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パネルでポン
『パネルでポン』(Panel de Pon)は、任天堂開発第一部とインテリジェントシステムズがスーパーファミコン用のゲームソフトとして共同開発し、1995年10月27日に任天堂が日本で発売したアクションパズルゲーム、およびそのシリーズ作品の総称。略称はパネポン。日本国外版では主に“Puzzle League”(パズルリーグ)のシリーズ名称が使われている。 スーパーファミコン版の発売以降は、任天堂の主要ゲーム機に対し、登場キャラクターを変更または削除する、ゲームモードを追加するなどのリメイクを施した移植が繰り返し行われている。 パズルゲームの中でもアクションパズルに分類され、さらに落ち物パズルの亜種(マッチ3ゲーム)に分類されることもある対戦型パズルゲーム。プレイヤーはゲームフィールド内のカーソルを操作し、カーソル内の左右に隣合う2枚のパネルまたはパネルと空間を入れ替え、同じ柄のパネルを縦か横に3枚以上並べて消す。時間経過またはプレイヤーの操作により横に6枚並んだパネルの列がせり上がり、いずれか一か所でも天井に触れると敗北(1人用モードではゲームオーバー)となる。連鎖をするなどの条件を満たすことによって、消去に手間のかかる「おじゃまパネル」を相手のフィールドへ送り込むことができ、相手の敗北を誘うことができる。その他にも先にクリアラインより上のパネルを消しきると勝利、最も点数の高いプレイヤーが勝利といった多数のルールが存在する。また、おじゃまパネルが登場せずスコアやクリア時間を競う1人用のモードもある。 落ち物パズルの常として高度な「連鎖」を仕込むことが高得点や勝利への近道となるが、このゲームではゲーム中常にカーソルへのキー入力が受け付けられ、パネルの消去中にも他のパネルの移動や消去が可能とされており、連鎖の途中でもその連鎖の続きを新たに組むことができる。このようにして作られた連鎖をアクティブ連鎖と名づけ、「仕込み」と「アクション」の絶妙なバランスを成り立たせたことが特徴である。アクティブ連鎖の導入は単純明快な基本ルールと合わせ高評価が与えられた。しかし既存の落ち物パズルとは操作方法が異なり、アクティブ連鎖の習得に慣れと練習が必要となることから支持者は限られ、広報活動の失敗から広く普及もしなかった。 任天堂はマイナー作品からの脱却を狙い、リメイク作においては自社の人気キャラクターを起用する、自社の有名なパズルゲームとカップリングして発売する、定価を抑える、テレビCMにタレントを起用するなどの販売戦略を取ったが、いずれも大幅な普及促進には繋がらなかった。さらに度重なる登場キャラクターの交代と削除は、ファン層を分裂させる原因にもなった。 『ヨッシーのクッキー』や『テトリスフラッシュ』などを企画制作した任天堂開発第一部がインテリジェントシステムズとともに新たなスーパーファミコン用パズルゲームとして企画し、インテリジェントシステムズの開発チーム「チーム・バトルクラッシュ」と共同制作した。このチーム名は開発スタッフの重複した『スペースバズーカ』の英題から取られた。プロデューサーは横井軍平、ディレクターは山本雅央、山上仁志、村松敏孝、メインプログラムは山本晋也、音楽は葛目将也。企画段階において横井が15パズルを原型としたパズルゲームを提案し、15パズルの存在を知らなかった山上がパネルを入れ替えて運ぶ、せり上がるパネルが並ぶと消えるなどの基本ルールを発案した。村松はグラフィックを中心にゲーム全般のデザインを手がけた。後の移植作品のスタッフロールにおいて山上と村松は原案者としてクレジットされた。 完成後は他の任天堂作品との発売スケジュールの兼ね合いから1995年10月に急遽発売されたが、売り上げは関係者の期待を下回った。後に開発スタッフは年末商戦前に十分な広報活動ができないまま発売されたこと、当時次世代ゲーム機と呼ばれたセガサターンやプレイステーション、さらにはスーパーファミコンの中でも次々発売された大作ソフトに埋もれたこと、面白く感じるまでに時間と練習が必要となるハードルの高さなどを販売不振の要因として挙げた。 『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投稿によるゲーム通信簿では6要素30満点中平均20.8点、キャラクターやオリジナリティなどの各要素においても5点満点中平均3点以上・4点未満と佳作程度の評価が与えられた。『週刊ファミコン通信』のクロスレビューでは4人の編集者のうち3人が10点満点中7点を付け、残りの1人は8点を付けるとともに今週のおすすめソフトの1つとして推薦した。彼らはパズルゲームとしての新鮮さはないとしながらも、アクティブ連鎖と向上心を煽られやめられない「中毒性の高さ」を評価した。後に創刊されたレトロゲーム専門誌『ユーズド・ゲームズ』では「マイナーゲームの名作」として良好な評価を与えた紹介記事や開発者インタビューを掲載し、2003年8月に開催した自誌イベントでは大会を実施した。 スーパーファミコン版『パネルでポン』には妖精の少女を中心としたオリジナルキャラクターが起用されたが、アメリカ版を制作する際、現地スタッフから絵柄について日本アニメに親しんでいる人にしか受けないだろうと言われたことを受け、以降の作品では任天堂の別作品のキャラクターが用いられるようになった。 1996年には『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』のキャラクターに変更した『ヨッシーのパネポン』を制作・発売した。『パネルでポン』の日本国外版となるスーパーファミコン版と携帯ゲーム機への移植となるゲームボーイ版の2作が制作された。日本ではスーパーファミコン版はサテラビュー向け放送番組として無料で配信され、ゲームボーイ版のみ市販された。ゲームボーイ版はハードの能力により操作方法やゲーム内容に変更が加えられた。 2000年には『ポケットモンスター 金・銀』のキャラクターに変更したゲームボーイカラー版『ポケモンでパネポン』が発売された。ゲームボーイ版ヨッシーのパネポンを原型に操作感覚をよりスーパーファミコン版に近づけたもので、新要素も多数追加されている。北米やヨーロッパなど日本国外ではNintendo Software Technology Corporationが開発し、アニメ『ポケットモンスター』のキャラクターを起用したNINTENDO64版『Pokémon Puzzle League』も発売されたが、日本では発売されなかった。 2003年のゲームキューブソフト『NINTENDOパズルコレクション』には『Pokémon Puzzle League』を改変し、1作目に登場した妖精の娘たちに相当する2代目キャラクターを起用したゲームキューブ版と新規に制作されたゲームボーイアドバンス転送版の、2つの新たな「パネルでポン」が収録された。日本国外では、これらの版は発売されなかった。 2005年の『ドクターマリオ&パネルでポン』は、それまでの特徴だったキャラクターを排除した上で演出も抑え、廉価版として発売された。2007年に発売された『パネルでポンDS』では未来をテーマとした今までにないデザインに進化し、本体の縦持ちとタッチペンによるパネルの直接操作を基本とし、ニンテンドーWi-Fiコネクションによるネットワーク通信対戦機能を初めて追加した。 いずれもそれまでの作品における特徴であったキャラクターによる演出を排除し、勝ち抜き形式により物語が進展するコンピュータ戦も廃止され、マルチプレイと同じルールでコンピュータと戦えるようになった。さらに『パネルでポンDS』ではゲームスピードの減速により難度の引き下げが図られた。 2007年から2008年にかけて旧機種用ソフトがWiiのダウンロード販売ソフト・バーチャルコンソール対応ソフトとして供給され、日本と韓国ではスーパーファミコン版『パネルでポン』が、北米・ヨーロッパ・オセアニア地域では『Pokémon Puzzle League』が供給された。 2009年にはニンテンドーDSiのダウンロード販売ソフト・ニンテンドーDSiウェアとして、『パネルでポンDS』のゲームモードを抜粋した『ちょっとパネルでポン』が供給された。 2020年にはNintendo SwitchのNintendo Switch Online加入者向けのソフト『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』内でスーパーファミコン版『パネルでポン』が供給された。 ゲームモード名は機種により異なる場合がある。開始の合図は全作共通で「READY、3、2、1、(開始音)」。 プレイヤー同士で対戦するゲーム。3-4人の多人数対戦は『NINTENDOパズルコレクション』のゲームキューブ版、『パネルでポンDS』に搭載された。 なお、マルチプレイでのやり直し時はGC版ではしばらく間を置いて、DS版では開始時と同じく「READY、3、2、1、」に続いて再スタート。 データ容量を8メガビットの低容量に抑えたこと、さらにはソフト価格を引き下げた他社の次世代ゲーム機に対抗し、希望小売価格は当時のスーパーファミコン用ソフトの半額から2/3程度に設定された。1997年にはニンテンドウパワー書き換えソフトとしての供給も開始され、2007年のサービス終了まで供給が続けられた。いずれも内容に差異はない。日本では2007年11月27日からWiiのバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始され、2013年5月29日からWii Uの、2016年8月9日からNewニンテンドー3DSのバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始された。2020年5月20日には『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』にて配信がされた。 物語の舞台は自然を司る妖精の住む世界「ポップルス」とし、主人公には華やかな衣装とアクセサリーを身に付け、魔法のステッキを持ち、さらにはお供の小動物を連れた妖精の少女「花の妖精リップ」を起用するなど、魔法少女作品のような設定にされた。1人用のVSモードでは、リップを中心とした妖精の少女たち9人と、ポップルスの征服を企む魔王サナトスらモンスター一味、サナトスを影から操る女神コーデリアとの戦いが描かれる。 ゲーム画面やメニュー画面の構成、ゲームモードなどのシステム、キャラクターそれぞれに別の掛け声・ゲーム画面のBGMと背景を用意する、ゲームモードごとに異なるエンディングを用意する演出手法、多数用意された隠しコマンドや裏技などの要素は後の移植作品にも継承され、シリーズの基礎を築いた。 魔王サナトスとその手下が妖精の世界ポップルスを我が物にしようと魔法で雨を降らせ、妖精達には互いにケンカをさせる魔法をかけた。唯一この魔法から免れた花の妖精リップは魔法のステッキの力を借り、仲間にかけられた魔法を解きながらサナトス達の潜むデスマウンテンへ向かう。 一人用の『VS』でのプレイヤーキャラクターは主人公のリップで固定だが、9面のボス戦以降は仲間になった妖精を含めて9人の中から選ぶことが出来る。なお、リップ以外の妖精はプレイヤー側で一度でも敗北すると離脱してしまい、以降は使用不可能となる、キャラクター。 HARD以上をクリアするとエンディングを見ることができ、主人公のリップがコンティニューを1度でもしている場合はコーデリアの提案をリップが自身の意向から辞退するバッドエンド、1度もコンティニューせずにクリアすると提案を素直に受け入れるグッドエンドとなる。なお、いずれの場合もスタッフロール後の展開(HARDはHARD+のコマンドに関するメッセージ、HARD+はエンドカード)は変化しない。 以下はサテラビュー用のイベントゲームとして放送が行われた改変作品となる。 ヨッシーのパネポンはスーパーファミコン版とゲームボーイ版の2作が存在する。日本国外では『パネルでポン』の妖精キャラクターが受け入れられないと判断されたため、ヨッシーをはじめとした『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』のキャラクターを起用した。このためヨッシーアイランドの外伝作品ともなったが、赤ちゃんマリオは登場せずにクッパは大人の姿で登場するなど、設定は元作品と異なる。 日本版におけるヨッシーのパネポンの題名は『ヨッシーのたまご』『ヨッシーのクッキー』の後継作品としての印象を与えるとともに、パネポンが正式な略称であることを示した。日本国外ではゲーム内容が異なるにもかかわらずテトリスの名を冠しTetris Attack (テトリスアタック)の題名で販売された。タイトル画面やスタッフロール、製品の箱や説明書には、著作権表記とともに本作がテトリスの版権を管理するザ・テトリス・カンパニーの許諾を得ていること、さらに実際は関係ないもののTetris Attack Inspired by Original Tetris.(テトリスアタックはテトリスから発想を得た)の表記がされた。 手塚卓志、小田部羊一、近藤浩治らヨッシーアイランドのスタッフがキャラクター監修や追加曲の原曲提供者として、辻横由佳が追加曲の制作に参加した。日本国外版・日本版とも、著作権表記には任天堂だけでなくインテリジェントシステムズの社名も併記され、本作は著作権に初めて同社の社名が明記されたゲームソフトとなった。 日本国外向けのスーパーファミコンに相当するSuper NES用ソフトとして再制作された『パネルでポン』の改変作品。北米ではゲームボーイ版とともに1996年8月に発売された。日本ではゲームボーイ版の発売記念及び拡販を目的とし、同年11月からサテラビュー用データ放送番組として供給が開始され、データ放送終了の2000年6月末まで再放送が繰り返された。放送開始当時のサテラビュー向けラジオ情報番組『ゲーム虎の超大穴』では、日本国内でも市販の検討がされたことが明らかにされた。 登場キャラクターをヨッシーアイランドのキャラクターに変更し、背景やBGMはパネルでポンからそのまま流用されたほか新たに製作・追加もされた。システム面ではオリジナル版に存在しなかったオプション機能を追加する、対戦モードにおけるコンピュータの思考パターンを変える、フォントに影を付ける、バグを解消するなど細部の改良が施され、マイナーチェンジ版とも言える内容となった。 携帯ゲーム機ゲームボーイへの移植作品。日本では『ポケットモンスター 赤・緑』のヒットやそれに続くゲームボーイポケットの発売によりゲームボーイ市場が再び勢いを取り戻した1996年10月に発売された。2000年にはニンテンドウパワー書き換えソフトとしての供給も開始され、2007年のサービス終了まで供給が続けられた。いずれも内容に差異はない。2013年12月11日からニンテンドー3DSのバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始された。 下位機種への移植となり開発は頓挫したが、任天堂開発第一部のスタッフによりメインプログラムが制作され、完成にこぎつけた。表示領域の狭いモノクロ画面を持つゲームボーイの特性と低容量のロムカセット容量から、ゲームフィールドの高さを従来の12段から9段へ縮小し、パネルのデザインやコンピュータ対戦モードのルールを変更する、フィールド内に現れるパネルの柄を最大6種までに減らす、登場キャラクターを削減する、演出を簡略化するなどの改変が施された。 本作はスーパーゲームボーイ対応ソフトだが、スーパーゲームボーイ使用時のゲーム画面は常に茶褐色で表示され、場面による配色の変更もされない。ゲーム画面外の枠「ピクチャーフレーム」にはスーパーファミコン版のメニュー画面や1人用ゲームの背景画像が流用された。 クッパとその手下がヨッシーアイランドを我が物にしようと魔法で雨を降らせ、島の住人達には互いにケンカをさせる魔法をかけた。唯一この魔法から免れたヨッシーは島の守り神から不思議な力を授かり、仲間にかけられた魔法を解きながらクッパ達の潜む洞窟へ向かう。 本作は本来ヨッシーの敵であるモンスターたちも仲間になっていくという、珍しい展開があるのが特徴となっている。 ゲームボーイカラーへの移植作品。キャラクターには当時『ポケットモンスター 金・銀』の発売により人気が再燃したポケットモンスターを採用し、ポケモンのキャラクターゲームとして制作・販売された。日本国外でのタイトルはPokémon Puzzle Challenge(ポケモンパズルチャレンジ)とされ、3DSのバーチャルコンソールでは、ヨッシーのパネポンがテトリスの商標の関係で日本のみで配信され、北米とヨーロッパではヨッシーのパネポンの代替で本作が配信された。 画面構成や基礎プログラムはゲームボーイ版ヨッシーのパネポンを元とし、ゲームボーイカラー専用ソフトとしたことで処理速度を向上させ、カーソルやパネルの挙動はスーパーファミコン版とほぼ同一となった。BGMにはポケットモンスター本編のアレンジ曲が使われた。 ゲームボーイカラー末期の作品とあって、次世代機のゲームボーイアドバンスの作品と見紛うほどの高解像度で色彩豊かなグラフィックとなっている。 シリーズで初めてバッテリーバックアップによるセーブ機能を採用し、ゲーム進行だけでなくハイスコアや最高連鎖数など細かな記録の保存を可能とした。ゲームモードには対人戦の練習を目的としたおじゃまアタックが加わり、対戦プレイにステージクリアモードが追加された。初心者向けには以前までの作品に見られたハードルの高さを取り払おうとアクティブ連鎖の練習を行うための「スローモード」が、上級者向けにはパネルが消えている間もせり上げができる「ばくはつせりあげ」が用意されるなど、様々な新要素が盛り込まれた。 元々はゲームボーイ対応の「パネルでポンGB」として開発されており、内部データにはリップなどのパネポンの登場人物のドット絵が残されていたり、 通信エラー時の画面が「パネルでポンGB」となっていたりするほか、カラー専用ソフトをカラー以外の本体(ポケットなど)に差し込んだ時に出る警告画面で特定のコマンドを入力すると パネルでポンGBをプレイする事ができる。 日本のテレビCMには『ピカチュウげんきでちゅう』のテレビCMに登場し「ポケモンおじさん」として認知された綿引勝彦が再び起用された。おじさんが公園でポケットモンスター金・銀の攻略本を読んでいると、ゲームボーイカラーを持ち通信をしている2人の子供に気づく。ポケモン金銀で遊んでいるものと思い画面を覗き込むが、2人が遊んでいたのはポケモンでパネポンであった。おじさんはパネポンを新しいポケモンバトルと解釈する。 『ポケットモンスター 金・銀』のシナリオをなぞった話となる。プレイヤーはチャンピオンを目指すポケモントレーナーの少年となり、ポケモンバトルをパネポンバトルに変え、自分のポケモンや対戦相手から譲り受けたポケモン達とともに各地のジムリーダー、四天王、さらにはチャンピオンに戦いを挑む。 NINTENDO64への移植作品。アニメ版『ポケットモンスター』のキャラクターを採用した。開発はアメリカ合衆国に存在する任天堂の開発子会社Nintendo Software Technology Corporationが担当し、インテリジェントシステムズと任天堂のスタッフは監修、効果音の提供などで制作に協力している。 北米では2000年9月に、ヨーロッパでは2001年3月に発売されたが、日本では発売されなかった。北米版の発売後、日本では「日本未発売のポケモンのゲームソフト」として一部雑誌で紹介された。当時の任天堂は雑誌などにおいてポケモンでパネポンの反響により日本での発売を検討すると明らかにしたものの発売を見送った。日本国内では洋ゲー販売店により北米版が輸入販売された。 これ以前に発売された『ポケットモンスター ピカチュウ』や『ポケモンスナップ』でもアニメのキャラクター設定をゲームへ取り入れる試みがされたが、本作はアニメのキャラクターゲームとして開発され、サトシをゲームの主人公に起用したことが特徴である。物語の要所に挿入されるムービーシーンのアニメやゲーム内のBGMは『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』と現地吹き替え版のサウンドトラックから流用した。ゲーム画面の構成やキャラクターの頭に多数のパネルが降り注ぐゲームオーバー時の演出はスーパーファミコン版パネルでポンとの類似点が見られる。パネルの柄には従来の星やハートなどの図形の他ポケモンの属性マークを用意し、プレイヤーの好みに応じ切り替えを可能とした。 ゲームのルールには左右の繋がった筒状のフィールド内でパネルを操作する3Dモードが初登場し、従来のルールには2Dモードの名が与えられた。3Dモードは1人用のVS.COMなど一部のゲームモードではプレイすることはできない。パズルモードには自作問題の作成機能も搭載され、ゲームモードの名称はエンドレスがMarathon(マラソン)と表記されるなどポケモンの世界観に合うよう変更された。 どこかのプールサイドでのんびりと休暇を楽しんでいたサトシとピカチュウ。そこへオーキド博士から連絡が入り、新しいポケモンバトルが開催されている事を聞かされる。2人は早速会場となるポケモンパズルリーグビレッジへ向かうが、ここでは仲間であるカスミとタケシを含んだポケモントレーナー達がパネポンバトルを繰り広げていた。 『ドクターマリオ』『ヨッシーのクッキー』と共に『NINTENDOパズルコレクション』へ収録する形式により発売された。 当時の任天堂は据置機と携帯機の連動を推進しており、NINTENDOパズルコレクションにはゲームボーイアドバンスをゲームキューブのコントローラポートへ接続する周辺機器「GBAケーブル」が同梱された。GBAケーブルを使用するとゲームボーイアドバンスをゲームキューブ用コントローラとして使用でき、さらにパネルでポンでは練習版をゲームボーイアドバンスにダウンロードさせることもできる。ただしこの2作品は独立しており、スコア転送などの連携・連動機能は用意されていない。 ゲームキューブ版は日本国内向けの据え置きゲーム機用作品としては8年振りの新作となった。1999年にNINTENDO64用ソフト『パネルでポン64』として発売予定が公表されその存在が明らかとされたが、画面写真などの詳細情報は一切公開されないまま、翌2000年には発売予定から取り消された。 本作は“Pokémon Puzzle League”のメインプログラムを流用し、登場キャラクターの差し替えや演出の大幅な変更を施したもので、スタッフロールに記された人名・ゲーム中の効果音・パネルのデザイン・パズルモードの問題や自作問題作成機能の一致にその名残が見られる。キャラクターグラフィックや掛け声、BGMなどの素材はインテリジェントシステムズと任天堂のスタッフが制作した。ゲームルールには“Pokémon Puzzle League”にも存在した3Dモードのほか、新たに4人同時対戦モードが追加された。 物語の舞台は1作目と同じ妖精の世界ポップルスとし、主人公にはリップの娘にあたる妖精の少女「花の妖精フリル」を起用した。VS.COMではフリルら妖精たち9人と勇者の少年「太陽の王子カイン」が、ポップルスを荒らす魔王サナトス一味や女神コーデリア、老魔女の姉妹を撃退する様子を描く。 ゲームボーイアドバンス版はインテリジェントシステムズが新規に制作した。ここではフリルの相棒として登場した動物のププリが案内役を務める。ゲームキューブ版でププリは一切言葉を発しないが、この版のメニュー画面では考えたことがプレイヤーに伝わってしまうと述べ、放置すると自己紹介やフリルとの関係などさまざまなセリフを発する。 携帯ゲーム機版としては初めて据え置きゲーム機版と同じパネル6枚×12段分のゲームフィールドを採用した。ゲームモードにはエンドレスとおじゃまアタックの2ゲームを用意し、ポケモンでパネポンで導入されたばくはつせりあげなど多数のオプション機能、連鎖や同時消しのデモプレイ「すごいデモ」を収録した。外出先での練習を目的とした内容となっており、過剰な演出やエンディングなどはない。 妖精の世界ポップルスに突然巨大な竜巻が発生し、世界中のありとあらゆる物を吸い込んでいった。花の妖精フリルも竜巻に巻き込まれ気を失う。目覚めたフリルは魔法をかけられ正気を失った仲間を救出しながら異変の原因を探り、ポップルスを我が物にしようと企む敵に立ち向かう。 ゲームボーイアドバンスへの移植作品。マリオを主人公としたパズルゲーム『ドクターマリオ』とカップリングされ、『スーパーマリオブラザーズ』生誕20周年記念ソフトの1作としてゲームボーイミクロ本体と同日に発売された(初回出荷分には、20周年ロゴがプリント)。ただしパネルでポンにマリオは登場しない。希望小売価格はゲームボーイアドバンス用ソフトとしては最安値に設定された。日本国外におけるタイトルはDr. Mario& Puzzle League (ドクターマリオ アンド パズルリーグ)とされた。 NINTENDOパズルコレクションのゲームボーイアドバンス転送版を元にゲームモードの追加が施された。以前までの作品に登場した作品固有のキャラクターや、連鎖時の掛け声など演出要素は排除され、ゲーム中の背景とBGMをプレイヤーの好みに応じて選択する形式が取られた。日本版では背景の一種としてゲームボーイアドバンス転送版に登場したププリの絵も用意されたが、ププリの鳴き声は削除された。ステージクリアモードはボスステージが各ラウンドの最終問題に設定され、総ステージ数も今までの32問から30問に減少した。VS.コンピュータでは勝ち抜き式の物語展開がなくなり、コンピュータと1回対戦するのみとなった。ここではプレイヤー自らコンピュータの強さを20段階から選び、さらにハンディキャップ、ゲームスピードを設定する。本作からタイムの計測が従来の1秒単位から100分の1秒単位に変更された。 プレイヤー同士で対戦をする場合にはカートリッジが2本必要となる。カートリッジ1本のみの対戦プレイには対応していないが、他の本体に体験版をダウンロードさせる機能「プレゼント」が用意された。この体験版はタイトル画面が変更されている他はNINTENDOパズルコレクションの転送版と同一である。 パネルでポンのステージクリア、またはDr.マリオのオリジナルLv20においてエンディングを見ると、画面を縦にして遊ぶ「たてモード」が追加される。この表示モードは通常の横表示よりパネルやカーソルが大きく表示される利点がある。ただし遊べるゲームモードは1人用のエンドレス、スコアアタック、おじゃまアタックのみに制限され、使用する本体によっては操作が難しい場合がある。 ニンテンドーDSへの移植作品。北米では“Planet Puzzle League”(プラネット パズルリーグ)の題名でTouch! Generationsの1作として発売されて、欧州では“Puzzle League DS”(パズルリーグ ディーエス)の題名で発売された。日本ではTouch! Generationsに含まれていないが、テレビCMやパッケージデザインは同シリーズの表現手法を流用した。 『ドクターマリオ&パネルでポン』から始まったキャラクター排除路線第2作となり、画面構成は未来をテーマとし、より単純にデザインされた。日本版ではこれまでのシリーズ作品で配色やデザインが統一されていたタイトルロゴを一新し、ゲームモード名はすべてカタカナ表記された。ゲーム画面の背景と音楽、パネルの柄は複数用意されており、一部のゲームモードを除き好みの物を選択することができる。作品固有のキャラクターは用意されていないが、日本版では条件を満たすとスーパーファミコン版の主人公である花の妖精リップの背景と音楽が追加される。 操作方法には従来のボタン操作のほかタッチペンによるパネルの直接操作を追加し、全てのゲームモードにおいて画面の縦表示を可能とした。パネルの落下速度を遅くする、連鎖ヒントを表示させる、フィールド内に現れるパネルの柄を最大6種までに減らすなどの方法により難度を引き下げた。また、VS COMは勝ち抜き制が復活した(ステージ10までで、好きなステージから開始できる)。ゲームモードには3つのゲームを1日1回のみプレイし得点の推移をグラフの形式で記録する「マイニチプレイ」が追加された。従来の「スコアアタック」は、新たに追加された「オジャマアタック」「セリアゲアタック」とともに「タイムアタック」モードへ内包された。新モードのセリアゲアタックは2分間でゲームオーバーにならずにどこまでパネルをせり上げられるかを競うモード。 ニンテンドーWi-Fiコネクションに対応し、シリーズで初めてネットワーク通信対戦機能を搭載した。相手を特定しない対戦では勝敗記録がされない「フリーVS」、初心者のみ参加できる「ビギナーVS」、本体に登録した誕生日ごとに成績順位集計が行われる「バースデーVS」の3種が用意された。 対戦プレイには「アイテムパネル」を導入した。アイテムパネルを同色のパネルと混ぜて消去すると様々な効果が発生する。 ニンテンドーDSi専用ダウンロードソフトニンテンドーDSiウェアとして配信。『パネルでポンDS』から1人用のエンドレス・ステージクリア・スコアアタック・VS COMの4モードを抜粋している。『パネルでポンDS』ではタイムアタックの1ゲームとしてスコアアタックが収録され、他にオジャマアタックとセリアゲアタックが用意されたが、本作ではスコアアタックのみの収録とされた。VS COMはおじゃまパネルの送り合いによる対戦のみとなり、スコアアタックとステージクリアモード、他のDS本体やニンテンドーWi-Fiコネクションによるネットワーク通信対戦機能は用意されていない。 第1作『パネルでポン』の特徴として、少女向けアニメや少女漫画、特に魔法少女作品の影響を多分に受けたデザインのキャラクターたちが挙げられる。『ファミコン通信』のクロスレビューでは任天堂とキャラクターとのギャップが指摘され、ユーズド・ゲームズによる制作者インタビューではインタビュアーにより「任天堂らしくないキャラクター」と表現された。それまで日本国内で発売された任天堂のゲームにはこのようなデザインのキャラクターは存在せず、女の子を主人公にした作品も見られなかったが、低年齢層や女性層の獲得を目的として導入された。 これらのキャラクターはパネルでポンのために制作されたキャラクターではなく、元々は村松による没企画作品のキャラクターだった。その存在を知る山上がマリオやヨッシーに替わる新たなキャラクターとして目を付け、横井へ導入を持ちかけた。山上は横井へキャラクターを見せた際に「これかぁ」と言われ嫌な顔をされたが結局採用は許可された、と笑いを交えながら語っている。 ゲームキューブ版に登場する妖精たちの多くは、その髪や服装・装飾などにスーパーファミコン版の妖精たちとの類似点が見られる。発売後にゲームキューブ版の主人公フリルはスーパーファミコン版の主人公リップの娘であることが雑誌や攻略本で公表された。しかし、ゲーム内ではリップたち先代の妖精は一切登場せず、リップとフリルの関係についても触れられることはない。敵キャラクターにはスーパーファミコン版のキャラクターと同じ名を持つ「魔王サナトス」「女神コーデリア」が登場するが、彼らの容姿やキャラクター設定はスーパーファミコン版と異なる。 2008年発売のWii用ソフト『キャプテン★レインボー』にはリップが登場する。このゲーム内では主人公のニックを「おにいたん」と呼ぶ、魔法の呪文を唱える、花粉症で鼻水を垂らすなど、原作のパネルでポンにはない特徴や性格が与えられた。発売前に公表されたプロモーション用の動画ではギフトピアのキャラクターでもあるロボット警官のマッポが登場し、リップを「勘違い娘」「うるさくて最悪」「ドジっ子を装っている」などと紹介するとともに、「キャプテン★レインボーは萌えキャラゲームではない」と発言した。ゲームファンを中心にこれらのキャラクターを題材としたイラスト・漫画・同人誌・小説の作成など二次創作活動も行われ、インテリジェントシステムズの公式ページではそれらの一部が公開されている。 以下の任天堂及びインテリジェントシステムズの製品にはパネルでポンのキャラクターや作品を連想させる要素が登場する。 対戦プレイの際にはゲーム開始前に好みのキャラクターを選択する。キャラクターに能力差は付けられておらず、どのキャラクターを選択してもゲームの難易度は変わらない。 この並びはVS.COMでの登場順となる。ヨッシーキャラクターに変更される際は極力背景イメージに沿ったキャラクターが当てはめられた。*印の付いたキャラクターはゲームボーイ版には登場しない。 この並びはVS.COMでの登場順となる。この2作品間で背景やBGMの流用はされていない。Pokémon Puzzle Leagueのキャラクターはそれぞれ3匹のポケモンを持ち、対戦時に好みの1匹を選択する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『パネルでポン』(Panel de Pon)は、任天堂開発第一部とインテリジェントシステムズがスーパーファミコン用のゲームソフトとして共同開発し、1995年10月27日に任天堂が日本で発売したアクションパズルゲーム、およびそのシリーズ作品の総称。略称はパネポン。日本国外版では主に“Puzzle League”(パズルリーグ)のシリーズ名称が使われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スーパーファミコン版の発売以降は、任天堂の主要ゲーム機に対し、登場キャラクターを変更または削除する、ゲームモードを追加するなどのリメイクを施した移植が繰り返し行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "パズルゲームの中でもアクションパズルに分類され、さらに落ち物パズルの亜種(マッチ3ゲーム)に分類されることもある対戦型パズルゲーム。プレイヤーはゲームフィールド内のカーソルを操作し、カーソル内の左右に隣合う2枚のパネルまたはパネルと空間を入れ替え、同じ柄のパネルを縦か横に3枚以上並べて消す。時間経過またはプレイヤーの操作により横に6枚並んだパネルの列がせり上がり、いずれか一か所でも天井に触れると敗北(1人用モードではゲームオーバー)となる。連鎖をするなどの条件を満たすことによって、消去に手間のかかる「おじゃまパネル」を相手のフィールドへ送り込むことができ、相手の敗北を誘うことができる。その他にも先にクリアラインより上のパネルを消しきると勝利、最も点数の高いプレイヤーが勝利といった多数のルールが存在する。また、おじゃまパネルが登場せずスコアやクリア時間を競う1人用のモードもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "落ち物パズルの常として高度な「連鎖」を仕込むことが高得点や勝利への近道となるが、このゲームではゲーム中常にカーソルへのキー入力が受け付けられ、パネルの消去中にも他のパネルの移動や消去が可能とされており、連鎖の途中でもその連鎖の続きを新たに組むことができる。このようにして作られた連鎖をアクティブ連鎖と名づけ、「仕込み」と「アクション」の絶妙なバランスを成り立たせたことが特徴である。アクティブ連鎖の導入は単純明快な基本ルールと合わせ高評価が与えられた。しかし既存の落ち物パズルとは操作方法が異なり、アクティブ連鎖の習得に慣れと練習が必要となることから支持者は限られ、広報活動の失敗から広く普及もしなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "任天堂はマイナー作品からの脱却を狙い、リメイク作においては自社の人気キャラクターを起用する、自社の有名なパズルゲームとカップリングして発売する、定価を抑える、テレビCMにタレントを起用するなどの販売戦略を取ったが、いずれも大幅な普及促進には繋がらなかった。さらに度重なる登場キャラクターの交代と削除は、ファン層を分裂させる原因にもなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『ヨッシーのクッキー』や『テトリスフラッシュ』などを企画制作した任天堂開発第一部がインテリジェントシステムズとともに新たなスーパーファミコン用パズルゲームとして企画し、インテリジェントシステムズの開発チーム「チーム・バトルクラッシュ」と共同制作した。このチーム名は開発スタッフの重複した『スペースバズーカ』の英題から取られた。プロデューサーは横井軍平、ディレクターは山本雅央、山上仁志、村松敏孝、メインプログラムは山本晋也、音楽は葛目将也。企画段階において横井が15パズルを原型としたパズルゲームを提案し、15パズルの存在を知らなかった山上がパネルを入れ替えて運ぶ、せり上がるパネルが並ぶと消えるなどの基本ルールを発案した。村松はグラフィックを中心にゲーム全般のデザインを手がけた。後の移植作品のスタッフロールにおいて山上と村松は原案者としてクレジットされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "完成後は他の任天堂作品との発売スケジュールの兼ね合いから1995年10月に急遽発売されたが、売り上げは関係者の期待を下回った。後に開発スタッフは年末商戦前に十分な広報活動ができないまま発売されたこと、当時次世代ゲーム機と呼ばれたセガサターンやプレイステーション、さらにはスーパーファミコンの中でも次々発売された大作ソフトに埋もれたこと、面白く感じるまでに時間と練習が必要となるハードルの高さなどを販売不振の要因として挙げた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投稿によるゲーム通信簿では6要素30満点中平均20.8点、キャラクターやオリジナリティなどの各要素においても5点満点中平均3点以上・4点未満と佳作程度の評価が与えられた。『週刊ファミコン通信』のクロスレビューでは4人の編集者のうち3人が10点満点中7点を付け、残りの1人は8点を付けるとともに今週のおすすめソフトの1つとして推薦した。彼らはパズルゲームとしての新鮮さはないとしながらも、アクティブ連鎖と向上心を煽られやめられない「中毒性の高さ」を評価した。後に創刊されたレトロゲーム専門誌『ユーズド・ゲームズ』では「マイナーゲームの名作」として良好な評価を与えた紹介記事や開発者インタビューを掲載し、2003年8月に開催した自誌イベントでは大会を実施した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "スーパーファミコン版『パネルでポン』には妖精の少女を中心としたオリジナルキャラクターが起用されたが、アメリカ版を制作する際、現地スタッフから絵柄について日本アニメに親しんでいる人にしか受けないだろうと言われたことを受け、以降の作品では任天堂の別作品のキャラクターが用いられるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1996年には『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』のキャラクターに変更した『ヨッシーのパネポン』を制作・発売した。『パネルでポン』の日本国外版となるスーパーファミコン版と携帯ゲーム機への移植となるゲームボーイ版の2作が制作された。日本ではスーパーファミコン版はサテラビュー向け放送番組として無料で配信され、ゲームボーイ版のみ市販された。ゲームボーイ版はハードの能力により操作方法やゲーム内容に変更が加えられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2000年には『ポケットモンスター 金・銀』のキャラクターに変更したゲームボーイカラー版『ポケモンでパネポン』が発売された。ゲームボーイ版ヨッシーのパネポンを原型に操作感覚をよりスーパーファミコン版に近づけたもので、新要素も多数追加されている。北米やヨーロッパなど日本国外ではNintendo Software Technology Corporationが開発し、アニメ『ポケットモンスター』のキャラクターを起用したNINTENDO64版『Pokémon Puzzle League』も発売されたが、日本では発売されなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2003年のゲームキューブソフト『NINTENDOパズルコレクション』には『Pokémon Puzzle League』を改変し、1作目に登場した妖精の娘たちに相当する2代目キャラクターを起用したゲームキューブ版と新規に制作されたゲームボーイアドバンス転送版の、2つの新たな「パネルでポン」が収録された。日本国外では、これらの版は発売されなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2005年の『ドクターマリオ&パネルでポン』は、それまでの特徴だったキャラクターを排除した上で演出も抑え、廉価版として発売された。2007年に発売された『パネルでポンDS』では未来をテーマとした今までにないデザインに進化し、本体の縦持ちとタッチペンによるパネルの直接操作を基本とし、ニンテンドーWi-Fiコネクションによるネットワーク通信対戦機能を初めて追加した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "いずれもそれまでの作品における特徴であったキャラクターによる演出を排除し、勝ち抜き形式により物語が進展するコンピュータ戦も廃止され、マルチプレイと同じルールでコンピュータと戦えるようになった。さらに『パネルでポンDS』ではゲームスピードの減速により難度の引き下げが図られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2007年から2008年にかけて旧機種用ソフトがWiiのダウンロード販売ソフト・バーチャルコンソール対応ソフトとして供給され、日本と韓国ではスーパーファミコン版『パネルでポン』が、北米・ヨーロッパ・オセアニア地域では『Pokémon Puzzle League』が供給された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2009年にはニンテンドーDSiのダウンロード販売ソフト・ニンテンドーDSiウェアとして、『パネルでポンDS』のゲームモードを抜粋した『ちょっとパネルでポン』が供給された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2020年にはNintendo SwitchのNintendo Switch Online加入者向けのソフト『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』内でスーパーファミコン版『パネルでポン』が供給された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ゲームモード名は機種により異なる場合がある。開始の合図は全作共通で「READY、3、2、1、(開始音)」。", "title": "ゲームモード" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "プレイヤー同士で対戦するゲーム。3-4人の多人数対戦は『NINTENDOパズルコレクション』のゲームキューブ版、『パネルでポンDS』に搭載された。", "title": "ゲームモード" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、マルチプレイでのやり直し時はGC版ではしばらく間を置いて、DS版では開始時と同じく「READY、3、2、1、」に続いて再スタート。", "title": "ゲームモード" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "データ容量を8メガビットの低容量に抑えたこと、さらにはソフト価格を引き下げた他社の次世代ゲーム機に対抗し、希望小売価格は当時のスーパーファミコン用ソフトの半額から2/3程度に設定された。1997年にはニンテンドウパワー書き換えソフトとしての供給も開始され、2007年のサービス終了まで供給が続けられた。いずれも内容に差異はない。日本では2007年11月27日からWiiのバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始され、2013年5月29日からWii Uの、2016年8月9日からNewニンテンドー3DSのバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始された。2020年5月20日には『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』にて配信がされた。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "物語の舞台は自然を司る妖精の住む世界「ポップルス」とし、主人公には華やかな衣装とアクセサリーを身に付け、魔法のステッキを持ち、さらにはお供の小動物を連れた妖精の少女「花の妖精リップ」を起用するなど、魔法少女作品のような設定にされた。1人用のVSモードでは、リップを中心とした妖精の少女たち9人と、ポップルスの征服を企む魔王サナトスらモンスター一味、サナトスを影から操る女神コーデリアとの戦いが描かれる。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ゲーム画面やメニュー画面の構成、ゲームモードなどのシステム、キャラクターそれぞれに別の掛け声・ゲーム画面のBGMと背景を用意する、ゲームモードごとに異なるエンディングを用意する演出手法、多数用意された隠しコマンドや裏技などの要素は後の移植作品にも継承され、シリーズの基礎を築いた。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "魔王サナトスとその手下が妖精の世界ポップルスを我が物にしようと魔法で雨を降らせ、妖精達には互いにケンカをさせる魔法をかけた。唯一この魔法から免れた花の妖精リップは魔法のステッキの力を借り、仲間にかけられた魔法を解きながらサナトス達の潜むデスマウンテンへ向かう。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一人用の『VS』でのプレイヤーキャラクターは主人公のリップで固定だが、9面のボス戦以降は仲間になった妖精を含めて9人の中から選ぶことが出来る。なお、リップ以外の妖精はプレイヤー側で一度でも敗北すると離脱してしまい、以降は使用不可能となる、キャラクター。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "HARD以上をクリアするとエンディングを見ることができ、主人公のリップがコンティニューを1度でもしている場合はコーデリアの提案をリップが自身の意向から辞退するバッドエンド、1度もコンティニューせずにクリアすると提案を素直に受け入れるグッドエンドとなる。なお、いずれの場合もスタッフロール後の展開(HARDはHARD+のコマンドに関するメッセージ、HARD+はエンドカード)は変化しない。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以下はサテラビュー用のイベントゲームとして放送が行われた改変作品となる。", "title": "パネルでポン" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ヨッシーのパネポンはスーパーファミコン版とゲームボーイ版の2作が存在する。日本国外では『パネルでポン』の妖精キャラクターが受け入れられないと判断されたため、ヨッシーをはじめとした『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』のキャラクターを起用した。このためヨッシーアイランドの外伝作品ともなったが、赤ちゃんマリオは登場せずにクッパは大人の姿で登場するなど、設定は元作品と異なる。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本版におけるヨッシーのパネポンの題名は『ヨッシーのたまご』『ヨッシーのクッキー』の後継作品としての印象を与えるとともに、パネポンが正式な略称であることを示した。日本国外ではゲーム内容が異なるにもかかわらずテトリスの名を冠しTetris Attack (テトリスアタック)の題名で販売された。タイトル画面やスタッフロール、製品の箱や説明書には、著作権表記とともに本作がテトリスの版権を管理するザ・テトリス・カンパニーの許諾を得ていること、さらに実際は関係ないもののTetris Attack Inspired by Original Tetris.(テトリスアタックはテトリスから発想を得た)の表記がされた。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "手塚卓志、小田部羊一、近藤浩治らヨッシーアイランドのスタッフがキャラクター監修や追加曲の原曲提供者として、辻横由佳が追加曲の制作に参加した。日本国外版・日本版とも、著作権表記には任天堂だけでなくインテリジェントシステムズの社名も併記され、本作は著作権に初めて同社の社名が明記されたゲームソフトとなった。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本国外向けのスーパーファミコンに相当するSuper NES用ソフトとして再制作された『パネルでポン』の改変作品。北米ではゲームボーイ版とともに1996年8月に発売された。日本ではゲームボーイ版の発売記念及び拡販を目的とし、同年11月からサテラビュー用データ放送番組として供給が開始され、データ放送終了の2000年6月末まで再放送が繰り返された。放送開始当時のサテラビュー向けラジオ情報番組『ゲーム虎の超大穴』では、日本国内でも市販の検討がされたことが明らかにされた。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "登場キャラクターをヨッシーアイランドのキャラクターに変更し、背景やBGMはパネルでポンからそのまま流用されたほか新たに製作・追加もされた。システム面ではオリジナル版に存在しなかったオプション機能を追加する、対戦モードにおけるコンピュータの思考パターンを変える、フォントに影を付ける、バグを解消するなど細部の改良が施され、マイナーチェンジ版とも言える内容となった。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "携帯ゲーム機ゲームボーイへの移植作品。日本では『ポケットモンスター 赤・緑』のヒットやそれに続くゲームボーイポケットの発売によりゲームボーイ市場が再び勢いを取り戻した1996年10月に発売された。2000年にはニンテンドウパワー書き換えソフトとしての供給も開始され、2007年のサービス終了まで供給が続けられた。いずれも内容に差異はない。2013年12月11日からニンテンドー3DSのバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始された。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "下位機種への移植となり開発は頓挫したが、任天堂開発第一部のスタッフによりメインプログラムが制作され、完成にこぎつけた。表示領域の狭いモノクロ画面を持つゲームボーイの特性と低容量のロムカセット容量から、ゲームフィールドの高さを従来の12段から9段へ縮小し、パネルのデザインやコンピュータ対戦モードのルールを変更する、フィールド内に現れるパネルの柄を最大6種までに減らす、登場キャラクターを削減する、演出を簡略化するなどの改変が施された。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "本作はスーパーゲームボーイ対応ソフトだが、スーパーゲームボーイ使用時のゲーム画面は常に茶褐色で表示され、場面による配色の変更もされない。ゲーム画面外の枠「ピクチャーフレーム」にはスーパーファミコン版のメニュー画面や1人用ゲームの背景画像が流用された。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "クッパとその手下がヨッシーアイランドを我が物にしようと魔法で雨を降らせ、島の住人達には互いにケンカをさせる魔法をかけた。唯一この魔法から免れたヨッシーは島の守り神から不思議な力を授かり、仲間にかけられた魔法を解きながらクッパ達の潜む洞窟へ向かう。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "本作は本来ヨッシーの敵であるモンスターたちも仲間になっていくという、珍しい展開があるのが特徴となっている。", "title": "ヨッシーのパネポン" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ゲームボーイカラーへの移植作品。キャラクターには当時『ポケットモンスター 金・銀』の発売により人気が再燃したポケットモンスターを採用し、ポケモンのキャラクターゲームとして制作・販売された。日本国外でのタイトルはPokémon Puzzle Challenge(ポケモンパズルチャレンジ)とされ、3DSのバーチャルコンソールでは、ヨッシーのパネポンがテトリスの商標の関係で日本のみで配信され、北米とヨーロッパではヨッシーのパネポンの代替で本作が配信された。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "画面構成や基礎プログラムはゲームボーイ版ヨッシーのパネポンを元とし、ゲームボーイカラー専用ソフトとしたことで処理速度を向上させ、カーソルやパネルの挙動はスーパーファミコン版とほぼ同一となった。BGMにはポケットモンスター本編のアレンジ曲が使われた。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ゲームボーイカラー末期の作品とあって、次世代機のゲームボーイアドバンスの作品と見紛うほどの高解像度で色彩豊かなグラフィックとなっている。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "シリーズで初めてバッテリーバックアップによるセーブ機能を採用し、ゲーム進行だけでなくハイスコアや最高連鎖数など細かな記録の保存を可能とした。ゲームモードには対人戦の練習を目的としたおじゃまアタックが加わり、対戦プレイにステージクリアモードが追加された。初心者向けには以前までの作品に見られたハードルの高さを取り払おうとアクティブ連鎖の練習を行うための「スローモード」が、上級者向けにはパネルが消えている間もせり上げができる「ばくはつせりあげ」が用意されるなど、様々な新要素が盛り込まれた。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "元々はゲームボーイ対応の「パネルでポンGB」として開発されており、内部データにはリップなどのパネポンの登場人物のドット絵が残されていたり、 通信エラー時の画面が「パネルでポンGB」となっていたりするほか、カラー専用ソフトをカラー以外の本体(ポケットなど)に差し込んだ時に出る警告画面で特定のコマンドを入力すると パネルでポンGBをプレイする事ができる。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本のテレビCMには『ピカチュウげんきでちゅう』のテレビCMに登場し「ポケモンおじさん」として認知された綿引勝彦が再び起用された。おじさんが公園でポケットモンスター金・銀の攻略本を読んでいると、ゲームボーイカラーを持ち通信をしている2人の子供に気づく。ポケモン金銀で遊んでいるものと思い画面を覗き込むが、2人が遊んでいたのはポケモンでパネポンであった。おじさんはパネポンを新しいポケモンバトルと解釈する。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『ポケットモンスター 金・銀』のシナリオをなぞった話となる。プレイヤーはチャンピオンを目指すポケモントレーナーの少年となり、ポケモンバトルをパネポンバトルに変え、自分のポケモンや対戦相手から譲り受けたポケモン達とともに各地のジムリーダー、四天王、さらにはチャンピオンに戦いを挑む。", "title": "ポケモンでパネポン" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "NINTENDO64への移植作品。アニメ版『ポケットモンスター』のキャラクターを採用した。開発はアメリカ合衆国に存在する任天堂の開発子会社Nintendo Software Technology Corporationが担当し、インテリジェントシステムズと任天堂のスタッフは監修、効果音の提供などで制作に協力している。", "title": "Pokémon Puzzle League" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "北米では2000年9月に、ヨーロッパでは2001年3月に発売されたが、日本では発売されなかった。北米版の発売後、日本では「日本未発売のポケモンのゲームソフト」として一部雑誌で紹介された。当時の任天堂は雑誌などにおいてポケモンでパネポンの反響により日本での発売を検討すると明らかにしたものの発売を見送った。日本国内では洋ゲー販売店により北米版が輸入販売された。", "title": "Pokémon Puzzle League" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これ以前に発売された『ポケットモンスター ピカチュウ』や『ポケモンスナップ』でもアニメのキャラクター設定をゲームへ取り入れる試みがされたが、本作はアニメのキャラクターゲームとして開発され、サトシをゲームの主人公に起用したことが特徴である。物語の要所に挿入されるムービーシーンのアニメやゲーム内のBGMは『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』と現地吹き替え版のサウンドトラックから流用した。ゲーム画面の構成やキャラクターの頭に多数のパネルが降り注ぐゲームオーバー時の演出はスーパーファミコン版パネルでポンとの類似点が見られる。パネルの柄には従来の星やハートなどの図形の他ポケモンの属性マークを用意し、プレイヤーの好みに応じ切り替えを可能とした。", "title": "Pokémon Puzzle League" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ゲームのルールには左右の繋がった筒状のフィールド内でパネルを操作する3Dモードが初登場し、従来のルールには2Dモードの名が与えられた。3Dモードは1人用のVS.COMなど一部のゲームモードではプレイすることはできない。パズルモードには自作問題の作成機能も搭載され、ゲームモードの名称はエンドレスがMarathon(マラソン)と表記されるなどポケモンの世界観に合うよう変更された。", "title": "Pokémon Puzzle League" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "どこかのプールサイドでのんびりと休暇を楽しんでいたサトシとピカチュウ。そこへオーキド博士から連絡が入り、新しいポケモンバトルが開催されている事を聞かされる。2人は早速会場となるポケモンパズルリーグビレッジへ向かうが、ここでは仲間であるカスミとタケシを含んだポケモントレーナー達がパネポンバトルを繰り広げていた。", "title": "Pokémon Puzzle League" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "『ドクターマリオ』『ヨッシーのクッキー』と共に『NINTENDOパズルコレクション』へ収録する形式により発売された。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "当時の任天堂は据置機と携帯機の連動を推進しており、NINTENDOパズルコレクションにはゲームボーイアドバンスをゲームキューブのコントローラポートへ接続する周辺機器「GBAケーブル」が同梱された。GBAケーブルを使用するとゲームボーイアドバンスをゲームキューブ用コントローラとして使用でき、さらにパネルでポンでは練習版をゲームボーイアドバンスにダウンロードさせることもできる。ただしこの2作品は独立しており、スコア転送などの連携・連動機能は用意されていない。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ゲームキューブ版は日本国内向けの据え置きゲーム機用作品としては8年振りの新作となった。1999年にNINTENDO64用ソフト『パネルでポン64』として発売予定が公表されその存在が明らかとされたが、画面写真などの詳細情報は一切公開されないまま、翌2000年には発売予定から取り消された。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "本作は“Pokémon Puzzle League”のメインプログラムを流用し、登場キャラクターの差し替えや演出の大幅な変更を施したもので、スタッフロールに記された人名・ゲーム中の効果音・パネルのデザイン・パズルモードの問題や自作問題作成機能の一致にその名残が見られる。キャラクターグラフィックや掛け声、BGMなどの素材はインテリジェントシステムズと任天堂のスタッフが制作した。ゲームルールには“Pokémon Puzzle League”にも存在した3Dモードのほか、新たに4人同時対戦モードが追加された。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "物語の舞台は1作目と同じ妖精の世界ポップルスとし、主人公にはリップの娘にあたる妖精の少女「花の妖精フリル」を起用した。VS.COMではフリルら妖精たち9人と勇者の少年「太陽の王子カイン」が、ポップルスを荒らす魔王サナトス一味や女神コーデリア、老魔女の姉妹を撃退する様子を描く。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ゲームボーイアドバンス版はインテリジェントシステムズが新規に制作した。ここではフリルの相棒として登場した動物のププリが案内役を務める。ゲームキューブ版でププリは一切言葉を発しないが、この版のメニュー画面では考えたことがプレイヤーに伝わってしまうと述べ、放置すると自己紹介やフリルとの関係などさまざまなセリフを発する。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "携帯ゲーム機版としては初めて据え置きゲーム機版と同じパネル6枚×12段分のゲームフィールドを採用した。ゲームモードにはエンドレスとおじゃまアタックの2ゲームを用意し、ポケモンでパネポンで導入されたばくはつせりあげなど多数のオプション機能、連鎖や同時消しのデモプレイ「すごいデモ」を収録した。外出先での練習を目的とした内容となっており、過剰な演出やエンディングなどはない。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "妖精の世界ポップルスに突然巨大な竜巻が発生し、世界中のありとあらゆる物を吸い込んでいった。花の妖精フリルも竜巻に巻き込まれ気を失う。目覚めたフリルは魔法をかけられ正気を失った仲間を救出しながら異変の原因を探り、ポップルスを我が物にしようと企む敵に立ち向かう。", "title": "NINTENDOパズルコレクション パネルでポン" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ゲームボーイアドバンスへの移植作品。マリオを主人公としたパズルゲーム『ドクターマリオ』とカップリングされ、『スーパーマリオブラザーズ』生誕20周年記念ソフトの1作としてゲームボーイミクロ本体と同日に発売された(初回出荷分には、20周年ロゴがプリント)。ただしパネルでポンにマリオは登場しない。希望小売価格はゲームボーイアドバンス用ソフトとしては最安値に設定された。日本国外におけるタイトルはDr. Mario& Puzzle League (ドクターマリオ アンド パズルリーグ)とされた。", "title": "Dr.MARIO & パネルでポン" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "NINTENDOパズルコレクションのゲームボーイアドバンス転送版を元にゲームモードの追加が施された。以前までの作品に登場した作品固有のキャラクターや、連鎖時の掛け声など演出要素は排除され、ゲーム中の背景とBGMをプレイヤーの好みに応じて選択する形式が取られた。日本版では背景の一種としてゲームボーイアドバンス転送版に登場したププリの絵も用意されたが、ププリの鳴き声は削除された。ステージクリアモードはボスステージが各ラウンドの最終問題に設定され、総ステージ数も今までの32問から30問に減少した。VS.コンピュータでは勝ち抜き式の物語展開がなくなり、コンピュータと1回対戦するのみとなった。ここではプレイヤー自らコンピュータの強さを20段階から選び、さらにハンディキャップ、ゲームスピードを設定する。本作からタイムの計測が従来の1秒単位から100分の1秒単位に変更された。", "title": "Dr.MARIO & パネルでポン" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "プレイヤー同士で対戦をする場合にはカートリッジが2本必要となる。カートリッジ1本のみの対戦プレイには対応していないが、他の本体に体験版をダウンロードさせる機能「プレゼント」が用意された。この体験版はタイトル画面が変更されている他はNINTENDOパズルコレクションの転送版と同一である。", "title": "Dr.MARIO & パネルでポン" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "パネルでポンのステージクリア、またはDr.マリオのオリジナルLv20においてエンディングを見ると、画面を縦にして遊ぶ「たてモード」が追加される。この表示モードは通常の横表示よりパネルやカーソルが大きく表示される利点がある。ただし遊べるゲームモードは1人用のエンドレス、スコアアタック、おじゃまアタックのみに制限され、使用する本体によっては操作が難しい場合がある。", "title": "Dr.MARIO & パネルでポン" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ニンテンドーDSへの移植作品。北米では“Planet Puzzle League”(プラネット パズルリーグ)の題名でTouch! Generationsの1作として発売されて、欧州では“Puzzle League DS”(パズルリーグ ディーエス)の題名で発売された。日本ではTouch! Generationsに含まれていないが、テレビCMやパッケージデザインは同シリーズの表現手法を流用した。", "title": "パネルでポンDS" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "『ドクターマリオ&パネルでポン』から始まったキャラクター排除路線第2作となり、画面構成は未来をテーマとし、より単純にデザインされた。日本版ではこれまでのシリーズ作品で配色やデザインが統一されていたタイトルロゴを一新し、ゲームモード名はすべてカタカナ表記された。ゲーム画面の背景と音楽、パネルの柄は複数用意されており、一部のゲームモードを除き好みの物を選択することができる。作品固有のキャラクターは用意されていないが、日本版では条件を満たすとスーパーファミコン版の主人公である花の妖精リップの背景と音楽が追加される。", "title": "パネルでポンDS" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "操作方法には従来のボタン操作のほかタッチペンによるパネルの直接操作を追加し、全てのゲームモードにおいて画面の縦表示を可能とした。パネルの落下速度を遅くする、連鎖ヒントを表示させる、フィールド内に現れるパネルの柄を最大6種までに減らすなどの方法により難度を引き下げた。また、VS COMは勝ち抜き制が復活した(ステージ10までで、好きなステージから開始できる)。ゲームモードには3つのゲームを1日1回のみプレイし得点の推移をグラフの形式で記録する「マイニチプレイ」が追加された。従来の「スコアアタック」は、新たに追加された「オジャマアタック」「セリアゲアタック」とともに「タイムアタック」モードへ内包された。新モードのセリアゲアタックは2分間でゲームオーバーにならずにどこまでパネルをせり上げられるかを競うモード。", "title": "パネルでポンDS" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ニンテンドーWi-Fiコネクションに対応し、シリーズで初めてネットワーク通信対戦機能を搭載した。相手を特定しない対戦では勝敗記録がされない「フリーVS」、初心者のみ参加できる「ビギナーVS」、本体に登録した誕生日ごとに成績順位集計が行われる「バースデーVS」の3種が用意された。", "title": "パネルでポンDS" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "対戦プレイには「アイテムパネル」を導入した。アイテムパネルを同色のパネルと混ぜて消去すると様々な効果が発生する。", "title": "パネルでポンDS" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ニンテンドーDSi専用ダウンロードソフトニンテンドーDSiウェアとして配信。『パネルでポンDS』から1人用のエンドレス・ステージクリア・スコアアタック・VS COMの4モードを抜粋している。『パネルでポンDS』ではタイムアタックの1ゲームとしてスコアアタックが収録され、他にオジャマアタックとセリアゲアタックが用意されたが、本作ではスコアアタックのみの収録とされた。VS COMはおじゃまパネルの送り合いによる対戦のみとなり、スコアアタックとステージクリアモード、他のDS本体やニンテンドーWi-Fiコネクションによるネットワーク通信対戦機能は用意されていない。", "title": "ちょっとパネルでポン" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "第1作『パネルでポン』の特徴として、少女向けアニメや少女漫画、特に魔法少女作品の影響を多分に受けたデザインのキャラクターたちが挙げられる。『ファミコン通信』のクロスレビューでは任天堂とキャラクターとのギャップが指摘され、ユーズド・ゲームズによる制作者インタビューではインタビュアーにより「任天堂らしくないキャラクター」と表現された。それまで日本国内で発売された任天堂のゲームにはこのようなデザインのキャラクターは存在せず、女の子を主人公にした作品も見られなかったが、低年齢層や女性層の獲得を目的として導入された。", "title": "パネルでポンと妖精キャラクター" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "これらのキャラクターはパネルでポンのために制作されたキャラクターではなく、元々は村松による没企画作品のキャラクターだった。その存在を知る山上がマリオやヨッシーに替わる新たなキャラクターとして目を付け、横井へ導入を持ちかけた。山上は横井へキャラクターを見せた際に「これかぁ」と言われ嫌な顔をされたが結局採用は許可された、と笑いを交えながら語っている。", "title": "パネルでポンと妖精キャラクター" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ゲームキューブ版に登場する妖精たちの多くは、その髪や服装・装飾などにスーパーファミコン版の妖精たちとの類似点が見られる。発売後にゲームキューブ版の主人公フリルはスーパーファミコン版の主人公リップの娘であることが雑誌や攻略本で公表された。しかし、ゲーム内ではリップたち先代の妖精は一切登場せず、リップとフリルの関係についても触れられることはない。敵キャラクターにはスーパーファミコン版のキャラクターと同じ名を持つ「魔王サナトス」「女神コーデリア」が登場するが、彼らの容姿やキャラクター設定はスーパーファミコン版と異なる。", "title": "パネルでポンと妖精キャラクター" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2008年発売のWii用ソフト『キャプテン★レインボー』にはリップが登場する。このゲーム内では主人公のニックを「おにいたん」と呼ぶ、魔法の呪文を唱える、花粉症で鼻水を垂らすなど、原作のパネルでポンにはない特徴や性格が与えられた。発売前に公表されたプロモーション用の動画ではギフトピアのキャラクターでもあるロボット警官のマッポが登場し、リップを「勘違い娘」「うるさくて最悪」「ドジっ子を装っている」などと紹介するとともに、「キャプテン★レインボーは萌えキャラゲームではない」と発言した。ゲームファンを中心にこれらのキャラクターを題材としたイラスト・漫画・同人誌・小説の作成など二次創作活動も行われ、インテリジェントシステムズの公式ページではそれらの一部が公開されている。", "title": "パネルでポンと妖精キャラクター" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "以下の任天堂及びインテリジェントシステムズの製品にはパネルでポンのキャラクターや作品を連想させる要素が登場する。", "title": "他製品との関連" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "対戦プレイの際にはゲーム開始前に好みのキャラクターを選択する。キャラクターに能力差は付けられておらず、どのキャラクターを選択してもゲームの難易度は変わらない。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "この並びはVS.COMでの登場順となる。ヨッシーキャラクターに変更される際は極力背景イメージに沿ったキャラクターが当てはめられた。*印の付いたキャラクターはゲームボーイ版には登場しない。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "この並びはVS.COMでの登場順となる。この2作品間で背景やBGMの流用はされていない。Pokémon Puzzle Leagueのキャラクターはそれぞれ3匹のポケモンを持ち、対戦時に好みの1匹を選択する。", "title": "登場キャラクター" } ]
『パネルでポン』は、任天堂開発第一部とインテリジェントシステムズがスーパーファミコン用のゲームソフトとして共同開発し、1995年10月27日に任天堂が日本で発売したアクションパズルゲーム、およびそのシリーズ作品の総称。略称はパネポン。日本国外版では主に“Puzzle League”(パズルリーグ)のシリーズ名称が使われている。 スーパーファミコン版の発売以降は、任天堂の主要ゲーム機に対し、登場キャラクターを変更または削除する、ゲームモードを追加するなどのリメイクを施した移植が繰り返し行われている。
{{Otheruses|任天堂のゲーム|熊本放送の情報番組「RKKワイド夕方いちばん」で実施されていた神経衰弱ゲーム|RKKワイド夕方いちばん#パネルでポン!}} {{コンピュータゲームシリーズ | タイトル = パネルでポン | 画像 = | 画像説明 = | 開発元 = [[インテリジェントシステムズ]]<br />[[Nintendo Software Technology]] | 発売元 = [[任天堂]] | ジャンル = [[アクションパズル|アクションパズルゲーム]] | 製作者 = [[山上仁志]]<br />村松敏孝 | 1作目 = [[#パネルでポン|パネルでポン]] | 1作目発売日 = [[1995年]][[10月27日]] | 最新作 = [[ちょっとパネルでポン]] | 最新作発売日 = [[2009年]][[1月28日]] | スピンオフ作品 = | 公式サイトURL = http://www.intsys.co.jp/game/panepon | 公式サイトタイトル = パネルでポンホームページ }} 『'''パネルでポン'''』(''Panel de Pon'')は、[[任天堂]]開発第一部と[[インテリジェントシステムズ]]が[[スーパーファミコン]]用の[[ゲームソフト]]として共同開発し、[[1995年]][[10月27日]]に任天堂が[[日本]]で発売した[[アクションパズル|アクションパズルゲーム]]、およびそのシリーズ作品の総称。略称は'''パネポン'''。日本国外版では主に“'''Puzzle League'''”('''パズルリーグ''')のシリーズ名称が使われている。 スーパーファミコン版の発売以降は、任天堂の主要ゲーム機に対し、登場キャラクターを変更または削除する、ゲームモードを追加するなどの[[リメイク]]を施した[[移植 (ソフトウェア)|移植]]が繰り返し行われている。 == シリーズ作品 == ;パネルでポン :[[スーパーファミコン]]用ソフト。[[1995年]][[10月27日]]発売。この版は[[バーチャルコンソール]]対応ソフトとして[[Wii]]に移植され、日本では[[2007年]][[11月27日]]に、韓国では[[2008年]][[9月30日]]に供給が開始された。また、[[2013年]][[5月29日]]から日本の[[Wii U]]の、[[2016年]][[8月9日]]から[[Newニンテンドー3DS]]のバーチャルコンソールで配信されている。[[2017年]][[10月5日]]発売の復刻版「[[ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン]]」(日本版のみ)に21種類のソフトのひとつとして内蔵された。[[2020年]][[5月20日]]には『[[スーパーファミコン Nintendo Switch Online]]』向けのソフトとして配信<ref name="famitsuswitch">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202005/15198469.html |title=『スーパーパンチアウト』や『パネルでポン』など4タイトルが、5月20日から“ファミリーコンピュータ&スーパーファミコン Nintendo Switch Online”に追加 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]]|date=2020-05-15 |accessdate=2020-05-20}}</ref><ref name="nintenswitch">{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/76c24c49-2e58-4f00-8ed3-a8136e278e30 |title=【5月20日追加】『ファミリーコンピュータ&スーパーファミコン Nintendo Switch Online』追加タイトル公開! |publisher=[[任天堂]]|date=2020-05-15 |accessdate=2020-05-20}}</ref>、欧米では日本版をそのまま配信するという形で初めてリリースされた<ref>{{Cite web|url=https://www.videogameschronicle.com/news/classic-nintendo-puzzle-game-panel-de-pon-has-been-added-to-switch-online/|language=英語|title=Classic Nintendo puzzle game Panel De Pon has been added to Switch Online|publisher=VGC|date=2020-5-15|accessdate=2020-6-8}}</ref>。 ;ヨッシーのパネポン :[[ゲームボーイ]]用ソフトとスーパーファミコン用ソフトの2作品が存在する。ゲームボーイ版は[[1996年]][[10月26日]]発売。スーパーファミコン版は[[サテラビュー]]用[[データ放送]]番組として1996年[[11月3日]]から供給が開始され、[[2000年]][[6月30日]]まで再放送が繰り返された。2013年[[12月11日]]からゲームボーイ版が日本の[[ニンテンドー3DS]]バーチャルコンソールで配信されている。 ;ポケモンでパネポン : [[ゲームボーイカラー]]専用ソフト。[[2000年]][[9月21日]]発売。 ;Pokémon Puzzle League(ポケモンパズルリーグ) :[[NINTENDO64]]用ソフト。北米で2000年9月、ヨーロッパで2001年3月に発売された。この版は[[バーチャルコンソール]]対応ソフトとして[[Wii]]に移植され、北米・ヨーロッパ・オセアニア地域において[[2008年]]5月に供給が開始された。いずれも日本未発売。 ;[[NINTENDOパズルコレクション]] : [[ニンテンドーゲームキューブ]]用ソフト。[[2003年]][[2月7日]]発売。他の任天堂製パズルゲームとともに、スーパーファミコン版のリメイクおよび後継作に相当するゲームキューブ版と[[ゲームボーイアドバンス]]への転送版を『パネルでポン』の名で収録。日本国内のみで発売。 ;ドクターマリオ&パネルでポン :[[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト。[[2005年]][[9月13日]]発売。『[[ドクターマリオ]]』と一緒に『パネルでポン』を収録。 ;パネルでポンDS :[[ニンテンドーDS]]用ソフト。[[2007年]][[4月26日]]発売。 ;ちょっとパネルでポン :[[ニンテンドーDSi]]用ソフト。[[ニンテンドーDSiウェア]]として[[2009年]][[1月28日]]配信開始。『パネルでポンDS』から、1人用ゲームの一部を抜粋したダウンロード販売版。 == 概要 == [[パズルゲーム]]の中でも[[アクションパズル]]に分類され、さらに[[落ち物パズル]]の亜種([[マッチ3ゲーム]])に分類されることもある対戦型パズルゲーム。プレイヤーはゲームフィールド内のカーソルを操作し、カーソル内の左右に隣合う2枚のパネルまたはパネルと空間を入れ替え、同じ柄のパネルを縦か横に3枚以上並べて消す。時間経過またはプレイヤーの操作により横に6枚並んだパネルの列がせり上がり、いずれか一か所でも天井に触れると敗北(1人用モードでは[[ゲームオーバー]])となる。連鎖をするなどの条件を満たすことによって、消去に手間のかかる「おじゃまパネル」を相手のフィールドへ送り込むことができ、相手の敗北を誘うことができる。その他にも先にクリアラインより上のパネルを消しきると勝利、最も点数の高いプレイヤーが勝利といった多数のルールが存在する。また、おじゃまパネルが登場せずスコアやクリア時間を競う1人用のモードもある。 落ち物パズルの常として高度な「連鎖」を仕込むことが高得点や勝利への近道となるが、このゲームではゲーム中常にカーソルへのキー入力が受け付けられ、パネルの消去中にも他のパネルの移動や消去が可能とされており、連鎖の途中でもその連鎖の続きを新たに組むことができる。このようにして作られた連鎖を'''''アクティブ連鎖'''''と名づけ、「仕込み」と「アクション」の絶妙なバランスを成り立たせたことが特徴である。アクティブ連鎖の導入は単純明快な基本ルールと合わせ高評価が与えられた。しかし既存の落ち物パズルとは操作方法が異なり、アクティブ連鎖の習得に慣れと練習が必要となることから支持者は限られ、広報活動の失敗から広く普及もしなかった。 任天堂はマイナー作品からの脱却を狙い、リメイク作においては自社の人気キャラクターを起用する、自社の有名なパズルゲームとカップリングして発売する、定価を抑える、テレビCMにタレントを起用するなどの販売戦略を取ったが、いずれも大幅な普及促進には繋がらなかった。さらに度重なる登場キャラクターの交代と削除は、ファン層を分裂させる原因にもなった。 === 企画から発売まで === 『[[ヨッシーのクッキー]]』や『[[テトリスフラッシュ]]』などを企画制作した任天堂開発第一部がインテリジェントシステムズとともに新たなスーパーファミコン用パズルゲームとして企画し、インテリジェントシステムズの開発チーム「チーム・バトルクラッシュ」と共同制作した。このチーム名は開発スタッフの重複した『[[スペースバズーカ]]』の英題から取られた。プロデューサーは[[横井軍平]]、ディレクターは山本雅央、[[山上仁志]]、村松敏孝、メインプログラムは山本晋也、音楽は葛目将也。企画段階において横井が[[15パズル]]を原型としたパズルゲームを提案し、15パズルの存在を知らなかった山上がパネルを入れ替えて運ぶ、せり上がるパネルが並ぶと消えるなどの基本ルールを発案した<ref name=UsedGames1>{{Cite book|和書|year=2002|title=ユーズド・ゲームズ総集編1&2 復刻版|chapter=パネルでポン制作者インタビュー|publisher=[[キルタイムコミュニケーション]]|id=ISBN 4-86032-025-5}}</ref><ref name=OfficialGuideGB>{{Cite book|和書|year=1997|title=ヨッシーのパネポン|chapter=開発者直撃インタビュー|publisher=[[小学館]]|series=ワンダーライフスペシャル 任天堂公式ガイドブック|id=ISBN 4-09-102567-6}}</ref>。村松はグラフィックを中心にゲーム全般のデザインを手がけた。後の移植作品のスタッフロールにおいて山上と村松は原案者としてクレジットされた。 完成後は他の任天堂作品との発売スケジュールの兼ね合いから1995年10月に急遽発売されたが、売り上げは関係者の期待を下回った。後に開発スタッフは年末商戦前に十分な広報活動ができないまま発売されたこと、当時次世代ゲーム機と呼ばれた[[セガサターン]]や[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]、さらにはスーパーファミコンの中でも次々発売された大作ソフトに埋もれたこと、面白く感じるまでに時間と練習が必要となるハードルの高さなどを販売不振の要因として挙げた<ref name=OfficialHP>{{Cite web|和書|author=インテリジェントシステムズ|url=http://www.intsys.co.jp/game/panepon/p09/index.html|title=パネルでポン開発者インタビュー|language=日本語|accessdate=2008-07-07}}</ref>。 === 雑誌メディアによる評価 === 『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投稿によるゲーム通信簿では6要素30満点中平均20.8点、キャラクターやオリジナリティなどの各要素においても5点満点中平均3点以上・4点未満と佳作程度の評価が与えられた<ref name=Daigirin96>{{Cite book|和書|author=金田一技彦|year=1996|title=超絶大技林 '96年秋版|Page=352ページ|publisher=[[徳間書店インターメディア]]|series=トクマインターメディアブック|id=ISBN 4-19-820012-2}}</ref>。『[[ファミ通|週刊ファミコン通信]]』のクロスレビューでは4人の編集者のうち3人が10点満点中7点を付け、残りの1人は8点を付けるとともに今週のおすすめソフトの1つとして推薦した。彼らはパズルゲームとしての新鮮さはないとしながらも、アクティブ連鎖と向上心を煽られやめられない「中毒性の高さ」を評価した<ref name=Famitsu>{{Cite journal|和書|title=新作ゲームクロスレビュー|journal=[[ファミ通|週刊ファミコン通信]]|volume=10|issue=第44号(1995年11月3日号)|pages=29ページ|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]}}</ref>。後に創刊された[[レトロゲーム]]専門誌『[[GAME SIDE|ユーズド・ゲームズ]]』では「マイナーゲームの名作」として良好な評価を与えた紹介記事や開発者インタビューを掲載し<ref name=UsedGames2>{{Cite book|和書|year=2002|title=ユーズド・ゲームズ総集編1&2 復刻版|chapter=名もなきゲームたちとの邂逅|publisher=キルタイムコミュニケーション|id=ISBN 4-86032-025-5}}</ref>、2003年8月に開催した自誌イベントでは大会を実施した<ref name=UsedGames3>{{Cite journal|和書|year=2003|title=ユーゲー夏祭りレポート|journal=[[GAME SIDE|ユーゲー]]No.9|volume=7|issue=18|pages=136-137ページ|publisher=[[キルタイムコミュニケーション]]}}</ref>。 === 移植とキャラクターの交代 === スーパーファミコン版『パネルでポン』には妖精の少女を中心としたオリジナルキャラクターが起用されたが、アメリカ版を制作する際、現地スタッフから絵柄について日本アニメに親しんでいる人にしか受けないだろうと言われたことを受け、以降の作品では任天堂の別作品のキャラクターが用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://intsys.co.jp/game/panepon/p09/03.html|title=「パネルでポン」開発者インタビュー 3ページ|publisher=インテリジェントシステムズ|accessdate=2020-6-8}}</ref>。 1996年には『[[スーパーマリオ ヨッシーアイランド]]』のキャラクターに変更した『ヨッシーのパネポン』を制作・発売した。『パネルでポン』の日本国外版となるスーパーファミコン版と携帯ゲーム機への移植となるゲームボーイ版の2作が制作された。日本ではスーパーファミコン版は[[サテラビュー]]向け放送番組として無料で配信され、ゲームボーイ版のみ市販された。ゲームボーイ版はハードの能力により操作方法やゲーム内容に変更が加えられた。 2000年には『[[ポケットモンスター 金・銀]]』のキャラクターに変更したゲームボーイカラー版『ポケモンでパネポン』が発売された。ゲームボーイ版ヨッシーのパネポンを原型に操作感覚をよりスーパーファミコン版に近づけたもので、新要素も多数追加されている。北米やヨーロッパなど日本国外では[[Nintendo Software Technology Corporation]]が開発し、アニメ『[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]』のキャラクターを起用したNINTENDO64版『Pokémon Puzzle League』も発売されたが、日本では発売されなかった。 === 2代目妖精キャラクターの起用 === 2003年のゲームキューブソフト『[[NINTENDOパズルコレクション]]』には『Pokémon Puzzle League』を改変し、1作目に登場した妖精の娘たちに相当する2代目キャラクターを起用したゲームキューブ版と新規に制作されたゲームボーイアドバンス転送版の、2つの新たな「パネルでポン」が収録された。日本国外では、これらの版は発売されなかった。 === キャラクターの排除へ === 2005年の『ドクターマリオ&パネルでポン』は、それまでの特徴だったキャラクターを排除した上で演出も抑え、[[廉価版]]として発売された。2007年に発売された『パネルでポンDS』では未来をテーマとした今までにないデザインに進化し、本体の縦持ちとタッチペンによるパネルの直接操作を基本とし、[[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]によるネットワーク通信対戦機能を初めて追加した。 いずれもそれまでの作品における特徴であったキャラクターによる演出を排除し、勝ち抜き形式により物語が進展するコンピュータ戦も廃止され、マルチプレイと同じルールでコンピュータと戦えるようになった。さらに『パネルでポンDS』ではゲームスピードの減速により難度の引き下げが図られた。 === ダウンロード販売による再供給 === 2007年から2008年にかけて旧機種用ソフトが[[Wii]]の[[ダウンロード販売]]ソフト・[[バーチャルコンソール]]対応ソフトとして供給され、日本と韓国ではスーパーファミコン版『パネルでポン』が、北米・ヨーロッパ・オセアニア地域では『Pokémon Puzzle League』が供給された。 2009年には[[ニンテンドーDSi]]のダウンロード販売ソフト・[[ニンテンドーDSiウェア]]として、『パネルでポンDS』のゲームモードを抜粋した『ちょっとパネルでポン』が供給された。 2020年には[[Nintendo Switch]]の[[Nintendo Switch Online]]加入者向けのソフト『[[スーパーファミコン Nintendo Switch Online]]』内でスーパーファミコン版『パネルでポン』が供給された。 == ゲームモード == ゲームモード名は機種により異なる場合がある。開始の合図は全作共通で「READY、3、2、1、(開始音)」。 === 1人用 === ;エンドレス :ゲームオーバーになるまでひたすらパネルを消し続けるゲーム。得点によりゲームオーバー後の展開が変化し、規定の得点を獲得した後にゲームオーバーになると連鎖や同時消しの回数やスタッフロールを見ることができる。機種や設定により異なるが99,999点または999,999点獲得するとその時点で得点表示部が止まる。この現象は[[カウンターストップ]]またはカウントストップ、略してカンストと呼ばれる。慣れるとゲームオーバーになりにくくなるため、上級者間ではカンストに到達した時間を競うこともある。 ;スコアアタック :2分間の制限時間内でどれだけ得点を獲得できるか試すゲーム。時間内にゲームオーバーになった場合には無効となる。ゲームキューブ版の制限時間は[[バグ]]により若干多い。『パネルでポンDS』ではタイムアタックの1ゲームとして収録された。 ;ステージクリア :ゲームオーバーにならないようパネルを消し続け、ゲームフィールドに表示される横線「クリアライン」より上にパネルがなくなり、かつパネル消去が行われなくなった時点で「ステージクリア」となるゲーム。5問を1ラウンドとして全6ラウンド行い後のステージほどゲームスピードが上がり難しくなる。また途中には連鎖や同時消しによってメーターを0にするとクリアになるステージも挿入される。ステージ数はGC版まではクリアライン30問とボスステージとしてラウンド3、ラウンド6の後にメーターステージが1問ずつ、計32問。GBA版以降は各ラウンドの最終問題がメーターとなりクリアライン24問、メーター6問の計30問。 ;パズル :決められた入れ替え回数で画面上に存在する全てのパネルを消すゲーム。版によっては入れ替えるパネルを表示するヒント機能が用意され、残りヒント表示回数の消費や経過時間増加のペナルティなどによりこの機能の利用ができる。 :;アクティブパズル ::『DS』に登場。手数制限がない代わりに、連鎖を途切れさせずに全てのパネルを消さなければならない。 :;ミッション ::『DS』に登場。「全て消す」「平らにする」などの課題が出され、左画面のヒントを頼りに課題を攻略する。 ;VS.(VS.COM) :コンピュータと対戦するストーリーモードでゲームのメインとなるモード。機種ごとに対戦ルールやストーリーが異なり、さらにゲームレベル<ref group="注">ストーリーがある場合、NORMAL以下では特定のボスを倒したところで打ち切られ、ストーリーを最後まで見られないようになっている。</ref>や[[ゲームオーバー|コンティニュー]]の有無によりストーリー展開が変化する作品もある。 :据え置きゲーム機版では、連鎖することで「おじゃまパネル」を送り込むなどして相手をゲームオーバーにすれば勝利。おじゃまパネルはパネルをおじゃまパネルにくっつけて消すことで通常のパネルに変化する。通常、このおじゃまパネルが通常のパネルに変化する際、さらにおじゃまパネルが隣接していればまとめて通常のパネルになるが、下側一列だけ通常パネルになりサイズダウンする縦長のおじゃまパネルや、おじゃまパネルの連鎖消去では変化せず並べたパネルの消去でのみ変化する灰色のおじゃまパネルも存在する。ゲームボーイ版『ヨッシーのパネポン』、『ポケモンでパネポン』では連鎖などで相手の[[ヒットポイント]]を0にすれば勝利。『ドクターマリオ&パネルでポン』や『パネルでポンDS』にはストーリー展開はなく、GBA版は20段階のCOMレベルから選んで一戦限りの勝負を、DS版は最大10連戦を行うもの(勝利しても先に進まず同じステージをやり直すことも可能)となっている。また、DS版ではどこから始めるのかを最初に自分で決める。種目はマルチプレイと同じ。 :難易度はSFC版では4段階<ref group="注">EASY→NORMAL→HARD→HARD+の順。HARD+はHARDに合わせて、HARDクリア時のエンディング後に明かされる特定のコマンドを入力する必要がある。また、HARD+は画面には表示されず、HARDと表示される。</ref>、GC版では5段階<ref group="注">EASY→NORMAL→HARD→S-HARD→V-HARDの順。S-HARD以上はそれぞれHARD、S-HARDクリアで明かされるコマンドの入力が必要。HARDをコンティニューせずにクリアするかS- HARD以上をクリアすると出現するステージ15をクリアするとトゥルーエンドになり、この場合のみスタッフロールのBGMがファンファーレに変化する。</ref>、DS版では3段階<ref>BEGINNER→NORMAL→HARDの順。</ref>から選ぶ。また、他のモード同様GBA版以降は難易度に応じてパネルの落下スピードも上がる。 ;おじゃまアタック :VS.モードに登場するおじゃまパネルが降ってくるエンドレス。『ポケモンでパネポン』で初登場した。この他には『NINTENDOパズルコレクション』のゲームボーイアドバンス転送版、『ドクターマリオ&パネルでポン』に収録。『パネルでポンDS』ではこのルールは「オジャマチャレンジ」の名で収録され、「オジャマアタック」はタイムアタックになり、無限に積み重なったおじゃまパネルたちをどこまで崩せるかを競う全く違うモードになっている。 === 2人-4人用 === プレイヤー同士で対戦するゲーム。3-4人の多人数対戦は『NINTENDOパズルコレクション』のゲームキューブ版、『パネルでポンDS』に搭載された。 ;スコアアタック :相手と同時にゲームを開始し2分間で獲得できる得点を競う。2人対戦ではゲームオーバーになったプレイヤーはその時点で負けとなる。3-4人対戦の場合、ゲームオーバーになっても制限時間内であればやり直しが可能だが、得点は0点にリセットされる。『パネルでポンDS』では2人でもやり直しできる。 ;VS.(おじゃまたいせん) :おじゃまパネルを送り合う対戦ゲーム。ゲームオーバーになったプレイヤーから脱落し、最後の一人になったプレイヤーが勝ち。3人以上でプレイしていて1位と2位が決定していない場合、脱落者はゲームを再開し、順位の決定していないプレイヤーを攻撃することができる。ゲームを再開した脱落者は攻撃されず、ゲームオーバーにもならない。 :3人以上でプレイしている場合、GC版ではパネルの色で誰を攻撃するかが決まっているが、DS版ではこれは廃止され、必ず脱落者を除く他の全員を攻撃する。 ;ステージクリア :このゲームモードの対戦機能は2000年の『ポケモンでパネポン』と“Pokémon Puzzle League”以降導入された。相手より先にクリアライン上のパネルを無くせば勝ち。2人対戦ではゲームオーバーになったプレイヤーはその時点で負けとなる。3-4人対戦の場合、ゲームオーバーになっても1位のプレイヤーが決定するまでやり直しが可能。ただしパネルは最初の形に戻る。『パネルでポンDS』では2人でもやり直しできる。 なお、マルチプレイでのやり直し時はGC版ではしばらく間を置いて、DS版では開始時と同じく「READY、3、2、1、」に続いて再スタート。 == パネルでポン == {{コンピュータゲーム |Title=パネルでポン |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[スーパーファミコン]]<br />[[Wii]]<br />[[Wii U]]<br />[[Newニンテンドー3DS]] |Dev=[[インテリジェントシステムズ]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1 - 2人 |Media=SFC:8Mbit[[ロムカセット]]<br />[[ニンテンドウパワー]]書き換え:SFメモリカセット Fブロック2<br />Wii、Wii U、New 3DS:[[バーチャルコンソール]] |Date='''スーパーファミコン'''<br />{{Flagicon|JPN}}ロムカセット:[[1995年]][[10月27日]]<br />ニンテンドウパワー:[[1997年]][[9月30日]]-[[2007年]][[2月27日]]<br />'''Wii バーチャルコンソール'''<br />{{Flagicon|JPN}}[[2007年]][[11月27日]]<br />{{flagicon|KOR}}[[2008年]][[9月30日]]<br />'''Wii U バーチャルコンソール'''<br />{{Flagicon|JPN}}[[2013年]][[5月29日]]<br />'''New 3DSバーチャルコンソール'''<br />{{Flagicon|JPN}}[[2016年]][[8月9日]] |UseBlock=Wii:32ブロック |Rating={{CERO-A}}<br />[[ゲーム物等級委員会|GRB]]:ALL<ref name=GRB>{{Cite web|url=http://www.grb.or.kr/Statistics/Popup/Pop_StatisticsDetails.aspx?app=5664&type=00|author=게임물등급위원회|title=게임물 상세정보 |work=분류번호 VC-080730-011|language=韓国語|accessdate=2009-10-18}}</ref> |ContentsIcon= |Device=Wii:[[Wiiリモコン#クラシックコントローラ|クラシックコントローラ]]または[[ニンテンドーゲームキューブ]]コントローラ必須。 |Sale= |etc= }} データ容量を8メガビットの低容量に抑えたこと、さらにはソフト価格を引き下げた他社の次世代ゲーム機に対抗し、希望小売価格は当時のスーパーファミコン用ソフトの半額から2/3程度に設定された。[[1997年]]には[[ニンテンドウパワー]]書き換えソフトとしての供給も開始され、2007年のサービス終了まで供給が続けられた。いずれも内容に差異はない。日本では[[2007年]][[11月27日]]から[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]対応ソフトとして供給が開始され、[[2013年]][[5月29日]]から[[Wii U]]の、[[2016年]][[8月9日]]から[[Newニンテンドー3DS]]のバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始された。[[2020年]][[5月20日]]には『[[スーパーファミコン Nintendo Switch Online]]』にて配信がされた<ref name="famitsuswitch" /><ref name="nintenswitch"" />。 物語の舞台は自然を司る[[妖精]]の住む世界「ポップルス」とし、主人公には華やかな衣装とアクセサリーを身に付け、魔法のステッキを持ち、さらにはお供の小動物を連れた妖精の少女「花の妖精リップ」<ref group="注">スーパーファミコン版のカセットを起動した際に「任天堂!」と言ったり、一部の作品でゲスト出演している(後述のキャプテン★レインボーを含む)のも彼女である。</ref>を起用するなど、[[魔法少女]]作品のような設定にされた。1人用のVSモードでは、リップを中心とした妖精の少女たち9人と、ポップルスの征服を企む魔王サナトスらモンスター一味、サナトスを影から操る女神コーデリアとの戦いが描かれる。 ゲーム画面やメニュー画面の構成、ゲームモードなどのシステム、キャラクターそれぞれに別の掛け声・ゲーム画面のBGMと背景を用意する、ゲームモードごとに異なるエンディングを用意する演出手法、多数用意された[[隠しコマンド]]や[[裏技]]などの要素は後の移植作品にも継承され、シリーズの基礎を築いた。 === ストーリー(パネルでポン) === 魔王サナトスとその手下が妖精の世界ポップルスを我が物にしようと魔法で雨を降らせ、妖精達には互いにケンカをさせる魔法をかけた。唯一この魔法から免れた花の妖精リップは魔法のステッキの力を借り、仲間にかけられた魔法を解きながらサナトス達の潜むデスマウンテンへ向かう。 一人用の『VS』でのプレイヤーキャラクターは主人公のリップで固定だが、9面のボス戦以降は仲間になった妖精を含めて9人の中から選ぶことが出来る<ref group="注">特定のコマンドを入力することにより、序盤の妖精たちとの戦いでも既に仲間になった他の妖精を選ぶことが出来る。</ref>。なお、リップ以外の妖精はプレイヤー側で一度でも敗北すると離脱してしまい、以降は使用不可能となる<ref group="注">ボス戦以降で敗退した場合は、各キャラクターに退場台詞が用意されている。なお、離脱した妖精はその後も復活することは無く、HARD以上でのエンディングにおいても離脱した妖精の台詞はカットもしくは残留した別の妖精に置き換えられる。</ref>、キャラクター。 HARD以上をクリアするとエンディングを見ることができ、主人公のリップ<ref group="注">いずれも、リップ以外の妖精で敗北した場合のコンティニューは、カウントされない。</ref>がコンティニューを1度でもしている場合はコーデリアの提案をリップが自身の意向から辞退するバッドエンド<ref group="注">この時、通常のHARDの場合はリップがプレイヤーに対して1度もコンティニューせずに再度クリアすることを促されるが、HARD+ではリップが自らコーデリアに対してこの旨を伝えるという内容に変化する。</ref>、1度もコンティニューせずにクリアすると提案を素直に受け入れるグッドエンドとなる<ref group="注">その後の展開は通常のHARDとHARD+で異なり、通常のHARDでは提案を受け入れた後に仲間の妖精たちに感謝を表すが、HARD+でクリアすると提案を受け入れた上に自分に誇りを持つ発言をする内容に変化する。</ref>。なお、いずれの場合もスタッフロール後の展開(HARDはHARD+のコマンドに関するメッセージ、HARD+はエンドカード)は変化しない。 === サテラビュー放送作品 === 以下は[[サテラビュー]]用のイベントゲームとして放送が行われた改変作品となる。 ;パネルでポン イベントバージョン :1995年10月から放送開始。製品版の発売を前に[[体験版]]を兼ねたランキングイベント用ゲームとして放送され、イベント終了後の1996年度にも体験版として放送された。 ;パネルでポン イベントバージョン2 :1996年1月から約1か月間放送。内容を変更し再度イベントを実施した。3人の妖精と対戦しその残り時間でスコアアタックに挑む。 ;パネルでポン イベント'98 :1997年12月末から1998年1月に放送。1997年度にサテラビュー向けデータ放送にて実施されたイベントゲーム企画「マンスリーイベント」の1998年1月分作品として放送された。1人用と2人用の2ゲームが用意され、1人用ではステージクリアモードの得点が、2人用ではスコアアタックの合計得点が競われた。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == ヨッシーのパネポン == {{コンピュータゲーム |Title=ヨッシーのパネポン<br />Tetris Attack |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[スーパーファミコン]]<br />[[スーパーファミコン#海外版|Super Nintendo Entertainment System]]<br />[[ゲームボーイ]]<br />[[ニンテンドー3DS]] |Dev=SFC/SNES:[[インテリジェントシステムズ]]<br />GB:[[任天堂]]・インテリジェントシステムズ |Pub=[[任天堂]] |Play=1 - 2人 |Media=SNES:8Mbit[[ロムカセット]]<br />SFC:[[サテラビュー]]専用8Mメモリーパック 8Mbit<br />GB:4Mbit[[ロムカセット|ロムカートリッジ]]<br />[[ニンテンドウパワー]]書き換え:GBメモリカートリッジ Fブロック4<br />3DS:[[バーチャルコンソール]] |Date='''スーパーファミコン/SNES'''<br />{{Flagicon|USA}}[[1996年]]8月<br />{{Flagicon|JPN}}未発売。[[1996年]][[11月3日]]からサテラビュー用番組として供給開始。[[2000年]][[6月30日]]供給終了。<br />{{Flagicon|EU}}[[1996年]][[11月28日]]<br />'''ゲームボーイ'''<br />{{Flagicon|USA}}[[1996年]]8月<br />{{Flagicon|JPN}}ロムカートリッジ:[[1996年]][[10月26日]]<br />ニンテンドウパワー:[[2000年]][[3月1日]]-[[2007年]][[2月28日]]<br />{{Flagicon|EU}}[[1996年]][[11月28日]]<br />'''3DSバーチャルコンソール(GB版)'''<br />{{Flagicon|JPN}}[[2013年]][[12月11日]] |Rating =[[Entertainment Software Rating Board|ESRB]]: K-A (Kids to Adults), E (Everyone)<br />[[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]{{Flagicon|AUS}}:G (General)<br />{{CERO-A}} |Device =GB:[[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]]、[[スーパーゲームボーイ]]対応 }} ヨッシーのパネポンはスーパーファミコン版とゲームボーイ版の2作が存在する。日本国外では『パネルでポン』の妖精キャラクターが受け入れられないと判断されたため、[[ヨッシー]]をはじめとした『[[スーパーマリオ ヨッシーアイランド]]』のキャラクターを起用した<ref name= "OfficialGuideGB"/><ref name="OfficialHP"/>。このためヨッシーアイランドの外伝作品ともなったが、赤ちゃんマリオは登場せずにクッパは大人の姿で登場するなど、設定は元作品と異なる。 日本版におけるヨッシーのパネポンの題名は『[[ヨッシーのたまご]]』『[[ヨッシーのクッキー]]』の後継作品としての印象を与えるとともに、パネポンが正式な略称であることを示した。日本国外ではゲーム内容が異なるにもかかわらず[[テトリス]]の名を冠し''Tetris Attack'' (テトリスアタック)の題名で販売された。タイトル画面やスタッフロール、製品の箱や説明書には、著作権表記とともに本作がテトリスの版権を管理する[[ザ・テトリス・カンパニー]]の許諾を得ていること、さらに実際は関係ないものの''Tetris Attack Inspired by Original Tetris.''(テトリスアタックはテトリスから発想を得た)の表記がされた。 [[手塚卓志]]、[[小田部羊一]]、[[近藤浩治]]らヨッシーアイランドのスタッフがキャラクター監修や追加曲の原曲提供者として、[[辻横由佳]]が追加曲の制作に参加した。日本国外版・日本版とも、著作権表記には任天堂だけでなくインテリジェントシステムズの社名も併記され、本作は著作権に初めて同社の社名が明記されたゲームソフトとなった。 === スーパーファミコン版 === 日本国外向けのスーパーファミコンに相当するSuper NES用ソフトとして再制作された『パネルでポン』の改変作品。北米ではゲームボーイ版とともに1996年8月に発売された。日本ではゲームボーイ版の発売記念及び拡販を目的とし、同年11月から[[サテラビュー]]用データ放送番組として供給が開始され、データ放送終了の2000年6月末まで再放送が繰り返された。放送開始当時のサテラビュー向けラジオ情報番組『ゲーム虎の超大穴』では、日本国内でも市販の検討がされたことが明らかにされた。 登場キャラクターをヨッシーアイランドのキャラクターに変更し、背景やBGMはパネルでポンからそのまま流用されたほか新たに製作・追加もされた。システム面ではオリジナル版に存在しなかったオプション機能を追加する、対戦モードにおけるコンピュータの思考パターンを変える、フォントに影を付ける、バグを解消するなど細部の改良が施され、[[モデルチェンジ|マイナーチェンジ]]版とも言える内容となった。 === ゲームボーイ版 === [[携帯型ゲーム|携帯ゲーム機]]ゲームボーイへの移植作品。日本では『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』のヒットやそれに続く[[ゲームボーイポケット]]の発売によりゲームボーイ市場が再び勢いを取り戻した1996年10月に発売された。[[2000年]]には[[ニンテンドウパワー]]書き換えソフトとしての供給も開始され、2007年のサービス終了まで供給が続けられた。いずれも内容に差異はない。[[2013年]][[12月11日]]から[[ニンテンドー3DS]]のバーチャルコンソール対応ソフトとして供給が開始された。 下位機種への移植となり開発は頓挫したが、任天堂開発第一部のスタッフによりメインプログラムが制作され、完成にこぎつけた<ref name= "OfficialGuideGB"/>。表示領域の狭いモノクロ画面を持つゲームボーイの特性と低容量のロムカセット容量から、ゲームフィールドの高さを従来の12段から9段へ縮小し、パネルのデザインやコンピュータ対戦モードのルールを変更する、フィールド内に現れるパネルの柄を最大6種までに減らす、登場キャラクターを削減する、演出を簡略化するなどの改変が施された。 本作は[[スーパーゲームボーイ]]対応ソフトだが、スーパーゲームボーイ使用時のゲーム画面は常に茶褐色で表示され、場面による配色の変更もされない。ゲーム画面外の枠「ピクチャーフレーム」にはスーパーファミコン版のメニュー画面や1人用ゲームの背景画像が流用された。 === ストーリー(ヨッシーのパネポン) === [[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]とその手下がヨッシーアイランドを我が物にしようと魔法で雨を降らせ、島の住人達には互いにケンカをさせる魔法をかけた。唯一この魔法から免れたヨッシーは島の守り神から不思議な力を授かり、仲間にかけられた魔法を解きながらクッパ達の潜む洞窟へ向かう。 本作は本来ヨッシーの敵であるモンスターたちも仲間になっていくという、珍しい展開があるのが特徴となっている。 == ポケモンでパネポン == {{コンピュータゲーム |Title=ポケモンでパネポン<br />Pokémon Puzzle Challenge |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[ゲームボーイカラー]]専用 |Dev=[[インテリジェントシステムズ]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1 - 2人 |Media=16Mbit[[ロムカセット|ロムカートリッジ]] |Date=ROMカートリッジ版<br />{{Flagicon|JPN}}[[2000年]][[9月21日]]<br />{{Flagicon|USA}}[[2000年]]12月<br />{{Flagicon|EU}}[[2001年]][[6月8日]]<br />3DSバーチャルコンソール版<br />{{Flagicon|USA}}[[2014年]][[11月6日]]<br />{{Flagicon|EU}}[[2014年]][[11月27日]] |Rating={{CERO-A}}<br />{{ESRB-E}}<br />[[Entertainment and Leisure Software Publishers Association|ELSPA]]:3+<br />[[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]{{Flagicon|AUS}}:G (General)<br />[[Unterhaltungssoftware Selbstkontrolle|USK]]:Freigegeben ohne Altersbeschränkung |Device=[[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]]に対応 }} [[ゲームボーイカラー]]への移植作品。キャラクターには当時『[[ポケットモンスター 金・銀]]』の発売により人気が再燃した[[ポケットモンスター]]を採用し、ポケモンの[[キャラクターゲーム]]として制作・販売された。日本国外でのタイトルは''Pokémon Puzzle Challenge''(ポケモンパズルチャレンジ)とされ、3DSの[[バーチャルコンソール]]では、ヨッシーのパネポンがテトリスの商標の関係で日本のみで配信され、北米とヨーロッパではヨッシーのパネポンの代替で本作が配信された。 画面構成や基礎プログラムはゲームボーイ版ヨッシーのパネポンを元とし、ゲームボーイカラー専用ソフトとしたことで処理速度を向上させ、カーソルやパネルの挙動はスーパーファミコン版とほぼ同一となった。BGMにはポケットモンスター本編のアレンジ曲が使われた。 ゲームボーイカラー末期の作品とあって、次世代機のゲームボーイアドバンスの作品と見紛うほどの高解像度で色彩豊かなグラフィックとなっている<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、27ページ</ref>。 シリーズで初めて[[バッテリーバックアップ]]によるセーブ機能を採用し、ゲーム進行だけでなくハイスコアや最高連鎖数など細かな記録の保存を可能とした。ゲームモードには対人戦の練習を目的としたおじゃまアタックが加わり、対戦プレイにステージクリアモードが追加された。初心者向けには以前までの作品に見られたハードルの高さを取り払おうとアクティブ連鎖の練習を行うための「スローモード」が、上級者向けにはパネルが消えている間もせり上げができる「ばくはつせりあげ」が用意されるなど、様々な新要素が盛り込まれた<ref>ただし、メニューからオプションを開き、セレクトボタンとAボタンを同時押しして出る隠し項目により設定する事が出来る</ref>。 元々はゲームボーイ対応の「パネルでポンGB」として開発されており、内部データにはリップなどのパネポンの登場人物のドット絵が残されていたり、 通信エラー時の画面が「パネルでポンGB」となっていたりするほか、カラー専用ソフトをカラー以外の本体(ポケットなど)に差し込んだ時に出る警告画面で特定のコマンドを入力すると パネルでポンGBをプレイする事ができる。 日本のテレビCMには『[[ピカチュウげんきでちゅう]]』のテレビCMに登場し「ポケモンおじさん」として認知された[[綿引勝彦]]が再び起用された。おじさんが公園でポケットモンスター金・銀の攻略本を読んでいると、ゲームボーイカラーを持ち通信をしている2人の子供に気づく。ポケモン金銀で遊んでいるものと思い画面を覗き込むが、2人が遊んでいたのはポケモンでパネポンであった。おじさんはパネポンを新しいポケモンバトルと解釈する。 === ストーリー(ポケモンでパネポン) === 『ポケットモンスター 金・銀』のシナリオをなぞった話となる。プレイヤーはチャンピオンを目指すポケモントレーナーの少年となり、ポケモンバトルをパネポンバトルに変え、自分のポケモンや対戦相手から譲り受けたポケモン達とともに各地のジムリーダー、四天王、さらにはチャンピオンに戦いを挑む。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == Pokémon Puzzle League == {{コンピュータゲーム |Title=Pokémon Puzzle League |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[NINTENDO64]]<br />[[Wii]] |Dev=[[Nintendo Software Technology Corporation]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1-2人 対戦プレイ |Media=N64:256Mbit[[ロムカセット]]<br />Wii:[[バーチャルコンソール]] |Date'''=NINTENDO64'''<br />{{Flagicon|USA}}[[2000年]]9月<br />{{Flagicon|EU}}[[2001年]][[3月2日]]<br />'''Wii バーチャルコンソール'''<br />{{Flagicon|USA}}[[2008年]][[5月5日]]<br />{{Flagicon|EU}}{{Flagicon|AUS}}[[2008年]][[5月30日]] |Rating = [[Entertainment and Leisure Software Publishers Association|ELSPA]]:3+<br />[[Entertainment Software Rating Board|ESRB]]: E (Everyone)<br />[[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]{{Flagicon|AUS}}:G (General)<br />[[Pan European Game Information|PEGI]]:3+<br />[[Unterhaltungssoftware Selbstkontrolle|USK]]:Freigegeben ohne Altersbeschränkung |Device=Wii:[[Wiiリモコン#クラシックコントローラ|クラシックコントローラ]]または[[ニンテンドーゲームキューブ]]コントローラ必須。 }} {{See also|:en:Pokémon Puzzle League}} [[NINTENDO64]]への移植作品。アニメ版『[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]』のキャラクターを採用した。開発はアメリカ合衆国に存在する任天堂の開発子会社[[Nintendo Software Technology Corporation]]が担当し、インテリジェントシステムズと任天堂のスタッフは監修、効果音の提供などで制作に協力している。 北米では2000年9月に、ヨーロッパでは2001年3月に発売されたが、日本では発売されなかった。北米版の発売後、日本では「日本未発売のポケモンのゲームソフト」として一部雑誌で紹介された。当時の任天堂は雑誌などにおいてポケモンでパネポンの反響により日本での発売を検討すると明らかにしたものの発売を見送った。日本国内では[[洋ゲー]]販売店により北米版が輸入販売された。 これ以前に発売された『[[ポケットモンスター 赤・緑#ポケットモンスター ピカチュウ|ポケットモンスター ピカチュウ]]』や『[[ポケモンスナップ]]』でもアニメのキャラクター設定をゲームへ取り入れる試みがされたが、本作はアニメのキャラクターゲームとして開発され、[[サトシ (アニメポケットモンスター)|サトシ]]をゲームの主人公に起用したことが特徴である。物語の要所に挿入される[[ムービー]]シーンのアニメやゲーム内のBGMは『[[劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲]]』と現地吹き替え版のサウンドトラックから流用した。ゲーム画面の構成やキャラクターの頭に多数のパネルが降り注ぐゲームオーバー時の演出はスーパーファミコン版パネルでポンとの類似点が見られる。パネルの柄には従来の星やハートなどの図形の他ポケモンの属性マークを用意し、プレイヤーの好みに応じ切り替えを可能とした。 ゲームのルールには左右の繋がった筒状のフィールド内でパネルを操作する3Dモードが初登場し、従来のルールには2Dモードの名が与えられた。3Dモードは1人用のVS.COMなど一部のゲームモードではプレイすることはできない。パズルモードには自作問題の作成機能も搭載され、ゲームモードの名称はエンドレスがMarathon(マラソン)と表記されるなどポケモンの世界観に合うよう変更された。 === ストーリー(Pokémon Puzzle League) === どこかのプールサイドでのんびりと休暇を楽しんでいた[[サトシ (アニメポケットモンスター)|サトシ]]と[[ピカチュウ]]。そこへ[[オーキド・ユキナリ|オーキド博士]]から連絡が入り、新しいポケモンバトルが開催されている事を聞かされる。2人は早速会場となるポケモンパズルリーグビレッジへ向かうが、ここでは仲間であるカスミとタケシを含んだポケモントレーナー達がパネポンバトルを繰り広げていた。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == NINTENDOパズルコレクション パネルでポン == 『[[ドクターマリオ]]』『[[ヨッシーのクッキー]]』と共に『[[NINTENDOパズルコレクション]]』へ収録する形式により発売された。 当時の任天堂は据置機と携帯機の連動を推進しており、NINTENDOパズルコレクションには[[ゲームボーイアドバンス]]をゲームキューブのコントローラポートへ接続する周辺機器「[[GBAケーブル]]」が同梱された。GBAケーブルを使用するとゲームボーイアドバンスをゲームキューブ用コントローラとして使用でき、さらにパネルでポンでは練習版をゲームボーイアドバンスにダウンロードさせることもできる。ただしこの2作品は独立しており、スコア転送などの連携・連動機能は用意されていない。 === ニンテンドーゲームキューブ版 === {{コンピュータゲーム |Title=パネルでポン<br />(NINTENDOパズルコレクション<br />ゲームキューブ版) |Plat=[[ニンテンドーゲームキューブ]] |Dev=[[Nintendo Software Technology]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1 - 4人 |Device =[[GBAケーブル]]に対応 |etc =この他の情報は[[NINTENDOパズルコレクション]]の項目を参照 }} ゲームキューブ版は日本国内向けの据え置きゲーム機用作品としては8年振りの新作となった。1999年にNINTENDO64用ソフト『パネルでポン64』として発売予定が公表されその存在が明らかとされたが、画面写真などの詳細情報は一切公開されないまま、翌2000年には発売予定から取り消された。 本作は“Pokémon Puzzle League”のメインプログラムを流用し、登場キャラクターの差し替えや演出の大幅な変更を施したもので、スタッフロールに記された人名・ゲーム中の効果音・パネルのデザイン・パズルモードの問題や自作問題作成機能の一致にその名残が見られる。キャラクターグラフィックや掛け声、BGMなどの素材はインテリジェントシステムズと任天堂のスタッフが制作した。ゲームルールには“Pokémon Puzzle League”にも存在した3Dモードのほか、新たに4人同時対戦モードが追加された。 物語の舞台は1作目と同じ[[妖精]]の世界ポップルスとし、主人公にはリップの娘にあたる妖精の少女「花の妖精フリル」を起用した。VS.COMではフリルら妖精たち9人と勇者の少年「太陽の王子カイン」が、ポップルスを荒らす魔王サナトス一味や女神コーデリア、老魔女の姉妹を撃退する様子を描く。 === ゲームボーイアドバンス転送版 === {{コンピュータゲーム |Title=パネルでポン<br />(NINTENDOパズルコレクション ゲームボーイアドバンス転送版) |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[ゲームボーイアドバンス]] |Dev=[[インテリジェントシステムズ]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1人 |Media =[[GBAケーブル#ジョイキャリー|ジョイキャリー]](GCからGBA本体メモリへダウンロード) }} ゲームボーイアドバンス版はインテリジェントシステムズが新規に制作した。ここではフリルの相棒として登場した動物のププリが案内役を務める。ゲームキューブ版でププリは一切言葉を発しないが、この版のメニュー画面では考えたことがプレイヤーに伝わってしまうと述べ、放置すると自己紹介やフリルとの関係などさまざまなセリフを発する。 携帯ゲーム機版としては初めて据え置きゲーム機版と同じパネル6枚×12段分のゲームフィールドを採用した。ゲームモードにはエンドレスとおじゃまアタックの2ゲームを用意し、ポケモンでパネポンで導入されたばくはつせりあげなど多数のオプション機能、連鎖や同時消しのデモプレイ「すごいデモ」を収録した。外出先での練習を目的とした内容となっており、過剰な演出やエンディングなどはない。 === ストーリー(NINTENDOパズルコレクション パネルでポン) === 妖精の世界ポップルスに突然巨大な竜巻が発生し、世界中のありとあらゆる物を吸い込んでいった。花の妖精フリルも竜巻に巻き込まれ気を失う。目覚めたフリルは魔法をかけられ正気を失った仲間を救出しながら異変の原因を探り、ポップルスを我が物にしようと企む敵に立ち向かう。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == Dr.MARIO & パネルでポン == {{コンピュータゲーム |Title=Dr.MARIO & パネルでポン<br />Dr. Mario & Puzzle League |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[ゲームボーイアドバンス]] |Dev=[[インテリジェントシステムズ]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1 - 2人 |Media=[[ロムカセット|ロムカートリッジ]] |Date={{Flagicon|JPN}}[[2005年]][[9月13日]]<br/>{{Flagicon|EU}}2005年[[11月4日]]<br/>{{Flagicon|USA}}2005年[[11月26日]] |Rating={{CERO-A}}<br />{{ESRB-E}}<br />{{PEGI-3}}<br />[[Office of Film and Literature Classification|OFLC]]{{Flagicon|AUS}}:G (General)<br />[[Unterhaltungssoftware Selbstkontrolle|USK]]:Freigegeben ohne Altersbeschränkung |Device=[[通信ケーブル (ゲームボーイ)|GBA通信ケーブル]]対応 }} [[ゲームボーイアドバンス]]への移植作品。マリオを主人公としたパズルゲーム『[[ドクターマリオ]]』とカップリングされ、『[[スーパーマリオブラザーズ]]』生誕20周年記念ソフトの1作として[[ゲームボーイミクロ]]本体と同日に発売された(初回出荷分には、20周年ロゴがプリント<ref>「コラム:これまでの周年イベントと比べると・・・・・・」『スーパーマリオブラザーズ 百科』、[[小学館]]、2015年、189頁。 (ISBN 978-4-09-106569-8) </ref>)。ただしパネルでポンにマリオは登場しない。希望小売価格はゲームボーイアドバンス用ソフトとしては最安値に設定された。日本国外におけるタイトルは''Dr. Mario& Puzzle League'' (ドクターマリオ アンド パズルリーグ)とされた。 NINTENDOパズルコレクションのゲームボーイアドバンス転送版を元にゲームモードの追加が施された。以前までの作品に登場した作品固有のキャラクターや、連鎖時の掛け声など演出要素は排除され、ゲーム中の背景とBGMをプレイヤーの好みに応じて選択する形式が取られた。日本版では背景の一種としてゲームボーイアドバンス転送版に登場したププリの絵も用意されたが、ププリの鳴き声は削除された。ステージクリアモードはボスステージが各ラウンドの最終問題に設定され、総ステージ数も今までの32問から30問に減少した。VS.コンピュータでは勝ち抜き式の物語展開がなくなり、コンピュータと1回対戦するのみとなった。ここではプレイヤー自らコンピュータの強さを20段階から選び、さらにハンディキャップ、ゲームスピードを設定する。本作からタイムの計測が従来の1秒単位から100分の1秒単位に変更された。 プレイヤー同士で対戦をする場合にはカートリッジが2本必要となる。カートリッジ1本のみの対戦プレイには対応していないが、他の本体に体験版をダウンロードさせる機能「プレゼント」が用意された。この体験版はタイトル画面が変更されている他はNINTENDOパズルコレクションの転送版と同一である。 パネルでポンのステージクリア、またはDr.マリオのオリジナルLv20においてエンディングを見ると、画面を縦にして遊ぶ「たてモード」が追加される。この表示モードは通常の横表示よりパネルやカーソルが大きく表示される利点がある。ただし遊べるゲームモードは1人用のエンドレス、スコアアタック、おじゃまアタックのみに制限され、使用する本体によっては操作が難しい場合がある。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == パネルでポンDS == {{コンピュータゲーム |Title=パネルでポンDS<br />Planet Puzzle League<br />Puzzle League DS |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[ニンテンドーDS]] |Dev=[[インテリジェントシステムズ]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1 - 4人 |Media=DSカード |Date={{Flagicon|JPN}}[[2007年]][[4月26日]]<br />{{Flagicon|USA}}2007年[[6月4日]]<br />{{Flagicon|EU}}2007年[[6月29日]] |Rating={{CERO-A}}<br />{{ESRB-E}}<br />{{PEGI-3}}<br />[[Unterhaltungssoftware Selbstkontrolle|USK]]:Freigegeben ohne Altersbeschränkung |Sale={{Flagicon|JPN}}約14万本(2007年12月時点) }} [[ニンテンドーDS]]への移植作品。北米では“''Planet Puzzle League''”(プラネット パズルリーグ)の題名で[[Touch! Generations]]の1作として発売されて、欧州では“''Puzzle League DS''”(パズルリーグ ディーエス)の題名で発売された。日本では[[Touch! Generations]]に含まれていないが、テレビCMやパッケージデザインは同シリーズの表現手法を流用した。 『ドクターマリオ&パネルでポン』から始まったキャラクター排除路線第2作となり、画面構成は未来をテーマとし、より単純にデザインされた。日本版ではこれまでのシリーズ作品で配色やデザインが統一されていたタイトルロゴを一新し、ゲームモード名はすべてカタカナ表記された。ゲーム画面の背景と音楽、パネルの柄は複数用意されており、一部のゲームモードを除き好みの物を選択することができる。作品固有のキャラクターは用意されていないが、日本版では条件を満たすとスーパーファミコン版の主人公である花の妖精リップの背景と音楽が追加される。 操作方法には従来のボタン操作のほかタッチペンによるパネルの直接操作を追加し、全てのゲームモードにおいて画面の縦表示を可能とした。パネルの落下速度を遅くする、連鎖ヒントを表示させる、フィールド内に現れるパネルの柄を最大6種までに減らすなどの方法により難度を引き下げた。また、VS COMは勝ち抜き制が復活した(ステージ10までで、好きなステージから開始できる)。ゲームモードには3つのゲームを1日1回のみプレイし得点の推移をグラフの形式で記録する「マイニチプレイ」が追加された。従来の「スコアアタック」は、新たに追加された「オジャマアタック」「セリアゲアタック」とともに「タイムアタック」モードへ内包された。新モードのセリアゲアタックは2分間でゲームオーバーにならずにどこまでパネルをせり上げられるかを競うモード。 [[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]に対応し、シリーズで初めてネットワーク通信対戦機能を搭載した。相手を特定しない対戦では勝敗記録がされない「フリーVS」、初心者のみ参加できる「ビギナーVS」、本体に登録した誕生日ごとに成績順位集計が行われる「バースデーVS」の3種が用意された。 対戦プレイには「アイテムパネル」を導入した。アイテムパネルを同色のパネルと混ぜて消去すると様々な効果が発生する。 *フィーバー:炎の描かれたパネル。しばらくの間無敵になり、消したパネルが全て連鎖扱いとなる。 *3カラー:3つの四角が描かれたパネル。一定時間パネルが赤・青・緑だけになる。 *リフレクト:矢印と棒が描かれたパネル。自分のおじゃまパネルを全て相手に送り返す。 *シェイク:矢印の円が描かれたパネル。敵全員のパネルを一定時間シャッフルし続ける。攻撃されている間も操作可能。 *パラライズ:電気の火花が描かれたパネル。相手のランダムな横一列に電流を流し、操作できなくする。 *グレイ:大きなXの描かれたパネル。相手のパネルの一部を隠す。隠されたパネルを消すことはできない。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == ちょっとパネルでポン == {{コンピュータゲーム |Title=ちょっとパネルでポン<br />Puzzle League Express<br />A Little Bit of... Puzzle League |Genre=[[アクションパズル]] |Plat=[[ニンテンドーDSi]] |Dev=[[インテリジェントシステムズ]] |Pub=[[任天堂]] |Play=1人 |Media=[[ニンテンドーDSiウェア]](本体内蔵メモリに保存) |Date={{Flagicon|JPN}}[[2009年]][[1月28日]]<br />{{Flagicon|EU}}2009年[[7月17日]]<br />{{Flagicon|USA}}2009年[[8月31日]] |UseBlock={{Flagicon|JPN}}44ブロック |Rating={{CERO-A}}<br />{{ESRB-E}}<br />{{PEGI-3}}<br />[[Unterhaltungssoftware Selbstkontrolle|USK]]:Freigegeben ohne Altersbeschränkung }} [[ニンテンドーDSi]]専用ダウンロードソフト[[ニンテンドーDSiウェア]]として配信。『パネルでポンDS』から1人用のエンドレス・ステージクリア・スコアアタック・VS COMの4モードを抜粋している。『パネルでポンDS』ではタイムアタックの1ゲームとしてスコアアタックが収録され、他にオジャマアタックとセリアゲアタックが用意されたが、本作ではスコアアタックのみの収録とされた。VS COMはおじゃまパネルの送り合いによる対戦のみとなり、スコアアタックとステージクリアモード、他のDS本体やニンテンドーWi-Fiコネクションによるネットワーク通信対戦機能は用意されていない。 {{-}}<!--表記崩れ防止--> == パネルでポンと妖精キャラクター == 第1作『パネルでポン』の特徴として、[[少女向けアニメ]]や[[少女漫画]]、特に[[魔法少女]]作品の影響を多分に受けたデザインのキャラクターたちが挙げられる。『ファミコン通信』のクロスレビューでは任天堂とキャラクターとのギャップが指摘され<ref name="Famitsu"/>、ユーズド・ゲームズによる制作者インタビューではインタビュアーにより「''任天堂らしくないキャラクター''」と表現された<ref name= "UsedGames1"/>。それまで日本国内で発売された任天堂のゲームにはこのようなデザインのキャラクターは存在せず、女の子を主人公にした作品も見られなかったが、低年齢層や女性層の獲得を目的として導入された<ref name= "OfficialGuideGB"/>。 これらのキャラクターはパネルでポンのために制作されたキャラクターではなく、元々は村松による没企画作品のキャラクターだった。その存在を知る山上がマリオやヨッシーに替わる新たなキャラクターとして目を付け、横井へ導入を持ちかけた。山上は横井へキャラクターを見せた際に「''これかぁ''」と言われ嫌な顔をされたが結局採用は許可された、と笑いを交えながら語っている<ref name= "UsedGames1"/>。 ゲームキューブ版に登場する妖精たちの多くは、その髪や服装・装飾などにスーパーファミコン版の妖精たちとの類似点が見られる。発売後にゲームキューブ版の主人公フリルはスーパーファミコン版の主人公リップの娘であることが雑誌や攻略本で公表された<ref name=OfficialGuideGC>{{Cite book|和書|year=2003|title=NINTENDOパズルコレクション|publisher=小学館|series=ワンダーライフスペシャル 任天堂公式ガイドブック|page=68|id=ISBN 4-09-106096-X}}</ref>。しかし、ゲーム内ではリップたち先代の妖精は一切登場せず、リップとフリルの関係についても触れられることはない。敵キャラクターにはスーパーファミコン版のキャラクターと同じ名を持つ「魔王サナトス」「女神コーデリア」が登場するが、彼らの容姿やキャラクター設定はスーパーファミコン版と異なる。 2008年発売のWii用ソフト『[[キャプテン★レインボー]]』にはリップが登場する。このゲーム内では主人公のニックを「おにいたん」と呼ぶ、魔法の呪文を唱える、花粉症で鼻水を垂らすなど、原作のパネルでポンにはない特徴や性格が与えられた。発売前に公表されたプロモーション用の動画では[[ギフトピア]]のキャラクターでもあるロボット警官のマッポが登場し、リップを「勘違い娘」「うるさくて最悪」「ドジっ子を装っている」などと紹介するとともに、「キャプテン★レインボーは[[萌え]]キャラゲームではない」と発言した<ref name=CaptainRainbowHP>{{Cite web|和書|author=任天堂|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/r7cj/|title=キャプテン★レインボー|work=みんなのニンテンドーチャンネルキャラクター紹介ムービー 第6話 あの夕日に向かって、オーファイオー!の巻、第7話 リップル♪ポップル♪うきうきリップとお花たん♪の巻|language=日本語|accessdate=2009-10-18}}</ref>。ゲームファンを中心にこれらのキャラクターを題材としたイラスト・漫画・同人誌・小説の作成など二次創作活動も行われ、インテリジェントシステムズの公式ページではそれらの一部が公開されている。 == 他製品との関連 == 以下の任天堂及びインテリジェントシステムズの製品にはパネルでポンのキャラクターや作品を連想させる要素が登場する。 ;[[ファイアーエムブレム]] :同一開発元のシミュレーションRPGシリーズ。パネルでポンの連鎖時に鳴るファンファーレはファイアーエムブレムシリーズ1-3作目の宝箱を開けた時、およびレベルアップ時のファンファーレを流用・改変したものである。 ;[[ファイアーエムブレム 聖戦の系譜]] :闘技場内に「リップ」の名を持つユニットが2回登場する。 ;サテラQ :サテラビュー用番組として放送された音声・データ連動クイズ番組。1998年春放送分のタイトル画面で、リップは[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]や[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]らとの共演を果たした。これはゲーム内の画像と公式イラストを切り貼りしただけのものだが、番組制作スタッフの「春だから花」との単純な思い付きにより実現したことが番組内で明かされた。 ;[[ファミコンウォーズ|スーパーファミコンウォーズ]] :長音記号の変更と漢字の追加を施した上で[[フォント]]を流用した。 ;[[マリオストーリー]] :花の育成を趣味とする[[キノピオ]]の少女「リップ」が登場する。ゲーム内でプレイできるミニゲームには「パネルでゴー」「たたいてポン」の名が付けられた。 ;[[ニンテンドーゲームキューブ]]取扱説明書 :日本国内向けのゲームキューブに同梱された取扱説明書の初版には、架空のゲームソフトを使用したメモリーカード管理画面の画像が掲載された。このファイルアイコンにはマリオや[[カービィ]]のほか、パネルでポンの妖精9人の画像も使用された。 ;[[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]] :* シリーズ2作目『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]]』以降の作品では、ゲーム内の攻撃アイテムの1つとして、リップの持つ魔法のステッキが「リップステッキ」の名で登場する。プレイヤーキャラクターのカービィがストーンの技を使用すると花柄のおじゃまパネルに変身する場合がある。 :*『大乱闘スマッシュブラザーズDX』では、プレイヤーの名前を登録する際に「おまかせ」を選択すると、「リップ」ほか『パネルでポン』の登場人物名が入力される場合がある。 :*シリーズ3作目『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』では、収集要素「シール」として、『NINTENDOパズルコレクション』の公式イラスト「フリル」「セシル」「ピュア」「サラ」「パネル(赤)」が登場する。対戦ステージ「[[ピクトチャット]]」における音楽の1つにはSFC版の主人公リップのテーマ曲のアレンジが用意された。 ;[[キャプテン★レインボー]] :このゲームの舞台となるミミン島の住人の1人としてリップが登場する。 ;[[とびだせ どうぶつの森|とびだせ どうぶつの森 amibo+]] :ゲーム内で[[Newニンテンドー3DS]]の家具を入手するとミニゲーム「どうぶつの森パネポン」がプレイ可能になる。 :「パネポン村」の村長の座をかけて戦うという1人用ゲームで、パネルは果物をモチーフにした柄になっている。 == 登場キャラクター == 対戦プレイの際にはゲーム開始前に好みのキャラクターを選択する。キャラクターに能力差は付けられておらず、どのキャラクターを選択してもゲームの難易度は変わらない。 === パネルでポン / ヨッシーのパネポン === この並びはVS.COMでの登場順となる。ヨッシーキャラクターに変更される際は極力背景イメージに沿ったキャラクターが当てはめられた。*印の付いたキャラクターはゲームボーイ版には登場しない。 {| class="wikitable" !ステージ !style="background-color:#ffcccc;"|パネルでポン !style="background-color:#66cc66;"|ヨッシーのパネポン |- !主人公 |花の妖精 リップ (Lip)||[[ヨッシー]] (Yoshi)<br />チビヨッシー (Little Yoshi) |- !1 |風の妖精 ウィンディ (Windy)||[[ジュゲム]] (Lakitu)<br />*あほーどり (Goonie) |- !2 |氷の妖精 シャーベット (Sharbet)||ターくん (Bumpty)<br />*ゆきだるま (Dr.Freezegood) |- !3 |緑の妖精 ティアナ (Thiana)||ポチ (Poochy)<br />*おさる (Grinder) |- !4 |宝石の妖精 ルビー (Ruby)||[[ハナチャン|ハナちゃん]] (Flying Wiggler)<br />*にこプーフラワー(Eggo-Dil) |- !5 |水の妖精 エリアス (Elias)||ゲロゲーロ (Froggy)<br />*カニスキー (Clawdaddy) |- !6 |炎の妖精 フレア (Flare)||ビッグウンババ (Gargantua Blargg)<br />*[[ヘイホー|ボーボーヘイホー]] (Flamer Guy) |- !7 |海の妖精 ネリス (Neris)||ノモズ (Lunge Fish)<br />*[[プクプク]] (Flopsy Fish) |- !8 |月の妖精 セレン (Seren)||ビッグキューちゃん (Raphael Raven)<br />*[[ヘイホー]] (Shy-Guy) |- !9 |ビッグバード フェニックス (Phoenix)||[[ノコノコ|ビッグノコノコ]] (Hookbill Koopa) |- !10 |モンスター ドラゴン (Dragon)||[[パックンフラワー|ビッグパックン]] (Naval Piranha) |- !11 |魔王 サナトス (Sanatos)||[[カメック]] (Kamek)<br />*コカメック (Kamek's toady) |- !12 |女神 コーデリア (Corderia)||[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]] (Bowser) |} ;リップ :花の妖精。SFC版の主人公。まだまだ未熟な妖精であり、魔法を使ったり戦ったりするため自分専用の杖が必携。 :HARD以上のエンディングにて、実はコーデリアの娘だったことが明らかになる。 ;ウィンディ :リップが最初に戦う風の妖精。 ;シャーベット :氷の妖精。[[ボク少女|一人称は「ボク」]]。妖精たちの中では、最も幼い。 ;ティアナ :緑の妖精。森を愛しており、仲良しのリスたちと遊ぶのが大好き。 ;ルビー :宝石の妖精。唯一羽がある。面倒見がよく影のリーダーではないかという噂もあるが、本人にはその自覚がない。 ;エリアス :水を司るロマンチスト妖精。歌が得意。名前の由来は水瓶座(アクエリアス)。 ;フレア :男勝りで情熱的な炎の妖精。集中すると周りは目に入らない。曲がったことが大嫌いで、非常に短気。 ;ネリス :エリアスと仲良しの海の妖精。エリアス共々歌好き。人魚の姿をしている。 ;セレン :月の妖精。妖精たちのリーダーで、一番年上のお姉さん。名前の由来は[[セレーネー]]。 ;フェニックス :ビッグバード。妖精たちに全員勝利した後、最初のボスとしてリップ達の前に現れる。 ;ドラゴン :デス・マウンテンに潜む巨大なモンスターで、フェニックスの上司。その正体はコーデリアが生み出した幻。 ;サナトス :ステージクリアモードでも登場する悪の王。モンスターを率いる。その強大な力にはどんなモンスターも震え上がると言われる。 ;コーデリア :SFC版の最終ボスで、真の黒幕。サナトス率いるモンスター軍団を生み出し世界に災いを齎した上、妖精たちの醜い争いを巻き起こすなどポップルスを混乱に陥れた張本人。冷酷な性格で、本気を出せばサナトスをも圧倒する力を秘めている。1度もコンティニューせずにクリアすると、「私より強い妖精に出会えるなんて」と自身も元々は妖精であったことを示唆するような言葉を残す。 :その正体はポップルスの女王で、リップの母親。そして本作の事件は彼女が王位継承のために自ら作った幻であるサナトス率いるモンスターを操ってポップルスに災いを齎し、妖精達を試そうとしていたに過ぎず、自身に悪意はなかった。この為に取る仮の姿が最終ボスである「女神コーデリア」であり、本来の性格は非常に優しく、リップたちの活躍を素直に褒める誠実さも持っている。 === NINTENDOパズルコレクション パネルでポン / Pokémon Puzzle League === この並びはVS.COMでの登場順となる。この2作品間で背景やBGMの流用はされていない。Pokémon Puzzle Leagueのキャラクターはそれぞれ3匹のポケモンを持ち、対戦時に好みの1匹を選択する。 {| class="wikitable" !ステージ !style="background-color:#ffcccc;"|NINTENDOパズルコレクション<br />パネルでポン !style="background-color:#66ccff;"|Pokémon Puzzle League |- !主人公 |花の妖精 フリル (Furil)||サトシ (Ash)<br />ピカチュウ・ゼニガメ・フシギダネ |- !1 |氷の妖精 ティンク (Think)||シゲル (Gary)<br />クラブ・ガーディ・ニドラン♀ |- !2 |宝石の妖精 ピュア (Pure)||タケシ (Brock)<br />ロコン・イシツブテ・ズバット |- !3 |水の妖精 セシル (Cecil)||カスミ (Misty)<br />タッツー・コダック・ヒトデマン |- !4 |炎の妖精 レイア (Rayea)||マチス (Lt. Surge)<br />サンダース・ライチュウ・レアコイル |- !5 |風の妖精 ソフィア (Sophia)||エリカ (Erika)<br />モンジャラ・ウツドン・クサイハナ |- !6 |緑の妖精 リンゼ (Rinze)||キョウ (Koga)<br />モルフォン・ビリリダマ・ゴルバット |- !7 |海の妖精 ナティア (Nathia)||ナツメ (Sabrina)<br />ケーシィ・スリーパー・フーディン |- !8 |月の妖精 サラ (Sala)||カツラ (Blaine)<br />ウインディ・リザード・ブーバー |- !9 |太陽の王子 カイン (Kain)(ライオン (Lion))||ケンジ (Tracey)<br />マリル・コンパン・ストライク |- !10 |ドラゴン キックチョップ (KickChop)||[[ロケット団 (ポケットモンスター)|ロケット団]] (Team Rocket) <br />ムサシ (Jessie)、コジロウ (James)、ニャース (Meowth)<br />マタドガス・アーボック・ゴルバット |- !11 |マジシャン ジョーカー (Joker)||サカキ (Giovanni)<br />サンドパン・ペルシアン・ニドキング |- !12 |魔王 サナトス (Sanatos)||ヒロシ (Ritchie)<br />レオン(Sparky)、ジッポ(Zippo)、パピー(Happy) <br />*それぞれ手持ちのピカチュウ・ヒトカゲ・バタフリーにつけた名前。 |- !13 |女神 コーデリア (Corderia)||カンナ (Lorelei)<br />パルシェン・ジュゴン・ニョロゾ |- !14 |クジラのジルバ||シバ (Bruno)<br />イワーク・エビワラー・オコリザル |- !15 |魔女三姉妹 おばば<br />ミンギリ (Mingiri)、ヒンダリ (Hindari)、マンガリ (Mangari)<br /> *HARDをノーコンティニューでステージ14までクリアするか、S- HARD以上をクリアすると出現。||シゲル (Gary) <br />キングラー・ウインディ・ニドクイン<br />*手持ちのポケモンを進化させ再登場。 |- !16 |*ステージ16は無し||ミュウツー (Mewtwo)<br />ピカチュウ・ゼニガメ・フシギダネのクローン |} ;フリル :花の妖精。GC版の主人公。リップの娘で、母のものと同じ杖を持っている。姿はリップと瓜二つ。 ;ティンク :氷の妖精。いたずら好きのおしゃまさん。お団子ヘアが特徴。 ;ピュア :宝石の妖精。明るくおちゃめな性格。ティンクと仲が良い。 ;セシル :水の妖精。おっとりしていてロマンチストで、歌が大好き。 ;レイア :炎の妖精。名前の由来はギリシャ神話の大地の女神[[レアー]]。 ;ソフィア :風の妖精。優しくて面倒見がよく、雲に乗っている。瞳は角度で色が変わる。 ;リンゼ :緑の妖精。知的で動物の言葉を話せる。 ;ナティア :海の妖精。海のように広い心を持つ、みんなのお母さん的存在。ネリスと同じく人魚の姿をしている。 ;サラ :月の妖精。フリルの代では一番年上のお姉さん。 ;カイン :太陽の王子。唯一の男の子の妖精である。おばばの策略で醜いライオンの姿になってしまう。 ;キックチョップ :二つ首のドラゴンのボス。砦を守っている。 ;ジョーカー :ピエロの姿をしたボス。笛を吹いている。 ;サナトス :前作に続きステージクリアモードでボスを務める。本作では容姿と設定が少し変わっている。 ;ジルバ :ポップルスで幸せの象徴とされる伝説の鯨。おばばに目玉を奪われ暴走し、手がつけられなくなってしまう。 ;おばば(ミンギリ、ヒンダリ、マンガリ) :GC版の黒幕。老齢の魔女三姉妹。悪の根源とされる。美しい女神コーデリアに化けて「聖なる目玉」を奪い世界を支配しようとするが、却ってジルバが制御できなくなったため、ジルバを正気に戻し世界を救ったフリルにその怒りをぶつける。 ;サトシ :ポケットモンスターの主人公。マサラタウン出身。世界一のポケモンマスターを目指すため、相棒のピカチュウと共に旅をしている。 ;シゲル :サトシのライバルで、オーキド博士の孫である。 ;タケシ :サトシの旅の仲間。ニビジムのジムリーダー。岩タイプの使い手。ポケモンブリーダーを目指している。 ;カスミ :サトシの旅の仲間。ハナダジムのジムリーダーで、4姉妹の末っ子。水タイプの使い手で、水ポケモンマスターになるのが夢。 ;マチス :クチバシジムのジムリーダー。電気タイプの使い手。 ;エリカ :タマムシジムのジムリーダー。草タイプの使い手。 ;キョウ :セキクチジムのジムリーダー。毒タイプの使い手。 ;ナツメ :ヤマブキジムのジムリーダー。エスパータイプの使い手。 ;カツラ :グレンジムのジムリーダー。炎タイプの使い手で、クイズが大好き。 ;ケンジ :サトシの旅の仲間で、ポケモンウォッチャー。 ;ロケット団(ムサシ・コジロウ・ニャース) :珍しいポケモンを狙う悪の組織。ニャースは人語を話せる上に、ポケモンの通訳ができる。 ;サカキ :トキワジムのジムリーダーで、ロケット団のボス。地面タイプの使い手で、ペルシアンをペットにしている。 ;ヒロシ :サトシのもう一人のライバル。相棒はピカチュウのレオン。 ;カンナ :四天王の一人。氷タイプの使い手。 ;シバ :四天王の一人。格闘タイプの使い手。 ;ミュウツー :本作の最終ボスの伝説のポケモン。コピーポケモンを操る。性格や設定は『[[劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲|ミュウツーの逆襲]]』のものに近い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典・参考文献 === <div class = "references-small"> <references/> </div> == 外部リンク == * [https://www.intsys.co.jp/game/panepon/ インテリジェントシステムズ パネルでポンホームページ] * 任天堂ホームページ内 ** [https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/p_aylj/ パネルでポン] ** {{Wiiバーチャルコンソール|pa}} ** [https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000001545 パネルでポン] - Wii Uバーチャルコンソール ** [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000041035 パネルでポン] - New 3DSバーチャルコンソール ** [https://www.nintendo.co.jp/clvs/soft/panel.html パネルでポン] - ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン ** [https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/aylj/ ヨッシーのパネポン] ** [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000018033 ヨッシーのパネポン(ゲームボーイ版)] - 3DSバーチャルコンソール ** [https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/bpnj/ ポケモンでパネポン] ** [https://www.nintendo.co.jp/ngc/gpzj/panepon/ NINTENDOパズルコレクション パネルでポン] ** [https://www.nintendo.co.jp/n08/bzpj/ Dr.MARIO & パネルでポン] ** [https://www.nintendo.co.jp/ds/a8nj/ パネルでポンDS] ** [https://www.nintendo.co.jp/ds/dsiware/kpnj/ ちょっとパネルでポン] * [https://www.pokemon.co.jp/game/other/gbc-panepon/ ポケットモンスターオフィシャルサイト ポケモンでパネポン] * Pokemon.com {{En icon}} ** [https://www.pokemon.com/us/pokemon-video-games/pokemon-puzzle-league/ Pokémon Puzzle League] ** [https://www.pokemon.com/us/pokemon-video-games/pokemon-puzzle-challenge/ Pokémon Puzzle Challenge] * Nintendo of Europe {{En icon}} ** [https://www.nintendo.co.uk/Games/Nintendo-64/Pokemon-Puzzle-League-269657.html Pokémon Puzzle League] ** [https://www.nintendo.co.uk/Games/Virtual-Console-Wii-/Pokemon-Puzzle-League-278579.html Pokémon Puzzle League] - Wiiバーチャルコンソール ** [https://www.nintendo.co.uk/Games/Game-Boy-Color/Pokemon-Puzzle-Challenge-266098.html Pokémon Puzzle Challenge] ** [https://www.nintendo.co.uk/Games/Game-Boy-Advance/Dr-Mario-Puzzle-League-266595.html Dr. Mario & Puzzle League] ** [https://www.nintendo.co.uk/Games/Nintendo-DS/Puzzle-League-DS-272629.html Puzzle League DS] {{任天堂|ハードウェア・主要ソフトシリーズ}} {{ヨッシーシリーズ}} {{ドクターマリオ}} {{ポケットモンスター|ゲーム}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header= |redirect1=ヨッシーのパネポン |1-1=ヨッシーシリーズのコンピュータゲーム |1-2=1996年のコンピュータゲーム |1-3=ゲームボーイ用ソフト |1-4=スーパーファミコン用ソフト |1-5=サテラビュー放送番組 |1-6=ニンテンドウパワー書き換えソフト |1-7=ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト |redirect2=ポケモンでパネポン |2-1=ポケットモンスターのスピンオフゲーム |2-2=2000年のコンピュータゲーム |2-3=ゲームボーイ用ソフト }} {{DEFAULTSORT:はねるてほん}} [[Category:アクションパズル]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:スーパーファミコン用ソフト]] [[Category:1995年のコンピュータゲーム]] [[Category:サテラビュー放送番組]] [[Category:ニンテンドウパワー書き換えソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Newニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:スーパーファミコン Nintendo Switch Online収録ソフト]] [[Category:任天堂のゲームソフト]] [[Category:インテリジェントシステムズのゲームソフト]] [[Category:妖精を題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
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十五年戦争
十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年のポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月)にわたる日本の対外戦争、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間を一括する呼称のこと。中国では田中メモリアルが史実の公式文書として扱われているので「十四年抗戦」の呼称が使われる。 「十五年戦争」の呼称は、鶴見俊輔が1956年に「知識人の戦争責任」(『中央公論』1956年1月号)のなかで使用したのが最初とされ、昭和40年以降、一部で使用されるようになり、1980年代に江口圭一が広めるのに大きな役割を果たした。その後、昭和50年代頃からアジア・太平洋戦争の名称の使用が増加した。 鶴見俊輔は、1. 満洲事変:1931年9月18日 〜、2. 日中戦争:1937年7月7日 〜、3. 太平洋戦争:1941年12月8日 〜、の三段階に分けている。 江口圭一は、著書『十五年戦争小史』で、「十五年戦争」の第一段階を1931年9月18日以降の柳条湖事件を発端とする満洲事変、第二段階を1937年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中戦争または日中全面戦争、第三段階を1941年12月8日の真珠湾攻撃・マレー作戦を発端とするアジア・太平洋戦争とし、さらに第一段階を1933年5月31日の塘沽停戦協定を境に狭義の満洲事変と華北分離という二つの小段階に区分している。また、満洲事変からアジア・太平洋戦争下の中国戦線を含む「広義の」日中戦争と盧溝橋事件からアジア・太平洋戦争開始までの「狭義の」日中戦争とに言及している。 日本の対外膨張戦略の連続性を重視する歴史認識に基づく名称であるが、この連続史観への反論もあり、満洲事変から盧溝橋事件までの4年間は大規模な軍事行動が行われていないことや、満洲事変はそれまでのヴェルサイユ体制の終わりであって、満洲事変〜日中戦争〜太平洋戦争を一体のものとみなすことには批判もある。また、正味13年11か月を15年とすることへの異論もある。 このほか、ペリー来航から大東亜戦争(太平洋戦争)までをアジアに侵略してきた白人勢力に対する日本の反撃として一体のものとする林房雄の「東亜百年戦争」、日清戦争から太平洋戦争までを一体のものとする本多勝一の「50年戦争」といった見解・呼称があり、猪木正道は、近代化に成功した日本が軍国主義化をすすめた展開を日清戦争から日中戦争までとみなしている。江口圭一は、日露戦争から太平洋戦争直前までの期間を、1. 日露戦争から第一次世界大戦まで(1905-1918年)の14年間、2. 1919-1931年の満洲事変までの12年間、3. 1931年の満洲事変開始から1941年の対英米戦争までの11年間、の三つの時期に区分している。
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十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年のポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月)にわたる日本の対外戦争、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間を一括する呼称のこと。中国では田中メモリアルが史実の公式文書として扱われているので「十四年抗戦」の呼称が使われる。
'''十五年戦争'''(じゅうごねんせんそう)とは、[[1931年]]9月18日の[[柳条湖事件]]勃発から[[1945年]]の[[ポツダム宣言]]受諾([[日本の降伏]])までの足掛け'''15年'''('''実質13年11カ月'''<ref>歴史教育者協議会編『ちゃんと知りたい!日本の戦争ハンドブック』青木書店、2006年8月、ISBN 4-250-20621-1、115頁。</ref>)にわたる日本の対外戦争、[[満洲事変]]、[[日中戦争]]、[[太平洋戦争]]の全期間を一括する呼称のこと<ref name="総合事典750">「大東亜戦争」秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 [第2版]』東京大学出版会、2005年8月15日 第2版第1刷、ISBN 4-13-030135-7、750頁。</ref>。中国では[[田中上奏文]]が史実の公式文書として扱われているので'''「十四年抗戦」'''の呼称が使われる<ref>{{Cite web|title=中國修改教科書,「八年抗戰」變「十四年抗戰」|url=https://cn.nytimes.com/china/20170112/china-japan-textbooks-war/zh-hant/|website=紐約時報中文網|date=2017-01-12|accessdate=2021-04-20|language=zh-cmn-hant|last=赫海威2017年1月12日}}</ref>。 == 概要 == 「十五年戦争」の呼称は、[[鶴見俊輔]]が[[1956年]]に「[[知識人]]の[[戦争責任]]」(『中央公論』1956年1月号)のなかで使用したのが最初とされ、昭和40年以降、一部で使用されるようになり<ref name="総合事典750"/>、1980年代に[[江口圭一]]が広めるのに大きな役割を果たした<ref name="安井">[[安井三吉]][https://www.spc.jst.go.jp/cad/literatures/4436 「「十五年戦争」と「アジア・太平洋戦争」の呼称の創出とその展開について」]『現代中国研究』第37号、中国現代史研究会、2016年5月12日、81~99頁。</ref>。その後、昭和50年代頃から[[アジア・太平洋戦争]]の名称の使用が増加した<ref name="総合事典750"/>。 == 段階 == 鶴見俊輔は、1. 満洲事変:[[1931年]][[9月18日]] 〜、2. 日中戦争:[[1937年]][[7月7日]] 〜、3. 太平洋戦争:[[1941年]][[12月8日]] 〜、の三段階に分けている。 [[江口圭一]]は、著書『十五年戦争小史』で、「十五年戦争」の第一段階を1931年9月18日以降の柳条湖事件を発端とする満洲事変、第二段階を1937年7月7日の[[盧溝橋事件]]を発端とする日中戦争または日中全面戦争、第三段階を1941年12月8日の[[真珠湾攻撃]]・[[マレー作戦]]を発端とするアジア・太平洋戦争とし、さらに第一段階を1933年5月31日の[[塘沽停戦協定]]を境に狭義の満洲事変と[[華北分離工作|華北分離]]という二つの小段階に区分している<ref name="江口11-14">江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1991年5月25日 第2版第1刷発行、ISBN 4-250-91009-1、11〜14頁。</ref>。また、満洲事変からアジア・太平洋戦争下の中国戦線を含む「広義の」日中戦争と盧溝橋事件からアジア・太平洋戦争開始までの「狭義の」日中戦争とに言及している<ref name="江口11-14"/>。 == 反論、異論、評価 == 日本の対外膨張戦略の連続性を重視する歴史認識に基づく名称<ref>[[山田朗]]「十五年戦争」『日本歴史大事典―2 こ~て』小学館、2000年10月20日 初版第1刷発行、ISBN 4-09-52300-29、451頁。</ref>であるが、この連続史観への反論もあり<ref name="総合事典750"/>、満洲事変から盧溝橋事件までの4年間は大規模な軍事行動が行われていないことや、満洲事変はそれまでの[[ヴェルサイユ体制]]の終わりであって、満洲事変〜日中戦争〜太平洋戦争を一体のものとみなすことには批判もある<ref>阿川弘之、中西輝政、福田和也、猪瀬直樹、秦郁彦『二十世紀日本の戦争 <文春新書 112>』文藝春秋社、2000年7月20日 初版発行、ISBN 978-4-16-660112-7、68~72頁。</ref><ref>石大三郎[http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf02/2-31-2001-Ishi.pdf 「盧溝橋事件への一考察」]『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』No. 2, pp. 31-41. (2001)</ref>。また、'''正味13年11か月を15年とすること'''への異論もある<ref name="総合事典750"/>。 このほか、[[黒船来航|ペリー来航]]から[[大東亜戦争]](太平洋戦争)までを[[アジア]]に侵略してきた[[白人]]勢力に対する日本の反撃として一体のものとする[[林房雄]]の「東亜百年戦争」<ref>林房雄『大東亜戦争肯定論』{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>、[[日清戦争]]から太平洋戦争までを一体のものとする[[本多勝一]]の「50年戦争」<ref>本多勝一『大東亜戦争と50年戦争』朝日新聞社、1998年、208~209頁。</ref>{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=68}}といった見解・呼称があり、[[猪木正道]]は、近代化に成功した日本が[[軍国主義]]化をすすめた展開を日清戦争から日中戦争までとみなしている<ref>猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1。{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。江口圭一は、日露戦争から太平洋戦争直前までの期間を、1. [[日露戦争]]から[[第一次世界大戦]]まで(1905-1918年)の14年間、2. 1919-1931年の満洲事変までの12年間、3. 1931年の満洲事変開始から1941年の対英米戦争までの11年間、の三つの時期に区分している<ref name="江口3-6">[[江口圭一]] 「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、41~43頁。</ref>。<!--第一期の日本は日露戦争の勝利によって世界8大強国の一員となり、[[イギリス]]と[[ロシア]]の間で膨張する。第二期には第一次世界大戦の戦勝国として世界5大国また3大国のひとつとなり軍事大国となるが、戦後[[ワシントン体制]]に順応し、米英協調路線によって安泰を図った。第三期には中国権益を保持するために干渉する英米への依存打破をめざし、ワシントン体制に挑戦し、米英との全面戦争に至る<ref name="江口3-6"/> ---> == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=江口圭一|authorlink=江口圭一 |title=十五年戦争小史 |year=1991-05-25 (第2版第1刷)|publisher=青木書店 |series= |isbn=4-250-91009-1 |ref=江口 (1991)}} * {{Cite book |和書 |author=臼井勝美|authorlink=臼井勝美 |title=日中戦争-和平か戦線拡大か- |year=2000-04-25 |publisher=中央公論新社 |series= 中公新書 1532 |isbn=4-12-101532-0 |ref=臼井 (2000)}} * {{Cite book |和書 |author=小林英夫|authorlink=小林英夫 (経済学者) |title=日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ |year=2007-07-20 |publisher=講談社 |series=講談社現代新書 1900 |isbn=978-4-06-287900-2 |ref=小林 (2007)}} * {{Cite web|和書|author=庄司潤一郎 |url=http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j13-3_3.pdf |title=日本における戦争呼称に関する問題の一考察 |year=2011 |accessdate=2014-02-02 |format=PDF |work=防衛研究所紀要 第13巻第3号 (2011年3月) |publisher=防衛研究所 |ref=harv }} == 関連項目 == *[[大戦景気|戦争景気]] *[[太平洋戦争の年表]] *[[ハプスブルク帝国]]によるハンガリー平定戦争である1593~1606年の{{仮リンク|長期戦争|fr|Longue Guerre|label=所謂「長期戦争」}}を13年戦争と呼ぶことがあるが、15年戦争と呼ぶこともある。英語版=[[:en:Fifteen Years War]]、仏語版=[[ :fr :Guerre de Quinze Ans]]。<!--英語版では、1592年の[[オスマン帝国]]のビフケ要塞 ([[ビハチ]])を巡る戦いである{{仮リンク|ビハチ包囲戦|Siege of Bihać (1592)|label=ビフケ包囲戦]](ビハチ包囲戦は[[:en:Siege of Bihać]]があるのでSiege of Bihkeにしておく)を加えて15年とか書いてありますが、ソースを探してみましたが発見できませんでした。---> == 外部リンク == *[https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89/ 十五年戦争] - [[Yahoo!百科事典]] {{デフォルトソート:しゆうこねんせんそう}} [[Category:昭和時代の戦争]] [[Category:日本の呼称問題]]
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マザー・グース
マザー・グース/マザーグース (英:Mother Goose ) とは、イギリスで古くから口誦によって伝承されてきた童謡や歌謡の総称で通称。英米で広く親しまれている。元来は「マザーグースの歌(英:Mother Goose's rhymes)」といった。 著名な童謡は特に17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まった。現在ではイギリス発祥のものばかりでなく、アメリカ発祥のものも加わり、600から1000以上の種類があるといわれている。英米では庶民から貴族まで階級の隔てなく親しまれており、聖書やシェイクスピアと並んで英米人の教養の基礎となっているともいわれている。現代の大衆文化においてもマザーグースからの引用や言及は頻繁になされている。 なお、「童謡」全般を指す英語としては、「子供部屋の歌」を意味する「ナーサリーライム (nursery rhyme)」[ 語構成:nursery(〈家庭の〉子供部屋)+ rhyme(脚韻)]を用いるのが通例ではある。「ナーサリーライム」が新作も含む包括的語義であるのに対し、「マザーグースの歌」、略して「マザーグース」は、伝承化した童謡のみに用いられる点に違いがあると考えられる。後述するように「マザーグース」が童謡の総称として用いられるようになったのは18世紀後半からであるが、それに対して「ナーサリーライム」が童謡の総称に用いられるようになったのは1824年のスコットランドのある雑誌においてであり、「ナーサリーライム」のほうが新しい呼称である。 英語の童謡は古くから存在したが、それらに対して "Mother Goose" という語が定着するのは18世紀後半以降である。直訳では「鵞鳥(がちょう)かあさん」とでも表現すべきこの語は、同じ意味のフランス語 "Ma Mère l'Oye(日本語音写例:マ・メール・ロワ)"の意訳語であったと考えられる。 1697年、フランスの詩人で作家のシャルル・ペローが8つのおとぎ話をまとめた童話集『昔ばなし(フランス語版)(Histoires ou contes du temps passé )』をパリで出版した。それを1729年にイギリス人作家ロバート・サンバー(英語版)が英訳し、"Histories, or Tales of Past Times" と題して母国に紹介した。その本の口絵(■右に画像あり)は原著の口絵(■右に画像あり)と同じ趣旨で描かれている。暖炉のある部屋で糸車を回しながら幼子と若者に昔話を語って聞かせるお婆さんの様子を表現しているのであるが、原著の口絵にある分厚い木製扉の高い位置に取り付けられている飾り板には「鵞鳥かあさんのお話」を意味する "contes de ma mère l'oye(音写例:コントゥ・ドゥ・マ・メール・ロワ、コント・ド・マ・メール・ロワ、英訳:tales of mother goose )" というフランス語が記されており、英訳本では、この部分を同じ意味になるよう "mother goose's tales(音写例:マザー・グースィズ・テイルズ)" と言い換え、同書の副題(サブタイトル)にも採用した。のちにこのフレーズは本の表題(メインタイトル)に使われることにもなる。これが、以後 "Mother Goose" として固有名詞化してゆく英語フレーズの初出であった。後述する伝説上の人物としての Mother Goose も全き同根語である。 サンバーの英訳本は18世紀中に何度も増刷されて広く読まれている。アメリカでは世紀末の1794年になってようやく出版された。そして、こうしたことを背景に "Mother Goose" という言葉はまずはイギリスの人々に親しみをもって受け容れられ、伝承童話や童謡と結び付けられるようになっていったと考えられている。 1765年には、世界初の児童書専門出版者として名の知られたロンドンのジョン・ニューベリー(英語版)によって『マザーグースのメロディ(原題:Mother Goose's Melody )』と題する童謡集が出版され、以後、同じような童謡集や伝承童謡に対して "Mother Goose" という語を用いる慣行が普及・定着していった。 古来、フランスでは鵞鳥は民話や童話に頻繁に取り上げられる動物であり、また、イギリスでも家禽として重宝される動物であった。おとなしく比較的世話が楽なこの水鳥の面倒は各家庭のお婆さん(祖母やその他の老婆)の受け持ちというのが通例で、また、時間を持て余しているお婆さん(とにかく老婆)はしばしば伝承童話や童謡の担い手でもあることから、「鵞鳥」「童話・童謡」「お婆さん」という3つの要素が結び付いたものと考えられる。 つまり、言葉としては "mother(母さん)" を残したまま、"goose(鵞鳥)" が "grandma(婆さん)" を引き寄せたことで、その実、「母さん」のイメージは「婆さん」に置き換えられたということになる。 右に示した画像は、19世紀のフランス人画家ギュスターヴ・ドレがシャルル・ペローの童話集『昔ばなし』に自筆の41枚のエッチングを添えた昔ばなし "Les Contes de Perrault " 1866年エディションにおける、口絵の一つである。原語(フランス語)の呼称からは、孫たちに囲まれたお婆さんがペローの童話を読み聞かせている場面をイメージしていることが分かる。しかし、英語では「書かれたおとぎ話を読み聞かせるマザーグース」と名付けられている一図である。ここでは、いつも読み聞かせてくれるのは(わたしたちの)優しいお婆さんであり、わたしたちの優しいお婆さんはマザーグースなのである。 Mother Goose(マザー・グース)は、上述のような童謡や童謡集の伝説上の作者として紹介されることもある。英和辞典でも童謡の総称としてよりもこちらの説明を載せている例がある。例えば『英辞郎』の場合、Mother Goose を「Mother Goose's Talesを書いたとされる想像上の人物」としており、語源については「フランス語のcontes de ma mere l'oye(=tales of mother goose)の翻訳から」と説明している。そして、件の童謡の総称としての Mother Goose については、その次の説明で "Mother Goose rhyme(音写例:マザー・グース・ライム)" と呼び分けている。加えて、人名としての Goose, Mother を参照するよう促しており、つまりこれが意味するところは、Goose がファミリーネーム(家名)で Mother Goose は「グ-ス家の母」といったような二つ名(通称)ということである。 また、後述する鵞鳥に乗る魔女めいた人物を第1義に挙げる辞事典も珍しくない。その筆頭に挙げてもよい例は『ブリタニカ百科事典』であり、第1義に「架空の老女」を挙げ、続けてその特徴を説明してゆくが、内容は鵞鳥に乗って空を飛ぶ魔女のそれである。ペローに始まり、サンバー、ニューベリーと繋がる歴史的経緯については、第2義的位置付けで説明される。 伝説上の人物としてのマザー・グースは、鵞鳥(がちょう、domestic goose)もしくは家鴨(あひる)の背に乗ってどこへでも自由に飛んでゆく老婆あるいは魔女として描かれている。このような如何にも老婆で魔女めいたマザー・グースは「オールド・マザー・グース (Old Mother Goose)」と呼ばれることもある。 オールド・マザー・グースというキャラクターは、1806年、ロンドンにあるドゥルリー・レインの王立劇場「ドゥルリーレイン・シアター・ロイヤル(英語版)」で初演されたトマス・ディブディン(英語版)脚本によるパントマイム『ハーレクィンとマザー・グース、あるいは黄金のたまご(原題:Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg )』で初めて描写され、この劇が成功したことによって定着したものである。右列に示した画像は、"Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg" のチャップブックとして1860年代に刊行された "Old Mother Goose and the Golden Egg" で、タイトルに冠されているのと同様、表紙にはオールド・マザー・グースの典型的イメージが大きく描かれている。 ダン・レノ(英語版)は、ヴィクトリア朝時代後期における大英帝国の音楽ホールを代表するコメディアンでミュージカルシアターの俳優であるが、オールド・マザー・グースとはまた違った人物としてのマザー・グースを多く演じたことでもよく知られている。 「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「「雁おばさん」(英語名マザー・グース)や「ペドーク女王」(雁足の女王)に代表される...「鳥女」...は、ケルトの神話伝承の要である大女神を淵源としている」と論じている(渡邉浩司・渡邉裕美子)。 一時期、アメリカでは「マザー・グースは実在するアメリカ人である」という説が広まった。その説によれば、マサチューセッツ州ボストンのチャールズタウンで1665年に生まれたエリザベス・フォスター (Elizabeth Foster) という女性がいて、1682年に17歳でアイザック・グース(Isaac Goose。家名の異説1:バーグース;Vergoose 、異説2:バーティグース;Vertigoose )という男性の後添えとして結婚し、それ以降はエリザベス・グースを名乗ったとも、夫の家名を加えてエリザベス・フォスター・グースを名乗ったとも伝えられている。夫婦は6人の子供を儲け、4人を無事に育て上げたという。18世紀初頭になると、エリザベスは孫達に童謡を語って聞かせるお婆さんになっていた。彼女は夫に先立たれたのち、1719年に英語の童謡集『子供たちのためのマザー・グースのメロディ』という本を出版し、ここから「マザー・グース」が伝承童謡の総称として広まったというのである。1758年死去(93歳没)。この説は後述する北原白秋も自著『まざあ・ぐうす』の端書(はしがき)で事実として触れている。 1690年に42歳で亡くなったという生年不明でボストン住まいのメアリー・グース (Mary Goose) なる別の女性を挙げる異伝もあるが、メアリーの情報にはおかしな所があり、左に画像で示した墓碑銘にあるとおりの1690年に亡くなったのなら、1719年に本を出すことは叶わない。したがって、有力視されてきたのはエリザベスのほうで、メアリーに言及しない資料が多い。 しかしながら、そもそもが全て作り話であった。その事実は、エリザベスの曾孫に当たるジョン・フリート・エリオット (John Fleet Eliot) という人物によって明らかにされた。上述のようなタイトルの書物は存在せず、1860年にボストンの新聞に匿名で投書されたことから広まったということであった。 前述のように "Mother Goose" という言葉が童謡集の題名として用いられたのは、ジョン・ニューベリーが1780年に刊行した『マザーグースのメロディ』が最初である。同書は52篇の童謡を収めており、このうち23篇は(確認できる限りでは)この本が文献初出となっている。ただし、この52篇の中にはニューベリーと親しかった作家オリヴァー・ゴールドスミスの創作が相当数混じっているのではないかという説もある。なお、現存が確認できている最古の同書は1791年刊行のものである。 一方、現存最古のマザーグース集はと言えば、ロンドンで1744年5月に刊行されたポケット本 (7.6 x 4.4 cm) 、『トミー・サムの可愛い唄の本(英語版) (Tommy Thumb's Pretty Song Book)』がそれである(■画像あり)。この本は Vol.II(第2巻)と記されており、現物は確認されていないものの同1744年3月に出版されたらしい『トミー・サムの唄の本(英語版) (Tommy Thumb's Song Boo)』の続篇と考えられている。 『トミー・サムの可愛い唄の本』には39篇の童謡が収められており、そのなかには「めえめえ黒ひつじ」「ぼくたち、わたしたち」「てんとう虫、てんとう虫」「6ペンスの唄」「ロンドン橋落ちた」など、今日でもよく知られている童謡が確認できる。 編著者名は巻末に "Nurse Lovechild" と記載されているのみであるが、巻頭ページに出版者としてメアリー・クーパー(英語版) (? - 1761) の名があり、編著者も恐らくは彼女であろうと考えられている。 19世紀半ばには、文献学者ジェームズ・ハリウェルの『イングランドの童謡 (Nursery Rhymes of England )』(1842年刊)により、数多くのマザーグースの童謡が渉猟された。それは初版で299、最終的には600あまりに上った。ハリウェルの集成はより学問的な方法に基づいており、個人の創作らしきものを注意深く排除し、集めた童謡を「歴史的」「文字遊び」「物語」など18の項目(初版では14)に分類したうえで解説と注釈を施している。この書物は同著者の『イングランドの俗謡と童話 (Rhymes & Nursery Tales of England )』(1849年)とともに、以後100年あまりの間イギリスの伝承童謡の唯一の典拠となっていた。 20世紀半ばになると、オーピー夫妻(英語版)による集成『オックスフォード版 伝承童謡辞典 (Oxford Dictionary of Nursery Rhymes)』(1951年刊)、『オックスフォード版 伝承童謡集 (Oxford Nursery Rhyme Book)』(1955年刊)、『学童の伝承とことば (Lore and Language of Schoolchildren)』(1959年刊)が相次いで著され、これらが以降の時代におけるマザーグース集成の決定版と見なされるようになった。 前述のように19世紀のマザーグース集はすでに600を超える童謡を収録していたが、現代のマザーグース集の収録作を合わせ重複分を除くとその数は1000を超える。その種類も、「ハンプティ・ダンプティ」のようななぞなぞ唄 (riddle、cf. wikt)、「ハッシャバイ・ベイビー」のような子守唄 (lullaby, cf. wikt)、「ロンドン橋落ちた」のように実際の遊びに伴って唄われる遊戯唄 (game song)、「ピーター・パイパー」のような早口言葉 (tongue-twister, cf. wikt)、「ジャックとジル」のようなバラッド(物語歌、ballad、cf. wikt)、「これはジャックが建てた家」のように一節ごとに行が増える積み上げ唄 (cumulative song)、「月曜日に生まれた子供は」のような覚え歌(暗記歌、mnemonic rhyme)、そのほか、呪文・まじない (magic song) 、物売り口上、悪口歌、歳事歌、ナンセンス歌、それから、残酷な歌など、分類が困難なほど多様性に富んでいる。全体的な特徴としては、残酷さのあるものやナンセンスなものが多いということが挙げられる。また、マザーグースは「伝承童謡」と訳されているものの、実際には特定のメロディを持たないものも多く、メロディにのせて唄うためばかりでなく「読むための唄」「読んで聞かせる唄」の側面も強く持っている。 ナーサリーライムという名のとおり、脚韻(rhyme;ライム、wikt)を踏み、人気のマザーグースの「ハバードおばさん」のように、日本語に直訳すればまったく面白みがないナンセンス・ライムの魅力とその絶大な人気は、その世界を言葉で出力するのではなく、歌の脚韻を合わせることで奇妙な世界が次々と展開する面白さに起因する。また、脚韻だけではなく「ピーター・パイパー」のように頭韻 (alliteration) を使った歌もある。 マザーグースに数えられる童謡の多くはイギリス発祥であるが、「メリーさんのひつじ」のようにアメリカ発祥の著名なマザーグースもある。伝承であるために作者が分かっていないものも多いが、「きらきら星」や「10人のインディアン」のように、作者のはっきりしている新作童謡がのちに伝承化してマザーグースに加えられるケースもある。人物としてのマザー・グースを主題とした唄である「オールド・マザー・グース (Old Mother Goose)」は、もともとは1815年ごろに出版されたチャップブック向けの韻文物語であったものが、マザー・グースそのものが主題であったためによく親しまれて伝承化した例である。また、作者不明の古い唄には、羊毛に関する12世紀イングランドの諸政策あるいは15世紀の囲い込みを唄っているのではないかといわれる「めえめえ黒ひつじ」、16世紀イングランドにおけるヘンリー8世のイギリス宗教改革(英語版)(カトリック修道院の解散を含む)とジェントリ(イギリスにおける新興中産階級)の誕生が背景にあるといわれる「ジャック・ホーナーくん」、エリザベス1世の死去に始まりイングランドとスコットランドの同君連合成立まで続いた1603年の対立を反映しているのではないかといわれる「ライオンとユニコーン」など、歴史的な出来事に関連して発生したと推測されているものもある。 マザーグースはイギリスにおいては身分・階層を問わず広く親しまれており、このことを言い表すのに「上は王室から下は乞食まで」という言葉も使われる。王室関係者がマザーグースに親しんでいることを示す出来事として、ヴィクトリア女王(1819 - 1901、在位:1837 - 1901)が庶民の子供と「子猫ちゃん子猫ちゃん」を巡ってやりとりをしたというエピソードや、チャールズ3世 (1948 - ) が生まれた際、貴族院のメンバーが「月曜日に生まれた子供は」にちなんだ祝いの言葉を述べたというエピソードも伝えられている。庶民に親しまれている代表例としては、イギリス各地でいくらでも見つけることができるマザーグースの童謡の名前にちなんだ店名をもつパブがある。パブ「キャット・アンド・フィドル」とあれば、それは「ヘイ・ディドゥル・ディドゥル」の別名である。 マザー・グースの引用や登場人物、またそれにちなんだ言い回しは、近代から現代にいたる英米の社会において、新聞、雑誌、広告、小説、漫画、映画、ラジオ、テレビ、ポピュラーソングなど様々な分野のなかに広く見ることができる。文学においてはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』が物語のなかにマザーグースを用いたことでよく知られており、前者に「ハートの女王」、後者に「トゥイードルダムとトゥイードルディー」「ハンプティ・ダンプティ」「ライオンとユニコーン」を登場させ、いずれも個性的に描き出している。ほかにも、『メアリー・ポピンズ』『秘密の花園』『指輪物語』など、児童文学やファンタジーの古典にもマザーグースの引用例は多い。 ミステリー/ミステリの分野では、「10人のインディアン」をモチーフとして連続殺人が行われるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(イギリスにて1939年刊行)、「誰がこまどりを殺したの?」など4つの童謡の詩句に沿って連続殺人が行われるヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(アメリカにて1929年刊行)などを初めとして、多数の「マザーグース・ミステリー / マザーグース・ミステリ」(cf. Category:マザー・グースを題材にしたミステリ)がある。 既知で最初の日本語訳(および、日本の最初の日本語訳)は、村井元道の訳業で、出版者・三浦源助の下から1881年(明治14年)に出された自習書『ウヰルソン氏第二リイドル直訳』に所収の、「小サキ星ガ輝クヨ輝クヨ」で始まる「第14章 小サキ星ガ輝ク」であり、これは "Twinkle, twinkle, little star; Twinkle, twinkle, little star; " で始まる "Twinkle, Twinkle, Little Star "(現在の邦題:きらきら星)の直訳であった。 また、アメリカ人宣教師にして保育者・教育者でもあったアニー・ライオン・ハウ (1852 - 1943) は、幼児教育に関する教科書の無い時代にあってその作成に尽力したが、その活動の一環で撰して訳した『幼稚園唱歌』(1892年〈明治25年〉5月30日刊)は、マザーグースから採った「きらきら(現在の邦題:きらきら星)」と「我小猫を愛す」の2篇を所収しており、1987年の時点ではこれが日本における初訳とされていた。なお、2篇とも抜粋に抜粋を重ねて再構成した部分訳である。 明治の終わりから大正時代にかけては、画家で詩人の竹久夢二も翻訳あるいは翻案に取り組んでいる。夢二はおそらく添えられているイラストから興味を持ち始めて自分で訳すようになったものと考えられ、1910年(明治43年)11月刊行の画文集『さよなら』に収録した物語のなかに「誰がこまどりを殺したの?」の訳と「ロンドンへ(現在の邦題:子猫ちゃん子猫ちゃん)」を入れて以降、さまざまなマザーグースを訳出している。ただし夢二は翻訳であるという断りをいれずに訳して自分の創作詩といっしょに扱ったりしており、翻訳というより翻案に近いようなものもある。一例として1919年(大正8年)の自著である児童書『歌時計』に所収の「蜘蛛」(96 - 97頁)は「マフェットちゃん」に対応しているが、男の子ジャックが木の上から落ちてきた干葡萄(ほしぶどう)を食べようとしたところ蜘蛛だったという、オリジナルとは異なる展開になっており、これは今でいう二次創作の範疇にある。 初期の訳業で最も重要な人物は北原白秋で、大正時代に『まざあ・ぐうす』を出版している。白秋による訳は、まず児童雑誌『赤い鳥』の1920年(大正9年)1月号(同年1月刊行)に「柱時計」(原題:Hickory Dickory Dock、日本語別名:ヒッコリー・ディッコリー・ドック)と「緑のお家」(読み:みどりのおうち、原題:There Was a Little Green House)が掲載され、続けて同誌にマザーグースの様々な童謡が発表されていった。そして、明くる1921年(大正10年)の末(白秋36歳時)に纏められ、日本初のマザーグース訳詩集『まざあ・ぐうす』としてアルス社から刊行された。挿絵は恩地孝四郎が担当。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものより滑らかな口語に直されている。上述の「柱時計」と「緑のお家」はそれぞれ「一時」と「くるみ」に改題したうえで掲載されている。 その後は英文学者で詩人の竹友藻風による『英国童謡集』が1929年(昭和4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる。 『まざあ・ぐうす』からほぼ半世紀が過ぎた1970年(昭和45年)、リチャード・スカーリーの著書を谷川俊太郎が翻訳した絵本『スカーリーおじさんのマザー・グース』が中央公論社(現・中央公論新社)から出版された。谷川の翻訳は洗練された口語によるものであった。同書は50篇のみの訳出であったが、谷川はその後、1975年(昭和50年)から翌1976年(昭和51年)にかけて、177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集を草思社より出版している。絵は堀内誠一が担当した。読みやすい谷川訳による『マザー・グースのうた』の出版には大きな反響があり、これをきっかけに日本におけるマザーグース・ブームが巻き起こった。 ブームは他の分野の読者層をも取り込む形で拡がりを見せる。1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで連載された萩尾望都の少女漫画『ポーの一族』は、全編を通して随所にマザーグースの詩の一節を用いたことで知られている(cf. ポーの一族#作品中のマザーグース)。小学館『別冊少女コミック』の1973年(昭和48年)1月号から連載が始まった「メリーベルと銀のばら」でハンプティ・ダンプティを扱ったのが嚆矢になっている。また、マザーグースを引用した1939年の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』がハヤカワ・ミステリ文庫(現・ハヤカワ文庫HM)の創刊第1弾として日本に紹介されたのは、1976年(昭和51年)4月のことであった。これら異なる分野ながらいずれも大いに人気を博した作品に重要な位置付けで取り上げられたことも、谷川俊太郎の訳業に始まるブームを後押ししたと見られている。 推理小説でいう「マザーグース・ミステリー」の、マザーグースの童謡さながらに一人また一人と殺されてゆく設定は、手毬唄の歌詞に沿って行われる童謡殺人を描く横溝正史の金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』(1957年〈昭和32年〉- 1959年〈昭和34年〉)などにも影響を与えた。 ここでは、マザーグースの童謡のうち主なものを一覧形式で記載する。記載順は原語でのそれに準拠している。また、内容は原語名(英語名)・日本語名・解説・(あれば)音声ファイルの順で記載する。 なお、「ロンドン初出」が多いのは、著述者および出版者の一大参集地であることに加えて、ハリウェルらロンドンを本拠とする編纂者の功績の大きさゆえの偏りである。ただ、ロンドンという地域性から生まれたものが無いわけではない。 ここでは、マザーグースの歴史に深く関連した文献等について、補足的に記述する。
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"サンバーの英訳本は18世紀中に何度も増刷されて広く読まれている。アメリカでは世紀末の1794年になってようやく出版された。そして、こうしたことを背景に \"Mother Goose\" という言葉はまずはイギリスの人々に親しみをもって受け容れられ、伝承童話や童謡と結び付けられるようになっていったと考えられている。", "title": "呼称の由来" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1765年には、世界初の児童書専門出版者として名の知られたロンドンのジョン・ニューベリー(英語版)によって『マザーグースのメロディ(原題:Mother Goose's Melody )』と題する童謡集が出版され、以後、同じような童謡集や伝承童謡に対して \"Mother Goose\" という語を用いる慣行が普及・定着していった。", "title": "呼称の由来" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古来、フランスでは鵞鳥は民話や童話に頻繁に取り上げられる動物であり、また、イギリスでも家禽として重宝される動物であった。おとなしく比較的世話が楽なこの水鳥の面倒は各家庭のお婆さん(祖母やその他の老婆)の受け持ちというのが通例で、また、時間を持て余しているお婆さん(とにかく老婆)はしばしば伝承童話や童謡の担い手でもあることから、「鵞鳥」「童話・童謡」「お婆さん」という3つの要素が結び付いたものと考えられる。", "title": "呼称の由来" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "つまり、言葉としては \"mother(母さん)\" を残したまま、\"goose(鵞鳥)\" が \"grandma(婆さん)\" を引き寄せたことで、その実、「母さん」のイメージは「婆さん」に置き換えられたということになる。", "title": "呼称の由来" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "右に示した画像は、19世紀のフランス人画家ギュスターヴ・ドレがシャルル・ペローの童話集『昔ばなし』に自筆の41枚のエッチングを添えた昔ばなし \"Les Contes de Perrault \" 1866年エディションにおける、口絵の一つである。原語(フランス語)の呼称からは、孫たちに囲まれたお婆さんがペローの童話を読み聞かせている場面をイメージしていることが分かる。しかし、英語では「書かれたおとぎ話を読み聞かせるマザーグース」と名付けられている一図である。ここでは、いつも読み聞かせてくれるのは(わたしたちの)優しいお婆さんであり、わたしたちの優しいお婆さんはマザーグースなのである。", "title": "呼称の由来" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "呼称の由来" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Mother Goose(マザー・グース)は、上述のような童謡や童謡集の伝説上の作者として紹介されることもある。英和辞典でも童謡の総称としてよりもこちらの説明を載せている例がある。例えば『英辞郎』の場合、Mother Goose を「Mother Goose's Talesを書いたとされる想像上の人物」としており、語源については「フランス語のcontes de ma mere l'oye(=tales of mother goose)の翻訳から」と説明している。そして、件の童謡の総称としての Mother Goose については、その次の説明で \"Mother Goose rhyme(音写例:マザー・グース・ライム)\" と呼び分けている。加えて、人名としての Goose, Mother を参照するよう促しており、つまりこれが意味するところは、Goose がファミリーネーム(家名)で Mother Goose は「グ-ス家の母」といったような二つ名(通称)ということである。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、後述する鵞鳥に乗る魔女めいた人物を第1義に挙げる辞事典も珍しくない。その筆頭に挙げてもよい例は『ブリタニカ百科事典』であり、第1義に「架空の老女」を挙げ、続けてその特徴を説明してゆくが、内容は鵞鳥に乗って空を飛ぶ魔女のそれである。ペローに始まり、サンバー、ニューベリーと繋がる歴史的経緯については、第2義的位置付けで説明される。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "伝説上の人物としてのマザー・グースは、鵞鳥(がちょう、domestic goose)もしくは家鴨(あひる)の背に乗ってどこへでも自由に飛んでゆく老婆あるいは魔女として描かれている。このような如何にも老婆で魔女めいたマザー・グースは「オールド・マザー・グース (Old Mother Goose)」と呼ばれることもある。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "オールド・マザー・グースというキャラクターは、1806年、ロンドンにあるドゥルリー・レインの王立劇場「ドゥルリーレイン・シアター・ロイヤル(英語版)」で初演されたトマス・ディブディン(英語版)脚本によるパントマイム『ハーレクィンとマザー・グース、あるいは黄金のたまご(原題:Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg )』で初めて描写され、この劇が成功したことによって定着したものである。右列に示した画像は、\"Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg\" のチャップブックとして1860年代に刊行された \"Old Mother Goose and the Golden Egg\" で、タイトルに冠されているのと同様、表紙にはオールド・マザー・グースの典型的イメージが大きく描かれている。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ダン・レノ(英語版)は、ヴィクトリア朝時代後期における大英帝国の音楽ホールを代表するコメディアンでミュージカルシアターの俳優であるが、オールド・マザー・グースとはまた違った人物としてのマザー・グースを多く演じたことでもよく知られている。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「「雁おばさん」(英語名マザー・グース)や「ペドーク女王」(雁足の女王)に代表される...「鳥女」...は、ケルトの神話伝承の要である大女神を淵源としている」と論じている(渡邉浩司・渡邉裕美子)。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一時期、アメリカでは「マザー・グースは実在するアメリカ人である」という説が広まった。その説によれば、マサチューセッツ州ボストンのチャールズタウンで1665年に生まれたエリザベス・フォスター (Elizabeth Foster) という女性がいて、1682年に17歳でアイザック・グース(Isaac Goose。家名の異説1:バーグース;Vergoose 、異説2:バーティグース;Vertigoose )という男性の後添えとして結婚し、それ以降はエリザベス・グースを名乗ったとも、夫の家名を加えてエリザベス・フォスター・グースを名乗ったとも伝えられている。夫婦は6人の子供を儲け、4人を無事に育て上げたという。18世紀初頭になると、エリザベスは孫達に童謡を語って聞かせるお婆さんになっていた。彼女は夫に先立たれたのち、1719年に英語の童謡集『子供たちのためのマザー・グースのメロディ』という本を出版し、ここから「マザー・グース」が伝承童謡の総称として広まったというのである。1758年死去(93歳没)。この説は後述する北原白秋も自著『まざあ・ぐうす』の端書(はしがき)で事実として触れている。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1690年に42歳で亡くなったという生年不明でボストン住まいのメアリー・グース (Mary Goose) なる別の女性を挙げる異伝もあるが、メアリーの情報にはおかしな所があり、左に画像で示した墓碑銘にあるとおりの1690年に亡くなったのなら、1719年に本を出すことは叶わない。したがって、有力視されてきたのはエリザベスのほうで、メアリーに言及しない資料が多い。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかしながら、そもそもが全て作り話であった。その事実は、エリザベスの曾孫に当たるジョン・フリート・エリオット (John Fleet Eliot) という人物によって明らかにされた。上述のようなタイトルの書物は存在せず、1860年にボストンの新聞に匿名で投書されたことから広まったということであった。", "title": "マザー・グースなる人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "前述のように \"Mother Goose\" という言葉が童謡集の題名として用いられたのは、ジョン・ニューベリーが1780年に刊行した『マザーグースのメロディ』が最初である。同書は52篇の童謡を収めており、このうち23篇は(確認できる限りでは)この本が文献初出となっている。ただし、この52篇の中にはニューベリーと親しかった作家オリヴァー・ゴールドスミスの創作が相当数混じっているのではないかという説もある。なお、現存が確認できている最古の同書は1791年刊行のものである。", "title": "出版史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方、現存最古のマザーグース集はと言えば、ロンドンで1744年5月に刊行されたポケット本 (7.6 x 4.4 cm) 、『トミー・サムの可愛い唄の本(英語版) (Tommy Thumb's Pretty Song Book)』がそれである(■画像あり)。この本は Vol.II(第2巻)と記されており、現物は確認されていないものの同1744年3月に出版されたらしい『トミー・サムの唄の本(英語版) (Tommy Thumb's Song Boo)』の続篇と考えられている。", "title": "出版史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『トミー・サムの可愛い唄の本』には39篇の童謡が収められており、そのなかには「めえめえ黒ひつじ」「ぼくたち、わたしたち」「てんとう虫、てんとう虫」「6ペンスの唄」「ロンドン橋落ちた」など、今日でもよく知られている童謡が確認できる。", "title": "出版史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "編著者名は巻末に \"Nurse Lovechild\" と記載されているのみであるが、巻頭ページに出版者としてメアリー・クーパー(英語版) (? - 1761) の名があり、編著者も恐らくは彼女であろうと考えられている。", "title": "出版史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "19世紀半ばには、文献学者ジェームズ・ハリウェルの『イングランドの童謡 (Nursery Rhymes of England )』(1842年刊)により、数多くのマザーグースの童謡が渉猟された。それは初版で299、最終的には600あまりに上った。ハリウェルの集成はより学問的な方法に基づいており、個人の創作らしきものを注意深く排除し、集めた童謡を「歴史的」「文字遊び」「物語」など18の項目(初版では14)に分類したうえで解説と注釈を施している。この書物は同著者の『イングランドの俗謡と童話 (Rhymes & Nursery Tales of England )』(1849年)とともに、以後100年あまりの間イギリスの伝承童謡の唯一の典拠となっていた。", "title": "出版史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "20世紀半ばになると、オーピー夫妻(英語版)による集成『オックスフォード版 伝承童謡辞典 (Oxford Dictionary of Nursery Rhymes)』(1951年刊)、『オックスフォード版 伝承童謡集 (Oxford Nursery Rhyme Book)』(1955年刊)、『学童の伝承とことば (Lore and Language of Schoolchildren)』(1959年刊)が相次いで著され、これらが以降の時代におけるマザーグース集成の決定版と見なされるようになった。", "title": "出版史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "レパートリー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "前述のように19世紀のマザーグース集はすでに600を超える童謡を収録していたが、現代のマザーグース集の収録作を合わせ重複分を除くとその数は1000を超える。その種類も、「ハンプティ・ダンプティ」のようななぞなぞ唄 (riddle、cf. wikt)、「ハッシャバイ・ベイビー」のような子守唄 (lullaby, cf. wikt)、「ロンドン橋落ちた」のように実際の遊びに伴って唄われる遊戯唄 (game song)、「ピーター・パイパー」のような早口言葉 (tongue-twister, cf. wikt)、「ジャックとジル」のようなバラッド(物語歌、ballad、cf. wikt)、「これはジャックが建てた家」のように一節ごとに行が増える積み上げ唄 (cumulative song)、「月曜日に生まれた子供は」のような覚え歌(暗記歌、mnemonic rhyme)、そのほか、呪文・まじない (magic song) 、物売り口上、悪口歌、歳事歌、ナンセンス歌、それから、残酷な歌など、分類が困難なほど多様性に富んでいる。全体的な特徴としては、残酷さのあるものやナンセンスなものが多いということが挙げられる。また、マザーグースは「伝承童謡」と訳されているものの、実際には特定のメロディを持たないものも多く、メロディにのせて唄うためばかりでなく「読むための唄」「読んで聞かせる唄」の側面も強く持っている。", "title": "レパートリー" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "レパートリー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ナーサリーライムという名のとおり、脚韻(rhyme;ライム、wikt)を踏み、人気のマザーグースの「ハバードおばさん」のように、日本語に直訳すればまったく面白みがないナンセンス・ライムの魅力とその絶大な人気は、その世界を言葉で出力するのではなく、歌の脚韻を合わせることで奇妙な世界が次々と展開する面白さに起因する。また、脚韻だけではなく「ピーター・パイパー」のように頭韻 (alliteration) を使った歌もある。", "title": "レパートリー" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マザーグースに数えられる童謡の多くはイギリス発祥であるが、「メリーさんのひつじ」のようにアメリカ発祥の著名なマザーグースもある。伝承であるために作者が分かっていないものも多いが、「きらきら星」や「10人のインディアン」のように、作者のはっきりしている新作童謡がのちに伝承化してマザーグースに加えられるケースもある。人物としてのマザー・グースを主題とした唄である「オールド・マザー・グース (Old Mother Goose)」は、もともとは1815年ごろに出版されたチャップブック向けの韻文物語であったものが、マザー・グースそのものが主題であったためによく親しまれて伝承化した例である。また、作者不明の古い唄には、羊毛に関する12世紀イングランドの諸政策あるいは15世紀の囲い込みを唄っているのではないかといわれる「めえめえ黒ひつじ」、16世紀イングランドにおけるヘンリー8世のイギリス宗教改革(英語版)(カトリック修道院の解散を含む)とジェントリ(イギリスにおける新興中産階級)の誕生が背景にあるといわれる「ジャック・ホーナーくん」、エリザベス1世の死去に始まりイングランドとスコットランドの同君連合成立まで続いた1603年の対立を反映しているのではないかといわれる「ライオンとユニコーン」など、歴史的な出来事に関連して発生したと推測されているものもある。", "title": "レパートリー" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "", "title": "大衆文化の中で" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "マザーグースはイギリスにおいては身分・階層を問わず広く親しまれており、このことを言い表すのに「上は王室から下は乞食まで」という言葉も使われる。王室関係者がマザーグースに親しんでいることを示す出来事として、ヴィクトリア女王(1819 - 1901、在位:1837 - 1901)が庶民の子供と「子猫ちゃん子猫ちゃん」を巡ってやりとりをしたというエピソードや、チャールズ3世 (1948 - ) が生まれた際、貴族院のメンバーが「月曜日に生まれた子供は」にちなんだ祝いの言葉を述べたというエピソードも伝えられている。庶民に親しまれている代表例としては、イギリス各地でいくらでも見つけることができるマザーグースの童謡の名前にちなんだ店名をもつパブがある。パブ「キャット・アンド・フィドル」とあれば、それは「ヘイ・ディドゥル・ディドゥル」の別名である。", "title": "大衆文化の中で" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "マザー・グースの引用や登場人物、またそれにちなんだ言い回しは、近代から現代にいたる英米の社会において、新聞、雑誌、広告、小説、漫画、映画、ラジオ、テレビ、ポピュラーソングなど様々な分野のなかに広く見ることができる。文学においてはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』が物語のなかにマザーグースを用いたことでよく知られており、前者に「ハートの女王」、後者に「トゥイードルダムとトゥイードルディー」「ハンプティ・ダンプティ」「ライオンとユニコーン」を登場させ、いずれも個性的に描き出している。ほかにも、『メアリー・ポピンズ』『秘密の花園』『指輪物語』など、児童文学やファンタジーの古典にもマザーグースの引用例は多い。", "title": "大衆文化の中で" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "", "title": "大衆文化の中で" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ミステリー/ミステリの分野では、「10人のインディアン」をモチーフとして連続殺人が行われるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(イギリスにて1939年刊行)、「誰がこまどりを殺したの?」など4つの童謡の詩句に沿って連続殺人が行われるヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(アメリカにて1929年刊行)などを初めとして、多数の「マザーグース・ミステリー / マザーグース・ミステリ」(cf. Category:マザー・グースを題材にしたミステリ)がある。", "title": "大衆文化の中で" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "既知で最初の日本語訳(および、日本の最初の日本語訳)は、村井元道の訳業で、出版者・三浦源助の下から1881年(明治14年)に出された自習書『ウヰルソン氏第二リイドル直訳』に所収の、「小サキ星ガ輝クヨ輝クヨ」で始まる「第14章 小サキ星ガ輝ク」であり、これは \"Twinkle, twinkle, little star; Twinkle, twinkle, little star; \" で始まる \"Twinkle, Twinkle, Little Star \"(現在の邦題:きらきら星)の直訳であった。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、アメリカ人宣教師にして保育者・教育者でもあったアニー・ライオン・ハウ (1852 - 1943) は、幼児教育に関する教科書の無い時代にあってその作成に尽力したが、その活動の一環で撰して訳した『幼稚園唱歌』(1892年〈明治25年〉5月30日刊)は、マザーグースから採った「きらきら(現在の邦題:きらきら星)」と「我小猫を愛す」の2篇を所収しており、1987年の時点ではこれが日本における初訳とされていた。なお、2篇とも抜粋に抜粋を重ねて再構成した部分訳である。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "明治の終わりから大正時代にかけては、画家で詩人の竹久夢二も翻訳あるいは翻案に取り組んでいる。夢二はおそらく添えられているイラストから興味を持ち始めて自分で訳すようになったものと考えられ、1910年(明治43年)11月刊行の画文集『さよなら』に収録した物語のなかに「誰がこまどりを殺したの?」の訳と「ロンドンへ(現在の邦題:子猫ちゃん子猫ちゃん)」を入れて以降、さまざまなマザーグースを訳出している。ただし夢二は翻訳であるという断りをいれずに訳して自分の創作詩といっしょに扱ったりしており、翻訳というより翻案に近いようなものもある。一例として1919年(大正8年)の自著である児童書『歌時計』に所収の「蜘蛛」(96 - 97頁)は「マフェットちゃん」に対応しているが、男の子ジャックが木の上から落ちてきた干葡萄(ほしぶどう)を食べようとしたところ蜘蛛だったという、オリジナルとは異なる展開になっており、これは今でいう二次創作の範疇にある。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "初期の訳業で最も重要な人物は北原白秋で、大正時代に『まざあ・ぐうす』を出版している。白秋による訳は、まず児童雑誌『赤い鳥』の1920年(大正9年)1月号(同年1月刊行)に「柱時計」(原題:Hickory Dickory Dock、日本語別名:ヒッコリー・ディッコリー・ドック)と「緑のお家」(読み:みどりのおうち、原題:There Was a Little Green House)が掲載され、続けて同誌にマザーグースの様々な童謡が発表されていった。そして、明くる1921年(大正10年)の末(白秋36歳時)に纏められ、日本初のマザーグース訳詩集『まざあ・ぐうす』としてアルス社から刊行された。挿絵は恩地孝四郎が担当。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものより滑らかな口語に直されている。上述の「柱時計」と「緑のお家」はそれぞれ「一時」と「くるみ」に改題したうえで掲載されている。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その後は英文学者で詩人の竹友藻風による『英国童謡集』が1929年(昭和4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『まざあ・ぐうす』からほぼ半世紀が過ぎた1970年(昭和45年)、リチャード・スカーリーの著書を谷川俊太郎が翻訳した絵本『スカーリーおじさんのマザー・グース』が中央公論社(現・中央公論新社)から出版された。谷川の翻訳は洗練された口語によるものであった。同書は50篇のみの訳出であったが、谷川はその後、1975年(昭和50年)から翌1976年(昭和51年)にかけて、177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集を草思社より出版している。絵は堀内誠一が担当した。読みやすい谷川訳による『マザー・グースのうた』の出版には大きな反響があり、これをきっかけに日本におけるマザーグース・ブームが巻き起こった。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ブームは他の分野の読者層をも取り込む形で拡がりを見せる。1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで連載された萩尾望都の少女漫画『ポーの一族』は、全編を通して随所にマザーグースの詩の一節を用いたことで知られている(cf. ポーの一族#作品中のマザーグース)。小学館『別冊少女コミック』の1973年(昭和48年)1月号から連載が始まった「メリーベルと銀のばら」でハンプティ・ダンプティを扱ったのが嚆矢になっている。また、マザーグースを引用した1939年の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』がハヤカワ・ミステリ文庫(現・ハヤカワ文庫HM)の創刊第1弾として日本に紹介されたのは、1976年(昭和51年)4月のことであった。これら異なる分野ながらいずれも大いに人気を博した作品に重要な位置付けで取り上げられたことも、谷川俊太郎の訳業に始まるブームを後押ししたと見られている。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "推理小説でいう「マザーグース・ミステリー」の、マザーグースの童謡さながらに一人また一人と殺されてゆく設定は、手毬唄の歌詞に沿って行われる童謡殺人を描く横溝正史の金田一耕助シリーズ『悪魔の手毬唄』(1957年〈昭和32年〉- 1959年〈昭和34年〉)などにも影響を与えた。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ここでは、マザーグースの童謡のうち主なものを一覧形式で記載する。記載順は原語でのそれに準拠している。また、内容は原語名(英語名)・日本語名・解説・(あれば)音声ファイルの順で記載する。", "title": "主なマザーグースの童謡一覧" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお、「ロンドン初出」が多いのは、著述者および出版者の一大参集地であることに加えて、ハリウェルらロンドンを本拠とする編纂者の功績の大きさゆえの偏りである。ただ、ロンドンという地域性から生まれたものが無いわけではない。", "title": "主なマザーグースの童謡一覧" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ここでは、マザーグースの歴史に深く関連した文献等について、補足的に記述する。", "title": "歴史的文献" } ]
マザー・グース/マザーグース とは、イギリスで古くから口誦によって伝承されてきた童謡や歌謡の総称で通称。英米で広く親しまれている。元来は「マザーグースの歌」といった。 著名な童謡は特に17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まった。現在ではイギリス発祥のものばかりでなく、アメリカ発祥のものも加わり、600から1000以上の種類があるといわれている。英米では庶民から貴族まで階級の隔てなく親しまれており、聖書やシェイクスピアと並んで英米人の教養の基礎となっているともいわれている。現代の大衆文化においてもマザーグースからの引用や言及は頻繁になされている。 なお、「童謡」全般を指す英語としては、「子供部屋の歌」を意味する「ナーサリーライム」[ 語構成:nursery(〈家庭の〉子供部屋)+ rhyme(脚韻)]を用いるのが通例ではある。「ナーサリーライム」が新作も含む包括的語義であるのに対し、「マザーグースの歌」、略して「マザーグース」は、伝承化した童謡のみに用いられる点に違いがあると考えられる。後述するように「マザーグース」が童謡の総称として用いられるようになったのは18世紀後半からであるが、それに対して「ナーサリーライム」が童謡の総称に用いられるようになったのは1824年のスコットランドのある雑誌においてであり、「ナーサリーライム」のほうが新しい呼称である。
