瘻孔と同様であり、顔面にもできることが知られている。
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{{出典の明記|date=2021-7}}
'''毛巣洞'''(もうそうどう、もうそとう)は、'''毛巣洞炎'''、'''毛巣嚢'''(もうそうのう)、'''毛巣嚢胞'''(もうそうのうほう)、'''毛巣瘻'''(もうそうろう)、'''毛巣病'''ともいう[[病気]]で、英語では[[w:pilonidal disease|pilonidal disease]](毛巣病)、[[w:pilonidal cyst|pilonidal cyst]](毛巣[[洞]]/[[嚢]]),[[w:pilonidal sinus|pilonidal sinus]](毛巣[[瘻]])、[[w:hair granuloma|hair granuloma]] などという。'''毛深い'''体質で若い[[男性]]に多く見られ、[[ジープ]]に長時間乗る米軍兵士などに多く見られることから別名'''ジープ病'''([[w:jeep disease|jeep disease]])ともいう。しかしながら、稀にだが毛深くもない人にも見られることがある。この病気自体が稀でもあるので、一般にはあまり周知されてはいない。
== 症状 ==
ふつうはお尻の[[仙骨]]部([[尾底骨]]の正中部分、割れ目の上側)が圧迫されることによって、[[体毛]]が[[毛穴]]の中に入り込んで皮膚の内部で[[瘻孔]](ろうこう、[[w:sinus|sinus]])を形成し、[[炎症]]を起こす[[感染症]]である。[[皮膚]]の表面には[[嚢腫]](袋状の[[腫瘍]])が形成され、[[瘻管]]から[[膿]]が出ることが多い。[[腫瘍]]が形成されている間、本人は日常生活(椅子に座る等)が困難になるほどの痛みを伴う場合もあり、この[[腫瘍]]そのものは時間が経つと小さく、または破損し膿や血を出すが、また時間が経つと腫瘍が形成されるといったことを繰り返す場合も多い。
== 治療 ==
[[肛門]]の上の部分なので、[[痔瘻]]と[[誤診]]されることがある。外科手術('''毛巣洞根治術''')は、患部を切開して瘻孔を完全に摘出し、縫合してガーゼで圧迫して、排膿させる。術後10日ほどで[[抜糸]]すれば2週間ほどで治ることが多いが、雑菌に[[感染]]したり、再発することもある。切開・排膿で治らない場合は、消毒しながら肉芽組織が盛り上がるのを促進し、1~2か月で治癒する。また再発率が高く、術後1年間で2~3割ほどの高確率で再発する可能性がある。再発後は、腫瘍形成前の比較的早い段階で発見が出来れば、簡単な外科手術で取り除くことが可能な場合もある。
なお、pilonidal disease/sinus は、病理的には[[耳前瘻孔]]と同様であり、顔面にもできることが知られている。
== 外部リンク ==
* [http://www.emedicine.com/emerg/topic771.htm Pilonidal Cyst and Sinus]
[[Category:皮膚疾患|もうそうどう]]
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"Template:出典の明記"
] |
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13,775 |
1079年
|
1079年(1079 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
|
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"title": "死去"
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] |
1079年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1079}}
{{year-definition|1079}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己未]]
* [[日本]]
** [[承暦]]3年
** [[皇紀]]1739年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[元豊 (宋)|元豊]]2年
** [[遼]] : [[太康 (遼)|太康]]5年
** [[西夏]] : [[大安 (西夏)|大安]]5年
** [[大理国]] : [[広安 (大理)|広安]]3年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[英武昭勝]]4年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は、太陽暦採用と共に[[1873年]]に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1079|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[8月24日]]- ポンペイ・[[ヴェスヴィオ火山]]の[[噴火]]から1000年。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1079年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[8月8日]]([[承暦]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[堀河天皇]]、第73代[[天皇]](+ [[1107年]])
* [[ピエール・アベラール]]、[[中世]][[フランス]]の論理学者、[[キリスト教]][[神学者]](+ [[1142年]])
* [[睿宗 (高麗王)|睿宗]]、第16代[[高麗王]](+ [[1122年]])
* [[粘没喝]]、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]](+ [[1137年]])
* [[藤原長子]]、[[平安時代]]の女流[[歌人]](+ 没年未詳)
* [[源信雅]]、平安時代の貴族、[[陸奥国司|陸奥守]](+ [[1135年]])
* [[源雅兼]]、平安時代の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1143年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1079年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月11日]] - [[シュチェパヌフのスタニスラウス]]、[[クラクフ]][[司教]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]]、殉教者(* [[1030年]])
* [[慈聖光献曹皇后]]、[[北宋]]の第4代皇帝[[仁宗 (宋)|仁宗]]の[[皇后]](* [[1016年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1079}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}}
{{デフォルトソート:1079ねん}}
[[Category:1079年|*]]
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水戸徳川家
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水戸徳川家(みととくがわけ)もしくは水府徳川家(すいふとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の一つ。単に水戸家、水府家ともいう。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである。
家祖は江戸幕府初代征夷大将軍である徳川家康の末男頼房。水戸藩は東北諸藩の反乱に備えて北関東の拠点として作られた藩であり、表高は当初25万石だったが、1622年(元和8年)に28万石、1701年(元禄14年)に36万石となった。しかしその領地は常陸と東北地方の境だったので、耕地が少なく生産力も低かった。
格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許されていた。官位では尾紀二家(尾張家・紀伊家)が大納言を極官としたのに対し、水戸家はそれよりも低い中納言を極官とした。参勤交代の対象とはならず江戸の小石川邸に常住する定府大名だった。このことから俗称として「副将軍」という呼び名が起こったと考えられる。御連枝は高松松平家・守山松平家・石岡松平家・宍戸松平家の四家である。
頼房の三男光圀(義公)は「水戸黄門」として著名である。光圀は『大日本史』の編纂を開始し、天皇と朝廷を深く尊び、湊川に後醍醐天皇の忠臣・楠木正成(大楠公)の碑を建てるなど尊皇運動に尽くした。光圀以来、水戸藩内には尊皇を支柱とする水戸学が誕生し、幕末の尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた。水戸家は親藩の御三家ではあるが、水戸学を奉じる勤皇家の家として「もし将軍家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる。
9代斉昭(烈公)は強烈な尊皇攘夷派として知られ、海防強化や天皇陵修復、弘道館を作っての後期水戸学による藩士の教化、領内の廃仏毀釈の徹底による寺院圧迫など尊皇思想に貫かれた政策を実施し、さらに日米修好通商条約無勅許調印反対運動を主導したが、大老井伊直弼と対立して安政の大獄で失脚した。なお斉昭の七男慶喜は一橋徳川家に養子に入った後に将軍になった人物である。
幕末の尊皇攘夷運動の火付け役となった家だが、斉昭の死後には水戸藩は尊皇攘夷派と佐幕派の藩内抗争が繰り返されて混乱状態に陥り、時勢の指導権を失ったまま明治維新を迎えた。
11代昭武は明治維新後の1869年(明治2年)に版籍奉還で知藩事に転じ、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた。また1869年の華族制度の成立とともに華族に列した。昭武の隠居後、その甥の徳川篤敬が家督を継ぎ、1884年(明治17年)に華族令が施行されると篤敬は侯爵に列した。御連枝だった松平四家のうち高松松平家は伯爵、他の三家はいずれも子爵家に列している。また昭武の子徳川武定も子爵に叙されている(松戸徳川家)。
篤敬は駐イタリア特命全権公使や式部次長、貴族院議員などを歴任した。
歴代当主に尊皇家が多かった水戸家は明治以降に位階を追贈されることが多かった。とりわけ光圀と斉昭の位階は引き上げられ、1869年(明治2年)には両名とも従一位が追贈され、1900年(明治33年)には光圀に正一位、ついで1903年(明治36年)には斉昭にも正一位が追贈されている。光圀が1657年(明暦3年)に始めて以来水戸家が続けてきた全397巻(うち本紀73巻、列伝170巻)からなる『大日本史』は1906年(明治39年)に完成を見た。その内容は尊皇思想に貫かれ、皇統を明らかにして南朝を正統としたことなどを特色とする。
1929年(昭和4年)に「大日本史の編纂を完成し皇室国家に貢献したる功」が認められて当時の当主徳川圀順侯爵が公爵に陞爵。その功績調書には大日本史編纂に果たした勤王思想、第98代長慶天皇を正統に列したこと、歴代天皇陵を捜索して修復した功績、楠木正成の顕彰などが列挙されており、明治以降はもちろん維新前からの歴代当主の尊皇思想が評価されたものであった。尾張家と紀伊家は侯爵のままだったので御三家で家格が一番高い家になった。
1939年(昭和14年)時の水戸徳川公爵家の邸宅は東京市渋谷区猿楽町にあった。
圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。1977年(昭和52年)、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館(現・徳川ミュージアム)を開き、その保存・展示に努めている。
水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の諡号が贈られている。
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は各家の当主
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"text": "1929年(昭和4年)に「大日本史の編纂を完成し皇室国家に貢献したる功」が認められて当時の当主徳川圀順侯爵が公爵に陞爵。その功績調書には大日本史編纂に果たした勤王思想、第98代長慶天皇を正統に列したこと、歴代天皇陵を捜索して修復した功績、楠木正成の顕彰などが列挙されており、明治以降はもちろん維新前からの歴代当主の尊皇思想が評価されたものであった。尾張家と紀伊家は侯爵のままだったので御三家で家格が一番高い家になった。",
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"text": "圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。1977年(昭和52年)、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館(現・徳川ミュージアム)を開き、その保存・展示に努めている。",
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"text": "水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の諡号が贈られている。",
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水戸徳川家(みととくがわけ)もしくは水府徳川家(すいふとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の一つ。単に水戸家、水府家ともいう。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである。
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{{日本の氏族
|家名=徳川氏<br/>(水戸徳川家)
|家紋=Japanese crest Mito mitu Aoi.svg
|家紋名称=水戸三葵(一例)
|本姓='''称'''・[[清和源氏]]
|家祖=[[徳川頼房]]
|種別=[[武家]]<br/>[[華族]]([[侯爵]]→[[公爵]])
|出身地=[[山城国]]
|根拠地=[[常陸国]]水戸<br/>[[東京市]][[渋谷区]]
|人物=[[徳川光圀]](水戸黄門)<br/>[[徳川斉昭]]<br/>[[徳川慶喜]]<br/>[[徳川圀順]]
|支流=[[高松松平家]](武家・[[伯爵]])<br/>[[守山藩|守山松平家]](武家・[[子爵]])<br/>[[常陸府中藩|石岡松平家]](武家・子爵)<br/>[[常陸宍戸藩|宍戸松平家]](武家・子爵)<br/>[[松戸徳川家]](子爵)
}}
'''水戸徳川家'''(みととくがわけ)もしくは'''水府徳川家'''(すいふとくがわけ)は、[[徳川宗家|徳川将軍家]]の分家である[[徳川御三家|御三家]]の一つ。単に'''水戸家'''、'''水府家'''ともいう。[[江戸時代]]には[[水戸藩]]主、[[明治維新|維新]]後には[[華族]]の[[侯爵]]家に列し、のちに[[公爵]]家に陞爵した{{sfn|小田部雄次|2006|p=58}}。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである{{sfn|小田部雄次|2006|p=323}}。
== 歴史 ==
=== 江戸時代 ===
家祖は江戸幕府初代征夷大将軍である[[徳川家康]]の末男[[徳川頼房|頼房]]。水戸藩は[[東北地方|東北]]諸藩の反乱に備えて[[北関東]]の拠点として作られた藩であり<ref name="mitohan"/>、表高は当初25万石だったが、[[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年)に28万石、[[1701年]]([[元禄]]14年)に36万石となった<ref name="nihonkokugo">{{Kotobank|水戸家|精選版 日本国語大辞典}}</ref>。しかしその領地は常陸と東北地方の境だったので、耕地が少なく生産力も低かった<ref name="mitohan"/>。
格式は御三家のひとつとして[[伺候席|大廊下]]に詰め、[[屋形|屋形号]]を許されていた。官位では尾紀二家([[尾張徳川家|尾張家]]・[[紀州徳川家|紀伊家]])が[[大納言]]を[[極位極官|極官]]としたのに対し、水戸家はそれよりも低い[[中納言]]を極官とした。[[参勤交代]]の対象とはならず[[江戸]]の小石川邸に常住する[[定府]]大名だった<ref name="mitohan"/>。このことから俗称として「'''[[副将軍]]'''」という呼び名が起こったと考えられる<ref name="mitohan"/>。[[御連枝]]は[[高松松平家]]<ref>{{Kotobank|1=高松藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>・[[守山藩|守山松平家]]<ref>{{Kotobank|1=守山藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>・[[常陸府中藩|石岡松平家]]<ref>{{Kotobank|1=府中藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>・[[常陸宍戸藩|宍戸松平家]]<ref>{{Kotobank|1=宍戸藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>の四家である。
頼房の三男[[徳川光圀|光圀]](義公)は「水戸黄門」として著名である。光圀は『[[大日本史]]』の編纂を開始し、[[天皇]]と[[朝廷 (日本)|朝廷]]を深く尊び、湊川に[[後醍醐天皇]]の忠臣・[[楠木正成]](大楠公)の碑を建てるなど[[尊王論|尊皇]]運動に尽くした{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=7}}。光圀以来、水戸藩内には尊皇を支柱とする[[水戸学]]が誕生し、幕末の[[尊王攘夷|尊皇攘夷]]運動に多大な影響を与えた<ref name="nihonkokugo"/>。水戸家は[[親藩]]の御三家ではあるが、水戸学を奉じる[[勤王|勤皇]]家の家として「もし[[徳川宗家|将軍家]]と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる<ref>烈公(斉昭)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて宣えり。おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。|徳川慶喜|「烈公(斉昭)の御教訓の事」『昔夢会・徳川慶喜公回想談』<br /></ref>。
9代[[徳川斉昭|斉昭]](烈公)は強烈な尊皇攘夷派として知られ、海防強化や[[天皇陵]]修復{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=7}}、[[弘道館]]を作っての後期水戸学による[[藩士]]の教化、領内の[[廃仏毀釈]]の徹底による[[寺院]]圧迫など尊皇思想に貫かれた政策を実施し、さらに[[日米修好通商条約]]無勅許調印反対運動を主導したが、[[大老]][[井伊直弼]]と対立して[[安政の大獄]]で失脚した<ref>{{Kotobank|1=徳川斉昭|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。なお斉昭の七男[[徳川慶喜|慶喜]]は[[一橋徳川家]]に養子に入った後に将軍になった人物である<ref>{{Kotobank|1=徳川慶喜|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
幕末の尊皇攘夷運動の火付け役となった家だが、斉昭の死後には水戸藩は尊皇攘夷派と[[佐幕|佐幕派]]の藩内抗争が繰り返されて混乱状態に陥り、時勢の指導権を失ったまま[[明治維新]]を迎えた<ref name="mitohan">{{Kotobank|1=水戸藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。
<!--独自研究 要出典 逆説的ではあるが、維新前夜に水戸藩が行動力を無くし維新諸戦役においても事実上なにも出来なかった事が、以前からの尊王藩である事実との「合成の誤謬」で水戸家は実質無罪との扱いとなっている。-->
=== 明治以降 ===
11代[[徳川昭武|昭武]]は[[明治維新]]後の[[1869年]]([[明治]]2年)に[[版籍奉還]]で[[知藩事]]に転じ、[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]まで務めた。また1869年の[[華族]]制度の成立とともに華族に列した。昭武の隠居後、その甥の[[徳川篤敬]]が[[家督]]を継ぎ、[[1884年]](明治17年)に[[華族令]]が施行されると篤敬は侯爵に列した{{sfn|小田部雄次|2006|p=31}}。御連枝だった松平四家のうち[[高松松平家]]は[[伯爵]]{{sfn|小田部雄次|2006|p=326}}、他の三家はいずれも[[子爵]]家に列している{{sfn|小田部雄次|2006|p=337}}。また昭武の子[[徳川武定]]も子爵に叙されている([[松戸徳川家]]){{sfn|小田部雄次|2006|p=345}}。
篤敬は駐[[イタリア王国|イタリア]][[特命全権公使]]や[[宮内庁式部職|式部次長]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]などを歴任した{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=8}}。
歴代当主に尊皇家が多かった水戸家は明治以降に[[位階]]を追贈されることが多かった。とりわけ光圀と斉昭の位階は引き上げられ、1869年(明治2年)には両名とも[[従一位]]が追贈され、[[1900年]](明治33年)には光圀に[[正一位]]、ついで[[1903年]](明治36年)には斉昭にも正一位が追贈されている。光圀が[[1657年]]([[明暦]]3年)に始めて以来水戸家が続けてきた全397巻(うち本紀73巻、列伝170巻)からなる『大日本史』は1906年(明治39年)に完成を見た。その内容は尊皇思想に貫かれ、皇統を明らかにして[[南朝 (日本)|南朝]]を正統としたことなどを特色とする<ref>{{Kotobank|1=大日本史|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。
[[1929年]]([[昭和]]4年)に「大日本史の編纂を完成し[[皇室]]国家に貢献したる功」が認められて当時の当主[[徳川圀順]]侯爵が公爵に陞爵。その功績調書には大日本史編纂に果たした勤王思想、第98代[[長慶天皇]]を正統に列したこと、歴代天皇陵を捜索して修復した功績、楠木正成の顕彰などが列挙されており、明治以降はもちろん維新前からの歴代当主の尊皇思想が評価されたものであった{{sfn|小田部雄次|2006|p=225}}。尾張家と紀伊家は侯爵のままだったので御三家で家格が一番高い家になった{{sfn|小田部雄次|2006|p=323}}。
[[1939年]](昭和14年)時の水戸徳川公爵家の邸宅は[[東京市]][[渋谷区]][[猿楽町 (渋谷区)|猿楽町]]にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=7}}。
圀順は、[[財団法人]][[徳川ミュージアム|水府明徳会]]を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』([[宮帯出版社]])に編集・収録されている。[[1977年]](昭和52年)、[[水戸市]]の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館(現・[[徳川ミュージアム]])を開き、その保存・展示に努めている。
== 歴代当主と後嗣たち ==
水戸家は[[儒教]]を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の[[諡号]]が贈られている。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
! 代数
! 肖像
! 名前(諡号)<br/>{{small|(生没年)}}
! 続柄
! 位階
! 備考
! 後嗣
|-
| 1
| [[ファイル:Tokugawa Yorihusa.jpg|80px]]
| [[徳川頼房]](威公)<br/>{{small|([[1603年]]-[[1661年]])}}
| [[徳川家康]]末男
| [[正三位]]
| 初代[[水戸藩]]主<br/>[[権中納言]]
| style="text-align:left"|
*[[松平頼重]]([[高松松平家]]祖)
** [[徳川綱方]]
** 徳川綱條(3代)
** [[松平頼侯|頼章]](徳川宗堯(4代)の祖父)
* 光圀(2代)
* [[松平頼元]]([[守山藩|守山松平家]]祖)
* [[松平頼隆]]([[常陸府中藩|石岡松平家]]祖)
* [[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平頼雄]]([[常陸宍戸藩|宍戸松平家]]祖)
|-
| 2
| [[File:MitsukuniTOKUGAWA.jpg|80px]]
| [[徳川光圀]](義公)<br/>{{small|([[1628年]]-[[1701年]])}}
| 先代の子
| [[従三位]]<br/>{{small|1900年[[正一位]]追贈}}
| 2代[[水戸藩]]主<br/>権中納言<br/>通称「水戸黄門」
| style="text-align:left"|
* [[松平頼常]](高松松平家へ養子)
|-
| 3
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川綱條]](粛公)<br/>{{small|([[1656年]]-[[1718年]])}}
| 先代の甥<br/>{{small|(高松[[松平頼重]]の次男)}}
| [[正三位]]<br/>{{small|1928年[[従二位]]追贈}}
| 3代[[水戸藩]]主<br/>権中納言
| style="text-align:left"|
* [[徳川吉孚|吉孚]](夭折)
|-
| 4
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川宗堯]](成公)<br/>{{small|([[1705年]]-[[1730年]])}}
| 先代の大甥<br/>{{small|(高松[[松平頼豊]]の長男)}}
| [[従三位]]
| 4代[[水戸藩]]主<br/>[[参議]]
| style="text-align:left"|
* 宗翰(5代)
|-
| 5
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川宗翰]](良公)<br/>{{small|([[1728年]]-[[1766年]])}}
| 先代の子
| [[従三位]]
| 5代[[水戸藩]]主<br/>参議
| style="text-align:left"|
* 治保(6代)
|-
| 6
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川治保]](文公)<br/>{{small|([[1751年]]-[[1805年]])}}
| 先代の子
| [[従三位]]<br/>{{small|1907年[[正二位]]追贈}}
| 6代[[水戸藩]]主<br/>権中納言
| style="text-align:left"|
* 治紀(7代)
* [[松平義和]]([[高須藩|高須松平家]]へ養子)
|-
| 7
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川治紀]](武公)<br/>{{small|([[1773年]]-[[1816年]])}}
| 先代の子
| [[従三位]]
| 7代[[水戸藩]]主<br/>参議
| style="text-align:left"|
* 斉脩(8代)
* 斉昭(9代)
|-
| 8
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川斉脩]](哀公)<br/>{{small|([[1797年]]-[[1829年]])}}
| 先代の子
| [[従三位]]
| 8代[[水戸藩]]主<br/>権中納言
| style="text-align:left"|
*(実子なし)
|-
| 9
| [[File:Nariaki Tokugawa.jpg|80px]]
| [[徳川斉昭]](烈公)<br/>{{small|([[1800年]]-[[1860年]])}}
| 先代の弟<br/>{{small|(7代治紀の三男)}}
| [[従三位]]<br/>{{small|1903年[[正一位]]追贈}}
| 9代[[水戸藩]]主<br/>権中納言
| style="text-align:left"|
* 慶篤(10代)
* [[徳川慶喜|慶喜]]([[一橋徳川家]]へ養子、15代将軍となる)
* 昭武([[清水徳川家]]へ養子、のち11代)
|-
| 10
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川慶篤]](順公)<br/>{{small|([[1832年]]-[[1868年]])}}
| 先代の子
| [[従三位]]
| 10代[[水戸藩]]主<br/>権中納言
| style="text-align:left"|
* 篤敬(12代)
|-
| 11
| [[File:Akitake Tokugawa.jpg|80px]]
| [[徳川昭武]](節公)<br/>{{small|([[1853年]]-[[1910年]])}}
| 先代の弟<br/>{{small|(9代斉昭の十八男)}}
| [[従一位]]
| 11代[[水戸藩]]主→知藩事→廃藩置県<br/>1883年隠居
| style="text-align:left"|
* [[徳川武定|武定]]([[松戸徳川家]]祖、子爵、海軍造船中将)
|-
| 12
| [[ファイル:Tokugawa Atsuyoshi.jpg|80px]]
| [[徳川篤敬]](定公)<br/>{{small|([[1855年]]-[[1898年]])}}
| 先代の甥<br/>{{small|(10代慶篤の長男)}}
| [[従二位]]
| [[侯爵]]<br/>駐イタリア特命全権大使<br/>式部次長<br/>貴族院議員
| style="text-align:left"|
* 圀順(13代)
* [[徳川宗敬|宗敬]](一橋徳川家へ養子、貴族院副議長、参議院議員)
|-
| 13
| [[ファイル:Tokugawa Kuniyuki.jpg|80px]]
| [[徳川圀順]](明公)<br/>{{small|([[1886年]]-[[1969年]])}}
| 先代の子
| [[正四位]]
| [[侯爵]]→[[公爵]]<br/>[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]<br/>[[日本赤十字社]]社長
| style="text-align:left"|
* 圀斉(14代)
* 圀禎
* 圀秀(宍戸松平家へ養子)
* 圀弘(守山松平家へ養子)
|-
| 14
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川圀斉]](敬公)<br/>{{small|([[1912年]]-[[1986年]])}}
| 先代の子
|
|
| style="text-align:left"|
* 斉正(15代)
* 斉英(徳川ミュージアム副理事長)
|-
| 15
| [[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px]]
| [[徳川斉正]]<br/>{{small|([[1958年]]-存命中)}}
| 先代の子
|
|
| style="text-align:left"|
* 斉礼([[1990年]]([[平成]]2年)[[11月17日]](<ref>平成新修旧華族家系大成下p172</ref>-)
|}
== 系譜 ==
'''凡例''':太線は実子、破線は養子、太字は各家の当主
=== 水戸徳川家・高松松平家 ===
{{familytree/start|style=font-size:65%}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |yorfs| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |yorfs='''[[徳川頼房|頼房]]'''<sup>1</sup>}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|^|-|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| }}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | |yrshg| | | | | | | | | | |mtskn|yormt|yortk|yrtsh|yrkts|yorys|yrmch|fstki|shgys|yrshg=【高松】<br>'''[[松平頼重]]'''<sup>1</sup>|mtskn='''[[徳川光圀|光圀]]'''<sup>2</sup>|yormt=【守山】<br>[[松平頼元]]|yortk=【石岡】<br>[[松平頼隆]]|yrtsh= <br>松平頼利|yrkts=【宍戸】<br>[[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平頼雄]]|yorys=〔長倉〕<br>松平頼泰|yrmch= <br>松平頼以|fstki= <br>松平房時|shgys= <br>[[雑賀重義]]}}
{{familytree|border=0| |F|~|~|v|-|-|v|-|-|v|-|-|+|-|-|.| | | |F|~|~|V|~|~|[| | | | | | | | | | | | | | |!| | | | }}
{{familytree|border=0|yrtsn|tsnkt|tsned|yortk|yrak|yrysh| |tnkt2|tned2|yrtn2| | | | | | | | | | | | |NG021| | | |yrtsn='''[[松平頼常]]'''<sup>2</sup>|tsnkt=[[徳川綱方|綱方]]<br>(水戸家へ)|tsned=[[徳川綱條|綱條]]<br>(水戸家へ)|yortk=松平頼剛|yrak=【図書】<br>[[松平頼侯|松平頼章]]|yrysh=[[松平大膳家|【大膳】]]<br>[[松平頼芳]]|tnkt2=[[徳川綱方|綱方]]|tned2='''[[徳川綱條|綱條]]'''<sup>3</sup>|yrtn2=[[松平頼常]]<br>(高松家へ)|NG021=松平頼福}}
{{familytree|border=0| |]|~|~|7| | | | | | | | |!| | |!| | |F|~|~|~|[| | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|(| | | | }}
{{familytree|border=0|yorys|yorty| | | | | | |yrty2|yorhr| |:| | |yshzn| | | | | | | | | | | | |NG031|NG032| | | |yorys=松平頼泰|yorty='''[[松平頼豊]]'''<sup>3</sup>|yrty2=[[松平頼豊]]|yorhr=[[松平頼煕 (松平大膳家)|松平頼煕]]|yshzn=[[徳川吉孚|吉孚]]|NG031=[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]<br>(石岡家へ)|NG032=松平頼匡}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|+|~|~|7| | |,|-|-|v|-|-|(| | |:| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | }}
{{familytree|border=0|muntk|yorhr|yortk|yrtk2|mnshg|yshhs|mntk2|y|miyoh| | | | | | | | | | | | | | | |NG041| | | |muntk=[[徳川宗堯|宗堯]]<br>(水戸家へ)|yorhr=[[松平頼治]]|yortk='''[[松平頼桓]]'''<sup>4</sup>|yrtk2=[[松平頼桓]]|mnshg=[[蜂須賀宗鎮]]<br>(松平頼珍)|yshhs=[[蜂須賀至央]]<br>(松平頼央)|mntk2='''[[徳川宗堯|宗堯]]'''<sup>4</sup>|miyoh=[[美代姫 (徳川宗堯正室)|美代姫]]|NG041=松平頼忠}}
{{familytree|border=0| | | | | | | |:| | | | | |:| | | | |,|'| |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | }}
{{familytree|border=0| | | | | | |yortk| | | |yshhs| | |yoryk|munmt| | | | | | | | | | | | | | | | | |NG051| | | |yortk='''[[松平頼恭]]'''<sup>5</sup><br><ref group="※">守山藩主松平頼貞の五男。</ref>|yshhs=[[蜂須賀至央]]<br>(松平頼央)|yoryk=[[松平頼順]]|munmt='''[[徳川宗翰|宗翰]]'''<sup>5</sup>|NG051=松平頼脩}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|v|-|-|+|-|-|.| | | | | | | |:| | |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| | | | |:| | | | }}
{{familytree|border=0|yorzn|yorok|yrats|yorhr| | | | | |05nan|harmr|05nan2|yorsk|07nan|08nan2|nakym| | |08nan| | | |yorzn='''[[松平頼真]]'''<sup>6</sup>|yorok=[[松平頼起]]|yrats=(大膳)<br>[[松平頼昌]]|yorhr=[[松平頼裕]]|05nan=松平頼図|05nan2=松平頼図<br>(松平頼順養子)|harmr='''[[徳川治保|治保]]'''<sup>6</sup>|yorsk=[[松平頼救]]<br>(宍戸家へ)|07nan=松平保受|08nan2=松平保福<br>(長倉家へ)|08nan=松平保福|nakym=[[中山信敬]]}}
{{familytree|border=0| |]|~|~|7| | | | | | | | | | |,|-|-|v|-|-|+|-|-|v|-|-|.| | |`|-|-|.| | | | | | | |!| | | | }}
{{familytree|border=0|yornr|yorok| | | | | | | | |hime1|hime2|hrtsh|yshnr|tschy| | | |yamnb| | | | | |NG061| | | |yornr=[[松平頼儀]]|yorok='''[[松平頼起]]'''<sup>7</sup>|hrtsh='''[[徳川治紀|治紀]]'''<sup>7</sup>|yshnr=[[松平義和]]<br>(高須家へ)|tschy=[[土屋彦直]]|hime1=述姫<br>([[松平頼起]]正室)|hime2=雅姫<br>([[松平頼慎]]正室)|yamnb=[[山野辺義質]]|NG061=松平頼紹}}
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{{familytree|border=0| | | |yornr| | | | | | | | | | | |hime1|narnb|yorhr|narak|yorkt|sokus| | | | | |NG071| | | |yornr='''[[松平頼儀]]'''<sup>8</sup>|narnb='''[[徳川斉脩|斉脩]]'''<sup>8</sup>|yorhr=[[松平頼恕]]<br>(高松家へ)|narak=[[徳川斉昭|斉昭]]|yorkt=[[松平頼筠]]<br>(宍戸家へ)|hime1=厚姫<br>([[松平頼誠]]継室)|sokus=直<br>(斉昭側室)<ref group="※">松平直侯、松平武聰の生母。</ref>|NG071=松平頼善}}
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{{familytree|border=0|yorkn|yortn|yorak|honda|yorhr| | | | | |narak| | | | | | | | | | | | | | | | | |yrtak| | | |yorhr='''[[松平頼恕]]'''<sup>9</sup>|yorkn=[[松平頼該]]|yortn=[[松平頼胤]]|yorak=松平頼顕|honda=[[本多忠民]]|narak='''[[徳川斉昭|斉昭]]'''<sup>9</sup>|yrtak=[[松平頼位]]<br><ref group="※">宍戸藩主松平頼救の四男。のち宍戸家を継いだ。</ref>}}
{{familytree|border=0| |F|~|~|v|-|-|v|-|-|v|-|-|+|-|-|.| | |,|-|^|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| }}
{{familytree|border=0|yortn|yorhr|takak|ktshg|yrtsh|ookub|yshts|yshnr|yshnb|naysh|mchms|takkr|tsnuj|akikn|tadkz|shgno|akitk|nobnr|yoryk|yorhr=[[松平頼煕 (高松藩嫡子)|松平頼煕]]|takak=[[松平武揚]]<br>([[越智松平家|越智家]]へ)|ktshg=[[松平勝成]]<br>(久松家へ)|yrtsh=[[松平頼聰]]|ookub=[[大久保忠礼]]|yortn='''[[松平頼胤]]'''<sup>10</sup>|yshts='''[[徳川慶篤|慶篤]]'''<sup>10</sup>|yshnr=[[池田慶徳]]|yshnb=[[徳川慶喜|慶喜]]<br>(一橋家→徳川宗家→[[徳川慶喜家]])|mchms=[[池田茂政]]|naysh=[[松平直侯]]<br>([[越前松平家|越前(前橋)家]]へ)|takkr=[[松平武聰]]<br>([[越智松平家|越智家]]へ)|tsnuj=[[喜連川縄氏]]|akikn=[[松平昭訓]]|tadkz=[[松平忠和 (島原藩主)|松平忠和]]<br>([[深溝松平家|深溝家]]へ)|nobnr=[[松平喜徳]]<br>(会津家→守山家)|yoryk=[[松平頼之]]<br>(守山家へ)|shgno=[[土屋挙直]]|akitk=[[徳川昭武|昭武]]<br>(清水家→水戸家)}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|~|~|V|~|~|7| | | | | |,|-|-|+|~|~|~|7| |`|-|.| | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | }}
{{familytree|border=0|yorat|yorkz|yorhr|yrtsh| | | |atsnr|atsmr| |akitk| |hdeko| | | | | | | | | | | | |fujio|y|yasuk| | | | | | | | |yorhr=[[松平頼煕 (高松藩嫡子)|松平頼煕]]|yrtsh='''[[松平頼聰]]'''<sup>11</sup>|yorat=[[松平頼温]]|yorkz=[[松平頼和]]<br>([[西条藩|西条家]]へ)|atsnr=[[徳川篤敬|篤敬]]|atsmr=[[徳川篤守|篤守]]<br>(清水家へ)<ref group="※">昭武が水戸家を継いだ際に明屋敷(当主不在)となった[[清水徳川家]]を継いだ。</ref>|akitk='''[[徳川昭武|昭武]]'''<sup>11</sup>|hdeko=[[徳川英子|英子]]<br>(徳川圀順夫人)|fujio=[[藤岡勝二]]|yasuk=保子}}
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{{familytree|border=0|yorat|yshkr|yrchk|yorng|yutak|nagai|hime1|y|atsnr|hime2|taksd| | | | | | | | | | | | |hirtk| | | | | | | | | | |yorat=[[松平頼温]]|yshkr=[[徳川義礼]]<br>(尾張家へ)|yrchk=松平頼親|yorng='''[[松平頼寿]]'''<sup>12</sup>|yutak=[[松平胖]]|nagai=永井翠直|hime1=聰子|atsnr='''[[徳川篤敬|篤敬]]'''<sup>12</sup>|hime2=昭子<br>([[松平頼寿]]夫人)|taksd=[[松戸徳川家|【松戸】]]<br>[[徳川武定|武定]]|hirtk=博武<br>(松戸家へ)}}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | |:| | |)|-|-|.| | |,|-|^|.| | | | | | |L|~|7| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }}
{{familytree|border=0| | | | | | | | | |yorhr|yrhr2|morhr|kunyk|mnysh| | | | | | |hirtk|yorhr='''[[松平頼明 (伯爵)|松平頼明]]'''<sup>13</sup>|yrhr2=[[松平頼明 (伯爵)|松平頼明]]|morhr=松平守弘|kunyk='''[[徳川圀順|圀順]]'''<sup>13</sup>|mnysh=[[徳川宗敬|宗敬]]<br>(一橋家へ)|hirtk=博武}}
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{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | |kunnr|kinsd|kinhd|kinhr|fumtk|kunnr='''[[徳川圀斉|圀斉]]'''<sup>14</sup>|kinsd=圀禎|kinhd=松平圀秀<br>(宍戸家へ)|kinhr=松平圀弘<br>(守山家へ)|fumtk=[[徳川文武|文武]]}}
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{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | |narms|narhd| | | | | | | | | |narms='''[[徳川斉正|斉正]]'''<sup>15</sup>|narhd=斉英}}
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{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | | | | | | |narnr| | | | | | | | | | | | |narnr=斉礼}}
{{familytree/end}}
=== 守山・石岡・宍戸松平家 ===
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{{familytree|border=0|MTA01|MTA02|MRA01| | | | | | | | | | | | |FCA01| | | | | | |MTA03|SDA01| | | |MTA04|MTA01=【高松】<br>[[松平頼重]]|MTA02=【水戸】<br>[[徳川光圀]]|MRA01=【守山】<br>'''[[松平頼元]]'''<sup>1</sup>|FCA01=【石岡】<br>'''[[松平頼隆]]'''<sup>1</sup>|MTA03= <br>松平頼利|SDA01=【宍戸】<br>'''[[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平頼雄]]'''<sup>1</sup>|MTA04=〔長倉〕<br>松平頼泰}}
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{{familytree|border=0| | | | | | |MRB01|MRB02|MRB03|FCB01|FCB02|FCB03| | | | | | |MTB01|SDB01| | | |MTB02|MRB01='''[[松平頼貞]]'''<sup>2</sup>|MRB02=[[本多忠国]]|MRB03=松平頼愛|FCB01=[[松平頼方 (常陸府中藩嫡子)|松平頼方]]|FCB02=[[松平頼寧]]|FCB03='''[[松平頼如]]'''<sup>2</sup>|MTB01=[[松平頼道]]|SDB01='''[[松平頼道]]'''<sup>2</sup>|MTB02=松平頼福}}
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{{familytree|border=0|MRC01|MRC02|MRC03|MRC04|MRC05| | | | | | |FCC01| | | | | | | | | |SDC01| | | |MTC01|MRC01=[[松平頼尚]]|MRC02='''[[松平頼寛]]'''<sup>3</sup>|MRC03=[[松平定賢]]<br>([[久松氏|久松家]]へ)|MRC04=[[松平頼恭]]<br>(高松家へ)|MRC05=[[松平頼済]]<br>(石岡家へ)|FCC01='''[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]'''<sup>3</sup>|SDC01='''[[松平頼慶]]'''<sup>3</sup>|MTC01=[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]<br>(石岡家へ)}}
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{{familytree|border=0|MRD01|MRD02|MRD03|MRD04|MRD05| | | |FCD01|FCD02|FCD03|FCD04|FCD05|SDD01| | | | | | |MRD01=松平頼羆|MRD02=[[松平頼篤]]|MRD03='''[[松平頼亮]]'''<sup>4</sup>|MRD04=松平頼融|MRD05=松平頼溥|FCD01='''[[松平頼永]]'''<sup>4</sup>|FCD02=[[松平武元]]<br>([[越智松平家|越智家]]へ)|FCD03=[[遠山友明]]|FCD04=[[松平頼幸]]|FCD05=[[亀井茲胤]]|SDD01='''[[松平頼多]]'''<sup>4</sup>}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|v|-|-|+|-|-|v|-|-|.| | | | | |:| | | | | | | | | | | | | | |]|~|~|7| | | | }}
{{familytree|border=0|MRE01|MRE02|MRE03|MRE04|MRE05| | | |FCE01| | | | | | | | | | | | |SDE01|SDE02| | | |MRE01=松平頼孝|MRE02='''[[松平頼慎]]'''<sup>5</sup>|MRE03=[[武田信典]]|MRE04=[[新田貞靖|由良(新田)貞靖]]|MRE05=知久頼衍|FCE01='''[[松平頼幸]]'''<sup>5</sup>|SDE01=[[松平頼洽]]|SDE02='''[[松平頼救]]'''<sup>5</sup><br><ref group="※">水戸藩主徳川宗翰の六男。</ref>}}
{{familytree|border=0| |,|-|-|+|-|-|.| | | | | | | | | | | |:| | | | | | | | | | | | | | | | | |)|-|-|.| }}
{{familytree|border=0|MRF01|MRF02|MRF03| | | | | | | | | |FCF01| | | | | | | | | | | | | | | |SDF01|SDF02|MRF01='''[[松平頼誠]]'''<sup>6</sup>|MRF02=松平頼賢|MRF03=[[松平頼永 (伊予西条藩嗣子)|松平頼永]]<br>(西条家へ)|FCF01='''[[松平頼済]]'''<sup>6</sup>|SDF01='''[[松平頼敬]]'''<sup>6</sup>|SDF02=[[松平頼位]]<br>(長倉家→宍戸家)}}
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| | | | | |)|-|-|v|-|-|.| | | | | | | | | | | |:| | | | }}
{{familytree|border=0|MRG01|MRG02|MRG03|MRG04|MRG05| | | |FCG01|FCG02|FCG03| | | | | | | | | |SDG01| | | |MRG01=松平頼茂|MRG02=松平頼音|MRG03='''[[松平頼升]]'''<sup>7</sup>|MRG04=松平頼彬|MRG05=松平頼邑|FCG01='''[[松平頼前]]'''<sup>7</sup>|FCG02=松平頼陽|FCG03=松平頼贇|SDG01='''[[松平頼筠]]'''<sup>7</sup><br><ref group="※">水戸藩主徳川治紀の四男。</ref>}}
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{{familytree|border=0| | | | | | |MRH01| | | | | | | | | |FCH01|FCH02| | | | | | | | | | | | |SDH01| | | |MRH01='''[[松平頼之]]'''<sup>8</sup><br><ref group="※">水戸藩主徳川斉昭の二十二男。</ref>|FCH01='''[[松平頼説]]'''<sup>8</sup>|FCH02=[[松平頼説]]|SDH01='''[[松平頼位]]'''<sup>8/10</sup>}}
{{familytree|border=0| | | | | | | |:| | | | | | | | | | | |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| | |)|-|-|v|-|-|.| }}
{{familytree|border=0| | | | | | |MRI01| | | | | | | | | |FCI01|FCI02|FCI03|FCI04|FCI05|FCI06|SDI01|SDI02|SDI03|MRI01='''[[松平喜徳]]'''<sup>9</sup><br><ref group="※">水戸藩主徳川斉昭の十九男。元は[[会津松平家]]([[会津藩]]主)を継いだ。</ref>|FCI01='''[[松平頼縄]]'''<sup>9</sup>|FCI02=[[中山信守]]|FCI03=松平頼功|FCI04=[[有馬広衆]]|FCI05=[[谷衛滋]]|FCI06=知久頼匡|SDI01='''[[松平頼徳]]'''<sup>9</sup>|SDI02='''[[松平頼安]]'''<sup>11</sup>|SDI03=[[松平頼平]]<br>(守山家へ)}}
{{familytree|border=0| | | | | | | |:| | | | | |,|-|-|v|-|-|+|-|-|.| | |)|-|-|.| | | | | | | | | | | |]|~|~|7| }}
{{familytree|border=0| | | | | | |MRJ01| | | |FCJ01|FCJ02|FCJ03|FCJ04|FCJ05|FCJ06| | | | | | | | | |SDJ01|SDJ02|MRJ01='''[[松平頼平]]'''<sup>10</sup>|FCJ01='''[[松平頼策]]'''<sup>10</sup>|FCJ02=松平頼寿|FCJ03=貴志頼邁|FCJ04=松平頼教|FCJ05=[[片桐貞篤]]|FCJ06=[[本多副元]]|SDJ01=松平頼敏|SDJ02=松平圀秀}}
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{{familytree|border=0|MRK01|MRK02|MRK03|MRK04|FCK01|FCK02| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |SDK01|MRK01=松平頼栄|MRK02='''松平秋雄'''<sup>11</sup>|MRK03=樋口行雄|MRK04=森田静雄|FCK01='''[[松平頼孝]]'''<sup>11</sup>|FCK02=松平頼忠|SDK01=[[上野秀治]]}}
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{{familytree|border=0| | | |MRL01| | | | | | |FCL01| | | |MRL01='''松平圀弘'''<sup>12</sup>|FCL01=[[松平頼則]]}}
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{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | |FCM01| | | |FCM01=[[松平頼暁]]}}
{{familytree/end}}
=== 注記 ===
{{Reflist|group=※}}
== 水戸徳川家臣団 ==
=== 御附家老 従五位下叙爵 ===
{{see also|御附家老}}
* [[中山氏]]
=== 累代家老 従五位下叙爵 ===
<div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[山野辺氏]]
* [[鈴木氏]](石見守)
* [[太田氏]]
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===累代家老・重臣===
<div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* 松平氏(支流)
* 松平氏([[大草松平家]])
* 松平氏([[福釜松平家]])
</div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[肥田氏]]
* [[宇都宮氏]]
* [[朝比奈氏]]
* [[榊原氏]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[岡崎氏]]
* [[伊藤氏]]
* [[三木氏]]
* [[谷氏]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[雑賀党鈴木氏|鈴木氏]](雑賀氏)
* [[結城氏]]
* [[小山氏]]
* [[鵜殿氏]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[興津氏]]
* [[大庭氏|大場氏]]
* [[小田氏]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[市川氏]]
* [[佐藤氏]]
* [[戸田氏]]
* [[筧氏]]
</div>{{clear|left}}
=== 一代家老・中堅家臣 ===
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* [[安島氏]]
* [[藤田氏]]
* [[武田氏]]([[跡部氏]])
</div>{{clear|left}}{{Clear}}
== 脚注 ==
=== 備考 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1990年(平成2年)|title=華族大鑑|series=日本人物誌叢書7|author=華族大鑑刊行会|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820540342|ref=harv}}
== 関連項目 ==
;水戸徳川家関連<!-- 50音順 -->
*[[小石川後楽園]] 江戸上屋敷。中屋敷は現在の東京大学[[東京大学#組織構成|浅野キャンパス]]一帯にあった。
*[[水戸藩下屋敷|小梅邸]] 同下屋敷。大政奉還後、斉昭未亡人吉子らの住まい。(現・[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]] [[隅田公園]])
*城と陣屋
**宍戸藩 [[宍戸陣屋]]
**[[駿府城]]
**[[高松城 (讃岐国)|高松城]]
**[[館林城]]
**[[土浦城]]
**[[浜田城]]
**府中藩 [[府中陣屋]]
**[[水戸城]]
**[[守山城 (陸奥国)|守山城]]
*[[水府系纂]]
*[[瑞龍山]](水戸徳川家墓所)
*[[徳川慶喜家]]
*[[徳川宗家]]
*[[副将軍]] - 水戸藩主の俗称。実際に水戸藩主が「副将軍」に就任したことはない。
*[[水戸黄門]](創作)
== 外部リンク ==
* [http://www.tokugawa.gr.jp/ 徳川ミュージアム 公式サイト] {{ja icon}}
*[https://www.city.mito.lg.jp/001373/001374/0/bunkazai/mitositotokugwakyoudoujigyou_d/fil/kouhoumitokiji.pdf 水戸徳川家の 新たな史料発見] 『広報みと』、2014年3月1日、P.8-9
* {{Commonscat-inline}}
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[[Category:水戸徳川家|!]]
[[Category:徳川御三家|みと]]
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1628年
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1628年(1628 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
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1628年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[戊辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛永]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2288年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[崇禎]]元年
*** [[張惟元]] : [[永興 (張惟元)|永興]]元年
** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]6年
** [[檀君紀元|檀紀]]3961年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永祚 (黎朝)|永祚]]10年
* [[仏滅紀元]] : 2170年 - 2171年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1037年 - 1038年
* [[ユダヤ暦]] : 5388年 - 5389年
* [[ユリウス暦]] : 1627年12月22日 - 1628年12月21日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* 3月 - [[イングランド議会]]から要求された「[[権利の請願]]」を国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が受諾。
* [[8月23日]] - イングランド国王の側近[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|バッキンガム公]]が暗殺される。
* [[ウイリアム・ハーベー|ウィリアム・ハーヴェー]]が[[血液循環説]]を発表。
* [[明]]の[[崇禎帝]]が第17代皇帝に即位。
* 華北陝西での大飢饉から各地で農民反乱([[李自成]]の乱・[[張献忠]]の乱に発展)。
* [[ムガル帝国]]の[[シャー・ジャハーン]]が第5代[[皇帝]]に即位。
* [[タイオワン事件]]([[浜田弥兵衛]]事件)。
* [[クラスノヤルスク]]が[[ロシア]]東[[シベリア]]の要塞として建設される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1628年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月12日]] - [[シャルル・ペロー]]、[[詩人]]・[[童話]]作家(+ [[1703年]])
* [[3月10日]] - [[マルチェロ・マルピーギ]]、[[イタリア]]の[[医者]]・[[解剖学者]](+ [[1694年]])
* [[4月20日]](寛永5年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[名古屋玄医]]、[[漢方医学|漢方医]]。[[古方派]]の祖(+ [[1696年]])
* [[7月11日]](寛永5年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[徳川光圀]]<ref>{{Kotobank|徳川光圀}}</ref>、[[水戸徳川家]]第2代藩主(+ [[1701年]])
* [[11月28日]] - [[ジョン・バニヤン]]、[[イングランド]]の[[聖職者]]、[[文学者]](+ [[1688年]])
* 月日不明 - [[ヤーコプ・ファン・ロイスダール]]、[[オランダ]]の[[風景画]]家(+ [[1682年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1628年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月12日]] - [[ジョン・ブル (作曲家)|ジョン・ブル]]、作曲家、[[オルガン]]製作者(* [[1562年]]または[[1563年]])
* [[6月8日]](寛永5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[平野長泰]]、武将、賤ヶ岳の七本槍のひとり(* [[1559年]])
* [[7月12日]](寛永5年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]) - [[高仁親王]]、[[後水尾天皇]]第二皇子([[1626年]])
* [[7月28日]](寛永5年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[大久保忠隣]]、老中(* [[1553年]])
* [[8月23日]] - [[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)]]、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|イングランド国王ジェームズ1世]]の寵臣。
* [[9月7日]](寛永5年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[井上正就]]、老中(* [[1577年]])
* [[12月2日]](寛永5年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[小野忠明]]、剣術家(* [[1569年]])
* [[12月13日]] - [[ソンタム]]、[[アユタヤ王朝]]第24代国王(* [[1590年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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競馬場
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競馬場(けいばじょう)とは、競馬を行う施設である。
狭義の競馬場は競走馬による競走(レース)を行うための馬場(コース)そのものを意味するが多くの場合、レース観戦のためのスタンドなどコース周辺に設置される様々な施設をも含めた総称を競馬場という。
競馬場には競走を行うに当たって必要な馬場や競馬を円滑に行うための各設備のほか、観客が来場ならびに観戦に必要な設備を有することが多い。
近代競馬の基礎が築かれたイギリスの競馬では、ヘンリー8世の治世下にあった1540年にチェスターの郊外にあるルーディに初の常設競馬場(チェスター競馬場)が設けられた。1711年にはアン女王がウィンザー城にほど近いアスコットに王室所有のアスコット競馬場を開設した。イギリスの競馬場のロイヤル・エンクロージャー(Royal Enclosure)と呼ばれるエリアにはドレスコードが設けられており、現代に至るまで競馬場は社交場として機能している。
このようにもっぱら競走を行う目的の施設が建造されるようになった歴史は他の様々な競技と比べても古く、一般的に英語でRacecourseあるいはRacetrack(主に米国)といえば、馬を意味するhorseという単語を明示せずとも競馬場を意味しており、敢えてhorseという単語が明示されることは少なく、例えば中央競馬の競馬場の英語名も東京競馬場がTokyo Racecourseとされている。なお、競馬以外を行うコース・トラックはrace courseあるいはrace trackというように単語を切り離して表現される。
競馬の競走を行うためのコースのこと。走路とも呼ばれる。材質、形態など様々でありあり、また本馬場の内部にも様々な設備がある。
本馬場は1つ以上からなり、大きな競馬場となると平地競走用の馬場のほかに障害競走用の馬場などが別途設けられる。さらに練習用の馬場が併設される場合もある。
なお、記事中の「馬場」「コース」「走路」は、基本的に同一の設備を指す。
馬場に使われる素材としては芝やダート、砂、ウッドチップ、オールウェザーなどがあり、複数種類の馬場が設けられている競馬場もある。
日本の中央競馬の芝コースは競馬場によって野芝のコース、洋芝のコース、「オーバーシード」を施したコースとある。各競馬場の造園課により芝が養生され、ラチなどを組みあわせて開催時期にあった管理が行われている。
日本のダートコースは昔は砂馬場(現在、日本には砂馬場は存在しない)と呼ばれていたものを改良したものである。アメリカ合衆国のダートコースを模範に導入したとされているがアメリカと日本の気候の違いから日本では日本の気候にあったダートコースが整備されており、アメリカのダートコースとは異なる。
ウッドチップコースは木の屑などを敷き詰めた馬場である。芝コースに比べて足への負担が軽いとされている。ウッドチップコースは調教用にのみ用いられ、実際の競走では用いられない。日本の競馬場では函館競馬場と門別競馬場に設置されている(その他、トレーニングセンターや育成牧場に設置されている)。
近年はオールウェザーと呼ばれる人工素材を利用したコースが世界の複数の競馬場で導入されている。現在、日本の競馬場では人工素材のコースは存在していないが、競走馬の育成・調教施設には導入しているところもある。
コースレイアウトは一般的にはトラック状が多いが、そうでないものも多い。トラック状であっても歪な形や多角形をしたコースや、直線を組み合わせたコースなど様々である。
日本においてはばんえい競馬を除き、トラック状のコースが採用されている。アメリカにはトラック状のコースが多い。ヨーロッパでは元々存在した自然地形を利用して設計された競馬場が多いため、不定形な形状のものが多い。極端な場合にはスコットランドのハミルトンパーク競馬場(W:Hamilton Park Racecourse)の様に1マイル近い芝の直線コースの先端部近くに長距離走用の小さな折り返し用コースを組み合わせだけという、さながら鰻の寝床の様なコースすら存在する。ばんえい競馬(帯広競馬場)は直線200メートルの走路上に、2箇所の山(障害)が設置されている。
トラック状のコースはほとんどの場合、コース毎に周回方向が決まっており両回りに対応するコースは極めて稀である。アメリカでは全てのトラックコースを持つ競馬場が左回りで統一されているが、大半の国では周回方向の統一はされていない。
なお、日本においては観客席からみて目の前の直線の最後に決勝線が設けられている。
スパイラルカーブとは、入口から出口にかけて半径が小さくなる複合曲線によって構成されるコーナーのこと。進入時(1コーナー、3コーナー)にゆるやかで徐々に2コーナー、4コーナーになるにつれてきつくなるため、コーナー進入時はスピードを落とさずに進入でき徐々にコーナーがきつくなるので外に膨らみやすく、最後の直線で馬群がばらけやすいといわれている。
中央競馬のローカル開催場、あるいは地方競馬場の多くのコーナーがスパイラルカーブを採用している。これらの競馬場は4大主場(東京競馬場、中山競馬場、京都競馬場、阪神競馬場)に比べてコースの幅員が狭い上、最後の直線が短い。そのため最後の直線でコースロスの少ない内側に馬が密集してしまうと前の馬を裁くのに手間取り、差しや追い込みが決まりにくくなってしまう。進路妨害行為や落馬事故発生の可能性も充分考えられる。その結果、多くの競走が逃げ、先行だけで決まってしまうという単調なものになってしまうため競走をより多様なものにするのにスパイラルカーブが導入されている。これらの競馬場では最後の直線が短いことから3コーナー手前、早い場合には向こう正面から後方にいた馬がコースの外側を回り、内側の馬を捲くっていく戦法も多く取られるが、これもコーナー進入時にスピードを落とさなくていいスパイラルカーブの特性が生かされている。なお、前述のようにスパイラルコーナーを採用した場合馬群がばらけやすいため、芝コースの馬場内側を保全する効果も得られるとされている。
但し、スパイラルカーブを採用する場合はコースの周回方向が決まっている事が前提となり、逆回りコースへ改修する際は大幅な改修を要することとなる。また、特異な例ではあるが両回りコースとするのは困難となる。
オープンストレッチ
オープンストレッチとは、ゴール前の直線において他の区間よりも内ラチを広く取るコース形状のことを指す。通常のコースと異なり内側閉じ込められていた馬が内側に出ることで前詰まりを防ぐことが出来る。
フランスのパリロンシャン競馬場では凱旋門賞ウィークでのみ使われており、仮柵から解放された内側コースの芝は良好となっている。そのため、前方で走る馬にも走りやすいというメリットが存在する。
日本の競馬場は多くの場合、長円形をしており、長い2本の直線と90度に方向転換する4つのカーブで構成されている。日本ではこれらの4つのカーブに特定の名称が与えられている。
ゴールを過ぎて最初のカーブから順に第1コーナー、第2コーナー、バックストレッチ(向正面)の直線、第3コーナー、第4コーナーと呼ぶ。再びホームストレッチ(最後の直線)に戻ってくる。
通常は第4コーナーがその競走で最後のカーブとなり、特別に最終コーナーと呼ぶ。これはあくまでもゴールからの通過順をもとにした名称であり、例えばバックストレッチ側の直線から競走がスタートした場合には、はじめに通過するコーナーが第3コーナーである。
競馬は競走が行われる距離によってスタート地点が変わる。例えば東京優駿(日本ダービー)は東京競馬場の2400メートルで行われ、ホームストレッチの半ばからスタートし、第1コーナー、第2コーナー、バックストレッチ、第3コーナー、第4コーナー(最終コーナー)、最後の直線、ゴールという順で概ねコースを1周する。小さい競馬場では同じ2400メートルでも1周では足りないので1周半になることがあり、向こう正面からスタート、第3コーナー、第4コーナー、手前の直線、第1コーナー、第2コーナー、向こう正面の直線、第3コーナー、第4コーナー(最終コーナー)、最後の直線、ゴールとなる。この場合当然、第3コーナーや第4コーナーは2回通過することになり「1周目の第3コーナー」などと表現することもある。1回目の第4コーナーを「最終コーナー」とは呼ばない。
競馬に関する文章では表記を簡略化するため「コーナー」を「角」と表記し第1コーナーを「1角」、第2コーナーを「2角」などと表すことがある。ただし通常、第4コーナーは「4角」であって「最終角」とは言わない。例えば第3コーナーで先頭にたってそのままゴールした場合に、「3角先頭」などと表現する。通常、口語ではこれらの表現は用いないが、戦時中に英語が敵性語として使用が制限されていた際に、日本語に置き換えるように指導された際には第1角、第2角という風に表現していた事もある。
コースのカーブに「第1コーナー」などの名前がついておらず順に"first turn"、"second turn"、"third turn"と呼ぶ。したがって日本のように、「第3コーナーからスタート」とか「第4コーナーを2回通過する」というようには表現しない。
最後の直線に入る手前のカーブを特別に「タッテナムコーナー(tattenham corner)」とか「タッテナム(tattenham)」と呼ぶことがある。元来のタッテナム(Tattenham)とは、エプソムダービーが行われるエプソム競馬場の最後のカーブ地点近辺の地名であり通常「タッテナムコーナー」とはこのエプソム競馬場の最後のコーナーのことであるが、転じて他の競馬場でも「最後のカーブ」の意味で用いられることがある。エプソム競馬場の最寄り駅は「タッテナムコーナー駅」である。「タッテナムコーナー」は単に「最後のカーブである」という順番を表すだけでなく「ここからが最後の勝負である」というような意味合いもあり、日本語の「天王山」に近いニュアンスを持っている。
走路には自然に、あるいは人工的に勾配が設けられ「坂」と呼ばれる。坂は直線に設けられることが多いが、それ以外の場所にも緩やかだが存在している。一見平坦に見えても坂を上り下りしていることがあり、故に観客席から見ていると最後の直線に設けられている上り坂以外は認識しにくいことが多いが、競馬場のコースには坂はつきものである。他に京都競馬場の第3コーナーの坂は上り下りの「坂」で有名である。また、英国のエプソム競馬場には下ってから上る坂があり、米国のサンタアニタ競馬場にはスタートしてすぐに下っていく坂がある。旧盛岡競馬場(1995年廃止)では向こう正面から4コーナーにかけて高低差8.8mに及ぶ急坂があり名物であった。
障害競走やばんえい競走では平地競走の「坂」以上の100m前後(ばんえい競走の場合はもっと短い)の間に高低差が2メートル以上に及ぶ勾配が設置される。これを坂路またはバンケット(障害競走のみ)などと呼ぶ。日本の競馬場にある坂路のような、短い距離の間に急激な高低差のある勾配は日本にしか存在しない。中山競馬場の2号坂路は高低差5.3mに及ぶ。
ヨーロッパの競馬場によく見られる勾配はもとの自然の地形を反映していることが多く、「丘(hill)」と表現される。
第3コーナーから第1コーナーへ、もしくは第4コーナーから第2コーナーへというようにトラック状の走路を斜めに横切る走路が別に設置される。これを襷(たすき)コースと呼ぶ。日本では障害競走用の走路に用いられる。かつては東京競馬場、新潟競馬場、中京競馬場にも存在したが、東京競馬場の襷コースは1998年2月の「東京障害特別(春)」を最後に廃止され、跡地には馬券売り場が設置されたほか、コースの一部は芝の養生地として活用されている。また、新潟競馬場も2000年の走路全面改修工事(右回りから左回りに変更)の際に廃止、さらに中京競馬場も2010年春から2011年いっぱいにかけての全面改築工事の際に廃止された(中京競馬場ではコースの跡地が残されている)。アメリカなどでは平地競走でも襷コースが使われることがある。一例としてはアメリカンオークスのハリウッドパーク競馬場(2013年廃止)の芝10fは襷コース上からの発走であった。
一部の競馬場には、同一の素材の走路を独立して2本設ける、もしくは走路の一部を2つ重ねる(途中で分岐する)ものが存在する。競馬番組では内側にある走路を使用する競走では内回り、外側の走路を使用する競走では外回りと称して使用する走路が分かるように明記する。日本中央競馬会の競馬番組上では、内回りには何にもつけず、外回りを使用する場合のみ外回りと明記するという表記方法を採用している。
日本の場合、独立した2本の走路を設けている競馬場として船橋競馬場[ダート](ただし定期開催は外回りのみ利用)が、走路の一部を2つ重ねる形態を持つ競馬場として中央競馬の中山競馬場[芝]・京都競馬場[芝]・阪神競馬場[芝]・新潟競馬場[芝]と地方競馬の大井競馬場[ダート]、門別競馬場[ダート]がある。後者のうち中山競馬場以外は第3〜第4コーナーで内・外回りが分かれ、中山競馬場は第2〜第3コーナーで内・外回りが分かれる。
一部の長距離競走では1周目は外回りを使用し、2周目は内回りを使用するなどの複雑な使用をする場合もある。例えば有馬記念は内回りとされているが、第3コーナーから奥の外回りコースにスタートが設定されており、そこから内回りとの合流地点までは外回りコースを走る。
阪神競馬場と新潟競馬場では内回りと外回りの距離差が1ハロン(200m)で割り切れる距離のため(阪神競馬場は400m、新潟競馬場は600m)、ハロン棒は内回り・外回りの両方の残り距離を表示できるものを使用している。
1960年代前半には中山競馬場の第3〜第4コーナーに走路を2つに分ける移動柵を置いていた時期がある。この時期の有馬記念では第3コーナーの奥からスタートして1周目の第4コーナーにかけて移動柵の外側を通過して直線に入り、2周目の第3コーナーから移動柵の内側を通過して最後の直線に入っている。これらは1966年の中山競馬場のコース改修で向う正面に完全な外回りコースが完成してからは内外に分けることは無くなった。
なお、競馬番組で明記された走路と異なる走路を走った場合には1頭だけの場合には競走中止として扱われ、全馬が異なる走路を走った場合には競走不成立(1944年の長距離特殊競走(後の菊花賞)が一例)とされる。
走路の一部が平面交差する競馬場は存在するが、鈴鹿サーキットの様な立体交差するような走路は存在しない。
トラック状の走路の直線部分、もしくはカーブ途中から一部直線状に一部飛び出す形で設けられる走路。カーブ地点からの発走は内枠と外枠の有利不利が顕著に現れるほか、接触事故などの危険防止の観点から発走直後の走路をしばらく直線にして危険を回避するために設けられることが多い。
日本では引き込み線(引込線・引込み線)と称されることもある。
このポケット(シュート)が設けられることによって競走の多様な距離設定が行えるようになっている。第2コーナーの奥に設けられる直線走路を第2コーナーのポケット、第4コーナーの奥に設けられる直線走路を第4コーナーのポケットなどと呼ぶ。競馬場によってはポケットと呼ばずにシュートと呼ぶ。第2コーナーのポケットからのスタートになるのは阪神競馬場の芝1800m、京都競馬場の芝1600m・芝1800m、新潟競馬場の芝2000m(内回り芝1400m)、中京競馬場芝1400m、また札幌競馬場・函館競馬場・福島競馬場・小倉競馬場の芝1200m等で、何れも芝コースである。第4コーナーのポケットからのスタートになるのは京都競馬場の芝2400m、中京競馬場の芝2200m等で、新潟競馬場の直線芝1000mの競走に使われる直線コースも広義には第4コーナーのポケットといえる。
また、中京競馬場の芝1600mと東京競馬場芝1800mのスタートは第2コーナーから逆向きにすれば少しカーブを曲がった所から直線走路になっていて、スタート後にほぼ200〜300mをまっすぐ行った後、第2コーナーの角を回って向う正面の直線走路に入る構造になっている。この構造は馬場拡張前の阪神競馬場にもあり、芝1600mのスタートが第2コーナーというよりも第1コーナーの所からのポケットにあり、スタートして300m進んですぐ鋭角に第2コーナーを回る構造で桜花賞で2006年まで使われていた。
なお、東京競馬場の芝2000mと中山競馬場の芝1600mのスタートは第1コーナーのより外側にあって、第2コーナーで本来の走路に合流する構造になっている。
盛岡競馬場には第2コーナーの最奥に400mに渡るポケットが設けられており、マイルチャンピオンシップ南部杯などで用いられるダート1600mはこのポケットの最奥部からの発走である。
外側に芝コース、内側にダートコースが設定されている競馬場(日本の全ての中央競馬場)において、ダートコースに対するポケットが設置されている例もあり、中央競馬においてダートコースに対して設置されているポケットは芝コースを跨ぐ地点のみならずポケット全体が芝コースとなっており、発走後しばらくは芝コースを走行することとなるがこの場合も走路の呼称はあくまでも「ダート○○○○m」とされ、「芝→ダート○○○○m」というようには言われない。
特に京都競馬場と阪神競馬場のダート1400mコースでは芝のポケットを100m以上も走行することとなり競走馬の走路適性が影響を及ぼす可能性もあるほか、合流地点は必然的にコースの外側のほうが芝コースの距離が幾分長くなる為、ポケットからの発走となるダート競走ではスピードが出しやすい芝コースを少しでも長く走れる外枠発走の逃げ・先行馬が有利ともいわれ、馬券購入の際の検討要素として無視出来ない存在となっている。
走路内や走路脇には競馬を行うために必要な設備や装置が存在する。この節ではそのような設備や装備について説明する。
コースの内側および外側には柵(日本の競馬関係者はラチ(埒)と呼び、内側の柵を内ラチ、外側の柵を外ラチとも呼び、一般の競馬ファンにも広く浸透している。)が設けられる。
芝コースについては、コースの特定の部分が集中的に痛むことを避けるためにコースの内側の移動式の柵(移動柵)を内外に移動している。かつては内側の本来の柵である本柵の外側に仮の柵を設置し「仮柵」と呼んでいた。移動柵の設置位置によりコーナーでの距離に変化が生じることからこの距離の差は発走地点を移動して調整されているが、仮柵と呼ばれていた頃は、発走地点は常に一定であった。但し、障害競走用のコースにおいてはコースの距離自体を変化させるケースもある。
ゴールまでの距離を表示する目的で、コース内に設置されている標識をハロン棒という。ゴールライン(決勝線)から逆算して200mごとの距離が明示されてラチの内側に設置されている。ゴールまで残り3ハロン(600m)の地点からゴールまでを「上がり3ハロン」といい、残り800mの「上がり4ハロン」とともに電光掲示板にそのハロン棒を最初に通過した馬のタイムから最初にゴールした馬のタイムまでの各600mと800mのタイムが表示され、レース実況ではレース終了後に必ずこの上がりタイムをアナウンスしている。なお、残り3ハロンのことを競馬関係者は「三分三厘」と呼び、この最後の600mの距離をどの馬がどれ位のタイムで上がってくるかを競馬の重要な要素と見ている。電光掲示板に表示される上がりタイムはずっと先頭のまま逃げ切った馬はそのタイムで上がってきたことになるが、2番手以下から勝った馬など他の馬のタイムは1頭ごとに当然違うタイムになる。
ばんえい競馬ではこれに相当するものとして、ゴール前30mから10mまでの間に10m間隔で標識を設置している。
コース内には競馬競走における優勝劣敗を決する決勝線(ゴール地点)が設定されており、スタンド側から見て走路の内側には決勝線を示すシンボルが設置されておりゴール板と呼ばれる。英語ではwinning post(ウイニングポスト)と呼ばれ、同名の競馬シミュレーションゲームの由来になっている。
単なる装飾ではなく判定写真を反対側からも撮影するために必要な縦長の鏡の板が設置されており、重要な機能を果たす。多くの場合、決勝線及びゴール板はスタンドに面した位置に設定・設置されているが、単にゴール前における攻防の観戦に配慮しているのみならず、判定写真を撮影する写真室が殆どはスタンド内に併設されているのも理由として挙げられる。
日本の中央競馬のように芝とダートなど複数の走路がある場合は、それぞれに1箇所ずつ設置されている。殆どの競馬場では決勝線は1つの走路につき1箇所のみであるが、両回りコースなど決勝線が複数箇所に設定されている場合、それぞれにゴール板が設置される。
近年は各競馬場ごとにこのゴール板に装飾が施されており、競馬場の特色の一つにもなっている。
出走馬がスターターの合図で一斉にスタートを切ることができるように考案された装置。現在主流なのがゲート式であることから単にゲート、もしくはスターティングゲートといわれることが多い。当初は旗を振り下ろすことで合図としていたが後にバリヤー式発馬機が導入され、さらに現在ではゲート式のスタートで実施されている(なお、1971年まで存在した繋駕速歩競走では距離によるハンデだったため、スターターの振り下ろす赤旗がスタートの合図で最後まで行われたほか、一時的にはモービルゲート方式が使用されていたこともある)。ばんえい競馬では距離の変動がないため、発馬機はスタート地点に固定されている。
発馬機内の馬を監視し、的確なゲートの制御を行うためにスターターが立つ台。現在使用されているものはほとんどが自走式になっており、ピックアップトラックの荷台部分に載せられたスターター台(ゴンドラ部分)が昇降レバーで自在に昇降するシステムになっている。これと発馬機をケーブルで有線接続し、ゲートの開扉を制御している。自走式であるため、レースに応じてゲートと共にスタート地点に移動する。そのため、スタンドカーと呼称される場合もある。レースの発走時刻寸前にスターターがスタンドカーに乗りゴンドラが上っていくところは場内の大型画面に必ず映し出されて、ダービーの時などは大観衆がそのスターターの動きを見て大歓声が沸き、また実況席からは「スターターの台が上がります。ファンファーレが鳴ります」と告げてからファンファーレが鳴るのも競馬だけにあるお馴染みのシーンである。
なお、現在主流の自走式のスターター台が普及する以前は梯子で上る固定式のスターター台がコースの各スタート地点毎に設置されていた。この固定式のスターター台は現在でも川崎競馬場の1600m戦のスタート地点などで見ることができるほか、距離の変動がないばんえい競馬(帯広競馬場)も固定式となっている。
競走馬の走路の各コーナーの外側に設けられた監視塔のことである。基本的に1つのコーナーに対し、その形状に応じて1〜2箇所設置されている。
上部には小部屋が設置され、ここにはレース中には走路監視員が執務し、競走中にインターフェア(妨害)の有無や騎手の騎乗中の挙動、競走馬の故障事故などについて監視する。パトロールタワーにはカメラが設置され、裁決委員が競走監視用として使用するパトロールビデオの撮影も行う。
レースのスタート地点後方やコースの隅に作られた屋根付きの建物で内部には砂が敷かれている。馬場入場後返し馬を行った後は発走までここで待機する。
障害競走で競走馬が飛越するもの。障害競走で用いる。日本では生垣、土塁、水濠、竹柵や人工竹柵(グリーンウォール)、飛び上がり飛び降り台(京都競馬場のみ)などが存在する。一部は可動式となっており、常設せずに障害競走時のみ平地競走で用いられる走路に設置するものが存在する(新潟競馬場と中京競馬場の障害競走はこの可動式の障害のみで障害競走が行われる)。この可動式障害は置障害とも呼ばれる(これに対して、非可動式の障害は固定障害とも呼ばれる)。 可動式の障害は発馬機同様にトラクターで簡単に移動できるように設計されている。この他、障害競走専用コースの中に設置され常設として扱われる障害の一部にもカセット式になっているものがあり、こちらは競走の格に応じて大きさや質の異なる障害に差し替えて使用される。
ヨーロッパなどでは空濠(水濠の水の張っていないもので、日本でもかつては京都競馬場にあった)など、日本の障害競走よりも遥かに高度な飛越技術を要求される障害が競走馬を待ち構える。
ばんえい競馬では高さの異なる2箇所の山が走路上に設けられており、「第1障害」「第2障害」と呼称している。
競馬の業務・運営を行う目的と関係者や観客が観戦をする目的を兼ね備えた施設。スタンド内には観客が立ち入ることができるスペース、馬主などの関係者が立ち入ることが出来るスペース、運営スタッフのみが立ち入ることが出来るスペースが明確に区切られている。それぞれ自分に関係しないスペースへの立ち入りは堅く禁じられている。日本では走路の決勝線のある側の外周に東-南向きに設置されることが多い。以下ではスタンド内に併設されている設備や装置を説明する。
決勝線の延長線上に設けられており、写真判定に用いる写真をゴール板を利用して撮影する。中はレースが始まると真っ暗闇になり決勝写真を撮り終えたらすぐさま手探りでフィルムを現像し、下の階の審判室にエレベーターで送られる。通常は1箇所のみ設置されるが、離れた位置に複数の決勝線がある特殊な形態を持つ競馬場においては複数の写真室が必要となる。
この写真室は競馬運営上必須の設備で殆どの場合、スタンド内に併設されることからこの写真室を含むエリアがスタンド改築となった場合には競馬開催を中止、もしくは別の場所に臨時に写真室を設けてそれにあわせてゴール板を移動する、などの措置がとられる(後者はL-Wing建築中の大井競馬場で取られた措置で、この間は10mの端数がでる競走が多かった)。
勝馬投票券(馬券)の販売ならびに払い戻しを行う設備。かつては有人の発券・払い戻し窓口がずらりと並んでいたが、現在は人件費削減と省力化のために機械化されている窓口が多い。なお、一部は払い戻しも兼ねた兼用機になっている場合もある。
対面式の有人窓口もあるが、これについてもマークシート使用による窓口となっている場合が多い。口頭による窓口販売はごく一部の窓口に限られている。一部にマークカード対応窓口しかない競馬場もあるが、この場合でもバリアフリーの観点などからマークカードを扱えない障害者や高齢者の馬券購入希望がある場合、これに応じて特定の有人窓口の端末を手動操作することなどで発券対応している。
非開催日である場合、場内の一部の投票所のみを開放して開催中の他競馬場の馬券の発売(場外発売)や自競馬場で発売した的中券の払い戻し業務を行っていることが多い。この場合、競馬場への入場料は無料となる。
投票所の裏側(内側)は現金を扱うスペースや機械室などが設けられるため、必ず運営関係者限定のエリアとなる。
かつては利便性から競馬場内に銀行の現金自動預け払い機(ATM)が設置されていた時期があったが、政府のギャンブル等依存症対策推進の観点から各競馬場のATMは順次撤去されている。
馬主や調教師などが観戦する為の席。馬主や調教師など関係者のみが立ち入りすることができる(馬主でなくても、馬主の紹介があれば入ることが出来る場合がある。最近では競馬場の懸賞企画の一環で馬主席での観覧権のプレゼントが行われる場合もある)。馬主席にはドレスコードが設定されており、ジャケット、ネクタイ、革靴が義務付けられている。中央競馬での一口馬主は馬主の扱いではない(中央競馬の登録上は一口馬主を主催する会社が法人馬主となっている)ため、馬主席に立ち入ることはできない。ただし近年は優勝馬の口取りに参加することができるが、そのための集合場所は一般の観客席エリアとなっている。
競馬中継を行うためのスタジオである。
競馬中継の進行を行うスタジオと実況席は別に設けられている場所がある一方で、東京競馬場や中山競馬場のように放送局ごとにバルコニー付きの業務スペースが用意され、バルコニーを実況席として使用し業務スペースにセットを設営し「番組進行スタジオ」とするケースもある。また、パドック脇にブースを構えてパドックからの中継も行えるようになっている。
ただしグリーンチャンネルの競馬中継の進行は競馬場内のスタジオではなく、東京の門仲スタジオから行っている(パドックからの中継はある。映像はJRAの場内中継の映像を利用。実況はラジオNIKKEIの音声を利用)。また、地方競馬の中継でもスタジオを設けず進行する場合がある。
実況席はガラスによる光の反射により走路が見えなくならないように吹きさらしとなっているため冬場は冷たい外気にさらされ、夏場は虫が来る。また、向正面まで良く見えるようにスタンドの上部に設置されていることが多い。また、実況においてはゴール寸前の攻防が特に重要視されることから決勝線(ゴール板)付近に設置されることが多く、離れた位置に複数の決勝線がある特殊な形態を持つ競馬場においては複数の実況席が設置される場合がある。
観客が座って観戦するための座席。ただし競走中に座って観戦する必要はなく、立って観戦している場合もある。観客席は吹きさらしになっている場所、階段状に設置されている場所、ガラス張りの部屋の中、テレビモニターが見えるスタンド内、その他さまざまな場所に座席がある。席も1つずつの椅子になっているもの、長ベンチ、コンクリートの打ちっぱなしの立見席(ただし、多くの観客が座っている場所もある)など様々である。
後述する指定席以外は自由席であり、新聞やレーシングプログラムなどで席取りがしてある光景があちらこちらに見られる。席取りしてある席に座って、先に席取りをした観客が戻ってくるとトラブルになる場合がある。なお、一部の競馬場では高齢者、障害者専用の観客席があり、それらの使用には証明するものが必要である。
かつては観客席の多くが喫煙可能で、紫煙をくゆらせながらの観戦が名物だったが、健康増進法の規定に伴い次第に喫煙できる場所が限定されてきており、喫煙者には肩身が狭くなってきている。
また、2020年以降の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による感染拡大防止策の観点から無観客競馬、さらに収容人数を限定した入場制限が行われていた時期もあり、JRAにおいては入場制限の過程で導入されたインターネットによる入場券(指定席券も含む)の事前予約購入方式が定着し、入場門ではスマートフォンなどでQRコードを提示して入場する方法が普及している。2023年現在では一部のGI競走開催日の施行場・混雑が予想される開催日を除き、当日券売機で現金購入による入場も可能となっているが、QRコードが印刷されたチケットに移行しつつある。
また、JRAでは各競馬場において年1~3日の指定日において「フリーパスの日」が設定されており、一般入場料は無料(指定席は別途有料)となる。
スタンド内には入場料のみで座ることのできる上記の観客席のほか、追加料金を支払うことで座ることのできる指定席がある。競馬場によっては「特別席」と呼称することもある。
指定席のあるエリアへは追加料金を支払った観客のみが立ち入りできる競馬場が多い。指定席のあるエリア内には投票所、食堂、売店、給茶などのサービスなどが一般の観客用とは別に設けられており、これらは追加料金を支払った観客のみが使用できる。利用客に対して菓子類の無料提供を行なっている競馬場もある。指定席は当然その日に追加料金を支払った観客のみが使用するため、席取りの必要はない。ただし一般に言う指定席のほかに、自由に座れる座席が設けられているエリア定員制の競馬場もある。
なお、かつての公営競技ではこの指定席券を買い占め、転売することが暴力団・ノミ屋などの資金源の一つにされてしまい大きな問題となったことがあったため、現在ではこれらを排除する対策の一環として指定席エリアの入場に際して指定席券の確認のほかに指定席券の販売と同時に手の甲などにハンドスタンプを捺印しこれにより購入者本人であるか確認を取る場合がある。スタンプについては肉眼では可視できない紫外線反応形の不可視インクを使用している場所もあり、この場合、指定席エリアへの入場チェックのポイントには確認用の機器と人員が配置される。
指定席の座席については多くは一般の観客席の座席よりもグレードが高い物が用いられており、1人あたりの専有面積も広めに確保されている。テーブルが設置されていたり自由に使えるモニターが設置されている座席もある(1人1つとは限らず、複数人で共用する場合もある)。
指定席も禁煙席と喫煙席がある。ただし、禁煙席でも近くに喫煙スペースが設けられている場合がある。
指定席は当日販売が中心だが中央競馬ではJRAカード(クレジット機能付きカード)、大井競馬ではチケットぴあ(かつてはCNプレイガイドやイープラスで予約販売が行われていた)を用いた予約販売も行われている。なお、中央競馬では現在でも東京優駿、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の4競走施行日については事前抽選による当選ハガキとの引換かJRAカードの予約でしか購入できないようになっている。さらに2012年の有馬記念以降はインターネットオークションでの転売取引を防止するため、当選者には当選ハガキの持参と共に顔写真と当選ハガキ当選者本人の名前が確認できる公的機関発行の本人確認書類の持参も必須となっている。予約販売が行われていない頃には有名な重賞競走ともなると指定席を買い求める為に開門前、場合によっては早朝から長蛇の列となった。
一部の競馬場には年間指定席などが設置されていたり逆に指定席が存在しない、または存在しても経費面の都合などから現在は開放していない場合がある。
たいていの競馬場では様々な店舗が入っており、そこで有料の食事サービスが提供されている(指定席エリアに指定席客専用の食堂が存在する競馬場もある)。なお、食堂はスタンドの中の他にも内馬場などにも設置されている。多くはラーメンや丼物、ファストフードを中心とした軽食を食券制やセルフサービスで提供しているが一部では寿司やステーキ、会席膳などを出す店舗も見られる。また、テナントとして有名ホテルがレストランを出店している所もある。近年はネット投票の普及などによる入場者数の減少から場内飲食施設の簡素化(フードコート方式の導入、キッチンカーによる非固定化など)や撤退も散見される。
競馬場の特徴あるメニューとしては「勝つ」にかけてカツレツを用いる料理を「勝丼」「勝カレー」などと称して販売している店舗がよく見受けられる。そして多くの競馬場にある種の「名物メニュー」が存在し、多くのファンの興味や人気を呼んでいる。
大井競馬場では観戦しながらバイキングを楽しむことができるダイアモンドターンが設置されている。
一部の競馬場ではアルコール飲料も販売されるが、自動車での来場が多い佐賀競馬場内の食堂・売店では飲酒運転防止の観点からアルコール飲料の販売は禁止されている。
2004年、BSEによるアメリカ産牛肉の輸入禁止に伴う牛丼の一時販売停止が実施された際、競馬場内にある「吉野家」の店舗では、牛丼を食べることができたため一時的に人気が急上昇したこともある。これには競馬場側との契約により牛丼以外の主要メニューが提供できないためという理由もあった。
また、このように一般的な市街地にあるチェーン店などが入っていても、契約上の都合から限定されたメニューのみを提供している店舗もある。実例として、JRAの競馬場内に設置されているモスバーガーでは看板商品の一つである「モスバーガー」が販売されていない(地方競馬の大井競馬場内のモスバーガーでは販売されている)。また、モスバーガーのように通常の店舗では作り置きをしないことで知られる店舗でも、競馬場の中という立地的な特殊事情から例外的に作り置きを行っているものも存在する。
このほか、スタンド内外には弁当の販売所、新聞(競馬新聞、スポーツ新聞)の販売所、コンビニエンスストア、競馬グッズの販売所(中央競馬ではターフィーショップという名称)など様々な売店が設置されている。
このほか、競馬場のインフォメーションセンターを兼ねたPR施設などがある。
競走馬が滞在するための施設。競馬場が日常の調教を兼ねる競馬場の場合には、また日常の調教を兼ねない競馬場の場合でもトレーニングセンターから馬運車で運ばれてきた競走馬が競走が行われるまで待機する場所として馬房が設置される。
国際競走を行う競馬場の場合には検疫の関係で日本の競走馬と同じ馬房に入れることができないため、隔離できるような場所に検疫厩舎が設けられる。また、日本の競走馬でも外国から帰国して次走の出走期間が短い場合(これは届出が必要)、着地検疫を検疫馬房で受けるために競馬場の検疫馬房に入る場合がある。コスモバルクやディープインパクトが入厩したことがある。
検量した鞍を着ける場所。係員がいる場所でなければ競走馬に鞍をつけることが出来ない。
下見所(したみじょ)とも呼ばれ、出走直前の競走馬が周回する場所。パドックとも呼ばれる。通常はトラック状に舗装された部分を、厩務員や調教助手などに引かれて競走馬が周回する。馬券を購入する場合にはパドックが競走馬の体調を見極めるための場所となる。
競走馬は誰も騎乗していない状態で周回を始め、途中で騎手が騎乗し、そのままの状態でコースへと向かう。
日本の競馬場の場合、多くはスタンド隣接地やコース外周部に隣接する場所に設置されているが笠松競馬場はコース内側に設置されている。
騎手の検量を行う検量室や審議、着順の確定などを行う審判室は、いわば競馬運営の中枢である。これらの部屋はスタンドと一体となっている競馬場と、なっていない競馬場が存在する。当然、これらの施設は関係者しか立ち入ることが出来ない。
東京競馬場、中京競馬場はスタンドと一体となっており、新スタンド1Fには一般の観客が検量室などをガラス越しにみることができる「ホースプレビュー(東京)」「勝ち馬ビュー(中京)」というスポットがそれぞれある。
競馬の公正確保を目的として外部の第三者との接触を防ぎ、騎手の体調管理を行うため、競馬騎乗予定の騎手が原則として騎乗前日21時より入ることを義務づけられている施設。
1965年の山岡事件を契機に、アメリカのシステムを参考に全国の競馬場に設置された。ただし地方競馬の場合、南関東地方競馬のように連日開催が続く地域ではこれでは騎手がほとんど帰宅できなくなってしまうため、別途自宅待機の制度を定めている地区もある。
なお、中央競馬では2020年4月から5月および同年9月以降、新型コロナウイルスの感染リスクの軽減・分散を理由に特例的な措置として、JRAが認めた自宅やホテルなど所定の場所を「認定調整ルーム」とし、騎乗当日に「認定調整ルーム」から競馬場への移動を認める運用が当面の間、継続的に実施されている。
中央競馬の場合、各競馬場の他、栗東・美浦両トレーニングセンターに設置されている。トレセン調整ルームは、騎乗予定の競馬場が東京・中山の場合は美浦、中京・京都・阪神の場合は栗東のトレーニングセンターが利用可能。この場合、早朝の調教で騎乗した後、マイカーもしくはJRAが手配したタクシーで騎乗予定の競馬場に移動する。
通常は一般に公開される事はないが、2019年1月20日放送のフジテレビの番組『馬好王国〜UmazuKingdom〜』にて、福永祐一と藤田菜七子の案内で中山競馬場の建物内が公開されている。ここではそれをまとめたものである。
騎手の控室。食堂、仮眠室、浴室、簡易トレーニングルームなどが備わる。
トラック状の馬場の内側を内馬場と呼ぶ。内馬場もスタンド同様に一般の観客が立ち入ることが出来るエリアとし投票所、食堂、売店を設けている競馬場が多いが調教施設などを設置し観客が立ち入れない競馬場(新潟競馬場)や駐車場に利用されている競馬場(川崎競馬場)、広大な池が設置されている競馬場(京都競馬場)、民間の所有地として田畑が広がる競馬場(笠松競馬場)、遊具を設置し遊園地として平日も開放している競馬場(中京競馬場)など様々な用途に使われる。
トータボードとも呼ばれ、次に行われるレースに出走する競走馬の競走馬名や馬体重、背負わされる斤量、騎乗する騎手の名前、馬券のオッズ(倍率)などの情報を表示する掲示板。下見所(パドック)の側にある。古くは黒板にチョークで手書きされた掲示板であったが後に電光掲示板となり、現在ではフルカラーLED仕様の掲示板が設置されている競馬場もある。LED仕様の掲示板では映像を放映することも可能となっている。
主にスタンド前や馬場内地区、競馬場によってはパドック付近にいる来場者に情報を提供するために設置される。レース映像や馬場入場の放映、払戻金の表示等を行う。
同装置は、1988年より中央競馬では「ターフビジョン」と総称されるようになった。
日本で初めて大型映像装置が設置されたのは東京競馬場で、1984年10月のことである。大型映像装置が設置されるまで、向正面の攻防は、双眼鏡を手にしながら見るしかなかったために、大型映像装置の設置によって競馬観戦のスタイルが一新された。大型映像装置が設置されて初めて行われた重賞である毎日王冠では、3~4コーナーにかけて一気に捲りを見せたミスターシービーの走りが大型映像装置に映し出された時に、場内から大歓声が沸きあがったという。
2006年秋季に、東京競馬場に設置された三菱電機製ターフビジョンが面積660 mで世界最大の大型映像装置となった(2007年秋に京都競馬場にも東芝製大型ターフビジョンを設置)。地方競馬では、川崎競馬場にあるFUJITSU製「キングビジョン」が面積496 m、最大視認距離は250 mで、設置当時は世界最大であった。
また、ホッカイドウ競馬では、経費削減の観点から、門別競馬場には大型映像装置が存在せず、可動式の映像装置を使用する。札幌競馬場には、設備として大型映像装置が存在するが、ホッカイドウ競馬の場外発売所として使用する場合は大型映像装置を使わず、可動式映像装置を使用する。
レース走行中は先行の3頭、入線後は上位5着までの着順が点滅しながら表示される。最近では、着順掲示板が大型映像装置と一体となって設置されている場合が多い(東京競馬場や船橋競馬場など)。
2014年7月よりJRA全ての競馬場では、フルカラーLEDを使用して、レースの着順が確定した時には赤色を背景に白抜き文字で「確定」が表示され、着順表示の点滅が止まり、審議が行われている時は、青色を背景に白抜き文字で「審議」の文字が表示され、着順が点滅するものになっている。
他には着差やレースのタイム、馬場状態等が掲示されている。フルカラーLED採用前のタイプは、レースの着順が確定した時に「確」の文字が表示され赤ランプが点灯し、着順表示の点滅が止まり、審議が行われている時には「審」の文字が表示され青ランプが点灯するものだった。なお、審議により降着等があって、レースが確定した場合に用いられていた、上が赤で下が緑のランプは、中央競馬全場で使用されないことになった。
地方競馬では点滅やランプ色、未確定時の表示方法などについては、競馬場により異なる。色ランプが無く文字のみの所が多く、未確定時には「未」「通過」などの文字が表示される所もある。
レースで優勝した競走馬の関係者(調教師、厩務員、馬主、生産者など)を表彰するための場所。各種イベントの際に使用されることもある。中央競馬の競馬場では「ウイナーズサークル」と呼称する。
大都市部以外の競馬場では数千台規模の駐車場を整備している所も珍しくなく、最大とされる佐賀競馬場は収容台数1万台という巨大駐車場を整備している。競馬場の馬場の内側にも来場者用の駐車場を設置している所も見られる。
後述の送迎バスを運行している競馬場の多くでは入場門付近にターミナルが設置され、来場者の乗降が行われる。また、大井競馬場などではこのターミナルが非開催日にもバスターミナルとして使用されており、都営バスの一般路線(品93:目黒駅〜品川駅〜大井競馬場)の折返場としても使用されている。
自動車を利用して来場する場合には駐車場の確保が問題となる。前述のように敷地内に駐車場を整備している競馬場もあるほか、周囲や隣接地に駐車場が用意されている場合もある。ただしその規模は競馬場の立地条件によって大きく異なり、特に大都市圏の競馬場ではその規模や来場者数に対して駐車場の収容能力が全く不足しており開催日には周辺地域に激しい渋滞を起こしている競馬場も見られる。そのため、一般の来場者に対しては電車などの公共交通機関での来場をPRする場内放送を恒常的に流している競馬場も少なくない。また、多くの競馬場では至近の駐車場は関係者や馬主の専用駐車場として使用されている。他方、市街地に所在する競馬場では、駐車場用地の不足を補うために立体化したりといったことが行われている。なお、競馬場が自前で用意している駐車場の他にも周辺では民間の有料1日駐車場が多く見られる。
多くの競馬場では、開催日には最寄の鉄道駅との間を連絡する送迎バスを運行している。特に鉄道駅と大きく離れている門別競馬場は札幌駅から、名古屋競馬場(愛知県弥富市への移転後)は名古屋駅や旧名古屋競馬場(現:サンアール名古屋)などから比較的長距離の送迎バスが運行されている。
競馬場へのアクセスを主目的として設置されている鉄道の駅および路線、路面電車の停留所が存在する。中には改札口などの駅構造に余裕を持たせて、メインレース後などの一時的な大量の乗客を確実に捌けるだけの設備が確保されている駅もある。
「競馬場」の名は駅名に冠していないが、開催日や場外発売日にのみ使用される改札口や競馬場への専用通路が整備されている最寄駅も存在する(府中本町駅、淀駅、仁川駅など)。また、競馬場に近接するものの競馬場の名を冠さず競馬場のための特別の案内や設備は臨時出札口程度で特段行っていないが、開催時には最寄駅として機能する駅もある(川崎競馬場最寄の京急港町駅)。中には中山競馬場最寄の船橋法典駅のように競馬場への専用改札口から競馬場までの長さ1キロ弱の専用地下通路など、大量の来場者をスムーズに誘導するための大規模な設備がなされている場所も見られる。
廃止・移転された競馬場跡地が区画整理されず住宅地化された場合、走路の全部または一部が道路に転用され、楕円形の街並みが形成されることがある。岡山大学准教授の樋口輝久らが2014年、農地や公園など以外に跡地が使われた全国の競馬場跡158カ所を航空写真などから調べたところ、32カ所で走路の痕跡が確認され、このうち松江競馬場跡(島根県松江市)はほぼ完全に残り、青森競馬場跡(青森市)や鹿屋競馬場跡(鹿児島県鹿屋市)では9割程度が残っており、迷い込んで同じ道を何度も回ってしまう自動車や自転車も見かけられる。
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"text": "競馬場(けいばじょう)とは、競馬を行う施設である。",
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"text": "狭義の競馬場は競走馬による競走(レース)を行うための馬場(コース)そのものを意味するが多くの場合、レース観戦のためのスタンドなどコース周辺に設置される様々な施設をも含めた総称を競馬場という。",
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"text": "競馬場には競走を行うに当たって必要な馬場や競馬を円滑に行うための各設備のほか、観客が来場ならびに観戦に必要な設備を有することが多い。",
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"text": "近代競馬の基礎が築かれたイギリスの競馬では、ヘンリー8世の治世下にあった1540年にチェスターの郊外にあるルーディに初の常設競馬場(チェスター競馬場)が設けられた。1711年にはアン女王がウィンザー城にほど近いアスコットに王室所有のアスコット競馬場を開設した。イギリスの競馬場のロイヤル・エンクロージャー(Royal Enclosure)と呼ばれるエリアにはドレスコードが設けられており、現代に至るまで競馬場は社交場として機能している。",
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"text": "このようにもっぱら競走を行う目的の施設が建造されるようになった歴史は他の様々な競技と比べても古く、一般的に英語でRacecourseあるいはRacetrack(主に米国)といえば、馬を意味するhorseという単語を明示せずとも競馬場を意味しており、敢えてhorseという単語が明示されることは少なく、例えば中央競馬の競馬場の英語名も東京競馬場がTokyo Racecourseとされている。なお、競馬以外を行うコース・トラックはrace courseあるいはrace trackというように単語を切り離して表現される。",
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"text": "競馬の競走を行うためのコースのこと。走路とも呼ばれる。材質、形態など様々でありあり、また本馬場の内部にも様々な設備がある。",
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"text": "本馬場は1つ以上からなり、大きな競馬場となると平地競走用の馬場のほかに障害競走用の馬場などが別途設けられる。さらに練習用の馬場が併設される場合もある。",
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"text": "馬場に使われる素材としては芝やダート、砂、ウッドチップ、オールウェザーなどがあり、複数種類の馬場が設けられている競馬場もある。",
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"text": "日本の中央競馬の芝コースは競馬場によって野芝のコース、洋芝のコース、「オーバーシード」を施したコースとある。各競馬場の造園課により芝が養生され、ラチなどを組みあわせて開催時期にあった管理が行われている。",
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"text": "日本のダートコースは昔は砂馬場(現在、日本には砂馬場は存在しない)と呼ばれていたものを改良したものである。アメリカ合衆国のダートコースを模範に導入したとされているがアメリカと日本の気候の違いから日本では日本の気候にあったダートコースが整備されており、アメリカのダートコースとは異なる。",
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"text": "ウッドチップコースは木の屑などを敷き詰めた馬場である。芝コースに比べて足への負担が軽いとされている。ウッドチップコースは調教用にのみ用いられ、実際の競走では用いられない。日本の競馬場では函館競馬場と門別競馬場に設置されている(その他、トレーニングセンターや育成牧場に設置されている)。",
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"text": "近年はオールウェザーと呼ばれる人工素材を利用したコースが世界の複数の競馬場で導入されている。現在、日本の競馬場では人工素材のコースは存在していないが、競走馬の育成・調教施設には導入しているところもある。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "コースレイアウトは一般的にはトラック状が多いが、そうでないものも多い。トラック状であっても歪な形や多角形をしたコースや、直線を組み合わせたコースなど様々である。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本においてはばんえい競馬を除き、トラック状のコースが採用されている。アメリカにはトラック状のコースが多い。ヨーロッパでは元々存在した自然地形を利用して設計された競馬場が多いため、不定形な形状のものが多い。極端な場合にはスコットランドのハミルトンパーク競馬場(W:Hamilton Park Racecourse)の様に1マイル近い芝の直線コースの先端部近くに長距離走用の小さな折り返し用コースを組み合わせだけという、さながら鰻の寝床の様なコースすら存在する。ばんえい競馬(帯広競馬場)は直線200メートルの走路上に、2箇所の山(障害)が設置されている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "トラック状のコースはほとんどの場合、コース毎に周回方向が決まっており両回りに対応するコースは極めて稀である。アメリカでは全てのトラックコースを持つ競馬場が左回りで統一されているが、大半の国では周回方向の統一はされていない。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、日本においては観客席からみて目の前の直線の最後に決勝線が設けられている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "スパイラルカーブとは、入口から出口にかけて半径が小さくなる複合曲線によって構成されるコーナーのこと。進入時(1コーナー、3コーナー)にゆるやかで徐々に2コーナー、4コーナーになるにつれてきつくなるため、コーナー進入時はスピードを落とさずに進入でき徐々にコーナーがきつくなるので外に膨らみやすく、最後の直線で馬群がばらけやすいといわれている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "中央競馬のローカル開催場、あるいは地方競馬場の多くのコーナーがスパイラルカーブを採用している。これらの競馬場は4大主場(東京競馬場、中山競馬場、京都競馬場、阪神競馬場)に比べてコースの幅員が狭い上、最後の直線が短い。そのため最後の直線でコースロスの少ない内側に馬が密集してしまうと前の馬を裁くのに手間取り、差しや追い込みが決まりにくくなってしまう。進路妨害行為や落馬事故発生の可能性も充分考えられる。その結果、多くの競走が逃げ、先行だけで決まってしまうという単調なものになってしまうため競走をより多様なものにするのにスパイラルカーブが導入されている。これらの競馬場では最後の直線が短いことから3コーナー手前、早い場合には向こう正面から後方にいた馬がコースの外側を回り、内側の馬を捲くっていく戦法も多く取られるが、これもコーナー進入時にスピードを落とさなくていいスパイラルカーブの特性が生かされている。なお、前述のようにスパイラルコーナーを採用した場合馬群がばらけやすいため、芝コースの馬場内側を保全する効果も得られるとされている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "但し、スパイラルカーブを採用する場合はコースの周回方向が決まっている事が前提となり、逆回りコースへ改修する際は大幅な改修を要することとなる。また、特異な例ではあるが両回りコースとするのは困難となる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "オープンストレッチ",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "オープンストレッチとは、ゴール前の直線において他の区間よりも内ラチを広く取るコース形状のことを指す。通常のコースと異なり内側閉じ込められていた馬が内側に出ることで前詰まりを防ぐことが出来る。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "フランスのパリロンシャン競馬場では凱旋門賞ウィークでのみ使われており、仮柵から解放された内側コースの芝は良好となっている。そのため、前方で走る馬にも走りやすいというメリットが存在する。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "日本の競馬場は多くの場合、長円形をしており、長い2本の直線と90度に方向転換する4つのカーブで構成されている。日本ではこれらの4つのカーブに特定の名称が与えられている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ゴールを過ぎて最初のカーブから順に第1コーナー、第2コーナー、バックストレッチ(向正面)の直線、第3コーナー、第4コーナーと呼ぶ。再びホームストレッチ(最後の直線)に戻ってくる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "通常は第4コーナーがその競走で最後のカーブとなり、特別に最終コーナーと呼ぶ。これはあくまでもゴールからの通過順をもとにした名称であり、例えばバックストレッチ側の直線から競走がスタートした場合には、はじめに通過するコーナーが第3コーナーである。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "競馬は競走が行われる距離によってスタート地点が変わる。例えば東京優駿(日本ダービー)は東京競馬場の2400メートルで行われ、ホームストレッチの半ばからスタートし、第1コーナー、第2コーナー、バックストレッチ、第3コーナー、第4コーナー(最終コーナー)、最後の直線、ゴールという順で概ねコースを1周する。小さい競馬場では同じ2400メートルでも1周では足りないので1周半になることがあり、向こう正面からスタート、第3コーナー、第4コーナー、手前の直線、第1コーナー、第2コーナー、向こう正面の直線、第3コーナー、第4コーナー(最終コーナー)、最後の直線、ゴールとなる。この場合当然、第3コーナーや第4コーナーは2回通過することになり「1周目の第3コーナー」などと表現することもある。1回目の第4コーナーを「最終コーナー」とは呼ばない。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "競馬に関する文章では表記を簡略化するため「コーナー」を「角」と表記し第1コーナーを「1角」、第2コーナーを「2角」などと表すことがある。ただし通常、第4コーナーは「4角」であって「最終角」とは言わない。例えば第3コーナーで先頭にたってそのままゴールした場合に、「3角先頭」などと表現する。通常、口語ではこれらの表現は用いないが、戦時中に英語が敵性語として使用が制限されていた際に、日本語に置き換えるように指導された際には第1角、第2角という風に表現していた事もある。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "コースのカーブに「第1コーナー」などの名前がついておらず順に\"first turn\"、\"second turn\"、\"third turn\"と呼ぶ。したがって日本のように、「第3コーナーからスタート」とか「第4コーナーを2回通過する」というようには表現しない。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "最後の直線に入る手前のカーブを特別に「タッテナムコーナー(tattenham corner)」とか「タッテナム(tattenham)」と呼ぶことがある。元来のタッテナム(Tattenham)とは、エプソムダービーが行われるエプソム競馬場の最後のカーブ地点近辺の地名であり通常「タッテナムコーナー」とはこのエプソム競馬場の最後のコーナーのことであるが、転じて他の競馬場でも「最後のカーブ」の意味で用いられることがある。エプソム競馬場の最寄り駅は「タッテナムコーナー駅」である。「タッテナムコーナー」は単に「最後のカーブである」という順番を表すだけでなく「ここからが最後の勝負である」というような意味合いもあり、日本語の「天王山」に近いニュアンスを持っている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "走路には自然に、あるいは人工的に勾配が設けられ「坂」と呼ばれる。坂は直線に設けられることが多いが、それ以外の場所にも緩やかだが存在している。一見平坦に見えても坂を上り下りしていることがあり、故に観客席から見ていると最後の直線に設けられている上り坂以外は認識しにくいことが多いが、競馬場のコースには坂はつきものである。他に京都競馬場の第3コーナーの坂は上り下りの「坂」で有名である。また、英国のエプソム競馬場には下ってから上る坂があり、米国のサンタアニタ競馬場にはスタートしてすぐに下っていく坂がある。旧盛岡競馬場(1995年廃止)では向こう正面から4コーナーにかけて高低差8.8mに及ぶ急坂があり名物であった。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "障害競走やばんえい競走では平地競走の「坂」以上の100m前後(ばんえい競走の場合はもっと短い)の間に高低差が2メートル以上に及ぶ勾配が設置される。これを坂路またはバンケット(障害競走のみ)などと呼ぶ。日本の競馬場にある坂路のような、短い距離の間に急激な高低差のある勾配は日本にしか存在しない。中山競馬場の2号坂路は高低差5.3mに及ぶ。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパの競馬場によく見られる勾配はもとの自然の地形を反映していることが多く、「丘(hill)」と表現される。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "第3コーナーから第1コーナーへ、もしくは第4コーナーから第2コーナーへというようにトラック状の走路を斜めに横切る走路が別に設置される。これを襷(たすき)コースと呼ぶ。日本では障害競走用の走路に用いられる。かつては東京競馬場、新潟競馬場、中京競馬場にも存在したが、東京競馬場の襷コースは1998年2月の「東京障害特別(春)」を最後に廃止され、跡地には馬券売り場が設置されたほか、コースの一部は芝の養生地として活用されている。また、新潟競馬場も2000年の走路全面改修工事(右回りから左回りに変更)の際に廃止、さらに中京競馬場も2010年春から2011年いっぱいにかけての全面改築工事の際に廃止された(中京競馬場ではコースの跡地が残されている)。アメリカなどでは平地競走でも襷コースが使われることがある。一例としてはアメリカンオークスのハリウッドパーク競馬場(2013年廃止)の芝10fは襷コース上からの発走であった。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一部の競馬場には、同一の素材の走路を独立して2本設ける、もしくは走路の一部を2つ重ねる(途中で分岐する)ものが存在する。競馬番組では内側にある走路を使用する競走では内回り、外側の走路を使用する競走では外回りと称して使用する走路が分かるように明記する。日本中央競馬会の競馬番組上では、内回りには何にもつけず、外回りを使用する場合のみ外回りと明記するという表記方法を採用している。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本の場合、独立した2本の走路を設けている競馬場として船橋競馬場[ダート](ただし定期開催は外回りのみ利用)が、走路の一部を2つ重ねる形態を持つ競馬場として中央競馬の中山競馬場[芝]・京都競馬場[芝]・阪神競馬場[芝]・新潟競馬場[芝]と地方競馬の大井競馬場[ダート]、門別競馬場[ダート]がある。後者のうち中山競馬場以外は第3〜第4コーナーで内・外回りが分かれ、中山競馬場は第2〜第3コーナーで内・外回りが分かれる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "一部の長距離競走では1周目は外回りを使用し、2周目は内回りを使用するなどの複雑な使用をする場合もある。例えば有馬記念は内回りとされているが、第3コーナーから奥の外回りコースにスタートが設定されており、そこから内回りとの合流地点までは外回りコースを走る。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "阪神競馬場と新潟競馬場では内回りと外回りの距離差が1ハロン(200m)で割り切れる距離のため(阪神競馬場は400m、新潟競馬場は600m)、ハロン棒は内回り・外回りの両方の残り距離を表示できるものを使用している。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1960年代前半には中山競馬場の第3〜第4コーナーに走路を2つに分ける移動柵を置いていた時期がある。この時期の有馬記念では第3コーナーの奥からスタートして1周目の第4コーナーにかけて移動柵の外側を通過して直線に入り、2周目の第3コーナーから移動柵の内側を通過して最後の直線に入っている。これらは1966年の中山競馬場のコース改修で向う正面に完全な外回りコースが完成してからは内外に分けることは無くなった。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、競馬番組で明記された走路と異なる走路を走った場合には1頭だけの場合には競走中止として扱われ、全馬が異なる走路を走った場合には競走不成立(1944年の長距離特殊競走(後の菊花賞)が一例)とされる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "走路の一部が平面交差する競馬場は存在するが、鈴鹿サーキットの様な立体交差するような走路は存在しない。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "トラック状の走路の直線部分、もしくはカーブ途中から一部直線状に一部飛び出す形で設けられる走路。カーブ地点からの発走は内枠と外枠の有利不利が顕著に現れるほか、接触事故などの危険防止の観点から発走直後の走路をしばらく直線にして危険を回避するために設けられることが多い。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本では引き込み線(引込線・引込み線)と称されることもある。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このポケット(シュート)が設けられることによって競走の多様な距離設定が行えるようになっている。第2コーナーの奥に設けられる直線走路を第2コーナーのポケット、第4コーナーの奥に設けられる直線走路を第4コーナーのポケットなどと呼ぶ。競馬場によってはポケットと呼ばずにシュートと呼ぶ。第2コーナーのポケットからのスタートになるのは阪神競馬場の芝1800m、京都競馬場の芝1600m・芝1800m、新潟競馬場の芝2000m(内回り芝1400m)、中京競馬場芝1400m、また札幌競馬場・函館競馬場・福島競馬場・小倉競馬場の芝1200m等で、何れも芝コースである。第4コーナーのポケットからのスタートになるのは京都競馬場の芝2400m、中京競馬場の芝2200m等で、新潟競馬場の直線芝1000mの競走に使われる直線コースも広義には第4コーナーのポケットといえる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、中京競馬場の芝1600mと東京競馬場芝1800mのスタートは第2コーナーから逆向きにすれば少しカーブを曲がった所から直線走路になっていて、スタート後にほぼ200〜300mをまっすぐ行った後、第2コーナーの角を回って向う正面の直線走路に入る構造になっている。この構造は馬場拡張前の阪神競馬場にもあり、芝1600mのスタートが第2コーナーというよりも第1コーナーの所からのポケットにあり、スタートして300m進んですぐ鋭角に第2コーナーを回る構造で桜花賞で2006年まで使われていた。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、東京競馬場の芝2000mと中山競馬場の芝1600mのスタートは第1コーナーのより外側にあって、第2コーナーで本来の走路に合流する構造になっている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "盛岡競馬場には第2コーナーの最奥に400mに渡るポケットが設けられており、マイルチャンピオンシップ南部杯などで用いられるダート1600mはこのポケットの最奥部からの発走である。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "外側に芝コース、内側にダートコースが設定されている競馬場(日本の全ての中央競馬場)において、ダートコースに対するポケットが設置されている例もあり、中央競馬においてダートコースに対して設置されているポケットは芝コースを跨ぐ地点のみならずポケット全体が芝コースとなっており、発走後しばらくは芝コースを走行することとなるがこの場合も走路の呼称はあくまでも「ダート○○○○m」とされ、「芝→ダート○○○○m」というようには言われない。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "特に京都競馬場と阪神競馬場のダート1400mコースでは芝のポケットを100m以上も走行することとなり競走馬の走路適性が影響を及ぼす可能性もあるほか、合流地点は必然的にコースの外側のほうが芝コースの距離が幾分長くなる為、ポケットからの発走となるダート競走ではスピードが出しやすい芝コースを少しでも長く走れる外枠発走の逃げ・先行馬が有利ともいわれ、馬券購入の際の検討要素として無視出来ない存在となっている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "走路内や走路脇には競馬を行うために必要な設備や装置が存在する。この節ではそのような設備や装備について説明する。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "コースの内側および外側には柵(日本の競馬関係者はラチ(埒)と呼び、内側の柵を内ラチ、外側の柵を外ラチとも呼び、一般の競馬ファンにも広く浸透している。)が設けられる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "芝コースについては、コースの特定の部分が集中的に痛むことを避けるためにコースの内側の移動式の柵(移動柵)を内外に移動している。かつては内側の本来の柵である本柵の外側に仮の柵を設置し「仮柵」と呼んでいた。移動柵の設置位置によりコーナーでの距離に変化が生じることからこの距離の差は発走地点を移動して調整されているが、仮柵と呼ばれていた頃は、発走地点は常に一定であった。但し、障害競走用のコースにおいてはコースの距離自体を変化させるケースもある。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ゴールまでの距離を表示する目的で、コース内に設置されている標識をハロン棒という。ゴールライン(決勝線)から逆算して200mごとの距離が明示されてラチの内側に設置されている。ゴールまで残り3ハロン(600m)の地点からゴールまでを「上がり3ハロン」といい、残り800mの「上がり4ハロン」とともに電光掲示板にそのハロン棒を最初に通過した馬のタイムから最初にゴールした馬のタイムまでの各600mと800mのタイムが表示され、レース実況ではレース終了後に必ずこの上がりタイムをアナウンスしている。なお、残り3ハロンのことを競馬関係者は「三分三厘」と呼び、この最後の600mの距離をどの馬がどれ位のタイムで上がってくるかを競馬の重要な要素と見ている。電光掲示板に表示される上がりタイムはずっと先頭のまま逃げ切った馬はそのタイムで上がってきたことになるが、2番手以下から勝った馬など他の馬のタイムは1頭ごとに当然違うタイムになる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬ではこれに相当するものとして、ゴール前30mから10mまでの間に10m間隔で標識を設置している。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "コース内には競馬競走における優勝劣敗を決する決勝線(ゴール地点)が設定されており、スタンド側から見て走路の内側には決勝線を示すシンボルが設置されておりゴール板と呼ばれる。英語ではwinning post(ウイニングポスト)と呼ばれ、同名の競馬シミュレーションゲームの由来になっている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "単なる装飾ではなく判定写真を反対側からも撮影するために必要な縦長の鏡の板が設置されており、重要な機能を果たす。多くの場合、決勝線及びゴール板はスタンドに面した位置に設定・設置されているが、単にゴール前における攻防の観戦に配慮しているのみならず、判定写真を撮影する写真室が殆どはスタンド内に併設されているのも理由として挙げられる。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本の中央競馬のように芝とダートなど複数の走路がある場合は、それぞれに1箇所ずつ設置されている。殆どの競馬場では決勝線は1つの走路につき1箇所のみであるが、両回りコースなど決勝線が複数箇所に設定されている場合、それぞれにゴール板が設置される。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "近年は各競馬場ごとにこのゴール板に装飾が施されており、競馬場の特色の一つにもなっている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "出走馬がスターターの合図で一斉にスタートを切ることができるように考案された装置。現在主流なのがゲート式であることから単にゲート、もしくはスターティングゲートといわれることが多い。当初は旗を振り下ろすことで合図としていたが後にバリヤー式発馬機が導入され、さらに現在ではゲート式のスタートで実施されている(なお、1971年まで存在した繋駕速歩競走では距離によるハンデだったため、スターターの振り下ろす赤旗がスタートの合図で最後まで行われたほか、一時的にはモービルゲート方式が使用されていたこともある)。ばんえい競馬では距離の変動がないため、発馬機はスタート地点に固定されている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "発馬機内の馬を監視し、的確なゲートの制御を行うためにスターターが立つ台。現在使用されているものはほとんどが自走式になっており、ピックアップトラックの荷台部分に載せられたスターター台(ゴンドラ部分)が昇降レバーで自在に昇降するシステムになっている。これと発馬機をケーブルで有線接続し、ゲートの開扉を制御している。自走式であるため、レースに応じてゲートと共にスタート地点に移動する。そのため、スタンドカーと呼称される場合もある。レースの発走時刻寸前にスターターがスタンドカーに乗りゴンドラが上っていくところは場内の大型画面に必ず映し出されて、ダービーの時などは大観衆がそのスターターの動きを見て大歓声が沸き、また実況席からは「スターターの台が上がります。ファンファーレが鳴ります」と告げてからファンファーレが鳴るのも競馬だけにあるお馴染みのシーンである。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "なお、現在主流の自走式のスターター台が普及する以前は梯子で上る固定式のスターター台がコースの各スタート地点毎に設置されていた。この固定式のスターター台は現在でも川崎競馬場の1600m戦のスタート地点などで見ることができるほか、距離の変動がないばんえい競馬(帯広競馬場)も固定式となっている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "競走馬の走路の各コーナーの外側に設けられた監視塔のことである。基本的に1つのコーナーに対し、その形状に応じて1〜2箇所設置されている。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "上部には小部屋が設置され、ここにはレース中には走路監視員が執務し、競走中にインターフェア(妨害)の有無や騎手の騎乗中の挙動、競走馬の故障事故などについて監視する。パトロールタワーにはカメラが設置され、裁決委員が競走監視用として使用するパトロールビデオの撮影も行う。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "レースのスタート地点後方やコースの隅に作られた屋根付きの建物で内部には砂が敷かれている。馬場入場後返し馬を行った後は発走までここで待機する。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "障害競走で競走馬が飛越するもの。障害競走で用いる。日本では生垣、土塁、水濠、竹柵や人工竹柵(グリーンウォール)、飛び上がり飛び降り台(京都競馬場のみ)などが存在する。一部は可動式となっており、常設せずに障害競走時のみ平地競走で用いられる走路に設置するものが存在する(新潟競馬場と中京競馬場の障害競走はこの可動式の障害のみで障害競走が行われる)。この可動式障害は置障害とも呼ばれる(これに対して、非可動式の障害は固定障害とも呼ばれる)。 可動式の障害は発馬機同様にトラクターで簡単に移動できるように設計されている。この他、障害競走専用コースの中に設置され常設として扱われる障害の一部にもカセット式になっているものがあり、こちらは競走の格に応じて大きさや質の異なる障害に差し替えて使用される。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパなどでは空濠(水濠の水の張っていないもので、日本でもかつては京都競馬場にあった)など、日本の障害競走よりも遥かに高度な飛越技術を要求される障害が競走馬を待ち構える。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬では高さの異なる2箇所の山が走路上に設けられており、「第1障害」「第2障害」と呼称している。",
"title": "馬場・コース・走路"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "競馬の業務・運営を行う目的と関係者や観客が観戦をする目的を兼ね備えた施設。スタンド内には観客が立ち入ることができるスペース、馬主などの関係者が立ち入ることが出来るスペース、運営スタッフのみが立ち入ることが出来るスペースが明確に区切られている。それぞれ自分に関係しないスペースへの立ち入りは堅く禁じられている。日本では走路の決勝線のある側の外周に東-南向きに設置されることが多い。以下ではスタンド内に併設されている設備や装置を説明する。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "決勝線の延長線上に設けられており、写真判定に用いる写真をゴール板を利用して撮影する。中はレースが始まると真っ暗闇になり決勝写真を撮り終えたらすぐさま手探りでフィルムを現像し、下の階の審判室にエレベーターで送られる。通常は1箇所のみ設置されるが、離れた位置に複数の決勝線がある特殊な形態を持つ競馬場においては複数の写真室が必要となる。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この写真室は競馬運営上必須の設備で殆どの場合、スタンド内に併設されることからこの写真室を含むエリアがスタンド改築となった場合には競馬開催を中止、もしくは別の場所に臨時に写真室を設けてそれにあわせてゴール板を移動する、などの措置がとられる(後者はL-Wing建築中の大井競馬場で取られた措置で、この間は10mの端数がでる競走が多かった)。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "勝馬投票券(馬券)の販売ならびに払い戻しを行う設備。かつては有人の発券・払い戻し窓口がずらりと並んでいたが、現在は人件費削減と省力化のために機械化されている窓口が多い。なお、一部は払い戻しも兼ねた兼用機になっている場合もある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "対面式の有人窓口もあるが、これについてもマークシート使用による窓口となっている場合が多い。口頭による窓口販売はごく一部の窓口に限られている。一部にマークカード対応窓口しかない競馬場もあるが、この場合でもバリアフリーの観点などからマークカードを扱えない障害者や高齢者の馬券購入希望がある場合、これに応じて特定の有人窓口の端末を手動操作することなどで発券対応している。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "非開催日である場合、場内の一部の投票所のみを開放して開催中の他競馬場の馬券の発売(場外発売)や自競馬場で発売した的中券の払い戻し業務を行っていることが多い。この場合、競馬場への入場料は無料となる。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "投票所の裏側(内側)は現金を扱うスペースや機械室などが設けられるため、必ず運営関係者限定のエリアとなる。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "かつては利便性から競馬場内に銀行の現金自動預け払い機(ATM)が設置されていた時期があったが、政府のギャンブル等依存症対策推進の観点から各競馬場のATMは順次撤去されている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "馬主や調教師などが観戦する為の席。馬主や調教師など関係者のみが立ち入りすることができる(馬主でなくても、馬主の紹介があれば入ることが出来る場合がある。最近では競馬場の懸賞企画の一環で馬主席での観覧権のプレゼントが行われる場合もある)。馬主席にはドレスコードが設定されており、ジャケット、ネクタイ、革靴が義務付けられている。中央競馬での一口馬主は馬主の扱いではない(中央競馬の登録上は一口馬主を主催する会社が法人馬主となっている)ため、馬主席に立ち入ることはできない。ただし近年は優勝馬の口取りに参加することができるが、そのための集合場所は一般の観客席エリアとなっている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "競馬中継を行うためのスタジオである。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "競馬中継の進行を行うスタジオと実況席は別に設けられている場所がある一方で、東京競馬場や中山競馬場のように放送局ごとにバルコニー付きの業務スペースが用意され、バルコニーを実況席として使用し業務スペースにセットを設営し「番組進行スタジオ」とするケースもある。また、パドック脇にブースを構えてパドックからの中継も行えるようになっている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ただしグリーンチャンネルの競馬中継の進行は競馬場内のスタジオではなく、東京の門仲スタジオから行っている(パドックからの中継はある。映像はJRAの場内中継の映像を利用。実況はラジオNIKKEIの音声を利用)。また、地方競馬の中継でもスタジオを設けず進行する場合がある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "実況席はガラスによる光の反射により走路が見えなくならないように吹きさらしとなっているため冬場は冷たい外気にさらされ、夏場は虫が来る。また、向正面まで良く見えるようにスタンドの上部に設置されていることが多い。また、実況においてはゴール寸前の攻防が特に重要視されることから決勝線(ゴール板)付近に設置されることが多く、離れた位置に複数の決勝線がある特殊な形態を持つ競馬場においては複数の実況席が設置される場合がある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "観客が座って観戦するための座席。ただし競走中に座って観戦する必要はなく、立って観戦している場合もある。観客席は吹きさらしになっている場所、階段状に設置されている場所、ガラス張りの部屋の中、テレビモニターが見えるスタンド内、その他さまざまな場所に座席がある。席も1つずつの椅子になっているもの、長ベンチ、コンクリートの打ちっぱなしの立見席(ただし、多くの観客が座っている場所もある)など様々である。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "後述する指定席以外は自由席であり、新聞やレーシングプログラムなどで席取りがしてある光景があちらこちらに見られる。席取りしてある席に座って、先に席取りをした観客が戻ってくるとトラブルになる場合がある。なお、一部の競馬場では高齢者、障害者専用の観客席があり、それらの使用には証明するものが必要である。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "かつては観客席の多くが喫煙可能で、紫煙をくゆらせながらの観戦が名物だったが、健康増進法の規定に伴い次第に喫煙できる場所が限定されてきており、喫煙者には肩身が狭くなってきている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また、2020年以降の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による感染拡大防止策の観点から無観客競馬、さらに収容人数を限定した入場制限が行われていた時期もあり、JRAにおいては入場制限の過程で導入されたインターネットによる入場券(指定席券も含む)の事前予約購入方式が定着し、入場門ではスマートフォンなどでQRコードを提示して入場する方法が普及している。2023年現在では一部のGI競走開催日の施行場・混雑が予想される開催日を除き、当日券売機で現金購入による入場も可能となっているが、QRコードが印刷されたチケットに移行しつつある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "また、JRAでは各競馬場において年1~3日の指定日において「フリーパスの日」が設定されており、一般入場料は無料(指定席は別途有料)となる。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "スタンド内には入場料のみで座ることのできる上記の観客席のほか、追加料金を支払うことで座ることのできる指定席がある。競馬場によっては「特別席」と呼称することもある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "指定席のあるエリアへは追加料金を支払った観客のみが立ち入りできる競馬場が多い。指定席のあるエリア内には投票所、食堂、売店、給茶などのサービスなどが一般の観客用とは別に設けられており、これらは追加料金を支払った観客のみが使用できる。利用客に対して菓子類の無料提供を行なっている競馬場もある。指定席は当然その日に追加料金を支払った観客のみが使用するため、席取りの必要はない。ただし一般に言う指定席のほかに、自由に座れる座席が設けられているエリア定員制の競馬場もある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、かつての公営競技ではこの指定席券を買い占め、転売することが暴力団・ノミ屋などの資金源の一つにされてしまい大きな問題となったことがあったため、現在ではこれらを排除する対策の一環として指定席エリアの入場に際して指定席券の確認のほかに指定席券の販売と同時に手の甲などにハンドスタンプを捺印しこれにより購入者本人であるか確認を取る場合がある。スタンプについては肉眼では可視できない紫外線反応形の不可視インクを使用している場所もあり、この場合、指定席エリアへの入場チェックのポイントには確認用の機器と人員が配置される。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "指定席の座席については多くは一般の観客席の座席よりもグレードが高い物が用いられており、1人あたりの専有面積も広めに確保されている。テーブルが設置されていたり自由に使えるモニターが設置されている座席もある(1人1つとは限らず、複数人で共用する場合もある)。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "指定席も禁煙席と喫煙席がある。ただし、禁煙席でも近くに喫煙スペースが設けられている場合がある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "指定席は当日販売が中心だが中央競馬ではJRAカード(クレジット機能付きカード)、大井競馬ではチケットぴあ(かつてはCNプレイガイドやイープラスで予約販売が行われていた)を用いた予約販売も行われている。なお、中央競馬では現在でも東京優駿、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の4競走施行日については事前抽選による当選ハガキとの引換かJRAカードの予約でしか購入できないようになっている。さらに2012年の有馬記念以降はインターネットオークションでの転売取引を防止するため、当選者には当選ハガキの持参と共に顔写真と当選ハガキ当選者本人の名前が確認できる公的機関発行の本人確認書類の持参も必須となっている。予約販売が行われていない頃には有名な重賞競走ともなると指定席を買い求める為に開門前、場合によっては早朝から長蛇の列となった。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "一部の競馬場には年間指定席などが設置されていたり逆に指定席が存在しない、または存在しても経費面の都合などから現在は開放していない場合がある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "たいていの競馬場では様々な店舗が入っており、そこで有料の食事サービスが提供されている(指定席エリアに指定席客専用の食堂が存在する競馬場もある)。なお、食堂はスタンドの中の他にも内馬場などにも設置されている。多くはラーメンや丼物、ファストフードを中心とした軽食を食券制やセルフサービスで提供しているが一部では寿司やステーキ、会席膳などを出す店舗も見られる。また、テナントとして有名ホテルがレストランを出店している所もある。近年はネット投票の普及などによる入場者数の減少から場内飲食施設の簡素化(フードコート方式の導入、キッチンカーによる非固定化など)や撤退も散見される。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "競馬場の特徴あるメニューとしては「勝つ」にかけてカツレツを用いる料理を「勝丼」「勝カレー」などと称して販売している店舗がよく見受けられる。そして多くの競馬場にある種の「名物メニュー」が存在し、多くのファンの興味や人気を呼んでいる。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "大井競馬場では観戦しながらバイキングを楽しむことができるダイアモンドターンが設置されている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "一部の競馬場ではアルコール飲料も販売されるが、自動車での来場が多い佐賀競馬場内の食堂・売店では飲酒運転防止の観点からアルコール飲料の販売は禁止されている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2004年、BSEによるアメリカ産牛肉の輸入禁止に伴う牛丼の一時販売停止が実施された際、競馬場内にある「吉野家」の店舗では、牛丼を食べることができたため一時的に人気が急上昇したこともある。これには競馬場側との契約により牛丼以外の主要メニューが提供できないためという理由もあった。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "また、このように一般的な市街地にあるチェーン店などが入っていても、契約上の都合から限定されたメニューのみを提供している店舗もある。実例として、JRAの競馬場内に設置されているモスバーガーでは看板商品の一つである「モスバーガー」が販売されていない(地方競馬の大井競馬場内のモスバーガーでは販売されている)。また、モスバーガーのように通常の店舗では作り置きをしないことで知られる店舗でも、競馬場の中という立地的な特殊事情から例外的に作り置きを行っているものも存在する。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "このほか、スタンド内外には弁当の販売所、新聞(競馬新聞、スポーツ新聞)の販売所、コンビニエンスストア、競馬グッズの販売所(中央競馬ではターフィーショップという名称)など様々な売店が設置されている。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "このほか、競馬場のインフォメーションセンターを兼ねたPR施設などがある。",
"title": "スタンド"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "競走馬が滞在するための施設。競馬場が日常の調教を兼ねる競馬場の場合には、また日常の調教を兼ねない競馬場の場合でもトレーニングセンターから馬運車で運ばれてきた競走馬が競走が行われるまで待機する場所として馬房が設置される。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "国際競走を行う競馬場の場合には検疫の関係で日本の競走馬と同じ馬房に入れることができないため、隔離できるような場所に検疫厩舎が設けられる。また、日本の競走馬でも外国から帰国して次走の出走期間が短い場合(これは届出が必要)、着地検疫を検疫馬房で受けるために競馬場の検疫馬房に入る場合がある。コスモバルクやディープインパクトが入厩したことがある。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "検量した鞍を着ける場所。係員がいる場所でなければ競走馬に鞍をつけることが出来ない。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "下見所(したみじょ)とも呼ばれ、出走直前の競走馬が周回する場所。パドックとも呼ばれる。通常はトラック状に舗装された部分を、厩務員や調教助手などに引かれて競走馬が周回する。馬券を購入する場合にはパドックが競走馬の体調を見極めるための場所となる。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "競走馬は誰も騎乗していない状態で周回を始め、途中で騎手が騎乗し、そのままの状態でコースへと向かう。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "日本の競馬場の場合、多くはスタンド隣接地やコース外周部に隣接する場所に設置されているが笠松競馬場はコース内側に設置されている。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "騎手の検量を行う検量室や審議、着順の確定などを行う審判室は、いわば競馬運営の中枢である。これらの部屋はスタンドと一体となっている競馬場と、なっていない競馬場が存在する。当然、これらの施設は関係者しか立ち入ることが出来ない。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "東京競馬場、中京競馬場はスタンドと一体となっており、新スタンド1Fには一般の観客が検量室などをガラス越しにみることができる「ホースプレビュー(東京)」「勝ち馬ビュー(中京)」というスポットがそれぞれある。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "競馬の公正確保を目的として外部の第三者との接触を防ぎ、騎手の体調管理を行うため、競馬騎乗予定の騎手が原則として騎乗前日21時より入ることを義務づけられている施設。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1965年の山岡事件を契機に、アメリカのシステムを参考に全国の競馬場に設置された。ただし地方競馬の場合、南関東地方競馬のように連日開催が続く地域ではこれでは騎手がほとんど帰宅できなくなってしまうため、別途自宅待機の制度を定めている地区もある。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "なお、中央競馬では2020年4月から5月および同年9月以降、新型コロナウイルスの感染リスクの軽減・分散を理由に特例的な措置として、JRAが認めた自宅やホテルなど所定の場所を「認定調整ルーム」とし、騎乗当日に「認定調整ルーム」から競馬場への移動を認める運用が当面の間、継続的に実施されている。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "中央競馬の場合、各競馬場の他、栗東・美浦両トレーニングセンターに設置されている。トレセン調整ルームは、騎乗予定の競馬場が東京・中山の場合は美浦、中京・京都・阪神の場合は栗東のトレーニングセンターが利用可能。この場合、早朝の調教で騎乗した後、マイカーもしくはJRAが手配したタクシーで騎乗予定の競馬場に移動する。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "通常は一般に公開される事はないが、2019年1月20日放送のフジテレビの番組『馬好王国〜UmazuKingdom〜』にて、福永祐一と藤田菜七子の案内で中山競馬場の建物内が公開されている。ここではそれをまとめたものである。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "騎手の控室。食堂、仮眠室、浴室、簡易トレーニングルームなどが備わる。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "トラック状の馬場の内側を内馬場と呼ぶ。内馬場もスタンド同様に一般の観客が立ち入ることが出来るエリアとし投票所、食堂、売店を設けている競馬場が多いが調教施設などを設置し観客が立ち入れない競馬場(新潟競馬場)や駐車場に利用されている競馬場(川崎競馬場)、広大な池が設置されている競馬場(京都競馬場)、民間の所有地として田畑が広がる競馬場(笠松競馬場)、遊具を設置し遊園地として平日も開放している競馬場(中京競馬場)など様々な用途に使われる。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "トータボードとも呼ばれ、次に行われるレースに出走する競走馬の競走馬名や馬体重、背負わされる斤量、騎乗する騎手の名前、馬券のオッズ(倍率)などの情報を表示する掲示板。下見所(パドック)の側にある。古くは黒板にチョークで手書きされた掲示板であったが後に電光掲示板となり、現在ではフルカラーLED仕様の掲示板が設置されている競馬場もある。LED仕様の掲示板では映像を放映することも可能となっている。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "主にスタンド前や馬場内地区、競馬場によってはパドック付近にいる来場者に情報を提供するために設置される。レース映像や馬場入場の放映、払戻金の表示等を行う。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "同装置は、1988年より中央競馬では「ターフビジョン」と総称されるようになった。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "日本で初めて大型映像装置が設置されたのは東京競馬場で、1984年10月のことである。大型映像装置が設置されるまで、向正面の攻防は、双眼鏡を手にしながら見るしかなかったために、大型映像装置の設置によって競馬観戦のスタイルが一新された。大型映像装置が設置されて初めて行われた重賞である毎日王冠では、3~4コーナーにかけて一気に捲りを見せたミスターシービーの走りが大型映像装置に映し出された時に、場内から大歓声が沸きあがったという。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2006年秋季に、東京競馬場に設置された三菱電機製ターフビジョンが面積660 mで世界最大の大型映像装置となった(2007年秋に京都競馬場にも東芝製大型ターフビジョンを設置)。地方競馬では、川崎競馬場にあるFUJITSU製「キングビジョン」が面積496 m、最大視認距離は250 mで、設置当時は世界最大であった。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "また、ホッカイドウ競馬では、経費削減の観点から、門別競馬場には大型映像装置が存在せず、可動式の映像装置を使用する。札幌競馬場には、設備として大型映像装置が存在するが、ホッカイドウ競馬の場外発売所として使用する場合は大型映像装置を使わず、可動式映像装置を使用する。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "レース走行中は先行の3頭、入線後は上位5着までの着順が点滅しながら表示される。最近では、着順掲示板が大型映像装置と一体となって設置されている場合が多い(東京競馬場や船橋競馬場など)。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "2014年7月よりJRA全ての競馬場では、フルカラーLEDを使用して、レースの着順が確定した時には赤色を背景に白抜き文字で「確定」が表示され、着順表示の点滅が止まり、審議が行われている時は、青色を背景に白抜き文字で「審議」の文字が表示され、着順が点滅するものになっている。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "他には着差やレースのタイム、馬場状態等が掲示されている。フルカラーLED採用前のタイプは、レースの着順が確定した時に「確」の文字が表示され赤ランプが点灯し、着順表示の点滅が止まり、審議が行われている時には「審」の文字が表示され青ランプが点灯するものだった。なお、審議により降着等があって、レースが確定した場合に用いられていた、上が赤で下が緑のランプは、中央競馬全場で使用されないことになった。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "地方競馬では点滅やランプ色、未確定時の表示方法などについては、競馬場により異なる。色ランプが無く文字のみの所が多く、未確定時には「未」「通過」などの文字が表示される所もある。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "レースで優勝した競走馬の関係者(調教師、厩務員、馬主、生産者など)を表彰するための場所。各種イベントの際に使用されることもある。中央競馬の競馬場では「ウイナーズサークル」と呼称する。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "大都市部以外の競馬場では数千台規模の駐車場を整備している所も珍しくなく、最大とされる佐賀競馬場は収容台数1万台という巨大駐車場を整備している。競馬場の馬場の内側にも来場者用の駐車場を設置している所も見られる。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "後述の送迎バスを運行している競馬場の多くでは入場門付近にターミナルが設置され、来場者の乗降が行われる。また、大井競馬場などではこのターミナルが非開催日にもバスターミナルとして使用されており、都営バスの一般路線(品93:目黒駅〜品川駅〜大井競馬場)の折返場としても使用されている。",
"title": "その他の施設"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "自動車を利用して来場する場合には駐車場の確保が問題となる。前述のように敷地内に駐車場を整備している競馬場もあるほか、周囲や隣接地に駐車場が用意されている場合もある。ただしその規模は競馬場の立地条件によって大きく異なり、特に大都市圏の競馬場ではその規模や来場者数に対して駐車場の収容能力が全く不足しており開催日には周辺地域に激しい渋滞を起こしている競馬場も見られる。そのため、一般の来場者に対しては電車などの公共交通機関での来場をPRする場内放送を恒常的に流している競馬場も少なくない。また、多くの競馬場では至近の駐車場は関係者や馬主の専用駐車場として使用されている。他方、市街地に所在する競馬場では、駐車場用地の不足を補うために立体化したりといったことが行われている。なお、競馬場が自前で用意している駐車場の他にも周辺では民間の有料1日駐車場が多く見られる。",
"title": "競馬場へのアクセス方法"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "多くの競馬場では、開催日には最寄の鉄道駅との間を連絡する送迎バスを運行している。特に鉄道駅と大きく離れている門別競馬場は札幌駅から、名古屋競馬場(愛知県弥富市への移転後)は名古屋駅や旧名古屋競馬場(現:サンアール名古屋)などから比較的長距離の送迎バスが運行されている。",
"title": "競馬場へのアクセス方法"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "競馬場へのアクセスを主目的として設置されている鉄道の駅および路線、路面電車の停留所が存在する。中には改札口などの駅構造に余裕を持たせて、メインレース後などの一時的な大量の乗客を確実に捌けるだけの設備が確保されている駅もある。",
"title": "競馬場へのアクセス方法"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "「競馬場」の名は駅名に冠していないが、開催日や場外発売日にのみ使用される改札口や競馬場への専用通路が整備されている最寄駅も存在する(府中本町駅、淀駅、仁川駅など)。また、競馬場に近接するものの競馬場の名を冠さず競馬場のための特別の案内や設備は臨時出札口程度で特段行っていないが、開催時には最寄駅として機能する駅もある(川崎競馬場最寄の京急港町駅)。中には中山競馬場最寄の船橋法典駅のように競馬場への専用改札口から競馬場までの長さ1キロ弱の専用地下通路など、大量の来場者をスムーズに誘導するための大規模な設備がなされている場所も見られる。",
"title": "競馬場へのアクセス方法"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "廃止・移転された競馬場跡地が区画整理されず住宅地化された場合、走路の全部または一部が道路に転用され、楕円形の街並みが形成されることがある。岡山大学准教授の樋口輝久らが2014年、農地や公園など以外に跡地が使われた全国の競馬場跡158カ所を航空写真などから調べたところ、32カ所で走路の痕跡が確認され、このうち松江競馬場跡(島根県松江市)はほぼ完全に残り、青森競馬場跡(青森市)や鹿屋競馬場跡(鹿児島県鹿屋市)では9割程度が残っており、迷い込んで同じ道を何度も回ってしまう自動車や自転車も見かけられる。",
"title": "競馬場の廃止・移転と跡地"
}
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競馬場(けいばじょう)とは、競馬を行う施設である。 狭義の競馬場は競走馬による競走(レース)を行うための馬場(コース)そのものを意味するが多くの場合、レース観戦のためのスタンドなどコース周辺に設置される様々な施設をも含めた総称を競馬場という。 競馬場には競走を行うに当たって必要な馬場や競馬を円滑に行うための各設備のほか、観客が来場ならびに観戦に必要な設備を有することが多い。
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{{出典の明記|date=2014年7月}}
[[ファイル:2010 Kokura Kinen.jpg|thumb|300px|right|競馬場での競馬]]
'''競馬場'''(けいばじょう)とは、[[競馬]]を行う施設である。
狭義の競馬場は[[競走馬]]による[[競馬の競走|競走]](レース)を行うための[[馬場]](コース)そのものを意味するが多くの場合、レース観戦のための[[スタンド]]などコース周辺に設置される様々な施設をも含めた総称を競馬場という。
競馬場には競走を行うに当たって必要な馬場や競馬を円滑に行うための各設備のほか、観客が来場ならびに観戦に必要な設備を有することが多い。
== 歴史 ==
近代競馬の基礎が築かれた[[イギリスの競馬]]では、[[ヘンリー8世]]の治世下にあった[[1540年]]に[[チェスター]]の郊外にあるルーディに初の常設競馬場([[チェスター競馬場]])が設けられた<ref name="UK250-251">{{Cite book|和書|author=下楠昌哉 編|year=2010|title=イギリス文化入門|pages=250-251}}</ref>。[[1711年]]には[[アン女王]]が[[ウィンザー城]]にほど近い[[アスコット]]に王室所有の[[アスコット競馬場]]を開設した<ref name="UK250-251" />。イギリスの競馬場のロイヤル・エンクロージャー(Royal Enclosure)と呼ばれるエリアには[[ドレスコード]]が設けられており、現代に至るまで競馬場は社交場として機能している<ref name="UK250-251" />。
このようにもっぱら競走を行う目的の施設が建造されるようになった歴史は他の様々な競技と比べても古く、一般的に英語で'''Racecourse'''あるいは'''Racetrack'''(主に[[アメリカ合衆国|米国]])といえば、馬を意味するhorseという単語を明示せずとも競馬場を意味しており、敢えてhorseという単語が明示されることは少なく、例えば[[中央競馬]]の競馬場の英語名も[[東京競馬場]]が'''[[:en:Tokyo Racecourse|Tokyo Racecourse]]'''とされている<ref>{{cite web|url=https://japanracing.jp/en/racing/go_racing/jra_racecourses/j01.html|title=Tokyo Racecourse|publisher=[[ジャパン・スタッドブック・インターナショナル]]|accessdate=2022-01-14}}</ref>。なお、競馬以外を行うコース・トラックは'''race course'''あるいは'''[[:en:race track|race track]]'''というように単語を切り離して表現される。
== 馬場・コース・走路 ==
競馬の競走を行うためのコースのこと。走路とも呼ばれる。材質、形態など様々でありあり、また本馬場の内部にも様々な設備がある。
本馬場は1つ以上からなり、大きな競馬場となると平地競走用の馬場のほかに障害競走用の馬場などが別途設けられる。さらに練習用の馬場が併設される場合もある。
なお、記事中の「馬場」「コース」「走路」は、基本的に同一の設備を指す。
=== 馬場の材質 ===
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 150px
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| 1=Chukyo_Racetrack_12.jpg
| 2=芝コース
| 3=Nakayama-Racecourse13.jpg
| 4=ダートコース}}
馬場に使われる素材としては[[芝]]や[[ダート]]、[[砂]]、ウッドチップ、[[オールウェザー (競馬)|オールウェザー]]などがあり、複数種類の馬場が設けられている競馬場もある。
[[日本]]の[[中央競馬]]の芝コースは競馬場によって野芝のコース、洋芝のコース、「[[オーバーシード]]」を施したコースとある。各競馬場の造園課により芝が養生され、[[#ラチ|ラチ]]などを組みあわせて開催時期にあった管理が行われている。
日本のダートコースは昔は砂馬場(現在、日本には砂馬場は存在しない)と呼ばれていたものを改良したものである。[[アメリカ合衆国]]のダートコースを模範に導入したとされているがアメリカと日本の気候の違いから日本では日本の気候にあったダートコースが整備されており、アメリカのダートコースとは異なる。
ウッドチップコースは木の屑などを敷き詰めた馬場である。芝コースに比べて足への負担が軽いとされている。ウッドチップコースは調教用にのみ用いられ、実際の競走では用いられない。日本の競馬場では[[函館競馬場]]と[[門別競馬場]]に設置されている(その他、[[トレーニングセンター]]や育成[[牧場]]に設置されている)。
近年はオールウェザーと呼ばれる人工素材を利用したコースが世界の複数の競馬場で導入されている。現在、日本の競馬場では人工素材のコースは存在していないが、競走馬の育成・調教施設には導入しているところもある。
{{See_also|馬場状態}}
=== 馬場の形態 ===
コースレイアウトは一般的にはトラック状が多いが、そうでないものも多い。トラック状であっても歪な形や多角形をしたコースや、直線を組み合わせたコースなど様々である。
日本においては[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]を除き、トラック状のコースが採用されている。アメリカにはトラック状のコースが多い。[[ヨーロッパ]]では元々存在した自然地形を利用して設計された競馬場が多いため、不定形な形状のものが多い。極端な場合には[[スコットランド]]のハミルトンパーク競馬場([[W:Hamilton Park Racecourse]])の様に1マイル近い芝の直線コースの先端部近くに長距離走用の小さな折り返し用コースを組み合わせだけ<ref>[https://www.google.com/maps?num=10&hl=ja&lr=lang_ja&q=Hamilton+Park+Racecourse&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl googlemap・ハミルトンパーク競馬場]</ref>という、さながら鰻の寝床の様なコースすら存在する<ref group="注" >このハミルトンパーク競馬場では長距離の競走の場合、まずはホームストレッチをゴールに背を向けてスタートし折り返しコースを右回りにUターンしてホームストレッチに戻ってくる。</ref>。ばんえい競馬([[帯広競馬場]])は直線200メートルの走路上に、2箇所の山(障害)が設置されている<ref name="banei_obihiro">[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/course.html コース紹介(帯広競馬場)] - ばんえい競馬公式サイト、2014年7月20日閲覧</ref>。
トラック状のコースはほとんどの場合、コース毎に周回方向が決まっており両回りに対応するコースは極めて稀である<ref group="注" name="flexibleloop">現在の[[大井競馬場]]で採用。また、かつての[[東京競馬場]]の芝コース及びフランスの[[メゾンラフィット競馬場]](2019年に競馬開催終了)も両回りコースとなっていた。</ref>。アメリカでは全てのトラックコースを持つ競馬場が左回りで統一されているが、大半の国では周回方向の統一はされていない。
なお、日本においては観客席からみて目の前の直線の最後に決勝線が設けられている。
==== スパイラルカーブ ====
'''スパイラルカーブ'''とは、入口から出口にかけて半径が小さくなる複合曲線によって構成されるコーナーのこと。進入時(1コーナー、3コーナー)にゆるやかで徐々に2コーナー、4コーナーになるにつれてきつくなるため、コーナー進入時はスピードを落とさずに進入でき徐々にコーナーがきつくなるので外に膨らみやすく、最後の直線で[[馬群]]がばらけやすいといわれている。
中央競馬のローカル開催場、あるいは[[地方競馬|地方競馬場]]の多くのコーナーがスパイラルカーブを採用している。これらの競馬場は4大主場([[東京競馬場]]、[[中山競馬場]]、[[京都競馬場]]、[[阪神競馬場]])に比べてコースの幅員が狭い上、最後の直線が短い。そのため最後の直線でコースロスの少ない内側に馬が密集してしまうと前の馬を裁くのに手間取り、差しや追い込みが決まりにくくなってしまう。進路妨害行為や落馬事故発生の可能性も充分考えられる。その結果、多くの競走が逃げ、先行だけで決まってしまうという単調なものになってしまうため競走をより多様なものにするのにスパイラルカーブが導入されている。これらの競馬場では最後の直線が短いことから3コーナー手前、早い場合には向こう正面から後方にいた馬がコースの外側を回り、内側の馬を捲くっていく戦法も多く取られるが、これもコーナー進入時にスピードを落とさなくていいスパイラルカーブの特性が生かされている。<!--(バンクカーブ採用してる競馬場ありましたでしょうか?)そこでその小回りコースのトラックに関してはコーナー部分に高低差を取り付けて有利・不利をなくし、各馬が公正に一定のスピードを保ってレースができるように工夫を凝らしている。-->なお、前述のようにスパイラルコーナーを採用した場合馬群がばらけやすいため、芝コースの馬場内側を保全する効果も得られるとされている。
但し、スパイラルカーブを採用する場合はコースの周回方向が決まっている事が前提となり、逆回りコースへ改修する際は大幅な改修を要することとなる<ref group="注">中央競馬において逆回りコースに改修された[[新潟競馬場]]ではスパイラルカーブは採用されていない。</ref>。また、特異な例ではあるが両回りコース<ref group="注" name="flexibleloop" />とするのは困難となる。
'''オープンストレッチ'''
'''オープンストレッチ'''とは、ゴール前の直線において他の区間よりも内ラチを広く取るコース形状のことを指す。通常のコースと異なり内側閉じ込められていた馬が内側に出ることで前詰まりを防ぐことが出来る。
フランスの[[パリロンシャン競馬場]]では[[凱旋門賞ウィークエンド|凱旋門賞ウィーク]]でのみ使われており、仮柵から解放された内側コースの芝は良好となっている。そのため、前方で走る馬にも走りやすいというメリットが存在する。
=== 馬場の呼称 ===
==== 日本 ====
日本の競馬場は多くの場合、長円形をしており、長い2本の直線と90度に方向転換する4つのカーブで構成されている。日本ではこれらの4つのカーブに特定の名称が与えられている。
ゴールを過ぎて最初のカーブから順に'''第1コーナー'''、'''第2コーナー'''、'''バックストレッチ'''(向正面)の直線、'''第3コーナー'''、'''第4コーナー'''と呼ぶ。再び'''ホームストレッチ'''('''最後の直線''')に戻ってくる。
通常は第4コーナーがその競走で最後のカーブとなり、特別に'''最終コーナー'''と呼ぶ。これはあくまでもゴールからの通過順をもとにした名称であり、例えばバックストレッチ側の直線から競走がスタートした場合には、はじめに通過するコーナーが第3コーナーである。
競馬は競走が行われる距離によってスタート地点が変わる。例えば[[東京優駿]](日本ダービー)は[[東京競馬場]]の2400メートルで行われ、ホームストレッチの半ばからスタートし、第1コーナー、第2コーナー、バックストレッチ、第3コーナー、第4コーナー(最終コーナー)、最後の直線、ゴールという順で概ねコースを1周する。小さい競馬場では同じ2400メートルでも1周では足りないので1周半になることがあり、向こう正面からスタート、第3コーナー、第4コーナー、手前の直線、第1コーナー、第2コーナー、向こう正面の直線、第3コーナー、第4コーナー(最終コーナー)、最後の直線、ゴールとなる。この場合当然、第3コーナーや第4コーナーは2回通過することになり「1周目の第3コーナー」などと表現することもある。1回目の第4コーナーを「最終コーナー」とは呼ばない。
競馬に関する文章では表記を簡略化するため「コーナー」を「角」と表記し第1コーナーを「1角」、第2コーナーを「2角」などと表すことがある。ただし通常、第4コーナーは「4角」であって「最終角」とは言わない。例えば第3コーナーで先頭にたってそのままゴールした場合に、「3角先頭」などと表現する。通常、口語ではこれらの表現は用いないが、戦時中に英語が敵性語として使用が制限されていた際に、日本語に置き換えるように指導された際には第1角、第2角という風に表現していた事もある<ref group="注" >現在も残る当時の実況フィルムではスタートを「発馬」、ゴールを「決勝線」という用語に置き換えていた。</ref>。
==== 欧米 ====
コースのカーブに「第1コーナー」などの名前がついておらず順に"first turn"、"second turn"、"third turn"と呼ぶ。したがって日本のように、「第3コーナーからスタート」とか「第4コーナーを2回通過する」というようには表現しない。
最後の直線に入る手前のカーブを特別に「'''タッテナムコーナー'''(tattenham corner)」とか「'''タッテナム'''(tattenham)」と呼ぶことがある。元来のタッテナム(Tattenham)とは、[[ダービーステークス|エプソムダービー]]が行われる[[エプソム競馬場]]の最後のカーブ地点近辺の地名であり通常「タッテナムコーナー」とはこのエプソム競馬場の最後のコーナーのことであるが、転じて他の競馬場でも「最後のカーブ」の意味で用いられることがある。エプソム競馬場の最寄り駅は「タッテナムコーナー駅」である。「タッテナムコーナー」は単に「最後のカーブである」という順番を表すだけでなく「ここからが最後の勝負である」というような意味合いもあり、[[日本語]]の「[[天王山]]」に近いニュアンスを持っている。
==== 坂・丘 ====
[[File:Nakayama-Racecourse03.jpg|thumb|150px|中山競馬場ゴール前の急坂]]
走路には自然に、あるいは人工的に勾配が設けられ「坂」と呼ばれる。坂は直線に設けられることが多いが、それ以外の場所にも緩やかだが存在している。一見平坦に見えても坂を上り下りしていることがあり、故に観客席から見ていると最後の直線に設けられている上り坂以外は認識しにくいことが多いが、競馬場のコースには坂はつきものである。他に[[京都競馬場]]の第3コーナーの坂は上り下りの「坂」で有名である。また、英国のエプソム競馬場には下ってから上る坂があり、米国のサンタアニタ競馬場にはスタートしてすぐに下っていく坂がある。旧盛岡競馬場(1995年廃止)では向こう正面から4コーナーにかけて高低差8.8mに及ぶ急坂があり名物であった。
障害競走やばんえい競走では平地競走の「坂」以上の100m前後(ばんえい競走の場合はもっと短い)の間に高低差が2メートル以上に及ぶ勾配が設置される。これを'''坂路'''または'''バンケット'''(障害競走のみ)などと呼ぶ。{{要検証|日本の競馬場にある坂路のような、短い距離の間に急激な高低差のある勾配は日本にしか存在しない|date=2015年1月}}。[[中山競馬場]]の2号坂路は高低差5.3mに及ぶ。
ヨーロッパの競馬場によく見られる勾配はもとの自然の地形を反映していることが多く、「丘(hill)」と表現される。
==== 襷 ====
第3コーナーから第1コーナーへ、もしくは第4コーナーから第2コーナーへというようにトラック状の走路を斜めに横切る走路が別に設置される。これを'''襷(たすき)コース'''と呼ぶ。日本では障害競走用の走路に用いられる。かつては東京競馬場、[[新潟競馬場]]、[[中京競馬場]]にも存在したが、東京競馬場の襷コースは[[1998年]]2月の「[[東京障害特別|東京障害特別(春)]]」を最後に廃止され、跡地には馬券売り場が設置されたほか、コースの一部は芝の養生地として活用されている。また、新潟競馬場も[[2000年]]の走路全面改修工事(右回りから左回りに変更)の際に廃止、さらに中京競馬場も[[2010年]]春から[[2011年]]いっぱいにかけての全面改築工事の際に廃止された(中京競馬場ではコースの跡地が残されている)。アメリカなどでは平地競走でも襷コースが使われることがある。一例としては[[アメリカンオークス]]のハリウッドパーク競馬場(2013年廃止)の芝10fは襷コース上からの発走であった。
==== 内回り・外回り ====
一部の競馬場には、同一の素材の走路を独立して2本設ける、もしくは走路の一部を2つ重ねる(途中で分岐する)ものが存在する。[[競馬番組]]では内側にある走路を使用する競走では'''内回り'''、外側の走路を使用する競走では'''外回り'''と称して使用する走路が分かるように明記する。[[日本中央競馬会]]の競馬番組上では、内回りには何にもつけず、外回りを使用する場合のみ外回りと明記するという表記方法を採用している。
日本の場合、独立した2本の走路を設けている競馬場として船橋競馬場[ダート](ただし定期開催は外回りのみ利用)が、走路の一部を2つ重ねる形態を持つ競馬場として中央競馬の中山競馬場[芝]・京都競馬場[芝]・阪神競馬場[芝]・新潟競馬場[芝]と地方競馬の大井競馬場[ダート]、門別競馬場[ダート]がある。後者のうち中山競馬場以外は第3〜第4コーナーで内・外回りが分かれ、中山競馬場は第2〜第3コーナーで内・外回りが分かれる。
一部の長距離競走では1周目は外回りを使用し、2周目は内回りを使用するなどの複雑な使用をする場合もある。例えば[[有馬記念]]は内回りとされているが、第3コーナーから奥の外回りコースにスタートが設定されており、そこから内回りとの合流地点までは外回りコースを走る。
阪神競馬場と新潟競馬場では内回りと外回りの距離差が1ハロン(200m)で割り切れる距離のため(阪神競馬場は400m、新潟競馬場は600m)、ハロン棒は内回り・外回りの両方の残り距離を表示できるものを使用している。
1960年代前半には中山競馬場の第3〜第4コーナーに走路を2つに分ける移動柵を置いていた時期がある。この時期の有馬記念では第3コーナーの奥からスタートして1周目の第4コーナーにかけて移動柵の外側を通過して直線に入り、2周目の第3コーナーから移動柵の内側を通過して最後の直線に入っている。これらは1966年の中山競馬場のコース改修で向う正面に完全な外回りコースが完成してからは内外に分けることは無くなった。
なお、競馬番組で明記された走路と異なる走路を走った場合には1頭だけの場合には競走中止として扱われ、全馬が異なる走路を走った場合には競走不成立([[1944年]]の長距離特殊競走(後の[[菊花賞]])が一例)とされる。
走路の一部が平面交差する競馬場は存在するが、[[鈴鹿サーキット]]の様な立体交差するような走路は存在しない。
==== ポケット・シュート ====
[[File:Tokyo-Racecourse-03.jpg|thumb|150px|ポケットからの発走となる東京芝2000m]]
トラック状の走路の直線部分、もしくはカーブ途中から一部直線状に一部飛び出す形で設けられる走路。カーブ地点からの発走は内枠と外枠の有利不利が顕著に現れるほか、接触事故などの危険防止の観点から発走直後の走路をしばらく直線にして危険を回避するために設けられることが多い。
日本では引き込み線(引込線・引込み線)と称されることもある。
このポケット(シュート)が設けられることによって競走の多様な距離設定が行えるようになっている。第2コーナーの奥に設けられる直線走路を第2コーナーのポケット、第4コーナーの奥に設けられる直線走路を第4コーナーのポケットなどと呼ぶ。競馬場によってはポケットと呼ばずにシュートと呼ぶ。第2コーナーのポケットからのスタートになるのは[[阪神競馬場]]の芝1800m、[[京都競馬場]]の芝1600m・芝1800m、新潟競馬場の芝2000m(内回り芝1400m)、中京競馬場芝1400m、また[[札幌競馬場]]・[[函館競馬場]]・[[福島競馬場]]・[[小倉競馬場]]の芝1200m等で、何れも芝コースである。第4コーナーのポケットからのスタートになるのは京都競馬場の芝2400m、中京競馬場の芝2200m等で、新潟競馬場の直線芝1000mの競走に使われる直線コースも広義には第4コーナーのポケットといえる。
また、中京競馬場の芝1600mと東京競馬場芝1800mのスタートは第2コーナーから逆向きにすれば少しカーブを曲がった所から直線走路になっていて、スタート後にほぼ200〜300mをまっすぐ行った後、第2コーナーの角を回って向う正面の直線走路に入る構造になっている。この構造は馬場拡張前の阪神競馬場にもあり、芝1600mのスタートが第2コーナーというよりも第1コーナーの所からのポケットにあり、スタートして300m進んですぐ鋭角に第2コーナーを回る構造で[[桜花賞]]で2006年まで使われていた。
なお、東京競馬場の芝2000mと中山競馬場の芝1600mのスタートは第1コーナーのより外側にあって、第2コーナーで本来の走路に合流する構造になっている。
[[盛岡競馬場]]には第2コーナーの最奥に400mに渡るポケットが設けられており、[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]などで用いられるダート1600mはこのポケットの最奥部からの発走である。
外側に芝コース、内側にダートコースが設定されている競馬場(日本の全ての中央競馬場)において、ダートコースに対するポケットが設置されている例もあり、中央競馬においてダートコースに対して設置されているポケットは芝コースを跨ぐ地点のみならずポケット全体が芝コースとなっており<ref group="注">障害コースならびに海外の競馬場ではコースの途中の一部分で芝あるいはダートを跨ぐ例があるが中央競馬の平地競走ではコース途中で部分的に異なる走路を跨ぐコースは設定されていない。</ref>、発走後しばらくは芝コースを走行することとなるがこの場合も走路の呼称はあくまでも「ダート○○○○m」とされ、「芝→ダート○○○○m」というようには言われない。
特に京都競馬場と阪神競馬場のダート1400mコースでは芝のポケットを100m以上も走行することとなり競走馬の走路適性が影響を及ぼす可能性もあるほか、合流地点は必然的にコースの外側のほうが芝コースの距離が幾分長くなる為、ポケットからの発走となるダート競走ではスピードが出しやすい芝コースを少しでも長く走れる外枠発走の逃げ・先行馬が有利ともいわれ、[[馬券]]購入の際の検討要素として無視出来ない存在となっている。
=== 走路内、走路脇の設備・装置 ===
走路内や走路脇には競馬を行うために必要な設備や装置が存在する。この節ではそのような設備や装備について説明する。
==== ラチ ====
[[File:Kyoto-Racecourse-05.jpg|thumb|150px|移動柵設置時(上)と非設置時(下)]]
コースの内側および外側には柵(日本の競馬関係者は'''ラチ'''(埒<ref>「埒が'''明'''かない(埒が'''明'''く)」という慣用句における「埒」も馬場の周囲に設置する柵を意味するがこの慣用句の由来は、馬場の内側が馬群で混み合った時に「埒が'''開'''かない」と言われるものではないとされている。(漢字の違いに注意されたい) [https://gogen-yurai.jp/rachigaakanai/ 語源由来辞典 らちが明かない]</ref>)と呼び、内側の柵を'''内ラチ'''、外側の柵を'''外ラチ'''とも呼び、一般の競馬ファンにも広く浸透している。)が設けられる。
芝コースについては、コースの特定の部分が集中的に痛むことを避けるためにコースの内側の移動式の柵('''移動柵''')を内外に移動している<ref name="temporaryfence">{{Cite web|和書|url=http://sp.keibabook.co.jp/dictionary/ka/ka_022.html|title=競馬用語辞典 仮柵(かりさく)|accessdate=2021-07-25|publisher=株式会社ケイバブック}}</ref>。かつては内側の本来の柵である本柵の外側に仮の柵を設置し「'''仮柵'''」と呼んでいた<ref name="temporaryfence" /><ref group="注">中央競馬では現在すべての競馬場で移動柵が採用されているため正確には「仮柵」ではない。</ref>。移動柵の設置位置によりコーナーでの距離に変化が生じることからこの距離の差は発走地点を移動して調整されているが、仮柵と呼ばれていた頃は、発走地点は常に一定であった<ref name="temporaryfence" />。但し、障害競走用のコースにおいてはコースの距離自体を変化させるケースもある<ref group="注">中山競馬場の芝外回りコースを使用する障害コースは移動柵の位置により10mないし20mの差が生じる場合がある。</ref>。
==== ハロン棒 ====
{{Main|ハロン棒}}
ゴールまでの距離を表示する目的で、コース内に設置されている標識を'''ハロン棒'''という。ゴールライン(決勝線)から逆算して200mごとの距離が明示されてラチの内側に設置されている。ゴールまで残り3[[ハロン (単位)|ハロン]](600m)の地点からゴールまでを「上がり3ハロン」といい、残り800mの「上がり4ハロン」とともに電光掲示板にそのハロン棒を最初に通過した馬のタイムから最初にゴールした馬のタイムまでの各600mと800mのタイムが表示され、レース実況ではレース終了後に必ずこの上がりタイムをアナウンスしている。なお、残り3ハロンのことを競馬関係者は「三分三厘」と呼び、この最後の600mの距離をどの馬がどれ位のタイムで上がってくるかを競馬の重要な要素と見ている。電光掲示板に表示される上がりタイムはずっと先頭のまま逃げ切った馬はそのタイムで上がってきたことになるが、2番手以下から勝った馬など他の馬のタイムは1頭ごとに当然違うタイムになる。
ばんえい競馬ではこれに相当するものとして、ゴール前30mから10mまでの間に10m間隔で標識を設置している。
==== 決勝線・ゴール板 ====
[[File:Chukyo_Racetrack_11.jpg|thumb|150px|ゴール板]]
コース内には競馬競走における優勝劣敗を決する決勝線(ゴール地点)が設定されており、スタンド側から見て走路の内側には決勝線を示すシンボルが設置されておりゴール板と呼ばれる。英語では'''winning post'''(ウイニングポスト)と呼ばれ、[[ウイニングポストシリーズ|同名の競馬シミュレーションゲーム]]の由来になっている。
単なる装飾ではなく判定写真を反対側からも撮影するために必要な縦長の鏡の板が設置されており、重要な機能を果たす。多くの場合、決勝線及びゴール板はスタンドに面した位置に設定・設置されているが、単にゴール前における攻防の観戦に配慮しているのみならず、判定写真を撮影する[[#写真室|写真室]]が殆どはスタンド内に併設されているのも理由として挙げられる。
日本の中央競馬のように芝とダートなど複数の走路がある場合は、それぞれに1箇所ずつ設置されている<ref group="注">ただし障害専用コースには設置されず、障害競走の場合は基本的に最終のコーナーで外側のダートコースもしくは芝コースに進出して決勝線を目指す。</ref>。殆どの競馬場では決勝線は1つの走路につき1箇所のみであるが、両回りコース<ref group="注" name="flexibleloop" />など決勝線が複数箇所に設定されている場合、それぞれにゴール板が設置される<ref group="注">両回りコースが採用されている[[大井競馬場]]では決勝線が同一走路上に2箇所にあるが、2021年時点、左回りコースの決勝線のゴール板は調教用走路(競走用走路の内側)の内側に設置されている。</ref>。
近年は各競馬場ごとにこのゴール板に装飾が施されており、競馬場の特色の一つにもなっている。
==== 発馬機 ====
{{Main|発馬機}}
出走馬がスターターの合図で一斉にスタートを切ることができるように考案された装置。現在主流なのがゲート式であることから単に'''ゲート'''、もしくは'''スターティングゲート'''といわれることが多い。当初は旗を振り下ろすことで合図としていたが後にバリヤー式発馬機が導入され、さらに現在ではゲート式のスタートで実施されている(なお、[[1971年]]まで存在した[[繋駕速歩競走]]では距離によるハンデだったため、スターターの振り下ろす赤旗がスタートの合図で最後まで行われたほか、一時的にはモービルゲート方式が使用されていたこともある)。ばんえい競馬では距離の変動がないため、発馬機はスタート地点に固定されている。
;バリヤー式(濠州式バリヤー)
:まず、横に佇立させた出走馬の胸の高さに「スターティングバリヤー」と呼ばれる[[棕櫚]]縄のロープ(ネット)をフックを利用して張る。発馬担当者のレバー操作でフックを外すとこのロープが上方に跳ね上がり、これをスタートの合図とする。装置は簡便であるが発走前の位置取りで騎手間の牽制があったり馬が静止しないため突進や出遅れなどの問題が多く、現在のゲート式に切り換えられた。なお、バリヤー式には軟式バリヤーと硬式バリヤーの2種類があった。
:日本の競馬では[[1926年]]にこの方式が導入されたが、現在は使用されていない。
:現在は競馬先進国ではほとんど用いられない方法であるが、欧州の障害競走では現在でも使用されている。但し、[[1993年]]に英国の[[エイントリー競馬場]]で行われた[[グランドナショナル]]で、2度の発馬時のトラブルによってレースが不成立になってから発走方法が見直されつつあり、最近では、馬場の左右にオレンジ色のゴムテープを張り、スタート時に片方を放す事で、馬にバリヤーロープが当たらなくするバリヤースタートを採用する競馬場が多くなっている。
;ゲート式
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 150px
|枠幅=170px
| 1=Tokyo-Racecourse-02.jpg
| 2=JRA式
| 3=Sonoda-Racecourse-6.jpg
| 4=宮道式
}}
:現在、世界的に見ても主流のスタート方式である。多くは電磁石や金具などで開扉する機構を持つ可搬式のスターティングゲートを使用する。枠で仕切ったゲート内に出走馬を佇立させ、スターターの制御によるゲートの一斉開扉をもって競走のスタートとする。
:バリヤー式スタートの欠点を解消したスタート方法であるが馬には本質的に狭所を嫌う性質があるため、ゲートに入れるためにはトレーニングが必要な上、トレーニングにより可能となっても環境が異なる実際のレースでは難渋し最悪の場合には発走除外の措置となったケースも存在する。また、気性の極めて激しい馬の場合にはこのゲート入りがどうしてもクリアできずに結果として競走馬失格となる場合も見受けられる。
:日本で最初に導入したのは[[1953年]]の[[大井競馬場]]を初めとする[[地方競馬]]の[[南関東公営競馬|南関東地区]]である。これに用いられたのは「宮道式(みやじしき)」と呼ばれる電磁石の力だけで開閉を制御するものである。これは金具を使わず磁力のみによって閉扉状態を維持しているため暴れた馬が突破してもゲートが開くだけで破損がおきにくくメンテナンスが容易という利点を持つが、構造上出走頭数が制限されてしまう難点がある。もっとも、大井競馬場では16頭立てのゲートも使用されている。
:地方競馬では現在でもこの宮道式の改良型(日本スターテイングゲート社製)を使用している所が多い。
:他方、近年は後述するJRA式(あるいはJRA旧式ゲートの中古再整備品)を導入している地方競馬場も存在する。ゲートの牽引車が宮道式の場合は[[トレーラー]]ヘッドであるのに対しJRA式のものは[[トラクター]]による牽引であるため、判別は容易である。
:「宮道式」の名は開発者である宮道信雄の名に由来する。
:[[中央競馬]]では[[1960年]][[7月2日]]の小倉競馬場の3歳戦(※旧年齢表記)から導入された「ウッド式発馬機」が最初である。これは当時、[[ニュージーランドの競馬]]で用いられていたゲートを参考に中央競馬会が開発したものといわれ当初のものは足元にパイプがあり馬が躓いたり、ゲートが動きやすいなど問題のある構造であった。しかし、[[1975年]]から電動式で扉が開く発馬機を使用。それ以降の幾次にも渡る改良により現在使用されているゲートは世界的に見ても最も安全な競馬用発馬機の一つと言われ、海外の競馬場にも輸出されるほどになっている。ちなみに発明したウッドは、水道技師だった。
:現在のJRA式(日本スターティング・システム社製)と呼ばれるゲートは、金具と電磁石の併用による電動開扉をするシステムとなっている。そのため、開扉タイミングの誤差は小さい。ただし馬のゲート突破などによる金具の破損などの問題により、外枠発走などの競走結果にも関わる問題が生じる欠点が地方競馬で主流の「宮道式」との比較などで指摘されている。
==== スターター台 ====
[[File:Starter(JRA).jpg|thumb|150px|JRAのスターター]]
発馬機内の馬を監視し、的確なゲートの制御を行うためにスターターが立つ台。現在使用されているものはほとんどが自走式になっており、[[ピックアップトラック]]の荷台部分に載せられたスターター台([[ゴンドラ]]部分)が昇降レバーで自在に昇降するシステムになっている。これと発馬機を[[電線|ケーブル]]で有線接続し、ゲートの開扉を制御している。自走式であるため、レースに応じてゲートと共にスタート地点に移動する。そのため、スタンドカーと呼称される場合もある。レースの発走時刻寸前にスターターがスタンドカーに乗りゴンドラが上っていくところは場内の大型画面に必ず映し出されて、ダービーの時などは大観衆がそのスターターの動きを見て大歓声が沸き、また実況席からは「スターターの台が上がります。[[ファンファーレ (競馬)|ファンファーレ]]が鳴ります」と告げてからファンファーレが鳴るのも競馬だけにあるお馴染みのシーンである。
なお、現在主流の自走式のスターター台が普及する以前は梯子で上る固定式のスターター台<ref group="注">小型タイヤが付いていて、人力によって移動させる事は可能だった。</ref>がコースの各スタート地点毎に設置されていた。この固定式のスターター台は現在でも[[川崎競馬場]]の1600m戦のスタート地点などで見ることができるほか、距離の変動がないばんえい競馬(帯広競馬場)も固定式となっている。
==== パトロールタワー ====
[[File:Tokyo-Racecourse-04.jpg|thumb|150px|東京競馬場のパトロールタワー]]
競走馬の走路の各コーナーの外側に設けられた監視塔のことである。基本的に1つのコーナーに対し、その形状に応じて1〜2箇所設置されている。
上部には小部屋が設置され、ここにはレース中には走路監視員が執務し、競走中にインターフェア(妨害)の有無や騎手の騎乗中の挙動、競走馬の故障事故などについて監視する。パトロールタワーにはカメラが設置され、[[裁決委員]]が競走監視用として使用するパトロールビデオの撮影も行う。
==== 待機所 ====
[[File:Chukyo_Racetrack_13.jpg|thumb|150px|中京芝2000m待機所(改修前)]]
レースのスタート地点後方やコースの隅に作られた屋根付きの建物で内部には砂が敷かれている。馬場入場後返し馬を行った後は発走までここで待機する。
==== 障害 ====
障害競走で競走馬が飛越するもの。障害競走で用いる。日本では生垣、土塁、水濠、[[竹]]柵や人工竹柵(グリーンウォール)、飛び上がり飛び降り台([[京都競馬場]]のみ)<!-- 中山競馬場のバンケットは障害ではなく、坂路 -->などが存在する。一部は可動式となっており、常設せずに障害競走時のみ平地競走で用いられる走路に設置するものが存在する(新潟競馬場と中京競馬場の障害競走はこの可動式の障害のみで障害競走が行われる)。この可動式障害は置障害とも呼ばれる(これに対して、非可動式の障害は固定障害とも呼ばれる)。 可動式の障害は発馬機同様にトラクターで簡単に移動できるように設計されている。この他、障害競走専用コースの中に設置され常設として扱われる障害の一部にもカセット式になっているものがあり、こちらは競走の格に応じて大きさや質の異なる障害に差し替えて使用される。
ヨーロッパなどでは空濠(水濠の水の張っていないもので、日本でもかつては京都競馬場にあった)など、日本の障害競走よりも遥かに高度な飛越技術を要求される障害が競走馬を待ち構える。
ばんえい競馬では高さの異なる2箇所の山が走路上に設けられており、「第1障害」「第2障害」と呼称している<ref name="banei_obihiro" />。
== スタンド ==
競馬の業務・運営を行う目的と関係者や観客が観戦をする目的を兼ね備えた施設。スタンド内には観客が立ち入ることができるスペース、馬主などの関係者が立ち入ることが出来るスペース、運営スタッフのみが立ち入ることが出来るスペースが明確に区切られている。それぞれ自分に関係しないスペースへの立ち入りは堅く禁じられている。日本では走路の決勝線のある側の外周に東-南向きに設置されることが多い。以下ではスタンド内に併設されている設備や装置を説明する。
=== 写真室 ===
決勝線の延長線上に設けられており、写真判定に用いる写真をゴール板を利用して撮影する。中はレースが始まると真っ暗闇になり決勝写真を撮り終えたらすぐさま手探りでフィルムを現像し、下の階の審判室にエレベーターで送られる。通常は1箇所のみ設置されるが、離れた位置に複数の決勝線がある特殊な形態を持つ競馬場においては複数の写真室が必要となる<ref group="注" name="ooiflexibleloop">両回りコースが採用されている[[大井競馬場]]が該当。</ref>。
この写真室は競馬運営上必須の設備で殆どの場合、スタンド内に併設されることからこの写真室を含むエリアがスタンド改築となった場合には競馬開催を中止、もしくは別の場所に臨時に写真室を設けてそれにあわせてゴール板を移動する、などの措置がとられる(後者はL-Wing建築中の大井競馬場で取られた措置で、この間は10mの端数がでる競走が多かった)。
=== 投票所 ===
[[File:Tokyo-Racecourse-08.jpg|thumb|150px|自動券売機]]
[[勝馬投票券]](馬券)の販売ならびに払い戻しを行う設備。かつては有人の発券・払い戻し窓口がずらりと並んでいたが、現在は人件費削減と省力化のために[[自動券売機|機械化]]されている窓口が多い。なお、一部は払い戻しも兼ねた兼用機になっている場合もある。
対面式の有人窓口もあるが、これについてもマークシート使用による窓口となっている場合が多い。口頭による窓口販売はごく一部の窓口に限られている。一部にマークカード対応窓口しかない競馬場もあるが、この場合でもバリアフリーの観点などからマークカードを扱えない障害者や高齢者の馬券購入希望がある場合、これに応じて特定の有人窓口の端末を手動操作することなどで発券対応している。
非開催日である場合、場内の一部の投票所のみを開放して開催中の他競馬場の馬券の発売(場外発売)や自競馬場で発売した的中券の払い戻し業務を行っていることが多い。この場合、競馬場への入場料は無料となる。
投票所の裏側(内側)は現金を扱うスペースや機械室などが設けられるため、必ず運営関係者限定のエリアとなる。
かつては利便性から競馬場内に銀行の[[現金自動預け払い機]](ATM)が設置されていた時期があったが、政府のギャンブル等依存症対策推進の観点から各競馬場のATMは順次撤去されている。
=== 馬主席など関係者席 ===
馬主や調教師などが観戦する為の席。馬主や調教師など関係者のみが立ち入りすることができる(馬主でなくても、馬主の紹介があれば入ることが出来る場合がある。最近では競馬場の[[懸賞]]企画の一環で馬主席での観覧権のプレゼントが行われる場合もある)。馬主席には[[ドレスコード]]が設定されており、ジャケット、ネクタイ、革靴が義務付けられている。中央競馬での[[一口馬主]]は馬主の扱いではない(中央競馬の登録上は一口馬主を主催する会社が法人馬主となっている)ため、馬主席に立ち入ることはできない。ただし近年は優勝馬の口取りに参加することができるが、そのための集合場所は一般の観客席エリアとなっている。
=== 実況席・放送スタジオ ===
競馬中継を行うためのスタジオである。
競馬中継の進行を行うスタジオと実況席は別に設けられている場所がある一方で、東京競馬場や中山競馬場のように放送局ごとに[[バルコニー]]付きの業務スペースが用意され、バルコニーを実況席として使用し業務スペースにセットを設営し「番組進行スタジオ」とするケースもある。また、[[パドック]]脇にブースを構えてパドックからの中継も行えるようになっている。
ただし[[グリーンチャンネル]]の競馬中継の進行は競馬場内のスタジオではなく、東京の門仲スタジオから行っている(パドックからの中継はある。映像は[[日本中央競馬会|JRA]]の場内中継の映像を利用。実況は[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]の音声を利用)。また、地方競馬の中継でもスタジオを設けず進行する場合がある。
実況席はガラスによる光の反射により走路が見えなくならないように吹きさらしとなっているため冬場は冷たい外気にさらされ、夏場は虫が来る。また、向正面まで良く見えるようにスタンドの上部に設置されていることが多い。また、実況においてはゴール寸前の攻防が特に重要視されることから決勝線(ゴール板)付近に設置されることが多く、離れた位置に複数の決勝線がある特殊な形態を持つ競馬場においては複数の実況席が設置される場合がある<ref group="注" name="ooiflexibleloop" />。
=== 観客席 ===
[[File:Tokyo_Racecourse_Fuji_view_stand_20070422.jpg|thumb|150px|東京競馬場の観客席]]
観客が座って観戦するための座席。ただし競走中に座って観戦する必要はなく、立って観戦している場合もある。観客席は吹きさらしになっている場所、階段状に設置されている場所、ガラス張りの部屋の中、テレビモニターが見えるスタンド内、その他さまざまな場所に座席がある。席も1つずつの椅子になっているもの、長ベンチ、コンクリートの打ちっぱなしの立見席(ただし、多くの観客が座っている場所もある)など様々である。
後述する指定席以外は自由席であり、[[競馬新聞|新聞]]や[[レーシングプログラム]]などで席取りがしてある光景があちらこちらに見られる。席取りしてある席に座って、先に席取りをした観客が戻ってくるとトラブルになる場合がある。なお、一部の競馬場では高齢者、障害者専用の観客席があり、それらの使用には証明するものが必要である。
かつては観客席の多くが喫煙可能で、紫煙をくゆらせながらの観戦が名物だったが、[[健康増進法]]の規定に伴い次第に喫煙できる場所が限定されてきており、喫煙者には肩身が狭くなってきている。
また、2020年以降の[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]による感染拡大防止策の観点から無観客競馬、さらに収容人数を限定した入場制限が行われていた時期もあり、JRAにおいては入場制限の過程で導入されたインターネットによる入場券(指定席券も含む)の事前予約購入方式が定着し、入場門ではスマートフォンなどで[[QRコード]]を提示して入場する方法が普及している。2023年現在では一部のGI競走開催日の施行場<ref group="注" >2023年は東京優駿(日本ダービー)・天皇賞(秋)・ジャパンカップ開催日の東京競馬場、皐月賞・有馬記念(グランプリ)開催日の中山競馬場、天皇賞(春)開催日の京都競馬場、宝塚記念開催日の阪神競馬場。</ref>・混雑が予想される開催日<ref group="注" >2023年はリニューアルオープンとなった第1回京都競馬開第1週が対象となった。</ref>を除き、当日券売機で現金購入による入場も可能となっているが、QRコードが印刷されたチケットに移行しつつある<ref>[https://umatoku.hochi.co.jp/articles/20230327-OHT1T51120.html JRA競馬場で新たな入場システム導入 スマートフォンのQRコード認証など] - UMATOKU 2023年3月27日</ref>。
また、JRAでは各競馬場において年1~3日の指定日において「フリーパスの日」が設定されており、一般入場料は無料(指定席は別途有料)となる<ref>[https://www.jra.go.jp/facilities/freepass/ フリーパスの日] - 日本中央競馬会</ref>。
=== 指定席 ===
スタンド内には入場料のみで座ることのできる上記の観客席のほか、追加料金を支払うことで座ることのできる[[指定席]]がある。競馬場によっては「特別席」と呼称することもある。
指定席のあるエリアへは追加料金を支払った観客のみが立ち入りできる競馬場が多い。指定席のあるエリア内には投票所、食堂、売店、給茶などのサービスなどが一般の観客用とは別に設けられており、これらは追加料金を支払った観客のみが使用できる。利用客に対して[[菓子]]類の無料提供を行なっている競馬場もある。指定席は当然その日に追加料金を支払った観客のみが使用するため、席取りの必要はない。ただし一般に言う指定席のほかに、自由に座れる座席が設けられているエリア定員制の競馬場もある。
なお、かつての[[公営競技]]ではこの指定席券を買い占め、転売することが[[暴力団]]・[[ノミ屋]]などの資金源の一つにされてしまい大きな問題となったことがあったため、現在ではこれらを排除する対策の一環として指定席エリアの入場に際して指定席券の確認のほかに指定席券の販売と同時に手の甲などに[[印章|ハンドスタンプ]]を捺印しこれにより購入者本人であるか確認を取る場合がある。スタンプについては肉眼では可視できない[[紫外線]]反応形の[[不可視インク]]を使用している場所もあり、この場合、指定席エリアへの入場チェックのポイントには確認用の機器と人員が配置される。
指定席の座席については多くは一般の観客席の座席よりもグレードが高い物が用いられており、1人あたりの専有面積も広めに確保されている。テーブルが設置されていたり自由に使えるモニターが設置されている座席もある(1人1つとは限らず、複数人で共用する場合もある)。
指定席も禁煙席と喫煙席がある。ただし、禁煙席でも近くに喫煙スペースが設けられている場合がある。
指定席は当日販売が中心だが中央競馬ではJRAカード(クレジット機能付きカード)、大井競馬では[[チケットぴあ]](かつては[[CNプレイガイド]]や[[イープラス]]で予約販売が行われていた)を用いた予約販売も行われている<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/guide/shiteiseki/purchase_guide/ 東京シティ競馬公式サイト 指定席券の購入ガイド]</ref>。なお、中央競馬では現在でも[[東京優駿]]、[[天皇賞(秋)]]、[[ジャパンカップ]]、[[有馬記念]]の4競走施行日については事前抽選による当選[[ハガキ]]との引換かJRAカードの予約でしか購入できないようになっている<ref>優駿牝馬は2013年まではハガキによる事前抽選のみだったが、2014年はハガキによる事前抽選は行われなかった<br>出典:[http://jra.jp/news/201403/032401.html 優駿牝馬(オークス)および東京優駿(日本ダービー)当日の指定席券・記念入場券発売【東京競馬場】] - JRA公式サイト 2014年3月24日</ref>。さらに2012年の有馬記念以降は[[インターネットオークション]]での転売取引を防止するため、当選者には当選ハガキの持参と共に'''顔写真と当選ハガキ当選者本人の名前が確認できる[[公的機関]]発行の本人確認書類'''の持参も必須となっている<ref>[http://jra.jp/news/201411/110803.html 有馬記念(第59回グランプリ)当日の指定席券・記念入場券発売のお知らせ【中山競馬場】] - JRA公式サイト 2014年11月8日</ref>。予約販売が行われていない頃には有名な重賞競走ともなると指定席を買い求める為に開門前、場合によっては早朝から長蛇の列となった。
一部の競馬場には年間指定席などが設置されていたり逆に指定席が存在しない、または存在しても経費面の都合などから現在は開放していない場合がある。
=== 食堂 ===
たいていの競馬場では様々な店舗が入っており、そこで有料の食事サービスが提供されている(指定席エリアに指定席客専用の食堂が存在する競馬場もある)。なお、食堂はスタンドの中の他にも[[#内馬場|内馬場]]などにも設置されている。多くはラーメンや丼物、[[ファストフード]]を中心とした軽食を食券制やセルフサービスで提供しているが一部では寿司やステーキ、会席膳などを出す店舗も見られる。また、テナントとして有名ホテルが[[レストラン]]を出店している所もある。近年はネット投票の普及などによる入場者数の減少から場内飲食施設の簡素化([[フードコート]]方式の導入、[[キッチンカー]]による非固定化など)や撤退も散見される。
競馬場の特徴あるメニューとしては「勝つ」にかけて[[カツレツ]]を用いる料理を「'''勝丼'''」「'''勝カレー'''」などと称して販売している店舗がよく見受けられる。そして多くの競馬場にある種の「名物メニュー」が存在し、多くのファンの興味や人気を呼んでいる。
* 競馬場の名物食べ物の例
** [[北見競馬場]](廃止) - ばんば焼き([[今川焼き]])
** [[札幌競馬場]] - [[もつ煮込み|ホルモン煮込み]]、[[ツブ|つぶ]]串
** [[門別競馬場]] - [[ジンギスカン料理]]
** 盛岡競馬場・[[水沢競馬場]] - ジャンボ[[焼き鳥]]
** [[宇都宮競馬場]](廃止) - 100円[[焼きそば]]
** [[浦和競馬場]] - [[アジフライ]]、[[きゅうり]]、[[カレーライス]](通称「黄色いカレー」<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=41320 浦和競馬の歴史とともに、黄色いカレー - 斎藤修] - netkeiba.com 2018年09月25日</ref>)、[[マグロ]]カツ(期間限定)
** [[船橋競馬場]] - [[あんかけ]]焼きそば
** 中山競馬場 - G1焼き(今川焼)、大穴[[ドーナツ (菓子)|ドーナツ]]、きねうちめん(2022年時点で退店済)
** 東京競馬場 - [[フライドチキン]]、[[カフェモカ|モカ]][[ソフトクリーム]]
** 大井競馬場 - [[すじ肉|すじ]]煮込み、大判焼き
** 川崎競馬場 - [[タンメン|たんめん]]、[[焼きそば]]、[[コロッケ]]
** [[金沢競馬場]] - [[寿司]]
** [[名古屋競馬場]]・[[笠松競馬場]] - [[どて焼き|どて煮]]、[[串カツ]]
** [[園田競馬場]] - [[天ぷら]]([[タコ]]など)、ホルモン焼き
** [[高知競馬場]] - アイスクリン、[[鯨肉|鯨]]カツ
** [[佐賀競馬場]] - [[豚骨|とんこつ]]ラーメン、[[ちゃんぽん]]、「何でも焼く店」([[大福]]や肉類、[[魚肉練り製品|練り物]]串などを鉄板で焼いて供することから<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/keiba/keiba/2016/08/28/___split_62/index_2.php 佐賀競馬場の名物は「何でも焼く店」競馬の女神はそこにいた!?] - web Sportiva 2016年8月28日</ref>)
** [[上山競馬場|ニュートラックかみのやま(旧上山競馬場)]] - 玉こんにゃく(広域場外となった現在も販売されている)
大井競馬場では観戦しながら[[食べ放題|バイキング]]を楽しむことができるダイアモンドターンが設置されている<ref>[http://diamondturn.com/ ダイアモンドターン公式サイト]</ref>。
一部の競馬場では[[アルコール飲料]]も販売されるが、自動車での来場が多い佐賀競馬場内の食堂・売店では[[飲酒運転]]防止の観点からアルコール飲料の販売は禁止されている。
[[2004年]]、[[牛海綿状脳症|BSE]]による[[BSE問題#米国のBSE問題|アメリカ産牛肉の輸入禁止]]に伴う牛丼の一時販売停止が実施された際、競馬場内にある「[[吉野家]]」の店舗では、牛丼を食べることができたため一時的に人気が急上昇したこともある。これには競馬場側との契約により牛丼以外の主要メニューが提供できないためという理由もあった。
また、このように一般的な市街地にあるチェーン店などが入っていても、契約上の都合から限定されたメニューのみを提供している店舗もある。実例として、JRAの競馬場内に設置されている[[モスバーガー]]では看板商品の一つである「モスバーガー」が販売されていない(地方競馬の大井競馬場内のモスバーガーでは販売されている)。また、モスバーガーのように通常の店舗では作り置きをしないことで知られる店舗でも、競馬場の中という立地的な特殊事情から例外的に作り置きを行っているものも存在する。
=== 売店・広報施設 ===
[[ファイル:Hanshin Racecourse 004.jpg|thumb|阪神競馬場のターフィーショップ]]
このほか、スタンド内外には[[弁当]]の販売所、新聞([[競馬新聞]]、[[スポーツ新聞]])の販売所、[[コンビニエンスストア]]、競馬グッズの販売所(中央競馬ではターフィーショップという名称)など様々な売店が設置されている。
このほか、競馬場のインフォメーションセンターを兼ねたPR施設などがある。
== その他の施設 ==
=== 厩舎 ===
競走馬が滞在するための施設。競馬場が日常の調教を兼ねる競馬場の場合には、また日常の調教を兼ねない競馬場の場合でも[[トレーニングセンター]]から[[馬運車]]で運ばれてきた競走馬が競走が行われるまで待機する場所として馬房が設置される。
[[国際競走]]を行う競馬場の場合には[[検疫#動物|検疫]]の関係で日本の競走馬と同じ馬房に入れることができないため、隔離できるような場所に検疫厩舎が設けられる。また、日本の競走馬でも外国から帰国して次走の出走期間が短い場合(これは届出が必要)、着地[[検疫]]を検疫馬房で受けるために競馬場の検疫馬房に入る場合がある。[[コスモバルク]]や[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が入厩したことがある。
=== 装鞍所 ===
検量した鞍を着ける場所。係員がいる場所でなければ競走馬に鞍をつけることが出来ない。
=== 下見所(パドック) ===
[[File:Tokyo_racecourse_paddock.jpg|150px|thumb|東京競馬場のバドック]]
'''下見所'''(したみじょ)とも呼ばれ、出走直前の競走馬が周回する場所。[[パドック]]とも呼ばれる。通常はトラック状に舗装された部分を、[[厩務員]]や[[調教助手]]などに引かれて競走馬が周回する。馬券を購入する場合にはパドックが競走馬の体調を見極めるための場所となる。
競走馬は誰も騎乗していない状態で周回を始め、途中で[[騎手]]が騎乗し、そのままの状態でコースへと向かう。
日本の競馬場の場合、多くはスタンド隣接地やコース外周部に隣接する場所に設置されているが[[笠松競馬場]]はコース内側に設置されている。
=== 検量室・審判室 ===
騎手の検量を行う検量室や審議、着順の確定などを行う審判室は、いわば競馬運営の中枢である。これらの部屋はスタンドと一体となっている競馬場と、なっていない競馬場が存在する。当然、これらの施設は関係者しか立ち入ることが出来ない。
[[東京競馬場]]、[[中京競馬場]]はスタンドと一体となっており、新スタンド1Fには一般の観客が検量室などをガラス越しにみることができる「ホースプレビュー(東京)」「勝ち馬ビュー(中京)」というスポットがそれぞれある。
=== 調整ルーム ===
競馬の公正確保を目的として外部の第三者との接触を防ぎ、騎手の体調管理を行うため、競馬騎乗予定の騎手が原則として騎乗前日21時より入ることを義務づけられている施設。
[[1965年]]の[[山岡事件]]を契機に、アメリカのシステムを参考に全国の競馬場に設置された<ref>「レース出場前夜から 全騎手を合宿に」『[[日本経済新聞]]』昭和40年9月17日15面</ref>。ただし[[地方競馬]]の場合、[[南関東地方競馬]]のように連日開催が続く地域ではこれでは騎手がほとんど帰宅できなくなってしまうため、別途自宅待機の制度を定めている地区もある。
なお、中央競馬では2020年4月から5月および同年9月以降、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の感染リスクの軽減・分散を理由に特例的な措置として、JRAが認めた自宅やホテルなど所定の場所を「認定調整ルーム」とし、騎乗当日に「認定調整ルーム」から競馬場への移動を認める運用が当面の間、継続的に実施されている<ref>[https://p.keibabook.co.jp/news/detail/71346 「認定調整ルーム」の運用を再開] - 競馬ブック 2020年8月28日</ref>。
中央競馬の場合、各競馬場の他、[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・[[美浦トレーニングセンター|美浦]]両トレーニングセンターに設置されている。トレセン調整ルームは、騎乗予定の競馬場が[[東京競馬場|東京]]・中山の場合は美浦、[[中京競馬場|中京]]・[[京都競馬場|京都]]・[[阪神競馬場|阪神]]の場合は栗東のトレーニングセンターが利用可能。この場合、早朝の調教で騎乗した後、マイカーもしくはJRAが手配したタクシーで騎乗予定の競馬場に移動する<ref name="keibaschool">[https://www.jra.go.jp/school/jockey/timeline/weekend.html 騎手の1日・週末編] - 競馬学校</ref>。
通常は一般に公開される事はないが、[[2019年]][[1月20日]]放送の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の番組『[[馬好王国〜UmazuKingdom〜]]』にて、[[福永祐一]]と[[藤田菜七子]]の案内で[[中山競馬場]]の建物内が公開されている<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/program/cx/71097/1231038/ 馬好王国〜UmazuKingdom〜 2019年1月20日放送回] [[goo]]テレビ番組</ref><ref>[https://twitter.com/fujitvkeiba/status/1086554987700707329 フジテレビ競馬](2019年1月19日のツイート)</ref>。ここではそれをまとめたものである。
* 入室制限
** 入室出来るのは騎手(地方競馬や海外競馬所属を含む)、JRA職員、施設運営の業者のみ。
** 馬主・調教師等の厩舎関係者や家族も一切入室禁止。
** 騎手も一度入室したら、翌朝まで建物から出る事が一切禁止される(トレセンの場合は早朝の調教のみ外出可能)。
* 貴重品入れ(セーフティボックス)
** 財布、腕時計、携帯電話等通信機器をこの暗証番号付き[[ロッカー]]に入れる。特に通信機器は、外部との接触を完全に遮断する為、持ち込みが禁止され、インターネットの使用も禁止されている。そのため、レース終了後までここに預ける事になる。
**トレセンの場合は競馬場への移動がある為、一度返却され、競馬場に到着次第、再度預ける。
** 通信対応でなければゲーム機や[[オーディオプレーヤー|ポータブルDVDプレーヤー]]等の持ち込みは可能。
* 食堂兼娯楽室
** 夕食と朝食をここで取る。日替わり[[定食]]や一品料理等が外部より格安で提供され、[[郷土料理]]が出る競馬場もある(例:中京で出る[[味噌煮込みうどん]])。
*** 昼食はジョッキールームに併設された食堂で取る。
*** 門限が21時までと、他の公営競技に比べて遅いため、外で夕食を取ってから調整ルームに入る騎手もいる。
** 飲食物はアルコールも含め、外部からの持ち込みも可能([[競輪]]など他の[[公営競技]]では、[[ドーピング]]防止の観点から、生物やアルコール類など外部からの持ち込みが禁止されている競技もある<ref>[http://keirin.jp/pc/topicsdetail?nnum=508 競輪選手へのプレゼントについて(お願い)] KEIRIN.JP 2017年7月25日</ref> )。
** 財布を預けているため、料金は菓子・ドリンク類を含め、レース終了後、帰宅前に精算する。
** 娯楽室にはテレビと将棋盤、各新聞社から提供される一般紙・スポーツ紙・[[競馬新聞]]等が置かれている。
* 居室
** 全て個室である(他の公営競技は、競輪と[[オートレース]]は4人部屋の相部屋がほとんど。[[競艇]]は2~3人一部屋で就寝スペースのみ個室の半個室型)。
** 畳四畳半にテレビと布団とテーブルだけの簡素なもの。エアコンとインターホン完備。
** 騎手の好みに応じて、和室と洋室(ベッド付き)、禁煙・喫煙が選択出来る。
* 浴場
** 体重を調整するための[[サウナ風呂|サウナ]]も完備されている。
** 室内の温度・湿度は高めに設定されている。
=== ジョッキールーム ===
騎手の控室。食堂、仮眠室、浴室、簡易トレーニングルームなどが備わる<ref name="keibaschool"/>。
=== 内馬場 ===
トラック状の馬場の内側を'''内馬場'''と呼ぶ。内馬場もスタンド同様に一般の観客が立ち入ることが出来るエリアとし投票所、食堂、売店を設けている競馬場が多いが調教施設などを設置し観客が立ち入れない競馬場([[新潟競馬場]])や駐車場に利用されている競馬場([[川崎競馬場]])、広大な池が設置されている競馬場([[京都競馬場]])、民間の所有地として田畑が広がる競馬場([[笠松競馬場]])、遊具を設置し遊園地として平日も開放している競馬場([[中京競馬場]])など様々な用途に使われる。
=== オッズ板 ===
[[File:Odds-Board(JRA).jpg|thumb|150px|right|オッズ板]]
トータボードとも呼ばれ、次に行われるレースに出走する競走馬の競走馬名や馬体重、背負わされる斤量、騎乗する騎手の名前、馬券のオッズ(倍率)などの情報を表示する掲示板。下見所(パドック)の側にある。古くは黒板にチョークで手書きされた掲示板であったが後に電光掲示板となり、現在ではフルカラー[[発光ダイオード|LED]]仕様の掲示板が設置されている競馬場もある。LED仕様の掲示板では映像を放映することも可能となっている。
=== 大型映像装置 ===
[[File:Turfvision.jpg|thumb|150px|right|ターフビジョン]]
主にスタンド前や馬場内地区、競馬場によってはパドック付近にいる来場者に情報を提供するために設置される。レース映像や馬場入場の放映、払戻金の表示等を行う。
同装置は、[[1988年]]より中央競馬では「ターフビジョン」と総称されるようになった。
日本で初めて大型映像装置が設置されたのは[[東京競馬場]]で、[[1984年]]10月のことである。大型映像装置が設置されるまで、向正面の攻防は、双眼鏡を手にしながら見るしかなかったために、大型映像装置の設置によって競馬観戦のスタイルが一新された。大型映像装置が設置されて初めて行われた重賞である[[毎日王冠]]では、3~4コーナーにかけて一気に捲りを見せた[[ミスターシービー]]の走りが大型映像装置に映し出された時に、場内から大歓声が沸きあがったという。
[[2006年]]秋季に、東京競馬場に設置された[[三菱電機]]製ターフビジョンが面積660 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]で世界最大の大型映像装置となった([[2007年]]秋に京都競馬場にも[[東芝]]製大型ターフビジョンを設置)。地方競馬では、川崎競馬場にある[[富士通フロンテック|FUJITSU]]製「キングビジョン」が面積496 m<sup>2</sup>、最大視認距離は250 mで、設置当時は世界最大であった。
また、[[ホッカイドウ競馬]]では、経費削減の観点から、[[門別競馬場]]には大型映像装置が存在せず、可動式の映像装置を使用する。[[札幌競馬場]]には、設備として大型映像装置が存在するが、ホッカイドウ競馬の場外発売所として使用する場合は大型映像装置を使わず、可動式映像装置を使用する。
=== 着順掲示板 ===
{{色}}
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 150px
|枠幅=170px
| 1=Tokyo-Racecourse-05.jpg
| 2=映像装置と一体型タイプ
| 3=Kokura Racecourse01.jpg
| 4=映像装置と別々のタイプ
}}
レース走行中は先行の3頭、入線後は上位5着までの着順が点滅しながら表示される。最近では、着順掲示板が大型映像装置と一体となって設置されている場合が多い([[東京競馬場]]や[[船橋競馬場]]など)。
[[2014年]]7月よりJRA全ての競馬場では、フルカラーLEDを使用して、レースの着順が確定した時には赤色を背景に白抜き文字で「<span style="background-color:#ff0000; color:#ffffff">確定</span>」が表示され、着順表示の点滅が止まり、審議が行われている時は、青色を背景に白抜き文字で「<span style="background-color:#0000ff; color:#ffffff">審議</span>」の文字が表示され、着順が点滅するものになっている。
他には着差やレースのタイム、馬場状態等が掲示されている。フルカラーLED採用前のタイプは、レースの着順が確定した時に「'''確'''」の文字が表示され赤ランプが点灯し、着順表示の点滅が止まり、審議が行われている時には「'''審'''」の文字が表示され青ランプが点灯するものだった。なお、審議により降着等があって、レースが確定した場合に用いられていた、'''上が赤で下が緑のランプ'''は、中央競馬全場で使用されないことになった。
地方競馬では点滅やランプ色、未確定時の表示方法などについては、競馬場により異なる。色ランプが無く文字のみの所が多く、未確定時には「'''未'''」「'''通過'''」などの文字が表示される所もある。
=== 賞典台 ===
[[File:Nakayama-Racecourse14.jpg|thumb|150px|right|中山のウイナーズサークル]]
レースで優勝した競走馬の関係者([[調教師]]、厩務員、[[馬主]]、生産者など)を表彰するための場所。各種イベントの際に使用されることもある。中央競馬の競馬場では「ウイナーズサークル」と呼称する。
=== 駐車場 ===
大都市部以外の競馬場では数千台規模の駐車場を整備している所も珍しくなく、最大とされる[[佐賀競馬場]]は収容台数1万台という巨大駐車場を整備している。競馬場の馬場の内側にも来場者用の駐車場を設置している所も見られる。
=== バスターミナル ===
後述の送迎バスを運行している競馬場の多くでは入場門付近にターミナルが設置され、来場者の乗降が行われる。また、[[大井競馬場]]などではこのターミナルが非開催日にもバスターミナルとして使用されており、[[都営バス]]の一般路線([[都営バス品川営業所|品93]]:目黒駅〜品川駅〜大井競馬場)の折返場としても使用されている。
== 競馬場へのアクセス方法 ==
=== 自動車 ===
自動車を利用して来場する場合には駐車場の確保が問題となる。前述のように敷地内に駐車場を整備している競馬場もあるほか、周囲や隣接地に駐車場が用意されている場合もある。ただしその規模は競馬場の立地条件によって大きく異なり、特に大都市圏の競馬場ではその規模や来場者数に対して駐車場の収容能力が全く不足しており開催日には周辺地域に激しい渋滞を起こしている競馬場も見られる。そのため、一般の来場者に対しては[[電車]]などの公共交通機関での来場をPRする場内放送を恒常的に流している競馬場も少なくない。また、多くの競馬場では至近の駐車場は関係者や馬主の専用駐車場として使用されている。他方、市街地に所在する競馬場では、駐車場用地の不足を補うために立体化したりといったことが行われている。なお、競馬場が自前で用意している駐車場の他にも周辺では民間の有料1日駐車場が多く見られる。
=== バス ===
多くの競馬場では、開催日には最寄の鉄道駅との間を連絡する送迎バスを運行している。特に鉄道駅と大きく離れている[[門別競馬場]]は[[札幌駅]]から<ref group="注">ただし、新型コロナウイルス感染拡大の影響のため、当面の間運行休止中である。</ref>、[[名古屋競馬場]]([[愛知県]][[弥富市]]への移転後)は[[名古屋駅]]や旧名古屋競馬場(現:サンアール名古屋)などから比較的長距離の送迎バスが運行されている。
=== 鉄道 ===
競馬場へのアクセスを主目的として設置されている鉄道の[[鉄道駅|駅]]および[[鉄道路線|路線]]、[[路面電車]]の[[路面電車停留場|停留所]]が存在する。中には[[改札]]口などの駅構造に余裕を持たせて、メインレース後などの一時的な大量の乗客を確実に捌けるだけの設備が確保されている駅もある。
<!-- 競馬場と至近の駅および競馬開催時に備えて臨時改札、臨時ホームなどの設備がある駅を掲載 -->
* 札幌競馬場
** [[桑園駅]]([[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[函館本線]]・[[札沼線|学園都市線]]。元来は札幌競馬場へのアクセス駅として開設。競馬開催に合わせ快速列車の臨時停車が実施されていた(のち廃止))
* 函館競馬場
** [[競馬場前停留場|競馬場前電停]]([[函館市交通局|函館市電]])
* 東京競馬場
**[[府中競馬正門前駅]]([[京王競馬場線]]、東京競馬開催日や一部の場外発売日は当駅始発の[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王新宿駅]]行の[[京王競馬場線#東京競馬開催時の運行|臨時直通特急]]が運行される)
** [[府中本町駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[南武線]]・[[武蔵野線]]。東京競馬開催時・場外発売時のみ使用される臨時改札口と東京競馬場までの専用連絡歩道がある)
**[[是政駅]]([[西武多摩川線]]、JRAにより公式に最寄駅とされていたが、2023年9月の時点で至近となる南門が閉鎖されているため、競馬場HPのアクセスの記載から外されている<ref>[https://www.jra.go.jp/facilities/race/tokyo/access/index.html 所在地・アクセス:東京競馬場] - 日本中央競馬会</ref>。ただし大回りで西門などから入場する事は可能)
**[[東府中駅]]([[京王線]]、特急通過駅であるが、東京競馬開催日や一部の競馬開催日について特急が臨時停車する)
* 中山競馬場
** [[船橋法典駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[武蔵野線]]、中山競馬開催時・場外発売時は臨時改札口から競馬場に直結する専用地下通路「ナッキーモール」を利用できる)
** [[東中山駅]]([[京成本線]]、元来は中山競馬場前駅の名で臨時駅として開設され、常設駅昇格時に現在の東中山駅に改名されている。中山競馬開催時は一部特急列車が臨時停車となる)
* 船橋競馬場
** [[船橋競馬場駅]](京成本線、競馬場開設により花輪駅から改称。ただし特急停車駅ではない)
* 大井競馬場
** [[大井競馬場前駅]]([[東京モノレール羽田空港線|東京モノレール]]、一部の大井競馬重賞開催日について空港快速が臨時停車する)
** [[立会川駅]]([[京急本線]]、2022年4月より副駅名として「大井競馬場」が追加された)
* 中京競馬場
** [[中京競馬場前駅]]([[名鉄名古屋本線]]、競馬開催日は一部の特急と日中の急行全列車が[[中京競馬場前駅#臨時停車|臨時停車]]する)
* 笠松競馬場
** [[笠松駅]](名鉄名古屋本線)
* 京都競馬場
** [[淀駅]]([[京阪本線]]。京都競馬開催時・場外発売時のみ使用される臨時改札口があり、連絡通路で入場門・ステーションゲート2階へ直結している。京都競馬開催日について快速急行・急行が[[淀駅#競馬開催日における臨時停車・臨時列車|臨時停車]]する)
* 園田競馬場
** [[園田駅]]([[阪急神戸本線|阪急神戸線]])
* 姫路競馬場
** [[野里駅]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[播但線]])
** [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[姫路駅]]や[[山陽電気鉄道]]の[[山陽姫路駅]]から無料送迎バス有
* 阪神競馬場
** [[仁川駅]]([[阪急今津線]]。東改札口前に競馬場に直結する地下連絡通路への入口があり、阪神競馬開催時・場外発売時に利用できる。阪神競馬開催日について当駅始発の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]行[[阪急今津線#臨時列車|臨時急行]]が運行される)
* 小倉競馬場
** [[競馬場前駅 (福岡県)|競馬場前駅]]([[北九州高速鉄道小倉線|北九州モノレール]])
「競馬場」の名は駅名に冠していないが、開催日や場外発売日にのみ使用される改札口や競馬場への専用通路が整備されている最寄駅も存在する(府中本町駅、淀駅、仁川駅など)。また、競馬場に近接するものの競馬場の名を冠さず競馬場のための特別の案内や設備は臨時出札口程度で特段行っていないが、開催時には最寄駅として機能する駅もある(川崎競馬場最寄の京急[[港町駅]])。中には中山競馬場最寄の船橋法典駅のように競馬場への専用改札口から競馬場までの長さ1キロ弱の専用地下通路など、大量の来場者をスムーズに誘導するための大規模な設備がなされている場所も見られる。
== 競馬場の廃止・移転と跡地 ==
廃止・移転された競馬場跡地が[[区画整理]]されず[[住宅地]]化された場合、走路の全部または一部が道路に転用され、楕円形の街並みが形成されることがある。[[岡山大学]][[准教授]]の樋口輝久らが[[2014年]]、農地や公園など以外に跡地が使われた全国の競馬場跡158カ所を[[航空写真]]などから調べたところ、32カ所で走路の痕跡が確認され、このうち松江競馬場跡([[島根県]][[松江市]])はほぼ完全に残り、青森競馬場跡([[青森市]])や鹿屋競馬場跡([[鹿児島県]][[鹿屋市]])では9割程度が残っており、迷い込んで同じ道を何度も回ってしまう自動車や自転車も見かけられる<ref>「[https://www.asahi.com/articles/ASQ9J54N6P67PTIB005.html 住宅街に浮かぶ 謎の楕円/松江 90年近く前ここには…1周1キロ 今も迷い込む人が]」『朝日新聞』夕刊2022年9月22日1面(同日閲覧)</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[競馬場の一覧]]
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柔道
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柔道(じゅうどう / Judo)は、嘉納治五郎が興した日本の武道。日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)とも呼ばれる。オリンピック正式競技にもなっている。国内競技連盟は全日本柔道連盟(JJFJ)、国際競技連盟は国際柔道連盟(IJF)。
柔術修行に打ち込み修めた嘉納がさまざまな流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、1882年(明治15年)にその考察から創始した文武の道である。「柔能く剛を制す(じゅうよくごうをせいす)」の柔の理を発展させ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の、心身の力をもっとも有効に活用した「精力善用」「自他共栄」の原理を完成させる。
古武道の柔術から発展した武道で、投技、固技、当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察や学校に普及し、第二次大戦後には国際競技連盟の国際柔道連盟の設立や乱取り試合がオリンピック競技に採用されるなど広く世界的な普及に成功している。
スポーツ競技・格闘技でもあるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、武術の修得・修練と、身体・精神の鍛錬と、教育と、社会生活への応用・日常生活への応用を目的としている。
IJFでは2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている。
柔道の歴史
古くから、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。
1877年(明治10年) に、嘉納治五郎は天神真楊流の福田八之助に入門し、当身技を中心に関節技、絞技、投技を含んだ捕手術を由来とする立合や居捕の体系を持ち、乱捕技としての投げ技、固技も持つ天神真楊流を稽古した。また、組討を基とし捨身技を中心とした体系と乱捕を伝えていた起倒流柔術を稽古した。
天神真楊流と起倒流柔道の乱捕技や形の技法を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。 もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。 嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。
講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる。
その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道〈日本武道協議会加盟九団体〉)の筆頭として名を連ねている。
第二次大戦後、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど日本国内外の働きかけもあり、日本においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)ごろ、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2 - 3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。
この試合のあと、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用したため、全国に広まっていったという。
日本の終戦後、GHQによる武道禁止令により警察柔道も道場は閉鎖され、この一時期公式の試合を中断することを余儀なくされた。
敗戦による荒廃した世情は犯罪を増長させ、これに対応する警察官は、体力、技術、精神力の向上のため術科訓練の必要性が改めて見直されることとなった。法の執行者として犯人の制圧、逮捕は警察官の責務であり、この能力に欠ける警察は治安維持の重責を果たせない。当時の国家地方警察本部はこの点を楯に、逮捕術の基礎訓練に柔道が必要不可欠であると、GHQに改めて柔道の復活を申請した。このような経緯を経て戦後警察柔道はいち早く復活を認められた。戦後、警察柔道の復興は、警察官の士気を高揚させ、治安情勢の悪化した日本の秩序回復に大きく貢献している。
心身の鍛練により明朗剛健な警察官を養成するには、柔道訓練は不可欠とした警察の職務性が糸口となり、戦後衰退した日本柔道をいち早く軌道に乗せている。
日本の警察官は柔道または剣道(女性のみ合気道も)が必修科目となっている。警察学校入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。警察署では青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。警察官の大会は「警察柔道試合および審判規定」によって行われる。
1895年(明治28年)、武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民士気の向上を目的として京都に公的組織として大日本武徳会が設立された。 大日本武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。
講道館柔道は、嘉納治五郎が大日本武徳会の創設時から柔術部門における責任者にあり「大日本武徳会柔術試合審判規定」「大日本武徳会柔術形」「段位制」「称号制」の制定において委員長として柔術諸流派の委員をまとめて大きく影響を持った。
大日本武徳会において講道館柔道は柔術部門を統一する役割の流派として正式採用され教授者を派遣し、1919年には柔術部門は柔道部門と改称し統一し、大日本武徳会武道専門学校で稽古がされた。磯貝一、永岡秀一、田畑昇太郎、栗原民雄などが大日本武徳会における主任教授を担当している。武徳会において柔道は柔術諸流派の人材や技法を吸収し発展した。また大日本武徳会柔道部門には空手や捕縛術も柔道傘下に置かれていた。
1946年(昭和21年)11月9日、大日本武徳会は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。
しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は日本における活動再開を果たす。
日本の学校教育においては、1911年(明治44年)7月の中学校令施行規則改正時に、体操科の内容として従来の教練及び体操の他に「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」(13条)とされ、旧制中学校の正科として柔道が剣道とともに採用された。
太平洋戦争後、占領軍 (GHQ) により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、1950年(昭和25年)に文部省の新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで1953年(昭和28年)の学習指導要領で、柔道、剣道、相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた。1989年(平成元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。2012年(平成24年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)。
日本では部活動としてほとんどの中学校、高等学校、多くの大学に「柔道部」があり、中学校、高等学校では学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。警察や社会体育中心にやってきた日本の柔道だが20世紀終盤までに男子柔道の主力選手はこの学校体育大学柔道の学生およびそのOBの柔道家が中心となっており、日本以外への普及活動、柔道競技の近代化も大学柔道の柔道家が中心になって行っていたと彼らは自負していた。中学校、高等学校の運動部の監督は教員がやることが多く、教員はほとんど大学を卒業しているので、中学校、高等学校の柔道界も大学柔道界の貢献が多くなっている。彼らは社会体育勢が中心の全柔連のやり方に不満を持つようになった。20世紀終盤に起きた講道館・全柔連対全日本学生柔道連盟(学柔連)の内紛もこういった日本の大学柔道界にたまった不満も背景にあった。
日本ではほとんどのスポーツは学校体育中心だが、こと武道、武術、格闘技に至っては多くが町道場やジムでの社会体育を中心として行われている。柔道も講道館という社会体育として始まった。その後、民間などの道場での活動のほかに、警察署の道場で一般向けの教室が行われるようになり社会体育の柔道は拡大した。1980年代でも全柔連の主なメンバーは骨接ぎや社会体育である町道場を商売にしている人が多い、と首都圏で町道場を営み日本柔道界の内情に詳しい小野哲也は述べている。1986年、ある議員から、全柔連は全日本学生柔道連盟(学柔連)の大卒メンバーと異なり、知性・教養がない者ばかり、と言われたことがあるとも小野は述べている。神取忍は町道場は学校体育の柔道と比べ厳しい体罰を受けることはない、と述べている。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体がほとんどなく、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道の指導、練習を受ける社会体育の柔道がメインである。
日本では企業の実業団活動が行われている。柔道がオリンピック競技となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、のちに警察柔道を凌ぐ勢力となっている。1980年代、大学柔道の学柔連のメンバーは大学の柔道部OBがメインで実業団柔道に対しても影響力があった。講道館・全柔連対学柔連の内紛では、1983年に全日本実業柔道連盟(実柔連)会長の永野重雄は全柔連を脱退した学柔連に共鳴し、副会長の青木直行が受け流したため実現しなかったが、青木に全柔連から脱退するよう命じた、と小野哲也は語った。
日本では警視庁、道府県警察のほか、皇宮警察、自衛隊、筑波大学、中央競馬会などを所属とするステート・アマの柔道家も多い。