{{Otheruses|イギリスの伝承童謡|日本の音楽グループ|マザー・グース (日本の音楽グループ)}} {{Anchors|ラッカム画01}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = Mother Goose's rhymes | header_align = center | header_background = palegoldenrod | image1 = Mother Goose. The Old Nursery Rhymes MET DT270091.jpg | width1 = 240 | alt1 = 挿絵画家[[アーサー・ラッカム]]のリトグラフで、1913年刊行の自著のための表紙絵で、画題はヘイ・ディドゥル・ディドゥル。 | caption1 = [[挿絵]][[画家]][[アーサー・ラッカム]]の[[リトグラフ]]で、[[1913年]]刊行の自著<ref name=WSU_Rackham1913>{{Cite web |title=Mother Goose - The Old Nursery Rhymes - Illustrated by Arthur Rackham |url=https://digital.library.wayne.edu/eTextReader/eTextReader.php?ItemID=wayne:MotherGoos1913b48015751#page/7/mode/1up |publisher=[[ウェイン州立大学|Wayne State University]] |website=Wayne State University Digital Collections |language=English |accessdate=2020-06-19 }}</ref>{{Sfnp|Rackham|2015}}のための表紙絵である。画題は「[[#ヘイ・ディドゥル・ディドゥル|ヘイ・ディドゥル・ディドゥル]]」 }} [[ファイル:The Baby's Opera A book of old Rhymes and The Music by the Earliest Masters Book Cover 25.png|thumb|242px|{{Anchors|ジャック・ホーナーくん_画}}童謡「[[#ジャック・ホーナーくん|ジャック・ホーナーくん]]」 / [[楽譜]]が大きなパネルのように掲げられている。ジャック・ホーナーくんは暖かな部屋で猫とくつろぎながら読者をご案内。1877年発表。書かれている[[メロディ]]はオリジナル(原形)である。|alt=童謡「ジャック・ホーナーくん」。楽譜が大きなパネルのように掲げられている。ジャック・ホーナーくんは暖炉のある部屋で猫とくつろぎながら読者をご案内。]] '''マザー・グース'''{{Refnest|group="注"|時代が古すぎない主な参考文献で、中黒のある表記をしているのは、[[平野敬一]]{{Sfnp|平野|1972}}、藤野紀男{{Sfnp|藤野|1985}}、[[鷲津名都江]]{{Sfnp|鷲津ほか|1995}}、鶴見良次{{Sfnp|鶴見|2005}}。}}/'''マザーグース'''{{Refnest|group="注"|時代が古すぎない主な[[#参考文献|参考文献]]で、中黒の無い表記をしているのは、[[平凡社]]{{r|kb-MyPedia}}、[[日立デジタル平凡社]]{{r|"kb平百"}}、[[三省堂]]{{r|"kb林"}}、[[小学館]]{{r|"kb日国辞"}}、藤野紀男{{Sfnp|藤野|1987}}、[[谷川俊太郎]]{{Sfnp|谷川|鷲津|2000}}、石川澄子{{Sfnp|ベアリングールドほか|2003}}。}} ({{small|[[英語|英]]:}}'''Mother Goose''' {{r|"英辞郎"|OED}}) とは、[[イギリス]]で古くから口誦によって[[伝承]]されてきた[[童謡]]や[[歌謡]]の総称で通称{{r|"kb_マザーグースの歌"|kb-MyPedia|"kb平百"|"kb林"|"kb日国辞"}}。[[英米]]で広く親しまれている{{r|"kb林"}}。元来は「'''マザーグースの歌'''({{small|英:}}'''Mother Goose's rhymes''')」といった{{r|"kb_マザーグースの歌"}}。 著名な童謡は特に[[17世紀]]の[[イギリス帝国|大英帝国]]の[[植民地主義|植民地化政策]]によって世界中に広まった{{Sfnp|藤野|2007|p=4}}。現在ではイギリス発祥のものばかりでなく、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]発祥のものも加わり、600から1000以上の種類があるといわれている。英米では[[庶民]]から[[貴族]]まで階級の隔てなく親しまれており、[[聖書]]や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]と並んで英米人の教養の基礎となっているともいわれている{{Sfnp|藤野|2007|p=8}}。現代の[[大衆文化]]においてもマザーグースからの引用や言及は頻繁になされている。 なお、「童謡」全般を指す英語としては、「子供部屋の歌」を意味する「'''ナーサリーライム''' ('''nursery rhyme''')」[ {{small|語構成:}}[[wikt:en:nursery|nursery]](〈家庭の〉子供部屋)+ [[wikt:en:rhyme|rhyme]]([[押韻#西洋文学における押韻|脚韻]])]を用いるのが通例ではある{{r|"kb_MotherGoose'sMelody"}}。「ナーサリーライム」が新作も含む包括的語義であるのに対し、「マザーグースの歌」、略して「マザーグース」は、伝承化した童謡のみに用いられる点に違いがあると考えられる{{Sfnp|藤野|2007|p=7}}。[[#呼称の由来|後述する]]ように「マザーグース」が童謡の総称として用いられるようになったのは18世紀後半からであるが、それに対して「ナーサリーライム」が童謡の総称に用いられるようになったのは[[1824年]]の[[スコットランド]]のある雑誌<!--※具体的に挙げられれば尚よし。-->においてであり、「ナーサリーライム」のほうが新しい呼称である{{Sfnp|藤野|2007|p=7}}。 == 呼称の由来 == 英語の童謡は古くから存在したが、それらに対して "'''{{lang|en|Mother Goose}}'''" という語が定着するのは18世紀後半以降である。[[直訳]]では「鵞鳥({{small|[[ガチョウ|がちょう]]}})かあさん」とでも表現すべきこの語は、同じ意味の[[フランス語]] "{{lang|fr|Ma Mère l'Oye}}({{small|日本語[[wikt:音写|音写]]例:}}マ・メール・ロワ)"の[[意訳]]語であったと考えられる{{Sfnp|藤野|2007|p=5}}{{Sfnp|平野|1972|p=26}}。 === ペローとサンバー === {{Anchors|ペロー_昔ばなし口絵|サンバー本口絵}} {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = {{font color|white|原著の口絵と英訳本の口絵}} | header_align = center | header_background = steelblue | footer = 左:[[シャルル・ペロー]]『昔ばなし』(1697年刊)の口絵<ref group="注">[https://fr.wikisource.org/wiki/Histoires_ou_Contes_du_temps_pass%C3%A9_(1697)/Original/Texte_entier Histoires ou Contes du temps passé (1697)/Original/Texte entier] - Wikisource.</ref><br />中央:『昔ばなし』<!--※ファイル名の「1695」は間違っています。-->の口絵。別バージョンの[[ガッシュ]]画。<br />右:英訳本 "{{lang|en|''Histories, or Tales of Past Times''}} "(1729年刊)の口絵 | footer_align = left | image1 = Perrault (1697) - Frontispice - Clouzier.png | width1 = 130 | alt1 = シャルル・ペロー『昔ばなし』の口絵 | image2 = Perrault 1695 Contes.jpg | width2 = 155 | alt2 = 別バージョンのガッシュ画 | image3 = Houghton FC6.P4262.Eg729s - Perrault, frontispiece.jpg | width3 = 133 | alt3 = 英訳本の口絵 }} [[1697年]]、[[フランス]]の[[詩人]]で[[作家]]の[[シャルル・ペロー]]が8つの[[おとぎ話]]をまとめた童話集『{{仮リンク|昔ばなし|fr|Histoires ou contes du temps passé}}(''{{small|Histoires ou contes du temps passé}} '')』を[[パリ]]で出版した{{r|OED}}{{Refnest|group="注"|省略しない原題は "''{{lang|fr|Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités Les Contes de ma mère l'Oye}}''" {{r|"英辞郎_MG'sTales"}}。その英訳は "Tales and Stories of the Past with Morals. Tales of Mother Goose" {{r|"英辞郎_MG'sTales"}}。そして、日本語訳を『[[英辞郎]]』は「過ぎし日の物語ならびに教訓。マザーグース物語。」としている{{r|"英辞郎_MG'sTales"}}。}}。それを[[1729年]]に{{r|OED}}[[イギリス人]]作家{{仮リンク|ロバート・サンバー|en|Robert Samber}}が英訳し、"{{lang|en|''Histories, or Tales of Past Times''}}" <ref>File:Houghton FC6.P4262.Eg729s - Perrault, full.jpg</ref>{{Sfnp|Perrault|1978}}と題して母国に紹介した。その本の[[口絵]]({{small|■右に画像あり}})は原著の口絵({{small|■右に画像あり}})と同じ趣旨で描かれている。暖炉のある部屋で糸車を回しながら幼子と若者に昔話を語って聞かせるお婆さんの様子を表現しているのであるが、原著の口絵にある分厚い木製扉の高い位置に取り付けられている飾り板には「鵞鳥かあさんのお話」を意味する "{{lang|fr|contes de ma mère l'oye}}({{r|OED}}{{small|音写例:}}コントゥ・ドゥ・マ・メール・ロワ、コント・ド・マ・メール・ロワ、{{small|英訳:}}tales of mother goose {{r|"英辞郎"}})" というフランス語が記されており、英訳本では、この部分を同じ意味になるよう "'''mother goose's tales'''({{small|音写例:}}マザー・グースィズ・テイルズ)" と言い換え、同書の副題([[サブタイトル]])にも採用した。のちにこのフレーズは本の表題(メインタイトル)に使われることにもなる。これが、以後 "'''Mother Goose'''" として固有名詞化してゆく英語フレーズの[[#初出|初出]]であった{{Sfnp|平野|1972|p=26}}。後述する[[#伝説上の人物として|伝説上の人物]]としての '''Mother Goose''' も全き[[同根語]]である。 サンバーの英訳本は18世紀中に何度も増刷されて広く読まれている{{Sfnp|藤野|2007|p=5}}。アメリカでは世紀末の[[1794年]]になってようやく出版された。そして、こうしたことを背景に "Mother Goose" という言葉はまずはイギリスの人々に親しみをもって受け容れられ、伝承童話や童謡と結び付けられるようになっていったと考えられている{{Sfnp|平野|1972|pp=27-28}}。 === ニューベリー === [[1765年]]には{{r|OED|"英辞郎_MG'sMelody"}}<!--※元の記述は「1780年」だが、それでは幽霊が出版した事に…。-->、世界初の児童書専門出版者として名の知られた[[ロンドン]]の{{仮リンク|ジョン・ニューベリー|en|John Newbery}}{{r|"kb_ニューベリー"}}によって『マザーグースのメロディ({{small|原題:}}'''''Mother Goose's Melody''''' )』と題する童謡集が出版され{{r|OED}}{{Sfnp|藤野|2007|p=5}}、以後、同じような童謡集や伝承童謡に対して "Mother Goose" という語を用いる慣行が普及・定着していった{{Sfnp|藤野|2007|p=5}}{{r|"英辞郎_MG'sMelody"}}。 [[ファイル:Perrault1.jpg|thumb|200px|{{small|(仏語)}}"''Illustration de ma mère l'Oye, par Gustave Doré''<br />{{small|(英題)}}"''Mother Goose reading written fairy tales''"|alt=ギュスターヴ・ドレの絵]] === 鵞鳥とお婆さん === 古来、フランスでは鵞鳥は民話や童話に頻繁に取り上げられる動物であり、また、イギリスでも[[家禽]]として重宝される動物であった。おとなしく比較的世話が楽なこの[[水鳥]]の面倒は各家庭のお婆さん(祖母やその他の老婆)の受け持ちというのが通例で、また、時間を持て余しているお婆さん(とにかく老婆)はしばしば伝承童話や童謡の担い手でもあることから、「鵞鳥」「童話・童謡」「お婆さん」という3つの要素が結び付いたものと考えられる{{Sfnp|藤野|2007|p=5}}{{Sfnp|平野|1972|p=27}}。 つまり、言葉としては "mother(母さん)" を残したまま、"goose(鵞鳥)" が "grandma(婆さん)" を引き寄せたことで、その実、「母さん」のイメージは「婆さん」に置き換えられたということになる。 右に示した画像は、19世紀のフランス人画家[[ギュスターヴ・ドレ]]がシャルル・ペローの童話集『昔ばなし』に自筆の41枚の[[エッチング]]を添えた昔ばなし "''{{lang|fr|Les Contes de Perrault}}'' " [[1866年]][[版と刷|エディション]]における、[[口絵]]の一つである。原語(フランス語)の呼称からは、孫たちに囲まれたお婆さんがペローの童話を読み聞かせている場面をイメージしていることが分かる。しかし、英語では「書かれたおとぎ話を読み聞かせるマザーグース」と名付けられている一図である。ここでは、いつも読み聞かせてくれるのは(わたしたちの)優しいお婆さんであり、わたしたちの優しいお婆さんはマザーグースなのである。 {{Anchors|伝説上の人物として}} == マザー・グースなる人物 == === 辞事典では === '''Mother Goose'''('''マザー・グース''')は、上述のような童謡や童謡集の伝説上の作者として紹介されることもある。英和辞典でも童謡の総称としてよりもこちらの説明を載せている例がある。例えば『[[英辞郎]]』の場合、Mother Goose を「Mother Goose's Talesを書いたとされる想像上の人物」としており、語源については「フランス語のcontes de ma mere l'oye(=tales of mother goose)の翻訳から」と説明している{{r|"英辞郎"}}。そして、件の童謡の総称としての Mother Goose については、その次の説明で "'''Mother Goose rhyme'''({{small|音写例:}}マザー・グース・ライム)" と呼び分けている{{r|"英辞郎"}}。加えて、人名としての '''Goose, Mother''' を参照するよう促しており{{r|"英辞郎"}}、つまりこれが意味するところは、Goose が[[ファミリーネーム]](家名)で Mother Goose は「グ-ス家の母」といったような二つ名(通称)ということである。 また、後述する[[#鵞鳥に乗る魔女|鵞鳥に乗る魔女]]めいた人物を第1義に挙げる辞事典も珍しくない。その筆頭に挙げてもよい例は『[[ブリタニカ百科事典]]』であり、第1義に「架空の老女」を挙げ{{r|Brit}}、続けてその特徴を説明してゆくが、内容は鵞鳥に乗って空を飛ぶ魔女のそれである{{r|Brit}}。[[#ペローとサンバー|ペローに始まり、サンバー]]、[[#ニューベリー|ニューベリー]]と繋がる歴史的経緯については、第2義的位置付けで説明される{{r|Brit}}。 === 鵞鳥に乗る魔女 === {{Anchors|磁器人形|チャップブック}} {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = オールド・マザー・グース | header_align = center | header_background = darkkhaki | footer = 左:19世紀の[[スタッフォードシャー]]で量産されていた、鵞鳥に乗ったマザー・グースなる人物の磁器人形。<br />右:ディブディン脚本のパントマイムのチャップブック。1860年代。 | footer_align = left | image1 = C19th Mother Goose.jpg | width1 = 160 | alt1 = 19世紀の[[スタッフォードシャー]]で量産されていた、鵞鳥に乗ったマザー・グースなる人物の磁器人形。とんがり帽子をかぶった魔女の姿でガチョウに乗っている造形。 | image2 = Mother Goose riding.jpg | width2 = 130 | alt2 = ディブディン脚本のパントマイムのチャップブック }} 伝説上の人物としてのマザー・グースは、[[ガチョウ|鵞鳥({{small|がちょう}}、{{lang|en|domestic goose}})]]もしくは[[アヒル|家鴨({{small|あひる}})]]{{Sfnp|藤野|2007|p=6}}の背に乗ってどこへでも自由に飛んでゆく老婆{{Sfnp|藤野|2007|p=6}}あるいは[[魔女]]として描かれている。このような如何にも老婆で魔女めいたマザー・グースは「'''オールド・マザー・グース''' ('''Old Mother Goose''')」と呼ばれることもある。 オールド・マザー・グースという[[キャラクター]]は、[[1806年]]、ロンドンにある[[ドルリー・レーン (ロンドン)|ドゥルリー・レイン]]の王立劇場「{{仮リンク|ドゥルリーレイン・シアター・ロイヤル|en|Theatre Royal, Drury Lane}}」で初演された{{仮リンク|トマス・ディブディン|en|Thomas John Dibdin}}脚本による[[パントマイム (イギリス)|パントマイム]]『ハーレクィンとマザー・グース、あるいは黄金のたまご({{small|原題:}}''Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg'' )』で初めて描写され、この劇が成功したことによって定着したものである{{Sfnp|鶴見|2005|pp=22-24}}。右列に示した画像は、"''{{lang|en|Harlequin and Mother Goose, or The Golden Egg}}''" の[[チャップ・ブック|チャップブック]]として1860年代に刊行された "''{{lang|en|Old Mother Goose and the Golden Egg}}''" で、タイトルに冠されているのと同様、表紙にはオールド・マザー・グースの典型的イメージが大きく描かれている。 {{節スタブ|date=2020年6月21日|title=演劇関係は記述すべき事象がまだある様子。上と下は間にかなり結構ある。}} {{仮リンク|ダン・レノ|en|Dan Leno}}は、[[ヴィクトリア朝]]時代後期における[[大英帝国]]の音楽ホールを代表する[[コメディアン]]で[[ミュージカル]]シアターの俳優であるが、オールド・マザー・グースとはまた違った人物としてのマザー・グースを多く演じたことでもよく知られている。 「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」[[フィリップ・ヴァルテール]]は、「「雁おばさん」(英語名マザー・グース)や「ペドーク女王」(雁足の女王)に代表される…「鳥女」…は、ケルトの神話伝承の要である大女神を淵源としている」と論じている(渡邉浩司・渡邉裕美子)<ref>フィリップ・ヴァルテール『ユーラシアの女性神話-ユーラシア神話試論II』([[渡邉浩司]]・渡邉裕美子訳)[[中央大学]]出版部 2021年、ISBN 978-4-8057-5183-1、55-80頁(第3章 雁とペドーク)</ref>。 === ボストンのマザー・グース === {{Anchors|メアリーの墓}}[[ファイル:Mother Goose Grave Boston.jpg|thumb|left|200px|ボストンの[[グラナリー墓地]]にあるメアリー・グースの墓|alt=ボストンの[[グラナリー墓地]]にあるメアリー・グースの墓]] 一時期、アメリカでは「マザー・グースは実在するアメリカ人である」という説が広まった{{r|HarvardCrimson_E}}。その説によれば、[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]の[[チャールズタウン (ボストン)|チャールズタウン]]で1665年に生まれた{{r|Find-a-Grave_E|HarvardCrimson_E|NewYorkTimes_18861020}}エリザベス・フォスター (Elizabeth Foster) という女性がいて、1682年に17歳で<ref group="注">「1635年に結婚した」とする書籍やウェブ情報もあるが、「1665年に生まれて1635年に結婚する」ことはできない。</ref>アイザック・グース(Isaac Goose。家名の異説1:バーグース;Vergoose {{r|Brit}}、異説2:バーティグース;Vertigoose {{r|Brit}})という男性の後添えとして{{r|HarvardCrimson_E}}結婚し{{r|NewYorkTimes_18861020|Find-a-Grave_E}}、それ以降はエリザベス・グースを名乗ったとも{{r|Brit|Find-a-Grave_E|HarvardCrimson_E}}、夫の家名を加えてエリザベス・フォスター・グースを名乗ったとも{{r|NewYorkTimes_18861020}}伝えられている。夫婦は6人の子供を儲け{{r|HarvardCrimson_E}}、4人を無事に育て上げたという{{Sfnp|Wilson|2000|p=23}}。18世紀初頭になると、エリザベスは孫達に童謡を語って聞かせるお婆さんになっていた{{r|"kb_MotherGoose'sMelody"|HarvardCrimson_E}}。彼女は夫に先立たれたのち、1719年に英語の童謡集『子供たちのためのマザー・グースのメロディ』という本を出版し、ここから「マザー・グース」が伝承童謡の総称として広まったというのである{{r|NewYorkTimes_18861020}}。1758年死去(93歳没){{r|Find-a-Grave_E|NewYorkTimes_18861020}}。この説は後述する[[北原白秋]]も自著[[#まざあ・ぐうす|『まざあ・ぐうす』]]の端書({{small|はしがき}})で事実として触れている{{Sfnp|藤野|2007|p=58}}{{Sfnp|平野|1972|pp=23-24}}。 1690年に42歳で亡くなったという生年不明でボストン住まいのメアリー・グース (Mary Goose) なる別の女性を挙げる異伝もある{{r|Find-a-Grave_M|NewYorkTimes_18861020}}が、メアリーの情報にはおかしな所があり、左に画像で示した墓碑銘にあるとおりの1690年に亡くなったのなら{{r|Find-a-Grave_M}}、1719年に本を出すことは叶わない。したがって、有力視されてきたのはエリザベスのほうで、メアリーに言及しない資料が多い。 しかしながら、そもそもが全て作り話であった。その事実は、エリザベスの曾孫に当たるジョン・フリート・エリオット (John Fleet Eliot) という人物によって明らかにされた。上述のようなタイトルの書物は存在せず、1860年にボストンの新聞に匿名で投書されたことから広まったということであった{{Sfnp|Hahn|Morpurgo|1983|p=400}}{{Sfnp|平野|1972|pp=26-27}}{{Sfnp|藤野|2007|p=58}}。 == 出版史 == === ニューベリーの本 === [[ファイル:LondonBridgeTommyThumbPrettySongBook.jpg|thumb|180px|{{Anchors|ロンドン橋落ちた初頁}}『トミー・サムの可愛い唄の本』(1744年刊)より、「[[ロンドン橋落ちた]]」の最初のページ|alt=1744年刊行の『トミー・サムの可愛い唄の本』より、「ロンドン橋落ちた」の最初のページ。]] 前述のように "Mother Goose" という言葉が童謡集の題名として用いられたのは、[[#ニューベリー|ジョン・ニューベリー]]が1780年に刊行した『マザーグースのメロディ』が最初である。同書は52篇の童謡を収めており、このうち23篇は(確認できる限りでは)この本が文献初出となっている。ただし、この52篇の中にはニューベリーと親しかった作家[[オリヴァー・ゴールドスミス]]の創作が相当数混じっているのではないかという説もある{{r|Brit}}{{Sfnp|平野|1972|pp=31-32}}。なお、現存が確認できている最古の同書は1791年刊行のものである{{r|Brit}}。 === クーパー === 一方、現存最古のマザーグース集はと言えば、ロンドンで[[1744年]]5月に刊行された{{Sfnp|平野|1972|p=31}}ポケット本 (7.6 x 4.4 [[センチメートル|cm]]) {{r|BL_TommyThumb}}、『{{仮リンク|トミー・サムの可愛い唄の本|en|Tommy Thumb's Pretty Song Book}} (''{{small|Tommy Thumb's Pretty Song Book}}'')』がそれである{{Sfnp|藤野|2007|p=59}}(■画像あり)。この本は Vol.II(第2巻)と記されており、現物は確認されていないものの同1744年3月に出版されたらしい『{{仮リンク|トミー・サムの唄の本|en|Tommy Thumb's Song Book}} (''{{small|Tommy Thumb's Song Boo}}'')』の続篇と考えられている{{Sfnp|藤野|2007|p=59}}{{r|"kb_マザーグースの歌"}}。 『トミー・サムの可愛い唄の本』には39篇の童謡が収められており{{r|BL_TommyThumb}}、そのなかには「[[#めえめえ黒ひつじ|めえめえ黒ひつじ]]{{r|BL_TommyThumb}}」「[[#ぼくたち、わたしたち|ぼくたち、わたしたち]]{{r|BL_TommyThumb}}」「[[#てんとう虫、てんとう虫|てんとう虫、てんとう虫]]{{r|BL_TommyThumb}}」「[[6ペンスの唄]]{{Sfnp|平野|1972|p=31}}」「[[ロンドン橋落ちた]]{{Sfnp|平野|1972|p=31}}」など、今日でもよく知られている童謡が確認できる{{r|BL_TommyThumb}}{{Sfnp|平野|1972|p=31}}<!--※日本で馴染みが薄いという理由で一部の童謡を削除しないで下さい。それは理由になりません。-->。 {{See also|:en:Tommy Thumb's Pretty Song Book#Contents}} 編著者名は巻末に "Nurse Lovechild" と記載されているのみであるが{{r|BL_TommyThumb}}、巻頭ページに出版者として{{仮リンク|メアリー・クーパー (出版者)|label=メアリー・クーパー|en|Mary Cooper (publisher)}} (? - 1761) の名があり、編著者も恐らくは彼女であろうと考えられている{{r|BL_TommyThumb}}{{Refnest|group="注"|『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』「マザーグースの歌」における藤野紀男は断定している{{r|"kb_マザーグースの歌"}}。}}。 === ハリウェル === 19世紀半ばには、文献学者[[ジェームズ・ハリウェル=フィリップス|ジェームズ・ハリウェル]]の『イングランドの童謡 (''{{small|Nursery Rhymes of England'' }})』([[1842年]]刊)により、数多くのマザーグースの童謡が渉猟された{{Sfnp|藤野|2007|p=11}}。それは初版で299、最終的には600あまりに上った{{Sfnp|藤野|2007|p=11}}。ハリウェルの集成はより学問的な方法に基づいており、個人の創作らしきものを注意深く排除し、集めた童謡を「歴史的」「文字遊び」「物語」など18の項目(初版では14)に分類したうえで解説と注釈を施している{{Sfnp|平野|1972|pp=41-42, 48-63}}。この書物は同著者の『イングランドの俗謡と童話 (''{{small|Rhymes & Nursery Tales of England}}'' )』([[1849年]])とともに、以後100年あまりの間イギリスの伝承童謡の唯一の典拠となっていた{{Sfnp|平野|1972|p=41}}。 === オーピー夫妻 === 20世紀半ばになると、{{仮リンク|オーピー夫妻|en|Iona and Peter Opie}}による集成『オックスフォード版 伝承童謡辞典 (''{{small|Oxford Dictionary of Nursery Rhymes}}'')』([[1951年]]刊)、『オックスフォード版 伝承童謡集 (''{{small|Oxford Nursery Rhyme Book''}})』([[1955年]]刊)、『学童の伝承とことば (''{{small|Lore and Language of Schoolchildren}}'')』([[1959年]]刊)が相次いで著され、これらが以降の時代におけるマザーグース集成の決定版と見なされるようになった{{Sfnp|平野|1972|pp=65-69}}。 == レパートリー == {{Anchors|ジャックとジル_画}}[[ファイル:Jack & Jill (Wheeler).jpg|thumb|left|160px|「ジャックとジル」 / {{仮リンク|ドロシー・M・ウィーラー|en|Dorothy M. Wheeler}}の手になる1920年頃の[[水彩画]]。|alt=ジャックとジル。ドロシー・M・ウィーラーの手になる1920年頃の水彩画。]] {{see also|#マザーグースの童謡一覧}} 前述のように19世紀のマザーグース集はすでに600を超える童謡を収録していたが、現代のマザーグース集の収録作を合わせ重複分を除くとその数は1000を超える{{Sfnp|藤野|2007|p=10}}。その種類も、「[[#ハンプティ・ダンプティ|ハンプティ・ダンプティ]]」のような'''なぞなぞ唄''' ([[:en:Riddle|riddle]]、''cf.'' [[wikt:en:riddle|wikt]])、「[[#ハッシャバイ・ベイビー|ハッシャバイ・ベイビー]]」のような'''[[子守唄]]''' ([[:en:Lullaby|lullaby]], ''cf.'' [[wikt:en:lullaby|wikt]])、「[[#ロンドン橋落ちた|ロンドン橋落ちた]]」のように実際の遊びに伴って唄われる'''遊戯唄''' (game song)、「[[#ピーター・パイパー|ピーター・パイパー]]」のような'''[[早口言葉]]''' ([[:en:Tongue-twister|tongue-twister]], ''cf.'' [[wikt:en:tongue-twister|wikt]])、「[[#ジャックとジル|ジャックとジル]]」のような'''[[バラッド]]'''('''物語歌'''、[[:en:Ballad|ballad]]、''cf.'' [[wikt:en:ballad|wikt]])、「[[#これはジャックが建てた家|これはジャックが建てた家]]」のように一節ごとに行が増える'''[[つみあげうた|積み上げ唄]]''' ([[:en:Cumulative song|cumulative song]])、「[[#月曜日に生まれた子供は|月曜日に生まれた子供は]]」のような'''覚え歌'''(暗記歌、mnemonic rhyme)、そのほか、'''呪文'''・'''まじない''' (magic song) 、'''物売り口上'''{{r|"kb_マザーグースの歌"}}、'''悪口歌'''{{r|"kb_マザーグースの歌"}}、'''歳事歌'''{{r|"kb_マザーグースの歌"}}、'''ナンセンス歌'''{{r|"kb_マザーグースの歌"}}、それから、'''残酷な歌'''{{r|"kb_マザーグースの歌"}}など、分類が困難なほど多様性に富んでいる{{r|"kb_マザーグースの歌"}}{{Sfnp|藤野|夏目|2004|loc=v-ix頁(目次部)}}{{Sfnp|藤野|2007|pp=12-31}}。全体的な特徴としては、残酷さのあるものやナンセンスなものが多いということが挙げられる{{Sfnp|藤野|2007|pp=33-39}}。また、マザーグースは「伝承童謡」と訳されているものの、実際には特定のメロディを持たないものも多く{{Sfnp|谷川|鷲津|2000|p=4}}、メロディにのせて唄うためばかりでなく「読むための唄」「読んで聞かせる唄」の側面も強く持っている{{Sfnp|平野|1972|pp=8-10}}。 {{Anchors|メリーさんのひつじ_画}}[[ファイル:Mary and her Lamb, by Mary R Bassett.jpg|thumb|170px|「メリーさんのひつじ」 / {{仮リンク|メアリー・R・バセット|en|Mary R. Bassett}}の手になる1911年の水彩画。|alt=メリーさんのひつじ。メアリー・R・バセットの手になる1911年の水彩画。]] ナーサリーライムという名のとおり、'''[[脚韻]]'''([[:en:Rhyme|rhyme]];ライム、[[wikt:en:rhyme|wikt]])を踏み、人気のマザーグースの「[[#ハバードおばさん|ハバードおばさん]]」のように、日本語に直訳すればまったく面白みがない'''ナンセンス・ライム'''の魅力とその絶大な人気は、その世界を言葉で出力するのではなく、歌の脚韻を合わせることで奇妙な世界が次々と展開する面白さに起因する。また、脚韻だけではなく「[[#ピーター・パイパー|ピーター・パイパー]]」のように[[頭韻法|頭韻]] (alliteration) を使った歌もある。 マザーグースに数えられる童謡の多くはイギリス発祥であるが、「[[#メリーさんのひつじ|メリーさんのひつじ]]」のようにアメリカ発祥の著名なマザーグースもある{{Sfnp|藤野|2007|p=4}}。伝承であるために作者が分かっていないものも多いが、「[[#きらきら星|きらきら星]]」や「[[#テン・リトル・インディアンズ|10人のインディアン]]」のように、作者のはっきりしている新作童謡がのちに伝承化してマザーグースに加えられるケースもある{{Sfnp|藤野|夏目|2004|p=282}}{{Sfnp|平野|1972|pp=119-120}}。人物としてのマザー・グースを主題とした唄である「[[オールド・マザー・グース]] (Old Mother Goose)」は、もともとは[[1815年]]ごろに出版された[[チャップ・ブック|チャップブック]]向けの韻文物語であったものが、マザー・グースそのものが主題であったためによく親しまれて伝承化した例である{{Sfnp|平野|1972|p=133}}。また、作者不明の古い唄には、[[羊毛]]に関する12世紀[[イングランド]]の諸政策あるいは15世紀の[[囲い込み]]を唄っているのではないかといわれる「[[#めえめえ黒ひつじ|めえめえ黒ひつじ]]」、16世紀イングランドにおける[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の{{仮リンク|イギリス宗教改革|en|English Reformation}}([[カトリック]][[修道院]]の解散を含む)と[[ジェントリ]](イギリスにおける新興中産階級)の誕生が背景にあるといわれる「[[#ジャック・ホーナーくん|ジャック・ホーナーくん]]」、[[エリザベス1世]]の死去に始まりイングランドと[[スコットランド]]の[[同君連合]]成立まで続いた[[1603年]]の対立を反映しているのではないかといわれる「[[#ライオンとユニコーン|ライオンとユニコーン]]」など、歴史的な出来事に関連して発生したと推測されているものもある{{Sfnp|藤野|夏目|2004|p=266}}{{Sfnp|藤野|2007|pp=88-92}}。 == 大衆文化の中で == {{Anchors|マフェットちゃん_画|ラッカム画02}} {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = マフェットちゃん | header_align = center | header_background = gold | footer = 座ってチーズ食べてた[[#マフェットちゃん|マフェットちゃん]] [[クモ]]にビックリ逃げ出した! | footer_align = left | image1 = Arthur Rackham Little Miss Muffet.jpg | width1 = 170 | alt1 = アーサー・ラッカムの水彩画で、1913年刊行の自著のための挿絵。内容はおおよそオリジナルどおりで、しかし紳士風のクモさんはアレンジ。 | caption1 = [[アーサー・ラッカム]]の[[水彩画]]で、1913年刊行の自著{{r|WSU_Rackham1913}}{{Sfnp|Rackham|2015}}のための[[挿絵]]。内容はおおよそオリジナルどおりで、しかし[[紳士]]風のクモさんは素敵なアレンジ。 | image2 = Little Miss Muffet 1940 poster.jpg | width2 = 156 | alt2 = 「マフェットちゃん」の歌詞をもじった1940年のポスター。デザインはフラットな漫画的ポップアート。 | caption2 = 同じく歌詞をもじった、こちらは1940年の[[ポスター]]。デザインはフラットな漫画的[[ポップアート]]。オリジナルと違って屋内のようにも見える。 }} {{see also|[[:Category:マザー・グースを題材にした作品]]}} マザーグースはイギリスにおいては身分・階層を問わず広く親しまれており、このことを言い表すのに「上は[[王室]]から下は[[乞食]]まで」という言葉も使われる。王室関係者がマザーグースに親しんでいることを示す出来事として、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]](1819 - 1901、{{small|在位:}}1837 - 1901)が庶民の子供と「[[#子猫ちゃん子猫ちゃん|子猫ちゃん子猫ちゃん]]」を巡ってやりとりをしたというエピソードや、[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] (1948 - ) が生まれた際、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]のメンバーが「[[#月曜日に生まれた子供は|月曜日に生まれた子供は]]」にちなんだ祝いの言葉を述べたというエピソードも伝えられている{{Sfnp|藤野|2007|pp=78-82}}。庶民に親しまれている代表例としては、イギリス各地でいくらでも見つけることができるマザーグースの童謡の名前にちなんだ店名をもつ[[パブ]]がある{{Sfnp|藤野|2007|pp=32, 98, 102}}。パブ「キャット・アンド・フィドル」とあれば、それは「[[#ヘイ・ディドゥル・ディドゥル|ヘイ・ディドゥル・ディドゥル]]」の別名である{{Sfnp|藤野|2007|pp=32, 98, 102}}。 マザー・グースの引用や登場人物、またそれにちなんだ言い回しは、近代から現代にいたる英米の社会において、新聞、雑誌、広告、小説、漫画、映画、ラジオ、テレビ、[[ポピュラーソング]]など様々な分野のなかに広く見ることができる{{r|"kb_マザーグースの歌"}}。文学においては[[ルイス・キャロル]]の『[[不思議の国のアリス]]』と『[[鏡の国のアリス]]』が物語のなかにマザーグースを用いたことでよく知られており、前者に「[[#ハートの女王 (詩)|ハートの女王]]」、後者に「[[#トゥイードルダムとトゥイードルディー|トゥイードルダムとトゥイードルディー]]」「[[#ハンプティ・ダンプティ|ハンプティ・ダンプティ]]」「[[#ライオンとユニコーン|ライオンとユニコーン]]」を登場させ、いずれも個性的に描き出している。ほかにも、『[[メアリー・ポピンズ]]』『[[秘密の花園]]』『[[指輪物語]]』など、[[児童文学]]や[[ファンタジー]]の古典にもマザーグースの引用例は多い{{Sfnp|藤野|2007|pp=47-50}}。 {{Anchors||マザーグース・ミステリ|マザー・グース・ミステリ|マザー・グース・ミステリー}} === マザーグース・ミステリー === ミステリー/[[ミステリ]]の分野では、「[[#10人のインディアン|10人のインディアン]]」をモチーフとして連続殺人が行われる[[アガサ・クリスティ]]の『[[そして誰もいなくなった]]』(イギリスにて[[1939年]]刊行)、「[[#クックロビン|誰がこまどりを殺したの?]]」など4つの童謡の詩句に沿って連続殺人が行われる[[ヴァン・ダイン]]の『[[僧正殺人事件]]』(アメリカにて[[1929年]]刊行)などを初めとして、多数の「'''マザーグース・ミステリー''' / '''マザーグース・ミステリ'''」(''cf.'' {{small|[[:Category:マザー・グースを題材にしたミステリ]]}})がある{{Sfnp|藤野|2009|p=113|loc=「マザーグースを口ずさんで」}}。 == 日本における受容 == === 小サキ星ガ輝ク === 既知で最初の[[日本語訳]](および、日本の最初の日本語訳)は、村井元道の訳業で、出版者・三浦源助の下から[[1881年]]([[明治]]14年)に出された自習書『ウヰルソン氏第二リイドル直訳』{{Sfnp|村井|1882}}に所収の、「小サキ星ガ輝クヨ輝クヨ」で始まる「第14章 小サキ星ガ輝ク」であり{{Sfnp|村井|1882|pp=37-38}}{{Sfn|国立国会図書館デジタルコレクション『ウィルソン氏第二リイドル直訳』|loc=70-71コマ(37-38頁)}}、これは "Twinkle, twinkle, little star; Twinkle, twinkle, little star; " で始まる "''Twinkle, Twinkle, Little Star'' "(現在の邦題:[[#きらきら星|きらきら星]])の直訳であった{{Sfnp|藤野|2007|p=77}}。 また、アメリカ人[[宣教師]]にして保育者・教育者でもあった[[アニー・ライオン・ハウ]] (1852 - 1943) は、幼児教育に関する教科書の無い時代にあってその作成に尽力したが<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-06 |title=【4845・46号】宣教師からの声 番外編 日本初期における女性(宣教師)の働き 阿部(頌栄短期大学前学長、名誉教授)|url=http://uccj.org/newaccount/24800.html |publisher=日本基督教団 |accessdate=2020-06-24 }}</ref>、その活動の一環で撰して訳した『幼稚園唱歌』([[1892年]]〈明治25年〉5月30日刊{{Sfnp|藤野|1987|p=185}})は、マザーグースから採った「きらきら(現在の邦題:きらきら星){{Sfnp|藤野|1987|pp=186-187}}」と「我小猫を愛す{{Sfnp|藤野|1987|p=188}}」の2篇を所収しており{{r|"kb_マザーグースの歌"}}、1987年の時点ではこれが日本における初訳とされていた{{r|"kb_マザーグースの歌"}}{{Sfnp|藤野|1987|p=189}}。なお、2篇とも抜粋に抜粋を重ねて再構成した部分訳である{{Sfnp|藤野|1987|pp=187-188}}。 === 夢二 === 明治の終わりから[[大正]]時代にかけては、画家で詩人の[[竹久夢二]]も翻訳あるいは翻案に取り組んでいる。夢二はおそらく添えられているイラストから興味を持ち始めて自分で訳すようになったものと考えられ{{Sfnp|藤野|2007|p=57}}、[[1910年]]([[明治]]43年)11月刊行の画文集『さよなら』に収録した物語のなかに「[[#クックロビン|誰がこまどりを殺したの?]]」の訳{{Refnest|group="注"|原文:{{Quotation|『{{ruby|誰|た}}そ駒鳥を殺せしは?』<br />雀はいひぬ、『我こそ!』と、<br />『わがこの弓と矢とをもって 我れ駒鳥を殺しけり』 ──『さよなら』「誰そ駒鳥を殺せしは?」 {{Sfnp|藤野|1987|p=189}} }}}}と「ロンドンへ(現在の邦題:[[#子猫ちゃん子猫ちゃん|子猫ちゃん子猫ちゃん]]){{Sfnp|藤野|1987|p=189}}」を入れて以降、さまざまなマザーグースを訳出している。ただし夢二は翻訳であるという断りをいれずに訳して自分の創作詩といっしょに扱ったりしており、翻訳というより翻案に近いようなものもある{{Sfnp|藤野|2007|p=77}}。一例として[[1919年]](大正8年)の自著である児童書『歌時計』{{Sfnp|竹久|1919}}<ref name="WUL古典籍Db_歌時計">{{Harvnb|早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 竹久夢二『歌時計』}}</ref>{{r|"丹青_歌時計"}}に所収の「蜘蛛」(96 - 97頁{{Refnest|group="注"|[[早稲田大学図書館]]の古典籍総合データベース{{r|"WUL古典籍Db_歌時計"}}では、88 - 89コマ。}})は「[[#マフェットちゃん|マフェットちゃん]]」に対応しているが、男の子ジャック<ref group="注">[[英語圏]]ではありふれている「[[ジャック]]」という名前をもつ男の子や大人の男性は、マザーグースに数多く登場する。</ref>が木の上から落ちてきた[[レーズン|干葡萄]]({{small|ほしぶどう}})を食べようとしたところ[[クモ|蜘蛛]]だったという{{r|"WUL古典籍Db_歌時計"}}、オリジナルとは異なる展開になっており、これは今でいう[[二次創作]]の範疇にある。 [[ファイル:Kitahara Hakushu.jpg|thumb|160px|日本初のマザーグース訳集を出した北原白秋|alt=北原白秋のポートレート]] === まざあ・ぐうす === 初期の訳業で最も重要な人物は[[北原白秋]]で、大正時代に『まざあ・ぐうす』を出版している{{Sfn|青空 白秋}}{{Refnest|group="注"|書籍中での表記は「まざあ・ぐうす」と「マザア・グウス」の2種類があり、前者はタイトル(メインタイトルとサブタイトル)でのみ、後者は文中でのみ使用されている{{Sfn|青空 白秋}}。}}。白秋による訳は、まず児童雑誌『[[赤い鳥]]』の[[1920年]](大正9年)1月号(同年1月刊行)に「柱時計」({{small|原題:''{{lang|en|Hickory Dickory Dock}}''、日本語別名:[[#ヒッコリー・ディッコリー・ドック|ヒッコリー・ディッコリー・ドック]]}})と「緑のお家」({{small|読み:みどりのおうち{{Sfn|青空 白秋}}、原題:''{{lang|en|There Was a Little Green House}}''}})が掲載され、続けて同誌にマザーグースの様々な童謡が発表されていった{{Sfnp|平野|1972|pp=11-18}}。そして、明くる[[1921年]](大正10年)の末(白秋{{年数|1885|01|25|1921|12|31}}歳時)に纏められ、日本初のマザーグース訳詩集『まざあ・ぐうす』として[[アルス (出版社)|アルス]]社から刊行された{{Sfnp|藤野|2007|p=57}}。挿絵は[[恩地孝四郎]]が担当。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものより滑らかな口語に直されている{{Sfnp|平野|1972|pp=14-16}}。上述の「柱時計」と「緑のお家」はそれぞれ「一時」と「くるみ」に改題したうえで掲載されている{{Sfn|青空 白秋}}。 {{Anchors|藻風}} その後は[[イギリス文学者|英文学者]]で詩人の[[竹友藻風]]による『英国童謡集』が[[1929年]]([[昭和]]4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる{{Sfnp|平野|1972|pp=17-18}}。 === 谷川発のブーム === 『まざあ・ぐうす』からほぼ半世紀が過ぎた[[1970年]](昭和45年)、[[リチャード・スカーリー]]の著書を[[谷川俊太郎]]が翻訳した[[絵本]]『スカーリーおじさんのマザー・グース』{{Sfnp|スカーリー|谷川|1970}}が中央公論社(現・[[中央公論新社]])から出版された。谷川の翻訳は洗練された{{信頼性要検証範囲|[[口語]]による|date=2020年6月20日|title=これ重要ですか? 何時代だろうがその時々の口語で訳されてきたと思うので、口語だったから普及したかのような平野氏の解釈自体に疑問が…。「洗練された」だけが重要な気がします。}}ものであった{{Sfnp|平野|1972|pp=19-22}}。同書は50篇のみの訳出であったが、谷川はその後、1975年(昭和50年)から翌1976年(昭和51年)にかけて、177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集{{Sfnp|谷川|堀内|1988}}を[[草思社]]より出版している。絵は[[堀内誠一]]が担当した。読みやすい谷川訳による『マザー・グースのうた』の出版には大きな反響があり、これをきっかけに日本におけるマザーグース・ブームが巻き起こった<ref name="毎日_19760503">{{Cite news |和書 |date=1976-05-03 |title=大変な人気『マザー・グース』|publisher=[[毎日新聞社]] |newspaper=[[毎日新聞]] |accessdate=2010-11-05 }}</ref>。 {{Anchors|ハンプティ・ダンプティ_画}}[[ファイル:Denslow's Humpty Dumpty 1904.jpg|thumb|left|160px|「ハンプティ・ダンプティ」 / デンスロウ画。|alt=ハンプティ・ダンプティ]] === 拡がるファン層 === ブームは他の分野の読者層をも取り込む形で拡がりを見せる。[[1972年]](昭和47年)から[[1976年]](昭和51年)まで連載された[[萩尾望都]]の少女漫画『[[ポーの一族]]』は、全編を通して随所にマザーグースの詩の一節を用いたことで知られている(''cf.'' {{small|[[ポーの一族#作品中のマザーグース]]}})。[[小学館]]『別冊[[少女コミック]]』の[[1973年]](昭和48年)1月号から連載が始まった「[[メリーベルと銀のばら]]」で[[#ハンプティ・ダンプティ|ハンプティ・ダンプティ]]を扱ったのが[[wikt:嚆矢|嚆矢]]になっている。また、マザーグースを引用した[[1939年]]の作品である[[アガサ・クリスティ]]の『[[そして誰もいなくなった]]』が[[ハヤカワ文庫#HM|ハヤカワ・ミステリ文庫(現・ハヤカワ文庫HM)]]の創刊第1弾として日本に紹介されたのは、[[1976年]](昭和51年)4月のことであった。これら異なる分野ながらいずれも大いに人気を博した作品に重要な位置付けで取り上げられたことも、谷川俊太郎の訳業に始まるブームを後押ししたと見られている{{r|"毎日_19760503"}}{{Sfnp|いとう|2007|pp=29-30}}。 [[推理小説]]でいう「[[#マザーグース・ミステリー|マザーグース・ミステリー]]」の、マザーグースの童謡さながらに一人また一人と殺されてゆく設定は、[[手鞠歌|手毬唄]]の[[歌詞]]に沿って行われる[[童謡殺人]]を描く[[横溝正史]]の[[金田一耕助]]シリーズ『[[悪魔の手毬唄]]』(1957年〈昭和32年〉- 1959年〈昭和34年〉)などにも影響を与えた。 {{Anchors|一覧|マザー・グース・ライムの一覧}} == 主なマザーグースの童謡一覧 == {{節スタブ}} ここでは、マザーグースの童謡のうち主なものを一覧形式で記載する。記載順は原語でのそれに準拠している。また、内容は原語名(英語名)・日本語名・解説・({{small|あれば}})音声ファイルの順で記載する。 [[ファイル:Dorothy-m-wheeler-baa-baa-black-sheep-1916.jpg|thumb|150px|めえめえ黒ひつじ|alt=めえめえ黒ひつじ]] [[ファイル:Hey.diddle.diddle.jpeg|thumb|180px|ヘイ・ディドゥル・ディドゥル|alt=ヘイ・ディドゥル・ディドゥル]] [[ファイル:Jack Sprat and his wife by Frederick Richardson.jpg|thumb|180px|ジャック・スプラット|alt=ジャック・スプラット]] [[ファイル:Mistress Mary, Quite Contrary 2 - WW Denslow - Project Gutenberg etext 18546.jpg|thumb|150px|メアリー、メアリー、へそ曲がり|alt=メアリー、メアリー、へそ曲がり]] {{multiple image | align = right | direction = horizontal | header = {{font color|white|ハートの女王}} | header_align = center | header_background = tomato | footer = 左:{{仮リンク|W・W・デンスロウ|en|William Wallace Denslow}}が描くマクルーア版「[[#ハートの女王 (詩)|ハートの女王]]」<br />右:{{仮リンク|チャールズ・ロビンソン (イラストレーター)|label=チャールズ・ロビンソン|en|Charles Robinson (illustrator)}}が描く『[[ふしぎの国のアリス]]』版「[[#ハートの女王|ハートの女王]]」 | footer_align = left | image1 = Queen of Hearts Mother Goose2.jpg | width1 = 142 | alt1 = デンスロウが描くハートの女王 | image2 = Alice's Adventures in Wonderland - Carroll, Robinson - S008 - 'Off with her head!'.jpg | width2 = 140 | alt2 = チャールズ・ロビンソンが描く『[[ふしぎの国のアリス]]』版ハートの女王 }} [[ファイル:Ring-a-round-a rosesSmith.jpg|thumb|220px|[[Ring-a-Ring-o' Roses|リング・ア・リング・オー・ローゼズ]]|alt=リング・ア・リング・オー・ローゼズ]] [[ファイル:Walter Crane. Lion and Unicorn.jpg|thumb|150px|[[ライオンとユニコーン]]|alt=ライオンとユニコーン]] [[ファイル:Tennieldumdee.jpg|thumb|200px|[[トゥイードルダムとトゥイードルディー]]|alt=トゥイードルダムとトゥイードルディー]] なお、「[[ロンドン]][[wikt:初出|初出]]」が多いのは、著述者および出版者の一大参集地であることに加えて、[[#ハリウェル|ハリウェル]]らロンドンを本拠とする編纂者の功績の大きさゆえの偏りである。ただ、ロンドンという地域性から生まれたものが無いわけではない。 <!--※日本語版のあるものは英語版もリンクを張って下さい。理由は情報量が格段に違うことが少なくないからで(申し訳ない…)、英語版→日本語版の順に読む人もいるのです。リンクされていないと日本語版から回り込む無駄が生じます。--><!--※増えたら一覧記事に分割を。--> {{space|2}} * {{Anchors|ABCの唄}}''Apple Pie ABC'' {{仮リンク|アップルパイABC|en|Apple Pie ABC}} <ref name=OPCL>{{Harvnb|大阪府立中央図書館|2008}}</ref> ** 分類:アルファベットライム。 * {{Anchors|めえめえ黒ひつじ}}''Baa, Baa, Black Sheep'' {{仮リンク|めえめえ黒ひつじ|en|Baa, Baa, Black Sheep}} ** 1731年のイギリスに起源。1744年、ロンドン初出。■画像あり。{{Audio|Baa, Baa, Blacksheep.ogg|Play}} * {{Anchors|ベティが買ったバター}}''Betty Botter'' {{仮リンク|ベティが買ったバター|en|Betty Botter}} {{r|OPCL}} ** [[キャロライン・ウェルズ]]作。20世紀半ばのアメリカ初出。オリジナルタイトルは "''The Butter Betty Bought'' " で、日本語訳名はこちらに由来する。分類:[[早口言葉]]{{r|weblio_20170214|OPCL}}。{{Audio|En-Betty Botter.ogg|Play}}。 * {{Anchors|こんな子?見た?}}''Did You Ever See a Lassie?'' [[こんな子?見た?]] ** [[スコットランド]]起源。1909年の[[ニューヨーク|ニューヨーク市]][[ブルックリン区|ブルックリン]]で初出。 * {{Anchors|ジョージ・ポージ}}''Georgie Porgie'' {{仮リンク|ジョージ・ポージ (童謡)|label=ジョージ・ポージ|en|Georgie Porgie}} ** 1841年の[[イングランド]]初出。 * {{Anchors|ぼくたち、わたしたち}}''Girls and Boys Come Out To Play'' {{仮リンク|ぼくたち、わたしたち|en|Girls and Boys Come Out To Play}} ** 1708年に[[ダンス]]の本で文献初出。マザーグースとしては1744年にロンドンで初出。音声ファイル ([[:en:Girls and Boys Come Out To Play#Lyrics|en:music]])。 * {{Anchors|桑の木の周りを回ろう}}''Here We Go Round the Mulberry Bush'' {{仮リンク|桑の木の周りを回ろう|en|Here We Go Round the Mulberry Bush}} ** 19世紀半ばのイギリス起源。ロンドン初出。音声ファイル ([[:en:Here We Go Round the Mulberry Bush#Score|en:music]])。 * {{Anchors|ヘイ・ディドゥル・ディドゥル|キャット・アンド・フィドル}}''Hey Diddle Diddle'' {{仮リンク|ヘイ・ディドゥル・ディドゥル|en|Hey Diddle Diddle}} ** "''The Cat and the Fiddle''(キャット・アンド・フィドル)"、"''The Cow Jumped Over the Moon''" ともいう。[[イングランド]]起源。1765年頃のロンドン初出。[[#ラッカム画01|■画像あり]]。■右にもあり。音声ファイル ([[:en:Hey Diddle Diddle#Lyrics and music|en:music]])。 * {{Anchors|ヒッコリー・ディッコリー・ドック}}''Hickory Dickory Dock'' {{仮リンク|ヒッコリー・ディッコリー・ドック|en|Hickory Dickory Dock}} ** 1744年、ロンドン初出。音声ファイル ([[:en:Hickory Dickory Dock#Lyrics and music|en:music]])。 * {{Anchors|ハンプティ・ダンプティ}}''Humpty Dumpty'' [[ハンプティ・ダンプティ]] ** 1797年、ロンドン初出。分類:なぞなぞ唄。[[#ハンプティ・ダンプティ_画|■画像あり]]。音声ファイル ([[:en:Humpty Dumpty#Lyrics and melody|en:music]])。 * {{Anchors|ハッシャバイ・ベイビー}}''Hush-a-bye Baby'' {{仮リンク|ハッシャバイ・ベイビー|en|Rock-a-bye Baby}} ** 1765年頃のイングランド初出。分類:[[子守唄]]。 * {{Anchors|フェル先生、ぼくはあなたが嫌いです}}''I do not like thee, Doctor Fell'' {{仮リンク|フェル先生、ぼくはあなたが嫌いです|en|I do not like thee, Doctor Fell}} ** 1680年、[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]初出。 * {{Anchors|ジャックとジル}}''Jack and Jill'' {{仮リンク|ジャックとジル (童謡)|label=ジャックとジル|en|Jack and Jill (nursery rhyme)}} ** 1765年頃のロンドン初出。分類:[[バラッド]](物語歌)。[[#ジャックとジル_画|■画像あり]]。{{Audio|201008241206184375 M.mid|Play}} * {{Anchors|ジャック・スプラット}}''Jack Sprat'' {{仮リンク|ジャック・スプラット|en|Jack Sprat}} ** 16世紀のイングランドに由来。1639年、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の収集品として初出。■画像あり。 * {{Anchors|てんとう虫、てんとう虫}}''Ladybird Ladybird'' {{仮リンク|てんとう虫、てんとう虫|en|Ladybird Ladybird}} ** イギリス起源。1744年のロンドン初出。分類:唱え言葉(呪文)。 * {{Anchors|ジャック・ホーナーくん}}''Little Jack Horner'' {{仮リンク|ジャック・ホーナーくん|en|Little Jack Horner}} ** 1725年、ロンドン初出。[[#ジャック・ホーナーくん_画|■画像あり]]。 * {{Anchors|マフェットちゃん}}''Little Miss Muffet'' {{仮リンク|マフェットちゃん|en|Little Miss Muffet}} ** 1805年より少し前、イングランド([[エセックス]]か)初出。[[#マフェットちゃん_画|■画像あり]]。 * {{Anchors|リジー・ボーデン}}''Lizzie Borden'' [[リジー・ボーデン]] ** 1892年の殺人事件報道が起源。1952年の[[ブロードウェイ・シアター]]初演で成立。 * {{Anchors|ロンドン橋落ちた}}''London Bridge Is Broken Down'' [[ロンドン橋落ちた]] ** イングランド起源。古形は1657年(異説では1636年)のロンドン初出。{{仮リンク|ヘンリー・ケアリー (作家)|label=ヘンリー・ケアリー|en|Henry Carey (writer)}}・バージョンは1725年初出。分類:遊戯唄。{{Audio|London Bridge Is Falling Down.ogg|Play}} * {{Anchors|メリーさんのひつじ|メリーさんの羊}}''Mary had a little lamb'' [[メリーさんのひつじ]] ** 1830年、アメリカの[[ボストン]]起源で初出。[[#メリーさんのひつじ_画|■画像あり]]。{{Audio|Mary_Had_a_Little_Lamb.ogg|Play}} * {{Anchors|メアリー、メアリー、へそ曲がり}}''Mary, Mary, Quite Contrary'' {{仮リンク|メアリー、メアリー、へそ曲がり|en|Mary, Mary, Quite Contrary}} ** 1744年のロンドン初出。 * {{Anchors|月曜日に生まれた子供は}}''Monday's Child'' {{仮リンク|月曜日に生まれた子供は|en|Monday's Child}} ** 1838年、ロンドン初出。分類:覚え歌(暗記歌)。 * {{Anchors|コオル老王}}''[[:en:Old King Cole|Old King Cole]]'' [[コオル老王]] ** [[ケルト#島のケルト|島のケルト]]起源。 * {{Anchors|ゆかいな牧場}}''Old MacDonald Had a Farm'' [[ゆかいな牧場]] ** アメリカ起源で1917年初出。{{Audio|OldMcDonaldHadAFarm.ogg|Play}} * ''{{Visible anchor|Old Mother Goose|オールド・マザー・グース}}'' [[オールド・マザー・グース]] * ''{{Visible anchor|Old Mother Hubbard|ハバードおばさん}}'' {{仮リンク|ハバードおばさん|en|Old Mother Hubbard}} ** 1805年、アメリカ初出。 * {{Anchors|オレンジとレモン}}''Oranges and Lemons'' [[オレンジとレモン]] ** イングランド起源。1744年のロンドン初出。 ** 音声情報として、{{仮リンク|セント・クレメント・デーンズ|en|St Clement Danes}}の時の鐘:{{Audio|StClementsDanes.ogg|Play}} * {{Anchors|ピーター・パイパー|ペーター・パイパー}}''[[:en:Peter Piper|Peter Piper]]'' [[ピーター・パイパー]] ** 1813年、イングランド初出。分類:[[早口言葉]]{{r|weblio_20170214}}。音声情報:Bryant Oden [[YouTube]] official channel <ref>{{Cite video |people=Oden, Bryant |title=Peter Piper (Tongue Twister Song) A Funny Song by Bryant Oden |url=https://www.youtube.com/watch?v=6CMHrDDWado |format= |medium=[[動画共有サービス]] |publisher=Bryant Oden YouTube official channel |work=Songdrops Music |accessdate=2020-06-24 }}</ref> * {{Anchors|いたちが飛び出した|イタチが飛び出した}}''Pop Goes the Weasel'' {{仮リンク|いたちが飛び出した|en|Pop Goes the Weasel}} ** 18世紀ロンドン起源。1852年、ロンドン初出。{{Audio|Pop Goes the Weasel.ogg|Play}} * {{Anchors|子猫ちゃん子猫ちゃん}}''Pussy Cat Pussy Cat'' {{仮リンク|子猫ちゃん子猫ちゃん|en|Pussy Cat Pussy Cat}} ** イングランド起源。1805年、ロンドン初出。 * {{Anchors|ハートの女王 (詩)}}''[[:en:The Queen of Hearts (poem)|The Queen of Hearts]]'' [[ハートの女王#童謡「ハートの女王」|ハートの女王]] ** 1782年、ロンドン初出。[[詩]]を彩る[[トランプ]]の[[キャラクター]]として月刊誌『{{仮リンク|ヨーロピアンマガジン|en|European Magazine}}』から生まれた「ハートの女王」(■右に画像あり)は、{{Anchors|ハートの女王}}[[ルイス・キャロル]]の児童小説『[[不思議の国のアリス]]』の登場キャラクター「[[ハートの女王]]」(■右に画像あり)のモデルとなることで一躍有名になり、それによって詩と共にマザーグースに採り込まれることになったと考えられる{{Sfnp|キャロル|ガードナー|石川|1980|p=207}}。著名なマザーグース編纂者である[[#オーピー夫妻|オーピー夫妻]]は、『ヨーロピアンマガジン』に掲載された詩がもっと古い童謡から採られたものである可能性を指摘している{{Sfnp|Opie|1997|p=427}}。 * {{Anchors|木馬に乗ってバンベリーへ行こう}}''Ride a cock-horce to Banbury Cross'' {{仮リンク|木馬に乗ってバンベリーへ行こう|en|Ride a cock horse to Banbury Cross}} ** 18世紀前半のロンドン起源。1784年、ロンドン初出。 * {{Anchors|Ring a Ring o' Roses|リング・ア・リング・オー・ローゼズ}}''Ring a Ring o' Roses'' [[Ring-a-Ring-o' Roses|リング・ア・リング・オー・ローゼズ]] ** 近世イギリスもしくは近世[[ヨーロッパ]]起源。1881年、ロンドン初出。■画像あり。{{Audio|RingARingORosesMusic1898 Marlborough.mid|Play Marlborough|Play}}, {{Audio|RingARingORosesMusic1898 Yorkshire.mid|Yorkshire|Play}}, {{Audio|RingARingORosesMusic1898 Sporle1.mid|Sporle A|Play}}, {{Audio|RingARingORosesMusic1898 Sporle2.mid|Sporle B|Play}} * {{Anchors|彼女は貝を売る}}''She Sells Seashells'' 彼女は貝を売る ** 分類:[[早口言葉]]{{r|weblio_20170214|"東進_20130219"}}。音声情報:Bryant Oden YouTube official channel <ref>{{Cite video |people=Oden, Bryant |title=Sally Sells Sea Shells: A tongue twister song |url=https://www.youtube.com/watch?v=ptrA-e5abYE&feature=youtu.be |format= |medium=動画共有サービス |publisher=Bryant Oden YouTube official channel |work=Songdrops Music |accessdate=2020-06-24 }}</ref>。 * {{Anchors|Sing a Song of Sixpence|6ペンスの唄|6ペンスの唄を唄おう}}''Sing a Song of Sixpence'' [[6ペンスの唄|6ペンスの唄を唄おう]] ** [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[十二夜]]』由来。1744頃のロンドン初出。音声ファイル: ([[:en:Sing a Song of Sixpence#Melody|en:music]])。 * ''{{Visible anchor|Skip to My Lou|スキップ・トゥ・マイ・ルー}}'' {{仮リンク|スキップ・トゥ・マイ・ルー|en| Skip to My Lou}} ** 1840年代のアメリカ起源。 * ''{{Visible anchor|Solomon Grundy|ソロモン・グランディ}}'' {{仮リンク|ソロモン・グランディ|en|Solomon Grundy (nursery rhyme)}} ** 1842年、ロンドン初出。 * {{Anchors|Ten Little Indians|テン・リトル・インディアンズ|10人のインディアン}}''Ten Little Indians'' [[テン・リトル・インディアンズ|10人のインディアン]] ** 1868年、アメリカ初出。音声ファイル: ([[:en:Ten Little Indians#Lyrics|en:music]])。 * {{Anchors|小さな谷の農夫}}''The Farmer in the Dell'' {{仮リンク|小さな谷の農夫|en|The Farmer in the Dell}} ** 1820年頃の[[ドイツ]]初出。 * {{Anchors|ライオンとユニコーン}}''The Lion and the Unicorn'' [[ライオンとユニコーン]] ** [[エリザベス1世]]の死去に始まりイングランドと[[スコットランド]]の[[同君連合]]成立まで続いた1603年の対立が起源か。 * {{Anchors|曲がった男}}''There Was a Crooked Man'' {{仮リンク|曲がった男|en|There Was a Crooked Man}} ** 1842年のロンドン初出。 * {{Anchors|靴にお婆さんが住んでいた}}''There was an Old Woman Who Lived in a Shoe'' {{仮リンク|靴にお婆さんが住んでいた|en|There was an Old Woman Who Lived in a Shoe}} ** 1794年、イングランド初出。 * {{Anchors|おばあさんと豚|おばあさんとぶた}}''The Old Woman and Her Pig'' おばあさんと豚 ** 分類:[[つみあげうた|積み上げ唄]]{{r|OPCL}}。 * {{Anchors|これはジャックが建てた家}}''This Is the House That Jack Built'' {{仮リンク|これはジャックが建てた家|en|This Is the House That Jack Built}} ** 1590年初出の[[ハド・ガドヤー]]の[[ハッガーダー]]に由来。1755年のロンドン初出。分類:積み上げ唄{{r|OPCL}}。 * {{Anchors|この子豚ちゃん}}''This Little Piggy'' {{仮リンク|この子豚ちゃん|en|This Little Piggy}} ** 1760年頃のイギリス初出。 * ''{{Visible anchor|This Old Man|ディス・オールド・マン}}'' {{仮リンク|ディス・オールド・マン|en|This Old Man}} ** 1906年頃のイギリス初出。 * ''{{Visible anchor|Three Blind Mice|三匹のめくらのねずみ|三匹のめくらのネズミ|三匹の盲目のねずみ|三匹のめくらネズミ}}'' {{仮リンク|三匹のめくらのねずみ|en|Three Blind Mice}} ** 1609年頃のイギリス初出。{{Audio|Three Blind Mice.ogg|Play}} * {{Anchors|Tweedledum and Tweedledee|トゥイードルダムとトゥイードルディー}}''Tweedledum and Tweedledee'' [[トゥイードルダムとトゥイードルディー]] ** 1805年のイングランドで初出・成立。 * {{Anchors|きらきら星}}''Twinkle, Twinkle, Little Star'' [[きらきら星]] ** 1806年のロンドン初出。新たに歌詞をつけた輸入曲で、元はフランス民謡。{{Audio|Twinkle Twinkle Little Star plain.ogg|Play}} * {{Anchors|Wee Willie Winkie|ウィー・ウィリー・ウィンキー}}''Wee Willie Winkie'' [[ウィー・ウィリー・ウィンキー]] ** 1841年のスコットランド初出。 * {{Anchors|男の子って何でできてる?}}''What Are Little Boys Made Of?'' [[男の子って何でできてる?]] ** 1820年頃の[[カンバーランド]]初出。 * {{Anchors|クックロビン}}''Who killed Cock Robin?'' [[クックロビン|誰がこまどりを殺したの?]] ** 起源については、[[北欧神話]]の神[[バルドル]]説、イングランド王[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]の故事説(10世紀)、[[ロビン・フッド]]説(中世)、[[ロバート・ウォルポール]]首相の失脚劇説(1742年)がある。古形は1744年のロンドンで初出・成立。現在の形は1770年初出。 == 歴史的文献 == ここでは、マザーグースの歴史に深く関連した文献等について、補足的に記述する。 * <!--Perrault-->{{Cite book |last=Perrault |first=Charles |author=Charles Perrault |authorlink=シャルル・ペロー |date=01 January 1978 |title=Histories, or Tales of Past Times |origdate=1729 |edition=Hardcover, Faks. av orig.-uppl., 1729 |location=[[ニューヨーク|New York City]] |publisher=Dissertations-Garland |language=English |ref={{SfnRef|Perrault|1978}} }}.{{spaces|2}}{{small|{{oclc|925385044}}, {{ISBN2|0824022556}}, {{ISBN2|978-0824022556}}.}} : ※ロバート・サンバーの英訳本の再版本。 * <!--Rackham-->{{Cite book |author1=anonymous (author) |last=Rackham |first=Arthur (illustrator) |author=Arthur Rackham |authorlink=アーサー・ラッカム |date=15 April 2015 |title=Mother Goose - The Old Nursery Rhymes - Illustrated by Arthur Rackham |url=https://www.amazon.com/Mother-Goose-Nursery-Illustrated-Rackham/dp/144650011X |origdate=1913 |edition=Paperback |location= |publisher=Pook Press |language=English |ref={{SfnRef|Rackham|2015}} }}.{{spaces|2}}{{small|{{ISBN2|144650011X}}, {{ISBN2|978-1446500118}}.}} : ※アーサー・ラッカムの画集。 == 参考文献 == <!--出典に使用している文献その他。--> * <!--Baring-Gould-->{{Cite book |author1=anonymous |last2=Baring-Gould |first2=William S. (Commentary and notes) |author2=William S. Baring-Gould |authorlink2=:en:William S. Baring-Gould |last3=Baring-Gould |first3=Ceil (Commentary and notes) |author3=Ceil Baring-Gould |date=12 December 1962 |title=The Annotated Mother Goose: With an Introduction and Notes |edition=Hardcover, 1st |publisher=[[:en:Crown Publishing Group#Imprints|Clarkson N. Potter]] |language=English |ref={{SfnRef|Baring-Gould|1962}} }}. : {{small|{{oclc|1204333}}, {{ISBN2|0517029596}}, {{ISBN2|978-0517029596}}.}} :* 和訳書:<!--ベアリングールド-->{{Cite book |和書 |author1=原作者不詳 |author2=ウイリアム・S・ベアリングールド(解説と注)|author3=シール・ベアリングールド(解説と注)|translator=石川澄子 |date=2003-11-01 |title=完訳 マザーグース |origdate=1962-12-12 |publisher=[[鳥影社]] |ref={{SfnRef|ベアリングールドほか|2003}} }} :: {{small|{{ncid|BA64561409}}、{{oclc|675467366}}、{{ISBN2|4-88629-787-0}}、{{ISBN2|978-4-88629-787-7}}、{{国立国会図書館書誌ID|000004315345}}。}} * <!--Carroll|Gardner-->{{Cite book |last=Carroll |first=Lewis |author=Lewis Carroll |last2=Gardner |first2=Martin (Annotated) |author2=Martin Gardner |date=1960 |title=[[:en:The Annotated Alice|The Annotated Alice]] : Alice's adventures in Wonderland |location=[[ニューヨーク|New York City]] |publisher=Bramhall House |language=English |ref={{SfnRef|Carroll|Gardner|1960}} }}. ** 和訳書:{{Cite book |和書 |author1=ルイス・キャロル|authorlink1=ルイス・キャロル|author2=石川澄子(訳著)|author3=マーティン・ガードナー(注釈)|authorlink3=マーティン・ガードナー|date=1980-04-01 |title=不思議の国のアリス |origdate=1960 |edition=初版 |publisher=[[東京図書]] |ref={{SfnRef|キャロル|ガードナー|石川|1980}} }}{{small|{{asin|B000J892MA}}、{{ncid|BN02015809}}、{{oclc|959655839}}、{{ISBN2|4-489-01219-5}}、{{ISBN2|978-4-489-01219-8}}。}} * <!--Hahn-->{{Cite book |last=Hahn |first=Daniel |author=Daniel Hahn |authorlink=:en:Daniel Hahn |last2=Morpurgo |first2=Michael |author2=Michael Morpurgo |authorlink2=:en:Michael Morpurgo |date=1983 |title=The Oxford Companion to Children's Literature |url=https://books.google.co.jp/books?id=Mb66BwAAQBAJ&dq=&redir_esc=y |location=[[オックスフォード|Oxford]] |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |language=English |ref={{SfnRef|Hahn|Morpurgo|1983}} }}. : {{small|{{oclc|962330492}}, {{ISBN2|0199695148}}, {{ISBN2|9780199695140}}.}} * <!--Opie-->{{Cite book |author=Iona and Peter Opie |authorlink=:en:Iona and Peter Opie |date=1997 |title=The Oxford Dictionary of Nursery Rhymes |origdate=1951 |edition=Hardcover, 2nd |location=Oxford |publisher=Oxford University Press |series=Oxford Dictionary of Nusery Rhymes |language=English |ref={{SfnRef|Opie|1997}} }}. : {{small|{{asin|0198600887}}, {{oclc|850601373}}, {{ISBN2|0198600887}}, {{ISBN2|978-0198600886}}.}} * <!--Wilson-->{{Cite book |last=Wilson |first=Susan |author=Susan Wilson |author2=Boston History Collaborative |date=2000 |title=Literary Trail of Greater Boston |location=Boston |publisher=[[:en:Houghton Mifflin Harcourt|Houghton Mifflin Company]] |language=English |pages=23 |ref={{SfnRef|Wilson|2000}} }}.{{spaces}}{{small|{{oclc|1036701935}}, {{ISBN2|0-618-05013-2}}.}} * <!--いとう-->{{Cite book |和書 |author=いとうまさひろ |date=2007-08-15 |title=ふしぎの国の『ポーの一族』|publisher=[[新風舎]] |series=新風舎文庫 い 170 |ref={{SfnRef|いとう|2007}} }} : {{small|{{oclc|675855121}}、{{ISBN2|4-289-50354-3}}、{{ISBN2|978-4-289-50354-4}}、{{国立国会図書館書誌ID|000008834763}}。}} * <!--かわと-->{{Cite book |和書 |editors=川戸道昭<ref>{{Cite web|和書|title=川戸 道昭 |url=https://researchmap.jp/read0184146 |publisher=[[科学技術振興機構]] (JST) |work=researchmap |accessdate=2020-06-20 }}</ref>・榊原貴教 |date=2006-03 |title=児童文学翻訳作品総覧 第7巻 アメリカ・その他編 |url=https://www.ozorasha.co.jp/nada/newpage6.html |publisher=[[大空社出版]] |series=児童文学翻訳作品総覧 |ref={{SfnRef|川戸|榊原|2006}} }}{{small|{{国立国会図書館書誌ID|000008174619}}。}} ** 出版者サイト情報:{{Cite web |author=川戸道昭 |date=2006 |title=明治のマザーグース ―英語リーダーを仲立ちとするその受容の全容― |url=https://www.ozorasha.co.jp/nada/kawato01.html |publisher=大空社出版 |accessdate=2020-06-20 |ref={{SfnRef|川戸|2006}} }} * <!--たけした-->{{Cite book |和書 |author=竹久夢二(文、絵)|authorlink=竹久夢二|date=1919-07-13 |title=歌時計 |publisher=[[春陽堂]] |ref={{SfnRef|竹久|1919}} }} ::※後半がマザーグースを含む外国の童謡を夢二なりの詩と挿絵に仕上げた内容となっている{{r|"丹青_歌時計"}}。 :* 図書館情報:{{Cite web|和書|title=歌時計 / 竹久夢二著 |url=https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko03a/bunko03a_00554/index.html |publisher=[[早稲田大学図書館]] |website=公式ウェブサイト |work=古典籍総合データベース |accessdate=2020-06-20 |ref={{SfnRef|早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 竹久夢二『歌時計』}} }} * <!--たにがわ-->{{Cite book |和書 |translator=[[谷川俊太郎]] |editor=鷲津名都江|editor-link=鷲津名都江 |date=2000-11-20 |title=よりぬきマザーグース |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波少年文庫]] 068 |ref={{SfnRef|谷川|鷲津|2000}} }} : {{small|{{ncid|BA4957615X}}、{{oclc|675648283}}、{{ISBN2|4-00-114068-3}}、{{ISBN2|978-4-00-114068-2}}、{{国立国会図書館書誌ID|000002943403}}。}} * <!--つるみ-->{{Cite book |和書 |author=鶴見良次<ref>{{Cite web|和書|title=鶴見 良次 |url=https://researchmap.jp/read0039886 |publisher=科学技術振興機構 (JST) |work=[[researchmap]] |accessdate=2020-06-19 }}</ref>|authorlink=鶴見良次|date=2005-08-29 |title=マザー・グースとイギリス近代 |publisher=岩波書店 |ref={{SfnRef|鶴見|2005}} }} : {{small|{{ncid|BA7316874X}}、{{oclc|76932192}}、{{ISBN2|4-00-002162-1}}、{{ISBN2|978-4-00-002162-3}}、{{国立国会図書館書誌ID|000007899207}}。}} * <!--ひらの-->{{Cite book |和書 |author=平野敬一|authorlink=平野敬一 |date=1972-01-01 |title=マザー・グースの唄─イギリスの伝承童謡 |publisher=中央公論社(現・[[中央公論新社]])|series=[[中公新書]] 275 |ref={{SfnRef|平野|1972}} }} : {{small|{{ncid|BN01942727}}、{{oclc|166454343}}、{{ISBN2|4-12-100275-X}}、{{ISBN2|978-4-12-100275-4}}。}} * <!--ふじの-->{{Cite journal |和書 |author=藤野紀男 |date=1985 |title=竹久夢二とマザー・グースの訳業 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1985.57 |journal=英学史研究 |volume=1985 |issue=17 |pages=57-66 |publisher=日本英学史学会 |ref={{SfnRef|藤野|1985}} }} : {{small|{{issn|0386-9490}}、{{doi|10.5024/jeigakushi.1985.57}}、{{naid|130003624791}}、{{ncid|AN00020515}}。}} * {{Cite journal |和書 |author=藤野紀男 |date=1987 |title=『幼稚園唱歌』とマザーグース初訳 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1987.183 |publisher=日本英学史学会 |journal=英学史研究 |volume=第19号 |issue= |pages=183-191 |ref={{SfnRef|藤野|1987}} }} : {{small|{{issn|0386-9490}}、{{naid|130003624812}}、{{doi|10.5024/jeigakushi.1987.183}}、{{ncid|AN00020515}}。}} * {{Cite book |和書 |author1=藤野紀男 |author2=夏目康子<ref>{{Cite web|和書|title=夏目 康子 |url=https://researchmap.jp/summer22 |publisher=科学技術振興機構 (JST) |work=researchmap |accessdate=2020-06-19 }}</ref>|authorlink2=夏目康子|date=2004-03-26 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}}{{small|{{oclc|37368049}}、{{ISBN2|4-04-112004-7}}、{{ISBN2|978-4-04-112004-0}}。}} ** {{Cite book |和書 |author1=原作者不詳 |author2=スズキコージ(絵)|translator=北原白秋 |date=2014-06-14 |title=まざあ・ぐうす |origdate=1976-05-01 |publisher=[[復刊ドットコム]] |ref={{SfnRef|北原|スズキ|2014}} }} :: {{small|{{oclc|881422469}}、{{ISBN2|4-8354-5100-7}}、{{ISBN2|4-8354-5100-7}}。}} * <!--スカーリー-->{{Cite book |和書 |author=リチャード・スカーリー|authorlink=リチャード・スカーリー |translator=[[谷川俊太郎]] |date=1970 |title=スカーリーおじさんのマザー・グース |publisher=中央公論社(現・[[中央公論新社]])|ref={{SfnRef|スカーリー|谷川|1970}} }} * <!--たにがわ-->{{Cite book |和書 |author1=原作者不詳 |author2=堀内誠一(絵)|authorlink2=堀内誠一|translator=谷川俊太郎 |date=1988-07-28 |title=マザー・グースのうた 全5集 |origdate=1975 |publisher=[[草思社]] |ref={{SfnRef|谷川|堀内|1988}} }} : {{small|{{ISBN2|4-7942-0226-1}}、{{ISBN2|978-4-7942-0226-0}}。}} * 谷川俊太郎訳、[[和田誠]]絵、[[平野敬一]]監修『マザー・グース』1~4、[[講談社文庫]] # 1981年7月15日、ISBN 4-06-133148-5 # 1981年8月15日、ISBN 4-06-133149-3 # 1981年9月15日、{{ISBN2| 4-06-133150-7}} # 1981年10月15日、{{ISBN2| 4-06-133151-5}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="英辞郎">{{Cite web |title=Mother Goose |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=Mother+Goose |publisher=[[アルク]] |website=[[英辞郎]] on the WEB |accessdate=2020-06-19 }}</ref> <ref name="英辞郎_MG'sTales">{{Cite web |title=Mother Goose's Tales |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=Mother+Goose%27s+Tales |publisher=アルク |website=英辞郎 on the WEB |accessdate=2020-06-20 }}</ref> <ref name="英辞郎_MG'sMelody">{{Cite web |title=Mother Goose's Melody |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=Mother+Goose%27s+Melody |publisher=アルク |website=英辞郎 on the WEB |accessdate=2020-06-20 }}</ref> <ref name=OED>{{Cite web |title=Mother Goose |url=https://www.etymonline.com/search?q=Mother+Goose |website=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|Online Etymology Dictionary]] |language=English |accessdate=2020-06-19 }}</ref> <ref name=Brit>{{Cite web |title=Mother Goose |url=https://www.britannica.com/topic/Mother-Goose-fictional-character |website=Encyclopedia.com |work=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopedia Britannica]] |language=English |accessdate=2020-06-21 }}</ref> <ref name="kb_マザーグースの歌">{{Cite web|和書|title=マザーグースの歌 |url=https://kotobank.jp/word/マザーグースの歌-1595082 |author=藤野紀男、[[小学館]]『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-06-24 }}</ref> <ref name=kb-MyPedia>{{Cite web|和書|title=マザーグース |url=https://kotobank.jp/word/マザーグース-633994 |author=[[平凡社]]『百科事典[[マイペディア]]』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-06-19 }}</ref> <ref name="kb平百">{{Cite web|和書|title=マザーグース |url=https://kotobank.jp/word/マザーグース-633994#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 |author=[[日立デジタル平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第2版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-06-19 }}</ref> <ref name="kb林">{{Cite web|和書|title=マザーグース |url=https://kotobank.jp/word/マザーグース-633994#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 |author=[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-06-19 }}</ref> <ref name="kb日国辞">{{Cite web|和書|title=マザーグース 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|website=official website |work=Find a Grave |language=English |accessdate=2020-06-21 }}</ref> <ref name=HarvardCrimson_E>{{Cite web |date=04 June 1880 |title=ELIZABETH GOOSE |url=https://www.thecrimson.com/article/1880/6/4/elizabeth-goose-elizabeth-goose-no-longer/ |publisher=Aidan F. Ryan |website=[[:en:The Harvard Crimson|The Harvard Crimson]] |language=English |accessdate=2020-06-21 }}</ref> <ref name=NewYorkTimes_18861020>{{Cite news |date=20 October 1886 |title=MOTHER GOOSE |url=https://www.nytimes.com/1886/10/20/archives/mother-goose.html |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |language=English |accessdate=2020-06-20 }}</ref> <!--出版史--> <ref name=BL_TommyThumb>{{Cite web |title=Tommy Thumb's Pretty Song Book |url=https://www.bl.uk/collection-items/tommy-thumbs-pretty-song-book |publisher=[[大英図書館|British Library]] |website=official website |language=English |accessdate=2020-06-23 }} ■実物の写真が掲載されている。</ref> <!--日本--> <ref name="丹青_歌時計">{{Cite web|和書|title=《歌時計》夢二郷土美術館 |url=https://www.museum.or.jp/modules/im/index.php?content_id=898 |publisher=[[丹青社]] |website=インターネットミュージアム |accessdate=2020-06-20 }}</ref> <!--一覧--> <ref name=weblio_20170214>{{Cite web |date=2017-02-14 |title=マザー・グーズの中の早口言葉 - 英語の「早口言葉」(tongue twister)で発音練習 |url=https://eikaiwa.weblio.jp/column/study/tongue-twister#i-2 |publisher=ウェブリオ株式会社 |website=weblio英会話コラム |accessdate=2020-06-24 }}</ref> <ref name="東進_20130219">{{Cite web |author=蒲原祐花 |date=2013-02-19 |title=これを英語で言えますか?~早口言葉編~ |url=https://www.toshin-kawagoe.com/これを英語で言えますか?~早口言葉編~/ |publisher=[[東進ハイスクール]] 川越校 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-06-24 }}</ref> }} == 関連項目 == * [[童歌]] * [[少年の魔法の角笛]] - ドイツの童謡集。ドイツのマザー・グースとも呼ばれる。 * [[マザーグースの秘密の館]] - ゲーム * ディズニーアニメ **{{仮リンク|誰がこまどりを殺したの?|en|Who Killed Cock Robin? (1935 film)}} **[[マザー・グースの歌]]  * [[青島広志]] - 混声/男声/女声合唱組曲「マザーグースの歌」を作曲(谷川俊太郎の訳詞に曲を付けたもの)。 == 外部リンク == * {{Cite web|和書|date=2008 |title=資料展示「マザーグースとわらべうた」 |url=http://www.library.pref.osaka.jp/central/08mothergoose.html |publisher=[[大阪府立中央図書館]]<!--OPCL--> |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-06-24 |ref={{SfnRef|大阪府立中央図書館|2008}} }} * {{青空文庫|001529|546|新字新仮名|まざあ・ぐうす}}([[北原白秋]]訳) {{DEFAULTSORT:まさあくうす}} [[Category:マザー・グース|*]] [[Category:子供向け楽曲|*まさあくうす]] [[Category:童歌|*まさあくうす]] [[Category:イギリスの民謡|*まさあくうす]] [[Category:アメリカ合衆国の民謡]] [[Category:イギリスの児童文学]]<!--大部分がイギリスのようなので--> [[Category:イギリスの詩]] [[Category:ヨーロッパの伝説の人物]] [[nl:Ma Mère l'Oye]]
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新大塚駅
新大塚駅(しんおおつかえき)は、東京都文京区大塚四丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線の駅である。 豊島区との境界に位置し、一部は南大塚二丁目および東池袋五丁目にある。駅番号はM 24。 この地には都電の大塚辻町停留所(1911年 - 1971年)があり、東上鉄道(現・東武東上線)の敷設免許(1912年)は当地を起点としていた(1920年取消)。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅。改札は銀座方面ホーム(1番線)に北改札、池袋方面ホーム(2番線)に南改札があり、それぞれ豊島区側の1番出口と文京区側の2番出口に通じている。どちらの出口も地上との間には階段のほかエスカレーター(上り専用)とエレベーターが設置されている。1番線と2番線は改札内連絡通路によって行き来が可能であるが、幅員が狭いため階段のみでバリアフリー設備は存在しない。トイレは1番線ホームにあり、多機能トイレも設置されている。 開業当初のプラットホームは、4両編成に対応した80 mの長さであったが、将来の6両編成化を想定して2両分40 mの延伸スペース(池袋寄りにトンネルの拡張スペース)が確保されていた。1960年(昭和35年)に両方向のホームを40 m延伸し、6両編成に対応した。 2000年代以降の改築改装によって、出入口の上屋は瓦葺屋根に改築され、バリアフリー設備としてエスカレーター・エレベーターが設置されたほか、改装によってホームの側壁下部に丸ノ内線初代車両に用いられたサインカーブが再現された。駅開業以来2011年までは、地上を経由しなければ1番線と2番線の間を移動できない構造であり、改札口も単に「改札」とのみ案内されていた。 (出典:東京メトロ:構内図) ワンマン運転開始に伴い、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。 曲は1番線が「もうすぐ扉が閉まります」(谷本貴義作曲)、2番線が「ドリーム駅」(福嶋尚哉作曲)である。 2022年度の1日平均乗降人員は23,070人であり、東京メトロ全130駅中119位。方南町支線をのぞいた丸ノ内線の駅では最も乗降人員が少ない。 近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。 1995年7月23日に池袋駅構内の分岐器交換工事が行われた際、丸ノ内線は池袋駅 - 当駅が運休となり、当駅 - 茗荷谷駅間は区間列車による往復運行を行った。この際、同区間は単線として運転され、列車は1番線ホームに発着した。
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新大塚駅(しんおおつかえき)は、東京都文京区大塚四丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)丸ノ内線の駅である。 豊島区との境界に位置し、一部は南大塚二丁目および東池袋五丁目にある。駅番号はM 24。
{{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 新大塚駅 |画像 = Shin-Otsuka-STA Entrance-1.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 銀座・新宿方面1番出入口(2023年8月) |よみがな = しんおおつか |ローマ字 = Shin-otsuka |副駅名 = |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |前の駅 = M 23 [[茗荷谷駅|茗荷谷]] |駅間A = 1.2 |駅間B = 1.8 |次の駅 = [[池袋駅|池袋]] M 25 |電報略号 = ツカ |駅番号 = {{駅番号r|M|24|#f62e36|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#f62e36|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] |キロ程 = 1.8 |起点駅 = [[池袋駅|池袋]]<!--駅番号の付番とは逆です--> |所在地 = [[東京都]][[文京区]][[大塚 (文京区)|大塚]]四丁目51-5 |座標 = {{coord|35|43|32.8|N|139|43|47.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1954年]]([[昭和]]29年)[[1月20日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />23,070 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} [[ファイル:Shin-otsuka-station-Exit2.jpg|thumb|250px|池袋方面2番出入口(2019年1月)]] '''新大塚駅'''(しんおおつかえき)は、[[東京都]][[文京区]][[大塚 (文京区)|大塚]]四丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の[[鉄道駅|駅]]である。 [[豊島区]]との境界に位置し、一部は[[南大塚 (豊島区)|南大塚]]二丁目および[[東池袋]]五丁目にある。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''M 24'''。 == 歴史 == この地には[[東京都電車|都電]]の'''大塚辻町'''停留所(1911年 - 1971年)があり、[[東上鉄道]](現・東武東上線)の敷設免許(1912年)は当地を起点としていた<ref>[{{NDLDC|2952191/4}} 「私設鉄道本免許状下付」『官報』1912年11月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1920年取消<ref>[{{NDLDC|2954463/6}} 「鉄道免許一部取消」『官報』1920年6月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)。 === 年表 === * [[1954年]]([[昭和]]29年)[[1月20日]]:開業<ref name="history_239" />。当初のホームは4両編成に対応した80&nbsp;mの長さであった<ref name="Marunouchi-Const2-18">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.18 - 20。</ref><ref name="history_239">[[#earthwork|帝都高速度交通営団工務部のあゆみ【土木編】]]、p.239。</ref>。 * [[1960年]](昭和35年) ** [[6月15日]]:ホーム延伸工事に着手<ref name="Ogikubo-Const-269">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.269・394。</ref><ref name="history_239" />。 ** [[9月22日]]:ホーム延伸工事が終了<ref name="history_239" />。 * [[2001年]]([[平成]]13年)夏:駅冷房を導入<ref>東京メトロハンドブック</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[12月18日]]:[[ホームドア]]稼動開始。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[3月31日]]:1番線と2番線を結ぶ連絡通路が完成し、改札内で両ホーム間の行き来が可能になる。これに伴い、改札口の名前を変更。 == 駅構造 == [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。[[改札]]は銀座方面ホーム(1番線)に北改札、池袋方面ホーム(2番線)に南改札があり、それぞれ豊島区側の1番出口と文京区側の2番出口に通じている。どちらの出口も地上との間には階段のほか[[エスカレーター]](上り専用)と[[エレベーター]]が設置されている。1番線と2番線は改札内連絡通路によって行き来が可能であるが、幅員が狭いため階段のみでバリアフリー設備は存在しない。[[便所|トイレ]]は1番線ホームにあり、多機能トイレも設置されている。 開業当初のプラットホームは、4両編成に対応した80&nbsp;mの長さであったが、将来の6両編成化を想定して2両分40&nbsp;mの延伸スペース(池袋寄りにトンネルの拡張スペース)が確保されていた<ref name="history_240">[[#earthwork|帝都高速度交通営団工務部のあゆみ【土木編】]]、p.240。</ref>。1960年(昭和35年)に両方向のホームを40&nbsp;m延伸し、6両編成に対応した<ref name="history_239" />。 [[2000年代]]以降の改築改装によって、出入口の上屋は[[瓦葺屋根]]に改築され、[[バリアフリー]]設備として[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]が設置されたほか、改装によってホームの側壁下部に[[営団500形電車|丸ノ内線初代車両]]に用いられた[[正弦波|サインカーブ]]が再現された。駅開業以来[[2011年]]までは、地上を経由しなければ1番線と2番線の間を移動できない構造であり、改札口も単に「改札」とのみ案内されていた。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線 |[[新宿駅|新宿]]・[[荻窪駅|荻窪]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/shin-otsuka/timetable/marunouchi/a/index.html |title=新大塚駅時刻表 新宿・荻窪方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[池袋駅|池袋]]行き<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/shin-otsuka/timetable/marunouchi/b/index.html |title=新大塚駅時刻表 池袋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/shin-otsuka/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery> ファイル:Shin-Otsuka-STA North-Gate.jpg|北改札(2023年8月) ファイル:Shin-Otsuka-STA South-Gate.jpg|南改札(2023年8月) ファイル:Shin-Otsuka-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2023年8月) ファイル:Shin-Otsuka-STA Platform2.jpg|2番線ホーム(2023年8月) </gallery> === 発車メロディ === ワンマン運転開始に伴い、[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の[[発車メロディ]](発車サイン音)が導入されている。 曲は1番線が「もうすぐ扉が閉まります」([[谷本貴義]]作曲)、2番線が「ドリーム駅」([[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=音源リスト|東京メトロ|url=http://www.switching.co.jp/sound/index3.html|website=スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-08-27|publisher=スイッチ}}</ref>。 == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''23,070人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中119位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。方南町支線をのぞいた丸ノ内線の駅では最も乗降人員が少ない。 近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑、豊島区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.bunkyo.lg.jp/kusejoho/toke/toukei.html 文京の統計] - 文京区</ref><ref>[http://www.city.toshima.lg.jp/kuse/gaiyo/jinko/toke-02/index.html としまの統計] - 豊島区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1956年(昭和31年) | |3,185 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 16ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) | |4,383 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 16ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) | |5,920 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 16ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) | |6,516 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) | |6,976 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) | |7,527 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) | |6,922 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) | |7,568 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) | |9,783 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) | |9,977 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) | |8,957 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |18,207 |9,314 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |20,234 |10,125 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |22,031 |10,892 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |22,469 |11,381 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |22,523 |11,556 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |22,468 |11,359 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |21,341 |11,025 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |20,215 |10,448 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |19,266 |9,852 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |18,699 |9,517 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |18,684 |9,533 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |18,507 |9,279 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |18,950 |9,372 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |18,913 |9,196 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |18,600 |9,194 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |18,476 |9,079 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |18,489 |9,065 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |18,835 |9,412 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |18,398 |9,186 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |18,809 |9,494 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |18,978 |9,591 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |20,042 |10,051 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |20,760 |10,634 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |21,537 |10,945 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |22,108 |11,195 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |22,529 |11,244 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |21,785 |11,076 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |21,662 |11,060 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |21,825 |11,046 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |21,746 |11,048 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |21,809 |10,893 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |21,553 |10,783 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |20,752 |10,400 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |20,793 |10,355 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |- |2001年(平成13年) |20,855 |10,366 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |20,600 |10,380 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |20,709 |10,388 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |20,396 |10,215 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |20,453 |10,212 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |20,876 |10,417 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |21,014 |10,536 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |21,553 |10,732 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |21,470 |10,773 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |21,776 |10,923 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |21,375 |10,783 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |22,303 |11,144 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |23,129 |11,587 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |23,420 |11,742 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |24,392 |12,221 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |24,849 |12,436 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |25,491 |12,753 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |26,103 |13,047 |<ref 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web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>23,070 | | |} == 駅周辺 == [[ファイル:Shinotsuka-Station-2005-6-12 1.jpg|thumb|250px|春日通りと新宿方面入口(2005年6月)]] {{See also|大塚 (文京区)|南大塚 (豊島区)}} ;公共施設 * 豊島区南大塚地域文化創造館 * 区民ひろば南大塚 * 豊島区東部保健福祉センター * 東京労働会館 ** ラパスホール ;文教施設 * 豊島区立西巣鴨中学校 *[[東邦音楽短期大学]] ;学芸 *[[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]記念館 ;医療 * [[東京都立大塚病院|都立大塚病院]] * [[東京都監察医務院]] * [[東京健生病院]] * 小石川東京病院 ;名勝・公園 * [[大塚公園 (文京区)|大塚公園]] * [[大塚先儒墓所]] ;金融 * [[朝日信用金庫]]大塚支店 * 文京大塚五[[郵便局]] ;オフィス * [[マルエツ]]本社 ;交通 * [[大塚駅 (東京都)|大塚駅]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[山手線]] - 当駅より徒歩10分程度。 * [[向原停留場]] - [[東京都交通局]][[都電荒川線]](東京さくらトラム) * [[国道254号]]([[春日通り]]) === バス路線 === ;新大塚 * [[都営バス大塚支所#都02系統(グリーンライナー)|都02系統]]:[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]行、[[錦糸町駅]]行 * [[都営バス大塚支所#上60系統|上60系統]]:[[上野恩賜公園|上野公園]]行、[[池袋駅]]東口行 == その他 == 1995年7月23日に池袋駅構内の[[分岐器]]交換工事が行われた際、丸ノ内線は池袋駅 - 当駅が運休となり、当駅 - [[茗荷谷駅]]間は区間列車による往復運行を行った。この際、同区間は[[単線]]として運転され、列車は1番線ホームに発着した。 == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線 :: [[茗荷谷駅]] (M 23) - '''新大塚駅 (M 24)''' - [[池袋駅]] (M 25) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref= Marunouchi-Con2}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_ogikubo.html/|date=1967-03-31|title=東京地下鉄道荻窪線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Ogikubo-Con}} * {{Cite book|和書|date=2005-07-04|title=帝都高速度交通営団工務部のあゆみ【土木編】|publisher=東京地下鉄鉄道本部工務部|ref=earthwork}} == 関連項目 == {{commonscat|Shin-otsuka Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/shin-otsuka/index.html 新大塚駅/M24 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{東京メトロ丸ノ内線}} {{DEFAULTSORT:しんおおつか}} [[Category:文京区の鉄道駅]] [[Category:豊島区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 し|んおおつか]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1954年開業の鉄道駅]]
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13,981
メゾソプラノ
メゾソプラノ(伊 mezzosoprano)は、女声歌手で、概ね合唱ではA3~F5、ソロや他パートとのユニゾンではF3~A5くらいの声域をもつ。略してメゾとも言う。 メゾソプラノは一般にソプラノよりも暗めの声質をもち、声域はソプラノとコントラルトの中間にくる。メゾ(mezzo、正しくは「メッゾ ([mɛddzo])」と発音される)とはイタリア語で「中間」(mid- )の意味である。 オペラでは、メゾソプラノは必ずしも声域の高低だけではなく、声の質が重要である。ロッシーニの『セビリアの理髪師』のロジーナや『チェネレントラ(シンデレラ)』のアンジェリーナのように、ソプラノ歌手並みの高音のコロラトゥーラ技法を要求されるレパートリーもあり、これらの役割を歌う歌手はやや軽い声を持つ。一方、ヴェルディのオペラの役柄、例えば『トロヴァトーレ』のアズチェーナや『ドン・カルロ』のエボリ姫などでは、よりドラマティックで力強い声質が要求される。 モーツァルトやグルックなど18世紀以前のオペラでは、カストラートのために書かれた役柄があるが、今日ではメゾソプラノが歌うのが普通である。また、カストラートが衰退した後も、あえて若い男性の役にメゾソプラノの歌手を指定する例もある(ズボン役と呼ばれる)。この場合、女性歌手が男装して歌うことになり、中性的な独特の効果を生む。 メゾソプラノが主役となるオペラはビゼー『カルメン』が最も有名であり、他にサン=サーンスの『サムソンとデリラ』などの例がある。
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メゾソプラノは、女声歌手で、概ね合唱ではA3~F5、ソロや他パートとのユニゾンではF3~A5くらいの声域をもつ。略してメゾとも言う。
{{Portal クラシック音楽}} '''メゾソプラノ'''([[イタリア語|伊]] '''mezzosoprano''')は、女声[[歌手]]で、概ね合唱では[[音名・階名表記#オクターヴ表記|A3]]~[[音名・階名表記#オクターヴ表記|F5]]、ソロや他パートとのユニゾンではF3~A5くらいの声域をもつ。略して'''メゾ'''とも言う。 == 概要 == メゾソプラノは一般に[[ソプラノ]]よりも暗めの声質をもち、声域はソプラノと[[アルト|コントラルト]]の中間にくる。メゾ(mezzo、正しくは「メッゾ ([mɛddzo])<ref>[[小学館]]『伊和中辞典』1983年、1658頁。</ref>」と発音される)とは[[イタリア語]]で「中間」(mid- )の意味である。 [[オペラ]]では、メゾソプラノは必ずしも声域の高低だけではなく、声の質が重要である。[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]の『[[セビリアの理髪師]]』のロジーナや『[[チェネレントラ]](シンデレラ)』のアンジェリーナのように、ソプラノ歌手並みの高音の[[コロラトゥーラ]]技法を要求されるレパートリーもあり、これらの役割を歌う歌手はやや軽い声を持つ。一方、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]のオペラの役柄、例えば『[[トロヴァトーレ]]』のアズチェーナや『[[ドン・カルロ]]』のエボリ姫などでは、よりドラマティックで力強い声質が要求される。 [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]など18世紀以前のオペラでは、[[カストラート]]のために書かれた役柄があるが、今日ではメゾソプラノが歌うのが普通である。また、カストラートが衰退した後も、あえて若い男性の役にメゾソプラノの歌手を指定する例もある([[ズボン役]]と呼ばれる)。この場合、女性歌手が男装して歌うことになり、中性的な独特の効果を生む。 メゾソプラノが主役となるオペラは[[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』が最も有名であり、他に[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]』などの例がある。 <!-- 他にあるかな??--> == メゾソプラノに分類される歌手の例 == === 日本以外 === * あ行 ** [[ケイト・アルドリッチ]] ** [[アストリッド・ヴァルナイ]] ** [[シャーリー・ヴァーレット]]([[w:Shirley Verrett|Shirley Verrett]]) ** [[ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニ]]([[w:Lucia Valentini-Terrani|Lucia Valentini-Terrani]]) ** [[ルクレティア・ウェスト]] ** [[ロザリンド・エリアス]] ** [[バルブロ・エリクソン]] ** [[アンネ・ゾフィー・フォン・オッター]] ** [[エレナ・オブラスツォワ]]([[w:Elena Obraztsova|Elena Obraztsova]]) * か行 ** [[ヴェッセリーナ・カサロヴァ]] ** [[ブルーナ・カスターニャ]] ** [[エリーナ・ガランチャ]] ** [[ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド]] ** [[アンゲリカ・キルヒシュラーガー]] ** [[デニス・グレイヴズ]] ** [[クレール・クロワザ]] ** [[エレナ・ゲルハルト]] ** [[マグダレーナ・コジェナー]] ** [[フィオレンツァ・コッソット]] * さ行 ** [[エウゲニア・ザレスカ]] ** [[キャサリン・ジェンキンス]] ** [[ジュリエッタ・シミオナート]] ** [[シモーネ・シモンズ]] ** [[フレデリカ・フォン・シュターデ]] ** [[グラディス・スウォーザウト]]([[w:Gladys Swarthout|Gladys Swarthout]]) ** [[リーゼ・スティーヴンス]] ** [[エベ・スティニャーニ]] ** [[コンチータ・スペルビア]] * た行 ** [[ピア・タシナーリ]] ** [[アイリーン・ダリス]] ** [[ジョイス・ディ・ドナート]]([[w:Joyce Di Donato|Joyce Di Donato]]) ** [[ルチアーナ・ディンティーノ]]([[w:Luciana D'Intino|Luciana D'Intino]]) ** [[ジャン・デガエターニ]] ** [[ジェニー・トゥーレル]] ** [[タティアーナ・トロヤノス]] * な行 ** [[ミリヤーナ・ニコリッチ]]([[w:Milijana Nikolic|Milijana Nikolic]]) * は行 ** [[ジャーヌ・バトリ]] ** [[キャシー・バーベリアン]] ** [[アグネス・バルツァ]] ** [[ダニエラ・バルチェッローナ]]([[w:Daniela Barcellona|Daniela Barcellona]]) ** [[チェチーリア・バルトリ]] ** [[フェードラ・バルビエーリ]]([[w:Fedora Barbieri|Fedora Barbieri]]) ** [[グレース・バンブリー]]([[w:Grace Bumbry|Grace Bumbry]]) ** [[リタ・フォード]] ** [[ブリギッテ・ファスベンダー]]([[w:Brigitte Fassbaender|Brigitte Fassbaender]]) ** [[ジャネット・ベイカー]] ** [[テレサ・ベルガンサ]] ** [[マリリン・ホーン]] * ま行 **[[ヴァルトラウト・マイアー]] ** [[マリア・マリブラン]] ** [[マチルデ・マルケージ]] ** [[ヘルガ・ミュラー=モリナーリ]] ** [[イヴォンヌ・ミントン]] ** [[マルタ・メードル]] * や行 * ら行 ** [[ジェニファー・ラーモア]] ** [[アンナ・ラルソン]] ** [[マルヤーナ・リポフシェク]] ** [[クリスタ・ルートヴィヒ]] ** [[キャサリン・ロビン]] === 日本 === * あ行 ** [[浅田秀子]] ** [[荒田祐子]] ** [[伊原直子]] **[[浦野りせ子]] ** [[大友幸世]] ** [[小野美咲]] * か行 ** [[春日成子]] ** [[片桐仁美]] ** [[金子美香 (声楽家)]] ** [[川崎静子]] ** [[栗本尊子]] ** [[木村宏子]] ** [[小山由美]] * さ行 ** [[坂本朱]] ** [[佐々木成子]] ** [[佐藤美子]] ** [[澤村翔子]] ** [[重松みか]] ** [[柴田秀子]] ** [[志村年子]] ** [[白井光子]] * た行 ** [[高島宏子]] ** [[竹本節子]] ** [[寺谷千枝子]] ** [[戸田敏子]] ** [[鳥木弥生]] * な行 ** [[永井和子]] ** [[中島豊子]] ** [[中村浩子]] ** [[夏目久子]] ** [[成田絵智子]] ** [[鳴海真希子]] ** [[西明美]] ** [[野村陽子]] * は行 ** [[波多野睦美]] ** [[林美智子 (声楽家)|林美智子]] ** [[福島紀子]] ** [[藤村実穂子]] * ま行 ** [[松藤夢路]] ** [[三井ツヤ子]] ** [[毛利準]] ** [[森池日佐子]] * や行 ** [[山際きみ佳]] * ら行 == 他の声域 == * [[ソプラノ]] * [[アルト]]([[コントラルト]]) * [[カウンターテナー]] / [[カストラート]] * [[テノール]] * [[バリトン]] * [[バス (声域)|バス]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[音楽]] * [[歌手]] * [[オペラ]] {{デフォルトソート:めそそふらの}} [[Category:声楽]] [[Category:合唱]] [[Category:イタリア語の語句]] {{Authority control}}
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バス (声域)
バス(ドイツ語: Bass、イタリア語: Basso〈バッソ〉、英語: Bass〈ベイス〉)は、最も低い声域の歌手をさす。また、そこから転じて最も低い音域の楽器をさす。声部としては合唱・合奏や和声法では最低声部の進行は和音進行の基礎を形作り、主旋律を和声的に支える基礎となる。 低い声域を持つ男性歌手、および合唱においてのもっとも低い声部をバスという。典型的なバスは概ねD2~F4くらいの範囲の声を持つ。4声体和声や合唱のバス声部はF2~D4くらいの音域である。日本の合唱曲では殆ど見られないが、ロシアの合唱曲を中心に、C2やそれより下の音が求められることがある。混声4部合唱ではソプラノと合わせて外声、アルトと合わせて低声とよばれる。記譜はごく一部を除いて通常はバス記号が用いられる。 クラシック音楽、特にオペラではしばしばバスを何種類かに区別する。「バッソ・プロフォンド」は特に深い声をもつ歌手で、B1くらいまでの低音を持つことがある。ロシアの合唱音楽などで求められるG1あたりのさらに低い音域を歌う歌手は「オクタヴィスト」と呼ばれる。それと対照的に「バッソ・カンタンテ」はより軽くもっと叙情的な声質で、やや高い声域を持つ歌手をいう。「バッソ・ブッフォ」は喜劇的な役割を得意とするバスに対して用いる。 バスよりやや高い声を持つ男性歌手はバリトンという。声域と声質がバスとバリトンのおよそ中間にある歌手を「バスバリトン」と呼ぶこともある。合唱などでバスパート内で二分する場合、高い方がバスI、低い方がバスIIとなるが、バスIを便宜上「バリトン」、バスIIを「バス下」「下(げ)バス」と呼ぶ場合もある。 あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
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バスは、最も低い声域の歌手をさす。また、そこから転じて最も低い音域の楽器をさす。声部としては合唱・合奏や和声法では最低声部の進行は和音進行の基礎を形作り、主旋律を和声的に支える基礎となる。
{{Portal クラシック音楽}} <div class=floatright style="background: #eef; border: solid 1px #88f"> [[ファイル:Sopran.png|thumb|200px|none|[[ソプラノ]]]] [[ファイル:Range of alto voice marked on keyboard.svg|thumb|200px|none|[[アルト]]]] [[ファイル:Tenor.png|thumb|200px|none|[[テノール]]]] [[ファイル:Range of bass voice marked on keyboard.png|thumb|200px|none|'''バス''']] </div> '''バス'''({{lang-de|Bass}}、{{lang-it|Basso}}〈''バッソ''〉、{{lang-en|Bass}}〈''ベイス''〉)は、最も低い声域の[[歌手]]をさす。また、そこから転じて最も低い[[音域]]の[[楽器]]をさす。[[声部]]としては合唱・合奏や和声法では最低声部の進行は和音進行の基礎を形作り、主旋律を和声的に支える基礎となる。 == 声楽 == 低い声域を持つ男性歌手、および[[合唱]]においてのもっとも低い声部をバスという。典型的なバスは概ね[[音名・階名表記#オクターヴ表記|D2]]~[[音名・階名表記#オクターヴ表記|F4]]くらいの範囲の声を持つ<ref>フレデリック・フースラー/イヴォンヌ・ロッド=マーリング 『うたうこと 発声器官の肉体的特質』 須永義雄・大熊文子訳 音楽之友社、2000年、111頁。ISBN 4-276-14252-0</ref>。[[和声#声部|4声体和声]]や合唱のバス声部はF2~D4くらいの音域である。日本の合唱曲では殆ど見られないが、ロシアの合唱曲を中心に、[[音名・階名表記#オクターヴ表記|C2]]やそれより下の音が求められることがある。混声4部合唱ではソプラノと合わせて外声、アルトと合わせて低声とよばれる。記譜はごく一部を除いて通常は[[バス記号]]が用いられる。 === 分類 === [[クラシック音楽]]、特に[[オペラ]]ではしばしばバスを何種類かに区別する。「バッソ・プロフォンド」は特に深い声をもつ歌手で、[[音名・階名表記#オクターヴ表記|B1]]くらいまでの低音を持つことがある。ロシアの合唱音楽などで求められる[[音名・階名表記#オクターヴ表記|G1]]あたりのさらに低い音域を歌う歌手は「オクタヴィスト」と呼ばれる。それと対照的に「バッソ・カンタンテ」はより軽くもっと叙情的な声質で、やや高い声域を持つ歌手をいう。「バッソ・ブッフォ」は喜劇的な役割を得意とするバスに対して用いる。 バスよりやや高い声を持つ男性歌手は[[バリトン]]という。声域と声質がバスとバリトンのおよそ中間にある歌手を「バスバリトン」と呼ぶこともある。合唱などでバスパート内で二分する場合、高い方がバスⅠ、低い方がバスⅡとなるが、バスⅠを便宜上「バリトン」、バスⅡを「バス下」「下(げ)バス」と呼ぶ場合もある。 == バスに分類される歌手の例 == あ行 *[[テオ・アダム]] *[[トレヴァー・アンソニー]] *[[ジョゼ・ヴァン・ダム]] *[[ハーバート・ウィザースプーン]] *[[イーヴォ・ヴィンコ]] *[[アレクサンドル・ヴェデルニコフ (バス歌手)|アレクサンドル・ヴェデルニコフ]] *[[オットー・エーデルマン]] *[[アルトゥール・エイゼン]] *[[サイモン・エステス]] *[[王晰]] *[[大橋国一]] *[[岡村喬生]] か行 *[[岸本力]] *[[北川辰彦]] *[[ニコライ・ギャウロフ]] *[[ニコラ・ギュゼレフ]] *[[ヨーゼフ・グラインドル]] *[[フランツ・クラス]] *[[ボリス・クリストフ]] *[[栗本正]] *[[ヴィタリー・グロマツキー]] *[[ケレメン・ゾルターン (声楽家)|ケレメン・ゾルターン]] *[[フェルナンド・コレーナ]] *[[カルロ・コロンバーラ]] さ行 *[[ニコラ・ザッカリア]] *[[マッティ・サルミネン]] *[[シェン・ヤン]] *[[チェーザレ・シエピ]] *[[パウル・シェフラー]] *[[志村文彦]] *[[ボナルド・ジャイオッティ]] *[[フョードル・シャリアピン]] *[[マルセル・ジュルネ]] *[[ロベルト・スカンディウッツィ]] *[[鈴木雪夫 (声楽家)|鈴木雪夫]](オクタヴィスト) *[[フョードル・ストラヴィンスキー]] *[[ハンス・ゾーティン]] *[[ロジェ・ソワイエ]] た行 *[[ブリン・ターフェル]] *[[エンツォ・ダーラ]] *[[マルッティ・タルヴェラ]] *[[イルデブランド・ダルカンジェロ]] *[[パオロ (タレント)|パオロアンドレア・ディピエトロ]] *[[ジョルジョ・トッツィ]] *[[ジョン・トムリンソン]] *[[高橋啓三]] *[[高橋修一]] *[[高橋大海]] *[[妻屋秀和]] *[[戸山俊樹]] な行 *[[グスタフ・ナイトリンガー]] *[[直野資]] *[[西村英将]] *[[エフゲニー・ネステレンコ]] は行 *[[ジェローム・ハインズ]] *[[アレクサンドル・ピロゴフ]] *[[エツィオ・ピンツァ]] *[[ブルーノ・プラティコ]] *[[ポル・プランソン]] *[[ポール・プリシュカ]] *[[パータ・ブルチュラーゼ]] *[[ゴットロープ・フリック]] *[[フェルッチョ・フルラネット]] *[[ジャコモ・プレスティーア]] *[[イヴァン・ペトロフ]] *[[クルト・ベーメ]] *[[ミケーレ・ペルトゥージ]] *[[ハンス・ホッター]] *[[堀野浩史]] *[[ロベルト・ホル]] *[[ウィラード・ホワイト]] ま行 *[[牧嗣人]] *[[デューク・エイセス|槇野義孝]] *[[ウラディーミル・マトーリン]] *[[ニコラ・モスコーナ]] *[[ジェームス・モリス]] *[[クルト・モル]] *[[パオロ・モンタルソロ]] や行 *[[矢田部勁吉]] *[[山口俊彦]] ら行 *[[ルッジェーロ・ライモンディ]] *[[カール・リッダーブッシュ]] *[[クルト・リドル]] *[[マルク・レイゼン]] *[[サミュエル・レイミー]] *[[ニコラ・ロッシ=レメーニ]] *[[ロバート・ロイド]] *[[ポール・ロブスン]] *[[ジョージ・ロンドン (バス・バリトン歌手)|ジョージ・ロンドン]] わ行 *[[パオロ・ワシントン]] == 音楽における「バス」の他の用法 == *ダブルベース([[コントラバス]])の略称。通常[[クラシック音楽]]や[[ジャズ]]においては、バスはこの楽器を示す。時には後述の[[金管楽器]]と区別するため「弦バス」と呼ばれる(特に吹奏楽においては欧米においても''String Bass''、''Contrebasse à cordes''等の表記が多く見られる)。 *[[バスドラム]]、[[ベース (弦楽器)|ベースギター]]の略称。[[ロックンロール]]で用いられることが多い。[[ベース (弦楽器)]]も参照。 *大型の低音金管楽器の略称。[[吹奏楽]]や[[英国式ブラスバンド|ブラスバンド]]において低音部の役割を担う[[チューバ|テューバ(チューバ)]]や[[スーザフォン|スーザフォン(スーザホン)]]、[[サクソルン|サクソルン属低音楽器]]のことである。 *[[バスクラリネット]]や[[バストロンボーン]]、バス[[サクソフォーン]]の略称(やや一般的でない用法)。 * 和声法または和声法に基づく音楽で、合奏体(重奏、合唱、重唱、ピアノ独奏等も含む)でもっとも低い音を受け持つ声部をバスという。和声法においてバスは、音楽そのものの和声的な意味合いを決定づける特別な意味を持ち、和声的な重要さの点では他の声部と異なっている。 == 他の声域 == *[[ソプラノ]] *[[メゾソプラノ]] *[[アルト]]([[コントラルト]]) *[[カウンターテナー]] / [[カストラート]] *[[テノール]] *[[バリトン]] == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[音楽]] *[[歌手]] *[[オペラ]] *[[声楽]] {{Normdaten}} [[Category:声楽|はす]] [[Category:合唱|はす]] [[Category:ドイツ語の語句|はす]]
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星のカービィシリーズ
星のカービィシリーズ(ほしのカービィシリーズ)は、ハル研究所が開発し任天堂から発売された『星のカービィ』を第1作とするアクションゲームシリーズの総称。 第1作はゲームボーイ対応ソフトとして日本で1992年4月27日に発売し世界売上で500万本以上を記録。シリーズ累計販売本数は全世界で2016年時点で3800万本以上にも及ぶ。 漫画やアニメ、小説といったメディアミックス作品も多数製作されている。また、星のカービィのテーマカフェである「KIRBY CAFÉ」が2016年8月8日より順次、大阪、名古屋、東京、博多で期間限定店舗としてオープンし、2019年12月12日には東京ソラマチ4Fで常設店舗がオープンした。さらに、2020年12月3日より、阪急三番街のB1F キデイランド大阪梅田店において、カービィのグッズ常設売り場となるKIRBY’S PUPUPU MARKETがオープンした。 ほとんどのシリーズが、主人公のカービィがプププランドの平和を乱すデデデ大王などの悪者を倒す横スクロールアクションである。 カービィの特徴的なアクションは主に3つある。 1つ目は吸い込み攻撃で、敵を吸い込んだり、吸い込んだ敵を吐き出し星にして別の敵にぶつけて攻撃する。カービィの基本的な攻撃である。 2つ目はコピーで、吸い込んだ敵を飲み込むと、その敵の種類に応じたコピー能力を使った攻撃ができるようになる。コピーをすると吸い込みはできなくなるが、コピー能力を捨てることはいつでもできる。また、一部のステージでは、特定のコピー能力を使わないと入れない隠し部屋などがある。 3つ目は空気を吸い込んで空を飛ぶことである(ホバリング)。カービィはゲーム開始時からいつでも飛び続けることができる。この能力を使って、プレイヤーは、敵を避けたり、地面の穴を越えたりすることが簡単にできる。星のカービィシリーズの初心者向けのゲームバランスを決定付けている要素の1つである。 他に、空を飛ぶときに吸い込んだ空気を吐き出して攻撃する空気弾や、スライディング攻撃などがある。 ただし、第1作にはコピー能力はまだなく、代わりにカレー、さつまいもなどの特殊アイテムがあった。 使用するボタンは基本的に「ジャンプ」と「吸い込み、コピー能力の使用」にそれぞれ対応したAボタン、Bボタン(一部例外あり)、そして移動を行う十字キーのみとシンプルであり、現在もほとんど変わっていない。 それは、第1作目発売当時(1992年)は難しいゲームが多く、このころからゲームを始める初心者たちのための導入口として作られたという経緯からである。そのため、当時ではほとんど見られなかった要素として、最初のステージで基本的な操作を修得できるように、難易度を下げながらもプレイヤーへのトレーニング要素を内包したステージ構成を取り込んでいる。これは独立したチュートリアルステージではなく、プレイヤーの成長を自然と促す作りを意識している。これらのゲームデザインを行った桜井政博ディレクターによると、甲斐(かい)あって、プレゼンや多くのテストプレイヤーにも気づかれず自然になじんでもらえたとのこと。ただし、宮本茂には唯一すぐに見抜かれたと語っている。他にも、後述のとおり、即ミスしないよう飛行能力を持たせたり、バイタリティ(体力)を設けたりした。 しかしその一方、使用するコピー能力の変更(コピー能力のない第1作目では、エキストラモードとコンフィグモードがこれに相当する)など、さまざまなプレイスタイルを持たせることにより、上級者でもしっかりと遊べる内容となっている。 初期のシリーズではコンプリートアイテムをすべて集めなければ真のラストボスに到達できない作品が多かったが、2000年以降、あつめて!カービィの発売まで11年間存在していなかった。 カービィのキャラクターにはさまざまな種類のキャラクターが存在し、カービィの仲間のキャラクターと敵キャラクターがいる。 カービィの体力にはシリーズによってポイント制とゲージ制がある。本項では基本的にポイント制のことを書いている。 『星のカービィ 夢の泉物語』以降に導入されたシステムで、カービィが吸い込んだ相手の能力を吸収する特技のことである。SDXとUSDXでは、「コピーのもと」に触れることで、それに対応した能力を得ることができる。 星のカービィシリーズをテーマにしたカフェである。店内のインテリアからメニューに至るまでの全てが星のカービィシリーズの世界観で彩られている。2016年8月8日から順次、大阪,名古屋,東京,博多で期間限定店舗をオープンした後、2019年12月12日に東京ソラマチ4Fに常設店舗がオープンした。併設グッズショップではカフェ利用者を対象にカフェ限定グッズや最新グッズの販売が行われている。 カービィたちがでんしゃごっこをするというコンセプトの元、2016年7月7日〜2020年8月20日迄の期間限定でオープンしたショップ・及びイベントを指す。 テーマが鉄道である為、ショップも殆どが駅や駅直結のデパートなどに開設された。 第1弾〜第5弾とEXTRAがあり、第1弾は東京、第2弾からは大阪、第3弾からは名古屋が会場として選ばれた。また、第4弾からはそれぞれの会場に「えきちょう」が設定され、コックカワサキの駅弁やワドルディのWADOSKといった派生商品も増えていった。 尚、このイベント用に路線図が制作され、そこに記載のある各駅に発車メロディも制作された。 『星のカービィ 20周年スペシャルコレクション』には、さくま良子、ひかわ博一、谷口あさみの漫画の第一話が収録されている。すべて小学館の雑誌収録の作品。2017年10月27日発売の『星のカービィ 〜まんぷくプププファンタジー〜』コミックス第1巻の発売をもって、『月刊コロコロコミック』連載版のコミックスの累計発行部数が1000万部を突破した。 角川つばさ文庫(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)より発刊されている児童向け小説。ゲームの設定を元としたオリジナルストーリーとなっている。いずれも小学中級以上向けで、高瀬美恵作、苅野タウ・ぽとが挿絵を担当。メタナイトが主人公を務める作品もあり、これらは副題が「メタナイト」で始まる。2019年5月にはシリーズ累計が100万部に到達した。
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星のカービィシリーズ(ほしのカービィシリーズ)は、ハル研究所が開発し任天堂から発売された『星のカービィ』を第1作とするアクションゲームシリーズの総称。
{{複数の問題 |出典の明記 = 2019年9月 |独自研究 = 2019年9月 }} {{TVWATCH}} {{コンピュータゲームシリーズ | タイトル = 星のカービィ | 画像 = [[File:Kirby Logo (Yellow and Blue).png|240px]] | 画像説明 = 英語版のシリーズロゴ | ジャンル = [[アクションゲーム|アクション]] | 開発元 = [[ハル研究所]]<br />[[任天堂]]<br />[[フラグシップ (ゲーム会社)|フラグシップ]]<br />[[トーセ]]<br />[[グッド・フィール]]<br />[[バンプール]] | 発売元 = 任天堂 | 製作者 = [[桜井政博]](生みの親)<br />[[熊崎信也]](ゼネラルディレクター)<br />[[宮本茂]]<br />[[下村真一]]<br />[[石川淳 (作曲家)|石川淳]]<br />[[安藤浩和]] | 1作目 = [[星のカービィ]] | 1作目発売日 = [[1992年]][[4月27日]] | 最新作 = [[星のカービィ Wii デラックス]] | 最新作発売日 = [[2023年]][[2月24日]] | 公式サイトURL = https://www.kirby.jp/ | 公式サイトタイトル = 星のカービィポータル }} '''星のカービィシリーズ'''(ほしのカービィシリーズ)は、[[ハル研究所]]が開発し[[任天堂]]から発売された『[[星のカービィ]]』を第1作とする[[アクションゲーム]]シリーズの総称。 == 概要 == 第1作は[[ゲームボーイ]]対応ソフトとして[[日本]]で[[1992年]][[4月27日]]に発売し世界売上で500万本以上を記録。シリーズ累計販売本数は全世界で2016年時点で3800万本以上にも及ぶ<ref>『[[ZIP!]]』2016年10月10日放送分より。</ref>。 [[漫画]]や[[テレビアニメ|アニメ]]、小説といったメディアミックス作品も多数製作されている。また、星のカービィのテーマ[[カフェ]]である「[[KIRBY CAFÉ]]」が[[2016年]]8月8日より順次、[[大阪府|大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[東京都|東京]]、[[博多区|博多]]で期間限定店舗としてオープンし、[[2019年]]12月12日には[[東京ソラマチ]]4Fで常設店舗がオープンした。さらに、2020年12月3日より、阪急三番街のB1F キデイランド[[大阪]][[梅田]]店において、カービィのグッズ常設売り場となるKIRBY’S PUPUPU MARKET<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kiddyland.co.jp/event/kirby_pupupu_market/ |title=2020年12月3日(木)オープン!『KIRBY’S PUPUPU MARKET』@ 大阪梅田店 |accessdate=2021年3月14日 |publisher=KIDDY LAND |deadlinkdate=2022-04-10}}</ref>がオープンした。 == ゲーム内容 == ほとんどのシリーズが、主人公の[[カービィ]]がプププランドの平和を乱す[[デデデ大王]]などの悪者を倒す横スクロールアクションである。 カービィの特徴的なアクションは主に3つある。 1つ目は吸い込み攻撃で、敵を吸い込んだり、吸い込んだ敵を吐き出し星にして別の敵にぶつけて攻撃する。カービィの基本的な攻撃である。 2つ目はコピーで、吸い込んだ敵を飲み込むと、その敵の種類に応じたコピー能力を使った攻撃ができるようになる。コピーをすると吸い込みはできなくなるが、コピー能力を捨てることはいつでもできる。また、一部のステージでは、特定のコピー能力を使わないと入れない隠し部屋などがある。 3つ目は空気を吸い込んで空を飛ぶことである(ホバリング)。カービィはゲーム開始時からいつでも飛び続けることができる。この能力を使って、プレイヤーは、敵を避けたり、地面の穴を越えたりすることが簡単にできる。星のカービィシリーズの初心者向けのゲームバランスを決定付けている要素の1つである。 他に、空を飛ぶときに吸い込んだ空気を吐き出して攻撃する空気弾や、スライディング攻撃などがある。 ただし、第1作にはコピー能力はまだなく、代わりに[[カレー]]、[[サツマイモ|さつまいも]]などの特殊アイテムがあった。 == 操作方法・ゲームシステム == 使用するボタンは基本的に「ジャンプ」と「吸い込み、コピー能力の使用」にそれぞれ対応したAボタン、Bボタン(一部例外あり)、そして移動を行う[[十字キー]]のみとシンプルであり、現在もほとんど変わっていない。 それは、第1作目発売当時(1992年)は難しいゲームが多く、このころからゲームを始める初心者たちのための導入口として作られたという経緯からである。そのため、当時ではほとんど見られなかった要素として、最初のステージで基本的な操作を修得できるように、難易度を下げながらもプレイヤーへのトレーニング要素を内包したステージ構成を取り込んでいる。これは独立したチュートリアルステージではなく、プレイヤーの成長を自然と促す作りを意識している。これらのゲームデザインを行った[[桜井政博]]ディレクターによると、甲斐(かい)あって、[[プレゼン]]や多くのテストプレイヤーにも気づかれず自然になじんでもらえたとのこと。ただし、[[宮本茂]]には唯一すぐに見抜かれたと語っている<ref>『[[ファミ通]]』に連載されているコラム『桜井政博のゲームについて思うこと』第86回における桜井当人のコメントより。</ref>。他にも、後述のとおり、即ミスしないよう飛行能力を持たせたり、バイタリティ(体力)を設けたりした。 しかしその一方、使用するコピー能力の変更(コピー能力のない第1作目では、エキストラモードとコンフィグモードがこれに相当する)など、さまざまなプレイスタイルを持たせることにより、上級者でもしっかりと遊べる内容となっている。 初期のシリーズではコンプリートアイテムをすべて集めなければ真のラストボスに到達できない作品が多かったが、2000年以降、あつめて!カービィの発売まで11年間存在していなかった。 == 開発の経緯 == ; 名前 : 開発当初のゲームタイトルは『ティンクル・ポポ』で、[[カービィ]]の名前は「ポポポ」だった。 : カービィはアメリカの任天堂から募集した名前で、アメリカにあった掃除機に「カービィ型」というタイプの物があった、というものと当時アメリカに[[ジョン・カービィ|カービィ]]という名の弁護士がいたため、という2説があるが正確な由来については、桜井政博も宮本茂も覚えてないという。 ; 色 : 創った桜井政博はピンク色のつもりだったが、ゲーム画面が白黒だったため、そのことを彼以外は知らなかった。名前を考えてもらおうとアメリカに送ったところ、アメリカのゲーム会社のスタッフはカービィが白黒だと思ってしまい、白黒カービィとして発表されてしまった。 ; 能力 : 吸い込み能力のアイディアは空を飛ぶことから浮かんだらしい。桜井はまず、初心者が画面下に落ち、即ミスになることを防ぐために空気を吸い込んで空を飛ぶ飛行能力を考え、その際「空気を吸うなら他の物も吸い込めるに違いない」と吸い込み能力を付加した。現在のカービィの代名詞でもある「吸い込み」はそうしたエピソードから生まれた。 == シリーズ一覧 == {{Timeline of release years |1992=[[星のカービィ]] |1993=[[星のカービィ 夢の泉の物語]]<br />[[カービィのピンボール]] |1994=[[カービィボウル]] |1995=[[星のカービィ2]]<br />[[カービィのブロックボール]] |1996=[[星のカービィ スーパーデラックス]] |1997=[[カービィのきらきらきっず]](GB版) |1998=[[星のカービィ3]] |1999=カービィのきらきらきっず(SFC版) |2000=[[星のカービィ64]]<br />[[コロコロカービィ]] |2002=[[星のカービィ 夢の泉デラックス]] |2003=[[カービィのエアライド]] |2004=[[星のカービィ 鏡の大迷宮]] |2005=[[タッチ!カービィ]] |2006=[[星のカービィ 参上! ドロッチェ団]] |2008=[[星のカービィ ウルトラスーパーデラックス]] |2010=[[毛糸のカービィ]] |2011=[[あつめて!カービィ]]<br />[[星のカービィ Wii]] |2012=[[星のカービィ 20周年スペシャルコレクション]] |2014=[[星のカービィ トリプルデラックス]]<br />[[星のカービィ トリプルデラックス#カービィファイターズZ|カービィファイターズZ]]<br />[[星のカービィ トリプルデラックス#デデデ大王のデデデでデンZ|デデデ大王のデデデでデンZ]] |2015=[[タッチ!カービィ スーパーレインボー]] |2016=[[星のカービィ ロボボプラネット]] |2017=[[星のカービィ ロボボプラネット#みんなで!カービィハンターズZ|みんなで!カービィハンターズZ]]<br />[[星のカービィ ロボボプラネット#カービィのすいこみ大作戦|カービィのすいこみ大作戦]]<br />[[カービィ バトルデラックス!]] |2018=[[星のカービィ スターアライズ]] |2019=[[毛糸のカービィ プラス]]<br />[[星のカービィ ロボボプラネット#スーパーカービィハンターズ|スーパーカービィハンターズ]] |2020=[[カービィファイターズ2]] |2022=[[星のカービィ ディスカバリー]]<br />[[カービィのグルメフェス]] |2023=[[星のカービィ Wii デラックス]]|range1_color=#FF66FF #FFCCFF|range1=1992}} {| class="wikitable" |- ! 作品名 !! 対応機種 !! ジャンル !! 発売日 !! 北米名 !! 欧州名 !! 備考 |- ! colspan="7" | メインシリーズ |- | [[星のカービィ]] || [[ゲームボーイ]] || rowspan="13" | [[アクションゲーム|アクション]] || [[1992年]][[4月27日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S DREAM LAND || |- | [[星のカービィ 夢の泉の物語]] || [[ファミリーコンピュータ]] || [[1993年]][[3月23日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S ADVENTURE || |- | [[星のカービィ2]] || ゲームボーイ || [[1995年]][[3月21日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S DREAM LAND 2 || |- | [[星のカービィ スーパーデラックス]] || rowspan="2" | [[スーパーファミコン]] || [[1996年]]3月21日 || style="text-align:center;" | KIRBY SUPER STAR || style="text-align:center;" | KIRBY'S FUN PAK || |- | [[星のカービィ3]] || [[1998年]][[3月27日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S DREAM LAND 3 || |- | [[星のカービィ64]] || [[NINTENDO64]] || [[2000年]][[3月24日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY 64: The Crystal Shards || |- | [[星のカービィ 鏡の大迷宮]] || [[ゲームボーイアドバンス]] || [[2004年]][[4月15日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby & The AMAZING MIRROR || |- | [[星のカービィ 参上! ドロッチェ団]] || [[ニンテンドーDS]] || [[2006年]][[11月2日]] || style="text-align:center;" | Kirby: Squeak Squad || style="text-align:center;" | Kirby Mouse Attack || |- | [[星のカービィ Wii]] || [[Wii]] || [[2011年]][[10月27日]] || style="text-align:center;" | Kirby's Return to Dream Land | style="text-align:center;" | Kirby's Adventure Wii || |- | [[星のカービィ トリプルデラックス]] || rowspan="2" | [[ニンテンドー3DS]] || [[2014年]][[1月11日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby: Triple Deluxe || |- | [[星のカービィ ロボボプラネット]] || [[2016年]][[4月28日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby: Planet Robobot || |- | [[星のカービィ スターアライズ]] || rowspan="2" | [[Nintendo Switch]] || [[2018年]][[3月16日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/switch/kirbyforswitch/index.html|title=星のカービィ スターアライズ|Nintendo Switchソフト|publisher=任天堂|language=日本語|accessdate=2018-03-16}}</ref> || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby: Star Allies || |- | [[星のカービィ ディスカバリー]] || [[2022年]][[3月25日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby and the Forgotten Land || メインシリーズ初の3Dアクション |- ! colspan="7" | リメイク・移植 |- | [[星のカービィ 夢の泉デラックス]] || ゲームボーイアドバンス || rowspan="3" | アクション || [[2002年]][[10月25日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby: NIGHTMARE IN DREAMLAND || |- | [[星のカービィ ウルトラスーパーデラックス]] || ニンテンドーDS || [[2008年]][[11月6日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby Super Star Ultra || |- | [[星のカービィ 20周年スペシャルコレクション]] || Wii || [[2012年]][[7月19日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby's Dream Collection: Special Edition || |- | [[毛糸のカービィ プラス]] || ニンテンドー3DS || 毛糸アクション || [[2019年]][[3月7日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby's Extra Epic Yarn || |- | [[星のカービィ Wii デラックス]]|| Nintendo Switch || アクション || [[2023年]][[2月24日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby's Return to Dream Land Deluxe || |- ! colspan="7" | その他 |- | [[カービィのピンボール]] || ゲームボーイ || [[ピンボール]] || 1993年[[11月27日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S PINBALL LAND || |- | [[カービィボウル]] || スーパーファミコン || [[ゴルフ]]式ボールアクション || [[1994年]][[9月21日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S DREAM COURSE || |- | [[カービィのブロックボール]] || ゲームボーイ || [[ブロックくずし]] || 1995年[[12月14日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S BLOCK BALL || |- | [[カービィのきらきらきっず]] || ゲームボーイ<br />スーパーファミコン || [[落ち物パズル]] || [[1997年]][[1月25日]](GB)<br />[[1999年]][[6月25日]](SFC) || colspan="2" style="text-align:center;" | KIRBY'S STAR STACKER || SFC版は日本国内のみ発売 |- | [[コロコロカービィ]] || [[ゲームボーイカラー]] || 転がりボールアクション || 2000年[[8月23日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby Tilt 'n' Tumble || 世界初の動きセンサー使用ソフト |- | [[カービィのエアライド]] || [[ニンテンドーゲームキューブ]] || [[レースゲーム]] || [[2003年]][[7月11日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby AIR RIDE || |- | [[タッチ!カービィ]] || ニンテンドーDS || ペンアクション || [[2005年]][[3月24日]] || style="text-align:center;" | Kirby: Canvas Curse || style="text-align:center;" | Kirby: Power Paintbrush || |- | [[毛糸のカービィ]] || Wii || 毛糸アクション || [[2010年]][[10月14日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby's Epic Yarn || |- | [[あつめて!カービィ]] || ニンテンドーDS || 群体アクション || 2011年[[8月4日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby Mass Attack || |- | [[星のカービィ トリプルデラックス#カービィファイターズZ|カービィファイターズZ]] || rowspan="2" | ニンテンドー3DS([[ダウンロード販売|DL]]) || 対戦アクション || rowspan="2" | 2014年[[7月23日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby Fighters Deluxe || |- | [[星のカービィ トリプルデラックス#デデデ大王のデデデでデンZ|デデデ大王のデデデでデンZ]] || リズムアクション || colspan="2" style="text-align:center;" | Dedede’s Drum Dash Deluxe || |- | [[タッチ!カービィ スーパーレインボー]] || [[Wii U]] || タッチペンアクション || [[2015年]][[1月22日]] || style="text-align:center;" | Kirby and the Rainbow Curse || style="text-align:center;" | Kirby and the Rainbow Paintbrush || |- | [[星のカービィ ロボボプラネット#みんなで!カービィハンターズZ|みんなで!カービィハンターズZ]] || rowspan="2" | ニンテンドー3DS(DL) || アクション || [[2017年]][[4月13日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Team Kirby Clash Deluxe || ダウンロード無料・アイテム課金あり |- | [[星のカービィ ロボボプラネット#カービィのすいこみ大作戦|カービィのすいこみ大作戦]] || 3Dアクション || 2017年[[7月4日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby's Blowout Blast || |- | [[カービィ バトルデラックス!]] || ニンテンドー3DS || 対戦アクション || 2017年[[11月30日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby's Battle Royale || |- | [[星のカービィ ロボボプラネット#スーパーカービィハンターズ|スーパーカービィハンターズ]] || rowspan="3" | Nintendo Switch(DL) || アクション || 2019年[[9月5日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Super Kirby Clash || ダウンロード無料・アイテム課金あり |- | [[カービィファイターズ2]] || 対戦アクション || [[2020年]][[9月24日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby Fighters 2 || |- | [[カービィのグルメフェス]] || 対戦アクション || 2022年[[8月17日]] || colspan="2" style="text-align:center;" | Kirby’s Dream Buffet || |} === 日本未発売の作品 === ; [[:en:Kirby's Avalanche|Kirby's Avalanche]]([[スーパーファミコン#海外版|Super NES]]) : 北米名は「Kirby's Avalanche」、欧州名は「Kirby's Ghost Trap」。 : 1995年に欧米で販売された『[[ぷよぷよ|す〜ぱ〜ぷよぷよ]]』の英語版のキャラクターやBGMをカービィシリーズのものに差し替えた作品(タイトルをそれぞれ直訳すると『カービィの[[雪崩]]』、『カービィのおばけの罠』)。開発は[[コンパイル (企業)|コンパイル]]、販売は任天堂。欧米では既に[[メガドライブ]]版『ぷよぷよ』が[[ソニックシリーズ]]関連作『[[ドクターエッグマンのミーンビーンマシーン|Dr. Robotnik's Mean Bean Machine]]』に姿を変えて発売されていたが、それに対しSNES版の本作は、元々は日本の『す〜ぱ〜ぷよぷよ』をそのまま翻訳して発売される予定だった。しかし、コンパイルの開発スタッフが任天堂から直接頼まれたため、急遽カービィシリーズのキャラクターへ差し替えて製作が行われることになった<ref>[[電波新聞社]]『ALL ABOUT ぷよぷよ通』スタッフインタビュー、p.143 より。</ref>。<br />欧米では、2007年にWiiの[[バーチャルコンソール]]でも配信されたほか、2022年7月21日より[[Nintendo Switch]]向けのオンラインサービス『[[スーパーファミコン Nintendo Switch Online]]』(海外名は『Super Nintendo Entertainment System Nintendo Switch Online』)で配信開始された<ref>{{Cite web|url=https://nintendoeverything.com/nintendo-switch-online-adds-fighters-history-kirbys-avalanche-daiva-story-6/|language=英語|title=Nintendo Switch Online adds Fighter’s History, Kirby’s Avalanche, Daiva Story 6|publisher=Nintendo Everything|date=2022-7-21|accessdate=2022-7-22}}</ref>。いずれも日本では未配信。 ; Kirby Slide(ゲームボーイアドバンス) : カードに書かれたタイトルは「Kirby Slide」、カード読み込み時のゲーム内表記は「Kirby Puzzle」。 : 2003年に欧米で配布されたカードe用の専用カード。 === 配信作品、アーケード作品 === ; カービィのおもちゃ箱([[サテラビュー]]) : 『星のカービィ スーパーデラックス』の発売を記念して、1996年1月から3月にかけて放送されたミニゲーム群。『星のカービィ スーパーデラックス』に収録されたミニゲーム2作を先行放送するとともに、新たに製作したミニゲーム8種類を放送した。 ; 星のカービィ きらきらメダルランド([[アーケードゲーム]]) : 2006年3月に稼働開始。開発・販売はアトラス。内容は[[プッシャーゲーム|シングルプッシャー]][[メダルゲーム]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.am-j.co.jp/newmachine/200603/004.html |title=星のカービィ きらきらメダルランド |website=アミューズメント・ジャーナル |publisher=株式会社アミューズメント・ジャーナル |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 ; 星のカービィ メダルランドの魔法の塔(アーケードゲーム) : 2007年12月に稼働開始。ハル研究所とアトラスとの共同開発<ref name="hallab000780">{{Cite web|和書|url=https://www.hallab.co.jp/works/detail/000780/ |title=星のカービィ メダルランドの魔法の塔 |publisher=株式会社ハル研究所 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。販売はアトラス。内容は8人掛け大型[[プッシャーゲーム|マスプッシャー]][[メダルゲーム]]<ref name="hallab000780"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://jaia.jp/history/pdf/history_2000_01.pdf |title=2000年代-01 メダル全盛の時代へ |work=アミューズメントマシンの軌跡 |publisher=一般社団法人日本アミューズメント産業協会 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 ; 星のカービィ ぱくぱくグルメレース(アーケードゲーム) : 2022年11月に稼働開始。開発・販売は[[バンダイナムコアミューズメント]]。レバーを押してボールを飛ばし、ボールをカービィの口の中に出来るだけ多く入れて高得点を目指す内容となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1456141.html |title=カービィのキッズ向けAC「星のカービィ ぱくぱくグルメレース」稼働開始! |author=緑里孝行(クラフル) |website=GAME Watch |publisher=株式会社インプレス |date=2022-11-16 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 === 開発中止となった作品 === ; kid kirby([[スーパーファミコン#海外版|SNES]]) : 1995年に海外で開発していた詳細不明のソフト。開発から2〜3年経った後中止された。開発はハル研究所ではなく、[[レミングス]]などで知られる[[DMA Design]]である。カービィの頭に触覚のようなカールした髪らしき物が生えているのが特徴。マウスコントローラを操作して、カービィを誘導するゲームになる予定だったが通常のコントローラでの操作性で開発中止となった。 ; カービィボウル64(NINTENDO64) : 『[[カービィボウル]]』の続編として発表されたソフト。しかし、企画は途中で変更されて『カービィのエアライド』になる。 ; カービィのエアライド(64) : 『カービィボウル64』の企画が変更されて発表されたソフト。64では開発中止になってしまうが、後に新たに作り直した『カービィのエアライド』がニンテンドーゲームキューブで発売された。 ; カービィファミリー(ゲームボーイカラー) : [[任天堂スペースワールド]]2001で出展されたカービィのキャラクターを使ったコンピューターミシン刺繍専用ソフト。開発は[[ナツメアタリ|ナツメ]]が担当。任天堂ではなく[[ジャガーインターナショナルコーポレーション]]が発売元になる予定だった<ref>[https://web.archive.org/web/20081231083334/https://www.nintendo.co.jp/n10/sw2001/softlist/gbc/k_family/ カービィファミリー - 任天堂]</ref>。 ; 星のカービィGBA(ゲームボーイアドバンス) : 『星のカービィ 夢の泉の物語』のリメイクとして発表されたソフト。 ; コロコロカービィ2(ニンテンドーゲームキューブ) : 『コロコロカービィ』の続編として発表されたソフト。GCを[[GBAケーブル]]で接続したゲームボーイアドバンスで操作をする。しかし、開発途中でキャラクターがカービィから変更されて「Roll-o-Rama」というタイトルに変わり、またセンサーカートリッジが使えない[[ゲームボーイアドバンスSP|GBASP]]に変える人が多くなり、結局は開発中止になった{{要出典|date=2018年1月}}。 ; 星のカービィGC(GC) : 2004年11月にGC用ソフトとして発表され<ref>[https://www.famitsu.com/game/coming/1158218_1407.html 仲間たちと一緒に大冒険! 『星のカービィ(仮題)』 - ファミ通.com]</ref>、半年後のE3 2005で初めて映像が公開された<ref>[https://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2005/gc_soft/kirby/index.html GCソフト/Kirby for Nintendo GameCube (仮称)]</ref>3Dアクションゲーム。 : 本作を含めコンセプトの違う3作品が試作される間にプラットフォームもWiiに変わり、最終的には開発中止となったが、新たに開発・発売された『星のカービィ Wii』や『星のカービィ スターアライズ』にさまざまな要素が再利用されている。 == 登場キャラクター == カービィのキャラクターにはさまざまな種類のキャラクターが存在し、カービィの仲間のキャラクターと敵キャラクターがいる。 {{See|星のカービィシリーズの登場キャラクター一覧}} == 主なアイテム == カービィの体力にはシリーズによってポイント制とゲージ制がある。本項では基本的にポイント制のことを書いている。 ; 元気ドリンク : カービィの体力を2ポイントまたは半分回復する(ゲームによっては例外あり)。 ; マキシムトマト : カービィの好物で、取ると体力が全回復する。中央に大きくMと書かれているトマトで、『スーパーデラックス』で普通のトマトとは別種であることが確認された。『3』でグーイが出現している場合、どちらかが取れば両者ともに全回復する。 : [[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]]にも回復アイテムとして登場。『[[ニンテンドーオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ|初代]]』では100パーセント、『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX|DX]]』以降では50パーセント、ダメージが回復する。 ; 激辛カレーライス : 『[[星のカービィ]]』に登場。体力は回復しないが、一定時間火を吹いて敵を攻撃できる。水に入ると効果は消える。 : 『大乱闘スマッシュブラザーズX』にも同様の効果を持ったアイテムとして登場した。 ; さつまいも : 『星のカービィ』に登場。体力は回復しないが、一定時間空気弾を連続して出すことができる。また、『星のカービィ トリプルデラックス』の「カービィファイターズ!」の中でも、アイテムとして登場した(効果は『星のカービィ』とほぼ同じで、一定時間空気弾を出し、そして最後に通常より大きめの空気弾を出す)。 : 海外版では[[ミント]]の葉(Mint Leaf)に差し替えられている。 ; マイク : 『星のカービィ』『コロコロカービィ』カービィファイターズシリーズなどに登場。コピーはできないが効果は同じで、歌で画面上の敵を一掃する。一回きりの使い捨てだが、『夢の泉の物語』『スーパーデラックス』などでは敵からコピーでき、3回まで使える。 ; 無敵キャンディー : 食べると、一定時間体が光って無敵状態になる。走るスピードも上昇する。『3』ではマキシムトマト同様、グーイ出現時にはどちらかが取れば両者ともに無敵状態になる。『あつめて!カービィ』では、無敵になるとともに巨大化するキャンディーが登場した(従来と同じ普通の無敵化キャンディーも存在する)。 ; [[1UP]] : 取ると、カービィの残り数が1増える。1UPとだけ書いてある物と、カービィが描かれている物との2種類のデザインが存在する。『スーパーデラックス』を除く『64』までの作品では前者、『スーパーデラックス』と『星のカービィ 夢の泉デラックス』以降は後者のデザインが使用されている。 ; [[ワープスター]] : 初代『星のカービィ』以来、『タッチ!カービィ』以外すべての作品に登場しているカービィの乗り物(『タッチ!カービィ』ではそれらしきものが絵にある)。星の形(球体ではなく[[五芒星]]タイプ)をした乗り物で、1-4人乗り。『3』ではカービィ・グーイ・仲間の3人、『鏡の大迷宮』、『Wii』では、4人で乗ることもある。 : 乗るとかなりの速度で飛び回り、進路上の敵などの障害物は問答無用で蹴散らしていく。基本的に止まる方法は「地面か壁に激突する」。この際乗っていたワープスターは砕けてしまうが、壊れても細かい星となり、再び集まればワープスターになる。『夢の泉デラックス』の4面、「GRAPE GARDEN」のステージ3では向かい風に対抗できなかったり、エンディングではなぜかデデデ大王の飛行速度のほうが速かったりとその作品によって設定が違う。 : 『64』のラストでは、巨大なワープスターが登場する(カービィが携帯電話で呼び出した)。登場と同時にカービィを勢いよくすっ飛ばしている。 : 『カービィのエアライド』では、エアライドマシンの1つとして登場した。 : 『星のカービィ鏡の大迷宮』では、ラスボス戦でワープスターに乗って戦う。 : 『大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL』では、ワープできることがあきらかとなった。 ; 食べ物 : いろいろな種類があり、その食べ物によって回復ポイントが異なる(基本的には1ポイント)。作品によっては、骨付き肉が回復量がやや多くなっている(『鏡の大迷宮』では体力3ポイント回復)。また、敵を倒すと出てくることもある。『星のカービィ64』では「アイス+スパーク」というコピー能力ミックスで、カービィが冷蔵庫になり食べ物を出す。一部の食べ物は海外版では異なる物に差し替えられていることもある。 ; 星のかけら : 30個(『2』では7個、『コロコロカービィ』では50個)集めると1UPと同じ効果になる。『64』では緑・赤・青のものが登場し、それぞれ3・5・10個分となっている。『コロコロ』では赤と青があり、赤は7個以上取るたびに1UP、青は一定時間内に規定数集めると1UPになる。『タッチ!カービィ』、『星のカービィWii』以降はポイントスターに取って代わられる形で登場しなくなった。 ; ポイントスター : 『タッチ!カービィ』、『星のカービィWii』以降に登場。上記の星のかけらに代わるアイテムで、100個分集めると1UPする。 ; メダル : 『タッチ!カービィ』、および『あつめて!カービィ』に登場。集めた数に応じていろいろなものが手に入る。 ; ライフのもと : 『鏡の大迷宮』では、1つ集めると体力が1メモリ増え、『[[星のカービィ 参上! ドロッチェ団|参上! ドロッチェ団]]』では2つに分かれていて2つ集めると体力が1メモリ分増える。また、『タッチ!カービィ』では、メダルチェンジャーの景品として手に入る(メダルの個数はそれぞれ違う)。 == 主な仕掛け == ; ブロック類 : 初代『星のカービィ』から登場している。普通の攻撃で壊せるものや、特定の攻撃でしか壊せないもの、あることをしないと壊れないものなど、さまざまな種類のブロックが存在する。ブロックを制覇することでクリアにつながることも多い。『スーパーデラックス』では障害物として、触れるとダメージを受ける溶岩や電気のブロックも登場する。 : 代表的なものは、星ブロック、爆弾ブロック、誘爆ブロック(爆弾ブロックを壊すと誘爆して壊れるブロック)、能力ブロック(特定のコピー能力でのみ壊せるブロック)など。 ; すり抜け床 : 上記のブロックの半分程の厚さで、カービィが通り抜ける事が出来る床。上下共に移動出来るものと、下から上にのみ移動出来るものがある。 ; スイッチ類 : 2作目の『夢の泉の物語』から登場。スイッチを押すことでマップに何らかの変化が起こる。色は赤・青・黄・緑の4色あるが効果は同じ。『スーパーデラックス』では小型のものが登場し、道が開けたり仕掛けを作動させたりと様々な種類がある。ブロック同様、これを攻略することがゲームの制覇につながる場合が多い。 ; 大砲類 : 『夢の泉の物語』から登場。大砲と導火線でセットになっており、炎系の能力(ファイア、バーニングなど)で導火線に火をつけて大砲に入ると、飛ばされて別のエリアへ行くことができる。導火線が水中にある場合、レーザー(水中では使えない為、地形を利用して反射させる必要がある)やヘルパー(バーニンレオなど)で火をつける事ができる。 : 『スーパーデラックス』では点火スイッチが用意されているものもあり、こちらは炎系能力がなくてもスイッチを踏むことで火をつけられる。また、カービィやヘルパーが飛ばされるのではなく大砲ごと飛んでいくものや、不発のものもある。 : なお、上記のものとは別に矢印が描かれて空中に浮かんだものがある。入ると回転し、ボタンを押すと矢印の方向に発射される。中には自動的に発射されるものもある。発射されている間は無敵。 : スーパー大砲などの種類もある。 ; はしご : 『夢の泉の物語』から登場。掴まる事で上下の移動が速くなる。 ; 杭 : 『夢の泉の物語』から登場。ハンマーやストーンで打ち込むことで壁が壊れ、道が開けたりアイテムを入手できたりする。 ; コピーのもと : 『スーパーデラックス』から登場。コピー能力を持った敵(又はコピー能力のイラスト)が描かれており、触れるだけでコピー能力を得ることができる。スリープを除く使い捨て能力のコピーのもとは無い。 ; ステップ : 『スーパーデラックス』から登場。中央に星が付いた黄色の足場。特定の場所を一定の速度で動いたり、画面上部から紐と繋がっていたりする。 ; 紐 : 『スーパーデラックス』から登場。上記のステップと繋がっており、カッターやソードなど刃物の能力で切るとステップが落下する。通路がステップで塞がれている場合、紐を切る事でステップが落下し通る事が出来るが、すり抜け床の上にステップが落ちた場合は床の通り抜けが出来なくなる。一度扉を出て戻ってくると復活する。 ; トロッコ : 『スーパーデラックス』から登場。乗り込んで進行方向の十字キーの左右を押すと進む。乗っている間は無敵で溶岩ブロックの上も走行でき、杭も押し込むことができる。壁に当たると消滅するが、スクロールさせると復活する。ジャンプすると途中で降りることができる。進行方向は場所によって決まっており、乗ってみないと分からない。なお、トロッコに乗るとカービィはライト付きのヘルメットを被る。 ; エレベーター : 『スーパーデラックス』から登場。かごに乗り込んで十字キーの上下を押すと動き出す。なお、かごの中ではなく上に乗ることも可能。鉄格子で裸電球の付いている古いものと機械的で新しいものとあるが性能は同じ。 ; カタパルト : 『スーパーデラックス』から登場。乗ると急加速し、素早く移動できる。乗っている間は無敵で、敵やトゲに触れてもダメージを受けないが、終点まで行くと前方に放り出される。 ; スプリング : 『スーパーデラックス』から登場。乗るとバネの力で高く跳べる。上から下に移動する際は障害物となる。 == 主な障害物 == ; トゲ : 床や天井に生えていて、触れるとダメージを受ける。初代では触れると3ダメージを受けたが、『夢の泉』以降は1ダメージを受ける。 ; ヤシの実 : カービィが下を通ろうとすると落下してきて、地面に落ちると爆発する。最初から地面に落ちているものもあるが当たるとダメージを受ける。中ボスのボンカースが投げてくることもある。 ; つらら : 『2』から登場。ヤシの実同様、下を通ろうとすると落ちてくる。『2』でボスのアイスドラゴンが落としてくるものは地面に落ちると欠片が飛び、この欠片に当たってもダメージを受ける。 ; 鉄球 : 『3』で登場。カービィの何倍もの大きさがあり、画面上から落下してくる。床に落ちると一度バウンドしてそのまま画面下へ落ちていく。 ; 岩 : 『3』で登場。天井にくっついているが、カービィが通過したり近づくと落下して転がってくる。通路が狭い場所に登場することが多い。 ; バー : 『3』で登場。小さい鉄球が4つ連なっており、ブロックを軸にして回転している。軸が星ブロックの場合、破壊すると落下して消滅する。 ; トゲ付きブロック : 『3』で登場。[[スーパーマリオシリーズ]]の[[ドッスン]]のように、その場所でゆっくり上昇し、天井に達すると落下してくる。ブロック2×2分のものと3×2分のものがある。2×2のものは一部画面奥から出たり引っ込んだりするものがある。 == コピー能力 == [[ファイル:Kirby_gets_an_ability_(videogame_gameplay).png|サムネイル|例えば、カービィが剣を所持した敵を吸い込んだ場合、カービィは剣を所持した状態となる。]] 『星のカービィ 夢の泉物語』以降に導入されたシステムで、[[カービィ]]が吸い込んだ相手の能力を吸収する特技のことである。SDXとUSDXでは、「コピーのもと」に触れることで、それに対応した能力を得ることができる。 {{See|カービィ#コピー能力}} == コンサート == ; 星のカービィ25周年オーケストラコンサート([[2017年]]) : 星のカービィシリーズ25周年を記念して、開発元の[[ハル研究所]]の主催で行われたコンサート。歴代作品の人気楽曲が演奏された。 : 東京公演が4月16日、大阪公演が6月18日に行われ、東京は[[東京フィルハーモニー交響楽団]]、大阪は[[大阪交響楽団]]が演奏した。本公演が完売したため、東京は7月20日、21日、大阪は6月18日に追加公演が行われた。 : 本公演当日はスペシャルゲストとして、カービィシリーズ生みの親である[[桜井政博]]と、カービィの声優役[[大本眞基子]]が招かれ、桜井は1作目の[[星のカービィ]]開発時のエピソードを語った。 : 4月16日の東京公演を収録した[[CD]]2枚組と、7月21日の公演の模様を収録したライブ[[DVD]]、[[Blu-ray Disc]]が、11月8日に発売された。 ; 星のカービィ 30周年記念ミュージックフェス([[2022年]]) : 星のカービィシリーズ30周年を記念して、開発元の[[ハル研究所]]の主催のもと8月11日に[[東京ガーデンシアター]]で行われたコンサート。 : 8月11日の昼公演、夜公演に分けて行われた<ref name="PRTIMES20220314">[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000049714.html 『星のカービィ 30周年記念ミュージックフェス』2022年8月11日(木・祝)に、東京ガーデンシアターにて開催決定!],ハル研究所,(2022年3月14日),PR TIMES,2022年8月10日閲覧。</ref>。 : 当初は夜公演のみの予定だったがチケットの申し込み状況を受け、昼公演が追加されることになった。 : また、YouTube公式チャンネル『星のカービィポータル』では全世界に向けて夜公演の模様の無料生配信が実施された<ref name="PRTIMES20220314" />。 == KIRBY CAFÉ == {{Main|[[KIRBY CAFÉ]]}} 星のカービィシリーズをテーマにしたカフェである。店内のインテリアからメニューに至るまでの全てが星のカービィシリーズの世界観で彩られている。[[2016年]]8月8日から順次、[[大阪府|大阪]],[[名古屋市|名古屋]],[[東京都|東京]],[[博多区|博多]]で期間限定店舗をオープンした後、[[2019年]]12月12日に[[東京ソラマチ]]4Fに常設店舗がオープンした。併設グッズショップではカフェ利用者を対象にカフェ限定グッズや最新グッズの販売が行われている。 == プププ☆トレイン == カービィたちがでんしゃごっこをするというコンセプトの元、[[2016年]]7月7日〜[[2020年]]8月20日迄の期間限定でオープンしたショップ・及びイベントを指す。 テーマが鉄道である為、ショップも殆どが駅や駅直結のデパートなどに開設された。 第1弾〜第5弾とEXTRAがあり、第1弾は[[東京駅|東京]]、第2弾からは[[大阪駅|大阪]]、第3弾からは[[名古屋駅|名古屋]]が会場として選ばれた。また、第4弾からはそれぞれの会場に「えきちょう」が設定され<ref group="注釈">東京会場はカービィ、名古屋会場はメタナイト、大阪会場はデデデ大王がえきちょうである。</ref>、コックカワサキの駅弁やワドルディのWADOSKといった派生商品も増えていった。 尚、このイベント用に路線図が制作され、そこに記載のある各駅に発車メロディも制作された。 == 派生作品 == === テレビアニメ === * [[星のカービィ (アニメ)|星のカービィ]]([[CBCテレビ|CBC]]制作・[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送、[[2001年]][[10月6日]] - [[2003年]][[9月27日]]) === 漫画 === 『星のカービィ 20周年スペシャルコレクション』には、さくま良子、ひかわ博一、谷口あさみの漫画の第一話が収録されている。すべて[[小学館]]の雑誌収録の作品。2017年10月27日発売の『星のカービィ 〜まんぷくプププファンタジー〜』コミックス第1巻の発売をもって、『[[月刊コロコロコミック]]』連載版のコミックスの累計発行部数が1000万部を突破した<ref>[https://natalie.mu/comic/news/254348 コロコロ版カービィシリーズが累計1000万部を突破!新作をひかわ博一がアピール]、コミックナタリー、2017年10月27日。</ref>。 ==== 連載中 ==== * [[星のカービィ (さくま良子の漫画)|星のカービィ]]([[さくま良子]]作、[[小学館の学年別学習雑誌|小学一 - 三年生]]→[[ぷっちぐみ]]連載、1992年 - 2009年、2022年 - ) ** 単行本全12巻。カービィシリーズの漫画で連載期間約17年と1番長い作品だったが、連載再開した『デデデでプププなものがたり』に抜かれて2022年現在は2番目。連載終了後もコミックスは発行されていた。連載終了から10年以上経過した2022年に[[ぷっちぐみ]]で「プププなまいにち」の副題をつけて連載を再開した。 * [[星のカービィ デデデでプププなものがたり]]([[ひかわ博一]]作、コロコロコミックほか連載、1994年 - 2006年、2017年 - ) ** 単行本全25巻。連載終了から11年後の2017年に[[コロコロアニキ]]に新作が掲載され、2018年から同紙で連載が再開された。コロコロアニキ休刊後はコロコロオンライン及び週刊コロコロコミック上のWeb漫画に移行した。コロコロコミックでの連載期間は12年目で、連載再開後も合算すればカービィシリーズの漫画で1番長い作品となる。 * [[星のカービィ カービィ&デデデのプププ日記]](路みちる→[[まつやま登]]作、[[ファミ通DS+Wii]]→[[てれびげーむマガジン]]連載、2006年 - 2016年、2009年 - ) ** 第10話までは路みちるが担当。第11話からまつやま登に交代し、設定も変更された。単行本は基本的に掲載紙の付録扱いで、一般の書籍化はほとんどされていない。ファミ通DS+Wiiでは2016年に連載終了。てれびげーむマガジン内のショート漫画としての掲載は継続しており、そちらを連載期間に合算すれば2023年現在、3番目に長い作品。 * [[星のカービィ ぽよぽよな毎日]](路みちる作、ぴこぷりの2012年October号(創刊号・10月-11月号)から連載開始) ** 初期の『カービィ&デデデのプププ日記』を描いていた路みちるによる漫画。『カービィ&デデデのプププ日記』で路が担当していた時期の設定を引き継いでいる。単行本は2015年に1冊のみ発売されている。 * [[星のカービィ キラキラ★プププワールド]](南条アキマサ作、[[キャラぱふぇ]]の2014年3-4月号から連載開始) ** 副題は「トリプルデラックス編」「スーパーレインボー編」「キラキラ★プププワールド」と変更されている。 * [[星のカービィ 今日もまんまる日記!]]([[ダイナミック太郎]]作、[[コロコロイチバン!]]連載、2016年7月号から連載開始) * [[星のカービィ 〜まんぷくプププファンタジー〜]]([[武内いぶき]]作、[[月刊コロコロコミック]]連載、2016年11月号から連載開始) * 星のカービィ〜ゆるっとプププ〜([[加藤みのり]]作、[[ちゃお]]連載、2023年4月号から連載開始<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-03-03|title =星のカービィ〜ゆるっとプププ〜|journal =ちゃお|volume=2023年4月号|publisher = 小学館|page=383|asin = B0BVMYTD7P}}</ref>) ==== 連載終了 ==== * [[星のカービィ ウキウキ大冒険]]([[タイジャンホクト]]作、[[月刊少年ギャグ王]]掲載、1997年 - 1999年) ** 単行本1巻。1巻収録分より後に連載された話は単行本化はされていない。 * [[星のカービィ! も〜れつプププアワー!]]([[谷口あさみ]]作、[[月刊コロコロコミック]]連載、2006年 - 2016年) ** 単行本全13巻。 * [[星のカービィ プププヒーロー]]([[あおきけい&みかまる]]作、[[デンゲキニンテンドーDS]]→[[デンゲキニンテンドー for KIDS]]→[[デンゲキバズーカ!!]]連載、2008年 - 2013年、2014年 - 2016年) ** 単行本は雑誌の付録として上巻と下巻の全2巻収録されていたが、2022年より正式な単行本が発刊中。雑誌の休刊により連載を終了したが、デンゲキバズーカ!!で「ウルトラスーパープププヒーロー」に副題を変更して連載を再開していた。 * [[星のカービィ パクッと大爆ショー!!]](川上ゆーき作、[[コロコロイチバン!]]連載、2012年 - 2015年) ** 単行本全2巻。末期は「もっと大爆ショー!!」に副題を変更していた。副題変更の話は単行本未収録。 ==== アンソロジー ==== * [[双葉社]] ** 星のカービィ [[4コマまんが王国]](1995年・1997年、全2巻) ** 星のカービィ64 4コマまんが王国(2000年、全1巻) ** コロコロカービィ 4コマまんが王国(2001年、全1巻) ** カービィのエアライド 4コマまんが王国(2003年、全1巻) * [[エニックス]] / [[スクウェア・エニックス]] ** 星のカービィ [[4コママンガ劇場]](エニックス、1995年 - 1998年、全5巻) ** 星のカービィ ショートコミック劇場(エニックス、1996年、全1巻) ** 星のカービィ64 4コママンガ劇場(エニックス、2000年 - 2001年、全3巻) ** 星のカービィ 夢の泉デラックス 4コママンガ劇場(スクウェア・エニックス、2003年、全1巻) ** 星のカービィ 鏡の大迷宮 4コママンガ劇場(スクウェア・エニックス、2004年、全1巻) * [[光文社]] ** 星のカービィ スーパーデラックス [[4コマギャグバトル]](1996年) ** 星のカービィ スーパーデラックス 4コマギャグバトル まんぷく編(1996年) ** 星のカービィ スーパーデラックス ギャグパラダイス(1997年) ** 星のカービィ スーパーデラックス 4コマギャグバトル はらぺこ編(1997年) ** 星のカービィ3 4コマギャグバトル(1999年) ** 星のカービィ64 4コマギャグバトル(2000年) ** 星のカービィ64 4コマギャグバトル ミックス編(2000年) ** 星のカービィ 夢の泉デラックス 4コマギャグバトル(2003年) ** 星のカービィ 夢の泉デラックス 4コマギャグバトル とことん編(2003年) ** 星のカービィ 夢の泉デラックス 4コマ大事典(2003年) ** 星のカービィ 鏡の大迷宮 4コマギャグバトル パート1(2004年) ** 星のカービィ 鏡の大迷宮 4コマギャグバトル パート2(2004年) ** 星のカービィ 鏡の大迷宮 4コマ大事典(2004年) ** タッチ! カービィ 4コマギャグバトル(2005年) ** 星のカービィ 参上! ドロッチェ団 4コマギャグバトル(2007年) ** 星のカービィ ウルトラスーパーデラックス 4コマギャグバトル(2009年) ==== 未単行本化作品 ==== * かっとび星のカービィ([[あべさより]]作、小学一年生連載、1992年 - 1993年) * 星のカービィ(ちびにゃんね作、小学三年生掲載、1993年 - 1994年) * 星のカービィ(前田のえみ作、小学一年生掲載、1994年 - 1996年) * 星のカービィ プププランドはおおさわぎ!(山下たかひろ作、小学四年生連載、2003年) * [[星のカービィ プププランドの仲間たち]]([[姫野かげまる]]作、小学五・六年生連載、2003年) * ポヨポヨカービィ(はりぶきしきみ作、ファミ通DS+Wii連載、2006年 - 2009年?) * 星のカービィ 参上!ドロッチェ団(宮須弥作、キャラぱふぇ連載、2006年 - 不明) === 絵本 === * 星のカービィ(小学館、2002年、全3巻 ISBN 978-4091155016・ISBN 978-4091155023・ISBN 9784091155030) ** アニメ版星のカービィをベースにしている。 * 星のカービィ そらのおさんぽ(文:[[大塚菜生]]、絵:[[苅野タウ]]/[[ぽと]]、[[KADOKAWA]]、2017年3月15日発売 ISBN 9784048928595) * 星のカービィ おかしなスイーツ島(文:大塚菜生、絵:苅野タウ/ぽと、KADOKAWA、2017年11月30日発売 ISBN 9784048933568) *[[いつでもカービィ]]シリーズ([[小学館]]) ** [[谷口あさみ]]原作による絵本シリーズ。谷口は文章を担当し、イラストは作品ごとに異なるイラストレーターが手掛ける。 === 小説 === * [[星のカービィ (高瀬美恵の小説)]] [[角川つばさ文庫]](KADOKAWA/[[アスキー・メディアワークス]])より発刊されている[[児童文学|児童向け小説]]。ゲームの設定を元としたオリジナルストーリーとなっている。いずれも小学中級以上向けで、[[高瀬美恵]]作、苅野タウ・ぽとが挿絵を担当。メタナイトが主人公を務める作品もあり、これらは副題が「メタナイト」で始まる。<br />2019年5月にはシリーズ累計が100万部に到達した<ref>{{Cite web|和書|url=https://tsubasabunko.jp/blog/title/entry-9122.html|title=『星のカービィ』100万部突破! 7月の新しい小説もおたのしみに☆|publisher=角川つばさ文庫|date=2019-6-3|accessdate=2019-12-27}}</ref>。 === 設定資料集 === * 20th Anniversary 星のカービィプププ大全(小学館、2012年8月3日発売、ISBN 978-4091065117) * 星のカービィ25周年記念 星のカービィ コピー能力大集合図かん(KADOKAWA、2017年8月3日発売、ISBN 978-4047332713) * 星のカービィ アート&スタイル コレクション(KADOKAWA、2017年11月2日発売、ISBN 978-4048933865) * 星のカービィ コピー能力大図鑑(KADOKAWA、2018年12月20日発売、ISBN 978-4049121711) **ポケット版 星のカービィ コピー能力大図鑑(KADOKAWA、2021年12月15日発売、ISBN 978-4049139945) * 星のカービィ スターアライズ 公式設定資料集([[徳間書店]]、2021年3月17日発売、ISBN 978-4198652418) * 星のカービィ キャラクター大図鑑(KADOKAWA、2022年9月28日発売、ISBN 9784049139952) === 雑誌・ムック === * [[別冊てれびげーむマガジン]] スペシャル 星のカービィ スターアライズ号(KADOKAWA、2018年5月24日発売、ISBN 9784047333352) * 星のカービィ ニードルフェルトぽよぽよマスコット(KADOKAWA、2018年10月25日発売、ISBN 9784049121575) **カービィなどのマスコットを作れる[[羊毛フェルト|ニードルフェルト]]の材料・道具をセットにした[[ムック (出版)|ムック]]。 * 星のカービィファン(小学館) ** 第1号(2019年10月4日発売) *** 付録:星のカービィ ゆらゆらマスコット カービィ&ワドルディセット、「カービィのコピとる!」ミニ ** 第2号(2020年9月29日発売) *** 付録:星のカービィ ぬくいーず[カービィファン限定Ver.] ** 第3号(2021年9月2日発売) *** 付録:星のカービィ ふわふわポーチ付きエコバッグ、絵本「いつでもカービィ」スペシャルポストカード3枚セット、ナゾトキコピー能力ポスター ** 第4号(2022年4月27日発売) *** 付録:星のカービィ ぴたれすとプチ[カービィファン限定Ver.]、星のカービィ 30th 特製パスケース[カービィファン限定Ver.]、星のカービィ 30th コレクション缶バッジ、全コピー能力大集合ポスター、30周年クロニクルポスター *** このほか、ひかわ博一、さくま良子、武内いぶき、ダイナミック太郎による描きおろし漫画を収録 === その他の書籍 === * 星のカービィ スーパーデラックス:ゲームブック(ファミ通ゲーム文庫、作:[[沙藤樹]]、1996年8月26日発売、ISBN 978-4893665638) ** 『星のカービィ スーパーデラックス』を題材とした[[ゲームブック]]。 * 星のカービィ スクラッチアートシリーズ(KADOKAWA) ** スクラッチ面を削ることで地色が浮かび上がるという趣向の本。 *** 星のカービィ スクラッチアート(2018年12月11日発売、ISBN 978-4049122121) *** 星のカービィ スクラッチアートDX(2022年4月21日発売、ISBN 978-4049142051) * 星のカービィをさがせ!!シリーズ(絵:苅野タウ絵/ぽと、KADOKAWA) ** 大量に描かれたカービィの中から指定されたカービィなどを見つけるという問題を収録した児童書。 *** 星のカービィをさがせ!!(2019年4月2日発売 ISBN 978-4048939768) *** 星のカービィをさがせ!! カービィがいっぱい(2020年12月2日発売、ISBN 978-4049128222) *** 星のカービィ まちがいさがし(2021年3月17日発売、ISBN 978-4049136173) * 星のカービィ ナゾトキブック スターアライズ編(KADOKAWA、2019年4月25日発売、ISBN 9784049124903) * 星のカービィ なぞなぞブック(KADOKAWA、2020年9月18日発売、ISBN 978-4049133370) * 星のカービィ ハンドメイドブック(KADOKAWA、2021年2月18日発売、ISBN 978-4048968997) * キャラクターあそぶっく 星のカービィ プププでクイズ(KADOKAWA、2021年3月24日発売、ISBN 978-4049137552) * 星のカービィ おぼえておきたいことわざ (KADOKAWA、2021年7月20日発売、ISBN 978-4049137743) * 星のカービィ パズルプラネット ~ナゾトキ脳トレ編~ (小学館、2021年8月5日発売、ISBN 978-4092591929) * 星のカービィ プププマジックキット (KADOKAWA、2022年3月2日発売、ISBN 978-4049139006) === その他の作品 === * [[カービィのコピとる!]] ** 星のカービィのカードゲーム。 * カービィのスイーツパーティ ** 星のカービィのボードゲーム。 * 星のカービィ ワンナイト人狼 ** [[汝は人狼なりや?#類似ゲーム|ワンナイト人狼]]をカービィの世界観で再現したカードゲーム。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ハル研究所]] - シリーズの開発元。 * [[ワープスター#株式会社ワープスター|株式会社ワープスター]] - カービィキャラクターの版権管理などを行っている会社。 * [[桜井政博]] - 第1作目などのディレクターで、シリーズの生みの親。シリーズ統括ディレクターも歴任。現在はハル研究所を退社している。 * [[熊崎信也]] - シリーズの現ゼネラルディレクター。 * [[石川淳 (作曲家)|石川淳]] - カービィシリーズの大半の音楽を担当している。 * [[安藤浩和]] - 石川と並びシリーズの大半の音楽を担当。 == 外部リンク == * {{Official|https://www.kirby.jp/|星のカービィポータル}} * {{Twitter|Kirby_JP|星のカービィ}} * {{YouTube|channel=UCcRPi7heRVWo83P9_uBVEqg|星のカービィ}} {{Kirby}} {{Kirby character}} {{任天堂|主なソフト}} {{DEFAULTSORT:ほしのかあひいしりいす}} [[Category:星のカービィ|*]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]]
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魔方陣