柔道の試合競技は、オリンピックでは1964年の東京オリンピックで正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も1988年のソウルオリンピックで公開競技、1992年のバルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。 世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「形」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた。 のちに世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域は201カ国に達している(2012年4月現在)。日本以外では、韓国、欧州、ロシア、キューバ、ブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口はフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟(フランス柔道連盟)の組織構成の関係上、国際柔術連盟の柔術の競技人口も含んでいるが50万人を突破し、全日本柔道連盟(全柔連)への登録競技人口20万人を大きく上回っている(ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない)。 また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全柔連の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが、のちにまったく柔道着を着ることもないどころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいるようになった。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違う。
講道館柔道の技は投技、固技、当身技の3種類に分類される。投技は天神真楊流、起倒流の乱捕技をもとにしている。 固技や絞技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる。投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。 またこれと平行して、口語的には、立技と寝技に分類して使用されるが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防を指しているので、固技と同義ではない。絞技と関節技は立ち姿勢でも施すことが可能であるからである。 練習形態は形と乱取があり、形と乱取は車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取による稽古を重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取・試合では「投技」「固技」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していくこととなった。 試合で用いることができるのは、投技と固技であり、講道館では100本としている。しかし、試合で使用できる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。また国際柔道連盟規定(国際規定)の改正によって抑込技のスコア取得時間が短縮し決着の早期化が計られ、寝技の攻防における「待て」が遅くなったことと、主に外国選手による捨身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。
投技とは「理合い」にしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また柔道の投げ技は、(1) 試合や自由練習(乱取)で用いられる投げ技、(2) 関節技を利用した投げ技、(3) 当て身技を施しながらの投げ技の3つがあるが、試合や練習では(1)が使われ、(2) や (3) の方法は「形」によって学ぶことになっている。乱取り試合においては関節を極めながら投げると投技とはみなされない。
固技(かためわざ)には抑込技、絞技、関節技がある。講道館柔道では固技が全部で32本あり、抑込技(おさえこみわざ)10本、絞技(しめわざ)12本、関節技(かんせつわざ)10本である。IJF制定のものでは一部異なるものがある。おもに寝技で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)また、国際規定では2018年に両者立ち姿勢での絞技・関節技は禁止された。しかし国内の高段者大会など講道館規定においては依然使用可能対象である。また技術体系としては形において依然として立ち絞め技、立ち関節技も学びの対象となっている。現在の乱取り試合においては肘関節技以外を禁じ手としているが、形においては肘関節技以外の手首関節技、足関節技も使用対象となっている。かつての柔道試合の行われていた各時期・各時代背景、各規程によっては、肘関節技以外の手首関節技、指関節技、足関節技、首関節技なども乱取り試合において使用可能であり、各々の時代背景により使用可能な技術体系は常に変化している。
当身技(あてみわざ)は、天神真楊流の技術を踏襲している。
当身技もしくは当技(あてわざ)とは、急所といわれる相手の生理的な弱点などを突く、打つ、蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、形の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では極の形・柔の形、講道館護身術などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は天神真楊流から伝えられてきたものである」としている。極の形、柔の形は精力善用国民体育の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており「真剣勝負の形」と呼ばれていたが、武徳会時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形をもとに長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。また、嘉納治五郎の想定していた柔道の当身技の中には武器術、対武器術の概念も含まれていたとされている。
一方、空手界側から柔道の当身技のうち、精力善用国民体育・第一種攻防式・単独動作(基本練習)の当身技は唐手(のちの空手)の影響を受けているという説が唱えられている点についても下に記載する。
柔道の当身技において、極の形の居取の技「横打」では居取りから肩固で制し倒した受けに対し肘当を水月(みぞおち)に当てる技となっており、居取の技「後取」では座した状態の投げで巻き込み倒した受けに対し拳当を釣鐘(股間の急所)に当てる技となっている。立合の技「後取」では立った状態からの投げで倒した受けに手刀当を烏兎(眉間)に当てる技となっている。
また、精力善用国民体育の単独動作・第二類の当身技・腕当の拳当「下突」(「左右交互下突」「両手下突」「前下突」)は下方・倒れた相手への突き技を想定した動作を体育的に行う運動となっている。
また、当身技・足当の踵当「足踏」は、講道館護身術・徒手の部・組み付かれた場合・「抱取」(かかえどり)で使用される際には、踵で足の甲を踏みつける技となるが、応用として倒れた相手への止めの踏みつけの技ともなる。
柔道には固技だけでなくブラジリアン柔術や総合格闘技で言うところのパスガード、スイープの寝技技術が豊富にある。パスガードは抑込技でのスコアにつながるので、あっても不思議はないが、スイープについてはブラジリアン柔術のようにポイントも得られない「スイープ」のような総称、概念もあまりないにもかかわらず豊富にある。UFC以前からパスガード、スイープの技術がある格闘技は珍しく、他にはブラジリアン柔術、前田光世が指導員をしながら技術を吸収したロンドンの日本柔術学校の不遷流の流れをくむ柔術、着衣総合格闘技の柔術ファイティングシステムなどがある。創立当初、寝技はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。
講道館の設立当初においては、天神真楊流や起倒流の形がそのままの修行され、当身技の技法、概念もそこから継承され修行されていた。その後、乱取り技や真剣勝負の技など目的ごとに整備分類され技も追加され、大日本武徳会における形制定委員会などを通して古流柔術諸流派との議論・研究の元、「実地に就いて研究の結果、遂に全員の一致を見るに至」り、各流派の技も追加されていき、のちの形の姿になっていった。
嘉納治五郎は次のように書き残している。「従来の柔術諸派の形は、大別して見ると、起倒流、扱心流等を以て代表せしめ得る鎧組打系統の形と、楊心流、天神真楊流等を以て代表せしめる当身、捕縛術系統の形とに大別することが出来る。乱取の形の中、投の形は前者に属し、固の形と極の形は後者に属するものである。かくして出来た極の形も、未だ完全のものと認むることは出来ぬが、今日の儘でも、従来の柔術諸派の形に比して一段優れたものであるということはこれを明言し得る所であるー。」
講道館柔道は形(かた)、乱取(らんどり)によって技術を修行するように示されている。しかし競技大会における「柔道」とはほぼ乱取を意味するものであり、形については国民の認識も薄い。
このことから1990年代以降は「形」の競技化が進められ、次項で説明する形競技も行われるようになった。
形の競技化、試合も始まっている。
日本国内では、1997年(平成7年)には講道館と全柔連が全日本柔道形競技大会を開催したことで、形の競技化が始まった。10回(10年)の国内選手権大会を経てからは、形の国際大会開催の機運が高まり、第1回講道館柔道「形」国際大会が2007年に講道館大道場で開催された。ここでは講道館講道館護身術、五の形、古式の形を除く、4種類の形が採用されたが、すべて日本チームが優勝した。ヨーロッパでは2005年(平成17年)に欧州柔道連盟が第1回欧州柔道「形」選手権大会をロンドン郊外で開催した。さらに東南アジア地区のSEA (South East Asia) Gamesでは、2007年から投の形と柔の形が実施されている。
2008年11月には、国際柔道連盟がIJF形ワールドカップをパリで開催したが、投の形では優勝を逃している。
2009年10月には第1回世界形選手権大会がマルタで行われ、こちらは5種目とも日本勢が優勝した。第2回世界形選手権大会は2010年5月、ブダペストで行われ、日本チームは全5種類の形で優勝した。
講道館柔道の試合は、通常、年齢と体重によって制限されており、男女も別である。年齢には下記のように制限がある。
柔道は本来無差別で争われるべきという考えにもとづいていたため、講道館柔道では無差別を除くと段別・年齢別がその区分の中心であった。しかし、東京オリンピック開催を機に、体重による区分を軽量級、中量級、重量級の3階級設けたのが最初である。講道館柔道ではのちに8つの階級に分かたが、主催者や競技者の年齢によって異なることがある。国際大会では、シニア、ジュニア、カデなどで制限が異なる。
大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上21歳未満。
大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上18歳未満。
無差別は世界柔道選手権大会にはあるが、オリンピックの種目ではない。また日本で一番格式のある全日本柔道選手権大会は無差別で行われる。
また、オリンピックや世界柔道選手権大会では、敗者復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。そして復活トーナメントを勝ち上がった選手と準決勝で負けた選手が銅メダルを争うことになる。このため銅メダルが必ず2つ出る。国際オリンピック委員会は他の競技との兼ね合いから1つにするように通達しているが、国際柔道連盟はこれを拒否している。
2012年のロンドンオリンピックからは敗者復活戦のシステムが変更になり、準々決勝の敗者のみが出場でき、敗者復活戦の勝者と準決勝で負けた選手で銅メダルを争うことになった。
一方で国内の大会である、全日本柔道選手権大会や全日本選抜柔道体重別選手権大会では行われていない。
乱取り試合のルールは講道館柔道試合審判規定(旧称・講道館柔道乱捕試合審判規程、以降「講」)と国際柔道連盟試合審判規定(以降「国」)などがある。のちに日本でもほとんどの大会が国際柔道連盟規定(国際規定)で行われるようになったが、大会のレベルなどにより、日本独自の方法や判定基準が採用されている。
講道館柔道試合審判規定による試合は、後々においても講道館において開催されている月次試合や紅白試合、高段者大会などにおいて引き続き継続して採用されている。そこでは2021年現在の国際規定に準拠する試合においては禁じ手扱いとされる脚掴み技や立ち関節技や立ち絞技なども引き続き使用可能となっている。一方で国際規定と異なり、見込み一本が女子においては一時期認められ、男子においても例外的に認める大会が開けるとか、女子では国際規定より早期に蟹挟が禁止、骨折・脱臼で試合続行を認めないなどスポーツライクな差別化も行われている。
かつてはやはり講道館試合規程と同様に嘉納治五郎が中心となってまとめた、大日本武徳会柔術試合審判規定(1899年施行、1919年に大日本武徳会柔道試合審判規定に改称、1943年に新武徳会柔道試合審判規定として大幅に改定)などがあった。新武徳会規定以前の武徳会規定については、講道館柔道試合審判規程と基本的に内容の異なるものではないが、立技と寝技の比率による寝技の重要性など一部記述の異なるものとなっていた。
また、高専柔道を引き継ぐ七帝柔道の試合においては、寝技を重視する形式での独自の試合を行っている。一方で講道館規定、国際規定より早期に蟹挟が禁止がされたり、腕返の投げ技としての無効化、見込み一本の維持などスポーツライクな差別化も行われている。抑込技肩袈裟固・裏固の無効化、高専柔道で開発された抑込技横三角固の一時無効化など守旧的な面もある。
以下の試合方法の記述については、おもに国際柔道連盟試合審判規定(2018年 - 2020年版)(2020年1月13日一部改訂版)について説明する。
試合場内は、9.1 m × 9.1 m(5間)(講1条)、もしくは8 m × 8 mから10 m × 10 m四方(国1条)の畳の上(「試合場」は、講: 14.55 m(8間)、国: 14ないし16 m四方の場外を含めた場所をいう)。試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続している場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。
講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制することを競う。当て身技は使えない。
審判員は主審1名、副審2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。2014年から試合場の審判は主審1人となる。副審2名は審判委員席で二人並んでビデオを確認しながら無線で主審と従来通り多数決裁定で試合を進めていく。ジュリー(審判委員)も試合場の審判と無線でコミュニケーションを取り合うことになるが、必要とみなされた場合を除き技の評価などへの介入は控える。2018年までに副審はビデオを確認しないことになった。しかし、試合場で裁く規定には戻らず無線で主審と連絡し従来どおり多数決により試合を進めていくこととなった。副審が試合場にいないと試合が他の者から見やすいのであった。ビデオ確認の担当はかつての審判委員とは限らずスーパーバイザーがやることが多くなった。
審判に抗議することはできない(講16条)。
試合は立ち姿勢から始まる(講10条)。一本勝負であり(講9条)、「一本」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。「技あり」2回の一本の場合は「合わせて一本」と主審がコールする。試合時間内に両者とも「一本」に至らない場合には、それまでの技のスコアの差で「優勢勝ち」を決する。
3分から20分の間であらかじめ定められる(講12)。国体は成年男女、少年男女ともに4分。全日本選手権は6分。国際規定では、マスターズ3分(60歳以上は2分30秒)、シニアの場合、男女とも4分、ジュニアとカデも4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合にはゴールデンスコアとなり、どちらかが技のスコアか指導をとるまで試合は続行される(旗判定の廃止)。
技は、「一本」、「技あり」の2つのスコアで評価される。(国)
2019年7月現在においては、一方の者が「技あり」を2つ取ると、「技あり 合わせて一本」(英: waza-ari-awasete-ippon)となり、「一本」に準じた評価が発生。その時点で試合が決する。このことを指して、「合わせ技一本」と言われることもある。
かつての国際規定ではスコアの種類に「効果」と「有効」があったが、ルール改定により2009年1月1日から「効果」、2017年1月1日からは「有効」が正式に廃止された。講道館規定ではもともと「効果」のスコアはなく「有効」がある。評価の優劣は「一本」に準ずる技のスコアが「技あり」、「技あり」に準ずる技のスコアが「有効」だった。
上述の「技あり 合わせて一本」ルールについては、過去、国際柔道連盟が廃止をしたことがある(2016年12月発表分では、2017年1月より適用とされていた。)
その後の国際柔道連盟のルール再改正により、「技あり 合わせて一本」は復活。2019年7月現在において現存する。
かつての国際規定では、相手を制しながら、相手の片方の肩、尻、大腿部が畳につくように、「強さ」「速さ」をもって投げた場合を「効果」としていたが、改正後はノースコアになった。
固技(抑込技、絞技、関節技)の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。
1つ目は、抑込技で、国際規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚が自分との間に入っていない、相手の脚によって自分の身体、脚が下から挟まれていない場合、抑え込みが成立する。抑え込まれている者が脚を上から挟んだ場合は講道館規定では「解けた」とならないが国際規定では「解けた」となる。全柔連発行の『2018年~2020年国際柔道連盟試合審判規定』ではこのルールを説明する画像が2枚あるがともに下から脚を挟んだものになっている。抑え込みが「解けた」とならないで、20秒経過すると「一本」になる(講道館規定では30秒)。但し、先に(投げ技、固め技の)「技あり」スコアを持っていれば、10秒経過すると「技あり」で「合わせて一本」になった(講道館規定では25秒)。同様に一定時間の抑込技で以下のように技が判定される。
2009年にルールが改正される前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていた。
2つ目は、固め技で、相手が「参った」と発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2 - 3回叩く)をすれば「一本」勝ちになる。
3つ目は、絞技と関節技で、技の効果が十分に現れた時である。(国:相手に戦意、戦闘能力がなくなった時)
この条件には、脱臼、骨折、気絶がこれにあたる。(国:脱臼、骨折は主審が戦意、戦闘能力があるとみなせば続行)
参加選手の程度によって、関節技や絞技が完全に極まっていれば、安全のため、選手が「参った」の表明や脱臼、骨折、気絶をしなくても主審の判断で「一本」にできる大会がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。(講のみ)
小・中学生以下は安全のため関節技・絞技禁止(講・少年規定による)。
禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「指導」が与えられる。重大な違反行為に対しては「反則負け」が宣告される場合もある。「指導」に対しては違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。ただし、2014年からの国際規定では、指導は3回目までスコアにならず、技のスコア以外はスコアボードに表示されないことになった(これにより、技ありと指導3を合わせた総合勝ちは成立しなくなった)。4回目の指導が与えられた場合は反則負けとなる。試合終了時に技のスコアが同等の場合は、指導の少ない方の選手を勝ちとする。
得点表示の例(青(赤)が一本、白が技あり1回、有効1回の場合)
有効がある大会では試合場やテレビ中継での得点表示は、有効な技の回数が、左から、一本 (I) 、技あり (W)、有効 (Y) の順に表示される。上下に列記される場合もある。上記の例の場合、希に有効の回数が2桁になると、野球のスコアボードと同様、正しい表示ができない。
講道館柔道では段級位制を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。
段位制は囲碁、将棋において古くから行われていたが、それを武道界で最初に導入したのは、嘉納治五郎の講道館柔道である。その後大日本武徳会が、警視庁で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道・弓道に導入した(なお、武徳会は戦後GHQにより解体されたため、1948年には武徳会で取得した段位を講道館の段位として認める特例が取られた)。
初段が黒帯というのは広く知られており、「クロオビ」は英語圏でも通用する単語となっていて、米国では黒帯を英訳した『Black Belt』という雑誌も発行されている。元々、柔道の帯は洗濯しないのが基本であり、稽古の年月を重ねるうちに黒くなっていくことから、黒帯が強さの象徴となったのであり、茶帯が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。
柔道の創始者である嘉納治五郎は『柔道概要』の中で「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べている通り上限は決められていない。ただし十段よりも上へ昇段した前例はなく、今日では十段が事実上の最高段位になっている。そもそも段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではないため、高段者になればなるほど、名誉段位という意味合いが強くなっている。実際に、昇段のための条件(競技成績・修業年限・審判実績など)が明文化されているのは八段までで、九段の昇段については存命の九段所有者が審議して決めることになっており、十段については講道館長の裁量に任されるなど、基準が非常に曖昧になっている。一方、現役選手では三 - 五段までがほとんどで、これは全日本柔道選手権やオリンピック柔道競技、世界柔道選手権、春・秋の講道館紅白試合の技量抜群者に与えられる「特別昇段」の段位上限や、年齢・修行年限などの制限が課されているためである。実際にオリンピック2連覇で世界選手権を7度制した谷亮子も、現役時代の段位は四段であった。
なお、2012年現在での講道館十段所有者は、山下義韶、磯貝一、永岡秀一、三船久蔵、飯塚国三郎、佐村嘉一郎、田畑昇太郎、岡野好太郎、正力松太郎、中野正三、栗原民雄、小谷澄之、醍醐敏郎、安部一郎、大沢慶己(昇段年順)の15人のみで、柔道入門者12万人に1人と非常に狭き門となっている。また国際柔道連盟での十段所有者は、アントン・ヘーシンク(オランダ)、チャールズ・パーマー(イギリス)、ジョージ・カー(イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟のアンリ・クルティーヌ、オランダ柔道連盟のnl:Jaap Nauwelaerts de Agéが十段位を取得している。女子では十段は、2011年8月にアメリカ柔道連盟より十段を取得した福田敬子(在アメリカ)ただ1人である(講道館は九段)。
昇級・昇段のためには全国の各団体が講道館の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・柔道形の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に講道館への入門を認められ、会員証が発行されるとともに黒帯の着用が認められる。
戦前の武道組織「大日本武徳会」においては、柔道範士、柔道教士、柔道練士(精錬証受賞者)の、柔道(柔道家、柔術家)の称号が定められていた。
講道館は1967年(昭和42)3月15日に柔道礼法のその趣旨と動作について「試合における礼法」として発表している。
講道館柔道において稽古(けいこ)は、おもに形と乱取によって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。
また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「形」と「乱取」の他に「講義」と「問答」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。
また、上記四種の稽古方法の他、「国民体育」を後年に嘉納は挙げる。嘉納は1927年(昭和2年)の発表以降、従来の形や乱取りを補える「国民体育」として、#精力善用国民体育(攻防式(武術式)/舞踊式(表現式))を学ぶことを推奨している。服装・場所・時間の自由に、単独・対手の有無関わらずに、柔らかく静かに(体育的)も、強く早く(武術的)も出来、興味本位にも実用本位にも、日々体育として億劫でない仕方で行え、万人に実行しやすいものとする。屈筋が多く激烈なる運動である乱取りに対し、伸筋や反る運動を含み、また冴えのある当て身とその対処も意識出来ることで自然と正しい乱取り稽古に繋がるとする。形・乱取りを修行するものは、同時に国民体育を心得ていなければならぬとしている。
嘉納は「形乱取を道場において練習する柔道」としているが、同時に「柔道の修行者は道場練習以外の修養を怠ってはならぬ」ともしている。
柔道の公式試合は国内、IJFともに認定を受けた審判員が試合を司ることになっている。審判員は公認審判員規定によって資格が管理されている。国内の審判員はS、A、B、Cに分けられ、各審判員は研修会に参加して資格を維持している。国際はインターナショナル、コンチネンタルの2種類がある。
公益財団法人全日本柔道連盟における、柔道指導者のさらなる資質の向上、及び指導力の強化を図り、日本柔道の普及・発展に寄与することを目的に「公認柔道指導者資格制度」が設けられた。 全日本柔道連盟が公認する柔道指導者として、A指導員、B指導員、C指導員、準指導員の4つの区分が設けられている。
生前、嘉納治五郎は、ただちに完全を望むことの困難さも指摘しながらも、次のように理想の柔道教師像に言及し掲げている。
嘉納治五郎の掲げる理想の柔道教師を踏まえ、全日本柔道連盟は今後の指導者養成の目指すべき指導者理念として理想の指導者像を掲げている。
今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観はもともと幅の広いものであった。1889年(明治22年)の講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」の中において嘉納は柔道修行の目的を「修心法」(知徳育/応用)、「体育法(別名・練体法、鍛錬法)」(体育)、「勝負法(別名・護身法)」(武術/真剣勝負/護身)とし(時に「慰心法」を含む)、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では究竟的な目的として下段・中段の柔道の修行で得た身体と精神の力(心身の力=能力・活力・精力)を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。
武術としての勝負法の柔道について嘉納治五郎は「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く日本以外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ総合的な武術をこしらえたいとの考えも持っていた。
柔道の歴史の中で、当身技を含む柔道勝負法の乱取り、古武術・古武道の技法を取り入れ武器術等も学ぶ古武道研究会や講道館棒術、当身技を体育的に行う精力善用国民体育、柔道理論を再整理し投技と固技に対し当身技と立ち関節技によって離れて行う離隔態勢の柔道(柔道第二乱取り法)などが研究され実践されてきた経緯がある。
嘉納治五郎は、1918年頃に柔道の新しい練習法の導入を予告している。これからの柔道における剣・棒などを用いた武器術を学ばせるにあたり、幼少のものの練習には安全性を考慮してゴムや布製の刀を用いてやらせたいと次のように述べている。「予が昨今考えて居る所では、幼少のものの柔道の修業には、始めから竹刀の代わりに護謨(ゴム)、布などで作った空気入の刀を用ひて、打ったり突いたり、又それを外したりする形を教へることにしたいと思ふ。要するに従来の剣道の形として教へて居たものを、或る形で柔道の練習として加へたいのである。」のちのスポーツチャンバラに相当する練習法の導入を想定していた。
また、今後の柔道における武器術との融合についても次のように述べている。
「本来からいえば、槍でも、薙刀でも、その他何でも攻撃防御の目的に適うものは柔道の内に内包されるはずのものであるが、剣と棒とは、武器の中でも最も応用の広いものであるから、世間でいう剣道は、ある形で柔道の内に最必要なる一要素として這入ってくるべきものと考えられる。」「従来の柔道と剣道とは、合体して一のものになるはずと思う」と嘉納は予言していた。
また一方で外国に渡り柔道普及活動の一環で異種格闘技を戦い名声を上げた谷幸雄や前田光世などの活躍もある。
世界を戦い渡り歩いた前田光世は旅先から日本在住の友人薄田斬雲宛にいくつかの手紙を送っており、幾多の戦いを通しての異種格闘技戦の「セオリー」が詳細に記録されている。そこでは前田が対峙したレスリング(西洋角力)やボクシング(拳闘)に対する歴史的分析、対策、勝負時の条件等を考察している。前田はレスリング、ボクシングの油断ならない面倒であることを述べながら、同時に柔道こそ世界最高の総合的かつ実戦的な格闘技だという自負を語る。「我が柔道は西洋の相撲(WRESTLING)や拳闘(BOXING)以上に立派なものであることは僕も確信している。拳闘は柔道の一部を用いているだけで、護身術としては幼稚なものだ。(中略)(拳闘は)個人的なゲームで、八方に敵を予想した真剣の護身術ではない。だから体育法としても精神修養法としても、また理詰めの西洋人流に科学的に立論しても、我が柔道と彼らの拳闘とは優劣同日の談にあらずである。」前田はその言説において柔道=護身術と明確に定義しており、その体系にレスリング、ボクシング技術や当て身の突きや蹴りを内包するものという主張が見受けられる。
また、前田は異種格闘技を戦うその練習の上において、のちのオープンフィンガーグローブの原型を考案し、前田の日本に宛てた手紙をまとめた『世界横行・柔道武者修行』(1912年)、『新柔道武者修行 世界横行 第二』(1912年)においてその言及が確認できる。「何らかの道具を新案して、当てる蹴るの練習をする必要がある。僕はいま、ゴム製の拳闘用手袋風にして、指が一寸ばかり(約3 cm)出るようなものを新案中だ。それから、軽い丈夫な面を、これもゴム製にして、目と鼻腔の呼吸をなし得るものを新案中だ。胸は撃剣の胴のようなものをつけてもよい。これで当てることと蹴ることの練習をやる。それから袖をとりに来る手の逆を取ること。以上の練習は柔道家には、ぜひとも必要と考える。」
また、フランス柔道の父川石酒造之助の「川石メソッド」などの例からも、日本以外に渡った柔道家の残した柔道技術の中にはのちに国内においては失われたものもあることが伺える。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の軍における格闘技というのは基本的に軽視されていた。
戦争はほとんど砲と銃で戦う時代であり、この時代の近接戦闘といえば主に騎兵が使う軍刀(サーベル)と、歩兵がライフルに装着(着剣)して槍のように使う銃剣で戦うことだった。しかし第一次世界大戦では、大規模な塹壕戦が繰り広げられた。塹壕内でのきわめて近い距離、狭い場所での戦闘が頻発したことで、近距離向きの銃器や手榴弾以外に、敵に悟られないように塹壕に侵入していくことも重要だったため、音を出さない白兵戦用の武器も重視された。そうした白兵戦で敵に対処するために防御側も同様の至近距離での戦闘技術が必要となった。このため各国で近接戦闘の工夫がされていった。塹壕戦によって近い距離で戦う武器術や格闘技術が求められるようになっていったのがこの時代の最大の特徴であり、軍における訓練では近接戦闘のために既存の格闘技を取り入れるようになった。第一次大戦を境に軍隊格闘技・近接格闘術の基として注目された格闘技の一つに日本の柔道や(古流)柔術がある。そしてこの時期の徒手格闘術はボクシングや柔道が中心となっている。
柔道や柔術の日本以外への伝播はちょうど第一次世界大戦前であり、多くの柔道家・柔術家が日本以外に渡って普及活動を行っている。アメリカなどでは第一次大戦前、柔術ブームとでも呼ぶべき現象が起きていた。またそこには当時、日清・日露戦争での勝利に対して世界から向けられた日本への興味、東洋趣味からの観点や、嘉納治五郎の教育者の立場からの部下にあたるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などによる柔道(柔術)の日本以外への紹介、また嘉納治五郎自身の渡欧の影響なども柔道・柔術ブームへの影響が見受けられる。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの信頼を得て合衆国海軍兵学校の教官として講道館柔道を教えた講道館四天王の一人山下義韶(のちの史上初の十段位)などの例や、講道館柔道を学びロシアにおいてサンボの創始者となったオシェプコフの例などから、米露英仏など各国で柔道は軍隊近接格闘技要素に取り入れられていった。
イギリス人のウィリアム・E・フェアバーンが開発し、第二次世界大戦で各国で採用され高評価を得た、現代軍用格闘術の源流・基礎ともいえるフェアバーン・システムにおいても柔道技術は採用されている。
日本においては明治維新、柔道創設以降、陸軍士官学校、陸軍憲兵学校、海軍兵学校等の軍学校で柔道が取り入れられ盛んに行われた。またそれとともに大日本武徳会で講道館柔道が柔術部門を統一する立場となる役割の流派として正式採用され、大日本武徳会武道専門学校で稽古が行われた。
嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和17年(1942年)に従来の大日本武徳会は改組が行われ、内閣総理大臣の東条英機を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。
昭和18年(1943年)、新武徳会において「実戦的修練を目標とし、白兵戦闘に実効を挙げ得る短時日の修練」を旨とした「柔道の決戦態勢とも言ふべき」内容の新武徳会における柔道の指導方針が発表される。柔道の実戦性についての再検討は嘉納治五郎存命中のころより始まっており、嘉納の述べる「当て身」や「形」を怠ることのない「真剣勝負」の重要性の主張と矛盾するものではなかった。
新武徳会は柔道範士、栗原民雄(後の講道館十段)を中心とし、柔道の戦技化を推奨していく。栗原は柔道を相手と「離れた場合」・「組んだ場合」の二つに分け、離れた場合「極の形に躱攻動作を応用し、起こり得べき種々の場合を想定し、その組み手を多くして之れを練習し、相当習熟した場合は防具を使用して乱取り程度まで修練すればよかろう(中略)相手を単に一人と想定せず、常に数人と仮想して研究することも怠ってはならない」と述べた。次に組んだ場合には「指関節や腕関節を取ること」の復活研究を説き、また「古流」の研究と応用に留意すること、温故知新の必要性も説いた。
新武徳会に先立ち講道館においては、昭和16年(1941年)「立ちたるまま絞技、関節技を掛け、技が相当の効果を収めた場合に限り寝技に移れる旨改正され」立った状態からの固め技を認めるようになっていた。
新武徳会で新たに作成された柔道審判規定では「第二条 試合は当身技、投げ技、固め技を以て決せしむ、但し普通の試合に於いては当て身技は用ひしめざるものとす」と条件付きであるが、当て身技の使用を認める条項が追加される。 防具着用によって当て身技のある試合の安全性に配慮しながらも、特殊なケースとして防具を使用しない試合の実施も示唆されていた。
また関節技も緩和されることになる。
第十一条 関節技は次の基準により之を行わしむ
(一)等外者は肘関節
(二)有等者は肘関節、手首関節、足首関節
(三)称号受有者は脊柱関節を除く全関節
として等級称号によって制限はあるが、脊柱以外の全ての関節への攻撃が許されている。
また技術以外の面でも柔道試合の戦技化は図られた。
稽古場、服装として「柔道は戸外に於いても如何なる服装にても実施し得るやう工夫し砂場芝生等を道場として活用せしむこと」とされた。稽古においては「特に青少年に重点を置き野外戦技を弊習せしむこと」とされた。稽古の形態は「従来個人的修練のみに傾き易きに鑑み特に団体的訓練を教習せしむこと」とされ複数人で自由に攻防をする自由掛けなどが行われた。さらに「錬士以上の者にありては当て身技を併用し試合せしめ」ることとし、乱取りが課せられた。しかし乱取りばかり行うことは戒められ、 「修練は短時日に於いて白兵戦闘に実効を挙げ得るよう基本動作及び技術(形を含む)を修得せしむこと」となり、「基本動作」「形」といった稽古法の価値が戦闘訓練の文脈で再評価された。また柔道指導者に対しては「己が任務の遂行を期すると共に剣道銃剣道を始め武道各般ににつき努めて研修すべきこと」と、あらゆる武道を総合的に稽古することが求められた。
戦況が深刻になるにつれ、学校においても明治以来の「体操科」は新たに「体錬科」と名称を変える。政府主導の国民学校体錬科においては皇国思想の養成と戦技能力の鍛錬が求められた。体錬科の教材として「教練」、「体操」(徒手体操、跳躍、懸垂、角力(相撲)、水泳など)、「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、常に攻撃を主眼として行うことが説かれた。
体錬科武道の柔道の内容は、「基本」として「礼法」、「構」、「体の運用」、「受身」、「当身技」が教えられ、「応用」として「極技」、「投技」、「固技」があった。この当身技は、精力善用国民体育の単独動作の技であり、極技は相対動作の技と一致している。柔道技術の中の当身技が「基本」として重視され、戦時下において、柔道は実戦を目的とした教材に変えられたと言える。第二次大戦下「体練科武道」が実施される間、当身技は学校柔道を中心にして組織づけられ、発展した。柔道の当身技は武術的に取り扱われ、基礎的な修練から進んで撃突台や撃突具を使用しての実戦的な指導に進み、終戦末期に至っては、当身技は従来の指導体系を放棄して、白兵戦闘的動作へ移行し、そこで終戦を迎えた。
大戦の終戦に伴い、日本の民主化政策の一環としてGHQとその一部局であるCIEによって「武道」の実施に対する処置が検討された。CIEは武道を軍事的な技術(Military Arts)とみなし、国民に軍国主義を養成するものとして警戒した。これに伴い武道という枠組みに位置付けられていた柔道は、剣道や弓道同様に禁止された。(武道禁止令)
さらに戦時中に軍による統制を受けていた大日本武徳会も「依然軍国主義的団体としての建前をとっている」とされ解散を余儀なくされた。
しかし柔道復活の陳情は相次ぎ多く、文部省による請願書による
の説明、改革案が総司令官に提出される。そこで提示された新しい柔道は、「競技スポーツ」として向かう下地があったと言える。これに対しGHQから「学校柔道の復活について」という覚書が日本政府に出され、CIEからの注意事項として「実施してよい柔道とはあくまでも大臣の請願書に規定された柔道であること」とされたうえで、その復活が認められる。
しかし「2.実施方法について」において、○段別の外に体重別・年齢別の試合の実施、○戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法の全面的廃止、などと並んで、○当身技、関節技などの中で危険と思われる技術を除外する旨が請願書には含まれており、その当身技や関節技を中心に構成された精力善用国民体育は武術的色彩が強いということで行われなくなることとなる。
嘉納治五郎が生前に考案し発表した精力善用国民体育は、GHQの警戒した武術的側面のみではなく、体育として徳育としても従来の柔道を補完するものであり、練習法においても単独練習を可能にするものであり、嘉納の柔道の精神、「精力善用・自他共栄」の思いを強く含むものであった。
嘉納の万感の思いのこもった精力善用国民体育が、占領期間中の禁止・制限が解かれることなく占領後もなおも軽視されていることを惜しむ声は依然今も挙がっているものである。
そして戦後スポーツとしての柔道が国内の斯界を風靡し、修行者はもっぱら乱取り練習に興味を持ち、試合における勝敗にのみ熱中するようになっていった。形は閑却され、当身技の研究も習練も軽視されおろそかにされていた。しかしながら皮肉にも欧米各国では、護身術(セルフディフェンス)の重要性が強調され、柔道の当身技が盛んに行われていた実態がある。
戦後、日本の敗戦のため行われたGHQによる占領政策としての柔道のスポーツ化の流れの一方で、再び武術・武道としての柔道の再生を求める動きとして、1950年に、その乱取り競技内においてもほぼ全ての関節技の解禁などの実験的ルールを採用した武道・武術を志向したプロ柔道の国際柔道協会も興っている。
明治後期から第二次世界大戦後にかけて外国人ボクサーと柔道家による他流試合興行「柔拳試合」が流行し行われていた歴史がある。戦前の柔拳興行は嘉納治五郎の甥の嘉納健治によって隆盛し、戦後の柔拳興行は万年東一によって行われている。
昭和元年(1926)12月31日、講道館の創始者・嘉納治五郎は、永岡秀一(当時、八段)と横本伊勢吉(当時、五段)をともなって、文武の視察を目的として沖縄(琉球)へ向かうため神戸港を出港した。翌2年1月3日の到着以降、那覇の「尚武館」における柔道の紅白試合や昇段試合への立ち合い、形の演武を行い、また沖縄の名物のハブとマングースの戦いを熱心に観戦し柔道の真剣勝負における呼吸を学び参考になったことを語る嘉納を同行者の横本は記録している。また一行は、首里、名護で唐手(空手)の演武を見学している。 6日の夜は地元の名士らとともに琉球料理に舌鼓をうったが、この席上、次のような質問が、嘉納に発せられた。 「先生!柔道では猛獣におそわれた時に、どうしてこれに応ずべきですか?」 嘉納は以下のような妙答によって切り返している。 「猛獣にも色々ある。虎もあれば獅子もある。一概には言えないが、併し、日本では熊が一番多いから、それについて言って見よう。(中略)熊は人をこわがっている。(中略)火をつけたり、大きな音をさせたりしても、熊の方から逃げ去る。其他、様々熊に対する話を聞いて、のみこんでおく。そういう風にして、熊に対しては、実地肉体を接触させて勝負を決するよりも、先ず熊を近づかせない事が第一である。(中略)第一はあわぬように、あったにしても充分退治出来るように準備して、武器を用いるのが最善の方法である。何についてでも、いかなる場合でも、最も善く力を用いること、即ち精力最善活用、これが柔道である」
1909年(明治42年)、嘉納治五郎は「虚働」(具体的活動ではなく体育のために単に身体四肢を動かす運動)と「実働」(日常生活や遊びによる実際の運動)との中間を採った「擬動」による「擬働体操」を発表している。
「擬働体操」は柔道形ではなく体操の1つとして考案したものであったが、その内容には肉体労働や柔道の動作など9種の運動(計数(けいすう)、球磨(たまみがき)、平板磨(ひらいたみがき)、竪板磨(たていたみがき)、櫓押(ろおし)、四方蹴(しほうけり)、四方当(しほうあて)、喞筒(ぽんぷ)、車廻(くるままわし))が含まれており、柔道の技(当身技)が組み込まれていた。「擬働体操」が嘉納がのちに発表する「精力善用国民体育」の制作過程にあったと見ることができる。
1927年(昭和2年)、嘉納は講道館文化会において、「精力善用国民体育」を発表する。それは国民生活の改善のために体育と武術を兼ねており、乱取や他の形に比べ実際に相手を投げることがないため柔道衣や道場など特別な施設や用具を必要とせずいつでもどこでも稽古が実施可能であり、また柔道の当身技が閑却されないように当身技、関節技、投技などの多様な技術を含むなど、多様な目的を有する体育法として作成されたものだった。その中には「擬働体操」に含まれた、物を磨く動作および当身技(突き、蹴り)と類似した動作が含まれていた。
精力善用国民体育は、嘉納の構想において二種の体育で成り立っている。
第一の種類は武術と体育を組み合わせた「攻防式国民体育」(武術式体育)であり、第二の種類は観念・思想・感情・天地間の物の運動等の表現と体育を組み合わせた「表現式国民体育」(昭和5年以前の表記名)/「舞踊式国民体育」(昭和6年以降の表記名)である。「表現式」「舞踊式」は既存の柔道の「五の形」の中にあるような天然の力(逆浪の断崖に打つかり戻る水の動く有様、風のために物体が動揺する有様、天体の運行、その他百般の天地間の運動)や、能や舞踊にあるような人間の観念・思想、感情を、人間の身体をもって巧みに形容し表現し、体育の理想に適うように組合わせ、色々の組織を立てたものとなる。これら第一種類「攻防式」と第二種類「舞踊式」(「表現式」)との二種の方法を総称して精力善用国民体育となる。子供は子供、女子は女子、老人は老人というように、適当な仕組で作ったなら、一種の価値ある体育が成立し、これらを人々の趣味や境遇に応じて、その一種を又は両方を練習せしむれば、国民精神の作興と身体の鍛錬との上に、大いなる貢献を成し得るものと考えると嘉納は語る。
嘉納の考案した国民体育の第一種類・武術に関する攻防式国民体育は、万人に適当な運動として静かに練習し体全体を万遍無く動かし筋肉の円満均斉の発達を得るが、早くすれば当て身となり、強くやれば人を打ち倒す武術の技となり、相当に熟練すればどれだけのものを破壊し得るというような興味も添うてくること、また、柔道の根本原理たる精力善用の応用であり、自然とその原理を百般のことに応用し得る練習も出来、精神修養との連絡もおのずから出来る次第となることを言及している。
嘉納は1932年(昭和7年)「講道館の創立満五十周年を迎えて」では、「精力善用国民体育」が「攻防式国民体育」と「舞踊式国民体育」の二種によって構成されること、研究途中であった「舞踊式」の完成を図っていることを、次のように語っている。
「柔道はその本来の目的から見れば、道場における乱取の練習の身をもって、満足すべきものではないということに鑑み、形の研究や練習に一層力を用い、棒術や剣術も研究し、外来のレスリングやボクシングにも及し、それらの改良を図ることに努めなければならぬ。 かくして、武術として最高の権威者を養成し、まず国内に、漸次世界に及すつもりである。 ~中略~また、今日すでに案出せられている攻防式国民体育の普及を図ると同時に、今一層深くこれを研究して改良に努め、国民体育中、いまだ完成に至らざる舞踊式のごときは、研究を続け、なるべく早く世に発表することに努力するつもりである。」
嘉納の想定していた「精力善用国民体育」の目的は精力善用の精神の涵養と世界平和の実現にまで及んでいたが、1938年の嘉納の死去後、太平洋戦争が拡大するにつれ、1942年に国民学校の体錬科において必修となる武道にその内容の当身技や極技が採用された。日本の敗戦後、1950年(昭和25年)5月に文部大臣天野貞祐からGHQに提出された柔道復活の嘆願書の内容には、新しい柔道のあり方として「戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法を全面的に廃止した」「当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外した」という条文が見られた。そのように終戦後の日本において「精力善用国民体育」はGHQや世間の人々に軍国主義や戦争を想起させる懸念があり、公の場での実施が自重された。日本の敗戦後の社会情勢によって表舞台から遠ざかるを得なかったが、この形には嘉納が乱取競技を認めつつ、その弊害を是正するための研究成果が随所にあり、柔道における競技性と武術性のバランスをいかにとるべきか、嘉納の視点を学ぶうえで貴重な資料となっている。
柔道舞踊は、講道館の黎明期から昭和の終わりごろまで女子部員によって踊られていた、柔道の技を取り入れた舞踊である。当時は女性に試合の機会が少なかったため、嘉納治五郎が「男女平等に柔道を普及させたい」と発案したとされる。女性にも取り組みやすいような踊りを取り入れるなど工夫されたという。嘉納が研究を続けていた「精力善用国民体育」のうちの「舞踊式」を探る上での資料ともなる。本格的に柔道舞踊が広まったのは昭和の中ごろで、講道館女子部を指導していた二星温子が積極的に指導にあたった。その踊りは同部員によって継承され、全日本選手権や国体など試合の合間に披露されていた。しかし1990年代、女子柔道が競技として本格化したことで、柔道舞踊は急激に廃れていった。また1998年に二星が亡くなり、創成期からの指導者もいなくなった。 一度は途絶えた柔道舞踊だが、復活に向けての動きもある。しかし、柔道舞踊に関する資料は講道館にも残っておらず、当時を知る人も少ない。
講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「柔道修心法」について主に3つの効用を挙げる。
嘉納は柔道の修行についての理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できるものであるとする。嘉納はそれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなすうえで大きな利益のあるものだとした。その最も肝要なる心得の一つとして「勝って勝ちに驕ることなく、負けて負けに屈することなく、安きに在りて油断することなく、危うきに在りて恐るることもなく、ただただ一筋の道を踏んでゆけ」の教えをもって、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。
柔道は世界的に普及が進み大きく広がり受け入れられるなかで、フランスにおいても幅広く受け入れられ、その教育的効用も受け継がれている。その背景について、次のような意見がある。 「東洋文化の象徴でもある柔道。だが、フランスには受け入れる土壌もあった。粟津(粟津正蔵)の教え子で、1975年にフランス初の世界王者(男子軽重量級)になったフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟(仏柔連)会長のジャン=リュック・ルージェは「礼儀を重んじる柔道の武士道とフェンシングに代表される騎士道には共通点がある。国民性に合っていた」と指摘する。」
戦前にフランスに渡ったフランス柔道の父川石酒造之助が考案した指導法は「川石メソッド」として、今も活用されている。イギリス柔道の父と呼ばれロンドンの武道会において柔道を指導していた小泉軍治が考案し、川石もフランス柔道指導で導入採用した、従来の白帯以降、黒帯になるまでの間の各級位を細分化して表す種々の各種色帯は、フランスでの柔道普及に大きく貢献し、のちには日本にも逆輸入され級位の指導において導入されている以外にもさまざまな武道、格闘技でも採用されている。 またフランス柔道には、武士道と騎士道を融合させた「8つの心得」 (le code moral du judo) があり、教育的目的、価値として重視される。 そのフランス柔道における「8つの心得」として、
が挙げられる。 そこには新渡戸稲造が『武士道』において挙げる徳目の、「礼儀」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「義」「克己」「誠実・信実」「仁・惻隠の情」「名誉」「忠義」と通ずるものであることが分かる。
また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「講義」の応用となっていると言うことができる。
明治22年の「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演からものちに、嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて改めて発表し、さらに新しい要素(運動の楽しさ、乱取、試合、そして形を見る楽しみ、芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。
1913(大正2)年、嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し、又其理論を講究するものにして、身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり、精神を修養することよりいふときは修心法となり、娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり、攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し、柔道は「柔の理を原理とし、身体鍛錬には体育法、精神修養には修心法、娯楽には「慰心法」、そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。
高専柔道は立ち技重視の講道館柔道に反発して大正時代に誕生した柔道である。
高専柔道では寝技を重視したスタイルを採用しており、膠着時の「待て」や「場外」の要素や「有効」・「技あり」などのスコア制度を極力排除しているのが特徴である。試合においても団体戦による勝ち抜き戦を基本としており、試合時間も講道館柔道、国際柔道のそれに比べて長い。選手は旧帝国大学およびその系列の者が多い。戦後、旧帝国大学の七大学柔道部により七帝柔道が高専柔道の流れをくむ柔道として起こされた。対抗戦のほかにブラジリアン柔術・総合格闘技などのバックボーンとして格闘技分野で主に活躍している。
1961年(昭和36年)6月、柔道が1964年東京オリンピックの正式競技に決定すると柔道愛好者の国会議員は国会議員柔道連盟を結成した。
同連盟会長に就任した衆議院議員正力松太郎(のちに柔道十段、講道館殿堂)は、「世界に誇る武道の大殿堂を東京の中央に建設して、斯道の発展普及を図りたい」と表明。同年6月30日、武道会館建設議員連盟を結成し、会長:正力松太郎、副会長:水田三喜男(柔道五段、剣道三段)、松前重義(のちの全日本柔道連盟理事・国際柔道連盟会長)、佐藤洋之助、赤城宗徳(剣道範士)が就任した。
1962年(昭和37年)1月31日、文部大臣の認可を得て財団法人日本武道館(会長:正力松太郎、副会長:木村篤太郎〈初代全日本剣道連盟会長〉、松前重義、理事長:赤城宗徳)が発足。1964年(昭和39年)9月15日に日本武道館が落成。同年10月20日 - 23日に東京オリンピックの柔道が実施された。
日本武道館創設から副会長や全日本柔道連盟理事、国際柔道連盟会長、全日本学生柔道連盟(学柔連)会長等を歴任している第四代会長・松前重義の任期には、1977年(昭和52年)4月23日に日本武道館の中に日本武道協議会が発足し、1987年(昭和62年)4月23日 日本武道協議会設立10周年記念式典において武道憲章制定が行われている。
全日本柔道連盟(全柔連)も入居する講道館にのちに入居した学柔連だが全柔連対学柔連の内紛のころは日本武道館に入居していた。そのためこの内紛は「講道館対武道館」とも表された。
柔道の影響を受けた武道・格闘技として、サンボ、日本拳法、富木流合気道、ブラジリアン柔術などがある。
日本拳法は、柔道家の澤山宗海が柔道では廃れてゆく当身技の体系を確立し、さらに競技化した。
サンボは講道館で柔道を学んだロシア人ワシリー・オシェプコフによりロシアに伝えられソ連時代にその弟子により国技として普及する。
富木流合気乱取りは柔道の当身技と立ち関節技(離隔態勢の柔道)の乱取り化を進めようとしていた嘉納治五郎や講道館二代目館長の南郷次郎により、合気道の植芝盛平のもとへ派遣されていた富木謙治によりまとめられ、別名柔道第二乱取り法とも呼ばれる。早稲田大学教育学部教授であった富木は早稲田大学柔道部合気班の中で柔道の第二乱取り法として指導をしていた。
ブラジリアン柔術は、講道館三羽烏や玖馬の四天王(海外四天王)とも称された前田光世(コンデ・コマ)が海外での柔道普及に際し、日本以外で異種格闘技戦を戦い磨いた柔道技術を元にブラジルにおいてカーロス・グレイシーが教授された技術、柔道派生の格闘技という説が強い。
他には柔道出身の極真空手家・東孝が興した空道も投げや寝技の中に柔道の影響が強く見られる。
講道館で嘉納治五郎による古武道研究会で師事を受けた望月稔の養正館武道にも嘉納の思想、柔道理論、影響は受け継がれている。
国際柔術連盟 (JJIF) で行われている柔術ファイティングシステムにも柔道の影響が伝統空手の技術と共に強く見受けられる。JJIFはまた、ブラジリアン柔術を寝技柔術の名で実施もしている。JJIFの国内競技連盟はフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟など約8カ国で国際柔道連盟の国内競技連盟と同一団体で二重加盟している。(2019年10月現在)
琉球(沖縄)で発祥した唐手(空手、空手道)は講道館創始者嘉納治五郎の紹介によって本土に上陸し、1933年、大日本武徳会沖縄県支部より日本の武道、柔術の流派として承認され、1934年に大日本武徳会において柔道部門の中に組み入れられる。当時の唐手は自由乱取りに相当する組手は存在せず型のみが行われていたが、柔道の乱取りや剣道の竹刀稽古を参考に本土上陸後に組手が研究され整備されていく。また講道館柔道が整備した今日のような道着や黒帯・色帯制度、段位性を唐手改め空手は武徳会時代・柔道傘下時に採用する。第二次世界大戦での日本の敗戦後、柔道や剣道はGHQによる武道禁止令の影響を大きく受け、柔道はその三大部門の一つであった当身技が制限・軽視されることになる。当時国内での影響力も少なく制限を受けることの少なかった空手は戦後の柔道の当身技の軽視の間隙を突いて進出することになる。
神傳不動流と講道館を学んだエドワード・ウィリアム・バートン=ライトは、ヨーロッパの武術と組み合わせたバーティツを創設した。
かつて太平洋戦争末期の日本で、本土決戦に備えて柔道家・塩谷宗雄によってまとめられ作られた、徒手、武器の技術を含んだ綜合武術格闘術がある。戦争が終結したため「幻の格闘術」となっている。
アメリカで行われているフリースタイル柔道(Freestyle Judo)がある。現在国際試合で主流の国際柔道連盟(IJF)規定ルールでは制限されている従来の柔道技術を保持しているとする。嘉納治五郎の講道館柔道の継承を意識しており、またレスリング、サンボ、ブラジリアン柔術等のスタイルを取り入れることで、参加する全ての人に競争の機会を提供し柔道競技の「黄金時代」を復活させることを意図している。「MMAの究極の柔道スタイル」“Ultimate Judo Style for MMA”として、総合格闘技ルール参戦を意図し「ノー着」ルールも含む柔道としている。フリースタイル柔道は現在、国際フリースタイル柔道連盟 (IFJA) の支援を受け、アメリカのアマチュア運動連合(w:Amateur Athletic Union・w:AAU) は、アメリカ合衆国でのフリースタイル柔道を公式に認可している。
日本国内の警察において、柔道・剣道と並行して行われている逮捕術の源流の一つにもなっている。1924年(大正13年)警視庁武術世話掛でもあった山下義韶による警視庁捕手ノ形制定以降、1947年(昭和22年)の逮捕術制定の際には委員として永岡秀一が加わり、1967年(昭和42年)に現在の逮捕術が制定された際には、柔道衣を基本服装とし、投げにおいて「警察柔道試合及び審判規定」の内容を採用している。
コンバット・ジュードー(COMBAT JUDO)がある。明治時代に多くの柔道家が柔道普及のためアメリカなどの海外に渡った際、現地において乱取り技術の指導の他、様々なシチュエーションや対ナイフなどの護身技術を指導する。これらはコンバット・ジュードーと呼ばれ、アメリカでは警察や軍隊などでも指導がなされた。1944年の第2次世界大戦中のアメリカでは、アメリカ沿岸警備隊に速成訓練を施すため教官バーナード・コスネックによって、護身術と攻撃技を結合させた格闘術としてアメリカン・コンバット・ジュードーが開発・指導された。また、前田光世がブラジルのグレイシー一族に教えたコンバット・ジュードーとしてブラジリアン柔術における護身術もある。コンバット・ジュードーはフィリピンに駐留したアメリカ軍人経由でフィリピン武術のエスクリマドールなどにも伝えられ、現在においてもナイフ対素手や立ち関節のテクニックはコンバット・ジュードーと呼ばれている。
大正時代、日本の内外において柔術家・柔道家と対戦し、柔道チャンピオンも名乗ったプロレスラーのアド・サンテルが柔道の裏投げを学びプロレスに持ち込んだのが今日のプロレスにおけるバックドロップのもとになっている。
戦前の海外のプロレス界で活躍した日本人柔術家・柔道家が使用した柔道の当て身技「手刀打ち」は海外においてチョップ(ジュードーチョップ)と呼ばれた。それが逆輸入される形で日本国内に入りカラテチョップとも呼ばれるようになる。
戦前の明治後期から昭和30年代、また戦後1950年代ごろに隆盛した、柔道家とボクサーの対戦興行の柔拳興行は国内におけるプロレス興行の前身となっている。また1976年に行われたモハメド・アリとアントニオ猪木の対戦において使用された猪木アリ状態は柔拳興行で使用された柔道家による対ボクサーの戦略の一つでもあり、1944年の小説『姿三四郎』でも主人公・姿三四郎の対ボクサーの対戦場面においてその戦法をとる描写がなされている。
柔道の国際化が進むなか、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させているからである。技術が柔道に取り込まれている民族武術・格闘技としてはキャッチ・アズ・キャッチ・キャン、ブフ、サンボ、ブラジリアン柔術などがある。技術の変化に対して、世界的に見た海外における柔道は、武道としての「柔道」ではなく、競技としての「JUDO」となりつつあるという指摘があり、柔道本来の精神が忘れられていくのではないかと、柔道の変質を危惧する意見もある。一方で、柔道は発足当初から日本国内の柔術のみならず海外の格闘技を工夫して取り入れて形成されたものであり、国際柔道のような各格闘技を総合したスタイルこそ柔道本来の形と精神に近いと考えている意見もある。「明治時代に嘉納治五郎が日本の柔術諸派から技を抜粋して柔道を作ったとき、柔道は一種の総合格闘技になったのです。さらに今回は、国際的にも柔道が総合格闘技化しているのです。チタオバやサンボ、BJJまでが総合化されているのですね。柔道でメダルを獲得した国が23カ国ということを見ても国際化はかなり進んでいる。」
嘉納治五郎の時代から他の柔術、格闘技から多くの技が導入されていたが、それ以降、他の格闘技から柔道に導入された技としてはジョージアのチタオバの技を改良した帯取返のハバレリ、イランのレスリングからのギャヴァーレ、総合格闘技からの裸絞のペルビアン・ネクタイ・チョークなどがある。国際規定では2013年からの脚掴み全面禁止によりハバレリは一部使用困難に、ギャヴァーレは使用できなくなった。
2012年ロンドンオリンピックでの柔道における日本人選手の苦戦を受けて、就任発足した井上康生日本男子代表監督体制では、「国際化したJUDOは世界の格闘技の複合体になった。柔道の枠の中に収まっていては、新たな発想は生まれない」とし、色々な格闘技が流入した世界の柔道に勝つためにブラジリアン柔術、サンボ、モンゴル相撲、沖縄角力などの民族格闘技との積極的な交流、練習の取り入れを行い、強化を図った。また、組手を取り合う際の対策、強化として柔道の当身の練習に通じる、打撃のミット打ちの練習なども取り入れるなど改革・創意工夫を進めた。
2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道を見た溝口紀子は寝技での「待て」が従来より遅くなったのは、オリンピックでは寝技の存在感を上げ、近年、隆盛著しい寝技中心のブラジリアン柔術へ人々が流れていくことを防ぐ意図があるのではないか、と述べている。
2019年、2020年の1月に全日本女子代表チームは強化合宿で日本ブラジリアン柔術連盟会長の中井祐樹らを招き、ブラジリアン柔術の寝技の指導を受ける。
日本に本格的な筋力トレーニングが伝えられたのは、1900年ごろであり、柔道の創始者である嘉納治五郎の功績が大きかったと言われている。嘉納は「柔道の創始者」のみならず、「日本近代筋力トレーニングの父」とも呼ばれている。
嘉納は、世界に柔道の普及活動を行う中で渡欧中、ヨーロッパにて近代トレーニングの父と呼ばれるユージン・サンドウが著した筋力トレーニングの書籍『Sandow's System of Physical Training』(1894)に出会い共鳴している。その効用を実感した嘉納は講道館の雑誌「國士」にて連載し紹介した。当時この連載は好評となり、1900年には嘉納は『サンダウ体力養成法』を造士会から出版するに至っている。嘉納は柔道界のみならず国民へもその体力養成法を推奨し、サンドウが体操に用いた手具(鉄亜鈴)などの販売、宣伝も行った。
また1933年(昭和8年)、IOC委員としてウィーン会議に出席していた嘉納はその帰途、オーストリアから正式なバーベル一式を購入、輸入した。このバーベルは、当時、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、ウエイトリフティングの技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。
嘉納の活動・翻訳本は日本のボディビル界の祖、若木竹丸などにも影響を与え、若木がウエイトトレーニングに目覚めたきっかけにもなっている。柔道家木村政彦などもその先見性から若木からウェイトトレーニングの指導を受けている。
このように嘉納は筋力トレーニングの有効性を理解し紹介していたが、柔道界においてしばらくはあまり広く普及せず、あまり重視されてこなかった。
その理由として、「柔道の稽古自体が筋力トレーニングになっている」こと、「柔道で使う力と筋トレで養われる力は違う」という意見、「柔能く剛を制すが正しい柔道である」という考え方が影響していたと言われている。また、当時は体力に勝る外国人にも日本人の持っている技術が十分通用したということも挙げられる。
しかし嘉納の目指した柔道の精神「精力善用」は「柔の理」「柔能制剛」を発展させたものであり、剛も内包するバランスの取れた一種の柔剛一体であると言えるものであった。
また、やがて柔道が世界中に広がり、外国人が技を身に付けるようになってくると、色々な戦略を取れるようになり、日本人は国際大会で苦戦するようになってくる。「技は力の中にあり」というように基本の技が身に付いた上級者同士の戦いになると、今度は力が勝敗を分ける一因となり技を活かすために力が必要になってくる。
日本柔道界への筋力トレーニングの本格的な導入は、1988年ソウルオリンピックの惨敗を受けて、大会終了後に強化委員会が開かれ、敗因について徹底的に議論が行われた際、外国人選手と比較し基礎体力が劣っているという敗因の分析の結果、東海大学教授の有賀誠司をストレングスコーチとして招聘したことから始まる。また2012年ロンドンオリンピックの惨敗をきっかけに発足した監督を井上康生とした全日本男子柔道の体制では、より精度の高い科学的見地にもとづいたフィジカルトレーニングを導入するに至っている。計画的体系的な筋力トレーニング、栄養、データ分析の強化など指導に医科学も取り入れた強化を進めた。
そこでは、体力面で負けないトレーニングを導入するとして、トレーニング目標として次のような方針を掲げた。
2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道で日本は1大会で最多となる男女計12個のメダルを獲得した。
柔道は当初は柔術の稽古着を着て稽古していたが、その形状は広袖で肘まで、下袴も短く腿の辺りまでしかなかった。擦傷がたえなかったため、1907年(明治40年)ごろ、嘉納治五郎は従来のものに洋服の要素を取り入れて袖と裾の長い柔道衣を作成し、現在のように改良され稽古するようになった。この改良により、技の範囲も広くなり、投げ技の進歩を助長した。大日本武徳会においても(講道館)柔道が採用されていたことから、当時武徳会に参画していた古流柔術諸流派にも新しい形状の道衣は逆輸入の形で導入され、また以降成立することになる他武道にも採用され影響を与えることになる。1922年、嘉納治五郎がプロデュースし、船越義珍に依頼して、講道館で空手(唐手)の演武、指導をした時に義珍が着用していたのが柔道衣である。その後、空手は動作も稽古内容も柔道とは違うため、柔道衣から徐々に改良がなされ、今のような空手道衣が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのは、そのためである。
柔道衣の色は基本的に白のみとされている。しかし、試合で両選手とも白の柔道衣では観客にとって見分けがつきにくいという問題があったため、1997年に国際柔道連盟はカラー柔道衣の導入を決定し、それ以来国際大会では青の柔道衣が使われるようになり、日本で開催する時も国際試合に限り青の柔道着を着用を認めている。これに対し、日本はカラー柔道衣の導入に反対しているため、国内大会では白の柔道衣のみが使われている。
カラー柔道着の導入を巡る検討段階では、青以外にも赤・緑・黄などのさまざまな色・ナショナルカラーの柔道着の着用を自由に認めるようヨーロッパの柔道連盟など賛成の立場の国は強硬に迫った。最終的には見分けが付けばいいということと、日本などの反対する立場の国々への配慮から、青のみの導入にとどまった。
明治末期から昭和30年代ごろまで、時代のあだ花のように存在した「柔拳」という異種格闘競技があった。柔拳は柔道対拳闘(ボクシング)を意味し、柔道家は道衣を着用した柔道スタイルで、ボクサーはグローブを着用したボクサー・スタイルで闘った。1853年のペリー来航以降、日本にボクシングが紹介されると、ボクシング技術を使う外国人水兵と日本人力士や武術家との他流試合がなされるようになった。それらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やすことになる。
初めて「柔拳」の名称を使用したのは柔道の創始者嘉納治五郎の甥にあたる嘉納健治とされる。若くして講道館を飛び出した健治は横浜で、柔拳試合を見たのをきっかけに神戸の自宅に日本初のボクシングジム国際柔拳倶楽部(後に大日本拳闘会と改名)を設立した。健治が行った柔拳興行は大成功を治め、関西圏はもとより東京でも満員の観客を集めるほどの大きな人気を呼んだ。その後1931年(昭和7年)には、全日本プロフェッショナル拳闘協会(のちの日本プロボクシング協会)結成に参加。日本のボクシング界を発展させる礎を作った。
戦後消滅したも同然であった柔拳が復活したのは、第二次世界大戦後のことであり、東京の万年東一が中村守恵、木島幸一らを使って旗揚げした「日本柔術連盟」がそれである。万年東一は柔拳興行の後、全日本女子プロレスを設立し活動内容を変えていくことになる。
嘉納健治の行った柔拳興行では、その活動時期から、前中後の3期に活動内容が分けられる。前期柔拳において健治はボクサーとの対戦を通じて、柔道を当身や武器にも対処しうる武術として蘇らせようとしていたとされる。健治は拳闘以外の武道・格闘技との対戦も企画し、柔道改造を推し進めていった。
それは叔父の嘉納治五郎と共通する思想からとされる。嘉納治五郎は、柔道において、心身の力を最も有効に使用して世を補益する「上段の柔道」を最終目的とし、体育と修心を目指す「中段の柔道」、攻撃防御の方法としての「下段の柔道」の3段階の構造を描いたうえで、「下段の柔道」から柔道を始めるのが最も良いとした。治五郎は「攻防の技術」としてあらゆる攻撃に対応できる護身術・総合格闘技でなければならないと考えていた。そして治五郎はボクシング、唐手、合気柔術、棒術などの他の武道・格闘技の研究を通じて、その晩年に至るまで彼の理想とする「柔道」の完成を追求している。嘉納健治は「柔拳興行」という公開試合の場で、他武道・格闘技との異種格闘技という実践を通じて「攻防の技術」として柔道を追求していたのであり、その点で嘉納健治は叔父・嘉納治五郎と同じ問題意識を共有していたとされる。
しかし1921年に行われた米国レスラー、アド・サンテルと児島光太郎の門下生が行った柔道対レスリングの公開試合「アド・サンテル事件」により、それまで興行的異種格闘試合を黙認していた立場だった嘉納治五郎は公職の立場にある身から、「木戸銭」を取って行う「興行」活動への参加を禁止する方針転換がなされることになる。
「金を取って柔道の業を見せたり、勝負をして見せるのは、軽業師が木戸銭を取って芸を見せるのと何も択ぶ所はない。我も彼もさういふやうなことをするやうになつたならば、柔道の精神は全く消滅して仕舞ふことになるから、一般の修行者は、大に慎んで貰はねばならぬ。」
そして柔拳興行はスペクテーター・スポーツへの方向転換を余儀なくされ、次第にナショナリスティックなショーへと変貌しやがて終焉していくことになる。
昭和11年に発行された講道館六段・竹田浅次郎の技術書『對拳式実戦的柔道試合法』において、柔道家の対拳闘相手の対戦法が解説・紹介されている。
心構え、構え方、目の付け所や呼吸の仕方、両手の働き、足の動作、身体の動作、拳闘の分析、ボクシングのパンチの防御法、その捌き方と攻撃法、異種との戦いにおいて柔道家が注意すべき裸体の相手への組み付き方、腕・手首・首・体といった箇所への組み付き方、投げ技・絞技・関節技の応用、足関節技、種々の双手刈りの方法、のちに言うところの「片足・両足タックル」が有効であることなどが解説されている。
昭和16年に発行された講道館七段・星崎治名の技術書『新柔道』には、「拳闘に對する柔道家の心得」と題して、彼が提唱した当時の柔拳興行におけるボクサーとの対戦法が紹介されている。
1951年、国際柔道協会(プロ柔道)の木村政彦七段、山口利夫六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節がブラジルに招かれた。この時、グレイシー柔術と異種格闘技戦を行っている。
9月6日に加藤幸夫がリオデジャネイロでエリオ・グレイシーと対戦。試合は10分3ラウンド、投げによる一本勝ちはなし、ポイント制無しの柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。9月23日に二人は再戦したが、8分目で加藤が下からの十字絞めで絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。
雪辱戦として10月23日に木村政彦がエリオ・グレイシーと対戦。だが、さすがのエリオも木村相手では子供扱いされた。木村が2R開始3分目で得意の腕緘に取りエリオは意識がなくなっていたため、兄のカルロスがストップを申し出し木村が勝利、日本柔道の名誉を守った。木村政彦は「鬼の木村」の異名を持ち、戦前から全日本選手権を13年連続保持、15年間無敗のまま引退した柔道家で、史上最強と言われる。木村は切れ味鋭い大外刈りで有名だが、寝技でも日本トップの力を持っていた。
この木村政彦とエリオ・グレイシー戦までの経緯、試合内容については書籍『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が詳しく記述している。それによると、試合後は互いに2人が相手の強さと精神を称え合うものだったという。エリオは木村の強さに感動し、腕緘にキムラロックという名前をつけた。
講道館柔道創始者の嘉納治五郎は「相手の力を利用して相手を制する」という「柔の理・柔能く剛を制す」の理論を発展させ、いわば全ての場面を説明するため、状況に応じた臨機応変な「主体的・積極的な力の発揮」も必要であること、それに加えて攻撃防御の際の精神上の働きから考えてみて、明治30年代に至って柔の理のみに依らぬ柔道を解説するようになる。
嘉納は1922年の「講道館文化会」の創立における「講道館文化会」綱領において「精力善用」(精力最善活用)・「自他共栄」(相助相譲自他共栄)を発表する。
嘉納治五郎の説く「精力善用」(柔道とは心身の力を最も有効に使用する道)には二つの意味が含まれている。その一つは、目指す目的に向かって、身体、精神の総力を合理的、能率的に活用し最大の効果を上げるという意味である。いま一つは、人間の真に生きる目的が人間「社会生活の存続発展」に役立つことにあるとし、それが「善」であり、行為の目的が常に善であることが有効の度合いを高めるとの意味である。「心身の力を最も有効に使用する道」は、この両方の意味を合わせたものであって行為の目的がより大きな善であり、かつ目的達成の方法がより合理的、能率的であるための原理すなわち「道」を究明し、実践することが「柔道」であるということである。
「精力善用」「自他共栄」の二大原理が、単なる攻撃防御の方法の原理ということから、人間のあらゆる行為の原理へと、大きく拡大したことによって、柔道の意味内容も大きく拡大することになる。
精力最善活用によって自己を完成し(個人の原理)、この個人の完成が直ちに他の完成を助け、自他一体となって共栄する自他共栄(社会の原理)によって人類の幸福を求めるに至る。
嘉納治五郎は、武術面における「精力善用」を説明する上で、従来の原理の相手の力を利用して相手を制する「柔能く剛を制す」だけでは柔道(柔術)の幾つもある理屈の中の一つの理屈にとどまり大きな包含的な言葉ではないとして、それに対し、さらにそれも内包するものとして、いついかなる場合にも当てはまる理屈、普遍性を持つ包含的な概念としての「精力善用」に至る。嘉納は柔道の全ての技に対し「今一つ心掛けていてもらいたいことは、練習中、全ての技は、精力最善活用の原理に適うように、工夫して練習しなければならぬ」と語っている。 また従来の「柔の理」では説き明かせない補完される場面、強い拘束から逃れる場面や、巧みに力を利用して強い力が弱い力を破る場面、平素乱暴して皆が困っている悪者を捕り押さえよう等するがその対手が向こうから攻撃してこずこちらからそれ相応の方法で手を出す必要がある場面、また勝負時の相手を蹴る、手で突く、刀で斬る、棒で突くなどの当身にも応用される包含的な原理・概念となる。
精力善用に関する嘉納自身の言説には「剛」という言葉による説明はないが、嘉納の普遍的な思想・精神は空手界にも影響し、中国古典の三略に由来する「柔の理」の「柔能く剛を制す」(柔能制剛)と対になる造語として「剛能く柔を断つ」(剛能断柔)という言葉が生まれたとされる。また少林寺拳法の開祖の宗道臣は、柔道は「柔を主である」としながらも嘉納の言説から「柔剛一体(剛柔一体)」と理解されるとしている。
柔道用語における概念の普遍性は「精力善用」によって説明されるが、近年のメディア作品によって「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」「柔剛一体」の言葉によって柔道を説明する場面が見られる。しかしそれらは本来的には「精力善用」に内包された概念となっている。
講道館柔道創始者の嘉納治五郎は柔道の国民的・国際的普及を進めるとともに、大日本体育協会初代会長やアジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員などの役職を兼任し、他の体育や他の外来の競技運動についても国民的に奨励し推進していた。嘉納は、競技運動と柔道の関係について受ける質問について、両極端なものとして、「外来の競技運動を排斥し日本人の精神教育も道徳的修養も出来る日本固有の武術のみで事足りるという声」、逆に「競技運動の利益を説いて完全に競技運動化を推進する声」、のいずれも当を得た考えでないとし、次のように言及していた。
「柔道とは大きな普遍的な道である。それを応用する事柄の種類によっていろいろな部門に別れ、武術ともなり体育ともなり智育徳育ともなり、実生活の方法ともなるのである。しかるに、競技運動とは勝敗を争う一種の運動であるが、ただそういうことをする間に自然身体を鍛錬し、精神を修養する仕組みになっているものである。競技運動は、その方法さえ当を得ていれば、身体鍛錬の上に大なる効果のあるものであるというのは争う余地はない。さりながら、競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は、柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。柔道を競技的に取り扱うことはもちろん出来ることであり、また、して良いことであるが、ただそういうことをしただけでは柔道本来の目的は達し得らるるものではない。それゆえに、柔道を競技運動的にも取り扱うことは今日の時勢の要求に適ったものであるということを認めると同時に、柔道の本領はどこにあるかということを片時も忘れてはならぬのである。」
一方で嘉納は普及や国民の理解を得る上での乱取試合や競技面の利点も挙げながら、戦前から活発になっていった試合とその上での勝利至上主義に向かう柔道修行者を強く憂いてもおり、身体鍛練で技を争うのは「下の柔道」で、精神修養を含むのが「中の柔道」、さらに身心の力を最も有効に使って世を補益するのが「上の柔道」と論じた。大正11年(1922年)、「精力善用・自他共栄」を柔道原理として制定していた。
嘉納は「柔道は単に競技として見るよりは、さらに深く広いもの故、自ら求めてオリンピックの仲間に加わることを欲しない」と語っており、柔道が五輪競技となることには消極的であったと言われているが、クーベルタン男爵や国際オリンピック委員会の推薦を受け自身がIOC委員となりオリンピック・ムーブメントに参加するに際し、嘉納は柔道と戸外スポーツの両立の必要性について言及している。
「それまでには、体育のことなら柔道さえやっていればそれでよいと考えていたのだが、翻ってさらに深く思いをよせると、柔道だけではいけないことが分かってきた。柔道も剣道も体力を鍛え、武士道精神を修練させる秀れたものには違いないが、一般大衆の体育を振興させるにはこれだけでは満足できない。といって(当時の)体操は興味に乏しいのと、学校を出るとやるものがない。野球や庭球は面白いが設備が要るから誰でもやれない。少数のものには良いが、国民全般がやるには向かない。 だが歩行、駆け足、跳躍なんかはだれでも出来る。また費用も要らない。単に歩行することは面白くないかもしれぬが、神社仏閣に詣でるとか、名所旧跡を訪ねるようにすれば、道徳教育とも結びついてくる。大いに奨励すべきことだ。水泳もやらねばならぬ運動である。(中略)そしてすでに高等師範学校では生徒に長距離競走や水泳を奨励して実践させていた。
(中略)だから武道と戸外スポーツとは、どうしても両々相俟って発達していくようにしたいと思っていた。(中略)西洋で発達したオリンピック競技もこれを取り入れ、武士道精神を加味させることは出来ない相談ではないと考えた。」
そして他競技上でも日本人のオリンピック参加における大きな展望を掲げていた。
「日本精神をも吹き込んで、欧米のオリンピックを、世界のオリンピックにしたいと思った。それには自分一代で達成することが出来なかったら、次の時代に受け継いでもらう。長い間かかってでもよいから、オリンピック精神と武道精神とを渾然と一致させたいと希ったのである。 その最も手近い方法としては、我が国の選手が、心にしっかりとした大和魂、武士道精神を持っていて、競技場では世界選手の模範になることだ。」
嘉納治五郎の没後、柔道は変遷を経験することになる。
1938年(昭和13年)5月、嘉納治五郎はカイロでのオリンピック会議の帰途、病死するに至る。
日本政府はその年、7月15日、1940年に開催が決定していた1940年東京オリンピック返上を閣議決定する。
1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が起こる。戦況が拡大するにつれ、1942年(昭和17年)には日本では大日本武徳会が政府主導に改組される。その中では、剣道、柔道、弓道が、銃剣道、射撃道と共に中心的武技として軍国主義思想に利用されていくことになる。新武徳会における剣道の傘下には種々の武器術武道・武術も、また柔道の中(傘下)には空手や捕縄術、古流柔術など種々の徒手格闘や対武器技術の武道・武術も総合して含むことも明文化される。
1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争における敗戦を経験し、1946年(昭和21年)11月には剣道、柔道、弓道などは軍国主義に加担したとしてGHQにより武道禁止令を受け、大日本武徳会は解散させられることになる。
その後国内での再開の努力や文部省による請願書の提出、海外の柔道連盟の発足などを受けて1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
しかし柔道は武道禁止令の解禁に際し、「競技スポーツとしての柔道」が外圧によって誓約されることになる。それはいわば便宜的なものとも捉えられるものでもあったため、日本の指導者の中にはいつか再び武道を精神教育の中心として復活させようという志を持つ者も多くいた。
しかし国際スポーツ化の流れの中で、1964年東京オリンピック開催に際し、生前の嘉納治五郎が消極的態度をとっていた柔道のオリンピック競技化への道を進むことになる。
それらの流れの上で柔道の変容については次のような指摘がある。
「体育」面では、
「競技の国際化に伴って、次第に競技に勝つための「身体(体力)強化」論が強まることになる。一方では「形」が実践されなくなることに示されるように、嘉納が強調した「身体の調和的発達や保健」という側面は弱化されていく。結果的に、競技力向上のための「強化」が柔道実践の中心となっていき、「体育」として嘉納が重視した大衆性や生涯に亘る継続性の側面は見失われていった。」
「勝負(武術)」面では、
「「競技スポーツとしての柔道」が浸透することによって「勝負は競技場の場における出来事」として限定されていき、戦前ではかなり強く意識されていた、武術としての追及は急速に弱化していった。 そのことはまた、武術性を保持する目的が加味されていた「形」の実践の低下とも結びついていった。「柔道はスポーツである」ことが世界共通の認識となっていき、ますます「武術としての柔道」論は顧みられなくなっていくことになった。」
「修心」面、特にその「徳育」面には、 昭和60年頃までは、「武道」や「修行」そして「礼儀」という観点から「徳育の低下」を食い止めようとする論調が盛んであった。それら徳育の低下への憂いは基本的に、たとえ「競技スポーツとしての柔道」を容認する者であっても、「他の競技スポーツと柔道は単純に同一ではない」という認識から発せられていた。特に戦前来の多くの指導者では、武道が有する「真剣味」こそが精神の高揚に役立つとする「武道としての柔道」論も根強く残存し、また「修行」という弛まぬ継続性が人間を向上させ、「礼儀」とは日常生活全般に浸透したものでなければならない、という価値観が継承されていた。
しかし、柔道による徳育の効果が、戦前では人間としての「生き方」や「生活」に結びつくものでなければならなかったのに対して、「競技スポーツとしての柔道」では競技という場に限定されてしまうことが問題視されたのであった。
また、武道独特の修行観や段位に対する価値観、あるいは礼儀作法という行動面においてもその低下が憂慮されてきた。
また「精力善用・自他共栄」は、
戦後も不断に唱えられ続けてきたが、昭和60年頃から以降はその唱えはかなり減少する。
概して、嘉納が唱えたようにそれらを「日常・社会生活へ応用する」といった側面は強調されなくなり、「精力善用・自他共栄」を「競技スポーツとしての柔道」にどのように活かしうるか、そこへの関心が集中することになる。
一部で、「競技スポーツとしての柔道では精力善用・自他共栄の理念を活かし難い」という批判が出されていったが、その論調は、「勝ちさえすれば目的を達するような傾向が横行しだした」というように、「勝利第一主義への批判」と結び付いたものであった。
それら変容を決定づけた最大の原因は、競技場で当然のごとく求められた「勝利志向」の強まりにみられる。 その理由は、勝利志向の「強まり」と、弱者への配慮(すなわち大衆性)や他者肯定(すなわち道徳性)の「低下」との間には避けがたい相関があり、また、「勝利志向の強まり」が、「競技」の時空のみへと視野を限定させ、柔道を生活や生き方に応用するという幅広い価値観も見失わせた。
ことに日本の柔道界では、国際舞台での勝利が、発祥国としての意地と誇りによって強く求められたがゆえに、「勝利」という価値が「競技化の促進」という価値と容易に結びつき、戦前では修行者の動機づけを高めるための手段的価値に位置づいていた「勝利」が、次第に目的的な価値へと転換していった。
嘉納は生前、教育的価値の体系を保持するために、幾度も「目の前の勝敗に囚われるな」と唱えたが、このような戦後における「勝利の目的化」によって、その体系は崩れていった。
講道館や全日本柔道連盟は、柔道修行者のマナー・モラルの乱れを受け止め、修心面での再生を目的として社会活動を行っている。
日本において講道館・全日本柔道連盟が、平成13年度から合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げ、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎師範の理想とした人間教育を目指して活動を行っている。
「国際化、競技化、スポーツ化が進み競技成績や勝敗ばかりが注目されているが21世紀を迎えた今こそ嘉納治五郎師範が提唱した柔道の原点に立ち返り、人間教育を重視した事業を進めようとするものである。」
「講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることはもちろん、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、‘師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げる。その主目的は、組織的な人づくり・ボランティア活動の実施であり、本活動を通して、柔道のより総合的普及発展を図ろうとするものである。」
2006年からの「柔道の国際的な普及に寄与するとともに、その活動を通して人と人との交流を図り、異文化理解を進め、もって日本のさらには世界の青少年育成に寄与すること」を目的とした活動。
全日本柔道連盟は2014年4月1日に「柔道MIND」事業を推進するため柔道MINDプロジェクト特別委員会を発足させている。
まず、柔道の投技の基本は受の背中が大きく畳に着くように投げることだが、取は受を頭から落さないように投げ、多くの投技では受の体が畳に着く寸前に引き手を引いて受の体をわずかに引かなければならず、受は正しい受身(腕で畳を打って緩衝し、同時に帯やへそをみることにより顎を引いて固定し後頭部を打たないように護る)を必ず身に付けなければならない。
しかし、取と受の双方もしくはいずれか一方が未熟な場合や極端な体格差であった場合に受が頭部を畳にぶつけることがある。例えば大外刈りは、受が後ろ倒しになるという技の性格上、初心者や過度に疲弊して正しく受身を取れない状態の者にかけると後頭部を強打する危険性が高い。また、頭からの落下による事故原因の他に加速損傷(回転加速度損傷)が原因と思われる可能性も示唆されており、これは頭部に外力(極端な遠心力、加速度)が加わることで頭蓋骨に回転加速度がつき頭蓋骨内の脳が全体的に回転(一方向への偏り)することで脳と硬膜を繋ぐ橋静脈が破断、急性硬膜下血腫に至るという機序である。他に間(日にち)を置かず頭部への強打によって起こる脳震盪(セカンドインパクト症候群)が原因となり脳が物理的ダメージを負うことで、障害、死亡などのリスクが高まる報告がある。
全柔連は長時間練習の疲労による負傷防止に「1日の活動時間は2時間が上限」など小学生の活動指針を立てている。
2000年から2009年における日本の中学柔道での競技人口10万人当たりの平均死亡率は柔道2.376人/年、2番目に高率なバスケットボールで0.371人/年であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットボールや野球などのスポーツに比べて高いといえる。なお競技者人口からの死亡数の絶対値は水泳や陸上競技のほうが多い(独立行政法人日本スポーツ振興センターが平成2年から21年までに、学校内で柔道業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)。
学校管理下における柔道練習中での死亡に至る児童生徒の数は年平均4人超というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている。名古屋大学内田良の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。後遺症が残る障害事故は1983年から2009年にかけては計275件(約17件/年)で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている。
1964年(昭和39年)度の大阪府立高校におけるクラブ活動の傷害件数として、日本学校安全会大阪府支部資料にもとづき、柔道209件、野球124件、ラグビー105件。また、日本学校安全会大阪府支部調べの昭和51年度大阪府下全高校全日制男子のクラブ活動の傷害件数として、ラグビー443件、格技(主として柔道)382件、野球369件と報告されている。
柔道の事故に関して日本には全国柔道事故被害者の会が存在する。部活動後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷がほとんどないために柔道事故と死亡の因果関係の立証が困難になる。
柔道事故に対して全日本柔道連盟は安全指導プロジェクト特別委員会を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発している。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており、死亡または1級から3級の後遺障害に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。
『ゴング格闘技』は2010年6月の七帝柔道大会の試合後に松原隆一郎(東大教授)と増田俊也(作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある。
名古屋大学大学院教育発達科学研究科の内田良の調査によれば、日本の柔道現場では、安全対策に取り組んだ結果、2012年から3年間、死亡者はゼロとなったとしているが、ふたたび2015年から2021年4月までに7名の死亡者が出ている。
日本では「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある。
日本の文部省の対応は非常に杜撰で誠意の無いものであり、日本国政府(文部省)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事故が起きるという事実を30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることすらなかった。
日本国政府(文部省)は30年前に学校での柔道の指導中に起きた死亡事故で被害者家族から訴訟を起こされ、家族が「頭をうったと思われる」としたところ、文部省側は無罪を主張するために「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」ということを主張するために、わざわざ英語で書かれた論文を持ち出して自己弁護したにもかかわらず、自らの弁護のために持ち出した「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」という事実にもとづいて対応策を打てば状況を改善できたはずであるにもかかわらず、その事実を全国の学校現場に伝える努力をまったくせず、結果としてその後に日本で100人以上の若者が命を落とすような状況を作り出していたのである。
さらに文部省は、「学校での柔道の指導中の事故を文部省に報告する必要はない」などとする(不適切な)きまりを数十年前につくり、文部省に事故情報が集まってこない体制にしていた。これによって、ますます危険が把握されず放置される状況が作り出された。
こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた。 日本の体育教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態でありながら、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまで、指導者としてのレベルには全然達していない。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない。
フランスは日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国になったが、かつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための国家資格を設立、救急救命や生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である。
全日本柔道連盟でも、連盟内に医師グループはいたものの、その中に頭を専門とする脳神経外科医がおらず、柔道事故の内実をよく理解していなかった。
二村雄次(全日本柔道連盟所属の医師、自身も講道館柔道六段)は、NHKの『クローズアップ現代』(2012年2月6日放送)で、武道必修化(柔道必修化)の前に、第三者による柔道事故検証のしくみ(システム)を事前に用意しておくべきで、そうすればもしも柔道指導中の事故が起きた場合は(文科省でもなく、事故を起こしてから責任を回避しようとする現場の体育教師や校長などでもなく)第三者によって事故の実態を解明・分析し、そうすることで柔道事故の実態を解明し情報を蓄積すれば事故の防止策も打つことができる、と指摘した。
2012年、文部科学省の外郭団体日本スポーツ振興センター名古屋支所が、同競技機関誌で掲載予定していた柔道の部活動や授業中の死亡事故への注意を呼びかける特集記事について、「中学の武道必修化が始まる前の掲載は慎重にすべきだ」という本部からの指摘を受けて不本意ながら掲載を見送った。
日本では2001年頃から肉体の接触で皮膚感染するトリコフィトン・トンズランス感染症(白癬菌の一種、いわゆる水虫、タムシ)が柔道及び、レスリング競技者間での集団感染の例が報告されている。皮膚科などの専門医にて治療が可能。
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"text": "柔道(じゅうどう / Judo)は、嘉納治五郎が興した日本の武道。日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)とも呼ばれる。オリンピック正式競技にもなっている。国内競技連盟は全日本柔道連盟(JJFJ)、国際競技連盟は国際柔道連盟(IJF)。",
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"text": "柔術修行に打ち込み修めた嘉納がさまざまな流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、1882年(明治15年)にその考察から創始した文武の道である。「柔能く剛を制す(じゅうよくごうをせいす)」の柔の理を発展させ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の、心身の力をもっとも有効に活用した「精力善用」「自他共栄」の原理を完成させる。",
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"text": "古武道の柔術から発展した武道で、投技、固技、当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察や学校に普及し、第二次大戦後には国際競技連盟の国際柔道連盟の設立や乱取り試合がオリンピック競技に採用されるなど広く世界的な普及に成功している。",
"title": "概説"
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"text": "スポーツ競技・格闘技でもあるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、武術の修得・修練と、身体・精神の鍛錬と、教育と、社会生活への応用・日常生活への応用を目的としている。",
"title": "概説"
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"text": "IJFでは2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている。",
"title": "概説"
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"text": "柔道の歴史",
"title": "歴史"
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"text": "古くから、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。",
"title": "歴史"
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"text": "1877年(明治10年) に、嘉納治五郎は天神真楊流の福田八之助に入門し、当身技を中心に関節技、絞技、投技を含んだ捕手術を由来とする立合や居捕の体系を持ち、乱捕技としての投げ技、固技も持つ天神真楊流を稽古した。また、組討を基とし捨身技を中心とした体系と乱捕を伝えていた起倒流柔術を稽古した。",
"title": "歴史"
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"text": "天神真楊流と起倒流柔道の乱捕技や形の技法を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。 もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。 嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。",
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"paragraph_id": 9,
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"text": "講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる。",
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"text": "その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道〈日本武道協議会加盟九団体〉)の筆頭として名を連ねている。",
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"text": "第二次大戦後、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど日本国内外の働きかけもあり、日本においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)ごろ、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2 - 3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。",
"title": "歴史"
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"text": "この試合のあと、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用したため、全国に広まっていったという。",
"title": "歴史"
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"text": "日本の終戦後、GHQによる武道禁止令により警察柔道も道場は閉鎖され、この一時期公式の試合を中断することを余儀なくされた。",
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"text": "敗戦による荒廃した世情は犯罪を増長させ、これに対応する警察官は、体力、技術、精神力の向上のため術科訓練の必要性が改めて見直されることとなった。法の執行者として犯人の制圧、逮捕は警察官の責務であり、この能力に欠ける警察は治安維持の重責を果たせない。当時の国家地方警察本部はこの点を楯に、逮捕術の基礎訓練に柔道が必要不可欠であると、GHQに改めて柔道の復活を申請した。このような経緯を経て戦後警察柔道はいち早く復活を認められた。戦後、警察柔道の復興は、警察官の士気を高揚させ、治安情勢の悪化した日本の秩序回復に大きく貢献している。",
"title": "歴史"
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"text": "心身の鍛練により明朗剛健な警察官を養成するには、柔道訓練は不可欠とした警察の職務性が糸口となり、戦後衰退した日本柔道をいち早く軌道に乗せている。",
"title": "歴史"
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"text": "日本の警察官は柔道または剣道(女性のみ合気道も)が必修科目となっている。警察学校入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。警察署では青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。警察官の大会は「警察柔道試合および審判規定」によって行われる。",
"title": "歴史"
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"text": "1895年(明治28年)、武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民士気の向上を目的として京都に公的組織として大日本武徳会が設立された。 大日本武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。",
"title": "歴史"
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"text": "講道館柔道は、嘉納治五郎が大日本武徳会の創設時から柔術部門における責任者にあり「大日本武徳会柔術試合審判規定」「大日本武徳会柔術形」「段位制」「称号制」の制定において委員長として柔術諸流派の委員をまとめて大きく影響を持った。",
"title": "歴史"
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"text": "大日本武徳会において講道館柔道は柔術部門を統一する役割の流派として正式採用され教授者を派遣し、1919年には柔術部門は柔道部門と改称し統一し、大日本武徳会武道専門学校で稽古がされた。磯貝一、永岡秀一、田畑昇太郎、栗原民雄などが大日本武徳会における主任教授を担当している。武徳会において柔道は柔術諸流派の人材や技法を吸収し発展した。また大日本武徳会柔道部門には空手や捕縛術も柔道傘下に置かれていた。",
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"text": "1946年(昭和21年)11月9日、大日本武徳会は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。",
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"text": "しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は日本における活動再開を果たす。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "日本の学校教育においては、1911年(明治44年)7月の中学校令施行規則改正時に、体操科の内容として従来の教練及び体操の他に「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」(13条)とされ、旧制中学校の正科として柔道が剣道とともに採用された。",
"title": "歴史"
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"text": "太平洋戦争後、占領軍 (GHQ) により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、1950年(昭和25年)に文部省の新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで1953年(昭和28年)の学習指導要領で、柔道、剣道、相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた。1989年(平成元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。2012年(平成24年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)。",
"title": "歴史"
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"text": "日本では部活動としてほとんどの中学校、高等学校、多くの大学に「柔道部」があり、中学校、高等学校では学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。警察や社会体育中心にやってきた日本の柔道だが20世紀終盤までに男子柔道の主力選手はこの学校体育大学柔道の学生およびそのOBの柔道家が中心となっており、日本以外への普及活動、柔道競技の近代化も大学柔道の柔道家が中心になって行っていたと彼らは自負していた。中学校、高等学校の運動部の監督は教員がやることが多く、教員はほとんど大学を卒業しているので、中学校、高等学校の柔道界も大学柔道界の貢献が多くなっている。彼らは社会体育勢が中心の全柔連のやり方に不満を持つようになった。20世紀終盤に起きた講道館・全柔連対全日本学生柔道連盟(学柔連)の内紛もこういった日本の大学柔道界にたまった不満も背景にあった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本ではほとんどのスポーツは学校体育中心だが、こと武道、武術、格闘技に至っては多くが町道場やジムでの社会体育を中心として行われている。柔道も講道館という社会体育として始まった。その後、民間などの道場での活動のほかに、警察署の道場で一般向けの教室が行われるようになり社会体育の柔道は拡大した。1980年代でも全柔連の主なメンバーは骨接ぎや社会体育である町道場を商売にしている人が多い、と首都圏で町道場を営み日本柔道界の内情に詳しい小野哲也は述べている。1986年、ある議員から、全柔連は全日本学生柔道連盟(学柔連)の大卒メンバーと異なり、知性・教養がない者ばかり、と言われたことがあるとも小野は述べている。神取忍は町道場は学校体育の柔道と比べ厳しい体罰を受けることはない、と述べている。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体がほとんどなく、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道の指導、練習を受ける社会体育の柔道がメインである。",
"title": "歴史"
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"text": "日本では企業の実業団活動が行われている。柔道がオリンピック競技となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、のちに警察柔道を凌ぐ勢力となっている。1980年代、大学柔道の学柔連のメンバーは大学の柔道部OBがメインで実業団柔道に対しても影響力があった。講道館・全柔連対学柔連の内紛では、1983年に全日本実業柔道連盟(実柔連)会長の永野重雄は全柔連を脱退した学柔連に共鳴し、副会長の青木直行が受け流したため実現しなかったが、青木に全柔連から脱退するよう命じた、と小野哲也は語った。",
"title": "歴史"
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"text": "日本では警視庁、道府県警察のほか、皇宮警察、自衛隊、筑波大学、中央競馬会などを所属とするステート・アマの柔道家も多い。",
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"text": "柔道の試合競技は、オリンピックでは1964年の東京オリンピックで正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も1988年のソウルオリンピックで公開競技、1992年のバルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。 世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「形」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた。 のちに世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域は201カ国に達している(2012年4月現在)。日本以外では、韓国、欧州、ロシア、キューバ、ブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口はフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟(フランス柔道連盟)の組織構成の関係上、国際柔術連盟の柔術の競技人口も含んでいるが50万人を突破し、全日本柔道連盟(全柔連)への登録競技人口20万人を大きく上回っている(ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない)。 また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全柔連の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが、のちにまったく柔道着を着ることもないどころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいるようになった。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違う。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "講道館柔道の技は投技、固技、当身技の3種類に分類される。投技は天神真楊流、起倒流の乱捕技をもとにしている。 固技や絞技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる。投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。 またこれと平行して、口語的には、立技と寝技に分類して使用されるが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防を指しているので、固技と同義ではない。絞技と関節技は立ち姿勢でも施すことが可能であるからである。 練習形態は形と乱取があり、形と乱取は車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取による稽古を重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取・試合では「投技」「固技」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していくこととなった。 試合で用いることができるのは、投技と固技であり、講道館では100本としている。しかし、試合で使用できる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。また国際柔道連盟規定(国際規定)の改正によって抑込技のスコア取得時間が短縮し決着の早期化が計られ、寝技の攻防における「待て」が遅くなったことと、主に外国選手による捨身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "投技とは「理合い」にしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また柔道の投げ技は、(1) 試合や自由練習(乱取)で用いられる投げ技、(2) 関節技を利用した投げ技、(3) 当て身技を施しながらの投げ技の3つがあるが、試合や練習では(1)が使われ、(2) や (3) の方法は「形」によって学ぶことになっている。乱取り試合においては関節を極めながら投げると投技とはみなされない。",
"title": "技術体系"
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"text": "固技(かためわざ)には抑込技、絞技、関節技がある。講道館柔道では固技が全部で32本あり、抑込技(おさえこみわざ)10本、絞技(しめわざ)12本、関節技(かんせつわざ)10本である。IJF制定のものでは一部異なるものがある。おもに寝技で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)また、国際規定では2018年に両者立ち姿勢での絞技・関節技は禁止された。しかし国内の高段者大会など講道館規定においては依然使用可能対象である。また技術体系としては形において依然として立ち絞め技、立ち関節技も学びの対象となっている。現在の乱取り試合においては肘関節技以外を禁じ手としているが、形においては肘関節技以外の手首関節技、足関節技も使用対象となっている。かつての柔道試合の行われていた各時期・各時代背景、各規程によっては、肘関節技以外の手首関節技、指関節技、足関節技、首関節技なども乱取り試合において使用可能であり、各々の時代背景により使用可能な技術体系は常に変化している。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "当身技(あてみわざ)は、天神真楊流の技術を踏襲している。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "当身技もしくは当技(あてわざ)とは、急所といわれる相手の生理的な弱点などを突く、打つ、蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、形の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では極の形・柔の形、講道館護身術などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は天神真楊流から伝えられてきたものである」としている。極の形、柔の形は精力善用国民体育の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており「真剣勝負の形」と呼ばれていたが、武徳会時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形をもとに長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。また、嘉納治五郎の想定していた柔道の当身技の中には武器術、対武器術の概念も含まれていたとされている。",
"title": "技術体系"
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"text": "一方、空手界側から柔道の当身技のうち、精力善用国民体育・第一種攻防式・単独動作(基本練習)の当身技は唐手(のちの空手)の影響を受けているという説が唱えられている点についても下に記載する。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "柔道の当身技において、極の形の居取の技「横打」では居取りから肩固で制し倒した受けに対し肘当を水月(みぞおち)に当てる技となっており、居取の技「後取」では座した状態の投げで巻き込み倒した受けに対し拳当を釣鐘(股間の急所)に当てる技となっている。立合の技「後取」では立った状態からの投げで倒した受けに手刀当を烏兎(眉間)に当てる技となっている。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "また、精力善用国民体育の単独動作・第二類の当身技・腕当の拳当「下突」(「左右交互下突」「両手下突」「前下突」)は下方・倒れた相手への突き技を想定した動作を体育的に行う運動となっている。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、当身技・足当の踵当「足踏」は、講道館護身術・徒手の部・組み付かれた場合・「抱取」(かかえどり)で使用される際には、踵で足の甲を踏みつける技となるが、応用として倒れた相手への止めの踏みつけの技ともなる。",
"title": "技術体系"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "柔道には固技だけでなくブラジリアン柔術や総合格闘技で言うところのパスガード、スイープの寝技技術が豊富にある。パスガードは抑込技でのスコアにつながるので、あっても不思議はないが、スイープについてはブラジリアン柔術のようにポイントも得られない「スイープ」のような総称、概念もあまりないにもかかわらず豊富にある。UFC以前からパスガード、スイープの技術がある格闘技は珍しく、他にはブラジリアン柔術、前田光世が指導員をしながら技術を吸収したロンドンの日本柔術学校の不遷流の流れをくむ柔術、着衣総合格闘技の柔術ファイティングシステムなどがある。創立当初、寝技はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。",
"title": "技術体系"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "講道館の設立当初においては、天神真楊流や起倒流の形がそのままの修行され、当身技の技法、概念もそこから継承され修行されていた。その後、乱取り技や真剣勝負の技など目的ごとに整備分類され技も追加され、大日本武徳会における形制定委員会などを通して古流柔術諸流派との議論・研究の元、「実地に就いて研究の結果、遂に全員の一致を見るに至」り、各流派の技も追加されていき、のちの形の姿になっていった。",
"title": "技術体系"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎は次のように書き残している。「従来の柔術諸派の形は、大別して見ると、起倒流、扱心流等を以て代表せしめ得る鎧組打系統の形と、楊心流、天神真楊流等を以て代表せしめる当身、捕縛術系統の形とに大別することが出来る。乱取の形の中、投の形は前者に属し、固の形と極の形は後者に属するものである。かくして出来た極の形も、未だ完全のものと認むることは出来ぬが、今日の儘でも、従来の柔術諸派の形に比して一段優れたものであるということはこれを明言し得る所であるー。」",
"title": "技術体系"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道は形(かた)、乱取(らんどり)によって技術を修行するように示されている。しかし競技大会における「柔道」とはほぼ乱取を意味するものであり、形については国民の認識も薄い。",
"title": "柔道競技"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このことから1990年代以降は「形」の競技化が進められ、次項で説明する形競技も行われるようになった。",
"title": "柔道競技"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "形の競技化、試合も始まっている。",
"title": "柔道競技"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本国内では、1997年(平成7年)には講道館と全柔連が全日本柔道形競技大会を開催したことで、形の競技化が始まった。10回(10年)の国内選手権大会を経てからは、形の国際大会開催の機運が高まり、第1回講道館柔道「形」国際大会が2007年に講道館大道場で開催された。ここでは講道館講道館護身術、五の形、古式の形を除く、4種類の形が採用されたが、すべて日本チームが優勝した。ヨーロッパでは2005年(平成17年)に欧州柔道連盟が第1回欧州柔道「形」選手権大会をロンドン郊外で開催した。さらに東南アジア地区のSEA (South East Asia) Gamesでは、2007年から投の形と柔の形が実施されている。",
"title": "柔道競技"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2008年11月には、国際柔道連盟がIJF形ワールドカップをパリで開催したが、投の形では優勝を逃している。",
"title": "柔道競技"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2009年10月には第1回世界形選手権大会がマルタで行われ、こちらは5種目とも日本勢が優勝した。第2回世界形選手権大会は2010年5月、ブダペストで行われ、日本チームは全5種類の形で優勝した。",
"title": "柔道競技"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道の試合は、通常、年齢と体重によって制限されており、男女も別である。年齢には下記のように制限がある。",
"title": "柔道競技"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "柔道は本来無差別で争われるべきという考えにもとづいていたため、講道館柔道では無差別を除くと段別・年齢別がその区分の中心であった。しかし、東京オリンピック開催を機に、体重による区分を軽量級、中量級、重量級の3階級設けたのが最初である。講道館柔道ではのちに8つの階級に分かたが、主催者や競技者の年齢によって異なることがある。国際大会では、シニア、ジュニア、カデなどで制限が異なる。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上21歳未満。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上18歳未満。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "無差別は世界柔道選手権大会にはあるが、オリンピックの種目ではない。また日本で一番格式のある全日本柔道選手権大会は無差別で行われる。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、オリンピックや世界柔道選手権大会では、敗者復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。そして復活トーナメントを勝ち上がった選手と準決勝で負けた選手が銅メダルを争うことになる。このため銅メダルが必ず2つ出る。国際オリンピック委員会は他の競技との兼ね合いから1つにするように通達しているが、国際柔道連盟はこれを拒否している。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2012年のロンドンオリンピックからは敗者復活戦のシステムが変更になり、準々決勝の敗者のみが出場でき、敗者復活戦の勝者と準決勝で負けた選手で銅メダルを争うことになった。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "一方で国内の大会である、全日本柔道選手権大会や全日本選抜柔道体重別選手権大会では行われていない。",
"title": "柔道競技"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "乱取り試合のルールは講道館柔道試合審判規定(旧称・講道館柔道乱捕試合審判規程、以降「講」)と国際柔道連盟試合審判規定(以降「国」)などがある。のちに日本でもほとんどの大会が国際柔道連盟規定(国際規定)で行われるようになったが、大会のレベルなどにより、日本独自の方法や判定基準が採用されている。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道試合審判規定による試合は、後々においても講道館において開催されている月次試合や紅白試合、高段者大会などにおいて引き続き継続して採用されている。そこでは2021年現在の国際規定に準拠する試合においては禁じ手扱いとされる脚掴み技や立ち関節技や立ち絞技なども引き続き使用可能となっている。一方で国際規定と異なり、見込み一本が女子においては一時期認められ、男子においても例外的に認める大会が開けるとか、女子では国際規定より早期に蟹挟が禁止、骨折・脱臼で試合続行を認めないなどスポーツライクな差別化も行われている。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "かつてはやはり講道館試合規程と同様に嘉納治五郎が中心となってまとめた、大日本武徳会柔術試合審判規定(1899年施行、1919年に大日本武徳会柔道試合審判規定に改称、1943年に新武徳会柔道試合審判規定として大幅に改定)などがあった。新武徳会規定以前の武徳会規定については、講道館柔道試合審判規程と基本的に内容の異なるものではないが、立技と寝技の比率による寝技の重要性など一部記述の異なるものとなっていた。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また、高専柔道を引き継ぐ七帝柔道の試合においては、寝技を重視する形式での独自の試合を行っている。一方で講道館規定、国際規定より早期に蟹挟が禁止がされたり、腕返の投げ技としての無効化、見込み一本の維持などスポーツライクな差別化も行われている。抑込技肩袈裟固・裏固の無効化、高専柔道で開発された抑込技横三角固の一時無効化など守旧的な面もある。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "以下の試合方法の記述については、おもに国際柔道連盟試合審判規定(2018年 - 2020年版)(2020年1月13日一部改訂版)について説明する。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "試合場内は、9.1 m × 9.1 m(5間)(講1条)、もしくは8 m × 8 mから10 m × 10 m四方(国1条)の畳の上(「試合場」は、講: 14.55 m(8間)、国: 14ないし16 m四方の場外を含めた場所をいう)。試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続している場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制することを競う。当て身技は使えない。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "審判員は主審1名、副審2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。2014年から試合場の審判は主審1人となる。副審2名は審判委員席で二人並んでビデオを確認しながら無線で主審と従来通り多数決裁定で試合を進めていく。ジュリー(審判委員)も試合場の審判と無線でコミュニケーションを取り合うことになるが、必要とみなされた場合を除き技の評価などへの介入は控える。2018年までに副審はビデオを確認しないことになった。しかし、試合場で裁く規定には戻らず無線で主審と連絡し従来どおり多数決により試合を進めていくこととなった。副審が試合場にいないと試合が他の者から見やすいのであった。ビデオ確認の担当はかつての審判委員とは限らずスーパーバイザーがやることが多くなった。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "審判に抗議することはできない(講16条)。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "試合は立ち姿勢から始まる(講10条)。一本勝負であり(講9条)、「一本」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。「技あり」2回の一本の場合は「合わせて一本」と主審がコールする。試合時間内に両者とも「一本」に至らない場合には、それまでの技のスコアの差で「優勢勝ち」を決する。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "3分から20分の間であらかじめ定められる(講12)。国体は成年男女、少年男女ともに4分。全日本選手権は6分。国際規定では、マスターズ3分(60歳以上は2分30秒)、シニアの場合、男女とも4分、ジュニアとカデも4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合にはゴールデンスコアとなり、どちらかが技のスコアか指導をとるまで試合は続行される(旗判定の廃止)。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "技は、「一本」、「技あり」の2つのスコアで評価される。(国)",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2019年7月現在においては、一方の者が「技あり」を2つ取ると、「技あり 合わせて一本」(英: waza-ari-awasete-ippon)となり、「一本」に準じた評価が発生。その時点で試合が決する。このことを指して、「合わせ技一本」と言われることもある。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "かつての国際規定ではスコアの種類に「効果」と「有効」があったが、ルール改定により2009年1月1日から「効果」、2017年1月1日からは「有効」が正式に廃止された。講道館規定ではもともと「効果」のスコアはなく「有効」がある。評価の優劣は「一本」に準ずる技のスコアが「技あり」、「技あり」に準ずる技のスコアが「有効」だった。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "上述の「技あり 合わせて一本」ルールについては、過去、国際柔道連盟が廃止をしたことがある(2016年12月発表分では、2017年1月より適用とされていた。)",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "その後の国際柔道連盟のルール再改正により、「技あり 合わせて一本」は復活。2019年7月現在において現存する。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "かつての国際規定では、相手を制しながら、相手の片方の肩、尻、大腿部が畳につくように、「強さ」「速さ」をもって投げた場合を「効果」としていたが、改正後はノースコアになった。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "固技(抑込技、絞技、関節技)の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1つ目は、抑込技で、国際規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚が自分との間に入っていない、相手の脚によって自分の身体、脚が下から挟まれていない場合、抑え込みが成立する。抑え込まれている者が脚を上から挟んだ場合は講道館規定では「解けた」とならないが国際規定では「解けた」となる。全柔連発行の『2018年~2020年国際柔道連盟試合審判規定』ではこのルールを説明する画像が2枚あるがともに下から脚を挟んだものになっている。抑え込みが「解けた」とならないで、20秒経過すると「一本」になる(講道館規定では30秒)。但し、先に(投げ技、固め技の)「技あり」スコアを持っていれば、10秒経過すると「技あり」で「合わせて一本」になった(講道館規定では25秒)。同様に一定時間の抑込技で以下のように技が判定される。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2009年にルールが改正される前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていた。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2つ目は、固め技で、相手が「参った」と発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2 - 3回叩く)をすれば「一本」勝ちになる。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "3つ目は、絞技と関節技で、技の効果が十分に現れた時である。(国:相手に戦意、戦闘能力がなくなった時)",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "この条件には、脱臼、骨折、気絶がこれにあたる。(国:脱臼、骨折は主審が戦意、戦闘能力があるとみなせば続行)",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "参加選手の程度によって、関節技や絞技が完全に極まっていれば、安全のため、選手が「参った」の表明や脱臼、骨折、気絶をしなくても主審の判断で「一本」にできる大会がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。(講のみ)",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "小・中学生以下は安全のため関節技・絞技禁止(講・少年規定による)。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「指導」が与えられる。重大な違反行為に対しては「反則負け」が宣告される場合もある。「指導」に対しては違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。ただし、2014年からの国際規定では、指導は3回目までスコアにならず、技のスコア以外はスコアボードに表示されないことになった(これにより、技ありと指導3を合わせた総合勝ちは成立しなくなった)。4回目の指導が与えられた場合は反則負けとなる。試合終了時に技のスコアが同等の場合は、指導の少ない方の選手を勝ちとする。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "得点表示の例(青(赤)が一本、白が技あり1回、有効1回の場合)",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "有効がある大会では試合場やテレビ中継での得点表示は、有効な技の回数が、左から、一本 (I) 、技あり (W)、有効 (Y) の順に表示される。上下に列記される場合もある。上記の例の場合、希に有効の回数が2桁になると、野球のスコアボードと同様、正しい表示ができない。",
"title": "試合のルール"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道では段級位制を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。",
"title": "段級位制"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "段位制は囲碁、将棋において古くから行われていたが、それを武道界で最初に導入したのは、嘉納治五郎の講道館柔道である。その後大日本武徳会が、警視庁で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道・弓道に導入した(なお、武徳会は戦後GHQにより解体されたため、1948年には武徳会で取得した段位を講道館の段位として認める特例が取られた)。",
"title": "段級位制"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "初段が黒帯というのは広く知られており、「クロオビ」は英語圏でも通用する単語となっていて、米国では黒帯を英訳した『Black Belt』という雑誌も発行されている。元々、柔道の帯は洗濯しないのが基本であり、稽古の年月を重ねるうちに黒くなっていくことから、黒帯が強さの象徴となったのであり、茶帯が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。",
"title": "段級位制"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "柔道の創始者である嘉納治五郎は『柔道概要』の中で「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べている通り上限は決められていない。ただし十段よりも上へ昇段した前例はなく、今日では十段が事実上の最高段位になっている。そもそも段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではないため、高段者になればなるほど、名誉段位という意味合いが強くなっている。実際に、昇段のための条件(競技成績・修業年限・審判実績など)が明文化されているのは八段までで、九段の昇段については存命の九段所有者が審議して決めることになっており、十段については講道館長の裁量に任されるなど、基準が非常に曖昧になっている。一方、現役選手では三 - 五段までがほとんどで、これは全日本柔道選手権やオリンピック柔道競技、世界柔道選手権、春・秋の講道館紅白試合の技量抜群者に与えられる「特別昇段」の段位上限や、年齢・修行年限などの制限が課されているためである。実際にオリンピック2連覇で世界選手権を7度制した谷亮子も、現役時代の段位は四段であった。",
"title": "段級位制"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "なお、2012年現在での講道館十段所有者は、山下義韶、磯貝一、永岡秀一、三船久蔵、飯塚国三郎、佐村嘉一郎、田畑昇太郎、岡野好太郎、正力松太郎、中野正三、栗原民雄、小谷澄之、醍醐敏郎、安部一郎、大沢慶己(昇段年順)の15人のみで、柔道入門者12万人に1人と非常に狭き門となっている。また国際柔道連盟での十段所有者は、アントン・ヘーシンク(オランダ)、チャールズ・パーマー(イギリス)、ジョージ・カー(イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟のアンリ・クルティーヌ、オランダ柔道連盟のnl:Jaap Nauwelaerts de Agéが十段位を取得している。女子では十段は、2011年8月にアメリカ柔道連盟より十段を取得した福田敬子(在アメリカ)ただ1人である(講道館は九段)。",
"title": "段級位制"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "昇級・昇段のためには全国の各団体が講道館の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・柔道形の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に講道館への入門を認められ、会員証が発行されるとともに黒帯の着用が認められる。",
"title": "段級位制"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "戦前の武道組織「大日本武徳会」においては、柔道範士、柔道教士、柔道練士(精錬証受賞者)の、柔道(柔道家、柔術家)の称号が定められていた。",
"title": "称号制"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "講道館は1967年(昭和42)3月15日に柔道礼法のその趣旨と動作について「試合における礼法」として発表している。",
"title": "礼法"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道において稽古(けいこ)は、おもに形と乱取によって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。",
"title": "稽古方法"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「形」と「乱取」の他に「講義」と「問答」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。",
"title": "稽古方法"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また、上記四種の稽古方法の他、「国民体育」を後年に嘉納は挙げる。嘉納は1927年(昭和2年)の発表以降、従来の形や乱取りを補える「国民体育」として、#精力善用国民体育(攻防式(武術式)/舞踊式(表現式))を学ぶことを推奨している。服装・場所・時間の自由に、単独・対手の有無関わらずに、柔らかく静かに(体育的)も、強く早く(武術的)も出来、興味本位にも実用本位にも、日々体育として億劫でない仕方で行え、万人に実行しやすいものとする。屈筋が多く激烈なる運動である乱取りに対し、伸筋や反る運動を含み、また冴えのある当て身とその対処も意識出来ることで自然と正しい乱取り稽古に繋がるとする。形・乱取りを修行するものは、同時に国民体育を心得ていなければならぬとしている。",
"title": "稽古方法"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "嘉納は「形乱取を道場において練習する柔道」としているが、同時に「柔道の修行者は道場練習以外の修養を怠ってはならぬ」ともしている。",
"title": "稽古方法"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "柔道の公式試合は国内、IJFともに認定を受けた審判員が試合を司ることになっている。審判員は公認審判員規定によって資格が管理されている。国内の審判員はS、A、B、Cに分けられ、各審判員は研修会に参加して資格を維持している。国際はインターナショナル、コンチネンタルの2種類がある。",
"title": "公認審判員規定"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "公益財団法人全日本柔道連盟における、柔道指導者のさらなる資質の向上、及び指導力の強化を図り、日本柔道の普及・発展に寄与することを目的に「公認柔道指導者資格制度」が設けられた。 全日本柔道連盟が公認する柔道指導者として、A指導員、B指導員、C指導員、準指導員の4つの区分が設けられている。",
"title": "公認柔道指導者資格制度"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "生前、嘉納治五郎は、ただちに完全を望むことの困難さも指摘しながらも、次のように理想の柔道教師像に言及し掲げている。",
"title": "公認柔道指導者資格制度"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎の掲げる理想の柔道教師を踏まえ、全日本柔道連盟は今後の指導者養成の目指すべき指導者理念として理想の指導者像を掲げている。",
"title": "公認柔道指導者資格制度"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観はもともと幅の広いものであった。1889年(明治22年)の講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」の中において嘉納は柔道修行の目的を「修心法」(知徳育/応用)、「体育法(別名・練体法、鍛錬法)」(体育)、「勝負法(別名・護身法)」(武術/真剣勝負/護身)とし(時に「慰心法」を含む)、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では究竟的な目的として下段・中段の柔道の修行で得た身体と精神の力(心身の力=能力・活力・精力)を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "武術としての勝負法の柔道について嘉納治五郎は「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く日本以外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ総合的な武術をこしらえたいとの考えも持っていた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "柔道の歴史の中で、当身技を含む柔道勝負法の乱取り、古武術・古武道の技法を取り入れ武器術等も学ぶ古武道研究会や講道館棒術、当身技を体育的に行う精力善用国民体育、柔道理論を再整理し投技と固技に対し当身技と立ち関節技によって離れて行う離隔態勢の柔道(柔道第二乱取り法)などが研究され実践されてきた経緯がある。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎は、1918年頃に柔道の新しい練習法の導入を予告している。これからの柔道における剣・棒などを用いた武器術を学ばせるにあたり、幼少のものの練習には安全性を考慮してゴムや布製の刀を用いてやらせたいと次のように述べている。「予が昨今考えて居る所では、幼少のものの柔道の修業には、始めから竹刀の代わりに護謨(ゴム)、布などで作った空気入の刀を用ひて、打ったり突いたり、又それを外したりする形を教へることにしたいと思ふ。要するに従来の剣道の形として教へて居たものを、或る形で柔道の練習として加へたいのである。」のちのスポーツチャンバラに相当する練習法の導入を想定していた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "また、今後の柔道における武器術との融合についても次のように述べている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "「本来からいえば、槍でも、薙刀でも、その他何でも攻撃防御の目的に適うものは柔道の内に内包されるはずのものであるが、剣と棒とは、武器の中でも最も応用の広いものであるから、世間でいう剣道は、ある形で柔道の内に最必要なる一要素として這入ってくるべきものと考えられる。」「従来の柔道と剣道とは、合体して一のものになるはずと思う」と嘉納は予言していた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "また一方で外国に渡り柔道普及活動の一環で異種格闘技を戦い名声を上げた谷幸雄や前田光世などの活躍もある。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "世界を戦い渡り歩いた前田光世は旅先から日本在住の友人薄田斬雲宛にいくつかの手紙を送っており、幾多の戦いを通しての異種格闘技戦の「セオリー」が詳細に記録されている。そこでは前田が対峙したレスリング(西洋角力)やボクシング(拳闘)に対する歴史的分析、対策、勝負時の条件等を考察している。前田はレスリング、ボクシングの油断ならない面倒であることを述べながら、同時に柔道こそ世界最高の総合的かつ実戦的な格闘技だという自負を語る。「我が柔道は西洋の相撲(WRESTLING)や拳闘(BOXING)以上に立派なものであることは僕も確信している。拳闘は柔道の一部を用いているだけで、護身術としては幼稚なものだ。(中略)(拳闘は)個人的なゲームで、八方に敵を予想した真剣の護身術ではない。だから体育法としても精神修養法としても、また理詰めの西洋人流に科学的に立論しても、我が柔道と彼らの拳闘とは優劣同日の談にあらずである。」前田はその言説において柔道=護身術と明確に定義しており、その体系にレスリング、ボクシング技術や当て身の突きや蹴りを内包するものという主張が見受けられる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "また、前田は異種格闘技を戦うその練習の上において、のちのオープンフィンガーグローブの原型を考案し、前田の日本に宛てた手紙をまとめた『世界横行・柔道武者修行』(1912年)、『新柔道武者修行 世界横行 第二』(1912年)においてその言及が確認できる。「何らかの道具を新案して、当てる蹴るの練習をする必要がある。僕はいま、ゴム製の拳闘用手袋風にして、指が一寸ばかり(約3 cm)出るようなものを新案中だ。それから、軽い丈夫な面を、これもゴム製にして、目と鼻腔の呼吸をなし得るものを新案中だ。胸は撃剣の胴のようなものをつけてもよい。これで当てることと蹴ることの練習をやる。それから袖をとりに来る手の逆を取ること。以上の練習は柔道家には、ぜひとも必要と考える。」",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "また、フランス柔道の父川石酒造之助の「川石メソッド」などの例からも、日本以外に渡った柔道家の残した柔道技術の中にはのちに国内においては失われたものもあることが伺える。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の軍における格闘技というのは基本的に軽視されていた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "戦争はほとんど砲と銃で戦う時代であり、この時代の近接戦闘といえば主に騎兵が使う軍刀(サーベル)と、歩兵がライフルに装着(着剣)して槍のように使う銃剣で戦うことだった。しかし第一次世界大戦では、大規模な塹壕戦が繰り広げられた。塹壕内でのきわめて近い距離、狭い場所での戦闘が頻発したことで、近距離向きの銃器や手榴弾以外に、敵に悟られないように塹壕に侵入していくことも重要だったため、音を出さない白兵戦用の武器も重視された。そうした白兵戦で敵に対処するために防御側も同様の至近距離での戦闘技術が必要となった。このため各国で近接戦闘の工夫がされていった。塹壕戦によって近い距離で戦う武器術や格闘技術が求められるようになっていったのがこの時代の最大の特徴であり、軍における訓練では近接戦闘のために既存の格闘技を取り入れるようになった。第一次大戦を境に軍隊格闘技・近接格闘術の基として注目された格闘技の一つに日本の柔道や(古流)柔術がある。そしてこの時期の徒手格闘術はボクシングや柔道が中心となっている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
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{
"paragraph_id": 112,
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"text": "柔道や柔術の日本以外への伝播はちょうど第一次世界大戦前であり、多くの柔道家・柔術家が日本以外に渡って普及活動を行っている。アメリカなどでは第一次大戦前、柔術ブームとでも呼ぶべき現象が起きていた。またそこには当時、日清・日露戦争での勝利に対して世界から向けられた日本への興味、東洋趣味からの観点や、嘉納治五郎の教育者の立場からの部下にあたるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などによる柔道(柔術)の日本以外への紹介、また嘉納治五郎自身の渡欧の影響なども柔道・柔術ブームへの影響が見受けられる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
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"text": "アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの信頼を得て合衆国海軍兵学校の教官として講道館柔道を教えた講道館四天王の一人山下義韶(のちの史上初の十段位)などの例や、講道館柔道を学びロシアにおいてサンボの創始者となったオシェプコフの例などから、米露英仏など各国で柔道は軍隊近接格闘技要素に取り入れられていった。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "イギリス人のウィリアム・E・フェアバーンが開発し、第二次世界大戦で各国で採用され高評価を得た、現代軍用格闘術の源流・基礎ともいえるフェアバーン・システムにおいても柔道技術は採用されている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "日本においては明治維新、柔道創設以降、陸軍士官学校、陸軍憲兵学校、海軍兵学校等の軍学校で柔道が取り入れられ盛んに行われた。またそれとともに大日本武徳会で講道館柔道が柔術部門を統一する立場となる役割の流派として正式採用され、大日本武徳会武道専門学校で稽古が行われた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和17年(1942年)に従来の大日本武徳会は改組が行われ、内閣総理大臣の東条英機を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "昭和18年(1943年)、新武徳会において「実戦的修練を目標とし、白兵戦闘に実効を挙げ得る短時日の修練」を旨とした「柔道の決戦態勢とも言ふべき」内容の新武徳会における柔道の指導方針が発表される。柔道の実戦性についての再検討は嘉納治五郎存命中のころより始まっており、嘉納の述べる「当て身」や「形」を怠ることのない「真剣勝負」の重要性の主張と矛盾するものではなかった。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "新武徳会は柔道範士、栗原民雄(後の講道館十段)を中心とし、柔道の戦技化を推奨していく。栗原は柔道を相手と「離れた場合」・「組んだ場合」の二つに分け、離れた場合「極の形に躱攻動作を応用し、起こり得べき種々の場合を想定し、その組み手を多くして之れを練習し、相当習熟した場合は防具を使用して乱取り程度まで修練すればよかろう(中略)相手を単に一人と想定せず、常に数人と仮想して研究することも怠ってはならない」と述べた。次に組んだ場合には「指関節や腕関節を取ること」の復活研究を説き、また「古流」の研究と応用に留意すること、温故知新の必要性も説いた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "新武徳会に先立ち講道館においては、昭和16年(1941年)「立ちたるまま絞技、関節技を掛け、技が相当の効果を収めた場合に限り寝技に移れる旨改正され」立った状態からの固め技を認めるようになっていた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "新武徳会で新たに作成された柔道審判規定では「第二条 試合は当身技、投げ技、固め技を以て決せしむ、但し普通の試合に於いては当て身技は用ひしめざるものとす」と条件付きであるが、当て身技の使用を認める条項が追加される。 防具着用によって当て身技のある試合の安全性に配慮しながらも、特殊なケースとして防具を使用しない試合の実施も示唆されていた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
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"text": "また関節技も緩和されることになる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "第十一条 関節技は次の基準により之を行わしむ",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 123,
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"text": "(一)等外者は肘関節",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 124,
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"text": "(二)有等者は肘関節、手首関節、足首関節",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "(三)称号受有者は脊柱関節を除く全関節",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
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"text": "として等級称号によって制限はあるが、脊柱以外の全ての関節への攻撃が許されている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 127,
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"text": "また技術以外の面でも柔道試合の戦技化は図られた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "稽古場、服装として「柔道は戸外に於いても如何なる服装にても実施し得るやう工夫し砂場芝生等を道場として活用せしむこと」とされた。稽古においては「特に青少年に重点を置き野外戦技を弊習せしむこと」とされた。稽古の形態は「従来個人的修練のみに傾き易きに鑑み特に団体的訓練を教習せしむこと」とされ複数人で自由に攻防をする自由掛けなどが行われた。さらに「錬士以上の者にありては当て身技を併用し試合せしめ」ることとし、乱取りが課せられた。しかし乱取りばかり行うことは戒められ、 「修練は短時日に於いて白兵戦闘に実効を挙げ得るよう基本動作及び技術(形を含む)を修得せしむこと」となり、「基本動作」「形」といった稽古法の価値が戦闘訓練の文脈で再評価された。また柔道指導者に対しては「己が任務の遂行を期すると共に剣道銃剣道を始め武道各般ににつき努めて研修すべきこと」と、あらゆる武道を総合的に稽古することが求められた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "戦況が深刻になるにつれ、学校においても明治以来の「体操科」は新たに「体錬科」と名称を変える。政府主導の国民学校体錬科においては皇国思想の養成と戦技能力の鍛錬が求められた。体錬科の教材として「教練」、「体操」(徒手体操、跳躍、懸垂、角力(相撲)、水泳など)、「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、常に攻撃を主眼として行うことが説かれた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "体錬科武道の柔道の内容は、「基本」として「礼法」、「構」、「体の運用」、「受身」、「当身技」が教えられ、「応用」として「極技」、「投技」、「固技」があった。この当身技は、精力善用国民体育の単独動作の技であり、極技は相対動作の技と一致している。柔道技術の中の当身技が「基本」として重視され、戦時下において、柔道は実戦を目的とした教材に変えられたと言える。第二次大戦下「体練科武道」が実施される間、当身技は学校柔道を中心にして組織づけられ、発展した。柔道の当身技は武術的に取り扱われ、基礎的な修練から進んで撃突台や撃突具を使用しての実戦的な指導に進み、終戦末期に至っては、当身技は従来の指導体系を放棄して、白兵戦闘的動作へ移行し、そこで終戦を迎えた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "大戦の終戦に伴い、日本の民主化政策の一環としてGHQとその一部局であるCIEによって「武道」の実施に対する処置が検討された。CIEは武道を軍事的な技術(Military Arts)とみなし、国民に軍国主義を養成するものとして警戒した。これに伴い武道という枠組みに位置付けられていた柔道は、剣道や弓道同様に禁止された。(武道禁止令)",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "さらに戦時中に軍による統制を受けていた大日本武徳会も「依然軍国主義的団体としての建前をとっている」とされ解散を余儀なくされた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "しかし柔道復活の陳情は相次ぎ多く、文部省による請願書による",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "の説明、改革案が総司令官に提出される。そこで提示された新しい柔道は、「競技スポーツ」として向かう下地があったと言える。これに対しGHQから「学校柔道の復活について」という覚書が日本政府に出され、CIEからの注意事項として「実施してよい柔道とはあくまでも大臣の請願書に規定された柔道であること」とされたうえで、その復活が認められる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "しかし「2.実施方法について」において、○段別の外に体重別・年齢別の試合の実施、○戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法の全面的廃止、などと並んで、○当身技、関節技などの中で危険と思われる技術を除外する旨が請願書には含まれており、その当身技や関節技を中心に構成された精力善用国民体育は武術的色彩が強いということで行われなくなることとなる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎が生前に考案し発表した精力善用国民体育は、GHQの警戒した武術的側面のみではなく、体育として徳育としても従来の柔道を補完するものであり、練習法においても単独練習を可能にするものであり、嘉納の柔道の精神、「精力善用・自他共栄」の思いを強く含むものであった。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "嘉納の万感の思いのこもった精力善用国民体育が、占領期間中の禁止・制限が解かれることなく占領後もなおも軽視されていることを惜しむ声は依然今も挙がっているものである。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "そして戦後スポーツとしての柔道が国内の斯界を風靡し、修行者はもっぱら乱取り練習に興味を持ち、試合における勝敗にのみ熱中するようになっていった。形は閑却され、当身技の研究も習練も軽視されおろそかにされていた。しかしながら皮肉にも欧米各国では、護身術(セルフディフェンス)の重要性が強調され、柔道の当身技が盛んに行われていた実態がある。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "戦後、日本の敗戦のため行われたGHQによる占領政策としての柔道のスポーツ化の流れの一方で、再び武術・武道としての柔道の再生を求める動きとして、1950年に、その乱取り競技内においてもほぼ全ての関節技の解禁などの実験的ルールを採用した武道・武術を志向したプロ柔道の国際柔道協会も興っている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "明治後期から第二次世界大戦後にかけて外国人ボクサーと柔道家による他流試合興行「柔拳試合」が流行し行われていた歴史がある。戦前の柔拳興行は嘉納治五郎の甥の嘉納健治によって隆盛し、戦後の柔拳興行は万年東一によって行われている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "昭和元年(1926)12月31日、講道館の創始者・嘉納治五郎は、永岡秀一(当時、八段)と横本伊勢吉(当時、五段)をともなって、文武の視察を目的として沖縄(琉球)へ向かうため神戸港を出港した。翌2年1月3日の到着以降、那覇の「尚武館」における柔道の紅白試合や昇段試合への立ち合い、形の演武を行い、また沖縄の名物のハブとマングースの戦いを熱心に観戦し柔道の真剣勝負における呼吸を学び参考になったことを語る嘉納を同行者の横本は記録している。また一行は、首里、名護で唐手(空手)の演武を見学している。 6日の夜は地元の名士らとともに琉球料理に舌鼓をうったが、この席上、次のような質問が、嘉納に発せられた。 「先生!柔道では猛獣におそわれた時に、どうしてこれに応ずべきですか?」 嘉納は以下のような妙答によって切り返している。 「猛獣にも色々ある。虎もあれば獅子もある。一概には言えないが、併し、日本では熊が一番多いから、それについて言って見よう。(中略)熊は人をこわがっている。(中略)火をつけたり、大きな音をさせたりしても、熊の方から逃げ去る。其他、様々熊に対する話を聞いて、のみこんでおく。そういう風にして、熊に対しては、実地肉体を接触させて勝負を決するよりも、先ず熊を近づかせない事が第一である。(中略)第一はあわぬように、あったにしても充分退治出来るように準備して、武器を用いるのが最善の方法である。何についてでも、いかなる場合でも、最も善く力を用いること、即ち精力最善活用、これが柔道である」",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "1909年(明治42年)、嘉納治五郎は「虚働」(具体的活動ではなく体育のために単に身体四肢を動かす運動)と「実働」(日常生活や遊びによる実際の運動)との中間を採った「擬動」による「擬働体操」を発表している。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "「擬働体操」は柔道形ではなく体操の1つとして考案したものであったが、その内容には肉体労働や柔道の動作など9種の運動(計数(けいすう)、球磨(たまみがき)、平板磨(ひらいたみがき)、竪板磨(たていたみがき)、櫓押(ろおし)、四方蹴(しほうけり)、四方当(しほうあて)、喞筒(ぽんぷ)、車廻(くるままわし))が含まれており、柔道の技(当身技)が組み込まれていた。「擬働体操」が嘉納がのちに発表する「精力善用国民体育」の制作過程にあったと見ることができる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "1927年(昭和2年)、嘉納は講道館文化会において、「精力善用国民体育」を発表する。それは国民生活の改善のために体育と武術を兼ねており、乱取や他の形に比べ実際に相手を投げることがないため柔道衣や道場など特別な施設や用具を必要とせずいつでもどこでも稽古が実施可能であり、また柔道の当身技が閑却されないように当身技、関節技、投技などの多様な技術を含むなど、多様な目的を有する体育法として作成されたものだった。その中には「擬働体操」に含まれた、物を磨く動作および当身技(突き、蹴り)と類似した動作が含まれていた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "精力善用国民体育は、嘉納の構想において二種の体育で成り立っている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "第一の種類は武術と体育を組み合わせた「攻防式国民体育」(武術式体育)であり、第二の種類は観念・思想・感情・天地間の物の運動等の表現と体育を組み合わせた「表現式国民体育」(昭和5年以前の表記名)/「舞踊式国民体育」(昭和6年以降の表記名)である。「表現式」「舞踊式」は既存の柔道の「五の形」の中にあるような天然の力(逆浪の断崖に打つかり戻る水の動く有様、風のために物体が動揺する有様、天体の運行、その他百般の天地間の運動)や、能や舞踊にあるような人間の観念・思想、感情を、人間の身体をもって巧みに形容し表現し、体育の理想に適うように組合わせ、色々の組織を立てたものとなる。これら第一種類「攻防式」と第二種類「舞踊式」(「表現式」)との二種の方法を総称して精力善用国民体育となる。子供は子供、女子は女子、老人は老人というように、適当な仕組で作ったなら、一種の価値ある体育が成立し、これらを人々の趣味や境遇に応じて、その一種を又は両方を練習せしむれば、国民精神の作興と身体の鍛錬との上に、大いなる貢献を成し得るものと考えると嘉納は語る。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "嘉納の考案した国民体育の第一種類・武術に関する攻防式国民体育は、万人に適当な運動として静かに練習し体全体を万遍無く動かし筋肉の円満均斉の発達を得るが、早くすれば当て身となり、強くやれば人を打ち倒す武術の技となり、相当に熟練すればどれだけのものを破壊し得るというような興味も添うてくること、また、柔道の根本原理たる精力善用の応用であり、自然とその原理を百般のことに応用し得る練習も出来、精神修養との連絡もおのずから出来る次第となることを言及している。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "嘉納は1932年(昭和7年)「講道館の創立満五十周年を迎えて」では、「精力善用国民体育」が「攻防式国民体育」と「舞踊式国民体育」の二種によって構成されること、研究途中であった「舞踊式」の完成を図っていることを、次のように語っている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "「柔道はその本来の目的から見れば、道場における乱取の練習の身をもって、満足すべきものではないということに鑑み、形の研究や練習に一層力を用い、棒術や剣術も研究し、外来のレスリングやボクシングにも及し、それらの改良を図ることに努めなければならぬ。 かくして、武術として最高の権威者を養成し、まず国内に、漸次世界に及すつもりである。 ~中略~また、今日すでに案出せられている攻防式国民体育の普及を図ると同時に、今一層深くこれを研究して改良に努め、国民体育中、いまだ完成に至らざる舞踊式のごときは、研究を続け、なるべく早く世に発表することに努力するつもりである。」",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "嘉納の想定していた「精力善用国民体育」の目的は精力善用の精神の涵養と世界平和の実現にまで及んでいたが、1938年の嘉納の死去後、太平洋戦争が拡大するにつれ、1942年に国民学校の体錬科において必修となる武道にその内容の当身技や極技が採用された。日本の敗戦後、1950年(昭和25年)5月に文部大臣天野貞祐からGHQに提出された柔道復活の嘆願書の内容には、新しい柔道のあり方として「戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法を全面的に廃止した」「当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外した」という条文が見られた。そのように終戦後の日本において「精力善用国民体育」はGHQや世間の人々に軍国主義や戦争を想起させる懸念があり、公の場での実施が自重された。日本の敗戦後の社会情勢によって表舞台から遠ざかるを得なかったが、この形には嘉納が乱取競技を認めつつ、その弊害を是正するための研究成果が随所にあり、柔道における競技性と武術性のバランスをいかにとるべきか、嘉納の視点を学ぶうえで貴重な資料となっている。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "柔道舞踊は、講道館の黎明期から昭和の終わりごろまで女子部員によって踊られていた、柔道の技を取り入れた舞踊である。当時は女性に試合の機会が少なかったため、嘉納治五郎が「男女平等に柔道を普及させたい」と発案したとされる。女性にも取り組みやすいような踊りを取り入れるなど工夫されたという。嘉納が研究を続けていた「精力善用国民体育」のうちの「舞踊式」を探る上での資料ともなる。本格的に柔道舞踊が広まったのは昭和の中ごろで、講道館女子部を指導していた二星温子が積極的に指導にあたった。その踊りは同部員によって継承され、全日本選手権や国体など試合の合間に披露されていた。しかし1990年代、女子柔道が競技として本格化したことで、柔道舞踊は急激に廃れていった。また1998年に二星が亡くなり、創成期からの指導者もいなくなった。 一度は途絶えた柔道舞踊だが、復活に向けての動きもある。しかし、柔道舞踊に関する資料は講道館にも残っておらず、当時を知る人も少ない。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「柔道修心法」について主に3つの効用を挙げる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "嘉納は柔道の修行についての理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できるものであるとする。嘉納はそれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなすうえで大きな利益のあるものだとした。その最も肝要なる心得の一つとして「勝って勝ちに驕ることなく、負けて負けに屈することなく、安きに在りて油断することなく、危うきに在りて恐るることもなく、ただただ一筋の道を踏んでゆけ」の教えをもって、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "柔道は世界的に普及が進み大きく広がり受け入れられるなかで、フランスにおいても幅広く受け入れられ、その教育的効用も受け継がれている。その背景について、次のような意見がある。 「東洋文化の象徴でもある柔道。だが、フランスには受け入れる土壌もあった。粟津(粟津正蔵)の教え子で、1975年にフランス初の世界王者(男子軽重量級)になったフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟(仏柔連)会長のジャン=リュック・ルージェは「礼儀を重んじる柔道の武士道とフェンシングに代表される騎士道には共通点がある。国民性に合っていた」と指摘する。」",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "戦前にフランスに渡ったフランス柔道の父川石酒造之助が考案した指導法は「川石メソッド」として、今も活用されている。イギリス柔道の父と呼ばれロンドンの武道会において柔道を指導していた小泉軍治が考案し、川石もフランス柔道指導で導入採用した、従来の白帯以降、黒帯になるまでの間の各級位を細分化して表す種々の各種色帯は、フランスでの柔道普及に大きく貢献し、のちには日本にも逆輸入され級位の指導において導入されている以外にもさまざまな武道、格闘技でも採用されている。 またフランス柔道には、武士道と騎士道を融合させた「8つの心得」 (le code moral du judo) があり、教育的目的、価値として重視される。 そのフランス柔道における「8つの心得」として、",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "が挙げられる。 そこには新渡戸稲造が『武士道』において挙げる徳目の、「礼儀」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「義」「克己」「誠実・信実」「仁・惻隠の情」「名誉」「忠義」と通ずるものであることが分かる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「講義」の応用となっていると言うことができる。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "明治22年の「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演からものちに、嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて改めて発表し、さらに新しい要素(運動の楽しさ、乱取、試合、そして形を見る楽しみ、芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "1913(大正2)年、嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し、又其理論を講究するものにして、身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり、精神を修養することよりいふときは修心法となり、娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり、攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し、柔道は「柔の理を原理とし、身体鍛錬には体育法、精神修養には修心法、娯楽には「慰心法」、そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。",
"title": "柔道技法の思想と歴史"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "高専柔道は立ち技重視の講道館柔道に反発して大正時代に誕生した柔道である。",
"title": "高専柔道、七帝柔道"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "高専柔道では寝技を重視したスタイルを採用しており、膠着時の「待て」や「場外」の要素や「有効」・「技あり」などのスコア制度を極力排除しているのが特徴である。試合においても団体戦による勝ち抜き戦を基本としており、試合時間も講道館柔道、国際柔道のそれに比べて長い。選手は旧帝国大学およびその系列の者が多い。戦後、旧帝国大学の七大学柔道部により七帝柔道が高専柔道の流れをくむ柔道として起こされた。対抗戦のほかにブラジリアン柔術・総合格闘技などのバックボーンとして格闘技分野で主に活躍している。",
"title": "高専柔道、七帝柔道"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)6月、柔道が1964年東京オリンピックの正式競技に決定すると柔道愛好者の国会議員は国会議員柔道連盟を結成した。",
"title": "日本武道館と柔道、武道憲章"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "同連盟会長に就任した衆議院議員正力松太郎(のちに柔道十段、講道館殿堂)は、「世界に誇る武道の大殿堂を東京の中央に建設して、斯道の発展普及を図りたい」と表明。同年6月30日、武道会館建設議員連盟を結成し、会長:正力松太郎、副会長:水田三喜男(柔道五段、剣道三段)、松前重義(のちの全日本柔道連盟理事・国際柔道連盟会長)、佐藤洋之助、赤城宗徳(剣道範士)が就任した。",
"title": "日本武道館と柔道、武道憲章"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "1962年(昭和37年)1月31日、文部大臣の認可を得て財団法人日本武道館(会長:正力松太郎、副会長:木村篤太郎〈初代全日本剣道連盟会長〉、松前重義、理事長:赤城宗徳)が発足。1964年(昭和39年)9月15日に日本武道館が落成。同年10月20日 - 23日に東京オリンピックの柔道が実施された。",
"title": "日本武道館と柔道、武道憲章"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "日本武道館創設から副会長や全日本柔道連盟理事、国際柔道連盟会長、全日本学生柔道連盟(学柔連)会長等を歴任している第四代会長・松前重義の任期には、1977年(昭和52年)4月23日に日本武道館の中に日本武道協議会が発足し、1987年(昭和62年)4月23日 日本武道協議会設立10周年記念式典において武道憲章制定が行われている。",
"title": "日本武道館と柔道、武道憲章"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "全日本柔道連盟(全柔連)も入居する講道館にのちに入居した学柔連だが全柔連対学柔連の内紛のころは日本武道館に入居していた。そのためこの内紛は「講道館対武道館」とも表された。",
"title": "日本武道館と柔道、武道憲章"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "柔道の影響を受けた武道・格闘技として、サンボ、日本拳法、富木流合気道、ブラジリアン柔術などがある。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "日本拳法は、柔道家の澤山宗海が柔道では廃れてゆく当身技の体系を確立し、さらに競技化した。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "サンボは講道館で柔道を学んだロシア人ワシリー・オシェプコフによりロシアに伝えられソ連時代にその弟子により国技として普及する。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "富木流合気乱取りは柔道の当身技と立ち関節技(離隔態勢の柔道)の乱取り化を進めようとしていた嘉納治五郎や講道館二代目館長の南郷次郎により、合気道の植芝盛平のもとへ派遣されていた富木謙治によりまとめられ、別名柔道第二乱取り法とも呼ばれる。早稲田大学教育学部教授であった富木は早稲田大学柔道部合気班の中で柔道の第二乱取り法として指導をしていた。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "ブラジリアン柔術は、講道館三羽烏や玖馬の四天王(海外四天王)とも称された前田光世(コンデ・コマ)が海外での柔道普及に際し、日本以外で異種格闘技戦を戦い磨いた柔道技術を元にブラジルにおいてカーロス・グレイシーが教授された技術、柔道派生の格闘技という説が強い。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "他には柔道出身の極真空手家・東孝が興した空道も投げや寝技の中に柔道の影響が強く見られる。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "講道館で嘉納治五郎による古武道研究会で師事を受けた望月稔の養正館武道にも嘉納の思想、柔道理論、影響は受け継がれている。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "国際柔術連盟 (JJIF) で行われている柔術ファイティングシステムにも柔道の影響が伝統空手の技術と共に強く見受けられる。JJIFはまた、ブラジリアン柔術を寝技柔術の名で実施もしている。JJIFの国内競技連盟はフランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟など約8カ国で国際柔道連盟の国内競技連盟と同一団体で二重加盟している。(2019年10月現在)",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "琉球(沖縄)で発祥した唐手(空手、空手道)は講道館創始者嘉納治五郎の紹介によって本土に上陸し、1933年、大日本武徳会沖縄県支部より日本の武道、柔術の流派として承認され、1934年に大日本武徳会において柔道部門の中に組み入れられる。当時の唐手は自由乱取りに相当する組手は存在せず型のみが行われていたが、柔道の乱取りや剣道の竹刀稽古を参考に本土上陸後に組手が研究され整備されていく。また講道館柔道が整備した今日のような道着や黒帯・色帯制度、段位性を唐手改め空手は武徳会時代・柔道傘下時に採用する。第二次世界大戦での日本の敗戦後、柔道や剣道はGHQによる武道禁止令の影響を大きく受け、柔道はその三大部門の一つであった当身技が制限・軽視されることになる。当時国内での影響力も少なく制限を受けることの少なかった空手は戦後の柔道の当身技の軽視の間隙を突いて進出することになる。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "神傳不動流と講道館を学んだエドワード・ウィリアム・バートン=ライトは、ヨーロッパの武術と組み合わせたバーティツを創設した。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "かつて太平洋戦争末期の日本で、本土決戦に備えて柔道家・塩谷宗雄によってまとめられ作られた、徒手、武器の技術を含んだ綜合武術格闘術がある。戦争が終結したため「幻の格闘術」となっている。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "アメリカで行われているフリースタイル柔道(Freestyle Judo)がある。現在国際試合で主流の国際柔道連盟(IJF)規定ルールでは制限されている従来の柔道技術を保持しているとする。嘉納治五郎の講道館柔道の継承を意識しており、またレスリング、サンボ、ブラジリアン柔術等のスタイルを取り入れることで、参加する全ての人に競争の機会を提供し柔道競技の「黄金時代」を復活させることを意図している。「MMAの究極の柔道スタイル」“Ultimate Judo Style for MMA”として、総合格闘技ルール参戦を意図し「ノー着」ルールも含む柔道としている。フリースタイル柔道は現在、国際フリースタイル柔道連盟 (IFJA) の支援を受け、アメリカのアマチュア運動連合(w:Amateur Athletic Union・w:AAU) は、アメリカ合衆国でのフリースタイル柔道を公式に認可している。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "日本国内の警察において、柔道・剣道と並行して行われている逮捕術の源流の一つにもなっている。1924年(大正13年)警視庁武術世話掛でもあった山下義韶による警視庁捕手ノ形制定以降、1947年(昭和22年)の逮捕術制定の際には委員として永岡秀一が加わり、1967年(昭和42年)に現在の逮捕術が制定された際には、柔道衣を基本服装とし、投げにおいて「警察柔道試合及び審判規定」の内容を採用している。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "コンバット・ジュードー(COMBAT JUDO)がある。明治時代に多くの柔道家が柔道普及のためアメリカなどの海外に渡った際、現地において乱取り技術の指導の他、様々なシチュエーションや対ナイフなどの護身技術を指導する。これらはコンバット・ジュードーと呼ばれ、アメリカでは警察や軍隊などでも指導がなされた。1944年の第2次世界大戦中のアメリカでは、アメリカ沿岸警備隊に速成訓練を施すため教官バーナード・コスネックによって、護身術と攻撃技を結合させた格闘術としてアメリカン・コンバット・ジュードーが開発・指導された。また、前田光世がブラジルのグレイシー一族に教えたコンバット・ジュードーとしてブラジリアン柔術における護身術もある。コンバット・ジュードーはフィリピンに駐留したアメリカ軍人経由でフィリピン武術のエスクリマドールなどにも伝えられ、現在においてもナイフ対素手や立ち関節のテクニックはコンバット・ジュードーと呼ばれている。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "大正時代、日本の内外において柔術家・柔道家と対戦し、柔道チャンピオンも名乗ったプロレスラーのアド・サンテルが柔道の裏投げを学びプロレスに持ち込んだのが今日のプロレスにおけるバックドロップのもとになっている。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "戦前の海外のプロレス界で活躍した日本人柔術家・柔道家が使用した柔道の当て身技「手刀打ち」は海外においてチョップ(ジュードーチョップ)と呼ばれた。それが逆輸入される形で日本国内に入りカラテチョップとも呼ばれるようになる。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "戦前の明治後期から昭和30年代、また戦後1950年代ごろに隆盛した、柔道家とボクサーの対戦興行の柔拳興行は国内におけるプロレス興行の前身となっている。また1976年に行われたモハメド・アリとアントニオ猪木の対戦において使用された猪木アリ状態は柔拳興行で使用された柔道家による対ボクサーの戦略の一つでもあり、1944年の小説『姿三四郎』でも主人公・姿三四郎の対ボクサーの対戦場面においてその戦法をとる描写がなされている。",
"title": "他の武道、格闘技への影響"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "柔道の国際化が進むなか、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させているからである。技術が柔道に取り込まれている民族武術・格闘技としてはキャッチ・アズ・キャッチ・キャン、ブフ、サンボ、ブラジリアン柔術などがある。技術の変化に対して、世界的に見た海外における柔道は、武道としての「柔道」ではなく、競技としての「JUDO」となりつつあるという指摘があり、柔道本来の精神が忘れられていくのではないかと、柔道の変質を危惧する意見もある。一方で、柔道は発足当初から日本国内の柔術のみならず海外の格闘技を工夫して取り入れて形成されたものであり、国際柔道のような各格闘技を総合したスタイルこそ柔道本来の形と精神に近いと考えている意見もある。「明治時代に嘉納治五郎が日本の柔術諸派から技を抜粋して柔道を作ったとき、柔道は一種の総合格闘技になったのです。さらに今回は、国際的にも柔道が総合格闘技化しているのです。チタオバやサンボ、BJJまでが総合化されているのですね。柔道でメダルを獲得した国が23カ国ということを見ても国際化はかなり進んでいる。」",
"title": "他の格闘技からの影響"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎の時代から他の柔術、格闘技から多くの技が導入されていたが、それ以降、他の格闘技から柔道に導入された技としてはジョージアのチタオバの技を改良した帯取返のハバレリ、イランのレスリングからのギャヴァーレ、総合格闘技からの裸絞のペルビアン・ネクタイ・チョークなどがある。国際規定では2013年からの脚掴み全面禁止によりハバレリは一部使用困難に、ギャヴァーレは使用できなくなった。",
"title": "他の格闘技からの影響"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "2012年ロンドンオリンピックでの柔道における日本人選手の苦戦を受けて、就任発足した井上康生日本男子代表監督体制では、「国際化したJUDOは世界の格闘技の複合体になった。柔道の枠の中に収まっていては、新たな発想は生まれない」とし、色々な格闘技が流入した世界の柔道に勝つためにブラジリアン柔術、サンボ、モンゴル相撲、沖縄角力などの民族格闘技との積極的な交流、練習の取り入れを行い、強化を図った。また、組手を取り合う際の対策、強化として柔道の当身の練習に通じる、打撃のミット打ちの練習なども取り入れるなど改革・創意工夫を進めた。",
"title": "他の格闘技からの影響"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道を見た溝口紀子は寝技での「待て」が従来より遅くなったのは、オリンピックでは寝技の存在感を上げ、近年、隆盛著しい寝技中心のブラジリアン柔術へ人々が流れていくことを防ぐ意図があるのではないか、と述べている。",
"title": "他の格闘技からの影響"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "2019年、2020年の1月に全日本女子代表チームは強化合宿で日本ブラジリアン柔術連盟会長の中井祐樹らを招き、ブラジリアン柔術の寝技の指導を受ける。",
"title": "他の格闘技からの影響"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "日本に本格的な筋力トレーニングが伝えられたのは、1900年ごろであり、柔道の創始者である嘉納治五郎の功績が大きかったと言われている。嘉納は「柔道の創始者」のみならず、「日本近代筋力トレーニングの父」とも呼ばれている。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "嘉納は、世界に柔道の普及活動を行う中で渡欧中、ヨーロッパにて近代トレーニングの父と呼ばれるユージン・サンドウが著した筋力トレーニングの書籍『Sandow's System of Physical Training』(1894)に出会い共鳴している。その効用を実感した嘉納は講道館の雑誌「國士」にて連載し紹介した。当時この連載は好評となり、1900年には嘉納は『サンダウ体力養成法』を造士会から出版するに至っている。嘉納は柔道界のみならず国民へもその体力養成法を推奨し、サンドウが体操に用いた手具(鉄亜鈴)などの販売、宣伝も行った。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "また1933年(昭和8年)、IOC委員としてウィーン会議に出席していた嘉納はその帰途、オーストリアから正式なバーベル一式を購入、輸入した。このバーベルは、当時、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、ウエイトリフティングの技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "嘉納の活動・翻訳本は日本のボディビル界の祖、若木竹丸などにも影響を与え、若木がウエイトトレーニングに目覚めたきっかけにもなっている。柔道家木村政彦などもその先見性から若木からウェイトトレーニングの指導を受けている。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "このように嘉納は筋力トレーニングの有効性を理解し紹介していたが、柔道界においてしばらくはあまり広く普及せず、あまり重視されてこなかった。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "その理由として、「柔道の稽古自体が筋力トレーニングになっている」こと、「柔道で使う力と筋トレで養われる力は違う」という意見、「柔能く剛を制すが正しい柔道である」という考え方が影響していたと言われている。また、当時は体力に勝る外国人にも日本人の持っている技術が十分通用したということも挙げられる。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "しかし嘉納の目指した柔道の精神「精力善用」は「柔の理」「柔能制剛」を発展させたものであり、剛も内包するバランスの取れた一種の柔剛一体であると言えるものであった。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "また、やがて柔道が世界中に広がり、外国人が技を身に付けるようになってくると、色々な戦略を取れるようになり、日本人は国際大会で苦戦するようになってくる。「技は力の中にあり」というように基本の技が身に付いた上級者同士の戦いになると、今度は力が勝敗を分ける一因となり技を活かすために力が必要になってくる。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "日本柔道界への筋力トレーニングの本格的な導入は、1988年ソウルオリンピックの惨敗を受けて、大会終了後に強化委員会が開かれ、敗因について徹底的に議論が行われた際、外国人選手と比較し基礎体力が劣っているという敗因の分析の結果、東海大学教授の有賀誠司をストレングスコーチとして招聘したことから始まる。また2012年ロンドンオリンピックの惨敗をきっかけに発足した監督を井上康生とした全日本男子柔道の体制では、より精度の高い科学的見地にもとづいたフィジカルトレーニングを導入するに至っている。計画的体系的な筋力トレーニング、栄養、データ分析の強化など指導に医科学も取り入れた強化を進めた。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "そこでは、体力面で負けないトレーニングを導入するとして、トレーニング目標として次のような方針を掲げた。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道で日本は1大会で最多となる男女計12個のメダルを獲得した。",
"title": "柔道とウェイトトレーニング"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "柔道は当初は柔術の稽古着を着て稽古していたが、その形状は広袖で肘まで、下袴も短く腿の辺りまでしかなかった。擦傷がたえなかったため、1907年(明治40年)ごろ、嘉納治五郎は従来のものに洋服の要素を取り入れて袖と裾の長い柔道衣を作成し、現在のように改良され稽古するようになった。この改良により、技の範囲も広くなり、投げ技の進歩を助長した。大日本武徳会においても(講道館)柔道が採用されていたことから、当時武徳会に参画していた古流柔術諸流派にも新しい形状の道衣は逆輸入の形で導入され、また以降成立することになる他武道にも採用され影響を与えることになる。1922年、嘉納治五郎がプロデュースし、船越義珍に依頼して、講道館で空手(唐手)の演武、指導をした時に義珍が着用していたのが柔道衣である。その後、空手は動作も稽古内容も柔道とは違うため、柔道衣から徐々に改良がなされ、今のような空手道衣が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのは、そのためである。",
"title": "柔道と空手道の道衣"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "柔道衣の色は基本的に白のみとされている。しかし、試合で両選手とも白の柔道衣では観客にとって見分けがつきにくいという問題があったため、1997年に国際柔道連盟はカラー柔道衣の導入を決定し、それ以来国際大会では青の柔道衣が使われるようになり、日本で開催する時も国際試合に限り青の柔道着を着用を認めている。これに対し、日本はカラー柔道衣の導入に反対しているため、国内大会では白の柔道衣のみが使われている。",
"title": "柔道と空手道の道衣"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "カラー柔道着の導入を巡る検討段階では、青以外にも赤・緑・黄などのさまざまな色・ナショナルカラーの柔道着の着用を自由に認めるようヨーロッパの柔道連盟など賛成の立場の国は強硬に迫った。最終的には見分けが付けばいいということと、日本などの反対する立場の国々への配慮から、青のみの導入にとどまった。",
"title": "柔道と空手道の道衣"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "明治末期から昭和30年代ごろまで、時代のあだ花のように存在した「柔拳」という異種格闘競技があった。柔拳は柔道対拳闘(ボクシング)を意味し、柔道家は道衣を着用した柔道スタイルで、ボクサーはグローブを着用したボクサー・スタイルで闘った。1853年のペリー来航以降、日本にボクシングが紹介されると、ボクシング技術を使う外国人水兵と日本人力士や武術家との他流試合がなされるようになった。それらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やすことになる。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "初めて「柔拳」の名称を使用したのは柔道の創始者嘉納治五郎の甥にあたる嘉納健治とされる。若くして講道館を飛び出した健治は横浜で、柔拳試合を見たのをきっかけに神戸の自宅に日本初のボクシングジム国際柔拳倶楽部(後に大日本拳闘会と改名)を設立した。健治が行った柔拳興行は大成功を治め、関西圏はもとより東京でも満員の観客を集めるほどの大きな人気を呼んだ。その後1931年(昭和7年)には、全日本プロフェッショナル拳闘協会(のちの日本プロボクシング協会)結成に参加。日本のボクシング界を発展させる礎を作った。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "戦後消滅したも同然であった柔拳が復活したのは、第二次世界大戦後のことであり、東京の万年東一が中村守恵、木島幸一らを使って旗揚げした「日本柔術連盟」がそれである。万年東一は柔拳興行の後、全日本女子プロレスを設立し活動内容を変えていくことになる。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "嘉納健治の行った柔拳興行では、その活動時期から、前中後の3期に活動内容が分けられる。前期柔拳において健治はボクサーとの対戦を通じて、柔道を当身や武器にも対処しうる武術として蘇らせようとしていたとされる。健治は拳闘以外の武道・格闘技との対戦も企画し、柔道改造を推し進めていった。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "それは叔父の嘉納治五郎と共通する思想からとされる。嘉納治五郎は、柔道において、心身の力を最も有効に使用して世を補益する「上段の柔道」を最終目的とし、体育と修心を目指す「中段の柔道」、攻撃防御の方法としての「下段の柔道」の3段階の構造を描いたうえで、「下段の柔道」から柔道を始めるのが最も良いとした。治五郎は「攻防の技術」としてあらゆる攻撃に対応できる護身術・総合格闘技でなければならないと考えていた。そして治五郎はボクシング、唐手、合気柔術、棒術などの他の武道・格闘技の研究を通じて、その晩年に至るまで彼の理想とする「柔道」の完成を追求している。嘉納健治は「柔拳興行」という公開試合の場で、他武道・格闘技との異種格闘技という実践を通じて「攻防の技術」として柔道を追求していたのであり、その点で嘉納健治は叔父・嘉納治五郎と同じ問題意識を共有していたとされる。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "しかし1921年に行われた米国レスラー、アド・サンテルと児島光太郎の門下生が行った柔道対レスリングの公開試合「アド・サンテル事件」により、それまで興行的異種格闘試合を黙認していた立場だった嘉納治五郎は公職の立場にある身から、「木戸銭」を取って行う「興行」活動への参加を禁止する方針転換がなされることになる。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "「金を取って柔道の業を見せたり、勝負をして見せるのは、軽業師が木戸銭を取って芸を見せるのと何も択ぶ所はない。我も彼もさういふやうなことをするやうになつたならば、柔道の精神は全く消滅して仕舞ふことになるから、一般の修行者は、大に慎んで貰はねばならぬ。」",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "そして柔拳興行はスペクテーター・スポーツへの方向転換を余儀なくされ、次第にナショナリスティックなショーへと変貌しやがて終焉していくことになる。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "昭和11年に発行された講道館六段・竹田浅次郎の技術書『對拳式実戦的柔道試合法』において、柔道家の対拳闘相手の対戦法が解説・紹介されている。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "心構え、構え方、目の付け所や呼吸の仕方、両手の働き、足の動作、身体の動作、拳闘の分析、ボクシングのパンチの防御法、その捌き方と攻撃法、異種との戦いにおいて柔道家が注意すべき裸体の相手への組み付き方、腕・手首・首・体といった箇所への組み付き方、投げ技・絞技・関節技の応用、足関節技、種々の双手刈りの方法、のちに言うところの「片足・両足タックル」が有効であることなどが解説されている。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "昭和16年に発行された講道館七段・星崎治名の技術書『新柔道』には、「拳闘に對する柔道家の心得」と題して、彼が提唱した当時の柔拳興行におけるボクサーとの対戦法が紹介されている。",
"title": "柔拳興行"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "1951年、国際柔道協会(プロ柔道)の木村政彦七段、山口利夫六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節がブラジルに招かれた。この時、グレイシー柔術と異種格闘技戦を行っている。",
"title": "プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "9月6日に加藤幸夫がリオデジャネイロでエリオ・グレイシーと対戦。試合は10分3ラウンド、投げによる一本勝ちはなし、ポイント制無しの柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。9月23日に二人は再戦したが、8分目で加藤が下からの十字絞めで絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。",
"title": "プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "雪辱戦として10月23日に木村政彦がエリオ・グレイシーと対戦。だが、さすがのエリオも木村相手では子供扱いされた。木村が2R開始3分目で得意の腕緘に取りエリオは意識がなくなっていたため、兄のカルロスがストップを申し出し木村が勝利、日本柔道の名誉を守った。木村政彦は「鬼の木村」の異名を持ち、戦前から全日本選手権を13年連続保持、15年間無敗のまま引退した柔道家で、史上最強と言われる。木村は切れ味鋭い大外刈りで有名だが、寝技でも日本トップの力を持っていた。",
"title": "プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "この木村政彦とエリオ・グレイシー戦までの経緯、試合内容については書籍『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が詳しく記述している。それによると、試合後は互いに2人が相手の強さと精神を称え合うものだったという。エリオは木村の強さに感動し、腕緘にキムラロックという名前をつけた。",
"title": "プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道創始者の嘉納治五郎は「相手の力を利用して相手を制する」という「柔の理・柔能く剛を制す」の理論を発展させ、いわば全ての場面を説明するため、状況に応じた臨機応変な「主体的・積極的な力の発揮」も必要であること、それに加えて攻撃防御の際の精神上の働きから考えてみて、明治30年代に至って柔の理のみに依らぬ柔道を解説するようになる。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "嘉納は1922年の「講道館文化会」の創立における「講道館文化会」綱領において「精力善用」(精力最善活用)・「自他共栄」(相助相譲自他共栄)を発表する。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎の説く「精力善用」(柔道とは心身の力を最も有効に使用する道)には二つの意味が含まれている。その一つは、目指す目的に向かって、身体、精神の総力を合理的、能率的に活用し最大の効果を上げるという意味である。いま一つは、人間の真に生きる目的が人間「社会生活の存続発展」に役立つことにあるとし、それが「善」であり、行為の目的が常に善であることが有効の度合いを高めるとの意味である。「心身の力を最も有効に使用する道」は、この両方の意味を合わせたものであって行為の目的がより大きな善であり、かつ目的達成の方法がより合理的、能率的であるための原理すなわち「道」を究明し、実践することが「柔道」であるということである。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "「精力善用」「自他共栄」の二大原理が、単なる攻撃防御の方法の原理ということから、人間のあらゆる行為の原理へと、大きく拡大したことによって、柔道の意味内容も大きく拡大することになる。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "精力最善活用によって自己を完成し(個人の原理)、この個人の完成が直ちに他の完成を助け、自他一体となって共栄する自他共栄(社会の原理)によって人類の幸福を求めるに至る。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎は、武術面における「精力善用」を説明する上で、従来の原理の相手の力を利用して相手を制する「柔能く剛を制す」だけでは柔道(柔術)の幾つもある理屈の中の一つの理屈にとどまり大きな包含的な言葉ではないとして、それに対し、さらにそれも内包するものとして、いついかなる場合にも当てはまる理屈、普遍性を持つ包含的な概念としての「精力善用」に至る。嘉納は柔道の全ての技に対し「今一つ心掛けていてもらいたいことは、練習中、全ての技は、精力最善活用の原理に適うように、工夫して練習しなければならぬ」と語っている。 また従来の「柔の理」では説き明かせない補完される場面、強い拘束から逃れる場面や、巧みに力を利用して強い力が弱い力を破る場面、平素乱暴して皆が困っている悪者を捕り押さえよう等するがその対手が向こうから攻撃してこずこちらからそれ相応の方法で手を出す必要がある場面、また勝負時の相手を蹴る、手で突く、刀で斬る、棒で突くなどの当身にも応用される包含的な原理・概念となる。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "精力善用に関する嘉納自身の言説には「剛」という言葉による説明はないが、嘉納の普遍的な思想・精神は空手界にも影響し、中国古典の三略に由来する「柔の理」の「柔能く剛を制す」(柔能制剛)と対になる造語として「剛能く柔を断つ」(剛能断柔)という言葉が生まれたとされる。また少林寺拳法の開祖の宗道臣は、柔道は「柔を主である」としながらも嘉納の言説から「柔剛一体(剛柔一体)」と理解されるとしている。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "柔道用語における概念の普遍性は「精力善用」によって説明されるが、近年のメディア作品によって「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」「柔剛一体」の言葉によって柔道を説明する場面が見られる。しかしそれらは本来的には「精力善用」に内包された概念となっている。",
"title": "「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "講道館柔道創始者の嘉納治五郎は柔道の国民的・国際的普及を進めるとともに、大日本体育協会初代会長やアジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員などの役職を兼任し、他の体育や他の外来の競技運動についても国民的に奨励し推進していた。嘉納は、競技運動と柔道の関係について受ける質問について、両極端なものとして、「外来の競技運動を排斥し日本人の精神教育も道徳的修養も出来る日本固有の武術のみで事足りるという声」、逆に「競技運動の利益を説いて完全に競技運動化を推進する声」、のいずれも当を得た考えでないとし、次のように言及していた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "「柔道とは大きな普遍的な道である。それを応用する事柄の種類によっていろいろな部門に別れ、武術ともなり体育ともなり智育徳育ともなり、実生活の方法ともなるのである。しかるに、競技運動とは勝敗を争う一種の運動であるが、ただそういうことをする間に自然身体を鍛錬し、精神を修養する仕組みになっているものである。競技運動は、その方法さえ当を得ていれば、身体鍛錬の上に大なる効果のあるものであるというのは争う余地はない。さりながら、競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は、柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。柔道を競技的に取り扱うことはもちろん出来ることであり、また、して良いことであるが、ただそういうことをしただけでは柔道本来の目的は達し得らるるものではない。それゆえに、柔道を競技運動的にも取り扱うことは今日の時勢の要求に適ったものであるということを認めると同時に、柔道の本領はどこにあるかということを片時も忘れてはならぬのである。」",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "一方で嘉納は普及や国民の理解を得る上での乱取試合や競技面の利点も挙げながら、戦前から活発になっていった試合とその上での勝利至上主義に向かう柔道修行者を強く憂いてもおり、身体鍛練で技を争うのは「下の柔道」で、精神修養を含むのが「中の柔道」、さらに身心の力を最も有効に使って世を補益するのが「上の柔道」と論じた。大正11年(1922年)、「精力善用・自他共栄」を柔道原理として制定していた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "嘉納は「柔道は単に競技として見るよりは、さらに深く広いもの故、自ら求めてオリンピックの仲間に加わることを欲しない」と語っており、柔道が五輪競技となることには消極的であったと言われているが、クーベルタン男爵や国際オリンピック委員会の推薦を受け自身がIOC委員となりオリンピック・ムーブメントに参加するに際し、嘉納は柔道と戸外スポーツの両立の必要性について言及している。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "「それまでには、体育のことなら柔道さえやっていればそれでよいと考えていたのだが、翻ってさらに深く思いをよせると、柔道だけではいけないことが分かってきた。柔道も剣道も体力を鍛え、武士道精神を修練させる秀れたものには違いないが、一般大衆の体育を振興させるにはこれだけでは満足できない。といって(当時の)体操は興味に乏しいのと、学校を出るとやるものがない。野球や庭球は面白いが設備が要るから誰でもやれない。少数のものには良いが、国民全般がやるには向かない。 だが歩行、駆け足、跳躍なんかはだれでも出来る。また費用も要らない。単に歩行することは面白くないかもしれぬが、神社仏閣に詣でるとか、名所旧跡を訪ねるようにすれば、道徳教育とも結びついてくる。大いに奨励すべきことだ。水泳もやらねばならぬ運動である。(中略)そしてすでに高等師範学校では生徒に長距離競走や水泳を奨励して実践させていた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "(中略)だから武道と戸外スポーツとは、どうしても両々相俟って発達していくようにしたいと思っていた。(中略)西洋で発達したオリンピック競技もこれを取り入れ、武士道精神を加味させることは出来ない相談ではないと考えた。」",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "そして他競技上でも日本人のオリンピック参加における大きな展望を掲げていた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "「日本精神をも吹き込んで、欧米のオリンピックを、世界のオリンピックにしたいと思った。それには自分一代で達成することが出来なかったら、次の時代に受け継いでもらう。長い間かかってでもよいから、オリンピック精神と武道精神とを渾然と一致させたいと希ったのである。 その最も手近い方法としては、我が国の選手が、心にしっかりとした大和魂、武士道精神を持っていて、競技場では世界選手の模範になることだ。」",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "嘉納治五郎の没後、柔道は変遷を経験することになる。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "1938年(昭和13年)5月、嘉納治五郎はカイロでのオリンピック会議の帰途、病死するに至る。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "日本政府はその年、7月15日、1940年に開催が決定していた1940年東京オリンピック返上を閣議決定する。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が起こる。戦況が拡大するにつれ、1942年(昭和17年)には日本では大日本武徳会が政府主導に改組される。その中では、剣道、柔道、弓道が、銃剣道、射撃道と共に中心的武技として軍国主義思想に利用されていくことになる。新武徳会における剣道の傘下には種々の武器術武道・武術も、また柔道の中(傘下)には空手や捕縄術、古流柔術など種々の徒手格闘や対武器技術の武道・武術も総合して含むことも明文化される。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 238,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争における敗戦を経験し、1946年(昭和21年)11月には剣道、柔道、弓道などは軍国主義に加担したとしてGHQにより武道禁止令を受け、大日本武徳会は解散させられることになる。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 239,
"tag": "p",
"text": "その後国内での再開の努力や文部省による請願書の提出、海外の柔道連盟の発足などを受けて1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 240,
"tag": "p",
"text": "しかし柔道は武道禁止令の解禁に際し、「競技スポーツとしての柔道」が外圧によって誓約されることになる。それはいわば便宜的なものとも捉えられるものでもあったため、日本の指導者の中にはいつか再び武道を精神教育の中心として復活させようという志を持つ者も多くいた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "しかし国際スポーツ化の流れの中で、1964年東京オリンピック開催に際し、生前の嘉納治五郎が消極的態度をとっていた柔道のオリンピック競技化への道を進むことになる。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "それらの流れの上で柔道の変容については次のような指摘がある。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "「体育」面では、",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "「競技の国際化に伴って、次第に競技に勝つための「身体(体力)強化」論が強まることになる。一方では「形」が実践されなくなることに示されるように、嘉納が強調した「身体の調和的発達や保健」という側面は弱化されていく。結果的に、競技力向上のための「強化」が柔道実践の中心となっていき、「体育」として嘉納が重視した大衆性や生涯に亘る継続性の側面は見失われていった。」",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "「勝負(武術)」面では、",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "「「競技スポーツとしての柔道」が浸透することによって「勝負は競技場の場における出来事」として限定されていき、戦前ではかなり強く意識されていた、武術としての追及は急速に弱化していった。 そのことはまた、武術性を保持する目的が加味されていた「形」の実践の低下とも結びついていった。「柔道はスポーツである」ことが世界共通の認識となっていき、ますます「武術としての柔道」論は顧みられなくなっていくことになった。」",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "「修心」面、特にその「徳育」面には、 昭和60年頃までは、「武道」や「修行」そして「礼儀」という観点から「徳育の低下」を食い止めようとする論調が盛んであった。それら徳育の低下への憂いは基本的に、たとえ「競技スポーツとしての柔道」を容認する者であっても、「他の競技スポーツと柔道は単純に同一ではない」という認識から発せられていた。特に戦前来の多くの指導者では、武道が有する「真剣味」こそが精神の高揚に役立つとする「武道としての柔道」論も根強く残存し、また「修行」という弛まぬ継続性が人間を向上させ、「礼儀」とは日常生活全般に浸透したものでなければならない、という価値観が継承されていた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "しかし、柔道による徳育の効果が、戦前では人間としての「生き方」や「生活」に結びつくものでなければならなかったのに対して、「競技スポーツとしての柔道」では競技という場に限定されてしまうことが問題視されたのであった。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "また、武道独特の修行観や段位に対する価値観、あるいは礼儀作法という行動面においてもその低下が憂慮されてきた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "また「精力善用・自他共栄」は、",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "戦後も不断に唱えられ続けてきたが、昭和60年頃から以降はその唱えはかなり減少する。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "概して、嘉納が唱えたようにそれらを「日常・社会生活へ応用する」といった側面は強調されなくなり、「精力善用・自他共栄」を「競技スポーツとしての柔道」にどのように活かしうるか、そこへの関心が集中することになる。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "一部で、「競技スポーツとしての柔道では精力善用・自他共栄の理念を活かし難い」という批判が出されていったが、その論調は、「勝ちさえすれば目的を達するような傾向が横行しだした」というように、「勝利第一主義への批判」と結び付いたものであった。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "それら変容を決定づけた最大の原因は、競技場で当然のごとく求められた「勝利志向」の強まりにみられる。 その理由は、勝利志向の「強まり」と、弱者への配慮(すなわち大衆性)や他者肯定(すなわち道徳性)の「低下」との間には避けがたい相関があり、また、「勝利志向の強まり」が、「競技」の時空のみへと視野を限定させ、柔道を生活や生き方に応用するという幅広い価値観も見失わせた。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "ことに日本の柔道界では、国際舞台での勝利が、発祥国としての意地と誇りによって強く求められたがゆえに、「勝利」という価値が「競技化の促進」という価値と容易に結びつき、戦前では修行者の動機づけを高めるための手段的価値に位置づいていた「勝利」が、次第に目的的な価値へと転換していった。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "嘉納は生前、教育的価値の体系を保持するために、幾度も「目の前の勝敗に囚われるな」と唱えたが、このような戦後における「勝利の目的化」によって、その体系は崩れていった。",
"title": "戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "講道館や全日本柔道連盟は、柔道修行者のマナー・モラルの乱れを受け止め、修心面での再生を目的として社会活動を行っている。",
"title": "社会活動"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "日本において講道館・全日本柔道連盟が、平成13年度から合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げ、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎師範の理想とした人間教育を目指して活動を行っている。",
"title": "社会活動"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "「国際化、競技化、スポーツ化が進み競技成績や勝敗ばかりが注目されているが21世紀を迎えた今こそ嘉納治五郎師範が提唱した柔道の原点に立ち返り、人間教育を重視した事業を進めようとするものである。」",
"title": "社会活動"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "「講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることはもちろん、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、‘師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げる。その主目的は、組織的な人づくり・ボランティア活動の実施であり、本活動を通して、柔道のより総合的普及発展を図ろうとするものである。」",
"title": "社会活動"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "2006年からの「柔道の国際的な普及に寄与するとともに、その活動を通して人と人との交流を図り、異文化理解を進め、もって日本のさらには世界の青少年育成に寄与すること」を目的とした活動。",
"title": "社会活動"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "全日本柔道連盟は2014年4月1日に「柔道MIND」事業を推進するため柔道MINDプロジェクト特別委員会を発足させている。",
"title": "社会活動"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "まず、柔道の投技の基本は受の背中が大きく畳に着くように投げることだが、取は受を頭から落さないように投げ、多くの投技では受の体が畳に着く寸前に引き手を引いて受の体をわずかに引かなければならず、受は正しい受身(腕で畳を打って緩衝し、同時に帯やへそをみることにより顎を引いて固定し後頭部を打たないように護る)を必ず身に付けなければならない。",
"title": "柔道事故"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "しかし、取と受の双方もしくはいずれか一方が未熟な場合や極端な体格差であった場合に受が頭部を畳にぶつけることがある。例えば大外刈りは、受が後ろ倒しになるという技の性格上、初心者や過度に疲弊して正しく受身を取れない状態の者にかけると後頭部を強打する危険性が高い。また、頭からの落下による事故原因の他に加速損傷(回転加速度損傷)が原因と思われる可能性も示唆されており、これは頭部に外力(極端な遠心力、加速度)が加わることで頭蓋骨に回転加速度がつき頭蓋骨内の脳が全体的に回転(一方向への偏り)することで脳と硬膜を繋ぐ橋静脈が破断、急性硬膜下血腫に至るという機序である。他に間(日にち)を置かず頭部への強打によって起こる脳震盪(セカンドインパクト症候群)が原因となり脳が物理的ダメージを負うことで、障害、死亡などのリスクが高まる報告がある。",
"title": "柔道事故"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "全柔連は長時間練習の疲労による負傷防止に「1日の活動時間は2時間が上限」など小学生の活動指針を立てている。",
"title": "柔道事故"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "2000年から2009年における日本の中学柔道での競技人口10万人当たりの平均死亡率は柔道2.376人/年、2番目に高率なバスケットボールで0.371人/年であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットボールや野球などのスポーツに比べて高いといえる。なお競技者人口からの死亡数の絶対値は水泳や陸上競技のほうが多い(独立行政法人日本スポーツ振興センターが平成2年から21年までに、学校内で柔道業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)。",
"title": "柔道事故"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "学校管理下における柔道練習中での死亡に至る児童生徒の数は年平均4人超というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている。名古屋大学内田良の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。後遺症が残る障害事故は1983年から2009年にかけては計275件(約17件/年)で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている。",
"title": "柔道事故"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)度の大阪府立高校におけるクラブ活動の傷害件数として、日本学校安全会大阪府支部資料にもとづき、柔道209件、野球124件、ラグビー105件。また、日本学校安全会大阪府支部調べの昭和51年度大阪府下全高校全日制男子のクラブ活動の傷害件数として、ラグビー443件、格技(主として柔道)382件、野球369件と報告されている。",
"title": "柔道事故"
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"paragraph_id": 269,
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"text": "柔道の事故に関して日本には全国柔道事故被害者の会が存在する。部活動後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷がほとんどないために柔道事故と死亡の因果関係の立証が困難になる。",
"title": "柔道事故"
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"paragraph_id": 270,
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"text": "柔道事故に対して全日本柔道連盟は安全指導プロジェクト特別委員会を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発している。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており、死亡または1級から3級の後遺障害に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。",
"title": "柔道事故"
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"text": "『ゴング格闘技』は2010年6月の七帝柔道大会の試合後に松原隆一郎(東大教授)と増田俊也(作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある。",
"title": "柔道事故"
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"text": "名古屋大学大学院教育発達科学研究科の内田良の調査によれば、日本の柔道現場では、安全対策に取り組んだ結果、2012年から3年間、死亡者はゼロとなったとしているが、ふたたび2015年から2021年4月までに7名の死亡者が出ている。",
"title": "柔道事故"
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"text": "日本では「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある。",
"title": "柔道事故"
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"text": "日本の文部省の対応は非常に杜撰で誠意の無いものであり、日本国政府(文部省)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事故が起きるという事実を30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることすらなかった。",
"title": "柔道事故"
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"text": "日本国政府(文部省)は30年前に学校での柔道の指導中に起きた死亡事故で被害者家族から訴訟を起こされ、家族が「頭をうったと思われる」としたところ、文部省側は無罪を主張するために「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」ということを主張するために、わざわざ英語で書かれた論文を持ち出して自己弁護したにもかかわらず、自らの弁護のために持ち出した「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」という事実にもとづいて対応策を打てば状況を改善できたはずであるにもかかわらず、その事実を全国の学校現場に伝える努力をまったくせず、結果としてその後に日本で100人以上の若者が命を落とすような状況を作り出していたのである。",
"title": "柔道事故"
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"text": "さらに文部省は、「学校での柔道の指導中の事故を文部省に報告する必要はない」などとする(不適切な)きまりを数十年前につくり、文部省に事故情報が集まってこない体制にしていた。これによって、ますます危険が把握されず放置される状況が作り出された。",
"title": "柔道事故"
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"text": "こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた。 日本の体育教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態でありながら、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまで、指導者としてのレベルには全然達していない。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない。",
"title": "柔道事故"
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"text": "フランスは日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国になったが、かつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための国家資格を設立、救急救命や生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である。",
"title": "柔道事故"
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"text": "全日本柔道連盟でも、連盟内に医師グループはいたものの、その中に頭を専門とする脳神経外科医がおらず、柔道事故の内実をよく理解していなかった。",
"title": "柔道事故"
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"text": "二村雄次(全日本柔道連盟所属の医師、自身も講道館柔道六段)は、NHKの『クローズアップ現代』(2012年2月6日放送)で、武道必修化(柔道必修化)の前に、第三者による柔道事故検証のしくみ(システム)を事前に用意しておくべきで、そうすればもしも柔道指導中の事故が起きた場合は(文科省でもなく、事故を起こしてから責任を回避しようとする現場の体育教師や校長などでもなく)第三者によって事故の実態を解明・分析し、そうすることで柔道事故の実態を解明し情報を蓄積すれば事故の防止策も打つことができる、と指摘した。",
"title": "柔道事故"
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"paragraph_id": 281,
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"text": "2012年、文部科学省の外郭団体日本スポーツ振興センター名古屋支所が、同競技機関誌で掲載予定していた柔道の部活動や授業中の死亡事故への注意を呼びかける特集記事について、「中学の武道必修化が始まる前の掲載は慎重にすべきだ」という本部からの指摘を受けて不本意ながら掲載を見送った。",
"title": "柔道事故"
},
{
"paragraph_id": 282,
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"text": "日本では2001年頃から肉体の接触で皮膚感染するトリコフィトン・トンズランス感染症(白癬菌の一種、いわゆる水虫、タムシ)が柔道及び、レスリング競技者間での集団感染の例が報告されている。皮膚科などの専門医にて治療が可能。",
"title": "柔道事故"
}
] |
柔道は、嘉納治五郎が興した日本の武道。日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)とも呼ばれる。オリンピック正式競技にもなっている。国内競技連盟は全日本柔道連盟(JJFJ)、国際競技連盟は国際柔道連盟(IJF)。 柔術修行に打ち込み修めた嘉納がさまざまな流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、1882年(明治15年)にその考察から創始した文武の道である。「柔能く剛を制す(じゅうよくごうをせいす)」の柔の理を発展させ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の、心身の力をもっとも有効に活用した「精力善用」「自他共栄」の原理を完成させる。
|
{{複数の問題
|独自研究=2012年9月
|出典の明記=2020年5月
}}
{{Infobox 武道・武術
|読み=じゅうどう
|画像名=Haraigoshi.jpg
|画像説明=
|別名=
|競技形式=
|使用武器=徒手<br>[[柔道形]]において、[[刀]]([[日本刀]]、[[木刀]])、[[短刀]]、[[棒術]]、対[[拳銃]]など
|発生国={{JPN}}
発生年=[[1882年]]([[明治]]15年)
|創始者=[[嘉納治五郎]]
|源流=[[天神真楊流]]
[[起倒流|起倒流柔道]]
|流派=
|派生種目= [[ブラジリアン柔術]]、[[ヨーロピアン柔術]]
|主要技術=[[投技]]、[[固技]]、[[当身技]]
|オリンピック=[[オリンピック柔道競技|あり]]([[1964年東京オリンピックの柔道競技|1964年]]、[[1972年ミュンヘンオリンピックの柔道競技|1972年]] - )
|公式ウェブサイト=[http://www.judo.or.jp/ 全日本柔道連盟]<br />[http://www.ijf.org/ 国際柔道連盟 (IJF)]
}}
'''柔道'''(じゅうどう / Judo)は、[[嘉納治五郎]]が興した日本の[[武道]]。'''日本伝講道館柔道'''(にほんでんこうどうかんじゅうどう)とも呼ばれる。[[近代オリンピック|オリンピック]][[オリンピック競技|正式競技]]にもなっている。[[国内競技連盟]]は[[全日本柔道連盟]](JJFJ)、[[国際競技連盟]]は[[国際柔道連盟]](IJF)。
[[柔術]]修行に打ち込み修めた嘉納がさまざまな流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、[[1882年]]([[明治]]15年)にその考察から創始した[[文武両道|文武の道]]である<ref>『DVDシリーズ柔道パーフェクトマスター』16頁。</ref>{{Full citation needed|date=2018年8月}}。「[[講道館#柔道における「柔の理」の背景・意味|柔能く剛を制す]](じゅうよくごうをせいす)」の[[講道館#柔道における「柔の理」の背景・意味|柔の理]]を発展させ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の、心身の力をもっとも有効に活用した[[#「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展|「精力善用」「自他共栄」]]の原理を完成させる。
== 概説 ==
[[古武道]]の[[柔術]]から発展した[[武道]]で、[[投技]]、[[固技]]、[[当身技]]を主体とした技法を持つ。[[明治]]時代に[[日本の警察|警察]]や[[学校]]に普及し、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後には国際競技連盟の[[国際柔道連盟]]の設立や[[近代オリンピック|オリンピック]]競技に採用されるなど、世界的に普及している。
[[スポーツ]][[競技]]・[[格闘技]]でもあるが、[[講道館]]柔道においては[[#「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展|「精力善用」「自他共栄」]]を基本理念とし、競技における単なる[[勝利至上主義]]ではなく、[[武術]]の修得・修練と、身体・精神の鍛錬と、[[教育]]と、[[講道館#勝負の理論を世の百般に応用する|社会生活への応用]]・日常生活への応用<ref>『嘉納治五郎大系』第九巻、194頁「精力善用自他共栄の原理を日常生活に応用することを怠るな」</ref>を目的としている{{efn|講道館師範嘉納治五郎先生遺訓「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習に由つて身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。さうして是に由つて己を完成し世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。」}}。
[[IJF]]では2015年8月[[アスタナ]]の総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている<ref>[http://99e89a50309ad79ff91d-082b8fd5551e97bc65e327988b444396.r14.cf3.rackcdn.com/up/2016/08/IJF_Statutes_Swis_Asociation_2-1470134982.pdf IJF Statutes (Swiss Association) 21 08 2015 ENG.pdf]</ref>。
== 歴史 ==
=== 柔術から柔道成立まで ===
{{see_also|柔術#歴史}}柔道の歴史[[ファイル:Kano kitoryu judo menjo.jpg|thumb|250px|保恒年から嘉納治五郎に授与された「日本伝起倒柔道」の免状(明治16年)。柔道という用語は嘉納が学んだ起倒流ですでに使われていた。]]
古くから、[[12世紀]]以降の[[武家政権|武家社会]]の中で[[武芸十八般]]と言われた[[武士]]の[[日本の合戦一覧|合戦]]時の技芸である[[武芸 (日本)|武芸]]が成立し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]が終わって[[江戸時代]]にその中から[[古武道|武術]]の一つとして[[柔術]]が発展した。
[[1877年]](明治10年) に、嘉納治五郎は[[天神真楊流]]の福田八之助に入門し、[[当身技]]を中心に[[関節技]]、[[絞技]]、投技を含んだ[[捕手術]]を由来とする立合や居捕の体系を持ち、[[乱捕]]技としての[[投げ技]]、[[固技]]も持つ[[天神真楊流]]を稽古した。また、[[武芸 (日本)#組討|組討]]を基とし[[捨身技]]を中心とした体系と乱捕を伝えていた[[起倒流]]柔術を稽古した。
[[天神真楊流]]と[[起倒流|起倒流柔道]]の乱捕技や形の技法を基礎に、起倒流の稽古体験から「[[崩し]]」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは[[柔道#教育・精神修養・応用としての柔道(修心法)|修身法]]、[[柔道#体育としての柔道(体育法)|練体法]]、[[柔道#武術としての柔道(勝負法)|勝負法]]としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年([[1882年]])、[[東京府]][[下谷]]にある[[永昌寺 (台東区)|永昌寺]]という寺の書院12畳を道場代わりとして「[[講道館]]」を創設した。
もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、[[滝野遊軒]]の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例<ref>菊池智之「松平定信の武芸思想に関する一考察-新甲乙流への道程-」『武道学研究』第23巻第3号、1991年3月、10-23頁。</ref>などがあり、「柔道」という語自体はすでに[[江戸時代]]にあったため、嘉納の発明ではない。
嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。
講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる<ref>杉山重利編著『武道論十五講』([[不昧堂出版]]、2002年)75頁。{{ISBN2|4829304081}}。</ref>。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる<ref>井上俊『武道の誕生』([[吉川弘文館]]、2004年)7頁。{{ISBN2|4642055797}}</ref>。
その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は[[武道]]([[日本武道]]、日本九大武道〈[[日本武道協議会]]加盟九団体〉)の筆頭として名を連ねている。
第二次大戦後、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までに[[ドイツ国|ドイツ]]において結成されていた[[ヨーロッパ柔道連盟]]が<ref name=IJF>{{Cite web |date= |url=https://www.ijf.org/history |title=History and Culture |website=|location=スイス |accessdate=2020-10-16 |publisher=IJF}}</ref><ref name="com">{{Cite web |date=2016-08-01 |url=http://www.worldjudoday.com/site/judo_historypdf-en-62-2.html |title=Judo History |website=World Judo Day|location=スイス |accessdate=2020-10-16 |first=Nicolas|last=Messner||publisher=IJF}}</ref><ref name=Yoshida>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=吉田郁子 |authorlink= |coauthors=|translator= |origdate=2004-12-15|origyear= | date = |year= |title=世界にかけた七色の帯 フランス柔道の父 川石酒造之助伝|edition =|publisher=駿河台出版社 |page=107|id= |isbn=4-411-00358-9 |quote= }}</ref>、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど日本国内外の働きかけもあり、日本においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
=== 警察と柔道 ===
[[ファイル:警視庁武術世話掛.jpg|thumb|250px|明治21年ごろの[[警視庁武術世話掛]]。最前列の左から2人目は後に講道館史上初の柔道十段となる[[山下義韶]]。]]
嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」([[1928年]])『作興』に連載)によれば、明治21年([[1888年]])ごろ、[[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|警視庁武術大会]]で主に[[揚心古流|楊心流戸塚派]]と試合し2 - 3の[[引き分け]]以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は[[天神真楊流]]などの他流柔術出身の実力者であった。
この試合のあと、[[三島通庸]][[警視総監]]が講道館柔道を警視庁の必修科として[[警視庁武術世話掛|柔術世話掛]]を採用したため、全国に広まっていったという{{efn|該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、[[山下義韶]]の回想記(雑誌『[[キング (雑誌)|キング]]』1929年10月号)では明治19年(1886年)2月に[[講道館四天王]]の[[西郷四郎]](小説『[[姿三四郎]]』のモデル)が好地円太郎に[[山嵐 (柔道)|山嵐]]で勝ったというほか、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある。}}。
日本の[[終戦の日|終戦]]後、[[GHQ]]による[[#武道禁止令と学校柔道の復活|武道禁止令]]により警察柔道も道場は閉鎖され、この一時期公式の試合を中断することを余儀なくされた。
敗戦による荒廃した世情は犯罪を増長させ、これに対応する警察官は、体力、技術、精神力の向上のため術科訓練の必要性が改めて見直されることとなった。法の執行者として犯人の制圧、逮捕は警察官の責務であり、この能力に欠ける警察は治安維持の重責を果たせない。当時の国家地方警察本部はこの点を楯に、[[逮捕術]]の基礎訓練に柔道が必要不可欠であると、GHQに改めて柔道の復活を申請した。このような経緯を経て戦後警察柔道はいち早く復活を認められた。戦後、警察柔道の復興は、警察官の士気を高揚させ、治安情勢の悪化した日本の秩序回復に大きく貢献している。
心身の鍛練により明朗剛健な警察官を養成するには、柔道訓練は不可欠とした警察の職務性が糸口となり、戦後衰退した日本柔道をいち早く軌道に乗せている<ref>「少年柔道指導法 ~少年期の特徴の柔道指導~ 第1章 武道・柔道の歴史 5.警察柔道」(財)警察大学校学友会術科研究会 (財)社会安全研究財団助成事業 平成12年</ref>。
[[日本の警察官]]は柔道または[[剣道]](女性のみ[[合気道]]も)が必修科目となっている。[[警察学校]]入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。[[警察署]]では[[少年|青少年]]の健全育成のための[[在籍者 (学習者)|小中学生]]を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。警察官の大会は「警察柔道試合および審判規定」によって行われる<ref>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=|Edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|page=242|date=|location=日本}}「全国警察柔道選手権大会」の項。</ref>。
=== 大日本武徳会における柔道 ===
{{main|大日本武徳会#柔道}}
1895年(明治28年)、武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民士気の向上を目的として京都に公的組織として[[大日本武徳会]]が設立された。
大日本武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。
講道館柔道は、[[嘉納治五郎]]が大日本武徳会の創設時から柔術部門における責任者にあり「大日本武徳会柔術試合審判規定」「大日本武徳会柔術形」「段位制」「称号制」の制定において委員長として柔術諸流派の委員をまとめて大きく影響を持った。
大日本武徳会において講道館柔道は柔術部門を統一する役割の流派として正式採用され教授者を派遣し、1919年には柔術部門は柔道部門と改称し統一し、[[大日本武徳会武道専門学校]]で稽古がされた。[[磯貝一]]、[[永岡秀一]]、[[田畑昇太郎]]、[[栗原民雄]]などが大日本武徳会における主任教授を担当している。武徳会において柔道は柔術諸流派の人材や技法を吸収し発展した。また大日本武徳会柔道部門には[[空手]]や[[捕縄術|捕縛術]]も柔道傘下に置かれていた。
{{Main2|戦時中の柔道|#日本軍への採用・影響}}
1946年(昭和21年)11月9日、[[大日本武徳会]]は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。
しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていた[[ヨーロッパ柔道連盟]]が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は日本における活動再開を果たす。
=== 学校教育での柔道 ===
日本の[[学校教育#日本の学校教育|学校教育]]においては、[[1911年]](明治44年)7月の[[中学校令#第二次中学校令|中学校令]]施行規則改正時に、[[体操#日本|体操]]科の内容として従来の教練及び体操の他に「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」(13条)とされ<ref>『官報』1911年7月31日省令欄「文部省令第26号」。同日の文部省訓令第14号では、その主旨を「撃剣及柔術ハ従来各学校ニ於テ任意ニ之ヲ施設シ生徒ノ志望ニ依リテ科外ニ之ヲ習ハシメタリシモ今回正科トシテ体操中ニ加フルコトヲ得シメタル所以ハ撃剣及柔術カ生徒心身ノ鍛錬上ニ及ホス成績ニ徴シ其ノ施設ヲ必要ト認メタルニ因ルモノトス」と説明。</ref>、[[旧制中学校]]の正科として柔道が剣道とともに採用された<ref>『[https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317630.htm 学制百年史]』第一編・第二章・第三節・三 中学校・高等女学校の学科課程(中学校令施行規則と学科課程)参照。</ref>。
{{Main2|経緯については「[[講道館#体育としての柔道(体育法)]]および「[[#体育としての柔道(体育法)]]」を}}
[[太平洋戦争]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]] (GHQ) により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、[[1950年]](昭和25年)に[[文部省]]の[[新制中学校]]の選択科目に柔道が採用された。次いで[[1953年]](昭和28年)の[[学習指導要領]]で、柔道、[[剣道]]、[[アマチュア相撲|相撲]]が「格技」という名称で正課の[[授業]]とされた{{要出典|date=2018年8月}}。[[1989年]]([[平成]]元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。[[2012年]](平成24年)4月から中学校[[体育]]で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1330882.htm 武道・ダンス必修化 文部科学省]</ref><ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/sports/judo/1318541.htm 柔道の授業の安全な実施に向けて 文部科学省]</ref>。
=== 学校体育と柔道 ===
日本では[[クラブ活動|部活動]]としてほとんどの[[中学校]]、[[高等学校]]、多くの[[大学]]に「柔道部」があり、[[中学校]]、[[高等学校]]では学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。警察や社会体育中心にやってきた日本の柔道だが20世紀終盤までに男子柔道の主力選手はこの学校体育大学柔道の学生およびそのOBの柔道家が中心となっており、日本以外への普及活動、柔道競技の近代化も大学柔道の柔道家が中心になって行っていたと彼らは自負していた。中学校、高等学校の運動部の監督は教員がやることが多く、教員はほとんど大学を卒業しているので、中学校、高等学校の柔道界も大学柔道界の貢献が多くなっている。彼らは社会体育勢が中心の全柔連のやり方に不満を持つようになった。20世紀終盤に起きた講道館・全柔連対[[全日本学生柔道連盟]](学柔連)の内紛もこういった日本の大学柔道界にたまった不満も背景にあった<ref name=デス>{{Cite book|和書|author=高山俊之(聞き手・構成)、小野哲也(話し手)|title=柔道界のデスマッチ全柔連VS学柔連|others= |publisher =[[三一書房]]|isbn=|quote=|origdate=1988-05-15|page=46|edition=第1版第1刷}}</ref>。
=== 社会体育としての柔道 ===
日本ではほとんどのスポーツは学校体育中心だが、こと武道、武術、格闘技に至っては多くが町道場やジムでの社会体育を中心として行われている。柔道も講道館という社会体育として始まった。その後、民間などの[[道場]]での活動のほかに、警察署の道場で一般向けの教室が行われるようになり社会体育の柔道は拡大した。1980年代でも全柔連の主なメンバーは[[骨接ぎ]]や社会体育である町道場を商売にしている人が多い、と首都圏で町道場を営み日本柔道界の内情に詳しい小野哲也は述べている。1986年、ある議員から、全柔連は[[全日本学生柔道連盟]](学柔連)の大卒メンバーと異なり、知性・教養がない者ばかり、と言われたことがあるとも小野は述べている<ref name=デス/>。[[神取忍]]は町道場は学校体育の柔道と比べ厳しい体罰を受けることはない、と述べている<ref name="tospo20130205">{{Cite web|和書|date=2013年02月05日 |url=http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/93066/ |title=柔道体罰問題で神取が緊急提言 |publisher=[[東京スポーツ|東スポWeb]] |accessdate=2015-12-10}}</ref>。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体がほとんどなく、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道の指導、練習を受ける社会体育の柔道がメインである。
=== 企業体育としての柔道 ===
日本では[[企業]]の[[実業団]]活動が行われている。柔道がオリンピック競技となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、のちに警察柔道を凌ぐ勢力となっている。1980年代、大学柔道の学柔連のメンバーは大学の柔道部OBがメインで実業団柔道に対しても影響力があった。講道館・全柔連対学柔連の内紛では、1983年に全日本実業柔道連盟(実柔連)会長の[[永野重雄]]は全柔連を脱退した学柔連に共鳴し、副会長の青木直行が受け流したため実現しなかったが、青木に全柔連から脱退するよう命じた、と小野哲也は語った<ref>{{Cite book|和書|author=高山俊之(聞き手・構成)、小野哲也(話し手)|title=柔道界のデスマッチ全柔連VS学柔連|others= |publisher =[[三一書房]]|isbn=|quote=|origdate=1988-05-15|pages=48-49|edition=第1版第1刷}}</ref>。
=== ステートアマチュアとしての柔道 ===
日本では[[警視庁]]、道府県警察のほか、[[皇宮警察]]、[[自衛隊]]、[[筑波大学]]、[[中央競馬会]]などを所属とする[[ステート・アマ]]の柔道家も多い。
=== 国際的競技としての普及 ===
[[ファイル:Judo03.jpg|thumb|250px|right|国際的競技としての柔道においても礼節は重んじられている。]]
{{see_also|オリンピック柔道競技|世界柔道選手権大会}}
柔道の試合競技は、オリンピックでは[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]で正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級で[[オランダ]]の[[アントン・ヘーシンク]]が日本の[[神永昭夫]]を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も[[1988年]]の[[ソウルオリンピック]]で公開競技、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]では正式種目に採用された。
世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「形」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と[[西ドイツ]]のジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた<ref>“女子柔道に世界の試練「型」より腕力が課題”『[[朝日新聞]]』、1979年12月19日 朝刊、15ページ</ref>。
のちに世界中に普及し、[[国際柔道連盟]]の加盟国・地域は201カ国に達している(2012年4月現在)。[[日本]]以外では、[[大韓民国|韓国]]、[[ヨーロッパ|欧州]]、[[ロシア]]、[[キューバ]]、[[ブラジル]]で人気が高く、特に[[フランス]]の登録競技人口は[[フランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟]](フランス柔道連盟)の組織構成の関係上、[[国際柔術連盟]]の[[ヨーロピアン柔術|柔術]]の競技人口も含んでいるが50万人を突破し、[[全日本柔道連盟]](全柔連)への登録競技人口20万人を大きく上回っている(ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない)。
また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全柔連の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが、のちにまったく柔道着を着ることもないどころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいるようになった。[[講道館]]でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違う。
== 技術体系 ==
講道館柔道の技は[[投技]]、[[固技]]、[[当身技]]の3種類に分類される。投技は[[天神真楊流]]、[[起倒流]]の乱捕技をもとにしている。
固技や[[絞技]]は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる<ref>講道館『決定版 講道館柔道』([[講談社]]、1995年)第9章当身技、142頁。{{ISBN2| 406207415X}}。</ref>。投技の過程を[[崩し]]、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。
またこれと平行して、口語的には、[[立技]]と[[寝技]]に分類して使用されるが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防を指しているので、固技と同義ではない。[[絞技]]と[[関節技]]は立ち姿勢でも施すことが可能であるからである。
練習形態は[[柔道形|形]]と[[乱取]]があり、形と乱取は車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取による稽古を重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取・試合では「投技」「固技」のみとした。そして[[スポーツ]]としての柔道は安全性を獲得し、広く普及していくこととなった。
試合で用いることができるのは、投技と固技であり、[[講道館]]では100本としている<ref>[http://kodokanjudoinstitute.org/news/2017/04/epost-133/ 柔道の技名称について]</ref>。しかし、試合で使用できる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。また国際柔道連盟規定(国際規定)の改正によって抑込技のスコア取得時間が短縮し決着の早期化が計られ、寝技の攻防における「待て」が遅くなったことと、主に外国選手による捨身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。
=== 投技 ===
{{main|投技}}
投技とは「理合い」にしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる[[捨身技]]にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって[[手技 (柔道)|手技]]、[[腰技]]、[[足技]]に分かれる。捨身技は倒れ方によって[[真捨身技]]、[[横捨身技]]に分かれる。また柔道の投げ技は、(1) 試合や自由練習(乱取)で用いられる投げ技、(2) 関節技を利用した投げ技、(3) 当て身技を施しながらの投げ技の3つがあるが、試合や練習では(1)が使われ、(2) や (3) の方法は「[[柔道形|形]]」によって学ぶことになっている<ref>『公認柔道指導者養成テキスト B指導員』58頁。</ref>。乱取り試合においては関節を極めながら投げると投技とはみなされない。
=== 固技 ===
{{main|固技}}
固技(かためわざ)には[[抑込技]]、[[絞め技|絞技]]、[[関節技]]がある。講道館柔道では[[固技]]が全部で32本あり、[[抑込技]](おさえこみわざ)10本、[[絞技]](しめわざ)12本、[[関節技]](かんせつわざ)10本である。IJF制定のものでは一部異なるものがある。おもに[[寝技]]で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)また、国際規定では2018年に両者立ち姿勢での絞技・関節技は禁止された。しかし国内の高段者大会など講道館規定においては依然使用可能対象である。また技術体系としては[[柔道形|形]]において依然として立ち絞め技、立ち関節技も学びの対象となっている。現在の乱取り試合においては肘関節技以外を禁じ手としているが、形においては肘関節技以外の手首関節技、足関節技も使用対象となっている。かつての柔道試合の行われていた各時期・各時代背景、各規程によっては、肘関節技以外の手首関節技、指関節技、足関節技、首関節技なども乱取り試合において使用可能であり、各々の時代背景により使用可能な技術体系は常に変化している。
=== 投技と固技の変遷 ===
* [[1884年]](明治17年)、[[1885年]](明治18年)ごろ - 乱取の形([[柔道形#投の形|投の形]]、[[柔道形#固の形|固の形]])制定
* [[1888年]](明治21年) - [[嘉納治五郎]]が使用した柔道講義用ノート『柔道雑記』にて、[[投技]]、[[固技]]の各種技の記載<ref name="不昧堂出版p115">{{Cite book|和書|author=藤堂良明|edition=初版第|date=2007-09-10|title=柔道の歴史と文化 |publisher =不昧堂出版|isbn=978-4-8293-0457-0|page=115}}</ref>
* [[1895年]](明治28年) - [[投技]]「五教の技」発表
* [[1920年]](大正9年) - 投技「五教の技」改定
* [[1954年]] - 講道館技研究部設立<ref>{{Cite web|和書| people =| title =柔道の研究 | medium =| publisher =講道館|location =| date = | url =http://kodokanjudoinstitute.org/activity/research/|accessdate=2020-09-04}}</ref>
* [[1982年]](昭和57年)10月5日 - 講道館柔道の技名称投技発表<ref name=柔道大事典講道館柔道の技名称>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=講道館柔道の技名称|Edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|pages=152-154|date=|location=日本}}</ref>
* [[1985年]]2月1日 - 講道館柔道の技名称固技発表<ref name=柔道大事典講道館柔道の技名称/>
* [[1995年]]9月(平成7年) - [[千葉市]]でのIJF総会でIJF技名称制定(100本)を承認<ref name=柔道大事典IJFの技名称>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=IJFの技名称|Edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|page=19|date=|location=日本}}</ref>
* [[1997年]](平成9年)4月1日 - 講道館柔道の技名称改定(96本)、IJF同様、[[一本背負投]]、[[袖釣込腰]]を独立、「本袈裟固」を「[[袈裟固]]」に改称
* [[1997年]]4月 - IJF技名称改定
* [[1998年]](平成10年)2月 - IJF技名称改定(99本)、講道館同様、[[送襟絞#腰絞|腰絞]]を[[送襟絞]]に包含<ref name=柔道大事典>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=腰絞|Edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|page=173|pages=|date=|location=日本}}</ref>、[[裏固]]を除外(のちに復活)、関節技の「腕挫○○固」<!-- と "U.H. xxxx-gatame" --> も正式名称に追加、禁止技として[[足緘]]、[[胴絞]]、[[蟹挟]]、[[河津掛]]を追加<ref name=近代>{{Cite journal |和書|author= |authorlink= |title=|quote=IJF理事会レポート|date=1998-06-20|year=|month=|publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |journal=[[近代柔道]]|volume=20 |issue=6 |naid= |pages=76-78|ref= }}</ref>
* [[2017年]](平成29年)- 講道館柔道の技名称改定、IJF同様、[[浮固]]、[[裏固]]を追加、[[帯取返]]、[[小内巻込]]を独立
=== 当身技 ===
当身技(あてみわざ)は、[[天神真楊流]]の技術を踏襲している。
当身技もしくは当技(あてわざ)とは、[[人体の急所|急所]]といわれる相手の生理的な弱点などを突く、打つ、蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、[[柔道形|形]]の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では[[柔道形#極の形|極の形]]・[[柔道形#柔の形|柔の形]]、[[柔道形#講道館護身術|講道館護身術]]などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は[[天神真楊流]]から伝えられてきたものである」としている<ref>講道館『決定版 講道館柔道』(講談社、1995年) 第9章当身技、144頁。</ref>。極の形、柔の形は[[柔道形#精力善用国民体育|精力善用国民体育]]の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており「真剣勝負の形」と呼ばれていたが、[[武徳会]]時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形をもとに長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。また、嘉納治五郎の想定していた柔道の当身技の中には武器術、対武器術の概念も含まれていたとされている。
一方、空手界側から柔道の当身技のうち、精力善用国民体育・第一種攻防式・単独動作(基本練習)の当身技は[[唐手]](のちの空手)の影響を受けているという説が唱えられている<ref name="ReferenceA">儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』(ベースボール・マガジン社、1986年)110、111頁。</ref>点についても下に記載する。
{{seealso|講道館#当身技と体育|講道館#精力善用国民体育に対する空手界からの主張}}
==== 当所・急所 ====
; 当所(用いる部位)
: 臂(うで):
:* 指先当(ゆびさきあて)〈指尖〉:突出、両眼突、摺上*
:*拳当(こぶしあて)〈拳固〉、〈握拳〉:斜当、横当、上当、突上、下突、後突、後隅突、突掛、横打、後打、打下、後押*、前斜当※、前当※、大前斜当※、大横当※、大前当※、大上当※、左右打※、前後突※、(両手)上突※、大(両手)上突※、左右交互下突※、両手下突※、後突・前下突※
:* [[手刀打ち|手刀当]](てがたなあて、手掌の小指側縁)〈手刀〉:切下、斜打、後取*、斜上打※、斜下打※、大斜上打※
:* 肘当(ひじあて)〈肘頭〉:後当、後取*、大後当※、前後突※
:* 〈手甲〉
: 脚(あし):
:* 膝頭当(ひざがしらあて)〈膝頭〉:前当、両手取*、逆手取*
:* 蹠頭当(せきとうあて、足蹠の前端)〈足底あるいは足玉〉:斜蹴、前蹴、高蹴
:* 踵当(かかとあて)〈踵玉〉:後蹴、横蹴、[[w:Stomp (strike)|足踏]]*
: 頭部:
:*〈頭部〉(前頭部および後頭部):前頭当<ref>『ATEMI WAZA KODOKAN JUDO PRACTICAL APPLICATIONS』P.218「ATAMA ATE, MAE ATAMA ATE-TECHNIQUE 84」KANO RYU INTERNATIONAL SCHOOL,JOSE A,CARACENA(2022年)ISBN 979-8-21-039973-1</ref>、後頭当<ref>『ATEMI WAZA KODOKAN JUDO PRACTICAL APPLICATIONS』P.220「ATAMA ATE, USHIRO ATAMA ATE-TECHNIQUE 85」KANO RYU INTERNATIONAL SCHOOL JOSE A,CARACENA(2022年)ISBN 979-8-21-039973-1</ref>
: <small>上記は嘉納治五郎『柔道教本』(1931年)、〈〉は「活法と当て身」(『世界柔道史』1965年)、*は講道館『決定版 講道館柔道』(1995年)、「講道館柔道の技名称一覧」(日本武道館編『日本の武道』2007年)、※は精力善用国民体育、の分類による。</small>
: 当身技の大部分は、腕や脚でもって掛けられるが、頭部もときに使われる<ref>講道館『決定版 講道館柔道』(1995年)</ref>。前頭部および後頭部を力点として使う<ref name="ReferenceE">『世界柔道史』「第11章 活法と当て身 第二節 当て身技」恒友社版 編者・丸山三造</ref>。相手に抱きつかれたとき、前からならば前額部で、後ろからならば後頭部で相手の顔面を攻撃する<ref name=柔道大事典頭>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=頭|Edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|page=|pages=|date=|location=日本}}</ref>。
: 当て身技を使うときは、敏捷軽快であると同時に、冷静沈着にして、正確に当てなければならないが、当てたあとは、当てた時の早さと同じ速度で(むしろそれ以上速く)、後ろに引き、直ちに次の動作にうつる構えをしなければならない。ゆえに打てば必ず引くことを、合わせて練習しなければならない<ref name="ReferenceE"/>。
; 急所
: 急所は、[[天神真楊流]]の名称を踏襲している。
: 天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電光、稲妻、臍下丹田、釣鐘(金的)、肘詰、伏兎、向骨。
: 当身技は形のなかで教授されるが、のちには昇級・昇段審査においても行われることがまれであるため、柔道修行者でもその存在を知らないことも多く、また指導者も少なくなった。
==== 寝技・寝姿勢に関連する当身技 ====
柔道の[[当身技]]において、[[柔道形#極の形|極の形]]の居取の技「横打」では居取りから[[肩固]]で制し倒した受けに対し肘当を[[みぞおち|水月]](みぞおち)に当てる技となっており、居取の技「後取」では座した状態の投げで巻き込み倒した受けに対し拳当を[[金的|釣鐘]](股間の急所)に当てる技となっている。立合の技「後取」では立った状態からの投げで倒した受けに[[手刀打ち|手刀当]]を[[当身#急所|烏兎]](眉間)に当てる技となっている。<ref name="不昧堂出版">{{Cite book|和書|author1=小谷澄之|authorlink1=小谷澄之|author2=大滝忠夫 共|edition=初版|date=1971-09-10|title=最新 柔道の形 全 |publisher =不昧堂出版|isbn=4-8293-0093-0}}</ref>
また、[[柔道形#精力善用国民体育|精力善用国民体育]]の単独動作・第二類の当身技・腕当の拳当「下突」(「左右交互下突」「両手下突」「前下突」)は下方・倒れた相手への突き技を想定した動作を体育的に行う運動となっている。<ref name="不昧堂出版"/>
また、当身技・足当の踵当「足踏」は、[[柔道形#講道館護身術|講道館護身術]]・徒手の部・組み付かれた場合・「抱取」(かかえどり)で使用される際には、踵で足の甲を踏みつける技となる<ref>{{Cite book|和書|author1=小谷澄之|authorlink1=小谷澄之|author2=大滝忠夫 共|edition=初版|page=137|date=1971-09-10|title=最新 柔道の形 全 |publisher =不昧堂出版|isbn=4-8293-0093-0}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author1=日本柔道整復専門学校|author2=品川区柔道会||title=新装版 見る・学ぶ・教えるイラスト柔道の形(英文付) |others=|publisher =五月書房|isbn=4772704434|quote=|Edition=新装版|origdate=2006-4-28|page=109|date=|location=日本}}「講道館護身術 徒手の部Ⅰ組み付かれた場合(7) 抱え取り」</ref>が、応用として倒れた相手への止めの踏みつけの技ともなる。<ref>『JUDO KODOKAN ATEMI WAZA』P.113「ASHI FUMI」José A Caracena 2016年。ISBN 978-1-36-661453-7</ref>
=== 寝技 ===
柔道には固技だけでなく[[ブラジリアン柔術]]や[[総合格闘技]]で言うところのパスガード、スイープの[[寝技]]技術が豊富にある。パスガードは抑込技でのスコアにつながるので、あっても不思議はないが、スイープについてはブラジリアン柔術のようにポイントも得られない「スイープ」のような総称、概念もあまりないにもかかわらず豊富にある。[[UFC]]以前からパスガード、スイープの技術がある格闘技は珍しく、他にはブラジリアン柔術、前田光世が指導員をしながら技術を吸収した[[ロンドン]]の日本柔術学校の[[不遷流]]の流れをくむ柔術、[[着衣総合格闘技]]の[[柔術ファイティングシステム]]などがある。創立当初、[[寝技]]はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。
=== 柔道形 ===
{{Main|柔道形}}
講道館の設立当初においては、[[天神真楊流]]や[[起倒流]]の形がそのままの修行され、当身技の技法、概念もそこから継承され修行されていた<ref>藤堂良明『柔道 その歴史と技法』日本武道館</ref><ref>有馬純臣『柔道大意』</ref><ref>渥美義雄『柔道極意独習』</ref>。その後、乱取り技や真剣勝負の技など目的ごとに整備分類され技も追加され、[[大日本武徳会]]における形制定委員会などを通して古流柔術諸流派との議論・研究の元、「実地に就いて研究の結果、遂に全員の一致を見るに至」<ref name="『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』松本芳三 p.17">『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』松本芳三 p.17</ref>り、各流派の技も追加されていき、のちの形の姿になっていった。
嘉納治五郎は次のように書き残している。「従来の柔術諸派の形は、大別して見ると、[[起倒流]]、[[扱心流]]等を以て代表せしめ得る[[武芸 (日本)#組討|鎧組打]]系統の形と、[[楊心流]]、[[天神真楊流]]等を以て代表せしめる[[当身]]、[[捕手術|捕縛術]]系統の形とに大別することが出来る。乱取の形の中、投の形は前者に属し、固の形と極の形は後者に属するものである。かくして出来た極の形も、未だ完全のものと認むることは出来ぬが、今日の儘でも、従来の柔術諸派の形に比して一段優れたものであるということはこれを明言し得る所であるー。」<ref name="『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』松本芳三 p.17"/>
== 柔道競技 ==
=== 試合 ===
講道館柔道は[[柔道形|形]](かた)、[[乱取り|乱取]](らんどり)によって技術を修行するように示されている。しかし競技大会における「柔道」とはほぼ乱取を意味するものであり、形については国民の認識も薄い。
このことから[[1990年代]]以降は「形」の競技化が進められ、次項で説明する形競技も行われるようになった。
=== 形試合 ===
{{Main|柔道形}}
形の競技化、試合も始まっている。
日本国内では、1997年(平成7年)には講道館と全柔連が[[全日本柔道形競技大会]]を開催したことで、形の競技化が始まった。10回(10年)の国内選手権大会を経てからは、形の国際大会開催の機運が高まり、[[第1回講道館柔道「形」国際大会]]が2007年に講道館大道場で開催された。ここでは講道館講道館護身術、五の形、古式の形を除く、4種類の形が採用されたが、すべて日本チームが優勝した。ヨーロッパでは2005年(平成17年)に欧州柔道連盟が第1回欧州柔道「形」選手権大会をロンドン郊外で開催した。さらに東南アジア地区のSEA (South East Asia) Gamesでは、2007年から投の形と柔の形が実施されている。
2008年11月には、国際柔道連盟が[[IJF形ワールドカップ]]をパリで開催したが、投の形では優勝を逃している。
2009年10月には第1回[[世界形選手権大会]]が[[マルタ共和国|マルタ]]で行われ、こちらは5種目とも日本勢が優勝した。第2回世界形選手権大会は2010年5月、ブダペストで行われ、日本チームは全5種類の形で優勝した。
=== 大会 ===
==== 大会のレベル ====
講道館柔道の試合は、通常、年齢と体重によって制限されており、男女も別である。年齢には下記のように制限がある。
# マスターズ:30歳以上
# シニア
# ジュニア:15歳以上21歳未満
# ユース
# カデ:15歳以上18歳未満
==== 主な大会 ====
* [[オリンピックの柔道競技]]
* [[世界柔道選手権大会]]
* [[全日本柔道選手権大会]]
* [[全日本選抜柔道体重別選手権大会]]
* [[嘉納治五郎杯東京国際柔道大会]](2008年をもって終了、[[グランドスラム (柔道)|グランドスラム]]に引き継がれる)
* [[全日本ジュニア柔道体重別選手権大会]]
* [[講道館杯全日本柔道体重別選手権大会]]
* [[都道府県対抗全日本女子柔道大会]](2009年をもって終了)
* [[福岡国際女子柔道選手権大会]](2006年をもって終了)
* [[国民体育大会]]
* [[全日本学生柔道優勝大会]]
* [[全日本学生柔道体重別選手権大会]]
* [[全国高等学校柔道選手権大会]]
* [[金鷲旗高校柔道大会]]
* [[全国青年大会]]
* [[全日本柔道形競技大会]]
* そのほか[[柔道の大会]]も参照のこと
==== 体重別階級 ====
{{Main|オリンピック柔道競技#実施階級}}
柔道は本来無差別で争われるべきという考えにもとづいていたため、講道館柔道では無差別を除くと段別・年齢別がその区分の中心であった。しかし、東京オリンピック開催を機に、体重による区分を軽量級、中量級、重量級の3階級設けたのが最初である。講道館柔道ではのちに8つの階級に分かたが、主催者や競技者の年齢によって異なることがある。国際大会では、シニア、ジュニア、カデなどで制限が異なる。
===== シニアの個人戦 =====
{| class="wikitable"
|-
! colspan="8" | 男子
|-
| 60 kg 以下
| 60 – 66 kg
| 66 – 73 kg
| 73 – 81 kg
| 81 – 90 kg
| 90 – 100 kg
| 100 kg 超
| 無差別
|-
! colspan="8" | 女子
|-
| 48 kg 以下
| 48 – 52 kg
| 52 – 57 kg
| 57 – 63 kg
| 63 – 70 kg
| 70 – 78 kg
| 78 kg 超
| 無差別
|}
===== シニアの団体戦 =====
{| class="wikitable"
|-
! colspan="8" | 男子
|-
| 66 kg 以下
| 66 – 73 kg
| 73 – 81 kg
| 81 – 90 kg
| 90 kg 超
|-
! colspan="8" | 女子
|-
| 52 kg 以下
| 52 – 57 kg
| 57 – 63 kg
| 63 – 70 kg
| 70 kg 超
|}
===== 世界ジュニア =====
大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上21歳未満。
{| class="wikitable"
|-
! colspan="8" | 男子
|-
| 55 kg 以下
| 55 – 60 kg
| 60 – 66 kg
| 66 – 73 kg
| 73 – 81 kg
| 81 – 90 kg
| 90 – 100 kg
| 100 kg 超
|-
! colspan="8" | 女子
|-
| 44 kg 以下
| 44 – 48 kg
| 48 – 52 kg
| 52 – 57 kg
| 57 – 63 kg
| 63 – 70 kg
| 70 – 78 kg
| 78 kg 超
|}
===== 世界カデ =====
大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上18歳未満。
{| class="wikitable"
|-
! colspan="8" | 男子
|-
| 50 kg 以下
| 50 – 55 kg
| 55 – 60 kg
| 60 – 66 kg
| 66 – 73 kg
| 73 – 81 kg
| 81 – 90 kg
| 90 kg 超
|-
! colspan="8" | 女子
|-
| 40 kg 以下
| 40 – 44 kg
| 44 – 48 kg
| 48 – 52 kg
| 52 – 57 kg
| 57 – 63 kg
| 63 – 70 kg
| 70 kg 超
|}
無差別は[[世界柔道選手権大会]]にはあるが、オリンピックの種目ではない。また日本で一番格式のある[[全日本柔道選手権大会]]は無差別で行われる。
==== 国際大会の敗者復活トーナメント戦 ====
また、[[オリンピック柔道競技|オリンピック]]や[[世界柔道選手権大会]]では、敗者復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。そして復活トーナメントを勝ち上がった選手と準決勝で負けた選手が銅メダルを争うことになる。このため銅メダルが必ず2つ出る。[[国際オリンピック委員会]]は他の競技との兼ね合いから1つにするように通達している{{refnest|group=注釈|他の競技では原則として、準決勝で敗れた国・地域同士による対戦。競技により行われず3位が2カ国となるものもある。}}が、[[国際柔道連盟]]はこれを拒否している。
2012年の[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]からは敗者復活戦のシステムが変更になり、準々決勝の敗者のみが出場でき、敗者復活戦の勝者と準決勝で負けた選手で銅メダルを争うことになった。
一方で国内の大会である、[[全日本柔道選手権大会]]や[[全日本選抜柔道体重別選手権大会]]では行われていない。
==== 大会の変遷 ====
* [[1885年]](明治18年)-[[1888年]](明治21年) - [[警視庁]]において[[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|警視庁武術大会]]が行われる。講道館は他流柔術と戦う機会を得て、圧勝したと伝えられる<ref name=武術大会/>。
* [[1956年]] - 第1回[[世界柔道選手権大会]]が[[東京]]の[[蔵前国技館]]で開催される。
* [[1961年]](昭和36年) - IJF体重別制。4階級。
* [[1964年]] - [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]で正式競技となる。
* [[1967年]](昭和42年) - IJF体重6階級。
* [[1977年]](昭和52年) - IJF体重別制、8階級制。
* [[1986年]](昭和61年) - 第1回視覚障害者柔道大会開催(講道館)
* [[1998年]](平成10年) - 全国高校総体個人戦は体重別7階級になる。(於:高松)個人戦は予選リーグを廃止しトーナメントのみ。
* [[1998年]](平成10年) - 全国中学校大会の女子団体戦(3人制)始まる。
* [[1998年]](平成10年) - 全日本女子柔道ジュニア選手権大会始まる。(講道館)
* [[1999年]](平成11年) - 全日本学生柔道体重別団体選手権大会開催。初の体重別団体戦開始。
* [[2009年]](平成21年) - [[IJFグランプリシリーズ]]及び[[ランキング制 (柔道)|世界ランキング制度]]が始まる
* [[2009年]](平成21年) - 第1回学生柔道女子選抜体重別団体優勝大会開催。
* [[2014年]](平成26年) - IJFは2015年から世界ランキングに入っているすべての選手に対して、他の格闘技の国際大会へ参加することを禁じる方針を打ち出した<ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20141209-OHT1T50309.html 【柔道】国際連盟、柔道以外の格闘技大会出場禁止を通達 石井慧にも影響か] [[スポーツ報知]] 2014年12月10日</ref>。
* [[2017年]](平成29年)- 男女混合団体戦が、8月世界カデ大会(サンチャゴ)において初めて採用される。同月、世界選手権大会(ブダペスト)においてシニアでも採用される。
== 試合のルール ==
乱取り試合のルールは講道館柔道試合審判規定(旧称・講道館柔道乱捕試合審判規程、以降「講」)と国際柔道連盟試合審判規定(以降「国」)などがある。のちに日本でもほとんどの大会が国際柔道連盟規定(国際規定)で行われるようになったが、大会のレベルなどにより、日本独自の方法や判定基準が採用されている。
講道館柔道試合審判規定による試合は、後々においても講道館において開催されている月次試合や紅白試合、高段者大会などにおいて引き続き継続して採用されている。そこでは2021年現在の国際規定に準拠する試合においては[[禁じ手]]扱いとされる脚掴み技や立ち関節技や立ち絞技なども引き続き使用可能となっている。一方で国際規定と異なり、見込み一本が女子においては一時期認められ、男子においても例外的に認める大会が開けるとか、女子では国際規定より早期に[[蟹挟]]が禁止、骨折・脱臼で試合続行を認めないなどスポーツライクな差別化も行われている。
かつてはやはり講道館試合規程と同様に嘉納治五郎が中心となってまとめた、[[大日本武徳会]]柔術試合審判規定(1899年施行、1919年に大日本武徳会柔道試合審判規定に改称、1943年に新武徳会柔道試合審判規定として大幅に改定)などがあった。新武徳会規定以前の武徳会規定については、講道館柔道試合審判規程と基本的に内容の異なるものではないが、立技と寝技の比率による寝技の重要性など一部記述の異なるものとなっていた。
また、[[高専柔道]]を引き継ぐ[[七帝柔道]]の試合においては、寝技を重視する形式での独自の試合を行っている。一方で講道館規定、国際規定より早期に[[蟹挟]]が禁止がされたり、[[横分#腕返|腕返]]の投げ技としての無効化、見込み一本の維持などスポーツライクな差別化も行われている。抑込技[[崩袈裟固#肩袈裟固|肩袈裟固]]・[[裏固]]の無効化、高専柔道で開発された抑込技[[崩上四方固#横三角固|横三角固]]の一時無効化など守旧的な面もある。
以下の試合方法の記述については、おもに国際柔道連盟試合審判規定(2018年 - 2020年版)(2020年1月13日一部改訂版)について説明する。
=== 試合場 ===
試合場内は、9.1 [[メートル|m]] × 9.1 m(5間)(講1条)、もしくは8 m × 8 mから10 m × 10 m四方(国1条)の[[畳]]の上(「試合場」は、講: 14.55 m(8間)、国: 14ないし16 m四方の場外を含めた場所をいう)。試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続している場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。
=== 試合の技 ===
講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制することを競う。当て身技は使えない。
=== 審判員 ===
[[審判員]]は[[主審]]1名、[[副審]]2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。2014年から試合場の審判は主審1人となる。副審2名は審判委員席で二人並んでビデオを確認しながら無線で主審と従来通り多数決裁定で試合を進めていく。[[ジュリー (柔道)|ジュリー]](審判委員)も試合場の審判と無線でコミュニケーションを取り合うことになるが、必要とみなされた場合を除き技の評価などへの介入は控える<ref name="規定">[http://www.judo.or.jp/p/31724 国際柔道連盟試合審判規定(2014-2016)]</ref>。2018年までに副審はビデオを確認しないことになった。しかし、試合場で裁く規定には戻らず無線で主審と連絡し従来どおり多数決により試合を進めていくこととなった。副審が試合場にいないと試合が他の者から見やすいのであった。ビデオ確認の担当はかつての審判委員とは限らずスーパーバイザーがやることが多くなった。
審判に抗議することはできない(講16条)。
{{seealso|ビデオ判定#柔道}}
=== 試合 ===
[[試合]]は立ち姿勢から始まる(講10条)。一本勝負であり(講9条)、「[[一本]]」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。「技あり」2回の一本の場合は「合わせて一本」と主審がコールする。試合時間内に両者とも「一本」に至らない場合には、それまでの技のスコアの差で「優勢勝ち」を決する。
*「技あり」と相手の反則「警告」を合わせた「総合勝ち」の場合も「一本」と同等に扱う。(講)
*「優勢勝ち」の優劣の差には「[[柔道#禁止事項に対する罰則|指導]]」による得点も加味される。(講)
* 規定時間終了時に両者の技にスコアの差がない場合には、[[ゴールデンスコア方式]]として、試合を延長し一方がスコアをとるか反則負けとなった時点で試合終了となる。(国)
* 規定時間終了時に両者の技にスコアの差がない場合には、審判3人による旗判定で勝敗を決する。(講)
=== 試合時間 ===
3分から20分の間であらかじめ定められる(講12)。国体は成年男女、少年男女ともに4分。全日本選手権は6分。国際規定では、マスターズ3分(60歳以上は2分30秒)、シニアの場合、男女とも4分、ジュニアとカデも4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合には[[ゴールデンスコア]]となり、どちらかが技のスコアか指導をとるまで試合は続行される(旗判定の廃止)<ref name="規定"/>。
=== 技の評価 ===
技は、「[[一本]]」、「[[技あり]]」の2つのスコアで評価される。(国)
2019年7月現在においては、一方の者が「技あり」を2つ取ると、「技あり 合わせて一本」({{lang-en-short|waza-ari-awasete-ippon}})となり、「一本」に準じた評価が発生。その時点で試合が決する{{refnest|name=ijf201907|PDF<ref>{{cite web|url=https://78884ca60822a34fb0e6-082b8fd5551e97bc65e327988b444396.ssl.cf3.rackcdn.com/up/2019/07/IJF_Sport_and_Organisation_Rul-1564071708.pdf|title=IJF Sport and Organisation Rules (SOR, Version 23 July 2019)|accessdate=2019-08-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190830233232/https://78884ca60822a34fb0e6-082b8fd5551e97bc65e327988b444396.ssl.cf3.rackcdn.com/up/2019/07/IJF_Sport_and_Organisation_Rul-1564071708.pdf|archivedate=2019-08-30|publisher=国際柔道連盟}}</ref> P.118}}。このことを指して、「合わせ技一本」と言われることもある。
==== 効果と有効 ====
かつての国際規定ではスコアの種類に「[[効果]]」と「[[有効]]」があったが、ルール改定により2009年1月1日から「効果」、2017年1月1日からは「有効」が正式に廃止された。講道館規定ではもともと「効果」のスコアはなく「有効」がある。評価の優劣は「一本」に準ずる技のスコアが「技あり」、「技あり」に準ずる技のスコアが「有効」だった。
==== 「技あり 合わせて一本」の経緯 ====
上述の「技あり 合わせて一本」ルールについては、過去、国際柔道連盟が廃止をしたことがある(2016年12月発表分では、2017年1月より適用とされていた<ref name="jiji">[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121000150 有効、合わせ技一本を廃止=来年からルール改正-国際柔道連盟] [[時事通信]] 2016年12月10日</ref><ref name="ijf">[https://www.ijf.org/news/show/adapted-rules-of-the-next-olympic-cycle Wide consensus for the adapted rules of the next Olympic Cycle]</ref>。)
その後の国際柔道連盟のルール再改正により、「技あり 合わせて一本」は復活。2019年7月現在において現存する<ref name=ijf201907/>。
==== 投技 ====
; 一本
:* 4つの基準「相手を制しながら」、「背(右肩と左肩の中央を含む)を大きく畳につくように」相当な「強さ」と「速さ」をもって投げた場合(講、国)
:* 投げられた者が着地から間がなく転がって背が着いた場合(国)
:* 投げられた者が故意にブリッジで背をつくことを逃れた場合(講、国)
:
; 技あり
:* 相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」のどれか一つが部分的に欠けた場合(講、国)
:** 背を大きく畳につかなくても着地から間があって転がって背をついた場合(国)
:** 背は着かないが片肩から片臀部、片臀部から片肩、腰回りを転がった場合(国)
:** 背は着かないが両手または両肘を同時についた場合(国)
:** 背を大きく畳につかなくても片肘または臀部または膝の着地から直ちに背を着いた場合(国)
:** 背は着かないが片手ともう一方の肘をついた場合(国)
:
かつての国際規定では、相手を制しながら、相手の片方の肩、尻、大腿部が畳につくように、「強さ」「速さ」をもって投げた場合を「効果」としていたが、改正後はノースコアになった。
==== 固技 ====
固技(抑込技、絞技、関節技)の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。
1つ目は、抑込技で、国際規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚が自分との間に入っていない、相手の脚によって自分の身体、脚が下から挟まれていない場合、抑え込みが成立する。抑え込まれている者が脚を上から挟んだ場合は講道館規定では「解けた」とならないが国際規定では「解けた」となる。全柔連発行の『2018年~2020年国際柔道連盟試合審判規定』ではこのルールを説明する画像が2枚あるがともに下から脚を挟んだものになっている<ref>{{Cite web|和書|date= |url= https://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2018/09/b9503aa6efbe0dc222359ed70050249c.pdf|page=28|format=pdf|title=2018年~2020年国際柔道連盟試合審判規定 |website=全日本柔道連盟|location=日本 |accessdate=2020-06-03}}</ref>。抑え込みが「解けた」とならないで、20秒経過すると「一本」になる(講道館規定では30秒)。但し、先に(投げ技、固め技の)「技あり」スコアを持っていれば、10秒経過すると「技あり」で「合わせて一本」になった(講道館規定では25秒)。同様に一定時間の抑込技で以下のように技が判定される<ref name="規定"/><ref name="jiji"/><ref name="ijf"/>。
* 一本 - 20秒間(講:30秒間)抑え込んだ場合。
* 技あり - 10秒以上20秒未満(講:25秒以上30秒未満)、抑え込んだ場合。
* 有効 - 10秒以上15秒未満(講:20秒以上25秒未満)、抑え込んだ場合(2017年より廃止)。
2009年にルールが改正される前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていた。
2つ目は、固め技で、相手が「[[タップアウト|参った]]」と発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2 - 3回叩く)をすれば「一本」勝ちになる。
3つ目は、絞技と関節技で、技の効果が十分に現れた時である。(国:相手に戦意、戦闘能力がなくなった時)
この条件には、脱臼、骨折、気絶がこれにあたる。(国:脱臼、骨折は主審が戦意、戦闘能力があるとみなせば続行)
参加選手の程度によって、関節技や絞技が完全に極まっていれば、安全のため、選手が「参った」の表明や脱臼、骨折、気絶をしなくても主審の判断で「一本」にできる大会がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。(講のみ)
小・中学生以下は安全のため関節技・絞技禁止(講・少年規定による)。
=== 禁止事項 ===
==== 講道館規定 ====
; 指導
:* 立ち姿勢で極端な防御姿勢をとる、消極的な態度、攻撃の意志がない
:* 帯や上衣の裾を相手の腕に1周以上巻き付け括る
:* 防御のためや投げ技・巧みではない寝技に移るための立ち姿勢の相手への脚掴み
: など
; 注意
:* 頸部以外を絞める
:** [[胴絞]]は両脚を伸ばして絞めている場合は反則で胴に脚を絡めてるだけでは構わない
:** 相手の襟を持たない自分の指、拳や自分の裾、帯で首を絞める
:** 相手の腕を中に入れずに両脚で首を絞める
:* 寝技に引き込んでよい条件を満たさずに寝技に引き込む
: など
; 警告または反則負け
:* 立ち姿勢から体を一挙に捨てて[[腕挫腋固]]を取ること
:* [[河津掛]]
:* 肘以外への関節技
:* 柔道精神に反する行為
:* [[蟹挟]](大会の程度によって禁止にも認めることもできる)
:* 背を畳についてる相手を持ち上げたり、抱き上げ相手を畳に叩きつける
:* 背後からからみついた相手を制して後方に倒れ込む
:* [[払腰#楔刈|楔刈]]
: など
; 反則負け
: [[内股]]、[[跳腰]]、[[払腰]]などの投げ技の際、自ら頭から突っ込む
==== 国際規定 ====
; 指導
:* 立ち姿勢で極端な防御姿勢をとる、消極的な態度、攻撃の意志がない
:* 両者立ち姿勢での関節技・絞技
:* 帯や上衣の裾を相手に1周以上巻き付け括る
:* 帯より下の帯と一緒ではない帯に入った裾掴みを含む脚掴み
:* 相手の胴([[胴絞]])、頸、頭を自身の両足を交差し、自身の両脚を伸ばして絞める([[三角絞]]は頸と腕を絞めているので対象外)
:* 相手の襟を持たない自分の指や自分または相手の裾、帯で首を絞める(書籍『柔道のルールと審判法』は、拳での絞めも指を使っていると解釈すべきだろう、としている<ref name=大修館書店拳>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史|edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-8-20|page=158}}</ref>)
:* 寝技に引き込んでよい条件を満たさずに寝技に引き込む
:* 絞技・関節技のさい、過度に相手の脚を伸ばす
:* 自身および相手の上衣の裾を故意に帯から出す
: など
; 反則負け
:* 投げられた際、頭から畳に突っ込んで着地やスコアを逃れる (head defence)
:** [[背負落]]、[[背負投]]、両袖を持った[[袖釣込腰]]、両手で襟を持った[[腰車]]などの場合は故意でなければ反則とはならない
:* 投げ技の際、自ら頭から突っ込む (diving)
:* 立ち姿勢の肩三角グリップから投げようとする
:* [[払腰#楔刈|楔刈]]
:* 3回目の指導
; 反則負けおよび失格
:* 河津掛
:* 肘以外への関節技
:* 立ち姿勢から腕挫腋固を掛けようとしながらか、掛けながら倒れ込む
:* 柔道精神に反する行為
:** 相手の足を踏んで2回目の「待て」を取られる ほか
:* 背後からからみついた相手を制し後方に倒れ込む
:* 背を畳についてる相手を持ち上げたり、抱き上げ相手を畳に叩きつける
:* 蟹挟
:など
=== 禁止事項に対する罰則 ===
禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「指導」が与えられる。重大な違反行為に対しては「反則負け」が宣告される場合もある。「指導」に対しては違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。ただし、2014年からの国際規定では、指導は3回目までスコアにならず、技のスコア以外はスコアボードに表示されないことになった(これにより、技ありと指導3を合わせた総合勝ちは成立しなくなった)。4回目の指導が与えられた場合は反則負けとなる。試合終了時に技のスコアが同等の場合は、指導の少ない方の選手を勝ちとする<ref name="規定"/>。
* 「1回目の指導」(講)では、得点は与えられない。
* 「2回目の指導(注意)」(講)では、相手側に「有効」のスコアが与えられる。
* 「3回目の指導(警告)」(講)では、相手側に「技あり」のスコアが与えられる。
* 「3回目の指導」(国)では、「反則負け」に。
* 「反則負け」(講)では、相手側に「一本」のスコアが与えられる。
=== 得点表示 ===
得点表示の例(青(赤)が一本、白が技あり1回、有効1回の場合)
{| class="wikitable" style="width:20%"
|- style="background-color:white; text-align:right"
|style="width:10%; text-align:left; white-space:nowrap"|青 (B) /赤 (R)||1||0||0
|-
!||style="width:10%"|I||style="width:10%"|W||style="width:10%"|Y
|- style="background-color:white; text-align:right"
|style="text-align:left"|白 (W)|| ||1||1
|}
有効がある大会では試合場やテレビ中継での得点表示は、有効な技の回数が、左から、一本 (I) 、技あり (W)、有効 (Y) の順に表示される。上下に列記される場合もある。上記の例の場合、希に有効の回数が2桁になると、[[野球]]のスコアボードと同様、正しい表示ができない。
=== 試合規定の変遷 ===
* [[1885年]](明治18年)-[[1888年]](明治21年) - [[警視庁]]において[[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|警視庁武術大会]]が行われる。規定についての明確な資料は残されていない<ref name=武術大会>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|year= |title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=警視庁武術大会|origdate=1999-11-21|page=|pages=|date=|location=日本}}</ref>。
* [[1888年]](明治21年) - [[嘉納治五郎]]が使用した柔道講義用ノート『柔道雑記』に、[[投技]]として、手業([[手技 (柔道)|手技]])6種、腰業([[腰技]])9種、足業([[足技]])13種、真捨身業([[真捨身技]])6種、横捨身業([[横捨身技]])7種、[[固技]]として、手固(指関節技・手首関節技・肘関節技)9種、足固(足関節技)3種、体固([[抑込技]])9種、首固(首関節技)9種、裸絞([[絞技]])11種の記載。<ref name="不昧堂出版p115">{{Cite book|和書|author=藤堂良明|edition=初版第|date=2007-09-10|title=柔道の歴史と文化 |publisher =不昧堂出版|isbn=978-4-8293-0457-0|page=115}}</ref>
* [[1895年]](明治28年) - [[大日本武徳会]]が設立され、武徳祭において毎年、大演武会と武術大会が行われる。武術大会における乱捕り試合規定は試合ごとの申し合せで決められていたとされる。
* [[1899年]](明治32年) - 大日本武徳会において大日本武徳会柔術試合審判規程<ref name=年表>{{Cite web|和書|date= |url=http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/chronicle/ |title=年表 | 講道館 |website=講道館|location= |accessdate=2020-12-04 |publisher=}}</ref>または規定<ref name=ス/>制定。規定制定委員長の嘉納治五郎の原案をもとに、講道館を含む10名の古流柔術家の委員によって評議、決定される。二本先取の三本勝負を採用する。この規程と翌年定められた講道館柔道乱捕試合審判規程制定にて柔術=柔道の通常乱捕り試合時の各種禁じ手も設けられる。手首、手足の指関節技への関節技が禁止技となった。技あり合せて一本の技ありの回数は審判の裁量に。抑込一本の秒数は審判の裁量に。関節技・絞技において、見込み一本も認められていた。書籍『最新スポーツ大事典』によると足首への関節技は認められていた。一方、書籍『柔道大事典』によると禁じられていた。同書によると[[胴絞]]、[[足緘]]、首関節技も禁じられていた<ref name=ス>{{Cite book|和書|title=最新スポーツ大事典|edition=初版|editor=岸野雄三|author=日本体育協会(監修)|authorlink=日本体育協会|origdate=1987-06-01|publisher=[[大修館書店]]|page=43|isbn=4-469-06203-0}}</ref><ref name=柔道大事典大日本武徳会柔術試合審判規定>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=大日本武徳会柔術試合審判規定|edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|page=|pages=|date=|location=日本}}</ref>。
* [[1900年]](明治33年) - 講道館柔道乱捕試合審判規程<ref name=年表/>または規定<ref name=ス/>制定。手足の指関節技、[[足取緘]]など足首への関節技が禁止技となった<ref name=柔道大事典大日本武徳会柔術試合審判規定/><ref name=大修館書店関節技>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史|edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-8-20|pages=3-4}}</ref>。関節技・絞技において、見込み一本も認められていた。
* [[1916年]] - 講道館柔道乱捕試合審判規程改正。[[足緘]]、[[胴絞]]は禁止となった<ref name=大修館書店足緘>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史|edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-8-20|page=5}}</ref>。
* [[1919年]]以降、大日本武徳会柔術試合審判規定が大日本武徳会柔道試合審判規定に改称。
* [[1924年]](大正13年) - 「引き込み」を禁止。それまで二本先取で勝敗を決する「三本勝負」で行われていた柔道試合を[[一本]]勝負で決する審判規程変更。
* [[1924年]](大正13年) - 武徳会柔道試合審判規定および1925年、講道館柔道乱捕試合審判規程で縦方向からも横方向からでも相手を水平に相当の高さに巧みに持ち上げた場合は審判の見込みで投げ落とすことをやめさせ、持ち上げたる者を勝者にすることになる。([[抱上]]一本)<ref name=柔道大事典抱上>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|year= |title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=抱上|origdate=1999-11-21|page=296|pages=|date=|location=日本 東京}}</ref>
* [[1925年]](大正14年) - 書籍『最新スポーツ大事典』によると、武徳会、[[足緘]]を禁止技に。三本勝負を[[一本]]勝負に変更<ref name=ス/>。
* [[1926年]]までに腕の関節以外の関節技は禁止技に<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=金光弥一兵衛 |authorlink= |coauthors=|translator=|url={{NDLDC|1020063/88}}|origdate=|origyear= | date =1926年(大正15年)5月10日 |year= |title=新式柔道|edition =|publisher=[[隆文館]] |location=日本|page=154|id= |isbn= |quote=現今の審判規定に於ては腕の関節以外の関節技は禁止されて居る。}}</ref>。
* [[1929年]](昭和4年) - [[昭和天覧試合|御大礼記念天覧武道大会]]柔道乱捕試合規程、審判員3人、姿勢・態度・技術等の基準による「優勢勝ち」制定。
* [[1935年]](昭和10年) - フランスにおいて[[川石酒造之助]]が[[川石酒造之助#技術体系|川石メソッド]]を使用して柔道の教授。そこでは投技として[[手技 (柔道)|手技]]、[[腰技]]、[[足技]]、[[捨身技]]の分類以外に肩技の分類の使用、また固技として[[抑込技]]、[[絞技]]、肘の[[関節技]]以外に、手首関節技、足関節技、首関節技の採用。<ref>村田直樹『柔道の国際化《その歴史と課題》』臼井日出男(発行者)、日本武道館(発行所)、ベースボール・マガジン社(発売)(原著2011年4月30日)</ref>
* [[1941年]](昭和16年)、講道館柔道乱捕試合審判規程で、抱上について、相手が仰向けならば体勢は問わず、投げ落とすことは禁止、と改正された<ref name=柔道大事典抱上/>。主審の主観で決めていた抑込一本の時間を30秒に統一。固め技での「技あり」が抑込技のみに<ref name=大修館書店30>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史|edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-08-20|pages=6-8}}</ref>。また固技に関して、従来立技からかけることを禁止されていたのを「立ちたるまま絞技、関節技を掛け、技が相当の効果を収めた場合に限り」寝技に移れる旨改正され<ref name=新武道刊行会>{{Cite book|和書|author=武田武 編||date=1941|title=新武道 第一巻第二号 |publisher =新武道刊行会|isbn=978-4-336-06158-4|quote=|page=134}}</ref>、立った状態からの固技を認めるようになった<ref name=国書刊行会>{{Cite book|和書|author=中嶋哲也|edition=初版第1刷|date=2017-07-24|title=近代日本の武道論 〈武道のスポーツ化〉問題の誕生 |publisher =[[国書刊行会]]|isbn=978-4-336-06158-4|quote=|page=378}}</ref>。
* [[1942年]](昭和17年) - [[大日本武徳会]]が改組される。[[1943年]](昭和18年)、[[柔道#新武徳会柔道試合審判規定|新武徳会柔道試合審判規定]]において柔道試合の戦技化が意図される。条件付きであるが[[当身技]]の使用を認める条項の追加。(一)等外者は肘関節、(二)有等者は肘関節、手首関節、足首関節、(三)[[大日本武徳会#武術家の表彰と称号の制定|称号]]受有者は脊柱関節を除く全関節、として等級称号によって制限はあるが、脊柱以外の全ての関節への攻撃が許される関節技の緩和。<ref name=国書刊行会/>
* [[1945年]](昭和20年) - 日本の敗戦に伴い武道禁止令。[[1946年]](昭和21年) - 大日本武徳会解散。[[1949年]](昭和24年) - 全日本柔道連盟の発足。[[1950年]](昭和25年) - [[文部省]]から[[GHQ]]に学校柔道復活に関する[[文部大臣]]請願書の提出。戦時中に行われた当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外する内容で学校柔道の復活の旨。
* [[1950年]](昭和25年) - [[国際柔道協会]]([[プロ柔道]])発足。指、足首、手首、肩などへの関節技を認めるルールを採用。同年内に解散。
* [[1951年]](昭和26年) - 審判規程の名称をそれまでの「講道館柔道乱捕試合審判規程」から「講道館柔道試合審判規程」に改称。審判規程の改正。新しい競技規程として試合場、柔道衣の規格規程。関節技・絞技において、「参った」がなくても気絶、骨折、脱臼があった時は一本に。見込み一本はなし。抱上一本について持ち上げる高さを「おおよそ肩の高さ」に改正<ref name=柔道大事典抱上/>。「技あり」に近い技への評価、スコアとして「有効」を採用。「優勢勝ち」の基準制定。「技あり」、「有効」の数は絶対ではなかったが「技あり」については数が多いものがほとんど勝ちとなっていた。明確でなかった抑込技での「技あり」の時間が25秒とされた<ref name=大修館書店1951>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史|edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-08-20|pages=9-11}}</ref>。
* [[1955年]](昭和30年) - 講道館柔道試合審判規程改正、「技あり」後の「抑え込み」25秒で合わせ技一本など。
* [[1957年]](昭和32年) - 講道館柔道試合審判規程改正。「技あり」と「警告」による勝ちを「総合勝ち」とする。
* [[1962年]] - 講道館柔道試合審判規程準改正。抑え込みだけでなく、寝技全般でも場外に出そうな場合は「そのまま」宣告からで場内に引き入れることとした<ref name=rekishi/>。
* [[1966年]](昭和41年)3月1日 - 「講道館柔道試合審判規程」から「講道館柔道試合審判規定」に改称。投げられた者の全身が場外に出ても投げのスコアが認められるようになった<ref name=rekishi>{{Cite web|和書|author=|authorlink=|url= https://www.judo.or.jp/shiru/rekishi|title= 全日本柔道連盟50年誌 第四部資料編 日本柔道史年表|website = 全日本柔道連盟公式ページ|publisher = 全日本柔道連盟|date = |accessdate =20201204 }}</ref>。原則は取れないが大会によっては関節技、絞技で見込み一本が取れるように一部復活。
* [[1967年]](昭和42年) - IJF試合審判規定(国際規定)が制定。見込み一本はなしに。
* [[1974年]](昭和49年) - 国際規定改正に。投げ技へのスコアとして「有効」「効果」を採用。
* [[1975年]](昭和50年) - [[1975年世界柔道選手権大会|ウィーン世界選手権]]から「効果」を採用。
* [[1980年]] - 講道館試合審判規定改正。女子に関する規定を追加。習慣だった白Tシャツ着用義務を明文化。白線入り帯着用。見込み一本ができることに。
* [[1981年]] - 国際規定で抱上ではスコアがとれないことに<ref name=柔道大事典抱上/>。
* [[1981年]]までに講道館試合審判規定で体を一挙に捨てる腕挫腋固が警告または反則負けに。自ら頭から突っ込む投技が反則負けに<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=笹間良彦 |authorlink=笹間良彦 |coauthors=|origdate=1982-11-25|title=図説日本武道辞典|edition =|publisher=柏書房 |location=|page= |id= |isbn= |quote=講道館試合審判規定昭和56年2月1日実施昭和57年1月1日改正 }}</ref>。
* [[1982年]](昭和57年) - 講道館試合審判規定・少年規定。
* [[1985年]] - 講道館試合審判規定改正。女子で[[蟹挟]]が禁止となった<ref name=大修館書店/>。罰則は「警告」となった。抱上一本が削除に<ref name=柔道大事典抱上/>。
* [[1989年]] - 講道館試合審判規定改正。成年男子でも蟹挟を各大会主催者の判断で禁止することが可能に<ref name=大修館書店/>。罰則は「警告」となった。
* [[1993年]] - 国際規定で講道館規定に合わせる形で柔道衣を口で噛む行為が指導に<ref name="大修館書店関節技"/>。
* [[1994年]]までに<ref name=格通>{{Cite journal |和書|author=若林太郎 |authorlink= |title=[[全日本柔道選手権大会]] |date=1994-06-23 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |journal=[[格闘技通信]] |volume=9 |issue=14 |naid= |pages=120 |ref= |quote =国際ルールでは禁止}}</ref>、国際規定で男女で[[蟹挟]]は禁止技となった。罰則は「警告」となった。
* [[1995年]](平成7年) - 講道館試合審判規定改正。女子も男子に合わせ一部の大会を除き原則、見込み一本はとらなくなった。
* [[1997年]](平成9年) - IJF総会で[[ブルー柔道衣]]導入可決。国際規定で[[抑込技]]が25秒で一本に<ref>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史 |edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-08-20|page=143}}</ref>{{efn|書籍『詳解 柔道のルールと審判法 2001年度版』では1998年となっている}}<ref name=二千一/>。
* 1998年までに国際規定において、抑え込み中に、抑え込まれている者が、相手の脚を上からでも両脚で挟むことができた場合、「解けた」となる{{要出典|date=2020-11}}。一方、[[2004年]]まで現役だった[[瀧本誠]]は、自身が現役のころはこれでは「解けた」にならない規定だった、としている<ref>{{Cite journal|和書 |journal=[[近代柔道]]|url= |author=[[瀧本誠]] |authorlink= |coauthors=|title=誠が翔ける!講道館杯を観て|date =2020-11-20|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|volume=42 |issue=12|location=|page=50|id= |isbn= |quote= }}</ref>。
* [[1998年]](平成10年) - 国際規定で抑込技[[裏固]]が無効に。[[蟹挟]]と倒れ込む[[腕挫腋固]]の罰則が「反則負け」に変更。蟹挟は重大な違反の一つ「特に頸や脊椎・脊髄など、相手を傷つけたり危害を及ぼしたり、あるいは柔道精神に反するような動作をする。」の附則で禁止された<ref name=大修館書店>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣、松井勲、尾形敬史 |edition=初版第2刷|date=2005-09-01|title=詳解 柔道のルールと審判法 2004年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26560-8|quote=|origdate=2004-08-20|page=157}}</ref><ref name=近代蟹挟>{{Cite journal |和書|author= |authorlink= |title=特集◎審判を考える【パート1】|quote=今後はすぐに反則負けになる|date=1999-03-20|year=|month=|publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |journal=[[近代柔道]]|volume=20 |issue=3 |naid= |page=17|ref= }}</ref>。(2018年、本則に明記)
* [[1998年]](平成10年) - IJF公式大会として初めてブルー柔道衣採用される。ワールドカップ(ミンスク)。
* [[2000年]](平成12年) - 福岡国際女子柔道選手権大会で全柔連初の審判ビデオ試行。
* [[2001年]]までに国際規定改正。関節技などで脱臼、骨折の場合は主審がまだ戦闘能力があると見なされれば一本はとらないことになった<ref name=二千一>{{Cite book|和書|author=小俣幸嗣|author2=松井勲|authorlink2=松井勲|author3=尾形敬史|edition=初版|date=|title=詳解 柔道のルールと審判法 2001年度版 |publisher =[[大修館書店]]|isbn=4-469-26463-6|quote=|origdate=2001-05-20|page=140}}</ref>。
* [[2003年]](平成15年) - 世界選手権大会の女子のシニア試合時間を5分に。国際規定の罰則を「指導」と「反則負け」に二分化。延長戦「ゴールデンスコア」採用。
* [[2008年]](平成20年) - 国際規定でスコアの「効果」を廃止。(2009年1月実施)
* [[2009年]](平成21年)10月 - 国際規定において[[双手刈]]・[[朽木倒]]等の脚掴み技を禁止ではないが制限される。1度目は指導、2度目は反則負けに。
* [[2010年]](平成22年) - 国際規定で両者とも相手を持っていない状態からのいきなりの「抱きつき」 (bear hug) を規制<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20100906-OYT1T00873.htm いきなり抱きつく攻撃はダメ、柔道に新ルール] [[読売新聞]] 2010年9月6日</ref>。脚掴み技を1度目で反則負けに<ref>{{PDFlink|[http://www.judo.or.jp/article/1336-newrule2010/attach/2010newijfrule0318.pdf 国際柔道連盟(IJF)試合審判規定改正]}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年) - 2013年2月の[[グランドスラム・パリ2013|グランドスラム・パリ]]から8月の[[2013年世界柔道選手権大会|リオデジャネイロ世界選手権]]までの期間、国際規定において畳上1人審判制、ピストルグリップやクロスグリップや帯を持った場合は即座に攻撃しなければ指導が与えられる変則組み手や組み手争いに対する罰則強化、帯から下を掴む行為や脚掴みの全面禁止、旗判定の廃止、抑込技の時間短縮、抑込技[[裏固]]復活などの大幅なルール改正案が試験導入されることに決まった。この結果を検証して、正式導入されるか改めて協議されることになる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKF0486_Q2A131C1000000/ 柔道国際大会、1人審判を試験導入へ 連盟会長が明言] [[日本経済新聞]] 2012年11月30日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20121210-OYT1T01421.htm 柔道、「脚取り」全面禁止へ…国際大会新ルール] [[読売新聞]] 2012年12月10日</ref><ref>[http://www.intjudo.eu/upload/2012_12/09/135504772881923998/v_eng_refeeing_rules_2013_2016.pdf ENG-Refereeing-Rules-2013-2016]</ref>。
* [[2014年]]までに国際規定において両手で相手の上衣を掴んでいる場合は腕が相手の脚に触れても脚掴みの反則にはならないことに<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=Sayako ONUKI|authorlink= |coauthors=|translator= |origdate=|origyear=2014| date =2016-04-07 |year= |title=IJF ルール 2014-2016 テクニカルアセスメント|edition =|publisher=[[全日本柔道連盟]] |page=22|url=http://99e89a50309ad79ff91d-082b8fd5551e97bc65e327988b444396.r14.cf3.rackcdn.com/up/2017/11/2017-10-26_Explanatory_guide_o-1509786984.pdf|id= |isbn= |quote=取が両手でしっかりと組んで攻撃している場合、攻撃中に(取の腕が)受の脚に触れてもよい。}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年) - 2014年1月の[[コンチネンタルオープン]]から新たな[[国際柔道連盟|IJF]]試合審判規定が導入されることになった<ref name="規定"/><ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2013112800977 女子は4分間に短縮=柔道新規則] [[時事通信]] 2013年11月28日</ref>。相手の片腕と頭部を両腕で抱える肩三角グリップに立ち姿勢でなった場合は「待て」に。寝姿勢でも肩三角グリップから相手の胴を両脚で挟んだら「待て」に。立ち姿勢、寝姿勢の区別が変更に。背か腹か両手腕両膝を畳についていなければ立ち姿勢の相手が直ちに投げられればスコアの対象に。この時も立ち姿勢の相手への脚掴みも禁止。膝をついてる相手の後頭部や背に脚を掛けて返して背を着かせた場合は[[崩上四方固#横三角固|横三角固]]などの固め技とみなされ投げ技のスコアは与えられない。両者が両膝をついている場合は寝姿勢あつかいのまま。立ち姿勢の自身や相手の上衣の裾を故意に帯から出す行為が指導に<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=Sayako ONUKI|authorlink= |coauthors=|translator= |url=http://99e89a50309ad79ff91d-082b8fd5551e97bc65e327988b444396.r14.cf3.rackcdn.com/up/2017/11/2017-10-26_Explanatory_guide_o-1509786984.pdf|origdate=|origyear=2014| date =2016-04-07 |year= |title=IJF ルール 2014-2016 テクニカルアセスメント|edition =|publisher=[[全日本柔道連盟]] |page=14 |id= |isbn= |quote=相手又は自らの柔道衣(裾部分)を帯から出す }}</ref>。
* [[2015年]]までに国際規定において、帯より下の帯に入った上衣の裾掴みも脚掴みに含まれ反則負けに<ref>{{Cite web|和書|date=20150601|url=http://www.judo.or.jp/p/35222 |title=国際柔道連盟試合審判規定Q&A |website=|location= |accessdate=2020-08-28 |quote=帯から出ている裾は持っても良いが、直ぐに攻撃しなければ「指導」となる|publisher=全日本柔道連盟}}</ref>。
* [[2016年]] - 国際規定において立ち姿勢で肩三角グリップから「待て」を無視して投げた場合は反則負けに。
* 2016年 - [[2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道競技|リオデジャネイロオリンピック]]女子57 kg決勝戦で[[ラファエラ・シルバ]]が袖を持った腕の肘で相手の脚を掬って技ありを取るが脚掴みの反則ではないか、と騒動になる。IJFは反則ではない、と見解を示す。
* [[2017年]](平成29年)までに国際規定において投げ技で両肘または両手で着地した場合、技ありに。片肘、臀部、または膝で着地したのち続いて直ちに背中をついた場合、技ありに。
* [[2017年]](平成29年) - 国際規定において以下のような新ルールが適用されることになった。男子の試合時間は女子と同じく4分間になった。有効が廃止されて技のスコアは一本と技ありのみ。技ありは従来の「有効」を含むため、いくら取っても一本にはならない(技あり合わせて一本の廃止)。本戦で技のスコアが入らない場合は例え指導を取っていても勝利にはならず[[ゴールデンスコア方式]](以下GSと表記)に突入する。GSでは技のスコアか、本戦終了時の指導数の差に変化が生じた時に決着する。ただし、本戦終了時点で、与えられた指導が多かった選手がGSにおいて相手の指導により勝利するためには、相手が2回、もしくは3回連続で指導を受けることが必要となる。指導は3度取られると反則負け。脚掴みは1度目が指導、2度目が反則負けに戻る。また、[[マウスピース (スポーツ)|マウスピース]]の装着が認められることになった<ref name="jiji"/><ref name="ijf"/><ref>[http://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2017/03/ce52948bab3c7eecd73931288d15662d-1.pdf 国際柔道連盟試合審判規定(2017-2020)改正の要点]</ref><ref>[http://www.judo.or.jp/p/40542 【審判委員会】大会におけるマウスピース(マウスガード)の装着について(通達)]</ref>。
* [[2017年]](平成29年)- 講道館柔道試合審判規定改正。抑込技[[裏固]]、[[浮固]]が認められる。
* [[2018年]]までに国際規定では立ち姿勢での肩三角グリップからの投げ技は「待て」の前でも反則負けに。投げ技において着地やスコアを逃れようと頭から畳に突っ込んだ場合、ヘッド・デフェンス (head defence) で反則負けに。
* [[2018年]](平成30年)- 国際規定において前年の暫定ルールに以下のような修正が加えられた。
** 技あり2つで一本(技あり合わせて一本)が復活した。技によるスコアか反則勝ちのみで勝負が決することになり、従来のようにGSにおける指導決着は取り除かれた<ref name="ijf.org">[https://www.ijf.org/news/show/detailed-explanation-of-the-ijf-judo-refereeing-rules Detailed Explanation of the IJF Judo Refereeing Rules effective from 01 January 2018]</ref>。
** 投げ技で着地から間がなく転がって背が着いた場合、一本に。間があって転がって背が着いた場合、技ありに。過度に間があった場合はノースコアに。
** 返し技において、畳に着地した際の衝撃を利用して返し技を仕掛けてもスコアにはならない。先に畳に背を付けてから返し技を繰り出してもスコアにはならない。
** 投げ技で片肩から片臀部、片臀部から片肩、腰回りを背を着かないで転がった場合、技ありに。
** 投げ技で片手ともう一方の肘をついた場合、技ありに。
** 一度、寝姿勢になっても立ち上がって投げられば投げ技のスコアの対象となる。
** 立ち姿勢での関節技、絞技が指導に、特に危険な場合は反則負けに。関節技、絞技での立ち姿勢、寝姿勢の区別は2013年より前と変更なく相手が膝をついていれば寝姿勢扱いで関節技、絞技を掛けることができる。したがって膝をついているが両手腕両膝、背、腹がついていない場合は立ち姿勢の相手から投げ技も固め技(関節技、絞技、抑込技)も仕掛けられ、さらには立ち姿勢の相手の脚を掴む防御もできない危機にあることに。
** 絞技、関節技において過度に相手の脚を伸ばした場合は指導に。
** 立ち姿勢の相手の上衣の裾を故意に帯から出す行為も指導に2014年からなっているはずが、全柔連発行の『2018年〜2020年国際柔道連盟試合審判規定』ではこの記載はなく対象は自身の上衣だけである<ref>{{Cite web|和書|date=2018-09-05 |url= https://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2018/09/b9503aa6efbe0dc222359ed70050249c.pdf|page=35|format=pdf|title=2018年〜2020年国際柔道連盟試合審判規定 |website=全日本柔道連盟|location=日本 |accessdate=2020-06-07 |quote=故意に自身の柔道衣(裾部分)を帯から出す。}}</ref>。
** 脚掴みは通常の指導に変更される。(脚掴み指導2回での「反則負け」の廃止)
** リオデジャネイロオリンピックでの騒動に関連し、相手の襟や袖を持った手腕(主に肘)での動作は脚掴みの反則の対象とならないことを明らかにした<ref name="ijf.org"/>。一方、全柔連発行の『2018年〜2020年国際柔道連盟試合審判規定』では「柔道衣を持っていなければ罰則にならない」と異なる記載をしている<ref>{{Cite web|和書|date=2018-09-05 |url= https://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2018/09/b9503aa6efbe0dc222359ed70050249c.pdf|page=36|format=pdf|title=2018年〜2020年国際柔道連盟試合審判規定 |website=全日本柔道連盟|location=日本 |accessdate=2020-06-07 |quote=柔道衣を持っていなければ罰則にならない}}</ref>。
** 相手の上衣など相手をしっかり手で握っていない触っただけの後の「抱きつき」も指導に。相手が自らを持ってるだけで自らは相手を持っていない場合の「抱きつき」も指導に。
** [[背負落]]、両袖を持った[[袖釣込腰]]、両手で襟を持った[[腰車]]などの際、頭から畳に突っ込むヘッド・デフェンスも故意でなければ両者とも反則とはならない。
** 寝技での不利な状況の選手に「指導」を与える場合と、寝技で医療行為が必要な場合に限定されていた主審の「そのまま」の宣告について、寝技なら必要な時いつでもできることに。
* [[2019年]]までに国際規定において、帯と一緒に裾を掴むことは脚掴みにならず許されることに。
* 2019年3月8 - 10日に開催された[[グランプリ・マラケシュ]]より、国際規定では帯から外に上衣の裾(背部を含む)が出るなど試合中に柔道衣が乱れた場合は、待てが掛かった直後に選手自ら柔道衣を素早く整えなければならなくなった。それを怠って主審に2度注意された場合は指導が与えられる。なお、帯を解いて柔道衣を整える場合は、主審の指示や許可を得なければならない<ref>[http://www.judo.or.jp/p/48246 【審判委員会】柔道衣の乱れに対する新たな罰則(指導)の施行について]</ref>。
* 2019年11月の[[グランドスラム・大阪2019]]からIJF主催大会において「上衣の裾が臀部を完全に覆う」の検査が厳しくなる<ref name=近代42>{{Cite journal |和書|author=村田直樹 |authorlink= |title=柔道博士|quote=|date=2020-01-22|year=|month=|publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |journal=[[近代柔道]]|volume=42 |issue=2 |naid= |page=75|ref= }}</ref>。
* [[2020年]] - 国際規定が以下のように変更。
** 立ち姿勢での関節技が禁止になった2018年以降も投げ技のスコアが与えられていたり<ref name=IJFWC>{{Cite video| people =| time=00:00:28|title =World Championships Seniors Baku 2018 / Round 1 -73 kg REITER,Lukas VS ESTRADA,Magdiel | medium =[[YouTube]] | publisher =[[国際柔道連盟]] | location =[[スイス]] | date =20 Sep 2018|accessdate=2019-04-24 | url =https://www.ijf.org/judoka/14866/videos?currentContestCodeLong=wc_sen2018_m_0073_0005}}</ref><ref>{{Cite video| people =| title =Osaka Grand Slam 2019 / Semi-Final -90 kg BOBONOV,Davlat VS GWAK,Donghan | medium =[[YouTube]] | publisher =[[国際柔道連盟]] | location =[[スイス]] | date = | url =https://www.ijf.org/judoka/10038/videos?currentContestCodeLong=gs_jpn2019_m_0090_0063|accessdate=2020-04-27}}</ref>、指導が与えられなかったことがある<ref name=IJFWC2>{{Cite video| people =| time=00:02:45|title =World Championships Seniors Baku 2018 / Round 1 -73 kg REITER,Lukas VS ESTRADA,Magdiel | medium =[[YouTube]] | publisher =[[国際柔道連盟]] | location =スイス | date =20 Sep 2018 | url =https://www.ijf.org/judoka/14866/videos?currentContestCodeLong=wc_sen2018_m_0073_0005|accessdate=2019-04-24}}</ref>両者立ち姿勢での[[横分#腕返|腕返]]が関節技とみなされ指導に。
** 頭から畳に突っ込んでも故意でなければ両者とも反則とはならない投げ技に[[背負投]]が加わる。
** 立ち姿勢の肩三角グリップから投げようとしただけで反則負けに。寝姿勢の肩三角グリップから立ち上がり投げようとした場合は「待て」となる。
** 投げ技で両肘または両手で着地した場合の技ありが「同時」に限定。片手ともう一方の肘の着地の技ありの場合は同時でなくてもよい。
** 相手の足を踏むことは「待て」に。1回目は指摘のみ、2回目は反則負けに<ref>{{Cite video|df=ja| people =| title =IJF Refereeing, Sport and Education Seminar Doha 2020 - Day 2 | medium =[[YouTube]] | publisher =[[国際柔道連盟]]| location =[[スイス]] | date =2020-01-12|quote=17 Miscellaneous #139| url =https://www.youtube.com/watch?v=QLZ_kLDNcq8&t=2h58m34s|time=2h58m34s|accessdate=2020-08-02}}</ref><ref>{{Cite web |date=2020/01/11 |url=https://refereeusb2020.ijf.org/app/index.html|title=Referee seminar Doha 2020 |website=IJF|location=スイス|accessdate=2020-08-02|quote=17 Miscellaneous #139 MATE (+ TIMES HSK)}}</ref>。
* 2020年1月29日 - 全柔連が、国際規定では立ち姿勢の相手の上衣の裾を故意に帯から出す行為も指導、という旨の資料を発行<ref>{{Cite web|和書|date=2020年1月29日 |url=https://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2020/02/dcece08b41bb2e75a989e37350fcdbf3.pdf |title=『国際柔道連盟試合審判規定変更点について-2018 年1 月1 日より有効(2020 年1 月13 日 更新版)』|format=pdf|website=全日本柔道連盟|location=日本 |accessdate=2020-06-08 |quote=攻防に関係の無い行為で相手または、自らの柔道衣(裾部分)を帯から出す。|people=渡辺崇(作成者)}}</ref>。2014年からの規定であった。
* 2020年2月28日 - 全柔連が、国際規定では故意に相手の頭髪を掴んで技を仕掛ける行為を「待て」にとする資料を発行。1回目は指摘のみ、2回目は反則負けに。立ち姿勢の相手の上衣の裾を故意に帯から出す行為も指導、という旨の資料を再発行。さらには「今後は」とも記載されていた。実際は2014年からの規定で全柔連が派遣した[[松村颯祐]]の対戦相手[[キム・ミンジョン]]が2019年[[世界ジュニア柔道選手権大会]]でこれで指導を取られている<ref>{{Cite video| people =| title =World Championships Juniors Teams 2019 / Quarter-Final +90 kg Japan MATSUMURA, Sosuke VS Republic of Korea KIM, Minjong | medium =[[YouTube]] | publisher =[[国際柔道連盟]] | location =[[スイス]] | date = | url =https://www.ijf.org/judoka/55335/videos?currentContestCodeLong=wc_jun_teams2019_m_0p90_0009|accessdate=2020-11-03}}</ref><ref>{{Cite web |date=2020/01/11 |url=https://refereeusb2020.ijf.org/app/index.html|title=Referee seminar Doha 2020 |website=IJF|location=スイス|accessdate=2020-08-02|quote=17 Miscellaneous #134 "SHIDO BLUE"}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-28|url=https://www.judo.or.jp/wp-content/uploads/2020/07/fdc2bf6d379968980f20e63f059e92a2.pdf |format=pdf|publisher =[[全日本柔道連盟]]|title=新たに適用される罰則(指導・反則 負け)の施行について|location=日本 |accessdate=2020-11-03|pages=1-3|quote=|author=[[大迫明伸]]|people=渡辺崇(作成者)}}</ref>。
== 段級位制 ==
[[ファイル:柔道の段帯.jpg|thumb|250px|柔道の段帯]]
講道館柔道では[[段級位制]]を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。
段位制は[[囲碁]]、[[将棋]]において古くから行われていたが、それを武道界で最初に導入したのは、[[嘉納治五郎]]の講道館柔道である。その後[[大日本武徳会]]が、[[警視庁武術世話掛|警視庁]]で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道・弓道に導入した(なお、武徳会は戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により解体されたため、[[1948年]]には武徳会で取得した段位を講道館の段位として認める特例が取られた<ref name="全柔連の歴史・国内の柔道界">{{Cite news|author=|authorlink=|url= http://www.judo.or.jp/shiru/rekishi|title= 全日本柔道連盟50年誌 第四部資料編 日本柔道史年表|newspaper = 全日本柔道連盟公式ページ|publisher = 全日本柔道連盟|date = |accessdate = }}</ref>)。
初段が[[黒帯]]というのは広く知られており、「クロオビ」は英語圏でも通用する単語となっていて、[[アメリカ合衆国|米国]]では黒帯を英訳した『Black Belt』という雑誌も発行されている。元々、柔道の[[帯 (柔道)|帯]]は洗濯しないのが基本であり、[[稽古]]の年月を重ねるうちに黒くなっていくことから、黒帯が強さの象徴となったのであり、[[茶帯]]が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。
柔道の創始者である嘉納治五郎は『柔道概要』の中で「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べている通り上限は決められていない。ただし十段よりも上へ昇段した前例はなく、今日では十段が事実上の最高段位になっている<ref name="朝日新聞">{{Cite news|url=|title=読むキーワード -十段 柔道、12万人に1人-|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2006年3月7日}}</ref>。そもそも段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではないため、高段者になればなるほど、[[名誉称号|名誉段位]]という意味合いが強くなっている。実際に、昇段のための条件(競技成績・修業年限・審判実績など)が明文化されているのは八段までで、九段の昇段については存命の九段所有者が審議して決めることになっており、十段については講道館長の裁量に任されるなど、基準が非常に曖昧になっている<ref name="朝日新聞"/>。一方、現役選手では三 - 五段までがほとんどで、これは[[全日本柔道選手権大会|全日本柔道選手権]]や[[オリンピック柔道競技]]、[[世界柔道選手権大会|世界柔道選手権]]、春・秋の講道館紅白試合の技量抜群者に与えられる「特別昇段」の段位上限や、年齢・修行年限などの制限が課されているためである。実際にオリンピック2連覇で世界選手権を7度制した[[谷亮子]]も、現役時代の段位は四段であった。
なお、2012年現在での[[講道館]]十段所有者は、[[山下義韶]]、[[磯貝一]]、[[永岡秀一]]、[[三船久蔵]]、[[飯塚国三郎]]、[[佐村嘉一郎]]、[[田畑昇太郎]]、[[岡野好太郎]]、[[正力松太郎]]、[[中野正三]]、[[栗原民雄]]、[[小谷澄之]]、[[醍醐敏郎]]、[[安部一郎]]、[[大沢慶己]](昇段年順)の15人のみで、柔道入門者12万人に1人と非常に狭き門となっている<ref name="朝日新聞"/>。また[[国際柔道連盟]]での十段所有者は、[[アントン・ヘーシンク]]([[オランダ]])、[[チャールズ・パーマー]]([[イギリス]])、[[ジョージ・カー (柔道)|ジョージ・カー]](イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟の[[アンリ・クルティーヌ]]、オランダ柔道連盟の[[:nl:Jaap Nauwelaerts de Agé]]が十段位を取得している。女子では十段は、[[2011年]]8月にアメリカ柔道連盟より十段を取得した[[福田敬子]](在アメリカ)ただ1人である(講道館は九段)。
昇級・昇段のためには全国の各団体が[[講道館]]の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・[[柔道形]]の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に[[講道館]]への入門を認められ、会員証が発行されるとともに[[黒帯]]の着用が認められる。
{{seealso|帯 (柔道)}}
== 称号制 ==
{{main|大日本武徳会#武術家の表彰と称号の制定}}戦前の武道組織「大日本武徳会」においては、柔道[[範士]]、柔道[[教士]]、柔道[[練士]](精錬証受賞者)の、柔道(柔道家、柔術家)の[[称号]]が定められていた。
== 礼法 ==
{{main|講道館#礼法}}
講道館は1967年(昭和42)3月15日に柔道礼法のその趣旨と動作について「試合における礼法」として発表している<ref>[[講道館]]『柔道試合における礼法」、1982年版、54-56頁より引用。</ref>。
== 稽古方法 ==
講道館柔道において[[稽古]](けいこ)は、おもに[[柔道形|形]]と[[乱取]]によって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。
また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「[[形]]」と「乱取」の他に「[[講義]]」と「問答」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。
また、上記四種の稽古方法の他、「国民体育」を後年に嘉納は挙げる。嘉納は1927年(昭和2年)の発表以降、従来の形や乱取りを補える「国民体育」として、[[#精力善用国民体育]](攻防式(武術式)/舞踊式(表現式))を学ぶことを推奨している。服装・場所・時間の自由に、単独・対手の有無関わらずに、柔らかく静かに(体育的)も、強く早く(武術的)も出来、興味本位にも実用本位にも、日々体育として億劫でない仕方で行え、万人に実行しやすいものとする。屈筋が多く激烈なる運動である乱取りに対し、伸筋や反る運動を含み、また冴えのある当て身とその対処も意識出来ることで自然と正しい乱取り稽古に繋がるとする。形・乱取りを修行するものは、同時に国民体育を心得ていなければならぬとしている。<ref>『嘉納治五郎大系』8巻P.214 『柔道』第二巻第六号 昭和6年6月「精力善用国民体育と従来の形と乱取り」</ref>
嘉納は「形乱取を道場において練習する柔道」としている<ref>『嘉納治五郎大系 第三巻』P.266「道場における形乱取練習の目的を論ず」 『柔道』第一巻第二号 昭和5年5月</ref>が、同時に「柔道の修行者は道場練習以外の修養を怠ってはならぬ」<ref>『嘉納治五郎大系 第二巻』P.250「柔道の修行者は道場練習以外の修養を怠ってはならぬ」 『柔道』第一巻第一号 昭和5年4月</ref>ともしている。
== 公認審判員規定 ==
柔道の公式試合は国内、IJFともに認定を受けた審判員が試合を司ることになっている。審判員は公認審判員規定によって資格が管理されている。国内の審判員はS、A、B、Cに分けられ、各審判員は研修会に参加して資格を維持している。国際はインターナショナル、コンチネンタルの2種類がある。
; 外部リンク
: [http://www.ejudo.info/history/ 柔道史年表]
== 公認柔道指導者資格制度 ==
公益財団法人全日本柔道連盟における、柔道指導者のさらなる資質の向上、及び指導力の強化を図り、日本柔道の普及・発展に寄与することを目的に「公認柔道指導者資格制度」が設けられた。
全日本柔道連盟が公認する柔道指導者として、A指導員、B指導員、C指導員、準指導員の4つの区分が設けられている。
; 外部リンク
: [https://www.judo.or.jp/coach-referee/coach-howtobe/ 指導者になるには]
=== 理想の柔道教師 ===
生前、嘉納治五郎は、ただちに完全を望むことの困難さも指摘しながらも、次のように理想の柔道教師像に言及し掲げている。
柔道教師たるものは、攻撃防御の術において熟練しておらねばならず、またその攻撃防御の術においても、無手の術においてはもちろん、棒を用い、剣を使う術においても堪能であって、また勝負上の理論も心得、同時に、体育家として必要なる知識を有し、かつその方法にも修熟し、また教育者としては、道徳教育の理論にも通暁し、訓練の方法にも達し、しかのみならず、柔道の原理を社会生活にも応用する上において、精深なる知識を有し、方法をわきまえているという資格を要する。かくのごとく各方面のことを一人で具備したるものがあるならば、最も優れた教育者というべきである<ref>『嘉納治五郎大系 第十巻』P.92「理想の柔道教師」 『作興』大六巻第十号 昭和二年十月</ref>。
=== 全日本柔道連盟が求める指導者 ===
嘉納治五郎の掲げる理想の柔道教師を踏まえ、全日本柔道連盟は今後の指導者養成の目指すべき指導者理念<ref>令和の指導者〜安全・安心な指導を目指して https://www.judo.or.jp/cms/wp-content/uploads/2020/11/%E4%BB%A4%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%80%85_B5.pdf</ref>として理想の指導者像を掲げている。
#講道館柔道の魅力を正しく伝えることができる指導者
#社会に有益な人材を育成する指導者
#人権を尊重し多様性に配慮する指導者
#安全に配慮し[[コンプライアンス]]を徹底する指導者
#[[#柔道MIND|柔道MIND]]を実践する指導者
#自己研鑽により成長を続ける指導者
== 柔道技法の思想と歴史 ==
{{seealso|講道館#柔道技法の思想と歴史}}
今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観はもともと幅の広いものであった。[[1889年]](明治22年)の講演「[[講道館#柔道一班並二其ノ教育上ノ価値|柔道一班並二其教育上ノ価値]]」の中において嘉納は柔道修行の目的を「[[講道館#教育・精神修養・応用としての柔道(修心法)|修心法]]」(知徳育/応用)、「[[講道館#体育としての柔道(体育法)|体育法]](別名・練体法、鍛錬法)」(体育)、「[[講道館#武術としての柔道(勝負法)|勝負法]](別名・護身法)」(武術/真剣勝負/護身)とし(時に「[[講道館#娯楽や美育、幅広い目的の柔道(慰心法)|慰心法]]」を含む)、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では究竟的な目的として下段・中段の柔道の修行で得た身体と精神の力(心身の力=能力・活力・精力)を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした<ref>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=竹内善徳醍醐敏郎、|authorlink4=竹内善徳|title=柔道大事典 |others=[[佐藤宣践]](監修)|publisher =[[アテネ書房]]|isbn=4871522059|quote=214|Edition=初版第1刷|origdate=1999-11-21|page=|pages=|date=|location=日本}}</ref>。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。
=== 武術としての柔道(勝負法)===
{{seealso|講道館#武術としての柔道(勝負法)}}
武術としての勝負法の柔道について嘉納治五郎は「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く日本以外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており<ref>『嘉納治五郎著作集 第2巻』105頁。</ref>、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ総合的な武術をこしらえたいとの考えも持っていた。
柔道の歴史の中で、[[当身技]]を含む[[講道館#勝負法の乱取り|柔道勝負法の乱取り]]、[[古武術]]・[[古武道]]の技法を取り入れ[[武器]]術等も学ぶ[[講道館#古武道研究会|古武道研究会]]や[[講道館#講道館棒術|講道館棒術]]、当身技を体育的に行う[[講道館#精力善用国民体育|精力善用国民体育]]、柔道理論を再整理し[[投技]]と[[固技]]に対し[[当身技]]と[[関節技#立ち関節技|立ち関節技]]によって離れて行う[[講道館#離隔態勢の柔道|離隔態勢の柔道]](柔道第二乱取り法)などが研究され実践されてきた経緯がある。
{{seealso|講道館#勝負法の乱取り|講道館#古武道研究会|講道館#講道館棒術|講道館#二代目講道館館長南郷次郎の理想|講道館#離隔態勢の柔道|講道館#巨人に対する技術の研究|講道館#精力善用国民体育}}
==== ゴム刀を用いた練習、柔道と武器術の融合の思想 ====
嘉納治五郎は、1918年頃に柔道の新しい練習法の導入を予告している。これからの柔道における剣・棒などを用いた武器術を学ばせるにあたり、幼少のものの練習には安全性を考慮してゴムや布製の刀を用いてやらせたいと次のように述べている。「予が昨今考えて居る所では、幼少のものの柔道の修業には、始めから竹刀の代わりに護謨(ゴム)、布などで作った空気入の刀を用ひて、打ったり突いたり、又それを外したりする形を教へることにしたいと思ふ。要するに従来の剣道の形として教へて居たものを、或る形で柔道の練習として加へたいのである。」のちの[[スポーツチャンバラ]]に相当する練習法の導入を想定していた。
また、今後の柔道における武器術との融合についても次のように述べている。
「本来からいえば、槍でも、薙刀でも、その他何でも攻撃防御の目的に適うものは柔道の内に内包されるはずのものであるが、剣と棒とは、武器の中でも最も応用の広いものであるから、世間でいう剣道は、ある形で柔道の内に最必要なる一要素として這入ってくるべきものと考えられる。」「従来の柔道と剣道とは、合体して一のものになるはずと思う」と嘉納は予言していた。<ref>{{Cite journal |和書|author=嘉納治五郎|authorlink= |title=柔道に上中下段の別あることを論ず|quote=|date=|publisher= |journal=柔道|year=1918|month=7|volume= |issue=7 |naid= |pages=|ref= }}</ref><ref>『嘉納治五郎大系 第二巻』「柔道に上中下段の別あることを論ず」53頁「柔道攻究の仕方はどうすべきものか」</ref><ref>『日本武道の武術性とは何か』「柔道における離隔態勢の技法」志々田文明、大保木輝雄・編著、青弓社、232頁。</ref>
==== 日本から外国へ渡った柔道家達による普及上の武術的活動 ====
また一方で外国に渡り柔道普及活動の一環で異種格闘技を戦い名声を上げた[[谷幸雄]]や[[前田光世]]などの活躍もある。
世界を戦い渡り歩いた前田光世は旅先から日本在住の友人[[薄田斬雲]]宛にいくつかの手紙を送っており、幾多の戦いを通しての異種格闘技戦の「セオリー」が詳細に記録されている。そこでは前田が対峙したレスリング(西洋角力)やボクシング(拳闘)に対する歴史的分析、対策、勝負時の条件等を考察している。前田はレスリング、ボクシングの油断ならない面倒であることを述べながら、同時に柔道こそ世界最高の総合的かつ実戦的な格闘技だという自負を語る。「我が柔道は西洋の相撲(WRESTLING)や拳闘(BOXING)以上に立派なものであることは僕も確信している。拳闘は柔道の一部を用いているだけで、護身術としては幼稚なものだ。(中略)(拳闘は)個人的なゲームで、八方に敵を予想した真剣の護身術ではない。だから体育法としても精神修養法としても、また理詰めの西洋人流に科学的に立論しても、我が柔道と彼らの拳闘とは優劣同日の談にあらずである。」前田はその言説において柔道=護身術と明確に定義しており、その体系にレスリング、ボクシング技術や当て身の突きや蹴りを内包するものという主張が見受けられる<ref>神山典士『グレイシー一族に柔術を教えた男 不敗の格闘王 前田光世伝』(祥伝社、)</ref><ref>前田光世「余が経験せる西洋角力」(『前田光世の世界制覇』)</ref><ref>前田光世「余が経験せる拳闘」(『冒険世界』1911年10月1日発行) </ref>。
また、前田は異種格闘技を戦うその練習の上において、のちの[[オープンフィンガーグローブ]]の原型を考案し、前田の日本に宛てた手紙をまとめた『世界横行・柔道武者修行』(1912年)、『新柔道武者修行 世界横行 第二』(1912年)においてその言及が確認できる。「何らかの道具を新案して、当てる蹴るの練習をする必要がある。僕はいま、ゴム製の拳闘用手袋風にして、指が一寸ばかり(約3 cm)出るようなものを新案中だ。それから、軽い丈夫な面を、これもゴム製にして、目と鼻腔の呼吸をなし得るものを新案中だ。胸は撃剣の胴のようなものをつけてもよい。これで当てることと蹴ることの練習をやる。それから袖をとりに来る手の逆を取ること。以上の練習は柔道家には、ぜひとも必要と考える。」<ref>前田光世『世界横行・柔道武者修行』</ref><ref>小島貞二『―日本プロレス秘話―力道山以前の力道山たち』三一書房。</ref>
また、フランス柔道の父[[川石酒造之助]]の「川石メソッド」などの例からも、日本以外に渡った柔道家の残した柔道技術の中にはのちに国内においては失われたものもあることが伺える。
==== 世界の軍隊格闘技・近接格闘術における影響 ====
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の軍における格闘技というのは基本的に軽視されていた。
戦争はほとんど砲と銃で戦う時代であり、この時代の近接戦闘といえば主に騎兵が使う軍刀(サーベル)と、歩兵がライフルに装着(着剣)して槍のように使う銃剣で戦うことだった。しかし[[第一次世界大戦]]では、大規模な[[塹壕戦]]が繰り広げられた。塹壕内でのきわめて近い距離、狭い場所での戦闘が頻発したことで、近距離向きの銃器や手榴弾以外に、敵に悟られないように塹壕に侵入していくことも重要だったため、音を出さない白兵戦用の武器も重視された。そうした白兵戦で敵に対処するために防御側も同様の至近距離での戦闘技術が必要となった。このため各国で近接戦闘の工夫がされていった。塹壕戦によって近い距離で戦う武器術や格闘技術が求められるようになっていったのがこの時代の最大の特徴であり、軍における訓練では近接戦闘のために既存の格闘技を取り入れるようになった。第一次大戦を境に[[軍隊格闘技]]・[[近接格闘術]]の基として注目された格闘技の一つに日本の柔道や(古流)柔術がある。そしてこの時期の徒手格闘術は[[ボクシング]]や柔道が中心となっている。
柔道や柔術の日本以外への伝播はちょうど第一次世界大戦前であり、多くの柔道家・柔術家が日本以外に渡って普及活動を行っている。アメリカなどでは第一次大戦前、柔術ブームとでも呼ぶべき現象が起きていた。またそこには当時、日清・日露戦争での勝利に対して世界から向けられた日本への興味、東洋趣味からの観点や、[[嘉納治五郎]]の教育者の立場からの部下にあたる[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)]]などによる柔道(柔術)の日本以外への紹介、また嘉納治五郎自身の渡欧の影響なども柔道・柔術ブームへの影響が見受けられる。
アメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]の信頼を得て合衆国海軍兵学校の教官として講道館柔道を教えた講道館四天王の一人[[山下義韶]](のちの史上初の十段位)などの例や、講道館柔道を学びロシアにおいて[[サンボ]]の創始者となった[[ワシリー・オシェプコフ|オシェプコフ]]の例などから、米露英仏など各国で柔道は軍隊近接格闘技要素に取り入れられていった。
イギリス人のウィリアム・E・フェアバーンが開発し、[[第二次世界大戦]]で各国で採用され高評価を得た、現代軍用格闘術の源流・基礎ともいえる[[フェアバーン・システム]]においても柔道技術は採用されている。
==== 日本軍への採用・影響 ====
日本においては明治維新、柔道創設以降、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]、[[陸軍憲兵学校]]、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]等の軍学校で柔道が取り入れられ盛んに行われた。またそれとともに[[大日本武徳会]]で講道館柔道が柔術部門を統一する立場となる役割の流派として正式採用され、[[大日本武徳会武道専門学校]]で稽古が行われた。
===== 新武徳会柔道試合審判規定 =====
嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和17年(1942年)に従来の[[大日本武徳会]]は改組が行われ、内閣総理大臣の[[東条英機]]を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。
昭和18年(1943年)、新武徳会において「実戦的修練を目標とし、[[白兵戦]]闘に実効を挙げ得る短時日の修練」を旨とした「柔道の決戦態勢とも言ふべき」内容の新武徳会における柔道の指導方針が発表される。柔道の実戦性についての再検討は嘉納治五郎存命中のころより始まっており、嘉納の述べる「当て身」や「形」を怠ることのない「真剣勝負」の重要性の主張と矛盾するものではなかった。
新武徳会は柔道範士、[[栗原民雄]](後の講道館十段)を中心とし、柔道の戦技化を推奨していく。栗原は柔道を相手と「離れた場合」・「組んだ場合」の二つに分け、離れた場合「極の形に躱攻動作を応用し、起こり得べき種々の場合を想定し、その組み手を多くして之れを練習し、相当習熟した場合は防具を使用して[[乱取り]]程度まで修練すればよかろう(中略)相手を単に一人と想定せず、常に数人と仮想して研究することも怠ってはならない」と述べた。次に組んだ場合には「指関節や腕関節を取ること」の復活研究を説き、また「古流」の研究と応用に留意すること、温故知新の必要性も説いた。
新武徳会に先立ち講道館においては、昭和16年(1941年)「立ちたるまま絞技、関節技を掛け、技が相当の効果を収めた場合に限り寝技に移れる旨改正され」立った状態からの固め技を認めるようになっていた。
新武徳会で新たに作成された柔道審判規定では「第二条 試合は[[当身技]]、[[投げ技]]、[[固め技]]を以て決せしむ、但し普通の試合に於いては当て身技は用ひしめざるものとす」と条件付きであるが、当て身技の使用を認める条項が追加される。
防具着用によって当て身技のある試合の安全性に配慮しながらも、特殊なケースとして防具を使用しない試合の実施も示唆されていた。
また[[関節技]]も緩和されることになる。
第十一条 関節技は次の基準により之を行わしむ
(一)等外者は肘関節
(二)有等者は肘関節、手首関節、足首関節
(三)称号受有者は脊柱関節を除く全関節
として等級称号によって制限はあるが、脊柱以外の全ての関節への攻撃が許されている。
また技術以外の面でも柔道試合の戦技化は図られた。
稽古場、服装として「柔道は戸外に於いても如何なる服装にても実施し得るやう工夫し砂場芝生等を道場として活用せしむこと」とされた。稽古においては「特に青少年に重点を置き野外戦技を弊習せしむこと」とされた。稽古の形態は「従来個人的修練のみに傾き易きに鑑み特に団体的訓練を教習せしむこと」とされ複数人で自由に攻防をする自由掛けなどが行われた。さらに「[[錬士]]以上の者にありては当て身技を併用し試合せしめ」ることとし、乱取りが課せられた。しかし乱取りばかり行うことは戒められ、
「修練は短時日に於いて白兵戦闘に実効を挙げ得るよう基本動作及び技術(形を含む)を修得せしむこと」となり、「基本動作」「[[柔道形|形]]」といった稽古法の価値が戦闘訓練の文脈で再評価された。また柔道指導者に対しては「己が任務の遂行を期すると共に剣道銃剣道を始め武道各般ににつき努めて研修すべきこと」と、あらゆる武道を総合的に稽古することが求められた。
<ref>中嶋哲也『近代日本の武道論〈武道のスポーツ化〉問題の誕生』 国書刊行会。</ref>
===== 体錬科武道 =====
戦況が深刻になるにつれ、学校においても明治以来の「体操科」は新たに「体錬科」と名称を変える。政府主導の国民学校体錬科においては皇国思想の養成と戦技能力の鍛錬が求められた。体錬科の教材として「教練」、「体操」(徒手体操、跳躍、懸垂、角力(相撲)、水泳など)、「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、常に攻撃を主眼として行うことが説かれた。
体錬科武道の柔道の内容は、「基本」として「礼法」、「構」、「体の運用」、「受身」、「当身技」が教えられ、「応用」として「極技」、「投技」、「固技」があった。この当身技は、精力善用国民体育の単独動作の技であり、極技は相対動作の技と一致している。柔道技術の中の当身技が「基本」として重視され、戦時下において、柔道は実戦を目的とした教材に変えられたと言える<ref name="藤堂 良明『柔道 その歴史と技法』">藤堂良明『柔道 その歴史と技法』</ref>。第二次大戦下「体練科武道」が実施される間、当身技は学校柔道を中心にして組織づけられ、発展した。柔道の当身技は武術的に取り扱われ、基礎的な修練から進んで撃突台や撃突具を使用しての実戦的な指導に進み、終戦末期に至っては、当身技は従来の指導体系を放棄して、白兵戦闘的動作へ移行し、そこで終戦を迎えた<ref name="松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店">松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店</ref>。
===== 武道禁止令と学校柔道の復活 =====
大戦の終戦に伴い、日本の民主化政策の一環として[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]とその一部局である[[CIE]]によって「武道」の実施に対する処置が検討された。CIEは武道を軍事的な技術(Military Arts)とみなし、国民に軍国主義を養成するものとして警戒した。これに伴い武道という枠組みに位置付けられていた柔道は、剣道や弓道同様に禁止された。(武道禁止令)
さらに戦時中に軍による統制を受けていた大日本武徳会も「依然軍国主義的団体としての建前をとっている」とされ解散を余儀なくされた。
しかし柔道復活の陳情は相次ぎ多く、文部省による請願書による
# 教育的価値について、
# 実施方法について、
# 審判について、
# 一般人の関心について、
# 競技会について、
# 柔道界の組織について、
の説明、改革案が総司令官に提出される。そこで提示された新しい柔道は、「競技スポーツ」として向かう下地があったと言える。これに対しGHQから「学校柔道の復活について」という覚書が日本政府に出され、CIEからの注意事項として「実施してよい柔道とはあくまでも大臣の請願書に規定された柔道であること」とされたうえで、その復活が認められる。
しかし「2.実施方法について」において、○段別の外に体重別・年齢別の試合の実施、○戦時中行ったような野外で戦技訓練の一部として集団的に行う方法の全面的廃止、などと並んで、○当身技、関節技などの中で危険と思われる技術を除外する旨が請願書には含まれており、その当身技や関節技を中心に構成された精力善用国民体育は武術的色彩が強いということで行われなくなることとなる。
嘉納治五郎が生前に考案し発表した精力善用国民体育は、GHQの警戒した武術的側面のみではなく、体育として徳育としても従来の柔道を補完するものであり、練習法においても単独練習を可能にするものであり、嘉納の柔道の精神、「精力善用・自他共栄」の思いを強く含むものであった。
嘉納の万感の思いのこもった精力善用国民体育が、占領期間中の禁止・制限が解かれることなく占領後もなおも軽視されていることを惜しむ声は依然今も挙がっているものである<ref name="藤堂 良明『柔道 その歴史と技法』"/>。
そして戦後スポーツとしての柔道が国内の斯界を風靡し、修行者はもっぱら乱取り練習に興味を持ち、試合における勝敗にのみ熱中するようになっていった。形は閑却され、当身技の研究も習練も軽視されおろそかにされていた。しかしながら皮肉にも欧米各国では、[[護身術]]([[セルフディフェンス]])の重要性が強調され、柔道の当身技が盛んに行われていた実態がある<ref name="松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店"/><ref>『JUDO ATEMI』Geremia Zilio & F.Cattaneo</ref>。
==== 国際柔道協会====
戦後、日本の敗戦のため行われたGHQによる占領政策としての柔道のスポーツ化の流れの一方で、再び武術・武道としての柔道の再生を求める動きとして、1950年に、その乱取り競技内においてもほぼ全ての関節技の解禁などの実験的ルールを採用した武道・武術を志向した[[プロ柔道]]の[[国際柔道協会]]も興っている。
==== 柔拳興行(概要) ====
明治後期から第二次世界大戦後にかけて外国人ボクサーと柔道家による他流試合興行「柔拳試合」が流行し行われていた歴史がある。戦前の柔拳興行は嘉納治五郎の甥の[[嘉納健治]]によって隆盛し、戦後の柔拳興行は[[万年東一]]によって行われている。
{{Main|#柔拳興行}}
==== 精力最善活用による猛獣への対応 ====
昭和元年(1926)12月31日、講道館の創始者・嘉納治五郎は、[[永岡秀一]](当時、八段)と横本伊勢吉(当時、五段)をともなって、文武の視察を目的として沖縄(琉球)へ向かうため神戸港を出港した。翌2年1月3日の到着以降、那覇の「尚武館」における柔道の紅白試合や昇段試合への立ち合い、形の演武を行い、また沖縄の名物のハブとマングースの戦いを熱心に観戦し柔道の真剣勝負における呼吸を学び参考になったことを語る嘉納を同行者の横本は記録している。また一行は、首里、名護で唐手(空手)の演武を見学している。
6日の夜は地元の名士らとともに琉球料理に舌鼓をうったが、この席上、次のような質問が、嘉納に発せられた。
「先生!柔道では猛獣におそわれた時に、どうしてこれに応ずべきですか?」
嘉納は以下のような妙答によって切り返している。
「猛獣にも色々ある。虎もあれば獅子もある。一概には言えないが、併し、日本では熊が一番多いから、それについて言って見よう。(中略)熊は人をこわがっている。(中略)火をつけたり、大きな音をさせたりしても、熊の方から逃げ去る。其他、様々熊に対する話を聞いて、のみこんでおく。そういう風にして、熊に対しては、実地肉体を接触させて勝負を決するよりも、先ず熊を近づかせない事が第一である。(中略)第一はあわぬように、あったにしても充分退治出来るように準備して、武器を用いるのが最善の方法である。何についてでも、いかなる場合でも、最も善く力を用いること、即ち精力最善活用、これが柔道である」<ref>『作興』1927年3月号、横本伊勢吉「琉球九州随伴記」</ref><ref>加来耕三『日本格闘技おもしろ史話』 毎日新聞社、131頁。</ref>
=== 体育としての柔道(体育法) ===
{{seealso|講道館#体育としての柔道(体育法)}}
==== 擬働体操 ====
[[1909年]](明治42年)、嘉納治五郎は「虚働」(具体的活動ではなく[[体育]]のために単に身体四肢を動かす運動)と「実働」(日常生活や遊びによる実際の運動)との中間を採った「擬動」による「擬働体操」を発表している<ref>「擬働体操に就いて」中等教育第4号、中等教育研究会、1909年7月</ref>。
「擬働体操」は[[柔道形]]ではなく体操の1つとして考案したものであったが、その内容には肉体労働や柔道の動作など9種の運動(計数(けいすう)、球磨(たまみがき)、平板磨(ひらいたみがき)、竪板磨(たていたみがき)、櫓押(ろおし)、四方蹴(しほうけり)、四方当(しほうあて)、喞筒(ぽんぷ)、車廻(くるままわし))が含まれており、柔道の技([[当身技]])が組み込まれていた<ref>「嘉納治五郎の「擬働体操」に関する一考察」石井浩一(日本体育大学)、見形道夫(日本体育大学)、1985年。</ref><ref>『柔道大事典』116頁「擬働体操」の項。</ref>。「擬働体操」が嘉納がのちに発表する「精力善用国民体育」の制作過程にあったと見ることができる<ref name="名前なし-2">「「精力善用国民体育」の目的とその意義に関する研究」講道館 桐生習作 2020年</ref>。
==== 精力善用国民体育 ====
[[1927年]](昭和2年)、嘉納は講道館文化会において、「[[柔道形#精力善用国民体育|精力善用国民体育]]」を発表する。それは国民生活の改善のために[[体育]]と[[武術]]を兼ねており、[[乱取]]や他の[[柔道形|形]]に比べ実際に相手を投げることがないため[[道着|柔道衣]]や道場など特別な施設や用具を必要とせずいつでもどこでも稽古が実施可能であり、また柔道の[[当身技]]が閑却されないように当身技、[[関節技]]、[[投技]]などの多様な技術を含むなど、多様な目的を有する体育法として作成されたものだった。その中には「擬働体操」に含まれた、物を磨く動作および当身技(突き、蹴り)と類似した動作が含まれていた。
精力善用国民体育は、嘉納の構想において二種の体育で成り立っている。
第一の種類は武術と体育を組み合わせた「攻防式国民体育」(武術式体育)であり、第二の種類は観念・思想・感情・天地間の物の運動等の表現と体育を組み合わせた「表現式国民体育」(昭和5年以前の表記名)/「舞踊式国民体育」(昭和6年以降の表記名)である。「表現式」「舞踊式」は既存の柔道の「[[柔道形#五の形|五の形]]」の中にあるような天然の力(逆浪の断崖に打つかり戻る水の動く有様、風のために物体が動揺する有様<ref>『嘉納治五郎大系 第八巻 国民体育』70頁
「攻防式国民体育」、『中等教育』第58号、中等教育会発行、昭和2年5月</ref>、天体の運行、その他百般の天地間の運動<ref>『嘉納治五郎大系 第十巻 自伝・回顧』111頁「柔道家としての嘉納治五郎 第12回 講道館柔道の形について (五)五の形」、『作興』第6巻第12号、昭和2年12月。</ref>)や、[[能]]や[[舞踊]]にあるような人間の観念・思想、感情を、人間の身体をもって巧みに形容し表現し、体育の理想に適うように組合わせ、色々の組織を立てたものとなる<ref>『嘉納治五郎大系 第八巻 国民体育』110頁、『作興』「精力善用国民体育」 「興味本位の体育」 昭和5年4月より連載。</ref>。これら第一種類「攻防式」と第二種類「舞踊式」(「表現式」)との二種の方法を総称して精力善用国民体育となる。子供は子供、女子は女子、老人は老人というように、適当な仕組で作ったなら、一種の価値ある体育が成立し、これらを人々の趣味や境遇に応じて、その一種を又は両方を練習せしむれば、国民精神の作興と身体の鍛錬との上に、大いなる貢献を成し得るものと考える<ref>『嘉納治五郎大系 第八巻 国民体育』282頁「国民精神の作興と国民身体の鍛錬との方法について」、『中等教育』第68号 中等教育会発行 昭和5年7月</ref>と嘉納は語る。
嘉納の考案した国民体育の第一種類・武術に関する攻防式国民体育は、万人に適当な運動として静かに練習し体全体を万遍無く動かし筋肉の円満均斉の発達を得るが、早くすれば当て身となり、強くやれば人を打ち倒す武術の技となり、相当に熟練すればどれだけのものを破壊し得るというような興味も添うてくること、また、柔道の根本原理たる精力善用の応用であり、自然とその原理を百般のことに応用し得る練習も出来、精神修養との連絡もおのずから出来る次第となることを言及している<ref>『嘉納治五郎大系』8巻P.71「攻防式国民体育」</ref>。
嘉納は[[1932年]](昭和7年)「講道館の創立満五十周年を迎えて」では、「精力善用国民体育」が「攻防式国民体育」と「[[舞踊]]式国民体育」の二種によって構成されること、研究途中であった「舞踊式」の完成を図っていることを、次のように語っている。
「柔道はその本来の目的から見れば、道場における[[乱取]]の練習の身をもって、満足すべきものではないということに鑑み、[[柔道形|形]]の研究や練習に一層力を用い、[[棒術]]や[[剣術]]も研究し、外来の[[レスリング]]や[[ボクシング]]にも及し、それらの改良を図ることに努めなければならぬ。
かくして、[[武術]]として最高の権威者を養成し、まず国内に、漸次世界に及すつもりである。
~中略~また、今日すでに案出せられている攻防式国民体育の普及を図ると同時に、今一層深くこれを研究して改良に努め、国民体育中、いまだ完成に至らざる舞踊式のごときは、研究を続け、なるべく早く世に発表することに努力するつもりである。」<ref>(「柔道」第三巻第五号 1932年(昭和7年)5月)</ref><ref>(『嘉納治五郎大系』第一巻)P.381「講道館の創立満五十周年を迎えて」</ref>
嘉納の想定していた「精力善用国民体育」の目的は精力善用の精神の涵養と[[世界平和]]の実現にまで及んでいたが、[[1938年]]の嘉納の死去後、[[太平洋戦争]]が拡大するにつれ、[[1942年]]に[[国民学校]]の体錬科において必修となる[[武道]]にその内容の当身技や[[極技]]が採用された。日本の敗戦後、[[1950年]](昭和25年)5月に[[文部大臣]][[天野貞祐]]から[[GHQ]]に提出された柔道復活の嘆願書の内容には、新しい柔道のあり方として「戦時中行ったような野外で[[戦技]]訓練の一部として集団的に行う方法を全面的に廃止した」「当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外した」という条文が見られた。そのように終戦後の日本において「精力善用国民体育」はGHQや世間の人々に[[軍国主義]]や戦争を想起させる懸念があり、公の場での実施が自重された。日本の敗戦後の社会情勢によって表舞台から遠ざかるを得なかったが、この形には嘉納が乱取競技を認めつつ、その弊害を是正するための研究成果が随所にあり、柔道における競技性と武術性のバランスをいかにとるべきか、嘉納の視点を学ぶうえで貴重な資料となっている。<ref name="名前なし-2"/>
==== 柔道舞踊 ====
柔道舞踊は、講道館の黎明期から昭和の終わりごろまで女子部員によって踊られていた、柔道の技を取り入れた[[舞踊]]である。当時は女性に[[試合]]の機会が少なかったため、嘉納治五郎が「[[男女平等]]に柔道を普及させたい」と発案したとされる。女性にも取り組みやすいような踊りを取り入れるなど工夫されたという。嘉納が研究を続けていた「精力善用国民体育」のうちの「舞踊式」を探る上での資料ともなる。本格的に柔道舞踊が広まったのは昭和の中ごろで、講道館女子部を指導していた[[二星温子]]が積極的に指導にあたった。その踊りは同部員によって継承され、[[全日本選手権]]や[[国体]]など試合の合間に披露されていた。しかし1990年代、女子柔道が競技として本格化したことで、柔道舞踊は急激に廃れていった。また[[1998年]]に二星が亡くなり、創成期からの指導者もいなくなった。 一度は途絶えた柔道舞踊だが、復活に向けての動きもある。しかし、柔道舞踊に関する資料は講道館にも残っておらず、当時を知る人も少ない。<ref>「女子柔道の誕生 -講道館神話の分析-」(第二部 柔道史を読み直す 第5章 明治から戦前における女性柔術・柔道の歴史 学校体育における柔術・柔道の採用‐女子の場合‐)[[溝口紀子]] 2015年</ref>
=== 教育・精神修養・応用としての柔道(修心法) ===
講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「柔道修心法」について主に3つの効用を挙げる。
# 徳目の涵養{{seealso|講道館#徳性を涵養する}}
# 知育{{seealso|講道館#智力を練る}}
# 勝負の理論の応用{{seealso|講道館#勝負の理論を世の百般に応用する}}
嘉納は柔道の修行についての理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できるものであるとする。嘉納はそれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなすうえで大きな利益のあるものだとした。その最も肝要なる心得の一つとして「勝って勝ちに驕ることなく、負けて負けに屈することなく、安きに在りて油断することなく、危うきに在りて恐るることもなく、ただただ一筋の道を踏んでゆけ」の教えをもって、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。<ref>『武道十五講』</ref>
==== フランスの柔道教育の応用 ====
{{seealso|フランスにおける柔道}}
柔道は世界的に普及が進み大きく広がり受け入れられるなかで、フランスにおいても幅広く受け入れられ、その教育的効用も受け継がれている。その背景について、次のような意見がある。
「東洋文化の象徴でもある柔道。だが、フランスには受け入れる土壌もあった。粟津([[粟津正蔵]])の教え子で、1975年にフランス初の世界王者(男子軽重量級)になった[[フランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟]](仏柔連)会長の[[ジャン=リュック・ルージェ]]は「礼儀を重んじる柔道の武士道とフェンシングに代表される騎士道には共通点がある。国民性に合っていた」と指摘する。」<ref>『[第1部・フランス](上)AWAZUの柔道50年』 『[第1部・フランス](下)エリート育成 国主導』</ref>
戦前にフランスに渡ったフランス柔道の父[[川石酒造之助]]が考案した指導法は「川石メソッド」として、今も活用されている。イギリス柔道の父と呼ばれ[[ロンドン]]の[[武道会 (ロンドン)|武道会]]において柔道を指導していた[[小泉軍治]]が考案し、川石もフランス柔道指導で導入採用した、従来の白帯以降、黒帯になるまでの間の各級位を細分化して表す種々の各種色帯は、フランスでの柔道普及に大きく貢献し、のちには日本にも逆輸入され級位の指導において導入されている以外にもさまざまな武道、格闘技でも採用されている。
またフランス柔道には、武士道と騎士道を融合させた「8つの心得」 (le code moral du judo) があり、教育的目的、価値として重視される。
そのフランス柔道における「8つの心得」として、
* 「礼儀」Politesse
* 「勇気」Courage
* 「友情」Amitié
* 「克己・自制」Contrôle de soi
* 「誠意」Sincérité
* 「謙虚」Modestie
* 「名誉」Honneur
* 「尊敬」Respect
が挙げられる。
そこには[[新渡戸稲造]]が『[[武士道]]』において挙げる徳目の、「礼儀」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「義」「克己」「誠実・信実」「仁・惻隠の情」「名誉」「忠義」と通ずるものであることが分かる<ref group="注釈">コード・モラルは、もともと1970年代に当時有段者会会長だったジャン=リュシアン・ジャザランが示した柔道有段者たちの名誉規範と伝統的な道徳規範を基にしている。ジャザランによれば、柔道有段者たちの規範は、新渡戸稲造の『武士道』で示された考え方から着想を得たものだという。</ref><ref>Fédération française dejudo,Shin:Éthique et tradition dans l'enseignement du judo,Budo Éditions,2008.P.25.</ref><ref>星野映・中嶋哲也・磯直樹・編著、小林純子・有山篤利『フランス柔道とは何か 教育・学校・スポーツ』[[青弓社]]、2022年、179頁。「柔道のイメージとコード・モラル」{{ISBN2|9784787235060}}</ref>。
また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「講義」の応用となっていると言うことができる。
==== 残心 ====
{{seealso|講道館#残心}}
=== 娯楽や美育、幅広い目的の柔道(慰心法) ===
{{seealso|講道館#娯楽や美育、幅広い目的の柔道(慰心法)}}
明治22年の「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演からものちに、嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて改めて発表し、さらに新しい要素(運動の楽しさ、乱取、試合、そして形を見る楽しみ、芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。
1913(大正2)年、嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し、又其理論を講究するものにして、身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり、精神を修養することよりいふときは修心法となり、娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり、攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し、柔道は「柔の理を原理とし、身体鍛錬には体育法、精神修養には修心法、娯楽には「慰心法」、そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。
== 高専柔道、七帝柔道 ==
{{Main|高専柔道|七帝柔道}}
高専柔道は立ち技重視の講道館柔道に反発して大正時代に誕生した柔道である。
高専柔道では寝技を重視したスタイルを採用しており、膠着時の「待て」や「場外」の要素や「有効」・「技あり」などのスコア制度を極力排除しているのが特徴である。試合においても[[団体戦]]による勝ち抜き戦を基本としており、試合時間も講道館柔道、国際柔道のそれに比べて長い。選手は旧[[帝国大学]]およびその系列の者が多い。戦後、旧帝国大学の七大学柔道部により[[七帝柔道]]が高専柔道の流れをくむ柔道として起こされた。対抗戦のほかに[[ブラジリアン柔術]]・[[総合格闘技]]などのバックボーンとして[[格闘技]]分野で主に活躍している。
== 日本武道館と柔道、武道憲章 ==
1961年(昭和36年)6月、柔道が[[1964年東京オリンピック]]の正式競技に決定すると柔道愛好者の国会議員は国会議員柔道連盟を結成した。
同連盟会長に就任した衆議院議員[[正力松太郎]](のちに柔道十段、[[講道館]]殿堂)は、「世界に誇る武道の大殿堂を東京の中央に建設して、斯道の発展普及を図りたい」と表明。同年6月30日、武道会館建設議員連盟を結成し、会長:正力松太郎、副会長:[[水田三喜男]](柔道五段、剣道三段)、[[松前重義]](のちの[[全日本柔道連盟]]理事・[[国際柔道連盟]]会長)、[[佐藤洋之助]]、[[赤城宗徳]](剣道範士)が就任した。
1962年(昭和37年)1月31日、文部大臣の認可を得て財団法人[[日本武道館]](会長:正力松太郎、副会長:[[木村篤太郎]]〈初代[[全日本剣道連盟]]会長〉、松前重義、理事長:赤城宗徳)が発足。1964年(昭和39年)9月15日に日本武道館が落成。同年10月20日 - 23日に[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[1964年東京オリンピックの柔道競技|柔道]]が実施された。
日本武道館創設から副会長や全日本柔道連盟理事、国際柔道連盟会長、[[全日本学生柔道連盟]](学柔連)会長等を歴任している第四代会長・松前重義の任期には、1977年(昭和52年)4月23日に日本武道館の中に[[日本武道協議会]]が発足し、1987年(昭和62年)4月23日 日本武道協議会設立10周年記念式典において[[日本武道館#武道憲章|武道憲章]]制定が行われている。
[[全日本柔道連盟]](全柔連)も入居する講道館にのちに入居した学柔連だが全柔連対学柔連の内紛のころは日本武道館に入居していた。そのためこの内紛は「講道館対武道館」とも表された。
== 他の武道、格闘技への影響 ==
柔道の影響を受けた武道・格闘技として、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]、[[日本拳法]]、[[富木流合気道]]、[[ブラジリアン柔術]]などがある。
日本拳法は、柔道家の[[澤山宗海]]が柔道では廃れてゆく当身技の体系を確立し、さらに競技化した。
サンボは講道館で柔道を学んだロシア人[[ワシリー・オシェプコフ]]によりロシアに伝えられソ連時代にその弟子により国技として普及する。
富木流合気乱取りは柔道の当身技と立ち関節技([[講道館#離隔態勢の柔道|離隔態勢の柔道]])の乱取り化を進めようとしていた嘉納治五郎や講道館二代目館長の[[南郷次郎]]<ref>[[講道館#二代目講道館館長南郷次郎の理想]]</ref>により、合気道の[[植芝盛平]]のもとへ派遣されていた[[富木謙治]]によりまとめられ、別名柔道第二乱取り法とも呼ばれる。早稲田大学教育学部教授であった富木は早稲田大学柔道部合気班の中で柔道の第二乱取り法として指導をしていた。
[[ブラジリアン柔術]]は、講道館三羽烏や玖馬の四天王(海外四天王)とも称された[[前田光世]]([[コンデ・コマ]])が海外での柔道普及に際し、日本以外で異種格闘技戦を戦い磨いた柔道技術を元にブラジルにおいて[[カーロス・グレイシー]]が教授された技術、柔道派生の格闘技という説が強い。
他には<!--[[総合格闘技]]団体[[J-DO]]がある。また、-->柔道出身の極真空手家・[[東孝]]が興した[[大道塾空道|空道]]も投げや寝技の中に柔道の影響が強く見られる。
講道館で嘉納治五郎による古武道研究会で師事を受けた[[望月稔]]の[[養正館武道]]にも嘉納の思想、柔道理論、影響は受け継がれている。
[[国際柔術連盟]] (JJIF) で行われている[[柔術ファイティングシステム]]にも柔道の影響が伝統空手の技術と共に強く見受けられる。JJIFはまた、ブラジリアン柔術を[[ヨーロピアン柔術#寝技柔術|寝技柔術]]の名で実施もしている。JJIFの[[国内競技連盟]]は[[フランス柔道柔術剣道及び関連武道連盟]]など約8カ国で[[国際柔道連盟]]の国内競技連盟と同一団体で二重加盟している<ref name=JJNOs>{{Cite web| people =| title =THE JJIF NATIONAL ORGANIZATIONS (JJNOs) | medium = | publisher =国際柔術連盟|location =[[アラブ首長国連邦|UAE]]・[[アブダビ]] | date = | url =http://jjif.org/index.php?id=84|accessdate=2019-10-21}}</ref><ref>{{Cite web| people =| title =Countries / IJF.org | medium =jpeg | publisher =[[国際柔道連盟]]|location =[[スイス]]・[[ローザンヌ]] | date = | url =https://www.ijf.org/countries|accessdate=2019-10-22}}</ref>。(2019年10月現在)
[[琉球]]([[沖縄]])で発祥した唐手(空手、[[空手道]])は講道館創始者嘉納治五郎の紹介によって本土に上陸し、1933年、[[大日本武徳会]]沖縄県支部より日本の武道、柔術の流派として承認され、1934年に大日本武徳会において柔道部門の中に組み入れられる。当時の唐手は自由乱取りに相当する[[組手 (空手)|組手]]は存在せず型のみが行われていたが、柔道の[[乱取り]]や剣道の[[竹刀稽古]]を参考に本土上陸後に組手が研究され整備されていく。また講道館柔道が整備した今日のような[[道着]]や[[黒帯]]・[[帯 (柔道)|色帯]]制度、[[段位]]性を唐手改め空手は武徳会時代・柔道傘下時に採用する。[[第二次世界大戦]]での日本の敗戦後、柔道や剣道は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による武道禁止令の影響を大きく受け、柔道はその三大部門の一つであった[[当身技]]が制限・軽視されることになる。当時国内での影響力も少なく制限を受けることの少なかった空手は戦後の柔道の当身技の軽視の間隙を突いて進出することになる<ref>"松本芳三『現代スポーツコーチ全集 柔道のコーチング』大修館書店"</ref>。
[[神傳不動流 (真妙流系)|神傳不動流]]と講道館を学んだ[[エドワード・ウィリアム・バートン=ライト]]は、ヨーロッパの武術と組み合わせた[[バーティツ]]を創設した。
かつて太平洋戦争末期の日本で、本土決戦に備えて柔道家・塩谷宗雄によってまとめられ作られた、徒手、武器の技術を含んだ[[綜合武術格闘術]]がある。戦争が終結したため「幻の格闘術」となっている。
アメリカで行われているフリースタイル柔道(Freestyle Judo)がある<ref>{{official|http://www.freestylejudo.org/}}</ref>。現在国際試合で主流の[[国際柔道連盟]](IJF)規定ルールでは制限されている従来の柔道技術を保持しているとする。嘉納治五郎の講道館柔道の継承を意識しており、またレスリング、サンボ、ブラジリアン柔術等のスタイルを取り入れることで、参加する全ての人に競争の機会を提供し柔道競技の「黄金時代」を復活させることを意図している。「[[MMA]]の究極の柔道スタイル」“Ultimate Judo Style for MMA”として、[[総合格闘技]]ルール参戦を意図し「ノー着」ルールも含む柔道としている。フリースタイル柔道は現在、国際フリースタイル柔道連盟 (IFJA) の支援を受け、アメリカの[[アマチュア運動連合]]([[w:Amateur Athletic Union]]・[[w:AAU]]) は、アメリカ合衆国でのフリースタイル柔道を公式に認可している<ref>http://image.aausports.org/dnn/judo/2016/2016JudoHandbook.pdf</ref>。
日本国内の警察において、柔道・剣道と並行して行われている[[逮捕術]]の源流の一つにもなっている。1924年(大正13年)[[警視庁武術世話掛]]でもあった[[山下義韶]]による警視庁[[捕手術|捕手]]ノ形制定<ref>『警視庁柔道基本 捕手の形』警視庁警務部企画課・著</ref>以降、1947年(昭和22年)の[[逮捕術]]制定の際には委員として[[永岡秀一]]が加わり<ref>『警視庁武道九十年史』404頁、警視庁警務部教養課</ref>、1967年(昭和42年)に現在の逮捕術が制定された際には、[[道着|柔道衣]]を基本服装とし、投げにおいて「警察柔道試合及び審判規定」の内容を採用している<ref>『新版 一目でわかる逮捕術』警察大学校術科教養部</ref>。
コンバット・ジュードー(COMBAT JUDO)がある<ref>{{official|https://sites.google.com/view/combat-judo-international/}}</ref>。明治時代に多くの柔道家が柔道普及のためアメリカなどの海外に渡った際、現地において乱取り技術の指導の他、様々なシチュエーションや対ナイフなどの護身技術を指導する。これらはコンバット・ジュードーと呼ばれ、アメリカでは警察や軍隊などでも指導がなされた。1944年の[[第2次世界大戦]]中のアメリカでは、[[アメリカ沿岸警備隊]]に速成訓練を施すため教官バーナード・コスネックによって、護身術と攻撃技を結合させた格闘術としてアメリカン・コンバット・ジュードーが開発・指導された<ref>『世界武道格闘技大百科』クリス・クリデリ・著、川成洋 フル・コム・共訳、東邦出版</ref>。また、[[前田光世]]がブラジルの[[グレイシー一族]]に教えたコンバット・ジュードーとしてブラジリアン柔術における護身術もある。コンバット・ジュードーはフィリピンに駐留したアメリカ軍人経由でフィリピン武術のエスクリマドールなどにも伝えられ、現在においてもナイフ対素手や立ち関節のテクニックはコンバット・ジュードーと呼ばれている。
=== プロレス技術への影響 ===
大正時代、日本の内外において柔術家・柔道家と対戦し、柔道チャンピオンも名乗ったプロレスラーの[[アド・サンテル]]が柔道の[[裏投げ]]を学び[[プロレス]]に持ち込んだのが今日のプロレスにおける[[バックドロップ]]のもとになっている。
戦前の海外のプロレス界で活躍した日本人柔術家・柔道家が使用した柔道の当て身技「[[手刀打ち]]」は海外においてチョップ(ジュードーチョップ)と呼ばれた。それが逆輸入される形で日本国内に入りカラテチョップとも呼ばれるようになる。
戦前の明治後期から昭和30年代、また戦後1950年代ごろに隆盛した、柔道家とボクサーの対戦興行の柔拳興行は国内におけるプロレス興行の前身となっている。また1976年に行われた[[モハメド・アリ]]と[[アントニオ猪木]]の対戦において使用された[[猪木アリ状態]]は柔拳興行で使用された柔道家による対ボクサーの戦略の一つでもあり<ref>『ゴング格闘技 2014年5月号』</ref>、1944年の小説『[[姿三四郎]]』でも主人公・姿三四郎の対ボクサーの対戦場面においてその戦法をとる描写がなされている。
== 他の格闘技からの影響 ==
柔道の国際化が進むなか、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させているからである。技術が柔道に取り込まれている民族武術・格闘技としては[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]]、[[ブフ]]、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]、[[ブラジリアン柔術]]などがある{{refnest|group=注釈|ブラジリアン柔術については、レスリングやサンボと異なり、寝技で仰向けで下になってもガードポジションを取っていればスコア・ポイントが取られない、絞技がある、という柔道との共通性から、日本の柔道選手の間でも取り組まれつつある。}}。技術の変化に対して、世界的に見た海外における柔道は、[[武道]]としての「柔道」ではなく、[[競技]]としての「JUDO」となりつつあるという指摘があり、柔道本来の精神が忘れられていくのではないかと、柔道の変質を危惧する意見もある。一方で、柔道は発足当初から日本国内の柔術のみならず海外の格闘技を工夫して取り入れて形成されたものであり、国際柔道のような各格闘技を総合したスタイルこそ柔道本来の形と精神に近いと考えている意見もある。「明治時代に[[嘉納治五郎]]が日本の柔術諸派から技を抜粋して柔道を作ったとき、柔道は一種の総合格闘技になったのです。さらに今回は、国際的にも柔道が総合格闘技化しているのです。[[チタオバ]]やサンボ、[[BJJ]]までが総合化されているのですね。柔道でメダルを獲得した国が23カ国ということを見ても国際化はかなり進んでいる。」<ref>『GONG 格闘技 2012 10.23 No.244』「柔の現在。」[[松原隆一郎]]・[[溝口紀子]]・対談</ref>
嘉納治五郎の時代から他の柔術、格闘技から多くの技が導入されていたが、それ以降、他の格闘技から柔道に導入された技としては[[ジョージア (国)|ジョージア]]のチタオバの技を改良した[[帯取返]]のハバレリ、[[イラン]]のレスリングからの[[ギャヴァーレ]]、総合格闘技からの裸絞の[[裸絞#ペルビアン・ネクタイ・チョーク|ペルビアン・ネクタイ・チョーク]]などがある。国際規定では2013年からの脚掴み全面禁止によりハバレリは一部使用困難に、ギャヴァーレは使用できなくなった。
[[2012年ロンドンオリンピックの柔道競技|2012年ロンドンオリンピックでの柔道]]における日本人選手の苦戦を受けて、就任発足した[[井上康生]]日本男子代表監督体制では、「国際化したJUDOは世界の格闘技の複合体になった。柔道の枠の中に収まっていては、新たな発想は生まれない」とし、色々な格闘技が流入した世界の柔道に勝つために[[ブラジリアン柔術]]、サンボ、[[モンゴル相撲]]、[[沖縄角力]]などの民族格闘技との積極的な交流、練習の取り入れを行い、強化を図った。また、組手を取り合う際の対策、強化として柔道の当身の練習に通じる、打撃のミット打ちの練習なども取り入れるなど改革・創意工夫を進めた<ref>[[ひるおび]]TBS系列 2016年8月15日放送</ref>。
[[2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道競技|2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道]]を見た[[溝口紀子]]は寝技での「待て」が従来より遅くなったのは、オリンピックでは寝技の存在感を上げ、近年、隆盛著しい寝技中心のブラジリアン柔術へ人々が流れていくことを防ぐ意図があるのではないか、と述べている<ref>{{Cite web |date=2016年8月12日 |url=https://twitter.com/mysomizo/status/763827939385352192 |title=twitter - 溝口紀子 |website=[[twitter]]|location= |accessdate=2020-05-25 |quote=今大会、これだけ寝技を長くみるのは(中略)。近年、寝技を中心としたBJJの隆盛が著しく、(中略)。五輪ではで寝技のプレゼンスを高めることで、BJJへの流入を防ぎたい(中略)|author={{Twitter|id=mysomizo|name=溝口紀子}}}}</ref>。
[[2019年]]、[[2020年]]の1月に全日本女子代表チームは強化合宿で[[日本ブラジリアン柔術連盟]]会長の[[中井祐樹]]らを招き、ブラジリアン柔術の寝技の指導を受ける<ref>[全日本強化合宿] 『近代柔道』誌 2019年2月号 [[ベースボール・マガジン社]]</ref><ref>[全日本柔道連盟のページ 全日本女子強化合宿] 『[[近代柔道]]』誌 2020年3月号 [[ベースボール・マガジン社]]</ref>。
== 柔道とウェイトトレーニング ==
日本に本格的な筋力トレーニングが伝えられたのは、1900年ごろであり、柔道の創始者である[[嘉納治五郎]]の功績が大きかったと言われている。嘉納は「柔道の創始者」のみならず、「日本近代筋力トレーニングの父」とも呼ばれている<ref name="ReferenceD">『臨床整形外科』2015年9月号「世界と戦うために 全日本柔道における筋力トレーニングの現状と未来への提案」紙谷武 柏口新二</ref>。
嘉納は、世界に柔道の普及活動を行う中で渡欧中、ヨーロッパにて近代トレーニングの父と呼ばれる[[ユージン・サンドウ]]が著した筋力トレーニングの書籍『Sandow's System of Physical Training』(1894)に出会い共鳴している。その効用を実感した嘉納は講道館の雑誌「國士」にて連載し紹介した。当時この連載は好評となり、1900年には嘉納は『サンダウ体力養成法』を造士会から出版するに至っている。嘉納は柔道界のみならず国民へもその体力養成法を推奨し、サンドウが体操に用いた手具(鉄亜鈴)などの販売、宣伝も行った。
また1933年(昭和8年)、IOC委員としてウィーン会議に出席していた嘉納はその帰途、オーストリアから正式なバーベル一式を購入、輸入した。このバーベルは、当時、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、[[ウエイトリフティング]]の技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。
嘉納の活動・翻訳本は日本のボディビル界の祖、[[若木竹丸]]などにも影響を与え、若木がウエイトトレーニングに目覚めたきっかけにもなっている。柔道家[[木村政彦]]などもその先見性から若木からウェイトトレーニングの指導を受けている。
このように嘉納は筋力トレーニングの有効性を理解し紹介していたが、柔道界においてしばらくはあまり広く普及せず、あまり重視されてこなかった。
その理由として、「柔道の稽古自体が筋力トレーニングになっている」こと、「柔道で使う力と筋トレで養われる力は違う」という意見、「柔能く剛を制すが正しい柔道である」という考え方が影響していたと言われている。また、当時は体力に勝る外国人にも日本人の持っている技術が十分通用したということも挙げられる。
しかし嘉納の目指した柔道の精神「精力善用」は「柔の理」「柔能制剛」を発展させたものであり、剛も内包するバランスの取れた一種の柔剛一体であると言えるものであった。
また、やがて柔道が世界中に広がり、外国人が技を身に付けるようになってくると、色々な戦略を取れるようになり、日本人は国際大会で苦戦するようになってくる。「技は力の中にあり」というように基本の技が身に付いた上級者同士の戦いになると、今度は力が勝敗を分ける一因となり技を活かすために力が必要になってくる。
日本柔道界への筋力トレーニングの本格的な導入は、1988年[[ソウルオリンピック]]の惨敗を受けて、大会終了後に強化委員会が開かれ、敗因について徹底的に議論が行われた際、外国人選手と比較し基礎体力が劣っているという敗因の分析の結果、[[東海大学]]教授の有賀誠司をストレングスコーチとして招聘したことから始まる<ref name="ReferenceD"/>。また[[2012年ロンドンオリンピック]]の惨敗をきっかけに発足した監督を[[井上康生]]とした全日本男子柔道の体制では、より精度の高い科学的見地にもとづいたフィジカルトレーニングを導入するに至っている。計画的体系的な筋力トレーニング、栄養、データ分析の強化など指導に医科学も取り入れた強化を進めた<ref>「康生改革支えた裏方=筋トレ、栄養、データ分析」-柔道〔五輪・柔道〕2016/08/14</ref>。
そこでは、体力面で負けないトレーニングを導入するとして、トレーニング目標として次のような方針を掲げた。
* 世界の強豪相手にパワーとスピード負けしないための総合的な筋力を身に付け、屈強な身体を作る。
* 個人、階級に応じた体力強化をはかる。技や動きの特徴を生かし、弱点を補うような筋力をつける。
* 試合で使える筋持久力を養う。
* けが防止と予防のために身体を作る<ref>『改革』井上康生</ref>。
[[2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道競技|2016年リオデジャネイロオリンピックの柔道]]で日本は1大会で最多となる男女計12個のメダルを獲得した。
== 柔道と空手道の道衣 ==
柔道は当初は柔術の[[道着|稽古着]]を着て稽古していたが、その形状は広袖で肘まで、下袴も短く腿の辺りまでしかなかった。擦傷がたえなかったため、[[1907年]](明治40年)ごろ、嘉納治五郎は従来のものに洋服の要素を取り入れて袖と裾の長い柔道衣を作成し、現在のように改良され稽古するようになった。この改良により、技の範囲も広くなり、投げ技の進歩を助長した<ref>{{Cite book|和書|author1=嘉納行光|authorlink1=嘉納行光|author2=川村禎三|authorlink2=川村禎三|author3=中村良三|authorlink3=中村良三 (柔道)|author4=醍醐敏郎|authorlink4=醍醐敏郎|author5=竹内善徳 『柔道大事典』P.203(「柔道衣(着)じゅうどうぎ」の項)|authorlink5=竹内善徳|author6=佐藤宣践(監修)|authorlink6=佐藤宣践|author7=アテネ書房|authorlink=アテネ書房|isbn=4871522059|quote=|origdate=1999年11月|page=|pages=|date=|location=日本 東京}}</ref>。[[大日本武徳会]]においても(講道館)柔道が採用されていたことから、当時武徳会に参画していた古流柔術諸流派にも新しい形状の道衣は逆輸入の形で導入され、また以降成立することになる他武道にも採用され影響を与えることになる。[[1922年]]、嘉納治五郎がプロデュースし、[[船越義珍]]に依頼して、[[講道館]]で空手(唐手)の演武、指導をした時に義珍が着用していたのが柔道衣である。その後、空手は動作も稽古内容も柔道とは違うため、柔道衣から徐々に改良がなされ、今のような空手道衣が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのは、そのためである。{{Main|空手道#空手道衣}}
柔道衣の色は基本的に白のみとされている。しかし、試合で両選手とも白の柔道衣では観客にとって見分けがつきにくいという問題があったため、[[1997年]]に国際柔道連盟はカラー柔道衣の導入を決定し、それ以来国際大会では青の柔道衣が使われるようになり、日本で開催する時も国際試合に限り青の柔道着を着用を認めている。これに対し、日本はカラー柔道衣の導入に反対しているため、国内大会では白の柔道衣のみが使われている。
カラー柔道着の導入を巡る検討段階では、青以外にも赤・緑・黄などのさまざまな色・[[ナショナルカラー]]の柔道着の着用を自由に認めるようヨーロッパの柔道連盟など賛成の立場の国は強硬に迫った。最終的には見分けが付けばいいということと、日本などの反対する立場の国々への配慮から、青のみの導入にとどまった。
{{Main|カラー柔道着}}
== 柔拳興行 ==
明治末期から昭和30年代ごろまで、時代のあだ花のように存在した「柔拳」という異種格闘競技があった。柔拳は柔道対拳闘([[ボクシング]])を意味し、柔道家は道衣を着用した柔道スタイルで、ボクサーはグローブを着用したボクサー・スタイルで闘った。1853年のペリー来航以降、日本にボクシングが紹介されると、ボクシング技術を使う外国人水兵と日本人力士や武術家との他流試合がなされるようになった。それらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やすことになる。
初めて「柔拳」の名称を使用したのは柔道の創始者[[嘉納治五郎]]の甥にあたる[[嘉納健治]]とされる。若くして講道館を飛び出した健治は横浜で、柔拳試合を見たのをきっかけに神戸の自宅に日本初のボクシングジム国際柔拳倶楽部(後に大日本拳闘会と改名)を設立した。健治が行った柔拳興行は大成功を治め、関西圏はもとより東京でも満員の観客を集めるほどの大きな人気を呼んだ。その後1931年(昭和7年)には、全日本プロフェッショナル拳闘協会(のちの日本プロボクシング協会)結成に参加。日本のボクシング界を発展させる礎を作った。
戦後消滅したも同然であった柔拳が復活したのは、第二次世界大戦後のことであり、東京の[[万年東一]]が中村守恵、木島幸一らを使って旗揚げした「日本柔術連盟」がそれである。万年東一は柔拳興行の後、[[全日本女子プロレス]]を設立し活動内容を変えていくことになる。
嘉納健治の行った柔拳興行では、その活動時期から、前中後の3期に活動内容が分けられる。前期柔拳において健治はボクサーとの対戦を通じて、柔道を当身や武器にも対処しうる武術として蘇らせようとしていたとされる。健治は拳闘以外の武道・格闘技との対戦も企画し、柔道改造を推し進めていった。
それは叔父の嘉納治五郎と共通する思想からとされる。嘉納治五郎は、柔道において、心身の力を最も有効に使用して世を補益する「上段の柔道」を最終目的とし、体育と修心を目指す「中段の柔道」、攻撃防御の方法としての「下段の柔道」の3段階の構造を描いたうえで、「下段の柔道」から柔道を始めるのが最も良いとした。治五郎は「攻防の技術」としてあらゆる攻撃に対応できる護身術・総合格闘技でなければならないと考えていた。そして治五郎はボクシング、唐手、合気柔術、棒術などの他の武道・格闘技の研究を通じて、その晩年に至るまで彼の理想とする「柔道」の完成を追求している。嘉納健治は「柔拳興行」という公開試合の場で、他武道・格闘技との異種格闘技という実践を通じて「攻防の技術」として柔道を追求していたのであり、その点で嘉納健治は叔父・嘉納治五郎と同じ問題意識を共有していたとされる。
しかし1921年に行われた米国レスラー、[[アド・サンテル]]と児島光太郎の門下生が行った柔道対レスリングの公開試合「アド・サンテル事件」により、それまで興行的異種格闘試合を黙認していた立場だった嘉納治五郎は公職の立場にある身から、「木戸銭」を取って行う「興行」活動への参加を禁止する方針転換がなされることになる。
「金を取って柔道の業を見せたり、勝負をして見せるのは、軽業師が木戸銭を取って芸を見せるのと何も択ぶ所はない。我も彼もさういふやうなことをするやうになつたならば、柔道の精神は全く消滅して仕舞ふことになるから、一般の修行者は、大に慎んで貰はねばならぬ。」
そして柔拳興行はスペクテーター・スポーツへの方向転換を余儀なくされ、次第にナショナリスティックなショーへと変貌しやがて終焉していくことになる<ref>池本淳一、「[https://doi.org/10.5432/jjpehss.13107 嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ]」 『体育学研究』 2014年 59巻 2号 p.529-547, {{doi|10.5432/jjpehss.13107}}, 日本体育学会</ref>。
昭和11年に発行された講道館六段・竹田浅次郎の技術書『對拳式実戦的柔道試合法』において、柔道家の対拳闘相手の対戦法が解説・紹介されている。
心構え、構え方、目の付け所や呼吸の仕方、両手の働き、足の動作、身体の動作、拳闘の分析、ボクシングのパンチの防御法、その捌き方と攻撃法、異種との戦いにおいて柔道家が注意すべき裸体の相手への組み付き方、腕・手首・首・体といった箇所への組み付き方、投げ技・絞技・関節技の応用、足関節技、種々の双手刈りの方法、のちに言うところの「片足・両足タックル」が有効であることなどが解説されている<ref>竹田浅次郎『對拳式実戦的柔道試合法』</ref>。
昭和16年に発行された講道館七段・星崎治名の技術書『新柔道』には、「拳闘に對する柔道家の心得」と題して、彼が提唱した当時の柔拳興行におけるボクサーとの対戦法が紹介されている<ref>星崎治名『新柔道』「拳闘に対する柔道家の心得」</ref>。
* まず柔道家自身が、最低でも数ヶ月は拳闘の訓練をする。柔道の当て身を使うことも勿論有効だが、観衆に好感を持たして奇麗に勝利を得る方法としてはボクシングの練習を第一条件とする。
* フットワークの種々を研究、敵がどんなパンチを出すのかを足使いから読む練習。
* 両腕でしっかり顔面ガードしながらの自在な進退、相手のパンチにカウンターで蹴りを入れる練習。
* 敵のスキを見て一気に飛込む練習。全身のバネとタイミングが肝要。
* 飛込んだらすぐ投げ、逆・絞に繋げる練習。
* 拳闘家に対して当て身もつかい足も用い寝技立ち技の連繋を運行し勝ちを制する。
* 対拳闘は、常に平静に「後の先」を狙う気持ちが肝要。
== プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦 ==
[[ファイル:Kimura kesa.jpg|thumb|250px|right|[[エリオ・グレイシー]]の首を締め付ける[[木村政彦]]]]
[[1951年]]、[[国際柔道協会]](プロ柔道)の[[木村政彦]]七段、[[山口利夫]]六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節が[[ブラジル]]に招かれた。この時、[[グレイシー柔術]]と[[異種格闘技戦]]を行っている。
[[9月6日]]に加藤幸夫が[[リオデジャネイロ]]で[[エリオ・グレイシー]]と対戦。試合は10分3ラウンド、投げによる一本勝ちはなし、ポイント制無しの柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。[[9月23日]]に二人は再戦したが、8分目で加藤が下からの十字絞めで絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。
雪辱戦として[[10月23日]]に[[木村政彦]]がエリオ・グレイシーと対戦。だが、さすがのエリオも木村相手では子供扱いされた。木村が2R開始3分目で得意の[[腕緘]]に取りエリオは意識がなくなっていたため、兄のカルロスがストップを申し出し木村が勝利、日本柔道の名誉を守った。木村政彦は「鬼の木村」の異名を持ち、戦前から全日本選手権を13年連続保持、15年間無敗のまま引退した柔道家で、史上最強と言われる。木村は切れ味鋭い[[大外刈り]]で有名だが、寝技でも日本トップの力を持っていた。
この木村政彦とエリオ・グレイシー戦までの経緯、試合内容については書籍『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』が詳しく記述している。それによると、試合後は互いに2人が相手の強さと精神を称え合うものだったという。エリオは木村の強さに感動し、腕緘に[[キムラロック]]という名前をつけた。
== 「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展 ==
{{seealso|講道館#柔道における「柔の理」の背景・意味|講道館#「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展}}
講道館柔道創始者の嘉納治五郎は「相手の力を利用して相手を制する」という「柔の理・柔能く剛を制す」の理論を発展させ、いわば全ての場面を説明するため、状況に応じた臨機応変な「主体的・積極的な力の発揮」も必要であること、それに加えて攻撃防御の際の精神上の働きから考えてみて、明治30年代に至って柔の理のみに依らぬ柔道を解説するようになる。
嘉納は1922年の「講道館文化会」の創立における「講道館文化会」綱領において「精力善用」(精力最善活用)・「自他共栄」(相助相譲自他共栄)を発表する。
# 精力の最善活用は自己完成の要決なり。
# 自己完成は他の完成を助くることによって成就す。
# 自他完成は人類共栄の基なり。
嘉納治五郎の説く「精力善用」(柔道とは心身の力を最も有効に使用する道)には二つの意味が含まれている。その一つは、目指す目的に向かって、身体、精神の総力を合理的、能率的に活用し最大の効果を上げるという意味である。いま一つは、人間の真に生きる目的が人間「社会生活の存続発展」<ref>{{Cite book|和書|author=監修 講道館|edition=初版|date=1987-10-30|title=嘉納治五郎大系 第五巻 |publisher =本の友社|page=200}}『中等教育』第七十一号 中等教育会発行 1932年(昭和7年)2月「中等教育者に特に考慮を煩わしたい三つの問題」</ref><ref>{{Cite book|和書|author=監修 講道館|edition=初版|date=1988-02-25|title=嘉納治五郎大系 第九巻 |publisher =本の友社|page=74}}『作興』第五巻第六号 1926年(大正15年)6月「精力善用自他共栄に関する質問に答う」</ref>に役立つことにあるとし、それが「善」であり、行為の目的が常に善であることが有効の度合いを高めるとの意味である。「心身の力を最も有効に使用する道」は、この両方の意味を合わせたものであって行為の目的がより大きな善であり、かつ目的達成の方法がより合理的、能率的であるための原理すなわち「道」を究明し、実践することが「柔道」であるということである<ref>{{Cite book|和書|editor=日本体育協会・監修/代表 岸野雄三|editor-link=日本体育協会|edition=初版|date=1987-06-01|title=最新スポーツ大事典 |publisher =大修館書店|page=417|isbn=4-469-06203-0}}</ref>。
「精力善用」「自他共栄」の二大原理が、単なる攻撃防御の方法の原理ということから、人間のあらゆる行為の原理へと、大きく拡大したことによって、柔道の意味内容も大きく拡大することになる。
精力最善活用によって自己を完成し(個人の原理)、この個人の完成が直ちに他の完成を助け、自他一体となって共栄する自他共栄(社会の原理)によって人類の幸福を求めるに至る。
=== 精力善用による普遍性と柔剛一体===
嘉納治五郎は、武術面における「精力善用」を説明する上で、従来の原理の相手の力を利用して相手を制する「柔能く剛を制す」だけでは柔道(柔術)の幾つもある理屈の中の一つの理屈にとどまり大きな包含的な言葉ではない<ref name="『嘉納治五郎大系』第一巻P.95「柔道の根本精神」">『嘉納治五郎大系』第一巻)P.95「柔道の根本精神」</ref>{{efn|嘉納は後年に至っても「柔の理・柔よく剛を制す」がまちがった観念であるとは述べておらず、実践的な次元における原理を論じる際には必ずといってよいほどそれを引き合いに出している。つまり嘉納は、それをすべての現象に応じうるいわば普遍的な「応用原理」としては限界があるとしたが、なおも柔道を表現する際の表象としてそれを止め置いた<ref>『嘉納柔道思想の継承と変容』111頁(第一章 嘉納柔道思想における基本概念の検討 第二項 精力善用の確立)永木耕介、風間書房。</ref>。}}として、それに対し、さらにそれも内包するものとして、いついかなる場合にも当てはまる理屈<ref name="『嘉納治五郎大系』第一巻P.97「柔道の根本精神」">『嘉納治五郎大系』第一巻)P.97「柔道の根本精神」</ref>、普遍性<ref>『嘉納柔道思想の継承と変容』110頁(第一章 嘉納柔道思想における基本概念の検討 第二項 精力善用の確立)永木耕介、風間書房。</ref>を持つ包含的な概念としての「精力善用」に至る。嘉納は柔道の全ての技に対し「今一つ心掛けていてもらいたいことは、練習中、全ての技は、精力最善活用の原理に適うように、工夫して練習しなければならぬ<ref>「乱取の練習および試合の際における注意」柔道6巻6号 昭和10年(1935)6月(『嘉納治五郎大系』第三巻、290頁)</ref>」と語っている。
また従来の「柔の理」では説き明かせない補完される場面、強い拘束から逃れる場面や、巧みに力を利用して強い力が弱い力を破る場面、平素乱暴して皆が困っている悪者を捕り押さえよう等するがその対手が向こうから攻撃してこずこちらからそれ相応の方法で手を出す必要がある場面<ref>『嘉納治五郎大系』第四巻、311頁「修養二大主義について」</ref><ref>『嘉納治五郎大系』第九巻)P.5「精力の最善活用」</ref>、また勝負時の相手を蹴る、手で突く、刀で斬る、棒で突く<ref>『嘉納治五郎大系』第一巻、95頁「柔道の根本精神」</ref>などの当身にも応用される<ref>『嘉納治五郎大系』第一巻、97頁「柔道の根本精神」</ref>包含的な原理・概念となる。
精力善用に関する嘉納自身の言説には「剛」という言葉による説明はないが、嘉納の普遍的な思想・精神は空手界にも影響し、中国古典の[[三略]]に由来する「柔の理」の「柔能く剛を制す」(柔能制剛)と対になる造語として「剛能く柔を断つ」(剛能断柔)という言葉が生まれたとされる<ref>『臨床整形外科』2015年9月号「世界と戦うために 全日本柔道における筋力トレーニングの現状と未来への提案」紙谷武 柏口新二 P.859</ref>。また[[少林寺拳法]]の開祖の[[宗道臣]]は、柔道は「柔を主である」としながらも嘉納の言説から「柔剛一体(剛柔一体)」と理解されるとしている<ref>『日本傳正統北派少林寺拳法教範 初版』2 6頁 四、拳法の一般的特徴(四)剛柔一体 昭和27年発行</ref>。
柔道用語における概念の普遍性は「精力善用」によって説明されるが、近年のメディア作品によって「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」「柔剛一体」の言葉によって柔道を説明する場面が見られる{{efn|1994年から2000年に週刊少年マガジンで連載された『[[新・コータローまかりとおる! 柔道編]]』の作中において、柔道における「柔能く剛を制す」「剛能く柔を断つ」の対比と、「柔剛一体」への言及がある。}}。しかしそれらは本来的には「精力善用」に内包された概念となっている。
== 戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾 ==
===生前の嘉納治五郎の柔道観と他の競技運動観・オリンピック活動===
講道館柔道創始者の嘉納治五郎は柔道の国民的・国際的普及を進めるとともに、[[大日本体育協会]]初代会長やアジア人初の[[IOC]]([[国際オリンピック委員会]])委員などの役職を兼任し、他の体育や他の外来の競技運動についても国民的に奨励し推進していた。嘉納は、競技運動と柔道の関係について受ける質問について、両極端なものとして、「外来の競技運動を排斥し日本人の精神教育も道徳的修養も出来る日本固有の武術のみで事足りるという声」、逆に「競技運動の利益を説いて完全に競技運動化を推進する声」、のいずれも当を得た考えでないとし、次のように言及していた。
「柔道とは大きな普遍的な道である。それを応用する事柄の種類によっていろいろな部門に別れ、武術ともなり体育ともなり智育徳育ともなり、実生活の方法ともなるのである。しかるに、競技運動とは勝敗を争う一種の運動であるが、ただそういうことをする間に自然身体を鍛錬し、精神を修養する仕組みになっているものである。競技運動は、その方法さえ当を得ていれば、身体鍛錬の上に大なる効果のあるものであるというのは争う余地はない。さりながら、競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は、柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。柔道を競技的に取り扱うことはもちろん出来ることであり、また、して良いことであるが、ただそういうことをしただけでは柔道本来の目的は達し得らるるものではない。それゆえに、柔道を競技運動的にも取り扱うことは今日の時勢の要求に適ったものであるということを認めると同時に、柔道の本領はどこにあるかということを片時も忘れてはならぬのである。」<ref>『嘉納治五郎大系 1巻』「柔道と競技運動」18頁。</ref>
一方で嘉納は普及や国民の理解を得る上での乱取試合や競技面の利点も挙げながら、戦前から活発になっていった試合とその上での勝利至上主義に向かう柔道修行者を強く憂いてもおり、身体鍛練で技を争うのは「下の柔道」で、精神修養を含むのが「中の柔道」、さらに身心の力を最も有効に使って世を補益するのが「上の柔道」と論じた。大正11年(1922年)、「精力善用・自他共栄」を柔道原理として制定していた。
嘉納は「柔道は単に競技として見るよりは、さらに深く広いもの故、自ら求めてオリンピックの仲間に加わることを欲しない」と語っており、柔道が五輪競技となることには消極的であったと言われているが、[[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン男爵]]や国際オリンピック委員会の推薦を受け自身がIOC委員となりオリンピック・ムーブメントに参加するに際し、嘉納は柔道と戸外スポーツの両立の必要性について言及している。
「それまでには、体育のことなら柔道さえやっていればそれでよいと考えていたのだが、翻ってさらに深く思いをよせると、柔道だけではいけないことが分かってきた。柔道も剣道も体力を鍛え、武士道精神を修練させる秀れたものには違いないが、一般大衆の体育を振興させるにはこれだけでは満足できない。といって(当時の)体操は興味に乏しいのと、学校を出るとやるものがない。野球や庭球は面白いが設備が要るから誰でもやれない。少数のものには良いが、国民全般がやるには向かない。
だが歩行、駆け足、跳躍なんかはだれでも出来る。また費用も要らない。単に歩行することは面白くないかもしれぬが、神社仏閣に詣でるとか、名所旧跡を訪ねるようにすれば、道徳教育とも結びついてくる。大いに奨励すべきことだ。水泳もやらねばならぬ運動である。(中略)そしてすでに高等師範学校では生徒に長距離競走や水泳を奨励して実践させていた。
(中略)だから武道と戸外スポーツとは、どうしても両々相俟って発達していくようにしたいと思っていた。(中略)西洋で発達したオリンピック競技もこれを取り入れ、武士道精神を加味させることは出来ない相談ではないと考えた。」
そして他競技上でも日本人のオリンピック参加における大きな展望を掲げていた。
「日本精神をも吹き込んで、欧米のオリンピックを、世界のオリンピックにしたいと思った。それには自分一代で達成することが出来なかったら、次の時代に受け継いでもらう。長い間かかってでもよいから、オリンピック精神と武道精神とを渾然と一致させたいと希ったのである。
その最も手近い方法としては、我が国の選手が、心にしっかりとした大和魂、武士道精神を持っていて、競技場では世界選手の模範になることだ。」<ref>『嘉納治五郎大系 8巻』「わがオリンピック秘録」368頁。</ref>
===戦後柔道の変容とその抱えた矛盾===
嘉納治五郎の没後、柔道は変遷を経験することになる。
1938年(昭和13年)5月、嘉納治五郎はカイロでのオリンピック会議の帰途、病死するに至る。
日本政府はその年、7月15日、1940年に開催が決定していた[[1940年東京オリンピック]]返上を閣議決定する。
1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで[[第二次世界大戦]]が勃発し、1941年(昭和16年)12月には[[太平洋戦争]]が起こる。戦況が拡大するにつれ、1942年(昭和17年)には日本では[[大日本武徳会]]が政府主導に改組される。その中では、剣道、柔道、[[弓道]]が、[[銃剣道]]、[[射撃道]]と共に中心的武技として[[軍国主義]]思想に利用されていくことになる。新武徳会における剣道の傘下には種々の武器術武道・武術も、また柔道の中(傘下)には空手や捕縄術、古流柔術など種々の徒手格闘や対武器技術の武道・武術も総合して含むことも明文化される。
1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争における敗戦を経験し、1946年(昭和21年)11月には剣道、柔道、弓道などは軍国主義に加担したとして[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により武道禁止令を受け、大日本武徳会は解散させられることになる。
その後国内での再開の努力や文部省による請願書の提出、海外の柔道連盟の発足などを受けて1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
しかし柔道は武道禁止令の解禁に際し、「競技スポーツとしての柔道」が外圧によって誓約されることになる。それはいわば便宜的なものとも捉えられるものでもあったため、日本の指導者の中にはいつか再び武道を精神教育の中心として復活させようという志を持つ者も多くいた。
しかし国際スポーツ化の流れの中で、[[1964年東京オリンピック]]開催に際し、生前の嘉納治五郎が消極的態度をとっていた柔道のオリンピック競技化への道を進むことになる。
それらの流れの上で柔道の変容については次のような指摘がある。
「[[講道館#体育としての柔道(体育法)|体育]]」面では、
「競技の国際化に伴って、次第に競技に勝つための「身体(体力)強化」論が強まることになる。一方では「[[柔道形|形]]」が実践されなくなることに示されるように、嘉納が強調した「身体の調和的発達や保健」という側面は弱化されていく。結果的に、競技力向上のための「強化」が柔道実践の中心となっていき、「体育」として嘉納が重視した大衆性や生涯に亘る継続性の側面は見失われていった。」
「[[講道館#武術としての柔道(勝負法)|勝負]]([[武術]])」面では、
「「競技スポーツとしての柔道」が浸透することによって「勝負は競技場の場における出来事」として限定されていき、戦前ではかなり強く意識されていた、武術としての追及は急速に弱化していった。
そのことはまた、武術性を保持する目的が加味されていた「形」の実践の低下とも結びついていった。「柔道はスポーツである」ことが世界共通の認識となっていき、ますます「武術としての柔道」論は顧みられなくなっていくことになった。」
「[[講道館#教育・精神修養・応用としての柔道(修心法)|修心]]」面、特にその「[[講道館#徳性を涵養する|徳育]]」面には、
昭和60年頃までは、「武道」や「修行」そして「礼儀」という観点から「徳育の低下」を食い止めようとする論調が盛んであった。それら徳育の低下への憂いは基本的に、たとえ「競技スポーツとしての柔道」を容認する者であっても、「他の競技スポーツと柔道は単純に同一ではない」という認識から発せられていた。特に戦前来の多くの指導者では、武道が有する「真剣味」こそが精神の高揚に役立つとする「武道としての柔道」論も根強く残存し、また「修行」という弛まぬ継続性が人間を向上させ、「礼儀」とは日常生活全般に浸透したものでなければならない、という価値観が継承されていた。
しかし、柔道による徳育の効果が、戦前では人間としての「生き方」や「生活」に結びつくものでなければならなかったのに対して、「競技スポーツとしての柔道」では競技という場に限定されてしまうことが問題視されたのであった。
また、武道独特の修行観や段位に対する価値観、あるいは礼儀作法という行動面においてもその低下が憂慮されてきた。
また「[[講道館#「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展|精力善用・自他共栄]]」は、
戦後も不断に唱えられ続けてきたが、昭和60年頃から以降はその唱えはかなり減少する。
概して、嘉納が唱えたようにそれらを「[[講道館#勝負の理論を世の百般に応用する|日常・社会生活へ応用する]]」といった側面は強調されなくなり、「精力善用・自他共栄」を「競技スポーツとしての柔道」にどのように活かしうるか、そこへの関心が集中することになる。
一部で、「競技スポーツとしての柔道では精力善用・自他共栄の理念を活かし難い」という批判が出されていったが、その論調は、「勝ちさえすれば目的を達するような傾向が横行しだした」というように、「勝利第一主義への批判」と結び付いたものであった。
それら変容を決定づけた最大の原因は、競技場で当然のごとく求められた「勝利志向」の強まりにみられる。
その理由は、勝利志向の「強まり」と、弱者への配慮(すなわち大衆性)や他者肯定(すなわち道徳性)の「低下」との間には避けがたい相関があり、また、「勝利志向の強まり」が、「競技」の時空のみへと視野を限定させ、柔道を生活や生き方に応用するという幅広い価値観も見失わせた。
ことに日本の柔道界では、国際舞台での勝利が、発祥国としての意地と誇りによって強く求められたがゆえに、「勝利」という価値が「競技化の促進」という価値と容易に結びつき、戦前では修行者の動機づけを高めるための手段的価値に位置づいていた「勝利」が、次第に目的的な価値へと転換していった。
嘉納は生前、教育的価値の体系を保持するために、幾度も「目の前の勝敗に囚われるな」と唱えたが、このような戦後における「勝利の目的化」によって、その体系は崩れていった<ref>永木耕介『嘉納柔道思想の継承と変容』(風間書房、)</ref>。
== 社会活動 ==
講道館や全日本柔道連盟は、柔道修行者のマナー・モラルの乱れを受け止め、修心面での再生を目的として社会活動を行っている。
=== 柔道ルネッサンス ===
日本において講道館・全日本柔道連盟が、平成13年度から合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げ、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎師範の理想とした人間教育を目指して活動を行っている。
「国際化、競技化、スポーツ化が進み競技成績や勝敗ばかりが注目されているが21世紀を迎えた今こそ嘉納治五郎師範が提唱した柔道の原点に立ち返り、人間教育を重視した事業を進めようとするものである。」<ref>全日本柔道連盟ホームページ</ref>
「講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることはもちろん、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、‘師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げる。その主目的は、組織的な人づくり・ボランティア活動の実施であり、本活動を通して、柔道のより総合的普及発展を図ろうとするものである。」<ref>柔道ルネッサンス実行委員会」</ref>
=== 柔道教育ソリダリティー ===
{{main|柔道教育ソリダリティー}}
2006年からの「柔道の国際的な普及に寄与するとともに、その活動を通して人と人との交流を図り、異文化理解を進め、もって日本のさらには世界の青少年育成に寄与すること」を目的とした活動。
=== 柔道MIND ===
全日本柔道連盟は2014年4月1日に「柔道MIND」事業を推進するため柔道MINDプロジェクト特別委員会を発足させている。
{{seealso|全日本柔道連盟#柔道MIND}}
== 柔道事故 ==
まず、柔道の投技の基本は受の背中が大きく畳に着くように投げることだが、取は受を頭から落さないように投げ、多くの投技では受の体が畳に着く寸前に引き手を引いて受の体をわずかに引かなければならず、受は正しい受身(腕で畳を打って緩衝し、同時に帯やへそをみることにより顎を引いて固定し後頭部を打たないように護る)を必ず身に付けなければならない。
しかし、取と受の双方もしくはいずれか一方が未熟な場合や極端な体格差であった場合に受が頭部を畳にぶつけることがある。例えば[[大外刈り]]は、受が後ろ倒しになるという技の性格上、初心者や過度に疲弊して正しく受身を取れない状態の者にかけると後頭部を強打する危険性が高い。また、頭からの落下による事故原因の他に加速損傷(回転加速度損傷)が原因と思われる可能性も示唆されており、これは頭部に外力(極端な遠心力、加速度)が加わることで頭蓋骨に回転加速度がつき頭蓋骨内の脳が全体的に回転(一方向への偏り)することで脳と硬膜を繋ぐ橋静脈が破断、[[急性硬膜下血腫]]に至るという機序である<ref>[http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf 柔道の安全指導 2011年第3版] 8-12頁 [[全日本柔道連盟]]</ref><ref>[http://www.asahi.com/sports/spo/OSK201108240163_01.html 遺族の思い、柔道界動かす 滋賀の柔道部員死亡から2年] asahi.com 2011年8月24日</ref><ref>[http://www.asahi.com/sports/spo/OSK201111270076.html 柔道のリスク知って 中学で必修化控えシンポ 滋賀] asahi.com 2011年11月28日]</ref>。他に間(日にち)を置かず頭部への強打によって起こる脳震盪([[:en:Second-impact syndrome|セカンドインパクト症候群]])が原因となり脳が物理的ダメージを負うことで、障害、死亡などのリスクが高まる報告がある。
全柔連は長時間練習の疲労による負傷防止に「1日の活動時間は2時間が上限」など小学生の活動指針を立てている<!--柔道、小学生の重大事故が複数発生 長時間練習を制限
朝日新聞-2019/11/18-->。
=== 学校などでの柔道事故事例 ===
* 2002年7月31日、埼玉県立高校柔道部合宿中に1年生男子部員が同部教諭と立ち技乱取りを行い、同教諭から体落としにより投げられ背中から落ちたさい意識障害及び強直性の痙攣を起こし、運搬先病院で外傷性急性硬膜下血腫と診断、後遺障害として遷延性意識障害、植物状態で推移。被害家族が指導上の注意義務違反あったとして埼玉県に損害賠償請求。後、東京高裁にて指導教諭の保護義務違反を認め、被告県に対し国家賠償請求を認める判決<!--(東京高判平21・12・17 )-->。
* 2003年、[[須賀川市第一中学柔道部暴行傷害事件]]
* 2004年、[[横浜市奈良中学柔道部暴行事件]]
* 2007年7月、大阪府高槻市金光大阪高校柔道部1年生男子生徒が練習中に脳震盪で倒れた3日後に昇段審査などの講習会に参加。模範演技後に頭痛を訴えるものの取り下げられ、会場に駆けつけた母親の119番通報で病院に搬送。急性硬膜下血腫を発症し遷延性意識障害による意識不明の寝たきり状態になり、のちに本人を含む家族が、学校法人、全日本柔道連盟、大阪府柔道連盟を相手に計約4億円の損害賠償を求める。全柔連への請求を除き、大阪地裁 <small>(佐藤達文裁判長)</small> にて約1億円の和解金を支払うことで合意。
* 2008年5月3日、[[横浜商科大学高等学校#事故・訴訟|横浜商科大学高等学校柔道部員後遺障害事件]]
* 2008年5月27日、[[松本柔道事故]]
* 2009年、広島県の[[尾道中学校・高等学校|私立尾道高等学校]]1年生男子生徒が柔道部の練習中に畳で頭を強打し急性硬膜下血腫を発症、高次脳機能障害を負う。のちに被害者本人と両親が同校を運営する尾道学園に計約1億4400万円の損害賠償を求めた。2015年8月、広島地裁尾道支部 <small>(次田和明裁判官)</small> は「事故を防ぐための適切な措置を講じる義務に違反した」として同学園に計約8150万円の支払いを命じた<ref>[https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150820-OYTEW50853/ 記憶・言語障害や視野狭窄…柔道練習で後遺症、学校側に賠償命令] 読売新聞 2015年8月20日</ref>。
* 2009年7月29日、滋賀県愛荘町立秦荘中学校<!--http://www.asahi.com/articles/ASK287K8JK28UTIL04G.html 部活の柔道、息子は死んだ 母は裁判後も闘い続ける 朝日新聞 2017年2月12日-->柔道部の練習中、部員(当時12歳)が上級生との乱取り稽古後「声が出てない」との理由から柔道部顧問(当時27歳)の直接指導を受け。二度投げ一度締めの合わせ技を蒙った直後に失神、顧問が平手で殴打するも搬送先の病院で急性硬膜下出血で意識が戻らないまま1か月後に死亡。後、愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会を設置。[http://judojiko.net/dl_data/aishou_jiko_kenshou100714.pdf 「愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会報告書」](※PDF) <span style="font-size:60%;">愛荘町中学校柔道部事故検証・安全対策検討委員会 平成22年7月14日</span>
<!--http://www.town.aisho.shiga.jp/reiki_int/reiki_honbun/r304RG00000880.html
http://www.pref.shiga.lg.jp/a/bunken/files/6dantaisympo25-siryou2.pdf
http://www.shigahochi.co.jp/info.php?id=A0005103&type=article
--><!--https://www.asahi.com/articles/ASK287K8JK28UTIL04G.html 部活の柔道、息子は死んだ 母は裁判後も闘い続ける 朝日新聞 2017年2月12日-->
* 2010年5月1日、[[大分県立竹田高等学校]]柔道部合同合宿練習中に男子生徒部員(当時17歳)が大外刈を受けて頭部を強打し緊急搬送、同日深夜に搬送先病院にて死亡した。司法解剖の結果、死因は急性硬膜下出血と判明。
* 2011年6月15日<!--17時ごろ-->、[[名古屋市立向陽高等学校]]の武道場において1年生男子部員が乱取り稽古中に大外刈で投げられ頭部を強打、休憩中に体調不良を訴え流延を発症し緊急搬送を要請、搬送先病院にて急性硬膜下血腫の緊急開頭手術を行うが同年7月23日に死亡。[https://www.city.nagoya.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000052/52831/houkokusyo.pdf 名古屋市立向陽高等学校柔道事故調査報告書](※PDF 外部リンク)<small>名古屋市柔道安全指導検討委員会 平成24年5月11日</small>
* 2014年10月、[[福岡市]]内の道場で稽古を受けていた中学校2年生男子部員が指導者から「絞め落とし」を掛けられて一時意識不明となった。元部員被害男性は[[福岡地方裁判所]]に2015年2月にこの指導者を相手取り提訴。一・二審は男性の訴えを認めて4万4,000円の支払いを命じ、2018年6月19日付で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は、指導者側の上告を受理しない決定をし、賠償が確定した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180704/k00/00m/040/093000c 損害賠償訴訟 柔道絞め落とし「違法」の判決確定] 毎日新聞 2018年7月4日</ref>。
* 2015年5月21日、[[大分県立中津北高等学校]]1年生男子柔道部員が乱取り稽古中に頭部を強打し急性硬膜下血腫の緊急手術を行う、被害生徒は遷延性意識障害を発症し医療機関にてリハビリ。のちに事故調査委員会設置、報告。[http://kyouiku.oita-ed.jp/280119_houkoku3.pdf 大分県立中津北高等学校柔道事故調査報告書について(概要)] 大分県教育委員会
* 2015年5月22日夕、[[福岡市立席田中学校]]柔道部の約束稽古中、大外刈をかけられた女子部員(当時13歳)が頭部を強打、意識不明に陥り、翌日搬送先病院で死亡<!--産経新聞 2015年-->。後、市は事故調査委員会を設置<!--時事通信社 2015年-->。[http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/51810/1/Judohoukokusyo.pdf 福岡市立中学校柔道事故調査報告書](※PDF 外部リンク) <small>福岡市柔道安全指導検討委員会 平成27年12月・福岡市</small>
* 2016年4月25日、仙台市内の私立高校の柔道部に所属する3年生男子部員(当時17歳)が部活動の試合中に頸椎と脊髄を損傷、緊急搬送されて手術を行うものの、同年5月13日に死亡<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201605/20160513_13044.html 柔道の試合後に部員死亡 仙台の私立高] 河北新報社 2016年5月13日</ref>。
* 2016年5月31日夕、群馬県館林市の市立中学校にて柔道部約束稽古中に3年生男子部員(14歳)が同級生に投げられて頭を打ち失神、以降、急性硬膜下血腫で意識不明の重体。<!--http://mainichi.jp/articles/20160722/k00/00e/040/146000c・http://mainichi.jp/articles/20160721/k00/00m/040/092000c・http://mainichi.jp/articles/20160721/ddl/k10/040/108000c-->[http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/docs/2017013100014/files/houkokusyo.pdf 館林市立中学校柔道事故調査報告書及び提言書](※PDF)<small>館林市柔道安全指導検討委員会 平成29年1月</small>
==== その他事例 ====
* [http://judojiko.net/apps/wp-content/uploads/2011/01/judo_fatal_cases.pdf 学校管理下の柔道死亡事故 全事例](※PDF)全国柔道事故被害者の会
==== 判例 ====
<!-- https://www.courts.go.jp/index.html -->
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/495/020495_hanrei.pdf 昭和49(ネ)2185 損害賠償請求事件]
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/746/062746_hanrei.pdf 平成6(オ)1237 損害賠償]
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/421/008421_hanrei.pdf 平成9(ワ)1282 損害賠償請求]
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/720/036720_hanrei.pdf 平成16(ワ)484 国家賠償請求事件]
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/771/037771_hanrei.pdf 平成18(ワ)283 損害賠償請求事件]
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/044/083044_hanrei.pdf 平成22年(ワ)第3461号 損害賠償請求事件]
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/444/083444_hanrei.pdf 平成22(ワ)8232 損害賠償請求事件]
* 平成23年(ワ)第251号 損害賠償請求事件 大津地方裁判所<!--判例時報2199号-->
* [https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/727/086727_hanrei.pdf 平成26(ワ)3880 損害賠償請求事件]
==== 関連出版物 ====
* 「隠蔽 <small>須賀川一中柔道部「少女重体」裁判</small>」 テレビ朝日「スーパーモーニング」取材クルー (著), 被害者の母 (著) 幻冬舎 2009年6月25日 {{ISBN2|4344016882}}
*「柔道事故」内田良(著)河出書房新社 2013年6月21日 {{ISBN2|4309246230}}
*「それでもボク柔道好きだから <small>―柔道事故と黒帯の品格</small>」テレビ信州 (編集)・テレビ信濃= (編集) 龍鳳書房 2015年10月 {{ISBN2|4947697520}}
=== 柔道事故の統計 ===
2000年から2009年における日本の中学柔道での競技人口10万人当たりの平均死亡率は柔道2.376人/年、2番目に高率な[[バスケットボール]]で0.371人/年であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットボールや[[野球]]などのスポーツに比べて高いといえる。なお競技者人口からの死亡数の[[絶対値]]は[[水泳]]や[[陸上競技]]のほうが多い(独立行政法人[[日本スポーツ振興センター]]が平成2年から21年までに、学校内で柔道業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)。
学校管理下における柔道練習中での死亡に至る児童生徒の数は年平均4人超というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2781906?pid=6629423 中学校での武道必修化、子どもの柔道事故に懸念] AFP News 2011年1月9日</ref>。[[名古屋大学]]内田良の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。[[後遺症]]が残る障害事故は1983年から2009年にかけては計275件(約17件/年)で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている<ref>内田良、「[https://hdl.handle.net/10424/2931 柔道事故─武道の必修化は何をもたらすのか─(学校安全の死角(4)]」『愛知教育大学研究報告. 教育科学編』 2010年、59巻、131-141頁。</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120117-OYT1T00433.htm 中高生114人、柔道で死亡していた…名大調査] (2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧</ref>。
1964年(昭和39年)度の大阪府立高校におけるクラブ活動の傷害件数として、日本学校安全会大阪府支部資料にもとづき、柔道209件、野球124件、ラグビー105件。また、日本学校安全会大阪府支部調べの昭和51年度大阪府下全高校全日制男子のクラブ活動の傷害件数として、ラグビー443件、格技(主として柔道)382件、野球369件と報告されている<ref>大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 30頁 岩井邦利(大阪体育協会スポーツ少年団本部長)著 「スポーツ少年柔道について」</ref>。
=== 柔道事故と民事訴訟 ===
柔道の事故に関して日本には[[全国柔道事故被害者の会]]が存在する。[[クラブ活動|部活動]]後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷がほとんどないために柔道事故と死亡の[[因果関係 (法学)|因果関係]]の立証が困難になる<ref>[http://judojiko.net/news/364.html 2009年7月滋賀県愛荘町立秦荘中学校柔道部の事故] では、第1回口頭弁論の段階では町側は過失について争う姿勢を見せていた([http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20120124000141 町側が過失認める 愛荘の中学生柔道部員死亡訴訟] 京都新聞 2012年01月24日 22時30分)([http://www.asahi.com/edu/news/TKY201201250195.html 中学柔道部死亡事故で元顧問の過失認める 滋賀・愛荘町] 朝日新聞 1/25)</ref>。
=== 柔道事故対策 ===
柔道事故に対して[[全日本柔道連盟]]は安全指導プロジェクト特別委員会を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発している<ref name="renmeitaisaku">(2011年度) http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf</ref>。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており、死亡または1級から3級の[[後遺障害]]に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。
『[[ゴング格闘技]]』は2010年6月の[[七帝柔道]]大会の試合後に[[松原隆一郎]](東大教授)と[[増田俊也]](作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120118-OYT8T00700.htm 柔道部練習で高2が首脱臼、首から下が不随に](2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧</ref>。
[[名古屋大学]]大学院教育発達科学研究科の[[内田良]]の調査によれば、日本の柔道現場では、安全対策に取り組んだ結果、2012年から3年間、死亡者はゼロとなったとしているが<ref>{{cite news|和書 |title=柔道事故 死亡ゼロが続いていた――マスコミが報じない柔道事故問題「改善」の事実 |newspaper=Yahoo!ニュース 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20141207-00041277/ |date=2014-12-7 |accessdate=2014-12-7 |author=内田良}}</ref>、ふたたび2015年から2021年4月までに7名の死亡者が出ている<ref>{{Cite web|和書|title=「28年間に中高生114人が死亡」日本の学校柔道で悲惨な事故がなくならない根本原因 柔道大国フランスでは死亡事故ゼロ|url=https://president.jp/articles/-/51085|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2021-10-27|accessdate=2022-01-06|language=ja}}</ref>。
=== 柔道事故とNHK番組 ===
{{単一の出典|section=1|date=2013年9月}}
日本では「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い<ref name="nhk_closeup">NHK『[[クローズアップ現代]]』 「“必修化”は大丈夫か 多発する柔道事故」20120206 [http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20120206-21-10831&pf=f]</ref>。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある<ref name="nhk_closeup" />。
日本の[[文部省]]の対応は非常に杜撰で誠意の無いものであり、[[日本国政府]](文部省)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事故が起きるという事実を30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることすらなかった<ref name="nhk_closeup" />。
日本国政府(文部省)は30年前に学校での柔道の指導中に起きた死亡事故で被害者家族から訴訟を起こされ、家族が「頭をうったと思われる」としたところ、文部省側は無罪を主張するために「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」ということを主張するために、わざわざ英語で書かれた論文を持ち出して自己弁護したにもかかわらず、自らの弁護のために持ち出した「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」という事実にもとづいて対応策を打てば状況を改善できたはずであるにもかかわらず、その事実を全国の学校現場に伝える努力をまったくせず、結果としてその後に日本で100人以上の若者が命を落とすような状況を作り出していたのである<ref name="nhk_closeup" />。
さらに文部省は、「学校での柔道の指導中の事故を文部省に報告する必要はない」などとする(不適切な)きまりを数十年前につくり、文部省に事故情報が集まってこない体制にしていた<ref name="nhk_closeup" />。これによって、ますます危険が把握されず放置される状況が作り出された<ref name="nhk_closeup" />。
こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた<ref name="nhk_closeup" />。
日本の[[体育]]教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態でありながら、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまで<ref name="nhk_closeup" />、指導者としてのレベルには全然達していない<ref name="nhk_closeup" />。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される<ref name="nhk_closeup" />{{refnest|group=注釈|関連項目:[[未必の故意]]}}。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない<ref name="nhk_closeup" />。
[[フランス]]は日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国になったが、かつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための[[国家資格]]を設立、[[応急処置|救急救命]]や生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし<ref name="nhk_closeup" />、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした<ref name="nhk_closeup" />。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である<ref name="nhk_closeup" />。
全日本柔道連盟でも、連盟内に医師グループはいたものの、その中に頭を専門とする[[脳神経外科]]医がおらず、柔道事故の内実をよく理解していなかった<ref name="nhk_closeup" />。
[[二村雄次]](全日本柔道連盟所属の医師、自身も講道館柔道六段)は、NHKの『[[クローズアップ現代]]』(2012年2月6日放送)で、武道必修化(柔道必修化)の前に、第三者による柔道事故検証のしくみ(システム)を事前に用意しておくべきで、そうすればもしも柔道指導中の事故が起きた場合は(文科省でもなく、事故を起こしてから責任を回避しようとする現場の体育教師や校長などでもなく)第三者によって事故の実態を解明・分析し、そうすることで柔道事故の実態を解明し情報を蓄積すれば事故の防止策も打つことができる、と指摘した<ref name="nhk_closeup" />。
2012年、文部科学省の外郭団体[[日本スポーツ振興センター]]名古屋支所が、同競技機関誌で掲載予定していた柔道の部活動や授業中の死亡事故への注意を呼びかける特集記事について、「中学の武道必修化が始まる前の掲載は慎重にすべきだ」という本部からの指摘を受けて不本意ながら掲載を見送った<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120125/k10015523971000.html 柔道事故への注意記事 掲載見送り]
1月25日 16時27分 2012年1月30日閲覧</ref>。
=== 感染症 ===
日本では2001年頃から肉体の接触で皮膚感染する[[トリコフィトン・トンズランス]]感染症(白癬菌の一種、いわゆる水虫、タムシ)が柔道及び、レスリング競技者間での集団感染の例が報告されている。皮膚科などの専門医にて治療が可能<ref>[http://www.judo.or.jp/data/data-shinkin.php 公益財団法人 全日本柔道連盟<タムシ>「皮膚真菌症(感染症)について」 Q & A]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* [[小谷澄之]]他編、講道館監修『嘉納治五郎大系』全14巻・別巻1 (本の友社、 1987-88年)
* 小俣幸嗣・尾形敬史・[[松井勲]]著、[[竹内善徳]]監修『詳解 柔道のルールと審判法』(大修館書店、) {{ISBN2|4-469-26423-7}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Judo|Judo}}
{{Wiktionary|柔道}}
* [[七帝柔道]]
* [[高専柔道]]
* [[柔道家一覧]]
* [[柔道の日本人オリンピックメダリスト一覧]]
* [[柔道整復術]]
* [[柔道整復師]]
* [[全国柔道事故被害者の会]]
* [[受身 (格闘技)]]
== 外部リンク ==
=== 公式 ===
* [https://www.ijf.org/ IJF] - [[国際柔道連盟]] {{En icon}}
* [https://www.onlinejua.org/ JUA] - [[アジア柔道連盟]] {{En icon}}
* [http://www.judo.or.jp/ AJJF] - [[全日本柔道連盟]] {{Ja icon}}
* [https://judob.or.jp/ 日本視覚障害者柔道連盟]
=== その他 ===
* [http://www.gws.ne.jp/home/demo2/ 寝技柔道聞きかじり](柔道の寝技の解説)
* {{Kotobank}}
{{柔道の技}}
{{柔道}}
{{武道・武術}}
{{スポーツ一覧}}
{{日本の柔道}}
{{日本関連の項目}}
{{Normdaten}}
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[[Category:柔道|*]]
[[Category:柔術]]
[[Category:オリンピック競技]]
[[Category:パラリンピック競技]]
[[Category:視覚障害者のスポーツ]]
[[Category:明治以降に創始された日本武術の流派]]
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* [[青木真也]]
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* [[浅見八瑠奈]]
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* [[園田義男]]
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== た ==
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* [[高井洋平]]
* [[高木海帆]]
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* [[高橋和彦]]
* [[高橋秀山]]
* [[高松正裕]]
* [[瀧本誠]]
* [[竹内善徳]]
* {{仮リンク|ジェームズ・タケモリ|en|James Takemori}}
* [[田知本愛]]
* [[田知本遥]]
* [[立山広喜]]
* [[増地千代里|立野千代里]]
* [[立山真衣]]
* [[田中良三 (柔道)|田中良三]]
* [[田辺陽子]]
* [[谷亮子]]
* [[谷本歩実]]
* [[谷本育実]]
* [[ラフダン・ダバーダライ]]
* [[ベルナール・チュルーヤン]]
* [[曹準好|曺準好]]
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* [[チョン・ブギョン]]
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* [[塚田真希]]
* [[津沢寿志]]
* [[ナイダン・ツブシンバヤル]]
* [[アン・マリア・ラウジー・デマルス]]
* [[ダビド・ドゥイエ]]
* [[佟文]]
* [[藤山茂]]
* [[アリナ・ドゥミトル]]
* [[徳野和彦]]
* [[飛塚雅俊]]
* [[富田常次郎]]
* [[タメルラン・トメノフ]]
* [[塘内将彦]]
* [[ロク・ドラクシッチ]]
== な ==
* [[中井貴裕]]
* [[長井淳子]]
* [[永岡秀一]]
* [[中川隆_(スポーツトレーナー)|中川隆]]
* [[中谷雄英]]
* [[中澤さえ]]
* [[中村和裕]]
* [[中村兼三]]
* [[中村美里]]
* [[中村行成]]
* [[中村佳央]]
* [[中矢力]]
* [[夏井昇吉]]
* [[パウエル・ナツラ]]
* [[楢崎教子]](旧姓菅原)
* [[西田孝宏]]
* [[西田優香]]
* [[西村昌樹]]
* [[西山大希]]
* [[西山将士]]
* [[二宮和弘]]
* [[二宮美穂]]
* [[野瀬清喜]]
* [[セシル・ノバック]]
* [[セルゲイ・ノヴィコフ (柔道)|セルゲイ・ノヴィコフ]]
* [[野村忠宏]]
* [[野村豊和]]
== は ==
* [[羽賀龍之介]]
* [[八戸かおり]]
* [[羽石杏奈]]
* [[ダヴィド・ハハレイシヴィリ]]
* [[濱田初幸]]
* [[原口謙一]]
* [[ベルナール・パリゼ]]
* [[ロベルト・バンドワール]]
* [[日蔭暢年]]
* [[エメリヤーエンコ・ヒョードル]]
* [[平岡拓晃]]
* [[広瀬武夫]]
* [[ウラジーミル・プーチン]]
* [[深見利佐子]]
* [[福岡政章]]
* [[福田敬子]]
* [[福見友子]]
* [[藤猪省三]]
* [[藤田博臣]]
* [[藤本聰]]
* [[ジョン・ブルミン]]
* [[アントン・ヘーシンク]]
* [[グリゴリー・ベリチェフ]]
* [[ヤネト・ベルモイ]]
* [[ラスル・ボキエフ]]
* [[細川伸二]]
* [[細野剛史]]
* [[河亨柱]]
== ま ==
* [[前田光世]]
* [[正木照夫]]
* [[正木嘉美]]
* [[増地克之]]
* [[ジュゼッペ・マッダローニ]]
* [[松井勲]]
* [[松岡義之]]
* [[松田博文]]
* [[松永満雄]]
* [[サヤカ・マツモト]]
* [[松本薫 (柔道)|松本薫]]
* [[松本安市]]
* [[丸木英二]]
* [[溝口紀子]]
* [[道上伯]]
* [[湊谷弘]]
* [[南喜陽]]
* [[三船久蔵]]
* [[武藤敬司]]
* [[棟田康幸]]
* [[村井顕八]]
* [[村元辰寛]]
* [[茂木仙子]]
* [[ムサ・モグシコフ]]
* [[持田達人]]
* [[百瀬優]]
* [[森下純平]]
* [[森脇保彦]]
== や ==
* [[矢嵜雄大]]
* [[アレクサンドル・ヤチケビッチ]]
* [[柳沢久]]
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* [[山岸絵美]]
* [[山口香]]
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* [[山下まゆみ]]
* [[山下泰裕]]
* [[山下義韶]]
* [[山部佳苗]]
* [[山本浩史]]
* [[山本裕洋]]
* [[山本洋祐]]
* [[ユン・ドンシク]]
* [[横澤由貴]]
* [[横山作次郎]]
* [[吉鷹幸春]]
* [[吉田秀彦]]
* [[吉松義彦]]
* [[吉村和郎]]
== ら ==
* [[ロンダ・ラウジー]]
* [[モハメド・ラシュワン]]
* [[テディ・リネール]]
* [[ジャン=リュック・ルージェ]]
* [[ティエリー・レイ]]
* [[ディートマー・ローレンツ]]
== わ ==
* [[渡辺喜三郎]]
* [[渡邉美奈]]
* [[渡辺利一郎]]
== 関連項目 ==
* [[柔道の日本人オリンピックメダリスト一覧]]
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全音音階
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全音音階(ぜんおんおんかい、英語:whole tone scale)は、全音のみで1オクターブを6等分した音階。ポピュラー音楽ではホールトーン・スケールと呼ばれる。
リチャード・タラスキンによると、全音音階を意図的に用いた早い例としては、フランツ・シューベルトの『ミサ曲変ホ長調 D950』(1824年)のサンクトゥス冒頭などがあり、シューベルト『八重奏曲ヘ長調D803』の最終楽章ではヴァイオリンとヴィオラに全音音階の下降音階が出現する。また、フランツ・リストも全音音階や八音音階を用いた。
ミハイル・グリンカは『ルスランとリュドミラ』(1842年)で全音音階の下降音階をチェルノモールの主題として用いている。第1幕で婚礼が突然中断され、猛烈な全音音階が聞こえてリュドミラがさらわれるシーンは大変に印象的でよく知られる。有名な序曲ではコーダ部分にこの主題が出現する。『ルスランとリュドミラ』はドビュッシー以前の全音音階の使用例としてよく知られている。グリンカ以来、全音音階はロシアの多くの作曲家によって用いられた。ピョートル・チャイコフスキーは交響曲第2番(1872年)の最終楽章で全音音階を用いている。アレクサンドル・ボロディンは歌曲『眠る王女』(1867年)で全音音階を使っている。ニコライ・リムスキー=コルサコフは交響曲『アンタール』(1868年)で全音音階の下降音階を用いている。
全音音階をもっとも盛んに用いたドビュッシーは早く1870年代、パリ音楽院時代に『ルスランとリュドミラ』やリムスキー=コルサコフの管弦楽曲『サトコ』などを知った。1887年のカンタータ『春』ですでに全音音階を使用しているが、ドビュッシーの全音音階の使用には1889年のパリ万国博覧会で接したインドネシア・ジャワ島の音楽(ララス・スレンドロ)の影響も指摘されている。
一般に馴染まれているドレミファソラシドといった音階では、全音と半音の両方が使われているが、全音音階では、全音(長2度)しか使われない。そのため、ドレミの次はファではなく、ファ#、ソ#、ラ#、となる。ラ#の次はドになってしまう。音階を構成する音の数は6個である。同様に半音ずらすとド#、レ#、ファ、ソ、ラ、シとなる。主音をどれに持ってきてもこの2種類しか存在しない。古典的な意味での和声の調和を、全く目標としていない音階である。また、全音と半音の配置から決定される全音階における主音のような音階の中心音を認識することが不可能となり、古典派やロマン派の音楽の大前提であった調性を崩壊させることにもつながった。
独特の印象のある音階である。勿論どんな音階もそれぞれ独特の印象を持っているのだが、全音音階は(普通のピアノで表現可能な範囲での)他のどの音階とも似ていない。完全五度の音程を持たないため、通常の西洋音楽に出現する長三和音、短三和音を音階にある音だけで構成することができない。
オクターブを単純に等分することによる平坦さは、平均律と相性が良い。また調性感覚をぼかすのにも都合が良く、ドビュッシーはそれを目的に多用した。
メシアンの1944年の理論書「わが音楽語法」の中では、7種類の「移調の限られた旋法(MTL)」のうち第1番として定義した。前述の通り、この音階には2種類の移調以外ありえないからである。
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全音音階は、全音のみで1オクターブを6等分した音階。ポピュラー音楽ではホールトーン・スケールと呼ばれる。
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{{出典の明記|date=2011年12月}}
'''全音音階'''(ぜんおんおんかい、[[英語]]:whole tone scale)は、[[全音]]のみで1[[オクターブ]]を6等分した[[音階]]。ポピュラー音楽では'''ホールトーン・スケール'''と呼ばれる。
== 歴史 ==
[[リチャード・タラスキン]]によると、全音音階を意図的に用いた早い例としては、[[フランツ・シューベルト]]の『ミサ曲変ホ長調 D950』(1824年)のサンクトゥス冒頭などがあり、シューベルト『[[八重奏曲 (シューベルト)|八重奏曲]]ヘ長調D803』の最終楽章ではヴァイオリンとヴィオラに全音音階の下降音階が出現する<ref>Taruskin (1996) pp.259-261</ref>。また、[[フランツ・リスト]]も全音音階や[[八音音階]]を用いた<ref>Taruskin (1996) pp.263-266</ref>。
[[ミハイル・グリンカ]]は『[[ルスランとリュドミラ]]』(1842年)で全音音階の下降音階をチェルノモールの主題として用いている。第1幕で婚礼が突然中断され、猛烈な全音音階が聞こえてリュドミラがさらわれるシーンは大変に印象的でよく知られる。有名な序曲ではコーダ部分にこの主題が出現する。『ルスランとリュドミラ』はドビュッシー以前の全音音階の使用例としてよく知られている<ref>井上(1980) pp.324-326</ref>。グリンカ以来、全音音階はロシアの多くの作曲家によって用いられた。[[ピョートル・チャイコフスキー]]は[[交響曲第2番 (チャイコフスキー)|交響曲第2番]](1872年)の最終楽章で全音音階を用いている<ref>Brown (1984) p.31</ref>。[[アレクサンドル・ボロディン]]は歌曲『眠る王女』(1867年)で全音音階を使っている<ref>Brown (1984) p.33</ref>。[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]は交響曲『[[アンタール]]』(1868年)で全音音階の下降音階を用いている<ref>Taruskin (1996) p.270</ref>。
全音音階をもっとも盛んに用いた[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]は早く1870年代、[[パリ音楽院]]時代に『ルスランとリュドミラ』やリムスキー=コルサコフの管弦楽曲『[[サトコ (音画)|サトコ]]』などを知った<ref>Baur (1999) p.536-539</ref>。1887年のカンタータ『春』ですでに全音音階を使用しているが、ドビュッシーの全音音階の使用には[[1889年]]の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で接した[[インドネシア]]・[[ジャワ島]]の音楽(ララス・スレンドロ)の影響も指摘されている<ref> Mueller (1986) pp.159-160</ref>。
== 概要 ==
一般に馴染まれているドレミファソラシドといった音階では、[[全音]]と[[半音]]の両方が使われているが、全音音階では、全音(長2度)しか使われない。そのため、ドレミの次はファではなく、ファ#、ソ#、ラ#、となる。ラ#の次はドになってしまう。音階を構成する音の数は6個である。同様に半音ずらすとド#、レ#、ファ、ソ、ラ、シとなる。[[主音]]をどれに持ってきてもこの2種類しか存在しない。古典的な意味での[[ハーモニー|和声]]の調和を、全く目標としていない音階である。また、[[全音]]と[[半音]]の配置から決定される[[全音階]]における主音のような音階の中心音を認識することが不可能となり、[[古典派音楽|古典派]]や[[ロマン派音楽|ロマン派]]の音楽の大前提であった[[調性]]を崩壊させることにもつながった。
{|
|+ ハ音(C)から始まる全音音階
|-
|[[File:Whole tone scale on C.png|320px]]
|-
|[[File:Whole tone scale on C.ogg]]
|}
独特の印象のある音階である。勿論どんな音階もそれぞれ独特の印象を持っているのだが、全音音階は(普通の[[ピアノ]]で表現可能な範囲での)他のどの音階とも似ていない。[[完全五度]]の音程を持たないため、通常の西洋音楽に出現する[[長三和音]]、[[短三和音]]を音階にある音だけで構成することができない。
オクターブを単純に等分することによる平坦さは、[[平均律]]と相性が良い。また調性感覚をぼかすのにも都合が良く、ドビュッシーはそれを目的に多用した。
[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]の1944年の理論書「わが音楽語法」の中では、7種類の「[[移調の限られた旋法]](MTL)」のうち第1番として定義した。前述の通り、この音階には2種類の移調以外ありえないからである。
== 顕著な使用例 ==
* [[フランツ・リスト]]
**ピアノ曲
*** 「[[悲しみのゴンドラ]]」第1番(S200/1)1882年頃
*** [[3つの演奏会用練習曲|演奏会用練習曲「ため息」]](S144)1848年頃(コーダにおいて全音音階がむき出しに登場する)
* [[クロード・ドビュッシー]]
** 歌劇「[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]」
***全曲の冒頭第5小節目(ドビュッシーが大掛かりな作品において初めて全音音階を使用した瞬間。)
***第3幕第3場(不気味な洞窟の中を覗く場面。不安な印象を与える効果としての最初期の使用例。)
** ピアノ曲
*** 「[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集]] 第1巻」の「ヴェール(''...Voiles'')」(ほとんど全曲にわたって全音音階が使われる。中間部に黒鍵のみで演奏される[[ペンタトニック]]が表れる)
*** 「[[映像 (ドビュッシー)|映像]] 第2集」の「葉づえをわたる鐘」(全音音階の上下運動を[[オスティナート]]として使用した例。)
***「[[ピアノのために]]」の「前奏曲」(中間部は全て全音音階である)
*** 「[[子供の領分]]」の「象の子守唄」(教育作品における使用例)
** 舞台音楽劇「[[聖セバスティアンの殉教]]」で、セバスティアン殉教間際の瀕死の場面(縦に多く重なる分厚い響きであり、後年の[[ヘンリク・グレツキ|グレツキ]]の全音音階[[トーン・クラスター|クラスター]]を予感させる)
* [[ポール・デュカス]]
** 歌劇「[[アリアーヌと青ひげ]]」
* [[マヌエル・デ・ファリャ]]
** ピアノと管弦楽のための「[[スペインの庭の夜]]」第2楽章の一部(同時代の作曲家がドビュッシーに追随した例の一つ)
* [[ジャン・シベリウス]]
** 交響詩「[[タピオラ]]」(シベリウス後期の作品)
* [[ジャコモ・プッチーニ]]
** 歌劇「[[西部の娘]]」冒頭部分など (プッチーニは後期ロマン派オペラの様式を保持しながらも、後年この全音音階など新しい語法を部分的に取り入れた)
* [[ヘンリク・グレツキ]]
** 「交響曲第2番“コペルニクス党”」 (戦後の[[ポーランド楽派]]の中で、[[トーン・クラスター]]として全音音階を使用した例)
* 商業音楽のシーン
** [[シャルル・トレネ]]の一部の[[シャンソン]]。[[1920年代]]になると流行歌の世界でも違和感なく全音音階を取り入れるようになった。まずお膝元フランスでの使用例として挙げる。
** 「[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]」のオープニング曲([[高井達雄]]作曲の第1作)のイントロ。日本での使用例ではもっとも有名なものの一つ。
** 「[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]」の必殺技「ムーン・ヒーリング・エスカレーション」。ただし同じ必殺技でも「幻の銀水晶」を手に入れてからは違う音楽になった。
** [[スティーヴィー・ワンダー]]「[[サンシャイン (スティーヴィー・ワンダーの曲)|You Are The Sunshine of My Life]]」のイントロ。スケールの順進行。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite journal|author=Steven Baur|title=Ravel's "Russian" Period: Octatonicism in His Early Works, 1893-1908|journal=Journal of the American Musicological Society|volume=52|issue=3|year=1999|doi=10.2307/831792|jstor=831792}}
* {{cite book|author=David Brown|chapter=Mikhail Glinka|title=The New Grove Russian Masters 1:Glinka, Borodin, Balakirev, Musorgsky, Tchaikovsky|year=1986|origyear=1980|publisher=W.W. Norton & Company|isbn=0393315851|pages=1-42}}
* {{cite journal|author=Richard Mueller|title=Javanese Influence on Debussy's "Fantaisie" and beyond|journal=19th-Century Music|volume=10|issue=2|year=1986|pages=157-186|doi=10.2307/746641|jstor=746641}}
* {{cite book|author=Richard Taruskin|authorlink=リチャード・タラスキン|title=Stravinsky and the Russian Traditions|volume=1|year=1996|publisher=University of California Press|isbn=0520070992}}
* {{cite book|和書|author=井上和男|chapter=ルスランとリュドミーラ序曲|title=最新名曲解説全集|volume=4|year=1980|publisher=[[音楽之友社]]}}
== 関連記事 ==
* [[音階]]
* [[長音階]]
* [[近代音楽]]
* [[クロード・ドビュッシー]]
* [[神秘和音]]([[アレクサンドル・スクリャービン]])
* [[移調の限られた旋法]]([[オリヴィエ・メシアン]])
* [[無調音楽]]([[新ウィーン楽派]])
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13,786 |
世界柔道選手権大会
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世界柔道選手権大会(せかいじゅうどうせんしゅけんたいかい、World Judo Championships)は、柔道の世界選手権大会である。通称“世界柔道”。国際柔道連盟(IJF)が主催する。
文字通り、柔道の世界一を決定する大会である。かねてよりこの大会の権威はオリンピックと同格で、現在でもIJFワールド柔道ツアーで最高峰に位置付けられている。
男子は1956年から、女子は1980年から開催されており、1987年からは男女とも同一大会で開催されている。オリンピックでは実施されない無差別級も同時に行われた。2008年には階級別とは別に無差別級のみの世界選手権大会が開催されて、そこでは初めて報奨金も贈られることになった。無差別級の世界選手権大会の場合は、参加各国とも4名まで選手を出場させることが出来る。2011年以降、無差別級の大会は開催されなくなったが、2017年に再開された。
2007年までは原則2年に一度であったが、2008年以降は毎年開催されている。
2010年から各国とも男女各階級で2名(総計14名)の代表を選出できたが、2013年からは男女ともに代表が最大で9名までに制限された。優勝者には6000ドル、2位には4000ドル、3位には2000ドルが授与される。2014年の世界選手権からは、メダリストの他にそのコーチにも賞金が支給されることになった。そのため、メダリストの賞金は従来より2割減となり、優勝者に4800ドル、そのコーチに1200ドル、2位に3200ドル、そのコーチに800ドル、3位に1600ドル、そのコーチに400ドルとなった。
2022年から今大会に出場する選手は、シニアの世界ランキングで100位以内、もしくはジュニアの世界ランキングで16位以内に入っていなければならない。
階級は無差別がある他はオリンピック柔道競技と同じである。大阪大会とカイロ大会では大会最終日の翌日にエキシビションとして国別団体戦が行われた。そのため、主催はIJFではなく全柔連とエジプト柔道連盟になっている。これは世界選手権には含まれないため、出場選手はベストメンバーでは必ずしもなかった。
(出典)
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世界柔道選手権大会は、柔道の世界選手権大会である。通称“世界柔道”。国際柔道連盟(IJF)が主催する。
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|開始年 =1956
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'''世界柔道選手権大会'''(せかいじゅうどうせんしゅけんたいかい、''World Judo Championships'')は、[[柔道]]の[[世界選手権大会]]である。通称“'''世界柔道'''”。[[国際柔道連盟]](IJF)が主催する。
== 概要 ==
文字通り、柔道の世界一を決定する大会である。かねてよりこの大会の権威は[[近代オリンピック|オリンピック]]と同格で、現在でも[[IJFワールド柔道ツアー]]で最高峰に位置付けられている。
[[男性|男子]]は[[1956年]]から、[[女性|女子]]は[[1980年]]から開催されており、[[1987年]]からは男女とも同一大会で開催されている。[[オリンピック柔道競技|オリンピック]]では実施されない[[無差別級]]も同時に行われた。[[2008年]]には階級別とは別に無差別級のみの世界選手権大会が開催されて、そこでは初めて報奨金も贈られることになった<ref>[http://www.intjudo.eu/pictures/calendar/279_1_4.pdf 2008 World Judo Open Championships]</ref>。無差別級の世界選手権大会の場合は、参加各国とも4名まで選手を出場させることが出来る<ref>[http://www.intjudo.eu/News/cikk24268 IJF Sports Organization Rules]</ref>。[[2011年]]以降、無差別級の大会は開催されなくなったが、[[2017年]]に再開された<ref>[https://www.ijf.org/competition/1529 World Championships Open Marrakech 2017]</ref>。
[[2007年]]までは原則2年に一度であったが、2008年以降は毎年開催されている。
[[2010年]]から各国とも男女各階級で2名(総計14名)の代表を選出できたが、[[2013年]]からは男女ともに代表が最大で9名までに制限された<ref>[http://www.intjudo.eu/upload/2012_12/09/135504769450545075/v_eng_competition_rules2013_2016.pdf ENG-Competition-Rules-2013-2016]</ref><ref>[http://www.intjudo.eu/upload/2012_12/10/135513584341063732/ijf___events_overview_2013_2016.pdf IJF - Events Overview 2013-2016]</ref>。優勝者には6000ドル、2位には4000ドル、3位には2000ドルが授与される。2014年の世界選手権からは、メダリストの他にそのコーチにも賞金が支給されることになった。そのため、メダリストの賞金は従来より2割減となり、優勝者に4800ドル、そのコーチに1200ドル、2位に3200ドル、そのコーチに800ドル、3位に1600ドル、そのコーチに400ドルとなった<ref>[http://www.intjudo.eu/cikk1768/cikk1774/cikk2693-Result_mutat 2014 WC - Chelyabinsk]</ref>。
2022年から今大会に出場する選手は、シニアの世界ランキングで100位以内、もしくはジュニアの世界ランキングで16位以内に入っていなければならない<ref>[https://www.ijf.org/competition/2298 Tashkent World Senior Championships 2022]</ref>。
==獲得ポイント==
{| class="wikitable"
|+
! 順位 !! ポイント
|-
! 優勝
| 2000
|-
! 2位
| 1400
|-
! 3位タイ
| 1000
|-
! 5位タイ
| 720
|-
! 7位タイ
| 520
|-
! ベスト16
| 320
|-
! ベスト32
| 240
|-
! 1試合勝利
| 200
|-
! 参加ポイント
| 20
|}
== 年表 ==
* [[1956年]] - 第1回大会が[[東京]]の[[蔵前国技館]]で開催される。当時は体重無差別のみのトーナメント戦で、エントリーもわずか21ヵ国31名であった。初代優勝者は[[夏井昇吉]](日本)。
* [[1961年]] - [[フランス]]・[[パリ]]で開催された第3回大会で、[[アントン・ヘーシンク]]([[オランダ|蘭]])が初の外国人王者に。
* [[1965年]] - この大会より体重別制が採用され、軽量級・中量級・重量級・無差別級の4階級で行われた。
* [[1967年]] - 体重別が軽量級・軽中量級・中量級・軽重量級・重量級・無差別級の6階級に細分化。
* [[1969年]] - 日本が全6階級を完全制覇。体重別制の採用以降で1ヵ国が金メダルを独占するのは、この大会と1973年大会(同じく日本)のみである。また、[[園田義男]]・[[園田勇|勇]](日本)が兄弟優勝を果たす(後に、1993年大会で[[中村佳央]]・[[中村行成|行成]]も兄弟金メダルを達成)。
* [[1975年]] - 新ルールにより、有効・効果のポイントと反則が採用された。
* [[1977年]] - 開催国[[スペイン]]が[[台湾]]選手団の入国を拒否し、これが政治問題へ発展。大会の1週間前になり突如、選手権の中止が決定された。
* [[1979年]] - 体重別が6階級から8階級へ変更され、各国とも各階級へのエントリーは1名のみとなった。また、[[藤猪省三]](日本)が史上初の4連覇を達成。
* [[1980年]] - 女子の第1回大会が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で開催され、女子柔道の盛んな欧州勢が金メダルを独占した。
* [[1981年]] - [[山下泰裕]](日本)が95kg超級と無差別級で優勝し、史上初の2階級制覇(男子では、後に1995年の[[ダビド・ドゥイエ]]([[フランス|仏]])や2001年の[[アレクサンドル・ミハイリン]]([[ロシア|露]])ら4選手が続いた)。
* [[1984年]] - [[イングリッド・ベルグマンス]]([[ベルギー|白]])が72kg超級と無差別で優勝して、女子では史上初の2階級制覇を達成(後に1987年の[[高鳳蓮]]([[中華人民共和国|中国]])と2010年の[[杉本美香]]([[日本]])が続いた)。
* [[1986年]] - ベルグマンスが無差別級で女子初の4連覇を達成。また軽量級の[[カレン・ブリッグス]]([[イギリス|英]])や中量級の[[ブリジット・ディディエ]]([[フランス|仏]])らも3連覇を果たし、女子柔道における欧州のレベルの高さを証明した。
* [[1987年]] - [[西ドイツ]]の[[エッセン]]で男子第15回大会と女子第5回大会を同時に開催。以降、世界選手権は男女共催となる。またこの大会の男子無差別級で[[小川直也]](日本)が男子史上最年少で優勝を果たし、初の10代(正確には19歳と7か月)チャンピオンとなった。
* [[1991年]] - [[岡田弘隆]](日本)が中量級で優勝。87年大会の軽中量級優勝に続く2回目の優勝で、無差別級を含まない2階級制覇として史上初の快挙であった(のちに[[古賀稔彦]](日本)や[[全己盈]]([[大韓民国|韓国]])が続いた)。
* [[1993年]] - 男子無差別級で[[ラファウ・クバツキ]]([[ポーランド|波]])が活躍。準決勝でが小川直也を破るなどして優勝し、日本が第4回大会(1965年)以来守り続けてきた無差別級のタイトルを獲得した。また、48kg級で[[谷亮子|田村亮子]](日本)が女子では史上最年少となる18歳1か月で優勝を果たした。
* [[1997年]] - 男子60kg級、[[北朝鮮]]のカンと[[ジョージア (国)|ジョージア]]のレワジシビリとの試合で、相手を投げたカンのポイントが相手方につき、これを抗議したカンが反則負けとなった。後日[[国際柔道連盟|IJF]]は誤審を認めるが、後の2000年[[シドニーオリンピック|シドニー五輪]]100kg超級決勝での誤審とともに、柔道大会史上「最悪の誤審」として今も認識されている。
* [[1999年]] - 体重別の区分を変更。またこの大会よりカラー柔道着を導入したほか、かねてからの批判を受けて柔道着の肩・背中・袖口の厚さチェックを実施し、これにより39人の選手が着替えを命じられた。同時に、一本勝を奨励する目的で、最も一本勝ちが多かった選手に対して“一本トロフィー(The Ippon Trophy)”が贈られる事となり、男子は[[篠原信一]]が、女子は[[前田桂子]](ともに日本)が受賞した。
* [[2001年]] - 谷亮子が大会史上初の5連覇を達成(翌2003年大会も優勝し、最終的に6連覇を果たす)。また男子軽量級では[[アニス・ルニフィ]]([[チュニジア|突]])が優勝し、アフリカに初めての金メダルをもたらした。
* [[2003年]] - [[ゴールデンスコア|ゴールデンスコア方式]]を導入。国別団体戦を初導入。([[2007年]]、[[2009年]]、[[2010年]]と、[[2011年]]以後の無差別級のみが開催された年を除く。ただし2003年と[[2005年]]は世界選手権とは別枠の扱いで行われた。[[世界柔道団体選手権大会|世界団体]]が個人戦の世界選手権と同時期に開催されるようになったのは2011年以後である)
* [[2005年]] - [[アフリカ]]で初めて選手権が開催され、世界選手権未開催の地域は、南極大陸を除けば[[オセアニア]]のみとなった。
* [[2007年]] - 100kg超級で[[テディ・リネール]]([[フランス|仏]])が18歳5か月で優勝して、男子における史上最年少優勝記録を更新した。
* [[2008年]] - 従来の隔年開催から毎年開催に。ただし2008年は[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]があったため、五輪で実施されていない無差別級のみが開催された。この大会では翌年1月のIJFルール改定を控え、効果ポイントの廃止やゴールデンスコアの試合時間短縮が試験導入された。また、敗者復活戦は実施されなかった。
* [[2009年]]
: - この大会より正式にルール改定が実施。敗者復活戦については実施するものの、簡略化してベスト8以上が出場要件となった。なお、この大会で日本男子が世界選手権の創設以初めて金メダル0に終わった。
: - 9月に[[マカオ]]で開催予定だった無差別選手権については、経済的理由により開催が中止された。
* [[2010年]] - 2008年より始まった[[ランキング制 (柔道)|ランキング制度]]の関係もあり各階級への出場者が各国2人までとなった(無差別は4人まで)。またIJFルールの大幅な改定に伴い、下半身等への攻撃が大幅に制限された<ref>{{PDFlink|[http://www.judo.or.jp/article/1336-newrule2010/attach/2010newijfrule0318.pdf 国際柔道連盟(IJF)試合審判規定改正]}}</ref>。なお、この大会では日本が史上最多となる金メダル10個を獲得した。
== 階級 ==
階級は無差別がある他は[[オリンピック柔道競技]]と同じである。大阪大会とカイロ大会では大会最終日の翌日に[[エキシビション]]として国別団体戦が行われた<ref>「これで君も柔道博士」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、2017年9月号 69頁</ref>。そのため、主催はIJFではなく[[全柔連]]とエジプト柔道連盟になっている。これは世界選手権には含まれないため、出場選手はベストメンバーでは必ずしもなかった<ref>[https://web.archive.org/web/20080211143712/http://www.fujitv.co.jp/sports/judo/gaiyou.html 世界柔道2003 大会概要]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20080922205200/http://www.fujitv.co.jp/sports/judo2005/gaiyou.html フジテレビ世界柔道特設サイト 大会概要]</ref>。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+男子
! 1956-1963 || 1965|| 1967-1975 || 1979-1997 || 1999-
|-
| rowspan="8" | 無差別級
| colspan="4" | 無差別級
|-
| rowspan="2" | 重量級<br />80 kg超
| 重量級<br />93 kg超
| 重量級<br />95 kg超
| 重量級<br />100 kg超
|-
| 軽重量級<br />93 kg以下
| 軽重量級<br />95 kg以下
| 軽重量級<br />100 kg以下
|-
|rowspan=2| 中量級<br />80 kg以下
| 中量級<br />80 kg以下
| 中量級<br />86 kg以下
| 中量級<br />90 kg以下
|-
| 軽中量級<br />70 kg以下
| 軽中量級<br />78 kg以下
| 軽中量級<br />81 kg以下
|-
|rowspan=3 | 軽量級<br />68 kg以下
|rowspan=3 | 軽量級<br />63 kg以下
| 軽量級<br />71 kg以下
| 軽量級<br />73 kg以下
|-
| 軽軽量級<br />65 kg以下
| 軽軽量級<br />66 kg以下
|-
| colspan=2|超軽量級<br />60 kg以下
|-
|}
{{Col-2}}
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+女子
! 1980-1997 || 1999-
|-
|colspan=2|無差別級
|-
| 重量級<br />72 kg超
| 重量級<br />78 kg超
|-
| 軽重量級<br />72 kg以下
| 軽重量級<br />78 kg以下
|-
| 中量級<br />66 kg以下
| 中量級<br />70 kg以下
|-
| 軽中量級<br />61 kg以下
| 軽中量級<br />63 kg以下
|-
| 軽量級<br />56 kg以下
| 軽量級<br />57 kg以下
|-
|colspan="2"| 軽軽量級<br />52 kg以下
|-
|colspan="2"| 超軽量級<br />48 kg以下
|-
|}
{{Col-end}}
== 歴代金メダリスト ==
=== 男子の歴代金メダリスト ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size: 90%"
|-
! 年度 !! 開催国 !! width=300| 無差別級 !! !! !! !! !! !! !!