魔方陣(まほうじん、英:magic square)とは、n×n 個の正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・対角線のいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数 n までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。 このときの一列の和は、 と計算できる。 魔方陣の歴史は古く、中国では紀元前190年前には存在していた。魔法や神話的な意味を獲得し、芸術作品の象徴として様々な場所で用いられてきた。 現代では縦・横・対角線以外の形状の和や、数字の積などの単なる和以外の演算などにも一般化されている。 1×1の魔方陣は明らかである。 [ 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1\\\end{bmatrix}}} 2×2の魔方陣は同じ数字を使用しない限り存在しない。 <証明> [ a d b c ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}a&d\\b&c\\\end{bmatrix}}} ゆえに したがって3×3のものが意味のあると思われる最小の魔方陣になる。 3×3の魔方陣(三方陣)は、対称形を除けば下記の形しか存在しない。各列の合計は15になる。 [ 8 1 6 3 5 7 4 9 2 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}8&1&6\\3&5&7\\4&9&2\\\end{bmatrix}}} 三方陣の暗記法として、 などが知られている。 九星などで用いられる「河図洛書」(洛書)の図は次のとおりであり、上の図の対称形になっている。 また西洋数秘術のサトゥルヌス魔方陣(土星魔方陣)は次の図のとおりである。 4×4の魔方陣は全部で880通り存在する。4×4の魔方陣では、1行と4行を交換し、さらに1列と4列を交換すると別の4×4の魔方陣ができる。同様にして、2行と3行、2列と3列を交換するとまた別の4×4の魔方陣ができる。1行と2行、3行と4行、1列と2列、3列と4列を交換すると外枠の四角と内枠の四角が交換された別の4×4の魔方陣ができる。右の図は、アルブレヒト・デューラーが描いたメランコリアIの中にある魔方陣を拡大したものである。 一例を示す。 [ 1 2 15 16 13 14 3 4 12 7 10 5 8 11 6 9 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&2&15&16\\13&14&3&4\\12&7&10&5\\8&11&6&9\\\end{bmatrix}}} 1970年代から2億7530万5224通り(対称形などをのぞく)存在することが知られている。 一例を示す。 [ 11 24 7 20 3 4 12 25 8 16 17 5 13 21 9 10 18 1 14 22 23 6 19 2 15 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}11&24&7&20&3\\4&12&25&8&16\\17&5&13&21&9\\10&18&1&14&22\\23&6&19&2&15\end{bmatrix}}} 6×6の魔方陣は、一般的な作り方は知られていないため、いろいろな人物が独自の方陣を発表している。一例として久留島喜内による魔方陣をあげる。 [ 1 2 3 34 35 36 31 32 15 4 23 6 30 29 28 9 8 7 12 11 10 27 26 25 24 20 22 21 5 19 13 17 33 16 14 18 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&2&3&34&35&36\\31&32&15&4&23&6\\30&29&28&9&8&7\\12&11&10&27&26&25\\24&20&22&21&5&19\\13&17&33&16&14&18\end{bmatrix}}} 9×9=81。中心が41で、縦・横・対角線の和がすべて369。中国の程大位の『算法統宗(中国語版)』(1593年)第12巻には4 - 10次方陣までが説かれており、9次方陣の「九九図」も載っているという(実際の図は丸囲みの漢数字で枠なしだが下図では便宜上変更)。 3次方陣に関連した法則も見られる。計81の数字を9つ(3×3)のブロックに分けて考えた場合、例えば上中のブロックはすべて9の倍数になっている。 [ 9 x + 4 9 x + 9 9 x + 2 9 x + 3 9 x + 5 9 x + 7 9 x + 8 9 x + 1 9 x + 6 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}9x+4&9x+9&9x+2\\9x+3&9x+5&9x+7\\9x+8&9x+1&9x+6\\\end{bmatrix}}} 27×27の魔方陣も可能。27×27=729。中心が365で、縦・横・対角線の和がすべて9855。 上記の「九九図のブロックごとの座標置換」を丸ごと、下中のブロックに配置。82以降の数を同様の法則で配置していく。それぞれのブロックも魔方陣になっており、中心の数の下一桁は、そのブロックの順序(下図の漢数字)と一致している(ブロックごとに81ずつ数が増える関係)。 奇数次の魔方陣の一般的な作り方はいくつか存在する。どの方法を用いても 3×3 の魔方陣は同じ配列になる。 [ − − − 1 − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}-&-&-&1&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&-\\\end{bmatrix}}} [ − − − 1 − − − − − 7 − − − − − 6 − − − − − 5 − − − − − − − − − − − − 4 − − − − − 3 − − − − − 2 − − ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}-&-&-&1&-&-&-\\-&-&7&-&-&-&-\\-&6&-&-&-&-&-\\5&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&4\\-&-&-&-&-&3&-\\-&-&-&-&2&-&-\\\end{bmatrix}}} [ − − − 1 − − − − − 7 − − − − − 6 8 − − − − 5 − − − − − − − − − − − − 4 − − − − − 3 − − − − − 2 − − ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}-&-&-&1&-&-&-\\-&-&7&-&-&-&-\\-&6&8&-&-&-&-\\5&-&-&-&-&-&-\\-&-&-&-&-&-&4\\-&-&-&-&-&3&-\\-&-&-&-&2&-&-\\\end{bmatrix}}} [ − − − 1 10 − − − − 7 9 − − − − 6 8 − − − − 5 14 − − − − − 13 − − − − − 4 − − − − − 3 12 − − − − 2 11 − ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}-&-&-&1&10&-&-\\-&-&7&9&-&-&-\\-&6&8&-&-&-&-\\5&14&-&-&-&-&-\\13&-&-&-&-&-&4\\-&-&-&-&-&3&12\\-&-&-&-&2&11&-\\\end{bmatrix}}} [ 30 39 48 1 10 19 28 38 47 7 9 18 27 29 46 6 8 17 26 35 37 5 14 16 25 34 36 45 13 15 24 33 42 44 4 21 23 32 41 43 3 12 22 31 40 49 2 11 20 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}30&39&48&1&10&19&28\\38&47&7&9&18&27&29\\46&6&8&17&26&35&37\\5&14&16&25&34&36&45\\13&15&24&33&42&44&4\\21&23&32&41&43&3&12\\22&31&40&49&2&11&20\\\end{bmatrix}}} 下段の中央を1にしたり、左斜めに進める方法もあるが、これらは対称形なのですべて同じ方法。 下図で、A,B,C,D,E には 1,2,3,4,5 を F,G,H,I,J には 0,5,10,15,20を、任意の順に割り当てることで、魔方陣が作れる。 (先にAに3、Fに10を割り当て済みのパターンでは、 残り4種類の数字の配置が自由) [ A B C D E C D E A B E A B C D B C D E A D E A B C ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}A&B&C&D&E\\C&D&E&A&B\\E&A&B&C&D\\B&C&D&E&A\\D&E&A&B&C\\\end{bmatrix}}} + [ F G H I J I J F G H G H I J F J F G H I H I J F G ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}F&G&H&I&J\\I&J&F&G&H\\G&H&I&J&F\\J&F&G&H&I\\H&I&J&F&G\\\end{bmatrix}}} [ B C D E 3 C D E 3 B D E 3 B C E 3 B C D 3 B C D E ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}B&C&D&E&3\\C&D&E&3&B\\D&E&3&B&C\\E&3&B&C&D\\3&B&C&D&E\\\end{bmatrix}}} + [ 10 G H I J J 10 G H I I J 10 G H H I J 10 G G H I J 10 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}10&G&H&I&J\\J&10&G&H&I\\I&J&10&G&H\\H&I&J&10&G\\G&H&I&J&10\\\end{bmatrix}}} [ A B C D E C D E A B E A B C D B C D E A D E A B C ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}A&B&C&D&E\\C&D&E&A&B\\E&A&B&C&D\\B&C&D&E&A\\D&E&A&B&C\\\end{bmatrix}}} + [ 10 G H I J J 10 G H I I J 10 G H H I J 10 G G H I J 10 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}10&G&H&I&J\\J&10&G&H&I\\I&J&10&G&H\\H&I&J&10&G\\G&H&I&J&10\\\end{bmatrix}}} [ 3 B C D E E 3 B C D D E 3 B C C D E 3 B B C D E 3 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}3&B&C&D&E\\E&3&B&C&D\\D&E&3&B&C\\C&D&E&3&B\\B&C&D&E&3\\\end{bmatrix}}} + [ F G H I J H I J F G J F G H I G H I J F I J F G H ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}F&G&H&I&J\\H&I&J&F&G\\J&F&G&H&I\\G&H&I&J&F\\I&J&F&G&H\\\end{bmatrix}}} [ ╲ − − ╱ ╲ − − ╱ − ╲ ╱ − − ╲ ╱ − − ╱ ╲ − − ╱ ╲ − ╱ − − ╲ ╱ − − ╲ ╲ − − ╱ ╲ − − ╱ − ╲ ╱ − − ╲ ╱ − − ╱ ╲ − − ╱ ╲ − ╱ − − ╲ ╱ − − ╲ ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}\diagdown &-&-&\diagup &\diagdown &-&-&\diagup \\-&\diagdown &\diagup &-&-&\diagdown &\diagup &-\\-&\diagup &\diagdown &-&-&\diagup &\diagdown &-\\\diagup &-&-&\diagdown &\diagup &-&-&\diagdown \\\diagdown &-&-&\diagup &\diagdown &-&-&\diagup \\-&\diagdown &\diagup &-&-&\diagdown &\diagup &-\\-&\diagup &\diagdown &-&-&\diagup &\diagdown &-\\\diagup &-&-&\diagdown &\diagup &-&-&\diagdown \\\end{bmatrix}}} [ 1 − − 4 5 − − 8 − 10 11 − − 14 15 − − 18 19 − − 22 23 − 25 − − 28 29 − − 32 33 − − 36 37 − − 40 − 42 43 − − 46 47 − − 50 51 − − 54 55 − 57 − − 60 61 − − 64 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&-&-&4&5&-&-&8\\-&10&11&-&-&14&15&-\\-&18&19&-&-&22&23&-\\25&-&-&28&29&-&-&32\\33&-&-&36&37&-&-&40\\-&42&43&-&-&46&47&-\\-&50&51&-&-&54&55&-\\57&-&-&60&61&-&-&64\\\end{bmatrix}}} [ ╲ 63 62 ╱ ╲ 59 58 ╱ 56 ╲ ╱ 53 52 ╲ ╱ 49 48 ╱ ╲ 45 44 ╱ ╲ 41 ╱ 39 38 ╲ ╱ 35 34 ╲ ╲ 31 30 ╱ ╲ 27 26 ╱ 24 ╲ ╱ 21 20 ╲ ╱ 17 16 ╱ ╲ 13 12 ╱ ╲ 9 ╱ 7 6 ╲ ╱ 3 2 ╲ ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}\diagdown &63&62&\diagup &\diagdown &59&58&\diagup \\56&\diagdown &\diagup &53&52&\diagdown &\diagup &49\\48&\diagup &\diagdown &45&44&\diagup &\diagdown &41\\\diagup &39&38&\diagdown &\diagup &35&34&\diagdown \\\diagdown &31&30&\diagup &\diagdown &27&26&\diagup \\24&\diagdown &\diagup &21&20&\diagdown &\diagup &17\\16&\diagup &\diagdown &13&12&\diagup &\diagdown &9\\\diagup &7&6&\diagdown &\diagup &3&2&\diagdown \\\end{bmatrix}}} [ 1 63 62 4 5 59 58 8 56 10 11 53 52 14 15 49 48 18 19 45 44 22 23 41 25 39 38 28 29 35 34 32 33 31 30 36 37 27 26 40 24 42 43 21 20 46 47 17 16 50 51 13 12 54 55 9 57 7 6 60 61 3 2 64 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&63&62&4&5&59&58&8\\56&10&11&53&52&14&15&49\\48&18&19&45&44&22&23&41\\25&39&38&28&29&35&34&32\\33&31&30&36&37&27&26&40\\24&42&43&21&20&46&47&17\\16&50&51&13&12&54&55&9\\57&7&6&60&61&3&2&64\\\end{bmatrix}}} [ ╲ − − ╱ − ╲ ╱ − − ╱ ╲ − ╱ − − ╲ ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}\diagdown &-&-&\diagup \\-&\diagdown &\diagup &-\\-&\diagup &\diagdown &-\\\diagup &-&-&\diagdown \\\end{bmatrix}}} [ 1 − − 4 − 6 7 − − 10 11 − 13 − − 16 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&-&-&4\\-&6&7&-\\-&10&11&-\\13&-&-&16\\\end{bmatrix}}} [ ╲ 15 14 ╱ 12 ╲ ╱ 9 8 ╱ ╲ 5 ╱ 3 2 ╲ ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}\diagdown &15&14&\diagup \\12&\diagdown &\diagup &9\\8&\diagup &\diagdown &5\\\diagup &3&2&\diagdown \\\end{bmatrix}}} [ 1 15 14 4 12 6 7 9 8 10 11 5 13 3 2 16 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&15&14&4\\12&6&7&9\\8&10&11&5\\13&3&2&16\\\end{bmatrix}}} 0と1とを同数だけ要素とした4x4方陣にて 縦・横・対角上の和が一致する組み合わせは、下記のABCDE5通り。 これらを下記のように組合せて 2進数4桁の各位に割り当てれば、0から15までの数からなる4方陣が作れる。さらに全体に1ずつ加算することで、普通の1から16までの数からなる魔方陣が得られる。 A= [ 1 1 0 0 0 0 1 1 1 1 0 0 0 0 1 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&1&0&0\\0&0&1&1\\1&1&0&0\\0&0&1&1\\\end{bmatrix}}} ,B= [ 1 0 1 0 0 1 0 1 0 1 0 1 1 0 1 0 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&0&1&0\\0&1&0&1\\0&1&0&1\\1&0&1&0\\\end{bmatrix}}} ,C= [ 1 1 0 0 0 0 1 1 0 0 1 1 1 1 0 0 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&1&0&0\\0&0&1&1\\0&0&1&1\\1&1&0&0\\\end{bmatrix}}} ,D= [ 1 1 0 0 1 0 1 0 0 1 0 1 0 0 1 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&1&0&0\\1&0&1&0\\0&1&0&1\\0&0&1&1\\\end{bmatrix}}} ,E= [ 0 1 0 1 1 1 0 0 0 0 1 1 1 0 1 0 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}0&1&0&1\\1&1&0&0\\0&0&1&1\\1&0&1&0\\\end{bmatrix}}} All1= [ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&1&1&1\\1&1&1&1\\1&1&1&1\\1&1&1&1\\\end{bmatrix}}} Sample: 8*A + 4*B + 2*A' + B' + All1 = [ 8 8 0 0 0 0 8 8 8 8 0 0 0 0 8 8 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}8&8&0&0\\0&0&8&8\\8&8&0&0\\0&0&8&8\\\end{bmatrix}}} + [ 4 0 4 0 0 4 0 4 0 4 0 4 4 0 4 0 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}4&0&4&0\\0&4&0&4\\0&4&0&4\\4&0&4&0\\\end{bmatrix}}} + [ 2 0 2 0 2 0 2 0 0 2 0 2 0 2 0 2 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}2&0&2&0\\2&0&2&0\\0&2&0&2\\0&2&0&2\\\end{bmatrix}}} + [ 1 0 0 1 0 1 1 0 1 0 0 1 0 1 1 0 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&0&0&1\\0&1&1&0\\1&0&0&1\\0&1&1&0\\\end{bmatrix}}} + [ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&1&1&1\\1&1&1&1\\1&1&1&1\\1&1&1&1\\\end{bmatrix}}} = [ 8 + 4 + 2 + 1 + 1 8 + 0 + 0 + 0 + 1 0 + 4 + 2 + 0 + 1 0 + 0 + 0 + 1 + 1 0 + 0 + 2 + 0 + 1 0 + 4 + 0 + 1 + 1 8 + 0 + 2 + 1 + 1 8 + 4 + 0 + 0 + 1 8 + 0 + 0 + 1 + 1 8 + 4 + 2 + 0 + 1 0 + 0 + 0 + 0 + 1 0 + 4 + 2 + 1 + 1 0 + 4 + 0 + 0 + 1 0 + 0 + 2 + 1 + 1 8 + 4 + 0 + 1 + 1 8 + 0 + 2 + 0 + 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}8+4+2+1+1&8+0+0+0+1&0+4+2+0+1&0+0+0+1+1\\0+0+2+0+1&0+4+0+1+1&8+0+2+1+1&8+4+0+0+1\\8+0+0+1+1&8+4+2+0+1&0+0+0+0+1&0+4+2+1+1\\0+4+0+0+1&0+0+2+1+1&8+4+0+1+1&8+0+2+0+1\\\end{bmatrix}}} = [ 16 9 7 2 3 6 12 13 10 15 1 8 5 4 14 11 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}16&9&7&2\\3&6&12&13\\10&15&1&8\\5&4&14&11\\\end{bmatrix}}} 4x4魔方陣は880通りあることが知られており、上記の方法にてその6割にあたる528通りを作れる。 特に、AとBとだけを向きを変えて4通り組み合わせることで汎対角方向の数の和も一致する完全魔方陣48種類を作れる。 LUX法は、ジョン・ホートン・コンウェイによって考案された (4n+2)×(4n+2) の魔方陣を作る方法である。 元となる (2n+1)×(2n+1) の魔方陣を用意して、それぞれの値から1を引いて4倍する。 [ 64 92 0 28 56 88 16 24 52 60 12 20 48 76 84 36 44 72 80 8 40 68 96 4 32 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}64&92&0&28&56\\88&16&24&52&60\\12&20&48&76&84\\36&44&72&80&8\\40&68&96&4&32\\\end{bmatrix}}} (2n+1)×(2n+1)の行列を作り、ど真ん中の行の1つ下の行をU、その上の n+1行をL、下の n-1行を X とする。その後中央の L とその下の U を入れ替える。 n=1の場合、 [ L L L L U L U L U ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}L&L&L\\L&U&L\\U&L&U\\\end{bmatrix}}} n=3の場合、 [ L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L U L L L U U U L U U U X X X X X X X X X X X X X X ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}L&L&L&L&L&L&L\\L&L&L&L&L&L&L\\L&L&L&L&L&L&L\\L&L&L&U&L&L&L\\U&U&U&L&U&U&U\\X&X&X&X&X&X&X\\X&X&X&X&X&X&X\\\end{bmatrix}}} n=0の場合は定義できない。 n=2の場合、 [ L L L L L L L L L L L L U L L U U L U U X X X X X ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}L&L&L&L&L\\L&L&L&L&L\\L&L&U&L&L\\U&U&L&U&U\\X&X&X&X&X\\\end{bmatrix}}} この行列と元の魔方陣を加えたものを作る。 [ 64 + L 92 + L 0 + L 28 + L 56 + L 88 + L 16 + L 24 + L 52 + L 60 + L 12 + L 20 + L 48 + U 76 + L 84 + L 36 + U 44 + U 72 + L 80 + U 8 + U 40 + X 68 + X 96 + X 4 + X 32 + X ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}64+L&92+L&0+L&28+L&56+L\\88+L&16+L&24+L&52+L&60+L\\12+L&20+L&48+U&76+L&84+L\\36+U&44+U&72+L&80+U&8+U\\40+X&68+X&96+X&4+X&32+X\\\end{bmatrix}}} L = [ 4 1 2 3 ] U = [ 1 4 2 3 ] X = [ 1 4 3 2 ] {\displaystyle L={\begin{bmatrix}4&1\\2&3\\\end{bmatrix}}U={\begin{bmatrix}1&4\\2&3\\\end{bmatrix}}X={\begin{bmatrix}1&4\\3&2\\\end{bmatrix}}} を代入すると、求める大きさの魔方陣が完成する。 [ 68 65 96 93 4 1 32 29 60 57 66 67 94 95 2 3 30 31 58 59 92 89 20 17 28 25 56 53 64 61 90 91 18 19 26 27 54 55 62 63 16 13 24 21 49 52 80 77 88 85 14 15 22 23 50 51 78 79 86 87 37 40 45 48 76 73 81 84 9 12 38 39 46 47 74 75 82 83 10 11 41 44 69 72 97 100 5 8 33 36 43 42 71 70 99 98 7 6 35 34 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}68&65&96&93&4&1&32&29&60&57\\66&67&94&95&2&3&30&31&58&59\\92&89&20&17&28&25&56&53&64&61\\90&91&18&19&26&27&54&55&62&63\\16&13&24&21&49&52&80&77&88&85\\14&15&22&23&50&51&78&79&86&87\\37&40&45&48&76&73&81&84&9&12\\38&39&46&47&74&75&82&83&10&11\\41&44&69&72&97&100&5&8&33&36\\43&42&71&70&99&98&7&6&35&34\\\end{bmatrix}}} 既知の n×n の魔方陣の周りに数字を配置し、(n+2)×(n+2)の魔方陣を作ることができる。この方法は関孝和が1683年に発表している。この方法で作られた方陣は、自動的に親子方陣となる。 偶数次・奇数次のどちらでもこの方法は使用できるが、奇数次・4の倍数次・4の倍数でない偶数次のいずれかで、配置の方法は異なってくる。 西洋数秘術のユピテル魔方陣(木星魔方陣)は次の図のとおりである。各ラインの和は34(女性数の最初2と男性素数17(ピタゴラス学派では不幸とする)の積)になっている。縦、横、斜めのいずれの列も和が等しくなるように数字を並べたばかりでなく、右上の四マス(右下、左上、左下それぞれの四マスも同様)、中央2列の端の四マス、中央2行の端の四マス、中央の四マスや隅の四マスまでひとつ残らず和が34になっている。 [ 4 14 15 1 9 7 6 12 5 11 10 8 16 2 3 13 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}4&14&15&1\\9&7&6&12\\5&11&10&8\\16&2&3&13\\\end{bmatrix}}} アルブレヒト・デューラーの『メランコリア1』という作品には砂時計隣に4×4の次の図のユピテル魔方陣が描かれている。この魔方陣の中には、偉業を達成した制作年の1514が埋め込まれている。 [ 16 3 2 13 5 10 11 8 9 6 7 12 4 15 14 1 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}16&3&2&13\\5&10&11&8\\9&6&7&12\\4&15&14&1\end{bmatrix}}} 斜め方向の和が、対角線以外でも等しくなるような物を完全方陣または汎魔方陣と呼ぶ。 一辺nが4以上でかつ n≠4k+2 の時、完全方陣が作成可能である。 例: [ 6 12 7 9 15 1 14 4 10 8 11 5 3 13 2 16 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}6&12&7&9\\15&1&14&4\\10&8&11&5\\3&13&2&16\end{bmatrix}}} この図において斜めの和を見ると、 が成り立っている。 その他、「四隅(上図では6+9+3+16)」の合計が34になる。 さらに、「任意の2×2の固まり」も、34になる(「カド」と「中央」の2×2の固まりの合計は、どんな4×4の魔方陣でも必ず34になる))。 ペントミノ(T型)の5つの数字の合計が34になるものもある。 また、任意の「斜めの一つ置き」の和は、17になる。上の図では すべての数を2乗しても、縦・横の和が一定になる物を多重魔方陣(multimagic square)と呼ぶ。 例: [ 16 41 36 5 27 62 55 18 26 63 54 19 13 44 33 8 1 40 45 12 22 51 58 31 23 50 59 30 4 37 48 9 38 3 10 47 49 24 29 60 52 21 32 57 39 2 11 46 43 14 7 34 64 25 20 53 61 28 17 56 42 15 6 35 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}16&41&36&5&27&62&55&18\\26&63&54&19&13&44&33&8\\1&40&45&12&22&51&58&31\\23&50&59&30&4&37&48&9\\38&3&10&47&49&24&29&60\\52&21&32&57&39&2&11&46\\43&14&7&34&64&25&20&53\\61&28&17&56&42&15&6&35\end{bmatrix}}} 図は8×8の魔方陣である。各列の数の合計は260になり、この各数を2乗すると、縦横の各列の和は11180になる。 n×n の魔方陣の中央部の (n-2)×(n-2) の部分も魔方陣として成り立っているものを親子方陣または同心方陣という。 中央の奇数エリアと、四隅の偶数エリアに分かれているもの。 任意の奇数次において奇数・偶数分離魔方陣を作ることができる。 1を最上段の中央に置き、3以降の奇数を右斜め下方向へ配置していく。 偶数エリアは、すべて縦横それぞれの方向で等差になっている。 n次の魔方陣の中で、中心に対して対称の位置にある2つの数字の和が常に n+1 となるものを対称魔方陣と呼ぶ。 奇数次の場合「ヒンズーの連続方式」「バシェー方式」で作られたものは対称魔方陣となる。4の倍数次の対称魔方陣も既出の方法で作ることができる。4の倍数でない偶数次の対称魔方陣は作ることができない。 奇数次の対称魔方陣の中で、中央を通る4列の数字がそれぞれ等差数列をなしているものをシェフェルの魔方陣という。1935年にシェフェルという人物が発表したのが名前の由来であるが、建部賢弘も同様の性質を持つ魔方陣を発表している。 和がすべて異なるものをヘテロ陣、その和がすべて連続数になっているものをアンチ陣と呼ぶことがある。 縦・横・斜めの和が12から19の例(8がなく10を使用)。 [ 4 10 5 2 3 7 9 1 6 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}4&10&5\\2&3&7\\9&1&6\end{bmatrix}}} 1991年に魔方陣作家の阿部楽方によって発表された魔方陣。21個の異なる大きさの正方形に分割された224次の魔方陣であり、分割された21個の正方形も魔方陣として成立している。 以下は乗算した結果が等しくなる例 その1: 2のべき乗{1,2,4}と3のべき乗{1,3,9}を掛け合わせたものの例 縦・横・斜めの積がそれぞれ216である。(216=(1×2×4)×(1×3×9)) [ 2 9 12 36 6 1 3 4 18 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}2&9&12\\36&6&1\\3&4&18\end{bmatrix}}} 以下のように分解することで構成要素がより明確になる。 その2: 奇数{1,3,5,7}と2のべき乗{1,2,4,8}を掛け合わせたものの例 縦・横・斜めの積がそれぞれ6720である。(6720=(1×3×5×7)×(1×2×4×8)) [ 1 24 10 28 14 20 3 8 12 2 56 5 40 7 4 6 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&24&10&28\\14&20&3&8\\12&2&56&5\\40&7&4&6\end{bmatrix}}} 同様に以下のように分解することで構成要素を明確にできる。 n×nの各行各列に1~nを配置したものをラテン方陣という。これを2つ組合わせることでも魔方陣を作ることが可能である。 数独、ナンバープレースと呼ばれるペンシルパズルは、これに条件を付加した物である。 魔法陣は風水羅盤派で重要な物として位置付けられている。古代中国人は宇宙は数学的原理に基づいてできていると信じており、数字は天地を司る見えない力を解く鍵であり、数字や魔法陣は大きな意味を持っていたという。紀元前2005年頃に伝説の川洛水から1匹の神聖な亀が現れたとされており、亀の甲羅には9つの数字が縦横3つずつ並んで描かれており、八卦図に対応するような形で設置されていたという。9つの数字は縦横斜め、どの列を3つずつ足しても合計が15になり、新月から満月までの日数と重なり、この数字配列は『河図洛書』の魔法陣として知られるようになり、神話となり、後天八卦と結び付いたという。計算は面倒な物であるため、転居・転職などの選日には予め計算されている「通勝」(とんしゅう)という暦として売り出されている。河図洛書図の数字は四神とも関連付けられるようになった。道教の魔術的な儀式は現在も河図洛書の魔法陣に基づいて行われている。ヘブライの土星シンボルは河図洛書の数字を繋げた形と類似している。 易の八卦のうち周易の「先天図」「帰蔵易(歸藏易は殷王朝の易)」「連山易(夏の易)」の三図は魔方陣的な図であり、卦に河図洛書と関わる数字を当てた場合、帰蔵図は魔方陣となる。連山易は風水羅盤に記載・使用される(正方形にしたが元図は八角形)。 サイの目陣とも呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "魔方陣(まほうじん、英:magic square)とは、n×n 個の正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・対角線のいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数 n までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "このときの一列の和は、", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "と計算できる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "魔方陣の歴史は古く、中国では紀元前190年前には存在していた。魔法や神話的な意味を獲得し、芸術作品の象徴として様々な場所で用いられてきた。 現代では縦・横・対角線以外の形状の和や、数字の積などの単なる和以外の演算などにも一般化されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1×1の魔方陣は明らかである。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "[ 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2×2の魔方陣は同じ数字を使用しない限り存在しない。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "<証明>", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "[ a d b c ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}a&d\\\\b&c\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ゆえに", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "したがって3×3のものが意味のあると思われる最小の魔方陣になる。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "3×3の魔方陣(三方陣)は、対称形を除けば下記の形しか存在しない。各列の合計は15になる。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "[ 8 1 6 3 5 7 4 9 2 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}8&1&6\\\\3&5&7\\\\4&9&2\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "三方陣の暗記法として、", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "などが知られている。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "九星などで用いられる「河図洛書」(洛書)の図は次のとおりであり、上の図の対称形になっている。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また西洋数秘術のサトゥルヌス魔方陣(土星魔方陣)は次の図のとおりである。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "4×4の魔方陣は全部で880通り存在する。4×4の魔方陣では、1行と4行を交換し、さらに1列と4列を交換すると別の4×4の魔方陣ができる。同様にして、2行と3行、2列と3列を交換するとまた別の4×4の魔方陣ができる。1行と2行、3行と4行、1列と2列、3列と4列を交換すると外枠の四角と内枠の四角が交換された別の4×4の魔方陣ができる。右の図は、アルブレヒト・デューラーが描いたメランコリアIの中にある魔方陣を拡大したものである。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一例を示す。 [ 1 2 15 16 13 14 3 4 12 7 10 5 8 11 6 9 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&2&15&16\\\\13&14&3&4\\\\12&7&10&5\\\\8&11&6&9\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1970年代から2億7530万5224通り(対称形などをのぞく)存在することが知られている。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一例を示す。 [ 11 24 7 20 3 4 12 25 8 16 17 5 13 21 9 10 18 1 14 22 23 6 19 2 15 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}11&24&7&20&3\\\\4&12&25&8&16\\\\17&5&13&21&9\\\\10&18&1&14&22\\\\23&6&19&2&15\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "6×6の魔方陣は、一般的な作り方は知られていないため、いろいろな人物が独自の方陣を発表している。一例として久留島喜内による魔方陣をあげる。 [ 1 2 3 34 35 36 31 32 15 4 23 6 30 29 28 9 8 7 12 11 10 27 26 25 24 20 22 21 5 19 13 17 33 16 14 18 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&2&3&34&35&36\\\\31&32&15&4&23&6\\\\30&29&28&9&8&7\\\\12&11&10&27&26&25\\\\24&20&22&21&5&19\\\\13&17&33&16&14&18\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "9×9=81。中心が41で、縦・横・対角線の和がすべて369。中国の程大位の『算法統宗(中国語版)』(1593年)第12巻には4 - 10次方陣までが説かれており、9次方陣の「九九図」も載っているという(実際の図は丸囲みの漢数字で枠なしだが下図では便宜上変更)。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "3次方陣に関連した法則も見られる。計81の数字を9つ(3×3)のブロックに分けて考えた場合、例えば上中のブロックはすべて9の倍数になっている。 [ 9 x + 4 9 x + 9 9 x + 2 9 x + 3 9 x + 5 9 x + 7 9 x + 8 9 x + 1 9 x + 6 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}9x+4&9x+9&9x+2\\\\9x+3&9x+5&9x+7\\\\9x+8&9x+1&9x+6\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "27×27の魔方陣も可能。27×27=729。中心が365で、縦・横・対角線の和がすべて9855。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "上記の「九九図のブロックごとの座標置換」を丸ごと、下中のブロックに配置。82以降の数を同様の法則で配置していく。それぞれのブロックも魔方陣になっており、中心の数の下一桁は、そのブロックの順序(下図の漢数字)と一致している(ブロックごとに81ずつ数が増える関係)。", "title": "魔方陣の例" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "奇数次の魔方陣の一般的な作り方はいくつか存在する。どの方法を用いても 3×3 の魔方陣は同じ配列になる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "[ − − − 1 − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}-&-&-&1&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&-\\\\\\end{bmatrix}}} [ − − − 1 − − − − − 7 − − − − − 6 − − − − − 5 − − − − − − − − − − − − 4 − − − − − 3 − − − − − 2 − − ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}-&-&-&1&-&-&-\\\\-&-&7&-&-&-&-\\\\-&6&-&-&-&-&-\\\\5&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&4\\\\-&-&-&-&-&3&-\\\\-&-&-&-&2&-&-\\\\\\end{bmatrix}}} [ − − − 1 − − − − − 7 − − − − − 6 8 − − − − 5 − − − − − − − − − − − − 4 − − − − − 3 − − − − − 2 − − ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}-&-&-&1&-&-&-\\\\-&-&7&-&-&-&-\\\\-&6&8&-&-&-&-\\\\5&-&-&-&-&-&-\\\\-&-&-&-&-&-&4\\\\-&-&-&-&-&3&-\\\\-&-&-&-&2&-&-\\\\\\end{bmatrix}}} [ − − − 1 10 − − − − 7 9 − − − − 6 8 − − − − 5 14 − − − − − 13 − − − − − 4 − − − − − 3 12 − − − − 2 11 − ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}-&-&-&1&10&-&-\\\\-&-&7&9&-&-&-\\\\-&6&8&-&-&-&-\\\\5&14&-&-&-&-&-\\\\13&-&-&-&-&-&4\\\\-&-&-&-&-&3&12\\\\-&-&-&-&2&11&-\\\\\\end{bmatrix}}} [ 30 39 48 1 10 19 28 38 47 7 9 18 27 29 46 6 8 17 26 35 37 5 14 16 25 34 36 45 13 15 24 33 42 44 4 21 23 32 41 43 3 12 22 31 40 49 2 11 20 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}30&39&48&1&10&19&28\\\\38&47&7&9&18&27&29\\\\46&6&8&17&26&35&37\\\\5&14&16&25&34&36&45\\\\13&15&24&33&42&44&4\\\\21&23&32&41&43&3&12\\\\22&31&40&49&2&11&20\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "下段の中央を1にしたり、左斜めに進める方法もあるが、これらは対称形なのですべて同じ方法。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "下図で、A,B,C,D,E には 1,2,3,4,5 を F,G,H,I,J には 0,5,10,15,20を、任意の順に割り当てることで、魔方陣が作れる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "(先にAに3、Fに10を割り当て済みのパターンでは、 残り4種類の数字の配置が自由)", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "[ A B C D E C D E A B E A B C D B C D E A D E A B C ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}A&B&C&D&E\\\\C&D&E&A&B\\\\E&A&B&C&D\\\\B&C&D&E&A\\\\D&E&A&B&C\\\\\\end{bmatrix}}} + [ F G H I J I J F G H G H I J F J F G H I H I J F G ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}F&G&H&I&J\\\\I&J&F&G&H\\\\G&H&I&J&F\\\\J&F&G&H&I\\\\H&I&J&F&G\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "[ B C D E 3 C D E 3 B D E 3 B C E 3 B C D 3 B C D E ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}B&C&D&E&3\\\\C&D&E&3&B\\\\D&E&3&B&C\\\\E&3&B&C&D\\\\3&B&C&D&E\\\\\\end{bmatrix}}} + [ 10 G H I J J 10 G H I I J 10 G H H I J 10 G G H I J 10 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}10&G&H&I&J\\\\J&10&G&H&I\\\\I&J&10&G&H\\\\H&I&J&10&G\\\\G&H&I&J&10\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "[ A B C D E C D E A B E A B C D B C D E A D E A B C ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}A&B&C&D&E\\\\C&D&E&A&B\\\\E&A&B&C&D\\\\B&C&D&E&A\\\\D&E&A&B&C\\\\\\end{bmatrix}}} + [ 10 G H I J J 10 G H I I J 10 G H H I J 10 G G H I J 10 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}10&G&H&I&J\\\\J&10&G&H&I\\\\I&J&10&G&H\\\\H&I&J&10&G\\\\G&H&I&J&10\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "[ 3 B C D E E 3 B C D D E 3 B C C D E 3 B B C D E 3 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}3&B&C&D&E\\\\E&3&B&C&D\\\\D&E&3&B&C\\\\C&D&E&3&B\\\\B&C&D&E&3\\\\\\end{bmatrix}}} + [ F G H I J H I J F G J F G H I G H I J F I J F G H ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}F&G&H&I&J\\\\H&I&J&F&G\\\\J&F&G&H&I\\\\G&H&I&J&F\\\\I&J&F&G&H\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "[ ╲ − − ╱ ╲ − − ╱ − ╲ ╱ − − ╲ ╱ − − ╱ ╲ − − ╱ ╲ − ╱ − − ╲ ╱ − − ╲ ╲ − − ╱ ╲ − − ╱ − ╲ ╱ − − ╲ ╱ − − ╱ ╲ − − ╱ ╲ − ╱ − − ╲ ╱ − − ╲ ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}\\diagdown &-&-&\\diagup &\\diagdown &-&-&\\diagup \\\\-&\\diagdown &\\diagup &-&-&\\diagdown &\\diagup &-\\\\-&\\diagup &\\diagdown &-&-&\\diagup &\\diagdown &-\\\\\\diagup &-&-&\\diagdown &\\diagup &-&-&\\diagdown \\\\\\diagdown &-&-&\\diagup &\\diagdown &-&-&\\diagup \\\\-&\\diagdown &\\diagup &-&-&\\diagdown &\\diagup &-\\\\-&\\diagup &\\diagdown &-&-&\\diagup &\\diagdown &-\\\\\\diagup &-&-&\\diagdown &\\diagup &-&-&\\diagdown \\\\\\end{bmatrix}}} [ 1 − − 4 5 − − 8 − 10 11 − − 14 15 − − 18 19 − − 22 23 − 25 − − 28 29 − − 32 33 − − 36 37 − − 40 − 42 43 − − 46 47 − − 50 51 − − 54 55 − 57 − − 60 61 − − 64 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&-&-&4&5&-&-&8\\\\-&10&11&-&-&14&15&-\\\\-&18&19&-&-&22&23&-\\\\25&-&-&28&29&-&-&32\\\\33&-&-&36&37&-&-&40\\\\-&42&43&-&-&46&47&-\\\\-&50&51&-&-&54&55&-\\\\57&-&-&60&61&-&-&64\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "[ ╲ 63 62 ╱ ╲ 59 58 ╱ 56 ╲ ╱ 53 52 ╲ ╱ 49 48 ╱ ╲ 45 44 ╱ ╲ 41 ╱ 39 38 ╲ ╱ 35 34 ╲ ╲ 31 30 ╱ ╲ 27 26 ╱ 24 ╲ ╱ 21 20 ╲ ╱ 17 16 ╱ ╲ 13 12 ╱ ╲ 9 ╱ 7 6 ╲ ╱ 3 2 ╲ ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}\\diagdown &63&62&\\diagup &\\diagdown &59&58&\\diagup \\\\56&\\diagdown &\\diagup &53&52&\\diagdown &\\diagup &49\\\\48&\\diagup &\\diagdown &45&44&\\diagup &\\diagdown &41\\\\\\diagup &39&38&\\diagdown &\\diagup &35&34&\\diagdown \\\\\\diagdown &31&30&\\diagup &\\diagdown &27&26&\\diagup \\\\24&\\diagdown &\\diagup &21&20&\\diagdown &\\diagup &17\\\\16&\\diagup &\\diagdown &13&12&\\diagup &\\diagdown &9\\\\\\diagup &7&6&\\diagdown &\\diagup &3&2&\\diagdown \\\\\\end{bmatrix}}} [ 1 63 62 4 5 59 58 8 56 10 11 53 52 14 15 49 48 18 19 45 44 22 23 41 25 39 38 28 29 35 34 32 33 31 30 36 37 27 26 40 24 42 43 21 20 46 47 17 16 50 51 13 12 54 55 9 57 7 6 60 61 3 2 64 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&63&62&4&5&59&58&8\\\\56&10&11&53&52&14&15&49\\\\48&18&19&45&44&22&23&41\\\\25&39&38&28&29&35&34&32\\\\33&31&30&36&37&27&26&40\\\\24&42&43&21&20&46&47&17\\\\16&50&51&13&12&54&55&9\\\\57&7&6&60&61&3&2&64\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "[ ╲ − − ╱ − ╲ ╱ − − ╱ ╲ − ╱ − − ╲ ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}\\diagdown &-&-&\\diagup \\\\-&\\diagdown &\\diagup &-\\\\-&\\diagup &\\diagdown &-\\\\\\diagup &-&-&\\diagdown \\\\\\end{bmatrix}}} [ 1 − − 4 − 6 7 − − 10 11 − 13 − − 16 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&-&-&4\\\\-&6&7&-\\\\-&10&11&-\\\\13&-&-&16\\\\\\end{bmatrix}}} [ ╲ 15 14 ╱ 12 ╲ ╱ 9 8 ╱ ╲ 5 ╱ 3 2 ╲ ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}\\diagdown &15&14&\\diagup \\\\12&\\diagdown &\\diagup &9\\\\8&\\diagup &\\diagdown &5\\\\\\diagup &3&2&\\diagdown \\\\\\end{bmatrix}}} [ 1 15 14 4 12 6 7 9 8 10 11 5 13 3 2 16 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&15&14&4\\\\12&6&7&9\\\\8&10&11&5\\\\13&3&2&16\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "0と1とを同数だけ要素とした4x4方陣にて 縦・横・対角上の和が一致する組み合わせは、下記のABCDE5通り。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これらを下記のように組合せて 2進数4桁の各位に割り当てれば、0から15までの数からなる4方陣が作れる。さらに全体に1ずつ加算することで、普通の1から16までの数からなる魔方陣が得られる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "A= [ 1 1 0 0 0 0 1 1 1 1 0 0 0 0 1 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&1&0&0\\\\0&0&1&1\\\\1&1&0&0\\\\0&0&1&1\\\\\\end{bmatrix}}} ,B= [ 1 0 1 0 0 1 0 1 0 1 0 1 1 0 1 0 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&0&1&0\\\\0&1&0&1\\\\0&1&0&1\\\\1&0&1&0\\\\\\end{bmatrix}}} ,C= [ 1 1 0 0 0 0 1 1 0 0 1 1 1 1 0 0 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&1&0&0\\\\0&0&1&1\\\\0&0&1&1\\\\1&1&0&0\\\\\\end{bmatrix}}} ,D= [ 1 1 0 0 1 0 1 0 0 1 0 1 0 0 1 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&1&0&0\\\\1&0&1&0\\\\0&1&0&1\\\\0&0&1&1\\\\\\end{bmatrix}}} ,E= [ 0 1 0 1 1 1 0 0 0 0 1 1 1 0 1 0 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}0&1&0&1\\\\1&1&0&0\\\\0&0&1&1\\\\1&0&1&0\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "All1= [ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&1&1&1\\\\1&1&1&1\\\\1&1&1&1\\\\1&1&1&1\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "Sample: 8*A + 4*B + 2*A' + B' + All1", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "= [ 8 8 0 0 0 0 8 8 8 8 0 0 0 0 8 8 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}8&8&0&0\\\\0&0&8&8\\\\8&8&0&0\\\\0&0&8&8\\\\\\end{bmatrix}}} + [ 4 0 4 0 0 4 0 4 0 4 0 4 4 0 4 0 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}4&0&4&0\\\\0&4&0&4\\\\0&4&0&4\\\\4&0&4&0\\\\\\end{bmatrix}}} + [ 2 0 2 0 2 0 2 0 0 2 0 2 0 2 0 2 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}2&0&2&0\\\\2&0&2&0\\\\0&2&0&2\\\\0&2&0&2\\\\\\end{bmatrix}}} + [ 1 0 0 1 0 1 1 0 1 0 0 1 0 1 1 0 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&0&0&1\\\\0&1&1&0\\\\1&0&0&1\\\\0&1&1&0\\\\\\end{bmatrix}}} + [ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&1&1&1\\\\1&1&1&1\\\\1&1&1&1\\\\1&1&1&1\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "= [ 8 + 4 + 2 + 1 + 1 8 + 0 + 0 + 0 + 1 0 + 4 + 2 + 0 + 1 0 + 0 + 0 + 1 + 1 0 + 0 + 2 + 0 + 1 0 + 4 + 0 + 1 + 1 8 + 0 + 2 + 1 + 1 8 + 4 + 0 + 0 + 1 8 + 0 + 0 + 1 + 1 8 + 4 + 2 + 0 + 1 0 + 0 + 0 + 0 + 1 0 + 4 + 2 + 1 + 1 0 + 4 + 0 + 0 + 1 0 + 0 + 2 + 1 + 1 8 + 4 + 0 + 1 + 1 8 + 0 + 2 + 0 + 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}8+4+2+1+1&8+0+0+0+1&0+4+2+0+1&0+0+0+1+1\\\\0+0+2+0+1&0+4+0+1+1&8+0+2+1+1&8+4+0+0+1\\\\8+0+0+1+1&8+4+2+0+1&0+0+0+0+1&0+4+2+1+1\\\\0+4+0+0+1&0+0+2+1+1&8+4+0+1+1&8+0+2+0+1\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "= [ 16 9 7 2 3 6 12 13 10 15 1 8 5 4 14 11 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}16&9&7&2\\\\3&6&12&13\\\\10&15&1&8\\\\5&4&14&11\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "4x4魔方陣は880通りあることが知られており、上記の方法にてその6割にあたる528通りを作れる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "特に、AとBとだけを向きを変えて4通り組み合わせることで汎対角方向の数の和も一致する完全魔方陣48種類を作れる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "LUX法は、ジョン・ホートン・コンウェイによって考案された (4n+2)×(4n+2) の魔方陣を作る方法である。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "元となる (2n+1)×(2n+1) の魔方陣を用意して、それぞれの値から1を引いて4倍する。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "[ 64 92 0 28 56 88 16 24 52 60 12 20 48 76 84 36 44 72 80 8 40 68 96 4 32 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}64&92&0&28&56\\\\88&16&24&52&60\\\\12&20&48&76&84\\\\36&44&72&80&8\\\\40&68&96&4&32\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "(2n+1)×(2n+1)の行列を作り、ど真ん中の行の1つ下の行をU、その上の n+1行をL、下の n-1行を X とする。その後中央の L とその下の U を入れ替える。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "n=1の場合、", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "[ L L L L U L U L U ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}L&L&L\\\\L&U&L\\\\U&L&U\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "n=3の場合、", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "[ L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L L U L L L U U U L U U U X X X X X X X X X X X X X X ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}L&L&L&L&L&L&L\\\\L&L&L&L&L&L&L\\\\L&L&L&L&L&L&L\\\\L&L&L&U&L&L&L\\\\U&U&U&L&U&U&U\\\\X&X&X&X&X&X&X\\\\X&X&X&X&X&X&X\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "n=0の場合は定義できない。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "n=2の場合、", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "[ L L L L L L L L L L L L U L L U U L U U X X X X X ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}L&L&L&L&L\\\\L&L&L&L&L\\\\L&L&U&L&L\\\\U&U&L&U&U\\\\X&X&X&X&X\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "この行列と元の魔方陣を加えたものを作る。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "[ 64 + L 92 + L 0 + L 28 + L 56 + L 88 + L 16 + L 24 + L 52 + L 60 + L 12 + L 20 + L 48 + U 76 + L 84 + L 36 + U 44 + U 72 + L 80 + U 8 + U 40 + X 68 + X 96 + X 4 + X 32 + X ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}64+L&92+L&0+L&28+L&56+L\\\\88+L&16+L&24+L&52+L&60+L\\\\12+L&20+L&48+U&76+L&84+L\\\\36+U&44+U&72+L&80+U&8+U\\\\40+X&68+X&96+X&4+X&32+X\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "L = [ 4 1 2 3 ] U = [ 1 4 2 3 ] X = [ 1 4 3 2 ] {\\displaystyle L={\\begin{bmatrix}4&1\\\\2&3\\\\\\end{bmatrix}}U={\\begin{bmatrix}1&4\\\\2&3\\\\\\end{bmatrix}}X={\\begin{bmatrix}1&4\\\\3&2\\\\\\end{bmatrix}}} を代入すると、求める大きさの魔方陣が完成する。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "[ 68 65 96 93 4 1 32 29 60 57 66 67 94 95 2 3 30 31 58 59 92 89 20 17 28 25 56 53 64 61 90 91 18 19 26 27 54 55 62 63 16 13 24 21 49 52 80 77 88 85 14 15 22 23 50 51 78 79 86 87 37 40 45 48 76 73 81 84 9 12 38 39 46 47 74 75 82 83 10 11 41 44 69 72 97 100 5 8 33 36 43 42 71 70 99 98 7 6 35 34 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}68&65&96&93&4&1&32&29&60&57\\\\66&67&94&95&2&3&30&31&58&59\\\\92&89&20&17&28&25&56&53&64&61\\\\90&91&18&19&26&27&54&55&62&63\\\\16&13&24&21&49&52&80&77&88&85\\\\14&15&22&23&50&51&78&79&86&87\\\\37&40&45&48&76&73&81&84&9&12\\\\38&39&46&47&74&75&82&83&10&11\\\\41&44&69&72&97&100&5&8&33&36\\\\43&42&71&70&99&98&7&6&35&34\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "既知の n×n の魔方陣の周りに数字を配置し、(n+2)×(n+2)の魔方陣を作ることができる。この方法は関孝和が1683年に発表している。この方法で作られた方陣は、自動的に親子方陣となる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "偶数次・奇数次のどちらでもこの方法は使用できるが、奇数次・4の倍数次・4の倍数でない偶数次のいずれかで、配置の方法は異なってくる。", "title": "魔方陣の作り方" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "西洋数秘術のユピテル魔方陣(木星魔方陣)は次の図のとおりである。各ラインの和は34(女性数の最初2と男性素数17(ピタゴラス学派では不幸とする)の積)になっている。縦、横、斜めのいずれの列も和が等しくなるように数字を並べたばかりでなく、右上の四マス(右下、左上、左下それぞれの四マスも同様)、中央2列の端の四マス、中央2行の端の四マス、中央の四マスや隅の四マスまでひとつ残らず和が34になっている。 [ 4 14 15 1 9 7 6 12 5 11 10 8 16 2 3 13 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}4&14&15&1\\\\9&7&6&12\\\\5&11&10&8\\\\16&2&3&13\\\\\\end{bmatrix}}}", "title": "ユピテル魔方陣" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アルブレヒト・デューラーの『メランコリア1』という作品には砂時計隣に4×4の次の図のユピテル魔方陣が描かれている。この魔方陣の中には、偉業を達成した制作年の1514が埋め込まれている。", "title": "ユピテル魔方陣" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "[ 16 3 2 13 5 10 11 8 9 6 7 12 4 15 14 1 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}16&3&2&13\\\\5&10&11&8\\\\9&6&7&12\\\\4&15&14&1\\end{bmatrix}}}", "title": "ユピテル魔方陣" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "斜め方向の和が、対角線以外でも等しくなるような物を完全方陣または汎魔方陣と呼ぶ。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "一辺nが4以上でかつ n≠4k+2 の時、完全方陣が作成可能である。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "例: [ 6 12 7 9 15 1 14 4 10 8 11 5 3 13 2 16 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}6&12&7&9\\\\15&1&14&4\\\\10&8&11&5\\\\3&13&2&16\\end{bmatrix}}}", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "この図において斜めの和を見ると、", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "が成り立っている。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "その他、「四隅(上図では6+9+3+16)」の合計が34になる。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "さらに、「任意の2×2の固まり」も、34になる(「カド」と「中央」の2×2の固まりの合計は、どんな4×4の魔方陣でも必ず34になる))。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ペントミノ(T型)の5つの数字の合計が34になるものもある。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また、任意の「斜めの一つ置き」の和は、17になる。上の図では", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "すべての数を2乗しても、縦・横の和が一定になる物を多重魔方陣(multimagic square)と呼ぶ。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "例: [ 16 41 36 5 27 62 55 18 26 63 54 19 13 44 33 8 1 40 45 12 22 51 58 31 23 50 59 30 4 37 48 9 38 3 10 47 49 24 29 60 52 21 32 57 39 2 11 46 43 14 7 34 64 25 20 53 61 28 17 56 42 15 6 35 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}16&41&36&5&27&62&55&18\\\\26&63&54&19&13&44&33&8\\\\1&40&45&12&22&51&58&31\\\\23&50&59&30&4&37&48&9\\\\38&3&10&47&49&24&29&60\\\\52&21&32&57&39&2&11&46\\\\43&14&7&34&64&25&20&53\\\\61&28&17&56&42&15&6&35\\end{bmatrix}}}", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "図は8×8の魔方陣である。各列の数の合計は260になり、この各数を2乗すると、縦横の各列の和は11180になる。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "n×n の魔方陣の中央部の (n-2)×(n-2) の部分も魔方陣として成り立っているものを親子方陣または同心方陣という。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "中央の奇数エリアと、四隅の偶数エリアに分かれているもの。 任意の奇数次において奇数・偶数分離魔方陣を作ることができる。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1を最上段の中央に置き、3以降の奇数を右斜め下方向へ配置していく。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "偶数エリアは、すべて縦横それぞれの方向で等差になっている。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "n次の魔方陣の中で、中心に対して対称の位置にある2つの数字の和が常に n+1 となるものを対称魔方陣と呼ぶ。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "奇数次の場合「ヒンズーの連続方式」「バシェー方式」で作られたものは対称魔方陣となる。4の倍数次の対称魔方陣も既出の方法で作ることができる。4の倍数でない偶数次の対称魔方陣は作ることができない。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "奇数次の対称魔方陣の中で、中央を通る4列の数字がそれぞれ等差数列をなしているものをシェフェルの魔方陣という。1935年にシェフェルという人物が発表したのが名前の由来であるが、建部賢弘も同様の性質を持つ魔方陣を発表している。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "和がすべて異なるものをヘテロ陣、その和がすべて連続数になっているものをアンチ陣と呼ぶことがある。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "縦・横・斜めの和が12から19の例(8がなく10を使用)。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "[ 4 10 5 2 3 7 9 1 6 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}4&10&5\\\\2&3&7\\\\9&1&6\\end{bmatrix}}}", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1991年に魔方陣作家の阿部楽方によって発表された魔方陣。21個の異なる大きさの正方形に分割された224次の魔方陣であり、分割された21個の正方形も魔方陣として成立している。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "以下は乗算した結果が等しくなる例", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "その1: 2のべき乗{1,2,4}と3のべき乗{1,3,9}を掛け合わせたものの例", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "縦・横・斜めの積がそれぞれ216である。(216=(1×2×4)×(1×3×9))", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "[ 2 9 12 36 6 1 3 4 18 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}2&9&12\\\\36&6&1\\\\3&4&18\\end{bmatrix}}}", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "以下のように分解することで構成要素がより明確になる。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "その2: 奇数{1,3,5,7}と2のべき乗{1,2,4,8}を掛け合わせたものの例", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "縦・横・斜めの積がそれぞれ6720である。(6720=(1×3×5×7)×(1×2×4×8))", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "[ 1 24 10 28 14 20 3 8 12 2 56 5 40 7 4 6 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&24&10&28\\\\14&20&3&8\\\\12&2&56&5\\\\40&7&4&6\\end{bmatrix}}}", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "同様に以下のように分解することで構成要素を明確にできる。", "title": "特殊な魔方陣" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "n×nの各行各列に1~nを配置したものをラテン方陣という。これを2つ組合わせることでも魔方陣を作ることが可能である。", "title": "ラテン方陣" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "数独、ナンバープレースと呼ばれるペンシルパズルは、これに条件を付加した物である。", "title": "ラテン方陣" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "魔法陣は風水羅盤派で重要な物として位置付けられている。古代中国人は宇宙は数学的原理に基づいてできていると信じており、数字は天地を司る見えない力を解く鍵であり、数字や魔法陣は大きな意味を持っていたという。紀元前2005年頃に伝説の川洛水から1匹の神聖な亀が現れたとされており、亀の甲羅には9つの数字が縦横3つずつ並んで描かれており、八卦図に対応するような形で設置されていたという。9つの数字は縦横斜め、どの列を3つずつ足しても合計が15になり、新月から満月までの日数と重なり、この数字配列は『河図洛書』の魔法陣として知られるようになり、神話となり、後天八卦と結び付いたという。計算は面倒な物であるため、転居・転職などの選日には予め計算されている「通勝」(とんしゅう)という暦として売り出されている。河図洛書図の数字は四神とも関連付けられるようになった。道教の魔術的な儀式は現在も河図洛書の魔法陣に基づいて行われている。ヘブライの土星シンボルは河図洛書の数字を繋げた形と類似している。", "title": "東洋占術" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "易の八卦のうち周易の「先天図」「帰蔵易(歸藏易は殷王朝の易)」「連山易(夏の易)」の三図は魔方陣的な図であり、卦に河図洛書と関わる数字を当てた場合、帰蔵図は魔方陣となる。連山易は風水羅盤に記載・使用される(正方形にしたが元図は八角形)。", "title": "東洋占術" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "サイの目陣とも呼ばれる。", "title": "その他" } ]
魔方陣とは、n×n 個の正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・対角線のいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数 n2 までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。 このときの一列の和は、 と計算できる。 魔方陣の歴史は古く、中国では紀元前190年前には存在していた。魔法や神話的な意味を獲得し、芸術作品の象徴として様々な場所で用いられてきた。 現代では縦・横・対角線以外の形状の和や、数字の積などの単なる和以外の演算などにも一般化されている。
{{混同|x1=魔術において使われる図形の|魔法陣}} '''魔方陣'''(まほうじん、{{lang-en|magic square}})とは、{{math|''n'' × ''n''}} 個の正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・対角線のいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数 {{math|''n''{{sup|2}}}} までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。 このときの一列の和は、 :<math> \frac{1}{n}\sum^{n^2}_{i=1} i = \frac{n(n^2+1)}{2}</math> と計算できる。 魔方陣の歴史は古く、中国では紀元前190年前には存在していた。魔法や神話的な意味を獲得し、芸術作品の象徴として様々な場所で用いられてきた。 現代では縦・横・対角線以外の形状の和や、数字の積などの単なる和以外の演算などにも一般化されている。 ==魔方陣の例== 1×1の魔方陣は明らかである。 <math> \begin{bmatrix} 1\\ \end{bmatrix} </math> 2×2の魔方陣は同じ数字を使用しない限り存在しない。 <証明> <math> \begin{bmatrix} a & d \\ b & c \\ \end{bmatrix} </math> :<math> a+b=a+c=a+d </math>  ゆえに :<math> b=c=d </math> したがって3×3のものが意味のあると思われる最小の魔方陣になる。 ===3×3の魔方陣=== 3×3の魔方陣(三方陣)は、[[対称]]形を除けば下記の形しか存在しない。各列の合計は15になる。 <math> \begin{bmatrix} 8 & 1 & 6 \\ 3 & 5 & 7 \\ 4 & 9 & 2 \\ \end{bmatrix} </math> 三方陣の暗記法として、 *「憎し(294)と思えば、[[七五三]](753)、六一[[坊主]]に[[蜂]](618)が刺す」 *「憎し(294)と思えば、七五三(753)、六一八(618)はみな同じ」 *「[[福島県|フクシ(294)マ]]の、七五三(753)は、ロイヤ(618)ル[[ホテル]]で」 などが知られている。 [[九星]]などで用いられる「[[河図洛書]]」(洛書)の図は次のとおりであり、上の図の対称形になっている。 [[画像:Jiushutu.png|thumb|left|九数図:[[朱熹]]『周易本義』で洛書とされた]] {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="1" style="text-align:center;" |+ 九星図の配置 |- !style="padding:15px 20px"|4 |style="color:red"|<small>→<br/>5</small> !style="padding:15px 20px"|9 |style="color:blue"|<small>←<br/>7</small> !style="padding:15px 20px"|2 |- |style="color:red"|<small>↑1</small> |<small>1</small> |style="color:red"|<small>↑4</small> |<small>3</small> |style="color:blue"|<small>↓5</small> |- !style="padding:15px 20px"|3 |style="color:red"|<small>→<br/>2</small> !style="padding:15px 20px"|5 |style="color:red"|<small>→<br/>2</small> !style="padding:15px 20px"|7 |- |style="color:blue"|<small>↓5</small> |<small>3</small> |style="color:red"|<small>↑4</small> |<small>1</small> |style="color:red"|<small>↑1</small> |- !style="padding:15px 20px"|8 |style="color:blue"|<small>←<br/>7</small> !style="padding:15px 20px"|1 |style="color:red"|<small>→<br/>5</small> !style="padding:15px 20px"|6 |} {{clear}} また西洋[[数秘術]]のサトゥルヌス魔方陣([[土星]]魔方陣)は次の図のとおりである。 {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="1" style="text-align:center;" |+ サトゥルヌス魔方陣 |- |style="padding:10px 15px"|6 |style="padding:10px 15px"|1 |style="padding:10px 15px"|8 |- |style="padding:10px 15px"|7 |style="padding:10px 15px"|5 |style="padding:10px 15px"|3 |- |style="padding:10px 15px"|2 |style="padding:10px 15px"|9 |style="padding:10px 15px"|4 |} ===4×4の魔方陣=== {{See also|サグラダ・ファミリアの魔方陣}} [[File:Albrecht Dürer - Melencolia I (detail).jpg|thumb|[[メランコリアI]]の中の魔方陣<ref>[http://www.sci.u-toyama.ac.jp/topics_old/topicsJanuary2010.html 2010年1月 作れます 誰ももたない 魔方陣 ~7は2と5に分けるのがよく似合う~(数学科)] - 富山大学 理学部・大学院理工学教育部理学領域 トピックス</ref>]] 4×4の魔方陣は全部で880通り存在する<ref name="Suzuki1995.4x4">{{Cite web|和書|author=鈴木睦|url=http://www.pse.che.tohoku.ac.jp/~msuzuki/magic44.html|title=4次の魔方陣|publisher=東北大学|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010416013821/http://www.pse.che.tohoku.ac.jp/~msuzuki/magic44.html|archivedate=2001-03-01|accessdate=2017-01-16}}</ref>。4×4の魔方陣では、1行と4行を交換し、さらに1列と4列を交換すると別の4×4の魔方陣ができる<ref name="Suzuki1995.4x4" />。同様にして、2行と3行、2列と3列を交換するとまた別の4×4の魔方陣ができる<ref name="Suzuki1995.4x4" /><ref>[http://www.daido-it.ac.jp/~oishi/TH5/ms4/ms4a.html 4次魔方陣の性質] 大同大学 情報学部 情報システム学科 大石研究室</ref>。1行と2行、3行と4行、1列と2列、3列と4列を交換すると外枠の四角と内枠の四角が交換された別の4×4の魔方陣ができる<ref name="Suzuki1995.4x4" />。右の図は、[[アルブレヒト・デューラー]]が描いた[[メランコリアI]]の中にある魔方陣を拡大したものである。 一例を示す。 <math> \begin{bmatrix} 1 & 2 & 15 & 16 \\ 13 & 14 & 3 & 4 \\ 12 & 7 & 10 & 5 \\ 8 & 11 & 6 & 9 \\ \end{bmatrix} </math> {| |+ 4×4の魔方陣から別の4×4の魔方陣を作る方法 ! colspan="5" | 1行と4行を交換、1列と4列を交換する方法 |- style="vertical-align:bottom" | | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 最初の魔方陣 | style="background-color:#ff0" | 1 || style="background-color:#ff0" | 2 || style="background-color:#ff0" | 15 || style="background-color:#ff0" | 16 |- | 13 || 14 || 3 || 4 |- | 12 || 7 || 10 || 5 |- style="background-color:#ff0" | | 8 || 11 || 6 || 9 |} | style="vertical-align:middle" | ⇒ | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 1行と4行を入れ替えた魔方陣 ! style="background-color:#dfd" | 8 !! style="background-color:#dfd" | 11 !! style="background-color:#dfd" | 6 !! style="background-color:#dfd" | 9 |- | 13 || 14 || 3 || 4 |- | 12 || 7 || 10 || 5 |- ! style="background-color:#dfd" | 1 !! style="background-color:#dfd" | 2 !! style="background-color:#dfd" | 15 !! style="background-color:#dfd" | 16 |} | style="vertical-align:middle" | ⇒ | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 1列と4列を入れ替えた魔方陣 ! style="background-color:#fdd" | 9 | 11 || 6 ! style="background-color:#fdd" | 8 |- ! style="background-color:#fdd" | 4 | 14 || 3 ! style="background-color:#fdd" | 13 |- ! style="background-color:#fdd" | 5 | 7 || 10 ! style="background-color:#fdd" | 12 |- ! style="background-color:#fdd" | 16 | 2 || 15 ! style="background-color:#fdd" | 1 |} |- ! colspan="5" | 2行と3行、2列と3列を交換する方法 |- style="vertical-align:bottom" | | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 最初の魔方陣 | 1 || 2 || 15 || 16 |- style="background-color:#ff0" | | 13 || 14 || 3 || 4 |- style="background-color:#ff0" | | 12 || 7 || 10 || 5 |- | 8 || 11 || 6 || 9 |} | style="vertical-align:middle" | ⇒ | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 2行と3行を入れ替えた魔方陣 | 1 || 2 || 15 || 16 |- ! style="background-color:#dfd" | 12 !! style="background-color:#dfd" | 7 !! style="background-color:#dfd" | 10 !! style="background-color:#dfd" | 5 |- ! style="background-color:#dfd" | 13 !! style="background-color:#dfd" | 14 !! style="background-color:#dfd" | 3 !! style="background-color:#dfd" | 4 |- | 8 || 11 || 6 || 9 |} | style="vertical-align:middle" | ⇒ | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 2列と3列を入れ替えた魔方陣 | 1 ! style="background-color:#fdd" | 15 !! style="background-color:#fdd" | 2 | 16 |- | 12 ! style="background-color:#fdd" | 10 !! style="background-color:#fdd" | 7 | 5 |- | 13 ! style="background-color:#fdd" | 3 || style="background-color:#fdd" | 14 | 4 |- | 8 ! style="background-color:#fdd" | 6 || style="background-color:#fdd" | 11 | 9 |} |- ! colspan="5" | 1行と2行、3行と4行、1列と2列、3列と4列を交換する方法 |- style="vertical-align:bottom" | | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 最初の魔方陣 | style="background-color:#0f7" | 1 || style="background-color:#0f7" | 2 || style="background-color:#0f7" | 15 || style="background-color:#0f7" | 16 |- style="background-color:#0f7" | | 13 || 14 || 3 || 4 |- style="background-color:#ff0" | | 12 || 7 || 10 || 5 |- style="background-color:#ff0" | | 8 || 11 || 6 || 9 |} | style="vertical-align:middle" | ⇒ | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 1行と2行、3行と4行を入れ替えた魔方陣 ! style="background-color:#dfd" | 13 !! style="background-color:#dfd" | 14 !! style="background-color:#dfd" | 3 !! style="background-color:#dfd" | 4 |- ! style="background-color:#dfd" | 1 !! style="background-color:#dfd" | 2 !! style="background-color:#dfd" | 15 !! style="background-color:#dfd" | 16 |- ! style="background-color:#fdd" | 8 !! style="background-color:#fdd" | 11 !! style="background-color:#fdd" | 6 !! style="background-color:#fdd" | 9 |- ! style="background-color:#fdd" | 12 !! style="background-color:#fdd" | 7 !! style="background-color:#fdd" | 10 !! style="background-color:#fdd" | 5 |} | style="vertical-align:middle" | ⇒ | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 1列と2列、3列と4列を入れ替えた魔方陣 ! style="background-color:#dfd" | 14 !! style="background-color:#dfd" | 13 !! style="background-color:#fdd" | 4 !! style="background-color:#fdd" | 3 |- ! style="background-color:#dfd" | 2 !! style="background-color:#dfd" | 1 !! style="background-color:#fdd" | 16 !! style="background-color:#fdd" | 15 |- ! style="background-color:#dfd" | 11 !! style="background-color:#dfd" | 8 !! style="background-color:#fdd" | 9 !! style="background-color:#fdd" | 6 |- ! style="background-color:#dfd" | 7 !! style="background-color:#dfd" | 12 !! style="background-color:#fdd" | 5 !! style="background-color:#fdd" | 10 |} |} {{clear}} ===5×5の魔方陣=== 1970年代から2億7530万5224通り(対称形などをのぞく)存在することが知られている<ref>{{cite news|date=2014-03-03|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20140303-a409/|title=T2K-Tsukubaを用いて高校生が5×5魔法陣の解を求めることに成功 - 筑波大|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|accessdate=2017-01-16}}</ref><ref name="Suzuki1995.5x5">{{Cite web|和書|author=鈴木睦|url=http://www.guru.gr.jp/~issei/msqj/5houjin2.htm|title=5×5の魔方陣の総数を求めるプログラム|publisher=東北大学|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010301153741/http://www.guru.gr.jp/~issei/msqj/5houjin2.htm|archivedate=2001-03-01|accessdate=2017-01-16}}</ref>。 一例を示す。 <math> \begin{bmatrix} 11 & 24 & 7 & 20 & 3 \\ 4 & 12 & 25 & 8 & 16 \\ 17 & 5 & 13 & 21 & 9 \\ 10 & 18 & 1 & 14 & 22 \\ 23 & 6 & 19 & 2 & 15 \end{bmatrix} </math> ===6×6の魔方陣=== 6×6の魔方陣は、一般的な作り方は知られていないため、いろいろな人物が独自の方陣を発表している{{refnest|group=注釈|{{Harvnb|大森|2013}}では、[[関孝和]]・[[幸田露伴]]らの作が紹介されている。}}。一例として[[久留島喜内]]による魔方陣をあげる。 <math> \begin{bmatrix} 1 & 2 & 3 & 34 & 35 & 36 \\ 31 & 32 & 15 & 4 & 23 & 6 \\ 30 & 29 & 28 & 9 & 8 & 7 \\ 12 & 11 & 10 & 27 & 26 & 25 \\ 24 & 20 & 22 & 21 & 5 & 19 \\ 13 & 17 & 33 & 16 & 14 & 18 \end{bmatrix} </math> ===9×9の魔方陣=== 9×9=[[81]]。中心が[[41]]で、縦・横・対角線の和がすべて[[369]]。中国の[[程大位]]の『{{仮リンク|算法統宗|zh|算法統宗}}』(1593年)第12巻には4 - 10次方陣までが説かれており、9次方陣の「九九図」も載っているという<ref>{{Harvnb|大森|2013|p=51|loc=コラム2『算法統宗』と『算法疑闕抄』の魔方陣}}</ref>(実際の図は丸囲みの漢数字で枠なしだが下図では便宜上変更)。 3次方陣に関連した法則も見られる。計81の数字を9つ(3×3)のブロックに分けて考えた場合、例えば上中のブロックはすべて9の倍数になっている。 <math> \begin{bmatrix} 9x+4 & 9x+9 & 9x+2 \\ 9x+3 & 9x+5 & 9x+7 \\ 9x+8 & 9x+1 & 9x+6 \\ \end{bmatrix} </math> {| |- style="vertical-align:bottom;" | {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- ! colspan="11" | 「九九図」{{refnest|group=注釈|name="kotani"|この2つは[[礒村吉徳]]の『頭書 [[算法闕疑抄]]』(復刻版p.68)にも載っている。「九九図」は[[楊輝]]の『[[:zh:杨辉算法|楊輝算法]]』にも「九九幻方図」として載っている。}} |- | 31 || 76 || 13 || rowspan=11 {{bg-c|#ccc}}| || 36 || 81 || 18 || rowspan=11 {{bg-c|#ccc}}| || 29 || 74 || 11 |- | 22 || {{bg-c|pink}}|40 || 58 || 27 || {{bg-c|pink}}|45 || 63 || 20 || {{bg-c|pink}}|38 || 56 |- | 67 || {{bg-c|#EEA}}|'''4''' || 49 || 72 || {{bg-c|#EEA}}|'''9''' || 54 || 65 || {{bg-c|#EEA}}|'''2''' || 47 |- | colspan=11 {{bg-c|#ccc}}| |- | 30 || 75 || 12 || 32 || 77 || 14 || 34 || 79 || 16 |- | 21 || {{bg-c|pink}}|39 || 57 || 23 || {{bg-c|pink}}|41 || 59 || 25 || {{bg-c|pink}}|43 || 61 |- | 66 || {{bg-c|#EEA}}|'''3''' || 48 || 68 || {{bg-c|#EEA}}|'''5''' || 50 || 70 || {{bg-c|#EEA}}|'''7''' || 52 |- | colspan=11 {{bg-c|#ccc}}| |- | 35 || 80 || 17 || 28 || 73 || 10 || 33 || 78 || 15 |- | 26 || {{bg-c|pink}}|44 || 62 || 19 || {{bg-c|pink}}|37 || 55 || 24 || {{bg-c|pink}}|42 || 60 |- | 71 || {{bg-c|#EEA}}|'''8''' || 53 || 64 || {{bg-c|#EEA}}|'''1''' || 46 || 69 || {{bg-c|#EEA}}|'''6''' || 51 |} | style="padding: 0 1em" | {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- ! <small>九九図のブロックごとの座標置換</small><ref group=注釈 name="kotani" /> |- | {{9x9 type square|BACKGROUND=#dfdfdf|ALIGN=right|WIDTH=20px|A00=31|A01=36|A02=29|A03=76|A04=81|A05=74|A06=13|A07=18|A08=11|A10=30|A11=32|A12=34|A13=75|A14=77|A15=79|A16=12|A17=14|A18=16|A20=35|A21=28|A22=33|A23=80|A24=73|A25=78|A26=17|A27=10|A28=15|A30=22|A31=27|A32=20|A33=40|A34=45|A35=38|A36=58|A37=63|A38=56|A40=21|A41=23|A42=25|A43=39|A44=41|A45=43|A46=57|A47=59|A48=61|A50=26|A51=19|A52=24|A53=44|A54=37|A55=42|A56=62|A57=55|A58=60|A60=67|A61=72|A62=65|A63=4|A64=9|A65=2|A66=49|A67=54|A68=47|A70=66|A71=68|A72=70|A73=3|A74=5|A75=7|A76=48|A77=50|A78=52|A80=71|A81=64|A82=69|A83=8|A84=1|A85=6|A86=53|A87=46|A88=51|C00=black|C01=black|C02=black|C03=black|C04=black|C05=black|C06=black|C07=black|C08=black|C10=black|C11=black|C12=black|C13=black|C14=black|C15=black|C16=black|C17=black|C18=black|C20=black|C21=black|C22=black|C23=black|C24=black|C25=black|C26=black|C27=black|C28=black|C30=black|C31=black|C32=black|C33=red|C34=red|C35=red|C36=black|C37=black|C38=black|C40=black|C41=black|C42=black|C43=red|C44=red|C45=red|C46=black|C47=black|C48=black|C50=black|C51=black|C52=black|C53=red|C54=red|C55=red|C56=black|C57=black|C58=black|C60=black|C61=black|C62=black|C63=blue|C64=blue|C65=blue|C66=black|C67=black|C68=black|C70=black|C71=black|C72=black|C73=blue|C74=blue|C75=blue|C76=black|C77=black|C78=black|C80=black|C81=black|C82=black|C83=blue|C84=blue|C85=blue|C86=black|C87=black|C88=black}} |} |} {| |- style="vertical-align:bottom;" | {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- ! colspan="9" | 昔の欧州で発見 |- | 37 || 78 || 29 || 70 || 21 || 62 || 13 || 54 || 5 |- | 6 || 38 || 79 || 30 || 71 || 22 || 63 || 14 || 46 |- | 47 || 7 || 39 || 80 || 31 || 72 || 23 || 55 || 15 |- | 16 || 48 || 8 || 40 || 81 || 32 || 64 || 24 || 56 |- | 57 || 17 || 49 || 9 || 41 || 73 || 33 || 65 || 25 |- | 26 || 58 || 18 || 50 || 1 || 42 || 74 || 34 || 66 |- | 67 || 27 || 59 || 10 || 51 || 2 || 43 || 75 || 35 |- | 36 || 68 || 19 || 60 || 11 || 52 || 3 || 44 || 76 |- | 77 || 28 || 69 || 20 || 61 || 12 || 53 || 4 || 45 |} | style="padding: 0 1em" | {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- ! colspan="9" | ? |- | 47 || 58 || 69 || 80 || 1 || 12 || 23 || 34 || 45 |- | 57 || 68 || 79 || 9 || 11 || 22 || 33 || 44 || 46 |- | 67 || 78 || 8 || 10 || 21 || 32 || 43 || 54 || 56 |- | 77 || 7 || 18 || 20 || 31 || 42 || 53 || 55 || 66 |- | 6 || 17 || 19 || 30 || 41 || 52 || 63 || 65 || 76 |- | 16 || 27 || 29 || 40 || 51 || 62 || 64 || 75 || 5 |- | 26 || 28 || 39 || 50 || 61 || 72 || 74 || 4 || 15 |- | 36 || 38 || 49 || 60 || 71 || 73 || 3 || 14 || 25 |- | 37 || 48 || 59 || 70 || 81 || 2 || 13 || 24 || 35 |} |} ; 3の冪乗の魔方陣 27×27の魔方陣も可能。27×27=[[729]]。中心が[[365]]で、縦・横・対角線の和がすべて[[9855]]。 上記の「九九図のブロックごとの座標置換」を丸ごと、下中のブロックに配置。82以降の数を同様の法則で配置していく。それぞれのブロックも魔方陣になっており、中心の数の下一桁は、そのブロックの順序(下図の漢数字)と一致している(ブロックごとに<u>81</u>ずつ数が増える関係)。 {| class="wikitable" style="text-align:center; background:#FFFFFF; line-height:1.3;" |- ! colspan="3" | <small>( )は中心の数<br/>下段太字は各ブロック縦横斜の和</small> |- | 四 (284)<br/>&nbsp;244 - [[324]]&nbsp;<br/>'''2556''' | 九 (689)<br/>&nbsp;649 - [[729]]&nbsp;<br/>'''6201''' | 二 (122)<br/>&nbsp;{{0}}82 - [[162]]&nbsp;<br/>'''1098''' |- | 三 (203)<br/>163 - [[243]]<br/>'''1827''' | 五 (365)<br/>325 - [[405]]<br/>'''3285''' | 七 (527)<br/>487 - [[567]]<br/>'''4743''' |- | 八 (608)<br/>568 - [[648]]<br/>'''5472''' | {{bg-c|#dfdfdf}}|一 (41)<br/>{{0|00}}1 - [[81]]<br/>'''369''' | 六 (446)<br/>406 - [[486]]<br/>'''4014''' |} ==魔方陣の作り方== ===奇数×奇数の魔方陣の作り方=== 奇数次の魔方陣の一般的な作り方はいくつか存在する。どの方法を用いても 3×3 の魔方陣は同じ配列になる。 ====ヒンズーの連続方式==== #上段の中央を1にする #右上に次の数字を置いていく(最上段の上は最下段になる。下の図を参照。) #右上が埋まっていたら一つ下に次の数字を置く #再び右上へと数字を埋めていく #後は3,4の繰り返しで完成<ref>[http://sitmathclub.web.fc2.com/seisaku/shibasai2015/resume/sato_r.pdf 魔方陣をつくる 芝浦工業大学 数理科学研究会 佐藤晶子 平成27年11月6日(参考文献 大森清美, 魔方陣の世界, 日本評論社, 2013年)]</ref> *例:7×7 <math> \begin{bmatrix} - & - & - & 1 & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & - \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} - & - & - & 1 & - & - & - \\ - & - & 7 & - & - & - & - \\ - & 6 & - & - & - & - & - \\ 5 & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & 4 \\ - & - & - & - & - & 3 & - \\ - & - & - & - & 2 & - & - \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} - & - & - & 1 & - & - & - \\ - & - & 7 & - & - & - & - \\ - & 6 & 8 & - & - & - & - \\ 5 & - & - & - & - & - & - \\ - & - & - & - & - & - & 4 \\ - & - & - & - & - & 3 & - \\ - & - & - & - & 2 & - & - \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} - & - & - & 1 & 10 & - & - \\ - & - & 7 & 9 & - & - & - \\ - & 6 & 8 & - & - & - & - \\ 5 & 14 & - & - & - & - & - \\ 13 & - & - & - & - & - & 4 \\ - & - & - & - & - & 3 & 12 \\ - & - & - & - & 2 & 11 & - \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} 30 & 39 & 48 & 1 & 10 & 19 & 28 \\ 38 & 47 & 7 & 9 & 18 & 27 & 29 \\ 46 & 6 & 8 & 17 & 26 & 35 & 37 \\ 5 & 14 & 16 & 25 & 34 & 36 & 45 \\ 13 & 15 & 24 & 33 & 42 & 44 & 4 \\ 21 & 23 & 32 & 41 & 43 & 3 & 12 \\ 22 & 31 & 40 & 49 & 2 & 11 & 20 \\ \end{bmatrix} </math> 下段の中央を1にしたり、左斜めに進める方法もあるが、これらは対称形なのですべて同じ方法。 ====バシェー方式==== [[File:Magic Squares - 5x5 - de Méziriac.svg|frame|left|左の図のように数字を斜めに順番に並べる。右の図の2重線で囲った範囲が最終的に魔方陣ができる場所である。]] [[File:Magic Squares - 5x5 - de Méziriac - 2.svg|frame|left|枠から右にはみ出した部分を左に平行移動させる(左の図)。他の部分も同様に平行移動させると完成である(右の図)。]] {{clear}} ====5×5の魔方陣の作り方==== 下図で、'''''A,B,C,D,E''''' には 1,2,3,4,5 を '''''F,G,H,I,J''''' には 0,5,10,15,20を、任意の順に割り当てることで、魔方陣が作れる。 (先に'''''A'''''に3、'''''F'''''に10を割り当て済みのパターンでは、 残り4種類の数字の配置が自由) <math> \begin{bmatrix} A & B & C & D & E \\ C & D & E & A & B \\ E & A & B & C & D \\ B & C & D & E & A \\ D & E & A & B & C \\ \end{bmatrix} </math>  +  <math> \begin{bmatrix} F & G & H & I & J \\ I & J & F & G & H \\ G & H & I & J & F \\ J & F & G & H & I \\ H & I & J & F & G \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} B & C & D & E & 3 \\ C & D & E & 3 & B \\ D & E & 3 & B & C \\ E & 3 & B & C & D \\ 3 & B & C & D & E \\ \end{bmatrix} </math>  +  <math> \begin{bmatrix} 10 & G & H & I & J \\ J & 10 & G & H & I \\ I & J & 10 & G & H \\ H & I & J & 10 & G \\ G & H & I & J & 10 \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} A & B & C & D & E \\ C & D & E & A & B \\ E & A & B & C & D \\ B & C & D & E & A \\ D & E & A & B & C \\ \end{bmatrix} </math>  +  <math> \begin{bmatrix} 10 & G & H & I & J \\ J & 10 & G & H & I \\ I & J & 10 & G & H \\ H & I & J & 10 & G \\ G & H & I & J & 10 \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} 3 & B & C & D & E \\ E & 3 & B & C & D \\ D & E & 3 & B & C \\ C & D & E & 3 & B \\ B & C & D & E & 3 \\ \end{bmatrix} </math>  +  <math> \begin{bmatrix} F & G & H & I & J \\ H & I & J & F & G \\ J & F & G & H & I \\ G & H & I & J & F \\ I & J & F & G & H \\ \end{bmatrix} </math> ===4の倍数×4の倍数の魔方陣の作り方=== #4×4のブロックに区切り、対角線をイメージする #左上から右へ、1から順々に数え上げ、「対角線にあたる」ところだけに数字を置く #右下から左へ、1から順々に数え上げ、「対角線にあたらない」ところだけに数字を置く *例 : 8×8 <math> \begin{bmatrix} \diagdown & - & - & \diagup & \diagdown & - & - & \diagup \\ - & \diagdown & \diagup & - & - & \diagdown & \diagup & - \\ - & \diagup & \diagdown & - & - & \diagup & \diagdown & - \\ \diagup & - & - & \diagdown & \diagup & - & - & \diagdown \\ \diagdown & - & - & \diagup & \diagdown & - & - & \diagup \\ - & \diagdown & \diagup & - & - & \diagdown & \diagup & - \\ - & \diagup & \diagdown & - & - & \diagup & \diagdown & - \\ \diagup & - & - & \diagdown & \diagup & - & - & \diagdown \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} 1 & - & - & 4 & 5 & - & - & 8 \\ - & 10 & 11 & - & - & 14 & 15 & - \\ - & 18 & 19 & - & - & 22 & 23 & - \\ 25 & - & - & 28 & 29 & - & - & 32 \\ 33 & - & - & 36 & 37 & - & - & 40 \\ - & 42 & 43 & - & - & 46 & 47 & - \\ - & 50 & 51 & - & - & 54 & 55 & - \\ 57 & - & - & 60 & 61 & - & - & 64 \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} \diagdown & 63 & 62 & \diagup & \diagdown & 59 & 58 & \diagup \\ 56 & \diagdown & \diagup & 53 & 52 & \diagdown & \diagup & 49 \\ 48 & \diagup & \diagdown & 45 & 44 & \diagup & \diagdown & 41 \\ \diagup & 39 & 38 & \diagdown & \diagup & 35 & 34 & \diagdown \\ \diagdown & 31 & 30 & \diagup & \diagdown & 27 & 26 & \diagup \\ 24 & \diagdown & \diagup & 21 & 20 & \diagdown & \diagup & 17 \\ 16 & \diagup & \diagdown & 13 & 12 & \diagup & \diagdown & 9 \\ \diagup & 7 & 6 & \diagdown & \diagup & 3 & 2 & \diagdown \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} 1 & 63 & 62 & 4 & 5 & 59 & 58 & 8 \\ 56 & 10 & 11 & 53 & 52 & 14 & 15 & 49 \\ 48 & 18 & 19 & 45 & 44 & 22 & 23 & 41 \\ 25 & 39 & 38 & 28 & 29 & 35 & 34 & 32 \\ 33 & 31 & 30 & 36 & 37 & 27 & 26 & 40 \\ 24 & 42 & 43 & 21 & 20 & 46 & 47 & 17 \\ 16 & 50 & 51 & 13 & 12 & 54 & 55 & 9 \\ 57 & 7 & 6 & 60 & 61 & 3 & 2 & 64 \\ \end{bmatrix} </math> *例 : 4×4 <math> \begin{bmatrix} \diagdown & - & - & \diagup \\ - & \diagdown & \diagup & - \\ - & \diagup & \diagdown & - \\ \diagup & - & - & \diagdown \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} 1 & - & - & 4 \\ - & 6 & 7 & - \\ - & 10 & 11 & - \\ 13 & - & - & 16 \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} \diagdown & 15 & 14 & \diagup \\ 12 & \diagdown & \diagup & 9 \\ 8 & \diagup & \diagdown & 5 \\ \diagup & 3 & 2 & \diagdown \\ \end{bmatrix} </math> <math> \begin{bmatrix} 1 & 15 & 14 & 4 \\ 12 & 6 & 7 & 9 \\ 8 & 10 & 11 & 5 \\ 13 & 3 & 2 & 16 \\ \end{bmatrix} </math> ====4×4の魔方陣の作り方==== 0と1とを同数だけ要素とした4x4方陣にて 縦・横・対角上の和が一致する組み合わせは、下記のABCDE5通り。 これらを下記のように組合せて 2進数4桁の各位に割り当てれば、0から15までの数からなる4方陣が作れる。さらに全体に1ずつ加算することで、普通の1から16までの数からなる魔方陣が得られる。 A= <math> \begin{bmatrix} 1 & 1 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 1 & 1 \\ \end{bmatrix} </math> ,B= <math> \begin{bmatrix} 1 & 0 & 1 & 0 \\ 0 & 1 & 0 & 1 \\ 0 & 1 & 0 & 1 \\ 1 & 0 & 1 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> ,C= <math> \begin{bmatrix} 1 & 1 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 1 & 1 \\ 0 & 0 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 0 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> ,D= <math> \begin{bmatrix} 1 & 1 & 0 & 0 \\ 1 & 0 & 1 & 0 \\ 0 & 1 & 0 & 1 \\ 0 & 0 & 1 & 1 \\ \end{bmatrix} </math> ,E= <math> \begin{bmatrix} 0 & 1 & 0 & 1 \\ 1 & 1 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 1 & 1 \\ 1 & 0 & 1 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> All1= <math> \begin{bmatrix} 1 & 1 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 1 & 1 \\ \end{bmatrix} </math> Sample: 8*A + 4*B + 2*A' + B' + All1 {{Math|<nowiki>=</nowiki>}} <math> \begin{bmatrix} 8 & 8 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 8 & 8 \\ 8 & 8 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 8 & 8 \\ \end{bmatrix} </math> + <math> \begin{bmatrix} 4 & 0 & 4 & 0 \\ 0 & 4 & 0 & 4 \\ 0 & 4 & 0 & 4 \\ 4 & 0 & 4 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> + <math> \begin{bmatrix} 2 & 0 & 2 & 0 \\ 2 & 0 & 2 & 0 \\ 0 & 2 & 0 & 2 \\ 0 & 2 & 0 & 2 \\ \end{bmatrix} </math> + <math> \begin{bmatrix} 1 & 0 & 0 & 1 \\ 0 & 1 & 1 & 0 \\ 1 & 0 & 0 & 1 \\ 0 & 1 & 1 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> + <math> \begin{bmatrix} 1 & 1 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 1 & 1 \\ 1 & 1 & 1 & 1 \\ \end{bmatrix} </math> {{Math|<nowiki>=</nowiki>}} <math> \begin{bmatrix} 8+4+2+1+1 & 8+0+0+0+1 & 0+4+2+0+1 & 0+0+0+1+1 \\ 0+0+2+0+1 & 0+4+0+1+1 & 8+0+2+1+1 & 8+4+0+0+1 \\ 8+0+0+1+1 & 8+4+2+0+1 & 0+0+0+0+1 & 0+4+2+1+1 \\ 0+4+0+0+1 & 0+0+2+1+1 & 8+4+0+1+1 & 8+0+2+0+1 \\ \end{bmatrix} </math> {{Math|<nowiki>=</nowiki>}} <math> \begin{bmatrix} 16 & 9 & 7 & 2 \\ 3 & 6 & 12 & 13 \\ 10 & 15 & 1 & 8 \\ 5 & 4 & 14 & 11 \\ \end{bmatrix} </math> 4x4魔方陣は880通りあることが知られており、上記の方法にてその6割にあたる528通りを作れる。 特に、AとBとだけを向きを変えて4通り組み合わせることで汎対角方向の数の和も一致する完全魔方陣48種類を作れる。 === (4n+2)×(4n+2) の魔方陣の作り方=== ==== LUX法 ==== LUX法は、[[ジョン・ホートン・コンウェイ]]によって考案された (4n+2)×(4n+2) の魔方陣を作る方法である。 元となる (2n+1)×(2n+1) の魔方陣を用意して、それぞれの値から1を引いて4倍する。 <math> \begin{bmatrix} 64 & 92 & 0 & 28 & 56 \\ 88 & 16 & 24 & 52 & 60 \\ 12 & 20 & 48 & 76 & 84 \\ 36 & 44 & 72 & 80 & 8 \\ 40 & 68 & 96 & 4 & 32 \\ \end{bmatrix} </math> (2n+1)×(2n+1)の行列を作り、ど真ん中の行の1つ下の行を''U''、その上の n+1行を''L''、下の n-1行を ''X'' とする。その後中央の ''L'' とその下の ''U'' を入れ替える。 n=1の場合、 <math> \begin{bmatrix} L & L & L \\ L & U & L \\ U & L & U \\ \end{bmatrix} </math> n=3の場合、 <math> \begin{bmatrix} L & L & L & L & L & L & L \\ L & L & L & L & L & L & L \\ L & L & L & L & L & L & L \\ L & L & L & U & L & L & L \\ U & U & U & L & U & U & U \\ X & X & X & X & X & X & X \\ X & X & X & X & X & X & X \\ \end{bmatrix} </math> n=0の場合は定義できない。 n=2の場合、 <math> \begin{bmatrix} L & L & L & L & L \\ L & L & L & L & L \\ L & L & U & L & L \\ U & U & L & U & U \\ X & X & X & X & X \\ \end{bmatrix} </math> この行列と元の魔方陣を加えたものを作る。 <math> \begin{bmatrix} 64+L & 92+L & 0+L & 28+L & 56+L \\ 88+L & 16+L & 24+L & 52+L & 60+L \\ 12+L & 20+L & 48+U & 76+L & 84+L \\ 36+U & 44+U & 72+L & 80+U & 8+U \\ 40+X & 68+X & 96+X & 4+X & 32+X \\ \end{bmatrix} </math> <math> L = \begin{bmatrix} 4 & 1 \\ 2 & 3 \\ \end{bmatrix} U = \begin{bmatrix} 1 & 4 \\ 2 & 3 \\ \end{bmatrix} X = \begin{bmatrix} 1 & 4 \\ 3 & 2 \\ \end{bmatrix} </math> を代入すると、求める大きさの魔方陣が完成する。 <math> \begin{bmatrix} 68 & 65 & 96 & 93 & 4 & 1 & 32 & 29 & 60 & 57 \\ 66 & 67 & 94 & 95 & 2 & 3 & 30 & 31 & 58 & 59 \\ 92 & 89 & 20 & 17 & 28 & 25 & 56 & 53 & 64 & 61 \\ 90 & 91 & 18 & 19 & 26 & 27 & 54 & 55 & 62 & 63 \\ 16 & 13 & 24 & 21 & 49 & 52 & 80 & 77 & 88 & 85 \\ 14 & 15 & 22 & 23 & 50 & 51 & 78 & 79 & 86 & 87 \\ 37 & 40 & 45 & 48 & 76 & 73 & 81 & 84 & 9 & 12 \\ 38 & 39 & 46 & 47 & 74 & 75 & 82 & 83 & 10 & 11 \\ 41 & 44 & 69 & 72 & 97 & 100 & 5 & 8 & 33 & 36 \\ 43 & 42 & 71 & 70 & 99 & 98 & 7 & 6 & 35 & 34 \\ \end{bmatrix} </math> === 外枠を付け足す方法 === 既知の n×n の魔方陣の周りに数字を配置し、(n+2)×(n+2)の魔方陣を作ることができる。この方法は[[関孝和]]が1683年に発表している。この方法で作られた方陣は、自動的に親子方陣となる。 偶数次・奇数次のどちらでもこの方法は使用できるが、奇数次・4の倍数次・4の倍数でない偶数次のいずれかで、配置の方法は異なってくる。 == ユピテル魔方陣 == [[Image:Dürer_Melancholia_I.jpg|thumb|[[アルブレヒト・デューラー]]の銅版画『[[メランコリア1]]』]] [[Image:Mystic Square Figure1.JPG|thumb|上下反転させたもの<br/>([[w:Mystic square|Mystic square]])]] 西洋数秘術のユピテル魔方陣([[木星]]魔方陣)は次の図のとおりである。各ラインの和は34([[女性数]]の最初2と[[男性素数]]17(ピタゴラス学派では不幸とする)の積)になっている。縦、横、斜めのいずれの列も和が等しくなるように数字を並べたばかりでなく、右上の四マス(右下、左上、左下それぞれの四マスも同様)、中央2列の端の四マス、中央2行の端の四マス、中央の四マスや隅の四マスまでひとつ残らず和が34になっている。 <math> \begin{bmatrix} 4 & 14 & 15 & 1 \\ 9 & 7 & 6 & 12 \\ 5 & 11 & 10 & 8 \\ 16 & 2 & 3 & 13 \\ \end{bmatrix} </math> [[アルブレヒト・デューラー]]の『[[メランコリア1]]』という作品には砂時計隣に4×4の次の図のユピテル魔方陣が描かれている。この魔方陣の中には、偉業を達成した制作年の''1514''が埋め込まれている<ref>{{cite news|title=Magic squares are given a whole new dimension|author=Alex Bellos|newspaper=The Guardian|publisher=Guardian News and Media Limited|date=2011-04-03|url=https://www.theguardian.com/science/2011/apr/03/magic-squares-geomagic-lee-sallows|accessdate=2017-01-16|language=英語}}</ref>。 <math> \begin{bmatrix} 16 & 3 & 2 & 13 \\ 5 & 10 & 11 & 8 \\ 9 & 6 & 7 & 12 \\ 4 & 15 & 14 & 1 \end{bmatrix} </math> ==特殊な魔方陣== ===完全方陣=== 斜め方向の和が、対角線以外でも等しくなるような物を[[完全方陣]]または汎魔方陣と呼ぶ。 一辺nが4以上でかつ n≠4k+2 の時、完全方陣が作成可能である。 例: <math> \begin{bmatrix} 6 & 12 & 7 & 9 \\ 15 & 1 & 14 & 4 \\ 10 & 8 & 11 & 5 \\ 3 & 13 & 2 & 16 \end{bmatrix} </math> この図において斜めの和を見ると、 *6+1+11+16 = 12+14+5+3 = 7+4+10+13 = 9+15+8+2 = 34 *9+14+8+3 = 7+1+10+16 = 12+15+5+2 = 6+4+11+13 = 34 が成り立っている。 その他、「四隅(上図では6+9+3+16)」の合計が34になる。 さらに、「任意の2×2の固まり」も、34になる(「カド」と「中央」の2×2の固まりの合計は、どんな4×4の魔方陣でも必ず34になる)<ref name="guru">[http://www.guru.gr.jp/~issei/msqj/4houjin.htm 4x4 Magic Square]</ref>)。 [[ペントミノ]]([[:File:PentenomeT.jpg|T型]])の5つの数字の合計が34になるものもある。 {{Col-begin}} {{Col-2}} {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small; font-weight:bold; margin-top:0; margin-bottom:0;" |+上の組合せ<br/>6+7=13 |- | {{bg-c|#6CC}}|6 || {{bg-c|#6CC}}|12 || {{bg-c|#6CC}}|7 || 9 |- | 15 || {{bg-c|#6CC}}|1 || 14 || 4 |- | 10 || {{bg-c|#6CC}}|8 || 11 || 5 |- | 3 || 13 || 2 || 16 |} {{Col-2}} {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small; font-weight:bold; margin-top:0; margin-bottom:0;" |+2つ含むもの<br/>2+3=5、9+5=14 |- | {{bg-c|#6CC}}|2 || 7 || 14 || 11 |- | {{bg-c|#6CC}}|16 || {{bg-c|#6C6}}|9 || {{bg-c|#6C6}}|4 || {{bg-c|#FF9}}|5 |- | {{bg-c|#6CC}}|3 || 6 || {{bg-c|#FF9}}|15 || 10 |- | 13 || 12 || {{bg-c|#FF9}}|1 || 8 |} {{Col-end}} また、任意の「斜めの一つ置き」の和は、17になる<ref name="guru"/>。上の図では *6+11、12+5、15+2、1+16、7+10、9+8、14+3、4+13の8組 ===多重魔方陣=== すべての数を2乗しても、縦・横の和が一定になる物を'''多重魔方陣'''(''multimagic square'')と呼ぶ。 例: <math> \begin{bmatrix} 16 & 41 & 36 & 5 & 27 & 62 & 55 & 18 \\ 26 & 63 & 54 & 19 & 13 & 44 & 33 & 8 \\ 1 & 40 & 45 & 12 & 22 & 51 & 58 & 31 \\ 23 & 50 & 59 & 30 & 4 & 37 & 48 & 9 \\ 38 & 3 & 10 & 47 & 49 & 24 & 29 & 60 \\ 52 & 21 & 32 & 57 & 39 & 2 & 11 & 46 \\ 43 & 14 & 7 & 34 & 64 & 25 & 20 & 53 \\ 61 & 28 & 17 & 56 & 42 & 15 & 6 & 35 \end{bmatrix} </math> 図は8×8の魔方陣である。各列の数の合計は260になり、この各数を2乗すると、縦横の各列の和は11180になる。 ===親子方陣=== n×n の魔方陣の中央部の (n-2)×(n-2) の部分も魔方陣として成り立っているものを親子方陣<ref>{{Harvnb|佐藤|山司|西田|2009|loc=§3.24 方陣|p=202}}</ref>または同心方陣という。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; background:#ffffff;" |- ! colspan="5" | 3方陣かつ5方陣<br/>[[楊輝]]「楊輝算法」より |- | 1 || 23 || 16 || 4 || 21 |- | 15 ! 14 || 7 || 18 | 11 |- | 24 ! 17 || 13 || 9 | 2 |- | 20 ! 8 || 19 || 12 | 6 |- | 5 || 3 || 10 || 22 || 25 |} ===奇数・偶数分離魔方陣=== 中央の奇数エリアと、四隅の偶数エリアに分かれているもの<ref>{{Harvnb|大森|2013|pp=27f}}</ref>。<!-- これは奇方陣のみ? --> 任意の奇数次において奇数・偶数分離魔方陣を作ることができる。 1を最上段の中央に置き、3以降の奇数を右斜め下方向へ配置していく。 偶数エリアは、すべて縦横それぞれの方向で[[等差数列|等差]]になっている。 {{Col-begin}} {{Col-3}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; background:#ffffff;" |- ! colspan="3" | 3方陣(15)<br/>{{0}} |- ! 6 | 1 ! 8 |- | 7 || {{bg-c|pink}}|5 || 3 |- ! 2 | 9 ! 4 |} {{Col-3}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; background:#ffffff;" |- ! colspan="5" | 5方陣(65)<br/>偶数差:縦6横4 |- ! 14 || 10 | 1 ! 22 || 18 |- ! 20 | 11 || {{bg-c|pink}}|7 || 3 ! 24 |- | 21 || {{bg-c|pink}}|17 || 13 || {{bg-c|pink}}|9 || 5 |- ! 2 | 23 || {{bg-c|pink}}|19 || 15 ! 6 |- ! 8 || 4 | 25 ! 16 || 12 |} {{Col-3}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; background:#ffffff;" |- ! colspan="7" | 7方陣(175)<br/>偶数差:縦8横6 |- ! 26 || 20 || 14 | 1 ! 44 || 38 || 32 |- ! 34 || 28 | 15 || {{bg-c|pink}}|9 || 3 ! 46 || 40 |- ! 42 | 29 || {{bg-c|pink}}|23 || 17 || {{bg-c|pink}}|11 || 5 ! 48 |- | 43 || {{bg-c|pink}}|37 || 31 || {{bg-c|pink}}|25 || 19 || {{bg-c|pink}}|13 || 7 |- ! 2 | 45 || {{bg-c|pink}}|39 || 33 || {{bg-c|pink}}|27 || 21 !8 |- ! 10 || 4 | 47 || {{bg-c|pink}}|41 || 35 ! 22 || 16 |- ! 18 || 12 || 6 | 49 ! 36 || 30 || 24 |} {{Col-end}} === 対称魔方陣 === n次の魔方陣の中で、中心に対して対称の位置にある2つの数字の和が常に n<sup>2</sup>+1 となるものを'''対称魔方陣'''<ref>{{Harvnb|大森|2013|p=98}}</ref>と呼ぶ。 奇数次の場合「ヒンズーの連続方式」「バシェー方式」で作られたものは対称魔方陣となる。4の倍数次の対称魔方陣も既出の方法で作ることができる。4の倍数でない偶数次の対称魔方陣は作ることができない<ref>{{Harvnb|大森|2013|p=170}}</ref>。 奇数次の対称魔方陣の中で、中央を通る4列の数字がそれぞれ等差数列をなしているものを'''シェフェルの魔方陣'''という<ref>{{Harvnb|大森|2013|p=189}}</ref>。1935年にシェフェルという人物が発表したのが名前の由来であるが、[[建部賢弘]]も同様の性質を持つ魔方陣を発表している。 ===ヘテロ陣のうちのアンチ陣=== 和がすべて異なるものをヘテロ陣、その和がすべて連続数になっているものをアンチ陣と呼ぶことがある<ref>{{Harvnb|高木ほか|2011|pp=232f}}</ref>。 縦・横・斜めの和が12から19の例(8がなく10を使用)。 <math> \begin{bmatrix} 4 & 10 & 5 \\ 2 & 3 & 7 \\ 9 & 1 & 6 \end{bmatrix} </math> ===正方形分割方陣=== 1991年に魔方陣作家の[[阿部楽方]]によって発表された魔方陣。[[ルジンの問題|21個の異なる大きさの正方形に分割された]]224次の魔方陣であり、分割された21個の正方形も魔方陣として成立している<ref>[http://ssfactory.sakura.ne.jp/sblo_files/ssfactory/image/28.012-thumbnail2.jpg]</ref>。 ===その他の魔方陣=== 以下は乗算した結果が等しくなる例 その1: 2の[[べき乗]]{1,2,4}と3のべき乗{1,3,9}を掛け合わせたものの例 縦・横・斜めの積がそれぞれ[[216]]である。(216=(1&times;2&times;4)&times;(1&times;3&times;9)) <math> \begin{bmatrix} 2 & 9 & 12 \\ 36 & 6 & 1 \\ 3 & 4 & 18 \end{bmatrix} </math> 以下のように分解することで構成要素がより明確になる。 <table> <tr><td align=center> 2のべき乗の要素 </td><td> </td><td align=center> 3のべき乗の要素 </td></tr> <tr><td> <math> \begin{bmatrix} 2 & 1 & 4 \\ 4 & 2 & 1 \\ 1 & 4 & 2 \end{bmatrix} </math> </td><td> </td><td> <math> \begin{bmatrix} 1 & 9 & 3 \\ 9 & 3 & 1 \\ 3 & 1 & 9 \end{bmatrix} </math> </td> </tr> </table> その2: [[奇数]]{1,3,5,7}と2のべき乗{1,2,4,8}を掛け合わせたものの例 縦・横・斜めの積がそれぞれ6720である。(6720=(1&times;3&times;5&times;7)&times;(1&times;2&times;4&times;8)) <math> \begin{bmatrix} 1 & 24 & 10 & 28 \\ 14 & 20 & 3 & 8 \\ 12 & 2 & 56 & 5 \\ 40 & 7 & 4 & 6 \end{bmatrix} </math> 同様に以下のように分解することで構成要素を明確にできる。 <table> <tr><td align=center> 奇数の要素 </td><td> </td><td align=center> 2のべき乗の要素 </td></tr> <tr><td> <math> \begin{bmatrix} 1 & 3 & 5 & 7 \\ 7 & 5 & 3 & 1 \\ 3 & 1 & 7 & 5 \\ 5 & 7 & 1 & 3 \end{bmatrix} </math> </td><td> </td><td> <math> \begin{bmatrix} 1 & 8 & 2 & 4 \\ 2 & 4 & 1 & 8 \\ 4 & 2 & 8 & 1 \\ 8 & 1 & 4 & 2 \end{bmatrix} </math> </td></tr> </table> ==ラテン方陣== {{math|''n'' × ''n''}} の各行各列に1~nを配置したものを[[ラテン方陣]]という。これを2つ組合わせることでも魔方陣を作ることが可能である。 [[数独]]、ナンバープレースと呼ばれる[[ペンシルパズル]]は、これに条件を付加した物である。 == 東洋占術 == === 風水 === 魔法陣は[[風水羅盤|風水羅盤派]]で重要な物として位置付けられている<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=図説 風水大全|date=1998-9-10|publisher=東洋書林|pages=84-85|author=リリアン・トゥー}}</ref>。古代中国人は宇宙は数学的原理に基づいてできていると信じており、数字は天地を司る見えない力を解く鍵であり、数字や魔法陣は大きな意味を持っていたという<ref name=":0" />。[[紀元前2000年|紀元前2005年]]頃に伝説の川洛水から1匹の神聖な亀が現れたとされており、亀の甲羅には9つの数字が縦横3つずつ並んで描かれており、八卦図に対応するような形で設置されていたという<ref name=":0" />。9つの数字は縦横斜め、どの列を3つずつ足しても合計が15になり、新月から満月までの日数と重なり、この数字配列は『[[河図洛書]]』の魔法陣として知られるようになり、神話となり、後天八卦と結び付いたという<ref name=":0" />。計算は面倒な物であるため、転居・転職などの[[選日]]には予め計算されている「通勝」(とんしゅう)という暦として売り出されている<ref name=":0" />。河図洛書図の数字は[[四神]]とも関連付けられるようになった<ref name=":0" />。[[道教]]の魔術的な儀式は現在も河図洛書の魔法陣に基づいて行われている<ref name=":0" />。[[ヘブライ]]の[[土星]]シンボルは河図洛書の数字を繋げた形と類似している<ref name=":0" />。 === 易の八卦 === [[File:Suanfatongzong-795-795.jpg|thumb|80px|[[程大位]]の又八陣図]] [[易]]の[[八卦]]のうち[[周]]易の「[[先天図]]」「帰蔵易(歸藏易は[[殷]]王朝の易)」「連山易([[夏 (三代)|夏]]の易)」の三図は魔方陣的な図であり、卦に河図洛書と関わる数字を当てた場合、帰蔵図は魔方陣となる。連山易は風水羅盤に記載・使用される(正方形にしたが元図は八角形)。 {| |- |style="padding:0 15px;"| {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="1" style="text-align:center;" |+ 歸藏図 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Gon.png]]<br/>艮<br/>6 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Kon.png]]<br/>坤<br/>1 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Shin.png]]<br/>震<br/>8 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Kan.png]]<br/>坎<br/>7 |style="padding:5px 15px"|5 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Trigram lí of I Ching.png]]<br/>離<br/>3 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Xun.png]]<br/>巽<br/>2 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Ken.png]]<br/>乾<br/>9 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Trigram duì of I Ching.png]]<br/>兌<br/>4 |} |style="padding:0 15px;"| {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="1" style="text-align:center;" |+ 連山図 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Kon.png]]<br/>坤<br/>8 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Gon.png]]<br/>艮<br/>7 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Trigram lí of I Ching.png]]<br/>離<br/>3 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Xun.png]]<br/>巽<br/>5 |style="padding:5px 15px"|&nbsp; |style="padding:5px 15px"|[[画像:Shin.png]]<br/>震<br/>4 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Kan.png]]<br/>坎<br/>6 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Trigram duì of I Ching.png]]<br/>兌<br/>2 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Ken.png]]<br/>乾<br/>1 |} |style="padding:0 15px;"| {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="1" style="text-align:center;" |+ 周易先天図 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Trigram duì of I Ching.png]]<br/>兌<br/>2 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Ken.png]]<br/>乾<br/>1 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Xun.png]]<br/>巽<br/>5 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Trigram lí of I Ching.png]]<br/>離<br/>3 |style="padding:5px 15px"|&nbsp; |style="padding:5px 15px"|[[画像:Kan.png]]<br/>坎<br/>6 |- |style="padding:5px 15px"|[[画像:Shin.png]]<br/>震<br/>4 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Kon.png]]<br/>坤<br/>8 |style="padding:5px 15px"|[[画像:Gon.png]]<br/>艮<br/>7 |} |} == その他 == === サイの目魔方陣 === サイの目陣とも呼ばれる。 {{See|サイの目魔方陣}} == 脚注 == === 注釈 === {{reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連文献 == *{{Cite book|和書|author=内田伏一|authorlink=内田伏一|date=2004-12|title=魔方陣にみる数のしくみ 汎魔方陣への誘い|publisher=[[日本評論社]]|isbn=4-535-78421-3|url=http://www.nippyo.co.jp/book/2480.html|ref={{Harvid|内田|2004}}}} *{{Cite book|和書|author=内田伏一|authorlink=内田伏一|date=2007-09|title=魔方陣 円陣・星陣・サイの目魔方陣・立体魔方陣…|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-78489-5|url=http://www.nippyo.co.jp/book/3125.html|ref={{Harvid|内田|2007}}}} *{{Cite book|和書|author=大森清美|authorlink=大森清美|year=1973|title=魔方陣|publisher=[[冨山房]]|ref={{Harvid|大森|1973}}}} **{{Cite book|和書|author=大森清美|date=1992-03|title=新編 魔方陣|publisher=冨山房|isbn=4-572-00696-2|ref={{Harvid|大森|1992}}}} **{{Cite book|和書|author=大森清美|date=2013-08-10|title=魔方陣の世界|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-78656-1|url=http://www.nippyo.co.jp/book/6111.html|ref={{Harvid|大森|2013}}}} - [http://www.nippyo.co.jp/download/mahoujin-no-sekai/index.php ダウンロードコーナー]から[[C言語]]のプログラムと練習問題の解答集をダウンロード可能。 *{{Cite book|和書|author=幸田露伴|authorlink=幸田露伴|date=1958-04-10|title=露伴全集|volume=第40巻|chapter=方陣秘説|publisher=[[岩波書店]]|pages=3-16|ref={{Harvid|幸田|1958}}}} *{{Cite book|和書|others=[[佐藤健一 (和算研究家)|佐藤健一]] 監修|editor1=山司勝紀|editor1-link=山司勝紀|editor2=西田知己|editor2-link=西田知己|date=2009-11-15|title=和算の事典|publisher=朝倉書店|isbn=978-4-254-11122-4|url=https://www.asakura.co.jp/G_12.php?isbn=ISBN978-4-254-11122-4|ref={{Harvid|佐藤|山司|西田|2009}}}} *{{Cite book|和書|author=佐藤肇|authorlink=佐藤肇|coauthors=[[一楽重雄]]|date=1999-08-30|title=幾何の魔術 魔方陣から現代数学へ|publisher=[[日本評論社]]|isbn=4-535-78280-6|ref={{Harvid|佐藤|一楽|1999}}}} **{{Cite book|和書|author=佐藤肇|coauthors=一楽重雄|date=2002-08|title=幾何の魔術 魔方陣から現代数学へ|edition=新版|publisher=日本評論社|isbn=4-535-78352-7|url=http://www.nippyo.co.jp/book/1940.html|ref={{Harvid|佐藤|一楽|2002}}}} **{{Cite book|和書|author=佐藤肇|coauthors=一楽重雄|date=2012-02|title=幾何の魔術 魔方陣から現代数学へ|edition=第3版|publisher=日本評論社|isbn=978-4-535-78685-1|url=http://www.nippyo.co.jp/book/5820.html|ref={{Harvid|佐藤|一楽|2012}}}} *{{Cite book|和書|author=下平和夫|authorlink=下平和夫|others=[[一松信]] ほか執筆代表|date=1979-11-21|title=新数学事典|chapter=VII. 数学特論、3. 興味ある数学問題、§3.4 魔方陣|pages=910-915|publisher=[[大阪書籍]]|isbn=4-7548-2009-6|ref={{Harvid|下平|2012}}}} *{{Cite book|和書|editor=数学セミナー編集部|editor-link=数学セミナー|date=1999-08|title=数学100の問題 数学史を彩る発見と挑戦のドラマ|publisher=[[日本評論社]]|isbn=4-535-60614-5|ref={{Harvid|数学セミナー編集部|1999}}}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|others=[[彌永昌吉]] 解説|date=2002-04-16|title=数学小景|series=[[岩波現代文庫]] G81|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-600081-2|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/2/6000810.html|ref={{Harvid|高木|2002}}}} *{{Cite book|和書|editor=高木隆司 ほか|editor-link=高木隆司|date=2011-01|title=かたち・機能のデザイン事典|publisher=丸善|isbn=978-4-621-08334-5|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/katachi_kinou/|ref={{Harvid|高木ほか|2011}}}} *{{Cite book|和書|author=山本行雄|authorlink=山本行雄|date=2000-01|title=数のふしぎ・数のたのしみ 虫食い算と完全方陣|publisher=[[ナカニシヤ出版]]|isbn=4-888-48506-2|ref={{Harvid|山本|2000}}}} ==関連項目== {{Div col}} *[[定和]] *[[魔六角陣]] - 魔方陣の[[六角形]]版 *[[立方陣]] - 魔方陣の立体版 *[[和算]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Wikisource1911Enc|Magic Square}} *[http://www.rimath.saitama-u.ac.jp/lab.jp/tsakurai/MagicSquare/PanMagic.pdf 完全魔方陣] * {{Cite journal|和書|author=石川榮助 |title=魔方陣の整数論的研究(其の二) |journal=岩手大學學藝學部研究年報 |publisher=岩手大學學藝學部學會 |year=1951 |volume=2 |pages=3-6 |doi=10.15113/00012187 |url=https://doi.org/10.15113/00012187}} * {{Cite journal|和書|author=石川栄助 |title=魔方陣の整数論的研究(其の三) |journal=岩手大学学芸学部研究年報 |publisher=岩手大学学芸学部 |year=1961 |volume=19 |pages=11-30 |doi=10.15113/00012380 |url=https://doi.org/10.15113/00012380}} * {{Cite journal|和書|author=林隆夫 |title=方陣の歴史 : 16世紀以前に関する基礎研究 |journal=国立民族学博物館研究報告 |publisher=国立民族学博物館 |year=1989 |volume=13 |issue=3 |pages=615-719 |doi=10.15021/00004319 |hdl=10502/2975 |url=https://doi.org/10.15021/00004319}} *{{Cite web|和書|url=http://www.pse.che.tohoku.ac.jp/~msuzuki/magicsquare-j.html|title=魔方陣データベース|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010606030442/http://www.pse.che.tohoku.ac.jp/~msuzuki/magicsquare-j.html|archivedate=2001-06-06|accessdate=2017-01-16|ref={{Harvid|Suzuki|1995}}}} *{{MathWorld|title=Magic Square|urlname=MagicSquare}} *{{MathWorld|title=Dürer's Magic Square|urlname=DuerersMagicSquare}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:まほうしん}} [[Category:魔方陣|*]] [[Category:数学パズル]] [[Category:数秘術]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-08-25T04:38:32Z
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言語哲学
言語哲学(げんごてつがく、英語:philosophy of language)は、語義的に二つの意味に大別される。 「言語の哲学としての言語哲学」については一方では古代ギリシャの文法学や古代ローマの弁証法(dialectike)や修辞法(retolike)を淵源とする。他方で、純粋な哲学としては、その祖イオニア学派も自然学に傾倒したがその過程で既にパルメニデースやゼーノーンはパラドクスを駆使している。また、ソピステース(ソフィスト・知者)たちは相手に議論によって勝利しようとしたことから、また、「知を愛する人」(フィロソポス、後の「哲学者」)を自称したソークラテースの“産婆術”も、相手を誘導しつつ哲学的解決へと導くという手法から、少なからぬ言語と論理とへの反省的意識が存在していたと推定される。ただし、ここまでは伝承と断片とラエルティオスの報告とプラトーンによる創作を通じての推測である。言語についての哲学的反省について、確実に本人の一次資料に基づいてある程度の分量を述べることができるのはプラトーンからである。 彼は、イデア論やアナムネーシス(想起)説を提唱するに際して、言語的反省と論理的推論に基づいて(対話という表現形式を用いながらも)哲学的諸原理に到達した。更に、その弟子アリストテレースに到ると、単にその形而上学をはじめとする哲理への到達手段として論理を用いたのみならず、論理構造と虚偽論それ自体を体系化して学問範疇となす。特にその論理学は基本的に19世紀のフレーゲまで、論理学の基本となるものであった。 上記の流れはローマ帝国において、一方では法廷弁論術として、他方ではストア派や中期プラトン学派の哲学思考法として継承されたものの、東西の分裂を機に、ギリシャ語圏の東ローマ帝国では観想と聖書の霊的解釈学とを重んじたビザンティン・キリスト教思想において次第に弱体化する。他方、早くに西ローマ帝国の滅亡といわゆる「蛮族」の横行をみたラテン語圏の西ヨーロッパでは、ヒッポのアウグスティヌスという古代末期最大の哲学者が生まれ、命題論としては名辞と名辞の連接、意味論としては名辞とその対象物('Fido'-Fido theoryという揶揄的名称がある)のように、フレーゲ以前を決定付ける言語哲学が確立した。アウグスティヌスは言葉(verbum)を記号(signum)の一種とみなして考察を行った。また、『嘘について (De mendacio)』、『嘘に反対して (Contra mendacium)』、『エンキリディオン (Enchiridion)』などで、アウグスティヌスは、人間の言語活動における文脈や話し手・聞き手の意図の重要性に着目している。彼は他に、『三位一体論』では、「外的語り(locutio foris)」、「心の語り(locutio cordis)」もしくは「内的語り(locutio interior)」、「音声の似姿において思考されるもの(cognitativium in similitudine soni)」の三者を区別した。音声を伴った言葉である「外的語り」に先行して、ギリシア語やラテン語のような自然言語には属しない「思考(cogitatio)」である「内的語り」が存在している。そして、「外的言葉」を声に出さずに考えている場合をアウグスティヌスは「音声の似姿において思考されるもの」と呼んだが、同様の概念が「内言」と呼ばれて発達心理学や認知言語学の分野で20世紀以降注目されている。 ギリシアの論理・言語の哲学はボエティウスによって西方ラテン世界へ紹介された。彼はアリストテレスの『オルガノン』全編やポルピュリオス『エイサゴーゲー』をラテン語へ翻訳した(ただし『オルガノン』のうち『分析論後書』は散逸し、『分析論前書』や『詭弁論駁論』は中世初期には読まれなかった)。ボエティウスの翻訳に不備があるとして非難する声もあるが、文献学的な研究によれば、むしろボエティウスに先行するガイウス・マリウス・ウィクトリヌスの翻訳などより優れたものであるという。また、ボエティウスは『エイサゴーゲー』および『命題論』にはそれぞれ初歩的なものと高等なものの二つの注釈書を、『範疇論』、『トピカ』、キケロの『トピカ』にはそれぞれ一つの注釈書を著した(アリストテレスの『トピカ』に対する注釈書は散逸した)。ボエティウスは『区分について(De divisione)』『様々なトピカについて(De topicis differentiis)』、『仮言的三段論法について(De syllogismo hypothetico)』といった研究論文も書いたが、注釈書共々独創性は低く、ボエティウスは努めて論理や言語の哲学の紹介者であろうとしたのだとされる。 アウグスティヌスが記号(signum)という表現を用いて言葉を考察したのに対して、ボエティウスは表示(significatio)という表現を用いた。ボエティウスの言語哲学は以下のような特徴を持つ: (1)話し言葉は第一には心の中の思惟(intellectus)を表示(significare)し、第二に思惟を介して思惟によって捉えられる事物を表示する(24.12-13;33.27-31)。 (2)話し言葉や書き言葉の文があり、文の中で名詞と動詞が区別されるように、心の中にも文(いわゆる「思考文」)があり、名詞と動詞が区別される(30.3-10)。 (3)心の中の名詞と動詞の複合、つまり思惟の複合と、その結果として思惟の内に生じる真理値は、話し言葉の名詞と動詞の複合と真理値に派生する(49.27-32)。 (1)に関して、ボエティウスは思惟が形成されるためには外界の事物が必要だと考えていた。上記の(2)~(4)はジェリー・フォーダーの「思考の言語」説の主張と共通する部分がある。 ボエティウスや文法家のプリスキアヌス以降の西欧では言語の哲学に限らず哲学全体がしばしの停滞期をむかえ、カロリング朝ルネサンスの時代に復興する。これ以降の中世の論理学は、12世紀ルネサンスの時代を境目に旧論理学(logica vetus)と新論理学(logica nova)に二分される。旧論理学の時代には、前述のようにアリストテレスのオルガノンのうち『分析論後書』、『分析論前書』、『詭弁論駁論』などは読まれなかったし、カロリング朝ルネサンスの時代には『範疇論』に関してもボエティウスがラテン語に訳したものではなく、『範疇論について』の梗概・注釈書である偽アウグスティヌス『十の範疇について』が読まれた。したがって言語哲学のテキストとしては、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(ボエティウス訳・註解)、アリストテレス『命題論』(ボエティウス訳・註解)、『範疇論』(ボエティウス訳・註解)または偽アウグスティヌス『十の範疇について』、キケロー『トピカ』(ボエティウス註解)、ボエティウス『様々なトピカについて』『区分論』などがこの時代に読まれた。文法学ではカロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥス『文法学(Ars grammaticae)』が、時代が下るとプリスキアヌス『文法学教程(Institutiones grammatice)』がテキストとして利用された。また、現代の形式論理学が対象としないような哲学的考察をも中世には論理学の領域となっており、中世の論理学は言語哲学と表現されるのが実情に合っているとされる(ただし、中世にも論理学の対象を今日の形式論理学と同じような範囲に限定すべきだと考える者もいた。この時期には論理学を神学や形而上学と分けて論じる学者と混同して論じる学者が混在していた)。 カロリング朝ルネサンスの中心人物アルクィヌスは『弁証学(Dialectica)』を著した。本書は五つの普遍(類、種、種差、付帯性、固有性)、範疇、三段論法、定義・区分、トポス論、命題論といったものを扱っており、アリストテレスからボエティウスやカッシオドルスに至るまでの流れを扱ったに過ぎなかった。ただ、独自の思想を唱えるには至らなかったものの言語研究史上におけるアルクィヌスの功績は決して小さくない。アルクィヌスの後をついで宮廷学校長となったヨアンネース・スコートゥス・エリウゲナ(主著『自然位階論』)は偽ディオニシォース・ホ・アレオパギテース(主著『神名論』『神秘神学』)の諸文書をラテン語訳・紹介することを通じてネオプラトニズムを再導入した。 ラテン語圏では11世紀になると、アンセルムスに代表されるような形で論理学が再び活発化する。 まず、ヨーロッパ各地での学問的な活性化の中で、細々とした伝承だけであったアリストテレースの論理学著作も、再びボエティウスの註解とともにきちんととした形で読まれるようになる。 ロスケリヌスら音声論者(Vocales)は「普遍は単なる音声にすぎない」とし、後の唯名論 (Nominalismus) へとつながる議論を開始したが、これはアンセルムス『ロゴスの受肉に関する書簡』などで批判された。このころには論理学は事物(res)に関する学問であると考えられていて、それに対して論理学は言葉・音声(vox)に関する学問だという意見は奇抜なものだと受け取られたとされる。12世紀に入り、そうした運動の中でアベラルドゥス(アベラール)は、それまで漠然と使用されてきた「普遍」といった概念自体を問いかけ、大きな議論を引き起こす(普遍論争)。アベラルドゥス以前のヨハネスやロスケリヌスが音声(vox)という用語を使ったのに対してアベラルドゥスも初期はそれに従ったが途中からはsermoやnomenという用語を使い、彼とその弟子たちはnominalesと呼ばれるようになった。この違いは、ロスケリヌスらとその批判者との対立が普遍や範疇を言語哲学の問題として扱うか形而上学の問題として扱うかという点にあったのに対し、アベラルドゥスが存在論的態度表明を持ち込んだことによる。 アベラールは『文法学(Grammatica)』という名の著書を著した。これは現在では失われているが、彼は論理学の議論に文法学の用語・手法を持ち込んだ。このことは音声論者たちに影響を受けてのことだったと推測されている。対して、論敵のシャンポーのギヨームは文法学と論理学を切り離して論じる傾向があり、これが12世紀に支配的な傾向だった。 カロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥスの著書が文法学のテキストとして使用されていたのに対して、この時期にはプリスキアヌス『文法学教程(Institutiones grammatice)』が使われるようになった。しかし13世紀にいたるとダキアのボエティウスのように、プリスキアヌスの規範文法学では満足できないものが現れ、言語的法則や規範の原因を問う思弁文法が興隆することになる。それに伴って、文法学の分野で様態(modus)に着目する様態論者(modistae)が現れた。彼らの言う様態は表示の様態(modus significandi)、理解の様態(modus intelligendi)、存在の様態(modus essendi)の三つに区別され、理解の様態は表示の様態の原因で、存在の様態は理解の様態の原因だとされた。また、今日の哲学者が現実について知るために言語の本性について考察するのに対し、様態論者は言語現象の原因を明らかにするために現実について論じたという。しかし様態論者の主張のうち、表示の様態は後にオッカムの剃刀によって剃り落されてしまう、というのはオッカムは表示の問題を精神-事物間でのみ扱うために言葉の表示の機能は不要となるからである。 そうして、イスラーム圏に保持されたギリシア哲学諸文書の流入・翻訳を機に(実際には、ビザンツ所有の文献の流入の影響もかなり大きかったというが)いわゆる12世紀ルネサンスが起こる。その動きは、イスラーム圏の進んだ科学探求の成果の導入のみならず、それまで論理学者としてのみ知られてきていたアリストテレースの広範な業績の再発見でもあり、これらの新たな思潮の消化・吸収と反発が13世紀を形成することになる。 そして14世紀には独自な発展があり、それは例えばオッカムの論理学等に見ることができる。オッカムの思想の内ではオッカムの剃刀の他に代示理論もよく知られている。代示理論はオッカム一人が唱えたものではなく長い期間研究されたもので、研究が蓄積するとともに理論が精妙ではあるが煩瑣なものとなり、ルネサンス以降批判の的となった。20世紀以降の言語哲学では再評価されている。 これらスコラ哲学における論理学や文法学の発展の中には、当時の流れから言えば傍流ではあるが例えばラモン・リュイ (ラテン語名:Raimundus Lullus ライムンドゥス・ルルス、1235-1316) がおり、語と語を組み合わせる機械によって全世界の全真理を知ろうとする「ルルスの術(普遍的な偉大な術 ars magna generalis)」の発明を得るに到った。 その後、近世哲学の創始者ルネ・デカルト (Rene Descartes, Renatus Cartesius 1596-1650) らは言語を軽視した(彼のすべてを疑う方法的懐疑において 'je suis, je existe'(「わたしはある、わたしは存在する」)、'je pense, donc je suis'といった表現が、彼の直観を正しく表現しているか否かについてさえ全く疑いを持たないところに、その時代の状況が明白に現れている。ただし彼の論理思想はポール・ロワイヤル学派において展開され、当時のフランス・カトリック思想界で基本的教科書として使用された。 同様の言語軽視はイギリス経験論者にも見られる。彼等は、アウグスティヌスの名辞と名辞の連接としての命題観を受け継ぐ。ただその意味対象(指示)として、対象物それ自体にかえて、彼等の認識論に従って観念に置き換えたのみである。このパタンはジョン・スチュアート・ミルを通じて中後期のラッセルまで続く英国言語哲学の欠陥であり続けることになる。 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leipniz, 1646-1716, 関連主著『論理学』)の普遍数学 (mathesis universalis) の構想はきわめて先駆的なものであった。少数の無定義概念と定義により諸科学の諸概念を、それらからなる少数の無証明公理と論理とのみから全知識命題を導出することを試みた。そして、普遍記号学と推論計算との二分野からなる基本普遍学の構築を企てた。とはいえ、無神論者・異端者としての誹謗をおそれた彼は、一般書『弁神論』の他は、哲学関係の著作を一切発表しなかったため、長らく言語哲学への影響はきわめて限定されたものであった。遺稿からの評価では、可能世界論を存在論と意味論との並行において論じている。その構想は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、クリプキの可能世界意味論・様相論理の先駆であるとともに、コンピュータ言語への大きな貢献を成し遂げているとされている。 ここまでは、言語を論理の表現として把握する思考が主であった。それに対し、カントの悟性範疇を言語で置き換え、言語が人間において質料世界からの無定形な原=情報を分節化した認識対象として構成する決定的機能を持つことを指摘したのが、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(karl Wilhelm von Humboldt,1767-1835 主著 "Ueber die Kawaisprache auf der Insel Java")の言語研究だった。 彼によれば、人間は現実の諸言語を創造する能力とこれらの諸言語を規定する言語形式保持の能力とをもつ。後者からの外部表出としての前者が多様に具現化することをもって、人間の諸言語の(ひいては人間の諸文化・思想の)多様性を説明しようとした。ただし、当時の言語学者は主に個別言語にしか興味を有さず、また哲学者たちは人間精神自身の能力しか関心を持たなかったため、フンボルトの言語哲学への影響は限定的なものにとどまった。 この反フンボルトの代表格に、言語学者としては比較言語学・歴史言語学の大家ヤーコプ・グリム (Jakob Grimm 1785-1863)・ヴィルヘルム・グリム (Wilhelm Grimm 1786-1859) のグリム兄弟が、哲学者としてはヘーゲル、シェリング、ショーペンハウアー等のドイツ観念論者の系譜があげられる。19世紀後半になるとヘルマン・パウル(Hermann Paul 1846-1921 : 主著 "Prinzipen der Sprachaphilosophie" 『言語史原理』) が、言語の歴史の錯綜と変容に満ちた過程の背後に、不変かつ普遍な人間精神の共通性の存在を想定し、ドイツ青年文法学派の指導的役割を果たした。 言語学領域における言語哲学的関心は、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure 1859-1913。主著 "Cours de Linguistique générale" 『一般言語学講義』)において頂点に達する。彼は言語学を、言語の歴史的変遷をたどる通時(diachronique 歴史)言語学と、言語構造の同一性に訴える共時(idio-syncholonique)言語学とに峻別したうえで、言語の研究対象を個別の発話(parole)、文法構造を共有する一つの言語(langue)、それらを産出する能力としての言語能力(langage)に分類する。さらに、言語は世界を恣意的に分節化しそれを記号内容(シニフィエ、所記)に対して恣意的な対応関係にある記号表現(シニフィアン、能記)によって指示するという二重の恣意性を指摘、加えて記号表現自体は時間的に線状性をもつことを指摘した。 彼の思想は、特にその共時言語学と記号の考察と構造主義(言語の共時的・静的モデルを思考の基本におく)およびポスト構造主義(言語の静的モデルのみならず変動システムをも考察の範囲に取り入れる)の理論家たち(ローマン・ヤーコブソン、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァなど)として発展した。ただし、これらは言語哲学(philosophie langagière)よりは記号論(sémiologie, sémiotique)と呼ばれることが多い。 なお、これらの基礎となった『一般言語学講義』においては、編集者(セシュエ&バイイ)の誤解が著しく、ソシュール自身の言語観が大きくゆがめられて伝達されていることが、丸山圭三郎などの一連の仕事によって明らかにされている。 これら、言語学から記号論へとの流れと並んで、19世紀半ばより哲学領域でも言語への志向があらためて起こった。その一人に現象学の創始者エドムント・フッサール (Edmund Husserl 1859-1938) があげられる。彼は言語を、精神の表出運動それ自体とその意味付与作用としての志向及び意味充足との合力として把握した。この流れは現象学一般へと展開していく。しかし、現象学は第一義的には超越論的な自己の心理能力そのものに関心を抱くものであるため、言語はその中の一つの因子として考察されるにとどまることが多い。 言語を存在のあるいは心理能力の一機序と定位してきたこれまでの西洋哲学史に反して、言語こそを哲学の中心課題に定位したのが分析哲学である。分析哲学は、フレーゲ、ラッセルを基礎とし、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインもしくはカルナップを端緒とするが、英米を中心とした哲学の潮流を中心とし、観念等よりも言語の優越を基礎とする。だがその主張は多岐にわたり、かつ、中心テーゼも必ずしも存在しない。またその発展とともに、分析哲学の仕事の範囲は言語の哲学の範囲を超えて存在論、倫理学、美学、心の哲学、行為論、科学の哲学、数学の哲学等、哲学のほぼ全てと言えるほど多岐にわたってきている。 広義での分析哲学の源流は、19世紀中葉ドイツの数学者ゴットロープ・フレーゲ(Gottlobe Frege:主著『概念記法 ("Begriffsschrift, Eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens")』『算術の基礎 ("Die Grundlagen der Arithmetik")』『算術の基本法則 ("Grundgesetz der Arithmetik" I)』)に求められる。彼は、それまでの言語哲学が命題間に成立する三段論法(既にアリストテレスによりほぼ完成されていた)を前提に名辞とその対象とを考察することしか主たる課題としていなかったのに対して、一命題(Satz)内の構造と量化(すべての、ある、存在する)とを問題にする量化理論を発見した。さらに、それに基づく意味論を考察した。 彼によれば、言語の基本単位は命題(文 Satz)であり、それより小さい諸単位(日常言語では語句、フレーゲの量化論理では、項 (Argument) と函数 (Funktion))の意味は一つの命題という文脈の中で考えられねばならないという文脈原理を提唱した。また「意義と意味について (Über Sinn und Bedeutung)」において、「明けの明星」と「宵の明星」という2つの語がいずれも指示対象としては同一の金星を指すにもかかわらず言語における機能を異ならせることから、指示対象のことを「Bedeutung」(意味)と呼び、その語の意味の違いを「Sinn」(意義)と呼んで区別する、という画期的業績を残した。とはいえ、フレーゲにおいては、意味は言語を超越した超実在(一種のイデア)であるGedanke(思想)に求められている。この点で、分析哲学化や後述する言語論的転回を経験したものとはいえない。 20世紀初頭、フレーゲの論理学に基づく数学基礎論に批判を加え、新たな数理哲学を展開したバートランド・ラッセル(Bertrand Russell 英)は、さらに「確定記述 (definite description)」について、それを分析する。確定記述とは、「the present king of France(現在のフランス王)」 のように記述の形をとりながら事実上固有名詞のように唯一の存在を名指す機能をもつ語法のことである。ラッセルは「指示について 'On Denoting'」において、「現在のフランス王は禿げである」という命題は現時点でフランス王が存在しないので真とも偽ともいえないように思われるので問題であるが、「Xがフランス王であり、かつXが禿げである、そのようなXが存在し、しかもただ一人存在する」という諸命題の連言として解釈することによって、一応の解決をもたらした。 この瞬間、哲学上の問題を言語分析により解消するという分析哲学の基礎が打ち立てられたといえる。また同時期、ラッセルのケンブリッジにおける同僚ジョージ・エドワード・ムーア(George Moore 英)は「倫理学原理 "Principia Etica"」において、「良い (good)」という語の使用法の詳細な分析を行い、当時英国で英国経験論者を中心に信奉されていた考えと違い、「良い」という倫理的価値語は「益がある・好ましい (preferable)」などの自然的記述語には還元できないと論じた(自然主義的誤謬の項参照)。それにより、日常言語の使用法の記述による哲学的問題の解決を行った。 なお、ラッセルが展開した数理哲学については、『プリンキピア・マテマティカ』 (『数学原理』、"Principia Mathematica") を参照。この本は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead 英)との共著。 これらの業績の上になりたったのが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein 墺→英)の処女作『論理哲学論考 ("Tractatus-Logico-Philosophicus / Logische-Philosophische-Abhandlung")』である。短期間ではあったがラッセルが彼の師を務めたものの、ラッセルによる序文は、彼の理論を誤解した部分が多いとされる。 しかし難解で様々な解釈があり、その解釈の一つによれば、日常言語は完全であるが複雑であるので、哲学的問題の解決のため簡便なモデルを創出する。それは、日常言語も共有する(ことを分析により明晰化するはずの)形式である、とされる。その形式は、言語はすべてそれ以上命題として分析できない基礎である(ここにフレーゲの文脈原理が忠実に採用されている)原子命題 (atomistiche Satz) とその真理函数 (Wahrheitsfunktion) とからなる(原子論 atomism)。原子命題は、名 (Name) と名との結合である。これらの言語的基礎単位に対応して、世界 (Welt) において原子的命題に事態(Sachverhalt)、名に物 (Ding) が対応する、そして、論理と数学の命題は特殊な命題であるが記述的命題ではなく、加えて、事実命題、論理学の命題、数学の命題以外は無意味な擬似命題であり、価値や倫理や神や世界の意義は語ることができないという主張がなされた、という。『論理哲学論考』の、言語の構造こそが存在論を規定するという発想こそ、言語論的転回の決定的な指標であり、分析哲学の誕生であった。 この『論理哲学論考』を受けて、分析哲学にはラッセル以外にも4つの流れが生じた。論理実証主義、後期ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派である。 その第一は論理実証主義 (logischer Positivismus) もしくは論理経験主義である。オーストリアのウィーンの哲学者たちによるウィーン学団 (Wiener Kreis) やドイツのベルリンの哲学者や数学者によるベルリン学派グループ(ルドルフ・カルナップ(Rudlf Carnap 墺→米)、モーリッツ・シュリック(Moritz Shclick 墺)、ハンス・ライヘンバッハ(Hans Reichenbach 独→米)ら)では、数学が記述命題ではないことに着眼し、さらに検証可能な命題以外は有意味でないという主張をもとにして、有意味な命題は自然科学に属すると主張する。 そして『論理哲学論考』の主張に従い、従来の哲学における形而上学を追放し、日常言語の曖昧さを廃して完全な人工言語の創案に邁進するという理想言語学派(ideal language philosophy 人工言語学派)を開いた。それにより、自然科学的諸命題の性質に基づく世界観を構築しようとした。 『論理哲学論考』が命題の意味に関連して事実との一致不一致に基づき、真偽判定可能な命題を有意味命題 (sinnliche Satz) としたのに対し、論理実証主義たちは検証可能/不可能という概念に基づき、「検証可能な命題=自然科学によって判定される命題=有意味な命題、検証不可能な命題=擬似命題=除去されるべき命題」という二分法を導入した。それにより、科学とは検証可能な諸命題の総体である、と主張する言語哲学に基づく科学観を形成した(→科学哲学)。 これらの主張はアルフレッド・エイヤーの『言語、真理、論理』(A.J.Ayer "Language, Truth, and Logic" )によって英国にもたらされ英国哲学界を震撼させた。この主張に対しては、カール・ポパー(Karl Popper 墺→米)が一般法則は決して完全に検証できないことから検証可能性条件では科学の法則命題の正当性を保証できないと批判した。加えてポパーは、反証については一つの反証事例でも決定的証拠になるという検証と反証の非対称性に着目し、反証可能性 (falsificationability)に科学の基準を置いた。その他科学哲学を参照のこと。 第2の流れは『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタイン自身の哲学の変遷である。この展開は漸移的かつ多彩であるので詳細ははぶくが、彼は『哲学的探求 ("Philosophische Untersuchungen")』において、「規則は行為を決定できない」という規則のパラドックス (rule following paradox) の帰結としての根元的規約主義 (radical conventionalism)、言語の使用タイプの多様性、及び言語がその意味を生活上の機能からくみ上げていること、等へ注目する。この観点から哲学の諸問題については、哲学の問題が陥っている言語の日常的使用からの乖離を批判し、それ等の語の日常的使用を注目することにより、解答を与えるのではなく擬似問題であるとして解消することこそ、正しい対処法である、と考えた。その一方で、単なる規約主義ではなく、人間の自然誌(Naturgechichte)的・文化的(生活形式、Lebensform)要素と言語の機能との関係に、注目していった。 この方向性は、言語哲学を越えて、心の哲学(『心理の哲学に就いての考察』"Bemerkungen über die Philosophie der Psychologie")と数学の哲学(『数学の基礎に就いての考察』"Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik")とにウィトゲンシュタイン独自の理解を提示することになる。更に死の直前に残したノート(『確実性について』Über Gewissheit)からは言語の基礎(クワインやラカトシュのいう理論の核・中心部に概ね相当する)についての考察が見出される(いまだ学界でも十分に消化されたとはいえないテクストである)。 ただし、この時期のウィトゲンシュタインは、そのテクストが難解なこと、体系的議論に形式化され得ないので多量の問題形成→解決→更なる問題の発生という学問グループ内の巨大化が困難なこと、彼自身と彼の弟子たち(ノーマン・マルカム(Norman Marcolm 米→英→米。主著 "Dream")、ピーター・ウィンチ(Peter Winch 英→米。主著『倫理と行為("Ethics and Action")』勁草書房)、ラッシュ・リース(Rush Rhees 英。主著"Without Answers")、エリザベス・アンスコム(Gertlud Elizabeth Margaret Anscombe 英。主著『インテンション("Intention")』)等が多分に秘教的なサークルを作りその中でのジャーゴンの応酬と彼の著書の訓固に急がせたことなどから、分析哲学の中では孤立的立場にある。 また、この時期のウィトゲンシュタインの業績は、そもそも言語を分析するものではないことから、文法 (Grammatik)、および使用(Gebrauch)の「展望の哲学 (Philosophie der Übersehen)」と呼ばれるべきだ、という主張もある。日常言語に重きをおいたことから、後期ウィトゲンシュタインとオースティンは共に日常言語学派に分類されたこともあるが、オースティンが体系的哲学化を志向したのに対し、後期ウィトゲンシュタインは哲学問題の解消を図ったのであって、その哲学についての態度は大きく異なる。 一方で、カルナップからの言語哲学は、W.V.O.クワイン(Willard van Orman Quine 米)にも引き継がれる。彼は、いかなる言語理論も論理を含めてそのどこでも改訂可能であるとして理論の全体論 (wholism of theories) を提示する(『ことばと対象(" Words and Object")』勁草書房)。また存在が何であるかとは言語の枠組みに何を取り入れるかの問題に過ぎない(「存在するとは何か ("On What There IS")」『論理的観点から』勁草書房所収)とする。さらに語が何を指示しているかは一義的に定まりえない(「存在論的相対性について "Ontological Relativity"」)とする指示の不可測性 (inscrutability of reference)、データからは正しい理論は一義的に定まらないとする理論の決定不全性 (underdetermination of theory)や、正しくかつ相互に諸命題の真理値が一致しない複数の翻訳が存在するという翻訳の不確定性 (indeterminacy of translation) 等の、言語の存在論的優位に基づく諸議論を展開した。これが『論理哲学論考』以降の第3の流れである。 この流れは、基本的には論理学に基づいた単純な、しかし、言語の全体論 (semantic wholism) を採択した言語を考察の中心として、それに基づいて哲学の諸問題を解決しようとするドナルド・デイヴィッドソン(Donald Davidson 米)に引き継がれる。 そして、排中律の否定と意味の分子論 (molecularism) を主張するマイクル・ダメット(Michael Dummett 英。主著『真理という謎 ("Truth and Other Enigmas")』、'What Is a Theory of Meaning I,II')などに受け継がれていく。 第4の流れは、『論理哲学論考』からもその後のウィトゲンシュタインの哲学的発展からもかなり独立した、英オックスフォード大学の哲学者J.L.オースティン (J.L.Austin) に始まる日常言語学派の流れである。オースティンは、日常言語が記述のほかに命令・嘆願・命名・疑問等さまざまな使用タイプがあることに注目(『言語と行為 "How to Do Things with Words"』)し、これらの詳細な分析に基づいて哲学的問題の解決を目指した。特に、言語を使用しながらなにかの行為を行う(たとえば、裁判官が判決文を読み上げることによって〈判決を下す〉という行為がなされる)言語行為 (speech act) に注目した。これらの諸機能は後にサール(John R. Searle 米)によって、より形式的・組織的に分類が行われる(『言語行為 ("Speech Acts")』他)。 また、ウィトゲンシュタインともオースティンとも独自に、日常言語に即して哲学的行動主義を展開し、また範疇間違い (category mistake)という事象(ケンブリッジの各校舎を案内されながら「で、大学はどこですか?」と問う人が犯しているような、抽象的対象の範疇と観察可能な対象の範疇との取り違えなどの範疇の誤りを指す)の問題点を指摘したギルバート・ライル(Gilbert Ryle,主著『心の概念(“The Concept of Mind”)』)も、日常言語に依拠したタイプの初期の重要な分析哲学者だった。 これら、ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派が広義での分析哲学の主流として、現在も英米において諸学派に対して大きな影響を与える位置にある。特に、言語哲学・言語の哲学としては、英米では他の追従を許していない。これに対して、(ポーランドを除く)ヨーロッパ大陸に於いてはカール=オットー・アーペル (Karl-Otto Apel) 等多少の研究者は見出されるものの概して分析哲学は極めて限られた影響しか有していない。フランスにおいては、構造主義、ポスト=構造主義等の言語論・記号論等の思想家たちが言語についての思想的=哲学的アプローチについて圧倒的な勢力を占めている。ドイツでの言語の哲学的思惟においては、ユルゲン・ハーバーマス (Jürgen Habermas) らフランクフルト学派がマルクス主義を押さえて主要な立場になってきているようである。但し、こと言語の面においては、ハーバーマスはアーペルとともに、後期ウィトゲンシュタインの影響が著しく、その発展的応用者と解釈することも不可能ではない。論理学者のレシネェィスキ、その弟子でドナルド・デイヴィッドソンの意味論に決定的道具立て(T文)を与えたタルスキ、等のポーランド学派は、一種の人工言語学派(理想言語学派)として強い影響力を保っている。 その後の特記すべき展開は、指示論について長らく定説とされてきたラッセルの記述理論 (description theory of reference)、後期ウィトゲンシュタインの通俗的理解における記述束説 (cluster theory of regerence) を覆そうとしたソール・A・クリプキ(Soul A. Kripke:彼は様相論理の完成者としても著名である)による固定指示詞説 (rigid degignater theory) と指示の因果説 (causal theory of reference)(『名指しと必然性 ("Naming and Necessity")』)がある。 後者に近い言語の社会共働説を唱えまた内部実在論を提唱したヒラリー・パトナム (Hilary Putnam) や、同じくクリプキによる分析性 (analysity) と必然性(necessity)の区別の導入(というのも、論理実証主義の台頭以来、長らく必然性とは分析性に他ならないと考えられてきていた)、トーマス・クーン(Thomas Kuhn,『科学革命の構造 "The structure of Scientific Revolution"』)、ファイアアーベント以後の自然科学の反=実在論的潮流に反対する自然科学的対象の実在を主張する科学的実在論 (scientific realism) の台頭などである。なお、モンタギュー意味論で知られるモンタギューが分析哲学と言語学の狭間に、それよりやや言語学寄りにノーム・チョムスキーが位置する。 大陸哲学では分析哲学と違い言語が独立した一分野としては研究されていない。むしろ、言語は思想の他の多くの領域、例えば現象学、記号学、解釈学、ハイデッガー存在論、実存主義、構造主義、脱構築、批判理論などと分かちがたいものとされる。言語の思想は論理学の思想としばしば結びつけて考えられる。ここでいう論理学とはギリシア語のロゴス、談話や対話の意味である。また、言語と概念は歴史と政治によって、さらには歴史的な哲学そのものによって形成されてきたとみなされてもいる。 解釈学の分野は、そして一般的に解釈の理論は、ハイデッガーに始まる存在論と言語の20世紀大陸哲学において重要な役割を演じてきた。ハイデッガーはヴィルヘルム・ディルタイの解釈学を現象学と統合している。言語は「現存在」にとって最も重要な概念の一つだとハイデッガーは信じていた。「言語は存在の家であり、存在が言語を所有し、存在が言語に染み渡っている。」 しかし、重要な言葉の濫用により今日の言語は摩耗しており、存在(「Sein」)の徹底的な探求には堪えないとハイデッガーは考えていた。例えば、「Sein」(「存在」)という言葉自体は複数の意味をもつ。それゆえ、彼は一般的に使われている言葉と区別するために古代ギリシアとドイツの語源学的関係に基づいて新しい語彙・文体を生み出した。彼は意識、エゴ、人間、自然等々の言葉の使用を避けて代わりに「世界内存在」や「現存在」を総体として語った。 「世界内存在」という新しい概念と共に、ハイデッガーは音声による意思疎通に焦点を当てた独自の言語理論を打ち立てた。音声(発話、聴取、沈黙)は言語の最も本質的で純粋な形式だと彼は考えた。読者も読んでいる間人の独自の「発話」を構築するのだから書記は音声の補足にすぎないとハイデッガーは主張した。言語の最も重要な特性はその「射影性」、つまり言語は人間の発話に先立つということである。これはつまり、世界に投げ込まれたものの存在は世界の明らかな事前理解による始まりから特徴づけられるということである。しかし、名づけ、つまり「明瞭な発音」のみが「現存在」や「世界内存在」を一次的に参照できる。 ハンス・ゲオルク・ガダマーはハイデッガーの思想を発展させて完成された解釈学的存在論を提示した。『真理と方法』において、ガーダマーは言語を「本質的な理解と承認が二人の人の間で起こるための媒体」であるとした。また、世界は言語によって構成されており、言語を離れては存在できないとガーダマーは主張した。例えば、言語の助けなしには記念碑や彫像は自身の持つ意味を伝達できない。世界の言語的本性は個々の物を対象的環境から解放するので、全ての言語は一つの世界観を構成するともガーダマーは主張している: 「[...]私たちが完全に[言語]に依存した世界を持っていてその中にそれ自体を現前させているという事実。世界としての世界は世界の他の生物のためとしてではなく人のために存在する。」 一方ポール・リクールは解釈学(仏:Herméneutique)をギリシア語における言葉の本来の意味と再連結した形で提示し、日常言語の曖昧な言葉(あるいは「象徴」)の中の隠れた意味を発見することを重視した、この流れに属する哲学者にはほかにルイジ・パレイゾンとジャック・デリダがいる。 記号学は一般的に記号や象徴による情報伝達、反応、意味を研究する。この分野では、(自然にしろ人工にしろ)人間の言語は人間(や他の知的生命体)が情報伝達するのに使える多くの手段のうちの一つにすぎないとされる。この考えをとることにより、自分たちのために意味を作り他者に意味を伝達するために利点を得て外的世界を効率的に操作できるようになる。あらゆる対象、あらゆる人、あらゆる出来事そしてあらゆる力が情報伝達(あるいは「表現」)し続けている。例えば電話が鳴るのは電話「である」。地平線上に煙が立つのを見たらそれは火事をあらわす記号である。煙は表現している。この観点では世の中に存在する物事は人間がそうするのと同様にそれらを解釈することだけを求めている知的存在にとって正確に符号を貼られているように思われる。全ての物は意味である。しかしながら人間の言語の使用を含む真の情報伝達は受け手に対して何らかの信号において「メッセージ」つまり「文書」を送る者(「送り手」)を要求している。言語はこういった情報伝達形式(の中でも最も洗練された形式)の一つである限りで研究される。記号学の歴史の中で重要な人物としてチャールズ・サンダース・パース、ロラン・バルト、ロマーン・ヤーコブソンがいる。近代においてはそのもっともよく知られた人物としてウンベルト・エーコ、アルジルダス・ジュリアン グレマス(英語版)、ルイス・イェルムスレウ、トゥッリオ・デ・マウロがいる。人間以外の情報伝達における記号の研究は生物記号学の主題である。生物記号学は20世紀後半にセボーク・トマスとトゥーレ・フォン・ユフクエルによって創始された。 日本では、大森荘蔵が留学から帰国後、ウィトゲンシュタインの過渡期の講義録的書籍といえる通称『青色本 (Blue Book)』を東京大学教養学部でのゼミナールに使用したことで分析哲学が実質的に移入された。大森自身は分析哲学ともやや異なる独自の哲学を展開していったが、その膝下からは、弟弟子にあたる黒崎宏、弟子からは石黒ひで、奥雅博、丹治信春、飯田隆、野家啓一、野矢茂樹などを生んだ。 ほかにも、末木剛博、黒田亘、野本和幸などがいる。 また神崎繁のように、分析哲学の手法を西洋古典学に導入したり、清水哲郎のように聖書やオッカムを分析哲学的に読解したり (『パウロの言語哲学』: パウロは、イエス・キリストが神を信じた信仰を救済根拠とするのであり、信徒たちの神もしくはキリストを信じる信仰は語られていないとする。『オッカムの言語哲学』勁草書房)、門脇俊介のようにフッサール、ハイデッガーを専門としつつ分析哲学的知見をとりこんだり、と、新鮮な越境的試みもなされつつある。 さらには、純粋哲学の枠を超えて、法哲学、社会学、宗教哲学、文学 (文芸) などの諸分野にも遅ればせながら応用が始まっている。 日本では分析哲学は、渡邊二郎ら、特にドイツ哲学研究者及びマルクス主義者からの忌避もあって長らく不遇にあった。しかし、大森「学派」の開花とともに、三浦謙、斉藤浩文、関口浩喜、松坂陽一、大辻正晴、中川大、金杉武司らが業績を生んでいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "言語哲学(げんごてつがく、英語:philosophy of language)は、語義的に二つの意味に大別される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「言語の哲学としての言語哲学」については一方では古代ギリシャの文法学や古代ローマの弁証法(dialectike)や修辞法(retolike)を淵源とする。他方で、純粋な哲学としては、その祖イオニア学派も自然学に傾倒したがその過程で既にパルメニデースやゼーノーンはパラドクスを駆使している。また、ソピステース(ソフィスト・知者)たちは相手に議論によって勝利しようとしたことから、また、「知を愛する人」(フィロソポス、後の「哲学者」)を自称したソークラテースの“産婆術”も、相手を誘導しつつ哲学的解決へと導くという手法から、少なからぬ言語と論理とへの反省的意識が存在していたと推定される。ただし、ここまでは伝承と断片とラエルティオスの報告とプラトーンによる創作を通じての推測である。言語についての哲学的反省について、確実に本人の一次資料に基づいてある程度の分量を述べることができるのはプラトーンからである。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "彼は、イデア論やアナムネーシス(想起)説を提唱するに際して、言語的反省と論理的推論に基づいて(対話という表現形式を用いながらも)哲学的諸原理に到達した。更に、その弟子アリストテレースに到ると、単にその形而上学をはじめとする哲理への到達手段として論理を用いたのみならず、論理構造と虚偽論それ自体を体系化して学問範疇となす。特にその論理学は基本的に19世紀のフレーゲまで、論理学の基本となるものであった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "上記の流れはローマ帝国において、一方では法廷弁論術として、他方ではストア派や中期プラトン学派の哲学思考法として継承されたものの、東西の分裂を機に、ギリシャ語圏の東ローマ帝国では観想と聖書の霊的解釈学とを重んじたビザンティン・キリスト教思想において次第に弱体化する。他方、早くに西ローマ帝国の滅亡といわゆる「蛮族」の横行をみたラテン語圏の西ヨーロッパでは、ヒッポのアウグスティヌスという古代末期最大の哲学者が生まれ、命題論としては名辞と名辞の連接、意味論としては名辞とその対象物('Fido'-Fido theoryという揶揄的名称がある)のように、フレーゲ以前を決定付ける言語哲学が確立した。アウグスティヌスは言葉(verbum)を記号(signum)の一種とみなして考察を行った。また、『嘘について (De mendacio)』、『嘘に反対して (Contra mendacium)』、『エンキリディオン (Enchiridion)』などで、アウグスティヌスは、人間の言語活動における文脈や話し手・聞き手の意図の重要性に着目している。彼は他に、『三位一体論』では、「外的語り(locutio foris)」、「心の語り(locutio cordis)」もしくは「内的語り(locutio interior)」、「音声の似姿において思考されるもの(cognitativium in similitudine soni)」の三者を区別した。音声を伴った言葉である「外的語り」に先行して、ギリシア語やラテン語のような自然言語には属しない「思考(cogitatio)」である「内的語り」が存在している。そして、「外的言葉」を声に出さずに考えている場合をアウグスティヌスは「音声の似姿において思考されるもの」と呼んだが、同様の概念が「内言」と呼ばれて発達心理学や認知言語学の分野で20世紀以降注目されている。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ギリシアの論理・言語の哲学はボエティウスによって西方ラテン世界へ紹介された。彼はアリストテレスの『オルガノン』全編やポルピュリオス『エイサゴーゲー』をラテン語へ翻訳した(ただし『オルガノン』のうち『分析論後書』は散逸し、『分析論前書』や『詭弁論駁論』は中世初期には読まれなかった)。ボエティウスの翻訳に不備があるとして非難する声もあるが、文献学的な研究によれば、むしろボエティウスに先行するガイウス・マリウス・ウィクトリヌスの翻訳などより優れたものであるという。また、ボエティウスは『エイサゴーゲー』および『命題論』にはそれぞれ初歩的なものと高等なものの二つの注釈書を、『範疇論』、『トピカ』、キケロの『トピカ』にはそれぞれ一つの注釈書を著した(アリストテレスの『トピカ』に対する注釈書は散逸した)。ボエティウスは『区分について(De divisione)』『様々なトピカについて(De topicis differentiis)』、『仮言的三段論法について(De syllogismo hypothetico)』といった研究論文も書いたが、注釈書共々独創性は低く、ボエティウスは努めて論理や言語の哲学の紹介者であろうとしたのだとされる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アウグスティヌスが記号(signum)という表現を用いて言葉を考察したのに対して、ボエティウスは表示(significatio)という表現を用いた。ボエティウスの言語哲学は以下のような特徴を持つ:", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(1)話し言葉は第一には心の中の思惟(intellectus)を表示(significare)し、第二に思惟を介して思惟によって捉えられる事物を表示する(24.12-13;33.27-31)。 (2)話し言葉や書き言葉の文があり、文の中で名詞と動詞が区別されるように、心の中にも文(いわゆる「思考文」)があり、名詞と動詞が区別される(30.3-10)。 (3)心の中の名詞と動詞の複合、つまり思惟の複合と、その結果として思惟の内に生じる真理値は、話し言葉の名詞と動詞の複合と真理値に派生する(49.27-32)。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(1)に関して、ボエティウスは思惟が形成されるためには外界の事物が必要だと考えていた。上記の(2)~(4)はジェリー・フォーダーの「思考の言語」説の主張と共通する部分がある。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ボエティウスや文法家のプリスキアヌス以降の西欧では言語の哲学に限らず哲学全体がしばしの停滞期をむかえ、カロリング朝ルネサンスの時代に復興する。これ以降の中世の論理学は、12世紀ルネサンスの時代を境目に旧論理学(logica vetus)と新論理学(logica nova)に二分される。旧論理学の時代には、前述のようにアリストテレスのオルガノンのうち『分析論後書』、『分析論前書』、『詭弁論駁論』などは読まれなかったし、カロリング朝ルネサンスの時代には『範疇論』に関してもボエティウスがラテン語に訳したものではなく、『範疇論について』の梗概・注釈書である偽アウグスティヌス『十の範疇について』が読まれた。したがって言語哲学のテキストとしては、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(ボエティウス訳・註解)、アリストテレス『命題論』(ボエティウス訳・註解)、『範疇論』(ボエティウス訳・註解)または偽アウグスティヌス『十の範疇について』、キケロー『トピカ』(ボエティウス註解)、ボエティウス『様々なトピカについて』『区分論』などがこの時代に読まれた。文法学ではカロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥス『文法学(Ars grammaticae)』が、時代が下るとプリスキアヌス『文法学教程(Institutiones grammatice)』がテキストとして利用された。また、現代の形式論理学が対象としないような哲学的考察をも中世には論理学の領域となっており、中世の論理学は言語哲学と表現されるのが実情に合っているとされる(ただし、中世にも論理学の対象を今日の形式論理学と同じような範囲に限定すべきだと考える者もいた。この時期には論理学を神学や形而上学と分けて論じる学者と混同して論じる学者が混在していた)。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "カロリング朝ルネサンスの中心人物アルクィヌスは『弁証学(Dialectica)』を著した。本書は五つの普遍(類、種、種差、付帯性、固有性)、範疇、三段論法、定義・区分、トポス論、命題論といったものを扱っており、アリストテレスからボエティウスやカッシオドルスに至るまでの流れを扱ったに過ぎなかった。ただ、独自の思想を唱えるには至らなかったものの言語研究史上におけるアルクィヌスの功績は決して小さくない。アルクィヌスの後をついで宮廷学校長となったヨアンネース・スコートゥス・エリウゲナ(主著『自然位階論』)は偽ディオニシォース・ホ・アレオパギテース(主著『神名論』『神秘神学』)の諸文書をラテン語訳・紹介することを通じてネオプラトニズムを再導入した。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ラテン語圏では11世紀になると、アンセルムスに代表されるような形で論理学が再び活発化する。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "まず、ヨーロッパ各地での学問的な活性化の中で、細々とした伝承だけであったアリストテレースの論理学著作も、再びボエティウスの註解とともにきちんととした形で読まれるようになる。 ロスケリヌスら音声論者(Vocales)は「普遍は単なる音声にすぎない」とし、後の唯名論 (Nominalismus) へとつながる議論を開始したが、これはアンセルムス『ロゴスの受肉に関する書簡』などで批判された。このころには論理学は事物(res)に関する学問であると考えられていて、それに対して論理学は言葉・音声(vox)に関する学問だという意見は奇抜なものだと受け取られたとされる。12世紀に入り、そうした運動の中でアベラルドゥス(アベラール)は、それまで漠然と使用されてきた「普遍」といった概念自体を問いかけ、大きな議論を引き起こす(普遍論争)。アベラルドゥス以前のヨハネスやロスケリヌスが音声(vox)という用語を使ったのに対してアベラルドゥスも初期はそれに従ったが途中からはsermoやnomenという用語を使い、彼とその弟子たちはnominalesと呼ばれるようになった。この違いは、ロスケリヌスらとその批判者との対立が普遍や範疇を言語哲学の問題として扱うか形而上学の問題として扱うかという点にあったのに対し、アベラルドゥスが存在論的態度表明を持ち込んだことによる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アベラールは『文法学(Grammatica)』という名の著書を著した。これは現在では失われているが、彼は論理学の議論に文法学の用語・手法を持ち込んだ。このことは音声論者たちに影響を受けてのことだったと推測されている。対して、論敵のシャンポーのギヨームは文法学と論理学を切り離して論じる傾向があり、これが12世紀に支配的な傾向だった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "カロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥスの著書が文法学のテキストとして使用されていたのに対して、この時期にはプリスキアヌス『文法学教程(Institutiones grammatice)』が使われるようになった。しかし13世紀にいたるとダキアのボエティウスのように、プリスキアヌスの規範文法学では満足できないものが現れ、言語的法則や規範の原因を問う思弁文法が興隆することになる。それに伴って、文法学の分野で様態(modus)に着目する様態論者(modistae)が現れた。彼らの言う様態は表示の様態(modus significandi)、理解の様態(modus intelligendi)、存在の様態(modus essendi)の三つに区別され、理解の様態は表示の様態の原因で、存在の様態は理解の様態の原因だとされた。また、今日の哲学者が現実について知るために言語の本性について考察するのに対し、様態論者は言語現象の原因を明らかにするために現実について論じたという。しかし様態論者の主張のうち、表示の様態は後にオッカムの剃刀によって剃り落されてしまう、というのはオッカムは表示の問題を精神-事物間でのみ扱うために言葉の表示の機能は不要となるからである。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "そうして、イスラーム圏に保持されたギリシア哲学諸文書の流入・翻訳を機に(実際には、ビザンツ所有の文献の流入の影響もかなり大きかったというが)いわゆる12世紀ルネサンスが起こる。その動きは、イスラーム圏の進んだ科学探求の成果の導入のみならず、それまで論理学者としてのみ知られてきていたアリストテレースの広範な業績の再発見でもあり、これらの新たな思潮の消化・吸収と反発が13世紀を形成することになる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "そして14世紀には独自な発展があり、それは例えばオッカムの論理学等に見ることができる。オッカムの思想の内ではオッカムの剃刀の他に代示理論もよく知られている。代示理論はオッカム一人が唱えたものではなく長い期間研究されたもので、研究が蓄積するとともに理論が精妙ではあるが煩瑣なものとなり、ルネサンス以降批判の的となった。20世紀以降の言語哲学では再評価されている。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらスコラ哲学における論理学や文法学の発展の中には、当時の流れから言えば傍流ではあるが例えばラモン・リュイ (ラテン語名:Raimundus Lullus ライムンドゥス・ルルス、1235-1316) がおり、語と語を組み合わせる機械によって全世界の全真理を知ろうとする「ルルスの術(普遍的な偉大な術 ars magna generalis)」の発明を得るに到った。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後、近世哲学の創始者ルネ・デカルト (Rene Descartes, Renatus Cartesius 1596-1650) らは言語を軽視した(彼のすべてを疑う方法的懐疑において 'je suis, je existe'(「わたしはある、わたしは存在する」)、'je pense, donc je suis'といった表現が、彼の直観を正しく表現しているか否かについてさえ全く疑いを持たないところに、その時代の状況が明白に現れている。ただし彼の論理思想はポール・ロワイヤル学派において展開され、当時のフランス・カトリック思想界で基本的教科書として使用された。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "同様の言語軽視はイギリス経験論者にも見られる。彼等は、アウグスティヌスの名辞と名辞の連接としての命題観を受け継ぐ。ただその意味対象(指示)として、対象物それ自体にかえて、彼等の認識論に従って観念に置き換えたのみである。このパタンはジョン・スチュアート・ミルを通じて中後期のラッセルまで続く英国言語哲学の欠陥であり続けることになる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leipniz, 1646-1716, 関連主著『論理学』)の普遍数学 (mathesis universalis) の構想はきわめて先駆的なものであった。少数の無定義概念と定義により諸科学の諸概念を、それらからなる少数の無証明公理と論理とのみから全知識命題を導出することを試みた。そして、普遍記号学と推論計算との二分野からなる基本普遍学の構築を企てた。とはいえ、無神論者・異端者としての誹謗をおそれた彼は、一般書『弁神論』の他は、哲学関係の著作を一切発表しなかったため、長らく言語哲学への影響はきわめて限定されたものであった。遺稿からの評価では、可能世界論を存在論と意味論との並行において論じている。その構想は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、クリプキの可能世界意味論・様相論理の先駆であるとともに、コンピュータ言語への大きな貢献を成し遂げているとされている。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ここまでは、言語を論理の表現として把握する思考が主であった。それに対し、カントの悟性範疇を言語で置き換え、言語が人間において質料世界からの無定形な原=情報を分節化した認識対象として構成する決定的機能を持つことを指摘したのが、カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(karl Wilhelm von Humboldt,1767-1835 主著 \"Ueber die Kawaisprache auf der Insel Java\")の言語研究だった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "彼によれば、人間は現実の諸言語を創造する能力とこれらの諸言語を規定する言語形式保持の能力とをもつ。後者からの外部表出としての前者が多様に具現化することをもって、人間の諸言語の(ひいては人間の諸文化・思想の)多様性を説明しようとした。ただし、当時の言語学者は主に個別言語にしか興味を有さず、また哲学者たちは人間精神自身の能力しか関心を持たなかったため、フンボルトの言語哲学への影響は限定的なものにとどまった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この反フンボルトの代表格に、言語学者としては比較言語学・歴史言語学の大家ヤーコプ・グリム (Jakob Grimm 1785-1863)・ヴィルヘルム・グリム (Wilhelm Grimm 1786-1859) のグリム兄弟が、哲学者としてはヘーゲル、シェリング、ショーペンハウアー等のドイツ観念論者の系譜があげられる。19世紀後半になるとヘルマン・パウル(Hermann Paul 1846-1921 : 主著 \"Prinzipen der Sprachaphilosophie\" 『言語史原理』) が、言語の歴史の錯綜と変容に満ちた過程の背後に、不変かつ普遍な人間精神の共通性の存在を想定し、ドイツ青年文法学派の指導的役割を果たした。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "言語学領域における言語哲学的関心は、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure 1859-1913。主著 \"Cours de Linguistique générale\" 『一般言語学講義』)において頂点に達する。彼は言語学を、言語の歴史的変遷をたどる通時(diachronique 歴史)言語学と、言語構造の同一性に訴える共時(idio-syncholonique)言語学とに峻別したうえで、言語の研究対象を個別の発話(parole)、文法構造を共有する一つの言語(langue)、それらを産出する能力としての言語能力(langage)に分類する。さらに、言語は世界を恣意的に分節化しそれを記号内容(シニフィエ、所記)に対して恣意的な対応関係にある記号表現(シニフィアン、能記)によって指示するという二重の恣意性を指摘、加えて記号表現自体は時間的に線状性をもつことを指摘した。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "彼の思想は、特にその共時言語学と記号の考察と構造主義(言語の共時的・静的モデルを思考の基本におく)およびポスト構造主義(言語の静的モデルのみならず変動システムをも考察の範囲に取り入れる)の理論家たち(ローマン・ヤーコブソン、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァなど)として発展した。ただし、これらは言語哲学(philosophie langagière)よりは記号論(sémiologie, sémiotique)と呼ばれることが多い。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、これらの基礎となった『一般言語学講義』においては、編集者(セシュエ&バイイ)の誤解が著しく、ソシュール自身の言語観が大きくゆがめられて伝達されていることが、丸山圭三郎などの一連の仕事によって明らかにされている。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "これら、言語学から記号論へとの流れと並んで、19世紀半ばより哲学領域でも言語への志向があらためて起こった。その一人に現象学の創始者エドムント・フッサール (Edmund Husserl 1859-1938) があげられる。彼は言語を、精神の表出運動それ自体とその意味付与作用としての志向及び意味充足との合力として把握した。この流れは現象学一般へと展開していく。しかし、現象学は第一義的には超越論的な自己の心理能力そのものに関心を抱くものであるため、言語はその中の一つの因子として考察されるにとどまることが多い。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "言語を存在のあるいは心理能力の一機序と定位してきたこれまでの西洋哲学史に反して、言語こそを哲学の中心課題に定位したのが分析哲学である。分析哲学は、フレーゲ、ラッセルを基礎とし、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインもしくはカルナップを端緒とするが、英米を中心とした哲学の潮流を中心とし、観念等よりも言語の優越を基礎とする。だがその主張は多岐にわたり、かつ、中心テーゼも必ずしも存在しない。またその発展とともに、分析哲学の仕事の範囲は言語の哲学の範囲を超えて存在論、倫理学、美学、心の哲学、行為論、科学の哲学、数学の哲学等、哲学のほぼ全てと言えるほど多岐にわたってきている。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "広義での分析哲学の源流は、19世紀中葉ドイツの数学者ゴットロープ・フレーゲ(Gottlobe Frege:主著『概念記法 (\"Begriffsschrift, Eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens\")』『算術の基礎 (\"Die Grundlagen der Arithmetik\")』『算術の基本法則 (\"Grundgesetz der Arithmetik\" I)』)に求められる。彼は、それまでの言語哲学が命題間に成立する三段論法(既にアリストテレスによりほぼ完成されていた)を前提に名辞とその対象とを考察することしか主たる課題としていなかったのに対して、一命題(Satz)内の構造と量化(すべての、ある、存在する)とを問題にする量化理論を発見した。さらに、それに基づく意味論を考察した。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "彼によれば、言語の基本単位は命題(文 Satz)であり、それより小さい諸単位(日常言語では語句、フレーゲの量化論理では、項 (Argument) と函数 (Funktion))の意味は一つの命題という文脈の中で考えられねばならないという文脈原理を提唱した。また「意義と意味について (Über Sinn und Bedeutung)」において、「明けの明星」と「宵の明星」という2つの語がいずれも指示対象としては同一の金星を指すにもかかわらず言語における機能を異ならせることから、指示対象のことを「Bedeutung」(意味)と呼び、その語の意味の違いを「Sinn」(意義)と呼んで区別する、という画期的業績を残した。とはいえ、フレーゲにおいては、意味は言語を超越した超実在(一種のイデア)であるGedanke(思想)に求められている。この点で、分析哲学化や後述する言語論的転回を経験したものとはいえない。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "20世紀初頭、フレーゲの論理学に基づく数学基礎論に批判を加え、新たな数理哲学を展開したバートランド・ラッセル(Bertrand Russell 英)は、さらに「確定記述 (definite description)」について、それを分析する。確定記述とは、「the present king of France(現在のフランス王)」 のように記述の形をとりながら事実上固有名詞のように唯一の存在を名指す機能をもつ語法のことである。ラッセルは「指示について 'On Denoting'」において、「現在のフランス王は禿げである」という命題は現時点でフランス王が存在しないので真とも偽ともいえないように思われるので問題であるが、「Xがフランス王であり、かつXが禿げである、そのようなXが存在し、しかもただ一人存在する」という諸命題の連言として解釈することによって、一応の解決をもたらした。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この瞬間、哲学上の問題を言語分析により解消するという分析哲学の基礎が打ち立てられたといえる。また同時期、ラッセルのケンブリッジにおける同僚ジョージ・エドワード・ムーア(George Moore 英)は「倫理学原理 \"Principia Etica\"」において、「良い (good)」という語の使用法の詳細な分析を行い、当時英国で英国経験論者を中心に信奉されていた考えと違い、「良い」という倫理的価値語は「益がある・好ましい (preferable)」などの自然的記述語には還元できないと論じた(自然主義的誤謬の項参照)。それにより、日常言語の使用法の記述による哲学的問題の解決を行った。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、ラッセルが展開した数理哲学については、『プリンキピア・マテマティカ』 (『数学原理』、\"Principia Mathematica\") を参照。この本は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead 英)との共著。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これらの業績の上になりたったのが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein 墺→英)の処女作『論理哲学論考 (\"Tractatus-Logico-Philosophicus / Logische-Philosophische-Abhandlung\")』である。短期間ではあったがラッセルが彼の師を務めたものの、ラッセルによる序文は、彼の理論を誤解した部分が多いとされる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし難解で様々な解釈があり、その解釈の一つによれば、日常言語は完全であるが複雑であるので、哲学的問題の解決のため簡便なモデルを創出する。それは、日常言語も共有する(ことを分析により明晰化するはずの)形式である、とされる。その形式は、言語はすべてそれ以上命題として分析できない基礎である(ここにフレーゲの文脈原理が忠実に採用されている)原子命題 (atomistiche Satz) とその真理函数 (Wahrheitsfunktion) とからなる(原子論 atomism)。原子命題は、名 (Name) と名との結合である。これらの言語的基礎単位に対応して、世界 (Welt) において原子的命題に事態(Sachverhalt)、名に物 (Ding) が対応する、そして、論理と数学の命題は特殊な命題であるが記述的命題ではなく、加えて、事実命題、論理学の命題、数学の命題以外は無意味な擬似命題であり、価値や倫理や神や世界の意義は語ることができないという主張がなされた、という。『論理哲学論考』の、言語の構造こそが存在論を規定するという発想こそ、言語論的転回の決定的な指標であり、分析哲学の誕生であった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この『論理哲学論考』を受けて、分析哲学にはラッセル以外にも4つの流れが生じた。論理実証主義、後期ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派である。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その第一は論理実証主義 (logischer Positivismus) もしくは論理経験主義である。オーストリアのウィーンの哲学者たちによるウィーン学団 (Wiener Kreis) やドイツのベルリンの哲学者や数学者によるベルリン学派グループ(ルドルフ・カルナップ(Rudlf Carnap 墺→米)、モーリッツ・シュリック(Moritz Shclick 墺)、ハンス・ライヘンバッハ(Hans Reichenbach 独→米)ら)では、数学が記述命題ではないことに着眼し、さらに検証可能な命題以外は有意味でないという主張をもとにして、有意味な命題は自然科学に属すると主張する。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "そして『論理哲学論考』の主張に従い、従来の哲学における形而上学を追放し、日常言語の曖昧さを廃して完全な人工言語の創案に邁進するという理想言語学派(ideal language philosophy 人工言語学派)を開いた。それにより、自然科学的諸命題の性質に基づく世界観を構築しようとした。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "『論理哲学論考』が命題の意味に関連して事実との一致不一致に基づき、真偽判定可能な命題を有意味命題 (sinnliche Satz) としたのに対し、論理実証主義たちは検証可能/不可能という概念に基づき、「検証可能な命題=自然科学によって判定される命題=有意味な命題、検証不可能な命題=擬似命題=除去されるべき命題」という二分法を導入した。それにより、科学とは検証可能な諸命題の総体である、と主張する言語哲学に基づく科学観を形成した(→科学哲学)。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これらの主張はアルフレッド・エイヤーの『言語、真理、論理』(A.J.Ayer \"Language, Truth, and Logic\" )によって英国にもたらされ英国哲学界を震撼させた。この主張に対しては、カール・ポパー(Karl Popper 墺→米)が一般法則は決して完全に検証できないことから検証可能性条件では科学の法則命題の正当性を保証できないと批判した。加えてポパーは、反証については一つの反証事例でも決定的証拠になるという検証と反証の非対称性に着目し、反証可能性 (falsificationability)に科学の基準を置いた。その他科学哲学を参照のこと。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "第2の流れは『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタイン自身の哲学の変遷である。この展開は漸移的かつ多彩であるので詳細ははぶくが、彼は『哲学的探求 (\"Philosophische Untersuchungen\")』において、「規則は行為を決定できない」という規則のパラドックス (rule following paradox) の帰結としての根元的規約主義 (radical conventionalism)、言語の使用タイプの多様性、及び言語がその意味を生活上の機能からくみ上げていること、等へ注目する。この観点から哲学の諸問題については、哲学の問題が陥っている言語の日常的使用からの乖離を批判し、それ等の語の日常的使用を注目することにより、解答を与えるのではなく擬似問題であるとして解消することこそ、正しい対処法である、と考えた。その一方で、単なる規約主義ではなく、人間の自然誌(Naturgechichte)的・文化的(生活形式、Lebensform)要素と言語の機能との関係に、注目していった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この方向性は、言語哲学を越えて、心の哲学(『心理の哲学に就いての考察』\"Bemerkungen über die Philosophie der Psychologie\")と数学の哲学(『数学の基礎に就いての考察』\"Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik\")とにウィトゲンシュタイン独自の理解を提示することになる。更に死の直前に残したノート(『確実性について』Über Gewissheit)からは言語の基礎(クワインやラカトシュのいう理論の核・中心部に概ね相当する)についての考察が見出される(いまだ学界でも十分に消化されたとはいえないテクストである)。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ただし、この時期のウィトゲンシュタインは、そのテクストが難解なこと、体系的議論に形式化され得ないので多量の問題形成→解決→更なる問題の発生という学問グループ内の巨大化が困難なこと、彼自身と彼の弟子たち(ノーマン・マルカム(Norman Marcolm 米→英→米。主著 \"Dream\")、ピーター・ウィンチ(Peter Winch 英→米。主著『倫理と行為(\"Ethics and Action\")』勁草書房)、ラッシュ・リース(Rush Rhees 英。主著\"Without Answers\")、エリザベス・アンスコム(Gertlud Elizabeth Margaret Anscombe 英。主著『インテンション(\"Intention\")』)等が多分に秘教的なサークルを作りその中でのジャーゴンの応酬と彼の著書の訓固に急がせたことなどから、分析哲学の中では孤立的立場にある。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、この時期のウィトゲンシュタインの業績は、そもそも言語を分析するものではないことから、文法 (Grammatik)、および使用(Gebrauch)の「展望の哲学 (Philosophie der Übersehen)」と呼ばれるべきだ、という主張もある。日常言語に重きをおいたことから、後期ウィトゲンシュタインとオースティンは共に日常言語学派に分類されたこともあるが、オースティンが体系的哲学化を志向したのに対し、後期ウィトゲンシュタインは哲学問題の解消を図ったのであって、その哲学についての態度は大きく異なる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方で、カルナップからの言語哲学は、W.V.O.クワイン(Willard van Orman Quine 米)にも引き継がれる。彼は、いかなる言語理論も論理を含めてそのどこでも改訂可能であるとして理論の全体論 (wholism of theories) を提示する(『ことばと対象(\" Words and Object\")』勁草書房)。また存在が何であるかとは言語の枠組みに何を取り入れるかの問題に過ぎない(「存在するとは何か (\"On What There IS\")」『論理的観点から』勁草書房所収)とする。さらに語が何を指示しているかは一義的に定まりえない(「存在論的相対性について \"Ontological Relativity\"」)とする指示の不可測性 (inscrutability of reference)、データからは正しい理論は一義的に定まらないとする理論の決定不全性 (underdetermination of theory)や、正しくかつ相互に諸命題の真理値が一致しない複数の翻訳が存在するという翻訳の不確定性 (indeterminacy of translation) 等の、言語の存在論的優位に基づく諸議論を展開した。これが『論理哲学論考』以降の第3の流れである。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この流れは、基本的には論理学に基づいた単純な、しかし、言語の全体論 (semantic wholism) を採択した言語を考察の中心として、それに基づいて哲学の諸問題を解決しようとするドナルド・デイヴィッドソン(Donald Davidson 米)に引き継がれる。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "そして、排中律の否定と意味の分子論 (molecularism) を主張するマイクル・ダメット(Michael Dummett 英。主著『真理という謎 (\"Truth and Other Enigmas\")』、'What Is a Theory of Meaning I,II')などに受け継がれていく。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "第4の流れは、『論理哲学論考』からもその後のウィトゲンシュタインの哲学的発展からもかなり独立した、英オックスフォード大学の哲学者J.L.オースティン (J.L.Austin) に始まる日常言語学派の流れである。オースティンは、日常言語が記述のほかに命令・嘆願・命名・疑問等さまざまな使用タイプがあることに注目(『言語と行為 \"How to Do Things with Words\"』)し、これらの詳細な分析に基づいて哲学的問題の解決を目指した。特に、言語を使用しながらなにかの行為を行う(たとえば、裁判官が判決文を読み上げることによって〈判決を下す〉という行為がなされる)言語行為 (speech act) に注目した。これらの諸機能は後にサール(John R. Searle 米)によって、より形式的・組織的に分類が行われる(『言語行為 (\"Speech Acts\")』他)。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、ウィトゲンシュタインともオースティンとも独自に、日常言語に即して哲学的行動主義を展開し、また範疇間違い (category mistake)という事象(ケンブリッジの各校舎を案内されながら「で、大学はどこですか?」と問う人が犯しているような、抽象的対象の範疇と観察可能な対象の範疇との取り違えなどの範疇の誤りを指す)の問題点を指摘したギルバート・ライル(Gilbert Ryle,主著『心の概念(“The Concept of Mind”)』)も、日常言語に依拠したタイプの初期の重要な分析哲学者だった。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これら、ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派が広義での分析哲学の主流として、現在も英米において諸学派に対して大きな影響を与える位置にある。特に、言語哲学・言語の哲学としては、英米では他の追従を許していない。これに対して、(ポーランドを除く)ヨーロッパ大陸に於いてはカール=オットー・アーペル (Karl-Otto Apel) 等多少の研究者は見出されるものの概して分析哲学は極めて限られた影響しか有していない。フランスにおいては、構造主義、ポスト=構造主義等の言語論・記号論等の思想家たちが言語についての思想的=哲学的アプローチについて圧倒的な勢力を占めている。ドイツでの言語の哲学的思惟においては、ユルゲン・ハーバーマス (Jürgen Habermas) らフランクフルト学派がマルクス主義を押さえて主要な立場になってきているようである。但し、こと言語の面においては、ハーバーマスはアーペルとともに、後期ウィトゲンシュタインの影響が著しく、その発展的応用者と解釈することも不可能ではない。論理学者のレシネェィスキ、その弟子でドナルド・デイヴィッドソンの意味論に決定的道具立て(T文)を与えたタルスキ、等のポーランド学派は、一種の人工言語学派(理想言語学派)として強い影響力を保っている。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "その後の特記すべき展開は、指示論について長らく定説とされてきたラッセルの記述理論 (description theory of reference)、後期ウィトゲンシュタインの通俗的理解における記述束説 (cluster theory of regerence) を覆そうとしたソール・A・クリプキ(Soul A. Kripke:彼は様相論理の完成者としても著名である)による固定指示詞説 (rigid degignater theory) と指示の因果説 (causal theory of reference)(『名指しと必然性 (\"Naming and Necessity\")』)がある。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "後者に近い言語の社会共働説を唱えまた内部実在論を提唱したヒラリー・パトナム (Hilary Putnam) や、同じくクリプキによる分析性 (analysity) と必然性(necessity)の区別の導入(というのも、論理実証主義の台頭以来、長らく必然性とは分析性に他ならないと考えられてきていた)、トーマス・クーン(Thomas Kuhn,『科学革命の構造 \"The structure of Scientific Revolution\"』)、ファイアアーベント以後の自然科学の反=実在論的潮流に反対する自然科学的対象の実在を主張する科学的実在論 (scientific realism) の台頭などである。なお、モンタギュー意味論で知られるモンタギューが分析哲学と言語学の狭間に、それよりやや言語学寄りにノーム・チョムスキーが位置する。", "title": "言語哲学の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "大陸哲学では分析哲学と違い言語が独立した一分野としては研究されていない。むしろ、言語は思想の他の多くの領域、例えば現象学、記号学、解釈学、ハイデッガー存在論、実存主義、構造主義、脱構築、批判理論などと分かちがたいものとされる。言語の思想は論理学の思想としばしば結びつけて考えられる。ここでいう論理学とはギリシア語のロゴス、談話や対話の意味である。また、言語と概念は歴史と政治によって、さらには歴史的な哲学そのものによって形成されてきたとみなされてもいる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "解釈学の分野は、そして一般的に解釈の理論は、ハイデッガーに始まる存在論と言語の20世紀大陸哲学において重要な役割を演じてきた。ハイデッガーはヴィルヘルム・ディルタイの解釈学を現象学と統合している。言語は「現存在」にとって最も重要な概念の一つだとハイデッガーは信じていた。「言語は存在の家であり、存在が言語を所有し、存在が言語に染み渡っている。」 しかし、重要な言葉の濫用により今日の言語は摩耗しており、存在(「Sein」)の徹底的な探求には堪えないとハイデッガーは考えていた。例えば、「Sein」(「存在」)という言葉自体は複数の意味をもつ。それゆえ、彼は一般的に使われている言葉と区別するために古代ギリシアとドイツの語源学的関係に基づいて新しい語彙・文体を生み出した。彼は意識、エゴ、人間、自然等々の言葉の使用を避けて代わりに「世界内存在」や「現存在」を総体として語った。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「世界内存在」という新しい概念と共に、ハイデッガーは音声による意思疎通に焦点を当てた独自の言語理論を打ち立てた。音声(発話、聴取、沈黙)は言語の最も本質的で純粋な形式だと彼は考えた。読者も読んでいる間人の独自の「発話」を構築するのだから書記は音声の補足にすぎないとハイデッガーは主張した。言語の最も重要な特性はその「射影性」、つまり言語は人間の発話に先立つということである。これはつまり、世界に投げ込まれたものの存在は世界の明らかな事前理解による始まりから特徴づけられるということである。しかし、名づけ、つまり「明瞭な発音」のみが「現存在」や「世界内存在」を一次的に参照できる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ハンス・ゲオルク・ガダマーはハイデッガーの思想を発展させて完成された解釈学的存在論を提示した。『真理と方法』において、ガーダマーは言語を「本質的な理解と承認が二人の人の間で起こるための媒体」であるとした。また、世界は言語によって構成されており、言語を離れては存在できないとガーダマーは主張した。例えば、言語の助けなしには記念碑や彫像は自身の持つ意味を伝達できない。世界の言語的本性は個々の物を対象的環境から解放するので、全ての言語は一つの世界観を構成するともガーダマーは主張している: 「[...]私たちが完全に[言語]に依存した世界を持っていてその中にそれ自体を現前させているという事実。世界としての世界は世界の他の生物のためとしてではなく人のために存在する。」", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一方ポール・リクールは解釈学(仏:Herméneutique)をギリシア語における言葉の本来の意味と再連結した形で提示し、日常言語の曖昧な言葉(あるいは「象徴」)の中の隠れた意味を発見することを重視した、この流れに属する哲学者にはほかにルイジ・パレイゾンとジャック・デリダがいる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "記号学は一般的に記号や象徴による情報伝達、反応、意味を研究する。この分野では、(自然にしろ人工にしろ)人間の言語は人間(や他の知的生命体)が情報伝達するのに使える多くの手段のうちの一つにすぎないとされる。この考えをとることにより、自分たちのために意味を作り他者に意味を伝達するために利点を得て外的世界を効率的に操作できるようになる。あらゆる対象、あらゆる人、あらゆる出来事そしてあらゆる力が情報伝達(あるいは「表現」)し続けている。例えば電話が鳴るのは電話「である」。地平線上に煙が立つのを見たらそれは火事をあらわす記号である。煙は表現している。この観点では世の中に存在する物事は人間がそうするのと同様にそれらを解釈することだけを求めている知的存在にとって正確に符号を貼られているように思われる。全ての物は意味である。しかしながら人間の言語の使用を含む真の情報伝達は受け手に対して何らかの信号において「メッセージ」つまり「文書」を送る者(「送り手」)を要求している。言語はこういった情報伝達形式(の中でも最も洗練された形式)の一つである限りで研究される。記号学の歴史の中で重要な人物としてチャールズ・サンダース・パース、ロラン・バルト、ロマーン・ヤーコブソンがいる。近代においてはそのもっともよく知られた人物としてウンベルト・エーコ、アルジルダス・ジュリアン グレマス(英語版)、ルイス・イェルムスレウ、トゥッリオ・デ・マウロがいる。人間以外の情報伝達における記号の研究は生物記号学の主題である。生物記号学は20世紀後半にセボーク・トマスとトゥーレ・フォン・ユフクエルによって創始された。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本では、大森荘蔵が留学から帰国後、ウィトゲンシュタインの過渡期の講義録的書籍といえる通称『青色本 (Blue Book)』を東京大学教養学部でのゼミナールに使用したことで分析哲学が実質的に移入された。大森自身は分析哲学ともやや異なる独自の哲学を展開していったが、その膝下からは、弟弟子にあたる黒崎宏、弟子からは石黒ひで、奥雅博、丹治信春、飯田隆、野家啓一、野矢茂樹などを生んだ。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ほかにも、末木剛博、黒田亘、野本和幸などがいる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また神崎繁のように、分析哲学の手法を西洋古典学に導入したり、清水哲郎のように聖書やオッカムを分析哲学的に読解したり (『パウロの言語哲学』: パウロは、イエス・キリストが神を信じた信仰を救済根拠とするのであり、信徒たちの神もしくはキリストを信じる信仰は語られていないとする。『オッカムの言語哲学』勁草書房)、門脇俊介のようにフッサール、ハイデッガーを専門としつつ分析哲学的知見をとりこんだり、と、新鮮な越境的試みもなされつつある。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "さらには、純粋哲学の枠を超えて、法哲学、社会学、宗教哲学、文学 (文芸) などの諸分野にも遅ればせながら応用が始まっている。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本では分析哲学は、渡邊二郎ら、特にドイツ哲学研究者及びマルクス主義者からの忌避もあって長らく不遇にあった。しかし、大森「学派」の開花とともに、三浦謙、斉藤浩文、関口浩喜、松坂陽一、大辻正晴、中川大、金杉武司らが業績を生んでいる。", "title": "現代" } ]
言語哲学は、語義的に二つの意味に大別される。 言語の構造・意味・使用法・レトリック等についての哲学。言語の哲学とも呼ぶ。 分析哲学、いわば、言語こそが先立つものであり、言語の理解なくして哲学の問題は解決されえないとする哲学。言語的哲学 とも呼ぶ。分析哲学も参照のこと。