|-
| [[1956年世界柔道選手権大会|1956]]|| {{flagicon|Japan}} || {{flagicon|JPN}} [[夏井昇吉]] || || || || || || ||
|-
| [[1958年世界柔道選手権大会|1958]]|| {{flagicon|Japan}} || {{flagicon|JPN}} [[曽根康治]] || || || || || || ||
|-
| [[1961年世界柔道選手権大会|1961]]|| {{flagicon|France}} || {{flagicon|NED}} [[アントン・ヘーシンク]] || || || || || || ||
|-
! !! !! width=300| 68 kg !! width=275| 80 kg !! width=300| +80 kg !! !! !! !! !! width=300| 無差別級
|-
| [[1965年世界柔道選手権大会|1965]]|| {{flagicon|Brazil}} || {{flagicon|JPN}} [[松田博文]] || |{{flagicon|JPN}} [[岡野功]] || {{flagicon|NED}} [[アントン・ヘーシンク]]|| || || || || {{flagicon|JPN}} [[猪熊功]]
|-
! !! !! width=300| 63 kg !! width=275| 70 kg !! width=300| 80 kg !! width=300| 93 kg !! width=300| +93 kg !! !! !! width=300| 無差別級
|-
| [[1967年世界柔道選手権大会|1967]]|| {{flagicon|USA}} || {{flagicon|JPN}} [[重岡孝文]] || {{flagicon|JPN}} [[湊谷弘]] || {{flagicon|JPN}} [[丸木英二]] || {{flagicon|JPN}} [[佐藤宣践]] || {{flagicon|NED}} [[ウィレム・ルスカ]] || || || {{flagicon|JPN}} [[松永満雄]]
|-
| [[1969年世界柔道選手権大会|1969]]|| {{flagicon|Mexico}} || {{flagicon|JPN}} [[園田義男]] || {{flagicon|JPN}} [[湊谷弘]] || {{flagicon|JPN}} [[園田勇]] || {{flagicon|JPN}} [[笹原富美雄]] || {{flagicon|JPN}}[[須磨周司]] |||| || {{flagicon|JPN}} [[篠巻政利]]
|-
| [[1971年世界柔道選手権大会|1971]]|| {{flagicon|Germany}} || {{flagicon|JPN}} [[川口孝夫]] || {{flagicon|JPN}} [[津沢寿志]] || {{flagicon|JPN}} [[藤猪省三]] || {{flagicon|JPN}} [[笹原富美雄]] || {{flagicon|NED}} [[ウィレム・ルスカ]] || || || {{flagicon|JPN}} [[篠巻政利]]
|-
| [[1973年世界柔道選手権大会|1973]]|| {{flagicon|Swiss}} || {{flagicon|JPN}} [[南喜陽]] || {{flagicon|JPN}} [[野村豊和]] || {{flagicon|JPN}} [[藤猪省三]] || {{flagicon|JPN}} [[佐藤宣践]] || {{flagicon|JPN}} [[高木長之助]] || || || {{flagicon|JPN}} [[二宮和弘]]
|-
| [[1975年世界柔道選手権大会|1975]]|| {{flagicon|Austria}} || {{flagicon|JPN}} [[南喜陽]] || {{flagicon|URS}} [[ウラジミール・ネフゾロフ]] || {{flagicon|JPN}} [[藤猪省三]] || {{flagicon|FRA}} [[ジャン=リュック・ルージェ]] || {{flagicon|JPN}} [[遠藤純男]] || || || {{flagicon|JPN}} [[上村春樹]]
|-
! !! !! width=300| 60 kg !! width=275| 65 kg !! width=300| 71 kg !! width=300| 78 kg !! width=300| 86 kg !! width=300| 95 kg !! width=300| +95 kg !! width=300| 無差別級
|-
| [[1979年世界柔道選手権大会|1979]]|| {{flagicon|France}} || {{flagicon|FRA}} [[ティエリー・レイ]] || {{flagicon|URS}} [[ニコライ・ソロドクリン|ニコライ・ソロドーヒン]] || {{flagicon|JPN}} [[香月清人]] || {{flagicon|JPN}} [[藤猪省三]] || {{flagicon|GDR}} [[デトレフ・ウルチ]] || {{flagicon|URS}} [[テンギズ・フブルーリ]] || {{flagicon|JPN}} [[山下泰裕]] || {{flagicon|JPN}} [[遠藤純男]]
|-
| [[1981年世界柔道選手権大会|1981]]|| {{flagicon|NED}} || {{flagicon|JPN}} [[森脇保彦]] || {{flagicon|JPN}} [[柏崎克彦]] || {{flagicon|KOR}} [[朴鐘学]] || {{flagicon|GBR}} [[ニール・アダムス (柔道)|ニール・アダムス]] || {{flagicon|FRA}} [[ベルナール・チュルーヤン]] || {{flagicon|URS}} [[テンギズ・フブルーリ]] || {{flagicon|JPN}} [[山下泰裕]] || {{flagicon|JPN}} [[山下泰裕]]
|-
| [[1983年世界柔道選手権大会|1983]]|| {{flagicon|USSR}} || {{flagicon|URS}} [[ハズレト・トレツェリ]] || {{flagicon|URS}} [[ニコライ・ソロドクリン|ニコライ・ソロドーヒン]] || {{flagicon|JPN}} [[中西英敏]] || {{flagicon|JPN}} [[日陰暢年]] || {{flagicon|GDR}} [[デトレフ・ウルチ]] || {{flagicon|GDR}} [[アンドレアス・プレシェル]] || {{flagicon|JPN}} [[山下泰裕]] || {{flagicon|JPN}} [[斉藤仁]]
|-
| [[1985年世界柔道選手権大会|1985]]|| {{flagicon|KOR}} || {{flagicon|JPN}} [[細川伸二]] || {{flagicon|URS}} [[ユーリ・ソコロフ]] || {{flagicon|KOR}} [[安柄根]] || {{flagicon|JPN}} [[日陰暢年]] || {{flagicon|AUT}} [[ペーター・ザイゼンバッハー]] || {{flagicon|JPN}} [[須貝等]] || {{flagicon|KOR}} [[趙容徹]] || {{flagicon|JPN}} [[正木嘉美]]
|-
| [[1987年世界柔道選手権大会|1987]]|| {{flagicon|Germany}} || {{flagicon|KOR}} [[金載燁]] || {{flagicon|JPN}} [[山本洋祐]] || {{flagicon|USA}} [[マイク・スウェイン]] || {{flagicon|JPN}} [[岡田弘隆]] || {{flagicon|FRA}} [[ファビアン・カヌ]] || {{flagicon|JPN}} [[須貝等]] || {{flagicon|URS}} [[グリゴリー・ベリチェフ]] || {{flagicon|JPN}} [[小川直也]]
|-
| [[1989年世界柔道選手権大会|1989]]|| {{flagicon|Yugoslavia}} || {{flagicon|URS}} [[アミラン・トチカシビリ]] || {{flagicon|YUG}} [[ドラゴミル・ベカノビッチ]] || {{flagicon|JPN}} [[古賀稔彦]] || {{flagicon|KOR}} [[金炳周]] || {{flagicon|FRA}} [[ファビアン・カヌ]] || {{flagicon|URS}} [[コバ・クルタニーゼ]] || {{flagicon|JPN}} [[小川直也]] || {{flagicon|JPN}} [[小川直也]]
|-
| [[1991年世界柔道選手権大会|1991]]|| {{flagicon|Spain}} || {{flagicon|JPN}} [[越野忠則]] || {{flagicon|GER}} [[ウド・クエルマルツ]] || {{flagicon|JPN}} [[古賀稔彦]] || {{flagicon|GER}} [[ダニエル・ラスカウ]] || {{flagicon|JPN}} [[岡田弘隆]] || {{flagicon|FRA}} [[ステファン・トレノー]] || {{flagicon|URS}} [[セルゲイ・コソロトフ]] || {{flagicon|JPN}} [[小川直也]]
|-
| [[1993年世界柔道選手権大会|1993]]|| {{flagicon|Canada}} || {{flagicon|JPN}} [[園田隆二]] || {{flagicon|JPN}} [[中村行成]] || {{flagicon|KOR}} [[鄭勲]] || {{flagicon|KOR}} [[全己盈]] || {{flagicon|JPN}} [[中村佳央]] || {{flagicon|HUN}} [[アンタル・コバチ]] || {{flagicon|FRA}} [[ダビド・ドゥイエ]] || {{flagicon|POL}} [[ラファウ・クバツキ]]
|-
| [[1995年世界柔道選手権大会|1995]]|| {{flagicon|Japan}} || {{flagicon|RUS}} [[ニコライ・オジョギン]] || {{flagicon|GER}} [[ウド・クエルマルツ]] || {{flagicon|JPN}} [[秀島大介]] || {{flagicon|JPN}} [[古賀稔彦]] || {{flagicon|KOR}} [[全己盈]] || {{flagicon|POL}} [[パウエル・ナツラ]] || {{flagicon|FRA}} [[ダビド・ドゥイエ]] || {{flagicon|FRA}} [[ダビド・ドゥイエ]]
|-
| [[1997年世界柔道選手権大会|1997]]|| {{flagicon|France}} || {{flagicon|JPN}} [[野村忠宏]] || {{flagicon|KOR}} [[金赫]] || {{flagicon|JPN}} [[中村兼三]] || {{flagicon|KOR}} [[趙麟徹]] || {{flagicon|KOR}} [[全己盈]] || {{flagicon|POL}} [[パウエル・ナツラ]] || {{flagicon|FRA}} [[ダビド・ドゥイエ]] || {{flagicon|POL}} [[ラファウ・クバツキ]]
|-
! !! !! width=300| 60 kg !! width=275| 66 kg !! width=300| 73 kg !! width=300| 81 kg !! width=300| 90 kg !! width=300| 100 kg !! width=300| +100 kg !! width=300| 無差別級
|-
| [[1999年世界柔道選手権大会|1999]]|| {{flagicon|GBR}} || {{flagicon|CUB}} [[マノロ・プロ]] || {{flagicon|FRA}} [[ラルビ・ベンブダウ]] || {{flagicon|USA}} [[ジミー・ペドロ]] || {{flagicon|GBR}} [[グレーム・ランドール]] || {{flagicon|JPN}} [[吉田秀彦]] || {{flagicon|JPN}} [[井上康生]] || {{flagicon|JPN}} [[篠原信一]] || {{flagicon|JPN}} [[篠原信一]]
|-
| [[2001年世界柔道選手権大会|2001]]|| {{flagicon|Germany}} || {{flagicon|TUN}} [[アニス・ルニフィ]] || {{flagicon|IRI}} [[アラシュ・ミレスマイリ]] || {{flagicon|RUS}} [[ビタリー・マカロフ]] || {{flagicon|KOR}} [[趙麟徹]] || {{flagicon|FRA}} [[フレデリック・デモンフォコン]] || {{flagicon|JPN}} [[井上康生]] || {{flagicon|RUS}} [[アレクサンドル・ミハイリン]] || {{flagicon|RUS}} [[アレクサンドル・ミハイリン]]
|-
| [[2003年世界柔道選手権大会|2003]]|| {{flagicon|Japan}} || {{flagicon|KOR}} [[崔敏浩]] || {{flagicon|IRI}} [[アラシュ・ミレスマイリ]] || {{flagicon|KOR}} [[李元熹]] || {{flagicon|GER}} [[フロリアン・ワナー]] || {{flagicon|KOR}} [[黄禧太]] || {{flagicon|JPN}} [[井上康生]] || {{flagicon|JPN}} [[棟田康幸]] || {{flagicon|JPN}} [[鈴木桂治]]
|-
| [[2005年世界柔道選手権大会|2005]]|| {{flagicon|Egypt}} || {{flagicon|GBR}} [[クレイグ・ファロン]] || {{flagicon|BRA}} [[ジョアン・デルリ]] || {{flagicon|HUN}} [[ブラウン・アーコシュ]] || {{flagicon|NED}} [[ギヨーム・エレモント]] || {{flagicon|JPN}} [[泉浩]] || {{flagicon|JPN}} [[鈴木桂治]] || {{flagicon|RUS}} [[アレクサンドル・ミハイリン]] || {{flagicon|NED}} [[デニス・ファンデルヘースト]]
|-
| [[2007年世界柔道選手権大会|2007]]|| {{flagicon|Brazil}} || {{flagicon|NED}} [[ルーベン・フーケス]] || {{flagicon|BRA}} [[ジョアン・デルリ]] || {{flagicon|KOR}} [[王己春]] || {{flagicon|BRA}} [[ティアゴ・カミロ]] || {{flagicon|GEO}} [[イラクリ・チレキゼ]] || {{flagicon|BRA}} [[ルシアーノ・コヘア]] || {{flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] || {{flagicon|JPN}} [[棟田康幸]]
|-
| [[2008年世界柔道選手権大会|2008]]|| {{flagicon|France}} || || || || || || || || {{flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]]
|-
| [[2009年世界柔道選手権大会|2009]]|| {{flagicon|Netherlands}} || {{flagicon|UKR}} [[ゲオルグリー・ザンタラヤ]] || {{flagicon|MGL}} [[ハシュバータル・ツァガンバータル]] || {{Flagicon|KOR}} [[王己春]] || {{Flagicon|RUS}} [[イワン・ニフォントフ]] || {{Flagicon|KOR}} [[李奎遠 (柔道)|李奎遠]] || {{Flagicon|KAZ}} [[マクシム・ラコフ]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] ||
|-
| [[2010年世界柔道選手権大会|2010]]|| {{flagicon|Japan}} || {{Flagicon|UZB}} [[リショド・ソビロフ]] || {{Flagicon|JPN}} [[森下純平]] || {{Flagicon|JPN}} [[秋本啓之]] || {{flagicon|KOR}} [[金宰範]] || {{flagicon|GRE}} [[イリアス・イリアディス]] || {{Flagicon|JPN}} [[穴井隆将]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] || {{Flagicon|JPN}} [[上川大樹]]
|-
| [[2011年世界柔道選手権大会|2011]]|| {{flagicon|France}} || {{Flagicon|UZB}} [[リショド・ソビロフ]] || {{Flagicon|JPN}} [[海老沼匡]] || {{Flagicon|JPN}} [[中矢力]] || {{flagicon|KOR}} [[金宰範]] || {{flagicon|GRE}} [[イリアス・イリアディス]] || {{Flagicon|RUS}} [[タギル・カイブラエフ]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] ||
|-
| [[2011年世界柔道選手権大会 (無差別)|2011]]|| {{flagicon|Russia}} || || || || || || || || {{Flagicon|UZB}} [[アブドゥロ・タングリエフ]]
|-
| [[2013年世界柔道選手権大会|2013]]|| {{flagicon|Brazil}} || {{flagicon|Japan}} [[高藤直寿]] || {{flagicon|Japan}} [[海老沼匡]] || {{Flagicon|JPN}} [[大野将平]] || {{Flagicon|FRA}} [[ロイク・ピエトリ]] || {{Flagicon|CUB}} [[アスレイ・ゴンサレス]] || {{Flagicon|AZE}} [[エルハン・ママドフ]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] ||
|-
| [[2014年世界柔道選手権大会|2014]]|| {{flagicon|Russia}} || {{flagicon|MGL}} [[ガンバット・ボルドバータル]] || {{flagicon|JPN}} [[海老沼匡]] || {{Flagicon|JPN}} [[中矢力]] || {{Flagicon|GEO}} [[アブタンディル・チリキシビリ]] || {{Flagicon|GRE}} [[イリアス・イリアディス]] || {{Flagicon|CZE}} [[ルカシュ・クルパレク]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] ||
|-
| [[2015年世界柔道選手権大会|2015]]|| {{flagicon|Kazakhstan}} || {{flagicon|KAZ}} [[エルドス・スメトフ]] || {{flagicon|KOR}} [[アン・バウル]] || {{Flagicon|JPN}} [[大野将平]] || {{Flagicon|JPN}} [[永瀬貴規]] || {{Flagicon|KOR}} [[郭同韓]] || {{Flagicon|JPN}} [[羽賀龍之介]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] ||
|-
| [[2017年世界柔道選手権大会|2017]]|| {{flagicon|Hungary}} || {{flagicon|JPN}} [[高藤直寿]] || {{flagicon|JPN}} [[阿部一二三]] || {{Flagicon|JPN}} [[橋本壮市]] || {{Flagicon|GER}} [[アレクサンダー・ヴィーツェルツァック]] || {{Flagicon|SRB}} [[ネマニャ・マイドフ]] || {{Flagicon|JPN}} [[ウルフ・アロン]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] ||
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| [[2017年世界柔道選手権大会 (無差別)|2017]]|| {{flagicon|Morocco}} || || || || || || || || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]]
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| [[2018年世界柔道選手権大会|2018]]|| {{flagicon|AZE}} ||{{Flagicon|JPN}} [[高藤直寿]] ||{{Flagicon|JPN}} [[阿部一二三]] || {{Flagicon|KOR}} [[安昌林]] || {{Flagicon|IRI}} [[サイード・モラエイ]] || {{Flagicon|ESP}} [[ニコロス・シェラザディシビリ]] || {{Flagicon|KOR}} [[チョ・グハム]] || {{Flagicon|GEO}} [[グラム・ツシシビリ]] ||
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| [[2019年世界柔道選手権大会|2019]]|| {{flagicon|JPN}} ||{{Flagicon|GEO}} [[ルフミ・チフビミアニ]] ||{{Flagicon|JPN}} [[丸山城志郎]] || {{Flagicon|JPN}} [[大野将平]] || {{Flagicon|ISR}} [[サギ・ムキ]] || {{Flagicon|NED}} [[ノエル・ファントエンド]] || {{Flagicon|POR}} [[ジョルジ・フォンセカ]] || {{Flagicon|CZE}} [[ルカシュ・クルパレク]] ||
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| [[2021年世界柔道選手権大会|2021]]|| {{flagicon|HUN}} ||ロシア柔道連盟(RJF) [[ヤゴ・アブラゼ]] ||{{Flagicon|JPN}} [[丸山城志郎]] || {{Flagicon|GEO}} [[ラシャ・シャフダトゥアシビリ]] || {{Flagicon|BEL}} [[マティアス・カス]] || {{Flagicon|ESP}} [[ニコロス・シェラザディシビリ]] || {{Flagicon|POR}} [[ジョルジ・フォンセカ]] || {{Flagicon|JPN}} [[影浦心]] ||
|-
| [[2022年世界柔道選手権大会|2022]]|| {{flagicon|UZB}} ||{{Flagicon|JPN}} [[高藤直寿]] ||{{Flagicon|JPN}} [[阿部一二三]] || {{Flagicon|MGL}} [[ツェンドオチル・ツォグトバータル]] || {{Flagicon|GEO}} [[タト・グリガラシビリ]] || {{Flagicon|UZB}} [[ダブラト・ボボノフ]] || {{Flagicon|UZB}} [[ムザファルベク・トゥロボエフ]] || {{Flagicon|CUB}} [[アンディ・グランダ]] ||
|-
| [[2023年世界柔道選手権大会|2023]]|| {{flagicon|QAT}} ||{{Flagicon|ESP}} [[フランシスコ・ガリゴス]] ||{{Flagicon|JPN}} [[阿部一二三]] || {{Flagicon|SUI}} [[ニルス・シュトゥンプ]] || {{Flagicon|GEO}} [[タト・グリガラシビリ]] || {{Flagicon|GEO}} [[ルカ・マイスラゼ]] || 中立選手(AIN) [[アルマン・アダミアン]] || {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]]中立選手(AIN) [[イナル・タソエフ]]
|}
=== 女子の歴代金メダリスト ===
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|-
! 年度 !! 開催国 !! width=300| 48 kg !! width=275| 52 kg !! width=300| 56 kg !! width=300| 61 kg !! width=300| 66 kg !! width=300| 72 kg !! width=300| +72 kg !! width=300| 無差別級
|-
| [[1980年世界柔道選手権大会|1980]]|| {{flagicon|USA}} || {{flagicon|GBR}} [[ジェーン・ブリッジ]] || {{flagicon|AUT}} [[エーディト・フロバット]] || {{flagicon|AUT}} [[ゲルダ・ヴィンクルバウアー]] || {{flagicon|NED}} [[アニタ・スタップス]] || {{flagicon|AUT}} [[エーディト・ジーモン]] || {{flagicon|FRA}} [[ジョセリーヌ・トリアドウ]] || {{flagicon|ITA}} [[マルゲリータ・ディカル]] || {{flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]]
|-
| [[1982年世界柔道選手権大会|1982]]|| {{flagicon|France}} || {{flagicon|GBR}} [[カレン・ブリッグス]] || {{flagicon|GBR}} [[ロレッタ・ドイル]] || {{flagicon|FRA}} [[ベアトリス・ロドリゲス]] || {{flagicon|FRA}} [[マルティーヌ・ロティエ]] || {{flagicon|FRA}} [[ブリジット・ディディエ]] || {{flagicon|FRG}} [[バルバラ・クラッセン]] || {{flagicon|FRA}} [[ナタリナ・ルピノ]] || {{flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]]
|-
| [[1984年世界柔道選手権大会|1984]]|| {{flagicon|Austria}} || {{flagicon|GBR}} [[カレン・ブリッグス]] || {{flagicon|JPN}} [[山口香]] || {{flagicon|USA}} [[アン・マリア・ラウジー・デマルス|アン=マリー・バーンズ]] || {{flagicon|VEN}} [[ナターサ・エルナンデス]] || {{flagicon|FRA}} [[ブリジット・ディディエ]] || {{flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]] || {{flagicon|ITA}} [[マリア・テレーザ・モッタ]] || {{flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]]
|-
| [[1986年世界柔道選手権大会|1986]]|| {{flagicon|Netherlands}} || {{flagicon|GBR}} [[カレン・ブリッグス]] || {{flagicon|FRA}} [[ドミニク・ブラン (柔道)|ドミニク・ブラン]] || {{flagicon|GBR}} [[アン・ヒューズ]] || {{flagicon|GBR}} [[ダイアン・ベル]] || {{flagicon|FRA}} [[ブリジット・ディディエ]] || {{flagicon|NED}} [[イレーネ・ドゥコック]] || {{flagicon|CHN}} [[高鳳蓮]] || {{flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]]
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| [[1989年世界柔道選手権大会|1989]]|| {{flagicon|Yugoslavia}} || {{flagicon|GBR}} [[カレン・ブリッグス]] || {{flagicon|GBR}} [[シャロン・レンドル]] || {{flagicon|FRA}} [[カトリーヌ・アルノー]] || {{flagicon|FRA}} [[カトリーヌ・フローリ]] || {{flagicon|ITA}} [[エマヌエーラ・ピエラントッツィ]] || {{flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]] || {{flagicon|CHN}} [[高鳳蓮]] || {{flagicon|CUB}} [[エステラ・ロドリゲス]]
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| [[1993年世界柔道選手権大会|1993]]|| {{flagicon|Canada}} || {{flagicon|JPN}} [[谷亮子|田村亮子]] || {{flagicon|CUB}} [[レグナ・ベルデシア]] || {{flagicon|GBR}} [[ニコラ・フェアブラザー]] || {{flagicon|BEL}} [[ジェラ・バンデカバイエ]] || {{flagicon|KOR}} [[曺敏仙]] || {{flagicon|CHN}} [[冷春慧]] || {{flagicon|GER}} [[ヨハンナ・ハーグン]] || {{flagicon|POL}} [[ベアタ・マクシモフ]]
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|-
| [[1997年世界柔道選手権大会|1997]]|| {{flagicon|France}} ||{{flagicon|JPN}} [[谷亮子|田村亮子]] || {{flagicon|FRA}} [[マリー=クレール・レストゥー]] || {{flagicon|ESP}} [[イサベル・フェルナンデス]] ||{{flagicon|FRA}} [[セブリーヌ・バンデネンド]] || {{flagicon|GBR}} [[ケイト・ホーウェイ]] || {{flagicon|JPN}} [[阿武教子]] || {{flagicon|FRA}} [[クリスティーヌ・シコ]] || {{flagicon|CUB}} [[ダイマ・ベルトラン]]
|-
! !! !! width=300| 48 kg !! width=275| 52 kg !! width=300| 57 kg !! width=300| 63 kg !! width=300| 70 kg !! width=300| 78 kg !! width=300| +78 kg !! width=300| 無差別級
|-
| [[1999年世界柔道選手権大会|1999]]|| {{flagicon|GBR}} || {{flagicon|JPN}} [[谷亮子|田村亮子]] || {{flagicon|JPN}} [[楢崎教子]] || {{flagicon|CUB}} [[ドリュリス・ゴンサレス]] || {{flagicon|JPN}} [[前田桂子]] || {{flagicon|CUB}} [[シベリス・ベラネス]] || {{flagicon|JPN}} [[阿武教子]] || {{flagicon|POL}} [[ベアタ・マクシモフ]] || {{flagicon|CUB}} [[ダイマ・ベルトラン]]
|-
| [[2001年世界柔道選手権大会|2001]]|| {{flagicon|Germany}} || {{flagicon|JPN}} [[谷亮子|田村亮子]] || {{flagicon|PRK}} [[ケー・スンヒ]] || {{flagicon|CUB}} [[ユリスレイディス・ルペティ]] || {{flagicon|BEL}} [[ジェラ・バンデカバイエ]] || {{flagicon|JPN}} [[上野雅恵]] || {{flagicon|JPN}} [[阿武教子]] || {{flagicon|CHN}} [[袁華]] || {{flagicon|FRA}} [[セリーヌ・ルブラン]]
|-
| [[2003年世界柔道選手権大会|2003]]|| {{flagicon|Japan}} || {{flagicon|JPN}} [[谷亮子|田村亮子]] || {{flagicon|CUB}} [[アマリリス・サボン]] || {{flagicon|PRK}} [[ケー・スンヒ]] || {{flagicon|ARG}} [[ダニエラ・クルコウェル]] || {{flagicon|JPN}} [[上野雅恵]] || {{flagicon|JPN}} [[阿武教子]] || {{flagicon|CHN}} [[孫福明]] || {{flagicon|CHN}} [[佟文]]
|-
| [[2005年世界柔道選手権大会|2005]]|| {{flagicon|Egypt}} || {{flagicon|CUB}} [[ヤネト・ベルモイ]] || {{flagicon|CHN}} [[李営]] || {{flagicon|PRK}} [[ケー・スンヒ]] || {{flagicon|FRA}} [[リュシ・デコス]] || {{flagicon|NED}} [[エディス・ボッシュ]] || {{flagicon|CUB}} [[ユリセル・ラボルデ]] || {{flagicon|CHN}} [[佟文]] || {{flagicon|JPN}} [[薪谷翠]]
|-
| [[2007年世界柔道選手権大会|2007]]|| {{flagicon|Brazil}} || {{flagicon|JPN}} [[谷亮子]] || {{flagicon|CHN}} [[石俊杰]] || {{flagicon|PRK}} [[ケー・スンヒ]] || {{flagicon|CUB}} [[ドリュリス・ゴンサレス]] || {{flagicon|FRA}} [[ジブリズ・エマヌ]] || {{flagicon|CUB}} [[ユリセル・ラボルデ]] || {{flagicon|CHN}} [[佟文]] || {{flagicon|JPN}} [[塚田真希]]
|-
| [[2008年世界柔道選手権大会|2008]]|| {{flagicon|France}} || || || || || || || || {{Flagicon|CHN}} [[佟文]]
|-
| [[2009年世界柔道選手権大会|2009]]|| {{flagicon|Netherlands}} || {{Flagicon|JPN}} [[福見友子]] || {{Flagicon|JPN}} [[中村美里]] || {{Flagicon|FRA}} [[モルガネ・リボー]] || {{Flagicon|JPN}} [[上野順恵]] || {{Flagicon|COL}} [[ジュリ・アルベアル]] || {{Flagicon|NED}} [[マリンド・フェルケルク]] || {{Flagicon|CHN}} [[佟文]] ||
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| [[2010年世界柔道選手権大会|2010]]|| {{flagicon|Japan}} || {{Flagicon|JPN}} [[浅見八瑠奈]] || {{Flagicon|JPN}} [[西田優香]] || {{Flagicon|JPN}} [[松本薫 (柔道)|松本薫]] || {{Flagicon|JPN}} [[上野順恵]] || {{flagicon|FRA}} [[リュシ・デコス]] || {{Flagicon|USA}} [[ケイラ・ハリソン]] || {{Flagicon|JPN}} [[杉本美香]] || {{Flagicon|JPN}} [[杉本美香]]
|-
| [[2011年世界柔道選手権大会|2011]]|| {{flagicon|France}} || {{Flagicon|JPN}} [[浅見八瑠奈]] || {{Flagicon|JPN}} [[中村美里]] || {{Flagicon|JPN}} [[佐藤愛子 (柔道)|佐藤愛子]] || {{Flagicon|FRA}} [[ジブリズ・エマヌ]] || {{flagicon|FRA}} [[リュシ・デコス]] || {{Flagicon|FRA}} [[オドレー・チュメオ]] || {{Flagicon|CHN}} [[佟文]] ||
|-
| [[2011年世界柔道選手権大会 (無差別)|2011]]|| {{flagicon|Russia}} || || || || || || || || {{Flagicon|CHN}} [[佟文]]
|-
| [[2013年世界柔道選手権大会|2013]]|| {{flagicon|Brazil}} || {{Flagicon|MGL}} [[ムンフバット・ウランツェツェグ]] || {{Flagicon|KOS}} [[マイリンダ・ケルメンディ]] || {{Flagicon|BRA}} [[ラファエラ・シルバ]] || {{Flagicon|ISR}} [[ヤーデン・ジェルビ]] || {{Flagicon|COL}} [[ジュリ・アルベアル]] || {{Flagicon|PRK}} [[薛京]] || {{Flagicon|CUB}} [[イダリス・オルティス]] ||
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| [[2014年世界柔道選手権大会|2014]]|| {{flagicon|Russia}} || {{Flagicon|JPN}} [[近藤亜美]] || {{Flagicon|KOS}} [[マイリンダ・ケルメンディ]] || {{Flagicon|JPN}} [[宇高菜絵]] || {{Flagicon|FRA}} [[クラリス・アグベニュー]] || {{Flagicon|COL}} [[ジュリ・アルベアル]] || {{Flagicon|BRA}} [[マイラ・アギアル]] || {{Flagicon|CUB}} [[イダリス・オルティス]] ||
|-
| [[2015年世界柔道選手権大会|2015]]|| {{flagicon|Kazakhstan}} || {{Flagicon|ARG}} [[パウラ・パレト]] || {{Flagicon|JPN}} [[中村美里]] || {{Flagicon|JPN}} [[松本薫 (柔道)|松本薫]] || {{Flagicon|SLO}} [[ティナ・トルステニャク]] || {{Flagicon|FRA}} [[ジブリズ・エマヌ]] || {{Flagicon|JPN}} [[梅木真美]] || {{Flagicon|CHN}} [[于頌]] ||
|-
| [[2017年世界柔道選手権大会|2017]]|| {{flagicon|Hungary}} || {{Flagicon|JPN}} [[渡名喜風南]] || {{Flagicon|JPN}} [[志々目愛]] || {{Flagicon|MGL}} [[ドルジスレン・スミヤ]] || {{Flagicon|FRA}} [[クラリス・アグベニュー]] || {{Flagicon|JPN}} [[新井千鶴]] || {{Flagicon|BRA}} [[マイラ・アギアル]] || {{Flagicon|CHN}} [[于頌]] ||
|-
| [[2017年世界柔道選手権大会 (無差別)|2017]]|| {{flagicon|Morocco}} || || || || || || || || {{Flagicon|JPN}} [[朝比奈沙羅]]
|-
| [[2018年世界柔道選手権大会|2018]]|| {{flagicon|AZE}} ||{{Flagicon|UKR}} [[ダリア・ビロディド]] || {{Flagicon|JPN}} [[阿部詩]] || {{Flagicon|JPN}} [[芳田司]] ||{{Flagicon|FRA}} [[クラリス・アグベニュー]] || {{Flagicon|JPN}} [[新井千鶴]] || {{Flagicon|JPN}} [[濵田尚里]]|| {{Flagicon|JPN}} [[朝比奈沙羅]] ||
|-
| [[2019年世界柔道選手権大会|2019]]|| {{flagicon|JPN}} ||{{Flagicon|UKR}} [[ダリア・ビロディド]] || {{Flagicon|JPN}} [[阿部詩]] || {{Flagicon|CAN}} [[出口クリスタ]] ||{{Flagicon|FRA}} [[クラリス・アグベニュー]] || {{Flagicon|FRA}} [[マリー=エヴ・ガイエ]] ||{{Flagicon|FRA}} [[マドレーヌ・マロンガ]] || {{Flagicon|JPN}} [[素根輝]] ||
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| [[2021年世界柔道選手権大会|2021]]|| {{flagicon|HUN}} ||{{Flagicon|JPN}} [[角田夏実]] || {{Flagicon|JPN}} [[志々目愛]] || {{Flagicon|CAN}} [[ジェシカ・クリムカイト]] ||{{Flagicon|FRA}} [[クラリス・アグベニュー]] || {{Flagicon|CRO}} [[バルバラ・マティッチ]] ||{{Flagicon|GER}} [[アンナ=マリア・ヴァーグナー]] || {{Flagicon|JPN}} [[朝比奈沙羅]] ||
|-
| [[2022年世界柔道選手権大会|2022]]|| {{flagicon|UZB}} ||{{Flagicon|JPN}} [[角田夏実]] || {{Flagicon|JPN}} [[阿部詩]] || {{Flagicon|BRA}} [[ラファエラ・シルバ]] ||{{Flagicon|JPN}} [[堀川恵]] || {{Flagicon|CRO}} [[バルバラ・マティッチ]] ||{{Flagicon|BRA}} [[マイラ・アギアル]] || {{Flagicon|FRA}} [[ロマヌ・ディッコ]] ||
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| [[2023年世界柔道選手権大会|2023]]|| {{flagicon|QAT}} ||{{Flagicon|JPN}} [[角田夏実]] || {{Flagicon|JPN}} [[阿部詩]] || {{Flagicon|CAN}} [[出口クリスタ]] ||{{Flagicon|FRA}} [[クラリス・アグベニュー]] || {{Flagicon|JPN}} [[新添左季]] ||{{Flagicon|ISR}} [[インバル・ラニル]] || {{Flagicon|JPN}} [[素根輝]] ||
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=== 男女混合団体戦 ===
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== 歴代の大会 ==
=== 男子大会 ===
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! width="16%"| 最多獲得メダル国
! width="16%"| 参加国・地域数
! width="16%"| 参加選手数
|-
| [[1956年]]
| [[5月3日]]
| [[1956年世界柔道選手権大会|第1回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[東京]], [[日本]]
| [[蔵前国技館]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
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| style="text-align:center"|31
|-
| [[1958年]]
| [[11月30日]]
| [[1958年世界柔道選手権大会|第2回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[東京]], [[日本]]
| [[東京体育館]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|18
| style="text-align:center"|39
|-
| [[1961年]]
| [[12月2日]]
| [[1961年世界柔道選手権大会|第3回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]], [[フランス]]
| クーベルタンスタジアム
| align="left"| {{Flagicon|NLD}} [[オランダ]]
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| style="text-align:center"|57
|-
| [[1965年]]
| [[10月14日|10月14]] - [[10月17日|17日]]
| [[1965年世界柔道選手権大会|第4回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]], [[ブラジル]]
| マラカナンジーニョ体育館
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|28
| style="text-align:center"|150
|-
| [[1967年]]
| [[8月9日|8月9]] - [[8月11日|11日]]
| [[1967年世界柔道選手権大会|第5回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|USA}} [[ソルトレイクシティ]], [[アメリカ合衆国]]
| ユタ大学体育館
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|29
| style="text-align:center"|129
|-
| [[1969年]]
| [[10月23日|10月23]] - [[10月25日|25日]]
| [[1969年世界柔道選手権大会|第6回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|MEX}} [[メキシコシティ]], [[メキシコ]]
| アリーナ・メヒコ
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|36
| style="text-align:center"|250
|-
| [[1971年]]
| [[9月2日|9月2]] - [[9月4日|4日]]
| [[1971年世界柔道選手権大会|第7回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRG}} [[ルートヴィヒスハーフェン]], [[西ドイツ]]
| フリードリヒ・エーベルト・ホール
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|49
| style="text-align:center"|
|-
| [[1973年]]
| [[6月22日|6月22]] - [[6月24日|24日]]
| [[1973年世界柔道選手権大会|第8回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|CHE}} [[ローザンヌ]], [[スイス]]
| ローザンヌ・スポーツ館
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|42
| style="text-align:center"|
|-
| [[1975年]]
| [[10月23日|10月23]] - [[10月25日|25日]]
| [[1975年世界柔道選手権大会|第9回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|AUT}} [[ウィーン]], [[オーストリア]]
| シュタットハレ体育館
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|42
| style="text-align:center"|
|-
| [[1977年]]
| colspan=2|''中止''
| align="left"| {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]], [[スペイン]]
|
|
|
|
|-
| [[1979年]]
| [[12月6日|12月6]] - [[12月9日|9日]]
| [[1979年世界柔道選手権大会|第11回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]], [[フランス]]
| クーベルタン・スタジアム
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|60
| style="text-align:center"|240
|-
| [[1981年]]
| [[9月3日|9月3]] - [[9月6日|6日]]
| [[1981年世界柔道選手権大会|第12回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|NLD}} [[マーストリヒト]], [[オランダ]]
| ユーロ・ホール
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|54
| style="text-align:center"|250
|-
| [[1983年]]
| [[10月13日|10月13]] - [[10月16日|16日]]
| [[1983年世界柔道選手権大会|第13回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|SSR1923}} [[モスクワ]], [[ソビエト連邦|ソ連]]
| ルジニキ・スポーツパレス
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|41
| style="text-align:center"|
|-
| [[1985年]]
| [[9月26日|9月26]] - [[9月29日|29日]]
| [[1985年世界柔道選手権大会|第14回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]], [[大韓民国|韓国]]
| [[蚕室体育館]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|37
| style="text-align:center"|
|}
=== 女子大会 ===
{| class="wikitable" width="80%"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! width="8%"| 年
! width="16%"| 月日
! width="16%"| 大会
! width="20%"| 開催都市, 国
! width="20%"| 会場
! width="16%"| 最多獲得メダル国
! width="16%"| 参加国・地域数
! width="16%"| 参加選手数
|-
| [[1980年]]
| [[11月29日|11月29]] - [[11月30日|30日]]
| [[1980年世界柔道選手権大会|女子第1回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|USA}} [[ニューヨーク]], [[アメリカ合衆国]]
| [[マディソン・スクエア・ガーデン]]
| align="left"| {{Flagicon|AUT}} [[オーストリア]]
| style="text-align:center"|27
| style="text-align:center"|135
|-
| [[1982年]]
| [[12月4日|12月4]] - [[12月5日|5日]]
| [[1982年世界柔道選手権大会|女子第2回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]], [[フランス]]
| クーベルタン・スタジアム
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]
| style="text-align:center"|35
| style="text-align:center"|174
|-
| [[1984年]]
| [[11月10日|11月10]] - [[11月11日|11日]]
| [[1984年世界柔道選手権大会|女子第3回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|AUT}} [[ウィーン]], [[オーストリア]]
| シュタットハレ体育館
| align="left"| {{Flagicon|BEL}} [[ベルギー]]
| style="text-align:center"|33
| style="text-align:center"|180
|-
| [[1986年]]
| [[10月24日|10月24]] - [[10月26日|26日]]
| [[1986年世界柔道選手権大会|女子第4回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|NLD}} [[マーストリヒト]], [[オランダ]]
| フセルト・スポーツホール
| align="left"| {{Flagicon|GBR}} [[イギリス]]
| style="text-align:center"|35
| style="text-align:center"|162
|}
=== 男女大会 ===
{| class="wikitable" width="80%"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! width="8%"| 年
! width="16%"| 月日
! width="16%"| 大会
! width="20%"| 開催都市, 国
! width="20%"| 会場
! width="16%"| 最多獲得メダル国
! width="16%"| 参加国・地域数
! width="16%"| 参加選手数
|-
| [[1987年]]
| [[11月19日|11月19]] - [[11月22日|22日]]
| [[1987年世界柔道選手権大会|第15回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRG}} [[エッセン]], [[西ドイツ]]
| グルガ・ホール
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|65
| style="text-align:center"|
|-
| [[1989年]]
| [[10月10日|10月10]] - [[10月15日|15日]]
| [[1989年世界柔道選手権大会|第16回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|YUG1945}} [[ベオグラード]], [[ユーゴスラビア]]
| ピオニール・ホール
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|61
| style="text-align:center"|
|-
| [[1991年]]
| [[7月25日|7月25]] - [[7月28日|28日]]
| [[1991年世界柔道選手権大会|第17回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]], [[スペイン]]
| [[パラウ・ブラウグラナ]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|57
| style="text-align:center"|487
|-
| [[1993年]]
| [[9月30日|9月30]] - [[10月3日]]
| [[1993年世界柔道選手権大会|第18回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|CAN}} [[ハミルトン (オンタリオ州)|ハミルトン]], [[カナダ]]
| コップス・コロシアム
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|78
| style="text-align:center"|
|-
| [[1995年]]
| [[9月28日|9月28]] - [[10月1日]]
| [[1995年世界柔道選手権大会|第19回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[千葉市|千葉]],[[日本]]
| [[幕張メッセ|幕張イベントホール]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|100
| style="text-align:center"|625
|-
| [[1997年]]
| [[10月9日|10月9]] - [[10月12日|12日]]
| [[1997年世界柔道選手権大会|第20回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]], [[フランス]]
| [[パレ・オムニスポール・ド・パリ・ベルシー|ベルシー体育館]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|92
| style="text-align:center"|531
|-
| [[1999年]]
| [[10月7日|10月7]] - [[10月10日|10日]]
| [[1999年世界柔道選手権大会|第21回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|GBR}} [[バーミンガム]], [[イギリス]]
| ナショナル・インドア・アリーナ
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|87
| style="text-align:center"|572
|-
| [[2001年]]
| [[7月26日|7月26]] - [[7月29日|29日]]
| [[2001年世界柔道選手権大会|第22回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|DEU}} [[ミュンヘン]], [[ドイツ]]
| オリンピア・ホール
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|88
| style="text-align:center"|554
|-
| [[2003年]]
| [[9月11日|9月11]] - [[9月14日|14日]]
| [[2003年世界柔道選手権大会|第23回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[大阪市|大阪]], [[日本]]
| [[大阪城ホール]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|97
| style="text-align:center"|671
|-
| [[2005年]]
| [[9月8日|9月8]] - [[9月11日|11日]]
| [[2005年世界柔道選手権大会|第24回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|EGY}} [[カイロ]], [[エジプト]]
| カイロ・スタジアム
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|93
| style="text-align:center"|544
|-
| [[2007年]]
| [[9月13日|9月13]] - [[9月16日|16日]]
| [[2007年世界柔道選手権大会|第25回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]], [[ブラジル]]
| [[ジュネス・アリーナ|HSBCアリーナ]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|138
| style="text-align:center"|748
|-
| [[2008年]]
| [[12月20日|12月20]] - [[12月21日|21日]]
| [[2008年世界柔道選手権大会|第26回大会]](無差別級のみ)
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[ルヴァロワ=ペレ]]
| マルセル・セルダン・スポーツパレス
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]
| style="text-align:center"|18
| style="text-align:center"|51
|-
| [[2009年]]
| [[8月26日|8月26]] - [[8月30日|30日]]
| [[2009年世界柔道選手権大会|第27回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|NLD}} [[ロッテルダム]], [[オランダ]]
| アホイ競技場
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|100
| style="text-align:center"|543
|-
| [[2010年]]
| [[9月9日|9月9]] - [[9月13日|13日]]
| [[2010年世界柔道選手権大会|第28回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[東京]], [[日本]]
| [[国立代々木競技場|国立代々木競技場 第一体育館]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|111
| style="text-align:center"|847
|-
| [[2011年]]
| [[8月23日|8月23]] - [[8月28日|28日]]
| [[2011年世界柔道選手権大会|第29回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]], [[フランス]]
| [[パレ・オムニスポール・ド・パリ・ベルシー|ベルシー体育館]]
| align="left"| {{Flagicon|FRA}} [[フランス]]
| style="text-align:center"|132
| style="text-align:center"|871
|-
| [[2011年]]
| [[10月29日|10月29]] - [[10月30日|30日]]
| [[2011年世界柔道選手権大会 (無差別)|第30回大会]](無差別級のみ)
| align="left"| {{Flagicon|RUS}} [[ロシア]], [[チュメニ]]
| オリンピック・トレーニングセンター
| align="left"| {{Flagicon|CHN}} [[中国]], {{Flagicon|UZB}} [[ウズベキスタン]]
| style="text-align:center"|21
| style="text-align:center"|40
|-
| [[2013年]]
| [[8月26日|8月26]] - [[9月1日]]
| [[2013年世界柔道選手権大会|第31回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]], [[ブラジル]]
| マラカナンジーニョ体育館
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|123
| style="text-align:center"|673
|-
| [[2014年]]
| [[8月25日|8月25]] - [[8月31日|31日]]
| [[2014年世界柔道選手権大会|第32回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|RUS}} [[チェリャビンスク]], [[ロシア]]
| トラクトール・アリーナ
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|110
| style="text-align:center"|637
|-
| [[2015年]]
| [[8月24日|8月24]] - [[8月30日|30日]]
| [[2015年世界柔道選手権大会|第33回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|KAZ}} [[アスタナ]], [[カザフスタン]]
| [[w:Alau Ice Palace|アラウ・アイスパレス]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|120
| style="text-align:center"|729
|-
| [[2017年]]
| [[8月28日|8月28]] - [[9月3日]]
| [[2017年世界柔道選手権大会|第34回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|HUN}} [[ブダペスト]], [[ハンガリー]]
| [[ブダペスト・スポーツアリーナ]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|126
| style="text-align:center"|731
|-
| [[2017年]]
| [[11月11日|11月11]] - [[11月12日|12日]]
| [[2017年世界柔道選手権大会 (無差別)|第35回大会]](無差別級のみ)
| align="left"| {{Flagicon|MOR}} [[マラケシュ]], [[モロッコ]]
| パレ・デ・コングレ
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|28
| style="text-align:center"|58
|-
| [[2018年]]
| [[9月20日|9月20]] - [[9月27日|27日]]
| [[2018年世界柔道選手権大会|第36回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|AZE}} [[バクー]], [[アゼルバイジャン]]
| ジムナスティック・アリーナ
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|129
| style="text-align:center"|800
|-
| [[2019年]]
| [[8月25日|8月25]] - [[9月1日]]
| [[2019年世界柔道選手権大会|第37回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[東京]], [[日本]]
| [[日本武道館]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|143
| style="text-align:center"|828
|-
| [[2021年]]
| [[6月6日|6月6]] - [[6月13日|13日]]
| [[2021年世界柔道選手権大会|第38回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|HUN}} [[ブダペスト]], [[ハンガリー]]
| [[ブダペスト・スポーツアリーナ]]
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|118
| style="text-align:center"|661
|-
| [[2022年]]
| [[10月6日|10月6]] - [[10月13日|13日]]
| [[2022年世界柔道選手権大会|第39回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|UZB}} [[タシケント]], [[ウズベキスタン]]
| アイスドーム
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|86
| style="text-align:center"|583
|-
| [[2023年]]
| [[5月7日|5月7]] - [[5月14日|14日]]
| [[2023年世界柔道選手権大会|第40回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|QAT}} [[ドーハ]], [[カタール]]
| ABHAアリーナ
| align="left"| {{Flagicon|JPN}} [[日本]]
| style="text-align:center"|99
| style="text-align:center"|657
|-
| [[2024年]]
| [[5月19日|5月19]] - [[5月24日|24日]]
| [[2024年世界柔道選手権大会|第41回大会]]
| align="left"| {{Flagicon|UAE}} [[アブダビ]], [[アラブ首長国連邦]]
|
|
| style="text-align:center"|
| style="text-align:center"|
|}
=== 最多メダル回数の国別一覧(男女合計) ===
{| class="wikitable" width="80%"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! width="8%"| 順位
! width="8%"| 国籍
! width="8%"| 回数
|-
| '''1''' ||align=left| {{flag|Japan}} || 33
|-
| '''2''' ||align=left| {{flag|France}} || 3
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|China}} || 1
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|Great Britain}} || 1
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|Netherlands}} || 1
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|Belgium}} || 1
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|Austria}} || 1
|- class="sortbottom"
!colspan=2|Total || 38
|}
=== メダル獲得数の国別一覧(男女合計) ===
{| class="wikitable collapsible autocollapse plainrowheaders" width=75% style="text-align:center;"
|- style="background-color:#EDEDED;"
! width=100px class="hintergrundfarbe5" | Rank
! width=200px class="hintergrundfarbe6" | Nation
! style="background: gold; width:13%" | Gold
! style="background: silver; width:13%" | Silver
! style="background: #CC9966; width:13%" | Bronze
! class="hintergrundfarbe6" style="width:13%" |Total
|-
| '''1''' ||align=left| {{flag|Japan}} || '''159''' || '''106''' || '''115''' || '''380'''
|-
| '''2''' ||align=left| {{flag|France}} || 58 || 37 || 80 || 175
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|South Korea}} || 29 || 9 || 61 || 99
|-
| '''4''' ||align=left| {{flag|China}} || 20 || 13 || 17 || 50
|-
| '''5''' ||align=left| {{flag|Cuba}} || 19 || 22 || 38 || 79
|-
| '''6''' ||align=left| {{flag|Great Britain}} || 16 || 19 || 32 || 67
|-
| '''7''' ||align=left| {{flag|Netherlands}} || 15 || 22 || 55 || 92
|-
| '''8''' ||align=left| ''{{flag|Soviet Union}}'' || 11 || 13 || 33 || 57
|-
| '''9''' ||align=left| {{flag|Belgium}} || 9 || 17 || 20 || 46
|-
| '''10''' ||align=left| {{flagicon|Brazil}} || 9 || 13 || 33 || 55
|-
| '''11''' ||align=left| {{flag|Germany}} || 8 || 13 || 27 || 48
|-
| '''12''' ||align=left| {{flag|Georgia}} || 8 || 12 || 23 || 43
|-
| '''13''' ||align=left| {{flag|Russia}} || 7 || 17 || 37 || 61
|-
| '''14''' ||align=left| {{flag|Poland}} || 6 || 3 || 25 || 34
|-
| '''15''' ||align=left| {{flag|Italy}} || 5 || 10 || 21 || 36
|-
| '''16''' ||align=left| {{flag|Spain}} || 5 || 10 || 12 || 27
|-
| '''17''' ||align=left| {{flag|Uzbekistan}} || 5 || 5 || 9 || 19
|-
| '''18''' ||align=left| {{flag|North Korea}} || 5 || 5 || 8 || 18
|-
| '''19''' ||align=left| {{flag|Mongolia}} || 5 || 4 || 20 || 29
|-
| '''20''' ||align=left| {{flag|United States}} || 4 || 8 || 17 || 29
|-
| '''21''' ||align=left| {{flag|Austria}} || 4 || 2 || 11 || 17
|-
| '''22''' ||align=left| {{flag|Ukraine}} || 3 || 4 || 11 || 18
|-
| '''23''' ||align=left| {{flag|Canada}} || 3 || 4 || 10 || 17
|-
| '''24''' ||align=left| {{flag|Israel}} || 3 || 4 || 7 || 14
|-
| '''25''' ||align=left| ''{{flag|East Germany}}'' || 3 || 3 || 14 || 20
|-
| '''26''' ||align=left| {{flag|Greece}} || 3 || 2 || 2 || 7
|-
| '''27''' ||align=left| {{flag|Iran}} || 3 || 0 || 5 || 8
|-
| '''28''' ||align=left| {{flag|Colombia}} || 3 || 0 || 3 || 6
|-
| '''29''' ||align=left| ''{{flag|West Germany}}'' || 2 || 10 || 25 || 37
|-
| '''30''' ||align=left| {{flag|Hungary}} || 2 || 7 || 17 || 26
|-
| rowspan=2| '''31''' ||align=left| {{flag|Kazakhstan}} || 2 || 5 || 7 || 14
|-
|align=left| {{flag|Portugal}} || 2 || 5 || 7 || 14
|-
| '''33''' ||align=left| {{flag|Argentina}} || 2 || 2 || 1 || 5
|-
| '''34''' ||align=left| {{flag|Czech Republic}} || 2 || 1 || 3 || 6
|-
| '''35''' ||align=left| {{flag|Croatia}} || 2 || 1 || 1 || 4
|-
| '''–''' ||align=left| ''[[Russia|中立選手(AIN)]]'' || 2 || 0 || 0 || 2
|-
| '''36''' ||align=left| {{flag|Azerbaijan}} || 1 || 6 || 17 || 24
|-
| '''37''' ||align=left| {{flag|Slovenia}} || 1 || 6 || 8 || 15
|-
| '''38''' ||align=left| {{flag|Switzerland}} || 1 || 2 || 3 || 6
|-
| '''39''' ||align=left| {{flag|Serbia}} || 1 || 1 || 2 || 4
|-
| '''40''' ||align=left| ''[[Russia|ロシア柔道連盟(RJF)]]'' || 1 || 1 || 1 || 3
|-
| '''41''' ||align=left| {{flag|Kosovo}} || 1 || 0 || 5 || 6
|-
| '''42''' ||align=left| {{flag|Tunisia}} || 1 || 0 || 4 || 5
|-
| '''43''' ||align=left| ''{{flag|Yugoslavia}}'' || 1 || 0 || 2 || 3
|-
| rowspan=2| '''44''' ||align=left| ''[[マイリンダ・ケルメンディ|IJF]]'' {{ref|NoteA|a}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
|align=left| {{flag|Venezuela}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
| '''46''' ||align=left| {{flag|Romania}} || 0 || 4 || 9 || 13
|-
| '''47''' ||align=left| {{flag|Turkey}} || 0 || 3 || 8 || 11
|-
| '''48''' ||align=left| {{flag|Australia}} || 0 || 3 || 3 || 6
|-
| '''49''' ||align=left| {{flag|Estonia}} || 0 || 3 || 1 || 4
|-
| '''50''' ||align=left| {{flag|Belarus}} || 0 || 2 || 7 || 9
|-
| '''51''' ||align=left| {{flag|Egypt}} || 0 || 2 || 3 || 5
|-
| rowspan=2| '''52''' ||align=left| ''{{flag|Czechoslovakia}}'' || 0 || 2 || 2 || 4
|-
|align=left| {{flag|Sweden}} || 0 || 2 || 2 || 4
|-
| '''54''' ||align=left| {{flag|Moldova}} || 0 || 1 || 4 || 5
|-
| '''55''' ||align=left| {{flag|Bulgaria}} || 0 || 1 || 3 || 4
|-
| rowspan=4| '''56''' ||align=left| {{flag|Algeria}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{flag|Bosnia and Herzegovina}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{flag|Norway}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{flag|Puerto Rico}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
| '''60''' ||align=left| {{flag|Montenegro}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
| rowspan=2| '''61''' ||align=left| {{flag|Chinese Taipei}} || 0 || 0 || 2 || 2
|-
|align=left| {{flag|United Arab Emirates}} || 0 || 0 || 2 || 2
|-
| rowspan=7| '''63''' ||align=left| {{flag|Armenia}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Finland}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Latvia}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Lithuania}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|New Zealand}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| ''{{flag|Serbia and Montenegro}}'' || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Tajikistan}} || 0 || 0 || 1 || 1
|- class="sortbottom"
!colspan=2|Total || 453 || 453 || 906 || 1812
|}
== メダル獲得数の国別一覧(男子) ==
{| class="wikitable collapsible autocollapse plainrowheaders" width=75% style="text-align:center;"
|- style="background-color:#EDEDED;"
! width=100px class="hintergrundfarbe5" | Rank
! width=200px class="hintergrundfarbe6" | Nation
! style="background: gold; width:13%" | Gold
! style="background: silver; width:13%" | Silver
! style="background: #CC9966; width:13%" | Bronze
! class="hintergrundfarbe6" style="width:13%" |Total
|-
| '''1''' ||align=left| {{flag|Japan}} || '''103''' || '''56''' || '''63''' || '''222'''
|-
| '''2''' ||align=left| {{flag|France}} || 24 || 17 || 28 || 69
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|South Korea}} || 24 || 8 || 43 || 75
|-
| '''4''' ||align=left| ''{{flag|Soviet Union}}'' || 11 || 12 || 33 || 56
|-
| '''5''' ||align=left| {{flag|Georgia}} || 8 || 12 || 23 || 43
|-
| '''6''' ||align=left| {{flag|Netherlands}} || 8 || 11 || 19 || 38
|-
| '''7''' ||align=left| {{flag|Russia}} || 7 || 14 || 27 || 48
|-
| '''8''' ||align=left| {{flag|Germany}} || 5 || 6 || 12 || 23
|-
| '''9''' ||align=left| {{flag|Uzbekistan}} || 5 || 4 || 9 || 18
|-
| '''10''' ||align=left| {{flagicon|Brazil}} || 4 || 7 || 16 || 27
|-
| '''11''' ||align=left| {{flag|Poland}} || 4 || 2 || 14 || 20
|-
| '''12''' ||align=left| {{flag|Cuba}} || 3 || 6 || 9 || 18
|-
| '''13''' ||align=left| {{flag|Great Britain}} || 3 || 4 || 13 || 20
|-
| '''14''' ||align=left| ''{{flag|East Germany}}'' || 3 || 3 || 14 || 20
|-
| '''15''' ||align=left| {{flag|Mongolia}} || 3 || 3 || 10 || 16
|-
| '''16''' ||align=left| {{flag|Spain}} || 3 || 2 || 3 || 8
|-
| '''17''' ||align=left| {{flag|Greece}} || 3 || 2 || 1 || 6
|-
| '''18''' ||align=left| {{flag|Iran}} || 3 || 0 || 5 || 8
|-
| '''19''' ||align=left| {{flag|Hungary}} || 2 || 5 || 11 || 18
|-
| '''20''' ||align=left| {{flag|Kazakhstan}} || 2 || 5 || 4 || 11
|-
| '''21''' ||align=left| {{flag|United States}} || 2 || 3 || 7 || 12
|-
| '''22''' ||align=left| {{flag|Czech Republic}} || 2 || 1 || 2 || 5
|-
| '''23''' ||align=left| {{flag|Portugal}} || 2 || 0 || 3 || 5
|-
| '''–''' ||align=left| ''[[Russia|中立選手(AIN)]]'' || 2 || 0 || 0 || 2
|-
| '''24''' ||align=left| {{flag|Belgium}} || 1 || 8 || 11 || 20
|-
| '''25''' ||align=left| {{flag|Azerbaijan}} || 1 || 6 || 14 || 21
|-
| '''26''' ||align=left| {{flag|Ukraine}} || 1 || 3 || 9 || 13
|-
| '''27''' ||align=left| {{flag|Israel}} || 1 || 2 || 3 || 6
|-
| '''28''' ||align=left| {{flag|Switzerland}} || 1 || 2 || 1 || 4
|-
| '''29''' ||align=left| {{flag|Austria}} || 1 || 1 || 4 || 6
|-
| rowspan=2|'''30''' ||align=left| ''[[Russia|ロシア柔道連盟(RJF)]]'' || 1 || 1 || 1 || 3
|-
|align=left| {{flag|Serbia}} || 1 || 1 || 1 || 3
|-
| rowspan=2| '''32''' ||align=left| {{flag|Tunisia}} || 1 || 0 || 2 || 3
|-
|align=left| ''{{flag|Yugoslavia}}'' || 1 || 0 || 2 || 3
|-
| '''34''' ||align=left| {{flag|Italy}} || 0 || 7 || 9 || 16
|-
| '''35''' ||align=left| ''{{flag|West Germany}}'' || 0 || 5 || 13 || 18
|-
| '''36''' ||align=left| {{flag|Canada}} || 0 || 3 || 7 || 10
|-
| '''37''' ||align=left| {{flag|Turkey}} || 0 || 3 || 5 || 8
|-
| '''38''' ||align=left| {{flag|North Korea}} || 0 || 3 || 4 || 7
|-
| '''39''' ||align=left| {{flag|Estonia}} || 0 || 3 || 1 || 4
|-
| '''40''' ||align=left| {{flag|Belarus}} || 0 || 2 || 6 || 8
|-
| '''41''' ||align=left| {{flag|Egypt}} || 0 || 2 || 3 || 5
|-
| '''42''' ||align=left| ''{{flag|Czechoslovakia}}'' || 0 || 2 || 2 || 4
|-
| rowspan=2| '''43''' ||align=left| {{flag|Moldova}} || 0 || 1 || 4 || 5
|-
| align=left| {{flag|Romania}} || 0 || 1 || 4 || 5
|-
| rowspan=2| '''45''' ||align=left| {{flag|Bulgaria}} || 0 || 1 || 2 || 3
|-
|align=left| {{flag|Sweden}} || 0 || 1 || 2 || 3
|-
| rowspan=3| '''47''' ||align=left| {{flag|Algeria}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
|align=left| {{flag|Montenegro}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
|align=left| {{flag|Slovenia}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
| '''50''' ||align=left| {{flag|China}} || 0 || 0 || 3 || 3
|-
| '''51''' ||align=left| {{flag|United Arab Emirates}} || 0 || 0 || 2 || 2
|-
| rowspan=6| '''52''' ||align=left| {{flag|Armenia}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Chinese Taipei}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Finland}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Latvia}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Lithuania}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Tajikistan}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|- class="sortbottom"
!colspan=2|Total || 245 || 245 || 490 || 980
|}
== メダル獲得数の国別一覧(女子) ==
{| class="wikitable collapsible autocollapse plainrowheaders" width=75% style="text-align:center;"
|- style="background-color:#EDEDED;"
! width=100px class="hintergrundfarbe5" | Rank
! width=200px class="hintergrundfarbe6" | Nation
! style="background: gold; width:13%" | Gold
! style="background: silver; width:13%" | Silver
! style="background: #CC9966; width:13%" | Bronze
! class="hintergrundfarbe6" style="width:13%" |Total
|-
| '''1''' ||align=left| {{flag|Japan}} || '''56''' || '''50''' || '''52''' || '''158'''
|-
| '''2''' ||align=left| {{flag|France}} || 34 || 20 || '''52''' || 106
|-
| '''3''' ||align=left| {{flag|China}} || 20 || 13 || 14 || 47
|-
| '''4''' ||align=left| {{flag|Cuba}} || 16 || 16 || 29 || 61
|-
| '''5''' ||align=left| {{flag|Great Britain}} || 13 || 15 || 19 || 47
|-
| '''6''' ||align=left| {{flag|Belgium}} || 8 || 9 || 9 || 26
|-
| '''7''' ||align=left| {{flag|Netherlands}} || 7 || 11 || 36 || 54
|-
| '''8''' ||align=left| {{flagicon|Brazil}}|| 5 || 6 || 17 || 28
|-
| '''9''' ||align=left| {{flag|Italy}} || 5 || 3 || 12 || 20
|-
| '''10''' ||align=left| {{flag|North Korea}} || 5 || 2 || 4 || 11
|-
| '''11''' ||align=left| {{flag|South Korea}} || 5 || 1 || 18 || 24
|-
| '''12''' ||align=left| {{flag|Germany}} || 3 || 7 || 15 || 25
|-
| '''13''' ||align=left| {{flag|Austria}} || 3 || 1 || 7 || 11
|-
| '''14''' ||align=left| {{flag|Canada}} || 3 || 1 || 3 || 7
|-
| '''15''' ||align=left| {{flag|Colombia}} || 3 || 0 || 3 || 6
|-
| '''16''' ||align=left| {{flag|Spain}} || 2 || 8 || 9 || 19
|-
| '''17''' ||align=left| ''{{flag|West Germany}}'' || 2 || 5 || 12 || 19
|-
| '''18''' ||align=left| {{flag|United States}} || 2 || 5 || 10 || 17
|-
| '''19''' ||align=left| {{flag|Israel}} || 2 || 2 || 4 || 8
|-
| '''20''' ||align=left| {{flag|Argentina}} || 2 || 2 || 1 || 5
|-
| '''21''' ||align=left| {{flag|Poland}} || 2 || 1 || 11 || 14
|-
| '''22''' ||align=left| {{flag|Mongolia}} || 2 || 1 || 10 || 13
|-
| '''23''' ||align=left| {{flag|Ukraine}} || 2 || 1 || 2 || 5
|-
| '''24''' ||align=left| {{flag|Croatia}} || 2 || 1 || 1 || 4
|-
| '''25''' ||align=left| {{flag|Slovenia}} || 1 || 5 || 8 || 14
|-
| '''26''' ||align=left| {{flag|Kosovo}} || 1 || 0 || 5 || 6
|-
| rowspan=2| '''27''' ||align=left| ''[[マイリンダ・ケルメンディ|IJF]]'' {{ref|NoteA|a}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
|align=left| {{flag|Venezuela}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
| '''29''' ||align=left| {{flag|Portugal}} || 0 || 5 || 4 || 9
|-
| '''30''' ||align=left| {{flag|Russia}} || 0 || 3 || 10 || 13
|-
| '''31''' ||align=left| {{flag|Romania}} || 0 || 3 || 5 || 8
|-
| '''32''' ||align=left| {{flag|Australia}} || 0 || 3 || 3 || 6
|-
| '''33''' ||align=left| {{flag|Hungary}} || 0 || 2 || 6 || 8
|-
| rowspan=3| '''34''' ||align=left| {{flag|Bosnia and Herzegovina}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{flag|Norway}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{flag|Puerto Rico}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
| rowspan=3| '''37''' ||align=left| ''{{flag|Soviet Union}}'' || 0 || 1 || 0 || 1
|-
|align=left| {{flag|Sweden}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
|align=left| {{flag|Uzbekistan}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
| rowspan=3| '''40''' ||align=left| {{flag|Azerbaijan}} || 0 || 0 || 3 || 3
|-
|align=left| {{flag|Kazakhstan}} || 0 || 0 || 3 || 3
|-
|align=left| {{flag|Turkey}} || 0 || 0 || 3 || 3
|-
| rowspan=2| '''43''' ||align=left| {{flag|Switzerland}} || 0 || 0 || 2 || 2
|-
|align=left| {{flag|Tunisia}} || 0 || 0 || 2 || 2
|-
| rowspan=9| '''45''' ||align=left| {{flag|Algeria}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Belarus}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Bulgaria}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Chinese Taipei}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Czech Republic}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Greece}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|New Zealand}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{flag|Serbia}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| ''{{flag|Serbia and Montenegro}}'' || 0 || 0 || 1 || 1
|- class="sortbottom"
!colspan=2|Total || 208 || 208 || 416 || 832
|}
== 同一国の選手同士による決勝対決 ==
{| class="wikitable"
! 階級 !! 国籍 !! 優勝選手 !! 2位
|-
! colspan=7 |[[1956年世界柔道選手権大会|第1回大会(1956年)]]
|-
|男子無差別級||{{JPN}}||[[夏井昇吉]]||[[吉松義彦]]
|-
! colspan=7 |[[1958年世界柔道選手権大会|第2回大会(1958年)]]
|-
|男子無差別級||{{JPN}}||[[曽根康治]]||[[神永昭夫]]
|-
! colspan=7 |[[1965年世界柔道選手権大会|第4回大会(1965年)]]
|-
|男子軽量級||{{JPN}}||[[松田博文]]||[[湊谷弘]]
|-
|男子中量級||{{JPN}}||[[岡野功]]||[[山中圏一]]
|-
! colspan=7 |[[1967年世界柔道選手権大会|第5回大会(1967年)]]
|-
|男子63kg以下級||{{JPN}}||[[重岡孝文]]||[[松田博文]]
|-
|男子93kg以下級||{{JPN}}||[[佐藤宣践]]||[[佐藤治]]
|-
! colspan=7 |[[1969年世界柔道選手権大会|第6回大会(1969年)]]
|-
|男子63kg以下級||{{JPN}}||[[園田義男]]||[[野村豊和]]
|-
|男子70kg以下級||{{JPN}}||[[湊谷弘]]||[[河野義光]]
|-
|男子80kg以下級||{{JPN}}||[[園田勇]]||[[平尾勝司]]
|-
! colspan=7 |[[1971年世界柔道選手権大会|第7回大会(1971年)]]
|-
|男子63kg以下級||{{JPN}}||[[川口孝夫]]||[[野村豊和]]
|-
|男子70kg以下級||{{JPN}}||[[津沢寿志]]||[[湊谷弘]]
|-
|男子80kg以下級||{{JPN}}||[[藤猪省三]]||[[重松義成]]
|-
|男子93kg以下級||{{JPN}}||[[笹原富美雄]]||[[佐藤宣践]]
|-
! colspan=7 |[[1973年世界柔道選手権大会|第8回大会(1973年)]]
|-
|男子63kg以下級||{{JPN}}||[[南喜陽]]||[[川口孝夫]]
|-
|男子80kg以下級||{{JPN}}||[[藤猪省三]]||[[園田勇]]
|-
|男子93kg以下級||{{JPN}}||[[佐藤宣践]]||[[上口孝文]]
|-
|男子無差別級||{{JPN}}||[[二宮和弘]]||[[上村春樹]]
|-
! colspan=7 |[[1975年世界柔道選手権大会|第9回大会(1975年)]]
|-
|男子63kg以下級||{{JPN}}||[[南喜陽]]||[[柏崎克彦]]
|-
|男子70kg以下級||{{URS}}||[[ウラジミール・ネフゾロフ]]||[[ワレリー・ドボイニコフ]]
|-
|男子80kg以下級||{{JPN}}||[[藤猪省三]]||[[原吉実]]
|-
|男子無差別級||{{JPN}}||[[上村春樹]]||[[二宮和弘]]
|-
! colspan=7 |[[2010年世界柔道選手権大会|第28回大会(2010年)]]
|-
|女子48kg以下級||{{JPN}}||[[浅見八瑠奈]]||[[福見友子]]
|-
|女子52kg以下級||{{JPN}}||[[西田優香]]||[[中村美里]]
|-
|女子63kg以下級||{{JPN}}||[[上野順恵]]||[[田中美衣]]
|-
! colspan=7 |[[2011年世界柔道選手権大会|第29回大会(2011年)]]
|-
|女子48kg以下級||{{JPN}}||[[浅見八瑠奈]]||[[福見友子]]
|-
|女子52kg以下級||{{JPN}}||[[中村美里]]||[[西田優香]]
|-
|女子78kg超級||{{CHN}}||[[佟文]]||[[秦茜]]
|-
! colspan=7 |[[2015年世界柔道選手権大会|第33回大会(2015年)]]
|-
|男子60kg以下級||{{KAZ}}||[[エルドス・スメトフ]]||[[ルスタム・イブラエフ]]
|-
|男子73kg以下級||{{JPN}}||[[大野将平]]||[[中矢力]]
|-
! colspan=7 |[[2017年世界柔道選手権大会|第34回大会(2017年)]]
|-
|女子52kg以下級||{{JPN}}||[[志々目愛]]||[[角田夏実]]
|-
! colspan=7 |[[2018年世界柔道選手権大会|第36回大会(2018年)]]
|-
|女子52kg以下級||{{JPN}}||[[阿部詩]]||[[志々目愛]]
|-
! colspan=7 |[[2021年世界柔道選手権大会|第38回大会(2021年)]]
|-
|女子48kg以下級||{{JPN}}||[[角田夏実]]||[[古賀若菜]]
|-
|女子78kg超級||{{JPN}}||[[朝比奈沙羅]]||[[冨田若春]]
|-
! colspan=7 |[[2022年世界柔道選手権大会|第39回大会(2022年)]]
|-
|男子66kg以下級||{{JPN}}||[[阿部一二三]]||[[丸山城志郎]]
|-
|女子70kg以下級||{{CRO}}||[[バルバラ・マティッチ]]||[[ララ・ツヴェトコ]]
|-
! colspan=7 |[[2023年世界柔道選手権大会|第40回大会(2023年)]]
|-
|男子66kg以下級||{{JPN}}||[[阿部一二三]]||[[丸山城志郎]]
|-
|男子90kg以下級||{{GEO}}||[[ルカ・マイスラゼ]]||[[ラシャ・ベカウリ]]
|}
== 個人記録 ==
{| class="wikitable"
!Category
!男子
!女子
|-
! 最多優勝
|'''11回'''
* {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] : (100kg超級9回, 無差別級2回)
|'''7回'''
* {{Flagicon|JPN}} [[谷亮子]] : (48kg級)
* {{Flagicon|CHN}} [[佟文]] : (78kg超級4回, 無差別級3回)
|-
! 最多連覇
|'''8連覇'''
* {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] : (100kg超級)
|'''6連覇'''
* {{Flagicon|JPN}} [[谷亮子]] : (48kg級)
|-
! 最多メダル獲得者
|'''12個'''
* {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] : (金11, 銀1)
|'''11個'''
* {{Flagicon|BEL}} [[イングリッド・ベルグマンス]] : (金6, 銀4, 銅1)
|-
! 最年少優勝
|
* {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] : 18歳159日(2007年100kg超級)
|
* {{Flagicon|UKR}} [[ダリア・ビロディド]] : 17歳345日(2018年48kg級)
|-
!最年長優勝
|
* {{Flagicon|FRA}} [[テディ・リネール]] : 34歳36日(2023年100kg超級)
|
* {{Flagicon|CUB}} [[ドリュリス・ゴンサレス]] : 33歳358日(2007年63kg級)
|-
! 最年少メダリスト
|
* {{Flagicon|AZE}} [[ニジャット・シハリザダ]] : 16歳334日(2005年60kg級3位)
|
* {{Flagicon|JPN}} [[江崎史子]] : 15歳29日(1986年48kg級2位)
|-
!最年長メダリスト
|
* {{Flagicon|URS}} [[ビタリー・クズネツォフ]] : 38歳299日(1979年無差別級2位)
|
* {{Flagicon|ESP}} [[イサベル・フェルナンデス]] : 35歳226日(2007年57kg級2位)
|-
!兄弟優勝
|
* {{Flagicon|JPN}} [[園田義男]] :(1969年軽量級)
* {{Flagicon|JPN}} [[園田勇]] :(1969年中量級)
* {{Flagicon|JPN}} [[中村佳央]] :(1993年86kg級)
* {{Flagicon|JPN}} [[中村行成]] :(1993年65kg級)
* {{Flagicon|JPN}} [[中村兼三]] :(1997年71kg級)
* {{Flagicon|JPN}} [[阿部一二三]] :(2017年、2018年、2022年、2023年66kg級)
|
* {{Flagicon|JPN}} [[上野雅恵]] :(2001年、2003年70kg級)
* {{Flagicon|JPN}} [[上野順恵]] :(2009年、2010年63kg級)
* {{Flagicon|JPN}} [[阿部詩]] :(2018年、2019年、2022年、2023年52kg級)
|}
== 金メダル獲得選手上位一覧 ==
{| class="wikitable"
! 順位 !! 選手 !! 国籍 !! 金メダル !! 銀メダル !! 銅メダル !! 総計
|-
| 1 || align="left"| [[テディ・リネール]] || {{FRA}} || 11 || 1 || 0 || 12
|-
| rowspan=2| 2 || align="left"| [[谷亮子]] || {{JPN}} || 7 || 0 || 1 || 8
|-
| align="left"| [[佟文]] || {{CHN}} || 7 || 0 || 1 || 8
|-
| 4 || align="left"| [[イングリッド・ベルグマンス]] || {{BEL}} || 6 || 4 || 1 || 11
|-
| rowspan=2| 5 || align="left"| [[高鳳蓮]] || {{CHN}} || 4 || 1 || 1 || 6
|-
| align="left"| [[ケー・スンヒ]] || {{PRK}} || 4 || 1 || 1 || 6
|-
| 7 || align="left"| [[クラリス・アグベニュー]] || {{FRA}} || 4 || 0 || 2 || 6
|-
| rowspan=2| 8 || align="left"| [[阿武教子]] || {{JPN}} || 4 || 1 || 0 || 5
|-
| align="left"| [[カレン・ブリッグス]] || {{GBR}} || 4 || 1 || 0 || 5
|-
| 10 || align="left"| [[小川直也]] || {{JPN}} || 4 || 0 || 3 || 7
|}
(出典<ref name="judobase">[http://www.judobase.org/ judobase.org]</ref>)
== 主要各国の年代別金メダル数の変遷 ==
=== 男子 ===
{| class="wikitable"
! 国 !! 1956-1969 !! 1971-1979 !! 1981-1989 !! 1991-1999 !! 2001-2009 !! 2010-2019 !! 2021-2029
|-
|[[日本]]||16||19||19||15||7||22||5
|-
|[[オランダ]]||3||1||0||0||2||1
|-
|[[フランス]]||0||2||3||6||3||8||1
|-
|[[韓国]]||0||0|||5||6||7||6
|-
|[[ロシア]]||-||-|||-||1||5||1
|-
|[[ジョージア (国)|ジョージア]]||-||-||-||0||1||3||4
|-
|[[ソ連]]||0||3||7||1||-||-
|-
|[[ドイツ]]||-||-||-||3||1||1
|-
|[[モンゴル]]||0||0||0||0||1||1
|-
|[[ブラジル]]||0||0||0||0||4||0
|}
=== 女子 ===
{| class="wikitable"
! 国 !! 1980-1989 !! 1991-1999 !! 2001-2009 !! 2010-2019 !! 2021-2029
|-
|[[日本]]||1||8||12||25||10
|-
|[[フランス]]||11||5||4||10||3
|-
|[[イギリス]]||11||2||0||0
|-
|[[ベルギー]]||6||1||1||0
|-
|[[オランダ]]||3||2||2||0
|-
|[[キューバ]]||1||7||6||2
|-
|[[中国]]||5||2||7||4
|-
|[[韓国]]||0||5||0||0
|-
|[[北朝鮮]]||0||0||4||1
|-
|[[ブラジル]]||0||0||0||3||2
|-
|[[モンゴル]]||0||0||0||2
|}
== 日本でのテレビ中継 ==
* [[1979年]]のパリ大会以降、毎回[[日本放送協会|NHK]]で中継していたが、[[1995年]]の千葉大会は民放の[[テレビ朝日]]系列([[All-nippon News Network|ANN]])で中継された。それ以降の[[1997年]]の[[パリ]]([[フランス]])大会、[[1999年]]の[[バーミンガム]]([[イギリス]])大会、[[2001年]]の[[ミュンヘン]]([[ドイツ]])大会まで3大会連続で再び[[日本放送協会|NHK]]で放送していたが、[[2003年]]大阪大会以後[[フジテレビジョン]]系列([[フジネットワーク|FNS]])が地上波(フジテレビ)・衛星([[BSフジ]])・[[衛星放送|CS]]([[フジテレビONE]]・[[フジテレビTWO]])の3波体制で独占中継している。(無差別級のみの開催となった[[2008年]]は中継がなかった)
* 基本的に生中継。2010年は午後8時台-9時台にかけて放送されているため、一部は録画(撮って出し)となる。
* 中継の進行役は2003年と[[2005年]]は[[藤原紀香]]と[[加藤晴彦]]。[[2007年]]は[[坂口憲二]]と[[平井理央]]フジテレビアナウンサー。なお藤原は、2007年はスペシャルサポーターとして出演(2003年と2007年は司会者も現地から出演している)。2009年以後は平井が総合進行、[[吉田秀彦]](柔道家)がスペシャルコメンテーターという形で総合司会をしている。2005年カイロ大会から男女1人ずつのマスコットキャラクターが登場し、視聴者からの応募によりそれぞれ「せおいくん」と「ともえちゃん」と名づけられた。2007年大会では日本人がメダル獲得した際には[[松山三四六]]がインタビュアーとして参加する。
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]中継のテーマソングは2009年〜現在まで[[エイジアエンジニア]]のPROJECT AE with sugiurumnが起用されている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.ijf.org/ 国際柔道連盟公式サイト]
{{世界柔道選手権大会}}
{{柔道の国際大会}}
[[Category:世界柔道選手権大会|*せかいせんしゆけん]]
[[Category:世界選手権|しゆうとう]]
|
2003-08-22T17:37:07Z
|
2023-12-17T04:15:41Z
| false | false | false |
[
"Template:FlagIOC",
"Template:世界柔道選手権大会",
"Template:Flagicon",
"Template:KOR",
"Template:FRA",
"Template:URS",
"Template:Reflist",
"Template:PDFlink",
"Template:柔道の国際大会",
"Template:Col-2",
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"Template:Flag",
"Template:CRO",
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"Template:BRA",
"Template:ISR"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9F%94%E9%81%93%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%A4%A7%E4%BC%9A
|
13,788 |
さいたま市議会
|
さいたま市議会(さいたましぎかい、英語: Saitama City Council)は、埼玉県の県庁所在地で政令指定都市であるさいたま市の市議会である。
4年。
中選挙区制を採用。
2023年5月10日時点
2001年のさいたま市発足当初は、合併特例法の規定による在任特例が適用され、合併した浦和市、大宮市、与野市の市議会議員が引き続き新しい市の議員を務め、その定数は102であった。合算すれば最大勢力になる自由民主党の議員は組織合同がうまく進まず、議会内会派としては四分五裂の状態にあった。
第一回の市議会議員一般選挙は、統一地方選挙の前半戦のひとつとして、2003年4月に行われた。総定数は64に減員された。その内訳は、西区5、北区8、大宮区7、見沼区9、中央区5、桜区6、浦和区8、南区10、緑区6であった。自由民主党は、選挙直後に系列の議員をあわせ、自由民主党・彩政会という会派を創設した。2005年4月1日、岩槻市がさいたま市に編入され単独で岩槻区となり、同区選出の市議会議員定数として7が設けられたことにより、議員総定数は71に増加した。なお、同区選出議員の増員選挙は5月に市長選挙と同日に行われた。2006年12月に議員総定数を64に戻した条例改正により、2007年の市議会一般選挙より適用することを定めた。これに伴い、岩槻区および他の区の定数が是正され、西区4、北区7、大宮区6、見沼区8、桜区5、南区9、岩槻区6とそれぞれ1議席減となった。
2008年10月には、条例を改正し議員総定数を64から60に削減、大宮区5、浦和区7、南区8、緑区5とそれぞれ1議席減らし、2011年の市議会一般選挙より適用することを定めた。さらに選挙直前の2011年3月、国勢調査の速報値に基づき、南区を8から9に戻し、岩槻区を6から5に減員した条例の改正案が緊急可決され、この定数が適用される形で市議会一般選挙が執行された。
2022年12月には、条例を改正し議員総定数を変更せずに、緑区を5から6に増員して桜区を5から4に減員した条例の改正案が可決され、2023年の市議会一般選挙より適用することを定めた。
2015年4月の市議会一般選挙では、北区選挙区の立候補者が定数7と同数(現職6・前職1)となり、さいたま市議会発足以来初めての無投票当選となった。また、同時に執行される埼玉県議会議員一般選挙の南第4区(さいたま市北区)選挙区の立候補者も定数2と同数(現職2)であったため、こちらも無投票当選となった。さいたま市の設置後、統一地方選挙で行われる同市の行政区内の選挙がすべて無投票となる初の事例となった。
2017年1月、最大会派であった自民党市議団内では旧大宮市域からの選出議員を中心とした一派が市長選挙に桶本大輔議長を擁立し、一派側の議員が議長ポストに就くことを画策していたものの、すでに元衆議院議員の中森福代が立候補を表明しており、保守分裂を嫌った桶本議長が固辞したため内紛が発生した。自民党内では市長候補者擁立を進めていたが、市議団長の鶴崎敏康は会派に通知なく自民党の埼玉県連に候補者の擁立断念を通達、3月には鶴崎団長を中心とする一派の議員が自民党市議団を離反して新会派「自民党真政市議団」が発足して分裂した。
その結果民進党系の会派・「民進改革」が最大会派となり、政令指定都市の市議会で唯一の民進党系の会派が最大会派となる市議会となった。同年5月の市長選では、現職で民進系の清水勇人市長が3選した。その後同年7月、自民真政は民進改革と結託し、桶本議長への不信任動議を提出し、対抗する形で自民が議長の信任動議を提出したものの、公明と共産は退席し、民進改革と自民真政の反対多数により信任動議が否決、体調を崩し緊急入院していた桶本議長は辞職願を提出し議長辞職に追い込まれた。こうして民進改革の協力により、自民真政は当初の目的であった自らの会派に属する新藤信夫を新議長に選出することとなった(自民真政は第4会派)。ところが2018年6月には第1会派である「立憲・国民・無所属の会」(民進改革が2018年に会派名変更)側から議長交代を要求された。結局は自民も立民・国民系には議長を譲れないと自民真政の議長続投に賛成し、新藤が1年半以上議長を続けることになった。そのため、最大会派は立憲・国民系、議長は野党である自民からさらに分裂した自民真政から選出されるという複雑な議会運営となった。
2019年4月7日に投開票された市議会一般選挙では、自民23、公明11、立民11、共産7、国民3、社民1、無所属4(うち「無所属・無党派」2)と、共産党が1人減らして初の議席獲得となった社民党が1人増えた以外、政党の獲得議席数に変化がなかった。しかし、選挙後初の議会となった5月の臨時市議会で、自民と自民真政の組織合同が出来ず、議長は引き続き自民真政、副議長は立憲・国民・無所属の会から会派名を変更した「民主改革」から選出されるという改選前と変わらない状態が続いた。結果として、最大会派である「民主改革」に加えて第3会派の公明党と、本来第4会派である「自民真政」が、巨大な市長与党を形成した。
2020年9月、自民と自民真政は2021年の次期市長選挙をにらみ、候補者として前回の市長選挙に擁立する予定だった元市議会議長の桶本大輔(旧浦和市域選出)に出馬を要請、桶本は市長選出馬に意欲を示し自民市議団の団長を辞して会派を離脱した。12月に入ると桶本が、「自民党埼玉県連から推薦を得ることが難しく、見送ることにした」として市長選の立候補を断念することが明らかになり、翌年1月にさいたま自民は「候補者の擁立を断念した」と表明したことで、自民党系の候補者の擁立は自民と自民彩成で探すことになった。選挙直前の4月になると、自民党埼玉県連は「候補者を擁立せず自主投票とする」こととし、埼玉県議在職中は自民党に籍を置いていた清水を実質的に「友情支援」することとした。また、独自の候補者の擁立を模索してきた自民も、擁立を断念することを明らかにした。
2022年11月、最大会派の民主改革から旧浦和市域選出の議員2名が会派離脱して、「さいたま未来市議団」を設立(後に「地域政党さいたま未来プロジェクト」に発展)したことで所属議員数が15となり、第2会派のさいたま自民と同数となった。これにより、最大会派(共に市政与党)が2つとなった。
2023年4月、市議会一般選挙投開票。上記のとおり、緑区を5から6に増員して桜区を5から4に減員した定数で執行することになった。その結果、自民19、公明11、立民12、共産6、維新4、社民1、さいたま未来1、無所属6(うち「無所属・無党派」2)、国民0、参政0と、自民党が4人に共産党と地域政党のさいたま未来プロジェクトがそれぞれ1人減らして、立民党が1人と初の議席獲得となった日本維新の会が4人増えた事で、政党の獲得議席数に大きな変動があった。
選挙後初の議会となった2023年5月臨時会では、自民党会派の会派統合はなく引き続き市政与党の「さいたま自民」と市政野党の「自民」の分裂状態ままであるものの、所属議員の数は「さいたま自民」が10、「自民」が9と拮抗する形となった。立民を中心とする市政与党会派は「民主改革」から「立憲民主・無所属の会」に会派名を改めた。また、社民党と地域政党のさいたま未来プロジェクトは無所属で活動することになったが、臨時会後にさいたま未来プロジェクトは無所属の議員2人を迎えて新会派「無所属みらい」を立ち上げた。だが、立憲民主・無所属の会は第一会派にもかかわらず議長・副議長を出さなかった。
特記なき場合「歴代議長・副議長」による。
2003年の初当選以来、度々不規則な発言で議事の進行を妨げ、不適切かつ不穏当な発言を行い懲罰処分を繰り返し受けている北区選出の議員・吉田一郎(無所属・無党派)は、2018年に入りより悪質な発言を行い、議会が紛糾する事態が度々発生している。
<市立図書館長への暴言に対する懲罰および辞職勧告>
2018年2月20日、文教委員会において吉田の質問に答えた市立中央図書館の館長に対して、吉田は不服を表して「首をつって死ね」と発言し、翌21日の同委員会の臨時会で吉田はこの発言を取り消して謝罪した。これに対し同年2月28日、「議員として極めて不適切な発言である」として自民党系の2市議団から吉田に対する議員辞職勧告決議案が提出された。吉田は「ちゃんとした答弁がないと感じ、カッとなってしまった。非常に不謹慎だった」と釈明したが、さいたま市教育委員会の教育長は「館長は誠実な答弁だった。人権を侵害する発言で、断固抗議する」と発言した。3月12日、市議会は懲罰特別委員会を開き、「発言は著しく不適切だ」として、会期終了までの間、吉田を出席停止処分(通算3回目)にすることを決め、3月15日の本会議にて可決された。さらに3月16日には自民党系の2市議団から提出された議員辞職勧告決議案が一旦撤回されて、「議員としてあるまじき暴言」・「市議会の品位を著しく汚した」として市議会全5会派による共同提出議案として再提出され、賛成多数で議員辞職勧告決議を可決した。市議会議員の辞職勧告決議を可決されたのは、さいたま市議会としては初めてとなった。また併せて提出された「さいたま市議会に対する市民の信頼回復に向けた決議」案を全会一致で可決した。
<障害者の市議への暴言>
同年10月19日、午前の本会議において、障害者への医療費支給に所得制限を設ける「さいたま市心身障害者医療費支給条例の一部を改正する条例」案についての討論で、吉田は賛成の討論を行った。その際、支給に所得制限を設ける条例改正に賛意を示しつつ、吉田と同じ北区選出で車椅子を使用している傳田ひろみ市議(立憲民主党。2023年に退任)の方を手で示し、「でも、障害者でも中には、こっちにいますけども、年収1354万5千円の車いすに乗っている障害者の方がいらっしゃるわけですよ。こういった高収入のブルジョア障害者の方は、外していただいても構わないわけですよ」と発言、審議が一時紛糾した。その後の休憩中、新藤信夫議長(自由民主党真政さいたま市議団)から「不穏当発言である」と厳重注意を受けた。吉田は同日、「品がない言い方で心情を害した方には申し訳ない」と表現に関して謝罪した。吉田は差別の意図については否定したが、傳田は「侮蔑的な表現で障害者差別につながる」と不快感を示した。
<他の議員を愚弄する暴言>
同年12月21日、本会議おいて、一般会計補正予算案の関連議案として提出した、議員報酬等の引き上げを行う「さいたま市議会の議員の議員報酬、期末手当及び費用弁償に関する条例の一部を改正する条例」案についての討論で、吉田は反対の討論を行った。この際、「この議案に賛成する議員はペテン師だ」と発言し、審議が紛糾。新藤信夫議長はこの発言を「不適切である」として取り消しを求め、自席に戻るよう指示した。しかし吉田は議長の指示に従わず発言を続行したため、他の市議が討論打ち切りの動議を提出し、これを可決して吉田を演壇から強制降壇する形で討論を中止させた。議員報酬引き上げ条例案は総合政策委員会で継続審査となったものの、予算案に盛り込まれたまま予算委員会で可決していたため、吉田は「条例案が継続審査なのに予算だけ先に可決するのはおかしい。統一地方選が終わるまで待ってから可決するつもりとしか思えない」と主張、「ペテン師」発言については「議会のやり方に関してだから(過去の不適切発言とは)全然関係ない」「問題ないと思っている」と話している。
合併協議当初、旧浦和・大宮・与野3市の市議会で1997年に決議された「合併促進決議」では、浦和を『行政の中心』、大宮を『経済の中心』、与野を『情報発信(文化)の中心』とすることが明記された。 しかし大宮側は市名を「さいたま市」にすることに同意する交換条件として、新市の市役所を「さいたま新都心周辺」へ移転することを主張、浦和側は猛反発した。
このような事情から、合併協定書では「新市の事務所(市役所)の位置は、当分の間、現在の浦和市役所の位置とする」「将来の新市の事務所の位置については、さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ、検討するものとする」等の文言が加えられた。これは浦和側、大宮側それぞれで解釈が異なる玉虫色の文言となった。
現在の本庁舎は、2016年(平成28年)12月から2019年(平成31年)2月にかけて約50億円をかけ耐震工事を行った。
合併後、庁内での検討会議等でも大きな動きはなかったが、2017年頃の市議会の構成変化により、旧大宮側の議員が多くを占める勢力が多数派となったことで、本庁舎整備に関する議論が再燃することとなった。
2021年2月、清水市長は「合併から30周年となる2031年を目途に、さいたま新都心バスターミナルほか街区へ市役所本庁舎の移転を目指す」と表明した。浦和の地元団体等が説明不足と反発する中、2022年4月28日、臨時議会にて長時間の審議がなされ、「将来的にさいたま市役所の所在地については、さいたま新都心にふさわしい住居表示の実施を検討すること」とする旨の付帯決議案が出されるなどして、同日深夜に庁舎位置変更の議案が可決されることとなった(条例は規則で定める日から施行とされている)。
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"text": "2021年2月、清水市長は「合併から30周年となる2031年を目途に、さいたま新都心バスターミナルほか街区へ市役所本庁舎の移転を目指す」と表明した。浦和の地元団体等が説明不足と反発する中、2022年4月28日、臨時議会にて長時間の審議がなされ、「将来的にさいたま市役所の所在地については、さいたま新都心にふさわしい住居表示の実施を検討すること」とする旨の付帯決議案が出されるなどして、同日深夜に庁舎位置変更の議案が可決されることとなった(条例は規則で定める日から施行とされている)。",
"title": "庁舎整備に関する議論"
}
] |
さいたま市議会は、埼玉県の県庁所在地で政令指定都市であるさいたま市の市議会である。
|
{{Infobox Legislature
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| name = さいたま市議会
| native_name = さいたましぎかい
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| logo_pic= Flag of Saitama, Saitama.svg
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| logo_caption = さいたま市旗
| house_type = 一院制
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| foundation = 2001年
| preceded_by = 浦和市議会、大宮市議会、与野市議会、岩槻市議会
| new_session =
| leader1_type = 第20代 議長
| leader1 = 江原大輔
| party1 = さいたま市議会自由民主党市議団
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| leader2_type = 第20代 副議長
| leader2 = 神坂達成
| party2 = 公明党さいたま市議会議員団
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| members = 60
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| political_groups1 =
{{legend|{{The Democratic Party/meta/color}}|[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主]]・無所属の会さいたま市議団(12)}}
{{legend|{{New Komeito Party/meta/color}}|[[公明党|公明党さいたま市議会議員団]] (11)}}
{{legend|{{Liberal Democratic Party (Japan)/meta/color}}|さいたま市議会[[自由民主党 (日本)|自由民主党議員団]] (10)}}
{{legend|{{Liberal Democratic Party (Japan)/meta/color}}|自由民主党さいたま市議会議員団 (9)}}
{{legend|{{Japanese Communist Party/meta/color}}|[[日本共産党|日本共産党さいたま市議会議員団]] (6)}}
{{legend|{{Initiatives from Osaka/meta/color}}|[[日本維新の会]]さいたま市議団 (4)}}
{{legend|{{Independent (politician)/meta/color}}|[[無所属]] (5)}}
{{legend|{{Independent (politician)/meta/color}}|無所属みらい(3)}}
| committees1 = '''常任委員会 (7)'''
* 総合政策委員会
* 文教委員会
* 市民生活委員会
* 保健福祉委員会
* まちづくり委員会
* 予算委員会
* 議会運営委員会
| term_length = 4年
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| salary =
| voting_system1 = [[中選挙区制]]
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| next_election1 =
| redistricting =
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| session_room = Saitama-City-Hall.jpg
| session_res =
| meeting_place = [[埼玉県]][[さいたま市]][[浦和区]][[常盤 (さいたま市)|常盤]]6-4-4
| constitution =
| website = [https://www.city.saitama.jp/gikai/ さいたま市議会]
| footnotes =
}}
'''さいたま市議会'''(さいたましぎかい、{{lang-en|Saitama City Council}}<ref>公式表記。[http://www.city.saitama.jp/gikai/ さいたま市議会]を参照。</ref>)は、[[埼玉県]]の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]で[[政令指定都市]]である[[さいたま市]]の[[日本の地方議会|市議会]]である。
== 概要 ==
=== 任期 ===
4年。
=== 選出方法 ===
[[中選挙区制]]を採用。
=== 会派 ===
==== 会派構成・議席数 ====
2023年7月28日時点
{| class="wikitable sortable" border="1"
|-
!会派名!!会派代表者!!議員数!!所属党派!!女性議員数!!女性議員の比率(%)
|-
|立憲民主・無所属の会さいたま市議団||阪本克己||12
||[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]11、[[無所属]]1||7||53.84
|-
|公明党さいたま市議会議員団||上三信彰||11||[[公明党]]||2||18.18
|-
|さいたま市議会自由民主党市議団||鶴崎敏康||10||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||1||10.0
|-
|自由民主党さいたま市議会議員団||[[都築龍太]]||9||自由民主党||1||11.11
|-
|日本共産党さいたま市議会議員団||松村敏夫||6||[[日本共産党]]||4||66.66
|-
|日本維新の会さいたま市議団||吉村豪介||4||[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]||0||0
|-
|無所属|| ||5||無所属・無党派2、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]1、無所属2
||0||0
|-
|無所属みらい||中山欽哉||3||無所属2、地域政党さいたま未来プロジェクト1||1||33.33
|-
! 計 !!!!60!!!!16!!26.66
|}
=== 委員会 ===
; 常任委員会
* 総合政策委員会
* 文教委員会
* 市民生活委員会
* 保健福祉委員会
* まちづくり委員会
* 予算委員会
* 議会運営委員会
; 特別委員会
* 政治倫理特別委員会
* 議会改革推進特別委員会
* 大都市行財政将来ビジョン特別委員会
* 地下鉄7号線延伸事業特別委員会
* 超齢社会に向けた公共交通の在り方検討特別委員会
* 大宮駅グランドセントラルステーション化構想特別委員会
* 市庁舎等整備検討特別委員会
* 決算特別委員会
; 法定外委員会
* 議会広報編集委員会
== 各選挙区の定数・選出議員 ==
* 任期 [[2023年]]5月1日 - [[2027年]]4月30日
{| class="wikitable" border="1"
!選挙区!!定数!!選出議員
|-
|[[西区 (さいたま市)|西区]] || style="text-align:center" | 4 ||上三信彰(公・6)、稲川智美(さ〔自〕・3)、金井康博(さ〔自〕・3)、出雲圭子(立無〔立〕・2)
|-
|[[北区 (さいたま市)|北区]] || style="text-align:center" | 7 ||[[吉田一郎]](無〔無党〕・6)、伊藤仕(自・4)、川崎照正(さ〔自〕・2)、関ひろみ(公・2)、相川綾香(立無〔立〕・1)、[[永井里菜]](立無〔立〕・1)、堀川友良(維・1)
|-
|[[大宮区]] || style="text-align:center" | 5 ||新藤信夫(さ〔自〕・6)、渋谷佳孝(さ〔自〕・4)、西山幸代(立無〔立〕・4)、佐伯加寿美(立無〔立〕・2)、服部剛(公・2)
|-
|[[見沼区]] || style="text-align:center" | 8 ||鶴崎敏康(さ〔自〕・9)、中山欽哉(無み〔無〕・8)、小森谷優(公・5)、三神尊志(立無〔立〕・5)、高子景(さ〔自〕・3)、斉藤健一(公・3)、鳥羽恵(共・2)、佐々木郷美(立無〔立〕・1)
|-
|[[中央区 (さいたま市)|中央区]] || style="text-align:center" | 5 ||高柳俊哉(立無〔立〕・7)、井原隆(さ〔自〕・3)、竹腰連(共・2)、照喜納弘志(公・2)、中山淳一(無・1)
|-
|[[桜区]] || style="text-align:center" | 4 ||阪本克己(立無〔立〕・5)、久保美樹(共・4)、土橋勇司(自・3)、大貫田鶴子(公・1)
|-
|[[浦和区]] || style="text-align:center" | 7 ||青羽健仁(自・8)、添野ふみ子(立無〔立〕・8)、帆足和之(自・5)、小柳嘉文(無み〔さ未〕・4)、谷中信人(公・4)、[[池田めぐみ]](共・1)、北岡久住(維・1)
|-
|[[南区 (さいたま市)|南区]] || style="text-align:center" | 9 ||萩原章弘(自・7)、桶本大輔(自・6)、浜口健司(無・4)、川村準(無〔無党〕・3)、金子昭代(共・2)、津和野眞佐子(自・1)、尾上貴明(公・1)、吉村豪介(維・1)、佐藤真実(無み〔無〕・1)
|-
|[[緑区 (さいたま市)|緑区]] || style="text-align:center" | 6 ||神坂達成(公・4)、石関洋臣(さ〔自〕・3)、[[都築龍太]](自・3)、松村敏夫(共・3)、堤日出喜(立無〔立〕・1)、秋山朋彦(維・1)
|-
|[[岩槻区]] || style="text-align:center" | 5 ||江原大輔(さ〔自〕・4)、吉田一志(公・4)、[[佐藤征治郎]](無〔社〕・4)、新井森夫(自・3)、松本翔(立無〔無〕・2)
|}
== 議会構成==
2001年のさいたま市発足当初は、合併特例法の規定による在任特例<ref>合併後、2年以内に限り新しい自治体の議員となることができる。</ref>が適用され、合併した[[浦和市]]、[[大宮市]]、[[与野市]]の市議会議員が引き続き新しい市の議員を務め、その定数は102<ref>実際には、在任特例に異議を唱えた浦和市議(当時)の土井裕之(2003年の選挙で南区選出で復帰当選するが、2023年の選挙で落選)が合併前日に辞職して101となったが、さいたま市長選挙への立候補による辞職議員がいたために100となった。</ref>であった。合算すれば最大勢力になる自由民主党の議員は組織合同がうまく進まず、議会内会派としては四分五裂の状態にあった。
第一回の市議会議員一般選挙は、[[第15回統一地方選挙|統一地方選挙]]の前半戦のひとつとして、2003年4月に行われた。総定数は64<ref>当時の地方自治法上の法定定数。なお、「法定定数制度」は地方自治法の改正により廃止され、その後は自治体ごとに条例を制定して定数を定める「条例制定数制度」へ移行した。それでも法定定数は、地方自治体議会における議員定数の慣習上の目安としている。</ref>に減員された。その内訳は、西区5、北区8、大宮区7、見沼区9、中央区5、桜区6、浦和区8、南区10、緑区6であった。自由民主党は、選挙直後に系列の議員をあわせ、自由民主党・彩政会という会派を創設した。[[2005年]]4月1日、[[岩槻市]]がさいたま市に編入され単独で岩槻区となり、同区選出の市議会議員定数として7が設けられたことにより、議員総定数は71に増加した。なお、同区選出議員の増員選挙は5月に市長選挙と同日に行われた。[[2006年]]12月に議員総定数を64に戻した[[条例]]改正により、[[2007年]]の[[第16回統一地方選挙|市議会一般選挙]]より適用することを定めた。これに伴い、岩槻区および他の区の定数が是正され、西区4、北区7、大宮区6、見沼区8、桜区5、南区9、岩槻区6とそれぞれ1議席減となった。
[[2008年]]10月には、条例を改正し議員総定数を64から60に削減、大宮区5、浦和区7、南区8、緑区5とそれぞれ1議席減らし、[[2011年]]の[[第17回統一地方選挙|市議会一般選挙]]より適用することを定めた。さらに選挙直前の2011年3月、[[国勢調査]]の速報値に基づき、南区を8から9に戻し、岩槻区を6から5に減員した条例の改正案が緊急可決され、この定数が適用される形で市議会一般選挙が執行された。
2022年12月には、条例を改正し議員総定数を変更せずに、緑区を5から6に増員して桜区を5から4に減員した条例の改正案が可決され、2023年の市議会一般選挙より適用することを定めた。
[[2015年]]4月の[[第18回統一地方選挙|市議会一般選挙]]では、北区選挙区の立候補者が定数7と同数(現職6・前職1)となり、さいたま市議会発足以来初めての無投票当選となった。また、同時に執行される[[埼玉県議会]]議員一般選挙の南第4区(さいたま市北区)選挙区の立候補者も定数2と同数(現職2)であったため、こちらも無投票当選となった。さいたま市の設置後、統一地方選挙で行われる同市の行政区内の選挙がすべて無投票となる初の事例となった。
[[2017年]]1月、最大会派であった自民党市議団内では旧大宮市域からの選出議員を中心とした一派が[[2017年さいたま市長選挙|市長選挙]]に桶本大輔議長<ref>旧浦和市域の南区選出。</ref>を擁立し、一派側の議員が議長ポストに就くことを画策していたものの、すでに元[[衆議院議員]]の[[中森福代]]が立候補を表明しており、[[保守]]分裂を嫌った桶本議長が固辞したため内紛が発生した。自民党内では市長候補者擁立を進めていたが、市議団長の鶴崎敏康<ref>3市合併時の法定合併協議会の大宮側の市議会代表で、合併新市の市名に「大宮市」が採用されない場合は協議会の開催ボイコットなどを主導した一人。現在は見沼区選出。</ref>は会派に通知なく自民党の埼玉県連に候補者の擁立断念を通達、3月には鶴崎団長を中心とする一派の議員が自民党市議団を離反して新会派「自民党真政市議団」が発足して分裂した。
その結果[[民進党]]系の会派・「民進改革」が最大会派となり、[[政令指定都市]]の市議会で唯一の民進党系の会派が最大会派となる市議会となった。同年5月の市長選では、現職で民進系の[[清水勇人]]市長が3選した。その後同年7月、自民真政は民進改革と結託し、桶本議長への不信任動議を提出し、対抗する形で自民が議長の信任動議を提出したものの、公明と共産は退席し、民進改革と自民真政の反対多数により信任動議が否決、体調を崩し緊急入院していた桶本議長は辞職願を提出し議長辞職に追い込まれた。こうして民進改革の協力により、自民真政は当初の目的であった自らの会派に属する新藤信夫<ref>大宮区選出。元[[大宮市]]長である[[新藤享弘]]の甥。</ref>を新議長に選出することとなった(自民真政は第4会派)。ところが[[2018年]]6月には第1会派である「立憲・国民・無所属の会」(民進改革が2018年に会派名変更)側から議長交代を要求された。結局は自民も立民・国民系には議長を譲れないと自民真政の議長続投に賛成し、新藤が1年半以上議長を続けることになった。そのため、最大会派は立憲・国民系、議長は[[野党]]である自民からさらに分裂した自民真政から選出されるという複雑な議会運営となった。
[[2019年]]4月7日に投開票された[[2019年さいたま市議会議員選挙|市議会一般選挙]]では、自民23、公明11、立民11、共産7、国民3、社民1、無所属4(うち「無所属・無党派」2)と、共産党が1人減らして初の議席獲得となった社民党が1人増えた以外、政党の獲得議席数に変化がなかった。しかし、選挙後初の議会となった5月の臨時市議会で、自民と自民真政の組織合同が出来ず、議長は引き続き自民真政、副議長は立憲・国民・無所属の会から会派名を変更した「民主改革」から選出されるという改選前と変わらない状態が続いた。結果として、最大会派である「民主改革」に加えて第3会派の公明党と、本来第4会派であ<!-- り旧市域別では旧市浦和市域よりも人口の少ない旧大宮市域の議員が中心とな -->る「自民真政」が、巨大な市長与党を形成した。
2020年9月、自民と自民真政は2021年の次期市長選挙をにらみ、候補者として前回の市長選挙に擁立する予定だった元市議会議長の桶本大輔(旧浦和市域選出)<ref>このときは自民党市議団の団長をしていた。</ref>に出馬を要請、桶本は市長選出馬に意欲を示し自民市議団の団長を辞して会派を離脱した。12月に入ると桶本が、「自民党埼玉県連から推薦を得ることが難しく、見送ることにした」として市長選の立候補を断念することが明らかになり、翌年1月にさいたま自民は「候補者の擁立を断念した」と表明したことで、自民党系の候補者の擁立は自民と自民彩成で探すことになった。選挙直前の4月になると、自民党埼玉県連は「候補者を擁立せず自主投票とする」こととし、埼玉県議在職中は自民党に籍を置いていた清水を実質的に「友情支援」することとした。また、独自の候補者の擁立を模索してきた自民も、擁立を断念することを明らかにした。
[[2022年]]11月、最大会派の民主改革から旧浦和市域選出の議員2名が会派離脱して、「さいたま未来市議団」を設立(後に「地域政党さいたま未来プロジェクト」に発展)したことで所属議員数が15となり、第2会派のさいたま自民と同数となった。これにより、最大会派(共に市政与党)が2つとなった。
[[2023年]]4月、[[2023年さいたま市議会議員選挙|市議会一般選挙]]投開票。上記のとおり、緑区を5から6に増員して桜区を5から4に減員した定数で執行することになった。その結果、自民19、公明11、立民12、共産6、維新4、社民1、さいたま未来1、無所属6(うち「無所属・無党派」2)、国民0、参政0と、自民党が4人に共産党と地域政党のさいたま未来プロジェクトがそれぞれ1人減らして、立民党が1人と初の議席獲得となった日本維新の会が4人増えた事で、政党の獲得議席数に大きな変動があった。
選挙後初の議会となった2023年5月臨時会では、自民党会派の会派統合はなく引き続き市政与党の「さいたま自民」と市政野党の「自民」の分裂状態ままであるものの、所属議員の数は「さいたま自民」が10、「自民」が9と拮抗する形となった。立民を中心とする市政与党会派は「民主改革」から「立憲民主・無所属の会」に会派名を改めた。また、社民党と地域政党のさいたま未来プロジェクトは無所属で活動することになったが、臨時会後にさいたま未来プロジェクトは無所属の議員2人を迎えて新会派「無所属みらい」を立ち上げた。だが、立憲民主・無所属の会は第一会派にもかかわらず議長・副議長を出さなかった。
== 歴代議長 ==
特記なき場合「歴代議長・副議長」による<ref name="saitama">{{Cite web|和書|url=https://www.city.saitama.jp/gikai/001/001/p041378.html|title=歴代議長・副議長|publisher=さいたま市議会|date=2022-04-04|accessdate=2022-09-27}}</ref>。
{| class="wikitable"
! 代 !! 氏名 !! 就任 !! 退任 !! 備考
|-
| 1 || 福島正道 || 平成13年5月15日 || 平成15年4月30日 ||
|-
| 2 || 長谷川浄意 || 平成15年5月14日 || 平成16年6月2日 ||
|-
| 3 || 佐伯鋼兵 || 平成16年6月2日 || 平成17年6月8日 ||
|-
| 4 || 鶴崎敏康 || 平成17年6月8日 || 平成18年6月7日 ||
|-
| 5 || 青木一郎 || 平成18年6月7日 || 平成19年4月30日 ||
|-
| 6 || 青羽健仁 || 平成19年5月2日 || 平成21年7月9日 ||
|-
| 7 || 関根信明 || 平成21年7月9日 || 平成22年9月29日 ||
|-
| 8 || 真取正典 || 平成22年9月29日 || 平成23年4月30日 ||
|-
| 9 || 中山欽哉 || 平成23年5月2日 || 平成24年6月7日 ||
|-
| 10 || 加藤得二 || 平成24年6月7日 || 平成25年2月6日 ||
|-
| 11 || 萩原章弘 || 平成25年2月6日 || 平成26年2月13日 ||
|-
| 12 || 土橋貞夫 || 平成26年2月13日 || 平成26年10月16日 ||
|-
| 13 || 霜田紀子 || 平成26年10月16日 || 平成27年4月30日 ||
|-
| 14 || 桶本大輔 || 平成27年5月1日 || 平成29年7月10日 ||
|-
| 15 || 新藤信夫 || 平成29年7月10日 || 平成31年4月30日 ||
|-
| 16 || 渋谷佳孝 || 令和元年5月7日 || 令和3年6月10日 ||
|-
| 17 || 島崎豊 || 令和3年6月10日 || 令和4年2月2日 ||
|-
| 18 || 阪本克己 || 令和4年2月2日 || 令和4年12月1日 ||
|-
| 19 || 中島隆一 || 令和4年12月1日 || 令和5年4月30日 ||
|-
| 20 || 江原大輔 || 令和5年5月1日 || 現職 ||
|}
==不祥事==
;市議・吉田一郎の不祥事
[[2003年]]の初当選以来、度々不規則な発言で議事の進行を妨げ、不適切かつ不穏当な発言を行い懲罰処分を繰り返し受けている北区選出の議員・吉田一郎(無所属・無党派)は、[[2018年]]に入りより悪質な発言を行い、議会が紛糾する事態が度々発生している。
<市立図書館長への暴言に対する懲罰および辞職勧告>
[[2018年]][[2月20日]]、文教委員会において吉田の質問に答えた[[さいたま市図書館|市立中央図書館]]の館長に対して、吉田は不服を表して「首をつって死ね」と発言し、翌21日の同委員会の臨時会で吉田はこの発言を取り消して謝罪した。これに対し同年2月28日、「議員として極めて不適切な発言である」として自民党系の2市議団から吉田に対する議員[[辞職勧告決議|辞職勧告決議案]]が提出された。吉田は「ちゃんとした答弁がないと感じ、カッとなってしまった。非常に不謹慎だった」と釈明したが、[[さいたま市教育委員会]]の教育長は「館長は誠実な答弁だった。人権を侵害する発言で、断固抗議する」と発言した<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/affairs/news/180222/afr1802220024-n1.html|title=さいたま市議「首つって死ね」 質問に答えた図書館長に暴言、謝罪|publisher=[[産経新聞社]]|date=2018-2-22|accessdate=2018-10-23}}</ref>。[[3月12日]]、市議会は懲罰特別委員会を開き、「発言は著しく不適切だ」として、会期終了までの間、吉田を出席停止処分(通算3回目)にすることを決め、3月15日の本会議にて可決された<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180312/k10011361481000.html|title=答弁の職員に「死ね」さいたま市議を出席停止処分へ|publisher=[[日本放送協会]]|date=2018-03-12|accessdate=2018-03-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180312050706/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180312/k10011361481000.html|archivedate=2018-03-12}}</ref>。さらに3月16日には自民党系の2市議団から提出された議員辞職勧告決議案が一旦撤回されて、「議員としてあるまじき暴言」・「市議会の品位を著しく汚した」として市議会全5会派による共同提出議案として再提出され、賛成多数で議員辞職勧告決議を可決した。市議会議員の辞職勧告決議を可決されたのは、さいたま市議会としては初めてとなった。また併せて提出された「さいたま市議会に対する市民の信頼回復に向けた決議」案を全会一致で可決した。
<障害者の市議への暴言>
同年[[10月19日]]、午前の[[本会議]]において、[[障害者]]への[[医療費]]支給に所得制限を設ける「さいたま市心身障害者医療費支給条例の一部を改正する条例」案についての討論で、吉田は賛成の討論を行った。その際、支給に所得制限を設ける条例改正に賛意を示しつつ、吉田と同じ北区選出で[[車椅子]]を使用している傳田ひろみ市議(立憲民主党。2023年に退任)の方を手で示し、「でも、障害者でも中には、こっちにいますけども、年収1354万5千円の車いすに乗っている障害者の方がいらっしゃるわけですよ。こういった高収入の[[ブルジョワジー|ブルジョア]]障害者の方は、外していただいても構わないわけですよ」と発言、審議が一時紛糾した。その後の休憩中、新藤信夫議長(自由民主党真政さいたま市議団)から「不穏当発言である」と厳重注意を受けた。吉田は同日、「品がない言い方で心情を害した方には申し訳ない」と表現に関して謝罪した。吉田は差別の意図については否定したが、傳田は「侮蔑的な表現で障害者差別につながる」と不快感を示した<ref>{{cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20181019-OYT1T50157.html|title=車いす市議に「ブルジョア障害者」、審議紛糾|publisher=[[読売新聞社]]|date=2018-10-20|accessdate=2018-10-23}}</ref><ref>{{cite news|url=https://this.kiji.is/427011951609709665|title=議会で車いす市議に暴言「ブルジョア障害者」さいたま|publisher=[[共同通信社]]|date=2018-10-22|accessdate=2018-10-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181022112232/https://this.kiji.is/427011951609709665|archivedate=2018-10-22}}</ref><ref>{{cite news|url=https://this.kiji.is/427011951609709665|title=「首つって死ね」のさいたま市議、再び不適切発言…車いすの市議に「ブルジョア障害者」 議長から厳重注意|publisher=[[埼玉新聞社]]|date=2018-10-23|accessdate=2018-10-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181022112232/https://this.kiji.is/427011951609709665|archivedate=2018-10-22}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/affairs/news/181022/afr1810220022-n1.html|title=さいたま市議、車いす議員に「ブルジョア障害者」|publisher=[[産経新聞社]]|date=2018-10-22|accessdate=2018-10-23}}</ref>。
<他の議員を愚弄する暴言>
同年[[12月21日]]、本会議おいて、一般会計補正予算案の関連議案として提出した、[[議員報酬]]等の引き上げを行う「さいたま市議会の議員の議員報酬、期末手当及び費用弁償に関する条例の一部を改正する条例」案についての討論で、吉田は反対の討論を行った。この際、「この議案に賛成する議員はペテン師だ」と発言し、審議が紛糾。新藤信夫議長はこの発言を「不適切である」として取り消しを求め、自席に戻るよう指示した。しかし吉田は議長の指示に従わず発言を続行したため、他の市議が討論打ち切りの動議を提出し、これを可決して吉田を演壇から強制降壇する形で討論を中止させた<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20181222-OPCI4KC34RNVVOWYMP7KPVFVP4/|title=さいたま市議会で吉田氏が「ペテン師」発言 議員報酬引き上げで|publisher=[[産経新聞社]]|date=2018-12-22|accessdate=2018-12-23}}</ref>。議員報酬引き上げ条例案は総合政策委員会で継続審査となったものの、予算案に盛り込まれたまま予算委員会で可決していたため、吉田は「条例案が継続審査なのに予算だけ先に可決するのはおかしい。統一地方選が終わるまで待ってから可決するつもりとしか思えない」と主張、「ペテン師」発言については「議会のやり方に関してだから(過去の不適切発言とは)全然関係ない」「問題ないと思っている」と話している<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20181221-RNSBMSBEVJIFJMOBAYML5JDZNU/|title=さいたま市議「ペテン師」と発言、議会紛糾 過去にも暴言|publisher=[[産経新聞社]]|date=2018-12-21|accessdate=2018-12-23}}</ref>。
== 市庁舎の移転整備に関する議論 ==
合併協議当初、旧浦和・大宮・与野3市の市議会で1997年に決議された「合併促進決議」では、浦和を『行政の中心』、大宮を『経済の中心』、与野を『情報発信(文化)の中心』とすることが明記された。しかし大宮側は、市名を「さいたま市」にすることに同意する交換条件として、新市の市役所を「[[さいたま新都心]]周辺」へ移転することを主張、浦和側は猛反発した。
このような事情から、合併協定書では「新市の事務所(市役所)の位置は、当分の間、現在の浦和市役所の位置とする」、「将来の新市の事務所の位置については、さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ、検討するものとする」等の文言が加えられた。これは浦和側、大宮側それぞれで解釈が異なる玉虫色の文言となった。
現在の本庁舎は、[[2016年]](平成28年)12月から[[2019年]](平成31年)2月にかけて約50億円をかけ耐震工事を行った<ref>{{PDFlink|[https://www.city.saitama.jp/006/007/002/015/001/p033611_d/fil/260204shiryo01.pdf 本庁舎耐震補強事業について]}} - さいたま市財政局財政部庁舎管理課</ref>。
合併後、庁内での検討会議・審議会でも大きな動きはなかったが、2017年の選挙後の市議会の勢力の構成変化により、旧大宮側の議員が多くを占める勢力が多数派となったことで、本庁舎整備に関する議論が再燃することとなり、審議会は2018年5月に移転先の位置を答申した。
答申を受けた清水市長は、2021年2月定例会での施政方針演説で「合併から30周年となる2031年を目途に、さいたま新都心バスターミナルほか街区へ市役所本庁舎の移転を目指す」と表明した。
浦和の地元団体等が説明不足と反発する中、2022年4月28日、庁舎移転の議案の審議のために召集した臨時会にて長時間の審議がなされ、「将来的にさいたま市役所の所在地については、さいたま新都心にふさわしい住居表示の実施を検討すること」とする旨の付帯決議案が出されるなどして、同日深夜に庁舎位置変更の議案が特別多数議決で可決された(条例は規則で定める日から施行とされている)。
== 広報 ==
* 広報紙『[[市議会だよりさいたま ロクマル]]』原則年4回発行
* テレビ広報番組『ようこそさいたま市議会へ』[[テレビ埼玉]]で年4回放送
== 出身者 ==
* [[田口禎則]](元[[プロサッカー選手]]、元埼玉県議会議員)※旧浦和市議会議員
* [[杉崎智介]](医学部予備校四谷メディカル学院長、ラジオパーソナリティ)※旧大宮市議会議員
* [[輿水恵一]]([[衆議院|衆議院議員]])※見沼区選出
* [[熊谷裕人]]([[参議院|参議院議員]])※大宮区選出
* [[高木真理]](参議院議員)※北区選出
== 出典・脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[埼玉県議会]]
* [[さいたま市役所]]
== 外部リンク ==
* [https://www.city.saitama.jp/gikai/ さいたま市議会]
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法源
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法源(ほうげん、独: Rechtsquelle、英: sources of the law)とは、法の根源もしくは淵源または存在形式もしくは存在根拠をいう。後述するとおり形式的法源と実質的法源の2種類の用法があるが、形式的法源の意味で用いられることが多い。
大陸法国においては、議会制定法が主要な法源であるのに対し、英米法国においては、裁判官による判例が第一次的な法源である。
大陸法国においては、判例は法源ではないと考えられている。ただ、大陸法の国においても英米国においても判例に一定の拘束力は存在することが多く、両者の違いは効力の差であると考えることもできる。
大陸系の国である日本での判例の法源性については学説が分かれているが、少なくとも英米法系諸国における判例法と異なり法の基幹部分を担うものではない。
形式的法源とは、裁判官が判決理由で理由としうる法の形式的存在形態、すなわち、法規範がどのような形式で存在しているかをいう。例えば、日本法であれば、憲法や法律が代表的な形式的法源である。これは、憲法なり法律なりという形式を備えたものは、日本法上の法規範(裁判規範)として法的拘束力を有するということである。
実質的法源とは、法を発生させる実質的な要因・淵源のことであり、「主権者の意思(民意)」や「神意」などが該当しうる。
現在の日本法の形式的法源としては次のものが挙げられうるが、具体的にいずれを法源に含めるかは定義にもよる。
大日本帝国憲法下においては、次のような形式的法源も存在した。
江戸時代以前の日本においては、次のような法源も存在した。
国際法においては、伝統的に慣習法と条約がただ二つの法源として認められてきた。かつてより重要だったのは国際慣習法(慣習国際法)で、その理由は、18世紀までは条約の数が少なく、慣習法がカバーする領域が広かったためである。また、条約が拘束力を持つためには「合意は守られねばならぬ」という(慣習)法が条約以前に存在していなければならないからである。とはいえ、現代もっとも重要な法源が、圧倒的に数量を増した国際条約であることは、もはや疑いをえない。
他の二つの法源、すなわち法の一般原則と判例・学説は、国際司法裁判所規程が裁判の基準と認めてから、法源として認めるべきか論じられるようになった。このうち法の一般原則は法源の一つとして認められる傾向にあるが、判例学説などは認められていない。
国際司法裁判所規程の38条1項には、
が掲げられている。ただし、判例・学説については、「同規程第59条の規定に従うことを条件として(subject to the provisions of Article 59)」かつ「法準則を決定する補充的な手段として(as subsidiary means for the determination of rules of law)」という限定が付いているため、真正な法源とは考えられておらず、法の認識源(Rechtserkenntnisquellen)にすぎないといわれる。同規程第59条は「裁判所の裁判は、当事者間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する。(The decision of the Court has no binding force except between the parties and in respect of that particular case.)」としている。
イスラーム法における形式的法源は、次のものが挙げられる。
さらに、過去の判例や法学者の学説(ファトワー)、条理も補充的な法源とされている。
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法源とは、法の根源もしくは淵源または存在形式もしくは存在根拠をいう。後述するとおり形式的法源と実質的法源の2種類の用法があるが、形式的法源の意味で用いられることが多い。
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{{出典の明記|date=2013年5月}}
'''法源'''(ほうげん、{{lang-de-short|Rechtsquelle}}、{{lang-fr-short|sources du droit}}、{{lang-en-short|sources of the law}})とは、法の根源もしくは淵源または存在形式もしくは存在根拠をいう。後述するとおり'''形式的法源'''と'''実質的法源'''の2種類の用法があるが、形式的法源の意味で用いられることが多い<ref name=デジタル大辞泉>{{cite kotobank|word=法源|encyclopedia=百科事典マイペディア、デジタル大辞泉|accessdate=2021-12-08}}</ref>。
==概要==
[[大陸法]]国においては、議会制定法が主要な法源であるのに対し、[[コモン・ロー|英米法]]国においては、裁判官による[[判例]]が第一次的な法源である。
大陸法国においては、判例は法源ではないと考えられている。ただ、大陸法の国においても英米国においても判例に一定の拘束力は存在することが多く、両者の違いは効力の差であると考えることもできる。
大陸系の国である日本での判例の法源性については学説が分かれているが{{efn|判例の拘束力が法的なものか、または事実上のものに留まるかについては各説がある{{sfn|君塚正臣|2015|pp=88-96}}。}}、少なくとも英米法系諸国における判例法と異なり法の基幹部分を担うものではない{{sfn|君塚正臣|2015|p=94}}。
'''形式的法源'''とは、裁判官が判決理由で理由としうる法の形式的存在形態、すなわち、[[法 (法学)|法規範]]がどのような[[形式]]で存在しているかをいう。例えば、[[日本法]]であれば、[[憲法]]や[[法律]]が代表的な形式的法源である。これは、憲法なり法律なりという形式を備えたものは、日本法上の法規範(裁判規範)として法的拘束力を有するということである。
'''実質的法源'''とは、法を発生させる実質的な要因・淵源のことであり、「主権者の意思(民意)」や「神意」などが該当しうる<ref name=デジタル大辞泉 />。
== 日本法の法源 ==
===日本国憲法下の法源===
現在の日本法の形式的法源としては次のものが挙げられうるが、具体的にいずれを法源に含めるかは定義にもよる<ref>{{cite kotobank|word=法源|url=https://kotobank.jp/word/法源-131910|accessdate=2021-12-08|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。
#[[憲法]]
#[[法律]]
#[[命令]]([[政令]]・[[省令]]・[[規則]])
#[[条例]]
#[[判例]] - 最高裁[[判例]]が拘束性を有することに鑑み、判例を法源として挙げる見解もあるが、争いがある。なお、元最高裁判所判事の[[藤田宙靖]]によれば、定義次第であるものの、判例を法令と同列の法源とは考えることには無理があるという{{sfn|藤田宙靖|2014|pp=289-290}}。
#[[慣習法]]
#[[法解釈#条理|条理]]
===大日本帝国憲法下の法源===
[[大日本帝国憲法]]下においては、次のような形式的法源も存在した。
*[[勅令]]
*[[閣令]]
===江戸時代以前における法源===
江戸時代以前の日本においては、次のような法源も存在した<ref>{{Cite web|和書|title=法律の最上の解釈者は慣習である/事物の最上の解釈者は慣習である/法はすべて正義(公平)と慣習とに由来する/よい慣習はよい法(悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ 第8回)|url=https://www.web-nippyo.jp/12761/|author=柴田光蔵|accessdate=2021-12-08|website=Web日本評論}}</ref>。
#各時代の慣習法
##氏族の不文法(国家成立以前)
##荘園的慣習法(平安時代)
#各時代の成文法
##[[十七条の憲法]]
##[[律令]]・格式(大化の改新後)
##武家法(鎌倉時代以降。[[御成敗式目]]等)
##[[分国法]]・[[家法]](戦国時代)
##[[幕藩法]](江戸時代)
== 国際法の法源 ==
国際法においては、伝統的に慣習法と[[条約]]がただ二つの法源として認められてきた{{Sfn|国際法講義(1992)|p=22}}。かつてより重要だったのは国際慣習法([[慣習国際法]])で、その理由は、18世紀までは条約の数が少なく、慣習法がカバーする領域が広かったためである。また、条約が拘束力を持つためには「合意は守られねばならぬ」という(慣習)法が条約以前に存在していなければならないからである{{Sfn|国際法講義(1992)|p=29}}。とはいえ、現代もっとも重要な法源が、圧倒的に数量を増した国際条約であることは、もはや疑いをえない{{Sfn|国際法講義(1992)|p=38}}。
他の二つの法源、すなわち[[法の一般原則]]と[[判例]]・[[学説]]は、[[国際司法裁判所規程]]が裁判の基準と認めてから、法源として認めるべきか論じられるようになった{{Sfn|国際法講義(1992)|p=41}}。このうち法の一般原則は法源の一つとして認められる傾向にあるが、判例学説などは認められていない{{Sfn|国際法講義(1992)|p=41-44}}<ref>杉原他『現代国際法講義』第5版12頁、18頁。</ref>。
国際司法裁判所規程の38条1項には、
#[[条約|国際条約]]({{en|international conventions, whether general or particular, establishing rules expressly recognized by the contesting States}})、
#[[慣習法]]({{en|international custom, as evidence of a general practice accepted as law}})、
#[[一般的法原則]]([[法の一般原則]]、{{en|the general principles of law recognized by civilized naitons}})、
#[[判例]]・[[学説]]({{en|judicial decisions and teachings of the most highly qualified publicists of the various nations}})
が掲げられている。ただし、判例・学説については、「同規程第59条の規定に従うことを条件として({{en|subject to the provisions of Article 59}})」かつ「法準則を決定する補充的な手段として({{en|as subsidiary means for the determination of rules of law}})」という限定が付いているため、真正な法源とは考えられておらず、法の認識源({{de|Rechtserkenntnisquellen}})にすぎないといわれる。同規程第59条は「裁判所の裁判は、当事者間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する。({{en|The decision of the Court has no binding force except between the parties and in respect of that particular case.}})」としている。
== イスラーム法 ==
イスラーム法における形式的法源は、次のものが挙げられる。
#[[クルアーン]]
#[[ハディース]]
#[[イジュマー]]
#[[キヤース]]
さらに、過去の判例や法学者の学説(ファトワー)、条理も補充的な法源とされている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
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===出典===
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[藤田宙靖]] |year=2014 |title=最高裁判例とは何か |journal=横浜法学 |ISSN=2188-1766 |publisher=横浜法学会 |volume=22 |issue=3 |pages=287-303 |url=https://hdl.handle.net/10131/8648 |ref=harv}}
* [[杉原高嶺]]、[[水上千之]]、臼杵知史、吉井淳、[[加藤信行]]、高田映『現代国際法講義』第5版、有斐閣、2012年。I
* {{Cite book|和書|author=藤田久一|authorlink=藤田久一 |title=国際法講義 |publisher=東京大学出版会 |year=1992 |NCID=BN08540131 |ref={{harvid|国際法講義(1992)}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[君塚正臣]] |year=2015 |title=<論説>判例の拘束力 : 判例変更、特に不遡及的判例変更も含めて |journal=横浜法学 |ISSN=2188-1766 |publisher=横浜法学会 |volume=24 |issue=1 |pages=87-132 |url=https://hdl.handle.net/10131/9416 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[法 (法学)]]
* [[法学]]
* [[法解釈]]
* [[立法]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほうけん}}
[[Category:法]]
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遙かなる時空の中で
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『遙かなる時空の中で』(はるかなるときのなかで)は、コーエー(のちのコーエーテクモゲームス)のルビー・パーティー制作の女性向け恋愛アドベンチャーゲーム。
本項ではゲームと漫画版の内容について記述する。
コーエーのゲーム開発チームであるルビー・パーティーが発表したネオロマンスシリーズ第2弾で、平安時代の京都を思わせる異世界を舞台とする和風ファンタジー作品。
2004年10月から、水野十子の漫画版を原作としたテレビアニメ『遙かなる時空の中で〜八葉抄〜』が放映され、2006年8月19日には『劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜』として映画化された。
2008年から2009年にかけて、舞台化もされている。
ゲームについては下記ゲーム節を参照。
ごく普通の女子高生の主人公・元宮あかねは、入学式の日に同級生の森村天真、後輩の流山詩紋と共に不思議な古井戸に吸い込まれる。目覚めるとそこは「京」と呼ばれる平安時代に似た異世界だった。主人公は「星の一族」の末裔である幼い藤姫に、自分は「龍神の神子」として「八葉」と呼ばれる8人の男性と力を合わせて「鬼」から京を守る存在だと聞かされる。八葉には天真と詩紋も選ばれていた。最初は戸惑った主人公だが、段々と自身の運命と京の現状にまっすぐ向き合うようになる。
代々、龍神の神子の補佐を宿命付けられた一族。経緯は定かではないが、左大臣家に嫁いだ藤姫の母を除き、一族が滅びている。
人と異なる外見と不思議な力を持つ者達の総称。容姿は主人公曰く「外人」で、一部の鬼以外は金髪碧眼。
ネオロマンスステージ「遙かなる時空の中で〜朧草紙〜」が、2009年1月4日 - 18日にかけてサンシャイン劇場、2009年1月31日 - 2月1日にかけて大阪厚生年金会館 芸術ホールにて公演。2009年8月12日 - 16日になかのZEROホールにて再演。
本編終了後の八葉それぞれとのひとときを回替わりで上演。
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『遙かなる時空の中で』(はるかなるときのなかで)は、コーエー(のちのコーエーテクモゲームス)のルビー・パーティー制作の女性向け恋愛アドベンチャーゲーム。 本項ではゲームと漫画版の内容について記述する。
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{{Infobox animanga/Manga
|タイトル=遙かなる時空の中で
|作者=[[ルビー・パーティー]]
|作画=水野十子
|出版社=[[白泉社]]
|掲載誌=[[LaLa]]→[[LaLaDX]]([[2007年]]2月号より)
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|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:コンピュータゲーム|コンピュータゲーム]]・[[プロジェクト:漫画|漫画]]
|ウィキポータル=[[Portal:コンピュータゲーム|コンピュータゲーム]]・[[Portal:漫画|漫画]]
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『'''遙かなる時空の中で'''』(はるかなるときのなかで)は、[[コーエー]](のちの[[コーエーテクモゲームス]])の[[ルビー・パーティー]]制作の女性向け[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛アドベンチャーゲーム]]。
本項ではゲームと漫画版の内容について記述する。
== 概要 ==
コーエーのゲーム開発チームであるルビー・パーティーが発表した[[ネオロマンスシリーズ]]第2弾で、平安時代の京都を思わせる異世界を舞台とする和風ファンタジー作品。
2004年10月から、水野十子の漫画版を原作とした[[テレビアニメ]]『[[遙かなる時空の中で-八葉抄-|遙かなる時空の中で〜八葉抄〜]]』が放映され、[[2006年]][[8月19日]]には『[[劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜]]』として映画化された。
2008年から2009年にかけて、舞台化もされている。
ゲームについては下記ゲーム節を参照。
== ゲーム ==
* 遙かなる時空の中で
** 2000年4月6日に発売された[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ソフト。
* 遙かなる時空の中で
** 2002年8月23日に発売された[[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト。
* 遙かなる時空の中で〜八葉抄〜
** 2005年4月1日に発売された[[PlayStation 2]]用ソフト。
*** 遙かなる時空の中でのPS2移植版。既存キャラクターの新END、アクラムENDが追加されている。
* 遙かなる時空の中で 彩絵手箱
** 2005年4月1日に発売された[[PlayStation Portable]]用ソフト。
*** ミニゲーム集。これまでの音楽、画像や[[遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-]]を収録。
* 遙かなる時空の中で 舞一夜
** 2006年9月21日に発売されたPS2用ソフト。
*** [[劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜]]の世界を元にしたゲームで、内裏を舞台にした作品。このタイトルでのみ多季史が攻略できる。
* ポケットシナリオシリーズ 遙かなる時空の中で 舞一夜
** 2006年11月30日に発売された[[ニンテンドーDS]]用ソフト。
*** 立ち絵イラスト等を使ってシナリオを作成するゲーム。
* 遙かなる時空の中で Ultimate
** 2018年2月22日に発売された[[PlayStation Vita]]用ソフト。
== ストーリー ==
ごく普通の女子高生の主人公・'''元宮あかね'''は、[[入学式]]の日に同級生の'''森村天真'''、後輩の'''流山詩紋'''と共に不思議な古井戸に吸い込まれる。目覚めるとそこは「京」と呼ばれる平安時代に似た異世界だった。主人公は「星の一族」の末裔である幼い'''藤姫'''に、自分は「龍神の神子」として「八葉」と呼ばれる8人の男性と力を合わせて「鬼」から京を守る存在だと聞かされる。八葉には天真と詩紋も選ばれていた。最初は戸惑った主人公だが、段々と自身の運命と京の現状にまっすぐ向き合うようになる。
== 登場人物 ==
=== 主人公 ===
; 元宮 あかね(もとみや あかね)
: 声 - [[川上とも子]]
: 16歳(誕生日設定によっては15歳)。身長160cm<ref>『遙かなる時空の中で メモリアルブック 八葉全書』[[コーエー]]</ref>。
: 明るく前向きな高校生。髪型は桃色のボブ。鬼の首領アクラムによって平安時代の京に似た異世界に召喚され、龍神の神子となる。龍神と意思の疎通が出来る唯一の存在で、彼女を助ける八葉と共に五行の力を使い、怨霊を鎮める。
: 漫画版および[[ドラマCD]]では、八葉の性格から血液型を推察する場面があるが、ユーザーに準ずる主人公ゆえに既存の血液型は明かされていない。寝ぼけた頼久にキスをされてしまい一時的に素っ気ない態度をとってしまう。この一件を境に八葉を異性として意識し始める。紆余曲折あったものの頼久とは最終的に恋仲になり、天真・蘭と共に現代へ戻った。
: 劇場版 舞一夜では、怨霊の舞い手・多季史と出逢い、周囲から神子として扱われ苦しむ自分を救ってくれた優しい彼と恋に落ち、最後には彼を浄化した。
=== 八葉 ===
; 源頼久(みなもとの よりひさ)
: 声 - [[三木眞一郎]]/幼少時は[[朴璐美]]
: 天の青龍。誕生日:10月9日。25歳<ref>{{Cite web|和書|title=遙かなる時空の中で Ultimate|url=https://www.gamecity.ne.jp/harukaultimate/chara01.html|website=遙かなる時空の中で Ultimate 公式サイト|accessdate=2020-06-16|language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=100万人の遙かなる時空の中で|url=https://www.gamecity.ne.jp/100haruka/chara.htm|website=www.gamecity.ne.jp|accessdate=2020-06-16}}</ref>。身長:185cm<ref name=":0" />。血液型:A型(推察)。五行属性:木<ref name=":0" />。
: 武士団の棟梁の息子。真面目で主である主人公に忠誠を誓っている。過去の兄の死に負い目を感じ、常に自分を律して鍛えながら育った頼もしい武士だが、繊細な一面もある。主人公や天真にさまざまな助言をする。
: 漫画版では、詩紋と並び最初に宝玉を獲得した。時折[[天然ボケ|天然]]キャラになる所以について、作者の水野は「笑いが足りないと感じた時」とファンブックで明かした(カラーで書き難いキャラとも発言している)。幼少時の一人称は「俺」で、寡黙な成長後と異なり喜怒哀楽をはっきり出すタイプだった。鵺と親友。呪詛の影響で八葉としての記憶と力を失っても主人公への想いは忘れていなかった。主人公に好意を抱き彼女に告白されても躊躇していたが最終的に告白を受け入れ、現代で暮らすことになった。
; 森村天真(もりむら てんま)
: 声 - [[関智一]]
: 地の青龍。誕生日:4月2日。17歳<ref>{{Cite web|和書|title=遙かなる時空の中で Ultimate|url=https://www.gamecity.ne.jp/harukaultimate/chara02.html|website=遙かなる時空の中で Ultimate 公式サイト|accessdate=2020-06-16|language=ja}}</ref>。身長180cm<ref name=":0" />。血液型:B型。五行属性:木<ref name=":0" />。
: 主人公と同じく現代からやって来た高校生。年齢は主人公より1つ上だが、留年したため同じ学年。面倒見が良く仲間思い。京への召喚前から、行方不明の妹を探していた。当初は頼久と性格が合わなかったが、後に信頼し合えるようになり、お互いの言動に[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]を入れるほど気心の知れた間柄になっていく。イノリ曰く「似た者同士」。
: 漫画版やアニメ版では、主人公に示す独占欲が他キャラより強いが漫画版だと彼女は頼久と恋仲になったため、ふられた。同じく主人公に恋心を抱く永泉を牽制するなどやや粗野な一面も描かれ、頼久から窘められる。年下から兄貴分として慕われる反面、主人公や友雅からは可愛い存在として扱われる。水野は「最初に主人公が振る相手は天真の予定だった」と語っている。
; イノリ
: 声 - [[高橋直純]]
: 天の朱雀。誕生日:8月18日。15歳。身長163cm。血液型:O型(推察)。五行属性:火。
: 鍛冶師見習い。単純で素直。感情のままに突っ走る短気な面があるため周囲と衝突し易いが、家族思いで、近所の子供達にも慕われる。両親は事故で他界しており、病弱な姉と2人暮らし。姉を騙し不幸にした男への憎悪から、鬼の一族を毛嫌いしている。金髪碧眼が主な特徴である鬼に似た容姿の詩紋を嫌っていたが、後に和解し仲良くなった。
: 水野にとってカラーで書き易いキャラ。作中で使用されることはないが、漢字表記は「夷乃里」。ファンブックでは、本人も赤髪赤眼と異色でありながら鬼を嫌う矛盾が指摘されている。
; 流山詩紋(ながれやま しもん)
: 声 - [[宮田幸季]]
: 地の朱雀。誕生日:2月25日。14歳。身長158cm。血液型:O型。五行属性:土。
: 主人公と同じく現代からやって来た中学生。主人公と天真の後輩。祖父がフランス人の[[クオーター]]。金髪碧眼の外見が原因でいじめられていた。気弱で心優しい性格。菓子作りが趣味で、京への召喚後も自作の菓子を主人公や屋敷の女房に配っている。鬼の一族と同じ特徴から誤解され、何度も面倒に巻き込まれる。
: 漫画版では、頼久と並び最初に宝玉を獲得した。ファンブックで他キャラの髪の方が色彩豊かという指摘が多く、舞台版では他キャラが黒に近い髪色に変更されたため、より金髪が目立つ演出となった。
; 藤原鷹通(ふじわらの たかみち)
: 声 - [[中原茂]]
: 天の白虎。誕生日:12月22日。19歳。身長175cm。血液型:A型(推察)。五行属性:金。
: 貴族で[[治部省]]に勤める治部少丞と呼ばれる役人。真面目で穏やかな性格。差別を嫌い、鬼に対する偏見もない。大人びた雰囲気と外見だが、眼鏡を取るとやや童顔になる。女性への免疫のなさをネタに、友雅によくからかわれる。実は、貴族の父が屋敷の女房に生ませた庶子であり、5歳で正妻に引き取られた。深い愛情を注ぎ育てた義母に報いるため、立派な役人となる目標を立てているが、あくまでも自分の才覚だけで乗り切ろうと、貴族社会で当然とされる女性を利用した出世については断固拒んでいる。
: 漫画版では主人公に好意を抱いている描写が明確に描かれている。天真とは同等と言いはる。鬼の一族の中ではシリンと因縁が深く、彼女も彼に突っかかることが多い。
; 橘友雅(たちばなの ともまさ)
: 声 - [[井上和彦 (声優)|井上和彦]]
: 地の白虎。誕生日:6月11日。31歳。身長183cm。血液型:B型(推察)。五行属性:金。
: 貴族で左[[近衛府]]に勤める少将。飄々とした立居振る舞いから楽天家で遊び人の印象を与えるが、実際は知謀と力に優れる武人で、帝からの信頼も厚い。何事も楽しみたがる性分ゆえに、周囲からの信用は低い。女性の扱いに長け、慣れない鷹通をからかって遊ぶ傾向がある。
: 両親と数人の兄弟と同居。友雅は正室の子で、同腹の兄と弟がいる。そのほかに異母兄弟が三人いる。
: 漫画版では、登場の早さに反して宝玉獲得が最後となった。女性の肌に触れただけで実年齢を見抜く才能も持つ。女性関係が派手故に天真にはよく思われていないため、蘭にくぎを刺しているほど。『劇場版 舞一夜』の多季史とは短い交流があった。
; 永泉(えいせん)
: 声 - [[保志総一朗]]
: 天の玄武。誕生日:7月6日。17歳。身長166cm。血液型:A型(推察)。五行属性:水。
: 帝の異母弟で、出家した法親王。争いを嫌う風流な少年。管弦の才に長け、特に笛が得意。兄である帝の願いにより、出家の際に剃髪はせず断髪に留めた。出家前は敦仁親王・中務卿宮・深泉(親しい間柄の者のみ)と呼ばれていた。
: 漫画版では主人公に恋心を抱くが天真に牽制されてしまう。帝は年相応の少年の顔を見せるようになった永泉の事をうれしく思っている反面、主人公への恋心を面白がっている。
; 安倍泰明(あべ の やすあき)
: 声 - [[石田彰]]
: 地の玄武。誕生日:9月14日。21歳。身長179cm。血液型:AB型(推察)。五行属性:土。
: [[安倍晴明]]の弟子の陰陽師。理知的で冷静沈着だが、好奇心が強く、純粋で子供っぽい一面も持つ。感情の起伏に乏しい。2年前に師匠の晴明が自身の陰の気を練って造った人造人間であり、身体が不安定なため、晴明の妻の亡骸に残っていた陽の気が顔に封印されている。常に身に着ける首飾りの珠も、陽の気を練って作られた。
: 漫画版では天真同様、主人公に告白している。呪詛を受けたが他キャラよりも早く記憶を取り戻している。しかし主人公に心配してほしかった故に嘘をついていた。
=== 星の一族 ===
代々、龍神の神子の補佐を宿命付けられた一族。経緯は定かではないが、左大臣家に嫁いだ藤姫の母を除き、一族が滅びている。
; 藤姫(ふじひめ)
: 声 - [[大谷育江]](代役:[[こおろぎさとみ]])
: 誕生日:6月15日。10歳。身長135cm。血液型:A型(推察)。
: 左大臣家の末姫であり、星の一族最後の後継者(母が末裔)。健気で純真な性格で、年齢に似合わず大人びて聡明。主人公をとても慕っている。母の死亡時に雷が鳴っていたため、雷(雷神)を酷く恐れ、周囲の人々に縋る場面がある。貴族の姫ゆえに外出経験がほとんどなく、体力もない。神子に仕え補佐する務めを懸命に果たそうと尽力するが、内心、自分が力不足であり、主人公の役に立てていないのではと悩んでいる。
=== 鬼の一族 ===
人と異なる外見と不思議な力を持つ者達の総称。容姿は主人公曰く「外人」で、一部の鬼以外は金髪碧眼。
; アクラム
: 声 - [[置鮎龍太郎]]
: 誕生日:12月4日。26歳。身長182cm。
: 鬼の一族の首領。主人公を京に召喚した人物で、龍神の力を利用し京を支配しようと企む冷酷な性格。常に仮面をつけており、肩には黒麒麟を乗せている。『八葉抄』で新たに攻略対象となった。
: 漫画版では自分を弱いと言いのけ、主人公の傍にいて強いと認められた頼久に嫉妬心を見せている。
; イクティダール
: 声 - [[石井康嗣]]
: 誕生日:11月1日。35歳。身長193cm。
: 鬼の一族の副官。イノリの姉であるセリと愛し合って恋仲になったものの、アクラムに対する忠誠心にも背けず、争い合う人間と鬼の狭間で苦しむ。鬼と通じたことを村中から非難され、姉ともども迫害されたイノリからは、姉を騙した男として激しく憎まれている。
; シリン
: 声 - [[川村万梨阿]]
: 誕生日:3月7日。24歳。身長170cm。
: 鬼の一族の(作中で確認出来る)唯一の女性。自分の美しさを絶対的に信じ、京の人間を蔑む高慢な性格だが、愛するアクラムのためなら死すら厭わない一途さも持つ。アクラムが(力を利用出来る神子として)執着する主人公に、強い嫉妬心を抱いている。
: 漫画版およびアニメ版では、鷹通に突っ掛かる場面が多い。
; セフル
: 声 - [[浅川悠]]
: 誕生日:5月15日。14歳。身長163cm。
: 鬼の一族の少年。鬼と人間の[[混血|ハーフ]]。混血だったために捨てられた彼を、アクラムが拾って育てた。残虐な性格でアクラムにしか心を開かず、他の者には警戒と敵意を剥き出しにする。
; ラン(森村 蘭(もりむら らん))
: 声 - [[桑島法子]]
: 誕生日:1月17日。16歳。身長165cm。
: 現実世界の数年前にアクラムによって誘拐された天真の妹。感情を封印され、アクラムの手駒として使われていたが、主人公や八葉により救出される。主人公とは対の黒龍の神子<!-- 初作にない設定。黒龍の神子という呼称が正式に使われるのは2以降 -->。異世界との時の流れの違いにより、兄と同世代になる。紆余曲折を経て、再びアクラムの元へ自ら赴く。
: 漫画版では友雅に思いを寄せていたが、振られてしまう。
=== その他 ===
; 帝
: 声 - [[井上倫宏]]
: 誕生日:9月18日。23歳。177cm。
: 永泉の兄で現帝。責任感が強い性格で、弟思い。政治的能力が高く貴族からの信頼も厚い。友雅を信頼し、星の一族の藤姫の助力になるよう頼んだ。
; 源実久(みなもとの さねひさ)
: 声 - [[堀内賢雄]]
: 頼久と顔立ちが似ている兄で、腕利きの武士。10年前、任務中に弟を庇って死亡した。明るく親しみ易い性格で、幼い頼久からも慕われていた。
; 鵺(ぬえ)
: 声 - [[森川智之]]
: 怨霊。ゲーム版では一介の敵だが、漫画版およびアニメ版では頼久の幼少時の友として登場。山奥で「もみじ」「かえで」という鹿とひっそり暮らしていた。
; セリ
: 声 - [[久川綾]]
: 病弱なイノリの姉。発作で動けなくなったところをイクティダールに助けられて以来、互いに愛し合っている。だが、鬼と通じている噂が広まり、弟と村を追放された。漢字表記は「瀬里」。
; [[安倍晴明]]
: 声 - [[松本大 (声優)|松本大]]
: 稀代の陰陽師。泰明を創り出した師匠。
; 小[[天狗]]
: 声 - [[嶋方淳子]]
: 泰明によって力を奪われた北山の大天狗。縮んだ姿から「小天狗」と呼ばれ、主人公に可愛がられていた。
; 右馬寮頭(うめりょうのかみ)
: 声 - [[太田真一郎]]
: 気位が高い貴族で、典型的な嫌な人物として公式設定されている。なぜかよく転ぶ。かなりの小心者。
; 左大臣
: 藤姫の父。主人公達を娘の客人として迎え入れるが、龍神の神子を権力争いに巻き込みはしない良識ある人物。鬼に似た詩紋を外見で差別せず、日記を勧めるなど鷹揚に接する。
; 藤壺中宮
: 藤姫の異母姉。帝の后の1人。気位が高くわがままだが、素直で寂しがりな性格。妹の藤姫と母が異なるため、星の一族の血は継いでいない。
; 弘徽殿皇后
: 帝の正妃。政変に巻き込まれ出家し、帝の計らいで内裏へ戻った。左大臣の姫である藤壺中宮とは対立している。穏やかで控えめな性格。
; イノリの子分
: 声 - [[くまいもとこ]]
: イノリを親分と呼んで慕う、元気な庶民の少年。
; 鷹通の義母
: 声 - [[天野由梨]]
: 夫の中宮太夫が屋敷の女房に生ませた鷹通を、5歳から引き取り、実子と変わらぬ愛情を注ぎ育てた。立派な役人に出世するという志を鷹通に抱かせた恩人だが、彼が元服の年に他界している。
=== 劇場版 ===
; 多季史(おおの すえふみ)
: 声 - [[櫻井孝宏]]
: 23歳。
: 『劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜』、およびその舞台版に登場し、同名ソフトで新たな攻略対象となった、雨の日に主人公が出会った神秘的な雰囲気の青年。物静かで凜とした品格を持つ舞の名手。
: 季史が異母兄たちの呪詛により非業の死を遂げるまでが描かれる漫画版では、接点のある友雅を「琵琶殿」と呼んでいた。漫画版の生前の性格や小説版における事故に近い死因などは、劇場版と設定がやや異なっている。
== スタッフ ==
* 総括 - ルビー・パーティー(コーエー)
* キャラクターデザイン - 水野十子
== ゲーム版と漫画版の相違点 ==
* ゲーム版
** 八葉が最初から全員揃っている。
** 主人公の性格や物事に対する姿勢は、選択肢により変化する。
** 天真は行方不明の妹を常に気に掛けており、恋愛イベントも妹の話題が中心。
** イベントの進め方次第では、蘭が天真の妹という事実が終盤まで判明しない。彼女を救えるのは最終章。
** 冒頭のアクラムの行為によって、八葉全員が大切な心の一部を失う。「心のかけら」は持ち主の好きな複数の場所に散らばり、取り戻すことで恋愛が進展する。
* 漫画版
** 主人公の名前は「元宮あかね」で通している。
** 八葉がほとんど揃っておらず、展開も大きく違う。宝玉を得た順番は頼久と詩紋、天真、泰明、鷹通、イノリ、永泉、友雅。
** 神子としての自覚を持てない主人公が宿った力の大きさに戸惑いを見せたり、キャラごとの個性が強調されたりなど、人物の心情が掘り下げられた。
** 蘭が途中で救出される。感情と記憶は、召喚された後に捨て置かれ、孤独に耐え切れず黒龍を呼び寄せた際、怨霊を操る力と引き換えに失った設定。また、記憶を取り戻すのが終盤で本来の性格が不明のゲームと異なり、蘭の心情も細かく描かれている。
** 主人公が序盤でアクラムに失恋、蘭が友雅に片想い(後に振られる)、初期から主人公を異性として意識する天真を始め、八葉のほとんどが主人公に想いを寄せるなど、恋愛面の描写も多い。
** 四方の札は天の八葉に焦点を置いている。
** 四方の札入手後の神泉苑の儀式で、八葉全員がアクラムの呪詛の矢を受け、八葉に選ばれてからの記憶と力を失う(泰明は例外)。呪詛を解除すべく、主人公はイクティダールの協力を得て頼久と泰明の式神と共に鬼の洞窟へ向かう。
== 関連商品 ==
=== ソフトウェア ===
* 遙かなる時空の中で〜恋絵巻〜(デスクトップアクセサリ) 2000年9月29日発売
* 遙かなる時空の中で〜恋つづり〜(メールソフト) 2001年3月30日発売
=== CD ===
* ドラマCD
** 遙かなる時空の中で〜八葉萌芽の巻(前編・後編)
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜壱・剣花の巻〜
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜弐・譲葉の巻〜
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜参・待宵の巻〜
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜四・青嵐の巻〜
* バラエティCD
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜花の宴〜「全巻購入プレゼント」
** 遙かなる時空の中で〜花鳥風月〜
** 遙かなる時空の中で〜音盤草紙〜白虹の巻・青雷の巻〜「LaLa全員サービスCD」
** 遙かなる時空の中で〜音盤草紙〜天の巻・地の巻〜「LaLa全員サービスCD」
** 遙かなる時空の中で〜歌草紙〜涼風の宴〜
* 音楽・ヴォーカルCD
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜雅の響〜
** 遙かなる時空の中で〜八葉みさと異聞〜君恋ふる歌〜
** 遙かなる時空の中で〜うたがさね〜
** 遙かなる時空の中で〜紫陽花ゆめ語り〜音滴〜
** 遙かなる時空の中で〜四神ミニアルバム(青龍・朱雀・白虎・玄武)
=== 書籍 ===
* 白泉社発行
** コミック「遙かなる時空の中で」 水野十子著 全17巻
** コミック「遙かなる時空の中で・ファンブック」 水野十子著
** コミック「遙かなる時空の中で・スーパーガイド」 水野十子著
** イラスト集「遙かなる時空の中で」 水野十子著
* コーエー出版発行
** オフィシャルブック「はるか通信」 1〜17
** 「遙かなる時空の中で」オフィシャルガイドブック〜京洛絵巻〜
** 「遙かなる時空の中で」コンプリートガイド〜浪漫草紙〜
** 「遙かなる時空の中で」エキスパートガイド〜八葉恋歌〜
** 「遙かなる時空の中で」メモリアルブック〜八葉全集〜
** 「遙かなる時空の中で」四神ヴィジュアルブック
** オフィシャルブック「ネオロマンス通信 Cure!」1〜
** 「遙かなる時空の中で」メッセージコレクション
** 小説「遙かなる時空の中で」[[近藤史恵]]著
** 小説「遙かなる時空の中で〜花がたみ〜」近藤史恵著
** 「遙かなる時空の中で」京都ガイド
=== アニメーション ===
==== OVA ====
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==== テレビアニメ ====
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==== 劇場版 ====
{{main|劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜 }}
=== 舞台 ===
'''ネオロマンスステージ「遙かなる時空の中で〜朧草紙〜」'''が、2009年1月4日 - 18日にかけてサンシャイン劇場、2009年1月31日 - 2月1日にかけて大阪厚生年金会館 芸術ホールにて公演。2009年8月12日 - 16日になかのZEROホールにて再演。
本編終了後の八葉それぞれとのひとときを回替わりで上演。
* キャスト
** 元宮あかね - [[はねゆり]]
** 源頼久 - [[成松慶彦]]
** 森村天真 - [[中村誠治郎]]
** イノリ - [[椎名鯛造]]
** 流山詩紋 - [[河野弘樹]]
** 藤原鷹通 - [[根本正勝]]
** 橘友雅 - [[寿里]]
** 永泉 - [[長谷部恵介]]
** 安倍泰明 - [[八戸亮]]
** 藤姫 - [[森林永理奈]]
** 小天狗 - [[やまだまいこ]]
** アクラム - [[汐崎アイル]]
** イクティダール - [[TROY]]
** シリン - [[小野麻亜矢]]
** 邪香妃 - [[真山奈緒]]
** 惨魏 - [[中村英司]]
** 禍虫 - [[滝田明仁]]
* スタッフ
** 脚本 - [[山田由香]]
** 脚色・演出 - [[キタムラトシヒロ]](Z団)
** 音楽 - [[高梨康治]]/[[藤澤健至]]
** テーマソング - [[たいせい]]
== 関連項目 ==
* [[ネオロマンスシリーズ]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.gamecity.ne.jp/haruka/psp/ 遙かなる時空の中で~八葉抄~ PSP版公式サイト]
* [https://www.gamecity.ne.jp/harukaultimate/ 遙かなる時空の中で Ultimate PS Vita版公式サイト]
* [https://www.gamecity.ne.jp/stage/info/ ネオロマンス・ステージ 遙かなる時空の中で 朧草紙]
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メイセイオペラ
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メイセイオペラ(欧字名:Meisei Opera、1994年6月6日 - 2016年7月1日)は、日本の競走馬、種牡馬 。
1999年、日本競馬史上唯一、地方競馬所属にして中央競馬のGI競走・フェブラリーステークスを優勝。同年のNARグランプリ年度代表馬に選出された。その他の勝ち鞍に、1998年の帝王賞(GI)、マーキュリーカップ(GIII)、1999年のマイルチャンピオンシップ南部杯(GI)。
北海道平取町の高橋啓牧場で生まれる。高橋牧場は後にフラワーパーク(スプリンターズステークス優勝馬)を出すなど実績を残すが、母テラミスがきた当時は零細牧場のひとつに過ぎず、テラミスを受け入れた理由にしても「少しでも預託料が欲しかったから」との事であった。事実、テラミスが繁殖牝馬となったのも、馬主である小野寺良正が「娘みたいなものだから、何とか生き残らせて欲しい」とたっての願いであり、高橋牧場に落ち着くまで色々な牧場に声をかけるが全て断られていた。また、父にグランドオペラを配合したのも「種付け料が安く、少しでも長く走れたら、馬主的に楽しめる」との事である。
生まれた当初は体も小さく、競走馬になれるのかすらも危ぶまれていた。そこで夜間放牧を試してみたところ、馬体が格段良くなり中央競馬に入厩する事も視野に入れられる程であった。しかし、この事を聴き付けた佐々木修一は「育成なら水沢でもできます」「まずは水沢で走らせて下さい」と、半分懇願する形で、育成が終っていないオペラを強引に入厩させた。
1996年7月27日に盛岡競馬場で新馬戦を勝ち上がる。その後は勝ちきれないレースが続いたが、暮れの頃からレースを覚え始め、最終的には4勝してシーズンを終える。
3歳暮れからの連勝を伸ばし続け、ダイヤモンドカップで特別戦を初制覇。このレースは当時の岩手競馬の有力同世代との初対決となったが、相手にしない圧勝。クラシックを前にして岩手4歳No.1の地位を確立する。
東北3県交流の新潟競馬場で行われた東北ダービーで重賞初制覇。レースレコードを1秒近く縮める。菅原勲騎手はこのレース以後、騎乗し続けることになる(このレース以前は1度だけ騎乗)。その後岩手地区のダービーにあたる不来方賞を2着に1.5秒差で圧勝。この頃から「怪物の再来」と注目され始める。
4歳ダート三冠に挑戦という矢先に、頭蓋骨骨折というアクシデントに見舞われ、ユニコーンステークスは回避(この年のユニコーンステークス優勝馬はタイキシャトル)、地元のダービーグランプリは出走は出来たものの、万全な態勢ではなく10着に敗れた。続くスーパーダートダービーでも10着に敗れた。その後、地元の桐花賞を古馬相手に勝利。
他地区への遠征を積極的に進め、その中でアブクマポーロとの対決は、全国地方競馬連絡会のキャンペーンや地元岩手の競馬雑誌での特集も組まれた関係から、後に「AM対決」と呼ばれた。
川崎記念から始動するもアブクマポーロの前に4着と敗れる。その後、一旦休養に入る。休養から戻ると馬体の本格化が進み、シアンモア記念を勝利の後帝王賞に挑戦。またしてもアブクマポーロの3着に敗れたが着実にその差を詰めていった。地元のマーキュリーカップでダートグレード競走初勝利を収めると、地元の統一GIマイルチャンピオンシップ南部杯で4角先頭で押し切り、アブクマポーロを相手に初のGI勝利を収めた。だが、東京大賞典では再びアブクマポーロの前に2着に敗れた。
ライバルのアブクマポーロが川崎記念に向かう事と、距離実績と勝負付けの済んだ格下の面子が集まっていた事からフェブラリーステークスに出走。当初は、この出走を無謀と見る向きもあったが、終始危なげないレース運びで圧勝し、地方所属馬として初めてJRAのGI優勝馬となった。レース後、岩手から駆けつけたファンの間からイサオコールが湧き上がり、その一団の中から「夢をありがとう。感動をありがとう。」と書かれた応援幕をウィニングランで戻ってくるオペラと勲騎手に掲げていた。地元紙岩手日報は、この快挙を一面で大きく取り上げた。メイセイオペラがフェブラリーステークスを優勝するまでの物語は、『プロジェクトX』(NHK)で紹介された。なお、メイセイオペラの他にJRAのGIを勝利した地方所属馬は出ていない。
この頃はドバイ遠征も視野に入れられていた。夏シーズンの帝王賞も、アブクマポーロが怪我で不在の為、断然の一番人気に推され、見事期待に応える圧勝。
秋シーズンは南部杯からの始動予定であったが、右前球節炎で回避。そこから出走スケジュールが狂いだし、年末の東京大賞典では、早めの大井競馬場入厩が裏目に出て、11着に敗れた。
連覇を狙いフェブラリーステークスに出走。前年からの調整不足が祟り4着に敗れる。この影響は夏頃まで続き、帝王賞も14着に敗れる。その後、地元重賞のみちのく大賞典で3連覇を果たし復調の兆しを見せたが、左前脚浅屈腱炎を発症、この競走を最後に現役引退となり、種牡馬生活に入った。
以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comに基づく。
引退後はレックススタッドで種牡馬入り。初年度こそ84頭に種付けする人気を集めたが、年々種付け頭数が減少し、5年目には一桁にまで落ち込む。しかし韓国に輸出された産駒は全頭勝ち上がるという好成績から、韓国の生産者からの熱烈な要望があり、3年間の期間限定(後に期間を延長)を条件に2006年8月に韓国への輸出が決定された。韓国では2010年に初年度産駒がデビューし、ファーストシーズンサイアーランキングで3位となった。翌2011年にはソスルッテムンが内田利雄騎乗で韓国の皐月賞に当たるKRAカップマイルを制している。
比較的早い時期から使え、芝ダート問わずに距離も短距離から中距離まで融通が利くが、重賞実績が示すとおり、距離が延びて真価を発揮する産駒が多い。父同様、古馬になってからでも成長する傾向がある。地方ではダートと芝の両方で重賞勝ち馬を輩出している。
2010年2月21日の東京競馬場第12競走のJRAプレミアムレース「東京ウィンタープレミアム」において、副題としてつける競走馬を過去のフェブラリーステークス優勝馬から選ぶファン投票が日本中央競馬会ホームページ上で行われた。その結果、本馬が最多得票を集め、「メイセイオペラメモリアル」として行われることになった。
2011年10月10日の東京競馬場が「岩手競馬を支援する日」として開催されることに伴い第9競走が「メイセイオペラ記念 かけはし賞」として行われた。
2016年7月1日、関係者が日本への帰国に向けて準備していた矢先、繋養先である韓国のプルン牧場にて心不全により死去。22歳没。
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メイセイオペラは、日本の競走馬、種牡馬。 1999年、日本競馬史上唯一、地方競馬所属にして中央競馬のGI競走・フェブラリーステークスを優勝。同年のNARグランプリ年度代表馬に選出された。その他の勝ち鞍に、1998年の帝王賞(GI)、マーキュリーカップ(GIII)、1999年のマイルチャンピオンシップ南部杯(GI)。
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{{馬齢旧}}
{{競走馬
|名 = メイセイオペラ
|英 = {{Lang|en|Meisei Opera}}<ref name="jbis"/>
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}}
'''メイセイオペラ'''(欧字名:{{Lang|en|Meisei Opera}}、[[1994年]][[6月6日]] - [[2016年]][[7月1日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000282299/ |title= メイセイオペラ |work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2022-11-01}}</ref>
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[[1999年]]、日本競馬史上唯一、地方競馬所属にして中央競馬のGI競走・[[フェブラリーステークス]]を優勝。同年の[[NARグランプリ]]年度代表馬に選出された。その他の勝ち鞍に、[[1998年]]の[[帝王賞]](GI)、[[マーキュリーカップ]](GIII)、1999年の[[マイルチャンピオンシップ南部杯]](GI)。
==出自==
[[北海道]][[平取町]]の高橋啓牧場で生まれる。高橋牧場は後に[[フラワーパーク]]([[スプリンターズステークス]]優勝馬)を出すなど実績を残すが、母テラミスがきた当時は零細牧場のひとつに過ぎず、テラミスを受け入れた理由にしても「少しでも預託料が欲しかったから」との事であった。事実、テラミスが繁殖牝馬となったのも、馬主である小野寺良正が「娘みたいなものだから、何とか生き残らせて欲しい」とたっての願いであり、高橋牧場に落ち着くまで色々な牧場に声をかけるが全て断られていた。また、父にグランドオペラを配合したのも「種付け料が安く、少しでも長く走れたら、馬主的に楽しめる」との事である。
===デビューまで===
生まれた当初は体も小さく、競走馬になれるのかすらも危ぶまれていた。そこで夜間放牧を試してみたところ<ref name="column1">{{Cite web|和書|publisher=netkeiba.com|url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=42511&p=1|title=1章 地味な血統の華奢な馬|accessdate=2022-02-05}}</ref>、馬体が格段良くなり[[中央競馬]]に入厩する事も視野に入れられる程であった。しかし、この事を聴き付けた[[佐々木修一]]は「育成なら水沢でもできます」「まずは水沢で走らせて下さい」と、半分懇願する形で、育成が終っていないオペラを強引に入厩させた。
== 戦績 ==
===1996年===
[[1996年]][[7月27日]]に[[盛岡競馬場]]で新馬戦を勝ち上がる。その後は勝ちきれないレースが続いたが、暮れの頃からレースを覚え始め、最終的には4勝してシーズンを終える。
* 1996年の戦績 8戦4勝2着1回着外2回
===1997年===
3歳暮れからの連勝を伸ばし続け、ダイヤモンドカップで特別戦を初制覇。このレースは当時の岩手競馬の有力同世代との初対決となったが、相手にしない圧勝。クラシックを前にして岩手4歳No.1の地位を確立する。
東北3県交流の[[新潟競馬場]]で行われた[[東北優駿|東北ダービー]]で重賞初制覇。レースレコードを1秒近く縮める。[[菅原勲]]騎手はこのレース以後、騎乗し続けることになる(このレース以前は1度だけ騎乗)。その後岩手地区の[[ダービーステークス|ダービー]]にあたる[[不来方賞]]を2着に1.5秒差で圧勝。この頃から「[[トウケイニセイ|怪物]]の再来」と注目され始める。
4歳ダート[[三冠 (競馬)|三冠]]に挑戦という矢先に、[[頭蓋骨]]骨折というアクシデントに見舞われ<ref name="column2" />、[[ユニコーンステークス]]は回避(この年の[[ユニコーンステークス]]優勝馬は[[タイキシャトル]])、地元の[[ダービーグランプリ]]は出走は出来たものの、万全な態勢ではなく10着に敗れた。続く[[スーパーチャンピオンシップ|スーパーダートダービー]]でも10着に敗れた。その後、地元の[[桐花賞]]を[[古馬]]相手に勝利。
* 1997年の戦績 9戦7勝着外2回
===1998年===
他地区への遠征を積極的に進め、その中で[[アブクマポーロ]]との対決は、全国地方競馬連絡会のキャンペーンや地元岩手の競馬雑誌での特集も組まれた関係から、後に「AM対決」と呼ばれた。
[[川崎記念]]から始動するもアブクマポーロの前に4着と敗れる。その後、一旦休養に入る。休養から戻ると馬体の本格化が進み、シアンモア記念を勝利の後[[帝王賞]]に挑戦。またしてもアブクマポーロの3着に敗れたが着実にその差を詰めていった。地元の[[マーキュリーカップ]]で[[ダートグレード競走]]初勝利を収めると、地元の統一GI[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]で4角先頭で押し切り、アブクマポーロを相手に初の[[競馬の競走格付け|GI]]勝利を収めた。だが、[[東京大賞典]]では再びアブクマポーロの前に2着に敗れた。
* 1998年の戦績 8戦5勝2着1回着外0回
===1999年===
ライバルのアブクマポーロが[[川崎記念]]に向かう事と、距離実績と勝負付けの済んだ格下の面子が集まっていた事から[[フェブラリーステークス]]に出走。当初は、この出走を無謀と見る向きもあったが、終始危なげないレース運びで圧勝し、地方所属馬として初めてJRAのGI優勝馬となった。レース後、岩手から駆けつけたファンの間からイサオコールが湧き上がり、その一団の中から「夢をありがとう。感動をありがとう。」と書かれた応援幕をウィニングランで戻ってくるオペラと勲騎手に掲げていた。地元紙[[岩手日報]]は、この快挙を一面で大きく取り上げた。メイセイオペラがフェブラリーステークスを優勝するまでの物語は、『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]』([[日本放送協会|NHK]])で紹介された。なお、メイセイオペラの他にJRAのGIを勝利した地方所属馬は出ていない。
この頃は[[ドバイ]]遠征も視野に入れられていた。夏シーズンの帝王賞も、アブクマポーロが怪我で不在の為、断然の一番人気に推され、見事期待に応える圧勝。
秋シーズンは南部杯からの始動予定であったが、右前[[球節炎]]で回避。そこから出走スケジュールが狂いだし、年末の東京大賞典では、早めの大井競馬場入厩が裏目に出て、11着に敗れた。
* 1999年の戦績 6戦5勝着外1回
[[画像:Meisei Opera 20000220R1.jpg|thumb|200px|2000年2月20日 東京競馬場]]
===2000年===
連覇を狙いフェブラリーステークスに出走。前年からの調整不足が祟り4着に敗れる。この影響は夏頃まで続き、帝王賞も14着に敗れる。その後、地元重賞のみちのく大賞典で3連覇を果たし復調の兆しを見せたが、左前脚浅[[屈腱炎]]を発症、この競走を最後に現役引退となり、[[種牡馬]]生活に入った。
* 2000年の戦績 4戦2勝着外1回
== 競走成績 ==
以下の内容は、JBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000282299/record/ |title= メイセイオペラ 競走成績|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2020-10-21}}</ref>およびnetkeiba.com<ref name="netrcd">{{Cite web|和書|url= https://db.netkeiba.com/horse/result/1994104060/ |title= メイセイオペラの競走成績|work=netkeiba|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2020-10-21}}</ref>に基づく。
{| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
!競走日!!競馬場!!競走名!!格!!距離(馬場)!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!オッズ<br />(人気)!!着順!!タイム<br />(上がり3F)!!着差!!騎手!!斤量<br />[kg]!!1着馬(2着馬)!!馬体重<br />[kg]
|-
| [[1996年|1996.]][[7月27日|{{0}}7.27]]
| [[盛岡競馬場|盛岡]]
| 中央認定
|
| ダ1000m(良)
| 8
| 1
| 1
| {{0|00}} - {{00}}(4人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:03.0
| {{Nowiki|-}}0.7
| {{0}}[[阿部英俊]]
| 54
| (アンザラジェント)
| 465
|-
| {{0|0000.}}[[9月2日|{{0}}9.{{0}}2]]
| [[水沢競馬場|水沢]]
| 3才
|
| ダ1400m(稍)
| 8
| 4
| 4
| {{0|00}} - {{00}}(5人)
| {{0}}7着
| {{0|R}}1:35.6
| {{0|-}}2.6
| {{0}}阿部英俊
| 54
| ポエムダンス
| 462
|-
| {{0|0000.}}[[9月16日|{{0}}9.16]]
| 水沢
| 3才
|
| ダ1400m(良)
| 7
| 7
| 7
| {{0|00}} - {{00}}(5人)
| {{0}}{{color|darkblue|2着}}
| {{0|R}}1:33.3
| {{0|-}}0.2
| {{0}}阿部英俊
| 54
| トウホクシャダイ
| 460
|-
| {{0|0000.}}[[10月13日|10.13]]
| 盛岡
| MIT杯
|
| 芝1600m(良)
| 11
| 6
| 7
| {{0|00}} - {{00}}(5人)
| {{0}}7着
| {{0|R}}1:38.8
| {{0|-}}0.9
| {{0}}阿部英俊
| 54
| トウホクシャダイ
| 458
|-
| {{0|0000.}}[[10月27日|10.27]]
| 盛岡
| 3才B
|
| ダ1400m(良)
| 8
| 2
| 2
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{color|darkgreen|3着}}
| {{0|R}}1:30.5
| {{0|-}}0.2
| {{0}}阿部英俊
| 54
| ワカショウグン
| 467
|-
| {{0|0000.}}[[11月11日|11.11]]
| 盛岡
| 3才B
|
| ダ1400m(良)
| 9
| 1
| 1
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:28.3
| {{Nowiki|-}}1.2
| {{0}}阿部英俊
| 54
| (ミタカセントオー)
| 462
|-
| {{0|0000.}}[[12月9日|12.{{0}}9]]
| 水沢
| 3才A
|
| ダ1600m(不)
| 10
| 5
| 5
| {{0|00}} - {{00}}(2人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:47.0
| {{Nowiki|-}}0.2
| {{0}}[[佐藤雅彦 (競馬)|佐藤雅彦]]
| 54
| (ワールドピアザ)
| 469
|-
| {{0|0000.}}[[12月29日|12.29]]
| 水沢
| 白菊賞
| A
| ダ1600m(不)
| 8
| 3
| 3
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:46.3
| {{Nowiki|-}}0.7
| {{0}}[[菅原勲]]
| 55
| (ラグビーシンバル)
| 466
|-
| [[1997年|1997.]][[4月5日|{{0}}4.{{0}}5]]
| 水沢
| [[スプリングカップ (岩手競馬)|スプリングC]]
| A
| ダ1600m(不)
| 10
| 4
| 4
| {{0|00}} - {{00}}(3人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:46.1
| {{Nowiki|-}}0.4
| {{0}}渡邉正彦
| 54
| (ポエムダンス)
| 475
|-
| {{0|0000.}}[[5月4日|{{0}}5.{{0}}4]]
| 水沢
| 4才A
|
| ダ1600m(良)
| 9
| 6
| 6
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:48.9
| {{Nowiki|-}}0.7
| {{0}}渡邉正彦
| 57
| (ケイウンショウリ)
| 470
|-
| {{0|0000.}}[[5月31日|{{0}}5.31]]
| 盛岡
| [[ダイヤモンドカップ|ダイヤモンドC]]
| A
| ダ1800m(稍)
| 9
| 6
| 6
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:54.8
| {{Nowiki|-}}1.4
| {{0}}渡邉正彦
| 57
| (マルケイキャロル)
| 465
|-
| {{0|0000.}}[[7月6日|{{0}}7.{{0}}6]]
| [[新潟競馬場|新潟]]
| [[東北ダービー]]
| 重賞
| ダ1800m(不)
| 10
| 5
| 5
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R1:52.4}}
| {{Nowiki|-}}0.6
| {{0}}菅原勲
| 54
| (フジノローリアス)
| 464
|-
| {{0|0000.}}[[7月27日|{{0}}7.27]]
| 盛岡
| [[不来方賞]]
| 重賞
| ダ2000m(良)
| 11
| 4
| 4
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:10.9
| {{Nowiki|-}}0.6
| {{0}}菅原勲
| 55
| (ファイアーマリオ)
| 469
|-
| {{0|0000.}}[[8月30日|{{0}}8.30]]
| 盛岡
| 一般A
|
| ダ1800m(良)
| 10
| 1
| 1
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:55.1
| {{Nowiki|-}}0.8
| {{0}}菅原勲
| 54
| (サカモトリードワン)
| 471
|-
| {{0|0000.}}[[11月3日|11.{{0}}3]]
| 盛岡
| [[ダービーグランプリ]]
| {{GI}}
| ダ2000m(良)
| 12
| 6
| 7
| {{0|00}} - {{00}}(2人)
| 10着
| {{0|R}}2:09.8
| {{0|-}}2.3
| {{0}}菅原勲
| 56
| [[テイエムメガトン]]
| 479
|-
| {{0|0000.}}[[11月20日|11.20]]
| [[大井競馬場|大井]]
| {{small|[[スーパーダートダービー]]}}
| {{GII}}
| ダ2000m(稍)
| 14
| 8
| 13
| {{0|00}} - {{00}}(6人)
| 10着
| {{0|R}}2:08.3
| {{0|-}}2.0
| {{0}}菅原勲
| 57
| [[メイショウモトナリ]]
| 471
|-
| {{0|0000.}}[[12月31日|12.31]]
| 水沢
| [[桐花賞]]
| 重賞
| ダ2000m(良)
| 10
| 1
| 1
| {{0|00}} - {{00}}(2人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:15.7
| {{Nowiki|-}}0.2
| {{0}}菅原勲
| 55
| (ロイヤルハーバー)
| 481
|-
| [[1998年|1998.]][[1月28日|{{0}}1.28]]
| [[川崎競馬場|川崎]]
| [[川崎記念]]
| {{GI}}
| ダ2000m(良)
| 9
| 3
| 3
| {{0|00}} - {{00}}(5人)
| {{0}}4着
| {{0|R}}2:09.4
| {{0|-}}1.8
| {{0}}菅原勲
| 55
| [[アブクマポーロ]]
| 480
|-
| {{0|0000.}}[[5月10日|{{0}}5.10]]
| 水沢
| [[シアンモア記念]]
| 重賞
| ダ2000m(良)
| 7
| 4
| 4
| {{0|00}}1.2{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:11.1
| {{Nowiki|-}}1.1
| {{0}}菅原勲
| 55
| (マウンドギャロップ)
| 489
|-
| {{0|0000.}}[[6月24日|{{0}}6.24]]
| 大井
| [[帝王賞]]
| {{GI}}
| ダ2000m(稍)
| 13
| 4
| 4
| {{0|00}} - {{00}}(7人)
| {{0}}{{color|darkgreen|3着}}
| {{0|R}}2:03.8(36.4)
| {{0|-}}0.4
| {{0}}菅原勲
| 57
| アブクマポーロ
| 488
|-
| {{0|0000.}}[[7月20日|{{0}}7.20]]
| 水沢
| [[マーキュリーカップ|マーキュリーC]]
| {{GIII}}
| ダ2000m(良)
| 9
| 3
| 3
| {{0|00}}1.1{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:09.0
| {{Nowiki|-}}1.4
| {{0}}菅原勲
| 56
| (パリスナポレオン)
| 488
|-
| {{0|0000.}}{{0}}8.30
| 盛岡
| [[みちのく大賞典]]
| 重賞
| ダ2000m(不)
| 8
| 8
| 8
| {{0|00}}1.0{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R2:03.5}}
| {{Nowiki|-}}1.8
| {{0}}菅原勲
| 55
| (ジョウテンウイン)
| 490
|-
| {{0|0000.}}[[10月10日|10.10]]
| 盛岡
| [[マイルチャンピオンシップ南部杯|マイルCS南部杯]]
| {{GI}}
| ダ1600m(不)
| 12
| 3
| 3
| {{0|00}}6.9{{0}}(3人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{color|darkred|R1:35.1}}
| {{Nowiki|-}}0.6
| {{0}}菅原勲
| 56
| ([[タイキシャーロック]])
| 492
|-
| {{0|0000.}}[[11月22日|11.22]]
| 盛岡
| [[北上川大賞典]]
| 重賞
| ダ2500m(良)
| 10
| 8
| 9
| {{0|00}}1.0{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:43.4
| {{Nowiki|-}}2.3
| {{0}}菅原勲
| 56
| (ストロングファイブ)
| 494
|-
| {{0|0000.}}[[12月23日|12.23]]
| 大井
| [[東京大賞典]]
| {{GI}}
| ダ2000m(良)
| 15
| 2
| 3
| {{0|00}} - {{00}}(2人)
| {{0}}{{color|darkblue|2着}}
| {{0|R}}2:05.7(37.8)
| {{0|-}}0.5
| {{0}}菅原勲
| 57
| アブクマポーロ
| 491
|-
| [[1999年|1999.]][[1月31日|{{0}}1.31]]
| [[東京競馬場|東京]]
| [[フェブラリーステークス|フェブラリーS]]
| {{GI}}
| ダ1600m(良)
| 16
| 5
| 9
| {{0|00}}4.7{{0}}(2人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:36.3(35.6)
| {{Nowiki|-}}0.3
| {{0}}菅原勲
| 57
| ([[エムアイブラン]])
| 492
|-
| {{0|0000.}}[[5月9日|{{0}}5.{{0}}9]]
| 水沢
| シアンモア記念
| 重賞
| ダ2000m(良)
| 8
| 4
| 4
| {{0|00}}1.0{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:11.1
| {{Nowiki|-}}1.1
| {{0}}菅原勲
| 59
| (バンチャンプ)
| 502
|-
| {{0|0000.}}{{0}}6.24
| 大井
| 帝王賞
| {{GI}}
| ダ2000m(良)
| 15
| 8
| 14
| {{0|00}}1.6{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:04.0(37.7)
| {{Nowiki|-}}0.9
| {{0}}菅原勲
| 57
| ([[サプライズパワー]])
| 491
|-
| {{0|0000.}}[[8月29日|{{0}}8.29]]
| 盛岡
| みちのく大賞典
| 重賞
| ダ2000m(不)
| 8
| 7
| 7
| {{0|00}}1.0{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:05.1
| {{Nowiki|-}}0.7
| {{0}}菅原勲
| 55
| (バンチャンプ)
| 493
|-
| {{0|0000.}}[[11月23日|11.23]]
| 盛岡
| 北上川大賞典
| 重賞
| ダ2500m(良)
| 6
| 4
| 4
| {{0|00}}1.1{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:46.5
| {{Nowiki|-}}0.7
| {{0}}菅原勲
| 58
| (バンチャンプ)
| 497
|-
| {{0|0000.}}12.29
| 大井
| 東京大賞典
| {{GI}}
| ダ2000m(良)
| 16
| 8
| 16
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| 11着
| {{0|R}}2:06.9(40.0)
| {{0|-}}2.0
| {{0}}菅原勲
| 57
| [[ワールドクリーク]]
| 494
|-
| [[2000年|2000.]][[2月20日|{{0}}2.20]]
| 東京
| フェブラリーS
| {{GI}}
| ダ1600m(良)
| 16
| 8
| 15
| {{0|00}}6.1{{0}}(3人)
| {{0}}4着
| {{0|R}}1:35.7(37.1)
| {{0|-}}0.1
| {{0}}菅原勲
| 57
| [[ウイングアロー]]
| 504
|-
| {{0|0000.}}[[5月21日|{{0}}5.21]]
| 盛岡
| [[あすなろ賞]]
| OP
| ダ1800m(良)
| 10
| 3
| 3
| {{0|00}}1.0{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}1:55.8
| {{Nowiki|-}}0.4
| {{0}}菅原勲
| 59
| (ユーコーマイケル)
| 504
|-
| {{0|0000.}}[[6月22日|{{0}}6.22]]
| 大井
| 帝王賞
| {{GI}}
| ダ2000m(良)
| 16
| 5
| 9
| {{0|00}} - {{00}}(1人)
| 14着
| {{0|R}}2:07.7(41.2)
| {{0|-}}2.1
| {{0}}菅原勲
| 57
| [[ファストフレンド]]
| 496
|-
| {{0|0000.}}[[8月27日|{{0}}8.27]]
| 盛岡
| みちのく大賞典
| 重賞
| ダ2000m(良)
| 9
| 4
| 4
| {{0|00}}1.1{{0}}(1人)
| {{0}}{{Color|darkred|1着}}
| {{0|R}}2:06.7
| {{Nowiki|-}}1.4
| {{0}}菅原勲
| 55
| (バンチャンプ)
| 499
|}
==引退後==
引退後は[[レックススタッド]]で種牡馬入り。初年度こそ84頭に[[種付け]]する人気を集めたが、年々種付け頭数が減少し、5年目には一桁にまで落ち込む。しかし[[大韓民国|韓国]]に輸出された産駒は全頭勝ち上がるという好成績から、韓国の生産者からの熱烈な要望があり、3年間の期間限定(後に期間を延長)を条件に[[2006年]][[8月]]に韓国への輸出が決定された。韓国では[[2010年]]に初年度産駒がデビューし、ファーストシーズンサイアーランキングで3位となった。翌[[2011年]]にはソスルッテムンが[[内田利雄]]騎乗で韓国の[[皐月賞]]に当たるKRAカップマイルを制している。
比較的早い時期から使え、芝ダート問わずに距離も短距離から中距離まで融通が利くが、重賞実績が示すとおり、距離が延びて真価を発揮する産駒が多い。父同様、古馬になってからでも成長する傾向がある。地方ではダートと芝の両方で重賞勝ち馬を輩出している。
2010年[[2月21日]]の東京競馬場第12競走の[[JRAプレミアムレース]]「東京ウィンタープレミアム」において、副題としてつける競走馬を過去のフェブラリーステークス優勝馬から選ぶファン投票が日本中央競馬会ホームページ上で行われた。その結果、本馬が最多得票を集め、「メイセイオペラメモリアル」として行われることになった。
2011年[[10月10日]]の東京競馬場が「岩手競馬を支援する日」として開催されることに伴い第9競走が「メイセイオペラ記念 かけはし賞」として行われた。
[[2016年]][[7月1日]]、関係者が日本への帰国に向けて準備していた矢先、繋養先である韓国のプルン牧場にて[[心不全]]により死去<ref>{{Cite web|和書|publisher=netkeiba.com|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=111881|title=メイセイオペラ死す 22歳|accessdate=2022-02-05}}</ref>。22歳没<ref>{{Cite news|title=メイセイオペラ死す 地方所属馬唯一の中央G1制覇|newspaper=日刊スポーツ|date=2016年7月8日17時45分|url=http://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=1675297&year=2016&month=07&day=08|accessdate=2016-07-08}}</ref>。
===代表産駒===
* ジョイーレ([[兵庫県競馬組合]]所属。2006年[[摂津盃]]でメイセイオペラ産駒初の重賞初制覇。[[兵庫ジュニアグランプリ]]2着などが評価され、兵庫競馬[[2005年|平成17年]]優秀競走馬(特別優秀馬)に選ばれる)
* ジュリア([[岩手県競馬組合]]所属。2008年[[ビューチフル・ドリーマーカップ]](牝馬限定重賞・水沢ダート1900m)1着)
* カネショウエリート(岩手県競馬組合所属。2008年[[桐花賞]](重賞・水沢ダート2000m)1着、2008年[[きんもくせい賞]](重賞・盛岡芝2400m)1着)
* コスモバスティーユ Cosmo Bastille 韓国名 {{lang|ko|코즈모배스틸}} コヂュモベスティル([[韓国馬事会|韓国競馬所属馬]]。韓国で4勝)
* ツルオカオウジ([[特別区競馬組合]]所属。2010年[[黒潮盃]](南関東SII・大井ダート1800m)1着)
* ソスルッテムン Soseuldaemun 韓国名 {{lang|ko|솟을대문}}(韓国競馬所属馬。2011年[[KRAカップマイル]](韓国GII・[[釜山慶南競馬場|釜山慶南]]ダート1600m)1着)
== エピソード ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年4月}}
* 母テラミス、父タクラマカン共に栗毛流星の面相であり、生まれてきた産駒も3番仔のメイセイユウシャが鹿毛流星の面相である以外は、兄弟ことごとく栗毛流星の面相であり、メイセイオペラそっくりである。
* 本馬がデビューした時、馬主の小野寺良正はすでに病魔に侵されており、レース観戦も出来ない状態だった。その為、家庭用ビデオで録画したレースを、病床で何度も見てオペラの将来を楽しみにしていた。良正が死去したのは、オペラのデビュー戦の1か月後である<ref name="column1" />。
* フェブラリーステークス勝利時、レースを観戦していた良正の妻・明子は、ゴール直前100mでオペラが先頭に立った時、良正の遺影を高々と上げて「あなた見て! 先頭走っているわよ! あなたの馬が先頭を走っているわよ!!」と叫び、観戦が叶わなかった良正にせめてもとの思いでオペラの走る勇姿を見せていた。
* 1998年の川崎記念の後、福島県にある民営の天工トレセンが中央競馬並みの施設(坂路、サンシャインパドック、屋内コース等)で休養と調教が出来るという事で入厩する事になった。すると馬体が格段に良くなり、以後休養時に利用する事になる。また、この民営の育成施設利用は、調教施設の不備でなかなか中央馬に勝てなかった地方馬にとって大いな福音となり、地方競馬の有力馬はこうした施設を使う様になった。
* 1998年の川崎記念に遠征した際、現地の水道水を飲まず厩舎スタッフが苦労したという実例から、フェブラリーステークスに出走するために[[美浦トレーニングセンター]]に入厩する際や、大井競馬場に遠征する際には、滯在地の水道水を飲まない可能性を懸念して、常に地元から水道水を持参していた。ただし、一定期間滞在する場合には水の輸送コストも相当な金額になる事などから、その後も遠征先の水道水を飲むかも試してはみたものの、ほとんど飲まなかったという。
*漫画[[ウイニング・チケット (漫画)|ウイニング・チケット]]の登場馬のミカヅキオーの父がメイセイオペラである。ミカヅキオーの全弟は韓国に輸出される(最後の)直前のメイセイオペラ産駒の為にセリ価格が高騰し1億5000万円という高額で落札となった。
== 血統表 ==
{{競走馬血統表
|name = メイセイオペラ
|f = *[[グランドオペラ (競走馬)|グランドオペラ]]<br />Grand Opera<br />1984 鹿毛
|m = テラミス<br />1988 栗毛
|ff = [[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky II]]<br />1967 鹿毛
|fm = [[グローリアスソング|Glorious Song]]<br />1976 鹿毛
|mf = *[[タクラマカン (競走馬)|タクラマカン]]<br />Ishikari<br />1978 栗毛
|mm = ヤヘイボシ<br />1983 青鹿毛
|fff = '''[[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]'''
|ffm = [[フレーミングページ|Flaming Page]]
|fmf = [[ヘイロー (競走馬)|Halo]]
|fmm = Ballade
|mff = [[ダマスカス (競走馬)|Damascus]]
|mfm = Virginia Green
|mmf = *[[オフィスダンサー]]
|mmm = シナノイブキ
|ffff = [[ニアークティック|Nearctic]]
|fffm = [[ナタルマ|Natalma]]
|ffmf = [[ブルペイジ|Bull Page]]
|ffmm = Flaring Top
|fmff = [[ヘイルトゥリーズン|Hail to Reason]]
|fmfm = [[コスマー|Cosmah]]
|fmmf = [[エルバジェ (競走馬)|Herbager]]
|fmmm = Miss Swapsco
|mfff = [[ソードダンサー (競走馬)|Sword Dancer]]
|mffm = Kerala
|mfmf = [[ナシュア (競走馬)|Nashua]]
|mfmm = Virginia Water
|mmff = '''Northern Dancer'''
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*父グランドオペラは中央競馬ではこれといった産駒が出ず、活躍した産駒も多くはないが、地方競馬ではアマゾンオペラ([[船橋競馬場|船橋]])と本馬を輩出し、それぞれが地方競馬を代表するトップホースとして一時代を担った。
*母テラミスは岩手競馬で13戦2勝をあげている。おもな産駒(本馬の兄弟)は以下の通り。
**メイセイユウシャ(メイセイオペラの勝てなかった芝重賞([[せきれい賞]])を勝利)
**メイセイオペレッタ(メイセイオペラの[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半妹]]。[[オパールカップ]]優勝)
**メイセイプリマ(メイセイオペラの半妹。兄弟初の中央競馬デビュー。新馬勝ち上がり)
**オペラアンドワルツ (メイセイオペラの全妹として期待された)
**アンドアゲイン(メイセイオペラの半妹。父:[[ビワシンセイキ]])
*母の父タクラマカンは[[社台グループ]]がアメリカから競走馬として輸入した[[外国産馬]]で、[[ミルリーフ]]の従兄弟にあたる良血馬であった。当時は外国産馬が出走できる競走が限られていたため重賞勝ちはなかったが、旧4歳で第1回[[ジャパンカップ]]に出走、翌年の[[宝塚記念]]では[[モンテプリンス]]の3着に入り、通算17戦7勝をあげている。代表産駒は1990年[[京都大障害]](秋)の勝ち馬クリバロン。
*主な近親は5代母ペツトネーシヨン(本血統表内シナノクインの母)から広がっており、[[ライブリマウント]]([[フェブラリーステークス]]など重賞3勝)、ヨシノスキー([[中山記念]]など重賞3勝)、タイヨウコトブキ([[ビクトリアカップ]]など重賞2勝)、ユーワビーム([[カブトヤマ記念]])、ユキノビジン([[クイーンステークス]])らがいる。
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* [[佐藤次郎 (編集委員)|佐藤次郎]] 『砂の王 メイセイオペラ』 新潮社、2000年 ISBN 978-4-10-439201-8
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1994104060|yahoo=1994104060|jbis=0000282299|chihou=30035405914|racingpost=508431/meisei-opera}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000282299|メイセイオペラ}}
* [http://jra-van.jp/fun/tokusyu/100221_02_01.html 歴代優勝馬ピックアップ・第27回フェブラリーステークス「メイセイオペラ」] - [[JRA-VAN]]ホームページより
* [http://jra.jp/topics/column/g_files2010/10_0221.html 名馬の蹄跡…メイセイオペラ] - [[日本中央競馬会|JRA]]ホームページより
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アンジェリークシリーズ
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アンジェリークシリーズは、コーエーから発売されている女性向け恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』、及びそこから派生した関連ゲーム、グッズの総称。1994年に世界初の女性向け恋愛ゲームとして発売される。2020年時点でゲームシリーズの累計販売本数は85万本を超える。
女性向け恋愛シミュレーションゲーム市場を開拓したシリーズで、コーエーの女性向けゲーム開発チーム、ルビー・パーティーが開発したネオロマンスシリーズ第1作目。
※『ネオ アンジェリーク』についてはアンジェリークシリーズに含まれないネオロマンスシリーズ4作目であるため本稿には記述しない。
1994年に第一作が発売されたのちキャラクター増加と設定追加・変更という流れでシリーズが続けられた。
シリーズ全体を通してキャラクターデザインを行っているのは由羅カイリ。 ただし、『スウィートアンジェ』は桂崎新子、『アンジェリーク 魔恋の六騎士』は東夕陽、『アンジェリーク ルトゥール』はハチロクハチコが行っている。
開発当時は声優の起用はめずらしかったが、このソフトの開発のために採用した女性社員が「声優のイベントに参加したいので入社日をずらしてほしい。」と要望したことから襟川恵子(現コーエーテクモホールディングス代表取締役会長)の興味を引くこととなり、ゲームへの採用だけでなく主題歌をはじめとした関連グッズの制作などゲームにとどまらない商品展開をすることとなった。
『アンジェリーク 魔恋の六騎士』の登場人物については登場人物がほとんど重ならないためゲーム記事の方を参照のこと。
「調和」の力(サクリア)を持ち、守護聖の力をバランスよくまとめ、宇宙の平穏な運行をもたらす存在。
女王に仕え、宇宙を構成する9つの力「サクリア」を司る存在。
調和の力(サクリア)を持ち、守護聖の力をバランスよくまとめ、宇宙の平穏な運行をもたらす存在。
声:立木文彦
ゲーム版とアニメ版で性格や一部の設定が異なり、ゲーム版は明るく活発であり、やや勝ち気な性格。アニメは自分には取り柄がないと思い込む引っ込み思案な性格となっている。
下記3人以外の守護聖に関しては#聖獣の宇宙 (アンジェリークSpecial2)を参照。
基本的にシリーズの世界観は『アンジェリークSpecial2』で前作の主人公が女王になっているなど女王エンディングが基本になっている。
ゲームごとに多少のばらつきはあるが基本的なゲームシステムは同じである。 エンディングは大きく分けて下記の3つになる。
プレイヤーの取れる行動は「育成」と「男性キャラクターとの親交を深める」の二つになる。女王エンディングを迎えたい場合はそれほど問題は無く、育成と男性キャラクターとの付き合いをほどほどに行っていけば迎えることが出来る。しかし恋愛エンディングを迎えたい場合は、細かくバランスを取って行くことが必要となる。
育成に力を入れ成績が良ければ、行動の選択肢が広がり、有利になる。だが「育成の完了」というゲームの終了条件が早く達成されてしまうため、男性キャラクターとの恋愛成立条件を整えることが難しくなる。男性キャラクターとの親交に力を入れれば、育成の速度が遅くなる。『アンジェリーク』、『アンジェリークSpecial2』のようにライバルキャラクターが存在する場合は、ライバルに有利な展開となってしまう。そのため、目的に応じて、この二つの行動を計画的に行わなければならない。
しかし、男性キャラクターと親密になると、親愛行動として育成を男性キャラクターが自動で行ってしまうため、育成を抑えておかないと終盤に育成が早く進んでしまい、恋愛エンディングを成立し損ねることがある。また、育成の成績の代わりに、男性キャラクター達からの支持率の良し悪しで行動の選択肢が広がる場合もあるので、ある程度の人数と付き合いを持つ必要がある。
指定期間内に育成が終えられなかった場合は、バッドエンドとなる。
第1作目のコミカライズと、第1作目のリメイク「ルトゥール」のコミカライズは『アンジェリーク』を参照。
『アンジェリーク デュエット』のノベライズ、『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』の外伝「黒き翼のもとに」は該当ゲーム記事を参照。『戦国アンジェリーク』のノベライズは、該当節#漫画を参照。
ネオロマンスシリーズ全般を対象とした番組についてはネオロマンスシリーズを参照のこと。
『アンジェリーク』はそもそもスーパーファミコンソフトとして開発されたため、音声は付加されていなかった。しかし、当時既にプレイステーションやセガサターンがメジャーなゲーム機であったことや、アンジェリークのドラマCDの出来が良かったことなどから、開発されたのが、初めての音声付ソフト『アンジェリークSpecial』であったが、最初の移植先はマイナー機であるNECホームエレクトロニクスのPC-FXであった。
その後も「アンジェリークの新作はまずPC-FX版で発売される」という原則は崩れなかった。『アンジェリークSpecial2』、『ふしぎの国のアンジェリーク』、『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』は、いずれもPC-FX版が最初である。当時としては数少なかった女性向け恋愛シミュレーションゲームの『アルバレアの乙女』がPC-FXのラインナップに入っていた。
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"text": "『アンジェリーク』はそもそもスーパーファミコンソフトとして開発されたため、音声は付加されていなかった。しかし、当時既にプレイステーションやセガサターンがメジャーなゲーム機であったことや、アンジェリークのドラマCDの出来が良かったことなどから、開発されたのが、初めての音声付ソフト『アンジェリークSpecial』であったが、最初の移植先はマイナー機であるNECホームエレクトロニクスのPC-FXであった。",
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アンジェリークシリーズは、コーエーから発売されている女性向け恋愛シミュレーションゲーム『アンジェリーク』、及びそこから派生した関連ゲーム、グッズの総称。1994年に世界初の女性向け恋愛ゲームとして発売される。2020年時点でゲームシリーズの累計販売本数は85万本を超える。
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{{コンピュータゲームシリーズ
| タイトル = アンジェリークシリーズ
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| 開発元 = [[コーエーテクモゲームス|コーエー]]
| 発売元 = コーエー
| ジャンル = [[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]
| 製作者 =
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| スピンオフ作品 =
| 公式サイトURL = https://www.gamecity.ne.jp/neoromance/angelique/
| 公式サイトタイトル= ネオロマンス・オフィシャルサイト:アンジェリーク
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'''アンジェリークシリーズ'''は、[[コーエーテクモゲームス|コーエー]]から発売されている女性向け[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]『[[アンジェリーク]]』、及びそこから派生した関連ゲーム、グッズの総称。1994年に世界初の女性向け恋愛ゲームとして発売される<ref>https://www.famitsu.com/news/201909/14183287.html</ref>。2020年時点でゲームシリーズの累計販売本数は85万本を超える<ref>https://www.4gamer.net/games/520/G052080/20200722189/</ref>。
== 概要 ==
女性向け恋愛シミュレーションゲーム市場を開拓したシリーズで、コーエーの女性向けゲーム開発チーム、ルビー・パーティーが開発した[[ネオロマンスシリーズ]]第1作目。
※『[[ネオ アンジェリーク]]』についてはアンジェリークシリーズに含まれないネオロマンスシリーズ4作目であるため本稿には記述しない。
1994年に第一作が発売されたのちキャラクター増加と設定追加・変更という流れでシリーズが続けられた。
シリーズ全体を通してキャラクターデザインを行っているのは[[由羅カイリ]]。
ただし、『スウィートアンジェ』は桂崎新子、『[[アンジェリーク 魔恋の六騎士]]』は東夕陽、『アンジェリーク ルトゥール』はハチロクハチコが行っている。
開発当時は声優の起用はめずらしかったが、このソフトの開発のために採用した女性社員が「声優のイベントに参加したいので入社日をずらしてほしい。」と要望したことから襟川恵子(現コーエーテクモホールディングス代表取締役会長)の興味を引くこととなり、ゲームへの採用だけでなく主題歌をはじめとした関連グッズの制作などゲームにとどまらない商品展開をすることとなった。
== 登場人物 ==
『[[アンジェリーク 魔恋の六騎士]]』の登場人物については登場人物がほとんど重ならないためゲーム記事の方を参照のこと。
=== 神鳥の宇宙 ===
==== 女王 ====
「調和」の力(サクリア)を持ち、守護聖の力をバランスよくまとめ、宇宙の平穏な運行をもたらす存在。
===== アンジェリーク・リモージュ(第256代神鳥の女王) =====
: [[声優|声]]:[[白鳥由里]]
: 『アンジェリーク』においては以下の通り。
:: 主人公。女王候補の一人。17歳。
:: スモルニィ女学院に通う、おしゃべりと甘いものとリボンが好きなごく普通の女子高生。金の巻き毛に緑の瞳の元気な少女。
: 『アンジェリークSpecial2』以降においては以下の通り。
:: 第256代神鳥の女王。17歳。
:: 女王補佐官のロザリアとは女王候補時代からの親友。好奇心が強く、元気一杯で補佐官を困らせるところがある。力に満ちた慈愛あふれる女王であり、みなに慕われている。
===== ・ロザリア・デ・カタルヘナ(第256代神鳥の女王補佐官) =====
: 声:[[三石琴乃]]
: 『アンジェリーク』においては以下の通り。
:: アンジェリーク・リモージュのライバルで女王候補の一人。17歳。
:: スモルニィ女学院の生徒。大貴族のお嬢様で女王候補となるべく幼い頃から厳しく育てられてきた誇り高い少女。青く長い巻き毛と青い瞳の持ち主。気が強く、毒舌な反面、面倒見はいい。ヴァイオリンを弾くのが趣味。生粋のお嬢様であるため実家から身の回りを世話をする「ばあや」をつれてきている。
: 『アンジェリークSpecial2』以降においては以下の通り。
:: 第256代神鳥の女王に仕える女王補佐官。17歳。初代聖獣の女王の選出試験の責任者。
:: 女王アンジェリーク・リモージュとは女王候補時代からの親友。真面目で有能、気品のある美しい女性。親友である女王にはよく振り回されている。貴族出身であるため宮廷作法に通じており、アンジェリーク・リモージュの女王就任当初は教師役を務めていた。
==== 守護聖 ====
女王に仕え、宇宙を構成する9つの力「サクリア」を司る存在。
===== 神鳥の光の守護聖ジュリアス =====
: 声:[[速水奨]]
: 誇りを司る光の守護聖。25歳。
: 大貴族の出身で誇りと威厳に満ちており、自己にも他者にも同様に厳しい。クラヴィスとは犬猿の仲。守護聖としての自負が高く、女王への忠誠心と仕事への熱心さでは他の追随を許さない。かなりの真面目。
: クラヴィスとの不仲だが、ジュリアスが就任時において多大な影響をうけたのが前闇の守護聖であり、ある日突然代替わりしてしまった新闇の守護聖(クラヴィス)との第一印象が悪かったのが最初の発端であった。
===== 神鳥の闇の守護聖クラヴィス =====
: 声:[[島田敏]](ドラマCD『光と闇のサクリア』『ときめきの宝石箱』)→[[塩沢兼人]](『[[アンジェリークSpecial]]』以降)→[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](『[[アンジェリーク トロワ]]』以降)
: 安らぎを司る闇の守護聖。25歳。
: 寡黙で近寄りがたい雰囲気の人物。流浪民の出身で急な守護聖交代のせいで守護聖であることに窮屈さを感じている。人嫌いでマイペース。ジュリアスとは犬猿の仲。
: 実は第255代神鳥の女王の選出試験時に女王候補に恋をしていたのだが、結局彼女は女王になる道を選んでしまう。元々急な守護聖交代により心の整理もつかないまま聖地に連れてこられ、この頃から孤独な日々を過ごしていたのだが、前述の理由からさらに心を閉ざしてしまった。だが様々な出来事から徐々に心が開いていく。
===== 神鳥の風の守護聖ランディ =====
: 声:[[神奈延年|林延年]]
: 勇気を司る風の守護聖。18歳。
: 快活でスポーツ好きな好青年。正義感が強く、生真面目な性格。
:気さくで人当たりは良いがゼフェルに対しては感情的になりがち。そのため何かにつけて反抗的なゼフェルとはいまひとつ仲が良くないがマルセルとは仲が良い。オスカーに剣を習っており師弟関係。
===== 神鳥の水の守護聖リュミエール =====
: 声:[[飛田展男]]
: 優しさを司る水の守護聖。21歳。
: 女性的な優しい容姿の持ち主で、争いごとを嫌い音楽など芸術を愛する穏やかな性格。自分の殻にこもりがちなクラヴィスを常に気遣っている。実は怪力の持ち主。オスカーと同期だが仲が悪い。
===== 神鳥の炎の守護聖オスカー =====
: 声:[[堀内賢雄]]
: 強さを司る炎の守護聖。22歳。
: 軍人家系の出身で剣の名手。プレイボーイであることを除けば常識人。自信家でそれに見合う実力がある。ジュリアスを尊敬しており、いわば主従関係にある。リュミエールと同期だが仲が悪い。
===== 神鳥の緑の守護聖マルセル =====
: 声:[[優希比呂|結城比呂]]
: 豊かさを司る緑の守護聖。14歳。
: 最年少の守護聖であり、少女のような愛らしい外見と、動物や植物を愛する優しい心の持ち主。ランディ、ゼフェルと仲が良い。リュミエールやルヴァの事も慕っている。頑張り屋だが、その反面寂しがり屋である。
===== 神鳥の鋼の守護聖ゼフェル =====
: 声:[[岩田光央]]
: 器用さを司る鋼の守護聖。17歳。
: 無愛想で口が悪く内面をなかなか見せないが、素直になれないだけで本来は優しく繊細な少年。女は‘すぐ泣く’ので苦手。メカいじりが得意。
: クラヴィス同様急な守護聖交代で、ある日突然サクリアが発現した為、守護聖としての教育を受けることなく無理矢理家族や故郷と引き離されたところ、急にサクリアを消失した事で動揺した前任鋼の守護聖との間に軋轢が生じたことで鬱屈を抱えている。まじめで口うるさい所のあるランディのことは煙たがっている。ルヴァには守護聖になったときから面倒を見てもらっており、表向きは反発しながらも慕っている。
===== 神鳥の夢の守護聖オリヴィエ =====
: 声:[[子安武人]]
: 美しさを司る夢の守護聖。22歳。
: 「極楽鳥」と異名を取る派手なファッションとメイクを好み、女言葉を使う事もあるが決してオカマではなく、実は武闘派である。おしゃれ好きで享楽的な雰囲気を持つが根はまじめで性格はさばさばしており、思慮深い。楽器もひととおりこなす。守護聖になった年齢が遅いため人生経験が豊かで、人間関係を取り持つことが多い。
===== 神鳥の地の守護聖ルヴァ =====
: 声:[[関俊彦]]
: 知恵を司る地の守護聖。26歳。
: 学者肌でおっとりしているため、厄介ごとを押し付けられやすい。知性と教養の豊かさで一目置かれている。ジュリアスとクラヴィスの仲裁役。また、オリヴィエとも仲が良い。守護聖の中では年少組のランディ、ゼフェル、マルセルのことを気にかけており、彼らからも慕われている。
==== その他の人々 ====
===== 王立研究院責任者パスハ =====
: 声:[[矢尾一樹]](OVA『聖地より愛をこめて』のみ[[堀川仁]])
: 宇宙の状態を観測、研究する王立研究院の責任者で水龍族の男性。24歳。
: 大陸の育成に関して女王候補たちにアドバイスを行う。占い師のサラとは恋人同士。
: 無口で生真面目な性格であるため情熱的な性格のサラとは時々衝突している。
===== 占い師サラ =====
: 声:[[折笠愛]]
: 女王試験の行われる飛空都市で占いの館を開いている火龍族の女性。21歳。
: 女王候補たちに占いでアドバイスを行う。王立研究院のパスハとは恋人同士。
: 恋愛至上主義で女王候補たちには素敵な恋をして欲しいと願っておりそのための助力を惜しまない。
===== 第255代神鳥の女王アンジェリーク =====
: 声:[[勝生真沙子]]
: アンジェリーク・リモージュの先代の女王。21歳。いつも深くベールをかぶり、めったに人前に姿を現さない。元女王候補の1人で女王補佐官のディアとはスモルニィ女学院在学中からの親友。長いストレートの金の髪と灰緑色の瞳の持ち主。
: 女王候補時代は今とは正反対に木登りをするほど活発で率直な性格だった。クラヴィスから想いを寄せられており、彼女自身もクラヴィスに好感はあったものの、全ての人たちの光になりたいと考える彼女は、結局クラヴィスの想いに応える事が出来ず女王となってしまった。
===== 第255代神鳥の女王補佐官ディア =====
: 声:[[田中敦子 (声優)|田中敦子]]
: 第255代神鳥の女王に仕える補佐官。21歳。
: 温厚で母性的な女性だが有能で威厳がある。ほとんど人前に出ない女王の代わりをつとめている。第256代神鳥の女王選出のための女王試験の責任者。元女王候補の1人で第255代女王とはスモルニィ女学院在学中からの親友。貴族出身で社交的であるため、よくお茶会や食事会などを催し、皆の親交を図っている。
===== 前・神鳥の緑の守護聖カティス =====
: 声:[[池田秀一]]
: マルセルの先代の緑の守護聖。洒脱で捌けた人物で守護聖の間で人望があった。マルセルの受け継いだ館には、宇宙中から彼がコレクションした秘蔵のワイン貯蔵庫があるなど、酒の目利きとして知られ、自らワインを作っている。
: CDドラマの一部とゲーム『ふしぎの国のアンジェリーク』にのみ登場。
===== 前・神鳥の鋼の守護聖ライ =====
<!--: 声:[[蒼井翔太]]-->
: ゼフェルの先代の鋼の守護聖。『アンジェリーク ルトゥール』に登場。
=== 聖獣の宇宙 (アンジェリークSpecial2) ===
==== 女王 ====
調和の力(サクリア)を持ち、守護聖の力をバランスよくまとめ、宇宙の平穏な運行をもたらす存在。
===== アンジェリーク・コレット(初代聖獣の女王) =====
: 声:[[浅田葉子]]
: 『アンジェリークSpecial2』においては以下の通り。
:: 主人公。女王候補の1人。17歳。
:: スモルニィ女学院に通う、ごく普通の女子高生。栗色の髪に青緑色の瞳の少女。プレイヤーによって3通りの性格に設定することができる。
: 『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』以降においては以下の通り。
:: 主人公(『アンジェリーク エトワール』を除く)。初代聖獣の女王。17歳。優しくおっとりしているが芯の強い少女。女王補佐官レイチェルとは女王候補時代からの親友。
===== アルフォンシア =====
:聖獣の宇宙の意思。女王のサクリアをもつ者だけがその姿を見、意思を通じ合わせることができる。アルフォンシアという名はアンジェリーク・コレットが名づけたものでレイチェルはルーティスと呼んでいた。
===== レイチェル・ハート(初代聖獣の女王補佐官) =====
: 声:[[長沢美樹]]
: 『アンジェリークSpecial2』においては以下の通り。
:: アンジェリーク・コレットのライバルで女王候補の1人。16歳。
:: 王立研究院所属の天才少女。金の髪に紫の瞳の勝気な少女。
: 『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』以降においては以下の通り。
:: 初代聖獣の女王に仕える女王補佐官。16歳。
:: 女王アンジェリーク・コレットとは女王候補時代からの親友。頑張りやで無理をしがちな女王のことを常に気遣っている。
==== 教官・協力者・守護聖 ====
===== ヴィクトール(精神の教官・聖獣の地の守護聖) =====
声:[[立木文彦]]
:『アンジェリークSpecial2』~『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 女王試験の精神の教官。本来の職業は将軍クラスの軍人。31歳(トロワでは34歳)。
:: 女王候補たちに"精神"についての講義を行う。王立宇宙軍所属の軍人で無骨な人物だがおおらかで穏やかな性格。O型。おとなしい女性を好む<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=[[PlayStation Magazine]] |date=1997年5月16日 |year=1997 |publisher=[[徳間書店]] |pages=116,117, |issue=通巻52号 |volume=No.9}}</ref>。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 礎を護りぬく'''聖獣の地の守護聖'''。34歳。
:: 行動力と強靭な精神は軍人時代に培われたものだが、その反面、穏やかなところもある。守護聖となってからも、肉体の鍛錬は欠かさない。
===== セイラン(感性の教官・聖獣の緑の守護聖) =====
: 声:[[岩永哲哉]]
: 『アンジェリークSpecial2』~『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 女王試験の感性の教官。19歳(トロワでは22歳)。
:: 女王候補たちに"感性"についての講義を行う。端麗な容姿の高名な芸術家。詩や作曲、彫刻など様々な芸術に秀でている。毒舌家で少々変わり者。B型。気の強い女性を好む<ref name=":0" />。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 生命をはぐくむ'''聖獣の緑の守護聖'''。22歳。
:: 地位や名誉といったものに全く興味が無く、決して周囲に流されない。辛辣な口調は健在。
===== ティムカ(品位の教官・聖獣の水の守護聖) =====
: 声:[[私市淳]]
: 『アンジェリークSpecial2』~『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 女王試験の品位の教官。13歳(トロワでは16歳)。
:: 女王候補たちに"品位"についての講義を行う。エキゾチックな容姿の優しく品のある少年。年に似合わぬ落ち着いた性格の持ち主。実は某王国の王太子(トロワでは国王)。A型。明るい女性を好む<ref name=":0" />。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 涼やぎを与える'''聖獣の水の守護聖'''。16歳。
:: 父である王は病気の為に退位し、彼が即位して、若き賢王として国民を導いていたため、守護聖の使命の尊さや大変さをとてもよく理解している。
===== エルンスト(王立研究院の主任研究員・聖獣の鋼の守護聖) =====
: 声:[[森川智之]]
: 『アンジェリークSpecial2』~『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 王立研究院の主任研究員。27歳(トロワでは30歳)。(天空の鎮魂歌以降)
:: 女王試験の協力者として女王候補たちに育成についてのアドバイスを行う。メタルフレームのめがねが似合う知的な青年。生真面目で不器用なところがある。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 存在を創りだす'''聖獣の鋼の守護聖'''。30歳。
:: 常に冷静で滅多に動揺しない。謙虚な性格のため守護聖になることには、強い戸惑いと葛藤かあったが、その思いを克服した。
===== メル(占い師・聖獣の夢の守護聖) =====
: 声:[[冬馬由美]]
: 『アンジェリークSpecial2』~『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 占いの館の占い師。火龍族の少年。15歳(トロワでは18歳)。(天空の鎮魂歌以降)
:: 女王試験の協力者として女王候補たちに占いでアドバイスを行う。神鳥の宇宙の占い師の女性、サラの従弟でおとなしく甘えん坊な可愛い少年。トロワにおいては18歳になり龍族の成長期を迎え、体つきもがっちりして、逞しくなったが、素直で明るいところは変わらない。マルセルと仲が良く、エルンストの事も慕っている。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 自由さを与える'''聖獣の夢の守護聖'''。18歳。
:: ネオロマンスシリーズに登場する攻略可能な男性キャラクターの中で、唯一女性声優が声を当てている。
===== チャーリー(謎の商人・聖獣の炎の守護聖) =====
: 声:[[真殿光昭]]
: 『アンジェリークSpecial2』~『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 土の曜日に公園に店を出す謎の商人。23歳(トロワでは26歳)。(天空の鎮魂歌以降)
:: 女王試験の協力者のうちの1人。女王候補たちはこの店で意中の人に贈るプレゼントを手に入れる。遊び人風の風体で関西弁の陽気なお兄さん。
:: 実は神鳥の女王のアンジェリーク・リモージュとも懇意な、名だたるウォン財閥の5代目総帥チャールズ・ウォン。守護聖ではないアリオス(レヴィアス)を除いて守護聖・協力者の中では唯一フルネームが明かされている。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 熱さを与える'''聖獣の炎の守護聖'''。26歳。
:: 守護聖になっても、明るく前向きな性格の持ち主でサービス精神を忘れない。
=== 聖獣の宇宙 (アンジェリーク 天空の鎮魂歌) ===
==== アリオス ====
: 声:[[成田剣]]
: 『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』においては以下の通り。
:: 旅の剣士。28歳。
:: 宿屋で火事に巻き込まれたアンジェリーク・コレットを救ったことからアンジェリーク・コレットの一行に加わる。皮肉っぽい言動を好み、一匹狼的性格でぶっきらぼうだが意外と面倒見がいい。アンジェリーク・コレットをからかうのが好き。
::実はその正体は神鳥の女王アンジェリーク・リモージュの宇宙を襲った皇帝レヴィアス。
: 『アンジェリーク トロワ』においては以下の通り。
:: 謎の青年。28歳。
:: 「約束の地」に一人で出かけると出会える。記憶喪失になっており、彼の話に因れば、気がついたら自分はここに倒れており、ここがどこか、自分が誰なのかも全く判らないという。隠しキャラ的存在で、『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』のアリオスとしてのパターンと、ただの謎の青年アリオスとしてのパターンがある。どちらのパターンのアリオスが登場するかは、プレイヤーのある操作によって決定する。パターンによって、アリオスと初めて出会った時のアンジェリーク・コレットの反応が違う。守護聖や教官・協力者達と違い、アンジェリーク・コレットが女王であることを知らないため、普通の一人の少女として扱う。ただし、『天空の鎮魂歌』のアリオスについては、記憶を取り戻せばアンジェリーク・コレットが何者であるかも思い出す。
: 『アンジェリーク エトワール』においては以下の通り。
:: 聖獣の女王に仕える影。28歳。
:: エンジュがレイチェルに相談しに宮殿に行く途中、いつもと違う道を通ると出会える。すると、彼は宮殿の中庭で居眠りをしている。エンジュが何度か彼と話すうちに、彼が聖地についてよく知る人物だとわかる。彼はエンジュがエトワールであることに関係なく、自分の言葉で話しかけてくる。言葉遣いが悪いので、エンジュはからかわれている様に感じてしまうが、エンジュが落ち込んでいるときは、仕方なさそうに励ましてくれる。
=== 聖獣の宇宙 (アンジェリーク トロワ) ===
==== エルダ ====
: 声:[[宮本充]]
: 謎の青年。失われしものという意味でエルダと名づけられた。自分はラ・ガを倒す為の存在であると語る。初対面にもかかわらず、アンジェリーク・コレットは彼に懐かしさを感じた。その正体は聖獣の宇宙の意思、アルフォンシアが記憶を失った姿。
==== ラ・ガ ====
: 宇宙の虚無から生まれた邪悪な存在。何もかもを憎み、全てを無に帰そうとする。
==== 謎の女性 ====
: アンジェリーク・コレットにだけ聞こえる、不思議な声の正体。アンジェリーク・コレットを「創世の女王」と呼び、エルダの封印を解き放つ様に言う。その正体は遙か未来の聖獣の宇宙の女王であるティエン・シー。過去の女王に助けを求めるべく大陸を時空移動させた。
=== 聖獣の宇宙 (アンジェリーク エトワール) ===
==== エトワール ====
===== エンジュ =====
: 声:[[本名陽子]]※アニメ・ドラマCDのみ
: 『アンジェリーク エトワール』の主人公。17歳。
: 神鳥の宇宙出身の少女。普通の女子高生であったが、石板に選ばれ「伝説のエトワール」となる。三つ編みにした髪型が特徴で、下ろすと癖毛である。
ゲーム版とアニメ版で性格や一部の設定が異なり、ゲーム版は明るく活発であり、やや勝ち気な性格。アニメは自分には取り柄がないと思い込む引っ込み思案な性格となっている。
===== コンスタンタン =====
: 通称タンタン。一見、ウサギのぬいぐるみの様に見えるが、実は石板の神器で、太古から生きている精霊。エンジュとの出会いにより、ウサギの様な姿になる。エンジュを補佐する存在。
==== 守護聖 ====
下記3人以外の守護聖に関しては[[#聖獣の宇宙 (アンジェリークSpecial2)]]を参照。
===== 聖獣の光の守護聖レオナード =====
: 声:[[小山力也]]
: 目覚めをもたらす光の守護聖。27歳。
: 聖獣の宇宙にある街の地下クラブのバーテンダーであった。自由を何よりも好み、堅苦しいもの、形式ばったことが大嫌い。治安が悪い所で暮らしていたため、エンジュにも、最初は乱暴な態度と言葉遣いで接する。自負心が強く、なかなか他人を信じない。守護聖としてのキャリアは短いが、人生経験は豊富。街に住んでいた居た時は髭を生やしていたが聖地では剃って登場している。
===== 聖獣の闇の守護聖フランシス =====
: 声:[[杉田智和]]
: 眠りをもたらす闇の守護聖。23歳。
: 聖獣の宇宙の霧深い街でサイコセラピストとして働いていた。穏やかな物腰で、人々に精神の安らぎを与えていた。女性には特に優しいと評判であったが、彼自身は過去に起こった出来事のせいか、華やかな生活とは裏腹に、寂しげな雰囲気を漂わせていて、少し病んでいる。意外にもウサギが大の苦手で見るだけでも気絶してしまう。アニメ第1期に登場した恋人を失って死のうとし、エンジュに助けられた男性の生まれ変わりである。
===== 聖獣の風の守護聖ユーイ =====
: 声:[[浪川大輔]]
: 変化をもたらす風の守護聖。17歳。
: 辺境の惑星の港町に住んでいて、祖父と共に漁師として働いていた。考えるよりも先に行動する野性派。素朴で人を疑うことを知らないが、意外と頑固な一面もある。エンジュに出会うまでは、女王や守護聖、聖地について全く何も知らなかった。
==== その他の人々 ====
===== エイミー =====
: エンジュが社会見学で知り合った、知的で大人びた少女。18歳。
: 素質を見込まれ、王立研究院の研究員となる。クールでさっぱりとした性格。仕事も的確にこなす。
===== ネネ =====
: エンジュが社会見学で知り合った、火龍族の少女。16歳。
: 火龍族の特性か、占いとおまじないを得意とし、占いの館で占い師になる。甘えん坊で妹のような雰囲気の少女。
===== コンラッド =====
: 聖獣の宇宙を移動する宇宙船の船長。彼はレイチェルからの依頼により、エンジュを手助けする。穏やかで親しみやすい人物。
== ゲーム ==
基本的にシリーズの世界観は『アンジェリークSpecial2』で前作の主人公が女王になっているなど女王エンディングが基本になっている。
=== 恋愛シミュレーション ===
* [[アンジェリーク]]
** シリーズ1作目。普通の女子高生、アンジェリーク・リモージュが宇宙の女王の後継者候補となり、女王に仕える9人の守護聖たちの力を借りて女王を目指す。『アンジェリークSpecial』、『アンジェリーク デュエット』はいずれも『アンジェリーク』と同内容のゲーム。詳細については『アンジェリーク』を参照のこと。
* [[アンジェリークSpecial2]]
** シリーズ2作目。1作目のヒロイン、アンジェリーク・リモージュが女王となった宇宙に住むアンジェリーク・コレットが、別の宇宙の女王候補に選ばれ女王を目指す。男性キャラクターは、前作の9人の守護聖に3人の教官と3人の協力者が加わっている。
* [[アンジェリーク トロワ]]
** シリーズ3作目。2作目のヒロイン、アンジェリーク・コレットが主人公。突如現れた謎の霧に包まれ、異界にさらわれたアンジェリークたち。助けを求める謎の人物・エルダを解放する為、異界の荒れた大地を育成することになる。男性キャラクターは、前作の15人に加えて隠しキャラ1名が加わっている。
* [[アンジェリーク エトワール]]
** シリーズ4作目。1作目のヒロイン、アンジェリーク・リモージュが女王となった神鳥の宇宙に住むエンジュが主人公。アンジェリーク・リモージュ女王、神鳥の宇宙の守護聖たち、聖獣の宇宙のアンジェリーク・コレット女王、教官、協力者、謎の剣士の転生、など歴代キャラが総出演し、さらに新キャラ3人が加わって恋愛対象は19人。前作までの教官及び協力者が、新キャラを加えて聖獣の宇宙の守護聖になる、という大規模な設定変更があった
* [[アンジェリーク ルミナライズ]]<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.gamecity.ne.jp/anmina/|title=アンジェリーク ルミナライズ(アンミナ) 公式サイト|publisher=|accessdate=2022-02-12}}</ref>
** シリーズ5作目。2021年5月20日発売。[[Nintendo Switch]]用ソフト。
==== ゲームシステム ====
ゲームごとに多少のばらつきはあるが基本的なゲームシステムは同じである。
エンディングは大きく分けて下記の3つになる。
* 恋愛エンディング - 男性キャラクターとの恋愛成立条件が整った場合
* 女王エンディング - ライバルキャラクターに先んじて(ライバルが存在しない場合は指定期間内に)育成が完了した場合
* その他
プレイヤーの取れる行動は「育成」と「男性キャラクターとの親交を深める」の二つになる。女王エンディングを迎えたい場合はそれほど問題は無く、育成と男性キャラクターとの付き合いをほどほどに行っていけば迎えることが出来る。しかし恋愛エンディングを迎えたい場合は、細かくバランスを取って行くことが必要となる。
育成に力を入れ成績が良ければ、行動の選択肢が広がり、有利になる。だが「育成の完了」というゲームの終了条件が早く達成されてしまうため、男性キャラクターとの恋愛成立条件を整えることが難しくなる。男性キャラクターとの親交に力を入れれば、育成の速度が遅くなる。『アンジェリーク』、『アンジェリークSpecial2』のようにライバルキャラクターが存在する場合は、ライバルに有利な展開となってしまう。そのため、目的に応じて、この二つの行動を計画的に行わなければならない。
しかし、男性キャラクターと親密になると、親愛行動として育成を男性キャラクターが自動で行ってしまうため、育成を抑えておかないと終盤に育成が早く進んでしまい、恋愛エンディングを成立し損ねることがある。また、育成の成績の代わりに、男性キャラクター達からの支持率の良し悪しで行動の選択肢が広がる場合もあるので、ある程度の人数と付き合いを持つ必要がある。
指定期間内に育成が終えられなかった場合は、バッドエンドとなる。
=== RPG ===
; [[アンジェリーク 天空の鎮魂歌]] :2作目のヒロイン、アンジェリーク・コレットを主人公としたRPG。RPGというよりは、恋愛イベントや各男性キャラクターとのマルチ恋愛エンディングがメイン。ストーリー的には『アンジェリークSpecial2』と『アンジェリーク トロワ』の間に入るエピソードになる。後のアンジェリークシリーズは本作を未プレイ・プレイ経験のどちらでも楽しめるよう設定されている。
=== 恋愛アドベンチャー ===
; [[アンジェリーク 魔恋の六騎士]] :『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』の前日譚に当たる外伝的作品。『アンジェリーク 天空の鎮魂歌』で敵役として登場する人物の過去を描いた作品であるため登場人物は他のシリーズ作品とはほとんど重ならない。本作のみ[[アイディアファクトリー]]から発売されている。キャラクターデザインは[[東夕陽]]。
=== ボードゲーム ===
; ふしぎの国のアンジェリーク :1作目のヒロイン、アンジェリーク・リモージュを主人公としたボードゲーム。目的は飛空都市のどこかで開かれる守護聖様のお茶会に参加すること。ボードゲームではあるが恋愛イベントや各男性キャラクターとのマルチ恋愛エンディングがメイン。PC-FX(1996年)、セガサターン、プレイステーション、Windows(1997年)、ゲームボーイアドバンス(2002年)用ソフト。ストーリー的には第1作『アンジェリーク』の女王試験中のエピソードになる。
:; '''「ふしぎの国のアンジェリーク」スタッフ'''
:;* キャラクターデザイン:[[由羅カイリ]]
:;* パッケージイラスト:[[とみながまり]]
:;* 音楽:[[葛生千夏]]
:;* アニメーション制作:[[スタジオ・ライブ]]
:;* アニメーション作画監督・演出:[[近永健一]]
:;* 音響制作:[[アニメイトフィルム]](菊池晃一)
:;* 音響演出:[[菊池浩巳]]
:;* 録音スタジオ:神南スタジオ、スタジオエコー、セントラル録音
:;* マニュアル本文デザイン:YOINECO-デザイン 小森ネコ
; スウィートアンジェ :1作目のヒロイン、2作目のヒロイン、ライバルたち、1作目の守護聖が登場するパロディ設定のボードゲーム。キャラクターは全員同じ学園の生徒であり、ゲームの目的はお菓子作りで表彰されること。ボードゲームではあるが恋愛イベントや各男性キャラクターとのマルチ恋愛エンディングがメイン。ゲームボーイ用ソフト(1999年)。なお、本作のキャラクターデザイン・パッケージのイラストは由羅カイリではなく[[桂崎新子]]によるもの。
=== ソーシャルゲーム ===
; ラブラブ天使様~アンジェリーク~:[[GREE]]で提供されていた[[ソーシャルゲーム]]。サービス期間は2011年11月30日~2012年7月31日まで。現代が舞台で、プレイヤーは社会奉仕団体「ネオロマンス・ソサエティ」の「希望の天使」として世界各国の[[セレブリティ|セレブ]]達とともに[[チャリティー|チャリティ活動]]を行う、というもの。チャリティ活動やお茶会などで親密度を上げることによりデートイベントなどが楽しめる。アンジェリークシリーズの神鳥の守護聖9名、聖獣の守護聖9名、アリオス、そして新規追加キャラクターである桜川柾(さくらがわ まさき)を加えた総勢20名が攻略対象キャラクターとして登場していた。キャラクターデザインは[[双葉はづき]]。
: トークCD「ラブラブ天使様~アンジェリーク~恋するエトランゼ」が2012年に発売。
== テレビアニメ ==
; [[恋する天使アンジェリーク]]:シリーズ初のTVアニメーション。『[[アンジェリーク エトワール]]』の世界をベースとしている。第1期サブタイトルは「心のめざめる時」で2006年7月より放送、第2期サブタイトルは「かがやきの明日」で2007年1月より放送された。
== 漫画 ==
第1作目のコミカライズと、第1作目のリメイク「ルトゥール」のコミカライズは『[[アンジェリーク]]』を参照。
; 戦国アンジェリーク:[[comic B's-LOG]]キュンにて連載された漫画。2010年6月15日発売号より連載開始。歴史上の戦国時代を舞台に、主人公は織田・アンジェリーク・信長として武将たちと戦乱の世を駆け抜ける。全3巻が予定されており、原作・シナリオは[[藤咲あゆな]]、作画は[[羽鳥まりえ]]。
: 小説版「戦国アンジェリーク 太陽の国と炎の使者」も出版されていて、製作は漫画版同様に藤咲あゆな・羽鳥まりえが担当した。
== 小説 ==
『[[アンジェリーク デュエット]]』のノベライズ、『[[アンジェリーク 天空の鎮魂歌]]』の外伝「黒き翼のもとに」は該当ゲーム記事を参照。『戦国アンジェリーク』のノベライズは、該当節[[#漫画]]を参照。
; 小説 アンジェリーク異聞
: 著:[[久美沙織]]。「小説 アンジェリーク異聞 剣豪倉菱無関心之介」(1996年12月)として[[光栄]]から刊行、その後、「小説アンジェリーク異聞 守護聖江戸ごよみ」(2003年2月)へ改題し同社から再び刊行。時代劇パラレルストーリー。
; アンジェリークEXTRA
: 著:[[高瀬美恵]]。がASUKAノベルスから全3巻(1997年6月 - 1998年4月)、その後、新装版が[[角川ビーンズ文庫]]から全3巻(2001年9月 - 2002年6月)が刊行された。守護聖を中心としたオリジナルストーリー。
; 小説 アンジェリーク
: 著:須和雪里。光栄から「守護聖ラプソディ―」(1998年3月)、「オールスタースクランブル」(1999年9月)として刊行、その後、「短編集 オールスターコンチェルト」(2003年2月)として同社から再び刊行。ラブラブ通信に掲載されたアナザーストーリー。
== ラジオ ==
ネオロマンスシリーズ全般を対象とした番組については[[ネオロマンスシリーズ#ラジオ|ネオロマンスシリーズ]]を参照。
; 俊と由里と春菜のPC-FXクラブ
: 番組内の1コーナー、「森の湖」で毎回地の守護聖ルヴァ役の[[関俊彦]]がリスナーの悩みに答えていた。[[文化放送]]で1996年10月~12月に放送された。パーソナリティは関俊彦、[[白鳥由里]]、[[池澤春菜]]。「森の湖」とはゲーム『[[アンジェリーク]]』内に登場する地名。
; アンジェリーク ファイアー・ドリーム Paradise
: アンジェリークシリーズ全般を対象としたラジオ番組。[[アール・エフ・ラジオ日本]]および[[ラジオ関西]]で1999年1月~3月に放送された。パーソナリティは[[堀内賢雄]]、[[子安武人]]。
; アンジェリーク キス・キス Paradise
: アンジェリークシリーズ全般を対象としたラジオ番組。アール・エフ・ラジオ日本およびラジオ関西で1999年10月~2000年3月に放送された。パーソナリティは堀内賢雄、関俊彦。
; [[恋する天使アンジェリーク#WEBラジオ|恋する天使アンジェリーク~スウィート・パラダイス~]]
: TVアニメ『恋する天使アンジェリーク~心のめざめる時~』の関連インターネットラジオ番組。[[ランティスウェブラジオ]]で2006年4月~2007年3月に放送された。パーソナリティは堀内賢雄、[[浪川大輔]]。
{{前後番組
|放送局=[[文化放送]]
|放送枠=日曜25:30-26:00
|番組名=俊と由里と春菜のPC-FXクラブ<br />(1996年10月 - 1996年12月)
|前番組=[[130Rの今宵も勘蔵野]]<br />(1996年4月 - 1996年9月)
|次番組=
}}
<!---
== OVA ==
== CD ==
== 書籍 ==
--->
== PC-FX ==
『[[アンジェリーク]]』はそもそも[[スーパーファミコン]]ソフトとして開発されたため、音声は付加されていなかった。しかし、当時既に[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]や[[セガサターン]]がメジャーなゲーム機であったことや、アンジェリークのドラマCDの出来が良かったことなどから、開発されたのが、初めての音声付ソフト『[[アンジェリーク|アンジェリークSpecial]]』であったが、最初の移植先はマイナー機である[[NECホームエレクトロニクス]]の[[PC-FX]]であった。
その後も「アンジェリークの新作はまずPC-FX版で発売される」という原則は崩れなかった。『[[アンジェリークSpecial2]]』、『ふしぎの国のアンジェリーク』、『[[アンジェリーク 天空の鎮魂歌]]』は、いずれもPC-FX版が最初である。当時としては数少なかった女性向け[[恋愛シミュレーションゲーム]]の『[[アルバレアの乙女]]』がPC-FXのラインナップに入っていた。
== 関連項目 ==
* [[コーエー]]
* [[乙女ゲーム]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.gamecity.ne.jp/neoromance/angelique/ ネオロマンスオフィシャルサイト:アンジェリーク]
* [https://www.gamecity.ne.jp/neoangelique/ ネオアンジェリーク公式サイト]
* {{Twitter|angelique_kt|「アンジェリーク」シリーズ(公式)}}
{{ネオロマンスシリーズ}}
{{アンジェリークシリーズ}}
{{DEFAULTSORT:あんしえりいくしりいす}}
[[Category:ネオロマンスシリーズ|あんしえりいくしりいす]]
[[Category:乙女ゲーム]]
[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
|
2003-08-23T01:22:55Z
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2023-12-05T08:55:50Z
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13,797 |
みつめてナイト
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『みつめてナイト』はコナミ(現・コナミデジタルエンタテインメント)発売のPlayStation用恋愛シミュレーションゲーム。
『サクラ大戦』のレッドカンパニー(現:レッド・エンタテインメント)と『ときめきメモリアル』のKCE東京による共同開発により作られた。脚本・設定は田村純一。キャラクターデザインはセガサターン版『サクラ大戦』にてサブキャラクターデザインを担当した竹浪秀行。
のちに『みつめてナイトR 大冒険編』というスピンオフ作品が発売される。こちらはジャンルがRPGになっており、前作とのストーリーの繋がりはなく、キャラクターは同一でありながら異なる世界観を展開した作品になっている。
主人公は東洋人で、以下の通り恋愛と戦争(と治安維持の協力)の両面から成り立つ目的を目指すこととなる。
女の子とのイベントは時期と場所、実行するコマンド、女の子からの主人公に対する感情などによって発生する。国の行事や突発的に発生するイベントも多数ある。
恋愛の部分に関してはデート中にとんでもない台詞を言う選択肢が登場したり、ストーリーの最後で告白してきた女の子を振ったり、ストーリー中の主人公の行動次第で女の子が強制的にゲームから退場(テロの犠牲や事故、暗殺未遂、ヒロインからの絶縁などがある)される点が特徴的。また、戦争終結後に制定された法律により外国人傭兵である主人公は(たとえ聖騎士の称号を得ようとも)強制的に国外退去となる。このため、各ヒロインとのグッドエンディングでは、再会を誓いつつも別れることになったり、主人公と同様に国を出て付いて行くヒロインもいる。。
ゲーム中に何度か戦争が勃発する。ここでは歩兵、弓兵、騎兵、の基本的な3つと、上位種である工兵の部隊(いずれか3種の内の一つと交代)を動かし、敵部隊との戦争を行う。規定ターン数で決着がつかなかった場合は、残存兵士の数で勝敗が決定する。これらの兵種は三すくみ状態で有利、不利があり、工兵は3種全てに有利である。。
戦争、社会、経済の背景に関して詳細な設定が存在するが、普通にプレイしていても知ることのない部分が多く、これらを知るにはゲーム内で確認できるウィークリートピックスや用語集を調べる必要がある。 例として、「聖騎士」ではなく「正騎士」と表記されているのも誤字ではなく、意図的なものである。
ドラマCDが全4巻発売されている。こちらではライズ・ハイマーを主人公として物語が描かれており、舞台背景に関する詳細をライズの側から知ることができる。
プロキアに雇われ、主人公の属するドルファン軍に戦いを挑んでくる傭兵騎士団の中でも団長を含めた隊長格八人の精鋭たち。
ヨーロッパ以外にも世界全体が現実の中世を模しており、世界地図や地域、国家の特徴も相似している。
戦争の主役が、騎士から火器へ移行する過渡期を描いている。そのため、現実の歴史区分としては、正確には中世というよりも近世に近い。また、地下資源を用いた産業が存在し、財閥といった企業体が存在することから、産業革命前後ともとることができる。このような例が他にも多々あるため、本作における一貫した歴史を捉えることは難しい。
欧州南部地方。元は「大トルキア帝国」であったが、内乱の後に7つに分かれた。隣接しているのはオースティニア地方。マルタギニア海に面し、トルキアとオースティニアの間にはトルキア内海が存在する。
売り上げは16万本程度と『ときめきメモリアル』の50万本には及ばなかったもののファミ通クロスレビュー32点でゴールド殿堂入りを果たしている。
電撃PlayStationDPSソフトレビューでは85、85の170点。レビュアーは「ファンタジー版ときめきメモリアル」のようで画面構成やプレイ感覚は非常に近いが同じようにプレイすると本当の面白さは分からない、操作感がいい、キャラクターの個性がよく立っている、よく丁寧に作られていてビジュアルに惹かれたならまず楽しめるとしたが、これといった目立つ点もなくインパクトに欠け目新しさはなく、キャラごとのストーリー性がやや薄いとしたが、レビュアーの1人は「個人的にはときメモを超えている」と賞賛した。
竹浪秀行による作画の漫画版が『月刊ドラゴンジュニア』に連載されていた。単行本は『角川コミックス・ドラゴンJr.』より全1巻。
1997年10月より文化放送にて本作を題材とした「ソフィアの純愛」というラジオ番組が放送された、1997年10月12日より1998年4月5日までは(放送枠日曜21時30分 - 22時(JST))、1998年の4月よりナイター編成のため放送枠が金曜日の24時 - 24時30分に移動となり同年7月まで放送された。
ドルファン王国のソフィアから、心の電波でリスナーのラジオに送っているという設定の番組。ソフィア役の小西寛子がソフィアとしてパーソナリティを務めた。ソフィアとしてはがきを読み、これに対する感想を述べたり、一種独特の雰囲気を醸し出している内容のフリートークなどが展開された。毎回、一曲放送するコーナーがあり、歌の歌詞を朗読していた。他にはソフィアや他のキャラクターのモノローグを綴ったミニドラマのコーナーもあったが、これはCDに収録されていない。
最終回はゲームと同様に爆弾テロが発生。ソフィアは病院のベッドの中、意識だけでリスナーに語りかけるという設定で別れを惜しんだ。
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"text": "戦争、社会、経済の背景に関して詳細な設定が存在するが、普通にプレイしていても知ることのない部分が多く、これらを知るにはゲーム内で確認できるウィークリートピックスや用語集を調べる必要がある。 例として、「聖騎士」ではなく「正騎士」と表記されているのも誤字ではなく、意図的なものである。",
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"text": "戦争の主役が、騎士から火器へ移行する過渡期を描いている。そのため、現実の歴史区分としては、正確には中世というよりも近世に近い。また、地下資源を用いた産業が存在し、財閥といった企業体が存在することから、産業革命前後ともとることができる。このような例が他にも多々あるため、本作における一貫した歴史を捉えることは難しい。",
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"text": "欧州南部地方。元は「大トルキア帝国」であったが、内乱の後に7つに分かれた。隣接しているのはオースティニア地方。マルタギニア海に面し、トルキアとオースティニアの間にはトルキア内海が存在する。",
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"text": "電撃PlayStationDPSソフトレビューでは85、85の170点。レビュアーは「ファンタジー版ときめきメモリアル」のようで画面構成やプレイ感覚は非常に近いが同じようにプレイすると本当の面白さは分からない、操作感がいい、キャラクターの個性がよく立っている、よく丁寧に作られていてビジュアルに惹かれたならまず楽しめるとしたが、これといった目立つ点もなくインパクトに欠け目新しさはなく、キャラごとのストーリー性がやや薄いとしたが、レビュアーの1人は「個人的にはときメモを超えている」と賞賛した。",
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"text": "竹浪秀行による作画の漫画版が『月刊ドラゴンジュニア』に連載されていた。単行本は『角川コミックス・ドラゴンJr.』より全1巻。",
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"text": "1997年10月より文化放送にて本作を題材とした「ソフィアの純愛」というラジオ番組が放送された、1997年10月12日より1998年4月5日までは(放送枠日曜21時30分 - 22時(JST))、1998年の4月よりナイター編成のため放送枠が金曜日の24時 - 24時30分に移動となり同年7月まで放送された。",
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"text": "ドルファン王国のソフィアから、心の電波でリスナーのラジオに送っているという設定の番組。ソフィア役の小西寛子がソフィアとしてパーソナリティを務めた。ソフィアとしてはがきを読み、これに対する感想を述べたり、一種独特の雰囲気を醸し出している内容のフリートークなどが展開された。毎回、一曲放送するコーナーがあり、歌の歌詞を朗読していた。他にはソフィアや他のキャラクターのモノローグを綴ったミニドラマのコーナーもあったが、これはCDに収録されていない。",
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『みつめてナイト』はコナミ(現・コナミデジタルエンタテインメント)発売のPlayStation用恋愛シミュレーションゲーム。 『サクラ大戦』のレッドカンパニーと『ときめきメモリアル』のKCE東京による共同開発により作られた。脚本・設定は田村純一。キャラクターデザインはセガサターン版『サクラ大戦』にてサブキャラクターデザインを担当した竹浪秀行。 のちに『みつめてナイトR 大冒険編』というスピンオフ作品が発売される。こちらはジャンルがRPGになっており、前作とのストーリーの繋がりはなく、キャラクターは同一でありながら異なる世界観を展開した作品になっている。
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{{複数の問題|出典の明記=2023-2|独自研究=2023-2}}
{{美少女ゲーム系|
Title=みつめてナイト
|Plat=[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]
|Pub=[[コナミ]]
|Date=[[1998年]][[3月19日]]
|Genre=[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|純愛シミュレーションゲーム]]
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『'''みつめてナイト'''』は[[コナミ]](現・[[コナミデジタルエンタテインメント]])発売の[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]。
『[[サクラ大戦]]』のレッドカンパニー(現:[[レッド・エンタテインメント]])と『[[ときめきメモリアル]]』の[[コナミコンピュータエンタテインメント東京|KCE東京]]による共同開発により作られた。脚本・設定は[[田村純一]]。キャラクターデザインは[[セガサターン]]版『サクラ大戦』にてサブキャラクターデザインを担当した[[竹浪秀行]]。
のちに『[[みつめてナイトR 大冒険編]]』という[[スピンオフ]]作品が発売される。こちらはジャンルが[[ロールプレイングゲーム|RPG]]になっており、前作とのストーリーの繋がりはなく、キャラクターは同一でありながら異なる世界観を展開した作品になっている。
== ゲーム内容 ==
主人公は東洋人で、以下の通り[[恋愛]]と[[戦争]](と治安維持の協力)の両面から成り立つ目的を目指すこととなる。
# 中世ヨーロッパ風の国、南欧のドルファン王国でさまざまな女の子達と出会い、彼女たちと3年間を過ごして恋愛関係を結ぶ。
# ドルファン王国の[[傭兵]]として、敵国であるプロキア公国の雇った傭兵騎士団ヴァルファバラハリアンと戦い、停戦中は国内にいる野生の熊や暴れだした虎の退治などを行って武勲を上げ、騎士としての最高位である「聖騎士」の称号を得る。
女の子とのイベントは時期と場所、実行するコマンド、女の子からの主人公に対する感情などによって発生する。国の行事や突発的に発生するイベントも多数ある。
恋愛の部分に関してはデート中にとんでもない台詞を言う選択肢が登場したり、ストーリーの最後で告白してきた女の子を振ったり、ストーリー中の主人公の行動次第で女の子が強制的にゲームから退場(テロの犠牲や事故、暗殺未遂、ヒロインからの絶縁などがある)される点が特徴的。また、戦争終結後に制定された法律により外国人傭兵である主人公は(たとえ聖騎士の称号を得ようとも)強制的に国外退去となる。このため、各ヒロインとのグッドエンディングでは、再会を誓いつつも別れることになったり、主人公と同様に国を出て付いて行くヒロインもいる。{{#tag:ref|また、展開が異なるヒロインも一部存在する。|group=Note}}。
ゲーム中に何度か戦争が勃発する。ここでは歩兵、弓兵、騎兵、の基本的な3つと、上位種である工兵の部隊(いずれか3種の内の一つと交代)を動かし、敵部隊との戦争を行う。規定ターン数で決着がつかなかった場合は、残存兵士の数で勝敗が決定する。これらの兵種は三すくみ状態で有利、不利があり、工兵は3種全てに有利である。<ref>{{Cite book|title=週刊ファミ通 No.485|date=1998年4月3日|publisher=株式会社アスキー|page=49}}</ref>。
戦争、社会、経済の背景に関して詳細な設定が存在するが、普通にプレイしていても知ることのない部分が多く、これらを知るにはゲーム内で確認できるウィークリートピックスや用語集を調べる必要がある。
例として、「聖騎士」ではなく「正騎士」と表記されているのも誤字ではなく、意図的なものである。
ドラマCDが全4巻発売されている。こちらではライズ・ハイマーを主人公として物語が描かれており、舞台背景に関する詳細をライズの側から知ることができる。
== 登場キャラクター ==
=== ヒロイン ===
; ソフィア・ロベリンゲ
: [[声優|声]] - [[小西寛子]]
: 誕生日は[[12月10日]]。15歳。血液型は主人公と同じ。
: 本作のメインヒロイン。ドルファン学園高等部に在籍。おとなしい性格の持ち主。歌を歌うのが好きで、舞台に立つことを夢見ている。親が借金を抱えているため、ジョアンと婚約している。父親は優秀な騎士だったが引退してからは酒びたりとなっているため苦労の絶えない生活をしている。しかし態度には出さない一面を持っている。夏休みになると、あまり女の子向きではない、重労働な職場でアルバイトを始める。個別シナリオにおいて、オーディションを受け研修生として劇団に入るが、爆弾テロに巻き込まれ(ソフィアの個別EDは見られなくなるが、あるヒロインの攻略途上であれば回避可能)喉を痛めてしまう。あまり友達がおらず、CDドラマでは勇気を振り絞ってライズと友達になろうとしている。
: 専用のエンディング曲を持つヒロインの一人。
; プリシラ・ドルファン
: 声 - [[今井由香]]
: 誕生日は[[10月26日]]。16歳。血液型はO型。本作の舞台であるドルファン王国の第一王女。明るく奔放な性格であり、庶民の自由な生活に憧れている。しばしばお忍びで街へ出て、城の人々を困らせることもあるが、内面には寂しさを抱えている。ゲーム版・CDドラマの双方において、あるヒロインに命を狙われる(ただし「飲料へ一時的昏倒を起こす程度の酔い止めを混入」という殺傷力の無い無意味な行動である)が、プリシラに招待された知人・東洋人がその飲料を奪い飲む事により騒動を未然に防ぐ展開のCDドラマにおいては、プリシラの前向きな気持ちにより友情が築かれる。「王家の禁忌」とされる重大な秘密を抱えており、個別エンディングで明らかとなる。お忍びの服装と王女正装時でテーマBGMが2種存在する。
; アン
: 声 - [[國府田マリ子]]
: 誕生日、血液型は共に不明。
: ゲーム終盤で知り合う謎の少女。豪華客船のパーティで条件を満たせば夏に、満たしていなければ秋に知り合うことができる。主人公が理不尽な言動をしても謝ったり許したりするなど、無抵抗な性格をしている。歌を歌うのが好きで、その歌はあるヒロインに対しても大きな影響を与えていた。水のある場所を好む反面、冬の焚き火を非常に怖がる一面がある。一昔前の出来事やシーア神話などに詳しい。薬局でアルバイトをしている。
: エンディングで初めて正体が明かされることになり、専用エンディング曲もある(歌うのは演じる國府田本人)。
: コナミが『みつめてナイト』公式サイト上で行なった「みつめてナイトキャラクター人気投票」において1位を獲得した。
: <!-- 正体は数十年前の海難事故で青年(主人公ではない)を助けようとした、人魚のような少女。当時は、結局助けられずに青年は命を落としてしまい、後悔の念で数十年もの間自分の中の時が止まってしまったが、主人公とソフィアの出会いを見てから、彼女の時が再び動き始める。エンディングで主人公に万感の想いと感謝を告げ、消滅する。(生きた時間が違うからなのか、詳細は不明である) -->
; ロリィ・コールウェル
: 声 - [[桑島法子]]
: 誕生日は[[11月8日]]。12歳。血液型はO型。
: ドルファン学園中等部に在籍。全ヒロイン中最年少。レズリーを「お姉ちゃん」と慕い、「王子様」という存在に憧れている。主人公のことは「お兄ちゃん」と呼んでいる。年齢よりも子供っぽい性格であり、非常にワガママ。イベント選択により誘拐されて死亡する可能性があるヒロインの一人。主人公の事も"白馬の王子様"と信じて疑わない。ラジオのミニドラマでは、小さな頃に「王子様」と出会ったことを語っているが、詳しい記憶についてはハッキリしていない。
; レズリー・ロピカーナ
: 声 - [[岩男潤子]]
: 誕生日は[[9月10日]]。15歳。血液型はB型。
: ドルファン学園高等部に在籍。ぶっきらぼうな性格で、絵を描くのが趣味。両親とは離れて暮らしている。強気に振舞っているが、本性は寂しがり屋。後輩から絶大な人気があり、自分を姉のように慕っているロリィをたしなめることも多い。夏休みや冬休みには喫茶店で接客のアルバイトをしており、声色を変えて仕事している。両親が不在の時間が多いため、何かと気にかけてくれる母方の叔父に淡い恋心を抱いていたことがあり、絵に興味を持ったのも叔父の影響である。卒業後は絵の勉強をするためにスィーズランドへ渡る。
: CDドラマではライズを「転入生」と呼び続けており、最後まで名前を呼ぶことがなかった。
; ハンナ・ショースキー
: 声 - [[岡田加奈子]]
: 誕生日は[[8月1日]]。15歳。血液型はO型。
: ドルファン学園高等部の女生徒。一人称が"ボク"というボーイッシュな一面を持つ。心身ともに健康で、明るい性格の持ち主。スポーツ好きで、スポーツに関してリンダとライバル関係にある。頼りない性格の姉がいる。キャロルは従姉妹。夏休みや冬休みには花屋でアルバイトをしている。
: 卒業後はスィーズランドにスポーツ留学する。
; リンダ・ザクロイド
: 声 - [[根谷美智子]]
: 誕生日は[[7月12日]]。15歳。血液型はAB型。
: ドルファン学院に在籍。成金で名高いザクロイド財閥の令嬢。照明に用いる燐光石の輸入で財を成したザクロイド家の出身で、その出自ゆえ非常に高慢な性格。その裏には貴族階級に舐められまいとする強いコンプレックスがある。その反動ゆえか実は大変な努力家であり、成績優秀でスポーツも万能である。
: 終盤のイベントによってザクロイド財閥が没落してしまい、窮地に陥ってしまう(これはリンダ攻略のために必要なイベントであるため、避けると攻略不能になる)。
; ジーン・ペトロモーラ
: 声 - [[新山志保]]
: 誕生日は[[10月31日]]。20歳。血液型はA型。
: 乗り合い馬車の御者として働く女性。長身で男勝りな性格をしている。一人称は「オレ」。スィーズランドからの帰化人であり、メネシスの師でもある高名な化学者「化学の開祖」と呼ばれるガリレア・ガリネシスを祖父に持つ。
: 幼い時に両親を亡くし、ドルファンで牧場を経営している叔父夫婦に引き取られて育った(帰化したのもこのため)。動植物を愛し猫を可愛がる一面もあり、化学実験に使用した薬物を森へ投棄し周囲を奇形化させ、近隣住民から「魔女」と呼ばれているメネシスとは険悪な関係。
; テディー・アデレード
: 声 - [[長沢美樹]]
: 誕生日は[[5月17日]]。20歳。血液型はAB型。
: 看護婦を務めており、主人公の体力がなくなるか、[[一騎討ち]]で敗れると彼女の世話になる。非常に潔癖な性格だが、一途な面を持つ。非常に豊かなプロポーションをしているが、実は心臓に軽い疾患を抱えている。セーラとは友人関係であり、メネシスには薬学を教わるなど勉強熱心。
: 彼女を攻略すると、途中のイベントで彼女の血液型を尋ねられるシーンがあるが、間違えてしまうと大変な事になるので注意。また、血液型が同じ場合は献血を要求され、これも断ってしまうと攻略不能になってしまうので注意。
: 後述のノエルとの二者択一を迫られることになり、一度でもノエルを選ぶと絶交されて攻略不能となる。ちなみに最後までテディーを選び続けた場合、ノエルは姿を消すが、テディーも恥ずかしさのあまり走り去ってしまい、デートは中止になる。
; キャロル・パレッキー
: 声 - [[西村ちなみ]]
: 誕生日は[[2月7日]]。19歳。血液型はO型。
: レストランで働くウェイトレスで、ハンナの従姉妹。主人公に対する感情が一定以上まで高まると「給料が1.5倍だから」との理由(実際は「主人公に毎日会える」という勘違い)により、ドルファン城のメイドへと転職する。気楽で明るい性格をしており、作中では「極楽トンボ」と表記されていることもある。不謹慎な話題が好きだが、あまりに度が過ぎれば常識的な対応を取ってくる。
: ナメクジが大の苦手であり、とあるイベントでこれを突きつけると、絶交されて攻略不能となる。
: 気楽で明るく笑い飛ばす彼女の本性は、エンディングで唐突に明かされる。
; クレア・マジョラム
: 声 - [[井上喜久子]]
: 誕生日は[[6月6日]]。27歳。血液型はA型。
: 全ヒロイン中(年齢が明確な中では)最年長。夫であったヤングが作中で戦死してしまうため、未亡人となる(この時以降、酒場でディーラーの仕事を始める)必要以上に自分の年齢を気にした言動をとっている。ハンガリア出身。
: 学生時代は、夫のヤング、そして八騎将の一人であるセイル・ネクセラリアとは三角関係の仲。また、当時の彼女は乗馬などをする活発な少女であり「国際馬術連盟ライセンス」という取得が非常に困難な資格のB級を持っている(この資格に限らず、本編での資格は基本的にA級かB級のみ)。
: 本人曰く「奪われることの多い人生だった」という。
; スー・グラフトン
: 声 - [[水谷優子]]
: 誕生日は[[4月23日]]。22歳。血液型はA型。
: パン屋の一人娘だが、パンは上手に焼けない。相思相愛な両親を見て育ったため影響で結婚願望が強い。性格はお天気屋でワガママ。年下はあまり好きではないとのことだが、好感度が上がってくると「年下の癖に」と言いつつも惚れ込んでくる。愛する人のために自分の身を挺して危険から庇い、入院してしまうこともある。キャロルとは友人同士。
: 灯台デートでは、強風にスカートをめくられる。選択肢は「白だった」が正解。それ以外見てないと言っても嘘つき呼ばわりされ好感度が下がる。
; セーラ・ピクシス
: 声 - [[皆口裕子]]
: 誕生日は[[3月11日]]。15歳。血液型はA型。
: 名家であるピクシス家の令嬢。病弱であるため家にこもりがち。物静かで繊細な眼鏡っ娘。兄・カルノーを強く慕っている。家庭教師のアルバイトになると出会う。自分の人生を悲観しており、健康な身体に憧れている。
: ドルファン国内に強い影響力を持つ祖父の存在をエンディングで明かしているが、彼女が祖父と呼ぶ人物こそ、外国人排斥法案の成立に深く関わり、現国王デュラン・ドルファンの推挙、王族プリシラの秘密等にも直接関与した「怪老」の異名を持つ王室会議筆頭、アナベル・ピクシス卿である。
: 眼鏡を外した姿を見せるイベントもあるが、特定のイベントで対応を誤ると、執事のグスタフによって叩き出されて攻略不能となる。
; メネシス
: 声 - [[永島由子]]
: 誕生日、血液型は共に不明。
: 森の中で一人で生活している化学者。大きな瓶底メガネをかけており、無愛想。実験使用後に投棄する薬品の影響により周囲の森林植物が奇形化しているため、近隣の人々から「魔女」と恐れられており、特に自然愛護者のジーン(師ガリレアの孫)との仲は険悪。
: 孤児として施設で育ちながら学問へ深く傾倒した結果、スィーズランドの名門リーデン学術院の奨学生となり、「化学の開祖」ガリレア・ガリネシスに師事。同門のある人物へ憧れと恋愛感情の入り混じった複雑な思いを抱いていたが、その感情を整理する事が出来ないまま封印され、現在に至る。
: 本編中では眼鏡を決して外さないが、エンディングの最後で初めて、眼鏡を取った素顔を見せる。
; ライズ・ハイマー
: 声 - [[冬馬由美]]
: 誕生日は[[1月28日]]。16歳。血液型はB型。
: ドルファン学園高等部の女生徒。スィーズランド出身。あまり表情を表に出すことがなく、つかみどころのない性格をしており、対応も素っ気ないことが多い。他者に隙を見せない、常に手袋を外さないなど、怪しい面が目立つ。CDドラマでは主人公を務めており、「東洋人」の動向を追いかける中でソフィアやプリシラと出会い、彼女達の影響を受けて心境が変化していく。
: プリシラと同様、ある重大な秘密を抱えており、ライズと関わり物語を追うことで、ドルファン王国における真実の一部が明らかとなる。
: 『[[電撃PlayStation]]』誌上の「みつめてナイトキャラクターの人気投票」において1位を獲得した。
: <!-- ヴァルファバラハリアン八騎将・隠密のサリシュアンの正体で、その本名はライズ・ヴォルフガリオという。手袋を外さないのは、幼い頃からの剣術の訓練でできた剣ダコや傷を隠すためで、それによって正体が特定されるのを防ぐためでもあった。その経緯の都合上(彼女の性格も絡んでいるが)水着は絶対に着てくれない。 -->
; ノエル・アシェッタ
: 声 - [[山崎和佳奈]]
: 誕生日、血液型は共に不明。
: ゲーム終盤で知り合う謎の女性。秋と冬にしか会わないが、とても露出度が高い恰好をしている。最初から主人公に好意をもって接してくるが、調子に乗っているとたしなめてくることもある。
: アンと同様、正体はエンディングでのみ明かされる。攻略はテディーとの二者択一(数回の選択肢で一度でもノエルを選ぶと、テディーの攻略が一切不可能)となる。
: <!-- 実は、ピコがノエルという女性の体を借りて操作した姿。その理由も全てエンディングで明かされる…が、その内容はピコの感情というよりも、開発者からのメッセージ性が強く表現されている。また、ノエルのグラマラスで露出の高い容姿は、ピコが抱いた(スタイルの良いテディーへの)嫉妬から来るものであるとも言われている -->
=== サブキャラクター ===
; ピコ
: 声 - [[山崎和佳奈]]
: 主人公にしか姿を見ることのできない[[妖精]]。ゲーム中では主人公の秘書的役割を担うが、展開によっては、あるヒロインと密接な関わりを持つことになる。
: <!-- テディーを攻略しているときにのみ登場する、ノエル・アシェッタの正体。 -->
; ミュー・カーチス
: 声 - [[皆口裕子]]
: ドルファン王国入国管理局員。メッセニに片想いをしているがために、メッセニが思いを寄せるクレアに対して敵意を持っている。いわゆる「5時から女」で、酒を飲むと愚痴っぽくなる。ラストでの外国人排斥法制定による、国外退去の勧告をしてくるのも彼女である。
; プリム・ローズバンク
: 声 - [[永島由子]]
: ドルファン城のメイド。プリシラに翻弄される毎日を過ごしているため、彼女に恨みを抱いている。おばあちゃん子で、祖母もメイドをしていた。とあるイベントを解決すると処刑されてしまうが、作中ではほとんど触れられない。
; ルーナ・アンジェリス
: 声:[[冬馬由美]]
: 教会のシスター。元はガンナーである事がドラマCDにて明かされる。相棒を亡くしたことで引退して教会に入るが、倉庫には昔の銃が眠っている。
; ヤング・マジョラム
: 声 - [[遠藤守哉]]
: ゲーム序盤における主人公の教官で、「ハンガリアの狼」という異名を持っていた。後のクレアによれば、主人公を「見所のある奴」と目をかけていたが、ドルファン傭兵団として初の遠征「イリハ会戦」において戦死。セイルとは積年のライバル同士であり、クレアを挟んでの三角関係であった。3人とも元々はハンガリアの出身。
; ロバート・ロベリンゲ
: 声 - [[麻生智久]]
: ソフィアの父親。かつては非常に有能な騎士であったが、現在は酔っ払いに変わり果てている。家族はソフィアの他に妻や息子(ソフィアの弟)がいる。メッセニとは知り合い。エリータス家に借金を抱えており、そのためにソフィアが婚約することとなる。
: 後に雑誌の連載コーナーで掲載されたショートストーリーで、今に至った彼の経緯が語られている。
; ジョアン・エリータス
: 声 - [[石川英郎]]
: ソフィアの婚約者。彼女と知り合わなくても主人公に時折ちょっかいを出してくる。貴族の三男坊にして重度のマザーコンプレックスであり、聖騎士だった亡き父に対する劣等感を持っている。歪んだ愛情表現しかできていないが、母より与えられたソフィアのことを好いている。ソフィアに好かれるためにバーストン三兄弟と吊るんで浅薄な作戦を実行し、作中では対戦相手としても登場する場合がある。必殺技(設定名・サウザンドキル)は正気を失った状態で敵を滅多切りにする。乱暴だが速さと力を併せ持ち、威力が高い。なお「自由騎士」を名乗るが、そのような階級や称号は存在せず、騎士の子息などが「自称」として使っている通名である。
: 余談だがジョアンの生家であるエリータス家は王室会議において参位に位置し、筆頭(次席)のピクシス家には劣るが、かなりの名家。ピクシス家とエリータス家は一まとめにして、「旧家の両翼」と呼ばれることもある。
: ジョアンの父はラージン・エリータスと言い、入り婿ではあったものの聖騎士の称号を持つ実力者だった。しかしラージンは本編開始の十年前に病没しており、夫人にしてジョアンの母であるマリエル・エリータスが現在のエリータス家を切り盛りしている。マリエルはヒロインの一人・メネシスが在籍していたリーデン学術院を首席で卒業した才媛であるが、ジョアン以外の子供(=彼の兄弟姉妹)達については本編で一切語られていない。
; ビリー・パーストン
: 声 - [[幸野善之]]
: ゲーム冒頭でソフィアを襲うチンピラ三兄弟の三男。虚弱体質のため薬で健康を補っているため、「薬中のビリー」という誤解を招くであろう通称で呼ばれる。実はロマンチスト。
; サム・パーストン
: 声 - [[私市淳]]
: チンピラ三兄弟の次男。禿頭なのだが、これはハゲではなく自ら剃っているため。実は三兄弟の中で一番の常識人。猫好きな一面もあり、ロリィの猫探しに協力したりもする。ジーンと面識がある。
; ジャック・パーストン
: 声 - [[増谷康紀]]
: チンピラ三兄弟の長男。大酒のみで、酒に酔うと手が付けられない。彼らにソフィアを襲わせたのはジョアンの指示。3人とも外国人労働者に職場を奪われているという思いを抱えている。
; 謎の男
: 声 - [[中井和哉|???]]
: 仮面をかぶったピエロ。あるヒロインと深い関わりがある。
; ミラカリオ・メッセニ
: 声 - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]
: ドルファン近衛兵団中佐。ヤングなどの上司。クレアへ密かに思いを寄せている。生粋の職業軍人で騎士の称号は持っていない。
; グスタフ・ベナンダンディ
: 声 - [[嶋俊介]]
: ピクシス家の老執事。かつてはシベリアの特殊部隊・スペツナズに所属していた経歴がある。結婚しており、現在は妻子だけでなく孫もいる。
: セーラの攻略に必ずといってもいいほど関わってくる人物で、セーラの特定イベントでの対応を誤ると、「二度とピクシスの敷居を跨がないで下さい!」と激高しながら主人公を叩き出す。
: カルノーが祖父によってピクシス家を追放された際、スペツナズ時代の人脈を使ってカルノーをシベリアに逃がし、スペツナズを紹介している。
; カルノー・ピクシス
: 声 - [[中井和哉]]
: セーラの兄。王室会議筆頭である「怪老」こと祖父アナベルとは政治的な主義主張が違うために対立しており、思想傾向を危険視した祖父により国外追放され、現在は消息不明。幼少期にプリシラと交際していたが、カルノーが本気であった事に対し、プリシラ側は「王族である自分の周りには年の近い男性が他にいない」「そこそこ美形だから付き合ってあげてもいいかな」程度のものであり、カルノーの国外追放により交友が自然消滅しても執着はなかった。なお、カルノーやセーラはピクシス家の後継者ではなく、分家に当たる。
: 消息不明とはあるが、実際は祖父によって追放された際にグスタフの伝手でシベリアへ密かに逃れており、現在はスペツナズに所属している。
; 神父
: 声 - [[増谷康紀]]
: シスターに代わって、教会に時々現れる。彼が教会に来る前に神父の死亡事件があった。目つきが鋭く、少し怪しげな言動をすることもある。
: <!-- 元ヴァルファバラハリアン八騎将・血煙のゼールビスこと、ミハエル・ゼールビスの表向きの姿。爆弾テロの際に、計画を同僚のサリシュアン(ライズ)から主人公に密告され、阻止に動いた主人公に討ち取られる -->
; デュラン・ドルファン
: 声 - [[郷里大輔]]
: ドルファン国王。プリシラの父。双子の兄がいる。兄はかつてデュランを庇って顔に火傷を負ったことを理由に、表向きには死亡したとされており、その後行方不明になってしまった。デュランは勇敢で利発な兄と比べて、温厚だが凡庸な人物。自身もプリシラと同様に「王家の禁忌」とされる重大な秘密を抱えているが、プリシラを父として愛しており、またプリシラも確かな父の愛情を感じている。彼女をヒロインとして攻略すると、クリア目前の騎士位授与(プリシラのクリア条件でもある正騎士の位を得なければならない)後、娘に会うよう頼み、これを受けると「すまぬ。親馬鹿とでも笑ってくれ」と自嘲しながら主人公へ感謝する。ウィークリートピックスによると、妻のエリス王妃は病気のため表に出ていない。
; ロケットナイト
: 『[[ロケットナイトアドベンチャーズ]]』シリーズからのゲストキャラクター。ある条件を満たすと登場する、ネズミのロケット騎士。ロケットアタックという技を持つ。倒した上でゲームをクリアすると、初めからスタートする際、一騎討ちで奥義を放てるアイテムを一つだけ購入・所持してスタートできるようになる。
=== ヴァルファバラハリアン八騎将 ===
プロキアに雇われ、主人公の属するドルファン軍に戦いを挑んでくる傭兵騎士団の中でも団長を含めた隊長格八人の精鋭たち。
; セイル・ネクセラリア
: 声 - [[神奈延年|林延年(現・神奈延年)]]
: 通称「疾風のネクセラリア」。武器は[[槍]]。ヤングとは旧友であった。寡黙なヤングと違って社交的で活発な性格であり、クレアの心を掴み恋人同士となるが、なぜかクレアを捨て、ヴァルファに身を投じる{{#tag:ref|後にクレアのショートストーリーで明かされたが、当時の上官と対立した末に上官を刺殺してしまい、出奔したためである。|group=Note}}。約10年ぶりに戦場で再会したヤングと、一騎討ちになり勝利。主人公の最初の一騎討ちの相手で、HPが全勝負キャラクター中最小だが、これはヤングとの戦いで傷を負っていたためである(ただし主人公は初期状態であることが多いため、十分強敵になり得る)。
: “疾風”の二つ名の由来は戦場を疾風のごとく駆け抜ける姿から来たもので、その二つ名が示すとおり、プレイ初期としては動きが素早い。必殺技を含めた攻撃を、こちらが攻撃しながら防御で防ぐのは大変難しく、勝つには必殺技を受けきれるだけのHP(体調)を十分に備えておく必要がある。また、勝利すると「ヤングよ、いい部下を持ったな」と好敵手ヤングを称えながら死ぬ。
; バルドー・ボランキオ
: 声 - [[江川央生]]
: 通称「不動のボランキオ」。武器は[[戦斧|斧]]。直立不動の戦いを得意とすることから、“不動”の二つ名を持っている。妻と娘がいたが、二人とも流行り病で亡くしている。妻子の後を追って自害しようとしたができず、戦いの中で死ぬことを望むようになる。そのため、常に殿軍を買って出て、そのたびに生き残ったことが“不動”の二つ名を得た由来となった。
: ルシアから想いを寄せられているが、ボランキオ自身は亡き妻と娘を愛しているため、一顧だにしていない。
: セイルとは打って変わって行動が遅い。正騎士を目指すつもりで育成しているならば、こちらが攻撃しつつ防御を挟み、相手の攻撃を受け止められる。
; ルシア・ライナノール
: 声 - [[今井由香]]
: 通称「氷炎のライナノール」。武器は[[二刀流]]の[[ロングソード|剣]]。ボランキオのことを愛しており、主人公がボランキオとの一騎討ちにて勝利していた場合、仇を討つためにヴァルファバラハリアンを半ば強引に出奔、主人公に対し一騎討ちを申し込みに来る。
: 氷のごとき冷静さと炎のごとき闘志という二面性を強く持つことが“氷炎”の二つ名の由来となったが、それを更に裏付けるような要素として、冷気をまとわせた一方の剣で斬りつけながら動きを封じ、もう一方の剣にまとわせた炎で斬りつける必殺技を持つ。やや素早く、主人公がしっかりと素早さを上げておかないと先手を取られやすい。
; スパン・コーキルネィファ
: 声 - [[新山志保]]
: 通称「迅雷のコーキルネィファ」。武器は電気ニードル。八騎将の中で最年少で、好戦的かつ堪え性の無い性格。命令違反の常習者で、命令違反の度にキリングの怒りを買っても反省は一切しないなど、八騎将の中で最も指揮官に向いていない性格をした人物。
: “迅雷”の二つ名に違わず、ネクセラリア以上の高い敏捷性を活かした手数の多さで攻撃する。通常攻撃は大したダメージではないが、必殺技が強いので注意。
: 設定年齢は16歳であるが、サリシュアンはゲーム開始時点で15歳のため、本来は最年少とは言えない。
; キリング・ミーヒルビス
: 声 - [[青野武]]
: 通称「幽鬼のミーヒルビス」。武器は[[大鎌]]。ヴァルファバラハリアン副団長で、八騎将最年長の参謀格。ゼールビスを甥にもつ知将で、ヴォルフガリオに昔から仕えている忠臣でもある。
: 盲目であり、常に目を閉じているが、これは過去のシベリア出征の際に負った怪我が原因で失明したことによるもの。素早さはバルドー並に遅く、戦う時期的にもキリングの攻撃を防御で受け流すのは容易い。
; ミハエル・ゼールビス
: 声 - [[増谷康紀|???]]
: 通称「血煙のゼールビス」。元テロリストであり、単独での破壊活動が主任務。上述のキリングの甥であるが、ネクセラリアをはじめとした血の気が多い軍人気質の八騎将の中では浮いており、現在はヴァルファバラハリアンを脱退し、姿を消している。
: あるヒロインを攻略することで、その終盤に初めてその姿を見せる。
: <!-- 神父の真の正体で、本来の神父を殺して後任の神父になりすましていた。 -->
; デュノス・ヴォルフガリオ
: 声 - [[郷里大輔]]
: 通称「破滅のヴォルフガリオ」。武器は[[グレートソード|大剣]]。ヴァルファバラハリアン団長。ドルファン王国に並々ならぬ敵意を抱いている。常に鉄仮面をつけており、その素顔を知るものは少ない。
: 通常はその鉄仮面を着けた状態で「戦争における最後の敵」として登場するが、あるヒロインの攻略途上にある必須・個別イベント時のみ、素顔を晒した状態で対決する事となる。
: 戦闘では、キリング程ではないが行動は遅め。先手で攻撃しつつ、デュノスの攻撃は防御で受け流していれば問題ない。
: <!-- 以前の名はデュノス・ドルファン。ドルファン国王デュラン・ドルファンの実兄で、アナベル・ピクシスら保守派の一方的な謀略によって廃嫡、出奔させられた過去がある(ピクシスらは死亡と捏造した)。ドルファン王国を憎むのはそのため。 -->
; サリシュアン
: 声 - [[冬馬由美|???]]