{{混同|言語学の哲学}} '''言語哲学'''(げんごてつがく、[[英語]]:philosophy of language)は、語義的に二つの意味に大別される。 # [[言語]]の[[構造]]・[[意味]]・[[使用 (言語学)|使用]]法・[[修辞技法|レトリック]]等についての哲学。'''言語の哲学'''とも呼ぶ。 # '''分析哲学'''、いわば、言語こそが先立つものであり、言語の理解なくして哲学の問題は解決されえないとする哲学。'''言語的哲学''' (linguistic philosophy) とも呼ぶ。[[分析哲学]]も参照のこと。 == 言語哲学の歴史 == === 言語の哲学としての言語哲学 === ==== 古代ギリシャ ==== 「言語の哲学としての言語哲学」については一方では古代ギリシャの文法学や古代ローマの[[弁証法]](dialectike)や[[修辞法]](retolike)を淵源とする。他方で、純粋な哲学としては、その祖[[イオニア学派]]も[[自然学]]に傾倒したがその過程で既に[[パルメニデス|パルメニデース]]や[[ゼノン (エレア派)|ゼーノーン]]は[[パラドクス]]を駆使している。また、[[ソフィスト|ソピステース(ソフィスト・知者)]]たちは相手に議論によって勝利しようとしたことから、また、「知を愛する人」(フィロソポス、後の「哲学者」)を自称した[[ソクラテス|ソークラテース]]の“[[産婆術]]”も、相手を誘導しつつ哲学的解決へと導くという手法から、少なからぬ言語と論理とへの反省的意識が存在していたと推定される。ただし、ここまでは伝承と断片と[[ディオゲネス・ラエルティオス|ラエルティオス]]<ref>『ギリシヤ哲学者列伝』岩波文庫</ref>の報告と[[プラトン|プラトーン]]による創作を通じての推測である。言語についての哲学的反省について、確実に本人の[[一次資料]]に基づいてある程度の分量を述べることができるのはプラトーンからである。 彼は、[[イデア]]論やアナムネーシス(想起)説を提唱するに際して、言語的反省と論理的推論に基づいて(対話という表現形式を用いながらも)哲学的諸原理に到達した。更に、その弟子[[アリストテレス|アリストテレース]]に到ると、単にその形而上学をはじめとする哲理への到達手段として論理を用いたのみならず、論理構造と虚偽論それ自体を体系化して学問範疇となす。特にその論理学は基本的に19世紀の[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]まで、論理学の基本となるものであった。 ==== 古代ローマ〜中世初期ヨーロッパ ==== 上記の流れは[[ローマ帝国]]において、一方では法廷弁論術として、他方では[[ストア派]]や中期[[プラトン学派]]の哲学思考法として継承されたものの、東西の分裂を機に、ギリシャ語圏の[[東ローマ帝国]]では[[観想]]と[[聖書]]の霊的[[解釈学]]とを重んじたビザンティン・キリスト教思想において次第に弱体化する。他方、早くに[[西ローマ帝国]]の滅亡といわゆる「蛮族」の横行をみたラテン語圏の西ヨーロッパでは、[[アウグスティヌス|ヒッポのアウグスティヌス]]という古代末期最大の哲学者が生まれ、[[命題論]]としては[[名辞]]と名辞の連接、[[意味論 (曖昧さ回避)|意味論]]としては名辞とその対象物('Fido'-Fido theoryという揶揄的名称がある)のように、[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]以前を決定付ける言語哲学が確立した。アウグスティヌスは言葉(verbum)を記号(signum)の一種とみなして考察を行った<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p156</ref>。また、『嘘について (De mendacio)』、『嘘に反対して (Contra mendacium)』、『エンキリディオン (Enchiridion)』などで、アウグスティヌスは、人間の言語活動における文脈や話し手・聞き手の意図の重要性に着目している<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p162</ref>。彼は他に、『三位一体論』では、「外的語り(locutio foris)」、「心の語り(locutio cordis)」もしくは「内的語り(locutio interior)」、「音声の似姿において思考されるもの(cognitativium in similitudine soni)」の三者を区別した。音声を伴った言葉である「外的語り」に先行して、ギリシア語やラテン語のような自然言語には属しない「思考(cogitatio)」である「内的語り」が存在している。そして、「外的言葉」を声に出さずに考えている場合をアウグスティヌスは「音声の似姿において思考されるもの」と呼んだが、同様の概念が「内言」と呼ばれて発達心理学や認知言語学の分野で20世紀以降注目されている<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p163-p164</ref>。 ギリシアの論理・言語の哲学は[[ボエティウス]]によって西方ラテン世界へ紹介された。彼はアリストテレスの『[[オルガノン]]』全編やポルピュリオス『エイサゴーゲー』を[[ラテン語]]へ翻訳した(ただし『オルガノン』のうち『分析論後書』は散逸し、『分析論前書』や『詭弁論駁論』は中世初期には読まれなかった)。ボエティウスの翻訳に不備があるとして非難する声もあるが、[[文献学]]的な研究によれば、むしろボエティウスに先行する[[ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス]]の翻訳などより優れたものであるという<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p164-p165</ref>。また、ボエティウスは『エイサゴーゲー』および『命題論』にはそれぞれ初歩的なものと高等なものの二つの注釈書を、『範疇論』、『トピカ』、キケロの『トピカ』にはそれぞれ一つの注釈書を著した(アリストテレスの『トピカ』に対する注釈書は散逸した<ref>J・マレンボン『初期中世の哲学 480-1150』中村治訳、勁草書房、1992年5月30日、ISBN:978-4326100941、p37</ref>)。ボエティウスは『区分について(De divisione)』『様々なトピカについて(De topicis differentiis)』、『仮言的三段論法について(De syllogismo hypothetico)』といった研究論文も書いたが、注釈書共々独創性は低く、ボエティウスは努めて論理や言語の哲学の紹介者であろうとしたのだとされる<ref>J・マレンボン『初期中世の哲学 480-1150』中村治訳、勁草書房、1992年5月30日、ISBN:978-4326100941、p38</ref>。 アウグスティヌスが記号(signum)という表現を用いて言葉を考察したのに対して、ボエティウスは表示(significatio)という表現を用いた。ボエティウスの言語哲学は以下のような特徴を持つ: {{quote| (1)話し言葉は第一には心の中の思惟(intellectus)を表示(significare)し、第二に思惟を介して思惟によって捉えられる事物を表示する(24.12-13;33.27-31)。<br> (2)話し言葉や書き言葉の文があり、文の中で名詞と動詞が区別されるように、心の中にも文(いわゆる「思考文」)があり、名詞と動詞が区別される(30.3-10)。<br> (3)心の中の名詞と動詞の複合、つまり思惟の複合と、その結果として思惟の内に生じる真理値は、話し言葉の名詞と動詞の複合と真理値に派生する(49.27-32)。<br> (4)書き言葉と話し言葉は規約によって設定され、多様性を持つのに対し、思惟と思惟によって把握される事物は自然的であって全ての人にとって同じである(24.27-25.5)。<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156 、p166、各文末の数字はボエティウス『「命題論」第二註解』校訂版の頁数・行数を表す。</ref>}} (1)に関して、ボエティウスは思惟が形成されるためには外界の事物が必要だと考えていた。上記の(2)~(4)はジェリー・フォーダーの「思考の言語」説の主張と共通する部分がある<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p167</ref>。 ボエティウスや文法家のプリスキアヌス以降の西欧では言語の哲学に限らず哲学全体がしばしの停滞期をむかえ、[[カロリング朝ルネサンス]]の時代に復興する。これ以降の中世の論理学は、12世紀ルネサンスの時代を境目に旧論理学(logica vetus)と新論理学(logica nova)に二分される。旧論理学の時代には、前述のようにアリストテレスのオルガノンのうち『分析論後書』、『分析論前書』、『詭弁論駁論』などは読まれなかったし、カロリング朝ルネサンスの時代には『範疇論』に関してもボエティウスがラテン語に訳したものではなく、『範疇論について』の梗概・注釈書である偽アウグスティヌス『十の範疇について』が読まれた<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p183</ref>。したがって言語哲学のテキストとしては、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(ボエティウス訳・註解)、アリストテレス『命題論』(ボエティウス訳・註解)、『範疇論』(ボエティウス訳・註解)または偽アウグスティヌス『十の範疇について』、キケロー『トピカ』(ボエティウス註解)、ボエティウス『様々なトピカについて』『区分論』などがこの時代に読まれた。文法学ではカロリング朝ルネサンスの時代にはドナトゥス『文法学(Ars grammaticae)』が、時代が下ると[[プリスキアヌス]]『文法学教程(Institutiones grammatice)』がテキストとして利用された。また、現代の形式論理学が対象としないような哲学的考察をも中世には[[論理学]]の領域となっており、中世の論理学は言語哲学と表現されるのが実情に合っているとされる<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p184</ref>(ただし、中世にも論理学の対象を今日の形式論理学と同じような範囲に限定すべきだと考える者もいた。この時期には論理学を[[神学]]や[[形而上学]]と分けて論じる学者と混同して論じる学者が混在していた<ref>J・マレンボン『初期中世の哲学 480-1150』中村治訳、勁草書房、1992年5月30日、ISBN:978-4326100941、p130</ref>)。 カロリング朝ルネサンスの中心人物[[アルクィヌス]]は『弁証学(Dialectica)』を著した。本書は五つの普遍(類、種、種差、付帯性、固有性)、範疇、三段論法、定義・区分、トポス論、命題論といったものを扱っており、アリストテレスからボエティウスやカッシオドルスに至るまでの流れを扱ったに過ぎなかった<ref name="nagashima2011p182">永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p167</ref>。ただ、独自の思想を唱えるには至らなかったものの言語研究史上におけるアルクィヌスの功績は決して小さくない<ref name="nagashima2011p182" />。アルクィヌスの後をついで宮廷学校長となった[[エリウゲナ|ヨアンネース・スコートゥス・エリウゲナ]](主著『自然位階論』)は[[偽ディオニシウス・アレオパギタ|偽ディオニシォース・ホ・アレオパギテース]](主著『神名論』『神秘神学』)の諸文書をラテン語訳・紹介することを通じて[[ネオプラトニズム]]<ref group="注釈">アンモニオス・サッカスもしくは[[プロティノス]]を創始者とする哲学=宗教的運動。純粋形相であり最高のイデア一者(το ‘εν)からの質料の加増による存在論的降下の位階構造と、知性的[[神秘体験]]による人間霊魂の形相への復帰・合一を理想とする。これは、オリゲーネース、ヒッポのアウグスティヌス等を通じてキリスト教神学に多大な影響を与えた。</ref>を再導入した。 ==== 11世紀〜13世紀ヨーロッパ ==== ラテン語圏では11世紀になると、[[アンセルムス]]に代表されるような形で論理学が再び活発化する。 まず、ヨーロッパ各地での学問的な活性化の中で、細々とした伝承だけであったアリストテレースの論理学著作も、再びボエティウスの註解とともにきちんととした形で読まれるようになる。 [[ロスケリヌス]]ら音声論者(Vocales)は「普遍は単なる音声にすぎない」とし、後の[[唯名論]] (Nominalismus) へとつながる議論を開始したが、これはアンセルムス『ロゴスの受肉に関する書簡』などで批判された。このころには論理学は事物(res)に関する学問であると考えられていて、それに対して論理学は言葉・音声(vox)に関する学問だという意見は奇抜なものだと受け取られたとされる<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p185</ref>。12世紀に入り、そうした運動の中で[[アベラルドゥス]](アベラール)は、それまで漠然と使用されてきた「普遍」といった概念自体を問いかけ、大きな議論を引き起こす([[普遍論争]])。アベラルドゥス以前のヨハネスやロスケリヌスが音声(vox)という用語を使ったのに対してアベラルドゥスも初期はそれに従ったが途中からはsermoやnomenという用語を使い、彼とその弟子たちはnominalesと呼ばれるようになった。この違いは、ロスケリヌスらとその批判者との対立が普遍や範疇を言語哲学の問題として扱うか形而上学の問題として扱うかという点にあったのに対し、アベラルドゥスが存在論的態度表明を持ち込んだことによる<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p191</ref>。 アベラールは『文法学(Grammatica)』という名の著書を著した。これは現在では失われているが、彼は論理学の議論に[[文法学]]の用語・手法を持ち込んだ。このことは音声論者たちに影響を受けてのことだったと推測されている<ref name="nagashima2011p194">永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p194</ref>。対して、論敵の[[シャンポーのギヨーム]]は文法学と論理学を切り離して論じる傾向があり、これが12世紀に支配的な傾向だった<ref name="nagashima2011p194" />。 [[カロリング朝ルネサンス]]の時代には[[アエリウス・ドナトゥス|ドナトゥス]]の著書が文法学のテキストとして使用されていたのに対して、この時期には[[カエサレアのプリスキアヌス|プリスキアヌス]]『文法学教程(Institutiones grammatice)』が使われるようになった。しかし13世紀にいたると[[ダキアのボエティウス]]のように、プリスキアヌスの規範文法学では満足できないものが現れ、言語的法則や規範の原因を問う[[思弁文法]]が興隆することになる<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p195</ref>。それに伴って、文法学の分野で様態(modus)に着目する[[様態論者]](modistae)が現れた。彼らの言う様態は表示の様態(modus significandi)、理解の様態(modus intelligendi)、存在の様態(modus essendi)の三つに区別され、理解の様態は表示の様態の原因で、存在の様態は理解の様態の原因だとされた。また、今日の哲学者が現実について知るために言語の本性について考察するのに対し、様態論者は言語現象の原因を明らかにするために現実について論じたという<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p196</ref>。しかし様態論者の主張のうち、表示の様態は後に[[オッカムの剃刀]]によって剃り落されてしまう、というのはオッカムは表示の問題を精神-事物間でのみ扱うために言葉の表示の機能は不要となるからである<ref name="nagashima2011p197">永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p197</ref>。 そうして、[[イスラーム]]圏に保持された[[ギリシア哲学]]諸文書の流入・翻訳を機に(実際には、ビザンツ所有の文献の流入の影響もかなり大きかったというが)いわゆる[[12世紀ルネサンス]]が起こる。その動きは、イスラーム圏の進んだ科学探求の成果の導入のみならず、それまで[[論理学者]]としてのみ知られてきていたアリストテレースの広範な業績の再発見でもあり、これらの新たな思潮の消化・吸収と反発が13世紀を形成することになる。<!--だがそれは同時に、12世紀の活発な論理学探求の忘却でもあった。--> そして14世紀には独自な発展があり、それは例えばオッカムの論理学等に見ることができる<ref>清水哲郎『[[オッカムのウィリアム|オッカム]]の言語哲学』は、1哲学者にスポットをあてたものとはいえ、この時代の言語哲学の水準の高さを窺い知ることのできる著作である。</ref>。オッカムの思想の内ではオッカムの剃刀の他に[[代示理論]]もよく知られている<ref name="nagashima2011p197" />。代示理論はオッカム一人が唱えたものではなく長い期間研究されたもので、研究が蓄積するとともに理論が精妙ではあるが煩瑣なものとなり、ルネサンス以降批判の的となった。20世紀以降の言語哲学では再評価されている<ref>永嶋哲也、周藤多紀「中世の言語哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』講談社選書メチエ、2011年12月10日、ISBN:978-4062585156、p203</ref>。 これら[[スコラ哲学]]における論理学や文法学の発展の中には、当時の流れから言えば傍流ではあるが例えば[[ラモン・リュイ]] (ラテン語名:Raimundus Lullus ライムンドゥス・ルルス、1235-1316) がおり、語と語を組み合わせる機械によって全世界の全真理を知ろうとする「[[ルルスの術]](普遍的な偉大な術 ars magna generalis)」の発明を得るに到った。 ====デカルト==== その後、[[近世哲学]]の創始者[[ルネ・デカルト]] (Rene Descartes, Renatus Cartesius 1596-1650) らは言語を軽視した(彼のすべてを疑う方法的懐疑において 'je suis, je existe'(「わたしはある、わたしは存在する」)、'je pense, donc je suis'<ref group="注釈">「わたしは考えているので、わたしはある」このラテン語訳が著名な「[[我思う、ゆえに我あり|コギト・エルゴ・スム]]」であるが、デカルト自身の発言ではない。</ref>といった表現が、彼の[[直観]]を正しく表現しているか否かについてさえ全く疑いを持たないところに、その時代の状況が明白に現れている。ただし彼の論理思想は[[ポール・ロワイヤル学派]]において展開され、当時のフランス・カトリック思想界で基本的教科書として使用された<ref group="注釈">なお現代の[[ノーム・チョムスキー|チョムスキー]]はこのポール・ロワイヤル派の言語思想の影響を多大に受けている。</ref>。 同様の言語軽視は[[イギリス経験論]]者にも見られる。彼等は、アウグスティヌスの名辞と名辞の連接としての命題観を受け継ぐ。ただその意味対象(指示)として、対象物それ自体にかえて、彼等の認識論に従って観念に置き換えたのみである。このパタンは[[ジョン・スチュアート・ミル]]を通じて中後期の[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]まで続く英国言語哲学の欠陥であり続けることになる。 ==== ライプニッツ ==== [[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]](Gottfried Wilhelm Leipniz, 1646-1716, 関連主著『論理学』<ref>ライプニッツ著作集所収 工作社</ref>)の[[普遍数学]] (mathesis universalis) の構想はきわめて先駆的なものであった。少数の無定義概念と定義により諸科学の諸概念を、それらからなる少数の無証明[[公理]]と論理とのみから全知識命題を導出することを試みた。そして、[[普遍記号学]]と推論計算との二分野からなる基本普遍学の構築を企てた。とはいえ、[[無神論]]者・[[異端]]者としての誹謗をおそれた彼は、一般書『弁神論』の他は、哲学関係の著作を一切発表しなかったため、長らく言語哲学への影響はきわめて限定されたものであった。遺稿からの評価では、[[可能世界論]]を[[存在論]]と[[意味論 (論理学)|意味論]]との並行において論じている。その構想は、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の『[[論理哲学論考]]』、クリプキの[[可能世界意味論]]・[[様相論理]]の先駆であるとともに、{{要出典範囲|コンピュータ言語への大きな貢献を成し遂げているとされている|date=2020年11月}}。 ==== フンボルト==== ここまでは、言語を論理の表現として把握する思考が主であった。それに対し、[[イマヌエル・カント|カント]]の[[悟性]][[範疇]]を言語で置き換え、言語が人間において[[質料]]世界からの無定形な原=情報を分節化した認識対象として構成する決定的機能を持つことを指摘したのが、[[カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]](karl Wilhelm von Humboldt,1767-1835 主著 "Ueber die Kawaisprache auf der Insel Java"<ref>序説の翻訳は『言語と精神&mdash;&mdash;カヴィ語研究序説』[[法政大学出版局]]。</ref>)の言語研究だった。 彼によれば、人間は現実の諸言語を創造する能力とこれらの諸言語を規定する言語形式保持の能力とをもつ。後者からの外部表出としての前者が多様に具現化することをもって、人間の諸言語の(ひいては人間の諸文化・思想の)多様性を説明しようとした。ただし、当時の[[言語学者]]は主に個別言語にしか興味を有さず、また哲学者たちは人間精神自身の能力しか関心を持たなかったため、フンボルトの言語哲学への影響は限定的なものにとどまった。 この反フンボルトの代表格に、言語学者としては[[比較言語学]]・[[歴史言語学]]の大家[[ヤーコプ・グリム]] (Jakob Grimm 1785-1863)・[[ヴィルヘルム・グリム]] (Wilhelm Grimm 1786-1859) の[[グリム兄弟]]が、哲学者としてはヘーゲル、シェリング、ショーペンハウアー等のドイツ観念論者の系譜があげられる。19世紀後半になると[[ヘルマン・パウル]](Hermann Paul 1846-1921 : 主著 "Prinzipen der Sprachaphilosophie" 『言語史原理』) が、言語の歴史の錯綜と変容に満ちた過程の背後に、不変かつ普遍な人間精神の共通性の存在を想定し、[[ドイツ青年文法学派]]の指導的役割を果たした。 ==== ソシュール ==== 言語学領域における言語哲学的関心は、[[スイス]]の[[言語学者]][[フェルディナン・ド・ソシュール]](Ferdinand de Saussure 1859-1913。主著 "Cours de Linguistique générale" 『[[一般言語学講義]]』<ref group="注釈">ソシュール本人の著作ではなく、講義を聴いた弟子たちの編集による。</ref>)において頂点に達する。彼は言語学を、言語の歴史的変遷をたどる通時(diachronique 歴史)言語学と、[[言語構造]]の同一性に訴える共時(idio-syncholonique)言語学とに峻別したうえで、言語の研究対象を個別の発話(parole)、文法構造を共有する一つの言語(langue)、それらを産出する能力としての言語能力(langage)に分類する。さらに、言語は世界を恣意的に分節化しそれを[[シニフィアンとシニフィエ|記号内容]](シニフィエ、所記<ref group="注釈" name=kobayasi>小林英夫訳による。</ref>)に対して恣意的な対応関係にある[[シニフィアンとシニフィエ|記号表現]](シニフィアン、能記<ref group="注釈" name=kobayasi/>)によって指示するという二重の恣意性を指摘、加えて記号表現自体は時間的に線状性をもつことを指摘した。 彼の思想は、特にその共時言語学と記号の考察と[[構造主義]](言語の共時的・静的モデルを思考の基本におく)および[[ポスト構造主義]](言語の静的モデルのみならず変動システムをも考察の範囲に取り入れる)の理論家たち([[ローマン・ヤーコブソン]]、[[クロード・レヴィ=ストロース]]、[[ジャック・ラカン]]、[[ロラン・バルト]]、[[ルイ・アルチュセール]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ジャック・デリダ]]、[[ジュリア・クリステヴァ]]など)として発展した。ただし、これらは言語哲学(philosophie langagière)よりは[[記号論]](sémiologie, sémiotique)と呼ばれることが多い。 なお、これらの基礎となった『一般言語学講義』においては、編集者([[アルベール・セシュエ|セシュエ]]&[[シャルル・バイイ|バイイ]])の誤解が著しく、ソシュール自身の言語観が大きくゆがめられて伝達されていることが、[[丸山圭三郎]]などの一連の仕事によって明らかにされている<ref group="注釈">エングラーによる学生ノート、リートランジェ、コンスタンタンらのノートを見ないとソシュールの主張を理解し得ないとされる。</ref>。 ==== フッサール ==== これら、言語学から記号論へとの流れと並んで、19世紀半ばより哲学領域でも言語への志向があらためて起こった。その一人に[[現象学]]の創始者[[エドムント・フッサール]] (Edmund Husserl 1859-1938) があげられる。彼は言語を、精神の表出運動それ自体とその意味付与作用としての志向及び意味充足との合力として把握した。この流れは現象学一般へと展開していく。しかし、現象学は第一義的には[[超越論的]]な自己の心理能力そのものに関心を抱くものであるため、言語はその中の一つの因子として考察されるにとどまることが多い。 === 分析哲学としての言語哲学 === ==== フレーゲ ==== 言語を存在のあるいは心理能力の一機序と定位してきたこれまでの西洋哲学史に反して、言語こそを哲学の中心課題に定位したのが[[分析哲学]]である。分析哲学は、[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]、[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]を基礎とし、『論理哲学論考』の[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]もしくは[[ルドルフ・カルナップ|カルナップ]]を端緒とするが、英米を中心とした哲学の潮流を中心とし、観念等よりも言語の優越を基礎とする。だがその主張は多岐にわたり、かつ、中心テーゼも必ずしも存在しない。またその発展とともに、分析哲学の仕事の範囲は言語の哲学の範囲を超えて[[存在論]]、[[倫理学]]、[[美学]]、[[心の哲学]]、[[行為論]]、[[科学哲学|科学の哲学]]、[[数学の哲学]]等、哲学のほぼ全てと言えるほど多岐にわたってきている。 広義での分析哲学の源流は、19世紀中葉ドイツの数学者[[ゴットロープ・フレーゲ]](Gottlobe Frege:主著『[[概念記法]] ("Begriffsschrift, Eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens")』『算術の基礎 ("Die Grundlagen der Arithmetik")』『算術の基本法則 ("Grundgesetz der Arithmetik" I)』<ref>『フレーゲ著作集』1〜6、勁草書房。</ref>)に求められる。彼は、それまでの言語哲学が命題間に成立する三段論法(既にアリストテレスによりほぼ完成されていた)を前提に名辞とその対象とを考察することしか主たる課題としていなかったのに対して、一命題(Satz)内の構造と[[量化]](すべての、ある、存在する)とを問題にする量化理論を発見した。さらに、それに基づく[[意味論 (論理学)|意味論]]を考察した。 彼によれば、言語の基本単位は[[命題]](文 Satz)であり、それより小さい諸単位(日常言語では語句、フレーゲの量化論理では、項 (Argument) と函数 (Funktion))の意味は一つの命題という文脈の中で考えられねばならないという文脈原理を提唱した。また「[[意義と意味]]について (Über Sinn und Bedeutung)」において、「[[明けの明星]]」と「[[宵の明星]]」という2つの語がいずれも指示対象としては同一の[[金星]]を指すにもかかわらず言語における機能を異ならせることから、指示対象のことを「Bedeutung」(意味)と呼び、その語の意味の違いを「Sinn」(意義)と呼んで区別する、という画期的業績を残した。とはいえ、フレーゲにおいては、意味は言語を超越した[[超実在]](一種の[[イデア]])であるGedanke(思想)に求められている。この点で、分析哲学化や後述する[[言語論的転回]]を経験したものとはいえない。 ==== ラッセルとムーア ==== 20世紀初頭、[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]の論理学に基づく数学基礎論に批判を加え、新たな数理哲学を展開した[[バートランド・ラッセル]](Bertrand Russell 英)は、さらに「確定記述 (definite description)」について、それを分析する。確定記述とは、「the present king of France(現在のフランス王)」 のように記述の形をとりながら事実上固有名詞のように唯一の存在を名指す機能をもつ語法のことである。ラッセルは「指示について 'On Denoting'」<ref>『現代分析哲学基本論文集(1)』勁草書房所収</ref>において、「現在のフランス王は禿げである」という命題は現時点でフランス王が存在しないので真とも偽ともいえないように思われるので問題であるが、「Xがフランス王であり、かつXが禿げである、そのようなXが存在し、しかもただ一人存在する」という諸命題の[[連言]]として解釈することによって、一応の解決をもたらした。 この瞬間、哲学上の問題を言語分析により解消するという分析哲学の基礎が打ち立てられたといえる。また同時期、ラッセルのケンブリッジにおける同僚[[ジョージ・エドワード・ムーア]](George Moore 英)は「倫理学原理 "Principia Etica"」<ref>『倫理学原理』三和書房</ref>において、「良い (good)」という語の使用法の詳細な分析を行い、当時英国で英国経験論者を中心に信奉されていた考えと違い、「良い」という倫理的価値語は「益がある・好ましい (preferable)」などの自然的記述語には還元できないと論じた([[自然主義的誤謬]]の項参照)。それにより、日常言語の使用法の記述による哲学的問題の解決を行った。 なお、ラッセルが展開した数理哲学については、『[[プリンキピア・マテマティカ]]』 (『数学原理』、"Principia Mathematica") を参照。この本は、[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]](Alfred North Whitehead 英)との共著。 <!--ラッセルは、次に述べるウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の原子論的な哲学をうけて、事 (fact) ではなく物 (thing) を基本とする論理的原子論を『論理的原子論の哲学 ("Philosophy of Logical Atomism")』において展開したが、こちらは、むしろ存在論の反映としての言語構造というべき観念論的な発想が中心であり、これからすれば分析哲学的でない。 --話が錯綜するのでコメントアウト--> ==== 『論理哲学論考』のウィトゲンシュタイン ==== これらの業績の上になりたったのが、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]](Ludwig Wittgenstein 墺→英)の処女作『論理哲学論考 ("Tractatus-Logico-Philosophicus / Logische-Philosophische-Abhandlung")』<ref>ウィトゲンシュタイン全集第一巻 大修館書店、奥雅博訳、『[[論理哲学論考]]』岩波文庫 [[野矢茂樹]]訳、『『論理哲学論考』『青色本』読解』黒崎宏訳注他</ref>である。短期間ではあったがラッセルが彼の師を務めたものの、ラッセルによる序文は、彼の理論を誤解した部分が多いとされる{{要出典|date=2010年2月}}。 しかし難解で様々な解釈があり、その解釈の一つによれば、日常言語は完全であるが複雑であるので、哲学的問題の解決のため簡便なモデルを創出する。それは、日常言語も共有する(ことを分析により明晰化するはずの)形式である、とされる。その形式は、言語はすべてそれ以上命題として分析できない基礎である(ここに[[フレーゲ]]の文脈原理が忠実に採用されている)原子命題 (atomistiche Satz) とその真理函数 (Wahrheitsfunktion) とからなる(原子論 atomism)。原子命題は、名 (Name) と名との結合である。これらの言語的基礎単位に対応して、世界 (Welt) において原子的命題に事態(Sachverhalt)、名に物 (Ding) が対応する、そして、論理と数学の命題は特殊な命題であるが記述的命題ではなく、加えて、事実命題、論理学の命題、数学の命題以外は無意味な擬似命題であり、価値や倫理や神や世界の意義は語ることができないという主張がなされた、という。『論理哲学論考』の、言語の構造こそが存在論を規定するという発想こそ、[[言語論的転回]]の決定的な指標であり、分析哲学の誕生であった。 この『論理哲学論考』を受けて、分析哲学にはラッセル以外にも4つの流れが生じた。論理実証主義、後期ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派である。 ==== 論理実証主義と科学哲学 ==== その第一は[[論理実証主義]] (logischer Positivismus) もしくは論理経験主義である。[[オーストリア]]の[[ウィーン]]の哲学者たちによる[[ウィーン学団]] (Wiener Kreis) や[[ドイツ]]の[[ベルリン]]の哲学者や数学者による[[ベルリン学派]]グループ([[ルドルフ・カルナップ]](Rudlf Carnap 墺→米)、[[モーリッツ・シュリック]](Moritz Shclick 墺)、[[ハンス・ライヘンバッハ]](Hans Reichenbach 独→米)ら)では、数学が記述命題ではないことに着眼し<ref group="注釈">従来の[[経験論]]は、数学命題がたかだか経験命題の一般化に過ぎないなら、なぜ規範的性質を持つのかとの批判に苦悩していた。</ref>、さらに検証可能な命題以外は有意味でないという主張をもとにして、有意味な命題は自然科学に属すると主張する。 そして『[[論理哲学論考]]』の主張に従い、従来の哲学における[[形而上学]]を追放し、日常言語の曖昧さを廃して完全な[[人工言語]]の創案に邁進<ref>Carnap,『世界の論理的構築("Logische Aufbau der Welt")』『言語の論理的構文論 ("Logische Syntax der Sprache")』等。{{要出典範囲|これらの流れは、後にコンピュータ言語の基礎として工学上重要な価値を持つようになる|date=2020年11月}}。</ref>するという[[:en:ideal language philosophy|理想言語学派(ideal language philosophy 人工言語学派)]]を開いた。それにより、自然科学的諸命題の性質に基づく世界観を構築しようとした。 『論理哲学論考』が命題の意味に関連して事実との一致不一致に基づき、真偽判定可能な命題を有意味命題 (sinnliche Satz) としたのに対し、論理実証主義たちは検証可能/不可能という概念に基づき、「検証可能な命題=自然科学によって判定される命題=有意味な命題、検証不可能な命題=擬似命題=除去されるべき命題」という二分法を導入した<ref group="注釈">『論理哲学論考』より後のウィトゲンシュタインの思想に影響されたとも言われる{{要出典|date=2010年2月}}。</ref>。それにより、科学とは検証可能な諸命題の総体である、と主張する言語哲学に基づく科学観を形成した(→[[科学哲学]])。 これらの主張は[[アルフレッド・エイヤー]]の『言語、真理、論理』(A.J.Ayer "Language, Truth, and Logic" <ref>吉田夏彦訳、[[岩波書店]]。</ref>)によって英国にもたらされ英国哲学界を震撼させた。この主張に対しては、[[カール・ポパー]](Karl Popper 墺→米)が一般法則は決して完全に検証できないことから検証可能性条件では科学の法則命題の正当性を保証できないと批判した。加えてポパーは、反証については一つの反証事例でも決定的証拠になるという[[検証と反証の非対称性]]に着目し、[[反証可能性]] (falsificationability)に科学の基準を置いた。その他[[科学哲学]]を参照のこと。 <!--その後、[[ポール・ファイアアーベント]](Paul K. Feyerabend 墺→米)の「現実にはさまざまな反証を観測の誤り等に帰して科学は容易に反証を認めない」として、ある観測ダーツムに対していずれの命題を改訂することも改訂しないことも自由だという「アナーキズム」の主張と、それに対するポパーの弟子である[[イムレ・ラカトシュ|イェムレ・ラカトシュ]](Imre Lakatos 班→英、主著『方法の擁護--科学的研究プログラムの方法論 ("The Methodology of Scientific Research Programmes" in Philosophical Papers Vol.1")』勁草書房)による、理論には改訂しにくい中心部と改訂されやすい周辺部が漸移的に存在するのだ、という[[新ポパー主義]]との対立にいたる。以後、科学の特権性に疑問を付す方向が流行する([[科学社会学]](Sociology of Science / Strong Programme)・科学の[[エスノメソドロジー]] (Ethnomethodology of Schience)・科学の政治力学批判等)。しかし、科学哲学の主流は[[カール・ヘンペル]]、[[ウェスレー・サモン]]、[[ヒラリー・パトナム]]、[[フィリップ・キッチャー]]、[[ラリー・ラウダン]]、[[バス・ファン=フラーセン]]といった、実証主義の流れを汲む哲学者へと戻って行った。 --言語哲学から離れるかもしれないのでコメントアウト--> ==== 『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタインとその周辺 ==== 第2の流れは『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタイン自身の哲学の変遷である。この展開は漸移的かつ多彩であるので詳細ははぶく<ref group="注釈">[[現象主義]]・公理的全体論的規約主義を経た後言語の[[全体論]]、言語の意味の[[規約主義]]、言語の本質を[[言語ゲーム]](Sprachspiel--生活に於ける語のやりとり)に見るアイディア。</ref>が、彼は『哲学的探求 ("Philosophische Untersuchungen")』<ref>『ウィトゲンシュタイン全集』藤本隆志訳。黒崎宏訳注『『哲学的探求』読解』。</ref>において、「規則は行為を決定できない」という規則の[[パラドックス]] (rule following paradox) の帰結としての根元的規約主義 (radical conventionalism)、言語の使用タイプの多様性<ref group="注釈">日常言語学派のオースティンにも見られる。</ref>、及び言語がその意味を生活上の機能からくみ上げていること、等へ注目する。この観点から哲学の諸問題については、哲学の問題が陥っている言語の日常的使用からの乖離を批判し、それ等の語の日常的使用を注目することにより、解答を与えるのではなく[[擬似問題]]であるとして解消することこそ、正しい対処法である、と考えた。その一方で、単なる規約主義ではなく、人間の自然誌(Naturgechichte)的・文化的(生活形式、Lebensform)要素と言語の機能との関係に、注目していった。 この方向性は、言語哲学を越えて、心の哲学(『心理の哲学に就いての考察』"Bemerkungen über die Philosophie der Psychologie")と数学の哲学(『数学の基礎に就いての考察』"Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik")とにウィトゲンシュタイン独自の理解を提示することになる。更に死の直前に残したノート(『[[確実性]]について』Über Gewissheit)からは言語の基礎([[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|クワイン]]や[[イムレ・ラカトシュ|ラカトシュ]]のいう理論の核・中心部に概ね相当する)についての考察が見出される(いまだ学界でも十分に消化されたとはいえないテクストである)。 ただし、この時期のウィトゲンシュタインは、そのテクストが難解なこと、体系的議論に形式化され得ないので多量の問題形成→解決→更なる問題の発生という学問グループ内の巨大化が困難なこと、彼自身と彼の弟子たち(ノーマン・マルカム(Norman Marcolm 米→英→米。主著 "Dream")、[[ピーター・ウィンチ]](Peter Winch 英→米。主著『倫理と行為("Ethics and Action")』勁草書房)、[[ラッシュ・リース]](Rush Rhees 英。主著"Without Answers")、[[エリザベス・アンスコム]](Gertlud Elizabeth Margaret Anscombe 英。主著『インテンション("Intention")』<ref> 菅豊彦訳、勁草書房。</ref>)等が多分に秘教的なサークルを作りその中でのジャーゴンの応酬と彼の著書の訓詁に急がせたことなどから、分析哲学の中では孤立的立場にある。 また、この時期のウィトゲンシュタインの業績は、そもそも言語を分析するものではないことから、文法 (Grammatik)、および使用(Gebrauch)の「展望の哲学 (Philosophie der Übersehen)」と呼ばれるべきだ、という主張もある。日常言語に重きをおいたことから、後期ウィトゲンシュタインとオースティンは共に日常言語学派に分類されたこともあるが、オースティンが体系的哲学化を志向したのに対し、後期ウィトゲンシュタインは哲学問題の解消を図ったのであって、その哲学についての態度は大きく異なる。 ==== クワインとその周辺 ==== 一方で、[[ルドルフ・カルナップ|カルナップ]]からの言語哲学は、[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|W.V.O.クワイン]](Willard van Orman Quine 米)<ref group="注釈">カルナップの弟子として論理実証主義の影響を受けるとともに米国人として[[プラグマティズム]]・英国[[経験論]]の背景性も顕著。</ref>にも引き継がれる。彼は、いかなる言語理論も論理を含めてそのどこでも改訂可能であるとして理論の[[全体論]] (wholism of theories) を提示する(『ことばと対象(" Words and Object")』[[勁草書房]])。また存在が何であるかとは言語の枠組みに何を取り入れるかの問題に過ぎない(「存在するとは何か ("On What There IS")」『論理的観点から』勁草書房所収)とする。さらに語が何を指示しているかは一義的に定まりえない(「[[存在論的相対性]]について "Ontological Relativity"」)とする指示の[[不可測性]] (inscrutability of reference)、データからは正しい理論は一義的に定まらないとする理論の[[決定不全性]] (underdetermination of theory)や、正しくかつ相互に諸命題の真理値が一致しない複数の翻訳が存在するという翻訳の不確定性 (indeterminacy of translation) 等の、言語の[[存在論]]的優位に基づく諸議論を展開した。これが『論理哲学論考』以降の第3の流れである。 この流れは、基本的には[[論理学]]に基づいた単純な、しかし、言語の全体論 (semantic wholism) を採択した言語を考察の中心として、それに基づいて哲学の諸問題を解決しようとする[[ドナルド・デイヴィッドソン]](Donald Davidson 米)<ref>主著『行為と出来事 ("Essays On Actions and Events")』勁草書房、『真理と解釈 ("Inquiries into Truth and Interpretation")』勁草書房。特に、言語が通常の意味では存在しえない事を論じて衝撃を与えたのが 'A Nice Derrangement of Epitaphs'。</ref>に引き継がれる。 そして、[[排中律]]の否定と意味の[[分子論]] (molecularism) を主張する[[マイケル・ダメット|マイクル・ダメット]](Michael Dummett 英。主著『真理という謎 ("Truth and Other Enigmas")』<ref>[[藤田晋吾]]訳、勁草書房</ref>、'What Is a Theory of Meaning I,II')などに受け継がれていく<ref group="注釈">なお、ダメットは、自身の哲学以上に、フレーゲの再評価を定着させた人物として[[分析哲学]]に確固たる地位を築いたといえる。“Frege: Philosophy of Language”"Frege: Philosophy of Mathematics" "The Interpretation of Frege's Philosophy"。</ref>。 ==== 日常言語学派 ==== 第4の流れは、『論理哲学論考』からもその後の[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の哲学的発展からもかなり独立した、英[[オックスフォード大学]]の哲学者[[ジョン・L・オースティン|J.L.オースティン]] (J.L.Austin) に始まる[[日常言語学派]]の流れである。オースティンは、日常言語が記述のほかに命令・嘆願・命名・疑問等さまざまな使用タイプがあることに注目(『言語と行為 "How to Do Things with Words"』<ref>坂本百大訳、[[大修館書店]]</ref>)し、これらの詳細な分析に基づいて哲学的問題の解決を目指した。特に、言語を使用しながらなにかの行為を行う(たとえば、[[裁判官]]が判決文を読み上げることによって〈判決を下す〉という行為がなされる)[[言語行為]] (speech act) に注目した。これらの諸機能は後に[[ジョン・サール|サール]](John R. Searle 米)によって、より形式的・組織的に分類が行われる(『言語行為 ("Speech Acts")』<ref>坂本百大・土屋俊訳、勁草書房。</ref>他)。 また、ウィトゲンシュタインともオースティンとも独自に、日常言語に即して[[哲学的行動主義]]を展開し、また範疇間違い (category mistake)という事象(ケンブリッジの各校舎を案内されながら「で、大学はどこですか?」と問う人が犯しているような、抽象的対象の[[範疇]]と観察可能な対象の範疇との取り違えなどの範疇の誤りを指す)の問題点を指摘した[[ギルバート・ライル]](Gilbert Ryle,主著『[[心の概念]](“The Concept of Mind”)』<ref>[[坂本百大]]・宮下治子・服部裕幸訳、[[みすず書房]]。</ref>)も、日常言語に依拠したタイプの初期の重要な分析哲学者だった。 ==== ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派以後の英米とヨーロッパ大陸 ==== これら、ウィトゲンシュタイン、クワイン、日常言語学派が広義での分析哲学の主流として、現在も英米において諸学派に対して大きな影響を与える位置にある。特に、言語哲学・言語の哲学としては、英米では他の追従を許していない。これに対して、(ポーランドを除く)ヨーロッパ大陸に於いては[[カール=オットー・アーペル]] (Karl-Otto Apel) 等多少の研究者は見出されるものの概して分析哲学は極めて限られた影響しか有していない。フランスにおいては、[[構造主義]]、[[ポスト構造主義|ポスト=構造主義]]等の[[言語論]]・[[記号論]]等の思想家たちが言語についての思想的=哲学的アプローチについて圧倒的な勢力を占めている。ドイツでの言語の哲学的思惟においては、[[ユルゲン・ハーバーマス]] (Jürgen Habermas) ら[[フランクフルト学派]]が[[マルクス主義]]を押さえて主要な立場になってきているようである。但し、こと言語の面においては、ハーバーマスはアーペルとともに、後期ウィトゲンシュタインの影響が著しく、その発展的応用者と解釈することも不可能ではない。論理学者の[[レシネェィスキ]]、その弟子で[[ドナルド・デイヴィッドソン]]の意味論に決定的道具立て(T文)を与えた[[アルフレト・タルスキ|タルスキ]]、等の[[ポーランド学派]]は、一種の[[:en:ideal language philosophy|人工言語学派(理想言語学派)]]として強い影響力を保っている。 ==== 70年代以降の分析哲学の展開 ==== その後の特記すべき展開は、指示論について長らく定説とされてきた[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]の記述理論 (description theory of reference)、後期[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の通俗的理解における記述束説 (cluster theory of regerence) を覆そうとした[[ソール・クリプキ|ソール・A・クリプキ]](Soul A. Kripke:彼は様相論理の完成者としても著名である)による[[固定指示詞説]] (rigid degignater theory) と[[指示の因果説]] (causal theory of reference)(『[[名指しと必然性]] ("Naming and Necessity")』<ref>八木沢敬・野家啓一訳、[[産業図書]]。</ref>)がある。 後者に近い言語の[[社会共働説]]を唱えまた[[内部実在論]]を提唱した[[ヒラリー・パトナム]] (Hilary Putnam) や、同じくクリプキによる分析性 (analysity) と必然性(necessity)の区別の導入(というのも、[[論理実証主義]]の台頭以来、長らく[[必然性]]とは[[分析性]]に他ならないと考えられてきていた)、[[トーマス・クーン]](Thomas Kuhn,『[[科学革命]]の構造 "The structure of Scientific Revolution"』<ref>中山茂訳、みすず書房。</ref>)、[[ファイアアーベント]]以後の自然科学の反=実在論的潮流に反対する自然科学的対象の実在を主張する科学的[[実在論]] (scientific realism) の台頭などである。なお、[[モンタギュー意味論]]で知られる[[リチャード・モンタギュー|モンタギュー]]が分析哲学と言語学の狭間に、それよりやや言語学寄りに[[ノーム・チョムスキー]]が位置する。 ==現代== ===大陸哲学と言語=== [[大陸哲学]]では[[分析哲学]]と違い言語が独立した一分野としては研究されていない。むしろ、言語は思想の他の多くの領域、例えば[[現象学]]、[[記号学]]、[[解釈学]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]][[存在論]]、[[実存主義]]、[[構造主義]]、[[脱構築]]、[[批判理論]]などと分かちがたいものとされる。言語の思想は[[論理学]]の思想としばしば結びつけて考えられる。ここでいう論理学とはギリシア語のロゴス、談話や対話の意味である。また、言語と[[概念]]は[[歴史]]と[[政治]]によって、さらには歴史的な哲学そのものによって形成されてきたとみなされてもいる。 [[解釈学]]の分野は、そして一般的に解釈の理論は、ハイデッガーに始まる[[存在論]]と言語の20世紀大陸哲学において重要な役割を演じてきた。ハイデッガーは[[ヴィルヘルム・ディルタイ]]の解釈学を現象学と統合している。言語は「[[現存在]]」にとって最も重要な概念の一つだとハイデッガーは信じていた。「言語は存在の家であり、存在が言語を所有し、存在が言語に染み渡っている<ref>Heidegger, Martin.(1998) ''Pathmarks''. Cambridge:Cambridge University Press, ISBN 0-521-43968-X</ref>。」 しかし、重要な言葉の濫用により今日の言語は摩耗しており、[[存在]](「Sein」)の徹底的な探求には堪えないとハイデッガーは考えていた。例えば、「Sein」(「存在」)という言葉自体は複数の意味をもつ。それゆえ、彼は一般的に使われている言葉と区別するために古代ギリシアとドイツの語源学的関係に基づいて新しい語彙・文体を生み出した。彼は意識、エゴ、人間、自然等々の言葉の使用を避けて代わりに「[[世界内存在]]」や「現存在」を総体として語った。 「世界内存在」という新しい概念と共に、ハイデッガーは音声による意思疎通に焦点を当てた独自の言語理論を打ち立てた。音声(発話、聴取、沈黙)は言語の最も本質的で純粋な形式だと彼は考えた。読者も読んでいる間人の独自の「発話」を構築するのだから書記は音声の補足にすぎないとハイデッガーは主張した。言語の最も重要な特性はその「射影性」、つまり言語は人間の発話に先立つということである。これはつまり、世界に投げ込まれたものの存在は世界の明らかな事前理解による始まりから特徴づけられるということである。しかし、名づけ、つまり「明瞭な発音」のみが「現存在」や「世界内存在」を一次的に参照できる<ref name="Being">Heidegger, Martin.(1996) ''Being and Time''. New York: Blackwell, ISBN 0-631-19770-2</ref>。 [[ハンス・ゲオルク・ガダマー]]はハイデッガーの思想を発展させて完成された解釈学的存在論を提示した。『真理と方法』において、ガーダマーは言語を「本質的な理解と承認が二人の人の間で起こるための媒体<ref name="Gadamer">Gadamer, Hans G. (1989)''Truth and Method'', New York:Crossroad, 2nd ed., ISBN 0-8264-0401-4</ref>」であるとした。また、世界は言語によって構成されており、言語を離れては存在できないとガーダマーは主張した。例えば、言語の助けなしには記念碑や彫像は自身の持つ意味を伝達できない。世界の言語的本性は個々の物を対象的環境から解放するので、全ての言語は一つの世界観を構成するともガーダマーは主張している: 「[…]私たちが完全に[言語]に依存した世界を持っていてその中にそれ自体を現前させているという事実。世界としての世界は世界の他の生物のためとしてではなく人のために存在する<ref name="Gadamer" />。」 一方[[ポール・リクール]]は解釈学([[フランス語|仏]]:Herméneutique)をギリシア語における言葉の本来の意味と再連結した形で提示し、日常言語の曖昧な言葉(あるいは「象徴」)の中の隠れた意味を発見することを重視した、この流れに属する哲学者にはほかに[[ルイジ・パレイゾン]]と[[ジャック・デリダ]]がいる<ref name="Volli">Volli,U. (2000) ''Manuale di Semiotica''. Rome-Bari:Editori Laterza. ISBN 88-420-5953-6</ref>。 [[記号学]]は一般的に記号や象徴による情報伝達、反応、意味を研究する。この分野では、(自然にしろ人工にしろ)人間の言語は人間(や他の知的生命体)が情報伝達するのに使える多くの手段のうちの一つにすぎないとされる。この考えをとることにより、自分たちのために意味を作り他者に意味を伝達するために利点を得て外的世界を効率的に操作できるようになる。あらゆる対象、あらゆる人、あらゆる出来事そしてあらゆる力が情報伝達(あるいは「表現」)し続けている。例えば電話が鳴るのは電話「である」。地平線上に煙が立つのを見たらそれは火事をあらわす記号である。煙は表現している。この観点では世の中に存在する物事は人間がそうするのと同様にそれらを解釈することだけを求めている知的存在にとって正確に符号を貼られているように思われる。全ての物は意味である。しかしながら人間の言語の使用を含む真の情報伝達は受け手に対して何らかの信号において「メッセージ」つまり「文書」を送る者(「送り手」)を要求している。言語はこういった情報伝達形式(の中でも最も洗練された形式)の一つである限りで研究される。記号学の歴史の中で重要な人物として[[チャールズ・サンダース・パース]]、[[ロラン・バルト]]、[[ロマーン・ヤーコブソン]]がいる。近代においてはそのもっともよく知られた人物として[[ウンベルト・エーコ]]、{{仮リンク|アルジルダス・ジュリアン グレマス|en|A.J. Greimas}}、[[ルイス・イェルムスレウ]]、[[トゥッリオ・デ・マウロ]]がいる<ref name="Volli" />。人間以外の情報伝達における記号の研究は生物記号学の主題である。生物記号学は20世紀後半にセボーク・トマスとトゥーレ・フォン・ユフクエルによって創始された。 === 日本における分析哲学的な言語の哲学の形成と現在 === 日本では、[[大森荘蔵]]が留学から帰国後、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の過渡期の講義録的書籍といえる通称『青色本 (Blue Book)』を[[東京大学]]教養学部でのゼミナールに使用したことで分析哲学が実質的に移入された。大森自身は分析哲学ともやや異なる独自の哲学を展開していったが、その膝下からは、弟弟子にあたる[[黒崎宏]]、弟子からは[[石黒ひで]]、[[奥雅博]]、[[丹治信春]]、[[飯田隆 (哲学者)|飯田隆]]、[[野家啓一]]、[[野矢茂樹]]などを生んだ。 * 黒崎宏 ** 主著:『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』勁草書房、『ウィトゲンシュタイン小事典』大修館書店、『科学の誘惑に抗して』勁草書房、『ウィトゲンシュタインから[[道元]]へ--私説『正法眼蔵』』[[哲学書房]]、他多数 ** ウィトゲンシュタインの紹介およびその科学哲学・心の哲学への意義について主に論じてきた。次第に後期ウィトゲンシュタイン的立場からの[[仏教]]解釈を深めている。 * 石黒ひで ** 主著:『[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]の哲学--論理と言語を中心に』岩波書店 * 奥雅博 ** 主著:『ウィトゲンシュタインの夢』勁草書房 ** 中期ウィトゲンシュタインを論じる。 * 丹治信治 ** 主著:『言語と認識のダイナミズム』勁草書房 ** 後期ウィトゲンシュタインとクワインの比較及び言語の推移律の不成立を論じる。 * 飯田隆 ** 主著:『言語哲学大全』全4巻 勁草書房 ** [[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]からクリプキまで分析哲学史を詳細に論じる。 * 野家啓一 ** 主著:『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』勁草書房 ** 分析哲学と[[現象学]]に架橋を試みる。 * 野矢茂樹 ** 主著:『心と他者』勁草書房、『哲学航海日誌』春秋社、『『論理哲学論考』を読む』哲学書房、他多数 ** [[他我]]問題を一人称特権の視点から読み解く、後期ウィトゲンシュタインの規則論と[[アスペクト論]]を読み重ねる、『論考』の高い整合性と大胆な読解を提示する。 ほかにも、[[末木剛博]]<ref>主著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の研究I,II』公論社:日本語で読める『論考』のもっとも詳細な注釈書である。</ref>、[[黒田亘]]<ref>主著『経験と言語』東京大学出版会。後期ウィトゲンシュタイン哲学成立初期の推移を文献的精査に基づいて論じる。</ref>、[[野本和幸]]<ref>主著『フレーゲの言語哲学』勁草書房:[[ダメット]]によるフレーゲ発掘という画期的業績を踏まえてのフレーゲ研究、『現代の論理的意味論--フレーゲからクリプキまで』岩波書店:コンパクトな難解専門書。</ref>などがいる。 また[[神崎繁]]のように、分析哲学の手法を西洋古典学に導入したり、[[清水哲郎]]のように聖書や[[オッカムのウィリアム|オッカム]]を分析哲学的に読解したり (『パウロの言語哲学』: [[パウロ]]は、[[イエス・キリスト]]が神を信じた信仰を救済根拠とするのであり、信徒たちの神もしくはキリストを信じる信仰は語られていないとする。『オッカムの言語哲学』勁草書房)、[[門脇俊介]]のように[[エトムント・フッサール|フッサール]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]を専門としつつ分析哲学的知見をとりこんだり、と、新鮮な越境的試みもなされつつある。 さらには、純粋哲学の枠を超えて、[[法哲学]]、[[社会学]]、[[宗教哲学]]、[[文芸|文学 (文芸)]] などの諸分野にも遅ればせながら応用が始まっている。 日本では分析哲学は、[[渡邊二郎]]ら<ref>放送大学教材『英米哲学入門』を参照</ref>、特にドイツ哲学研究者及び[[マルクス主義]]者からの忌避もあって長らく不遇にあった。しかし、大森「学派」の開花とともに、三浦謙、斉藤浩文、関口浩喜、松坂陽一、大辻正晴、中川大、金杉武司らが業績を生んでいる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連文献 == *W.G.ライカン 荒磯敏文、川口由起子、鈴木生郎、峯島宏次 訳 『言語哲学』入門から中級まで 勁草書房 ISBN 4-326-10159-8 *飯田隆 『論理と言語』言語哲学大全 勁草書房 ISBN 4326152001 *服部裕幸 『言語哲学入門』勁草書房 ISBN 4326153695 *浅野裕一 『古代中国の言語哲学』 岩波書店 ISBN 4-00-022833-1 *清水哲郎 『パウロの言語哲学』岩波書店 ISBN 4-00-026581-4 *大江矩夫 『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判』白川書院 ISBN 978-4-7867-0065-1 == 関連項目 == * [[分析哲学]] * [[科学哲学]] * [[論理学]] * [[因明]] * [[言霊思想]] == 外部リンク == * [[野家啓一]][https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%93%B2%E5%AD%A6/ 「言語哲学」(Yahoo!百科事典)] * [http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/medieval/ockham1.html オッカムの言語哲学] * [http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~tit03611/2000c.html 遂行的発話の言語哲学と社会哲学-言語行為論の再検討-] {{IEP|lang-phi|Philosophy of Language}} {{哲学}}{{言語哲学}}{{分析哲学}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:けんこてつかく}} [[Category:言語学の分野]] [[Category:言語哲学|*]]
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セント (音楽)
セント (cent) は音程を測定するための対数単位である。12平均律はオクターヴをそれぞれ100セントの12の半音に分割する。一般的にセントは微小な音程を測定するため、あるいは音律による音程の大きさを比較するために用いられる。実際1セントの音程は小さすぎて聴き分けることは難しい。 アレクサンダー・ジョン・エリスは、ロバート・ホルフォード・マクダウォル・ボーザンケットの提案により、ガスパール・ド・プロニーが1830年代に開発した音響対数値の小数半音システムに基づいてこの測定法を作り上げた。エリスは世界中の楽器を広く測定するにあたり、セント値を用いて報告し、その音階を比較した。そしてヘルマン・フォン・ヘルムホルツの『音感覚論』のエリスによる英訳版でさらなる記述とシステムの採用が行われた。このシステムは音高や音程を比較的正確に示し比較するための標準的な方法となった。 デシベルが強度に関してそうであるように、セントは2つの周波数の比である。平均律の半音の間隔は100セントと定義される。オクターヴ(2つの音の周波数比が2:1)は12半音であり、1200セントである。したがって1200セントごとに周波数は2倍になるので、1セントの周波数比は 2 に等しい。この値は約 1.0005777895 である。 2つの音 a と b との周波数が知られている場合、a と b との間隔のセント値は次式で算出できる。 同様に a と b との間隔のセント値 n が知られている場合、b は次式で算出できる。 異なる音律を比較するために、諸々の音程の大きさをセントに変換することが行われる。例として純正律の長三度は周波数比で5:4と示される。これは上の式によって約386セントである。平均律で調律されたピアノの長三度は400セントとなる。この14セントの差は半音の約7分の1であり、容易に聴き取れる。
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セント (cent) は音程を測定するための対数単位である。12平均律はオクターヴをそれぞれ100セントの12の半音に分割する。一般的にセントは微小な音程を測定するため、あるいは音律による音程の大きさを比較するために用いられる。実際1セントの音程は小さすぎて聴き分けることは難しい。 アレクサンダー・ジョン・エリスは、ロバート・ホルフォード・マクダウォル・ボーザンケットの提案により、ガスパール・ド・プロニーが1830年代に開発した音響対数値の小数半音システムに基づいてこの測定法を作り上げた。エリスは世界中の楽器を広く測定するにあたり、セント値を用いて報告し、その音階を比較した。そしてヘルマン・フォン・ヘルムホルツの『音感覚論』のエリスによる英訳版でさらなる記述とシステムの採用が行われた。このシステムは音高や音程を比較的正確に示し比較するための標準的な方法となった。
[[Image:Cent versus semitone monochord ET.png|thumb|350px|[[モノコード]]による1セントと半音の比較]] [[Image:4Octaves.and.Frequencies.svg|thumb|right|350px|線型の周波数尺度 (Hz) ではオクターヴは指数関数的である]] [[Image:4Octaves.and.Frequencies.Ears.svg|right|thumb|350px|対数的な尺度 (セント) ではオクターヴは等間隔になる]] '''セント''' (cent) は[[音程]]を測定するための[[対数]]単位である。[[平均律#十二平均律|12平均律]]は[[オクターヴ]]をそれぞれ100セントの12の[[半音]]に分割する。一般的にセントは微小な音程を測定するため、あるいは[[音律]]による音程の大きさを比較するために用いられる。実際1セントの音程は小さすぎて聴き分けることは難しい。 [[アレクサンダー・ジョン・エリス]]は、ロバート・ホルフォード・マクダウォル・ボーザンケットの提案により、[[ガスパール・ド・プロニー]]が1830年代に開発した音響対数値の小数半音システムに基づいてこの測定法を作り上げた。エリスは世界中の[[楽器]]を広く測定するにあたり、セント値を用いて報告し、その[[音階]]を比較した<ref>Alexander John Ellis: [http://stuart.sfa.googlepages.com/MSVN00.html On the Musical Scales of Various Nations] HTML transcription of the 1885 article in the Journal of the Society of Arts (Accessed September 2008)</ref>。そして[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]の『音感覚論』のエリスによる英訳版でさらなる記述とシステムの採用が行われた。このシステムは[[音高]]や音程を比較的正確に示し比較するための標準的な方法となった。 ==使用== [[Image:Music intervals frequency ratio equal tempered pythagorean comparison.svg|thumb|550px|right|平均律(黒)と[[ピタゴラス音律]](緑)の音程の比較]] [[デシベル]]が強度に関してそうであるように、セントは2つの[[周波数]]の比である。<!--12-->平均律の半音の間隔は100セントと定義される。オクターヴ(2つの音の周波数比が2:1)は12半音であり、1200セントである。したがって1200セントごとに周波数は2倍になるので、1セントの周波数比は 2<sup>1/1200</sup> に等しい。この値は約 1.0005777895 である。 2つの音 {{mvar|''a''}} と {{mvar|''b''}} との周波数が知られている場合、{{mvar|''a''}} と {{mvar|''b''}} との間隔のセント値は次式で算出できる。 :<math>n = 1200 \cdot \log_2 \left( \frac{b}{a} \right) \approx 3986 \cdot \log_{10} \left( \frac{b}{a} \right)</math> 同様に {{mvar|''a''}} と {{mvar|''b''}} との間隔のセント値 {{mvar|''n''}} が知られている場合、{{mvar|''b''}} は次式で算出できる。 :<math>b = a \times 2 ^ {n/1200}</math> 異なる音律を比較するために、諸々の音程の大きさをセントに変換することが行われる。例として[[純正律]]の[[長三度]]は周波数比で5:4と示される。これは上の式によって約386セントである。<!--12-->平均律で調律された[[ピアノ]]の長三度は400セントとなる。この14セントの差は半音の約7分の1であり、容易に聴き取れる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation | last = Ellis | first = Alexander J. | coauthors = Alfred J. Hipkins | year = 1884 | title = Tonometrical Observations on Some Existing Non-Harmonic Musical Scales | journal = Proceedings of the Royal Society of London | volume = 37 | pages = 368–385 | doi = 10.1098/rspl.1884.0041 | postscript = . | jstor=114325 | issue = 232–234}} {{デフォルトソート:せんと}} [[Category:音律]] [[Category:音の単位]] [[Category:対数スケールの単位]]
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チオ硫酸ナトリウム
チオ硫酸ナトリウム(チオりゅうさんナトリウム、英: sodium thiosulfate)は、化学式 Na2S2O3 で表されるナトリウムのチオ硫酸塩である。「チオ硫酸」という呼称は、硫酸が持つ酸素が1つ硫黄に置き換わっていることを示している。 一般にハイポと称されるが、この名称は次亜硫酸ナトリウム(sodium hyposulfite)の略称である。次亜硫酸ナトリウムは亜ジチオン酸ナトリウムの別名であり、まったく別の物質の名前の略称が間違ったまま浸透してしまっているだけでなく、かつては「チオ硫酸ナトリウム」を「次亜硫酸ナトリウム」と間違った表記がなされていた。また、製品は「カルキ抜き」と称される場合がある。 医薬品で「ハイポ」「ハイポエタノール」「ハイポアルコール」とはチオ硫酸ナトリウム水和物エタノール溶液の通称・販売名である。 一般に市販されているものは五水和物 Na2S2O3・5H2O で、無色透明のややゆがんだ直方体の結晶である。水や液体アンモニアに溶けやすい。ただし、温かい飽和水溶液を冷やしても、過飽和により結晶が析出しないこともある。 酸と反応させると分解して単体硫黄と有毒な二酸化硫黄(亜硫酸ガス)を発生させるため、チオ硫酸ナトリウムは酸と混合、あるいは接触させないよう取り扱いに注意を要する。 チオ硫酸イオン S 2 O 3 2 − {\displaystyle {\ce {S2O3^{2-}}}} は四面体形のアニオンである。S-S 結合距離は、この結合が単結合であることを示しており、硫黄がかなりの負電荷を帯びていて、また S-O 結合が二重結合性を持っていることを示唆している。チオ硫酸イオンの最初のプロトン化は硫黄上で起こる。チオ硫酸イオンは金属への強い配位性を示し、チオスルファト錯体を形成する。例えば、銀イオンと錯体をつくる(下記参照)ため、本来難溶性である各種ハロゲン化銀を水溶液中に溶解させることが出来る。 工業スケールでは、硫化ナトリウムまたは硫黄染料製造の液体廃棄物から製造される。実験室スケールでは、亜硫酸ナトリウムまたは亜硫酸水素ナトリウムの水溶液に粉末硫黄を加えて煮沸し、ろ過後加熱濃縮することで作られる。 水溶液はハロゲン化銀(銀塩写真の感光剤)の結晶を溶解するので、写真の定着剤として使用される。生成物は銀イオン錯塩のビス(チオスルファト)銀(I)酸ナトリウムである。この性質は、イギリスのジョン・ハーシェルによって発見された。 水道水中の塩素などハロゲンの単体を除く作用があるので、金魚、熱帯魚など水生生物の飼育において、換水に際して塩素消毒の施された水道水を水槽に入れざるを得ないときに、あらかじめ少量添加して使用される。 発生するハロゲン化水素酸や硫酸は強酸ではあるが、水道水に含まれる程度の量の塩素から生成される量はごく微量のため、水の pH に及ぼす影響はごくわずかなので、水生生物に悪影響はみられない。これは塩素による急性中毒そのものよりも、塩素と水生生物の排泄物などが反応して有毒なクロラミン (NH2Cl, NHCl2) などが生成することを防ぐ効果の方が大きいともされる。 シアン化物(青酸カリなど)中毒の解毒剤としてチオ硫酸ナトリウム水溶液の連続静脈注射と亜硝酸化合物を併用する。この際、チオ硫酸ナトリウムはシアン化物をより毒性の弱いチオシアン化物へ変化させる。 一方、亜硝酸塩は血液中のヘモグロビンと反応してメトヘモグロビンとなる。メトヘモグロビンはヘム鉄やチトクロームの鉄よりもシアンと強く結合するのでシアンの中毒症状の発現を遅らせる働きがある。 ポビドンヨードのようなヨウ素製剤を用いて消毒をした後に、ヨウ素による着色を脱色する目的でエタノール溶液(ハイポアルコール/ハイポエタノール)の形で用いる。ヨウ素はハロゲンの中でも酸化力の弱いため、以下の反応によってテトラチオン酸ナトリウムとヨウ化ナトリウムとなる。 カルシウムが沈着し皮膚が潰瘍化するカルシフィラキシス (calciphylaxis) へもオフラベルにて使用される。 投与方法は経静脈、経口、局所への適用などが報告されている。 重大な副作用の報告はない。高用量では吐き気・嘔吐を催すとされる。基礎研究では、ラットで骨の強度に影響する可能性が示唆されている。経皮では局部への適用で副作用の報告はない。 亜硫酸ナトリウムや次亜硫酸ナトリウムのように還元力をもち漂白・酸化防止効果があるため、国によっては食品添加物として利用されている。ただし日本においては認められない。 爆発性がある雷酸や雷酸塩を分解する性質があるため、雷酸や雷酸塩の定量や廃棄にも使用される。
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チオ硫酸ナトリウムは、化学式 Na2S2O3 で表されるナトリウムのチオ硫酸塩である。「チオ硫酸」という呼称は、硫酸が持つ酸素が1つ硫黄に置き換わっていることを示している。
{{Chembox | Verifiedfields = changed | verifiedrevid = 400302970 | Name = | ImageFile = Sodium-thiosulfate-3D-vdW-A.png | ImageSize = | ImageName = Sodium thiosulfate | ImageFile1 = Sodium-thiosulfate-xtal-3D-balls.png | ImageSize1 = 250px | ImageName1 = Crystal structure of sodium thiosulfate pentahydrate | ImageFile2 = Thiosíran sodný.JPG | ImageSize2 = 250px | IUPACName = sodium thiosulfate | OtherNames = ハイポ | Section1 = {{Chembox Identifiers | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}} | ChemSpiderID = 22885 | ChEMBL_Ref = {{ebicite|changed|EBI}} | ChEMBL = 1201157 | UNII_Ref = {{fdacite|correct|FDA}} | UNII = L0IYT1O31N | InChI = 1/2Na.H2O3S2/c;;1-5(2,3)4/h;;(H2,1,2,3,4)/q2*+1;/p-2 | InChIKey = AKHNMLFCWUSKQB-NUQVWONBAM | SMILES = [Na+].[Na+].[O-]S([O-])(=O)=S | StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChI = 1S/2Na.H2O3S2/c;;1-5(2,3)4/h;;(H2,1,2,3,4)/q2*+1;/p-2 | StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChIKey = 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で表される[[ナトリウム]]の[[チオ硫酸塩]]である。「チオ硫酸」という呼称は、[[硫酸]]が持つ[[酸素]]が1つ[[硫黄]]に置き換わっていることを示している。 == ハイポ == 一般に'''[[ハイポ]]'''と称される<ref>関連:{{Citation | ref = none | title = 調剤指針 | editor = 日本薬剤師会 | edition = 第12改訂増補 | publisher = 薬事日報社 | year = 2008 | isbn = 9784840810517 | page = 62}}</ref>が、この名称は'''次亜硫酸ナトリウム'''(sodium '''hypo'''sulfite)の略称である。次亜硫酸ナトリウムは[[亜ジチオン酸ナトリウム]]の別名であり、まったく別の物質の名前の略称が間違ったまま浸透してしまっているだけでなく、かつては「チオ硫酸ナトリウム」を「次亜硫酸ナトリウム」と間違った表記がなされていた。また、製品は「'''[[カルキ]]抜き'''」と称される場合がある。 医薬品で「ハイポ」「ハイポエタノール」「ハイポアルコール」とはチオ硫酸ナトリウム水和物エタノール溶液の通称・販売名である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/iyakuDetail/GeneralList/2619819|title=チオ硫酸ナトリウム水和物・エタノール|publisher=医薬品医療機器総合機構 |accessdate=2019-10-31}}</ref>。 == 性質 == 一般に市販されているものは[[水和物|五水和物]] {{chem|Na|2|S|2|O|3}}・5H<sub>2</sub>O で、無色透明のややゆがんだ直方体の[[結晶]]である。[[水]]や液体[[アンモニア]]に溶けやすい。ただし、温かい[[飽和水溶液]]を冷やしても、[[過飽和]]により[[結晶]]が[[析出]]しないこともある。 [[酸]]と反応させると分解して単体硫黄と有毒な[[二酸化硫黄]](亜硫酸ガス)を発生させるため、チオ硫酸ナトリウムは酸と混合、あるいは接触させないよう取り扱いに注意を要する。 チオ硫酸イオン <chem>S2O3^{2-}</chem> は[[四面体形]]の[[アニオン]]である。S-S [[結合距離]]は、この結合が[[単結合]]であることを示しており、硫黄がかなりの負電荷を帯びていて、また S-O 結合が[[二重結合]]性を持っていることを示唆している。チオ硫酸イオンの最初の[[プロトン化]]は硫黄上で起こる。チオ硫酸イオンは金属への強い配位性を示し、チオスルファト錯体を形成する。例えば、銀イオンと錯体をつくる(下記参照)ため、本来難溶性である各種ハロゲン化銀を水溶液中に溶解させることが出来る。 == 製法 == 工業スケールでは、[[硫化ナトリウム]]または硫黄染料製造の液体廃棄物から製造される。実験室スケールでは、[[亜硫酸ナトリウム]]または[[亜硫酸水素ナトリウム]]の水溶液に粉末[[硫黄]]を加えて煮沸し、ろ過後加熱濃縮することで作られる<ref>P. アトキンス, T. オーバートン著, 田中 勝久, 平尾 一之, 北川 進訳 『シュライバー・アトキンス無機化学 第4版』 東京化学同人、2008年、602-603頁</ref>。 == 利用 == === 写真術 === [[水溶液]]は[[ハロゲン化銀]]([[銀塩写真]]の感光剤)の結晶を[[溶解]]するので、[[写真]]の[[現像#定着|定着]]剤として使用される。生成物は銀イオン錯塩のビス(チオスルファト)銀(I)酸ナトリウムである。この性質は、[[イギリス]]の[[ジョン・ハーシェル]]によって発見された。 :<chem>2 Na2S2O3\ + AgX -> Na3[Ag(S2O3)2]\ + NaX</chem> === 脱ハロゲン剤 === 水道水中の[[塩素]]など[[ハロゲン]]の[[単体]]を除く作用があるので、[[金魚]]、[[熱帯魚]]など水生生物の飼育において、換水に際して[[塩素消毒]]の施された[[水道水]]を水槽に入れざるを得ないときに、あらかじめ少量添加して使用される。 : <chem>Na2S2O3 + X2 + H2O -> Na2SO4 + 2 HX + S (v)</chem> : <chem>Na2S2O3 + 4 X2 + 5 H2O -> 2 NaX + 2 H2SO4 + 6 HX</chem> : Xはヨウ素以外のハロゲン<ref>中原 勝儼著 『無機化合物・錯体辞典』 講談社サイエンティフィク、1997年、473頁</ref> 発生する[[ハロゲン化水素]]酸や硫酸は[[強酸]]ではあるが、水道水に含まれる程度の量の塩素から生成される量はごく微量のため、水の [[水素イオン指数|pH]] に及ぼす影響はごくわずかなので、水生生物に悪影響はみられない。これは塩素による急性中毒そのものよりも、塩素と水生生物の排泄物などが反応して有毒な[[クロラミン]] (NH<sub>2</sub>Cl, NHCl<sub>2</sub>) などが生成することを防ぐ効果の方が大きいともされる。 === 医療 === ;シアン化物中毒 [[シアン化物]]([[シアン化カリウム|青酸カリ]]など)中毒の解毒剤としてチオ硫酸ナトリウム水溶液の連続[[静脈]][[注射]]と亜硝酸化合物を併用する。この際、チオ硫酸ナトリウムはシアン化物をより毒性の弱い[[チオシアン酸|チオシアン化物]]へ変化させる。 : <chem>Na2S2O3 + CN^- -> NaSCN + NaSO3^-</chem> 一方、亜硝酸塩は血液中の[[ヘモグロビン]]と反応してメトヘモグロビンとなる。メトヘモグロビンは[[ヘム]]鉄やチトクロームの鉄よりもシアンと強く結合するのでシアンの中毒症状の発現を遅らせる働きがある。 ;ヨウ素剤の脱色 [[ポビドンヨード]]のような[[ヨウ素]]製剤を用いて[[消毒]]をした後に、ヨウ素による着色を脱色する目的で[[エタノール]]溶液(ハイポアルコール/ハイポエタノール)の形で用いる。ヨウ素はハロゲンの中でも酸化力の弱いため、以下の反応によって[[テトラチオン酸ナトリウム]]と[[ヨウ化ナトリウム]]となる。 : <chem>2 Na2S2O3 + I2 -> Na2S4O6 + 2 NaI</chem> ;カルシフィラキシス カルシウムが沈着し皮膚が潰瘍化するカルシフィラキシス{{enlink|calciphylaxis}}へもオフラベルにて使用される。<ref>{{cite journal|title=Calciphylaxis: A Review|journal=The journal of the American College of Certified Wound Specialists|year=2010|volume=2|issue=4|pmid=24527153|pmc=3601884|doi=10.1016/j.jcws.2011.03.001}}</ref><ref>{{cite journal|title=Sodium Thiosulfate: Calciphylaxis|journal=Hospital pharmacy|year=2015|volume=50|issue=11|pmid=27621504|pmc=4750847|doi=10.1310/hpj5011-975}}</ref> 投与方法は経静脈、経口、局所への適用などが報告されている。 ;副作用 重大な副作用の報告はない。高用量では吐き気・嘔吐を催すとされる。基礎研究では、ラットで骨の強度に影響する可能性が示唆されている。<ref>{{cite journal|title=Sodium thiosulfate prevents vascular calcifications in uremic rats|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0085253815532122|year=2008|journal=Kidney International|volume=74|issue=11|doi=10.1038/ki.2008.455}}</ref>経皮では局部への適用で副作用の報告はない。 === その他 === [[亜硫酸ナトリウム]]や[[次亜硫酸ナトリウム]]のように還元力をもち漂白・酸化防止効果があるため、国によっては食品添加物として利用されている。ただし日本においては認められない。 爆発性がある[[雷酸]]や[[雷酸塩]]を分解する性質があるため、雷酸や雷酸塩の定量や廃棄にも使用される。 * [[次亜塩素酸]]との反応 : <chem>Na2S2O3 + 4 HClO + H2O -> 2 NaCl + 2 H2SO4 + 2 HCl</chem> * 酸との反応 : <chem>Na2S2O3 + 2 HCl -> 2NaCl + S + SO2 + H2O</chem> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sodium thiosulfate}} *[[チオ硫酸]] *[[チオ硫酸塩]] == 外部リンク == *{{cite web|url=https://chemm.nlm.nih.gov/countermeasure_sodium-thiosulfate.htm|title=Sodium thiosulfate|publisher=CHEMM, U.S. Department of Health & Human Services|accessdate=2018年6月1日|language=英語|format=html}} * [http://kikakurui.com/k8/K8637-2006-01.html チオ硫酸ナトリウム五水和物 (試薬)JISK8637:2006] {{ナトリウムのオキソ酸塩}} {{DEFAULTSORT:ちおりゆうさんなとりうむ}} [[Category:チオ硫酸塩]] [[Category:ナトリウムの化合物]] [[Category:解毒剤]] [[Category:写真用品]]
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西田幾多郎
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 加賀国河北郡森村(現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(帝大における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となった『善の研究』(弘道館、1911年1月)は、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。 哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校(のちの四高、石川県金沢市)に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から漢籍までを学んだ。金沢出身の数学の教師であり、のちに四高校長などを歴任した北条時敬は、彼の才能を見込んで数学者になるよう強く勧めた。また、自由民権運動に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧し、中央集権化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、国立の「第四高等中学校」と名称が変わり、薩摩出身の学校長、教師が送り込まれた。柏田盛文校長の規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。 自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出を求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、禅に打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく円相図(丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は18年間教鞭を執り、三木清、西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。 太平洋戦争中の晩年、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だったことや、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。 1945年(昭和20年)6月2日、神奈川県鎌倉市極楽寺姥ケ谷の自宅書斎で尿毒症による発作を起こし、その5日後に死去。北鎌倉の東慶寺で葬儀が行われた。法名は曠然院明道寸心居士。その際、鈴木大拙は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。 西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。 郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。 最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教学での用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。 西田は思想輸入的・文献学的なアプローチを取らず、先人らの思考法だけを学び独自に思想を展開させたがゆえに、彼の著作は一見すると独創的で難解である。しかし、禅の実践から抽出された独自の学風は文献学者、「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼでもありえよう。一方、田辺元や高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。 西洋のものとしての論理を相対性として批判的に包摂する西田が与する東洋的なものとしての背理への、省察の深さは評価するべきだが、しかし同時に、それが、先の大戦で日本が軍国主義的に「東洋共栄圏」構想を進めるのを担う形で「世界新秩序の原理」で展開したということの問題も、見据えて吟味しておくべきである。西田の、論理を離れつつ絶対とするもの(=背理)に就く姿勢が向かう必然の先に、それがあったということがないのかどうか。 デビッド・A・ディルワースは西田の作品分類を行った際、この著には触れていなかったが、西田幾多郎は、その著書【善の研究】にて―経験・現実・善と宗教―について触れており、その中で思想・意志・知的直観・純粋な経験に思いをはせることが最も深い形の経験と論じている。この著書の主テーマは‘すべての経験において調和を渇望する東洋の英知の真髄に基づいている。 同郷の鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。 Iは以下8編 IIは以下5編 IIIは以下5編 2015年、西田直筆の大学ノート50冊や約250点のメモが見つかった。紙同士が貼りつくなど保管状態は悪かったが、除湿やクリーニングを経て、京都大学や金沢大学、石川県西田幾多郎記念哲学館などにより著作との関連など分析が進められた。これらのうち「宗教学講義ノート」「倫理学講義ノート」は2020年に岩波書店の全集別巻として刊行され(前述)、他はデジタルアーカイブとして公開されている。
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西田 幾多郎は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。
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[[1945年]]〈[[昭和]]20年〉[[6月7日]])は、[[日本]]の[[哲学者]]。[[京都学派]]の創始者。学位は、[[博士(文学)|文学博士]]([[京都大学]]・[[博士#博士学位の取得方法|論文博士]]・[[1913年]])。京都大学名誉教授。著書に『[[善の研究]]』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 == 経歴 == [[加賀国]][[河北郡]][[金津村 (石川県河北郡1907年)|森村]]<ref name=goaisatsu />(現在の[[石川県]][[かほく市]]森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は[[江戸時代]]、[[十村制|十村]](とむら)と呼称される[[加賀藩]]の大[[庄屋]]を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別([[東京大学|帝大]]における[[選科]]〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となった『[[善の研究]]』(弘道館、[[1911年]]1月)は、[[旧制高等学校]]の生徒らには代表的な必読書となった。 哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校(のちの[[第四高等学校 (旧制)|四高]]、石川県[[金沢市]])に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から[[漢籍]]までを学んだ。金沢出身の数学の教師であり、のちに四高校長などを歴任した[[北条時敬]]は、彼の才能を見込んで数学者になるよう強く勧めた。また、[[自由民権運動]]に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、[[薩長土肥|薩長]][[藩閥]]政府は自由民権運動を弾圧し、[[中央集権]]化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、国立の「第四高等中学校」と名称が変わり、薩摩出身の学校長、教師が送り込まれた。[[柏田盛文]]校長の規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の[[東京大学]])選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。 自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出を求めていた彼は、高校の同級生である[[鈴木大拙]]の影響で、[[禅]]に打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく[[円相|円相図]](丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は18年間教鞭を執り、[[三木清]]、[[西谷啓治]]など多くの哲学者を育て上げている。 [[太平洋戦争]]中の晩年、[[国策研究会]]において[[佐藤賢了]]と出会い、佐藤から[[東条英機]]が[[大東亜共栄圏]]の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だったことや、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に[[和辻哲郎]]宛の手紙の中で「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。 [[1945年]](昭和20年)6月2日、[[神奈川県]][[鎌倉市]][[極楽寺_(鎌倉市)#町名|極楽寺]]姥ケ谷の自宅書斎で[[尿毒症]]による発作を起こし、その5日後に死去<ref>『朝日新聞』 1945年6月9日</ref>。北鎌倉の[[東慶寺]]で葬儀が行われた。[[法名]]は曠然院明道寸心居士。その際、[[鈴木大拙]]は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。 === ゆかりの場所など === * 石川県かほく市(出生地)<ref>[http://www.city.kahoku.ishikawa.jp/www/02/201/001/000/index_783.html 「哲学の道」探訪 歩いてみよう!西田幾多郎ゆかりの地] - かほく市</ref> ** [[宇野気駅]]前に銅像が建てられている(1990年建立)。 ** 宇野気駅近くの本楽寺付近(3歳から13歳頃まで住んでいた家の跡)に「生い立ちの碑」がある。 ** 宇野気駅から約1km南東にある長楽寺付近に出生地の石碑と説明板がある。 * 山口市 **1897年9月から1899年6月までの間、西田幾多郎は[[山口市]]で暮らした。山口時代に住んだ最後の住宅が山口市下竪小路45番地に現存しており、2階が当時の姿をよく残している。現在、[[山口大学]]の研究者有志による哲学書の読書会が定期開催されている。 **住宅の1階には[[辻村公一]]の蔵書を保管している。 **住宅の外壁に説明板がある。 *京都市 ** 西田幾多郎が散策した[[琵琶湖疏水]]沿いの道は「[[哲学の道]]」と呼ばれ、[[日本の道百選]]にも選ばれている。 ** 西田幾多郎が[[1912年]]から[[1922年]]まで住んでいた[[京都市]][[左京区]]の木造2階建ての家はその後も長年にわたり貸家として使われていたが、[[マンション]]建設のため[[2016年]][[6月8日]]に解体された。この民家の廊下などは、[[京都大学総合博物館]]などで保管される予定である<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160608/k00/00e/040/242000c 「哲学者 西田幾多郎の旧居解体 一部、京大などで保管」]『[[毎日新聞]]』2016年6月8日(2021年5月15日閲覧)</ref>。 === 年表 === * 1884年 [[石川師範学校|石川県師範学校]]予備科卒業。 * 1888年 [[第四高等学校 (旧制)|第四高等中学校]]予科修了。 * 1890年 第四高等中学校中途退学。 * 1894年 [[東京大学|帝国大学]]文科大学哲学科選科修了。 * 1895年 石川県能登尋常中学校七尾分校教諭(4月)、得田寿美と結婚(5月)。 * 1896年 [[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]][[講師 (教育)|講師]]。 * 1897年 この頃から参禅への関心が高まり、洗心庵の雪門玄雪<ref>[[水上勉]]『破鞋 雪門玄松の生涯』([[岩波書店]] 1986 のち同時代ライブラリー)。</ref>、[[滴水禅師|滴水]]、広州、虎関の諸禅師に就く。 * 1899年 四高生の「披露堕落」を雑誌『日本人』に投稿した首謀者と見なされ解職。[[山口高等学校 (旧制)|山口高等学校]](旧旧山高)教授(3月)。7月に第四高等学校教授([[心理学|心理]]、[[論理学|論理]]、[[倫理学|倫理]]、[[ドイツ語]]を担当し、「デンケン(考える)先生」と親しまれる)。臥龍山雪門老師に参禅。 * 1900年 同僚の三竹、杉森とともに公認[[下宿]]「三々塾」(さんさんじゅく)を作り、学生指導に当たる。 * 1901年 雪門老師から寸心居士の号を受ける。 * 1903年 京都大徳寺孤蓬庵広州老師に参じ、無字の[[公案]]透過。 * 1905年 富山県国泰寺で瑞雲老師に参じる。 * 1909年 [[吉村寅太郎 (教育者)|吉村寅太郎]]校長と反目が続き四高を去る。[[学習院]]教授(7月)、[[日本大学]]講師(10月)。 * 1910年 [[豊山大学]](現:[[大正大学]])講師(4月)、8月31日に[[京都帝国大学]]文科大学助教授(倫理学)。 * 1911年 真宗大谷大学(現:[[大谷大学]])講師。 * 1912年 [[京都高等工芸学校 (旧制)|京都高等工芸学校]](現:[[京都工芸繊維大学]])講師。 * 1913年 8月に[[京都大学#沿革|京都帝国大学]][[京都大学大学院文学研究科・文学部|文科大学]]教授([[宗教学]])、[[博士(文学)|文学博士]](12月)。 * 1914年 宗教学講座担当を免じ、哲学、哲学史第一講座担任を命じられる。 * 1922年 京都市内の西田邸の一部に「骨清窟」が建てられる(1974年に石川県[[宇ノ気町]]に移転)。 * 1925年 妻寿美死去(1月)。 * [[1927年]] [[帝国学士院会員]]。 * 1928年 京都帝国大学停年退職。 * 1929年 京都帝国大学名誉教授(2月1日)<ref>『[[官報]]』第627号(昭和4年2月2日)</ref> * 1931年 山田琴と再婚(12月)。 * 1933年 [[慶應義塾大学]][[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]講師。 * 1936年 『[[思想 (雑誌)|思想]]』1月号が「西田哲学」を特集([[高橋里美]]、[[高坂正顕]]、[[務台理作]]、[[三木清]]ら)。 * [[1940年]] [[文化勲章]]受章。興亜工業大学(現:[[千葉工業大学]])の設立に参画。 == 栄典 == ;位階 * [[1916年]](大正5年)[[9月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第1244号「叙任及辞令」1916年9月21日。</ref> ;勲章 * [[1940年]](昭和15年)[[11月10日]] - [[文化勲章]]<ref>『官報』第4157号「叙任及辞令」1940年11月13日</ref> == 思想 == 西田の哲学体系は'''西田哲学'''と呼ばれる。 郷里に近い[[国泰寺 (高岡市)|国泰寺]]での[[禅|参禅]]経験([[居士]]号は寸心)と[[近代哲学]]を基礎に、[[仏教]]思想、[[西洋哲学]]をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は[[禅|禅仏教]]の「[[無]]の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その[[純粋経験]]を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される'''[[絶対矛盾的自己同一]]'''論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。 最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより[[宗教学]]での用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、[[鈴木大拙]]の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という[[金剛経]]に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。 {{独自研究範囲|date=2015年11月21日 (土) 00:31 (UTC)|西田は思想輸入的・[[文献学]]的なアプローチを取らず、先人らの思考法だけを学び独自に思想を展開させたがゆえに、彼の著作は一見すると独創的で難解である。しかし、[[禅]]の実践から抽出された独自の学風は[[文献学者]]、「[[哲学者|哲学学者]]」への痛烈な[[アンチテーゼ]]でもありえよう}}。一方、[[田辺元]]や[[高橋里美]]などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。 西洋のものとしての論理を相対性として批判的に包摂する西田が与する東洋的なものとしての背理への、省察の深さは評価するべきだが、しかし同時に、それが、先の大戦で日本が軍国主義的に「東洋共栄圏」構想を進めるのを担う形で「世界新秩序の原理」で展開したということの問題も、見据えて吟味しておくべきである。西田の、論理を離れつつ絶対とするもの(=背理)に就く姿勢が向かう必然の先に、それがあったということがないのかどうか。 デビッド・A・ディルワースは西田の作品分類を行った際、この著には触れていなかったが、西田幾多郎は、その著書【善の研究】にて―経験・現実・善と宗教―について触れており、その中で思想・意志・知的直観・純粋な経験に思いをはせることが最も深い形の経験と論じている。この著書の主テーマは‘すべての経験において調和を渇望する東洋の英知の真髄<ref>ミルチャ・イトゥ 序文『Nishida Kitarō's An Inquiry into the Good』英羅訳版「西田 幾多郎 善の探求」 240頁より引用, 2005, Braşov, Orientul Latin Publishing House (ISBN 973-9338-77-1)</ref>に基づいている。 == 名言 == *「善とは一言にていえば人格の実現である」 *「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある」 *「自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が創造的世界の作業的要素となることである」 == 家族 == * 上田彌生:歌人、長女。上田操(裁判官)に嫁ぐ。幾多郎逝去の数か月前に急死。 * 西田静子:エッセイスト。彌生の妹。三女。 * [[上田薫 (教育学者)|上田薫]]:彌生の長男、初孫。教育哲学者。 * 上田久:彌生の次男。祖父を回想。 * 上田滋:彌生の三男。 * 上田正:彌生の四男。 * [[金子武蔵]]:東大教授(倫理学)。六女、梅子の夫。 * 西田外彦:[[甲南大学|甲南高等学校]](旧制)教授。次男。(長男の謙は早世) * 西田幾久彦:[[財団法人]]日本ゴルフ協会理事、元[[東京銀行]]常務、外彦の長男、[[正仁親王妃華子]]の義兄。 * [[高橋ふみ]]:妹の次女(姪)。石川県の女生徒として最初の[[帝国大学]]生([[東北大学|東北帝国大学]])となり、西田の論文を[[ドイツ語]]に訳した。 == その他 == 同郷の[[鈴木大拙]](貞太郎)、[[山本良吉]]、[[藤岡作太郎]]とは[[石川県]]専門学校(第四高等中学校の前身、のちの[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]])以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。 == 西田幾多郎を取り上げたTV番組 == * [[西部邁ゼミナール]] ([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]) ::{|class="wikitable" !nowrap|タイトル !nowrap|放送日 |- |[http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20140111 佐伯啓思×西部邁 二人の思想家が語る! 「無」の思想【その1】] |2014年1月11日 |- |[http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20140118 佐伯啓思×西部邁 二人の思想家が語る! 西田幾多郎の苦難の人生による「悲しみの哲学」と「無の思想」【その2】] |2014年1月18日 |} * 日本人は何を考えて来たのか #11「近代を越えて〜西田幾多郎と京都学派」([[日本放送協会|NHK]][[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]) * [[100分de名著]]「善の研究」(NHKEテレ) == 著作・主な論考 == ;*新版『西田幾多郎全集』〈全24巻・別巻〉[[岩波書店]]、2002年 - 2009年、別巻(講義ノート)2020年 :;編集委員は、[[小坂国継]]、[[竹田篤司]]、[[藤田正勝]]、[[クラウス・リーゼンフーバー]] ;*旧版『西田幾多郎全集』(全19巻)は、1947-53年、1965-66年、1978-80年、1987-89年に刊行。 :;編集委員(1965—1966年版)は、[[安倍能成]]、[[天野貞祐]]、[[和辻哲郎]]、[[山内得立]]、[[務台理作]]、[[高坂正顕]]、[[下村寅太郎]] * 1巻 善の研究・思索と体験 * 2巻 自覚に於ける直観と反省 * 3巻 意識の問題・芸術と道徳 * 4巻 働くものから見るものへ * 5巻 一般者の自覚的体系 * 6巻 無の自覚的限定 * 7巻 哲学の根本問題(行為の世界)・哲学の根本問題:続編(弁証法的世界) * 8巻 哲学論文集I:哲学体系への企図・哲学論文集II * 9巻 哲学論文集III * 10巻 哲学論文集IV・哲学論文集V * 11巻 哲学論文集VI・哲学論文集VII * 12巻 続思索と体験・「続思索と体験」以後・日本文化の問題 * 13巻 小篇・ノート * 14巻 講演筆記 * 15巻 講義(哲学概論・宗教学) * 16巻 英国倫理学史・心理学講義・倫理学草案・純粋経験に関する断章・我尊会有翼文稿・不成会有翼草稿・Spinoza's Conception of God * 17巻 日記 * 18巻 書簡集I * 19巻 書簡集II *;『[[善の研究]]』[[岩波文庫]]、改版2012年<[[藤田正勝]]の語注・解説>、ワイド版刊。旧版は下村寅太郎解説。 **;※岩波文庫刊に「思索と体験」(正・続)、「西田幾多郎随筆集」ワイド版刊<br />「西田幾多郎歌集」「西田幾多郎講演集」「西田幾多郎書簡集」 ;「西田幾多郎哲学論集」〈I・II・III〉、[[上田閑照]]編、岩波文庫、1987-89年、下記を所収。 Iは以下8編 * 場所 * 私と汝 * 種々の世界 * 働くものから見るものへ * 直接に与えられるもの * 左右田博士に答う * 叡智的世界 * 無の自覚的限定 IIは以下5編 * 論理と生命 * 行為的直観 * 人間的存在 * 弁証法的一般者としての世界 * 行為的自己の立場 IIIは以下5編 * 自覚について * 絶対矛盾的自己同一 * 歴史的形成作用としての芸術的創作 * [[ルネ・デカルト|デカルト]]哲学について * 場所的論理と宗教的世界観 ;『西田哲学選集』<全7巻別巻2>、[[燈影舎]]、[[1998年]]、[[上田閑照]]監修、[[大橋良介]]・[[野家啓一]]編。 ::;別巻1は伝記、2は研究。他に燈影舎では「西田幾多郎哲学講演集」「寸心日記」を刊行。 * 1巻 西田幾多郎による西田哲学入門 * 2巻 「科学哲学」論文集 * 3巻 「宗教哲学」論文集 * 4巻 「現象学」論文集 * 5巻 「歴史哲学」論文集 * 6巻 「芸術哲学」論文集 * 7巻 日記・書簡・講演集 ;『西田幾多郎論文選』[[書肆心水]] *「西田幾多郎キーワード論集」 <エッセンシャル・ニシダ 即の巻> 2007年 *「西田幾多郎生命論集」<エッセンシャル・ニシダ 命の巻> 2007年 *「西田幾多郎日本論集」<エッセンシャル・ニシダ 国の巻> 2007年 *「種々の哲学に対する私の立場 西田幾多郎論文選」2008年 *「実践哲学について 西田幾多郎論文選」2008年 *「真善美 西田幾多郎論文選」2009年 *「意識と意志 西田幾多郎論文選」2012年 *「師弟問答 西田哲学」[[三木清]]共著 2007年 *「西田幾多郎の声 前・後篇 手紙と日記が語るその人生」2011年 *「語る西田哲学 西田幾多郎談話・対談・講演集」2014年 ;『西田哲学を読む』、[[大東出版社]] - 小坂国継による詳細な注釈が付されている。 :*『西田哲学を読む1「場所的論理と宗教的世界観」』2008年 :*『西田哲学を読む2「叡智的世界」』2009年 :*『西田哲学を読む3「絶対矛盾的自己同一」』2009年 *『善の研究』[[小坂国継]]全注釈、[[講談社学術文庫]] 2006年 *『近代日本思想選 西田幾多郎』[[小林敏明]]編・解説、[[ちくま学芸文庫]] 2020年 === 直筆ノート === 2015年、西田直筆の大学ノート50冊や約250点のメモが見つかった。紙同士が貼りつくなど保管状態は悪かったが、除湿やクリーニングを経て、京都大学や[[金沢大学]]、[[石川県西田幾多郎記念哲学館]]などにより著作との関連など分析が進められた。これらのうち「宗教学講義ノート」「倫理学講義ノート」は2020年に岩波書店の全集別巻として刊行され<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO71693430Z00C21A5CT0000/ 【風紋】西田幾多郎のノート公開 息づく知的格闘の跡]『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年5月10日(社会面)2021年5月15日閲覧</ref>(前述)、他は[[デジタルアーカイブ]]として公開されている<ref>[https://websites2.jmapps.ne.jp/nishidanote/ 西田幾多郎ノート類デジタルアーカイブ](2021年5月15日閲覧)</ref>。 == 参考文献 == * 西田静子・上田弥生『わが父西田幾多郎』[[弘文堂]]書房、1948年3月<ref group="注">西田静子「父」、上田弥生「あの頃の父」を収録。</ref> * 西田静子編『父西田幾多郎の歌』明善書房、1948年10月 * 上田久『祖父西田幾多郎』南窓社、1978年11月<ref group="注">生い立ち - 明治43年の『善の研究』成立まで。</ref> * [[竹田篤司]]『西田幾多郎』中央公論社、1979年3月 * 上田久『続 祖父西田幾多郎』[[南窓社]]、1983年1月<ref group="注">以後昭和20年に没するまで。</ref> *『[[上田閑照]]集 第一巻 西田幾多郎』岩波書店、2001年。全11巻 **抜粋版<ref group="注">第1部の伝記を文庫化、第2部は西田哲学研究。</ref>『西田幾多郎とは誰か』岩波現代文庫、2002年 * 浅見洋『二人称の死 西田・大拙・西谷の思想をめぐって』春風社、2003年。ISBN 4921146756 * {{Cite book|和書|author=藤田正勝|chapter=|title=西田幾多郎 <small>生きることと哲学</small>|publisher=[[岩波新書]]|date=2007-03|pages=|isbn=9784004310662|id={{全国書誌番号|21220260}}|ref=}} * {{Cite book|和書|author=小林敏明|chapter=|title=[[夏目漱石]]と西田幾多郎 <small>共鳴する明治の精神</small>|publisher=岩波新書|date=2017-06|pages=|isbn=9784004316671|id={{全国書誌番号|22926273}}|ref=}} * {{Cite book|和書|author=小坂国継|authorlink=|chapter=|title=西田幾多郎の哲学 <small>物の真実に行く道</small>|publisher=岩波新書|date=2022-05|pages=|isbn=9784004319290|id={{全国書誌番号|23702430}}|ref=}} ;以下は関連資料 * [[Portable Document Format|PDF]]ファイル:[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/hs/publication/files/ningen_5/131-140.pdf 研究ノート、福井雅美「西田幾多郎を生んだ地、宇ノ気と金沢」『立命館人間科学研究』第5号20033] * [[DVD]]『学問と情熱 西田幾多郎 物来って我を照らす』[[紀田順一郎]](総合監修)/[[平泉成]](ナレーター) [[紀伊國屋書店]] * Cheung Ching-yuen『Experience, other, body and life : on Nishida Kitaro's phenomenological philosophy(経験・他者・身体・生命:西田幾多郎の現象学的哲学をめぐって)』2007年<ref name="博士論文DB">博士論文書誌データベース</ref> * 長迫英倫『「制作」における世界とのつながり:西田幾多郎と[[伊藤仁斎]]の比較から見えてくる世界観』2007年<ref name="博士論文DB"/> * 淺見洋『西田幾多郎と[[キリスト教]]の対話』2000年<ref name="博士論文DB"/> * 今滝憲雄『[[矢内原忠雄]]における信仰と実践をめぐる問題:西田幾多郎の「宗教論」を介して』2000年<ref name="博士論文DB"/> * 石崎恵子『西田幾多郎における「創造」』2012年<ref name="博士論文DB"/> ===資料・研究文献=== * 『西田幾多郎―同時代の記録』 [[下村寅太郎]]編、岩波書店、1971年 * 下村寅太郎『西田幾多郎 人と思想』東海大学出版会〈東海選書〉、改装版1977年 * 中村雄二郎『西田幾多郎』岩波書店「20世紀思想家文庫」、1983年7月/[[岩波現代文庫]] 全2巻、2001年。下記と併せた新編 * [[中村雄二郎]]『西田哲学の脱構築』岩波書店、1987年9月 * 上杉知行『西田幾多郎の生涯』燈影舎、1988年4月。西田記念館館長による伝記 * [[大橋良介]]『西田哲学の世界-あるいは哲学の転回』[[筑摩書房]]、1995年。ISBN 4480842365 * [[平山洋]]『西田哲学の再構築-その成立過程と比較思想』[[ミネルヴァ書房]]、1997年。ISBN 978-4623027354 * [[新田義弘]]『現代の問いとしての西田哲学』岩波書店、1998年。ISBN 4000006592 * [[藤田正勝]]『現代思想としての西田幾多郎』[[講談社]]選書メチエ、1998年 **増補版『西田幾多郎の思索世界 <small>純粋経験から世界認識へ</small>』岩波書店、2011年。ISBN 4000242792 * 遊佐道子『伝記 西田幾多郎』燈影舎。ISBN 978-4924520691 *『西田哲学研究の歴史』藤田正勝編・解説、[[燈影舎]]。ISBN 978-4924520707 ::各・上田閑照監修、大橋良介・野家啓一編『西田哲学選集 別巻一・二』、1998年9月-10月 *『[[近代の超克|世界史の理論]] [[京都学派]]の[[歴史哲学]]論攷』森哲郎解説「京都哲学撰書第11巻」燈影舎、2000年。西田も参加 * [[小坂国継]]『西田幾多郎の思想』講談社学術文庫、2002年。ISBN 406159544X *『西田幾多郎、没後六十年 永遠に読み返される哲学』[[河出書房新社]]〈[[KAWADE道の手帖]]〉、2005年 * [[永井均]]『西田幾多郎-「絶対無」とは何か』シリーズ・哲学のエッセンス:[[NHK出版]]、2006年 **新版『西田幾多郎 - 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』[[角川ソフィア文庫]]、2018年。ISBN 4044001847 * [[小林敏明]]『西田幾多郎の憂鬱』岩波現代文庫、2011年 * 小林敏明『西田哲学を開く』岩波現代文庫、2011年 * 小坂国継『西田哲学の基層 宗教的自覚の論理』岩波現代文庫、2011年 * 大橋良介『西田幾多郎 <small>本当の日本はこれからと存じます</small>』ミネルヴァ書房〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、2013年。ISBN 4623066142 * 池田善昭との対話『[[福岡伸一]]、西田哲学を読む <small>生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一</small>』[[明石書店]]、2017年。[[小学館新書]]、2020年。ISBN 4098253860 * 藤田正勝『人間・西田幾多郎 未完の哲学』岩波書店、2020年。ISBN 4000614266 *『西田幾多郎研究資料集成』全9巻、小坂国継編・解説、クレス出版、2012年。ISBN 978-4877337070 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連人物 == *[[鈴木大拙]] *[[北条時敬]] *[[田邊元|田辺元]] *[[和辻哲郎]] *[[岩波茂雄]] *[[安倍能成]] === 弟子 === *[[天野貞祐]] *[[山内得立]] *[[務台理作]] *[[谷川徹三]] *[[木村素衛]] *[[下村寅太郎]] *[[三木清]] *[[戸坂潤]] *[[土井虎賀寿]] *[[相原信作]] *[[唐木順三]] ;<span style="font-size:110%;">京都学派四天王</span> *[[高坂正顕]] *[[西谷啓治]] *[[高山岩男]] *[[鈴木成高]] == 関連項目 == *[[日本の哲学者]] *[[京都学派]] *[[近代の超克]] *[[哲学の道]] *[[心 (雑誌)]] *[[マイスター・エックハルト|エックハルト]] *[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド|ホワイトヘッド]] *[[ルネ・デカルト]] *[[アンリ・ベルクソン]] *[[石川県西田幾多郎記念哲学館]] - 生誕地である石川県[[かほく市]]が設置する文化施設。西田幾多郎の遺品や書を展示するほか、[[京都市]]にあった旧西田邸の書斎が移築保存されている。 *[[金沢ふるさと偉人館]] - 石川県[[金沢市]]が設置する文化施設。金沢ゆかりの偉人として紹介されている。 == 外部リンク == 日本語 * {{青空文庫著作者|182|西田 幾多郎}} * [http://www.nishida-philosophy.org/ 西田哲学会] * [http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-nishida_guidance/ 京都大学大学院文学研究科・文学部「思想家紹介西田幾多郎」] * [http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/religion/ 京都大学宗教学研究室] * [http://www.city.kahoku.ishikawa.jp/nishida-museum/index.htm 石川県西田幾多郎記念哲学館] * [http://www.gakushuin.ac.jp/ad/kanri/nishida.html 学習院西田幾多郎博士記念館(寸心荘)] *[http://yamaguchi-nishida.org/ 山口西田読書会(山口市西田旧宅)] * [http://ocw.kyoto-u.ac.jp/jp/nishida/nishida_syo.htm 西田幾多郎先生の書・書簡] * [https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E-17376 西田幾多郎] - [[コトバンク]] * [http://www.weblio.jp/content/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E 西田幾多郎] - [[Weblio]] * [http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2014-08-09&ch=31&eid=33752&f=etc 「近代を超えて〜西田幾多郎と京都学派〜」] - 日本人は何を考えてきたのか(NHK・Eテレ2014年8月10日放送) 英語 * {{SEP|nishida-kitaro/|Nishida Kitarô}} 動画 *[https://www.youtube.com/watch?v=FzE_AYcZEjQ 西田幾多郎 無の哲人:禅の思想から日本哲学へ] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にした きたろう}} [[Category:19世紀日本の哲学者]] [[Category:20世紀日本の哲学者]] [[Category:19世紀日本の哲学教育者]] [[Category:20世紀日本の哲学教育者]] [[Category:仏教哲学者]] [[Category:形而上学者]] [[Category:存在論の哲学者]] [[Category:日本の倫理学者]] [[Category:京都学派の哲学]] [[Category:居士]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:帝国学士院会員]] [[Category:19世紀の哲学者]] [[Category:20世紀の哲学者]] [[Category:京都大学の教員]] [[Category:京都工芸繊維大学の教員]] [[Category:慶應義塾大学の教員]] [[Category:大谷大学の教員]] [[Category:大正大学の教員]] [[Category:日本大学の教員]] [[Category:学習院大学の教員]] [[Category:山口大学の教員]] [[Category:金沢大学の教員]] [[Category:千葉工業大学の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:石川県出身の人物]] [[Category:日本の仏教徒]] [[Category:1870年生]] [[Category:1945年没]]
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柳田國男
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。大日本帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。 1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡辻川村(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの8人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、越知川があり古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さく、親夫婦と長男夫婦が同居できる大きさではないのに、無理に同居させたことから嫁と姑との対立が生じ、長男夫婦の離婚を招いたことが、幼き日の國男に強い影響を与え、民俗への関心[家(および家屋)の構造への関心=民俗学への志向]はそこから芽生えた。 父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂といった私塾で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという。 幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける。徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける。また、隣家の小川家の蔵書を乱読した。16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続ける。三兄の紹介で森鷗外の門をたたく。17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学する。この年、田山花袋を知る。翌年、郁文館中学校に転校し進級する。19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。 井上通泰の紹介により森鷗外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿する。1897年(明治30年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた。飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し決別していった。 東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、明治41年5月下旬から約3ヶ月かけて九州と四国を旅している。7月宮崎県椎葉村を訪問、大河内の椎葉徳蔵宅で文書『狩之巻』を目にした。帰京後椎葉村長の中瀬淳(なかせすなお)に文書を分かりやすく書き直してもらい、また、他の狩に関する口伝えを文章にしてもらい書簡で送らせた。それらをまとめ、明治42年3月15日に刊行したものが『後狩詞記(のちのかりことばのき』である。この本について柳田は、「今日ではこれが日本の民俗学の出発点のようにいわれている」と述べている。 その後、講演旅行などで地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた「怪談ブーム」のさなかで当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。 『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。 『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。 ここでは「文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられない」としており、「公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこない」という認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえ「フィールドワークによる民俗資料の収集が重要だ」と論じて、1933年から1935年にかけて民俗資料の分類に関する自身の見解を公表している。また、『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。 こうした趣旨は日本語に関する研究にも表れており、方言に関するもの(『蝸牛考』『方言覚書』『標準語と方言』等)や、国語史に関するもの(『国語の将来』『国語史:新語篇』『毎日の言葉』等)など、柳田は話し言葉や方言を重視した。 柳田の問題意識と関心は、常に歴史学と歴史教育にあった、昭和初期に柳田自身、長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題し講演した際、「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」、また「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と述べている。 たとえば、ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのである。 言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きる地域の共同体とした。 戦前から幾つかの論考を持つ国語教育については、1947年から1960年にかけて東京書籍とともに教科書づくりを行った。また、前項に挙げた歴史教育に関する柳田の意識は、それを包含する社会科教育に関して、1951年から1962年にかけて実業之日本社とともに教科書づくりを行うことにより結実した。 柳田の日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる。柳田の研究に影響を受けて民族学者となった宮本常一は、柳田同様にフィールドワークによる民俗資料収集を基礎とし、多くの研究を残した。さらに宮本の研究は、網野善彦によって歴史学の分野でも注目を集めた。 著作の書誌解説
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柳田 國男は、日本の民俗学者・官僚。大日本帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。
{{別人|柳田邦男|x1=ノンフィクション作家の|柳田邦夫|x2=編集者の}} {{Infobox 作家 | name = 柳田 國男<br />(やなぎた くにお) | image = Kunio_Yanagita.jpg | imagesize = 200px | caption = 昭和初期 | pseudonym = | birth_name = | birth_date = {{生年月日と年齢|1875|7|31|no}} | birth_place = {{JPN}}・[[飾磨県]][[神東郡]]辻川村<br />(現・[[兵庫県]][[神崎郡]][[福崎町]]辻川) | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1875|7|31|1962|8|8}} | death_place = {{JPN}}・[[東京都]][[世田谷区]][[成城]] | resting_place = [[春秋苑]]([[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]]) | occupation = [[民俗学|民俗学者]]、[[著作家]] | language = [[日本語]] | nationality = {{JPN}} | education = [[学士(法学)|法学士]] | alma_mater = [[東京大学|東京帝国大学]]法科大学政治科 | period = | genre = [[民俗学]] | subject = 民俗学、[[日本思想]]、[[歴史]]、[[口承文学]] | movement = | notable_works = 『遠野物語』(1910年)<br />『蝸牛考』<br />『桃太郎の誕生』<br />『海上の道』 | awards = [[文化勲章]]受勲(1951年)<br />[[正三位]][[勲一等旭日大綬章]]受勲 | debut_works = | spouse = | partner = | children = | relations = 本項の「家族・親族」及び「系譜」の節を参照 | influences = [[佐々木喜善]]など | influenced = | signature = | website = <!--| footnotes = --> }} {{統合文字|國}} '''柳田 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(兵庫県)|市川]]が山間部から[[播州平野]]へ抜けて間もなく[[因幡街道]]と交わるあたりに位置し、[[越知川]]があり古くから農村として開けていた。[[町字|字]]の辻川は[[京都|京]]から[[鳥取県|鳥取]]に至る街道と[[姫路市|姫路]]から北上し[[生野町|生野]]へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、[[八重桜]]などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さく、親夫婦と長男夫婦が同居できる大きさではないのに、無理に同居させたことから嫁と姑との対立が生じ、長男夫婦の離婚を招いたことが、幼き日の國男に強い影響を与え、民俗への関心[家(および家屋)の構造への関心=民俗学への志向]はそこから芽生えた{{sfn|牧田茂|1972|ps={{要ページ番号|date=2018-10-15}}}}。 父・操は旧幕時代、[[姫路藩]]の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で[[仁寿山黌]](じんじゅさんこう)や、好古堂といった私塾で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年([[文久]]3年)に赴任した。[[明治]]初年まで相応な暮らしをしたが、[[明治維新|維新]]の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]に陥ったという<ref>「故郷七十年」『柳田國男 ちくま日本文学全集』新版 ちくま文庫(抄版)、2008年 pp.431-432</ref>。 幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の[[三木家住宅 (兵庫県福崎町)|旧家三木家]]に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ[[茨城県]]と[[千葉県]]の境である[[下総国|下総]]の[[利根川]]べりの布川(現・[[利根町]])に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける{{efn|後年に、[[赤松宗旦]] 『[[利根川図志]]』(岩波文庫、初版1938年、復刊1994年ほか)を校訂解説した。本書は[[安政]]5年([[1858年]])に書かれた博物地誌。}}。[[徳満寺 (茨城県利根町)|徳満寺]]という寺では、間引き[[絵馬]](母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける。また、隣家の小川家の蔵書を乱読した。16歳のときに東京に住んでいた三兄[[井上通泰]](帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続ける。三兄の紹介で[[森鷗外]]の門をたたく。17歳の時、尋常中学共立学校(のちの[[開成中学校・高等学校|開成高等学校]])に編入学する。この年、[[田山花袋]]を知る。翌年、[[郁文館中学校・高等学校|郁文館中学校]]に転校し進級する<ref>岡田俊裕『日本地理学人物事典 (近代編Ⅰ)』原書房 2011年、p.261</ref>。19歳にして[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]に進学、青年期を迎える。[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学政治科(現・[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。 === 詩人・松岡國男 === 井上通泰の紹介により[[森鷗外]]と親交を持ち、『[[しがらみ草紙]]』に作品を投稿、また通泰の世話で[[桂園派]]の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『[[文学界 (明治)|文學界]]』『[[国民之友|國民之友]]』『帝國文学』などに投稿する。[[1897年]](明治30年)には[[田山花袋]]、[[国木田独歩]]らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた<ref>岡谷公二 『柳田國男の恋』(平凡社、2012年)に詳しい。{{要ページ番号|date=2018-10-15|title=同書を出典として挙げているなら、ページ番号の明記が必要。}}</ref>。[[信濃飯田藩|飯田藩]]出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・[[島崎藤村]]・[[蒲原有明]]など文学者との交流は続いたが、[[大正]]時代に入ったあたりから当時の文学(特に[[自然主義]]や[[私小説]])のありようを次第に嫌悪し決別していった。 === 民俗学の夜明け === [[File:民俗学発祥の地.jpg|thumb|椎葉村の中瀬宅の庭に設置されている民俗学発祥の地の碑]][[東京帝国大学]]では農政学を学び、[[農商務省]]の高等官僚となった後、明治41年5月下旬から約3ヶ月かけて九州と四国を旅している。7月宮崎県[[椎葉村]]を訪問、大河内の椎葉徳蔵宅で文書『狩之巻』を目にした。帰京後椎葉村長の中瀬淳(なかせすなお)に文書を分かりやすく書き直してもらい、また、他の狩に関する口伝えを文章にしてもらい書簡で送らせた。それらをまとめ、明治42年3月15日に刊行したものが『後狩詞記(のちのかりことばのき』である。この本について柳田は、「今日ではこれが日本の民俗学の出発点のようにいわれている」と述べている<ref>柳田國男『定本柳田國男集 別巻3』「故郷七十年」筑摩書房 1971年</ref>。 その後、講演旅行などで地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していた[[心霊主義|スピリチュアリズム]]の影響を受け、日本でも起こっていた「[[怪談]]ブーム」のさなか{{efn|1939年に、旧・岩波文庫版で[[根岸鎮衛]] 『[[耳嚢]](耳袋)』(上・下)を校訂している。解題新版は『柳田國男集 幽冥談』([[東雅夫]]編、ちくま文庫)に収録。}}で当時新進作家だった[[佐々木喜善]]と知り合い、[[岩手県]][[遠野]]の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する<ref>[[水野葉舟]] 『遠野物語の周辺』([[国書刊行会]]、2001年)の解題、{{疑問点範囲|[[横山茂雄]] 「怪談への位相」より。|date=2018-10-15|title=横山著の論文として『怪談の「位相」』というものがCiNiiにあるが、これとはタイトルが微妙に異なっている。ページ番号もない。}}</ref>。他に[[宮崎県]][[椎葉村|椎葉]]などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。 === 日本民俗学の確立 === 『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、[[日本人]]は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。 == 略歴 == *[[1875年]]([[明治]]8年)[[7月31日]]、[[飾磨県]][[神東郡]]辻川村(現・[[兵庫県]][[神崎郡]][[福崎町]]辻川)に[[儒学者|儒者]]・[[松岡操]]、たけの六男として生まれる。松岡家は代々の医家。 *[[1884年]](明治17年)、一家で兵庫県加西郡[[北条町 (兵庫県)|北条町]](現・[[加西市]]北条町)に転居。 *[[1885年]](明治18年)、高等小学校卒業。1年間、辻川の旧家[[三木家住宅 (兵庫県福崎町)|三木家]]に預けられ、和漢の書籍を乱読する。 *[[1887年]](明治20年)、兄・鼎(かなえ)が、医院を開いていた[[茨城県]][[北相馬郡]]布川村(現・[[利根町]])に移住する。 *[[1893年]](明治26年)、兄・鼎の転居に伴い[[千葉県]][[南相馬郡]]布佐町(現・[[我孫子市]])に移住する。 *[[1897年]](明治30年)、第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学入学。 *[[1900年]](明治33年)7月、[[東京大学|東京帝国大学法科大学政治科]]卒業([[法学士]])。卒業論文は三倉の研究、これにより民衆史を知る契機となる。[[農商務省 (日本)|農商務省]]農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。[[早稲田大学]]で「農政学」を講義する。 *[[1901年]](明治34年)5月、柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(1849-1932)(旧・[[信濃飯田藩|飯田藩]][[武士|士]])は[[大審院]][[判事]]を務め、義理の叔父たる[[安東貞美]](直平の同母弟)は、陸軍軍人で台湾総督などを務めた{{efn|養父・柳田直平が[[永井岩之丞]]([[平岡なつ|平岡夏子]]の父親)と同僚だったことや、国男が夏子の夫・[[平岡定太郎]]と同じ兵庫県出身という縁で、[[三島由紀夫]]の祖母・夏子の家庭と早くから交流があったという<ref>柳田国男『故郷七十年』([[神戸新聞]]社〈のじぎく文庫〉、1959年11月。新装版1989年・2010年)。[[橋川文三]]『[[三島由紀夫]]論集成』(深夜叢書社、1998年12月)pp.37-38</ref>。}}。 *[[1902年]](明治35年)2月12日、法制局参事官に任官<ref>『官報』第5580号「叙任及辞令」1902年2月13日。</ref>。 *[[1904年]](明治37年)4月、[[柳田直平]]の四女・孝(17歳)と結婚。 *[[1907年]](明治40年)2月、[[島崎藤村]]、[[田山花袋]]、[[小山内薫]]らとイプセン会を始める。 *[[1908年]](明治41年)1月、兼任宮内書記官。この頃、自宅で「郷土研究会」を始める。 *[[1908年]](明治41年)5月24日から8月22日にかけて九州を旅行する。<ref>柳田國男・抄訳後狩詞記/椎葉村教育委員会、1993年</ref> *[[1908年]](明治41年)7月13日から18日にかけて、宮崎県北西部の東臼杵郡椎葉村を当時の村長、中瀬淳(すなお)と巡回探訪。<ref>椎葉村史・椎葉村/椎葉村、1994年</ref> *[[1908年]](明治41年)10月 、宮崎県北西部の[[東臼杵郡]][[椎葉村]]に住む中瀬淳(「後狩詞記(のちのかりことばのき)」の共著者)へ書簡を送る<ref>{{疑問点範囲|椎葉民族芸能博物の館掲示物|date=2018-10-15|title=「博物館」の誤記か? 館内のどこの掲示物か示さないと検証不能では。}}</ref> 。 *[[1909年]](明治42年)3月15日、「後狩詞記」を50冊自費出版する。<ref>定本柳田國男集別巻第三・柳田國男、1971年</ref> *[[1909年]](明治42年)、東北を旅行し、初めて遠野を訪れた。 *[[1910年]](明治43年)6月、兼任内閣書記官記録課長。「郷土研究会」を発展させて、[[新渡戸稲造]]を世話人、柳田が幹事役で「[[郷土会 (地域研究団体)|郷土会]]」を開始{{sfn|佐谷眞木人|2015|p=66}}。 *[[1911年]](明治44年)3月、[[南方熊楠]]との文通<ref>『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』([[飯倉照平]]編/平凡社、1976年。[[平凡社ライブラリー]] 上下、1994年)参照。</ref> 始まる。 *[[1913年]]([[大正]]2年)3月、[[高木敏雄]]と共に雑誌『郷土研究』を刊行(2巻2号から柳田が独力で編集。1917年3月まで)。 *[[1914年]](大正3年)4月、[[書記官長#歴代貴族院書記官長|貴族院書記官長]]。 *[[1915年]](大正4年)11月、[[京都]]における[[大正天皇]]の即位礼および[[大嘗祭]]に奉仕、提言を残す(当時は未公開)、この年に[[折口信夫]]と出会う。 *[[1919年]](大正8年)12月、以前より確執のあった貴族院議長・[[徳川家達]](徳川宗家)との不和衝突が深刻化し、書記官長を辞任。代わりに宮内省図書頭のポストを打診されるが、当時その職にあった[[森鴎外]](帝室博物館長と兼任)に遠慮し辞退。官界を去り立身出世から外れた{{efn|一方、このことが学者として高名を上げる転機となる。書記官長の辞任および図書頭辞退の経緯は、岡谷公二『貴族院書記官長 柳田国男』(筑摩書房、1985年)と、[[山本一生]]『恋と伯爵と大正デモクラシー [[有馬頼寧]]日記 1919』([[日本経済新聞出版社]]、2007年)に詳しい。}}。[[新渡戸稲造]]が国際連盟事務次長として訪欧したため、「郷土会」の活動休止{{sfn|佐谷眞木人|2015|p=66}}。 *[[1920年]](大正9年)8月、[[朝日新聞社|東京朝日新聞社]]客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。 *[[1921年]](大正10年)、渡欧し、[[ジュネーヴ]]の[[国際連盟]][[委任統治|委任統治委員]]に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが[[公用語]]となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。 *[[1922年]](大正11年)、[[新渡戸稲造]]と共に、[[エスペラント]]を世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。[[エスペランティスト]]の[[エドモン・プリヴァ]]([[:w:Edmond Privat|Edmond Privat]])と交流し、自身もエスペラントを学習。 *[[1923年]](大正12年)、[[国際連盟]]委任統治委員を突如辞任して帰国(これを契機に新渡戸との交流が途絶える{{sfn|佐谷眞木人|2015|p=116}})。フィンランド公使[[グスターフ・ラムステッド]]と交流。 *[[1924年]](大正13年)4月、[[慶應義塾大学]]文学部講師となり民間伝承を講義。 *[[1926年]](大正15年)7月 - 財団法人[[日本エスペラント学会]]設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。 *[[1927年]](昭和2年)、[[東京市]][[牛込区]]から、新興住宅地の[[北多摩郡]][[砧村]](現在の[[世田谷区]][[成城]])に転居。新居を「喜談書屋」と命名。 *[[1930年]](昭和5年)、[[宮本常一]]との文通始まる。 *[[1934年]](昭和9年)に宮本と直接会い、これを期に宮本は民俗学の道へ進んでいくことになる<ref>宮本常一『著作集1 民俗学への道』(未來社、1968年){{要ページ番号|date=2018-10-15}}</ref>。1月、柳田らによる木曜会第1回会合(郷土生活研究所とも。8月から3年間山村生活調査をおこない、1937年6月『山村生活の研究』)<ref>山村生活調査第1回報告書 大間知篤三</ref><ref>現代日本文学全集12 筑摩書房</ref>。 *[[1939年]](昭和14年)、民間学術団体の[[国民学術協会]]設立会員となる。 *1941[[1940年|年]](昭和15年)、[[朝日賞|朝日文化賞]]受賞。 *[[1942年]](昭和17年)、[[日本文学報国会]]理事。 *[[1946年]](昭和21年)7月、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]就任。新憲法制定審議に立ち会う。 *[[1947年]](昭和22年)3月、自宅書斎隣に民俗学研究所を設立(晩年に解散)。5月、[[日本国憲法]]施行に伴う枢密院廃止により枢密顧問官失職。同年[[帝国芸術院]]会員(同年末[[日本芸術院]]に改称)に選任。 *1949年(昭和24年)3月、[[日本学士院]]会員に選任。同年4月、民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。 *1951年(昭和26年)、國學院大學に招かれ、教授に就き神道に関する講座を担当<ref>{{Cite web|和書|author=新谷尚紀 |url=http://www.kokugakuin.ac.jp/letters/bun04_00022.html |title=國學院大學|文学部(日本文学科) 教員詳細 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305221336/http://www.kokugakuin.ac.jp/letters/bun04_00022.html |archivedate=2016-03-05 |archiveservice=Wayback Machine |deadlinkdate=2018-10-15}}</ref>。同年11月、[[文化勲章]]受章。 *1955年(昭和30年)1月、[[皇居|宮中]]・[[歌会始]]に[[川合玉堂]]と共に[[召人]]となる。 *1962年(昭和37年)[[8月8日]]、午後1時頃、成城の自宅にて心臓衰弱のため死去。[[享年]]88({{没年齢|1875|7|31|1962|8|8}})。没日付で叙[[正三位]][[勲一等]]。当時首相だった[[池田勇人]]が「民間人とはいえ、これだけの人物に[[瑞宝章]]では軽い」と発言し[[旭日大綬章]]が贈られた。葬儀は12日に東京・[[青山葬儀所]]にて日本民俗学会葬として営まれる。各界から300人が参列。戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士{{sfn|牧田茂|1972|ps={{要ページ番号|date=2018-10-15}}}}。墓所は神奈川県川崎市多摩区の春秋苑。 == 栄典・授章・授賞 == {{Dl2 | 位階 | * [[1902年]](明治35年)[[5月1日]] - [[従七位]]<ref name="國男">{{アジア歴史資料センター|A06051186500|柳田國男}}</ref> * [[1904年]](明治37年)[[2月29日]] - [[正七位]]<ref name="國男"/><ref>『官報』第6196号「叙任及辞令」1904年3月1日。</ref> * [[1906年]](明治39年)[[11月20日]] - [[従六位]]<ref name="國男"/> * [[1908年]](明治41年)[[12月21日]] - [[正六位]]<ref name="國男"/> * [[1911年]](明治44年)[[5月1日]] - [[従五位]]<ref name="國男"/> * [[1914年]](大正3年)[[5月20日]] - [[正五位]]<ref name="國男"/> * [[1918年]](大正7年)[[11月20日]] - [[従四位]]<ref name="國男"/> | 勲章等 | * [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[旭日章|勲六等単光旭日章]]・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="國男"/> * [[1911年]](明治44年)[[6月13日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref name="國男"/> * [[1912年]](大正元年)[[8月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|韓国併合記念章]]<ref name="國男"/><ref>『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。</ref> * [[1914年]](大正3年) ** [[3月24日]] - [[賞杯|銀杯一組]]<ref name="國男"/> ** [[12月23日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref name="國男"/> * [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(大正)]]<ref name="國男"/> * [[1916年]](大正5年) ** [[1月19日]] - [[旭日章|勲四等旭日小綬章]]<ref name="國男"/><ref>『官報』第1038号、「叙任及辞令」1916年01月20日。</ref> ** [[4月1日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref name="國男"/> * [[1919年]](大正8年)[[9月29日]] - [[賞杯|銀杯一個]]<ref name="國男"/> * [[1920年]](大正9年)[[9月7日]] - [[旭日章|旭日中綬章]]<ref name="國男"/><ref>『官報』第2711号「授爵・叙任及辞令」1921年8月13日。</ref> * [[1962年]](昭和37年)[[8月8日]] - [[勲一等旭日大綬章]](没時陞叙) | 外国勲章佩用允許 | * [[1912年]](大正元年)[[10月9日]] - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第二等勲章<ref name="國男"/> * [[1913年]](大正2年)[[1月31日]] - [[ノルウェー|ノルウェー王国]]:サンオラフ第二等乙級勲章<ref name="國男"/> * [[1920年]](大正9年)[[4月9日]] - [[スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国|セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国]]:白鷲第三等勲章<ref name="國男"/> }} == 記念館 == [[ファイル:Yanagita kunio mh01 1920.jpg|thumb|柳田國男・松岡家顕彰会記念館(兵庫県福崎町)]] [[ファイル:Kunio Yanagita Memorial Hall 1.jpg|thumb|柳田國男館(長野県飯田市)]] *「自らの民俗学の原点」と評した生家は、兵庫県福崎町の[[柳田國男・松岡家顕彰会記念館]]の西隣に移築・保存されている。[[福崎町立神崎郡歴史民俗資料館]]が隣接している。 *[[東京都]][[世田谷区]][[成城]]の自宅書斎[[http://www.iida-museum.org/link/src/img_yanagida_kan.jpg 柳田國男の書屋]]は、1989年に[[長野県]][[飯田市]]の[[飯田市美術博物館]]内(柳田家は旧[[信濃飯田藩|飯田藩]]士)へ移築された。 *[[茨城県]][[北相馬郡]][[利根町]]布川の旧宅(旧小川邸)の母屋も「柳田國男記念公苑」で整備され、土蔵(資料館)では著作物や文書等を展示している。 *蔵書の一部は[[成城大学]]に寄贈され、同大学の民俗学研究所「柳田文庫」として活用されている。2003年に成城大学[[民俗学]]研究所編『増補改訂版 柳田文庫[[蔵書目録]]』が刊行(初刊は1967年)。茂木明子(元・職員)編著『柳田國男のペン 書入れにみる後代へのメッセージ』(慶友社、2022年)にも詳しい。 == 柳田民俗学の特徴 == === 現地調査主義 === 『郷土生活の研究法』([[1935年]])において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。 ここでは「文献史学においては典拠とする[[史料]]そのものに偏りが生まれるのは避けられない」としており、「[[公文書]]などに示された[[一揆]]や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこない」という認識が示されている。「[[常民]]」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえ「[[フィールドワーク]]による[[民俗資料]]の収集が重要だ」と論じて、[[1933年]]から1935年にかけて[[民俗資料の分類]]に関する自身の見解を公表している。また、『日本民俗学』([[1942年]])において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。 こうした趣旨は[[日本語]]に関する研究にも表れており、[[方言]]に関するもの(『[[蝸牛考]]』『方言覚書』『標準語と方言』等)や、国語史に関するもの(『国語の将来』『国語史:新語篇』『毎日の言葉』等)など、柳田は[[口語|話し言葉]]や方言を重視した{{sfn|小林隆|2016|pp=116-117}}。 === 歴史学 === 柳田の問題意識と関心は、常に[[歴史学]]と[[歴史教育]]にあった{{sfn|和歌森太郎|1975|ps={{要ページ番号|date=2019-06-09}}}}、昭和初期に柳田自身、[[長野県]][[東筑摩郡]]教育会で「青年と学問」と題し講演した際、「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」、また「日本はこういう[[フォークロア]]に相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」と述べている。 たとえば、[[ヨーロッパ]]では1000年以上の[[キリスト教]]文明と[[民族移動時代|民族大移動]]、そしてまた近代以降の[[産業革命]]の進展のためフォークロア([[民間伝承]]、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのである。 言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きる地域の共同体とした。 === 国語教育、社会科教育 === 戦前から幾つかの論考を持つ[[国語教育]]については、1947年から1960年にかけて東京書籍とともに教科書づくりを行った。また、前項に挙げた歴史教育に関する柳田の意識は、それを包含する社会科教育に関して、1951年から1962年にかけて実業之日本社とともに教科書づくりを行うことにより結実した<ref>[[庄司和晃]]「柳田社会科の成立と教科書の主題」『柳田國男 小学校社会科教科書「日本の社会」別冊資料』第一書房、1985年 p.35</ref>。 == 評価 == 柳田の[[民俗学|日本民俗学]]の祖としての功績は非常に高く評価できる。<!--同性愛?→しかしその反面、自身の性格と手法によって切り捨てられた民俗・風習があることも指摘されている。たとえば柳田は、漂泊民、非稲作民、[[被差別民]]、[[同性愛]]を含む性愛、超国家的民俗などに言及することを意図的に避けている。-->柳田の研究に影響を受けて民族学者となった[[宮本常一]]は、柳田同様にフィールドワークによる民俗資料収集を基礎とし、多くの研究を残した。さらに宮本の研究は、[[網野善彦]]によって[[歴史学]]の分野でも注目を集めた。 ==作品紹介 == * 『[[遠野物語]]』 *: [[東北地方]]の伝承を記録した、柳田民俗学の出発点(話者:[[佐々木喜善]]の『聴耳草紙』より、新版・[[ちくま学芸文庫]]、他に「佐々木喜善全集」全4巻、[[遠野市立博物館]]編)。[[新潮文庫]]・[[角川文庫]]・岩波文庫ほかで多数重版され、口語訳も刊行。 * 『[[蝸牛考]]』 *: 各地の[[カタツムリ]]の呼び名の[[方言]]分布を比較検討することにより、言葉が[[近畿地方|近畿]]から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が'''[[方言周圏論]]'''である{{sfn|小林隆|2016|p=117}}。言葉は文化的中心地を中心として、まるで何重もの円を描くように周辺へと伝播し、中心地から遠く離れた地方ほど古い言葉が残っていることを示したものである{{sfn|小林隆|2016|p=117}}。柳田自身は晩年になって、「あれはどうも成り立つかどうかわかりません」と発言し、方言周圏論に懐疑的になっていたといわれる。しかし、彼の死後6年経って刊行されはじめた[[国立国語研究所]]の『日本言語地図』では「牝馬」「もみがら」など、調査した言葉のおよそ27%に周圏分布が見られ、方言周圏論が有効な理論であることが確認された{{sfn|小林隆|2016|pp=118-119}}。 * 『[[妹の力]]』 *: 古代での女性の霊力・信仰に関する考察。 * 『[[桃太郎]]の誕生』 *: 昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、[[文化人類学]]に応用され、多くの後継者を生み出した。(例:[[中野美代子]]『孫悟空の誕生』 [[岩波現代文庫]]) *: [[京極夏彦]]は本書の自序にて柳田が『[[ヴィーナスの誕生]]』と桃太郎を重ね合わせた事を引用し、柳田が昔話や伝説の分類に際して「下品な要素」から目を背ける姿勢を取っていたと指摘している<ref>[[京極夏彦]]・[[多田克己]]・[[村上健司]]・[[黒史郎]]『ひどい民話を語る会』「プロローグ ――今回はシモではなくひどさを追求」[[KADOKAWA]] 2022年 p.82-84</ref>。 * 『故郷七十年』 *:晩年の口述での回想{{efn|『故郷七十年』新版は、2016年に講談社学術文庫、他に[[朝日選書]](オンデマンド版2002年)、のじぎく文庫(神戸新聞総合出版センター、新装版2010年)。石井正己の再編で『柳田国男の故郷七十年』(PHP、2014年)がある。}}、[[嘉治隆一]](朝日新聞記者)と宮崎修二朗{{efn|著書に『柳田國男 その原郷』([[朝日選書]]、1978年)、『柳田國男トレッキング』(編集工房ノア、2000年)が、また評伝に『触媒のうた 宮崎修二朗翁の文学史秘話』(今村欣史、神戸新聞社、2017年)がある。}}([[神戸新聞]]記者)が筆記しまとめた。 * 『日本の民俗学』([[中公文庫]]、2019年6月)。文庫オリジナル{{efn|他に、[[新学社]]『近代浪漫派文庫16 柳田國男』([[歴史的仮名遣い]])と、[[講談社文芸文庫]]『柳田國男文芸論集』(巻末に書誌・年譜)がある。}}での柳田学入門 === 全集・文庫 === *'''筑摩書房'''版「全集」の刊行一覧 ** 『定本 柳田國男集』(全31巻・別巻5)は没する寸前に刊行開始、短期間で完結{{efn|生前の昭和20年代には『柳田國男先生著作集』全12巻、實業之日本社 が出版。}}。1968年6月より新装版(函を軽くした)が刊行。<br />別巻1・2巻は「[[朝日新聞]]論説集」、3巻は「故郷七十年、同増補」、4巻は「炭焼日記・書簡」、5巻は「総索引、書誌、年譜」 ** 1978-81年に、資料編(全5巻、内容は基本文献の項目を参照)を追加した愛蔵版(装丁は新装版と同一)を刊行。<br />1978-79年に、代表作を現行仮名遣いで読み易くした『新編 柳田國男集』(全12巻)が刊行。 ** 1989-91年には、'''[[ちくま文庫]]'''版『柳田國男全集』(全32巻、新字+現行仮名遣い+文庫解説)が刊行、反響を呼んだ。 ** 1997年秋より、新たな『柳田國男全集』(新字+歴史的仮名遣い、※全36巻+別巻2予定)が刊行開始、約二十年を経て、著作編は完結(2006年6月以降未刊だったが、2010年9月に第22巻、2014年3月に第34巻、2015年6月に第35巻、2019年3月に別巻1(年譜)が刊行)。第36巻(書簡集)、別巻(資料補遺・書誌+総索引)が編さん中。 * 現行の文庫判は、[[岩波文庫]](一部改版)、[[ちくま文庫]]、[[講談社学術文庫]]で多く刊行され重版。2013年(没後半世紀を経て著作権がなくなり)以降は、[[角川ソフィア文庫]]{{efn|創元社(創元選書・創元文庫ほか)での出版を引き継ぐ形で、角川文庫で約20冊刊行された。}}で多数が新版刊行。 ;<span style="font-size:120%;">書誌</span> 著作の[[書誌]]解説 *後藤総一郎編 『柳田国男をよむ 日本人のこころを知る』 アテネ書房、1995年 - 入門書 *田中正明編・解説 『柳田國男 書目書影集覧』 [[岩田書院]]、1994年 - 大著 *田中正明 『柳田國男の書物 書誌的事項を中心として』 岩田書院、2003年 - 大著 *『柳田國男全自序集 I・II』 [[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2019年11月。佐藤健二解説、ほぼ全単行本約100冊の序文を年代順集成 == 家族・親族 == {{multiple image | direction = horizontal | align = right | width = | footer = | image1 = Matsuoka5brothers.JPG | width1 = 180 | caption1 = 松岡家兄弟ら(前列右より、松岡鼎、松岡冬樹〔鼎の長男〕、鈴木博、後列右より、柳田國男、松岡輝夫〔映丘〕)。国男は8人兄弟の六男。 | image2 = Matsuoka shizuo 松岡静雄 9143705.jpg | width2 = 175 | caption2 = 弟・松岡静雄 }} * 養父:[[柳田直平]] - [[大審院]][[判事]]。[[安東貞美]]の兄 * 実父:[[松岡操|松岡賢次]] - 儒者、医者 * 兄 ** [[松岡鼎]] - 医師 ***娘婿の岡村千秋は国男が創刊した『郷土研究』の編集者。 ** 松岡俊次(早世) ** [[井上通泰]](松岡泰蔵) - [[国文学者]]、[[歌人]]、医師 ** 松岡芳江(早世) ** 松岡友治(早世) * 弟 ** [[松岡静雄]] - [[海軍大佐]]、言語学者・民族学者。妻・初子([[野村靖]]の娘)を通じて[[野村益三]]、[[入江貫一]]、[[本野一郎]]、[[中勘助]]らと親戚関係 ** [[松岡映丘|松岡輝夫]](松岡映丘) - [[日本画家]] * 妻:孝 - 柳田直平四女 * 妻の姉:長姉は[[矢田部良吉]]の妻、次姉は[[木越安綱]][[陸軍中将]]([[男爵]])の妻<ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-23094 柳田国男]『人事興信録』8版</ref> * 子 ** 長男:[[柳田為正]] - 生物学者、[[お茶の水女子大学]]名誉教授 ** 他に4女あり。次女の千枝(1912-1942)は東京女子高等師範付属高女卒業後、赤星平馬([[赤星陸治]]長男)に嫁ぎ<ref name=jiji13>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1070514/822 柳田国男] 人事興信録. 第13版(昭和16年) 下</ref>、柳井統子の筆名で短編小説「父」を『早稲田文學』1940年12月号に発表して第12回[[芥川賞]]候補となったが、夭折した<ref>[http://prizesworld.com/akutagawa/kogun/kogun12YS.htm 柳井統子] 候補作家の群像</ref>。三女の三千は、雙葉高女卒業後、国男の弟子の[[堀一郎]]と、四女の千津は津田塾卒業後、病理学者の太田邦夫([[大阪商船]]副社長・太田丙子郎長男)と結婚した<ref name=jiji13/>。 == 青春期の友人 == *[[島崎藤村]] *[[田山花袋]] *[[国木田独歩]] == 系譜 == * 松岡家 <pre> 松岡左仲━━小鶴         ┏松岡鼎        ┃  (操と改名) ┃        ┣━━━松岡賢次  ┣松岡俊次        ┃     ┃   ┃       中川至    ┣━━━╋松岡泰蔵(井上通泰)              ┃   ┃             たけ   ┣松岡芳江            (尾芝)  ┃                  ┣松岡友治                  ┃                  ┣松岡國男(柳田國男)                  ┃                  ┣松岡静雄                  ┃                  ┗松岡輝夫(松岡映丘) </pre> * 柳田家・安東家 {{familytree/start}} {{familytree| | |G1 | | | |B1 |G1=柳田暢助<br /><small>([[信濃飯田藩]]士)|B1=安東辰武<br /></small>(信濃飯田藩士)|boxstyle_G1=background-color: #afa;|boxstyle_B1=background-color: #aaf;}} {{familytree| | | |!| | | |,|-|^|-|.}} {{familytree| | |G1 |y|G2 | |B1 |G1=きん|G2=[[柳田直平|直平]]|B1=[[安東貞美|貞美]]|boxstyle_G1=background-color: #afa;|boxstyle_G2=background-color: #afa;|boxstyle_B1=background-color: #aaf;}} {{familytree| | | | | |)|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|.}} {{familytree|G1 |y|G2 | | W1 |~| W2 | | W3 |~| W4 |G1=國男|G2=孝|W1=てい|W2=[[木越安綱]]|W3=  順  |W4=[[矢田部良吉]]|boxstyle_G1=background-color: #afa;|boxstyle_G2=background-color: #afa;}} {{familytree| | | |!}} {{familytree| | |G1 |G1=[[柳田為正|為正]]|boxstyle_G1=background-color: #afa;}} {{familytree/end}} == 参考文献 == ※あくまでごく一部で品切・絶版を多く含む。評伝研究は数百冊を数える。 === 基本文献 === *『定本 柳田國男集 資料集 4 [[年中行事]]図説』、『5 柳田國男写真集』[[筑摩書房]]。同時期(1980-81年)に別版が岩崎美術社で刊 *:前者は柳田國男監修、民俗学研究所編、なお『資料集 1』は初刊版の月報合本。 *『柳田國男対談集』 [[宮田登]]編・解説、[[ちくま学芸文庫]]、1992年、復刊2010年 **初刊は『柳田国男対談集』、『民俗学について』 筑摩叢書(1965-66年、復刊1985年)。別版は『資料集 2・3 柳田國男対談集』 *柳田為正 『父 柳田國男を想う』 筑摩書房、1996年 *堀三千 『父との散歩 - 娘の眼に映じた柳田国男』 [[人文書院]]、1980年 - 著者の夫は[[堀一郎]] *[[谷川健一]]編 『父を語る 柳田国男と南方熊楠』 [[冨山房]]インターナショナル、2010年 *[[臼井吉見]]編 『柳田国男回想』 筑摩書房、1972年{{efn|大半は「柳田國男集」月報からの再録。}} *[[神島二郎]]編 『柳田国男研究』 筑摩書房、1973年 *[[後藤総一郎]]編 『人と思想 柳田国男』 [[三一書房]]、1972年 *[[大藤時彦]] 『柳田国男入門』 筑摩書房、1973年 *[[牧田茂]]編 『評伝 柳田国男』 日本書籍、1979年 - 大藤・牧田は直弟子 *[[川田稔]] 『柳田国男 - その生涯と思想』 吉川弘文館〈[[歴史文化ライブラリー]]19〉、1997年 *川田稔 『柳田国男 - 知と社会構想の全貌』 ちくま新書、2016年 *[[赤坂憲雄]] 『柳田国男の読み方 - もうひとつの民俗学は可能か』 [[ちくま新書]]、1994年/ちくま学芸文庫(増補版)、2013年 *『新潮日本文学アルバム5 柳田国男』 宮田登編・評伝、[[新潮社]]、1984年 - ※以下は入門書 *谷川健一 『柳田国男の民俗学』 [[岩波新書]]、 2001年 *[[鶴見太郎]] 『柳田国男入門』 [[角川学芸出版]]〈角川選書〉、2008年 *鶴見太郎 『民俗学の熱き日々 - 柳田国男とその後継者たち』 [[中公新書]]、2004年 *[[石井正己]] 『いま、柳田国男を読む』 河出書房新社〈[[河出ブックス]]〉、2012年 *[[河出書房新社]]編 『文芸読本 柳田国男』 同 1975年、新装版1984年 - 代表作の抜粋を収む *河出書房新社編 『新文芸読本 柳田國男』 同 1992年 - それぞれ異なる論考を収む *河出書房新社編 『柳田国男 民俗学の創始者』 同〈[[KAWADE道の手帖|文芸の本棚]]〉、2014年{{efn|河出では2014年から、著作の改訂新版を相次いで刊行している。}} === 研究文献 === *『葬送習俗事典 葬儀の民俗学手帳』 [[河出書房新社]]、2014年 - 同社で多数刊 <!--**初刊「葬送習俗語彙」 民間伝承の会編(柳田が代表)、岩波書店、1937年 *図版なのでコメントアウト『柳田國男の絵葉書 家族にあてた二七〇通』 田中正明編・解説、晶文社、2005年--> *『柳田国男談話稿』 柳田為正、千葉徳爾ほか編・解説、[[法政大学出版局]]、1987年 *『柳田國男 私の歩んできた道』 田中正明編、[[岩田書院]]、2000年 *[[高藤武馬]] 『ことばの聖 柳田國男先生のこと』 筑摩書房、1983年 - 全集(初刊)の編集担当者 *大藤時彦 『日本民俗学史話』 [[三一書房]]、1990年 - 遺著 *[[今野圓輔]] 『柳田國男先生随行記』 新版・河出書房新社、2022年 *『谷川健一全集 第十八巻 柳田国男』 [[冨山房インターナショナル]]、2010年 *『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]] 総特集 柳田國男-『遠野物語』以前/以後』 [[青土社]]、2012年10月臨時増刊 *『現代思想 総特集 遠野物語を読む』 青土社、2022年7月臨時増刊 <!--*赤坂憲雄 『山の精神史 - 柳田国男の発生』、『漂泊の精神史』、『海の精神史』 小学館、1991-2000年--> *[[石井正己]] 『テクストとしての柳田国男 知の巨人の誕生』 三弥井書店、2015年 - 他数冊が刊 *[[井口時男]] 『柳田国男と近代文学』 講談社、1996年 *[[大室幹雄]] 『ふくろうと蝸牛 柳田国男の響きあう風景』 筑摩書房、2004年 *鶴見太郎 『柳田国男 感じたるまゝ』 ミネルヴァ書房<[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]>、2019年 *[[船木裕]] 『柳田国男外伝 [[白足袋]]の思想』 日本エディタースクール出版部、1991年 *[[岡谷公二]] 『柳田國男の恋』 平凡社、2012年{{efn|旧版は『殺された詩人―柳田国男の恋と学問』(新潮社、1996年)、また岡谷公二編・解説で『柳田国男 作家の自伝61』([[日本図書センター]]、1998年)がある。}} *岡谷公二 『柳田国男の青春』 筑摩書房、1977年/筑摩叢書、1991年 *岡谷公二 『[[貴族院 (日本)|貴族院]][[書記官長]] 柳田国男』 筑摩書房、1985年 *[[鶴見和子]] 『漂泊と定住と 柳田国男の社会変動論』 筑摩書房 1977年 **増訂版『鶴見和子曼荼羅コレクション4 土の巻 柳田国男論』 [[藤原書店]]、1998年 *[[橋川文三]] 『柳田国男論集成』 [[作品社]]、2002年。旧版は講談社学術文庫 *[[吉本隆明]] 『定本 柳田国男論』 [[洋泉社]]、1995年{{efn|旧版は、吉本隆明『柳田国男論集成』[[宝島社|JICC出版局]]、1990年。他に『柳田国男論・[[丸山真男]]論』ちくま学芸文庫、2001年。第一部を収録。}} *[[山折哲雄]] 『これを語りて日本人を戦慄せしめよ:柳田国男が言いたかったこと』 [[新潮選書]]、2014年 *[[山下一仁]] 『いま蘇る柳田國男の農政改革』 新潮選書、2018年 *[[中村哲 (政治学者)|中村哲]] 『柳田国男の思想』 法政大学出版局、新版 1985年・2010年/講談社学術文庫(上下) 1977年 *[[桜井徳太郎]] 『私説 柳田國男』 [[吉川弘文館]]、2003年 - 晩年の弟子の一人 *[[伊藤幹治]] 『日本人の[[人類学]]的自画像 柳田国男と日本文化論再考』 筑摩書房、2006年 *伊藤幹治 『柳田国男と文化ナショナリズム』 [[岩波書店]]、2002年 - 晩年の弟子の一人 *[[福田アジオ]] 『柳田国男の民俗学』 吉川弘文館、1992年、新版・[[歴史文化セレクション]]、2007年 *福田アジオ 『種明かししない柳田国男 日本民俗学のために』 吉川弘文館、2023年 *[[新谷尚紀]] 『遠野物語と柳田國男:日本人のルーツをさぐる』吉川弘文館〈[[歴史文化ライブラリー]]〉、2022年 *川田稔 『柳田国男のえがいた日本 民俗学と社会構想』 未來社、1998年 - 他数冊が刊 *松本三喜夫 『柳田国男と民俗の旅』 吉川弘文館、1992年 - 他数冊が刊 *『[[庄司和晃]]著作集2 柳田国男と科学教育』[[明治図書]]、1988年 - 他数冊が刊 *[[千葉徳爾]] 『柳田国男を読む』[[東京堂]]出版、1991年 *[[佐伯有清]] 『柳田国男と古代史』吉川弘文館、1988年 *[[来嶋靖生]] 『評註 柳田国男全短歌』河出書房新社、2018年 - 他数冊が刊 *『柳田国男 日本文学研究資料叢書』 同刊行会編、有精堂出版、1976年 *『柳田國男事典』 [[野村純一]]・宮田登・[[三浦佑之]]・吉川祐子編 [[勉誠出版]] 1998年 * 『'''柳田国男伝'''』 柳田国男研究会編、[[三一書房]] 1988年 - 柳田研究の大著 **『柳田国男 [[ジュネーヴ]]以後』 三一書房 1996年 - 他に「柳田国男研究」で、別の版元(岩田書院・梟社)で刊(2019年に8冊目)。 *後藤総一郎 『柳田国男論』 恒文社 1987年 - 著者は柳田国男研究会代表を務めた。 **後藤総一郎編 『柳田国男研究資料集成』(全20巻別巻2)[[日本図書センター]]、完結1987年 === 映像資料 === *後藤総一郎監修 『ビデオ・学問と情熱.9 柳田國男』 [[紀伊國屋書店]]、1998年 *: DVD版は『学問と情熱 柳田國男 - 民俗の心を探る旅』で、2008年8月に再版。 *「柳田国男・詩人の魂」 語り手・[[吉増剛造]]、[[NHK教育テレビ]]、2006年3月 *:『[[知るを楽しむ]]・[[知るを楽しむ放送作品リスト#私のこだわり人物伝|私のこだわり人物伝]]』テキスト、他にも評伝番組はいくつかある。 *『[[NHKスペシャル|NHK特集]]、遠野物語をゆく 柳田國男の風景 第1・2部』、1977年10月放映 *『ここに鐘は鳴る』 [[今和次郎]]らと対面、1962年3月22日放映で、没する数ヶ月前の映像である。 *:昭和32年(1957年)3月に[[放送文化賞]]を受賞したさいのテレビインタビューも現存している。 == 柳田國男が登場する作品 == {{Dl2 | 小説 | * 『[[今昔続百鬼――雲]]』([[京極夏彦]]) * 『遠野物語より』([[京極夏彦]]、『冥談』収録) * 『書楼弔堂 炎昼』([[京極夏彦]]) * 『[[くもはち]]』([[大塚英志]]) | 漫画 | * 『[[神秘家列伝]]』([[水木しげる]]) * 『[[水木しげるの遠野物語]]』([[水木しげる]]) * 『[[北神伝綺]]』(脚本:[[大塚英志]]、作画:[[森美夏]]) * 『[[八雲百怪]]』(脚本:[[大塚英志]]、作画:[[森美夏]]) * 『[[オクタゴニアン]]』(脚本:[[大塚英志]]、作画:[[杉浦守]]) * 『[[くもはち]]』(脚本:[[大塚英志]]、作画:[[山崎峰水]]) * 『[[松岡國男妖怪退治]]』(脚本:[[大塚英志]]、作画:[[山崎峰水]]) * 『[[恋する民俗学者]]』(脚本:[[大塚英志]]、作画:[[中島千晴]]) | 演劇 | * 『[[身毒丸 (舞台作品)|身毒丸]]』([[寺山修司]]脚本、「[[天井桟敷 (劇団)|天井桟敷]]」公演、「'''怪人柳田國男博士'''」という役名で登場する) | アニメ | * 『[[ふたりはプリキュア Splash Star]] 第39話「珍獣ミミンガ大騒動!?」』(2006年11月12日放送) **「'''柳田国吉(やなぎだ くにきち)'''」という役名の民俗学者が登場する | 評論 | * 『[[小説とは何か]]』(『決定版[[三島由紀夫]]全集34』、新潮社、2003年) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参照文献 == ;著書 * {{Cite book|和書|author=牧田茂|authorlink=牧田茂|date=1972-11|title=柳田国男|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=[[中公新書]]|isbn=4121003047|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=和歌森太郎|authorlink=和歌森太郎|date=1975|title=柳田国男と歴史学|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|series=[[NHKブックス]]|isbn=|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=佐谷眞木人|authorlink=佐谷眞木人|date=2015-01|title=民俗学・台湾・国際連盟:柳田國男と[[新渡戸稲造]]|publisher=講談社|series=講談社選書メチエ|isbn=9784062585941|ref=harv}} ;論文 *{{Cite journal|和書|author=小林隆|title=柳田國男|journal=[[日本語学 (雑誌)|日本語学]]|volume=35|issue=4|publisher=[[明治書院]]|date=2016-04|pages=116-119|ref=harv}} == 関連項目 == {{Div col|cols=2}} * [[天神真楊流]] * [[イタコ]]、[[サンカ]] * [[耳嚢]] - [[根岸鎮衛]] * [[菅江真澄]] * [[赤松啓介]] * [[有賀喜左衛門]] * [[井上円了]] * [[折口信夫]] * [[金田一京助]] * [[佐々木喜善]] * [[渋沢敬三]] * [[新村出]] * [[中村吉治]] * [[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]] * [[正宗白鳥]] * [[南方熊楠]] * [[宮本常一]] * [[和辻哲郎]] * [[岩田準一]] - 竹久夢二の弟子。画家・風俗研究家・民俗研究家。 * [[岡茂雄]] - 以下は主に出版関連 * [[角川源義]] * [[古田晁]] - [[臼井吉見]] * [[佐藤健二]] - 全集編集委員<br /> 他は[[伊藤幹治]]・[[後藤総一郎]]・[[宮田登]]・[[石井正己]]・[[赤坂憲雄]]・[[小田富英]] * [[鎌田東二]] * [[嘉治隆一]] * [[牧口常三郎]] * [[東雅夫]] * [[心 (雑誌)|雑誌 心]] - 編集同人で参加。 * [[砧村]](現・[[世田谷区]][[成城]]) <br/> 「民間伝承の会」(現・[[日本民俗学会]])の拠点となった柳田宅の所在地。転じて、民族学グループ(会と対立関係にあり、のち日本民族学会に進展)による、同会に対する蔑称。 {{Div col end}} == 外部リンク == {{commons&cat|Kunio_Yanagita|Kunio_Yanagita}} {{ウィキポータルリンク|民俗学|[[画像:WLM logo-2.svg|34px|Portal:民俗学]]}} * [http://www.seijo.ac.jp/research/folklore/kunio-yanagida/intro/ 成城大学|民俗学研究所|柳田國男について] * [https://www.town.fukusaki.hyogo.jp/html/kinenkan/ 福崎町立柳田國男・松岡家記念館] * [http://www.icl.keio.ac.jp/enkaku01.html 柳田文庫(慶應義塾大学言語文化研究所)] * [https://www.town.tone.ibaraki.jp/page/page003532.html 柳田國男記念公苑(茨城県利根町)] * [https://www.iida-museum.org/link/yanagida.html 飯田市美術博物館―柳田國男館] * [https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7&viewRestricted=0 国立国会図書館デジタルコレクション検索結果] * {{青空文庫著作者|1566|柳田 国男}} * {{NHK人物録|D0009072265_00000}} * {{NHK放送史|D0009044029_00000|ここに鐘は鳴る 柳田国男}} * {{Kotobank}} {{S-start}} {{S-off}} {{Succession box | title = 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ユリウス通日
ユリウス通日(ユリウスつうじつ、Julian Day、JD)は、ユリウス暦紀元前4713年1月1日、すなわち西暦 -4712年1月1日の正午(世界時)からの日数である。単にユリウス日(ユリウスび)ともいう。時刻値を示すために一般には小数が付けられる。 例えば、協定世界時(UTC)での2023年10月31日21:17のユリウス通日の値は、おおむね2460249.39である。 ユリウス通日はユリウス暦紀元前4713年1月1日(先発グレゴリオ暦では紀元前4714年11月24日、西暦 -4713年11月24日)の正午(世界時)を元期(=0日目)とし、日の単位で数える。ユリウス通日は天文時の伝統に従い、日の起点は正午である。したがって、世界時の正午に日数(の整数部分)が増加する。 ユリウス通日は二時点の間の日数や秒数を計算するのに便利で、天文学や年代学(英語版)などで使われている。小数を付けることにより時・分・秒数(と更に、その小数)を表現することができる。 ユリウス通日は、天体観測に便利なように正午を起点にしている。つまり、天体観測は通常は夜間に行われるので、夜の0時(正子)の時点で日付が変わる(ユリウス通日の整数部分が増加する。)のは、不便で間違いも起こりやすい。このためユリウス通日は、正午の時点で日付が変わるように決められたのである。この慣習は「天文時」の時刻系の伝統であり、クラウディオス・プトレマイオス (2世紀頃)に始まるものである。 正午を一日の起点にする理由はもう一つある。均時差を捨象すれば、太陽の南中を観測することにより、その地点の地方時での正午は容易に知れる。これに対して正子を認識することは、正確な時計が存在しない時代には困難である。 なお、天文時の日の起点を正午とする時刻系は通常一般の時刻系と紛らわしいので、1925年1月1日からは天文学ではユリウス通日を除き、「天文時」を廃止し、正子(真夜中)を日界(1日の始まり、かつ、1日の終わりの時点)とする「常用時」に統一された。しかし、ユリウス通日については、1925年以降も継続して正午を起点としている。 日本の国立天文台の暦計算室のページで、グレゴリオ暦からもユリウス暦(1582年10月4日以前)からも、秒単位でユリウス通日と修正ユリウス日が簡便に換算できる。結果は小数5桁で表示される。 また、アメリカ海軍天文台(USNO)のページでは、0.1秒単位の換算が可能であり、結果は小数6桁で表示される。 日を整数で数える値を Julian Day Number (JDN) と呼ぶ。その日(この場合の「日」は「常用時」における日、すなわち正子から正子までの日である。)の正午(世界時)のユリウス通日(JD)に等しい。整数値であるから、JDNには時刻の概念はない。 例えば、協定世界時(UTC)での2023年10月31日の JDN は、2460249である。 修正ユリウス日(Modified Julian Date:MJD)は、ユリウス通日から2 400 000.5を差し引いたものである。ユリウス通日の2 400 000.5 は、1858年11月17日正子UT に当たるので、この時点を元期としていることになる。常用時と同様に世界時の正子に日数が増加する(ユリウス通日とは異なる)。 例えば、協定世界時(UTC)での2023年10月31日21:17の MJD は、おおむね60248.89 である。 ユリウス通日では桁が多すぎて不便な場合に、MJDが使われる。元々は、整数部の桁数を5桁に収めるように、スミソニアン天体物理観測所(SAO)の宇宙科学者が1957年に考案したものである。これはソ連のスプートニクの軌道を追跡するために用いられたIBM 704コンピュータの記憶容量が小さく、桁数を少なくする必要があったためである。 ユリウス通日の値は19世紀後半(1858年11月17日)から22世紀前半(2132年8月31日)までは、2 400 000台の数値であり、現代における利用には整数部が5桁のMJDで十分に実用的と考えられたのである。 Lilian Day number(LD、リリウス日)はグレゴリオ暦使用開始日の1582年10月15日を第1日とした通算の日数で整数値のみを取る(小数を付することはない)。また、0(ゼロ)日から始まるのではないことに注意が必要である。 復活祭の日付を決定するために使われる(コンプトゥスを参照)。ユリウス通日から2 299 159.5を差し引いて、小数部を切り捨てたものである。2000年01月01日のリリウス日 = 152 385 である。 例えば、協定世界時(UTC)での2023年10月31日のリリウス日の値は、161090である。 Chronological Julian Day(CJD)は、ユリウス通日に0.5を加え、かつタイムゾーン(time zone)を考慮したものを指す。したがって標準時(地方時)の正子に日数(の整数部分)が増加する。日本ではCJDはほとんど使われない。 CJDを使用する環境では、CJDとJDとの区別を明確にするために、JDをAstronomical Julian Dateと呼んで、AJDと略称することがある。 ユリウス通日は1583年にスカリゲル(ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ(英語版))(1540年-1609年)によって考案された。スカリゲルは1582年のグレゴリオ暦改暦によって年代学(英語版)における日付けの計算が煩雑かつ混乱してしまうことを予想して、ユリウス暦、グレゴリオ暦双方での日付の換算や日数計算の便のためにこれを考案した。 スカリゲルが基準にした紀元前4713年は、以下の3つの周期の第1年目が重なる年であった。 以上の3つの周期が揃うには7980年 (=28×19×15)を要する。これをユリウス周期という。ただし、ユリウス通日そのものは永遠に続く値であって周期性があるわけではないので、「周期」の意味はもはやなくなっている。 その後、天文学者ジョン・ハーシェルが1849年の著書Outlines of Astronomyで日数や時間の計算にユリウス通日を利用する方法を考案した。これが広まり、世界中の天文学者が日数計算にユリウス通日を用いるようになった。 なぜ、「ユリウス」の名を冠したのかについては2つの説がある。 一つ目は、スカリゲルの父の名前であるジュール・セザール・スカリジェ(ラテン語音はユリウス・カエサル・スカリゲル、1484年-1558年)から取られたものであるという説である。 二つ目は、ユリウス暦の名の由来となったジュリアス・シーザー(ラテン語音はガイウス・ユリウス・カエサル)によるものであるという説である。国立天文台はこの説を採用している。 以下に西暦の年月日と修正ユリウス日との換算式を示す。換算式は、Fliegel and Van Flandern、Hatcher、Meeusによって考案されている。ただしこれらに整理を施した換算式が使われることも多い。 グレゴリオ暦 y 年 m 月 d 日午前0時の修正ユリウス日は次式で表される。 ユリウス暦 y 年 m 月 d 日午前0時の修正ユリウス日は次式で表される。 修正ユリウス日 MJD の日のグレゴリオ暦(y 年 m 月 d 日)は次式で表される。 修正ユリウス日 MJD の日のユリウス暦(y 年 m 月 d 日)は次式で表される。 本節では、天文学における紀年法に従い、紀元1年( = 西暦1年)の前年の紀元前1年を西暦0年としている。負の年号である西暦 -4712年は紀元前4713年を指す。 また本節では、ユリウス暦、グレゴリオ暦ともに、暦の規則をそのまま過去に遡って適用することを仮定しており、正確には先発ユリウス暦(英語版)、先発グレゴリオ暦を指している。 以下にユリウス通日の具体例を示す。 2 400 000.5 の例を除いて、いずれも世界時(UTC)の12時(正午)の値である。 以下にユリウス通日の具体例を示す。いずれも世界時での正子での値である。 ユリウス通日は1日に1ずつ増えるため、ユリウス通日または修正ユリウス日から曜日や干支などを求めることができる。この場合、正子に日数が増加する修正ユリウス日を用いるほうが間違いが起こらない。以下は、すべて修正ユリウス日による求め方である。 該当日の修正ユリウス日を7で割り、余りを求める。下記の換算表により曜日を求める。これは本質的にはツェラーの公式と同じである。 該当日の修正ユリウス日を12で割って余りを求める。下記の換算表により十二支を求める。 該当日の修正ユリウス日を10で割って余りを求める。下記の換算表により十干を求める。 該当日の修正ユリウス日を60で割って余りを求める。下記の換算表により干支による紀日を求める。
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299 159.5を差し引いて、小数部を切り捨てたものである。2000年01月01日のリリウス日 = 152 385 である。", "title": "ユリウス通日の変種" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "例えば、協定世界時(UTC)での2023年10月31日のリリウス日の値は、161090である。", "title": "ユリウス通日の変種" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Chronological Julian Day(CJD)は、ユリウス通日に0.5を加え、かつタイムゾーン(time zone)を考慮したものを指す。したがって標準時(地方時)の正子に日数(の整数部分)が増加する。日本ではCJDはほとんど使われない。", "title": "ユリウス通日の変種" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "CJDを使用する環境では、CJDとJDとの区別を明確にするために、JDをAstronomical Julian Dateと呼んで、AJDと略称することがある。", "title": "ユリウス通日の変種" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ユリウス通日は1583年にスカリゲル(ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ(英語版))(1540年-1609年)によって考案された。スカリゲルは1582年のグレゴリオ暦改暦によって年代学(英語版)における日付けの計算が煩雑かつ混乱してしまうことを予想して、ユリウス暦、グレゴリオ暦双方での日付の換算や日数計算の便のためにこれを考案した。", "title": "ユリウス通日の考案" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スカリゲルが基準にした紀元前4713年は、以下の3つの周期の第1年目が重なる年であった。", "title": "ユリウス通日の考案" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以上の3つの周期が揃うには7980年 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"西暦と修正ユリウス日との相互換算" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ユリウス暦 y 年 m 月 d 日午前0時の修正ユリウス日は次式で表される。", "title": "西暦と修正ユリウス日との相互換算" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "修正ユリウス日 MJD の日のグレゴリオ暦(y 年 m 月 d 日)は次式で表される。", "title": "西暦と修正ユリウス日との相互換算" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "修正ユリウス日 MJD の日のユリウス暦(y 年 m 月 d 日)は次式で表される。", "title": "西暦と修正ユリウス日との相互換算" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "本節では、天文学における紀年法に従い、紀元1年( = 西暦1年)の前年の紀元前1年を西暦0年としている。負の年号である西暦 -4712年は紀元前4713年を指す。", "title": "西暦と修正ユリウス日との相互換算" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また本節では、ユリウス暦、グレゴリオ暦ともに、暦の規則をそのまま過去に遡って適用することを仮定しており、正確には先発ユリウス暦(英語版)、先発グレゴリオ暦を指している。", "title": "西暦と修正ユリウス日との相互換算" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "以下にユリウス通日の具体例を示す。 2 400 000.5 の例を除いて、いずれも世界時(UTC)の12時(正午)の値である。", "title": "ユリウス通日の具体例" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下にユリウス通日の具体例を示す。いずれも世界時での正子での値である。", "title": "ユリウス通日の具体例" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ユリウス通日は1日に1ずつ増えるため、ユリウス通日または修正ユリウス日から曜日や干支などを求めることができる。この場合、正子に日数が増加する修正ユリウス日を用いるほうが間違いが起こらない。以下は、すべて修正ユリウス日による求め方である。", "title": "ユリウス通日の利用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "該当日の修正ユリウス日を7で割り、余りを求める。下記の換算表により曜日を求める。これは本質的にはツェラーの公式と同じである。", "title": "ユリウス通日の利用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "該当日の修正ユリウス日を12で割って余りを求める。下記の換算表により十二支を求める。", "title": "ユリウス通日の利用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "該当日の修正ユリウス日を10で割って余りを求める。下記の換算表により十干を求める。", "title": "ユリウス通日の利用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "該当日の修正ユリウス日を60で割って余りを求める。下記の換算表により干支による紀日を求める。", "title": "ユリウス通日の利用" } ]
ユリウス通日は、ユリウス暦紀元前4713年1月1日、すなわち西暦 -4712年1月1日の正午(世界時)からの日数である。単にユリウス日(ユリウスび)ともいう。時刻値を示すために一般には小数が付けられる。 例えば、協定世界時(UTC)での2023年10月31日21:17のユリウス通日の値は、おおむね2460249.39である。
'''ユリウス通日'''(ユリウスつうじつ、Julian Day、JD)は、[[ユリウス暦]]{{efn|name="julian"|本稿で言うユリウス暦は、西暦8年以前についてもユリウス暦の暦法(4年に1度閏年を実施)を機械的に遡って適用したと仮定した{{仮リンク|先発ユリウス暦|en|Proleptic Julian calendar}}を指す。実際のユリウス暦では、その初期である[[紀元前1世紀|紀元前45年]] から 紀元前8年の間では、閏年を3年に1度とするという正しくない運用がなされていたので([[ユリウス暦#初期のユリウス暦の運用]])、この先発ユリウス暦とは一致しない。また、紀元前45年以前にはユリウス暦そのものが存在しない。}}[[紀元前5千年紀|紀元前4713年]][[1月1日]]、すなわち[[西暦]] -4712年1月1日の[[正午]]([[世界時]])からの日数である<ref>[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/A5E6A5EAA5A6A5B9C6FC.html] 国立天文台暦計算室、ユリウス日とは</ref>。単に'''ユリウス日'''(ユリウスび)ともいう。時刻値を示すために一般には小数が付けられる。 例えば、[[協定世界時]][[協定世界時|(UTC)]]での[[{{CURRENTYEAR}}年]][[{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY}}日]]{{CURRENTTIME}}のユリウス通日の値は、おおむね{{#expr: {{CURRENTJULIANDAY}} round 2 }}である。 == ユリウス通日 == ユリウス通日は[[ユリウス暦]][[紀元前5千年紀|紀元前4713年]][[1月1日]]([[先発グレゴリオ暦]]では紀元前4714年[[11月24日]]、西暦 -4713年11月24日)の[[正午]]([[世界時]])を[[元期]](=0日目)とし、[[日]]の単位で数える。ユリウス通日は[[天文時]]の伝統に従い、日の起点は[[正午]]である。したがって、[[世界時]]の[[正午]]に日数(の[[整数]]部分)が増加する。 ユリウス通日は二時点の間の日数や秒数を計算するのに便利で、[[天文学]]や{{仮リンク|年代学|en|Chronology}}などで使われている。小数を付けることにより時・分・秒数(と更に、その小数)を表現することができる。 === 起点が正午である理由 === {{main|[[太陽時#天文時|天文時]]}} ユリウス通日は、[[天体観測]]に便利なように[[正午]]を起点にしている。つまり、[[天体観測]]は通常は夜間に行われるので、夜の0時([[正子]])の時点で日付が変わる(ユリウス通日の整数部分が増加する。)のは、不便で間違いも起こりやすい。このためユリウス通日は、正午の時点で日付が変わるように決められたのである。この慣習は「天文時」の[[時刻系]]の伝統であり、[[クラウディオス・プトレマイオス ]]([[2世紀]]頃)に始まるものである。 正午を一日の起点にする理由はもう一つある。[[均時差]]を捨象すれば、太陽の[[南中]]を観測することにより、その地点の[[地方時]]での[[正午]]は容易に知れる。これに対して[[正子]]を認識することは、正確な時計が存在しない時代には困難である。 なお、[[天文時]]の日の起点を[[正午]]とする[[時刻系]]は通常一般の時刻系と紛らわしいので、1925年1月1日からは[[天文学]]ではユリウス通日を除き、「天文時」を廃止し、[[正子]]([[真夜中]])を[[日界]](1日の始まり、かつ、1日の終わりの時点)とする「常用時」に統一された<ref name="名前なし-20230316105959">[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1C6FCA4C8A4CFA1A92F1C6FCA4CEBBCFA4DEA4EA.html] 国立天文台 > 暦計算室 > 暦Wiki >1日の始まり</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=1925-10 |year=1925 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 緑威平均時の争論 |journal=天文月報 |volume=18 |issue=10 |page=156 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304063}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192510.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02}}p.157 下段の最後の段落</ref>。しかし、ユリウス通日については、1925年以降も継続して正午を起点としている<ref name="名前なし-20230316105959"/><ref>{{Cite journal|和書|date=1925-10 |year=1925 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 緑威平均時の争論 |journal=天文月報 |volume=18 |issue=10 |page=156 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304063}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192510.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02}}p.157 下段の最後の段落</ref>。{{main|[[グリニッジ標準時#天文時の廃止|天文時の廃止の経緯]]}} ===換算計算サービス=== 日本の[[国立天文台]]の暦計算室のページで、[[グレゴリオ暦]]からも[[ユリウス暦]](1582年10月4日以前)からも、秒単位でユリウス通日と修正ユリウス日が簡便に換算できる<ref name="naoj2"/>。結果は小数5桁で表示される。 また、[[アメリカ海軍天文台]](USNO)のページでは、0.1秒単位の換算が可能であり<ref>[https://aa.usno.navy.mil/data/JulianDate Julian Date Converter] Astronomical Applications Department, The United States Naval Observatory (USNO), US Navy</ref>、結果は小数6桁で表示される。 == ユリウス通日の変種 == === Julian Day Number (JDN) === 日を[[整数]]で数える値を Julian Day Number (JDN) と呼ぶ。その日(この場合の「日」は「常用時」における日、すなわち[[正子]]から[[正子]]までの日である。)の[[正午]]([[世界時]])のユリウス通日(JD)に等しい。整数値であるから、JDNには時刻の概念はない。 例えば、[[協定世界時]][[協定世界時|(UTC)]]での[[{{CURRENTYEAR}}年]][[{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY}}日]]の JDN は、{{#expr: {{CURRENTJULIANDAY}} round 0 }}である。 === 修正ユリウス日(MJD) === 修正ユリウス日(Modified Julian Date:MJD)は、ユリウス通日から2 400 000.5を差し引いたものである。ユリウス通日の2 400 000.5 は、[[1858年]][[11月17日]][[正子]]UT に当たるので、この時点を[[元期]]としていることになる。[[常用時]]と同様に[[世界時]]の[[正子]]に日数が増加する(ユリウス通日とは異なる)。 例えば、[[協定世界時]][[協定世界時|(UTC)]]での[[{{CURRENTYEAR}}年]][[{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY}}日]]{{CURRENTTIME}}の MJD は、おおむね{{#expr: {{CURRENTJULIANDAY}} - 2400000.5 round2}} である。 ==== 修正ユリウス日が導入された理由 ==== ユリウス通日では桁が多すぎて不便な場合に、MJDが使われる。元々は、整数部の桁数を5桁に収めるように、[[スミソニアン天体物理観測所]](SAO)の宇宙科学者が1957年に考案したものである<ref>[http://tycho.usno.navy.mil/mjd.html MODIFIED JULIAN DATE] Time Service Department,USNO</ref>。これはソ連の[[スプートニク1号|スプートニク]]の軌道を追跡するために用いられた[[IBM 704]]コンピュータの記憶容量が小さく、桁数を少なくする必要があったためである。 ユリウス通日の値は19世紀後半(1858年11月17日)から22世紀前半(2132年8月31日)までは、2 400 000台の数値であり、現代における利用には整数部が5桁のMJDで十分に実用的と考えられたのである。 === リリウス日(LD) === Lilian Day number(LD、[[リリウス日]])は[[グレゴリオ暦]]使用開始日の[[1582年]][[10月15日]]を第1日とした通算の日数で整数値のみを取る(小数を付することはない)。また、0(ゼロ)日から始まるのではないことに注意が必要である。 [[復活祭]]の日付を決定するために使われる([[コンプトゥス]]を参照)。ユリウス通日から2 299 159.5を差し引いて、小数部を切り捨てたものである。2000年01月01日のリリウス日 = 152 385 である。 <!--リリウス暦とユリウス通日・修正ユリウス日との換算式は次の通りである(但し <math> \lfloor x \rfloor</math> は[[床関数]])。 : <math>\mathit{LD} = \lfloor \mathit{JD} - 2~299~159.5 \rfloor = \lfloor \mathit{MJD} + 100~841 \rfloor</math>--> 例えば、[[協定世界時]][[協定世界時|(UTC)]]での[[{{CURRENTYEAR}}年]][[{{CURRENTMONTHNAME}}{{CURRENTDAY}}日]]のリリウス日の値は、{{#expr: {{CURRENTJULIANDAY}} -2299159.5 round 0}}である。 === Chronological Julian Day(CJD) === Chronological Julian Day(CJD)は、ユリウス通日に0.5を加え、かつタイムゾーン(time zone)を考慮したものを指す。したがって[[標準時]](地方時)の[[正子]]に日数(の[[整数]]部分)が増加する。日本ではCJDはほとんど使われない。 CJDを使用する環境では、CJDとJDとの区別を明確にするために、JDをAstronomical Julian Dateと呼んで、AJDと略称することがある。 == ユリウス通日の考案 == ユリウス通日は[[1583年]]にスカリゲル({{仮リンク|ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ|en|Joseph Justus Scaliger}})([[1540年]]-[[1609年]])によって考案された。スカリゲルは1582年の[[グレゴリオ暦]][[改暦]]によって{{仮リンク|年代学|en|Chronology}}における日付けの計算が煩雑かつ混乱してしまうことを予想して、[[ユリウス暦]]、[[グレゴリオ暦]]双方での[[日付]]の換算や日数計算の便のためにこれを考案した。 スカリゲルが基準にした[[紀元前]]4713年は、以下の3つの[[周期]]の第1年目が重なる年であった。 * {{仮リンク|太陽章|en|Solar cycle (calendar)}}(28年) - 日付と[[七曜]]が揃う周期 * 太陰章([[メトン周期]])(19年) - [[月相]](月の満ち欠け)と日付が揃う周期 * [[インディクティオ]](15年) - [[ローマ帝国]]での徴税額の査定更正周期 以上の3つの周期が揃うには7980年 (28,19,15の最小公倍数)を要する。これをユリウス周期という<ref>[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/A5E6A5EAA5A6A5B9C6FC.html 暦Wiki/ユリウス日 - 国立天文台暦計算室] ユリウス日とは</ref>。ただし、ユリウス通日そのものは永遠に続く値であって周期性があるわけではないので、「周期」の意味はもはやなくなっている<ref>[http://members.jcom.home.ne.jp/ino-kei/man_nen.htm 万年七曜表と、その計算式について] 2004/2/2 井上圭典</ref>。 その後、天文学者[[ジョン・ハーシェル]]が[[1849年]]の著書''Outlines of Astronomy''で日数や時間の計算にユリウス通日を利用する方法を考案した<ref>[https://archive.org/stream/outlinesofastron00hersuoft#page/676/mode/2up/search/Julian 18 editions of "Outlines of astronomy"] by Herschel, John F. W. Sir, pp.676-681</ref>。これが広まり、世界中の天文学者が日数計算にユリウス通日を用いるようになった。 === 「ユリウス通日」の名の由来 === なぜ、「ユリウス」の名を冠したのかについては2つの説がある。 一つ目は、スカリゲルの父の名前である[[ジュール・セザール・スカリジェ]](ラテン語音はユリウス・カエサル・スカリゲル、1484年-1558年)から取られたものであるという説である<ref>天文学人名辞典(現代天文学講座 別巻)、p.82、スカリゲルの項、「彼の息子Scaliger, Joseph Justus(1540-1609)は現代年代学の創始者で、ユリウス日を制定したが、”ユリウス”の名は父に感謝の意を表してつけられたものである。」、この項の執筆者は斉田博(さいだ ひろし 1926-1982)、恒星社厚生閣、1983年3月25日、初版1刷</ref><ref>例えば、[https://books.google.co.jp/books?id=rxvVdXyr_hMC&lpg=PA152&dq=%22Marking+Time%22+year:1999&pg=PA154&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false Duncan Steel, "Marking Time: The Epic Quest to Invent the Perfect Calendar"], p.154, How the Julian Date Got Its Name, John Wiley &#x26; Sons: New York, 2000, ISBN 0-471-29827-1</ref>。 二つ目は、[[ユリウス暦]]の名の由来となった[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ジュリアス・シーザー]](ラテン語音はガイウス・ユリウス・カエサル)によるものであるという説である。国立天文台はこの説を採用している<ref>[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/A5E6A5EAA5A6A5B9C6FC.html ユリウス日とは] 国立天文台、暦計算室、暦wiki「彼(スカリゲル)の著書 "Opus de emendatione temporum" によれば、ユリウス周期やユリウス日の"ユリウス"はユリウス年にちなんで名づけたそうです。」</ref>。 == 西暦と修正ユリウス日との相互換算 == 以下に西暦の年月日と修正ユリウス日との換算式を示す。換算式は、Fliegel and Van Flandern<ref>Fliegel, H. F. and Van Flandern, T. C., "A Machine Algorithm for Processing Calendar Dates," Communications of the ACM 11, p. 657, 1968.</ref>、Hatcher<ref>Hatcher, D. A., Simple formulae for Julian day numbers and calendar dates, Quarterly Journal of the Royal Astronomical Society, v. 25, p. 53-55, 1984</ref>、Meeus<ref>Meeus, J., Astronomical Algorithms, 1998</ref>によって考案されている。ただしこれらに整理を施した換算式が使われることも多い{{efn|日本では各種の換算式をフリーゲルの公式と総称することが見られる。}}。 * なお本来は純粋に整数だけの計算であるが、下記のように浮動小数点計算を経由する形も少なくない。 * どの計算式も、月の値(<math>m</math>)は、1月、2月を用いず、前年の13月、14月が用いられる。 === グレゴリオ暦から修正ユリウス日への換算 === [[グレゴリオ暦]] ''y'' 年 ''m'' 月 ''d'' 日午前0時の修正ユリウス日は次式で表される<ref name=浮動小数点計算>これは浮動小数点計算を経由する計算法。</ref>。 : <math>\mathit{MJD} = \lfloor 365.25 y \rfloor + \lfloor y / 400 \rfloor - \lfloor y / 100 \rfloor + \lfloor 30.59(m - 2) \rfloor + d - 678~912</math> * 例: 2012年1月1日 : ''y'' = 2011, ''m'' = 13, ''d'' = 1 より、修正ユリウス日は '''55 927''' である。 :: <math>\mathit{MJD} = {\lfloor 365.25 \times 2011 \rfloor + \lfloor 2011 / 400 \rfloor - \lfloor 2011 / 100 \rfloor + \lfloor 30.59(13 - 2) \rfloor + 1 - 678~912} = 55~927</math> === ユリウス暦から修正ユリウス日への換算 === [[ユリウス暦]] ''y'' 年 ''m'' 月 ''d'' 日午前0時の修正ユリウス日は次式で表される<ref name=浮動小数点計算>これは浮動小数点計算を経由する計算法。</ref>。 : <math>\mathit{MJD} = \lfloor 365.25 y \rfloor + \lfloor 30.59 (m - 2) \rfloor + d - 678~914</math> * 例: 1582年2月1日 : ''y'' = 1581, ''m'' = 14, ''d'' = 1 より、修正ユリウス日は '''-101 086''' である。 :: <math>\mathit{MJD} = {\lfloor 365.25 \times 1581 \rfloor + \lfloor 30.59(14 - 2) \rfloor + 1 - 678~914} = -101~086</math> === 修正ユリウス日からグレゴリオ暦への換算 === 修正ユリウス日 ''MJD'' の日のグレゴリオ暦(''y'' 年 ''m'' 月 ''d'' 日)は次式で表される。 : <math>\begin{align} n &= \mathit{MJD} + 678~881 \\ a &= 4 n + 3 + 4 \left\lfloor \frac{3}{4} \left\lfloor \frac{4 (n + 1)}{146~097} + 1\right\rfloor \right\rfloor \\ b &= 5 \left\lfloor \frac{a\, \bmod 1461}{4} \right\rfloor + 2 \\ (y, m, d) &= \bigg( \left\lfloor \frac{a}{1461} \right\rfloor, \left\lfloor\frac{b}{153}\right\rfloor + 3, \left\lfloor\frac{b\, \bmod 153}{5}\right\rfloor + 1 \bigg) \end{align}</math> === 修正ユリウス日からユリウス暦への換算 === 修正ユリウス日 ''MJD'' の日のユリウス暦(''y'' 年 ''m'' 月 ''d'' 日)は次式で表される。 : <math>\begin{align} n &= \mathit{MJD} + 678~883 \\ a &= 4 n + 3 \\ b &= 5 \left\lfloor \frac{a\, \bmod 1461}{4} \right\rfloor + 2 \\ (y, m, d) &= \bigg( \left\lfloor \frac{a}{1461} \right\rfloor, \left\lfloor\frac{b}{153}\right\rfloor + 3, \left\lfloor\frac{b\, \bmod 153}{5}\right\rfloor + 1 \bigg) \end{align}</math> === 紀元前や初期のユリウス暦の換算における注意点 === {{main|紀元前#天文学における紀元前}} 本節では、天文学における[[紀年法]]に従い、紀元[[1年]]( = 西暦1年)の前年の紀元前1年を西暦[[0年]]としている。負の年号である西暦 -4712年は紀元前4713年を指す。{{main|[[0年#西暦0年]]|[[紀元前1年#西暦0年]]}} また本節では、[[ユリウス暦]]{{efn|name="julian"}}、[[グレゴリオ暦]]ともに、暦の規則をそのまま過去に遡って適用することを仮定しており、正確には{{仮リンク|先発ユリウス暦|en|Proleptic Julian calendar}}、[[先発グレゴリオ暦]]を指している。<!--<ref group="注">実際の[[ユリウス暦#運用|ユリウス暦]]の運用では、その開始初期には閏年が正しく置かれていなかったため、この{{仮リンク|先発ユリウス暦|en|Proleptic Julian calendar}}とは一致しない。</ref>。--> == ユリウス通日の具体例 == === ユリウス通日の具体例 === 以下にユリウス通日の具体例を示す。 2 400 000.5 の例を除いて、いずれも[[世界時]](UTC)の12時([[正午]])の値である。 {| class="wikitable" ! ユリウス通日 !! 日付 !! 備考 |- | style="text-align:right" | 0 || ユリウス暦紀元前4713年1月1日 || ユリウス通日の[[元期]] |- | style="text-align:right" | 1 000 000 || ユリウス暦紀元前1976年11月7日 || |- | style="text-align:right" | 1 234 567 || ユリウス暦紀元前1333年1月23日 || |- | style="text-align:right" | 1 721 424 || ユリウス暦1年1月1日 || |- | style="text-align:right" | 1 721 426 || [[先発グレゴリオ暦]]1年1月1日 || |- | style="text-align:right" | 2 000 000 || ユリウス暦763年9月14日 || |- | style="text-align:right" | 2 299 160 || ユリウス暦1582年10月4日 || [[ローマ・カトリック教会]]におけるユリウス暦の最後の日 |- | style="text-align:right" | 2 299 161 || グレゴリオ暦1582年10月15日 || ローマ・カトリック教会における[[グレゴリオ暦]]の初日 |- | style="text-align:right" | 2 345 678 || グレゴリオ暦1710年2月23日 || |- | style="text-align:right" | 2 400 000.5 || グレゴリオ暦1858年11月17日正子 || [[#修正ユリウス日(MJD)|修正ユリウス日]]の[[元期]] |- | style="text-align:right" | 2 450 000 || グレゴリオ暦1995年10月09日 || |- | style="text-align:right" | 2 451 545 || グレゴリオ暦2000年1月1日 || [[J2000.0]]の元期 |- | style="text-align:right" | 2 456 789 || グレゴリオ暦2014年5月11日 || |- | style="text-align:right" | 2 460 000 || グレゴリオ暦2023年2月24日 || |- | style="text-align:right" | 2 500 000 || グレゴリオ暦2132年8月31日 || |- | style="text-align:right" | 2 567 890 || グレゴリオ暦2318年7月18日 || |- | style="text-align:right" | 3 000 000 || グレゴリオ暦3501年8月15日 || |- | style="text-align:right" | 3 456 789 || グレゴリオ暦4752年4月7日 || |- | style="text-align:right" | 4 000 000 || グレゴリオ暦6239年7月12日 || |} === 修正ユリウス日の具体例 === 以下にユリウス通日の具体例を示す。いずれも世界時での正子での値である。 {| class="wikitable" |- ! 修正ユリウス日 !! 日付 |- | style="text-align:right" | -2400001 ||先発グレゴリオ暦紀元前4714年11月24日 |- | style="text-align:right" | -2400001 || 先発ユリウス暦紀元前4713年1月1日 |- | style="text-align:right" | -2399963 || 先発グレゴリオ暦紀元前4713年1月1日 |- | style="text-align:right" | -605833 || ユリウス暦200年3月1日 |- | style="text-align:right" | -605833 || 先発グレゴリオ暦200年3月1日 |- | style="text-align:right" | -100841 || ユリウス暦1582年10月4日 |- | style="text-align:right" | -100840 || グレゴリオ暦1582年10月15日 |- | style="text-align:right" | 0 || ユリウス暦1858年11月5日 |- | style="text-align:right" | 0 || グレゴリオ暦1858年11月17日 |- | style="text-align:right" | 51544 || グレゴリオ暦2000年1月1日 |- | style="text-align:right" | 51557 || ユリウス暦2000年1月1日 |} == ユリウス通日の利用 == ユリウス通日は1日に1ずつ増えるため、ユリウス通日または修正ユリウス日から曜日や[[干支]]などを求めることができる。この場合、[[正子]]に日数が増加する修正ユリウス日を用いるほうが間違いが起こらない。以下は、すべて修正ユリウス日による求め方である。 === 七曜日の求め方 === 該当日の修正ユリウス日を7で割り、余りを求める。下記の換算表により曜日を求める。これは本質的には[[ツェラーの公式]]と同じである。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ style="white-space:nowrap;" |修正ユリウス日による曜日の換算表 !余り |0||1||2||3||4||5||6 |- !曜日 |水||木||金||土||日||月||火 |} *例: 2012年1月1日 :修正ユリウス日は55 927である。7で割ると7989余り4となる。よって、曜日は[[日曜日]]である。 === 十二支の求め方 === 該当日の修正ユリウス日を12で割って余りを求める。下記の換算表により[[十二支]]を求める。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+修正ユリウス日による十二支の換算表 !余り |0||1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11 |- !十二支 |[[寅]]||[[卯]]||[[辰]]||[[巳]]||[[午]]||[[未]]||[[申]]||[[酉]]||[[戌]]||[[亥]]||[[子]]||[[丑]] |} *例: 2012年1月1日 :修正ユリウス日は55 927である。12で割ると4660余り7となる。よって、十二支は[[酉]]である。 === 十干の求め方 === 該当日の修正ユリウス日を10で割って余りを求める。下記の換算表により[[十干]]を求める。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+修正ユリウス日による十干の換算表 !余り |0||1||2||3||4||5||6||7||8||9 |- !十干 |[[甲]]||[[乙]]||[[丙]]||[[丁]]||[[戊]]||[[己]]||[[庚]]||[[辛]]||[[壬]]||[[癸]] |} *例: 2012年1月1日 :修正ユリウス日は55 927である。10で割ると5592余り7となる。よって、十干は[[辛]]である。 === 干支紀日の求め方 === 該当日の修正ユリウス日を60で割って余りを求める。下記の換算表により[[干支#干支による紀日|干支による紀日]]を求める。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin-right:0px;" |+修正ユリウス日による干支の換算表 ! style="white-space:nowrap;" |余り |{{0}}0||{{0}}1||{{0}}2||{{0}}3||{{0}}4||{{0}}5||{{0}}6||{{0}}7||{{0}}8||{{0}}9||10||11||12||13||14||15||16||17||18||19 |-style="line-height:1.25em" ! style="white-space:nowrap;" |干支 |[[甲寅]]||[[乙卯]]||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]]||[[壬戌]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center; margin-right:0px;" |- ! style="white-space:nowrap;" |余り |20||21||22||23||24||25||26||27||28||29||30||31||32||33||34||35||36||37||38||39 |-style="line-height:1.25em" ! style="white-space:nowrap;" |干支 |[[甲戌]]||[[乙亥]]||[[丙子]]||[[丁丑]]||[[戊寅]]||[[己卯]]||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]||[[乙酉]]||[[丙戌]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center; margin-right:0px;" |- ! style="white-space:nowrap;" |余り |40||41||42||43||44||45||46||47||48||49||50||51||52||53||54||55||56||57||58||59 |-style="line-height:1.25em" ! style="white-space:nowrap;" |干支 |[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]||[[丙午]]||[[丁未]]||[[戊申]]||[[己酉]]||[[庚戌]]||[[辛亥]]||[[壬子]]||[[癸丑]] |} *例: 2012年1月1日 :修正ユリウス日は55 927である。60で割ると932余り7となる。よって、干支紀日は[[辛酉]]である。 == その他 == *[[Google]]検索のdaterangeオプションでは、日付を指定するのにユリウス通日を用いるようになっている。 *データ長が[[16ビット]]の修正ユリウス日を日付表現に使用しているシステムでは、16ビットで表せる整数の最大値である65535にあたる[[2038年]][[4月22日]]までしか表現できず、この次の日である23日を迎えると、桁あふれが発生してしまう'''2038年問題'''が存在する。 ([[2038年問題]]とは別物) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|refs= <ref name="naoj2">{{Cite web|和書 |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/date2jd.cgi |publisher= 国立天文台 |work=暦計算室 暦象年表 |title= ユリウス日 |accessdate=2015-01-18}} </ref> }} == 関連項目 == *[[ユリウス年]] *[[ISO 8601]] - 日付と時刻の表記に関する標準 *[[UNIX時間]] - 計算機で使われている時刻。1970年1月1日深夜(午前0時0分0秒)からの秒数を数える。 == 外部リンク == * [https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2023_1.html ユリウス日について]([[国立天文台]]) ===換算計算=== * [https://aa.usno.navy.mil/data/JulianDate Julian Date Converter] Astronomical Applications Department, The United States Naval Observatory (USNO), US Navy(0.1秒単位の換算が可能で、結果は小数6桁で表示される) * [https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/date2jd.cgi] 国立天文台 > 暦計算室 > 暦象年表 > 年月日時分秒→ユリウス日の換算(1秒単位の換算が可能で、結果は小数5桁で表示される) * [https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/jd2date.cgi] 国立天文台 > 暦計算室 > 暦象年表 > ユリウス日→年月日時分秒の換算 *[http://mysteryart.web.fc2.com/library/calsmpl/cldttojd.html 日時とユリウス日の変換] - 世界時(UT) と日本時(JST)の両方の時分までの換算に対応。 *[http://maechan.net/kanreki/index.php 換暦] - 和暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦、ユリウス日などの相互換算を行う。日付のみの換算であり、時分秒の換算はできない。 {{DEFAULTSORT:ゆりうすつうしつ}} [[Category:暦法]] [[Category:時刻系]] [[Category:天文学における時間]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:エポニム]]
2003-08-25T07:30:49Z
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セレクション 選ばれし者
『セレクション 選ばれし者』(セレクション えらばれしもの)は、1989年12月28日にケムコから発売されたゲームボーイ用ロールプレイングゲーム。ゲームボーイ本体の発売後間もない時期に発売された。また、北米および欧州では『The Sword of Hope』のタイトルで発売された。 主人公ハイン王子が15歳の誕生日を迎えた時、王国に現れた敵と戦うという内容で、他のRPGとは違い、アドベンチャーゲームのような画面構成とコマンド選択によるゲーム進行が特徴的だった。3Dマップで構成されたフィールド上を進みたい方向に矢印を合わせて進む。独特の世界観や戦闘時の魔法やダメージシステムなどが用いられている。 後に続編となる『セレクションII 暗黒の封印』(1992年)が発売された他、本作と続編の2作品をパッケージした『セレクションI&II 選ばれし者&暗黒の封印』(1998年)が発売された。第1作目は2008年に携帯電話ゲームとして配信された他、2011年にはニンテンドー3DS用のバーチャルコンソール対応ソフトとして配信された。 あちこちでアイテムを販売してくれる人たち。 リッカー王国を守ってきた3人の魔法使い。 死してなお世を憂い現世に留まる者達。 ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では合計26点、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り、17.47点(満30点)となっている。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ゲームボーイ オールカタログ」では、アドベンチャーゲームの要素が強い事や会話による情報収集がメインとなっている事を指摘した他、マップが広くコマンドで移動するため「慣れないと自分の位置がつかみにくい」と否定的に評価している。 『セレクションII 暗黒の封印』(セレクションツー あんこくのふういん)は、1992年9月4日に日本のケムコから発売されたロールプレイングゲーム。北米では『The Sword of Hope II』のタイトルで発売された。 前作から5年後を舞台に主人公のハインを操作し、リッカー国の不吉な言い伝え通りに赤い光が走った古代神殿を調査するというストーリー。前作とは異なり最大3名のパーティプレイが可能となっている。 2012年にはニンテンドー3DS用のバーチャルコンソール対応ソフトとして配信された。 基本システムは前作と同じだが、いくつかの変更点が存在する。 第2作では最大3名のパーティを組む。 ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では、6・6・6・4の合計22点(満40点)、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り、18.2点(満30点)となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『セレクション 選ばれし者』(セレクション えらばれしもの)は、1989年12月28日にケムコから発売されたゲームボーイ用ロールプレイングゲーム。ゲームボーイ本体の発売後間もない時期に発売された。また、北米および欧州では『The Sword of Hope』のタイトルで発売された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主人公ハイン王子が15歳の誕生日を迎えた時、王国に現れた敵と戦うという内容で、他のRPGとは違い、アドベンチャーゲームのような画面構成とコマンド選択によるゲーム進行が特徴的だった。3Dマップで構成されたフィールド上を進みたい方向に矢印を合わせて進む。独特の世界観や戦闘時の魔法やダメージシステムなどが用いられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "後に続編となる『セレクションII 暗黒の封印』(1992年)が発売された他、本作と続編の2作品をパッケージした『セレクションI&II 選ばれし者&暗黒の封印』(1998年)が発売された。第1作目は2008年に携帯電話ゲームとして配信された他、2011年にはニンテンドー3DS用のバーチャルコンソール対応ソフトとして配信された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "あちこちでアイテムを販売してくれる人たち。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "リッカー王国を守ってきた3人の魔法使い。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "死してなお世を憂い現世に留まる者達。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では合計26点、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り、17.47点(満30点)となっている。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ゲームボーイ オールカタログ」では、アドベンチャーゲームの要素が強い事や会話による情報収集がメインとなっている事を指摘した他、マップが広くコマンドで移動するため「慣れないと自分の位置がつかみにくい」と否定的に評価している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『セレクションII 暗黒の封印』(セレクションツー あんこくのふういん)は、1992年9月4日に日本のケムコから発売されたロールプレイングゲーム。北米では『The Sword of Hope II』のタイトルで発売された。", "title": "セレクションII 暗黒の封印" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "前作から5年後を舞台に主人公のハインを操作し、リッカー国の不吉な言い伝え通りに赤い光が走った古代神殿を調査するというストーリー。前作とは異なり最大3名のパーティプレイが可能となっている。", "title": "セレクションII 暗黒の封印" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2012年にはニンテンドー3DS用のバーチャルコンソール対応ソフトとして配信された。", "title": "セレクションII 暗黒の封印" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "基本システムは前作と同じだが、いくつかの変更点が存在する。", "title": "セレクションII 暗黒の封印" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第2作では最大3名のパーティを組む。", "title": "セレクションII 暗黒の封印" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では、6・6・6・4の合計22点(満40点)、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り、18.2点(満30点)となっている。", "title": "セレクションII 暗黒の封印" } ]
『セレクション 選ばれし者』は、1989年12月28日にケムコから発売されたゲームボーイ用ロールプレイングゲーム。ゲームボーイ本体の発売後間もない時期に発売された。また、北米および欧州では『The Sword of Hope』のタイトルで発売された。
{{コンピュータゲーム | Title = セレクション 選ばれし者 | image = | Genre = [[コンピュータRPG|RPG]] | Plat = [[ゲームボーイ]] (GB)<br />[[iアプリ]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS) | Dev = [[コトブキシステム]] | Pub = {{vgrelease new|JP|[[ケムコ]]|NA|[[西華産業]]|EU|ケムコ}} | distributor = | producer = | director = | designer = | writer = | programmer = | composer = | artist = | license = | series = セレクションシリーズ | Ver = | Play = 1人 | Media = 1[[メガビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga159">{{Cite journal|和書|title=5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ|date=1991-05-24|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=10|pages=159|ref=harv}}</ref> | Date = '''GB'''<br />{{vgrelease new|JP|1989-12-28|NA|June 1991|EU|1993-03-25}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2008-09-16}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2011-12-07}} | Rating = {{CERO-A}} | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Sale = | etc = 型式<br />{{vgrelease new|JP|DMG-SEJ|NA|DMG-SE-USA|EU|DMG-SE-NOE}} }} 『'''セレクション 選ばれし者'''』(セレクション えらばれしもの)は、[[1989年]][[12月28日]]に[[ケムコ]]から発売された[[ゲームボーイ]]用[[コンピューターRPG|ロールプレイングゲーム]]。ゲームボーイ本体の発売後間もない時期に発売された。また、北米および欧州では『''The Sword of Hope''』のタイトルで発売された。 == 概要 == 主人公ハイン王子が15歳の誕生日を迎えた時、王国に現れた敵と戦うという内容で、他のRPGとは違い、アドベンチャーゲームのような画面構成とコマンド選択によるゲーム進行が特徴的だった。3Dマップで構成されたフィールド上を進みたい方向に矢印を合わせて進む。独特の世界観や戦闘時の魔法やダメージシステムなどが用いられている。 後に続編となる『'''セレクションII 暗黒の封印'''』([[1992年]])が発売された他、本作と続編の2作品をパッケージした『'''セレクションI&II 選ばれし者&暗黒の封印'''』([[1998年]])が発売された。第1作目は[[2008年]]に[[携帯電話ゲーム]]として配信された他、[[2011年]]には[[ニンテンドー3DS]]用の[[バーチャルコンソール]]対応ソフトとして配信された。 == ゲーム内容 == * アドベンチャーゲームのような画面で「みる」、「あける」、「たたく」といったコマンドを使いゲームを進めていく。 * マップ上で矢印の先に●(黒丸)が出ている方向に進もうとすると、雑魚敵との戦闘になる。戦闘を行うのはハイン1人のみ。敵は複数出現することもある。 * 戦闘中、敵はハインのほかに他の敵を攻撃(同士討ち)することがある。ただし同士討ちを起こすのは異種族同士のときのみである。また、雑魚敵との戦闘中に他の雑魚敵が乱入してくる事がある。 * 魔法の中には敵一体を選んで攻撃するものや敵全体を攻撃するものの他に、敵・味方を問わず誰かにランダムで当たるものや、敵・味方全てを巻き込むものがある。 * ハインのHPが0となると、じいの所から再開となる。戻される以外のペナルティは特にない。 * ゲームの進行状況は[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]で記録する事が出来る。 == 登場人物 == ;ハイン :主人公。リッカー王国の王子だが、誕生時に左腕の痣を見た父ヘネシーに殺されかけ、騎士パスカルによって森の奥に匿われ育てられた。15歳になり、暗黒に染まった王国を救う旅に出る。剣と魔法の両方を使いこなす。『2』ではコーリン一族が守る神殿が襲撃された事件をきっかけに旅に出ることになる。 ;ヘネシー王 :ハインの実父で現リッカー国王。ハインが生まれる少し前に、知識欲が災いして古の暗黒の封印を解き、とりつかれてしまった。『2』では息子の旅立ちを見送り、ハインがやられる(または全滅する)と城に戻る魔法を掛けてくれたりして手助けしてくれる。 ;暗黒の竜(暗黒竜) :ヘネシー王が暗黒の封印を解いた事により蘇った[[ドラゴン|竜]]。ヘネシー王にとりつきリッカー王国を暗黒に染めた。『2』ではウィッシュの剣が盗まれた事により物語の最終盤に復活し、ハインに戦いを挑んでくる。 ;じい(パスカル) :リッカー王国に仕える老騎士。乱心した王からハインを匿い育ててきた。 ;祈祷師 :じいの友人で、お告げの言葉(パスワード)を教えてくれたり有料で回復してくれる。 === 商売人達 === あちこちでアイテムを販売してくれる人たち。 ;森の店のおかみ :広場に至る道で森の店を営む女性。信心深く、教会で祈るための魔法「グレイス」の書を持つ。再び店を訪れるとグレイスの書が眠る隠し部屋に案内してくれる。 ;闇商人 :からくり洞窟や城に至る地下迷宮で商売を営む。自分の事を「腹黒い」と言うだけありアイテムの値段は若干高め。 === 魔法使い達 === リッカー王国を守ってきた3人の魔法使い。 ;マーテル :「知恵」を司る痩身の男。西の森に住む。最初はハインを相手にしないが…。 ;シャボー :「勇気」を司る筋肉質の男。東の滝の裏に住む。試練の為に、ハインを滝の下の洞窟へ突き落とす。 ;カミュ :「愛」を司る美女。北の山の塔に住む。美貌が災いしてある怪物に狙われている。 === 亡霊 === 死してなお世を憂い現世に留まる者達。 ;ポリニャック :かつて闇を封じた剣士。流行り病で亡くなるも彼の流した涙はサファイアとなりある怪物に奪われてしまった。サファイアを取り返すと自分が使っていたプラチナの鎧をくれる。 ;レミー王妃 :乱心した夫ヘネシーから誕生直後の息子ハインを庇って絶命した。彼女の遺品が重要な役割を果たす。 == 移植版 == {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 備考 ! 出典 |- | style="text-align:right" | 1 ! セレクション1&2 選ばれ者&暗黒の封印 | {{vgrelease new|JP|1998-05-01}} | ゲームボーイ | コトブキシステム | ケムコ | ロムカセット | DMG-ASLJ-JPN | | |- | style="text-align:right" | 2 ! セレクション | {{vgrelease new|JP|2008-09-16}} | [[FOMA]]90x、703以降<br />([[iアプリ]]) | ケムコ | ケムコ | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(ケムコスペース200) | - | | <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kemco.jp/applipage/type_result.php?c=DS&ctype=s&page=3|title=ケムコのiアプリ 50音別アプリ一覧 サ行|publisher=ケムコ|accessdate=2020-11-03}}</ref> |- | style="text-align:right" | 3 ! セレクション 選ばれし者 | {{vgrelease new|JP|2011-12-07}} | [[ニンテンドー3DS]] | [[コトブキソリューション]] | コトブキソリューション | ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | | <ref>{{Cite web|和書|author=津久井箇人 a.k.a. そそそ |authorlink=津久井箇人 |date=2011-11-30 |url=https://www.inside-games.jp/article/2011/11/30/53055.html |title=懐かしのコマンド入力型RPG『セレクション 選ばれし者』3DSバーチャルコンソールで来週配信 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2011-11-30 |url=https://dengekionline.com/elem/000/000/433/433213/ |title=ゲームボーイのファンタジーRPG『セレクション 選ばれし者』がバーチャルコンソールで12月7日に配信 |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-11-03}}</ref> |} == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |Fam = 26/40点 (GB)<ref name="famitsu"/> |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 17.47/30点 (GB)<ref name="famimaga159"/> }} ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」では合計26点<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=20833|title=セレクション 選ばれし者 まとめ [ゲームボーイ] |website= [[ファミ通|ファミ通.com]]|publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]|accessdate=2020-11-03}}</ref>、『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り、17.47点(満30点)となっている<ref name="famimaga159"/>。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ゲームボーイ オールカタログ」では、[[アドベンチャーゲーム]]の要素が強い事や会話による情報収集がメインとなっている事を指摘した他、マップが広くコマンドで移動するため「慣れないと自分の位置がつかみにくい」と否定的に評価している<ref name="famimaga159"/>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" |- ! 項目 | キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ ! 総合 |- ! 得点 | 2.91 || 2.84 || 2.85 || 2.97 || 2.92 || 2.98 ! 17.47 |} {{Clear}} == セレクションII 暗黒の封印 == {{コンピュータゲーム | Title = セレクションII 暗黒の封印 | image = | Genre = [[コンピュータRPG|RPG]] | Plat = [[ゲームボーイ]] (GB)<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS) | Dev = [[コトブキシステム]] | Pub = [[ケムコ]] | distributor = | producer = | director = | designer = | writer = | programmer = | composer = | artist = | license = | series = セレクションシリーズ | Ver = | Play = 1人 | Media = 2[[メガビット]][[ロムカセット]] | Date = '''GB'''<br />{{vgrelease new|JP|1992-09-04|NA|September 1996}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2012-06-13|NA|2012-07-12|EU|2012-08-09}} | Rating = {{CERO-A}} | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Sale = | etc = 型式:{{vgrelease new|JP|DMG-SIJ|NA|DMG-SI-USA}} }} 『'''セレクションII 暗黒の封印'''』(セレクションツー あんこくのふういん)は、[[1992年]][[9月4日]]に日本の[[ケムコ]]から発売された[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]。北米では『''[[:en:The Sword of Hope II|The Sword of Hope II]]''』のタイトルで発売された。 前作から5年後を舞台に主人公のハインを操作し、リッカー国の不吉な言い伝え通りに赤い光が走った古代神殿を調査するというストーリー。前作とは異なり最大3名のパーティプレイが可能となっている。 [[2012年]]には[[ニンテンドー3DS]]用の[[バーチャルコンソール]]対応ソフトとして配信された。 === ゲーム内容 === 基本システムは前作と同じだが、いくつかの変更点が存在する。 *前作は1人旅だったのに対し、本作は最大3名のパーティを組む。 *[[エンカウント]]方式がランダムエンカウントとなった。 *敵の同士討ちや雑魚敵の乱入が起きなくなった。 *敵・味方にランダムで当たる魔法、敵・味方全てを巻き込む魔法が無くなった。 *全滅するとヘネシー王の所から再開となる。前作と同様、ペナルティは特にない。 *戦闘後などに時折手に入る[[コイン]]を使う事で、[[賭博場]]で[[ルーレット]]をする事が出来る。ルーレットでは様々なアイテムが手に入る。 *ゲームの進行状況は[[セーブ (コンピュータ)|セーブ]]する事で記録できる。セーブファイルは3つまで。 === 登場人物 === ;ハイン ;ヘネシー王 ;暗黒の竜(暗黒竜) ==== 旅の仲間 ==== 第2作では最大3名のパーティを組む。 ;ミュート :魔王ザクドスの封印を守っていた、魔道士コーリン一族で唯一生き残った少年。再び魔王を封じるためハインに同行する。幼いながらも攻撃魔法に優れる。 ;ニーナ :宝探しの好きな父と旅している少女。父とはぐれて怪物に襲われた所をハインらに救われ、父を捜すために同行する。 ;ボギー :モンスターハンターの青年。山で怪物に襲われたハインらを助け同行する。魔法は使えない生粋の戦士型。 ;レイラ :[[潜水艦]]を駆るモンスターハンターの女性で、ボギーの恋人。海で遭難したハインらを助け同行する。魔法も少々使える。 ====その他キャラクター==== ;ウィンダー王 :その昔、ザクドスを倒し封印した王。亡霊となった今でも4つのオーブのひとつ、風のオーブを守っている。 ;火炎竜 :ネコジャラ島の[[海底火山]]に棲む竜。4つのオーブのひとつ、火のオーブを守っている。 ;ノーマル博士 :ファーブ島に住む発明家。[[飛行船]]を完成させるために飛翔石を必要としている。 ;ザクドス :古代神殿に封印されていた[[魔王]]。盗賊が封印の[[棺|石棺]]を壊した事により復活する。コーリン一族を皆殺しにした後、暗黒竜を復活させるためにウィッシュの剣を盗む。 === 移植版 === {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 備考 ! 出典 |- | style="text-align:right" | 1 ! セレクション1&2 選ばれ者&暗黒の封印 | {{vgrelease new|JP|1998-05-01}} | ゲームボーイ | コトブキシステム | ケムコ | ロムカセット | DMG-ASLJ-JPN | | |- | style="text-align:right" | 2 ! セレクションII 暗黒の封印 | {{vgrelease new|JP|2012-06-13|NA|2012-07-12|EU|2012-08-09}} | [[ニンテンドー3DS]] | [[コトブキソリューション]] | コトブキソリューション | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | | <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2012-06-06 |url=https://www.famitsu.com/news/201206/06015874.html |title=『セレクションII~暗黒の封印~』がニンテンドー3DS向けバーチャルコンソールで2012年6月13日から配信スタート |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]]|accessdate=2020-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=中野信二 |date=2012-06-06 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/538109.html |title=KEMCO、3DSVC「セレクションII~暗黒の封印~」。「見る」などコマンドを駆使し物語を進めるRPG |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]]|accessdate=2020-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=津久井箇人 a.k.a. そそそ |authorlink=津久井箇人 |date=2012-06-06 |url=https://www.inside-games.jp/article/2012/06/06/57219.html |title=ADV要素の強いRPG『セレクションII~暗黒の封印~』3DSバーチャルコンソールに登場 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2020-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2012-06-07 |url=https://dengekionline.com/elem/000/000/494/494041/ |title=3DSのバーチャルコンソールで『セレクションII~暗黒の封印~』が6月13日から配信 |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]]|accessdate=2020-11-03}}</ref> |} === 評価 === {{コンピュータゲームレビュー |title = |EGM = 21/40点 (GB)<ref name="mobygames_GB">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/gameboy/sword-of-hope-ii |title=Sword of Hope II for Game Boy (1992) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-11-03}}</ref> |Fam = 22/40点 (GB)<ref name="famitsu"/> |GamePro = 3/5点 (GB)<ref name="mobygames_GB"/> |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 18.2/30点 (GB)<ref name="daigirin492"/> }} ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」では、6・6・6・4の合計22点(満40点)<ref name="famitsu2">{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=13427|title=セレクションII 〜暗黒の封印〜 まとめ <nowiki>[ゲームボーイ]</nowiki>|website=[[ファミ通|ファミ通.com]]|publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]|accessdate=2020-11-03}}</ref>、『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り、18.2点(満30点)となっている<ref name="daigirin492">{{Cite journal|和書|title=超絶 大技林 '98年春版|date=1998-04-15|publisher=[[徳間書店]]/インターメディア・カンパニー|journal=[[PlayStation Magazine]]|number=増刊4月15日号|pages=492|asin=B00J16900U|ref=harv}}</ref>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" |- !項目 | キャラクタ || 音楽 || お買い得度 || 操作性 || 熱中度 || オリジナリティ ! 総合 |- !得点 | 2.9 || 3.0 || 2.9 || 3.1 || 3.3 || 3.0 ! 18.2 |} {{Clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[ネコジャラ物語]] - 基本システムが共通。また、第2作目でネコジャラ島という地名が出てくる。 == 外部リンク == * [https://www.kemco.jp/applipage/08_game/st_a.html セレクション(ケムコのケータイゲーム)] - 公式サイト * {{3DSバーチャルコンソール|rbjj}} * {{3DSバーチャルコンソール|rbvj|SELECTION II 暗黒の封印}} * {{MobyGames|id=/19538/the-sword-of-hope/|name=The Sword of Hope}} * {{MobyGames|id=/21255/sword-of-hope-ii/|name=Sword of Hope II}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= |redirect1=セレクションII 暗黒の封印 |1-1=1992年のコンピュータゲーム |1-2=ゲームボーイ用ソフト |1-3=コトブキシステムのゲームソフト |1-4=コンピュータRPG |1-5=日本で開発されたコンピュータゲーム |1-6=ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト |1-7=ファンタジーコンピュータゲーム }} {{Video-game-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せれくしよん えらはれしもの}} [[Category:1989年のコンピュータゲーム]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:コトブキシステムのゲームソフト]] [[Category:コンピュータRPG]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ファンタジーコンピュータゲーム]]
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アントニ・ガウディ
アントニ・ガウディ(カタルーニャ語 :Antoni Gaudí i Cornet [ənˈtoni gəu̯ˈði i kuɾˈnɛt]、洗礼名:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet、1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)・グエル公園(1900 - 1914年)・カサ・ミラ(1906 - 1910年)をはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群として1984年ユネスコの世界遺産に登録されている。 スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet、Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)。 アントニは、1852年6月25日午前9時半、カタルーニャ地方のタラゴナ県に、父フランセスク・ガウディ・イ・セラと母アントニア・クルネット・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。 ガウディの出生地とされる場所には、レウスとその近郊の村リウドムス(Riudoms)の2箇所がある。レウス説は、洗礼を受けた聖ペラ教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ(Mas de la Calderera)で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている。 ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、オーヴェルニュ地方からリウドムスへやってきた。リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた。 一家は母アントニアの出身地であるレウスで暮らした。ガウディはラファエル・パラウの小学校に入学、その後、フランセスク・バランゲー(フランシスコ・ベレンゲール)の学校に移った。バランゲーには同じ名前をもつ息子がおり、のちにガウディの助手となる。 ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる。後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である」と語っている。 1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会(Piarists)の学校に入学する。この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。トダの回想によれば、3人が発行した雑誌『エル・アルレキン』(「アルレッキーノ」の意)でガウディは挿絵を担当し、学校演劇の際には大道具や小道具を制作した。当時のガウディの絵にはレウス出身でイタリアで活躍した画家マリアノ・フォルトゥーニの影響が指摘されている。 ガウディ、トダ、リベラの3人はレウスに近いタラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院への小旅行もしてい。特に当時、廃墟となっていたポブレー修道院については、トダが中心になって作った修復計画が立てられ、水彩で描かれた概略図が残っている。ポブレー修道院へガウディたちが足を運んだ時期については、1867年と1869年の2つの説がある。修復計画においてガウディが設計を担当したとも言われるが、実際にはトダが大半の作業を行ない、ガウディはそれに賛意を示したものと考えられている。 1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナ建築高等技術学校で建築を学んだ。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園の装飾やモンセラートの修道院の装飾にもかかわった。 ガウディの処女作は未完のものも含めると1867年ごろの産業コロニアだといわれている。この仕事でマタロ協同組合の教師ペピタと知り合った。これが初恋であった。しかし、成婚に至らず、その後一生独身であった。 1878年4月に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築高等技術学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、Elies Rogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。 同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした。この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル(エウゼビ・グエイ)であった。グエルは、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。1883年にはサグラダ・ファミリアの専任建築家に推薦される。 太字で示したものは、アントニ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。 ガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過ごした。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのエウゼビ・グエイが死去した。またガウディ自身も1911年(当時59歳)にマルタ熱病に罹り、プッチセルダーで療養を余儀なくする。 この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られたりするのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。 1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、段差に躓き転倒、そこに通った路面電車に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に入院先の病院で死去(満73歳没)。遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬されている。終生独身であった。 彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、ガウディは自然の中に最高の形があると信じていた。その背景には幼い頃、バルセロナ郊外の村で過ごし、道端の草花や小さな生き物たちと触れ合った体験から来ている。 ガウディの自然への賛美が最も顕著に表れた作品が、コロニア・グエル教会地下聖堂のガウディ設計部分である。傾斜した柱や壁、荒削りの石、更に光と影の目くるめく色彩が作り出す洞窟の様な空間になっている。この柱と壁の傾斜を設計するのに数字や方程式を一切使わず、ガウディは10年の歳月をかけて実験をした。その実験装置が「逆さ吊り模型」で紐と重りだけとなっている。網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然で丈夫な構造形態だとガウディは考えた。建設中に建物が崩れるのではないかと疑う職人達に対して、自ら足場を取り除き、構造の安全を証明した(これは力学的に全くの正解であった。まさしく力学的に安定である為、今日広く使われているカテナリー曲線そのものである)。 ガウディは、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。彼の模型や設計図といった資料はスペイン内戦で多くが焼失したが、焼失を免れた数少ない資料を手がかりに、現在のサグラダ・ファミリアの工事は進められている。 キリスト教の信仰 もともとはそれほど熱心なカトリック教徒ではなかったガウディだが、サグラダ・ファミリアの建築に携わるようになって以降、キリスト教への信仰を深めるようになったと考えられる。1894年には四旬節を契機に断食を行なったとされる。また晩年には教会へ行くのが日課となり、禁欲主義から食事も菜食主義や粗食となり、これによる足腰の老化が死に繋がったとも考えられている。 カタルーニャ人として ガウディが建築家として活躍した19世紀末頃は19世紀前半に起こったラ・レッナシェンサ(カタルーニャ復興運動)が盛んな時期であった。ガウディ自身も晩年に近づくにつれて熱烈なカタルーニャ主義者となり、国王アルフォンソ十三世がサグラダ・ファミリアを訪れた際にもカタルーニャ語で話したと言われている。また1924年9月には警察官からの質問に対してカタルーニャ語での返答を押し通した、4時間勾留される事件も起きている。 自身の建築物の中にカタルーニャ文化を組み込むこともあり、カザ・ミラ3階の一住戸にある子ども部屋の天井には花々の中に "O, Mariano te sapiga greu o ser petita tambe ho son les flors y son les treller"というカタルーニャ語の文章が刻まれている。
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1878年4月に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築高等技術学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、Elies Rogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる。 同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした。この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル(エウゼビ・グエイ)であった。グエルは、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。1883年にはサグラダ・ファミリアの専任建築家に推薦される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "太字で示したものは、アントニ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過ごした。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのエウゼビ・グエイが死去した。またガウディ自身も1911年(当時59歳)にマルタ熱病に罹り、プッチセルダーで療養を余儀なくする。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られたりするのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": 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アントニ・ガウディは、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)・グエル公園・カサ・ミラをはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群として1984年ユネスコの世界遺産に登録されている。 スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ。
{{スペイン語圏の姓名|ガウディ|コルネー}} {{Infobox 建築家 |image = Antoni Gaudi 1878.jpg |image_size = |caption = ガウディ、1878年(ポー・オードゥアール撮影) |name = アントニ・ガウディ |nationality = {{SPA}} |birth_date = {{生年月日と年齢|1852|6|25|no}} |birth_place = {{SPA}}, [[カタロニア]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1852|6|25|1926|6|10}} |death_place = {{SPA}}, [[カタロニア]], [[バルセロナ]] |alma_mater = [[カタルーニャ工科大学|バルセロナ建築高等技術学校]] |practice_name = |significant_buildings = [[サグラダ・ファミリア]] |significant_projects = |significant_design = |awards = }} '''アントニ・ガウディ'''([[カタルーニャ語]] :'''Antoni Gaudí i Cornet''' [ənˈtoni gəu̯ˈði i kuɾˈnɛt]、洗礼名:'''Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet'''、[[1852年]][[6月25日]] - [[1926年]][[6月10日]])は、[[スペイン]]、[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]出身の[[建築家]]。[[19世紀]]から20世紀にかけての[[モデルニスモ]]([[アール・ヌーヴォー]])期の[[バルセロナ]]を中心に活動した。[[サグラダ・ファミリア]](聖家族教会)・[[グエル公園]](1900 - 1914年)・[[カサ・ミラ]](1906 - 1910年)をはじめとしたその作品は[[アントニ・ガウディの作品群]]として1984年[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。 [[スペイン語]](カスティーリャ語)表記では、'''アントニオ・ガウディ'''(Antonio Gaudí y Cornet、Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)。 == 生涯 == === 誕生 === アントニは、1852年6月25日午前9時半<ref>ファン・バセゴダ・ノネル『ガウディ』美術公論社、1992年、p. 25.</ref>、[[カタルーニャ州|カタルーニャ地方]]のタラゴナ県に、父フランセスク・ガウディ・イ・セラと母アントニア・クルネット<ref>カスティーリャ語式の発音に準じたコルネットの表記もある。</ref>・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。 ガウディの出生地とされる場所には、[[レウス]]とその近郊の村リウドムス([[:en:Riudoms|Riudoms]])の2箇所がある。レウス説は、洗礼を受けた[[ペドロ|聖ペラ]]教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ([[:ca:Mas de la Calderera|Mas de la Calderera]])で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている<ref>バセゴダ、pp. 22-29.</ref>。 ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ地方]]からリウドムスへやってきた。リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る[[銅細工師]]であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた<ref>ロベール・デシャルヌ、クロヴィス・プレヴォー『ガウディ――芸術的・宗教的ヴィジョン』鹿島出版会、1993年、p. 18.</ref>。 === 幼少時代 === 一家は母アントニアの出身地であるレウスで暮らした。ガウディはラファエル・パラウの小学校に入学、その後、フランセスク・バランゲー(フランシスコ・ベレンゲール)の学校に移った<ref>ファン・ヘンスベルヘン『伝記ガウディ』文藝春秋、2003年、p. 28.</ref>。バランゲーには同じ名前をもつ息子がおり、のちにガウディの助手となる。 ガウディは6歳になるまでに[[リウマチ]]にかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる<ref name=":1">[[鳥居徳敏]]『アントニオ・ガウディ』SD選書197、鹿島出版会、1985年、pp. 48-50.</ref>。後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である<ref>[[入江正之]]『ガウディの言葉』彰国社、1991年、p. 116。</ref>」と語っている。 1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会([[:en:Piarists|Piarists]])の学校に入学する。この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。トダの回想によれば、3人が発行した雑誌『エル・アルレキン』(「[[アルレッキーノ]]」の意)でガウディは挿絵を担当し、学校演劇の際には大道具や小道具を制作した。当時のガウディの絵にはレウス出身でイタリアで活躍した画家[[マリアノ・フォルトゥーニ]]の影響が指摘されている<ref>ファン・ヘンスベルヘン、pp. 42-43.</ref>。 ガウディ、トダ、リベラの3人はレウスに近い[[タラゴナ]]のローマ遺跡や[[ポブレー修道院]]への小旅行もしてい。特に当時、廃墟となっていたポブレー修道院については、トダが中心になって作った修復計画が立てられ、水彩で描かれた概略図が残っている。ポブレー修道院へガウディたちが足を運んだ時期については、1867年と1869年の2つの説がある。修復計画においてガウディが設計を担当したとも言われるが、実際にはトダが大半の作業を行ない、ガウディはそれに賛意を示したものと考えられている<ref>中山公男「略伝――人と作品」、中山・磯崎・粟津編『ガウディ全作品1 芸術と建築』六耀社、1984年、pp. 424-425.後年、外交官としてアフリカやアジアを訪れ、エジプト学にもかかわったトダは、実際にポブレー修道院の再建に取り組んだ。Wikipediaスペイン語版、[[:es:Eduardo Toda|Eduardo Toda y Güell]]を参照。</ref>。 <gallery widths="150px" heights="150px"> 画像:Tarragone amphithéatre romain.JPG|<center><small>[[タラゴナ]]のローマ遺跡([[世界遺産]])と[[地中海]]</small> 画像:Poblet Monastery.jpg|<center><small>[[ポブレー修道院]](世界遺産)</small> </gallery> === 学生時代 === 1873年から1877年の間、ガウディは[[カタルーニャ工科大学|バルセロナ建築高等技術学校]]で[[建築]]を学んだ<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=ガウディの建築|year=1987|publisher=鹿島出版会|page=|author=鳥居徳敏|pages=200,205,208}}</ref>。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、[[ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク|ヴィオレ・ル・デュク]]の建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。また、学業と並行していくつかの[[建築設計事務所]]で働き、バルセロナの[[シウタデラ公園]]の装飾や[[モンセラート]]の修道院の装飾にもかかわった。 === 建築家 === ガウディの処女作は未完のものも含めると1867年ごろの産業コロニアだといわれている。この仕事でマタロ協同組合の教師ペピタと知り合った。これが初恋であった。しかし、成婚に至らず、その後一生独身であった<ref>岡部明子『バルセロナ』中央公論新社 《中公新書 2071》 2010年 84ページ</ref>。 1878年4月に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築高等技術学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、[[:es:Elies Rogent|Elies Rogent]])は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる<ref>{{Cite web |last= Capilla |first= Antoni |year = 2005 |month = June |url= http://www.rutadelmodernisme.com/default.aspx?idioma=ca&contenido=body_rutamodernisme_01l.htm |title= Ruta del Modernisme de Barcelona |work= Ruta del Modernisme |publisher= Institut Municipal del Paisatge Urbà i la Qualitat de Vida (IMPUiQV), Ajuntament de Barcelona |language= カタルーニャ語 |accessdate=2007年10月19日 }}もっとも、この逸話は信憑性に欠ける伝説とする意見もある。''cf.'' 鳥居、p. 75。</ref>。 同年、ガウディは[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした。この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル([[エウゼビ・グエイ]])であった。グエルは、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。1883年にはサグラダ・ファミリアの専任建築家に推薦される。 <gallery widths="150px" heights="150px"> 画像:ParcdelaCiutadella Lion.jpg|<center><small>シウタデラ公園欄干の装飾</small> 画像:Montserrat Monestry.JPG|<center><small>モンセラート修道院</small> </gallery> === 前半生の主な作品 === <small>'''太字'''で示したものは、[[アントニ・ガウディの作品群]]として[[世界遺産]]に登録されている。</small> {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 年 !! 名称 !! 所在地 !! 備考 |- |1878-79 |レイアル広場の街灯 |[[バルセロナ]] | |- |1878 |手袋屋のショーケース |パリ |現存せず |- |1878-82 |マタロの労働組合本部 |[[マタロー]] |ごく一部で初めて木材を用いた放物線状のデザインを表現(ガウディの放物線アーチ第1号、紡績工場の漂白棟のみ現存)。 |- |1879 |ジベール薬局の装飾 |バルセロナ | |- |1882 |ガラーフの狩猟小屋パビリオン計画 | | |- |1883- |'''[[サグラダ・ファミリア]]''' |バルセロナ | |- |1883-89 |'''[[カサ・ビセンス]]''' |バルセロナ |一人前の建築家となって最初の作品、レンガと多彩タイルからなる造形 |- |1883-85 | '''[http://gaudi-architectural-work.com/building/el-capricho.html エル・カプリーチョ]''' |コミージャス |第1期、中世のお城にアラブ建築の異国情緒を混ぜたような傾向の建築 |- |1884 |'''[[グエル別邸]]'''のパビリオンと厩舎 |バルセロナ | |- |1886-89 |'''{{日本語版にない記事リンク|グエル邸|en|Palau_Güell}}''' |バルセロナ | |- |1887-93 |'''[[アストルガ司教館]]''' |[[アストルガ]] | |- |1889-94 |'''サンタ・テレサ学院''' |バルセロナ | |- |1891-92 | '''[[カサ・ボティネス]]''' |レオン | |- |1898-1900 |'''カサ・カルベット''' |バルセロナ | |- |1898-1914 |'''[[コロニア・グエル教会]]地下聖堂''' |サンタ ・コロマ・ダ・サルバジョ |未完、コロニア・グエルにある小会堂で、グエルがそこの労働者たちのために建てた宗教施設。 |- |1900-14 |'''[[グエル公園]]''' |バルセロナ |第2期、独自の造形表現の境地に達する。 |- |1901 |ボデーガ・デ・ガラーフ |[[シッチェス]] | |- |1902 |ミラーリェス別邸の門と塀 |バルセロナ | |- |1904-06 |'''[[カサ・バトリョ]]''' |バルセロナ | |- |1905-07 |'''[[カサ・ミラ]]''' |バルセロナ |「石切り場」のあだ名がある。 |- |1909 |サグラダ・ファミリア付属学校 |バルセロナ |第3期 |- |1909 |ベリェスグアルド(フィゲーラス邸) |バルセロナ | |- |1914 |[[パルマ大聖堂 (スペイン)|パルマ大聖堂]]の修復 |[[パルマ・デ・マヨルカ]] | |} <gallery widths="150px" heights="150px"> File:Fanals - 001.jpg|<small><center>レイアル広場の街灯</small> File:Casavicens.jpg|<small><center>カサ・ビセンス</small> File:Capricho gaudi.jpg|<small><center>エル・カプリッチョ</small> File:Palacio episcopal de Astorga.JPG|<small><center>[[アストルガ司教館]]</small> File:Casa Botines.jpg|<small><center>[[カサ・ボティネス]]</small> File:Casa Calvet.jpg|<small><center>カサ・カルベット</small> File:Cripta de la Colònia Güell (Santa Coloma de Cervelló) - 6.jpg|<small><center>コロニア・グエル教会地下聖堂</small> 画像:Parcguell.jpg|<small><center>[[グエル公園]]</small> File:Garraf - Celler Güell.jpg|<small><center>ボデーガ・デ・ガラーフ</small> 画像:Casabatllo2.jpg|<small><center>[[カサ・バトリョ]]</small> File:Casa Milà - Barcelona, Spain - Jan 2007.jpg|<small><center>[[カサ・ミラ]]</small> File:BellesguardI.JPG|<small><center>ベリェスグアルド<br />(フィゲーラス邸)</small> </gallery> === 後半生 === [[File:Gaudí (1910).jpg|thumb|150px|1910年]] [[File:Gaudí en procesión Corpus Christi.jpg|150px|thumb|[[聖体の祝日]]で「聖体の行列」に並ぶ晩年のガウディ(1924年)]] ガウディは後半生を熱心な[[カトリック教会|カトリック]]教徒として過ごした。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、[[サグラダ・ファミリア]]の建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンの[[エウゼビ・グエイ]]が死去した。またガウディ自身も1911年(当時59歳)に[[ブルセラ症|マルタ熱病]]に罹り、[[プッチサルダー|プッチセルダー]]で療養を余儀なくする<ref name=":0" />。 この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られたりするのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。 <gallery widths="150px" heights="150px"> File:Sagradafamilia-overview.jpg|<small><center>[[サグラダ・ファミリア]]</small> 画像:Arbeitsraum Gaudi.jpg|<center><small>サグラダ・ファミリアのガウディのアトリエ(再現)</small> </gallery> === 後半生の主な作品 === *ブラーネス教会の説教台(1912年) *モンセラット「栄光の第一秘蹟」(1916年) *バレンシア教会の説教台(1924年) [[File:Funeral Gaudí.jpg|thumb|葬式 (1926年)]] === 死 === 1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、段差に躓き転倒、そこに通った[[路面電車]]に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、[[浮浪者]]と間違われて手当てが遅れ、事故の3日後に入院先の病院で死去(満73歳没)。遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬されている<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 224 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>。終生独身であった。 == 設計手法 == 彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、ガウディは自然の中に最高の形があると信じていた。その背景には幼い頃、[[バルセロナ]]郊外の村で過ごし、道端の草花や小さな生き物たちと触れ合った体験から来ている。 ガウディの自然への賛美が最も顕著に表れた作品が、[[コロニア・グエル教会]]地下聖堂のガウディ設計部分である。傾斜した柱や壁、荒削りの石、更に光と影の目くるめく色彩が作り出す洞窟の様な空間になっている。この柱と壁の傾斜を設計するのに数字や[[方程式]]を一切使わず、ガウディは10年の歳月をかけて実験をした。その実験装置が「逆さ吊り模型」で紐と重りだけとなっている。網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然で丈夫な構造形態だとガウディは考えた。建設中に建物が崩れるのではないかと疑う職人達に対して、自ら足場を取り除き、構造の安全を証明した(これは力学的に全くの正解であった。まさしく力学的に安定である為、今日広く使われている[[カテナリー曲線]]そのものである)。 ガウディは、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。彼の模型や設計図といった資料は[[スペイン内戦]]で多くが焼失した<ref>外尾悦郎『ガウディの伝言』光文社新書、2006年、pp. 33-34.</ref>が、焼失を免れた数少ない資料を手がかりに、現在のサグラダ・ファミリアの工事は進められている。 == 信仰と思想 == '''キリスト教の信仰''' もともとはそれほど熱心なカトリック教徒ではなかったガウディだが、サグラダ・ファミリアの建築に携わるようになって以降、キリスト教への信仰を深めるようになったと考えられる。1894年には四旬節を契機に断食を行なったとされる。また晩年には教会へ行くのが日課となり、禁欲主義から食事も菜食主義や粗食となり、これによる足腰の老化が死に繋がったとも考えられている<ref name=":1" />。 '''カタルーニャ人として''' ガウディが建築家として活躍した19世紀末頃は19世紀前半に起こった[[ラナシェンサ|ラ・レッナシェンサ]](カタルーニャ復興運動)が盛んな時期であった。ガウディ自身も晩年に近づくにつれて熱烈なカタルーニャ主義者となり、[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|国王アルフォンソ十三世]]がサグラダ・ファミリアを訪れた際にもカタルーニャ語で話したと言われている<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|和書|title=物語 カタルーニャの歴史|year=2019|publisher=中央公論新社|page=216|author=田澤耕}}</ref>。また1924年9月には警察官からの質問に対してカタルーニャ語での返答を押し通した、4時間勾留される事件も起きている<ref name=":0" />。 自身の建築物の中にカタルーニャ文化を組み込むこともあり、カザ・ミラ3階の一住戸にある子ども部屋の天井には花々の中に "O, Mariano te sapiga greu o ser petita tambe ho son les flors y son les treller"というカタルーニャ語の文章が刻まれている<ref>{{Cite book|和書|title=ガウディ 地中海が生んだ天才建築家|year=2007|publisher=河出書房新社|page=69|author=入江正之}}</ref>。 == 評価 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2023年12月10日 (日) 07:14 (UTC)|section=1}} * [[ジョージ・オーウェル]]は『[[カタロニア讃歌]]』でサグラダ・ファミリアを酷評している<ref>{{Cite book|和書|title=カタロニア賛歌|year=1992|publisher=岩波書店|pages=250-251|author=ジョージ・オーウェル|authorlink=ジョージ・オーウェル|translator=[[都築忠七]]}}</ref>。 * [[サルバドール・ダリ]] * [[ル・コルビュジエ]] * [[列福]] == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 参考文献 == * [[丹下敏明]]『ガウディの生涯』彰国社、1978年 * [[中山公男]]・[[磯崎新]]・[[粟津潔]]編『ガウディ全作品1 芸術と建築』六耀社、1984年 * 中山公男・磯崎新・粟津潔編『ガウディ全作品2 解説と資料』六耀社、1984年 * [[鳥居徳敏]]『アントニオ・ガウディ』[[SD選書]]197、鹿島出版会、1985年 ISBN 4-306-05197-8 * [[田中裕也]]『ガウディの建築実測図面集』彰国社、1986年 * 鳥居徳敏『ガウディの建築』鹿島出版会、1987年 ISBN 4-306-04214-6 * 田中裕也『アントニオ・ガウディとその師弟たち』SD、88-09、鹿島出版会、1988年 * サビエル・グエル([[入江正之]]訳)『ガウディの世界』彰国社、1988年 ISBN 4-395-05080-8 * 入江正之『ガウディの言葉』彰国社、1991年 ISBN 4-395-00315-X * [[赤地経夫]]・[[田澤耕]]『ガウディ建築入門』とんぼの本、新潮社、1992年 ISBN 4-10-602001-7 * {{仮リンク|ファン・バセゴダ・ノネル|es|Juan Bassegoda}}([[岡村多佳夫]]訳)『ガウディ』美術公論社、1992年 ISBN 4-89330-119-5 * ロベール・デシャルヌ、クロヴィス・プレヴォー(池原義郎・菅谷孝子・上松佑二ほか訳)『ガウディ――芸術的・宗教的ヴィジョン』鹿島出版会、1993年 ISBN 4-306-04302-9 * 田中裕也『ガウディの独り言』京都書院、1998年 * {{仮リンク|ヘイス・ファン・ヘンスベルヘン|es|Gijs Van Hensbergen}}(野中邦子訳)『伝記ガウディ』文藝春秋、2003年 ISBN 4-16-359490-6 * [[外尾悦郎]]『ガウディの伝言』光文社新書、2006年 ISBN 4-334-03364-4 * [[磯崎新]]『気になるガウディ』新潮社、2012年ISBN 978-4-10-602234-0 * 田中裕也『実測図で読むガウディの建築』彰国社、1912年 * 田中裕也『ガウディ・コード、ドラゴンの瞳』長崎出版、2103年 ISBN 978-4-86095-566-3 == 外部リンク == {{Commons|Antoni Placid Gaudí i Cornet}} * [https://www.reusturisme.cat/ciutat-de-gaudi/ruta-gaudi ガウディの生い立ち] - レウス・{{仮リンク|ガウディセンター|en|Gaudí Centre|ca|Gaudí Centre}} * {{Bijutsutecho artists|268}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かうてい あんとに}} [[Category:19世紀スペインの建築家]] [[Category:20世紀スペインの建築家]] [[Category:カタルーニャの建築家]] [[Category:モデルニスモの建築家]] [[Category:アントニ・ガウディ|*]] [[Category:鉄道事故死した人物]] [[Category:菜食主義者]] [[Category:レウス出身の人物]] [[Category:1852年生]] [[Category:1926年没]]
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ル・コルビュジエ
ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)は、スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ(Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。 モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に、近代建築の三大巨匠として位置づけられる場合もある(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。 ル・コルビュジエは1887年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンに時計の文字盤職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。彼はフレーベル方式を採用した幼稚園に通った。家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、専門的な大学教育は受けていない。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった。 美術学校在学中の1907年に、ル・コルビュジエの才能を見いだした校長のシャルル・レプラトニエの勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。 1911年から半年かけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表。1917年にパリへ行き、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤めた。1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデエ・オザンファンと共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊。この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた(このペンネームは、祖先の名からつけたものである。)。 1922年に、ペレの下で働いていた従弟のピエール・ジャンヌレと共に事務所を構えた。1923年に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。 1925年のパリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、アール・デコ装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放った。また1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を超高層ビルで建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして1930年には『輝く都市』を発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、パリでは実現しなかったが、以降の都市計画の考え方に影響を与えた。1927年、ミース・ファン・デル・ローエが中心となり、ヴァイセンホーフで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展(ヴァイセンホーフ・ジードルング)に参加し、2棟の住宅を設計した。 1928年以降に開催されたCIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)では、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ジークフリート・ギーディオン、ガブリエル・ゲヴレキアンらとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。1930年にはイヴォンヌ・ガリと結婚し、また同年フランス国籍を取得した。1931年竣工の『サヴォア邸』はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を典型的に示し、代表作として知られる。1932年にソ連で行われたソビエト宮殿のコンペに応募して敗退したものの、その斬新さは注目を浴び、丹下健三が建築家を志すきっかけにもなっている。1936年にはルシオ・コスタの招聘を受け、ブラジルに滞在し、オスカー・ニーマイヤーと共に旧教育保健省庁舎の設計に携わった。ル・コルビュジエはドイツに協力的なヴィシー政権に与し、ピエール・ジャンヌレはフランスのレジスタンス運動に参加したため、2人は袂を分かつことになったが、戦後再び、チャンディーガルのプロジェクトで協働した。近代建築運動に肯定的なイタリア・ファシスト政権にも接近を試みており、同国が植民地化したエチオピアでの都市建設に参画しようとしたが失敗している。 第二次世界大戦後、かねてよりの主張の実践である「ドミノシステム」に基づく集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(L'unité d'habitation de Marseille)を建設(1947年-1952年)。また1951年からはインド首相であるジャワハルラール・ネルーの依頼を受け、インドに新都市チャンディーガルを建設する際の顧問として都市計画および主要建築物(議会・裁判所・行政庁舎など)の設計に携わった。また、「モデュロール(仏:Modulor)」の理論を提案し、建築の実践の場において機能性あるいは美学の達成への応用とした。 後期の代表作『ロンシャンの礼拝堂』(1955年竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、シェル構造の採用など鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた近代建築の指標である機能性・合理性を超える新たな表現に達した。ドミニコ会派のカトリック信者であるル・コルビュジエは、引き続き『ラ・トゥーレット修道院』の設計についても依頼を受けた(1960年竣工)。この間に『国立西洋美術館』の基本設計のため、1955年に一度来日している。1960年には自らの仕事の記録を公的に保管することを構想し、1962年にはフランス文化相のアンドレ・マルローにこれを認めさせた。1961年にはAIAゴールドメダル、1964年にはレジオンドヌール勲章を相次いで受賞した。 1965年8月27日、南フランスのロクブリュヌ=カップ=マルタンで海水浴中に心臓発作で死去した。78歳没。 画家から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた。 1997年4月から発行されている、第8次紙幣の10スイス・フランにはル・コルビュジエの肖像と作品が描かれていた。 歴史上の功績は、鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を信条としたモダニズム建築の提唱者ということになる。ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、1920年代の近代主義建築の成立過程において建設技術の進歩にも支えられて、とくに造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法はモダニズムの一つの規範ともなり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めた(その反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張された)。 西洋では組積造(石積み・レンガ積み)による建築が伝統的だったが、ル・コルビュジエはスラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案した。その後の代表作『サヴォア邸』は、ル・コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサード)」(近代建築の五原則)を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。 都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、CIAM 第4回会議でル・コルビュジエらが提案したアテネ憲章(1933年)は、公開空地など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後にはチャンディーガルなどで実践している。終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない。晩年のロンシャンの礼拝堂(ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築を超えた作品として注目される。ル・コルビュジエの建築模型や図面、家具は、20点以上がニューヨーク近代美術館に収蔵されている。ル・コルビュジエの代表作であるLC2 Grand Confort(大いなる快適)は、デザイン家具の歴史上、大きな功績を残した作品である。 ル・コルビュジエの建築のうち、ドイツのヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅、アルゼンチンのクルチェット邸、ベルギーのギエット邸、フランスのラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸、ペサックの集合住宅、サヴォア邸、ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート、ユニテ・ダビタシオン、サン・ディエ工場、ロンシャンの礼拝堂、カップ・マルタンの小屋、ラ・トゥーレット修道院、フィルミニのレクリエーション・センター、インドのチャンディーガル、日本の国立西洋美術館、そしてスイスのレマン湖畔の小さな家およびイムーブル・クラルテの計7か国17件は、2016年に開催された第40回世界遺産委員会においてル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-として世界遺産に登録された。 生前ル・コルビュジエが構想し設立を認めさせていた彼の仕事の保管・管理機構は、ル・コルビュジエ財団として死後の1968年に設立され、彼の作品のひとつであるパリのジャンヌレ邸(ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸の片方)に本拠を置いて彼の作品の管理や保護を行っている。 Le Corbusierがめずらしい名前のせいもあり、誤記もふくめさまざまな表記が見られる。「ル」を付けない表記が多く見られるほか、「コルビュジエ」の部分についても、コルビュジェ、コルブジェ、コルブジエ、コルビジエ、コルビジェ、コルビュゼ、コルビジュ、コルビュジュなどがある。フランス語の発音は[lə kɔʁbyzje]であるため、これにもっとも近い転写をするなら「ル・コルビュズィエ」となる。 ル・コルビュジエは多くの都市計画を立案しこの分野に大きな影響を与えたものの、ほとんどが計画の段階にとどまり、実現したものは1951年にインド北部に建設された新興都市チャンディーガルの都市計画のみである。ル・コルビュジエの立案した都市計画には以下のようなものがある。 三人の日本人弟子の存在については、国内でも一般にはあまり知られていない。
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ル・コルビュジエは、スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ。 モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に、近代建築の三大巨匠として位置づけられる場合もある(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。
{{Infobox 建築家 |image = Le Corbusier (1964).jpg |image_size = |caption = 1964年撮影 |name = ル・コルビュジエ |nationality = {{SUI}} / {{FRA}} |birth_date = [[1887年]][[10月6日]] |birth_place = スイス、[[ラ・ショー=ド=フォン]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1887|10|6|1965|8|27}} |death_place = [[フランス]]、[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン]] |alma_mater = |practice_name = |significant_buildings= [[サヴォア邸]]<br>[[ロンシャンの礼拝堂]]<br>[[ラ・トゥーレット修道院]] |significant_projects = [[チャンディーガル]]都市計画<br>[[輝く都市]] |significant_design = |awards = [[AIAゴールドメダル]]([[1961年]])<br>[[レジオンドヌール勲章]]([[1964年]]) }} '''ル・コルビュジエ'''('''Le Corbusier<ref group="注">発音およびカタカナ表記の揺れは[[#名前の表記|名前の表記]]を参照。</ref>'''、[[1887年]][[10月6日]] - [[1965年]][[8月27日]])は、[[スイス]]で生まれ、[[フランス]]で主に活躍した[[建築家]]。本名は'''シャルル=エドゥアール・ジャヌレ<ref group="注">ジャンヌレとも表記される。</ref>=グリ'''(Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。 [[モダニズム建築]]の巨匠といわれ<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20150726-ULETNVXSNFOLNEQ5TBVSE32634/|title=「オスカー・ニーマイヤー展」 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{{ISBN|2-7061-0325-6}}</ref>。家業を継ぐために[[時計職人]]を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、専門的な大学教育は受けていない。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p15 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。 美術学校在学中の[[1907年]]に、ル・コルビュジエの才能を見いだした校長の[[シャルル・レプラトニエ]]の勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。[[1908年]]に[[パリ]]へ行き、[[鉄筋コンクリート]]建築の先駆者である[[オーギュスト・ペレ]]の事務所に、[[1910年]]には[[ドイツ工作連盟]]の中心人物であった[[ペーター・ベーレンス]]の事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。 [[1911年]]から半年かけて[[ベルリン]]から[[東ヨーロッパ|東欧]]、[[トルコ]]、[[ギリシャ]]、[[イタリア]]を巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執った後、[[1914年]]に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表。[[1917年]]にパリへ行き、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤めた。[[1920年]]に[[ダダイスム|ダダ]]の詩人のポール・デルメ、[[ピュリスム]]の画家の[[アメデエ・オザンファン]]と共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊。この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた(このペンネームは、祖先の名からつけたものである。)<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p22 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。 [[1922年]]に、ペレの下で働いていた従弟の[[ピエール・ジャンヌレ]]と共に事務所を構えた<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p24 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。[[1923年]]に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『[[建築をめざして]]』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。 [[ファイル:Weissenhof Corbusier 03.jpg|thumb|right|[[ヴァイセンホーフ・ジードルング]]の住宅]] [[1925年]]の[[パリ万国博覧会 (1925年)|パリ万国博覧会]](いわゆるアールデコ博)では装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、[[アール・デコ]]装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放った。また1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を[[超高層ビル]]で建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして[[1930年]]には『[[輝く都市]]』を発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、パリでは実現しなかったが、以降の[[都市計画]]の考え方に影響を与えた。[[1927年]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]が中心となり、ヴァイセンホーフで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展([[ヴァイセンホーフ・ジードルング]])に参加し、2棟の住宅を設計した。 [[ファイル:サヴォア邸.jpg|thumb|right|[[サヴォア邸]]]] [[1928年]]以降に開催された[[CIAM]]([[:en:Congrès International d'Architecture Moderne|Congrès International d'Architecture Moderne]]、シアム、近代建築国際会議)では、[[ヴァルター・グロピウス]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[ジークフリート・ギーディオン]]、[[ガブリエル・ゲヴレキアン]]らとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。[[1930年]]にはイヴォンヌ・ガリと結婚し<ref name="kuresawa_p27">暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p27 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>、また同年フランス国籍を取得した<ref name="kuresawa_p27" /><ref>Renat Kuenzi 「[https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%87%E3%82%8B%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AE%B6_%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E5%B7%A8%E5%8C%A0%E3%83%AB-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8-%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%A7%E6%B2%A1%E5%BE%8C%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4/41625134 現代建築の巨匠ル・コルビュジエ、今年で没後50周年]」 2015-08-27、swissinfo.com、2017年4月26日閲覧</ref>。[[1931年]]竣工の『[[サヴォア邸]]』はル・コルビュジエの主張する「[[近代建築の五原則]]」を典型的に示し、代表作として知られる。[[1932年]]にソ連で行われた[[ソビエト宮殿]]のコンペに応募して敗退したものの、その斬新さは注目を浴び、[[丹下健三]]が建築家を志すきっかけにもなっている<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p28 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。[[1936年]]には[[ルシオ・コスタ]]の招聘を受け、ブラジルに滞在し、[[オスカー・ニーマイヤー]]と共に旧教育保健省庁舎の設計に携わった。ル・コルビュジエはドイツに協力的な[[ヴィシー政権]]に与し、ピエール・ジャンヌレはフランスの[[レジスタンス運動]]に参加したため、2人は袂を分かつことになったが、戦後再び、チャンディーガルのプロジェクトで協働した。近代建築運動に肯定的なイタリア・[[ファシスト党|ファシスト政権]]にも接近を試みており、同国が植民地化した[[エチオピア]]での都市建設に参画しようとしたが失敗している。 [[第二次世界大戦]]後、かねてよりの主張の実践である「ドミノシステム」に基づく集合住宅『マルセイユの[[ユニテ・ダビタシオン]]』(L'unité d'habitation de Marseille)を建設([[1947年]]-[[1952年]])<!---ユニテはフランス語で「単位」と「統一」という二重の意味を持ち、--->。また[[1951年]]からはインド首相であるジャワハルラール・ネルーの依頼を受け、インドに新都市[[チャンディーガル]]を建設する際の顧問として都市計画および主要建築物(議会・裁判所・行政庁舎など)の設計に携わった<ref>『インドの現代建築』p592 飯田寿一(「インド文化事典」所収)インド文化事典製作委員会編 丸善出版 平成30年1月30日発行</ref>。また、「[[モデュロール]](仏:Modulor)」の理論を提案し、建築の実践の場において機能性あるいは美学の達成への応用とした。 後期の代表作『[[ロンシャンの礼拝堂]]』([[1955年]]竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、[[シェル構造]]の採用など鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた近代建築の指標である機能性・合理性を超える新たな表現に達した。[[ドミニコ会]]派の[[カトリック]]信者であるル・コルビュジエは、引き続き『[[ラ・トゥーレット修道院]]』の設計についても依頼を受けた(1960年竣工)。この間に『[[国立西洋美術館]]』の基本設計のため、1955年に一度来日している<ref>「巨匠ル・コルビュジエ、最初で最後の来日」(昔の新聞探検隊)有山佑美子 朝日新聞デジタル 2016年9月7日 2017年3月21日閲覧</ref><ref>「西洋美術館 コルビュジエ作風顕著 世界遺産へ」2016年5月17日 毎日新聞 2017年3月21日閲覧</ref>。[[1960年]]には自らの仕事の記録を公的に保管することを構想し、[[1962年]]にはフランス文化相の[[アンドレ・マルロー]]にこれを認めさせた<ref>「ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ」p166 南明日香 王国社 2011年6月20日初版発行</ref>。[[1961年]]には[[AIAゴールドメダル]]、[[1964年]]には[[レジオンドヌール勲章]]を相次いで受賞した。 [[1965年]]8月27日、南フランスの[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン]]で[[海水浴]]中に[[心臓発作]]で死去した<ref>「ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ」p77 南明日香 王国社 2011年6月20日初版発行</ref>。78歳没。 *業績 [[画家]]から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p71 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。 [[ファイル:CHF10 8 front.jpg|thumb|right|upright|10[[スイス・フラン]]札に描かれているル・コルビュジエの肖像画]] [[1997年]]4月から発行されている、第8次紙幣の10[[スイス・フラン]]にはル・コルビュジエの肖像と作品が描かれていた<ref>「[https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%A6%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E9%81%BA%E7%94%A3_%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%AB-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8%E3%81%AE-%E9%81%A0%E3%81%84-%E9%96%A2%E4%BF%82/42306388 スイスとル・コルビュジエの「遠い」関係]」、2016-07-18、swissinfo.com、2017年4月26日閲覧</ref>。 歴史上の功績は、[[鉄筋コンクリート]]を利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を信条とした[[モダニズム建築]]の提唱者ということになる。ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、[[1920年代]]の近代主義建築の成立過程において建設技術の進歩にも支えられて、とくに造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は[[モダニズム]]の一つの規範ともなり、世界に広がって[[1960年代]]に一つのピークを極めた(その反動から[[1980年代]]には装飾過多、伝統回帰的な[[ポストモダン建築]]も主張された)。 西洋では[[組積造]]([[石積み]]・[[煉瓦#煉瓦建築|レンガ積み]])による建築が伝統的だったが、ル・コルビュジエは[[床スラブ|スラブ]]、[[柱]]、[[階段]]のみが建築の主要要素だとする'''ドミノシステム'''を考案した<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p42 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。その後の代表作『[[サヴォア邸]]』は、ル・コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点([[ピロティ]]、[[屋上庭園]]、自由な平面、水平連続窓、自由なファサード)」([[近代建築の五原則]])を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。 都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、[[CIAM]] 第4回会議でル・コルビュジエらが提案した[[アテネ憲章]]([[1933年]])は、[[公開空地]]など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後には[[チャンディーガル]]などで実践している。終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない。晩年の[[ロンシャンの礼拝堂]](ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築を超えた作品として注目される。ル・コルビュジエの建築模型や図面、家具は、20点以上が[[ニューヨーク近代美術館]]に収蔵されている。ル・コルビュジエの代表作であるLC2 Grand Confort(大いなる快適)は、デザイン家具の歴史上、大きな功績を残した作品である。 ル・コルビュジエの建築のうち、[[ドイツ]]のヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅、[[アルゼンチン]]のクルチェット邸、[[ベルギー]]のギエット邸、[[フランス]]のラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸、ペサックの集合住宅、[[サヴォア邸]]、ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート、[[ユニテ・ダビタシオン]]、サン・ディエ工場、[[ロンシャンの礼拝堂]]、カップ・マルタンの小屋、ラ・トゥーレット修道院、[[フィルミニのル・コルビュジエ遺産|フィルミニのレクリエーション・センター]]、[[インド]]の[[チャンディーガル]]、[[日本]]の[[国立西洋美術館]]、そして[[スイス]]のレマン湖畔の小さな家<ref>「[http://www.myswitzerland.com/ja/interests/travelpoints/villa-le-lac.html ヴィラ・ル・ラク(コルビュジエ/湖の家)]」 スイス政府観光局</ref>およびイムーブル・クラルテの計7か国17件は、[[2016年]]に開催された[[第40回世界遺産委員会]]において[[ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-]]として世界遺産に登録された<ref>「巨匠ル・コルビュジエ、最初で最後の来日」(昔の新聞探検隊)有山佑美子、朝日新聞デジタル、2016年9月7日、2017年3月21日閲覧</ref>。 生前ル・コルビュジエが構想し設立を認めさせていた彼の仕事の保管・管理機構は、ル・コルビュジエ財団として死後の1968年に設立され、彼の作品のひとつであるパリのジャンヌレ邸(ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸の片方)に本拠を置いて彼の作品の管理や保護を行っている<ref>「ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ」p166-167 南明日香 王国社 2011年6月20日初版発行</ref>。 *名前の表記 Le Corbusierがめずらしい名前のせいもあり、誤記もふくめさまざまな表記が見られる。「ル」を付けない表記が多く見られるほか、「コルビュジエ」の部分についても、コルビュジェ、コルブジェ、コルブジエ、コルビジエ、コルビジェ、コルビュゼ、コルビジュ、コルビュジュなどがある。フランス語の発音は{{IPA-fr|lə kɔʁbyzje|}}であるため、これにもっとも近い[[転写 (言語学)|転写]]をするなら「ル・コルビュズィエ」となる{{要出典|date=2019年9月}}。 *都市計画・構想 [[File:Plan Voisin model.jpg|thumb|300px|[[パリ万国博覧会 (1925年)]]のレスプリ・ヌーヴォー館で展示されたパリ改造構想「[[ヴォアザン計画]]」(1925年)]] ル・コルビュジエは多くの都市計画を立案しこの分野に大きな影響を与えたものの、ほとんどが計画の段階にとどまり、実現したものは1951年にインド北部に建設された新興都市[[チャンディーガル]]の都市計画のみである。ル・コルビュジエの立案した都市計画には以下のようなものがある。 * 1932年アルジェA計画。工業都市を念頭にロシア構成主義の理論と、ギンズバーグの線状都市理論の影響を受けて計画立案した。 * サンディエ小都市復興計画 * 第6区不良宅地再開発計画ラ・ロッシェルに参画。高層建築群の案でまとめた。 * 北アフリカ・ヌムール * バルセロナ再整備 * ブラジル大学都市 * 小農場ラ・フェルム・ラジエゥーズ * リオデジャネイロ計画 * モンテヴィデオ概略都市 * [[チャンディーガル]] == 建築作品 == [[File:National museum of western art05s3200.jpg|thumb|right|300px|国立西洋美術館、東京(1959年・基本設計)]] [[File:Palace_of_Assembly_Chandigarh_2006.jpg|thumb|right|300px|議事堂、チャンディーガル(1962年)]] {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |- style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称!! 竣工年 !! 所在地 !! 国 !! 備考 |- | [[スティル・サパン#ファレ邸|ファレ邸]]|| [[1907年]] || [[ラ・ショー=ド=フォン]] || {{SWI}} || |- | ジャクメ邸 ||[[1908年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} || |- | ストッツァー邸 ||[[1908年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} || |- | [[ジャンヌレ=ペレ邸|ジャンヌレ邸]]||[[1908年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} || |- | ファーブル=ジャコ邸 ||[[1912年]] || [[ル・ロックル]] || {{SWI}} || |- | シネマ・スカラ ||[[1916年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} || |- | シュウォブ邸 ||[[1917年]] || ラ・ショー=ド=フォン || {{SWI}} || |- | 給水塔 ||[[1917年]] || ポダンサック || {{FRA}} || |- | [[レマン湖畔の小さな家|レマン湖の小さな家]](母の家) ||[[1923年]] || [[ヴヴェイ]]|| {{SWI}} || 世界遺産 |- | [[パリ万国博覧会 (1925年)#エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館|エスプリ・ヌーヴォー館]]||[[1924年]] || パリ || {{FRA}} || [[ボローニャ]]に復元 |- | [[アトリエ・オザンファン]] ||[[1924年]] || パリ || {{FRA}} || |- | ベスヌス邸 ||[[1924年]] || [[ヴォークレソン]] || {{FRA}} || |- | ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸 ||[[1924年]] || パリ || {{FRA}} || 世界遺産 |- | [[ヴォワザン計画]] ||[[1925年]] || パリ || {{FRA}} || 計画案 |- | ペサックの住宅群 ||[[1925年]] || [[ペサック]] || {{FRA}} || 世界遺産 |- | リプチッツ邸 ||[[1925年]] || ブローニュ || {{FRA}} || |- | テルニジン邸 ||[[1926年]] || ブローニュ || {{FRA}} || |- | ミスチャニノフ邸 ||[[1926年]] || ブローニュ || {{FRA}} || |- | 人民の家 ||[[1926年]] || パリ || {{FRA}} || |- | クック邸 ||[[1927年]] || ブローニュ || {{FRA}} || |- | スタイン邸 ||[[1927年]] || [[ギャルシュ]] || {{FRA}} || <ref group="注">映画『オスカー Oscar』(1967年フランス、[[エドゥアール・モリナノ]]監督、[[ルイ・ド・フュネス]]主演)の撮影ロケに使われた。屋内の螺旋階段、手すりや玄関などが画面で確認できる。</ref> |- | [[ヴァイセンホーフ・ジードルング]]の住宅 ||[[1927年]] || [[シュツットガルト]] || {{DEU}} || 世界遺産 |- | ギエット邸 ||[[1927年]] || [[アントウェルペン]] || {{BEL}} || 世界遺産 |- | プラネクス邸 ||[[1928年]] || パリ || {{FRA}} || |- | ムンダネウム ||[[1929年]] || [[ジュネーブ]] || {{SWI}} || 計画案 |- | [[ソヴィエトパレス]] ||[[1931年]] || [[モスクワ]] || {{RUS}}|| 計画案 |- | [[サヴォア邸]] ||[[1931年]] || [[ポワッシー]] || {{FRA}} || 世界遺産 |- | マンドロウ邸 ||[[1931年]] || [[トゥーロン]]郊外 || {{FRA}} || |- | ヴェイゾー邸 ||[[1931年]] || [[カルタゴ]] || {{TUN}} || |- | スイス学生会館 ||[[1932年]] || パリ || {{FRA}} || |- | [[イムーブル・クラルテ]](クラルテ集合住宅)||[[1932年]] || ジュネーブ || {{SWI}} || 世界遺産 |- | パリ[[救世軍]]本部 ||[[1933年]] || パリ || {{FRA}} || |- | ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(自邸) 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||[[1955年]] || [[ルゼ|ルゼ・レ・ナント]] || {{FRA}} || |- | 高等裁判所 * ||[[1955年]] || チャンディガール || {{IND}} || 世界遺産 |- | 繊維業会館 ||[[1956年]] || アーメダバード || {{IND}} || |- | ショーダン邸 ||[[1956年]] || アーメダバード || {{IND}} || |- | コルビュジエ夫妻の墓 ||[[1957年]] || カプ・マルタン || {{FRA}} || |- | [[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万博]]フィリップス館 ||[[1958年]] || [[ブリュッセル]] || {{SWI}} || |- | 合同庁舎 * ||[[1958年]] || チャンディガール || {{IND}} || 世界遺産 |- | 美術館 * ||[[1958年]] || チャンディガール || {{IND}} || 世界遺産 |- | サンスカル・ケンドラ美術館 ||[[1958年]] || アーメダバード || {{IND}} || |- | ベルリンのユニテ・ダビタシオン ||[[1958年]] || [[ベルリン]] || {{DEU}} || [[ベルリン国際博覧会|ベルリン国際建築博]]出展作品 |- | ブラジル学生会館 ||[[1959年]] || パリ || {{FRA}} || |- | [[ラ・トゥーレット修道院]] ||[[1959年]] || [[リヨン]]郊外 || {{FRA}} || 世界遺産 |- | 美術学校と建築学校 * ||[[1959年]] || チャンディガール || {{IND}} || 世界遺産 |- | [[国立西洋美術館]] ||[[1959年]] || [[東京都]][[台東区]] || {{JPN}} || 基本設計<ref group="注">実施設計は弟子の[[前川國男]]・[[坂倉準三]]・[[吉阪隆正]]らが担当。</ref><br />世界遺産 |- | 議事堂 * ||[[1962年]] || チャンディガール || {{IND}} || 世界遺産 |- | ローヌ・ライン運河にある閘門 ||[[1962年]] || [[ミュルーズ]]郊外 || {{FRA}} || |- | ブリエ・アン・フォレのユニテ・ダビタシオン ||[[1963年]] || [[ブリエ=アン=フォレ]] ''[[:en:Briey|Briey-en-Forêt]]'' || {{FRA}} || |- | [[カーペンター視覚芸術センター]] ||[[1963年]] || [[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]] || {{USA}} || |- | 文化会館 ** ||[[1965年]] || フィルミニ || {{FRA}} || 世界遺産 |- | ル・コルビュジエ・センター ||[[1967年]] || [[チューリッヒ]] || {{SWI}} || |- | フィルミニのユニテ・ダビタシオン ** ||[[1968年]] || [[フィルミニ]]([[:fr:Firminy|フランス語版]])|| {{FRA}} || 世界遺産 |- | 競技場 ** ||[[1968年]] || フィルミニ || {{FRA}} || 世界遺産 |- | プール ** ||[[1970年]] || フィルミニ || {{FRA}}|| |- | 開かれた手の碑 * ||[[1985年]] || チャンディガール || {{IND}} || |- | サン・ピエール教会 ** ||[[2006年]] || フィルミニ || {{FRA}} || 世界遺産<ref group="注">没後に着工し、工事が中断したが、2006年に完成。</ref> |} *<small>作品リスト中の * は1952-1959年 [[チャンディーガル]]都市計画</small> *<small>作品リスト中の ** は1960-2006年 [[フィルミニのル・コルビュジエ遺産|フィルミニの建築群]]</small> === ギャラリー === <gallery widths="250" heights="220"> ファイル:CF05.jpg|シュウォブ邸 ファイル:Cors04.jpg|小さな家(母の家) ファイル:Weissenhof photo house citrohan east façade Le Corbusier & Pierre Jeanneret Stuttgart Germany 2005-10-08.jpg|ヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅 ファイル:Geneve immeuble Clarte 2011-08-02 13 55 36 PICT3664.JPG|イムーブル・クラルテ(クラルテ集合住宅) ファイル:Corbusierhaus (Berlin) (6305809373).jpg|ベルリンのユニテ・ダビタシオン ファイル:Chandigarh High Court.jpg|高等裁判所(チャンディーガル) ファイル:Arch Museum 46.JPG|美術学校と建築学校(チャンディーガル) ファイル:ATMA House 186.jpg|繊維業会館(アーメダバード) ファイル:2023-0323-Harvard-Carpenter_Center_for_the_Visual_Arts-02-East_view.jpg|カーペンター視覚美術センター ファイル:Zürich - Seefeld - Centre Le Courbusier IMG 1111 ShiftN.jpg|ル・コルビュジエ・センター ファイル:Open Hand Monument in Chandigarh.jpg|開かれた手の碑(チャンディーガル) </gallery> == 師弟関係 == * ル・コルビュジエ→[[バーソルド・リュベトキン]] * ル・コルビュジエ→[[前川國男]]→[[丹下健三]]→[[大谷幸夫]]・[[槇文彦]]・[[磯崎新]]・[[谷口吉生]] * ル・コルビュジエ→[[吉阪隆正]]→[[象設計集団]] * ル・コルビュジエ→[[坂倉準三]]→[[西澤文隆]]・[[柳宗理]] * [[ヤニス・クセナキス]] - 現代音楽作曲家。1948年より建築家ル・コルビュジエの下で働き、建築家として1958年の[[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]で[[フィリップス]]館を建設する。 三人の日本人弟子の存在については、国内でも一般にはあまり知られていない<ref>[https://www.tourism.jp/tourism-database/column/2017/06/modern-architecture-tourism/ 生きた建築の文化価値を再発見する時代へ ~モダニズム建築を観光資源に育てていくために~・コラム - JTB総合研究所]</ref>。 == 著作 == * 『[[建築をめざして]]』 1923年([[吉阪隆正]]訳、[[鹿島出版会]]:[[SD選書]]) **『建築へ』([[樋口清]]訳、[[中央公論美術出版]]、2003年、新版2011年)-新訳版 *『今日の装飾芸術』 1925年([[前川國男]]訳、鹿島出版会:SD選書) *『住宅と宮殿』 1928年(井田安弘訳、SD選書) * 『[[輝く都市]]』 1935年([[坂倉準三]]訳、SD選書) * 『[[伽藍]]が白かったとき』 1937年([[生田勉]]・樋口清訳、[[岩波書店]]→[[岩波文庫]]、2007年) * 『[[モデュロール]] 1・2』 1948-1955年(吉阪隆正訳、鹿島出版会:SD選書) * 『小さな家 ''Une petite maison, 1923''』1954年(森田一敏訳、集文社、1980年) * 『エスプリ・ヌーヴォー 近代建築名鑑』 以下も全てSD選書判 * 『プレシジョン 新世界を拓く 建築と[[都市計画]] (上・下)』 * 『四つの交通路』/『ユルバニスム』/『建築と都市』/『[[アテネ憲章]]』 * 『三つの人間機構』/『東方への旅』/『人間の家』(F・ド・ピエールフウ共著) *『建築十字軍 アカデミーの黄昏』 井田安弘訳([[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 1978年→SD選書、2011年) *『ムンダネウム』 [[ポール・オトレ]]共著 山名善之・[[桑田光平]]訳 [[筑摩書房]] 2009年 *『建築家の講義 ル・コルビュジエ』 [[岸田省吾]]監訳、桜木直美訳 [[丸善]] 2006年-小著 *『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』 山名善之・戸田穣訳、[[ちくま学芸文庫]]、2010年-図版多数 *『パリの運命』林要次・松本晴子訳、彰国社、2012年-小著 *『輝ける都市 機械文明のための都市計画の教義の諸要素』白石哲雄監訳、[[河出書房新社]]、2016年 *『ル・コルビュジエ書簡撰集』ジャン・ジャンジェ編・序、千代章一郎訳註・解説、[[中央公論美術出版]]、2016年 == 関連書籍 == *ジャン・プティ『ル・コルビュジエ みずから語る生涯』 田路貴浩・松本裕訳、中央公論美術出版、2021年。自身が没する直前に認めた伝記 *アンソニー・フリント『ル・コルビュジエ モダンを背負った男』 渡邉泰彦訳、鹿島出版会、2023年 === 入門書 === * 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 「特集 ル・コルビュジエ」--生誕120年記念特集』2007年5月号、[[青土社]] * 『建築家ル・コルビュジエの教科書』 [[マガジンハウス]]・ムック(2009年、新版2016年) * [[安藤忠雄]] 『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』 [[新潮社]]〈[[とんぼの本]]〉、2004年 * 市川智子 『愛と哀しみのル・コルビュジエ』 [[彰国社]]〈建築文化シナジー〉、2007年 * 越後島研一 『ル・コルビュジエを見る-20世紀最高の建築家、創造の軌跡』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2007年 * ジャン・ジャンジェ 『ル・コルビュジエ 終わりなき挑戦の日々』 [[藤森照信]]監修、遠藤ゆかり訳、[[創元社]] 〈[[「知の再発見」双書]]126〉、2006年 * 林美佐 『もっと知りたいル・コルビュジエ 生涯と作品』 東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2015年 * [[八束はじめ]] 『ル・コルビュジエ』 [[講談社学術文庫]]、2022年。改訂新版 === 専門書 === * [[磯崎新]] 『ル・コルビュジエとはだれか』王国社、2000年 * [[アンドレ・ヴォジャンスキー]] 『ル・コルビュジエの手』 白井秀和訳、[[中央公論美術出版]]、2006年 * 越後島研一 『ル・コルビュジエ/創作を支えた九つの原型』 彰国社、2002年 * [[加藤道夫]]『総合芸術家ル・コルビュジエの誕生 評論家・画家・建築家』[[丸善]]出版、2012年 * ウイリアム・カーティス 『ル・コルビュジエ:理念と形態』 [[中村研一]]訳、[[鹿島出版会]]、1992年 * デボラ・ガンス(Deborah Gans) 『ル・コルビュジエ全作品ガイドブック』 [[加藤道夫]]監訳、[[丸善]]、2008年 * アンソニー・フリント『ル・コルビュジエ:モダンを背負った男』 渡邉泰彦訳、鹿島出版会、2023年 * [[ビアトリス・コロミーナ]] 『マスメディアとしての近代建築:アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』 [[松畑強]]訳、鹿島出版会、1996年 * 佐々木宏 『巨匠への憧憬:ル・コルビュジエに魅せられた日本の建築家たち』 [[相模書房]]、2000年 * 佐々木宏 『知られざるル・コルビュジエを求めて』 王国社、2005年 * フローラ・サミュエル(Flora Samuel) 『ディテールから探る ル・コルビュジエの建築思想』 加藤道夫監訳、丸善、2009年 * [[彰国社]]編 『ル・コルビュジエのインド』 北田英治写真、彰国社〈建築文化シナジー〉、2005年 * 南明日香 『ル・コルビュジエは生きている:保存、再生そして世界遺産へ』王国社、2011年 * アレグザンダー・ツォニス(Alexander Tzonis) 『ル・コルビュジエ:機械とメタファーの詩学』 繁昌朗訳、鹿島出版会、2007年 * 東京大学工学部建築学科・安藤忠雄研究室編 『ル・コルビュジエの全住宅』 [[TOTO (企業)|TOTO]]出版、2001年 * [[富永譲]] 『ル・コルビュジエ建築の詩:12の住宅の空間構成』 鹿島出版会、2003年 * [[八束はじめ]] 『ル・コルビュジエ 生政治としてのユルバニス』 青土社、2014年 * 松隈洋『ル・コルビュジエから遠く離れて 日本の20世紀建築遺産』 [[みすず書房]]、2016年 * 山名善之『世界遺産ル・コルビュジエ作品群』 TOTO出版、2018年 * [[五十嵐太郎]]『ル・コルビュジエがめざしたもの 近代建築の理論と展開』 青土社、2018年 * 『ル・コルビュジエ読本 GA』 [[A.D.A.EDITA Tokyo]]、2014年。写真と19名の論集 * [[高階秀爾]]・[[鈴木博之]]・[[三宅理一]]・[[太田泰人]]編 『ル・コルビュジエと日本』 鹿島出版会、1999年 * 『吉阪隆正集 第8巻 ル・コルビュジエと私』 [[勁草書房]]、1984年、直弟子の回想ほか === 図録・写真集 === * 「ル・コルビュジエ 日本展」 大阪市立美術館、国立西洋美術館、1960-61年-日本での最初期の紹介。 * 「ル・コルビュジエ展」 [[日本建築学会]]・同実行委員会編、1989-90年([[安田火災東郷青児美術館]])、小著 * 「知られざるル・コルビュジエ展」 [[大成建設]]主催、1991年3月([[新宿センタービル|東京国際美術館]]) * 「ル・コルビュジエ展」 [[毎日新聞社]]主催、[[太田泰人]]ほか編 *:1996-97年([[セゾン美術館]]、[[広島市現代美術館]]、[[神奈川県立近代美術館]])-大著 * 「ル・コルビュジエと[[国立西洋美術館]] 開館50周年記念」 展覧会図録、2009年 *『ル・コルビュジエ 建築・家具・人間・旅の全記録』 エクスナレッジムック、2002年 *『ル・コルビュジエ パリ、白の時代』 エクスナレッジムック、2004年 *『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』 リミックスポイント、2007年 *『ル・コルビュジエ 光の遺産』 林美佐/千代章一郎監修、アーキメディア、2008年 *『ル・コルビュジエ 機械時代における建築の叙情性』 ジャン=ルイ・コーエン、タッシェン・ジャパン、2009年 * 『ル・コルビュジエ ラ・トゥーレット修道院』宮本和義[写真]栗田仁[文]、バナナブックス、2007年 * 『ル・コルビュジエ サヴォア邸』宮本和義[写真]山名義之[文]、バナナブックス、2007年 * 『ル・コルビュジエ ユニテ・ダビタシオン―マルセイユ』宮本和義[写真]渡辺真理[文]、バナナブックス、2011年 * 『ル・コルビュジエ 別冊太陽』[[平凡社]]、2023年。[[ハナブサ・リュウ]] 写真 === 大著 === * 千代章一郎 『ル・コルビュジエの宗教建築と「建築的景観」の生成』 中央公論美術出版、2004年 * ジェフリー・ベイカー 『ル・コルビュジエの建築-その形態分析』 中田節子訳、鹿島出版会、1991年 * ジャック・リュカン監修 『ル・コルビュジエ事典』 加藤邦男監訳、中央公論美術出版 2007年 == ル・コルビュジエを扱った作品 == * [[ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ]] - [[2015年の映画|2015年]]の[[ベルギーの映画|ベルギー]]・[[アイルランドの映画|アイルランド]]の[[伝記映画]]。ル・コルビュジエ役は[[ヴァンサン・ペレーズ]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * [[暮沢剛巳]] 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 朝日新聞出版〈[[朝日選書]]〉、2009年 * [[南明日香]]『ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ』王国社、2011年 *『ル・コルビュジエが見たい!』 カラー版[[洋泉社]]新書、2016年。[[加藤道夫]]監修 == 関連項目 == * [[キュビスム]] * [[モダニズム]] * [[フランク・ロイド・ライト]] * [[モデュロール]] * [[コンクリート船]] * [[16区 (パリ)|パリ16区]]、[[ブローニュ=ビヤンクール]] - 事務所があった地で、また自らの建築作品が多く残る。 == 外部リンク == {{commonscat|Le Corbusier}} * [http://www.fondationlecorbusier.asso.fr/ ル・コルビュジエ財団公式サイト] * [http://www.taisei.co.jp/galerie/archive.html 大成建設 ル・コルビュジェ アーカイブ] * [http://www.nou-sera.com/architect/corbusier.html ル・コルビュジエ(Le Corbusier)] * [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/eurasia/00_chandig/chandigar.htm チャンディーガル建築案内 (日本語)] * [https://web.archive.org/web/20090825202821/http://www.designdictionary.co.uk/en/lecorbusier.htm ル・コルビュジエ Le Corbusier] * [http://www.myswitzerland.com/ja/about-switzerland/the-swiss-art-and-culture-scene/architecture-design-fashion/contemporary-swiss-architecture.html スイス政府観光局(日本語):スイスの近現代建築] * {{Kotobank}} * Le Corbusier_[https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1XpEqi15v7-ue_sehDbMVtZD4iMYxLjs&usp=sharing GoogleMap] {{RIBAゴールドメダル}} {{AIAゴールドメダル}} {{都市計画}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:るこるひゆしえ}} [[Category:ル・コルビュジエ|*]] [[Category:19世紀フランスの建築家]] [[Category:20世紀フランスの建築家]] [[Category:19世紀スイスの建築家]] [[Category:20世紀スイスの建築家]] [[Category:モダニズムの建築家]] [[Category:インターナショナル・スタイルの建築家]] [[Category:フランスの都市計画家]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:スイス・フラン紙幣の人物]] [[Category:スイス系フランス人]] [[Category:ラ・ショー=ド=フォン出身の人物]] [[Category:水難死した人物]] [[Category:1887年生]] [[Category:1965年没]]
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フランク・ロイド・ライト
フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、アメリカの建築家。 アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなすこともある)。「カーポート」の名付け親でもあり、1930年代にユーソニアン住宅にカーポートを設置し、初めてカーポートと呼んだ。ただし、世界で初めてカーポート付き住宅を造ったのは、ライトの建築設計事務所に勤務していたウォルター・バーリー・グリフィンであった。 ウィスコンシン州に牧師の父ウィリアム・ライトと母アンナの間の第1子として生まれた。ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後、シカゴへ移り住んだ。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビー事務所を辞し、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。 アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした1893年、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなり、その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。ライトの経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにあった。1894年のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。 独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。 ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1936年のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係であった。 当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。 1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況であった。妻は依然として離婚に応じなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのである。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死した。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテル新館設計の仕事であった。 1913年、帝国ホテル新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされた。ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工した。 数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトであったが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘)、ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになる。 2作ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に用いられた。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計した。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされた。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品である。 そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。浮世絵のディーラーとしても知られ、富豪のために日本で浮世絵を購入した上で売却している。 妻として、キャサリン・トビン、ママー・ボソウィック(元チェニー夫人。内縁)、モード・ノエル(薬物中毒)、オルガ・イヴァノウァ・ヒンゼンブルグ(神秘主義者グルジェフの弟子で彼らの提唱する神聖舞踏のダンサー)。キャサリンとの間に実子が6人。息子のフランク・ロイド・ライト・ジュニア(通称ロイド・ライト)、ジョン・ロイド・ライトはともに建築家。孫娘に、アカデミー賞女優のアン・バクスターがいる。 2019年7月7日、アゼルバイジャンのバクーで開催されていた第43回世界遺産委員会において、「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として、ユニティー・テンプル、フレデリック・C・ロビー邸、タリアセン、バーンズドール邸(ホリーホック邸)、落水荘、ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸、タリアセン・ウエスト、グッゲンハイム美術館の8件が世界遺産に登録された。
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フランク・ロイド・ライトは、アメリカの建築家。 アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなすこともある)。「カーポート」の名付け親でもあり、1930年代にユーソニアン住宅にカーポートを設置し、初めてカーポートと呼んだ。ただし、世界で初めてカーポート付き住宅を造ったのは、ライトの建築設計事務所に勤務していたウォルター・バーリー・グリフィンであった。
{{Expand English|date=2023年5月}}{{Infobox 建築家 |image = File:Frank Lloyd Wright with Crystal Heights plan.jpg |image_size = |caption ={{仮リンク|クリスタル・ハイツ|en|Crystal Heights}}のアイデアスケッチを手に |name = フランク・ロイド・ライト |nationality = {{USA}} |birth_date = [[1867年]][[6月8日]] |birth_place = {{USA1865}}[[ウィスコンシン州]]リッチランドセンター |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1867|6|8|1959|4|9}} |death_place = {{USA1959}}[[アリゾナ州]]フェニックス |alma_mater = |practice_name = |significant_buildings= ロビー邸<br>[[帝国ホテル]]ライト館<br>[[落水荘|カウフマン邸(落水荘)]]<br>ジョンソンワックス社事務所棟<br>[[グッゲンハイム美術館]] |significant_projects = |significant_design = |awards = [[RIBAゴールドメダル]](1941年)<br />[[AIAゴールドメダル]](1949年) }} [[ファイル:Frank Lloyd Wright - Robie House 2.JPG|thumb|right|220px|プレイリースタイルの代表作ロビー邸]] '''フランク・ロイド・ライト'''('''Frank Lloyd Wright'''、[[1867年]][[6月8日]] - [[1959年]][[4月9日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[建築家]]。 [[アメリカ大陸]]で多くの建築作品があり、[[日本]]にもいくつか作品を残している。[[ル・コルビュジエ]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]と共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる([[ヴァルター・グロピウス]]を加え四大巨匠とみなすこともある)。<!---[[ニューヨーク]]から[[サンフランシスコ]]、さらには[[兵庫県]][[芦屋市]]にまで建築を作った。--->「[[カーポート]]」の名付け親でもあり、[[1930年代]]にユーソニアン住宅にカーポートを設置し、初めてカーポートと呼んだ。ただし、世界で初めてカーポート付き住宅を造ったのは、ライトの建築設計事務所に勤務していた[[ウォルター・バーリー・グリフィン]]であった<ref name="reform">{{Cite web|和書|url=https://www.reform-online.jp/news/reform-shop/9578.php|title=リフォーム産業新聞|accessdate=2018-8-23}}</ref>。 == 生涯 == [[ウィスコンシン州]]に牧師の父ウィリアム・ライトと母アンナの間の第1子として生まれた。[[ウィスコンシン大学マディソン校]]土木科を中途退学した後、[[シカゴ]]へ移り住んだ。叔父ジェンキンの紹介により、建築家の[[ジョセフ・ライマン・シルスビー]]の事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビー事務所を辞し、[[ダンクマール・アドラー]]と[[ルイス・サリヴァン]]が共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 220 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。 アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした[[1893年]]、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなり、その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。ライトの経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにあった。[[1894年]]のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。 独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、'''プレイリースタイル'''(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。[[1906年]]のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。 ヨーロッパの建築様式の模倣である[[新古典主義]]が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1936年の[[落水荘|カウフマン邸(落水荘)]]までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が[[1904年]]に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係であった。 当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。[[1909年]]、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。 [[ファイル:Imperial Hotel Wright House cropped.jpg|thumb|300px|left|[[帝国ホテル]]ライト館の正面]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-08394, Tokio, Clubheim japanischer Studentinnen.jpg|サムネイル|ライトデザインのピーコック・チェアが置かれたクラブハウス]] [[1911年]]に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況であった。妻は依然として離婚に応じなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセン<ref group="注釈">この名はライトの血筋と[[タリエシン]]に由来している。彼の祖父リチャード・ロイド=ジョーンズは[[ユニテリアン派]]の[[伝道師]]だった。ライトの自伝によれば祖父は[[ドルイド]]の血筋を受け継いでおり祖父自身もドルイドの長であった。ここから着想を得たライトはウェールズ風の名前としてタリアセンを選んだ。ライトはタリアセンをドルイドであり、かつ[[アーサー王]]の[[円卓の騎士]]であるとも見做していた。</ref>の設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのである。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死した。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の[[帝国ホテル]]新館設計の仕事であった。 [[1913年]]、[[帝国ホテル]]新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされた。ホテルの建設は弟子の[[遠藤新]]の指揮のもとその後も続けられ[[1923年]]に竣工した。 数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトであったが、1930年代後半になると'''[[落水荘|カウフマン邸(落水荘)]]'''、'''ジョンソンワックス社'''と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになる。 2作ともに[[カンチレバー]](片持ち梁)が効果的に用いられた。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「'''ユーソニアン・ハウス'''」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計した。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされた。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品である。 そのスタイルには変遷もあり、一時は[[プウク式|マヤ]]の装飾を取り入れたことがあるが、基本的には[[モダニズム]]の流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。<!---装飾のない、平面や曲面を積み重ねる---->[[浮世絵]]の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。浮世絵のディーラーとしても知られ、富豪のために日本で浮世絵を購入した上で売却している。 == 家族 == 妻として、キャサリン・トビン、ママー・ボソウィック(元チェニー夫人。内縁)、モード・ノエル(薬物中毒)、オルガ・イヴァノウァ・ヒンゼンブルグ(神秘主義者[[グルジェフ]]の弟子で彼らの提唱する神聖舞踏のダンサー)。キャサリンとの間に実子が6人。息子のフランク・ロイド・ライト・ジュニア(通称ロイド・ライト)、ジョン・ロイド・ライトはともに建築家。孫娘に、アカデミー賞女優の[[アン・バクスター]]がいる。 == 代表作 == {{右| [[ファイル:Johnsonwax600.jpg|thumb|none|220px|ジョンソンワックス社事務所棟]] [[ファイル:Guggenheim museum exterior.jpg|thumb|none|220px|グッゲンハイム美術館]] [[File:Wrightfallingwater.jpg|thumb|none|220px|カウフマン邸(落水荘)]] }} {| class="sortable wikitable" style="font-size:90%; line-height:1.45em;" |- style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称!! 年 !! 都市 !! 州県 !! 国 !! 状態!! 備考 |- |ライト自邸と事務所|| [[1889年]] || [[オークパーク]] || [[イリノイ州]] || {{USA}} || || |- |ウィンズロー邸|| [[1894年]] || [[リバー・フォレスト]] || [[イリノイ州]] || {{USA}} || || |- |ラーキン・ビル|| [[1903年]] || [[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]] || [[ニューヨーク州]] || {{USA}} || 現存せず || |- |[[ロビー邸]]|| [[1906年]] || [[シカゴ]] || [[イリノイ州]] || {{USA}} || || [[世界遺産]] |- |{{仮リンク|ユニティ・テンプル|en|Unity Temple}}|| [[1908年]] || [[オークパーク]] || [[イリノイ州]] || {{USA}} || || 世界遺産 |- |ミッドウェー・ガーデン|| [[1913年]] || [[シカゴ]] || [[イリノイ州]] || {{USA}} || 現存せず || |- |タリアセン|| [[1914年]] || [[スプリング・グリーン]] ||[[ウィスコンシン州]]||{{USA}} || || 世界遺産 |- |バーンズドール邸|| [[1917年]] || [[ロサンゼルス]] || [[カリフォルニア州]] || {{USA}} || || 世界遺産 |- |旧林愛作邸|| [[1917年]] || [[世田谷区]] || [[東京都]] || {{JPN}} |||| 現 電通八星苑(非公開) |- |[[帝国ホテル]]|| [[1923年]] || [[千代田区]] || [[東京都]] || {{JPN}} || 一部移築 || 正面玄関部が[[博物館明治村]]に移築 |- |[[ミラード邸]]|| [[1923年]] || [[パサデナ]] || [[カリフォルニア州]] || {{USA}} || || |- |旧[[山邑邸]]|| [[1923年]] || [[芦屋市]] || [[兵庫県]] || {{JPN}} || [[重要文化財]] || 現 [[ヨドコウ迎賓館]]<br />[[日本の世界遺産#暫定リストへの越境遺産の提案|世界遺産拡張登録候補]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47074250Y9A700C1CR0000/ ライト建築、世界遺産決定 追加候補に兵庫の住宅][[日本経済新聞]]2019年7月8日</ref> |- |[[自由学園明日館]]|| [[1926年]] || [[豊島区]] || [[東京都]] || {{JPN}} || [[重要文化財]] || 共同設計:[[遠藤新]] |- |タリアセンIII|| [[1925年]] || [[スプリング・グリーン]] ||[[ウィスコンシン州]]||{{USA}} || || |- |ビルトモア・ホテル|| [[1926年]] || [[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]] || [[アリゾナ州]] || {{USA}} || || |- |[[落水荘|カウフマン邸/落水荘]]|| [[1936年]] || [[ミル・ラン]] || [[ペンシルベニア州]] || {{USA}} || || 世界遺産 |- |ジェイコブス邸|| [[1936年]] || [[マディソン (ウィスコンシン州)|マディソン]] || [[ウィスコンシン州]] || {{USA}} || || 世界遺産 |- |ジョンソン邸|| [[1937年]] || [[ウィンド・ポイント]] || [[ウィスコンシン州]] || {{USA}} || || |- |タリアセン・ウエスト|| [[1937年]] || [[スコッツデール (アリゾナ州)|スコッツデール]] || [[アリゾナ州]] || {{USA}} || || 世界遺産 |- |ジョンソンワックス社事務所棟|| [[1939年]] || [[ラシーン (ウィスコンシン州)|ラシーン]] || [[ウィスコンシン州]] || {{USA}} || || |- |ジョンソンワックス研究所棟|| [[1944年]] || [[ラシーン (ウィスコンシン州)|ラシーン]] || [[ウィスコンシン州]] || {{USA}} || || |- |旧モリス商会|| [[1948年]] || [[サンフランシスコ]] || [[カリフォルニア州]] || {{USA}} || || |- |[[ユニテリアン教会]]|| [[1951年]] || [[ショアウッド・ヒルズ]] || [[ウィスコンシン州]] || {{USA}} || || |- |プライスタワー|| [[1953年]] || [[バートルズビル]] || [[オクラホマ州]] || {{USA}} || || |- |ギリシア正教教会|| [[1956年]] || [[ウォーワトサ]] || [[ウィスコンシン州]] || {{USA}} || || |- |ベス・ショーロム・[[シナゴーグ]]|| [[1956年]] || [[エルキンズ・パーク]] || [[ペンシルベニア州]] || {{USA}} || || |- |[[グッゲンハイム美術館]]|| [[1959年]] || [[ニューヨーク]] || [[ニューヨーク州]] || {{USA}} || || 世界遺産 |- |[[マリン郡 (カリフォルニア州)|マリン郡]]役所|| [[1963年]] || [[サンラフェル (カリフォルニア州)|サンラフェル]] || [[カリフォルニア州]] || {{USA}} || || |- | [[アリゾナ州立大学]]記念劇場|| [[1937年]] || [[テンピ (アリゾナ州)|テンピ]] || [[アリゾナ州]] || {{USA}} || || |- |} {{-}} <gallery widths="150px" heights="150px"> ファイル:FLWright_Home_and_Studio_East.jpg|<center><small>自邸と事務所</small> File:LarkinAdministrationBuilding1906.jpg|<center><small>ラーキン・ビル</small> File:UnityTempleInterior.jpg|<center><small>ユニティ教会</small> File:Jiyu Gakuen.jpg|<center><small>自由学園明日館</small> ファイル:Yamamura house07n4272.jpg|<center><small>山邑邸</small> File:Hollyhock House.JPG|<center><small>バーンズドール邸</small> File:Johnsonwax01.jpg|<center><small>ジョンソンワックス社研究所棟</small> File:Jacobs First House - front.jpg|<center><small>ジェイコブス邸</small> File:1st-Unitarian.jpg|<center><small>ユニテリアン教会</small> File:Taliesin West Complex DSCN2137.jpg|<center><small>タリアセン・ウエスト</small> File:Frank Lloyd Wright - Beth Sholom Synagogue 1.JPG|<center><small>ベス・ショーロム・シナゴーグ</small> File:Marin County Civic Center Roof 20060610.jpg|<center><small>マリン郡役所</small> </gallery> == 世界遺産 == 2019年7月7日、[[アゼルバイジャン]]の[[バクー]]で開催されていた[[第43回世界遺産委員会]]において、「'''[[フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群]]'''」として、ユニティー・テンプル、フレデリック・C・ロビー邸、タリアセン、バーンズドール邸(ホリーホック邸)、落水荘、ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸、タリアセン・ウエスト、グッゲンハイム美術館の8件が世界遺産に登録された<ref>[https://www.mashupreporter.com/guggenheim-frank-lloyd-wright-unesco-world-heritage/ NYグッゲンハイム美術館などフランク・ロイド・ライト8件の建築物 ユネスコ世界遺産に]mashup NY 2019年7月8日</ref>。 {{main|[[フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群]]}} {{multiple image |align = center |header = 世界遺産に登録された建築物 |width1 = 150 |image1 = Oak Park Il Unity Temple8.jpg |caption1 = <div style="text-align:center;">ユニティ・テンプル</div> |width2 = 150 |image2 = Frederick C. Robie House.JPG |caption2 = <div style="text-align:center;">フレデリック・C・ロビー邸</div> |width3 = 150 |image3 = Taliesin Exterior 15.jpg |caption3 = <div style="text-align:center;">タリアセン</div> |width4 = 169 |image4 = Arts & Crafts Building (Residence A) Hollyhock House, Frank Lloyd Wright 1917-1921.jpg |caption4 = <div style="text-align:center;">バーンズドール邸</div> }} {{multiple image |align = center |width5 = 169 |image5 = Historic National Road - Frank Lloyd Wright's Fallingwater - NARA - 7719312.jpg |caption5 = <div style="text-align:center;">落水荘</div> |width6 = 169 |image6 = Jacobs First House - back 02.jpg |caption6 = <div style="text-align:center;">ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸</div> |width7 = 150 |image7 = Taliesin West Complex DSCN2137.jpg |caption7 = <div style="text-align:center;">タリアセン・ウエスト</div> |width8 = 150 |image8 = Guggenheim Museum New York - panoramio.jpg |caption8 = <div style="text-align:center;">グッゲンハイム美術館</div> }}{{clear}} == ライトの事務所、タリアセン・フェローシップの建築家 == *[[アントニン・レーモンド]] *ノエミ・レーモンド *[[遠藤新]] *[[土浦亀城]] *[[土浦信]] *[[ルドルフ・シンドラー]] *[[リチャード・ノイトラ]] *[[田上義也]] *[[南信 (建築家)|南信]] *[[柴田太郎 (建築家)|柴田太郎]] *[[岡見健彦]] *[[天野太郎]] *[[遠藤楽]] *[[一ノ宮賢治]] *[[パオロ・ソレリ]] *[[カネジ・ドウモト]] == 注釈 == {{Notelist}} == 参考文献 == === 著書 === *『ライトの遺言』 [[谷川正己]]・睦子共訳、[[彰国社]]、1961年。大型限定版も刊行 *『ライトの住宅 自然・人間・建築』 遠藤楽訳、彰国社、1967年 *『ライトの都市論』 谷川正己・睦子共訳、彰国社、1968年 *『ライトの建築論』 エドガー・カウフマン編 谷川正己・睦子共訳、彰国社、1970年 - ※以上は多数重版 *『建築について』 谷川正己・睦子共訳、[[鹿島出版会]]〈[[SD選書]]〉上・下、1980年 *『ライト自伝 ある芸術の形成』 [[樋口清]]訳、[[中央公論美術出版]]、1988年 *『ライト自伝 ある芸術の展開』 樋口清訳、中央公論美術出版、2000年 - 各大著 *『建築家への手紙』 [[内井昭蔵]]訳、丸善、1986年 *『弟子達への手紙』 内井昭蔵・小林陽子訳、[[丸善]]、1987年 *『フランク・ロイド・ライト ドローイング集』 吉富久美子訳、同朋舎出版、1991年 *『ライト=[[ルイス・マンフォード|マンフォード]]往復書簡集 1926-1959』 富岡義人編訳、鹿島出版会 2005年 *『フランク・ロイド・ライトの現代建築講義』 [[山形浩生]]訳、[[白水社]]、2009年12月 - 小著 *『有機的建築』 三輪直美訳、[[筑摩書房]]、2009年12月 *『フランク・ロイド・ライト 自然の家』 富岡義人訳、[[ちくま学芸文庫]]、2010年1月 *『テスタメント』 樋口清訳、中央公論美術出版、2010年10月 - 「遺言」の新訳・大著 === 伝記・研究・写真集 === ;※代表的な一部を掲載。 *[[天野太郎]]・[[樋口清]]・生田勉『フランク・ロイド・ライト』 彰国社、1954年 *[[天野太郎]]・浦辺鎮太郎・二川幸夫『フランク・ロイド・ライト 現代建築家シリーズ1』 美術出版社、1967年 *オルギヴァンナ・L・ライト『ライトの生涯』 遠藤楽訳、彰国社、1977年 *[[谷川正己]] 『フランク・ロイド・ライト』 [[鹿島出版会]]<[[SD選書]]>、1967年 *谷川正己 『ライトと日本』 鹿島出版会<SD選書>、1977年 *谷川正己 『タリアセンへの道』 鹿島出版会<SD選書>、1978年 *谷川正己 『フランク・ロイド・ライトとはだれか』 王国社、2001年 *谷川正己 『フランク・ロイド・ライトの日本』 [[光文社新書]]、2004年 *エドガー・ターフェル『知られざるフランク・ロイド・ライト』 谷川正己・谷川睦子共訳、鹿島出版会、1992年 *エドガー・ターフェル『フランク・ロイド・ライト 天才建築家の人と作品』 谷川睦子訳、啓学出版(現代建築集成・別巻3)、1985年 *ブルース・ブルックス・ファイファ『巨匠フランク・ロイド・ライト』 デヴィッド・ラーキン編、鹿島出版会、1999年 *ケヴィン・ニュート『フランク・ロイド・ライトと日本文化』 大木順子訳、鹿島出版会、1997年 *William Allin Storrer『フランク・ロイド・ライト全作品』 [[岸田省吾]]監訳、[[丸善]]、2000年 *Charles・Aguar他『フランク・ロイド・ライトのランドスケープデザイン』 大木順子訳、丸善、2004年 *三沢浩『フランク・ロイド・ライト入門 その空間づくり四十八手』 王国社 、2008年 *三沢浩『フランク・ロイド・ライトのモダニズム』 彰国社、2001年 *岡野真『フランク・ロイド・ライトの建築遺産』 丸善、2005年 *エイダ・ルイーズ・ハクスタブル 『未完の建築家フランク・ロイド・ライト』 三輪直美訳、TOTO出版、2007年 *マーゴ・スタイプ 『フランク・ロイド・ライト・ポートフォリオ 素顔の肖像、作品の真実』 [[隈研吾]]監修、酒井泰介訳、講談社トレジャーズ、2007年 *『フランク・ロイド・ライト 建築ガイドブック』 水上優訳、丸善、2008年 *大久保美春 『フランク・ロイド・ライト 建築は自然への捧げ物』 [[ミネルヴァ書房]]<[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]>、2008年 *[http://202.164.226.100/bananabooks/isbn/9784902930177/top.htm 谷川正己/宮本和義 写真『旧山邑邸・ヨドコウ迎賓館 建築家 フランク・ロイド・ライト』 バナナブックス、2008年] *谷川正己/宮本和義 写真『自由学園明日館 建築家 フランク・ロイド・ライト』 バナナブックス、2009年、新版2016年 *ブレンダン・ギル『ライト 仮面の生涯』 塚口眞佐子訳、学芸出版社、2009年 *水上優『フランク・ロイド・ライトの建築思想』 中央公論美術出版、2013年 *『フランク・ロイド・ライト最新建築ガイド』 斎藤栄一郎訳、エクスナレッジ、2018年 {{Commonscat|Frank Lloyd Wright|フランク・ロイド・ライト}} {{Commons|Frank Lloyd Wright}} == 関連項目 == *[[アン・バクスター]] - 女優(孫) *[[アイン・ランド]] - 小説家、『[[水源 (小説)|水脈]]』<ref>[https://archive.is/MZvx3 小説『水源』]</ref>の主人公ハワード・ロークのモデルがライトだと言われている。[[ゲイリー・クーパー]] 主演の『[[摩天楼 (1949年の映画)|摩天楼]]』(1949年)はその映画化。 *[[Nancy Horan]] - 小説家。愛人だったチェニー夫人(Mama Bothwick)の視点でライトとの暮らしを描いた小説『Loving Frank』を出版。 *[[T. C. Boyle]] - 小説家。ライトを取り巻く4人の女たちを日本人の弟子の視点で描いた小説『The Women』を出版。 *[[ジョエル・シルバー]] *[[カネジ・ドウモト]] - 師弟関係 *[[河野傳]] - 帝国ホテル建設時に師事し、後に[[国立駅]]駅舎を設計する。 *[[ソビエト宮殿]] *[[フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群]] *[[黄色い煉瓦〜フランク・ロイド・ライトを騙した男〜]] - 帝国ホテル外壁に用いた黄色い煉瓦製造にまつわる実話を描いたテレビドラマ。ライト役は[[ダニエル・カール]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *[http://www.franklloydwright.org/ Frank Lloyd Wright Foundation(英語版)] *[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241234/ フランク・ロイド・ライトとタリアセン]『建築時代』第22(洪洋社, 1932) * {{Kotobank|ライト(Frank Lloyd Wright)}} {{RIBAゴールドメダル}} {{AIAゴールドメダル}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らいと ふらんくろいと}} [[Category:19世紀アメリカ合衆国の建築家]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の建築家]] [[Category:フランク・ロイド・ライト|*]] [[Category:アメリカ合衆国の家具デザイナー]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:モダニズムの建築家]] [[Category:アメリカ合衆国の美術品収集家]] [[Category:ウィスコンシン州の人物]] [[Category:ウェールズ系アメリカ人]] [[Category:1867年生]] [[Category:1959年没]]
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丹下健三
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。 1939年(昭和14年)、丹下は雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」を発表し、つづく1941年(昭和16年)に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館の設計を担当したが、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年(昭和17年)の大東亜建設記念営造計画コンペと、それに立て続いて1等入選を果たした、1943年(昭和18年)の在盤谷日本文化会館計画コンペによってである。 特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案、「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、ヒューマンスケールを遥かに超えた壮大なプランと、横山大観風の日本画を想わせるそのパースペクティブ(透視図)によって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事であり、それゆえ到底実施案となり得なかった地味なこのコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることになった。 同時期の大学院時代から第二次世界大戦後しばらくにかけては、主に都市計画の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を第二次世界大戦後に日本建築学会で発表し、後にそれをもとに1959年(昭和34年)に博士号学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、1946年(昭和21年)8月に東京大学助教授に就任すると、福島市の依頼による福島地区都市計画(1947年)や立川基地跡地の文化都市計画、北海道稚内市の都市計画(1950年から1952年まで)などを手がけていった。その間の1948年(昭和23年)には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の1950年(昭和25年)には経済安定本部資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から戦災復興院(後の建設省。現・国土交通省)による各地の戦災復興都市計画に参加した。当初の担当は群馬県前橋市と伊勢崎市であった。 広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており、また広島市への原爆投下と同じ日に実施された今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエのソビエト・パレス計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た。浅田孝・大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事1位で入選という形で結実する。 他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通り(幅員100m、長さ4kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、ランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来る。 実際、1966年(昭和41年)7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである。 しかしながら今日に至ってみれば、日清戦争当時大本営がおかれて臨時首都となり、明治以来、広島城を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た廣島市が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり(原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは1958年のことである)、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る。 同時期、第二次世界大戦後の日本建築界の幕開けを告げる、当時日本最大級のコンペであった世界平和記念聖堂の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主であるカトリック教会が、丹下案と類似するオスカー・ニーマイヤー設計のブラジル・パンプーリャのサン・フランシスコ礼拝堂に見られる放物線状のシェル構造が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(1等なしの2等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、コルビュジエ派である丹下案を酷評した表現派の村野藤吾が担当することになり、日本建築界の一大スキャンダルとなる。 そのような経緯もあり、資材の払底した第二次世界大戦時中ならびに第二次世界大戦終決直後に若年期を過ごさざるを得なかった丹下健三にとっては、広島平和記念資料館は事実上のデビュー作である。コンクリート打放しの端正なプロポーションを、都市的スケールのピロティで大地から軽々と持ち上げることによって、広島の焦土からの復興を力強く印象づけ、第二次世界大戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品ともなった。コルビュジエのスイス学生会館やソビエト・パレス計画、またユニテ・ダビタシオンの影響だけでなく、法隆寺や厳島神社の伽藍配置、また正倉院・伊勢神宮・桂離宮などの日本建築の精華にデザインソースを求めたこれら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画をもって、CIAM(シアム・ 近代建築国際会議)に参加し、その名を日本国外に知らしめた。 また、丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって、ノグチのデザインをほぼそのまま流用しながら、自分自身の当初の構想に立ち返って埴輪の家の屋根形にデザインした。しかし、結果的には、慰霊の際、ノグチの手によるモニュメンタル性の強いオブジェを拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したときに視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって、平和公園は単なる慰霊施設ではなく平和を祈念し「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の建設理念がより明確となった。そこから、後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。 その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本での伝統木造建築・木割り(日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築におけるオーダーにあたる)をコンクリートで稠密に再現した香川県庁舎などの、いわゆる広島平和記念資料館と合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は第二次世界大戦後の日本全国の地方自治体庁舎のモデルともなり、数多い丹下建築の中でも唯一のビルディング・タイプ(形式がある特徴)を有する建築である。1961年(昭和36年)に丹下健三・都市・建築設計研究所を設立した。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続け、それにより都市的観点から構想された数々の総合的な建築計画が生み出され、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して違いが際立っているところである。 壮年期の丹下は、日本国外からもたらされるシェル構造や折板構造などの様々な新技術や建築の新思潮を精力的に消化しながら、1964年(昭和39年)の東京カテドラル聖マリア大聖堂と 東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案からマシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、エーロ・サーリネンのイェール大学アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた。 特に東京オリンピックプールの評判は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり、「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった。 大会後、国際オリンピック委員会は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。ここにひとりの建築家が、その建築表現の持つ力によって、国際社会に与える影響力の大きさにおいても、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。 1970年(昭和45年)の大阪万博では、京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。「大屋根」をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを太陽の塔が突き破ってそそり立つという岡本太郎とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。 建築のスタイルは本来モダニズム系統であり、当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である東京都新庁舎は、ゴシック建築であるパリのノートルダム大聖堂の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さを演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている。 日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい。 それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言える。第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以降、その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移っていった。唯一とも言える例外はイタリアである。 自らがアイデアを出して、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した。それにより後年、丹下の下からは大谷幸夫・浅田孝・沖種郎・槇文彦・神谷宏治・磯崎新・黒川紀章・谷口吉生ら多くの優れた人材が輩出されたが、反面、特に1980年(昭和55年)以降の作品において、独創性が犠牲にされたとの批判もある。 東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では指名コンペが行われたが、大方の予想通りに、当時の都知事・鈴木俊一との強いつながりを持つ丹下の設計案が当選し、「出来レース」とも評された。 鈴木とのつながりは、鈴木が1964年東京オリンピックの準備のために、地方自治庁(後の自治省。現・総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任した経緯もあって、のちに鈴木が都知事選に初出馬した際には、丹下はその後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは、「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの意の厳しい批判を受けた。 一方、出来レースとの批判が予想されるなかで、重鎮となっても尚、そのような批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある。 建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来観光名所となって、新宿副都心のランドマークとして認知されている。 かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を建築学科に変えさせたように、丹下に対するル・コルビュジエの強い影響は、卒業設計においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品にコルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明らかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から広島平和記念公園、ナイジェリアの新首都新首都アブジャ都心計画に至るまで、たびたび用いられて丹下の十八番となった。 一方で、ランドスケープにおいて対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、ミケランジェロのカンピドリオ広場からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い、そのことは出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(頌とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中でハイデガーのヘルダーリン論を援用し、グロピウス流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、コペルニクス的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させている。 つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、ミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性を、近代建築においても獲得させることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、(ある意味、サグラダ・ファミリアにおけるアントニ・ガウディのような)建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロがルネサンスにおいて、サン・ピエトロ大聖堂大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいはマニエリスムの自由な芸術表現によってルネサンス様式そのものを超克しようとしたように、精神史の上で、コルビュジエがいうところの「建築をめざして」、近代を建築の力によって超克することを、丹下はめざしたのである。 そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒したマルクス主義に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、第二次世界大戦での敗戦の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には、三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては、経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る。 建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという。事実、これだけの巨匠でありながら、生前MoMA(ニューヨーク近代美術館)に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった。なお、丹下自身は、東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている。 2005年(平成17年)3月22日、心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック関口教会)で葬儀が行われた。葬儀では、磯崎新が時折涙で声を詰まらせながら弔辞を読んだ。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られた。 2006年(平成18年)4月、広島平和記念資料館が、村野藤吾の世界平和記念聖堂(1953年、広島市中区幟町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めての重要文化財(建造物)指定となっている。また、2021年5月には1964年東京五輪の競技会場となった国立代々木競技場が同じく重要文化財の指定を受けることとなった。 丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む 丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む
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"また、丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって、ノグチのデザインをほぼそのまま流用しながら、自分自身の当初の構想に立ち返って埴輪の家の屋根形にデザインした。しかし、結果的には、慰霊の際、ノグチの手によるモニュメンタル性の強いオブジェを拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したときに視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって、平和公園は単なる慰霊施設ではなく平和を祈念し「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の建設理念がより明確となった。そこから、後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本での伝統木造建築・木割り(日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築におけるオーダーにあたる)をコンクリートで稠密に再現した香川県庁舎などの、いわゆる広島平和記念資料館と合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は第二次世界大戦後の日本全国の地方自治体庁舎のモデルともなり、数多い丹下建築の中でも唯一のビルディング・タイプ(形式がある特徴)を有する建築である。1961年(昭和36年)に丹下健三・都市・建築設計研究所を設立した。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続け、それにより都市的観点から構想された数々の総合的な建築計画が生み出され、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して違いが際立っているところである。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "壮年期の丹下は、日本国外からもたらされるシェル構造や折板構造などの様々な新技術や建築の新思潮を精力的に消化しながら、1964年(昭和39年)の東京カテドラル聖マリア大聖堂と 東京オリンピック国立屋内総合競技場(正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では吊り構造を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案からマシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、エーロ・サーリネンのイェール大学アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "特に東京オリンピックプールの評判は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり、「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった。 大会後、国際オリンピック委員会は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。ここにひとりの建築家が、その建築表現の持つ力によって、国際社会に与える影響力の大きさにおいても、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)の大阪万博では、京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。「大屋根」をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを太陽の塔が突き破ってそそり立つという岡本太郎とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "建築のスタイルは本来モダニズム系統であり、当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である東京都新庁舎は、ゴシック建築であるパリのノートルダム大聖堂の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さを演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい。 それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言える。第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以降、その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移っていった。唯一とも言える例外はイタリアである。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "自らがアイデアを出して、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した。それにより後年、丹下の下からは大谷幸夫・浅田孝・沖種郎・槇文彦・神谷宏治・磯崎新・黒川紀章・谷口吉生ら多くの優れた人材が輩出されたが、反面、特に1980年(昭和55年)以降の作品において、独創性が犠牲にされたとの批判もある。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では指名コンペが行われたが、大方の予想通りに、当時の都知事・鈴木俊一との強いつながりを持つ丹下の設計案が当選し、「出来レース」とも評された。 鈴木とのつながりは、鈴木が1964年東京オリンピックの準備のために、地方自治庁(後の自治省。現・総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任した経緯もあって、のちに鈴木が都知事選に初出馬した際には、丹下はその後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは、「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの意の厳しい批判を受けた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方、出来レースとの批判が予想されるなかで、重鎮となっても尚、そのような批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある。 建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来観光名所となって、新宿副都心のランドマークとして認知されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつて、ソビエト・パレスとの出会いが、大学受験間際になって志望を建築学科に変えさせたように、丹下に対するル・コルビュジエの強い影響は、卒業設計においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品にコルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明らかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から広島平和記念公園、ナイジェリアの新首都新首都アブジャ都心計画に至るまで、たびたび用いられて丹下の十八番となった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一方で、ランドスケープにおいて対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、ミケランジェロのカンピドリオ広場からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い、そのことは出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(頌とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中でハイデガーのヘルダーリン論を援用し、グロピウス流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、コペルニクス的転回によって建築と歴史との関係性を逆転させている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、ミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性を、近代建築においても獲得させることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、(ある意味、サグラダ・ファミリアにおけるアントニ・ガウディのような)建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロがルネサンスにおいて、サン・ピエトロ大聖堂大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいはマニエリスムの自由な芸術表現によってルネサンス様式そのものを超克しようとしたように、精神史の上で、コルビュジエがいうところの「建築をめざして」、近代を建築の力によって超克することを、丹下はめざしたのである。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒したマルクス主義に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、第二次世界大戦での敗戦の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には、三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては、経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "建築史家の藤森照信によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという。事実、これだけの巨匠でありながら、生前MoMA(ニューヨーク近代美術館)に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった。なお、丹下自身は、東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)3月22日、心不全のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック関口教会)で葬儀が行われた。葬儀では、磯崎新が時折涙で声を詰まらせながら弔辞を読んだ。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は聖母マリアの夫であり大工でもあったヨセフであったことが、その時人々に知られた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)4月、広島平和記念資料館が、村野藤吾の世界平和記念聖堂(1953年、広島市中区幟町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めての重要文化財(建造物)指定となっている。また、2021年5月には1964年東京五輪の競技会場となった国立代々木競技場が同じく重要文化財の指定を受けることとなった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む", "title": "主要作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む", "title": "主要作品" } ]
丹下 健三は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
{{別人|x1=農業技術者・政治家の|丹下乾三}} {{Infobox 建築家 |image =Kenzo Tange 1981.jpg |image_size = |caption = |name = 丹下 健三<br /><small>たんげ けんぞう</small> |nationality = {{JPN}} |birth_date = [[1913年]]([[大正]]2年)[[9月4日]] |birth_place = [[大阪府]][[堺市]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1913|9|4|2005|3|22}} |death_place = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]] |alma_mater = [[東京大学|東京帝国大学]] |practice_name = [[丹下都市建築設計]] |significant_buildings= [[広島平和記念公園]]<br/>[[香川県庁舎]]<br/>[[カトリック関口教会#東京カテドラル聖マリア大聖堂|東京カテドラル聖マリア大聖堂]]<br/>[[代々木第一体育館]]<br/>[[山梨文化会館]]<br/>[[静岡新聞]]・[[静岡放送]]本社ビル<br/>[[東京都庁舎]] |significant_projects = |significant_design = |awards = [[日本建築学会賞]](1954、55、58年)<br/>[[RIBAゴールドメダル]](1965年)<br/>[[AIAゴールドメダル]](1966年)<br/>[[文化勲章]](1980年)<br/>[[プリツカー賞]](1987年)<br/>[[高松宮殿下記念世界文化賞]](1993年)<br/>[[勲一等瑞宝章]](1994年) }} [[ファイル:Yoyogi National Gymnasium.jpg|thumb|right|282px|代々木第一体育館 1964]] '''丹下 健三'''(たんげ けんぞう、[[1913年]]([[大正]]2年)[[9月4日]] - [[2005年]]([[平成]]17年)[[3月22日]])は、[[日本]]の[[建築家]]、[[都市計画家]]。[[一級建築士]](登録番号第15182号)。[[位階]][[勲等]]は[[従三位]][[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]、[[文化勲章]]受章。フランス政府より[[レジオンドヌール勲章]]受章。[[カトリック教会|カトリック]]信徒(洗礼名:ヨセフ)。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、[[日本人]]建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。[[第二次世界大戦]]復興後から[[高度経済成長|高度経済成長期]]にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。[[磯崎新]]、[[黒川紀章]]、[[槇文彦]]、[[谷口吉生]]などの世界的建築家を育成した。また、[[日本人]]並びに[[アジア人]]として初めて[[プリツカー賞]]を受賞した人物である。 == 年譜 == * 1913年([[大正]]2年) 丹下辰世(ときよ)とテイ(禎・禎子)の三男<ref group="注">先妻との間に2男1女があり、先妻の病没後に後添えとして入って2男2女をもうけたテイにとっては、第2子にして初めての男子にあたる。</ref>として[[大阪府]][[堺市]]に生まれる。[[住友銀行]]社員であった父の転勤によって生後まもなく[[中国]]の[[漢口]]へ。数年後さらに[[上海市|上海]]の[[イギリス]][[租界]]に移り住む。 * 1918年(大正7年) 上海・日本尋常小学校入学。 * 1920年(大正9年) 父の出身地である[[愛媛県]][[今治市]]に家族で移住。今治の第二尋常小学校(現・今治市立吹揚小学校)に編入。 * 1926年(大正15年) 旧制今治中学(現・[[愛媛県立今治西高等学校|今治西高校]])入学。 * 1930年([[昭和]]5年) 今治中学四年修了([[飛び級]])で[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現・[[広島大学]])理科甲類に進学。同校図書室で見た外国雑誌の[[ル・コルビュジエ]]の記事に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していた[[マルクス主義]]から[[実存主義]]に転向する<ref>丹下健三+藤森照信『丹下健三』(新建築社、2002)</ref>。 * 1933年(昭和8年)〜1934年(昭和9年) 東京帝国大学建築科の受験に2度失敗。[[東北大学|東北帝国大学]]金属学科に毎年1〜2名の欠員が出ると聞き受験するが、丹下が受けた年に限りたまたま1人だけ定員を超えており、丹下のみが落第する。[[徴兵逃れ]]のため[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]][[映画学|映画学科]]に在籍したがほとんど登校せず、[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]、[[アンドレ・ジッド|ジード]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]などを読み耽り、[[名曲喫茶]]で友人と語り合い、[[バー (酒場)|バー]]に出没した。「なぜ二年間にもなったかといえば、多感な青春時代、情熱をもって取り組む対象がどうしても文学だとか芸術だとかに偏してしまったから、ということにしておきたい」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.25)。丹下はまた「[[日本大学|日大]]の映画科には籍を置いたままで終わった。しかし、私は映画には大変興味を持っていて、そのころからしきりに言われた「総合芸術」に取り組んでみようと思ったことがあったのも事実である」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.27)とも述べている。同時期の日大芸術学部には[[黒澤明]]がいたとする資料もある<ref>[[草柳大蔵]]『新・実力者の条件』p.271(文藝春秋社、1972年)</ref>。 * 1935年(昭和10年) 東京帝国大学(現・[[東京大学]])工学部建築科に入学。[[内田祥三]]、[[岸田日出刀]]、[[武藤清]]に師事。1学年上に[[立原道造]]が在籍していた。 * 1938年(昭和13年) 東京帝国大学工学部建築科より[[辰野金吾|辰野]]賞を受賞。東京帝国大学工学部建築科卒業後、[[前川國男]]建築事務所に入所。当時の担当作品に[[岸記念体育会館]]があるが現存しない。 * 1941年(昭和16年) 東京帝国大学大学院に入学し、[[高山英華]]の研究室に入る。 * 1942年(昭和17年) 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。 * 1946年(昭和21年) 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。 * 1951年(昭和26年) [[CIAM]](国際近代建築会議)に招かれ、[[ロンドン]]で[[広島平和記念公園|広島計画]]を発表。初めての日本国外旅行となる。 * 1954年(昭和29年) [[日本建築学会賞|日本建築学会作品賞]](愛媛県民館)。以後同賞受賞がつづく(1955年図書印刷原町工場、1958年倉吉市庁舎)。 * 1958年(昭和33年) [[アメリカ合衆国]]建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。 * 1959年(昭和34年) 東京大学より[[工学博士]]の学位を受ける。博士論文は「大都市の地域構造と建築形態」。 * 1963年(昭和38年) 新設された[[東京大学工学部]][[都市工学科]]教授に就任。 * 1965年(昭和40年) [[日本建築学会]]特別賞(国立屋内総合競技場)。[[イギリス]][[RIBAゴールドメダル]]受賞。 * 1966年(昭和41年) アメリカ合衆国[[AIAゴールドメダル]]受賞。 * 1970年(昭和45年) [[ローマ教皇庁|ローマ法王庁]][[大聖グレゴリウス勲章]]受章。 * 1973年(昭和48年) [[フランス]]建築アカデミー ゴールドメダル受賞。 * 1974年(昭和49年) 東京大学を定年退官、名誉教授となる。 * 1976年(昭和51年) [[西ドイツ]]政府[[プール・ル・メリット勲章]]受章。 * 1979年(昭和54年) [[文化功労者]]に選出。[[イタリア共和国功労勲章]]コンメンダトーレ章受章。 * 1980年(昭和55年) [[文化勲章]]受章。 * 1984年(昭和59年) フランス[[芸術文化勲章]]コマンドール章受章。 * 1986年(昭和61年) 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。 * 1987年(昭和62年) アメリカ合衆国[[プリツカー賞]]受賞。新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで) * 1993年([[平成]]5年) [[高松宮殿下記念世界文化賞]]建築部門受賞。 * 1994年(平成6年) [[勲一等瑞宝章]]受章<ref>「94年秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、外国人の受章者」『読売新聞』1994年11月3日朝刊</ref>。 * 1996年(平成8年) フランス[[レジオンドヌール勲章]]受章。 * 2005年(平成17年) 3月22日死去(91歳)。贈[[従三位]]。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下に埋葬された。 == 業績 == <!--掲載画像のサイズは200pxに統一、1955-1969年までの建築された順番で掲載--> {{Vertical_images_list|幅=200px |画像1=Hiroshima Peace Memorial Museum 2009.jpg |説明1=広島平和記念資料館 1955 |画像2= |説明2= |画像3=St. Mary's Cathedral Tokyo.jpg |説明3=東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964 |画像4=Yamanashi-Bunka-Kaikan.jpg |説明4=山梨文化会館 1966 |画像5=Tokyo Metropolitan Government Building No.1 200908.jpg |説明5=東京都庁舎第一本庁舎 1991 }} [[1939年]](昭和14年)、丹下は雑誌『現代建築』に論文「[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]頌-[[ル・コルビュジエ]]論への序説として-」<ref group="注">正確なタイトル名は「MICHELANGERO頌-Le Corbusier論への序説として-」である。</ref>を発表し、つづく[[1941年]](昭和16年)に[[前川國男|前川国男]]建築設計事務所で[[岸記念体育会館]]<ref group="注">[[1964年]](昭和39年)に東京都渋谷区へ移転しており、現存しない。正確には、岸田日出刀設計顧問、前川國男建築設計事務所設計監理であるが、実際に設計を担当したのは丹下健三である。[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、67頁。事実、発表に当たって前川と共に丹下の名前も並記されている。[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、84頁。</ref>の設計を担当したが、その名が一躍世に知られるようになったのは、[[1942年]](昭和17年)の大東亜建設記念営造計画<ref group="注">大東亜建設記念営造計画は誤って「造営」と表記される事も多いが、正しくは「営造」である。大東亜建設記念営造計画の画像→[http://artstudy.exblog.jp/3582481/ 20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?「第4回レクチャーレポート1」] 2012年3月21日閲覧。なお、大東亜建設記念営造計画案と広島計画との比較はこちらを参照されたい。→[http://blogs.yahoo.co.jp/ekusnnok/22516404.html 空のたね「広島平和記念公園デザインの起源 〈その2・補足〉」] 2012年3月21日閲覧。[https://web.archive.org/web/20150109124801/http://wave.ap.teacup.com/yumoku/3.html YuMoKu REPORT 「広島ピースセンター1」] 2012年3月21日閲覧。</ref>[[建築設計競技|コンペ]]と、それに立て続いて1等入選を果たした、[[1943年]](昭和18年)の在[[盤谷]]日本文化会館計画コンペによってである。 特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案、「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、ヒューマンスケールを遥かに超えた壮大なプランと、[[横山大観]]風の日本画を想わせるその[[遠近法|パースペクティブ]](透視図)によって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事であり、それゆえ到底実施案となり得なかった地味なこのコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることになった<ref>[[#井上章一2006|井上章一2006]]、289-292頁。</ref>。 同時期の大学院時代から第二次世界大戦後しばらくにかけては、主に[[都市計画]]の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を第二次世界大戦後に日本建築学会で発表し、後にそれをもとに[[1959年]](昭和34年)に博士号学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、[[1946年]](昭和21年)8月に東京大学助教授に就任すると、[[福島市]]の依頼による福島地区都市計画([[1947年]])や[[立川飛行場|立川基地]]跡地の文化都市計画、[[北海道]][[稚内市]]の都市計画([[1950年]]から[[1952年]]まで)などを手がけていった。その間の[[1948年]](昭和23年)には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の[[1950年]](昭和25年)には[[経済安定本部]]資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から[[戦災復興院]](後の[[建設省]]。現・[[国土交通省]])による各地の[[戦災復興都市計画]]に参加した。当初の担当は[[群馬県]][[前橋市]]と[[伊勢崎市]]であった<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信2002]]、118-127頁。</ref>。 [[広島市|広島]]に原爆が投下された[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって[[尾道市|尾道]]にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており<ref group="注">[[#丹下健三1997|丹下健三1997]]、41頁には「郷里から『チチシス』の電報が届いた」との記述があるが、[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、112頁の丹下のインタビューでの言葉「8月の2日かな、親父が今治で危篤だという知らせを受けまして」に従った。</ref>、また[[広島市への原爆投下]]と同じ日に実施された[[今治市|今治]]への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエの[[ソビエト宮殿|ソビエト・パレス]]<ref group="注">ソビエト・パレス(模型)の画像→[http://www.arth.upenn.edu/spr01/282/w6c2i29.htm Penn History of Art "Le Corbusier, project for the Palace of Soviets Competition, 1931."] 2012年3月21日閲覧。</ref>計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た<ref>[[#丹下健三1997|丹下健三1997]]、62頁。</ref>。[[浅田孝]]・[[大谷幸夫]]ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した<ref>[[#丹下健三2011|丹下健三2011]]、248-249頁。</ref>。その成果は、広島市主催の[[広島平和記念公園]]のコンペに参加した際、1位で入選という形で結実する。 他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く[[平和大通り]](幅員100m、長さ4kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に、慰霊碑と[[原爆ドーム]]を配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信2002]]、139-143頁。</ref>。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信2002]]、142-143頁。</ref>。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、[[ランドマーク]]としての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来る<ref>[[#井上章一2006|井上章一2006]]、297-298頁。</ref>。 実際、[[1966年]](昭和41年)7月の[[広島市議会]]において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである<ref>[[#ヒロシマ・ナガサキ|ヒロシマ・ナガサキ]]、86頁。</ref><ref>[[#丹下健三2011|丹下健三2011]]、251頁。</ref>。 しかしながら今日に至ってみれば、[[日清戦争]]当時[[大本営]]がおかれて臨時首都となり、明治以来、[[広島城]]を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た廣島市<ref>[[#東琢磨2007|東琢磨2007]]、33-36頁。</ref>が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり<ref>[[#濵井信三2006|濵井信三2006]]、57-64頁。</ref><ref>[[#丹下健三2011|丹下健三2011]]、247頁。</ref>(原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは[[1958年]]のことである<ref>[[#ヒロシマの記録|ヒロシマの記録]]、137頁。</ref>)、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る<ref>[[#丹下健三1997|丹下健三1997]]、64-65頁。</ref>。 同時期、第二次世界大戦後の日本建築界の幕開けを告げる、当時日本最大級のコンペであった[[世界平和記念聖堂]]の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主である[[カトリック教会]]が、丹下案と類似する[[オスカー・ニーマイヤー]]設計の[[ブラジル]]・パンプーリャの[[サン・フランシスコ礼拝堂]]に見られる[[放物線]]状の[[シェル構造]]が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(1等なしの2等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、コルビュジエ派である丹下案を酷評した[[表現主義|表現派]]の[[村野藤吾]]が担当することになり、日本建築界の一大スキャンダルとなる<ref group="注">日本的かつカトリック的な近代キリスト教会建築という建築設計競技のコンセプトに対する解答者としては、結果的に見て丹下より村野の方が適任であったと言える。また、村野本人は設計料を受け取ることを辞退した。</ref>。 そのような経緯もあり、資材の払底した第二次世界大戦時中ならびに第二次世界大戦終決直後に若年期を過ごさざるを得なかった丹下健三にとっては、[[広島平和記念資料館]]は事実上のデビュー作である。[[コンクリート打放し]]の端正なプロポーションを、都市的スケールの[[ピロティ]]で大地から軽々と持ち上げることによって、広島の焦土からの復興を力強く印象づけ、第二次世界大戦後の日本建築はここから始まったと言われるほどの記念碑的な作品ともなった。コルビュジエのスイス学生会館や[[ソビエト宮殿|ソビエト・パレス]]計画、また[[ユニテ・ダビタシオン]]の影響だけでなく、[[法隆寺]]や[[厳島神社]]の伽藍配置、また[[正倉院]]・[[伊勢神宮]]・[[桂離宮]]などの日本建築の精華にデザインソースを求めた<ref group="注">広島ピースセンター設計にあたり、法隆寺や伊勢神宮や桂離宮を参照したとは丹下自身の言であるが、桂の影響は言わずもがな、伊勢の影響は平和記念資料館本館(コンペ時は原爆災害資料陳列館)のピロティ柱に見て取る事が出来る。資料館の原イメージとして当初意識していた正倉院の高床式校倉造りでは、原爆被災からの復興という「力強さ」に欠けると丹下が直感したからである。ヒューマンスケールと明確に隔絶する都市的スケールで持ち上げられたピロティの空隙を「中心性の空虚」と捉え直せば、左右非対称のマッス(量塊)を両翼に展開させたその構成を、法隆寺における日本独自の伽藍配置からの影響と見て取ることも可能である。現在のピースセンターは、一見オーソドックスなシンメトリーな配置に見えるが、コンペ段階で西ウィングに計画されていたのは、台形状のボリュームを持つ集会場(後の公会堂。現・国際会議場)であり、東ウィングの現・平和記念資料館東館(コンペ時は平和会館。後の平和記念館)と対になるようにそれを模して改装された今となっては、その横幅の違いに法隆寺のアシンメトリーな伽藍配置の影響の名残を見出すことが出来る。しかしながらランドスケープを素直に読み解けば、大鳥居をシンボライズした厳島神社の伽藍配置とコルビュジエのソビエト・パレス案からの影響とするのが妥当であろう。</ref>これら一連の広島ピースセンターの建築によって、西洋起源のモダニズムと日本建築の伝統様式は初めて記念碑的レヴェルで結晶し、丹下はこの広島計画<ref group="注">広島計画の詳細についてはこちらを参照されたい→[https://web.archive.org/web/20090505204228/http://www.arch-hiroshima.net/arch-hiroshima/arch/delta_center/p-museum.html arch-hiroshima「広島平和記念資料館 および平和記念公園」] 2012年3月21日閲覧。</ref>をもって、[[CIAM]](シアム・ 近代建築国際会議)に参加し、その名を日本国外に知らしめた。 また、丹下はこの事業に[[イサム・ノグチ]]を強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった[[岸田日出刀]]の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、[[原爆死没者慰霊碑|慰霊碑]]はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった<ref>[[#丹下健三2011|丹下健三2011]]、259頁。</ref>。丹下は、岸田らの介入に対する不快感とノグチへの申し訳なさもあって<ref group="注">[[#検証ヒロシマ|検証ヒロシマ]]、36-37頁には「(委員の中に)『原爆を落とした国の人間がつくった慰霊碑なんて』という人がいたんです。丹下さんはその板挟みになり最後はイサムに『自分の力ではどうにも…』と手をついて兄イサムに謝った」という記述がある。また[[#平松剛2008|平松剛2008]]、263頁には「丹下は広島市長と問題解決のために奔走し、時にはノグチ本人も加わって建設大臣にまで訴えたけれど、決定はどうしても覆らなかった」という記述もある。</ref>、ノグチのデザインをほぼそのまま流用しながら、自分自身の当初の構想に立ち返って[[埴輪]]の家の屋根形にデザインした<ref>[[#丹下健三2011|丹下健三2011]]、258-260頁。</ref>。しかし、結果的には、慰霊の際、ノグチの手によるモニュメンタル性の強いオブジェ<ref group="注">オブジェ(模型)の画像→[https://987.blog.ss-blog.jp/2006-06-10 MONOMONO「モノから思い出」 "The Noguchi Museum. NY-12"] 2012年3月21日閲覧。</ref>を拝む形になるのではなく、人々が慰霊碑に相対したときに視線の先に原爆ドームが自然に垣間見える様になって、平和公園は単なる慰霊施設ではなく平和を祈念し「平和を創り出すための工場」であるべきだという丹下の建設理念<ref group="注">この丹下の考えのベースにあったのは[[1949年|1949年(昭和24年)]][[8月6日]]に公布された[[広島平和記念都市建設法]](法律第219号)である。この法律の目的は「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」であり、広島市を他の戦災都市と同じように単に復興するだけでなく、恒久平和を象徴する平和記念都市として建設しようということであった。丹下は広島市の復興都市計画策定の初期から関わっており、その理念を可視化することが彼に与えられた使命であった。</ref>がより明確となった。そこから、後にこれらの施設がピースセンターと呼ばれることにもなる。 [[File:Kagawa-Pref-Office-east.jpg|thumb|200px|香川県庁舎]] その後、スチール製グリッドのシャープなエッジを見せた旧東京都庁舎や、日本での伝統木造建築・木割り(日本の伝統的な木造建築において、各部分の大きさや寸法を規定する規範または原理。西洋建築における[[オーダー (建築)|オーダー]]にあたる)をコンクリートで稠密に再現した[[香川県庁舎]]などの、いわゆる広島平和記念資料館と合わせて初期三部作と呼ばれる傑作を設計した。とりわけ香川県庁舎は第二次世界大戦後の日本全国の地方自治体庁舎のモデルともなり、数多い丹下建築の中でも唯一のビルディング・タイプ(形式がある特徴)を有する建築である<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、184頁。</ref>。1961年(昭和36年)に'''丹下健三・都市・建築設計研究所'''を設立した。同年発表された海上都市計画「東京計画1960」は、日本発の都市計画の嚆矢として世界的にも評価が高い。丹下は生涯にわたって「建築家としてトータルに都市をデザインすること」に情熱を持ち続け、それにより都市的観点から構想された数々の総合的な建築計画が生み出され、その点が他の同世代の巨匠建築家と比較して違いが際立っているところである<ref>[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、84頁。</ref>。 壮年期の丹下は、日本国外からもたらされる[[シェル構造]]や折板構造などの様々な新技術や建築の新思潮を精力的に消化しながら、[[1964年]](昭和39年)の[[カトリック関口教会#東京カテドラル聖マリア大聖堂|東京カテドラル聖マリア大聖堂]]と [[国立代々木競技場|東京オリンピック国立屋内総合競技場]](正式名称:国立代々木屋内総合競技場)において、自身の建築歴の頂点を極めることになる。両作品ともに、当時の最先端の構造技術を咀嚼しながらも独自の発展を見せ、東京カテドラル聖マリア大聖堂ではHPシェル構造を用い、国立屋内総合競技場では[[吊り構造]]を用いて、構造と形態を高度な次元で融合させながら、なおかつ至高性をも表現することに成功したモダンデザインの傑作である。前者は現代キリスト教会建築の中でも屈指のものであり、後者はコルビュジエのソビエト・パレス案からマシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナ(ローリー競技場)を経て、[[エーロ・サーリネン]]の[[イェール大学]]アイスホッケーリンクに至る流れの中で、吊り構造の決定打にして完成作とも評され、世界に衝撃を与えた<ref>[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、146頁。</ref>。 特に東京オリンピックプールの評判<ref group="注">幾度にも渡る改修を経てプール施設は半恒久的に体育フロアとして仮構され、汚れの目立ったコンクリート打ち放し面が塗装されたほか、特にインテリアにおいて内部空間を引き締めていた飛び込み台が撤去されるなど、往時の持っていた至高性が著しく失われたと評される向きがあり、建築界からも建設当時の趣きを保存し再現せよとの声がある。例えば、[[#新建築2005-5|新建築2005-5]]「至高の空間」[[槙文彦]]、24頁。</ref>は素晴らしく、アメリカ水泳選手団の団長は感激のあまり、「将来自分の骨を飛び込み台の根元に埋めてくれ」と申し出たと伝えられる程であった<ref name="fujimori-p.326">[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、326頁。</ref>。 大会後、[[国際オリンピック委員会]]は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。ここにひとりの建築家<ref group="注">もちろん丹下ひとりの力ではなく、[[神谷宏治]]、構造担当の[[坪井善勝]]、[[川口衞]]、設備担当の[[井上宇市]]、[[尾島俊雄]]ほか、多くのスタッフの協同の賜物であることは言うまでもない。特に[[1953年]]の「広島子供の家」よりコンビを組んで来た[[構造家]]坪井善勝の力は大きく、構造設計のスタッフの中には「あれは、我々がデザインした」と言い切る者が何人もいるという。[[#新建築2005-5|新建築2005-5]]、23頁。</ref>が、その建築表現の持つ力によって、国際社会に与える影響力の大きさにおいても、主催者である行政や組織と比肩しうるものであることを全世界に実証したのである<ref name="fujimori-p.326"/>。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。 [[ファイル:Osaka Expo'70 Festival Plaza.jpg|thumb|200px|[[日本万国博覧会|大阪万博]]・お祭り広場の[[大屋根 (大阪万博)|大屋根]]]] [[1970年]](昭和45年)の[[日本万国博覧会|大阪万博]]では、京都大学教授の[[西山夘三]]と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。「[[大屋根 (大阪万博)|大屋根]]」をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを[[太陽の塔]]が突き破ってそそり立つという[[岡本太郎]]とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。 建築のスタイルは本来[[モダニズム]]系統であり、当初は[[ポストモダン建築]]を単なる[[意匠]]だと批判していたが、晩年には[[ポストモダン]]の傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である[[東京都庁舎|東京都新庁舎]]は、[[ゴシック建築]]である[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|パリのノートルダム大聖堂]]の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁[[プレストレスト・コンクリート|PC板]]に濃淡二種類の[[花崗岩]]を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さ<ref group="注">同時期の丹下設計による同形のデザインである[[OUBセンター|シンガポールOUBプラザ]]の('''主な作品・外観画像'''を参照のこと)間延びした感じと比較対照すると、公共建築でありながらコストが掛かり過ぎるとの批判にもかかわらず、記念碑性を欲した丹下が[[花崗岩]]打ち込みにこだわったデザイン意図が理解出来よう。</ref>を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代を[[集積回路|IC]](集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている<ref>[[#日経BP 2005|日経BP 2005]]、118頁。</ref>。 == 評価 == 日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに達していたが、丹下の[[国立代々木競技場|東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)]]によって初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい<ref>例えば、[[#Casa BRUTUS 2009|Casa BRUTUS 2009]]、146、149頁。詳細は[[ノート:丹下健三#「要出典」に対する情報源の開示|ノートページの当該箇所]]で。</ref>。 それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言える。第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した[[日本万国博覧会|大阪万博]]以降、その活躍の場は必然的に[[中東]]や[[アフリカ]]、また[[東南アジア]]の[[開発途上国|発展途上国]]に移っていった。唯一とも言える例外は[[イタリア]]である。 自らがアイデアを出して、それを単にスタッフに図面化させるのではなく、建築設計のオーケストレーションとも言えるプロダクション制を導入し、協同で設計する手法を確立した<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、170-172頁。</ref>。それにより後年、丹下の下からは[[大谷幸夫]]・[[浅田孝]]・[[沖種郎]]・[[槇文彦]]・[[神谷宏治]]・[[磯崎新]]・[[黒川紀章]]・[[谷口吉生]]ら多くの優れた人材が輩出されたが、反面、特に[[1980年]](昭和55年)以降の作品において、独創性が犠牲にされたとの批判もある<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、283-284頁。</ref>。 [[東京都庁舎]](新都庁舎、[[1991年]]竣工)では[[新都庁舎コンペ|指名コンペ]]が行われたが、大方の予想通りに、当時の都知事・[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]との強いつながりを持つ丹下の設計案が当選し、「出来レース」とも評された<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、351-359頁。</ref><ref>[[#五十嵐太郎2006|五十嵐太郎2006]]、222頁。</ref>。 鈴木とのつながりは<ref group="注">鈴木自身の回想によれば、丹下とは東京オリンピック以前に既に知り合いであり、電力業界の大物・[[松永安左エ門]]が[[1956年|1956年(昭和31年)]]に組織した民間のシンクタンク「[[産業計画会議]]」で関わりがあったという。そこでの議題のひとつに東京臨海部の開発計画があり、丹下は当時住宅公団総裁だった[[加納久朗]]とともに、東京湾に巨大人工島を造る計画を提案しており、これが後に「東京計画1960」に繋がって行くことになる。[[#平松剛2008|平松剛2008]]、275-276頁。</ref>、鈴木が[[1964年東京オリンピック]]の準備のために、地方自治庁(後の[[自治省]]。現・[[総務省]])から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任した経緯もあって、のちに鈴木が都知事選に初出馬した際には、丹下はその後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは、「自身のスタイル・信条であったはずの[[モダニズム]]を捨て、かつて出口なしとまで批判した[[ポストモダニズム]]にすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある[[新宿]]の[[超高層ビル]]群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの意の厳しい批判を受けた<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、25-29、452頁。</ref><ref>[[#建築三粋人1997|建築三粋人1997]]、75頁。</ref><ref>[[#宮内嘉久2005|宮内嘉久2005]]、171-172頁。</ref>。 一方、出来レースとの批判が予想されるなかで、重鎮となっても尚、そのような批判をはね除けるに足る圧倒的なパフォーマンスでコンペを勝ち抜く図太さや老獪さ、また成功した過去の自分のスタイルに拘泥しない柔軟さや、記念碑性を含めたデザイン意図の的確さといった点を評価する者もある<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、338-345、351-359頁。</ref><ref name="igarasi-pp.221-224">[[#五十嵐太郎2006|五十嵐太郎2006]]、221-224頁。</ref>。 建築の専門家ほど酷評する傾向にあるが、一般には受けが良いようであり、完成以来[[観光名所]]となって、[[新宿副都心]]のランドマークとして認知されている<ref>[[#平松剛2008|平松剛2008]]、457頁。</ref><ref name="igarasi-pp.221-224"/>。 かつて、[[ソビエト宮殿|ソビエト・パレス]]との出会いが、大学受験間際になって志望を[[建築学科]]に変えさせたように、丹下に対する[[ル・コルビュジエ]]の強い影響は、[[卒業制作|卒業設計]]においても鮮明に出ている。そのことは、後年自らの作品にコルビュジエ由来のデザインを数多く引用していることでも明らかであるが、そのコルビュジエの計画案のひとつであるソビエト・パレスの圧倒的な影響のもとに、一対のマッス(量塊)と直交する軸線上の先にアイストップ(視線がとまる対象物)を配置するというプランは構想され、大東亜建設記念営造計画から[[広島平和記念公園]]、[[ナイジェリア]]の新首都[[アブジャ|新首都アブジャ都心計画]]に至るまで、たびたび用いられて丹下の十八番となった。 一方で、[[ランドスケープ]]において対称軸を通すということや、広場にモニュメンタルな象徴性を持たせるということを、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の[[カンピドリオ|カンピドリオ広場]]からの影響と見て取ることも出来る。丹下自身は晩年に至って、古今東西の建築家のなかで誰が一番かと問われると、コルビュジエよりもミケランジェロの方が上だと言い<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、448頁。</ref>、そのことは出世論文のタイトル「MICHELANGERO頌」(頌とは誉め讃えるの意)においても明確に示されている。丹下はその論文の中で[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]の[[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダーリン]]論を援用し、[[ヴァルター・グロピウス|グロピウス]]流の四角四面な建築幾何学から離れて、建築が自由な創造行為に昇華される過程で聖性(至高性・精神性)をも獲得し、社会的要請が建築を作るのではなく、建築家が建築行為を通じて世界を再創造していくという論旨を展開し、[[コペルニクス的転回]]によって建築と歴史との関係性を逆転させている<ref>[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信 2002]]、57、62-65頁。</ref>。 つまり、丹下はコルビュジエの近代建築の語法を用いながら、ミケランジェロの芸術の持つ宗教的な記念碑的超越性を、近代建築においても獲得させることをめざしているのである。そのことが個人生活においては、(ある意味、[[サグラダ・ファミリア]]における[[アントニ・ガウディ]]のような)建築するという行為への献身的な専心となって表れ、建築設計においては都市計画への強い関心となって現れた。かつてミケランジェロが[[ルネサンス]]において、[[サン・ピエトロ大聖堂]]大改築の主任設計士として中世を超克しようとしたように、あるいは[[マニエリスム]]の自由な芸術表現によって[[ルネサンス建築|ルネサンス様式]]そのものを超克しようとしたように、精神史の上で、コルビュジエがいうところの「[[建築をめざして]]」、近代を建築の力によって超克することを、丹下はめざしたのである<ref>[[#ル・コルビュジエと日本|ル・コルビュジエと日本]]、200-203頁。</ref>。 そしてそのことを、目論見の成否は別にして、若き頃傾倒した[[マルクス主義]]に対する挫折からの脱却をめざした「大東亜記念営造計画」から、第二次世界大戦での[[日本の降伏|敗戦]]の挫折においては、焦土からの脱却を「広島ピースセンター」で、同じく名誉的には、三等国から一等国への国際的復帰を「代々木オリンピックプール」で、さらには実質的な面においては、経済大国への脱皮を「大阪万国博覧会」の総合プロデュースによって、また大阪万博以降、力の振るいどころがなくなった日本国内への帰還をめざした「新都庁」に至るまで、生涯一貫して追求し続けていたと総括することが出来る<ref>論拠を[[#丹下健三・藤森照信2002|丹下健三・藤森照信2002]]の詳解な立論に負う。