: 通称「隠密のサリシュアン」。武器は[[レイピア]]。ヴォルフガリオの娘。姓が重複する(~・ヴォルフガリオ・サリシュアン)ため母の旧姓を名乗っている。隠密の二つ名が示す通り、諜報活動を主任務にしており、ヴァルファバラハリアン内でも素性を知る者は少ない。本編ではいち早くドルファン王国に潜入して諜報活動をしているが、あるヒロインの攻略途上において、最後の敵として登場する。
: スパン以上に素早く、必殺技も強い。こちらがもたついていると何度も攻撃を受けるので注意。防御を挟むのは難しいので、セイル同様攻撃を受け止めきれるだけのHPが必要。
: <!-- ライズ・ハイマーの正体であり、主人公と直接対決する唯一のヒロイン。対決後の選択を誤ると自害してしまうが、好感度が足りないと、勝利しても勝手に自害してしまう。 -->
=== CDドラマの登場人物 ===
; ノイエ・シルスカヤ
: 声 - [[桑島法子]]
: シベリアの工作員。ゼールビスとは知り合い。工作員としてはあまり優秀でないようで、少し抜けた部分もある。
; アリス・ベインバッカー
: 声 - [[岩男潤子]]
: プリムの同僚のメイド。ちゃっかり者。
; 東洋人
: 声 - [[置鮎龍太郎]]
: ゲーム版の主人公。CDドラマ最終巻・最終話でのみ声を発するが、当時既に中堅声優であった置鮎に対してセリフが二言(「これを使え!」「多分な」)しかなく、最終巻のキャスト達による役名・一言コメントでは呼ばれた事に困惑していた。
=== 漫画版の登場人物 ===
; コジロウ・ソウマ
: 主人公の東洋人。過去に妹を失った経験から人を殺すことができず、鞘を抜かずに刀を操っている。
; アリッサ・ホルン
: メインヒロイン。天真爛漫な性格をしているが、孤独を恐れる、黒服の男達に狙われている、など謎がある。
: キャラクターデザインの原型は、ゲーム版の没キャラクターである「スリの女の子」。
== 世界観 ==
ヨーロッパ以外にも世界全体が現実の中世を模しており、世界地図や地域、国家の特徴も相似している。
=== 歴史 ===
戦争の主役が、[[騎士]]から[[火器]]へ移行する過渡期を描いている。そのため、現実の歴史区分としては、正確には[[中世]]というよりも[[近世]]に近い。また、地下資源を用いた産業が存在し、[[財閥]]といった企業体が存在することから、[[産業革命]]前後ともとることができる。このような例が他にも多々あるため、本作における一貫した歴史を捉えることは難しい。
=== トルキア地方 ===
欧州南部地方。元は「大トルキア帝国」であったが、内乱の後に7つに分かれた。隣接しているのはオースティニア地方。マルタギニア海に面し、トルキアとオースティニアの間にはトルキア内海が存在する。
; ドルファン
: 正式にはドルファン王国。トルキアで2番目に小さい国であるが、湾岸国家。
: 唯一の内陸である北部をハンガリア、プロキア、ゲルタニアに押さえられている関係から常に領土侵略の危機にさらされている。
: 物語の舞台である首都・ドルファン城塞に守られており、周囲が海と城壁に囲まれているため難攻不落を誇る。一方で湾岸国家でありながら海軍力に乏しく、それに加えて近年では騎士団の弱体化と軍部の腐敗が著しく目立ってきており、更にはアナベル・ピクシスを筆頭とした保守派を中心に、外国人に対する悪感情がトルキアの中でも特に根強いため、これが後に外国人排斥法の制定へとつながってしまうことになる。
; プロキア
: 本編中で傭兵騎士団ヴァルファバラハリアンを擁してドルファンを狙って侵攻してきた国。
: 東にハンガリア、西にゲルタニア、南にドルファン、北にヴァン=トルキアと四方を他国で固められたトルキア地方唯一の内陸国であるため、トルキアの中で唯一、海洋貿易ができない。
: 正式名称はプロキア=フィンセン公国だったのだが、わずか一週間で内乱が起き、プロキア=ヘルシオ公国として政権交代が行われたほどの内情不安定な寄り合い国家にして万年外征国。ドルファンへの侵攻の理由も海洋貿易を獲得するためである。しかし、寄り合い国家ゆえに足の引っ張り合いは日常茶飯事で、ヴァルファバラハリアンもこの巻き添えを喰らう形で壊滅させられていくこととなる。
; ハンガリア
: 正式にはハンガリア共和国。かつてはボルキア王国として存在していたが、市民革命の内戦によって王政廃止となる。
: しかし、王政復古を目論む右派組織「ボルキア回帰戦線」が無差別テロを絶えず起こしているため、国内情勢は悪化の一途にある。
: クレア、ヤング、セイルの故郷でもある。
; ゲルタニア
: 正式にはゲルタニア共和国。共和制をハンガリアより早く布いた軍事大国。
: ヴァン=トルキアやプロキアとの軍事衝突が多発していたが、近年は内政に問題が起こっている。
; ヴァン=トルキア
: 正式にはヴァン=トルキア帝国。大トルキア帝国を統治していたヘレニガム王家の治める国。
: 領土面積はトルキア地方最大を誇るも時勢に乗り遅れてしまい、国力は年々衰退している。旧トルキアとも呼ばれる。
; セサ
: 正式名称はセサ公国と言い、ヴァン=トルキアを治めるヘレニガム王家の外戚にあたるセサ大公家が治めている。
: トルキア最小国ではあるが、ヴァン=トルキアの保護下にあることと三方が海に面していることが幸いし、小国ながらも生きながらえている。
; スィーズランド
: 正式名はスィーズランド連邦共和国。オースティニア地方と隣接した国でありながらも世界唯一の[[永世中立国]]で、中立維持とその防衛のために強力な軍事力を有している。
: 世界中で知られる文明先進国でもあり、その中でも「リーデン学術院」は屈指の名門校として知られ、メネシスやジョアンの母・マリエルを輩出している。
: 傭兵騎士団ヴァルハバラハリアンが所属する国であり、ジーンとライズの生まれ故郷でもある。ただし、ジーンはドルファンに住む叔父夫婦に引き取られた関係でドルファンに帰化した。また、主人公もこの国を介してドルファンに入国している。
: モデルは[[スイス]]
=== その他の国家 ===
; シベリア
: 正式名称はシベリア社会主義連合国。北露圏の大部分を支配する社会主義の連邦国家で、モスクヴァ社会主義共和国が中心となっている。
: モデルは[[ソビエト社会主義共和国連邦]](現在の[[ロシア連邦]])。
; 中華皇国
: 東洋圏にある国。本編中では詳細は明かされないが、作中のウィークリートピックスによると、シベリアとの関係が悪く、国境付近でたびたび小競り合いが発生しており、本編後半では戦争に突入する。
: モデルは[[中華人民共和国]]。
; アルビア
: 中東圏の国。マルタギニア海(現実の世界で言うところの[[地中海]])の制海権を握っている。ドルファン王国の同盟国で、海軍力の乏しいドルファンの海防の一端を担う。
; 日本国
: 東洋圏の国。主人公の出身国だが、本編中には一切関わりがなく、またほとんど触れられることもない。ゲーム内において、たびたび「おハシの国」「ミソスープ」と表現される。
: モデルは[[日本]]。
=== 組織 ===
; ヴァルファバラハリアン
: トルキア地方の傭兵騎士団。基本的には永世中立国であるスィーズランドに所属しており、各国の要請に応じて参戦する。
: 最強と謳われる傭兵団で、団長ヴォルフガリオを中心とする八騎将によって統率される。軍団内では「勝者には生を、敗者には死を」などといった徹底した実力主義が貫かれており、構成員はネクセラリア、ボランキオ、コーキルネイファのような無頼の徒が多い。そのせいかゼールビスだけは「あの傭兵騎士団の無神経さが嫌いだった」とこぼし、後に離脱する。
: 本編中においては、ドルファンと敵対するプロキアに雇われている。八騎将を始め、全員が血のような赤い鎧を纏っているのが最大の特徴で、本編はこの傭兵団との戦いを中心に展開していく。
: 「ヴァルファバラハリアン」とは旧トルキア語で「血の河を渡る者=冥府の案内人」という意味を持っており、軍装を赤で統一しているのはこれが理由。
: かつてはヴォルフガリオを含めて13人おり、十三騎将と呼ばれた時代があったが、過去に行なわれたシベリアへの出征での大敗北によって甚大な被害を出してしまい、現在の八騎将にまで数を減らしてしまった。また、この時の怪我が原因でキリングが盲目になってしまっている。
; シンラギククルフォン
: 東洋圏の傭兵団。ゲーム内では「最凶の傭兵団」と説明されており、東洋圏最強最悪のテロ組織であると共に軍事組織にして政治結社。本編中のドルファンとプロキアの戦争にも参戦していたらしいことが、ウィークリートピックスにて明言されている。
: テロ活動が左陣、軍事活動が右陣、政治活動が本陣と三派に分かれ、「三八式爆竹」と呼ばれる独自の投擲爆弾を扱う。
: ちなみにククルフォンとはウズベク地方に伝わる猿の妖怪を指すとのこと。
; ヴァネッサ
: ドルファン王国内の[[左翼]]組織。ただし、いわゆる[[社会主義]]としての左翼ではなく、反王制としての左翼。過激派と穏健派、中道派の三派に分かれており、過激派はたびたびテロを引き起こしている。
; スペツナズ
: シベリアの特殊部隊。かつてグスタフが所属していたことがあり<ref>本人は「思い出すには辛すぎる」と全容を語ることはしない。</ref>、現在、彼の伝手でカルノーが所属している。
: 主にゲリラ戦を得意とし、その存在は各地の戦場で恐れられた。ナイフの刃の部分がスプリングにより発射される「スペツナズナイフ」を標準装備している。
: スペツナズ自体はロシア語で「特殊任務部隊」を意味する略語であり、実在する部隊である。実在の部隊については[[スペツナズ|こちら]]を参照。
== 音楽 ==
;テーマソング
* 『みつめて』 作詞:[[広井王子]]/作曲:[[村井聖夜]]/編曲:[[入江純]]/歌:ソフィア(小西寛子)
;挿入歌、専用ED曲
* 『明日を夢みて』~ソフィア挿入歌 作詞:田村純一/作曲:村井聖夜/編曲:入江純/歌:ソフィア(小西寛子)
* 『恋をすると』~アン挿入歌 作詞:田村純一/作曲:村井聖夜/編曲:佐藤淳史/歌:國府田マリ子
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|state =
|Fam = 32/40<ref>[https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=16989 みつめてナイト まとめ (PS)/ファミ通.com]</ref>
|rev1 = [[電撃PlayStation]]
|rev1Score = 170/200<ref name="DPS">電撃PlayStation Vol.71 1998年4月10日号 138ページ</ref>
}}
売り上げは16万本程度と『ときめきメモリアル』の50万本には及ばなかったものの[[ファミ通]]クロスレビュー32点でゴールド殿堂入りを果たしている。
[[電撃PlayStation]]DPSソフトレビューでは85、85の170点。レビュアーは「ファンタジー版ときめきメモリアル」のようで画面構成やプレイ感覚は非常に近いが同じようにプレイすると本当の面白さは分からない、操作感がいい、キャラクターの個性がよく立っている、よく丁寧に作られていてビジュアルに惹かれたならまず楽しめるとしたが、これといった目立つ点もなくインパクトに欠け目新しさはなく、キャラごとのストーリー性がやや薄いとしたが、レビュアーの1人は「個人的にはときメモを超えている」と賞賛した<ref name="DPS" />。
== 漫画版 ==
竹浪秀行による作画の漫画版が『[[月刊ドラゴンジュニア]]』に連載されていた。単行本は『[[月刊ドラゴンジュニア#カドカワコミックス・ドラゴンJr.|角川コミックス・ドラゴンJr.]]』より全1巻。
* 『みつめてナイト』 1999年7月1日初版発行、ISBN 4-04-712191-6
== ラジオ ==
1997年10月より[[文化放送]]にて本作を題材とした「'''ソフィアの純愛'''」というラジオ番組が放送された、1997年10月12日より1998年4月5日までは(放送枠日曜21時30分 - 22時(JST))、1998年の4月より[[文化放送ホームランナイター|ナイター編成]]のため放送枠が金曜日の24時 - 24時30分に移動となり同年7月まで放送された。
=== 番組内容 ===
ドルファン王国のソフィアから、心の電波でリスナーのラジオに送っているという設定の番組。ソフィア役の小西寛子がソフィアとしてパーソナリティを務めた。ソフィアとしてはがきを読み、これに対する感想を述べたり、一種独特の雰囲気を醸し出している内容のフリートークなどが展開された。毎回、一曲放送するコーナーがあり、歌の歌詞を朗読していた。他にはソフィアや他のキャラクターのモノローグを綴ったミニドラマのコーナーもあったが、これはCDに収録されていない。
最終回はゲームと同様に爆弾テロが発生。ソフィアは病院のベッドの中、意識だけでリスナーに語りかけるという設定で別れを惜しんだ。
{{前後番組|
放送局=[[文化放送]]|
放送枠=日曜[[文化放送日曜夜9時枠|21時30分枠]]|
番組名=ソフィアの純愛|
前番組=[[ターザン山本|尾崎・ターザンのロボタッグ]]|
次番組=バンブー・ささみぃのレディオX<br>↓<br>[[小野坂・桃井のバーチャラジオ電脳戦隊モモンガー]]|
2放送局=文化放送|
2放送枠=金曜24:00 - 24:30枠|
2番組名=ソフィアの純愛|
2前番組=[[CLUBときめきメモリアル]]|
2次番組=[[かっぺー・れーこのぴゅあぴゅあ!あいらんど]]}}
== 参考文献 ==
* 『みつめてナイト 公式ガイド』 [[NTT出版]]、1998年
* 『みつめてナイト 公式完全ガイドブック』 [[双葉社]]、1998年
== 関連項目 ==
* [[pop'n music]] - 音楽ゲーム。『- 15 ADVENTURE』にて、本作の「本当のエンディング」とも呼ばれる聖騎士バッドエンドのBGM「The Man From Far East 〜聖騎士のテーマ〜」が作曲者の[[村井聖夜]]本人の手でアレンジされ、プレイ楽曲として収録された(ジャンル表記は「ウォーリアー」)<ref>[http://www.konami.jp/bemani/popn/music15/mc/01/01_02.html pop'n music 15 ADVENTURE / ウォーリアー]</ref>。この曲はPSP版『pop'n music portable』にも収録されている。
* [[電撃PlayStation]]、[[電撃G'sマガジン]] - ゲームメディア雑誌。本作発売後に専用の連載コーナーが設けられ、脚本担当の田村純一自らが、ヒロイン(および関係者)達のゲームでは語られなかった「裏設定」を交えたショートストーリーを掲載していた。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=Note}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
{{DEFAULTSORT:みつめてないと}}
[[Category:ギャルゲー]]
[[Category:恋愛シミュレーションゲーム]]
[[Category:コナミのゲームソフト]]
[[Category:PlayStation用ソフト]]
[[Category:1998年のコンピュータゲーム]]
[[Category:ファミ通クロスレビューゴールド殿堂入りソフト]]
[[Category:月刊ドラゴンジュニア]]
[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
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伊藤桂一
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伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 2016年10月29日)は、日本の小説家、詩人。『静かなノモンハン』などの戦場小説や、時代小説、私小説風な身辺小説などがある。日本芸術院会員。
三重県三重郡神前村(現四日市市)の天台宗高角山大日寺に生まれる。4歳の時に交通事故で父が亡くなり、寺の所有を巡る争いから7歳の時に家族で大阪に出て祖母、叔母と同居。次いで1926年9歳の時に東京と転々とし、妹の療養のため徳山市にも2年間付き添った。
教師を志して青山師範学校を受験するが失敗し、1932年15歳の時に立正中学に入学、文学に熱中する。
1934年に曹洞宗の寺院に見習いとして入寺し、旧制世田谷中学に転校。詩や小説の投稿を行うようになり、1935年に「文芸首都」に小説「祖父一家」が入選、掲載される。1936年に上野のゴム再生業店に勤め、その後も商社事務員、ビルの清掃業など職を転々としながら、「日本詩壇」などに投稿。詩の雑誌『紅籃』『餐』(後に『馬車』『山河』)『凝視』『内在』などに参加。
1938年より習志野騎兵隊に入隊、1939年に北支に出兵、この間も詩作を続け、短歌数百首を作った。1941年に除隊し、詩誌『馬車』などで詩作。1943年に再度召集されて佐倉歩兵連隊入隊、南京などに配備され、上海郊外で伍長として終戦を迎える。1946年に復員、母と妹の疎開先の三重県三重郡川島村に、次いで愛知県豊橋市に住み、詩作を続けながら、母とともに婦人啓蒙雑誌『婦妃』を発行。
1948年に上京し、中西金属工業に勤めながら、『文壇』『不同調』『現代詩』『国際タイムズ』などに詩を発表、1949年に第1回『群像』懸賞小説に「晩青」で佳作入選しデビュー。
日本研究社の学習雑誌『私たちの社会科』に少年小説「地底の秘密」を連載しながら、同社に転職。1950年、『幼年クラブ』に童話「お月さまの匂い」発表。中谷孝雄の紹介で金園社に転職。1951年、同人誌『新表現』に参加、『凝視』では伊藤桂一特集が組まれた。1952年、「雲と植物の世界」で芥川賞候補となり『文藝春秋』に転載、「アリラン国境線」で講談倶楽部賞次席、松下忠、永井路子、杉本苑子と四人会を作る。
1953年、金園社がスポンサーとなっていた同人誌『文藝日本』に参加して編集実務を行う。また講談社の講談倶楽部賞関係の新人が集まった「泉の会」に1955年に参加し、ほぼ同じメンバーで1956年に創刊した同人誌『小説会議』に参加した(同人は、生田直親、井口朝生、池上信一、早乙女貢、童門冬二、福本和也ら)。
『文藝日本』のパトロン牧野吉晴のところで寺内大吉と知り合い、彼や司馬遼太郎が出そうとしているという『近代説話』に、やはり『文藝日本』の編集担当だった尾崎秀樹とともに参加した。またこの頃から釣りを趣味とする。
1956年の「敵は佐内だ!」の『講談倶楽部』掲載以後は時代小説も執筆する。母と病弱の妹を抱えた生活苦の中で、1960年末に私家版で300部の詩集『竹の思想』を出版、その直後の1961年に、前年『近代説話』に掲載した、戦場での兵士を描いた短編小説「蛍の河」で直木賞を受賞。『蛍の河』が単行本化され、『週刊新潮』で「悲しき戦記」の連載が始まる。1963年に金園社を退社して作家専業となり、以後多数の小説を刊行。
1962年、長年の疲労から倒れ、野口晴哉による整体操法を受け始め、徐々に体質が改善する。1967年に結婚。1976年、日中友好日本作家代表団の一員として中国訪問。1977年から93年まで、三重芸文協会の小説研究ゼミに毎年出席。1978年、野火の会の訪中団の副団長(団長高田敏子)として中国訪問。1987年、高田敏子らの詩誌「桃花鳥」に参加。1992年、第1回日中大衆文学シンポジウムに副団長(団長尾崎秀樹)として北京訪問、1997年の第2回にも参加。
中谷の死にともない、 1996年に義仲寺、落柿舎保存会理事となり、中谷を継いで22代無名庵庵主となる。『中谷孝雄全集』(1997年)編集委員も務める。1999年、妻が死去。2002年に再婚。2003年に宮中歌会始に招待、自転車で転倒して骨髄骨折。2004年、宮中茶会に招待される。
1985年に紫綬褒章を受章、2001年に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、芸術院会員。2002年に勲三等瑞宝章を受章。
「雲と植物の世界」が『文藝春秋』に載り、「これはわが部隊のことではないか」と伊藤と同じ部隊の元兵士たちが集合した。それをまね、旧日本軍の各部隊で、「戦友会」が生まれる契機となった。
2016年10月29日に老衰にて死去。99歳没。叙従四位。
一連の戦争小説のうち「螢の河」などは自身の中国戦線での経験を元にしているが、『ノモンハン戦記』や『遥かなインパール』などでは体験者の元兵士らに取材して執筆している。これらについて自身では、戦場にいた兵士達を代弁する語り部として書いているものとして、戦場小説と呼んでいる。「螢の河」について詩人の佐藤正子は「詩人の資質を示す簡潔な文体の叙情豊かな短篇」と評している。
時代小説としては、「風車の浜吉・捕物綴」などの捕物帖、「月下の剣法者」などの剣豪小説、市井の人々の暮らしを描いたものなどがある。
「落日の悲歌」は1971年に宝塚歌劇団星組で「我が愛は山の彼方に」というタイトルで舞台化され、その後も何度か再演された。1968年には「おぼろ夜」が歌舞伎座で上演、「愛の樹海」はテレビドラマ化された。趣味の釣りを題材にした作品も「源流へ」など多い。
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"text": "『文藝日本』のパトロン牧野吉晴のところで寺内大吉と知り合い、彼や司馬遼太郎が出そうとしているという『近代説話』に、やはり『文藝日本』の編集担当だった尾崎秀樹とともに参加した。またこの頃から釣りを趣味とする。",
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"text": "中谷の死にともない、 1996年に義仲寺、落柿舎保存会理事となり、中谷を継いで22代無名庵庵主となる。『中谷孝雄全集』(1997年)編集委員も務める。1999年、妻が死去。2002年に再婚。2003年に宮中歌会始に招待、自転車で転倒して骨髄骨折。2004年、宮中茶会に招待される。",
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"text": "一連の戦争小説のうち「螢の河」などは自身の中国戦線での経験を元にしているが、『ノモンハン戦記』や『遥かなインパール』などでは体験者の元兵士らに取材して執筆している。これらについて自身では、戦場にいた兵士達を代弁する語り部として書いているものとして、戦場小説と呼んでいる。「螢の河」について詩人の佐藤正子は「詩人の資質を示す簡潔な文体の叙情豊かな短篇」と評している。",
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伊藤 桂一は、日本の小説家、詩人。『静かなノモンハン』などの戦場小説や、時代小説、私小説風な身辺小説などがある。日本芸術院会員。
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{{Infobox 作家
| name = 伊藤 桂一<br/>{{small|(いとう けいいち)}}
| image = Ito Keiichi.jpg
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| caption = <small>経済往来社『経済往来』第19巻1号(1967)より</small>
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| birth_date = [[1917年]][[8月23日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[三重県]][[三重郡]][[神前村 (三重県)|神前村]](現[[四日市市]])
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1917|08|23|2016|10|29}}
| death_place = <!--死亡地-->
| resting_place = [[竜が丘俳人墓地]]
| occupation = 小説家、詩人
| language = <!--著作時の言語-->
| nationality = {{JPN}}
| ethnicity = <!--民族-->
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| alma_mater = [[世田谷学園中学校・高等学校|旧制世田谷中学]]
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| genre = [[戦争文学|戦場小説]]、[[時代小説]]、[[私小説|身辺小説]]
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| children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する-->
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| influenced = <!--影響を与えた作家名-->
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'''伊藤 桂一'''(いとう けいいち、[[1917年]][[8月23日]] - [[2016年]][[10月29日]]<ref name="bungei20161029" />)は、[[日本]]の[[小説家]]、[[詩人]]。『静かなノモンハン』などの[[戦争文学|戦場小説]]や、[[時代小説]]、[[私小説]]風な身辺小説などがある。[[日本芸術院]]会員。
== 経歴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2023-11}}
=== 生い立ち ===
[[三重県]][[三重郡]][[神前村 (三重県)|神前村]](現[[四日市市]])の[[天台宗]]高角山大日寺に生まれる。4歳の時に[[交通事故]]で父が亡くなり、寺の所有を巡る争いから7歳の時に家族で[[大阪]]に出て[[祖父母|祖母]]、[[叔母]]と同居。次いで[[1926年]]9歳の時に[[東京]]と転々とし、妹の療養のため[[徳山市]]にも2年間付き添った。
教師を志して[[青山師範学校]]を受験するが失敗し、1932年15歳の時に[[立正大学付属立正中学校・高等学校|立正中学]]に入学、文学に熱中する。
1934年に[[曹洞宗]]の寺院に見習いとして入寺し、[[世田谷学園中学校・高等学校|旧制世田谷中学]]に転校。詩や小説の投稿を行うようになり、1935年に「文芸首都」に小説「祖父一家」が入選、掲載される。1936年に[[上野]]のゴム再生業店に勤め、その後も商社事務員、ビルの清掃業など職を転々としながら、「日本詩壇」などに投稿。詩の雑誌『紅籃』『餐』(後に『馬車』『山河』)『凝視』『内在』などに参加。
1938年より習志野騎兵隊に入隊、1939年に[[北支]]に出兵、この間も詩作を続け、短歌数百首を作った。1941年に除隊し、詩誌『馬車』などで詩作。1943年に再度召集されて佐倉歩兵連隊入隊、[[南京]]などに配備され、[[上海]]郊外で伍長として終戦を迎える。1946年に復員、母と妹の疎開先の三重県三重郡[[川島村 (三重県)|川島村]]に、次いで[[愛知県]][[豊橋市]]に住み、詩作を続けながら、母とともに婦人啓蒙雑誌『婦妃』を発行。
===作家活動===
1948年に上京し、中西金属工業に勤めながら、『文壇』『不同調』『現代詩』『国際タイムズ』などに詩を発表、1949年に第1回『[[群像]]』懸賞小説に「晩青」で佳作入選しデビュー。
[[日本研究社]]の学習雑誌『私たちの社会科』に少年小説「地底の秘密」を連載しながら、同社に転職。1950年、『幼年クラブ』に童話「お月さまの匂い」発表。[[中谷孝雄]]の紹介で[[金園社]]に転職。1951年、同人誌『新表現』に参加、『凝視』では伊藤桂一特集が組まれた。1952年、「雲と植物の世界」で[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となり『文藝春秋』に転載、「アリラン国境線」で[[講談倶楽部]]賞次席、松下忠、[[永井路子]]、[[杉本苑子]]と四人会を作る。
1953年、金園社がスポンサーとなっていた同人誌『[[文藝日本]]』に参加して編集実務を行う。また講談社の[[講談倶楽部賞]]関係の新人が集まった「泉の会」に1955年に参加し、ほぼ同じメンバーで1956年に創刊した同人誌『[[小説会議]]』に参加した(同人は、[[生田直親]]、[[井口朝生]]、[[池上信一]]、[[早乙女貢]]、[[童門冬二]]、[[福本和也]]ら)。
『文藝日本』のパトロン[[牧野吉晴]]のところで[[寺内大吉]]と知り合い、彼や[[司馬遼太郎]]が出そうとしているという『[[近代説話]]』に、やはり『文藝日本』の編集担当だった[[尾崎秀樹]]とともに参加した。またこの頃から[[釣り]]を趣味とする。
1956年の「敵は佐内だ!」の『講談倶楽部』掲載以後は時代小説も執筆する。母と病弱の妹を抱えた生活苦の中で、1960年末に私家版で300部の詩集『竹の思想』を出版、その直後の1961年に、前年『近代説話』に掲載した、戦場での兵士を描いた短編小説「蛍の河」で[[直木賞]]を受賞。『蛍の河』が単行本化され、『[[週刊新潮]]』で「悲しき戦記」の連載が始まる。1963年に金園社を退社して作家専業となり、以後多数の小説を刊行。
1962年、長年の疲労から倒れ、[[野口晴哉]]による整体操法を受け始め、徐々に体質が改善する。1967年に結婚。1976年、日中友好日本作家代表団の一員として中国訪問。1977年から93年まで、三重芸文協会の小説研究ゼミに毎年出席。1978年、野火の会の訪中団の副団長(団長[[高田敏子 (詩人)|高田敏子]])として中国訪問。1987年、高田敏子らの詩誌「桃花鳥」に参加。1992年、第1回日中大衆文学シンポジウムに副団長(団長尾崎秀樹)として北京訪問、1997年の第2回にも参加。
中谷の死にともない、 1996年に[[義仲寺]]、[[落柿舎]]保存会理事となり、中谷を継いで22代無名庵庵主となる。『中谷孝雄全集』(1997年)編集委員も務める。1999年、妻が死去。2002年に再婚。2003年に[[宮中歌会始]]に招待、自転車で転倒して骨髄骨折。2004年、宮中茶会に招待される。
[[1985年]]に[[紫綬褒章]]を受章、[[2001年]]に[[日本芸術院賞]]・[[恩賜賞 (日本芸術院)|恩賜賞]]を受賞、芸術院会員。2002年に[[勲三等]][[瑞宝章]]を受章<ref>「2002年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2002年11月3日朝刊</ref>。
「雲と植物の世界」が『文藝春秋』に載り、「これはわが部隊のことではないか」と伊藤と同じ部隊の元兵士たちが集合した。それをまね、旧日本軍の各部隊で、「[[戦友会]]」が生まれる契機となった。
[[2016年]][[10月29日]]に老衰にて死去。99歳没<ref name="bungei20161029">{{Cite web|和書|url=http://bungei.cocolog-nifty.com/news/2016/10/9929-18a6.html|title=伊藤桂一氏(直木賞作家・詩人)が99歳にて29日逝去|publisher=文芸同志会通信|accessdate=2016-10-31|date=2016-10-29}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://this.kiji.is/165731805514432520?c=110564226228225532|title=直木賞作家の伊藤桂一さんが死去|publisher=共同通信|accessdate=2016-10-31|date=2016-10-31}}</ref>。叙[[従四位]]<ref>『官報』第6913号、平成28年12月6日</ref>。
=== 受賞歴 ===
*1949年 - 「晩青」で第1回「群像」懸賞小説佳作受賞。
*1952年 - 「夏の鶯」で第4回千葉亀雄賞受賞。
*1962年 - 「螢の河」で第46回[[直木三十五賞|直木賞]]受賞<ref>[http://prizesworld.com/naoki/senpyo/senpyo46.htm 直木賞-選評の概要-第46回]</ref>。
*1983年 - 「静かなノモンハン」で第34回[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]および第18回[[吉川英治文学賞]]受賞。
*1997年 - 詩集「連翹の帯」で第22回地球賞受賞。
*2001年 - [[日本芸術院賞]]・[[恩賜賞 (日本芸術院)|恩賜賞]]受賞、日本芸術院会員。
*2004年 - さいたま市文化賞
*2007年 - 詩集「ある年の年頭の所感」で第2回[[三好達治賞]]受賞。
=== 候補等 ===
*1952年 - 「アリラン国境線」第3回[[講談倶楽部]]賞次席('''春桂多'''名義)
*1952年 - 「雲と植物の世界」第27回芥川賞候補
*1952年 - 「夏の螢」[[サンデー毎日]]大衆文芸入選
*1953年 - 「黄土の牡丹」第29回芥川賞候補
*1954年 - 「最後の戦闘機」[[オール讀物新人賞|オール讀物新人杯]]次席、第33回直木賞候補('''三ノ瀬渓夫'''名義)
*1961年 - 「黄土の記憶」第45回芥川賞候補
=== 委員等 ===
*1964年 - 立正学園短期大学「創作鑑賞」「編集技術」講師
*1973年 - [[山梨日日新聞]]懸賞小説選考委員
*1985-86年 - [[日本現代詩人会]]会長
*1986-2004年 - 吉川英治文学賞選考委員
*1988年 - [[伊東静雄]]賞選考委員
*1989年 - [[新田次郎文学賞]]選考委員
*1993年 - [[丸山薫]]賞選考委員
*2000年 - 新田次郎記念会理事
*2003年 - 俳句文学館幹事
*2005-08年 - [[全日本家庭教育研究会]]総裁
== 作品 ==
[[File:Nakadai-Tatsuya-4.jpg|thumb|240px|『悲しき戦記』を原作とする東宝映画『[[血と砂 (1965年の映画)|血と砂]]』(1965年)。[[三船敏郎]]、[[仲代達矢]]らが出演した。]]
一連の戦争小説のうち「螢の河」などは自身の中国戦線での経験を元にしているが、『ノモンハン戦記』や『遥かなインパール』などでは体験者の元兵士らに取材して執筆している。これらについて自身では、戦場にいた兵士達を代弁する語り部として書いているものとして、戦場小説と呼んでいる。「螢の河」について詩人の佐藤正子は「詩人の資質を示す簡潔な文体の叙情豊かな短篇」<ref>『花ざかりの渡し場』(新潮文庫、1996年)解説</ref>と評している。
時代小説としては、「風車の浜吉・捕物綴」などの捕物帖、「月下の剣法者」などの剣豪小説、市井の人々の暮らしを描いたものなどがある。
「落日の悲歌」は1971年に[[宝塚歌劇団]]星組で「[[我が愛は山の彼方に]]」というタイトルで舞台化され、その後も何度か再演された。1968年には「おぼろ夜」が[[歌舞伎座]]で上演、「愛の樹海」はテレビドラマ化された。趣味の[[釣り]]を題材にした作品も「源流へ」など多い。
=== 詩集 ===
*『竹の思想』私家版、1961年。
*『定本・竹の思想』南北社、1968年。
*『伊藤桂一詩集』五月書房、1975年。
*『黄砂の刻』潮流社、1981年。
*『伊藤桂一詩集』土曜美術社、1983年。
*『連翹の帯』潮流社、1997年。
*『ある年の年頭の所感』潮流社、2006年。
*『私の戦旅歌とその周辺』講談社、1998年。(『私の戦旅歌』講談社文芸文庫、短歌とエッセイ)
===小説など===
*『花盗人』講談社、1962年。
*『螢の河』文藝春秋新社、1962年。のち文庫、講談社文芸文庫「蛍の河・源流へ」
*『夏の鶯』東京文芸社、1962年。
*『ナルシスの鏡』南北社、1962年。
*『水と微風の世界』中央公論社、1962年。のち文庫
*『落日の悲歌』東京文芸社、1963年。
*『水の天女』東方社、1963年。「亡霊剣法」徳間文庫
*『海の葬礼』東都書房、1963年。
*『悲しき戦記』正続 新潮社、1963-64年。のち講談社文庫、光人社NF文庫
*『戦記 夕陽と兵隊 荒野に消えた幻の関東軍』双葉社、1964年。
*『媚態』東京文芸社、1964年。
*『溯り鮒』新潮社、1964年。
*『落日の戦場』講談社、1965年。
*『黄土の狼』講談社、1965年。のち集英社文庫
*『生きている戦場』南北社、1966年。
*『樹海の合唱』集英社、1966年。
*『淵の底』新潮社、1967年。のち文庫
*『かるわざ剣法』人物往来社、1967年。のち徳間文庫
*『「[[沖ノ島]]」よ私の愛と献身を』講談社、1967年。
*『[[回天]]』講談社、1968年。
*『実作のための抒情詩入門』大泉書店、1968年。
*『かかる軍人ありき』文藝春秋、1969年。のち光人社NF文庫
*『源流へ』新潮社、1969年。
*『戦場の孤愁』東京文芸社、1969年。
*『おもかげ』東京文芸社、1969年。
*『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』番町書房(ドキュメント=近代の顔 1)、1969年。のち、新潮文庫、新潮選書(『兵隊たちの陸軍史』)
*『遥かな戦場』三笠書房、1970年。のち光人社NF文庫
*『草の海 戦旅断想』文化出版局、1970年。
*『椿の散るとき』新潮社、1970年。のち文庫
*『藤の咲くころ』新潮社、1971年。のち文庫
*『遠い岬の物語』新潮社(新潮少年文庫)、1972年。
*『女のいる戦場』番町書房、1972年。
*『石薬師への道』講談社、1972年。
*『ひとりぼっちの監視哨』講談社、1972年。のち文庫
*『イラワジは渦巻くとも 続かかる軍人ありき』文藝春秋、1973年。
*『果てしなき戦場』広済堂出版、1973年。
*『夜明け前の牧場 人生小説集』家の光協会、1974年。
*『あの橋を渡るとき』新潮社、1974年。
*『燃える大利根 風説[[天保水滸伝]]』実業之日本社、1975年。
*『警備隊の鯉のぼり』光人社、1977年。
*『虹』新潮社、1977年。
*『ひまわりの勲章』光人社、1977年。のちNF文庫
*『紅梅屋敷の女』講談社、1977年。
*『深山の梅』毎日新聞社、1978年。のち新潮文庫
*風車の浜吉・捕物綴シリーズ
**『病みたる秘剣 風車の浜吉・捕物綴』新潮社、1978年。のち文庫、学研M文庫
**『隠し金の絵図 風車の浜吉・捕物綴』毎日新聞社、1991年。のち新潮文庫、学研M文庫
**『月夜駕籠 風車の浜吉捕物綴』新潮社、1995年。のち文庫、学研M文庫
**『妙覚尼の呪術 風車の浜吉・捕物綴』元就出版社、2014年。
*『峠を歩く』日本交通公社出版事業局、1979年。
*『黄塵の中 かえらざる戦場』光人社、1979年。のちNF文庫
*『釣りの風景』六興出版、1979年。のち平凡社ライブラリー
*『川霧の女』講談社、1980年。
*『捜索隊、山峡を行く』光人社、1980年。
*『密偵たちの国境』講談社、1981年。
*『桃花洞葛飾ごよみ』毎日新聞社、1983年。
*『静かなノモンハン』講談社、1983年。のち文庫
*『戦場の旅愁』光人社、1983年。
*『雨の中の犬』講談社、1983年。
*『黄色い蝶』東京文芸社、1984年。
*『水の景色 短篇名作選』構想社、1984年。
*『戦旅の四季』光人社、1985年。
*『河鹿の鳴く夜』東京文芸社、1985年。のち徳間文庫
*『最後の戦闘機』光人社、1985年。
*『戦旅の手帳 兵隊のエッセイ1』光人社、1986年。
*『草の海 兵隊のエッセイ 2』光人社、1986年。
*『秘剣・飛蝶斬り』新潮社、1987年。のち文庫
*『鬼怒の渡し場』毎日新聞社、1987年。
*『[[二宮尊徳]] 世のため人のために働き学んだ人』新学社・全家研(少年少女こころの伝記)、1988年。
*『秘めたる戦記』光人社、1988年。のちNF文庫
*『月あかりの摩周湖』実業之日本社、1989年。
*『犬と戦友』講談社、1989年。
*『[[一休宗純|一休]]』講談社(少年少女伝記文学館)、1989年。
*『銀の鳥籠』光人社、1990年。
*『鈴虫供養』光文社文庫、1991年。
*『秘剣やませみ』講談社、1991年。
*『花ざかりの渡し場』実業之日本社、1992年。のち新潮文庫
*『遠花火』毎日新聞社、1993年。
*『遥かなインパール』新潮社、1993年。のち文庫
*『月下の剣法者』新潮社、1994年。のち文庫
*『旅ゆく剣芸師 矢車庄八風流旅』光風社出版、1996年。「仇討月夜」学研M文庫
*『文章作法・小説の書き方』講談社、1997年。
*『軍人たちの伝統 かかる軍人ありき』文藝春秋、1997年。
*『秋草の渡し』毎日新聞社、1998年。
*『新・秘めたる戦記』全3巻 光人社、1998年。
*『大浜軍曹の体験』光人社、2000年。
*『南京城外にて』光人社、2001年。
*『黄河を渡って』光人社、2002年。
*『鎮南関をめざして 北部仏印進駐戦』光人社、2003年。
*『藤井軍曹の体験 最前線からの日中戦争』光人社、2005年。
*『「衣兵団」の日中戦争』光人社、2007年。
*『若き世代に語る日中戦争』文春新書、2007年。
===共著編===
*『釣りの歳時記』(編)ティビーエス・ブリタニカ、1978年。
*『日本の名随筆 別巻41 望郷』(編)作品社、1994年。
*[[伴野朗]]共著『中国の群雄 5 乱世の英雄』 講談社、1997年。
===翻訳===
* [[于強]]『風媒花 流れる星の下で』光人社、1987年。(夏文宝共訳)
===作品集===
*『昭和戦争文学全集 3』集英社、1966年(「雲と植物の世界」「螢の河」収録)
*『伊藤桂一時代小説自選集』(全3巻)光人社、1997年。
*『伊藤桂一集(もだん時代小説 第9巻)』リブリオ出版、1999年。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2023-11}}
*年譜、著書目録、[[大河内昭爾]]「解説 戦場と渓流の叙情」(『静かなノモンハン』講談社学術文庫、2005年。)
*[[大村彦次郎]]『文壇挽歌物語』筑摩書房、2011年。
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[[Category:20世紀日本の小説家]]
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三岐鉄道
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三岐鉄道株式会社(さんぎてつどう)は、三重県北部の北勢地域で三岐線と北勢線の鉄道2路線を運営するほか、路線バス・貸切バス事業などを行っている鉄道会社である。社名は、かつて三重県と岐阜県(関ケ原)を結ぶことを目的としていたことに由来する。
三岐鉄道の筆頭株主は太平洋セメントである。鉄道事業はかねてより貨物輸送が中心でセメント輸送が主力であったが、現在では地域住民や行楽の足として旅客輸送の比重も上がって来ている。営業路線は長らく三岐線および近鉄連絡線のみであったが、2003年(平成15年)に近畿日本鉄道(近鉄)から北勢線を譲受して運行している。
2001年(平成13年)には開業70周年を記念して三岐線西藤原駅に蒸気機関車のテーマパーク「ウィステリア鉄道」、2003年(平成15年)には同線丹生川駅に「貨物鉄道博物館」を開館し、ボランティアと共に貴重な鉄道車両の保存も行っている。
貨物は全量が車扱貨物であった。
軌間など車両規格が異なることもあって、三岐線・北勢線の両路線の間に車両の互換性はない。共通点は形式記号と車体塗装だけである。
各線の車両については以下を参照。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。三岐線・北勢線共通。
2017年4月16日より養老鉄道・伊賀鉄道と共に3社沿線の祭りがユネスコ無形文化遺産に登録された事を記念した切符「ユネスコ無形文化遺産登録記念入場券セット」を発売している。
長らく日野自動車製のみであったが、ジェイ・バス設立後の2004年1月にいすゞ自動車製(LV834エルガ)が1台導入された。2022年に廃車。同年から連節バス(愛称:サンサンシャトル)を1台導入し、近鉄富田駅〜キオクシアの特急便専用で走っている。
バスでもPiTaPa、TOICA、ICOCA、manaca、emicaなどのICカードは使えない。イオンモール東員線に限りWAONでの支払いが可能だったが、2022年2月4日付で取り扱いを終了し使用できなくなった。
平日の山之一色線は、大沢台経由と四日市大学経由とを合わせて約30 - 90分毎の運転。土休日の山之一色線は、大沢台経由が主体で約50 - 60分毎の運転。
暁学園前駅前発着の系統は、平日のみ運行。JR四日市駅前→暁学園前駅前が山之一色線の始発便として1本。暁学園前駅前→JR四日市駅前が夕方と夜に1本ずつ。
金曜日のみ運行する深夜バスを2本運行。運賃は普通運賃の倍額。運行区間は、近鉄四日市駅前→末永→大沢台→あさけが丘一丁目まで。
2010年(平成22年)3月31日までは「JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - あかつき台 - 四日市大学・看護医療大学前」の系統が存在。
2010年(平成22年)4月1日からは「JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - 四日市大学・看護医療大学前 - あかつき台 - 八千代台二丁目 - あさけが丘一丁目 - 山城駅前」の系統が新設された。
2022年(令和4年)2月11日から、四日市 - 大学直通便の経路が山之一色線と同じ経路となり、キオクシア周辺の停車順が上記の通り変更となった。
2010年(平成22年)4月1日から、キオクシア正門前まで延長及び直行バスの運転が開始された。
2019年(平成31年)4月1日からは、キオクシア東門前まで延長された。同年(令和元年)10月1日からは、四日市北警察署前バス停が新設され、同バス停を通過する急行便が設定された。
2022年(令和4年)2月11日のダイヤ改正から、従来の急行に加え特急も運行。特急は四日市北警察署前と三洋堂前も通過。急行は四日市北警察署前だけ通過。
2022年(令和4年)4月1日のダイヤ改正から、特急に連節バスが運用されるようになった。
通常は後乗り前降り運賃後払いだが平日の朝のみ前乗り運賃先払いになる。
平日は大学が開校日の場合の開校日ダイヤと大学が休暇中の場合の平日ダイヤの2種類で運行される。年末年始などキオクシアも休業の場合は休日ダイヤで運行される。どのダイヤで運行されるかはホームページ上で公開されている。ただし、実際の大学・キオクシアの開校日・営業日とダイヤは完全に合致していないため、大学開校日なのに平日ダイヤ、キオクシア営業日なのに休日ダイヤとなることもある。休日については、以前はすべて運休していたが、平日に比べ本数がかなり少なくなる休日ダイヤで運行している。四日市大学のオープンキャンパス・入試・入学式等には曜日を問わず「特別ダイヤ」で運行する。
休校日は運休
休校日は運休
2013年(平成25年)11月19日新設
2021年(令和3年)4月8日新設。三重交通と共同運行。休校日は運休。
詳細は以下の各記事を参照。
伊坂台アクセス停留所で、赤尾台・桑名駅前方面の八風バスに乗り換え可能。ただし、接続の考慮はされていない。
一般路線の他、企業送迎など貸切事業も行っている。
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"text": "長らく日野自動車製のみであったが、ジェイ・バス設立後の2004年1月にいすゞ自動車製(LV834エルガ)が1台導入された。2022年に廃車。同年から連節バス(愛称:サンサンシャトル)を1台導入し、近鉄富田駅〜キオクシアの特急便専用で走っている。",
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三岐鉄道株式会社(さんぎてつどう)は、三重県北部の北勢地域で三岐線と北勢線の鉄道2路線を運営するほか、路線バス・貸切バス事業などを行っている鉄道会社である。社名は、かつて三重県と岐阜県(関ケ原)を結ぶことを目的としていたことに由来する。 三岐鉄道の筆頭株主は太平洋セメントである。鉄道事業はかねてより貨物輸送が中心でセメント輸送が主力であったが、現在では地域住民や行楽の足として旅客輸送の比重も上がって来ている。営業路線は長らく三岐線および近鉄連絡線のみであったが、2003年(平成15年)に近畿日本鉄道(近鉄)から北勢線を譲受して運行している。 2001年(平成13年)には開業70周年を記念して三岐線西藤原駅に蒸気機関車のテーマパーク「ウィステリア鉄道」、2003年(平成15年)には同線丹生川駅に「貨物鉄道博物館」を開館し、ボランティアと共に貴重な鉄道車両の保存も行っている。
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{{基礎情報 会社
| 社名 = 三岐鉄道株式会社
| 英文社名 = SANGI Railway Co., Ltd.
| ロゴ = [[File:Sangi Railway Logo.svg|150px]]
| 画像 = [[File:SANGI Railway Co., Ltd. Head Office.jpg|250px]]
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 510-8014<ref name="kaisya">[http://www.sangirail.co.jp/contents/kaisha/sub0.htm 会社案内]</ref>
| 本社所在地 = [[三重県]][[四日市市]][[富田 (四日市市)|富田]]三丁目22番83号<ref name="kaisya" />
| 設立 = [[1928年]]([[昭和]]3年)[[9月20日]]<ref name="kaisya" />
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業など
| 代表者 = 渡邉一陽(代表取締役社長)<ref name="kaisya" />
| 資本金 = 4億円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
| 発行済株式総数 = 800万株
| 売上高 = 51億9248万円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
| 営業利益 = △2億2232万2000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
| 純利益 = 2884万6000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
| 純資産 = 13億5654万円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
| 総資産 = 57億4346万8000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
| 従業員数 = 400名<ref name="kaisya" />
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[太平洋セメント]] 10.15%<br />[[日本生命保険]] 6.91%<br />[[星光ビル管理]] 6.91%<br />[[百五銀行]] 2.59%<br />(2018年3月31日現在<ref>平成30年度『鉄道要覧』</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.sangirail.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''三岐鉄道株式会社'''(さんぎてつどう)は、[[三重県]]北部の[[北勢]]地域で[[三岐鉄道三岐線|三岐線]]と[[三岐鉄道北勢線|北勢線]]の[[鉄道]]2路線を運営するほか、[[路線バス]]・[[貸切バス]]事業などを行っている鉄道会社である。社名は、かつて[[三重県]]と[[岐阜県]]([[関ケ原町|関ケ原]])を結ぶことを目的としていたことに由来する。
三岐鉄道の筆頭株主は[[太平洋セメント]]である。鉄道事業はかねてより[[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]が中心で[[セメント]]輸送が主力であったが、現在では地域住民や行楽の足として[[旅客輸送]]の比重も上がって来ている。営業路線は長らく三岐線および近鉄連絡線のみであったが、[[2003年]]([[平成]]15年)に[[近畿日本鉄道]](近鉄)から北勢線を譲受して運行している。
[[2001年]](平成13年)には開業70周年を記念して三岐線[[西藤原駅]]に[[蒸気機関車]]のテーマパーク「[[ウィステリア鉄道]]」、2003年(平成15年)には同線[[丹生川駅]]に「[[貨物鉄道博物館]]」を開館し、[[ボランティア]]と共に貴重な鉄道車両の保存も行っている。
== 歴史 ==
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[9月20日]] [[藤原岳]]からセメント原料を輸送するために、[[浅野セメント]]([[浅野財閥]])、[[小野田セメント]]([[三井財閥]])、[[伊藤伝七 (11代目)|伊藤傳七]](地元の有力者)が共同で会社設立<ref>[https://www.sangirail.co.jp/contents/80th/80th-his1.html 三岐鉄道80年の歩み] - 三岐鉄道</ref><ref name="sone26 24">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 24頁]]</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[7月23日]] 三岐線 富田 - 東藤原間が開業<ref name="sone26 24"/>。
** [[12月23日]] 三岐線 東藤原 - 西藤原間が開業<ref name="sone26 24"/>。
* [[1952年]](昭和27年)[[11月24日]] 本社を四日市市高砂町から現在地に移転。
* [[1954年]](昭和29年)[[11月1日]] 乗合バス営業開始<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=三岐鉄道50年の歩み|date=1981-7-23|publisher=丸善出版|editor=三岐鉄道株式会社,株式会社丸善出版企画編集部}}</ref>。
* [[1956年]](昭和31年)[[12月20日]] 貸切バス営業開始<ref name=":0" />。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月26日]] 三岐開発株式会社を設立<ref name=":0" />。
* [[1968年]](昭和43年)[[8月28日]] 三岐観光サービス株式会社を設立。
* [[1970年]](昭和45年)[[6月25日]] 近鉄連絡線 三岐朝明 - 近鉄富田間が開業<ref name="sone26 25">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 25頁]]</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)[[7月1日]] 三岐開発株式会社を合併。
* [[1974年]](昭和49年)[[7月24日]] 直営ガソリンスタンド「あかつき給油所」開業。
* [[1975年]](昭和50年)[[10月22日]] [[東名阪自動車道]][[御在所サービスエリア]]下り線に「三岐レストラン」開業。
* [[1980年]](昭和55年)[[10月1日]] [[鈴鹿国定公園]]宇賀渓の[[国民宿舎]]「登竜荘」を大安町より譲り受け営業開始。
* [[2001年]]([[平成]]13年)7月23日 「ウィステリア鉄道」オープン<ref name="sone26 25"/>。
* [[2003年]](平成15年)
** [[4月1日]] 近畿日本鉄道から北勢線(西桑名 - 阿下喜間)を譲り受け営業開始<ref name="sone26 25"/>。
** [[9月15日]] 「[[貨物鉄道博物館]]」が開館<ref name="sone26 25"/>。
* [[2008年]](平成20年)4月1日 三岐観光サービス株式会社を合併。
* [[2015年]](平成27年)4月 [[東名高速道路]][[豊田上郷サービスエリア|上郷サービスエリア]]下り線フードコート・ショッピングコーナーの営業開始。
<!-- 開業・廃止以外の各線固有の出来事は各路線の記事に記述。-->
== 鉄道事業 ==
[[File:Sangi Railway Linemap.svg|350px|thumb|right|路線図]]
貨物は全量が[[車扱貨物]]であった<ref>{{Cite report|publisher=国土交通省 |title=鉄道統計年報[令和2年度] |url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk2_000057.html |date=2020}}</ref>。
=== 路線 ===
*[[三岐鉄道三岐線|三岐線]] 富田駅 - 西藤原駅 26.5km
*[[三岐鉄道三岐線|近鉄連絡線]] 近鉄富田駅 - 三岐朝明信号場 1.1km
*[[三岐鉄道北勢線|北勢線]] 西桑名駅 - 阿下喜駅 20.4km
=== 車両 ===
[[軌間]]など車両規格が異なることもあって、三岐線・北勢線の両路線の間に車両の互換性はない。共通点は形式記号と車体塗装だけである。
各線の車両については以下を参照。
* [[三岐鉄道三岐線#車両|三岐線の車両]]
* [[三岐鉄道北勢線#車両|北勢線の車両]]
=== 運賃 ===
{{Main2|各種乗車券については「[[三岐鉄道三岐線#運賃・切符]]」および「[[三岐鉄道北勢線#運賃・切符]]」を}}
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[https://www.sangirail.co.jp/contents/unchin/190912unchin/190912kouhyou.pdf 鉄道運賃の改定について]}} - 三岐鉄道、2019年9月12日</ref>。三岐線・北勢線共通。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;"
|-
!style="width:7em;"|キロ程!!運賃(円)!!style="width:7em;"|キロ程!!運賃(円)
|-
|初乗り1 - 4km||190||14 - 15||430
|-
|5||210||16 - 17||470
|-
|6||240||18 - 19||490
|-
|7||260||20 - 21||510
|-
|8 - 9||300||22 - 23||530
|-
|10 - 11||340||24 - 25||540
|-
|12 - 13||380||26 - 27||560
|}
* [[近鉄名古屋線]]を介して前後の三岐鉄道線の運賃通算は行わない。
**(例)三岐線 - 近鉄富田駅 - 近鉄名古屋線 - 桑名駅 - 徒歩 - 西桑名駅 - 北勢線を連続乗車する場合、接続駅で打ち切り計算となる。
*「[[三岐鉄道三岐線#企画乗車券|三岐鉄道1日乗り放題パス]]」は三岐線・北勢線とも乗車できるが、両線の間の運賃は別に必要である<ref>[http://www.sangirail.co.jp/contents/ad/freepass.htm 三岐鉄道1日乗り放題パス発売!!] - 三岐鉄道ホームページ</ref>。
* [[定期乗車券|定期券]]は通常の通勤定期・通学定期のほかに学校の[[学期]]に合わせた学期定期を発売している。
* 三岐鉄道線では[[PiTaPa]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[manaca]]などのICカードは一切使用できない。
*[[東海旅客鉄道|JR東海]]が発売する「[[JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ]]」は北勢線のみ乗車可能である。
=== 記念切符 ===
2017年4月16日より[[養老鉄道]]・[[伊賀鉄道]]と共に3社沿線の祭りが[[無形文化遺産|ユネスコ無形文化遺産]]に登録された事を記念した切符「ユネスコ無形文化遺産登録記念入場券セット」を発売している<ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2017年3月29日 |url=http://railf.jp/news/2017/03/29/160000.html |title=「ユネスコ無形文化遺産登録記念入場券セット」発売 |publisher=[[交友社]] |accessdate=2017年4月17日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017年3月 |url=http://www.igatetsu.co.jp/2017/03/3.html |title=鉄道3社共同企画!ユネスコ無形文化遺産登録記念入場券セットを発売します! |publisher=[[伊賀鉄道]] |accessdate=2017年4月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170329193406/http://www.igatetsu.co.jp/2017/03/3.html |archivedate=2017年3月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
== バス事業 ==
[[ファイル:Sangi Bus 0923.jpg|thumb|240px|路線バス]]
長らく[[日野自動車]]製のみであったが、[[ジェイ・バス]]設立後の[[2004年]][[1月]]に[[いすゞ自動車]]製(LV834エルガ)が1台導入された。2022年に廃車。同年から[[連節バス]](愛称:サンサンシャトル<ref>{{Cite web|和書|title=三岐鉄道BRT(連節バス)の愛称が「サンサンシャトル」に決定|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1377083.html|website=トラベル Watch|date=2021-12-24|accessdate=2021-12-24|language=ja|publisher=インプレス}}</ref>)を1台導入し、近鉄富田駅〜キオクシアの特急便専用で走っている。
バスでもPiTaPa、TOICA、ICOCA、manaca、[[emica]]などのICカードは使えない。イオンモール東員線に限り[[WAON]]での支払いが可能だったが、2022年2月4日付で取り扱いを終了し使用できなくなった<ref>{{Cite press release|和書|title=イオンモール東員線(三岐バス)における電子マネー WAON 取扱終了のお知らせ|publisher=三岐鉄道|date=2022-2-4|url=https://www.sangirail.co.jp/contents/annai/news/waonsyuryo.pdf|format=PDF|accessdate=2022-2-5}}</ref>。
=== 現行路線 ===
==== 山之一色(やまのいっしき)線 ====
* [[四日市駅|JR四日市駅前]] - [[近鉄四日市駅|近鉄四日市駅前]] - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - 大沢台 - あかつき台 - 八千代台二丁目 - あさけが丘一丁目 - [[山城駅|山城駅前]]
* JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - 大沢台 - あかつき台 - [[暁学園前駅|暁学園前駅前]]
* JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - [[キオクシア]]北門前 - [[四日市大学]]・[[四日市看護医療大学|看護医療大学]]前 - あかつき台 - 八千代台二丁目 - あさけが丘一丁目 - 山城駅前
* JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - 末永 - 坂部が丘 - 大沢台 - あかつき台 - 八千代台二丁目 - あさけが丘一丁目 - 山城駅前
* (深夜バス)近鉄四日市駅前 → 末永 → 坂部が丘 → 大沢台 → あかつき台 → 八千代台二丁目 → あさけが丘一丁目
* [大学直行バス/停車停留所・平日のみ運行]JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - 文化会館前 -(直行) - キオクシア正門前 - キオクシア東門前 - 四日市大学・看護医療大学前 - キオクシア北門前(四日市ゆきは、正門が始発→東門→四大→北門の順)
平日の山之一色線は、大沢台経由と四日市大学経由とを合わせて約30 - 90分毎の運転。土休日の山之一色線は、大沢台経由が主体で約50 - 60分毎の運転。
暁学園前駅前発着の系統は、平日のみ運行。JR四日市駅前→暁学園前駅前が山之一色線の始発便として1本。暁学園前駅前→JR四日市駅前が夕方と夜に1本ずつ。
金曜日のみ運行する深夜バスを2本運行。運賃は普通運賃の倍額。運行区間は、近鉄四日市駅前→末永→大沢台→あさけが丘一丁目まで。
[[2010年]](平成22年)[[3月31日]]までは「JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - あかつき台 - 四日市大学・看護医療大学前」の系統が存在。
2010年(平成22年)[[4月1日]]からは「JR四日市駅前 - 近鉄四日市駅前 - みたき総合病院前 - 坂部が丘 - 四日市大学・看護医療大学前 - あかつき台 - 八千代台二丁目 - あさけが丘一丁目 - 山城駅前」の系統が新設された。
2022年(令和4年)2月11日から、四日市 - 大学直通便の経路が山之一色線と同じ経路<ref group="注釈">キオクシア周辺 - 近鉄四日市駅周辺の区間は三重交通13系統特急便とほぼ同じ経路。</ref>となり、キオクシア周辺の停車順が上記の通り変更となった。
==== 四日市大学線 ====
* [[富田駅 (三重県)|JR富田駅前]] - [[近鉄富田駅|近鉄富田駅前]] - 三洋堂前 - 四日市北警察署前 - 四日市大学・看護医療大学前 - キオクシア北門前 - キオクシア正門前 - キオクシア東門前(富田ゆきは、東門→四大→北門→正門の順)
* 「四大直通系統」JR富田駅前 - 近鉄富田駅前 - 三洋堂前 - 四日市北警察署前 - 四日市大学・看護医療大学前
* 「キオクシア直通系統」JR富田駅前 - 近鉄富田駅前 - 三洋堂前 - 四日市北警察署前 - キオクシア北門前 - キオクシア正門前 - キオクシア東門前(富田ゆきは、東門→北門→正門の順。北門始発便あり)
2010年(平成22年)4月1日から、キオクシア正門前まで延長及び直行バスの運転が開始された。
2019年(平成31年)4月1日からは、キオクシア東門前まで延長された。同年(令和元年)10月1日からは、四日市北警察署前バス停が新設され、同バス停を通過する急行便が設定された。
2022年(令和4年)2月11日のダイヤ改正から、従来の急行に加え特急も運行。特急は四日市北警察署前と三洋堂前も通過。急行は四日市北警察署前だけ通過。
2022年(令和4年)4月1日のダイヤ改正から、特急に[[連節バス]]が運用されるようになった。
通常は後乗り前降り運賃後払いだが平日の朝のみ前乗り運賃先払いになる。
平日は大学が開校日の場合の開校日ダイヤと大学が休暇中の場合の平日ダイヤの2種類で運行される。年末年始などキオクシアも休業の場合は休日ダイヤで運行される。どのダイヤで運行されるかはホームページ上で公開されている。ただし、実際の大学・キオクシアの開校日・営業日とダイヤは完全に合致していないため、大学開校日なのに平日ダイヤ、キオクシア営業日なのに休日ダイヤとなることもある。休日については、以前はすべて運休していたが、平日に比べ本数がかなり少なくなる休日ダイヤで運行している。四日市大学のオープンキャンパス・入試・入学式等には曜日を問わず「特別ダイヤ」で運行する。
==== 川越高校線 ====
* 近鉄富田駅前 - [[三重県立川越高等学校|川越高校]]
休校日は運休
==== 桑名西高校線 ====
* 暁学園前駅前 - [[三重県立桑名西高等学校|桑名西高校前]]
休校日は運休
==== イオンモール東員線 ====
* [[山城駅|山城駅前]] - [[イオンモール東員]] - [[東員駅]]
[[2013年]](平成25年)[[11月19日]]新設 <ref>[http://www.sangirail.co.jp/contents/jikoku/aeonmolltoinsen/aeonmolltoinsen25.11.19.htm 25年11月19日 三岐バス イオンモール東員線運行開始のお知らせ]</ref>
==== 津田学園線 ====
*[[星川駅 (三重県)|星川駅]]前 - 津田学園
2021年(令和3年)4月8日新設。[[三重交通]]と共同運行。休校日は運休。
==== 受託路線 ====
詳細は以下の各記事を参照。
* [[四日市市自主運行バス]]
** 山城・富洲原線: 山城駅前 - 伊坂台アクセス - 伊坂台三丁目 - 伊坂台アクセス - 北永台 - 近鉄富田駅 - [[イオンモール四日市北]] - 天ヵ須賀2丁目
伊坂台アクセス停留所で、赤尾台・桑名駅前方面の八風バスに乗り換え可能。ただし、接続の考慮はされていない。
* [[東員町]]コミュニティバス「[[東員町オレンジバス]]」
** 東部線
** 東西線
* [[いなべ市]]コミュニティバス「[[いなべ市福祉バス]]」
** 員弁西線
** 員弁東線
=== 廃止・撤退路線 ===
* 宇賀渓線: [[大安駅 (三重県)|大安駅前]] - 宇賀渓キャンプ村 ※休止
* 三里いなべ線: 三里駅前 - いなべ総合学園 ※いなべ市コミュニティバス員弁西線に統合
=== 貸切事業 ===
一般路線の他、企業送迎など貸切事業も行っている。
== その他の事業 ==
* 高速道路施設運営事業
** [[東名阪自動車道]][[御在所サービスエリア]]下り線・[[東名高速道路]][[豊田上郷サービスエリア]]下り線の運営
* 卸売・小売事業
** 三岐鉄道商事(卸売・小売):三岐鉄道商事は独立した企業ではなく、三岐鉄道の一部門である。
** 「[[ちゃめっぺ]]」(数多くの[[駄菓子]]を販売。[[暁学園前駅]]構内「あかつきプラザビル」にある)の運営。
* 石油販売事業
** [[ガソリンスタンド]]([[コスモ石油]]あかつき給油所、東名阪自動車道[[四日市東インターチェンジ]]付近にある)の運営。
** [[液化石油ガス|LPガス]]の卸売。
* 不動産事業
** [[不動産]]の分譲、賃貸、売買仲介、鑑定・評価、宅地造成など。
* 旅行代理店業
** 三岐観光サービス株式会社の事業を引き継ぎ2008年4月発足。富田・大安に営業所を運営。
== 関連会社 ==
* 三岐観光サービス(2008年3月31日解散)
* 北勢線施設整備
*[[伊勢鉄道]] - 出資先
*[[秩父鉄道]] - 当社と同じく太平洋セメントを筆頭株主とする鉄道会社で、資本的には兄弟会社の関係にある
*[[岩手開発鉄道]] - 同上
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 長良川鉄道・明知鉄道・樽見鉄道・三岐鉄道・伊勢鉄道|date=2011-09-18|ref=sone26}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道事業者一覧]]
* [[四日市大学]] - 三岐線沿線にある大学。総合政策学部や経済学部の授業の一環として、イベントを三岐鉄道と共同で実施。
* [[三重交通グループホールディングス]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Sangi Railway}}
* [https://www.sangirail.co.jp/ 三岐鉄道公式サイト]
* {{Facebook|sangirail|三岐鉄道}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さんきてつとう}}
[[Category:三岐鉄道|*]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:近畿地方の乗合バス事業者]]
[[Category:近畿地方の貸切バス事業者]]
[[Category:日本の石油関連企業]]
[[Category:三重県の交通]]
[[Category:四日市市の企業]]
[[Category:コスモ石油]]
[[Category:1928年設立の企業]]
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2003-08-23T03:01:38Z
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2023-11-11T02:33:47Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B2%90%E9%89%84%E9%81%93
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アラブ音楽
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アラブ音楽(アラブおんがく)とは、アラビア語を話す人々の音楽である。地域的には西南アジア、北アフリカを中心とした広がりを持ち、国としては、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、シリア、イラク、レバノン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、イエメンなどになる。周辺のイラン、トルコの音楽などとも関わりを持つ。
単旋律的で、メロディーは中国音楽のような5音音階的なものではなく、7音音階的である。中立音程などと言われる音程の使用が特徴的。メロディーには太鼓などによるリズム伴奏が付く事も特徴の一つ。
近年では、アルジェリアのオラン地方に発するライがポピュラー音楽としての発展をとげ、中東のみならず欧州をはじめ世界中で親しまれている。
西洋社会で最初にアラブ音楽研究を本格的にした人物に、フランシスコ・サルバドール・ダニエル(Francisco Salvador-Daniel、1831-1871)がいる。ユダヤ系スペイン人移民の子としてフランスに生まれ、パリ音楽院で学んだ彼は、1830年代にエジプト、パレスチナ、トルコを巡って東方音楽を研究したフェリシャン・ダヴィに憧れて、1853年にフランスの植民地アルジェリアに渡り、バイオリン教師の傍ら、アラビア語を習得してアラブ音楽を研究、1863年には『アラビア音楽(La Musique Arab)』を出版し、パリの楽壇を騒がせた。1865年に帰国し、1867年に自作のアラブ・オペラ『ファンタジー・アラブ』を初演した。その後社会主義思想に傾倒し、音楽評論などを手掛け、普仏戦争により第二帝政が終わると、コミューンの一員として政治運動に参加し、1871年にパリ音楽院の院長に就任したが、就任11日目に正規軍に射殺された。
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アラブ音楽(アラブおんがく)とは、アラビア語を話す人々の音楽である。地域的には西南アジア、北アフリカを中心とした広がりを持ち、国としては、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、シリア、イラク、レバノン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、イエメンなどになる。周辺のイラン、トルコの音楽などとも関わりを持つ。 単旋律的で、メロディーは中国音楽のような5音音階的なものではなく、7音音階的である。中立音程などと言われる音程の使用が特徴的。メロディーには太鼓などによるリズム伴奏が付く事も特徴の一つ。 近年では、アルジェリアのオラン地方に発するライがポピュラー音楽としての発展をとげ、中東のみならず欧州をはじめ世界中で親しまれている。
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'''アラブ音楽'''(アラブおんがく)とは、[[アラビア語]]を話す人々の[[音楽]]である。地域的には[[西南アジア]]、[[北アフリカ]]を中心とした広がりを持ち、[[国]]としては、[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[バーレーン]]、[[クウェート]]、[[オマーン]]、[[カタール]]、[[シリア]]、[[イラク]]、[[レバノン]]、[[エジプト]]、[[チュニジア]]、[[アルジェリア]]、[[モロッコ]]、[[イエメン]]などになる。周辺の[[イラン]]、[[トルコ]]の[[音楽]]などとも関わりを持つ。
単旋律的で、[[メロディー]]は中国音楽のような5音音階的なものではなく、7音音階的である。中立音程などと言われる[[音程]]の使用が特徴的。メロディーには[[太鼓]]などによるリズム伴奏が付く事も特徴の一つ。
近年では、[[アルジェリア]]のオラン地方に発する[[ライ]]が[[ポピュラー音楽]]としての発展をとげ、[[中東]]のみならず[[ヨーロッパ|欧州]]をはじめ世界中で親しまれている。
==歴史==
===ジャーヒリーヤ===
*基本的に声楽。歌を意味するはアラビア語は「ギナーア」。口頭伝承の形で伝えられていった。
**狭義の「ギナーア」 - 芸術的なもの
**ナスブ - 世俗的なうた。
**シイル - 詩。
**フダー(フダーア) - 隊商(キャラバン)のらくだ追いのうた。
**ナウフ - いわゆる哭歌(なきうた)。葬式の時のうた。
*ムガンニー(男性)、ムガンニーヤ(女性)は「歌をうたう人」の意。
*シャーイルは詩人(巫)だが、詩(シイル)にはメロディがつくのが普通だった。広義には音楽家といえる。
*カイナ(複数形キヤーナ)と呼ばれる「芸者」・「歌姫」がいた。
===ウマイヤ朝期===
*[[ダマスカス]]の宮廷などで活躍した音楽家。
**イブン・スライジュ
**マアバド(? - 743年)
**ガリーズ
**ワリード2世([[カリフ]])
**マーリク・アッターイー
**イブン・アーイシャ
**ユーヌス・カーティブ
**[[イブン・カルビー]](? - 763年) - キターブ・アルナガム(旋律の書)、キターブ・アルキヤーン(歌姫の書)の著者。
**イブン・ミスジャハ - アラブ古典音楽の整備に功。
**ハリール(? - 791年) - 音楽理論に関する著作があったと言われる(現存せず)
===アッバース朝期===
*[[バグダード]]の宮廷で活躍した音楽家。
**[[ハカム・ワーディー]]
**イブン・ジャーミー
**[[イブラーヒーム・マウシリー]]
**[[イスハーク・マウシリー]] - イブラーヒーム・マウシリーの子。優れた音楽家として名声を博した。古典アラブ音楽を守る保守派として、ペルシャ音楽を取り入れようとしたイブラーヒーム・イブン・マフディーと対立。
**ザルザル
**[[イブラーヒーム・イブン・マフディー]] - カリフ、アミーンのおじ。ペルシャ音楽の取り入れをはかった。古典アラブ音楽を守る保守派としてのイスハーク・マウシリーと対立。
**ジルヤーブ(ズィルヤーブ) - イスハーク・マウシリーの弟子。
*当時の哲学者は博く様々な事柄を考察の対象としたが、音楽理論に関する著作を残した哲学者も多い。
**音楽理論に関する著述を行った哲学者
***[[キンディー]](801年 - 873年?)
***サラハスィー(? - 899年)
***サービト・イブン・クッラ(? - 901年)
***アブー・バクル・アッラージー(? - 925年)
***イブン・ホルダーズベー - ペルシャ出身。論文が現存。
***[[ファーラービー]](870年 - 950年)
***[[アブル・ファラジュ・イスファハーニー]]([[897年]] - [[967年]]) - 『歌の書』の著者。
***[[イブン・スィーナー]](980年 - 1037年)
***サフィー・アッディーン
===セルジューク朝期===
===モンゴルの征服===
===オスマン帝国期===
*ハサン・エフェンディ Hatip Zakiri Hasan Efendi(1545年 - 1623年)
*ガーズィー・ギライ Gazi Giray(16世紀末) - クリミア・ハン国のハン。作品にマーフル・ペスレヴ(Mahur pesrev)など。
*ソラックザーデ Solakzade(17世紀前半) - 作品にニーシャーブール・ペスレヴ(Nişâbur pesrev)など。
*ハーフィズ・ポスト Hafiz Post(? - 1693/1694年)
*ブフーリーザーデ・ムスタファー・ウトリー Buhurizâde Mustafa Itrî(1640年 - 1711/1712年) - ハーフィズ・ポストの弟子。
*アフメト・チェレビー Ahmed Çelebi(17世紀後半) - 作品にセギャーフ・セマーイー(Segah semai)など。
*デルヴィーシュ・ムスタファ Derviş Mustafa(17世紀後半) - 作品にニハーヴェンド・ペスレヴ(Nihavend pesrev)など。
*カンテミルオウル Kantemiroğlu(1673年 - 1723年) - モルダヴィア(ルーマニア)公ディミトリイ・カンテミル Dimitrie Cantemir のトルコ名。公子として[[イスタンブール]]滞在中に数々の曲を作曲。独自の楽譜を考案、自作曲を書き残した。のちにロシアに亡命。ラテン語で優れたオスマン帝国史書を残したことでも有名。
*タンブーリー・ムスタファ・チャヴシュ Tanburî Mustafa Cavuş(18世紀前半)
*シェリフ・チェレビー Şerif Çelebi(18世紀前半) - 作品にラースト・ペスレヴ(Rast pesrev)など。
*セリム3世 Sultan III. Selim(1761年 - 1808年) - オスマン帝国の第29代スルタン。オスマン古典音楽を数多く作曲し「セリム3世楽派」の祖とみなされた。
*ハマーミーザーデ・イスマイル・デデ Hamamizade İsmail Dede(1777/1778年 - 1845/1846年) - オスマン古典音楽最高の作曲家で、「デデ・エフェンディ Dede Efendi」として知られる。オスマン帝国第31代マフムト2世の宮廷に仕えた。
*ハンパルスム・リモンジュヤン Hamparsum Limonicuyan(1768年 - 1839年) - アルメニア人。ハンパルスム譜を考案。
*デッラールザーデ・イスマイル・エフェンディ Dellalzade Ismail Efendi(1797年 - 1869年) - イスマイル・デデの最も著名な弟子で、師につぐ大作曲家。美声で知られ、宮廷声楽家になった。
*タンブーリー・オスマン・ベイ Tanburî Büyük Osman Bey(1816年 - 1885年)
*ゼカーイ・デデ Zekai Dede(1824年 - 1897年)
*ハジュ・アリフ・ベイ Hacı Arif Bey(1831年 - 1884年)
*シェウキ・ベイ Şevki Bey(1860年 - 1890年)
*レミ・アトル Lemi Atlı(1869年 - 1945年)
*タンブーリー・ジェミル・ベイ Tanburi Cemil Bey(1871年 - 1925年(1916年とも))
===近現代===
*[[サイード・ダルウィーシュ]]
*[[ムハンマド・アブドゥルワッハーブ]]
*[[ファイルーズ]]
*[[ウンム・クルスーム]]
*[[ラシッド・タハ|ラシード・ターハー(ラシッド・タハ))]](アルジェリアの[[ライ]])
*[[ハレド|シャーブ・ハーリド(シェブ・ハレド)]](アルジェリアの[[ライ]])
*[[シェブ・マーミー]]([[:en:Cheb_Mami|Cheb Mami]]、アルジェリアの[[ライ]])
==音楽理論==
*[[マカーム]]
*[[イーカーア]]
==楽器==
*[[ウード]]
*[[カーヌーン]]
*[[ナーイ]]
*[[ダラブッカ]]
*[[ケマンチェ]]
== 研究者 ==
西洋社会で最初にアラブ音楽研究を本格的にした人物に、フランシスコ・サルバドール・ダニエル(Francisco Salvador-Daniel、1831-1871)がいる。[[ユダヤ]]系[[スペイン人]]移民の子として[[フランス]]に生まれ、[[パリ音楽院]]で学んだ彼は、1830年代にエジプト、パレスチナ、トルコを巡って東方音楽を研究したフェリシャン・ダヴィに憧れて、1853年にフランスの植民地[[アルジェリア]]に渡り、バイオリン教師の傍ら、アラビア語を習得してアラブ音楽を研究、1863年には『アラビア音楽(La Musique Arab)』を出版し、パリの楽壇を騒がせた。1865年に帰国し、1867年に自作のアラブ・オペラ『ファンタジー・アラブ』を初演した。その後社会主義思想に傾倒し、音楽評論などを手掛け、[[普仏戦争]]により[[第二帝政]]が終わると、[[コミューン]]の一員として政治運動に参加し、1871年にパリ音楽院の院長に就任したが、就任11日目に正規軍に射殺された。<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255849/132 結論]『西洋音楽史概説』飯田忠純、音楽世界社、1937</ref><ref name=ueda>[http://id.nii.ac.jp/1144/00000674/ パリ国立音楽院とピアノ科における教育(1841~1889) : 制度、レパートリー、美学]上田 泰、東京芸術大学学位論文、2016-03-25</ref>
== 関連項目 ==
*[[ライ]]
*[[パスタ]]
==脚注==
<references />
==参考資料==
*平凡社音楽大事典 - 西アジア項
*New Grove Music Dictionary「Turkey項第4節Art music内3のComposers」
*CD「TURKEY SPLENDOURS OF TOPKAPI」(OPUS 111,1999年,OPS 30-266)
==外部リンク==
* [http://www.oud.jp/ 常味裕司公式サイト] - アラブ音楽の楽器、ウードの日本人奏者のホームページ
* [http://www.arab-music.com アラブミュージック・コム] - 日本人アラブ音楽グループによる解説と文献紹介。
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255849/25 アラビア音楽]『西洋音楽史概説』飯田忠純、音楽世界社、1937
* [http://leb.net/rma/ Resource page](英語)
<!-- リンク切れ* [http://www.coe.ufl.edu/webtech/Timemachine/music/Arabic/answer.htm Arabic musical instruments]
* [http://www.maqamworld.com/maqamat.html The maqam]
* [http://oudclub.com/arabic-maqam/maqamat2-1.htm Maqam] -->
* [http://leb.net/rma/Articles/maqamat.html Maqamat](英語)
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逢坂剛
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逢坂 剛(おうさか ごう、1943年11月1日 -)は、日本の小説家、推理作家。本名:中 浩正。
父は挿絵画家の中一弥。東京都文京区生まれ。
開成中学校・高等学校を経て、1966年に中央大学法学部を卒業後、博報堂に勤務する傍ら、執筆活動を行う。17年ほど兼業した後、1997年に社屋が芝浦に移るのを機に31年勤めた同社を早期退職し、神田神保町にオフィスを構える専業作家となった。2001年から2005年まで日本推理作家協会理事長を務めた。
17、8歳の頃から独習でクラシック・ギターを弾いていたが、大学時代に限界を感じる。そんな時、神保町のシャンソン喫茶で、サビーカスのフラメンコギターのレコードを聞いて衝撃を受け、カンテ・フラメンコを聴いて夢中になる。それがきっかけで本場のスペインにも興味をもち、1971年には2週間の有給休暇をとって初めて現地を旅行した。このことが影響し、作家になってからも『カディスの赤い星』をはじめとしてスペインを舞台にした作品を多く執筆している。また、オフィスにはギターがいくつも置かれているという。
愛棋家としても知られ、2008年4月に開幕した第66期名人戦七番勝負では、第一局を対局場となった東京都文京区にある椿山荘で観戦している。日本将棋連盟の会長を務めた米長邦雄とは、中央大学の同期生で旧知の間柄である。
古書と食に精通することでも知られ、行きつけのカレー店を『十字路に立つ女』など自身の作品にも登場させている。
『MOZU』としてTBSとWOWOWの共同制作で2014年にドラマ化された。『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』を原作とする。主演は西島秀俊。
挿画は父である中一弥が担当している。
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逢坂 剛は、日本の小説家、推理作家。本名:中 浩正。 父は挿絵画家の中一弥。東京都文京区生まれ。
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{{読み仮名_ruby不使用|'''逢坂 剛'''|おうさか ごう|[[1943年]][[11月1日]]<ref>{{Cite web|和書|title=会員名簿 逢坂剛 |publisher=[[日本推理作家協会]] |url=http://www.mystery.or.jp/member/detail/0331 |accessdate=2017-09-09}}</ref> - }}は、[[日本]]の[[小説家]]、[[推理作家]]。本名:中 浩正<ref name="bunshun20120619">{{Cite web|和書|author=鈴木裕也 |title=同級生交歓 |work=文藝春秋WEB |publisher=[[文藝春秋]] |date=2012-06-19 |url=http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/388 |accessdate=2017-09-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211205-XZH2HIU6FFPO5M5X3XIVIL2HRI/ |title=「第3志望の男」が見た夢 逢坂剛さん著「ご機嫌剛爺 人生は、面白く楽しく!」 |publisher=産経ニュース |date=2021-12-05 |accessdate=2021-12-05}}</ref>。
父は挿絵画家の[[中一弥]]<ref name="zakzak">{{Cite news |title=【逢坂剛】スペインの旅が後の作家活動に影響 職場にはフラメンコギターも |newspaper=[[夕刊フジ|zakzak]] |publisher=小張アキコ |date=2013-02-15 |url=https://www.zakzak.co.jp/people/news/20130215/peo1302150709000-n1.htm |accessdate=2014-06-15}}</ref>。[[東京都]][[文京区]]生まれ<ref name="dokusyomichi">{{Cite web|和書|url=http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi01.html |title=作家の読者道:第1回 逢坂剛さん |publisher=WEB本の雑誌 |accessdate=2013-01-24}}</ref>。
== 来歴 ==
[[開成中学校・高等学校]]を経て<ref name="bunshun20120619" />、1966年に[[中央大学法学部]]を卒業後<ref name="dokusyomichi" />、[[博報堂]]に勤務する傍ら、執筆活動を行う<ref name="zakzak" />。17年ほど兼業した後、[[1997年]]に社屋が[[芝浦]]に移るのを機に31年勤めた同社を早期退職し、[[神田神保町]]にオフィスを構える専業作家となった<ref name="dokusyomichi" /><ref name="zakzak" />。{{要出典範囲|2001年から2005年まで[[日本推理作家協会]][[理事]]長を務めた|date=2020年3月}}。
== 人物 ==
17、8歳の頃から独習で[[クラシック・ギター]]を弾いていたが、大学時代に限界を感じる<ref name="spanish">{{Cite web|和書|url=http://www.newspanishbooks.jp/node/7432 |title=New Spanish Books インタビュー |publisher=NEW SPANISH BOOKS |accessdate=2013-01-24}}</ref>。そんな時、神保町の[[シャンソン]]喫茶で、[[サビーカス]]のフラメンコギターのレコードを聞いて衝撃を受け<ref name="spanish" />、カンテ・[[フラメンコ]]を聴いて夢中になる<ref name="trendy">{{Cite web|和書|date=2009-01-28 |url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/cover/090128_bar_01/index.html |title=直木賞作家 逢坂剛さんに聞く 趣味を通じてより深くなるBARとお酒の楽しみ |publisher=[[日経トレンディ|日経トレンディネット]] |accessdate=2017-09-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131109175720/http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/cover/090128_bar_01/index.html |archivedate=2013-11-09}}</ref>。それがきっかけで本場の[[スペイン]]にも興味をもち、[[1971年]]には2週間の有給休暇をとって初めて現地を旅行した<ref name="zakzak" /><ref name="trendy" />。このことが影響し、作家になってからも『カディスの赤い星』をはじめとしてスペインを舞台にした作品を多く執筆している<ref name="zakzak" />。また、オフィスにはギターがいくつも置かれているという<ref name="zakzak" />。
{{要出典範囲|[[愛棋家]]としても知られ、2008年4月に開幕した第66期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]七番勝負では、第一局を対局場となった東京都文京区にある[[椿山荘]]で観戦している。[[日本将棋連盟]]の会長を務めた[[米長邦雄]]とは、中央大学の同期生で旧知の間柄である|date=2020年3月}}。
古書と食に精通することでも知られ、行きつけのカレー店を『十字路に立つ女』など自身の作品にも登場させている<ref>{{Cite web|和書|title=『MOZU』原作者が語る、本とカレーの意外な共通点 |publisher=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチニュース]] |date=2014-06-14 |url=https://ddnavi.com/news/197272/ |accessdate=2014-06-15}}</ref>。
== 略歴 ==
* [[1980年]] -「屠殺者よグラナダに死ね」(後に「暗殺者グラナダに死す」に改題)により第19回[[オール讀物推理小説新人賞]]を受賞しデビュー。
* [[1986年]] -『[[カディスの赤い星]]』により第5回[[日本冒険小説協会大賞]]を受賞。
* [[1987年]] - 同作により第96回[[直木三十五賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/naoki/list.html |title=直木賞受賞者一覧 |accessdate=2021-02-17 |publisher=公益財団法人日本文学振興会}}</ref>、第40回[[日本推理作家協会賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mystery.or.jp/prize/detail/10402 |title=1987年 第40回 日本推理作家協会賞 長編部門 |accessdate=2021-02-17 |publisher=一般社団法人日本推理作家協会}}</ref>。
* [[2014年]] - 第17回[[日本ミステリー文学大賞]]を受賞。<ref>{{Cite news |title=「ベテランが賞をもらわないと後に続く人が…」 日本ミステリー文学大賞 逢坂剛さん |newspaper=[[産経新聞|MSN産経ニュース]] |date=2014-03-26 |url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/140326/bks14032608200000-n1.htm |accessdate=2017-09-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140326051644/http://sankei.jp.msn.com/life/news/140326/bks14032608200000-n1.htm |archivedate=2014-03-26}}</ref>
* [[2015年]] -『平蔵狩り』により第49回[[吉川英治文学賞]]を受賞。<ref name="sankei20150316">{{Cite news |title=逢坂剛さん「まねではなく、私なりの平蔵を」 西條奈加さん「甘い物は幸せな気分にしてくれる」 吉川英治文学賞・新人賞 受賞の2人が会見 |newspaper=[[産経新聞|産経ニュース]] |date=2015-03-16 |url=http://www.sankei.com/life/news/150316/lif1503160015-n1.html |accessdate=2015-03-19}}</ref>
* [[2020年]] - 第61回[[毎日芸術賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20200101/ddm/001/040/062000c |title=第61回毎日芸術賞 |accessdate=2021-02-17 |publisher=毎日新聞}}</ref>。
== 著書リスト ==
=== 現代小説 ===
==== シリーズ作品 ====
===== 百舌シリーズ(公安警察シリーズ) =====
『[[MOZU]]』としてTBSとWOWOWの共同制作で2014年にドラマ化された。『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』を原作とする。主演は西島秀俊。
* 裏切りの日日(1981年2月 [[講談社]] / 1986年7月 [[集英社文庫]])- シリーズ序章
* 百舌の叫ぶ夜(1986年2月 [[集英社]] / 1990年7月 集英社文庫 / 1998年4月 大活字本シリーズ【上・下】 / 2014年3月 集英社文庫【改訂新版】)
* 幻の翼(1988年5月 集英社 / 1990年8月 集英社文庫 / 2014年3月 集英社文庫【改訂新版】)
* 砕かれた鍵(1992年6月 集英社 / 1995年3月 集英社文庫 / 2014年3月 集英社文庫【改訂新版】)
* よみがえる百舌(1996年11月 集英社 / 1999年11月 集英社文庫)
* 鵟の巣(2002年6月 集英社 / 2005年4月 集英社文庫)
* 墓標なき街(2015年11月 集英社 / 2018年2月 集英社文庫)
* 百舌落とし(2019年8月 集英社 / 2022年3月 集英社文庫【上・下】)- 完結
===== 岡坂神策シリーズ =====
* クリヴィツキー症候群(1987年1月 [[新潮社]] / 1990年1月 [[新潮文庫]] / 2003年7月 [[講談社文庫]])
** 収録作品:謀殺のマジック / 遠い国から来た男 / オルロフの遺産 / 幻影ブルネーテに消ゆ / クリヴィツキー症候群
* 十字路に立つ女(1989年2月 講談社 / 1992年5月 講談社文庫 / 2017年11月 [[角川文庫]])
* 斜影はるかな国(1991年7月 [[朝日新聞出版]] / 1994年7月 講談社文庫 / 1996年2月 [[朝日文庫|朝日文芸文庫]] / 2003年11月 [[文春文庫]])
* ハポン追跡(1992年9月 講談社 / 1995年10月 講談社文庫)
** 【改題】緑の家の女(2017年2月 角川文庫)
*** 収録作品:血の報酬 / ハポン追跡 / 首 / 消えた頭文字 / 緑の家の女
* あでやかな落日(1997年7月 [[毎日新聞社]] / 2001年2月 講談社文庫)
* カプグラの悪夢(1998年5月 講談社 / 2001年8月 講談社文庫)
** 【改題】宝を探す女(2017年3月 角川文庫)
*** 収録作品:暗い森の死 / カプグラの悪夢 / 転落のロンド / 宝を探す女 / 過ぎし日の恋
* 牙をむく都会(2000年12月 [[中央公論新社]] / 2003年2月 [[C★NOVELS]]【上・下】 / 2006年3月 講談社文庫)
* 墓石の伝説(2004年11月 毎日新聞社 / 2008年4月 講談社文庫)
* バックストリート(2013年6月 毎日新聞社)
===== 御茶ノ水警察署シリーズ =====
* しのびよる月(1997年11月 集英社 / 2001年1月 集英社文庫)
** 収録作品:裂けた罠 / 黒い矢 / 公衆電話の女 / 危ない消火器 / しのびよる月 / 黄色い拳銃
* 配達される女(2000年8月 集英社 / 2004年4月 集英社文庫)
** 収録作品:悩み多き人生 / 縄張り荒らし / 配達される女 / 苦いお別れ / 秘めたる情事 / 犬の好きな女
* 恩はあだで返せ(2004年5月 集英社 / 2007年4月 集英社文庫)
** 収録作品:木魚のつぶやき / 欠けた茶碗 / 気のイイ女 / 恩はあだで返せ / 五本松の当惑
* おれたちの街(2008年6月 集英社 / 2011年6月 集英社文庫)
** 収録作品:おれたちの街 / オンブにダッコ / ジャネイロの娘 / 拳銃買います
* 大迷走(2013年3月 集英社 / 2016年1月 集英社文庫)- シリーズ初の長編
* 地獄への近道(2021年5月 集英社文庫)
** 収録作品:影のない女 / 天使の夜 / 不良少女M / 地獄への近道
===== イベリア・シリーズ =====
* イベリアの雷鳴(1999年6月 講談社 / 2002年6月 講談社文庫)
* 遠ざかる祖国(2001年12月 講談社 / 2005年7月 講談社文庫【上・下】)
* 燃える蜃気楼(2003年10月 講談社 / 2006年9月 講談社文庫【上・下】)
* 暗い国境線(2005年12月 講談社 / 2008年12月 講談社文庫【上・下】)
* 鎖された海峡(2008年4月 講談社 / 2011年4月 講談社文庫)
* 暗殺者の森(2010年9月 講談社 / 2013年9月 講談社文庫【上・下】)
* さらばスペインの日日(2013年11月 講談社 / 2016年9月 講談社文庫【上・下】)- 完結
===== 禿鷹シリーズ =====
* 禿鷹の夜(2000年5月 [[文藝春秋]] / 2003年6月 文春文庫 / 2022年5月 文春文庫【新装版】)
* 無防備都市 禿鷹の夜II(2002年1月 文藝春秋 / 2005年1月 文春文庫 / 2022年8月 文春文庫【新装版】)
* 銀弾の森 禿鷹III(2003年11月 文藝春秋 / 2006年11月 文春文庫)
* 禿鷹狩り 禿鷹IV(2006年7月 文藝春秋 / 2009年7月 文春文庫【上・下】)
* 兇弾 禿鷹V(2010年1月 文藝春秋 / 2012年7月 文春文庫)
===== 世間師シリーズ =====
* 相棒に気をつけろ(2001年8月 新潮社 / 2004年9月 新潮文庫)
** 収録作品:いそがしい世間師 / 痩せる女 / 弦の嘆き / 八里の寝床 / 弔いはおれがする
* 相棒に手を出すな(2007年4月 新潮社 / 2010年2月 新潮文庫)
** 収録作品:心変わり / 昔なじみ / ツルの一声 / 老舗のねうち / ツルの恩返し / 別れ話
==== シリーズ外作品 ====
* 空白の研究(1981年9月 双葉ノベルス / 1984年6月 双葉文庫 / 1987年3月 集英社文庫)
** 収録作品:真実の証明 / 美醜の探求 / 嫌悪の条件 / 不安の分析 / 空白の研究
* 赤い熱気球(1982年6月 双葉ノベルス)
** 【改題】コルドバの女豹(1986年9月 講談社文庫)
*** 収録作品:暗殺者グラナダに死す / コルドバの女豹 / グラン・ビアの陰謀 / サント・ドミンゴの怒り / 赤い熱気球
* 幻のマドリード通信(1983年2月 [[大和書房]] / 1987年4月 講談社文庫 / 2003年1月 文春ネスコ)
** 収録作品:幻のマドリード通信 / カディスからの脱出 / カディスへの密使 / ジブラルタルの罠 / ドゥルティを殺した男
* スペイン灼熱の午後(1984年2月 [[講談社ノベルス]] / 1987年6月 講談社文庫)
* 情状鑑定人(1985年4月 [[双葉社]] / 1988年2月 集英社文庫 / 2004年5月 文春文庫)
** 収録作品:非常線 / 不安なナンバー / 都会の野獣 / 情状鑑定人 / 死の証人 / 暗い川 / 逃げる男
* [[カディスの赤い星]](1986年7月 講談社 / 1989年8月 講談社文庫【上・下】 / 1995年10月 大活字本シリーズ【1-4】 / 2002年2月 双葉文庫【上・下】 / 2007年2月 講談社文庫〔新装版〕【上・下】)
* 水中眼鏡の女(1987年2月 文藝春秋 / 1990年2月 文春文庫 / 2003年2月 集英社文庫)
** 収録作品:水中眼鏡の女 / ペンテジレアの叫び / 悪魔の耳
* [[さまよえる脳髄]](1988年10月 新潮社 / 1992年1月 新潮文庫 / 2003年9月 集英社文庫)
* [[幻の祭典]](1993年5月 新潮社 / 1996年5月 新潮文庫 / 2002年12月 文春文庫 / 2010年10月 [[徳間文庫]])
* まりえの客(1993年10月 講談社 / 1996年10月 講談社文庫)
** 収録作品:まりえの客 / 最後のマドゥルガータ / 死せるソレア / アテネ断章 / 盗まれた風景 / 三十六号車の男
* [[燃える地の果てに]](1998年8月 文藝春秋 / 2001年11月 文春文庫【上・下】 / 2019年12月 角川文庫【上・下】)
* デズデモーナの不貞(1999年3月 文藝春秋 / 2002年7月 文春文庫)
** 収録作品:雷雨の雨 / 奈落の底 / デズデモーナの不貞 / まりえの影 / 闇の奥
* 熱き血の誇り(1999年10月 新潮社 / 2002年9月 新潮文庫【上・下】 / 2018年11月 角川文庫【上・下】)
* 断裂回廊(2015年3月 徳間書店 / 2018年10月 徳間文庫)
* 鏡影劇場(2020年9月 新潮社)
=== 時代小説 ===
==== 重蔵始末シリーズ ====
挿画は父である[[中一弥]]が担当している<ref name="sankei20150316" />。
* 重蔵始末(2001年6月 講談社 / 2004年7月 講談社文庫)
* じぶくり伝兵衛―重蔵始末(二)(2002年9月 講談社 / 2005年9月 講談社文庫)
* 猿曳遁兵衛―重蔵始末(三)(2004年3月 講談社 / 2007年3月 講談社文庫)
* 嫁盗み―重蔵始末(四)長崎篇(2006年3月 講談社 / 2009年3月 講談社文庫)
* 陰の声―重蔵始末(五)長崎篇(2007年4月 講談社 / 2010年7月 講談社文庫)
* 北門の狼―重蔵始末(六)蝦夷篇(2009年8月 講談社 / 2012年10月 講談社文庫)
* 逆浪果つるところ―重蔵始末(七)蝦夷篇(2012年9月 講談社 / 2015年1月 講談社文庫)
* 奔流恐るるにたらず―重蔵始末(八)完結篇(2017年11月 講談社 / 2020年11月 講談社文庫)- 完結
==== 道連れ彦輔シリーズ ====
* 道連れ彦輔(2006年11月 文藝春秋 / 2009年10月 文春文庫 / 2013年12月 大活字本シリーズ【上・下】)
* 伴天連の呪い―道連れ彦輔〈2〉(2008年11月 文藝春秋 / 2011年4月 文春文庫)
* 道連れ彦輔 居直り道中(2021年3月 毎日新聞出版)
==== 火付盗賊改・長谷川平蔵シリーズ ====
* 平蔵の首(2012年3月 文藝春秋 / 2014年9月 文春文庫)
* 平蔵狩り(2014年8月 文藝春秋 / 2016年12月 文春文庫)
* 闇の平蔵(2016年11月 文藝春秋 / 2019年10月 文春文庫)
* 平蔵の母(2020年1月 文藝春秋)
=== 西部劇 ===
* アリゾナ無宿(2002年4月 新潮社 / 2005年4月 新潮文庫 / 2016年12月 [[中公文庫]])
* 逆襲の地平線(2005年8月 新潮社 / 2008年2月 新潮文庫 / 2016年12月 中公文庫)
* 果てしなき追跡(2017年1月 中央公論新社 / 2019年9月 中公文庫【上・下】)
* 最果ての決闘者(2019年10月 中央公論新社 / 2022年8月 中公文庫)
* ブラック・ムーン(2022年2月 中央公論新社)
=== エッセイ ===
* さまざまな旅(1993年10月 毎日新聞社 / 1997年11月 講談社文庫)
* 書物の旅(1994年11月 講談社 / 1998年12月 講談社文庫)
* 青春の日だまり―わたしの映画・テレビ熱中記(1997年5月 講談社)
* フラメンコに手をだすな!(1998年11月 パセオ)
* メディア決闘録(2000年4月 [[小学館]])
* 逢坂剛のジョーシキ的常識録(2003年10月 文春ネスコ)
* 剛爺コーナー(2010年3月 講談社)
* 小説家・逢坂剛(2012年2月 [[東京堂出版]])
* わたしのミステリー(2014年7月 [[七つ森書館]])
* ご機嫌剛爺 人生は、面白く楽しく!(2021年10月 集英社)
=== 共著・その他 ===
* スペイン読本(1987年11月 [[ベネッセコーポレーション|福武文庫]])- 編集
* スペイン内戦写真集(講談社 1989年)- 監修
* いすぱにあ万華鏡(1991年7月 パセオ)
* 棋翁戦てんまつ記(1995年3月 集英社 / 2018年3月 集英社文庫)
* 鬼平が「うまい」と言った江戸の味(1999年2月 [[PHP研究所]] / 2003年12月 PHP文庫)- [[北原亞以子]]・[[福田浩]]との共著
* 大いなる西部劇(2001年5月 [[新書館]])- [[川本三郎]]との共著
* 古書もスペインもミステリー(2003年10月 [[玉川大学|玉川大学出版部]])
* 世界はハードボイルド(2004年4月 玉川大学出版部)
* 誇り高き西部劇(2005年10月 新書館)- 川本三郎との共著
* 山本博文教授の江戸学講座(2007年3月 PHP文庫)- [[山本博文]]、[[宮部みゆき]]との共著
* 池波正太郎の美食を歩く(2010年4月 [[祥伝社]])
* お江戸東京極上スイーツ散歩(2011年4月 PHP研究所)- [[岸朝子]]との共著
* さらば愛しきサスペンス映画(2012年10月 [[七つ森書館]])- 川本三郎との共著
* ハードボイルド徹底考証読本(2013年9月 七つ森書館)- [[小鷹信光]]との共著
* わが恋せし女優たち(2014年3月 七つ森書館)- 川本三郎との共著
* ハリウッド美人帖(2014年11月 七つ森書館)- [[南伸坊]]との共著
* ハリウッド黄金期の女優たち(2015年11月 七つ森書館)南伸坊・[[三谷幸喜]]との共著
=== 翻訳 ===
* [[奇巌城]](1999年8月 講談社)- [[モーリス・ルブラン]]原作
** 【改題】逢坂剛の奇巌城(2002年6月 講談社)
*** 【再改題】奇巌城(2004年8月 講談社文庫)
=== アンソロジー ===
「」内が逢坂剛の作品
* 殺意の断層(1984年11月 文春文庫)「屠殺者よグラナダに死ね」
* 殺意の狂詩曲(1986年10月 [[光文社]][[カッパ・ノベルス]])「裂けた罠」
* 昭和ミステリー大全集〈下巻〉(1991年3月 新潮文庫)「暗殺者グラナダに死す」
* 12星宮殺人事件(1993年11月 飛天文庫)「情状鑑定人」
* 短編で読む 推理傑作選50〈下〉(1995年11月 光文社)「首」
* [[ザ・ベストミステリーズ 推理小説年鑑|ザ・ベストミステリーズ]] 1998 推理小説年鑑(1998年6月 講談社)「雷雨の夜」
** 【分冊・改題】完全犯罪証明書 ミステリー傑作選39(2001年4月 講談社文庫)
* 最新「珠玉推理」大全〈下〉(1998年10月 光文社カッパ・ノベルス)「危ない消火器」
** 【改題】闇夜の芸術祭(2003年4月 光文社文庫)
* ザ・ベストミステリーズ 1999 推理小説年鑑(1999年6月 講談社)「過ぎし日の恋」
** 【分冊・改題】殺人買います ミステリー傑作選41(2002年8月 講談社文庫)
* ミステリー傑作選・特別編〈5〉自選ショート・ミステリー(2001年7月 講談社文庫)「決闘」
* M列車で行こう(2001年10月 光文社カッパ・ノベルス / 2005年5月 [[光文社文庫]])「悩み多き人生」
* ザ・ベストミステリーズ 2002 推理小説年鑑(2002年7月 講談社)「弔いはおれがする」
** 【分冊・改題】零時の犯罪予報 ミステリー傑作選46(2005年4月 講談社文庫)
* ザ・ベストミステリーズ 2004 推理小説年鑑(2004年7月 講談社)「欠けた古茶碗」
** 【分冊・改題】孤独な交響曲 ミステリー傑作選(2007年4月 講談社文庫)
* 名探偵を追いかけろ(2004年10月 光文社カッパ・ノベルス / 2007年5月 光文社文庫)「燃える女」
* 決断―警察小説競作―(2006年1月 新潮文庫)「昔なじみ」
* 作家の手紙(2007年2月 角川書店 / 2010年11月 角川文庫)「永遠なるエヴァ・バルトークさま」
* 小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所(2007年5月 [[集英社]] / 2011年5月 [[集英社文庫]])「決闘、二対三!の巻」
* 事件の痕跡(2007年11月 光文社カッパ・ノベルス / 2012年4月 光文社文庫)「ツルの一声」
* ザ・ベストミステリーズ 2008 推理小説年鑑(2008年7月 講談社)「悪い手」
** 【分冊・改題】Doubt きりのない疑惑 ミステリー傑作選(2011年11月 講談社文庫)
* 現場に臨め(2010年10月 光文社カッパ・ノベルス / 2014年4月 光文社文庫)「おれたちの街」
* ミステリーの書き方(2010年11月 幻冬舎 / 2015年10月 幻冬舎文庫)※執筆作法「どんでん返し」
* 日本の作家60人 太鼓判!のお取り寄せ(2011年6月 講談社)※エッセイアンソロジー「餅のおまつり」
* [[今野敏]]選 スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎006(2011年9月 講談社文庫)「闇の奥」
* 私がデビューしたころ ミステリ作家51人の始まり(2014年6月 東京創元社)※エッセイアンソロジー「初心忘るべからず」
* 推理作家謎友録 日本推理作家協会70周年記念エッセイ(2017年8月 角川文庫)※エッセイアンソロジー<!-- タイトルなし -->
* 夢現 日本推理作家協会70周年アンソロジー(2017年10月 集英社文庫)「非常線」
* [[池波正太郎]]と七人の作家 蘇える[[鬼平犯科帳]](2017年10月 文藝春秋 / 2018年10月 文春文庫)「せせりの辨介」
* 日本推理作家協会賞受賞作家 傑作短編集 9 冒険と謀略と(2019年6月 双葉文庫)「グラン・ビアの陰謀」
* 葛藤する刑事たち 警察小説アンソロジー(2019年11月 朝日文庫)「黒い矢」
* 矜持 警察小説傑作選(2021年1月 PHP文芸文庫)「悩み多き人生」
== 映像化作品 ==
=== テレビドラマ ===
; [[テレビ朝日]]系
:* [[土曜ワイド劇場]]
:** 切り札をもつ女(1985年2月9日、主演:[[篠ひろ子]]、原作:真実の証明『空白の研究』所収)
:** 美しい共犯者(1987年7月11日、主演:[[池上季実子]])
:** 十字路に立つ女(1991年9月7日、主演:[[細川俊之]])
:
; [[TBSテレビ|TBS]]系
:* [[月曜ドラマスペシャル|水曜ドラマスペシャル]]
:** 美に捧げる犯罪(1987年7月22日、主演:[[宇津井健]])
:* [[木曜ドラマ劇場]]
:** [[MOZU|MOZU Season1 〜百舌の叫ぶ夜〜]](2014年4月10日 - 6月12日、全10話、主演:[[西島秀俊]]、原作:百舌の叫ぶ夜)
:
; [[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]系
:* [[現代恐怖サスペンス]]
:** 白昼の悪魔 狙われた人妻(1987年7月27日、主演:[[堤大二郎]])
:** 消えた死体 美しき罠〜真夏の夜の夢殺人(1987年8月17日、主演:[[浅野ゆう子]]、原作:空白の研究)
:* [[金曜女のドラマスペシャル]]
:** 水中眼鏡の女(1987年9月11日、主演:[[早乙女愛]])
:* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ#1989年|直木賞作家サスペンス]]
:** 死の証人(1989年1月23日、主演:[[沢田亜矢子]])
:* [[金曜エンタテイメント|男と女のミステリー]]
:** 真実の証明(1990年4月20日、主演:[[島田陽子]])
:* [[金曜エンタテイメント|金曜ドラマシアター]]
:** カディスの赤い星(1992年3月13日、主演:[[古谷一行]])
:* [[金曜エンタテイメント]]・[[金曜プレステージ]]
:** [[所轄刑事]]シリーズ(主演:[[船越英一郎]]、原作:御茶ノ水警察署シリーズ)
:*** 2004年9月10日-2013年1月18日までで計8回放送されている
:
; [[テレビ東京]]・[[BSジャパン]]系
:* [[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ#月曜・女のサスペンス(1988年4月 - 1993年3月)|月曜・女のサスペンス]]
:** 蒼い服の女・暴かれた都会の野獣の正体(1988年9月5日、主演:[[萬田久子]])
:* [[水曜ミステリー9|BSミステリー]]・[[水曜ミステリー9]]
:** [[神楽坂署生活安全課]]シリーズ(主演:[[舘ひろし]])
:*** 第1作・迷刑事エイジ&ロク(2005年5月22日、原作:配達される女)
:
; [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]系
:* [[火曜サスペンス劇場]]
:** 情状鑑定人(1988年9月20日、主演:[[二谷英明]])
:** 空白の殺意(1991年8月6日、主演:[[佐藤友美]]、原作:空白の研究)
:** まりえの客(1994年10月18日、主演:[[三宅裕司]])
:* [[ドラマシティ (2時間ドラマ番組)|ドラマシティ'93]]
:** [[さまよえる脳髄#テレビドラマ|さまよえる脳髄]](1993年2月11日、主演:[[東ちづる]])
:
; [[WOWOW]]
:* [[ドラマW|連続ドラマW]]
:** [[MOZU|MOZU Season2 〜幻の翼〜]](2014年6月22日 - 7月20日、全5話、主演:西島秀俊、原作:幻の翼)
=== 映画 ===
* [[さまよえる脳髄#映画|さまよえる脳髄]](1993年12月4日公開、配給:ヒーロー、監督:[[萩庭貞明]]、主演:[[神田正輝]])
* [[ナイトピープル]](2013年1月26日公開、配給:[[太秦]]、監督:[[門井肇]]、主演:[[佐藤江梨子]]、原作:都会の野獣『情状鑑定人』所収)<ref name="zakzak" />
* [[MOZU#映画|劇場版 MOZU]](2015年11月7日公開、配給:[[東宝]]、監督:[[羽住英一郎]]、主演:[[西島秀俊]])
== メディア出演 ==
* カディスの赤い星 ギターコンサート2012(2012年6月12日、[[BSジャパン]])- ナビゲーターとして出演し、ギタリストの[[沖仁]]、[[木村大]]、[[飯ヶ谷守康]]をむかえる
* [[宮崎美子のすずらん本屋堂]](2012年10月16日、BSジャパン)- ゲスト出演。時代小説、重蔵始末シリーズや父・中一弥について語る。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
* [http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi01.html 作家の読書道:第1回 逢坂剛] - WEB本の雑誌
* [https://web.archive.org/web/20160220170734/http://book.asahi.com/reviews/reviewer/1003.html BOOKasahi.com] - 逢坂剛による他著者本の書評
* [https://web.archive.org/web/20160304203023/http://book.asahi.com/author/TKY201002240294.html 『兇弾』インタビュー] - asahi.com
* [https://web.archive.org/web/20160627130235/http://www.sakuranbo.co.jp/livres/sugao/vol.05.html 【小説家になりま専科】「読者をいかに楽しませるかが、作家の醍醐味である」] - 逢坂剛×[[池上冬樹]] 対談
* [https://www.bs-tvtokyo.co.jp/redstar2012/ カディスの赤い星ギターコンサート] - BSジャパン公式サイト
{{直木賞|第96回}}
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{{毎日芸術賞|第61回}}
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[[Category:逢坂剛|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:冒険小説作家]]
[[Category:直木賞受賞者]]
[[Category:日本ペンクラブ会員]]
[[Category:日本推理作家協会賞受賞者]]
[[Category:博報堂の人物]]
[[Category:NHK紅白歌合戦審査員]]
[[Category:開成中学校・高等学校出身の人物]]
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[[Category:1943年生]]
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13,802 |
ジュゼッペ・ヴェルディ
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ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、イタリアの作曲家。19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。「オペラ王」の異名を持つ。
代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)イタリアの紙幣に肖像が採用されていた。
ヴェルディは、父カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母ルイジア・ウッティーニの間に初めての子供として生まれる。(後に妹も生まれた)生誕地はブッセート近郊の小村レ・ロン・コーレ村(英語版)だが、ここはパルマ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区(英語版)に組み込まれていた。彼はカトリック教会で洗礼を受け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) のラテン名を受けた。登録簿には10月11日付け記録に「昨日生まれた」とあるが、当時の教会歴の日付は日没で変更されていたため、誕生日は9日と10日のいずれの可能性もある。翌々日の木曜日、父は3マイル離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請し、吏員はフランス語で記録した。「こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった」
カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村の聖ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。8歳の時、両親は中古のスピネットを買い与えると、少年は熱中して一日中これに向かった。請われて演奏法を教えた教会のオルガン弾きバイストロッキは、やがて小さな弟子が自分の腕前を上回ったことを悟り、時に自分に代わってパイプオルガンを演奏させた。やがて評判は広がり、カルロと商取引で関係があった音楽好きの商人アントーニオ・バレッツィ(イタリア語版)の耳にも届いた。バレッツィの助言を受けたカルロは、息子の才能を伸ばそうとブッセートで学ばせることを決断した。
1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きやラテン語を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。バレッツィの家にも通い、公私ともに援助を受ける一方で、彼を通じて町の音楽活動にも加わるようになった。作曲や演奏、そして指揮などの経験を重ね、ヴェルディの評判は町に広がった。17歳になった頃にはバレッツィ家に住むようになり、長女マルゲリータ・バレッツィ(イタリア語版)と親密な間柄になっていった。
しかし、更なる進歩を得ようと当時の音楽の中心地ミラノへ留学を目指した。費用を賄うためにモンテ・ディ・ピエタ奨学金を申請し、バレッツィからの援助も受け1832年6月にミラノに移り住んだ。ヴェルディは既に規定年齢を超えた18歳であったが、これを押して音楽院の入学を受けた。しかし結果は不合格に終わり、仕方なく音楽教師のヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人指導を受けた。
音楽院でソルフェージュ教師を務めるラヴィーニャは、またスカラ座で作曲や演奏も担当していた。彼はヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた。知り合った指揮者のマッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。
そのような頃、プロヴェージ死去の報が届いた。彼は大聖堂のオルガン奏者、音楽学校長、町のフィルハーモニー指揮者兼音楽監督などブッセートの重要な音楽家であった。バレッツィはヴェルディを呼び戻して後継させようとしたが、進歩的なプロヴェージを嫌っていた主席司祭が対立候補を立て、町を巻き込んだ争いに発展した。ミラノに後ろ髪を引かれつつもバレッツィへの義理から、1836年2月にヴェルディはパルマで音楽監督試験を受け絶賛されつつ合格し、ブッセートへ戻って職に就いた。
22歳のヴェルディは着任したブッセートでまじめに仕事に取り組み、同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女ヴィルジーニアが生まれた。しかし心中では満足できず、秘かに取り組んでいた作曲『ロチェステル』を上演できないかとマッシーニへ働きかけたりした。1838年には長男イチリオが生まれ、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱に苦しんだ末に亡くなった。イチリオの出産以来体調が優れないマルゲリータや、未だ尾を引く主席司祭側とのいざこざ、自らの音楽への探求、そして生活の変化を目指し、ヴェルディは再びミラノへ行くことを決断した。
引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『オベルト』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭にはソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した。
ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本はテミストークレ・ソレーラの修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された。
ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜はリコルディ社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた。
次回作にメレッリは『追放者』というオペラ・セリアを提案したがヴェルディは気が乗らず、代わりにオペラ・ブッファ(喜劇)『贋のスタラチオ』を改題して取り組むことになった。ところが1840年6月18日、マルゲリータが脳炎に罹り死去した。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えメレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、どこか呆然としたまま『一日だけの王様(英語版)』を仕上げた。9月5日、スカラ座の初演で、本作は散々な評価を下され、公演は中断された。ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた。
年も押し迫ったある日の夕方、街中でメレッリとヴェルディは偶然会った。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って (Va, pensiero, sull'ali dorate)」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻した。
ソレーラに脚本の改訂を行わせ、作曲を重ねたヴェルディは1841年秋に完成させた。彼は謝肉祭の時期に公演される事に拘り、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えた。観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、黄金の翼の合唱では当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂した。1日にしてヴェルディの名声を高めたオペラ『ナブッコ』は成功を収めた。
『ナブッコ』は春に8回、秋にはスカラ座新記録となる57回上演された。ヴェルディは本人の好みに関わらず社交界の寵児となり、クララ・マッフェイ(英語版)の招きに応じてサロット・マッファイのサロンに加わった。このような場で彼はイタリアを取り巻く政治的な雰囲気を感じ取った。一方メレッリとは高額な報酬で次回作の契約を交わし、1843年2月に愛国的な筋立ての『十字軍のロンバルディア人』が上演され、これもミラノの観衆を熱狂させた。2作は各地で公演され、『ナブッコ』の譜面はマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナに、『十字軍のロンバルディア人』のそれはマリア・ルイーザにそれぞれ贈られた。
数々の劇場からオファーを受けたヴェルディの次回作はヴィクトル・ユーゴー原作から『エルナーニ』が選ばれ、台本は駆け出しのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが担当した。ヴェルディは劇作に妥協を許さず何度もピアーヴェに書き直しを命じ、出演者も自ら選び、リハーサルを繰り返させた。1844年3月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演を迎えた本作も期待を違えず絶賛された。それでもヴェルディは次を目指し、後に「ガレー船の年月」と回顧する多作の時期に入った。
ローマ用に制作したジョージ・ゴードン・バイロン原作の『二人のフォスカリ(英語版)』(1844年11月)、ジャンヌ・ダルクが主役のフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲から『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『アルツィーラ(英語版)』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。しかしヴェルディはリウマチに苦しみ、連作の疲れに疲弊しつつあった。続く『アッティラ』では男性的な筋からソレーラに台本を依頼するも仕事が遅い上に途中でスペイン旅行に出掛ける始末でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上げさせるとソレーラとは袂を分けた。1846年3月の封切でも好評を博したが、過労が顕著になり医者からは休養を取るようにと助言された。
1846年春から、ヴェルディは完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。そして、ゆっくりと『マクベス』の構想を練った。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲を題材に、台本を制作するピアーヴェには何度も注文をつけた。時代考証のために何度もロンドンへ問い合わせ、劇場をフィレンツェのベルゴラ劇場に決めると前例の無い衣裳リハーサルまで行なわせた。特筆すべきは、出演者へ「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示した点があり、そのために予定された容姿端麗のソプラノ歌手を断りもした。ここからヴェルディは音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨んだことが窺える。さらにはゲネプロ中に最も重要と考えた二重唱部分の稽古をさせるなど、妥協を許さぬ徹底ぶりを見せた。1847年3月、初演でヴェルディは38回カーテンコールに立ち、その出来映えに観客は驚きを隠さなかった。ただし評価一辺倒ではなく、華麗さばかりに慣れた人々にとって突きつけられた悲劇的テーマの重さゆえに戸惑いの声も上がった。本作の価値が正しく評価されるには20世紀後半まで待たされた。
次の作品『群盗(英語版)』は初めてイギリス公演向けに書かれた。ヴェルディはスイス経由でパリに入り、弟子のエマヌエレ・ムツィオをロンドンへ先乗りさせ、引退して当地に移り住んでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニと久しぶりに会った。準備状況を知るとヴェルディもロイヤル・オペラ・ハウスに入り最後の詰めを行って、『群盗』は1847年7月にヴィクトリア女王も観劇する中で開演された。観客は喝采したが評論家には厳しい意見もあり、騒がしい、纏まりが無いという評もあった。これらは台本の弱さや歌手への配慮などが影響した点を突いていたが、『群盗』には後にヴェルディが得意とする低域男性二重唱や美しい旋律もあり、概して彼の国際的名声を高めた。
帰路、ヴェルディはパリに止まってオペラ座の依頼を受けた。しかし完全な新作を用意する余裕は無く、『十字軍のロンバルディア人』をフランス語に改訂した『イェルサレム』を制作した。そしてこの期間、頻繁にジュゼッピーナと逢い、やがて一緒に住むようになった。11月に公演された『イェルサレム』の評判はいまひとつで終わったが、彼は理由をつけてパリに留まり、バレッツィを招待さえした。1848年2月には契約で制作した『海賊(英語版)』をミラノのムツィオに送りつけ、彼はジュゼッピーナとの時間を楽しんでいた。そして二月革命の目撃者となったが、気楽な外国人の立場でそれを楽しんでさえいた。
二月革命の影響は周辺諸国にも拡がり、3月にはミラノでもデモが行われ、オーストリア軍との衝突が勃発し、ついにはこれを追い出し臨時市政府が樹立された。ヴェルディがミラノに戻ったのはこの騒動が一段落した4月で、「志願兵になりたかった」という感想こそ漏らしたが5月には仕事を理由にまたパリへ向かい、暫定政権崩壊を眼にすることは無かった。市郊外のパッシーでジュゼッピーナと暮らしたヴェルディは戻らず、『海賊』は初演に立ち会わない初めてのオペラとなった。しかし彼は無関心を決め込んでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞した経験等からイタリアでも統一の機運が高まる事、しかしそれには様々な問題がある事に思いを馳せていた。彼の次の作品は祖国への愛を高らかに歌う『レニャーノの戦い』であり、新たに共和国が樹立されたローマで開演された。ジュゼッピーナを伴いヴェルディは訪問したが、観劇者たちは興奮して「イタリア万歳」を叫び、彼を統一のシンボルとまでみなし始めていた。
喧騒の渦中にあり、またコレラ蔓延などを理由に都市部を嫌ったヴェルディは1849年夏にジュゼッピーナを連れてブッセートに戻り、オルランディ邸で暮らし始めた。ここで彼は『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ(英語版)』を仕上げ、人間の心を掘り下げる次回作に取り組んだ。一方、街の人々がふたり、特にジュゼッピーナに向ける眼は厳しかった。気に留めないヴェルディが仕事で町を離れる時は、彼女はパヴィーアに母を訪ねて一人残らないようにした。
台本制作を指示されたピアーヴェは戸惑った。ヴェルディが選んだ次回作の元本はとてもオペラにはそぐわないと思われたからだった。華やかさも無く、強い政治色に、不道徳的なあらすじ、そして呪いを描いた本作は演劇としてパリで上演禁止となった代物だった。案の定上演予定のヴェネツィアの検閲で拒否された。何度かの修正が加わったが、譲れない所にはヴェルディは強硬だった。原作者ユーゴーさえオペラ化に反対した作品『王は楽しむ』は、封切り予定1ヶ月前に許可が下り、1851年3月に初演を迎えた。これが『リゴレット』であった。
『リゴレット』はあらゆる意味で型破りな作品だった。皮切りでお決まりの合唱も無く、会話から始まる第一幕。カヴァティーナ(緩)からカバレッタ(急)の形式を逆転させたアリア、朗読調の二重唱、アリアと見紛う劇的なシェーナ(劇唱)の多用、渾身の自信作「女ごころの唄」、そして『マクベス』以来ヴェルディが追い求めた劇を重視する姿勢、嵐など自然描写の巧みさ、主人公であるせむしの道化リゴレットの怒り、悲哀、娘への愛情など感情を盛り立てる筋と音楽は観衆を圧倒し、イタリア・オペラ一大傑作が誕生した。
『リゴレット』の成功は、ヴェルディに創作活動の充実に充分な財産、そして時間に追われず仕事を選べる余裕をもたらした。しかし私生活は万事順調とはいかなかった。ジュゼッピーナに向けられるブッセートの眼は相変わらず厳しく、それは家族も例外ではなかった。しかも父カルロが息子の管財人になったと吹聴してまわり、干渉を嫌うヴェルディは両親と距離を置き、1851年春に以前購入していた郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)にある農場に居を移した。6月に母が亡くなった事に悲しむが、ヴェルディは次の作品に取り組んで気を紛らわした。年末にはジュゼッピーナのためパリに移り、その突然さからバレッツィと少々揉めたが、翌年サンターガタに戻った2人と元々ジュゼッピーナに味方する義父は、その関係を修復できた。
1853年1月ローマのアポロ劇場で封切りされた『イル・トロヴァトーレ』は若干旧来の形式に巻き戻されたものだったがカヴァティーナ形式の傑作として成功を収め、ほぼ同時に構想を練った次回作に取り組んだ。しかしこの『椿姫』3月のヴェネツィア初演は、ムツィオに宛てた手紙に書かれたように「失敗」となり2回公演で打ち切られた。充分なリハーサルも取れなかった上、病弱なヒロインを演じるにはソプラノ歌手の見た目は健康的過ぎた。3幕でヒロインが死ぬシーンでは失笑さえ漏れた。しかしヴェルディは雪辱に燃え、配役などを見直して5月に同じヴェネツィアで再演すると、今度は喝采を浴びた。この作品はヴェルディ唯一のプリマドンナ・オペラであった。
しばらくの間サンターガタで休息を取り、ヴェルディはグランド・オペラへの挑戦という野心を秘めパリに乗り込んだ。しかしこれは成就しなかった。『シチリアの晩鐘』制作では、オペラ座所属の台本作家ウジェーヌ・スクリーブに、その仕事の遅さも内容も満足できなかった。この仕事は彼を1年以上も拘束し、ついには契約破棄さえ持ち出した。同作は1855年6月に公演され好評を得たが、結果的にヴェルディにとって身が入らないものとなった。彼はすぐにでもイタリアに戻って「キャベツを植えたい」と言ったが、過去の作品を翻訳上演する契約などに縛られ、サンターガタに還ったのは年末になった。
サンターガタの農場はヴェルディの心休まる場となっていた。既に多くの小作人を雇うまでに順調な経営は収益を上げ、彼は音楽を忘れてジュゼッピーナと農作業の日々を楽しんだ。しかし作曲に向かう衝動は抑えがたく、彼はまた制作に身を投じる。先ず手掛けたのが『スティッフェーリオ』の改訂だった。舞台を中世イギリスに変更してピアーヴェに書き直させた本作は『アロルド(英語版)』という題で公開された。この頃には上演に応じた報酬が作曲家に払われる習慣が根付いたため、これもヴェルディの収入を安定させた。次に送り出した新作『シモン・ボッカネグラ』は朗読を重視して歌を抑え、管弦楽法による特に海の場面描写に優れた逸品だったが、1857年3月の初演では配役に恵まれず、あまり評価されなかった。
ヴェルディが次回作に選んだ題材は、様々な問題を生じた。ウジェーヌ・スクリーブの『グスタフ3世』は、スウェーデン王グスタフ3世を題材としており、そもそも実在の王族を登場人物にすることはナポリでは禁じられていた。しかも暗殺されるという筋は検閲当局が先ず認めない。さらにはナポレオン3世の暗殺未遂事件が起き、状況は悪化した。契約していた興行主のアルベルティは台本の変更を主張するがヴェルディは認めず、ついには裁判沙汰になった。これはヴェルディに不利だったが世論が彼を後押しし、結果『シモン・ボッカネグラ』公演へ契約を変更することで和解した。ヴェルディは『グスタフ3世』をローマに持ち込み、妥協しうる最低限の変更でアポロ劇場での公演に漕ぎ着けた。こうして1859年2月に改題を加えた『仮面舞踏会』は開幕された。
楽曲の美しさと演劇性を高度に両立させた内容の秀逸さもさることながら、その筋が時代の雰囲気に適合し、『仮面舞踏会』に観客は熱狂した。サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、周辺諸国との関係変化を受け1月の国会で統一に向けた演説を行い、イタリア全土で機運が高まっていた。このスローガンViva Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)が略され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と偶然になったことが起因し、彼を時代の寵児に押し上げた。このオペラの成功によってローマのアカデミア・フィラルモニカ名誉会員に選出されたヴェルディは、一方で聴衆は作品に正当な評価を向けていないと感じ、「もうオペラは書かない」と言って次の契約を断り、サンターガタの農場へ身を引っ込めた。
1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。
だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。
パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った。
その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごしたが、イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ2世は罷免し、カヴールが復帰すると各小国との合併が進み、1861年に統一は成就してイタリア王国が誕生した。カヴールは初代首相に就任し、彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。議会中静かに座っている自信が無いと断るヴェルディは逆に説得されしぶしぶ立ち、彼は当選した。下院議員の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、6月に当のカヴールが亡くなると意欲は失せ、4年の任期中に特に目立つ政治活動は行わなかった。
1861年秋、ヴェルディは音楽制作に戻っていた。激変したイタリアに刺激された事、また、まだ知らぬロシアからのオファーが舞い込んだことも情熱を掻き立てた。一流の歌手が揃うペテルブルクの帝室歌劇場も期待させた。題材をスペインの戯曲に求め、書き上げた曲を携えて12月に夫妻は汽車の乗客となった。しかし、ソプラノ歌手が体調を崩して舞台は中止され、質を落とす位ならばと数ヶ月単位の延期を決めて夫妻はパリに向かった。
1862年2月、ヴェルディはパリでロンドン万国博覧会用の作曲依頼を受けた。これはドイツのジャコモ・マイアベーア、フランスのダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールと並んだ打診であり、ヴェルディはいわばイタリア代表とも言えた。彼は「諸国民の賛歌 (Inno delle Nazioni)」を作曲し、見物を兼ねてロンドンを訪問したが、万博の音楽監督を担当したナポリ出身の作曲家が面白くなく思ったのか「諸国民の賛歌」演奏を断った。結果、別に演奏され好評を博したが、この曲のイタリア公演は再び不穏さを増した政治情勢を鑑みて断った。
そして秋になり、再びペテルブルクに入ったヴェルディは11月に開演した『運命の力』に一定の満足を得て、しかも聖スタニスラス勲章を贈られる栄誉に授かった。ただしこの作品は他の都市ではあまり評価されなかった。3人が死を迎えて終わるフィナーレ、場面を強調するあまり筋のつながりが悪いなど、台本に無理があった。しかし音楽では、脇役も含めた人物の特徴を表現する多彩な合唱や、テーマや場面そして人物の感情の変化などを繋ぐ音楽はヴェルディの創意が反映していた。数年後には台本の改訂を受けて再演され、本作品は高く評価された。
翌年、『運命の力』スペイン公演を指揮し、さらに『シチリアの晩鐘』再演のためヴェルディはパリに入った。だが、相変わらずオペラ座の仕事は遅くいい加減で、リハーサルを面倒臭がる団員たちにヴェルディは怒りを爆発させイタリアに帰ってしまった。
サンターガタに引っ込み、夫妻で農場経営に精を出すヴェルディは「昔から私は農民だ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽界にはドイツから吹く新しい風に晒され、若い作曲家たちはリヒャルト・ワーグナーから強い影響を受けてヴェルディを過去の人とみなし始めていた。彼はそのような評判を受け流しつつも、皮肉を返すなど内心は穏やかでなかった。そして興行主からはヴェルディの才能は依然高く評価されていた。1864年夏にパリで出版を勤しむエスキュディエから『マクベス』改訂版の上演を打診されると、これをヴェルディは受けた。しかし、ヴェルディの思想とフランス観衆の嗜好が合わず、1865年の公演は失敗した。
だが、1867年にヴェルディは、パリ万国博覧会記念のオペラ制作依頼を、しかも会場があのオペラ座ながら受諾する。フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲を題材に選び始まった制作に彼は集中する。傲慢と孤独の間を揺れ動く主人公の心情を描き出すソロは旋律だけに頼らず楽器の音色を効果的に使い、宗教と国家の対立と結末を前例が無いバスの二重唱で表現する。劇性を重視する姿勢はより鮮明に打ち出した。
しかし、結果はまたも惨憺たるもので終わる。前作同様パリはオペラに不必要なバレエの挿入を求め、また観客が夕食から最終列車までの間に観劇が終わるように筋の短縮を迫り、オペラ座の怠慢は全く変わらない。綿密な構想も切り刻まれては観客の心は掴めず、1867年3月開演の『ドン・カルロ』は酷評に晒され、敗北したヴェルディはその後のオペラ座からの打診を受けなかった。
またもヴェルディが音楽活動を休止した。1868年2月、父カルロが亡くなった。彼は弟(ヴェルディの叔父)の娘フィロメーナを養育していたが、彼女はヴェルディ夫妻が引き取り養女とした。半年後、今度はもうひとりの父であるアントーニオ・バレッツィの死を看取った。病に倒れてからは妻ジュゼッピーナも看病に通っていたが回復は叶わず、ヴェルディが弾くピアノ「黄金の翼」を聴きながら息を引き取った。
同年秋、ヴェルディは尊敬する同時代人のひとりジョアキーノ・ロッシーニの死に、他の著名なイタリア人作曲家たちとのレクイエム組曲を共作することになった。しかし彼は熱心に取り組んだが、無報酬であったため他の者はいまひとつ乗らず計画は頓挫した。ヴェルディは、これは長年の友人であり、指揮を予定されていたアンジェロ・マリアーニに熱意が不足していたためと非難した。これにより2人の友情は壊れた。この背景には、ヴェルディ夫妻が度々ヴェネツィアを旅行した際、マリアーニは婚約していたソプラノ歌手テレーザ・シュトルツ(英語版)と会っていたが、考え方の違いなどが影響しマリアーニとシュトルツの関係は段々と悪化していった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持ちを傾け始めたためとの疑念を持っており、計画に乗り気でなかったことがあった。
1869年、ヴェルディは『運命の力』に改訂を施して久しぶりとなるスカラ座公演を行った。結末を変更し、新しい曲を加えた本作は成功した。特にソプラノのテレーザ・シュトルツは輝き、ヴェルディは満足した。それでも音楽の世界に戻ろうとはしなかった。1871年、何度もオファーを繰り返していたオペラ座の監督デュ・ロクルはエジプトから新しいオペラハウス用の依頼を持ち込んだ。遠隔地でもあり乗り気でなかったヴェルディだが、劇場側はそれならばグノーかワーグナーに話を持ちかけるとほのめかして焚きつけ、彼の受諾を引き出した。しかしヴェルディは破格の条件をつけ、報酬は『ドン・カルロ』の3倍に当たる15万フラン、カイロ公演は監修しない事、さらにイタリアでの初演権を手にした 。
仕事が始まればヴェルディは集中する。受け取ったスケッチからデュ・ロクルと共同で台本を制作し、エジプトの衣裳や楽器、さらには信仰の詳細まで情報を手に入れて磨きをかけ『アイーダ』を仕上げた。ところが7月に普仏戦争が勃発し、パリで準備していた舞台装置が持ち出せなくなり、カイロ開演の延期を余儀なくされた。一方でヴェルディはスカラ座公演の準備を予定通り進め、慌てたエジプト側はこの年のクリスマスに何とか開演の目処をつけた。わだかまりからマリアーニは指揮を断り、自身も立ち会わないヴェルディは若干不安を覚えたが、初演は大好評を博した。そして1872年2月、アイーダ役のシュトルツのために「おお、我が祖国」を加えた『アイーダ』はスカラ座で開演し、大喝采を浴びた。なお、『アイーダ』はしばしば1869年のスエズ運河開通を記念するために制作されたという説が述べられるが、これはある有名批評家の個人的憶測が元になっている俗説に過ぎない。
『アイーダ』はヴェルディの集大成と言える作品である。コンチェルタートは力強く明瞭な旋律で仕上げ、各楽器の音色を最大限に生かした上、「凱旋行進曲」用に長いバルブを持つ特製のアイーダ・トランペットを開発した。長年目指した曲と劇との融合では、「歌」を演劇の大きな構成要素に仕立て、アリア、シェーナ、レチタティーヴォなど旧来のどのような形式にも当てはまらず、劇全体を繋ぐ独唱・合唱を実現した。パリの経験を上手く消化し、バレエも効果的に挿入された。さらに『椿姫』以来となる女性を主役としたあらすじは、以前のほとんどの作品にあった悲劇的な死ではない官能的な生との別れで終え、観客を強く魅了した。
『アイーダ』と改訂版『ドン・カルロ』はイタリアから世界各地で上演され、どれも好評を得た。ヴェルディはナポリの初演に立ち会うが、その傍らには妻ジュゼッピーナだけでなくシュトルツも付き添い、新聞のゴシップネタとなった。これに対しヴェルディは沈黙し、ジュゼッピーナは悩みつつも醜聞が、既にマリアーニとの婚約を解消していたシュトルツの耳に入らないよう気を配った。
1873年にヴェルディは、亡くなった尊敬する小説家であり詩人であったアレッサンドロ・マンゾーニを讃える『レクイエム』を作曲した。これには、ロッシーニに捧げる「レクイエム」の一部を用いていた。一周忌の1874年5月にミラノの大聖堂で公演された同曲は3日後にスカラ座で再演されるが、そこではよもや死者を追悼する曲から劇場のそれに変貌し、賞賛と非難が複雑に飛び交った。それでもヴェルディの栄華は最高潮にあった。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。
農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。父が亡くなった際に引き取った従妹はマリアと改名し18歳を迎えて結婚した。相手はパルマの名門一家出のアルベルト・カルラーラであり、夫婦はサンターガタに同居した。邸宅はヴェルディ自らが設計し、増築を繰り返して大きな屋敷になっていた。自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。
その一方で公の事は嫌い、1874年には納税額の多さから上院議員に任命されるが、議会には一度も出席しなかった。慈善活動には熱心で、奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。その頃に彼はほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。
彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。手遊びの作曲「主の祈り」「アヴェ・マリア」を書き始めたことを聞いたリコルディはジュゼッピーナとともに働きかけ、シュトルツの引退公演となるスカラ座の『レクイエム』指揮を引き受けさせた。成功に終わった初演の夜、夕食を共にしたジューリオ・リコルディはヴェルディに久しぶりの新作を打診した。後日、アッリーゴ・ボーイトが持参したシェイクスピア作品の台本を気に入ったが、いまひとつ踏ん切りがつかずボーイトに改訂の指示を与え、サンターガタに送るように言ってその場を凌いだ。
1879年11月、農場に届いたボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられる。早速ミラノに行き話し合いを行った。しかしヴェルディは数年のブランクに不安を覚え、なかなか契約を結ばなかった。そこでリコルディはまたも一計を案じ、ボーイトと共作で『シモン・ボッカネグラ』改訂版制作を提案した。大胆なボーイトの手腕に触発されてヴェルディも新たな作曲を加え、1881年3月のスカラ座公演はかつてとは打って変わって大盛況を得た。
そして『オテロ』は動き始めたが、なかなか順調に物事は進まなかった。リコルディとボーイトがサンターガタを訪問し台本を詰めた。しかし『ドン・カルロ』3度目の改訂版制作で半年の足止めを受けた。さらに1883年2月にワーグナーの訃報に触れると、「悲しい、悲しい、悲しい...。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーに、ヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。
それでも1884年の『ドン・カルロ』改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかり始めた。ボーイトはヴェルディを尊敬し、ヴェルディはボーイトから刺激を受けながら共同で取り組んだ。特にヴェルディは登場人物「ヤーゴ」へのこだわりを見せ、それに引き上げられて作品全体が仕上がっていった。そして1886年11月に、7年の期間をかけた『オテロ』は完成した。
1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演にスカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立った。チェロ演奏を担当していた若きアルトゥーロ・トスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。『リゴレット』を越える嵐の表現で開幕し、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事に拘らず、完成度の高い劇作を現実のものとした。
『オテロ』を成功で終えたヴェルディは虚脱感に襲われていた。ローマ開演の招待を断り、また農場に引っ込むと、建設された病院の運営など慈善事業に取り組んだ。そして、引退した音楽家らが貧困に塗れて生涯を終えるさまを気に病んでいたヴェルディは、彼らのために終の棲家となる養老院建設を計画した。これにはボーイトの弟で建築家のカミッロ(英語版)が協力者となった。
一方でボーイトは、ヴェルディの才能は枯渇していないことを見抜いていた。しかし一筋縄ではいかないと、ヴェルディの心残りを突く事にした。散々な評価で終わった『一日だけの王様』以来、ヴェルディが喜劇に手を染めたことは無かった。ボーイトはシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を下敷きに一冊のノートを書き、ヴェルディに示した。そして魅力的な数々の言葉を投げた。「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と。ヴェルディは乗った。
二人は秘密裏に制作を行った。ヴェルディが新作オペラに取り組んだことが知れると興行主たちが黙っていない上、既に老齢の彼には自信が無かった。親しい友人の訃報も、彼の気力を萎えさせた。しかし、ボーイトが提案した台本は面白く、シェイクスピアを楽曲に訳す作業や主人公の太っちょに息吹を吹き込むことは心底楽しめた。途中、リコリディにばれてしまったが、1年半をかけて『ファルスタッフ』は仕上がった。次はスカラ座に場所を移し、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演には『シモン・ボッカネルラ』改訂版や『オテロ』を演じた実績を持つヴィクトル・モレル(英語版)が努めることになった。ヴェルディは相変わらず完璧を求め、7-8時間のリハーサルも行われた。
そして1893年2月、79歳になったヴェルディの新作『ファルスタッフ』は開幕した。彼が目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、モレル演じる太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。
『ファルスタッフ』は上演された各地で喝采を浴び、他人に強制されることを極度に嫌っていたヴェルディも向かった。1894年にはフランス語版『オテロ』がいわくつきのオペラ座で公演されることになったが、ヴェルディは拘らずバレエを加えた。初演ではフランス第三共和政大統領のカジミール・ペリエから2度目のレジオンドヌール勲章を受けた。80歳を越えてもまだ精力的に見えるヴェルディに誰もが次回作を期待し、ボーイトも新しい台本を秘かに準備していた。しかし、彼は既に引退を決意していた。
ヴェルディはサンターガタに戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組んだ。構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムズィチスティ(Casa di Riposo per Musicisti、音楽家のための憩いの家(英語版))建設にオペラ制作同様に情熱をかけた。趣味的に作曲も行い、「聖歌四篇」もこの頃に作られた。公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断った。その中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒らげた。同校の改名はヴェルディの死後に行われた。
だが1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失った(その後もミラノにて生活。Deagostini刊『The Classic Collection』第14号を見よ)。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取った。ヴェルディは目に見えて落胆し、娘マリアやボーイト、そしてシュトルツが付き添った。しばらくして少し回復し、恒例のヴェネツィアへも出掛けたが、彼自身は自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意した。
同年末、娘マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していた。1月20日の朝、起きぬけのヴェルディは脳血管障害を起こして倒れ、意識を失った。多くの知人に連絡が届き、シュトルツ、リコルディ、ボーイトらが駆けつけた。王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められた。しかし、1901年1月27日午前2時45分頃、偉大な作曲家兼農家の男は87歳で死去した。
同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、ジュゼッピーナが眠る礼拝堂に葬られた。出棺時にはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮し820人の歌手が「行け、わが想いよ」を歌った。遺言では簡素な式を望んでいたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われ、トスカニーニ指揮の下『イル・トロヴァトーレ』から「ミゼレーレ (Miserere)」が歌われた。彼の墓には、最初の妻マルゲリータの墓標と二人目の妻ジュゼッピーナが沿い、後に亡くなったシュトルツの墓は控えめに入り口のバルコニーにある。
イタリア・オペラ史において、1842年の『ナブッコ』から1871年の『アイーダ』までの30年間は特に「ヴェルディの時代」と呼ばれ、歌手の技量に依存する度合いが高いベルカントが衰退してゆき、代わって劇を重視した作品構成が主流となった転換期に相当する。これはヴェルディとワーグナーが導入した手法によるが、イタリアの変革は前者による影響が圧倒的である。
ヴェルディの生涯を通したオペラ作品は、3もしくは4区分で解釈されることが多い。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までを第1期、『リゴレット』から『アイーダ』までを第2期、晩年の『オテロ』と『ファルスタッフ』を第3期と置く場合と、晩年は同じながら『マクベス』の存在を重視して『アッティラ』までを1期、『マクベス』から『椿姫』までを2期、『シチリアの晩鐘』から『アイーダ』までを3期、残りを4期とする考えもある。以下では4期区分を軸に解説する。
1期のヴェルディ作品には愛国精神を高揚させる題材が多く、『ナブッコ』で描いた権力者と虐げられた人民の対比を皮切りに、特にそれを意図した『十字軍のロンバルディア人』好評の主要因となった。当時はウィーン会議(1814-1815年)以降他国に支配された状況への不満が噴き出しリソルジメントが盛り上がりを見せていた。何度もの反乱の勃発と挫折を見てきたイタリア人たちは、1846年に即位したピウス9世が政治犯の特赦を行ったことで光明を見出していた。この時期のヴェルディ作品はそのような時流に乗り、エネルギッシュであり新しい時代の到来を感じさせ、聴衆の欲求を掻き立てた。それは聴衆を魅了することに敏感なヴェルディの感覚から導かれたとも言う。しかし、作品の完成度や登場人物の掘り下げ、劇の構成などには劣る部分も指摘される。
2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し、ベルカントを否定してレチタティーヴォを中心に据えるなど合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには演出家はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した。『群盗』は主役のジェニー・リンドを立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった。
しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった。
『シチリアの晩鐘』の出来はヴェルディに不満を残したが、フランス・オペラ座での仕事を通じ彼はグランド・オペラの手法を取り入れた。『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』は改訂版を含め劇作性を高める方向を強め、『ドン・カルロ』は初演ではいま一つだったが、その改訂版および『アイーダ』ではイタリア流グランド・オペラの成熟を実現した。
特に『アイーダ』は多国籍の様式を混合させた。イタリア・オペラの華麗な旋律で満たしながら、声楽を重視する点は覆して管弦楽とのバランスを取らせ、以前から取り組んだドラマ重視のテーマと融合させることに成功した。舞台であるエジプトについて情報を仕入れたが、楽曲はエジプトの音楽ではなくヴェルディが独自に創造した異国的音楽であった。フランスのグランド・オペラも取り入れながら、その様式もそのままではなく工夫を凝らした4幕制を取るなど、独自の作風を実現した。
ヴェルディの大作は高い人気を誇り、それらを何度も繰り返して公演する方法が一般化し、例えばスカラ座はそれまで年3本程度のオペラを上演していたが、1848年以降は平均でほぼ年1本となった。これはレパートリー・システムと呼ばれた。作曲者は初演こそ慣例的に舞台を監督したが、このシステムが確立すると実際の監督は指揮者が担うことになり、オペラ専門の指揮者が現れだした。この代表がヴェルディの友で後に仲違いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品から始まったとも言えるが、指揮者の権限が強まると中には勝手に改作を施す者も現れ、ヴェルディは激怒したと伝わる。しかし、この流れは20世紀の演奏重視の傾向へ繋がってゆく。
16年の空白を経て発表された新作『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『リア王』を温めていたヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった。
『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム)に対するイタリア側からの回答となった。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという。
『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハ、モーツァルト、ベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した。
音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる。
しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった。
その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった。
後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される。 また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。
ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが、カヴールが亡くなると興味を失った。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった。
ブッセートのバレッツィ家で、子供の頃のジュゼッペ・ヴェルディが演奏した楽器は、アントン・トマーシェクのピアノだった。後にヴェルディはヨハン・フリッツのピアノを好み、1851年の「リゴレット」から1871年の「アイーダ」の頃まで、ウィーン風6本ペダルのフリッツピアノを使用した。このピアノは現在、イタリアのピアチェンツァ県にある作曲家のヴェルディ邸で見ることができる。
リミニで行われた1857年のA.ガッリ劇場の落成式の際、ヴェルディが演奏したのはヨーゼフ・ダンクのグランドピアノだった。
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"text": "ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、イタリアの作曲家。19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。「オペラ王」の異名を持つ。",
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"text": "代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)イタリアの紙幣に肖像が採用されていた。",
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"text": "ヴェルディは、父カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母ルイジア・ウッティーニの間に初めての子供として生まれる。(後に妹も生まれた)生誕地はブッセート近郊の小村レ・ロン・コーレ村(英語版)だが、ここはパルマ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区(英語版)に組み込まれていた。彼はカトリック教会で洗礼を受け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) のラテン名を受けた。登録簿には10月11日付け記録に「昨日生まれた」とあるが、当時の教会歴の日付は日没で変更されていたため、誕生日は9日と10日のいずれの可能性もある。翌々日の木曜日、父は3マイル離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請し、吏員はフランス語で記録した。「こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった」",
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"text": "カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村の聖ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。8歳の時、両親は中古のスピネットを買い与えると、少年は熱中して一日中これに向かった。請われて演奏法を教えた教会のオルガン弾きバイストロッキは、やがて小さな弟子が自分の腕前を上回ったことを悟り、時に自分に代わってパイプオルガンを演奏させた。やがて評判は広がり、カルロと商取引で関係があった音楽好きの商人アントーニオ・バレッツィ(イタリア語版)の耳にも届いた。バレッツィの助言を受けたカルロは、息子の才能を伸ばそうとブッセートで学ばせることを決断した。",
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"text": "1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きやラテン語を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。バレッツィの家にも通い、公私ともに援助を受ける一方で、彼を通じて町の音楽活動にも加わるようになった。作曲や演奏、そして指揮などの経験を重ね、ヴェルディの評判は町に広がった。17歳になった頃にはバレッツィ家に住むようになり、長女マルゲリータ・バレッツィ(イタリア語版)と親密な間柄になっていった。",
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"text": "しかし、更なる進歩を得ようと当時の音楽の中心地ミラノへ留学を目指した。費用を賄うためにモンテ・ディ・ピエタ奨学金を申請し、バレッツィからの援助も受け1832年6月にミラノに移り住んだ。ヴェルディは既に規定年齢を超えた18歳であったが、これを押して音楽院の入学を受けた。しかし結果は不合格に終わり、仕方なく音楽教師のヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人指導を受けた。",
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"text": "音楽院でソルフェージュ教師を務めるラヴィーニャは、またスカラ座で作曲や演奏も担当していた。彼はヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた。知り合った指揮者のマッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。",
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"text": "そのような頃、プロヴェージ死去の報が届いた。彼は大聖堂のオルガン奏者、音楽学校長、町のフィルハーモニー指揮者兼音楽監督などブッセートの重要な音楽家であった。バレッツィはヴェルディを呼び戻して後継させようとしたが、進歩的なプロヴェージを嫌っていた主席司祭が対立候補を立て、町を巻き込んだ争いに発展した。ミラノに後ろ髪を引かれつつもバレッツィへの義理から、1836年2月にヴェルディはパルマで音楽監督試験を受け絶賛されつつ合格し、ブッセートへ戻って職に就いた。",
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"text": "22歳のヴェルディは着任したブッセートでまじめに仕事に取り組み、同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女ヴィルジーニアが生まれた。しかし心中では満足できず、秘かに取り組んでいた作曲『ロチェステル』を上演できないかとマッシーニへ働きかけたりした。1838年には長男イチリオが生まれ、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱に苦しんだ末に亡くなった。イチリオの出産以来体調が優れないマルゲリータや、未だ尾を引く主席司祭側とのいざこざ、自らの音楽への探求、そして生活の変化を目指し、ヴェルディは再びミラノへ行くことを決断した。",
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"text": "引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『オベルト』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭にはソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した。",
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"text": "ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本はテミストークレ・ソレーラの修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された。",
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"text": "ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜はリコルディ社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた。",
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"text": "次回作にメレッリは『追放者』というオペラ・セリアを提案したがヴェルディは気が乗らず、代わりにオペラ・ブッファ(喜劇)『贋のスタラチオ』を改題して取り組むことになった。ところが1840年6月18日、マルゲリータが脳炎に罹り死去した。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えメレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、どこか呆然としたまま『一日だけの王様(英語版)』を仕上げた。9月5日、スカラ座の初演で、本作は散々な評価を下され、公演は中断された。ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた。",
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"text": "年も押し迫ったある日の夕方、街中でメレッリとヴェルディは偶然会った。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って (Va, pensiero, sull'ali dorate)」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻した。",
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"text": "ソレーラに脚本の改訂を行わせ、作曲を重ねたヴェルディは1841年秋に完成させた。彼は謝肉祭の時期に公演される事に拘り、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えた。観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、黄金の翼の合唱では当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂した。1日にしてヴェルディの名声を高めたオペラ『ナブッコ』は成功を収めた。",
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"text": "『ナブッコ』は春に8回、秋にはスカラ座新記録となる57回上演された。ヴェルディは本人の好みに関わらず社交界の寵児となり、クララ・マッフェイ(英語版)の招きに応じてサロット・マッファイのサロンに加わった。このような場で彼はイタリアを取り巻く政治的な雰囲気を感じ取った。一方メレッリとは高額な報酬で次回作の契約を交わし、1843年2月に愛国的な筋立ての『十字軍のロンバルディア人』が上演され、これもミラノの観衆を熱狂させた。2作は各地で公演され、『ナブッコ』の譜面はマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナに、『十字軍のロンバルディア人』のそれはマリア・ルイーザにそれぞれ贈られた。",
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"text": "数々の劇場からオファーを受けたヴェルディの次回作はヴィクトル・ユーゴー原作から『エルナーニ』が選ばれ、台本は駆け出しのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが担当した。ヴェルディは劇作に妥協を許さず何度もピアーヴェに書き直しを命じ、出演者も自ら選び、リハーサルを繰り返させた。1844年3月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演を迎えた本作も期待を違えず絶賛された。それでもヴェルディは次を目指し、後に「ガレー船の年月」と回顧する多作の時期に入った。",
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"text": "ローマ用に制作したジョージ・ゴードン・バイロン原作の『二人のフォスカリ(英語版)』(1844年11月)、ジャンヌ・ダルクが主役のフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲から『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『アルツィーラ(英語版)』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。しかしヴェルディはリウマチに苦しみ、連作の疲れに疲弊しつつあった。続く『アッティラ』では男性的な筋からソレーラに台本を依頼するも仕事が遅い上に途中でスペイン旅行に出掛ける始末でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上げさせるとソレーラとは袂を分けた。1846年3月の封切でも好評を博したが、過労が顕著になり医者からは休養を取るようにと助言された。",
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"text": "1846年春から、ヴェルディは完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。そして、ゆっくりと『マクベス』の構想を練った。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲を題材に、台本を制作するピアーヴェには何度も注文をつけた。時代考証のために何度もロンドンへ問い合わせ、劇場をフィレンツェのベルゴラ劇場に決めると前例の無い衣裳リハーサルまで行なわせた。特筆すべきは、出演者へ「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示した点があり、そのために予定された容姿端麗のソプラノ歌手を断りもした。ここからヴェルディは音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨んだことが窺える。さらにはゲネプロ中に最も重要と考えた二重唱部分の稽古をさせるなど、妥協を許さぬ徹底ぶりを見せた。1847年3月、初演でヴェルディは38回カーテンコールに立ち、その出来映えに観客は驚きを隠さなかった。ただし評価一辺倒ではなく、華麗さばかりに慣れた人々にとって突きつけられた悲劇的テーマの重さゆえに戸惑いの声も上がった。本作の価値が正しく評価されるには20世紀後半まで待たされた。",
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"text": "次の作品『群盗(英語版)』は初めてイギリス公演向けに書かれた。ヴェルディはスイス経由でパリに入り、弟子のエマヌエレ・ムツィオをロンドンへ先乗りさせ、引退して当地に移り住んでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニと久しぶりに会った。準備状況を知るとヴェルディもロイヤル・オペラ・ハウスに入り最後の詰めを行って、『群盗』は1847年7月にヴィクトリア女王も観劇する中で開演された。観客は喝采したが評論家には厳しい意見もあり、騒がしい、纏まりが無いという評もあった。これらは台本の弱さや歌手への配慮などが影響した点を突いていたが、『群盗』には後にヴェルディが得意とする低域男性二重唱や美しい旋律もあり、概して彼の国際的名声を高めた。",
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"text": "帰路、ヴェルディはパリに止まってオペラ座の依頼を受けた。しかし完全な新作を用意する余裕は無く、『十字軍のロンバルディア人』をフランス語に改訂した『イェルサレム』を制作した。そしてこの期間、頻繁にジュゼッピーナと逢い、やがて一緒に住むようになった。11月に公演された『イェルサレム』の評判はいまひとつで終わったが、彼は理由をつけてパリに留まり、バレッツィを招待さえした。1848年2月には契約で制作した『海賊(英語版)』をミラノのムツィオに送りつけ、彼はジュゼッピーナとの時間を楽しんでいた。そして二月革命の目撃者となったが、気楽な外国人の立場でそれを楽しんでさえいた。",
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"text": "二月革命の影響は周辺諸国にも拡がり、3月にはミラノでもデモが行われ、オーストリア軍との衝突が勃発し、ついにはこれを追い出し臨時市政府が樹立された。ヴェルディがミラノに戻ったのはこの騒動が一段落した4月で、「志願兵になりたかった」という感想こそ漏らしたが5月には仕事を理由にまたパリへ向かい、暫定政権崩壊を眼にすることは無かった。市郊外のパッシーでジュゼッピーナと暮らしたヴェルディは戻らず、『海賊』は初演に立ち会わない初めてのオペラとなった。しかし彼は無関心を決め込んでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞した経験等からイタリアでも統一の機運が高まる事、しかしそれには様々な問題がある事に思いを馳せていた。彼の次の作品は祖国への愛を高らかに歌う『レニャーノの戦い』であり、新たに共和国が樹立されたローマで開演された。ジュゼッピーナを伴いヴェルディは訪問したが、観劇者たちは興奮して「イタリア万歳」を叫び、彼を統一のシンボルとまでみなし始めていた。",
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"text": "喧騒の渦中にあり、またコレラ蔓延などを理由に都市部を嫌ったヴェルディは1849年夏にジュゼッピーナを連れてブッセートに戻り、オルランディ邸で暮らし始めた。ここで彼は『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ(英語版)』を仕上げ、人間の心を掘り下げる次回作に取り組んだ。一方、街の人々がふたり、特にジュゼッピーナに向ける眼は厳しかった。気に留めないヴェルディが仕事で町を離れる時は、彼女はパヴィーアに母を訪ねて一人残らないようにした。",
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"text": "台本制作を指示されたピアーヴェは戸惑った。ヴェルディが選んだ次回作の元本はとてもオペラにはそぐわないと思われたからだった。華やかさも無く、強い政治色に、不道徳的なあらすじ、そして呪いを描いた本作は演劇としてパリで上演禁止となった代物だった。案の定上演予定のヴェネツィアの検閲で拒否された。何度かの修正が加わったが、譲れない所にはヴェルディは強硬だった。原作者ユーゴーさえオペラ化に反対した作品『王は楽しむ』は、封切り予定1ヶ月前に許可が下り、1851年3月に初演を迎えた。これが『リゴレット』であった。",
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"text": "『リゴレット』はあらゆる意味で型破りな作品だった。皮切りでお決まりの合唱も無く、会話から始まる第一幕。カヴァティーナ(緩)からカバレッタ(急)の形式を逆転させたアリア、朗読調の二重唱、アリアと見紛う劇的なシェーナ(劇唱)の多用、渾身の自信作「女ごころの唄」、そして『マクベス』以来ヴェルディが追い求めた劇を重視する姿勢、嵐など自然描写の巧みさ、主人公であるせむしの道化リゴレットの怒り、悲哀、娘への愛情など感情を盛り立てる筋と音楽は観衆を圧倒し、イタリア・オペラ一大傑作が誕生した。",
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"text": "『リゴレット』の成功は、ヴェルディに創作活動の充実に充分な財産、そして時間に追われず仕事を選べる余裕をもたらした。しかし私生活は万事順調とはいかなかった。ジュゼッピーナに向けられるブッセートの眼は相変わらず厳しく、それは家族も例外ではなかった。しかも父カルロが息子の管財人になったと吹聴してまわり、干渉を嫌うヴェルディは両親と距離を置き、1851年春に以前購入していた郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)にある農場に居を移した。6月に母が亡くなった事に悲しむが、ヴェルディは次の作品に取り組んで気を紛らわした。年末にはジュゼッピーナのためパリに移り、その突然さからバレッツィと少々揉めたが、翌年サンターガタに戻った2人と元々ジュゼッピーナに味方する義父は、その関係を修復できた。",
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"text": "1853年1月ローマのアポロ劇場で封切りされた『イル・トロヴァトーレ』は若干旧来の形式に巻き戻されたものだったがカヴァティーナ形式の傑作として成功を収め、ほぼ同時に構想を練った次回作に取り組んだ。しかしこの『椿姫』3月のヴェネツィア初演は、ムツィオに宛てた手紙に書かれたように「失敗」となり2回公演で打ち切られた。充分なリハーサルも取れなかった上、病弱なヒロインを演じるにはソプラノ歌手の見た目は健康的過ぎた。3幕でヒロインが死ぬシーンでは失笑さえ漏れた。しかしヴェルディは雪辱に燃え、配役などを見直して5月に同じヴェネツィアで再演すると、今度は喝采を浴びた。この作品はヴェルディ唯一のプリマドンナ・オペラであった。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "しばらくの間サンターガタで休息を取り、ヴェルディはグランド・オペラへの挑戦という野心を秘めパリに乗り込んだ。しかしこれは成就しなかった。『シチリアの晩鐘』制作では、オペラ座所属の台本作家ウジェーヌ・スクリーブに、その仕事の遅さも内容も満足できなかった。この仕事は彼を1年以上も拘束し、ついには契約破棄さえ持ち出した。同作は1855年6月に公演され好評を得たが、結果的にヴェルディにとって身が入らないものとなった。彼はすぐにでもイタリアに戻って「キャベツを植えたい」と言ったが、過去の作品を翻訳上演する契約などに縛られ、サンターガタに還ったのは年末になった。",
"title": "生涯"
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"text": "サンターガタの農場はヴェルディの心休まる場となっていた。既に多くの小作人を雇うまでに順調な経営は収益を上げ、彼は音楽を忘れてジュゼッピーナと農作業の日々を楽しんだ。しかし作曲に向かう衝動は抑えがたく、彼はまた制作に身を投じる。先ず手掛けたのが『スティッフェーリオ』の改訂だった。舞台を中世イギリスに変更してピアーヴェに書き直させた本作は『アロルド(英語版)』という題で公開された。この頃には上演に応じた報酬が作曲家に払われる習慣が根付いたため、これもヴェルディの収入を安定させた。次に送り出した新作『シモン・ボッカネグラ』は朗読を重視して歌を抑え、管弦楽法による特に海の場面描写に優れた逸品だったが、1857年3月の初演では配役に恵まれず、あまり評価されなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "ヴェルディが次回作に選んだ題材は、様々な問題を生じた。ウジェーヌ・スクリーブの『グスタフ3世』は、スウェーデン王グスタフ3世を題材としており、そもそも実在の王族を登場人物にすることはナポリでは禁じられていた。しかも暗殺されるという筋は検閲当局が先ず認めない。さらにはナポレオン3世の暗殺未遂事件が起き、状況は悪化した。契約していた興行主のアルベルティは台本の変更を主張するがヴェルディは認めず、ついには裁判沙汰になった。これはヴェルディに不利だったが世論が彼を後押しし、結果『シモン・ボッカネグラ』公演へ契約を変更することで和解した。ヴェルディは『グスタフ3世』をローマに持ち込み、妥協しうる最低限の変更でアポロ劇場での公演に漕ぎ着けた。こうして1859年2月に改題を加えた『仮面舞踏会』は開幕された。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "楽曲の美しさと演劇性を高度に両立させた内容の秀逸さもさることながら、その筋が時代の雰囲気に適合し、『仮面舞踏会』に観客は熱狂した。サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、周辺諸国との関係変化を受け1月の国会で統一に向けた演説を行い、イタリア全土で機運が高まっていた。このスローガンViva Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)が略され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と偶然になったことが起因し、彼を時代の寵児に押し上げた。このオペラの成功によってローマのアカデミア・フィラルモニカ名誉会員に選出されたヴェルディは、一方で聴衆は作品に正当な評価を向けていないと感じ、「もうオペラは書かない」と言って次の契約を断り、サンターガタの農場へ身を引っ込めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。",
"title": "生涯"
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"text": "だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごしたが、イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ2世は罷免し、カヴールが復帰すると各小国との合併が進み、1861年に統一は成就してイタリア王国が誕生した。カヴールは初代首相に就任し、彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。議会中静かに座っている自信が無いと断るヴェルディは逆に説得されしぶしぶ立ち、彼は当選した。下院議員の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、6月に当のカヴールが亡くなると意欲は失せ、4年の任期中に特に目立つ政治活動は行わなかった。",
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1861年秋、ヴェルディは音楽制作に戻っていた。激変したイタリアに刺激された事、また、まだ知らぬロシアからのオファーが舞い込んだことも情熱を掻き立てた。一流の歌手が揃うペテルブルクの帝室歌劇場も期待させた。題材をスペインの戯曲に求め、書き上げた曲を携えて12月に夫妻は汽車の乗客となった。しかし、ソプラノ歌手が体調を崩して舞台は中止され、質を落とす位ならばと数ヶ月単位の延期を決めて夫妻はパリに向かった。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1862年2月、ヴェルディはパリでロンドン万国博覧会用の作曲依頼を受けた。これはドイツのジャコモ・マイアベーア、フランスのダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールと並んだ打診であり、ヴェルディはいわばイタリア代表とも言えた。彼は「諸国民の賛歌 (Inno delle Nazioni)」を作曲し、見物を兼ねてロンドンを訪問したが、万博の音楽監督を担当したナポリ出身の作曲家が面白くなく思ったのか「諸国民の賛歌」演奏を断った。結果、別に演奏され好評を博したが、この曲のイタリア公演は再び不穏さを増した政治情勢を鑑みて断った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "そして秋になり、再びペテルブルクに入ったヴェルディは11月に開演した『運命の力』に一定の満足を得て、しかも聖スタニスラス勲章を贈られる栄誉に授かった。ただしこの作品は他の都市ではあまり評価されなかった。3人が死を迎えて終わるフィナーレ、場面を強調するあまり筋のつながりが悪いなど、台本に無理があった。しかし音楽では、脇役も含めた人物の特徴を表現する多彩な合唱や、テーマや場面そして人物の感情の変化などを繋ぐ音楽はヴェルディの創意が反映していた。数年後には台本の改訂を受けて再演され、本作品は高く評価された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "翌年、『運命の力』スペイン公演を指揮し、さらに『シチリアの晩鐘』再演のためヴェルディはパリに入った。だが、相変わらずオペラ座の仕事は遅くいい加減で、リハーサルを面倒臭がる団員たちにヴェルディは怒りを爆発させイタリアに帰ってしまった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "サンターガタに引っ込み、夫妻で農場経営に精を出すヴェルディは「昔から私は農民だ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽界にはドイツから吹く新しい風に晒され、若い作曲家たちはリヒャルト・ワーグナーから強い影響を受けてヴェルディを過去の人とみなし始めていた。彼はそのような評判を受け流しつつも、皮肉を返すなど内心は穏やかでなかった。そして興行主からはヴェルディの才能は依然高く評価されていた。1864年夏にパリで出版を勤しむエスキュディエから『マクベス』改訂版の上演を打診されると、これをヴェルディは受けた。しかし、ヴェルディの思想とフランス観衆の嗜好が合わず、1865年の公演は失敗した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "だが、1867年にヴェルディは、パリ万国博覧会記念のオペラ制作依頼を、しかも会場があのオペラ座ながら受諾する。フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲を題材に選び始まった制作に彼は集中する。傲慢と孤独の間を揺れ動く主人公の心情を描き出すソロは旋律だけに頼らず楽器の音色を効果的に使い、宗教と国家の対立と結末を前例が無いバスの二重唱で表現する。劇性を重視する姿勢はより鮮明に打ち出した。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "しかし、結果はまたも惨憺たるもので終わる。前作同様パリはオペラに不必要なバレエの挿入を求め、また観客が夕食から最終列車までの間に観劇が終わるように筋の短縮を迫り、オペラ座の怠慢は全く変わらない。綿密な構想も切り刻まれては観客の心は掴めず、1867年3月開演の『ドン・カルロ』は酷評に晒され、敗北したヴェルディはその後のオペラ座からの打診を受けなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "またもヴェルディが音楽活動を休止した。1868年2月、父カルロが亡くなった。彼は弟(ヴェルディの叔父)の娘フィロメーナを養育していたが、彼女はヴェルディ夫妻が引き取り養女とした。半年後、今度はもうひとりの父であるアントーニオ・バレッツィの死を看取った。病に倒れてからは妻ジュゼッピーナも看病に通っていたが回復は叶わず、ヴェルディが弾くピアノ「黄金の翼」を聴きながら息を引き取った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "同年秋、ヴェルディは尊敬する同時代人のひとりジョアキーノ・ロッシーニの死に、他の著名なイタリア人作曲家たちとのレクイエム組曲を共作することになった。しかし彼は熱心に取り組んだが、無報酬であったため他の者はいまひとつ乗らず計画は頓挫した。ヴェルディは、これは長年の友人であり、指揮を予定されていたアンジェロ・マリアーニに熱意が不足していたためと非難した。これにより2人の友情は壊れた。この背景には、ヴェルディ夫妻が度々ヴェネツィアを旅行した際、マリアーニは婚約していたソプラノ歌手テレーザ・シュトルツ(英語版)と会っていたが、考え方の違いなどが影響しマリアーニとシュトルツの関係は段々と悪化していった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持ちを傾け始めたためとの疑念を持っており、計画に乗り気でなかったことがあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1869年、ヴェルディは『運命の力』に改訂を施して久しぶりとなるスカラ座公演を行った。結末を変更し、新しい曲を加えた本作は成功した。特にソプラノのテレーザ・シュトルツは輝き、ヴェルディは満足した。それでも音楽の世界に戻ろうとはしなかった。1871年、何度もオファーを繰り返していたオペラ座の監督デュ・ロクルはエジプトから新しいオペラハウス用の依頼を持ち込んだ。遠隔地でもあり乗り気でなかったヴェルディだが、劇場側はそれならばグノーかワーグナーに話を持ちかけるとほのめかして焚きつけ、彼の受諾を引き出した。しかしヴェルディは破格の条件をつけ、報酬は『ドン・カルロ』の3倍に当たる15万フラン、カイロ公演は監修しない事、さらにイタリアでの初演権を手にした 。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "仕事が始まればヴェルディは集中する。受け取ったスケッチからデュ・ロクルと共同で台本を制作し、エジプトの衣裳や楽器、さらには信仰の詳細まで情報を手に入れて磨きをかけ『アイーダ』を仕上げた。ところが7月に普仏戦争が勃発し、パリで準備していた舞台装置が持ち出せなくなり、カイロ開演の延期を余儀なくされた。一方でヴェルディはスカラ座公演の準備を予定通り進め、慌てたエジプト側はこの年のクリスマスに何とか開演の目処をつけた。わだかまりからマリアーニは指揮を断り、自身も立ち会わないヴェルディは若干不安を覚えたが、初演は大好評を博した。そして1872年2月、アイーダ役のシュトルツのために「おお、我が祖国」を加えた『アイーダ』はスカラ座で開演し、大喝采を浴びた。なお、『アイーダ』はしばしば1869年のスエズ運河開通を記念するために制作されたという説が述べられるが、これはある有名批評家の個人的憶測が元になっている俗説に過ぎない。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『アイーダ』はヴェルディの集大成と言える作品である。コンチェルタートは力強く明瞭な旋律で仕上げ、各楽器の音色を最大限に生かした上、「凱旋行進曲」用に長いバルブを持つ特製のアイーダ・トランペットを開発した。長年目指した曲と劇との融合では、「歌」を演劇の大きな構成要素に仕立て、アリア、シェーナ、レチタティーヴォなど旧来のどのような形式にも当てはまらず、劇全体を繋ぐ独唱・合唱を実現した。パリの経験を上手く消化し、バレエも効果的に挿入された。さらに『椿姫』以来となる女性を主役としたあらすじは、以前のほとんどの作品にあった悲劇的な死ではない官能的な生との別れで終え、観客を強く魅了した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『アイーダ』と改訂版『ドン・カルロ』はイタリアから世界各地で上演され、どれも好評を得た。ヴェルディはナポリの初演に立ち会うが、その傍らには妻ジュゼッピーナだけでなくシュトルツも付き添い、新聞のゴシップネタとなった。これに対しヴェルディは沈黙し、ジュゼッピーナは悩みつつも醜聞が、既にマリアーニとの婚約を解消していたシュトルツの耳に入らないよう気を配った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "1873年にヴェルディは、亡くなった尊敬する小説家であり詩人であったアレッサンドロ・マンゾーニを讃える『レクイエム』を作曲した。これには、ロッシーニに捧げる「レクイエム」の一部を用いていた。一周忌の1874年5月にミラノの大聖堂で公演された同曲は3日後にスカラ座で再演されるが、そこではよもや死者を追悼する曲から劇場のそれに変貌し、賞賛と非難が複雑に飛び交った。それでもヴェルディの栄華は最高潮にあった。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。父が亡くなった際に引き取った従妹はマリアと改名し18歳を迎えて結婚した。相手はパルマの名門一家出のアルベルト・カルラーラであり、夫婦はサンターガタに同居した。邸宅はヴェルディ自らが設計し、増築を繰り返して大きな屋敷になっていた。自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その一方で公の事は嫌い、1874年には納税額の多さから上院議員に任命されるが、議会には一度も出席しなかった。慈善活動には熱心で、奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。その頃に彼はほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。手遊びの作曲「主の祈り」「アヴェ・マリア」を書き始めたことを聞いたリコルディはジュゼッピーナとともに働きかけ、シュトルツの引退公演となるスカラ座の『レクイエム』指揮を引き受けさせた。成功に終わった初演の夜、夕食を共にしたジューリオ・リコルディはヴェルディに久しぶりの新作を打診した。後日、アッリーゴ・ボーイトが持参したシェイクスピア作品の台本を気に入ったが、いまひとつ踏ん切りがつかずボーイトに改訂の指示を与え、サンターガタに送るように言ってその場を凌いだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1879年11月、農場に届いたボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられる。早速ミラノに行き話し合いを行った。しかしヴェルディは数年のブランクに不安を覚え、なかなか契約を結ばなかった。そこでリコルディはまたも一計を案じ、ボーイトと共作で『シモン・ボッカネグラ』改訂版制作を提案した。大胆なボーイトの手腕に触発されてヴェルディも新たな作曲を加え、1881年3月のスカラ座公演はかつてとは打って変わって大盛況を得た。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "そして『オテロ』は動き始めたが、なかなか順調に物事は進まなかった。リコルディとボーイトがサンターガタを訪問し台本を詰めた。しかし『ドン・カルロ』3度目の改訂版制作で半年の足止めを受けた。さらに1883年2月にワーグナーの訃報に触れると、「悲しい、悲しい、悲しい...。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーに、ヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
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"text": "それでも1884年の『ドン・カルロ』改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかり始めた。ボーイトはヴェルディを尊敬し、ヴェルディはボーイトから刺激を受けながら共同で取り組んだ。特にヴェルディは登場人物「ヤーゴ」へのこだわりを見せ、それに引き上げられて作品全体が仕上がっていった。そして1886年11月に、7年の期間をかけた『オテロ』は完成した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演にスカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立った。チェロ演奏を担当していた若きアルトゥーロ・トスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。『リゴレット』を越える嵐の表現で開幕し、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事に拘らず、完成度の高い劇作を現実のものとした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "『オテロ』を成功で終えたヴェルディは虚脱感に襲われていた。ローマ開演の招待を断り、また農場に引っ込むと、建設された病院の運営など慈善事業に取り組んだ。そして、引退した音楽家らが貧困に塗れて生涯を終えるさまを気に病んでいたヴェルディは、彼らのために終の棲家となる養老院建設を計画した。これにはボーイトの弟で建築家のカミッロ(英語版)が協力者となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "一方でボーイトは、ヴェルディの才能は枯渇していないことを見抜いていた。しかし一筋縄ではいかないと、ヴェルディの心残りを突く事にした。散々な評価で終わった『一日だけの王様』以来、ヴェルディが喜劇に手を染めたことは無かった。ボーイトはシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を下敷きに一冊のノートを書き、ヴェルディに示した。そして魅力的な数々の言葉を投げた。「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と。ヴェルディは乗った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "二人は秘密裏に制作を行った。ヴェルディが新作オペラに取り組んだことが知れると興行主たちが黙っていない上、既に老齢の彼には自信が無かった。親しい友人の訃報も、彼の気力を萎えさせた。しかし、ボーイトが提案した台本は面白く、シェイクスピアを楽曲に訳す作業や主人公の太っちょに息吹を吹き込むことは心底楽しめた。途中、リコリディにばれてしまったが、1年半をかけて『ファルスタッフ』は仕上がった。次はスカラ座に場所を移し、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演には『シモン・ボッカネルラ』改訂版や『オテロ』を演じた実績を持つヴィクトル・モレル(英語版)が努めることになった。ヴェルディは相変わらず完璧を求め、7-8時間のリハーサルも行われた。",
"title": "生涯"
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"text": "そして1893年2月、79歳になったヴェルディの新作『ファルスタッフ』は開幕した。彼が目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、モレル演じる太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。",
"title": "生涯"
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"text": "『ファルスタッフ』は上演された各地で喝采を浴び、他人に強制されることを極度に嫌っていたヴェルディも向かった。1894年にはフランス語版『オテロ』がいわくつきのオペラ座で公演されることになったが、ヴェルディは拘らずバレエを加えた。初演ではフランス第三共和政大統領のカジミール・ペリエから2度目のレジオンドヌール勲章を受けた。80歳を越えてもまだ精力的に見えるヴェルディに誰もが次回作を期待し、ボーイトも新しい台本を秘かに準備していた。しかし、彼は既に引退を決意していた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "ヴェルディはサンターガタに戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組んだ。構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムズィチスティ(Casa di Riposo per Musicisti、音楽家のための憩いの家(英語版))建設にオペラ制作同様に情熱をかけた。趣味的に作曲も行い、「聖歌四篇」もこの頃に作られた。公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断った。その中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒らげた。同校の改名はヴェルディの死後に行われた。",
"title": "生涯"
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"text": "だが1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失った(その後もミラノにて生活。Deagostini刊『The Classic Collection』第14号を見よ)。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取った。ヴェルディは目に見えて落胆し、娘マリアやボーイト、そしてシュトルツが付き添った。しばらくして少し回復し、恒例のヴェネツィアへも出掛けたが、彼自身は自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意した。",
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"text": "同年末、娘マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していた。1月20日の朝、起きぬけのヴェルディは脳血管障害を起こして倒れ、意識を失った。多くの知人に連絡が届き、シュトルツ、リコルディ、ボーイトらが駆けつけた。王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められた。しかし、1901年1月27日午前2時45分頃、偉大な作曲家兼農家の男は87歳で死去した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、ジュゼッピーナが眠る礼拝堂に葬られた。出棺時にはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮し820人の歌手が「行け、わが想いよ」を歌った。遺言では簡素な式を望んでいたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われ、トスカニーニ指揮の下『イル・トロヴァトーレ』から「ミゼレーレ (Miserere)」が歌われた。彼の墓には、最初の妻マルゲリータの墓標と二人目の妻ジュゼッピーナが沿い、後に亡くなったシュトルツの墓は控えめに入り口のバルコニーにある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "イタリア・オペラ史において、1842年の『ナブッコ』から1871年の『アイーダ』までの30年間は特に「ヴェルディの時代」と呼ばれ、歌手の技量に依存する度合いが高いベルカントが衰退してゆき、代わって劇を重視した作品構成が主流となった転換期に相当する。これはヴェルディとワーグナーが導入した手法によるが、イタリアの変革は前者による影響が圧倒的である。",
"title": "作品の変遷"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ヴェルディの生涯を通したオペラ作品は、3もしくは4区分で解釈されることが多い。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までを第1期、『リゴレット』から『アイーダ』までを第2期、晩年の『オテロ』と『ファルスタッフ』を第3期と置く場合と、晩年は同じながら『マクベス』の存在を重視して『アッティラ』までを1期、『マクベス』から『椿姫』までを2期、『シチリアの晩鐘』から『アイーダ』までを3期、残りを4期とする考えもある。以下では4期区分を軸に解説する。",
"title": "作品の変遷"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1期のヴェルディ作品には愛国精神を高揚させる題材が多く、『ナブッコ』で描いた権力者と虐げられた人民の対比を皮切りに、特にそれを意図した『十字軍のロンバルディア人』好評の主要因となった。当時はウィーン会議(1814-1815年)以降他国に支配された状況への不満が噴き出しリソルジメントが盛り上がりを見せていた。何度もの反乱の勃発と挫折を見てきたイタリア人たちは、1846年に即位したピウス9世が政治犯の特赦を行ったことで光明を見出していた。この時期のヴェルディ作品はそのような時流に乗り、エネルギッシュであり新しい時代の到来を感じさせ、聴衆の欲求を掻き立てた。それは聴衆を魅了することに敏感なヴェルディの感覚から導かれたとも言う。しかし、作品の完成度や登場人物の掘り下げ、劇の構成などには劣る部分も指摘される。",
"title": "作品の変遷"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し、ベルカントを否定してレチタティーヴォを中心に据えるなど合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには演出家はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した。『群盗』は主役のジェニー・リンドを立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった。",
"title": "作品の変遷"
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"text": "しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった。",
"title": "作品の変遷"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "『シチリアの晩鐘』の出来はヴェルディに不満を残したが、フランス・オペラ座での仕事を通じ彼はグランド・オペラの手法を取り入れた。『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』は改訂版を含め劇作性を高める方向を強め、『ドン・カルロ』は初演ではいま一つだったが、その改訂版および『アイーダ』ではイタリア流グランド・オペラの成熟を実現した。",
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"text": "特に『アイーダ』は多国籍の様式を混合させた。イタリア・オペラの華麗な旋律で満たしながら、声楽を重視する点は覆して管弦楽とのバランスを取らせ、以前から取り組んだドラマ重視のテーマと融合させることに成功した。舞台であるエジプトについて情報を仕入れたが、楽曲はエジプトの音楽ではなくヴェルディが独自に創造した異国的音楽であった。フランスのグランド・オペラも取り入れながら、その様式もそのままではなく工夫を凝らした4幕制を取るなど、独自の作風を実現した。",
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"text": "ヴェルディの大作は高い人気を誇り、それらを何度も繰り返して公演する方法が一般化し、例えばスカラ座はそれまで年3本程度のオペラを上演していたが、1848年以降は平均でほぼ年1本となった。これはレパートリー・システムと呼ばれた。作曲者は初演こそ慣例的に舞台を監督したが、このシステムが確立すると実際の監督は指揮者が担うことになり、オペラ専門の指揮者が現れだした。この代表がヴェルディの友で後に仲違いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品から始まったとも言えるが、指揮者の権限が強まると中には勝手に改作を施す者も現れ、ヴェルディは激怒したと伝わる。しかし、この流れは20世紀の演奏重視の傾向へ繋がってゆく。",
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"text": "16年の空白を経て発表された新作『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『リア王』を温めていたヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった。",
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"text": "『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム)に対するイタリア側からの回答となった。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという。",
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"text": "『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハ、モーツァルト、ベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した。",
"title": "作品の変遷"
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"text": "音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる。",
"title": "イタリア統一運動への影響"
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"text": "しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった。",
"title": "イタリア統一運動への影響"
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"text": "その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった。",
"title": "イタリア統一運動への影響"
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"text": "後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される。 また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。",
"title": "イタリア統一運動への影響"
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"text": "ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが、カヴールが亡くなると興味を失った。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった。",
"title": "イタリア統一運動への影響"
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"text": "ブッセートのバレッツィ家で、子供の頃のジュゼッペ・ヴェルディが演奏した楽器は、アントン・トマーシェクのピアノだった。後にヴェルディはヨハン・フリッツのピアノを好み、1851年の「リゴレット」から1871年の「アイーダ」の頃まで、ウィーン風6本ペダルのフリッツピアノを使用した。このピアノは現在、イタリアのピアチェンツァ県にある作曲家のヴェルディ邸で見ることができる。",
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"text": "リミニで行われた1857年のA.ガッリ劇場の落成式の際、ヴェルディが演奏したのはヨーゼフ・ダンクのグランドピアノだった。",
"title": "楽器"
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] |
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディは、イタリアの作曲家。19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。「オペラ王」の異名を持つ。 代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)イタリアの紙幣に肖像が採用されていた。
|
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
| 名前 = ジュゼッペ・ヴェルディ<br>Giuseppe Verdi
| 画像 = Giuseppi Verdi by Ferdinand Mulnier c1870.jpg
| 画像説明 = 1870年頃撮影
| 画像サイズ = 200px
| 背景色 = classic
| 出生名 = ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ<br>Giuseppe Fortunino Francesco Verdi
| 別名 = オペラ王
| 出生 = [[1813年]][[10月10日]]<br>{{FRA1804}}、{{仮リンク|タロ (フランス)|en|Taro (département)|label=タロ地区}}、{{仮リンク|レ・ロンコーレ村|en|Le Roncole}}
| 死没 = {{死亡年月日と没年齢|1813|10|10|1901|1|27}}<br>{{ITA1861}}、[[ミラノ]]
| 学歴 = <!-- 個人のみ -->
| ジャンル = [[ロマン派音楽]]
| 職業 = [[作曲家]]
| 活動期間 = [[1840年]] - [[1893年]]
}}
[[Image:Giuseppe_Verdi_signature.svg|thumb|275px|署名]]
[[ファイル:Lire_1000_(Giuseppe_Verdi).JPG|250px|サムネイル|ジュゼッペ・ヴェルディの肖像がデザインされている1000リラ紙幣]]
{{Portal クラシック音楽}}
'''ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ'''(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、[[1813年]][[10月10日]] - [[1901年]][[1月27日]])は、[[イタリア]]の[[作曲家]]。19世紀を代表するイタリアの[[ロマン派音楽]]の作曲家であり、主に[[オペラ]]を制作した。「オペラ王」の異名を持つ。
代表作は『[[ナブッコ]]』、『[[リゴレット]]』、『[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]』、『[[アイーダ]]』などがある。彼の作品は世界中の[[オペラハウス]]で演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される<ref name=Ishi2>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.2-3、イントロダクション]]</ref>。[[1962年]]から[[1981年]]まで、1000[[イタリア・リラ|リレ]]([[リラ (通貨)|リラ]]の複数形)イタリアの紙幣に肖像が採用されていた。
== 生涯 ==
=== 年少時 ===
[[Image:Dep-fr-it.jpg|thumb|150px|left|半島つけ根内陸の赤い部分がタロ (Taro) 地区]]
[[Image:Epinette Rouaud.JPG|thumb|150px|left|スピネットの例。ただしこれはヴェルディが所有したものではない。]]
ヴェルディは、父カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母ルイジア・ウッティーニの間に初めての子供として生まれる<ref name=Kato10>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.10-15、生誕]]</ref>。(後に妹も生まれた)生誕地は[[ブッセート]]近郊の小村<ref name=Kato10 />{{仮リンク|レ・ロン・コーレ村|en|Le Roncole}}だが、ここは[[パルマ公国]]を併合した[[フランス第一帝政]]の{{仮リンク|タロ (フランス)|en|Taro (département)|label=タロ地区}}に組み込まれていた。彼は[[カトリック教会]]で[[洗礼]]を受け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) の[[ラテン語|ラテン]]名を受けた。登録簿には10月11日付け記録に「昨日生まれた」とあるが、当時の教会歴の日付は日没で変更されていたため、誕生日は9日と10日のいずれの可能性もある。翌々日の木曜日、父は3[[マイル]]離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請し、吏員は[[フランス語]]で記録した。「こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった」
カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村の聖ミケーレ教会の[[パイプオルガン]]を熱心に聴いた。8歳の時、両親は中古の[[スピネット]]を買い与えると、少年は熱中して一日中これに向かった<ref group="注釈">このスピネットは「憩いの家」に展示されている([[#加藤2002|加藤 (2002)、p.52]])。ヴェルディが夢中になって弾くせいで一度壊れたが、カヴァレッティという職人が修理をした。この際に彼はヴェルディの腕前に感動して費用を請求せず、スピネットの蓋の裏に「少年の優れた音楽の資質が、私への代金だ」と書き残した([[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.10-15、生誕]])。</ref>。請われて演奏法を教えた教会のオルガン弾きバイストロッキは、やがて小さな弟子が自分の腕前を上回ったことを悟り、時に自分に代わってパイプオルガンを演奏させた。やがて評判は広がり、カルロと商取引で関係があった音楽好きの商人{{仮リンク|アントーニオ・バレッツィ|it|Antonio Barezzi}}の耳にも届いた。バレッツィの助言を受けたカルロは、息子の才能を伸ばそうとブッセートで学ばせることを決断した<ref name=Kato10 />。
=== ブッセートとミラノ ===
1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きや[[ラテン語]]を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。バレッツィの家にも通い、公私ともに援助を受ける一方で、彼を通じて町の音楽活動にも加わるようになった。作曲や演奏、そして指揮などの経験を重ね、ヴェルディの評判は町に広がった。17歳になった頃にはバレッツィ家に住むようになり、長女{{仮リンク|マルゲリータ・バレッツィ|it|Margherita Barezzi}}と親密な間柄になっていった<ref name=Kato16>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.16-21、少年の夢]]</ref>。
しかし、更なる進歩を得ようと当時の音楽の中心地[[ミラノ]]へ留学を目指した。費用を賄うためにモンテ・ディ・ピエタ奨学金<ref name=Yui>{{Cite web|和書| title=ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ「ナブッコ」がイタリア統一運動に与えた音楽的影響の考察|author=油井宏隆| publisher=Ci-Nii Article、[[大阪城南女子短期大学]] | accessdate=2011-02-25 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006162696 | language=日本語}}</ref>を申請し、バレッツィからの援助も受け<ref name=Kato16 />1832年6月にミラノに移り住んだ<ref name=Kato22>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.22-27、烙印]]</ref>。ヴェルディは既に規定年齢を超えた18歳であったが、これを押して音楽院の入学を受けた。しかし結果は不合格に終わり、仕方なく音楽教師のヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人指導を受けた<ref name=Kato22 />。
[[Image:XIX century print, Piazza della Scala, Milano.jpg|thumb|200px|left|19世紀のスカラ座。]]
音楽院で[[ソルフェージュ]]教師を務めるラヴィーニャは、また[[スカラ座]]で作曲や<ref name=mizu190-2>[[#水谷2006|水谷 (2006)、p.190-192、初期のヴェルディ作品]]</ref>演奏も担当していた。彼はヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた<ref name=Kato22 />。知り合った指揮者のマッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった<ref name=Kato28>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.28-34、焦燥]]</ref>。
そのような頃、プロヴェージ死去の報が届いた。彼は大聖堂のオルガン奏者、音楽学校長、町のフィルハーモニー指揮者兼音楽監督などブッセートの重要な音楽家であった。バレッツィはヴェルディを呼び戻して後継させようとしたが、進歩的なプロヴェージを嫌っていた主席司祭が対立候補を立て、町を巻き込んだ争いに発展した。ミラノに後ろ髪を引かれつつもバレッツィへの義理から、1836年2月にヴェルディは[[パルマ]]で音楽監督試験を受け絶賛されつつ合格し、ブッセートへ戻って職に就いた<ref name=Kato28 />。
22歳のヴェルディは着任したブッセートでまじめに仕事に取り組み、同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女ヴィルジーニアが生まれた。しかし心中では満足できず、秘かに取り組んでいた作曲『ロチェステル』を上演できないかとマッシーニへ働きかけたりした。1838年には長男イチリオが生まれ、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱に苦しんだ末に亡くなった。イチリオの出産以来体調が優れないマルゲリータや、未だ尾を引く主席司祭側とのいざこざ、自らの音楽への探求、そして生活の変化を目指し、ヴェルディは再びミラノへ行くことを決断した<ref name=Kato28 />。
=== 処女作『オベルト』 ===
引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『[[オベルト]]』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭には[[ソプラノ]]の[[ジュゼッピーナ・ストレッポーニ]]や[[テノール]]のナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した<ref name=Kato35>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.2-3、イントロダクション]]</ref>。
ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本は[[テミストークレ・ソレーラ]]の修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された<ref name=Kato35 />。
ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜は[[リコルディ]]社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた<ref name=Kato35 />。
=== 黄金の翼 ===
次回作にメレッリは『追放者』という[[オペラ・セリア]]を提案したがヴェルディは気が乗らず、代わりに[[オペラ・ブッファ]](喜劇)『贋のスタラチオ』を改題して取り組むことになった。ところが1840年6月18日、マルゲリータが[[脳炎]]に罹り死去した。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えメレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、どこか呆然としたまま『{{仮リンク|一日だけの王様|en|Un giorno di regno}}』を仕上げた。9月5日、スカラ座の初演で、本作は散々な評価を下され、公演は中断された。ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた<ref name=Kato35 /><ref name=Ishi16>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.16-21、ナブッコ、ヒストリー&エピソード]]</ref>。
[[Image:Va, pensiero.jpg|thumb|300px|left|「行け、わが想いよ (Va, pensiero)」の旋律]]
年も押し迫ったある日の夕方、街中でメレッリとヴェルディは偶然会った。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書の[[ネブカドネザル2世|ナブコドノゾール王]]を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って (Va, pensiero, sull'ali dorate)」が眼に入り<ref group="注釈">ヴェルディの伝記には必ず登場する場面。台本が落ちた場所には、「机」([https://ci.nii.ac.jp/naid/110006162696 油井宏隆])、「テーブル」([[#加藤2002|加藤 (2002)、p.44]])、「ベッド」([[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、p.17]])、「落とした」([[#オペラの発見1995|オペラの発見 (1995)、p.167]])など様々に言われる。</ref>、再び音楽への意欲を取り戻した<ref name=Kato35 /><ref name=Ishi16 /><ref group="注釈">メレッリがヴェルディに押し付けた台本『ナブッコ』は、ドイツ出身の[[オットー・ニコライ]]が断ったものだった。メレッリは代わりにヴェルディが拒否した『追放者』を渡した。いわばネレッリはニコライとヴェルディの間で2つの台本を交換していた。ヴェルディの『ナブッコ』は成功を収めたが、1841年にスカラ座で初演されたニコライの『追放者』は駄作の烙印を押され、1公演で打ち切られた。これはニコライにとって大変な屈辱で、彼は後年になってもヴェルディの実力を認めなかった。([[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.17-18]])</ref>。
[[Image:Nabucco.jpg|thumb|200px|right|『ナブッコ』の舞台(2004年)]]
ソレーラに脚本の改訂を行わせ、作曲を重ねたヴェルディは1841年秋に完成させた。彼は[[謝肉祭]]の時期に公演される事に拘り、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えた。観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、黄金の翼の合唱では当時禁止されていた[[アンコール]]を要求するまで熱狂した{{efn|異説あり。[[ジュゼッペ・ヴェルディ#イタリア統一運動への影響|後述]]。詳細は[[ナブッコ#初演時の評判――伝説とその検証]]を参照}}。1日にしてヴェルディの名声を高めたオペラ『[[ナブッコ]]』は成功を収めた<ref name=Kato35 />。
=== ガレー船の年月と『マクベス』 ===
『ナブッコ』は春に8回、秋にはスカラ座新記録となる57回上演された<ref name=Ishi16 />。ヴェルディは本人の好みに関わらず社交界の寵児となり、{{仮リンク|クララ・マッフェイ|en|Clara Maffei}}の招きに応じてサロット・マッファイの[[サロン]]に加わった。このような場で彼はイタリアを取り巻く政治的な雰囲気を感じ取った。一方メレッリとは高額な報酬で次回作の契約を交わし、1843年2月に愛国的な筋立ての<ref name=mizu190-2 />『[[十字軍のロンバルディア人]]』が上演され、これもミラノの観衆を熱狂させた。2作は各地で公演され、『ナブッコ』の譜面は[[マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ]]に、『十字軍のロンバルディア人』のそれは[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリア・ルイーザ]]にそれぞれ贈られた<ref name=Kato67>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.67-76、囚われの時代 その1]]</ref>。
{{Listen
|title="おお、偉大なるカルロ"
|filename=Mattia_Battistini,_Emilia_Corsi,_Luigi_Colazza,_Aristodemo_Sillich,_Giuseppi_Verdi,_O_sommo_Carlo_(Ernani).ogg
|description=『[[エルナーニ]]』、1844年、Act 3。出演:マッティア・バッティスティーニ、エミリア・コルシ、ルイジィ・コラッツァ、アリストデモ・Sillich、スカラ座・コーラス、1906年。
}}
数々の劇場からオファーを受けたヴェルディの次回作は[[ヴィクトル・ユーゴー]]原作から『[[エルナーニ]]』が選ばれ、台本は駆け出しの[[フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ]]が担当した。ヴェルディは劇作に妥協を許さず何度もピアーヴェに書き直しを命じ、出演者も自ら選び、リハーサルを繰り返させた。1844年3月に[[ヴェネツィア]]の[[フェニーチェ劇場]]で初演を迎えた本作も期待を違えず絶賛された。それでもヴェルディは次を目指し、後に「ガレー船の年月」<ref group="注釈">[[ガレー船]]を漕ぐ奴隷のように休み無く働き続ける様に喩えている。[https://web.archive.org/web/20110624065726/http://www.geocities.jp/opera525/otello.htm 「オペラの歓び」月例会(第28回)2006年4月8日]</ref>と回顧する多作の時期に入った<ref name=Kato67 />。
[[ローマ]]用に制作した[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]原作の『{{仮リンク|二人のフォスカリ|en|I due Foscari}}』(1844年11月)、[[ジャンヌ・ダルク]]が主役の[[フリードリヒ・フォン・シラー]]作の戯曲から『{{仮リンク|ジョヴァンナ・ダルコ|en|Giovanna d'Arco}}』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『{{仮リンク|アルツィーラ (オペラ)|en|Alzira (opera)|label=アルツィーラ}}』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。しかしヴェルディは[[リウマチ]]{{要曖昧さ回避|date=2014年8月12日}}に苦しみ、連作の疲れに疲弊しつつあった。続く『[[アッティラ (ヴェルディ)|アッティラ]]』では男性的な筋からソレーラに台本を依頼するも仕事が遅い上に途中で[[スペイン]]旅行に出掛ける始末でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上げさせるとソレーラとは袂を分けた<ref name=Kato77>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.77-87、囚われの時代 その2]]</ref>。1846年3月の封切でも好評を博したが<ref name=Kato77 />、過労が顕著になり<ref name=mizu190-2 />医者からは休養を取るようにと助言された<ref name=Kato88>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.88-93、改革者への道]]</ref>。
1846年春から、ヴェルディは完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。そして、ゆっくりと『[[マクベス (ヴェルディ)|マクベス]]』の構想を練った。[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[マクベス (シェイクスピア)|同名戯曲]]を題材に、台本を制作するピアーヴェには何度も注文をつけた。時代考証のために何度も[[ロンドン]]へ問い合わせ、劇場を[[フィレンツェ]]のベルゴラ劇場に決めると前例の無い衣裳リハーサルまで行なわせた。特筆すべきは、出演者へ「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示した点があり、そのために予定された容姿端麗のソプラノ歌手を断りもした<ref name=Ishi35>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.35-40、マクベス、ヒストリー&エピソード]]</ref><ref group="注釈">代わって起用されたマリアンナ・バルビエリー=ニーニは資料に「非常に醜い」とまで書かれる人物だった。しかし強さと声域の広さを兼ね備え、アジリタの技法に優れる彼女の才能をヴェルディは高く認め、他の作品でも起用して彼女の世間的な評価を高めた。([[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、p.41]])</ref>。ここからヴェルディは音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨んだことが窺える。さらには[[ゲネプロ]]中に最も重要と考えた二重唱部分の稽古をさせるなど、妥協を許さぬ徹底ぶりを見せた。1847年3月、初演でヴェルディは38回カーテンコールに立ち、その出来映えに観客は驚きを隠さなかった。ただし評価一辺倒ではなく、華麗さばかりに慣れた人々にとって突きつけられた悲劇的テーマの重さゆえに戸惑いの声も上がった<ref name=Kato88 />。本作の価値が正しく評価されるには20世紀後半まで待たされた<ref name=Ishi35 />。
=== ジュゼッピーナと革命 ===
次の作品『{{仮リンク|群盗 (ヴェルディ)|en|I masnadieri|label=群盗}}』は初めて[[イギリス]]公演向けに書かれた。ヴェルディはスイス経由でパリに入り、弟子のエマヌエレ・ムツィオをロンドンへ先乗りさせ、引退して当地に移り住んでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニと久しぶりに会った。準備状況を知るとヴェルディも[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]に入り最後の詰めを行って、『群盗』は1847年7月に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]も観劇する中で開演された。観客は喝采したが評論家には厳しい意見もあり、騒がしい、纏まりが無いという評もあった。これらは台本の弱さや歌手への配慮などが影響した点を突いていたが、『群盗』には後にヴェルディが得意とする低域男性二重唱や美しい旋律もあり、概して彼の国際的名声を高めた<ref name=Kato95>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.95-99、ドーヴァー]]</ref>。
帰路、ヴェルディはパリに止まって[[パリ国立オペラ|オペラ座]]の依頼を受けた。しかし完全な新作を用意する余裕は無く、『十字軍のロンバルディア人』をフランス語に改訂した『イェルサレム』を制作した。そしてこの期間、頻繁にジュゼッピーナと逢い、やがて一緒に住むようになった。11月に公演された『イェルサレム』の評判はいまひとつで終わったが、彼は理由をつけてパリに留まり、バレッツィを招待さえした。1848年2月には契約で制作した『{{仮リンク|海賊 (ヴェルディ)|en|Il corsaro|label=海賊}}』をミラノのムツィオに送りつけ、彼はジュゼッピーナとの時間を楽しんでいた。そして[[1848年のフランス革命|二月革命]]の目撃者となったが、気楽な外国人の立場でそれを楽しんでさえいた<ref name=Kato101>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.101-105、恋と革命]]</ref>。
二月革命の影響は周辺諸国にも拡がり、3月にはミラノでもデモが行われ、オーストリア軍との衝突が勃発し、ついにはこれを追い出し臨時市政府が樹立された。ヴェルディがミラノに戻ったのはこの騒動が一段落した4月で、「志願兵になりたかった」という感想こそ漏らしたが5月には仕事を理由にまたパリへ向かい、暫定政権崩壊を眼にすることは無かった<ref name=Kato107>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.107-110、市民たちの戦争]]</ref>。市郊外の[[16区 (パリ)|パッシー]]でジュゼッピーナと暮らしたヴェルディは戻らず、『海賊』は初演に立ち会わない初めてのオペラとなった。しかし彼は無関心を決め込んでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞した経験等からイタリアでも統一の機運が高まる事、しかしそれには様々な問題がある事に思いを馳せていた。彼の次の作品は祖国への愛を高らかに歌う『[[レニャーノの戦い (ヴェルディ)|レニャーノの戦い]]』であり、新たに[[ローマ共和国 (19世紀)|共和国]]が樹立された[[ローマ]]で開演された。ジュゼッピーナを伴いヴェルディは訪問したが、観劇者たちは興奮して「イタリア万歳」を叫び、彼を統一のシンボルとまでみなし始めていた<ref name=Kato111>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.111-115、宴のあと]]</ref>。
喧騒の渦中にあり、また[[コレラ]]蔓延などを理由に都市部を嫌ったヴェルディは1849年夏にジュゼッピーナを連れてブッセートに戻り、オルランディ邸で暮らし始めた。ここで彼は『[[ルイザ・ミラー]]』や『{{仮リンク|スティッフェーリオ|en|Stiffelio}}』を仕上げ、人間の心を掘り下げる次回作に取り組んだ。一方、街の人々がふたり、特にジュゼッピーナに向ける眼は厳しかった。気に留めないヴェルディが仕事で町を離れる時は、彼女は[[パヴィーア]]に母を訪ねて一人残らないようにした<ref name=Kato116>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.116-120、孤独な帰郷]]</ref>。
=== 『リゴレット』 ===
{{Listen
|title=美しい愛らしい娘よ
|filename=Enrico Caruso, Bessie Abott, Louise Homer, Antonio Scotti, Giuseppe Verdi, Bella figlia dell' amore (Rigoletto).ogg
|description=『[[リゴレット]]』、1851年、Act 3. A 1907、[[ビクタートーキングマシン]]。出演:[[エンリコ・カルーソー]]、{{仮リンク|ベッシー・アボット|en|Bessie Abott}}、[[ルイーズ・ホーマー]]、{{仮リンク|アントニオ・スコッティ|en|Antonio Scotti}}
| filename2 =La Donna E Mobile Rigoletto.ogg
| title2 = "女は気まぐれ"
| description2 =『リゴレット』、1908年。出演:[[エンリコ・カルーソー]]}}
台本制作を指示されたピアーヴェは戸惑った。ヴェルディが選んだ次回作の元本はとてもオペラにはそぐわないと思われたからだった。華やかさも無く、強い政治色に、不道徳的なあらすじ、そして呪いを描いた本作は演劇としてパリで上演禁止となった代物だった<ref name=Ishi54>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.54-62、リゴレット、ヒストリー&エピソード]]</ref>。案の定上演予定のヴェネツィアの検閲で拒否された。何度かの修正が加わったが、譲れない所にはヴェルディは強硬だった<ref name=Ishi54 />。原作者ユーゴーさえオペラ化に反対した<ref group="注釈">1857年に『リゴレット』のパリ公演が決まった時、ユーゴーは差し止めの裁判を起こした。結果は敗訴し、さらに招待に嫌々ながら応じた。しかしオペラの出来映えに感激し、ヴェルディの熱心なファンになった。([[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、p.55]])</ref>作品『王は楽しむ』は、封切り予定1ヶ月前に許可が下り、1851年3月に初演を迎えた。これが『[[リゴレット]]』であった<ref name=Kato139>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.139-147、瘤を背負った道化師、あるいは愛しすぎた父]]</ref>。
『リゴレット』はあらゆる意味で型破りな作品だった。皮切りでお決まりの合唱も無く、会話から始まる第一幕。[[カヴァティーナ]](緩)から[[カバレッタ]](急)の形式を逆転させた[[アリア]]、朗読調の二重唱、アリアと見紛う劇的なシェーナ([[劇唱]])の多用<ref name=Ishi54 />、渾身の自信作「女ごころの唄」、そして『マクベス』以来ヴェルディが追い求めた劇を重視する姿勢、嵐など自然描写の巧みさ、主人公であるせむしの道化リゴレットの怒り、悲哀、娘への愛情など感情を盛り立てる筋と音楽は観衆を圧倒し、イタリア・オペラ一大傑作が誕生した<ref name=Kato139 />。
=== サンターガタの農場 ===
『リゴレット』の成功は、ヴェルディに創作活動の充実に充分な財産、そして時間に追われず仕事を選べる余裕をもたらした。しかし私生活は万事順調とはいかなかった。ジュゼッピーナに向けられるブッセートの眼は相変わらず厳しく、それは家族も例外ではなかった。しかも父カルロが息子の管財人になったと吹聴してまわり、干渉を嫌うヴェルディは両親と距離を置き、1851年春に以前購入していた郊外のサンターガタ([[ヴィッラノーヴァ・スッラルダ]])にある農場に居を移した。6月に母が亡くなった事に悲しむが、ヴェルディは次の作品に取り組んで気を紛らわした。年末にはジュゼッピーナのためパリに移り、その突然さからバレッツィと少々揉めたが、翌年サンターガタに戻った2人と元々ジュゼッピーナに味方する義父は、その関係を修復できた。
{{Listen
|title=炎は燃えて
|filename=Gabriella Besanzoni, Giuseppe Verdi, Stride la vampa (Il Trovatore).oga
|description=『[[イル・トロヴァトーレ]]』、1853年、Act 2.。出演:ガブリエラ・ベザンツォーニ、1920年
|title2=ああ, そはかの人か〜花から花へ
|filename2=Lucrezia_Bori, Giuseppe Verdi, Ah! fors' e lui_(La traviata).ogg
|description2=『[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]』1853年、Act 1.。出演:{{仮リンク|ルクレツィア・ボーリ|en|Lucrezia Bori}} }}
1853年1月ローマのアポロ劇場で封切りされた『[[イル・トロヴァトーレ]]』は若干旧来の形式に巻き戻されたものだったが[[カヴァティーナ]]形式の傑作として<ref name=Ishi76>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.76-81、トロヴァトーレ、ヒストリー&エピソード]]</ref>成功を収め、ほぼ同時に構想を練った次回作に取り組んだ<ref name="Kato149">[[ジュゼッペ・ヴェルディ#加藤2002|加藤 (2002)、pp.149-157、歌を極める]]</ref>。しかしこの『[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]』3月のヴェネツィア初演は、ムツィオに宛てた手紙に書かれたように「失敗」<ref name=Ishi95>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.95-106、トラヴィアータ、ヒストリー&エピソード]]</ref>となり2回公演で打ち切られた。充分なリハーサルも取れなかった上、病弱なヒロインを演じるにはソプラノ歌手の見た目は健康的過ぎた。3幕でヒロインが死ぬシーンでは失笑さえ漏れた<ref name=Ishi95 />。しかしヴェルディは雪辱に燃え、配役などを見直して5月に同じヴェネツィアで再演すると、今度は喝采を浴びた。この作品はヴェルディ唯一の[[プリマドンナ]]・オペラであった<ref name=Kato158>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.158-166、道を踏み外した女、あるいはお伽噺]]</ref>。
しばらくの間サンターガタで休息を取り、ヴェルディは[[グランド・オペラ]]への挑戦という野心を秘めパリに乗り込んだ。しかしこれは成就しなかった。『[[シチリアの晩鐘 (ヴェルディ)|シチリアの晩鐘]]』制作では、オペラ座所属の台本作家[[ウジェーヌ・スクリーブ]]に、その仕事の遅さも内容も満足できなかった。この仕事は彼を1年以上も拘束し、ついには契約破棄さえ持ち出した。同作は1855年6月に公演され好評を得たが、結果的にヴェルディにとって身が入らないものとなった。彼はすぐにでもイタリアに戻って「キャベツを植えたい」と言ったが、過去の作品を翻訳上演する契約などに縛られ、サンターガタに還ったのは年末になった<ref name=Kato168>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.168-174、平原と大都会の間で]]</ref>。
サンターガタの農場はヴェルディの心休まる場となっていた。既に多くの小作人を雇うまでに順調な経営は収益を上げ、彼は音楽を忘れてジュゼッピーナと農作業の日々を楽しんだ。しかし作曲に向かう衝動は抑えがたく、彼はまた制作に身を投じる。先ず手掛けたのが『スティッフェーリオ』の改訂だった。舞台を中世イギリスに変更してピアーヴェに書き直させた本作は『{{仮リンク|アロルド|en|Aroldo}}』という題で公開された。この頃には上演に応じた報酬が作曲家に払われる習慣が根付いたため、これもヴェルディの収入を安定させた。次に送り出した新作『[[シモン・ボッカネグラ]]』は朗読を重視して歌を抑え、[[管弦楽法]]による特に海の場面描写に優れた逸品だったが、1857年3月の初演では配役に恵まれず<ref name=Ishi118>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.118-124、シモン・ボッカネグラ、ヒストリー&エピソード]]</ref>、あまり評価されなかった<ref name=Kato175>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.175-183、転機]]</ref>。
=== ヴェルディ万歳 ===
[[Image:V E R D I.jpg|thumb|200px|left|掲げられた「ヴェルディ万歳」。1859年のイラスト。]]
ヴェルディが次回作に選んだ題材は、様々な問題を生じた。[[ウジェーヌ・スクリーブ]]の『グスタフ3世』は、[[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]を題材としており、そもそも実在の王族を登場人物にすることはナポリでは禁じられていた。しかも[[暗殺]]されるという筋は検閲当局が先ず認めない。さらには[[ナポレオン3世]]の暗殺未遂事件が起き、状況は悪化した<ref name=Ishi138>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.138-143、仮面舞踏会、ヒストリー&エピソード]]</ref>。契約していた興行主のアルベルティは台本の変更を主張するがヴェルディは認めず、ついには裁判沙汰になった。これはヴェルディに不利だったが世論が彼を後押しし、結果『シモン・ボッカネグラ』公演へ契約を変更することで和解した。ヴェルディは『グスタフ3世』をローマに持ち込み、妥協しうる最低限の変更でアポロ劇場での公演に漕ぎ着けた。こうして1859年2月に改題を加えた『[[仮面舞踏会 (ヴェルディ)|仮面舞踏会]]』は開幕された<ref name=Kato184>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.184-193、イタリア、あるいは「ヴェルディ万歳」]]</ref>。
{{Listen
| filename = Caruso et al - È scherzo od è follia.ogg
| title = "È scherzo od è follia"
| description =『[[仮面舞踏会 (ヴェルディ)|仮面舞踏会]]』、1859年、Act 1, Scene 2。出演:[[エンリコ・カルーソー]]、{{仮リンク|フリーダ・ヘンペル|en|Frieda Hempel}}、マリア・デュシェンヌ、アンドレス・デ・セグロラ、{{仮リンク|レオン・ロティエ|en|Léon Rothier}}.
}}
楽曲の美しさと演劇性を高度に両立させた内容の秀逸さもさることながら、その筋が時代の雰囲気に適合し、『仮面舞踏会』に観客は熱狂した。[[サルデーニャ王国|サルデーニャ国王]][[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]は、周辺諸国との関係変化を受け1月の国会で統一に向けた演説を行い、イタリア全土で機運が高まっていた<ref name=Ishi138 />。このスローガン'''Viva V'''ittorio '''E'''manuele '''R'''e
'''D'''<nowiki>'</nowiki>'''I'''talia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)が略され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と偶然になった<ref>[[#Parker2001|Roger Parker (2001)]] </ref><ref>[[#BuddenVol3|Budden,Volume 3、p.80]]</ref>ことが起因し、彼を時代の寵児に押し上げた<ref name=Kato184 />。このオペラの成功によってローマの[[アカデミア・フィラルモニカ]]名誉会員に選出されたヴェルディは、一方で聴衆は作品に正当な評価を向けていないと感じ、「もうオペラは書かない」と言って次の契約を断り、サンターガタの農場へ身を引っ込めた<ref name=Kato184 />。
=== 再婚と政治 ===
[[Image:Verdi-Delfico-1860.jpg|thumb|200px|right|{{仮リンク|メルキオーレ・デルフィコ (風刺画家)|en|Melchiorre Delfico (caricaturist)|label=メルキオーレ・デルフィコ}}によって漫画化されたヴェルディ、1860年]]
1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナは[[サヴォア]]のコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた<ref>[[#Phillips-Matz1993|Phillips-Matz (1993)、pp.394-395]]</ref>。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた<ref name=Ishi138 />。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは[[第二次イタリア独立戦争|第二次独立戦争]]でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ<ref name=Kato195>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.195-203、再婚]]</ref>。
だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援した[[ナポレオン3世]]が秘かにオーストリアと通じ[[ヴィッラフランカの休戦|ヴィッラフランカの講和]]に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相[[カミッロ・カヴール]]は辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。
[[Image:Riccio G. - Il Conte di Cavour, Primo Ministro del Regno di Sardegna - litografia - 1860.jpg |thumb|180px|left|カミッロ・カヴール。1860年。]]
パルマ公国も[[モデナ]]と合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都の[[トリノ]]でエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った<ref name=Kato195 />。
その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごしたが、イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ2世は罷免し、カヴールが復帰すると各小国との合併が進み、1861年に統一は成就して[[イタリア王国]]が誕生した。カヴールは初代[[イタリアの首相|首相]]に就任し、彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。議会中静かに座っている自信が無いと断るヴェルディは逆に説得されしぶしぶ立ち、彼は当選した<ref>[http://www.liberalsocialisti.org/articol.php?id_articol=797 "Giuseppe Verdi politico e deputato, Cavour, il Risorgimento"] on liberalsocialisti.org (In Italian) Retrieved 2 January 2010</ref>。[[イタリア下院|下院議員]]の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、6月に当のカヴールが亡くなると意欲は失せ、4年の任期中<ref name=mizu195>[[#水谷2006|水谷 (2006)、pp.195-197、円熟期のヴェルディ、メルカダンテとパチーニの後期作品]]</ref>に特に目立つ政治活動は行わなかった<ref name=Kato195 />。
=== 音楽に倦み、また惹かれる ===
1861年秋、ヴェルディは音楽制作に戻っていた。激変したイタリアに刺激された事、また、まだ知らぬ[[ロシア]]からのオファーが舞い込んだことも情熱を掻き立てた。一流の歌手が揃う[[ペテルブルク]]の[[マリインスキー劇場|帝室歌劇場]]も期待させた。題材を[[スペイン]]の戯曲に求め、書き上げた曲を携えて12月に夫妻は汽車の乗客となった。しかし、ソプラノ歌手が体調を崩して舞台は中止され、質を落とす位ならばと数ヶ月単位の延期を決めて夫妻はパリに向かった<ref name=Kato205>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.205-211、再び音楽へ]]</ref>。
{{Listen
|title=ひとときも休めず
|filename=Enrico Caruso, Giuseppe de Luca, Giuseppe Verdi, Nè gustare m'è dato un'ora (La forza del destino).ogg
|description=『[[運命の力]]』、1862年、Act 3, Scene 3.。出演:[[エンリコ・カルーソー]]、{{仮リンク|ジュゼッペ・デ・ルカ (オペラ歌手)|label=ジュゼッペ・デ・ルカ|en|Giuseppe de Luca}}
}}
1862年2月、ヴェルディはパリで[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]用の作曲依頼を受けた。これはドイツの[[ジャコモ・マイアベーア]]、フランスの[[ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール]]と並んだ打診であり、ヴェルディはいわばイタリア代表とも言えた。彼は「諸国民の賛歌 (Inno delle Nazioni)」を作曲し、見物を兼ねてロンドンを訪問したが、万博の音楽監督を担当したナポリ出身の作曲家が面白くなく思ったのか「諸国民の賛歌」演奏を断った。結果、別に演奏され好評を博したが、この曲のイタリア公演は再び不穏さを増した政治情勢を鑑みて断った<ref name=Kato205 />。
そして秋になり、再びペテルブルクに入ったヴェルディは11月に開演した『[[運命の力]]』に一定の満足を得て、しかも[[聖スタニスラス勲章]]を贈られる栄誉に授かった。ただしこの作品は他の都市ではあまり評価されなかった。3人が死を迎えて終わるフィナーレ、場面を強調するあまり筋のつながりが悪いなど、台本に無理があった。しかし音楽では、脇役も含めた人物の特徴を表現する多彩な合唱や、テーマや場面そして人物の感情の変化などを繋ぐ音楽はヴェルディの創意が反映していた。数年後には台本の改訂を受けて再演され、本作品は高く評価された<ref name=Kato205 />。
翌年、『運命の力』スペイン公演を指揮し、さらに『シチリアの晩鐘』再演のためヴェルディはパリに入った。だが、相変わらずオペラ座の仕事は遅くいい加減で、リハーサルを面倒臭がる団員たちにヴェルディは怒りを爆発させイタリアに帰ってしまった<ref name=Kato212>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.212-222、権力者の孤独、あるいはパリとの決別]]</ref>。
[[Image:GiuseppeVerdi.jpg|thumb|left|200px|{{仮リンク|エティエンヌ・カルジャ|en|Etienne Carjat}}によるヴェルディの肖像。1867年]]
サンターガタに引っ込み、夫妻で農場経営に精を出すヴェルディは「昔から私は農民だ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽界にはドイツから吹く新しい風に晒され、若い作曲家たちは[[リヒャルト・ワーグナー]]から強い影響を受けてヴェルディを過去の人とみなし始めていた。彼はそのような評判を受け流しつつも、皮肉を返すなど内心は穏やかでなかった。そして興行主からはヴェルディの才能は依然高く評価されていた。1864年夏にパリで出版を勤しむエスキュディエから『マクベス』改訂版の上演を打診されると、これをヴェルディは受けた。しかし、ヴェルディの思想とフランス観衆の嗜好が合わず、1865年の公演は失敗した<ref name=Kato212 />。
だが、1867年にヴェルディは、[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]記念のオペラ制作依頼を、しかも会場があのオペラ座ながら受諾する。[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の戯曲を題材に選び始まった制作に彼は集中する。傲慢と孤独の間を揺れ動く主人公の心情を描き出すソロは旋律だけに頼らず楽器の音色を効果的に使い、宗教と国家の対立と結末を前例が無いバスの二重唱で表現する。劇性を重視する姿勢はより鮮明に打ち出した<ref name=Kato212 />。
しかし、結果はまたも惨憺たるもので終わる。前作同様パリはオペラに不必要な[[バレエ]]の挿入を求め、また観客が夕食から最終列車までの間に観劇が終わるように筋の短縮を迫り、オペラ座の怠慢は全く変わらない。綿密な構想も切り刻まれては観客の心は掴めず、1867年3月開演の『[[ドン・カルロ]]』は酷評に晒され、敗北したヴェルディはその後のオペラ座からの打診を受けなかった<ref name=Kato212 />。
またもヴェルディが音楽活動を休止した。1868年2月、父カルロが亡くなった。彼は弟(ヴェルディの叔父)の娘フィロメーナを養育していたが、彼女はヴェルディ夫妻が引き取り養女とした。半年後、今度はもうひとりの父であるアントーニオ・バレッツィの死を看取った。病に倒れてからは妻ジュゼッピーナも看病に通っていたが回復は叶わず、ヴェルディが弾くピアノ「黄金の翼」を聴きながら息を引き取った<ref name=Kato224>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.224-239、集大成<アイーダ>]]</ref>。
[[Image:Teresa-Stolz.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|テレーザ・シュトルツ|en|Teresa Stolz}}。時期不詳。パルマ、Roberto Spocci コレクション<ref>[http://www.internetculturale.it/genera.jsp?id=530# Giuseppe Verdi: un mito italiano]</ref>]]
同年秋、ヴェルディは尊敬する同時代人のひとり[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]の死に、他の著名なイタリア人作曲家たちとの[[レクイエム]]組曲を共作することになった。しかし彼は熱心に取り組んだが、無報酬であったため他の者はいまひとつ乗らず計画は頓挫した。ヴェルディは、これは長年の友人であり、指揮を予定されていた[[アンジェロ・マリアーニ]]に熱意が不足していたためと非難した。これにより2人の友情は壊れた。この背景には、ヴェルディ夫妻が度々ヴェネツィアを旅行した際、マリアーニは婚約していたソプラノ歌手{{仮リンク|テレーザ・シュトルツ|en|Teresa Stolz}}と会っていたが、考え方の違いなどが影響しマリアーニとシュトルツの関係は段々と悪化していった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持ちを傾け始めたためとの疑念を持っており、計画に乗り気でなかったことがあった<ref name=Kato224 />。
=== 『アイーダ』 ===
[[Image:Aida poster colors fixed.jpg|thumb|left|200px|『アイーダ』のポスター(1908年、オハイオ、クリーブランド)]]
1869年、ヴェルディは『運命の力』に改訂を施して久しぶりとなるスカラ座公演を行った。結末を変更し、新しい曲を加えた本作は成功した。特にソプラノのテレーザ・シュトルツは輝き、ヴェルディは満足した。それでも音楽の世界に戻ろうとはしなかった。1871年、何度もオファーを繰り返していたオペラ座の監督デュ・ロクルは[[エジプト]]から新しいオペラハウス用の依頼を持ち込んだ。遠隔地でもあり乗り気でなかったヴェルディだが、劇場側はそれならば[[シャルル・グノー|グノー]]か[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]に話を持ちかけるとほのめかして焚きつけ、彼の受諾を引き出した。しかしヴェルディは破格の条件をつけ、報酬は『ドン・カルロ』の3倍に当たる15万フラン、[[カイロ]]公演は監修しない事、さらにイタリアでの初演権を手にした<ref name=Kato224 /><ref name=Ishi200>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.200-207、アイーダ、ヒストリー&エピソード]]</ref>
。
仕事が始まればヴェルディは集中する。受け取ったスケッチからデュ・ロクルと共同で台本を制作し、エジプトの衣裳や楽器、さらには信仰の詳細まで情報を手に入れて<ref name=Ishi200 />磨きをかけ『[[アイーダ]]』を仕上げた。ところが7月に[[普仏戦争]]が勃発し、パリで準備していた舞台装置が持ち出せなくなり、カイロ開演の延期を余儀なくされた。一方でヴェルディはスカラ座公演の準備を予定通り進め、慌てたエジプト側はこの年のクリスマスに何とか開演の目処をつけた。わだかまりからマリアーニは指揮を断り、自身も立ち会わないヴェルディは若干不安を覚えたが、初演は大好評を博した。そして1872年2月、アイーダ役のシュトルツのために「おお、我が祖国」を加えた『アイーダ』はスカラ座で開演し、大喝采を浴びた<ref name=Kato224 />。なお、『アイーダ』はしばしば1869年の[[スエズ運河]]開通を記念するために制作されたという説が述べられるが、これはある有名批評家の個人的憶測が元になっている俗説に過ぎない<ref>[[#BuddenVol3|Budden,Volume 3]]</ref>。
{{Listen
|title="おお、我が祖国"
|filename=Marie Rappold performing O Patria Mia from Aida.ogg |description=『[[アイーダ]]』、1916年。出演:{{仮リンク|マリー・ラポルト|en|Marie Rappold}}。
}}
『アイーダ』はヴェルディの集大成と言える作品である。[[コンチェルタート]]は力強く明瞭な旋律で仕上げ、各楽器の音色を最大限に生かした上、「凱旋行進曲」用に長いバルブを持つ特製の[[アイーダ・トランペット]]を開発した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamaha.co.jp/u/naruhodo/answer/result.php?p=9&inst_cd=1&search_flg=inst |title=サクサクFAQ |publisher=[[ヤマハ]] |language=日本語|accessdate=2011-02-25}}</ref>。長年目指した曲と劇との融合では、「歌」を演劇の大きな構成要素に仕立て、アリア、[[劇唱|シェーナ]]、[[レチタティーヴォ]]など旧来のどのような形式にも当てはまらず、劇全体を繋ぐ独唱・合唱を実現した。パリの経験を上手く消化し、バレエも効果的に挿入された。さらに『椿姫』以来となる女性を主役としたあらすじは、以前のほとんどの作品にあった悲劇的な死ではない官能的な生との別れで終え、観客を強く魅了した<ref name=Kato224 />。
『アイーダ』と改訂版『ドン・カルロ』はイタリアから世界各地で上演され、どれも好評を得た。ヴェルディはナポリの初演に立ち会うが、その傍らには妻ジュゼッピーナだけでなくシュトルツも付き添い、新聞のゴシップネタとなった。これに対しヴェルディは沈黙し、ジュゼッピーナは悩みつつも醜聞が、既にマリアーニとの婚約を解消していたシュトルツの耳に入らないよう気を配った<ref name=Kato259>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.259-264、咆哮する死]]</ref>。
1873年にヴェルディは、亡くなった尊敬する小説家であり詩人であった[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]を讃える『[[レクイエム (ヴェルディ)|レクイエム]]』を作曲した。これには、ロッシーニに捧げる「レクイエム」の一部を用いていた。一周忌の1874年5月にミラノの大聖堂で公演された同曲は3日後にスカラ座で再演されるが、そこではよもや死者を追悼する曲から劇場のそれに変貌し、賞賛と非難が複雑に飛び交った<ref name=Kato259 />。それでもヴェルディの栄華は最高潮にあった。パリでは[[レジオンドヌール勲章]]とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた<ref name=Kato266>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.266-284、復活、そして原点]]</ref>。
農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。父が亡くなった際に引き取った従妹はマリアと改名し18歳を迎えて結婚した。相手はパルマの名門一家出のアルベルト・カルラーラであり、夫婦はサンターガタに同居した。邸宅はヴェルディ自らが設計し、増築を繰り返して大きな屋敷になっていた。自家製の[[ワイン]]を楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった<ref name=Kato266 />。
その一方で公の事は嫌い、1874年には[[納税]]額の多さから[[元老院 (イタリア)|上院議員]]に任命されるが、議会には一度も出席しなかった。慈善活動には熱心で、奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ<ref name=Kato266 />。その頃に彼はほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた<ref name=Kato266 />。
彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。手遊びの作曲「主の祈り」「アヴェ・マリア」を書き始めたことを聞いたリコルディはジュゼッピーナとともに働きかけ、シュトルツの引退公演となるスカラ座の『レクイエム』指揮を引き受けさせた。成功に終わった初演の夜、夕食を共にしたジューリオ・リコルディはヴェルディに久しぶりの新作を打診した。後日、[[アッリーゴ・ボーイト]]が持参したシェイクスピア作品の台本を気に入ったが、いまひとつ踏ん切りがつかずボーイトに改訂の指示を与え、サンターガタに送るように言ってその場を凌いだ<ref name=Kato266 />。
=== 集大成『オテロ』 ===
[[ファイル:Giuseppe Verdi by Giovanni Boldini.jpg|サムネイル|ヴェルディの肖像(J.ボルデイーニ作)(1886年)]]
1879年11月、農場に届いたボーイトの台本『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』に、ヴェルディは興味をそそられる。早速ミラノに行き話し合いを行った。しかしヴェルディは数年のブランクに不安を覚え、なかなか契約を結ばなかった。そこでリコルディはまたも一計を案じ、ボーイトと共作で『[[シモン・ボッカネグラ]]』改訂版制作を提案した。大胆なボーイトの手腕に触発されてヴェルディも新たな作曲を加え、1881年3月のスカラ座公演はかつてとは打って変わって大盛況を得た<ref name=Kato266 />。
[[Image:Giuseppe Verdi 1879 Vanity Fair illustration by Théobald Chartran.jpg|thumb|left|200px|1879年、イギリスの雑誌『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』に掲載されたヴェルディの肖像。]]
そして『オテロ』は動き始めたが、なかなか順調に物事は進まなかった。リコルディとボーイトがサンターガタを訪問し台本を詰めた。しかし『ドン・カルロ』3度目の改訂版制作で半年の足止めを受けた。さらに1883年2月にワーグナーの訃報に触れると、「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した<ref group="注釈">"Sad, sad, sad! ... a name that will leave a most powerful impression on the history of art." ([https://books.google.co.jp/books?id=VawrK1CRFJgC&pg=PA260&lpg=PA260&dq=wagner%27s+death+Verdi&redir_esc=y&hl=ja The Lives of the Great Composers])</ref><ref>{{Cite journal|url=https://books.google.co.jp/books?id=VawrK1CRFJgC&pg=PA260&lpg=PA260&dq=wagner%27s+death+verdi&redir_esc=y&hl=ja|title=The Lives of the Great Composers|first=Harold C.|last=Schonberg|publisher=W. W. Norton & Company|year=1997|page=260|isbn=0393038572|accessdate=2011-02-20}}</ref>」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーに、ヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあった<ref group="注釈">"He invariably chooses, unnecessarily, the untrodden path, attempting to fly where a rational person would walk with better results"「彼(ワーグナー)は判で押したような、無駄だらけで、勝手気ままなやり方ばかりを選び、理性的な人物ならばより良い結果を求めて着実に歩みを進めるところなのに、まるで跳びはねるような真似をするのが好きなようだ」([https://books.google.co.jp/books?id=VawrK1CRFJgC&pg=PA260&lpg=PA260&dq=wagner%27s+death+Verdi&redir_esc=y&hl=ja The Lives of the Great Composers])</ref>が、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった<ref name=Kato266 />。
それでも1884年の『ドン・カルロ』改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかり始めた。ボーイトはヴェルディを尊敬し、ヴェルディはボーイトから刺激を受けながら共同で取り組んだ。特にヴェルディは登場人物「ヤーゴ」へのこだわりを見せ、それに引き上げられて作品全体が仕上がっていった。そして1886年11月に、7年の期間をかけた『オテロ』は完成した<ref name=Kato266 />。
{{Listen
|title=冷酷な蒼穹にかけて誓おう!
|filename=Enrico Caruso, Titta Ruffo, Giuseppe Verdi, Sì, pel ciel marmoreo giuro! (Otello).ogg
|description=『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』、1887年、Act 2.出演:[[ティッタ・ルッフォ]]、[[エンリコ・カルーソー]].