とくにその「第2章 学生時代」「第3章 修業時代-前川事務所にて-」を参照。</ref>。 [[建築史家]]の[[藤森照信]]によれば、丹下健三ほど純粋な建築家はなく、建築以外の分野にも、また自身の過去にも興味がなかったという<ref>[[#Casa BRUTUS2005-6|Casa BRUTUS2005-6]]、45頁。</ref>。事実、これだけの巨匠でありながら、生前[[ニューヨーク近代美術館|MoMA(ニューヨーク近代美術館)]]に請われながらでさえ、過去一度も回顧展の類いが催されることがなかった<ref name="sinkentiku-p.20">[[#新建築2005-5|新建築2005-5]]、20頁。</ref>。なお、丹下自身は、東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)と山梨文化会館を代表作だとしている<ref>[[#越後島研一2003|越後島研一2003]]、88頁。</ref>。 [[2005年]](平成17年)[[3月22日]]、[[心不全]]のため91歳で死去した際には、自ら設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂([[カトリック関口教会]])で葬儀が行われた。葬儀では、[[磯崎新]]が時折涙で声を詰まらせながら弔辞を読んだ<ref name="sinkentiku-p.20"/>。生前カトリックの受洗に与っており、洗礼名は[[聖母マリア]]の夫であり大工でもあった[[ナザレのヨセフ|ヨセフ]]であったことが、その時人々に知られた<ref name="sinkentiku-p.20"/>。 [[2006年]](平成18年)4月、[[広島平和記念資料館]]が、[[村野藤吾]]の[[世界平和記念聖堂]]([[1953年]]、広島市中区幟町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めての[[重要文化財]](建造物)指定となっている。また、2021年5月には1964年東京五輪の競技会場となった[[国立代々木競技場]]が同じく重要文化財の指定を受けることとなった。 == 家族 == * 父方の伯父・丹下辰雄 (1865-1921)は明治時代に[[今治市]]の大手綿織物業者「[[興業舎]]」の支配人となり、同社経営のほか、[[今治商業銀行]]の重役など、今治商業界の重鎮として活躍した<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-6047 丹下辰雄]『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]</ref><ref>[https://www.i-kahaku.jp/publications/bulletin/pdf/11/kagaku07.pdf 今治綿織物業者「興業舎」の明治から昭和の社業変遷の一面]藤本雅之、愛媛県総合科学博物館研究報告,11,35-46,(2006)</ref>。 * 父の丹下辰世(ときよ、1872年生)は[[旧制今治中学]]卒業後、[[住友銀行]]に入社し、大阪[[堺]]、[[武漢]]、[[上海]]の支店勤務を経て、兄辰雄の急死により、兄の事業や重職を引き継いだ<ref>[https://www.i-kahaku.jp/good_story/home/05_05/index.html 丹下健三の父・伯父と今治]愛媛県総合科学博物館</ref>。 * 兄(異母)の[[丹下郁太郎]]は[[朝鮮総督府]]官僚<ref>{{Citation|和書|author = [[明珍昇]]|title = 評伝安西冬衛| publisher = 桜楓社| date = 1974| pages = 27}}</ref><ref>{{Citation|和書|author = [[八木信雄]]|title = 日本と韓国| publisher = 日韓文化協会| date = 1978| pages =211 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=愛媛県立図書館 |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000283483 |title=丹下郁太郎(今治出身)関連資料、特に戦後の資料はあるか。 |website=レファレンス協同データベース |date=2020-6-24 |accessdate=2022-03-09}}</ref>。 * 息子の[[丹下憲孝]]は同じく建築家、[[丹下都市建築設計]]代表。 == 主要作品 == === 建築作品 === 丹下健三・都市・建築研究所名義のものも含む <!--現存・非現存の資料的根拠を「丹下建築100選『CASA BRUTAS 丹下健三DNA』藤森照信監修、マガジンハウス、2005年9月発行、pp.109-132」および「丹下建築100選『CASA BRUTUS 丹下健三を知っていますか?』藤森照信監修、マガジンハウス、2009年6月発行、pp.83-106」におく。現在日時での正確性は不明--> ==== 1940・50年代 ==== {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国 !! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|きしきねんたいいくかん/}}岸記念体育会館||[[1941年]] || {{東京}}都千代田区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|ひろしまへいわきねんしりようかん/}} [[広島平和記念資料館|広島平和会館原爆記念陳列館]]||[[1952年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || 重要文化財 || 現・広島平和記念資料館本館(旧・西館) |- | {{Display none|ひろしまことものいえ/}}広島子供の家||[[1953年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || 現存せず || 広島市児童図書館(現・[[広島市こども図書館]]) |- | {{Display none|えひめけんみんかん/}}愛媛県民館||[[1953年]] || {{愛媛}}県松山市 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|たんけけんそうしてい/}}丹下健三自邸 ||[[1953年]] || {{東京}}都世田谷区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|しみすしちようしや/}}[[清水市]]庁舎 ||[[1954年]] || {{静岡}}市清水区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|つたしゆくたいかくとしよかん/}}[[津田塾大学]]図書館||[[1954年]] || {{東京}}都小平市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ひろしまへいわかいかんほんかん/}}[[広島平和記念資料館|広島平和会館本館]] ||[[1955年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || 現存せず || 1994年に同様のデザインで建て替えられ、現在は「広島平和記念資料館東館」が建っている |- | {{Display none|ひろしましこうかいとう/}}広島市公会堂 || [[1955年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || 現存せず || 広島平和記念公園及び記念館競技設計1等当選案に基づくが、<br />実施設計は丹下研究室のものではない<br />1989年に同様のデザインで建て替えられ、現在は「広島国際会議場」が建っている |- | {{Display none|ひろしまへいわきねんこうえん/}} [[広島平和記念公園]] ||[[1955年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || 国の名勝 || |- | {{Display none|としよいんさつはらまちこうしよう/}}図書印刷原町工場 ||[[1955年]] || {{静岡}}県沼津市 || {{JPN}} || || 現・図書印刷沼津工場 |- | {{Display none|とうきようとちようしや/}}旧東京都庁舎 ||[[1957年]] || {{東京}}都千代田区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|くらよししちようしや/}}[[倉吉市]]庁舎 ||[[1957年]] || {{鳥取}}県倉吉市 || {{JPN}} || 登録有形文化財 || |- | {{Display none|すんふかいかん/}}駿府会館 ([[静岡市]]体育館) ||[[1957年]] || {{静岡}}市葵区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|すみかいかん/}} 墨記念館([[墨会館]])||[[1957年]] || {{愛知}}県一宮市 || {{JPN}} || 登録有形文化財 || 現・尾西生涯学習センター墨会館及び小信中島公民館 |- | {{Display none|かかわけんちようしや/}}[[香川県庁舎]] ||[[1958年]] || {{香川}}県高松市 || {{JPN}} || || 現・[[香川県庁舎]]東館、重要文化財 |- | {{Display none|いまはりしちようしや/}}[[今治市役所]]庁舎 ||[[1958年]] || {{愛媛}}県今治市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|いまはりしこうかいとう/}}[[今治市公会堂]] ||[[1958年]] || {{愛媛}}県今治市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|そうけつかいかん/}}旧草月会館 ||[[1958年]] || {{東京}}都港区 || {{JPN}} || 現存せず || |- |} {| align=left |- bgcolor=#eaecf0 align=center valign=top ||[[ファイル:Hiroshima Children's Library.jpg|180px|center]]{{fontsize|90%|広島子供の家(1953年)}} ||[[ファイル:Ehime Convention Hall.jpg|180px|center]]{{fontsize|90%|愛媛県民館(1953年)}} ||[[ファイル:Tange House.jpg|214px|center]]{{fontsize|90%|丹下健三自邸(1953年)}} |} {{clear}} ==== 1960年代 ==== {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国 !! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|くらしきしちようしや/}}旧[[倉敷市]]市庁舎||[[1960年]] || {{岡山}}県倉敷市 || {{JPN}} || || 現・[[倉敷市立美術館]] |- | {{Display none|りつきようたいかく/}}[[立教大学]]図書館||[[1960年]] || {{東京}}都豊島区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|いまはりしんようきんこほんてん/}}今治信用金庫本店||[[1960年]] || {{愛媛}}県今治市 || {{JPN}} || || 現・愛媛信用金庫今治支店 |- | {{Display none|てんつうおおさか/}}電通大阪支社||[[1960年]] || {{大阪}}市北区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|こくよとうきようしてん/}}コクヨ東京支店 ||[[1961年]] || {{東京}}都 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|とつかかんとりくらふ/}}戸塚カントリークラブ・クラブハウス ||[[1961年]] || {{神奈川}}県横浜市 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|にちなんしふんかせんた/}}[[日南市文化センター]]||[[1962年]] || {{宮崎}}県日南市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|かかわけんりつたいいくかん/}}[[香川県立体育館]] ||[[1964年]] || {{香川}}県高松市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|とうきようかてとらるせいまりあたいせいとう/}}[[カトリック関口教会#東京カテドラル聖マリア大聖堂|東京カテドラル聖マリア大聖堂]] || [[1964年]] || {{東京}}都文京区 || {{JPN}} || ||1970年、ローマ法王庁がサン・グレゴリオ・マンニャ勲章を授与<ref>丹下健三氏に法王庁から勲章『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月10日朝刊 12版 15面</ref> |- | {{Display none|こくりつよよききようきしよう/}} [[国立代々木競技場]]第一・第二体育館 ||[[1964年]] || {{東京}}都渋谷区 || {{JPN}} || <!--重要文化財<ref>{{Cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20210521/k00/00m/040/192000c|title=代々木競技場など7件を重要文化財に指定へ 東京五輪会場|accessdate=2021-05-21|publisher=毎日新聞}}</ref>-->|| |- | {{Display none|てんしょうこうたいじんぐうきょうほんふとうしよう/}}[[天照皇大神宮教]]本部道場 ||[[1964年]] || {{山口}}県田布施町 || {{JPN}} || || 基本設計のみ<ref group="注">実施設計は[[沖種郎]]、[[大谷幸夫]]等が携わる。</ref> |- | {{Display none|いまはりしみんかいかん/}}今治市民会館||[[1965年]] || {{愛媛}}県今治市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|せんほつかくときねんかん/}}[[若人の広場|戦没学徒記念館]] ||[[1966年]] || {{兵庫}}県南あわじ市 || {{JPN}} || || 現・若人の広場公園 |- | {{Display none|やまなしふんかかいかん/}}[[山梨文化会館]] ||[[1966年]] || {{山梨}}県甲府市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|しすおかしんふんしすおかほうそうとうきようししや/}}[[静岡新聞・静岡放送東京支社ビル]] ||[[1967年]] || {{東京}}都中央区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|てんつうきゆうほんしやひる/}}[[電通]]旧本社ビル||[[1967年]] || {{東京}}都中央区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ゆかりふんかようちえん/}}ゆかり文化幼稚園 ||[[1967年]] || {{東京}}都世田谷区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|しんほくしせいしんしよしたいかく/}}[[新北市]][[八里区|八里]]・聖心女子大学 ||[[1967年]] || [[新北市]] || {{ROC}} || 一部竣工<ref group="注">大学設置不認可のため聖心女子中学に転用 </ref> || |- | {{Display none|にゆよくふらつしんくめとう/}}フラッシング・メドウ・スポーツ・パーク ||[[1967年]] || [[ニューヨーク]] || {{USA}} || || |- | {{Display none|いまはりしんようきんこときわちようしてん/}}今治信用金庫常盤町支店||[[1967年]] || {{愛媛}}県今治市 || {{JPN}} || || 現・愛媛信用金庫常盤町支店 |- | {{Display none|とうきようせいしんいんたなしよなるすくる/}}東京聖心インターナショナル・スクール ||[[1968年]] || {{東京}}都渋谷区 || {{JPN}} || || |- |} <gallery widths="150px" heights="150px"> ファイル:Ehime shinkin imabari branch.jpg|今治信用金庫本店(1960年) ファイル:Memorial Hall for Students who Perished in the War2.jpg|戦没学徒記念館(1966年) ファイル:Yamanashi Culture Chamber.jpg|山梨文化会館(1966年) ファイル:Shizuoka Press and Broadcasting Center Tokyo.jpg|静岡新聞・静岡放送東京支社ビル(1967年) ファイル:Old dentsu building.JPG|電通旧本社ビル(1967年) </gallery> ==== 1970年代 ==== {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国 !! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|にほんはんこくはくらんかいかいしよう/}}[[日本万国博覧会]]会場基幹施設計画・お祭り広場||[[1970年]] || {{大阪}}府吹田市 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|にほんおりへつていこうほく/}}日本オリベッティー港北中央倉庫||[[1970年]] || {{神奈川}}県横浜市 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|しすおかしんふんしすおかほうそうほんしやひる/}}[[静岡新聞]]・[[静岡放送]]本社ビル(静岡新聞放送会館)||[[1970年]] || {{静岡}}市駿河区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ちゆうにちくうえいとたいしかん/}}[[駐日クウェート大使館]] ||[[1970年]] || {{東京}}都港区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|いまはりしちようしやたいいち/}}今治市庁舎第一別館 ||[[1972年]] || {{愛媛}}県今治市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ミナアポリスアト/}}[[ミネアポリス美術館|ミネアポリス・アート・コンプレックス]] ||[[1974年]] || [[ミネアポリス]] || {{USA}} || || 増築 |- | {{Display none|さいにちふるかりあたいし/}}[[駐日ブルガリア大使館]] ||[[1974年]] || {{東京}}都渋谷区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|さいめきしこにほんたいしかん/}}[[在メキシコ日本国大使館|在メキシコ日本大使館]]||[[1976年]] || [[メキシコシティ]] || {{MEX}} || ||2015年11月に大使館機能を移転 |- | {{Display none|とうきようたいかくりかくふここうかん/}}[[東京大学]]理学部5号館 ||[[1976年]] || {{東京}}都文京区 || {{JPN}} || || 現・東京大学第二本部棟 |- | {{Display none|さいにちとるこたいし/}}[[駐日トルコ共和国大使館|在日トルコ大使館]] || [[1977年]] || {{東京}}都渋谷区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|そうけつかいかん/}} [[草月会館]] ||[[1977年]] || {{東京}}都港区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|もりはなえひる/}}[[森英恵|ハナエ・モリ]]ビル ||[[1978年]] || {{東京}}都港区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|とうきようたいかくほんふとう/}}[[東京大学]]本部棟 ||[[1979年]] || {{東京}}都文京区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|くうえとこくさいくうこう/}}[[クウェート国際空港]] ||[[1979年]] || [[クウェート市|クウェートシティー]] || {{KUW}} || || |- |} <gallery widths="150px" heights="150px"> ファイル:Shizuoka Shimbun-SBS Building.jpg|静岡新聞放送会館(1970年) ファイル:Embassy of Kuwait in Japan.jpg|駐日クウェート大使館(1970年) ファイル:Imabari city hall-02.jpg|今治市役所第1別館(1972年、左側) ファイル:Sogetsu Hall.jpg|草月会館(1977年) ファイル:Tatsuoka Gate & Administration Bureau Bldg of Tokyo University 2009.jpg|東京大学本部棟(1979年) </gallery> ==== 1980年代 ==== {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国 !! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|たますかすこくみんきゆうてん/}}{{仮リンク|ダマスカス国民宮殿|en|Presidential Palace, Damascus}}||[[1981年]] || [[ダマスカス]] || {{SYR}} || || 現・[[シリア]]大統領官邸 |- | {{Display none|さうしあらひあおうこくこつかきゆうてん/}}[[サウジアラビア]]王国国家宮殿・同国王宮殿||[[1982年]] || ジッダ || {{KSA}} || || |- | {{Display none|きんくふぁいさるさいたん/}}キングファイサル財団本部||[[1982年]] || ジッダ || {{KSA}} || || |- | {{Display none|あかさかふりんすほてる/}}[[赤坂プリンスホテル]]新館 ||[[1982年]] || {{東京}}都千代田区 || {{JPN}} || 現存せず || |- | {{Display none|ひようこけんりつれきしはくふつかん/}}[[兵庫県立歴史博物館]] ||[[1983年]] || {{兵庫}}県姫路市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|えひめけんけんみんかいかん/}}[[愛媛県県民文化会館]] ||[[1985年]] || {{愛媛}}県松山市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ふいえらちくせんた/}}フィエラ地区センター ||[[1985年]] || ボローニャ || {{ITA}} || || |- | {{Display none|さいさうしあらひあにほんこくたいしかん/}}[[在サウジアラビア日本国大使館]] ||[[1985年]] || リヤド || {{KSA}} || || |- | {{Display none|ひろしまこうせいねんきんかいかん/}}広島厚生年金会館||[[1985年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || || 現・[[広島市文化交流会館]] |- | {{Display none|さんれいくかんとり/}}サンレイクカントリークラブハウス||[[1985年]] || {{栃木}}県今市市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|おゆひせんた/}}[[OUBセンター|OUBセンタービル]] ||[[1986年]] || シンガポール || {{SIN}} || || 現・ワン・ラッフルズ |- | {{Display none|しひひるていんく/}}G.B.ビルディング ||[[1986年]] || シンガポール || {{SIN}} || || |- | {{Display none|していてれこみゆに/}}シティ・テレコミュニケーション・センター ||[[1986年]] || シンガポール || {{SIN}} || || 現・コムセンター |- | {{Display none|なんやんりこうたいかく/}}南洋理工大学 || [[1986年]] || シンガポール || {{SIN}} || || |- | {{Display none|とういんかくえん/}} [[学校法人桐蔭学園|桐蔭学園幼稚園・小学校・中学校]] ||[[1986年]] || {{神奈川}}県横浜市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|しんかほるいんとあすたしあむ/}}[[シンガポール・インドア・スタジアム]] ||[[1989年]] || カラン || {{SIN}} || || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[びわ湖大津プリンスホテル]] ||[[1989年]] || {{滋賀}}県大津市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ひろしまこくさいかいきしよう/}}[[広島国際会議場]] ||[[1989年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ひろしまこくさいかいきしよう/}}[[横浜美術館]] ||[[1989年]] || {{神奈川}}県横浜市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|あつふりかほんしやひる/}}[[アップリカ]]本社ビル ||[[1989年]] || {{大阪}}市中央区 || {{JPN}} || || |- |} <gallery widths="150px" heights="150px"> ファイル:Grand Prince Hotel Akasaka.jpg|赤坂プリンスホテル新館(1982年) ファイル:Hyogo Prefectural Museum of History01s3872.jpg|兵庫県立歴史博物館(1983年) ファイル:OUB Centre.JPG|OUBセンター(1986年) ファイル:Toin Gakuen.JPG|桐蔭学園幼稚園・小学校・中学校(1986年) ファイル:Yokohama Museum of Art 2009.jpg|横浜美術館(1989年) </gallery> ==== 1990年代 ==== {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国 !! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|きみつしみんふんかほる/}}[[君津市民文化ホール]]||[[1990年]] || {{千葉}}県君津市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|あめりかいしかいほんふひる/}}アメリカ医師会本部ビル||[[1990年]] || シカゴ || {{USA}} || || |- | {{Display none|とうきようとちようしや/}}[[東京都庁舎]]||[[1991年]] || {{東京}}都新宿区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|くらんてくらん/}}グラン・テクラン([[パリ]]・イタリア広場) ||[[1992年]] || パリ || {{FRA}} || || |- | {{Display none|こくさいれんこうたいかく/}}[[国際連合大学]] ||[[1992年]] || {{東京}}都渋谷区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ひようこけんりつひととれきし/}}[[兵庫県立人と自然の博物館]] ||[[1992年]] || {{兵庫}}県三田市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|まくはりふりんす/}}幕張プリンスホテル ||[[1993年]] || {{千葉}}市美浜区 || {{JPN}} || || 現・APAホテル&リゾート東京ベイ幕張 |- | {{Display none|しんしゆくはくたわ/}}[[新宿パークタワー]] ||[[1994年]] || {{東京}}都新宿区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ひろしまへいわきねんしりようかんひかしかん/}}広島平和記念資料館東館||[[1994年]] || {{広島}}市中区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|よこすかけいしゆつけきしよう/}}[[横須賀芸術劇場]]||[[1994年]] || {{神奈川}}県横須賀市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|につこうとうしようくうきやくてん/}}[[日光東照宮]]客殿・新社務所 ||[[1995年]] || {{栃木}}県日光市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ゆおひふらさ/}}[[UOBプラザ]] ||[[1995年]] || シンガポール || {{SIN}} || || |- | {{Display none|ゆいすくえあ/}}UEスクエア ||[[1996年]] || シンガポール || {{SIN}} || || |- | {{Display none|とうきようふあつしよんたうん/}}[[東京ファッションタウン]]ビル ||[[1996年]] || {{東京}}都江東区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ふしてれひ/}}[[FCGビル|フジテレビ本社ビル]] ||[[1996年]] || {{東京}}都港区 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|やまくちけんりつはきひしゆつ/}}[[山口県立萩美術館・浦上記念館]] || [[1996年]] || {{山口}}県萩市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|たふりゆえいちおけんこう/}} [[WHO健康開発総合研究センター|WHO神戸センター]] ||[[1998年]] || {{兵庫}}県神戸市 || {{JPN}} || || |- | {{Display none|ひいえむたふりゆういたりあ/}}[[BMW]]イタリア本社ビル ||[[1998年]] || [[サン・ドナート・ミラネーゼ]] || {{ITA}} || || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[ニース]]国立東洋美術館 ||[[1998年]] || [[ニース]] || {{FRA}} || || |- |} <gallery widths="150px" heights="150px"> ファイル:Tokyo Metropolitan Government Building No.2 2009.jpg|東京都庁第二本庁舎(1990年) |パリ13区イタリア広場 グラン・テクラン(1992年) ファイル:United Nations University, Tokyo.jpg|国際連合大学(1992年) ファイル:Shinjuku Park Tower 7 Desember 2003 cropped2.jpg|新宿パークタワー(1994年) ファイル:UOBnOUB.JPG|UOBプラザ(1995年) ファイル:2018 FCG Headquarters Building 2.jpg|フジテレビ本社ビル(1996年) ファイル:WHO Kobe Centre For Health Development01s3200.jpg|WHO神戸センター(1998年) </gallery> ==== 2000年代 ==== [[ファイル:Kagawa-Pref-Office-main.jpg|thumb|175px|新香川県庁舎(2000年)]] [[ファイル:Tokyodome-Hotel 20070317.jpg|thumb|175px|東京ドームホテル(2000年)]] [[ファイル:Embassy of Grand Duchy of Luxembourg in Tokyo Japan 20190517 152008.jpg|thumb|175px|ルクセンブルク大使館(2003年)]] {| class=wikitable ! 施設 !年 !所在地 !国!! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}新[[香川県庁舎]] |rowspan=3| [[2000年]] |香川県高松市 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}ベアズパウ・ジャパン・カントリークラブクラブハウス |滋賀県甲賀市 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[東京ドームホテル]] |東京都文京区 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[国立広島原爆死没者追悼平和祈念館]] | [[2002年]] |広島市中区 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[サルヴァトーレ・フェラガモ]]・フラッグシップショップ |rowspan=4| [[2003年]] |東京都中央区 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}南アルプス芦安山岳館 |山梨県南アルプス市 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}国保直営総合病院[[君津中央病院]] |千葉県木更津市 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[駐日ルクセンブルク大使館|ルクセンブルク大使館]](ルクセンブルクハウス) |東京都千代田区 |{{JPN}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[スナム (イタリアの企業)|スナム]]・オフィスタワー・プロジェクト | [[2004年]] |サン・ドナート・ミラネーゼ |{{ITA}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}上海銀行本社ビル |rowspan=6| [[2005年]] |上海市 |{{PRC}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}統一台北本社ビル |台北市 |{{ROC}}|| || |- | {{Display none|ひわこおおつふりんす/}}[[東京プリンスホテル]]パークタワー<br 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立川基地跡地文化都市計画 *[[1950年]] [[北海道]][[稚内市]]の都市計画 <small>([[北海道大学]][[太田實]]研究室と)</small> *[[1959年]] [[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]] 25,000人のためのコミュニティ計画 <small>実現せず</small> *[[1959年]] 東京計画1960(1959年〜1961年)<small>実現せず</small> *[[1960年]] 築地再開発計画 <small>実現せず</small> *[[1965年]] 盛岡都市基本計画 *[[1965年]] 磐梯猪苗代観光開発計画(1965年〜1966年) <small>(東京大学[[高山英華]]研究室、 [[鈴木忠義]]研究室、[[日本大学]][[小島重次]]研究室と)</small><ref name="udmagazine280">{{PDFlink|[http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/news/_docs/280.pdf 「都市デザイン研究室マガジン」280号]}}東京大学都市デザイン研究室、2019年6月</ref> *[[1966年]] 上武広域都市開発基本計画(1966年〜1968年) <ref name="udmagazine280"/> *[[1966年]] 京都都市軸計画(1966年〜1968年)<ref name="udmagazine280"/> *[[1966年]] [[ユーゴスラビア]](現・[[マケドニア共和国]])・[[スコピエ]]の震災復興都市計画(1966年〜<small>進行中</small>) *[[1967年]] [[サンフランシスコ]]・イエルバ・ブエナ・センター再開発計画 <small>実現せず</small> *[[1969年]] [[静清モノレール#静清地域都市開発基本計画|静岡清水地域都市基本計画]](1969年〜1970年)<small>(東京大学[[大谷幸夫]]研究室、日本大学小島研究室と)</small><ref name="udmagazine280"/> *[[1969年]] [[ネパール]]・[[ルンビニ]]釈尊生誕地聖域計画(1969年〜<small>進行中</small>) *[[1971年]] [[イタリア]]・[[ボローニャ]]・フィエラ地区センター計画(1971年〜<small>進行中</small>) *[[1971年]] イタリア・リブリーノ新住宅地区都市計画(1971年〜<small>進行中</small>) *[[1971年]] [[アルジェリア]]センター・オラン(1971年〜<small>進行中 [[都市環境研究所]]と)</small> *[[1972年]] 北摂ニュータウン南地区第五住区計画(1972年〜1975年) *[[1973年]] [[サウジアラビア]]・メッカ巡礼者のための聖地ムナ計画 <small>実現せず</small> *[[1973年]] アメリカ・バルティモア都市再開発 *[[1974年]] [[イラン]]・[[テヘラン]]・アバサバット新都市開発基本計画 <small>実現せず</small> *[[1974年]] [[アルジェリア]]・アンダルース湾リゾート総合計画 *[[1974年]] [[イタリア]]・フィエラ地区センター基本計画 *[[1974年]] [[アルジェリア]]・マドラクリゾートコンプレックス *[[1974年]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・ミネアポリスアートコンプレックス *[[1975年]] [[シリア]]・ダマスカスパブリックガーデン *[[1976年]] [[ヨルダン]]・ヤルムーク大学総合計画(1976年〜1982年) *[[1980年]] [[イタリア]]・フィエラ地区センター建築計画 *[[1980年]] [[イタリア]]・リブリーノ新住宅地区都市計画 *[[1980年]] [[ナポリ]]市新都心計画(1980年〜<small>進行中</small>) *[[1981年]] [[ナイジェリア]]・新首都[[アブジャ]]の都市計画(1981年〜<small>進行中</small>) *[[1984年]] [[イタリア]]・ボローニャ北部開発計画 *[[1984年]] [[シンガポール]]・マリーナサウス都市設計 *[[1985年]] [[マレーシア]]・トランクアブドララーマン通り都市再開発計画 *[[1985年]] [[ネパール]]・ルンビニ生誕地聖域計画 *[[1986年]] 東京計画1986 <small>実現せず</small> *[[1987年]] [[ブルネイ]]・パンダラセリベカワン市マスタープラン *[[1987年]] 東京・川の手新都心構想 *[[1989年]] [[イタリア]]・ミラノフィオーリマスタープラン *[[1993年]] [[フランス]]・セーヌ左岸都市計画 *[[1993年]] [[シンガポール]]・ユナイテッドオーバーシープラザI・II(1993年〜1995年) *[[1994年]] [[台湾]]・台中市干城商業地区マスタープラン *[[1996年]] [[ベトナム]]・ホーチミン市新都心計画 *[[1997年]] [[フィリピン]]・スービックベイ中心地区都市計画 == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author1=丹下健三|author2=藤森照信|authorlink2=藤森照信 |year = 2002 |title = 丹下健三 |publisher = [[新建築社]] |isbn = 4-7869-0169-5 |ref = 丹下健三・藤森照信2002 }} * {{Cite book|和書 |author = 丹下健三 |year = 2011 |title = 人間と建築 - デザインおぼえがき - |publisher = 彰国社 |edition = 復刻版 |isbn = 978-4-395-01239-8 |ref = 丹下健三2011 }} * {{Cite book|和書 |author = 丹下健三 |year = 1997 |title = 丹下健三 - 一本の鉛筆から - |publisher = [[日本図書センター]]「人間の記録」 |isbn = 4-8205-4300-8 |ref = 丹下健三1997 }} * {{Cite book|和書 |editor = 日経アーキテクチュア |year = 2005 |title = 丹下健三 - 時代を映した“多面体の巨人”- |publisher = [[日経BP社]] |isbn = 4-8222-0476-6 |ref = 日経BP 2005 }} * {{Cite book|和書 |editor = SD編集部 |year = 1980 |title = 丹下健三1 |series = 現代の建築家 |publisher = 鹿島出版会 |isbn = 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三目並べ
三目並べ(さんもくならべ)、まるばつとは、3×3 の格子を用意し、二人が交互に「○」と「✕」を書き込んでいき3つ並べるゲームである。まるかけ、まるぺけ、まるばつゲームとも呼ばれる。 ノートや黒板などでも手軽に遊べることから広く普及している遊びの一種。まず「井」の文字に似た直線の格子図形を描き、二人で先攻後攻を決める。そしてどちらかが「○」でどちらかが「×」となり、先攻後攻と交互に井の字の空いたマスに書き込んでいく。そして最終的にビンゴのように、縦・横・斜めのいずれか1列に3個自分のマークを並べると勝ちとなる。 この遊びは西洋を起源として古くから遊ばれている。日本では1907年(明治40年)世界遊戯法大全242ページに英語: Noughts & Crossesの和訳として「丸角競争」の名前で紹介されている。そこではルールがほぼ一緒であるが○と×ではなく○と△の記号を使うようになっている。 このゲームでは、先手・後手ともに最善を尽くすと、必ず引き分けとなる。 ルールの似ている五目並べにおいては、特別なルールを課さない場合先手必勝であることが知られているが、19×19の広い盤面で行われる五目並べと、3×3のマスの中で行われる三目並べを比較しても無意味であり、広い盤面で三目並べを行えば先手必勝となることは容易に確認できる。 映画『ウォー・ゲーム』においてWOPRコンピュータである「Joshua」は、このゲームにより全面核戦争には絶対的勝者はおらず、無意味であると悟る。 前述の通り9カ所のどこに打っても、相手が最善を尽くしてきた場合には引き分けになる。相手のミスを狙うなら角に打つのが得策だろう。 先手が中心、角、辺のどれに打ってきたかによって変わる。ここでは先手が○、後手が×である。後手は×で示した位置以外に打つと負けが決定する。 また、一番左の経路を辿った場合 事実上後手はAとBの二種類になるがAに打つと、負けが決定してしまう。
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三目並べ(さんもくならべ)、まるばつとは、3×3 の格子を用意し、二人が交互に「○」と「✕」を書き込んでいき3つ並べるゲームである。まるかけ、まるぺけ、まるばつゲームとも呼ばれる。
{{Redirect4|まるばつ|記号|丸印|×}} {{otheruses||[[クイズ]]の種類|○×クイズ}} [[画像:tic tac toe.svg|right|220px|三目並べ]] '''三目並べ'''(さんもくならべ)、'''まるばつ'''とは、3×3 の格子を用意し、二人が交互に「[[○]]」と「[[✕]]」を書き込んでいき3つ並べる[[ゲーム]]である。'''まるかけ'''、'''まるぺけ'''、'''まるばつゲーム'''とも呼ばれる。 ==概要== [[画像:Boter-kaas-en-eieren (decoratief spel).jpg|left|100px]] [[ノート]]や[[黒板]]などでも手軽に遊べることから広く普及している遊びの一種。まず「井」の文字に似た直線の格子図形を描き、二人で先攻後攻を決める。そしてどちらかが「○」でどちらかが「×」となり、先攻後攻と交互に井の字の空いたマスに書き込んでいく。そして最終的に[[ビンゴ]]のように、縦・横・斜めのいずれか1列に3個自分のマークを並べると勝ちとなる。 ==歴史== この遊びは[[西洋]]を起源として古くから遊ばれている。日本では1907年(明治40年)[[世界遊戯法大全]]<ref>{{Cite book |和書 |editor=松浦政泰 |year=1907 |title=世界遊戯法大全 |publisher=博文館 |id={{NDLJP |860315}} |ref=harv }}</ref>242ページ<ref>[{{NDLDC|860315/140}} 世界遊戯法大全p242]</ref>に{{lang-en|Noughts & Crosses}}の和訳として「丸角競争」の名前で紹介されている。そこではルールがほぼ一緒であるが○と×ではなく○と△の記号を使うようになっている。 ==戦法== このゲームでは、[[先手]]・[[後手]]ともに'''最善を尽くすと、必ず引き分けとなる'''。 ルールの似ている[[五目並べ]]においては、特別なルールを課さない場合先手必勝であることが知られているが、19×19の広い盤面で行われる五目並べと、3×3のマスの中で行われる三目並べを比較しても無意味であり、広い盤面で三目並べを行えば先手必勝となることは容易に確認できる。 映画『[[ウォー・ゲーム (映画)|ウォー・ゲーム]]』においてWOPRコンピュータである「Joshua」は、このゲームにより全面核戦争には絶対的勝者はおらず、無意味であると悟る。 ===先手=== [[画像:Tictactoe1.gif|right|120px]] 前述の通り9カ所のどこに打っても、相手が最善を尽くしてきた場合には引き分けになる。相手のミスを狙うなら角に打つのが得策だろう。 ===後手=== 先手が中心、角、辺のどれに打ってきたかによって変わる。ここでは先手が○、後手が×である。後手は×で示した位置以外に打つと負けが決定する。 <table cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0px;"><tr><td> {| border="1" cellpadding="6" cellspacing="0" style="margin: 0.5em; text-align:center; line-height: 100%; border-collapse: collapse" |- |&nbsp;||&nbsp;||○ |- |&nbsp;||×||&nbsp; |- |{{Color|white|■}}||{{Color|white|■}}||{{Color|white|■}} |} </td><td> {| border="1" cellpadding="6" cellspacing="0" style="margin: 0.5em; text-align:center; line-height: 100%; border-collapse: collapse" |- |×||&nbsp;||× |- |&nbsp;||○||&nbsp; |- |×||&nbsp;||× |} </td><td> {| border="1" cellpadding="6" cellspacing="0" style="margin: 0.5em; text-align:center; line-height: 100%; border-collapse: collapse" |- |×||○||× |- |&nbsp;||×||&nbsp; |- |&nbsp;||×||&nbsp; |} </td></tr></table> また、一番左の経路を辿った場合 {| border="1" cellpadding="6" cellspacing="0" style="margin: 0.5em; text-align:center; line-height: 100%; border-collapse: collapse" |- |A||B||○ |- |B||×||B |- |○||B||A |} 事実上後手はAとBの二種類になるがAに打つと、負けが決定してしまう。 == 様々な呼び名 == [[File:Tic Tac Toe.gif|thumb|right]] ;[[ゲルマン語]]圏 * Tic tac toe ([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) * Noughts and Crosses ([[イギリス]]) * Boter, kaas en eieren ([[オランダ]]) * Tripp trapp trull ([[スウェーデン]]) ;[[ロマンス語]]圏 * To-ti-to ([[グアテマラ]]) * Ta-te-ti , Tres en raya([[スペイン]]) * [[:fr:Morpion_%28jeu%29|Morpion]]([[フランス]]) * Jogo da Velha ([[ブラジル]]) * La Vieja([[ベネズエラ]]) * X &#0351;i zero ([[ルーマニア]]) ;その他 * 틱택토 ([[韓国語]]) * 井字遊戯 / 井字過三関 / 圈圈叉叉(○○✗✗) ([[台湾]]/[[香港]]) * Zero Kata ([[インド]]の[[ヒンディー語]]) * Amõba ([[ハンガリー]]) * ristinolla ([[フィンランド]]) == 注 == <references /> ==関連項目== *[[連珠]] *[[五目並べ]] *[[量子三目並べ]] *[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]] *[[瞬間決着ゲームシンペイ]] - 三目並べから着想を得て作られたゲーム。 *[[OXO]] - [[1952年]]に作られた○×ゲームで、画面の記録が残っている世界最古の[[テレビゲーム]]。 *[[スーパー○×ゲーム]] *[[m,n,k-ゲーム|''m'',''n'',''k''-ゲーム]] - 三目並べのようなゲームを一般化し、''m''×''n''のマス目に''k''個の駒を並べたら勝ちとするゲームの総称。三目並べは3,3,3-ゲームとなる。 *[[ndゲーム|''n''<sup>''d''</sup>ゲーム]] - 三目並べを一般化し、''d''次元空間における1辺''n''マスの超立方体の盤面に''n''個の駒を並べたら勝ちとするゲームの総称。三目並べは(3,2)ゲーム(1辺3マスで2次元空間)となる。 *{{仮リンク|Notakto|en|Notakto}} - 三目並べの変種。両方のプレイヤーが「×」を書き込み、×を3つ揃えてしまったプレイヤーが負けとなる。 *[[ウォー・ゲーム (映画)|ウォー・ゲーム (映画) -]] [[1983年]]の映画。両者が最善手を指す限り引き分けに終わる三目並べと、勝者が存在しない核戦争の空しさが印象的に対比されている。 *[[PERFECT DAYS]] - 2023年の映画。公衆トイレに置かれた紙片を介して、主人公が見知らぬ相手と三目並べをする。 == 外部リンク == {{Commons|Tic Tac Toe}} * [[:en:Solved_board_games|en:Solved_board_games]](英語) * [[Google:三目並べ]] - ブラウザ上でプレイできる三目並べ {{DEFAULTSORT:さんもくならへ}} [[Category:三目並べ|*]]
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絶版
絶版(ぜっぱん、ぜつばん)とは、書物を重版しなくなること。 音楽・映像ソフトにおける「廃盤(はいばん)」に相当する。また工業製品一般の製造終了については、台帳から製品番号(品番)を抹消することから「廃番(はいばん)」と呼んで区別する。ただしこの3つの言葉は意味や発音が類似するため、一般には厳密に区別せず混用されている場合も多い。 書籍がひとたび絶版になると現物が流通しなくなるため、在庫分を除いて新刊書店では購入できず、注文しても入荷しない。古書として古書店で購入できる絶版本も多い。 同じ出版社もしくは、著作権者から設定を受けた出版権を取得するなどした他者により、絶版となった書籍が復刊されることもある。絶版になった書籍の復刊を募る「復刊ドットコム」というサービスもあり、実際にこのウェブサイトでの投票結果を受け、復刊された絶版本も多数ある。 また、紙の書籍として絶版になっても、電子書籍による再刊や、注文があった時だけ印刷して販売するオンデマンド出版により、引き続き購入できるようになる本も現れている。 絶版と似た状態で品切重版未定というものがある。版元在庫もなく重版の予定もない点では絶版と同じだが、出版権が放棄されずに維持され続けている点が絶版と異なる。このため印刷版などは廃棄されずに保管されていることがほとんどである。例えば、岩波文庫や岩波新書は原則として絶版がないため、版元在庫のない本は全て「品切重版未定」である。 作品が映画化されるなど再び話題になった場合や、要望が多く出版社も興味を示した場合などには、絶版となっていた書籍が他の出版社から復刊されることがある。 しかし出版社と著者の間の契約が曖昧であったり、出版社が将来の人気再燃を睨んで出版権を保持しておきたがる場合もあるため、両者の区別が外部から見て判然としないことも少なくない。このため一般には、品切重版未定であっても事実上の絶版として捉えられることも多い。 著作権法により出版権者には「出版の義務」が課せられており、これを守らなければ「出版権の消滅の請求」をされる場合がある。 第八十一条 出版権者は、その出版権の目的である著作物につき次に掲げる義務を負う。ただし、設定行為に別段の定めがある場合は、この限りでない。 一 複製権者からその著作物を複製するために必要な原稿その他の原品又はこれに相当する物の引渡しを受けた日から六月以内に当該著作物を出版する義務 二 当該著作物を慣行に従い継続して出版する義務 (出版権の消滅の請求) 第八十四条 出版権者が第八十一条第一号の義務に違反したときは、複製権者は、出版権者に通知してその出版権を消滅させることができる。 2 出版権者が第八十一条第二号の義務に違反した場合において、複製権者が三月以上の期間を定めてその履行を催告したにもかかわらず、その期間内にその履行がされないときは、複製権者は、出版権者に通知してその出版権を消滅させることができる。 主に以下の理由が挙げられる。
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絶版(ぜっぱん、ぜつばん)とは、書物を重版しなくなること。 音楽・映像ソフトにおける「廃盤(はいばん)」に相当する。また工業製品一般の製造終了については、台帳から製品番号(品番)を抹消することから「廃番(はいばん)」と呼んで区別する。ただしこの3つの言葉は意味や発音が類似するため、一般には厳密に区別せず混用されている場合も多い。
{{Otheruseslist|出版物の重版終了|音楽・映像ソフトの生産終了|廃盤|工業製品一般の製造終了|廃番}} {{複数の問題 |出典の明記=2013年4月 |独自研究=2022年10月 }} '''絶版'''(ぜっぱん、ぜつばん)とは、[[書物]]を[[重版]]しなくなること<ref name="広辞苑">『[[広辞苑]]』第三版当該項目</ref>。 音楽・映像ソフトにおける「'''[[廃盤]]'''(はいばん)」に相当する。また[[工業製品]]一般の製造終了については、台帳から製品番号([[品番]])を抹消することから「'''[[廃番]]'''(はいばん)」と呼んで区別する<ref name="kotobank">{{Kotobank|1=廃番とは |2=[[デジタル大辞泉]]}}</ref>。ただしこの3つの言葉は意味や発音が類似するため、一般には厳密に区別せず混用されている場合も多い。 == 概要 == 書籍がひとたび絶版になると現物が流通しなくなるため、在庫分を除いて新刊[[書店]]では購入できず、注文しても入荷しない。[[古書]]として[[古書店]]で購入できる絶版本も多い<ref>[https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=6590 日本の古本屋/初めての方へ] 東京都古書籍商業協同組合(2021年7月8日閲覧)</ref>。 同じ[[出版社]]もしくは、[[著作権]]者から設定を受けた出版権を取得するなどした他者により、絶版となった書籍が[[復刊]]されることもある<ref name="広辞苑"/>。絶版になった書籍の復刊を募る「[[復刊ドットコム]]」というサービスもあり、実際にこの[[ウェブサイト]]での投票結果を受け、復刊された絶版本も多数ある。{{See also|復刊ドットコム}} また、紙の書籍として絶版になっても、[[電子書籍]]による再刊や、注文があった時だけ[[印刷]]して販売する[[オンデマンド出版]]により、引き続き購入できるようになる本<ref>「オンデマンド出版 良書の絶版 事実上なくす」『[[読売新聞]]』朝刊2021年7月7日(解説面)</ref>も現れている。 == 絶版と著作権 == 絶版と似た状態で'''[[品切重版未定]]'''というものがある。版元在庫もなく重版の予定もない点では絶版と同じだが、出版権が放棄されずに維持され続けている点が絶版と異なる。このため印刷版などは廃棄されずに保管されていることがほとんどである。例えば、[[岩波文庫]]や[[岩波新書]]は原則として絶版がないため、版元在庫のない本は全て「品切重版未定」である。 作品が[[映画]]化されるなど再び話題になった場合や、要望が多く出版社も興味を示した場合などには、絶版となっていた書籍が他の出版社から復刊されることがある。 しかし出版社と著者の間の契約が曖昧であったり、出版社が将来の人気再燃を睨んで出版権を保持しておきたがる場合もあるため、両者の区別が外部から見て判然としないことも少なくない。このため一般には、品切重版未定であっても'''事実上の絶版'''として捉えられることも多い。 === 出版の義務 === 著作権法により出版権者には「出版の義務」が課せられており、これを守らなければ「出版権の消滅の請求」をされる場合がある。 {{Quotation| 第八十一条 出版権者は、その出版権の目的である著作物につき次に掲げる義務を負う。ただし、設定行為に別段の定めがある場合は、この限りでない。 一 複製権者からその著作物を複製するために必要な原稿その他の原品又はこれに相当する物の引渡しを受けた日から六月以内に当該著作物を出版する義務 二 当該著作物を慣行に従い継続して出版する義務 (出版権の消滅の請求) 第八十四条 出版権者が第八十一条第一号の義務に違反したときは、複製権者は、出版権者に通知してその出版権を消滅させることができる。 2 出版権者が第八十一条第二号の義務に違反した場合において、複製権者が三月以上の期間を定めてその履行を催告したにもかかわらず、その期間内にその履行がされないときは、複製権者は、出版権者に通知してその出版権を消滅させることができる。 }} == 書籍が絶版になる理由 == {{複数の問題 |出典の明記=2013年4月 |独自研究=2022年10月 |section=1}} 主に以下の理由が挙げられる。 #売上が伸びない、もしくはこれ以上売上が伸びる可能性がないと判断された場合。 #*一番多いケースで、[[出版社]]は[[著作者]]との契約に基づき出版権を放棄し、絶版となる。後に[[版元]]となる出版社を変更した上で[[復刊]]されることがある。[[復刊ドットコム]]の[[子会社]]である[[ブッキング]]が積極的で、復刊ドットコムの[[ウェブサイト]]で好意的な要望が特に多かった書籍の復刊書のみを扱っている。 #* [[池田大作]]や文芸部員といった[[創価学会]]関係の書籍が、関係が無い出版社の絶版書籍が[[聖教新聞社]]や[[潮出版社]]といった関連出版社に引き継ぐ形で復刊されることもしばしば見受けられる。特に「潮文庫」(潮出版社)のラインナップも、版元が自社に残る作品に留まらず、版元が[[文庫本]]を扱っていない他社作品や、他社で絶版となっていた文芸部員の復刊書も非常に多い。 #レーベル名を変更するための措置。 #*[[漫画]]作品で多く見られる。その関係で、[[識別子]]([[ISBN]]、[[日本図書コード]]など)も変更する必要があるため、これまで刊行されていた版は必然的に絶版となる。 #出版社が[[倒産]]して無くなってしまった場合。 #*この場合、出版権の設定契約は解約されることが多いため、その出版社から出版されていた本は当然全て絶版になる。もちろん、出版権を引き継いで印刷・発行を続けてくれる出版社が見つかった本についてはこの限りではない。 #著者の意向によるもの。 #*[[高村薫|髙村薫]]は、一度世に出した作品でもそれを執筆当時の成果物として絶対視せずにその後も育て続けるという考えの持ち主で、文庫化などの際には全編を大幅に改稿した〈改訂版〉とし、同時に[[ハードカバー]]版などの既発表版は絶版としている。 #*[[少女漫画]]家の[[内田善美]]は、断筆して[[漫画家]]を引退する際に自らの単行本をすべて絶版とした。このため内田の単行本は[[プレミアム|プレミア]]価格が付き、[[古書|中古]]市場で非常に高値で取引されている。{{See also|内田善美#活動終了後}} #*[[角川春樹]]が[[1995年]]に[[角川書店]]から独立して[[角川春樹事務所]](三代目法人)を立ち上げた際に、極一部の「[[角川文庫]]」・「[[角川ホラー文庫]]」作品([[森村誠一]]など)が作者の意向で絶版になるという現象が発生した。[[文庫本]]レーベル「[[ハルキ文庫]]」・「ハルキ・ホラー文庫」はその事実上の受け皿も兼ねているため、初期のラインナップは角川文庫の絶版作品がほとんどであった。 #出版後、書籍の内容に問題があることが発覚または問題視された場合。 #*[[安部公房]]の小説『[[飛ぶ男]]』は、当初は安部の[[遺稿]]として出版されたが、出版後に安部の夫人である[[安部真知]]が故人に無断で手を加えていたことが問題となり絶版とされた。 #*[[栗本薫]]著の『[[グイン・サーガ]]』1巻は、問題を指摘された初版を絶版として内容を修正した改訂版が改めて発刊された。{{main|グイン・サーガ#話題}} #*『[[チャタレイ夫人の恋人]]』は、一旦は絶版(発売禁止)となったが、のちに発禁解除されて復刊した。{{main|チャタレー事件}} #*[[平田弘史]]著の漫画『[[血だるま剣法/おのれらに告ぐ|血だるま剣法]]』は、[[部落解放同盟]]から「[[部落差別]]である」と[[確認・糾弾|糾弾]]を受け、刊行より1か月で回収・絶版となった。{{main|血だるま剣法/おのれらに告ぐ#部落解放同盟からの抗議、絶版}} #*[[2005年]]に発刊された[[JTBパブリッシング]]『[[JTBキャンブックス]] [[大韓民国の鉄道|韓国鉄道]]の旅』は、日本で[[編纂]]された書籍であるにもかかわらず、[[2012年]]になって[[日本海]]の[[韓国]]名である「東海」の表記になっていることを受け、苦情が殺到する事態となり、「東海」表記がなされている版を絶版の措置を取り、回収された。後に日本海の表記に修正されたものにした上で復刊し、[[電子書籍]]版についても日本海修正版を最初から配信されている。 #**なお、日本で編纂された[[媒体]]物は、どの[[言語]]であっても「日本海」表記でなければならず([[NHKワールド JAPAN|NHKワールドラジオ]]、[[NHKラジオ第2放送]]の各種外国語ニュース、日本で編纂された[[英字新聞]]、[[民間放送|民間]][[外国語放送]]局の[[報道番組]]など)、その逆に[[大韓民国]]で編さんされた媒体物はどの言語であっても「東海」と表記されている([[KBSワールドラジオ]]、韓国新聞社の外国語版[[ウェブサイト]]や英字新聞、[[外交部 (大韓民国)|韓国政府外交部]]制作のPR動画<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=XccmebADQIo]</ref>など)。{{see also|日本海呼称問題}} #*[[末次由紀]]のほとんどの漫画作品。2005年に『[[エデンの花]]』など複数タイトルで他者の作品からの[[トレース]]が発覚した際、それまでの末次の作品の単行本全てが絶版処分(当時連載中だった『[[Silver (漫画)|Silver]]』を含む)となった。{{See also|トレース (製図)#著作権問題}} #* [[講談社]]が[[2022年]]11月から3巻に分けて同時刊行した[[実用書]]である『[[ゲームの歴史 (書籍)|ゲームの歴史]]』([[青い鳥文庫]]、[[岩崎夏海]]・[[稲田豊史]]合著)は、[[修正]]が不可能な程史実と異なる[[誤記]]が非常に多く、[[Amazon.co.jp]]の[[商品]][[レビュー]]欄を中心とした[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS上]]で[[炎上 (ネット用語)|炎上]]する事態となった。そのため、翌年[[4月10日]]に発売中止となり、紙書籍は絶版・書店入荷分を回収する措置を取り、電子書籍版については全サイトで配信終了となった。 # 権利上の関係 #* [[週刊少年ジャンプ]]の元[[編集長]]で、[[堀江信彦]]が[[集英社]]から独立して[[コアミックス]]を設立する際、コアミックスに[[知的財産権]]を移動する[[漫画]]作品を中心に[[集英社文庫]]のラインナップが一時的に絶版となっていた。後に集英社とコアミックスとの関係は改善され、[[表紙]]デザインを変えずに復刊されたが、絶版前の発売元がホーム社だったが、復刊後の発売元はコアミックスに変更されている。 #書籍に関連する[[不祥事]]が起きた場合。 #*『[[世紀末リーダー伝たけし!]]』は、週刊少年ジャンプに連載中に作者の[[島袋光年]]が[[逮捕]]されたため、[[打ち切り]]に留まらず、[[単行本]]([[ジャンプ・コミックス]])まで絶版となった。[[スーパージャンプ]]で再開後にワイド版(ジャンプ・コミックスデラックス)で事実上の復刊をしている。 #*『[[発掘!あるある大事典]]』は[[扶桑社]]から書籍版が出版されていたが、[[捏造]]問題に伴う番組[[打ち切り]]を受けて絶版となった。{{main|発掘!あるある大事典#データ捏造問題}} #*[[佐村河内守]]著『交響曲第一番』(講談社=単行本、[[幻冬舎]]=文庫本)は、佐村河内が作曲したとされる楽曲の多くが、第三者に製作を委託していたことから、内容・主旨が全く異なることを受けて佐村河内関連における全メディアミックス作品の発売が打ち切られ、単行本については書店入庫分を含めすべて絶版・回収の処置を取った。{{main|佐村河内守#ゴーストライター問題}} #完全非公表および原因不明。 #*[[みずのまこと]]が[[コミカライズ]]した『[[涼宮ハルヒシリーズ#漫画|涼宮ハルヒの憂鬱]]』がこれにあたる。この作品は『[[月刊少年エース]]』2004年12月号掲載の8話を以って打ち切られ、2004年9月号掲載の5話までが[[単行本]]化されている。打ち切りと同時に絶版となり、このとこは[[安藤健二]]『[[封印作品]]の謎』でもこのことに触れている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[廃盤]] - [[レコード]]の原盤を廃することから、音楽・映像ソフトに用いる語。 * [[廃番]] - 台帳から製品番号(品番)を廃することから、[[工業製品]]一般に用いる語。 * [[重版]] / [[品切重版未定]] * [[古書]] / [[古書店]] * [[国立国会図書館]] - 「個人向けデジタル化資料送信サービス」で一部の閲覧が可能。 {{Publishing-stub}} {{DEFAULTSORT:せつはん}} [[Category:出版]] [[Category:言論・表現の自由]] [[Category:廃止]] [[it:Libro fuori catalogo]]
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単行本
単行本(たんこうぼん)とは、叢書や全集などの中の1冊としてではなく、単独で刊行される本のことである。基本的には1冊で刊行されるが、ページ数が多い場合は分冊形式で刊行される。久米邦武『米欧回覧実記』内の「世に単行本多けれども」という用例がその初出と考えられている。 小説では、雑誌や新聞などに掲載された作品を、1冊の本にまとめて単行本として刊行する例の他に、単行本として刊行するために作品を書くこともあり、このような例を単行本書き下ろしという。単行本の製本は上製本(ハードカバー)が一般的であるが、並製本(ソフトカバー)もある。 一般的に、単行本として刊行されたものは、数年の後に、価格を下げて文庫として刊行される。これを文庫化という。単行本として刊行された後、ノベルスとして刊行されてから、文庫化される例もある。稀に、宮部みゆき『おまえさん』やピエール・ルメートル『天国でまた会おう』のように、単行本と文庫本が同時発売される例や、京極夏彦『ルー=ガルー2』のように、単行本・ノベルス版・文庫本・電子書籍版が同時発売される例もある。2010年頃からは、単行本を経ずにいきなり文庫として刊行される例も多くなっている。 漫画本は叢書の定義に当てはまるにもかかわらず、単行本と呼ばれている。
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単行本(たんこうぼん)とは、叢書や全集などの中の1冊としてではなく、単独で刊行される本のことである。基本的には1冊で刊行されるが、ページ数が多い場合は分冊形式で刊行される。久米邦武『米欧回覧実記』内の「世に単行本多けれども」という用例がその初出と考えられている。 小説では、雑誌や新聞などに掲載された作品を、1冊の本にまとめて単行本として刊行する例の他に、単行本として刊行するために作品を書くこともあり、このような例を単行本書き下ろしという。単行本の製本は上製本(ハードカバー)が一般的であるが、並製本(ソフトカバー)もある。 一般的に、単行本として刊行されたものは、数年の後に、価格を下げて文庫として刊行される。これを文庫化という。単行本として刊行された後、ノベルスとして刊行されてから、文庫化される例もある。稀に、宮部みゆき『おまえさん』やピエール・ルメートル『天国でまた会おう』のように、単行本と文庫本が同時発売される例や、京極夏彦『ルー=ガルー2』のように、単行本・ノベルス版・文庫本・電子書籍版が同時発売される例もある。2010年頃からは、単行本を経ずにいきなり文庫として刊行される例も多くなっている。 漫画本は叢書の定義に当てはまるにもかかわらず、単行本と呼ばれている。
[[File:Tons of manga at SF-bok - GBG, 27 mars 2007.jpg|thumb|様々な[[日本の漫画]]の[[翻訳]]版が並んだ[[書店]]の[[本棚]]([[スウェーデン]]・[[イェーテボリ]]の[[:sv:Science Fiction-bokhandeln|Science Fiction-bokhandeln]]、[[2007年]])]] '''単行本'''(たんこうぼん)とは、[[叢書]]や[[全集]]などの中の1冊としてではなく、単独で刊行される[[本]]のことである。基本的には1冊で刊行されるが、ページ数が多い場合は分冊形式で刊行される<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC-563939 単行本(タンコウボン)とは - コトバンク]</ref>。[[久米邦武]]『[[米欧回覧実記]]』内の「世に単行本多けれども」という用例がその初出と考えられている。 [[小説]]では、[[雑誌]]や[[新聞]]などに掲載された作品を、1冊の本にまとめて単行本として刊行する例の他に、単行本として刊行するために作品を書くこともあり、このような例を単行本[[書き下ろし]]という。単行本の製本は上製本([[ハードカバー]])が一般的であるが、並製本([[ソフトカバー]])もある<ref>[http://www.tomshuppan.co.jp/menu/jouseihon.html 上製本|各種オプション・特殊加工|商品案内・価格|同人誌印刷のトム出版]</ref>。 一般的に、単行本として刊行されたものは、数年の後に、価格を下げて[[文庫本|文庫]]として刊行される。これを文庫化という<ref name="1book">{{Cite web|和書|url= http://www.1book.co.jp/003759.html |title= 作家、東野圭吾さんが“単行本”ではなく“文庫”から刊行|work= 出版業界の豆知識 |publisher= 日本著者販促センター |date= 2010-11-10 |accessdate= 2021-12-17 }}</ref>。単行本として刊行された後、[[ノベルス]]として刊行されてから、文庫化される例もある。稀に、[[宮部みゆき]]『おまえさん』や[[ピエール・ルメートル]]『天国でまた会おう』のように、単行本と文庫本が同時発売される例や、[[京極夏彦]]『ルー=ガルー2』のように、単行本・ノベルス版・[[文庫本]]・[[電子書籍]]版が同時発売される例もある<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sinkan.jp/news/2317 |title= 単行本で買った本が文庫化! 文庫版も買う? |website= 新刊JP |publisher= 株式会社オトバンク |date= 2011-11-11 |accessdate= 2021-12-17 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.shinbunka.co.jp/news2015/09/150916-02.htm |title= 早川書房、ルメートル新刊で文庫を同時発売 |website= 新文化 |publisher= 新文化通信社 |date= 2015-09-16 |accessdate= 2021-12-17 }}</ref>。[[2010年]]頃からは、単行本を経ずに[[いきなり文庫]]として刊行される例も多くなっている<ref>{{Cite news|url= http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201203120422.html |title= 広がる「いきなり文庫」 そのわけは? |newspaper= 朝日新聞デジタル |publisher= 朝日新聞社 |date= 2012-03-12 |accessdate= 2021-12-17 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120313223110/http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201203120422.html |archivedate= 2012-03-13 }}</ref>。 [[漫画]]本は叢書の定義に当てはまるにもかかわらず、単行本と呼ばれている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{DEFAULTSORT:たんこうほん}} [[Category:書字・形態別の書物]]
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とり・みき
とり・みき(1958年2月23日 - )は、日本の漫画家。熊本県人吉市出身。男性。血液型O型。 明治大学文学部英文学科を4年で中退。大学では落語研究会に所属していた時期があり、在学中の先輩に渡辺正行・小宮孝泰らがいる。同時期の漫画研究会在籍者に片山まさゆきらがいるが、在学中全く面識はなかった。また同時期にサークル『小松左京研究会』に加入している。 「第12回週刊少年チャンピオン新人まんが賞」において、投稿作『ぼくの宇宙人』が佳作になり、1979年デビュー。以後、ギャグ漫画作品をメインに活動。代表作に『クルクルくりん』や、『遠くへいきたい』(テレビブロス)など。 短編集『犬家の一族』には、半生記マンガ「あしたのために」が収録。熊本に生まれた少年が、SFマニアになって漫画家デビューするまでの経緯がギャグタッチで描かれている。 日本SF作家クラブ会員だったが、2023年5月時点では会員名簿に名前がない。1997年度と、2000年度から2001年度の、日本SF大賞の選考委員をつとめた。 (括弧内は、雑誌掲載年)
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とり・みきは、日本の漫画家。熊本県人吉市出身。男性。血液型O型。
{{Infobox 漫画家 |名前 = とり・みき |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |生年 = {{生年月日と年齢|1958|2|23}} |生地 = [[熊本県]][[人吉市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |称号 = |活動期間 = [[1979年]] - |ジャンル = [[ギャグ漫画]] |代表作 = 『[[クルクルくりん]]』 |受賞 = [[#受賞歴]]参照 |サイン = |公式サイト = [https://www.torimiki.com/ TORI MIKI] }} '''とり・みき'''([[1958年]][[2月23日]]<ref name="puf">『ぱふ 85年3月号』、1985年3月、雑草社、PP1-PP46。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref name="puf" />。[[熊本県]][[人吉市]]出身。男性。血液型O型<ref name="puf" />。 == 経歴 == [[明治大学]][[文学部]]英文学科を4年で中退<ref name="puf" />。大学では[[落語研究会 (サークル活動)|落語研究会]]に所属していた時期があり、在学中の先輩に[[渡辺正行]]・[[小宮孝泰]]らがいる<ref name="puf" />。同時期の[[漫画研究会]]在籍者に[[片山まさゆき]]らがいるが、在学中全く面識はなかった<ref name="puf" />。また同時期にサークル『小松左京研究会』に加入している<ref name="puf" />。 「第12回[[週刊少年チャンピオン新人まんが賞]]」において、投稿作『ぼくの宇宙人』が佳作になり、[[1979年]]デビュー<ref name="puf" />。以後、[[ギャグ漫画]]作品をメインに活動。代表作に『クルクルくりん』や、『遠くへいきたい』([[テレビブロス]])など。 短編集『犬家の一族』には、半生記マンガ「あしたのために」が収録。熊本に生まれた少年が、SFマニアになって漫画家デビューするまでの経緯がギャグタッチで描かれている。 [[日本SF作家クラブ]]会員だったが<ref>とり・みき対談集『マンガ家のひみつ』(徳間書店、1997年)P.240</ref>、2023年5月時点では会員名簿に名前がない。1997年度と、2000年度から2001年度の、[[日本SF大賞]]の選考委員をつとめた。 == 人物とエピソード == === 漫画関連 === *漫画表現そのものをギャグとして追求する作風は「理数系ギャグ」と呼ばれ、内容の無い表層的な作品として批判されることもある。しかし、とり自身はそれこそ自らが描きたいものだと語っている。とり自身があげるこの路線の作家に[[唐沢なをき]]がいる。 *ペン入れには[[サインペン]]型の細い油性[[フェルトペン|マーカー]]([[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]の[[ハイマッキー#主な種類|ハイマッキー極細]]など)を使用。紙ににじみが出ることから、硬質でいながら少しふにゃふにゃとした感じのある独特の描線が生まれている。 *[[吾妻ひでお]]のファンとしても有名。「デビュー当時は、絵もギャグも吾妻の[[エピゴーネン]]という感じだった」と著書『マンガ家のひみつ』で述べている。 *背景の細かい書き込みは[[大友克洋]]の影響と自ら述べている<ref name="puf" />。 *[[手塚治虫]]が新人賞の審査員だったことを『少年チャンピオン』でデビューした理由の一つにあげており、手塚や吾妻と同様に[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]を採用(関連項目に出ている人物をモデルにした者もレギュラーとなっている)しているほか、「デカ足派」の継承者を自負している。 *初期の連載作品『バラの進さま』に触れられると「そんなマンガは存在しない」などと韜晦する。 === 趣味 === *多趣味な人物として知られ、その範囲は多岐にわたる。中にはその分野の第一人者とされているものもある。 *「事件放送」の録画マニアであり、「大事件」が起きると、チャンネルを切り替えながら、その映像を録画する(仕事中に事件が起こると仕事そっちのけで録画していたこともある)。本人曰く、"事件直後の慌しい雰囲気が良い"とのこと。のちに、テレビ局関係者から「あの事件の映像は残っていませんか?」と尋ねられることもあった。 *[[件]]の研究など、日本の土着風俗や伝説に対しての興味も強く、これらをテーマにした作品もある。 *[[路上観察学会]]会員で、[[オジギビト]]の研究でも有名。 *[[小松左京]]のファンであり、SFファン活動に入ったのは大学時代に創設された「小松左京研究会」に参加したため。この際、彼の漫画の最多出演キャラ「たきたかんせい」のモデル(書店員)とも知合っている。のち、『小松左京マガジン』の設立同人の一人ともなる。親交もあり、テレビ番組「[[開運!なんでも鑑定団]]」に小松の描いた漫画原稿を持って登場したことがある。単行本『しまった。』では、小松が解説を寄稿。 *[[松田優作]]のファン。松田と初対面の時、松田から当時連載していた『愛のさかあがり』を読んでいると言われ、感激した。 *[[山下達郎]]ファン。[[1991年]]、山下のコンサート・ツアー『PERFORMANCE '91-'92』のパンフレットに短編漫画<ref>『いかにして私は心配するのをやめて山下達郎の音楽を愛するようになったか』</ref>を依頼され、これがきっかけとなりオフィシャルファンクラブ会報誌『TATSURO MANIA』にて4コマ漫画『タツローくん』を担当することになる<ref>その後は、表紙イラストも手掛けている。</ref>。そうした縁もあり、{{Start date|2012}}発売の[[ベスト・アルバム|オールタイム・ベスト・アルバム]]『[[OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜]]』ではジャケットおよびブックレットのイラストをすべて手掛けた。ちなみに初期の代表作『[[るんるんカンパニー]]』の主人公の名前「葵達郎」は山下の名前が元になっている。また、『[[クルクルくりん]]』でも「[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イブ]]」を絶賛しているコマが描かれている。 *洋画の[[吹き替え]]分野にも造詣が深く、著作も執筆。市販ソフトへのテレビ用吹替の収録に大きく貢献し、それらの派生系「[[吹替の帝王]]」シリーズでは関係者へのインタビューの聞き手を引き受けている。また同公式サイトではコラム「とり・みき の吹替どうなってるの」が連載された{{Refnest|「[[吹替の帝王]]」公式サイトで連載されたコラム。- [https://web.archive.org/web/20130113084732/http://video.foxjapan.com/library/fukikae/specialcolumn01.html 第1回] / [https://web.archive.org/web/20121229051456/http://video.foxjapan.com/library/fukikae/specialcolumn02.html 第2回] / [https://web.archive.org/web/20121224102932/http://video.foxjapan.com/library/fukikae/specialcolumn03.html 第3回] / [https://web.archive.org/web/20150217063002/http://video.foxjapan.com/library/fukikae/specialcolumn04.html 第4回] / [https://web.archive.org/web/20191030234644/https://video.foxjapan.com/library/fukikae/torimiki/05/ 第5回(最終回)](2012年 - 2019年のアーカイブより)}}。 *[[出渕裕]]や[[ゆうきまさみ]]と交友が深い<ref name="puf" />。『クルクルくりん』連載当時、彼ら同様[[原田知世]]に傾倒し、彼女が登場するテレビ番組をすべて見ようとしていた(番組は勿論、CMも録画していた)。『TOMO16』という[[同人誌]](非売品)を仲間内で作り、実際に原田知世や映画関係者に送ったこともある。また、後に彼女主演の『[[天国にいちばん近い島]]』にエキストラとして出演するに至る。また、ゆうきまさみたちが所属していた創作集団「ヘッドギア」原作の劇場用アニメ『[[WXIII 機動警察パトレイバー]]』の脚本も執筆している。 *1991年に金沢で行われた第30回[[日本SF大会]](通称『i-CON』)において関智<ref>[[徳間書店]]雑誌編集者(当時)。後にゲーム『[[とんでもクライシス!]]』を手がけた。</ref>と組んだフォークデュオ『あかね雲』で[[暗黒星雲賞]](ルネス企画部門)を受賞している<ref>ただしこの時のパフォーマンスは[[SFアドベンチャー]]1991年10月号掲載のルポ漫画「我々はこうして電気GROOVEのマネをした!!」によれば当時の[[電気グルーヴ]]を模したテクノ・ラップスタイルであった。バックトラックは米田裕が担当。</ref>。 === その他 === *父親は医師。[[吉永小百合]]ファンクラブ会報の投稿常連であり、結婚報道の際は週刊誌から取材依頼があったほど。 == 受賞歴 == *1994年 - 第25回[[星雲賞]]コミック部門受賞(『[[DAI-HONYA]]』) *1995年 - 第41回[[文藝春秋漫画賞]]受賞(『[[遠くへいきたい]]』) *1998年 - 第29回星雲賞コミック部門受賞(『[[SF大将]]』) *2009年 - [[おおひなたごう]]主催第2回ギャグ漫画家大喜利バトル優勝 == 作品リスト == (括弧内は、雑誌掲載年)<!--不正確かもしれません。修正願います--> *こまけんハレーション(1979年、『[[週刊少年チャンピオン]]』46-52号、[[秋田書店]] 単行本:『しまった。』収録 1984年、ジェッツコミックス、[[白泉社]])<ref name="puf" /> *バラの進さま(1980年、『週刊少年チャンピオン』1-32号 単行本:1980年、[[少年チャンピオンコミックス]]全3巻、秋田書店)<ref name="puf" /> *たまねぎぱるこ(1981年-1982年、『[[月刊少年チャンピオン]]』1981年5月号-1982年4月号、秋田書店 単行本:1982年、少年チャンピオンコミックス)<ref name="puf" /> *るんるんカンパニー(1980年-1982年、『週刊少年チャンピオン』1980年46号-1982年24号 単行本:1981年-1982年、少年チャンピオンコミックス(全6巻):1990年、愛蔵版。いずれも秋田書店 2005年ハヤカワ文庫・全4巻) **The Very Best ofるんるんカンパニー 秋田書店・全3巻 1990年 *すけこまくん(1982年-1983年、『週刊少年チャンピオン増刊 ヤングチャンピオン』1982年1号-1983年9号、秋田書店)(連載当初4回目までのタイトルは「バージンください」)<ref name="puf" /> 「クルクルくりん」6巻に収録 *[[クルクルくりん]](1983年-1984年、『週刊少年チャンピオン』1983年13号-1984年30号 単行本:1983年-1984年、少年チャンピオンコミックス・全6巻:ギャグの解説がついた新装版1990年、トクマコミックス・全5巻、[[徳間書店]] ※いずれも最終第6巻で『すけこまくん』も掲載 2005年ハヤカワ文庫・全3巻)<ref name="puf" /> *:[[岩井小百合]]主演、[[宍戸錠]]、[[小倉久寛]]、[[有森也実]]ら出演でテレビドラマ化された。主題歌の作詞も行っている<ref name="puf" />。 *とりみ菌!!(1983年-1984年 単行本:1984年、ジェッツコミックス、[[白泉社]]) *しまった。(1979年-1984年 単行本:1984年、ジェッツコミックス、[[白泉社]]) *ときめきブレーン(1984年、『月刊少年チャンピオン』 単行本:『裏とり』) *ポリタン(1985年、『[[月刊コミコミ]]』、白泉社 単行本:1985年、ジェッツコミックス)※読切作品『充血刑事』の続編<ref name="puf" />。 *吉田さん危機一発(1983年-1986年、『[[ザ・まんが]]』・『[[コミコミスペシャル]]』・『[[月刊スーパーアクション]]』、[[双葉社]] 単行本:1986年、アクションコミックス、双葉社)※雑誌掲載時のタイトルは「吉田さん危機一髪」。<ref name="puf" /> *裏とり(1984年-1986年 単行本:1986年、CBS/SONY COMICS、CBSソニー出版) *[[愛のさかあがり]](1985年-1986年、『[[平凡パンチ]]』、[[マガジンハウス]] 単行本・全3巻:1987年-1988年、[[角川書店]]:1995年、[[ちくま文庫]](上下巻)、[[筑摩書房]]) *ひいびいじいびい a Heebie-jeebie(1986年-1987年、『コミコミ』 単行本:1987年、ジェッツコミックス) *だまって俺について来い(1985年-1986年 単行本:1987年、[[青林堂]]) *とりのいち(1987年-1989年 単行本:1989年、青林堂) *山の音(1988年、『[[SFマガジン]]』、[[早川書房]] 単行本:1989年、早川書房:1993年、ちくま文庫) *てりぶる少年団(1989年、『[[週刊少年サンデー]]』、[[小学館]] 単行本:1990年、[[少年サンデーコミックス スペシャル]]、小学館) *しゃりばり(1987年、『月刊スーパーアクション』 単行本:1991年、アクションコミックス) *とり・みきのキネコミカ(1989年-1992年 単行本:1992年、[[ソニーマガジンズ]]、2003年『キネコミカ』ハヤカワ文庫) *犬家の一族(1990年-1993年 1993年、少年キャプテンコミックススペシャル、徳間書店) *[[DAI-HONYA]](原案:[[田北鑑生 (漫画原作者)|田北鑑生]])(1992年-1993年、アスキーコミック、[[アスキー (企業)|アスキー出版局]] 単行本:1993年、アスキーコミックス、アスキー出版局、2002年早川書房新版) *とり・みきのもう安心(1989年-1993年 単行本:1993年、青林堂) **再編集・新装版『もう安心。』(イースト・プレス (CUE COMICS) 1999年) *レア・マスターズ(1982年-1994年 単行本:1994年、[[カワデ・パーソナル・コミックス]]、[[河出書房新社]]) *万延元年のラグビー(原作・[[筒井康隆]] 1995年実業之日本社『筒井漫画瀆本』収録) *人達(1995年?、『まんがシャレダ!!』、[[ぶんか社]] 単行本:1995年、ぶんか社) *トマソンの罠(1994年-1995年、『文藝春秋』増刊『コミック'○○』、[[文藝春秋]] 単行本:1996年、文春コミックス、文藝春秋社) *[[遠くへいきたい]](1988年-2003年、『[[テレビブロス]]』、[[東京ニュース通信社]] 単行本:1997年-、全5巻、河出書房新社) *[[SF大将]](1994年-1996年、『SFマガジン』 単行本:1997年、早川書房、のち2002年文庫)  **SF大将 enlarged and revised edition ハヤカワ文庫JA 電子書籍版 2016 *石神伝説(1995年-、『コミックビンゴ』、文藝春秋 単行本:1997年-、ビンゴコミックス・全3巻、文藝春秋) - [[未完]] *[[土曜ワイド殺人事件]]- [[ゆうきまさみ]]と共著(1996年-1997年、『[[少年キャプテン]]』、徳間書店 単行本:1998年、SC COMICS、徳間書店) **新装版 土曜ワイド殺人事件(角川書店(ドラゴンコミックス)、2004年) *とり・みきの事件の地平線(1993年-1997年、『創』、単行本:1998年、筑摩書房) *[御題頂戴](1995-1996『[[まんがシャレダ]]』、1996-1997『[[まんがガウディ]]』、1997『[[イケイケ課長]]』、単行本:ぶんか社、1999年) *ときめきブレーン―自選短篇集 (1999年、ちくま文庫) *クレープを二度食えば―自選短篇集 (2000年、ちくま文庫) *膨張する事件(筑摩書房、2002年) *[[DAI-HONYA#THE LAST BOOK MAN|THE LAST BOOK MAN]](原案:[[田北鑑生 (漫画原作者)|田北鑑生]])(『トムプラス』2000年-2001年、単行本:2002年、早川書房) *[[猫田一金五郎の冒険]](2003年、講談社) *エキサイトな事件(秋田書店、2004年) - [[おおひなたごう]]と共著 *新・土曜ワイド殺人事件―京都藁人形殺人事件 - [[ゆうきまさみ]]と共著(AICコミックLOVE:Vol.8、ドラゴンHG:Vol.1 - Vol.6、ドラゴンエイジ:2003年10月号、2004年1月号 単行本:2004年、角川書店(ドラゴンコミックス)) *パシパエーの宴(チクマ秀版社、2006年) *[[冷食捜査官]](2008年、講談社) *とりから往復書簡 - [[唐沢なをき]]と共著(2006年-2010、『[[月刊COMICリュウ]]』、単行本:2008年-2010年、徳間書店・全3巻) *時事ネタ(文藝春秋、2007年) のち文春文庫 *ロボ道楽の逆襲 (2008年、イースト・プレス CUE COMICS) *とりったー(2010年-2011、『[[月刊COMICリュウ]]』単行本:徳間書店(リュウコミックス) 2011/7/30) *消滅 VANISHING POINT([[恩田陸]]作)の挿絵(2013年11月 - 『[[読売新聞]]朝刊』) *[[プリニウス (漫画)|プリニウス]] - [[ヤマザキマリ]]と共著 *メカ豆腐の復讐 (2016年、イースト・プレス CUE COMICS) == 漫画以外の著作 == *とりの眼ひとの眼(ビクター音楽産業、1989年、のち[[ちくま文庫]])エッセイ集。 *とり・みきの大雑貨事典(双葉社、1993年 のち双葉文庫)エッセイ集 *とり・みきのしりとり物語(角川書店、1996年)エッセイ集。 *マンガ家のひみつ―とり・みき&人気作家9人の本音トーク(徳間書店、1997年) - [[永井豪]]、[[ゆうきまさみ]]、[[吉田戦車]]、[[永野のりこ]]、[[吾妻ひでお]]、[[しりあがり寿]]、[[青木光恵]]、[[唐沢なをき]]、[[江口寿史]]、マンガ家9人との対談集。 *[[吹替映画大事典]](吹替愛好会と共著)(三一書房、1995年) *とり・みきの映画吹替王(洋泉社MOOK、2004年)(単行本) *街角のオジギビト(筑摩書房、2007年) === その他 === *『[[クラッシャージョウ#アニメ|クラッシャージョウ]]』(1983年、[[松竹富士]]系) - 劇場版アニメ映画。スペシャル・デザイン(バグパイパー) *特撮雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』1984年春号(Vol.18)にて特撮についてのイラストコラムを描いた。 *[[藤子・F・不二雄大全集]]『少年SF短編』3巻(2011年、小学館) - 解説を執筆。 *[[山下達郎]]『[[OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜]]』({{Start date|2012|9|26}}発売) - イラスト *山下達郎「[[CHEER UP! THE SUMMER]]」({{Start date|2016|9|14}}発売) - イラスト *山下達郎「[[ミライのテーマ/うたのきしゃ|ミライのテーマ / うたのきしゃ]]」({{Start date|2018|7|11}}発売) - イラスト *[[原田知世]]オフィシャル・カバー・アルバム『ToMoYo covers』(2022年11月2日発売{{R|natalie20220930}}) - ジャケットイラスト<ref name="natalie20220930">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/495826|title=とり・みきが原田知世カバーアルバム「ToMoYo covers」のジャケット描き下ろす|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30}}</ref> ==ミュージックビデオ== *山下達郎「[[ミライのテーマ/うたのきしゃ|ミライのテーマ]]」 - PVアニメーション担当 *山下達郎「[[RECIPE (レシピ)]]」 - PV内3Dアニメキャラクター「タツローくん」キャラデザイン担当 == テレビ番組 == *[[鶴ちゃんのおもいっきりポコポコ]]([[テレビ朝日]])(1986年) -「愛のさかあがり」から派生した「イタイ話」のコーナーレギュラー *[[ウゴウゴルーガ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])(1992年) -「おしえて!えらいひと」のコーナーに「まんがかのえらいひと」として出演、栄養ドリンクを飲みながら徹夜で原稿を描くところ(わざとらしい演技)が放送された == 元アシスタント == * [[品川KID]]<ref name="puf" /> * [[唐沢なをき]] * [[小だまたけし]]  * [[ゆうきまさみ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == <nowiki>*</nowiki>は作品に漫画俳優として登場 * [[小松左京]](*) * [[出渕裕]](*) * [[ゆうきまさみ]] * [[河森正治]](*) * [[火浦功]](*) * [[横山宏]] * [[内田春菊]] * [[おおひなたごう]] * [[米田裕]](*) * [[鹿野司]](*) * [[田北鑑生 (漫画原作者)|田北鑑生]](*) * [[小山田いく]](『[[すくらっぷ・ブック]]』連載当時、お互いに作品内でおちょくり合いをしていた) == 外部リンク == * [https://www.torimiki.com/ TORI MIKI] * [http://www.laputa-jp.com/school/tondemo.html 『図説 危険な話』ふゅーじょんぷろだくと] *{{Mediaarts-db|C69594|とり・みき}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とりみき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:SFアーティスト]] [[Category:熊本県出身の人物]] [[Category:日本のコラムニスト]] [[Category:路上観察学]] [[Category:ファンダムに関連する人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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陰陽
陰陽(いんよう・おんよう・おんみょう、拼音: yīnyáng、英: yin - yang)とは、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陽(よう)と陰(いん)の二つのカテゴリに分類する思想及び哲学。陽と陰とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる 。 このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行思想を構成した。 原初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から澄んだ明白な気、すなわち陽の気が上昇して天となり、濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。 能動的な性質、受動的な性質に分類する。具体的には、陽・光・明・剛・火・夏・昼・動物・男、陰・闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女などに分けられる。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陽と陰の二気によって消長盛衰し、陽と陰の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。 陰陽二元論は、この世のものを善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なる。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。中国の戦国時代末期に五行思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行思想となった。 陰と陽とはもともと天候と関係する言葉であり、陽は日差しや日向、陰は曇りや日陰の意味として『詩経』などの古書に表れる。『春秋左氏伝』昭公元年に天の六気として陽・陰・風・雨・晦・明とあり、ここで陰陽は寒暑の要因と考えられ、また昭公四年には陽・陰・風・雨が季節を特徴づける気候の要因として扱われている。さらに『管子』幼官では明確に春の燥気・夏の陽気・秋の湿気・冬の陰気として寒暑の原因とされるとともに四季(四時)の気候が変化する要因として扱われている。これがやがて四時の気を統轄する上位概念となり、さらには万物の生成消滅と言った変化全般を司る概念、万物の性質を二元に分類する概念へと昇華されたと考えられる。 『易経』の卦は6本の爻と呼ばれる棒によって構成されている記号であるが、爻には「⚊」と「⚋」の2種類あり、易伝によりそれぞれの属性は陽・陰に当てられ、陽爻と陰爻を3つ重ねた八卦、八卦を2つ重ねた六十四卦は森羅万象を表象すると考えられた。これにもとづき漢代では卦の象徴や爻の陰陽にもとづいて解釈する易学がなされた。また繋辞上伝には「太極→両儀→四象→八卦」という生成論が唱えられているが、両儀は天地あるいは陰陽、四象は四時、八卦は万物と解されている。 宋易(宋代に興った易学)では図書先天の学と呼ばれる図像を用いた象数易が行われたが、これらの易図では陽は白、陰は黒で描かれた。南宋の朱熹は先天図にもとづき「太極→両儀→四象→八卦」の両儀を明確に陰陽と位置づけ、さらに四象を爻を2つ重ねたものとして と名づけた。 なおUnicodeにおいて陰陽を表す記号には陰陽魚の太極図(☯)が当てられており、そのコードはU+262f、&#9775;である。また である。 初期の内丹経典として知られている『霊宝畢法』は内丹の修練法が書かれている。その前段階に陰陽の気についての記述がみられる。 まず、体内の気の変化を天地自然の陰陽の変化に順応させて、体内の気が交合する環境を整える。その際、人の身体と天地が相似関係にあると考えられている。たとえば、体内の心臓と腎臓は天と地に、体内の陽の気は「気」、陰の気は「液」と呼ぶ。「液」の名の由来は陽が陰に変化し、陰が陽に変化するさまを水が水蒸気に変化し、水蒸気が水に変化するさまに重ねたからだという。 天地自然の陰陽の変化として、一年の季節の変化がある。陰が極まって陽が萌す冬至、次第に陽が伸長していき極まった夏至、そこで陰が萌し、極まって冬至となる。このように自然の変化を陰陽の気の消長変化として捉え、それを人間の体内の「気」と「液」の変化と対応させている。 気が旺盛でないときは二度あり、一つは易の艮卦に象徴される立春、丑寅の刻で、もう一つは易の乾卦に象徴される立冬、戌亥の刻である。 二気を交わらせる段階では、午の刻に地にあたる腎から生じた「気」が上昇し、天にあたる心の「気」と融合することで陽が極まり、「液」が生じる。これが「真水」である。子の刻に心から生じた「液」が下降し、腎の「液」と融合して陰が極まって「気」が生じる。これが「真気」である。この二つが丹の材料となる二気とされている。 三才の思想である。
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陰陽とは、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陽(よう)と陰(いん)の二つのカテゴリに分類する思想及び哲学。陽と陰とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる。 このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行思想を構成した。
{{Redirect|陰|影と陰(かげ)|影|姓|陰 (姓)}} {{Redirect|陽|姓|陽 (姓)}} [[File:Yin yang.svg|thumb|right|260px|陰陽を表す[[太極図]]]] '''陰陽'''(いんよう・おんよう・おんみょう、[[拼音]]: yīnyáng、[[英語|英]]: yin - yang<ref>『新英和中辞典』研究社</ref>)とは、[[中国の歴史|古代中国]]の[[思想]]に端を発し、[[森羅万象]]、[[宇宙]]のありとあらゆる事物をさまざまな観点から'''{{color|#c40|陽}}'''(よう)と'''{{color|#08c|陰}}'''(いん)の二つの[[カテゴリ]]に分類する[[思想]]及び[[哲学]]<ref>{{Cite web |url=https://kurohon.jp/tiryoka-inyoron/ |title=治療家に欠かせない陰陽論の考え方と基礎知識 |access-date=2023-06-24 |publisher=国試黒本}}</ref>。陽と陰とは互いに対立する[[属性]]を持った二つの[[気]]であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる<ref>Deng Yu, Zhu Shuanli, Xu Peng et al邓宇,朱栓立,徐彭,New Translator with Characteristic of Wu xing Yin Yang五行阴阳的特征与新英译,Chinese Journal of Integrative Medicine中国中西医结合杂志,2000, 20 (12)</ref><ref>Deng Yu邓宇,等; Fresh Translator of Zang Xiang Fractal five System藏象分形五系统的新英译,Chinese Journal of Integrative Medicine中国中西医结合杂志; 1999</ref><ref>Deng Yu邓宇等,Nature with Math Physics Yin Yang数理阴阳与实质, Journal of Mathematical Medicine数理医药学杂志, 1999年。</ref><ref>Deng Yu et al邓宇等, 阴阳的科学本质及数理化建构,Chinese Journal of basic medicine in traditional chinese medicine <<中国中医基础医学杂志>>1998,2:59-61.</ref><ref>Deng Yu邓宇等,TCM Fractal Sets中医分形集,Journal of Mathematical Medicine<<数理医药学杂志>> ,1999,12(3),264-265 </ref><ref>Deng Yu, Zhu Shuanli, Xu Peng et al邓宇,朱栓立,徐彭等,Essence and New Translator of Channels经络英文新释译与实质,Chinese Journal of Integrative Medicine中国中西医结合杂志,2000,20(8):615</ref> 。 このような陰陽に基づいた思想や[[学説]]を'''陰陽思想'''、'''陰陽論'''、'''陰陽説'''などと言い、[[五行思想]]とともに[[陰陽五行思想]]を構成した。 == 概要 == 原初は混沌([[カオス]])の状態であると考え、この混沌の中から{{color|#c40|澄んだ明白な気、すなわち陽の気が上昇して}}[[天]]となり、{{color|#08c|濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して}}[[地]]となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。 能動的な性質、受動的な性質に分類する。具体的には、{{color|#c40|陽・光・明・剛・火・夏・昼・動物・男}}、{{color|#08c|陰・闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女}}などに分けられる。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陽と陰の二気によって消長盛衰し、陽と陰の二気が調和して初めて[[自然]]の秩序が保たれる。 陰陽二元論は、この世のものを善一元化のために善と悪に分ける[[善悪二元論]]とは異なる。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する[[要素]]に過ぎない。中国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期に[[五行思想]]と一体で扱われるようになり、[[陰陽五行思想]]となった。 == 特徴 == ;陰陽互根:陽があれば陰があり、陰があれば陽があるように、互いが存在することで己が成り立つ考え方。 ;陰陽制約:提携律とも言い、陰陽が互いにバランスをとるよう作用する。陽虚すれば陰虚、陰虚すれば陽虚し、陽実すれば陰実、陰実すれば陽実する。 ;陰陽消長:拮抗律とも言い、リズム変化である。陰陽の量的な変化である。陽虚すれば陰実、陰虚すれば陽実し、陽実すれば陰虚、陰実すれば陽虚する。 ;陰陽転化:循環律とも言い、陰陽の質的な変化である。陽極まれば、無極を経て陰に転化し、陰極まれば、無極を経て陽に転化する。 ;陰陽可分:交錯律とも言い、陰陽それぞれの中に様々な段階の陰陽がある。陽中の陽、陰中の陽、陽中の陰、陰中の陰。 == 展開 == 陰と陽とはもともと[[天候]]と関係する言葉であり、陽は日差しや日向、陰は曇りや日陰の意味として『[[詩経]]』などの古書に表れる。『[[春秋左氏伝]]』昭公元年に天の六気として陽・陰・風・雨・晦・明とあり、ここで陰陽は寒暑の要因と考えられ、また昭公四年には陽・陰・風・雨が[[季節]]を特徴づける[[気候]]の要因として扱われている。さらに『[[管子]]』幼官では明確に春の燥気・夏の陽気・秋の湿気・冬の陰気として寒暑の原因とされるとともに[[四季]](四時)の気候が変化する要因として扱われている。これがやがて四時の気を統轄する上位概念となり、さらには万物の生成消滅と言った変化全般を司る[[概念]]、万物の性質を二元に分類する概念へと昇華されたと考えられる。 === 易経における陰陽 === {{See also|易経}} [[File:Pakua with name.svg|thumb|right|150px|八卦爻と[[太極]]]] 『易経』の[[卦]]は6本の[[爻]]と呼ばれる棒によって構成されている記号であるが、爻には「{{color|#c40|&#9866;}}」と「{{color|#08c|&#9867;}}」の2種類あり、易伝によりそれぞれの属性は陽・陰に当てられ、陽爻と陰爻を3つ重ねた八卦、八卦を2つ重ねた六十四卦は森羅万象を表象すると考えられた。これにもとづき漢代では卦の象徴や爻の陰陽にもとづいて解釈する易学がなされた。また繋辞上伝には「[[太極]]→[[両儀]]→[[四象 (易)|四象]]→[[八卦]]」という生成論が唱えられているが、両儀は天地あるいは陰陽、四象は四時、八卦は万物と解されている。 宋易([[宋代]]に興った易学)では[[図書先天の学]]と呼ばれる図像を用いた象数易が行われたが、これらの易図では陽は白、陰は黒で描かれた。[[南宋]]の[[朱熹]]は[[先天図]]にもとづき「太極→両儀→四象→八卦」の両儀を明確に陰陽と位置づけ、さらに四象を爻を2つ重ねたものとして * [[画像:Taiyang.png]]太陽(老陽) * [[画像:Shaoyin.png]]少陰 * [[画像:Shaoyang_4.png]]少陽 * [[画像:Taiyin.png]]太陰(老陰) と名づけた。 なお[[Unicode]]において陰陽を表す記号には陰陽魚の[[太極図]](&#9775;)が当てられており、そのコードはU+262f、&amp;#9775;である。また # 陽爻(&#9866;)はU+268A、&amp;#9866; # 陰爻(&#9867;)はU+268B、&amp;#9867; # 太陽(&#9868;)はU+268C、&amp;#9868; # 少陰(&#9869;)はU+268D、&amp;#9869; # 少陽(&#9870;)はU+268E、&amp;#9870; # 太陰(&#9871;)はU+268F、&amp;#9871; である。 === 『霊宝畢法』における陰陽 === 初期の内丹経典として知られている『霊宝畢法』は内丹の修練法が書かれている。その前段階に陰陽の気についての記述がみられる。 まず、体内の気の変化を天地自然の陰陽の変化に順応させて、体内の気が交合する環境を整える。その際、人の身体と天地が相似関係にあると考えられている。たとえば、体内の心臓と腎臓は天と地に、体内の陽の気は「気」、陰の気は「液」と呼ぶ。「液」の名の由来は陽が陰に変化し、陰が陽に変化するさまを水が水蒸気に変化し、水蒸気が水に変化するさまに重ねたからだという。 天地自然の陰陽の変化として、一年の季節の変化がある。陰が極まって陽が萌す冬至、次第に陽が伸長していき極まった夏至、そこで陰が萌し、極まって冬至となる。このように自然の変化を陰陽の気の消長変化として捉え、それを人間の体内の「気」と「液」の変化と対応させている。 気が旺盛でないときは二度あり、一つは易の艮卦に象徴される立春、丑寅の刻で、もう一つは易の乾卦に象徴される立冬、戌亥の刻である。 二気を交わらせる段階では、午の刻に地にあたる腎から生じた「気」が上昇し、天にあたる心の「気」と融合することで陽が極まり、「液」が生じる。これが「真水」である。子の刻に心から生じた「液」が下降し、腎の「液」と融合して陰が極まって「気」が生じる。これが「真気」である。この二つが丹の材料となる二気とされている<ref>{{Cite book|和書|author=秋岡英行|author2=垣内智之|author3=加藤千恵|title=煉丹術の世界―不老不死への道―|origdate=2018-10-01|publisher=大修館書店|series=あじあブックス080|isbn=9784469233209|pages=122-129}}</ref>。 == 天地人 == [[三才]]の思想である。 == 陰陽性質表 == {| class="wikitable" border="1" cellspacing="1" ! ! style="background-color:#fb9" |陽 ! style="background-color:#9df" |陰 |- !基本的性質、特性 | style="background-color:#fdc" |遠心力、分裂、分離、分散、拡散 | style="background-color:#cef" |求心力、融合、同化、集合、編成 |- ![[密度]] | style="background-color:#fdc" |希薄 | style="background-color:#cef" |緻密 |- !外形、[[形状]] | style="background-color:#fdc" |大きい、膨張性 | style="background-color:#cef" |小さい、収縮性 |- ![[重量]] | style="background-color:#fdc" |重い | style="background-color:#cef" |軽い |- ![[位置]] | style="background-color:#fdc" |上、前、内側 | style="background-color:#cef" |下、後、外側 |- ![[部分]] | style="background-color:#fdc" |上部、内部、中心 | style="background-color:#cef" |下部、外部、周辺 |- ![[向き]]、[[方向]] | style="background-color:#fdc" |上昇、垂直 | style="background-color:#cef" |下降、水平 |- ![[ハングル]]の[[母音]]字 | style="background-color:#fdc" |ㅏ、ㅑ、ㅗ、ㅛ | style="background-color:#cef" |ㅓ、ㅕ、ㅜ、ㅠ |- ![[高さ]] | style="background-color:#fdc" |高い | style="background-color:#cef" |低い |- ![[東西南北]][[天地]] | style="background-color:#fdc" |東、南、天 | style="background-color:#cef" |西、北、地 |- ![[四季|春夏秋冬]] | style="background-color:#fdc" |春、夏 | style="background-color:#cef" |秋、冬 |- !昼夜 | style="background-color:#fdc" |昼 | style="background-color:#cef" |夜 |- ![[天体]] | style="background-color:#fdc" |太陽(日) | style="background-color:#cef" |太陰(月) |- ![[光度 (光学)|光度]] | style="background-color:#fdc" |明るい(光明、日光) | style="background-color:#cef" |暗い(晦冥、月光) |- ![[温度]] | style="background-color:#fdc" |熱、暑、暖 | style="background-color:#cef" |冷、寒、涼 |- ![[湿度]] | style="background-color:#fdc" |乾燥 | style="background-color:#cef" |湿潤 |- ![[気候]]風土 | style="background-color:#fdc" |熱帯気候、乾燥帯気候 | style="background-color:#cef" |寒帯気候、湿潤気候 |- ![[天気]] | style="background-color:#fdc" |晴 | style="background-color:#cef" |雨 |- ![[素粒子]] | style="background-color:#fdc" |陽子 | style="background-color:#cef" |電子 |- ![[生物]]特性 | style="background-color:#fdc" |動物的 | style="background-color:#cef" |植物的 |- ![[状況]] | style="background-color:#fdc" |動 | style="background-color:#cef" |静 |- !動き、[[労働|仕事]]、[[文化_(代表的なトピック)|文化]] | style="background-color:#fdc" |活発、敏速、物理的、社会的、物質的 | style="background-color:#cef" |不活発、緩慢、沈滞、心理的、精神的 |- ![[感性]]、[[態度]] | style="background-color:#fdc" |攻撃的、積極的 | style="background-color:#cef" |防御的、消極的 |- ![[戦闘]] | style="background-color:#fdc" |攻撃 | style="background-color:#cef" |防御 |- ![[武術]] | style="background-color:#fdc" |剛 | style="background-color:#cef" |柔 |- ![[感触]] | style="background-color:#fdc" |堅硬 | style="background-color:#cef" |柔軟 |- ![[呼吸]] | style="background-color:#fdc" |呼気 | style="background-color:#cef" |吸気 |- ![[器官]]構造 | style="background-color:#fdc" |中空器官、膨張性 | style="background-color:#cef" |実質器官、凝縮性 |- ![[神経]] | style="background-color:#fdc" |中枢神経、交感神経 | style="background-color:#cef" |末梢神経、副交感神経 |- !補瀉 | style="background-color:#fdc" |瀉 | style="background-color:#cef" |補 |- ![[命]] | style="background-color:#fdc" |生 | style="background-color:#cef" |死 |- ![[次元]] | style="background-color:#fdc" |時間 | style="background-color:#cef" |空間 |- ![[性別]] | style="background-color:#fdc" |男性 | style="background-color:#cef" |女性 |- ![[夫婦]] | style="background-color:#fdc" |夫 | style="background-color:#cef" |妻 |- ![[親]] | style="background-color:#fdc" |父 | style="background-color:#cef" |母 |- ![[八綱弁証]] | style="background-color:#fdc" |表証、実証、熱証 | style="background-color:#cef" |裏証、虚証、寒証 |- ![[数]] | style="background-color:#fdc" |奇数 | style="background-color:#cef" |偶数 |- ![[数学]] | style="background-color:#fdc" |+(正) | style="background-color:#cef" |-(負) |- ![[商売]] | style="background-color:#fdc" |利益 | style="background-color:#cef" |損害 |- ![[人間]] | style="background-color:#fdc" |肉体(体) | style="background-color:#cef" |精神(心) |- !背腹 | style="background-color:#fdc" |背 | style="background-color:#cef" |腹 |- ![[感情]] | style="background-color:#fdc" |興奮 | style="background-color:#cef" |抑制 |- ![[五臓六腑]] | style="background-color:#fdc" |腑 | style="background-color:#cef" |臓 |- !人体組織 | style="background-color:#fdc" |筋肉、[[内臓]] | style="background-color:#cef" |皮膚、骨 |- !光闇 | style="background-color:#fdc" |光 | style="background-color:#cef" |闇 |- ![[収穫]] | style="background-color:#fdc" |豊穣 | style="background-color:#cef" |凶荒 |} == 様々な「陰陽」の語の使用例 == * [[日本]]の[[中国地方]]の別称である「[[山陰地方|山陰]][[山陽地方|山陽]]地方」を略して、「陰陽」と呼称する。[[陰陽連絡路線]]、陰陽選抜大会、[[陰陽ダービー]]などの用例がある。 * [[中国語]]では西洋の言語における[[性 (文法)|男性名詞・女性名詞]]をそれぞれ「陽性名詞」「陰性名詞」と呼ぶ。 * 男性・女性もそれぞれ「陽」「陰」とされるが、性器などではっきりと男女を区別できない状態は[[半陰陽]]と呼ばれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == [[File:Daoist-symbols Qingyanggong Chengdu.jpg|thumb|right|200px|陰陽と十二支の彫刻]] * 大極図([[太極図]]) * [[五行思想]] ** [[陰陽五行思想]] ** [[気学]] * [[四神相応]] ** [[八卦]] * [[十干]] ** [[十二支]] * [[巴紋]] * [[ハングル#創製原理|ハングル]](母音字母が陰陽に従って作られた) == 外部リンク == {{Commons category}} {{wiktionary}} *{{kotobank|2=百科事典マイペディア|陰陽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いんよう}} [[Category:道教]] [[Category:易]] [[Category:瞑想]] [[Category:二元論]] [[Category:中国哲学の概念]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
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暦注
暦注(れきちゅう)とは、暦に記載される日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項のことである。 暦注の大半は、陰陽五行説、十干十二支(干支)に基づいたものである。一般に、暦の上段には日付・曜日・二十四節気、七十二候などの科学的・天文学的な事項や年中行事が書かれ、中段には十二直、下段には選日・二十八宿・九星・暦注下段などの事項が書かれる。また、六曜は日付の下に書かれることが多いが、これも暦注に入れる。 暦注の日取りを決める方法を撰日法という。
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暦注(れきちゅう)とは、暦に記載される日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項のことである。
{{出典の明記|date=2020年1月}} '''暦注'''(れきちゅう)とは、[[暦]]に記載される日時・[[方位]]などの[[吉凶]]、その日の[[運|運勢]]などの事項のことである。 == 概要 == 暦注の大半は、[[陰陽五行説]]、[[十干]][[十二支]]([[干支]])に基づいたものである。一般に、暦の上段には日付・[[曜日]]・[[二十四節気]]、[[七十二候]]などの科学的・天文学的な事項や[[年中行事]]が書かれ、中段には[[十二直]]、下段には[[選日]]・[[二十八宿]]・[[九星]]・[[暦注下段]]などの事項が書かれる。<!--この中・下段の記載事項を暦注と呼ぶ。-->また、[[六曜]]は日付の下に書かれることが多いが、これも暦注に入れる。 暦注の日取りを決める方法を[[撰日法]]という。 == 関連項目 == {{Div col}} *[[カレンダー]] *[[雑書]] *[[生活暦]] *[[日柄]] {{Div col end}} == 外部リンク == *[http://koyomi8.com/directjp.cgi?http://koyomi8.com/sub/rekicyuu.htm 暦注計算] - こよみのページ *{{kotobank}} {{Uranai-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れきちゆう}} [[Category:暦法]] [[Category:占星術]] [[Category:占い]] [[Category:術数学]] [[Category:陰陽道]] [[Category:暦注|*]]
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14,015
高山族
高山族(こうざんぞく、カオシャンぞく)は広義には、台湾原住民の総称、狭義には台湾原住民のうち漢化(漢人化、漢文化化)しなかった部族の総称。漢化が進んだものは平埔族と呼ばれる。 台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。人口は約50万人。清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが(「番」も「蕃」も中華文明世界の外の意、漢人への同化が進んでいたものは「熟番(蕃)」と呼称された)、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)6月4日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。この改称は、秩父宮雍仁親王の要請によると言われている。 また高山族には首狩りの習慣があり、漢人や日本人にも首狩り族と恐れられた。 中華人民共和国は、中華民国はすでに消えた国家である以上、台湾は中華人民共和国の台湾省であると主張しているため、「高山族」を中国における55の少数民族の一つとみなしている。なお、2010年現在、中華人民共和国が統治している領域内に居住している高山族は4009人であり、多くは河南省や福建省(中華人民共和国実効支配区域)、広西省などに居住している。 ※発表順
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高山族(こうざんぞく、カオシャンぞく)は広義には、台湾原住民の総称、狭義には台湾原住民のうち漢化(漢人化、漢文化化)しなかった部族の総称。漢化が進んだものは平埔族と呼ばれる。
{{Infobox 民族 |group = 高山族 |population = 494107人(2008年) |image = [[File:Rukai chief.jpg|260px]] |region1 = {{ROC-TW}}[[蘭嶼]] |pop1 = |ref1 = |region2 = {{CHN}}[[福建]] |pop2 = |ref2 = |languages = [[台湾諸語]] |religions = [[カトリシズム]]、[[仏教]]、[[道教]] |related = |footnotes = }} {{ウィキプロジェクトリンク|台湾|[[File:Flag_of_the_Republic_of_China.svg|40px]]}} '''高山族'''(こうざんぞく、カオシャンぞく)は広義には、[[台湾原住民]]の総称、狭義には台湾原住民のうち漢化(漢人化、漢文化化)しなかった部族の総称。漢化が進んだものは[[平埔族]]と呼ばれる。 == 中華民国(台湾)の高山族 == [[台湾原住民]]のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。人口は約50万人。清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが(「番」も「蕃」も中華文明世界の外の意、漢人への同化が進んでいたものは「熟番(蕃)」と呼称された)、日本統治時代中期である[[1935年]]([[昭和]]10年)[[6月4日]]に[[台湾総督府]]が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。この改称は、[[秩父宮雍仁親王]]の要請によると言われている。 また高山族には[[首狩り]]の習慣があり、漢人や日本人にも首狩り族と恐れられた。 == 中華人民共和国(中国大陸)の高山族 == 中華人民共和国は、[[中華民国]]はすでに消えた国家である以上、[[台湾]]は中華人民共和国の[[台湾省 (中華人民共和国)|台湾省]]であると主張しているため、「高山族」を中国における55の少数民族の一つとみなしている。なお、2010年現在、中華人民共和国が統治している領域内に居住している高山族は4009人であり、多くは[[河南省]]や[[福建省]](中華人民共和国実効支配区域)、[[広西省]]などに居住している<ref>[http://www.stats.gov.cn/tjsj/pcsj/rkpc/6rp/indexch.htm 第六次全国人口普查成果] {{Wayback|url=http://www.stats.gov.cn/tjsj/pcsj/rkpc/6rp/indexch.htm |date=20121127080641 }}中華人民共和国国家統計局.</ref>。 == 取り上げた作品 == <small>※発表順</small> ; 映画 * [[サヨンの鐘]](1943年) - 実話を基にした高砂族の娘サヨンの物語。[[李香蘭]]主演。 * [[カミカゼ野郎 真昼の決斗]](1966年) - 主人公([[千葉真一]])が逃走中に遭遇するシーン * [[セデック・バレ]] == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[高山国]] - [[安土桃山時代]]の日本で使われていた台湾の古称 {{台湾原住民}} {{中華民族}} {{DEFAULTSORT:こうさんそく}} [[Category:台湾原住民族|*こうさんそく]] [[Category:中国の民族]]
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14,016
ナンバークロスワードパズル
ナンバークロスワードパズル(ナンバークロス、略してナンクロともいう)とは、クロスワードパズルと似た白マスと黒マスからなる盤面の、白マス全てを文字で埋めるパズルである。 クロスワードパズルと異なりカギ(ヒント)はなく、文字の入る白マスすべてに数字が書いてある。同じ数字の白マスには同じ文字が入る。通常、最初に何文字かだけ対応が与えられていて、その対応にしたがってマスをカナで埋めていく。黒マスには文字を書き込まない。 埋まっていない白マスには、意味のある言葉ができるように他の数字で使われていないカナを当てはめ、他の同じ数字の白マスにも同じカナを入れる。これを繰り返して全ての数字とカナの対応を導き出せば完成である。 問題 解答 ナンクロの作成にはいくつかのルールがある。これらの多くはクロスワードパズルと共通している。 アメリカなどでは、 という条件があることもある。 語彙が多ければ多いほど解くのが楽になるのはクロスワードパズルと同じだが、文字のならびに特徴のある言葉を多く覚えておくと解く手がかりになることが多い。たとえば、1212345345と並んでいれば「戦々兢々」、11233ならば「ココナッツ」(通常クロスワードにおいて拗音と普通の音は同じカナなので区別しない)が入る可能性が高い。特にノーヒントの問題の場合、並び方に特徴のある単語が最初の手がかりとなることが多い。 「ン」「ー」が単語の先頭に来ることが無いのもヒントになる。 漢字を当てはめる全漢字ナンクロ、黒マスにも数字が対応しているホワイトナンクロ、ヒントとなる対応が1つも与えられていないノーヒントナンクロ、マス目が渦巻き状に並んだしりとりナンクロなどがある。 また、一つの文章の中でカタカナ語(漢字単語)がすべて抜け落ちており、前後の文章や1対1で対応する数字の並びから類推しカナ(漢字)を当てはめて文章を完成させるカタカナ(漢字)抜け文といった派生パズルも存在する
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ナンバークロスワードパズル(ナンバークロス、略してナンクロともいう)とは、クロスワードパズルと似た白マスと黒マスからなる盤面の、白マス全てを文字で埋めるパズルである。 クロスワードパズルと異なりカギ(ヒント)はなく、文字の入る白マスすべてに数字が書いてある。同じ数字の白マスには同じ文字が入る。通常、最初に何文字かだけ対応が与えられていて、その対応にしたがってマスをカナで埋めていく。黒マスには文字を書き込まない。 埋まっていない白マスには、意味のある言葉ができるように他の数字で使われていないカナを当てはめ、他の同じ数字の白マスにも同じカナを入れる。これを繰り返して全ての数字とカナの対応を導き出せば完成である。
{{出典の明記|date=2023年6月}} '''ナンバークロスワードパズル'''(ナンバークロス、略して'''ナンクロ'''ともいう)とは、[[クロスワードパズル]]と似た白マスと黒マスからなる盤面の、白マス全てを文字で埋める[[パズル]]である。 クロスワードパズルと異なりカギ(ヒント)はなく、文字の入る白マスすべてに数字が書いてある。同じ数字の白マスには同じ文字が入る。通常、最初に何文字かだけ対応が与えられていて、その対応にしたがってマスをカナで埋めていく。黒マスには文字を書き込まない。 埋まっていない白マスには、意味のある言葉ができるように他の数字で使われていないカナを当てはめ、他の同じ数字の白マスにも同じカナを入れる。これを繰り返して全ての数字とカナの対応を導き出せば完成である。 == 例題 == <div style="float:left; margin-right:1em;"> 問題 {| border=1 |- |width=30 height=30|<sup>2</sup>||width=30|<sup>4</sup>||width=30|<sup>1</sup>||width=30|<sup>3</sup>||width=30|<sup>4</sup> |- |height=30|<sup>4</sup>||bgcolor=black|.||<sup>2</sup>||<sup>4</sup>||bgcolor=black|. |- |height=30|<sup>2</sup>||<sup>2</sup>||bgcolor=black|.||<sup>2</sup>||<sup>5</sup> |- |bgcolor=black height=30|.||<sup>5</sup>||<sup>3</sup>||bgcolor=black|.||<sup>1</sup> |- |height=30|<sup>1</sup>||<sup>3</sup>||<sup>2</sup>||<sup>5</sup>||<sup>3</sup> |} {|border=1 style="text-align:center; margin-top:15px" |- |width=30 height=30|ト||width=30|キ||width=30| ||width=30| ||width=30|  |- |height=30|1||2||3||4||5 |} </div><div style="float:left;"> 解答 {|border=1 style="text-align:center" |- |width=30 height=30|キ||width=30|ン||width=30|ト||width=30|ウ||width=30|ン |- |height=30|ン||bgcolor=black|.||キ||ン||bgcolor=black|. |- |height=30|キ||キ||bgcolor=black|.||キ||ヨ |- |bgcolor=black|.||height=30|ヨ||ウ||bgcolor=black|.||ト |- |height=30|ト||ウ||キ||ヨ||ウ |} {|border=1 style="text-align:center; margin-top:15px" |- |width=30 height=30|ト||width=30|キ||width=30|ウ||width=30|ン||width=30|ヨ |- |height=30|1||2||3||4||5 |} </div>{{Clear}} == 作成時のルール == ナンクロの作成にはいくつかのルールがある。これらの多くは[[クロスワードパズル]]と共通している。 *入る単語は名詞に限られる。 *同じ単語を二箇所以上入れてはいけない。 *黒マスの配置は[[黒マスルール]]の慣例に従う。 *文字と数字は1対1で対応する。 **黒マスにも数字が対応している形式の場合、黒マスに複数の数字が対応する場合もある(この場合、出題時にはそのことを明記する)。 *登場する文字は2回以上使用する。 **[[漢字パズル|漢字]]ナンクロの場合、全ての文字を2回以上使用するのは困難なため、1回しか使用しない漢字をあらかじめ盤面に配置して最初の手がかりとすることが多い。 アメリカなどでは、 *アルファベット26字を全て使用する。 という条件があることもある。 == 解法 == 語彙が多ければ多いほど解くのが楽になるのはクロスワードパズルと同じだが、文字のならびに特徴のある言葉を多く覚えておくと解く手がかりになることが多い。たとえば、1212345345と並んでいれば「戦々兢々」、11233ならば「ココナッツ」(通常クロスワードにおいて[[拗音]]と普通の音は同じカナなので区別しない)が入る可能性が高い。特にノーヒントの問題の場合、並び方に特徴のある単語が最初の手がかりとなることが多い。 「ン」「ー」が単語の先頭に来ることが無いのもヒントになる。 * 「ン」は全文字中でも特に出現率が高く、これを排除して平均的なサイズのナンクロを構成することはほとんど不可能と言ってよい。よって出現率が高いのに語頭に現れない文字は「ン」である確率が高い。また同様に語頭に出現することのない「ー」は、出現率の違いもあるが、●○のようにこの2文字が並んでいた場合、○の方が「ン」であると推察できる。 * 出現率は小文字の「ヤ」「ユ」「ヨ」「ツ」や、「ヴ」が存在する、しないなどの条件の違いもあり、一概には言えないものの、「イ」「シ」「ン」をトップとし、「カ」「ツ」「ウ」「キ」と続く。 * 2文字循環 ** 1212 のように2文字単位で繰り返しているものは漢字の音読みであることが多く、解決の糸口となる。 ** 完全2文字循環と不完全2文字循環(1213のような)に分けられる。 ** 「2」に当たる部分は「イ」「ウ」「ク」「ツ」「ン」が多い。 * 3文字循環 ** 123123 のような3文字単位で繰り返す形で、2文字循環と同様漢字の音読みであることが多い。 ** 「2」に当たる部分は「ヤ」「ユ」「ヨ」であることが多く、「ヤ」てであれば次の「3」は「ク」、「ユ」であれば次は「ウ」「ク」「ツ」「ン」、「ヨ」ならば「ウ」「ク」が多い。 ** 不完全タイプは 123124、123143、123423 などの変種があるが、必ずしも漢字熟語とは限らない。 == 派生パズル == 漢字を当てはめる全漢字ナンクロ、黒マスにも数字が対応しているホワイトナンクロ、ヒントとなる対応が1つも与えられていないノーヒントナンクロ、マス目が渦巻き状に並んだしりとりナンクロなどがある。 また、一つの文章の中でカタカナ語(漢字単語)がすべて抜け落ちており、前後の文章や1対1で対応する数字の並びから類推しカナ(漢字)を当てはめて文章を完成させるカタカナ(漢字)抜け文といった派生パズルも存在する == 関連項目 == * [[ナンクロ (ハドソン)]] - [[ハドソン]]の[[ニンテンドーDS]]用ソフト。 {{DEFAULTSORT:なんはあくろすわあとはする}} [[Category:ペンシルパズル]] [[Category:パズル]] {{Puzzle-stub}}
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14,018
ベルヌーイ数
ベルヌーイ数 (ベルヌーイすう、英: Bernoulli number、まれに関・ベルヌーイ数とも) は数論における基本的な係数を与える数列の1つ。関数 x/e − 1 のマクローリン展開 (テイラー展開) の展開係数として定義される: ベルヌーイ数を最初に取り扱ったのは関孝和であるが、ほぼ同時期に、関とは独立してスイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが発見したことからこの名がついている。関による発見は、死後の1712年に出版された『括要算法』に記述されており、またベルヌーイによる発見は、死後の1713年に出版された著書『Ars Conjectandi (推測術)』 に記載されている。 ベルヌーイ数は、べき乗和の展開係数にとどまらず、級数展開の係数や剰余項、リーマンゼータ関数においても登場する。また、ベルヌーイ数はすべてが有理数である。 ベルヌーイ数 Bn を定義する展開式 から、関数 x/e − 1 を繰り返し微分していけばベルヌーイ数を得ることができるが、そのような手段でベルヌーイ数を得るのは容易ではない。 ベルヌーイ数を計算するには、マクローリン展開ではなく、次の漸化式を用いる。この漸化式から、ベルヌーイ数がすべて有理数であることがわかる。 ここで、 ( n + 1 k ) {\displaystyle \left({n+1 \atop k}\right)} は二項係数である。 以下は、定義の漸化式を用いて、第 29 項までのベルヌーイ数の分子と分母を算出した結果である。 また、オンライン整数列大辞典には10000項までの分母、分子がそれぞれ掲載されている。 ベルヌーイ数の漸化式は、上記の関数 f(x) = x/e − 1 の逆数をテイラー展開し、その 2 つの積が 1 になることから導出できる。その漸化式は厳密な計算には有用であるが、n が大きくなると途中の式の値が非常に大きくなるため、浮動小数点数を使って計算する場合、精度が著しく悪くなる計算として知られている。 奇数番目のベルヌーイ数は B1 以外はすべて 0 であり、偶数番目は B0 を除いて正の数と負の数が交互に並ぶ。 ベルヌーイ数の第 3 項以降の奇数項が 0 となることは、 x/e − 1 +1/2 x が偶関数であることから証明できる。 第2種スターリング数との関係から、次のようなベルヌーイ数の一般項を算出する公式が存在する。 この公式は、総和記号が二重になっているため、上に示した漸化式ほど手軽にベルヌーイ数を計算する公式ではない。 ベルヌーイ数とリーマンゼータ関数の関係から、 が成り立つ。従ってスターリングの公式から、n → ∞ のとき、 が成り立つ。 ベルヌーイ数は、いくつかの双曲線関数と三角関数の級数展開における展開係数となる。 ベルヌーイ数を展開係数とする関数とそのローラン級数による表現を挙げる。 まず、余接関数 (cotangent) のローラン級数展開は次のようになる。 第 1 の関係式は、ベルヌーイ数が f(x) = x/e − 1 の展開係数であることを利用して数式変形すれば得られる。 第 2 の関係式は cot z = -i coth (-iz) であることを利用すれば、第 1 の関係式から導き出される。これらの級数の収束半径は |z| < π である。 次に正接関数 (tangent) のローラン級数展開は次のようになる。 この関係式は、tan z = cot z − 2cot 2z を利用して余接関数のローラン級数展開を変形すれば導出できる。 なお、この級数の収束半径は |z| < π/2 である。この正接関数のローラン級数展開の展開係数による数列はタンジェント数と呼ばれる。 一方、余割関数 (cosecant) は次のようにローラン級数展開される。 この関係式は、csc 2z = tan z + cot z/2 を利用すれば導出できる。 なお、この級数の収束半径は |z| < π である。 ベルヌーイ数は、もともと、連続する整数のべき乗和を定式化する際に、展開係数として導入された。 現代の表記法によって書くならば、定式化するべき乗和とは、 なる総和である。この総和は、ベルヌーイ数を用いて、 のように書くことができる。 ベルヌーイ数の漸化式は、べき乗和を定式化した際の考察から得られる。 さらに、ベルヌーイ数の指数型母関数が x/e − 1 となることから、その母関数を現在ではベルヌーイ数の定義とする。 ヤコブ・ベルヌーイは彼の著書『推測術』でベルヌーイ数を導入した際、べき乗和を上に書いたような 0 から n − 1 にわたる和でなく、1 から n にわたる和: として扱っていた。 ベルヌーイは、その著書で整数のべき乗 n の和を計算する公式として、次の数式を記している。 この数式に記載されている展開係数 A , B , C , D , ... {\displaystyle A,B,C,D,\ldots } がベルヌーイ数 ( B 2 {\displaystyle B_{2}} 以降) である。ベルヌーイが記した数式は、 に相当する。この数式に用いた展開係数 B ^ j {\displaystyle {\hat {B}}_{j}} は、 のように、 j ≠ 1 {\displaystyle j\neq 1} においてベルヌーイ数と一致する。一部の文献では B j {\displaystyle B_{j}} の代わりに B ^ j {\displaystyle {\hat {B}}_{j}} をベルヌーイ数と呼んでいる。 一方、日本ではベルヌーイとほぼ同時期に関孝和がべき乗和を定式化し、ベルヌーイ数を発見していた。 そのため、ベルヌーイ数を関・ベルヌーイ数と書いている文献もある。 一般ベルヌーイ数は代数的数で、ベルヌーイ数がリーマンゼータ函数の特殊値に関連する方法と同じ方法で、ディリクレの L-関数の特殊値に関連して定義される。 χ を mod f のディリクレ指標とすると、一般ベルヌーイ数 Bk,χ は、 により定義される。B1,1 = 1/2 を除き、任意のディリクレ指標 χ に対し、χ(−1) ≠ (−1) であれば、Bk,χ = 0 である。 正でない整数におけるリーマンゼータ関数の値とベルヌーイ数の間の関係を一般化し、全ての整数 k ≥ 1 に対し、 が成り立つ。ここに L(s, χ) は χ のディリクレの L-関数である。
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ベルヌーイ数 は数論における基本的な係数を与える数列の1つ。関数 x/ex − 1 のマクローリン展開 (テイラー展開) の展開係数として定義される: ベルヌーイ数を最初に取り扱ったのは関孝和であるが、ほぼ同時期に、関とは独立してスイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが発見したことからこの名がついている。関による発見は、死後の1712年に出版された『括要算法』に記述されており、またベルヌーイによる発見は、死後の1713年に出版された著書『Ars Conjectandi (推測術)』 に記載されている。 ベルヌーイ数は、べき乗和の展開係数にとどまらず、級数展開の係数や剰余項、リーマンゼータ関数においても登場する。また、ベルヌーイ数はすべてが有理数である。
'''ベルヌーイ数''' (ベルヌーイすう、{{lang-en-short|Bernoulli number}}、まれに'''関・ベルヌーイ数'''とも) は[[数論]]における基本的な係数を与える[[数列]]の1つ。関数 {{math|{{Sfrac|''x''|''e{{sup|x}}'' &minus; 1}}}} の[[マクローリン展開]] (テイラー展開) の展開[[係数]]として定義される: ::<math> f(x) = \frac{x}{e^x-1} = \sum_{n=0}^{\infty} \frac{B_n}{n!} x^n. </math> ベルヌーイ数を最初に取り扱ったのは[[関孝和]]であるが、ほぼ同時期に、関とは独立して[[スイス]]の数学者[[ヤコブ・ベルヌーイ]]が発見したことからこの名がついている。関による発見は、死後の[[1712年]]に出版された『括要算法』に記述されており、またベルヌーイによる発見は、死後の1713年に出版された著書『Ars Conjectandi (推測術)』 に記載されている<ref>{{cite journal|last=小川|first=束|date=2008-02|title=関孝和によるベルヌーイ数の発見|journal=数理解析研究所講究録|volume=1583|pages=1-18|publisher=京都大学数理解析研究所|ref=harv|issn=18802818|naid=110006622427}}</ref>。 ベルヌーイ数は、べき乗和の展開係数にとどまらず、級数展開の係数や剰余項、[[リーマンゼータ関数]]においても登場する。また、ベルヌーイ数はすべてが[[有理数]]である。 == 定義 == ベルヌーイ数 {{mvar|B{{sub|n}}}} を定義する展開式 ::<math> f(x) = \frac{x}{e^x-1} = \sum_{n=0}^{\infty} \frac{B_n}{n!} x^n </math> から、関数 {{math|{{Sfrac|''x''|''e{{sup|x}}'' &minus; 1}}}} を繰り返し微分していけばベルヌーイ数を得ることができるが、そのような手段でベルヌーイ数を得るのは容易ではない。 ベルヌーイ数を計算するには、マクローリン展開ではなく、次の[[漸化式]]を用いる。この漸化式から、ベルヌーイ数がすべて[[有理数]]であることがわかる。 ::<math> B_0 = 1,\quad{}B_n = -{1 \over n+1}\sum^{n-1}_{k=0}{n+1 \choose k}B_k. </math> ここで、<math>\left({{n+1\atop k}}\right)</math> は[[二項係数]]である。 === 値 === 以下は、定義の漸化式を用いて、第 29 項までのベルヌーイ数の分子と分母を算出した結果である。 また、オンライン整数列大辞典には10000項までの分母、分子がそれぞれ掲載されている。 *分母{{OEIS|A027642}} リスト<ref>[https://oeis.org/A027642/b027642.txt Denominator of Bernoulli number B_n. Table of n, a(n) for n = 0..10000]</ref> *分子{{OEIS|A027641}} リスト<ref>[https://oeis.org/A027641/b027641.txt Numerator of Bernoulli number B_n. Table of n, a(n) for n = 0..10000]</ref> {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; text-align:right" ! style="width:4%;"| ''n'' ! style="width:15%;"| 分子 ! style="width:10%;"| 分母 ! style="width:1%;"| ! style="width:4%;"| ''n'' ! style="width:15%;"| 分子 ! style="width:10%;"| 分母 ! style="width:1%;"| ! style="width:4%;"| ''n'' ! style="width:15%;"| 分子 ! style="width:10%;"| 分母 |- |'''0'''|| 1 || 1 || ||'''10'''|| 5 || 66 || ||'''20'''|| &minus;174 611 || 330 |- |'''1'''||&minus;1|| 2 || ||'''11'''|| 0 || &mdash; || ||'''21'''|| 0 || &mdash; |- |'''2'''|| 1 || 6 || ||'''12'''||&minus;691 || 2 730 || ||'''22'''|| 854 513 || 138 |- |'''3'''|| 0 || &mdash;|| ||'''13'''|| 0 || &mdash;|| ||'''23'''|| 0 || &mdash; |- |'''4'''||&minus;1|| 30 || ||'''14'''|| 7 || 6 || ||'''24'''|| &minus;236 364 091 || 2 730 |- |'''5'''|| 0 || &mdash;|| ||'''15'''|| 0 || &mdash; || ||'''25'''|| 0 || &mdash; |- |'''6'''|| 1 || 42 || ||'''16'''||&minus;3 617 || 510 || ||'''26'''|| 8 553 103 || 6 |- |'''7'''|| 0 || &mdash;|| ||'''17'''|| 0 || &mdash;|| ||'''27'''|| 0 || &mdash; |- |'''8'''||&minus;1|| 30 || ||'''18'''|| 43 867 || 798 || ||'''28'''|| &minus;23 749 461 029 || 870 |- |'''9'''|| 0 || &mdash;|| ||'''19'''|| 0 || &mdash;|| ||'''29'''|| 0 || &mdash; |} ベルヌーイ数の漸化式は、上記の関数 {{math|''f''(''x'') {{=}} {{Sfrac|''x''|''e{{sup|x}}'' &minus; 1}}}} の逆数をテイラー展開し、その 2 つの積が 1 になることから導出できる。その漸化式は厳密な計算には有用であるが、{{mvar|n}} が大きくなると途中の式の値が非常に大きくなるため、[[浮動小数点数]]を使って計算する場合、精度が著しく悪くなる計算として知られている。 [[奇数]]番目のベルヌーイ数は {{math|''B''{{sub|1}}}} 以外はすべて 0 であり、[[偶数]]番目は {{math|''B''{{sub|0}}}} を除いて正の数と負の数が交互に並ぶ。 ベルヌーイ数の第 3 項以降の奇数項が 0 となることは、 {{math|{{Sfrac|''x''|''e{{sup|x}}'' &minus; 1}} +{{Sfrac|1|2}} ''x''}} が偶関数であることから証明できる。 === ベルヌーイ数の一般項 === [[スターリング数#第2種スターリング数|第2種スターリング数]]との関係から、次のようなベルヌーイ数の一般項を算出する公式が存在する。 ::<math> B_n = \sum_{j=0}^n (-1)^j\,j^n\sum_{m=j}^n \frac{1}{m+1}{m\choose j}. </math> この公式は、[[総和]]記号が二重になっているため、上に示した漸化式ほど手軽にベルヌーイ数を計算する公式ではない。 === 漸近的性質 === ベルヌーイ数と[[リーマンゼータ関数]]の関係から、 :<math>B_{2n} = (-1)^{n+1}\frac {2(2n)!} {(2\pi)^{2n}} \left( 1 + \frac{1}{2^{2n}} + \frac{1}{3^{2n}} + \frac{1}{4^{2n}} + \dotsb \right) </math> が成り立つ。従って[[スターリングの公式]]から、{{math|''n'' &rarr; &infin;}} のとき、 : <math> |B_{2 n}| \sim 4 \sqrt{\pi n} \left(\frac{n}{ \pi e} \right)^{2n} </math> が成り立つ。 == ベルヌーイ数を用いた級数展開 == ベルヌーイ数は、いくつかの双曲線関数と三角関数の級数展開における展開係数となる。 ベルヌーイ数を展開係数とする関数とその[[ローラン級数]]による表現を挙げる。 まず、[[余接関数]] (cotangent) の[[ローラン級数]]展開は次のようになる。 ::<math> \begin{align} \coth z &= \frac1z + \sum_{k=1}^{\infty} \frac{2^{2k}B_{2k}}{(2k)!}z^{2k-1},\\ \cot z &= \frac1z + \sum_{k=1}^{\infty} (-1)^k \frac{2^{2k}B_{2k}}{(2k)!}z^{2k-1}. \end{align} </math> 第 1 の関係式は、ベルヌーイ数が {{math|''f''(''x'') {{=}} {{Sfrac|''x''|''e{{sup|x}}'' &minus; 1}}}} の展開係数であることを利用して数式変形すれば得られる。 第 2 の関係式は {{math|cot ''z'' {{=}} -''i'' coth (''-iz'')}} であることを利用すれば、第 1 の関係式から導き出される。これらの級数の[[収束半径]]は {{math|{{mabs|''z''}} < {{pi}}}} である。 次に[[正接関数]] (tangent) のローラン級数展開は次のようになる。 ::<math> \tan z = \sum_{k=1}^{\infty} \frac{(-1)^k\,(2^{2k}-4^{2k})\,B_{2k}}{(2k)!}z^{2k-1}. </math> この関係式は、{{math|tan ''z'' {{=}} cot ''z'' &minus; 2cot 2''z''}} を利用して余接関数のローラン級数展開を変形すれば導出できる。 なお、この級数の収束半径は {{math|{{mabs|''z''}} < {{Sfrac|{{pi}}|2}}}} である。この正接関数のローラン級数展開の展開係数による数列は[[タンジェント数]]と呼ばれる。 一方、[[余割関数]] (cosecant) は次のようにローラン級数展開される。 ::<math> \csc z = \frac{1}{\sin z} = \frac{1}{z} +\sum_{k=1}^\infin \frac{(-1)^k\,(2-2^{2k})\,B_{2k}}{(2k)!}z^{2k-1}. </math> この関係式は、{{math|csc 2''z'' {{=}} {{Sfrac|tan ''z'' + cot ''z''|2}}}} を利用すれば導出できる。 なお、この級数の収束半径は {{math|{{mabs|''z''}} < {{pi}}}} である。 == べき乗和による導入 == ベルヌーイ数は、もともと、連続する整数のべき乗和を定式化する際に、展開係数として導入された。 現代の表記法によって書くならば、定式化するべき乗和とは、 :<math> S_k(n) \equiv \sum_{j=0}^{n-1} j^k = 0^k + 1^k + 2^k + \cdots + (n-1)^k </math> なる総和である。この総和は、ベルヌーイ数を用いて、 :<math> S_k(n+1) = \frac{1}{k+1} \sum_{j=0}^k {k+1\choose j}B_j\,n^{k-j+1} </math> のように書くことができる。 ベルヌーイ数の漸化式は、べき乗和を定式化した際の考察から得られる。 さらに、ベルヌーイ数の指数型[[母関数]]が {{math|{{Sfrac|''x''|''e{{sup|x}}'' &minus; 1}}}} となることから、その母関数を現在ではベルヌーイ数の定義とする。 [[ヤコブ・ベルヌーイ]]は彼の著書『推測術』でベルヌーイ数を導入した際、べき乗和を上に書いたような {{math|0}} から {{math|''n'' &minus; 1}} にわたる和でなく、{{math|1}} から {{mvar|n}} にわたる和: :<math> \hat{S}_k(n) \equiv \sum_{j=1}^{n} j^k = 1^k + 2^k + 3^k + \cdots + n^k </math> として扱っていた。 ベルヌーイは、その著書で整数のべき乗 {{mvar|n{{sup|c}}}} の和を計算する公式として、次の数式を記している<ref>E. Hairer, G. Wanner, "解析教程 上," 蟹江幸博 訳, シュプリンガー・ジャパン, 新装版, p. 18, 2006.</ref>。 :<math> \begin{align} \int n^c & = {} \frac{1}{c+1}n^{c+1} + \frac{1}2n^c + \frac{c}2 An^{c-1} + \frac{c.c-1.c-2}{2.3.4}Bn^{c-3}\\ & \quad\quad\quad{} + \frac{c.c-1.c-2.c-3.c-4}{2.3.4.5.6}Cn^{c-5} \\ & \quad\quad\quad{} + \frac{c.c-1.c-2.c-3.c-4.c-5.c-6}{2.3.4.5.6.7.8}Dn^{c-7}+ \ldots\ldots \end{align} </math> この数式に記載されている展開係数 <math>A, B, C, D, \ldots</math> がベルヌーイ数 (<math>B_2</math> 以降) である。ベルヌーイが記した数式は、 :<math> \hat{S}_k(n) = \frac{1}{k+1} \sum_{j=0}^k {k+1\choose j}\hat{B}_j\,n^{k-j+1} </math> に相当する。この数式に用いた展開係数 <math>\hat{B}_j</math> は、 :<math> \hat{B}_1 = 1/2\,(= -B_1),\quad \hat{B}_j = B_j\quad(j\neq1) </math> のように、<math>j\neq1</math> においてベルヌーイ数と一致する。一部の文献<ref>例えば、 荒木恒男, 伊吹山知義, 金子昌信, "ベルヌーイ数とゼータ関数," 牧野書店, 2001. </ref><ref>Wikipedia [[ファウルハーバーの公式]] もベルヌーイの記述に基づき、第 1 項を1/2とする記述で説明している。</ref>では <math>B_j</math> の代わりに <math>\hat{B}_j</math> をベルヌーイ数と呼んでいる。 一方、日本ではベルヌーイとほぼ同時期に[[関孝和]]がべき乗和を定式化し、ベルヌーイ数を発見していた<ref>小川束, "関孝和によるベルヌーイ数の発見," 数理解析研究所講究録, 第1583巻, 2008.</ref>。 そのため、ベルヌーイ数を'''関・ベルヌーイ数'''と書いている文献<ref>例えば、 桜井進, 中村義作, "天才たちが愛した美しい数式," PHP研究所, 第1版, p.205, 2008.</ref>もある。 ==一般ベルヌーイ数== '''一般ベルヌーイ数'''は[[代数的数]]で、ベルヌーイ数が[[リーマンゼータ函数]]の特殊値に関連する方法と同じ方法で、[[ディリクレのL-函数|ディリクレの ''L''-関数]]の[[L-函数の特殊値|特殊値]]に関連して定義される。 χ を mod ''f'' の[[ディリクレ指標]]とすると、一般ベルヌーイ数 ''B''<sub>''k'',χ</sub> は、 :<math>\sum_{a=1}^f\chi(a)\frac{te^{at}}{e^{ft}-1}=\sum_{k=0}^\infty B_{k,\chi}\frac{t^k}{k!}</math> により定義される。''B''<sub>1,1</sub>&nbsp;=&nbsp;1/2 を除き、任意のディリクレ指標 χ に対し、χ(&minus;1)&nbsp;≠&nbsp;(&minus;1)<sup>''k''</sup> であれば、''B''<sub>''k'',χ</sub>&nbsp;=&nbsp;0 である。 正でない整数におけるリーマンゼータ関数の値とベルヌーイ数の間の関係を一般化し、全ての整数 ''k''&nbsp;≥&nbsp;1 に対し、 :<math>L(1-k,\chi)=-\frac{B_{k,\chi}}{k}</math> が成り立つ。ここに ''L''(''s'',&nbsp;χ) は χ のディリクレの ''L''-関数である<ref>{{harvnb|Neukirch|1999|loc=§VII.2}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == *[[ヤコブ・ベルヌーイ]] *[[関孝和]] *[[ファウルハーバーの公式]] *[[ベルヌーイ多項式]] *[[ゼータ関数]] *[[三角関数]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へるぬういすう}} [[Category:数論]] [[Category:有理数]] [[Category:整数の類]] [[Category:数の三角形]] [[Category:ヤコブ・ベルヌーイ]] [[Category:関孝和|へき]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:数学に関する記事]]
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トランスパーソナル心理学
トランスパーソナル心理学(トランスパーソナルしんりがく,英:Transpersonal psychology)とは、人間性心理学を発展させ、ヒューマンポテンシャル運動・ニューエイジの人間観を取り入れた心理学で、個体的・個人的(パーソナル)なものを超える(トランス)、または通り抜けることを目指し、あるいはそうした経験を重視する。1960年代アメリカで、学生運動、LSD文化、ヒンドゥー教や仏教などの東洋思想の流入、ニューエイジ運動の影響を受け、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く新しい心理学の分野として誕生し展開した。 トランスパーソナルな経験、通常の人間個人の限りある自己意識が拡大し、より大きな、より意味に満ちた現実とつながる経験や、死後の世界や宇宙空間、母胎への回帰や過去生のイメージ体験等を重視する。宗教的もしくはスピリチュアルな経験がトランスパーソナルな問題の中心にあるとみなされることが多いが、他者、人類、生命、地球、自然への関心の拡大、共感にも関わるものである。トランスパーソナル心理学は、従来の心理学のように個人の悩みの解決を目指すのではなく、人類共通の悩みを対象にし、ユングの言う集合的無意識を、人類の過去の記憶といえる前個的無意識と人類の未来の可能性を含む超個的無意識に分けて考える。 「永遠の哲学」の最も新しい表出形態とも表現でき、近代オカルティズムやニューエイジに大きな刺激を受けている。宗教学者の大田俊寛は、トランスパーソナル心理学は、「宇宙的存在に触れることで本当の自分に目覚める」というモチーフを共に骨子とするユング心理学の体系と、神智学的なヨーガ論を融合させたものとみることができる、としている。 欧米の若者の間でドラッグが大衆化し、多くの人がドラッグによる自我意識を越えた体験を実感したこと、エサレン研究所を中心とするヒューマンポテンシャル運動の発展、それまでの思想や学問、文化、近代的な個人主義の限界を越えようという若者文化で、ヒューマンポテンシャル運動とも大いに関連するニューエイジ運動の中から新たに誕生した。 正確な意味では、1901-02年にかけてアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズのエディンバラ大学でのギフォード講義(1902年に『宗教的経験の諸相』として出版)に始まった。 先に人間性心理学を提唱した心理学者アブラハム・マズローは、晩年にその自己実現の理論の最上位に自己超越を置いていた。また、もっとも影響力の大きい論客として、ニューエイジ思想家のケン・ウィルバーがいる。 宗教の思想や実践に多大な影響を受けているが、本質的に応用科学であり、宗教とは区別される。信念や態度・社会行動よりは経験を重視し、心理学者はスピリチュアルな変容過程を観察するだけでなく参加しなければならないとしており、この点がほかの心理学とかなり異なっている。また、超心理学や心霊研究と多くの関心(明晰夢、転生、幽体離脱、臨死体験、テレパシーなど)を共有するが、超常現象が現実的に存在する客観的・物理的な証拠を探すより、超常的な経験が個人の主観に与える意味やスピリチュアルな変容を促進する能力等に注目する点で異なる。 Vichの研究によると、最初の「トランスパーソナル」という言葉は、ウィリアム・ジェームズが1905-1906年にハーバード大学の授業の準備のために用意したノートに見られる。トランスパーソナル学会を設立したグロフは、ユングが言葉を作ったと説明している。 Lajoieとシャピロは、40の1969年から1991年までに記事になったトランスパーソナル心理学の定義をレビューし、各定義に共通の5つの特徴を抽出した。それは(1)意識の状態、(2)至高または究極的な潜在性、(3)自我または自己の超越、(4)超越性、(5)スピリチュアルだとした。 ウォルシュとヴォーンによるレビューは、トランスパーソナル心理学が、心理学のトランスパーソナル体験や関連する現象の研究に焦点をあてていることを示し、トランスパーソナル体験やその発達の原因や影響や相関、訓練や実践を含んでいるとした。 トランスパーソナル心理学を「永遠の哲学」の最も新しい表出形態であると捉えると、その源泉は近代オカルティズムおよびその影響を強く受けたニューエイジ思想にまで遡ることができ、神秘家のゲオルギィ・グルジェフやアリス・ベイリーらの影響を受けている。 1960年代には欧米の若者の間で広くサイケデリック・ドラッグが使われるようになり、こうした社会変化がトランスパーソナル心理学の発展を後押しした。LSDやメスカリンがスピリチュアルな意識状態を促進すると考える人たちが現れ、オルダス・ハクスリーが『知覚の扉』(1954年)を出版した。精神科医のスタニスラフ・グロフは、チェコスロバキアで3000以上ものLSDの臨床研究を行い、LSDがトランスパーソナルな現実の経験を可能にすると確信した。また、この時期に欧米ではヒンドゥー教と仏教を中心とする東洋宗教や瞑想への関心が高まり、多くの欧米人が東洋宗教に、実践的かつ心理学的に洗練された技術を見出し、西洋の伝統宗教に乏しい直接的なスピリチュアル体験を可能にするものだと考え注目した。こうした東洋思想はカウンターカルチャーに取り込まれ、さらにアラン・ワッツ、鈴木大拙、オーロビンド・ゴーシュ、チョギャム・トゥルンパなどの宗教者・著作家を通じて、学術的トランスパーソナル心理学の中心となっていった。最も影響が大きかったのはヒンドゥー教と仏教だが、カバラー主義、キリスト教神秘主義、グルジェフの教え、シャーマニズム、スーフィズム、道教、神智学、ウィッカといった他の宗教的神秘の教えも影響を与えた。 ウィリアム・ジェームズ、ジークムント・フロイト、オットー・ランク、カール・グスタフ・ユング、アブラハム・マズロー、ロベルト・アサジオリ(精神分析学者でフロイトとアリス・ベイリーの弟子)は、トランスパーソナル研究へとつながる土台を用意してきた。 この新しい学問領域を確立する有力な動機になったものは、人間性心理学を提唱した心理学者アブラハム・マズローの至高体験に関するすでに出版されていた発表であった。マズローは、1967年サンフランシスコのユニテリアン教会で、エサレン研究所の主催で行われた「人間の潜在的能力のさらなる到達点」と題する講演を行い、その中で人間性心理学の次の段階としてのトランスパーソナル心理学の誕生を宣言した。マズローの人間性心理学は、1960年代のヒューマンポテンシャル運動から育ってきたものであり、フロイトの精神分析と行動主義心理学という当時の二大潮流に対する、第三の心理学として生まれたものだった。マズローは、エサレン研究所での潜在能力開発実験などを通し、人間の成長が自己実現を越えた自己超越にまで広がるという予感を持っていた。マズローは、LSDの臨床を通し同様の結論に達していたスタニスラフ・グロフとの出会いをきっかけに、人間性心理学を越えたトランスパーソナル心理学の設立が必要だと考えるようになり、アンソニー・ステッチ、ジェームズ・ファディマンらの協力を得て、トランスパーソナル心理学誌の発刊の準備を進めた。1969年にマズローは死去したが、同年トランスパーソナル心理学学会誌の第1号が発行され、第1回トランスパーソナル心理学会が開かれた。一方、トランスパーソナル心理学は、自らの合理的、臨床的心理学を超越するものとして、東洋宗教の世界が不可欠のものとなった。 学術的なトランスパーソナル心理学会が設立されて以降、変性意識状態や瞑想の生理学的、心理学的効果などの幅広い研究が進んだ。 1996年には、イギリス心理学会が専門的な心理学会として初めて、トランスパーソナル心理学を専門的な学術区分として承認している。 代表的な心理学者としては、イタリア人でサイコシンセシス(精神統合)のロベルト・アサジオリ、人間性心理学でも知られ、至高体験にも焦点をあてたアブラハム・マズロー、LSDの臨床研究を行いLSD禁止後にホロトロピック・ブレスワークを開発した精神科医のスタニスラフ・グロフなどが上げられる。ヒンドゥー教・仏教の影響を強く受けたニューエイジ思想家・哲学者のケン・ウィルバーは、学術的トランスパーソナル運動で最も影響力があり、賛否両論ある論客だった。彼は後年、トランスパーソナル心理学から距離を取るようになり、自身の思想を「統合的」と好んで形容し、インテグラル思想と呼んでいる。 ウォルシュとヴォーンは、トランスパーソナル心理学の定義の多くは、暗黙の過程や前提があると批判した。 日本国内にも、大学等で研究する研究者は存在する。 大学院レベルでトランスパーソナル心理学を専攻できる大学。
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トランスパーソナル心理学とは、人間性心理学を発展させ、ヒューマンポテンシャル運動・ニューエイジの人間観を取り入れた心理学で、個体的・個人的(パーソナル)なものを超える(トランス)、または通り抜けることを目指し、あるいはそうした経験を重視する。1960年代アメリカで、学生運動、LSD文化、ヒンドゥー教や仏教などの東洋思想の流入、ニューエイジ運動の影響を受け、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く新しい心理学の分野として誕生し展開した。
{{心理学のサイドバー}} '''トランスパーソナル心理学'''(トランスパーソナルしんりがく,英:Transpersonal psychology)とは、[[人間性心理学]]を発展させ、[[ヒューマンポテンシャル運動]]・[[ニューエイジ]]の人間観を取り入れた心理学で、個体的・個人的(パーソナル)なものを超える(トランス)、または通り抜けることを目指し、あるいはそうした経験を重視する<ref name="Daniels"/><ref name="友久">{{Cite journal |和書|author=友久久雄|authorlink= |title= 悩みに対する宗教的・心理的アプローチに関する研究 : 大学生の悩みとその解決方法|date= 2012|publisher=龍谷大学佛教文化研究所|journal=龍谷大学仏教文化研究所紀要 |volume=51 |issue= |naid=110009676634 |pages=1-9|ref= |url=https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/TD00437008 }}</ref><ref name="村川"/>。1960年代アメリカで、学生運動、[[LSD (薬物)|LSD]]文化、[[ヒンドゥー教]]や[[仏教]]などの東洋思想の流入、ニューエイジ運動の影響を受け、[[行動主義心理学]]、[[精神分析]]、[[人間性心理学]]に続く新しい心理学の分野として誕生し展開した<ref name="友久"/><ref name="小田">{{Cite journal |和書|author=小田利勝|authorlink= |title= 行動発達概論|date= |publisher= 神戸大学|journal=|volume= |issue= |naid=|pages=|ref= |url =http://www2.kobe-u.ac.jp/~oda/HumanBehavior/hbtext.pdf |format=PDF}}</ref><ref name="三谷・古屋">{{Cite journal |和書|author=三谷嘉明・古屋健|authorlink= |title= 高齢期におけるスピリチュアリテイの発達|date=2006 |publisher= 名古屋女子大学|journal=名古屋女子大学紀要 人文・社会編|volume= |issue=52 |naid=120005696019|pages=1-13|ref= |url=http://id.nii.ac.jp/1103/00001534/ }}</ref>。 ==概要== トランスパーソナルな経験、通常の人間個人の限りある自己意識が拡大し、より大きな、より意味に満ちた現実とつながる経験や、死後の世界や宇宙空間、母胎への回帰や過去生のイメージ体験等を重視する<ref name="Daniels"/><ref>[https://www.weblio.jp/content/トランスパーソナル心理学 三省堂 大辞林 第三版]</ref>。宗教的もしくはスピリチュアルな経験がトランスパーソナルな問題の中心にあるとみなされることが多いが、他者、人類、生命、地球、自然への関心の拡大、共感にも関わるものである<ref name="Daniels"/>。トランスパーソナル心理学は、従来の心理学のように個人の悩みの解決を目指すのではなく、人類共通の悩みを対象にし、[[ユング]]の言う[[集合的無意識]]を、人類の過去の記憶といえる前個的無意識と人類の未来の可能性を含む超個的無意識に分けて考える<ref name="友久"/>。 「[[永遠の哲学]]」の最も新しい表出形態とも表現でき、近代[[オカルティズム]]や[[ニューエイジ]]に大きな刺激を受けている<ref name="浅井">{{Cite journal |和書|author=浅井雅志|authorlink= |title= トランスパーソナル心理学の一源泉としてのグルジェフ 日本トランスパーソナル心理学・精神医学会 第 14 回学術大会プログラム 基調講演|date= 2013|publisher= 日本トランスパーソナル心理学・精神医学会|journal=|volume= |issue= |naid=|pages=4|ref= |url =http://jatp.info/_src/28/91e61489f191e589ef81i93af8eu8ed091e58aw81j83v838d83o83898380.pdf |format=PDF}}</ref>。宗教学者の[[大田俊寛]]は、トランスパーソナル心理学は、「宇宙的存在に触れることで本当の自分に目覚める」というモチーフを共に骨子とする[[ユング心理学]]の体系と、[[神智学]]的な[[ヨーガ]]論を融合させたものとみることができる、としている<ref>{{Cite book|和書|ref= |author=大田俊寛|authorlink=大田俊寛 |title=オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義 |publisher=[[春秋社]] |year=2011|page=85}}</ref>。 欧米の若者の間でドラッグが大衆化し、多くの人がドラッグによる自我意識を越えた体験を実感したこと、[[エサレン研究所]]を中心とする[[ヒューマンポテンシャル運動]]の発展、それまでの思想や学問、文化、近代的な個人主義の限界を越えようという若者文化で、ヒューマンポテンシャル運動とも大いに関連するニューエイジ運動の中から新たに誕生した<ref name="村川"/><ref name="友久"/>。 正確な意味では、1901-02年にかけてアメリカの心理学者[[ウィリアム・ジェームズ]]の[[エディンバラ大学]]での[[ギフォード講義]](1902年に『宗教的経験の諸相』として出版)に始まった<ref name="Daniels"/>。 先に[[人間性心理学]]を提唱した心理学者[[アブラハム・マズロー]]は、晩年にその[[自己実現]]の理論の最上位に自己超越を置いていた<ref>{{Cite book|和書|author=アブラハム・マズロー|translator=上野圭一|coauthors=(編集)ロジャー・N・ウォルシュ、フランシス ヴォーン、(訳編)吉福伸逸 |title=トランスパーソナル宣言-自我を超えて|chapter=メタ動機:価値ある生き方の生物学的基盤 |publisher=春秋社|date=1986|isbn=978-4393360033|pages=225-244}} ''BEYOND EGO'', 1980.</ref>。また、もっとも影響力の大きい論客として、[[ニューエイジ]]思想家の[[ケン・ウィルバー]]がいる<ref name="Daniels"/>。 宗教の思想や実践に多大な影響を受けているが、本質的に応用科学であり、宗教とは区別される<ref name="Daniels"/>。信念や態度・社会行動よりは経験を重視し、心理学者はスピリチュアルな変容過程を観察するだけでなく参加しなければならないとしており、この点がほかの心理学とかなり異なっている<ref name="Daniels"/>。また、[[超心理学]]や[[心霊主義|心霊研究]]と多くの関心([[明晰夢]]、[[転生]]、[[幽体離脱]]、[[臨死体験]]、[[テレパシー]]など)を共有するが、[[超常現象]]が現実的に存在する客観的・物理的な証拠を探すより、超常的な経験が個人の主観に与える意味やスピリチュアルな変容を促進する能力等に注目する点で異なる<ref name="Daniels"/>。 == トランスパーソナル心理学の定義 == Vichの研究によると<ref name="Vich 1988">Vich, M.A. (1988) "Some historical sources of the term "transpersonal". ''Journal of Transpersonal Psychology'', 20 (2) 107-110</ref>、最初の「トランスパーソナル」という言葉は、ウィリアム・ジェームズが1905-1906年にハーバード大学の授業の準備のために用意したノートに見られる。トランスパーソナル学会を設立したグロフは、ユングが言葉を作ったと説明している<ref>{{Cite book|和書|author=ジョン・ホーガン|translator=竹内薫|chapter=第9章神の精神科医|title=科学を捨て、神秘へと向かう理性|publisher=徳間書店|date=2004|isbn=4-19-861950-6|pages=229-255}}''Rational mysticism'', 2003.</ref>。 Lajoieとシャピロは、40の1969年から1991年までに記事になったトランスパーソナル心理学の定義をレビューし、各定義に共通の5つの特徴を抽出した。それは(1)意識の状態、(2)至高または究極的な潜在性、(3)自我または自己の超越、(4)超越性、(5)スピリチュアルだとした<ref name="Lajoie and Shapiro, 1992">Lajoie, D. H. & Shapiro, S. I. "Definitions of transpersonal psychology: The first twenty-three years". ''Journal of Transpersonal Psychology'', Vol. 24, 1992</ref>。 ウォルシュとヴォーンによるレビューは、トランスパーソナル心理学が、心理学のトランスパーソナル体験や関連する現象の研究に焦点をあてていることを示し、トランスパーソナル体験やその発達の原因や影響や相関、訓練や実践を含んでいるとした<ref name="Walsh & Vaughan 1993">Walsh, R. & Vaughan, F. "On transpersonal definitions". ''Journal of Transpersonal Psychology'', 25 (2) 125-182, 1993</ref>。 == 歴史 == トランスパーソナル心理学を「永遠の哲学」の最も新しい表出形態であると捉えると、その源泉は近代オカルティズムおよびその影響を強く受けたニューエイジ思想にまで遡ることができ、神秘家の[[ゲオルギィ・グルジェフ]]や[[アリス・ベイリー]]らの影響を受けている<ref name="浅井"/><ref name="Daniels">{{Cite book|和書 |author=Michael Daniels 執筆|others={{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}} 編、[[井上順孝]] 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳 |title=現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ|publisher=悠書館|year=2009|ref={{Harvid|Daniels|2009}}}}</ref>。 1960年代には欧米の若者の間で広く[[幻覚剤|サイケデリック・ドラッグ]]が使われるようになり、こうした社会変化がトランスパーソナル心理学の発展を後押しした<ref name="Daniels"/>。[[LSD (薬物)|LSD]]や[[メスカリン]]がスピリチュアルな意識状態を促進すると考える人たちが現れ、[[オルダス・ハクスリー]]が『知覚の扉』(1954年)を出版した。精神科医の[[スタニスラフ・グロフ]]は、チェコスロバキアで3000以上ものLSDの臨床研究を行い、LSDがトランスパーソナルな現実の経験を可能にすると確信した<ref name="Daniels"/><ref name="村川"/>。また、この時期に欧米では[[ヒンドゥー教]]と[[仏教]]を中心とする東洋宗教や[[瞑想]]への関心が高まり、多くの欧米人が東洋宗教に、実践的かつ心理学的に洗練された技術を見出し、西洋の伝統宗教に乏しい直接的なスピリチュアル体験を可能にするものだと考え注目した<ref name="Daniels"/>。こうした東洋思想は[[カウンターカルチャー]]に取り込まれ、さらに[[アラン・ワッツ]]、[[鈴木大拙]]、[[オーロビンド・ゴーシュ]]、[[チョギャム・トゥルンパ]]などの宗教者・著作家を通じて、学術的トランスパーソナル心理学の中心となっていった<ref name="Daniels"/>。最も影響が大きかったのはヒンドゥー教と仏教だが、[[カバラー]]主義、[[キリスト教神秘主義]]、グルジェフの教え、[[シャーマニズム]]、[[スーフィズム]]、[[道教]]、[[神智学]]、[[ウィッカ]]といった他の宗教的神秘の教えも影響を与えた<ref name="Daniels"/>。 [[ウィリアム・ジェームズ]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[オットー・ランク]]、[[カール・グスタフ・ユング]]、[[アブラハム・マズロー]]、[[ロベルト・アサジオリ]](精神分析学者でフロイトとアリス・ベイリーの弟子)は、トランスパーソナル研究へとつながる土台を用意してきた<ref name="Cowley & Derezotes 1994">Cowley, Au-Deane S. & Derezotes, David. "Transpersonal Psychology and Social Work Education". Journal of Social Work Education, 10437797, Winter, Vol. 30, Issue 1, 1994</ref><ref name="Miller 1998">Miller, John J. "Book review: Textbook of Transpersonal Psychiatry and Psychology." ''Psychiatric Services'' April 01, 1998</ref><ref name="Davis 2003">Davis, John. "An overview of transpersonal psychology." ''The Humanistic Psychologist'', 31:2-3, 6-21, 2003</ref>。 この新しい学問領域を確立する有力な動機になったものは、[[人間性心理学]]を提唱した心理学者[[アブラハム・マズロー]]の[[至高体験]]に関するすでに出版されていた発表であった。マズローは、1967年サンフランシスコの[[ユニテリアン教会]]で、エサレン研究所の主催で行われた「人間の潜在的能力のさらなる到達点」と題する講演を行い、その中で人間性心理学の次の段階としてのトランスパーソナル心理学の誕生を宣言した<ref name="村川">{{Cite journal |和書|author=村川治彦|authorlink= |title= アメリカにおけるニューエージ運動の源流とその特徴(前半)|date= 2004|publisher= 日本ホリスティック教育協会|journal=ホリスティック教育研究|volume= 7 |issue= |naid=40007461925|pages=47-58|ref= |url =http://waza-sophia.la.coocan.jp/data/17111701.pdf |format=PDF}}</ref>。マズローの人間性心理学は、1960年代の[[ヒューマンポテンシャル運動]]から育ってきたものであり、フロイトの[[精神分析]]と[[行動主義心理学]]という当時の二大潮流に対する、第三の心理学として生まれたものだった<ref>トランスパーソナル心理学の現状と限界/果たして理論は禅を超えられるのか? [[青山正明]]論、1999年。</ref>。マズローは、エサレン研究所での潜在能力開発実験などを通し、人間の成長が自己実現を越えた自己超越にまで広がるという予感を持っていた<ref name="村川"/>。マズローは、LSDの臨床を通し同様の結論に達していたスタニスラフ・グロフとの出会いをきっかけに、人間性心理学を越えたトランスパーソナル心理学の設立が必要だと考えるようになり、アンソニー・ステッチ、ジェームズ・ファディマンらの協力を得て、トランスパーソナル心理学誌の発刊の準備を進めた<ref name="村川"/>。1969年にマズローは死去したが、同年トランスパーソナル心理学学会誌の第1号が発行され、第1回トランスパーソナル心理学会が開かれた<ref>{{Cite book|和書|author=岡野守也|title=トランスパーソナル心理学|edition=増補新版|publisher=青土社|date=2000|isbn=978-4791758265|page=83}}</ref>。一方、トランスパーソナル心理学は、自らの合理的、臨床的心理学を超越するものとして、東洋宗教の世界が不可欠のものとなった。<ref>玉川信明『和尚の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相関関係』社会評論社、2001年、10頁。ISBN 4-7845-1413-9。 </ref> 学術的なトランスパーソナル心理学会が設立されて以降、[[変性意識状態]]や瞑想の生理学的、心理学的効果などの幅広い研究が進んだ<ref name="Daniels"/>。 1996年には、イギリス心理学会が専門的な心理学会として初めて、トランスパーソナル心理学を専門的な学術区分として承認している<ref name="Daniels"/>。 == 代表的な心理学者 == 代表的な心理学者としては、[[イタリア]]人で[[サイコシンセシス]](精神統合)の[[ロベルト・アサジオリ]]、[[人間性心理学]]でも知られ、[[至高体験]]にも焦点をあてた[[アブラハム・マズロー]]、LSDの臨床研究を行いLSD禁止後に[[ホロトロピック・ブレスワーク]]を開発した精神科医の[[スタニスラフ・グロフ]]などが上げられる。ヒンドゥー教・仏教の影響を強く受けた[[ニューエイジ]]思想家・哲学者の[[ケン・ウィルバー]]は、学術的トランスパーソナル運動で最も影響力があり、賛否両論ある論客だった<ref name="Daniels"/>。彼は後年、トランスパーソナル心理学から距離を取るようになり、自身の思想を「統合的」と好んで形容し、インテグラル思想と呼んでいる<ref name="Daniels"/><ref>Wilber, K. (2000). Waves, streams, states, and self-A Summary of my psychological model (Or, outline of an integral psychology). http://wilber.shambhala.com/html/books/psych_model/psych_model8.cfm/</ref>。 ==批判== ウォルシュとヴォーンは、トランスパーソナル心理学の定義の多くは、暗黙の過程や前提があると批判した<ref name="Walsh & Vaughan 1993"/>。 == 主な研究機関 == 日本国内にも、大学等で研究する研究者は存在する。 *[[相模女子大学]] 大学院レベルでトランスパーソナル心理学を専攻できる大学。 *Sofia University(旧 The Institute of Transpersonal Psychology) (US) *John F. Kennedy University (US) *California Institute of Integral Studies (US) *Saybrook Institute (US) *Naropa University (US) *Liverpool John Moores University (UK) == 出典・脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[変性意識状態]] * [[代替医療]] * [[ヨーガ]] * [[瞑想]] * クンダリニー == 外部リンク == * [http://transpersonal.jp/ 日本トランスパーソナル学会] {{心理学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とらんすはあそなるしんりかく}} [[Category:心理学の学派]] [[Category:臨床心理学]] [[Category:瞑想]] [[Category:ニューエイジ]]
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千葉千恵巳
千葉 千恵巳(ちば ちえみ、1975年2月25日 - )は、日本の声優、舞台女優。埼玉県川口市出身。オフィス海風所属。 10歳上の兄が、昔は東京キッドブラザースに所属しており、小学生の時に兄の舞台を観ていたところ何か少し楽しそうであり、「おお、いいなお芝居」と踏み外したのがきっかけで芝居をしたいと思ったという。 14歳の時、音楽の芸能事務所に入る。当初は舞台がしたかったが、その事務所は舞台をしておらず、わからないことから手当たり次第で入れるところに入り、事務所に所属するのにお金がかかるのがないところを探し、所属したところ、「あれ? 事務所じゃなくて養成所じゃね?」のようだったという。歌をする気はなかったが、社長と知り合って「オーディション受けに来い」と言われ、「芝居はやりたい、でもダンスとかはやりたくない」「歌のレッスンは興味あるけど、怖いから行きたくない」という感じでわがままであり、ほとんど行かなかった。その後社長に呼び出され、「なんで来ないんだ」と怒られて「レッスンを受けろ」と言われたという。 1991年秋ごろから『すッぴん』などで美少女モデルとして活動。当時はフリーだったため、初めの仕事がグラビアだったという。当時は声優は裏方と思っていたため、表に出るのが嫌であり、あまりしていなかったという。グラビアしていた時にオーロラ5人娘(アイドルグループ)に声をかけてもらい、「いいよー」と言って、その後は「芝居やりたい」「声優も興味ある」と言っていたところ東芝EMIが紹介してくれたという、1993年4月7日に千葉麗子らと共に結成されたオーロラ5人娘(アイドルグループ)として『クールな恋』を発売。シングル2枚をリリースする。人物の台本の舞台はしたくなく「人の書いたもんなんかやりたくないよ」ぐらいに思い、劇団といったのには興味がなかった。しかし舞台を作っていく過程というのは知りたかったため、高校卒業後、小劇団に裏方で入団。裏方で作っていく過程を見て、19歳で劇団DARK MOONを結成して、舞台女優としても活躍。1994年から声優へ転向。 1994年に写真集『未然』を発行した。撮影当時は19歳で、水着、下着姿に加え、ヘアヌードも収録されている。他に、写真集発売直後の雑誌『すッぴん』『VENUS』には、写真集未収録のヘアヌードが掲載された。 1999年2月にテレビ朝日系で放送されたテレビアニメ『おジャ魔女どれみ』で主人公春風どれみ役を演じる。どれみシリーズ終了後も、矢田まさる役および飛鳥ももこ役の宮原永海と仲が良く、〈主に12月末が中心の〉Whispersというユニットでの活動や、不定期でのおジャ魔イベントなどで度々共演している。 1998年4月から2007年8月までは81プロデュースに所属していた。その後フリー期間を経て、同年12月よりオフィス野沢に所属。2012年4月、オフィス野沢廃業にあたって、賢プロダクションに移籍したが、2015年12月に賢プロダクションを退所して再びフリーとなり、2016年2月よりオフィス海風に所属。なお一時期(1996年2月末まで)アーツビジョンに所属していたことがある。 2013年2月24日に千葉千恵巳個人開催のイベントで一般男性との入籍を報告し、2月25日の自身の誕生日にブログで正式に発表した。さらに、既に子供がいることをTwitterで発表した。 趣味は人形観察(吉田良作の球体関節人形「クルミ」)、ダイビング。特技は殺陣。 太字はメインキャラクター。
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千葉 千恵巳は、日本の声優、舞台女優。埼玉県川口市出身。オフィス海風所属。
{{声優 | 名前 = 千葉 千恵巳 | ふりがな = ちば ちえみ | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 愛称 = ちーちゃん<ref name="excite">{{Cite news |url= https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PE61183f620f27042f1854160fd4da07305ceb3d37/ |title=千葉千恵巳|newspaper= Excite News |date= |agency=エキサイト株式会社|accessdate= 2023-05-28}}</ref>、ちばちー{{R|excite}} | 性別 = [[女性]] | 出生地 = | 出身地 = {{JPN}}・[[埼玉県]][[川口市]]{{R|excite}} | 死没地 = | 生年 = 1975 | 生月 = 2 | 生日 = 25 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]<ref name="meikan">{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W00-0395|title=千葉 千恵巳|work=日本タレント名鑑|accessdate=2023-05-28}}</ref> | 身長 = 160 [[センチメートル|cm]]{{R|meikan}}<ref name="prof">{{Cite web|和書|url=https://zimusyo-umikaze.com/tiemi-tiba/|title= 千葉 千恵巳 - オフィス海風|publisher=オフィス海風|date=2023-01-11|accessdate=2023-01-11}}</ref> | 職業 = [[声優]]、[[舞台女優]] | 事務所 = [[オフィス海風]]{{R|prof}} | 配偶者 = あり | 著名な家族 = | 公式サイト = [https://zimusyo-umikaze.com/tiemi-tiba/ 千葉 千恵巳|オフィス海風] | 活動 = {{声優/活動 | 職種 = 声優 | 活動名義 = | 活動期間 = [[1994年]]<ref name="cyzo">{{Cite web|和書|date=2011-10-07|url=https://www.cyzo.com/2011/10/post_8736_entry.html|title=「ロングヘアーの男としか交際しない!?」【千葉千恵巳】犬1匹ネコ7匹とのおだやかでラジカルな日常|work=声優 on FINDER!|website=月刊サイゾー|publisher=サイゾー|accessdate=2023-05-28}}</ref> - 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オフィス:ぎんがみ]</ref>。1994年から声優へ転向{{R|cyzo}}。 1994年に写真集『未然』を発行した。撮影当時は19歳で、水着、下着姿に加え、[[ヘアヌード]]も収録されている。他に、写真集発売直後の雑誌『[[すっぴん (雑誌)|すッぴん]]』『[[VENUS (雑誌)|VENUS]]』には、写真集未収録の[[ヘアヌード]]が掲載された<ref>お宝ガールズ 2003年5月号([[コアマガジン]])p.35</ref>。 1999年2月に[[テレビ朝日]]系で放送されたテレビアニメ『[[おジャ魔女どれみ]]』で主人公[[春風どれみ]]役を演じる。どれみシリーズ終了後も、矢田まさる役および[[飛鳥ももこ]]役の[[宮原永海]]と仲が良く、〈主に12月末が中心の〉Whispersというユニットでの活動や、不定期でのおジャ魔イベントなどで度々共演している。 1998年4月から2007年8月までは[[81プロデュース]]に所属していた<ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(2007年版)|page=632|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=978-4-9901242-6-7|date=2007-04-01}}</ref>。その後[[フリーランス|フリー]]期間を経て、同年12月より[[オフィス野沢]]に所属。2012年4月、オフィス野沢<ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(2012年版)|page=626|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=978-4904674031|date=2012-01-27}}</ref>廃業にあたって、[[賢プロダクション]]に移籍したが、2015年12月に賢プロダクション<ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(2015年版)|page=631|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=978-4-904674-06-2|date=2015-01-28}}</ref>を退所して再びフリーとなり、2016年2月より[[オフィス海風]]に所属<ref>{{Cite web|和書|author=千葉千恵巳|work=千葉千恵巳 オフィシャルブログ|publisher=サイバーエージェント|url=https://ameblo.jp/chiemi2-25/entry-12123851969.html|title=お知らせ|date=2016-02-01 15:24:23|accessdate=2016-02-04}}</ref>。なお一時期([[1996年]]2月末まで)[[アーツビジョン]]に所属していたことがある。 2013年2月24日に千葉千恵巳個人開催のイベントで一般男性との入籍を報告し、2月25日の自身の誕生日にブログで正式に発表した。さらに、既に子供がいることを[[Twitter]]で発表した<ref name="シネマトウデイ"/>。 == 人物 == 趣味は[[人形]]観察([[吉田良]]作の[[球体関節人形]]「クルミ」<ref>{{Cite web|和書|author=千葉千恵巳|work=千葉千恵巳 オフィシャルブログ|publisher=Ameba|url=https://ameblo.jp/chiemi2-25/entry-10131816781.html|title=球体関節人形|date=2008-08-26|accessdate=2017-05-21}}</ref>)、[[スクーバダイビング|ダイビング]]{{R|prof}}。特技は[[殺陣]]{{R|prof}}。 == 出演 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === {{dl2 | 1998年 | * [[超速スピナー]]('''夢宮りあん''') * [[Night Walker -真夜中の探偵-]](ユキ) * [[虹の戦記イリス]](ミカ) | 1999年 | * [[宇宙海賊ミトの大冒険]](粉美) - 2シリーズ * [[おジャ魔女どれみ]](1999年 - 2003年、'''[[春風どれみ]]''') - 4シリーズ * [[仙界伝 封神演義]](胡喜媚) * [[ゾイド -ZOIDS-]](メリーアン) | 2000年 | * [[ゲートキーパーズ]](浮矢朗美<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20170826235404/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7150 |title=GATE KEEPERS |work=メディア芸術データベース |publisher=文化庁 |accessdate=2017-03-19}}</ref>) * [[だぁ!だぁ!だぁ!]](2000年 - 2002年、'''ワンニャー''') * [[女神候補生]](サキ・ミモリ) * [[六門天外モンコレナイト]](冒険者ポケット) | 2001年 | * [[機動天使エンジェリックレイヤー]](藤崎有栖) * [[シスター・プリンセス]](2001年 - 2002年、'''雛子'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180301164611/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7498| title = シスター・プリンセス| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2017-03-13}}</ref>) - 2シリーズ | 2002年 | * [[アソボット戦記五九]](マリー) * [[十二国記]](桂桂) * [[デュエル・マスターズ (アニメ)|デュエル・マスターズ]](2002年 - 2009年、イメルダ) - 2シリーズ * [[.hack//SIGN]](女剣士) * [[わがまま☆フェアリー ミルモでポン!]](2002年 - 2005年、アクミ) - 4シリーズ | 2003年 | * [[GAD GUARD]](メリッサ) * [[カレイドスター]](ルーシー・ロビンス) * [[ギャラクシーエンジェル (アニメ)|ギャラクシーエンジェル(第3期)]](ハリウ・フランボワーズ) * [[住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー]](雛子) * [[デ・ジ・キャラットにょ]](2003年 - 2004年、婆や) * [[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]](ポニーテールちゃん) * [[ななか6/17]]('''霧里七華''') | 2004年 | * [[スウィート・ヴァレリアン]](リコリン) * [[まぶらほ]](栗丘舞穂) * [[レジェンズ 甦る竜王伝説]](ハーピィ〈アンナ〉) * [[ロックマンエグゼ (アニメ)|ロックマンエグゼ シリーズ]](2004年 - 2006年、アクアマン) - 4シリーズ{{Ras|第2シリーズ『[[ロックマンエグゼAXESS|AXESS]]』(2004年)、第3シリーズ『[[ロックマンエグゼStream|Stream]]』(2005年)、第4シリーズ『[[ロックマンエグゼBEAST|BEAST]]』(2005年)、第5シリーズ『[[ロックマンエグゼBEAST|BEAST+]]』(2006年)}} | 2005年 | * [[ああっ女神さまっ]](エレ) * [[おでんくん]](2005年 - 2014年、'''たまごちゃん'''、ちくわぶー、乙姫) - 2シリーズ * [[金色のガッシュベル!!]](ナツ子) * [[ツバサ・クロニクル]](2005年 - 2006年、猫依護刃) - 2シリーズ * [[はっぴぃセブン 〜ざ・テレビまんが〜]]('''北山たもん'''、ビシャモン) * [[BLACK CAT]]('''キリサキ=キョウコ''') * [[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]](エリコ) * [[蟲師]](あこや) * [[MÄR-メルヘヴン-]](エモキス) | 2006年 | * [[姫様ご用心]](カレン<ref name="media12349"/>、'''バ・ナーナ'''<ref name="media12349">{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180820074520/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/12349| title = 姫様ご用心| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-08-28}}</ref>) | 2007年 | * [[はたらキッズ マイハム組]](2007年 - 2008年、'''シルビー'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=東映アニメーション|work=はたらキッズ マイハム組|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/myham/staff/index.html|title=スタッフキャスト|accessdate=2023-03-16}}</ref>) | 2008年 | * [[狂乱家族日記]](ドジデビル) * [[それいけ!アンパンマン]](バケツくん〈4代目〉) * [[To LOVEる -とらぶる-]](2008年 - 2015年、沢田未央、霧崎恭子 / マジカルキョーコ) - 4シリーズ * [[のらみみ]](マイ) * [[伯爵と妖精]](少女メロウ) * [[モノクローム・ファクター]](錦織更紗) | 2009年 | * [[極上!!めちゃモテ委員長]](2009年 - 2011年、'''テモテモ''') - 2シリーズ * [[マリー&ガリー]](2009年 - 2011年、'''マリカ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20170920043931/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/11053| title = マリー&ガリー| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-06}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2009年 - 2010年)、第2期『Ver.2.0』(2010年 - 2011年)}} | 2010年 | * [[STAR DRIVER 輝きのタクト]](2010年 - 2011年、シナダ・ベニオ) | 2013年 | * [[ローゼンメイデン]]('''雪華綺晶'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=ローゼンメイデン 公式ホームページ|title=スタッフ&キャスト|url=https://www.tbs.co.jp/anime/rozen/staffcast/|accessdate=2013-05-31}}</ref>) * [[ワルキューレロマンツェ]](フィオナ・ベックフォード<ref>{{Cite web|publisher=TVアニメ「ワルキューレロマンツェ」公式サイト|title=CAST|url=http://walroma.com/introduction/|accessdate=2013-09-20}}</ref>、ササミ<ref>{{Cite news|date=2013-10-20|url=https://twitter.com/ChiemiChiba/status/391958763353042944|title=<nowiki>千葉千恵巳twitter</nowiki>|accessdate=2013-10-22}}</ref>) | 2014年 | * [[暴れん坊力士!!松太郎]](ツル子、梅夫) * [[咲-Saki- 全国編]](藤原利仙) | 2016年 | * [[タイガーマスクW]](2016年 - 2017年、山科ルリコ<ref>{{Cite web|和書|publisher=東映アニメーション|work=タイガーマスクW 公式サイト|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/tigermask_w/news/archive/2016090501.php|title=「タイガーマスクW」新キャラクター3名初公開! 高岡拳太郎役に田中亮一、藤井大助役に草尾毅、山科ルリコ役に千葉千恵巳が決定!|date=2016-09-05|accessdate=2016-09-06}}</ref>) | 2017年 | * [[キラキラ☆プリキュアアラモード]]('''ビブリー'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1495786584|title=『キラキラ☆プリキュアアラモード』第17話よりあらすじ&先行場面カット到着! 千葉千恵巳さん演じる謎の少女ビブリー登場|work=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2017-05-27|accessdate=2017-05-27}}</ref>) | 2018年 | * [[俺が好きなのは妹だけど妹じゃない]](雛子)<!-- 2018-10-10 --> | 2019年 | * [[臨死!!江古田ちゃん]]('''江古田ちゃん'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://ekodachan.com/|title=TVアニメ「臨死‼ 江古田ちゃん」|accessdate=2018-12-14}}</ref>〈第4話〉)<!-- 2019-01-30 --> }} === 劇場アニメ === * [[おジャ魔女どれみ#劇場版|劇場版おジャ魔女どれみ♯]](2000年、'''春風どれみ''') * [[おジャ魔女どれみ#劇場版|劇場版も〜っと!おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ♯]](2001年、'''春風どれみ''') * [[スタードライバー THE MOVIE]](2013年、シナダ・ベニオ<ref>{{Cite web|publisher=スタードライバー THE MOVIE|title=STAFF/CAST|url=http://www.stardriver-movie.net/|accessdate=2012-09-05}}</ref>) * [[魔女見習いをさがして]](2020年、春風どれみ<ref>{{Cite web|work=映画「魔女見習いをさがして」公式サイト|url=https://www.lookingfor-magical-doremi.com/character/|title=CHARACTER/CAST|accessdate=2020-08-18}}</ref>、公園の女の子〈姉〉)<!-- 2020-11-13 --> === OVA === * [[未来超獣FOBIA]](1995年、しのぶ) * [[真ゲッターロボ 世界最後の日]](1998年、オペレーター 他) * [[フリクリ]](2000年、キツルバミ) * サンゴの海と王子(2000年、'''ユウ''') * [[おジャ魔女どれみ]] OVAシリーズ(2001年 - 2004年、'''春風どれみ''') - 2作品 * [[トップをねらえ!]] DVD1巻新作映像(2001年、はるみ) * [[魔女っ娘つくねちゃん]](2005年、ココロ) * [[千年の約束 (国税庁)|千年の約束]](2006年、根古本美咲) - [[国税庁]]企画 ビデオアニメ * [[To LOVEる -とらぶる-#OVA|To LOVEる -とらぶる- OVA]]シリーズ(2009年 - 2015年、沢田未央、霧崎恭子 / マジカルキョーコ)※無印版コミックス限定版第13・15・16・18巻に付属、ダークネスコミックス限定版第9・13巻に付属。 === Webアニメ === * [[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ お笑い劇場]](2019年、'''春風どれみ'''<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1553388755 『おジャ魔女どれみ』20周年記念〜マジカルステージ〜【AJ2019】],アニメイトタイムズ,2019年3月24日</ref>)<!--2019-03-23--> * [[POKÉTOON#第6弾『ゲンガーになっちゃった!?』|ゲンガーになっちゃった!?]](2021年、モモ<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20210910dog00m200028000c.html|title=ポケモン:新作アニメ「ゲンガーになっちゃった!?」配信 声優に井口裕香、釘宮理恵 スタジオコロリド制作|newspaper=[[まんたんウェブ]]|date=2021-09-10|accessdate=2021-09-10}}</ref>)<!-- 2021-09-10 --> === ゲーム === {{dl2 | 1994年 | * [[卒業写真/美姫]]('''橘あゆみ''')※ココナッツジャパンが製作したPCエンジンSUPER CD-ROM版のみ出演 | 1995年 | * [[プリンセスメーカー2]](ウェンディー・ラキシス)※セガサターン、3DO版 | 1996年 | * [[ワルキューレの伝説 外伝 ローザの冒険]](フェアリーズJ) | 1998年 | * [[Dance!Dance!Dance!]](ココ) | 1999年 | * [[メルティランサー|メルティランサー The 3rd Planet]](アレクシス・カラバ・ブランシェ) | 2000年 | * [[おジャ魔女どれみ#MAHO堂]]('''春風どれみ''') | 2001年 | * [[火焔聖母 〜The Virgin on Megiddo〜]]('''三香野京子''') * [[シスター・プリンセス]]シリーズ('''雛子''') ** Sister Princess ** Sister Princess ピュア・ストーリーズ * [[トゥルー・ラブストーリー#トゥルーラブストーリー3|トゥルーラブストーリー3]](小野寺まどか) * [[ドキドキプリティリーグ#ドキドキプリティリーグ Lovely Star|ドキドキプリティリーグ Lovely Star]]('''鷹峰愛華''') | 2002年 | * [[おジャ魔女どれみドッカ〜ン!にじいろパラダイス]]('''春風どれみ''') * [[ビストロ・きゅーぴっと]](アップル・ベリー) | 2003年 | * [[シスター・プリンセス RePure]]シリーズ('''雛子''') ** シスター・プリンセス〜リピュア〜 デスクトップアクセサリー ** シスター・プリンセス RePure * [[シスター・プリンセス]]シリーズ('''雛子''') ** Sister Princess 2 ** Sister Princess 2 プレミアムファンディスク | 2004年 | * [[おジャ魔女あどべんちゃ〜ないしょのまほう]]('''春風どれみ''') * [[十二国記 -赫々たる王道 紅緑の羽化-]](桂桂) | 2008年 | * [[To LOVEる -とらぶる-|To LOVEる -とらぶる- ワクワク! 林間学校編]](沢田未央、マジカルキョーコ) * To LOVEる -とらぶる- ドキドキ! 臨海学校編(沢田未央) | 2009年 | * サイキン恋シテル?(メモリー) | 2011年 | * [[STAR DRIVER 輝きのタクト|STAR DRIVER 輝きのタクト 銀河美少年伝説]](シナダ・ベニオ) | 2014年 | * [[ローゼンメイデン ヴェヘゼルン ジー ヴェルト アップ]]('''雪華綺晶'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=ローゼンメイデン ヴェヘゼルン ジー ヴェルト アップ 公式サイト|url=http://5pb.jp/games/rozen/character/character02.html|title=登場人物|accessdate=2013-10-29}}</ref>) | 2015年 | * [[To LOVEる -とらぶる-|To LOVEる -とらぶる- ダークネス トゥループリンセス]](霧崎恭子<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[フリュー]]|work=To LOVEる -とらぶる- ダークネス トゥループリンセス|url=http://www.cs.furyu.jp/toloveru-tp/character/etcetera.html|title=キャラクター|accessdate=2015-09-29}}</ref>) | 2019年 | * [[ぷよぷよ!!クエスト]](春風どれみ<ref>{{Cite web|和書|publisher=セガ|work=ぷよぷよ!!クエスト(ぷよクエ)公式サイト|url=https://puyopuyoquest.sega-net.com/news/191102_74132.html|title=『おジャ魔女どれみ』コラボイベント開催決定!|date=2019-11-02|accessdate=2020-09-05}}</ref>)<!-- 2019-11-15 --> | 2020年 | * [[東京放課後サモナーズ]](エーコー<ref>{{Twitter_status2|4jhapp_lw|1230448922000154624|accessdate=2020-02-21}}</ref>)<!-- 2020-02-20 --> }} === 吹き替え === ==== 映画 ==== * [[バジル (映画)|バジル]] ==== テレビ番組 ==== * [[バーニー&フレンズ]]('''ベイビー・ボップ''') ==== アニメ ==== * [[ちいさなプリンセス ソフィア]](ビビアン) * [[ヘラクレス (TVシリーズ)|ヘラクレス]](女性) === テレビドラマ === * [[17才-at seventeen-]](1994年、モモコ) === オリジナルビデオ === * コスプレ戦士キューティ・ナイト(1995年)青柳ユキ * マルソウ改造自動車教習所(1996年)真美 * 喧嘩愚連隊(1998年) === ラジオ === * [[ラジオ・声優グランプリ]]([[TBSラジオ]]:1995年12月4日 - 1996年12月30日) * 夢さめ学園 イイナ向上委員会(1997年、TBSラジオ) * [[ファンタジーワールド|超時空学園 SORANE]](1997年、TBSラジオ) * 秘密結社 くらげ会(1997年 - 1998年、[[ラジオ関西]]) * アリスの憂鬱(1998年、ラジオ関西) * まさやちえみの○○エモーション(2000年12月3日 - 2002年9月7日、[[文化放送]]「[[超機動放送アニゲマスター]]」内) * [[オレたちやってま〜す]] 月曜日第二部(2001年 - 2002年、[[MBSラジオ]]) === DVD === * [[青の6号 (アニメ)|青の6号 digital plus]](ナレーション、2000年6月25日) * Sister princess Valentine Party === ドラマCD === * [[おジャ魔女どれみ]]シリーズ('''春風どれみ''') ** おジャ魔女CDくらぶ その3 おジャ魔女ハッピッピドラマシアター ** おジャ魔女どれみ♯ MAHO堂CDコレクションその2 すくりーんテーマ&しーくれっと すと〜り〜 ** おジャ魔女ドッカ〜ン!CDくらぶ その7 おジャ魔女ドッカ〜ン!ドラマシアター ;1998年 * [[フォトジェニック (ゲーム)|ZEST CD BOOK Vol.3 フォトジェニック]](折原うみ、博人) * [[ミルナの禁忌]] サウンド・ストーリー(鳴兎妃目) ;2000年 * [[藍より青し|藍より青し 音絵巻・電脳絵巻]]('''美幸繭''') ;2001年 * 藍より青し 歌絵巻('''美幸繭''') ;2002年 * ドラマCD [[ななか6/17]] 第1、3巻(まじかるドミ子/宍戸美子) ;2003年 * ななか6/17 ヴォーカル&ドラマアルバム 「うたう♪えほん」('''霧里七華''') * アニメーション「ななか6/17」オリジナルドラマCD めもりーのーと('''霧里七華''') ;2005年 * [[ながされて藍蘭島|コミックCDコレクション32 ながされて藍蘭島 Vol.2]](梅梅) ;2008年 * [[To LOVEる -とらぶる-|To LOVEる -とらぶる- Variety CD その3、5]](沢田未央) ;2012年 * [[ワルキューレロマンツェ 少女騎士物語]] ドラマCD第2巻(フィオナ・ベックフォード) ;2013年 * [[ローゼンメイデン]]('''雪華綺晶'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bandaivisual.co.jp/index?act=detail&ino=LACA-15351|title=TVアニメ『ローゼンメイデン』ドラマCD|publisher=[[バンダイビジュアル]]|accessdate=2013-09-07}}</ref>) === テレビ番組 === * [[おかあさんといっしょ]] ** [[ぐ〜チョコランタン]](ズズ) ** [[ポコポッテイト]](ペペローナ) * [[のりものスタジオ]](ひゃっぽ) * [[のりスタ!]] 内 ウキウキわんちゃんず(コロン) * [[ETV学ぶ冒険〜人気キャラクター集合]](2009年10月31日、NHK教育テレビ) * [[マリー&ガリー|科学で遊ぼう!マリー&ガリーVer.2.0]](2010年11月30日<ref>{{Cite web|和書|publisher=すイエんサー - NHKオンライン|url=http://www.nhk.or.jp/suiensaa-blog/101100/65991.html|title=11月30日は特番「科学で遊ぼう マリー&ガリー」をオンエア!|date=2010-11-24|accessdate=2016-10-16}}</ref>) * [[Go To ニッポン]](#8〜#10まで、ナレーションも担当) == ディスコグラフィ == {{main2|オーロラ五人娘での活動|オーロラ五人娘|MAHO堂での活動|MAHO堂}} === ミニアルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- ! 1st | 1996年7月24日 | '''クルミ''' | TOCT-9510 |} === 企画CD === {|class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 備考 |- ! 1st | 2000年 | '''初月夜''' | | 同人作品 |} === キャラクターソング === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! style="width:4.5em;" | 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考 |- ! colspan="5" |1993年 |- | 12月12日 | イメージソングアルバム「Soundscape “ANGEL BEAT”」<ref group=注>同名の漫画のイメージソングアルバムの中の一曲。彼女は作者の[[安原いちる]]にも大変気に入られ、レコーディングの様子は単行本12巻の巻末に描かれ、似顔絵で登場している。当時の雑誌{{要出典|date=2013年2月10日 (日) 13:08 (UTC)}}の記述によるとシングルカットされソロ歌手としてデビューする計画もあったらしいが実現しなかった</ref> | '''千葉千恵巳''' | 「ひとつぶの想い」 | 漫画『[[ANGEL BEAT|ANGEL♥BEAT]]』イメージソング |- ! colspan="5" |1998年 |- | 10月21日 | 今がその時だ/約束の丘 | [[中瀬聡美]]、'''千葉千恵巳''' | 「約束の丘」 | OVA『[[真ゲッターロボ 世界最後の日]]』エンディングテーマ |- ! colspan="5" |1999年 |- | 10月21日 | [[おジャ魔女どれみのディスコグラフィ#春風どれみ篇|おジャ魔女CDくらぶ その4 おジャ魔女 ソロヴォーカルコレクション 春風どれみ篇]] | 春風どれみ('''千葉千恵巳''') | 「乙女は急に止まれない」<br/>「きっとちゃんと女のコ」 | テレビアニメ『[[おジャ魔女どれみ]]』関連曲 |- | 11月26日 | 仙界伝 封神演義 封神計画「歌宴」 | 胡喜媚('''千葉千恵巳''')、王貴人([[柚木涼香]]) | 「Love Me パヤパヤッ!」 | テレビアニメ『[[仙界伝 封神演義]]』関連曲 |- ! colspan="5" |2000年 |- | 5月24日 | 仙界伝 封神演義 外伝 第三章 | 妲己([[かかずゆみ]])、胡喜媚('''千葉千恵巳''')、王貴人(柚木涼香) | 「炎の華」 | テレビアニメ『[[仙界伝 封神演義]]』関連曲 |- | 10月4日 | MAHO堂 CDコレクションソロ 春風どれみ | 春風どれみ('''千葉千恵巳''')<ref group=注 name=作詞も担当>作詞も担当</ref> | 「アイスクリームチャイルド」 | テレビアニメ『[[おジャ魔女どれみ]]』関連曲 |- ! colspan="5" |2001年 |- | rowspan="2"|1月24日 | rowspan="2"|[[MELODY/shining★star]] | rowspan="2"|{{vau|SISTER PRINCESS}} | 「MELODY」 | ゲーム『[[Sister Princess]]』オープニングテーマ |- | 「shining★star」 | ゲーム『Sister Princess』エンディングテーマ |- | 2月7日 | [[シスター・プリンセス 〜12人の天使たち〜]] | 雛子('''千葉千恵巳''') | 「天使のシアワセ」 | 読者参加型企画『[[シスター・プリンセス]]』関連曲 |- | 4月27日 | 藍より青し 歌絵巻 | 美幸繭('''千葉千恵巳''') | 「歌わない歌」 | ドラマCD『[[藍より青し]]』関連曲 |- | 7月4日 | [[笑顔がNo.1!やっぱりネ]] | {{vau|Sister Princess}} | 「笑顔がNo.1!やっぱりネ」<br/>「まひるのアヒル」<br/>「私のダーリン♥」 | テレビアニメ『[[シスター♥プリンセス]]』関連曲 |- | 8月22日 | おジャ魔女どれみ キャラクター・ミニアルバム 春風どれみ | 春風どれみ('''千葉千恵巳''') | 「「ス」のつく恋人」 | テレビアニメ『[[おジャ魔女どれみ]]』関連曲 |- | 8月29日 | [[Angel Jukebox]] | 雛子('''千葉千恵巳''')、白雪([[横手久美子]]) | 「Hearty Party」 | rowspan="2"|テレビアニメ『シスター♥プリンセス』関連曲 |- | rowspan="2"|9月29日 | rowspan="2"|[[Sister Princess Kaleidoscope]] | rowspan="2"|{{vau|Sister Princess}} | 「per favore Boy」 |- | 「TENDER GREEN」 | ラジオ『[[シスター・プリンセス〜お兄ちゃんといっしょ]]』エンディングテーマ |- ! colspan="5" | 2003年 |- | 3月5日 | ななか6/17 ヴォーカル&ドラマアルバム『うたう♪えほん』 | 霧里七華('''千葉千恵巳''') | 「ふたりのひこうせん」 | テレビアニメ『[[ななか6/17]]』関連曲 |- | rowspan="2"|3月26日 | rowspan="2"|[[LOVE FLOWERS]] | rowspan="2"|{{vau|SISTER PRINCESS}} | 「LOVE FLOWERS」 | ゲーム『[[Sister Princess 2]]』オープニングテーマ |- | 「夢のかけら」 | ゲーム『Sister Princess 2』エンディングテーマ |- | 8月18日 | FRIENDS MAHO堂ソロVocalアルバム | 春風どれみ('''千葉千恵巳''')<ref group=注 name=作詞も担当/> | 「メリーゴーランド」 | テレビアニメ『[[おジャ魔女どれみ]]』関連曲 |- | rowspan="2"|12月21日 | rowspan="2"|[[シスター・プリンセス&シスター・プリンセス Re Pure X'mas Song Collection]] | {{vau|シスタープリンセス +1}} | 「その奇跡は永遠に」 | テレビアニメ『シスター♥プリンセス』挿入歌 |- | {{vau|Sister Princess}} | 「Merry Very X'mas」 | テレビアニメ『[[シスター・プリンセス〜リピュア〜]]』最終話エンディングテーマ |- | rowspan="2"|12月26日 | rowspan="2"|[[そらいろFairy]] | rowspan="2"|{{vau|SISTER PRINCESS}} | 「そらいろFairy」 | ゲーム『[[Sister Princess 2 PREMIUM FAN DISC]]』オープニングテーマ |- | 「しあわせプリンセス」 | ゲーム『Sister Princess 2 PREMIUM FAN DISC』エンディングテーマ |- ! colspan="5" | 2009年 |- | 7月22日 | ガリハバラ! | フレミング([[菊池正美]])with マリー&ガリー('''千葉千恵巳'''、[[チョー (俳優)|チョー]]) | 「ラブコイル」 | テレビアニメ『[[マリー&ガリー]]』挿入歌 |- ! colspan="5" | 2010年 |- | rowspan="2"|5月19日 | rowspan="2"|カガクル!ミラクル! | rowspan="2"|マリカ('''千葉千恵巳''')、ノリカ([[井上麻里奈]]) | 「カガクル!ミラクル!」 | テレビアニメ『マリー&ガリーVer.2.0』主題歌 |- | 「私を未来に連れてって」 | テレビアニメ『マリー&ガリーVer.2.0』挿入歌 |} == その他 == * 写真集『未然』(1994年) * [[avex mode]](2000年 - 2003年)※{{要校閲範囲|CM最後に『エイベックスゥ・モォ〜ドォ♪』と聞かれたサウンドロゴ|date=2023年5月}} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} {{Vau}} {{Ras}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://zimusyo-umikaze.com/tiemi-tiba/ オフィス海風による公式プロフィール] * [https://ameblo.jp/chiemi2-25/ 千葉千恵巳オフィシャルブログ] * [https://web.archive.org/web/19991001063036/http://www.st.rim.or.jp/~momo/ Chiemi Chiba Home Page] * {{Twitter|ChiemiChiba|千葉千恵巳}} * {{日本タレント名鑑|id=W00-0395}} * [https://thetv.jp/person/0000088506/ 千葉千恵巳のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン] * [https://seigura.com/directory/852/ 千葉 千恵巳|声優名鑑 - 声優グランプリweb] * {{Wayback|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/千葉千恵巳/#person-110018059_ |title=千葉千恵巳の解説 - goo人名事典 |date=20211229131047}} * {{Kinejun name|153990}} * {{Oricon name|228641}} * {{Movie Walker name|154409}} * {{映画.com name|47516}} * {{allcinema name|119929}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちは ちえみ}} [[Category:日本の女性声優]] [[Category:日本の女優]] [[Category:日本の舞台女優]] [[Category:過去のアーツビジョングループ所属者]] [[Category:過去の81プロデュース所属者]] [[Category:過去の賢プロダクション所属者]] [[Category:埼玉県出身の人物]] [[Category:1975年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本ナレーション演技研究所出身の人物]]