}}
1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演にスカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立った。[[チェロ]]演奏を担当していた若き[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]は実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという<ref name=Kato266 />。『リゴレット』を越える嵐の表現で開幕し、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事に拘らず、完成度の高い劇作を現実のものとした<ref name=Kato266 />。
=== 笑いでひっくり返せ ===
『オテロ』を成功で終えたヴェルディは虚脱感に襲われていた。ローマ開演の招待を断り、また農場に引っ込むと、建設された病院の運営など慈善事業に取り組んだ。そして、引退した音楽家らが貧困に塗れて生涯を終えるさまを気に病んでいたヴェルディは、彼らのために終の棲家となる養老院建設を計画した。これにはボーイトの弟で建築家の{{仮リンク|カミッロ・ボーイト|en|Camillo Boito|label=カミッロ}}が協力者となった<ref name=Kato286>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.286-297、微笑みの花園]]</ref>。
一方でボーイトは、ヴェルディの才能は枯渇していないことを見抜いていた。しかし一筋縄ではいかないと、ヴェルディの心残りを突く事にした。散々な評価で終わった『一日だけの王様』以来、ヴェルディが喜劇に手を染めたことは無かった。ボーイトはシェイクスピアの『[[ウィンザーの陽気な女房たち]]』を下敷きに一冊のノートを書き、ヴェルディに示した。そして魅力的な数々の言葉を投げた。「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と。ヴェルディは乗った<ref name=Kato286 />。
[[Image:Verdi aux répétitions de Falstaff 1894.jpg|thumb|right|200px|『ファルスタッフ』を監修するヴェルディを描いたスケッチ。フランスの週刊誌「[[ユニヴェール・イリュストレ]]」が1894年に掲載<ref>[http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8426696f Verdi aux répétitions de "Falstaff" / Michelet, sc. ; croquis d'après nature de M. ; Maurice Feuillet]</ref>。]]
二人は秘密裏に制作を行った。ヴェルディが新作オペラに取り組んだことが知れると興行主たちが黙っていない上、既に老齢の彼には自信が無かった。親しい友人の訃報も、彼の気力を萎えさせた。しかし、ボーイトが提案した台本は面白く、シェイクスピアを楽曲に訳す作業や主人公の太っちょに息吹を吹き込むことは心底楽しめた。途中、リコリディにばれてしまったが、1年半をかけて『[[ファルスタッフ]]』は仕上がった。次はスカラ座に場所を移し、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演には『シモン・ボッカネルラ』改訂版や『オテロ』を演じた実績を持つ{{仮リンク|ヴィクトル・モレル|en|Victor Maurel}}が努めることになった。ヴェルディは相変わらず完璧を求め、7-8時間のリハーサルも行われた<ref name=Kato286 />。
そして1893年2月、79歳になったヴェルディの新作『ファルスタッフ』は開幕した。彼が目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。[[アンサンブル]]は多種多様で、[[対位法]]も2幕の[[コンチェルタート]]で複雑な[[ポリフォニー]]を実現した。最後には喜劇に似つかわしくない[[フーガ]]をあえて用いながら、モレル演じる太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた<ref name=Kato286 />。
=== 晩年 ===
[[Image:Casa di Riposo per Musicisti a Milano.jpg|thumb|left|200px|ヴェルディが建設した、音楽家たちの「憩いの家」]]
『ファルスタッフ』は上演された各地で喝采を浴び、他人に強制されることを極度に嫌っていたヴェルディも向かった。1894年にはフランス語版『オテロ』がいわくつきのオペラ座で公演されることになったが、ヴェルディは拘らずバレエを加えた。初演では[[フランス第三共和政]]大統領の[[ジャン・カジミール=ペリエ|カジミール・ペリエ]]から2度目のレジオンドヌール勲章を受けた。80歳を越えてもまだ精力的に見えるヴェルディに誰もが次回作を期待し、ボーイトも新しい台本を秘かに準備していた。しかし、彼は既に引退を決意していた<ref name=Kato299>[[#加藤2002|加藤 (2002)、pp.299-307、死]]</ref>。
ヴェルディはサンターガタに戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組んだ。構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムズィチスティ(Casa di Riposo per Musicisti、{{仮リンク|音楽家のための憩いの家|en|Casa di Riposo per Musicisti}})建設にオペラ制作同様に情熱をかけた。趣味的に作曲も行い、「[[聖歌四篇]]」もこの頃に作られた。公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断った。その中でもミラノの音楽院が校名を「[[ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院]]」に変えようとする事には我慢がならず声を荒らげた。同校の改名はヴェルディの死後に行われた<ref name=Kato299 />。
だが1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを[[肺炎]]で失った(その後もミラノにて生活。Deagostini刊『The Classic Collection』第14号を見よ)。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きな[[スミレ]]を目にしながら息を引き取った。ヴェルディは目に見えて落胆し、娘マリアやボーイト、そしてシュトルツが付き添った。しばらくして少し回復し、恒例のヴェネツィアへも出掛けたが、彼自身は自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には[[遺書]]を用意した<ref name=Kato299 />。
{{external media| align = right| width = 250| image1 = [http://www.giuseppeverdi.it/page.asp?IDCategoria=163&IDSezione=586&ID=20656 昏睡状態のヴェルディ。1901年]}}
同年末、娘マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していた。1月20日の朝、起きぬけのヴェルディは[[脳血管障害]]を起こして倒れ、意識を失った。多くの知人に連絡が届き、シュトルツ、リコルディ、ボーイトらが駆けつけた。王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められた。しかし、1901年1月27日午前2時45分頃、偉大な作曲家兼農家の男は87歳で死去した<ref name=Kato299 /><ref>[http://www.grandhoteletdemilan.it/ グランドホテル・エ・デ・ミランのホームページ]には、当時の写真および短い顛末が記されている。</ref>。
同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、ジュゼッピーナが眠る礼拝堂に葬られた。出棺時にはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮し820人の歌手が「行け、わが想いよ」を歌った<ref name=PM765>[[#Phillips-Matz1993|Phillips-Matz (1993)、p.765]]</ref>。遺言では簡素な式を望んでいたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬<ref name=PM765 />が行われ<ref name=Kato299 /><ref group="注釈">[[#Phillips-Matz1993|Phillips-Matz (1993)、p.764]]では、20万人が集まったという。2010年放送のヴェルディのオペラを特集したBBC4シリーズ第二部「Opera Italia」では、[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]編曲家で司会者のアントニオ・パッパーノはその数を30万人だったと述べた。</ref>、トスカニーニ指揮の下『イル・トロヴァトーレ』から「ミゼレーレ (Miserere)」が歌われた<ref name=PM765 />。彼の墓には、最初の妻マルゲリータの墓標と二人目の妻ジュゼッピーナが沿い、後に亡くなったシュトルツの墓は控えめに入り口のバルコニーにある<ref name=Kato299 />。
== 作品 ==
{{Main|ヴェルディの作品の一覧}}
== 作品の変遷 ==
=== ヴェルディの時代===
[[Image:Verdi statue.jpg|thumb|left|200px|[[ブッセート]]のヴェルディ公園 (Piazza G. Verdi) にある彼の像。]]
イタリア・オペラ史において、1842年の『ナブッコ』から1871年の『アイーダ』までの30年間は特に「ヴェルディの時代」と呼ばれ、歌手の技量に依存する度合いが高い[[ベルカント]]が衰退してゆき、代わって劇を重視した作品構成が主流となった転換期に相当する<ref>[[#水谷2006|水谷 (2006)、p.189]]</ref>。これはヴェルディとワーグナーが導入した手法によるが、イタリアの変革は前者による影響が圧倒的である<ref name=mizu190-1>[[#水谷2006|水谷 (2006)、p.190、ヴェルディの創作区分]]</ref>。
ヴェルディの生涯を通したオペラ作品は、3もしくは4区分で解釈されることが多い。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までを第1期、『リゴレット』から『アイーダ』までを第2期、晩年の『オテロ』と『ファルスタッフ』を第3期と置く場合と、晩年は同じながら『マクベス』の存在を重視して『アッティラ』までを1期、『マクベス』から『椿姫』までを2期、『シチリアの晩鐘』から『アイーダ』までを3期、残りを4期とする考えもある。以下では4期区分を軸に解説する<ref name=mizu190-1 />。
=== デビューから『アッティラ』まで ===
1期のヴェルディ作品には愛国精神を高揚させる題材が多く、『ナブッコ』で描いた権力者と虐げられた人民の対比を皮切りに<ref name=Opera>[[#オペラの発見1995|オペラの発見 (1995)、pp.76-79、音楽史 ヴェルディのオペラ]]</ref>、特にそれを意図した<ref name=Opera />『十字軍のロンバルディア人』好評の主要因となった。当時は[[ウィーン会議]](1814-1815年)以降他国に支配された状況への不満が噴き出し[[リソルジメント]]が盛り上がりを見せていた。何度もの反乱の勃発と挫折を見てきたイタリア人たちは、1846年に即位した[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が政治犯の特赦を行ったことで光明を見出していた。この時期のヴェルディ作品はそのような時流に乗り<ref name=mizu190-2 />、エネルギッシュであり新しい時代の到来を感じさせ<ref name=Ishi2 />、聴衆の欲求を掻き立てた<ref name=Opera />。それは聴衆を魅了することに敏感なヴェルディの感覚から導かれたとも言う<ref name=Yui />。しかし、作品の完成度や登場人物の掘り下げ、劇の構成などには劣る部分も指摘される<ref name=mizu190-2 />。
=== 『マクベス』に始まる人間表現 ===
2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し<ref name=Opera />、[[ベルカント]]を否定して[[レチタティーヴォ]]を中心に据えるなど<ref name=Ishi35 />合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには[[演出家]]はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した<ref name=Ishi35 />。『群盗』は主役の[[ジェニー・リンド]]を立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した<ref name=Opera />『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった<ref name=Ishi2 />。
しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で<ref name=Opera />対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な<ref name=Opera />『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な<ref name=Opera />『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった<ref name=mizu192>[[#水谷2006|水谷 (2006)、pp.192-195、≪マクベス≫における作劇の転換から中期の三大名作へ]]</ref>。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった<ref name=Opera />。
=== 多国籍オペラへ ===
[[Image:Aida trumpet.png|thumb|right|300px|『アイーダ』「凱旋行進曲」の旋律。]]
『シチリアの晩鐘』の出来はヴェルディに不満を残した<ref name=Kato168 />が、フランス・オペラ座での仕事を通じ彼はグランド・オペラの手法を取り入れた<ref name=Ishi2 />。『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』は改訂版を含め劇作性を高める方向を強め、『ドン・カルロ』は初演ではいま一つだったが<ref name=Kato212 />、その改訂版および『アイーダ』ではイタリア流グランド・オペラの成熟を実現した<ref name=mizu195 />。
特に『アイーダ』は多国籍の様式を混合させた<ref name=mizu195 />。イタリア・オペラの華麗な旋律で満たしながら、声楽を重視する点は覆して管弦楽とのバランスを取らせ、以前から取り組んだドラマ重視のテーマと融合させることに成功した。舞台であるエジプトについて情報を仕入れたが、楽曲はエジプトの音楽ではなくヴェルディが独自に創造した異国的音楽であった。フランスのグランド・オペラも取り入れながら、その様式もそのままではなく工夫を凝らした4幕制を取るなど、独自の作風を実現した<ref name=Ishi200>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.200-207、アイーダ、ヒストリー&エピソード]]</ref>。
ヴェルディの大作は高い人気を誇り、それらを何度も繰り返して公演する方法が一般化し、例えばスカラ座はそれまで年3本程度のオペラを上演していたが、1848年以降は平均でほぼ年1本となった。これはレパートリー・システムと呼ばれた<ref name=mizu206>[[#水谷2006|水谷 (2006)、pp.206-207、レパートリー・システムの確立と専業指揮者の台頭]]</ref>。作曲者は初演こそ慣例的に舞台を監督したが、このシステムが確立すると実際の監督は指揮者が担うことになり、オペラ専門の指揮者が現れだした<ref name=mizu206 />。この代表がヴェルディの友で後に仲違いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品から始まったとも言えるが、指揮者の権限が強まると中には勝手に改作を施す者も現れ、ヴェルディは激怒したと伝わる。しかし、この流れは20世紀の演奏重視の傾向へ繋がってゆく<ref name=mizu207>[[#水谷2006|水谷 (2006)、pp.207-209、ヴェルディ時代の重要オペラ指揮者]]</ref>。
=== 晩年の傑作 ===
16年の空白を経て発表された新作<ref name=Kato266 />『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『[[リア王]]』を温めていた<ref name=Ishi222>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.222-228、オテッロ、ヒストリー&エピソード]]</ref>ヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった<ref name=Opera />。
『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム<ref name=Ishi2 />)に対するイタリア側からの回答となった<ref name=Opera />。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという<ref name=Ishi222 />。
『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]そして[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]ら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた<ref name=Opera />。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した<ref name=Ishi244>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.244-249、ファルスタッフ、ヒストリー&エピソード]]</ref>。
== イタリア統一運動への影響 ==
[[Image:Verdi palermo bust 200805.jpg|200px|thumb|right|[[パレルモ]]の{{仮リンク|テアトロ・マッシモ|en|Teatro Massimo}}前に飾られたヴェルディの胸像。アントニオ・ウゴ作]]
音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという<ref name=Casini>Casini, Claudio, ''Verdi'', Milan: Rusconi, 1982</ref>。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる<ref name=Yui />。
しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディを[[イタリア統一運動]]の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった<ref name=Casini />。
その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した<ref>[[#Phillips-Matz1993|Phillips-Matz (1993)、p.116]]</ref>。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった<ref>[[#Phillips-Matz1993|Phillips-Matz (1993)、pp.188-191]]</ref>。
後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される<ref name=Ishi16 />。
また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。
ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが<ref name=Ishi159>[[#石戸ら1998|石戸ら (1998)、pp.159-163、運命の力、ヒストリー&エピソード]]</ref>、カヴールが亡くなると興味を失った<ref name=Kato195 />。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった<ref name=Kato266 />。
== 楽器 ==
ブッセートのバレッツィ家で、子供の頃のジュゼッペ・ヴェルディが演奏した楽器は<ref>Kerman, Joseph and Hussey, Dyneley. "[https://www.britannica.com/biography/Giuseppe-Verdi Giuseppe Verdi]". Encyclopedia Britannica, 23 Jan. 2021</ref>、[[:it:Anton_Tomaschek|アントン・トマーシェク]]のピアノだった<ref>"[https://www.italianways.com/casa-barezzi-where-verdi-was-discovered/ Casa Barezzi: where Verdi was discovered]". Italian Ways. 2019-01-23</ref>。後にヴェルディは[[ヨハン・フリッツ]]のピアノを好み、1851年の「[[リゴレット]]」から1871年の「[[アイーダ]]」の頃まで、ウィーン風6本ペダルのフリッツピアノを使用した。このピアノは現在、[[イタリア]]の[[ピアチェンツァ県]]にある作曲家の[[:it:Villa_Verdi|ヴェルディ邸]]で見ることができる<ref>Villa Verdi official website https://en.villaverdi.info/</ref>。
[[リミニ]]で行われた1857年の[[:it:Teatro_Amintore_Galli|A.ガッリ劇場]]の落成式の際、ヴェルディが演奏したのはヨーゼフ・ダンクのグランドピアノだった<ref>https://www.museodelpianofortestoricoedelsuono.it/museo-del-pianoforte-storico-e-del-suono/; [https://www.cronacheancona.it/2017/10/28/il-pianoforte-di-verdi-suona-allaccademia-dei-musici/57462/ Il pianoforte di Verdi suona all'Accademia dei Musici], Cronache Ancona, 2017-10-28.</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=加藤浩子|year=2002|title=黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ|publisher=[[東京書籍]]|edition=第1刷|isbn=4-487-79709-8|ref=加藤2002}}
*{{Cite book|和書|author=水谷彰良|year=2006|title=イタリア・オペラ史|publisher=[[音楽之友社]]|edition=第1刷|isbn=4-276-11040-8|ref=水谷2006}}
*{{Cite book|和書|author1=石戸谷結子|authorlink1=石戸谷結子|author2=小畑恒夫|author3=河合秀朋|author4=酒井章|year=1998|title=スタンダード・オペラ鑑賞ブック[2]イタリア・オペラ(下)ヴェルディ|publisher=[[音楽之友社]]|edition=第1刷|isbn=4-276-37542-8|ref=石戸ら1998}}
*{{Cite book|和書|year=1995|title=オペラの発見|publisher=[[立風書房]]|edition=第1刷|isbn=4-651-82027-1|ref=オペラの発見1995}}
*{{Cite book| last = Budden | first = J. | date = 1973年 | title = The Operas of Verdi, Volume III | edition = 3rd | publisher = Oxford University Press |isbn =0198162634|ref=BuddenVol3}}
*{{Cite book| last = Martin| first = G. | date = 1963 年| title = Verdi: His Music, Life and Times | edition = 1st | publisher = Dodd, Mead & Company | isbn=0-396-08196-7|ref=Martin1963}}
*{{Cite encyclopedia | date = 2001年 | last = Parker | first = Roger | title = Giuseppe Verdi
| encyclopedia = Grove Music Online | publisher = Oxford University Press | location = | ref = Parker2001}}
*{{Cite book| last = Phillips-Matz | first = Mary Jane | date = 1993年 | title = Verdi: A Biography |edition=1st |publisher = Oxford University Press | isbn=0193132044|ref= Phillips-Matz1993}}
* {{it}} Polo, Claudia (2004年), ''Immaginari verdiani. Opera, media e industria culturale nell'Italia del XX secolo'', Milano: BMG/Ricordi
* Marvin, Roberta Montemorra (ed.) (2013年 & 2014年), ''The Cambridge Verdi Encyclopedia'', Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-51962-5. e-book: 2013年12月 / Hardcover: 2014年1月
== 読書案内 ==
*{{Cite book| last = Budden | first = Julian | year = 1973 | title = The Operas of Verdi, Volume I | edition = 3rd |publisher =Oxford University Press | isbn=0198162618}}
*{{Cite book| last = Budden | first = Julian| year = 1973 | title = The Operas of Verdi, Volume II | edition = 3rd | publisher = Oxford University Press | isbn = 0198162626}}
*{{Cite book| last = Kamien | first = R. | year = 1997 | title = Music: an appreciation - student brief | edition = 3rd | publisher = McGraw Hill | isbn =0070365210}}
*{{Cite book| last = Gal | first = H. | year = 1975 | title = Brahms, Wagner, Verdi: Drei Meister, drei Welten | publisher = Fischer | isbn=3100243021}}
*{{Cite encyclopedia | year = 1992 | last = Parker | first = Roger | chapter = Verdi, Giuseppe|title=The New Grove Dictionary of Opera|editor= Stanley Sadie|isbn=0333734327}}
*{{Cite book|last=Michels|first=Ulrich|year=1992|title=dtv-Atlas zur Musik: Band Zwei|edition= 7th |publisher=Deutscher Taschenbuch Verlag|isbn=3423030232}}
*Associazione Amici di Verdi (ed.), ''Con Verdi nella sua terra'', Busseto, 1997, (in English)
*Maestrelli, Maurizio, ''Guida alla Villa e al Parco'' (in Italian), publication of Villa Verdi, 2001
*Mordacci, Alessandra, ''An Itinerary of the History and Art in the Places of Verdi'', Busseto: Busseto Tourist Office, 2001 (in English)
*''Villa Verdi': the Visit'' and ''Villa Verdi: The Park; the Villa; the Room'' (pamphlets in English), publications of the Villa Verdi
== 外部リンク ==
{{Wikiquote|en:Giuseppe Verdi|ジュゼッペ・ヴェルディ}}
{{Commonscat|Giuseppe Verdi}}
*[http://opera.stanford.edu/Verdi/main.html スタンフォード大学、ヴェルディ作のオペラリストとデータ] {{en icon}}
*[http://www.operadis-opera-discography.org.uk/CLORVERD.HTM 作品リスト] {{en icon}}
*{{gutenberg author| id=Giuseppe+Verdi | name=ジュゼッペ・ヴェルディ}} {{en icon}}
*[http://www.liberliber.it/audioteca/v/verdi/index.htm MP3で試聴できるヴェルディ作品] {{it icon}}
*{{IMSLP|id=Verdi%2C_Giuseppe|cname=Verdi}}
*{{worldcat id|id=lccn-n79-38460}}
*[http://www.gresham.ac.uk/event.asp?PageId=45&EventId=569 "Verdi and Milan"] 音楽評論家{{仮リンク|ロジャー・パーカー|en|Roger Parker}}2007年5月14日、{{仮リンク|グレシャム・カレッジ|en|Gresham College}}での講演。{{en icon}}
*[http://cylinders.library.ucsb.edu/search.php?query=Verdi%2C+Giuseppe&queryType=%40attr+1%3D1 Verdi cylinder recordings] [[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]]による蝋管音源デジタル化プロジェクト[[:en:Cylinder Preservation and Digitization Project|(en)]]。{{en icon}}
*[http://www.classicistranieri.com/public/post/dvd-rom-giuseppe-verdi-opere-mp3-download-gratis-908.asp Giuseppe Verdi MP3 Creative Commons Recordings] {{it icon}}
* {{Kotobank|ベルディ}}
* [http://www.verdi.or.jp/ 日本ヴェルディ協会]
* [https://www.kyotoverdi.jp/ 京都ヴェルディ協会]
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ラジアン
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ラジアン(英: radian, 記号: rad)は、国際単位系 (SI) における角度(平面角)の単位である。円周上でその円の半径と同じ長さの弧を切り取る2本の半径が成す角の値と定義される。弧度(こど)とも言い、平面角の大きさをラジアンで測ることを弧度法と呼ぶ。あるいはラジアンで測った平面角を弧度法の角という呼び方をすることもある。ラジアンは、立体角のステラジアンに対応するものである。
概念としては例えばロジャー・コーツの著書 “Harmonia mensurarum” の編注に見られるが、「ラジアン」という用語自体は19世紀にジェームズ・トムソンが導入した。
日本の計量法体系では、ラジアンは「円の半径に等しい長さの弧の中心に対する角度」と定義されている。1 radは度数法では 180°/π で、およそ 57.29578° に相当する。180° は弧度法においては π rad であり、360° は 2π rad である。
国際量体系(ISQ)における角度は「弧と半径の長さの比」としての無次元量であり、その単位であるラジアンも無次元量である。一貫性のある無次元量の組立単位は 1 に等しく、その意味でしばしば単位 rad は省略されて書かれる。また、circular の頭文字から という記号が用いられることもあるが、度の記号である「°」と見誤り易い。SI 及び計量法 では、ラジアンの記号は rad のみを認めている。
国際量体系において、中心角が θ、半径が r の扇形の、弧の長さ l と面積 S は
である。かつてラジアンはステラジアンとともにSIの補助単位の一つに分類されていたが、1995年に補助単位の分類は廃止され、ラジアンは長さの単位メートルの比 rad = m/m = 1 で組み立てられる組立単位として分類されている。ラジアンは単位方程式に数係数を含まない一貫性のある組立単位であり、この関係と先の量方程式を用いれば、数値方程式が
となる。
一般的な用途に使われる表計算ソフトなどでも、組み込み関数は度数法ではなく弧度法で定義されている場合が多くなってきている。
三角関数の微分公式などの量の間の関係を与える量方程式は単位の選び方によらないため実際には間違いであるが、ラジアンを用いる理由として、三角関数の多くの公式が簡潔に書けるようになるからであるとする言説が、しばしば Lang(Short Calculus)のように主張される。三角関数の微分公式やその他の多くの公式の係数を決めるのは単位の選択ではなく、角度という量の定義である。
なお、三角関数の公式を含む種々の関係式に数値を代入して計算を行う際には、多くの場合に一貫性のある単位であるラジアンを用いる方が単位の換算が不要のため便利である。例えば電気工学では交流の計算などに便利であるため、弧度法が一般的となっている。
以下では、しばしば主張される間違った言説について記述する。
一般角の概念を用いて三角関数を定義するときは、角度の単位にラジアンを用いるのが普通である。その理由は、弧度法を採用することで、三角関数の導関数の公式の一つ
を始めとして、多くの公式が簡潔に書けるようになるからである。
度数法を採用する場合、次のように考えることができる。各実数 θ に対して、半径 r の円周上の点 P が θ ° 回転したときの座標を (x, y) とし、sin θ = y / r、cos θ = x / r とする。こうして、別の三角関数 sin : R→[-1,1]、cos : R→[-1,1] が定義される。そのとき
が成り立つ。その導関数は、(1)、(2) と合成関数の微分法より
となり、定数倍のズレが生ずる。
ラジアン毎秒(ラジアンまいびょう、記号: rad/s)は、国際単位系における角速度の単位である。ラジアン毎秒は、1秒間に1ラジアンの角速度と定義される。
ラジアン毎秒毎秒(ラジアンまいびょうまいびょう、記号: rad/s)は、国際単位系における角加速度の単位である。ラジアン毎秒毎秒は、1秒間に1ラジアン毎秒の角加速度と定義される。
Unicodeには、ラジアンとその派生単位を表す上記の文字が収録されている。これはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。
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"text": "が成り立つ。その導関数は、(1)、(2) と合成関数の微分法より",
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"text": "となり、定数倍のズレが生ずる。",
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"text": "ラジアン毎秒毎秒(ラジアンまいびょうまいびょう、記号: rad/s)は、国際単位系における角加速度の単位である。ラジアン毎秒毎秒は、1秒間に1ラジアン毎秒の角加速度と定義される。",
"title": "派生単位"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "Unicodeには、ラジアンとその派生単位を表す上記の文字が収録されている。これはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。",
"title": "符号位置"
}
] |
ラジアンは、国際単位系 (SI) における角度(平面角)の単位である。円周上でその円の半径と同じ長さの弧を切り取る2本の半径が成す角の値と定義される。弧度(こど)とも言い、平面角の大きさをラジアンで測ることを弧度法と呼ぶ。あるいはラジアンで測った平面角を弧度法の角という呼び方をすることもある。ラジアンは、立体角のステラジアンに対応するものである。
|
{{単位|
|名称 = ラジアン
|英字 = radian
|記号 = rad
|単位系 = SI
|種類 = [[SI組立単位|組立単位]]
|組立 = [[メートル|m]]/m
|物理量 = 平面角
|定義 = 円の半径に等しい長さの弧の中心に対する角度([[計量単位令]]による定義)
|語源 = {{Lang-la|radius}}(半径)
|画像 = [[File:Radian cropped color.svg|200px]]
}}
'''ラジアン'''({{lang-en-short|radian}}, 記号: rad)は、[[国際単位系]] (SI) における[[角度]](平面角)の[[物理単位|単位]]である。[[円周]]上でその[[円 (数学)|円]]の[[半径]]と同じ長さの[[弧 (幾何学)|弧]]を切り取る2本の半径が成す角の値と定義される。'''弧度'''(こど)とも言い、平面角の大きさをラジアンで測ることを'''弧度法'''と呼ぶ。あるいはラジアンで測った平面角を弧度法の角という呼び方をすることもある。ラジアンは、[[立体角]]の[[ステラジアン]]に対応するものである。
== 概要 ==
概念としては例えば[[ロジャー・コーツ]]の著書 “Harmonia mensurarum” の編注に見られるが、「ラジアン」という用語自体は19世紀に[[ジェームズ・トムソン (工学者)|ジェームズ・トムソン]]が導入した<ref>{{Cite |和書 | author = 黒木哲徳 | title = なっとくする数学記号 | date = 2021 | pages = 42 | publisher = 講談社 | isbn = 9784065225509 | series = ブルーバックス | ref = harv }}</ref>。
日本の[[計量法]]体系では、ラジアンは「円の半径に等しい長さの弧の中心に対する角度」と定義されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 |title=計量単位令(平成四年政令第三百五十七号)別表第一(第二条関係)八 角度 ラジアン |accessdate=2019-12-21}}</ref>。1 radは[[角度|度数法]]では 180°/{{math|π}} で、およそ 57.29578° に相当する。180° は弧度法においては {{math|π}} rad であり、360° は 2{{math|π}} rad である。
[[国際量体系]](ISQ)における角度は「弧と半径の長さの比」としての[[無次元量]]であり、その単位であるラジアンも無次元量である。[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある無次元量の[[SI組立単位|組立単位]]は 1 に等しく、その意味でしばしば単位 rad は省略されて書かれる。また、circular の頭文字から {{sup|c}} という記号が用いられることもあるが、度の記号である「°」と見誤り易い。SI 及び[[計量法]] では、ラジアンの記号は rad のみを認めている<ref>[http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-2/table3.html Table 3. Coherent derived units in the SI with special names and symbols] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070618123613/http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-2/table3.html |date=2007年6月18日 }} 日本語では、「国際文書第8版 (2006) [[国際単位系]] (SI) 日本語版」[http://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf p. 29]
</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 |title=計量単位規則(平成四年通商産業省令第八十号) 別表第2(第2条関係)「角度」 |accessdate=2019-12-21}}</ref>。
[[File:Radian-common.svg|thumb|250px|各種図形のラジアン]]
国際量体系において、中心角が {{mvar|θ}}、半径が {{mvar|r}} の扇形の、弧の長さ {{mvar|l}} と面積 {{mvar|S}} は
:<math>l=r\theta</math>
:<math>S=\frac{1}{2} r^2 \theta =\frac{1}{2} rl</math>
:<math>\theta =\frac{l}{r} =\frac{S}{r^2/2}</math>
である。かつてラジアンは[[ステラジアン]]とともにSIの[[補助単位]]の一つに分類されていたが、1995年に補助単位の分類は廃止され、ラジアンは長さの単位[[メートル]]の比 rad = m/m = 1 で組み立てられる[[SI組立単位|組立単位]]として分類されている。ラジアンは単位方程式に数係数を含まない一貫性のある組立単位であり、この関係と先の量方程式を用いれば、数値方程式が
:<math>\theta/\text{rad}=\frac{l/\text{m}}{r/\text{m}} =\frac{S/\text{m}^2}{(r/\text{m})^2/2}</math>
となる。
一般的な用途に使われる[[表計算ソフト]]などでも、組み込み関数は度数法ではなく弧度法で定義されている場合が多くなってきている。
== ラジアンを用いる理由として主張される言説 ==
[[三角関数]]の[[微分]]公式などの[[量]]の間の関係を与える[[量方程式]]は[[単位]]の選び方によらない<ref>[[#vim3|VIM 3rd ed.]] 1.22 quantity equation</ref>ため実際には間違いであるが、ラジアンを用いる理由として、三角関数の多くの公式が簡潔に書けるようになるからであるとする言説が、しばしば Lang(Short Calculus<ref name="Lang">{{Cite book|last=Lang|first=Serge|year=2012|title=Short Calculus: The Original Edition of “A First Course in Calculus”|publisher=Springer New York|isbn=9781461300779|url=https://www.google.co.jp/books/edition/Short_Calculus/P-ELBwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=0|page=65-68, 74-75}}</ref>)のように主張される。三角関数の微分公式やその他の多くの公式の係数を決めるのは単位の選択ではなく、角度という量の定義である。
なお、三角関数の公式を含む種々の関係式に数値を代入して計算を行う際には、多くの場合に一貫性のある単位であるラジアンを用いる方が単位の換算が不要のため便利である。例えば[[電気工学]]では[[交流]]の計算などに便利であるため、弧度法が一般的となっている<ref>{{Cite web|和書|title=交流瞬時値の三角関数表示式 {{!}} 音声付き電気技術解説講座 {{!}} 公益社団法人 日本電気技術者協会 |url=https://jeea.or.jp/course/contents/12146/ |website=jeea.or.jp |access-date=2022-08-18}}</ref>。
以下では、しばしば主張される間違った言説について記述する。
[[角度|一般角]]の概念を用いて[[三角関数]]を定義するときは、角度の[[単位]]にラジアンを用いるのが普通である。その理由は、弧度法を採用することで、三角関数の[[微分|導関数]]の公式の一つ
{{NumBlk|:|<math>(\sin x)^\prime =\cos x</math>|{{EquationRef|1}}}}
を始めとして、多くの公式が簡潔に書けるようになるからである<ref name="Lang"/>。
[[度 (角度)|度数法]]を採用する場合、次のように考えることができる。各[[実数]] {{mvar|θ}} に対して、[[半径]] {{mvar|r}} の[[円周]]上の点 {{mvar|P}} が {{mvar|θ}} ° 回転したときの[[座標]]を {{math|(''x'', ''y'')}} とし、{{math|sin<sup>*</sup> ''θ'' {{=}} ''y'' / ''r''}}、{{math|cos<sup>*</sup> ''θ'' {{=}} ''x'' / ''r''}} とする<ref>ここで用いている記号 {{mvar|θ}} は角度という量を表してはいない。単位 ° までを含めた {{mvar|θ}}° が角度を表す。sin{{sup|*}} や cos{{sup|*}} は実際には引数が角度ではない「三角関数」を定義しているだけであって、角度の単位を ° に選んでいるわけではない。</ref>。こうして、別の三角関数 {{math|sin<sup>*</sup> : ℝ→[-1,1]}}、{{math|cos<sup>*</sup> : ℝ→[-1,1]}} が定義される。そのとき
{{NumBlk|:|<math>\sin^* \theta=\sin\frac{\pi}{180}\theta ,\quad\cos^* \theta=\cos\frac{\pi}{180}\theta</math>|{{EquationRef|2}}}}
が成り立つ。その導関数は、({{EquationNote|1}})、({{EquationNote|2}}) と[[連鎖律|合成関数の微分法]]より
{{NumBlk|:|<math>\begin{align}
(\sin^* x)^\prime & =\left (\cos\frac{\pi}{180}x\right )\cdot\left (\frac{\pi}{180}x\right )^\prime \\
& =\frac{\pi}{180}\cos^* x
\end{align}</math>||RawN=.}}
となり、定数倍のズレが生ずる<ref name="Lang"/>。
== 派生単位 ==
=== ラジアンの分量 ===
*ミリラジアン (mrad) = ラジアンの1000分の1 = 約 {{val|0.05729578}}° = 約 206.2648″ = 約 3[[分 (角度)|′]]26.2648″
: [[ミル (角度)|ミル]]は、ミリラジアンから派生した単位である。ミルの定義はさまざまであり、[[NATO]]の定義では
::1ミル = 360°/6400 = 0.05625° = 3′22.50″<br/>であり、ミリラジアンとは異なる単位である。
*マイクロラジアン (μrad) = ラジアンの100万分の1 = 約 {{val|0.2062648}}″
=== ラジアン毎秒 ===
{{main|ラジアン毎秒}}
'''ラジアン毎秒'''(ラジアンまいびょう、記号: rad/s)は、国際単位系における[[角速度]]の単位である。ラジアン毎秒は、1秒間に1ラジアンの角速度と定義される。
=== ラジアン毎秒毎秒 ===
{{単位|名称=ラジアン毎秒毎秒|記号=rad/s<sup>2</sup>|単位系=国際単位系|物理量=角加速度|定義=1秒間に1ラジアン毎秒の角加速度|画像=}}
'''ラジアン毎秒毎秒'''(ラジアンまいびょうまいびょう、記号: rad/s<sup>2</sup>)は、国際単位系における[[角加速度]]の単位である。ラジアン毎秒毎秒は、1秒間に1ラジアン毎秒の角加速度と定義される。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13229|33AD|-|ラジアン}}
{{CharCode|13230|33AE|-|ラジアン毎秒}}
{{CharCode|13231|33AF|-|ラジアン毎秒毎秒}}
|}
[[Unicode]]には、ラジアンとその派生単位を表す上記の文字が収録されている。これは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ステラジアン]]
* [[度 (角度)|度]] - [[分 (角度)|分]] - [[秒 (角度)|秒]]
* [[グラード (単位)|グラード]]
* [[turn (角度)|ターン]]
* [[三角関数]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web
|url= https://www.bipm.org/documents/20126/2071204/JCGM_200_2012.pdf
|title= International Vocabulary of Metrology - Basic and general concepts and associated terms
|accessdate= 2022-03-26
|ref= vim3
}}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:らしあん}}
[[Category:角度の単位]]
[[Category:SI組立単位]]
[[Category:三角法]]
[[Category:数学に関する記事]]
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13,804 |
ステラジアン
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ステラジアン(英: steradian、記号: sr)は、国際単位系 (SI) における立体角の単位であり、SI組立単位の一つである。二次元の平面角のラジアンに対応する。ステラジアンの単位記号は、「sr」である。
平方度も立体角の単位であるが、これは非SI単位かつ非法定計量単位である。
1ステラジアンは、球の半径 r の平方(球の半径を一辺の長さとする正方形)と等しい面積の球面上の部分 a の、中心に対する立体角[sr]と定義される。二次元の平面角であるラジアンを三次元に拡張したものである。
ステラジアンの名称は1875年くらいから使用されていたもので、ギリシア語で立体という意味のstereos(ステレオの語源でもある)に由来する。ステラジアンは1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で採択された。ラジアンとともに国際単位系(SI)の補助単位の一つとされていたが、1995年に補助単位は廃止され、ステラジアンは次元 1 (= m/m)、すなわち無次元のSI組立単位として分類されている。
ステラジアンの定義から、全球(面積 4πr)は 4π ステラジアン(= 約 12.566 ステラジアン)、半球は 2π ステラジアン(= 約 6.2832 ステラジアン)となる。逆に、1 ステラジアンは、全球を 1 としたとき、1/4π = 約 0.079577 となる。
半頂角 θ の円錐の立体角(ステラジアン)は
であり、緯度 δ1 から δ2(ラジアン)、経度 λ1 から λ2(ラジアン)で囲まれた範囲の立体角(ステラジアン)は、
である。
分量単位は次のようになっている。
球面全体(または天球全体)の立体角は、約 12.566 ステラジアンであるので、ステラジアンの倍量単位は使われない。
二次元の度に対応して、立体角の単位として平方度という単位がある。国際単位系 (SI) では平面角については度(及び分・秒)がSI併用単位となっているのに対し、立体角のSI単位及び計量法上の法定計量単位は、ステラジアンのみであり、平方度は認められていない。
ステラジアンと平方度 (deg) との関係は次のようになっている。
ステラジアンは、放射束の計測によく用いられる。
光などの電磁波は、特定の条件下では、あらゆる方向に等しく放射される。そのような条件下では、単位面積あたりの放射束は光源から遠くなるほど弱くなるが、単位立体角あたりの放射束は光源からの距離にかかわらず一定となる。また、完全に「あらゆる方向に等しく放射」されない場合であっても、近似的に同様のことが言える場合が多い(例: 裸電球、赤熱した鉄片)。これが、ステラジアンが放射束の計測に用いられる理由である。SIでは、放射強度の単位にワット毎ステラジアン (W/sr) がある。また、光度の単位であるカンデラ (cd) の定義にワット毎ステラジアンが登場する。
Unicodeには、ステラジアンを表す上記の文字が収録されている。これはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。
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ステラジアンは、国際単位系 (SI) における立体角の単位であり、SI組立単位の一つである。二次元の平面角のラジアンに対応する。ステラジアンの単位記号は、「sr」である。 平方度も立体角の単位であるが、これは非SI単位かつ非法定計量単位である。
|
{{単位|
|名称=ステラジアン
|英字=steradian
|記号=sr
|単位系=SI
|種類=[[SI組立単位]]
|組立=m<sup>2</sup>/m<sup>2</sup>
|物理量=[[立体角]]
|定義=球の半径の平方に等しい面積の球面上の部分の中心に対する立体角<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 計量単位令 別表第一] 項番9、立体角、ステラジアン、「球の半径の平方に等しい面積の球面上の部分の中心に対する立体角」</ref>
|語源=[[ギリシア語]] στερεός (stereos; 実体、立体) + [[ラテン語]] radius(半径)
|画像=[[File:Steradian2.svg|Steradian2]]
}}
'''ステラジアン'''({{lang-en-short|steradian}}、記号: sr)は、[[国際単位系]] (SI) における[[立体角]]の単位であり、[[SI組立単位#固有の名称と記号を持つ22個のSI単位|SI組立単位]]の一つである。二次元の[[角度|平面角]]の[[ラジアン]]に対応する。ステラジアンの[[単位記号]]は、「sr」である。
[[平方度]]も立体角の単位であるが、これは[[非SI単位]]かつ[[計量法#法定計量単位|非法定計量単位]]である。
==概要==
1ステラジアンは、[[球体|球]]の[[半径]] {{mvar|r}} の平方(球の半径を一辺の長さとする[[正方形]])と等しい[[面積]]の球面上の部分 {{mvar|a}} の、中心に対する立体角[sr]と定義される<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 計量単位令 別表第一] 項番9、立体角、ステラジアン、「球の半径の平方に等しい面積の球面上の部分の中心に対する立体角」</ref>。二次元の[[平面角]]である[[ラジアン]]を三次元に拡張したものである。
:<math> \left[\mathrm{sr} \right]=\frac{a}{r^2}.</math>
ステラジアンの名称は1875年くらいから使用されていたもので、[[ギリシア語]]で立体という意味の''stereos''([[ステレオ]]の語源でもある)に由来する。ステラジアンは1960年の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で採択された。ラジアンとともに国際単位系(SI)の[[補助単位#SI補助単位|補助単位]]の一つとされていたが、1995年に補助単位は廃止され、ステラジアンは次元 1 (= m<sup>2</sup>/m<sup>2</sup>)、すなわち無次元の[[SI組立単位]]として分類されている。
ステラジアンの定義から、全球(面積 {{math|4''πr''<sup>2</sup>}})は {{math|4''π''}} ステラジアン(= 約 12.566 ステラジアン)、半球は {{math|2''π''}} ステラジアン(= 約 6.2832 ステラジアン)となる。逆に、1 ステラジアンは、全球を 1 としたとき、{{math|1/4''π''}} = 約 {{math|0.079577}} となる。
半頂角 {{mvar|θ}} の円錐の立体角(ステラジアン)は
:{{math|2''π''(1 − cos ''θ'')}}
であり、緯度 {{math|''δ''{{sub|1}}}} から {{math|''δ''{{sub|2}}}}(ラジアン)、経度 {{math|''λ''{{sub|1}}}} から {{math|''λ''{{sub|2}}}}(ラジアン)で囲まれた範囲の立体角(ステラジアン)は、
:<math>\left(\sin\delta_2-\sin\delta_1\right)\left(\lambda_2-\lambda_1\right)</math>
である。
== 分量単位 ==
[[倍量・分量単位|分量単位]]は次のようになっている。
* ミリステラジアン([[単位記号]]:msr)= 10<sup>-3</sup> sr
* マイクロステラジアン(単位記号:µsr)= 10<sup>-6</sup> sr
[[球面]]全体(または[[天球]]全体)の立体角は、約 12.566 ステラジアンであるので、ステラジアンの[[倍量・分量単位|倍量単位]]は使われない。
== 平方度との関係 ==
二次元の[[度 (角度)|度]]に対応して、立体角の単位として[[平方度]]という単位がある。[[国際単位系]] (SI) では[[平面角]]については[[度 (角度)|度]](及び[[分 (角度)|分]]・[[秒 (角度)|秒]])が[[SI併用単位]]となっているのに対し、[[立体角]]の[[SI単位]]及び[[計量法]]上の[[計量法#法定計量単位|法定計量単位]]は、ステラジアンのみであり、平方度は認められていない。
ステラジアンと[[平方度]] (deg<sup>2</sup>) との関係は次のようになっている。
* {{gaps|1|sr}} = 約 {{val|3282.806350012|u=deg<sup>2</sup>}}
* {{gaps|1|deg<sup>2</sup>}} = 約 {{val|0.00030461741979|u=sr}} = 約 {{val|0.30461741979|u=msr}} = 約 {{val|304.61741979|u=µsr}}
==応用==
ステラジアンは、[[放射束]]の計測によく用いられる。
[[光]]などの[[電磁波]]は、特定の条件下では、あらゆる方向に等しく放射される。そのような条件下では、単位面積あたりの放射束は光源から遠くなるほど弱くなるが、単位立体角あたりの放射束は光源からの距離にかかわらず一定となる。また、完全に「あらゆる方向に等しく放射」されない場合であっても、近似的に同様のことが言える場合が多い(例: 裸電球、赤熱した鉄片)。これが、ステラジアンが放射束の計測に用いられる理由である。SIでは、[[放射強度]]の単位に[[ワット]]毎ステラジアン (W/sr) がある。また、[[光度 (光学)|光度]]の単位である[[カンデラ]] (cd) の定義にワット毎ステラジアンが登場する。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13275|33DB|-|ステラジアン}}
|}
[[Unicode]]には、ステラジアンを表す上記の文字が収録されている。これは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[立体角]]
* [[平方度]]
* [[SI単位]]
* [[SI組立単位]]
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[[Category:立体角の単位]]
[[Category:SI組立単位]]
[[Category:数学に関する記事]]
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バグダード
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バグダード(アラビア語: بَغْدَاد, Baghdād, バグダード)(ラテン文字表記: Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都。また、バグダード県の県庁所在地でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、イスラム世界における主要都市の1つ。2020年の人口はおよそ714.4万人。
文語アラビア語(フスハー)の表記と発音(بَغْدَاد, baghdād, バグダード)に忠実なカタカナ表記はバグダードで、アクセントは後半のダー部分に置かれる。
音声サンプル:アラビア語での発音
原語アラビア語で含まれる長母音ā部分が短母音a化した発音が行われている。
日本における学術的な表記はバグダードが標準となっているが、メディアなどでは英語発音同様長母音を含まず、かつ外来語への当て字で多い-dad部分への促音「ッ」挿入によりバグダッドとカタカナ表記されることが今でも広く行われている。
バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。
人口増加が著しく、2025年に806万人、2050年に1509万人、2075年に2439万人、2100年の人口予測では3410万人を数える世界21位の超巨大都市となる予測が出ている。
諸説あるバグダードの名前の由来に、ペルシア語の「神の都」がある。アッバース朝のマンスールが定めたこの名前は古代ペルシアの影響を反映したものであり、アラビア語の مَدِينَةُ السَّلَامِ(madinat al-salām, マディーナト・アッ=サラーム / マディーナ・アッ=サラーム:「平和の都」) が今でも硬貨に残る公式名である。
バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、メソポタミア平原のほぼ中央、ティグリス川中流の河畔に位置する。その西を流れるユーフラテス川は同市付近でもっとも接近し、バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。
バグダードの市街地は、蛇行するティグリス川の両岸にひろがっている。左岸(東岸)にはラシード通りやバザール(市場)、諸官庁および在外公館、旧王宮、カージマイン・モスク(英語版)、民族解放記念碑、バグダード大学、銀行、また、ホテルやレストラン、新住宅地などがあり、右岸(西岸)には空港やテレビ局、大統領府や議事堂、バグダード中央駅、病院、高級住宅街などがある。歴史的には西岸が古いものの、東岸より先に荒廃し、むしろ東岸に古さが残っている。なお、かつての環状都市は現在その痕跡をとどめていない。
バグダードの歴史は古代メソポタミア文明にさかのぼる。すでに紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代、あるいはアッカド王国の時代から集落の存在が確認されており、ハンムラビ王の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる。また、バグダードの周辺にはバビロン、セレウキア、クテシフォン、アカルクーフなど古代の首都遺跡が数多く分布する。紀元前8世紀ころにはアラム人が集住を開始しており、やがて、年ごとの定期市を開くことが慣例になったものと考えられる。
サーサーン朝時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。一説によると、都市名のバグダードは古代ペルシア語で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の農産物の集積地として食糧事情に恵まれ、東西の隊商ルートと南北の河川ルートの交わる交易の結節点となりうる地の利を持っていた。この地方が当時、新興宗教であったイスラム教を信奉するアラブ人たちによって占領されたのは、634年のことである。
バグダードは、762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールによって新都に定められた計画都市で、南フランスから中国国境に至る広大なイスラーム帝国の中心にふさわしい都市として、直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された。当時のバグダードはキリスト教の司祭や羊飼いなどが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた。イスラームの年代記によれば、マンスールは灰で巨大な円を描き、その円に沿って綿油と綿の実をまいて火を付け、やがて帝都となる地の全体を眺望したといわれる。新都建設は、4年の歳月をかけ、10万の職人と人夫、400万ディルハムの費用を投じて766年に完成した。
バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、また東ローマ帝国やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、また、王朝建設の主力となったホラーサーン軍団 とその子孫の駐屯地として繁栄した。バグダードが周到な計画にもとづいて建設されたことは、堅固な城塞に囲まれた円城(ムダッワラ)という都市プランによく示されている。ティグリス川西岸に建設されたバグダードの城壁は三重におよび、円城の内側には、カリフの勢威を内外に示すため、「黄金門宮」と称する宮殿やモスクが建てられ、それぞれのドームは高貴な色とされた緑色のタイルで覆われた。周囲には、諸官庁、カリフ一族の館、親衛隊駐屯所などが並び、
の4つの門を有していた。なお、円城都市は、要する城壁が最小限でありながら、防禦に際しては死角がなく最大の効果を発揮するところに利点があった 。
城内に住んだのは特権階級のみで、城壁と城壁のあいだがその居住域となっており、商人や職人などの一般市民は城外に居住するよう定められた。円城の都は、直交する2条の道路により4つの扇形の区域に分かれた。道路は門を結び、門を貫いて市外へ通じ、陸上交通の便に供したが、それのみならず中央官吏の巡視をも容易なものとした。市民は城外にいくつかの区に分かれて居住し、各区はそれぞれ壁で区切られ、夜間にはその出入口が閉鎖された。それぞれの区には最高責任者がおり、通常、アラビア人、ペルシア人、ホラズム人など出身地ごとに集住して一区を形成することが多かった。
第3代カリフのマフディー(マンスールの子、在位775年 - 785年)の代にはティグリス川東岸にも軍隊が置かれ、それにともなって商人や手工業者も数多く居住するようになって、東岸ルサーファ地区が形成され、ティグリス川に架かる舟橋はゆきかう人馬で賑わっていたという。また、アッバース朝の歴代宰相(ワズィール)を輩出したバルマク家も、ルサーファ地区北のシャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えていたと伝承されている。
アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームの名が与えられた新都バグダードは、当時、唐の長安と並ぶ世界最大の都市であった。人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位786年 - 809年)の時代には150万人におよんだとみられる。バグダード市民はとりわけコーランの教えを遵守するよう求めた。バグダードの街には6万の礼拝所と3万の公衆浴場があったといわれる。大説話集『千夜一夜物語』収載の多くの物語の舞台にもなっており、そこでは、ハールーンは、従者を連れて夜な夜なバグダードの街を歩き回る風流な君主として描かれている。
アッバース朝は駅伝制(バリード(英語版))によって帝国各地を結んでいたが、バグダードはその重要な結節点であり、中近東における代表的な商業都市であるというばかりではなく、中国、東南アジア、インドからサハラ以南のアフリカや欧州までを含む国際交易網の中心として、また、シルクロードにおける西の起点・終着点として、「世界の十字路」と称されるほどの繁栄をきわめた。
バグダードはまた、イスラーム世界の学問の中心地として各地から多くの学者が集まった。アッバース朝の軍は751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、唐で国外不出とされた紙の製法がイスラーム世界にもたらされた。そののち紙の普及によって行政通達の円滑化や翻訳事業も進んだ。ハールーン・アッ=ラシードは、バグダードに紙工場をつくり、のちにはダマスクスにも設けたといわれている。中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、インド数字をもとにアラビア数字がつくられた。ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、詩人アブー・ヌワース、歌手イブラーヒーム・アルマウスィリーとイスハーク・アルマウスィリーの親子など数多くの文化人が伺候した。また、数多くのギリシア語文献が収集されてアラビア語に翻訳された。とくにハールーンの「知恵の宝庫(ヒザーナ・アルヒクマ)をもとに、9世紀前半に第7代カリフマアムーンによってバグダードに建設された「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」では、プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究された。以後、バグダードは、東方におけるギリシア学術研究の中心地となった。ギリシアの学術に興味をもったマアムーンは、バグダードに天文台を建設した。こうしてアッバース朝下のバグダードではギリシャ・ペルシャ・インドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちにラテン語にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。
商業のさかんであったバグダードの市場(スーク)には世界中の商品が集まった。中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などである。世界で初めて小切手が使用されたのもアッバース朝時代のバグダードであるといわれる。王宮約2キロメートル南に所在するカルフ地区は、バグダード建設当初は円城の外壁と内壁を結ぶアーケードに設けられた市場を移転して形成された商業地であった。移転は773年におこなわれたが、その目的は円城内の治安を確保するためであったといわれる。これにより、果物市場、織物市場、両替商街、書店街、羊肉屋街などの多様な市場が現れ、それぞれのスークには親方ないし監督者がいて、諸事の管理監督にあたった。カルフ地区にはやがてシーア派を信奉する商工業者が集まり、イスラーム世界の先進技術を駆使した生産と商取引の一大中心地となっていった。当時のバグダードは、絹織物や綿織物、ガラス・金属工芸、刀剣、紙などが産品として著名であり、とくに織物は各地に輸出されている。
ワクフといわれる有力者による寄付行為もさかんに行われ、モスクや医療施設、市場が多数つくられ、市場からの収益によって国富が増大した。特に医療面では世界初の総合病院が設けられている。イスラームの医学は、のちの西洋医学に大きな影響をあたえた。
ハールーン・アッ=ラシードの死後、2人の子(アミーンとマアムーン)の間に後継争いが生じ、円城はその際、はなはだしい損傷をうけ、そののちも完全には復旧されなかった。アミーンは歴代カリフのなかでも教養豊かな人物であったが、ハルーンとの誓約を破り異母兄マアムーンではなく実子を後継にすえたために対立が生じたものであった。
9世紀のムウタスィムによる一時的なサーマッラーへの遷都(836年)後もバグダードの繁栄は揺るぐことなく、むしろ都市の規模は拡大した。9世紀にはハールーン死後の813年と第12代カリフムスタイーン治下の865年に起こった内乱によって、バグダードの中心はティグリス川東岸に移った。892年、首都は再びバグダードにもどされたが、王宮はティグリス東岸に置かれた。アッバース朝治下のバグダードの最盛期は9世紀から10世紀初頭にかけてといわれている。しかし、946年には十二イマーム派を奉ずるブワイフ朝のアフマドがバグダード入りしてカリフよりアミール・アルウマラーに任命されて政治の実権を奪い、10世紀後半以降は、アッバース朝を支える軍人相互の抗争、民衆暴動の頻発、洪水の頻発などによって次第に荒廃しはじめた。
1055年、中央アジア出身の王朝セルジューク朝がバグダードを占領した。セルジューク朝初代のトゥグリル・ベグは、ブワイフ朝のアミール・アルウマラーを追放してその勢力を駆逐し、第26代カリフのカーイム(1031年 - 1075年)より「スルタン」(「権力」)の称号 を受け、バグダードのカリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「バグダード・カリフ領」としてセルジューク朝およびホラズム・シャー朝の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝の宰相ニザームルムルクは、シーア派勢力の拡大に対抗してスンナ派のウラマー(法学者)を養成する必要から、1067年、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠したマドラサ(ニザーミーヤ学院)を建設した。
しかし、11世紀以降、イスラーム文化の中心地はバグダードからしだいにカイロにうつっていった。これは、アッバース朝カリフの威信低下、スルタン制の確立、イクター制の一般化、イスラーム思想の固定化の進行など一連の西アジア社会の構造変化と無縁ではなかった。
1258年、モンゴル帝国軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した(バグダードの戦い)。チンギス・カンの孫にあたるモンゴルの将フレグは最後のカリフムスタアスィムを殺害し、住民80万を殺戮したといわれる。豊かな農耕地と灌漑施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てたイルハン朝に属した。1234年完成のムスタンスィリーヤ学院や12世紀の城門のひとつバーブ・アルワスターニーなどを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の遺構はごく少数しか遺存していない。
14世紀にモンゴルより独立したジャライル朝は、ミルジャン・モスク(1358年)や現在イスラーム博物館となっているハーン・マルジャーンなどの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心も完全にマムルーク朝の都カイロにうつり、メソポタミア地方における一地方都市へと転落していった。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者イブン=バットゥータがバグダードを訪れている。こののち、バグダードは、14世紀末と15世紀初め、2度にわたってティムールの略奪を受け、15世紀なかばには廃墟同然になってしまった。
アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝の支配を受けたのち、1410年にはテュルク系の黒羊朝、1469年からは同じテュルク系の白羊朝の支配を受け、16世紀から17世紀にかけては、トルコのオスマン朝のスルタンとペルシアのサファヴィー朝のシャーとのあいだで争奪の対象となった。すなわち、1508年にはシャーイスマーイール1世のサファヴィー朝、1534年には皇帝スレイマン1世のオスマン帝国、1623年にはアッバース1世のサファヴィー朝、1634年にはムラト4世のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。
17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守アフメット・パシャおよびハサン・パシャは、行政機構の内部にシルカシア人マムルークの奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した。
1798年、イギリスの商館がバグダードに建設され、1802年にはその駐在官が領事としての地位を有するようになった。イギリス領事はオスマン帝国の太守に次ぐ権限をあたえられた。19世紀後半になるとオスマン帝国の凋落が著しくなったのに対し、ヨーロッパ大陸においては従来小国分立の状態にあったドイツとイタリアに統一国家(ドイツ帝国、イタリア王国)が成立し、とくに新興ドイツは中近東への進出をめざした。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は大海軍の建造に着手する一方、1899年にオスマン帝国からバグダード鉄道の敷設権を獲得して、ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードの3都市を結び、沿線に資本を投下することにより西アジア地域への勢力拡大をはかった(3B政策)。しかし、この政策はイギリスの3C政策のみならずロシアの南下政策との対立を招いた。
1914年に起こった第一次世界大戦は、中近東の政治地図を塗り替えた。イギリスは大戦中の1915年、「アラブ反乱」をあおってアラブの名門ハーシム家のフサイン・イブン・アリーにマクマホン書簡を手渡した(フサイン=マクマホン協定)。1917年、バグダードをふくむイラク地方がイギリス軍に占領され、その後のドイツ・オスマン帝国の敗北によって3B政策は頓挫した。
戦後の1921年には現在のイラクの領域にイギリス委任統治領メソポタミアが成立してイラク建国の準備がなされ、バグダードはその首都となった。1932年には委任統治が終了し、ハーシム家のファイサル1世(フサインの三男)を君主とするイラク王国が成立した。王宮はティグリス左岸に建てられた。なお、オスマン帝国の一部であった1900年の段階では14万人だったバグダードの人口は、1950年には50万人に達している。
第二次世界大戦直後の1946年、イラク王国はアラブ連盟に加盟したが、やがて世界は「冷たい戦争」とよばれる東西対立の時代にはいった。1955年、パキスタン、イラン、イラク、トルコ、イギリスの五ヶ国は中東条約機構(METO)を結成し、バグダードにはその本部が置かれた(バグダード条約機構)。これはソ連封じ込めをはかったものであったが、加盟をめぐってイラク国内は紛糾し、1958年7月14日、バグダードで反英米共和政派による革命(7月14日革命)が起こった。この政変により、国王一家や摂政が殺害され、アブドルカリーム・カーシムを首班とする人民共和国が成立した。カーシム政権は翌1959年にバグダード条約機構を脱退した。
その後、1963年のバアス党のクーデタ、1968年の同党による一党独裁、1979年のサッダーム・フセイン政権の成立、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争、1990年のクウェート侵攻とそれにつづく1991年までの湾岸戦争、2003年のイラク戦争など政変・戦争がつづいたが、バグダードはその間つねにイラク政治の中心であった。
なお、バグダード郊外のサドルシティはイスラム主義が影響力を持っており、カーシム時代に「革命市」(مدينة ألثورة "Al-Thawra")としてイラク共産党の大臣Naziha al-Dulaimi(英語版)が建設したこともあってかつてから反体制派が強いところであり、1963年のバアス党のクーデタの際にはレジスタンス運動が起こり、フセイン政権下では「サダムシティ」と命名されていた。
2003年のイラク戦争では米軍が空爆をおこない最終的に陸軍を投入して、4月、連合国によって占領された。フセインはのちに捕らえられて処刑された。バグダードには連合国暫定当局(CPA)本部が置かれ、その後、イラク暫定政権、イラク移行政府を経て2006年5月、憲法にもとづいた議会選挙によって正式政府が成立して、現在に至っている。しかし、複雑な宗教・民族構成を反映して、少数派が政治上の諸権利および石油等の利権を要求し、イラク国民としてのアイデンティティが形成されないなか、アメリカなど占領国の利害もからみ、アメリカ的民主主義への反発などから抗争が続いている。
2009年1月よりアメリカ合衆国大統領を務めるバラク・オバマは2011年中のイラクからの完全撤退を公約し、2009年6月末の段階で都市部からの撤退をほぼ完了、その後公約通り2011年12月18日に全部隊のイラクからの撤退を完了した。しかし、現実には治安は決して回復しておらず、連日、大規模なテロや爆破がつづいている。
ティグリス川の両側に発達したバグダードの街は、鉄道橋も含め5つの橋で東西が結ばれている。6番目の橋が、カージマイン・モスクのある北郊のカージミーヤ地区に通じている。
ケッペンの気候区分でいう砂漠気候(BW)に属する。年平均気温は約22°Cと温暖である。冬も平均最高気温が15°Cをくだらないが、夏の暑さは厳しい。気温の日較差は一年を通して大きい。年間降水量は通年でも123ミリメートルにすぎず、降雨はほとんど冬季に集中する。冬季は、北極方面からの寒気の影響を受け、月平均降雨日数 が3日から5日に達する。積雪は、2008年と2020年に記録されている。
バグダードは、その自然条件により、しばしば大洪水に見舞われ大きな被害をこうむってきたが、ティグリス川上流のサーマッラーに治水用のダムが設けられたため、洪水によって甚大な被害を受ける危険からは救われた。
バグダードは、イラクの経済・交通・文化の中心であり、イラク工業の大半が集中する。伝統的工業としてじゅうたんや絹織物、また綿製品・皮革製品・たばこ・アラック酒などがあり、セメントや鉄道修理、食品加工、繊維などの近代工業もさかんである。また石油化学工業なども盛んであるが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争など度重なる戦争で多くの施設が破壊されたこともあり、現在修復作業がさかんに行われている。
バグダード国際空港からヨルダンのアンマンやアラブ首長国連邦のドバイなどに定期便が就航している。また近隣国の主要都市からは不定期長距離バスやチャータータクシーで行くことができる。
イラクの鉄道は、オスマン帝国時代末期にさかのぼるが、鉄道網の大部分は第一次世界大戦中にメソポタミアを占領したイギリス軍によって建設されたものである。市内にはイラク国内最大となるイラク鉄道のバグダード・セントラル駅があり、バグダード・セントラル駅からは、バスラやモスル、キルクークなどイラク国内の主要都市と結ばれるだけでなく、シリアやトルコなどへも延伸しており、さらにヨーロッパ大陸に通じる。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に中華人民共和国から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な青島四方機車車輛製の高速車両が導入された(バグダード=バスラ高速鉄道路線)。
汽船がティグリス川を航行し、バスラとのあいだを結んでいる。なお、バグダードの交通網を改善するため19世紀に実施された調査では、ユーフラテス川の汽船航行は不可能であることが判明している。
幹線道路は、イラク国内各地のみならずヨルダン、シリア、イラン、クウェートなどと結ばれており、現代においてもバグダードは水陸交通の要衝となっている。
モンゴルとティムールの侵攻による破壊や煉瓦という風化しやすい素材が建築用材として用いられることが多かったことが原因で、現存する遺構の数は決して多くない。アッバース朝時代の建築としては、以下の数棟がのこるのみである。
ムスタンスィリーヤ学院(英語版)は1234年に建てられた煉瓦造のマドラサで、しばしば「世界最古の大学」と称される。名称は創設者の第36代カリフムスタンスィルに由来する。この学院が収蔵していた30万冊におよぶ図書は、1258年、フレグの率いるモンゴル軍によってティグリス川に投げこまれ、そのため川はインクで黒く染まったといわれている。中庭には泉水をともない、複数のイーワーンが外部と中庭をつないでいる。建物は現在、博物館として利用されており、イラク中央銀行の発行するイラク・ディナール紙幣の図柄にもなっている。
アッバース宮殿は1230年ころマドラサとして建設された建物で、ミダーン地区に所在する。博物館に改装されて利用されていたが、2003年、強盗団によってアッバース朝時代の家具・調度品・書籍のほとんどが略奪された。
12世紀に建設されたバーブ・アルワスターニは、バグダードに現存する唯一の城壁門であり、円形都市建設時の「ホラーサーン門」に相当する。現在は戦争博物館になっている。
スーク・アル=ガーズル寺院のミナレット(尖塔)は市内で最も古い建造物で10世紀初頭の作といわれる。なお、スーク・アル=ガーズルとは「糸市場」の意であり、現在は古い街並みを見下ろす位置にあるが、かつてはカリフのモスクの尖塔であった。この尖塔の下位部分はいまだ土に埋もれたままである。
シッタ・ズバイダの墓塔は1179年ころから1225年ころまでの時期に建設されたもので、八角形の基台のうえにムカルナス装飾をともなった三角錐の形状の塔をのせた墓である。
アッバース朝滅亡以後のものとしては、モスク、マドラサ、墓廟より成るマルジャーニーヤ建築群やハーン(隊商宿)として用いられたハーン・マルジャーンがあり、ともに14世紀中葉の遺構である。イラク観光省の修復を経て料亭としても用いられたハーン・マルジャーンは、アミン・アルジャーンによって建設されたイラク唯一の屋根付きハーンである。2階建てでユニークな設計プラン・採光法を採用している。
カージマイン・モスク(英語版)は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。金色をした銅板のドームと美しい彩釉タイルの門で知られ、シーア派第7代イマームのムーサー・カーズィム(位765年-799年)および第9代イマームのムハンマド・タキー(位818年-835年)が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名もある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀にガージャール朝ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれた。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している。カージマイン・モスクの周辺には住宅が広がっている。
一方、スンニ派信者の多い地区にはアブ・ハニファ・モスク(英語版)などのスンニ派モスクがある。
「歴史的建造物」の節で示したように、バクダードでは歴史的建造物の多くは博物館に改装されている。
イラク王国成立時の1926年に創設されたイラク国立博物館は世界有数の考古学的博物館である。先史時代からメソポタミア文明、アッバース朝イスラーム帝国、および、イスラーム諸王朝の貴重な文化遺産・遺物が文明史ごとに28のギャラリーに分けて分類展示されている。しかし、2003年のイラク戦争の混乱に乗じて約1万5000点の収蔵品が密売目的で略奪されてしまい、これは世界的な話題となった。その後、数千点が返還されたものの、今なお数千点が行方不明のままである。この博物館には、古代史や各文明にかかわる諸言語の出版物を備えた考古学図書館も附設されている。
上記のほかには、自然史博物館、民俗博物館、国立近代美術館などがある。
イラク戦争においてはバグダード動物園も米軍の攻撃対象とされた。バグダード陥落後、貧窮した一部の市民によって動物園は襲撃を受け、多くの動物が殺され、食べられたという。残された動物も不衛生なまま放置されていたが、南アフリカ共和国出身の自然保護活動家ローレンス・アンソニー(英語版)が中心となって動物救済と動物園復興がなされた。
他の観光資源としては、イラク随一の繁華街であるラッ=シード通り、また、市内各地の大モスクの周囲にひろがる古いスーク(市場)の街並みがある。バグダードは中近東において、とりわけ書店の数の多い都市であり、露天商も少なくない。
バグダードには、横幅50メートルにおよぶ『自由のモニュメント』(ジャワード・セリーム作)や「アラブの盾」を造形した巨大なドーム『無名戦士の墓(英語版)』(ハーリド・アッ=ラッハール作)、2つに割れた桃のかたちをした「殉教者の墓」(アルシャヒード・モニュメント、イスマーイール・ファッターハ・アッ=トゥルクとサーマーン・アスアド・カマールの合作)などの巨大な記念物がある。その他、著名な彫刻として『アリババと40人の盗賊』『シャイアールとシェラザード』はともにムハンマド・ガニーの作品で街頭に所在し、ハーリド・アッ=ラッハールの作品『前進』『アル・マンスールの像』はいずれもイラク国立博物館横にある。
バグダード市は9区のなかに89(当初は88)の公共地域を有している。9区とは、
であり、1.から4.まではティグリス川西岸、5.から9.は東岸に所在する。
89の地域は、イラク戦争のあった2003年までは、自治体による公的な配送サービスの管理には用いられていたが、政治的な機能をまったく有していなかった。2003年4月、米軍管理下の連合国暫定当局(CPA)は、これら89地域に新規の機能を創出していく事業をはじめた。地域執行部の選出する地域評議員選挙が最初の事業であり、現在では市内行政区として自治的役割を有するに至っている。
バグダード大学(英語版)は1958年に創立され、理学・工学・医学・政治・経済・文学の各学部を有する総合大学である。現政権のジャワド・マリキ(ヌーリー・マーリキー)やジャラル・タラバニ、フセイン政権時代のターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ、ラシード・M・S・アルリファイ、ターリク・ミハイル・アズィーズ、アッ=サッハーフ、ナージ・サブリー、アワド・ハマド・バンダル、ニザール・ハムドゥーン、アービド・ハーミド・マフムード、またフセインの次男クサイなどはバグダード大学の出身者である。
アル・ムスタンスィリーヤ大学(英語版)は、13世紀創設のマドラサ、ムスタンスィリーヤ学院の流れを汲む綜合大学である。
他に、フセイン長男ウダイの卒業したバグダード工科大学(英語版)や、
などがある。
現在、バグダードで話されているアラビア語方言は、イラク国内の他の大都市の中心部で話されることばとは異なり、より遊牧民的な特徴をもっている。これは、中世以降遊牧を離れて帰農した人びとが多数この地に入植したことによって起こった可能性が考えられる。
バグダードはまた、現代アラブ文化のなかで常に重要な役割を担っており、著名な作家、音楽家、また、ヴィジュアル分野の芸術家たちの活動拠点となっている。
バグダード市には、国内の重要な文化機関・文化施設が集中している。
イラク国立交響楽団(英語版)は1959年に正式に設立された交響楽団であり、第二次湾岸戦争では短期間リハーサルと公演を中断したが、その後は通常に復している。イラク戦争により楽団員も著しく減少したが、2010年5月にはアメリカ人少年との共演もなされた。
イラク国立劇場は、2003年のイラク攻撃の際に略奪に見舞われた施設であるが、目下、修復にむけた努力が続けられている。2006年6月にはイラク戦争後はじめてとなる「イラク映画祭」がおこなわれた。
劇場の生(ナマ)の舞台は、国際連合の制裁によって外国映画輸入制限のあった1990年代を通じ、当局からの援助を受けてきた。また、30ほどあった映画館はすべて生ステージに転換され、広範囲にわたってコメディーないしドラマ作品の制作をおこなったと報告されている。
バグダードで文化教育のために供される公共施設は、音楽アカデミー、美術協会およびバグダード音楽バレエ学校(英語版)に帰属している。
イラクスーパーリーグ(Dawri Al-Nokhba)に属するアル・ザウラ(英語版)、アル・タラバ(学生のクラブ)、アル・クワ・アル・ジャウィヤ(英語版)(空軍兵士のクラブ)、アル・ショルタ(英語版)(警察)など、多くの有力なサッカークラブがバグダードを本拠地としている。バクダード最大のアル・シャアブ・スタジアム(英語版)は、1966年に開園されたスタジアムである。これよりもはるかに大規模なスタジアムの建設もはじまっているが、まだ工事に着手したばかりの段階である。
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"text": "バグダード(アラビア語: بَغْدَاد, Baghdād, バグダード)(ラテン文字表記: Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都。また、バグダード県の県庁所在地でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、イスラム世界における主要都市の1つ。2020年の人口はおよそ714.4万人。",
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"text": "文語アラビア語(フスハー)の表記と発音(بَغْدَاد, baghdād, バグダード)に忠実なカタカナ表記はバグダードで、アクセントは後半のダー部分に置かれる。",
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"text": "日本における学術的な表記はバグダードが標準となっているが、メディアなどでは英語発音同様長母音を含まず、かつ外来語への当て字で多い-dad部分への促音「ッ」挿入によりバグダッドとカタカナ表記されることが今でも広く行われている。",
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"text": "バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。",
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"text": "人口増加が著しく、2025年に806万人、2050年に1509万人、2075年に2439万人、2100年の人口予測では3410万人を数える世界21位の超巨大都市となる予測が出ている。",
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"text": "諸説あるバグダードの名前の由来に、ペルシア語の「神の都」がある。アッバース朝のマンスールが定めたこの名前は古代ペルシアの影響を反映したものであり、アラビア語の مَدِينَةُ السَّلَامِ(madinat al-salām, マディーナト・アッ=サラーム / マディーナ・アッ=サラーム:「平和の都」) が今でも硬貨に残る公式名である。",
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"text": "バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、メソポタミア平原のほぼ中央、ティグリス川中流の河畔に位置する。その西を流れるユーフラテス川は同市付近でもっとも接近し、バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。",
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"text": "バグダードの市街地は、蛇行するティグリス川の両岸にひろがっている。左岸(東岸)にはラシード通りやバザール(市場)、諸官庁および在外公館、旧王宮、カージマイン・モスク(英語版)、民族解放記念碑、バグダード大学、銀行、また、ホテルやレストラン、新住宅地などがあり、右岸(西岸)には空港やテレビ局、大統領府や議事堂、バグダード中央駅、病院、高級住宅街などがある。歴史的には西岸が古いものの、東岸より先に荒廃し、むしろ東岸に古さが残っている。なお、かつての環状都市は現在その痕跡をとどめていない。",
"title": "立地と地理概況"
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "バグダードの歴史は古代メソポタミア文明にさかのぼる。すでに紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代、あるいはアッカド王国の時代から集落の存在が確認されており、ハンムラビ王の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる。また、バグダードの周辺にはバビロン、セレウキア、クテシフォン、アカルクーフなど古代の首都遺跡が数多く分布する。紀元前8世紀ころにはアラム人が集住を開始しており、やがて、年ごとの定期市を開くことが慣例になったものと考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "サーサーン朝時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。一説によると、都市名のバグダードは古代ペルシア語で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の農産物の集積地として食糧事情に恵まれ、東西の隊商ルートと南北の河川ルートの交わる交易の結節点となりうる地の利を持っていた。この地方が当時、新興宗教であったイスラム教を信奉するアラブ人たちによって占領されたのは、634年のことである。",
"title": "歴史"
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"text": "バグダードは、762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールによって新都に定められた計画都市で、南フランスから中国国境に至る広大なイスラーム帝国の中心にふさわしい都市として、直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された。当時のバグダードはキリスト教の司祭や羊飼いなどが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の運河(イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた。イスラームの年代記によれば、マンスールは灰で巨大な円を描き、その円に沿って綿油と綿の実をまいて火を付け、やがて帝都となる地の全体を眺望したといわれる。新都建設は、4年の歳月をかけ、10万の職人と人夫、400万ディルハムの費用を投じて766年に完成した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、また東ローマ帝国やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、また、王朝建設の主力となったホラーサーン軍団 とその子孫の駐屯地として繁栄した。バグダードが周到な計画にもとづいて建設されたことは、堅固な城塞に囲まれた円城(ムダッワラ)という都市プランによく示されている。ティグリス川西岸に建設されたバグダードの城壁は三重におよび、円城の内側には、カリフの勢威を内外に示すため、「黄金門宮」と称する宮殿やモスクが建てられ、それぞれのドームは高貴な色とされた緑色のタイルで覆われた。周囲には、諸官庁、カリフ一族の館、親衛隊駐屯所などが並び、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "の4つの門を有していた。なお、円城都市は、要する城壁が最小限でありながら、防禦に際しては死角がなく最大の効果を発揮するところに利点があった 。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "城内に住んだのは特権階級のみで、城壁と城壁のあいだがその居住域となっており、商人や職人などの一般市民は城外に居住するよう定められた。円城の都は、直交する2条の道路により4つの扇形の区域に分かれた。道路は門を結び、門を貫いて市外へ通じ、陸上交通の便に供したが、それのみならず中央官吏の巡視をも容易なものとした。市民は城外にいくつかの区に分かれて居住し、各区はそれぞれ壁で区切られ、夜間にはその出入口が閉鎖された。それぞれの区には最高責任者がおり、通常、アラビア人、ペルシア人、ホラズム人など出身地ごとに集住して一区を形成することが多かった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 17,
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"text": "第3代カリフのマフディー(マンスールの子、在位775年 - 785年)の代にはティグリス川東岸にも軍隊が置かれ、それにともなって商人や手工業者も数多く居住するようになって、東岸ルサーファ地区が形成され、ティグリス川に架かる舟橋はゆきかう人馬で賑わっていたという。また、アッバース朝の歴代宰相(ワズィール)を輩出したバルマク家も、ルサーファ地区北のシャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えていたと伝承されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームの名が与えられた新都バグダードは、当時、唐の長安と並ぶ世界最大の都市であった。人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位786年 - 809年)の時代には150万人におよんだとみられる。バグダード市民はとりわけコーランの教えを遵守するよう求めた。バグダードの街には6万の礼拝所と3万の公衆浴場があったといわれる。大説話集『千夜一夜物語』収載の多くの物語の舞台にもなっており、そこでは、ハールーンは、従者を連れて夜な夜なバグダードの街を歩き回る風流な君主として描かれている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "アッバース朝は駅伝制(バリード(英語版))によって帝国各地を結んでいたが、バグダードはその重要な結節点であり、中近東における代表的な商業都市であるというばかりではなく、中国、東南アジア、インドからサハラ以南のアフリカや欧州までを含む国際交易網の中心として、また、シルクロードにおける西の起点・終着点として、「世界の十字路」と称されるほどの繁栄をきわめた。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 20,
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"text": "バグダードはまた、イスラーム世界の学問の中心地として各地から多くの学者が集まった。アッバース朝の軍は751年のタラス河畔の戦いにおいて唐軍を破り、唐で国外不出とされた紙の製法がイスラーム世界にもたらされた。そののち紙の普及によって行政通達の円滑化や翻訳事業も進んだ。ハールーン・アッ=ラシードは、バグダードに紙工場をつくり、のちにはダマスクスにも設けたといわれている。中国からは養蚕の技術や羅針盤も伝わった。インドからはゼロの数字をもつ数学が伝来し、インド数字をもとにアラビア数字がつくられた。ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、詩人アブー・ヌワース、歌手イブラーヒーム・アルマウスィリーとイスハーク・アルマウスィリーの親子など数多くの文化人が伺候した。また、数多くのギリシア語文献が収集されてアラビア語に翻訳された。とくにハールーンの「知恵の宝庫(ヒザーナ・アルヒクマ)をもとに、9世紀前半に第7代カリフマアムーンによってバグダードに建設された「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」では、プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究された。以後、バグダードは、東方におけるギリシア学術研究の中心地となった。ギリシアの学術に興味をもったマアムーンは、バグダードに天文台を建設した。こうしてアッバース朝下のバグダードではギリシャ・ペルシャ・インドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちにラテン語にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "商業のさかんであったバグダードの市場(スーク)には世界中の商品が集まった。中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などである。世界で初めて小切手が使用されたのもアッバース朝時代のバグダードであるといわれる。王宮約2キロメートル南に所在するカルフ地区は、バグダード建設当初は円城の外壁と内壁を結ぶアーケードに設けられた市場を移転して形成された商業地であった。移転は773年におこなわれたが、その目的は円城内の治安を確保するためであったといわれる。これにより、果物市場、織物市場、両替商街、書店街、羊肉屋街などの多様な市場が現れ、それぞれのスークには親方ないし監督者がいて、諸事の管理監督にあたった。カルフ地区にはやがてシーア派を信奉する商工業者が集まり、イスラーム世界の先進技術を駆使した生産と商取引の一大中心地となっていった。当時のバグダードは、絹織物や綿織物、ガラス・金属工芸、刀剣、紙などが産品として著名であり、とくに織物は各地に輸出されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "ワクフといわれる有力者による寄付行為もさかんに行われ、モスクや医療施設、市場が多数つくられ、市場からの収益によって国富が増大した。特に医療面では世界初の総合病院が設けられている。イスラームの医学は、のちの西洋医学に大きな影響をあたえた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "ハールーン・アッ=ラシードの死後、2人の子(アミーンとマアムーン)の間に後継争いが生じ、円城はその際、はなはだしい損傷をうけ、そののちも完全には復旧されなかった。アミーンは歴代カリフのなかでも教養豊かな人物であったが、ハルーンとの誓約を破り異母兄マアムーンではなく実子を後継にすえたために対立が生じたものであった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "9世紀のムウタスィムによる一時的なサーマッラーへの遷都(836年)後もバグダードの繁栄は揺るぐことなく、むしろ都市の規模は拡大した。9世紀にはハールーン死後の813年と第12代カリフムスタイーン治下の865年に起こった内乱によって、バグダードの中心はティグリス川東岸に移った。892年、首都は再びバグダードにもどされたが、王宮はティグリス東岸に置かれた。アッバース朝治下のバグダードの最盛期は9世紀から10世紀初頭にかけてといわれている。しかし、946年には十二イマーム派を奉ずるブワイフ朝のアフマドがバグダード入りしてカリフよりアミール・アルウマラーに任命されて政治の実権を奪い、10世紀後半以降は、アッバース朝を支える軍人相互の抗争、民衆暴動の頻発、洪水の頻発などによって次第に荒廃しはじめた。",
"title": "歴史"
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"text": "1055年、中央アジア出身の王朝セルジューク朝がバグダードを占領した。セルジューク朝初代のトゥグリル・ベグは、ブワイフ朝のアミール・アルウマラーを追放してその勢力を駆逐し、第26代カリフのカーイム(1031年 - 1075年)より「スルタン」(「権力」)の称号 を受け、バグダードのカリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「バグダード・カリフ領」としてセルジューク朝およびホラズム・シャー朝の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝の宰相ニザームルムルクは、シーア派勢力の拡大に対抗してスンナ派のウラマー(法学者)を養成する必要から、1067年、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠したマドラサ(ニザーミーヤ学院)を建設した。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "しかし、11世紀以降、イスラーム文化の中心地はバグダードからしだいにカイロにうつっていった。これは、アッバース朝カリフの威信低下、スルタン制の確立、イクター制の一般化、イスラーム思想の固定化の進行など一連の西アジア社会の構造変化と無縁ではなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1258年、モンゴル帝国軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した(バグダードの戦い)。チンギス・カンの孫にあたるモンゴルの将フレグは最後のカリフムスタアスィムを殺害し、住民80万を殺戮したといわれる。豊かな農耕地と灌漑施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てたイルハン朝に属した。1234年完成のムスタンスィリーヤ学院や12世紀の城門のひとつバーブ・アルワスターニーなどを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の遺構はごく少数しか遺存していない。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "14世紀にモンゴルより独立したジャライル朝は、ミルジャン・モスク(1358年)や現在イスラーム博物館となっているハーン・マルジャーンなどの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心も完全にマムルーク朝の都カイロにうつり、メソポタミア地方における一地方都市へと転落していった。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者イブン=バットゥータがバグダードを訪れている。こののち、バグダードは、14世紀末と15世紀初め、2度にわたってティムールの略奪を受け、15世紀なかばには廃墟同然になってしまった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝の支配を受けたのち、1410年にはテュルク系の黒羊朝、1469年からは同じテュルク系の白羊朝の支配を受け、16世紀から17世紀にかけては、トルコのオスマン朝のスルタンとペルシアのサファヴィー朝のシャーとのあいだで争奪の対象となった。すなわち、1508年にはシャーイスマーイール1世のサファヴィー朝、1534年には皇帝スレイマン1世のオスマン帝国、1623年にはアッバース1世のサファヴィー朝、1634年にはムラト4世のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守アフメット・パシャおよびハサン・パシャは、行政機構の内部にシルカシア人マムルークの奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1798年、イギリスの商館がバグダードに建設され、1802年にはその駐在官が領事としての地位を有するようになった。イギリス領事はオスマン帝国の太守に次ぐ権限をあたえられた。19世紀後半になるとオスマン帝国の凋落が著しくなったのに対し、ヨーロッパ大陸においては従来小国分立の状態にあったドイツとイタリアに統一国家(ドイツ帝国、イタリア王国)が成立し、とくに新興ドイツは中近東への進出をめざした。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は大海軍の建造に着手する一方、1899年にオスマン帝国からバグダード鉄道の敷設権を獲得して、ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードの3都市を結び、沿線に資本を投下することにより西アジア地域への勢力拡大をはかった(3B政策)。しかし、この政策はイギリスの3C政策のみならずロシアの南下政策との対立を招いた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1914年に起こった第一次世界大戦は、中近東の政治地図を塗り替えた。イギリスは大戦中の1915年、「アラブ反乱」をあおってアラブの名門ハーシム家のフサイン・イブン・アリーにマクマホン書簡を手渡した(フサイン=マクマホン協定)。1917年、バグダードをふくむイラク地方がイギリス軍に占領され、その後のドイツ・オスマン帝国の敗北によって3B政策は頓挫した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "戦後の1921年には現在のイラクの領域にイギリス委任統治領メソポタミアが成立してイラク建国の準備がなされ、バグダードはその首都となった。1932年には委任統治が終了し、ハーシム家のファイサル1世(フサインの三男)を君主とするイラク王国が成立した。王宮はティグリス左岸に建てられた。なお、オスマン帝国の一部であった1900年の段階では14万人だったバグダードの人口は、1950年には50万人に達している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦直後の1946年、イラク王国はアラブ連盟に加盟したが、やがて世界は「冷たい戦争」とよばれる東西対立の時代にはいった。1955年、パキスタン、イラン、イラク、トルコ、イギリスの五ヶ国は中東条約機構(METO)を結成し、バグダードにはその本部が置かれた(バグダード条約機構)。これはソ連封じ込めをはかったものであったが、加盟をめぐってイラク国内は紛糾し、1958年7月14日、バグダードで反英米共和政派による革命(7月14日革命)が起こった。この政変により、国王一家や摂政が殺害され、アブドルカリーム・カーシムを首班とする人民共和国が成立した。カーシム政権は翌1959年にバグダード条約機構を脱退した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "その後、1963年のバアス党のクーデタ、1968年の同党による一党独裁、1979年のサッダーム・フセイン政権の成立、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争、1990年のクウェート侵攻とそれにつづく1991年までの湾岸戦争、2003年のイラク戦争など政変・戦争がつづいたが、バグダードはその間つねにイラク政治の中心であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、バグダード郊外のサドルシティはイスラム主義が影響力を持っており、カーシム時代に「革命市」(مدينة ألثورة \"Al-Thawra\")としてイラク共産党の大臣Naziha al-Dulaimi(英語版)が建設したこともあってかつてから反体制派が強いところであり、1963年のバアス党のクーデタの際にはレジスタンス運動が起こり、フセイン政権下では「サダムシティ」と命名されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2003年のイラク戦争では米軍が空爆をおこない最終的に陸軍を投入して、4月、連合国によって占領された。フセインはのちに捕らえられて処刑された。バグダードには連合国暫定当局(CPA)本部が置かれ、その後、イラク暫定政権、イラク移行政府を経て2006年5月、憲法にもとづいた議会選挙によって正式政府が成立して、現在に至っている。しかし、複雑な宗教・民族構成を反映して、少数派が政治上の諸権利および石油等の利権を要求し、イラク国民としてのアイデンティティが形成されないなか、アメリカなど占領国の利害もからみ、アメリカ的民主主義への反発などから抗争が続いている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2009年1月よりアメリカ合衆国大統領を務めるバラク・オバマは2011年中のイラクからの完全撤退を公約し、2009年6月末の段階で都市部からの撤退をほぼ完了、その後公約通り2011年12月18日に全部隊のイラクからの撤退を完了した。しかし、現実には治安は決して回復しておらず、連日、大規模なテロや爆破がつづいている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ティグリス川の両側に発達したバグダードの街は、鉄道橋も含め5つの橋で東西が結ばれている。6番目の橋が、カージマイン・モスクのある北郊のカージミーヤ地区に通じている。",
"title": "自然"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ケッペンの気候区分でいう砂漠気候(BW)に属する。年平均気温は約22°Cと温暖である。冬も平均最高気温が15°Cをくだらないが、夏の暑さは厳しい。気温の日較差は一年を通して大きい。年間降水量は通年でも123ミリメートルにすぎず、降雨はほとんど冬季に集中する。冬季は、北極方面からの寒気の影響を受け、月平均降雨日数 が3日から5日に達する。積雪は、2008年と2020年に記録されている。",
"title": "自然"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "バグダードは、その自然条件により、しばしば大洪水に見舞われ大きな被害をこうむってきたが、ティグリス川上流のサーマッラーに治水用のダムが設けられたため、洪水によって甚大な被害を受ける危険からは救われた。",
"title": "自然"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "バグダードは、イラクの経済・交通・文化の中心であり、イラク工業の大半が集中する。伝統的工業としてじゅうたんや絹織物、また綿製品・皮革製品・たばこ・アラック酒などがあり、セメントや鉄道修理、食品加工、繊維などの近代工業もさかんである。また石油化学工業なども盛んであるが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争など度重なる戦争で多くの施設が破壊されたこともあり、現在修復作業がさかんに行われている。",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "バグダード国際空港からヨルダンのアンマンやアラブ首長国連邦のドバイなどに定期便が就航している。また近隣国の主要都市からは不定期長距離バスやチャータータクシーで行くことができる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "イラクの鉄道は、オスマン帝国時代末期にさかのぼるが、鉄道網の大部分は第一次世界大戦中にメソポタミアを占領したイギリス軍によって建設されたものである。市内にはイラク国内最大となるイラク鉄道のバグダード・セントラル駅があり、バグダード・セントラル駅からは、バスラやモスル、キルクークなどイラク国内の主要都市と結ばれるだけでなく、シリアやトルコなどへも延伸しており、さらにヨーロッパ大陸に通じる。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に中華人民共和国から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な青島四方機車車輛製の高速車両が導入された(バグダード=バスラ高速鉄道路線)。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "汽船がティグリス川を航行し、バスラとのあいだを結んでいる。なお、バグダードの交通網を改善するため19世紀に実施された調査では、ユーフラテス川の汽船航行は不可能であることが判明している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "幹線道路は、イラク国内各地のみならずヨルダン、シリア、イラン、クウェートなどと結ばれており、現代においてもバグダードは水陸交通の要衝となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "モンゴルとティムールの侵攻による破壊や煉瓦という風化しやすい素材が建築用材として用いられることが多かったことが原因で、現存する遺構の数は決して多くない。アッバース朝時代の建築としては、以下の数棟がのこるのみである。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ムスタンスィリーヤ学院(英語版)は1234年に建てられた煉瓦造のマドラサで、しばしば「世界最古の大学」と称される。名称は創設者の第36代カリフムスタンスィルに由来する。この学院が収蔵していた30万冊におよぶ図書は、1258年、フレグの率いるモンゴル軍によってティグリス川に投げこまれ、そのため川はインクで黒く染まったといわれている。中庭には泉水をともない、複数のイーワーンが外部と中庭をつないでいる。建物は現在、博物館として利用されており、イラク中央銀行の発行するイラク・ディナール紙幣の図柄にもなっている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "アッバース宮殿は1230年ころマドラサとして建設された建物で、ミダーン地区に所在する。博物館に改装されて利用されていたが、2003年、強盗団によってアッバース朝時代の家具・調度品・書籍のほとんどが略奪された。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "12世紀に建設されたバーブ・アルワスターニは、バグダードに現存する唯一の城壁門であり、円形都市建設時の「ホラーサーン門」に相当する。現在は戦争博物館になっている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "スーク・アル=ガーズル寺院のミナレット(尖塔)は市内で最も古い建造物で10世紀初頭の作といわれる。なお、スーク・アル=ガーズルとは「糸市場」の意であり、現在は古い街並みを見下ろす位置にあるが、かつてはカリフのモスクの尖塔であった。この尖塔の下位部分はいまだ土に埋もれたままである。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "シッタ・ズバイダの墓塔は1179年ころから1225年ころまでの時期に建設されたもので、八角形の基台のうえにムカルナス装飾をともなった三角錐の形状の塔をのせた墓である。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "アッバース朝滅亡以後のものとしては、モスク、マドラサ、墓廟より成るマルジャーニーヤ建築群やハーン(隊商宿)として用いられたハーン・マルジャーンがあり、ともに14世紀中葉の遺構である。イラク観光省の修復を経て料亭としても用いられたハーン・マルジャーンは、アミン・アルジャーンによって建設されたイラク唯一の屋根付きハーンである。2階建てでユニークな設計プラン・採光法を採用している。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "カージマイン・モスク(英語版)は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。金色をした銅板のドームと美しい彩釉タイルの門で知られ、シーア派第7代イマームのムーサー・カーズィム(位765年-799年)および第9代イマームのムハンマド・タキー(位818年-835年)が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名もある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀にガージャール朝ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれた。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している。カージマイン・モスクの周辺には住宅が広がっている。",
"title": "観光"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "一方、スンニ派信者の多い地区にはアブ・ハニファ・モスク(英語版)などのスンニ派モスクがある。",
"title": "観光"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "「歴史的建造物」の節で示したように、バクダードでは歴史的建造物の多くは博物館に改装されている。",
"title": "観光"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "イラク王国成立時の1926年に創設されたイラク国立博物館は世界有数の考古学的博物館である。先史時代からメソポタミア文明、アッバース朝イスラーム帝国、および、イスラーム諸王朝の貴重な文化遺産・遺物が文明史ごとに28のギャラリーに分けて分類展示されている。しかし、2003年のイラク戦争の混乱に乗じて約1万5000点の収蔵品が密売目的で略奪されてしまい、これは世界的な話題となった。その後、数千点が返還されたものの、今なお数千点が行方不明のままである。この博物館には、古代史や各文明にかかわる諸言語の出版物を備えた考古学図書館も附設されている。",
"title": "観光"
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"text": "上記のほかには、自然史博物館、民俗博物館、国立近代美術館などがある。",
"title": "観光"
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"text": "イラク戦争においてはバグダード動物園も米軍の攻撃対象とされた。バグダード陥落後、貧窮した一部の市民によって動物園は襲撃を受け、多くの動物が殺され、食べられたという。残された動物も不衛生なまま放置されていたが、南アフリカ共和国出身の自然保護活動家ローレンス・アンソニー(英語版)が中心となって動物救済と動物園復興がなされた。",
"title": "観光"
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"text": "他の観光資源としては、イラク随一の繁華街であるラッ=シード通り、また、市内各地の大モスクの周囲にひろがる古いスーク(市場)の街並みがある。バグダードは中近東において、とりわけ書店の数の多い都市であり、露天商も少なくない。",
"title": "観光"
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"text": "バグダードには、横幅50メートルにおよぶ『自由のモニュメント』(ジャワード・セリーム作)や「アラブの盾」を造形した巨大なドーム『無名戦士の墓(英語版)』(ハーリド・アッ=ラッハール作)、2つに割れた桃のかたちをした「殉教者の墓」(アルシャヒード・モニュメント、イスマーイール・ファッターハ・アッ=トゥルクとサーマーン・アスアド・カマールの合作)などの巨大な記念物がある。その他、著名な彫刻として『アリババと40人の盗賊』『シャイアールとシェラザード』はともにムハンマド・ガニーの作品で街頭に所在し、ハーリド・アッ=ラッハールの作品『前進』『アル・マンスールの像』はいずれもイラク国立博物館横にある。",
"title": "観光"
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"text": "バグダード市は9区のなかに89(当初は88)の公共地域を有している。9区とは、",
"title": "市内行政区分"
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"text": "であり、1.から4.まではティグリス川西岸、5.から9.は東岸に所在する。",
"title": "市内行政区分"
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"text": "89の地域は、イラク戦争のあった2003年までは、自治体による公的な配送サービスの管理には用いられていたが、政治的な機能をまったく有していなかった。2003年4月、米軍管理下の連合国暫定当局(CPA)は、これら89地域に新規の機能を創出していく事業をはじめた。地域執行部の選出する地域評議員選挙が最初の事業であり、現在では市内行政区として自治的役割を有するに至っている。",
"title": "市内行政区分"
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"text": "バグダード大学(英語版)は1958年に創立され、理学・工学・医学・政治・経済・文学の各学部を有する総合大学である。現政権のジャワド・マリキ(ヌーリー・マーリキー)やジャラル・タラバニ、フセイン政権時代のターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ、ラシード・M・S・アルリファイ、ターリク・ミハイル・アズィーズ、アッ=サッハーフ、ナージ・サブリー、アワド・ハマド・バンダル、ニザール・ハムドゥーン、アービド・ハーミド・マフムード、またフセインの次男クサイなどはバグダード大学の出身者である。",
"title": "教育"
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"text": "アル・ムスタンスィリーヤ大学(英語版)は、13世紀創設のマドラサ、ムスタンスィリーヤ学院の流れを汲む綜合大学である。",
"title": "教育"
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"text": "他に、フセイン長男ウダイの卒業したバグダード工科大学(英語版)や、",
"title": "教育"
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"tag": "p",
"text": "などがある。",
"title": "教育"
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"text": "現在、バグダードで話されているアラビア語方言は、イラク国内の他の大都市の中心部で話されることばとは異なり、より遊牧民的な特徴をもっている。これは、中世以降遊牧を離れて帰農した人びとが多数この地に入植したことによって起こった可能性が考えられる。",
"title": "文化・スポーツ"
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"text": "バグダードはまた、現代アラブ文化のなかで常に重要な役割を担っており、著名な作家、音楽家、また、ヴィジュアル分野の芸術家たちの活動拠点となっている。",
"title": "文化・スポーツ"
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"text": "バグダード市には、国内の重要な文化機関・文化施設が集中している。",
"title": "文化・スポーツ"
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"text": "イラク国立交響楽団(英語版)は1959年に正式に設立された交響楽団であり、第二次湾岸戦争では短期間リハーサルと公演を中断したが、その後は通常に復している。イラク戦争により楽団員も著しく減少したが、2010年5月にはアメリカ人少年との共演もなされた。",
"title": "文化・スポーツ"
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{
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"text": "イラク国立劇場は、2003年のイラク攻撃の際に略奪に見舞われた施設であるが、目下、修復にむけた努力が続けられている。2006年6月にはイラク戦争後はじめてとなる「イラク映画祭」がおこなわれた。",
"title": "文化・スポーツ"
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"text": "劇場の生(ナマ)の舞台は、国際連合の制裁によって外国映画輸入制限のあった1990年代を通じ、当局からの援助を受けてきた。また、30ほどあった映画館はすべて生ステージに転換され、広範囲にわたってコメディーないしドラマ作品の制作をおこなったと報告されている。",
"title": "文化・スポーツ"
},
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"text": "バグダードで文化教育のために供される公共施設は、音楽アカデミー、美術協会およびバグダード音楽バレエ学校(英語版)に帰属している。",
"title": "文化・スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 76,
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"text": "イラクスーパーリーグ(Dawri Al-Nokhba)に属するアル・ザウラ(英語版)、アル・タラバ(学生のクラブ)、アル・クワ・アル・ジャウィヤ(英語版)(空軍兵士のクラブ)、アル・ショルタ(英語版)(警察)など、多くの有力なサッカークラブがバグダードを本拠地としている。バクダード最大のアル・シャアブ・スタジアム(英語版)は、1966年に開園されたスタジアムである。これよりもはるかに大規模なスタジアムの建設もはじまっているが、まだ工事に着手したばかりの段階である。",
"title": "文化・スポーツ"
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バグダードは、イラクの首都。また、バグダード県の県庁所在地でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、イスラム世界における主要都市の1つ。2020年の人口はおよそ714.4万人。
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{{Infobox Settlement
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'''バグダード'''({{Lang-ar|'''بَغْدَاد'''}}, Baghdād, バグダード)([[ラテン文字]]表記: {{lang|ar-latn|''Baghdad, Baġdād''}})は、[[イラク]]の[[首都]]。また、[[バグダード県]]の県庁所在地でもある。[[アッバース朝]]によって建設された[[古都]]であり、[[イスラム世界]]における主要都市の1つ。[[2020年]]の人口はおよそ714.4万人<ref>『データブック・オブ・ザ・ワールド 2009年版』p.50</ref>。
== 名称と表記 ==
=== アラビア語 ===
文語[[アラビア語]](フスハー)の表記と[[発音]](بَغْدَاد, baghdād, バグダード)に忠実なカタカナ表記は'''バグダード'''で、アクセントは後半のダー部分に置かれる。
[[ファイル:Pronunciation_of_Baghdad_in_Arabic.wav|Pronunciation_of_Baghdad_in_Arabic]]
<small>音声サンプル:アラビア語での発音</small>
=== 英語 ===
原語アラビア語で含まれる長母音ā部分が短母音a化した発音が行われている<ref>{{Cite web |url=https://dictionary.cambridge.org/ja/pronunciation/english/baghdad |title=Cambridge Dictionary - Baghdad |access-date=2023-11-03}}</ref>。
* UK:/bægˈdæd/(バグダド)
* US:/ˈbæg.dæd/(バグダド)
=== 日本語 ===
日本における学術的な表記はバグダードが標準となっているが、メディアなどでは英語発音同様長母音を含まず、かつ外来語への当て字で多い-dad部分への[[促音]]「ッ」挿入により'''バグダッド'''とカタカナ表記されることが今でも広く行われている。
==概要==
[[ファイル:Haifa street 2017.jpg|thumb|150px|left|ハイファ通り]]
バグダードは、[[2003年]]3月の[[イラク戦争]]で[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、[[連合国暫定当局]](CPA)本部が置かれた<ref name="hara">『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分</ref>。その後、[[2004年]]6月には[[イラク暫定政権]]への主権移譲がなされ、[[イラク移行政府]]を経て[[2006年]]には[[イラク正式政府]]が成立し、現在に至っている。
人口増加が著しく、2025年に806万人、2050年に1509万人、2075年に2439万人、2100年の人口予測では3410万人を数える世界21位の超巨大都市となる予測が出ている<ref>{{cite journal|last1=Hoornweg|first1=Daniel|last2=Pope|first2=Kevin|title=Population predictions of the 101 largest cities in the 21st century|journal=Global Cities Institute|date=January 2014|issue=Working Paper No. 4|url=http://media.wix.com/ugd/672989_62cfa13ec4ba47788f78ad660489a2fa.pdf}}</ref>。
==名前==
諸説あるバグダードの名前の由来に、ペルシア語の「神の都」がある。アッバース朝の[[マンスール]]が定めたこの名前は古代ペルシアの影響を反映したものであり、アラビア語の مَدِينَةُ السَّلَامِ(madinat al-salām, マディーナト・アッ=サラーム / マディーナ・アッ=サラーム:「平和の都」) が今でも硬貨に残る公式名である。
== 立地と地理概況 ==
バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、メソポタミア平原のほぼ中央、[[チグリス川|ティグリス川]]中流の河畔に位置する。その西を流れる[[ユーフラテス川]]は同市付近でもっとも接近し、バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。
バグダードの市街地は、蛇行するティグリス川の両岸にひろがっている。左岸(東岸)にはラシード通りや[[バザール]](市場)、諸[[官庁]]および在外公館、旧[[王宮]]、{{仮リンク|カージマイン・モスク|en|Kadhimiya}}、民族解放記念碑、[[バグダード大学]]、[[銀行]]、また、[[ホテル]]や[[レストラン]]、新住宅地などがあり、右岸(西岸)には[[空港]]や[[テレビ局]]、大統領府や議事堂、バグダード中央駅、[[病院]]、高級住宅街などがある{{R|hara}}。歴史的には西岸が古いものの、東岸より先に荒廃し、むしろ東岸に古さが残っている<ref name=banyu>末尾(1975)p.468</ref>。なお、かつての環状都市は現在その痕跡をとどめていない{{R|banyu}}。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|バグダッドの歴史|en|History of Baghdad}}}}
=== イスラーム以前 ===
バグダードの歴史は古代[[メソポタミア文明]]にさかのぼる。すでに紀元前3000年代の[[シュメール人]]の[[都市国家]]の時代、あるいは[[アッカド|アッカド王国]]の時代から[[集落]]の存在が確認されており、[[ハンムラビ王]]の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる{{R|banyu}}。また、バグダードの周辺には[[バビロン]]、[[セレウキア]]、[[クテシフォン]]、[[アカルクーフ]]など古代の首都遺跡が数多く分布する<ref name=britanica>『ブリタニカ国際大百科事典』(1974)pp.158-159「バグダード」(糸賀昌昭訳)</ref>。[[紀元前8世紀]]ころには[[アラム人]]が集住を開始しており、やがて、年ごとの[[定期市]]を開くことが慣例になったものと考えられる<ref name=sato>佐藤(1988)pp.437-438</ref><ref group="注釈">中世ヨーロッパでは長いあいだバグダードは王都[[バビロン]]と同一であると誤認されていたが、イスラーム以前のバグダードは[[定期市]]がひらかれる一集落にすぎなかった。</ref>。
[[サーサーン朝]]時代のバグダードは、ティグリス河畔の交通の要衝であることから周辺地域の物流の中心となった。一説によると、都市名のバグダードは[[古代ペルシア語]]で「神(バグ)の贈り物」を意味するとされる{{R|sato}}<ref group="注釈">「羊の家」をあらわす[[アラム語]]が[[語源]]であるという異説もあって、一定しない。</ref>。バグダードは、肥沃な農耕地帯の中央に位置し、メソポタミア地方の[[農産物]]の集積地として[[食糧]]事情に恵まれ、東西の[[隊商]]ルートと南北の[[河川]]ルートの交わる[[交易]]の結節点となりうる地の利を持っていた{{R|sato}}。この地方が当時、新興宗教であったイスラム教を信奉する[[アラブ人]]たちによって占領されたのは、[[634年]]のことである。
=== アッバース朝カリフの都 ===
[[ファイル:Baghdad 150 to 300 AH.gif|350px|thumb|right|アッバース朝下のバグダード(767年ころ-912年ころ)]]
バグダードは、[[762年]]に[[アッバース朝]]第2代[[カリフ]]の[[マンスール]]によって新都に定められた[[計画都市]]で、南フランスから[[唐|中国国境]]に至る広大な[[イスラーム帝国]]の中心にふさわしい都市として、直径およそ2.35キロメートルの正円の城壁が建設された{{R|sato}}<ref group="注釈">初代の[[サッファーフ]]は、いわゆる「[[アッバース革命]]」の成功により[[クーファ]]で即位した。サッファーフは、クーファから北方の[[ハーシミーヤ]]、さらにはバグダード西方の[[アンバール]]に都を遷した。第2代カリフのマンスールはサッファーフの兄にあたり、いったんはハーシミーヤに復都したものの、その地は、[[マラリア]]を媒介する[[蚊]]が多く、また、多数のシーア派住民が住むクーファに近く政情不安が懸念されたので新都の建設が求められた。</ref>。当時のバグダードは[[キリスト教]]の[[司祭]]や[[羊飼い]]などが住み、時おり定期市の開かれる小さな村落にすぎなかったが、ティグリス・ユーフラテスの両河が相互に接近し、サーサーン朝時代の[[運河]](イーサー運河、サラート運河など)が密集し、これら運河が活用できるほか、対立勢力は船か橋を用意しなければならないところから、首都として防衛するのが比較的容易なところから新都建設地に選ばれた{{R|banyu}}<ref name=stu79>スチュアート(1973)pp.79-81</ref>。イスラームの[[年代記]]によれば、マンスールは灰で巨大な円を描き、その円に沿って[[綿]]油と綿の実をまいて火を付け、やがて帝都となる地の全体を眺望したといわれる<ref name=sugita12>杉田(2006)pp.12-15「アラビアン・ナイトの時代」</ref><ref group="注釈">円城都市には[[メディア王国]]の首都[[エクバタナ]](現在の[[ハマダーン]])やサーサーン朝の都市グール(現在のフィールザーバード)など古代[[オリエント]]以来の伝統がある</ref>。新都建設は、4年の歳月をかけ、10万の職人と人夫、400万[[ディルハム]]の[[費用]]を投じて[[766年]]に完成した{{R|sato|sugita12}}。
バグダードは、アラブ大征服の際に軍人の駐屯地から発達した軍営都市とは起源が異なり、また[[東ローマ帝国]]やサーサーン朝時代の都市を引き継いだものでもない、純然たる人工都市であり、カリフの宮殿に伺候する多くの官僚やカリフ近臣を擁する都として、また、王朝建設の主力となった[[ホラーサーン]]軍団<ref group="注釈">アラブ大遠征以降、軍団内でのアラビア半島出身者のアラブ人兵士の重要性が減じ、かわってホラーサーン地方出身者の軍人やその他の側近軍団、9世紀以降はトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)が軍の主力をになうようになった。</ref> とその子孫の駐屯地として繁栄した<ref name="ama">{{Cite web|和書|url=http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/118/jhns118_amabe.pdf |title=アッバース朝期のバグダードの民衆運動 |accessdate=2022-03-17 |author=余部福三 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304185942/http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/118/jhns118_amabe.pdf |archivedate=2016-03-04 |format=PDF}}</ref>。バグダードが周到な計画にもとづいて建設されたことは、堅固な城塞に囲まれた円城(ムダッワラ)という都市プランによく示されている。ティグリス川西岸に建設されたバグダードの城壁は三重におよび、円城の内側には、カリフの勢威を内外に示すため、「黄金門宮」と称する[[宮殿]]や[[モスク]]が建てられ、それぞれの[[ドーム]]は高貴な色とされた[[緑色]]の[[タイル]]で覆われた。周囲には、諸[[官庁]]、カリフ一族の館、[[親衛隊]]駐屯所などが並び、
*[[南西]]の「クーファ門」([[アラビア半島]]から[[メッカ]]へ)
*[[北西]]の「シリア門」([[シリア]]から[[地中海]]を経て[[東ローマ帝国]]へ)
*[[北東]]の「ホラーサーン門」([[イラン]]のホラーサーンから[[シルクロード|絹の道]]により[[中央アジア]]・[[中国]]へ)
*[[南東]]の「バスラ門」([[バスラ]]から[[シルクロード#海の道|海の道]]により[[インド洋]]を経て[[東南アジア|東南アジア世界]]へ)
の4つの[[門]]を有していた{{R|sato}}。なお、円城都市は、要する城壁が最小限でありながら、防禦に際しては死角がなく最大の効果を発揮するところに利点があった <ref name="daigeidai">{{PDFlink|[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_13.pdf 藤本康雄・田端修・樋口文彦「中近東・アジアの古都市・建築平面構成と尺度」]}}(大阪藝術大学研究紀要「藝術 24」){{リンク切れ|date=2022-03-17}}</ref>。
城内に住んだのは特権階級のみで、城壁と城壁のあいだがその居住域となっており、[[商人]]や[[職人]]などの一般市民は城外に居住するよう定められた。円城の都は、直交する2条の[[道路]]により4つの[[扇形]]の区域に分かれた。道路は門を結び、門を貫いて市外へ通じ、陸上交通の便に供したが、それのみならず中央官吏の巡視をも容易なものとした{{R|stu79}}。市民は城外にいくつかの区に分かれて居住し、各区はそれぞれ壁で区切られ、夜間にはその出入口が閉鎖された<ref name=maejima>前嶋(1978)p.18</ref>。それぞれの区には最高責任者がおり、通常、アラビア人、ペルシア人、ホラズム人など出身地ごとに集住して一区を形成することが多かった{{R|maejima}}。
第3代カリフの[[マフディー (アッバース朝カリフ)|マフディー]](マンスールの子、在位[[775年]] - [[785年]])の代にはティグリス川東岸にも[[軍隊]]が置かれ、それにともなって[[商人]]や手工業者も数多く居住するようになって、東岸ルサーファ地区が形成され、ティグリス川に架かる舟橋はゆきかう人馬で賑わっていたという{{R|banyu}}<ref group="注釈">舟橋はのちに上流と下流にも1つずつつくられた。これは、河中に杭を立てて舟をつなぎあわせ、その上に板を敷いてつくられていた。</ref>。また、アッバース朝の歴代[[宰相]](ワズィール)を輩出したバルマク家も、ルサーファ地区北のシャンマーシーヤ地区に大邸宅を構えていたと伝承されている{{R|sato}}。
[[アラビア語]]で「平安の都」を意味する'''マディーナ・アッ=サラーム'''の名が与えられた新都バグダードは、当時、[[唐]]の[[長安]]と並ぶ世界最大の都市であった<ref group="注釈">「マディーナ・アッ=サラーム(平安の都)」はマンスールによる命名。[[天国]]を意味する「ダール・アッ=サラーム(平安の館)」が意識されたものといわれるが、実際には従来よりの呼称バグダードが多用された。なお、中国では[[宋 (王朝)|宋]]代以降「白達」と表記され、[[イタリア語]]ではバルダッコ(Baldacco)の名で知られた。</ref>。人口は100万を超え、アッバース朝最盛期の第5代カリフ、[[ハールーン・アッ=ラシード]](在位[[786年]] - [[809年]])の時代には150万人におよんだとみられる<ref name=iwa34>岩淵(1993)pp.34-37</ref>。バグダード市民はとりわけ[[コーラン]]の教えを遵守するよう求めた。バグダードの街には6万の礼拝所と3万の[[公衆浴場]]があったといわれる。大説話集『[[千夜一夜物語]]』収載の多くの物語の舞台にもなっており<ref group="注釈">『千夜一夜物語』は単にお伽噺のみならず、史実にもとづいた物語を数多く含んでいるとみられている。しかし、後世換骨奪胎してつくられた話やハールーンに仮託された話も多く、その場合はハールーンを主人公とし、バグダードを舞台としておりながらも実際の細部の地理などについては不正確なことも多い。</ref>、そこでは、ハールーンは、従者を連れて夜な夜なバグダードの街を歩き回る風流な君主として描かれている<ref group="注釈">好色な場面はハールーンが登場人物となることが多いところからバグダード起源の説話が多く、悪漢の登場する説話は[[カイロ]]起源のものが多いと考えられている。</ref>。
[[ファイル:Baghdad old Abbasid Minaret.jpg|140px|right|thumb|スーク・アル=ガーズル寺院のミナレット(尖塔)<br>バグダード現存最古と記録される10世紀初頭の建造物(撮影は1911年)]]
アッバース朝は[[駅伝制]]({{仮リンク|バリード|en|Barid}})によって帝国各地を結んでいたが、バグダードはその重要な結節点であり、[[中近東]]における代表的な商業都市であるというばかりではなく、[[中国]]、[[東南アジア]]、[[インド]]から[[サハラ砂漠|サハラ]]以南の[[アフリカ]]や[[欧州]]までを含む国際[[交易]]網の中心として、また、[[シルクロード]]における西の起点・終着点として、「世界の十字路」と称されるほどの繁栄をきわめた{{R|iwa34}}<ref group="注釈">イスラーム商人の活動領域はきわめて広大であり、北は[[ロシア]]や[[スカンジナビア半島]]、南はインド洋やアフリカ大陸東岸、東は[[南シナ海]]沿岸、西は[[大西洋]]沿岸にすらおよんでいた。前嶋(1955)p.86</ref>。
バグダードはまた、[[イスラーム世界]]の[[学問]]の中心地として各地から多くの学者が集まった。アッバース朝の軍は[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]において唐軍を破り、唐で国外不出とされた[[紙]]の製法がイスラーム世界にもたらされた。そののち紙の普及によって行政通達の円滑化や翻訳事業も進んだ。ハールーン・アッ=ラシードは、バグダードに紙工場をつくり、のちには[[ダマスクス]]にも設けたといわれている<ref>岩村(1975)pp.244-246</ref>。中国からは[[養蚕]]の技術や[[羅針盤]]も伝わった。インドからは[[ゼロ]]の数字をもつ[[数学]]が伝来し、インド数字をもとに[[アラビア数字]]がつくられた{{R|iwa34}}<ref group="注釈">[[サンスクリット]]の動物寓話『[[パンチャタントラ]]』は、マンスールの書記に抜擢された[[イブン・アルムカッファー]]によって[[ペルシア語]]訳から『カリーラとディムナ』としてアラビア語に訳された。13世紀にはその[[ヘブライ語]]訳からラテン語、さらに独仏英の諸語に、アラビア語からは直接ギリシア語・[[スペイン語]]に訳された。</ref>。ハールーンの時代には、宮廷文化も絶頂に達し、詩人[[アブー・ヌワース]]、歌手[[イブラーヒーム・アルマウスィリー]]とイスハーク・アルマウスィリーの親子など数多くの文化人が伺候した<ref>杉田(2006)pp.18-19「ハールーン・アッラシード」</ref><ref group="注釈">「創造されたコーラン」説を唱え、アッバース朝下の諸民族の特徴を描写した文でも知られる、9世紀アラブの文人[[ジャーヒズ]]もバグダードで活躍した人物である。</ref>。また、数多くの[[ギリシア語]]文献が収集されて[[アラビア語]]に翻訳された。とくにハールーンの「知恵の宝庫(ヒザーナ・アルヒクマ)をもとに、9世紀前半に第7代カリフ[[マアムーン]]によってバグダードに建設された「[[知恵の館]](バイト・アルヒクマ)」では、[[プラトン]]や[[アリストテレス]]などの著作が翻訳・研究された<ref group="注釈">詩人でもあったマアムーンは翻訳者に訳した本と同じ重さの[[金|黄金]]をあたえたという。</ref>。以後、バグダードは、東方におけるギリシア学術研究の中心地となった<ref name=shimada230>嶋田(1970)pp.230-233</ref>。ギリシアの学術に興味をもったマアムーンは、バグダードに天文台を建設した{{R|shimada230}}。こうしてアッバース朝下のバグダードでは[[古代ギリシャ|ギリシャ]]・[[ペルシャ]]・[[古代インド|インド]]における[[哲学]]・数学・[[自然科学]]・[[医学]]などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちに[[ラテン語]]にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響をあたえた。
[[ファイル:Arabischer Maler um 1210 001.jpg|260px|left|thumb|インドの説話『[[パンチャタントラ]]』も『[[カリーラとディムナ]]』としてアラビア語訳された([[1200年]] - [[1220年]])]]
商業のさかんであったバグダードの[[市場]](スーク)には世界中の[[商品]]が集まった。中国の[[絹織物]]や[[陶磁器]]、インド・東南アジアの[[香辛料]]、アフリカの[[金]]や[[奴隷]]などである。世界で初めて[[小切手]]が使用されたのもアッバース朝時代のバグダードであるといわれる。王宮約2キロメートル南に所在するカルフ地区は、バグダード建設当初は円城の外壁と内壁を結ぶ[[アーケード (建築物)|アーケード]]に設けられた市場を移転して形成された商業地であった。移転は[[773年]]におこなわれたが、その目的は円城内の治安を確保するためであったといわれる。これにより、[[果物]]市場、[[織物]]市場、[[両替商]]街、[[書店]]街、羊肉屋街などの多様な市場が現れ、それぞれのスークには親方ないし監督者がいて、諸事の管理監督にあたった{{R|maejima}}。カルフ地区にはやがて[[シーア派]]を信奉する商工業者が集まり、イスラーム世界の先進技術を駆使した生産と商取引の一大中心地となっていった。当時のバグダードは、絹織物や[[綿織物]]、[[ガラス]]・[[金属]]工芸、[[刀剣]]、紙などが産品として著名であり、とくに織物は各地に[[輸出]]されている{{R|sato}}。
[[ワクフ]]といわれる有力者による寄付行為もさかんに行われ、[[モスク]]や医療施設、市場が多数つくられ、市場からの収益によって[[国富]]が増大した。特に医療面では世界初の総合[[病院]]が設けられている。イスラームの医学は、のちの[[西洋医学]]に大きな影響をあたえた。
ハールーン・アッ=ラシードの死後、2人の子([[アミーン]]とマアムーン)の間に後継争いが生じ、円城はその際、はなはだしい損傷をうけ、そののちも完全には復旧されなかった{{R|banyu|ama}}。アミーンは歴代カリフのなかでも教養豊かな人物であったが、ハルーンとの誓約を破り異母兄マアムーンではなく実子を後継にすえたために対立が生じたものであった。
[[9世紀]]の[[ムウタスィム]]による一時的な[[サーマッラー]]への遷都([[836年]])後もバグダードの繁栄は揺るぐことなく、むしろ都市の規模は拡大した。9世紀にはハールーン死後の[[813年]]と第12代カリフ[[ムスタイーン]]治下の[[865年]]に起こった内乱によって、バグダードの中心はティグリス川東岸に移った。[[892年]]、首都は再びバグダードにもどされたが、王宮はティグリス東岸に置かれた{{R|britanica}}。アッバース朝治下のバグダードの最盛期は9世紀から[[10世紀]]初頭にかけてといわれている{{R|sato}}。しかし、[[946年]]には[[十二イマーム派]]を奉ずる[[ブワイフ朝]]のアフマドがバグダード入りしてカリフよりアミール・アルウマラーに任命されて政治の実権を奪い<ref group="注釈">アッバース朝の22代カリフ、[[ムスタクフィー]](944年 - 946年)はアフマドをアミール・アルウマラー(最高のアミール職)に任じてムイッズ・アッダウラ(王権を強化する者)という称号をあたえるとともに、軍事・行政および[[財政]]に関する全権限をアフマドに移譲した。</ref>、10世紀後半以降は、アッバース朝を支える[[軍人]]相互の抗争、民衆暴動の頻発{{R|ama}}、[[洪水]]の頻発などによって次第に荒廃しはじめた<ref name=morimoto>『日本大百科全書』(2004)森本公誠執筆分</ref>。
=== アッバース朝の滅亡とバグダードの衰退 ===
[[1055年]]、中央アジア出身の王朝[[セルジューク朝]]がバグダードを占領した。セルジューク朝初代の[[トゥグリル・ベグ]]は、ブワイフ朝のアミール・アルウマラーを追放してその勢力を駆逐し、第26代カリフの[[カーイム]](1031年 - 1075年)より「[[スルタン]]」(「権力」)の称号<ref group="注釈">こののち、「スルタン」はスンナ派イスラーム国家の君主号として定着して広く用いられる。</ref> を受け、バグダードのカリフには忠誠を誓ったので、バグダード周辺は「[[バグダード・カリフ領]]」としてセルジューク朝および[[ホラズム・シャー朝]]の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下にあった。セルジューク朝の宰相[[ニザームルムルク]]は、シーア派勢力の拡大に対抗して[[スンナ派]]の[[ウラマー]](法学者)を養成する必要から、[[1067年]]、バグダードのティグリス川東岸にみずからの名を冠した[[マドラサ]]([[ニザーミーヤ学院]])を建設した<ref group="注釈">ニザーミーヤ学院は、バグダードのみならず[[ニーシャープール]]や[[イスファハーン]]、[[ライイ|レイ]]にも建てられた。この学院がイスラーム世界のマドラサ教育の先がけとなった。</ref>。
しかし、11世紀以降、イスラーム文化の中心地はバグダードからしだいに[[カイロ]]にうつっていった。これは、アッバース朝カリフの威信低下、スルタン制の確立、[[イクター制]]の一般化、イスラーム思想の固定化の進行など一連の西アジア社会の構造変化と無縁ではなかった<ref>佐藤(1978)</ref>。
[[ファイル:Bagdad1258.jpg|320px|thumb|right|1258年のフレグのバグダード侵攻を描いた14世紀の[[細密画]]([[パリ国立図書館]]蔵)]]
[[1258年]]、[[モンゴル帝国]]軍の侵攻によってアッバース朝はついに滅亡し、バグダードは灰燼に帰した([[バグダードの戦い]])。[[チンギス・カン]]の孫にあたるモンゴルの将[[フレグ]]は最後のカリフ[[ムスタアスィム]]を殺害し、住民80万を殺戮したといわれる{{R|britanica}}。豊かな農耕地と[[灌漑]]施設が破壊され、経済基盤を喪失したバグダードはその後フレグの建てた[[イルハン朝]]に属した。[[1234年]]完成の[[ムスタンスィリーヤ学院]]や12世紀の城門のひとつ[[バーブ・アルワスターニー]]などを除けば、現在のバグダードにはアッバース朝時代の[[遺構]]はごく少数しか遺存していない{{R|sugita12}}。
[[14世紀]]にモンゴルより独立した[[ジャライル朝]]は、[[ミルジャン・モスク]]([[1358年]])や現在イスラーム博物館となっている[[ハーン・マルジャーン]]などの建造物をのこしたが、バグダードが「カリフの都」の座を失うと、イスラーム世界における学問の中心も完全に[[マムルーク朝]]の都カイロにうつり、[[メソポタミア地方]]における一地方都市へと転落していった。なお、14世紀前半には『三大陸周遊記』の著者[[イブン=バットゥータ]]がバグダードを訪れている<ref>{{Cite web|和書|title=松岡正剛の千夜千冊 |url=https://1000ya.isis.ne.jp/0658.html |website=松岡正剛の千夜千冊 |date=2002-11-13 |accessdate=2022-03-17 |language=ja}}</ref>。こののち、バグダードは、14世紀末と[[15世紀]]初め、2度にわたって[[ティムール]]の略奪を受け、15世紀なかばには[[廃墟]]同然になってしまった{{R|morimoto}}。
アッバース朝滅亡後のバグダードは、イルハン朝、ジャライル朝、[[ティムール朝]]の支配を受けたのち、[[1410年]]には[[テュルク系]]の[[黒羊朝]]、[[1469年]]からは同じテュルク系の[[白羊朝]]の支配を受け、[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけては、トルコの[[オスマン帝国|オスマン朝]]のスルタンとペルシアの[[サファヴィー朝]]の[[シャー]]とのあいだで争奪の対象となった。すなわち、[[1508年]]にはシャー[[イスマーイール1世]]のサファヴィー朝、[[1534年]]には皇帝[[スレイマン1世]]のオスマン帝国、[[1623年]]には[[アッバース1世]]のサファヴィー朝、[[1634年]]には[[ムラト4世]]のオスマン帝国と支配者が二転三転した。このような支配者交替は、バグダードがトルコとペルシアの両帝国の中間に立地していたことと、この地方のムスリムがスンナ派・シーア派に二分されたことにも由っている{{R|britanica}}。しかし、この間バグダードは政治的には全く周縁の位置にあり、長期にわたって衰退した。
17世紀中葉以降はオスマン帝国の支配下に入り、徐々にではあるが、次第に復興を遂げていった。18世紀初頭に任命されたメソポタミアの太守[[アフメット・パシャ]]および[[ハサン・パシャ]]は、行政機構の内部に[[シルカシア人]][[マムルーク]]の奴隷組織を組み込むことに成功し、バグダードをメソポタミア行政の中心地にすることに成功した{{R|britanica}}。
=== イラク王国の首都に ===
[[ファイル:Baghdad-Carriage 1930.jpg|270px|right|thumb|1930年のバグダード]]
[[1798年]]、[[イギリス]]の[[商館]]がバグダードに建設され、[[1802年]]にはその駐在官が[[領事]]としての地位を有するようになった。イギリス領事はオスマン帝国の太守に次ぐ権限をあたえられた{{R|britanica}}。19世紀後半になるとオスマン帝国の凋落が著しくなったのに対し、[[ヨーロッパ大陸]]においては従来小国分立の状態にあった[[ドイツ]]と[[イタリア]]に統一国家([[ドイツ帝国]]、[[イタリア王国]])が成立し、とくに新興ドイツは[[中近東]]への進出をめざした。ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は大海軍の建造に着手する一方、[[1899年]]にオスマン帝国から[[バグダード鉄道]]の敷設権を獲得して、[[ベルリン]]、[[イスタンブール]](ビザンティウム)、バグダードの3都市を結び、沿線に[[資本]]を投下することにより[[西アジア]]地域への勢力拡大をはかった([[3B政策]])。しかし、この政策は[[イギリス]]の[[3C政策]]のみならず[[ロシア]]の南下政策との対立を招いた。
[[1914年]]に起こった[[第一次世界大戦]]は、中近東の政治地図を塗り替えた。イギリスは大戦中の[[1915年]]、「[[アラブ反乱]]」をあおってアラブの名門[[ハーシム家]]の[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]にマクマホン書簡を手渡した([[フサイン=マクマホン協定]])<ref>岩淵(1993)pp.38-39</ref>。[[1917年]]、バグダードをふくむイラク地方がイギリス軍に占領され、その後のドイツ・オスマン帝国の敗北によって3B政策は頓挫した。
戦後の[[1921年]]には現在のイラクの領域に[[イギリス委任統治領メソポタミア]]が成立してイラク建国の準備がなされ、バグダードはその首都となった。[[1932年]]には委任統治が終了し、ハーシム家の[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]](フサインの三男)を君主とする[[イラク王国]]が成立した<ref group="注釈">ハーシム家のイラク王国は、[[サウード家]]の[[サウジアラビア]]とは対立した。</ref>。王宮はティグリス左岸に建てられた。なお、オスマン帝国の一部であった[[1900年]]の段階では14万人だったバグダードの人口は、[[1950年]]には50万人に達している。
=== 現代 ===
[[第二次世界大戦]]直後の[[1946年]]、イラク王国は[[アラブ連盟]]に加盟したが、やがて世界は「[[冷たい戦争]]」とよばれる東西対立の時代にはいった。[[1955年]]、[[パキスタン]]、[[イラン]]、イラク、[[トルコ]]、イギリスの五ヶ国は[[中央条約機構|中東条約機構]](METO)を結成し、バグダードにはその本部が置かれた(バグダード条約機構)。これは[[ソ連]]封じ込めをはかったものであったが、加盟をめぐってイラク国内は紛糾し、[[1958年]]7月14日、バグダードで反英米共和政派による[[革命]]([[7月14日革命]])が起こった。この政変により、国王一家や[[摂政]]が殺害され、[[アブドルカリーム・カーシム]]を首班とする人民共和国が成立した。カーシム政権は翌[[1959年]]にバグダード条約機構を脱退した。
その後、[[1963年]]の[[バアス党]]のクーデタ、[[1968年]]の同党による一党独裁、[[1979年]]の[[サッダーム・フセイン]]政権の成立、[[1980年]]から[[1988年]]までの[[イラン・イラク戦争]]<ref group="注釈">1988年に停戦が実現し、1990年イラン側の和平条件を全面的に受け入れることを表明した。</ref>、[[1990年]]の[[クウェート侵攻]]とそれにつづく[[1991年]]までの[[湾岸戦争]]、[[2003年]]の[[イラク戦争]]など政変・戦争がつづいたが、バグダードはその間つねにイラク政治の中心であった。
なお、バグダード郊外の[[サドルシティ]]は[[イスラム主義]]が影響力を持っており、カーシム時代に「革命市」(مدينة ألثورة "Al-Thawra")として[[イラク共産党]]の大臣{{仮リンク|Naziha al-Dulaimi|en|Naziha al-Dulaimi}}が建設したこともあってかつてから反体制派が強いところであり、1963年のバアス党のクーデタの際には[[レジスタンス運動]]が起こり<ref>Marr, Phebe; “The Modern History of Iraq”, page 172</ref>、フセイン政権下では「サダムシティ」と命名されていた。
[[ファイル:Kiowa over Baghdad.jpg|thumb|220px|right|バグダード上空を飛ぶアメリカ軍のヘリコプター(2004年3月)]]
2003年のイラク戦争では米軍が[[空爆]]をおこない最終的に[[陸軍]]を投入して、4月、連合国によって占領された。フセインはのちに捕らえられて処刑された<ref group="注釈">しかし、「大量破壊兵器」なるものが存在しなかったことは[[アメリカ合衆国連邦議会]]によってのちに証明された。</ref>。バグダードには連合国暫定当局(CPA)本部が置かれ、その後、イラク暫定政権、イラク移行政府を経て2006年5月、憲法にもとづいた議会選挙によって正式政府が成立して、現在に至っている。しかし、複雑な宗教・民族構成を反映して、少数派が政治上の諸権利および石油等の利権を要求し、イラク国民としてのアイデンティティが形成されないなか、アメリカなど占領国の利害もからみ、アメリカ的[[民主主義]]への反発などから抗争が続いている。
[[2009年]]1月より[[アメリカ合衆国大統領]]を務める[[バラク・オバマ]]は[[2011年]]中のイラクからの完全撤退を公約し、2009年6月末の段階で都市部からの撤退をほぼ完了、その後公約通り2011年12月18日に全部隊のイラクからの撤退を完了した<ref>{{Cite news|title=米軍最後の部隊がイラク撤退完了、約9年にわたる戦争終結|url=https://jp.reuters.com/article/tk0688238-iraq-usa-withdrawal-idJPTYE7BI00C20111219|work=Reuters|date=2011-12-19|accessdate=2022-03-17|language=ja}}</ref>。しかし、現実には治安は決して回復しておらず、連日、大規模な[[テロ]]や爆破がつづいている。
== 自然 ==
ティグリス川の両側に発達したバグダードの街は、鉄道橋も含め5つの[[橋]]で東西が結ばれている{{R|britanica}}。6番目の橋が、カージマイン・モスクのある北郊のカージミーヤ地区に通じている{{R|britanica}}。
=== 気候 ===
[[ケッペンの気候区分]]でいう[[砂漠気候]](BW)に属する<ref>岩淵(1993)pp.28-29</ref>。年平均気温は約22℃と温暖である。冬も平均最高気温が15℃をくだらないが、夏の暑さは厳しい。気温の日較差は一年を通して大きい。年間降水量は通年でも123ミリメートルにすぎず、降雨はほとんど冬季に集中する。冬季は、[[北極]]方面からの寒気の影響を受け、月平均降雨日数<ref group="注釈">「月平均降雨日数」とは、日降水量0.25mm以上の月平均日数を指している。</ref> が3日から5日に達する。[[積雪]]は、2008年と2020年に記録されている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-11 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3267792 |title=イラク首都にごく珍しい雪、過去100年で2回目 |publisher=AFP |accessdate=2020-02-13}}</ref>。
{{Weather box|location = バグダード
|metric first = Y
|single line = Y
|Jan record high C = 24.8
|Feb record high C = 27.1
|Mar record high C = 30.9
|Apr record high C = 38.6
|May record high C = 43.5
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|Jul record high C = 50.0
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|Oct record high C = 40.2
|Nov record high C = 35.6
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|year record high C=
|Jan high C = 15.5
|Feb high C = 18.5
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|Jan low C = 3.8
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|Jan record low C = -11.0
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|rain colour = green
|Jan rain mm = 27.2
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|year rain mm=122.8
|unit rain days = 0.001 mm
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|Jan humidity = 71
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|year humidity=
|Jan sun = 192.2
|Feb sun = 203.3
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|Apr sun = 255.0
|May sun = 300.7
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|Sep sun = 315.0
|Oct sun = 272.8
|Nov sun = 213.0
|Dec sun = 195.3
|source 1 = [[World Meteorological Organization]] ([[United Nations|UN]])<ref name= WMO >{{cite web
| url = http://worldweather.wmo.int/154/c01464.htm
| title = World Weather Information Service - Baghdad
| publisher = World Meteorological Organization
| accessdate = June 20, 2013}}</ref>
|source 2 = Climate & Temperature<ref name=climatetemp>{{cite web
|url = http://www.climatetemp.info/iraq/baghdad.html
|title = Baghdad Climate Guide to the Average Weather & Temperatures, with Graphs Elucidating Sunshine and Rainfall Data & Information about Wind Speeds & Humidity:
|accessdate = 2011-12-25
|publisher = Climate & Temperature
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120106135651/http://www.climatetemp.info/iraq/baghdad.html
|archivedate = 2012年1月6日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
|date=August 2010
}}
=== 自然災害 ===
バグダードは、その自然条件により、しばしば大[[洪水]]に見舞われ大きな被害をこうむってきたが、ティグリス川上流のサーマッラーに[[治水]]用の[[ダム]]が設けられたため、洪水によって甚大な被害を受ける危険からは救われた{{R|britanica}}。
{{wide image|Tigris River in Baghdad (2016).jpg|1000px|align-cap=center|バグダードを流れるティグリス川のパノラマ写真}}
== 産業 ==
バグダードは、イラクの経済・交通・文化の中心であり、イラク工業の大半が集中する。伝統的工業として[[じゅうたん]]や絹織物、また綿製品・[[皮革]]製品・[[たばこ]]・[[アラック|アラック酒]]などがあり、[[セメント]]や鉄道修理、食品加工、[[繊維]]などの近代工業もさかんである{{R|hara|britanica}}。また[[石油]]化学工業なども盛んであるが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争など度重なる戦争で多くの施設が破壊されたこともあり、現在修復作業がさかんに行われている。
== 交通 ==
[[ファイル:Baghdad International Airport (October 2003).jpg|280px|right|thumb|バグダード国際空港(2003年)]]
[[ファイル:Iraq baghdad 02.JPG|thumb|2015年]]
[[バグダード国際空港]]から[[ヨルダン]]の[[アンマン]]や[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]などに定期便が就航している。また近隣国の主要都市からは不定期長距離[[バス (交通機関)|バス]]やチャーター[[タクシー]]で行くことができる。
イラクの[[鉄道]]は、オスマン帝国時代末期にさかのぼるが、鉄道網の大部分は第一次世界大戦中にメソポタミアを占領したイギリス軍によって建設されたものである<ref>フォーダー(1979)pp.342-343</ref>。市内にはイラク国内最大となる[[イラク鉄道]]の[[バグダード・セントラル駅]]があり、バグダード・セントラル駅からは、[[バスラ]]や[[モスル]]、[[キルクーク]]などイラク国内の主要都市と結ばれるだけでなく、[[シリア]]やトルコなどへも延伸しており、さらにヨーロッパ大陸に通じる{{R|hara}}。バグダード鉄道の一部である首都バグダードと第二の都市バスラを結ぶ重要路線には2013年時点で時速64kmの老朽化した2つの車両しかなかったが、2014年に[[中華人民共和国]]から時速160kmでエアコンなどを完備した近代的な[[中国中車青島四方機車車輛|青島四方機車車輛]]製の高速車両が導入された<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2014/03/27/iraq-trains/ |title=イラク鉄道に中国製の新型高速列車|publisher=[[WIRED (雑誌)|WIRED]] |date=2014-03-24 | accessdate=2018-08-29}}</ref>([[バグダード=バスラ高速鉄道路線]])。
[[汽船]]がティグリス川を航行し、バスラとのあいだを結んでいる。なお、バグダードの交通網を改善するため19世紀に実施された調査では、ユーフラテス川の汽船航行は不可能であることが判明している{{R|britanica}}。
幹線道路は、イラク国内各地のみならずヨルダン、シリア、イラン、[[クウェート]]などと結ばれており、現代においてもバグダードは水陸交通の要衝となっている。
== 観光 ==
=== 歴史的建造物 ===
モンゴルとティムールの侵攻による破壊や[[煉瓦]]という[[風化]]しやすい素材が建築用材として用いられることが多かったことが原因で、現存する遺構の数は決して多くない。アッバース朝時代の建築としては、以下の数棟がのこるのみである<ref name=sugimura>杉村(1988)p.438</ref>。
[[ファイル:Mustansiriya University CPT.jpg|200px|right|thumb|ムスタンスィリーヤ学院]]
{{仮リンク|ムスタンスィリーヤ学院|en|Mustansiriya Madrasah}}は[[1234年]]に建てられた煉瓦造のマドラサで、しばしば「世界最古の大学」と称される。名称は創設者の第36代カリフ[[ムスタンスィル]]に由来する。この学院が収蔵していた30万冊におよぶ図書は、1258年、フレグの率いるモンゴル軍によってティグリス川に投げこまれ、そのため川は[[インク]]で黒く染まったといわれている<ref name="abe">{{Cite web|和書|url=http://japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/abemasao.pdf |title=阿部政雄「バグダードとメソポタミア」 |accessdate=2022-03-17 |format=PDF |archivedate=2013-05-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130501170452/http://japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/abemasao.pdf}}</ref><ref group="注釈">フレグの七男[[テグデル]]はムスタンスィリーヤ学院への[[寄進]]をおこなっている。</ref>。[[中庭]]には泉水をともない、複数の[[イーワーン]]が外部と中庭をつないでいる{{R|daigeidai}}。建物は現在、[[博物館]]として利用されており、[[イラク中央銀行]]の発行する[[イラク・ディナール]]紙幣の図柄にもなっている。
[[アッバース宮殿]]は[[1230年]]ころマドラサとして建設された建物で、ミダーン地区に所在する。博物館に改装されて利用されていた{{R|sugimura}}が、2003年、強盗団によってアッバース朝時代の[[家具]]・調度品・書籍のほとんどが略奪された<ref>『文化財発掘出土情報』2003年7月号</ref>。
12世紀に建設された[[バーブ・アルワスターニ]]は、バグダードに現存する唯一の城壁門であり、円形都市建設時の「ホラーサーン門」に相当する。現在は戦争博物館になっている{{R|sugita12}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ersdac.or.jp/ASTERimage2/library_J.html |title=ASTERで撮影した世界の都市 |accessdate=2022-03-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030805031455/http://www.ersdac.or.jp/ASTERimage2/library_J.html |archivedate=2003-08-05}}</ref>。
スーク・アル=ガーズル寺院の[[ミナレット]](尖塔)は市内で最も古い建造物で10世紀初頭の作といわれる。なお、スーク・アル=ガーズルとは「糸市場」の意であり、現在は古い街並みを見下ろす位置にあるが、かつてはカリフのモスクの尖塔であった。この尖塔の下位部分はいまだ土に埋もれたままである<ref name=asahi>『朝日旅の百科』(1981)pp.1608-1614</ref>。
[[シッタ・ズバイダの墓塔]]は[[1179年]]ころから[[1225年]]ころまでの時期に建設されたもので、[[八角形]]の基台のうえに[[ムカルナス]]装飾をともなった[[三角錐]]の形状の塔をのせた墓である。
アッバース朝滅亡以後のものとしては、モスク、マドラサ、墓廟より成る[[マルジャーニーヤ建築群]]や[[ハーン (隊商宿)|ハーン]](隊商宿)として用いられたハーン・マルジャーンがあり、ともに14世紀中葉の遺構である{{R|sugimura}}。イラク観光省の修復を経て[[料亭]]としても用いられたハーン・マルジャーンは、[[アミン・アルジャーン]]によって建設されたイラク唯一の屋根付きハーンである。2階建てでユニークな設計プラン・採光法を採用している{{R|sugimura|abe}}。
=== 聖地・宗教施設 ===
{{see also|[[:en:List of mosques in Baghdad]]}}
[[ファイル:KadhimaynMosque.jpg|180px|right|thumb|カージマイン・モスクのドームと尖塔]]
{{仮リンク|カージマイン・モスク|en|Al-Kadhimiya Mosque}}は、バグダードの都心から北へ約8キロメートル、カージミーヤの地に建てられたイスラーム教シーア派の聖地である。[[金色]]をした[[銅板]]の[[ドーム]]と美しい[[釉薬|彩釉]]タイルの門で知られ、シーア派第7代[[イマーム]]の[[ムーサー・カーズィム]](位[[765年]]-[[799年]])および第9代イマームの[[ムハンマド・タキー]](位[[818年]]-[[835年]])が埋葬されているところから、「カーズィム廟」の名もある。霊廟の起源は古いが、現在のかたちに整備されたのは17世紀以降であり、19世紀に[[ガージャール朝]]ペルシアのシャーによる大改修がおこなわれた{{R|abe}}。ドームは2つあり、これが2人のイマームを象徴している{{R|abe}}。カージマイン・モスクの周辺には住宅が広がっている{{R|britanica}}<ref group="注釈">[[正統カリフ時代]]第4代カリフの[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]](預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の[[従兄弟|従弟]]で[[女婿]]、シーア派の初代イマーム)は、現バグダード市南部のカルフにあったモスクで暗殺されたと伝承される。バグダードの南160キロメートルの[[ナジャフ]]にはアリーの墓廟があり、ナジャフとバグダードのおよそ中間に位置する[[カルバラー]]もシーア派の聖地となっている。</ref>。
一方、スンニ派信者の多い地区には{{仮リンク|アブ・ハニファ・モスク|en|Abu Hanifa Mosque}}などのスンニ派モスクがある。
=== 博物館 ===
{{see also|[[:en:National Museum of Iraq]]}}
「''[[バグダード#歴史的建造物|歴史的建造物]]''」の節で示したように、バクダードでは歴史的建造物の多くは[[博物館]]に改装されている。
イラク王国成立時の[[1926年]]に創設された[[イラク国立博物館]]は世界有数の考古学的博物館である。[[先史時代]]からメソポタミア文明、アッバース朝イスラーム帝国、および、イスラーム諸王朝の貴重な[[文化遺産]]・[[遺物]]が文明史ごとに28のギャラリーに分けて分類展示されている。しかし、2003年のイラク戦争の混乱に乗じて約1万5000点の収蔵品が密売目的で略奪されてしまい、これは世界的な話題となった。その後、数千点が返還されたものの、今なお数千点が行方不明のままである。この博物館には、古代史や各文明にかかわる諸言語の出版物を備えた考古学図書館も附設されている。
上記のほかには、自然史博物館、民俗博物館、国立近代美術館などがある{{R|sugimura}}。
=== バグダード動物園 ===
{{see also|[[:en:Baghdad Zoo]]}}
イラク戦争においては[[バグダード動物園]]も米軍の攻撃対象とされた。バグダード陥落後、貧窮した一部の市民によって動物園は襲撃を受け、多くの動物が殺され、食べられたという<ref name=anthony>アンソニー&スペンス(2007)</ref>。残された動物も不衛生なまま放置されていたが、[[南アフリカ共和国]]出身の自然保護活動家{{仮リンク|ローレンス・アンソニー|en|Lawrence Anthony}}が中心となって動物救済と動物園復興がなされた{{R|anthony}}。
=== その他 ===
他の観光資源としては、イラク随一の繁華街であるラッ=シード通り、また、市内各地の大モスクの周囲にひろがる古いスーク(市場)の街並みがある。バグダードは中近東において、とりわけ[[書店]]の数の多い都市であり、[[露天商]]も少なくない{{R|abe}}。
バグダードには、横幅50メートルにおよぶ『自由のモニュメント』(ジャワード・セリーム作)や「アラブの盾」を造形した巨大なドーム『{{仮リンク|無名戦士の墓|en|The Monument to the Unknown Soldier|preserve=1}}』([[ハーリド・アッ=ラッハール]]作)、2つに割れた[[桃]]のかたちをした「殉教者の墓」([[アルシャヒード・モニュメント]]、イスマーイール・ファッターハ・アッ=トゥルクとサーマーン・アスアド・カマールの合作)などの巨大な記念物がある。その他、著名な彫刻として『アリババと40人の盗賊』『シャイアールとシェラザード』はともに[[ムハンマド・ガニー]]の作品で街頭に所在し、ハーリド・アッ=ラッハールの作品『前進』『アル・マンスールの像』はいずれもイラク国立博物館横にある{{R|abe}}。
== 市内行政区分 ==
{{main|[[:en:Baghdad#Administrative divisions]]|[[:en:Government of Baghdad]]|[[:en:Administrative districts in Baghdad]]}}
バグダード市は9区のなかに89(当初は88)の公共地域を有している。9区とは、
# {{仮リンク|アッ=ラシード|en|Al Rashid, Baghdad}}<ref>{{cite web |url=http://www.defendamerica.mil/articles/sept2006/a091906dg2.html |title=Leaders Highlight Successes of Baghdad Operation - DefendAmerica News Article |publisher=Defendamerica.mil |date= |accessdate=2010-04-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081228012249/http://www.defendamerica.mil/articles/sept2006/a091906dg2.html |archivedate=2008年12月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>…西岸旧市街
# {{仮リンク|カルフ|en|Karkh|preserve=1}}<ref>{{cite web|url=http://www.defenselink.mil/news/newsarticle.aspx?id=27637 |title=DefenseLink News Article: Soldier Helps to Form Democracy in Baghdad |publisher=Defenselink.mil |date= |accessdate=2010-04-27}}</ref>…西地区
# {{仮リンク|カージミーヤ|en|Kadhimyah}}<ref>{{cite web |url=http://www.defendamerica.mil/articles/mar2004/a031804d.html |title=DefendAmerica News - Article |publisher=Defendamerica.mil |date= |accessdate=2010-04-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081227233739/http://www.defendamerica.mil/articles/mar2004/a031804d.html |archivedate=2008年12月27日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>…北部地区
# {{仮リンク|マンスール|en|Mansour district|preserve=1}}…国際空港よりも西側の地区
# {{仮リンク|ルサーファ|en|Rusafa}}…東岸旧市街
# {{仮リンク|カッラーダ|en|Karrada}}<ref>{{cite web |url=http://www.defendamerica.mil/articles/june2005/a060105la2.html |title=Zafaraniya Residents Get Water Project Update - DefendAmerica News Article |publisher=Defendamerica.mil |date= |accessdate=2010-04-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081228064722/http://www.defendamerica.mil/articles/june2005/a060105la2.html |archivedate=2008年12月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite news| url=http://www.usatoday.com/news/world/iraq/2006-03-26-councils-work_x.htm | work=USA Today | title=Basics of democracy in Iraq include frustration | first1=Thomas | last1=Frank | date=2006-03-26 | accessdate=2010-04-26}}</ref>…中央東岸の半島状の地区
# {{仮リンク|サドル・シティ|en|Sadr City}}<ref>{{cite web|url=http://www.csmonitor.com/2003/1205/p01s04-woiq.html |title=Democracy from scratch |publisher=csmonitor.com |date=2003-12-05 |accessdate=2010-04-27}}</ref>…東部新市街
# {{仮リンク|アダミーヤ|en|Adhamiyah}}…東地区
# {{仮リンク|新バグダード|en|New Baghdad}}<ref>{{Cite web |url=http://www.kcentv.com/news/c-article.php?cid=5&nid=235 |title=Iron Horse Brigade aids Iraqi boy’s recovery |accessdate=2022-03-17 |date=2004-11-26 |website=Central texas news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041126112028/http://www.kcentv.com/news/c-article.php?cid=5&nid=235 |archivedate=2004-11-26}}</ref>
であり、1.から4.まではティグリス川西岸、5.から9.は東岸に所在する。
89の地域は、イラク戦争のあった2003年までは、自治体による公的な配送サービスの管理には用いられていたが、政治的な機能をまったく有していなかった。2003年4月、米軍管理下の連合国暫定当局(CPA)は、これら89地域に新規の機能を創出していく事業をはじめた。地域執行部の選出する地域評議員選挙が最初の事業であり、現在では市内行政区として自治的役割を有するに至っている。
== 教育 ==
[[ファイル:BaghdadUnivSite.jpg|250px|right|thumb|バグダード大学のキャンパス配置図]]
{{仮リンク|バグダード大学|en|University of Baghdad}}は1958年に創立され、理学・工学・医学・政治・経済・文学の各[[学部]]を有する総合大学である{{R|britanica}}。現政権のジャワド・マリキ(ヌーリー・マーリキー)や[[ジャラル・タラバニ]]、フセイン政権時代の[[ターハー・ムヒーウッディーン・マアルーフ]]、[[ラシード・ムハンマド・サイード・アッ=リファーイー|ラシード・M・S・アルリファイ]]、[[ターリク・ミハイル・アズィーズ]]、[[ムハンマド・サイード・アッ=サッハーフ|アッ=サッハーフ]]、[[ナージ・サブリー]]、[[アワド・ハマド・バンダル]]、[[ニザール・ハムドゥーン]]、[[アービド・ハーミド・マフムード]]、またフセインの次男[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ]]などはバグダード大学の出身者である。
{{仮リンク|アル・ムスタンスィリーヤ大学|en|Al-Mustansiriya University}}は、13世紀創設のマドラサ、ムスタンスィリーヤ学院の流れを汲む綜合大学である。
他に、フセイン長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ]]の卒業した{{仮リンク|バグダード工科大学|en|University of Technology, Iraq}}や、
*{{仮リンク|アン=ナフライン大学|en|Al-Nahrain University}}
*{{仮リンク|イスラーム大学バグダード校|en|The Islamic University, Baghdad}}
*{{仮リンク|アル=ヒクマ大学|en|Al-Hikma University (Baghdad)}}
などがある。
== 文化・スポーツ ==
[[ファイル:Baghdad Convention Center inside.jpg|thumb|left|300px|多くの催し物がひらかれるバグダード・コンベンション・センター]]
=== 文化の概要 ===
現在、バグダードで話されているアラビア語[[方言]]は、イラク国内の他の大都市の中心部で話されることばとは異なり、より[[遊牧民]]的な特徴をもっている。これは、中世以降[[遊牧]]を離れて帰農した人びとが多数この地に入植したことによって起こった可能性が考えられる。
バグダードはまた、現代アラブ文化のなかで常に重要な役割を担っており、著名な[[作家]]、[[音楽家]]、また、ヴィジュアル分野の芸術家たちの活動拠点となっている。
=== 文化機関・施設 ===
[[ファイル:Iraqi National Orchestra.jpg|200px|right|thumb|イラク国立交響楽団による2007年のコンサート]]
[[ファイル:Iraq-National unity ballet2 600.jpg|thumb|right|200px|イラク国立バレエ団のダンサー]]
バグダード市には、国内の重要な文化機関・文化施設が集中している。
{{仮リンク|イラク国立交響楽団|en|Iraqi National Orchestra}}は[[1959年]]に正式に設立された[[交響楽団]]であり、第二次湾岸戦争では短期間[[リハーサル]]と[[公演]]を中断したが、その後は通常に復している。イラク戦争により楽団員も著しく減少したが、[[2010年]]5月にはアメリカ人少年との共演もなされた<ref>{{cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052301000089.html|title=米少年とイラク交響楽団共演 バグダッド|newspaper=47NEWS|agency=共同通信|publisher=全国新聞ネット|date=2010-05-23|accessdate=2011-01-19|archiveurl=https://archive.ph/VR3EI|archivedate=2013-07-02}}</ref>。
イラク国立劇場は、2003年のイラク攻撃の際に略奪に見舞われた施設であるが、目下、修復にむけた努力が続けられている<ref>{{Cite web |url=http://www.csmonitor.com/2003/0716/p01s04b-woiq.htm |title=Five women confront a new Iraq |accessdate=2022-03-17 |date=2003-07-16 |website=THE CHRISTIAN SCIENCE MONITOR |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030808084116/http://www.csmonitor.com/2003/0716/p01s04b-woiq.htm |archivedate=2003-08-08}}</ref>。2006年6月にはイラク戦争後はじめてとなる「イラク映画祭」がおこなわれた<ref>{{cite news|url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2079859/698215|title=戦後初の「イラク映画祭」、政府高官らが出席 - イラク|newspaper=AFP通信|date=2006-07-03|accessdate=2011-01-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130524030606/http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2079859/698215|archivedate=2013-05-24}}</ref>。
劇場の生(ナマ)の舞台は、[[国際連合]]の制裁によって外国[[映画]]輸入制限のあった1990年代を通じ、当局からの援助を受けてきた。また、30ほどあった[[映画館]]はすべて生ステージに転換され、広範囲にわたって[[コメディー]]ないし[[ドラマ]]作品の制作をおこなったと報告されている<ref>{{cite web |url=http://www.commondreams.org/headlines03/0102-04.htm |title=In Baghdad, Art Thrives As War Hovers |publisher=Commondreams.org |date=2003-01-02 |accessdate=2010-04-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100627162352/http://www.commondreams.org/headlines03/0102-04.htm |archivedate=2010年6月27日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
バグダードで文化教育のために供される公共施設は、音楽アカデミー、美術協会および{{仮リンク|バグダード音楽バレエ学校|en|The Music and Ballet School of Baghdad}}に帰属している。
=== スポーツ ===
イラクスーパーリーグ(Dawri Al-Nokhba)に属する{{仮リンク|アル・ザウラ|en|Al-Zawra'a SC|preserve=1}}<ref group="注釈">[[アジアカップウィナーズカップ1999-2000]]準優勝ティーム。決勝戦では[[日本]]の[[清水エスパルス]]に敗れた。</ref>、[[アル・タラバ]]([[学生]]のクラブ)、{{仮リンク|アル・クワ・アル・ジャウィヤ|en|Al-Quwa Al-Jawiya|preserve=1}}([[空軍]]兵士のクラブ)、{{仮リンク|アル・ショルタ|en|Al-Shorta|preserve=1}}([[警察]])など、多くの有力な[[サッカー]]クラブがバグダードを本拠地としている。バクダード最大の{{仮リンク|アル・シャアブ・スタジアム|en|Al-Shaab Stadium}}は、[[1966年]]に開園された[[スタジアム]]である。これよりもはるかに大規模なスタジアムの建設もはじまっているが、まだ工事に着手したばかりの段階である。
== 主要な通り・道路 ==
[[ファイル:Al Rasheed Street.jpg|250px|right|thumb|バグダード中心部にあるアッ・ラシード通り]]
* {{仮リンク|ハイファ通り|en|Haifa Street}}
* {{仮リンク|ムタナッビー通り|en|Mutanabbi Street}}
* {{仮リンク|アッ・ラシード通り|en|Al Rasheed Street}}
* {{仮リンク|アル・ジャムフリーヤ通り|en|Al Jamhuriah Street}}
* {{仮リンク|フィラスティーン(パレスチナ)通り|en|Falastin (Palestine) Street}}
* {{仮リンク|バグダード空港道路|en|Baghdad Airport Road}}
== 友好都市 ==
* {{Flagicon|Jordan}} '''[[アンマン]]'''([[ヨルダン]])
* {{Flagicon|PRK}} '''[[平壌直轄市|平壌]]'''([[朝鮮民主主義人民共和国]])
* {{Flagicon|Lebanon}} '''[[ベイルート]]'''([[レバノン]])<ref name="twins">{{cite web|url=http://www.beirut.gov.lb/MCMSTest/Menu-Pages/SisterCitiesEN.aspx?NRMODE=Published&NRORIGINALURL=%2fwww%2ebeirut%2egov%2elb%2fMCMSEN%2fTwinning%2bthe%2bCities%2f&NRNODEGUID=%7b18839037-0140-436E-A1AF-7F8F3693C3E6%7d&NRCACHEHINT=NoModifyGuest#|title=Twinning the Cities|publisher=City of Beirut|accessdate=2008-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080221055403/http://www.beirut.gov.lb/MCMSTest/Menu-Pages/SisterCitiesEN.aspx?NRMODE=Published&NRORIGINALURL=%2Fwww.beirut.gov.lb%2FMCMSEN%2FTwinning+the+Cities%2F&NRNODEGUID=%7B18839037-0140-436E-A1AF-7F8F3693C3E6%7D&NRCACHEHINT=NoModifyGuest%23|archivedate=2008年2月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
* {{Flagicon|Egypt}} '''[[カイロ]]'''([[エジプト]])
* {{Flagicon|UAE}} '''[[ドバイ]]'''([[アラブ首長国連邦]])
* {{Flagicon|Yemen}} '''[[サナア]]'''([[イエメン]])<ref>Iraqi capital of Baghdad twinned with North Yemen counterpart of Sanaa [Yemen news items 1989:Twinning]</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* [[前嶋信次]]「アッバース朝時代」前嶋信次編『世界各国史Ⅸ 西アジア史』[[山川出版社]]、1955年6月。
* [[嶋田襄平]]編『東西文明の交流第3巻 イスラム帝国の遺産』[[平凡社]]、1970年12月。
* NHK海外取材班(中谷和男・木村征男・内田義雄)『アラブの世界』[[日本放送協会]]、1972年1月。
* デズモンド・スチュアート『ライフ人間世界史12 イスラム』タイム・ライフ・ブックス、1973年。
* フランク.B.ギブニー編『[[ブリタニカ国際大百科事典]]16 ノウシーピヨ』[[ティビーエス・ブリタニカ]]、1974年12月。
* [[岩村忍]]『世界の歴史5 西域とイスラム』[[中央公論社]]<[[中公文庫]]>、1975年1月。
* 末尾至行「バグダッド」小学館編『万有百科大事典10 世界地理』[[小学館]]、1975年3月。
* 前嶋信次「アッバース朝とバグダード」前嶋信次・[[石井昭]]編集『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』[[講談社]]、1978年4月。
* [[佐藤次高]]「中世イスラム社会の成立」前嶋信次・石井昭編集『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』講談社、1978年4月。
* ユージン・フォーダー編『世界の鉄道』綜合社、1979年6月。
* [[朝日新聞社]]編『朝日旅の百科海外編21 イラク・アフガニスタン・パキスタン/湾岸諸国』[[朝日新聞社]]、1981年6月。
* 佐藤次高・杉村棟「バグダード」平凡社編『[[世界大百科事典]]22 ヌ-ハホ』平凡社、1988年4月。ISBN 4-58-202700-8
* 岩淵孝『地球を旅する地理の本3 西アジア・アフリカ』[[大月書店]]、1993年4月。ISBN 4-272-50163-1
* 原隆一・[[森本公誠]]「バグダード」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4-09-906745-9
* [[杉田英明]]
**「アラビアン・ナイトの時代」週刊朝日百科『シルクロード紀行20 バグダッド』朝日新聞社、2006年3月。
**「ハールーン・アッラシード」週刊朝日百科『シルクロード紀行20 バグダッド』朝日新聞社、2006年3月。
* {{Citation|和書|author1=ローレンス・アンソニー |author2=グレアム・スペンス |translator=青山陽子 |title=戦火のバグダッド動物園を救え : 知恵と勇気の復興物語 |publisher=[[早川書房]] |date=2007年10月 |isbn=978-4-15-208865-9 }}
* 『データブック・オブ・ザ・ワールド2009年版』[[二宮書店]]、2009年1月。ISBN 978-4-8176-0333-3
== 関連項目 ==
* [[首都の一覧]]
* [[ティグリス川]]
* [[バグダードの戦い]]
* [[イスラム帝国]]
* [[歴代カリフ一覧#アッバース朝]]
* [[バグダード鉄道]]
* [[サッダーム・フセイン]]
== 外部リンク ==
{{commons&cat|Baghdad|Baghdad}}
{{wikivoyage|Baghdad|バグダード{{en icon}}}}
* [http://www.bm.gov.iq/amanaen/indexen.htm Municipality of Baghdad]
* [http://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/iraq/baghdadmapb.jpg Map of Baghdad]
* [http://www.iauiraq.org Iraq Inter-Agency Information & Analysis Unit] Reports, Maps and Assessments of Iraq from the UN Inter-Agency Information & Analysis Unit
* [https://web.archive.org/web/20070911122606/http://www.iraqimage.com/pages/browse/Baghdad.html Iraq Image - Baghdad Satellite Observation]
* [http://www.investpromo.gov.iq National Commission for Investment in Iraq]
* [http://www.nmc.gov.iq/english/investment_en.htm Investment Guide in Iraq]
* [http://memory.loc.gov/cgi-bin/map_item.pl?style=plnews&data=/gmtemp/news/ni000001.sid&title=Baghdad,+2003 Interactive map]
* [http://countrystudies.us/iraq/42.htm Iraq - Urban Society]
* [http://www.usatoday.com/money/world/2004-03-01-hisham_x.htm Envisioning Reconstruction In Iraq]
* [http://archnet.org/library/sites/one-site.tcl?site_id=7592 Description of the original layout of Baghdad]
* [http://healingiraq.blogspot.com/baghdadethno1.JPG Ethnic and sectarian map of Baghdad - Healingiraq]
* [https://web.archive.org/web/20081220055610/http://www.arcadd.com/baghdad-cbd.htm Baghdad Renaissance Plan]
* [http://www.iraqieconomy.org/home/bilecon/uae/2004.09.23 UAE Investors Keen On Taking Part In Baghdad Renaissance Project]
* [https://web.archive.org/web/20060921050720/http://www.tufts.edu/home/feature/?p=ashkouri Man With A Plan: Hisham Ashkouri]
* [http://www.globalpost.com/dispatch/iraq/090824/behind-baghdads-9-11 Behind Baghdad's 9/11]
* {{PDFlink|[http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/hans/118/jhns118_amabe.pdf 余部福三「アッバース朝期のバグダードの民衆運動」]}}(東京経済大学人文自然科学論集第118号)
* {{PDFlink|[http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_13.pdf 藤本康雄・田端修・樋口文彦「中近東・アジアの古都市・建築平面構成と尺度」]}}(大阪藝術大学研究紀要「藝術 24」)
* {{PDFlink|[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/abemasao.pdf 阿部政雄「バグダードとメソポタミア」]}}(日本ペンクラブ電子文藝館)
* [https://1000ya.isis.ne.jp/0658.html 松岡正剛の千夜千冊/イブン・バットゥータ『三大陸周遊記』]
* [http://wikitravel.org/ja/バグダード ウィキトラベル旅行ガイド - バグダード]
* {{Kotobank}}
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パスカル (単位)
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パスカル (英: pascal、記号: Pa) は、圧力・応力の物理単位で、国際単位系 (SI) における、固有の名称と記号を持つ22個のSI組立単位の一つである。定義より「ニュートン毎平方メートル」に等しい。
1パスカルは、1平方メートル (m) の面積につき1ニュートン (N) の力が作用する圧力または応力と定義されている。
単位の名称は、流体力学・流体静力学への貢献と気圧計の実験で有名なブレーズ・パスカルに因むものである。SI組立単位「ニュートン毎平方メートル(N/m)」に対する固有の名称「パスカル」とその記号「Pa」は、1971年の第14回国際度量衡総会(CGPM)で採択された。
パスカルを、SI基本単位や他のSI組立単位で表すと、以下のようになる。
ここで、Nはニュートン、mはメートル、kgはキログラム、sは秒である。
よく使用される倍量・分量単位は、ヘクトパスカル(hPa、ミリバールに等しい)、キロパスカル(kPa)、メガパスカル(MPa)、ギガパスカル(GPa)である。気象学以外の分野では、1000の倍数の接頭辞を使用することが好まれる。
1気圧程度の圧力ならば、キロパスカル (kPa) が使用されている。日本では1999年10月以降、パスカルへの移行が行われた。工学的には今まで使われていた 1 kgf/cm = 98.0665 kPa で換算しているが、自動車のタイヤの空気圧など一般向けには、1 kgf/cm = 100 kPa で換算している場合が多い。ソビエト連邦で1933年から1955年まで使用されていたメートル・トン・秒単位系における圧力の単位ピエーズは、1キロパスカルに等しい。
地球物理学では、地球内部の造構応力の計測・計算にギガパスカル (GPa) を使用する。
医療において、エラストグラフィー(英語版)は超音波や核磁気共鳴画像法(MRI)で非侵襲的に組織の堅さを計測するものであるが、その表示はキロパスカル単位のヤング率や剛性率で表される。
材料力学・材料工学では、パスカルは材料のヤング率・強度・耐圧強度(英語版)はパスカルの単位で計測される。工学の用途では、パスカルは小さすぎるので、メガパスカル (MPa) がよく用いられる。
気象学(天気予報や天気図など)では、世界中で長い間にわたって気圧をミリバールで測定していた。SIが導入された後も、慣習的な圧力の数値がそのまま使われることが希望された。そのため気象学では、今日ではミリバールと同じ値になるヘクトパスカル (hPa) を使用している。日本においては、1992年12月1日からミリバールがヘクトパスカルに置き換えられた。ただし、カナダとポルトガルではキロパスカル(kPa)を使用している。
単位の記号は、国際的な合意の上で規定されたものであって、大文字・小文字の区別についても厳密に規定されている。
次のような誤表記がしばしば存在する。
他の単位との換算は以下のようになる。
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これらは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない。
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パスカル は、圧力・応力の物理単位で、国際単位系 (SI) における、固有の名称と記号を持つ22個のSI組立単位の一つである。定義より「ニュートン毎平方メートル」に等しい。 1パスカルは、1平方メートル (m2) の面積につき1ニュートン (N) の力が作用する圧力または応力と定義されている。
|
{{単位
|名称 = パスカル(Pa)
|英字 = pascal
|記号 = Pa
|単位系 = SI
|種類 = [[SI組立単位|組立単位]]
|物理量 = [[圧力]]・[[応力]]
|組立 = N/m<sup>2</sup>
|定義 = 1m<sup>2</sup>につき1Nの圧力・応力<ref name="名前なし-1">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357&openerCode=1#77 計量単位令 別表第2] 項番22 圧力、項番23 応力</ref>
|語源 = [[ブレーズ・パスカル]]
|画像 = [[File:Psidial.jpg|250px]]<br/>[[圧力計]]
}}
'''パスカル''' ({{lang-en-short|pascal}}、記号: '''Pa''') は、[[圧力]]・[[応力]]の[[物理単位]]で、[[国際単位系]] (SI) における、固有の名称と記号を持つ22個の[[国際単位系#SI組立単位|SI組立単位]]の一つである。定義より「ニュートン毎平方メートル」に等しい<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051&openerCode=1#1357 計量法 別表第一] 圧力の欄に「パスカル又はニュートン毎平方メートル バール」と、応力の欄に「パスカル又はニュートン毎平方メートル」と規定されている。</ref>。
1パスカルは、1[[平方メートル]] (m<sup>2</sup>) の面積につき1[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (N) の力が作用する圧力または応力と定義されている<ref name="名前なし-1"/>。
== 名称・記号 ==
単位の名称は、[[流体力学]]・[[流体静力学]]への貢献と[[気圧計]]の実験で有名な[[ブレーズ・パスカル]]に因むものである。SI組立単位「ニュートン毎平方メートル(N/m<sup>2</sup>)」に対する固有の名称「パスカル」とその記号「Pa」は、1971年の第14回[[国際度量衡総会]](CGPM)で採択された<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=56 ■ パスカルおよびジーメンス(CR,78)] 14回国際度量衡総会(CGPM),1971年、国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版</ref>。
== 定義 ==
パスカルを、[[SI基本単位]]や他のSI組立単位で表すと、以下のようになる。
:<math>{\rm 1~Pa = 1~\frac{N}{m^2} = 1~\frac{kg}{m \cdot s^2}}</math>
ここで、Nは[[ニュートン (単位)|ニュートン]]、mは[[メートル]]、kgは[[キログラム]]、sは[[秒]]である<ref>[http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-2/table3.html Table 3 (Section 2.2.2)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070618123613/http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-2/table3.html |date=2007年6月18日 }}, ''SI Brochure'', [[国際度量衡局]]</ref>。
== 倍量・分量単位 ==
{{SI multiples
|symbol=Pa
|unit=パスカル
|note=よく使われる単位を太字で示す
|h=|xh=[[ヘクトパスカル]]
|k=|M=|G=
}}
よく使用される倍量・分量単位は、[[ヘクトパスカル]](hPa、ミリバールに等しい)、キロパスカル(kPa)、メガパスカル(MPa)、ギガパスカル(GPa)である。[[気象学]]以外の分野では、1000の倍数の接頭辞を使用することが好まれる<ref>[http://www.ctv.ca/servlet/HTMLTemplate/!ctvDynNews/Weather/Weather?City=Montreal CTV News, weather; current conditions in Montreal]</ref><ref>[http://www.weatheroffice.gc.ca/city/pages/qc-147_metric_e.html Environment Canada weather, current conditions in Montreal]</ref>。
1気圧程度の圧力ならば、キロパスカル (kPa) が使用されている。日本では1999年10月以降、パスカルへの移行が行われた。工学的には今まで使われていた 1 kgf/cm<sup>2</sup> = 98.0665 kPa で換算しているが、[[自動車]]の[[タイヤ]]の[[空気圧]]など一般向けには、1 kgf/cm<sup>2</sup> = 100 kPa で換算している場合が多い。[[ソビエト連邦]]で1933年から1955年まで使用されていたメートル・トン・秒単位系における圧力の単位[[ピエーズ]]は、1キロパスカルに等しい。
[[地球物理学]]では、[[地球]]内部の造構応力の計測・計算にギガパスカル (GPa) を使用する。
医療において、{{仮リンク|エラストグラフィー|en|elastography}}は[[超音波]]や[[核磁気共鳴画像法]](MRI)で非侵襲的に組織の堅さを計測するものであるが、その表示はキロパスカル単位の[[ヤング率]]や[[剛性率]]で表される。
[[材料力学]]・[[材料工学]]では、パスカルは材料の[[ヤング率]]・[[強度]]・{{仮リンク|耐圧強度|en|compressive strength}}はパスカルの単位で計測される。工学の用途では、パスカルは小さすぎるので、メガパスカル (MPa) がよく用いられる。
=== ヘクトパスカルとミリバール ===
{{main|バール (単位)}}
[[気象学]]([[天気予報]]や[[天気図]]など)では、世界中で長い間にわたって[[気圧]]をミリバールで測定していた。SIが導入された後も、慣習的な圧力の数値がそのまま使われることが希望された。そのため気象学では、今日ではミリバールと同じ値になる'''[[ヘクトパスカル]]''' (hPa) を使用している<ref>[http://www.knmi.nl/actueel/ KNMI]</ref><ref>[http://www.meteo.be/meteo/view/fr/68771-FAQ+sur+le+temps.html?view=195695 RMI]</ref><ref>[http://www.dwd.de/de/WundK/W_aktuell/Beobachtungen.htm DWD]</ref><ref>[https://www.jma.go.jp/en/g3/index.html JMA]</ref><ref>[http://www.meteoam.it/modules.php?name=analisiPrevisioniSuolo MDD]</ref><ref>[http://weather.noaa.gov/weather/current/KDCA.html NOAA]</ref><ref>[http://www.metoffice.gov.uk/guide/weather/symbols#units UK Met Office]</ref>。日本においては、1992年12月1日からミリバールがヘクトパスカルに置き換えられた。ただし、[[カナダ]]と[[ポルトガル]]ではキロパスカル(kPa)を使用している。
=== 倍量・分量単位における大文字・小文字の区別 ===
{{独自研究|date=2023年3月4日 (土) 07:58 (UTC)|section=1}}
単位の記号は、国際的な合意の上で規定されたものであって、大文字・小文字の区別についても厳密に規定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/si/SIdata202004.pdf |title=国際単位系(SI)は世界共通のルールです |access-date=2023年3月4日 (土) 07:58 (UTC) |publisher=[[産業技術総合研究所]]}}</ref>。
次のような誤表記がしばしば存在する。
* メガパスカル(MPa)に対する"Mpa"という誤表記。 <br />民間企業の技術資料によく見受けられる。技術者が[[パーソナルコンピュータ]]で文書を作成する際に、"MPa"と正しく入力しても、使用した日本語変換ソフトのオートコレクト機能によって"Mpa"と誤修正され、それが修正されずに放置されることによる間違いである。
* メガパスカル(MPa)とミリパスカル(mPa)の混同。 <br />[[SI接頭語]]の使用において、大文字と小文字を厳密に区別する原則の不理解による間違いである。
* キロパスカル(kPa)に対する"KPa"、"Kpa"という誤表記。 <br />パスカルの場合に限らず、[[キログラム]](kg)を"Kg"と誤表記するのと同様に"KPa"と入力し、さらに上の"Mpa"の場合と同様に日本語変換ソフトのオートコレクト機能によって"Kpa"と誤修正され、そのまま修正されずに放置されることによる間違いである。
== 換算 ==
他の単位との換算は以下のようになる。
* 1 ミリバール (mbar) = 100 Pa = 1 [[ヘクトパスカル]] (hPa)
* 1 [[バール (単位)|バール]] (bar) = 100 000 Pa <br />= 100 キロパスカル (kPa) = 0.1 メガパスカル (MPa) <br />≈ 0.987 [[標準気圧|気圧(標準大気圧)]] (atm) <br />≈ 約1 標準気圧 (atm)
* 1 標準気圧 (atm) <br />= 1.01325 bar = 1013.25 mbar <br />= 1 013.25 hPa = 101 325 Pa = 101.325 kPa = 0.101325 MPa<ref>{{cite web
|url = http://www.bipm.org/jsp/en/ViewCGPMResolution.jsp?CGPM=10&RES=4
|title = Resolution 4 of the 10th meeting of the CGPM
|publisher=[[国際度量衡総会]]
|year = 1954
|accessdate = 2010-04-05}}</ref>
* 1 [[トル]](Torr) = 1 [[水銀柱ミリメートル]](mmHg) = 正確に 101 325/760 Pa([[計量法]]体系による)≈ 約133.3224 Pa
* 1 [[水銀柱インチ]] (inch Hg) = 正確に 3386.39 Pa([[計量法]]体系による)
* 1 標準気圧 = 約29.92 inches <br />(航空機の[[高度計]] (altimeter) は一般にこれを基準として、気圧の変化に合わせて、平均海面 (MSL; mean sea level) からの[[高度]]を計器に反映させるために高度計を調整する([[高度計規正値]]/altimeter setting)。高度計規正値の意味で使う場合、水銀柱インチであることは自明のためHgは省略される。)
* 1 [[工学気圧]] = 1 [[重量キログラム毎平方センチメートル]] (kgf/cm<sup>2</sup>) = 98 066.5 Pa = 98.0665 kPa
{{圧力の単位}}
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13169|3371|-|ヘクトパスカル}}
{{CharCode|13225|33A9|-|パスカル}}
{{CharCode|13226|33AA|-|キロパスカル}}
{{CharCode|13227|33AB|-|メガパスカル}}
{{CharCode|13228|33AC|-|ギガパスカル}}
|}
[[Unicode]]には、[[CJK互換用文字]]として以下の文字が収録されている。
*{{Unichar|3371|Square hPa}}
*{{Unichar|33A9|Square Pa}}
*{{Unichar|33AA|Square kPa}}
*{{Unichar|33AB|Square MPa}}
*{{Unichar|33AC|Square GPa}}
これらは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[圧力の比較]]
* [[単位の換算一覧#圧力・応力]]
* [[ブレーズ・パスカル]]
* [[ヘクトパスカル]]
* [[パスカル (曖昧さ回避)]]
{{GravEngAbs}}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:はすかる}}
[[Category:圧力の単位]]
[[Category:SI組立単位]]
[[Category:ブレーズ・パスカル]]
[[Category:物理学のエポニム]]
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アリー・イブン・アビー・ターリブ
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アリー・イブン・アビー・ターリブ(アラビア語: عَلِيّ بْن أَبِي طَالِب, ラテン文字転写: ʿAlī ibn Abī Ṭālib、600年頃601年 9月13日 - 661年1月28日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。
預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺(英語版)された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺(英語版)される。
のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。
アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。
アリーは預言者ムハンマド同様、マッカ(メッカ)のクライシュ族のハーシム家に属す。祖父はムハンマドと同じくアブドゥル=ムッタリブで、父のアブー・ターリブはムハンマドの父アブドゥッラーの同母弟である。つまり、アリーはムハンマドの父方の従弟にあたる。また母もムハンマドの祖父の姪であった。
アリーは西暦600年ないし602年頃にマッカ(メッカ)で誕生した。場所は父アブー・ターリブの家であったという説と、カアバ神殿内であったという説がある。日付はラジャブ月(イスラーム暦の7月)の13日と伝えられる。伝承によれば母のファーティマ・ビント・アサドは初め彼の名を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父のアブー・ターリブがそれを退けて「アリー」(高貴な人)という名をつけたとされる。また別伝によれば、ファーティマは「ハイダラ」、アブー・ターリブは「ザイド」という名を考えていたが、誕生を祝いに訪れたムハンマドが「アリー」と命名したという。
アリーが5歳のときにアブー・ターリブ一家が窮乏に陥ったため、彼はムハンマドとハディージャの夫婦に引き取られて養子として育てられることになった。
610年頃にムハンマドはアッラーの啓示をはじめて受けたという。このときアリーは、ムハンマドの妻ハディージャに次ぐ2番目の信者としてイスラームを受け入れたとされる。以後アリーはムハンマドとともにイスラームの布教につとめるが、ムスリムたちは度重なるマッカ市民の迫害により、622年にマディーナ(メディナ)への亡命(ヒジュラ)を強いられる。
ムハンマドがマッカを出発する頃にはすでに事態は切迫しており、反対派は彼の殺害計画を練っていた。アリーはムハンマドがマッカを脱出した夜、刺客を欺くために身代わりとしてムハンマドの寝床に横たわった。やがて暗殺者たちが現われたが、彼らはムハンマドの不在を知ると失望し、アリーに危害を加えることもなく去った。アリーはムハンマドの指示によって、その後なお3日間にわたってマッカにとどまり、ムハンマドが知人から預かっていた金をすべて精算してからマディーナへ向かったという。
ヒジュラ後、アリーはムハンマドの片腕として教団の運営やジハード(聖戦)に携わった。とくに戦場における活躍は目覚しく、アリーはバドルの戦い、ウフドの戦い、ハンダクの戦いで次々に敵側の名高い勇士を倒し、ハイバルの戦いではイスラーム軍の誰も陥すことができなかったハイバル砦を陥落させるなど、勇将としての名声を次第に高めていった。
マディーナに移住した後、623年、ムハンマドはアリーに、娘のファーティマをアリーと結婚させるよう神が命じたと語った 。この結婚は、イスラーム教徒にとって、ムハンマドの親戚の最も重要かつ神聖な人物たちの結びつきと見なされている。 ほぼ毎日娘を訪ねてきたムハンマドは、アリーに近づき、「汝はこの世界でも来世でも私の兄弟である」と告げた。 ムハンマドはファーティマに「私はあなたを私の一家の最愛の者と結婚させた」と告げた 。アリーの家族はムハンマドから頻繁に称賛された。 彼らはまた、「浄化のアーヤ」のような場合にクルアーンで栄光を与えられた。 一夫多妻制は許可されたが、ファーティマが生きている間、アリーは他の女性を妻としなかった。 ファーティマの死後、アリーは他の女性と結婚し、多くの子供をもうけた。
ムハンマドは632年に没し、ウンマは最初の危機を迎えた。
ウィルファード・マデルングによれば、アリーはムハンマドとの親密な関係とイスラーム教に関する幅広い知識によって、ムハンマドの後を継ぐのに最適な人物であると考えられていた。
そこで、ムハンマドの晩年の妻アーイシャの父アブー・バクルが、選挙(ムスリムの合意)によって指導者に選ばれ、ムハンマドの代理人を意味するカリフ(ハリーファ)を名乗った。アリーは若さを理由に外されたと言われている。
アラビア半島の統一を達成したアブー・バクルは634年に病死し、ムハンマドの妻の1人ハフサの父ウマルが後継者に指名された。ウマルは中央集権的なイスラム帝国を築き上げ、642年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を滅亡寸前に追い込んだが、644年に奴隷に刺されて重傷を負い、死の床に有力者を集めて後継者を選ばせ、絶命した。このときの後継候補にはアリーも含まれていたが、後継カリフに選出されたのは、ムハンマドの2人の娘ルカイヤとウンム・クルスームを妻としていたウスマーンであった。ウスマーンは、650年頃にクルアーン(コーラン)の正典(ウスマーン版)を選ばせ、651年にサーサーン朝を完全に滅亡させるといった功績を挙げた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンと、その次にカリフとなったアリーの4代を、正統カリフという。
しかし、ウスマーンは自分の家系であるウマイヤ家を重視する政策を採ったため、クライシュ族の他の家系の反発を招き、656年に暗殺された。次のカリフ位をめぐって、ムハンマドの従弟で娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ家のムアーウィヤが争った。紆余曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。
アリーがカリフに就任するが、ムアーウィヤや、ムハンマドの晩年の妻で初代正統カリフのアブー・バクルの娘アーイシャはこれに反発した。656年、アリーはまずアーイシャの一派をラクダの戦い(アラビア語: موقعة الجمل mwaqah al-jamal)で退けた。ムアーウィヤは、ウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であるとして、血の報復を叫んでアリーと戦闘に至った。ムアーウィヤは、657年のスィッフィーンの戦いでアリーと激突した。戦闘ではアリーが優位に立ち、武勇に優れたアリーを武力で倒すことは難しいと考えたムアーウィヤは、策略をめぐらせてアリーと和議を結んだ。この結果、ムアーウィヤは敗北を免れたことでウンマの一方の雄としての地位を確保し、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失うことになった。
アリーがムアーウィヤと和議を結んだことに反発したアリー支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えてアリーと決別し、イスラーム史上初の分派と言われるハワーリジュ派(ハワーリジュとは「退去した者」の意)を形成した。
ムアーウィヤは、660年に自らカリフを称した。ハワーリジュ派は、アリー、ムアーウィヤとその副将アムル・イブン・アル=アースに刺客を送った。アリーとその支持者は、勢力を拡大し続けるムアーウィヤとの戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、疲弊を余儀なくされた。アリー自身はムハンマド存命中のウンマ防衛や異教徒侵略のための戦いで活躍したが、それは多くが数百の手勢を率い、自身も先頭に立って戦う野戦指揮官としてであり、個人的な武勇や戦術を超えた、数万の軍隊を指揮する戦略や有力な軍司令官や総督を引き込む政略では、ムアーウィアにはるかに及ばなかった。
ムアーウィヤは刺客の手から逃れたが、一方アリーは661年にクーファの大モスクで祈祷中にアブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャムにより毒を塗った刃で襲われ、2日後に息を引き取った。正統カリフ4代のうち実に3代までが暗殺されたことになる。アリーの暗殺により、ムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲を宣言し、ウマイヤ朝を開くことになる。これに反発したアリーの支持者は、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンとフサインおよびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬のイマームと仰いでシーア派を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世スンナ派(スンニ派)と呼ばれるようになる。
シーア派では、アリーがムハンマドから直接後継者に任じられたとし、アブー・バクル、ウマル、ウスマーンの3代の正統カリフの権威を認めない(彼らを簒奪者であるとして呪詛の対象とすることもある)。そして、指導者として預言者ムハンマドの血を引くことを重視し、ムハンマドの娘ファーティマとアリーとの間に生まれたハサン、フサインの2人をそれぞれ第2代、第3代のイマームとする(シーア派のうちカイサーン派のみは、アリーと別の妻ハウラとの子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤを第2代のイマームとする)。一般にハサンやフサインの血統の人々は、特に「シャイフ」や「サイイド」と呼ばれ宗派を問わずムスリム社会では尊敬を受けるが、サイイド自身も預言者の後裔として社会から尊敬を受けるべく身を律するよう求められており、シーア派のみならずサイイド自身がウラマーやスーフィー教団のシャイフなど宗教的職権を担うことも一般的であった。イドリース朝やファーティマ朝、サファヴィー朝のように場合によってはムハンマドの後裔を称する人々が政権を担うことも多くあった。ファーティマ朝はイスマーイール派の信仰規範を整備し、シーア派王朝としての正統性を主張し、サファヴィー朝も神秘主義教団から勃興して十二イマーム派をイラク、イラン全土に浸透させ、現在のイラン周辺のシーア派勢力の基盤を作った。ムハンマドの子女の多くは早世し、ムハンマドの血脈はファーティマを通じてのみ残されたため、ムハンマドの血を引くことはハサンまたはフサインの子孫であることとほぼ同義である。
イスラームの中でもとりわけシーア派においては、ムハンマドは無謬であったとされ、アリーを含めた後継のイマーム達にもその無謬性は受け継がれたと見る。そのためシーア派はスンナ派のハディースの内、アリーがアブー・バクルやウマル、ウスマーンに劣っていたとするハディース等 に関して、スンナ派によりアリーからのカリフの位の簒奪を合法化するために偽造されたものとみなす傾向にある。
スンナ派においてもアリーは預言者の娘婿であり義息として、また4代目の正当カリフとして高い尊敬を受けている。(加えて一部には、彼の息子ハサンを5代目の正統カリフとみなす見解さえある)しかし全体としてアブー・バクルやウマル、ウスマーンのカリフ位を認めるスンナ派は、シーア派ほどアリーを高くは見ない傾向にある。
アリーの人柄を伝える資料は、ハディースや歴史書などで多い。ここでは、スンナ派・シーア派を問わず、そのような資料からアリーの人物像を扱ったものを紹介する。
アリーとムハンマドの妻アーイシャは、あまりそりが合わなかったことが伝えられている。
アリーは、アーイシャが砂漠ではぐれ、ムスリム男性に助けられ合流した時、アーイシャとその男性が砂漠で性交渉を行ったのではないかと非難する中心的人物の一人であった。最終的にはクルアーンの啓示により、アーイシャの無罪が確定したが(社会的に無罪が認められた)、この事件はアリーとアーイシャとの間に亀裂を残した。
アリーはアーイシャに対して激しい憎悪を公然と表していたことで知られる。駱駝の戦いの後アーイシャ側についたバスラ市民に対して『お前たちはその女(アーイシャ)の兵隊、四足獣(アーイシャ)の家来だった。そいつが唸るとお前たちはそれに応え、そいつが傷つくとお前たちは逃げたのだ。』 といい、アーイシャ自身にも『なんとかという女(アーイシャ)はといえば、女特有の思考に捕らわれており、彼女の胸のうちには鍛冶屋の大釜のように悪意が燃え滾っているのだ。』 と言及したエピソードが知られている。
また、アーイシャはアリーとムハンマドが話しているときに、間に割って入りムハンマドを怒らせたという逸話もある。
アーイシャはアリーの名を口にするのさえ嫌がり、その姿を見るのも我慢できないほどだった 。ウスマーンが殺害された後、人びとがアリーをカリフに選出しようと決めたのを聞き、「アリーがそうなる前に天が地につけばよい」と述べた。 アーイシャはアリーと対立し、軍勢を指揮してアリーに対して反乱を起こし、、アリーが亡くなった知らせを聞いたときには平伏してアッラーに感謝したという 。
イランでは、アリーの誕生日であるヒジュラ暦第7月(ラジャブ)13日が、父の日となっている。
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"text": "アリー・イブン・アビー・ターリブ(アラビア語: عَلِيّ بْن أَبِي طَالِب, ラテン文字転写: ʿAlī ibn Abī Ṭālib、600年頃601年 9月13日 - 661年1月28日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。",
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"text": "預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺(英語版)された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺(英語版)される。",
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"text": "アリーは預言者ムハンマド同様、マッカ(メッカ)のクライシュ族のハーシム家に属す。祖父はムハンマドと同じくアブドゥル=ムッタリブで、父のアブー・ターリブはムハンマドの父アブドゥッラーの同母弟である。つまり、アリーはムハンマドの父方の従弟にあたる。また母もムハンマドの祖父の姪であった。",
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"text": "アリーは西暦600年ないし602年頃にマッカ(メッカ)で誕生した。場所は父アブー・ターリブの家であったという説と、カアバ神殿内であったという説がある。日付はラジャブ月(イスラーム暦の7月)の13日と伝えられる。伝承によれば母のファーティマ・ビント・アサドは初め彼の名を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父のアブー・ターリブがそれを退けて「アリー」(高貴な人)という名をつけたとされる。また別伝によれば、ファーティマは「ハイダラ」、アブー・ターリブは「ザイド」という名を考えていたが、誕生を祝いに訪れたムハンマドが「アリー」と命名したという。",
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"title": "正統カリフたちの時代"
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"title": "ウスマーンの死とアリーのカリフ就任"
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"title": "シーア派の教義におけるアリー"
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"title": "シーア派の教義におけるアリー"
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"text": "スンナ派においてもアリーは預言者の娘婿であり義息として、また4代目の正当カリフとして高い尊敬を受けている。(加えて一部には、彼の息子ハサンを5代目の正統カリフとみなす見解さえある)しかし全体としてアブー・バクルやウマル、ウスマーンのカリフ位を認めるスンナ派は、シーア派ほどアリーを高くは見ない傾向にある。",
"title": "スンナ派の教義におけるアリー"
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"text": "アリーの人柄を伝える資料は、ハディースや歴史書などで多い。ここでは、スンナ派・シーア派を問わず、そのような資料からアリーの人物像を扱ったものを紹介する。",
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"title": "アリーをめぐる伝承と人物像"
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"text": "アリーは、アーイシャが砂漠ではぐれ、ムスリム男性に助けられ合流した時、アーイシャとその男性が砂漠で性交渉を行ったのではないかと非難する中心的人物の一人であった。最終的にはクルアーンの啓示により、アーイシャの無罪が確定したが(社会的に無罪が認められた)、この事件はアリーとアーイシャとの間に亀裂を残した。",
"title": "アリーをめぐる伝承と人物像"
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"text": "アリーはアーイシャに対して激しい憎悪を公然と表していたことで知られる。駱駝の戦いの後アーイシャ側についたバスラ市民に対して『お前たちはその女(アーイシャ)の兵隊、四足獣(アーイシャ)の家来だった。そいつが唸るとお前たちはそれに応え、そいつが傷つくとお前たちは逃げたのだ。』 といい、アーイシャ自身にも『なんとかという女(アーイシャ)はといえば、女特有の思考に捕らわれており、彼女の胸のうちには鍛冶屋の大釜のように悪意が燃え滾っているのだ。』 と言及したエピソードが知られている。",
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"text": "また、アーイシャはアリーとムハンマドが話しているときに、間に割って入りムハンマドを怒らせたという逸話もある。",
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"text": "アーイシャはアリーの名を口にするのさえ嫌がり、その姿を見るのも我慢できないほどだった 。ウスマーンが殺害された後、人びとがアリーをカリフに選出しようと決めたのを聞き、「アリーがそうなる前に天が地につけばよい」と述べた。 アーイシャはアリーと対立し、軍勢を指揮してアリーに対して反乱を起こし、、アリーが亡くなった知らせを聞いたときには平伏してアッラーに感謝したという 。",
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"text": "イランでは、アリーの誕生日であるヒジュラ暦第7月(ラジャブ)13日が、父の日となっている。",
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アリー・イブン・アビー・ターリブは、イスラーム教の第4代正統カリフ。同教シーア派の初代イマーム。 預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。 アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。
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{{Infobox 人物
| 氏名 = アリー・イブン・アビー・ターリブ<br>{{lang|ar|عَلِيّ بْن أَبِي طَالِب}}
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| 画像説明 = 書道 アリー・イブン・アビー・ターリブ
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| 署名 =
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|別名=信徒たちの長({{lang|ar|امیرالمونین}})<br>土の父({{lang|ar|ابو تراب}})|death cause=|parents=[[アブー=ターリブ]](父親)<br>[[ファティマ・ビント・アサド]](母親)|successor=[[ハサン・イブン・アリー]]|known for=[[シーア派]]の1番目の[[イマーム]]。 イスラム教の預言者ムハンマドの家族から。|妻=ファーティマ}}
{{Islam}}
{{シーア派}}
[[File:Ambigram - Muhammad and Ali2.svg|thumb|[[アンビグラム]]、右 ムハンマド、左 アリー]]
[[File:Meshed ali usnavy (PD).jpg|thumb|アリーの廟、イラク, ナジャフ]]
'''アリー・イブン・アビー・ターリブ'''({{翻字併記|ar|'''عَلِيّ بْن أَبِي طَالِب'''|{{transl|ar|ʿAlī ibn Abī Ṭālib}}}}、[[600年]]頃[[601年]] [[9月13日]] - [[661年]][[1月28日]])は、[[イスラム教|イスラーム教]]の第4代[[正統カリフ]](在位[[656年]] - [[661年]])。同教[[シーア派]]の初代[[イマーム]]。
[[預言者ムハンマド]]の父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘[[ファーティマ]]を娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフの[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が{{仮リンク|ウスマーンの暗殺|en|Assassination of Uthman|label=暗殺}}された後、第4代カリフとなったが、対抗する[[ムアーウィヤ]]との戦いに追われ、[[661年]]に[[ハワーリジュ派]]によって{{仮リンク|アリーの暗殺|en|Assassination of Ali|label=暗殺}}される。
のちにアリーの支持派は[[シーア派]]となり、アリーはシーア派によって初代[[イマーム]]としてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]と[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]はそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとっても[[サイイド]]として尊崇されている。
アリーの墓廟は[[イラク]]の[[ナジャフ]]にあり、[[カルバラー]]とともにシーア派の重要な聖地となっている。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
アリーは[[ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]同様、[[マッカ]](メッカ)の[[クライシュ族]]の[[ハーシム家]]に属す。祖父はムハンマドと同じく[[アブドゥル=ムッタリブ]]で、父の[[アブー・ターリブ]]はムハンマドの父アブドゥッラーの同母弟である。つまり、アリーはムハンマドの父方の従弟にあたる。また母もムハンマドの祖父の姪であった。
アリーは[[西暦]][[600年]]ないし[[602年]]頃に[[マッカ]](メッカ)で誕生した。場所は父アブー・ターリブの家であったという説と、[[カアバ神殿]]内であったという説がある。日付はラジャブ月(イスラーム暦の7月)の13日と伝えられる。伝承によれば母のファーティマ・ビント・アサドは初め彼の名を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父のアブー・ターリブがそれを退けて「アリー」(高貴な人)という名をつけたとされる。また別伝によれば、ファーティマは「ハイダラ」、アブー・ターリブは「ザイド」という名を考えていたが、誕生を祝いに訪れたムハンマドが「アリー」と命名したという。
アリーが5歳のときにアブー・ターリブ一家が窮乏に陥ったため、彼はムハンマドと[[ハディージャ]]の夫婦に引き取られて[[養子]]として育てられることになった。
=== 青年時代 ===
[[610年]]頃にムハンマドは[[アッラー]]の[[啓示]]をはじめて受けたという。このときアリーは、ムハンマドの妻ハディージャに次ぐ2番目の信者としてイスラームを受け入れたとされる。以後アリーはムハンマドとともにイスラームの布教につとめるが、ムスリムたちは度重なるマッカ市民の迫害により、[[622年]]に[[マディーナ]](メディナ)への亡命([[ヒジュラ]])を強いられる。
ムハンマドがマッカを出発する頃にはすでに事態は切迫しており、反対派は彼の殺害計画を練っていた。アリーはムハンマドがマッカを脱出した夜、刺客を欺くために身代わりとしてムハンマドの寝床に横たわった。やがて暗殺者たちが現われたが、彼らはムハンマドの不在を知ると失望し、アリーに危害を加えることもなく去った。アリーはムハンマドの指示によって、その後なお3日間にわたってマッカにとどまり、ムハンマドが知人から預かっていた金をすべて精算してからマディーナへ向かったという。
ヒジュラ後、アリーはムハンマドの片腕として教団の運営や[[ジハード]](聖戦)に携わった。とくに戦場における活躍は目覚しく、アリーは[[バドルの戦い]]、[[ウフドの戦い]]、[[ハンダクの戦い]]で次々に敵側の名高い勇士を倒し、ハイバルの戦いではイスラーム軍の誰も陥すことができなかったハイバル砦を陥落させるなど、勇将としての名声を次第に高めていった。
===恋愛・婚姻関係===
[[ファイル:Ali ibn Abi Talib and Fatimah bint Muhammad.jpg|サムネイル|アリーと[[ファーティマ]]]]
マディーナに移住した後、623年、ムハンマドはアリーに、娘の[[ファーティマ]]をアリーと結婚させるよう神が命じたと語った<ref>{{Cite book|洋書|title="Ali".|date=12 October|year=2007|publisher=Encyclopædia Britannica|author=Nasr, Seyyed Hossein.}}</ref> 。この結婚は、イスラーム教徒にとって、ムハンマドの親戚の最も重要かつ神聖な人物たちの結びつきと見なされている。 ほぼ毎日娘を訪ねてきたムハンマドは、アリーに近づき、「汝はこの世界でも来世でも私の兄弟である」と告げた。 ムハンマドはファーティマに「私はあなたを私の一家の最愛の者と結婚させた」と告げた<ref>{{Cite book|洋書|title=Prophet Muhammad and His Companions. Ho. ISBN 978-81-87746-46-1.|year=2003|publisher=Global Vision Publishing|author=Singh, N.K.|page=p 175}}</ref> 。アリーの家族はムハンマドから頻繁に称賛された。 彼らはまた、「浄化のアーヤ」のような場合にクルアーンで栄光を与えられた。 一夫多妻制は許可されたが、ファーティマが生きている間、アリーは他の女性を妻としなかった<ref>{{Cite book|和書|title={{unicode|"ʿAlī b. Abī Ṭālib". In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H.; Lévi-Provençal, E.; Schacht, J.; Lewis, B. & Pellat, Ch. (eds.). , New Edition, Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. OCLC 495469456.}}|year=1960|publisher=The Encyclopaedia of Islam|pages=pp 381-386|author=Vaglieri, L. Veccia}}</ref>。 ファーティマの死後、アリーは他の女性と結婚し、多くの子供をもうけた。
=== ムハンマドの死と継承問題 ===
ムハンマドは[[632年]]に没し、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]は最初の危機を迎えた。
ウィルファード・マデルングによれば、アリーはムハンマドとの親密な関係とイスラーム教に関する幅広い知識によって、ムハンマドの後を継ぐのに最適な人物であると考えられていた<ref>{{Cite book|和書|title=Madelung, Wilferd (1997). The Succession to Muhammad: A Study of the Early Caliphate. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-64696-0.|publisher=}}</ref>。
そこで、ムハンマドの晩年の妻[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]の父[[アブー・バクル]]が、選挙([[ムスリム]]の合意)によって指導者に選ばれ、ムハンマドの代理人を意味する[[カリフ]](ハリーファ)を名乗った。アリーは若さを理由に外されたと言われている。
== 正統カリフたちの時代 ==
[[アラビア半島]]の統一を達成した[[アブー・バクル]]は[[634年]]に病死し、ムハンマドの妻の1人[[ハフサ]]の父[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]が後継者に指名された。ウマルは中央集権的な[[イスラム帝国]]を築き上げ、[[642年]]の[[ニハーヴァンドの戦い]]で[[サーサーン朝]]を滅亡寸前に追い込んだが、[[644年]]に[[奴隷]]に刺されて重傷を負い、死の床に有力者を集めて後継者を選ばせ、絶命した。このときの後継候補にはアリーも含まれていたが、後継カリフに選出されたのは、ムハンマドの2人の娘[[ルカイヤ・ビント・ムハンマド|ルカイヤ]]とウンム・クルスームを妻としていた[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]であった。ウスマーンは、[[650年]]頃に[[クルアーン]](コーラン)の正典(ウスマーン版)を選ばせ、[[651年]]にサーサーン朝を完全に滅亡させるといった功績を挙げた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンと、その次にカリフとなったアリーの4代を、[[正統カリフ]]という。
== ウスマーンの死とアリーのカリフ就任 ==
しかし、ウスマーンは自分の家系である[[ウマイヤ家]]を重視する政策を採ったため、[[クライシュ族]]の他の家系の反発を招き、[[656年]]に暗殺された。次のカリフ位をめぐって、ムハンマドの従弟で娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ家の[[ムアーウィヤ]]が争った。紆余曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。
=== ムアーウィヤとの対立 ===
アリーがカリフに就任するが、ムアーウィヤや、ムハンマドの晩年の妻で初代正統カリフの[[アブー・バクル]]の娘アーイシャはこれに反発した。[[656年]]、アリーはまずアーイシャの一派を[[ラクダの戦い]]({{lang-ar|موقعة الجمل}} {{lang|ar|mwaqah al-jamal}})で退けた。ムアーウィヤは、ウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であるとして、血の報復を叫んでアリーと戦闘に至った。ムアーウィヤは、[[657年]]の[[スィッフィーンの戦い]]でアリーと激突した。戦闘ではアリーが優位に立ち、武勇に優れたアリーを武力で倒すことは難しいと考えたムアーウィヤは、策略をめぐらせてアリーと和議を結んだ。この結果、ムアーウィヤは敗北を免れたことで[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]の一方の雄としての地位を確保し、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失うことになった。
=== ハワーリジュ派の登場 ===
アリーがムアーウィヤと和議を結んだことに反発したアリー支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えてアリーと決別し、イスラーム史上初の分派と言われる[[ハワーリジュ派]](ハワーリジュとは「退去した者」の意)を形成した。
=== アリーの勢力の弱体化 ===
ムアーウィヤは、[[660年]]に自らカリフを称した。ハワーリジュ派は、アリー、ムアーウィヤとその副将[[アムル・イブン・アル=アース]]に刺客を送った。アリーとその支持者は、勢力を拡大し続けるムアーウィヤとの戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、疲弊を余儀なくされた。アリー自身はムハンマド存命中のウンマ防衛や異教徒侵略のための戦いで活躍したが、それは多くが数百の手勢を率い、自身も先頭に立って戦う野戦指揮官としてであり、個人的な武勇や戦術を超えた、数万の軍隊を指揮する戦略や有力な軍司令官や総督を引き込む政略では、ムアーウィアにはるかに及ばなかった。
=== アリーの最期 ===
[[File:Martyrdom of Imam Ali - By Yousef Abdinejad.jp.jpg|thumb|アリーの殉教を描いた絵画|317x317px]]
ムアーウィヤは[[刺客]]の手から逃れたが、一方アリーは661年に[[クーファの大モスク]]で祈祷中に[[:w:Abd-al-Rahman ibn Muljam|アブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャム]]により毒を塗った刃で襲われ、2日後に息を引き取った。正統カリフ4代のうち実に3代までが[[暗殺]]されたことになる。アリーの暗殺により、ムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲を宣言し、[[ウマイヤ朝]]を開くことになる。これに反発したアリーの支持者は、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]と[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]およびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬の[[イマーム]]と仰いで[[シーア派]]を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世[[スンナ派]](スンニ派)と呼ばれるようになる。
== 一族 ==
*[[アブー・ターリブ]](父)
*ファーティマ・ビント・アサド(母)
*ジャッファル(兄)
*[[ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ|ムハンマド(預言者ムハンマド)]](従兄、養父、舅)
*[[ファーティマ]](妻)
*[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]](長男)
*[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]](次男)
*ウンム・カルスーム(娘)
*ザイナブ(娘)
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== シーア派の教義におけるアリー ==
[[File:InsideImamAliMosqueNajafIraq.JPG|thumb|廟の内部の様子(イマーム・アリー廟)]]
シーア派では、アリーがムハンマドから直接後継者に任じられたとし、[[アブー・バクル]]、[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]、[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]の3代の[[正統カリフ]]の権威を認めない(彼らを簒奪者であるとして呪詛の対象とすることもある)。そして、指導者として預言者ムハンマドの血を引くことを重視し、ムハンマドの娘[[ファーティマ]]とアリーとの間に生まれた[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]、[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]の2人をそれぞれ第2代、第3代の[[イマーム]]とする(シーア派のうち[[カイサーン派]]のみは、アリーと別の妻ハウラとの子[[イブン・ハナフィーヤ|ムハンマド・イブン・ハナフィーヤ]]を第2代のイマームとする)。一般にハサンやフサインの血統の人々は、特に「[[シャイフ]]」や「[[サイイド]]」と呼ばれ宗派を問わずムスリム社会では尊敬を受けるが、サイイド自身も預言者の後裔として社会から尊敬を受けるべく身を律するよう求められており、シーア派のみならずサイイド自身が[[ウラマー]]や[[スーフィー]]教団の[[シャイフ]]など宗教的職権を担うことも一般的であった。[[イドリース朝]]や[[ファーティマ朝]]、[[サファヴィー朝]]のように場合によってはムハンマドの後裔を称する人々が政権を担うことも多くあった。[[ファーティマ朝]]は[[イスマーイール派]]の信仰規範を整備し、シーア派王朝としての正統性を主張し、[[サファヴィー朝]]も神秘主義教団から勃興して[[十二イマーム派]]をイラク、イラン全土に浸透させ、現在のイラン周辺のシーア派勢力の基盤を作った。ムハンマドの子女の多くは早世し、ムハンマドの血脈はファーティマを通じてのみ残されたため、ムハンマドの血を引くことはハサンまたはフサインの子孫であることとほぼ同義である。
イスラームの中でもとりわけシーア派においては、ムハンマドは無謬であったとされ、アリーを含めた後継のイマーム達にもその無謬性は受け継がれたと見る。そのためシーア派はスンナ派の[[ハディース]]の内、アリーがアブー・バクルやウマル、ウスマーンに劣っていたとするハディース等<ref>スンナ派のハディース集である『真正集』(ブハーリー編纂)の「預言者の教友達の美点の書」の第4章1節、第5章の2の10節、第7章4節他</ref> に関して、スンナ派によりアリーからのカリフの位の簒奪を合法化するために偽造されたものとみなす傾向にある。
== スンナ派の教義におけるアリー ==
[[File:Hakob Hovnatanian - Ali ibn Abi Talib.jpg|thumb|アリー・イブン・アビー・ターリブ(19世紀絵画)]]
スンナ派においてもアリーは預言者の娘婿であり義息として、また4代目の正当カリフとして高い尊敬を受けている。(加えて一部には、彼の息子ハサンを5代目の正統カリフとみなす見解さえある)しかし全体としてアブー・バクルやウマル、ウスマーンのカリフ位を認めるスンナ派は、シーア派ほどアリーを高くは見ない傾向にある。
== アリーをめぐる伝承と人物像 ==
アリーの人柄を伝える資料は、ハディースや歴史書などで多い。ここでは、スンナ派・シーア派を問わず、そのような資料からアリーの人物像を扱ったものを紹介する。
===アリーとアーイシャ===
アリーとムハンマドの妻アーイシャは、あまりそりが合わなかったことが伝えられている。
アリーは、アーイシャが砂漠ではぐれ、ムスリム男性に助けられ合流した時、アーイシャとその男性が砂漠で性交渉を行ったのではないかと非難する中心的人物の一人であった。最終的にはクルアーンの啓示により、アーイシャの無罪が確定したが(社会的に無罪が認められた)、この事件はアリーとアーイシャとの間に亀裂を残した。
アリーはアーイシャに対して激しい憎悪を公然と表していたことで知られる。駱駝の戦いの後アーイシャ側についたバスラ市民に対して『お前たちはその女(アーイシャ)の兵隊、四足獣(アーイシャ)の家来だった。そいつが唸るとお前たちはそれに応え、そいつが傷つくとお前たちは逃げたのだ。』<ref>『ナフジュ・アル=バラーガ』説教13、p81</ref> といい、アーイシャ自身にも『なんとかという女(アーイシャ)はといえば、女特有の思考に捕らわれており、彼女の胸のうちには鍛冶屋の大釜のように悪意が燃え滾っているのだ。』<ref>『ナフジュ・アル=バラーガ』説教154、p257</ref> と言及したエピソードが知られている。
また、アーイシャはアリーとムハンマドが話しているときに、間に割って入りムハンマドを怒らせたという逸話もある。
アーイシャはアリーの名を口にするのさえ嫌がり、その姿を見るのも我慢できないほどだった<ref>{{Cite web|title={{lang|ar|دشمنی عایشه با علی(ع) از زبان عالم سنّی}}|url=https://makarem.ir/main.aspx?lid=0&mid=248591&typeinfo=23&catid=23946|website={{lang|ar|پایگاه اطلاع رسانی دفتر مرجع عالیقدر حضرت آیت الله العظمی مکارم شیرازی}}|accessdate=2021-09-08|language=ar}}</ref> 。ウスマーンが殺害された後、人びとがアリーをカリフに選出しようと決めたのを聞き、「アリーがそうなる前に天が地につけばよい」と述べた。 アーイシャはアリーと対立し、軍勢を指揮してアリーに対して反乱を起こし、、アリーが亡くなった知らせを聞いたときには平伏してアッラーに感謝したという <ref>『サヒーフ・アル=ブハーリー</ref><ref>{{Cite book|和書|title={{lang|ar|اصفهانی، علی بن حسین، مقاتل الطالبیین}}|publisher=|page=vol 1 p 55|url=http://lib.eshia.ir/40132/1/55/%D8%A7%D9%84%D8%AD%D8%B3%D9%8A%D9%86}}</ref>。
== 父の日==
[[イラン]]では、アリーの誕生日である[[ヒジュラ暦]]第7月([[ラジャブ]])13日が、[[父の日]]となっている<ref>{{Cite web|title={{lang|fa|تاریخ دقیق روز پدر و روز مرد در سال 1400 چه روزی است؟ {{!}} جدول یاب}}|url=https://jadvalyab.ir/blog/تاریخ-دقیق-روز-پدر-و-روز-مرد-در-سال-1400-چه-روزی-است/|website={{lang|fa|بلاگ جدول یاب}}|date=2021-02-22|accessdate=2021-09-09|language=fa-IR}}</ref>。
== その他 ==
*彼のみが[[スンナ派]](スンニ派)、[[シーア派]]の両方から公認されたただ一人の指導者である。そのため、[[イラン・イラク戦争]]では、スンナ派のイラク兵はアリーの肖像を「お守り代わり」に持っていたといわれる(シーア派のイラン人も「アリーの肖像」には銃口を向けられない。そのうえ、スンナ派自身の信仰にも反しない)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 『[[コーラン]]』 [[井筒俊彦]]訳、[[岩波文庫]](上中下)、改版1964年、ワイド版。
* 『コーラン』 [[藤本勝次]]・池田修・伴康哉訳、中央公論新社<[[中公クラシックス]]全2巻>、2002年。
* 『聖クルアーン 日亜対訳注解』 三田了一訳、日本ムスリム協会、第2版1983年6月。
* 『タフスィール・アル=ジャラーライン(ジャラーラインのクルアーン注釈)』全3巻 中田考監修、中田香織訳、日本サウディアラビア協会、2004-2007年。
* 『[[ハディース]] イスラーム伝承集成』 [[牧野信也]]訳、中央公論社 全3巻、1993-1994年。 [[中央公論新社]]<[[中公文庫]] 全6巻>、2001年。([[ブハーリー]]の[[ハディース]]集成書『真正集』の完訳)
* ズィーバ・ミール=ホセイニー 『イスラームとジェンダー-現代イランの宗教論争』 山岸智子ほか訳、明石書店、2004年。
*『[[雄弁の道]] アリー説教集』 [[黒田壽郎]]訳、[[書肆心水]]、2017年
== 関連項目 ==
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*[[シーア派]]
*[[スンナ派]](スンニ派)
*[[ハワーリジュ派]]
*[[イマーム]]
*[[サイイド]]
*[[アフル・アル=バイト]]
*[[ムアーウィヤ]]
*[[マリク・イブン・アシュタル]]
*[[スィッフィーンの戦い]]
*[[ズルフィカール]] - アリーが使用していた剣。イスラム圏では伝説の名剣とされる。
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ムアーウィヤ
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ムアーウィヤ(アラビア語: معاوية , ラテン文字転写: Mu'āwiya, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝第3代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。全名は معاوية بن ابي سفيان بن حرب بن أميّة Mu'āwiya ibn Abī Sufyān ibn Ḥarb ibn Umayya.
ムアーウィヤを輩出したウマイヤ家はクライシュ族の名門で、ムアーウィヤの父アブー・スフヤーン(英語版)はマッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマドに激しく敵対した人物である。ムハンマドがメッカを征服したのちに、父アブー・スフヤーンらに従ってイスラム教に改宗し、兄のヤズィード(英語版)とともにムハンマドの秘書のひとりとして活躍した。
ムハンマドの死後、ムアーウィヤの兄ヤズィードが初代カリフ・アブー=バクルによって初代シリア州の総督(アミール)となるとアブー・ウバイダの副司令官として同地の征服を命じられ、ムアーウィヤはこれに従ってシリア駐留の東ローマ帝国との戦争に従事した。ハーリド・イブン=アル=ワリードがイラク戦線から転戦し、ダマスクス、エルサレムなど主要都市が次々にイスラーム勢の支配下におかれたが、639年にシリア一帯で流行した悪疫によってシリア総督アブー・ウバイダをはじめシリア方面軍の将卒の多くが病死した。第2代カリフ・ウマルはヤズィードに次代総督を任せ、抵抗が激しかったカエサリアの征服を命じた。しかし、640年に兄ヤズィードもダマスクスで病死すると、ウマルは改めてムアーウィヤにシリア総督に任じ、シリアの部族を掌握してカエサリアを陥落させるなど東ローマ帝国との戦いを進め、キプロス島とロドス島を征服してシリアに確固たる勢力を築いた。
656年、第3代カリフ・ウスマーンが暗殺(英語版)されて第4代カリフにアリーが就任すると、ムアーウィヤはウマイヤ家出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。スィッフィーンの戦いなどでアリーと戦ってしだいに勢力を拡大し、660年にはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言。翌661年、アリーがハワーリジュ派によって暗殺(英語版)され、自らもハワーリジュ派の刺客による襲撃を受けたがムアーウィヤは辛くもこれを撃退することに成功し、このことにより単独のカリフとなった。ムアーウィヤは、本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝を開いた。
ムアーウィヤは、すでに歴代カリフの暗殺に見られるように、ハワーリジュ派などアラブ諸軍(ムカーティラ)の叛乱を抑制するため、軍や支配地域の俸給と租税を監督する官庁や勅令を管理する官庁を整備していわゆるディーワーン制度の確立を進め、各都市や宿場に駅馬を配置して駅逓制度(バリード)(en)を敷設し、遠方に展開している駐留軍の改廃など軍事制度の整備など、指導者である預言者やカリフを中心とする部族集団の連合体だったイスラム共同体を国家体制として機能できるよう整備に努めた。
680年、息子でウマイヤ朝後継者のヤズィードによって、アリーの子で後にシーア派の本流となるフサインとカルバラーのムスリムを虐殺した、「カルバラーの悲劇」が起こる。これによって、ムアーウィヤのスンナ派がイスラムの覇権を築いた。ウマイヤ朝は世俗化し、アラブ帝国、イスラム帝国へと発展していく。のちのシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。
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"text": "ムアーウィヤ(アラビア語: معاوية , ラテン文字転写: Mu'āwiya, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝第3代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。全名は معاوية بن ابي سفيان بن حرب بن أميّة Mu'āwiya ibn Abī Sufyān ibn Ḥarb ibn Umayya.",
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"text": "ムアーウィヤは、すでに歴代カリフの暗殺に見られるように、ハワーリジュ派などアラブ諸軍(ムカーティラ)の叛乱を抑制するため、軍や支配地域の俸給と租税を監督する官庁や勅令を管理する官庁を整備していわゆるディーワーン制度の確立を進め、各都市や宿場に駅馬を配置して駅逓制度(バリード)(en)を敷設し、遠方に展開している駐留軍の改廃など軍事制度の整備など、指導者である預言者やカリフを中心とする部族集団の連合体だったイスラム共同体を国家体制として機能できるよう整備に努めた。",
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"text": "680年、息子でウマイヤ朝後継者のヤズィードによって、アリーの子で後にシーア派の本流となるフサインとカルバラーのムスリムを虐殺した、「カルバラーの悲劇」が起こる。これによって、ムアーウィヤのスンナ派がイスラムの覇権を築いた。ウマイヤ朝は世俗化し、アラブ帝国、イスラム帝国へと発展していく。のちのシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。",
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ムアーウィヤはイスラム教の5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフである。同名の孫、ウマイヤ朝第3代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。全名は معاوية بن ابي سفيان بن حرب بن أميّة Mu'āwiya ibn Abī Sufyān ibn Ḥarb ibn Umayya.
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2016年10月
| 脚注の不足 = 2016年10月
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{{Expand English|Mu'awiya I|date=2021年12月|fa=yes}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = ムアーウィヤ
| 各国語表記 = {{lang|ar|معاوية }}
| 君主号 = [[ウマイヤ朝]][[カリフ]]
| 画像 = File:Caliph Muawiya Calligaprhy.png
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[661年]] - [[680年]]
| 戴冠日 =
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| 全名 =
| 出生日 = [[603年]]頃
| 生地 =
| 死亡日 = [[680年]][[4月18日]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
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| 配偶者1 =
| 配偶者2 =
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| 父親 = {{仮リンク|アブー・スフヤーン|en|Abu Sufyan ibn Harb}}
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}}
'''ムアーウィヤ'''({{Rtl翻字併記|ar|'''معاوية '''|''Mu'āwiya''}}, [[603年]]頃 - [[680年]][[4月18日]])は[[イスラム教]]の5人目の[[カリフ]]で、[[ウマイヤ朝]]の初代カリフ(在位:[[661年]] - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝第3代カリフの[[ムアーウィヤ2世]]と区別して'''ムアーウィヤ1世'''とも呼ばれる。全名は {{lang|ar|معاوية بن ابي سفيان بن حرب بن أميّة}} {{transl|ar|''Mu'āwiya ibn Abī Sufyān ibn Ḥarb ibn Umayya''}}.
== 生涯 ==
ムアーウィヤを輩出した[[ウマイヤ家]]は[[クライシュ族]]の名門で、ムアーウィヤの父{{仮リンク|アブー・スフヤーン|en|Abu Sufyan ibn Harb}}は[[マッカ]](メッカ)の有力者として[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]に激しく敵対した人物である。ムハンマドがメッカを征服したのちに、父アブー・スフヤーンらに従ってイスラム教に改宗し、兄の{{仮リンク|ヤズィード・イブン=スフヤーン|en|Yazid ibn Abi Sufyan|label=ヤズィード}}とともにムハンマドの秘書のひとりとして活躍した。
ムハンマドの死後、ムアーウィヤの兄ヤズィードが初代[[カリフ]]・[[アブー=バクル]]によって初代[[歴史的シリア|シリア]]州の総督([[アミール]])となるとアブー・ウバイダの副司令官として同地の征服を命じられ、ムアーウィヤはこれに従ってシリア駐留の[[東ローマ帝国]]との戦争に従事した。[[ハーリド・イブン=アル=ワリード]]がイラク戦線から転戦し、[[ダマスクス]]、[[エルサレム]]など主要都市が次々にイスラーム勢の支配下におかれたが、[[639年]]にシリア一帯で流行した悪疫によってシリア総督アブー・ウバイダをはじめシリア方面軍の将卒の多くが病死した。第2代カリフ・[[ウマル・イブン=ハッターブ|ウマル]]はヤズィードに次代総督を任せ、抵抗が激しかった[[カイサリア・マリティマ|カエサリア]]の征服を命じた。しかし、[[640年]]に兄ヤズィードもダマスクスで病死すると、ウマルは改めてムアーウィヤにシリア総督に任じ、シリアの部族を掌握してカエサリアを陥落させるなど東ローマ帝国との戦いを進め、[[キプロス島]]と[[ロドス島]]を征服してシリアに確固たる勢力を築いた。
[[656年]]、第3代カリフ・[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が{{仮リンク|ウスマーンの暗殺|en|Assassination of Uthman|label=暗殺}}されて第4代カリフに[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]が就任すると、ムアーウィヤはウマイヤ家出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。[[スィッフィーンの戦い]]などでアリーと戦ってしだいに勢力を拡大し、[[660年]]には[[エルサレム]]においてカリフ就任を宣言。翌661年、アリーが[[ハワーリジュ派]]によって{{仮リンク|アリーの暗殺|en|Assassination of Ali|label=暗殺}}され、自らもハワーリジュ派の刺客による襲撃を受けたがムアーウィヤは辛くもこれを撃退することに成功し、このことにより単独のカリフとなった。ムアーウィヤは、本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝を開いた。
ムアーウィヤは、すでに歴代カリフの暗殺に見られるように、ハワーリジュ派などアラブ諸軍(ムカーティラ)の叛乱を抑制するため、軍や支配地域の俸給と租税を監督する官庁や勅令を管理する官庁を整備していわゆる[[ディーワーン]]制度の確立を進め、各都市や宿場に駅馬を配置して[[駅逓]]制度(バリード)([[:en:Barid (caliphate)|en]])を敷設し、遠方に展開している駐留軍の改廃など軍事制度の整備など、指導者である預言者やカリフを中心とする部族集団の連合体だったイスラム共同体を国家体制として機能できるよう整備に努めた。
680年、息子でウマイヤ朝後継者のヤズィードによって、アリーの子で後に[[シーア派]]の本流となる[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]と[[カルバラー]]のムスリムを虐殺した、「[[カルバラーの戦い|カルバラーの悲劇]]」が起こる。これによって、ムアーウィヤの[[スンナ派]]がイスラムの覇権を築いた。ウマイヤ朝は世俗化し、[[アラブ帝国]]、[[イスラム帝国]]へと発展していく。のちのシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*[[サイイド・アミール・アリ|アミール・アリ]]『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
== 関連項目 ==
*[[クライシュ族]]
{{ウマイヤ朝カリフ|661年 - 680年}}
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[[Category:603年生]]
[[Category:680年没]]
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13,811 |
1115年
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1115年(1115 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1115年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[日本]]
** [[永久 (元号)|永久]]3年
** [[皇紀]]1775年
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** [[北宋]] : [[政和]]5年
** [[遼]] : [[天慶 (遼)|天慶]]5年
** [[金 (王朝)|金]] : [[収国]]元年
** [[西夏]] : [[雍寧]]2年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[会祥大慶]]6年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1115|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[女真族]]の[[阿骨打|完顔阿骨打]]が[[金 (王朝)|金]]を建国
== 誕生 ==
{{see also|Category:1115年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月18日]] - [[ゲルトルート・フォン・ザクセン]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ハインリヒ10世 (バイエルン公)|ハインリヒ10世]]の妃(+ [[1143年]])
* [[徳大寺公能]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1161年]])
* [[明雲]]、平安時代の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[1184年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1115年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月27日]](永久3年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) - [[藤原為房]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1049年]])
* [[5月3日]](永久3年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[藤原家政]]、平安時代の公卿(* [[1080年]])
* [[7月24日]] - [[マティルデ・ディ・カノッサ]]、[[トスカーナの支配者一覧|トスカーナ女伯]](* [[1046年]]頃)
* [[マグヌス・エーレンドソン]]、[[オークニー諸島|オークニー]]伯(* [[1075年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,812 |
1125年
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1125年(1125 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1125年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙巳]]
* [[日本]]
** [[天治]]2年
** [[皇紀]]1785年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[宣和]]7年
** [[遼]] : [[保大 (遼)|保大]]5年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]3年
** [[西夏]] : [[元徳 (西夏)|元徳]]7年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天符睿武]]6年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
* [[ユリウス暦]] : 1170年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1125|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[金 (王朝)|金]]、[[遼]]を滅ぼす
* [[碧巌録]]の成立
== 誕生 ==
{{see also|Category:1125年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[11月13日]]([[宣和]]7年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[陸游]]、[[南宋]]の[[政治家]]、詩人(+ [[1210年]])
* [[オットー (マイセン辺境伯)|オットー]]、[[マイセン辺境伯]](+ [[1190年]])
* [[藤原惟方]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](+ 没年未詳)
* [[マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)|マファルダ・デ・サボイア]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の王妃(+ [[1157年]])
* [[尤袤]]、南宋の[[官僚]]、[[詩人]](+ [[1194年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1125年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月19日]](天治2年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[寛助]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](* [[1057年]])
* [[5月19日]] - [[ウラジーミル2世モノマフ]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]](* [[1053年]])
* [[5月23日]] - [[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]<ref>成瀬他、p. 207</ref>、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1086年]])
* [[12月7日]](天治2年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[藤原家隆 (左京大夫)|藤原家隆]]、平安時代の[[公家]](* 生年未詳)
* [[繩果]]、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]](* 生年未詳)
* [[劉安世]]、[[北宋]]の[[官僚]]、[[学者]](* [[1048年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1125}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,813 |
1127年
|
1127年(1127 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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"title": "死去"
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1127年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1127}}
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丁未]]
* [[日本]]
** [[大治 (日本)|大治]]2年
** [[皇紀]]1787年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[靖康]]2年
** [[南宋]] : [[建炎]]元年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]5年
** [[西夏]] : [[元徳 (西夏)|元徳]]9年、[[正徳 (西夏)|正徳]]元年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天符慶寿]]元年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1127|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 新立の[[荘園 (日本)|荘園]]を停止する(大治の荘園停止令){{要出典|date=2021-03}}
* [[4月6日]]、[[統子内親王]]が斎院に卜定される
* [[高宗 (宋)|高宗]]が[[宋 (王朝)|宋]]を復興、[[南宋]]を建国
== 誕生 ==
{{see also|Category:1127年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[10月18日]](大治2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[後白河天皇]]、第77代[[天皇]](+ [[1192年]])
* [[11月27日]] - [[孝宗 (宋)|孝宗]]、[[南宋]]の第2代[[皇帝]](+ [[1194年]])
* [[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]]、[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]伯(+ [[1153年]])
* [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]、第18代[[高麗王]](+ [[1173年]])
* [[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]、[[アンティオキア公国]]の支配者(+ [[1163年]])
* [[趙旉]]、南宋の[[皇太子]](+ [[1129年]])
* [[藤原隆季]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[1185年]])
* [[三浦義澄]]、平安時代、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、[[御家人]](+ [[1200年]])
* [[源義康]]、平安時代の武将(+ [[1157年]])
* [[楊万里]]、南宋の[[学者]]、[[詩人]](+ [[1206年]])
* [[藤原光隆]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1201年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1127年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月29日]](大治2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[源雅実]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1058年]])
* [[9月30日]](大治2年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[藤原寛子 (藤原頼通女)|藤原寛子]]、[[後冷泉天皇]]の[[皇后]](* [[1036年]])
* [[11月25日]](大治2年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[源義光]]、平安時代の[[武将]](* [[1045年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1127}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}}
{{デフォルトソート:1127ねん}}
[[Category:1127年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1127%E5%B9%B4
|
13,814 |
マカーム
|
マカームとは、
マカーム(maqām, مقام。複数形はマカーマート maqāmāt)はアラビア語で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、中近東の音楽では特に音楽理論用語として使われ、「旋法の体系、システム」を意味する語である。
音楽理論用語としてのマカームは、「旋法の体系、システム」といったようなものである。「アラブ音楽の『音階』」と説明されることも多い。旋律や音楽様式、楽曲体系そのものを指すときもある。マカームは、旋律型の集合体、旋律の型・パターンの集まりでもある。「音階と旋律のめぐり方を併せ持ったもの」とも言える。同じ音程構造、つまり同じ音階型を共有するマカームもある。その時は旋律のめぐり方や雰囲気などによって区別される。そして、通常2つ以上のジンス(جنس jins,複数形はアジュナース,ajnās اجناس 古代ギリシア語のγένος [genos,ゲノス]より。「種類」の意)と呼ばれる「テトラコルド程度の範囲の音域の旋律の単位、旋律の種」によって構成されている。マカームを西洋音楽の音階と比べると、中立音程(3/4音など)の使用が特徴的である。
代表的なマカームはラースト。半音ではなく、4分の1音下げる記号をここで仮にとすると、だいたい次のような「音階」である、と描写されることが多い。
C,D,E,F,G,A,B
Eの音はEフラットよりは高いがEナチュラルよりは低い音となる。どの程度になるかは時代・地域・楽派などによって違うが、たとえばEは音程比27:22(約354.547セント)となる。
マカームの理論付けにおいて重要な役割を果たした人物としてイスハーク・アルマウスィリー(アッバース朝期の音楽家)、キンディー(9世紀、イスラム哲学の創始者としても有名)、ファーラービー(10世紀、哲学者として有名、キターブ・アルムースィーカー・アルカビール Kitāb al-mūsīqá al-kabīr كتاب الموسيقى الكبير「音楽の大書、音楽大全」の著者)、イブン・スィーナー(哲学者。「治癒の書」キターブ・アルシファ Kitāb al-Shifā' には音楽理論に関する章がある)、サフィー・アッ・ディーン・ウルマウィー(Ṣafī al-Dīn al-Urmawī、1216年頃現イラン西部のウルミア生まれ-1294年没、13世紀の神秘主義者。アッバース朝最後のカリフ・ムスタアスィムに仕え、キターブ・アルアドワール Kitāb al-Adwār كتاب الأدوار「旋法の書」の著者)などが挙げられる。またアブドゥッラフマーン・ジャーミーも簡潔にまとめた論文を残している。(純粋の音楽家ではないのは、当時のイスラム知識人は万事に興味を持ち、手を出すのが普通だったから)。またキンディーらの理論は古代ギリシアの音楽理論著作の流れを受け継いでいると言える内容で、その意味ではマカームの理論にはアリストクセノス、アルキュタス、プトレマイオス、ピタゴラスなどが関わっているとも言える(マカームが1オクターブを越え、2オクターブに渡って定義されているのは古代ギリシアの音階論と関係がある)。
トルコのマカームmakam、イランのアーヴァーズ、ダストガーフ、アゼルバイジャンのムガーム、ウズベキスタンのマコーム(マカーム)、中国・新疆ウイグル自治区のムカム(マカム、マカーム)、モーリタニアのブハールも、アラブ音楽のマカームと同様のものである。
他の音楽文化圏では、西洋古典音楽における「旋法」、インド古典音楽における「ラーガ」、中部ジャワ伝統音楽におけるパトゥッ(パテット)、日本の雅楽における「調」である。
以下に、各種のマカームについて例を挙げるが、マカームの説明は参考とした資料によって違いが大きく、ここでは表記に一体性が取れないことを注記する。
出発音マブダア(開始音)、開始音アーガーズ、終止音カラール(決定音)、強調音ガンマーズ(支配音)、中間停止音マルカズ、副終止音ザヒール(ダヒールとも)などの機能音が定義される。
古典音楽のマカームの伝統は、大きくマシュリク (東アラブ古典音楽)とマグリブ (西アラブ古典音楽、アラブ・アンダルース音楽、ヌーバ・マアルーフ、マアルーフ)の伝統に分かれる。
ジンス(旋律の種)とは、上述のようにマカームの構成要素である。マカームはいくつかのジンスから組み立てられており、ジンスは3つの音、4つの音あるいは5つの音からできている。ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する(なお、このqという表記は一般的ではないのに注意。よく使われるのは、フラット記号の縦の線、棒の部分に左上から右下へ向かう斜めの線を付け加えたものである)。
ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をq、1/4シャープ(半音ではなく1/4音あげる)を+と表記する。
主音(メロディ・曲・旋律の最後の音、終わりの音)が非常に重要であり、演奏家は絶対にこれを間違えてはいけない。これを間違えると違うマカームになってしまう。また、主音からはじまる第1ジンス(最初のジンス)も重要で、この第1ジンスが大体の場合そのマカームの肝である。
1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する。「/」は上行形/下行形をしめす。
イラクのバグダードで伝えられてきた声楽および小編成の器楽合奏(タフト(Takht)、ジャウクあるいはチャルギーなどとも呼ばれる)でよく用いられるマカーム。演奏の際の編成は独唱者(マカームチーあるいはカーリーと呼ばれる)、サントゥール、ジョウザ(胡弓のようなもの)、ドゥフ(タンバリンのようなもの)、ダラブッカなどからなる。
別資料。 {}で囲まれた音は終止音あるいは中心音をあらわす。qは1/4音低いことをあらわす。+は1/4音高いことをあらわす。
ダマスカスでのアラブ音楽のマカームの基本的なもの。
単数形タブウ(もしくはタバア)、複数形トゥブーウ。サナーアート(複数形。単数形サヌア)とも言われる。
サフィー・アッディーンは、主要なものをマカーマート、派生的なものをアーヴァーザートと呼んだ。
ラテン文字によるトルコ語の正書法ではマカームはmakamと表記する。複数形はアラビア語に基づくmakamatが用いられるが、トルコ語固有の複数形語尾を用いてmakamlarとも言う。
イラン伝統音楽の旋法。7種類のダストガーと5種類の派生、アーヴァーズの全12種類がある。ダストは「手」、ガーはDogāhやSegāhのgāhと同じ。旋律型グーシェgushehを持つ。
アゼルバイジャンのムガームについては情報が少ないが、アゼルバイジャンの作曲家で、ショスタコーヴィチの弟子カラ・カラーエフ(バレエ音楽「雷の道」が有名)によればムガームとは「アゼルバイジャン特有の旋法の名称、またはその旋法を基とし、組曲と狂詩曲を結合したような構成を持つ楽曲形式の名称」と定義される。
7つの主要なムガームがあるとされ、
シャシュマカーム(Shashmaqom、6つのマカームを意味する)は長大な一連の曲の集まり、組曲である。ラーストならラーストという「音階・旋法」で統一された声楽曲や器楽曲の集まり、そしてその体系である。音楽体系とも言い得る。 シャシュマカームには以下の6つの「旋法」があり、6つの長大な「曲群」にあたる。
17世紀ころにブハラやホラズムの宮廷音楽家によってかたちづくられていった。タスニフ(tasnif, テスニフとも)、タルジェ(tardzhe)、ガルドゥン(gardun)、ムハマス(mukhammas)、サキル(sakil)の5つの楽章からなるムシキロト(mushkilot, 「困難」の意、器楽部分)とサラフバル(sarakhbar)、タルキン(talkin)、ナスル(nasr)、ウファル(ufar)の4楽章からなるナスル(nasr, 「散文」の意、声楽部分)から構成されている。
ウイグル族のムカム(マカム、マカームとも)は長大な一連の曲の集まり。楽曲体系。音楽様式。「新疆のウイグルの大曲(ムカム)芸術」としてユネスコの無形文化遺産に登録されている。
10世紀から13世紀にかけて、突厥族の間でその基礎が固められ、14世紀になって天山山脈の南北の地方に広がり、15世紀には「ムカム」の語も、ムカムとしての構造も一応整ったといわれている。
ムカムを構造的にも不動のものとして確立させたのは、16世紀、ヤルカンド汗国の2代目の君主アブドヴァシデの妃、アマンニサが時の優れたムカムの演唱家、カディールと協力して、民間に散逸散在していたムカムのチョンラクマン(チョン・ナグマとも)、ダスタン、マイシュラップ(マシュラップとも)を整理し体系化したことに因るものとされている。(楽師伝 - ウイグルの古典音楽家の詳細について書いてある)
ウイグル族の住むそれぞれの都市に伝承されている。
ヤルカンドの近くにある小さな村(バスで大体1時間半程)、メリケット(メルキット)には12ムカムの古い形、12ムカムより歴史の古い?ドラン・ムカム Dollan Muqamが残っているという。
アラブのマカームなどと、同じ様な名前が散見される。
ムカムとは楽曲の体系。曲の集合体。1ムカム分演奏すると大体2時間はかかる。12ムカム全てとなると、丸々1日はかかる。12ムカム全曲を聴ける機会は今日はまずない。大概はあるムカムのごく一部を断片的に演奏したりする場合がほとんどで、それも合奏ではなく、単独楽器で演奏されたり、多少演奏されやすく手が加えられた簡易版を演奏する場合も多い。経験をつんだウイグルの音楽家でも、1ムカム分を覚えるのは至難の業で、12ムカムの内1ムカムだけでも覚えて演奏出来れば賞賛に値するとされる。東アラブ古典音楽における「ワスラ」、トルコにおける「ファスル」といった組曲形式(あるいは組歌形式;いくつもの声楽・器楽曲を集めたもの。能でいう「番組」)にあたる?また西アラブ古典音楽における「ヌーバ」、「マアルーフ」、ウズベキスタンやタジキスタンにおける「シャシュマコーム;6つのマコーム」も曲の集合体というので、ムカムに似ているかもしれない。イランにおける「ラディーフ」も同様のもの?