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チェキ
チェキは、英語の"check it"をよりネイティブの発音に近づけた表現。日本では「一見の価値あり」の意味で使われている。以下はこれに由来する。
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チェキは、英語の"check it"をよりネイティブの発音に近づけた表現。日本では「一見の価値あり」の意味で使われている。以下はこれに由来する。 インスタントカメラ・チェキ - 富士フイルムのインスタント写真システムinstaxをベースとした、インスタントカメラ他の同社の商品群の商標。 日本のタレント・篠原ともえの発言「チェキー!」。 チェキッ娘 - 日本のアイドルグループ。上記に由来する。 チェキTV - 上記グループの看板番組『DAIBAッテキ!!』(フジテレビ)の、計画段階のタイトル。 チェキラ - 英語の"Check it out"をよりネイティブの発音に近づけた表現。 チェキラ! - 日本テレビにて放送されていた深夜番組。こずえ鈴が進行役を務めた。 ミュージックパトロール チェキラ! - NHKのラジオ番組(音楽番組)。
'''チェキ'''は、[[英語]]の"check it"をよりネイティブの発音に近づけた表現。日本では「一見の価値あり」の意味で使われている。以下はこれに由来する。 *[[インスタントカメラ・チェキ]] - [[富士フイルム]]のインスタント写真システムinstaxをベースとした、インスタントカメラ他の同社の商品群の商標。 *日本のタレント・[[篠原ともえ]]の発言「チェキー!」。 **[[チェキッ娘]] - 日本のアイドルグループ。上記に由来する。 ***チェキTV - 上記グループの看板番組『[[DAIBAッテキ!!]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])の、計画段階のタイトル。 *チェキラ - 英語の"Check it out"をよりネイティブの発音に近づけた表現。 **チェキラ! - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]にて放送されていた深夜番組。こずえ鈴(現:[[フリーディア]])が進行役を務めた。 **[[ミュージックパトロール チェキラ!]] - [[日本放送協会|NHK]]のラジオ番組(音楽番組)。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ちえき}}
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14,022
ドクターマリオ
『ドクターマリオ』(Dr. MARIO)は、1990年7月27日に任天堂よりファミリーコンピュータおよびゲームボーイ向けに発売された落ち物パズルゲーム。様々な機種で移植・リメイク作品も発売されている。 『スーパーマリオブラザーズ』などの主人公・マリオが医師に扮し、ビンの中に繁殖したウイルスを、カプセルを使って退治していく(説明書ではピーチ姫が看護師に扮している)。ウイルスは赤、青、黄(ゲームボーイ版では白、黒、グレー)の3種類がいて、カプセルの色はそれに対応している。画面上のマリオが全部で6通りある組み合わせからランダムに選んで投げられるカプセルを、縦か横1列に同じ色を、ウイルスを含め4つ以上つなげると消える。ビンの中にいるウイルスをすべて消せばステージクリア。その前にカプセルが積み上がってビンの上まで詰まるとゲームオーバー。色が3色、カプセルの組み合わせが全部で6通りしかないため、『テトリス』や『ぷよぷよ』などといった他の落ち物パズルゲームに比べて狙っている落ち物が比較的来やすいのも特徴である。 スピードがLOW・MID・HIの3段階に、レベルが0〜20の21段階に変更可能である。スピードがLOWからMID、MIDからHIになるにつれてカプセルが落ちる速度が速くなり、得点もスピードに応じて高くなる。レベルが高くなるにつれてウイルスの数が4匹ずつ増える。ただしレベル20以降は変化がない。設定を変えることによって自分の実力に合う設定でプレイできる。 BGMはFEVER・CHILL・OFF(なし)の3種類から選択可能。 各社より類似のパズルゲームが発売されたが、その中でもゲーム誌や子供向け雑誌での度重なる特集記事の掲載、任天堂の1社提供テレビ番組「スーパーマリオクラブ」における対戦風景の放送など各種メディアでの露出も手伝い、後継作品の『ヨッシーのたまご』が発売されるまで長期に渡り人気を保った。とりわけ、当時としては主婦層の人気を集めた。 ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では、合計31点(満40点)でシルバー殿堂を獲得、ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は22.27点(満30点)。 ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では合計31点(満40点)でシルバー殿堂を獲得、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は22.32点(満30点)。 原作のルールを踏襲した「細菌撲滅」というサブゲームが登場。 プレイヤーキャラクターとしてドクターマリオが登場する他、BGMのアレンジ曲が使用されている。
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『ドクターマリオ』は、1990年7月27日に任天堂よりファミリーコンピュータおよびゲームボーイ向けに発売された落ち物パズルゲーム。様々な機種で移植・リメイク作品も発売されている。
{{Pathnav|マリオシリーズ|frame=1}} {{コンピュータゲーム | Title = ドクターマリオ<br/>Dr. MARIO | image = File:Dr Mario logo.png | Genre = [[落ち物パズル]] | Plat = [[ファミリーコンピュータ]] [FC]<br />[[ゲームボーイ]] [GB]<br />[[ゲームボーイアドバンス]] [GBA]([[ファミコンミニ]])<br />[[ニンテンドー3DS]]、[[Wii U]]([[バーチャルコンソール]])<br />[[Nintendo Switch]]([[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]]) | Dev = 任天堂開発第一部 | Pub = [[任天堂]] | producer = [[横井軍平]] | director = | designer = 原田貴裕 | writer = | programmer =原田貴裕 | composer = [[田中宏和]] | artist = | license = | series = [[マリオシリーズ]] | Ver = | Play = 1 - 2人(対戦プレイ) | Media = [FC] 512[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga316">{{Cite journal|和書||title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ|date=1991-05-10|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=9|pages=316|ref=harv}}</ref><br />[GB] 256キロビットロムカセット<ref name="famimaga190_191">{{Cite journal|和書|title=5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ|date=1991-05-24|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=10|pages=190 - 191|ref=harv}}</ref> | Date = [FC]<br />{{Flagicon|JPN}} [[1990年]][[7月27日]]<br />{{Flagicon|USA}} 1990年[[10月14日]]<br />{{Flagicon|EU}} [[1991年]][[6月27日]]<br />[GB]<br />{{Flagicon|JPN}} 1990年[[7月27日]]<br />{{Flagicon|USA}} 1990年[[12月1日]]<br />{{Flagicon|EU}} 1991年[[4月30日]]<br />[GB]([[ニンテンドウパワー]])<br />{{Flagicon|JPN}} [[2000年]][[3月1日]]<br />[GBA](FC版)<br />{{Flagicon|JPN}} [[2004年]][[5月21日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2004年[[10月25日]]<br />{{Flagicon|EU}} [[2005年]][[1月7日]]<br />[3DS](GB版)<br />{{Flagicon|JPN}} [[2011年]][[7月27日]]<br />{{Flagicon|EU}} [[2012年]][[3月22日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2012年[[10月4日]]<br />[Wii U](FC版)<br />{{Flagicon|EU}} [[2014年]][[2月13日]]<br />{{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|USA}} 2014年[[3月27日]] | Rating = {{CERO-A}}<br />{{ESRB-E}}<br />{{PEGI-3}} | ContentsIcon = | Download content = | Device = [GB][[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]]対応 | Sale = [FC]<br/>{{Flagicon|World}} 485万本(2022年12月末時点)<ref>{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=199}}</ref><br />{{Flagicon|JPN}} 153万本(2022年12月末時点)<ref>{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=189}}</ref><br />[GB]<br/>{{Flagicon|World}} 534万本(2022年12月末時点)<ref>{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=195}}</ref><br />{{Flagicon|JPN}} 208万本(2022年12月末時点)<ref>{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=188}}</ref> | etc = 型式:<br />[FC]<br />{{vgrelease new|JP|HVC-VU|NA|NES-VU-USA|EU|NES-VU-NOE}}[GB]<br />{{vgrelease new|JP|DMG-VUA|NA|DMG-VU-USA|EU|DMG-VU-NOE}} }} 『'''ドクターマリオ'''』(''Dr. MARIO'')は、[[1990年]][[7月27日]]に[[任天堂]]より[[ファミリーコンピュータ]]および[[ゲームボーイ]]向けに発売された[[落ち物パズル]]ゲーム。様々な機種で移植・リメイク作品も発売されている。 == 概要 == 『[[スーパーマリオブラザーズ]]』などの主人公・[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]が医師に扮し、ビンの中に繁殖したウイルスを、カプセルを使って退治していく(説明書では[[ピーチ (ゲームキャラクター)|ピーチ姫]]が看護師に扮している)。ウイルスは[[赤]]、[[青]]、[[黄色|黄]](ゲームボーイ版では[[白]]、[[黒]]、[[灰色|グレー]])の3種類がいて、カプセルの色はそれに対応している。画面上のマリオが全部で6通りある組み合わせからランダムに選んで投げられるカプセルを、縦か横1列に同じ色を、ウイルスを含め4つ以上つなげると消える。ビンの中にいるウイルスをすべて消せばステージクリア。その前にカプセルが積み上がってビンの上まで詰まるとゲームオーバー。色が3色、カプセルの組み合わせが全部で6通りしかないため、『[[テトリス]]』や『[[ぷよぷよ]]』などといった他の落ち物パズルゲームに比べて狙っている落ち物が比較的来やすいのも特徴である。 スピードがLOW・MID・HIの3段階に、レベルが0〜20の21段階に変更可能である。スピードがLOWからMID、MIDからHIになるにつれてカプセルが落ちる速度が速くなり、得点もスピードに応じて高くなる。レベルが高くなるにつれてウイルスの数が4匹ずつ増える。ただしレベル20以降は変化がない。設定を変えることによって自分の実力に合う設定でプレイできる。 BGMはFEVER・CHILL・OFF(なし)の3種類から選択可能。 各社より類似のパズルゲームが発売されたが、その中でもゲーム誌や子供向け雑誌での度重なる特集記事の掲載、任天堂の1社提供テレビ番組「[[スーパーマリオクラブ (テレビ番組)|スーパーマリオクラブ]]」における対戦風景の放送など各種メディアでの露出も手伝い、後継作品の『[[ヨッシーのたまご]]』が発売されるまで長期に渡り人気を保った。とりわけ、当時としては主婦層の人気を集めた<ref>M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』67ページ</ref>。 == ゲームモード == === 1人用 === ; オリジナル : ビンの中にあるウイルスをすべて消すことが目的となっている。なおウイルスを消すと画面下部のウイルスが一定時間ひっくり返ってもがき苦しみ、特定の色のウイルスがすべて消されると画面下部の対応した色のウイルスも消滅する。 : ファミコン版ではスピードHI・MIDのレベル5、10、15、20、スピードLOWの20をクリアするとデモ画面が見られる。ゲームボーイ版ではスピードHIのレベル5、10、15、20、スピードMIDのレベル20をクリアするとデモ画面が見られる。それらはレベル毎、機種毎に少し違う展開になる。 : レベル20クリア後は「21、22…」と続いていくが、最大レベルは24まででレベル24をクリアすると再びレベル24が繰り返される(ゲームボーイ版ではレベル30まである)。 ; おはなし(NINTENDO64版、ニンテンドーゲームキューブ版) : 対戦のルールで、コンピュータが操作するキャラと順番に戦って勝ち抜くモード。『[[ワリオランド3 不思議なオルゴール]]』のキャラクターたちが登場する。盗まれたクスリを取り戻すのが目的のマリオ編と薬を横取りするのが目的のワリオ編があり、対戦するキャラクターが若干違ってくる。難易度NORMAL以上でノーコンティニューでボスキャラを倒すと隠しキャラ(マリオ編はバンパイアワリオ、ワリオ編はメタルマリオ)との対戦になる。この対戦もノーコンティニューでクリアすればVS.COMで選択可能になる。 ; VS.COM : コンピュータと対戦ゲームをプレイするモード。SFCは3色のウイルス(赤、黄、青の順番で強い)、GCはお話に登場したキャラクター、GBA・Wiiウェア・DSiウェアは3段階の難易度から対戦相手を選択してプレイする。 ; フラッシュ(NINTENDO64版、ニンテンドーゲームキューブ版、ゲームボーイアドバンス版、Wiiウェア版) : ビンの中にいる光るウイルスを先に全滅させた方が勝ちになる対戦ゲーム。その他のルール、設定はVS.COMと同じ。 ; たいきゅう(NINTENDO64版、ニンテンドーゲームキューブ版) : 「[[パネルでポン]]」のようにビンの底部から新しいウイルスがどんどん現れる。連鎖を起こすことで、ウイルスがせり上がるのを少しの間食い止めることが出来る。ゲームオーバーになるまで半永久的にプレイできるモード。 ; スコアアタック(NINTENDO64版、ニンテンドーゲームキューブ版) : 3分間の間にどれだけウイルスを消すことが出来るか競うモード。制限時間内にすべて消せばボーナスが出る。 === 2人用 === ; VS 2P : 2人で対戦するモード。対戦時には一度に複数のカプセルおよびウイルスを消すと相手のビンに消した数に応じてハーフカプセルが降り注ぐ(最大で一度に4個まで)。相手より先にウイルスをすべて消すか、相手のビンの上までカプセルが積み上がると1ポイント獲得。3ポイント先取で勝利となる。スピード・レベルはプレイヤーごとに変更が可能で、これに差をつけることによりハンデ戦も可能。 ; フラッシュ(NINTENDO64版、ニンテンドーゲームキューブ版、ゲームボーイアドバンス版、Wiiウェア版) : 2人でフラッシュ対戦をするモード。 ; スコアアタック(NINTENDO64版、ニンテンドーゲームキューブ版) : どちらがより多く得点できるか競うモード。ルールは1人用と同じ。 === 多人数用(NINTENDO64版とニンテンドーゲームキューブ版) === ; VS 4P : 4人で対戦モードをプレイするモード。人数が足りない場合はコンピュータが操作を担当する。連鎖の最初に消したウイルスの色で攻撃対象が決まる。 ; フラッシュ : 4人でフラッシュ対戦をするモード。 ; タッグバトル : 2対2でチーム対戦をするモード。味方を攻撃するとハーフカプセルがストックされ、次に敵を攻撃したときに追加して落下させることが出来る。 == スタッフ == ;ファミリーコンピュータ版 *プロデューサー:[[横井軍平]] *デザイナー:原田貴裕 *グラフィックデザイナー:清武博二 *音楽:[[田中宏和]] ;ゲームボーイ版 *エグゼクティブ・プロデューサー:[[山内溥]] *プロデューサー:横井軍平 *ディレクター:[[山上仁志]]、原田貴裕 *メイン・プログラム:原田貴裕 *音楽:田中宏和 == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |GR = 69.25% (GBA)<ref>{{cite web|url=https://www.gamerankings.com/gba/920380-classic-nes-series-dr-mario/index.html|title=Classic NES Series: Dr. Mario|publisher=GameRankings|accessdate=2 December 2011}}</ref> |MC = 66/100点 (GBA)<ref name="MC">{{cite web|url=https://www.metacritic.com/game/game-boy-advance/classic-nes-series-dr-mario|title=Classic NES Series: Dr. Mario|publisher=MetaCritic|accessdate=2 December 2011}}</ref> <!-- Reviewers --> |Allgame = {{Rating|4|5}} (NES)<ref name=Allgame>{{cite web|last=Miller|first=Skyler|url=https://www.allgame.com/game.php?id=160|title=Dr. Mario - Overview|publisher=[[Allgame]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141114112529/https://www.allgame.com/game.php?id=160|accessdate=May 6, 2015|archivedate=14 November 2014 }}</ref> |Fam = 31/40点 (FC)<ref name="famitsu"/><br />(シルバー殿堂)<br />31/40点 (GB)<ref name="famitsu2"/><br />(シルバー殿堂) |GSpot = 7.4/10点 (GBA)<ref>{{cite web|url=https://www.gamespot.com/classic-nes-series-dr-mario/reviews/6112134/classic-nes-series-dr-mario-review/platform/gba/|title=Classic NES Series: Dr. Mario Review|author=Bob Colayco|date=3 November 2004 |accessdate=2017-02-04}}</ref> |NP = 7.2/10点 (GBA)<ref>{{Cite journal|journal=[[:en:Nintendo Power|Nintendo Power]]|title=Simple, but infinitely fun|issue=186|page=148|date=December 2004}}</ref> |IGN = 7/10点 (GBA)<ref name="IGNRev">{{cite web|url=https://www.ign.com/articles/2004/10/26/dr-mario|title=Dr. Mario (Classic NES Series)|author=Craig Harris|date=26 October 2004 |accessdate=2017-02-04}}</ref> |Play = 67% (GBA)<ref>{{Cite journal|journal=[[:en:Play (UK magazine)|Play Magazine]]|page=100|date=December 2004}}</ref> |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 22.27/30点 (FC)<ref name="famimaga316"/><br />22.32/30点 (GB)<ref name="famimaga190_191"/> |rev2 = [[:en:Next Generation (magazine)|Next Generation]] |rev2Score = {{rating|4|5}} (SNES)<ref name="NGen4">{{cite journal|last= |first= |title=Tetris & Dr. Mario |journal=[[:en:Next Generation (magazine)|Next Generation]]|issue=4|publisher=[[:en:Imagine Media|Imagine Media]]|date=April 1995|page=100}}</ref> |rev3 = [[:en:Nintendojo|Nintendojo]] |rev3Score = 7.7/10点 (GBA)<ref name="NDojo">{{cite web|url=https://www.nintendojo.com/archives/reviews/GBA/view_item.php?1099725879|title=Dr. Mario|author=Austin Starr|accessdate=2 December 2011}}</ref> }} ;ファミリーコンピュータ版 ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」では、合計31点(満40点)でシルバー殿堂を獲得<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=15313|title=Dr.マリオ まとめ [ファミコン]|website=[[ファミ通|ファミ通.com]]|publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]|language=[[日本語]]|accessdate=2017-02-04}}</ref>、ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は22.27点(満30点)<ref name="clafami">ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine([[アンビット]]、2016年)7ページ</ref><ref name="famimaga316"/>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" |- ! 項目 | キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ ! 総合 |- ! 得点 | 3.51 || 3.54 || 3.80 || 3.98 || 3.90 || 3.54 ! 22.27 |} ;ゲームボーイ版 ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では合計31点(満40点)でシルバー殿堂を獲得<ref name="famitsu2">{{Cite web|和書|date=|url= https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=13774|title=ドクターマリオ まとめ [ゲームボーイ]|website=[[ファミ通|ファミ通.com]]|publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]|language=[[日本語]]|accessdate=2015-03-22}}</ref>、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は22.32点(満30点)<ref name="famimaga190_191"/>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" |- ! 項目 | キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ ! 総合 |- ! 得点 | 3.54 || 3.62 || 3.76 || 4.01 || 3.83 || 3.56 ! 22.32 |} {{Clear}} == サウンドトラック == ;『ファミコン 20TH アニバーサリー オリジナル・サウンド・トラックス VOL.3』(2004年4月21日) ;『ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」』(2004年7月22日) :[[サイトロン・デジタルコンテンツ]]より発売されたCD内の一作品として収録されている。 == 派生作品 == ;VS.Dr.MARIO([[アーケードゲーム]]) :[[1990年]]に米国で稼働していた[[任天堂VS.システム]]対応のアーケードゲーム版。日本では稼働していない。 ;ドクターマリオBS版([[スーパーファミコン]]([[サテラビュー]])) :サテラビューで[[1997年]][[3月30日]]より放送開始。[[Super Nintendo Entertainment System]]用ソフトとして日本国外でのみ発売されていた『[[w:Tetris_&_Dr._Mario|TETRIS & Dr. MARIO]]』 から『ドクターマリオ』を引用し、4月のイベントゲームとして放送。イベントの内容はハイスコアを競うという単純なものであった。イベント期間終了後も繰り返し再放送が行われ、サテラビューのサービス終了日である[[2000年]][[6月30日]]の最終配信ゲームとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.stgiga.co.jp:80/DATA/data.htm |title=セント・ギガ衛星データ放送番組表(2000年5月、6月分) |website=セント・ギガ |publisher=衛星デジタル音楽放送 |language=ja |accessdate=2022-05-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000623104905/http://www.stgiga.co.jp:80/DATA/data.htm|archivedate=2000-06-23}}</ref>。ゲーム内容はファミコン版と大差はないが、上位機種への移植に伴うグラフィックやBGMの向上、デモ画面の変更がされたことに加え、コンピュータとの対戦プレイ、ハイスコアの記録が可能となっている。また、レベル21以降もウイルスの数が増えるのは、今作が初めてである(最大でレベル23の96、レベル24以降は96固定となる)。 ;ドクターマリオ(スーパーファミコン([[ニンテンドウパワー]])) :[[1998年]][[6月1日]]供給。内容は前年のサテラビュー版と同一。異なる点はタイトル画面の著作権表記に1998(年)と追加されたくらいである。日本のスーパーファミコン最後の[[マリオシリーズ]]となった。 ;[[NINTENDOパズルコレクション]]([[ニンテンドーゲームキューブ]]) :[[2003年]][[2月7日]]発売。日本国外の市場のみで発売されていた[[NINTENDO64]]用ソフト『Dr. MARIO 64』を『[[ヨッシーのクッキー]]』『[[パネルでポン]]』と共に収録。4人対戦など数多くのゲームモードが追加された。この作品から対戦BGMに「CUBE」と「QUEQUE」が加わった。ストーリーモードではマリオだけでなく[[ワリオ]]の話も用意されている。同梱または別売りのGBAケーブルを使用することで[[ゲームボーイアドバンス]]にファミコン版を[[ダウンロード]]させる事ができる。ただしこちらは1人用のみで対戦プレイはできない。さらにテレビとは画面比率が異なるため、やや上下に潰れた状態で表示される。 ;ドクターマリオ([[ゲームボーイアドバンス]]) :[[ファミコンミニ]]シリーズとして[[2004年]][[5月21日]]に発売。『NINTENDOパズルコレクション』のダウンロード版とは異なり、通信ケーブルや[[ゲームボーイアドバンス専用ワイヤレスアダプタ|ワイヤレスアダプタ]]を使用することで対戦プレイが可能。 ;ドクターマリオ&パネルでポン(ゲームボーイアドバンス) :「[[スーパーマリオブラザーズ]]発売20周年記念ソフト」の1つ。[[2005年]][[9月13日]]発売。人気が高かったパズルゲームである『ドクターマリオ』と『[[パネルでポン]]』を収録して発売。『ドクターマリオ』は『NINTENDOパズルコレクション』に収録された物と似た見た目となっている。ゲーム内容はスーパーファミコン版とほぼ同じだが、先に光るウイルスを全て消したプレイヤーが勝利となるモード「フラッシュ」が『NINTENDOパズルコレクション』版より追加されている。また、『[[メイド イン ワリオ]]』内のミニゲーム『[[メイド イン ワリオ#1人プレイ用リメイクゲーム|ドクターワリオ]]』(Dr. WARIO)同様、オリジナルに比べてビンの高さが低く、ウイルスの数もやや少ない(最大でレベル20以降の68匹)。今作ではレベル20をクリアすると21以降をレベル選択画面で選ぶことができるようになる(ただし電源を切ると選べる最大値は20に戻る)。なお、レベルは表示上は99まで存在し、レベル99をクリアするとウイルスの数が変わらないままレベル0に戻される。『[[マリオテニスアドバンス]]』と共にゲームボーイアドバンス最後の[[マリオシリーズ]]の新作ソフトであった。 ;[[Dr.MARIO & 細菌撲滅]]([[Wiiウェア]]) :[[2008年]][[3月25日]]配信開始。『ドクターマリオ』と『[[もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング]]』内の「細菌撲滅」を収録。キャラクターが2Dから3DCGで描画されるようになった。操作方法・ルール説明機能がつき、投下カプセルが3個先まで表示されるようになった。[[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]によるオンライン対戦、ソフトを持っている相手との対戦のほか、ソフトを持っていない人に「フレンド対戦限定版 ドクターマリオ」を配布して対戦することもできる。対戦モードや「細菌撲滅」モードの際には、キャラクターをドクターマリオから[[Mii]]に変更できる。 ;ちょっとDr.MARIO([[ニンテンドーDSiウェア]]) :2008年[[12月24日]]配信開始。オリジナルとVS.COMのみの1人専用。グラフィックやBGMはWiiウェア版と同一。プレイヤーのビンは下画面に、コンピュータのビン(VS.COM時)は上画面に表示される。今作ではレベル21以降もウイルスの数が増え、最大はレベル24の99である。レベル25以降もあるが、ウイルスの数は99固定となる。 ;Dr.LUIGI & 細菌撲滅([[Wii U]]) :[[2014年]][[1月15日]]に配信。ゲーム内容は『Dr.MARIO & 細菌撲滅』と同様だが、マリオの代わりにルイージが登場する。また、従来のカプセルに加えてL字型のカプセルも登場する。 ;Dr.MARIO ギャクテン!特効薬 & 細菌撲滅([[ニンテンドー3DS]]) :[[2015年]][[5月31日]]に配信。従来のカプセルを使う「Dr.MARIO」、L字型カプセルを使う「Dr.LUIGI」、3DS本体を縦に持ってタッチペンでカプセルを動かす「細菌撲滅」の3つのゲームモードを収録している。一度に多くのウイルスやカプセルを消せる新アイテム「特効薬」が登場する。 ;[[ドクターマリオ ワールド]]([[iOS]], [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]) :[[2019年]][[7月10日]]配信。本作ではウイルスが画面上側に配置され、カプセルが画面下から上方向へ浮くように動く。また、カプセルの使用個数に上限があるステージや制限時間が設けているステージもある。このほか、プレイ中に使用できる補助アイテムの登場やマリオ以外のドクターも選択できそれぞれ固有の特殊技を発動できる、コイン集めなどウイルスの全滅以外をクリア条件とするステージがあるなど、様々な新要素が含まれている。2021年11月1日にサービス終了となることが、2021年7月28日に発表された<ref>{{Cite web|和書|title=ドクターマリオ ワールド {{!}} TOPICS {{!}} 任天堂|url=https://drmario-world.com/ja-JP/topics/index.html|website=ドクターマリオ ワールド|accessdate=2021-07-28|language=ja-JP}}</ref>。 == 関連作品 == ;[[もと子ちゃんのワンダーキッチン]](1993年、スーパーファミコン) :「マヨネーズしつもんコーナー」内にて、マヨネーズに含まれる酢の殺菌力を説明する際に、バイキン役でウイルスが登場した。 ;[[メイド イン ワリオ]](2003年、ゲームボーイアドバンス) / [[あつまれ!!メイド イン ワリオ]](2003年、ニンテンドーゲームキューブ) :画面上に2匹いるウイルスをカプセル1個で消すという1手詰めの「プチゲーム」と、主人公が[[ワリオ]]でウイルスの顔も違う「ミニゲーム」の『ドクターワリオ』(Dr. WARIO)が収録されている。オリジナルに比べてビンの中が狭く、BGMは「CHILL」のみ。 ;[[マリオ&ルイージRPG]](2003年、ゲームボーイアドバンス) :敵キャラとして原作のウイルスが登場。攻撃すると色が変化し、色を揃えると消滅する。普通にダメージを与えて倒すことも出来る。 ;[[マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー]](2013年、ニンテンドー3DS) :敵キャラとしてウイルスが登場。縦か横一列に同じ色のウイルスを揃えると消滅する。普通にダメージを与えて倒すことも出来る。 ;[[リアル脱出ゲーム]]×ニンテンドー3DS 超破壊計画からの脱出(2015年、ニンテンドー3DS) :ミニゲーム「ウイルスアタッカー」として登場。ゲーム内ではウイルスではなくドクロが登場し、ドクロを消すごとに隠れていたキーワードが現れる。 ;[[スーパーマリオ オデッセイ]](2017年、Nintendo Switch) :「ドクター服」「ドクター帽」が衣装として登場。 === 脳トレシリーズ === 原作のルールを踏襲した「細菌撲滅」というサブゲームが登場。 ;[[もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング|東北大学未来科学技術共同研究センター川島隆太教授監修 もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング]](2005年、[[ニンテンドーDS]]) :タッチ操作でカプセルを移動させる。落下中のカプセルは全て移動可能。BGMは原作の曲の[[オルゴール]]アレンジ。 ;[[ちょっと脳を鍛える大人のDSiトレーニング|東北大学加齢医学研究所川島隆太教授監修 ちょっと脳を鍛える大人のDSiトレーニング]](2008年、ニンテンドーDSiウェア) :『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』と同じ。ウイルスが『ドクターマリオ』の絵に近くなり途中保存ができるようになった。 ;[[ものすごく脳を鍛える5分間の鬼トレーニング|東北大学加齢医学研究所 川島隆太教授監修 ものすごく脳を鍛える5分間の鬼トレーニング]](2012年、ニンテンドー3DS) :ウイルスのデザインやシステムは『ちょっと脳を鍛える大人のDSiトレーニング』と同様。 ;[[脳を鍛える大人のNintendo Switchトレーニング|東北大学加齢医学研究所 川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のNintendo Switchトレーニング]](2019年、Nintendo Switch) :ウイルスのデザインが変更されている。 === 大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ === プレイヤーキャラクターとしてドクターマリオが登場する他、BGMのアレンジ曲が使用されている。 ;[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]](2001年、ニンテンドーゲームキューブ) :隠しキャラクターとして登場。 :基本的な動きやワザはマリオと同一だが、通常必殺技が「ファイアボール」ではなく「カプセル」になっている。 :フィギュア名鑑によると運動不足で通常のマリオより足が遅くなっているという。 ;[[大乱闘スマッシュブラザーズX]](2008年、Wii) :プレイヤーキャラクターとしては登場しない。 :ドクターマリオ関連のBGMに「CHILL」のアレンジ曲が追加されている。また、収集要素の「シール」では『NINTENDOパズルコレクション』版の「ウイルス・青」「ウイルス・赤」「ウイルス・黄」「カプセル」が登場する。 ;[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U]](2014年、ニンテンドー3DS、Wii U) :隠しキャラクターとして登場。 :基本的には以前と同様だが、ワザの威力や機動力等が変更されている。「最後の切りふだ」は、両手から巨大なカプセルの波動を打ち出す「ドクターファイナル」。 :前作では登場しなかったが、ディレクターの[[桜井政博]]は復活を望むファンが声が多かったことを明かしている<ref>Nintendo DREAM 2015年2月号「スマブラ談!!for Nindori 桜井政博さんインタビュー」より。</ref>。 ;[[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL]](2018年、Nintendo Switch) :基本的には以前と同様だが、一部ワザの種類が変更されている。 :また、キャラクター強化要素の「スピリッツ」としてウイルスのイラストも登場し、入手時に行われる戦闘では、赤色・青色・黄色の[[カービィ]]がウイルスに扮している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[横井軍平]] - 初期のプロデューサー * [[テトリスフラッシュ]] - テトリスの名が使われているが、性質的にはドクターマリオに近い。 * [[アリカ]] - Wiiウェア版・ニンテンドーDSiウェア版の開発元。 == 外部リンク == * [https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/vua/ ドクターマリオ] - [[ゲームボーイ]]版 * [https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/bdmj/ ドクターマリオ] - [[スーパーファミコン]] [[ニンテンドウパワー]]書き換え版 * [https://www.nintendo.co.jp/ngc/gpzj/ NINTENDOパズルコレクション] * [https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk2/dr_mario/ ドクターマリオ] - [[ファミコンミニ]] * [https://www.nintendo.co.jp/n08/bzpj/ Dr. MARIO & パネルでポン] * [https://www.nintendo.co.jp/wii/wiiware/wdmj/ Dr. MARIO & 細菌撲滅] * [https://www.nintendo.co.jp/ds/dsiware/kd9j/ ちょっとDr. MARIO] * [https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000003946 ドクターマリオ] - [[Wii U]][[バーチャルコンソール]](ファミリーコンピュータ版) * [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000007063 ドクターマリオ] - [[ニンテンドー3DS]]バーチャルコンソール(ゲームボーイ版) * [https://www.nintendo.co.jp/wiiu/waqj/ Dr. LUIGI & 細菌撲滅] * [https://www.nintendo.co.jp/3ds/dl/ax8a/ Dr. MARIO ギャクテン!特効薬 & 細菌撲滅] * [https://drmario-world.com/ ドクターマリオ ワールド] * {{MobyGames|id=/6116/dr-mario/|name=Dr. Mario}} {{マリオシリーズのパズルゲーム}} {{ドクターマリオ}} {{大乱闘スマッシュブラザーズシリーズの登場キャラクター}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とくたあまりお}} [[Category:マリオシリーズのパズルゲーム]] [[Category:1990年のコンピュータゲーム]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online収録ソフト]] [[Category:ウイルスを題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:落ち物パズル]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] 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春日部駅
春日部駅(かすかべえき)は、埼玉県春日部市粕壁一丁目にある、東武鉄道の駅である。 伊勢崎線(「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれる)と野田線(愛称「東武アーバンパークライン」)が交差し、接続駅となっている。 駅番号は両線個別に与えられており、東武スカイツリーラインはTS 27、東武アーバンパークラインはTD 10となっている。 単式ホーム・島式ホーム3面5線を有する地上駅で、東口・西口それぞれに駅舎と改札口がある。駅舎と各ホームは南・北2本の跨線橋で連絡しているが、東西の自由通路のような機能はない。 構内には貨物営業を行っていた時の名残で側線があり、回送列車の待避等に使用されている。この側線には2番線と5番線という運転番線が割り振られている。尚、6番線は現在は欠番となっている(後述)。 全ホームでアニメ『クレヨンしんちゃん』の代表曲である「オラはにんきもの」が鳴動する。 東武鉄道では春日部駅利用者の利便性向上のため、各ホームへのエレベーターの新設、東側跨線橋の西口改札連絡通路の新設などの改良を行ってきた。しかし、乗降人員だけで約7万人の利用があり、さらに伊勢崎線と野田線の乗り換え客が約6万人ほど加わるので、1日の駅の利用者は約13万人にも上り、構内は手狭である。 また、春日部市は中心市街地が伊勢崎線・野田線により東西に分断された状況を解消するため、長年に渡り春日部駅の高架化を要望してきた。歩行者や自転車は駅舎に自由通路がないため、駅から約200m南にある富士見町地下道を通って行き来し、車は約400m南の内谷陸橋か、約200m北の伊勢崎線第124号踏切(埼玉県道2号さいたま春日部線)を使用せざるを得ない。地下横断歩道はバリアフリー仕様ではないため、駅付近で車椅子、ベビーカーが通行可能なのは、第124号踏切1カ所のみである。当該踏切は地元では「大踏切」と呼ばれ、埼玉県内でも有数の開かずの踏切として有名である。ピーク1時間あたりの踏切遮断時間は約57分で、県内最長である。そのため、高齢者や身体障害者などに配慮して、春日部市により、入場券や定期入場券購入費用の補助制度も設けている。西口駅前・東口駅前広場には早期高架化を求める看板が立っている。 2005年度に県事業の国庫補助事業である連続立体交差事業の着工準備採択を受けた。当初計画では内谷陸橋の東側まで高架化される予定だったが、事業期間と事業費の圧縮を図り工事期間中の影響を最小限に抑えるため、2009年度に事業計画を見直して内谷陸橋より西側を高架区間とした。また、当初計画では伊勢崎線上りホームを発着する線路が1線から2線に増加し、伊勢崎線が2面4線、野田線が1面2線の計3面6線となる予定であったが、2016年11月に東武鉄道から輸送改善計画が示され、野田線のホームを2面4線とした計4面8線となる予定に改められた。2018年度に説明会及び公聴会が春日部市で開催され、第237回埼玉県都市計画審議会を経て2019年3月8日に都市計画決定。そして2019年12月に都市計画事業認可の告示がなされた。 順序としてはまず東口改札付近に仮のホームと線路を作り、伊勢崎線上り線を移設。その後同下り線と野田線を順次東口側に移動させ、西口側から既存線路の撤去・高架建設を行う。 これにより東口側では伊勢崎線上りの仮線を通すスペース確保のため、駅舎とその周辺の建物は撤去されることとなり、まず2020年11月に春日部駅東口交番の移転工事が着工。駅舎隣接のテナントビル2棟も2021年と2022年に解体撤去された。 2023年2月4日より、東口は仮駅舎に移転した。伊勢崎線上り線の仮線の設置に支障となるため、2021年度から移設工事が進められてきた富士見町地下道の東口側出入口も工事が完了し、2023年9月11日午前10時から供用開始となる。 2022年度の1日平均乗降人員は61,279人である。この値は、伊勢崎線・野田線間の乗換人員を含まない。 近年の一日平均乗降人員および乗車人員の推移は下表のとおりである。 近年の路線別乗降人員の推移は下表のとおりである。 開業当初から駅の出入口が設置された。近年再開発により駅前広場が設けられた。日光街道宿場町の面影を残す古い民家がある。 駅西口一帯の区画整理事業の進展に合わせて、1971年12月1日に開設された。 朝日自動車により運行される一般路線バスのほか、春日部市コミュニティバス「春バス」、東武バスセントラル・東武バスウエストにより運行される深夜急行バスが発着する。 この他に平成エンタープライズ(加須営業所)が運行する、春日部駅東口 - ヤマダ電機前 - イオンモール春日部 - 龍Q館(一部) - 南桜井駅北口の路線があったが、2020年12月31日に廃止された。1 - 3番乗り場があるロータリーより先、auショップ前にバス停があった。 以下のバスは降車のみ扱う。 以下の深夜急行バスは廃止された。 上記に関連して、春日部駅限定で『クレヨンしんちゃん』とタイアップした交通広告の掲示を行う企業が相次いでいる。 ※当駅から特急「アーバンパークライナー」に乗車する場合、乗車券のみで利用できる。
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春日部駅(かすかべえき)は、埼玉県春日部市粕壁一丁目にある、東武鉄道の駅である。 伊勢崎線(「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれる)と野田線(愛称「東武アーバンパークライン」)が交差し、接続駅となっている。 駅番号は両線個別に与えられており、東武スカイツリーラインはTS 27、東武アーバンパークラインはTD 10となっている。
{{pp-vd|small=y}} {{駅情報 |社色 = #0f6cc3 |文字色 = |駅名 = 春日部駅 |画像 = Kasukabe-STA East.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 東口旧駅舎(2022年5月) |地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = かすかべ |ローマ字 = Kasukabe |電報略号 = カス |所属事業者 = [[東武鉄道]] |所在地 = [[埼玉県]][[春日部市]][[粕壁]]一丁目10-1 |座標 = {{coord|35|58|47.98|N|139|45|8.59|E|region:JP-11_scale:10000|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[8月27日]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 3面5線 |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="東武" name="tobu2022" />61,279 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン) |前の駅1 = TS 26 [[一ノ割駅|一ノ割]] |駅間A1 = 2.3 |駅間B1 = 1.5 |次の駅1 = [[北春日部駅|北春日部]] TS 28 |駅番号1 = {{駅番号r|TS|27|#0f6cc3|1}} |キロ程1 = 35.3 |起点駅1 = [[浅草駅|浅草]] |所属路線2 = {{color|#33cccc|■}}[[東武野田線|野田線]](東武アーバンパークライン) |前の駅2 = TD 09 [[八木崎駅|八木崎]] |駅間A2 = 1.1 |駅間B2 = 2.6 |次の駅2 = [[藤の牛島駅|藤の牛島]] TD 11 |駅番号2 = {{駅番号r|TD|10|#33cccc|1}} |キロ程2 = 15.2 |起点駅2 = [[大宮駅 (埼玉県)#東武鉄道|大宮]] |備考 = [[1949年]]に粕壁駅から改称 }} [[File:Kasukabe Station West Entrance 1.JPG|thumb|西口駅舎(2012年7月)]] '''春日部駅'''(かすかべえき)は、[[埼玉県]][[春日部市]][[粕壁]]一丁目にある、[[東武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれる)と[[東武野田線|野田線]](愛称「東武アーバンパークライン」)が交差し、接続駅となっている。 [[駅ナンバリング|駅番号]]は両線個別に与えられており、東武スカイツリーラインは'''TS 27'''、東武アーバンパークラインは'''TD 10'''となっている{{Efn|旅客案内によっては、両路線とも2つのナンバリングが並べて表示されることもある。}}。 == 歴史 == * [[1899年]]([[明治]]32年)[[8月27日]] - 東武鉄道(現在の[[東武伊勢崎線]])の開業と同時に'''粕壁駅'''として開業<ref>{{NDLDC|2948141/5|「運輸開業免許状下付」『官報』1899年8月31日|format=EXTERNAL}}</ref>。 * [[1929年]]([[昭和]]4年) ** [[11月17日]] - 北総鉄道{{Efn|name="名称"|現在ある[[北総鉄道]]や初代[[総武本線|総武鉄道]]とは無関係。}}(現在の[[東武野田線]])の[[粕壁駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)#東武鉄道|大宮]](仮駅)間が開通<ref>{{NDLDC|2957338/8|「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年11月22日|format=EXTERNAL}}</ref>。 ** [[11月22日]] - 北総鉄道が総武鉄道(2代){{Efn|name="名称"}}に改称。 * [[1930年]](昭和5年)[[10月1日]] - 総武鉄道の粕壁駅 - [[清水公園駅]]間が開通<ref>{{NDLDC|2957599/5|「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年10月6日|format=EXTERNAL}}</ref>。 * [[1944年]](昭和19年)[[3月1日]] - [[ 陸上交通事業調整法]]に基づき、東武鉄道が総武鉄道を吸収合併。総武鉄道線は東武鉄道野田線として改称。 * [[1949年]](昭和24年)[[9月1日]] - '''春日部駅'''に改称(1944年4月の町村合併により[[粕壁町]]から春日部町へ改称したことに対応するもの)。 * [[1966年]](昭和41年)9月1日 - 伊勢崎線と[[帝都高速度交通営団]](営団、現在の[[東京地下鉄]])日比谷線直通列車の乗り入れ開始。 * [[1971年]](昭和46年)12月1日 - 西口を開設。 * [[1976年]](昭和51年) - 駅東方に富士見町地下道設置<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.saitama-np.co.jp/articles/44540/postDetail|title=東武線・春日部駅、高架化で地下道“新東口”誕生 周辺混雑、貴重な存在 仮線路など今後、高架化どうなる|work=埼玉新聞|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-09}}</ref>。 * [[1999年]]([[平成]]11年)[[3月16日]] - 特急スペーシアの一部列車が停車開始<ref group="広報">{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/19991011042546/http://www.tobu.co.jp/news/1999/03/990309.html |title=特急スペーシアが春日部駅に停車します}} - 東武鉄道、1999年3月9日</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]] - 特急スペーシアの全列車が停車開始<ref group="広報">{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20010629163815/http://www.tobu.co.jp/news/2000/12/001212-1.html |title=伊勢崎線の複々線(越谷~北越谷間)が完成}} - 東武鉄道、2000年12月12日</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[3月19日]] - 伊勢崎線と営団半蔵門線直通列車の乗り入れを開始。 * [[2004年]](平成16年) ** [[6月16日]] - 浅草駅寄りの跨線橋を西口まで延伸<ref group="広報" name="tobu20040603">{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140518121632/http://www.tobu.co.jp/news/2004/040603-1.html |title=バリアフリー施設工事の進捗に伴い 春日部駅にエレベーター4基を設置します あわせて浅草駅寄りの跨線橋を西口まで延伸いたします}} - 東武鉄道、2004年6月3日</ref>。 ** [[10月19日]] - 野田線の春日部駅 - [[東岩槻駅]]間の複線化が完成<ref group="広報" name="tobu20040603" />。東武動物公園駅寄りの跨線橋にエレベーターを4基設置<ref group="広報" name="tobu20040603" />。 * [[2009年]](平成21年)[[3月10日]] - 野田線ホームに[[発車メロディ]]を導入。 * [[2011年]](平成23年) ** [[1月17日]] - 1か月限定で、春日部駅構内通り抜け実証実験が行われる<ref group="広報">{{url|http://www.city.kasukabe.lg.jp/soudan/shisei/kouchou/goiken/teigen/toshikiban/kyoujou.html |春日部市/春日部駅を橋上化したらどうですか}}{{リンク切れ|date=2017年5月}}</ref>。 ** [[1月21日]] - 伊勢崎線ホームに発車メロディを導入。 ** [[2月16日]] - 構内通り抜け実証実験が終了。 * [[2012年]](平成24年)[[3月17日]] - [[駅ナンバリング]]が導入される<ref group="広報" name="駅番号">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf |format=PDF|language=ja|title=「東武スカイツリーライン」誕生!| date=2012-02-09 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2012-03-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120324115213/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf |archivedate=2012-03-24 }}</ref>。当駅には東武スカイツリーラインの'''TS 27'''と、野田線の'''TD 10'''という2つの番号が付与された<ref group="広報" name="駅番号" />。なお、東武線における二重付番は当駅のみである。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]] - ダイヤ改正に伴い、日中の区間準急が廃止。日中に[[浅草駅]]に向かう列車は、特急の他は2時間に1本の運用となった区間快速のみで、それ以外は[[東京メトロ日比谷線]]と[[東京メトロ半蔵門線]]・[[東急田園都市線]]直通列車が大半を占める運用となった<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=3月16日(土)東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線 ダイヤ改正 東京メトロ日比谷線との相互直通運転区間を南栗橋まで延伸するなど運行体系が変わります! |publisher=東武鉄道|date=2013-02-14|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102 |format=PDF|language=ja|accessdate=2023-06-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130228031121/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102 |archivedate=2013-02-28}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[1月28日]] - 発車標を更新。接近チャイムを導入。 * [[2016年]](平成28年)[[11月3日]] - 『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』のアニメ放映25周年を記念して、当駅でクレヨンしんちゃんのラッピング電車の出発式が行われる。 * [[2017年]](平成29年) ** [[4月21日]] - ダイヤ改正に伴い、リバティきぬ・けごん・会津・りょうもうと「スカイツリーライナー」、「アーバンパークライナー」の停車駅になる<ref name="asahi2017421">{{Cite news |和書|title= アーバンパークラインに近距離特急 東武、きょうから新ダイヤ |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2017-04-21 |publisher=朝日新聞社 | edition=朝刊 埼玉版 }}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=2017年4月21日(金)ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・東武アーバンパークライン 【特急列車概要】|publisher=東武鉄道|date=2017-01-18|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b71449315c885fe96933bd12d8f48b8a/170118_1.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2017-01-20}}</ref>。一方で快速と区間快速は廃止された<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=2017年4月21日(金) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など 【特急列車以外の一般列車】|publisher=東武鉄道|date=2017-02-28|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2023-06-17}}</ref>。 ** [[12月15日]] - 当面の間、西口の駅名看板をクレヨンしんちゃんオリジナルデザインに変更<ref>{{Cite web|和書|date=2017-12-16 |url=http://railf.jp/news/2017/12/16/201000.html |title=春日部駅西口の駅名標が「クレヨンしんちゃん」仕様に |website=鉄道ファン railf.jp |publisher=交友社 |accessdate=2017-12-16 |archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="広報" name="tobu180117">{{cite press release|和書|title=春日部駅「クレヨンしんちゃん」デザイン駅名看板の掲出期間を延長します! |publisher=東武鉄道/春日部市 |date=2018-01-17 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/23c471c33ab1a31c373bbba648a89540/newsletter_180117.pdf |format=PDF|language=ja|accessdate=2018-02-20 }}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)10月1日 - 発車メロディを『クレヨンしんちゃん』3代目オープニングテーマ「[[オラはにんきもの]]」に変更<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=東武鉄道と春日部市が連携し、「しんちゃんの住む街」をPR! 10月1日(月)より、春日部駅の発車メロディを アニメ『クレヨンしんちゃん』の代表曲に変更します! 〜あわせて駅名看板やホーム上の装飾も実施します〜|publisher=東武鉄道|date=2018-09-11|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/de9bfeef3e188b7019353e89b174ddce_newsletter_180911.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2020-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201229043847/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/de9bfeef3e188b7019353e89b174ddce_newsletter_180911.pdf|archivedate=2020-12-29}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=「オラはにんきもの」が発車メロディーになる 春日部駅 |newspaper=朝日新聞 |date=2018-09-20 |author=加藤真太郎 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9C5CTTL9CUTNB00V.html |accessdate=2018-09-25 |publisher=朝日新聞社 }}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=発車メロディーを「しんちゃん」に 東武・春日部駅 |newspaper=日本経済新聞 |date=2018-09-14 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35396620U8A910C1L72000/ |accessdate=2018-09-25 |publisher=日本経済新聞社 }}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月8日]] - 春日部駅付近連続立体交差事業が都市計画決定。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[3月30日]] - 高架化工事に着手<ref>{{Cite news|和書|title=春日部駅の高架化へ着工、渋滞解消を狙う ホームは4面8線に拡充 大規模整備構想の大宮駅と連携を|newspaper=埼玉新聞|date=2021-04-01||url=https://this.kiji.is/750180304507879424|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210401033412/https://this.kiji.is/750180304507879424accessdate=2021-04-01|archivedate=2021-04-01}}</ref>。 * 2023年(令和5年)2月4日 - 高架化工事に伴い、東口仮駅舎の供用を開始<ref group="広報" name="2023東口仮駅舎移転">{{Cite press release|和書|title=東武スカイツリーライン 春日部駅東口 高架化工事に伴う新駅舎使用開始のお知らせ|publisher=東武鉄道|date=2023-01-20|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20230120093023K3a5c6MpDFt1OVkg32q1aw.pdf|format=PDF|language=ja}}</ref>。 == 駅構造 == [[プラットホーム#形状と配置|単式ホーム・島式ホーム]]3面5線を有する[[地上駅]]で、東口・西口それぞれに駅舎と改札口がある。駅舎と各ホームは南・北2本の[[跨線橋]]で連絡しているが、東西の自由通路のような機能はない。 構内には貨物営業を行っていた時の名残で側線があり、[[回送]]列車の待避などに使用されている。この側線には2番線と5番線という運転番線が割り振られている。なお、6番線は現在は欠番となっている(後述)。 === のりば === <!-- 下表の行先表記は、2012年8月時点のコンコース内案内標識の記載に合わせております ---> {| class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- ! 1 |rowspan="3"|[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン(伊勢崎線) |style="text-align:center" | 上り |[[新越谷駅|新越谷]]・[[北千住駅|北千住]]・[[とうきょうスカイツリー駅|とうきょうスカイツリー]]・[[浅草駅|浅草]]・<br /><span style="font-size:small">[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]</span> [[中目黒駅|中目黒]]・<span style="font-size:small">[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]</span> [[渋谷駅|渋谷]]・<span style="font-size:small">[[File:Tokyu DT line symbol.svg|15px|DT]] [[東急田園都市線]]</span> [[中央林間駅|中央林間]]方面 |- ! 3 |style="text-align:center" rowspan=2 | 下り |[[東武動物公園駅|東武動物公園]]・<span style="font-size:small">[[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|15px|TI]] 伊勢崎線</span> [[館林駅|館林]]・<br /><span style="font-size:small">[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] [[東武日光線|日光線]]</span> [[南栗橋駅|南栗橋]]・[[東武日光駅|東武日光]]・<span style="font-size:small">[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] [[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]</span> [[鬼怒川温泉駅|鬼怒川温泉]]方面 <span style="font-size:small"> |- ! rowspan=2 | 4 |東武動物公園・<span style="font-size:small">[[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|15px|TI]] 伊勢崎線</span> 館林・<span style="font-size:small">[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 日光線</span> 南栗橋方面 |- |rowspan="3"|[[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|15px|TN]] 東武アーバンパークライン(野田線) |style="text-align:center" | 下り(上り) |[[柏駅|柏]]・([[大宮駅 (埼玉県)#東武鉄道|大宮]])方面<ref name="insidemap">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/1505/ |title=春日部駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-10-01}}</ref> |- ! 7 | style="text-align:center" | 下り |柏方面<ref name="insidemap" /> |- ! 8 | style="text-align:center" | 上り |大宮方面<ref name="insidemap" /> |} * 上記の路線名は旅客案内上の名称(「東武スカイツリーライン」、「東武アーバンパークライン」は愛称)で表記している。 <gallery> Kasukabe-STA East-Gate.jpg|東口改札<br>(2021年8月) Kasukabe-STA Home1.jpg|1番線ホーム<br>(2021年7月) Kasukabe-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム<br>(2021年7月) Kasukabe-STA Home7-8.jpg|7・8番線ホーム<br>(2021年7月) </gallery> ==== 東武スカイツリーライン(伊勢崎線) ==== * 当駅に停車する特急は「[[アーバンパークライナー]]」を除き、駅員が乗車時に特急券を確認するため、2号車・5号車のドアのみ開閉する([[ドアカット]])。 * 1番線のホームは「[[りょうもう]]」を除くすべての上り列車が発着するため、乗車位置表示が細かく区分されている。 * 2番線はホームがなく、上り回送列車の待避線としてのみ使用される。 * 4番線は主に下り列車の待避に使われるが、浅草・東武動物公園方面双方の渡り線を使用しての折り返しも可能。野田線の大宮・柏方面双方の線路と連結していることから、特急「[[アーバンパークライナー]]」も使用する。 * 5番線はホームがない留置線だが、線路の機能は4番線と同一。 * 臨時特急「[[スカイツリートレイン]]」は、太田発の2号は当駅を通過し、日光線方面発着の1・3・6・8号は停車していた。 * 朝通勤時に当駅始発の準急(現行の区間急行)列車が設定されていたが、2003年3月19日のダイヤ改正で廃止された。その後、2009年6月6日のダイヤ改正で当駅始発の区間急行が土休日の朝に再設定され、2013年3月16日のダイヤ改正で平日夜間に変更されたが、2017年4月21日のダイヤ改正で再び廃止された。なお、特急は朝4本(うち春日部6:07発のスカイツリーライナー4号の1本は土曜・休日ダイヤのみ運転)が始発、夜は4本(うち浅草18:49発の特急スカイツリーライナー1号春日部行きは土曜・休日ダイヤのみ運転)が終着になる。 * 日比谷線直通電車では、2020年6月6日に有料座席指定列車「[[THライナー]]」の運転を開始し、当駅も停車駅となった。なお当駅では朝の恵比寿行きが乗車のみ、夕方以降の久喜行きは降車のみ取り扱いとなり、東武スカイツリーライン・伊勢崎線内のみの乗車はできない。 * 高架化工事前の旧東口改札は1番線ホームに直結していた。上り方面にトイレ、下り方面に売店があり、かつてはカフェも併設されていた。駅舎に隣接して集約[[定期乗車券|定期券]]売り場、[[東武トップツアーズ]]、[[特別急行券|特急券]][[自動券売機]]が設置されていた。 ==== 東武アーバンパークライン(野田線) ==== [[File:らーめん (48028415311).jpg|thumb|right|野田線ホームの立ち食いラーメン店]] * 野田線は[[大宮駅 (埼玉県)#東武鉄道|大宮]]から当駅までが複線、当駅から[[運河駅]]までが単線である([[南桜井駅 (埼玉県)|南桜井駅]]付近・[[梅郷駅]]付近は駅構内を延長)。上下線は柏寄りで合流し、一度伊勢崎線から分かれて盛り土を上り、伊勢崎線をまたぐ。伊勢崎線と分かれる地点に3本の電留線と保守車両留置線がある。 * [[東岩槻駅]] - 当駅間の複線化工事の際に、ホームを大宮寄りに50[[メートル]]ほど延伸し、柏寄りの50メートルほどを廃止して、柏寄りの上下線間に2本の留置線が新設された。これを使い、急行運転時間帯に大宮 - 当駅間の区間列車が設定されているほか、下りの柏行(2016年3月26日のダイヤ改正以前は船橋行)初電も当駅始発となる。 * かつてはホームが現行より狭く、旧7番線の線路を撤去して電留線であった旧6番線の線路までホームを拡張したが、ホーム番号は今まで通り7・8番線とした。6番線が欠番となっているのはこのためである。 * 8番線のさらに西側に留置線が1線あったが廃止され、跡地は南側跨線橋の西口への接続のため転用された。 * ホームには「東武らーめん」と称する立ち食い[[ラーメン]]店と売店、トイレがある。 * 浅草発の特急「[[アーバンパークライナー]]1号」は4番線に発着する。 === 配線図 === {{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_Tobu_Kasukabe_Station.svg |title=[[東武鉄道]] 春日部駅 鉄道配線略図 |width=400px |up=[[岩槻駅|岩槻]]・[[大宮駅 (埼玉県)#東武鉄道|大宮]] 方面|up-align=right |left=[[新越谷駅|新越谷]]・[[北千住駅|北千住]]<br />・[[浅草駅|浅草]]・[[押上駅|押上]]・<br />[[中央林間駅|中央林間]] 方面 |left-valign=bottom |right=[[東武動物公園駅|東武動物公園]]<br />・[[東武日光駅|日光]]・[[鬼怒川温泉駅|鬼怒川]]・<br />[[久喜駅|久喜]] 方面 |right-valign=bottom |down=[[野田市駅|野田市]]・[[流山おおたかの森駅|流山<small>おおたかの</small>森]]<br /> ・[[柏駅|柏]]・[[船橋駅|船橋]] 方面 |down-align=left |source=* <ref>{{Cite magazine|和書 |title=【特集】東武鉄道 |magazine=[[鉄道ピクトリアル]] |volume=通巻第799号、 |issue=2008年1月臨時増刊号 |publisher=[[電気車研究会]] |page=巻末折込 |quote=東武鉄道線路配線略図}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/1505/ |title=春日部駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2022-07-22 }}</ref> |note=}}<!-- ==== 構内配線・信号設備など ==== {| class="wikitable" !運転番線!!営業番線!!ホーム!!浅草方面着発!!伊勢崎方面着発!!船橋方面着発!!大宮方面着発!!備考 |- | style="text-align:center" colspan="2" |1|| style="text-align:right" |10両分||rowspan="2"|出発可||rowspan="2"|到着可|| rowspan="3" |不可|| rowspan="3" |不可||伊勢崎線上り主本線 |- |style="text-align:center"|2||style="text-align:center"| - ||ホームなし||伊勢崎線上り副本線 |- | style="text-align:center" colspan="2" |3|| style="text-align:right" rowspan="2" |10両分||style="text-align:left"|到着可|| rowspan="3" |到着・出発可||伊勢崎線下り主本線 |- | style="text-align:center" colspan="2" |4|| rowspan="2" |到着・出発可|| rowspan="3" |到着・出発可|| rowspan="2" |到着・出発可||伊勢崎線下り副本線 |- |style="text-align:center"|5||style="text-align:center"| - ||style="text-align:right"|ホームなし|| |- | style="text-align:center" colspan="2" |7|| style="text-align:right" rowspan="2" |6両分||rowspan="2"|不可||rowspan="2"|不可||到着可||style="text-align:left"|野田線下り主本線 |- | style="text-align:center" colspan="2" |8||到着可||到着・出発可||野田線上り主本線 |} --> ==== 発車メロディ ==== 全ホームでアニメ『クレヨンしんちゃん』の代表曲である「オラはにんきもの」が鳴動する。 == 高架化事業 == [[ファイル:Kasukabe Station future plan PR board.jpg|thumb|right|200px|西口駅前にある早期立体化を求める看板]] 東武鉄道では春日部駅利用者の利便性向上のため、各ホームへの[[エレベーター]]の新設<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.i-katayama.com/05gijiroku/05-04/05-04-12/05-04-12-2/index.html |title=議事録・発言集 04年12月一般質問その2 |website=片山いく子WEB|accessdate=2023-06-17}}</ref>、浅草方跨線橋の西口改札連絡通路の新設などの改良を行ってきた。しかし、[[乗降人員]]だけで約7万人の利用があり、さらに伊勢崎線と野田線の乗り換え客が約6万人ほど加わるので、1日の駅の利用者は約13万人にも上り、構内は手狭である。 また、春日部市は中心市街地が伊勢崎線・野田線により分断された状況を解消するため、長年に渡り春日部駅の高架化を要望してきた。歩行者や自転車は駅舎に自由通路がないため、駅から約200メートル東方にある富士見町[[地下横断歩道|地下道]]を通って行き来し、車は約400[[メートル]]東方の内谷陸橋か、約200m西方の伊勢崎線第124号踏切([[埼玉県道2号さいたま春日部線]])を使用せざるを得ない。地下横断歩道はバリアフリー仕様ではないため、駅付近で車椅子、ベビーカーが通行可能なのは、第124号踏切の1か所のみである。当該踏切は地元では「大踏切」と呼ばれ、埼玉県内でも有数の[[開かずの踏切]]として有名である。ピーク1時間あたりの踏切遮断時間は約57分で、県内最長である<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/jigyoshamuke/toshikeikaku/kasukabeekifukinrenzokurittaikosajigyowosusumeteimasu/8871.html |title=橋上駅化では問題は解決できません |date=2021-12-11|publisher=春日部市 |accessdate=2023-07-23}}</ref>。そのため、[[高齢者]]や[[身体障害|身体障害者]]などに配慮して、春日部市により、入場券や定期入場券購入費用の補助制度も設けられている<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=春日部駅構内通行費用支援事業 |url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/soshikikarasagasu/tetsudokokaseibika/gyomuannai/3/6050.html |website=春日部市公式ホームページ |access-date=2023-07-23 |date=2023-04-01}}</ref>。西口駅前・東口駅前広場には早期高架化を求める看板が立っている<ref group="広報">{{url|https://www.city.kasukabe.lg.jp/jigyoshamuke/toshikeikaku/kasukabeekifukinrenzokurittaikosajigyowosusumeteimasu/2/8885.html |春日部駅前にPR看板を設置しました}}</ref>。 2005年度に県事業の国庫補助事業である連続立体交差事業の着工準備採択を受けた。当初計画では内谷陸橋の東側まで高架化される予定だったが、事業期間と事業費の圧縮を図り工事期間中の影響を最小限に抑えるため、2009年度に事業計画を見直して内谷陸橋より西側を高架区間とした。また、当初計画では伊勢崎線上りホームを発着する線路が1線から2線に増加し、伊勢崎線が2面4線、野田線が1面2線の計3面6線となる予定であったが、2016年11月に東武鉄道から輸送改善計画が示され、野田線のホームを2面4線とした計4面8線となる予定に改められた<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/soshikikarasagasu/tetsudokokaseibika/gyomuannai/2/2/5656.html |title=東武鉄道 株式会社から輸送改善計画が示されました |date=2021-11-11 |publisher=春日部市 |accessdate=2023-07-23}}</ref>。2018年度に説明会および公聴会が春日部市で開催され、第237回埼玉県都市計画審議会を経て2019年3月8日に都市計画決定。そして2019年12月に都市計画事業認可の告示がなされた<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/soshikikarasagasu/tetsudokokaseibika/gyomuannai/2/2/5655.html |title=春日部駅付近連続立体交差事業の概要 |access-date=2023-03-07 |publisher=春日部市 |date=2021-12-11}}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=東武鉄道伊勢崎線・野田線連続立体交差事業(春日部駅付近) 都市計画事業認可の告示のお知らせ|publisher=埼玉県|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/146574/jigyouninka.pdf|format=pdf|language=ja}}</ref>。 順序としては、まず東口改札付近に仮のホームと線路を作り、伊勢崎線上り線を移設。その後同下り線と野田線を順次東口側に移動させ、西口側から既存線路の撤去・高架建設を行う<ref name="読売新聞20230214">{{Cite news|和書|title=春日部駅東口 仮駅舎が完成 |newspaper=読売新聞 |date=2023-02-05 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/saitama/news/20230204-OYTNT50256/ |access-date=2023-02-14 }}</ref>。 これにより、東口側では伊勢崎線上りの仮線を通すスペース確保のため、駅舎とその周辺の建物は撤去されることとなり、まず2020年11月に春日部駅東口交番の移転工事が着工<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/jigyoshamuke/toshikeikaku/kasukabeekifukinrenzokurittaikosajigyowosusumeteimasu/1/8879.html |title=春日部駅付近連続立体交差事業 着工記念イベント |access-date=2023-03-07 |publisher=春日部市}}</ref>。駅舎隣接のテナントビル2棟も2021年と2022年に解体撤去された<ref>{{Cite web|和書|url=https://kasukabe.keizai.biz/headline/395/ |title=春日部駅高架化 仮線路用地確保などのため駅東口テナントビル撤去工事開始 |access-date=2023-03-07 |date=2021-01-29 |website=春日部経済新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kasukabe.keizai.biz/headline/572/ |title=春日部駅高架化 駅東口テナントビル解体撤去工事始まる |access-date=2023-03-07 |date=2022-06-02 |website=春日部経済新聞}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=高架化工事で駅周辺の飲食店が相次ぎ閉店…「一気に寂しくなってしまった」|newspaper=読売新聞 |date=2022-02-11 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220208-OYT1T50135/ |access-date=2023-03-07 }}</ref>。 2023年2月4日より、東口は仮駅舎に移転した<ref group="広報" name="2023東口仮駅舎移転" /><ref name="読売新聞20230214" />。伊勢崎線上り線の仮線の設置に支障となるため2021年度から移設工事が進められてきた富士見町地下道の東口側出入口も工事が完了し、2023年9月11日から供用が開始された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/material/files/group/2/20230830_fujimichodeiriguchi.pdf|title=富士見町地下道東口側(新)出入口が供用開始となります|work=春日部市|date=2023-08-30|accessdate=2023-09-09|format=PDF}}</ref>。また、東口改札内コンコースと1番線ホームを結ぶ連絡通路は、工事の進捗に伴い2023年9月23日<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=2023年9月23日(土)から春日部駅東口改札〜1番線ホーム間連絡通路の一部変更について|東武鉄道公式サイト |url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20230911103044gpUkCZYmdh2s7spj2SXvpQ.pdf |website=www.tobu.co.jp |access-date=2023-11-27 |language=ja |format=PDF}}</ref>と11月18日<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=2023年11月18日(土)〜春日部駅通路の一部変更について|東武鉄道公式サイト |url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/202311091652512ws9dIxbrxwCLWVaGB2q7Q.pdf |website=www.tobu.co.jp |access-date=2023-11-27 |language=ja |format=PDF}}</ref>に立て続けに変更された。2023年11月時点では、伊勢崎線上りの仮線および仮ホームの構築<ref>{{Cite web|和書|title=伊勢崎線仮上り線路の工事について |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/b1016/tetsudo/isesakisennkarinoborisennro.html |website=埼玉県 |access-date=2023-11-27 |language=ja |last=埼玉県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=伊勢崎線仮上りホームの工事について |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/b1016/tetsudo/isesakisennkarinoboriho-mu.html |website=埼玉県 |access-date=2023-11-27 |language=ja |last=埼玉県}}</ref>と、東口仮駅舎の2階と浅草方跨線橋を結ぶ連絡通路の整備<ref>{{Cite web|和書|title=南北連絡通路(春日部駅構内)の工事について |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/b1016/tetsudo/nanbokurennrakutuuro.html |website=埼玉県 |access-date=2023-11-27 |language=ja |last=埼玉県}}</ref>が行われている。 == 利用状況 == 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''61,279人'''である<ref group="東武" name="tobu2022" />。この値は、伊勢崎線・野田線間の乗換人員を含まない。 * 伊勢崎線内では北千住駅、新越谷駅、押上駅、[[草加駅]]、[[竹ノ塚駅]]に次ぐ第6位である。 * 野田線内では柏駅、大宮駅、船橋駅に次ぐ第4位である。 近年の一日平均乗降人員および[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]の推移は、下表のとおりである。 <!-- 埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります --> {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別一日平均乗降・乗車人員<ref group="統計">{{url|https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ |埼玉県統計年鑑}}</ref><ref group="統計">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/soshikikarasagasu/shiseijohoka/gyomuannai/4/4759.html |title=春日部市統計書 令和4年版 |date=2022-08-16 |publisher=春日部市 |accessdate=2023-07-23}}</ref> !年度 !一日平均<br />乗降人員 !一日平均<br />乗車人員 |- |1960年(昭和35年) | 16,443 || |- |1965年(昭和40年) | 27,054 || |- |1970年(昭和45年) | 33,249 || |- |1975年(昭和50年) | 43,633 || |- |1980年(昭和55年) | 54,246 || |- |1985年(昭和60年) | 64,660 || |- |1990年(平成{{0}}2年) | 79,558 || |- |1997年(平成{{0}}9年) | 78,250 || |- |1998年(平成10年) | 75,742 || |- |1999年(平成11年) | 74,259 || 37,197 |- |2000年(平成12年) | 72,988 || 36,407 |- |2001年(平成13年) | 70,997 || 35,743 |- |2002年(平成14年) | 69,485 || 34,937 |- |2003年(平成15年) | 68,685 || 34,524 |- |2004年(平成16年) | 68,015 || 34,152 |- |2005年(平成17年) | 68,184 || 34,232 |- |2006年(平成18年) | 68,701 || 34,488 |- |2007年(平成19年) | 71,502 || 35,963 |- |2008年(平成20年) | 72,567 || 36,465 |- |2009年(平成21年) | 71,300 || 35,743 |- |2010年(平成22年) | 71,063 || 35,615 |- |2011年(平成23年) | 70,636 || 35,305 |- |2012年(平成24年) | 72,445 || 36,190 |- |2013年(平成25年) | 73,666 || 36,814 |- |2014年(平成26年) | 72,401 || 36,166 |- |2015年(平成27年) | 73,634 || 36,756 |- |2016年(平成28年) | 72,879 || 36,336 |- |2017年(平成29年) | 72,856 || 36,317 |- |2018年(平成30年) |<ref group="東武" name="tobu2018">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190807020040/http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2019-08-07}}</ref>72,186 || |- |2019年(令和元年) |<ref group="東武" name="tobu2019">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201001043745/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2020-10-01}}</ref>71,071 || |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="東武" name="tobu2020">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210905115421/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2021-09-05}}</ref>53,824 || |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="東武" name="tobu2021">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220803235144/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2022-08-03}}</ref>57,647 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="東武" name="tobu2022">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701110809/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2023-07-01}}</ref>61,279 | |} 近年の路線別乗降人員の推移は、下表のとおりである。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別一日平均路線別乗降人員・乗換人員<ref group="統計">{{url|http://www.train-media.net/report/ |関東交通広告協議会レポート}}</ref> !年度 !伊勢崎線!!野田線!!乗換人員!!出典 |- |2004年(平成16年) | 50,458 || 17,557 || 58,807 |<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0511/tobu.pdf|format=PDF|title=東武鉄道 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2016-01-23|archiveurl= |archivedate= }}</ref> |- |2005年(平成17年) | 49,985 || 18,199 || 59,351 |<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0611/tobu.pdf|format=PDF|title=東武鉄道 平成17年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2016-01-23|archiveurl= |archivedate= }}</ref> |- |2006年(平成18年) | 50,230 || 18,470 || 59,531 |<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0711/tobu.pdf|format=PDF|title=東武鉄道 平成18年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2016-01-23|archiveurl= |archivedate= }}</ref> |- |2007年(平成19年) | 51,525 || 19,978 || 60,373 |<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0811/tobu.pdf|format=PDF|title=東武鉄道 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2016-01-23|archiveurl= |archivedate= }}</ref> |- |2008年(平成20年) | 51,773 || 20,794 || 61,516 |<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf|format=PDF|title=東武鉄道 平成20年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2016-01-23|archiveurl= |archivedate= }}</ref> |} == 駅周辺 == {{See also|粕壁|中央 (春日部市)|南 (春日部市)}} === 東口 === [[ファイル:Kasukabe Plat-Kasukabe Front 1.JPG|thumb|right|200px|春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」]] 開業当初から駅の出入口が設置された。近年再開発により駅前広場が設けられた。[[粕壁宿|日光街道宿場町]]の面影を残す古い民家がある。 {{Div col}} * [[埼玉りそな銀行]] 春日部支店 * [[三菱UFJ銀行]] 春日部支店・春日部駅前支店 * [[武蔵野銀行]] * [[埼玉縣信用金庫]] 春日部支店 * [[群馬銀行]] * 春日部仲町[[郵便局]] * [[匠大塚]]春日部本店([[2016年]](平成28年)2月に閉店した[[西武の店舗一覧#春日部店|西武春日部店]](←[[ロビンソン百貨店]]春日部店)跡地に<ref name="asahi2016421">{{Cite news|和書| title=西武春日部店の跡地、大型家具店「匠大塚」が出店へ |newspaper=朝日新聞 |date=2016-04-21 |author=春山陽一 |publisher=朝日新聞社 |edition = 朝刊 埼玉版 }}</ref>同年[[6月29日]]に開店<ref name="asahi2016630">{{Cite news|和書|title=「匠大塚」が開店、200人が列 |newspaper =朝日新聞 |date=2016-06-30 |publisher=朝日新聞社 |edition=朝刊 埼玉東部版 }}</ref>) * 春日部市民文化会館 * 春日部市立中央図書館 * 春日部情報発信館「ぷらっとかすかべ」 * 春日部市立春日部中学校 * [[埼玉県立春日部東高等学校]] * [[埼玉県立春日部女子高等学校]] * さいたま東部市場 * [[ヤマダデンキ]]家電住まいる館YAMADA春日部本店 {{Div col end}} === 西口 === [[ファイル:rara garden kasukabe.jpg|thumb|right|200px|ララガーデン春日部]] 駅西口一帯の[[土地区画整理事業]]の進展に合わせて、1971年12月1日に開設された。 {{Div col}} * 埼玉りそな銀行 春日部西口支店 * [[みずほ銀行]] * [[三井住友銀行]] * [[足利銀行]] * 埼玉縣信用金庫 春日部西口支店 * [[川口信用金庫]] * [[中央労働金庫]] * [[イトーヨーカドー春日部店]] * [[ララガーデン春日部]] ** [[ユナイテッド・シネマ]] * サンヨーG&Bアウトレット * [[松実高等学園]] * 春日部市役所 * [[春日部市立医療センター]] * [[春日部警察署]] * 春日部税務署 * 春日部[[公共職業安定所]](ハローワーク) * 埼玉県春日部地方庁舎 * 埼玉県東部地域ふれあい拠点施設 ふれあいキューブ ** 春日部コンベンションホール ** 埼玉県パスポートセンター春日部支所 ** 春日部市民活動センター ** 春日部市保健センター * [[春日部郵便局]] ** [[ゆうちょ銀行]] 春日部店 * 大沼総合運動公園 * かすかべ湯元温泉 * [[春日部共栄中学高等学校]] * 春日部住宅展示場 {{Div col end}} == バス路線 == [[朝日自動車]]により運行される一般路線バスのほか、春日部市コミュニティバス「[[春バス]]」、[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]・[[東武バス#東武バスウエスト|東武バスウエスト]]により運行される[[深夜バス#深夜の鉄道代替バス(急行・中距離)|深夜急行バス]]が発着する。 === 東口 === {| class="wikitable" style="font-size:85%;" !乗り場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!備考 |- ! rowspan="7" |1 ||KB55||[[イオンモール春日部]]前・辻橋・大凧公園入口・関宿中央ターミナル|| rowspan="2" |関宿はやま工業団地||rowspan="7"|[[朝日自動車]]([[朝日自動車境営業所|境営業所]])|| |- ||KB56||辻橋・大凧公園入口・関宿中央ターミナル|| |- ||KB57||イオンモール春日部前・辻橋||庄和総合支所|| |- ||KB54||イオンモール春日部前・辻橋・庄和総合支所・大凧公園入口|| rowspan="3" |関宿中央ターミナル|| |- ||KB52||イオンモール春日部前・辻橋・大凧公園入口|| |- ||KB53||辻橋・大凧公園入口|| |- ||KB51||一宮交差点||イオンモール春日部前|| |- ! rowspan="4" |2 ||KB61||[[埼玉県立春日部女子高等学校|女子高前]]・藤塚中央・消防署前||rowspan="2"|豊野工業団地||rowspan="4"|朝日自動車([[朝日自動車杉戸営業所|杉戸営業所]])|| |- ||KB64||国道4号線・藤塚中央・消防署前|| |- ||KB62||女子高前・藤塚中央||消防署前|| |- ||KB65||女子高前・緑町四丁目||【循環】<br/>春日部駅東口|||緑町循環 |- ! rowspan="4" |3 | rowspan="4" |粕壁・幸松地区ルート||[[北春日部駅]]入口||小渕北(循環)||rowspan="4"|[[春バス]](朝日自動車杉戸営業所)||rowspan="4"|日曜運休 |- |幸松サンハイツ||[[春日部小渕団地|小渕団地]] |- |幸松サンハイツ・小渕団地||イオンモール春日部 |- |市立医療センター・春日部駅西口||地方庁舎前 |- |} この他に[[平成エンタープライズ]](加須営業所)が運行する、春日部駅東口 - [[ヤマダ電機]]前 - イオンモール春日部 - [[首都圏外郭放水路|龍Q館]](一部) - 南桜井駅北口の路線があったが、2020年12月31日に廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://busde.com/business/aeon_kasukabe/|title=イオンモール春日部線|accessdate=2021-02-14|publisher=株式会社平成エンタープライズ}}</ref>。1 - 3番乗り場があるロータリーより先、auショップ前にバス停があった。 === 西口 === {| class="wikitable" style="font-size:85%;" !乗り場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行会社!!備考 |- !1 ||KB11||市役所前・大沼六丁目||秀和総合病院||rowspan="9"|朝日自動車(杉戸営業所)|| |- ! rowspan="4" |2 ||KB23||地方庁舎・かすかべ温泉|| rowspan="2" |[[春日部市総合体育館|ウイング・ハット春日部]]||土休日のみ1本 |- ||KB24||地方庁舎・秀和総合病院・かすかべ温泉 |平日3本、土休日2本 |- ||KB21||地方庁舎 | rowspan="2" |かすかべ温泉||早朝・夕 - 夜運転 |- ||KB22||地方庁舎・秀和総合病院||朝 - 夕運転 |- ! rowspan="4" |3 ||KB34||南栄町・内牧彩光苑||春日部エミナース|| |- ||KB35||南栄町||内牧彩光苑|| |- ||KB31||豊町六丁目・豊春第九公園前・増富||【循環】<br/>春日部駅西口|| |- ||KB32||豊町六丁目・豊春第九公園前||豊春第24公園|| |- ! rowspan="5" |4 | rowspan="2" |増戸・豊春駅ルート||春日部市役所・秀和総合病院・増戸|| rowspan="2" |[[豊春駅]]南(循環)||rowspan="5"|春バス(朝日自動車杉戸営業所)||rowspan="5"|日曜運休 |- |春日部市役所・ウイング・ハット春日部・秀和総合病院・増戸 |- |rowspan="3"|粕壁・幸松地区ルート||市立医療センター・春日部駅東口・北春日部駅入口||小渕北(循環) |- |市立医療センター・春日部駅東口・小渕団地||イオンモール春日部 |- |&nbsp;||地方庁舎前 |} 以下のバスは降車のみ扱う。 * ミッドナイトアロー春日部 (上野駅・新越谷駅発、東武バスセントラル、平日深夜運転) 以下の深夜急行バスは廃止された。 * ミッドナイトアロー久喜・東鷲宮 (2020年10月30日廃止。上野駅・北千住駅・新越谷駅発、東武バスセントラル、平日深夜運転) * ミッドナイトアロー岩槻・春日部 (2020年10月26日廃止。大宮駅発、東武バスウエスト、平日深夜運転) == 作品における描写 == [[ファイル:Kasukabe Kojima BLDG Crayon Shin-chan Signboard 1.JPG|thumb|220px|right|春日部駅前に設置されている『クレヨンしんちゃん』の看板。]] * [[らき☆すた]] - 漫画およびアニメで当駅と周辺が登場する。この他、[[鷲宮神社]]なども登場する。 * [[クレヨンしんちゃん]] - 漫画およびアニメで当駅と周辺が登場する。(テレビアニメ放送初期は「春我部駅」と表記) 上記に関連して、春日部駅限定で『クレヨンしんちゃん』とタイアップした[[交通広告]]の掲示を行う企業が相次いでいる。 * [[オイシックス・ラ・大地]](2019年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2143185/full/|title=『クレヨンしんちゃん』交通広告にSNSで感動の声続々 「かあちゃん、楽しい夏休みをありがとう。」|publisher=ORICON NEWS|date=2019-08-27|accessdate=2021-06-19}}</ref> * [[東京ガス]](2019年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-gas.co.jp/letter/2019/11/20191129.html|title=春日部駅に『クレヨンしんちゃん』とコラボしたポスターを掲出中|publisher=東京ガス|date=2019-11-29|accessdate=2021-06-19}}</ref> * [[サントリー食品インターナショナル]](2020年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1259883.html|title=サントリー、「クレヨンしんちゃん×クラフトボス“すべての父ちゃんたちへ”」動画公開。春日部駅に巨大広告を掲出|publisher=トラベルWatch|date=2020-06-18|accessdate=2021-06-19}}</ref> * [[あさひ (企業)|あさひ]](2021年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cyclesports.jp/news/others/45965/|title=サイクルベースあさひがクレヨンしんちゃんの交通広告を春日部駅に掲出|publisher=Cycle Sports|date=2021-05-18|accessdate=2021-06-19}}</ref> * [[ニベア花王]](2022年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://kasukabe.keizai.biz/headline/557/|title=春日部駅に「野原ひろし」の交通広告 ボディーウオッシュとのコラボで|publisher=春日部経済新聞|date=2022-04-15|accessdate=2022-04-19}}</ref> {{-}} == 隣の駅 == ; 東武鉄道 : [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン :* ■特急「[[けごん|スペーシアX]]」・{{Color|#ff9900|■}}特急[[けごん|「けごん」「きぬ」]]・{{Color|#006633|■}}特急[[けごん|「リバティけごん」「リバティきぬ」「リバティ会津」]]・{{Color|#0099cc|■}}特急[[アーバンパークライナー|「スカイツリーライナー」「アーバンパークライナー」]]停車駅(「スカイツリーライナー」は当駅発着) :* {{color|red|□}}[[THライナー]]停車駅(久喜行きは降車のみ、恵比寿行きは乗車のみの取扱い) :: {{color|#cc0066|■}}急行・{{color|#ff99cc|■}}区間急行 ::: [[せんげん台駅]] (TS 24) - '''春日部駅 (TS 27)''' - [[東武動物公園駅]] (TS 30) :: {{color|#009900|■}}準急・{{color|#66cc66|■}}区間準急・{{color|#999999|■}}普通 ::: [[一ノ割駅]] (TS 26) - '''春日部駅 (TS 27)''' - [[北春日部駅]] (TS 28) : [[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|15px|TD]] 東武アーバンパークライン :* {{Color|#0099cc|■}}特急「[[アーバンパークライナー]]」停車駅 :: {{color|#cc0066|■}}急行・{{Color|#ff99cc|■}}区間急行 ::: [[岩槻駅]] (TD 06) - '''春日部駅 (TD 10)''' - [[藤の牛島駅]] (TD 11) :: {{color|#999999|■}}普通 ::: [[八木崎駅]] (TD 09) - '''春日部駅 (TD 10)''' - 藤の牛島駅 (TD 11) ※当駅から特急「アーバンパークライナー」に乗車する場合、乗車券のみで利用できる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"|2}} ==== 統計資料 ==== {{Reflist|group="統計"|2}} ; 東武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="東武"|3}} == 関連項目 == * [[千住馬車鉄道]] * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Kasukabe Station}} * {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=1505}} * {{url|https://www.city.kasukabe.lg.jp/jigyoshamuke/toshikeikaku/kasukabeekifukinrenzokurittaikosajigyowosusumeteimasu/index.html |春日部駅付近連続立体交差事業を進めています 春日部市}} {{東武伊勢崎線|mode=1}} {{東武野田線}} {{DEFAULTSORT:かすかへ}} [[Category:春日部駅|*]] [[Category:埼玉県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|すかへ]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅]] [[Category:総武鉄道 (2代)の鉄道駅]] [[Category:春日部市の交通|かすかへえき]] [[Category:春日部市の建築物|かすかへえき]] [[Category:1899年開業の鉄道駅]]
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日本橋駅 (東京都)
日本橋駅(にほんばしえき)は、東京都中央区日本橋一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 東京メトロ銀座線と東西線、都営地下鉄浅草線の計3路線が乗り入れている。駅番号は、銀座線がG 11、東西線がT 10、浅草線がA 13である。 東京メトロでは「髙島屋前」という副駅名を持ち、高島屋日本橋店と直結している。駅の建設にあたっては建設費を日本橋高島屋が負担している。なお1932年の開業から1955年までは「白木屋・高島屋前」、そして白木屋から東急百貨店日本橋店に名称変更して1999年に閉店するまでの間は「東急百貨店・高島屋前」と案内されていた。 当駅と東西線・日比谷線茅場町駅との間は改札外の地下通路で接続している(通行可能時間:6時00分 - 23時00分)。ただし連絡駅とはされていないため、乗り継ぎ割引等は適用されない。 都営地下鉄が駅を設置した際は江戸橋駅(えどばしえき)と称し、銀座線日本橋駅とは別個だった。東西線日本橋駅開業後は地下通路が整備され、営団(当時)日本橋駅との連絡駅となったものの、駅名は変更されなかった。しかし、江戸川橋駅や江戸川駅と駅名が類似していることから、1989年3月19日に新宿線篠崎 - 本八幡間が開業した際「日本橋駅」に改称し、営団と駅名の統一が図られている。 都営地下鉄が駅名を変更したのは、1969年に志村駅を高島平駅に変更して以来で、都営地下鉄での駅名変更の事例はこの2件のみである。 銀座線は、中央通りと永代通りが交差する「日本橋交差点」の中央通り直下の地下2階に2面2線のホームを有する地下駅。開業当初は1つのホーム(島式1面2線)であったが、乗客の増加に対応して1984年に渋谷方面のホームを増設した。渋谷寄りのコンコース中央には臨時階段があり、臨時階段部を含めて改札内領域とすることが可能なように柵が設置されているが、通常は改札外領域のため、自動改札機は設置されていない。 東西線は、日本橋交差点の永代通り直下の地下3階に島式1面2線のホームを有する地下駅。ホームの茅場町寄りに江戸橋一丁目交差点方面改札口があり、都営浅草線への連絡通路へと通じている。また、ホーム中央、大手町寄りの階段の途中に駅事務室が設置されている。 東西線のコンコースには日本・ポルトガル友好450周年記念でリスボンメトロから贈呈された大理石製の壁画が設置されている。また、B1番出入口付近に髙島屋から寄贈された大型ステンドグラスのパブリックアート「日本橋南詰盛況乃圖」が設置されている。 駅務管区所在駅であり、日本橋駅務管区として日本橋地域、三越前地域、住吉地域を管理する。 (出典:東京メトロ:構内図) 2015年5月22日から、東西線ホームで従来のブザーに代わり発車メロディの使用を開始した。曲は民謡「お江戸日本橋」で、3番線では歌い終わりの部分、4番線では歌い出しの部分をアレンジしたものを使用している。編曲は向谷実が手掛けた(東西線の発車メロディについては、東京メトロ東西線#発車メロディも参照)。 2018年8月30日からは銀座線ホームでも「お江戸日本橋」をアレンジしたメロディの使用を開始した。メロディはスイッチの制作で、1番線では福嶋尚哉、2番線では塩塚博が編曲したものを使用している。 直営駅。浅草線ホームは、昭和通りと永代通りが交差する「江戸橋一丁目交差点」の南側地下2階に位置し、相対式ホーム2面2線を有する。 改札内に南北行ホームを結ぶ連絡通路が存在せず、「茅場町方面改札」からは1番線、「日本橋方面改札」からは2番線しか利用できない。このため、利用する方向により改札を使い分ける必要がある。 押上寄りに改札口を新設する計画がある。 (出典:都営地下鉄:駅構内図) 近年の1日平均乗降人員数は下表の通りである。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
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日本橋駅(にほんばしえき)は、東京都中央区日本橋一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 日本橋駅 |画像 = Tokyo-Metro Nihombashi-STA B6-Entrance.jpg |pxl = 300 |画像説明 = B6番出入口と東京日本橋タワー(2022年11月27日撮影) |よみがな = にほんばし |ローマ字 = Nihombashi |副駅名 = 髙島屋前{{要出典|date=2023年12月}}<ref group="*">東京メトロのみ。</ref> |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail-metro|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|40|57.1|N|139|46|25.3|E}}|marker-color=f39700|title=東京メトロ 日本橋駅 |coord2={{coord|35|40|53|N|139|46|32|E}}|marker-color2=e83e2f|title2=都営地下鉄 日本橋駅 |frame-latitude=35.682114|frame-longitude=139.774733 }} |電報略号 = ニホ(東京メトロ)<br />江→日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/contract/pdf/short_course_text.pdf|title=安全施工管理責任者講習会テキスト|accessdate=2021-05-14|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語}}</ref>(東京都交通局、駅名略称) |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)<br />[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所在地幅 = long |所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]一丁目3-11(東京メトロ)<br />{{coord|35|40|57.1|N|139|46|25.3|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=東京メトロ 日本橋駅}}<hr/>東京都中央区日本橋一丁目13-1(東京都交通局)<br />{{coord|35|40|53|N|139|46|32|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 日本橋駅}} |座標 = |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線(銀座線・浅草線)<br />1面2線(東西線) |開業年月日 = [[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月24日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = {{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />146,916人/日<hr />{{Small|(東京都交通局)-2022年-}}<br /><ref group="都交" name="toei2022" />78,113 |統計年度 = |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#f39700|●}}[[東京メトロ銀座線]] |前の駅1 = G 10 [[京橋駅 (東京都)|京橋]] |駅間A1 = 0.7 |駅間B1 = 0.6 |次の駅1 = [[三越前駅|三越前]] G 12 |駅番号1 = {{駅番号r|G|11|#ff9500|4}} |キロ程1 = 5.7 |起点駅1 = [[浅草駅|浅草]] |所属路線2 = {{color|#00a7db|●}}[[東京メトロ東西線]] |前の駅2 = T 09 [[大手町駅 (東京都)|大手町]] |駅間A2 = 0.8 |駅間B2 = 0.5 |次の駅2 = [[茅場町駅|茅場町]] T 11 |駅番号2 = {{駅番号r|T|10|#00a7db|4}} |キロ程2 = 11.5 |起点駅2 = [[中野駅 (東京都)|中野]] |所属路線3 = {{color|#ec6e65|●}}[[都営地下鉄浅草線]] |前の駅3 = A 12 [[宝町駅|宝町]] |駅間A3 = 0.8 |駅間B3 = 0.8 |次の駅3 = [[人形町駅|人形町]] A 14 |駅番号3 = {{駅番号r|A|13|#ec6e65|4}} |キロ程3 = 13.0 |起点駅3 = [[西馬込駅|西馬込]] |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]](東京メトロ)<ref name="RP926" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} '''日本橋駅'''(にほんばしえき)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 東京メトロ[[東京メトロ銀座線|銀座線]]と[[東京メトロ東西線|東西線]]、都営地下鉄[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]の計3路線が乗り入れている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は、銀座線が'''G 11'''、東西線が'''T 10'''、浅草線が'''A 13'''である。 東京メトロでは「'''[[髙島屋]]前'''」という副駅名を持ち{{要出典|date=2023年12月}}、高島屋日本橋店と直結している。駅の建設にあたっては建設費を日本橋高島屋が負担している<ref>{{Cite web|和書|title=重要文化財 日本橋高島屋 {{!}} 東京とりっぷ|url=https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0333/|website=tokyo-trip.org|date=2017-01-12|accessdate=2020-08-15|language=ja}}</ref>。なお1932年の開業から1955年までは「[[白木屋 (デパート)|白木屋]]・高島屋前」、そして白木屋から[[東急百貨店]]日本橋店に名称変更して1999年に閉店するまでの間は「東急百貨店・高島屋前」と案内されていた{{要出典|date=2023年12月}}。 当駅と東西線・[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[茅場町駅]]との間は改札外の地下通路で接続している(通行可能時間:6時00分 - 23時00分)。ただし連絡駅とはされていないため、乗り継ぎ割引等は適用されない。 == 歴史 == 都営地下鉄が駅を設置した際は'''江戸橋駅'''(えどばしえき)と称し、銀座線日本橋駅とは別個だった。東西線日本橋駅開業後は地下通路が整備され、営団(当時)日本橋駅との連絡駅となったものの、駅名は変更されなかった。しかし、[[江戸川橋駅]]や[[江戸川駅]]と駅名が類似していることから、1989年3月19日に[[都営地下鉄新宿線|新宿線]][[篠崎駅|篠崎]] - [[本八幡駅|本八幡]]間が開業した際「'''日本橋駅'''」に改称し、営団と駅名の統一が図られている。 都営地下鉄が駅名を変更したのは、1969年に志村駅を[[高島平駅]]に変更して以来で、都営地下鉄での駅名変更の事例はこの2件のみである<ref name="aramashi2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109043025/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|title=都営交通のあらまし2020|format=PDF|page=35|date=2020-09|publisher=東京都交通局|archivedate=2020-11-09|accessdate=2023-02-03}}</ref>。 * [[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月24日]]:[[東京地下鉄道]]の駅が開業。高島屋と白木屋が建設費用の一部を負担した。 * [[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]:[[陸上交通事業調整法]]により東京地下鉄道が路線を[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に譲渡。 * [[1945年]](昭和20年)[[1月27日]]:[[連合国軍]]機の空襲を受けて水道管が破損し浸水したため当駅 - 新橋駅間が運休となる。 * [[1963年]](昭和38年)[[2月28日]]:都営地下鉄1号線の'''江戸橋駅'''開業<ref name="aramashi2020"/>。同時に営団地下鉄との[[連絡運輸]]を開始。 * [[1967年]](昭和42年)[[9月14日]]:営団地下鉄東西線開業。営団日本橋駅と都営江戸橋駅が[[乗換駅]]となる。 * [[1971年]](昭和46年)[[7月1日]]:営団では初となる駅冷房を開始([[銀座駅]]と同時)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/e808d23279f9bc5270f84c4ddc2360d8.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128183922/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/e808d23279f9bc5270f84c4ddc2360d8.pdf|title=東京メトロニュースレター第69号 >「東京メトロにおける冷房化の歴史」編|page=1|date=2017-08-23|archivedate=2021-01-28|accessdate=2021-01-28|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref name="handbook">東京メトロハンドブック2008</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)7月1日:都営地下鉄1号線が浅草線に改称<ref name="aramashi2020"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[4月1日]]:営団の駅構内に案内所を開設<ref name="handbook"/>。 * [[1984年]](昭和59年)[[4月27日]]:銀座線渋谷方面乗り場を新ホームに移動<ref name="RP435_91">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1984-08-01|title=TOPIC PHOTOS|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=34|issue=第8号(通巻第435号)|page=91|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月19日]]:都営地下鉄浅草線の江戸橋駅を'''日本橋駅'''と改称<ref name="aramashi2020"/><ref name="yomiuri19890304">{{Cite news|title=東京都営地下鉄浅草線の江戸橋駅を3月19日から「日本橋駅」に|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=1989-03-04|page=26 東京朝刊}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:営団地下鉄の民営化に伴い、銀座線・東西線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08|deadlinkdate=2022-12-21}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[5月22日]]:東西線ホームに[[発車メロディ]]を導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[8月30日]]:銀座線ホームに発車メロディを導入<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/pressrelease/352|title=東京メトロ銀座線発車サイン音を制作|date=2018-08-27|accessdate=2021-03-31|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|publisher=スイッチ}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[12月29日]]:都営地下鉄の定期券売り場が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2021/sub_i_2021110110156_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211101120311/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2021/sub_i_2021110110156_h.html|title=定期券発売所の営業終了について|date=2021-11-01|archivedate=2021-11-01|accessdate=2021-11-01|publisher=東京都交通局|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[1月21日]]:東京メトロの定期券売り場が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/info/files/31c5fe19eda5d07eae0ebccf7d1492d8.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211018032900/https://www.tokyometro.jp/info/files/31c5fe19eda5d07eae0ebccf7d1492d8.pdf|title=東京メトロ 定期券うりば 営業体制の一部変更について|archivedate=2021-10-18|accessdate=2021-10-18|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 == 駅構造 == === 東京地下鉄 === 銀座線は、[[中央通り (東京都)|中央通り]]と[[永代通り]]が交差する「日本橋交差点」の中央通り直下の地下2階に2面2線のホームを有する[[地下駅]]。開業当初は1つのホーム([[島式ホーム|島式]]1面2線)であったが、乗客の増加に対応して1984年に渋谷方面のホームを増設した。渋谷寄りのコンコース中央には臨時[[階段]]があり、臨時階段部を含めて改札内領域とすることが可能なように柵が設置されているが、通常は改札外領域のため、[[自動改札機]]は設置されていない。 東西線は、日本橋交差点の永代通り直下の地下3階に島式1面2線のホームを有する地下駅。ホームの[[茅場町駅|茅場町]]寄りに江戸橋一丁目交差点方面[[改札|改札口]]があり、都営浅草線への連絡通路へと通じている。また、ホーム中央、[[大手町駅 (東京都)|大手町]]寄りの階段の途中に駅事務室が設置されている。 東西線のコンコースには日本・ポルトガル友好450周年記念で[[リスボンメトロ]]から贈呈された大理石製の壁画が設置されている<ref>{{Cite news|title=営団日本橋駅 大理石壁画の除幕式 リスボン市地下鉄 日ボ友好450年で贈呈|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=[[交通新聞社]]|page=2|date=1993-10-21}}</ref>。また、B1番出入口付近に[[髙島屋]]から寄贈された大型[[ステンドグラス]]の[[パブリックアート]]「日本橋南詰盛況乃圖」が設置されている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210624_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210624084542/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210624_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線日本橋駅にパブリックアートを設置します! 2021年7月1日公開|publisher=東京地下鉄|date=2021-06-24|accessdate=2021-06-24|archivedate=2021-06-24}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.takashimaya.co.jp/base/corp/topics/210624a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210624085004/https://www.takashimaya.co.jp/base/corp/topics/210624a.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日本橋の歴史と変遷を表現した、大型ステンドグラスのパブリックアートを設置! 日本を代表する画家 山口晃氏が原画・制作監修「日本橋南詰盛況乃圖」 2021年7月1日(木)公開|publisher=髙島屋|date=2021-06-24|accessdate=2021-06-24|archivedate=2021-06-24}}</ref>。 駅務管区所在駅であり、日本橋駅務管区として日本橋地域、[[三越前駅|三越前]]地域、[[住吉駅 (東京都)|住吉]]地域を管理する<ref name="RP926">{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線 |[[渋谷駅|渋谷]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nihombashi/timetable/ginza/a/index.html |title=日本橋駅時刻表 渋谷方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[浅草駅|浅草]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nihombashi/timetable/ginza/b/index.html |title=日本橋駅時刻表 浅草方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !3 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 |[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nihombashi/timetable/tozai/a/index.html |title=日本橋駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !4 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nihombashi/timetable/tozai/b/index.html |title=日本橋駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/nihombashi/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery> Tokyo-metro-Nihombashi-Station-ExitA3.jpg|A3番出入口(2019年1月) Nihombashi Station July 9 2021 various 23 33 24 290000.jpeg|江戸橋一丁目交差点方面改札(2021年7月) Nihombashi-Station-Takashimaya-District-Gate.jpg|高島屋方面改札口(2019年1月) Nihombashi Station platforms Ginza Line - Feb 6 2020 2pm.jpeg|銀座線ホーム(2020年) Tokyo-Metro Nihombashi-STA Home3-4.jpg|東西線ホーム(2022年4月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 2015年5月22日から、東西線ホームで従来のブザーに代わり[[発車メロディ]]の使用を開始した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630134624/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|format=PDF|language=日本語|title=神田駅「お祭りマンボ」採用 銀座線の発車メロディを拡大します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-05-14|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。曲は[[民謡]]「[[お江戸日本橋]]」で、3番線では歌い終わりの部分、4番線では歌い出しの部分をアレンジしたものを使用している。編曲は[[向谷実]]が手掛けた(東西線の発車メロディについては、[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]も参照)。 2018年8月30日からは銀座線ホームでも「お江戸日本橋」をアレンジしたメロディの使用を開始した。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、1番線では[[福嶋尚哉]]、2番線では[[塩塚博]]が編曲したものを使用している<ref name=":2" />。 === 東京都交通局 === [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]。浅草線ホームは、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]と永代通りが交差する「江戸橋一丁目交差点」の南側地下2階に位置し、[[相対式ホーム]]2面2線を有する。 改札内に南北行ホームを結ぶ連絡通路が存在せず、「茅場町方面改札」からは1番線、「日本橋方面改札」からは2番線しか利用できない。このため、利用する方向により改札を使い分ける必要がある。 押上寄りに改札口を新設する計画がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chisou.go.jp/tiiki/kokusentoc/tokyoken/tokyotoshisaisei/dai12/shiryou1.pdf|title=資料1 都市再生特別地区(日本橋一丁目中地区)|publisher=首相官邸|page=3|format=PDF|accessdate=2019-03-27}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/asakusa/A13SD.html |title=日本橋 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-05}}</ref> |- ! 1 |rowspan=2|[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 |[[西馬込駅|西馬込]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|京急線]]方面 |- ! 2 |[[押上駅|押上]]・[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] [[京成本線|京成線]]・[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/nihombashi.html 都営地下鉄:駅構内図]) <gallery perrow="3" widths="190" style="font-size:90%;"> Nihombashi-Sta-Asakusa-Line-Gate.JPG|日本橋方面改札(2016年5月) Toei-subway-A13-Nihombashi-station-platform-20221224-154626.jpg|ホーム(2022年12月) </gallery> == 利用状況 == * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''146,916人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 ** 東京メトロ全130駅の中では[[表参道駅]]に次ぐ第12位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 *** 銀座線⇔東西線間の乗換人員を含んだ、2019年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである<ref group="乗降データ" name="train-media" />。 **** 銀座線 - '''227,602人''' - 同線内では新橋駅に次ぐ第2位。 **** 東西線 - '''283,989人''' - 同線内では大手町駅、西船橋駅に次ぐ第3位。 * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''78,113人'''(乗車人員:38,860人、降車人員:39,253人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。浅草線全20駅中第5位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+各年度の1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="chuo">[https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/syokai/chuopocket.html 中央区ポケット案内] - 中央区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |1999年(平成11年) |180,594|| |<ref name="RJ704_26">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=鉄道ピクトリアル|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=26|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>87,329|| |- |2000年(平成12年) |174,703||&minus;3.3% | || |- |2001年(平成13年) |167,916||&minus;3.9% | || |- |2002年(平成14年) |166,884||&minus;0.6% | || |- |2003年(平成15年) |163,200||&minus;2.2% |78,494||&minus;5.2% |- |2004年(平成16年) |162,645||&minus;0.3% |79,373||1.1% |- |2005年(平成17年) |164,617||1.2% |80,573||1.5% |- |2006年(平成18年) |165,440||0.5% |82,538||2.4% |- |2007年(平成19年) |174,248||5.3% |86,066||4.3% |- |2008年(平成20年) |178,094||2.2% |87,553||1.7% |- |2009年(平成21年) |174,693||&minus;2.0% |86,707||&minus;1.0% |- |2010年(平成22年) |169,946||&minus;2.7% |84,653||&minus;2.4% |- |2011年(平成23年) |165,816||&minus;2.4% |82,299||&minus;2.8% |- |2012年(平成24年) |165,337||&minus;0.3% |83,256||1.2% |- |2013年(平成25年) |165,326||&minus;0.0% |84,833||1.9% |- |2014年(平成26年) |167,424||1.3% |87,579||3.2% |- |2015年(平成27年) |174,752||4.4% |91,997||5.0% |- |2016年(平成28年) |184,397||5.5% |94,923 ||3.2% |- |2017年(平成29年) |189,764||2.9% |96,939||2.1% |- |2018年(平成30年) |196,307||3.4% |100,408||3.6% |- |2019年(令和元年) |199,797||1.8% |101,779||1.4% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>128,624||&minus;35.6% |<ref group="都交" name="toei2020" />68,084||&minus;33.1% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>128,765||0.1% |<ref group="都交" name="toei2021" />69,772||2.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>146,916||14.1% |<ref group="都交" name="toei2022" />78,113||12.0% |} === 年度別1日平均乗車人員(1930年代) === 各年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度!!東京地下鉄道!!出典 |- |1932年(昭和{{0}}7年) |<ref group="備考">1932年12月24日開業。</ref> | |- |1933年(昭和{{0}}8年) |4,783 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |7,036 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/345?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |7,489 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/343?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1956 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="tokyo-statistic" /> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 !rowspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|出典 |- !銀座線!!東西線 |- |1956年(昭和31年) |27,656 |rowspan="11" style="text-align:center"|未<br />開<br />業 |rowspan="6" style="text-align:center"|未<br />開<br />業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |28,937 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |29,889 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |35,472 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |37,249 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |47,641 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |51,123 |<ref group="備考">開業日(2月28日)から同年3月31日までの計32日間を集計したデータ。</ref>4,241 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |56,417 |5,688 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |48,683 |7,988 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |48,182 |9,035 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |45,687 |10,287 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |44,250 |<ref group="備考">開業日(9月14日)から翌年3月31日までの計200日間を集計したデータ。</ref>22,103 |12,611 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |76,581 |54,817 |20,354 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |106,152 |96,718 |31,122 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |116,395 |117,693 |36,771 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |121,505 |124,456 |40,063 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |118,600 |125,340 |40,523 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |114,726 |116,644 |38,778 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |113,756 | |38,378 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |109,738 | |37,011 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |48,156 |60,893 |37,323 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |47,868 |61,600 |37,907 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |46,225 |60,321 |37,452 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |46,251 |60,642 |37,929 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |46,830 |62,367 |38,877 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |47,378 |65,233 |39,458 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |47,219 |65,493 |40,186 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |46,945 |67,710 |40,366 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |48,137 |67,748 |41,071 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |47,329 |68,236 |41,477 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |48,370 |69,896 |44,405 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |48,656 |70,904 |46,126 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |48,819 |71,647 |47,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |46,014 |68,627 |48,666 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |44,729 |67,907 |47,173 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |43,473 |67,235 |49,716 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |41,882 |67,178 |23,671 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |39,132 |66,737 |49,858 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |38,011 |64,625 |49,674 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |36,664 |62,686 |48,167 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |35,660 |62,581 |47,466 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |34,430 |62,537 |46,699 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |34,748 |62,463 |45,395 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |31,473 |57,377 |43,481 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |30,822 |55,397 |42,836 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="tokyo-statistic">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="乗降データ" name="chuo" /> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !rowspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|出典 |- !銀座線!!東西線 |- |2001年(平成13年) |30,348||53,463 |40,427 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |29,603||53,115 |41,014 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |29,232||51,962 |38,943 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |31,121||52,512 |39,395 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |30,830||52,784 |39,893 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |30,800||53,644 |40,882 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |32,560||56,038 |42,691 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |33,438||57,200 |43,610 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |32,521||56,392 |43,212 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |31,482||54,940 |42,182 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |30,917||53,616 |41,172 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |30,707||53,131 |41,533 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |30,054||53,939 |42,401 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |29,844||55,066 |43,694 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |30,751||57,923 |45,860 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |32,704||60,762 |47,332 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |33,844||62,381 |48,232 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |35,510||63,973 |49,962 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |37,033||64,257 |50,574 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) ||| |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>33,854 | |- |2021年(令和{{0}}3年) ||| |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>34,683 | |- |2022年(令和{{0}}4年) | || |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>38,860 | |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{see also|日本橋 (東京都中央区)}} * [[日本橋川]] ** [[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]] ** [[江戸橋 (東京都)|江戸橋]] * [[日本橋一丁目三井ビルディング]] ** [[日本橋一丁目三井ビルディング#COREDO日本橋|COREDO日本橋]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/040126.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414194512/http://www.tokyu.co.jp/file/040126.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「日本橋一丁目ビルディング」(東急百貨店日本橋店跡地)竣工 商業施設『COREDO日本橋』全店舗決定 ~3月30日グランドオープン~|publisher=三井不動産/東京急行電鉄/東急不動産|date=2004-01-26|accessdate=2021-01-29|archivedate=2015-04-14}}</ref> ** [[伊藤忠丸紅鉄鋼]]本社 ** [[BofA証券]]本社 ** [[早稲田大学]]日本橋キャンパス * [[日本橋郵便局]] * [[髙島屋]]日本橋店 * [[日本橋丸善東急ビル]] ** [[丸善]]日本橋店 ** [[水戸証券]]本社 ** 三菱商事パッケージング本店 * [[東急不動産|日本橋フロント]] ** [[東海東京フィナンシャル・ホールディングス]]本社 ** [[コーセー]]本社 * [[日鉄興和不動産|日鉄日本橋ビル]] ** [[日鉄ケミカル&マテリアル]]本社 ** [[日鉄物流]]本社 ** [[野村證券]]日本橋本社 ** [[西日本シティ銀行]]東京支店 * [[第一三共ヘルスケア]]本社 * [[日本橋野村ビルディング]] * [[東京建物|東京建物日本橋ビル]] ** [[日本メナード化粧品]]東京支店 ** [[ENEOSグループ|ENEOSトレーディング]]本社 ** [[伊予銀行]]東京支店 * [[武田グローバル本社]] ** [[武田薬品工業]]東京本社 * [[東京日本橋タワー]] ** [[T&Dホールディングス]]本社 *** [[太陽生命保険]]本社 *** [[大同生命保険]]東京本社 ** [[三井住友銀行]]東京中央支店 ** [[横浜銀行]]東京支店 ** [[デンソー]]東京支社 * 日本橋ダイヤビルディング ** [[三菱倉庫]]本社 ** [[日本旅行]]本社 ** [[東海東京証券]]日本橋支店 * オンワードパークビルディング ** [[オンワードホールディングス]]本社 *** [[オンワード樫山]]本社 * [[東京駅]]日本橋口 ** JR高速バスおりば * [[永代通り]] - 真下を東西線が走り、当駅と[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]・[[茅場町駅]]の出入口が50mから200mおきに設置されている。 * [[昭和通り (東京都)|昭和通り]] * [[中央通り (東京都)|中央通り]] * [[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]] * [[首都高速都心環状線]][[江戸橋出入口|江戸橋入口]](内回り) == バス路線 == ; 日本橋(東京駅方面:C4出口付近、南千住・錦糸町方面:B10・C1出口付近) * [[東京都交通局]] ** [[都営バス南千住営業所#東42系統|東42-1]]:[[東京駅のバス乗り場#八重洲南口|東京駅八重洲口]]行き/[[小伝馬町駅|小伝馬町]]・[[馬喰町駅|馬喰町]]・[[浅草橋駅]]・[[蔵前駅]]・[[浅草駅|東武浅草駅]]経由[[南千住駅]]西口・[[都営バス南千住営業所|南千住車庫]]行き ** [[都営バス江東営業所#東22系統|東22]]:[[門前仲町駅|門前仲町]]・[[江東区役所]]・[[東陽町駅]]経由[[錦糸町駅]]行き/[[東京駅のバス乗り場#丸の内北口|東京駅丸の内北口]]行き ; 地下鉄日本橋駅(B9出口付近) * [[日の丸自動車興業]] ** [[メトロリンク日本橋]]:[[三越前駅|地下鉄三越前駅]]・[[新日本橋駅|JR新日本橋駅]]方面 ; 呉服橋(A1出口付近) * [[日立自動車交通]] ** [[中央区コミュニティバス]](江戸バス)北循環:[[中央区役所 (東京都)|中央区役所]]行き ** [[晴海ライナー]] TYO-01系統:晴海二丁目行き ** 晴海ライナー TYO-03系統:[[晴海アイランドトリトンスクエア|晴海トリトンスクエア]]行き ; 日本橋二丁目 / 日本橋髙島屋 / 東京VIPラウンジ(B1出口付近) * 日の丸自動車興業(日本橋二丁目) ** メトロリンク日本橋:地下鉄[[宝町駅]]・[[東京駅のバス乗り場#八重洲北口|東京駅八重洲口]]方面 ** [[メトロリンク日本橋#メトロリンク日本橋Eライン|メトロリンク日本橋Eライン]]:東京駅八重洲口・地下鉄[[水天宮前駅]]方面 * 日立自動車交通(日本橋髙島屋) ** 晴海ライナー TYO-01系統:晴海二丁目行き ** 晴海ライナー TYO-03系統:晴海トリトンスクエア行き * [[平成エンタープライズ]](東京VIPラウンジ) ** [[平成エンタープライズ#高速バス|VIPライナー]]:名古屋・大阪・金沢行き ; コレド日本橋(日本橋南詰) * [[なの花交通バス]] 東京ひとめぐりバス<ref>[https://www.nanohanabus.com/news/detail.php?id=81 東京ひとめぐりバス運行開始のお知らせ]</ref>:[[ららぽーと豊洲]]・[[ダイバーシティ東京プラザ|ダイバーシティ東京プラザ(お台場)]]方面 == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線 ::: [[京橋駅 (東京都)|京橋駅]] (G 10) - '''日本橋駅 (G 11)''' - [[三越前駅]] (G 12) : [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 ::: [[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] (T 09) - '''日本橋駅 (T 10)''' - [[茅場町駅]] (T 11) ; 東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 :: {{Color|#ef7a00|■}}[[エアポート快特]] ::: [[新橋駅]] (A 10) - '''日本橋駅 (A 13)''' - [[東日本橋駅]] (A 15) :: {{Color|#ef454a|■}}エアポート快特以外の[[列車種別]] ::: [[宝町駅]] (A 12) - '''日本橋駅 (A 13)''' - [[人形町駅]] (A 14) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; 地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|22em}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[日本橋駅 (大阪府)]] * [[日本橋 (東京都中央区)]] * [[髙島屋]] / [[白木屋 (デパート)]] / [[東急百貨店]] - [[東京地下鉄道]]の時に、駅建設費を負担した[[企業]]。 * [[都心直結線#都営浅草線東京駅接着|都営浅草線東京駅接着]] - [[東銀座駅]]から[[東京駅]]を経由して当駅までを結ぶ分岐線([[デルタ線]])の構想があり、当駅は押上側の分岐駅となる予定だったが、[[都心直結線]]([[京成押上線]][[押上駅]] - [[東京駅#将来の計画|新東京駅]] - [[京急本線]][[泉岳寺駅]])の計画に取って代わられた。 == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/nihombashi/index.html 日本橋駅/G11/T10 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/nihombashi.html 日本橋駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{東京メトロ銀座線}} {{東京メトロ東西線}} {{都営地下鉄浅草線}} {{DEFAULTSORT:にほんはしえき}} [[Category:東京都中央区の鉄道駅|にほんはし]] [[Category:日本の鉄道駅 に|ほんはし]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅|にほんはし]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅|にほんはし]] [[Category:1932年開業の鉄道駅|にほんはし]] [[Category:髙島屋|駅]]
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14,030
1674年
1674年(1674 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1674年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1674}} {{year-definition|1674}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[延宝]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2334年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]13年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]28年 *** [[楊起隆]] : [[広徳 (楊起隆)|広徳]]2年 *** [[呉三桂]] : [[昭武|周王]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]15年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4007年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽徳]]3年、[[徳元]]元年旧10月 - * [[仏滅紀元]] : 2216年 - 2217年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1084年 - 1085年 * [[ユダヤ暦]] : 5434年 - 5435年 * [[ユリウス暦]] : 1673年12月22日 - 1674年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1674}} == できごと == * 日本:[[寛永通宝]]4貫=金一[[両]]と定め、古銭の通用を停止する。[[江戸]]市中の[[非人]]を改める{{要出典|date=2021-03}}。 * インド:[[シヴァージー]]が[[マラーター王国]]を建国{{要出典|date=2021-04}}。 * [[アントニ・ファン・レーウェンフック]]が[[細菌]]を発見。 * イギリス:[[トーマス・ウィリス]]、[[糖尿病]]の存在を確認。 * [[第3次ウェストミンスター条約]]が締結され第3次英蘭戦争が終結。 == 誕生 == {{see also|Category:1674年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]] - [[ラインハルト・カイザー]]、[[作曲家]](+ [[1739年]]) * [[7月17日]] - [[アイザック・ウォッツ]]、[[神学者]]、[[賛美歌]]作詞者(+ [[1748年]]) * [[9月29日]] - [[ジャック・オトテール]]、作曲家(+ [[1763年]]) * 月日不明 - [[瑤泉院|阿久里(瑤泉院)]]、[[浅野長矩]]の妻(+ [[1714年]]) * 月日不明 - [[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)|ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン]]、イギリス第2代[[首相]](+ [[1743年]]) * 月日不明 - [[ジェレマイア・クラーク]]、作曲家(+ [[1707年]]) * 月日不明 - [[ジョージ・グラハム (時計職人)|ジョージ・グラハム]]([[w:George Graham (clockmaker)|George Graham]])、[[時計]]職人(+ [[1751年]]) * 月日不明 - [[ニコラス・ロウ]]([[w:Nicholas Rowe (dramatist)|Nicholas Rowe]])、[[劇作家]]、[[桂冠詩人]](+ [[1718年]]) * 月日不明 - [[ジェスロ・タル (農学者)|ジェスロ・タル]]([[w:Jethro Tull (agriculturist)|Jethro Tull]])、[[農学者]](+ [[1741年]]) == 死去 == {{see also|Category:1674年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月12日]] - [[ジャコモ・カリッシミ]]、作曲家(* [[1605年]]) * [[2月13日]] - [[ジャン・ド・ラバディ]]([[w:Jean de Labadie|Jean de Labadie]])、[[神秘主義者]](* [[1610年]]) * [[2月22日]] - [[ジャン・シャプラン]]([[w:Jean Chapelain|Jean Chapelain]])、[[詩人]](* [[1595年]]) * [[2月24日]] - [[マティアス・ヴェックマン]]、作曲家(* [[1616年]]頃) * [[3月19日]]([[延宝]]2年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])- [[松平定長]]、第3代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1640年]]) * [[4月18日]] - [[ジョン・グラント]]([[w:John Graunt|John Graunt]])、[[統計学者]](* [[1620年]]) * [[6月4日]] - [[ヤン・リーフェンス]]、画家(* [[1607年]]) * [[6月14日]] - [[マラン・ル・ロワ・ド・ゴンベヴィル]]([[w:Marin le Roy de Gomberville|Marin le Roy de Gomberville]])、詩人、[[小説家]](* [[1600年]]) * [[7月11日]](延宝2年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[鷹司孝子]]、[[徳川家光]]の[[正室]](* [[1602年]]) * [[8月12日]] - [[フィリップ・ド・シャンパーニュ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Philippe-de-Champaigne Philippe de Champaigne Flemish-born painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、画家(* [[1602年]]) * [[10月22日]] - [[ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト]]、画家(* [[1621年]]) * [[10月27日]] - [[ハトルグリームル・ピェートゥルソン]]([[w:Hallgrímur Pétursson|Hallgrímur Pétursson]])、[[司祭]]、詩人(* [[1614年]]) * [[10月]] - [[ロバート・ヘリック]]([[w:Robert Herrick (poet)|Robert Herrick]])、詩人(* [[1591年]]) * [[11月4日]](延宝2年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]) - [[狩野探幽]]、[[画家]](* [[1602年]]) * [[11月8日]]から[[11月10日]]の間 - [[ジョン・ミルトン]]{{要出典|date=2021-03}}、詩人(* [[1608年]]) * 月日不明 - [[定光院|おりさ(定光院)]]、徳川家光の[[側室]](* 生年不明) * 月日不明 - [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]、[[李氏朝鮮]]第18代[[国王]](* [[1641年]]) * 月日不明 - [[ピーテル・ボエル]]([[w:Pieter Boel|Pieter Boel]])、画家(* [[1626年]]) * 月 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1674}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1674ねん}} [[Category:1674年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1674%E5%B9%B4
14,031
1673年
1673年(1673 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1673年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1673}} {{year-definition|1673}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]12年11月14日 - 寛文13年9月20日、[[延宝]]元年9月21日 - 11月24日 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2333年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]12年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]27年 *** [[楊起隆]] : [[広徳 (楊起隆)|広徳]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]14年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4006年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽徳]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2215年 - 2216年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1083年 - 1084年 * [[ユダヤ暦]] : 5433年 - 5434年 * [[ユリウス暦]] : 1672年12月22日 - 1673年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1673}} == できごと == * [[1月28日]] - [[パナマ]]の[[パナマ・ビエホ]]が、[[イギリス人]][[海賊]]の[[ヘンリー・モーガン]]によって攻撃、破壊される{{要出典|date=2021-04}}。 * [[中国]]:[[三藩の乱]]起こる( - [[1681年]]) * [[ジャン=バティスト・リュリ]]、最初の[[オペラ]]『カドミュスとエルミオーヌ』を作曲。 *イングランドで[[審査法]]制定。 === 日本 === * [[6月22日]](寛文13年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[京都]]の[[関白]][[鷹司房輔]]の屋敷から出火した火事で[[内裏]]以下1万軒が焼失(寛文の大火) * [[7月9日]](寛文13年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]])- [[日英関係]]: [[1623年]]以来途絶していた日英間の通商再開を求めてイングランド船「[[リターン号]]」が長崎に来航。 * [[10月30日]](寛文13年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]) - [[改元]]して[[延宝]]元年。 * [[三井高利]]が呉服店「越後屋」を開業(現在の[[三越]]の原点) * [[錦帯橋]]が完成([[1674年]]に流失、同年再建) == 誕生 == {{see also|Category:1673年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月31日]] - [[ルイ・ド・モンフォール]]([[w:Louis de Montfort|Louis de Montfort]])、[[司祭]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[聖人]](+ [[1716年]]) * [[4月28日]] - [[クロード・ジロ]]([[w:Claude Gillot|Claude Gillot]])、[[画家]](+ [[1722年]]) * [[6月10日]] - [[レネ・デュゲトルーアン]]、[[私掠船]]船長、[[軍人]](+ [[1736年]]) * [[6月18日]] - [[アントニオ・リテレス]]、[[作曲家]](+ [[1747年]]) * [[8月10日]] - [[ヨハン・コンラッド・ディッペル]]([[w:Johann Conrad Dippel|Johann Conrad Dippel]])、[[神学者]]、[[錬金術師]](+ [[1734年]]) * [[8月11日]] - [[リチャード・ミード (医師)|リチャード・ミード]]、[[医師]](+ [[1754年]]) * [[10月26日]] - [[ディミトリエ・カンテミール]]、[[文学者]]、[[学者]](+ [[1723年]]) * [[11月16日]] - [[アレクサンドル・メーンシコフ]]、軍人、[[政治家]](+ [[1729年]]) * [[12月30日]] - [[アフメト3世]]、[[オスマン帝国]]第23代[[スルタン]](+ [[1736年]]) * 月日不明 - [[ユゼフ・ポトツキ]]、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]の[[マグナート|貴族]](+ [[1751年]]) * 月日不明 - [[ジョージ・ウェード]]、軍人(+ [[1748年]]) == 死去 == {{see also|Category:1673年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月4日]](寛文12年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[保科正之]]、[[徳川秀忠]]の子、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]][[藩主]](* [[1611年]]) * [[2月17日]] - [[モリエール]]、[[劇作家]](* [[1622年]]) * [[3月12日]] - [[マーガレット・テレサ]]([[w:Margaret Theresa of Spain|Margaret Theresa of Spain]])、[[スペイン]][[王女]](* [[1651年]]) * [[3月15日]] - [[サルヴァトル・ローザ]]、画家、[[詩人]](* [[1615年]]) * [[5月19日]](寛文13年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[隠元隆琦]]、中国の[[禅僧]](* [[1592年]]) * [[5月28日]] - [[ジョアン・ブラウ]]([[w:Joan Blaeu|Joan Blaeu]])、[[ウィレム・ブラウ]]の息子、[[地図]]製作者(* [[1596年]]) * [[6月25日]] - [[シャルル・ダルタニャン]]([[w:D'Artagnan|Charles D'Artagnan]])、[[銃士]]、『[[ダルタニャン物語]]』のモデル(* [[1611年]]頃) * [[8月17日]] - [[ライネル・デ・グラーフ]]、[[解剖学者]](* [[1641年]]) * [[10月13日]] - [[クリストファー・ゲーベル]]([[w:Kristoffer Gabel|Kristoffer Gabel]])、政治家(* [[1617年]]) * [[11月10日]] - [[ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ|ミハウ]]、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド王]](* [[1640年]]) * [[12月15日]] - [[マーガレット・キャヴェンディッシュ]]、貴族夫人、[[作家]](* [[1623年]]) * 月日不明 - [[蘊謙戒琬]]、来日した中国僧(* [[1610年]]) * 月日不明 - [[フランソワ・キャロン]]([[w:François Caron|François Caron]])、[[ユグノー]]教徒、初めて[[日本]]を訪れた[[フランス人]](* [[1600年]]) * 月日不明 - [[セミョン・デジニョフ]]、[[探検家]](* [[1605年]]) * 月日不明 - [[レンメ・ロッシ]]([[w:Lemme Rossi|Lemme Rossi]])、[[音楽理論家]](* 生年不詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1673}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1673ねん}} [[Category:1673年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1673%E5%B9%B4
14,032
1671年
1671年(1671 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1671年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1671}} {{year-definition|1671}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]11年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2331年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]10年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]25年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4004年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]9年 * [[仏滅紀元]] : 2213年 - 2214年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1081年 - 1082年 * [[ユダヤ暦]] : 5431年 - 5432年 * [[ユリウス暦]] : 1670年12月22日 - 1671年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1671}} == できごと == * [[5月6日]](寛文11年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]の[[お家騒動]]・[[伊達騒動]]の中心となる寛文事件発生{{要出典|date=2021-04}}。 * [[10月25日]] - [[ジョヴァンニ・カッシーニ]]が[[土星]]の[[衛星]][[イアペトゥス (衛星)|イアペトゥス]]を発見。 * [[自然主義|自然主義者]][[ジョン・レイ (博物学者)|ジョン・レイ]]が[[ギ酸|蟻酸]]の単離に成功。 == 誕生 == {{see also|Category:1671年生}} * [[4月6日]] - [[ジャン=バティスト・ルソー]]、[[詩人]](+ [[1741年]]<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Rousseau, Jean Baptiste|volume=23|pages=774-775}}</ref>) * [[5月24日]] - [[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ]]、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](+ [[1737年]]) * [[6月8日]] - [[トマゾ・アルビノーニ]]、[[作曲家]](+ [[1751年]]) * [[10月11日]] - [[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]、[[デンマーク]][[国王|王]](+ [[1730年]]) * [[11月6日]] - [[コリー・シバー]]([[w:Colley Cibber|Colley Cibber]])、[[劇作家]]、[[桂冠詩人]](+ [[1757年]]) * 月日不明 - [[生島新五郎]]、[[江島生島事件]]の中心人物である[[歌舞伎]]役者(+ [[1743年]]) * 月日不明 - [[秋田就季]]、[[伊豆守]](+ [[1715年]]) == 死去 == {{see also|Category:1671年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]]([[寛文]]11年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[徳川頼宣]]、[[紀州徳川家]]初代[[藩主]](* [[1602年]]) * [[2月22日]] - [[アダム・オレアリウス]]([[w:Adam Olearius|Adam Olearius]])、[[数学者]]、[[地理学者]]、[[司書]](* [[1603年]]) * [[4月30日]] - [[ペーター・ズリンスキ]]([[w:Petar Zrinski|Petar Zrinski]])、[[軍人]](* [[1620年]]) * [[5月6日]](寛文11年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[原田宗輔]](原田甲斐)、[[仙台藩]][[家老]](* [[1619年]]) * [[5月8日]] - [[セバスティアン・ブルドン]]([[w:Sébastien Bourdon|Sébastien Bourdon]])、[[画家]](* [[1616年]]) * [[6月6日]]あるいは[[6月16日]] - [[スチェパン・ラージン]](ステンカ・ラージン)、[[コサック]]の首領(* [[1630年]]) * [[6月25日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ]]、[[天文学者]](* [[1598年]]) * [[6月26日]] - [[即非如一]]、中国の[[禅僧]](* [[1616年]]) * [[9月28日]] - [[ジャン・ド・モンティニー]]([[w:Jean de Montigny|Jean de Montigny]])、[[聖職者]]、詩人(* [[1636年]]) * [[11月12日]] - [[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]、軍人(* [[1612年]]) * 月日不明 - [[無心性覚]]、来日した中国の[[僧]](* [[1613年]]) * 月日不明 - [[尹善道]]、[[朝鮮]]の詩人(* [[1587年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1671}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1671ねん}} [[Category:1671年|*]]
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茅場町駅
茅場町駅(かやばちょうえき)は、東京都中央区日本橋茅場町一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 日比谷線と東西線が乗り入れている。駅番号は、日比谷線がH 13、東西線がT 11。 地下駅で、日比谷線は相対式ホーム2面2線、東西線は島式ホーム1面2線を有する。 東西線は中野側に非常用として片渡り線と信号扱所を持つ。かつては両渡り線の分岐器が設置されていた。かつて、中野方面行電車では当駅停車中に「当駅発車後、ポイント通過のため揺れますのでご注意下さい。」という注意喚起が車内放送や車内案内表示器で行われていたが、両渡り線通過による揺れと分岐器保守の軽減を目的に片渡り線化されたため、現在は流れていない。 日比谷線の建設時に、地下鉄5号線(東西線)の建設が確定していたことから、あらかじめ日比谷線と東西線の交差部には東西線の駅躯体が約39 mにわたって構築されていた。日比谷線開業当初は、築地駅などのようにホームとその両端に改札口と出入口を有するシンプルな構造の駅であった。その後、東西線の開通で乗換駅となったが、東側に亀島川が流れており、東西線ホームを日比谷線ホームの中央に寄せてT字型の乗換駅にすることは不可能だったため、やむなく永代通りと新大橋通りが交差する茅場町一丁目交差点を軸にしたL字型の駅構造となった。 当駅は「上野駅務管区茅場町地域」として近隣の駅を管理している。 東西線ホームの上の改札外地下通路には、都営地下鉄浅草線の日本橋駅に通じる連絡通路が設置されている。さらにその先は東京メトロ日本橋駅にも通じているので、当駅の中央改札から日本橋駅の西端まで改札外地下通路を歩くことができる。ただし、乗換駅には指定されていないので、連絡普通券では相手駅に入場できない。また、PASMO・Suicaで乗り継いだ場合は割引が適用されず、それぞれのSF乗車に対して下車時に乗車区間の運賃が減算される。 当駅西改札から都営浅草線までの地下通路は通行時間が6時00分から23時00分までとなっており、これは大晦日から元日の終夜運転時も同様である。この通路の管理は当駅であり、都営浅草線側のシャッターも、開閉扉は当駅の駅員が行う。 1969年の東西線全線開通、さらに1996年の東葉高速鉄道との相互直通運転開始、そして1990年代後半以降の江東区・江戸川区エリアでの大規模なマンション建設による沿線人口および利用者数の急増により、当駅についても駅構造の欠陥が浮き彫りとなった。階段やエスカレーター側の通路では人の流動が恒常的に滞るなど、その構造に問題が生じている。特に東西線ホームの階段横の通路は幅が3 m程度しかなく、降車・乗車・ホーム移動それぞれの乗客の動線が入り乱れて、ラッシュ時には恒常的に危険な状態になっている。 東京メトロでは、これらの対策として朝ラッシュ時のホームに駅員を増員し、さらにアルバイト駅員や警備員を配置することなどで乗客の安全監視と流動確保を行っているが、根本的な改善には至っていない。また、これらの混雑を嫌った乗客が日比谷線は北千住寄り車両、東西線は西船橋寄り車両に集中し、混雑の偏りを引き起こして車両内、ひいては他駅への悪影響を引き起こしている。 これらの問題を解決するため、2010年11月に発表された東京メトログループ経営計画『FORWARD TOKYO METRO PLAN 2012』において、ワイドドア車15000系の導入と併せて「茅場町駅の改良」が明記された。日比谷線ホームの人形町寄りの拡幅は2016年度に完成し、引き続き、東西線ホームの門前仲町寄り40メートル延伸および延伸部分への階段・エスカレーター増設工事を行っている。2022年度に供用開始予定である。 (出典:東京メトロ:構内図) 全ホームにおいて、発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 東西線ホームでは、2015年6月4日から向谷実作曲のメロディを使用している(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。 日比谷線ホームでは、2020年2月7日からスイッチ制作のメロディを使用している。 近年の1日平均乗降人員は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員は下表の通りである。 兜町に近接するため、証券会社が多く立地する。また、大手企業の本社も多く立地する。しかし、1997年当時に業界大手であった山一證券が経営破綻するという、いわゆる「山一ショック」以降、銀行や証券会社の統廃合や合併・解散、本社移転などが相次ぎ、世界三大金融街の一つと呼ばれながらその華やかさは失われつつある。 一方で茅場町駅は2路線が乗り入れ、隣駅で3路線乗り入れる日本橋駅も地下通路で繋がるなど徒歩圏内であり、東京駅、羽田空港などの交通拠点や、東京ディズニーリゾート、日本武道館、浅草・浅草寺、東京スカイツリーなど観光各地へのアクセスの良さから、駅周辺にはビジネスホテルが立ち並んでおり、出張客や観光客が宿泊に利用している。 最寄りバス停留所は、永代通りと平成通りにある「茅場町」、永代通りにある「兜町」、および平成通りにある「茅場町・兜町東証前」である。以下の路線バスが乗り入れ、東京都交通局(都営)、平和交通(平和)、西岬観光(西岬)、日の丸自動車興業(日の丸)により運行されている。
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茅場町駅(かやばちょうえき)は、東京都中央区日本橋茅場町一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 日比谷線と東西線が乗り入れている。駅番号は、日比谷線がH 13、東西線がT 11。
{{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 茅場町駅 |画像 = Kayabacho-station-Exit5.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 5番出入口(2019年1月) |よみがな = かやばちょう |ローマ字 = Kayabacho |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |電報略号 = カハ |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所在地幅 = long |所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋茅場町]]一丁目4-6 |座標 = {{coord|35|40|47.8|N|139|46|48.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1963年]]([[昭和]]38年)[[2月28日]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線(日比谷線)<br />1面2線(東西線) |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />94,538 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#b5b5ac|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] |前の駅1 = H 12 [[八丁堀駅|八丁堀]] |駅間A1 = 0.5 |駅間B1 = 0.9 |次の駅1 = [[人形町駅|人形町]] H 14 |キロ程1 = 9.2 |起点駅1 = [[北千住駅|北千住]] |駅番号1 = {{駅番号r|H|13|#b5b5ac|4}}<ref name="tokyosubway"/> |所属路線2 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ東西線|東西線]] |前の駅2 = T 10 [[日本橋駅 (東京都)|日本橋]] |駅間A2 = 0.5 |駅間B2 = 1.8 |次の駅2 = [[門前仲町駅|門前仲町]] T 12 |キロ程2 = 12.0 |起点駅2 = [[中野駅 (東京都)|中野]] |駅番号2 ={{駅番号r|T|11|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway"/> |備考 = }} '''茅場町駅'''(かやばちょうえき)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋茅場町]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。 [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]と[[東京メトロ東西線|東西線]]が乗り入れている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は、日比谷線が'''H 13'''<ref group="注">[[2020年]][[6月6日]]の[[虎ノ門ヒルズ駅]]開業に伴い、駅番号を「'''H 12'''」から「'''H 13'''」へ変更。</ref>、東西線が'''T 11'''。 == 歴史 == * [[1963年]]([[昭和]]38年)[[2月28日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線[[人形町駅]] - [[東銀座駅]]間 (3.0&nbsp;[[キロメートル|km]]) 開通に伴い開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)[[9月14日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] - [[東陽町駅]]間 (5.1&nbsp;km) 開通に伴い、日比谷線と東西線の乗換駅となる。 * [[1980年]](昭和55年):日比谷線ホームで駅[[エア・コンディショナー|冷房]]開始。 * [[1981年]](昭和56年)2月:乗降客が大幅に増加したことから、大規模改良工事を実施<ref name="Yurakucho-Const1170">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.1170 - 1172。</ref>。同年に東西線ホームで駅冷房開始。 * [[1984年]](昭和59年)3月:大規模改良工事が完成<ref name="Yurakucho-Const1170" />。日比谷線ホーム及びコンコースの拡幅、連絡階段及びエスカレーターの増設などを実施<ref name="Yurakucho-Const1170"/>。費用は15億9,700万円を要した<ref name="Yurakucho-Const1170"/>。 * [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)4月1日:現業部門の管区制導入により、上野駅務区・秋葉原駅務区・茅場町駅務区を統合し、上野駅務管区が発足。上野駅務管区茅場町地域の管理駅となる。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[6月4日]]:東西線ホームで[[発車メロディ]]の使用を開始する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月7日]]:日比谷線ホームで発車メロディの使用を開始する<ref name="Train-melody-H">{{Cite web|和書|title=東京メトロ日比谷線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/505|date=2020-02-07|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2020-02-07|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 == 駅構造 == [[地下駅]]で、日比谷線は[[相対式ホーム]]2面2線、東西線は[[島式ホーム]]1面2線を有する。 東西線は[[中野駅 (東京都)|中野]]側に非常用として[[分岐器#形状による分類|片渡り線]]と[[信号扱所]]を持つ。かつては両渡り線の[[分岐器]]が設置されていた。かつて、中野方面行電車では当駅停車中に「当駅発車後、ポイント通過のため揺れますのでご注意下さい。」という注意喚起が車内放送や[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]で行われていたが、両渡り線通過による揺れと[[分岐器]]保守の軽減を目的に片渡り線化されたため、現在は流れていない。 日比谷線の建設時に、地下鉄5号線(東西線)の建設が確定していたことから、あらかじめ日比谷線と東西線の交差部には東西線の駅躯体が約39&nbsp;mにわたって構築されていた<ref name="Hibiya-Con276">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.276 - 277・372 - 373。</ref>。日比谷線開業当初は、[[築地駅]]などのようにホームとその両端に[[改札|改札口]]と出入口を有するシンプルな構造の駅であった。その後、東西線の開通で[[乗換駅]]となったが、東側に[[亀島川]]が流れており、東西線ホームを日比谷線ホームの中央に寄せてT字型の乗換駅にすることは不可能だったため、やむなく[[永代通り]]と[[東京都道・千葉県道50号東京市川線|新大橋通り]]が交差する茅場町一丁目[[交差点]]を軸にしたL字型の駅構造となった。 当駅は「[[上野駅|上野]]駅務管区茅場町地域」として近隣の駅を管理している<ref>{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 === 日本橋駅との連絡通路 === 東西線ホームの上の改札外地下通路には、[[都営地下鉄浅草線]]の[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]に通じる連絡通路が設置されている。さらにその先は東京メトロ日本橋駅にも通じているので、当駅の中央改札から日本橋駅の西端まで改札外地下通路を歩くことができる。ただし、乗換駅には指定されていないので、連絡普通券では相手駅に入場できない。また、[[PASMO]]・[[Suica]]で乗り継いだ場合は割引が適用されず、それぞれの[[乗車カード|SF乗車]]に対して下車時に乗車区間の運賃が減算される。 当駅西改札から都営浅草線までの地下通路は通行時間が6時00分から23時00分までとなっており、これは[[大晦日]]から[[元日]]の[[終夜運転]]時も同様である。この通路の管理は当駅であり、都営浅草線側の[[シャッター]]も、開閉扉は当駅の駅員が行う。 === 問題点 === [[1969年]]の東西線全線開通、さらに[[1996年]]の[[東葉高速鉄道]]との[[直通運転|相互直通運転]]開始、そして[[1990年代]]後半以降の[[江東区]]・[[江戸川区]]エリアでの大規模な[[マンション]]建設による沿線人口および利用者数の急増により、当駅についても駅構造の欠陥が浮き彫りとなった。階段や[[エスカレーター]]側の通路では人の流動が恒常的に滞るなど、その構造に問題が生じている。特に東西線ホームの階段横の通路は幅が3&nbsp;[[メートル|m]]程度しかなく、降車・乗車・ホーム移動それぞれの乗客の[[動線]]が入り乱れて、[[ラッシュ時]]には恒常的に危険な状態になっている。 東京メトロでは、これらの対策として朝ラッシュ時のホームに[[駅員]]を増員し、さらに[[アルバイト]]駅員や[[警備員]]を配置することなどで乗客の安全監視と流動確保を行っているが、根本的な改善には至っていない。また、これらの混雑を嫌った乗客が日比谷線は北千住寄り車両、東西線は西船橋寄り車両に集中し、混雑の偏りを引き起こして車両内、ひいては他駅への悪影響を引き起こしている。 これらの問題を解決するため、[[2010年]]11月に発表された東京メトログループ経営計画『FORWARD TOKYO METRO PLAN 2012』において、ワイドドア車[[東京メトロ15000系電車|15000系]]の導入と併せて「茅場町駅の改良」が明記された<ref>{{Cite web|和書|title=FORWARD TOKYO METRO PLAN 2012 東京メトログループ経営計画|url=http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2012.pdf|publisher=東京地下鉄|format=PDF|date=|accessdate=2012-01-14|quote=p.15 輸送改善の実施}}</ref>。日比谷線ホームの人形町寄りの拡幅は[[2016年]]度に完成し、引き続き、東西線ホームの門前仲町寄り40メートル延伸および延伸部分への[[階段]]・エスカレーター増設工事を行っている。2022年度に供用開始予定である<ref>{{Cite web|和書|title=2020年3月期第2四半期決算説明資料|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/ir/2019/pdf/202003_2q_kessan_setsumei_hosoku.pdf|publisher=東京地下鉄|format=PDF|date=2019年11月|accessdate=2020-02-24|quote=p.7 東西線の輸送改善 【茅場町駅】ホーム延伸等の大規模改良}}</ref>。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 |[[中目黒駅|中目黒]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kayabacho/timetable/hibiya/a/index.html |title=茅場町駅時刻表 中目黒方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[北千住駅|北千住]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kayabacho/timetable/hibiya/b/index.html |title=茅場町駅時刻表 北千住・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !3 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 |[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kayabacho/timetable/tozai/a/index.html |title=茅場町駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !4 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kayabacho/timetable/tozai/b/index.html |title=茅場町駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/kayabacho/index.html 東京メトロ:構内図]) * [[2020年]][[6月6日]]から運行している座席指定列車「[[THライナー]]」では<ref name="press20191219"/>、久喜始発恵比寿行きは降車のみ、霞ケ関発久喜行きは乗車のみ取り扱いとなるため、'''東京メトロ線内のみの利用はできない'''<ref name="press20191219">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)東武鉄道・東京メトロダイヤ改正 東武線・日比谷線相互直通列車に初の座席指定制列車「THライナー」が誕生!|publisher=東武鉄道/東京地下鉄|date=2019-12-19|accessdate=2019-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191219084312/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|archivedate=2019-12-19}}</ref>。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Kayabacho-Sta-4ab.JPG|4a・4b出入口(2008年7月) Kayabacho-station-Exit12.jpg|12番出入口(2018年10月) Kayabacho Station Concourse 2015.jpg|中央改札(2015年5月) Kayabacho-Sta-East-Gate.JPG|東改札(2015年12月) Tokyometro-Kayabacho-sta-2chome-gate.jpg|茅場町二丁目方面改札口(2018年8月11日) Hibiyaline-Kayabachostation-renewal.jpg|リニューアル後の日比谷線ホーム(2018年8月11日) TokyoMetro-H12-Kayabacho-station-platform.jpg|リニューアル前の日比谷線ホーム(2007年10月) Kayabacho Station-1.jpg|東西線 中央改札口(2018年3月10日) Kayabacho Station Tozai Line Platform 2015.jpg|リニューアル前の東西線ホーム(2015年5月29日) Kayabacho-station-Toyai-renewal-platform.jpg|リニューアル後の東西線ホーム(2020年6月28日) </gallery> === 発車メロディ === 全ホームにおいて、[[発車メロディ]](発車サイン音)を使用している。 東西線ホームでは、2015年6月4日から[[向谷実]]作曲のメロディを使用している(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)。 日比谷線ホームでは、2020年2月7日から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作のメロディを使用している<ref name="Train-melody-H" />。 {|class="wikitable" !番線 !路線 !曲名 !作曲者 |- !1 |rowspan="2"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 日比谷線 |スピネル |[[塩塚博]] |- !2 |キャノピー |[[福嶋尚哉]] |- !3 |rowspan="2"|[[ファイル: Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 東西線 |A Day in the METRO |rowspan="2"|[[向谷実]] |- !4 |Beyond the Metropolis |} === 駅構内設備 === * エスカレーターは、東西線ホームと日比谷線1番ホームおよび東改札との間に上り1基、東西線ホームと日比谷線2番ホームおよび中央改札の間に上下各1基ずつ、東西線ホームと西改札の間に上下各1基ずつ設置されている。ただし、平日ダイヤの朝ラッシュ時は混雑緩和のためすべて上り運転となる。 * [[エレベーター]]は、東西線ホームと西改札内の間、東改札外と地上部(4b出入口付近)の間を連絡するものが1基ずつ設置されている。 * [[便所|トイレ]]は、中央改札内と西改札外に1か所ずつあり、西改札外トイレには[[車椅子]]利用者・[[オストメイト]]に対応した便器とベビーベッドが併設されている。 * [[定期乗車券|定期券]]うりばは、中央改札と西改札を連絡する改札外地下通路に立地する。東京都心でも主要なオフィス街であることと、日比谷線と東西線の乗換駅であることから、年度末や新年度などの繁忙期には定期券購入客で混雑する。 * [[メトロコマース#店舗|METRO'S]]は、中央改札内と東改札内に各1か所、東西線ホームに2か所出店している。 * [[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]は、東改札外・定期券うりば付近・西改札外に各1か所ずつ設置されている。 * 金融機関の[[現金自動預け払い機|ATM]]は、中央改札外に[[ゆうちょ銀行]]、東改札内に[[新生銀行]]のものが各1台設置されている。 == 利用状況 == * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''94,538人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅中[[六本木駅]]に次いで26位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。この値には日比谷線⇔東西線間の乗換人員を含まない。 * 日比谷線⇔東西線間の乗換人員を含んだ、2018年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである<ref group="乗降データ" name="train-media" />。 ** 日比谷線:'''191,277人''' - 同線内では北千住駅、中目黒駅に次ぐ第3位。 ** 東西線:'''220,039人''' - 同線内では大手町駅、西船橋駅、日本橋駅に次ぐ第4位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="chuo">[https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/syokai/chuopocket.html 中央区ポケット案内] - 中央区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1999年(平成11年) |123,669 | |- |2000年(平成12年) |124,733 |0.9% |- |2001年(平成13年) |124,978 |0.2% |- |2002年(平成14年) |122,703 |&minus;1.8% |- |2003年(平成15年) |120,101 |&minus;2.1% |- |2004年(平成16年) |116,653 |&minus;2.9% |- |2005年(平成17年) |117,003 |0.3% |- |2006年(平成18年) |116,311 |&minus;0.6% |- |2007年(平成19年) |125,004 |7.4% |- |2008年(平成20年) |126,658 |1.3% |- |2009年(平成21年) |121,154 |&minus;4.3% |- |2010年(平成22年) |118,430 |&minus;2.2% |- |2011年(平成23年) |117,903 |&minus;0.4% |- |2012年(平成24年) |117,262 |&minus;0.5% |- |2013年(平成25年) |118,113 |0.7% |- |2014年(平成26年) |119,890 |1.5% |- |2015年(平成27年) |124,210 |3.6% |- |2016年(平成28年) |127,550 |2.7% |- |2017年(平成29年) |129,847 |1.8% |- |2018年(平成30年) |131,870 |1.6% |- |2019年(令和元年) |129,424 |&minus;1.9% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>87,899 |&minus;32.1% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>83,986 |&minus;4.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>94,538 |12.6% |} === 年度別1日平均乗車人員(1962年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !日比谷線 !東西線 !出典 |- |1962年(昭和37年) |<ref group="備考">1963年2月28日開業。開業日から同年3月31日までの計32日間を集計したデータ。</ref>5,205 |rowspan="5" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |8,472 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |14,678 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |20,291 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |21,854 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |20,120 |<ref group="備考">1967年9月14日開業。開業日から翌年3月31日までの計200日間を集計したデータ。</ref>12,348 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |47,362 |43,146 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |65,673 |64,663 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |71,225 |74,868 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |75,951 |77,634 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |75,414 |77,940 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |72,164 |76,178 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |49,710 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |51,555 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |22,786 |29,181 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |23,792 |30,027 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |22,578 |30,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |22,926 |30,434 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |22,663 |31,027 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |23,074 |31,816 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |23,438 |32,285 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |23,970 |34,087 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |25,214 |34,962 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |25,170 |35,608 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |26,315 |37,474 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |27,615 |39,210 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |28,855 |40,964 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |29,726 |42,542 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |30,329 |43,630 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |29,388 |41,292 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |29,227 |39,318 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |28,137 |39,529 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |27,688 |39,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |26,893 |38,426 |<ref 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group="乗降データ" name="chuo" /><ref group="乗降データ">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !年度!!日比谷線!!東西線!!出典 |- |2001年(平成13年) |25,397 |36,521 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |24,526 |35,978 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |23,669 |35,522 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |23,482 |35,605 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |23,797 |35,742 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |24,060 |35,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |25,511 |38,115 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |25,553 |38,877 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |24,397 |38,225 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |23,707 |36,581 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |23,710 |36,314 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |23,496 |36,167 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |23,589 |36,458 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |23,904 |36,945 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |24,486 |38,552 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |25,041 |39,658 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |25,701 |40,167 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |26,345 |40,556 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |25,915 |39,738 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|日本橋茅場町|日本橋兜町|新川 (東京都中央区)|日本橋小網町}} 兜町に近接するため、[[証券会社]]が多く立地する。また、大手企業の本社も多く立地する。しかし、[[1997年]]当時に業界大手であった[[山一證券]]が[[倒産#日本|経営破綻]]するという、いわゆる「山一ショック」以降、銀行や証券会社の統廃合や合併・解散、本社移転などが相次ぎ、世界三大金融街の一つと呼ばれながらその華やかさは失われつつある。 一方で茅場町駅は2路線が乗り入れ、隣駅で3路線乗り入れる[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]も地下通路で繋がるなど徒歩圏内であり、[[東京駅]]、[[羽田空港]]などの交通拠点や、[[東京ディズニーリゾート]]、[[日本武道館]]、[[浅草]]・[[浅草寺]]、[[東京スカイツリー]]など観光各地へのアクセスの良さから、駅周辺には[[ホテル#ビジネスホテル|ビジネスホテル]]が立ち並んでおり、出張客や観光客が宿泊に利用している。 * [[中央警察署 (東京都)|警視庁中央警察署]] * [[東京消防庁第一消防方面本部#日本橋消防署|東京消防庁日本橋消防署]] * 中央区新場橋区民館 * [[小網神社]] * [[東京証券取引所]] * [[日本証券金融]] * [[みずほ証券]]日本橋本店(旧:[[みずほインベスターズ証券]]本社) * [[SMBC日興証券]]本社 * [[極東証券]]本社 * [[だいこう証券ビジネス]]東京本部 * [[東京証券会館]] ** [[日本投資顧問業協会]] ** [[東京証券信用組合]]本店 *日本橋茅場町郵便局 *日本橋小網町郵便局 * 中央新川郵便局 * スマイルホテル東京日本橋(旧:ホテルユニバース日本橋茅場町) * [[京王プレッソイン]]茅場町 - [[構造計算書偽造問題]]により開業からわずか3か月で閉鎖・解体に追い込まれたが、約2年半後の2008年に再建した。 * 茅場町パールホテル - 食品卸会社・[[ユアサ・フナショク]]が展開するビジネスホテルチェーン * [[法華クラブ|アルモントイン]]東京日本橋 * [[ヴィラフォンテーヌ|ホテルヴィラフォンテーヌ]]茅場町 * [[相鉄フレッサイン]]日本橋茅場町 * [[日本IBM箱崎事業所|IBM箱崎ビル]] ** [[日本アイ・ビー・エム]]本社 * [[中央エフエム]](ギンザラジオシティ) * [[花王]]本社 * [[エスビー食品]]本社 * 日本[[ガーディアン・エンジェルス]]本部 * [[日清オイリオグループ]]本社 * [[プレナス]]東京本社 * [[日本保釈支援協会]] * [[永代通り]] * 新大橋通り([[東京都道・千葉県道50号東京市川線]]) * [[亀島川]] * [[日本橋川]] == バス路線 == 最寄り[[バス停留所]]は、[[東京都道・千葉県道10号東京浦安線|永代通り]]と平成通りにある'''「茅場町」'''、永代通りにある'''「兜町」'''、および平成通りにある'''「茅場町・兜町東証前」'''である。以下の[[路線バス]]が乗り入れ、[[都営バス|東京都交通局]](都営)、[[平和交通 (千葉県)|平和交通]](平和)、西岬観光(西岬)、[[日の丸自動車興業]](日の丸)により運行されている。 ; 茅場町 * [[都営バス江東営業所#東22系統|東22系統]]:東京駅丸の内北口行、[[千田 (江東区)|千田]]経由[[錦糸町駅]]行(都営) * [[都営バス臨海支所#錦11系統|錦11系統]]:[[築地駅]]行、[[日本橋浜町|浜町]]中の橋経由錦糸町駅行、[[亀戸駅]]行(都営) ; 兜町 * 東22系統:東京駅丸の内北口行、千田経由錦糸町駅前行(都営) * 深夜急行バス:[[鎌取駅]]・[[土気駅]]・[[大網駅]]経由山田インター行(平和) * 深夜急行バス:[[おゆみ野駅]]・[[ちはら台駅]]・[[八幡宿駅]]経由[[五井駅]]行(西岬) * 深夜急行バス:[[都賀駅]]・[[四街道駅]]・[[佐倉駅]]経由[[成田駅]]行(平和) * 深夜急行バス:[[西船橋駅]]・[[鎌ヶ谷駅]]・[[千葉ニュータウン]]経由[[印旛日本医大駅]]行(平和) * 深夜急行バス:幕張ベイエリア・[[検見川浜駅]]・[[稲毛海岸駅]]・[[稲毛駅]]経由西小中台団地行(平和) * 深夜急行バス:[[北習志野駅]]・[[八千代緑が丘駅]]・[[勝田台駅]]経由[[ユーカリが丘駅]]行(平和) * 深夜急行バス:[[下総中山駅|下総中山駅入口]]・[[原木中山駅|原木中山駅入口]]・[[谷津駅]]・[[津田沼駅]]・[[千葉駅|千葉駅東口]]経由[[蘇我駅|蘇我駅西口]]行(平和) ; 茅場町・兜町東証前 * [[メトロリンク日本橋#メトロリンク日本橋Eライン|メトロリンク日本橋Eライン]]:[[東京駅のバス乗り場#八重洲北口|東京駅八重洲口]]方面(日の丸) == その他 == {{出典の明記|section=1|date=2022年3月}} * かつては営団の他の駅とは異なる発車ブザー(6打点)が鳴っていたが、[[2003年]]10月の放送装置更新により、他の駅と同じブザーになっている。 * 日比谷線と東西線が交差する駅の構造上、東西線の門前仲町寄りと日比谷線の人形町寄りが混雑する。日本の地下鉄の中で混雑率がトップクラスの両線の接続駅であるため、朝ラッシュ時の混雑も日本の地下鉄でトップクラスとなっている。そのため、前述の通り混雑している部分を中心とした改良工事が行われる。 * 東西線の当駅から門前仲町駅方面に約430&nbsp;m向かった地点には防水ゲート(新川防水扉)が設置されている<ref name="Tozai-Const329">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.329・358 - 359・452 - 457。</ref>。これは、[[隅田川]]の増水時に[[トンネル]]内への浸水を防ぐためのもので、全断面を閉鎖することができる<ref name="Tozai-Const329"/>。 * 上野駅務管区茅場町地域は当駅と日比谷線[[人形町駅]]の2駅を管轄している。同駅開業時は人形町駅務区であったが、東西線茅場町駅の開業に伴い駅務区の機能を空間の広い当駅に移し、茅場町駅務区と改称した。 * [[新垣結衣]]出演の東京メトロの[[コマーシャルメッセージ|CM]]「メトロでアート」篇は、冒頭シーンが深夜の当駅で撮影されている。 == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 :* {{color|red|□}}[[THライナー]]停車駅(久喜行きは乗車のみ・恵比寿行きは降車のみの取扱い) :: {{Color|#b5b5ac|■}}THライナー以外の列車<!--日比谷線ではTHライナー以外種別案内をしていないため--> ::: [[八丁堀駅]] (H 12) - '''茅場町駅 (H 13)''' - [[人形町駅]] (H 14) : [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線([[東陽町駅|東陽町]]以西は全列車が各駅に停車) ::: [[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]] (T 10) - '''茅場町駅 (T 11)''' - [[門前仲町駅]] (T 12) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} === 利用状況 === ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}} == 関連項目 == {{commonscat|Kayabachō Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/kayabacho/index.html 茅場町駅/H13/T11 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{東京メトロ日比谷線}} {{東京メトロ東西線}} {{DEFAULTSORT:かやはちよう}} [[Category:東京都中央区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|やはちよう]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1963年開業の鉄道駅]]