名前はチョンラクマン、ダスタン、マイシュラップとも。
モーリタニアには、ブハール(複数形はブフール)と呼ばれる「旋法」のようなものが30以上存在する。
ヒンドゥースターニー音楽(北インド古典音楽)には、ペルシャやアラビアから来たといわれるラーガ、ヘセイニ(Heseini)、ヘジャス(Hejaz)、カフィ(Kafi)、バハル(Bahar)等がある。
カシミールのスーフィー音楽ではマカームという言葉が使われる。ただしマカーム・トーディーなどと言い実態はマカームの伝統より北インドのラーガの伝統に近い。(トーディーは北インド、ヒンドゥースターニー音楽でよく使われるラーガの一つ。)いずれにせよこれらはインドの異端の響きである。
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マカームとは、 アラビア音楽の用語。以下で詳説。
ハンガリーの民謡デュオ名。 マカームはアラビア語で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、中近東の音楽では特に音楽理論用語として使われ、「旋法の体系、システム」を意味する語である。
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'''マカーム'''とは、
#アラビア音楽の用語。以下で詳説。
#[[ハンガリー]]の民謡[[デュエット|デュオ]]名。
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'''マカーム'''('''maqām, مقام'''。複数形はマカーマート maqāmāt)は[[アラビア語]]で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、[[中近東]]の[[音楽]]では特に音楽理論用語として使われ、「[[旋法]]の体系、システム」を意味する語である。
==音楽理論用語としてのマカーム==
音楽理論用語としてのマカームは、「[[旋法]]の体系、システム」といったようなものである。「[[アラブ音楽]]の『[[音階]]』」と説明されることも多い。[[旋律]]や音楽様式、楽曲体系そのものを指すときもある。マカームは、旋律型の集合体、旋律の型・パターンの集まりでもある。「音階と旋律のめぐり方を併せ持ったもの」とも言える。同じ音程構造、つまり同じ音階型を共有するマカームもある。その時は旋律のめぐり方や雰囲気などによって区別される。そして、通常2つ以上の'''ジンス'''(جنس jins,複数形はアジュナース,ajnās اجناس 古代ギリシア語のγένος [genos,ゲノス]より。「種類」の意)と呼ばれる「[[テトラコルド]]程度の範囲の音域の旋律の単位、旋律の種」によって構成されている。マカームを西洋音楽の音階と比べると、中立[[音程]](3/4音など)の使用が特徴的である。
代表的なマカームは[[ラースト]]。半音ではなく、4分の1音下げる記号をここで仮に[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]とすると、だいたい次のような「音階」である、と描写されることが多い。
C,D,E[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]],F,G,A,B[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]
[[Image:Rast scale.svg|400px|thumb|ラースト]]
E[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]の音はEフラットよりは高いがEナチュラルよりは低い音となる。どの程度になるかは時代・地域・楽派などによって違うが、たとえばE[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]は音程比27:22(約354.547セント)となる。
[[image:Al-Urmawi.JPG|400px|thumb|ウルマウィーの音楽理論書のひとつ ''Risāla al-Sharafiyya'']]
マカームの理論付けにおいて重要な役割を果たした人物としてイスハーク・アルマウスィリー(アッバース朝期の音楽家)、[[キンディー]]([[9世紀]]、[[イスラム哲学]]の創始者としても有名)、[[ファーラービー]]([[10世紀]]、[[哲学者]]として有名、キターブ・アルムースィーカー・アルカビール Kitāb al-mūsīqá al-kabīr كتاب الموسيقى الكبير「音楽の大書、音楽大全」の著者)、[[イブン・スィーナー]](哲学者。「[[治癒の書]]」キターブ・アルシファ Kitāb al-Shifā' には音楽理論に関する章がある)、[[サフィー・アッ・ディーン・ウルマウィー]]([[:en:Safi al-Din al-Urmawi|Ṣafī al-Dīn al-Urmawī]]、1216年頃現イラン西部の[[ウルミア]]生まれ-1294年没、[[13世紀]]の[[スーフィー|神秘主義者]]。[[アッバース朝]]最後のカリフ・[[ムスタアスィム]]に仕え、キターブ・アルアドワール Kitāb al-Adwār كتاب الأدوار「旋法の書」の著者)などが挙げられる。また[[ジャーミー|アブドゥッラフマーン・ジャーミー]]も簡潔にまとめた論文を残している<ref>Risāla-yi mūsīqī「音楽論」旋法とリズム周期について述べた論文</ref>。(純粋の音楽家ではないのは、当時の[[ウラマー|イスラム知識人]]は万事に興味を持ち、手を出すのが普通だったから)。またキンディーらの理論は[[古代ギリシア]]の音楽理論著作の流れを受け継いでいると言える内容で、その意味ではマカームの理論には[[アリストクセノス]]、[[アルキュタス]]、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]、[[ピタゴラス]]などが関わっているとも言える(マカームが1オクターブを越え、2オクターブに渡って定義されているのは古代ギリシアの音階論と関係がある)。
[[トルコ音楽|トルコ]]のマカームmakam、[[イラン]]のアーヴァーズ、ダストガーフ、[[アゼルバイジャン]]のムガーム、[[ウズベキスタン]]のマコーム(マカーム)、[[中華人民共和国|中国]]・[[新疆ウイグル自治区]]のムカム(マカム、マカーム)、[[モーリタニア]]のブハールも、アラブ音楽のマカームと同様のものである。
他の音楽文化圏では、西洋古典音楽における「[[旋法]]」、[[インド]]古典音楽における「[[ラーガ]]」、中部[[ジャワ島|ジャワ]]伝統音楽におけるパトゥッ(パテット)、日本の[[雅楽]]における「調」である。
以下に、各種のマカームについて例を挙げるが、マカームの説明は参考とした資料によって違いが大きく、ここでは表記に一体性が取れないことを注記する<ref>名前が違う、つづりが違う、発音が違う、「音階」が違う、音程構成が違う、マカームの中で重要とされる音が違う、どのようなジンスで構成されているかが違う…等</ref>。
出発音マブダア(開始音)、開始音アーガーズ、終止音カラール(決定音)、強調音ガンマーズ(支配音)、中間停止音マルカズ、副終止音ザヒール(ダヒールとも)などの機能音が定義される。
==各地のマカーム==
===アラブのマカーム===
古典音楽のマカームの伝統は、大きく[[マシュリク]] (東アラブ古典音楽)と[[マグリブ]] (西アラブ古典音楽、アラブ・アンダルース音楽、ヌーバ・マアルーフ、マアルーフ)の伝統に分かれる。
====アラブのジンス====
[[ジンス]](旋律の種)とは、上述のようにマカームの構成要素である。マカームはいくつかのジンスから組み立てられており、ジンスは3つの音、4つの音あるいは5つの音からできている。ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する(なお、このqという表記は一般的ではないのに注意。よく使われるのは、フラット記号の縦の線、棒の部分に左上から右下へ向かう斜めの線を付け加えたものである)。
*アウジュ・アーラー - Bq,C,D#,EqあるいはBq,C,D#,E
*アジャムعجم(アラビア語で「ペルシア人」の意) - Bb,C,D。
*ウッシャーク - A,B,C,DまたはA,B,C,D,E Aからはじまるナハーワンド。ナハーワンド、ブサーリクはほぼ同じものを指す。
*ザーウィール - ラーストの変化形。C,D,Eq,F#,G
*サーズカール - ラーストの変化形。C,D#,Eq,F,G
*サバー - D,Eq,F,GbまたはD,Eq,F,Gb,A
*シパール - F,G#,A,Bb,C。
*スィカーフ([[ペルシア語]]の「セガーフ」) - Eq,F,G
*ジハールカーフ(ペルシア語の「チャハールガーフ」) - F,G,A,BbまたはF,G,A,Bb,C
*クルディー(「[[クルド人]]」) - D,Eb,F,GまたはD,Eb,F,G,A。
*ナウアシュル・・・C,D,Eb,F#,G。ナグリーズと同じ
*ナグリーズ・・・C,D,Eb,F#,G。ヒサールはほぼ同じものを指す
*ナジュディー・・・F,G,A,Bq,C
*ナハーワンド(ニハーワンドとも。地名[[ニハーヴァンド]]に由来) - C,D,Eb,FまたはC,D,Eb,F,G ブサーリク、ウッシャークはほぼ同じものを指す。
*バハルシューラク - C,E,F。
*バヤーティーبياتي - D,Eq,F,GまたはD,Eq,F,G,A
*ヒサール - D,E,F,G#,A。Dからはじまるナグリーズ。
*ヒジャーズ(ヒジャーズィーとも。地名[[ヒジャーズ]]に由来) - D,Eb,F#,GまたはD,Eb,F#,G,A
*ブサーリク - D,E,F,GまたはD,E,F,G,A Dからはじまるナハーワンド。
*マーフール - C,D,E,F,G ジハールカーフとほぼ同じ。
*ムスタアール - Eq,F#,G シカーフの変化形。
*ラースト - C,D,Eq,FまたはC,D,Eq,F,G
*ラクブ - D,Eq,F,Gq,A
{| class="wikitable"
|-
| アジャム (عجم) トリコルド, B♭から始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_ajam.jpg]]
| バヤーティーBayati (بياتي) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_bayati.jpg]]
| ヒジャーズHijaz (حجاز) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_hijaz.jpg]]
|-
| クルドKurd (كرد) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_kurd.jpg]]
| ナハワンドNahawand (نهاوند) テトラコルド, Cから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_nahawand.jpg]]
| ニクリーズNikriz (نكريز) ペンタコルド, Cから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_nikriz.jpg]]
|-
| ラーストRast (راست) テトラコルド, Cから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_rast.jpg]]
| サバーSaba (صبا) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_saba.jpg]]
| スィカSikah (سيكاه) トリコルド, Eqから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_sikah.jpg]]
|}
====東アラブ古典音楽で使われるマカーム====
ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をq、1/4シャープ(半音ではなく1/4音あげる)を+と表記する。
主音(メロディ・曲・旋律の最後の音、終わりの音)が非常に重要であり、演奏家は絶対にこれを間違えてはいけない。これを間違えると違うマカームになってしまう。また、主音からはじまる第1ジンス(最初のジンス)も重要で、この第1ジンスが大体の場合そのマカームの肝である。
*ヤガーフ
**ヤガーフ(イェカー) - ペルシャ語で「第1度」の意。
**:「音階」風に説明すると、G,A,Bq,C,D,E,F+,G。
**:(G,A,Bq,C;ラースト)+(D,E,F#,G;チャハールガーフ),(D,E,F+,G;ラースト)+(G,A,Bq,C;ラースト)+(D,Eb,F#,G;ヒジャーズィー)/(G,F,Eq,D;バヤーティー)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,Eq,D,C;ラースト),(G,F,Eq,D;バヤーティー)+(C,Bq,A,G;ラースト)
**シャット・アラバーン(シュドアラバーン)
**:「音階」風に説明すると、G,Ab,B,C,D,Eb,F#,G。(G,Ab,B,C,D)+(D,Eb,F#,G)。ジンス構成はヒジャーズ+ヒジャーズ。出発音をGに変えたマカーム・ヒジャーズカールの移調形。
**ラーバット・ファザー
**ディルカスィーダー
**ファラハ・ファザー
**:「音階」風に説明すると、G,A,Bb,C,D,Eb,F,G。(G,A,Bb,C,D)+(D,Eb,F,G)。ジンス構成はニハーワンド+クルディー。出発音をGに変えたマカーム・ニハーワンドの移調形とも説明される。ただ、ニハーワンドと違ってアジャムの[[トリコルド]](Bb,C,D)が旋律の中に現れてくるなどの特徴をもつため単にニハーワンドの移調形とは言えない。違うマカームである。(G,A,Bb,C;ニハーワンド)+(Bb,C,D;アジャム)+(D,Eb,F,G;クルディー)
**スルターニー・ヤガーフ(スルターニー・イェカー)
**:「音階」風に説明すると、G,A,Bb,C,D,Eb,F#,G。(G,A,Bb,C)+(D,Eb,F#,G)。ジンス構成はニハーワンド+ヒジャーズ。出発音をGに変えたマカーム・ニハーワンドの移調形。
*フサイニー・ウシャイラーン(ホセイニー・アシラーン)
**フサイニー・ウシャイラーン
**:「音階」風に説明すると、A,Bq,C,D,Eq,F,G,A。(A,Bq,C,D)+(D,Eq,F,G,A)?
**バヤーティー・ウシャイラーン
**ヒジャージー・ウシャイラーン
**:「音階」風に説明すると、A,Bq,C,D,Eb,F#,G,A。(A,Bq,C,D)+(D,Eb,F#,G,A)?
**ブサーリク・ウシャイラーン
**シャウキ・タラブ
**ニフフト
**スージディル
**:「音階」風に説明すると、A,Bb,C#,D,E,F,G#,A。(A,Bb,C#,D)+(D,E,F,G#,A)。
**:また(A,Bb,C#,D,E)+(E,F,G#,A)で、出発音をAに変えたマカーム・ヒジャーズカールの移調形とも言う。
*アジャム・ウシャイラーン
**アジャム・ウシャイラーン(アージャーム・アシーラーン)
**:「音階」風に説明すると、Bb,C,D,Eb,F,G,A,Bb
**タルズ・ジャディード - 「新タルズ」
**シャウキ・アフザー(シュークアフザ)
**:「音階」風に説明すると、Bb,C,D,Eb,F,Gb,A,Bb
**シャウキ・アーウィル
*イラク
**イラーク(アラク)
**:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,Eq,F,G,A,Bq。(Bq,C,D)+(D,Eq,F,G)+(G,A,Bq)。
**:(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(G,A,Bq,C,D;ラースト on G),(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eq,F,G,A;バヤーティー on D),(Eq,F,G,A,Bq;スィガーフ on Eq)/(Bq,A,G,F,Eq;スィガーフ on Eq)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(D,C,Bq;スィガーフ on Bq)
**:イラークという名前はサフィー・アッディーンの論文にも現れる。
**:Bqに移調されたマカーム・スィカーフとも
**アウジュ
**ファラハナーク
**:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,E,F#,G,A,Bq。(Bq,C,D)+(D,E,F#,G)+(G,A,Bq)。
**ディルカシュ・ハーウラーン
**バスター・イスファハーン
**ラーバット・アルアルワー(ラーハット・アルワ)
**:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,Eb,F#,G,A,Bq。(Bq,C,D)+(D,Eb,F#,G)+(G,A,Bq)。
**:(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eb,F#,G;ヒジャーズィー on D)+(G,A,Bq,C,D;ラースト on G)+(D,Eb,F#,G,A;ヒジャーズィー on D)/(A,G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D),(A,G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D)+(D,C,Bq;スィガーフ on Bq)
**:Bqに移調されたマカーム・フッザームとも
**バスター・ニガール(ブスタニカル、ベステニカルとも)
**:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,Eq,F,Gb,A,Bb。
**:(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eq,F,Gb,A;サバー on D)+(A,Bb,C,D;クルディー on A),(G,A,Bq,C,D;ラースト on G)+(D,Eq,F,Gb,A;サバー on D)/(A,Gb,F,Eq,D;サバー on D)+(D,C,Bb,A;クルディー on A)+(A,Gb,F,Eq,D;サバー on D)+(D,C,Bq;スィガーフ on Bq)
**ラウナク・ヌマー
**アウジュ・アーラー
*ラースト
**ラースト
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,A,Bq,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,A,Bq,C)。
**:上行形(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,Bq,C;ラースト)/下降形(C,Bb,A,G;ナハーワンド)+(G,F,Eq,D,C;ラースト)とも。
**:ジンス構成。第1ジンス(C,D,Eq,F,G;ラースト on C),(Eq,F,G;シガーフ on Eq)+第2ジンス(G,A,Bq,C;ラースト on G)+第3ジンス(C,D,Eq,F,G;ラースト on C)+第4ジンス(G,A,Bq,C;ラースト on G)/第4ジンス(C,Bq,A,G;ラースト on G)+第3ジンス(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)+第2ジンス(C,Bq,A,G;ラースト on G),(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+第1ジンス(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)
**:ラーストはサフィー・アッディーンの論文にも現れる。古典的、アカデミックな雰囲気。
**ラースト・カビール - 「大ラースト」
**ナイルーズ・ラースト
**:単にナイルーズとも。ラーストに含まれるとも言う。
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,Aq,Bb,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,Aq,Bb,C)。ラースト+バヤーティー。
**ラースト・ジャディード - 「新ラースト」
**ラハーウィー - この名前はサフィー・アッディーンの論文にも現れる。
**スージナーク(スーズナーク、スージナックとも)
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,Ab,B,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,Ab,B,C)。
**:マカーム・ラーストに似ている、ラーストに含まれる、ラーストの変化形とも。
**:(C,D,Eq,F,G;ラースト on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)+(C,D,Eb,F,G;ブーサーリク on C)+(G,Ab,B;ヒジャーズィー on G)/(B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)
**スージディル・アーラー
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,A,Bb,C?。(C,D,Eq,F)+(F,G,A,Bb,C)?。
**ブズルグ(ブズルク) - この名前はサフィー・アッディーンの論文にも現れる。
**サーズカール
**:(C,D#,Eq,F,G;サーズカール)+(G,A,Bq,C;ラースト)+(C,D,Eq,F;ラースト)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)/(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(F,Eq,D,C;ラースト)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,Eq,D,C;ラースト),(G,F,Eq,D#,C;サーズカール)
**バサンディーダー
**ナグリーズ(ニクリーズ、ナクリーズとも)
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eb,F#,G,A,Bb,C。(C,D,Eb,F#,G)+(G,A,Bb,C)。
**:(C,D,Eb,F#,G;ナグリーズ on C)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)+(C,D,Eb,F#,G;ナグリーズ on C)+(G,A,Bb;ブーサーリク on G)/(Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナグリーズ on C)+(C,Bq,A,G;ラースト on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナグリーズ on C)
**タルズ・ナウィーン
**:「音階」風に説明すると、C,Db,Eb,F,Gb,A,Bb,C。(C,Db,Eb,F)+(F,Gb,A,Bb,C)。
**:(C,Db,Eb,F;クルディー)+(F,Gb,A,Bb,C;ヒジャーズィー)+(C,Db,E,F;ヒジャーズィー)+(F,G,Ab,Bb;ニハーワンド)/(Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(F,Eb,Db,C;クルディー)+(C,Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(F,Eb,Db,C;クルディー)
**マーフール
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,A,B,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,A,B,C)。
**:上行形(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,B,C;アジャム)/下降形(C,Bb,A,G;ナハーワンド)+(G,F,Eq,D,C;ラースト)とも。
**:(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,B,C;チャハールガーフ)+(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,B;チャハールガーフ)/(B,A,G;チャハールガーフ)+(G,F,Eq,D,C;ラースト)+(C,B,Ab,Gヒジャーズィー;),(C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,E,D,C;チャハールガーフ),(G,F#,Eb,D,C;ナグリーズ),(G,F,Eq,D,C;ラースト)
**ザーウィル
**ディル・ニスィーン
**ニハーワンド(ナハワンド、ニハーウェンド、ニハーヴァンド、ナハーヴァンドとも)
**:上行形(C,D,Eb,F,G;ニハーワンド)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズ)/下降形(C,Bb,Ab,G;クルディー)+(G,F,Eb,D,C;ニハーワンド)という風にも説明される。西洋古典音楽の短調と説明されることもある;ちなみに短調と違って「悲しい雰囲気」とされていない。
**:(C,D,Eb,F;ニハーワンド on C)+(F,G,Ab,Bb,C;ニハーワンド on F)+(C,D,Eb,F;ニハーワンド on C)+(F,G,Ab,Bb;ニハーワンド on F)/(Bb,Ab,G,F;ニハーワンド on F)+(F,Eb,D,C;ニハーワンド on C)+(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G),(C,B,Ab,G,F;ナグリーズ on F),(C,Bb,Ab,G,F;ニハーワンド on F)+(F,Eb,D,C;ニハーワンド on C)
**ニハーワンド・カビール - 「大ニハーワンド」
**ニハーワンド・ルーミー - 「[[ローマ]]のニハーワンド」
**ニハーワンド・ムラッサ
**:スンブラーSunblahとも。「音階」風に説明すると、C,D,Eb,F,Gb,A,Bb,C。(C,D,Eb,F;ニハーワンド)+(F,Gb,A,Bb;ヒジャーズ)+C。
**ナウアシュウル(ナワサル、ナワ・アサル、ナウアシュルとも)
**:「音階」風に説明すると、C,D,Eb,F#,G,Ab,B,C。(C,D,Eb,F#,G)+(G,Ab,B,C)。
**:最初の3音(C,D,Eb)が部分的なニハーワンド・テトラコードであることに注目。さらに第2音(D)が半音低い以外は、マカーム・アサルクルドに似ている。
**:(C,D,Eb,F#,G;ナウアシュル on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)+(C,D,Eb,F#,G;ナウアシュル on C)+(G,Ab,B;ヒジャーズィー on G)/(B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナウアシュル on C)+(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナウアシュル on C)
**ハヤーン
**ヒジャーズカール(ヒジャーズカル)
**:「音階」風に説明すると、C,Db,E,F,G,Ab,B,C。(C,Db,E,F,G)+(G,Ab,B,C)。
**:(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャズィー on G)+(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー on C),(C,D,Eb,F,G;ニハーワンド on C)+(G,Ab,B;ヒジャーズィー on G)/(B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,E,Db,C;ヒジャーズィー on C)+(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G),(C,Bb,Ab,G,F;ニハーワンド on F)+(G,F,E,Db,C;ヒジャーズィー on C)
**ザングーラ(ザングラー)
**:「音階」風に説明すると、C,Db,E,F,G,A,Bb,C?。(C,Db,E,F)+(F,G,A,Bb,C)?。
**:(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ),(A,Bq,C,Db;サバー)+(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー)/(G,F,E,D,C;チャハールガーフ)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク),(C,Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(G,F,E,Db,C;ヒジャーズィー)
**:トルコでゼンギュレ?
**ヒジャーズカール・クルディー(ヒジャーズカール・クルド、クルディリ・ヒジャーズカルとも)
**:「音階」風に説明すると、C,Db,Eb,F,G,Ab,Bb,C。
**:(C,Db,Eb,F,G;クルディー)+(G,Ab,Bb,C;クルディー)
**:マカーム・ヒジャーズカルクルドはマカーム・クルドと同じ音程の間隔(音程構成)を持つが、マカーム・クルドでは、支配的な音が第4音上にあり、ヒジャーズカル・クルドでは支配的な音が第5音上にあるので、ヒジャーズカル・クルドはマカーム・クルドの転換されたバージョン(移調形)ではない、とも。
**:(C,Db,Eb,F,G;クルディー on C)+(F,G,Ab,Bb,C;ブーサーリク on F)+(C,Db,Eb,F,G;クルディー on C)+(G,Ab,Bb;クルディー on G)/(Bb,Ab,G;クルディー on G)+(G,F,Eb,Db,C;クルディー on C)+(C,Bb,Ab,G,F;ブーサーリク on F)+(G,F,Eb,Db,C;クルディー on C)
[[Image:Maqam Hijaz Kar Kurd.png|400px|thumb|Maqam Hijaz Kar Kurd,この例では上行時と下降時の音階が違う]]
**パンジュガーフ - ペルシャ語で「第5度」の意。
**シャウキ・ディル
*ドゥガーフ
**ドゥガーフ - ペルシャ語で「第2度」の意。
**バヤーティー(バヤート)
**:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,G,A,Bb,C,D。(D,Eq,F,G)+(G,A,Bb,C,D)。
**:(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)+(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)/(C,Bb,A,G,F;チャハールガーフ on F)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(Eb,D,C,Bb;アジャム on Bb),(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)
**:生き生きとして大衆的な雰囲気のマカーム。
**:最初の3音がD,Eq,Fでマカーム・サバーと同じである事に注意。マカーム・バヤーティーにおけるFの音の強調はそれと関係する?(曲によってはチャハールガーフ(F,G,A,Bb)のジンスが感じられないこともある)
**:マカーム・サバーに移調(あるいは転調、転マカーム、というか・・・)しやすい事もある?
**バヤーティー・スルターニー - 「[[スルタン]]のバヤーティー」
**バヤーティー・シュリ Bayati Shuri・・・カルジュガル参照。
**ウシャーク・トゥルキー(ウシャーク・チュルク)
**:単にウシャークとも。「[[トルコ]]のウシャーク」の意。
**:「音階」風に説明すると、D,E,F,G,Aq,Bb,C,D。(D,E,F,G;ニハーワンド)+(G,Aq,Bb,C;バヤーティー)+D。このマカームでは、第3音(F)のチューニングが通常より低くなされる。
**ハウジー
**フサイニー(ホセイニー)
**:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,G,A,Bq,C,D。(D,Eq,F,G,A)+(A,Bq,C,D)。
**:(D,Eq,F,G,A;バヤーティー on D)+(A,Bq,C,D;バヤーティー on A)+(D,Eq,F,G,A;バヤーティー on D)+(A,Bb,C;クルディー on A)/(C,Bb,A;クルディー on A)+(A,G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(A,G,F,Eq,D;バヤーティー on D)
**:サフィー・アッディーンの論文にも現れる。人名フサインより。
**カルジュガル(カールジュガール、カール・ジハルとも)
**:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,G,Ab,B,C,D。(D,Eq,F,G)+(G,Ab,B,C,D)。
**:バヤーティー・シュリBayati Shuriとも言う
**:(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)+(D,Eb,F,G;クルディー on D),(C,D,Eb,F,G;ニハーワンド on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャズィー on G)/(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eb,D,C;ニハーワンド on C)+(C,B,Ab,G,F;ナグリーズ on F),(D,C,Bb,A,G;ニハーワンド on G),(D,C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)
**イスファハーン(地名[[イスファハーン]]から) - サフィー・アッディーンの論文にも現れる。
**イスファハーナク
**ニシャーブーラク
**アジャム
**アジャム・ムラッサ
**ナワー
**アルディバール
**シパール
**クツク
**スルターニー・イラーク
**ヒサール
**:「音階」風に説明すると、D,E,F,G#,A,Bb,C#,D。(D,E,F,G#,A)+(A,Bb,C#,D)。ジンス構成はナウアシュル+ヒジャーズィー。出発音をDに変えたマカーム・ナウアシュルの移調形。
**ジールグーラー
**ムハッヤル(ムハイイェル)
**ターヒル
**グルイザール
**バヤーティー・アラバーン
**カルダーン
**ヒジャーズィー(ヒジャーズとも)
**:「音階」風に説明すると、D,Eb,F#,G,A,Bb,C,D。(D,Eb,F#,G)+(G,A,Bb,C,D)。
**:(D,Eb,F#,G;ヒジャーズィー on D)+(G,A,Bb,C,D;ブーサーリク on G),(G,A,Bq,C,D;ラースト on G)+(D,E,F,G;ブーサーリク on D)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,E,D;ブサーリク on D),(G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D)+(D,C#,Bb,A;ヒジャーズィー on A)+(A,G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D)
**:サフィー・アッディーンの論文にも現れる。地名[[ヒジャーズ]]に由来
**シャーフ・ナーズ(シャーナーズ)
**:「音階」風に説明すると、D,Eb,F#,G,A,Bb,C#,D。(D,Eb,F#,G,A)+(A,Bb,C#,D)。ジンス構成はヒジャーズ+ヒジャーズ。出発音をDに変えたマカーム・ヒジャーズカールの移調形。
**サバー
**:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,Gb,A,Bb,C,DあるいはD,Eq,F,Gb,A,Bb,C,DbあるいはD,Eq,F,Gb,A,Bb,C,Db,E,F。
**:最初の3音がD,Eq,Fでマカーム・バヤーティーと同じである事に注意。マカーム・バヤーティーの仲間に分類されることもある。
**:(D,Eq,F,Gb,A;サバー),(D,Eq,F;バヤーティー)+(F,Gb,A,Bb,C;ヒジャーズィー)+(C,Db,E,F;ヒジャーズィー)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ)/(C,Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(A,Gb,F,Eq,D;サバー)+(D,C,Bb;アジャム),(Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(F,Eq,D;バヤーティー),(A,Gb,F,Eq,D;サバー)
**:夜の果ての倦怠感の雰囲気。
**:マカーム・バヤーティーに移調(あるいは転調、転マカーム?)しやすい事もある、とも。
**サバー・ナジュディー
**サバー・ザンザマー
**ナージ・ニヤーズ
**ラクブ
**:(D,Eq,F,Gq,A;ラクブ),(D,Eb,F,G;クルディー)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ),(Bb,C,D;アジャム)+(D,Eq,F,G;バヤーティー)/(G,F,Eb,D;クルディー)+(D,C,Bq,A,G;ラースト),(D,C,Bb;アジャム),(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,Eq,D;バヤーティー)
**:このマカームはラクブのジンス(D,Eq,F,Gq,A)に特徴がある。
**クルディー(クルド)
**:「音階」風に説明すると、D,Eb,F,G,A,Bb,C,D。(D,Eb,F,G)+(G,A,Bb,C,D)。
**:(D,Eb,F,G;クルディー on D),(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(G,A,Bb,C,D;ブーサーリク on G),(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)+(D,Eb,F,G;クルディー on D)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eb,D;クルディー on D)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eb,D;クルディー on D)
***アジャム・クルディー
***ムハッヤル・クルディー(ムハイイェル・クルディー)
***ヒサール・クルディー
***サバー・クルディー
***シャーフナーズ・クルディー
***ナワー・クルディー
**アサル・クルド(クルディリ・ナワ・アサルとも)
**:「音階」風に説明すると、D,Eb,F,G#,A,Bb,C#,D。(D,Eb,F,G#,A;アサル・クルド)+(A,Bb,C#,D;ヒジャーズィー)。最初の3音が部分的なクルドの[[テトラコルド]]であることに注目。さらに第2音が半音低い以外は、マカーム・ナウアシュルに似ている。
**ブーサーリク
**ザウキ・タラブ
*シガーフ
**シガーフ(スィカー、セガー、シカ)
**:「音階」風に説明すると、Eq,F,G,A,Bq,C,D,Eq。(Eq,F,G)+(G,A,Bq,C)+(C,D,Eq)。
**:(Eq,F,G;シガーフ on Eq)+(G,A,Bq,C;ラースト on G),(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(C,D,Eq,F,G;ラースト on C),(Eq,F,G;スィガーフ on Eq)+(G,A,Bq,C;ラースト on G)/(C,Bq,A,G;ラースト on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq;スィガーフ on Eq)
**:ペルシャ語で「第3度」の意。深遠、神秘的な雰囲気。
**:Dの音がD#になることがよくある
**フッザーム(ヒザーム)
**:「音階」風に説明すると、Eq,F,G,Ab,B,C,D,Eq。(Eq,F,G)+(G,Ab,B,C)+(C,D,Eq)。
**:(Eq,F,G;スィガーフ on Eq)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G),(F,G,Ab,B,C;ナグリーズ on F)+(C,D,Eb,F#,G;ナグリーズ on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)/(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C),(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq;スィガーフ on Eq)
**:Dの音がD#になることがよくある
**:これをマカーム・スィカーフと言うこともある。
**ムスタアール
**:「音階」風に説明すると、Eq,F#,G,A,Bb,C,D,Eq。(Eq,F#,G)+(G,A,Bb,C)+(C,D,Eq)。
**:(Eq,F#,G;ムスタアール on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)+(C,D,Eq,F#,G;ザーウィール on C),(Eq,F#,G;ムスタアール on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F#,Eq;ムスタアール on Eq),(G,F#,Eq,D,C;ザーウィール on C)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G),(C,Bq,A,G;ラースト on G)+(G,F#,Eq;ムスタアール on Eq)
**マヤー
**:「音階」風に説明すると、Eq,F,G,A,Bb,C,D,Eq。(Eq,F,G)+(G,A,Bb,C)+(C,D,Eq)。
**:(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)+(C,D,Eq,F,G;ラースト on C)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C),(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq;スィカーフ on Eq)
**ラマル
**:(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)+(G,Aq,Bb,C,D;バヤーティー on G),(Bb,C,D;アジャム on Bb),(A,Bq,C,Db,E;サバー on A)+(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)/(G,F,Eq;スィカーフ on Eq),(G,F,Eq,D#,C;サーズカール on C)+(C,Bb,A;クルディー on A),(C,Bb,Aq,G;バヤーティー on G)+(G,F,Eq;スィカーフ on Eq)
**::スィカーフ(Eq,F,G)+バヤーティー(G,Aq,Bb,C)+サバー(A,Bq,C,Db)
**ワジュハ・アルディバール
**:(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G),(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)+(C,D,Eb,F,G;ブーサーリク on C),(D,Eb,F,G;クルディー on D)/(G,F,Eb,D;クルディー on D),(G,F,Eb,D,C;ブーサーリク on C)+(C,B,Ab,G,F;ナグリーズ on F),(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq;スィカーフ on Eq)
*ブーサーリク
**ニシャーブール
**スィアール
**:「音階」風に説明すると、(E,F#,G)+(G,A,Bq,C)+(C,D,E)?
**:(E,F#,G;ニハーワンド),(Eq,F,G;スィカーフ)+(G,A,Bq,C,D;ラースト),(G,A,Bb,C;ブーサーリク),(A,Bq,C,D;バヤーティー),(Bq,C,D;スィカーフ)+(E,F#,G;ニハーワンド)/(G,F,Eq;スィカーフ),(G,F,Eq,D#,C;サーズカール)+(C,Bq,A;バヤーティー),(C,Bq,A,G;ラースト)+(G,F#,E;ニハーワンド)
*チャハールガーフ - ペルシャ語で「第4度」の意。
**シャーワル
**チャハールカーフ
**:「音階」風に説明すると、F,G,A,Bb,C,D,Eq,F/F,Eb,D,C,Bb,A,G,F
**チャハールガーフ・アラビー - 「[[アラブ]]のチャハールガーフ」
**:(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)+(C,D,E,F;チャハールガーフ),(Bb,C,D;アジャム),(A,Bq,C,D;バヤーティー)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)/(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(F,E,D,C;チャハールガーフ),(D,C,Bb;アジャム)+(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)
**チャハルガーフ・トゥルキー - 「[[トルコ]]のチャハールガーフ」。トルコ古典音楽のチャールギャーフにあたる?
**:(F,Gb,A,Bb,C;ヒジャーズィー),(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ),(Bb,C,D;アジャム)+(C,D,Eq,F;ラースト)+(F,Gb,A,Bb;ヒジャーズィー)/(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(F,Eq,D,C;ラースト)+(D,C,Bb;アジャム),(C,Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)
**ナジュディー(地名[[ナジュド]]に由来)
**:(F,G,A,Bq,C;ナジュディー),(G,A,Bq,C;ラースト)+(C,D,Eq,F;ラースト)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)
=====イラク=====
======イラクの主要なマカーム8種======
1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する。「/」は上行形/下行形をしめす。
*ラースト Rāst・・・C,D,Eq,F,G,A,Bq,C/C,Bb,A,G,F,Eq,D,C
*バヤート Bayāt・・・D,Eq,F,G,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,G,F,Eq,D
*サバー Sabā・・・D,Eq,F,Gb,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,Gb,F,Eq,D
*セガーフ Segāh・・・Eq,F,G,Ab,B,C,D,Eq/Eq,D,C,B,Ab,G,F,Eq
*ヒジャーズ Hijāz・・・D,Eb,F#,G,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,G,F#,Eb,D
*ヒジャーズカール・クルド Hijāzkār Kurd・・・D,Eb,F,G,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,G,F,Eb,D
*ニハーワンド Nihāwand・・・C,D,Eb,F,G,Ab,Bb,C/C,Bb,Ab,G,F,Eb,D,C
*アジャム ‘Ajam・・・F,G,A,Bb,C,D,Eq,F/F,Eb,D,C,Bb,A,G,F
======イラクのマカーム======
*ラーミー Lāmī・・・(B,C,D,E)+(E,F,G,A)
======イラクのイラーキー・マカーム(バグダーディー・マカーム)======
イラクのバグダードで伝えられてきた声楽および小編成の器楽合奏(タフト(Takht)、ジャウクあるいはチャルギーなどとも呼ばれる)でよく用いられるマカーム。演奏の際の編成は独唱者(マカームチーあるいはカーリーと呼ばれる)、サントゥール、ジョウザ(胡弓のようなもの)、ドゥフ(タンバリンのようなもの)、ダラブッカなどからなる。
*ラースト
*バヤート
*スィガーフ
*ヒジャーズ・アッディーワーン
*サバー
*アジャム
*アシーラーン
*フセイニー(フサイニー)
別資料。<br>
{}で囲まれた音は終止音あるいは中心音をあらわす。qは1/4音低いことをあらわす。+は1/4音高いことをあらわす。
*ラースト
*:({C},D,Eq,F,G)+(G,A,Bb,C)
*バヤート
*:({D},Eq,F,G)+(G,A,Bb,C)
*スィガーフ
*:(C,D,{Eq})+({Eq},F,G)
*ヒジャーズ
*:({D},Eb,F#,{G})+({G},A,Bb,C)
*サバー
*:({D},Eq,F,Gb)
*アジャム
*:(F,G+,A,{Bb})+({Bb},C,D,Eb,F)
*クルド
*:(D,Eb,F,{G})+({G},Ab,Bb,C)
*ナハワンド
*:({C},D,Eb,F,G)+(G,Ab,Bb,C)
=====[[シリア]]=====
[[ダマスカス]]での[[アラブ音楽]]のマカームの基本的なもの<ref>ダマスカス音楽院で[[伝統音楽]]を教授しているA.Ailushによる</ref>。
*ラスト Rast
*:(C,D,Eq,F,G)+(G,A,Bq,C)
*バヤティ Bayati
*:(D,Eq,F,G)+(G,A,Bb,C,D)
*サバー Sabah
*:D,Eq,F,Gb,A,Bb,C,D
*シガ Siga
*:(Eq,F,G)+(G,A,Bq,C),C,D,Eq
*ヒジャーズカル・クルディ Hijazkar Kurdi
*:(C,Db,Eb,F)+(G,Ab,B,C)
*ヒジャーズ Hijaz
*:(D,Eb,F#,G)+(G,A,Bb,C,D)
*ナハワンド Nahawand
*:(C,D,Eb,D,F,G)+(G,Ab,Bb,C)
*ナクリーズ Nakriz
*:(C,D,Eb,F#,G)+(F#,G,A,Bb,C)
*アジャム・ウシャイラーン Ajam Ushairan
*:(Bb,C,D)+(D,Eb,F,G,A)+(G,A,Bb)
====マグリブのトゥブーウ====
単数形タブウ(もしくはタバア)、複数形トゥブーウ。サナーアート(複数形。単数形サヌア)とも言われる。
=====モロッコの26のトゥブーウ=====
*1
**ラマル・アルマーヤ
**フサイン(フシーン)
**インクイラーブ・アッラマル(インケラーブ・アッラマル)
**ハムダーン(アル・ハムダーン)
*2
**イスバハン(アル・イスバハーン。イスファハーン)
**ザワルカンド(ザウラカンド)
*3
**マーヤ(アル・マーヤ)
*4
**ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル)
*5
**アッイスティフラール(イステヘラール)
**イラーク・アルアラブ
*6
**ラスド(クナーウィー、アルラスドとも)
**ヒサール
**ジーダーン(ザイダーン)
**マズムーム
*7
**ガリーバ・アル・フサイン(ガリーバト・アル・フスィーン)
**ガリーバ・アル・ムハッラル(アッガリーバ・アル・ムハッララ)。
**シーカ(アル・スィーカ)
*8
**ヒジャーズ・アル・カビール(アル・ヒジャーズ・アル・カビール)
**ムジャンナブ・アッ・ダイル(ムジャンナブ・アッ・ディール)
**アル・マシュリキー・アッ・サギール(マシュレキー・アッサギール)
*9
**アル・ヒジャーズ・アル・マシュリキー(ヒジャーズ・アル・マシュレキー)
**マシュリキー(アル・マシュリキー、マシュレキー)
*10
**イラーク・アルアジャム
*11
**ウッシャーク(アル・ウッシャーク)
**ラマル・アッ・ダイル(ラマル・アッ・ディール)
**ダイル(アッ・ディール)
=====アルジェリアの16のトゥブーウ=====
*ラマル・アルマーヤ
*ディール(ダイル)
*ムジャンバ
*フスィーン(フサイン)
*ラマル
*グリーブ
*ジーダーン
*ラスド
*マズムーン
*シーカ
*ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル)
*マーヤ
*イラーク
*ジャールカ
*ムッワール
*ガリーバト・アルフシーン(ガリーバ・アル・フサイン)
=====チュニジア=====
======チュニジアの13のトゥブーウ======
*ディール(ダイル)
*イラーク
*シーカ
*フスィーン(フサイン)
*ラスド
*ラマル・アルマーヤ
*ナワー
*アバアイン
*ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル)
*ラマル
*アスバハーン
*マズムーム
*マーヤ
======チュニジアの29のトゥブーウ======
*ディール(ダイル)
*ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル)
*イステヘラール・アッディール(イスティフラール・アッダイル)
*ムジャンナブ・アッディール
*ラハーウィー
*ラスド
*(フスィーン)ニーリーズ
*フスィーン・アジャム(フサイン・アジャム)
*フスィーン・アスル(フサイン・アスル)
*フスィーン・サバー(フサイン・サバー)
*フスィーン・ウシャイラーン(フサイン・ウシャイラーン)
*ヒジャーズィー
*ウッシャーク
*サバー
*イラーク
*ムハイール・イラーク
*ラマル
*アスブアイン
*ナワー
*イラーク・アスル
*ラマル・マーヤ
*イスバハーン(イスファハーンのこと)
*スィーカ
*マーヤ
*アジャム
*アジャム・ウシャイラーン
*マズムーム
*アルザーウィー
*ムハイール・スィーカ
=====リビアの13のトゥブーウ=====
*ラスド
*ディール
*ラスド・アッディール
*マーヤ
*イラーク
*シーカ
*ラマル・アルマーヤ
*フシーン
*ナワー
*イスバハーン
*アスバアイン
*ラマル
*マズムーム・ムハッイル
====サフィー・アッディーンによる12のマカーマートと6つのアーヴァーザート====
[[サフィー・アッディーン]]は、主要なものをマカーマート、派生的なものをアーヴァーザートと呼んだ。
*12のマカーマート
**ウッシャーク
**ナヴァー
**ブーサリーク
**ラースト
**イラーク
**イスファハーン
**ズィルアーフカンド
**ブズルク
**ザンクーラ
**ラハーウィー
**フサイニー
**ヒジャーズィー
*6つのアーヴァーザート
**カワーシュト
**カルダーニーヤー
**ナウルーズ
**マーヤ
**サルマク
**シャーハナーズ
====ジャミーの「音楽論(第1部作曲論)」に記述されている12のマカーム====
*ウッシャーク
*ナヴァー
*ブサリーク
*ラースト
*フサイニー
*ヒジャーズ
*ラハヴィー
*ザングーラ
*イラーク
*イスファハーン
*ジラフカンド
*ブズルク
===トルコのマカーム(makam)===
[[ラテン文字]]による[[トルコ語]]の正書法ではマカームはmakamと表記する。複数形はアラビア語に基づくmakamatが用いられるが、トルコ語固有の複数形語尾を用いてmakamlarとも言う。
====トルコ古典音楽で用いられる音程====
*コマ(koma) - ファズラ(fazla)とも。9/8の音程比の[[全音]](約203.910[[セント (音楽)|セント]])を9等分した大きさの音程。約22.66セント。
*バキイェ(bakiye) - 4コンマの大きさ。約90.56セント。
*キュチュク・ミュジェンネプ(küçük mücennep) - 5コンマの大きさ。約113.20セント。
*ビュユク・ミュジェンネプ(büyük mücennep) - 8コンマの大きさ。約181.12セント。
*タニーニー(tanînî) - 9コンマの大きさ。約203.76セント。
*アルトゥク・イキリ(artık ikili) - 12コンマの大きさ。約271.68セント。
**このように、イラン音楽やインド音楽よりもはるかに小さな音程を用い、それを駆使するのがトルコ音楽である。西洋人や日本人のほとんどはこれらを音程とはみなせないが、訓練を受けた現地民は立派に使いこなしている。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!音程名<br>(''Aralığın adı'')
!コマの値<br>(''Koma olarak değeri'')
!シンボル<br>(''Simge'')
|-
|''koma'' あるいは ''fazla''||1|| F
|-
|''eksik bakiye''|| 3|| E
|-
|''bakiye''|| 4|| B
|-
|''kücük mücenneb''|| 5|| S
|-
|''büyük mücenneb''|| 8|| K
|-
|''tanîni''|| 9|| T
|-
|''artık ikili''|| 12 ~ 13|| A
|}
====テトラコルド(''dörtlüler'')とペンタコルド(''beşliler'')====
*チャールギャーフ(Çargâh) - 音程の間隔は、タニーニー、タニーニー、バキイェもしくはタニーニー、タニーニー、バキイェ、タニーニー。
*プーセリク(Puselik, Buselik) - 音程の間隔は、タニーニー、バキイェ、タニーニーもしくはタニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー。
*キュルディー(Kürdî) - 音程の間隔は、バキイェ、タニーニー、タニーニーもしくはバキイェ、タニーニー、タニーニー、タニーニー。
*ラースト(Rast) - 音程の間隔は、タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプもしくはタニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー。
*ウッシャーク(Uşşak) - 音程の間隔は、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニーもしくはビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、タニーニー。
**音程の間隔がビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、タニーニーの時ヒュセイニー(Hüseynî)とも言う。
*ヒジャーズ(Hicaz) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプもしくはキュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー。
*サバー(Sabâ) - 音程の間隔は、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ。
*セギャーフ(Segâh) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、タニーニー。
*ヒュッザーム(Hüzzam) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー・キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ。
*ニクリーズ(Nikriz) - 音程の間隔は、タニーニー、キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ。
*ペンチギャーフ(Pençgâh) - 音程の間隔は、タニーニー、タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ。
*フェラフナーク(Ferahnâk) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー・タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ。
====基本マカーム(単純マカーム)13種====
*チャールギャーフ(Çargâh) - チャールギャーフ(タニーニー、タニーニー、バキイェ、タニーニー)+チャールギャーフ(タニーニー、タニーニー、バキイェ)。
*:チャールギャーフは、ペルシア語のチャールガーフにあたる。「四度目」の意。
*プーセリク(Puselik, Buselik) - プーセリク(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)
*キュルディー(Kürdî) - キュルディー(バキイェ、タニーニー、タニーニー)+プーセリク(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー)。
*ラースト(Rast) - ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ)
*ウッシャーク(Uşşak) - ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+プーセリク(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー)
*:ウッシャークのジンスで使われるビュユク・ミュゼンネプは理論では8コンマだが、実際の演奏では7コンマになる。
*ヒュセイニー(Hüseynî) - ヒュセイニー(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、タニーニー)+ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)
*ネヴァー(Neva) - ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)
*ヒジャーズ(Hicaz) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)+ラスト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)
*ヒュマーユーン(Hümayun) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)+プーセリク(タニーニー、バキーイェ、タニーニー、タニーニー)
*ウッザール(Uzzal) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)
*ゼンギュレ(Zengüle) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)
*:ゼングーレ(Zengûle)とも言う。
*カルジュアル(Karcığar) - ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)
*スーズィナーク(Suzinak) - ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)
====その他のよく使われるマカーム====
*セギャーフ(Segâh)
*アジェム・アシーラーン(Acem Aşiran)
*アジェム・キュルディー(Acem Kürdî)複合マカーム?最初(B,C,D,E)+(E,F#,G,A,B)の音階で、次(G,A,B,C,D)+(D,E,F#,G)に移り変わって、最後にまた(B,C,D,E)+(E,F#,G,A,B)に戻る?
*ベヤーティー(Beyâtî)(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー)
*マーフル(Mâhur)
*スルターニー・イェギャーフ(Sultanî Yegâh)
*ニハーヴェンド(Nihavend)
*キュルディリ・ヒジャーズキャール(Kürdili Hicazkâr)
*スーズィディル(Suzidil)
*ヒジャーズキャール(Hicazkâr)
*フェラーフフェザー(Ferahfeza)
*イェギャーフ(Yegâh)
*シェヴクフェザー(Şevkfeza)
*ウラーク(Irak)
*エヴィチ(Eviç)
*ベステニギャール(Bestenigâr)
*フェラフナーク(Ferahnâk)
*ウスファハーン(Isfahân)
*シェフナーズ(Şehnaz)
*サバー(Sabâ)
*ヒュッザーム(Hüzzam)
*ムハッイェル(Muhayyer)
*ヒジャーズ・ヒュマユーン(Hicaz Hümayun)
*ACEM
*ACEM-BÛSELİK
*ARAZBÂR
*ARAZBÂR-BÛSELİK
*AŞK-EFZÂ
*BESTE-ISFAHÂN
*BEYÂTÎ-ARABÂN
*BEYÂTÎ-ARABÂN-BÛSELİK
*BEYÂTÎ-BÛSELİK
*BÛSELİK
*BÛSELİK-AŞÎRÂN
*BÜZÜRK
*ÇÂRGÂH
*DİLKEŞ-HÂVERÂN
*DİLKEŞÎDE
*DÜGÂH
*EVC-ÂRÂ
*EVC-BÛSELİK
*EVC-HÛZÎ
*EVC-MÂYE
*FERAHNÂK-AŞÎRÂN
*GERDÂNİYYE
*GERDÂNİYYE-BÛSELİK
*GERDÂNİYYE-KÜRDÎ
*GÜL'İZÂR
*HİCÂZ
*HİCÂZ-AŞÎRÂN
*HİCÂZ-BÛSELİK
*HİCÂZ-ZEMZEME
*HİCÂZ ZÎRGÛLE
*HİSÂR
*HİSÂR-BÛSELİK
*HÛZÎ
*HÜSEYNÎ
*HÜSEYNÎ-AŞÎRÂN
*HÜSEYNÎ-ZEMZEME
*HÜZZÂM-I CEDÎD
*KARCIĞAR
*KÜRDÎ
*MÂHÛR-BÛSELİK
*MÂYE
*MUHAYYER-BÛSELİK
*MUHAYYERKÜRDÎ
*MUHAYYER-SÜNBÜLE
*MÜSTEÂR
*NEVÂ
*NEVÂ-BÛSELİK
*NEVÂ-KÜRDÎ
*NEV-ESER
*NİHÂVEND-İ KEBÎR
*NİKRÎZ
*NİŞÂBÛR
*NİŞÂBÛREK
*NÜHÜFT
*PENCGÂH
*PESENDÎDE
*RÂHATÜLERVÂH
*RAST
*RAST-I CEDÎD
*REHÂVÎ
*SABÂ-BÛSELİK
*SABÂ-ZEMZEME
*SÂZ-KÂR - (13コマの大きさの音程、4コマの大きさの音程(バキイェ)、5コマの大きさの音程(キュチュク・ミュジェンネプ)、9コマの大きさの音程(タニーニー))+ラスト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ)?
*SEGÂH-ARABÂN
*SİPİHR
*SÛZ-İ DİL-ÂRÂ
*SÛZ-NÂK
*ŞEDD-İ ARABÂN
*ŞEHNÂZ-BÛSELİK
*ŞEVK-İ TARAB
*TÂHİR
*TÂHİR-BÛSELİK
*UŞŞAK
*UZZÂL
*ZÂVİL
*ZÎRGÛLE'Lİ SÛZ-NÂK
====トルコ軍楽([[メフテル]])で使われるマカーム====
*アジェム(Acem)
*ウッザール(Uzzal)
*ウッシャーク(Uşşak)
*ウラーク(Irak)
*エヴィチ(Eviç)
*ギュリザール(Gülizâr)
*キュルディー(Kürdî)
*サバー(Sabâ)
*スュンビュレ(Sünbüle)
*セギャーフ(Segâh) - 具体的な曲例:シュレイマン王子の行進曲
*ターヒル(Tahir)
*チャールギャーフ(Çargâh)
*ニクリーズ(Nikriz)
*ネヴァー(Neva)
*ヒュセイニー(Hüseynî) - 具体的な曲例:古い陸軍行進曲「ジェッディン・デデン(祖先も祖父も)」
*プーセリク(Puselik, Buselik)
*ベヤーティー(Beyâtî)
*ペンチギャーフ(Pençgâh)
*マーフル(Mâhur) - 具体的な曲例:軍隊行進曲(別名帝国戦のマーチ)
*ムハッイェル(Muhayyer)
*ラースト(Rast) - 具体的な曲例:陸軍行進曲(イスマイル・ハック・ベイによる)、テクビル行進曲、シヴァストポル行進曲
*ラハトゥルエルヴァーフ(Rahatülervah)
*レハーヴィー(Rehavî)
===イランの[[ダストガー|ダストガーフ]](Dastgāh دستگاه)、アーヴァーズ(Āvāz)===
イラン伝統音楽の旋法。7種類の[[ダストガー]]と5種類の派生、アーヴァーズの全12種類がある。ダストは「手」、ガーはDogāhやSegāhのgāhと同じ。旋律型グーシェgushehを持つ。
====ダストガーフ(Dastgāh)====
*シュール(Shūr)
*:E(主音;シャーヘド),F+,G,A,B,C,D,E
*ナヴァー(Navā, ナヴァーはペルシア語で「旋律」を意味する。アラブのナワー、トルコのネヴァーの語源)
*:D,Eb(終止音;イースト;不安定に途切れる),F,G(主音;シャーヘド),A,Bb,C,D
*セガーフ(Segāh, セガーフはペルシア語で「第三番目」の意。アラブのスィカーフ、トルコのセギャーフの語源)
*:C,D,Eb(主音;シャーヘド),F,G,Ab,Bb(変化音;モテガイル音,狭い範囲で高低に動かし得る音),C
*チャハールガーフ(Chahārgāh, チャハールガーフはペルシア語で「第四番目」の意。トルコのチャハールギャーフの語源)
*:C(主音;シャーヘド),Db,E,F,G,Ab,B,C
*ラーストパンジュガーフ(Rāstpanjgāh, ラーストはペルシア語で「真なるもの」、パンジュガーフは「第五番目」を意味する。「第5度上のラースト」)
*:F(主音;シャーヘド),G,A,Bb,C,D,Eb,F
*マーフル(Māhur)
*:C(主音;シャーヘド),D,E,F,G,A(変化音,Abに変化する場合もある;モテガイル音,狭い範囲で高低に動かし得る音),B,C
*:ダストガーフ・マーフールに含まれる重要なグーシェ(gūshe)として次の名前が挙げられる。マーフル(もしくはダルアーマド Dar-āmad、高み)、ダード(Dād, 叫び)、ホスロヴァーニー(Khosrovāni, ホスロー王の旋律)、ヘサール(Hesār, 砦)、デルケシュ(Delkesh, 魅惑)、シェキャステ(Shekaste, 傷心)、アラーク(‘arāq, イラク)、ラーキ(Rāk, [[ラーガ]])、サーキーナーメ(Sāqīnāme, 酔人の書)、スーフィーナーメ Sūfīnāme, 神秘主義者の書)
*ホマーユーン(Homāyūn)
*:G(主音),Ab,B,C,D,Eb,F,G
====アーヴァーズ āvāz====
*バヤーテ・エスファハーン(Bayāt-e Esfahān, [[エスファハーン]]のバヤート) - ホマーユーンから派生したものと考えられている。
*:C(主音;シャーヘド),D,Eb,F,G,Ab(終止音;イースト),B,C
*バヤーテ・トルク(Bayāt-e tork, トルコ人のバヤート) - シュールから派生したものと考えられている。
*:E,F+,G(主音;シャーヘド),A,B,C,D(終止音;イースト),E
*:音がEより下に行くことがない
*アブー・アター(Abu ‘atā) - シュールから派生したものと考えられている。
*:E,F+(終止音;イースト),G,A(主音;シャーヘド),B,C,D,E
*:あるいはE,F+(出発音アーガーズ&終止音イースト),G,A(主音シャーヘド),B,C,D,Eとも。
*アフシャーリー(Afshāri, [[アフシャール部族]]) - シュールから派生したものと考えられている。
*:E,F+(終止音;イースト),G,A(主音;シャーヘド),Bb(変化音;モテガイル音),C,D,E
*ダシュティー(Dashti, 草原) - シュールから派生したものと考えられている。
*:E(終止音;イースト),F+,G(出発音;アーガーズ),A,B(あるいはBb,主音シャーヘド&変化音モテガイル),C,D,E
===アゼルバイジャンのムガーム Mugām===
アゼルバイジャンのムガームについては情報が少ないが、アゼルバイジャンの作曲家で、ショスタコーヴィチの弟子[[カラ・カラーエフ]](バレエ音楽「雷の道」が有名)によればムガームとは「アゼルバイジャン特有の旋法の名称、またはその旋法を基とし、組曲と狂詩曲を結合したような構成を持つ楽曲形式の名称」と定義される<ref>[http://www2.tky.3web.ne.jp/~veter/um/composer/Amirov.htm ヴェーテルのページ"Proshchad Vetra">Fikret Amirov バレエ音楽「アラビアン・ナイト」]による</ref>。
7つの主要なムガームがあるとされ、
*マフル Makhour?
*セギャハ Seguiakh?(「3番目」の意)
*ラスト Rast
*バヤティ・シラズ Baiati-Chiraz?(「シラズの歌」の意)
*他今のところ不明
===ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカーム===
[[シャシュマカーム]](Shashmaqom、6つのマカームを意味する)は長大な一連の曲の集まり、組曲である。ラーストならラーストという「音階・旋法」で統一された声楽曲や器楽曲の集まり、そしてその体系である。音楽体系とも言い得る。<br>
シャシュマカームには以下の6つの「旋法」があり、6つの長大な「曲群」にあたる。
*ブズルク(Buzruk) - 「大旋法」の意。
*ラースト(Rost) - 「真の旋法」の意。
*ナヴァー(Navo) - 「旋律的旋法」の意。
*ドゥガーフ(Dugokh) - 「第2旋法」の意。
*セガーフ(Segokh) - 「第3旋法」の意。
*イラーク(Irok) - 「イラクの旋法」の意。
[[17世紀]]ころに[[ブハラ・ハン国|ブハラ]]や[[ヒヴァ・ハン国|ホラズム]]の宮廷音楽家によってかたちづくられていった。タスニフ(tasnif, テスニフとも)、タルジェ(tardzhe)、ガルドゥン(gardun)、ムハマス(mukhammas)、サキル(sakil)の5つの楽章からなるムシキロト(mushkilot, 「困難」の意、器楽部分)とサラフバル(sarakhbar)、タルキン(talkin)、ナスル(nasr)、ウファル(ufar)の4楽章からなるナスル(nasr, 「散文」の意、声楽部分)から構成されている。
===ウイグルのムカム音楽===
[[ウイグル族]]のムカム<ref>この節は「[http://yui-wsh.kir.jp/ Yuighur.com【ゆいぐる どっとこむ】]」および、「{{Cite web|和書|url=http://www.hannan-u.ac.jp/learn/lecture/2003/1.html |title=生涯学習公開講座 シルクロード少数民族文化紀行―悠久の伝承文学探訪記(抄録) |publisher=[[阪南大学]] |accessdate=2003-10-13 |archiveurl=https://archive.is/20031013224603/http://www.hannan-u.ac.jp/learn/lecture/2003/1.html |archivedate=2003年10月13日 |deadlinkdate=2017年9月 }}(国際コミュニケーション学部教授[[高橋庸一郎]]、2003年6月21日(土)14:00~16:00)」を参考にした。</ref>(マカム、マカームとも)は長大な一連の曲の集まり。楽曲体系。音楽様式。「新疆のウイグルの大曲(ムカム)芸術」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている<ref>[http://www.accu.or.jp/masterpiece/10apa_jp.htm 外部リンク]</ref>。
[[10世紀]]から[[13世紀]]にかけて、[[突厥]]族の間でその基礎が固められ、[[14世紀]]になって[[天山山脈]]の南北の地方に広がり、[[15世紀]]には「ムカム」の語も、ムカムとしての構造も一応整ったといわれている。
ムカムを構造的にも不動のものとして確立させたのは、[[16世紀]]、[[ヤルカンド汗国]]の2代目の君主アブドヴァシデの妃、[[アマニサハン|アマンニサ]]<ref>アマンニサハンとも。[[ヤルカンド]]に[[墓]]がある</ref>が時の優れたムカムの演唱家、カディールと協力して、民間に散逸散在していたムカムのチョンラクマン(チョン・ナグマとも)、ダスタン、マイシュラップ(マシュラップとも)を整理し体系化したことに因るものとされている。(楽師伝 - ウイグルの古典音楽家の詳細について書いてある)
ウイグル族の住むそれぞれの都市に伝承されている。
*カシュガル・ムカム - 別名12ムカムとも。全部演奏するには1日かかるといわれている。
*ハミ・ムカム
*タラン・ムカム
*イリ・ムカム
ヤルカンドの近くにある小さな村(バスで大体1時間半程)、メリケット(メルキット)には12ムカムの古い形、12ムカムより歴史の古い?ドラン・ムカム Dollan Muqamが残っているという。
;12ムカムの名前
アラブのマカームなどと、同じ様な名前が散見される。
*ラック RAK
*チャビアット CHABBIAT
*ムシャーヴラク MUSAVIRAK
*チャリガー CHARIGAH
*:ペルシア語(チャハールガーフ;「第4番目」の意)が語源?。イランのダストガーフにチャハールガーフ、東アラブ古典音楽のマカームにジハールカーフ、アルジェリアのトゥブーウにジャールカ、トルコのマカームにチャールギャーフ、イランのダストガーフにチャハールガーフがある。
*パンジガ PANJIGAH
*:ペルシャ語が語源?トルコのマカームにペンチギャーフ、イランのダストガーフにラーストパンジュガーフ、東アラブ古典音楽のマカームにパンジュガーフがある。
*オザール OZ'HAL
*:トルコのマカームにウッザールがある。
*アジェム AJAM
*:「ペルシャ人」の意。アラビア語が語源?チュニジアのトゥブーウにアジャム、トルコのマカームにアジェム、イラクのマカームにアジャムがある。
*ウッシャーク OSHSHAQ
*:トルコのマカームにウッシャーク、モロッコのトゥブーウにウッシャーク(アル・ウッシャーク)、チュニジアのトゥブーウにウッシャーク、サフィー・アッディーンの論文にマカーマート・ウッシャークがある。
*バヤット BAYAT
*:アラブのバヤーティーにあたる?トルコのマカームにベヤーティー、イランのアーヴァーズにバヤーテ・エスファハーン、バヤーテ・トルク、イラクのマカームにバヤートがある。
*ナーヴァ NAWA
*:「旋律」。ペルシャ語が語源。イランのダストガーフにナヴァー、チュニジアのトゥブーウにナワー、リビアのトゥブーウにナワー、サフィー・アッディーンの論文にマカーマート・ナヴァー、ジャミーの「音楽論(第1部作曲論)」に記述されているマカームにナヴァー、トルコのマカームにネヴァー、ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカームにナヴァー(Navo)、東アラブ古典音楽のマカームにナワーがある。
*セガー SIGAH
*:「第3番目」。ペルシャ語が語源。イランのダストガーフにセガーフ、モロッコのトゥブーウにシーカ(アル・スィーカ)、アルジェリアのトゥブーウにシーカ、チュニジアのトゥブーウにシーカ(スィーカ)、リビアのトゥブーウにシーカ、トルコのマカームにセギャーフ、ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカームにセガーフ(Segokh)、東アラブ古典音楽のマカームにシガーフ(スィカー、セガー、シカ)、イラクのマカームにスィガーフ、セガーフがある。
*イラーク IRAQ
*:「[[イラク]]」の意。モロッコのトゥブーウにイラーク・アルアラブ、イラーク・アルアジャム、アルジェリアのトゥブーウにイラーク、チュニジアのトゥブーウにイラーク、リビアのトゥブーウにイラーク、サフィー・アッディーンの論文にマカーマート・イラーク、ジャミーの「音楽論(第1部作曲論)」に記述されているマカームにイラーク、トルコのマカームにウラーク、ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカームにイラーク(Irok)がある。
;ムカムの構造
ムカムとは楽曲の体系。曲の集合体。1ムカム分演奏すると大体2時間はかかる。12ムカム全てとなると、丸々1日はかかる。12ムカム全曲を聴ける機会は今日はまずない。大概はあるムカムのごく一部を断片的に演奏したりする場合がほとんどで、それも合奏ではなく、単独楽器で演奏されたり、多少演奏されやすく手が加えられた簡易版を演奏する場合も多い。経験をつんだウイグルの音楽家でも、1ムカム分を覚えるのは至難の業で、12ムカムの内1ムカムだけでも覚えて演奏出来れば賞賛に値するとされる。東アラブ古典音楽における「ワスラ」、トルコにおける「ファスル」といった組曲形式(あるいは組歌形式;いくつもの声楽・器楽曲を集めたもの。能でいう「番組」)にあたる?また西アラブ古典音楽における「ヌーバ」、「マアルーフ」、ウズベキスタンやタジキスタンにおける「シャシュマコーム;6つのマコーム」も曲の集合体というので、ムカムに似ているかもしれない。イランにおける「ラディーフ」も同様のもの?
*チョン・ナグマ部 Chon Naghma
*:チョンは「大きな」という意味。ナグマは「楽曲」(アラビア語のナグマ;旋律の意;が語源?)。字句通り、かなり規模が大きく、中は細部に別れている。ムカムによっては、チョン・ナグマ部に含まれるヌスカがなかったり、ジュラがなかったりもする
**バス・ムカム Bas muqam
**:バス・ムカムは、ちょうど1つのムカムの序奏部に当たるところで、拍子がなく、浪々と語られる感じでうたわれる。この部分だけで延々何分もある。アラブのタクスィーム(マカームに基づいた器楽の[[即興演奏]])、ラヤーリー(マカームに基づいた声楽の即興演奏)にあたる?
**ヌスカ Nuska
**:ヌスカは、アラビア語が語源。ムカムによってはない場合もある。
**タイゼ Tazi
**:タイゼも、アラビア語が語源。
**サリクァ Saliqa
**ジュラ Jula
**:ムカムによってはない場合もある。
**セネム Senam
**タキット Takit
*ダスタン部分 Dastan
*:ダスタンは物語、叙事詩を意味する。([[中央アジア]]のトゥルクメニスタンには「[[デスタン]]」と呼ばれる物語の弾き語りがある<ref>演目例:デスタン「シャセネムとガリブ」、デスタン「キョル・オグルィ」</ref>。)
*:ダスタン部も、マシュラップ部と同様に第2ダスタンまでだけのムカムがあったり、第7ダスタンまであるものがあったり、と曲数は様々。
*:チャビアットムカムのダスタンは非常に長い時間を要するため、最近では第1ダスタンのみ演奏し終わらせることが多い。(本当は第2ダスタン、マシュラップ・・・と、曲が続いている)
**第1ダスタン
**第2ダスタン
**第3ダスタン
**・・・
*マシュラップ部 Mesrap
*:第2マシュラップまでだけのムカムがあったり、第7マシュラップまであるものがあったり、と曲数は様々。マシュラップはチョン・ナグマやダスタンよりも、歌詞が大衆的に書かれているせいなのか、ウイグルの祭りや収穫の時期などに、これ単独で演奏され、踊りの曲として使用される場合が多い。基本的にマシュラップは、第1マシュラップが8分の7拍子となっているものがほとんどで、第2、第3マシュラップとなるに連れ、2拍子系の拍子に変化していき、テンポも段々と速くなって行く。全てのマシュラップの最後には、最初の序奏バス・ムカームを連想させる無拍子の旋律が奏され終了する。形式が明確なのも特徴。
**第1マシュラップ
**第2マシュラップ
**第3マシュラップ
**・・・
名前はチョンラクマン、ダスタン、マイシュラップとも。
===モーリタニアのムーア古典音楽で使われるブハール===
[[モーリタニア]]には、ブハール(複数形はブフール)と呼ばれる「旋法」のようなものが30以上存在する。
*カール Karr・・・楽しみ、喜びを表現
*ファーグ・・・勇気、力、誇りを表現(戦争)
*バイギ Baigi・・・憧憬、憂愁、悲嘆を表現
===インド音楽との関わり===
[[ヒンドゥースターニー音楽]]([[北インド]]古典音楽)には、ペルシャやアラビアから来たといわれる[[ラーガ]]、ヘセイニ(Heseini)、ヘジャス(Hejaz)、カフィ(Kafi)、バハル(Bahar)等がある<ref>[http://www2m.biglobe.ne.jp/~m-souda/mysouda/music/pelican/volume1/nonwest/india/india4.html#muslim The Pelican History of Music>3. インド>北インドと南インドの伝統、ムスリムの影響]より</ref>。
*フセーニー・カーンナラー<ref>[[B.C.デーヴァ]]「インド音楽序説」([[中川博志]]訳)269頁</ref>(Huseni Kanhara) - 上行CDEb,FGA,BbC/下降CABbG,FG,EbFD,C
*ヒジャーズ<ref>B.C.デーヴァ「インド音楽序説」(中川博志訳)269頁</ref>(Hijaz) - 上行CDEFGAbBbC/下降CBbAbG,F,EFG,DbC
====西北インド、カシミール地方のマカーム====
[[カシミール]]のスーフィー音楽ではマカームという言葉が使われる。ただしマカーム・トーディーなどと言い実態はマカームの伝統より[[北インド]]の[[ラーガ]]の伝統に近い。(トーディーは北インド、ヒンドゥースターニー音楽でよく使われるラーガの一つ。)いずれにせよこれらはインドの異端の響きである。
==脚注==
{{Reflist}}
==参考資料==
*『音楽大事典』(平凡社)
**[[柘植元一]]「西アジア」
**[[森田稔]]「中央アジア」
**柘植元一「マカーム」
**柘植元一「アフリカ(マグレブ)」
*『民族音楽大集成』(50枚組レコード集、キングレコード、1981年3月)
**[[小泉文夫]]「解説書」74~77ページ
*『ラルース世界音楽事典』(福武書店)
**J.-C.C.「マカーム」
**J.-C.C.「アラブ」
**J.-C.C.「イラク」
*[[サラーフ・アルマハディ]]『アラブ音楽-構造・歴史・楽器学・古典39譜傍付』([[松田嘉子訳]]、PASTORALE、1998年)
*[[ポール・コラール]]、[[ユルゲン・エルスナー]]『人間と音楽の歴史 北アフリカ』(音楽之友社)
*[[粟倉宏子]]「[[シリア正教会]]:聖餐式の音組織」・・・「諸民族の音-小泉文夫先生追悼論文集」所収、661ページ、編集委員会 編、音楽之友社、昭和61年第1刷
*[[B.C.デーヴァ]]「インド音楽序説」([[中川博志]]訳)東方出版、1994年
*Rodolphe d'Erlanger, ''La musique arabe'' 第5巻、第6巻
*Mahmoud Guettat, ''La musique classique du Maghreb'', Sindbad, 1980.
*Cameron Powers: Arabic Musical Scales – Basic Maqam Notation. GL, Boulders CO, ISBN 0-9745882-4-5.
*Kurt u. Ursula Reinhard: Musik der Türkei. Bd. 1: Die Kunstmusik. Heinrichshofen, Wilhelmshaven 1984.
*Marius Schneider: Raga – Maqam – Nomos. In: Die Musik in Geschichte und Gegenwart. Band 10. Kassel 1962, S. 1864–1868.
*el-Mahdi, Salah (1972). La musique arabe : structures, historique, organologie. Paris, France: Alphonse Leduc, Editions Musicales. ISBN 2-85689-029-6.
*Lagrange, Frédéric (1996). Musiques d'Égypte. Cité de la musique / Actes Sud. ISBN 2-7427-0711-5.
*Marcus, Scott Lloyd (1989). Arab music theory in the modern period (Ph.D. dissertation). Los Angeles: University of California. OCLC 20767535.
*Racy, Ali Jihad (2003). Making Music in the Arab World: The Culture and Artistry of Ṭarab. Publisher: Cambridge ; New York: Cambridge University Press. ISBN 0-521-30414-8.
*Maalouf, Shireen (2002). History of Arabic music theory. Lebanon: Université Saint-Esprit de Kaslik. OCLC 52037253.
==外部リンク==
*[http://www.maqamworld.com/index.html Arabic Maqam World]{{en icon}}
*[http://www.neyzen.com/ NEY - Neyzen.com]{{tr icon}}
*[http://www.arab-music.com/ arab-music.com]
*[http://www.pizmonim.com// Sephardic Pizmonim Project] - [[日本語]]で読むことができる。
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まかあむ}}
[[Category:中近東の音楽]]
[[category:民族音楽]]
[[Category:旋法]]
[[Category:無形文化遺産]]
[[Category:中国の無形文化遺産]]
|
2003-08-23T05:34:55Z
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2023-10-31T00:32:06Z
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13,815 |
カーマ
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カーマ
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'''カーマ'''
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== Kahma ==
* [[DCMカーマ|(DCM)カーマ]] - [[中部地方]]を地盤としていた[[DCMホールディングス]]傘下の[[ホームセンター]]チェーン。2021年3月[[DCM株式会社]]に吸収合併、2022年4月から2年かけて屋号をDCMに統一予定。
== Kama ==
* [[カーマ (ヒンドゥー教)]] - (サンスクリット語/パーリ語: Kāma)[[サンスクリット]]で「[[愛]]」「愛欲」を意味する。
** インド人の人生の三大目的(トリヴァルガ。{{仮リンク|アルタ (ヒンドゥー教)|en|Artha|label=アルタ}}「富」、カーマ「愛」、[[法 (仏教)|ダルマ]]「法」の三つ)の一。
** [[カーマデーヴァ]] - [[ヒンドゥー教]]における愛の神。
* [[カーマ (短剣)]] - ({{lang-ru|Кама}}) カフカース([[コーカサス]])地方を発祥とする両刃の[[短剣]]。[[キンジャール]]も参照。
== Karma ==
{{see also|カルマ (曖昧さ回避)}}
*[[カーマ (ウィンガーのアルバム)]] - [[ウィンガー (バンド)|ウィンガー]]のアルバム。
*{{仮リンク|カーマ (キャメロットのアルバム)|en|Karma (Kamelot album)}} - [[キャメロット (バンド)|キャメロット]]のアルバム。
*{{仮リンク|カーマ (ファラオ・サンダースのアルバム)|en|Karma (Pharoah Sanders album)}} - [[ファラオ・サンダース]]のアルバム。
*{{仮リンク|カーマ (リック・スプリングフィールドのアルバム)|en|Karma (Rick Springfield album)}} - [[リック・スプリングフィールド]]のアルバム。
* [[Karma|カルマ]] - [[日本]]の[[ボーカル]][[二人組|デュオ]]。
== Kerma ==
* [[カーマ (物理学)]] - "'''k'''inetic '''e'''nergy '''r'''eleased in '''ma'''terials"(物質に放出される[[運動エネルギー]])から採られた頭字語で、非電荷[[放射線]](中性子・光子)により物質中に生じた全ての[[荷電粒子]]の最初の[[運動エネルギー]]の総和を、その物質の質量で割ったもので、[[グレイ (単位)|グレイ]](Gy)という単位で表される。
== Khama ==
* [[セレツェ・カーマ]] - 初代[[ボツワナの大統領一覧|ボツワナ共和国大統領]]。
* [[イアン・カーマ]] - 第4代ボツワナ共和国大統領。セレツェの息子。
== その他 ==
* 楔(英字表記:Kāma, Karma) - 漫画『[[BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-]]』の登場人物の[[手]]に現れる[[紋様]]。
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ペンシルベニア州
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ペンシルベニア州(ペンシルベニアしゅう、英: Commonwealth of Pennsylvania、 [ˌpɛnsɪlˈveɪnjə] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国北東部、また大西洋岸中部に分類される州。五大湖地方に含められることもある。「要石の州」(英: Keystone State)とも呼ばれる。日本語ではペンシルヴェニア州、ペンシルバニア州、あるいはペンシルヴァニア州と表記される場合もある。以前はペンシルバニアという表記が多かったのに対し、2020年アメリカ合衆国大統領選挙からは選挙の要となる激戦州の一つとしてペンシルベニアの表記が多数登場している。
ペンシルベニア州は、州(“State”)の代わりにコモンウェルス(“Commonwealth”)を用いる4つの州の1つ。ただし、日本語ではどちらも「州」と訳されている。なお、地質時代の区分の一つであるペンシルベニア紀(石炭紀の一部)は、ペンシルベニア州にちなんで付けられた名前である。名前の後半「シルベニア」はラテン語: silva(「森」の意)から取ったものであり、実際に自然が豊富である。
アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では全米第33位、人口では全米第5位であり、人口密度が第9位と高い。南東はデラウェア州、南はメリーランド州、南西はウェストバージニア州、西はオハイオ州、北西はエリー湖とカナダのオンタリオ州、北はニューヨーク州、東はニュージャージー州と接している。アパラチア山脈が州の中央を斜めに走り、東西に長い州でもある。
ヨーロッパ人として最初にペンシルベニアに入ってきたのはスウェーデンやオランダの入植者であったが、ペンシルベニアと命名したのは、イングランド王チャールズ2世である。クエーカーでイギリス人のウィリアム・ペンが「シルベニア」と名付けたものをウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン卿に敬意を表して改称した。ペンシルベニア州には、自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィア市と、重要な河港を持つピッツバーグ市の、2つの主要都市がある。州都はハリスバーグ市である。
ペンシルベニア州は、アメリカ合衆国において最も歴史のある州の一つである。フィラデルフィアはアメリカ合衆国発祥の地と呼ばれることもある。フィラデルフィアは、独立宣言や合衆国憲法が立案された場所でもある。ゲティスバーグは南北戦争の激戦地であり、今も多数の大砲が保存されている古戦場跡として有名である。ブリンマーはフィラデルフィア郊外の閑静な住宅街として全米でもよく知られる。ポコノ山脈やデラウェア・ウォーター峡谷は保養地として有名である。
ペンシルベニア州となった地域にヨーロッパ人が入植する以前、この地域にはデラウェア族、サスケハノック族、イロコイ族、エリー族、ショーニー族などのインディアンが住んでいた。オランダとイギリスがデラウェア川の両岸をアメリカにおけるそれぞれの植民地の一部と主張していた。オランダが最初に領有し、ペンシルベニアの歴史に大きく影響した。
1631年6月3日、オランダは現在のデラウェア州ルイスの地にツヴァーネンデール植民地を造り、デルマーバ半島への入植を始めた。1638年、スウェーデンが現在のウィルミントンの地に造ったフォートクリスチーナを中心とするニュースウェーデン植民地を設立することで、領有問題が加熱された。ニュースウェーデンはデラウェア川下流域(現在のデラウェア州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州に跨る)の領有を主張し支配したが、植民者の数は少なかった。
1664年3月12日、イングランド王チャールズ2世がヨーク公ジェームズに、プリマスのバージニア会社が当初持っていた勅許地全てに他の土地を含めた土地の勅許を与えた。この勅許は、現在のペンシルベニア州の一部を含むオランダ領ニューネーデルラントの主張する領有権と競合した。
1664年6月24日、ヨーク公は現在のニュージャージー州を含む広大な領土の一部を、ジョン・バークレーとジョージ・カートレットに売却し、領主植民地とした。その土地はこのときもイギリス領だったが、デラウェア川の西岸にあるニューネーデルラントの一部と重複した。同年8月29日にイギリスによるニューネーデルラント征服が始まり、ニューヨーク港に浮かぶイギリス艦船の大砲を面前にして、ニューアムステルダムが降伏を強いられた。この征服が継続し、同年10月には現在のデラウェア州ニューキャッスルにあったカシミア砦を占領することで、完成した。
1667年7月21日、イギリス、フランスおよびオランダの間に結ばれたブレダの和約により、イギリスの征服が確認されたが、一時的な反動も起きた。
1672年9月12日、第三次英蘭戦争の一部として、オランダはニューヨーク植民地とニューアムステルダムを再征服し、現在のデラウェア州とペンシルベニア州に当初の3郡となる郡政府を設立した。後にペンシルベニアに移管された部分がアップランドだった。1674年2月9日、第三次英蘭戦争を終わらせるウェストミンスター条約が結ばれ、政治的な状況を「戦前に元あった状態」に戻された。イギリスはオランダの郡をオランダの名称で保持した。同年6月11日までに、ニューヨーク植民地がアップランドを含め外郭の植民地に対する支配を再度主張したが、その名称は1674年11月11日までにイギリス名に変えられていった。同年11月12日、アップランドが分離し、現在のペンシルベニア州とデラウェア州の州境が概略生みだされた。
1681年2月28日、チャールズ2世がウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン提督から借りていた16,000ポンド(2008年のインフレ換算で210万ポンド)の借金のかたにウィリアム・ペンに土地の勅許を与えた。これは史上でも最大級の特定個人に対する勅許だった。その土地はペンシルベニアと呼ばれた。ウィリアム・ペン自身はニューウェールズあるいはシルベニアと呼ぶことを望んだが、この名称変更で人々がペン自身に因んで名付けたと考えることを怖れ当惑した。しかしチャールズ2世は名称を変えようとはしなかった。ペンは郡政委員会と信教の自由という2つの革新的な性格を持つ政府を樹立し、これは新世界の多くの国で真似されることになった。
1681年3月4日、ペンシルベニアで植民地政府を作り、ペンシルベニア州とデラウェア州の州境のペンシルベニア側にあったアップランドはチェスター郡と改名された。クエーカー教徒の指導者であるウィリアム・ペンは、デラウェア族の指導者タマニーと平和条約を結び、クエーカー教徒とインディアンの長い友好的関係の時代が始まった。クエーカー教徒とは、他の部族との条約も結ばれた。ウィリアム・ペンが結んだ条約は侵犯されることが無かった。
1730年から通貨法に伴いイギリスの議会によって停止された1764年まで、ペンシルベニア植民地は金や銀の保有量不足に対応して独自の通貨を持っていた。この紙幣は「コロニアル・スクリップ」と呼ばれていた。この植民地では「信用証券」を発行し、その法定通貨としての位置づけ故に、金貨や銀貨と同等だった。政府が発行しており、銀行が発行したものではなかったので、利子が付かず、政府支出の支払に使われたので、大衆の税金だった。政府がその裁量で発行し、インフレを招かないよう大量に発行しなかったので雇用と繁栄を助長した。ベンジャミン・フランクリンがこの通貨創設に関与し、その有用性は決して侵されないと言っており、アダム・スミスの「慎重な承認」にも合致していた。
1765年の印紙法会議の後、フィラデルフィアの代議員ジョン・ディキンソンは「権利と抗議の宣言」を書いた。この会議は、マサチューセッツ植民地会議の要請で13植民地が集まった最初の会議だったが、実際には9植民地しか代議員を送らなかった。ディキンソンは続いて、「ペンシルベニアの農民からイギリス領植民地の住人に宛てた手紙」を書き、1767年12月2日から1768年2月15日のペンシルベニア・クロニクルに掲載された。
1774年にフィラデルフィアで開催された第一次大陸会議には、12植民地が代表を派遣した。1775年5月、やはりフィラデルフィアで開催された第二次大陸会議では、アメリカ独立宣言を起草し、署名を行った。フィラデルフィア市がイギリス軍に占領されると、大陸会議は1777年9月27日はランカスターの郡庁舎で開催され、その後ヨークに移った。そこでは13植民地が1つの国になるという連合規約が書き上げられた。後にはアメリカ合衆国憲法が起草され、フィラデルフィアは新生アメリカの誕生地に再度選ばれた。
ペンシルベニア州は1787年12月12日にアメリカ合衆国憲法を批准し、そのことで第2の州になった。デラウェア州の批准から遅れること5日だった。
カーライルのディキンソン・カレッジは1773年に設立され、国内初のカレッジとなった。このカレッジはパリ条約が批准された5日後の1783年9月9日に批准された。ベンジャミン・ラッシュが設立し、ジョン・ディキンソンに因んで名付けた。
ペンシルベニア州議会は半世紀の間フィラデルフィア地域の様々な場所で開催されたが、インディペンデンスホールで定期的に開催されるようになり、63年間続いた。しかしもっと中央に近い場所で開催する必要性が出てきた。例えば1763年のパクストンボーイズ虐殺がそれに気付く機会になった。1799年、州議会はランカスター郡庁舎に移動し、最後は1812年にハリスバーグに移転した。
1821年12月までは昔のドーフィン郡庁舎で州議会が開催されていたが、このとき連邦様式のヒルズキャピトル(建設者でランカスターの建築家スティーブン・ヒルズに因む命名)が州政府の本拠のために取って置かれた4エーカー (16,000 m) の岡の上に建設された。この土地はヨークシャー生まれで、1705年にはサスケハナ川東岸に交易基地を設立し、1733年には渡し船を運航したジョン・ハリス・シニアの息子で先見の明ある事業家が確保していた。ハリスバーグはこのハリスに因む命名である。1897年2月2日、猛吹雪の日にヒルズキャピトルは焼失した。煙道に欠陥があったためと考えられている。
新しい州会議事堂が建設されるまで、州議会はステート通りのグレイス・メソジスト教会で開催された。「不正があった」とされる建築家選定競技会の後、シカゴの建築家ヘンリー・アイブス・コブが新しい議事堂の設計と建設にあたった。しかし議会にはその建設に充てる金がなく、おおまかに仕上げられたいくらか実用的な建物が完成した(コブ・キャピトル)。議会はこの建物の使用を拒んだ。1901年には政治と大衆の間に義憤が起こり、ペンシルベニア州の建築家に限った2回目の競技会が行われた。現在のペンシルベニア州会議事堂を設計するためにフィラデルフィアのジョセフ・ミラー・ハストンが選ばれ、コブの建物を壮大な公共建築に取り込んで完成させ、1907年に開所された。
新しい州会議事堂は激賞を得た。そのドームは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂とアメリカ合衆国議会議事堂からヒントを得ていた。セオドア・ルーズベルト大統領は「国内で最も美しい州会議事堂」と呼び、その開所式では「これまで見た中でも最大に威厳のある建物」と言った。1989年、「ニューヨーク・タイムズ」は「偉大で時には畏敬の念を感じるが、動いている建物であり、市民が立ち寄ることができ、...日々の生活の実感と繋がる建物」と褒めた。
ペンシルベニア州には国内森林地域の9%がある。1923年、カルビン・クーリッジ大統領が1911年のウィークス法の下に、州北西部のエルク、フォレスト、マッキーン、ウォーレン各郡に跨るアリゲイニー国立の森を創設し、アレゲニー川流域の木材生産と水域保護を目指した。アリゲイニー国立の森は州内唯一の国有林である。
フランクリン郡出身のジェームズ・ブキャナンは唯一の独身大統領であり、ペンシルベニア州出身としても唯一の大統領である。南北戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いは、州内ゲティスバーグの近くで起こった。推計で35万人のペンシルベニア州民が北軍に従軍し、その中には8,600人のアフリカ系アメリカ人志願民兵もいた。
ペンシルベニア州では初めて事業的に成功した油井もあった。1859年、タイタスビル近くで、エドウィン・L・ドレイクが油井を掘り当て、国内最初の石油ブームをもたらした。
ペンシルベニア州は北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステートと呼ばれている。北側及び北東側はニューヨーク州に隣接しており、東側はデラウェア川をはさんでニュージャージー州に隣接している。南側はデラウェア州、メリーランド州、ウェストバージニア州に隣接しており、西側はオハイオ州、北西側はエリー湖に隣接している。アメリカ合衆国最初の13州の中で、ペンシルベニア州のみが大西洋に面していない。ペンシルベニア州を流れるデラウェア川、サスケハナ川、モノンガヒラ川、アレゲニー川、オハイオ川はアメリカ合衆国の主要な河川である。州都はハリスバーグ市である。
ペンシルベニア州は南北の長さ170 マイル (274 km)、東西の幅283 マイル (455 km) 程である。総面積は[[1 E11 m|46,055 平方マイル (119,282 km)]]、陸地面積は44,817 平方マイル (116,075 km)、水域面積は内陸部に 490 平方マイル (1,269 km)、エリー湖で 749 平方マイル (1,940 km) である。アメリカ合衆国内で33番目に大きな州となっている。エリー湖の湖岸線は 57マイル (82 km)、デラウェア川に沿った海岸線は 57マイル (92 km) ある。マウントデイビスが海抜3,213 フィート (979 m) で州内最高地点である。最低地点はデラウェア川の海面である。ペンシルベニア州は東部標準時内に位置している。
州境の中で、南のメリーランド州とはメイソン=ディクソン線(北緯39度43分)、デラウェア州とは12マイル円、東はデラウェア川、西のオハイオ州とは西経80度31分、北のニューヨーク州とは北緯42度線が基本となってほぼ長方形をしており、北の三角形がエリー湖まで伸びた地域が唯一飛び出した形になっている。
地理的に州内は5つの地域に区分される。すなわちアリゲイニー高原、リッジ・アンド・バレー地域、大西洋岸平原、ピードモント台地、およびエリー平原である。
ペンシルベニア州の多様な地形により気候も様々であるが、総体的に冬は寒く、夏は降水量が多い。州南東の隅を除いて大部分は湿潤大陸性気候(ケッペンの気候区分Dfa)にある。フィラデルフィア大都市圏のみが温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分Cfa)にあり、南のデラウェア州やメリーランド州に似ている。
内陸の山岳部に動くと冬は著しく寒くなり、曇りの日が増え、降雪量が多くなる。州の西部、特にエリー湖に近い地域は年間100インチ (250 cm) 以上の降雪があり、また降水量は州の全体で年間を通じて豊富である。春から夏、さらに秋にかけて異常気象が起こりやすく、竜巻は年間平均10個が発生している。
2020年国勢調査時点で、ペンシルベニア州の人口は13,002,700人で、2010年国勢調査からは2.4%増加した。
人口の中で74.5%はペンシルベニア州生まれ、18.4%は国内他州の生まれ、1.5%はプエルトリコ、アメリカ合衆国領島嶼部あるいは国外でアメリカ人の親から生まれた者、5.6%は外国生まれである。 1970年代から1980年代、ペンシルベニア州人口はゆるやかに増加した。1990年代から2000年代に入ると、他の州(移住民)から多くの人々がペンシルベニア州に移動し始めた。
年齢層で見ると5歳未満が5.9%、18歳未満が23.8%、65歳以上が15.6%となっている。2005年時点で高齢者人口比率は50州の中の第3位だった。女性が人口の51.7%を占めている。2005年時点で貧困線以下の住民比率は11.9%だった。
ペンシルベニア州の人口重心はペリー郡のダンキャノン・ボロとなっている。
2010年国勢調査に拠れば、ペンシルベニア州の人種による人口構成は次のようになっている。
2011年時点で1歳未満の州民の32.1%は少数民族の子供である。
州内のヒスパニック系人口は、2000年から2010年の間に82.6%増加し、国内でも最大級の増加率となっている。主にアメリカ合衆国領であるプエルトリコからの移民が多いが、他にもドミニカ共和国、メキシコなど中南米諸国からの移民や、ニューヨーク州やニュージャージー州など国内他州から、より安全で生活費が適度な環境を求めるヒスパニック系移住者が増えている。ヒスパニック系人口はアレンタウン、ランカスター、レディング、ヘイゼルトン、およびフィラデルフィア周辺で多く、その比率は20%以上となっている。2010年時点で、フィラデルフィア市から半径150マイル (240 km) 以内に85%が、またフィラデルフィア市内に約20%が住んでいる推計されている。
アジア系移民も約60%増加しており、特にインド系、ベトナム系、中国系の移民が多い。またニューヨーク州からフィラデルフィア市に移住するアジア系住民も多い。アジア系人口の絶対数で、フィラデルフィアは国内最大級の都市になっている。アフリカ系アメリカ人人口は13%成長した。白人は0.7%減少したが、この傾向は反転しつつある。
外国生まれの構成では、アジア系36.0%、ヨーロッパ系35.9%、ラテンアメリカ系30.6%、アフリカ系5%、北アメリカ系3.1%、オセアニア系0.4%となっている。
2006年から2008年の調査で、ペンシルベニア州で申告された祖先による構成比は、以下の通りだった。
ドイツ系祖先のペンシルベニア州民は、フィラデルフィア以外のこの州の多くの地域に住んでいる。ペンシルベニア州北東部はニューヨーク州境付近にイギリス系祖先の住民が暮らしており、スクラントン地域内に多くのポーランド系アメリカ人が住んでいる。フィラデルフィアは黒人の大多数が暮らしていて、少数の黒人住民がピッツバーグ及びハリスバーグに住んでいる。また、近代文明的生活を行わないアーミッシュと呼ばれるドイツ・スイス系の人々が住んでいる。
ペンシルベニア・ダッチと呼ばれる人々と言語がある。この「ダッチ」はオランダ人ではなく「ドイツ人」あるいは「チュートン」を意味している。ドイツ人はドイツ語で「ドイッツェ」であり、これが英語で「ダッチ」に変わったと見なされている。ペンシルベニアドイツ語は、西中部ドイツ語方言を受け継いでいる。アーミッシュやメノナイトの社会では第一言語として話されているが、幾つかの言葉が英語化した以外、日常語として絶滅に近くなっている。
ペンシルベニア州の州の住民の宗教宗派別構成比は次のようになっている。
当初の植民地の中で、ロードアイランドとペンシルベニアのみが信教の自由を謳っており、その結果今日まで宗教的な多様性が続いている。
2000年時点で、州民の約69%は何らかの宗教組織に属していると推計された。ペンシルベニア州立大学の宗教データ・アーカイブ協会に拠れば、58%が115の宗教会派に属していた。ペンシルベニア州にはアーミッシュが多いが、オハイオ州ホームズ郡に世界最大のアーミッシュ人口がいる。ペンシルベニア植民地の設立時にはクエーカー教徒が多く活躍したが、現在では少数派となっている。
2012年ギャラップ調査では、州民の40%は大変信仰心篤く、28%は中庸であり、32%は無宗教であるとなっていた。
デラウェア族、チェロキー族、イロコイ族、ハンニアソント族、サスケハンナ族、ウェンローロノン族など、10を超えるインディアン部族がかつてこの州に先住していたが、19世紀までにすべて西側の他州に強制移住させられた。残るインディアンは「絶滅した」とみなされ、部族単位では存在しないことになっている。
ペンシルベニア州は、1879年に「インディアンを殺し、人間を助ける」(野蛮人の心を殺し、善良なキリスト教徒として救済する)の標語のもと、インディアンの児童を強制的に収容し、民族浄化の方針に沿って言語も文化も奪って白人に同化させる「インディアン寄宿学校」の第一号「カーライル・インディアン工業学校」が全米で初めて開校された地である。
≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族と団体≫
ペンシルベニア州は近年、カジノ・ギャンブルを合法化させた州であり、現在9つのカジノが営業され、今後も増える傾向にある。しかし、この州のインディアンが運営する「インディアン・カジノ」は一軒もない。
≪ペンシルベニア州のインディアン・カジノと経営部族≫
州内の自治体:
ペンシルベニア州はアルファベット順にアダムズ郡からヨーク郡まで67の郡から成り立っている。アレゲニー郡(ピッツバーグがある)、フィラデルフィア郡(フィラデルフィアがある)などである。フィラデルフィア郡は1854年にフィラデルフィア市と統合されている。郡の中は、市、ボロ、タウンシップという、総数2,562の自治体に区分される。
州内には56の市があり、人口によって第1級、第2級、第3級に区分されている。フィラデルフィア市が唯一の第1級市であり、2020年国勢調査時点での人口は160万人を超えている。ピッツバーグ市(人口30万人強)が第2級、スクラントン市(人口7.6万人、ただし最盛期の1930年には14.3万人の人口を抱えていた)が第2級Aの市である。
人口で第3位のアレンタウン市(人口12.5万人)から、人口僅か840人のパーカー市までが第3級市である。第1級と第2級の市は市長が強い「市長・市政委員会」方式の政府を採り、第3級市は「市政委員会・マネジャー」方式の「弱い市長」を選んでいる。
主要都市:
ボロは概して市より小さく、市は法人化されているが、ボロは市として法人化される前の形態である。州内に958のボロがあり、その全てが「弱い首長」の政府形態を採っている。
タウンシップが三つ目の自治体形態であり、第1級と第2級に区分される。州内に第1級93と第2級1,454のタウンシップがある。第2級の場合、人口密度が300人/平方マイル (120 /km) を超え、住民投票で支持された場合に第1級になることができる。
ブルームズバーグのみが1870年に町として法人化されており、州内唯一の町である。1975年、アレゲニー郡のマッカンドレス・タウンシップが自治憲章の下に「マッカンドレス町」となったが、法的には現在も第1級タウンシップのままである。
ペンシルベニア州は州になってから5代の憲法を持ってきた。1776年、1790年、1838年、1874年、および1968年に制定されたものである。それ以前の植民地時代には1世紀にわたって「政府の枠組み」で統治され、1682年、1683年、1696年、1701年の版があった。
州都はハリスバーグである。州議会はハリスバーグにある州会議事堂で開催される。
1992年からの大統領選挙では、ペンシルベニア州は民主党候補を支持している。1992年と1996年は、ビル・クリントンが大差で勝利、2000年のアル・ゴアはやや僅差で勝利している。2004年はジョン・ケリーが現職のジョージ・W・ブッシュを接戦の末に制した。2008年には、バラク・オバマがジョン・マケインを大差で降している。
しかし、2016年は共和党候補のドナルド・トランプが民主党候補のヒラリー・クリントンを接戦の末破っており、24年ぶりに共和党候補が勝利した。
2020年には、民主党候補のジョー・バイデンが共和党候補のドナルド・トランプを僅差で破り、選挙人20人を獲得。これによりバイデンが当選に必要な270人の選挙人を確保したため、ペンシルベニア州が大統領選挙の行く末を決めることとなった。
現在の知事は、民主党のジョシュ・シャピロである。選挙で選ばれる他の行政官は、副知事、検事総長、監査総監、州財務官である。
ペンシルベニア州は1790年憲法で制定した両院制議会を採っている。ウィリアム・ペンが採用した当初の議会は一院制だった。州議会には定数50人の上院と定数203人の下院がある。2022年に行われた州議会議員選挙の結果、共和党が上院、民主党が下院の多数派となっている。
ペンシルベニア州は60の司法区に分かれており、その大半には地区判事がおり、重犯罪と軽犯罪、小さな刑事事件と民事事件の第一審を裁く。大半の刑事と民事の事件は一般訴訟裁判所が裁き、一般訴訟裁判所は地区裁判官と地方機関決定事項に対する控訴裁判所ともなる。上級裁判所は一般訴訟裁判所からの全ての控訴を審問する。電話盗聴捜査については令状を査問する第一審でもある。コモンウェルス裁判所は特定州機関の最終命令にたいする控訴、および一般訴訟裁判所から指定された事件に限って審問を行う。ペンシルベニア州最高裁判所は最終控訴審である。州内の裁判官は全て選挙で選ばれ首席判事は経験年数で決められる。
ペンシルベニア州は国内で10番目に税の負担が重い。州民が払う税の総額は年平均で837億米ドルであり、一人当たりでは6,640米ドルである。州民は税総額の76%を負担している。多くの州政治家は州外からの税収を増やそうと務めている。たとえば、天然ガスの掘削に課税していなかったので、これに対する課税などである。州間高速道路の有料化も考えられている。特に州間高速道路80号線は州外からの通勤者が多く利用し、維持費用が嵩んでいる。 消費税は歳入の39%を挙げている。個人所得税が34%、自動車税が約12%、タバコとアルコール飲料の税が5%である。個人の所得税は、年金(給与)、利子、配当、事業などの純利益、処分資産の純利益、賃貸、ロイヤリティ、特許、著作権からの純収入、資産や信託資産からの収入、ギャンブルや宝くじの収入の8種類が課税対象である。
郡、自治体、教育学区は不動産に課税している。さらに幾つかの地方政体は個人収入に所得税を課している。一般に所得税の総額は収入の1%だが、自治憲章を持っている自治体は1%以上を課することも可能である。67郡のうち32郡は株式、債券などに個人資産税を課している。
上院議員には、共和党議員を選んできた歴史がある。2009年から2011年、上院議員が2人とも民主党という時期があったが、これは1947年以来のことだった。2010年には、共和党が上院の1議席を取り戻した。民主党のコンサルタント、ジェイムズ・カービルは、ペンシルベニア州のことを「東にフィラデルフィア、西にピッツバーグ市、その中間にアラバマ州」と皮肉を交えて語った。
アメリカ合衆国上院議員は、2023年時点で2人とも民主党である。
アメリカ合衆国下院議員は、17議席を割り当てられており、2023年時点では民主党9人、共和党8人である。
ペンシルベニア州の2010年総生産は5,700億米ドルであり、合衆国内で6番目だった。もし、ペンシルベニア州が独立した国であれば、この州の経済は第18位に相当する。2010年の一人当たりの収入は、合衆国内で29番目に位置する39,830米ドルだった。
都市製造業の中心は、州南東隅のフィラデルフィア市、南西隅のピッツバーグ市、北西隅のエリー市、北東隅のスクラントン、ウィルクスバリ両市、東中部のアレンタウン、ベスレヘム、イースト各市である。州域の大半は田園であり、この落差が州の政治や経済に影響している。フィラデルフィア市にはフォーチュン500に入っている会社が6社ある。キングオブプルシアなど郊外部にはさらに多くの会社がある。金融保険業では指導的存在である。
ピッツバーグ市にはフォーチュン500に入っている会社が8社ある、USスチール、PPGインダストリーズ、HJハインツなどである。州全体では50社がフォーチュン500に入っている。エリー市にはGEトランスポーテーション・システムがあり、国内最大の機関車製造会社である。
民間の最大雇用主はウォルマートであり、続いてペンシルベニア大学である。
2012年4月時点で州内失業率は7.4%だった。
農業生産品は乳製品、鳥肉、牛、苗床、キノコ、豚、及び干し草である。工業生産品は食品加工、化学製品、機械及び電気設備である。観光業は合衆国内で最も訪れた州の7番目に位置し、159億米ドルの収入となり、大変大きな産業である。カリフォルニア州、フロリダ州、ニューヨーク州、テキサス州、イリノイ州、及びネバダ州に続く。 最近、ニューヨーク州からペンシルベニア州に広がるMarcellus Shale地層に含まれる天然ガスの生産が活況を呈している。
ペンシルベニア州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。
国内で最初に認定された銀行は、1781年にフィラデルフィア市に設立されたバンク・オブ・ノースアメリカだった。この銀行は何度か合併を繰り返し、現在はウェルズ・ファーゴの一部となり、国内認定第1号の称号を使っている。
1963年国定銀行法の下で最初に認定された銀行もある。ピッツバーグ・セイビングス・アンド・トラスト社が認定を受け、ピッツバーグ第一国定銀行と改名した。この銀行は現在もPNCフィナンシャル・サービスとして存続しており、ピッツバーグ市を本拠にしている。PNCは州内最大の銀行であり、国内でも第6位である。
ペンシルベニア州の農業生産高は国内19位だが、マッシュルームでは第1位、リンゴでは第2位、クリスマスツリーと産卵鶏では第3位、苗と芝、牛乳、サイレージ用トウモロコシ、ブドウ(ジュース用を含む)、馬では第4位である。またワインの生産量では国内第8位である。
カジノが2004年に合法化された。州内に9か所のカジノがあり、建設中または計画中のものが3か所ある。競馬、スロットマシン、電子テーブルゲームが合法だが、テーブルゲームを合法化する議案が2009年秋に審議された。ポーカー、ルーレット、ブラックジャック、ダイスなどのテーブルゲームが2010年1月に議会で承認され1月7日に州知事の署名により法制化された。スポーツに係わる賭博は違法である。
エド・レンデル州知事は2009年にバーや民間クラブでのビデオ・ポーカー・マシンの合法化を検討した。これは推計で17,000台のマシンが運営されているからだった。この計画では、アルコール販売を許可された施設が5台までのマシンを置くことを認められるはずだった。すべてのマシンはカジノと同様に州のコンピュータ・システムに繋がれることになっていた。ギャンブルの売り上げは、勝者に支払った後の50%を州に税として支払い、残り50%は経営者に残ることになっている。
ペンシルベニア州映画制作税額控除が2004年に始まり、州内の映画産業発展を促している。
ペンシルベニア州交通省は州内121,770マイル (195,970 km) の道路の内、39,861マイル (64,150 km) を所有しており、その長さは国内第5位となっている。ペンシルベニア・ターンパイク体系は全長535マイル (861 km) あり、本線はオハイオ州からフィラデルフィア市やニュージャージー州に伸びている。ペンシルベニア・ターンパイク委員会が管轄している。もうひとつ東西に伸びる幹線道が州間高速道路80号線であり、州の北部をオハイオ州からニュージャージー州を繋ぎ、デラウェア・ウォーターギャップで終わっている。州間高速道路90号線はオハイオ州からニューヨーク州を繋ぎ、州内の最北西部エリー郡の比較的短区間のみが入っている。
南北方向の幹線道は州間高速道路79号線であり、エリー市に始まり、ピッツバーグ市を抜けてウェストバージニア州に入る。同81号線はニューヨーク州から入ってラッカワナ郡スクラントン市とハリスバーグ市を通り、メリーランド州に抜ける。同476号線はチェスター郡のデラウェア州境北7マイル (11 km) に始まり、132マイル (212 km) 走ってラッカワナ郡のクラークスサミットに至り、州間高速道路81号線に合流する。この道路は20マイル (32 km) の区間を除き、ペンシルベニア・ターンパイクの北延伸部であり、ペンシルベニア・ターンパイクの南側本線は公式には「退役兵記念ハイウェイ」と呼ばれるが、地元では「ブルールート」と呼ばれるのが普通である。
南東ペンシルベニア交通局 (SEPTA)は国内第6位の交通機関であり、フィラデルフィア大都市圏で通勤鉄道、通常の鉄道、ライトレール、バス体系を運行している。アレゲニー郡港湾公社(PATransit)は国内第25位の交通機関であり、ピッツバーグ市内と周辺のバス体系およびライトレールを運行している。
都市間旅客鉄道はアムトラックが運行し、高速運転が行われるキーストーン回廊には「キーストーン号」を走らせている。これはハリスバーグとフィラデルフィアの30番通り駅を繋ぎ、その後はニューヨーク市に向かう。また1日1往復運転の「ペンシルベニアン号」(Pennsylvanian)も同様にニューヨーク市からハリスバーグを走るが、ピッツバーグ市まで伸びている。これらの列車が通る路線はかつてのペンシルバニア鉄道の本線にあたり、アルトゥーナには著名な鉄道史跡である「ホースシューカーブ」がある。「キャピトル・リミテッド」はシカゴとワシントンD.C.を結び、途中でピッツバーグ市、コネルズビル市を通る。シカゴとニューヨーク市を結ぶのが「レイクショア・リミテッド」であり、エリー市を通っている。「キャピトル・リミテッド」も「レイクショア・リミテッド」も1日1往復運転である。州内で運行される短線貨物鉄道は67線あり、国内最大数である。
主要空港は7つある。フィラデルフィア国際空港 (PHL)、ピッツバーグ国際空港 (PIT)、リーハイバレー国際空港、ハリスバーグ国際空港、エリー国際空港、ユニバーシティパーク空港、ウィルクスバリ・スクラントン国際空港である。公共用途空港は全部で134ある。ピッツバーグ港は国内内陸港では第2位、全体でも第18位の港である。フィラデルフィア港は国内第24位である。エリー湖すなわち五大湖には唯一の港、エリー港がある。
アリゲイニー川閘門とダム第2号は、アメリカ陸軍工兵司令部が運営する国内255か所の閘門の中でも使用頻度が高いものである。このダムがピッツバーグ市中心街近くでアリゲイニー川の水を溜めている。
州内には500の公共教育学区、数多い私立学校、公立のカレッジと大学、また100以上の私立高等教育機関がある。
州法により州内に住む8歳から17歳の子供は学校への入学が義務づけられており、認証された高校を卒業すれば17歳より前でも義務は無くなる。2005年時点で18歳から24歳の州民の83.8%が高校を卒業している。25歳以上では86.7%が高校卒である。さらに25.7%は学士以上の取得のために進学している。標準試験の結果は常に良好である。2007年の8年生の試験では、数学で第14位、読みで第12位、書きで第10位だった。
1988年、ペンシルベニア州州議会は法第169を成立させ、義務教育の代わりに両親または保護者が子供の家庭内教育を行うことを認めた。この法では両親とその居住する教育学区の任務と責任を規定している。
ペンシルベニア州高等教育体系は14の州立大学を擁する公立大学体系である。コモンウェルス高等教育体系は、4つの州が係わる学校を組織する主体であり、これらの学校は州の予算をうける独立した機関である。さらに公的予算による15の2年制コミュニティ・カレッジと工業学校があり、ペンシルベニア州高等教育体系とは別に管理されている。これに加えて多くの私立2年制または4年制工業学校、カレッジ、大学がある。
カーネギーメロン大学、ペンシルベニア州立大学、ペンシルベニア大学、ピッツバーグ大学は、先端的研究大学のみが参加を認められるアメリカ大学協会のメンバーである。ペンシルベニア州立大学はランドグラント大学、シーグラント・カレッジ、スペースグラント・カレッジでもある。また、1834年にディッキンソン大学の法学部門として創設され、同学から独立した後、2000年にペンシルベニア州立大学と合併してその傘下に入ったディッキンソン法学校は、州内初、全米でも5番目に古い法学校である。フィラデルフィア市にあるペンシルベニア大学は1740年に創立した州内初の大学と見なされ、また国内初の医学校でもある。アイビー・リーグに入る大学ではペンシルベニア州で唯一、かつ最南端の大学である。ペンシルベニア美術アカデミーは国内初かつ最古の芸術学校である。フィラデルフィア薬科カレッジは現在フィラデルフィア科学大学に属しており、国内初の薬科学校だった。
USニューズ&ワールド・レポート誌の総合大学ランキングで全米トップ100に入るペンシルベニア州内の大学は以下の7校である。
また、同じくUSニューズ&ワールド・レポート誌のリベラル・アーツ・カレッジのランキングでは、ペンシルベニア州内の以下13校が全米トップ100に入っている。
州内に国内初の動物園であるフィラデルフィア動物園がある。他にも歴史の長いエリー動物園やピッツバーグ動物園 & PPG水族館があり、またリーハイバレー動物園やズーアメリカもある。ピッツバーグ市のカーネギー博物館、フィラデルフィア美術館などは国内有数の美術館である。スクラントンにあるハウディニ博物館は伝説的なマジシャンに特化していることで、世界でも唯一の博物館である。ピッツバーグ市にはナショナル・アビアリー(鳥類園)もある。
州内に121ある州立公園は入場無料である。
アミューズメントパークとしては、キャメルビーチ、コンノート・レイクパーク、ドーニーパーク & ワイルドウォーター・キングダム、ダッチワンダーランド、デルグロッソ・アミューズメントパーク、ハーシーパーク、アイドルワイルドパーク、ケニーウッド、ノーベルズ、レイクモントパーク、サンドキャッスル・ウォーターパーク、セサミプレース、グレートウルフ・ロッジ、ウォルダミアパークがある。エリー市にあるスプラッシュ・ラグーンは東海岸最大の屋内ウォーターパークである。
州内では多くの音楽祭も開催されている。ベスレヘムのミュージックフェストとニアフェスト、フィラデルフィア・フォーク祭、クリエーション・フェスティバル、グレートアレンタウン祭、パープルドアが著名である。
州内には100万人に近い免許狩猟者がいる。オジロシカ、ワタオウサギ、リス、シチメンチョウ、ライチョウなどが狩猟対象である。スポーツハンティングは州経済にも大きな影響を及ぼしている。センター・フォー・ルーラル・ペンシルベニアの報告では、狩猟、釣り、毛皮採取で96億米ドルを上げている。
主要記事:Pennsylvania sports
著作家シャロン・ハーンズ・シルバーマンはその著作『ママはヤンキーのように料理する』で、ペンシルベニア州を世界のスナック食品首都と呼んでいる。プレッツェルとポテトチップスの生産量では国内第1位である。スタージス・プレッツェル・ハウスがアメリカにプレッツェルを紹介し、アンダーソン・ベイカリー、インターコース・プレッツェル・ファクトリー、スナイダーズ・オブ・ハノーバーなどの会社が、生産高の多い会社である。1921年にハノーバーでポテトチップス生産を始めたユッツ・クオリティ・フーズ、同じく1921年にバーウィックでポテトチップス生産を始めたワイズ・スナック・フーズが、ポテトチップスの主要生産会社である。
アメリカ合衆国のチョコレート製造はハーシー市が中心である。マース、ゴディバ、ウィルバーなどがある。サウダートンのアッシャーズやダンモアのガートルード・ホークもある。他にもベスレヘムのジャストボーン、アルトゥーナのボイアーブラザーズなどがある。アンティ・アンズ・プレッツェルズはダウニングタウンの市場屋台で始まり、現在はランカスターに本社を置く会社になっている。ペンシルベニア・ダッチの伝統的な料理は、チキン・ポットパイ、ハム・ポットパイ、シュニッツ・アン・ネップ、ファスナハツ、スクラップル、プレッツェル、ボローニャ、チョウチョウ、シューフライ・パイである。チェンバーズバーグに本社を置くマーティンズ・フェイマス・パストリー・ショップはポテト・パンなど伝統的なペンシルベニア・ダッチ料理に特化している。国内最古のビール醸造社D・G・ユエンリング & サンは、1829年からポッツビルでビールを生産している。
フィラデルフィアでよく見られる地方料理は、チーズステーキ、ホージー、ソフトプレッツェル、イタリアン・ウォーターアイス、スクラップル、テイスティケイク、ストロンボリなどである。ピッツバーグでは、1876年から20世紀初期に、ヘンリー・ジョン・ハインツがトマトケチャップを改良した。ハインツのケチャップより規模は劣るが、ピッツバーグのプリマンティ・ブラザーズ・レストランはサンドウィッチ、ピエロギ、シティチキンで著名である。スクラントン郊外のオールドフォージには、ピザに特化したイタリア・レストランが多い。エリー市ではギリシャソースとスポンジキャンディが特徴のあるものである。元日にはザワークラウトと豚肉、マッシュルームがよく食される料理である。
2008年5月24日に、en:Hersheyparkで、97度の角度を持つジェットコースターFahrenheitがオープンした。
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"text": "ペンシルベニア州(ペンシルベニアしゅう、英: Commonwealth of Pennsylvania、 [ˌpɛnsɪlˈveɪnjə] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国北東部、また大西洋岸中部に分類される州。五大湖地方に含められることもある。「要石の州」(英: Keystone State)とも呼ばれる。日本語ではペンシルヴェニア州、ペンシルバニア州、あるいはペンシルヴァニア州と表記される場合もある。以前はペンシルバニアという表記が多かったのに対し、2020年アメリカ合衆国大統領選挙からは選挙の要となる激戦州の一つとしてペンシルベニアの表記が多数登場している。",
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"text": "ペンシルベニア州は、州(“State”)の代わりにコモンウェルス(“Commonwealth”)を用いる4つの州の1つ。ただし、日本語ではどちらも「州」と訳されている。なお、地質時代の区分の一つであるペンシルベニア紀(石炭紀の一部)は、ペンシルベニア州にちなんで付けられた名前である。名前の後半「シルベニア」はラテン語: silva(「森」の意)から取ったものであり、実際に自然が豊富である。",
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"text": "アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では全米第33位、人口では全米第5位であり、人口密度が第9位と高い。南東はデラウェア州、南はメリーランド州、南西はウェストバージニア州、西はオハイオ州、北西はエリー湖とカナダのオンタリオ州、北はニューヨーク州、東はニュージャージー州と接している。アパラチア山脈が州の中央を斜めに走り、東西に長い州でもある。",
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"text": "ヨーロッパ人として最初にペンシルベニアに入ってきたのはスウェーデンやオランダの入植者であったが、ペンシルベニアと命名したのは、イングランド王チャールズ2世である。クエーカーでイギリス人のウィリアム・ペンが「シルベニア」と名付けたものをウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン卿に敬意を表して改称した。ペンシルベニア州には、自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィア市と、重要な河港を持つピッツバーグ市の、2つの主要都市がある。州都はハリスバーグ市である。",
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"text": "ペンシルベニア州は、アメリカ合衆国において最も歴史のある州の一つである。フィラデルフィアはアメリカ合衆国発祥の地と呼ばれることもある。フィラデルフィアは、独立宣言や合衆国憲法が立案された場所でもある。ゲティスバーグは南北戦争の激戦地であり、今も多数の大砲が保存されている古戦場跡として有名である。ブリンマーはフィラデルフィア郊外の閑静な住宅街として全米でもよく知られる。ポコノ山脈やデラウェア・ウォーター峡谷は保養地として有名である。",
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"text": "ペンシルベニア州となった地域にヨーロッパ人が入植する以前、この地域にはデラウェア族、サスケハノック族、イロコイ族、エリー族、ショーニー族などのインディアンが住んでいた。オランダとイギリスがデラウェア川の両岸をアメリカにおけるそれぞれの植民地の一部と主張していた。オランダが最初に領有し、ペンシルベニアの歴史に大きく影響した。",
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"text": "1631年6月3日、オランダは現在のデラウェア州ルイスの地にツヴァーネンデール植民地を造り、デルマーバ半島への入植を始めた。1638年、スウェーデンが現在のウィルミントンの地に造ったフォートクリスチーナを中心とするニュースウェーデン植民地を設立することで、領有問題が加熱された。ニュースウェーデンはデラウェア川下流域(現在のデラウェア州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州に跨る)の領有を主張し支配したが、植民者の数は少なかった。",
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"text": "1664年3月12日、イングランド王チャールズ2世がヨーク公ジェームズに、プリマスのバージニア会社が当初持っていた勅許地全てに他の土地を含めた土地の勅許を与えた。この勅許は、現在のペンシルベニア州の一部を含むオランダ領ニューネーデルラントの主張する領有権と競合した。",
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"text": "1664年6月24日、ヨーク公は現在のニュージャージー州を含む広大な領土の一部を、ジョン・バークレーとジョージ・カートレットに売却し、領主植民地とした。その土地はこのときもイギリス領だったが、デラウェア川の西岸にあるニューネーデルラントの一部と重複した。同年8月29日にイギリスによるニューネーデルラント征服が始まり、ニューヨーク港に浮かぶイギリス艦船の大砲を面前にして、ニューアムステルダムが降伏を強いられた。この征服が継続し、同年10月には現在のデラウェア州ニューキャッスルにあったカシミア砦を占領することで、完成した。",
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"text": "1667年7月21日、イギリス、フランスおよびオランダの間に結ばれたブレダの和約により、イギリスの征服が確認されたが、一時的な反動も起きた。",
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"text": "1672年9月12日、第三次英蘭戦争の一部として、オランダはニューヨーク植民地とニューアムステルダムを再征服し、現在のデラウェア州とペンシルベニア州に当初の3郡となる郡政府を設立した。後にペンシルベニアに移管された部分がアップランドだった。1674年2月9日、第三次英蘭戦争を終わらせるウェストミンスター条約が結ばれ、政治的な状況を「戦前に元あった状態」に戻された。イギリスはオランダの郡をオランダの名称で保持した。同年6月11日までに、ニューヨーク植民地がアップランドを含め外郭の植民地に対する支配を再度主張したが、その名称は1674年11月11日までにイギリス名に変えられていった。同年11月12日、アップランドが分離し、現在のペンシルベニア州とデラウェア州の州境が概略生みだされた。",
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"text": "1681年2月28日、チャールズ2世がウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン提督から借りていた16,000ポンド(2008年のインフレ換算で210万ポンド)の借金のかたにウィリアム・ペンに土地の勅許を与えた。これは史上でも最大級の特定個人に対する勅許だった。その土地はペンシルベニアと呼ばれた。ウィリアム・ペン自身はニューウェールズあるいはシルベニアと呼ぶことを望んだが、この名称変更で人々がペン自身に因んで名付けたと考えることを怖れ当惑した。しかしチャールズ2世は名称を変えようとはしなかった。ペンは郡政委員会と信教の自由という2つの革新的な性格を持つ政府を樹立し、これは新世界の多くの国で真似されることになった。",
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"text": "1681年3月4日、ペンシルベニアで植民地政府を作り、ペンシルベニア州とデラウェア州の州境のペンシルベニア側にあったアップランドはチェスター郡と改名された。クエーカー教徒の指導者であるウィリアム・ペンは、デラウェア族の指導者タマニーと平和条約を結び、クエーカー教徒とインディアンの長い友好的関係の時代が始まった。クエーカー教徒とは、他の部族との条約も結ばれた。ウィリアム・ペンが結んだ条約は侵犯されることが無かった。",
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"text": "1730年から通貨法に伴いイギリスの議会によって停止された1764年まで、ペンシルベニア植民地は金や銀の保有量不足に対応して独自の通貨を持っていた。この紙幣は「コロニアル・スクリップ」と呼ばれていた。この植民地では「信用証券」を発行し、その法定通貨としての位置づけ故に、金貨や銀貨と同等だった。政府が発行しており、銀行が発行したものではなかったので、利子が付かず、政府支出の支払に使われたので、大衆の税金だった。政府がその裁量で発行し、インフレを招かないよう大量に発行しなかったので雇用と繁栄を助長した。ベンジャミン・フランクリンがこの通貨創設に関与し、その有用性は決して侵されないと言っており、アダム・スミスの「慎重な承認」にも合致していた。",
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"text": "1765年の印紙法会議の後、フィラデルフィアの代議員ジョン・ディキンソンは「権利と抗議の宣言」を書いた。この会議は、マサチューセッツ植民地会議の要請で13植民地が集まった最初の会議だったが、実際には9植民地しか代議員を送らなかった。ディキンソンは続いて、「ペンシルベニアの農民からイギリス領植民地の住人に宛てた手紙」を書き、1767年12月2日から1768年2月15日のペンシルベニア・クロニクルに掲載された。",
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"text": "1774年にフィラデルフィアで開催された第一次大陸会議には、12植民地が代表を派遣した。1775年5月、やはりフィラデルフィアで開催された第二次大陸会議では、アメリカ独立宣言を起草し、署名を行った。フィラデルフィア市がイギリス軍に占領されると、大陸会議は1777年9月27日はランカスターの郡庁舎で開催され、その後ヨークに移った。そこでは13植民地が1つの国になるという連合規約が書き上げられた。後にはアメリカ合衆国憲法が起草され、フィラデルフィアは新生アメリカの誕生地に再度選ばれた。",
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"text": "ペンシルベニア州は1787年12月12日にアメリカ合衆国憲法を批准し、そのことで第2の州になった。デラウェア州の批准から遅れること5日だった。",
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"text": "カーライルのディキンソン・カレッジは1773年に設立され、国内初のカレッジとなった。このカレッジはパリ条約が批准された5日後の1783年9月9日に批准された。ベンジャミン・ラッシュが設立し、ジョン・ディキンソンに因んで名付けた。",
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"text": "ペンシルベニア州議会は半世紀の間フィラデルフィア地域の様々な場所で開催されたが、インディペンデンスホールで定期的に開催されるようになり、63年間続いた。しかしもっと中央に近い場所で開催する必要性が出てきた。例えば1763年のパクストンボーイズ虐殺がそれに気付く機会になった。1799年、州議会はランカスター郡庁舎に移動し、最後は1812年にハリスバーグに移転した。",
"title": "歴史"
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"text": "1821年12月までは昔のドーフィン郡庁舎で州議会が開催されていたが、このとき連邦様式のヒルズキャピトル(建設者でランカスターの建築家スティーブン・ヒルズに因む命名)が州政府の本拠のために取って置かれた4エーカー (16,000 m) の岡の上に建設された。この土地はヨークシャー生まれで、1705年にはサスケハナ川東岸に交易基地を設立し、1733年には渡し船を運航したジョン・ハリス・シニアの息子で先見の明ある事業家が確保していた。ハリスバーグはこのハリスに因む命名である。1897年2月2日、猛吹雪の日にヒルズキャピトルは焼失した。煙道に欠陥があったためと考えられている。",
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"text": "新しい州会議事堂が建設されるまで、州議会はステート通りのグレイス・メソジスト教会で開催された。「不正があった」とされる建築家選定競技会の後、シカゴの建築家ヘンリー・アイブス・コブが新しい議事堂の設計と建設にあたった。しかし議会にはその建設に充てる金がなく、おおまかに仕上げられたいくらか実用的な建物が完成した(コブ・キャピトル)。議会はこの建物の使用を拒んだ。1901年には政治と大衆の間に義憤が起こり、ペンシルベニア州の建築家に限った2回目の競技会が行われた。現在のペンシルベニア州会議事堂を設計するためにフィラデルフィアのジョセフ・ミラー・ハストンが選ばれ、コブの建物を壮大な公共建築に取り込んで完成させ、1907年に開所された。",
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"text": "新しい州会議事堂は激賞を得た。そのドームは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂とアメリカ合衆国議会議事堂からヒントを得ていた。セオドア・ルーズベルト大統領は「国内で最も美しい州会議事堂」と呼び、その開所式では「これまで見た中でも最大に威厳のある建物」と言った。1989年、「ニューヨーク・タイムズ」は「偉大で時には畏敬の念を感じるが、動いている建物であり、市民が立ち寄ることができ、...日々の生活の実感と繋がる建物」と褒めた。",
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"text": "ペンシルベニア州には国内森林地域の9%がある。1923年、カルビン・クーリッジ大統領が1911年のウィークス法の下に、州北西部のエルク、フォレスト、マッキーン、ウォーレン各郡に跨るアリゲイニー国立の森を創設し、アレゲニー川流域の木材生産と水域保護を目指した。アリゲイニー国立の森は州内唯一の国有林である。",
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"text": "フランクリン郡出身のジェームズ・ブキャナンは唯一の独身大統領であり、ペンシルベニア州出身としても唯一の大統領である。南北戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いは、州内ゲティスバーグの近くで起こった。推計で35万人のペンシルベニア州民が北軍に従軍し、その中には8,600人のアフリカ系アメリカ人志願民兵もいた。",
"title": "歴史"
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"text": "ペンシルベニア州では初めて事業的に成功した油井もあった。1859年、タイタスビル近くで、エドウィン・L・ドレイクが油井を掘り当て、国内最初の石油ブームをもたらした。",
"title": "歴史"
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"text": "ペンシルベニア州は北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステートと呼ばれている。北側及び北東側はニューヨーク州に隣接しており、東側はデラウェア川をはさんでニュージャージー州に隣接している。南側はデラウェア州、メリーランド州、ウェストバージニア州に隣接しており、西側はオハイオ州、北西側はエリー湖に隣接している。アメリカ合衆国最初の13州の中で、ペンシルベニア州のみが大西洋に面していない。ペンシルベニア州を流れるデラウェア川、サスケハナ川、モノンガヒラ川、アレゲニー川、オハイオ川はアメリカ合衆国の主要な河川である。州都はハリスバーグ市である。",
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"text": "ペンシルベニア州は南北の長さ170 マイル (274 km)、東西の幅283 マイル (455 km) 程である。総面積は[[1 E11 m|46,055 平方マイル (119,282 km)]]、陸地面積は44,817 平方マイル (116,075 km)、水域面積は内陸部に 490 平方マイル (1,269 km)、エリー湖で 749 平方マイル (1,940 km) である。アメリカ合衆国内で33番目に大きな州となっている。エリー湖の湖岸線は 57マイル (82 km)、デラウェア川に沿った海岸線は 57マイル (92 km) ある。マウントデイビスが海抜3,213 フィート (979 m) で州内最高地点である。最低地点はデラウェア川の海面である。ペンシルベニア州は東部標準時内に位置している。",
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"text": "州境の中で、南のメリーランド州とはメイソン=ディクソン線(北緯39度43分)、デラウェア州とは12マイル円、東はデラウェア川、西のオハイオ州とは西経80度31分、北のニューヨーク州とは北緯42度線が基本となってほぼ長方形をしており、北の三角形がエリー湖まで伸びた地域が唯一飛び出した形になっている。",
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"text": "地理的に州内は5つの地域に区分される。すなわちアリゲイニー高原、リッジ・アンド・バレー地域、大西洋岸平原、ピードモント台地、およびエリー平原である。",
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州の多様な地形により気候も様々であるが、総体的に冬は寒く、夏は降水量が多い。州南東の隅を除いて大部分は湿潤大陸性気候(ケッペンの気候区分Dfa)にある。フィラデルフィア大都市圏のみが温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分Cfa)にあり、南のデラウェア州やメリーランド州に似ている。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "内陸の山岳部に動くと冬は著しく寒くなり、曇りの日が増え、降雪量が多くなる。州の西部、特にエリー湖に近い地域は年間100インチ (250 cm) 以上の降雪があり、また降水量は州の全体で年間を通じて豊富である。春から夏、さらに秋にかけて異常気象が起こりやすく、竜巻は年間平均10個が発生している。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2020年国勢調査時点で、ペンシルベニア州の人口は13,002,700人で、2010年国勢調査からは2.4%増加した。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "人口の中で74.5%はペンシルベニア州生まれ、18.4%は国内他州の生まれ、1.5%はプエルトリコ、アメリカ合衆国領島嶼部あるいは国外でアメリカ人の親から生まれた者、5.6%は外国生まれである。 1970年代から1980年代、ペンシルベニア州人口はゆるやかに増加した。1990年代から2000年代に入ると、他の州(移住民)から多くの人々がペンシルベニア州に移動し始めた。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "年齢層で見ると5歳未満が5.9%、18歳未満が23.8%、65歳以上が15.6%となっている。2005年時点で高齢者人口比率は50州の中の第3位だった。女性が人口の51.7%を占めている。2005年時点で貧困線以下の住民比率は11.9%だった。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州の人口重心はペリー郡のダンキャノン・ボロとなっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2010年国勢調査に拠れば、ペンシルベニア州の人種による人口構成は次のようになっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2011年時点で1歳未満の州民の32.1%は少数民族の子供である。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "州内のヒスパニック系人口は、2000年から2010年の間に82.6%増加し、国内でも最大級の増加率となっている。主にアメリカ合衆国領であるプエルトリコからの移民が多いが、他にもドミニカ共和国、メキシコなど中南米諸国からの移民や、ニューヨーク州やニュージャージー州など国内他州から、より安全で生活費が適度な環境を求めるヒスパニック系移住者が増えている。ヒスパニック系人口はアレンタウン、ランカスター、レディング、ヘイゼルトン、およびフィラデルフィア周辺で多く、その比率は20%以上となっている。2010年時点で、フィラデルフィア市から半径150マイル (240 km) 以内に85%が、またフィラデルフィア市内に約20%が住んでいる推計されている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アジア系移民も約60%増加しており、特にインド系、ベトナム系、中国系の移民が多い。またニューヨーク州からフィラデルフィア市に移住するアジア系住民も多い。アジア系人口の絶対数で、フィラデルフィアは国内最大級の都市になっている。アフリカ系アメリカ人人口は13%成長した。白人は0.7%減少したが、この傾向は反転しつつある。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "外国生まれの構成では、アジア系36.0%、ヨーロッパ系35.9%、ラテンアメリカ系30.6%、アフリカ系5%、北アメリカ系3.1%、オセアニア系0.4%となっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2006年から2008年の調査で、ペンシルベニア州で申告された祖先による構成比は、以下の通りだった。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ドイツ系祖先のペンシルベニア州民は、フィラデルフィア以外のこの州の多くの地域に住んでいる。ペンシルベニア州北東部はニューヨーク州境付近にイギリス系祖先の住民が暮らしており、スクラントン地域内に多くのポーランド系アメリカ人が住んでいる。フィラデルフィアは黒人の大多数が暮らしていて、少数の黒人住民がピッツバーグ及びハリスバーグに住んでいる。また、近代文明的生活を行わないアーミッシュと呼ばれるドイツ・スイス系の人々が住んでいる。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア・ダッチと呼ばれる人々と言語がある。この「ダッチ」はオランダ人ではなく「ドイツ人」あるいは「チュートン」を意味している。ドイツ人はドイツ語で「ドイッツェ」であり、これが英語で「ダッチ」に変わったと見なされている。ペンシルベニアドイツ語は、西中部ドイツ語方言を受け継いでいる。アーミッシュやメノナイトの社会では第一言語として話されているが、幾つかの言葉が英語化した以外、日常語として絶滅に近くなっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州の州の住民の宗教宗派別構成比は次のようになっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "当初の植民地の中で、ロードアイランドとペンシルベニアのみが信教の自由を謳っており、その結果今日まで宗教的な多様性が続いている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2000年時点で、州民の約69%は何らかの宗教組織に属していると推計された。ペンシルベニア州立大学の宗教データ・アーカイブ協会に拠れば、58%が115の宗教会派に属していた。ペンシルベニア州にはアーミッシュが多いが、オハイオ州ホームズ郡に世界最大のアーミッシュ人口がいる。ペンシルベニア植民地の設立時にはクエーカー教徒が多く活躍したが、現在では少数派となっている。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2012年ギャラップ調査では、州民の40%は大変信仰心篤く、28%は中庸であり、32%は無宗教であるとなっていた。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "デラウェア族、チェロキー族、イロコイ族、ハンニアソント族、サスケハンナ族、ウェンローロノン族など、10を超えるインディアン部族がかつてこの州に先住していたが、19世紀までにすべて西側の他州に強制移住させられた。残るインディアンは「絶滅した」とみなされ、部族単位では存在しないことになっている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州は、1879年に「インディアンを殺し、人間を助ける」(野蛮人の心を殺し、善良なキリスト教徒として救済する)の標語のもと、インディアンの児童を強制的に収容し、民族浄化の方針に沿って言語も文化も奪って白人に同化させる「インディアン寄宿学校」の第一号「カーライル・インディアン工業学校」が全米で初めて開校された地である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族と団体≫",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州は近年、カジノ・ギャンブルを合法化させた州であり、現在9つのカジノが営業され、今後も増える傾向にある。しかし、この州のインディアンが運営する「インディアン・カジノ」は一軒もない。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "≪ペンシルベニア州のインディアン・カジノと経営部族≫",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "州内の自治体:",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州はアルファベット順にアダムズ郡からヨーク郡まで67の郡から成り立っている。アレゲニー郡(ピッツバーグがある)、フィラデルフィア郡(フィラデルフィアがある)などである。フィラデルフィア郡は1854年にフィラデルフィア市と統合されている。郡の中は、市、ボロ、タウンシップという、総数2,562の自治体に区分される。",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "州内には56の市があり、人口によって第1級、第2級、第3級に区分されている。フィラデルフィア市が唯一の第1級市であり、2020年国勢調査時点での人口は160万人を超えている。ピッツバーグ市(人口30万人強)が第2級、スクラントン市(人口7.6万人、ただし最盛期の1930年には14.3万人の人口を抱えていた)が第2級Aの市である。",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "人口で第3位のアレンタウン市(人口12.5万人)から、人口僅か840人のパーカー市までが第3級市である。第1級と第2級の市は市長が強い「市長・市政委員会」方式の政府を採り、第3級市は「市政委員会・マネジャー」方式の「弱い市長」を選んでいる。",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "主要都市:",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ボロは概して市より小さく、市は法人化されているが、ボロは市として法人化される前の形態である。州内に958のボロがあり、その全てが「弱い首長」の政府形態を採っている。",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "タウンシップが三つ目の自治体形態であり、第1級と第2級に区分される。州内に第1級93と第2級1,454のタウンシップがある。第2級の場合、人口密度が300人/平方マイル (120 /km) を超え、住民投票で支持された場合に第1級になることができる。",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ブルームズバーグのみが1870年に町として法人化されており、州内唯一の町である。1975年、アレゲニー郡のマッカンドレス・タウンシップが自治憲章の下に「マッカンドレス町」となったが、法的には現在も第1級タウンシップのままである。",
"title": "州内の自治体と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州は州になってから5代の憲法を持ってきた。1776年、1790年、1838年、1874年、および1968年に制定されたものである。それ以前の植民地時代には1世紀にわたって「政府の枠組み」で統治され、1682年、1683年、1696年、1701年の版があった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "州都はハリスバーグである。州議会はハリスバーグにある州会議事堂で開催される。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1992年からの大統領選挙では、ペンシルベニア州は民主党候補を支持している。1992年と1996年は、ビル・クリントンが大差で勝利、2000年のアル・ゴアはやや僅差で勝利している。2004年はジョン・ケリーが現職のジョージ・W・ブッシュを接戦の末に制した。2008年には、バラク・オバマがジョン・マケインを大差で降している。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "しかし、2016年は共和党候補のドナルド・トランプが民主党候補のヒラリー・クリントンを接戦の末破っており、24年ぶりに共和党候補が勝利した。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2020年には、民主党候補のジョー・バイデンが共和党候補のドナルド・トランプを僅差で破り、選挙人20人を獲得。これによりバイデンが当選に必要な270人の選挙人を確保したため、ペンシルベニア州が大統領選挙の行く末を決めることとなった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "現在の知事は、民主党のジョシュ・シャピロである。選挙で選ばれる他の行政官は、副知事、検事総長、監査総監、州財務官である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州は1790年憲法で制定した両院制議会を採っている。ウィリアム・ペンが採用した当初の議会は一院制だった。州議会には定数50人の上院と定数203人の下院がある。2022年に行われた州議会議員選挙の結果、共和党が上院、民主党が下院の多数派となっている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州は60の司法区に分かれており、その大半には地区判事がおり、重犯罪と軽犯罪、小さな刑事事件と民事事件の第一審を裁く。大半の刑事と民事の事件は一般訴訟裁判所が裁き、一般訴訟裁判所は地区裁判官と地方機関決定事項に対する控訴裁判所ともなる。上級裁判所は一般訴訟裁判所からの全ての控訴を審問する。電話盗聴捜査については令状を査問する第一審でもある。コモンウェルス裁判所は特定州機関の最終命令にたいする控訴、および一般訴訟裁判所から指定された事件に限って審問を行う。ペンシルベニア州最高裁判所は最終控訴審である。州内の裁判官は全て選挙で選ばれ首席判事は経験年数で決められる。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州は国内で10番目に税の負担が重い。州民が払う税の総額は年平均で837億米ドルであり、一人当たりでは6,640米ドルである。州民は税総額の76%を負担している。多くの州政治家は州外からの税収を増やそうと務めている。たとえば、天然ガスの掘削に課税していなかったので、これに対する課税などである。州間高速道路の有料化も考えられている。特に州間高速道路80号線は州外からの通勤者が多く利用し、維持費用が嵩んでいる。 消費税は歳入の39%を挙げている。個人所得税が34%、自動車税が約12%、タバコとアルコール飲料の税が5%である。個人の所得税は、年金(給与)、利子、配当、事業などの純利益、処分資産の純利益、賃貸、ロイヤリティ、特許、著作権からの純収入、資産や信託資産からの収入、ギャンブルや宝くじの収入の8種類が課税対象である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "郡、自治体、教育学区は不動産に課税している。さらに幾つかの地方政体は個人収入に所得税を課している。一般に所得税の総額は収入の1%だが、自治憲章を持っている自治体は1%以上を課することも可能である。67郡のうち32郡は株式、債券などに個人資産税を課している。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "上院議員には、共和党議員を選んできた歴史がある。2009年から2011年、上院議員が2人とも民主党という時期があったが、これは1947年以来のことだった。2010年には、共和党が上院の1議席を取り戻した。民主党のコンサルタント、ジェイムズ・カービルは、ペンシルベニア州のことを「東にフィラデルフィア、西にピッツバーグ市、その中間にアラバマ州」と皮肉を交えて語った。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国上院議員は、2023年時点で2人とも民主党である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国下院議員は、17議席を割り当てられており、2023年時点では民主党9人、共和党8人である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州の2010年総生産は5,700億米ドルであり、合衆国内で6番目だった。もし、ペンシルベニア州が独立した国であれば、この州の経済は第18位に相当する。2010年の一人当たりの収入は、合衆国内で29番目に位置する39,830米ドルだった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "都市製造業の中心は、州南東隅のフィラデルフィア市、南西隅のピッツバーグ市、北西隅のエリー市、北東隅のスクラントン、ウィルクスバリ両市、東中部のアレンタウン、ベスレヘム、イースト各市である。州域の大半は田園であり、この落差が州の政治や経済に影響している。フィラデルフィア市にはフォーチュン500に入っている会社が6社ある。キングオブプルシアなど郊外部にはさらに多くの会社がある。金融保険業では指導的存在である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ピッツバーグ市にはフォーチュン500に入っている会社が8社ある、USスチール、PPGインダストリーズ、HJハインツなどである。州全体では50社がフォーチュン500に入っている。エリー市にはGEトランスポーテーション・システムがあり、国内最大の機関車製造会社である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "民間の最大雇用主はウォルマートであり、続いてペンシルベニア大学である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2012年4月時点で州内失業率は7.4%だった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "農業生産品は乳製品、鳥肉、牛、苗床、キノコ、豚、及び干し草である。工業生産品は食品加工、化学製品、機械及び電気設備である。観光業は合衆国内で最も訪れた州の7番目に位置し、159億米ドルの収入となり、大変大きな産業である。カリフォルニア州、フロリダ州、ニューヨーク州、テキサス州、イリノイ州、及びネバダ州に続く。 最近、ニューヨーク州からペンシルベニア州に広がるMarcellus Shale地層に含まれる天然ガスの生産が活況を呈している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "国内で最初に認定された銀行は、1781年にフィラデルフィア市に設立されたバンク・オブ・ノースアメリカだった。この銀行は何度か合併を繰り返し、現在はウェルズ・ファーゴの一部となり、国内認定第1号の称号を使っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1963年国定銀行法の下で最初に認定された銀行もある。ピッツバーグ・セイビングス・アンド・トラスト社が認定を受け、ピッツバーグ第一国定銀行と改名した。この銀行は現在もPNCフィナンシャル・サービスとして存続しており、ピッツバーグ市を本拠にしている。PNCは州内最大の銀行であり、国内でも第6位である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州の農業生産高は国内19位だが、マッシュルームでは第1位、リンゴでは第2位、クリスマスツリーと産卵鶏では第3位、苗と芝、牛乳、サイレージ用トウモロコシ、ブドウ(ジュース用を含む)、馬では第4位である。またワインの生産量では国内第8位である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "カジノが2004年に合法化された。州内に9か所のカジノがあり、建設中または計画中のものが3か所ある。競馬、スロットマシン、電子テーブルゲームが合法だが、テーブルゲームを合法化する議案が2009年秋に審議された。ポーカー、ルーレット、ブラックジャック、ダイスなどのテーブルゲームが2010年1月に議会で承認され1月7日に州知事の署名により法制化された。スポーツに係わる賭博は違法である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "エド・レンデル州知事は2009年にバーや民間クラブでのビデオ・ポーカー・マシンの合法化を検討した。これは推計で17,000台のマシンが運営されているからだった。この計画では、アルコール販売を許可された施設が5台までのマシンを置くことを認められるはずだった。すべてのマシンはカジノと同様に州のコンピュータ・システムに繋がれることになっていた。ギャンブルの売り上げは、勝者に支払った後の50%を州に税として支払い、残り50%は経営者に残ることになっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州映画制作税額控除が2004年に始まり、州内の映画産業発展を促している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州交通省は州内121,770マイル (195,970 km) の道路の内、39,861マイル (64,150 km) を所有しており、その長さは国内第5位となっている。ペンシルベニア・ターンパイク体系は全長535マイル (861 km) あり、本線はオハイオ州からフィラデルフィア市やニュージャージー州に伸びている。ペンシルベニア・ターンパイク委員会が管轄している。もうひとつ東西に伸びる幹線道が州間高速道路80号線であり、州の北部をオハイオ州からニュージャージー州を繋ぎ、デラウェア・ウォーターギャップで終わっている。州間高速道路90号線はオハイオ州からニューヨーク州を繋ぎ、州内の最北西部エリー郡の比較的短区間のみが入っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "南北方向の幹線道は州間高速道路79号線であり、エリー市に始まり、ピッツバーグ市を抜けてウェストバージニア州に入る。同81号線はニューヨーク州から入ってラッカワナ郡スクラントン市とハリスバーグ市を通り、メリーランド州に抜ける。同476号線はチェスター郡のデラウェア州境北7マイル (11 km) に始まり、132マイル (212 km) 走ってラッカワナ郡のクラークスサミットに至り、州間高速道路81号線に合流する。この道路は20マイル (32 km) の区間を除き、ペンシルベニア・ターンパイクの北延伸部であり、ペンシルベニア・ターンパイクの南側本線は公式には「退役兵記念ハイウェイ」と呼ばれるが、地元では「ブルールート」と呼ばれるのが普通である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "南東ペンシルベニア交通局 (SEPTA)は国内第6位の交通機関であり、フィラデルフィア大都市圏で通勤鉄道、通常の鉄道、ライトレール、バス体系を運行している。アレゲニー郡港湾公社(PATransit)は国内第25位の交通機関であり、ピッツバーグ市内と周辺のバス体系およびライトレールを運行している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "都市間旅客鉄道はアムトラックが運行し、高速運転が行われるキーストーン回廊には「キーストーン号」を走らせている。これはハリスバーグとフィラデルフィアの30番通り駅を繋ぎ、その後はニューヨーク市に向かう。また1日1往復運転の「ペンシルベニアン号」(Pennsylvanian)も同様にニューヨーク市からハリスバーグを走るが、ピッツバーグ市まで伸びている。これらの列車が通る路線はかつてのペンシルバニア鉄道の本線にあたり、アルトゥーナには著名な鉄道史跡である「ホースシューカーブ」がある。「キャピトル・リミテッド」はシカゴとワシントンD.C.を結び、途中でピッツバーグ市、コネルズビル市を通る。シカゴとニューヨーク市を結ぶのが「レイクショア・リミテッド」であり、エリー市を通っている。「キャピトル・リミテッド」も「レイクショア・リミテッド」も1日1往復運転である。州内で運行される短線貨物鉄道は67線あり、国内最大数である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "主要空港は7つある。フィラデルフィア国際空港 (PHL)、ピッツバーグ国際空港 (PIT)、リーハイバレー国際空港、ハリスバーグ国際空港、エリー国際空港、ユニバーシティパーク空港、ウィルクスバリ・スクラントン国際空港である。公共用途空港は全部で134ある。ピッツバーグ港は国内内陸港では第2位、全体でも第18位の港である。フィラデルフィア港は国内第24位である。エリー湖すなわち五大湖には唯一の港、エリー港がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "アリゲイニー川閘門とダム第2号は、アメリカ陸軍工兵司令部が運営する国内255か所の閘門の中でも使用頻度が高いものである。このダムがピッツバーグ市中心街近くでアリゲイニー川の水を溜めている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "州内には500の公共教育学区、数多い私立学校、公立のカレッジと大学、また100以上の私立高等教育機関がある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "州法により州内に住む8歳から17歳の子供は学校への入学が義務づけられており、認証された高校を卒業すれば17歳より前でも義務は無くなる。2005年時点で18歳から24歳の州民の83.8%が高校を卒業している。25歳以上では86.7%が高校卒である。さらに25.7%は学士以上の取得のために進学している。標準試験の結果は常に良好である。2007年の8年生の試験では、数学で第14位、読みで第12位、書きで第10位だった。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1988年、ペンシルベニア州州議会は法第169を成立させ、義務教育の代わりに両親または保護者が子供の家庭内教育を行うことを認めた。この法では両親とその居住する教育学区の任務と責任を規定している。",
"title": "教育"
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ペンシルベニア州高等教育体系は14の州立大学を擁する公立大学体系である。コモンウェルス高等教育体系は、4つの州が係わる学校を組織する主体であり、これらの学校は州の予算をうける独立した機関である。さらに公的予算による15の2年制コミュニティ・カレッジと工業学校があり、ペンシルベニア州高等教育体系とは別に管理されている。これに加えて多くの私立2年制または4年制工業学校、カレッジ、大学がある。",
"title": "教育"
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"text": "カーネギーメロン大学、ペンシルベニア州立大学、ペンシルベニア大学、ピッツバーグ大学は、先端的研究大学のみが参加を認められるアメリカ大学協会のメンバーである。ペンシルベニア州立大学はランドグラント大学、シーグラント・カレッジ、スペースグラント・カレッジでもある。また、1834年にディッキンソン大学の法学部門として創設され、同学から独立した後、2000年にペンシルベニア州立大学と合併してその傘下に入ったディッキンソン法学校は、州内初、全米でも5番目に古い法学校である。フィラデルフィア市にあるペンシルベニア大学は1740年に創立した州内初の大学と見なされ、また国内初の医学校でもある。アイビー・リーグに入る大学ではペンシルベニア州で唯一、かつ最南端の大学である。ペンシルベニア美術アカデミーは国内初かつ最古の芸術学校である。フィラデルフィア薬科カレッジは現在フィラデルフィア科学大学に属しており、国内初の薬科学校だった。",
"title": "教育"
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"text": "USニューズ&ワールド・レポート誌の総合大学ランキングで全米トップ100に入るペンシルベニア州内の大学は以下の7校である。",
"title": "教育"
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"text": "また、同じくUSニューズ&ワールド・レポート誌のリベラル・アーツ・カレッジのランキングでは、ペンシルベニア州内の以下13校が全米トップ100に入っている。",
"title": "教育"
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"text": "州内に国内初の動物園であるフィラデルフィア動物園がある。他にも歴史の長いエリー動物園やピッツバーグ動物園 & PPG水族館があり、またリーハイバレー動物園やズーアメリカもある。ピッツバーグ市のカーネギー博物館、フィラデルフィア美術館などは国内有数の美術館である。スクラントンにあるハウディニ博物館は伝説的なマジシャンに特化していることで、世界でも唯一の博物館である。ピッツバーグ市にはナショナル・アビアリー(鳥類園)もある。",
"title": "レクリエーション"
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"text": "州内に121ある州立公園は入場無料である。",
"title": "レクリエーション"
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"text": "アミューズメントパークとしては、キャメルビーチ、コンノート・レイクパーク、ドーニーパーク & ワイルドウォーター・キングダム、ダッチワンダーランド、デルグロッソ・アミューズメントパーク、ハーシーパーク、アイドルワイルドパーク、ケニーウッド、ノーベルズ、レイクモントパーク、サンドキャッスル・ウォーターパーク、セサミプレース、グレートウルフ・ロッジ、ウォルダミアパークがある。エリー市にあるスプラッシュ・ラグーンは東海岸最大の屋内ウォーターパークである。",
"title": "レクリエーション"
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"text": "州内では多くの音楽祭も開催されている。ベスレヘムのミュージックフェストとニアフェスト、フィラデルフィア・フォーク祭、クリエーション・フェスティバル、グレートアレンタウン祭、パープルドアが著名である。",
"title": "レクリエーション"
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"text": "州内には100万人に近い免許狩猟者がいる。オジロシカ、ワタオウサギ、リス、シチメンチョウ、ライチョウなどが狩猟対象である。スポーツハンティングは州経済にも大きな影響を及ぼしている。センター・フォー・ルーラル・ペンシルベニアの報告では、狩猟、釣り、毛皮採取で96億米ドルを上げている。",
"title": "レクリエーション"
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"text": "主要記事:Pennsylvania sports",
"title": "芸術・文化"
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"text": "著作家シャロン・ハーンズ・シルバーマンはその著作『ママはヤンキーのように料理する』で、ペンシルベニア州を世界のスナック食品首都と呼んでいる。プレッツェルとポテトチップスの生産量では国内第1位である。スタージス・プレッツェル・ハウスがアメリカにプレッツェルを紹介し、アンダーソン・ベイカリー、インターコース・プレッツェル・ファクトリー、スナイダーズ・オブ・ハノーバーなどの会社が、生産高の多い会社である。1921年にハノーバーでポテトチップス生産を始めたユッツ・クオリティ・フーズ、同じく1921年にバーウィックでポテトチップス生産を始めたワイズ・スナック・フーズが、ポテトチップスの主要生産会社である。",
"title": "食品"
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"text": "アメリカ合衆国のチョコレート製造はハーシー市が中心である。マース、ゴディバ、ウィルバーなどがある。サウダートンのアッシャーズやダンモアのガートルード・ホークもある。他にもベスレヘムのジャストボーン、アルトゥーナのボイアーブラザーズなどがある。アンティ・アンズ・プレッツェルズはダウニングタウンの市場屋台で始まり、現在はランカスターに本社を置く会社になっている。ペンシルベニア・ダッチの伝統的な料理は、チキン・ポットパイ、ハム・ポットパイ、シュニッツ・アン・ネップ、ファスナハツ、スクラップル、プレッツェル、ボローニャ、チョウチョウ、シューフライ・パイである。チェンバーズバーグに本社を置くマーティンズ・フェイマス・パストリー・ショップはポテト・パンなど伝統的なペンシルベニア・ダッチ料理に特化している。国内最古のビール醸造社D・G・ユエンリング & サンは、1829年からポッツビルでビールを生産している。",
"title": "食品"
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"text": "フィラデルフィアでよく見られる地方料理は、チーズステーキ、ホージー、ソフトプレッツェル、イタリアン・ウォーターアイス、スクラップル、テイスティケイク、ストロンボリなどである。ピッツバーグでは、1876年から20世紀初期に、ヘンリー・ジョン・ハインツがトマトケチャップを改良した。ハインツのケチャップより規模は劣るが、ピッツバーグのプリマンティ・ブラザーズ・レストランはサンドウィッチ、ピエロギ、シティチキンで著名である。スクラントン郊外のオールドフォージには、ピザに特化したイタリア・レストランが多い。エリー市ではギリシャソースとスポンジキャンディが特徴のあるものである。元日にはザワークラウトと豚肉、マッシュルームがよく食される料理である。",
"title": "食品"
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"text": "",
"title": "食品"
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"text": "2008年5月24日に、en:Hersheyparkで、97度の角度を持つジェットコースターFahrenheitがオープンした。",
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] |
ペンシルベニア州は、アメリカ合衆国北東部、また大西洋岸中部に分類される州。五大湖地方に含められることもある。「要石の州」とも呼ばれる。日本語ではペンシルヴェニア州、ペンシルバニア州、あるいはペンシルヴァニア州と表記される場合もある。以前はペンシルバニアという表記が多かったのに対し、2020年アメリカ合衆国大統領選挙からは選挙の要となる激戦州の一つとしてペンシルベニアの表記が多数登場している。
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{{redirect|ペンシルベニア}}
{{基礎情報 アメリカ合衆国の州
| 公式名称 = Commonwealth of Pennsylvania
| 州旗 = Flag of Pennsylvania.svg
| 州章 = Seal of Pennsylvania.svg
| 地図 = Pennsylvania in United States.svg
| 愛称 = 礎石の州<br />The Keystone State
| 州都 = [[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]]
| 最大都市 = [[フィラデルフィア]]
| 州知事 = {{ill2|ジョシュ・シャピロ|en|Josh Shapiro}}
| 公用語 = [[アメリカ英語|英語]](事実上)<br>法的指定なし
| 面積順位 = 33
| 総面積 = 119,283
| 面積大きさ = 1 E11
| 陸地面積 = 116,074
| 水域面積 = 3,208
| 水面積率 = 2.7
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 5
| 人口値 = 13,002,700
| 人口大きさ = 1 E7
| 人口密度 = 112.0
| 加入順 = 2
| 加入日 = [[1787年]][[12月12日]]
| 時間帯 = -5
| 夏時間 = -4
| 緯度 = 39°43' - 42°16'
| 経度 = 74°41' - 80°31'
| 幅 = 255
| 長さ = 455
| 最高標高 = 979
| 平均標高 = 340
| 最低標高 = 0
| ISOコード = US-PA
| Website = www.pa.gov
| 上院議員 = [[:en:Bob Casey Jr.|ボブ・ケーシー・ジュニア]]<br />[[:en:John Fetterman|ジョン・フェッターマン]]
}}
'''ペンシルベニア州'''(ペンシルベニアしゅう、{{lang-en-short|Commonwealth of Pennsylvania}}、 {{IPAc-en|audio=en-us-Pennsylvania.ogg|ˌ|p|ɛ|n|s|ᵻ|l|ˈ|v|eɪ|n|j|ə}})は、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国北東部|北東部]]、また[[大西洋]]岸中部に分類される[[アメリカ合衆国の州|州]]。[[五大湖]]地方に含められることもある。「[[キーストーン|要石]]の州」({{lang-en-short|Keystone State}})とも呼ばれる。日本語ではペンシルヴェニア州、ペンシルバニア州、あるいはペンシルヴァニア州と表記される場合もある。以前はペンシルバニアという表記が多かったのに対し、[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙]]からは選挙の要となる[[スイング・ステート|激戦州]]の一つとしてペンシルベニアの表記が多数登場している。
== 概要 ==
ペンシルベニア州は、州(“State”)の代わりに[[コモンウェルス (米国州)|コモンウェルス]](“Commonwealth”)を用いる4つの州の1つ。ただし、日本語ではどちらも「州」と訳されている。なお、[[地質時代]]の区分の一つである[[ペンシルベニア紀]]([[石炭紀]]の一部)は、ペンシルベニア州にちなんで付けられた名前である。名前の後半「シルベニア」は{{lang-la|[[wikt:silva|silva]]}}(「森」の意)から取ったものであり、実際に自然が豊富である。
アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では全米第33位、人口では全米第5位であり、人口密度が第9位と高い。南東は[[デラウェア州]]、南は[[メリーランド州]]、南西は[[ウェストバージニア州]]、西は[[オハイオ州]]、北西は[[エリー湖]]と[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]、北は[[ニューヨーク州]]、東は[[ニュージャージー州]]と接している。[[アパラチア山脈]]が州の中央を斜めに走り、東西に長い州でもある。
ヨーロッパ人として最初にペンシルベニアに入ってきたのは[[スウェーデン]]や[[オランダ]]の入植者であったが、ペンシルベニアと命名したのは、[[イングランド]]王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]である。[[クエーカー]]で[[イギリス]]人の[[ウィリアム・ペン]]が「シルベニア」と名付けたものをウィリアム・ペンの父[[ウィリアム・ペン (イングランド海軍)|ウィリアム・ペン卿]]に敬意を表して改称した。ペンシルベニア州には、[[自由の鐘]]や[[独立記念館]]で有名な[[フィラデルフィア|フィラデルフィア市]]と、重要な河港を持つ[[ピッツバーグ|ピッツバーグ市]]の、2つの主要[[都市]]がある。州都は[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ市]]である。
ペンシルベニア州は、アメリカ合衆国において最も歴史のある州の一つである。フィラデルフィアは[[アメリカ合衆国]]発祥の地と呼ばれることもある。フィラデルフィアは、独立宣言や合衆国憲法が立案された場所でもある。'''[[ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)|ゲティスバーグ]]'''は[[南北戦争]]の激戦地であり、今も多数の大砲が保存されている[[ゲティスバーグの古戦場|古戦場跡]]として有名である。'''[[ブリンマー (ペンシルベニア州)|ブリンマー]]'''はフィラデルフィア郊外の閑静な住宅街として全米でもよく知られる。[[ポコノ山脈]]や[[デラウェア・ウォーター峡谷]]は保養地として有名である。
{{bar box
|title=家庭で話される言語(ペンシルベニア州) 2010
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{{bar percent|[[英語]]|red|90.15}}
{{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|4.09}}
}}
{{bar box
|title=人種構成(ペンシルベニア州) 2010
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{{bar percent|[[白人]]|blue|79.5}}
{{bar percent|[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]|Purple|10.8}}
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{{bar percent|[[インディアン]]|orange|0.2}}
{{bar percent|[[混血]]|yellow|1.9}}
}}
== 歴史 ==
:''主要記事:[[ペンシルベニア州の歴史]]''
{{See also|ペンシルベニア植民地}}
ペンシルベニア州となった地域にヨーロッパ人が入植する以前、この地域には[[レナペ|デラウェア族]]、[[サスケハノック]]族、[[イロコイ連邦|イロコイ族]]、エリー族、[[ショーニー族]]などの[[インディアン]]が住んでいた<ref>{{cite web|url=http://www.accessgenealogy.com/native/pennsylvania/ |title=Pennsylvania Indian tribes |publisher=Accessgenealogy.com |accessdate=2010-07-31}}</ref>。オランダとイギリスが[[デラウェア川]]の両岸をアメリカにおけるそれぞれの植民地の一部と主張していた<ref>{{cite book |last= Paullin, Charles O |first= Edited by John K. Wright |title= Atlas of the Historical Geography of the United States|year= 19932|publisher= Carnegie Institution of Washington and American Geographical Society|location= New York, New York and Washington, D.C.: |isbn= | pages= Plate 42}}</ref><ref>{{cite book |last= Swindler|first= William F., Editor|title= Sources and Documents of United States Constitutions. 10 Volumes |year= 1973–1979|publisher= Oceana Publications |location=Dobbs Ferry, New York |isbn= | pages= Vol. 10: 17–23}}</ref><ref>{{cite book |last= Van Zandt|first= Franklin K.|title= Boundaries of the United States and the Several States; Geological Survey Professional Paper 909.|year= 1976|publisher= Government Printing Office |location=Washington, D.C. |isbn= |pages= 74; 92}}</ref>。オランダが最初に領有し、ペンシルベニアの歴史に大きく影響した<ref>{{cite book |last= Van Zandt|first= Franklin K.|title= Boundaries of the United States and the Several States; Geological Survey Professional Paper 909.|year= 1976|publisher= Government Printing Office |location=Washington, D.C. |isbn= |page= 74}}</ref>。
1631年6月3日、オランダは現在のデラウェア州[[ルイス (デラウェア州)|ルイス]]の地にツヴァーネンデール植民地を造り、[[デルマーバ半島]]への入植を始めた<ref>{{cite book |last= Munroe|first= John A.|title= Colonial Delaware: A History.|year= 1978|publisher= KTO Press|location=Millwood, New York |isbn= | pages= 9–12}}</ref>。1638年、スウェーデンが現在の[[ウィルミントン (デラウェア州)|ウィルミントン]]の地に造ったフォートクリスチーナを中心とする[[ニュースウェーデン]]植民地を設立することで、領有問題が加熱された。ニュースウェーデンはデラウェア川下流域(現在のデラウェア州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州に跨る)の領有を主張し支配したが、植民者の数は少なかった<ref>{{cite book |last= Munroe|first= John A.|title= Colonial Delaware: A History.|year= 1978|publisher= KTO Press|location=Millwood, New York |isbn= | page= 16}}</ref><ref>{{cite book |last= McCormick|first= Richard P.|title= New Jersey from Colony to State, 1609—1789. New Jersey Historical Series, Volume 1.|year= 1964|publisher= D. Van Nostrand Company|location= Princeton, New Jersey |isbn= | page= 12}}</ref>。
[[ファイル:Edward Hicks - Penn's Treaty.jpeg|thumb|250px|right|''インディアンと結んだペンの条約''、[[エドワード・ヒックス]]画]]
1664年3月12日、イングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]が[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ヨーク公ジェームズ]]に、[[プリマス]]の[[バージニア会社]]が当初持っていた勅許地全てに他の土地を含めた土地の勅許を与えた。この勅許は、現在のペンシルベニア州の一部を含むオランダ領[[ニューネーデルラント]]の主張する領有権と競合した<ref>{{cite book |last= Swindler|first= William F., Editor|title= Sources and Documents of United States Constitutions. 10 Volumes |year= 1973–1979|publisher= Oceana Publications |location=Dobbs Ferry, New York |isbn= | pages= Vol. 4: 278–280}}</ref>。
1664年6月24日、ヨーク公は現在のニュージャージー州を含む広大な領土の一部を、ジョン・バークレーとジョージ・カートレットに売却し、領主植民地とした。その土地はこのときもイギリス領だったが、デラウェア川の西岸にあるニューネーデルラントの一部と重複した。同年8月29日にイギリスによるニューネーデルラント征服が始まり、[[ニューヨーク港]]に浮かぶイギリス艦船の大砲を面前にして、[[ニューアムステルダム]]が降伏を強いられた<ref>{{cite book |last= Van Zandt|first= Franklin K.|title= Boundaries of the United States and the Several States; Geological Survey Professional Paper 909.|year= 1976|publisher= Government Printing Office |location=Washington, D.C. |isbn= | page= 79}}</ref><ref>{{cite book |last= Swindler|first= William F., Editor|title= Sources and Documents of United States Constitutions. 10 Volumes |year= 1973–1979|publisher= Oceana Publications |location=Dobbs Ferry, New York |isbn= | pages= Vol. 6: 375–377}}</ref>。この征服が継続し、同年10月には現在のデラウェア州[[ニューキャッスル (デラウェア州)|ニューキャッスル]]にあったカシミア砦を占領することで、完成した。
[[ファイル:John Dickinson portrait.jpg|thumb|upright|[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]]]]
1667年7月21日、イギリス、[[フランス]]およびオランダの間に結ばれた[[ブレダの和約]]により、イギリスの征服が確認されたが<ref>{{cite book |last=Farnham |first=Mary Frances; Compiler. |title=Farnham Papers (1603–1688). Volumes 7 and 8 of Documentary History of the State of Maine.|year=1901–1902 |publisher= Collections of the Maine Historical Society, 2nd Series. |location=Portland, Maine |isbn= | pages= Vol. 7: 311, 314}}</ref><ref>{{cite book |last=Parry |first=Clive (Editor) |title= Consolidated Treaty Series; 231 Volumes|year= 1969–1981|publisher= Oceana Publications |location=Dobbs Ferry, New York |isbn= | pages= Volume 10: 231}}</ref>、一時的な反動も起きた。
1672年9月12日、[[英蘭戦争|第三次英蘭戦争]]の一部として、オランダは[[ニューヨーク植民地]]とニューアムステルダムを再征服し、現在のデラウェア州とペンシルベニア州に当初の3郡となる郡政府を設立した。後にペンシルベニアに移管された部分がアップランドだった<ref>{{cite book |last=Fernow |first=B., Editor |title=Documents Relative to the Colonial History of the State of New York;Volumes 12–15.|year=1853–1887 |location=Albany, New York |isbn= | pages=Vol 12:507–508}}</ref>。1674年2月9日、第三次英蘭戦争を終わらせるウェストミンスター条約が結ばれ、政治的な状況を「戦前に元あった状態」に戻された。イギリスはオランダの郡をオランダの名称で保持した<ref>{{cite book |last=Parry |first=Clive (Editor) |title= Consolidated Treaty Series; 231 Volumes|year=1969–1981 |publisher= Oceana Publications|location= Dobbs Ferry, New York|isbn= |pages= Vol. 13: 136.}}</ref>。同年6月11日までに、ニューヨーク植民地がアップランドを含め外郭の植民地に対する支配を再度主張したが、その名称は1674年11月11日までにイギリス名に変えられていった<ref>{{cite book |last=Fernow |first=B., Editor |title=Documents Relative to the Colonial History of the State of New York;Volumes 12–15.|year=1853–1887 |location=Albany, New York |isbn= | pages=Vol 12:515}}</ref>。同年11月12日、アップランドが分離し、現在のペンシルベニア州とデラウェア州の州境が概略生みだされた<ref>{{cite book |last= Armstrong|first= Edward; Editor|title= Record of the Court at Upland, in Pennsylvania, 1676 to 1681|year= 1860|publisher= Memoirs of the Historical Society of Pennsylvania Volume 7|isbn= | pages= 119, 198}}</ref>。
1681年2月28日、チャールズ2世がウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン提督から借りていた16,000ポンド(2008年のインフレ換算で210万ポンド<ref>{{cite web|url=http://www.measuringworth.com/ppoweruk/result.php?use%5B%5D=CPI&use%5B%5D=NOMINALEARN&year_early=1681£71=16000&shilling71=&pence71=&amount=16000&year_source=1681&year_result=2008 |title=Measuring Worth |publisher=Measuring Worth |accessdate=2010-07-31}}</ref>)の借金のかたに<ref>
{{cite book| url=https://books.google.co.jp/books?id=4rQBAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja| title=Pennsylvania Society of Colonial Governors, Volume 1| editor=Pennsylvania Society of Colonial Governors| pages=180–181| year=1916| chapter=Samuel Carpenter}}
</ref>ウィリアム・ペンに土地の勅許を与えた<ref>[http://avalon.law.yale.edu/17th_century/pa01.asp Charter for the Province of Pennsylvania-1681]. This charter, granted by Charles II (England) to William Penn, constituted him and his heirs proprietors of the province, which, in honor of his father, Admiral William Penn, (whose cash advances and services were thus requited,) was called Pennsylvania. To perfect his title, William Penn purchased, on 1682-08-24, a quit-claim from the Duke of York to the lands west of the Delaware River embraced in his patent of 1664</ref>。これは史上でも最大級の特定個人に対する勅許だった<ref name=quapoly>{{cite web |url=http://www.pym.org/exhibit/p078.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080524050103/http://www.pym.org/exhibit/p078.html |archivedate=2008年5月24日 |title=Quakers and the political process |publisher=Pym.org |date=2006-03-28 |accessdate=2010-07-31 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。その土地はペンシルベニアと呼ばれた。ウィリアム・ペン自身はニューウェールズあるいはシルベニアと呼ぶことを望んだが、この名称変更で人々がペン自身に因んで名付けたと考えることを怖れ当惑した。しかしチャールズ2世は名称を変えようとはしなかった<ref>{{cite book| url=http://www.britannia.com/celtic/wales/facts/facts1.html}}</ref>。ペンは郡政委員会と[[信教の自由]]という2つの革新的な性格を持つ政府を樹立し、これは新世界の多くの国で真似されることになった<ref name=quapoly />。
1681年3月4日、ペンシルベニアで植民地政府を作り、ペンシルベニア州とデラウェア州の州境のペンシルベニア側にあったアップランドは[[チェスター郡 (ペンシルベニア州)|チェスター郡]]と改名された<ref>{{cite book |last= Armstrong|first= Edward; Editor|title= Record of the Court at Upland, in Pennsylvania, 1676 to 1681|year= 1860|publisher= Memoirs of the Historical Society of Pennsylvania Volume 7|isbn= | page= 196}}</ref><ref>{{cite book |last= Swindler|first= William F., Editor|title= Sources and Documents of United States Constitutions. 10 Volumes |year= 1973–1979|publisher= Oceana Publications |location=Dobbs Ferry, New York |isbn= | pages= Volume 8:243}}</ref>。クエーカー教徒の指導者であるウィリアム・ペンは、デラウェア族の指導者タマニーと平和条約を結び、クエーカー教徒とインディアンの長い友好的関係の時代が始まった<ref>David Yount (2007). "''[https://books.google.co.jp/books?id=pk7ycUq3cxsC&pg=PA82&dq=&hl=en&redir_esc=y#v=onepage&q=&f=false How the Quakers invented America]''". Rowman & Littlefield. p.82. ISBN 0-7425-5833-9</ref>。クエーカー教徒とは、他の部族との条約も結ばれた。ウィリアム・ペンが結んだ条約は侵犯されることが無かった<ref>Sydney G. Fisher (2009). "''[https://books.google.co.jp/books?id=zKzFgAlx1CkC&pg=PA13&dq=&hl=en&redir_esc=y#v=onepage&q=&f=false The Quaker Colonies]''". Echo Library. p.13 ISBN 1-4068-5110-8</ref>。
=== 18世紀 ===
1730年から通貨法に伴い[[イギリスの議会]]によって停止された1764年まで、ペンシルベニア植民地は金や銀の保有量不足に対応して独自の通貨を持っていた。この紙幣は「コロニアル・スクリップ」と呼ばれていた。この植民地では「信用証券」を発行し、その法定通貨としての位置づけ故に、金貨や銀貨と同等だった。政府が発行しており、銀行が発行したものではなかったので、利子が付かず、政府支出の支払に使われたので、大衆の税金だった。政府がその裁量で発行し、インフレを招かないよう大量に発行しなかったので雇用と繁栄を助長した。[[ベンジャミン・フランクリン]]がこの通貨創設に関与し、その有用性は決して侵されないと言っており、[[アダム・スミス]]の「慎重な承認」にも合致していた<ref>Hamilton, Alexander and Syrett, Harold C. ''The Papers of Alexander Hamilton''. 1963, page 240.</ref>。
[[ファイル:PhiladelphiaPresidentsHouse.jpg|thumb|250px|[[フィラデルフィア]]の[[プレジデンツハウスPhiladelphia]]、このマスターズ・ペン邸宅には1770年代初期にペンシルベニアの総督が入った。1790年から1800年にはフィラデルフィアが暫定首都となり、[[ジョージ・ワシントン]]や[[ジョン・アダムズ]]の大統領官邸となった]]
1765年の[[印紙法会議]]の後、フィラデルフィアの代議員[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]]は「権利と抗議の宣言」を書いた。この会議は、マサチューセッツ植民地会議の要請で[[13植民地]]が集まった最初の会議だったが、実際には9植民地しか代議員を送らなかった<ref>{{cite web|url=http://memory.loc.gov/ammem/collections/continental/timeline.html |title=Library of Congress timeline 1764–1765 |publisher=Memory.loc.gov |accessdate=2010-07-31}}</ref>。ディキンソンは続いて、「ペンシルベニアの農民からイギリス領植民地の住人に宛てた手紙」を書き、1767年12月2日から1768年2月15日のペンシルベニア・クロニクルに掲載された<ref>{{cite web|url=http://18thcenturyreadingroom.blogspot.com/2005_10_01_18thcenturyreadingroom_archive.html |title=Dickinson Letters |publisher=18thcenturyreadingroom.blogspot.com |accessdate=2010-07-31}}</ref>。
1774年にフィラデルフィアで開催された第一次[[大陸会議]]には、12植民地が代表を派遣した<ref>{{cite web|url=http://memory.loc.gov/ammem/collections/continental/timeline1e.html |title=Library of Congress timeline 1773–1774 |publisher=Memory.loc.gov |accessdate=2010-07-31}}</ref>。1775年5月、やはりフィラデルフィアで開催された第二次大陸会議では、[[アメリカ独立宣言]]を起草し、署名を行った<ref>{{cite web|url=http://www.loc.gov/rr/program/bib/ourdocs/DeclarInd.html |title=Library of Congress: Primary documents – The Declaration of Independence |publisher=Loc.gov |date=2010-07-20 |accessdate=2010-07-31}}</ref>。フィラデルフィア市がイギリス軍に占領されると、大陸会議は1777年9月27日は[[ランカスター (ペンシルベニア州)|ランカスター]]の郡庁舎で開催され、その後[[ヨーク (ペンシルベニア州)|ヨーク]]に移った。そこでは13植民地が1つの国になるという[[連合規約]]が書き上げられた。後には[[アメリカ合衆国憲法]]が起草され、フィラデルフィアは新生アメリカの誕生地に再度選ばれた<ref>{{cite web|url=http://www.senate.gov/reference/reference_item/Nine_Capitals_of_the_United_States.htm |title=Nine Capitals of the United States |publisher=Senate.gov |date=2009-03-26 |accessdate=2010-07-31}}</ref>。
ペンシルベニア州は1787年12月12日にアメリカ合衆国憲法を批准し、そのことで第2の州になった<ref>{{cite web|url=http://memory.loc.gov/ammem/today/dec12.html |title=Pennsylvania ratifies the Constitution of 1787 |publisher=Memory.loc.gov |accessdate=2010-07-31}}</ref>。デラウェア州の批准から遅れること5日だった。
カーライルのディキンソン・カレッジは1773年に設立され、国内初のカレッジとなった。このカレッジは[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]が批准された5日後の1783年9月9日に批准された。[[ベンジャミン・ラッシュ]]が設立し、ジョン・ディキンソンに因んで名付けた。
[[ファイル:HillsCapitol.jpg|thumb|250px|ヒルズキャピトル、1821年から使われたが、1897年に焼失した]]
ペンシルベニア州議会は半世紀の間フィラデルフィア地域の様々な場所で開催されたが、[[独立記念館|インディペンデンスホール]]で定期的に開催されるようになり、63年間続いた<ref name=legiscap>{{cite web |url=http://www.legis.state.pa.us/WU01/VC/visitor_info/brown/capitols.htm |title=Pennsylvania's Capitals |publisher=Legis.state.pa.us |accessdate=2010-07-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000615224551/http://www.legis.state.pa.us/WU01/VC/visitor_info/brown/capitols.htm |archivedate=2000年6月15日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。しかしもっと中央に近い場所で開催する必要性が出てきた。例えば1763年のパクストンボーイズ虐殺がそれに気付く機会になった。1799年、州議会はランカスター郡庁舎に移動し、最後は1812年にハリスバーグに移転した<ref name=legiscap />。
1821年12月までは昔の[[ドーフィン郡 (ペンシルベニア州)|ドーフィン郡]]庁舎で州議会が開催されていたが<ref name=legiscap/>、このとき連邦様式のヒルズキャピトル(建設者でランカスターの建築家スティーブン・ヒルズに因む命名)が州政府の本拠のために取って置かれた4エーカー (16,000 m<sup>2</sup>) の岡の上に建設された。この土地は[[ヨークシャー]]生まれで、1705年には[[サスケハナ川]]東岸に交易基地を設立し、1733年には渡し船を運航したジョン・ハリス・シニアの息子で先見の明ある事業家が確保していた。ハリスバーグはこのハリスに因む命名である<ref>{{cite web|url=http://www.angelfire.com/on/Canadiangenealogy/harris.html |title=History of John Harris |publisher=Mrs. Carlyle C. Browne (descendant of Sarah Ann Harris, fifth daughter of Alfred Bingham Harris, and granddaughter of Elisha John Harris of the Mansion, Harrisburg PA, USA) |year=2001 |accessdate=2011-02-14}}</ref>。1897年2月2日、猛吹雪の日にヒルズキャピトルは焼失した。煙道に欠陥があったためと考えられている<ref name=legiscap/>。
新しい州会議事堂が建設されるまで、州議会はステート通りのグレイス・メソジスト教会で開催された。「不正があった」とされる建築家選定競技会の後、[[シカゴ]]の建築家ヘンリー・アイブス・コブが新しい議事堂の設計と建設にあたった。しかし議会にはその建設に充てる金がなく、おおまかに仕上げられたいくらか実用的な建物が完成した(コブ・キャピトル)。議会はこの建物の使用を拒んだ。1901年には政治と大衆の間に義憤が起こり、ペンシルベニア州の建築家に限った2回目の競技会が行われた。現在のペンシルベニア州会議事堂を設計するためにフィラデルフィアのジョセフ・ミラー・ハストンが選ばれ、コブの建物を壮大な公共建築に取り込んで完成させ、1907年に開所された<ref name=legiscap/>。
[[ファイル:Federal Emergency Relief Administration, FERA camp for unemployed women in Arcola, PA - NARA - 196583.tif|thumb|250px|ルーズベルト大統領による[[連邦緊急救済局]]の失業女性のためのキャンプ、1934年]]
新しい州会議事堂は激賞を得た<ref name=legiscap/>。そのドームは、[[ローマ]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]と[[アメリカ合衆国議会議事堂]]からヒントを得ていた<ref name=legiscap/>。[[セオドア・ルーズベルト]]大統領は「国内で最も美しい州会議事堂」と呼び、その開所式では「これまで見た中でも最大に威厳のある建物」と言った。1989年、「[[ニューヨーク・タイムズ]]」は「偉大で時には畏敬の念を感じるが、動いている建物であり、市民が立ち寄ることができ、...日々の生活の実感と繋がる建物」と褒めた<ref name=legiscap/>。
ペンシルベニア州には国内森林地域の9%がある。1923年、[[カルビン・クーリッジ]]大統領が1911年のウィークス法の下に、州北西部の[[エルク郡 (ペンシルベニア州)|エルク]]、[[フォレスト郡 (ペンシルベニア州)|フォレスト]]、[[マッキーン郡 (ペンシルベニア州)|マッキーン]]、[[ウォーレン郡 (ペンシルベニア州)|ウォーレン]]各郡に跨るアリゲイニー国立の森を創設し、[[アレゲニー川]]流域の木材生産と水域保護を目指した。アリゲイニー国立の森は州内唯一の国有林である。
[[フランクリン郡 (ペンシルベニア州)|フランクリン郡]]出身の[[ジェームズ・ブキャナン]]は唯一の独身大統領であり<ref name="jimbo">{{cite web|url=http://www.whitehouse.gov/history/presidents/jb15.html |title=James Buchanan White House biography |publisher=Whitehouse.gov |accessdate=2010-07-31}}</ref>、ペンシルベニア州出身としても唯一の大統領である。[[南北戦争]]の転換点となった[[ゲティスバーグの戦い]]は、州内[[ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)|ゲティスバーグ]]の近くで起こった。推計で35万人のペンシルベニア州民が北軍に従軍し、その中には8,600人の[[アフリカ系アメリカ人]]志願民兵もいた。
ペンシルベニア州では初めて事業的に成功した油井もあった。1859年、タイタスビル近くで、エドウィン・L・ドレイクが油井を掘り当て、国内最初の石油ブームをもたらした。
== 地理 ==
{{Seealso|w:Geography of Pennsylvania|ペンシルベニア州の郡一覧}}
[[ファイル:National-atlas-pennsylvania.png|thumb|300px|ペンシルベニア州の都市及び道路]]
[[ファイル:Pennsylvania-counties-map.gif|thumb|350px|ペンシルベニア州の郡配置図]]
ペンシルベニア州は北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステートと呼ばれている。北側及び北東側は[[ニューヨーク州]]に隣接しており、東側は[[デラウェア川]]をはさんで[[ニュージャージー州]]に隣接している。南側は[[デラウェア州]]、[[メリーランド州]]、[[ウェストバージニア州]]に隣接しており、西側は[[オハイオ州]]、北西側は[[エリー湖]]に隣接している。アメリカ合衆国最初の13州の中で、ペンシルベニア州のみが[[大西洋]]に面していない。ペンシルベニア州を流れる[[デラウェア川]]、[[サスケハナ川]]、[[モノンガヒラ川]]、[[アレゲニー川]]、[[オハイオ川]]はアメリカ合衆国の主要な河川である。[[州都]]は[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ市]]である。
ペンシルベニア州は南北の長さ170 [[マイル]] (274 [[キロメートル|km]])、東西の幅283 マイル (455 km) 程である<ref name=pageo>{{cite web|url=http://www.netstate.com/states/geography/pa_geography.htm |title=Pennsylvania geography |publisher=Netstate.com |accessdate=2010-07-31}}</ref>。総面積は[[1 E11 m<sup>2</sup>|46,055 平方マイル (119,282 km<sup>2</sup>)]]、陸地面積は44,817 平方マイル (116,075 km<sup>2</sup>)、水域面積は内陸部に 490 平方マイル (1,269 km<sup>2</sup>)、[[エリー湖]]で 749 平方マイル (1,940 km<sup>2</sup>) である<ref name=statabs>[https://web.archive.org/web/20061012001139/http://www.census.gov/compendia/statab/tables/06s0347.xls 2006 Statistical Abstract: Geography & Environment: Land and Land Use](2006年10月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。アメリカ合衆国内で33番目に大きな州となっている<ref>{{cite web|url=http://www.timetemperature.com/tzus/pennsylvania_time_zone.shtml |title=Pennsylvania Time Zone |publisher=Timetemperature.com |accessdate=2010-07-31}}</ref>。エリー湖の湖岸線は 57マイル (82 km)、デラウェア川に沿った海岸線は 57マイル (92 km) ある。マウントデイビスが[[海面|海抜]]3,213 [[フィート]] (979 [[メートル|m]]) で州内最高地点である。最低地点はデラウェア川の海面である。ペンシルベニア州は[[東部標準時|東部]][[標準時]]内に位置している。
州境の中で、南のメリーランド州とは[[メイソン=ディクソン線]](北緯39度43分)、デラウェア州とは[[12マイル円]]、東はデラウェア川、西のオハイオ州とは西経80度31分、北のニューヨーク州とは[[北緯42度線]]が基本となってほぼ長方形をしており、北の三角形がエリー湖まで伸びた地域が唯一飛び出した形になっている。
地理的に州内は5つの地域に区分される。すなわち[[アルゲイニー台地|アリゲイニー高原]]、リッジ・アンド・バレー地域、大西洋岸平原、[[ピードモント台地]]、およびエリー平原である。
== 気候 ==
{{Main|w:Climate of Pennsylvania}}
ペンシルベニア州の多様な地形により気候も様々であるが、総体的に冬は寒く、夏は降水量が多い。州南東の隅を除いて大部分は[[湿潤大陸性気候]]([[ケッペンの気候区分]]''Dfa'')にある。フィラデルフィア大都市圏のみが[[温暖湿潤気候]](ケッペンの気候区分''Cfa'')にあり、南のデラウェア州やメリーランド州に似ている。
内陸の山岳部に動くと冬は著しく寒くなり、曇りの日が増え、降雪量が多くなる。州の西部、特にエリー湖に近い地域は年間100インチ (250 cm) 以上の降雪があり、また降水量は州の全体で年間を通じて豊富である。春から夏、さらに秋にかけて異常気象が起こりやすく、[[竜巻]]は年間平均10個が発生している。
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:90%;"
| colspan="13" style="text-align:center;font-size:120%;background:#E8EAFA;"|各都市の月別最高最低平均気温(°F)
|-
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 年
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 1月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 2月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 3月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 4月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 5月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 6月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 7月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 8月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 9月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 10月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 11月
! style="background:#e5afaa; color:#000;"| 12月
|-
! style="background:#f8f3ca; color:#000;"| スクラントン
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 33/19
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 37/21
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 46/28
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 59/38
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 70/48
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 78/56
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 82/61
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 80/60
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 72/52
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 61/41
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 49/33
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 38/24
|-
! style="background:#f8f3ca; color:#000;"| エリー
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 34/21
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 36/21
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 44/27
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 56/38
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 67/48
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 76/58
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 80/63
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 79/62
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 72/56
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 61/45
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 50/37
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 38/27
|-
! style="background:#f8f3ca; color:#000;"| ピッツバーグ
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 36/21
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 39/23
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 49/30
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 62/40
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 71/49
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 79/58
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 83/63
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 81/62
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 74/54
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 63/43
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 51/35
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 39/25
|-
! style="background:#f8f3ca; color:#000;"| ハリスバーグ
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 37/23
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 41/25
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 50/33
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 62/42
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 72/52
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 81/62
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 85/66
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 83/64
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 76/56
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 64/45
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 53/35
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 41/27
|-
! style="background:#f8f3ca; color:#000;"| フィラデルフィア
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 40/26
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 44/28
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 53/34
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 64/44
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 74/54
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 83/64
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 87/69
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 85/68
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 78/60
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 67/48
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 56/39
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 45/30
|-
! style="background:#f8f3ca; color:#000;"| アレンタウン
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 36/20
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 40/22
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 49/29
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 61/39
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 72/48
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 80/58
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 84/63
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 82/61
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 75/53
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 64/41
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 52/33
| style="text-align:center; background:#f8f3ca; color:#000;"| 40/24
|-
| colspan="13" style="text-align:center;font-size:90%;background:#E8EAFA;"|[http://www.nws.noaa.gov/climate/xmacis.php?wfo=phi],<!--Philadelphia/Allentown--> [http://www.nws.noaa.gov/climate/xmacis.php?wfo=bgm],<!--Scranton/Wilkes-Barre-->[http://www.nws.noaa.gov/climate/xmacis.php?wfo=ctp],<!--Harrisburg-->[http://www.nws.noaa.gov/climate/xmacis.php?wfo=pbz],<!--Pittsburgh-->[http://www.nws.noaa.gov/climate/xmacis.php?wfo=cle],<!--Erie-->
|}
== 人口動勢 ==
{{USCensusPop
|1790 = 434373
|1800 = 602365
|1810 = 810091
|1820 = 1049458
|1830 = 1348233
|1840 = 1724033
|1850 = 2311786
|1860 = 2906215
|1870 = 3521951
|1880 = 4282891
|1890 = 5258113
|1900 = 6302115
|1910 = 7665111
|1920 = 8720017
|1930 = 9631350
|1940 = 9900180
|1950 = 10498012
|1960 = 11319366
|1970 = 11793909
|1980 = 11863895
|1990 = 11881643
|2000 = 12281054
|2010 = 12702379
|2020 = 13002700
|footnote=Source: 1910–2010<ref>{{cite web|author=Resident Population Data |url=http://2010.census.gov/2010census/data/apportionment-pop-text.php |title=Resident Population Data – 2010 Census |publisher=2010.census.gov |accessdate=2012-12-22}}</ref>
}}
[[ファイル:PennsylvaniaDemography.svg|thumb|left|300px|1790年から2000年の州人口推移]]
[[ファイル:Pennsylvania population map 1.png|thumb|left|300px|ペンシルベニア州の人口密度図]]
[[2020年]][[国勢調査]]時点で、ペンシルベニア州の人口は13,002,700人で、2010年国勢調査からは2.4%増加した<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。
人口の中で74.5%はペンシルベニア州生まれ、18.4%は国内他州の生まれ、1.5%は[[プエルトリコ]]、アメリカ合衆国領島嶼部あるいは国外でアメリカ人の親から生まれた者、5.6%は外国生まれである<ref>[http://factfinder2.census.gov/bkmk/table/1.0/en/ACS/10_SF4/DP02/0400000US42 American FactFinder – Results]</ref>。
1970年代から1980年代、ペンシルベニア州人口はゆるやかに増加した。1990年代から2000年代に入ると、他の州(移住民)から多くの人々がペンシルベニア州に移動し始めた。
年齢層で見ると5歳未満が5.9%、18歳未満が23.8%、65歳以上が15.6%となっている。2005年時点で高齢者人口比率は50州の中の第3位だった<ref name=PAFacts>{{cite web | url = http://pasdc.hbg.psu.edu/pasdc/whats_new/2007factsfortheweb.pdf | archiveurl = https://webcitation.org/5n8Tu9lEk?url=http://pasdc.hbg.psu.edu/pasdc/whats_new/2007factsfortheweb.pdf | archivedate = 2010年1月29日 | title = Pennsylvania Facts 2007 | publisher = Pennsylvania State Data Center Penn State Harrisburg | year = 2007 | accessdate = 2007-12-05 | format = PDF | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。女性が人口の51.7%を占めている<ref name="censusPA">FactFinder: Census 2000 Demographic Profile Highlights, Factfinder.census.gov</ref>。2005年時点で[[貧困線]]以下の住民比率は11.9%だった<ref name=PAFacts/>。
ペンシルベニア州の[[人口重心]]は[[ペリー郡 (ペンシルベニア州)|ペリー郡]]のダンキャノン・ボロとなっている<ref>{{cite web | title = Population and Population Centers by State – 2000 | publisher = United States Census Bureau | accessdate =2008-12-03 | url = http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt}}</ref>。
=== 人種及び祖先 ===
2010年国勢調査に拠れば、ペンシルベニア州の人種による人口構成は次のようになっている<ref>{{cite web|url=http://quickfacts.census.gov/qfd/states/42000.html |title=Pennsylvania QuickFacts from the US Census Bureau |publisher=Quickfacts.census.gov |date= |accessdate=2012-06-15}}</ref>。
* 81.9% [[コーカソイド|白人]](非ヒスパニック白人は79.2%)
* 11.3% [[アフリカ系アメリカ人|黒人]]
* 2.9% [[アジア系アメリカ人|アジア系]]
* 0.3% [[インディアン]]
* 1.9% 混血
* 5.9% [[ヒスパニック]](人種に拠らない)
2011年時点で1歳未満の州民の32.1%は少数民族の子供である<ref>"[http://www.cleveland.com/datacentral/index.ssf/2012/06/americas_under_age_1_populatio.html Americans under age 1 now mostly minorities, but not in Ohio: Statistical Snapshot]". ''The Plain Dealer''. June 3, 2012.</ref>。
州内のヒスパニック系人口は、2000年から2010年の間に82.6%増加し、国内でも最大級の増加率となっている<ref name=annest>{{cite web |url=http://www.census.gov/popest/data/state/asrh/2004/tables/SC-EST2004-03-42.xls |title=Annual Estimates of the Population |accessdate=2010-07-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130120132138/http://www.census.gov/popest/data/state/asrh/2004/tables/SC-EST2004-03-42.xls |archivedate=2013年1月20日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。主にアメリカ合衆国領であるプエルトリコからの移民が多いが、他にも[[ドミニカ共和国]]、[[メキシコ]]など中南米諸国からの移民や、ニューヨーク州やニュージャージー州など国内他州から、より安全で生活費が適度な環境を求めるヒスパニック系移住者が増えている。ヒスパニック系人口はアレンタウン、ランカスター、レディング、ヘイゼルトン、およびフィラデルフィア周辺で多く、その比率は20%以上となっている。2010年時点で、フィラデルフィア市から半径150マイル (240 km) 以内に85%が、またフィラデルフィア市内に約20%が住んでいる推計されている。
アジア系移民も約60%増加しており、特に[[インド|インド系]]、[[ベトナム系アメリカ人|ベトナム系]]、[[中国系アメリカ人|中国系]]の移民が多い。またニューヨーク州からフィラデルフィア市に移住するアジア系住民も多い。アジア系人口の絶対数で、フィラデルフィアは国内最大級の都市になっている。アフリカ系アメリカ人人口は13%成長した。白人は0.7%減少したが、この傾向は反転しつつある<ref>{{cite web|author=2010 Census Data |url=http://2010.census.gov/2010census/data/ |title=2010 Census Data – 2010 Census |publisher=2010.census.gov |accessdate=2011-07-07}}</ref>。
外国生まれの構成では、アジア系36.0%、ヨーロッパ系35.9%、ラテンアメリカ系30.6%、アフリカ系5%、北アメリカ系3.1%、オセアニア系0.4%となっている。
2006年から2008年の調査で、ペンシルベニア州で申告された祖先による構成比は、以下の通りだった<ref>{{cite web|author=American FactFinder, United States Census Bureau |url=http://factfinder2.census.gov/bkmk/table/1.0/en/ACS/08_3YR/DP3YR2/0400000US42 |title=American Community Survey 3-Year Estimates |publisher=Factfinder.census.gov |accessdate=2010-07-31}}</ref>。
* 28.5% [[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]]
* 18.2% [[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]
* 12.8% [[イタリア系アメリカ人|イタリア系]]
* 9.6% [[アフリカン・アメリカン]]
* 8.5% [[イギリス系アメリカ人|イギリス系]]
* 7.2% [[ポーランド系アメリカ人|ポーランド系]]
* 4.2% [[フランス系カナダ人]]
* 2.9% [[プエルトリコ系アメリカ人|プエルトリコ系]]<ref name=census>{{cite web|url=http://www.census.gov/prod/cen2010/briefs/c2010br-04.pdf |title=Puerto Ricans in Pennsylvania |accessdate=2011-11-08}}</ref>
* 2.2% オランダ系
* 2.0% スロバキア系
* 2.0% スコットランド・アイルランド系
* 1.7% スコットランド系
* 1.6% ロシア系
* 1.5% ウェールズ系
* 1.2% ハンガリー系
* 1.0% 西インド諸島系
* 1.0% ウクライナ系
* 1.0% メキシコ系
ドイツ系祖先のペンシルベニア州民は、フィラデルフィア以外のこの州の多くの地域に住んでいる。ペンシルベニア州北東部はニューヨーク州境付近にイギリス系祖先の住民が暮らしており、スクラントン地域内に多くのポーランド系アメリカ人が住んでいる。フィラデルフィアは黒人の大多数が暮らしていて、少数の黒人住民がピッツバーグ及びハリスバーグに住んでいる。また、近代文明的生活を行わない[[アーミッシュ]]と呼ばれるドイツ・スイス系の人々が住んでいる。
=== ペンシルベニア・ダッチ ===
ペンシルベニア・ダッチと呼ばれる人々と言語がある。この「ダッチ」はオランダ人ではなく「ドイツ人」あるいは「[[チュートン]]」を意味している。ドイツ人はドイツ語で「ドイッツェ」であり、これが英語で「ダッチ」に変わったと見なされている<ref>{{cite web|url=http://dictionary.reference.com/search?q=dutch&x=57&y=13 |title=Definition of "dutch" |publisher=Dictionary.reference.com |accessdate=2010-07-31}}</ref>。[[ペンシルベニアドイツ語]]は、西中部ドイツ語方言を受け継いでいる。[[アーミッシュ]]や[[メノナイト]]の社会では第一言語として話されているが、幾つかの言葉が英語化した以外、日常語として絶滅に近くなっている。
=== 宗教 ===
ペンシルベニア州の州の住民の宗教宗派別構成比は次のようになっている<ref name="Pew Religion and Politics">{{cite web
| title = Religion and Politics 2011: Pennsylvania
| work = U.S. Religious Landscape Study
| publisher = The Pew Forum on Religion & Public Life
| year = 2011
| url = http://religions.pewforum.org/maps
| accessdate = 2011-01-15}}</ref>。
*[[キリスト教]] –80%
**[[プロテスタント]] –51%
***[[メインライン・プロテスタント]] –25%
***[[福音主義]]プロテスタント –18%
***[[ブラック・プロテスタント]] –7%
**[[カトリック教会|ローマ・カトリック]] –29%
**他のキリスト教 –1%
*[[ユダヤ教]] –2%
*他の宗教 –1%
*無宗教 –13%
当初の植民地の中で、ロードアイランドとペンシルベニアのみが信教の自由を謳っており、その結果今日まで宗教的な多様性が続いている。
2000年時点で、州民の約69%は何らかの宗教組織に属していると推計された。ペンシルベニア州立大学の宗教データ・アーカイブ協会に拠れば、58%が115の宗教会派に属していた<ref name=arda>{{cite web|url=http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/42_2000.asp |title=The Arda |publisher=The Arda |accessdate=2010-07-31}}</ref>。ペンシルベニア州にはアーミッシュが多いが、オハイオ州[[ホームズ郡 (オハイオ州)|ホームズ郡]]に世界最大のアーミッシュ人口がいる<ref>{{cite web|author=Webb Design Inc. |url=http://www.visitamishcountry.com/ |title=Amish Country | Ohio | Visitor Information |publisher=Visitamishcountry.com |accessdate=2010-07-31}}</ref>。ペンシルベニア植民地の設立時にはクエーカー教徒が多く活躍したが、現在では少数派となっている。
2012年ギャラップ調査では、州民の40%は大変信仰心篤く、28%は中庸であり、32%は無宗教であるとなっていた<ref>{{cite web|author=Gallup |url=http://www.gallup.com/poll/153479/Mississippi-Religious-State.aspx#2|title=Mississippi Is Most Religious U.S. State|publisher= Gallup, Inc. |accessdate=2012-09-23}}</ref>。
== インディアン部族 ==
[[ファイル:Pennsylvania land purchases.png|300px|thumb|left|[[ウィリアム・ペン]]とその息子たちは、インディアンの土地を次々に「購入(purchases)」していった。右端は悪名高い「[[デラウェア州の歴史#歩いた分だけの土地を購入|歩いた分だけ購入した土地]]」。]]
デラウェア族、チェロキー族、[[イロコイ族]]、[[ハンニアソント族]]、[[サスケハンナ族]]、[[ウェンローロノン族]]など、10を超える[[インディアン]]部族がかつてこの州に先住していたが、19世紀までにすべて西側の他州に強制移住させられた。残るインディアンは「絶滅した」とみなされ、部族単位では存在しないことになっている。
ペンシルベニア州は、1879年に「インディアンを殺し、人間を助ける」(野蛮人の心を殺し、善良なキリスト教徒として救済する)の標語のもと、インディアンの児童を強制的に収容し、[[民族浄化]]の方針に沿って言語も文化も奪って白人に同化させる「[[インディアン寄宿学校]]」の第一号「'''カーライル・インディアン工業学校'''」が全米で初めて開校された地である。
≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族と団体≫
*「東[[レナペ|デラウェア族]]」
*「[[レナペ|レナ=ペ族]]」
*「レナペ族」
*「南東[[チェロキー族]]・ペンシルベニア連邦」
*「ツァラギ・エロヒ・チェロキー族」
*「西バージニアチェロキー族連合」
*「自由[[チェロキー族]]・チカマウガ」
=== インディアン・カジノ ===
ペンシルベニア州は近年、カジノ・ギャンブルを合法化させた州であり、現在9つのカジノが営業され、今後も増える傾向にある。しかし、この州のインディアンが運営する「インディアン・カジノ」は一軒もない。
≪ペンシルベニア州のインディアン・カジノと経営部族≫
*「ポコモダウンのモヘガンの太陽」-[[コネチカット州]]の[[モヘガン族]]
== 州内の自治体と主要都市 ==
:''関連項目:[[ペンシルベニア州の郡一覧]]、[[:en:List of cities in Pennsylvania|List of cities in Pennsylvania]]''
[[ファイル:Phila.jpg|center|600px|thumb|ペンシルベニア州の最大都市(全米6位)並びにアメリカ合衆国内で7番目に大きな大都市圏である、フィラデルフィア市のスカイライン]]
[[ファイル:Pittsburgh WEO Night 1.jpg|thumb|right|[[ピッツバーグ]]市、州内第二の都市]]
[[ファイル:Allentown.jpg|thumb|right|[[アレンタウン (ペンシルベニア州)|アレンタウン]]州内第三の都市]]
州内の自治体:
ペンシルベニア州はアルファベット順に[[アダムズ郡 (ペンシルベニア州)|アダムズ郡]]から[[ヨーク郡 (ペンシルベニア州)|ヨーク郡]]まで67の[[郡 (アメリカ合衆国)|郡]]から成り立っている<ref name="PA Manual 6-3">''The Pennsylvania Manual'', p. 6-3.</ref>。[[アレゲニー郡 (ペンシルベニア州)|アレゲニー郡]]([[ピッツバーグ]]がある)、[[フィラデルフィア郡 (ペンシルベニア州)|フィラデルフィア郡]]([[フィラデルフィア]]がある)などである。フィラデルフィア郡は1854年にフィラデルフィア市と統合されている。郡の中は、市、ボロ、タウンシップという、総数2,562の自治体に区分される<ref name="PA Manual 6-5">''Pennsylvania Manual'', p. 6-5.</ref>。
州内には56の市があり、人口によって第1級、第2級、第3級に区分されている<ref name="PA Manual 6-3" /><ref>''The Pennsylvania Manual'', p. 6-46.</ref>。フィラデルフィア市が唯一の第1級市であり、2020年国勢調査時点での人口は160万人を超えている<ref name="Census2020_QuickFacts" /><ref name="PA Manual 6-5" />。ピッツバーグ市(人口30万人強<ref name="Census2020_QuickFacts" />)が第2級、[[スクラントン (ペンシルベニア州)|スクラントン市]](人口7.6万人<ref name="Census2020_QuickFacts" />、ただし最盛期の[[1930年]]には14.3万人の人口を抱えていた<ref>[https://www2.census.gov/library/working-papers/1998/demo/pop-twps0027/tab16.txt Table 16. Population of the 100 Largest Urban Places: 1930]. U.S. Bureau of the Census. 1998年6月15日.</ref>)が第2級Aの市である<ref name="PA Manual 6-5" />。
人口で第3位の[[アレンタウン (ペンシルベニア州)|アレンタウン市]](人口12.5万人<ref name="Census2020_QuickFacts" />)から、人口僅か840人のパーカー市までが第3級市である。第1級と第2級の市は市長が強い「市長・市政委員会」方式の政府を採り、第3級市は「市政委員会・マネジャー」方式の「弱い市長」を選んでいる<ref name="PA Manual 6-5" />。
主要都市:
<table> <tr><td valign=top>
*[[アレンタウン (ペンシルベニア州)|アレンタウン]]
*[[ベスレヘム (ペンシルベニア州)|ベスレヘム]]
*[[イーストン (ペンシルベニア州)|イーストン]]
*[[エリー (ペンシルベニア州)|エリー]]
*[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]]
*[[ランカスター (ペンシルベニア州)|ランカスター]]
*[[フィラデルフィア]]
*[[ピッツバーグ]]
</td><td valign=top>
*[[レディング (ペンシルベニア州)|レディング]]
*[[スクラントン (ペンシルベニア州)|スクラントン]]
*[[ステートカレッジ (ペンシルベニア州)|ステートカレッジ]]
*[[ワシントン (ペンシルベニア州)|ワシントン]]
*[[ウィルクスバリ (ペンシルベニア州)|ウィルクスバリ]]
*[[ウィリアムズポート (ペンシルベニア州)|ウィリアムズポート]]
*[[ヨーク (ペンシルベニア州)|ヨーク]]
</td></tr></table>
:''関連項目:[[:en:Pennsylvania locations by per capita income|Pennsylvania locations by per capita income]]''
ボロは概して市より小さく、市は法人化されているが、ボロは市として法人化される前の形態である<ref name="PA Manual 6-5" />。州内に958のボロがあり、その全てが「弱い首長」の政府形態を採っている<ref name="PA Manual 6-3" /><ref name="PA Manual 6-5" />。
タウンシップが三つ目の自治体形態であり、第1級と第2級に区分される。州内に第1級93と第2級1,454のタウンシップがある<ref name="PA Manual 6-6">''The Pennsylvania Manual'', p. 6-6.</ref>。第2級の場合、人口密度が300人/平方マイル (120 /km<sup>2</sup>) を超え、住民投票で支持された場合に第1級になることができる<ref name="PA Manual 6-6" />。
ブルームズバーグのみが1870年に町として法人化されており、州内唯一の町である<ref>''The Pennsylvania Manual'', p. 6-22.</ref>。1975年、アレゲニー郡のマッカンドレス・タウンシップが自治憲章の下に「[[マッカンドレス (ペンシルベニア州)|マッカンドレス町]]」となったが、法的には現在も第1級タウンシップのままである<ref>Title 302, Pennsylvania Code, Section 23.1–101.</ref>。
== 政治と法律 ==
{| border="1" cellpadding="4" cellspacing="4" style="float:right; margin:2em; border:1px #aaa solid; border-collapse:collapse; font-size:95%;"
|+ '''大統領選挙の結果'''<ref>{{cite web|url=http://www.uselectionatlas.org/RESULTS/compare.php?year=2008&fips=42&f=0&off=0&elect=0&type=state|title = Presidential General Election Results Comparison – Pennsylvania|publisher=Dave Leip's Atlas of United States Presidential Elections|year=2005|accessdate=2007-07-07}}</ref>
|- style="background:lightgrey;"
! 年
! [[共和党 (アメリカ)|共和党]]
! [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|'''48.58%''' ''2,970,733''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|47.85% ''2,926,441''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙|2012年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|46.58% ''2,680,434''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''51.97%''' ''2,990,274''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|44.15% ''2,655,885''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''54.47%''' ''3,276,363''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|48.42% ''2,793,847''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''50.92%''' ''2,938,095''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|46.43% ''2,281,127''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''50.60%''' ''2,485,967''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|39.97% ''1,801,169''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''49.17%''' ''2,215,819''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|36.13% ''1,791,841''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''45.15%''' ''2,239,164''
|-
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙|1988年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|'''50.70%''' ''2,300,087''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|48.39% ''2,194,944''
|-
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|1984年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|'''53.34%''' ''2,584,323''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|45.99% ''2,228,131''
|-
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙|1980年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|'''49.59%''' ''2,261,872''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|42.48% ''1,937,540''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙|1976年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|47.73% ''2,205,604''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''50.40%''' ''2,328,677''
|-
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|'''59.11%''' ''2,714,521''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|39.13% ''1,796,951''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|1968年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|44.02% ''2,090,017''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''47.59%''' ''2,259,405''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|1964年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|34.70% ''1,673,657''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''64.92%''' ''3,130,954''
|-
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|1960年]]
| style="text-align:center; background:#fff3f3;"|48.74% ''2,439,956''
| style="text-align:center; background:#f0f0ff;"|'''51.06%''' ''2,556,282''
|}
{| class="wikitable"
! colspan = 3 | 政党別有権者登録数、2010年6月28日時点<ref>{{cite web|title = Voter Registration Statistics – Current Voter Registration Statistics | publisher = Pennsylvania Division of Voter Registration | format = Microsoft Excel | accessdate =2010-07-07 | url = http://www.portal.state.pa.us/portal/server.pt/community/voter_registration_statistics/12725}}</ref>
|-
! 政党
! 有権者登録数
! 比率
|-
| [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
| style="text-align:center;"| 4,309,604
| style="text-align:center;"| 51.00%
|-
| [[共和党 (アメリカ)|共和党]]
| style="text-align:center;"| 3,122,036
| style="text-align:center;"| 36.95%
|-
| 無党派
| style="text-align:center;"| 492,077
| style="text-align:center;"| 5.82%
|-
| その他の政党
| style="text-align:center;"| 525,962
| style="text-align:center;"| 6.22%
|-
! 合計
! style="text-align:center;"| 8,449,679
! style="text-align:center;"| 100%
|}
=== 州政府 ===
{{Main|w:Government of Pennsylvania}}
ペンシルベニア州は州になってから5代の憲法を持ってきた<ref name=jenkinslaw>{{cite web |author=Jenkins Law Library |url=http://www.jenkinslaw.org/collection/researchguides/publications/ann-constitutions.php |title=23 Pennsylvania Law Weekly 324 (March 27, 2000) |publisher=Jenkinslaw.org |accessdate=2010-07-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100113203057/http://www.jenkinslaw.org/collection/researchguides/publications/ann-constitutions.php |archivedate=2010年1月13日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。1776年、1790年、1838年、1874年、および1968年<ref>[http://sites.state.pa.us/PA_Constitution.html 1968]</ref>に制定されたものである。それ以前の植民地時代には1世紀にわたって「政府の枠組み」で統治され、1682年、1683年、1696年、1701年の版があった<ref name=jenkinslaw />。
州都は[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]]である。州議会はハリスバーグにある州会議事堂で開催される。
{{Further2|[[:en:Political party strength in Pennsylvania]]}}
1992年からの大統領選挙では、ペンシルベニア州は民主党候補を支持している。[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992年]]と[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996年]]は、[[ビル・クリントン]]が大差で勝利、[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年]]の[[アル・ゴア]]はやや僅差で勝利している。[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年]]は[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]が現職の[[ジョージ・W・ブッシュ]]を接戦の末に制した。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年]]には、[[バラク・オバマ]]が[[ジョン・マケイン]]を大差で降している<ref name=PAFacts>{{cite web | url = http://pasdc.hbg.psu.edu/pasdc/whats_new/2007factsfortheweb.pdf | archiveurl = https://webcitation.org/5n8Tu9lEk?url=http://pasdc.hbg.psu.edu/pasdc/whats_new/2007factsfortheweb.pdf | archivedate = 2010年1月29日 | title = Pennsylvania Facts 2007 | publisher = Pennsylvania State Data Center Penn State Harrisburg | year = 2007 | accessdate = 2007-12-05 | format = PDF | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。
しかし、[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年]]は共和党候補の[[ドナルド・トランプ]]が民主党候補の[[ヒラリー・クリントン]]を接戦の末破っており、24年ぶりに共和党候補が勝利した。
[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙|2020年]]には、民主党候補の[[ジョー・バイデン]]が共和党候補のドナルド・トランプを僅差で破り、選挙人20人を獲得。これによりバイデンが当選に必要な270人の選挙人を確保したため、ペンシルベニア州が大統領選挙の行く末を決めることとなった。
==== 州知事 ====
[[File:Governor Shapiro.jpg|thumb|right|200px|[[:en:Josh Shapiro|ジョシュ・シャピロ]]]]
{{Main|w:List of Governors of Pennsylvania}}
現在の知事は、民主党のジョシュ・シャピロである。選挙で選ばれる他の行政官は、副知事、検事総長、監査総監、州財務官である<ref>[http://www.electionreturns.state.pa.us/ElectionsInformation.aspx?FunctionID=12&ElectionID=53 Commonwealth of PA - Election Results 2012] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130119033506/http://www.electionreturns.state.pa.us/ElectionsInformation.aspx?FunctionID=12&ElectionID=53 |date=2013年1月19日 }}</ref>。
:''関連項目:[[:en:List of Pennsylvania state agencies|List of Pennsylvania state agencies]]''
==== 州議会 ====
{{Main|w:Pennsylvania General Assembly}}
ペンシルベニア州は1790年憲法で制定した[[両院制]]議会を採っている。ウィリアム・ペンが採用した当初の議会は一院制だった<ref>{{cite web|url=http://www.phmc.state.pa.us/BAH/dam/rg/rg7.htm |title=Pennsylvania State Archives |publisher=Phmc.state.pa.us |accessdate=2010-07-31}}</ref>。州議会には定数50人の上院<ref>{{cite web|url=http://www.legis.state.pa.us/cfdocs/legis/home/member_information/senators_alpha.cfm |title=Pennsylvania Senators |publisher=Legis.state.pa.us |accessdate=2010-07-31}}</ref>と定数203人の下院がある<ref>{{cite web|url=http://www.legis.state.pa.us/cfdocs/legis/home/member_information/representatives_alpha.cfm |title=Pennsylvania House of Representatives |publisher=Legis.state.pa.us |accessdate=2010-07-31}}</ref>。2022年に行われた州議会議員選挙の結果、共和党が上院、民主党が下院の多数派となっている。
==== 司法府 ====
{{Main|w:Unified Judicial System of Pennsylvania}}
ペンシルベニア州は60の司法区に分かれており<ref name=courts>{{cite web |url=http://www.aopc.org/T/CommonPleas/listofcounties.htm |title=Judicial districts |publisher=Aopc.org |accessdate=2010-07-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100720213457/http://www.aopc.org/T/CommonPleas/listofcounties.htm |archivedate=2010年7月20日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、その大半には地区判事がおり、重犯罪と軽犯罪、小さな刑事事件と民事事件の第一審を裁く<ref name=courts />。大半の刑事と民事の事件は一般訴訟裁判所が裁き、一般訴訟裁判所は地区裁判官と地方機関決定事項に対する控訴裁判所ともなる<ref name=courts/>。上級裁判所は一般訴訟裁判所からの全ての控訴を審問する。電話[[盗聴]]捜査については令状を査問する第一審でもある<ref name=courts/>。コモンウェルス裁判所は特定州機関の最終命令にたいする控訴、および一般訴訟裁判所から指定された事件に限って審問を行う<ref name=courts/>。ペンシルベニア州最高裁判所は最終控訴審である。州内の裁判官は全て選挙で選ばれ首席判事は経験年数で決められる<ref name=courts/>。
==== 税 ====
ペンシルベニア州は国内で10番目に税の負担が重い<ref>{{cite web|url=http://taxfoundation.org/state-tax-climate/pennsylvania|title=The facts on Pennsylvania's Tax Climate|publisher=Tax Foundation|accessdate=2012-08-22}}</ref>。州民が払う税の総額は年平均で837億米ドルであり、一人当たりでは6,640米ドルである。州民は税総額の76%を負担している。多くの州政治家は州外からの税収を増やそうと務めている。たとえば、天然ガスの掘削に課税していなかったので、これに対する課税などである<ref>{{cite web|url=http://articles.philly.com/2011-07-03/news/29733315_1_shale-tax-extraction-tax-drilling-tax |title=Shale tax comes up dry for 3d year |publisher=Articles.philly.com |date=2011-07-03 |accessdate=2011-09-19}}</ref>。[[州間高速道路]]の有料化も考えられている。特に[[州間高速道路80号線]]は州外からの通勤者が多く利用し、維持費用が嵩んでいる<ref>{{cite web |url=http://www.tollroadsnews.com/node/4527 |title=Gov Rendell says all of Pennsylvania's transit agencies will get I-80 toll $s |publisher=TOLLROADSnews |date=2010-01-06 |accessdate=2011-09-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120405231239/http://www.tollroadsnews.com/node/4527 |archivedate=2012年4月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
[[消費税]]は歳入の39%を挙げている。個人[[所得税]]が34%、自動車税が約12%、タバコとアルコール飲料の税が5%である<ref>''Revenue Department Releases August Collections (09/01/2006)'' </ref>。個人の所得税は、年金(給与)、利子、配当、事業などの純利益、処分資産の純利益、賃貸、ロイヤリティ、特許、著作権からの純収入、資産や信託資産からの収入、ギャンブルや宝くじの収入の8種類が課税対象である<ref>{{cite web|url=http://www.portal.state.pa.us/portal/server.pt/community/personal_income_tax/11409 |title=Personal Income Tax |publisher=Portal.state.pa.us |accessdate=2010-07-31}}</ref>。
郡、自治体、教育学区は不動産に課税している。さらに幾つかの地方政体は個人収入に所得税を課している。一般に所得税の総額は収入の1%だが、自治憲章を持っている自治体は1%以上を課することも可能である。67郡のうち32郡は株式、債券などに個人資産税を課している。
=== 連邦議会 ===
上院議員には、共和党議員を選んできた歴史がある。2009年から2011年、上院議員が2人とも民主党という時期があったが、これは1947年以来のことだった。2010年には、共和党が上院の1議席を取り戻した。民主党のコンサルタント、ジェイムズ・カービルは、ペンシルベニア州のことを「東にフィラデルフィア、西にピッツバーグ市、その中間にアラバマ州」と皮肉を交えて語った。
アメリカ合衆国上院議員は、2023年時点で2人とも民主党である。
アメリカ合衆国下院議員は、17議席を割り当てられており、2023年時点では民主党9人、共和党8人である。
== 経済 ==
[[ファイル:Bethlehem Steel.jpg|thumb|250px|[[ベスレヘム・スチール]]の閉鎖された施設。その跡地には2009年にサンズ・カジノ・リゾートが、2011年にはアーツクエスト、レビット・パビリオン、PBS39ができた]]
ペンシルベニア州の2010年総生産は5,700億米ドルであり、合衆国内で6番目だった<ref name=stategdp>{{cite web|title=GDP by State|url=http://greyhill.com/gdp-by-state|publisher=Greyhill Advisors|accessdate=2011-09-16}}</ref>。もし、ペンシルベニア州が独立した国であれば、この州の経済は第18位に相当する。2010年の一人当たりの収入は、合衆国内で29番目に位置する39,830米ドルだった<ref name=stategdp/>。
都市製造業の中心は、州南東隅のフィラデルフィア市、南西隅のピッツバーグ市、北西隅のエリー市、北東隅のスクラントン、ウィルクスバリ両市、東中部のアレンタウン、ベスレヘム、イースト各市である。州域の大半は田園であり、この落差が州の政治や経済に影響している。フィラデルフィア市には[[フォーチュン500]]に入っている会社が6社ある<ref name=F500>{{cite news|url=http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2007/states/PA.html |title=Fortune 500 |publisher=CNN |date=2007-04-30 |accessdate=2010-07-31}}</ref>。キングオブプルシアなど郊外部にはさらに多くの会社がある。金融保険業では指導的存在である。
ピッツバーグ市にはフォーチュン500に入っている会社が8社ある、[[USスチール]]、[[PPGインダストリーズ]]、[[ハインツ|HJハインツ]]などである<ref name=F500 />。州全体では50社がフォーチュン500に入っている<ref name=F500 />。エリー市には[[GEトランスポーテーション・システム]]があり、国内最大の機関車製造会社である。
民間の最大雇用主は[[ウォルマート]]であり、続いて[[ペンシルベニア大学]]である。
2012年4月時点で州内失業率は7.4%だった<ref>{{cite web|url=http://www.deptofnumbers.com/unemployment/pennsylvania/| title= Department of Numbers | accessdate=May 27, 2012}}</ref>。
農業生産品は乳製品、鳥肉、牛、苗床、キノコ、豚、及び干し草である。工業生産品は食品加工、化学製品、機械及び電気設備である。観光業は合衆国内で最も訪れた州の7番目に位置し、159億米ドルの収入となり、大変大きな産業である。カリフォルニア州、フロリダ州、ニューヨーク州、テキサス州、イリノイ州、及びネバダ州に続く。
最近、ニューヨーク州からペンシルベニア州に広がる[[:en:Marcellus Shale|Marcellus Shale]]地層に含まれる天然ガスの生産が活況を呈している。
[[ファイル:Marcellus Shale Gas Drilling Tower 1 crop.jpg|thumb|right|[[シェールガス]]の生産井]]
=== 主な会社など ===
ペンシルベニア州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。
*[[USスチール]]:鉄鋼業([[ピッツバーグ|ピッツバーグ市]])
*MSA(エムエスエイ):安全衛生保護具製造([[ピッツバーグ|ピッツバーグ市]])
*[[ジッポー]]社:ライターなど製造業([[ブラドフォード (ペンシルベニア州)|ブラドフォード市]])
*[[ルートロン]]:調光器([[リーハイ郡 (ペンシルベニア州)|リーハイ郡]])
*[[ザ・ハーシー・カンパニー|Hershey's]]:製菓業([[ハーシー (ペンシルベニア州)|ハーシー]])
=== 金融業 ===
国内で最初に認定された銀行は、1781年にフィラデルフィア市に設立されたバンク・オブ・ノースアメリカだった。この銀行は何度か合併を繰り返し、現在は[[ウェルズ・ファーゴ]]の一部となり、国内認定第1号の称号を使っている。
1963年国定銀行法の下で最初に認定された銀行もある。ピッツバーグ・セイビングス・アンド・トラスト社が認定を受け、ピッツバーグ第一国定銀行と改名した。この銀行は現在もPNCフィナンシャル・サービスとして存続しており、ピッツバーグ市を本拠にしている。PNCは州内最大の銀行であり、国内でも第6位である。
=== 農業 ===
{{main|w:Agriculture in Pennsylvania}}
ペンシルベニア州の農業生産高は国内19位だが、マッシュルームでは第1位、リンゴでは第2位、クリスマスツリーと産卵鶏では第3位、苗と芝、牛乳、[[サイレージ]]用トウモロコシ、ブドウ(ジュース用を含む)、馬では第4位である。またワインの生産量では国内第8位である。
=== ギャンブル ===
{{main|w:Gambling in Pennsylvania}}
カジノが2004年に合法化された。州内に9か所のカジノがあり、建設中または計画中のものが3か所ある。競馬、スロットマシン、電子テーブルゲームが合法だが、テーブルゲームを合法化する議案が2009年秋に審議された。ポーカー、ルーレット、ブラックジャック、ダイスなどのテーブルゲームが2010年1月に議会で承認され1月7日に州知事の署名により法制化された。スポーツに係わる賭博は違法である。
エド・レンデル州知事は2009年にバーや民間クラブでのビデオ・ポーカー・マシンの合法化を検討した。これは推計で17,000台のマシンが運営されているからだった<ref>{{cite news|url=http://www.post-gazette.com/pg/09035/946691-85.stm |title=Rendell wants legal video poker |publisher=Post-gazette.com |date=2009-02-04 |accessdate=2010-07-31 | first1=Tom | last1=Barnes | first2=Gary | last2=Rotstein}}</ref>。この計画では、アルコール販売を許可された施設が5台までのマシンを置くことを認められるはずだった。すべてのマシンはカジノと同様に州のコンピュータ・システムに繋がれることになっていた。ギャンブルの売り上げは、勝者に支払った後の50%を州に税として支払い、残り50%は経営者に残ることになっている。
=== 映画産業 ===
ペンシルベニア州映画制作税額控除が2004年に始まり、州内の[[映画産業]]発展を促している。
== 交通 ==
{{See also|w:List of airports in Pennsylvania}}
{{Multiple image
| direction = vertical
| image1 = Allegheny Mountain Tunnel.JPG
| caption1 = 入口
| image2 = 2215 - Pennsylvania Turnpike Tunnel.JPG
| caption2 = 内観
| width = 200
| footer = アリゲイニー山トンネル、[[ペンシルベニア・ターンパイク]]にある5つのトンネルの中で最長}}
ペンシルベニア州交通省は州内121,770マイル (195,970 km) の道路の内、39,861マイル (64,150 km) を所有しており、その長さは国内第5位となっている<ref name="PennDOT fact 7">"Pennsylvania Department of Transportation Fact Book", p. 7.</ref>。[[ペンシルベニア・ターンパイク]]体系は全長535マイル (861 km) あり、本線はオハイオ州からフィラデルフィア市やニュージャージー州に伸びている<ref name="PennDOT fact 7" />。ペンシルベニア・ターンパイク委員会が管轄している。もうひとつ東西に伸びる幹線道が[[州間高速道路80号線]]であり、州の北部をオハイオ州からニュージャージー州を繋ぎ、デラウェア・ウォーターギャップで終わっている。[[州間高速道路90号線]]はオハイオ州からニューヨーク州を繋ぎ、州内の最北西部[[エリー郡 (ペンシルベニア州)|エリー郡]]の比較的短区間のみが入っている。
[[ファイル:Appalachian Throughway.jpg|thumb|left|ラマー・タウンシップを通る[[アメリカ国道]]220号線]]
南北方向の幹線道は州間高速道路79号線であり、エリー市に始まり、ピッツバーグ市を抜けてウェストバージニア州に入る。同81号線はニューヨーク州から入って[[ラッカワナ郡 (ペンシルベニア州)|ラッカワナ郡]]スクラントン市とハリスバーグ市を通り、メリーランド州に抜ける。同476号線は[[チェスター郡 (ペンシルベニア州)|チェスター郡]]のデラウェア州境北7マイル (11 km) に始まり、132マイル (212 km) 走ってラッカワナ郡のクラークスサミットに至り、州間高速道路81号線に合流する。この道路は20マイル (32 km) の区間を除き、ペンシルベニア・ターンパイクの北延伸部であり、ペンシルベニア・ターンパイクの南側本線は公式には「退役兵記念ハイウェイ」と呼ばれるが、地元では「ブルールート」と呼ばれるのが普通である。
[[南東ペンシルベニア交通局]] (SEPTA)は国内第6位の交通機関であり、フィラデルフィア大都市圏で通勤鉄道、通常の鉄道、[[ライトレール]]、バス体系を運行している。アレゲニー郡港湾公社(PATransit)は国内第25位の交通機関であり、ピッツバーグ市内と周辺のバス体系およびライトレールを運行している<ref>"2010 Public Transportation Fact Book", p. 8.</ref>。
都市間旅客鉄道は[[アムトラック]]が運行し、高速運転が行われる[[キーストーン回廊]]には「[[キーストーン・サービス|キーストーン号]]」を走らせている。これはハリスバーグとフィラデルフィアの[[30番通り駅]]を繋ぎ、その後は[[ニューヨーク]]市に向かう。また1日1往復運転の「[[ペンシルベニアン号]]」([[:en:Pennsylvanian (train)|Pennsylvanian]])も同様にニューヨーク市からハリスバーグを走るが、ピッツバーグ市まで伸びている。これらの列車が通る路線はかつての[[ペンシルバニア鉄道]]の本線にあたり、[[アルトゥーナ (ペンシルベニア州)|アルトゥーナ]]には著名な鉄道史跡である「[[ホースシューカーブ (ペンシルベニア州)|ホースシューカーブ]]」がある。「[[キャピトル・リミテッド]]」は[[シカゴ]]と[[ワシントンD.C.]]を結び、途中でピッツバーグ市、コネルズビル市を通る<ref name="PennDOT fact 10" />。シカゴとニューヨーク市を結ぶのが「[[レイクショア・リミテッド]]」であり、エリー市を通っている<ref name="PennDOT fact 10" />。「キャピトル・リミテッド」も「レイクショア・リミテッド」も1日1往復運転である。州内で運行される短線貨物鉄道は67線あり、国内最大数である<ref name="PennDOT fact 10">"Pennsylvania Department of Transportation Fact Book", p. 10.</ref>。
主要空港は7つある。[[フィラデルフィア国際空港]] (PHL)、[[ピッツバーグ国際空港]] (PIT)、リーハイバレー国際空港、[[ハリスバーグ国際空港]]、エリー国際空港、[[ユニバーシティパーク空港]]、ウィルクスバリ・スクラントン国際空港である。公共用途空港は全部で134ある<ref name="PennDOT fact 10" />。ピッツバーグ港は国内内陸港では第2位、全体でも第18位の港である。フィラデルフィア港は国内第24位である<ref>Waterborne Commerce Statistics Center, p. 5-4.</ref>。エリー湖すなわち五大湖には唯一の港、エリー港がある。
アリゲイニー川閘門とダム第2号は、[[アメリカ陸軍工兵司令部]]が運営する国内255か所の閘門の中でも使用頻度が高いものである<ref>{{Cite news|url=http://www.pittsburghlive.com/x/pittsburghtrib/business/s_699345.html|title=Corps shuts Highland Park lock for two weeks of repairs|last=Santoni|first=Matthew|date=2010-09-14|work=Pittsburgh Tribune-Review|publisher=Trib Total Media|accessdate=2010-09-14|archiveurl=https://archive.is/20120908040557/http://www.pittsburghlive.com/x/pittsburghtrib/business/s_699345.html|archivedate=2012年9月8日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。このダムがピッツバーグ市中心街近くでアリゲイニー川の水を溜めている。
== 教育 ==
{{Main|w:Education in Pennsylvania}}
[[ファイル:Penn campus 2.jpg|thumb|フィラデルフィア市にある[[ペンシルベニア大学]]]]
州内には500の公共教育学区、数多い私立学校、公立のカレッジと大学、また100以上の私立高等教育機関がある。
=== 初等中等教育 ===
州法により州内に住む8歳から17歳の子供は学校への入学が義務づけられており、認証された高校を卒業すれば17歳より前でも義務は無くなる<ref>[http://www.pde.state.pa.us/] 'Pennsylvania Department of Education (PDE). Retrieved on December 4, 2009.'</ref>。2005年時点で18歳から24歳の州民の83.8%が高校を卒業している。25歳以上では86.7%が高校卒である。さらに25.7%は学士以上の取得のために進学している<ref>[http://nces.ed.gov/] 'National Center for Education Statistics (NCES). Retrieved on December 4, 2009.'</ref>。標準試験の結果は常に良好である。2007年の8年生の試験では、数学で第14位、読みで第12位、書きで第10位だった<ref>'NCES.'</ref>。
1988年、ペンシルベニア州州議会は法第169を成立させ、義務教育の代わりに両親または保護者が子供の家庭内教育を行うことを認めた。この法では両親とその居住する教育学区の任務と責任を規定している<ref>'Pennsylvania Department of Education: Home Education and Private Tutoring. Retrieved on December 4, 2009.'</ref>。
=== 単科及び総合大学 ===
{{See also|w:List of colleges and universities in Pennsylvania}}
ペンシルベニア州高等教育体系は14の州立大学を擁する公立大学体系である。コモンウェルス高等教育体系は、4つの州が係わる学校を組織する主体であり、これらの学校は州の予算をうける独立した機関である。さらに公的予算による15の2年制[[コミュニティ・カレッジ]]と工業学校があり、ペンシルベニア州高等教育体系とは別に管理されている。これに加えて多くの私立2年制または4年制工業学校、カレッジ、大学がある。
[[カーネギーメロン大学]]、[[ペンシルベニア州立大学]]、[[ペンシルベニア大学]]、[[ピッツバーグ大学]]は、先端的研究大学のみが参加を認められる[[アメリカ大学協会]]のメンバーである。ペンシルベニア州立大学は[[ランドグラント大学]]、シーグラント・カレッジ、スペースグラント・カレッジでもある。また、[[1834年]]に[[ディッキンソン大学]]の法学部門として創設され、同学から独立した後、[[2000年]]にペンシルベニア州立大学と合併してその傘下に入ったディッキンソン法学校は、州内初、全米でも5番目に古い[[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|法学校]]である<ref>[https://www.dickinson.edu/info/20048/history_of_the_college/1404/the_dickinson_story The Dickinson Story]. Dickinson College. 2020年4月18日閲覧.</ref><ref>[http://nationaljurist.com/law-schools/pennsylvania-state-university-dickinson-law Pennsylvania State University, Dickinson Law]. ''National Jurist''. 2020年4月20日閲覧.</ref>。フィラデルフィア市にあるペンシルベニア大学は[[1740年]]に創立した州内初の大学と見なされ、また国内初の医学校でもある。[[アイビー・リーグ]]に入る大学ではペンシルベニア州で唯一、かつ最南端の大学である。[[ペンシルベニア美術アカデミー]]は国内初かつ最古の芸術学校である<ref name=pafa.org>{{cite web|title=History of the School|url=http://www.pafa.org/School/Overview/History-of-the-School/350/|work=pafa.org|accessdate=2011-04-08}}</ref>。フィラデルフィア薬科カレッジは現在フィラデルフィア科学大学に属しており、国内初の薬科学校だった<ref name=usciences.edu>{{cite web|title=About – University of the Sciences|url=http://www.usciences.edu/about/|work=usciences.edu|accessdate=2011-04-08}}</ref>。
[[USニューズ&ワールド・レポート]]誌の総合大学ランキングで全米トップ100に入るペンシルベニア州内の大学は以下の7校である<ref>[https://www.usnews.com/best-colleges/rankings/national-universities Best Colleges 2020: National Universities Rankings]. U.S. News & World Report. 2019年. 2020年2月20日閲覧.</ref>。
* [[カーネギーメロン大学]](Carnegie Mellon University)
* [[ドレクセル大学]](Drexel University)
* [[リーハイ大学]](Lehigh University)
* [[ペンシルベニア州立大学]](Pennsylvania State University)
* [[ペンシルベニア大学]](University of Pennsylvania)
* [[ピッツバーグ大学]](University of Pittsburgh)
* [[ビラノバ大学]](Villanova University)
また、同じくUSニューズ&ワールド・レポート誌の[[リベラル・アーツ・カレッジ]]のランキングでは、ペンシルベニア州内の以下13校が全米トップ100に入っている<ref>[https://www.usnews.com/best-colleges/rankings/national-liberal-arts-colleges Best Colleges 2020: National Liberal Arts Colleges Rankings]. U.S. News & World Report. 2019年. 2020年2月20日閲覧.</ref>。
* [[アルゲイニー大学]](Allegheny College)
* [[ブリンマー大学]](Bryn Mawr College)
* [[バックネル大学]](Bucknell University)
* [[ディッキンソン大学]](Dickinson College)
* [[フランクリン・アンド・マーシャル大学]](Franklin and Marshall College)
* [[ゲティスバーグ大学]](Gettysburg College)
* [[ハバフォード大学]](Haverford College)
* [[ジュニアタ大学]](Juniata College)
* [[ラファイエット大学]](Lafayette College)
* [[ミューレンバーグ大学]](Muhlenberg College)
* [[スワースモア大学]](Swarthmore College)
* [[アーサイナス大学]](Ursinus College)
* [[ワシントン・アンド・ジェファーソン大学]](Washington and Jefferson College)
== レクリエーション ==
[[ファイル:Dorney Park Steel Force Thunderhawk.jpg|thumb|ドーニーパーク & ワイルドウォーター・キングダムのローラーコースター、アレンタウン市]]
州内に国内初の動物園であるフィラデルフィア動物園がある。他にも歴史の長いエリー動物園やピッツバーグ動物園 & PPG水族館があり、またリーハイバレー動物園やズーアメリカもある。ピッツバーグ市の[[カーネギー博物館]]、[[フィラデルフィア美術館]]などは国内有数の美術館である。スクラントンにあるハウディニ博物館は伝説的なマジシャンに特化していることで、世界でも唯一の博物館である<ref>{{cite web|url=http://www.houdini.org/ |title=Houdini Harry Houdini attractions magic Scranton Poconos Pocono birthday party show seance School Assembly Programs birthday |publisher=Houdini.org |accessdate=2010-07-31}}</ref>。ピッツバーグ市にはナショナル・アビアリー(鳥類園)もある。
[[ファイル:Baughman's Rock Overlook.ogv|thumb|オハイオパイル州立公園]]
州内に121ある州立公園は入場無料である。
[[アミューズメントパーク]]としては、キャメルビーチ、コンノート・レイクパーク、ドーニーパーク & ワイルドウォーター・キングダム、ダッチワンダーランド、デルグロッソ・アミューズメントパーク、ハーシーパーク、アイドルワイルドパーク、ケニーウッド、ノーベルズ、レイクモントパーク、サンドキャッスル・ウォーターパーク、セサミプレース、グレートウルフ・ロッジ、ウォルダミアパークがある。エリー市にあるスプラッシュ・ラグーンは東海岸最大の屋内ウォーターパークである。
州内では多くの音楽祭も開催されている。ベスレヘムのミュージックフェストとニアフェスト、フィラデルフィア・フォーク祭、クリエーション・フェスティバル、グレートアレンタウン祭、パープルドアが著名である。
州内には100万人に近い免許狩猟者がいる。オジロシカ、ワタオウサギ、リス、シチメンチョウ、ライチョウなどが狩猟対象である。スポーツハンティングは州経済にも大きな影響を及ぼしている。センター・フォー・ルーラル・ペンシルベニアの報告では、狩猟、釣り、毛皮採取で96億米ドルを上げている。
== 芸術・文化 ==
=== 劇場・オペラハウス ===
* [[アカデミー・オブ・ミュージック]]
=== 美術館・博物館 ===
* [[フィラデルフィア美術館]]
* [[カーネギー自然史博物館]]
* [[:en:Drake Well Museum|Drake Well Museum]] (ドレーク油田博物館)
=== オーケストラなど ===
* [[ピッツバーグ交響楽団]]
* [[フィラデルフィア管弦楽団]]
=== スポーツ ===
''主要記事:[[:en:Pennsylvania sports|Pennsylvania sports]]''
==== ベースボール ====
* [[フィラデルフィア・フィリーズ]]
* [[ピッツバーグ・パイレーツ]]
==== アメリカンフットボール ====
* [[フィラデルフィア・イーグルス]]
* [[ピッツバーグ・スティーラーズ]]
==== バスケットボール ====
* [[フィラデルフィア・セブンティシクサーズ]]
==== アイスホッケー ====
* [[フィラデルフィア・フライヤーズ]]
* [[ピッツバーグ・ペンギンズ]]
==== サッカー ====
* [[フィラデルフィア・ユニオン]]
== 食品 ==
著作家シャロン・ハーンズ・シルバーマンはその著作『ママはヤンキーのように料理する』で、ペンシルベニア州を世界のスナック食品首都と呼んでいる<ref>{{cite web |url=http://www.pittsburghlive.com/x/pittsburghtrib/news/cityregion/s_546927.html |title=Pa. knack for snacks a Farm Show feature – Pittsburgh Tribune-Review |publisher=Pittsburghlive.com |date=2008-01-11 |accessdate=2010-07-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091108051209/http://www.pittsburghlive.com/x/pittsburghtrib/news/cityregion/s_546927.html |archivedate=2009年11月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。[[プレッツェル]]と[[ポテトチップス]]の生産量では国内第1位である。スタージス・プレッツェル・ハウスがアメリカにプレッツェルを紹介し、アンダーソン・ベイカリー、インターコース・プレッツェル・ファクトリー、スナイダーズ・オブ・ハノーバーなどの会社が、生産高の多い会社である。1921年にハノーバーでポテトチップス生産を始めたユッツ・クオリティ・フーズ、同じく1921年にバーウィックでポテトチップス生産を始めたワイズ・スナック・フーズが、ポテトチップスの主要生産会社である。
アメリカ合衆国のチョコレート製造はハーシー市が中心である。[[マース (企業)|マース]]、[[ゴディバ]]、ウィルバーなどがある。サウダートン<ref>{{cite web|url=http://www.ashers.com/about-asher/directions-to-asher.html |title=Directions to Asher’s – About Asher's |publisher=Ashers.com |date= |accessdate=2012-11-07}}</ref>のアッシャーズ<ref>https://news.google.com/newspapers?id=hsQfAAAAIBAJ&sjid=i9gEAAAAIBAJ&pg=1978,4428241&dq=asher%27s-chocolates&hl=en</ref>やダンモアのガートルード・ホークもある。他にもベスレヘムのジャストボーン、アルトゥーナのボイアーブラザーズなどがある。[[アンティ・アンズ]]・プレッツェルズはダウニングタウンの市場屋台で始まり、現在はランカスターに本社を置く会社になっている<ref>{{cite web | title = Company History: Auntie Anne's Pretzels | publisher = Auntie Anne's | accessdate =2009-02-06 | url = http://www.auntieannes.com/company_history.aspx}}</ref>。ペンシルベニア・ダッチの伝統的な料理は、チキン・ポットパイ、ハム・ポットパイ、シュニッツ・アン・ネップ、ファスナハツ、スクラップル、プレッツェル、ボローニャ、チョウチョウ、シューフライ・パイである。チェンバーズバーグに本社を置くマーティンズ・フェイマス・パストリー・ショップはポテト・パンなど伝統的なペンシルベニア・ダッチ料理に特化している。国内最古のビール醸造社D・G・ユエンリング & サンは、1829年からポッツビルでビールを生産している。
フィラデルフィアでよく見られる地方料理は、[[チーズステーキ]]、ホージー、ソフトプレッツェル、イタリアン・ウォーターアイス、スクラップル、テイスティケイク、ストロンボリなどである。ピッツバーグでは、1876年から20世紀初期に、[[ヘンリー・ジョン・ハインツ]]がトマトケチャップを改良した。ハインツのケチャップより規模は劣るが、ピッツバーグのプリマンティ・ブラザーズ・レストランはサンドウィッチ、[[ピエロギ]]、シティチキンで著名である。スクラントン郊外のオールドフォージには、ピザに特化したイタリア・レストランが多い。エリー市ではギリシャソースとスポンジキャンディが特徴のあるものである。元日には[[ザワークラウト]]と豚肉、マッシュルームがよく食される料理である。
<!--
==日本との関連==
-->
===その他===
[[2008年]][[5月24日]]に、[[:en:Hersheypark]]で、97度の角度を持つジェットコースター[[:en:Fahrenheit (roller coaster)|Fahrenheit]]がオープンした。
==関係者==
; 同州出身の有名人
{{Main|:Category:ペンシルベニア州の人物|ペンシルベニア州出身の人物一覧}}
==州のシンボル==
* 州の動物:[[オジロジカ]]
* 州の飲料:[[牛乳]]
* 州の鳥:[[エリマキライチョウ]]
* 州都:[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]]
* 州の犬:[[グレートデーン]]
* 州の魚:[[カワマス]]
* 州の花:[[アメリカ・シャクナゲ]]
* 州の虫:[[ホタル|蛍]]
* 州の歌:ペンシルベニア
* 州の木:[[アメリカツガ]]
==姉妹都市==
; 日本との[[姉妹都市]]
* [[兵庫県]][[神戸市]] - [[フィラデルフィア]]、[[1986年]]
* [[栃木県]][[佐野市]] - [[ランカスター (ペンシルベニア州)|ランカスター]]、[[1994年]]
* [[埼玉県]][[さいたま市]] - [[ピッツバーグ]]
* [[愛知県]][[新城市]] - [[ニューキャッスル (ペンシルベニア州)|ニューキャッスル]]
* [[大阪府]][[富田林市]] - [[ベスレヘム (ペンシルベニア州)|ベスレヘム]]
* [[高知県]][[本山町]] - [[アッパー・ダービー郡区 (ペンシルベニア州デラウェア郡)|アッパーダービー]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite web |title=2010 Public Transportation Fact Book |date=April 2010 |publisher=American Public Transportation Association |format=PDF |url=http://apta.com/resources/statistics/Documents/FactBook/APTA_2010_Fact_Book.pdf |accessdate=2010-07-05}}
* {{cite web |title=Pennsylvania Department of Transportation Fact Book |date=August 2009 |publisher=Pennsylvania Department of Transportation|url=http://www.dot.state.pa.us/PennDOT%20Factbook/index.html |accessdate=2010-07-04}}
* {{cite web |author=Waterborne Commerce Statistics Center |title=Part 5: National Summaries |work=Waterborne Commerce of the United States |date=2009-12-31 |format=PDF |publisher=United States Army Corps of Engineers |url=http://www.ndc.iwr.usace.army.mil/wcsc/pdf/wcusnatl08.pdf |accessdate=2010-07-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100920221417/http://www.ndc.iwr.usace.army.mil/wcsc/pdf/wcusnatl08.pdf |archivedate=2010年9月20日 |deadlinkdate=2017年9月 }}
* {{Cite book |editor-first=Sharon |editor-last=Trostle |year=2009 |title=The Pennsylvania Manual |location=Harrisburg |publisher=Pennsylvania Department of General Services |volume=119 |isbn=0-8182-0334-X}}
==関連項目==
* [[ペンシルベニア州の都市圏の一覧]]
* [[ペンシルベニア州の郡一覧]]
* [[アーミッシュ]]
* [[ペンシルベニアドイツ語]]
* [[セントラリアの坑内火災]]
* [[ドレーク油田]]
* [[ペンシルベニア産エンジンオイル]]
==外部リンク==
{{commonscat|Pennsylvania}}
{{osm box|r|162109}}
* [https://www.pa.gov/ 州政府]
* [https://www.pa-japan.org/ 米国ペンシルベニア州政府日本事務所]
* [https://www.japansocietypa.org ペンシルベニア日米協会]
* {{Curlie|Regional/North_America/United_States/Pennsylvania}}
* [http://www.pareserves.com/ Gov. Andrew Curtin's Pennsylvania Reserve Volunteer Corps, Civil War 1861–1864]
* [http://www.dot.state.pa.us/ Pennsylvania Department of Transportation]
* [http://www.fs.fed.us/r9/forests/allegheny/ Allegheny National Forest]
* [http://www.pawilds.com/ Pennsylvania Wilds]
* [http://www.usgs.gov/state/state.asp?State=PA USGS real-time, geographic, and other scientific resources of Pennsylvania]
* [http://tonto.eia.doe.gov/state/state_energy_profiles.cfm?sid=PA Energy Data & Statistics for Pennsylvania]
* [http://www.ers.usda.gov/StateFacts/PA.htm Pennsylvania State Facts]
* [http://www.visitPA.com/ Official state tourism site]
* [http://www.antiquebooks.net/readpage.html#penn Biography of William Penn from 1829]
* [http://www.footnote.com/topicpage.php?tp=88 Free Original Documents Online: Pennsylvania State Archives 1600s to 1800s]
* [http://newpa.com/ Pennsylvania Department of Community and Economic Development]
* [http://toolserver.org/~dispenser/cgi-bin/webchecklinks.py?page=en:Pennsylvania#view=0,0,0,0,1,1 National Association of Counties (information on each Pennsylvania County)]
{{ペンシルベニア州}}
{{アメリカ合衆国の州}}
{{Coord|display=title|41|N|77.5|W|region:US-PA_type:adm1st_scale:3000000}}
{{Normdaten}}
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[[Category:アメリカ合衆国の州]]
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[[Category:アパラチア]]
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921年
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921年(921 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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921年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[辛巳]]
* [[日本]]
** [[延喜]]21年
** [[皇紀]]1581年
* [[中国]]
** 五代
*** [[後梁]]:[[貞明 (五代後梁)|貞明]]7年、[[龍徳 (五代後梁)|龍徳]]元年
** 十国
*** [[呉 (十国)|呉]]:[[武義]]3年、[[順義]]元年
*** [[呉越]]:貞明7年、龍徳元年(後梁の元号を使用)
*** [[閩]]:貞明7年、龍徳元年(後梁の元号を使用)
*** [[南漢]]:[[乾亨 (南漢)|乾亨]]5年
*** [[前蜀]]:[[乾徳 (前蜀)|乾徳]]3年
** その他
*** [[遼]]:[[神冊]]6年
*** [[于闐]]:[[同慶 (于闐)|同慶]]10年
* [[朝鮮]]
** {{要出典範囲|[[高麗]]:[[天授 (高麗)|天授]]12年|date=2011年11月}}
** [[後百済]]:[[正開]]22年
* [[仏滅紀元]]:
* [[ユダヤ暦]]:
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=921|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:921年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月21日]] (延喜21年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[安倍晴明]]、[[平安時代]]の[[陰陽師]] (+ [[1005年]])
* [[英子内親王]]、平安時代の[[皇族]] (+ [[946年]])
* [[エドマンド1世 (イングランド王)|エドマンド1世]]、[[イングランド王]] (+ [[946年]])
* [[大中臣能宣]]、平安時代の[[公家]]、[[祭主]]、[[歌人]]、[[三十六歌仙]]の一人 (+ [[991年]])
* [[柴栄]]、[[五代十国時代|五代]][[後周]]の第2代[[皇帝]] (+ [[959年]])
* [[徐鍇]]、[[五代十国時代]]の[[学者]] (+ [[975年]])
* [[斉子内親王 (醍醐天皇皇女)|斉子内親王]]、平安時代の皇族 (+ [[936年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:921年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[大蔵善行]]、[[平安時代]]の[[学者]] (* [[832年]])
* [[朱友諒]]、[[後梁]]の[[皇族]] (* 生年未詳)
* [[朱友誨]]、後梁の皇族 (* 生年未詳)
* [[朱友能]]、後梁の皇族 (* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|921}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,818 |
912年
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912年(912 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
アレクサンドロスが東ローマ皇帝に即位。
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912年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[壬申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延喜]]12年
** [[皇紀]]1572年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** 五代
*** [[後梁]]:[[乾化]]2年
** 十国
*** [[呉 (十国)|呉]]:[[天祐 (唐)|天祐]]9年(唐[[昭宗 (唐)|昭宗]]の元号を継続して使用)
*** [[呉越]]:[[天宝 (呉越)|天宝]]5年
*** [[閩]]:乾化2年(後梁の元号を使用)
*** [[前蜀]]:[[永平 (前蜀)|永平]]2年
** その他
*** [[桀燕]]:[[応天 (桀燕)|応天]]2年
*** [[于闐]]:[[同慶 (于闐)|同慶]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[後高句麗]]:[[水徳万歳]]2年
** [[後百済]]:[[正開]]13年
* [[仏滅紀元]]:
* [[ユダヤ暦]]:
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=912|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
[[アレクサンドロス (東ローマ皇帝)|アレクサンドロス]]が東ローマ皇帝に即位。
== 誕生 ==
{{see also|Category:912年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月29日]]([[延喜]]12年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]])? - [[源満仲]]、[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[源頼光]]、[[源頼親]]、[[源頼信]]らの父(+ [[997年]])
* [[10月15日]](延喜12年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[良源]]、平安時代の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[985年]])
* [[11月23日]] - [[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]、[[神聖ローマ帝国]]の初代皇帝、[[東フランク王国]]国王(+ [[973年]])
* [[悟恩]]、[[北宋]]の天台宗の僧(+ [[986年]])
* [[薛居正]]、北宋の史学家(+ [[981年]])
* [[丹波康頼]]、平安時代の[[公家]]、[[医家]](+ [[995年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:912年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月1日]](延喜12年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[紀長谷雄]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[文人]](* [[845年]])
* [[5月11日]] - [[レオーン6世]]、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の第2代[[皇帝]](* [[866年]])
* [[6月2日]] - [[朱全忠]]、[[五代十国時代|五代]][[後梁]]の初代皇帝(* [[852年]])
* [[11月30日]] - [[オットー1世 (ザクセン公)|オットー1世]]、[[ザクセン公]](* 生年未詳)
* [[孝恭王]]、[[新羅]]の第52代国王(* [[886年]]?)
* [[朱友文]]、[[後梁]]の[[皇族]](* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|912}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,820 |
960年
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960年(960 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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960年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚申]]
* [[日本]]
** [[天徳 (日本)|天徳]]4年
** [[皇紀]]1620年
* [[中国]]
** 五代
*** [[後周]] : [[顕徳]]7年
** 十国
*** [[南唐]] : 顕徳7年(後周の元号を使用)、建隆元年(北宋の元号を使用)
*** [[呉越]] : 顕徳7年(後周の元号を使用)、建隆元年(北宋の元号を使用)
*** [[南漢]] : [[大宝 (南漢)|大宝]]3年
*** [[後蜀 (十国)|後蜀]] : [[広政]]23年
*** [[北漢]] : [[天会 (北漢)|天会]]4年
** その他
*** [[北宋]] : [[建隆]]元年
*** [[遼]] : [[応暦]]10年
*** [[于闐]] : [[同慶 (于闐)|同慶]]49年
* [[朝鮮]]
** [[高麗]] : [[光宗 (高麗王)|光宗]]11年
* [[ベトナム]]
** [[後呉王]]10年
* [[仏滅紀元]] : 1503年
* [[ユダヤ暦]] :
* [[ヒジュラ暦]](イスラム暦) : 349年-350年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[後周]]の[[柴宗訓|恭帝(柴宗訓)]]から禅譲を受け[[趙匡胤]]が皇帝に即位、[[北宋|宋(北宋)]]を建国([[陳橋の変]])。
* [[4月28日]]([[天徳 (日本)|天徳]]4年[[3月30日 (旧暦)|3月30日]])- [[天徳内裏歌合]]が行われた。
* (天徳4年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - 日本の首都、[[平安京]]の[[内裏]]全焼([[794年]]の遷都後初)。
== 誕生 ==
{{see also|Category:960年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[円空 (平安時代)|円空]]、[[平安時代]]の[[僧]](+ [[1039年]])
* [[覚超]]、平安時代の[[天台宗]]の僧(+ [[1034年]])
* [[コンスタンティノス8世]]、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の[[皇帝]](+ [[1028年]])
* [[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]、[[デンマーク君主一覧|デンマーク国王]]、[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー国王]]、[[イギリス君主一覧|イングランド国王]](+ [[1014年]])
* [[成宗 (高麗王)|成宗]]、第6代[[高麗王]](+ [[997年]])
* [[知礼]]、[[北宋]]の[[天台宗]][[山家派]]の僧(+ [[1028年]])
* [[テオファヌ]]、[[神聖ローマ皇帝]][[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]の皇后(+ [[991年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:960年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* 3月 - [[藤原興方]]、[[平安時代]]の官人(* 生年不詳)
* [[6月7日]](天徳4年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[藤原師輔]]、平安時代の[[公卿]](* [[908年]])
* [[高保融]]、[[五代十国時代|十国]]・[[荊南]]の第3代[[君主]](* [[920年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|960}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,821 |
913年
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913年(913 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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913年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[癸酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延喜]]13年
** [[皇紀]]1573年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** 五代
*** [[後梁]]:[[乾化]]3年、[[鳳歴 (五代後梁)|鳳歴]]元年、乾化3年
** 十国
*** [[呉 (十国)|呉]]:[[天祐 (唐)|天祐]]10年(唐[[昭宗 (唐)|昭宗]]の元号を継続して使用)
*** [[呉越]]:乾化3年、鳳歴元年、乾化3年(後梁の元号を使用)
*** [[閩]]:乾化3年、鳳歴元年、乾化3年(後梁の元号を使用)
*** [[前蜀]]:[[永平 (前蜀)|永平]]3年
** その他
*** [[桀燕]]:[[応天 (桀燕)|応天]]3年
*** [[于闐]]:[[同慶 (于闐)|同慶]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[後高句麗]]:[[水徳万歳]]3年
** [[後百済]]:[[正開]]14年
* [[仏滅紀元]]:
* [[ユダヤ暦]]:
<div style="font-size:smaller">
:※皇紀は、太陽暦採用と共に[[1873年]]に施行された。
:※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[サン・ミゲル・デ・エスカラーダ修道院]]教会堂([[スペイン]][[レオン県 (スペイン)|レオン県]])献堂
== 誕生 ==
{{see also|Category:913年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月20日]](延喜13年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[藤原師氏]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[970年]])
* [[ニケフォロス2世フォカス]]、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の[[皇帝]](+ [[969年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:913年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月21日]](延喜13年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) - [[源光 (公卿)|源光]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[845年]])
* [[6月6日]] - [[アレクサンドロス (東ローマ皇帝)|アレクサンドロス]]、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の第3代[[皇帝]](* [[870年]]?)
* [[7月24日]](延喜13年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[恬子内親王]]、平安時代の[[皇族]]、第31代[[斎宮|伊勢斎宮]](* [[848年]]?)
* [[8月25日]](延喜13年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[菅原高視]]、平安時代の[[公家]]、[[官人]](* [[876年]])
* [[朱友珪]]、[[五代十国時代|五代]][[後梁]]の第2代皇帝(* [[888年]]?)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|913}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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https://ja.wikipedia.org/wiki/913%E5%B9%B4
|
13,822 |
915年
|
915年(915 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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915年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[乙亥]]
* [[日本]]
** [[延喜]]15年
** [[皇紀]]1575年
* [[中国]]
** 五代
*** [[後梁]]:[[乾化]]5年、[[貞明 (五代後梁)|貞明]]元年
** 十国
*** [[呉 (十国)|呉]]:[[天祐 (唐)|天祐]]12年(唐[[昭宗 (唐)|昭宗]]の元号を継続して使用)
*** [[呉越]]:乾化5年、貞明元年(後梁の元号を使用)
*** [[閩]]:乾化5年、貞明元年(後梁の元号を使用)
*** [[前蜀]]:[[永平 (前蜀)|永平]]5年
** その他
*** [[于闐]]:[[同慶 (于闐)|同慶]]4年
* [[朝鮮]]
** [[後高句麗]]:[[政開]]2年
** [[後百済]]:[[正開]]16年
* [[仏滅紀元]]:
* [[ユダヤ暦]]:
<div style="font-size:smaller">
:※皇紀は、太陽暦採用と共に[[1873年]]に施行された。
:※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=915|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[十和田湖]]火山の大噴火が起きる。火砕流や泥流で北東北地方は未曽有の自然災害となる(『[[扶桑略記]]』)
== 誕生 ==
{{see also|Category:915年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[李璟]]、[[五代十国時代|十国]]・[[南唐]]の第2代君主(+ [[961年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:915年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[12月16日]](延喜15年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[恭子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[斎院|賀茂斎院]](* [[902年]])
* [[安然]]、平安時代の[[天台宗]]の[[僧]](* [[841年]]?)
* [[朱友敬]]、[[後梁]]の[[皇族]](* 生年未詳)
* [[徳妃張氏]]、[[五代十国時代]]の後梁第3代[[皇帝]][[朱友貞]]の后妃(* [[891年]])
<!-- == 脚注 ==
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神戸市
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神戸市(こうべし)は、兵庫県の南東部に位置する市。兵庫県の県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。 市域は垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区の9区から構成される。
2020年国勢調査の速報値によると、人口は152万7022人。大阪市や京都市と共に、京阪神大都市圏(近畿大都市圏)における中心都市である。また、神戸市独自で神戸都市圏を形成している。大阪市から約30km程度しか離れておらず、大阪都市圏から連続する市街地(コナベーション)を有することから、阪神都市圏と称されることもある。
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深のある扇状の入り江部に発展した理想的な港湾である神戸港を有する日本を代表する港町・港湾都市である。
大正から戦後の高度経済成長期にかけて、東京市・横浜市・名古屋市・大阪市・京都市と共に六大都市の一角であった。幕末の開港以来、舶来品や西洋文化の流入する日本の玄関口となり、今なお旧居留地(神戸外国人居留地)や北野異人館街などの西洋風の街並みにその歴史や影響を見ることができる。
1995年の阪神・淡路大震災によって神戸港を含めて市内の経済機能は壊滅的被害を受けたものの、神戸市は今なお全国有数の経済都市としての地位を維持している。阪神工業地帯に属する港湾都市であり、貿易・造船・鉄鋼・機械・製造・ゴム・真珠加工・観光などの産業を中心に発展、ファッション・パン・洋菓子・日本酒などの産業も盛んである。特に日本酒製造に関しては灘区・東灘区から西宮市にかけての阪神本線沿線のエリアは灘五郷と呼ばれ、日本有数の酒所として有名である。観光地としては、中華街の南京町、神戸外国人居留地や北野異人館街などの異国情緒な街並み、神戸ハーバーランド、摩耶山掬星台からの夜景、有馬温泉などが挙げられる。また、ユネスコのデザイン都市に認定された。
「神戸」という地名は、現在の中心市街地である三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かむべ」)であったことに由来し、そのウ音便(かうべ。旧仮名遣いで「かう」は「コー」と発音)である。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わった。
現在の神戸市域は、律令制では摂津国と播磨国に属していた。現在の垂水区、西区、北区(北神)の淡河町、須磨区の神戸総合運動公園・神戸流通業務団地の区域が播磨国で、発足時の市域を含むその他の区域が摂津国であった。
和田岬から北へ湊川(旧河道)のあたりにかけて「兵庫津」()と呼ばれる港が広がり、京・大坂の外港・経由地として古くから栄えていた。遣隋使の時代には、すでに港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され大輪田泊()と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。
兵庫津には戦国時代の短い期間、兵庫城が存在していたが、安土桃山時代に豊臣氏の直轄地となり、兵庫陣屋と呼ばれるようになった。大坂の陣後に尼崎藩が立藩されると、西摂の政治の拠点は尼崎に移り、兵庫陣屋には同藩の兵庫津奉行所が置かれた。1769年の上知によって、同じく尼崎藩領だった西宮とともに兵庫津は幕府直轄領となり、兵庫陣屋には大坂町奉行の兵庫勤番所が置かれた。港は北前船や尾州廻船の中継地の一つで廻船問屋が軒を連ねていた。北西部には西国街道が通っており、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場があった。兵庫津は宿場町の岡方と港町の浜方から成り、浜方はさらに築島付近を境に北浜と南浜に分かれ、岡方・北浜・南浜の三方の自治組織が存在した。本陣は岡方に存在したが、諸藩の大名との関係が密接な有力商人たちが南浜に競って建てた「浜本陣」の利用が江戸時代中期以降は漸増した。
江戸幕府が欧米と締結した条約では兵庫港を外国船に開港することが規定されていたが、実際には宇治川を挟んで3km東に位置する神戸村が開港場となり1868年1月1日に開港。神戸村と二ツ茶屋村()の沿岸部に神戸港が整備されたが、神戸村の南東端、生田川(旧河道)河口西岸の外国人居留地の造成工事は遅れ、2月に神戸事件が発生。これにより、3月には生田川(旧河道) - 宇治川間の山麓から海岸までが外国人雑居地となり、外国人居留地の造成工事は8月に完了、9月から競売が開始された。12月には神戸村が兵庫津寄りに位置する二ツ茶屋村・走水村()と合併して神戸町となり、兵庫津と接するようになった。ただし両市街中心部は離れており、宇治川 - 湊川(旧河道)間の西国街道より山側は、坂本村の南部が「仲町部」と称して開発され、兵庫県庁舎(2代目庁舎)、福原遊廓(新福原)、湊川神社などが築かれた。1874年には東海道本線(JR神戸線)の大阪駅 - 神戸駅間が開通し、西国街道より浜側の兵庫津相生町および兵庫津東川崎町に神戸駅が開業。同時に神戸町にも元町駅の位置に三ノ宮駅が開業した。
兵庫津の湊川以西においても、1874年に仲町部の多聞通を柳原惣門まで西伸させた新西国街道と兵庫津の旧市街との間が兵庫新市街として整備され、神戸町と兵庫津の市街が連続するようになった。一方、1875年に新川運河を開削するも非開港の兵庫津(兵庫港)は神戸港に対して劣勢となり、1879年の郡区町村編制法施行により市街としての兵庫津は神戸区に飲み込まれ、1892年の勅令(神戸港の港域拡張)により港湾としての兵庫津(兵庫港)も神戸港に飲み込まる形で一体化した。1901年の湊川の付け替えにより生じた旧河川敷には1905年に新開地が形成され、「東の浅草、西の新開地」と称されるほど繁栄した。日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールと並ぶアジアの主要な貿易港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長した。1922年には六大都市に指定された。
新開地や神戸駅周辺が繁栄する一方で、生田川は神戸駅開業よりも早い1871年に現河道へ付け替え済みで、1889年の市制施行の際には旧生田川以東の葺合村が市域に加わっており、1899年の居留地返還を機に都市機能を東へ分散させる施策も行われた。旧居留地はオフィス街へと変容し、旧生田川河口と旧居留地の沖合には1907年から新港突堤の埋立造成が開始された。1905年の阪神本線開業、1912年の神戸市電布引線開業、1931年の東海道本線三ノ宮駅移転、1933年の神戸市電税関線開業、1936年の阪急神戸本線延伸など、旧居留地の北隣に位置する三宮が鉄道結節点となり、旧生田川を南北基軸とする都市機能が整えられた。
太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標であった神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した(神戸大空襲)。
戦前より続けられてきた都市機能の東への分散は1957年の東遊園地への神戸市役所移転でほぼ完成。戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地・丘陵より削り取った土砂を用いてポートアイランドや六甲アイランドなどの人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備するとともに、埋立用土砂採取後の西区や北区の山地・丘陵を西神ニュータウンなどの住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。神戸港は商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港として海上コンテナの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港湾として知られていた。
1972年に新神戸駅が生田川の付け替え地点に開業し、以降1981年のポートアイランド1期竣工、2006年の神戸空港開港、2010年のポートアイランド2期竣工によって旧生田川の南北基軸はさらに強化され、新生田川筋も1976年の新神戸トンネル開通、1999年の神戸港港島トンネル開通によって南北基軸を補完する。三宮が市内最大の繁華街・交通結節点に成長した一方で新開地や神戸駅の地位は下がり、結果的に都市機能は分散ではなく移転した形になった。
阪神・淡路大震災が1995年1月17日に発生し、神戸市内は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの製造業の生産拠点の海外移転によって、国際貿易港としての相対的地位は低下した。震災復興によるインフラの再整備により貿易額は回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして存在感を維持している。その一方、中国をはじめとしたアジアの大都市の急激な発展により港湾都市としての国際的な影響力は低下しており、2018年度における世界の港湾取扱貨物量ランキングは50位(国内5位)となっている。
また、人口においても震災直後に7%余り減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2011年には154万9000人に達した。しかしながらその後は首都圏や大阪府への流出など人口減少が続き、2015年に福岡市、2019年には川崎市を下回り、政令市で7位となっている。神戸市営地下鉄海岸線や神戸空港の利用者数が需要予測を大幅に下回り、またウォーターフロント開発である神戸ハーバーランドの核テナントが相次いで撤退、かつて小売業で日本一の地位を築いたダイエー(神戸市発祥)の不振、市主導の新長田駅前再開発の失敗など、戦後から震災まで好調に成長してきたのと対照的に震災以降は暗雲が垂れ込めていた。しかし、近年は都心地区である三宮エリアの再開発やハーバーランド、メリケンパーク、新港町などをはじめとするウォーターフロントエリアの再開発、市内主要駅周辺のリノベーションなどの進行に加え、神戸空港の国際化と国内線の拡大が決定。これらによる街全体の活性化が大いに期待されている。
市内では、6608種の動植物が確認されている。744種が絶滅の恐れがあり、そのうちベッコウトンボやマヤランなど、49種は現在見られなくなっている。
市章山の電飾や市庁舎1号館で知られる市章は、歴史的仮名遣である「かうべ」の片仮名「カウベ」の「カ」をデザインして1907年5月24日に制定された。扇港と呼ばれた旧兵庫港(大輪田泊)と旧神戸港の2つの港の形と、港湾に因む錨のイメージも持たせてあるといわれる。市旗は緑地に市章を白く染め抜いたものが使われている。市章の造形はCHANELのロゴの下1/3を短縮したものに近い。
現在の市歌は、1951年(昭和26年)に制定された2代目のものである。
作曲者の信時潔は2代目市歌制定の4年前に「兵庫県民歌」を作曲している。
神戸市は以下の9区から構成される(括弧内の数字は市議の定数)。
神戸市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で608,644人と全国3位だった。しかし、1921年に名古屋市、1931年に京都市、1939年に横浜市がそれぞれ大規模な市域拡張を実施したこともあって、1940年の第5回調査で967,234人と全国6位になった。前年の1939年には一時的に100万人を超えるも減少に転じ、神戸大空襲後の1945年11月の人口調査で379,166人と激減した。1940年から1945年の人口増減率は原爆が投下された広島市(マイナス60.1%)をも下回るマイナス60.8%であった。
戦災復興と並行して1947年から1958年にかけて大規模な市域拡張が実施され、1956年には100万人台を回復した。六甲山系や帝釈・丹生山系といった山地が横たわるため宅地造成は困難だったが、「山、海へ行く」を合言葉に、山地や丘陵を削って採取した土砂を地下トンネル内に設けたベルトコンベヤ(須磨ベルトコンベヤ)で運搬して海面を埋め立て、土砂採取跡地と埋立地の双方に住宅団地が造成された。
山地のない名古屋市や横浜市を抜き返すことはなく、1979年には札幌市に抜かれたが、三方を山地に囲まれる京都市との差は漸次縮小していった。1990年の第15回調査で京都市を抜き、1992年には一時的に150万人を超えたが、阪神・淡路大震災によって1995年の第16回調査は減少、2000年の第17回調査で再び京都市を抜き、2010年の第19回調査で1,544,200人とピークを迎えた。
2015年に福岡市、2019年に川崎市に抜かれ、2020年の第21回調査で1,525,152人と全国8位になっている。
各区ごとに記載
各区ごとに記載
※ 名称の後の「(史跡)」は国指定の史跡を示す
※建物名の後に「(重文)」とあるものは、国の重要文化財に指定された建造物
東西方向にかけてJRや私鉄などの路線が走行している。名目上は市名を冠する神戸駅が特定都区市内制度の中心駅であるが、JRや私鉄、地下鉄など多くの路線が乗り入れる三ノ宮駅・三宮駅(神戸三宮駅)が実質的な市内中心駅としての役割をもつ。山陽新幹線の停車駅である新神戸駅はのぞみを含めた全ての新幹線が停車するがJRの在来線の接続はないため、市営地下鉄西神・山手線が中心市街地の三宮方面に連絡している。
市の中心部は市バスと神姫バスと神戸交通振興が運行している。このほか垂水区では山陽バス、西区は神姫バス、北区は阪急バスと神姫バスが主として運行している。
乗車方法はいずれも後乗り前降り後払いであり、運賃は均一制を採る区間(市バス普通区・山陽均一区など)と整理券による区間制を採る区間(市バス近郊区・神姫バスなど)に分かれる。
みなと観光バス以外の各路線では非接触型ICカードのPiTaPa、ICOCAをはじめとした全国交通系ICカードが使用できる。神姫バスグループは別途NicoPaも、阪急バスと阪神バスは別途Hanicaもそれぞれ使用できる。
タクシーの営業区域は神戸市域交通圏で、淡路市・三田市・三木市・稲美町を除く隣接する各市と尼崎市・伊丹市・川西市・川辺郡猪名川町と伊丹(大阪)空港が対象となっている。
神戸市は、神戸市名誉市民条例に基づき、「公共の福祉の増進または学術技芸の進展に寄与し、もって広く社会文化の発展に貢献し、その功績が卓絶する」市民およびゆかりのある人物に対して名誉市民の称号と名誉市民章を贈呈している。
神戸市は映像産業を重視し、映画やドラマの撮影に積極的である。
作品は作者氏名で五十音順
BE KOBE(ビーコウベ)は、「震災20年 神戸からのメッセージ発信」プロジェクトをきっかけに、多くの市民から出た「神戸の様々な魅力の中で、一番の魅力は人である」という思いを集約したメッセージとして生まれた。直訳すると、「神戸であれ」「神戸らしくいよう」といった意味である。 ここでいう「神戸らしさ」とは、震災をきっかけに気付いた「人のために力を尽くす」という人々の思いや、開港150年の歴史の中で育まれた、「先進的・開放的で、創造性・国際性が豊か」といった人々の気質である。
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"text": "また、人口においても震災直後に7%余り減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2011年には154万9000人に達した。しかしながらその後は首都圏や大阪府への流出など人口減少が続き、2015年に福岡市、2019年には川崎市を下回り、政令市で7位となっている。神戸市営地下鉄海岸線や神戸空港の利用者数が需要予測を大幅に下回り、またウォーターフロント開発である神戸ハーバーランドの核テナントが相次いで撤退、かつて小売業で日本一の地位を築いたダイエー(神戸市発祥)の不振、市主導の新長田駅前再開発の失敗など、戦後から震災まで好調に成長してきたのと対照的に震災以降は暗雲が垂れ込めていた。しかし、近年は都心地区である三宮エリアの再開発やハーバーランド、メリケンパーク、新港町などをはじめとするウォーターフロントエリアの再開発、市内主要駅周辺のリノベーションなどの進行に加え、神戸空港の国際化と国内線の拡大が決定。これらによる街全体の活性化が大いに期待されている。",
"title": "沿革・詳細"
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"tag": "p",
"text": "市内では、6608種の動植物が確認されている。744種が絶滅の恐れがあり、そのうちベッコウトンボやマヤランなど、49種は現在見られなくなっている。",
"title": "生態系"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "市章山の電飾や市庁舎1号館で知られる市章は、歴史的仮名遣である「かうべ」の片仮名「カウベ」の「カ」をデザインして1907年5月24日に制定された。扇港と呼ばれた旧兵庫港(大輪田泊)と旧神戸港の2つの港の形と、港湾に因む錨のイメージも持たせてあるといわれる。市旗は緑地に市章を白く染め抜いたものが使われている。市章の造形はCHANELのロゴの下1/3を短縮したものに近い。",
"title": "政治"
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"text": "現在の市歌は、1951年(昭和26年)に制定された2代目のものである。",
"title": "政治"
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"text": "作曲者の信時潔は2代目市歌制定の4年前に「兵庫県民歌」を作曲している。",
"title": "政治"
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"text": "神戸市は以下の9区から構成される(括弧内の数字は市議の定数)。",
"title": "政治"
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"tag": "p",
"text": "神戸市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で608,644人と全国3位だった。しかし、1921年に名古屋市、1931年に京都市、1939年に横浜市がそれぞれ大規模な市域拡張を実施したこともあって、1940年の第5回調査で967,234人と全国6位になった。前年の1939年には一時的に100万人を超えるも減少に転じ、神戸大空襲後の1945年11月の人口調査で379,166人と激減した。1940年から1945年の人口増減率は原爆が投下された広島市(マイナス60.1%)をも下回るマイナス60.8%であった。",
"title": "地域"
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"text": "戦災復興と並行して1947年から1958年にかけて大規模な市域拡張が実施され、1956年には100万人台を回復した。六甲山系や帝釈・丹生山系といった山地が横たわるため宅地造成は困難だったが、「山、海へ行く」を合言葉に、山地や丘陵を削って採取した土砂を地下トンネル内に設けたベルトコンベヤ(須磨ベルトコンベヤ)で運搬して海面を埋め立て、土砂採取跡地と埋立地の双方に住宅団地が造成された。",
"title": "地域"
},
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"text": "山地のない名古屋市や横浜市を抜き返すことはなく、1979年には札幌市に抜かれたが、三方を山地に囲まれる京都市との差は漸次縮小していった。1990年の第15回調査で京都市を抜き、1992年には一時的に150万人を超えたが、阪神・淡路大震災によって1995年の第16回調査は減少、2000年の第17回調査で再び京都市を抜き、2010年の第19回調査で1,544,200人とピークを迎えた。",
"title": "地域"
},
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"tag": "p",
"text": "2015年に福岡市、2019年に川崎市に抜かれ、2020年の第21回調査で1,525,152人と全国8位になっている。",
"title": "地域"
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"tag": "p",
"text": "各区ごとに記載",
"title": "教育"
},
{
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"tag": "p",
"text": "各区ごとに記載",
"title": "教育"
},
{
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"tag": "p",
"text": "※ 名称の後の「(史跡)」は国指定の史跡を示す",
"title": "観光・文化・スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "※建物名の後に「(重文)」とあるものは、国の重要文化財に指定された建造物",
"title": "観光・文化・スポーツ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "東西方向にかけてJRや私鉄などの路線が走行している。名目上は市名を冠する神戸駅が特定都区市内制度の中心駅であるが、JRや私鉄、地下鉄など多くの路線が乗り入れる三ノ宮駅・三宮駅(神戸三宮駅)が実質的な市内中心駅としての役割をもつ。山陽新幹線の停車駅である新神戸駅はのぞみを含めた全ての新幹線が停車するがJRの在来線の接続はないため、市営地下鉄西神・山手線が中心市街地の三宮方面に連絡している。",
"title": "交通"
},
{
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"text": "市の中心部は市バスと神姫バスと神戸交通振興が運行している。このほか垂水区では山陽バス、西区は神姫バス、北区は阪急バスと神姫バスが主として運行している。",
"title": "交通"
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"text": "乗車方法はいずれも後乗り前降り後払いであり、運賃は均一制を採る区間(市バス普通区・山陽均一区など)と整理券による区間制を採る区間(市バス近郊区・神姫バスなど)に分かれる。",
"title": "交通"
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"tag": "p",
"text": "みなと観光バス以外の各路線では非接触型ICカードのPiTaPa、ICOCAをはじめとした全国交通系ICカードが使用できる。神姫バスグループは別途NicoPaも、阪急バスと阪神バスは別途Hanicaもそれぞれ使用できる。",
"title": "交通"
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"tag": "p",
"text": "タクシーの営業区域は神戸市域交通圏で、淡路市・三田市・三木市・稲美町を除く隣接する各市と尼崎市・伊丹市・川西市・川辺郡猪名川町と伊丹(大阪)空港が対象となっている。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "神戸市は、神戸市名誉市民条例に基づき、「公共の福祉の増進または学術技芸の進展に寄与し、もって広く社会文化の発展に貢献し、その功績が卓絶する」市民およびゆかりのある人物に対して名誉市民の称号と名誉市民章を贈呈している。",
"title": "ゆかりの人物"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "神戸市は映像産業を重視し、映画やドラマの撮影に積極的である。",
"title": "神戸市で撮影がされた、および神戸市が舞台の作品"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "作品は作者氏名で五十音順",
"title": "神戸市で撮影がされた、および神戸市が舞台の作品"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "BE KOBE(ビーコウベ)は、「震災20年 神戸からのメッセージ発信」プロジェクトをきっかけに、多くの市民から出た「神戸の様々な魅力の中で、一番の魅力は人である」という思いを集約したメッセージとして生まれた。直訳すると、「神戸であれ」「神戸らしくいよう」といった意味である。 ここでいう「神戸らしさ」とは、震災をきっかけに気付いた「人のために力を尽くす」という人々の思いや、開港150年の歴史の中で育まれた、「先進的・開放的で、創造性・国際性が豊か」といった人々の気質である。",
"title": "BE KOBE"
}
] |
神戸市(こうべし)は、兵庫県の南東部に位置する市。兵庫県の県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。
市域は垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区の9区から構成される。 2020年国勢調査の速報値によると、人口は152万7022人。大阪市や京都市と共に、京阪神大都市圏(近畿大都市圏)における中心都市である。また、神戸市独自で神戸都市圏を形成している。大阪市から約30km程度しか離れておらず、大阪都市圏から連続する市街地(コナベーション)を有することから、阪神都市圏と称されることもある。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{統合文字|神}} <!-- 新字体と旧字体がUnicodeでは統合されているため -->
{{日本の市
|自治体名 = 神戸市
|画像 = Kobe montage1.jpg
|画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse">
<tr><td style="width:100%" colspan="3">[[神戸港]]</td></tr>
<tr><td style="width:33%">[[明石海峡大橋]]</td><td style="width:33%">[[風見鶏の館]]</td><td style="width:34%">[[神戸南京町]]</td></tr>
<tr><td style="width:66%" colspan="2" style="vertical-align:middle">[[摩耶山]]からの夜景</td><td style="width:34%">夜の[[神戸ポートタワー]]</td></tr>
</table>
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Kobe.svg|100px|border|神戸市旗]]
| 市旗の説明 = 神戸[[市町村旗|市旗]]<br />[[1970年]][[6月1日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Kobe, Hyogo.svg|80px|神戸市章]]
| 市章の説明 = 神戸[[市町村章|市章]]<br />[[1907年]][[5月24日]]制定
| 都道府県 = 兵庫県
| コード = 28100-0
| 隣接自治体 = [[明石市]]、[[三木市]]、[[三田市]]、[[宝塚市]]、[[西宮市]]、[[芦屋市]]、[[加古郡]][[稲美町]]、[[淡路市]](海上で隣接)
| 木 = [[サザンカ]]
| 花 = [[アジサイ]]
| シンボル名 = 市の歌
| 鳥など = [[神戸市歌]](1951年制定)<br />[[しあわせ運べるように]](2021年制定)
| 郵便番号 = 650-8570
| 所在地 = 神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]][[加納町 (神戸市)|加納町]]六丁目5番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm2nd_region:JP-28|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Kobe city hall01 1920.jpg|250px|神戸市役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|28|100|image=Kobe in Hyogo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}[[ファイル:政令市区画図_28100.svg|320x320px|神戸市行政区画図]]
| 特記事項 =
}}
[[File:Views from Venus Bridge in Kobe 002.jpg|thumb|500px|神戸市中央区にある[[諏訪山公園]]・ビーナスブリッジからの神戸市街地パノラマ全景]]
'''神戸市'''(こうべし)は、[[兵庫県]]の南東部に位置する[[市]]。[[兵庫県]]の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]及び人口が最多の市で、[[政令指定都市]]である。
市域は[[垂水区]]・[[須磨区]]・[[長田区]]・[[兵庫区]]・[[中央区 (神戸市)|中央区]]・[[灘区]]・[[東灘区]]・[[北区 (神戸市)|北区]]・[[西区 (神戸市)|西区]]の9区から構成される。
[[2020年]][[国勢調査]]の速報値によると、人口は152万7022人。[[大阪市]]や[[京都市]]と共に、[[京阪神大都市圏]](近畿大都市圏)における中心都市である。また、神戸市独自で[[神戸都市圏]]を形成している。大阪市から約30km程度しか離れておらず、[[大阪都市圏]]から連続する市街地([[コナベーション]])を有することから、'''[[阪神都市圏]]'''と称されることもある。
== 概要 ==
[[海]]と[[山]]の迫る東西に細長い[[都市|市街地]]を持ち、十分な[[水深]]のある扇状の[[入り江]]部に発展した理想的な[[港湾]]である'''[[神戸港]]'''を有する日本を代表する[[日本の港町|港町]]・[[港湾都市]]である。
[[大正]]から戦後の[[高度経済成長]]期にかけて、[[東京市]]・[[横浜市]]・[[名古屋市]]・[[大阪市]]・[[京都市]]と共に[[六大都市]]の一角であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000079232.pdf#search='%E5%85%AD%E5%A4%A7%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A1%8C%E6%94%BF%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%B3%95%E5%BE%8B'|title=(参考)大都市に関する制度の沿革|accessdate=2020年2月18日|publisher=総務省|format=PDF}}</ref>。幕末の[[条約港|開港]]以来、[[舶来品]]や西洋文化の流入する日本の玄関口となり、今なお[[旧居留地]]([[神戸外国人居留地]])や[[北野町山本通|北野異人館街]]などの西洋風の街並みにその歴史や影響を見ることができる。
[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]によって[[神戸港]]を含めて市内の経済機能は壊滅的被害を受けたものの、神戸市は今なお全国有数の経済都市としての地位を維持している。[[阪神工業地帯]]に属する[[港湾都市]]であり、[[貿易]]・造船・鉄鋼・機械・[[製造]]・[[ゴム]]・[[真珠]]加工・[[観光]]などの[[産業]]を中心に発展、[[ファッション]]・[[パン]]・[[洋菓子]]・[[日本酒]]などの産業も盛んである。特に日本酒製造に関しては[[灘区]]・[[東灘区]]から[[西宮市]]にかけての[[阪神本線]]沿線のエリアは[[灘五郷]]と呼ばれ、日本有数の酒所として有名である。観光地としては、[[中華街]]の[[南京町 (神戸市)|南京町]]、[[神戸外国人居留地]]や[[北野町山本通|北野異人館街]]などの異国情緒な街並み、[[神戸ハーバーランド]]、[[摩耶山]][[掬星台]]からの[[夜景]]、[[有馬温泉]]などが挙げられる。また、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[創造都市ネットワーク|デザイン都市]]に認定された。
「'''神戸'''」という地名は、現在の[[中心市街地]]である[[三宮]]・[[元町 (神戸市)|元町]]周辺が古くから[[生田神社]]の[[神封|神封戸]]の集落(神戸「かむべ」)であったことに由来し、その[[ウ音便]](かうべ。旧仮名遣いで「かう」は「コー」と発音)である。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の[[神事]]に使うお[[神酒]]の生産にも係わった。
== 沿革・詳細 ==
現在の神戸市域は、[[律令制]]では[[摂津国]]と[[播磨国]]に属していた。現在の[[垂水区]]、[[西区 (神戸市)|西区]]、[[北区 (神戸市)|北区]]([[北神]])の[[淡河町]]、[[須磨区]]の[[神戸総合運動公園]]・神戸流通業務団地の区域が播磨国で、発足時の市域を含むその他の区域が摂津国であった。
[[和田岬]]から北へ[[湊川 (兵庫県)|湊川]](旧河道)のあたりにかけて{{読み仮名|「'''兵庫津'''」|ひょうごのつ}}と呼ばれる港が広がり、[[京]]・[[大坂]]の外港・経由地として古くから栄えていた。[[遣隋使]]の時代には、すでに港は開かれていたが、[[平清盛]]により[[経が島]]の近くに[[首都|都]]である[[福原京]]が計画された前後に[[貿易]]の拠点として整備され{{読み仮名|[[大輪田泊]]|おおわだのとまり}}と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。
兵庫津には[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の短い期間、[[兵庫城]]が存在していたが、[[安土桃山時代]]に[[豊臣氏]]の直轄地となり、[[兵庫陣屋]]と呼ばれるようになった。[[大坂の陣]]後に[[尼崎藩]]が立藩されると、[[阪神間|西摂]]の政治の拠点は[[尼崎市|尼崎]]に移り、兵庫陣屋には同藩の兵庫津奉行所が置かれた。[[1769年]]の[[上知]]によって、同じく尼崎藩領だった[[西宮市|西宮]]とともに兵庫津は[[天領|幕府直轄領]]となり、兵庫陣屋には[[大坂町奉行]]の兵庫勤番所が置かれた。港は[[北前船]]や[[尾州廻船]]の中継地の一つで[[廻船問屋]]が軒を連ねていた。北西部には[[西国街道]]が通っており、西宮宿(現在の[[西宮市]])と大蔵谷宿(同じ兵庫県の[[明石市]])とを繋ぐ宿場があった。
兵庫津はまず市街地の地子方(じしかた)と市街地以外の地方(じかた)に分かれ、地子方はさらに宿場町の岡方と港町の北浜・南浜に分かれていた。北浜と南浜の境界はかつての経が島に由来する築島付近で、岡方・北浜・南浜の三方の自治組織が存在した。[[本陣]]は岡方に存在したが、諸藩の[[大名]]との関係が密接な有力商人たちが南浜に競って建てた「[[浜本陣]]」の利用が江戸時代中期以降は漸増した。
[[江戸幕府]]が[[欧米]]と締結した[[条約]]では[[兵庫港]]を外国船に[[開港]]することが規定されていたが、実際には[[宇治川 (兵庫県)|宇治川]]を挟んで3㎞東に位置する神戸村が[[条約港|開港場]]となり[[1868年]][[1月1日]]に開港。神戸村と{{読み仮名|二ツ茶屋村|ふたつちゃやむら}}の沿岸部に神戸港が整備されたが、神戸村の南東端、[[生田川]](旧河道)河口西岸の[[外国人居留地]]の造成工事は遅れ、2月に[[神戸事件]]が発生。これにより、3月には生田川(旧河道) - 宇治川間の山麓から海岸までが外国人雑居地となり、外国人居留地の造成工事は8月に完了、9月から競売が開始された。12月には神戸村が兵庫津寄りに位置する二ツ茶屋村・{{読み仮名|走水村|はしうどむら}}と合併して神戸町となり、兵庫津と接するようになった。ただし両市街中心部は離れており、宇治川 - 湊川(旧河道)間の西国街道より山側は、坂本村の南部が「仲町部」と称して開発され、[[兵庫県庁舎]](2代目庁舎)、[[福原 (神戸市)|福原遊廓]](新福原)、[[湊川神社]]などが築かれた。[[1874年]]には[[東海道本線]]([[JR神戸線]])の[[大阪駅]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間が開通し、西国街道より浜側の兵庫津[[相生町 (神戸市)|相生町]]および兵庫津[[東川崎町]]に神戸駅が開業。同時に神戸町にも[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]の位置に三ノ宮駅が開業した。
兵庫津の湊川以西においても、1874年に仲町部の多聞通を[[柳原蛭子神社|柳原惣門]]まで西伸させた新西国街道と兵庫津の旧市街との間が兵庫新市街として整備され、神戸町と兵庫津の市街が連続するようになった。一方、[[1875年]]に[[兵庫運河|新川運河]]を開削するも非開港の兵庫津(兵庫港)は神戸港に対して劣勢となり、[[1879年]]の[[郡区町村編制法]]施行により市街としての兵庫津は神戸区に飲み込まれ、[[1892年]]の[[勅令]](神戸港の港域拡張)により港湾としての兵庫津(兵庫港)も神戸港に飲み込まる形で一体化した。[[1901年]]の湊川の付け替えにより生じた旧河川敷には[[1905年]]に[[新開地]]が形成され、「東の[[浅草]]、西の新開地」と称されるほど繁栄した<ref>{{Cite web|和書|title=JR神戸駅はなぜ神戸市の中心街から外れたところに位置している?|url=https://news.mynavi.jp/article/20140217-kobe/|website=マイナビニュース|date=2014-02-17|accessdate=2021-04-12|language=ja}}</ref>。[[日清戦争]]・[[第一次世界大戦]]を経て[[上海市|上海]]・[[香港]]・[[シンガポール]]と並ぶ[[アジア]]の主要な貿易港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした[[工業]]も発達し、[[阪神工業地帯]]の中核を担う日本有数の重工業都市に成長した。[[1922年]]には[[六大都市]]に指定された。
新開地や神戸駅周辺が繁栄する一方で、生田川は神戸駅開業よりも早い[[1871年]]に現河道へ付け替え済みで、[[1889年]]の市制施行の際には旧生田川以東の[[葺合村]]が市域に加わっており、[[1899年]]の居留地返還を機に都市機能を東へ分散させる施策も行われた。旧居留地はオフィス街へと変容し、旧生田川河口と旧居留地の沖合には[[1907年]]から[[新港 (神戸市)|新港]]突堤の埋立造成が開始された。[[1905年]]の[[阪神本線]]開業、[[1912年]]の[[神戸市電布引線]]開業、[[1931年]]の[[東海道本線]][[三ノ宮駅]]移転、[[1933年]]の[[神戸市電税関線]]開業、[[1936年]]の[[阪急神戸本線]]延伸など、旧居留地の北隣に位置する[[三宮]]が[[交通結節点|鉄道結節点]]となり、旧生田川を南北基軸とする都市機能が整えられた。
[[ファイル:Shinkaichi.jpg|thumb|right|[[新開地]] 手彩色絵葉書]]
[[太平洋戦争]]末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標であった神戸は[[B-29 (航空機)|B29]]による度重なる[[空襲]]を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した([[神戸大空襲]])。
戦前より続けられてきた都市機能の東への分散は[[1957年]]の[[東遊園地]]への[[神戸市役所]]移転でほぼ完成。[[戦後]]の高度経済成長期には、市街後背部の[[山地]]・[[丘陵]]より削り取った土砂を用いて[[ポートアイランド]]や[[六甲アイランド]]などの人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備するとともに、埋立用土砂採取後の[[西区 (神戸市)|西区]]や[[北区 (神戸市)|北区]]の山地・丘陵を[[西神ニュータウン]]などの[[住宅地]]・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市[[インフラストラクチャー|インフラ]]の拡充・整備が大きく進むことになった。[[1981年]]のポートアイランド第一期竣工時には、[[博覧会|地方博]]ブームの先駆けとなる「[[神戸ポートアイランド博覧会]](ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「'''株式会社神戸市'''」と称され全国の[[市町村]]から[[地方公共団体|自治体]]経営の手本とされた。神戸港は商業や工業が集積する[[大阪]]に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、[[1970年代]]には[[阪神工業地帯]]の輸出港として[[海上コンテナ]]の取扱個数が世界一になるなど世界有数の港湾として知られていた。
[[1972年]]に[[新神戸駅]]が生田川の付け替え地点に開業し、以降1981年のポートアイランド1期竣工、[[2006年]]の[[神戸空港]]開港、[[2010年]]のポートアイランド2期竣工によって旧生田川の南北基軸はさらに強化され、新生田川筋も[[1976年]]の[[新神戸トンネル]]開通、[[1999年]]の[[神戸港港島トンネル]]開通によって南北基軸を補完する。三宮が市内最大の[[繁華街]]・[[交通結節点]]に成長した一方で新開地や神戸駅の地位は下がり、結果的に都市機能は分散ではなく移転した形になった。
'''[[阪神・淡路大震災]]'''が[[1995年]][[1月17日]]に発生し、神戸市内は甚大な被害を受けた。[[震災]]での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの製造業の生産拠点の海外移転によって、国際貿易港としての相対的地位は低下した。震災復興によるインフラの再整備により貿易額は回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして存在感を維持している。その一方、[[中華人民共和国|中国]]をはじめとした[[アジア]]の大都市の急激な発展により港湾都市としての国際的な影響力は低下しており、[[2018年]]度における世界の港湾取扱貨物量ランキングは50位(国内5位)となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001358392.pdf|title=世界の港湾取扱貨物量ランキング|accessdate=2021/04/13|publisher=国土交通省|format=PDF}}</ref>。
また、[[人口]]においても震災直後に7%余り減少したものの、[[新長田駅]]前・JR[[六甲道駅]]前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・[[神戸医療産業都市|神戸医療産業都市構想]]などの事業によって呼び戻されて[[2011年]]には154万9000人に達した。しかしながらその後は首都圏や大阪府への流出など人口減少が続き<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/documents/9935/data20.pdf|title=神戸市の人口の現状と将来シミュレーション (神戸人口ビジョン(案|accessdate=2021/04/13|publisher=神戸市|format=PDF}}</ref>、[[2015年]]に[[福岡市]]、[[2019年]]には[[川崎市]]を下回り、政令市で7位となっている。[[神戸市営地下鉄海岸線]]や[[神戸空港]]の利用者数が[[需要予測]]を大幅に下回り、また[[ウォーターフロント]]開発である[[神戸ハーバーランド]]の[[アンカーストア|核テナント]]が相次いで撤退、かつて小売業で日本一の地位を築いた[[ダイエー]](神戸市発祥)の不振、市主導の[[新長田駅]]前再開発の失敗など、戦後から震災まで好調に成長してきたのと対照的に震災以降は暗雲が垂れ込めていた。しかし、近年は都心地区である三宮エリアの再開発やハーバーランド、メリケンパーク、新港町などをはじめとするウォーターフロントエリアの再開発、市内主要駅周辺のリノベーションなどの進行に加え、神戸空港の国際化と国内線の拡大が決定。これらによる街全体の活性化が大いに期待されている。
== 地理 ==
[[ファイル:Amsterdam at Kobe10s3872.jpg|thumb|六甲連山(南側)]]
* 神戸市は空港や新幹線の駅を有し、また東京と九州の中間地点でもあり、[[明石海峡]]に架かる[[明石海峡大橋]](垂水区)を介して[[淡路島]]や[[四国]]にも通じる交通の要衝である。
* 南は[[瀬戸内海]]の[[大阪湾]]に面して世界でも有数の港が広がっている。また、市域中央部の[[六甲山地]]が海の近くまで迫っているために[[市街地]]は南北に狭く東西に長い。
* 海岸部は約35km。そのうち、植物が見られるのは妙法寺川から[[明石市]]との境に近い[[山田川 (神戸市垂水区)|山田川]]河口右岸辺りまでの約12km<ref name="hirose1">広瀬重夫、兵庫県生物学会編、「神戸市域の海岸植物」『兵庫県生物学会65周年記念誌 豊かな兵庫の自然力 - 生物の多様性と人々の営み -』、神戸新聞総合出版センター、2011年、128-129頁</ref>。
* 気候は[[瀬戸内海式気候]]であり、冬季は比較的温暖、夏は暑い。[[1999年]]9月に気象台が中山手通7丁目から港湾部(海岸通一丁目)へ移転後、年間通して気温は大きく上昇した。[[六甲山]]の北側の内陸部と海岸部では大きな気温差がある。
{{Kobe weatherbox}}
=== 主な山 ===
* 六甲山系
** [[六甲山]] - [[西お多福山]] - [[東お多福山]] - 石楠花山 - [[摩耶山]] - 堂徳山([[市章山]])- [[錨山]](碇山)- [[再度山]] - 世継山 - [[諏訪山]] - 菊水山 - [[高取山 (兵庫県)|高取山]](鷹取山)
* [[丹生山系]]
** [[帝釈山 (兵庫県)|帝釈山]] - [[丹生山]]
=== 主な河川 ===
* [[住吉川 (兵庫県)|住吉川]]
* [[石屋川]]
* [[都賀川]]
* [[生田川]] - [[布引渓流]]([[名水百選]])
* [[宇治川 (兵庫県)|宇治川]]
* [[高橋川 (兵庫県)|高橋川]]
* [[新湊川]]
* [[武庫川]]
* [[羽束川]](武庫川支流)
* [[志染川]](別名:山田川、[[加古川]]支流)
* [[淡河川]](志染川支流)
* [[明石川]]
=== 主な湖沼 ===
* [[つくはら湖]]
=== 主な人工島 ===
* [[ポートアイランド]]
* [[神戸空港島]]
* [[六甲アイランド]]
* [[六甲アイランド南]](神戸沖埋立処分場)
=== 隣接する自治体 ===
* [[淡路市]]
* [[明石市]]
* [[加古郡]][[稲美町]]
* [[三木市]]
* [[三田市]]
* [[宝塚市]]
* [[西宮市]]
* [[芦屋市]]
== 生態系 ==
市内では、6608種の動植物が確認されている。744種が絶滅の恐れがあり、そのうち[[ベッコウトンボ]]や[[マヤラン]]など、49種は現在見られなくなっている<ref name="広報紙">神戸市広報紙 KOBE、2012年4月号、2-3頁</ref>。
* 希少種<ref name="広報紙"/>
**[[スミスネズミ]] - 明治37年([[1904年]])に[[六甲山]]でイギリス人のゴードン・スミスが発見した生物である。[[2006年]](平成18年)に約20年ぶりに生息を確認。
** [[カワバタモロコ]] - 全長3cmから6cmほどの[[淡水魚]]。市内数か所のため池に生息。
** コウベマイマイ - 市内ほぼ全域の低山部・山麓部に分布。林の中の落ち葉の上や石垣のくぼみなどに生息。
** アリマウマノスズクサ - [[牧野富太郎]]が[[有馬]]に調査したときに命名。
* [[鳥類]] - 285種が記録されている。そのうち、飼い鳥が逃げ出したものが15種<ref>北野光良 著、身近な生き物調査運営委員会(事務局:神戸市環境局環境保全部環境情報課) 編、新・神戸の自然シリーズ 2. 神戸の野鳥 The Bird of Kobe、財団法人神戸市体育協会、1999年</ref>。
* [[海岸植物]]<ref name="hirose1"/>(市内の海岸植物標本を最初に残したのは[[牧野富太郎]])
** ウンラン・[[ハマボウフウ]]・[[ハマアオスゲ]]・タチスズシロソウ(牧野富太郎採集)
** [[ハマビシ]]・マツナ・イソホウキギ・ハマアカザ・[[ハマゴウ]]・ハマエノコロ・[[カモノハシ (植物)|カモノハシ]]([[1950年代]]に近藤浩文採集)
** 現状
** 平成初期の[[1991年]]以降に[[コウボウムギ]]・[[ハマゴウ]]・[[ツルナ]]・[[ママコノシリヌグイ]]・[[クコ]]・[[ハマヒルガオ]]・セイタカヨシ・イソヤマテンツキ・ハマウドなど、21科43属49種の[[草本]]が記録されている。
== 年表 ==
{{Commonscat|Kobe by decade|神戸市の年表}}
* [[神功皇后]]摂政元年 - [[生田神社]]、[[長田神社]]創建。
* [[3世紀]]後半 - [[西求女塚古墳]]が築かれる。
* [[4世紀]] - [[東求女塚古墳]]・[[処女塚古墳]]が築かれる。
* 4世紀末 - [[5世紀]]初頭 - [[五色塚古墳]]と小壷古墳が築かれる。<!--
* [[欽明天皇]]13年([[552年]]?) - [[百済]]・[[聖王 (百済)|聖明王]]の太子である恵(僧名:童男行者)により明要寺(丹生寺)が創建される。--><!--飛鳥寺の創建より古く、史実とは認められない。-->
* [[推古天皇]]11年([[603年]])7月、当麻皇子の妃舎人[[皇女]]が死去、赤石桧笠岡([[吉田王塚古墳]])に葬られる([[日本書紀]]巻第廿二)。
* [[舒明天皇]]3年9月19日([[631年]]10月19日)、[[舒明天皇]]が有間温泉(後の[[有馬温泉]])にて入湯するという(日本書紀卷第廿三)。
* [[大化]]元年([[645年]]) - [[孝徳天皇]]の[[勅願]]によって[[如意寺 (神戸市)|如意寺]]が創建される。
* [[白雉]]2年([[651年]]) - 孝徳天皇の勅願によって[[石峯寺 (神戸市)|石峯寺]]が創建される。
* [[霊亀]]2年([[716年]] - [[元正天皇]]の勅願によって[[太山寺 (神戸市)|太山寺]]が創建される。
* [[神護景雲]]2年([[768年]]) - [[和気清麻呂]]によって[[大龍寺 (神戸市)|大龍寺]]が創建される。
* [[延暦]]18年([[799年]]) - 水害により[[生田神社]]が現在地に移転。
* 延暦24年([[805年]]) - 伝教大師・[[最澄]]によって日本最初の[[密教]]教化霊場である能福護国密寺([[能福寺]])が創建される。
* [[弘仁]]3年([[812年]]) - [[大輪田泊]]が修築される([[日本後紀]]卷廿二)。
* [[延喜]]14年([[914年]]) - [[三善清行]]による大輪田泊修築。
[[ファイル:Taira_no_Kiyomori_Portrait_by_Fujiwara_Tamenobu_and_Takenobu.png|thumb|[[1180年]]、[[平清盛]]により福原に[[福原京]]と別荘・雪見御所が造営される。]]
* [[承安 (日本)|承安3年]]([[1173年]]) - [[平清盛]]が[[大輪田泊]]に経が島(経ヶ島)を築く。
* [[治承]]4年([[1180年]]) - [[福原京]]の造営。
* [[寿永]]3年/治承8年2月7日([[1184年]]3月20日) - [[一ノ谷の戦い]]が起きる。
* [[建久]]7年([[1196年]]) - [[重源]]による大輪田泊修築。
* [[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]]) - [[赤松則村]](円心)が[[播磨国|播磨]][[守護]]になり、以後200年間は[[赤松氏]]の支配となる(途中20年余は[[山名氏]])。
* 建武3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]([[1336年]]7月4日) - [[湊川の戦い]]が起きる。
* [[康永]]3年([[1344年]]) - [[足利尊氏]]の発願によって[[福海寺]]が創建される。
* [[天正]]6年([[1578年]]) - [[花隈城#花隈城の戦い|花隈合戦]]が起きる。
* 天正19年([[1591年]]) - [[豊臣秀吉]]が有馬大茶会を開催する。
* [[寛文]]12年([[1672年]]) - [[北前船]]の[[西廻り航路]]が開かれて、兵庫津が拠点港となる。
* [[寛政]]11年([[1799年]]) - 高田屋嘉兵衛により択捉航路が開設され北海道物産の交易基地となる。
* [[元治]]元年([[1864年]]) - [[勝海舟]]により、[[神戸海軍操練所]]および神戸海軍塾を設置。
* [[慶応]]3年12月7日([[1868年]]1月1日) - 兵庫の名のもとに[[神戸港]]が開港。
* 慶応4年(1868年)
** 1月11日(2月4日) - [[神戸事件]]が発生。
** 3月7日(3月30日) - [[生田川]]-[[宇治郷 (神戸市)|宇治川]]間の山麓から海岸まで(造成中の居留地を除く)が[[神戸外国人居留地#雑居地|外国人雑居地]]となる。
** 7月24日(9月10日) - [[神戸外国人居留地]]の第1回競売が行われる。
* [[明治]]2年([[1869年]]) - 日本初の牛肉料理店「関門月下亭」(現存せず)が開店。
* 明治3年([[1870年]]) - 居留地に[[オリエンタルホテル]]開業。[[アレクサンダー・キャメロン・シム|A.C.シム]]を中心とする居留外国人により[[神戸レガッタアンドアスレチッククラブ]] (KR&AC) 創立。
* 明治4年([[1871年]]) - 生田川の付け替えが行われる。日本初の鉄道トンネル、[[石屋川トンネル]]竣工。
* [[1873年]](明治6年) - 生田川の旧河道に滝道(現・[[フラワーロード]])造成。
* [[1874年]](明治7年) - [[六甲山]]で日本初の近代[[登山]]が行われる。[[官設鉄道]](現・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])、[[大阪駅]]-[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間開通、神戸駅・[[三ノ宮駅]]・[[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]]が開業する。
* [[1877年]] - 居留地に内外人公園(現・[[東遊園地]])が開設。
* [[1884年]] - A.C.シムにより日本初の[[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]]が製造される。
* [[1886年]] - [[明治天皇]]の[[御用邸]]が弁天浜(現在のハーバーランド)に設けられる。
* [[1887年]] - 日の出ソース(現・[[阪神ソース]])が日本初のウスターソースを製造。
* [[1888年]] - [[山陽鉄道]](現・JR西日本)[[山陽本線]]、[[兵庫駅]]-[[明石駅]]間開通。
* [[1889年]] - [[市制]]を施行し'''神戸市'''となる。山陽鉄道兵庫駅-神戸駅間開通、官設鉄道と接続する。[[旧ハンター住宅]]が現外国人倶楽部の位置に建設。
*1890年 - [[和田岬線]]開業。
* [[1892年]] - 神戸港の港域拡張により兵庫港が神戸港の一部となる。
* [[1893年]] - 官設鉄道神戸工場で日本初の[[蒸気機関車]]が製造される。
* [[1896年]] - 日本初の映画([[活動写真]])が公開される。
* [[1897年]] - [[和田岬]]に日本初の[[水族館]]、「[[神戸市立須磨海浜水族園#神戸の水族館の歴史|和楽園水族館]]」が開業。
* [[1899年]] - 神戸外国人居留地が返還される(7月16日)。[[兵庫運河]]竣工(12月)。
* [[1900年]] - 日本初のダムである[[布引五本松ダム]]が完成。日本で7番目の近代水道として給水が開始される。
* [[1901年]] - [[湊川 (兵庫県)|湊川]]の付け替えが行われる。
* [[1903年]] - A.H.グルームにより、[[六甲山]]に日本初のゴルフ場「[[神戸ゴルフ倶楽部]]」が開場。
* [[1905年]] - 初の都市間電気鉄道([[インターアーバン]])として[[阪神電気鉄道]]が神戸([[三宮駅]])- 大阪([[出入橋駅]])間で開業。[[阪神間モダニズム]]の時代( - [[1940年]])。旧トーマス邸(風見鶏の館)完成。湊川の旧河道に[[新開地]]造成。
* [[1907年]][[5月24日]] - 市章を制定する<ref>『[[#図典 日本の市町村章|図典 日本の市町村章]]』p158</ref>。
* [[1908年]] - [[トアホテル]]開業。ブラジル移民第一船「[[笠戸丸]]」が出港。[[二楽荘]]が竣工。
* [[1910年]] - 神戸電気鉄道<!---現在の神戸電鉄とは別会社--->によって[[兵庫津|兵庫]]と神戸の両市街地を結ぶ[[路面電車]]が開業(神戸電気鉄道は1917年8月に市営に移管され、[[神戸市電]]となる)<ref name="city.kobe">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number16/special_features/|title=神戸市市民参画推進局広報課「神戸市電略史」|website=神戸市|accessdate=2023-09-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160220215220/http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number16/special_features/|archivedate=2016-02-20}}</ref>。
* [[1912年]] - [[神戸市立図書館|市立図書館]]が開館。[[聚楽館]]が完成。
* [[1914年]] - 須磨の[[大谷光瑞]]の別荘を[[宮内省]]が買い上げ、[[皇室]]の[[離宮]]、[[武庫離宮]](現・須磨離宮公園)が設けられる。
* [[1917年]] - 神戸市を中心に[[天然痘]]が流行。患者5121人、死者935人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p322 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* 1917年 - 国鉄 (JR) [[灘駅]]開業。
* [[1920年]] - [[阪神急行電鉄]]神戸本線、大阪([[十三駅]])- 神戸([[上筒井駅]])間開業。
* [[1921年]][[4月12日]] - 日本初の市民による[[生活協同組合]]「神戸購買組合」(現・[[生活協同組合コープこうべ]])創設。
* [[1922年]]([[大正]]2年) - [[神戸ポートターミナル]]完成。
* [[1923年]] - 神戸港が国の重要港湾に認定。オリエンタルホテルで日本初の[[パーマネントウェーブ]]が流行する。日本で初めてのジャズバンド(ラッフィング・スター・ジャズバンド)が神戸で旗揚げされた。
* [[1925年]] - [[深江文化村]]の完成。[[神戸タワー]](高さ90m)が[[湊川公園]]内に竣工。[[摩耶ケーブル線]]開業。
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - [[鈴木商店]]が倒産。
* [[1928年]] - [[神戸電鉄|神戸有馬電気鉄道]]の[[湊川駅]] - [[有馬温泉駅]]間が開通する。[[諏訪山動物園]]が開園。
* [[1929年]] - [[六甲山ホテル]]開業。[[西郷町 (兵庫県)|西郷町]]、[[西灘村]]、[[六甲村]]を編入合併。
* [[1931年]] - [[神戸水道]]が完成。[[千苅ダム]]と[[奥平野浄水場]]が送水管で結ばれる。[[六甲登山架空索道]]開業。
* [[1932年]] - [[六甲摩耶鉄道六甲ケーブル線]]が開業。
* [[1933年]] - 阪神電気鉄道、[[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]] - 三宮駅間を地下線に切り替え。(神戸市内初の[[地下鉄|地下鉄道]]に)。[[神戸市立御影公会堂|御影公会堂]]完成。
* [[1934年]] - [[六甲オリエンタルホテル]]開業。国鉄 (JR) [[六甲道駅]]開業
* [[1935年]] - 日本初の[[イスラム教]]モスク、[[神戸モスク]]が完成。国鉄 (JR) [[摂津本山駅]]開業。
* 1935年[[8月10日]] - [[集中豪雨]]により兵庫区南部一帯から新開地にかけて浸水。浸水家屋2000戸以上<ref>「今度は台風が連れてきた豪雨」『東京朝日新聞』1935年(昭和10年)8月11日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.209 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
[[ファイル:Emperor Showa visit to Kobe in 1947.JPG|thumb|神戸市に行幸する昭和天皇(1947年)]]
[[ファイル:神戸市港祭り花電車(湊川公園前)日本.jpg|thumb|港祭りの様子([[湊川公園]]前)[[1963年]]ごろ]]
[[ファイル:雨の上沢通り(神戸市電).jpg|thumb|1910年開業、1971年には全廃した神戸市電]]
* [[1936年]] - 神戸モロゾフ製菓(現・[[モロゾフ]])が英字新聞にバレンタインデーの広告を掲載する(バレンタインデーの起源)
* [[1937年]] - [[神戸市電]]の労働争議が激化。7月26日から約400人の職員が[[ストライキ]]に入り、しばらくの間、市電のダイヤが乱れた<ref>「交渉決裂・スト突入、従業員は淡路島籠城」『大阪毎日新聞』1937年(昭和12年)7月7日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.790-791 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1938年]] - [[阪神大水害]]が発生。[[神戸市歌#神戸市歌(1951年制定)|神戸市歌(初代)]]を制定。
* [[1939年]] - [[東京市]]・[[大阪市]]・[[名古屋市]]に次いで人口が100万人を突破する。
* [[1942年]] - [[味噌]]と[[醤油]]、[[衣料品]]の[[配給 (物資)|配給制度]]が始まる。県内では神戸市のほか人口の多い7市で同時に開始<ref>「味噌、醤油の割当配当」『朝日新聞』1942年(昭和17年)1月8日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.124 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1945年]] - [[神戸大空襲]]。
* [[1950年]] - 日本貿易産業博覧会(神戸博)が開催される。[[御影町]]、[[魚崎町]]、[[住吉村 (兵庫県)|住吉村]]、[[本庄村 (兵庫県武庫郡)|本庄村]]、[[本山村 (兵庫県)|本山村]]を編入合併。
* [[1951年]] - [[神戸市立王子動物園]]が開園。神戸市立南蛮美術館([[神戸市立博物館]]の前身。現在の神戸市文書館の場所)が開館。[[神戸市歌]](現行、2代目)を制定。
* 1951年 - 12月に[[三菱重工業|中日本重工業]]造船所で集団[[赤痢]]が発生。関係者277人が感染したほか、1000人以上が疑似感染した<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=84 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1955年]] - [[明石市]]で神戸市との合併の是非を住民投票し反対多数で不成立となる([[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|昭和の大合併]])。奥摩耶ロープウェイ(現・[[摩耶ロープウェイ]])開業。
* [[1956年]] - [[政令指定都市]]に移行。[[六甲山]]一帯が[[瀬戸内海国立公園]]の区域に指定される。
* [[1957年]] - 神戸市役所が[[湊川 (兵庫県)|湊川]]から現在地に移転。[[神戸市立須磨海浜水族園|須磨海浜水族園]]開園。
* [[1960年]] - 鶴甲団地造成。
* [[1962年]] - 夏場以降に記録的な少雨。[[9月24日]]から夜間[[断水]]が実施された<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=162-163 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1963年]] - [[神戸ポートタワー]]完成。
* [[1964年]] - ポートアイランド構想発表。
* [[1965年]] - [[さんちか|さんちかタウン]]開業。
* [[1966年]] - [[阪神高速道路]]が開通。ポートアイランド着工。
* [[1967年]] - 第5回国際港湾協会総会開催。開港100年祭。[[六甲山トンネル]]が開通。日本初の[[コンテナターミナル]]を備えた[[摩耶埠頭]]が完成。
* [[1968年]] - [[神戸高速鉄道]]が開通。
* [[1969年]] - [[神戸商工貿易センタービル]]完成、当時西日本一の高層建築。[[UCC上島珈琲]]が世界初の缶コーヒーを発売。
* [[1970年]] - 神戸商工貿易センタービルで世界貿易センター連合総会開催。兵庫県立近代美術館が開館。[[神戸大橋]]の完成。[[神戸ポートターミナル]]完成。市旗を制定する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/regulations/rule/reiki/reiki_honbun/ak30201851.html|title=神戸市旗の制定|website=神戸市|accessdate=2023-09-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130721222627/http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/regulations/rule/reiki/reiki_honbun/ak30201851.html|archivedate=2013-07-21}}</ref>。[[六甲有馬ロープウェー]]開通
* [[1971年]] - 神戸市電全線廃止<ref name="city.kobe" />。
* [[1972年]] - [[山陽新幹線]]([[新大阪駅]]-[[岡山駅]])が開通、[[新神戸駅]]が開業。[[六甲アイランド]]着工。
* [[1973年]] - 神戸港のコンテナ取扱個数が世界一となる。
*[[1974年]] - [[阪神国道線]]廃止
* [[1976年]] - [[阪神高速32号新神戸トンネル|新神戸トンネル]]が開通。
* [[1977年]] - [[連続テレビ小説|NHKドラマ]]「[[風見鶏 (テレビドラマ)|風見鶏]]」放映により[[異人館]]ブームが起こる。[[神戸市営地下鉄]]の[[新長田駅]] - [[名谷駅]]間が開通。[[ハーバーハイウェイ]]開通。
* [[1980年]] - 北野町山本通が国の[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定される。[[葺合区]]と[[生田区]]を合併し[[中央区 (神戸市)|中央区]]が誕生。
* [[1981年]] - [[ポートアイランド]]第1期竣工。[[ポートライナー]]開通。[[神戸ポートアイランド博覧会]](ポートピア'81)開催。[[神戸コンベンションコンプレックス]]の完成。
* [[1982年]] - 第1回「[[神戸ジャズストリート]]」開催。
*1984年 - [[ワールド記念ホール]]完成。
* [[1985年]] - [[1985年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード神戸大会]]開催。[[全国都市緑化フェア]](グリーンエキスポ'85)開催。
* [[1987年]] - [[メリケンパーク]]完成。[[神戸海洋博物館]]開業。[[ルミナス神戸]]就航。
* [[1988年]] - グリーンエキスポ跡地に[[神戸総合運動公園野球場]]が完成。[[北神急行電鉄]]が開通。[[六甲アイランド]]竣工。
* [[1990年]]([[平成]]2年) - [[六甲ライナー]]([[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]]-[[マリンパーク駅]])が開通。第1回神戸ファッションフェスティバルの開催。シティループバス運行開始。
* [[1991年]] - [[布引ハーブ園]]が開園。
* [[1992年]] - [[ハーバーランド]]街開き。[[神戸阪急]](2代目)、神戸西武開店。
* [[1993年]] - [[神戸市立フルーツ・フラワーパーク|フルーツ・フラワーパーク]]が開園。[[パンパシフィック水泳選手権]]開催。アーバンリゾートフェアKOBE'93開催。[[ハーバーハイウェイ]]が開通。[[神戸クリスタルタワー]]完成。
*1994年 - 神戸西武閉店。
[[ファイル:Hanshin-Awaji earthquake 1995 337.jpg|thumb|[[1995年]]、[[阪神・淡路大震災]]が発生]]
* [[1995年]] - [[阪神・淡路大震災]]が発生。第1回神戸[[ルミナリエ]]開催。
*[[1996年]] - JR[[甲南山手駅]]開業
*[[1997年]] - 神戸港復興宣言がなされる。ポートアイランドに日本一長い[[ムービングウォーク]]の供用開始。
* [[1998年]] - [[HAT神戸]]街開き。[[明石海峡大橋]]が完成する。阪神・淡路震災復興チャリティとして[[1000人のチェロ・コンサート]]開催。
*1999年 - [[神戸港港島トンネル]]開通。
* [[2000年]] - 王子動物園で[[ジャイアントパンダ]]の日中共同研究飼育開始。
* [[2001年]] - [[神戸市営地下鉄海岸線|市営地下鉄海岸線]]([[新長田駅]]-[[三宮・花時計前駅]])開業。神戸21世紀復興記念事業「神戸からありがとう」開催。クロリモットKOBE開催。[[御崎公園球技場]](神戸ウイングスタジアム)オープン。
* [[2002年]] - [[御崎公園球技場]]で[[2002 FIFAワールドカップ]]開催。第1回[[神戸コレクション]]開催。
* [[2003年]] - 楠・荒田町遺跡が発見された。[[日本貨物鉄道|JR貨物]][[神戸臨港線]]、[[神戸港駅]]廃止、[[神戸貨物ターミナル駅]]に移転。
* [[2004年]] - 神戸港がスーパー中枢港湾に指定された。
* [[2005年]] - 国連防災世界会議開催。ポートアイランド第2期竣工。
* [[2006年]] - [[神戸空港]]が開港、[[日本航空]]、[[全日本空輸]]、[[スカイマーク]]が就航開始。ポートライナー([[市民広場駅]]-[[神戸空港駅]])延伸開業。[[神戸-関空ベイ・シャトル|神戸-関空ベイシャトル]]就航。[[のじぎく兵庫国体]]・兵庫大会の開催。[[ミント神戸]]開業。[[カワサキワールド]]開業。
* [[2007年]] - 第9回世界華商大会開催(日本初、9月15-17日)。第1回[[神戸ビエンナーレ]]開催。フォーブスの「世界でもっとも綺麗な都市トップ25」で25位に選ばれる。ポートアイランド西公園(ポーアイしおさい公園)開業。
* [[2008年]] - [[世界観光機関]]大都市観光国際会議開催。G8環境相会合開催。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]のデザイン都市に認定。JR[[須磨海浜公園駅]]開業。神戸空港に[[天草エアライン]]が新規就航。
* [[2009年]] - [[阪神なんば線]]の開通により[[近畿日本鉄道|近鉄]]列車の乗り入れ開始。国内初の新型インフルエンザ感染者が確認される。神戸スウィング・オブ・ライツ開催。[[鉄人28号]]実物大モニュメント完成。神戸空港から日本航空が撤退。
* [[2010年]] - 次世代[[スーパーコンピュータ]]「[[京 (スーパーコンピュータ)|京]]」運用開始。阪神港が神戸国際戦略港湾に選定される。神戸空港から天草エアラインが撤退。
* [[2011年]] - 第1回[[神戸マラソン]]開催。第1回神戸イルミナージュ開催。
* [[2012年]] - ポートアイランドに[[スーパーコンピュータ]]「京」開業。[[KOBE de 清盛 2012]]開幕。神戸阪急(2代目)閉店。
* [[2013年]] - 神戸ハーバーランドに[[umie]]・[[神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール]]が開業。神戸空港に[[ソラシドエア]]、[[AIRDO|AIR DO]]が新規就航。
*2016年 - JR[[摩耶駅]]開業。[[G7]]世界保健大臣会合開催。
* [[2017年]] - 神戸港開港150年記念事業開催。メリケンパークリニューアル。
*[[2019年]]([[令和]]元年) - 御崎公園球技場が[[ラグビーワールドカップ2019]]会場となる。神戸空港に[[フジドリームエアラインズ]]が新規就航。[[そごう]]神戸店が[[神戸阪急]](3代目)に店名変更。
*[[2020年]] - [[北神急行電鉄]]が[[神戸市営地下鉄北神線]]として市営化。そごう西神店閉店。
*[[2021年]] - [[神戸三宮阪急ビル]]が開業。[[スーパーコンピュータ]]「[[富岳_(スーパーコンピュータ)|富岳]]」が本格運用を開始。
== 政治 ==
{{右|
[[ファイル:Emblem of Kobe, Hyogo.svg|thumbnail|200px|神戸市章]]
[[ファイル:Kobe_City_Anthem_(1951).ogg|thumb|神戸市歌(2代目、[[オフヴォーカル|インストゥルメンタル]]。旋律は[[著作権の保護期間|著作権保護期間]]満了)]]
[[ファイル:Shishoyama&Ikariyama nightview.jpg|thumbnail|200px|市章山の電飾(右) 左は[[錨山]]]]
}}
=== 市章・市歌 ===
市章山の電飾や市庁舎1号館で知られる市章は、[[歴史的仮名遣]]である「かうべ」の[[片仮名]]「'''カ'''ウベ」の「カ」をデザインして[[1907年]][[5月24日]]に制定された。扇港と呼ばれた旧兵庫港(大輪田泊)と旧神戸港の2つの港の形と、港湾に因む[[錨]]のイメージも持たせてあるといわれる。市旗は[[緑]]地に市章を白く染め抜いたものが使われている。市章の造形は[[CHANEL]]のロゴの下{{sfrac|1|3}}を短縮したものに近い。
現在の[[市町村歌|市歌]]は、[[1951年]](昭和26年)に制定された2代目のものである。
* 作詞: 木村靖弘(神戸市補訂) 作曲: [[信時潔]]
{{See|神戸市歌}}
作曲者の信時潔は2代目市歌制定の[[1947年|4年前]]に「[[兵庫県民歌]]」を作曲している。
=== 歴代市長 ===
[[ファイル:Kobe City Hall Kobe01-r.jpg|thumbnail|神戸市役所 全景]]
;官選区長
* 初代 武井正平(1879年1月8日 - 1880年)
* 2代 [[村野山人]](1880年7月 - 1885年6月)
* 3代 渡辺弘(1885年6月 - 1887年11月)
* 4代 [[鳴瀧幸恭]](1887年11月 - 1889年4月)
;官選市長
* '''初代''' [[鳴瀧幸恭]](1889年5月21日 - 1901年5月20日)
* '''2代''' [[坪野平太郎]](1901年5月27日 - 1905年3月17日)
* '''3代''' [[水上浩躬]](1905年9月27日 - 1909年7月23日)
* '''4代''' [[鹿島房次郎|鹿嶋房次郎]](1910年2月28日 - 1920年3月12日)
* '''5代''' [[桜井鉄太郎 (官僚)|櫻井鐵太郎]](1920年10月18日 - 1922年5月27日)
* '''6代''' [[石橋為之助]](1922年12月22日 - 1925年6月3日)
* '''7代''' [[黒瀬弘志]](1925年8月17日 - 1933年8月16日)
* '''8代''' [[勝田銀次郎]](1933年12月21日 - 1941年12月20日)
* '''9代''' [[野田文一郎]](1942年1月8日 - 1945年7月20日)
* '''10代''' [[中井一夫]](1945年8月11日 - 1947年2月28日)
;公選市長
* '''11代''' [[小寺謙吉]](1947年4月7日 - 1949年9月27日)
* '''12代''' [[原口忠次郎]](1949年11月25日 - 1969年11月19日)
* '''13代''' [[宮崎辰雄]](1969年11月20日 - 1989年11月19日)
* '''14代''' [[笹山幸俊]](1989年11月20日 - 2001年11月19日)
* '''15代''' [[矢田立郎]](2001年11月20日 - 2013年11月19日)
* '''16代''' [[久元喜造]](2013年11月20日 - 現在)
=== 行政区 ===
[[ファイル:兵庫県神戸市区画図 番号.png|thumb|250px|神戸市行政区
{{ordered list
|[[西区 (神戸市)|西区]]
|[[北区 (神戸市)|北区]]
|[[垂水区]]
|[[須磨区]]
|[[長田区]]
|[[兵庫区]]
|[[中央区 (神戸市)|中央区]]
|[[灘区]]
|[[東灘区]]
}}]]
神戸市は以下の9区から構成される(括弧内の数字は市議の定数)。
{|style="padding:3px"
|-----
!colspan="9" style="background-color:#ccc"|<div style="white-space:pre">←西 各区の位置関係 東→</div>
|-----
|style="text-align:center;background-color:#3f9" colspan="3"|[[西区 (神戸市)|西区 (11)]]
|style="text-align:center;background-color:#3f9" colspan="7"|[[北区 (神戸市)|北区 (10)]]
|-----
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|([[明石市]])
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|[[垂水区|垂水区 (10)]]
|style="text-align:center;background-color:#9ff" colspan="2"|[[須磨区|須磨区 (8)]]
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|[[長田区|長田区 (5)]]
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|[[兵庫区|兵庫区 (5)]]
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|[[中央区 (神戸市)|中央区 (5)]]
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|[[灘区|灘区 (6)]]
|style="text-align:center;background-color:#9ff"|[[東灘区|東灘区 (9)]]
|}
{| class="wikitable sortable" style="margin: 1em;"
|
! [[全国地方公共団体コード|コード]]
! 区名
! 人口<br />(人)
! 面積<br />(km²)
! 人口密度<br />(人/km²)
|-
|9
|28101-8
![[東灘区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市東灘区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市東灘区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市東灘区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市東灘区}}round2}} }}
|-
|8
|28102-6
![[灘区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市灘区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市灘区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市灘区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市灘区}}round2}} }}
|-
|6
|28105-1
![[兵庫区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市兵庫区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市兵庫区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市兵庫区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市兵庫区}}round2}} }}
|-
|5
|28106-9
![[長田区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市長田区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市長田区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市長田区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市長田区}}round2}} }}
|-
|4
|28107-7
![[須磨区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市須磨区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市須磨区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市須磨区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市須磨区}}round2}} }}
|-
|3
|28108-5
![[垂水区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市垂水区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市垂水区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市垂水区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市垂水区}}round2}} }}
|-
|2
|28109-3
![[北区 (神戸市)|北区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市北区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市北区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市北区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市北区}}round2}} }}
|-
|7
|28110-7
![[中央区 (神戸市)|中央区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市中央区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市中央区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市中央区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市中央区}}round2}} }}
|-
|1
|28111-5
![[西区 (神戸市)|西区]]
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市西区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市西区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市西区}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市西区}}round2}} }}
|}
=== 行政区域の変遷 ===
* [[1868年]][[12月14日]]([[明治]]元年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[八部郡]]神戸村・二ツ茶屋村・走水村が合併して'''神戸町'''となる。
* 明治5年([[1872年]]) - 八部郡神戸町が生田宮村・中宮村・花熊村・北野村・宇治野村を編入。
* [[1879年]](明治12年)[[1月8日]] - [[郡区町村編制法]]の兵庫県での施行により、八部郡神戸町・兵庫津・坂本村の区域をもって'''神戸区'''が発足。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[市制]]の施行により、神戸区・八部郡荒田村・[[菟原郡]]葺合村の区域をもって'''神戸市'''が発足。
* [[1896年]](明治29年)4月1日 - 八部郡[[湊村 (兵庫県)|湊村]]・[[林田村 (兵庫県八部郡)|林田村]]および[[須磨町|須磨村]]の一部([[大字]]池田)を編入。八部郡と菟原郡を[[武庫郡]]に統廃合。
* [[1920年]]([[大正]]9年)4月1日 - 武庫郡[[須磨町]]を編入。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)4月1日 - 武庫郡[[西郷町 (兵庫県)|西郷町]]・[[西灘村]]・[[六甲村]]を編入。
* [[1931年]](昭和6年)[[9月1日]] - 区制を施行。旧葺合村の区域に'''[[葺合区]]'''、旧神戸町の区域に'''[[神戸区]]'''、旧坂本村・旧荒田村および旧兵庫津のうち[[湊川 (兵庫県)|湊川]](旧河道)以東の区域に'''[[湊東区]]'''、旧兵庫津のうち湊川(旧河道)以西の区域に'''[[兵庫区|湊西区]]'''、旧湊村の区域に'''湊区'''、旧林田村および旧須磨村大字池田の区域に'''[[林田区]]'''、旧須磨町の区域に'''[[須磨区]]'''、旧西郷町・西灘村・六甲村の区域に'''[[灘区]]'''の8区を設置<ref group="注釈"
>葺合区・神戸区・湊東区・湊西区・湊区・林田区の6区は1896年から、須磨区は須磨町編入時から、灘区は西郷町・西灘村・六甲村編入時から「冠称として用いられる町名の一部」として使用されていたが、本項では行政区としての正式な設置日とした。</ref>。
* [[1933年]](昭和8年)[[1月1日]] - 湊西区が'''[[兵庫区]]'''に改称。
* [[1941年]](昭和16年)[[7月11日]] - [[明石郡]][[垂水町]]を編入。[[須磨区]]の一部となる。
* [[1945年]](昭和20年)[[5月1日]] - 区を再編。神戸区・湊東区・湊区・林田区を廃止し、神戸区および湊東区の東部の区域に'''[[生田区]]'''、林田区の[[兵庫運河]]以西(常盤町・千歳町・大池町一 - 四丁目を除く)および須磨区大字西代の区域に'''[[長田区]]'''を新設。兵庫区が湊区および湊東区の西部・林田区の兵庫運河以東を、須磨区が林田区の一部(常盤町・千歳町・大池町一 - 四丁目)をそれぞれ編入。
* [[1946年]](昭和21年)[[11月1日]] - 須磨区の一部(旧垂水町)の区域をもって'''[[垂水区]]'''を設置。
* [[1947年]](昭和22年)[[3月1日]] - 武庫郡[[山田村 (兵庫県武庫郡)|山田村]]・[[有馬郡]][[有馬町]]・[[有野村]]・明石郡[[伊川谷村]]・[[玉津村 (兵庫県)|玉津村]]・[[櫨谷村]]・[[平野村 (兵庫県)|平野村]]・[[押部谷村]]・[[神出村]]・[[岩岡村]]を編入。武庫郡・有馬郡域が兵庫区、明石郡域が垂水区の各一部となる。
* [[1950年]](昭和25年)
** 4月1日 - 武庫郡[[御影町]]・[[住吉村 (兵庫県)|住吉村]]・[[魚崎町]]を編入。同区域に'''[[東灘区]]'''を設置。
** [[10月10日]] - 武庫郡[[本庄村 (兵庫県武庫郡)|本庄村]]・[[本山村 (兵庫県)|本山村]]を編入。[[東灘区]]の一部となる。
* [[1951年]](昭和26年)[[7月1日]] - 有馬郡[[八多村]]・[[道場村]]・[[大沢村 (兵庫県)|大沢村]]を編入。[[兵庫区]]の一部となる。
* [[1955年]](昭和30年)[[10月15日]] - 有馬郡[[長尾村 (兵庫県有馬郡)|長尾村]]を編入。[[兵庫区]]の一部となる。
* [[1956年]](昭和31年)9月1日 - [[政令指定都市]]に移行。
* [[1958年]](昭和33年)[[2月1日]] - [[美嚢郡]][[淡河村]]を編入。兵庫区の一部となる。
* [[1973年]](昭和48年)[[8月1日]] - 兵庫区の一部(旧有馬郡・旧美嚢郡域および旧山田村)の区域をもって'''[[北区 (神戸市)|北区]]'''を設置。
* [[1980年]](昭和55年)[[12月1日]] - 生田区・葺合区の合区により'''[[中央区 (神戸市)|中央区]]'''を設置。
* [[1982年]](昭和57年)[[8月1日]] - [[垂水区]]の一部(1947年編入)の区域に'''[[西区 (神戸市)|西区]]'''を設置。
* [[2019年]](平成31年)[[4月1日]] - [[北区 (神戸市)|北区]]役所の下部組織であった北神支所を同等の権限を持つ北神区役所に格上げし、区役所が2ヵ所となる。
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|神戸市会}}
=== 兵庫県議会(神戸市選出)===
{{See also|兵庫県議会}}
* 定数:23名
* 任期:2023年(令和5年)4月30日〜2027年(令和9年)4月29日
*出典:<ref>{{Cite web|和書|title=兵庫県議会/選挙区別一覧表|url=https://web.pref.hyogo.lg.jp/gikai/giinshokai/shokai/senkyokubetsu/senkyo_ichiran.html|website=web.pref.hyogo.lg.jp|accessdate=2021-12-05}}</ref>
{|class="wikitable"
!選挙区!!氏名!!会派名!!党派名!!当選回数
|-
|rowspan="3"|[[東灘区]]||赤石理生||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
||前田朋己||ひょうご県民連合||[[無所属]]||style="text-align:center"|1
|-
||長瀬猛||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|2
|-
|rowspan="2"|[[灘区]]||北浜みどり||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|4
|-
||白井孝明||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
|rowspan="2"|[[中央区 (神戸市)|中央区]]||北村智||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
||伊藤栄介||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|1
|-
|rowspan="2"|[[兵庫区]]||長崎寛親||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
||菅雄史||公明党||公明党||style="text-align:center"|1
|-
|rowspan="3"|[[北区 (神戸市)|北区]]||中村大輔||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
||奥谷謙一||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|3
|-
||大塚公彦||公明党||公明党||style="text-align:center"|1
|-
|rowspan="2"|[[長田区]]||越田浩矢||公明党||公明党||style="text-align:center"|4
|-
||仲井隆晃||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
|rowspan="3"|[[須磨区]]||住本陽子||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
||島山清史||公明党||公明党||style="text-align:center"|4
|-
||伊藤傑||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|4
|-
|rowspan="3"|[[垂水区]]||大矢卓志||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|1
|-
||黒田一美||ひょうご県民連合||立憲民主党||style="text-align:center"|7
|-
||吉岡健||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|3
|-
|rowspan="3"|[[西区 (神戸市)|西区]]||高橋充広||維新の会||日本維新の会||style="text-align:center"|3
|-
||谷口俊介||自由民主党||自由民主党||style="text-align:center"|4
|-
||石井秀武||自由民主党||無所属||style="text-align:center"|6
|}
=== 衆議院 ===
* 任期:2021年(令和3年)10月31日 - 2025年(令和7年)10月30日(「[[第49回衆議院議員総選挙]]」参照)
{|class="wikitable"
!選挙区!!議員名!!党派名!!当選回数!!備考
|-
| rowspan="3" |[[兵庫県第1区]]([[東灘区]]、[[灘区]]、[[中央区 (神戸市)|中央区]])||[[井坂信彦]]|| [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] ||align="center"|3||選挙区
|-
| [[盛山正仁]] || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 5 || 比例復活
|-
| [[一谷勇一郎]] || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 1 || 比例復活
|-
|[[兵庫県第2区]]([[兵庫区]]、[[長田区]]、[[北区 (神戸市)|北区]])|| [[赤羽一嘉]] || [[公明党]] || align="center"|9|| 選挙区
|-
| rowspan="2" |[[兵庫県第3区]]([[須磨区]]、[[垂水区]])|| [[関芳弘]] || 自由民主党 ||align="center"|5||選挙区
|-
| [[和田有一朗]] || 日本維新の会 || align="center" | 1 || 比例復活
|-
| rowspan="2" |[[兵庫県第4区]]([[西区 (神戸市)|西区]]他)|| [[藤井比早之]] || 自由民主党 ||align="center"|4||選挙区
|-
| [[赤木正幸]] || 日本維新の会 || align="center" | 1 || 比例復活
|}
== 主な機関 ==
=== 行政 ===
{{div col}}
* 総務省
** 神戸行政評価事務所
* 法務省
** 神戸[[地方法務局]]
** [[神戸地方検察庁]]
** [[大阪出入国在留管理局神戸支局]]
* 財務省
** 神戸財務事務所
** [[神戸税関]]
**灘税務署、兵庫税務署、長田税務署、須磨税務署、神戸税務署
* 外務省
** [[国際協力機構|JICA関西]]
* 厚生労働省
** 神戸[[検疫所]]
** [[兵庫労働局]]
***神戸東[[労働基準監督署]]、神戸西労働基準監督署
***神戸[[公共職業安定所]]、灘公共職業安定所
* 農林水産省
** [[動物検疫所]]神戸支所
** 神戸[[植物防疫所]]
** 神戸森林事務所
** 神戸治山事業所
** 瀬戸内海[[漁業調整事務所]]
* 国土交通省
** [[近畿地方整備局]]港湾空港部、神戸港湾事務所、兵庫国道事務所、[[六甲砂防事務所]]、[[国営明石海峡公園]]事務所
** [[神戸運輸監理部]]本庁舎(海事部門)、魚崎庁舎(兵庫陸運部)
** [[航空衛星センター|神戸航空交通管制部、大阪航空局神戸航空衛星センター]]
** [[第五管区海上保安本部]]
*** 神戸海上保安部
** [[神戸地方気象台]]
** 神戸空港航空気象観測所
* 環境省
** 神戸自然保護官事務所
* 防衛省
** [[自衛隊兵庫地方協力本部]]
***神戸出張所、西神戸募集案内所、北神戸募集案内所
** 海上自衛隊[[阪神基地隊]]
* [[日本年金機構]]
** 兵庫事務センター
{{div col end}}
=== 司法 ===
* [[神戸地方裁判所]]
* [[神戸家庭裁判所]]
=== 国際連合機関 ===
* アジア防災センター
* 国際連合地域開発センター防災計画兵庫事務所
* [[国際防災復興協力機構]]
** 国際協力機構兵庫国際センター
* [[国際連合国際防災戦略|国際連合国際防災戦略事務局]]
* [[国際連合人道問題調整事務所]]
** [[リリーフウェブ]]神戸
* [[WHO健康開発総合研究センター|世界保健機関健康開発総合研究センター]]
=== 総領事館 ===
* {{Flagicon|PAN}} [[在神戸パナマ総領事館|在神戸パナマ共和国総領事館]]
* {{Flagicon|KOR}} 在神戸[[大韓民国]]総領事館
=== 名誉総領事館 ===
{{Col|
* {{Flagicon|CRI}} 在神戸[[コスタリカ]]共和国名誉総領事館
* {{Flagicon|NOR}} 在神戸[[ノルウェー]]王国名誉総領事館
|
* {{Flagicon|BGD}} 在神戸[[バングラデシュ]]人民共和国名誉総領事館
}}{{clear}}
=== 名誉領事館 ===
{{Col|
* {{Flagicon|ISR}} 在神戸[[イスラエル]]国名誉領事館
* {{Flagicon|SMR}} 在神戸[[サンマリノ]]共和国名誉領事館
* {{Flagicon|SWE}} 在神戸[[スウェーデン]]名誉領事館
|
* {{Flagicon|POL}} 在神戸[[ポーランド]]共和国名誉領事館
* {{Flagicon|PRT}} 在神戸[[ポルトガル]]名誉領事館
* {{Flagicon|MMR}} 在神戸[[ミャンマー]]連邦名誉領事館
}}{{clear}}
== 産業 ==
=== 主要な生産品 ===
* [[神戸ビーフ]]
* [[鉄道車両]]
* [[造船]]
* [[鋼|鉄鋼]]
* [[機械]]
* [[真珠]]加工<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/09/23/0015664001.shtml|title=貴島明日香 真珠ピアスにチェックのコートで〝神戸コーデ〟 パンプスは漁業の網再利用|date=2022-09-23|accessdate=2022-09-23}}</ref>
* [[アパレル]]・[[ファッション]]
* ケミカルシューズ・ゴムおよび[[長靴|ゴム靴]]
* [[医薬品]]・[[医療機器]]
* [[洋菓子]]
* [[醸造|酒造]]
* [[海苔]]
=== 神戸市に本社・本店を置く企業など ===
{{div col|cols = 4|small = yes}}
* [[ヴィッセル神戸|楽天ヴィッセル神戸]]/サッカークラブの運営
* [[川崎重工業]]/造船・鉄道車両・航空機・二輪車などの製造(東1)
* [[川崎汽船]]/海運(東1)
* [[神戸製鋼所]]/鉄鋼・アルミ・機械(東1)
* [[神鋼環境ソリューション]]/機械(東2)
* [[神鋼物流]]/物流
* シマブンコーポレーション/鉄鋼
* [[住友ゴム工業]]/タイヤ《[[ダンロップ]]》(東1)
* [[三ツ星ベルト]]/ゴム製品(東1)
* [[バンドー化学]]/ゴム製品(東1)
* [[ニチリン]]/ゴム製品(東2)
* [[アシックス]]/スポーツ用品(東1)
* [[ノーリツ]]/浴槽・給湯器・お湯周り品(東1)
* [[石原ケミカル]]/化学薬品(東1)
* ケミプロ化成/化学薬品
* [[MORESCO]]/化学品(東1)
* [[トーカロ]]/溶射(東1)
* [[ボルトエンジニア]]/ボルト
* [[日本プララド]]/ボルト
* [[ノザワ]]/建築材料(東2)
* イデア/試作モデル製作<ref>[http://www.idea-idm.co.jp/company/index.html イデア公式サイト]</ref>
* タカヤマ(神戸市)/工業用ゴム<ref>[http://www.tkym-co.jp/ タカヤマ]</ref>
* [[寄神建設]]/建設
* [[ひまわりライフ]]/エクステリア・造園<ref>[http://www.hima-wari.co.jp/ ひまわりライフ公式サイト]</ref>
* アサヒホールディングス/貴金属
* [[神栄]]/総合商社(東1)
* [[兼松]]/総合商社(東1)
* [[TOA (企業)|TOA]]/音響機器・セキュリティ機器(東1)
* [[デンソーテン]]/カーナビゲーション《[[ECLIPSE (ブランド)|ECLIPSE]]》・カーオーディオ
* [[DXアンテナ]]/アンテナ・テレビ受信システム
* グラスバレー(企業)/ビデオ・コンピュータ周辺機器 (JQ)
* [[篠田プラズマ]]/薄型ディスプレー
* [[アルストム|アルストムジャパン]]/発電設備
* [[シスメックス]]/医療機器(東1)
* [[深江化成株式会社]]/理化学実験機器<ref>[https://www.watson.co.jp/ 深江化成株式会社]</ref>
* ニックス株式会社 コンサルティング投資会社<ref>[http://www.nicks-inc.com/ ニックス株式会社]</ref>
* [[ビオフェルミン製薬]]/医薬品
* [[イーライリリー・アンド・カンパニー|日本イーライリリー]]/医薬品
* [[加美乃素本舗]]/医薬品
* [[カルナバイオサイエンス]]/医薬品
* [[常盤薬品工業]]/医薬品
* [[オフテクス]]/コンタクトレンズケア用品
* [[カワムラサイクル]]/介護用品
* [[神戸メディケア]]/医療機器、化粧品、健康美容機器
* [[プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン]] (P&G)/洗剤・ヘアケア・トイレケア<ref name="pg">[http://jp.pg.com/about/profile02.jsp P&G 企業情報 日本での事業展開]</ref>
* [[マックスファクター|P&Gマックスファクター]]/化粧品
* [[ノエビアホールディングス]]/化粧品(東1)
* ナカムラ/マッチ
* [[日本毛織]]/衣料繊維(東1)
* [[ワールド (企業)|ワールド]]/アパレル(東1)
* [[ジャヴァグループ]]/アパレル
* ダリオン/アパレル - 大手グループ向けの[[ODM]]、[[OEM]]や店舗運営 (Lei Puckish、A・La・Marcia、Bibbia Soldi)<ref name="darion">[http://www.darion.co.jp/company.html ダリオン公式サイト]</ref>
* イズム/アパレル
* [[ザ・リアル・マッコイズ]]/ファッション
* アオイ/ファッション<ref>https://www.aoi-net.co.jp/company/outline.html</ref>
* イング/ファッション
* [[ファミリア (アパレルメーカー)|ファミリア]]/子供服
* F・O・インターナショナル/子供服
* [[キムラタン]]/ベビー服・子供服(東1)
* [[シャルレ]]/女性用下着(東2)
* [[プリシラ (ウィッグメーカー)|プリシラ]]/ウィッグ
* テンピュール・ジャパン/寝具
* [[バス・コーポレーション]]/靴
* [[ヒラキ (企業)|ヒラキ]]/靴(東2)
* [[TASAKI]]/真珠加工
* [[大月真珠]]/真珠加工<ref name="japan-pearl">[http://www.japan-pearl.jp/company_list.html 日本真珠輸出加工協同組合]</ref>
* [[タカハシパール]]/真珠加工<ref name="japan-pearl" />
* [[今啓パール]]/真珠加工<ref name="japan-pearl" />
* 奥田真珠貿易/真珠<ref name="japan-pearl" />
* 倉本真珠/真珠<ref name="japan-pearl" />
* [[コインパレス]]([[アンティーク]][[コイン]])
* [[ブックローン]]/玩具
* [[尾道造船]]/造船
* [[阪神内燃機工業]]/船舶機関(東2)
* [[ケイラインローローバルクシップマネージメント]]/海運
* [[明海グループ]]/海運(東1)
* [[加藤汽船]]/フェリー
* [[ジャンボフェリー]]/フェリー
* [[フェリーさんふらわあ]]/フェリー
* [[燕京 (フェリー)|チャイナエクスプレスライン]]/国際フェリー
* [[コンチェルト|神戸クルーザー]]/レストラン船
* [[ルミナス神戸2|ルミナスクルーズ]]/レストラン船
* [[神戸ベイクルーズ]]/遊覧船
* 神戸リゾートライン/遊覧船
* [[神戸シーバス]]/遊覧船
* [[海上アクセス]]/旅客船
* [[スウィフト・エックスアイ]]株式会社,航空宇宙工学サービス
* デット・ノルスケ・ベリタス日本/船級・認証サービス
* [[ジャパンエキスプレス (神戸)|ジャパンエキスプレス]]/運送
* [[上組]]/港湾運送・倉庫業(東1)
* [[川西倉庫]]/倉庫業(東1)
* 兵機海運/倉庫業(東2)
* [[兵食]]/倉庫業
* [[トレーディア]]/倉庫業(東2)
* [[本州四国連絡高速道路]]/高速道路管理運営
* [[JBハイウェイサービス]]/サービスエリア・パーキングエリアの運営
* [[神戸電鉄]]/鉄道(東1)
* [[山陽電気鉄道]]/鉄道(東1)
* [[神戸高速鉄道]]/鉄道
* [[神戸新交通]]/鉄道
* [[六甲摩耶鉄道]]/ケーブルカー・バス
* [[山陽バス]]/バス
* [[みなと観光バス (神戸市)|みなと観光バス]]/バス
* [[神戸フェリーバス]]/バス
* [[神姫ゾーンバス]]/バス
* [[神戸交通振興]]/バス
* [[本四海峡バス]]/バス
* 近畿タクシー/観光タクシー
* [[サンテレビジョン]]/テレビ放送局
* [[ラジオ関西]]/ラジオ放送局
* [[兵庫エフエム放送]]/ラジオ放送局 (Kiss FM-KOBE)
* [[神戸新聞社]]/新聞・スポーツ新聞([[デイリースポーツ]]<ref name="daily">[https://www.daily.co.jp/ デイリースポーツ]</ref>)
* [[みなと銀行]]/銀行
* インター /貸金業(東2)
* [[和田興産]]/不動産 (JQ)
* アーバンライフ/不動産
* [[ヤマト住建]]/住宅建設
* ビューロベリタスジャパン/建築認証
* [[さくらケーシーエス]]/コンピュータシステム(東2)
* [[ドーン (企業)|ドーン]]/ソフトウェア (HC)
* [[神戸デジタル・ラボ]]/ソフトウェア・セキュリティ
* [[三菱電機コントロールソフトウェア]]/ソフトウェア
* アイ・ピー・エス(大阪府)/ソフトウェア
* [[ダイエー]]/スーパーマーケット
* [[トーホー]]/スーパーマーケット(東1)
* [[マルハチ]]/スーパーマーケット
* [[G-7ホールディングス]]/カー用品・スーパーマーケット(東1)
* [[生活協同組合コープこうべ|コープこうべ]]/消費生活協同組合・スーパーマーケット
* [[フェリシモ]]/カタログ通信販売(東1)
* [[マキシム (アパレル)|マキシム]]/婦人服通信販売<神戸レタス>
* JFRオンライン/通信販売<大丸松坂屋Dmail.jp>
* [[ポートピアホテル]]/ホテル
* エイチ・ワイ・ホスピタリティ・エンタープライズ([[神戸北野ホテル]])/ホテル・パン・洋菓子
* [[TICK-TOCK]]/美容室チェーン
* [[キクヤ図書販売]]/書店<<喜久屋書店>>
* [[神陵文庫]]/医学書専門書店
* [[星電社]]/家電量販店
* [[好日山荘]]/登山用品・アウトドア用品販売
* ジパング/インテリア用品([[カーテンDO!]])
* チャイナロードジャパン/ラーメン・洋菓子
* [[フジッコ]]/昆布・大豆加工など(東1)
* 小倉屋柳本/昆布・煮豆
* [[東洋ナッツ食品]]/ナッツ・ドライフルーツ
* 吉田ピーナツ/ピーナツ菓子<ref name="yoshi">[http://www.yoshi-p.co.jp/ 吉田ピーナツ公式サイト]</ref>
* [[伍魚福]]/珍味・イカナゴ釘煮
* [[六甲バター]]/チーズ・乳製品(東1)
* [[ケンミン食品]]/ビーフン・中国茶
* 廣記商行/中華調味料
* [[オリバーソース]]/ソース
* [[阪神ソース]]/ソース
* [[ケンコーマヨネーズ]]/マヨネーズ・調味料(東1)
* マルカン酢/酢・調味料
* [[小林桂]]/スパイス・ハーブ
* [[カネテツデリカフーズ]]/水産加工品
* [[エム・シーシー食品]]/調理食品<ref name="mcc">[http://www.mccfoods.co.jp/index.html エム・シーシー食品公式サイト]</ref>
* [[マルヤナギ小倉屋]]/惣菜<ref name="maruyanagi">[http://www.maruyanagi.co.jp/company/gaiyou/ マルヤナギ小倉屋公式サイト]</ref>
* [[増田製粉所]]/製粉
* ニップン商事/小麦粉・砂糖・飼料
* [[日和産業]]/飼料(東2)
* [[神明ホールディング]]/米卸
* [[伊藤ハム]]/ハム・ソーセージ
* [[ロック・フィールド]]/惣菜(東1)<ref name="rockfield">[http://www.rockfield.co.jp/company/about/ ロック・フィールド公式サイト]</ref>
* [[本家かまどや]]/弁当
* [[菊正宗酒造]]/酒造
* [[白鶴酒造]]/酒造
* [[櫻正宗]]/酒造
* [[剣菱酒造]]/酒造
* [[神戸酒心館]]/酒造<福寿>
* [[沢の鶴]]/酒造
* [[泉酒造]]/酒造
* 檜垣酒類/酒造<ref name="kobe-investment">[http://kobe-investment.jp/advance/ KOBE 神戸企業進出サイト]</ref>
* [[高嶋酒類食品]]/奈良漬
* [[黒田食品]]/奈良漬
* [[ネスレ日本]]/コーヒー・パスタ・製菓・ペットフード
* [[UCC上島珈琲]]/コーヒー
* [[ウエシマコーヒーフーズ]]/コーヒー
* 神戸珈琲/コーヒー
* ハギハラコーヒー/コーヒー
* [[神戸紅茶]]/紅茶
* 神戸ウォーター -「布引の水」<ref name="kobewater">[http://www.kobewater.com/ 神戸ウォーター公式サイト]</ref>
* [[トーラク]]/乳製品・洋菓子
* [[モロゾフ]]/洋菓子(東1)
* [[神戸凮月堂]]/洋菓子
* [[神戸モリーママ]]/洋菓子
* 本高砂屋/洋菓子・和菓子
* [[ケーニヒスクローネ]]/洋菓子
* [[ユーハイム]]/洋菓子
* [[ゴンチャロフ製菓]]/洋菓子
* [[エーデルワイス (製菓業)|エーデルワイス]]/洋菓子(アンテノール/[[ヴィタメール]]・ジャポン)
* フーケ/洋菓子
* ボック(企業)(ボックサン)/洋菓子
* [[シンケールス]]([[ファクトリーシン]])/洋菓子
* [[コンフェクショナリーコトブキ]]/洋菓子
* [[スイートガーデン]]/洋菓子
* ポトマック(洋菓子店)/洋菓子・レストラン
* [[はらドーナッツ|むく]]/ドーナッツ<はらドーナッツ>
* モチクリームジャパン/菓子
* フランツ (Frantz) /洋菓子
* ACアドバンス/洋菓子<マ・クルール>
* ハットトリック/洋菓子<ア・ラ・カンパーニュ>
* 新保哲也アトリエ/洋菓子<エール・エル>・建築
* レーブドュシェフ/洋菓子
* リタティーノ/洋菓子
* 観音屋/洋菓子
* 神戸六甲牧場/洋菓子<ref name="rokkobokujyo">[http://www.rokkobokujyo.com/ 神戸六甲牧場公式サイト]</ref>
* [[植垣米菓]]/米菓
* [[ドンク]]/製パン
* イスズベーカリー/パン
* [[フロインドリーブ]]/パン
* [[オイシス]]/パン・惣菜
* 神戸ベル/パン
* [[吉祥]]/レストラン・[[神戸牛]]<ref name="koubegyuu">[http://www.koubegyuu.com/ 吉祥吉公式サイト]</ref>
* [[アイクラフト]]/情報システム
* マキシン/帽子
{{Div col end}}
=== 過去に本社・本店のあった企業など ===
{{div col}}
* [[太陽神戸銀行]](現・[[三井住友銀行]])
* [[川崎製鉄]](現・[[JFEスチール]])
* [[カワサキプラントシステムズ]](現・[[川崎重工業]])
* [[カワサキプレシジョンマシナリ]](現・川崎重工業)
* ナブコ(現・[[ナブテスコ]])
* [[新明和工業]]
* コナミ(現・[[コナミグループ]])
* リプトンジャパン(現・[[ユニリーバ]])
* [[楽天グループ|楽天]]
* [[三菱電機]]
* 神戸航空(現・[[スターフライヤー]])
* [[コナカ]]
* [[いかりスーパーマーケット]]
* [[洋菓子のヒロタ]]
* [[メディパルホールディングス]]
* [[ニッショードラッグ]]
* [[リブ・マックス]]
* [[ジュンク堂書店]](現・丸善ジュンク堂書店)
* [[ジー・ネットワークス]](現・[[ジー・テイスト]])
* [[鈴木商店]]
* [[コスモポリタン製菓]]
* [[エスケー食品]]
* [[トリドールホールディングス]](ただし事業会社については主に神戸市内に本社が所在)
* [[ホテルマネージメントインターナショナル]]
* [[北神急行電鉄]]
{{div col end}}
=== 神戸市を拠点とする企業など ===
{{div col}}
* [[川崎重工業]]兵庫工場・神戸工場・西神工場
* [[三菱重工業]][[三菱重工業神戸造船所|神戸造船所]]
* [[三菱電機]]神戸製作所
* [[神戸製鋼所]]神戸線条工場
* [[新明和工業]]甲南工場
* [[デンソーテン]]本社工場
* [[小松製作所]]六甲工場
* [[パナソニック]]神戸工場
* [[NEC神戸システムセンター]]
* [[コナミホールディングス]]神戸テクニカルセンター
* [[コニカミノルタ]]神戸サイト・西神サイト
* [[江崎グリコ]]神戸工場
* [[ぼんち]]神戸工場
* [[フジッコ]]神戸工場
* [[キリンビール]]神戸工場
* [[森永乳業]]神戸工場
* [[雪印メグミルク]]神戸工場
* [[ロッテ]]神戸工場
* [[ニップン]]神戸甲南工場
* [[ナブテスコ]]神戸工場・甲南工場・西神工場
* [[日本トイザらス]]神戸物流センター
* [[ヨドバシカメラ]]YAC六甲
* [[ニトリ]]関西物流センター
* [[神姫バス]]神戸営業所
* [[スカイマーク]]神戸事業所
* [[三井住友銀行]]神戸営業部
* [[全国労働者共済生活協同組合連合会|全労済]]兵庫県本部
{{div col end}}
=== 研究所 ===
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[WHO健康開発総合研究センター]] (WKC)
* [[神戸健康産業開発センター]] (HI-DEC)
* 神戸医療機器開発センター (MEDDEC)
* [[理化学研究所]] - 神戸研究所
{{Col-break}}
* [[情報通信研究機構]]
** 未来ICT研究センター
* [[防災科学技術研究所]]
** 地震防災フロンティア研究センター
{{Col-end}}
=== 放送 ===
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[サンテレビジョン]](デジタル放送IDキー3、物理チャンネル26CH)
* [[ラジオ関西]](558 kHz、FM補完91.1 MHz)
* [[兵庫エフエム放送|Kiss-FM KOBE]] (89.90 MHz)
* [[NHK神戸放送局]](FM86.50 MHz、総合テレビデジタル放送IDキー1、物理チャンネル22CH)
{{Col-break}}
* [[エフエムわいわい|FMわいわい]] (77.80 MHz)
* [[エフエムムーブ|FMムーブ]] (76.10 MHz)
{{Col-end}}
== 姉妹都市・提携都市 ==
=== 海外 ===
{{col|
; 姉妹都市
* {{Flagicon|USA}} [[シアトル]]市([[アメリカ合衆国]][[ワシントン州]][[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]])
*: [[1957年]](昭和32年)[[10月21日]] 姉妹都市提携
* {{Flagicon|FRA}} [[マルセイユ]]市([[フランス共和国]][[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]][[ブーシュ=デュ=ローヌ県]])
*: [[1961年]](昭和36年)[[7月2日]] 姉妹都市提携
* {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]]市([[ブラジル連邦共和国]][[リオデジャネイロ州]])
*: [[1969年]](昭和44年)[[5月19日]] 姉妹都市提携
* {{Flagicon|LAT}} [[リガ]]市([[ラトビア|ラトビア共和国]]直轄市)
*: [[1974年]](昭和49年)[[6月18日]] 姉妹都市提携
* {{Flagicon|AUS}} [[ブリスベン]]市([[オーストラリア連邦]][[クイーンズランド州]])
*: [[1985年]](昭和60年)[[7月16日]] 姉妹都市提携
* {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]市([[スペイン王国]][[カタルーニャ州]][[バルセロナ県]])
*: [[1993年]](平成5年)[[4月6日]] 姉妹都市提携
* {{Flagicon|KOR}} [[仁川広域市|仁川市]]([[大韓民国]][[広域市]])
*: [[2010年]](平成22年)[[4月6日]] 姉妹都市提携
|
; 友好都市
* {{Flagicon|CHN}} [[天津市]]([[中華人民共和国]][[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]])
*: [[1973年]](昭和48年)[[6月24日]] 友好都市提携
; 親善協力都市
* {{Flagicon|USA}} [[フィラデルフィア]]市(アメリカ合衆国[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア郡 (ペンシルベニア州)|フィラデルフィア郡]])
*: [[1986年]](昭和61年)[[10月17日]] 親善協力都市提携
* {{Flagicon|KOR}} [[大邱広域市|大邱市]]([[大韓民国]]広域市)
*: [[2010年]](平成22年)[[7月23日]] 親善協力都市提携
;パートナーシップ
*{{flagicon|RWA}}[[キガリ]]([[ルワンダ共和国]][[キガリ州]])
*:[[2016年]]([[平成]]28年)[[5月]] - ICTパートナーシップ協定締結<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2017/12/20171222041901.html 神戸市 ルワンダ首都・キガリ市のビジネスミッションに市内事業者と共に参加]</ref><ref>[https://www.ganas.or.jp/20160624koberwanda/ 神戸市がルワンダのICTを盛り上げる!? 日本企業のアフリカ進出をバックアップ - ganas 開発メディア]</ref>
;提携都市
* {{Flagicon|PAK}} [[ファイサラーバード]]([[パキスタン・イスラム共和国]][[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]{{仮リンク|ファイサラーバード県|en|Faisalabad District}})
*: [[2000年]](平成12年)友好交流都市提携
}}
=== 姉妹港・友好港 ===
; 姉妹港
: {{Flagicon|NED}} [[ロッテルダム港]]([[オランダ|オランダ王国]])- 1967年提携
: {{Flagicon|USA}} [[シアトル]]港([[アメリカ合衆国]])- 1967年提携
; 友好港
: {{Flagicon|CHN}} [[天津市|天津]]港([[中華人民共和国]])- 1980年提携
== 地域 ==
=== 人口 ===
{{人口統計|code=28100|name=神戸市|image=Population distribution of Kobe, Hyogo, Japan.svg}}
神戸市の人口は、[[国勢調査]]では[[1920年]]の第1回調査で608,644人と全国3位だった。しかし、[[1921年]]に[[名古屋市]]、[[1931年]]に[[京都市]]、[[1939年]]に[[横浜市]]がそれぞれ大規模な市域拡張を実施したこともあって、[[1940年]]の第5回調査で967,234人と全国6位になった。前年の1939年には一時的に100万人を超えるも減少に転じ、[[神戸大空襲]]後の1945年11月の人口調査で379,166人と激減した。1940年から1945年の人口増減率は[[広島市への原子爆弾投下|原爆が投下]]された[[広島市]](マイナス60.1%)をも下回るマイナス60.8%であった。
戦災復興と並行して[[1947年]]から[[1958年]]にかけて大規模な市域拡張が実施され、[[1956年]]には100万人台を回復した。[[六甲山地|六甲山系]]や[[丹生山系|帝釈・丹生山系]]といった[[山地]]が横たわるため宅地造成は困難だったが、「山、海へ行く」を合言葉に、山地や丘陵を削って採取した土砂を地下トンネル内に設けた[[ベルトコンベア|ベルトコンベヤ]](須磨ベルトコンベヤ)で運搬して海面を埋め立て、土砂採取跡地と埋立地の双方に住宅団地が造成された。
山地のない名古屋市や横浜市を抜き返すことはなく、[[1979年]]には[[札幌市]]に抜かれたが、三方を山地に囲まれる京都市との差は漸次縮小していった。[[1990年]]の第15回調査で京都市を抜き、[[1992年]]には一時的に150万人を超えたが、[[阪神・淡路大震災]]によって[[1995年]]の第16回調査は減少、[[2000年]]の第17回調査で再び京都市を抜き、[[2010年]]の第19回調査で1,544,200人とピークを迎えた。
[[2015年]]に[[福岡市]]、[[2019年]]に[[川崎市]]に抜かれ、[[2020年]]の第21回調査で1,525,152人と全国8位になっている。
=== インフラ整備の状況 ===
* 下水道普及率:98.7%(2018年度末)
== 教育 ==
=== 国公立大学 ===
{{colbegin|2}}
* [[神戸大学]]
* [[兵庫県立大学]]
* [[神戸市外国語大学]]
* [[神戸市看護大学]]
{{colend}}
=== 私立大学 ===
{{colbegin|2}}
* [[関西国際大学]]
* [[甲南大学]]
* [[神戸学院大学]]
* [[神戸芸術工科大学]]
* [[神戸国際大学]]
* [[神戸情報大学院大学]]
* [[神戸親和大学]]{{efn|元は女子大学。男女共学化を機に[[神戸親和女子大学]]から改称。}}
* [[神戸常盤大学]]
* [[神戸薬科大学]]
* [[兵庫医療大学]]
* [[流通科学大学]]
{{colend}}
=== 女子大学・短期大学 ===
{{colbegin|2}}
* [[甲南女子大学]]
* [[神戸海星女子学院大学]]
* [[神戸教育短期大学]]
* [[神戸松蔭女子学院大学]]
* [[神戸松蔭女子学院大学短期大学部]]
* [[神戸女子大学]]
* [[神戸女子短期大学]]
* [[神戸常盤大学短期大学部]]
* [[頌栄短期大学]]
{{colend}}
{{Gallery |mode=packed |width=160px |height=110
|ファイル:Kobe-Univ-Rokkodai-Honkan02.jpg|[[神戸大学]]
|ファイル:Univ-of-Hyogo-KobeGakuentoshi-Campus-Entrance.jpg|[[兵庫県立大学]]
|ファイル:Konan University3.jpg|[[甲南大学]]
|ファイル:KGU island.jpg|[[神戸学院大学]]
}}
=== 高等専門学校 ===
* [[神戸市立工業高等専門学校]]
=== 高等学校・中等教育学校 ===
{{div col}}
* [[神戸市立葺合高等学校]]
* [[神戸市立六甲アイランド高等学校]]
* [[神戸市立須磨翔風高等学校]]
* [[神戸市立神港橘高等学校]]
* [[神戸市立兵庫商業高等学校]]
* [[神戸市立科学技術高等学校]]
* [[神戸市立楠高等学校]](定時制)
* [[神戸市立摩耶兵庫高等学校]](定時制)
* [[神戸市立神戸工科高等学校]](定時制)
* [[神戸大学附属中等教育学校]]
* [[兵庫県立東灘高等学校]]
* [[兵庫県立御影高等学校]]
* [[兵庫県立神戸高等学校]]
* [[兵庫県立神戸北高等学校]]
* [[兵庫県立神戸甲北高等学校]]
* [[兵庫県立神戸鈴蘭台高等学校]]
* [[兵庫県立夢野台高等学校]]
* [[兵庫県立兵庫高等学校]]
* [[兵庫県立長田高等学校]]
* [[兵庫県立伊川谷北高等学校]]
* [[兵庫県立伊川谷高等学校]]
* [[兵庫県立神戸高塚高等学校]]
* [[兵庫県立須磨東高等学校]]
* [[兵庫県立須磨友が丘高等学校]]
* [[兵庫県立北須磨高等学校]]
* [[兵庫県立舞子高等学校]]
* [[兵庫県立星陵高等学校]]
* [[兵庫県立神戸商業高等学校]]
* [[兵庫県立神戸工業高等学校]]
* [[兵庫県立兵庫工業高等学校]]
* [[兵庫県立湊川高等学校]](定時制)
* [[兵庫県立長田商業高等学校]](定時制)
* [[兵庫県立青雲高等学校]](通信制)
* [[クラーク記念国際高等学校]]神戸三宮キャンパス(通信制)
* [[神戸龍谷中学校・高等学校|神戸龍谷高等学校]]
* [[神戸第一高等学校]]
* [[神戸学院大学附属高等学校]]
* [[第一学院高等学校]]神戸キャンパス(通信制)
* [[滝川第二中学校・高等学校|滝川第二高等学校]]
* [[須磨学園中学校・高等学校|須磨学園高等学校]]
* [[神戸星城高等学校]]
* [[啓明学院高等学校]]
* [[灘中学校・高等学校|灘高等学校]]
* [[六甲学院中学校・高等学校|六甲学院高等学校]]
* [[神港学園神港高等学校]]
* [[三田学園中学校・高等学校|三田学園高等学校]](敷地のごく一部が神戸市)
* [[ヒューマンキャンパス高等学校]]神戸学習センター(通信制)
* [[神戸弘陵学園高等学校]]
* [[育英高等学校]]
* [[滝川中学校・高等学校|滝川高等学校]]
* [[神戸国際大学附属高等学校]]
* [[神戸村野工業高等学校]]
* [[甲南女子中学校・高等学校|甲南女子高等学校]]
* [[親和中学校・親和女子高等学校|親和女子高等学校]]
* [[松蔭中学校・高等学校 (兵庫県)|松蔭高等学校]]
* [[神戸海星女子学院中学校・高等学校|神戸海星女子学院高等学校]]
* [[神戸山手女子中学校・高等学校|神戸山手女子高等学校]]
* [[神戸常盤女子高等学校]]
* [[神戸野田高等学校]]
* [[神戸国際中学校・高等学校|神戸国際高等学校]]
* [[兵庫大学附属須磨ノ浦高等学校]]
* [[愛徳学園中学校・高等学校|愛徳学園高等学校]]
* [[夙川中学校・高等学校|夙川高等学校]]
* [[屋久島おおぞら高等学校]]神戸キャンパス(通信制)
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |width=160 |height=110
|ファイル:Kobe High School.jpg|[[兵庫県立神戸高等学校]]
|ファイル:Hyogo-High-School-2012042901.jpg|[[兵庫県立兵庫高等学校]]
|ファイル:NADA Junior and Senior High School.jpg|[[灘高等学校]]
|ファイル:正門から見た六甲学院校舎.jpg|[[六甲学院高等学校]]
}}
=== 中学校 ===
[[#行政区|各区]]ごとに記載
*[[東灘区#中学校|東灘区の中学校一覧]]
*[[灘区#中学校|灘区の中学校一覧]]
*[[中央区 (神戸市)#中学校|中央区の中学校一覧]]
*[[兵庫区#地域#教育|兵庫区の中学校一覧]]
*[[北区 (神戸市)#中学校|北区の中学校一覧]]
*[[長田区#中学校|長田区の中学校一覧]]
*[[須磨区#中学校|須磨区の中学校一覧]]
*[[垂水区#中学校|垂水区の中学校一覧]]
*[[西区 (神戸市)#中学校|西区の中学校一覧]]
=== 小学校 ===
[[#行政区|各区]]ごとに記載
*[[東灘区#小学校|東灘区の小学校一覧]]
*[[灘区#小学校|灘区の小学校一覧]]
*[[中央区 (神戸市)#小学校|中央区の小学校一覧]]
*[[兵庫区#地域#教育|兵庫区の小学校一覧]]
*[[北区 (神戸市)#小学校|北区の小学校一覧]]
*[[長田区#小学校|長田区の小学校一覧]]
*[[須磨区#小学校|須磨区の小学校一覧]]
*[[垂水区#小学校|垂水区の小学校一覧]]
*[[西区 (神戸市)#小学校|西区の小学校一覧]]
=== 専修学校 ===
{{See|兵庫県専修学校一覧#神戸市}}
=== 各種学校 ===
* [[関西国際学園]](灘区)
*[[カナディアン・アカデミー]](東灘区)
* [[神戸ドイツ学院]](東灘区)
* [[神戸朝鮮初中級学校]](中央区)
* [[聖ミカエル国際学校]](中央区)
* [[神戸中華同文学校]](中央区)
* [[マリストブラザーズ・インターナショナルスクール]](須磨区)
* [[神戸朝鮮高級学校]](垂水区)
=== 学校教育以外の施設 ===
{{col-begin}}
{{col-break}}
; 職業訓練施設
* [[港湾職業能力開発短期大学校神戸校]]([[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発短期大学校]])
* 川崎重工業神戸工場・兵庫工場・明石工場職業訓練校
* 三菱重工業神戸造船所職業訓練校
* 三菱重工業原動機事業本部高砂製作所職業訓練校
* [[兵庫県洋菓子技術専門校]](兵庫県洋菓子協会)
{{col-break}}
; 自動車教習所
* [[神戸ドライヴィングスクール]]
* [[平和台自動車学院]]
* ジェームス山自動車学院
* ジェームス山自動車学院学園都市校
* [[北須磨ドライビングスクール]]
* [[伊川谷自動車学院]](旧・東洋自動車学校)
* 西神自動車学院
* [[リエゾンドライビングスクール]]
* [[六甲アイランドカースクール]]
* [[神戸西インター自動車学校]]
* [[ポートアイランドドライビングスクール]]
* [[RICS PRO CAR SCHOOL]]
{{col-break}}
; 兵庫労働局長登録教習機関
* セーリング
* 全兵庫建設業協会
* 兵庫県溶接協会
{{col-end}}
=== 学会 ===
* 日本麻酔科学会(中央区)
*: [[2009年]]に[[東京都]]からポートアイランドに本部を移設した。[http://www.anesth.or.jp/]
* 日本[[カナダ]]学会(東灘区)
== 観光・文化・スポーツ ==
=== 自然景勝地 ===
* 六甲山山上エリア([[瀬戸内海国立公園]]指定区域)
** [[六甲山]]
*** 三国池、北面沢地群([[日本の重要湿地500]])
*** [[有馬四十八滝]](六甲アイスガーデン)- 氷瀑、樹氷、霧氷の名所
** [[摩耶山]]
*** [[掬星台]]([[日本三大夜景]])、[[穂高湖]]
** [[再度山]]([[森林浴の森100選]])
*** [[再度公園]]・[[神戸市立外国人墓地]](国の[[名勝]])
** [[諏訪山公園|諏訪山]]([[金星台]]・大師道)
** 布引渓流([[名水百選]])・[[布引の滝 (兵庫県)|布引の滝]]([[日本の滝百選]])
** [[芦屋ロックガーデン]]
** [[蓬萊峡]]
{{Gallery |mode=packed |width=160 |height=110
|ファイル:View of Kikuseidai from Mount Maya Kobe.jpg|摩耶山[[掬星台]]より<br />([[日本三大夜景]])
|ファイル:Lake Hodaka Kobe02n3200.jpg|[[穂高湖]]
|ファイル:171125 Futatabi Park Kobe Japan02s.jpg|再度山[[再度公園]]<br />(国の[[名勝]])
|ファイル:Rokko garden terrace03s3200.jpg|[[六甲ガーデンテラス]]
|ファイル:Rock-Garden01.jpg|[[芦屋ロックガーデン]]
}}
=== 観光地区・繁華街 ===
* [[神戸港]] - [[神戸ハーバーランド]]・高浜岸壁([[高浜旅客ターミナル]])・[[メリケンパーク]]・[[中突堤]]・[[新港 (神戸市)|新港]]・[[神戸ポートターミナル]]
* [[北野町山本通]]
* [[トアロード]]
* [[旧居留地]]
* [[南京町 (神戸)|南京町]]
* [[三宮]]
* [[元町 (神戸市)|元町]]
* [[ポートアイランド]]
* [[六甲アイランド]]
* [[HAT神戸]]
* [[新開地]]
{{Gallery |mode=packed |width=160 |height=110
|ファイル:Mosaic04s3200.jpg|[[神戸港]]・<small>[[神戸ハーバーランド|ハーバーランド]]</small>
|ファイル:Kobe kitano thomas house07 2816.jpg|[[北野町山本通]]([[神戸市風見鶏の館|風見鶏の館]])
|ファイル:Kobe naniwamachi street01s3200.jpg|[[旧居留地#神戸|旧居留地]]
|ファイル:Arima Onsen Yumotozaka01s3200.jpg|[[有馬温泉]](湯本坂)
}}
=== 温泉 ===
* [[有馬温泉]]
* 神戸ハーバーランド温泉 万葉倶楽部 - 万葉の湯<ref name="manyo">[http://www.manyo.co.jp/kobe/ 神戸ハーバーランド温泉 万葉倶楽部]</ref>
* 神戸クアハウス - 2種類の天然温泉<ref name="kobe-kua-house">[http://www.kobe-kua-house.com/index.html 神戸クアハウス]{{リンク切れ|date=October 2018}}</ref>
* 神戸みなと温泉 蓮<ref name="ren">[https://ren-onsen.jp/ 神戸みなと温泉 蓮]</ref>
* [[華の湯]]
* 天然ラジウム温泉太山寺 なでしこの湯<ref name="nadeshikonoyu">[http://nadeshikonoyu.com/index.html なでしこの湯]</ref>
* 垂水温泉 太平のゆ<ref name="sentou">[http://www.sentou.co.jp/ 垂水温泉 太平のゆ]</ref>
* ジェームス山天然温泉 月の湯舟<ref>[http://www.tsuki-no-yufune.com/ ジェームス山天然温泉 月の湯舟]</ref>
=== 主な寺社 ===
{{div col}}
* [[徳光院]]
* [[石峯寺 (神戸市)|石峯寺]]
* [[太山寺 (神戸市)|太山寺]]・塔頭[[太山寺安養院庭園|安養院]]([[日本庭園|庭園]]が国の[[名勝]])
* [[如意寺 (神戸市)|如意寺]]
* [[大龍寺 (神戸市)|大龍寺]]
* [[鏑射寺]]
* [[無動寺 (神戸市)|無動寺]]
* [[忉利天上寺]]
* [[能福寺]](兵庫大仏鎮座)
* [[須磨寺]]
* [[福海寺]] 摂津国・諸山(幕府公認禅宗寺院)
* [[生田神社]]
** [[生田裔神八社]]([[一宮神社 (神戸市)|一宮神社]]・[[二宮神社 (神戸市)|二宮神社]]・[[三宮神社 (神戸市)|三宮神社]]・[[四宮神社 (神戸市)|四宮神社]]・[[五宮神社]]・[[八宮神社 (神戸市)|六宮神社]]・[[七宮神社 (神戸市)|七宮神社]]・[[八宮神社 (神戸市)|八宮神社]])
* [[湊川神社]]
* [[長田神社]]
* [[海神社 (神戸市)|海神社]]
* [[有間神社]]
* 六篠八幡神社
* 若王子神社
* 豊歳神社
* [[諏訪神社 (神戸市中央区)|諏訪神社]](中央区)
* 諏訪神社(須磨区)
* [[常纂寺]]
* [[神戸モスク]]
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:Taisanji25s3872.jpg|[[太山寺 (神戸市)|太山寺]]本堂([[国宝]])
|ファイル:Anyoin04 1024.jpg|[[太山寺安養院庭園|安養院庭園]](国の名勝)
|ファイル:Nyoiji13s1890.jpg|[[如意寺 (神戸市)|如意寺]]
|ファイル:Kusunokimasasige1.jpg|[[湊川神社]]<br />[[史跡]]楠木正成墓
}}
==== 兵庫七福神めぐり ====
* [[大黒天]] [[福海寺]](柳原大黒天・開基足利尊氏・臨済宗)
* 蛭子 [[柳原蛭子神社|蛭子神社]](柳原のえべっさん)
* 毘沙門天 [[能福寺]](兵庫大仏・平清盛廟所・天台宗)
* 弁財天 [[和田神社 (神戸市)|和田神社]](和田宮さん・兵庫南濱総氏神)
* 布袋和尚 柳原天神社(柳原の天神さん)
* 寿老人 [[薬仙寺]]([[後白河天皇|後白河法皇]] 萱の御所・時宗)
* 福禄寿 [[真光寺]](一遍上人墓所・時宗)
=== 主な史跡 ===
* [[東求女塚古墳]]
* [[処女塚古墳]](史跡)
* [[西求女塚古墳]](史跡)
* [[五色塚古墳]](史跡)
* [[小壷古墳]](史跡)
* [[和田岬砲台]](史跡)
* [[楠木正成]]墓碑(史跡)
* [[明石藩舞子台場跡]](史跡)
* [[滝山城 (摂津国)|滝山城]]
※ 名称の後の「(史跡)」は国指定の史跡を示す
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:Goshikizuka-kofun 3.jpg| [[五色塚古墳]]
|ファイル:Wadamisaki houdai.jpg|[[和田岬砲台]]
|ファイル:Nishimotomezuka Kofun03s3.jpg|[[処女塚古墳]]
|ファイル:Higashimotometsuka.JPG|[[東求女塚古墳]]
}}
=== 博物館 ===
{{div col}}
* [[兵庫県公館]]
* [[神戸市立博物館]]
* [[神戸文学館]]
* [[兵庫県立兵庫津ミュージアム]]
* [[神戸海洋博物館]]・[[カワサキワールド]]
* [[神戸華僑歴史博物館]]
* [[移情閣]]([[孫文記念館]])- 建物は国の[[重要文化財]]
* [[ホール・オブ・ホールズ六甲]]
* [[神戸らんぷミュージアム]]
* [[神戸ドールミュージアム]]
* [[神戸パールミュージアム]]
* [[神戸アンパンマンこどもミュージアム|神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール]]
* [[人と防災未来センター]] - [[ひと未来館]]・[[防災未来館]]
* [[橋の科学館]]
* [[神戸市水の科学博物館|水の科学博物館]]
* [[有馬玩具博物館]]
* [[神戸市立太閤の湯殿館|太閤の湯殿館]]
* 有馬の工房
* [[神戸市立青少年科学館]]
* [[UCCコーヒー博物館]]
* グリコピア神戸
* [[菊正宗酒造記念館]]
* [[白鶴酒造資料館]]
* [[沢の鶴資料館]]
* 酒匠館
* [[神戸酒心館]]
* [[浜福鶴吟醸工房]]
* [[櫻正宗記念館櫻宴]]
* [[竹中大工道具館]]
* 湊川神社宝物殿
* [[神戸ポートミュージアム]]
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:Old hyogo prefectural office bld09s3200.jpg|[[兵庫県公館]]
|ファイル:Kobe city museum02 1920.jpg|[[神戸市立博物館]]
|ファイル:Kobe City Museum of Literature03s3200.jpg|[[神戸文学館]]
|ファイル:Kobe maritime museum01s3200.jpg|[[神戸海洋博物館]]
|ファイル:Ijokaku01s2040.jpg|[[移情閣]]([[孫文記念館]])
|ファイル:Hall of halls rokko01s2816.jpg|[[ホール・オブ・ホールズ六甲]]
|ファイル:Disaster reduction and human renovation institution03s3200.jpg|[[防災未来館]]
}}
=== 美術館 ===
{{div col}}
* [[兵庫県立美術館]]・分館[[兵庫県立美術館 原田の森ギャラリー|原田の森ギャラリー]]
* [[世良美術館]]
* [[白鶴美術館]]
* [[香雪美術館]]
* [[イタリア館・プラトン装飾美術館|プラトン装飾美術館]](イタリア館)
* [[神戸北野美術館]]
* [[うろこの家・うろこ美術館|うろこ美術館]]
* [[神戸市立小磯記念美術館]]
* 大丸ミュージアム神戸
* [[神戸ファッション美術館]]
* [[神戸ゆかりの美術館]]
* [[神戸アートビレッジセンター]]
* [[波止場町TEN×TEN]]
* [[六甲山四季彩奏空間 - RCN CUBE ARTS PLACE|山の小美術館]]RCN CUBE
* [[豊雲記念館]]
* [[BBプラザ美術館]]
* [[横尾忠則現代美術館]]
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:Hyogo prefectural museum of art02s3200.jpg|[[兵庫県立美術館]]
|ファイル:Sera-museum01s2048.jpg|[[世良美術館]]
|ファイル:Kobe fashion museum03bs3200.jpg|[[神戸ファッション美術館]]
|ファイル:Kobe city koiso memorial museum of art04s3200.jpg|[[小磯記念美術館]]
}}
=== 音楽活動 ===
* 神戸市民文化振興財団(旧[[神戸市演奏協会]]) - [[神戸市室内管弦楽団]]、[[神戸市混声合唱団]]
* NPO法人国際チェロアンサンブル協会
* [http://kobemusicfestival.net/soshiki.html 神戸国際芸術祭実行委員会]{{リンク切れ|date=October 2018}}
* 特定非営利活動法人 室内合奏団THE STRINGS
* [http://www.the-strings.com/ NPO法人室内合奏団THE STRINGS]
=== 植物園・公園 ===
{{div col}}
* [[相楽園]]
** [[船屋形]]
* [[東遊園地]]
* 磯上公園
* [[須磨離宮公園]]
* [[須磨浦山上遊園]]
* [[須磨浦公園]]
* 須磨海浜公園
* 奥須磨公園
* アジュール舞子
* [[舞子公園]]
* 垂水健康公園
* [[布引ハーブ園]]
* [[神戸市立森林植物園]]
* [[六甲高山植物園]]
* [[再度公園]]
* [[摩耶自然観察園]]
* [[諏訪山公園]]
** [[ヴィーナスブリッジ]]
* 六甲カンツリーハウス
* [[北神戸田園スポーツ公園]]
* [[神戸市立フルーツフラワーパーク]]
* [[神戸市立農業公園]]
* [[国営明石海峡公園]](神戸地区)
* [[神戸震災復興記念公園]]
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:140517 Kobe Municipal Arboretum Japan02bs.jpg|[[神戸市立森林植物園]]
|ファイル:170811 Rokko Alpine Botanical Garden Kobe Japan09s3.jpg|[[六甲高山植物園]]
|ファイル:Kobe Suma Rikyu Park16s4592.jpg|[[須磨離宮公園]]
|ファイル:Nunobiki herb garden02s3200.jpg|[[布引ハーブ園]]
|ファイル:Views from Venus Bridge in Kobe 001.jpg|[[諏訪山公園]]からの神戸市の夕景
}}
=== 水族園・動物園 ===
* [[神戸市立須磨海浜水族園]]
* [[神戸市立王子動物園]]
* [[神戸どうぶつ王国]]
* [[アトア]]
* マリンピア神戸 小さな水族館
* [[みなとやま水族館]]
=== ホール ===
* [[神戸コンベンションコンプレックス]] - [[ワールド記念ホール]]・[[神戸国際会議場]]・[[ポートピアホテル]]・[[ポートピアホール]]・神戸商工会議所会館・[[神戸国際展示場]]
* [[新神戸オリエンタルシティ|新神戸オリエンタル劇場]]
* [[神戸文化ホール]]
* [[神戸国際会館]]
* [[神戸サンボーホール]]
* [[松方ホール]]
* [[神戸芸術センター]]
{{Gallery |mode=packed |width=160px |height=110
|ファイル:World memorial hall01s3000.jpg|[[ワールド記念ホール]]
}}
=== スタジアム・体育施設 ===
* [[神戸総合運動公園]] - [[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]・[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユニバー記念競技場]]
* [[北神戸田園スポーツ公園]]・[[北神戸田園スポーツ公園野球場|あじさいスタジアム北神戸]]
* [[御崎公園球技場|ノエビアスタジアム神戸(御崎公園球技場)]]
* [[神戸市王子スタジアム|王子スタジアム]]
* [[神戸市立ポートアイランドスポーツセンター]]
* [[神戸市立中央体育館]]
* [[兵庫県立文化体育館]]
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160px |height=110
|ファイル:Skymark Stadium.jpg|[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]
|ファイル:inside View of Kobe Wing Stadium.jpg|[[御崎公園球技場|ノエビアスタジアム神戸]]
|ファイル:151017 Kobe Universiade Memorial Stadium Kobe Japan02n.jpg|[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場]]
}}
=== スポーツチーム ===
==== 野球 ====
* [[オリックス・バファローズ]]([[パシフィック・リーグ]]) - 現在は[[大阪市]]の[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]を本拠地としているが、年に数回[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]での主催試合を開催している。また、前身球団の一つである「オリックス・ブルーウェーブ」時代は現在のほっともっとフィールド神戸を本拠地にしていた。
* [[三菱重工West硬式野球部]]([[日本野球連盟]]) - [[社会人野球]]の企業チーム。神戸市と[[高砂市]]の両市を本拠地としている。
* [[川崎製鉄神戸硬式野球部]](日本野球連盟) - [[社会人野球]]の企業チーム。1994年に解散。
* [[神戸製鋼硬式野球部]](日本野球連盟) - 社会人野球の企業チーム。1987年から本拠地を[[加古川市]]へ移転し、2002年に休部、2013年に解散した。
==== サッカー ====
* [[ヴィッセル神戸]]([[日本プロサッカーリーグ]])
* [[INAC神戸レオネッサ]]([[日本女子プロサッカーリーグ]])
* [[デウソン神戸]]([[日本フットサルリーグ]])
==== バスケットボール ====
* [[神戸ストークス]]([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]])
==== バレーボール ====
* [[久光スプリングス]]([[V.LEAGUE]]) - 登録上の本拠は[[鳥栖市]]であるが、過去に[[久光製薬]]が[[オレンジアタッカーズ|スプリングアタッカーズ]]を運営した経緯上、神戸市が練習拠点。
==== ラグビー ====
* [[コベルコ神戸スティーラーズ]]([[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]])
==== アメリカンフットボール ====
* [[エレコム神戸ファイニーズ]]([[Xリーグ]])
==== 格闘技 ====
* [[DRAGON GATE]]([[プロレス団体]] 神戸市が本拠地)
* [[千里馬神戸ボクシングジム]](プロボクシング・[[日本ボクシングコミッション|JBC]])
* [[真正ボクシングジム]](同上)
=== 主な西洋館・近代建築 ===
※建物名の後に「(重文)」とあるものは、国の重要文化財に指定された建造物
* 北野町山本通周辺
** [[神戸市風見鶏の館|風見鶏の館]](旧トーマス住宅)(重文)- [[旧シャープ住宅]](重文)- [[旧ハッサム住宅]](重文)- [[旧小寺家厩舎]](重文)- [[旧ドレウェル邸|ラインの館]](旧ドレウェル邸)- [[うろこの家・うろこ美術館|うろこの家]](旧ハリヤー邸)- [[シュウエケ邸]](旧ハンセル邸)- [[旧キャセリン・アンダーセン邸]] - [[神戸モスク|神戸ムスリムモスク]](神戸回教寺院)- [[日本基督教団神戸教会]] - [[北野物語館]](旧フロイドリーブ邸)- 旧ハムウェイ邸(アメリカンハウス)- 旧米国領事館官舎([[神戸北野美術館]])- 北野外国人倶楽部(旧ブリューガー邸)- [[洋館長屋|仏蘭西館]](洋館長屋、旧ボシー邸)- [[イタリア館・プラトン装飾美術館|旧アボイ邸]] - [[ベンの家]](旧フェレ邸)- [[旧サッスーン邸]] - [[山手八番館]] - [[旧ヒルトン邸]] - 旧フデセック邸 - [[洋館長屋]] - [[旧グラシアニ邸]]
* 旧居留地
** [[旧居留地十五番館]](重文)- [[旧居留地38番館]] - [[旧神戸ユニオン教会]] - [[商船三井ビルディング]] - [[チャータードビル]] - [[神港ビル]] - [[海岸ビル]] - 同和火災海上ビル
* [[栄町通 (神戸市)|栄町通]]・[[海岸通]]
** [[海岸ビルヂング]] - [[旧三菱銀行神戸支店]]([[ファミリア (アパレルメーカー)|ファミリア]]ホール)- [[旧神戸住友ビル]] - [[神戸郵船ビル]] - [[みなと元町駅|旧第一銀行神戸支店]] - [[神戸税関]]旧館 - [[旧国立生糸検査所]] - [[旧神戸市立生糸検査所]] - [[新港貿易会館]] - [[神戸大橋]] - [[みなと異人館]]
* 灘・東灘
** [[旧ハンター住宅]](重文)- 小寺邸 - 甲南漬資料館(旧高嶋平介邸)- [[神戸市立御影公会堂]] - 乾邸 - 小寺邸 - [[王子市民ギャラリー|旧関西学院チャペル]] - [[神戸大学]](本館 - 人文社会系図書館 - 兼松記念館 - 講堂)- [[深江文化村]]([[冨永家住宅]] - [[古澤家住宅]] - [[ベーカー邸]])
* 須磨
** [[旧室谷家住宅]](2007年解体)- 上田邸 - 旧西尾邸 - 萩野邸洋館 - 須磨観光ハウス
* 舞子・塩屋
** [[旧武藤山治邸]] - [[旧木下家住宅]] - [[舞子ホテル]] - 旧ジョネス邸 - [[旧グッゲンハイム邸]] - [[ジェームス山]](旧ジェームス邸 - 旧後藤邸 - 鄭邸)
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:The old settlement hall of no15 01 1920.jpg|[[旧居留地十五番館]]
|ファイル:The old settlement hall of no.38 01s3200.jpg|[[旧居留地38番館]]
|ファイル:Kobe shosenmitsui04 1920.jpg|[[商船三井ビル]]
|ファイル:Kobe customs02s2000.jpg|[[神戸税関]]
|ファイル:151003 Former National Raw Silk Conditioning Houses Kobe Japan01n.jpg|[[旧国立生糸検査所]]
|ファイル:Former Muto Villa00s3.jpg|[[旧武藤山治邸]]
}}
=== その他施設 ===
{{div col}}
* [[布引五本松ダム]](国の重要文化財)
* [[六甲ガーデンテラス]]
* [[六甲山スノーパーク]]
* [[神戸ゴルフ倶楽部]]
* [[神戸市立六甲山牧場]]
* [[神戸市立中央図書館]]
* [[北野工房のまち]]
* [[太山寺温泉]]
* [[しあわせの村]]
* [[箱木家住宅]]
* [[神戸市埋蔵文化財センター]]
* [[神戸商工貿易センタービル]]
* [[神戸朝日ビル]]
* [[神戸ファッションマート]]
* [[神戸ファッションプラザ]]
* [[神戸ポートタワー]]
* [[マリンピア神戸]]
** 神戸フィッシャリーナ(こうべたるみ海の駅)- [[三井アウトレットパーク マリンピア神戸]]
* 神戸市立須磨ヨットハーバー(こうべすま海の駅)
* [[神戸メリケンパークオリエンタルホテル]]
* [[ルミナス神戸2]]
* [[神戸コンチェルト]]
* [[アジュール舞子]]
* [[イオンモール神戸北]]
* [[神戸三田プレミアムアウトレット]]
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:Marine pia Kobe11s3872.jpg|[[三井アウトレットパーク マリンピア神戸|マリンピア神戸]]・神戸フィッシャリーナ
|ファイル:Kobe fashion mart01.jpg|[[神戸ファッションマート]]
}}
=== 祭事・行事 ===
* [[神戸まつり]]
* [[Kobe Love Port・みなとまつり]]
* [[インフィオラータ神戸]]
* [[神戸ルミナリエ]]
* 春節祭
* KOBE豚饅サミット
* [[神戸コレクション]]
* [[アニメーション神戸]]
* 神戸100年映画祭
* [[神戸スポーツ映画祭]]
* [[神戸マラソン]]
* [[神戸ジャズストリート]]
* [[神戸国際フルートコンクール]]
* [[全日本高校・大学ダンスフェスティバル]]
* [[インディア・メーラー]]
* [[KOBE ALIVE]]
* [[MEGA VEGAS]]
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:2010 Kobe Matsuri00s3s4050.jpg|神戸まつり
|ファイル:2012 Kobe Marathon 02n.jpg|神戸マラソン
}}
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
東西方向にかけて[[JR]]や私鉄などの路線が走行している。名目上は市名を冠する[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]が[[特定都区市内]]制度の中心駅であるが、[[JR]]や私鉄、地下鉄など多くの路線が乗り入れる[[三ノ宮駅]]・[[三宮駅]](神戸三宮駅)が実質的な市内中心駅としての役割をもつ。[[山陽新幹線]]の停車駅である[[新神戸駅]]は[[のぞみ (列車)|のぞみ]]を含めた全ての[[新幹線]]が停車するがJRの[[在来線]]の接続はないため、[[神戸市営地下鉄西神・山手線|市営地下鉄西神・山手線]]が[[中心市街地]]の[[三宮]]方面に連絡している。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
; [[File:JR logo (west).svg|22px]] [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
* [[山陽新幹線]]
** [[新神戸駅]]
* [[東海道本線]]([[JR神戸線]])
** [[甲南山手駅]] - [[摂津本山駅]] - [[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]] - [[六甲道駅]] - [[摩耶駅]] - [[灘駅]] - '''[[三ノ宮駅]]''' - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]
* [[山陽本線]](JR神戸線)
** 神戸駅 - [[兵庫駅]] - [[新長田駅]] - [[鷹取駅]] - [[須磨海浜公園駅]] - [[須磨駅]] - [[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]] - [[垂水駅]] - [[舞子駅]]
* 山陽本線([[和田岬線]])
** 兵庫駅 - [[和田岬駅]]
* [[福知山線]]([[JR宝塚線]])
** [[道場駅]]
; [[File:Hankyu_Railway_Logo.svg|22px]] [[阪急電鉄]]
* [[阪急神戸本線|神戸本線]]
** [[岡本駅 (兵庫県)|岡本駅]] - [[御影駅 (阪急)|御影駅]] - [[六甲駅]] - [[王子公園駅]] - [[春日野道駅 (阪急)|春日野道駅]] - [[三宮駅|'''神戸三宮駅''']]
* [[阪急神戸高速線|神戸高速線]]
** '''神戸三宮駅''' - [[花隈駅]] - [[高速神戸駅]] - [[新開地駅]]
; [[File:Hanshin-logo.svg|22px]] [[阪神電気鉄道]]
* [[阪神本線|本線]]
** - [[深江駅 (兵庫県)|深江駅]] - [[青木駅]] - [[魚崎駅]] - [[住吉駅 (阪神)|住吉駅]] - [[御影駅 (阪神)|御影駅]] - [[石屋川駅]] - [[新在家駅]]- [[大石駅]] - [[西灘駅]] - [[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]] - [[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]] - '''神戸三宮駅''' - 元町駅
* [[阪神神戸高速線|神戸高速線]]
** [[西代駅]] - [[高速長田駅]] - [[大開駅]] - 新開地駅 - 高速神戸駅 - [[西元町駅]] - 元町駅
; [[File:Sanyo_electric_railway_logo-2.svg|22px]] [[山陽電気鉄道]]
* [[山陽電気鉄道本線|本線]]
** 西代駅 - [[板宿駅]] - [[東須磨駅]] - [[月見山駅]] - [[須磨寺駅]] - [[山陽須磨駅]] - [[須磨浦公園駅]] - [[山陽塩屋駅]] - [[滝の茶屋駅]] - [[東垂水駅]] - [[山陽垂水駅]] - [[霞ヶ丘駅 (兵庫県)|霞ヶ丘駅]] - [[舞子公園駅]] - [[西舞子駅]]
{{Col-break}}
; [[File:Kobe_rallway_logo_mark.svg|22px]] [[神戸電鉄]]
* [[神戸電鉄有馬線|有馬線]]
** [[湊川駅]] - [[長田駅 (神戸電鉄)|長田駅]] - [[丸山駅 (兵庫県)|丸山駅]] - [[鵯越駅]] - [[鈴蘭台駅]] - [[北鈴蘭台駅]] - [[山の街駅]]- [[箕谷駅]] - [[谷上駅]] - [[花山駅]] - [[大池駅]] - [[神鉄六甲駅]] - [[唐櫃台駅]] - [[有馬口駅]] - [[有馬温泉駅]]
* [[神戸電鉄三田線|三田線]]
** 有馬口駅 - [[五社駅]] - [[岡場駅]] - [[田尾寺駅]] - [[二郎駅]] - [[道場南口駅]] - [[神鉄道場駅]]
* [[神戸電鉄粟生線|粟生線]]
** 鈴蘭台駅- [[鈴蘭台西口駅]] - [[西鈴蘭台駅]] - [[藍那駅]] - [[木津駅 (兵庫県)|木津駅]] - [[木幡駅 (兵庫県)|木幡駅]] - [[栄駅 (兵庫県)|栄駅]] - [[押部谷駅]]
* [[神戸電鉄神戸高速線|神戸高速線]]
** 新開地駅 - 湊川駅
; [[File:Kobe_Municipal_Subway_Logo.svg|22px]] [[神戸市営地下鉄]]
* [[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]]
** 新神戸駅 - '''[[三宮駅]]''' - [[県庁前駅 (兵庫県)|県庁前駅]] - [[大倉山駅 (兵庫県)|大倉山駅]] - [[湊川公園駅]] - [[上沢駅]] - [[長田駅 (神戸市営地下鉄)|長田駅]] - 新長田駅 - 板宿駅- [[妙法寺駅 (兵庫県)|妙法寺駅]] - [[名谷駅]] - [[総合運動公園駅]] - [[学園都市駅]] - [[伊川谷駅]] - [[西神南駅]] - [[西神中央駅]]
* [[神戸市営地下鉄北神線|北神線]]
** 谷上駅 - 新神戸駅
* [[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]]
** [[三宮・花時計前駅]] - [[旧居留地・大丸前駅]] - [[みなと元町駅]] - [[ハーバーランド駅]] - [[中央市場前駅]] - 和田岬駅- [[御崎公園駅]] - [[苅藻駅]] - [[駒ヶ林駅]] - [[新長田駅]]
; [[File:Kobe_New_Transit_logo.svg|22px]] [[神戸新交通]]
* [[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]](ポートライナー)
** '''三宮駅''' - [[貿易センター駅]] - [[ポートターミナル駅]] - [[中公園駅]] - [[みなとじま駅]] - [[市民広場駅]] - [[医療センター駅]] - [[計算科学センター駅]] - [[神戸空港駅]]
** 環状系統 : 市民広場 - [[南公園駅]] - [[中埠頭駅]] - [[北埠頭駅]] - 中公園
* [[神戸新交通六甲アイランド線|六甲アイランド線]](六甲ライナー)
* 住吉駅 - 魚崎駅 - [[南魚崎駅]] - [[アイランド北口駅]] - [[アイランドセンター駅]] - [[マリンパーク駅]]
; [[六甲摩耶鉄道]]
* [[六甲摩耶鉄道六甲ケーブル線|六甲ケーブル]]
** [[六甲ケーブル下駅]] - [[六甲山上駅]]
; [[神戸すまいまちづくり公社]]
* [[神戸すまいまちづくり公社摩耶ケーブル線|摩耶ケーブル]]
** [[摩耶ケーブル駅]] - [[虹の駅]]
* [[摩耶ロープウェー]]
** 虹の駅 - [[星の駅]]
{{Col-end}}
==== 中心駅 ====
[[ファイル:Kobe-shinai.PNG|thumb|250px|神戸市内におけるJR在来線の路線図(JR宝塚線道場駅を除く)]]
[[ファイル:Kobe City Loop Bus.JPG|thumb|250px|神戸市中心部の観光地を結んでいるシティー・ループバス]]
: 主に、商業・業務・文化施設などが集まる[[三宮]]周辺の駅が、中心的役割を果たすが、[[JTB]]時刻表では、[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]が中心駅として記載されている。
: 近年は、[[都心]][[ウォーターフロント]]の一角、[[神戸ハーバーランド|ハーバーランド]]周辺にも各鉄道が集まっている。
* 三宮 - [[三ノ宮駅]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])、[[三宮駅|神戸三宮駅]]([[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]])、[[三宮駅]]([[神戸市営地下鉄西神・山手線|神戸市営地下鉄西神山手線]]・[[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]])、[[三宮・花時計前駅]]([[神戸市営地下鉄海岸線]])
: 神戸の玄関口であり[[都心]]部の中核でもある[[三宮]]に位置する、事実上同一の駅。
: 各交通機関が集まる要衝であり、1日約75万人(2019年)が利用する市内最大の[[ターミナル駅]]として機能している。
: また、[[2006年]][[2月16日]]に開港した[[神戸空港]]と[[山陽新幹線]]・[[新神戸駅]]とを結ぶ、結節点としても重要な役割を担う。
: [[三ノ宮駅]]は[[兵庫県]]下の私鉄を含む全ての駅で最多の乗降客数であり、特急列車を含む全ての旅客列車が停車し、市役所本庁の最寄り駅でもあるため、実質的な中心駅となっている。
: [[阪神なんば線]]が開業した[[2009年]][[3月20日]]以降、[[近鉄奈良駅|近鉄奈良]]発の[[快速急行]]が[[三宮駅|阪神三宮]]まで乗り入れている(詳細は[[阪神なんば線]]を参照)。
: 各駅は[[さんちか]]などを通じ相互に乗換可能であり、周辺には[[神戸市バス|市営]]・高速・ホテルおよび空港リムジンバスなど、多数のバス路線が発着する(詳細は[[三宮駅バスのりば]]を参照)。
* ハーバーランド - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])、[[高速神戸駅]]([[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]])、[[ハーバーランド駅]]([[神戸市営地下鉄海岸線]])
: 都心西部に位置する[[神戸ハーバーランド]]の最寄り駅であり、3駅は[[デュオこうべ]]を通じ相互に乗換可能である。
: 神戸駅は[[特定都区市内|神戸市内]]の正式な代表駅であり、市内の乗降客数は三ノ宮駅に次ぐ多さである。
: 当駅は[[東海道本線]]の終点駅、[[山陽本線]]の起点駅でもあるが、運行上は[[JR神戸線]]の中間駅という位置付けである。
: また、神戸駅北側・南側には[[神戸市バス|市営バス]]を中心としたバスターミナルが併設されている。
: [[高速神戸駅]]は[[阪急神戸本線]]・[[阪神本線]]両方面の分岐および合流駅であり、[[山陽電気鉄道]]も乗り入れている。
==== 鉄道における特記事項 ====
* 神戸市は近畿地方の[[政令指定都市]]で唯一[[路面電車]]路線が現存しないが、次世代型路面電車を用いた[[ライトレール]] (LRT) や[[連節バス]]などを用いた[[バス・ラピッド・トランジット]] (BRT) の導入が検討されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/a80014/shise/kekaku/jutakutoshikyoku/sogokotsu/new_transportation.html|title=新たな公共交通システム(LRT・BRT)の導入可能性検討|publisher=神戸市|date=2020-2-1|accessdate=2020-7-4}}</ref><ref group="注釈"
>これとは別に神戸空港に連節バスの乗り入れが存在する。</ref><ref group="注釈"
>近畿地方の府県庁所在地で路面電車が現存しないのは、[[津市]]、[[奈良市]]、[[和歌山市]]も該当する(和歌山市以外は過去にも存在したことがない)。</ref>。
* 中央区の[[新港 (神戸市)|新港突堤西地区]] - [[中突堤]]・[[メリケンパーク]] - [[神戸ハーバーランド]]の区間で新たに[[都市索道]]が構想されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202101/0013980642.shtml|title=神戸港に海上ロープウエー構想 21年度調査へ |date=2021-01-03|publisher=神戸新聞NEXT|accessdate=2021-02-07|}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://koberun.net/blog-entry-%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%B8%AF%E3%81%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%A7%8B%E6%83%B3%E6%B5%AE%E4%B8%8A-21%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%81%AB%E8%AA%BF%E6%9F%BB.html |title=神戸港海上に都市型ロープウェイ建設構想が遂に浮上! 21年度に調査検討実施へ |date=2021-01-04|publisher=こべるん|accessdate=2021-02-07}}</ref>。
=== バス ===
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
; 高速バスターミナル
* 三宮駅前 [[三宮駅バスのりば|三宮バスターミナル・神姫バス三ノ宮バスターミナル]]
* 舞子駅前 [[舞子バスストップ|高速舞子]]
* [[新神戸駅]]
* [[神戸空港]]
{{Col-break}}
; 路線バス
* [[神戸市交通局]]([[神戸市バス]])
* [[神戸交通振興]]
* [[神姫バス]]
* [[阪神バス]]
* [[阪急バス]]
* [[山陽バス]]
* [[神鉄バス]]
* [[みなと観光バス (神戸市)|みなと観光バス]]
{{Col-end}}
市の中心部は[[神戸市バス|市バス]]と[[神姫バス]]と[[神戸交通振興]]が運行している。このほか[[垂水区]]では[[山陽バス]]、[[西区 (神戸市)|西区]]は[[神姫バス]]、[[北区 (神戸市)|北区]]は[[阪急バス]]と[[神姫バス]]が主として運行している。
乗車方法はいずれも後乗り前降り後払いであり、運賃は均一制を採る区間(市バス普通区・山陽均一区など)と整理券による区間制を採る区間(市バス近郊区・神姫バスなど)に分かれる。
みなと観光バス以外の各路線では非接触型[[ICカード]]の[[PiTaPa]]、[[ICOCA]]をはじめとした[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国交通系ICカード]]が使用できる。神姫バスグループは別途[[NicoPa]]も、阪急バスと阪神バスは別途[[Hanica]]もそれぞれ使用できる。
=== 道路 ===
[[File:KyobashiPA.JPG|thumb|200px|[[阪神高速3号神戸線|阪神高速神戸線]]]]
[[File:Minatogawa JCT.jpg|thumb|200px|[[湊川ジャンクション|湊川JCT]]]]
==== 国道 ====
; 高速自動車国道
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}}[[新名神高速道路]]
* {{Ja Exp Route Sign|E2A}}[[中国自動車道]]
* {{Ja Exp Route Sign|E2}}[[山陽自動車道]]
* [[西神自動車道]]
; 高速代替国道
* {{Ja Exp Route Sign|E28}}[[神戸淡路鳴門自動車道]](一般有料道路)
; 一般国道
* [[国道2号]]
** {{Ja Exp Route Sign|E93}}[[第二神明道路]]([[有料道路|一般有料道路]])
** [[浜手バイパス]]・[[神戸西バイパス]]
* [[国道28号]]
* [[国道43号]]
* [[国道171号]](市内は2号重複)
* [[国道174号]]
* [[国道175号]]
* [[国道176号]]
* [[国道250号]](市内は2号重複)
* [[国道427号]](市内は175号重複)
* [[国道428号]]
==== 県道 ====
; 阪神高速道路
* [[阪神高速道路]]
** [[阪神高速3号神戸線|3号神戸線]]
** [[阪神高速5号湾岸線|5号湾岸線]]
** [[阪神高速7号北神戸線|7号北神戸線]]
** [[阪神高速31号神戸山手線|31号神戸山手線]]
; 主要地方道
{{div col}}
* [[兵庫県道15号神戸三田線]]
* [[兵庫県道16号明石神戸宝塚線]]
* [[兵庫県道17号西脇三田線]]
* [[兵庫県道21号神戸明石線]]
* [[兵庫県道22号神戸三木線]]
* [[フラワーロード|兵庫県道30号新神戸停車場線]](フラワーロード)
* [[兵庫県道38号三木三田線]]
* [[兵庫県道51号宝塚唐櫃線]]
* [[兵庫県道52号小部明石線]]
* [[兵庫県道65号神戸加古川姫路線]]
* [[兵庫県道73号山田三田線]]
* [[兵庫県道82号大沢西宮線]]
* [[兵庫県道83号平野三木線]]
* [[兵庫県道85号神戸加東線]]
* [[兵庫県道95号灘三田線]]
** [[六甲北有料道路]](有料)
** [[六甲有料道路]](有料)
** [[表六甲ドライブウェイ]]
** [[裏六甲ドライブウェイ]]
* [[兵庫県道98号有馬山口線]]
* [[山手幹線 (兵庫県)|山手幹線]]
{{div col end}}
; 一般県道
* [[兵庫県道144号西脇口吉川神戸線]]
* [[兵庫県道195号岡場停車場線]]
* [[兵庫県道196号五社停車場線]]
* [[兵庫県道197号鈴蘭台停車場線]]
* [[兵庫県道198号東灘停車場線]]
* [[兵庫県道199号須磨停車場線]]
* [[兵庫県道200号垂水停車場線]]
* [[兵庫県道488号長坂垂水線]]
* [[兵庫県道506号市野瀬有馬線]]
* [[兵庫県道563号神出山田自転車道線]]
; 道の駅
* [[道の駅淡河]]
==== 市道有料道路 ====
* [[山麓バイパス]]
* [[新神戸トンネル有料道路]]
* [[ハーバーハイウェイ]]
==== 純民間有料道路 ====
* [[芦有ドライブウェイ]]
=== 航路 ===
; 神戸港
{{div col}}
* 神戸ポートターミナル
** 日中国際フェリー - [[新鑑真]](14,543トン)
*** 神戸港 ←→ [[上海市|上海港]]
* 神戸三宮フェリーターミナル
** [[ジャンボフェリー]] - [[りつりん2]](3,664トン)・[[あおい (フェリー)|あおい]](5,200トン)
*** 神戸港 ←→ [[小豆島]][[坂手港]]・[[高松港#高松東港|高松東港]]
**[[宮崎カーフェリー]] - [[フェリーたかちほ (宮崎カーフェリー)|フェリーたかちほ]](14,200トン)・[[フェリーろっこう]](14,200トン)
*** 神戸港 ←→ [[宮崎港]]
* [[中突堤中央ターミナル]](中突堤西・かもめりあ)
** [[神戸ベイクルーズ]] - [[ロイヤルプリンセス (遊覧船)|ロイヤルプリンセス]](414トン、神戸港周遊)、オーシャンプリンス(170トン、神戸港周遊)
** [[早駒運輸]] - ファンタジー(神戸港周遊)
* 中突堤旅客ターミナル
** ルミナス観光 - ルミナス神戸2(4,778トン、神戸港〜明石海峡周遊)
* [[高浜旅客ターミナル]]
** 神戸クルーザー - コンチェルト(2,138トン、神戸港〜明石海峡周遊)
** 神戸ベイクルーズ - オーシャンプリンス(神戸港周遊)
* [[六甲アイランドフェリーターミナル]]
** RF1 [[フェリーさんふらわあ]]
*** 神戸港 ←→ [[大分港]]
** RF2 [[阪九フェリー]] - [[せっつ (フェリー)|せっつ]](16,292トン)・[[やまと (フェリー・2代)|やまと]](16,292トン)
*** 神戸港 ←→ [[北九州港|新門司港]]
** RF3 [[四国開発フェリー]](オレンジフェリー)- おれんじホープ(15,732トン)
*** 神戸港 ←→ [[新居浜港]]
* [[六甲船客ターミナル]]
** [[マルエーフェリー]](週1〜2便・寄港地は便により異なる)- 琉球エキスプレス(6,266トン)
*** 神戸港 ←→ 大阪港 ←→ [[名瀬港]] ←→ (亀徳港) ←→ (和泊港) ←→ (与論港) ←→ [[那覇港]]
* 神戸空港ポートターミナル桟橋
** [[神戸-関空ベイ・シャトル]](84トン、[[高速船]])
*** 神戸空港 ←→ [[関西国際空港]]
{{div col end}}
{{Gallery |mode=packed |align=center |width=160 |height=110
|ファイル:Concerto kobe07s3200.jpg|[[高浜旅客ターミナル]]に帰還する[[神戸コンチェルト]]
|ファイル:Luminous kobe02s3200.jpg|[[ルミナス神戸2]]([[中突堤]])
|ファイル:Xinjianzhen01s2800.jpg|[[神戸ポートターミナル]]に到着する[[新鑑真]]
|ファイル:La belle mer01s3200.jpg|[[中突堤中央ターミナル]]に接岸する[[ラ・ベルメール]]
}}
=== 航空 ===
* [[神戸空港]]
* 路線
** [[東京国際空港|東京]](羽田)、[[新千歳空港|札幌]](新千歳)、[[百里飛行場|茨城]]、[[長崎空港|長崎]]、[[鹿児島空港|鹿児島]]、[[那覇空港|沖縄]](那覇)
* 航空会社
** [[全日本空輸|ANA]]、SKY([[スカイマーク]])、SNJ([[ソラシドエア]]、2013年6月より)、ADO([[AIRDO|AIR DO]]、2013年6月より)
=== タクシー ===
[[タクシーの営業区域]]は神戸市域交通圏で、[[淡路市]]・[[三田市]]・[[三木市]]・[[稲美町]]を除く隣接する各市と[[尼崎市]]・[[伊丹市]]・[[川西市]]・[[川辺郡]][[猪名川町]]と[[大阪国際空港|伊丹(大阪)空港]]が対象となっている。
== ゆかりの人物 ==
{{see|神戸市出身の人物一覧}}
=== 名誉市民 ===
神戸市は、神戸市名誉市民条例に基づき、「公共の福祉の増進または学術技芸の進展に寄与し、もって広く社会文化の発展に貢献し、その功績が卓絶する」市民およびゆかりのある人物に対して名誉市民の称号と名誉市民章を贈呈している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/a24533/shise/about/honorary.html|title=神戸市名誉市民|publisher=神戸市|date=2019-11-1|accessdate=2020-5-10}}</ref>。
* [[原口忠次郎]](元市長、1969年)
* [[小磯良平]]([[洋画家]]、1983年)
* [[中井一夫]](元市長、1989年)
* [[宮崎辰雄]](元市長、1990年)
* [[朝比奈隆]]([[音楽家]]、1994年)
* [[笹山幸俊]](元市長、2002年)
* [[井村裕夫]]([[医学者]]、2014年)
* [[矢田立郎]](元市長、2014年)
* [[本庶佑]](医学者、2019年)
== 神戸市で撮影がされた、および神戸市が舞台の作品 ==
神戸市は映像産業を重視し、映画やドラマの撮影に積極的である。
=== 映画 ===
{{div col||35em}}
* 黄金の弾丸(1927年:大岩栄二郎、[[宮島健一]]出演)- 神戸港・旧居留地ビジネス街
* [[新雪 (小説)#映画|新雪]](1942年:[[月丘夢路]]、[[水島道太郎]]出演)- [[神戸市立高羽小学校]]他
* [[細雪]](1950年:[[花井蘭子]]、[[轟夕起子]]出演)- [[住吉川 (兵庫県)|住吉川]]他
* [[夜来香]](1951年:[[上原謙]]、[[久慈あさみ]]出演)
* [[ここは静かなり]](1956年:[[有馬稲子]]、[[大木実]]出演)- 神戸港・旧居留地ビジネス街他
* 午後8時13分(1956年:[[根上淳]]、川上康子出演)
* 忘れじの午後8時13分(1957年:[[根上淳]]、川上康子出演)- 会下山公園他
* [[サヨナラ (映画)|サヨナラ]](1957年:[[マーロン・ブランド]]、[[ナンシー梅木]]出演)- 神戸港上空他
* [[赤い波止場]](1958年:[[石原裕次郎]]出演)- 神戸港・三宮・六甲山他
* [[猟銃]](1961年:[[山本富士子]]、[[岡田茉莉子]]出演)- [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]他
* [[女の勲章]](1961年:[[京マチ子]]、[[田宮二郎]]出演)- 魚崎・六甲山他
* あすの花嫁(1962年:[[吉永小百合]]出演)
* [[憎いあンちくしょう]](1962年 : [[石原裕次郎]]、[[浅丘ルリ子]]出演)- 塩屋
* [[大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン]](1966年)- 神戸港・ポートタワー
* [[陸軍中野学校 雲一号指令]](1966年:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]出演)
* [[007は二度死ぬ]](1967年:[[ショーン・コネリー]]出演)- 神戸港
* [[吹けば飛ぶよな男だが]](1968年:[[なべおさみ]][[ミヤコ蝶々]]出演)- 福原柳筋 神戸港
* [[激突! 殺人拳]](1974年:[[千葉真一]]出演)- 神戸港・神戸沖他
* [[華麗なる一族 (映画)|華麗なる一族]](1974年:[[佐分利信]]、[[月丘夢路]]出演)- 六甲山・旧居留地ビジネス街他
* [[風の歌を聴け]](1981年:[[小林薫]]出演)- 三宮・舞子六角堂・神戸港他
* [[メイン・テーマ (映画)|メイン・テーマ]](1984年:[[薬師丸ひろ子]]出演)- 須磨浦公園他
* [[二代目はクリスチャン]](1985年:[[志穂美悦子]]出演)
* [[火垂るの墓]] (1988年:[[高畑勲]]監督)
* [[花の降る午後]](1989年:[[古手川祐子]]、[[桜田淳子]]出演)※神戸市政100周年記念映画
* [[べっぴんの町]](1989年:[[柴田恭兵]]出演)- 三宮・ポートアイランド他
* ジェームス山の李蘭(1992年東映:名取裕子、東幹久出演)- ジェームス山他
* [[She's Rain]](1993年:[[小松千春]]出演)- メリケンパーク・旧居留地他
* [[ゴジラvsスペースゴジラ]](1994年:橋爪淳出演)- メリケンパーク
* [[大失恋。]](1995年:[[武田真治]]、[[鈴木京香]]出演)- 神戸ベイシェラトンホテル、六甲ランドAOIA他
* [[男はつらいよ 寅次郎紅の花]](1995年:渥美清出演)- 長田区内
* [[夏の庭 The Friends]] (1994年:三國連太郎出演)- 須磨区内
* [[ISOLA 多重人格少女]](1999年:木村佳乃出演)
* [[走れ!イチロー]](2001年:浅野ゆう子出演)
* [[リターナー]](2002年:[[金城武]]出演)- 神戸大橋他
* [[きょうのできごと (小説)|きょうのできごと]](2004年:[[妻夫木]]聡出演)- 王子動物園・育英高校他
* [[ゴジラ FINAL WARS]](2004年:松岡昌宏出演)- 神戸空港他
* [[極道の妻たち|極道の妻たち 情炎]](2005年:[[高島礼子]]出演)
* [[日本沈没]](2006年:神戸港から国外脱出を図るシーンで登場。また柴咲コウ演じる阿部玲子は神戸出身の設定)
* [[ありがとう (2006年の映画)|ありがとう]](2006年:赤井英和主演)- 阪神淡路大震災時の神戸・神戸近郊が舞台
* [[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]](2006年:[[五十嵐隼士]]、[[黒部進]]、[[森次晃嗣]]、[[団時朗]]、[[高峰圭二]]出演)- 神戸空港・六甲山牧場・[[神戸ポートピアランド]]・須磨海浜水族園・ポートアイランド住友倉庫他
* [[スパイの妻#映画版|スパイの妻<劇場版>]](2020年:[[蒼井優]]、[[高橋一生]]、[[東出昌大]]出演)- [[旧グッゲンハイム邸]]、旧加藤海運本社ビル、[[名谷車両基地|神戸市市営地下鉄名谷車輌基地]]、[[神戸税関]]
* [[罪の声#映画|罪の声]](2020年:[[小栗旬]]、[[星野源]]出演)- 割烹 大力
<!--* [[仁義なき戦い]](菅原文太出演)== 広島県広島市や呉市が妥当だと思います。シリーズ3作目以降神戸市が少しずつ出てきますが、「露出」程度の域を超えないと思われます。 -->
{{div col end}}
; 神戸市で撮影された映画作品
{{div col||35em}}
* [[GO (小説)|GO]](2001年:窪塚洋介出演)- 市営地下鉄上沢駅他
* [[あずみ2 Death or Love]](2004年:上戸彩出演)- 布引他
* [[交渉人 真下正義]](2005年:ユースケ・サンタマリア出演)- 市営地下鉄御崎車両基地他
* みやび 三島由紀夫(2005年)- 舞子公園・市内の県立高校
* [[天使の卵 (映画)|天使の卵]](2006年:市原隼人主演)- 神戸市看護大学で撮影
* [[陽気なギャングが地球を回す]](2006年:大沢たかお出演)- 三宮フラワーロード他
* [[僕の彼女はサイボーグ]](2008年:綾瀬はるか主演)- 神戸大学、三宮他
* 映画版[[火垂るの墓]](2008年:松田聖子主演)- 神戸大学他(本作は全編兵庫県ロケ)
* [[新宿インシデント]](2009年:ジャッキーチェン出演)- 三宮繁華街他
* [[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]](2009年:北野武出演)- 繁華街、居留地他
** [[アウトレイジビヨンド]](2012年:北野武出演)- 繁華街、ポートアイランド他
** [[アウトレイジ 最終章]](2017年:北野武出演)- 相楽園会館、空港島道路他
* [[鬼子母神の子守唄]](2012年:夢原まひろ、白澤康宏出演)- 六甲山、再度山他
* [[GANTZ (映画)|GANTZ]](2011年:二宮和也出演)- 中央卸売場跡地他
* [[DOG×POLICE 純白の絆]](2011年:市原隼人、戸田恵梨香出演)- 神戸ハーバーランドセンタービル、ポートアイランド市民広場、新神戸オリエンタルアベニュー、西神中央プレンティ、神戸国際交流会館、神戸市立医療センター中央市民病院
* [[ALWAYS 続・三丁目の夕日]](2007年:吉岡秀隆、小雪出演)- [[川崎重工]]兵庫工場にて[[国鉄151系電車]]「こだま」号の撮影
* [[ゾンビチャイルド]](2009年:[[辻岡正人]]、[[夢原まひろ]]出演)- 垂水区他
* [[ひよこカラー]](2013年:[[村上聖佳]]、[[夢原まひろ]]出演)- 垂水区、東垂水展望公園他
* [[オオカミ少女と黒王子#実写映画|オオカミ少女と黒王子]]([[2016年]]:[[二階堂ふみ]]、[[山﨑賢人]]出演)- [[南京町 (神戸)|南京町]]、[[北野町 (神戸市)|北野町]]異人館街、[[神戸メリケンパークオリエンタルホテル]]、[[ビーナステラス]]、[[人と防災未来センター]]、[[神戸市立王子動物園]]、中突堤、阪急西口本通2・3丁目、三宮高架商店街、[[元町高架下商店街]]
* [[HiGH&LOW THE MOVIE]](2016年:[[TAKAHIRO (歌手)|TAKAHIRO]]、[[登坂広臣]]出演)- [[摩耶埠頭]]、[[ポートアイランド]]
* [[デスノート Light up the NEW world]] (2016年:[[東出昌大]]、[[池松壮亮]]出演)- [[元町通]]1スクランブル交差点、中央水環境センター・ポートアイランド処理場、ベルトコンベア跡トンネル、[[摩耶山]]
* [[ミュージアム (漫画)#映画|ミュージアム]](2016年:[[小栗旬]]出演)- [[旧乾邸]]、ベルトコンベア跡トンネル、[[神戸市中央卸売市場|神戸市中央卸売市場東部市場]]
* [[海賊と呼ばれた男#映画|海賊と呼ばれた男]](2016年:[[岡田准一]]出演)- [[神戸大学]]、[[神戸税関]]
* [[本能寺ホテル]]([[2017年]]:[[綾瀬はるか]]出演)- [[神戸市役所|神戸市役所1号館]]、カフェフィッシュ、LOCHE MARKET STORE([[マリンピア神戸]]内)
* [[サバイバルファミリー]](2017年:[[小日向文世]]、[[深津絵里]]出演)- [[神戸市立須磨海浜水族園]]
* [[ふたりの旅路]](2017年:[[桃井かおり]]、[[イッセー尾形]]出演)- 灘丸山公園、[[北野美術館]]、角野邸、[[元町 (神戸市)|元町商店街]]
* [[幼な子われらに生まれ#映画|幼な子わらに生まれ]] (2017年:[[浅野忠信]]、[[田中麗奈]]出演)- [[パルモア病院]]、笠松商店街、[[兵庫県立美術館]]、[[カフェ・ド・クリエ]]
* [[彼女がその名を知らない鳥たち#映画|彼女がその名を知らない鳥たち]](2017年:[[蒼井優]]、[[阿部サダヲ]]出演)- 灘丸山公園、北野坂、[[元町高架下商店街]]、[[神戸空港島西緑]]地他
* [[亜人 (漫画)#実写映画|亜人]] (2017年:[[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]出演)- 新港第4突堤、[[兵庫県公館]]、落合クリーンセンター、ポートアイランド処理場、[[神戸市役所]]、[[神戸商工会議所]]
* キセキの葉書(2017年:[[鈴木紗理奈]]出演)- 角野邸
* [[鋼の錬金術師 (実写映画)|鋼の錬金術師]](2017年:[[山田涼介]]、[[本田翼]]出演)- ベルトコンベアトンネル、[[旧ハンター住宅]](王子動物園内)、道の駅 神戸フルーツ・フラワーパーク 大沢
* [[嘘八百]](2018年:[[中井貴一]]、[[佐々木蔵之介]]出演)- 神戸空港
* [[マンハント (2017年の映画)|マンハント]](2018年:[[チャン・ハンユー]]、[[福山雅治]]出演)- 岡本の住宅街、六甲山のハウススタジオ
* [[となりの怪物くん#実写映画|となりの怪物くん]](2018年:[[土屋太鳳]]、[[菅田将暉]]出演)- [[諏訪山公園]]、[[ビーナスブリッジ]]
* [[焼肉ドラゴン]](2018年:[[真木よう子]]、[[井上真央]]出演)- [[神戸空港島]]
* [[センセイ君主#映画|センセイ君主]](2018年:[[竹内涼真]]、[[浜辺美波]]出演)- [[神戸市看護大学]]、[[東遊園地]]・[[フラワーロード]]、北野坂
* [[寝ても覚めても (映画)|寝ても覚めても]](2018年:[[東出昌大]]、[[唐田えりか]]出演)- [[神戸ファッション美術館]]
* [[フォルトゥナの瞳#映画|フォルトゥナの瞳]](2019年:[[神木隆之介]]、[[有村架純]]出演)- [[兵庫県立舞子公園|県立舞子公園]]、[[アジュール舞子]]、塩屋、つつじが丘公園、[[住吉橋]]、[[カフェ・ド・クリエ]]、クアラントット、北の椅子と、[[都賀川]]、[[東遊園地]]・[[フラワーロード]]、ラクダビル周辺、苅藻橋、[[ハーバーウォーク]]、[[神戸労災病院|労災病院]]
* [[轢き逃げ 最高の最悪な日]](2019年:[[中山麻聖]]、[[石田法嗣]]出演)- 北野エリア、[[元町高架通商店街]]、[[南京町]]、UNICORN、三宮本通商店街、[[東遊園地]]、北公園、CinemaKOBE、[[神戸大学]]、[[小磯記念美術館]]、ジャンカルド、[[北野天満神社]]、[[アジュール舞子]]
* [[アルキメデスの大戦#実写映画|アルキメデスの大戦]](2019年:[[菅田将暉]]、[[柄本佑]]、浜辺美波出演)- [[神戸税関]]、[[旧乾邸]]、[[海岸ビルヂング]]、旧[[加藤海運]]本社ビル
* [[牙狼〈GARO〉-月虹ノ旅人-]](2019年:[[中山麻聖]]、[[石橋菜津美]]出演)- [[旧乾邸]]、[[デザイン・クリエイティブセンター神戸]](KIITO)、[[道の駅神戸フルーツ・フラワーパーク大沢]]、ホテル神戸フルーツ・フラワー、[[丸五市場]]、クラブ月世界
* [[思い、思われ、ふり、ふられ#実写映画|思い、思われ、ふり、ふられ]](2020年:[[浜辺美波]]、[[北村匠海]]、[[福本莉子]]、[[赤楚衛二]]出演)- [[兵庫県立神戸高等学校|神戸高等学校]]、[[啓明学院]]、学園東町西公園、大丸山公園、[[神戸松蔭女子学院大学]]、[[名谷駅]]、[[西神南駅]]、トリトンカフェ、[[長田神社]]、元町ケーキ、北野坂、都賀川公園、北野町東公園
* [[天外者]](2020年:[[三浦春馬]]、[[三浦翔平]]、[[西川貴教]]出演)- [[旧ハンター邸]]、[[神戸税関]]
* [[名も無き世界のエンドロール#映画|名も無き世界のエンドロール]](2020年:[[岩田剛典]]、[[新田真剣佑]]出演)- 神戸ポートアイランド市民広場、[[神戸ポートピアホテル]]、明石町筋、京町筋、上北古市民公園付近ほか
* [[るろうに剣心 (実写映画)#るろうに剣心 最終章 The Final / The Beginning|るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning]](2021年:[[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]、[[武井咲]]、[[江口洋介]]出演)- あいな里山公園、淡河宿本陣跡
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=== テレビドラマ ===
<!-- 製作年順になっています -->
{{div col||35em}}
* [[ウルトラセブン]] 第14,15話「ウルトラ警備隊西へ」(1967年、TBS系)- 神戸港、神戸ポートタワー他
* [[風見鶏 (テレビドラマ)|風見鶏]](1977年、[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]:[[新井春美]]、[[蟇目良]]主演)
* [[ゆるしません!]](1980年、[[関西テレビ放送|KTV]]製作・[[フジテレビジョン|CX]]系:[[友里千賀子]]主演)- 全編神戸および三宮などが舞台。
* [[青が散る]](1983年-1984年、TBS系、[[石黒賢]]主演)
* [[西部警察 PART-III]] 第49話「激追!!地を走る3億ドル-大阪・神戸篇-」(1984年、[[テレビ朝日|ANB]]系)- ベルトコンベア施設や当時開発中の西神ニュータウンなどの造成地
* [[逃亡者 (1992年のテレビドラマ)|逃亡者]](1992年、CX系:[[田原俊彦]]・[[和久井映見]]出演)- 思い出の地として登場。三宮センター街付近などで撮影。
* [[3年B組金八先生]] 第4シリーズ(1995年、TBS系:[[武田鉄矢]]出演)
* [[甘辛しゃん]](1997年、NHK連続テレビ小説:[[佐藤夕美子]]出演)
* [[三誓盟]](1997年、[[香港]]ドラマ:[[梅艶芳]](アニタ・ムイ)主演)
* [[少年H]](1999年、CX系:[[桃井かおり]]主演)- 兵庫県立神戸高校他
* [[アイ'ム ホーム#2004年版|アイ’ム ホーム 遥かなる家路]](2004年、NHK:[[時任三郎]]出演)- ポートピアランド、神戸ハーバーランド、モザイク、神戸地下鉄大倉山駅、阪急御影駅前など
* [[わかば (テレビドラマ)|わかば]](2004年、NHK連続テレビ小説:[[原田夏希]]主演)
* [[ガラスの華]](2004年、[[大韓民国|韓国]][[ソウル放送|SBS]]:[[イ・ドンゴン]]、[[金子昇]]出演)- 旧居留地他
* [[火垂るの墓]](2005年、[[日本テレビ放送網|NTV]]系:[[松嶋菜々子]]出演)- 垂水区上高丸団地他
* [[ハルとナツ 届かなかった手紙]](2005年、NHK80周年ドラマ:[[森光子]]出演)
* [[デザイナー (漫画)|デザイナー]](2005年、[[MBSテレビ|MBS]]系:[[国生さゆり]]主演)- 灘丸山公園他
* [[CAとお呼びっ!]](2006年、NTV系)- 神戸空港で一部撮影
* [[虹を架ける王妃]](2006年、CX系:[[岡田准一]]主演他)- 須磨離宮公園、須磨区内住宅他
* [[松本清張]]スペシャル「共犯者」(2006年、NTV系:[[賀来千香子]]・[[室井滋]]出演)- 阪急三宮駅北側広場
* [[関ジャニ∞青春ドラマシリーズ#蹴鞠師|冬休みSPドラマ・蹴鞠師]](2006年、KTV系:[[横山裕]]、[[錦戸亮]][[ジャニーズJr]]他)- 神戸大学・神戸流通科学大学・市営地下鉄新神戸駅・御影公会堂地下食堂・他神戸市内
* [[スロースタート (テレビドラマ)|スロースタート]](2007年、NHK土曜ドラマ:[[水野真紀]]他出演)- ほぼ全編神戸ロケ
* [[華麗なる一族 (2007年のテレビドラマ)|華麗なる一族]](2007年、TBS系:[[木村拓哉]]主演)- 舞台は神戸および神戸近郊〜兵庫県東部
* [[その街のこども]](2010年、NHK阪神・淡路大震災15年特集ドラマ:[[佐藤江梨子]]・[[森山未來]]主演)- ほぼ全編神戸ロケ
* [[べっぴんさん]](2016年-2017年、[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]:[[芳根京子]]主演)
* [[女子的生活]](2018年、[[NHK総合]][[ドラマ10]]:[[志尊淳]]主演)
* [[不惑のスクラム]](2018年、NHK総合[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]:[[高橋克典]]主演)- [[神戸学院大学]]ポートアイランドキャンパス、[[神戸芸術センター]]
* [[まんぷく]](2018年-2019年、[[NHK連続テレビ小説]]:[[安藤サクラ]]主演)-神戸迎賓館 旧西尾邸
* [[なめとんか やしきたかじん誕生物語]](2018年、[[関西テレビ]]開局60周年特別番組:[[駿河太郎]]主演)- クラブ月世界、[[神戸山手女子中学校・高等学校]]、野瀬病院、[[神戸芸術センター]]
* カラスになったおれは地上の世界を見おろした。(2018年、NHK総合ドラマSP:[[眞島秀和]]主演)- Asia One Center、[[神戸芸術センター]]、[[ポートピアホテル]]
* [[レ・ミゼラブル 終わりなき旅路]](2019年、[[フジテレビ]]開局60周年記念ドラマ:[[ディーン・フジオカ]]、[[井浦新]]出演)- [[諏訪山公園]]・[[ビーナスブリッジ]]、[[北野町]]、[[旧グッゲンハイム邸]]
* [[BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸]](2019年、[[関西テレビ]]開局60周年特別ドラマ:[[井浦新]]主演)- [[六甲道駅|JR六甲道]]、六甲道本通商店街、六甲道南公園、都賀川公園周辺、[[メリケンパーク]](メモリアルパーク)、[[南京町]]、元町商店街、モトコ―、灘丸山公園、[[ビーナスブリッジ]]、長峰霊園、第一旭神戸店ほか
* [[元町ロックンロールスウィンドル]](2019年、[[サンテレビ]]:[[鳥居みゆき]]主演)- トアウエスト、[[花隈公園]]、[[中突堤]]、野瀬病院、[[元町高架通商店街]]、角野邸、あいな里山公園、[[丸五市場]]
* [[だから私は推しました]](2019年、NHK総合[[よるドラ]]:[[桜井ユキ]]主演)- [[デザイン・クリエイティブセンター神戸]](KIITO)、120 WORKPLACE KOBE、[[六甲ライナー]][[アイランドセンター駅]]、[[六甲アイランド]][[リバーモール]]、[[神戸ファッションプラザ]]ほか
* [[いだてん〜東京オリムピック噺〜|いだてん]](2019年、NHK総合[[大河ドラマ]]:[[阿部サダヲ]]、[[中村勘九郎 (6代目)|中村勘九郎]]主演)- [[ユニバー記念競技場]]
* [[猪又進と8人の喪女〜私の初めてもらってください〜]](2019年、[[関西テレビ]]:[[さらば青春の光 (お笑いコンビ)|森田哲矢]]、[[岡崎紗絵]]出演)- 神戸煉瓦倉庫、高浜岸壁、[[諏訪山公園]]・[[ビーナスブリッジ]](3話)、有馬温泉月光園游月山荘、なぎさ公園(7話)
* [[遺留捜査|遺留捜査スペシャル]](2019年、[[テレビ朝日]]:[[上川隆也]]、[[栗山千明]]、[[永井大]]、[[宮﨑香蓮]]、[[梶原善]]、[[甲本雅裕]]、[[戸田恵子]]出演)- [[旧乾邸]]
* [[刑事ゼロ|刑事ゼロスペシャル]](2019年、[[テレビ朝日]][[日曜プライム]]:[[沢村一樹]]、[[瀧本美織]]、[[寺島進]]、[[横山だいすけ]]、[[猫背椿]]、[[渡辺いっけい]]、[[財前直見]]出演)- グランドホテル六甲スカイヴィラ、[[六甲ケーブル]][[六甲山上駅]]、[[六甲ガーデンテラス]]、[[六甲オルゴールミュージアム]]、有馬温泉月光園ほか
* [[忘却のサチコ#テレビドラマ|忘却のサチコ 新春スペシャル]](2020年、[[テレビ東京]]:[[高畑充希]]、[[村上淳]]、[[葉山奨之]]出演)- [[生田神社]]、[[萌黄の館]]、北野町広場、[[神戸空港]]、東山商店街、[[中突堤]]・[[メリケンパーク]]、[[ハーバーウォーク]]、有馬温泉月光園游月山荘、モザイク大観覧車、ティールームアミカ、[[北野工房のまち]]、[[地下鉄海岸線]][[和田岬駅]]コインロッカー、[[南京町 (神戸市)|南京町]]、イスズベーカリー北野坂店、恋人岬、お好み焼き青森
* [[心の傷を癒すということ (テレビドラマ)|心の傷を癒すということ]](2020年、NHK総合[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]:[[柄本佑]]、[[尾野真千子]]、[[濱田岳]]、[[森山直太朗]]、[[近藤正臣]]出演)- [[雲雀丘学園小学校|旧雲雀ケ丘小学校]]、[[神戸市看護大学]]、[[パルモア病院]]、[[花隈公園]]、神戸大学医学部附属国際がん医療・研究センター、[[神戸市立医療センター西市民病院|西市民病院]]、[[須磨海岸]]、[[神戸文化ホール]]、[[パルシネマしんこうえん|パルシネマ]]、[[神戸大学]]、[[神戸市立森林植物園]]、[[大倉山 (神戸市)#大倉山公園|大倉山公園]]、ポートアイランド病院、[[神戸ルミナリエ]]、神戸布引ハーブ園、[[生田神社]]
* [[DIVER-特殊潜入班-]](2020年、関西テレビ:[[福士蒼汰]]、[[野村周平]]、[[安藤政信]]、[[りょう (女優)|りょう]]出演)- 神戸各地で撮影
* [[たとえあなたを忘れても]](2023年-、[[堀田真由]]主演)
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=== 漫画・アニメ ===
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* [[アドルフに告ぐ]](1983年、[[手塚治虫]])
* [[サード・ガール]](1984年、[[西村しのぶ]])
* [[小山荘のきらわれ者]](1985年、[[なかじ有紀]])
* [[アーバンスクウェア 琥珀の追撃]](1986年、[[西森明良]])
* [[攻殻機動隊]](1989年、[[士郎正宗]])
* [[高校鉄拳伝タフ]](1993年、[[猿渡哲也]])
* [[中垣慶|お願いアルカナ]](1994年、[[中垣慶]])
* [[神戸在住]](1998年、[[木村紺]])
* [[地球少女アルジュナ]](2001年、[[河森正治]])
* [[RUSH (西村しのぶの漫画)|RUSH]](2001年、西村しのぶ)
* [[太陽の黙示録]](2002年、[[かわぐちかいじ]])
* [[ZIG☆ZAG]](2005年、[[なかじ有紀]])
* [[Fate/stay night]](2006年、[[TYPE-MOON]])
* [[あるいとう]](2011年、[[ななじ眺]])
* [[Fate/Zero]](2011年、[[虚淵玄]]・TYPE-MOON)
* [[幽麗塔]](2012年、[[乃木坂太郎]])
* [[かげきしょうじょ!!]](2012年、[[斉木久美子]])
* [[競女!!!!!!!!]](2013年、[[空詠大智]])
* [[Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ]](2013年、[[ひろやまひろし]]・TYPE-MOON)
* [[Z/X|Z/X IGNITION]](2014年、[[テレコム・アニメーションフィルム]])
* [[ジョゼと虎と魚たち]] (2020年、原作・[[田辺聖子]]、監督・タムラコータロー)
* [[すずめの戸締まり]] (2022年、[[新海誠]])
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=== ゲーム ===
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* [[ポートピア連続殺人事件]](1983年、[[エニックス]])
* [[スナッチャー]](1988年、[[コナミ]])
* 神戸恋愛物語(1989年、ザインソフト)
* [[街道バトルシリーズ]](2003年、[[元気 (ゲーム会社)|元気]])
* [[こもれびに揺れる魂のこえ]](2003年、[[ソフパル#ユニゾンシフト|ユニゾンシフト]])
* [[Fate/stay night]](2004年、[[TYPE-MOON]])-[[神戸大橋]]などが登場する。
* [[E×E]](2007年、[[ゆずソフト]]) - 作中では「岬市」(みさきし)。[[三ノ宮駅]]の駅前広場、[[ハーバーランド]]の煉瓦倉庫レストランなどが登場。作中に登場する八坂総合病院のモデルは[[神戸大学医学部附属病院]]。
* [[レコンキスタ (ゲーム)|レコンキスタ]](2007年、[[コットンソフト]]) - [[ポートアイランド]]。神戸大橋などが登場。
* [[天神乱漫]](2009年、[[ゆずソフト]]) - 作中では「真日羽市」(まひわし)。[[灘区]]。[[六甲道駅]]周辺。
* [[プリズム☆ま〜じカル 〜 PRISM Generations! 〜]](2010年、[[ぱじゃまソフト]])
* キミとボクとエデンの林檎(2011年、[[オービット]])
* [[ホチキス (ゲーム)|ホチキス]](2012年、[[戯画 (ブランド)|戯画]]) - [[東灘区]]がモデル。
* [[湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5|湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE 5DX]](2015年、[[バンダイナムコエンターテインメント]])
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=== 文学・小説 ===
作品は作者氏名で五十音順
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* [[伊勢物語]](作者未詳)
* [[うつほ物語|宇津保物語]](作者未詳)
* [[枕草子]]([[清少納言]])第117段:湯は
* [[源氏物語]]([[紫式部]])第12帖 須磨 など
* [[栄花物語]](作者未詳)
* [[平家物語]]
* [[蒼氓]]([[石川達三]])
* ヰタ マキニカリス([[稲垣足穂]])
* 星を売る店(稲垣足穂)
* タルホ神戸年代記(稲垣足穂)
* 三ノ宮炎上([[井上靖]])
* [[猟銃 (小説)|猟銃]](井上靖)
* 神戸殺人事件([[内田康夫]])
* 「須磨明石」殺人事件(内田康夫)
* 死線を越えて([[賀川豊彦]])
* 歌劇学校([[川端康成]])
* [[がしんたれ]]([[菊田一夫]])
* [[十三番目の人格 ISOLA]]([[貴志祐介]])
* つれづれ、北野坂探偵舎 心理描写が足りてない([[河野裕 (小説家)|河野裕]])
* [[ここは静かなり]]([[白川渥]])
* [[少年H]]([[妹尾河童]])
* [[細雪]]([[谷崎潤一郎]])
* 青雲の軸([[陳舜臣]])
* 緋の十字架([[佃實夫]])
* あすの花嫁([[壺井栄]])
* 一縷の川([[直井潔]])
* タロット探偵MIKU([[夏緑]])
* 神戸 愛と殺意の街([[西村京太郎]])
* 神戸電鉄殺人事件(西村京太郎)
* [[孤高の人]]([[新田次郎]])
* [[火垂るの墓]]([[野坂昭如]])
* [[兎の眼]]([[灰谷健次郎]])
* [[太陽の子]](灰谷健次郎)
* [[天の瞳]](灰谷健次郎)
* [[新雪 (小説)|新雪]]([[藤沢桓夫]])
* [[花の降る午後]]([[宮本輝]])
* [[青が散る]](宮本輝)
* [[ノルウェイの森]]([[村上春樹]])
* [[風の歌を聴け]](村上春樹)
* [[生田川]]([[森鷗外]])
* [[華麗なる一族]]([[山崎豊子]])
* 本の話([[由起しげ子]])
* 三つの花([[吉屋信子]])
* [[花物語 (吉屋信子)|花物語]](吉屋信子)
* 神戸栄町アンティーク堂の修理屋さん(竹村優希)
* ジェームス山の李蘭([[樋口修吉]])
* 困ったときの友(コスモポリタンズ収録)([[サマセット・モーム]])
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=== 音楽 ===
; [[唱歌]]
* [[鉄道唱歌]]第一集東海道篇
*: ''62.神戸は五港の一つにて あつまる汽船のかずかずは 海の西より東より [[瀬戸内地方|瀬戸内]]がよいも交じりたり''
*: ''63.磯にはながめ晴れわたる [[和田岬|和田の岬]]を控えつつ 山には絶えず[[布引の滝 (兵庫県)|布引の 滝]]見に人ものぼりゆく''
*: ''64.七度うまれて[[後醍醐天皇|君が代]]を まもるといいし[[楠木正成|楠公]]の いしぶみたかき[[湊川の戦い|湊川]] ながれて世々の人ぞ知る''
*: ''65.おもえば夢か時のまに [[東海道五十三次|五十三次]]はしりきて 神戸の宿に身をおくも 人に翼の汽車の恩''
*: ''66.明けなば更に乗りかえて [[山陽道]]を進ままし 天気は明日も望あり 柳にかすむ月の影''
* 鉄道唱歌第二集山陽・九州篇
*: ''1.夏なお寒き布引の 滝のひびきをあとにして 神戸の里を立ちいずる 山陽線路の汽車の道''
*: ''2.[[兵庫駅|兵庫]][[鷹取駅|鷹取]][[須磨駅|須磨]]の浦 名所旧蹟かずおおし [[伊勢平氏|平家]]の若武者[[平敦盛|敦盛]]が うたれし跡もここと聞く''
*: ''3.その最期まで携えし 青葉の笛は[[須磨寺]]に 今ものこりて宝物の なかにあるこそあわれなれ''
*: ''4.[[源義経|九郎判官義経]]が 敵陣めがけておとしたる 鵯越や[[一ノ谷の戦い|いちのたに]] 皆この名所の内ぞかし''
* [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]は、[[東海道本線]]の終点かつ[[山陽本線]]の起点駅であるため(山陽本線が、元々ここを終点としていた官営鉄道に接続する形で、[[私鉄]]の[[山陽鉄道]]によって建設されたことに由来する)、作詞者の[[大和田建樹]]は重要な地点ととらえ、特に東海道篇では5番を割いてここを歌った。
; クラシック・オーケストラ
* 組曲「Kobe」([[デイヴィッド・ベノワ]])- [[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]復興イベントのため制作された曲。
* 「カルテット・フォー・神戸」([[ポール・モーリア]])
* [[おほなゐ 〜1995.1.17 阪神淡路大震災へのオマージュ〜|「おほなゐ」〜1995.1.17 阪神淡路大震災へのオマージュ〜]] - [[天野正道]]作曲の[[吹奏楽]]曲で、震災の記憶を風化させないようにという意味が込められている。
; 歌謡曲・J-POPなど<!--50音順-->
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* 「[[青い山脈 (曲)|青い山脈]]」([[藤山一郎]]、[[奈良光枝]])- 大阪から京都に向う[[省電]]からの六甲山脈眺望
* 「[[美し都〜がんばろやWe love KOBE〜]]」([[平松愛理]])
* 「[[我が心のマリア|恋は魔法さ]]」([[浜田省吾]]・THE R&S INSPIRATIONS)
* 「KOBE」([[もんた&ブラザーズ]])
* 「[[神戸で死ねたら]]」([[西田佐知子]])
* 「神戸です」([[テレサ・テン]])
* 「三の宮ブルース」([[森雄二とサザンクロス]])
* 「[[そして、神戸]]」([[内山田洋とクールファイブ]])
* 「[[Shiny+|始まりの場所]]」 ([[寿美菜子]])
* 「[[昨晩お会いしましょう|タワー・サイド・メモリー]]」([[松任谷由実]])
* 「[[渚にまつわるエトセトラ]]」([[PUFFY]])
* 「[[悲しみモニュメント|春景色]]」([[南野陽子]])
* 「[[ポートピア (曲)|ポートピア]]」([[ゴダイゴ]])
* 「港・坂道・異人館」([[いしだあゆみ]])
* 「[[もう少し あと少し…]]」([[ZARD]])
* 「Magic In Kobe」([[A.S.A.P. (グループ)]])
{{div col end}}
== BE KOBE ==
[[ファイル:BE KOBE 20190216.jpg|thumb|BE KOBE]]
'''BE KOBE'''(ビーコウベ)は、「[[阪神・淡路大震災|震災]]20年 神戸からのメッセージ発信」プロジェクトをきっかけに、多くの市民から出た「神戸の様々な魅力の中で、一番の魅力は人である」という思いを集約したメッセージとして生まれた。直訳すると、「神戸であれ」「神戸らしくいよう」といった意味である。
ここでいう「神戸らしさ」とは、震災をきっかけに気付いた「人のために力を尽くす」という人々の思いや、開港150年の歴史の中で育まれた、「先進的・開放的で、創造性・国際性が豊か」といった人々の気質である<ref>{{cite web|url=http://bekobe.jp/|title=BE KOBE|author=|publisher=神戸市|accessdate=2017-08-16}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
* {{Cite |和書 |author = |title = 図典 日本の市町村章 |date = 2007 |publisher = 小学館 |isbn = 978-4-09-526311-3 |ref = 図典 日本の市町村章 }}
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{Multimedia|神戸市の画像}}
{{Sisterlinks|wikt=神戸市|commons=神戸市|commonscat=Kobe|voy=ja:神戸市|d=Q48320|q=no|b=no|v=no}}
*[[新神戸]]
*[[京阪神]]、[[阪神間|阪神]]
*[[神戸都市圏]]
*[[大阪都市圏]]
*[[阪神都市圏]]
*[[日本の首都]]
*[[港湾都市]]
*[[神戸市のスラム問題]]
*[[重要伝統的建造物群保存地区]]
*[[健康都市連合]]
*[[瀬戸内海国立公園]]
*[[神戸弁]]
*[[神戸国際フロンティアメディカルセンター]]
*[[神戸事件]]
== 外部リンク ==
* 行政
** {{Official website}}
** {{Facebook|kobekoho|神戸市広報課}}
** {{Twitter|kobekoho|神戸市広報課}}
** {{Instagram|my.sweet.kobe}}
** {{YouTube|c=UCI-keVKj9JGcSG0Ib3TE6OA}}
* 観光
** [https://www.feel-kobe.jp/ 神戸観光公式サイト] - 一般財団法人 神戸観光局
** {{ウィキトラベル インライン|神戸市|神戸市}}
* 地図
** {{Googlemap|神戸市}}
** {{Osmrelation|900329}}
** [http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/28B0010001.html 兵庫県神戸市 (28B0010001) | 歴史的行政区域データセットβ版] - Geoshapeリポジトリ(<small>左側基準年月日のチェック操作で</small>行政区域の変遷を見ることができる)
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[[Category:兵庫県の市町村]]
[[Category:神戸市|*]]
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[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
|
2003-08-23T06:45:49Z
|
2023-12-31T16:15:09Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82
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カタール (単位)
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カタール(英: katal [ˈkætəl]、独: Katal [kaˈtaːl]、記号: kat)は、国際単位系(SI)における酵素活性(触媒活性)の単位である。酵素やその他の触媒の活性を表すのに用いられる。
1カタールは、モル毎秒(mol/s)と定義される。1秒につき1モルの基質の化学反応を促進する触媒は、1カタールの酵素活性を有している。
日本では、計量法における計量単位には位置づけられていないが、取引・証明における使用は自由である(#計量法との関係)。
カタールは、1999年にSIに導入された固有名称を持つSI組立単位である。
酵素活性の単位は、 医薬・臨床化学分野では1964年以来、1 μmol/分に等しい値であるユニット(記号U, enzyme unit)というSIとは一貫性を持たない単位が用いられてきた。
しかし、
などの理由により、1999年の第21回国際度量衡総会で、モル毎秒に固有の名称「カタール」を特別に導入することが決議された。
カタールも、ユニットとともに医薬・臨床化学分野で使われていた単位で、SIとの一貫性を持つことから、国際臨床化学連合(英語: International Federation of Clinical Chemistry and Laboratory Medicine)がモル毎秒のSI単位として勧告するよう求めていたものである。
カタールは計量法には規定されていない。カタールがSI組立単位となった後の2001年の計量法改正においても、カタールは法定計量単位に追加されなかった。その理由は、触媒活性については、国内及び海外においても非SI単位である「ユニット」が2001年時点でも2005年時点でも広く使用されている状況であることから、学識経験者、消費者、産業界など関係者で、「カタール」を法定計量単位として位置づけるとのコンセンサスがなかったからである。
上記の事情のため、国際単位系が定める、固有の名称を持つSI組立単位のうち、計量法上の法定計量単位となっていない単位は、カタールのみとなっている。
なお、酵素活性(触媒活性)は、72量の物象の状態の量には含まれていないため、単位カタールを取引・証明に用いることには計量法上のなんらの規制がなく、自由である。
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}
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カタールは、国際単位系(SI)における酵素活性(触媒活性)の単位である。酵素やその他の触媒の活性を表すのに用いられる。 1カタールは、モル毎秒(mol/s)と定義される。1秒につき1モルの基質の化学反応を促進する触媒は、1カタールの酵素活性を有している。 日本では、計量法における計量単位には位置づけられていないが、取引・証明における使用は自由である(#計量法との関係)。
|
{{単位
|名称=カタール
|英字=katal
|記号=kat
|単位系=SI
|種類=固有の名称と記号を持つ[[SI組立単位]] (非[[法定計量単位]])
|物理量=酵素活性([[触媒活性]])
|定義=1[[秒]]につき 1 [[モル]]の[[基質 (化学)|基質]]の[[化学反応]]を促進する酵素活性
|組立=mol/s
|語源=[[ギリシャ語]] κατάλυση (katalysē)([[触媒]])
}}
'''カタール'''({{lang-en-short|katal}} {{IPA-en|ˈkætəl|}}<ref>[http://www.medilexicon.com/medicaldictionary.php?t=46705 katal (kat)] MediLexicon</ref>、{{lang-de-short|Katal}} {{IPA-de|kaˈtaːl|}}、記号: kat)は、[[国際単位系]](SI)における酵素活性([[触媒活性]])の[[物理単位|単位]]である。[[酵素]]やその他の[[触媒]]の活性を表すのに用いられる。
1カタールは、モル毎秒(mol/s)と定義される。1[[秒]]につき1[[モル]]の[[基質 (化学)|基質]]の[[化学反応]]を促進する触媒は、1カタールの酵素活性を有している。
日本では、[[計量法]]における計量単位には位置づけられていないが、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]における使用は自由である([[#計量法との関係]])。
==歴史==
カタールは、[[1999年]]にSIに導入された固有名称を持つ[[SI組立単位]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf|title= 国際単位系(SI)国際文書第8版(2006)、日本語版|publisher=[[独立行政法人]][[産業技術総合研究所]]計量標準総合センター訳・監修|page=29|work=「表3 固有の名称と記号で表される一貫性のあるSI組立単位」中、酵素活性|format=PDF|date=2006|accessdate=2020-12-19}}</ref>。
酵素活性の単位は、 医薬・臨床化学分野では[[1964年]]以来、1 μmol/分に等しい値である[[ユニット (酵素活性)|ユニット]](記号U, enzyme unit)というSIとは[[一貫性 (単位系)|一貫性]]を持たない単位が用いられてきた。
しかし、
*この分野においても[[国際単位系]](SI)の使用が要請されるようになってきたこと
*モル毎秒に対する特別の名称がないために、臨床分析の結果を表す単位の統一が図られていないこと
*モル毎秒という単位では誤解によって人の健康保護に対し重大な危険を生じる恐れがあること
などの理由により、[[1999年]]の第21回[[国際度量衡総会]]で、モル毎秒に固有の名称「カタール」を特別に導入することが決議された<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、p.148、付録1,第21回 CGPM, 1999年「酵素活性の表現のための SI 組立単位,モル毎秒の固有の名称,カタール」2020年4月</ref>。
カタールも、ユニットとともに医薬・臨床化学分野で使われていた単位で、SIとの一貫性を持つことから、{{日本語版にない記事リンク|国際臨床化学連合|en|International Federation of Clinical Chemistry and Laboratory Medicine}}がモル毎秒の[[SI単位]]として勧告するよう求めていたものである。
== 計量法との関係 ==
カタールは[[計量法]]には規定されていない。カタールが[[SI組立単位]]となった後の2001年の計量法改正においても、カタールは法定計量単位に追加されなかった。その理由は、[[触媒活性]]については、国内及び海外においても[[非SI単位]]である「[[ユニット (酵素活性)|ユニット]]」が2001年時点でも2005年時点でも広く使用されている状況であることから、学識経験者、消費者、産業界など関係者で、「カタール」を法定計量単位として位置づけるとのコンセンサスがなかったからである<ref>[http://www.keikoren.or.jp/measure/20051024kaigi.pdf 計量制度検討小委員会(平成17年度第2会会合)] (参考2)新単位カタールについて、p.12、経済産業省、2005年10月24日</ref>。
上記の事情のため、[[国際単位系]]が定める、固有の名称を持つ[[SI組立単位]]のうち、計量法上の法定計量単位となっていない単位は、カタールのみとなっている。
なお、酵素活性(触媒活性)は、'''72量'''の[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]には含まれていないため、単位カタールを[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いることには計量法上のなんらの規制がなく、自由である。
== 出典 ==
<references />
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[[Category:SI組立単位]]
[[Category:触媒]]
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13,825 |
1415年
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1415年(1415 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1415年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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{{年代ナビ|1415}}
{{year-definition|1415}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[応永]]22年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2075年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[永楽 (明)|永楽]]13年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[太宗 (朝鮮王)|太宗]]15年
** [[檀君紀元|檀紀]]3748年
* [[仏滅紀元]] : 1957年 - 1958年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 817年 - 818年
* [[ユダヤ暦]] : 5175年 - 5176年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1415|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[8月]] - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[エンリケ航海王子]]による[[セウタ]]攻略。
* [[10月25日]] - [[イングランド]]国王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]が[[フランス]]に遠征し、[[アジャンクールの戦い]]で大勝利。
=== 日本 ===
* [[4月 (旧暦)|4月]] - [[足利義持]]が[[北畠満雅]]追討の軍勢を発する。[[関東管領]]・[[上杉禅秀]]が[[足利持氏]]と対立してその怒りに触れて[[籠居]]する。
* [[5月 (旧暦)|5月]] - 諸国で冷害となる。
* [[7月 (旧暦)|7月]] - 足利持氏と上杉禅秀の不和により、鎌倉に近国の兵が集まる。
* [[8月 (旧暦)|8月]] - [[摂津国]]と[[播磨国]]の土民が[[石清水八幡宮]]大山崎神人の䇮胡麻販売を妨げることを禁止する。足利義持が北畠満雅を降す。
* [[12月 (旧暦)|12月]] - [[島津久豊]]が[[島津久世]]と対立し、鹿児島に包囲する。
* [[興福寺]]東金堂が再建される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1415年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月10日]] - [[ヴァシーリー2世]]、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]](+ [[1462年]])
* [[4月4日]](応永22年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[蓮如]]、[[室町時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]](+ [[1499年]])
* [[5月3日]] - [[セシリー・ネヴィル]]、[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]の妻(+ [[1495年]])
* [[9月12日]] - [[ジョン・モウブレー (第3代ノーフォーク公)|ジョン・モウブレー]]、[[ノーフォーク公]](+ [[1461年]])
* [[9月21日]] - [[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Frederick-III-Holy-Roman-emperor Frederick III Holy Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ハプスブルク家]]出身の[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1493年]])
* [[12月1日]] - [[ヤン・ドゥウゴシュ]]、[[ポーランド]]の[[司祭]]、年代記作者、外交官、軍人(+ [[1480年]])
* [[韓明澮]]、[[李氏朝鮮]]の[[政治家]](+ [[1487年]])
* [[吉川之経]]、室町時代の[[武将]]、[[安芸国|安芸]][[吉川氏]]の当主(+ [[1477年]])
* [[斯波義豊]]、室町時代の武将(+ [[1432年]])
* [[尚円王]]、[[琉球王国]]・[[第二尚氏王統]]の初代国王(+ [[1476年]])
* [[尚泰久王]]、琉球王国・[[第一尚氏王統]]の第6代国王(+ [[1460年]])
* [[山吉久盛]]、室町時代の武将(+ [[1470年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1415年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月6日]] - [[ヤン・フス]]、[[チェコ]]の宗教改革者(* [[1369年]])
* [[7月19日]] - [[フィリパ・デ・レンカストレ]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]国王[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]の王妃(* [[1359年]])
* [[8月5日]] - [[リチャード・オブ・コニスバラ]]、[[イングランド王国|イングランド]]の王族、[[ケンブリッジ伯]](* [[1375年]]?)
* [[10月25日]] - [[アントワーヌ (ブラバント公)|アントワーヌ]]、[[ブラバント公]](* [[1384年]])
* 10月25日 - [[エドワード・オブ・ノリッジ]]、イングランドの王族、[[ヨーク公]](* [[1373年]])
* [[12月18日]] - [[ルイ・ド・ギュイエンヌ]]、[[フランス王国]]の[[ドーファン|王太子]](* [[1397年]])
* [[ジャン・マルエル]]、[[ネーデルラント]]出身の[[初期フランドル派]]の画家(* [[1365年]]?)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1415}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,826 |
1434年
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1434年(1434 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1434年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永享]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2094年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[宣徳]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[世宗 (朝鮮王)|世宗]]16年
** [[檀君紀元|檀紀]]3767年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[紹平]]元年
* [[仏滅紀元]] : 1976年 - 1977年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 837年 - 838年
* [[ユダヤ暦]] : 5194年 - 5195年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1434|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[ポルトガル]]の航海士[[ジル・エアネス]]が{{仮リンク|ボハドル岬|en|Cape Bojador}}を通過することに初めて成功した。
=== 日本 ===
* [[1月 (旧暦)|1月]] - [[九州探題]]の[[渋川満直]]が[[少弐満貞]]の弟の[[横岳頼房]]と[[肥前国]]神崎で戦い敗死する。
* [[2月 (旧暦)|2月]] - [[小倉宮]]が[[出家]]する。[[伏見宮貞成親王]]が[[明徳記]]・[[堺記]]を献上する。[[京都]]で大火事が起こり、人家1万余に被害が及ぶ。
* [[6月 (旧暦)|6月]] - [[硫黄]]の[[輸出]]が禁止される。前[[権中納言]]の[[日野義資]]が盗人に殺害される(一説に足利義教の謀殺)。足利義教の命令で前[[参議]]の[[高倉永藤]]が[[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]に[[流罪]]にされる。
* [[8月 (旧暦)|8月]] - [[延暦寺]]の僧侶が[[足利持氏]]と通じたとして寺領が足利義教により没収される。[[賢快]]が死去(46歳)。伏見宮貞成親王が[[椿葉記]]を献上する。
* [[10月 (旧暦)|10月]] - 延暦寺の僧徒が[[強訴]]を行なう。
* [[11月 (旧暦)|11月]] - 渡唐段銭を大乗院領48か所に課したため、土民が蜂起する。足利義教が諸[[大名]]に延暦寺を攻撃させる。
* [[12月 (旧暦)|12月]] - 延暦寺が[[足利義教]]に降伏する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1434年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月19日]](永享6年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[足利義勝]]、[[室町幕府]]第7代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1443年]])
* [[狩野正信]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の絵師、[[狩野派]]の祖(+ [[1530年]])
* [[西園寺実遠]]、室町時代、戦国時代の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1495年]])
* [[宍戸元家]]、室町時代、戦国時代の武将、[[安芸国]][[宍戸氏]]の当主(+ [[1509年]])
* [[細川成之]]、室町時代、戦国時代の[[守護大名]](+ [[1511年]])
* [[真慧]]、室町時代、戦国時代の[[浄土真宗]]の僧(+ [[1512年]])
* [[土佐光信]]、室町時代、戦国時代の[[土佐派]]の絵師(+ [[1525年]])
* [[馬加胤持]]、室町時代の武将(+ [[1456年]])
* [[シャルル2世 (ブルボン公)|シャルル2世]]、[[ブルボン公]](+ [[1488年]])
* [[メアリー・オブ・グエルダース]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ2世 (スコットランド王)|ジェームズ2世]]の王妃(+ [[1463年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1434年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月11日]](永享5年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[斯波義淳]]、室町時代の武将、守護大名、[[管領]]、[[斯波氏#武衛家|斯波氏武衛家]]の第7代当主(* [[1397年]])
* [[4月14日]](永享6年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[伊東祐安 (室町時代)|伊東祐安]]、室町時代の武将、[[日向国|日向]][[伊東氏]]の当主(* 生年不詳)
* [[4月20日]] - [[アレクサンドラ・アルギルダイテ]]、[[マゾフシェ公]][[シェモヴィト4世]]の妃(* 生年不詳)
* [[5月29日]](永享6年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]) - [[一色持信]]、室町時代の武将(* 生年不詳)
* [[6月1日]] - [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]、[[ポーランド王国]][[ヤギェウォ朝]]の創始者(* [[1351年]])
* [[6月11日]] - [[ベルンハルト1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|ベルンハルト1世]]、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]]、[[リューネブルク君主一覧|リューネブルク侯]](* 1358年/1364年)
* [[7月15日]](永享6年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[日野義資]]、室町時代の公家、[[藤原北家]][[日野家]]の第22代当主(* [[1397年]])
* [[11月12日]] - [[ルイ3世・ダンジュー]]、カラブリア公、[[プロヴァンス伯]]、[[メーヌ]]伯、[[アンジュー公]](* [[1403年]])
* [[12月14日]](永享6年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[渋川義俊]]、室町時代の武将、[[九州探題]](* [[1400年]])
* [[蘆名盛政]]、室町時代の武将、[[蘆名氏]]の第9代当主(* [[1386年]])
* [[渋川満直]]、室町時代の武将、九州探題(* [[1390年]])
* [[鄭和]]、[[明]]の武将、[[宦官]](* [[1371年]])
* [[ジャン1世 (ブルボン公)|ジャン1世]]、第4代[[ブルボン公]](* [[1381年]])
* [[マリー・ド・ベリー]]、ブルボン公ジャン1世の妃、[[オーヴェルニュ]]女公(* [[1367年]])
* [[ムイズウッディーン=ムバーラクシャー]]、[[サイイド朝]]の第2代君主(* 生年不詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1434}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1434%E5%B9%B4
|
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