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コスラエ語
コスラエ語(コスラエご、またはコシャエ語)は、ミクロネシア連邦のコスラエ島で話されている言語。コスラエ島では日常語としてコスラエ語が使われているが、公用語として英語も使われている。ただし、コスラエ島は1つの島で行政単位のコスラエ州を構成しているため、年輩の女性などの中にはコスラエ語以外を解さない住民も多い。 言語としては比較的簡単な部類と言われる。不規則な変化や活用は少ない。時制もなく、文脈から判断する。 日本語を語源とする単語も多数ある。(例:自動車、一等、野球、100メートル、がんばれ)
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コスラエ語(コスラエご、またはコシャエ語)は、ミクロネシア連邦のコスラエ島で話されている言語。コスラエ島では日常語としてコスラエ語が使われているが、公用語として英語も使われている。ただし、コスラエ島は1つの島で行政単位のコスラエ州を構成しているため、年輩の女性などの中にはコスラエ語以外を解さない住民も多い。 言語としては比較的簡単な部類と言われる。不規則な変化や活用は少ない。時制もなく、文脈から判断する。 日本語を語源とする単語も多数ある。(例:自動車、一等、野球、100メートル、がんばれ)
{{Infobox language |name=コスラエ語 |altname=コシャエ語 |states={{FSM}} |region=[[コスラエ州]] |speakers=9,000人 (2001年) |familycolor=Austronesian |fam2=[[マレー・ポリネシア語派]] |fam3=[[大洋州諸語]] |fam4=[[ミクロネシア諸語]] |fam5=中核ミクロネシア諸語 |nation=[[ミクロネシア連邦]] |iso2=kos |iso3=kos |vitality=重大 }} '''コスラエ語'''(コスラエご、または'''コシャエ語''')は、[[ミクロネシア連邦]]の[[コスラエ島]]で話されている[[言語]]。コスラエ島では[[日常語]]としてコスラエ語が使われているが、[[公用語]]として[[英語]]も使われている。ただし、コスラエ島は1つの島で行政単位の[[コスラエ州]]を構成しているため、年輩の女性などの中にはコスラエ語以外を解さない住民も多い。 言語としては比較的簡単な部類と言われる。不規則な変化や活用は少ない。時制もなく、文脈から判断する。 日本語を語源とする単語も多数ある。(例:自動車、一等、野球、100メートル、がんばれ) {{オーストロネシア語族}} {{language-stub}} {{FM-stub}} {{DEFAULTSORT:こすらえこ}} [[Category:ミクロネシア連邦の言語]] [[Category:ミクロネシア諸語]] [[Category:コスラエ州]]
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ハルワタート
ハルワタート (Haurvatāt) とは、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。 その名はアヴェスター語で「完全」を意味する。 パフラヴィー語、現代ペルシア語では、ホルダード (Hordād, Xordād) と呼ばれる。アルメニアではこの名前を借用し、ハロウト花として民間祭儀に使用した。イスラム教ではハールートという天使の伝承に変化した。 女神と考えられ、同じく女神のアムルタートと密接不可分とされる。また、水を司るとされ、悪神タルウィ(熱)の敵対者である。また、規則正しい季節も司る。 スプンタ・マンユが創造した世界の七つの要素のうちの水の守護神とされる。
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ハルワタート (Haurvatāt) とは、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。 その名はアヴェスター語で「完全」を意味する。 パフラヴィー語、現代ペルシア語では、ホルダード と呼ばれる。アルメニアではこの名前を借用し、ハロウト花として民間祭儀に使用した。イスラム教ではハールートという天使の伝承に変化した。 女神と考えられ、同じく女神のアムルタートと密接不可分とされる。また、水を司るとされ、悪神タルウィ(熱)の敵対者である。また、規則正しい季節も司る。 スプンタ・マンユが創造した世界の七つの要素のうちの水の守護神とされる。
{{出典の明記|date=2016年10月15日 (土) 11:38 (UTC)}} {{Zoroastrianism}} '''ハルワタート''' ('''Haurvatāt''') とは、[[ゾロアスター教]]において崇拝される[[神|善神]][[アムシャ・スプンタ]]の一柱。 その名は[[アヴェスター語]]で「完全」を意味する。 [[パフラヴィー語]]、現代[[ペルシア語]]では、'''ホルダード''' ('''Hord&#x0101;d''', '''Xord&#x0101;d''') と呼ばれる。[[アルメニア]]ではこの名前を借用し、'''ハロウト'''花として民間祭儀に使用した。[[イスラム教]]では'''ハールート'''という天使の伝承に変化した。 女神と考えられ、同じく女神の[[アムルタート]]と密接不可分とされる。また、水を司るとされ、悪神[[タルウィ]](熱)の敵対者である。また、規則正しい季節も司る。 [[スプンタ・マンユ]]が創造した世界の七つの要素のうちの水の守護神とされる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{節スタブ|1=脚注形式での参照ページ番号の明記|date=2016年10月15日 (土) 11:38 (UTC)}} == 参考文献 == <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--> {{節スタブ|date=2016年10月15日 (土) 11:38 (UTC)}} {{デフォルトソート:はるわたあと}} [[Category:アムシャ・スプンタ]] [[category:水神]]
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アムルタート
アムルタート (Amərətāt) とは、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。 その名はアヴェスター語で「不滅」を意味する。 パフラヴィー語ではアムルダード (Amurdād)、現代ペルシア語でモルダード (Mordād) と呼ばれる。アルメニアではこの名前を借用し、マロウト花として民間祭儀に使用した。イスラム教ではマールートという天使の伝承に変化した。 女神と考えられ、同じく女神のハルワタートと密接不可分とされる。また、食物を司るとされ、悪神ザリチュ(渇き)の敵対者である。 スプンタ・マンユが創造した世界の七つの要素のうちの植物の守護神とされる。
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南京事件 (1927年)
南京事件(ナンキンじけん)は、1927年(昭和2年)3月24日、北伐の途上において、蔣介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)が南京を占領した際に発生した、日本・アメリカ・イギリスの領事館や居留民に対する暴行・略奪・殺害事件。北伐軍(国民党または共産党)、南京撤退時の軍閥、南京住民のいずれかによるものとされるが、アメリカとイギリスは北伐軍の仕業とみなして報復攻撃をおこない、中国側にも多数の死傷者が出た。国民党と共産党が分裂する契機となった。 1927年3月21日、蔣介石の国民革命軍は上海を占領し、南京攻略を目指して3月23日に南京城を包囲した。 張宗昌ら直魯連合軍8万は戦わずに退却し、市民も逃げ惑い、南京城内は混乱した。 3月22日朝、日本海軍は荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊10人を機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて駆逐艦檜から上陸させた。しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蔣介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した。機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった。荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された。 南京在留日本側は、掠奪暴行が予想されたので3月22日に婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、本館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した。 1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蔣介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、「華俄一家」(「ソ連と中国は一家である」の意)、「日英帝国主義打倒」を連呼するなど反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。 フランス人宣教師が2名殺害された。アメリカ人で金陵大学副校長イーゼーウィリアム博士も殺害された。そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された。また婦人も陵辱された。 日本領事館は国民党軍が規律正しいと聞いていたので、蔣介石軍が入城した際も安心していた。そこで、防衛のための土嚢や機関銃を撤去し、開門して国民党軍を受け入れた。 また、倉庫には小銃30挺が保管されていたが、それらの上に荷物を山積みしており、即座に使えるようには準備されていなかった。当時の記録によると、この時に入場した国民党軍は便衣隊であったかもしれないとも書いている。 中国軍一個中隊は正門から闖入すると、歩哨に立っていた西原二等兵曹に銃剣を突き付け、殴り付けた。中国軍は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた。救援にかけつけた数名の海軍陸戦隊員も銃剣を突き付けられ、時計や財布を掠奪された。 その後、中国軍は、本館を襲撃して電話機や器物を破壊し、金庫を開けろと木村領事館警察署長に命じたが、応じなかったので発砲し、署長は右腕を負傷した。 領事館舎の2階にいた根本博陸軍武官(少佐)に対して、中国兵は室内に入るや否や頭をめがけて発砲したが、逸れた。しかし腹を撃たれたうえ、1階に飛び降りようとしたところに銃剣で臀部を突き刺され、突き落とされた。さらに、室内に残っていた領事夫妻らに向かって、中国兵は「金を出せ」「金庫を開けろ」「出さねば殺すぞ」と罵りながら、所持品を奪い、領事夫人は服を脱がされた。 寝室の領事専用金庫は破壊され、貴重品はすべて持ち去られた。さらに中国兵に後続して、南京の老若男女の住民、苦力らが押し寄せ、電球、電線、装飾器具、炊事道具、風呂桶、便器まで持ち去った。 日本人は衣服を脱がされ、それらの衣服も持ち去られた。強奪は朝7時から午後1時すぎまで打ち通しに行われた。 その後、第2軍政治部蔣勁、師長戴岱がやってきて「我が国民軍は外国人に危害は加えない。今日、諸君を苦しめたのは確かに北軍の所為である」と述べた。 荒木大尉は、反撃すると日本人避難民に危険が及ぶと考え、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。 日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという。 領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された。 また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった。宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した。中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日) 松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた。 事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという。 領事館を含む事件の惨状に立ち会った佐々木到一中佐は、その時の被害状況を以下のように記している。 3月24日、中国兵は南京在留のイギリス人18人、アメリカ人130人を捕らえた。イギリスとアメリカ両海軍が引き渡しを要求したが、中国側は拒否した。同日、南京錠泊中のアメリカ軍とイギリス軍の艦艇(軽巡洋艦1、駆逐艦及び砲艦数隻)は午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。 外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蔣介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蔣介石の敵を利するものだとして、幣原喜重郎外相は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。 日本は駆逐艦檜、桃、濱風を碇泊させていたが、虐殺を誘致するおそれありとして一発も砲撃せず、3月25日朝、警備強化のため荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊90人を上陸させた。領事館の避難民らは、イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため、増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。 しかし、日本海軍が南京市内を砲撃しなかったことに対して、日本側の思惑とは反対に中国民衆は日本の軍艦は弾丸がない、案山子、張子の虎として嘲笑した。海軍陸戦隊が中国兵によって武を汚されたことは第一遣外艦隊司令部において問責され、荒木大尉は拳銃自殺を図ったが、一命を取り留めた。 事件の反響を恐れた日本政府は「我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名もなし」とうそを発表したため、南京の日本人居留民は憤慨し、中国の横暴を伝える大会を開こうとしたが、日本政府によって禁じられた。 英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本がこの時に全く何の威嚇も砲撃対処もしなかったことが、中国がその後日本を舐めてかかってくる原因にもなったと言われる。 まもなく4月3日には漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される漢口事件が引き起こされた。 蘇州でも日本人が監禁された。 3月29日、蔣介石は、九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蔣介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。 4月12日、南京の国民革命軍総指令・蔣介石は、上海に戒厳令を布告した。いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。この際、共産党指導者90名余りと共産主義者とみなされた人々が処刑された。。また、英国は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した(アルコス事件参照)。 武漢政府が容共政策放棄を声明し、南京に国民統一政府が組織されると、1928年4月にアメリカ合衆国、8月にイギリス、10月にフランスとイタリア、1929年4月に日本と、それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。 蔣介石によれば、この事件はあえて外国の干渉をさそって蔣介石を倒す中国共産党の計画的策謀とし、事件のかげにはソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて、第6軍政治部主任林祖涵と、第2軍政治部主任李富春は共産分子であり、軍長の程潜は彼らにあやつられていたとする。事件前夜の3月23日にソ連の顧問ミハイル・ボロディンが武漢で招集した中央政治委員会で、林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう提案していたとするものである。 また日本側の記録『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』でも、「共産党の計画的暴挙」であったとされている。 南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動(間接侵略)があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。 4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離(離間工作)すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており、「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である。5月12日、ロンドンのソ連貿易会社アルコスが捜索された(アルコス事件)。 4月9日、ソ連は中華民国に対し国交断絶を伝えた。 国民党は日本の無抵抗主義を宣伝したため、この事件は多くの中国人に知られるようになり、中国人は日本を見下すようになったという意見がある。同年4月には漢口事件が発生した。翌年1928年5月には済南事件が起こり多くの日本人が虐殺された。 1924年の加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎は、幣原三原則を基本とした親善政策である「幣原外交」を展開していた。しかし、南京事件や漢口事件などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。金融恐慌の中、事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると、田中義一が首相と外相を兼任、かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた外務政務次官・森恪がその政策の背後にあり、日本の対中外交は一変した。
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"外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蔣介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蔣介石の敵を利するものだとして、幣原喜重郎外相は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。", "title": "日本の対応" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本は駆逐艦檜、桃、濱風を碇泊させていたが、虐殺を誘致するおそれありとして一発も砲撃せず、3月25日朝、警備強化のため荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊90人を上陸させた。領事館の避難民らは、イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため、増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。", "title": "日本の対応" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、日本海軍が南京市内を砲撃しなかったことに対して、日本側の思惑とは反対に中国民衆は日本の軍艦は弾丸がない、案山子、張子の虎として嘲笑した。海軍陸戦隊が中国兵によって武を汚されたことは第一遣外艦隊司令部において問責され、荒木大尉は拳銃自殺を図ったが、一命を取り留めた。", "title": "日本の対応" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "事件の反響を恐れた日本政府は「我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名もなし」とうそを発表したため、南京の日本人居留民は憤慨し、中国の横暴を伝える大会を開こうとしたが、日本政府によって禁じられた。", "title": "日本の対応" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本がこの時に全く何の威嚇も砲撃対処もしなかったことが、中国がその後日本を舐めてかかってくる原因にもなったと言われる。", "title": "日本の対応" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "まもなく4月3日には漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される漢口事件が引き起こされた。", "title": "日本の対応" }, { 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"事件の原因" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また日本側の記録『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』でも、「共産党の計画的暴挙」であったとされている。", "title": "事件の原因" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に共産党とソ連の策動(間接侵略)があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離(離間工作)すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており、「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である。5月12日、ロンドンのソ連貿易会社アルコスが捜索された(アルコス事件)。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "4月9日、ソ連は中華民国に対し国交断絶を伝えた。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国民党は日本の無抵抗主義を宣伝したため、この事件は多くの中国人に知られるようになり、中国人は日本を見下すようになったという意見がある。同年4月には漢口事件が発生した。翌年1928年5月には済南事件が起こり多くの日本人が虐殺された。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1924年の加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎は、幣原三原則を基本とした親善政策である「幣原外交」を展開していた。しかし、南京事件や漢口事件などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。金融恐慌の中、事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると、田中義一が首相と外相を兼任、かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた外務政務次官・森恪がその政策の背後にあり、日本の対中外交は一変した。", "title": "事件の影響" } ]
南京事件(ナンキンじけん)は、1927年(昭和2年)3月24日、北伐の途上において、蔣介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)が南京を占領した際に発生した、日本・アメリカ・イギリスの領事館や居留民に対する暴行・略奪・殺害事件。北伐軍(国民党または共産党)、南京撤退時の軍閥、南京住民のいずれかによるものとされるが、アメリカとイギリスは北伐軍の仕業とみなして報復攻撃をおこない、中国側にも多数の死傷者が出た。国民党と共産党が分裂する契機となった。
{{Otheruses|1927年の事件|その他|南京事件 (曖昧さ回避)}} {{Infobox military conflict | conflict = 南京事件 | image = National Government of the R.O.C.jpg | image_size = 300px | caption = 南京、1927年 | partof = [[北伐 (中国国民党)|北伐]] | date = 1927年3月21–27日 | place = [[中華民国]][[江蘇省]][[南京]] | result = | combatant1 = {{flag|United Kingdom}}<br/>{{flag|United States|1912}} <br/>{{flag|Japan|1870}}<br/>その他イタリア・オランダなど | combatant2 = {{flagicon2|中華民国|army}}[[国民革命軍]] | commander1 = {{flagicon|United Kingdom|naval}} [[:en:Sir Reginald Tyrwhitt, 1st Baronet|Sir Reginald Tyrwhitt]]<br/>{{flagdeco|United States|1912}} [[:en:Roy C. Smith|Roy C. Smith]]<br/>[[File:Naval Ensign of Japan.svg|22px]][[荒城二郎]] | commander2 = {{flagicon2|中華民国|army}} [[程潜]] | strength1 = 重巡洋艦1<br/>軽巡洋艦2<br/>駆逐艦15隻<br/>その他砲艦多数など | strength2 = - | casualties1 = 死者9名<br/>行方不明者2名 | casualties2 = 市街地に被害<br/>死者多数 | notes = }} '''南京事件'''(ナンキンじけん)は、[[1927年]]([[昭和]]2年)[[3月24日]]、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]の途上において、[[蔣介石]]の[[国民革命軍]]の第2軍と第6軍を主力とする[[江右軍]](総指揮・[[程潜]])<ref>蔣介石秘録7</ref>が[[南京市|南京]]を占領した際に発生した、[[日本]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]の[[領事館]]や居留民に対する暴行・略奪・殺害事件<ref name="kotobank">{{Cite kotobank|南京事件|encycropedia=|}}</ref>。 北伐軍([[中国国民党|国民党]]または[[中国共産党|共産党]])、南京撤退時の軍閥、南京住民のいずれかによるものとされる<ref name="kotobank"/>。 [[ファイル:IJN Hinoki at Wuhan Taisho 12.jpg|thumb|海軍陸戦隊を派遣した[[第24駆逐隊]][[檜 (桃型駆逐艦)|駆逐艦檜]]]] [[ファイル:USS Noa (DD-343).jpg|thumb|事件で活躍したアメリカ海軍[[クレムソン級駆逐艦]]「[[ノア (DD-343)|ノア]]([[:en:USS Noa (DD-343)|en]])」]] [[ファイル:HMS Vindictive cruiser.jpg|thumb|事件で活躍したイギリス海軍練習艦「[[ヴィンディクティヴ (空母)|ヴィンディクティヴ]]」]] ==事件の経過== === 事件前 === *[[1919年]]、[[第一次世界大戦]]後、[[五四運動]]発生。 *[[1924年]]、[[第一次国共合作]]。 *[[1926年]][[3月20日]]、[[中山艦事件]] *[[1926年]][[7月1日]]、蔣介石が[[北伐 (中国国民党)|北伐宣言]]で北伐開始。 ==== 蔣介石・国民革命軍 ==== [[1927年]][[3月21日]]、[[蔣介石]]の[[国民革命軍]]は上海を占領し、南京攻略を目指して3月23日に南京城を包囲した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=4}}。 ==== 張宗昌・直魯連合軍 ==== [[張宗昌]]ら直魯連合軍8万は戦わずに退却し、市民も逃げ惑い、南京城内は混乱した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=4}}。 ==== 南京在留日本 ==== [[3月22日]]朝、日本海軍は[[荒木亀男]][[大尉]]指揮下の[[海軍陸戦隊]]10人を機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて[[檜 (桃型駆逐艦)|駆逐艦檜]]から上陸させた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=7}}。しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蔣介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=7}}。機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=7}}。荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=7}}。 南京在留日本側は、掠奪暴行が予想されたので[[3月22日]]に婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、本館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=5}}。 === 事件の発生 === [[1927年]](昭和2年)[[3月24日]]早朝、国民軍総司令[[蔣介石]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍が[[南京市|南京]]に入城した。その軍長は[[程潜]]であった<ref>[[#もうひとつの南京事件|『もうひとつの南京事件-日本人遭難者の記録』]]52頁</ref>。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、「華俄一家」(「ソ連と中国は一家である」の意)、「日英帝国主義打倒」を連呼するなど反[[帝国主義]]を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の[[領事館]]や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い<ref name="mizu">{{Harvnb|水間|2015|pp=6-9}}</ref>、[[日本]]1人(後述の[[ハルク (船舶)|宿泊船]]警備の海軍兵)<ref name=asahi19270330>「[{{新聞記事文庫|url|0100081761|title=全身血を浴びて倒れた根本少佐と木村署長 : 鬨を揚げて押寄せた暴兵|oldmeta=00789375}} 全身血を浴びて倒れた根本少佐と木村署長 鬨を揚げて押寄せた暴兵]」 『[[大阪朝日新聞]]』 1927年3月30日 ([[神戸大学]]経済経営研究所 新聞記事文庫 国際労働問題(9-026))</ref>、[[イギリス]]3人<ref name=asahi19270330/>、[[アメリカ合衆国]]1人<ref name=asahi19270330/>、[[イタリア]]1人、[[デンマーク]]1人の死者、2人の行方不明者が出た。 [[フランス人]][[宣教師]]が2名殺害された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=34}}。アメリカ人で金陵大学副校長イーゼーウィリアム博士も殺害された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=38}}。そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=38}}。また婦人も陵辱された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=38}}。 === 日本領事館での暴行 === 日本領事館は国民党軍が規律正しいと聞いていたので、蔣介石軍が入城した際も安心していた。そこで、防衛のための土嚢や機関銃を撤去し、開門して国民党軍を受け入れた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=6}}。 また、倉庫には小銃30挺が保管されていたが、それらの上に荷物を山積みしており、即座に使えるようには準備されていなかった{{sfn|中支被難者連合会|1927|pp=7-8}}。当時の記録によると、この時に入場した国民党軍は'''[[便衣兵|便衣隊]]'''であったかもしれないとも書いている{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=6}}。 中国軍一個中隊は正門から闖入すると、歩哨に立っていた西原[[二等兵曹]]に銃剣を突き付け、殴り付けた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=6}}。中国軍は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら[[銃剣]]で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた<ref name=asahi19270330/>。救援にかけつけた数名の海軍陸戦隊員も銃剣を突き付けられ、時計や財布を掠奪された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=6}}。 その後、中国軍は、本館を襲撃して電話機や器物を破壊し、金庫を開けろと木村[[領事館警察]]署長に命じたが、応じなかったので発砲し、署長は右腕を負傷した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=9}}。 領事館舎の2階にいた[[根本博]]陸軍武官(少佐)に対して、中国兵は室内に入るや否や頭をめがけて発砲したが、逸れた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=12}}。しかし腹を撃たれたうえ、1階に飛び降りようとしたところに銃剣で臀部を突き刺され、突き落とされた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=12}}。さらに、室内に残っていた領事夫妻らに向かって、中国兵は「金を出せ」「金庫を開けろ」「出さねば殺すぞ」と罵りながら、所持品を奪い、領事夫人は服を脱がされた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=13}}。 寝室の領事専用金庫は破壊され、貴重品はすべて持ち去られた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=13}}。さらに中国兵に後続して、南京の老若男女の住民、苦力らが押し寄せ、電球、電線、装飾器具、炊事道具、風呂桶、便器まで持ち去った{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=13}}。 日本人は衣服を脱がされ、それらの衣服も持ち去られた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=14}}。強奪は朝7時から午後1時すぎまで打ち通しに行われた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=15}}。 その後、第2軍政治部蔣勁、師長戴岱がやってきて「我が国民軍は外国人に危害は加えない。今日、諸君を苦しめたのは確かに北軍の所為である」と述べた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=16}}。 荒木大尉は、反撃すると日本人避難民に危険が及ぶと考え、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=7}}<ref name="sasaki">[[佐々木到一]]『ある軍人の自伝』 普通社〈中国新書〉、1963年。</ref>、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。 日本側の報道によると、駆逐艦「[[檜 (桃型駆逐艦)|檜]]」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば[[尼港事件]]のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという<ref name=asahi19270330/>。 === 領事館外での暴行 === 領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤[[伍長|三等]][[機関科|機関]][[兵曹]]は狙撃により射殺された<ref name=asahi19270330/>。 また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=26}}。宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=27}}。中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=28}}。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日) 松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=34}}。 事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという<ref>『南京漢口事件真相』</ref>。 領事館を含む事件の惨状に立ち会った[[佐々木到一]]中佐は、その時の被害状況を以下のように記している<ref name="sasaki"/><ref name="mizu"/>。 {{Quotation|領事が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良夫の前で裸にし、薪炭車に連行して27人が輪姦したとか、30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、現に我が駆逐艦に収容されて治療を受けた者が10数名いる……警察署長は射撃され瀕死の重傷を負った。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を覆うていなければならなかった。|[[佐々木到一]]『ある軍人の自伝』<ref name="sasaki"/><ref name="mizu"/>}} ==アメリカ・イギリスの対応== [[3月24日]]、中国兵は南京在留のイギリス人18人、アメリカ人130人を捕らえた。イギリスとアメリカ両海軍が引き渡しを要求したが、中国側は拒否した<ref>日本領事館・邦人商店も略奪される『大阪毎日新聞』昭和2年3月26日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p539 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。同日、この出来事と南京事件を北伐軍の仕業とみなし、南京錠泊中の[[アメリカ軍]]と[[イギリス軍]]の艦艇(軽巡洋艦1、駆逐艦及び砲艦数隻)は午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている<ref name="kotobank"/>。国民党と共産党が分裂する契機となった<ref name="kotobank"/>。 == 日本の対応 == === 幣原喜重郎外相 === 外務省は事件当初から、森岡領事から受けた、[[共産党]]の計画による組織的な排外暴動であるとの報告により、南京事件が蔣介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが、列強が強行策をとれば蔣介石の敵を利するものだとして、[[幣原喜重郎]]外相は一貫して[[幣原外交|不干渉政策]]をとり、列強を説得した<ref name=is>石川禎浩『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p26-29</ref>。 === 日本海軍 === 日本は駆逐艦[[檜 (桃型駆逐艦)|檜]]、[[桃 (桃型駆逐艦)|桃]]、濱風を碇泊させていたが、虐殺を誘致するおそれありとして一発も砲撃せず、3月25日朝、警備強化のため[[荒木亀男]][[大尉]]指揮下の海軍陸戦隊90人を上陸させた<ref name=asahi19270330/>。{{要出典範囲|領事館の避難民らは、イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため、増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された|date=2023年5月}}<!-- 砲撃前には収容できていない。 -->。 しかし、日本海軍が南京市内を砲撃しなかったことに対して、日本側の思惑とは反対に中国民衆は日本の軍艦は弾丸がない、[[案山子]]、[[張子の虎]]として嘲笑した<ref name=sanematsu25-27/>。海軍陸戦隊が中国兵によって武を汚されたことは[[第一遣外艦隊]]司令部において問責され、荒木大尉は拳銃自殺を図ったが、一命を取り留めた<ref name=sanematsu25-27>{{Cite book|和書|date=1989|title=米内光政秘書官の回想|author=実松譲|authorlink=実松譲|pages= 25-27|publisher=[[光人社]]}}</ref>。 事件の反響を恐れた日本政府は「我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名もなし」とうそを発表したため、南京の日本人居留民は憤慨し、中国の横暴を伝える大会を開こうとしたが、日本政府によって禁じられた<ref name="#1">拳骨拓史『「反日思想」歴史の真実』</ref>。 英米が中国兵や暴民を威圧砲撃したのに反し、日本がこの時に全く何の威嚇も砲撃対処もしなかったことが、中国がその後日本を舐めてかかってくる原因にもなったと言われる<ref name="mizu"/>。 まもなく[[4月3日]]には漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される[[漢口事件]]が引き起こされた。 蘇州でも日本人が監禁された{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=59-64}}。 == 中華民国の声明 == [[3月29日]]、蔣介石は、[[九江市|九江]]より[[上海市|上海]]に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、[[排外主義]]を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蔣介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が[[不平等条約]]の存在にあるとし、紛糾した。 === 上海クーデター=== [[4月12日]]、南京の[[国民革命軍]]総指令・蔣介石は、上海に戒厳令を布告した。いわゆる、[[上海クーデター|四・一二反共クーデター(上海クーデター)]]である。この際、共産党指導者90名余りと[[共産主義]]者とみなされた人々が処刑された<ref name=is/>。<ref>当時の革命ロシア(ソ連)側の立場から蔣介石を糾弾するプロパガンダ映画、『上海ドキュメント』(Шанхайский документ,Shangkhaiskii Dokument,[http://www.youtube.com/watch?v=2mOeJjON_iI Shanghai Document],ヤコフ・ブリオフ監督 1928年)に共産党弾圧の様子が記録されている。</ref>。また、英国は、南京事件は[[コミンテルン]]の指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日<ref>[[ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付]]</ref>、ソ連と断交した([[アルコス (ソ連)#アルコス事件|アルコス事件]]参照)。 [[武漢国民政府|武漢政府]]が[[容共]]政策放棄を声明し、南京に国民統一政府が組織されると、[[1928年]]4月にアメリカ合衆国、8月にイギリス、10月にフランスとイタリア、[[1929年]]4月に日本と、それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。 == 事件の原因 == 蔣介石によれば、この事件はあえて外国の干渉をさそって蔣介石を倒す[[中国共産党]]の計画的策謀とし、事件のかげには[[ソビエト連邦|ソ連]]の顧問[[ミハイル・ボロディン]]がいて、第6軍政治部主任[[林祖涵]]と、第2軍政治部主任[[李富春]]は共産分子であり、軍長の程潜は彼らにあやつられていたとする<ref name="#2">[[蔣介石秘録]]7</ref>。事件前夜の[[3月23日]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の顧問[[ミハイル・ボロディン]]が[[武漢市|武漢]]で招集した[[中央政治委員会]]で、林祖涵は程潜を[[江蘇政務委員会]]の主席にするよう提案していたとするものである<ref name="#2"/>。 また日本側の記録『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』でも、「共産党の計画的暴挙」であったとされている{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=37}}。 ==事件の影響== === ソ連大使館捜索 === {{See also|張作霖#張による北京のソ連大使館捜索}} 南京事件の[[北京市|北京]]への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に[[共産党]]と[[ソ連]]の策動([[間接侵略]])があるとして日英米仏など七カ国[[外交団]]が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。 [[4月6日]]には[[張作霖]]により[[張作霖#張による北京のソ連大使館捜索|ソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索]]が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された<ref>ソ連は「[[義和団の乱|北清事変]]」議定書を破棄していたので、中国側の捜査を拒むことができないとされた。</ref>。押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。その内容とは、外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離(離間工作)すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており、「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である<ref>[[児島襄]]『日中戦争1』文春文庫p.83。</ref>。[[5月12日]]、ロンドンのソ連貿易会社アルコスが捜索された([[アルコス事件]])。 ===中ソ国交断絶=== [[4月9日]]、ソ連は中華民国に対し国交断絶を伝えた。 {{See also|張作霖#ソ連大使館捜索の影響|在華ソビエト軍事顧問団}} === 日中関係 === 国民党は日本の無抵抗主義を宣伝したため、この事件は多くの中国人に知られるようになり、中国人は日本を見下すようになったという意見がある<ref name="mizu"/>。同年4月には[[漢口事件]]が発生した。翌年[[1928年]]5月には[[済南事件]]が起こり多くの日本人が虐殺された<ref name="#1"/><ref name="mizu"/>。 [[1924年]]の[[加藤高明]]内閣の外相・[[幣原喜重郎]]は、幣原三原則を基本とした親善政策である「[[幣原外交]]」を展開していた。しかし、南京事件や[[漢口事件]]などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。金融恐慌の中、事件直後の4月[[若槻禮次郎]]内閣が総辞職すると、[[田中義一]]が首相と外相を兼任、かねてから中国より[[東北三省]]を切り離すことを主張していた[[外務政務次官]]・[[森恪]]がその政策の背後にあり、日本の対中外交は一変した。 == 資料 == *当時の記録として、中支被難者連合会『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』岡田日栄堂、1927年(昭和2年)がある。[[漢口事件]]についても書かれている(p79-156)。そのほか、長沙(p157-167)、宜昌(p168-174、重慶(p175-195)などについても記録されている。[[2006年]]、[[田中秀雄]]によって『もうひとつの南京事件-日本人遭難者の記録』(芙蓉書房出版)として復刻された。 *外務省「南京事件の発生と我方の措置」3月26日外務省{{sfn|中支被難者連合会|1927|p=196-200}}。 == 関連作品 == *映画[[上海ドキュメント]]([[1928年]]、[[ソ連]]) *映画[[砲艦サンパブロ]] == 脚注 == {{Reflist|3}} ==参考文献== *{{Citation |和書 |author=中支被難者連合会 |date=1927 |title=[{{NDLDC|1191533}} 南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記] |publisher=岡田日栄堂 }} *『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の復刻:<span id="もうひとつの南京事件"></span>[[田中秀雄]]編集『もうひとつの南京事件-日本人遭難者の記録』(芙蓉書房出版、[[2006年]]6月)ISBN 4829503815 *サンケイ新聞社『[[蔣介石秘録]](上):改訂特装版』(サンケイ出版、1985年)ISBN 438302422X *[[児島襄]]『日中戦争1』(文春文庫、1988年)ISBN 4167141299 *[[FredericVincentWilliams]]『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』田中秀雄訳(芙蓉書房出版、2009年) ISBN 978-4-8295-0467-3 *『大百科事典』平凡社、昭和13年(「ナンキンジケン」の項) *[http://query.nytimes.com/search/sitesearch?query=nanking+1927&more=date_all New York Times :serch "Nanking 1927"] *{{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2015-03 |title=ひと目でわかる「日の丸で歓迎されていた」日本軍 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569824802 |ref={{Harvid|水間|2015}}}} ==関連項目== *[[漢口事件]] *[[通州事件]] *[[通化事件]] *[[山東出兵]] *[[万県事件]] *[[済南事件]] *[[中国共産党]] *[[反共]] *[[尼港事件]] *[[義和団の乱]] - 南京事件が起こった時に欧米で思い起こされた事件 *[[南京事件 (1913年)]] *[[南京事件]] (1937年) - [[南京事件論争]] == 外部リンク == *[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/165686/m0u/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6/ goo辞書(デジタル大辞泉)] *[https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6/ yahoo!百科事典] {{中華民国の軍閥}} {{大日本帝国の戦争}} {{アメリカの戦争}} {{反日}} {{DEFAULTSORT:なんきんしけん1927}} [[Category:昭和時代戦前の事件]] [[Category:日中軍事関係]] [[Category:日中関係史]] [[Category:中国の戦争犯罪]] [[Category:日本人の国外犯罪被害]] [[Category:中国の事件]] [[Category:南京の歴史|しけん1927]] [[Category:中華民国の戦闘 (1912年-1949年)]] [[Category:イギリスの戦闘]] [[Category:アメリカ合衆国の戦闘]] [[Category:ロシアの工作活動]] [[Category:1927年の中国]] [[Category:1927年の戦闘]] [[Category:中国共産党の歴史]] [[Category:1927年3月]] [[Category:北伐 (中国国民党)]] [[Category:在外公館襲撃事件]]
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カロン
カロン カロン(Charon、Caron、Chalon、Calone) 漫画・アニメ コンピュータゲーム
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カロン カロン(kalon)- 古典ギリシア語で外形だけではなく内容や中身まで含めた美しさを表す言葉。→美#哲学における美 モハメド・カロン - シエラレオネ出身のサッカー選手。 カロンFC - モハメド・カロンがフリータウンに設立したサッカークラブ。 カロン - 1642年に成立したチベットの政府ガンデンポタンの大臣。
'''カロン''' * カロン(kalon)- 古典ギリシア語で外形だけではなく内容や中身まで含めた美しさを表す言葉。→[[美#哲学における美]] * [[モハメド・カロン]] - [[シエラレオネ]]出身のサッカー選手。 * [[カロンFC]] - モハメド・カロンが[[フリータウン]]に設立した[[サッカー]]クラブ。 * カロン(bka' blon) - [[1642年]]に成立した[[チベット]]の政府[[ガンデンポタン]]の大臣。 == ギリシア神話の「カロン」に由来する項目 == '''カロン'''(Charon、Caron、Chalon、Calone) * [[カローン]] - [[ギリシア神話]]に登場する[[冥府]]の河[[アケローン川|アケロン]]の渡し守。 * [[カロン (衛星)]] - [[冥王星]]の[[衛星]]。 <!-- * [[カロン (化学)]] - 香料の1つ。 解除は項目作成後に --> * [[カロン (ねごとの曲)]] - 音楽グループ、[[ねごと]]のシングル。 ; 架空のキャラクター 漫画・アニメ * 天間星アケローンのカロン - 漫画『[[聖闘士星矢]]』の登場人物。[[冥闘士#カロン]]を参照。 * カロン - テレビアニメ『[[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]]』の登場キャラクター。[[ケロロ軍曹の登場人物一覧#冥王星関連]]を参照。 * レディ・かろん - テレビアニメ『[[レディ ジュエルペット]]』の登場人物。 コンピュータゲーム * [[カロン (ゲームキャラクター)]] - 『[[マリオシリーズ]]』の登場キャラクター。 * カロン - 『[[ドラゴンクエストIV 導かれし者たち]]』に登場する敵キャラクター。 * カロン - 『[[ポケットモンスター ダイヤモンド・パール]]』の登場人物「プルート」の英語名。 ;その他 * [[カロン (化学)]] - 化学物質。 * [[CHARON]] - [[山田恵庸]]の[[漫画]]作品。 == 関連項目 == * [[キャロン]] * [[シャロン]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:かろん}}
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バルカン (仮説上の惑星)
バルカン(英語:Vulcan)は、水星の更に内側軌道を公転しているとされた想定上の惑星である。水星の近日点移動を解決できるものとして、19世紀にその存在が考えられたが確認されず、現在では存在しないとされる。 19世紀当時は、天文学界は外惑星の軌道の摂動から海王星の存在を予言することに成功したところであり、水星軌道の近日点移動問題も同様に解決できるのではないかと考えられた。1846年に天王星などの軌道の摂動から海王星の位置を予測したパリ理工科大学の天文学講師ユルバン・ルヴェリエは、1859年にバルカンの存在を提唱した。 早くもその年のうちにアマチュア天文学者のエドモン・モデスト・レスカルボーがバルカンを発見したと報告し、翌年ナポレオン3世からレジオンドヌール勲章を授与された。しかしこれは再現性のある観測ではなかった。 その後、望遠鏡の精度の向上と、サングラス・フィルターを使用しての太陽光球面の実視観測において存在を示唆する観測結果が報告されたが、決定的で再現性ある報告はなくバルカンの存在は否定的に考えられるようになる。 20世紀に入り、水星の近日点移動は、アインシュタインの一般相対性理論によって解決可能であることが示唆され、歴史的な日食観測を通じて、一般相対性理論の妥当性が検証されると共に、この問題も、仮説の惑星バルカンの摂動による説明は主流から外れた。 当初の一般相対性理論による近日点移動の計算数値は、観測誤差から言えば正確なものとは言えなかった。バルカンを一個の天体とするのではなく、バルカン軌道に存在する多数の微小天体群の摂動を考えれば、これによっても水星の近日点移動が説明可能とする「バルカン族仮説」も主張されたが小惑星も観測されず、より微小な塵の集合リングが想定されたがこちらも確認されていない。尚、2006年に惑星の定義が明確にされ、仮に微小天体群としてのバルカンが見出されたとしても、惑星には分類されない。 水星よりも更に太陽に近い軌道を取っており、表面温度は水星以上に高い高温の惑星であると考えられたため、ギリシア神話の鍛冶神ヘーパイストスに対応する、ローマ神話の火の神ウゥルカーヌスにちなんで命名された。バルカンは、ラテン語名ウルカヌスの英語での形を日本語で慣用的に表記した名である。 占星術用語としては、高炉星と訳されることもある。
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バルカンは、水星の更に内側軌道を公転しているとされた想定上の惑星である。水星の近日点移動を解決できるものとして、19世紀にその存在が考えられたが確認されず、現在では存在しないとされる。
'''バルカン'''(英語:'''Vulcan''')は、[[水星]]の更に内側軌道を公転しているとされた想定上の[[惑星]]である。水星の[[近日点移動]]を解決できるものとして、19世紀にその存在が考えられたが確認されず、現在では存在しないとされる。 == 概説 == === 水星近日点移動 === [[19世紀]]当時は、天文学界は[[外惑星]]の軌道の[[摂動]]から[[海王星]]の存在を予言することに成功したところであり、水星軌道の[[近日点移動]]問題も同様に解決できるのではないかと考えられた。1846年に天王星などの軌道の摂動から海王星の位置を予測した<ref>それをもとに[[ヨハン・ガレ]]が海王星を発見している</ref>パリ理工科大学の天文学講師[[ユルバン・ルヴェリエ]]は、1859年にバルカンの存在を提唱した。 早くもその年のうちにアマチュア天文学者のエドモン・モデスト・レスカルボーがバルカンを発見したと報告し、翌年[[ナポレオン3世]]から[[レジオンドヌール勲章]]を授与された<ref>ジョン・W・モファット「重力の再発見」早川書房</ref>。しかしこれは再現性のある観測ではなかった。 その後、[[望遠鏡]]の精度の向上と、サングラス・フィルターを使用しての太陽光球面の実視観測において存在を示唆する観測結果が報告されたが、決定的で再現性ある報告はなくバルカンの存在は否定的に考えられるようになる。 20世紀に入り、水星の近日点移動は、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[一般相対性理論]]によって解決可能であることが示唆され、歴史的な日食観測を通じて、一般相対性理論の妥当性が検証されると共に、この問題も、仮説の惑星バルカンの摂動による説明は主流から外れた。 === バルカン・リング === 当初の一般相対性理論による近日点移動の計算数値は、観測誤差から言えば正確なものとは言えなかった。バルカンを一個の天体とするのではなく、バルカン軌道に存在する多数の微小天体群の摂動を考えれば、これによっても水星の近日点移動が説明可能とする「[[バルカン族|バルカン族仮説]]」も主張されたが小惑星も観測されず、より微小な塵の集合リングが想定されたがこちらも確認されていない。尚、[[2006年]]に[[惑星]]の定義が明確にされ、仮に微小天体群としてのバルカンが見出されたとしても、惑星には分類されない。 == 命名の由来 == 水星よりも更に[[太陽]]に近い軌道を取っており、表面温度は水星以上に高い高温の惑星であると考えられたため、[[ギリシア神話]]の[[鍛冶]]神[[ヘーパイストス]]に対応する、[[ローマ神話]]の火の神[[ウゥルカーヌス]]にちなんで命名された。バルカンは、[[ラテン語]]名ウルカヌスの英語での形を日本語で慣用的に表記した名である。 [[占星術]]用語としては、高炉星と訳されることもある。 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[水星]]の[[近日点]]移動 * [[惑星]] - [[準惑星]] - [[小惑星]] * [[仮説上の天体]] * [[惑星X]] * [[ホット・ジュピター]] {{水星}} {{デフォルトソート:はるかん}} [[Category:仮説上の天体]] [[Category:天文学に関する記事]]
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ジンバブエ
ジンバブエ共和国(ジンバブエきょうわこく、英: Republic of Zimbabwe)、通称ジンバブエは、アフリカ大陸の南部に位置する共和制国家。首都はハラレ。 内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。なお、地図を一見すると接しているように見えるナミビアとは、ザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。2003年に脱退するまでイギリス連邦の加盟国だった。 初代首相、2代目大統領を務めたロバート・ムガベは1980年のジンバブエ共和国成立以来、37年の長期に渡って権力の座につき、その強権的な政治手法が指摘されてきたが、2017年11月の国防軍によるクーデターで失脚した。 正式名称は英語で Republic of Zimbabwe(リパブリク・オヴ・ズィンバーブウェ)。通称 Zimbabwe。日本語の表記はジンバブエ共和国もしくはジンバブウェ共和国。通称ジンバブエ。日本での漢字表記は「辛巴威」。中国では辛巴威に加え、「津巴布韋」とも表記される。 国名はショナ語で「石の館(家)」を意味し、ジンバブエ国内にあるグレート・ジンバブエ遺跡に由来する。かつては南ローデシアと呼ばれていた。 12世紀ごろ、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀から14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が発見されており、かなり大規模な交易を行っていたようである。15世紀ごろ、グレートジンバブエは放棄され、代わってザンベジ川中流域にモノモタパ王国、現ブラワヨ周辺のカミ遺跡を首都としてトルワ王国が興り、覇権を握った。 16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル人の侵入に苦しむが、撃退。地方首長国の分立状態となる。 19世紀後半にイギリス南アフリカ会社に統治された後、第一次世界大戦後にイギリスの植民地に組み込まれ、イギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエのマトボに葬られたケープ植民地首相のセシル・ローズの名から、「ローズの家」の意を込め英領南ローデシアとなった。国土のほとんどは白人農場主の私有地となり、住民達は先祖の墓参りの自由すらなかった。 第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代に突入すると、南ローデシアでも1960年代から黒人による独立運動が本格的に展開されたが、民族解放までの道のりは険しく、1965年には世界中から非難を浴びる中で植民地政府首相イアン・スミスが白人中心のローデシア共和国の独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側もスミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開。1979年、ジンバブエ・ローデシアへの国名改称とともに黒人へ参政権が付与され、黒人のムゾレワ首相が誕生した。しかし、白人が実権を持ち続ける体制だったため、国際的承認は得られず戦闘も収拾しなかった。1979年末イギリスの調停により100議席中20議席を白人の固定枠とすることで合意、ローデシア紛争は終結した。 1980年の総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立し、カナーン・バナナが初代大統領に、そしてロバート・ムガベが初代首相に就任した。1987年からは大統領が儀礼的役割を果たしていた議院内閣制を廃して大統領制に移行し、首相職も廃止され、それまで首相だったムガベが大統領に就任。ムガベはその座を93歳となる2017年まで維持することになる。 1999年、コンゴ民主共和国(以後、コンゴと表記)のカビラ大統領と親交のあったムガベ大統領は内戦(第二次コンゴ戦争)が勃発したコンゴに約1万人の軍を派兵した。コンゴのカビラ大統領を支えるという名目だったが、真の目的としてコンゴにあるムガベ一族所有のダイヤモンド鉱山を守る事や、それらのダイヤモンドのほか銅や金など、コンゴの地下資源を狙う理由があった。反対運動がコンゴの都市部を中心に活発に起き、派兵直後にカビラ大統領が暗殺されるなどコンゴ派兵は混乱を招いた。ムガベ大統領は第二次コンゴ戦争への派兵に専念していったため、ジンバブエの経済や医療、教育などが悪化していった。 そのためムガベ大統領への批判が相次ぎ、イギリスのマスメディアなどは、ムガベ大統領は批判を避ける目的で白人農場を強制収用する政策にすり替えていったとしている。 ムガベは初めは黒人と白人の融和政策を進め、国際的にも歓迎されてきたが、2000年8月から4,500人の白人が所有する4,000箇所以上の大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された。 この結果、白人地主が持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後、世界最悪になるジンバブエ・ドルのハイパーインフレーションが発生した。こうした経済混乱に、ムガベの長期政権・一党支配に対する不満と相まって、治安の悪化も問題となった。また、言論の統制などの強権的な政策は、外国や人権団体などから批判を受けている。 なお本政策については、2020年8月に後継のムナンガグワ政権が農地を収用された白人農業経営者らに対して35億USドル(約3700億円)の保証金を支払うことで合意したほか、農地の所有権の返還申請を可能とすることを発表している。 2005年5月には「ムラムバツビナ作戦(英語版)」によって地方の貧しい都市地域および周辺都市地域を標的に大規模な強制退去と住居破壊を行い、さらには2007年3月11日、警察によって活動家ギフト・タンダレ(英語版)が暗殺されている。 コレラ流行が2008年8月に始まり、患者総数91,164人、死者総数4,037人に達している。2009年2月初めのピーク時には一週間で新患者数8,008人を超えた。WHO(国連世界保健機関)によると2009年3月14日までの1週間に報告された新患者数は2,076人で先週の3,812人から減少した。致死率も1月の6%弱から2.3%に低下した。発生数は全体として低下したが、首都ハラレとその周辺では増加の傾向にある。 ムガベの後継者争いは2017年11月15日の国防軍による事実上のクーデターを招き、ムガベは大統領の座を追われた。 2020年7月、国内で2019新型コロナウイルスが拡大した際には、国民に対してマスクの着用など検疫規則を遵守するよう指示。しかし国民の大半は従わず、市民10万人以上が警察に逮捕された。また、隔離施設に収容された陽性患者276人以上が逃亡するなど無秩序な衛生状態となった。 2020年8月、ジンバブエ国家統計庁は、同年7月の物価上昇率が年率840%近くまで上昇したと発表。インフレが再び悪化する兆しが生じた。 野党勢力への迫害が強く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが常態化しており、激しい対立が続いている。ムガベ大統領による独裁政治体制が長きに渡り続いた。 ローデシア共和国初代首相であったイアン・スミスは、政界復帰を狙っていると伝えられていたが、2007年11月20日に南アフリカ共和国・ケープタウンの自宅で心不全により88歳で死去した。 2008年3月29日より大統領選挙が始まり、現職の与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線のムガベ大統領他、与党から造反したシンバ・マコニ元財務相と最大野党の民主変革運動(MDC)のモーガン・ツァンギライ議長が立候補していたが、ムガベ政権からの弾圧によりツァンギライ議長は出馬の取り止めを余儀なくされた。これにより、ムガベ大統領は欧米からの決選投票延期要請を無視し、投票を強行、勝利したと宣言した。7月11日、国際連合安全保障理事会にジンバブエ政府非難と、ムガベ大統領ら政権幹部の資産凍結・渡航禁止などの制裁決議案が提出された。しかし、中国とロシアが内政問題であるとして拒否権を発動し、否決された。賛成9(アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、パナマ、クロアチア、コスタリカ、ブルキナファソ)、反対5(中、露、南アフリカ、リビア、ベトナム)、棄権1(インドネシア)だった。その後もアメリカ国務長官コンドリーザ・ライスは、ムガベ政権の海外資産を凍結するなどの制裁措置をイギリスやアフリカの同盟国と協議する事を明らかにした。2009年2月11日、連立政権が樹立しMDCツァンギライ議長が首相に就任したため独裁体制に区切りがついた形だが、現地の英国大使館が地元紙に「ムガベ大統領が退陣しない限り意味がない」という広告を出すなど、懐疑論も強く残った。 ムガベの後継をめぐってグレース・ムガベ夫人と、軍の支持を得るエマーソン・ムナンガグワとの間で争いが勃発した。2017年11月6日にムガベがムナンガグワを第1副大統領から解任したことで国防軍が反旗を翻し事実上のクーデターを企図し、ムガベは自宅軟禁下に置かれ、軍が国家権力を掌握。11月21日に議会でムガベの弾劾手続きが開始され、ムガベは辞表を提出。37年間に及ぶ長期政権に幕が下りた。首相職は2013年に廃止された。 国内では厳しい報道規制が敷かれ、政府はCNN・BBCといった欧米メディアによる取材を禁止している。宗主国であったイギリスに対するジンバブエ国民の悪感情は根強い。またイギリス側のジンバブエ報道も、過度に扇情的であるとの指摘もされている。 日本、ガボンと同じく、取材対象の公的機関が一部の報道機関に対して排他的かつ独占的な便宜を供与(取材場所の提供、取材費用の負担など)する形の記者クラブ制度を有する。 前述の植民地時代の影響で反英感情または反白人感情が強く、CNNやBBCの取材を禁じているほか、白人の持つ農地の強引な国有化、白人所有大農場の強制収用などの政策が行われた。ムガベ大統領の思想も影響しており、ムガベは自分を非難したアメリカのライス国務長官を「白人の奴隷」と侮辱し、過去のアメリカ合衆国の黒人奴隷制度の批判もしていたため反米感情もある。その一方で、2014年現在でジンバブエが支援を受けている二大主要国はアメリカ合衆国(約178百万ドル)とイギリス(約171百万ドル)という構図となっている。 非白人国家である中華人民共和国や南アフリカ共和国と友好関係を深めており、両国の影響力が極めて強い。特に中国は大統領になる前からムガベを支援していた関係にあり、ムガベの後継者の座を争ったグレース夫人とムナンガグワはどちらも中国への留学歴を持っている。ムガベは白人社会の欧米諸国やオーストラリアへの入国を禁止されているが、香港、シンガポール、マレーシアで別荘を購入するなど豪華な生活を堪能している。アメリカ、イギリス、フランスはジンバブエへの経済制裁を求めているが、他の常任理事国の中国、ロシアはジンバブエへの経済制裁は内政問題という理由で拒否権を発動した。 司馬江漢が、長崎に赴いた時の事を記した「西遊日記(1788年)」にて、「此黒坊と云は...ヤハ〔ジャワ〕嶋の者、或はアフリカ大州の中モノモウタアパと云処の熱国の産れなり」と、出島にオランダ人の召使いとして住んでいた東南アジア人やアフリカ人の記録を残している。この「モノモウタアパ」なる土地は、現在のジンバブエと言われている。 主要な都市はハラレ(首都)、ブラワヨがある。 ジンバブエはアフリカ南部に位置し、モザンビーク、南アフリカ、ボツワナ、ザンビアと国境を接する。内陸国である。座標は東経30度・南緯20度のあたり。 面積は390,580 km、うち陸地面積が 386,670 km、内水面面積が 3,910 kmを占める。面積は日本と比べると僅かに広い。気候は熱帯性であるが、高地のためやや温暖である。雨季は11月から3月にかけて続く。地形は高原が大部分を占める。東部は山岳地帯である。国内最低地点はルンデ川(英語版)とサビ川(英語版)の合流地点で標高162 m、最高地点はンヤンガニ山(英語版)(ショナ語: Gomo reNyangani、旧インヤンガニ山)で標高2,592 m。 北のザンビアとの国境にはザンベジ川が流れ、ヴィクトリア滝がある。南の南アフリカとの国境にはリンポポ川が流れる。 石炭、クロム鉱石、アスベスト、金、ニッケル、銅、鉄鉱石、バナジウム、リチウム、錫、プラチナを産し、農業・観光と共に重要な外貨獲得産業である。とくに白金は世界最大級の埋蔵量を誇り、2006年に発見されたダイアモンド鉱山も2014年に12百万カラットと世界有数の産出量がある。ビクトリア滝に代表される観光資源だが森林破壊による野生動物の減少が深刻化している。 IMFの統計によると、2013年のジンバブエのGDPは132億ドルである。一人当たりのGDPは1,007ドルであり、隣接する南アフリカ共和国やボツワナと比べると大幅に低い水準にある。 かつては農業、鉱業、工業のバランスの取れた経済を有する国家であった。白人大規模農家による非常に効率的な農業が行われており、外貨収入の半数を農産物の輸出で得ている農業国として、ヨーロッパから「アフリカの穀物庫」と呼ばれていたほどであった。特に小麦の生産性は高く、10アールあたりの単位収量は1980年代から1990年代にかけては550kgから600kgにものぼり、ヨーロッパ諸国と肩を並べ世界最高水準に達していた。 白人農家に対する強制土地収用政策の開始後、ノウハウを持つ白人農家の消滅、大規模商業農業システムの崩壊により、農作物の収量は激減した。基幹産業の農業の崩壊によって生じた外貨不足は、さらに部品を輸入で調達していた工業にも打撃を与え、経済は極度に悪化した。2002年には経済成長率は-12.1%を記録した。旱魃により食糧不足が深刻化し、加えて欧米各国による経済制裁が影響し、2003年末には600%のインフレが発生。2006年4月には1,000%以上に達した。 2007年8月23日、ジンバブエ政府が国内の外資系企業に対して株式の過半数を「ジンバブエの黒人」に譲渡するよう義務付ける法案を国会に提出、9月26日に通過した。 2019年6月よりRTGSドルが法定通貨と定められている。 かつての独自通貨ジンバブエ・ドルは2000年代に発生したハイパーインフレーションにより価値を失い、2015年に廃止が決定され、その後は主にアメリカ合衆国ドルが利用された。南アフリカランドはかろうじて大きなスーパーマーケットやジンバブエ南部では使えるところもあるが、ほとんど使われていない。2016年11月からアメリカ合衆国ドルと同等価値の新通貨として「ボンド(ボンドノート)」の発行を開始した。また1ドル以下の硬貨に関しては、2015年秋ごろから、政府発行のボンドコイン(Bond coin)が流通し始め、それまでの南アフリカランドが使えなくなった。 2019年2月に暫定通貨としてRTGSドルが導入され、6月24日に中央銀行はこれを唯一の法定通貨と定め、外貨を法貨として使用することを禁止した。しかし、RTGSドルもまた大規模なインフレーションが発生しており、紙幣不足のため、2020年3月から再びアメリカ合衆国ドルの暫定的な使用が認められている。外貨が利用できる期限は2025年と定められていたが、経済の不安定化を理由に2030年まで延長されている。 このほかにインフレを抑制するため、一般向けに2022年に導入された金貨モシ・オア・トゥーニャ(英語版)、P2PおよびP2B向けに2023年に導入されたデジタル通貨がある。これらは国内の金を裏付けにしている。 通貨ジンバブエ・ドル (ZWD) は、アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨ワースト5の一つとなり、2008年5月に1億と2億5000万の額面のジンバブエ・ドル札が発行された後も、50億、250億、500億ドル札の発行と続き、7月には1000億ドル札の発行が行われた(これは発行時の時点で世界最高額面の紙幣)。そのため、コンピュータの処理にトラブルが発生したことから、中央銀行はデノミネーションを実施し、大幅な通貨単位の引き下げを実施した。それにより1000億ドルが10ドルとなり、対応した新紙幣が発行された。しかし、さらにインフレが続いたため、12月末には100億ドル新紙幣を、2009年1月には再び200億ドル紙幣と500億ドル紙幣の発行を行った。この時点でジンバブエ・ドルの価値は、250億(25000000000)ジンバブエ・ドル=1米ドルとなった。年間インフレ率は約2億3000万%に達した(2009年1月)。 2009年1月29日、ジンバブエ政府は完全に信用を失ったジンバブエ・ドルに代えてアメリカ合衆国ドルや南アフリカランド、ユーロ、英ポンド、ボツワナ・プラの国内流通を公式に認め、公務員の給与も米ドルで支払うことにし、この5通貨を法定通貨とした。これにより同国のハイパーインフレは終息を見せ、ジンバブエ政府によれば同年3月の物価は同1月比0.8%減となった。その結果、極度の経済混乱は収束し、12年ぶりに経済成長を記録した。2012年現在は、都市部では経済の復興の傾向がみられはじめている。2013年1月29日、ジンバブエ政府は、前週の公務員への給与支払いにともない、国庫金の残高が217ドルになったことを明らかにした。同時に、年内に予定されている憲法改正をめぐる国民投票と総選挙のための資金が不足していることを認め、国際社会の支援を要請した。 2014年2月、ジンバブエ政府は法定通貨として、さらに中国人民元、インド・ルピー、豪ドル、日本円を加え、9通貨を法定通貨とした。ジンバブエ政府では複数基軸通貨制(別名:複数通貨制)または通貨バスケット制を導入した。 2014年12月、ジンバブエ準備銀行は、ボンドコインと呼ばれる硬貨を発行した(鋳造は南アフリカ国内)。ボンドは債券に裏付けされていることを意味し、公債コインと訳されることがある。価値は、アメリカ合衆国の通貨、セントと同等の価値を有するものと位置づけられているが、過去のジンバブエ・ドルの経緯から流通は停滞している。 2015年6月、ジンバブエ中央銀行は、ジンバブエドルを廃止し米ドルに両替して回収すると発表した。両替レートは1ドル=3京5千兆ジンバブエドル。9月までに終わらせる。2015年12月、9種の法定通貨のうち、中国人民元を2016年より本格的に流通させることを決めた。 2016年5月には、ボンドコイン(前出)に続き紙幣版のボンドノートも発行されたが市民から支持はされず、2019年にかけて価値は急落している。 2019年2月、ボンドノートと電子マネーがRTGSドルに改称された(RTGS=即時グロス決済)。6月24日、ジンバブエ中央銀行は一切の外貨を法定通貨として使用することを禁じた。 ショナ人が71%、ンデベレ人(英語版)が16%、その他のアフリカ系(バントゥー系のen:Venda people、トンガ族、シャンガーン人、en:Kalanga people、ソト族、en:Ndau people、en:Nambya)が11%、残りはヨーロッパ人やアジア人などである。 公用語は英語だが、ショナ語、北ンデベレ語などが主に使われる。 新たに公用語として16言語(チェワ語、セナ語(バルウェ語(フランス語版、クロアチア語版)(Chibarwe))、英語、カランガ語(英語版)、チュワ語(英語版)(コイサン語)、ナンビャ語(英語版)、ンダウ語(英語版)、北ンデベレ語(ンデベレ語)、ツォンガ語(シャンガーン語)、ショナ語、ジンバブエ手話(英語版)、ソト語、トンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語、コサ語)が定められている。 キリスト教と部族宗教の混合が50%、キリスト教が25%、部族宗教が24%、イスラム教などが1%となっている。 結婚時の姓に関する法はなく、婚前の姓をそのまま用いる(夫婦別姓)ことも、夫の姓に変更する(夫婦同姓)ことも可能。 イギリスに倣い、1月に学校の年度が始まる。6歳からの入学で初等教育7年、前期中等教育4年と後期中等教育2年、高等教育が3年程。識字率は99%。 国民の約3割が HIV に感染しているといわれており、世界保健機関 (WHO) の2006年版の「世界保健報告」によると、平均寿命は36歳と世界で最も短い(1990年の時点では62歳であった)。 トウモロコシの粉を煮詰めた「サザ」が主食である。「ムリヲ(ホウレンソウ)」とピーナッツバターを混ぜた「ラリッシュ」という料理が存在する。牛、豚、鶏は一般的で、全土で食べられている。飲食店では、サザと、おかずとしてトマトベースのスープで牛肉を煮込んだ料理と、付け合わせのムリヲの組み合わせが一般的。 1960年代の独立戦争のころから、チムレンガ文学と呼ばれる文学潮流が生まれた。『骨たち』(1988年)で知られるチェンジェライ・ホーヴェが、ジンバブエの特に著名な作家の名として挙げられる。 音楽はジンバブエの歴史において重要な役割を果たしてきた。祖先の霊を呼ぶために使用された伝統的なビラの儀式での重要な役割から、独立闘争中に歌で抗議するためのプロテスト・ソングまで存在する。 ジンバブエ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在し、ザンビアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。 ジンバブエにおけるスポーツは、過去2回ワールドカップに出場経験のあるラグビー、2003年にケニアや南アフリカとワールドカップを共催したクリケット、さらにはサッカーやテニスなどが、国際大会で実績を残してきた分野である。 ゴルフでは、ワールドゴルフランキング1位にもなった1990年代を代表するプロゴルファーの一人であるニック・プライスを輩出している。さらに競泳では、五輪や世界水泳で多くのメダル獲得や世界記録を打ち立てたカースティ・コベントリーが活躍している。 ジンバブエ国内でも他のアフリカ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツであり、1980年にプロサッカーリーグのジンバブエ・プレミアサッカーリーグが創設された。ジンバブエサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカージンバブエ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには5度の出場経験を有する。 ジンバブエ人の著名なサッカー選手としては、イングランド・プレミアリーグで活躍したベンジャミン・ムワルワリが挙げられる。ムワルワリは、マラウイ系の両親の間にジンバブエ第2の都市ブラワヨで生まれ、国籍は生まれ育ったジンバブエを選択している。1998年に代表デビューを果たし、2006年からは代表チームの主将も務めた。 テニスは1990年代から2000年代前半にかけてバイロン・ブラック、ウェイン・ブラック、カーラ・ブラックの「ブラック3兄妹」とケビン・ウリエットという、後に全員がグランドスラムダブルスタイトル保持者となる4人の白人選手の活躍により栄華を極めた。 男子国別対抗戦デビスカップでも、同国代表は最上位グループの「ワールドグループ」に3度出場するなど、選手層は薄いながらもテニス強国の一角を占めるまでに成長したが、2000年以降のムガベによる白人層の弾圧により4人の内ウリエットは他の多くの白人国民と同様にイギリスへの亡命を余儀なくされ、ブラック兄妹も活動拠点をイギリスに移す事態となり、これにバイロンとウェインの現役引退が重なる形で同国代表は主力選手を一気に失い、2002年のワールドグループ陥落から僅か7年で最下位カテゴリのアフリカゾーンIVまで転落した。 女子テニスのフェドカップジンバブエ代表は90年代以降国際レベルで活躍している選手がカーラのみであり、国別対抗戦のフェドカップでカーラ一人に掛かる負担が大き過ぎたことや、2000年以降はムガベの独裁政治に対する抗議の意味合いも加わる形で1996年以降カーラがフェドカップ出場を拒否する状況が長年続いており、カーラ個人の国際的な活躍と裏腹に代表は国別ランクで最下位レベルに低迷するばかりか、フェドカップ参加すら覚束ない状態となっている。 クリケットは人気スポーツの一つとなっている。歴史は古く、1890年に初めてクリケットの試合がジンバブエ(当時はローデシア)で行われた。1990年代には南アフリカの国内大会であるカリーカップに出場するようになり、試合の水準が更に向上した。独立後、国際競技連盟の国際クリケット評議会には1981年に準会員として加盟し、1992年には正会員に昇格した。1983年にクリケット・ワールドカップに初出場し、オーストラリア相手に13点差で勝利し、国際舞台への歓迎すべき新星の誕生を示唆した。クリケットジンバブエ代表はテスト・クリケット、ワン・デイ・インターナショナル、トゥエンティ20のどの形式においても世界ランキングで上位に位置する。2003年には隣国の南アフリカやケニアとの3カ国共催でクリケット・ワールドカップを開催した。2027年のクリケット・ワールドカップは南アフリカとナミビアとの3カ国共催を予定している。
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"12世紀ごろ、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀から14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が発見されており、かなり大規模な交易を行っていたようである。15世紀ごろ、グレートジンバブエは放棄され、代わってザンベジ川中流域にモノモタパ王国、現ブラワヨ周辺のカミ遺跡を首都としてトルワ王国が興り、覇権を握った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル人の侵入に苦しむが、撃退。地方首長国の分立状態となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "19世紀後半にイギリス南アフリカ会社に統治された後、第一次世界大戦後にイギリスの植民地に組み込まれ、イギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエのマトボに葬られたケープ植民地首相のセシル・ローズの名から、「ローズの家」の意を込め英領南ローデシアとなった。国土のほとんどは白人農場主の私有地となり、住民達は先祖の墓参りの自由すらなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代に突入すると、南ローデシアでも1960年代から黒人による独立運動が本格的に展開されたが、民族解放までの道のりは険しく、1965年には世界中から非難を浴びる中で植民地政府首相イアン・スミスが白人中心のローデシア共和国の独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側もスミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開。1979年、ジンバブエ・ローデシアへの国名改称とともに黒人へ参政権が付与され、黒人のムゾレワ首相が誕生した。しかし、白人が実権を持ち続ける体制だったため、国際的承認は得られず戦闘も収拾しなかった。1979年末イギリスの調停により100議席中20議席を白人の固定枠とすることで合意、ローデシア紛争は終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1980年の総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立し、カナーン・バナナが初代大統領に、そしてロバート・ムガベが初代首相に就任した。1987年からは大統領が儀礼的役割を果たしていた議院内閣制を廃して大統領制に移行し、首相職も廃止され、それまで首相だったムガベが大統領に就任。ムガベはその座を93歳となる2017年まで維持することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1999年、コンゴ民主共和国(以後、コンゴと表記)のカビラ大統領と親交のあったムガベ大統領は内戦(第二次コンゴ戦争)が勃発したコンゴに約1万人の軍を派兵した。コンゴのカビラ大統領を支えるという名目だったが、真の目的としてコンゴにあるムガベ一族所有のダイヤモンド鉱山を守る事や、それらのダイヤモンドのほか銅や金など、コンゴの地下資源を狙う理由があった。反対運動がコンゴの都市部を中心に活発に起き、派兵直後にカビラ大統領が暗殺されるなどコンゴ派兵は混乱を招いた。ムガベ大統領は第二次コンゴ戦争への派兵に専念していったため、ジンバブエの経済や医療、教育などが悪化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "そのためムガベ大統領への批判が相次ぎ、イギリスのマスメディアなどは、ムガベ大統領は批判を避ける目的で白人農場を強制収用する政策にすり替えていったとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ムガベは初めは黒人と白人の融和政策を進め、国際的にも歓迎されてきたが、2000年8月から4,500人の白人が所有する4,000箇所以上の大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この結果、白人地主が持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後、世界最悪になるジンバブエ・ドルのハイパーインフレーションが発生した。こうした経済混乱に、ムガベの長期政権・一党支配に対する不満と相まって、治安の悪化も問題となった。また、言論の統制などの強権的な政策は、外国や人権団体などから批判を受けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお本政策については、2020年8月に後継のムナンガグワ政権が農地を収用された白人農業経営者らに対して35億USドル(約3700億円)の保証金を支払うことで合意したほか、農地の所有権の返還申請を可能とすることを発表している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2005年5月には「ムラムバツビナ作戦(英語版)」によって地方の貧しい都市地域および周辺都市地域を標的に大規模な強制退去と住居破壊を行い、さらには2007年3月11日、警察によって活動家ギフト・タンダレ(英語版)が暗殺されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "コレラ流行が2008年8月に始まり、患者総数91,164人、死者総数4,037人に達している。2009年2月初めのピーク時には一週間で新患者数8,008人を超えた。WHO(国連世界保健機関)によると2009年3月14日までの1週間に報告された新患者数は2,076人で先週の3,812人から減少した。致死率も1月の6%弱から2.3%に低下した。発生数は全体として低下したが、首都ハラレとその周辺では増加の傾向にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ムガベの後継者争いは2017年11月15日の国防軍による事実上のクーデターを招き、ムガベは大統領の座を追われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2020年7月、国内で2019新型コロナウイルスが拡大した際には、国民に対してマスクの着用など検疫規則を遵守するよう指示。しかし国民の大半は従わず、市民10万人以上が警察に逮捕された。また、隔離施設に収容された陽性患者276人以上が逃亡するなど無秩序な衛生状態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2020年8月、ジンバブエ国家統計庁は、同年7月の物価上昇率が年率840%近くまで上昇したと発表。インフレが再び悪化する兆しが生じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "野党勢力への迫害が強く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが常態化しており、激しい対立が続いている。ムガベ大統領による独裁政治体制が長きに渡り続いた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ローデシア共和国初代首相であったイアン・スミスは、政界復帰を狙っていると伝えられていたが、2007年11月20日に南アフリカ共和国・ケープタウンの自宅で心不全により88歳で死去した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2008年3月29日より大統領選挙が始まり、現職の与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線のムガベ大統領他、与党から造反したシンバ・マコニ元財務相と最大野党の民主変革運動(MDC)のモーガン・ツァンギライ議長が立候補していたが、ムガベ政権からの弾圧によりツァンギライ議長は出馬の取り止めを余儀なくされた。これにより、ムガベ大統領は欧米からの決選投票延期要請を無視し、投票を強行、勝利したと宣言した。7月11日、国際連合安全保障理事会にジンバブエ政府非難と、ムガベ大統領ら政権幹部の資産凍結・渡航禁止などの制裁決議案が提出された。しかし、中国とロシアが内政問題であるとして拒否権を発動し、否決された。賛成9(アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、パナマ、クロアチア、コスタリカ、ブルキナファソ)、反対5(中、露、南アフリカ、リビア、ベトナム)、棄権1(インドネシア)だった。その後もアメリカ国務長官コンドリーザ・ライスは、ムガベ政権の海外資産を凍結するなどの制裁措置をイギリスやアフリカの同盟国と協議する事を明らかにした。2009年2月11日、連立政権が樹立しMDCツァンギライ議長が首相に就任したため独裁体制に区切りがついた形だが、現地の英国大使館が地元紙に「ムガベ大統領が退陣しない限り意味がない」という広告を出すなど、懐疑論も強く残った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ムガベの後継をめぐってグレース・ムガベ夫人と、軍の支持を得るエマーソン・ムナンガグワとの間で争いが勃発した。2017年11月6日にムガベがムナンガグワを第1副大統領から解任したことで国防軍が反旗を翻し事実上のクーデターを企図し、ムガベは自宅軟禁下に置かれ、軍が国家権力を掌握。11月21日に議会でムガベの弾劾手続きが開始され、ムガベは辞表を提出。37年間に及ぶ長期政権に幕が下りた。首相職は2013年に廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国内では厳しい報道規制が敷かれ、政府はCNN・BBCといった欧米メディアによる取材を禁止している。宗主国であったイギリスに対するジンバブエ国民の悪感情は根強い。またイギリス側のジンバブエ報道も、過度に扇情的であるとの指摘もされている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本、ガボンと同じく、取材対象の公的機関が一部の報道機関に対して排他的かつ独占的な便宜を供与(取材場所の提供、取材費用の負担など)する形の記者クラブ制度を有する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "前述の植民地時代の影響で反英感情または反白人感情が強く、CNNやBBCの取材を禁じているほか、白人の持つ農地の強引な国有化、白人所有大農場の強制収用などの政策が行われた。ムガベ大統領の思想も影響しており、ムガベは自分を非難したアメリカのライス国務長官を「白人の奴隷」と侮辱し、過去のアメリカ合衆国の黒人奴隷制度の批判もしていたため反米感情もある。その一方で、2014年現在でジンバブエが支援を受けている二大主要国はアメリカ合衆国(約178百万ドル)とイギリス(約171百万ドル)という構図となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "非白人国家である中華人民共和国や南アフリカ共和国と友好関係を深めており、両国の影響力が極めて強い。特に中国は大統領になる前からムガベを支援していた関係にあり、ムガベの後継者の座を争ったグレース夫人とムナンガグワはどちらも中国への留学歴を持っている。ムガベは白人社会の欧米諸国やオーストラリアへの入国を禁止されているが、香港、シンガポール、マレーシアで別荘を購入するなど豪華な生活を堪能している。アメリカ、イギリス、フランスはジンバブエへの経済制裁を求めているが、他の常任理事国の中国、ロシアはジンバブエへの経済制裁は内政問題という理由で拒否権を発動した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "司馬江漢が、長崎に赴いた時の事を記した「西遊日記(1788年)」にて、「此黒坊と云は...ヤハ〔ジャワ〕嶋の者、或はアフリカ大州の中モノモウタアパと云処の熱国の産れなり」と、出島にオランダ人の召使いとして住んでいた東南アジア人やアフリカ人の記録を残している。この「モノモウタアパ」なる土地は、現在のジンバブエと言われている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "主要な都市はハラレ(首都)、ブラワヨがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ジンバブエはアフリカ南部に位置し、モザンビーク、南アフリカ、ボツワナ、ザンビアと国境を接する。内陸国である。座標は東経30度・南緯20度のあたり。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "面積は390,580 km、うち陸地面積が 386,670 km、内水面面積が 3,910 kmを占める。面積は日本と比べると僅かに広い。気候は熱帯性であるが、高地のためやや温暖である。雨季は11月から3月にかけて続く。地形は高原が大部分を占める。東部は山岳地帯である。国内最低地点はルンデ川(英語版)とサビ川(英語版)の合流地点で標高162 m、最高地点はンヤンガニ山(英語版)(ショナ語: Gomo reNyangani、旧インヤンガニ山)で標高2,592 m。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "北のザンビアとの国境にはザンベジ川が流れ、ヴィクトリア滝がある。南の南アフリカとの国境にはリンポポ川が流れる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "石炭、クロム鉱石、アスベスト、金、ニッケル、銅、鉄鉱石、バナジウム、リチウム、錫、プラチナを産し、農業・観光と共に重要な外貨獲得産業である。とくに白金は世界最大級の埋蔵量を誇り、2006年に発見されたダイアモンド鉱山も2014年に12百万カラットと世界有数の産出量がある。ビクトリア滝に代表される観光資源だが森林破壊による野生動物の減少が深刻化している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2013年のジンバブエのGDPは132億ドルである。一人当たりのGDPは1,007ドルであり、隣接する南アフリカ共和国やボツワナと比べると大幅に低い水準にある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "かつては農業、鉱業、工業のバランスの取れた経済を有する国家であった。白人大規模農家による非常に効率的な農業が行われており、外貨収入の半数を農産物の輸出で得ている農業国として、ヨーロッパから「アフリカの穀物庫」と呼ばれていたほどであった。特に小麦の生産性は高く、10アールあたりの単位収量は1980年代から1990年代にかけては550kgから600kgにものぼり、ヨーロッパ諸国と肩を並べ世界最高水準に達していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "白人農家に対する強制土地収用政策の開始後、ノウハウを持つ白人農家の消滅、大規模商業農業システムの崩壊により、農作物の収量は激減した。基幹産業の農業の崩壊によって生じた外貨不足は、さらに部品を輸入で調達していた工業にも打撃を与え、経済は極度に悪化した。2002年には経済成長率は-12.1%を記録した。旱魃により食糧不足が深刻化し、加えて欧米各国による経済制裁が影響し、2003年末には600%のインフレが発生。2006年4月には1,000%以上に達した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2007年8月23日、ジンバブエ政府が国内の外資系企業に対して株式の過半数を「ジンバブエの黒人」に譲渡するよう義務付ける法案を国会に提出、9月26日に通過した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2019年6月よりRTGSドルが法定通貨と定められている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "かつての独自通貨ジンバブエ・ドルは2000年代に発生したハイパーインフレーションにより価値を失い、2015年に廃止が決定され、その後は主にアメリカ合衆国ドルが利用された。南アフリカランドはかろうじて大きなスーパーマーケットやジンバブエ南部では使えるところもあるが、ほとんど使われていない。2016年11月からアメリカ合衆国ドルと同等価値の新通貨として「ボンド(ボンドノート)」の発行を開始した。また1ドル以下の硬貨に関しては、2015年秋ごろから、政府発行のボンドコイン(Bond coin)が流通し始め、それまでの南アフリカランドが使えなくなった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2019年2月に暫定通貨としてRTGSドルが導入され、6月24日に中央銀行はこれを唯一の法定通貨と定め、外貨を法貨として使用することを禁止した。しかし、RTGSドルもまた大規模なインフレーションが発生しており、紙幣不足のため、2020年3月から再びアメリカ合衆国ドルの暫定的な使用が認められている。外貨が利用できる期限は2025年と定められていたが、経済の不安定化を理由に2030年まで延長されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このほかにインフレを抑制するため、一般向けに2022年に導入された金貨モシ・オア・トゥーニャ(英語版)、P2PおよびP2B向けに2023年に導入されたデジタル通貨がある。これらは国内の金を裏付けにしている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "通貨ジンバブエ・ドル (ZWD) は、アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨ワースト5の一つとなり、2008年5月に1億と2億5000万の額面のジンバブエ・ドル札が発行された後も、50億、250億、500億ドル札の発行と続き、7月には1000億ドル札の発行が行われた(これは発行時の時点で世界最高額面の紙幣)。そのため、コンピュータの処理にトラブルが発生したことから、中央銀行はデノミネーションを実施し、大幅な通貨単位の引き下げを実施した。それにより1000億ドルが10ドルとなり、対応した新紙幣が発行された。しかし、さらにインフレが続いたため、12月末には100億ドル新紙幣を、2009年1月には再び200億ドル紙幣と500億ドル紙幣の発行を行った。この時点でジンバブエ・ドルの価値は、250億(25000000000)ジンバブエ・ドル=1米ドルとなった。年間インフレ率は約2億3000万%に達した(2009年1月)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2009年1月29日、ジンバブエ政府は完全に信用を失ったジンバブエ・ドルに代えてアメリカ合衆国ドルや南アフリカランド、ユーロ、英ポンド、ボツワナ・プラの国内流通を公式に認め、公務員の給与も米ドルで支払うことにし、この5通貨を法定通貨とした。これにより同国のハイパーインフレは終息を見せ、ジンバブエ政府によれば同年3月の物価は同1月比0.8%減となった。その結果、極度の経済混乱は収束し、12年ぶりに経済成長を記録した。2012年現在は、都市部では経済の復興の傾向がみられはじめている。2013年1月29日、ジンバブエ政府は、前週の公務員への給与支払いにともない、国庫金の残高が217ドルになったことを明らかにした。同時に、年内に予定されている憲法改正をめぐる国民投票と総選挙のための資金が不足していることを認め、国際社会の支援を要請した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2014年2月、ジンバブエ政府は法定通貨として、さらに中国人民元、インド・ルピー、豪ドル、日本円を加え、9通貨を法定通貨とした。ジンバブエ政府では複数基軸通貨制(別名:複数通貨制)または通貨バスケット制を導入した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2014年12月、ジンバブエ準備銀行は、ボンドコインと呼ばれる硬貨を発行した(鋳造は南アフリカ国内)。ボンドは債券に裏付けされていることを意味し、公債コインと訳されることがある。価値は、アメリカ合衆国の通貨、セントと同等の価値を有するものと位置づけられているが、過去のジンバブエ・ドルの経緯から流通は停滞している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2015年6月、ジンバブエ中央銀行は、ジンバブエドルを廃止し米ドルに両替して回収すると発表した。両替レートは1ドル=3京5千兆ジンバブエドル。9月までに終わらせる。2015年12月、9種の法定通貨のうち、中国人民元を2016年より本格的に流通させることを決めた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2016年5月には、ボンドコイン(前出)に続き紙幣版のボンドノートも発行されたが市民から支持はされず、2019年にかけて価値は急落している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2019年2月、ボンドノートと電子マネーがRTGSドルに改称された(RTGS=即時グロス決済)。6月24日、ジンバブエ中央銀行は一切の外貨を法定通貨として使用することを禁じた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ショナ人が71%、ンデベレ人(英語版)が16%、その他のアフリカ系(バントゥー系のen:Venda people、トンガ族、シャンガーン人、en:Kalanga people、ソト族、en:Ndau people、en:Nambya)が11%、残りはヨーロッパ人やアジア人などである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "公用語は英語だが、ショナ語、北ンデベレ語などが主に使われる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "新たに公用語として16言語(チェワ語、セナ語(バルウェ語(フランス語版、クロアチア語版)(Chibarwe))、英語、カランガ語(英語版)、チュワ語(英語版)(コイサン語)、ナンビャ語(英語版)、ンダウ語(英語版)、北ンデベレ語(ンデベレ語)、ツォンガ語(シャンガーン語)、ショナ語、ジンバブエ手話(英語版)、ソト語、トンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語、コサ語)が定められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "キリスト教と部族宗教の混合が50%、キリスト教が25%、部族宗教が24%、イスラム教などが1%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "結婚時の姓に関する法はなく、婚前の姓をそのまま用いる(夫婦別姓)ことも、夫の姓に変更する(夫婦同姓)ことも可能。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "イギリスに倣い、1月に学校の年度が始まる。6歳からの入学で初等教育7年、前期中等教育4年と後期中等教育2年、高等教育が3年程。識字率は99%。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "国民の約3割が HIV に感染しているといわれており、世界保健機関 (WHO) の2006年版の「世界保健報告」によると、平均寿命は36歳と世界で最も短い(1990年の時点では62歳であった)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "トウモロコシの粉を煮詰めた「サザ」が主食である。「ムリヲ(ホウレンソウ)」とピーナッツバターを混ぜた「ラリッシュ」という料理が存在する。牛、豚、鶏は一般的で、全土で食べられている。飲食店では、サザと、おかずとしてトマトベースのスープで牛肉を煮込んだ料理と、付け合わせのムリヲの組み合わせが一般的。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1960年代の独立戦争のころから、チムレンガ文学と呼ばれる文学潮流が生まれた。『骨たち』(1988年)で知られるチェンジェライ・ホーヴェが、ジンバブエの特に著名な作家の名として挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "音楽はジンバブエの歴史において重要な役割を果たしてきた。祖先の霊を呼ぶために使用された伝統的なビラの儀式での重要な役割から、独立闘争中に歌で抗議するためのプロテスト・ソングまで存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ジンバブエ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在し、ザンビアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ジンバブエにおけるスポーツは、過去2回ワールドカップに出場経験のあるラグビー、2003年にケニアや南アフリカとワールドカップを共催したクリケット、さらにはサッカーやテニスなどが、国際大会で実績を残してきた分野である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ゴルフでは、ワールドゴルフランキング1位にもなった1990年代を代表するプロゴルファーの一人であるニック・プライスを輩出している。さらに競泳では、五輪や世界水泳で多くのメダル獲得や世界記録を打ち立てたカースティ・コベントリーが活躍している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ジンバブエ国内でも他のアフリカ諸国同様にサッカーが最も人気のスポーツであり、1980年にプロサッカーリーグのジンバブエ・プレミアサッカーリーグが創設された。ジンバブエサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカージンバブエ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには5度の出場経験を有する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ジンバブエ人の著名なサッカー選手としては、イングランド・プレミアリーグで活躍したベンジャミン・ムワルワリが挙げられる。ムワルワリは、マラウイ系の両親の間にジンバブエ第2の都市ブラワヨで生まれ、国籍は生まれ育ったジンバブエを選択している。1998年に代表デビューを果たし、2006年からは代表チームの主将も務めた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "テニスは1990年代から2000年代前半にかけてバイロン・ブラック、ウェイン・ブラック、カーラ・ブラックの「ブラック3兄妹」とケビン・ウリエットという、後に全員がグランドスラムダブルスタイトル保持者となる4人の白人選手の活躍により栄華を極めた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "男子国別対抗戦デビスカップでも、同国代表は最上位グループの「ワールドグループ」に3度出場するなど、選手層は薄いながらもテニス強国の一角を占めるまでに成長したが、2000年以降のムガベによる白人層の弾圧により4人の内ウリエットは他の多くの白人国民と同様にイギリスへの亡命を余儀なくされ、ブラック兄妹も活動拠点をイギリスに移す事態となり、これにバイロンとウェインの現役引退が重なる形で同国代表は主力選手を一気に失い、2002年のワールドグループ陥落から僅か7年で最下位カテゴリのアフリカゾーンIVまで転落した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "女子テニスのフェドカップジンバブエ代表は90年代以降国際レベルで活躍している選手がカーラのみであり、国別対抗戦のフェドカップでカーラ一人に掛かる負担が大き過ぎたことや、2000年以降はムガベの独裁政治に対する抗議の意味合いも加わる形で1996年以降カーラがフェドカップ出場を拒否する状況が長年続いており、カーラ個人の国際的な活躍と裏腹に代表は国別ランクで最下位レベルに低迷するばかりか、フェドカップ参加すら覚束ない状態となっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "クリケットは人気スポーツの一つとなっている。歴史は古く、1890年に初めてクリケットの試合がジンバブエ(当時はローデシア)で行われた。1990年代には南アフリカの国内大会であるカリーカップに出場するようになり、試合の水準が更に向上した。独立後、国際競技連盟の国際クリケット評議会には1981年に準会員として加盟し、1992年には正会員に昇格した。1983年にクリケット・ワールドカップに初出場し、オーストラリア相手に13点差で勝利し、国際舞台への歓迎すべき新星の誕生を示唆した。クリケットジンバブエ代表はテスト・クリケット、ワン・デイ・インターナショナル、トゥエンティ20のどの形式においても世界ランキングで上位に位置する。2003年には隣国の南アフリカやケニアとの3カ国共催でクリケット・ワールドカップを開催した。2027年のクリケット・ワールドカップは南アフリカとナミビアとの3カ国共催を予定している。", "title": "スポーツ" } ]
ジンバブエ共和国、通称ジンバブエは、アフリカ大陸の南部に位置する共和制国家。首都はハラレ。 内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。なお、地図を一見すると接しているように見えるナミビアとは、ザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。2003年に脱退するまでイギリス連邦の加盟国だった。 初代首相、2代目大統領を務めたロバート・ムガベは1980年のジンバブエ共和国成立以来、37年の長期に渡って権力の座につき、その強権的な政治手法が指摘されてきたが、2017年11月の国防軍によるクーデターで失脚した。
{{基礎情報 国 | 略名 = ジンバブエ | 日本語国名 =ジンバブエ共和国 | 公式国名 = {{collapsible list |titlestyle = background:transparent;text-align:left;padding-left:2.5em;font-size:85%;<!--size of [show]/[hide] link--> |liststyle = text-align:center;white-space:nowrap; |title = {{native name|en|Republic of Zimbabwe}} | {{small|{{nobold|''その他、14の公用語による正式名称:''<ref name=Cons13>{{cite web |url=http://www.kubatana.net/docs/legisl/constitution_zim_draft_copac_130125.pdf |title=CONSTITUTION OF ZIMBABWE (FINAL DRAFT : JANUARY 2013) |format=pdf |accessdate=2017-05-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131002110534/http://www.kubatana.net/docs/legisl/constitution_zim_draft_copac_130125.pdf |archivedate=2013年10月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>}}}} | {{native name|ny|{{small|Dziko la Zimbabwe}}|fontsize=68%}} | {{native name|seh|{{small|Dziko la Zimbabwe}}|fontsize=68%}} | {{native name|カランガ語|{{small|Hango yeZimbabwe}}|fontsize=68%}} | {{native name|チュワ語|{{small|Zimbabwe Nù}}|fontsize=68%}} | {{native 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/>[[セナ語]]([[バルウェ語]])<br />[[英語]]<br />{{仮リンク|カランガ語|en|Kalanga language}}<br />{{仮リンク|チュワ語|en|Tshwa language}}(コイサン語)<br />{{仮リンク|ナンビャ語|en|Nambya language}}<br />{{仮リンク|ンダウ語|en|Ndau dialect}}<br />[[北ンデベレ語]](ンデベレ語)<br />[[ツォンガ語]]([[シャンガーン語]])<br />[[ショナ語]]<br />{{仮リンク|ジンバブエ手話|en|Zimbabwean sign languages}}<br />[[ソト語]]<br />[[トンガ語 (ザンビア)|トンガ語]]<br />[[ツワナ語]]<br />[[ヴェンダ語]]<br />[[コサ語]]<br />(カッコ内は憲法に記載されている名称)}} | 首都 = [[ハラレ]] | 最大都市 = ハラレ | 元首等肩書 = [[ジンバブエの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[エマーソン・ムナンガグワ]] | 首相等肩書 = [[ジンバブエの副大統領|第一副大統領]] | 首相等氏名 = {{仮リンク|コンスタンティノ・チウェンガ|en|Constantino Chiwenga}} | 他元首等肩書1 = [[ジンバブエの副大統領|第二副大統領]] | 他元首等氏名1 = {{ill2|ケムボ・モハディ|en|Kembo Mohadi}} | 面積順位 = 61 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 390,757 | 水面積率 = 1.0% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 72 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 14,863,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/zw.html |title=UNData - Zimbabwe |publisher= [[国連]] |date=2020|accessdate=2021-11-2}}</ref> | 人口密度値 = 38.4<ref name=population/> | GDP統計年元 =2019 | GDP値元 =1596億4100万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=698,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TMG_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-2}}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 127 | GDP値MER = 195億8700万<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 = 1,314.090(推計)<ref name="imf202110" /> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 126 | GDP値 = 352億7200万<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 2,366.359(推計)<ref name="imf202110" /> | 建国形態 = [[独立|独立宣言]]([[イギリス]]より) | 確立形態1 = [[ローデシア]]として<br />(国際的に承認されず) | 確立年月日1 = [[1965年]][[11月11日]] | 確立形態2 = ジンバブエとして | 確立年月日2 = [[1980年]][[4月18日]] | 通貨 = [[RTGSドル]] | 通貨追記 = <br />[[アメリカ合衆国ドル]]([[ISO 4217|USD]]、暫定)※1 | 通貨コード = | 時間帯 = +2 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = ZW / ZWE | ccTLD = [[.zw]] | 国際電話番号 = 263 | 注記 = ※1 かつての独自通貨の[[ジンバブエ・ドル]](Z$ / ZWD)は[[ハイパーインフレーション]]の結果廃止され、その後[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]、[[ユーロ]]、[[スターリング・ポンド|英ポンド]]、[[ランド (通貨)|南ア・ランド]]、[[プラ|ボツワナ・プラ]]、[[人民元]]、[[インド・ルピー]]、[[オーストラリア・ドル|豪ドル]]、[[円 (通貨)|日本円]]の9つの外国通貨が[[法定通貨]]として定められた([[複数基軸通貨制]](別名:複数通貨制)または[[通貨バスケット制]]を導入)<ref>{{Cite web|url=http://www.bbc.com/news/world-africa-26034078|title=Zimbabwe’s multi-currency confusion|publisher=[[英国放送協会|BBC]]|language=英語|date=2014-02-06|accessdate=2014-03-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://diamond.jp/articles/-/49266|title=ジンバブエが日本円を採用|publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]]|date=2014-03-03|accessdate=2014-03-03}}</ref>。2019年2月に暫定通貨[[RTGSドル]]を導入、6月には唯一の法定通貨と定められ、外貨使用は禁止されたが、インフレによる紙幣不足のため2020年3月より再び米ドルの流通が暫定的に認められている。 |}} '''ジンバブエ共和国'''(ジンバブエきょうわこく、{{lang-en-short|Republic of Zimbabwe}})、通称'''ジンバブエ'''は、[[アフリカ大陸]]の南部に位置する[[共和制]][[国家]]。首都は[[ハラレ]]。 [[内陸国]]であり、[[モザンビーク]]、[[ザンビア]]、[[ボツワナ]]、[[南アフリカ共和国]]に隣接する。なお、地図を一見すると接しているように見える[[ナミビア]]とは、[[ザンビア]]、[[ボツワナ]]を挟んで150メートルほど離れている。[[2003年]]に脱退するまで[[イギリス連邦]]の加盟国だった。 初代首相、2代目[[ジンバブエの大統領|大統領]]を務めた[[ロバート・ムガベ]]は1980年のジンバブエ共和国成立以来、37年の長期に渡って権力の座につき、その強権的な政治手法が指摘されてきたが、2017年11月の国防軍による[[2017年ジンバブエクーデター|クーデター]]で失脚した<ref name=afpbb3150712>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3150712|title=「ジンバブエ大統領は軟禁下」南ア大統領が声明|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2017-11-15|accessdate=2017-11-16<!-- |archiveurl=https://archive.is/f7yYW|archivedate=2017年11月15日 -->}}</ref><ref name=reuters20171121>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/mugabe-resigns-ending-37-yrs-of-rule-idJPKBN1DL2A9|title=ジンバブエのムガベ大統領が辞任、37年間の統治に幕|work=ロイター|agency=[[ロイター]]|date=2017-11-21|accessdate=2018-1-18<!-- |archiveurl=https://archive.is/sjJRY|archivedate=2018年1月18日 -->}}</ref>。 == 国名 == 正式名称は英語で Republic of Zimbabwe(リパブリク・オヴ・ズィンバーブウェ)。通称 Zimbabwe。日本語の表記は'''ジンバブエ共和国'''もしくは'''ジンバブウェ共和国'''。通称'''ジンバブエ'''。日本での[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は「'''辛巴威'''」。中国では辛巴威に加え、「'''津巴布韋'''」とも表記される。 国名は[[ショナ語]]で「石の館(家)」を意味し、ジンバブエ国内にある[[グレート・ジンバブエ遺跡]]に由来する。かつては[[南ローデシア]]と呼ばれていた。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ジンバブエの歴史|en|History of Zimbabwe}}}} === ジンバブエの植民地化以前の時代 (1000年–1887年) === {{main|{{仮リンク|ジンバブエの植民地化以前の時代|en|Pre-colonial history of Zimbabwe}}|{{仮リンク|バントゥー族の拡散|en|Bantu expansion}}}} [[File:Great Zimbabwe 8.jpg | thumb | 220x124px | right | 世界遺産、グレート・ジンバブエ遺跡]] [[12世紀]]ごろ、[[リンポポ川]]中流域に[[マプングブエ|マプングヴエ王国]]が成立し、次いで[[13世紀]]から[[14世紀]]中には、[[グレート・ジンバブエ遺跡|グレート・ジンバブエ]]と呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製[[陶器]]が発見されており、かなり大規模な交易を行っていたようである。[[15世紀]]ごろ、グレートジンバブエは放棄され、代わって[[ザンベジ川]]中流域に[[モノモタパ王国]]、現[[ブラワヨ]]周辺の[[カミ遺跡群|カミ遺跡]]を首都として[[トルワ王国]]が興り、覇権を握った。 [[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて、[[ポルトガル]]人の侵入に苦しむが、撃退。<!-- ロズウィ王国が興るが、18世紀から19世紀には、王位を巡っての内戦、大[[旱魃]]、異民族(ングニ人)の侵入などに見舞われ、ロズウィ王国が滅亡。-->地方首長国の分立状態となる。 === 植民地時代 (1888年–1965年) === {{main|南ローデシア|ローデシア・ニヤサランド連邦|ローデシア問題}} [[19世紀]]後半に[[イギリス南アフリカ会社]]に統治された後、[[第一次世界大戦]]後に[[イギリス]]の[[植民地]]に組み込まれ、イギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエの[[マトボ]]に葬られたケープ植民地首相の[[セシル・ローズ]]の名から、「ローズの家」の意を込め'''英領[[南ローデシア]]'''となった。国土のほとんどは白人農場主の私有地となり、住民達は先祖の墓参りの自由すらなかった。 === 独立と内戦 (1965年–1979年) === [[File:RhodesiaAllies1975.png|thumb|200px|[[ローデシア]]とその支援国(青、[[1975年]])]] {{main|ローデシア|ローデシア紛争|ジンバブエ・ローデシア|[[:en:Lancaster House Agreement]]}} 第二次世界大戦が終結し、世界が[[脱植民地化]]時代に突入すると、南ローデシアでも[[1960年代]]から黒人による[[独立運動]]が本格的に展開されたが、民族解放までの道のりは険しく、[[1965年]]には世界中から非難を浴びる中で植民地政府首相[[イアン・スミス]]が白人中心の'''[[ローデシア|ローデシア共和国]]'''の独立を宣言し、[[人種差別]]政策を推し進めた。これに対して[[黒人]]側もスミス[[政権]]打倒と黒人国家の樹立を目指して[[ゲリラ]]戦を展開。1979年、'''[[ジンバブエ・ローデシア]]'''への国名改称とともに黒人へ参政権が付与され、黒人のムゾレワ首相が誕生した。しかし、白人が実権を持ち続ける体制だったため、国際的承認は得られず戦闘も収拾しなかった。1979年末イギリスの調停により100議席中20議席を[[白人]]の固定枠とすることで合意、[[ローデシア紛争]]は終結した。 === 独立後 (1980年–1999年) === [[1980年]]の総選挙の結果、'''ジンバブエ共和国'''が成立し、[[カナーン・バナナ]]が初代大統領に、そして[[ロバート・ムガベ]]が初代首相に就任した。[[1987年]]からは大統領が儀礼的役割を果たしていた[[議院内閣制]]を廃して[[大統領制]]に移行し、首相職も廃止され、それまで首相だったムガベが大統領に就任。ムガベはその座を93歳となる2017年まで維持することになる。 === 経済危機とハイパーインフレ (1999–2008) === ==== コンゴ民主共和国への派兵 ==== [[1999年]]、[[コンゴ民主共和国]](以後、コンゴと表記)の[[ローラン・カビラ|カビラ]]大統領と親交のあったムガベ大統領は[[内戦]]([[第二次コンゴ戦争]])が勃発したコンゴに約1万人の軍を派兵した。コンゴのカビラ大統領を支えるという名目だったが、真の目的としてコンゴにあるムガベ一族所有の[[ダイヤモンド]]鉱山を守る事や、それらのダイヤモンドのほか[[銅]]や[[金]]など、コンゴの地下資源を狙う理由があった。反対運動がコンゴの都市部を中心に活発に起き、派兵直後にカビラ大統領が暗殺されるなどコンゴ派兵は混乱を招いた。ムガベ大統領は第二次コンゴ戦争への派兵に専念していったため、ジンバブエの経済や医療、教育などが悪化していった。 そのためムガベ大統領への批判が相次ぎ、[[イギリス]]のマスメディアなどは、ムガベ大統領は批判を避ける目的で白人農場を強制収用する政策にすり替えていったとしている。 ==== 白人大農場の強制収用 ==== {{main|[[:en:Land reform in Zimbabwe]]}} [[ファイル:ZWD-USD 2003-.png|thumb|240px|[[2003年]]以降の[[ジンバブエ・ドル]]の[[ハイパーインフレーション]](単位は[[デノミネーション]]前のZWD、[[片対数グラフ|対数]]表示)]] ムガベは初めは黒人と白人の融和政策を進め<ref name="外務省">[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/area/zimbabwe/data.html 外務省:ジンバブエ共和国]</ref>、国際的にも歓迎されてきたが、[[2000年]]8月から4,500人の白人が所有する4,000箇所以上の大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された<ref name="外務省"/>。 この結果、白人地主が持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後、世界最悪になる[[ジンバブエ・ドル]]の[[ハイパーインフレーション]]が発生した。こうした経済混乱に、ムガベの長期政権・[[一党制|一党支配]]に対する不満と相まって、治安の悪化も問題となった。また、[[言論統制|言論の統制]]などの強権的な政策は、外国や人権団体などから批判を受けている。 なお本政策については、2020年8月に後継のムナンガグワ政権が農地を収用された白人農業経営者らに対して35億USドル(約3700億円)の保証金を支払うことで合意したほか、農地の所有権の返還申請を可能とすることを発表している<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3302253|title=前政権接収の農地、白人経営者らに返還へ ジンバブエ政府提案|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2020-09-01|accessdate=2020-09-08}}</ref>。 ==== 反対派への弾圧 ==== 2005年5月には「{{仮リンク|ムラムバツビナ作戦|en|Operation Murambatsvina}}」によって地方の貧しい都市地域および周辺都市地域を標的に大規模な強制退去と住居破壊を行い<ref>「[http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=140.html コミュニティ破壊の衛星画像]」。[[アムネスティ・インターナショナル]]。</ref>、さらには2007年3月11日、警察によって活動家{{仮リンク|ギフト・タンダレ|en|Gift Tandare}}が暗殺されている。 === 2008–現在 === {{main|[[:en:Zimbabwean cholera outbreak]]|[[:en:2008–09 Zimbabwean political negotiations]]|[[:en:Zimbabwean constitutional referendum, 2013]]}} [[コレラ]]流行が[[2008年]]8月に始まり、患者総数91,164人、死者総数4,037人に達している。2009年2月初めのピーク時には一週間で新患者数8,008人を超えた。[[WHO]](国連世界保健機関)によると2009年3月14日までの1週間に報告された新患者数は2,076人で先週の3,812人から減少した。致死率も1月の6%弱から2.3%に低下した。発生数は全体として低下したが、首都[[ハラレ]]とその周辺では増加の傾向にある。 ムガベの後継者争いは2017年11月15日の国防軍による事実上のクーデターを招き、ムガベは大統領の座を追われた<ref name=reuters20171121 /><ref name=afpbb3150712 />。 {{See also|2017年ジンバブエクーデター}} 2020年7月、国内で[[2019新型コロナウイルス]]が拡大した際には、国民に対してマスクの着用など検疫規則を遵守するよう指示。しかし国民の大半は従わず、市民10万人以上が警察に逮捕された。また、隔離施設に収容された陽性患者276人以上が逃亡するなど無秩序な衛生状態となった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-28 |url=https://sputniknews.jp/20200720/7625798.html |title=ジンバブエ警察 新型コロナの検疫規制違反で10万人以上を逮捕 |publisher=スプートニク |accessdate=2020-08-16}}</ref>。 2020年8月、ジンバブエ国家統計庁は、同年7月の物価上昇率が年率840%近くまで上昇したと発表。インフレが再び悪化する兆しが生じた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-16|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3299409|title= ジンバブエのインフレ率、840%近くに 政府は危機を否定|publisher=AFP |accessdate=2020-08-16}}</ref>。 == 政治 == {{main|ジンバブエの政治}} {{see also|ジンバブエの政党|ジンバブエ議会}} [[File:Robert Mugabe, 12th AU Summit, 090202-N-0506A-310.jpg|thumb|160px|第2代大統領[[ロバート・ムガベ]]]] [[野党]]勢力への迫害が強く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが常態化しており、激しい対立が続いている。ムガベ大統領による[[独裁政治]]体制が長きに渡り続いた。 ローデシア共和国初代首相であった[[イアン・スミス]]は、政界復帰を狙っていると伝えられていたが、[[2007年]]11月20日に[[南アフリカ共和国]]・[[ケープタウン]]の自宅で[[心不全]]により88歳で死去した{{要検証|date=2018年8月}}。 [[2008年]]3月29日より[[2008年ジンバブエ大統領選挙|大統領選挙]]が始まり、現職の[[与党]]ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線のムガベ大統領他、与党から造反したシンバ・マコニ元財務相と最大野党の民主変革運動(MDC)の[[モーガン・ツァンギライ]]議長が立候補していたが、ムガベ政権からの弾圧によりツァンギライ議長は出馬の取り止めを余儀なくされた。これにより、ムガベ大統領は欧米からの決選投票延期要請を無視し、投票を強行、勝利したと宣言した。[[7月11日]]、[[国際連合安全保障理事会]]にジンバブエ政府非難と、ムガベ大統領ら政権幹部の資産凍結・渡航禁止などの制裁決議案が提出された。しかし、[[中華人民共和国|中国]]と[[ロシア]]が内政問題であるとして[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動し、否決された。賛成9([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[イタリア]]、[[ベルギー]]、[[パナマ]]、[[クロアチア]]、[[コスタリカ]]、[[ブルキナファソ]])、反対5(中、露、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[リビア]]、[[ベトナム]])、棄権1([[インドネシア]])だった。その後もアメリカ国務長官[[コンドリーザ・ライス]]は、ムガベ政権の海外資産を凍結するなどの制裁措置をイギリスやアフリカの同盟国と協議する事を明らかにした<ref>{{cite news|title = 米国務長官:ジンバブエ制裁 多国間で協議へ|newspaper = 毎日新聞|date = 2008-12-22|url = https://web.archive.org/web/20081225171724/http://mainichi.jp/select/world/news/20081224k0000m030034000c.html}}</ref>。2009年2月11日、[[連立政権]]が樹立しMDCツァンギライ議長が首相に就任したため独裁体制に区切りがついた形だが、現地の英国[[大使館]]が地元紙に「ムガベ大統領が退陣しない限り意味がない」という広告を出すなど、懐疑論も強く残った<ref>{{cite news|title = ジンバブエ、野党議長が首相に就任|newspaper = 産経新聞|date = 2009-02-11|url = http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090211/mds0902111906002-n1.htm}}</ref>。 ムガベの後継をめぐって[[グレース・ムガベ]]夫人と、軍の支持を得る[[エマーソン・ムナンガグワ]]との間で争いが勃発した。2017年11月6日にムガベがムナンガグワを第1副大統領から解任したことで国防軍が反旗を翻し事実上のクーデターを企図し、ムガベは自宅軟禁下に置かれ、軍が国家権力を掌握<ref name=afpbb3150712 />。11月21日に議会でムガベの弾劾手続きが開始され<ref>{{Cite news|url=http://www.bbc.com/japanese/42061732|title=「夫人の権力奪取許した」ジバブエ与党、ムガベ大統領弾劾手続きへ|work=bbc.com|agency=[[BBC]]|date=2017-11-21|accessdate=2017-11-22}}</ref>、ムガベは辞表を提出。37年間に及ぶ長期政権に幕が下りた<ref name=reuters20171121 />。[[ジンバブエの首相|首相]]職は2013年に廃止された。 === 国外メディアの報道規制 === 国内では厳しい報道規制が敷かれ、政府は[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]・[[英国放送協会|BBC]]といった欧米メディアによる取材を禁止している。宗主国であったイギリスに対するジンバブエ国民の悪感情は根強い。またイギリス側のジンバブエ報道も、過度に扇情的であるとの指摘もされている。 日本、[[ガボン]]と同じく、取材対象の公的機関が一部の報道機関に対して排他的かつ独占的な便宜を供与(取材場所の提供、取材費用の負担など)する形の[[記者クラブ]]制度を有する。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ジンバブエの国際関係|en|Foreign relations of Zimbabwe}}}} 前述の植民地時代の影響で反英感情または反白人感情が強く、[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]や[[英国放送協会|BBC]]の取材を禁じているほか、白人の持つ農地の強引な国有化、白人所有大農場の強制収用などの政策が行われた。ムガベ大統領の思想も影響しており、ムガベは自分を非難したアメリカのライス国務長官を「白人の奴隷」と侮辱し、[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|過去のアメリカ合衆国の黒人奴隷制度]]の批判もしていたため[[反米感情]]もある。その一方で、2014年現在でジンバブエが支援を受けている二大主要国はアメリカ合衆国(約178百万ドル)とイギリス(約171百万ドル)という構図となっている<ref>{{Cite web|和書|date= 2017-12-08|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html|title= ジンバブエ基礎データ|publisher= 日本国外務省|accessdate=2018-03-10}}</ref>。 非白人国家である[[中華人民共和国]]や[[南アフリカ共和国]]と友好関係を深めており、両国の影響力が極めて強い<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20130602-BC6LPYVSBRNLFEAQHDMBUTNHWA/4/|title=軍備に商業施設…「独裁国」ジンバブエを後押しする中国と南ア|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞社]]|date=2013-06-02|accessdate=2018-02-02}}</ref>。特に中国は大統領になる前からムガベを支援していた関係にあり<ref>Blair, David (2002). Degrees in Violence: Robert Mugabe and the Struggle for Power in Zimbabwe. London and New York: Continuum. ISBN 978-0-8264-5974-9. p. 23</ref><ref>Meredith, Martin (2002). Our Votes, Our Guns: Robert Mugabe and the Tragedy of Zimbabwe. New York: Public Affairs. ISBN 978-1-58648-186-5. pp. 36–37</ref><ref>Alao, Abiodun (2012). Mugabe and the Politics of Security in Zimbabwe. Montreal and Kingston: McGill-Queen's University Press. ISBN 978-0-7735-4044-6. p. 20.</ref><ref>Andrew, Christopher; Gordievsky, Oleg (1990). KGB : the inside story of its foreign operations from Lenin to Gorbachev. New York, NY: HarperCollinsPublishers. p. 465. ISBN 9780060166052.</ref>、ムガベの後継者の座を争ったグレース夫人とムナンガグワはどちらも中国への留学歴を持っている<ref>{{cite web|url=https://www.theindependent.co.zw/2014/10/24/grace-phd-fraud-interview-sheds-light/ |title=Grace PhD fraud: Interview sheds light|website= Zimbabwa Independent| access-date=2019-02-23}}</ref><ref>[http://iso.ruc.edu.cn/English/displaynews.php?id=426 津巴布韦总统夫人格蕾丝•穆加贝人民大学毕业 获文学学士学位] Renmin University {{cn icon}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.france24.com/en/20171122-zimbabwe-profile-emmerson-mnangagwa-crocodile-mugabe-grace|title=Emmerson Mnangagwa, the disgraced Mugabe loyalist who took his revenge|last=Dodman|first=Benjamin|date=22 November 2017|work=[[France 24]]|access-date=2019-02-23|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.insiderzim.com/us-embassys-assessment-of-mnangagwa-in-1988/|title=US embassy’s assessment of Mnangagwa in 1988|last=|first=|date=2012-04-12|work=The Insider|access-date=2019-02-23}}</ref>。ムガベは白人社会の欧米諸国や[[オーストラリア]]への入国を禁止されているが、[[香港]]、[[シンガポール]]、[[マレーシア]]で別荘を購入するなど豪華な生活を堪能している。アメリカ、イギリス、フランスはジンバブエへの[[経済制裁]]を求めているが、他の[[常任理事国]]の中国、[[ロシア]]はジンバブエへの経済制裁は内政問題という理由で[[拒否権]]を発動した。 === 日本との関係 === {{see|日本とジンバブエの関係}} [[司馬江漢]]が、[[長崎県|長崎]]に赴いた時の事を記した「西遊日記(1788年)」にて、「此[[黒人|黒坊]]と云は…[[ジャワ島|ヤハ〔ジャワ〕嶋]]の者、或は[[アフリカ]]大州の中[[モノモタパ王国|モノモウタアパ]]と云処の[[熱帯|熱国]]の産れなり」と、[[出島]]にオランダ人の召使いとして住んでいた東南アジア人やアフリカ人の記録を残している。この「[[モノモタパ王国|モノモウタアパ]]」なる土地は、現在のジンバブエと言われている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/14/2.html|title=アフリカの日本、日本のアフリカ 第2章 日本に渡ったアフリカ人|publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2019-10-21}}</ref>。 * 在留日本人数 - 116人(2019年10月現在)<ref name=mofaj>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html#section6|publisher=[[外務省]]|title=ジンバブエ基礎データ 二国間関係|accessdate=2022-5-23}}</ref> * [[在日ジンバブエ人]]数 - 215人(2020年6月現在)<ref name=mofaj/> ==== 駐日ジンバブエ大使館 ==== {{Main|駐日ジンバブエ大使館}} [[File:ジンバブエ大使館全景.jpg|thumb|ジンバブエ大使館全景]] *住所:東京都港区白金台五丁目9-10 *アクセス:[[東京メトロ南北線]]・[[都営地下鉄三田線]][[白金台駅]]1番出口 ==== ジンバブエ駐日大使公邸 ==== [[File:ジンバブエ大使公邸.jpg|thumb|ジンバブエ大使公邸]] *住所:東京都目黒区八雲3丁目24-20 *アクセス:[[東急東横線]][[都立大学駅]]北口、もしくは[[東急東横線]]/[[東急大井町線]][[自由が丘駅]]北口 == 地方行政区分 == [[ファイル:Zimbabwe Provinces numbered 300px.png|thumb|[[ジンバブエの行政区画]]]] {{main|ジンバブエの行政区画}} #[[ブラワヨ]]市 #[[ハラレ]]市 #[[マニカランド州]](東部) #[[中央マショナランド州|マショナランド中央州]](北部) #[[東マショナランド州|マショナランド東部州]](北部) #[[西マショナランド州|マショナランド西部州]](北部) #[[マシンゴ州|マスィンゴ州]](南東部) #[[北マタベレランド州]](西部) #[[南マタベレランド州]](西部) #[[ミッドランズ州]] ===主要都市=== {{Main|ジンバブエの都市の一覧}} 主要な都市は[[ハラレ]](首都)、[[ブラワヨ]]がある。 == 地理 == [[ファイル:Zi-map-ja.gif|thumb|right|260px|ジンバブエの地図]] [[ファイル:Victoriaf%C3%A4lle.jpg|left|thumb|260px|[[ヴィクトリア滝]]]] {{main|{{仮リンク|ジンバブエの地理|en|Geography of Zimbabwe}}}} ジンバブエはアフリカ南部に位置し、[[モザンビーク]]、南アフリカ、[[ボツワナ]]、[[ザンビア]]と国境を接する。[[内陸国]]である。座標は東経30度・南緯20度のあたり。 面積は390,580 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]、うち陸地面積が 386,670 km<sup>2</sup>、内水面面積が 3,910 km<sup>2</sup>を占める。面積は[[日本]]と比べると僅かに広い。気候は[[熱帯]]性であるが、高地のためやや温暖である。[[雨季]]は11月から3月にかけて続く。地形は高原が大部分を占める。東部は山岳地帯である。国内最低地点は{{仮リンク|ルンデ川|en|Runde River}}と{{仮リンク|サビ川|en|Save River (Africa)}}の合流地点で標高162 m、最高地点は{{仮リンク|ンヤンガニ山|en|Mount Nyangani}}([[ショナ語]]: {{lang|sn|Gomo reNyangani}}、旧インヤンガニ山)で標高2,592 m。 北のザンビアとの国境には[[ザンベジ川]]が流れ、[[ヴィクトリア滝]]がある。南の南アフリカとの国境には[[リンポポ川]]が流れる。 == 経済 == [[File:Eastgate Centre, Harare, Zimbabwe.jpg|thumb|left|首都[[ハラレ]]]] [[File:Key Crops production in Zimbabwe.svg|thumb|180px|主要作物の作付面積(左1999-2000年、右2007-8年、上からタバコ、大豆、トウモロコシ、いずれも激減)]] {{main|{{仮リンク|ジンバブエの経済|en|Economy of Zimbabwe}}}} [[石炭]]、[[クロム]]鉱石、[[石綿|アスベスト]]、[[金]]、[[ニッケル]]、[[銅]]、[[鉄]]鉱石、[[バナジウム]]、[[リチウム]]、[[スズ|錫]]、[[白金|プラチナ]]を産し、農業・観光と共に重要な外貨獲得産業である。とくに白金は世界最大級の埋蔵量を誇り、2006年に発見されたダイアモンド鉱山も2014年に12百万カラットと世界有数の産出量がある。ビクトリア滝に代表される観光資源だが森林破壊による野生動物の減少が深刻化している。 [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のジンバブエの[[国内総生産|GDP]]は132億ドルである。一人当たりのGDPは1,007ドルであり、隣接する[[南アフリカ共和国]]や[[ボツワナ]]と比べると大幅に低い水準にある。 かつては農業、鉱業、工業のバランスの取れた経済を有する国家であった。白人大規模農家による非常に効率的な農業が行われており、外貨収入の半数を農産物の輸出で得ている農業国として、ヨーロッパから「アフリカの穀物庫」と呼ばれていたほどであった<ref name="外務省"/>。特に[[小麦]]の生産性は高く、10アールあたりの単位収量は1980年代から1990年代にかけては550kgから600kgにものぼり、ヨーロッパ諸国と肩を並べ世界最高水準に達していた<ref>「図説アフリカ経済」(平野克己著、日本評論社、2002年)p46</ref>。 白人農家に対する強制土地収用政策の開始後、ノウハウを持つ白人農家の消滅、大規模商業農業システムの崩壊<ref name="外務省"/>により、農作物の収量は激減した。基幹産業の農業の崩壊によって生じた外貨不足は、さらに部品を輸入で調達していた工業にも打撃を与え、経済は極度に悪化した<ref name="外務省"/>。[[2002年]]には経済成長率は-12.1%を記録した。旱魃により食糧不足が深刻化し、加えて[[欧米]]各国による[[経済制裁]]が影響し、[[2003年]]末には600%の[[インフレーション|インフレ]]が発生。[[2006年]]4月には1,000%以上に達した<ref>「[http://www.rbz.co.zw/about/inflation.asp Inflation Rates (2001=100)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081223062521/http://www.rbz.co.zw/about/inflation.asp |date=2008年12月23日 }} 」。the Reserve Bank of Zimbabwe。</ref>。 2007年8月23日、ジンバブエ政府が国内の外資系企業に対して株式の過半数を「ジンバブエの黒人」に譲渡するよう義務付ける法案を国会に提出、9月26日に通過した<ref>{{cite news |title = ジンバブエ:外資系の株式過半数を黒人へ 法案提出 |newspaper = 毎日新聞 |date = 2007-08-24 |url = http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/news/20070825k0000m030073000c.html }}</ref>。 ===通貨=== 2019年6月より[[RTGSドル]]が法定通貨と定められている。 かつての独自通貨[[ジンバブエ・ドル]]は[[2000年代]]に発生した[[ハイパーインフレーション]]により価値を失い、[[2015年]]に廃止が決定され、その後は主に[[アメリカ合衆国ドル]]が利用された。[[南アフリカランド]]はかろうじて大きなスーパーマーケットやジンバブエ南部では使えるところもあるが、ほとんど使われていない。2016年11月からアメリカ合衆国ドルと同等価値の新通貨として「[[ボンド (ジンバブエ)|ボンド]]([[ボンドノート]])」の発行を開始した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3109404 ジンバブエ、「代理」ドルを発行 ハイパーインフレの再来懸念で]</ref>。また1ドル以下の硬貨に関しては、2015年秋ごろから、政府発行のボンドコイン(Bond coin)が流通し始め、それまでの南アフリカランドが使えなくなった。 2019年2月に暫定通貨としてRTGSドルが導入され、6月24日に中央銀行はこれを唯一の法定通貨と定め、外貨を法貨として使用することを禁止した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/zimbabwe-economy-currency-idJPKCN1TQ06O|title=ジンバブエ、RTGSを唯一の法定通貨に制定 政策金利50%へ|agency=[[ロイター]]|date=2019-06-25|accessdate=2019-07-15}}</ref>。しかし、RTGSドルもまた大規模なインフレーションが発生しており、紙幣不足のため、2020年3月から再びアメリカ合衆国ドルの暫定的な使用が認められている<ref>{{Cite news|last=Matiashe |first=Faral |date=15 April 2020 |title=Zimbabwe is on lockdown, but money-changers are still busy |newspaper=Al Jazeera |url=https://www.aljazeera.com/ajimpact/zimbabwe-lockdown-money-changers-busy-200414215412998.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20200416005945/https://www.aljazeera.com/ajimpact/zimbabwe-lockdown-money-changers-busy-200414215412998.html |archive-date=16 April 2020 |url-status=live }}</ref>。外貨が利用できる期限は2025年と定められていたが、経済の不安定化を理由に2030年まで延長されている<ref>{{Cite news |url=https://www.reuters.com/markets/currencies/zimbabwe-extends-multi-currency-system-2030-2023-10-27/ |title=Zimbabwe extends multi-currency system to 2030 |publisher=ロイター通信 |date=2023-10-28 |accessdate=2023-10-29}}</ref>。 このほかにインフレを抑制するため、一般向けに2022年に導入された金貨{{仮リンク|モシ・オア・トゥーニャ|en|Mosi-oa-Tunya (coin)}}<ref>{{Cite news |url=https://www.cbc.ca/news/world/zimbabwe-gold-coins-inflation-currency-1.6531868 |title=Zimbabwe introduces gold coins in an effort to tame inflation, rekindle faith in currency |publisher=CBC |date=2022-07-26 |accessdate=2023-10-29}}</ref>、P2PおよびP2B向けに2023年に導入された[[デジタル通貨]]がある。これらは国内の金を裏付けにしている<ref>{{Cite news |url=https://www.aljazeera.com/news/2023/5/9/zimbabwes-new-gold-backed-digital-currency-all-you-need-to-know |title=Zimbabwe’s new gold-backed digital currency: All you need to know |publisher=アルジャジーラ |date=2023-05-09 |accessdate=2023-10-29}}</ref>。 ====ジンバブエ・ドル==== [[ファイル:Zimbabwe 100000000000000.png|thumb|[[2009年]]に発行された100兆ジンバブエドル札]] 通貨[[ジンバブエ・ドル]] ([[ISO 4217|ZWD]]) は、アメリカの評論誌『Foreign Policy』によれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨ワースト5の一つとなり<ref>Foreign Policy:"[http://www.foreignpolicy.com/story/cms.php?story_id=3880 The List: The World’s Worst Currencies]" GIGAZINE 2007年06月19日 「[http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070619_worlds_worst_currencies/ 世界で最も価値の低い通貨トップ5]」</ref>、[[2008年]]5月に1億と2億5000万の額面のジンバブエ・ドル札が発行された後も、50億、250億、500億ドル札の発行と続き、7月には1000億ドル札の発行が行われた(これは発行時の時点で世界最高額面の紙幣)。そのため、コンピュータの処理にトラブルが発生したことから、中央銀行は[[デノミネーション]]を実施し、大幅な通貨単位の引き下げを実施した。それにより1000億ドルが10ドルとなり、対応した新紙幣が発行された。しかし、さらにインフレが続いたため、12月末には100億ドル新紙幣を、2009年1月には再び200億ドル紙幣と500億ドル紙幣の発行を行った。この時点でジンバブエ・ドルの価値は、250億(25000000000)ジンバブエ・ドル=1米ドルとなった。年間インフレ率は約2億3000万%に達した(2009年1月)。{{main|ジンバブエ・ドル}} ====法定通貨として使用された外貨==== *[[米ドル]] *[[南アフリカランド]] *[[ユーロ]] *[[英ポンド]] *[[ボツワナ・プラ]] *[[人民元]] *[[インド・ルピー]] *[[豪ドル]] *[[日本円]] 2009年1月29日、ジンバブエ政府は完全に信用を失ったジンバブエ・ドルに代えて[[アメリカ合衆国ドル]]や南アフリカ[[ランド (通貨)|ランド]]、ユーロ、英ポンド、ボツワナ・プラの国内流通を公式に認め、公務員の給与も米ドルで支払うことにし、この5通貨を法定通貨とした。これにより同国のハイパーインフレは終息を見せ、ジンバブエ政府によれば同年3月の物価は同1月比0.8%減となった<ref name=time>{{cite news |url = http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1887809,00.html |title = Has Zimbabwe's Runaway Inflation Been Tamed? |publisher = [[TIME]] |date = 2009-03-26 |accessdate = 2009-03-26 }}</ref>。その結果、極度の経済混乱は収束し、12年ぶりに経済成長を記録した<ref name=gaimusho>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html|title=ジンバブエ基礎データ|publisher=外務省|accessdate=2015-04-23}}</ref>。2012年現在は、都市部では経済の復興の傾向がみられはじめている<ref>[http://gigazine.net/news/20120310-zimbabwe-us-dollar/ アフリカ諸国との格の違いを見せつけられたジンバブエの現状]</ref>。[[2013年]]1月29日、ジンバブエ政府は、前週の公務員への給与支払いにともない、[[国庫金]]の残高が217ドルになったことを明らかにした<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2924692?pid=10194951 国庫残高1万9700円、ジンバブエ財務相が公表] afp BB News 2013年1月31日</ref>。同時に、年内に予定されている憲法改正をめぐる国民投票と総選挙のための資金が不足していることを認め、国際社会の支援を要請した<ref>[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/01/post-2832.php ジンバブエ「国庫残高217ドル」の焦り] News Week 2013年1月31日</ref>。 2014年2月、ジンバブエ政府は法定通貨として、さらに中国人民元、インド・ルピー、豪ドル、日本円を加え、9通貨を法定通貨とした<ref name=gaimusho>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html|title=ジンバブエ基礎データ|publisher=外務省|accessdate=2015-04-23}}</ref>。ジンバブエ政府では複数基軸通貨制(別名:複数通貨制)または[[通貨バスケット制]]を導入した。 2014年12月、ジンバブエ準備銀行は、ボンドコインと呼ばれる[[硬貨]]を発行した(鋳造は南アフリカ国内)。ボンドは[[債券]]に裏付けされていることを意味し、公債コインと訳されることがある。価値は、アメリカ合衆国の通貨、[[セント (通貨)|セント]]と同等の価値を有するものと位置づけられているが、過去のジンバブエ・ドルの経緯から流通は停滞している<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0KI0SP20150109 |title=ジンバブエが独自コイン発行、国民はそっぽ|work=ロイター|newspaper= ロイター通信社|date=2015-01-09|accessdate=2015-01-10}}</ref>。 2015年6月、ジンバブエ中央銀行は、ジンバブエドルを廃止し米ドルに両替して回収すると発表した。両替レートは1ドル=3京5千兆ジンバブエドル。9月までに終わらせる<ref>{{Cite news|date = 2015年 06月 12日|newspaper = [[ロイター]]|title = ジンバブエが自国通貨を廃止、17.5京ドルを5米ドルに交換|url = http://jp.reuters.com/article/2015/06/12/zimbabweans-idJPKBN0OS0JV20150612|accessdate = 2015-10-21}}</ref>。2015年12月、9種の法定通貨のうち、[[中華人民共和国|中国]][[人民元]]を2016年より本格的に流通させることを決めた<ref>[http://www.cnn.co.jp/business/35075453.html ジンバブエ、人民元を「通貨」に 中国は48億円の債権放棄] - CNN 2015年12月25日</ref>。 2016年5月には、ボンドコイン(前出)に続き紙幣版のボンドノートも発行されたが市民から支持はされず、2019年にかけて価値は急落している<ref>{{Cite web|和書|date=2016-05-06 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3086200|title= 外貨不足のジンバブエ、米ドル相当の紙幣を発行へ|publisher=AFP |accessdate=2019-01-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= 2019-01-19|url=https://mainichi.jp/articles/20190119/k00/00m/030/203000c |title=ジンバブエ、強硬措置で抗議封じ込め 燃料費高騰や日用品不足で混乱 |publisher= 毎日新聞|accessdate=2019-01-20}}</ref>。 2019年2月、ボンドノートと電子マネーがRTGSドルに改称された(RTGS=[[即時グロス決済]])。6月24日、ジンバブエ中央銀行は一切の外貨を法定通貨として使用することを禁じた<ref>{{citation|url=https://www.bbc.com/news/world-africa-48757080|title=Why Zimbabwe has banned foreign currencies|date=2019-06-26|publisher=BBC News}}</ref><ref>{{citation|和書|url=https://jp.reuters.com/article/zimbabwe-economy-currency-idJPKCN1TQ06O|title=ジンバブエ、RTGSを唯一の法定通貨に制定 政策金利50%へ|date=2019-06-24|publisher=Reuters}}</ref>。 == 国民 == [[ファイル:Shona witch doctor (Zimbabwe).jpg|thumb|160px|伝統的な衣装に身を包んだ[[ショナ人]]の[[呪術医]]]] {{main|{{仮リンク|ジンバブエの人口統計|en|Demographics of Zimbabwe}}}} === 民族 === [[ショナ人]]が71%、{{仮リンク|北ンデベレ人|en|Northern Ndebele people|label=ンデベレ人}}が16%、その他のアフリカ系([[バントゥー系民族|バントゥー系]]の[[:en:Venda people]]、[[トンガ族]]、[[シャンガーン人]]、[[:en:Kalanga people]]、[[ソト族]]、[[:en:Ndau people]]、[[:en:Nambya]])が11%、残りはヨーロッパ人やアジア人などである。 === 言語 === {{see|{{仮リンク|ジンバブエの言語|en|Languages of Zimbabwe}}}} [[公用語]]は[[英語]]だが、[[ショナ語]]、[[北ンデベレ語]]などが主に使われる。 新たに公用語として16言語([[チェワ語]]、[[セナ語]]({{仮リンク|バルウェ語|fr|Barwe (langue)|hr|Barwe jezik}}(Chibarwe))、[[英語]]、{{仮リンク|カランガ語|en|Kalanga language}}、{{仮リンク|チュワ語|en|Tshwa language}}(コイサン語)、{{仮リンク|ナンビャ語|en|Nambya language}}、{{仮リンク|ンダウ語|en|Ndau dialect}}、[[北ンデベレ語]](ンデベレ語)、[[ツォンガ語]]([[シャンガーン語]])、[[ショナ語]]、{{仮リンク|ジンバブエ手話|en|Zimbabwean sign languages}}、[[ソト語]]、[[トンガ語 (ザンビア)|トンガ語]]、[[ツワナ語]]、[[ヴェンダ語]]、[[コサ語]])が定められている。 === 宗教 === {{see|{{仮リンク|ジンバブエの宗教|en|Religion in Zimbabwe}}}} [[キリスト教]]と部族宗教の混合が50%、キリスト教が25%、部族宗教が24%、[[イスラム教]]などが1%となっている。 === 婚姻 === 結婚時の姓に関する法はなく、婚前の姓をそのまま用いる([[夫婦別姓]])ことも、夫の姓に変更する(夫婦同姓)ことも可能<ref>[http://www.sundaynews.co.zw/unpacking-double-barelled-surnames/ Unpacking double- barelled surnames]、The Sunday News, 2016年8月14日。</ref>。 === 教育 === {{see|{{仮リンク|ジンバブエの教育|en|Education in Zimbabwe}}}} {{要出典範囲|date=2019年9月|イギリスに倣い、1月に学校の年度が始まる。6歳からの入学で初等教育7年、前期中等教育4年と後期中等教育2年、高等教育が3年程。識字率は99%}}。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|ジンバブエの保健|en|Health in Zimbabwe}}}} 国民の約3割が [[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]] に感染しているといわれており、[[世界保健機関]] (WHO) の2006年版の「世界保健報告」によると、[[平均寿命]]は36歳と世界で最も短い(1990年の時点では62歳であった)。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|ジンバブエの文化|en|Culture of Zimbabwe}}}} === 食文化 === [[トウモロコシ]]の粉を煮詰めた「サザ」が主食である。「ムリヲ([[ホウレンソウ]])」と[[ピーナッツバター]]を混ぜた「ラリッシュ」という料理が存在する。牛、豚、鶏は一般的で、全土で食べられている。飲食店では、サザと、おかずとしてトマトベースのスープで牛肉を煮込んだ料理と、付け合わせのムリヲの組み合わせが一般的。 === 文学 === {{see|{{仮リンク|ジンバブエ文学|en|Zimbabwean literature}}|アフリカ文学}} [[1960年代]]の独立戦争のころから、チムレンガ文学と呼ばれる文学潮流が生まれた。『骨たち』([[1988年]])で知られるチェンジェライ・ホーヴェが、ジンバブエの特に著名な[[作家]]の名として挙げられる。 === 音楽 === {{See also|ジンバブエの音楽}} 音楽はジンバブエの歴史において重要な役割を果たしてきた。祖先の霊を呼ぶために使用された伝統的なビラの儀式での重要な役割から、独立闘争中に歌で抗議するためのプロテスト・ソングまで存在する。 === 世界遺産 === {{Main|ジンバブエの世界遺産}} ジンバブエ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在し、ザンビアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。 <gallery> ファイル:ZmbziRvr.jpg|[[マナ・プールズ|マナ・プールズ国立公園、サピとチュウォールのサファリ地域]] - (1984年、自然遺産) ファイル:Great-Zimbabwe-2.jpg|国史跡[[グレート・ジンバブエ遺跡]] - (1986年、文化遺産) ファイル:Exterior of great enclosure,G.Zimbabwe.JPG|グレートジンバブエ遺跡の「大囲壁」の外観。Randall-MacIver,D.1906より ファイル:Khami.jpg|国史跡[[カミ遺跡群]] - (1986年、文化遺産) ファイル:Victoriafälle.jpg|[[ヴィクトリアの滝|モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝]] - (1989年、自然遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|ジンバブエの祝日|en|Public holidays in Zimbabwe}}}} {|class="wikitable" !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- |[[1月1日]]-[[1月2日|2日]]||[[元日]]|| || |- |[[2月21日]]||青年の日|| || |- |[[4月18日]]||[[独立記念日]]|| || |- |3月 - 4月||[[聖金曜日]]|| ||[[移動祝日]] |- |3月 - 4月||[[復活祭]]月曜日|| ||移動祝日 |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]|| || |- |[[5月25日]]||[[アフリカの日]]|| || |- |[[8月11日]]||英雄の日|| || |- |[[8月12日]]||国軍記念日|| || |- |[[12月22日]]||国民統合の日|| || |- |[[12月25日]]||[[クリスマス]]|| || |- |[[12月26日]]||[[ボクシング・デー]]|| || |} *祝日が日曜日の場合は翌日が振替休日となる。 == スポーツ == [[ファイル:Zimbabwe national football team, 2009.jpg|thumb|[[サッカージンバブエ代表]]]] {{main|{{仮リンク|ジンバブエのスポーツ|en|Sport in Zimbabwe}}}} ジンバブエにおける[[スポーツ]]は、過去2回[[ラグビーワールドカップ|ワールドカップ]]に出場経験のある[[ラグビーフットボール|ラグビー]]、[[2003年]]に[[ケニア]]や[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]と[[クリケットワールドカップ|ワールドカップ]]を共催した[[クリケット]]、さらには[[サッカー]]や[[テニス]]などが、国際大会で実績を残してきた分野である。 [[ゴルフ]]では、[[ワールドゴルフランキング]]1位にもなった[[1990年代]]を代表する[[プロゴルファー]]の一人である[[ニック・プライス]]を輩出している。さらに[[競泳]]では、[[オリンピックの競泳競技|五輪]]や[[世界水泳選手権|世界水泳]]で多くのメダル獲得や世界記録を打ち立てた[[カースティ・コベントリー]]が活躍している。 === サッカー === {{see|{{仮リンク|ジンバブエのサッカー|en|Football in Zimbabwe}}}} ジンバブエ国内でも他の[[アフリカ]]諸国同様に[[サッカー]]が最も人気のスポーツであり、[[1980年]]にプロサッカーリーグの[[ジンバブエ・プレミアサッカーリーグ]]が創設された。{{仮リンク|ジンバブエサッカー協会|en|Zimbabwe Football Association}}によって構成される[[サッカージンバブエ代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[アフリカネイションズカップ]]には5度の出場経験を有する。 ジンバブエ人の著名な[[サッカー選手]]としては、[[イングランド]]・[[プレミアリーグ]]で活躍した'''[[ベンジャミン・ムワルワリ]]'''が挙げられる。ムワルワリは、[[マラウイ]]系の両親の間にジンバブエ第2の都市[[ブラワヨ]]で生まれ、国籍は生まれ育ったジンバブエを選択している。[[1998年]]に代表デビューを果たし、[[2006年]]からは代表チームの[[主将]]も務めた。 === テニス === テニスは1990年代から2000年代前半にかけて[[バイロン・ブラック]]、[[ウェイン・ブラック]]、[[カーラ・ブラック]]の「ブラック3兄妹」と[[ケビン・ウリエット]]という、後に全員が[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]ダブルスタイトル保持者となる4人の白人選手の活躍により栄華を極めた。 男子国別対抗戦[[デビスカップ]]でも、同国代表は最上位グループの「ワールドグループ」に3度出場するなど、選手層は薄いながらもテニス強国の一角を占めるまでに成長したが、2000年以降のムガベによる白人層の弾圧により4人の内ウリエットは他の多くの白人国民と同様にイギリスへの[[亡命]]を余儀なくされ<ref>{{Cite web |author = Jean-François Pérès |date = 2008年6月3日|url=http://www.rfi.fr/sportfr/articles/102/article_67023.asp |title = «Mon ambition ? Entrer dans le Top 10» |publisher = [[ラジオ・フランス・アンテルナショナル]] |language = フランス語 |accessdate = 2010年12月2日}}</ref>、ブラック兄妹も活動拠点をイギリスに移す事態となり<ref>{{Cite web |author=CHRISTOPHER CLAREY |date = 2009年10月25日|url=http://www.nytimes.com/2009/10/26/sports/tennis/26iht-srdouble.html?hpw |title = African Pair Reigns as Doubles Queens |publisher = [[NYタイムズ]] |language = 英語 |accessdate = 2010年12月2日}}</ref>、これにバイロンとウェインの現役引退が重なる形で同国代表は主力選手を一気に失い、2002年のワールドグループ陥落から僅か7年で最下位カテゴリのアフリカゾーンⅣまで転落した<ref>{{Cite web |url = http://www.daviscup.com/en/teams/team/profile.aspx?id=ZIM |title =Davis Cup - Team - Profile |publisher = [[国際テニス連盟|ITF]] |language = 英語 |accessdate = 2010年12月7日 }}</ref>。 女子テニスのフェドカップジンバブエ代表は90年代以降国際レベルで活躍している選手がカーラのみであり、国別対抗戦の[[フェドカップ]]でカーラ一人に掛かる負担が大き過ぎたことや、2000年以降はムガベの[[独裁政治]]に対する抗議の意味合いも加わる形で[[フェドカップ1996|1996年]]以降カーラがフェドカップ出場を拒否する状況が長年続いており<ref>{{Cite web |url = http://www.fedcup.com/en/players/player/profile.aspx?playerid=20004191 |title = Fed Cup - Player - Profile |publisher = [[国際テニス連盟|ITF]] |language = 英語 |accessdate = 2010年12月7日 }}</ref>、カーラ個人の国際的な活躍と裏腹に代表は国別ランクで最下位レベルに低迷するばかりか、フェドカップ参加すら覚束ない状態となっている<ref>{{Cite web |url = http://www.fedcup.com/en/teams/team/profile.aspx?id=ZIM |title = Fed Cup - Team - Profile |publisher = [[国際テニス連盟|ITF]] |language = 英語 |accessdate = 2010年12月7日 }}</ref><ref>{{Cite web |date = 2008年8月7日 |url = https://www.resumo.blog.br |title = Cara Black evita comentar situação política no Zimbábue |publisher = [[ウニヴェルソ・オンライン]] |language = ポルトガル語 |accessdate = 2010年12月7日 }}</ref>。 === クリケット === [[クリケット]]は人気スポーツの一つとなっている。歴史は古く、1890年に初めてクリケットの試合がジンバブエ(当時は[[ローデシア]])で行われた<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/africa/full/18 Cricket Zimbabwe] 国際クリケット評議会 2023年9月29日閲覧。</ref>。1990年代には南アフリカの国内大会であるカリーカップに出場するようになり、試合の水準が更に向上した<ref name="ICC"/>。独立後、[[国際競技連盟]]の[[国際クリケット評議会]]には1981年に準会員として加盟し、1992年には正会員に昇格した<ref name="ICC"/>。1983年に[[クリケット・ワールドカップ]]に初出場し、オーストラリア相手に13点差で勝利し、国際舞台への歓迎すべき新星の誕生を示唆した<ref name="ICC"/>。[[クリケットジンバブエ代表]]は[[テスト・クリケット]]、[[ワン・デイ・インターナショナル]]、[[トゥエンティ20]]のどの形式においても世界ランキングで上位に位置する。2003年には隣国の南アフリカやケニアとの3カ国共催で[[2003 クリケット・ワールドカップ|クリケット・ワールドカップ]]を開催した。2027年のクリケット・ワールドカップは南アフリカと[[ナミビア]]との3カ国共催を予定している。 === オリンピック === {{see|オリンピックのジンバブエ選手団}} {{節スタブ}} == 著名な出身者 == {{main|Category:ジンバブエの人物|{{仮リンク|ジンバブエ人の一覧|en|List of Zimbabweans }}}} {{colbegin|2}} * [[ジェニ・ウィリアムス]] - [[人権]][[活動家]] * {{仮リンク|ガリカイ・ティリコティ|en|Garikayi Tirikoti}} - [[作曲家]] * {{仮リンク|トーマス・マプフモ|en|Thomas Mapfumo}} - [[音楽家]] * {{仮リンク|エファット・ムジュル|en|Ephat Mujuru}} - 音楽家 * {{仮リンク|コンラッド・ローテンバッハ|en|Conrad Rautenbach}} - [[世界ラリー選手権|WRC]]・[[ラリー]]ドライバー * [[カースティ・コベントリー]] - [[競泳]]選手 * [[ケビン・ウリエット]] - [[テニス選手]] * [[バイロン・ブラック]] - テニス選手 * [[ウェイン・ブラック]] - テニス選手 * [[カーラ・ブラック]] - テニス選手 * [[ニック・プライス]] - [[プロゴルファー]] * [[ジュリアン・マブンガ]] - [[バスケットボール]]選手 * [[ブルース・グロベラー]] - [[サッカー選手]] * [[コスタ・ヌハモイネス]] - サッカー選手 * [[ニャシャ・ムシェクウィ]] - サッカー選手 * [[マーヴェラス・ナカンバ]] - サッカー選手 * [[ベンジャミン・ムワルワリ]] - サッカー選手 * [[ナレッジ・ムソナ]] - サッカー選手 * [[ハマ・ビリアト]] - サッカー選手 {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=小林信次郎 |translator= |editor=[[岡倉登志]]編 |others= |chapter=アフリカ文学――黒人作家を中心として |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=小林(2002)}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Zimbabwe|Zimbabwe}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[ファイル:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|ウィキポータルリンク アフリカ]]}} * [[ジンバブエ関係記事の一覧]] * [[グレート・ジンバブエ遺跡]] * [[ローデシア]] * [[ジンバブエにおける死刑]] * [[記者クラブ]] * [[記者室]] == 外部リンク == * 政府 ** [http://www.zim.gov.zw/ ジンバブエ共和国政府] {{en icon}} ** {{Wayback|url=http://www5.ocn.ne.jp/~zimtokyo/index1.html |title=在日ジンバブエ大使館 |date=20080229015444}} {{ja icon}} * 議会 ** [https://www.parlzim.gov.zw/ ジンバブエ国民議会] {{en icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/ 日本外務省 - ジンバブエ] {{ja icon}} ** [https://www.zw.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ジンバブエ日本国大使館] {{en icon}}{{ja icon}} * 論文 ** 北川勝彦、「[https://hdl.handle.net/10112/2849 植民地期南部アフリカにおける『風景』の形成 : ジンバブウェのMatopos Hillsを素材にして]」『関西大学東西学術研究所紀要』 41巻 p.51-64, 2008-04-01, {{hdl|10112/2849}}, 関西大学東西学術研究所 ** 福田米藏、「[http://www.africasociety.or.jp/magazine_pdf/2012_03.pdf ジンバブエの政治・経済情勢]」, 一般社団法人 アフリカ協会 機関紙「アフリカ」 2012年秋号-第3号- pp.10-13 ** 坂田有弥、「[https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Africa/2018_14.html マーチは何処へ?――ジンバブエの2017年政権交代とポスト・ムガベ土地問題――]」, ジェトロ・アジア経済研究所 アフリカレポート 2018年 No.56、pp.43-49 ** 井上一明、「[https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Africa/2018_13.html 「暴君」と呼ばれた世界最高齢の大統領ムガベの退場]」, ジェトロ・アジア経済研究所 アフリカレポート 2018年 No.56、pp.36-42 * その他 ** {{ウィキトラベル インライン|ジンバブエ|ジンバブエ}} ** {{Osmrelation|195272}} ** {{Googlemap|ジンバブエ}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{Normdaten}} {{ZW-stub}} {{デフォルトソート:しんはふえ}} [[Category:ジンバブエ|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:過去のイギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]]
2003-08-25T17:04:44Z
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AKIRA (漫画)
『AKIRA』(アキラ)は、大友克洋による日本の漫画。1982年から1990年にかけて講談社の漫画雑誌『週刊ヤングマガジン』にて連載され、1988年には大友自身が監督してアニメ映画化された。 第三次世界大戦後の日本を舞台に、超能力者を巡って軍と反政府勢力、そして不良少年たちが巻き起こす騒乱とその後の崩壊した世界を描いたSF漫画。可視化できない超能力を絵で表現し、近未来の退廃と崩壊を描いたSF作品として高い評価を獲得した。その反響は海外にもおよび、世界中に熱狂的なファンを持つようになった。 日本漫画史の中で欠かすことのできない1980年代を代表する漫画とされ、SFのジャンルだけでなく、漫画の分野全体に影響を及ぼした。1988年に大友自身の手により劇場アニメが制作されると、アニメ業界にも大きなインパクトを与えた。また漫画やアニメだけでなく、アートやファッションを含むサブカルチャーにも多大な影響を与えたと言われる。 数多くの日本の漫画が世界中に翻訳されるきっかけを作った作品で、それまで子供向けとされていた日本の漫画やアニメの評価を一気に引き上げ、海外のオタク第一世代を生み出した作品のひとつでもある。1980年代後半に原作漫画とアニメの両方が海外に輸出されると、米国やイギリスを中心に世界のクリエイターたちに衝撃を与え、高く評価された。当時、アメリカン・コミックスの世界には新しい時代の波が訪れており、『ウォッチメン』や『バットマン: ダークナイト・リターンズ』の登場により、スーパーヒーローが活躍する勧善懲悪の物語だけでなく、より複雑な人間関係や緻密な描写がなされた、大人の鑑賞に耐えうる長編作品『グラフィックノベル』が注目され始めていた。『AKIRA』も、その流れの一環として1988年に『スパイダーマン』などで有名なマーベル・コミックスから刊行された。その時点ではまだ知る人ぞ知る作品の位置に留まっていたが、1989年にアニメ映画が公開されると事態が一変。口コミで徐々に人気が広まり、日本を代表する作品となった。 2012年のアメリカ映画『クロニクル』は、公開時に多くの観客から『AKIRA』の影響を指摘されたが、その監督ジョシュ・トランクは作品のファンであることを公言している。アメリカ人ミュージシャンのカニエ・ウェストは、自身の楽曲「Stronger(英語版)」でアニメ映画『AKIRA』の世界観と映像をオマージュしたミュージック・ビデオを制作している。2016年のアメリカのSFホラードラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』では、製作者のダファー兄弟が『AKIRA』の影響が「とてつもなく大きなものであった」ことをインタビューで語っている。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の監督のライアン・ジョンソンは、自身のSF映画『LOOPER/ルーパー』の着想源が『AKIRA』であることを明かしている。1998年のSF映画『ダークシティ』のラストシーンについて、アレックス・プロヤス監督は「『AKIRA』へのオマージュ」とその影響を語っている。2013年のSF映画『パシフィック・リム』では、ギレルモ・デル・トロ監督が登場人物の一人、ペントコスト司令官は『AKIRA』に登場する大佐をモデルにしたと明かしている。さらに、アメリカのストリートウェアブランド「シュプリームは、2017年秋に『AKIRA』とコラボしたコレクション「AKIRA/Supreme」を発表し、ファレル・ウィリアムスはコラボしたシャネルのコレクションで『AKIRA』にインスパイアされたビジュアルを発表するなど、ファッション業界にまでも影響を及ぼしている。ヨーロッパでもその評価は高く、フランスのバンド・デシネ作家バスティアン・ヴィヴェスは、『AKIRA』に受けた衝撃について「若者がヒーローで、暴力、薬物、性といったタブーや大人の問題に対峙するストーリーにショックを受けた」と語っている。 作品には、大友が尊敬する漫画家の一人、横山光輝の漫画『鉄人28号』へのオマージュがこめられている。アキラのナンバーが28号となっているのは鉄人の28号をそのまま使っているためであり、金田や鉄雄、大佐などのキャラクターの名前も同作からの引用である。また「大戦中に開発された究極の兵器が平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という全体の筋書きは『鉄人28号』とほぼ同じである。 漫画(コミックス第4巻以降)やアニメに使用された題字は平田弘史が手掛けたもの。 2000年代に入ってから米ハリウッドでの実写映画化が何度も報じられ、2019年には日本のアニメスタジオによる新アニメ化プロジェクトも発表されている。 『AKIRA』の企画は、『ヤングマガジン』が創刊されてから間もない時期にスタートした。大友は講談社の人間に何度も繰り返し「何か描いて欲しい」と頼まれ、短編の『武器よさらば』と『彼女の想いで...』を掲載した後、連載を開始した。最初の打ち合わせでは「エピソードが10話ほどとかなり短く、(連載は)すぐに終わるだろう」と言われたので、大友自身はヒットするとは全く思わなかったという。 本作の原型は、双葉社の漫画雑誌『アクションデラックス』(1979年1月27日号)に掲載された中編『Fire-ball』。大友は未完だった同作をいつか描き足して完結させたいと思っていたが、自身の絵柄が大きく変化していった時期であったので、再び同じところへ戻るのは嫌だった。また、やるなら全部やり直さなければならないと考えていたため、同じものをやるくらいなら新しい作品の中に組み込もうということで『AKIRA』を始めた。そのため、超能力を題材に、力のある2人の葛藤・対決を描くという作品の構成は『Fire-ball』から変わっておらず、政府の超能力研究、反政府ゲリラ、都市の破壊等の要素も引き継がれている。物語のラストも、子供の頃の思い出話の中でエンディングを迎える予定だったという『Fire-ball』の構想を踏襲している。また大友は、本作を直前に連載していた『童夢』よりもう少し自由に作ろうと考えていた。『童夢』では、1本の映画のように描こうとして最初に構成をしっかり固めたせいでそれを守るために苦しむことになったので、登場人物たちが勝手に動いてどんどんストーリーを展開させていくという、白土三平の「カムイ伝」や手塚治虫の「火の鳥」や「ジャングル大帝」のようなある種の古い長編漫画の描き方を実践した。 東京(実際は復興したネオ東京)を舞台にしたことについて、大友はインタビューで「東京が好きで、別の形で東京を語り直してみたい欲望があった」「戦後の復興期から東京オリンピックの頃の様な混沌を構築したかった。(東京の様に)こんなに無思想で歪んでめまぐるしく変化していく都市は魅力的」と述べている。また、「『昭和の自分の記録』として、廃墟からオリンピックまでの昭和の東京を描こうとした」という事も語っている。 ただし、「大友は失われつつある過去の東京を惜しむというよりは変化し続ける混沌の方をこそ愛している様だ」と雑誌ライターの近藤正高は評している。また、偶然にも現実の東京オリンピックが作中と同じ2020年に開催されたことについては、単純に現実世界で連載が開始された1982年が第2次世界大戦終結から37年後だったので、そのまま(作中の第3次世界大戦から同じ37年後の2020年に)当てはめたのだろうと述べている。 バイクの暴走族の不良少年を主人公とした事については以下の様に述べている。 1982年12月6日午後2時17分、関東地方で「新型爆弾」が炸裂し、東京は崩壊。これが引き金となり起こった第三次世界大戦から、世界は再建の途上にあった。 2019年。東京湾には超高層建築物が林立する新首都「ネオ東京」が建設され、その繁栄は爛熟の極に達していた。しかし、その足元では反政府デモ隊と警察が衝突する騒然とした状態が続いていた。崩壊ののち放置されていた「旧市街」(かつての東京)でも、2020年の東京オリンピック開催を機に、都市再開発が進められようとしていた。 主人公である職業訓練校生・金田率いるバイクチームの少年たちは、旧市街へと続く遺棄されたハイウェイに入り込んでバイクを走らせていたところ、「爆心地」付近で白髪の少年と遭遇する。彼はアーミー(軍)の研究機関「ラボ」から、反政府ゲリラによって連れ出された実験体・タカシ(26号)であった。 バイクチームのメンバー・鉄雄は、突然現れたタカシを避けきれず事故を起こし負傷する。鉄雄は治療のためタカシと共にラボに連れ去られるが、タカシとの接触をきっかけに鉄雄の中に能力が目覚め始める。 金田たちは連れ去られた鉄雄を探すなかで、能力研究の秘密を追う反政府ゲリラのメンバーである竜、ケイの二人と出会い、大佐率いるアーミーやマサル(27号)とのタカシ争奪戦に巻き込まれる。退院し学校に戻ってきた鉄雄は、以前のようなおとなしく気の弱い少年ではなく、敵対する暴走族・クラウンのメンバーを殺しかけ、止めに入った金田に反抗する。 ラボの病院を脱走した鉄雄はクラウンのアジトに乗り込み、能力を使いメンバーを殺害し、リーダーのジョーカーを屈服させて新たなリーダーの座に納まると、他の暴走族への攻撃を開始した。金田はクラウンに対して、他の暴走族と糾合して反撃を試みる。 ネオ東京の路上を舞台にバイクチーム同士の大規模な抗争が起こるが、金田たちは能力を使う鉄雄ひとりの前になすすべなく敗れる。鉄雄はかつての仲間であった山形を金田の目前で惨殺し、金田に拳銃で撃たれる。 そこへアーミーの部隊が到着する。能力発現にともなう頭痛に苦しむ鉄雄に対し、大佐は研究機関への帰還を促し、彼に「41号」と呼びかける。 バイクチームの抗争はアーミーにより制圧され、鉄雄、金田、ケイらは大佐によってラボが入る超高層ビルに連行される。そこにはタカシ、キヨコ(25号)、マサルという、先の世界大戦以前の極秘研究プロジェクトで能力を開発された、老人のような顔をした子供たち「ナンバーズ」も住まわされていた。薬物を投与されながら能力を開花させつつあった鉄雄は、研究の核心にある「アキラ(28号)」に強い関心を持つ。 かつてナンバーズの子供たちの仲間であったアキラは、30年近くに渡って政府が巨費を投じ封印し続けている、謎の存在だった。一方、ラボを訪れた大佐に対して、予知能力を持つキヨコは、アキラの目覚めとネオ東京の崩壊が間もなく起こることを告げる。 キヨコはケイを能力で操り、アキラを探る鉄雄を止めようとするが、鉄雄はラボを逃げ出して旧市街に向かい、爆心地に建設中のオリンピックスタジアムの地下に隠されたアーミーの極秘施設を襲撃する。追ってきた大佐らの説得に耳を貸さず、鉄雄は絶対零度で冷凍封印されていたアキラを目覚めさせ、連れ出してしまう。 アキラが外へ出たことを知った大佐は非常事態宣言を発令させ、軍事衛星「SOL」(軌道レーザー衛星兵器)によるレーザー照射を使ってアキラと鉄雄の殺害を試みる。鉄雄は攻撃を受けて右腕を失い生死不明となり、アキラは混乱の中でラボを脱出し追ってきたケイと金田によって保護される。 連れ出されたアキラを巡って、アキラを特別な存在と考えるミヤコの教団と、アキラを取り返そうとするアーミーとの争奪戦が始まる。ケイたちからアキラを預かった野党党首の根津は、支持母体の長であるミヤコを裏切り、部下であるゲリラも切り捨て、自らの政治的野望のためにアキラを利用しようとするが、ケイや竜、チヨコ、金田らは根津の手先から逃げ延び、アキラを連れ去る。 一方、アキラ争奪戦における非常事態宣言発令の混乱の責を政府に問われた大佐は、アキラ行方不明という非常事態に際しても与野党の醜い政争が続く状況に業を煮やし、クーデターを決行。ネオ東京に戒厳令を敷いてアーミーの大部隊を出動させ、アキラを捜索する。 根津の私兵、ミヤコの教団が独自に育成した能力者、大佐率いるクーデター部隊、金田たちによるアキラ争奪戦は、早朝の運河で金田らがアーミーに追い詰められたことで幕を閉じる。大佐の連れてきたナンバーズの子供たちがアキラの元に集まるが、アキラを射殺しようとした根津の弾丸がタカシの頭に当たってしまう。ナンバーズやアキラたちの脳内に衝撃が走り、それを引き金にアキラは37年前に東京を壊滅させた能力を再び解放した。 アキラを中心に現れた光が爆発的に拡大してビル群を飲み込み、ネオ東京のあらゆる建物が崩壊し地盤とともに海へと崩れ落ちる。ケイや大佐らはナンバーズの子供たちによる瞬間移動で難を逃れたものの、金田は光に飲み込まれ行方不明になる。 ネオ東京の崩壊後、ひとり爆心地にいたアキラの前に、SOLによる攻撃を生き延びていた鉄雄が現れる。 廃墟となったネオ東京は政府やアーミーによるコントロールを失い、完全な無政府状態と化していた。鉄雄はアキラを「大覚」に祭り上げ、被災者を集めて「大東京帝国」という勢力を築き上げる。 外部からの接触を拒み、孤立した集団の支配者となった鉄雄は、被災者への食料に薬物を混ぜ、帝国の構成員にも薬物を投与して能力者を育てようとしていた。一方、ミヤコの教団は被災者に食糧や能力による治癒を与えてもう一つの勢力を築いており、ケイらゲリラの生き残りも、薬物欠乏に苦しむナンバーズらと共に教団へと身を寄せる。鉄雄はやがて、薬物でも自らの力を抑えられないようになっていく。 ネオ東京の廃墟では、切り札であるSOLの発射ボタンを持って単身で鉄雄に挑む大佐、ジョージ山田率いるアメリカ海兵隊特殊部隊、ゲリラの生き残りである竜のグループが、それぞれ大東京帝国へと迫る。 鉄雄は「隊長」が集めてきた少女たちに致死量の薬物を与え、破滅的なセックスに耽溺する。一人の少女が薬物を家族に持ち帰ろうとして飲まなかったため生き残ると、鉄雄はその少女・カオリを侍女として仕えさせるが、次第に彼女に依存していく。 鉄雄は、一言も発さず感情を表さないアキラをいぶかしみ、アキラの心の中を覗いて激しいショックを受ける。アキラとは何なのかを問うため、鉄雄はひそかにミヤコの下を訪れる。自らもナンバーズ(19号)であるミヤコはプロジェクトの全容を語り、アキラに近づくことができるのは鉄雄しかいないと説く。 ナンバーズとミヤコの教団のつながりを掴んだ隊長は鉄雄に指示を請うが相手にされず、独断で兵を率いてミヤコの教団と激しい戦闘となる。その最中、薬物の摂取を止めて苦しみに耐える鉄雄は、大佐が再び放ったSOLのレーザーに刺激され、能力の爆発的覚醒を起こして空中へと飛翔し、光を集める。 その光の中から、ネオ東京崩壊時にアキラの球体に飲みこまれたビルの残骸が出現して地上へ落下し、その中に金田の姿もあった。 ケイや甲斐、ジョーカーらと再会した金田がようやくネオ東京崩壊以後の状況を理解した頃、大東京帝国はミヤコ教の勢力に被災者を奪われている状況に危機感を持ち、構成員の士気を高めるためにオリンピックスタジアムで大集会を開くことを計画する。一方、ネオ東京沖合のアメリカ海軍艦隊の空母では、アキラを巡る現象を調査する米・ソ共同の「ジュヴィナイルA」計画に参加する軍人や科学者たちがアキラや鉄雄による力の発動を観測していた。鉄雄の能力の膨張は留まることを知らず、沖合の空母を急襲して自分を観測する科学者たちの前に姿を現し、研究者たちを嘲笑する。 ジョージ山田としばらく行動を共にしていた竜は、山田がBC兵器でアキラと鉄雄を抹殺しようとしていることを知る。山田は竜と決別し、ジュヴィナイルA計画の遅滞に不信感を持つ海軍提督が呼び寄せた海兵隊の特殊部隊と合流する。 オリンピックスタジアムでは大東京帝国の集会が開催され、鉄雄は余興として月の一部を破壊する。しかし、あまりに大きな力を使った鉄雄の肉体は崩壊を始め、鉄雄自身にも制御できない、肉体と機械の融合した怪物となって暴走していく。 ケイは、ミヤコやナンバーズらの力の触媒となって鉄雄と戦う決意を固め、ミヤコから禊を受ける。沖合のアメリカ海軍艦隊に出現し破壊の限りを尽くす鉄雄に対し、ケイが立ち向い撃退する。 アメリカ海兵隊、竜、大佐らはそれぞれの切り札を持ってスタジアムに侵入を開始。金田とケイもジョーカーと甲斐のグループに合流し、スタジアムに立て篭もる大東京帝国や鉄雄との間で最後の戦いを開始する。 沖合から戻ってきた鉄雄はカオリの前で肉体の崩壊を起こすが、機械の腕を身体から切り離すと失われた腕が再生し、一瞬自分の形を取り戻す。 しかしそこに現れた大佐がSOLの照準器を鉄雄に向け、レーザーをスタジアムに発射する。SOLの再起動を受けて海軍提督はネオ東京への全面攻撃を決意する。SOLのレーザーの直撃を防御した鉄雄の体は直後に爆発的に膨れ上がり、もはや人の形をとどめない異形の姿となって襲いかかる。 化け物に成り果てた鉄雄を殺すため、アキラを盾にして進む隊長。それを鉄雄に伝えようとしたカオリは隊長に撃たれる。 再び暴走が止まり形を取り戻した鉄雄は、死の間際にあるカオリを見つける。そこへ隊長の武装勢力とアメリカ海兵隊がなだれ込んだ。ジョージ山田は鉄雄のために用意した特殊な細菌ガス弾を使用する。隊長の勢力はガスに呑まれ全滅するが、ガスを吸収した鉄雄はこれまでの苦悶が嘘のように晴れ、完全に肉体と精神のコントロールを取り戻す。 海兵隊を全滅させた鉄雄の前に金田らが現れ、鉄雄と金田の決闘が始まる。ケイも加わるが、力が完全に高まった鉄雄に一方的に圧倒される。しかしアメリカ軍の戦闘爆撃機による絨毯爆撃が開始され、さらにアメリカ軍の衛星兵器「フロイド」によるレーザー攻撃がスタジアムを破壊する。鉄雄は衛星軌道へ飛翔してフロイドを破壊し、そのまま落下させて空母に直撃させる。ジュヴィナイルAの科学者たちは沈没する空母から辛くも脱出する。 フロイドの攻撃の中でさまよっていたアキラを連れてスタジアムを脱出した金田とジョーカーは、行方の分からなくなったケイを探そうとする。鉄雄は死んだカオリを蘇らせようとするが叶わず、カオリの体を抱え、オリンピック会場地下の冷凍施設へと向かう。スタジアム内で辛くも生き残った大佐とケイだったが、ケイはミヤコに呼び掛けられ、再び鉄雄と戦う準備をする。 アキラ用の冷凍封印カプセルにカオリの遺体を運んだ鉄雄の前にケイが出現するが、鉄雄の体の中では再び能力の暴走が始まろうとしていた。アキラも鉄雄に共鳴するかのように地下施設に足を向け、アキラの後を追う金田らも鉄雄がその先にいることを察知し、竜やチヨコらと合流して地下に向かう。 地下では鉄雄が再び膨張を始める。地下に到達し鉄雄の姿を目の当たりにした金田に対し、鉄雄は一瞬姿を取り戻し「助けてくれ」と懇願するが、再び膨張を始めた鉄雄の中に金田は飲み込まれる。鉄雄とアキラは互いに呼応するかのように手の中に光を発生させるが、三度目の爆発を止めようとした竜がアキラを撃つ。 アキラとのつながりが切れた鉄雄は、自分たちを観測しているミヤコやナンバーズの能力に引き寄せられ、冷凍カプセルを地下から引き抜くとミヤコ教神殿上空に現れる。不安定な鉄雄を完全に覚醒させるため、ミヤコはナンバーズにアキラの力をもう一度解き放たせるよう頼み、鉄雄との最後の能力戦に挑む。 ミヤコに指示を受けたケイがSOLに移動し、鉄雄とミヤコのいる神殿にSOLのレーザーを落とす。すると、鉄雄の最後の覚醒が起こり、神殿を中心に光が発生した。同時に、ナンバーズの仲間と共に空に浮かぶアキラがもう一つの光を発生させる。 アキラの光が鉄雄の光を飲み込んでいく中、鉄雄の体内に取り残されていた金田は、鉄雄の記憶、宇宙の始まり、宇宙が究極の状態を目指して進む「流れ」に介入して曲折をもたらす「能力」を人類が得つつあることの意義、そしてナンバーズの子供たちに行われた実験の過程を目撃する。アキラとナンバーズが鉄雄を吸収し、アキラの光により新しく生まれた宇宙の彼方へと去ろうとする瞬間、金田はケイによってアキラの光の中から救い出され、この宇宙に引き戻される。 再び爆心地となったネオ東京に国連軍が上陸し、被災者への救援が始まる。しかし偵察中の国連軍の前に「大東京帝国」を名乗った金田、ケイ、チヨコ、甲斐、ジョーカー、そして仲間たちが現れ、「我々の国に口出しはするな!」と警告を与え、「アキラはまだ俺たちの中に生きてるぞ!!」と言い残してバイクで走り去る。 廃墟の谷間をバイクで疾走する金田とケイを、山形と鉄雄の幻が追い越してゆき、崩壊したネオ東京が蘇るビジョンと共に物語は終わる。 原作、アニメ映画版、ゲーム版で設定に多少の差異がある。名前については、メインキャラクターのいくつかは『鉄人28号』へのオマージュであることが明らかにされている。これは『鉄人28号』の主人公である「金田正太郎」、鉄人28号を開発した敷島博士の息子「敷島鉄雄」から取られた「島鉄雄」、自我をもたないロボットである「鉄人28号」に由来する「28号(アキラ)」などに現れている。 いずれも80年代の超能力実験の被験者であり、アキラの仲間でもあった。一定以上の力を持つ実験体には番号が付けられ、手の平にもその番号が刻印されるため、通称「ナンバーズ」と呼ばれる。2019年現在はラボの中のチャイルドルームで生活している。 作品世界ではカウルからフレームレイアウトに至るまでのセミ・イージーオーダーシステムが主流となっているため、登場するバイクのスタイルは多種多様で、主人公の金田が操るバイク(通称「金田のバイク」)を始め、同じものは2つと存在しない個性的なものになっている。また、ボディのあちこちに貼られたステッカーは、1980年代回顧ブームによる流行である。 駆動力は車輪内に組み込まれた常温超伝導モーターが生み出し(前後輪の両輪駆動)、電力供給はガソリンエンジンによる発電で行う。ただし、ジョーカーが乗る大型のアメリカンタイプは、彼の趣味で現在と同じガソリンエンジンによる後輪駆動車である。 主人公の金田が乗るバイク、通称「金田のバイク」のスタイリッシュで未来的なデザインは画期的で、作品の人気獲得に一役買った。極端にホイールベースが長く低い車高の車体、またがるのではなく4輪のフォーミュラカーのように足を前に投げ出して乗り込むクエーサー(英語版)のようなフィート・フォワード(英語版)タイプのデザイン、フロントのハブセンター・ステアリング構造、車載コンピュータによるデジタルメーターなどは、発表当時、フィクション作品の中でも異彩を放っており、後世に多くの影響を与えた。 赤一色で塗られた車体には「成田山」「Canon」「HONDA」「SHOEI」「Arai」「CITIZEN」等のステッカーが貼られている。 漫画やアニメ以外においても、各国の漫画祭やモーターショーなどでモックアップモデルが展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、スピルバーグ監督のハリウッド映画『レディ・プレイヤー1』に登場したりと、世界的な認知度を誇っている デザインの着想は、映画『イージー・ライダー』に登場するチョッパーバイクのハンドルと、映画『トロン』に登場するシド・ミードがデザインしたバイク「ライトサイクル」の楕円形のフォルムから得ている。 造形上、2人以上の搭乗は想定されていないように見えるが、原作では「80kg以下ならなんとか乗れる」と言いながら金田がリアカウルを外し、露出させたフレームの上にケイを乗せている。またアニメ映画では鉄雄がカオリをシートの後ろに乗せたり、エンディングでも金田がケイを同様に乗せて二人乗りしているため、カウルを外さなくても二人乗りが可能なようだ。 アニメ映画では、劇中で「セラミックツーローターの両輪駆動」「コンピューター制御のアンチロックブレーキ(ABS)」「12,000回転の200馬力」と説明されている。バック走行も可能で、さらにコンソールにはスピードメーターなどの他にナビゲートシステムも搭載されている。 ハンドルにはクラッチ・ブレーキレバーは存在せず、フットペダル右側がアクセル、左側がブレーキになっており、AT車または無段変速車であると見られる。前輪からフロントカウル、ハンドルまでのステアリングユニットは上下に動き、乗降時にユニットが起き上がることで乗降ポジションとなる。 盗品を改造したものであるらしく、扱いに不慣れな鉄雄はエンジン5,000回転以下でギアチェンジをしたことでエンストさせてしまった。 この未来的で前衛的なスタイルは、漫画・アニメファンのみならず、多くのカスタムバイク関係者の注目を集めた。 まず最初に、アニメーション映画公開に併せてモックアップモデル(計器類は動くが、走らせることは不可能)が制作、東京モーターショーで展示される。同モックアップはカスタムバイクメーカー「ホワイトハウス」によって、映画公開に併せてタイアップしていたタイトーのスポンサードで制作された。当初、作画側から割り出したリアタイヤ径が21インチとされたが、そのような寸法のタイヤが存在しなかったため微妙に縮小されている。革ジャンメーカー「カドヤ」の提供したジャケットを着たモデルとの撮影も行われていたが、そのような事情からモデルには金田の設定よりも少し小柄な女性が担当した。その後、海外での公開時に持ち出された際に行方不明となっている。 250ccの市販アメリカンバイクをベースとして、同車の雰囲気を持つカスタムバイクも開発・発売された。この車両は保安基準を満たしているため、ナンバープレートを取得すれば公道走行も可能である。 さらにこのバイクをモチーフにした「電動バイク」がベンチャー企業によって製作された。量産化の記事が2006年のバイク専門誌に掲載されたが、リアのアルミニウム削り出しのモーターハウジングは一点モノであり、製作単価は数百万円に上った。2007年には資本提携していた企業との関係解消などの報道もあり、その後の開発の進展の音沙汰は無い。 ホンダのスクーター「リード」をベースとしたカスタムバイクもある。ベース車両は50ccと90ccが選択できるが、2ストロークエンジンであるため生産が終了しており、ベース車両は中古とならざるを得ない。 スズキからも、同車の雰囲気を持つバイクが開発され、2003年の東京モーターショーで展示された。 2004年4月には同スケール実動モデルが製作された。流石にアニメ版の常温超伝導デュアルパワー電動バイクとまではいかないものの(エンジンは249ccから998ccの単気筒から4気筒までの既存エンジンからユーザーが選択する方式を採っている。既にオーダーは受付終了)、実走可能なフルカスタムバイク(実際にナンバーを取得して公道をテスト走行している)が開発中である。なお同車は作者の原作・アニメ版監督の大友や講談社の「公認」を得ているとしている。 ホンダの250ccスクーター「FUSION」をベースにした、カスタムコンプリートバイクが「才谷屋Factory」から販売されていた。また、バイク本体を含まない外装キットのみの販売もあった。 作中にはアーミーの兵器をはじめとする近未来の最先端のマシンやテクノロジーが多数登場する。 大佐やアーミーが移動手段として用いる、タンデムローターの大型ヘリ。 アメリカ軍等が使用する実在のヘリ、CH-47チヌークに類似しているが、アーミーのそれは大型乗用車を積載してなお余裕のあるカーゴルームを持ち、かなりの大型機であることが見て取れる。兵装は持っていないと見られる。 アキラの居るオリンピック会場地下施設や地下水路をアーミーがパトロールする際に使用する、1人乗りの有人飛行兵器(5人乗り大型機も存在する)。最新兵器であり、存在自体が秘匿されている。 セラミック部品を多用したバイク並みの小型軽量ボディと常温超電導が実現可能にした高い機動力に加え、機首には操縦桿と連動する20mmガトリング砲を装備し、地上の敵勢力を圧倒する。金田らに鹵獲されて以降は彼らの戦力としても活躍する。 アメリカ海軍とヒラー社が1950年代に試作したVZ-1という1人乗りVTOL機、フライング・プラットフォーム(Flying Platform)が実在したが、アキラの世界に登場するこの飛行兵器はフライング・プラット・ホーム(FPH)と呼ばれている。 アーミーの最新携行型レーザー兵器。個人で運用可能なまでに小型化された高出力レーザー砲は鉄板をも貫き、高い殺傷能力を持つ。外部にバッテリーを持つが、重く大きいこと、発射回数が限られることに課題がある。ダイヤル操作で攻撃出力を変化させることもでき、照射し続けることで薙ぎ払うような攻撃も可能。 キヨコに操られたケイがアーミーのビルに侵入した際に開発中の試作機を見つけ出し、チャイルドルームでの鉄雄との戦いで金田が使用する。アニメ版では実戦配備されており、アキラの元へ向かう鉄雄を阻止するためにアーミーの小隊が一斉射撃を行う。金田が鉄雄の力に対峙するための武器として、原作・アニメともに終盤まで登場する。 アーミーが保有する軍事衛星、Satellite in Orbital Laser-weaponの略称。静止軌道上の人工衛星に搭載されたレーザー砲が地上の標的をピンポイントで攻撃する。その爆撃のような破壊力は小型反応炉を動力源とし、短いインターバルでの連続攻撃を可能とする。命中精度は10m前後であるが、初弾の着弾地点を観測しフィードバックすることで命中精度を高めることができる。本体にはSOL-740とペイントされているが、同型機が複数存在するかどうかは不明。 原作ではアキラと彼を目覚めさせた鉄雄を殺害するために使用され、ネオ東京崩壊後には大佐が持ち歩く超小型照準器で彼らの窮地を救い、物語の終局まで重要な役割を果たす。アニメ版ではSOLの攻撃で右手を失った鉄雄が軌道上まで飛翔し反撃、即座に破壊されてしまう。 自律行動を行う地上型無人機。縦横高さ各2m、中心に直径1.5mの球体状のボディを持ち、4本足の先端に持つ車輪で高速移動が可能。核戦争後にシェルター外の活動を行うことを想定しており、放射線値の測定や敵勢力への攻撃までを担う能力を持つ。複数台での連携した活動や、連結しての移動も可能。その形状から炭団などと呼ばれる。 原作内ではアキラ行方不明による第七級警報発令下のネオ東京に現れ、暴徒鎮圧や消火などの治安維持活動を行う。ネオ東京崩壊後にはハッキングされた個体が大佐の拠点を警護したり、破壊された残骸がジョーカーの手によって改造され、移動手段として用いられた。 アメリカ軍が使用する衛星兵器。SOLと同様のレーザー兵器だが、連続照射しながら着弾点を動かすことで、帯状の範囲を攻撃することが可能。 鉄雄と金田の決戦のさなかにオリンピックスタジアム周辺に向け発射され、ネオ東京全体への無差別攻撃をかけるが、衛星軌道上へ翔んだ鉄雄にジャックされ、アメリカ軍の空母打撃群に向けてレーザーを発射しながら落下。鉄雄はフロイドをアメリカ海軍提督が乗る空母のブリッジに直撃させ、空母は沈没する。 単行本は講談社KCデラックスで発行された。週刊誌と同じ大判サイズで小口への色付けを施すなど、凝った装丁になっている。 アニメ映画が公開された1988年には国際版の刊行が始まった。アメリカン・コミックスのスタイルに合わせて原稿を左右反転させ、左開きにした上で彩色を施し、一冊あたりの収録ページを減らした薄いものに再編集されて出版された。日本国外ではこの外国語版が流通しており、これを日本語に逆翻訳したものが『オールカラー国際版AKIRA』『総天然色AKIRA』として日本でも発売された。 単行本の4巻が刊行された後にアニメ映画版の制作が開始されたことで雑誌連載は長期間休載となり、日本では5巻の刊行までに3年間を要した。しかし、1巻あたりの収録話数が少ない『国際版』は、5巻の前半に相当する話数を収録した巻が日本に先行して発売された。 4巻の巻末には「5巻が最終巻である」と告知されていたが、再開後に連載が長期化したため、結局5巻と6巻に分けられ、6巻が最終巻となった。 最終回は単行本化の際に大幅に加筆修正された。雑誌掲載時は、アキラたちが消え去った後に金田とケイがビルの上で朝日を見つめるシーンで終わるが、単行本では後日談が追加され、大東京帝国を金田や甲斐、ケイたちが受け継ぎ、外国の軍隊に対しアキラが金田たちの中で生存していることを宣告。生き残っていた大佐や、山形、鉄雄も一瞬ながら登場、さらに崩壊したはずのネオ東京が元の姿へと戻ってゆく幕切れとなっている。 本作の実写映画化は2000年代初めから何度も報じられ、そのたびに企画が見送られてきた。 2002年、実写映画化の噂が初めて世に伝えられた。ワーナー・ブラザースによる製作で、プロデューサーに映画『ワイルド・ワイルド・ウエスト』のジョン・ピーターズ、監督に『ブレイド』のスティーヴン・ノリントンが起用され、原作の雰囲気を保ちつつ欧米人が親近感を持って受け入れやすいような設定のストーリーになる予定だと報じられた。 2008年、映画化を巡って大手スタジオが争奪戦を展開した結果、ワーナー・ブラザースが権利を獲得した。同年2月にワーナーはレオナルド・ディカプリオの制作会社アッピアン・ウェイとともに準備を始め、プロデューサーにはディカプリオのほか、『アメリカン・スナイパー』のアンドリュー・ラザー、『レヴェナント: 蘇えりし者』のジェニファー・ダヴィッソンが就任。監督はCM出身でアカデミー短編アニメ映画賞にノミネートされたアイルランド人の若手監督ルアイリ・ロビンソン、脚本にはゲイリー・ウィッタ(英語版)が起用されると報じられた。映画は2部構成で製作され、前編の全米公開は2009年夏が予定された。コミックス全6巻をすべて映画化し、『ブレードランナー』と『シティ・オブ・ゴッド』を合わせたような作品を目指すとされた。舞台は原作の日本のネオ東京から新型爆弾に破壊されてから31年後の日本資本によって再生されたアメリカのニューマンハッタンに変更され、それにともなって配役がハリウッドスターになりそうだとも伝えられた。しかし、2009年6月にロビンソンが降板し、企画は一時中止されたと報じられた。 2010年2月、映画『フロム・ヘル』や『ブラック・ビジネス』を監督したアレンとアルバートのヒューズ兄弟がワーナー・ブラザーズと交渉中であると報じられた。その時点では、脚本に映画『アイアンマン』を執筆したマーク・ファーガスとホーク・オストビーが参加していた。 2011年5月、アルバート・ヒューズ監督が降板することになったと報じられ、理由は「制作上の困難」と発表された。同年7月、ワーナー・ブラザーズは製作続行の決定を下し、『アンノウン』や『エスター』のスペイン人監督ジャウム・コレット=セラを起用したと発表。「ハリー・ポッターシリーズ」の脚本家のスティーヴ・クローヴスが脚本をリライトし、2012年春の製作開始を予定しているとされた。金田役として『トロン: レガシー』に主演したギャレット・ヘドランドを起用し、そのほかにケイ役をクリステン・スチュワート、鉄雄役をマイケル・ピットやデイン・デハーン、軍の大佐役をゲイリー・オールドマンや渡辺謙、宗教指導者ミヤコ役をヘレナ・ボナム=カーターが演じると報じられた。1億ドル(約80億円)以上といわれた予算も9,000万ドル(約72億円)程度まで縮小された。舞台はネオマンハッタンに、主人公の金田はバー経営者で鉄雄とは兄弟という設定に変更された。 2012年1月、ワーナー・ブラザースが製作延期を発表。撮影直前までいったものの、プロジェクトは3度目の延期に追い込まれた。キャスティングや脚本、予算の問題で、企画が暗礁に乗り上げたことが理由だとされ、撮影予定地だったカナダ・バンクーバーのプロダクションオフィスは閉鎖されてスタッフらは解散となった。 2017年9月、ワーナーが『マイティ・ソー バトルロイヤル』のタイカ・ワイティティ監督との契約交渉に入ったと伝えられた。ワイティティは、「アニメ映画ではなく原作コミックを実写映画化したい」と述べ、出演者についても「アジア人のティーンエイジャーがいい」として、スター俳優ではなく新人を抜擢する意向を語った。 2019年5月、ワーナー・ブラザーズが米国での公開日(2021年5月21日)を正式発表し、タイカ・ワイティティが正式に監督に就任したことも併せて告知された。しかし、そのわずか2か月後の7月にワーナーは同企画を無期限に保留することを発表した。理由は、本作の制作が遅れたことでもう一つの監督作品『ソー:ラブ&サンダー』とスケジュールが重なったワイティティが後者を優先したため。ワイティティによれば、企画保留の決め手になったのは、その制作の遅れを招いた脚本作業やキャスティングの難航だったという。 2021年8月、ワイティティはインタビューでまだ本作を監督する意欲があることを認めたが、復帰できるかは未知数である。 1988年12月24日に、タイトーよりファミリーコンピュータ用ゲームソフトが発売された。 いわゆるコマンド総当たり式のアドベンチャーゲームで、シナリオ、プロデュースは大友本人が担当。ストーリーはアニメ映画版に基づいて構築されており、凝ったグラフィックや演出で、原作(アニメ)の雰囲気を再現している。また、間違った選択肢を選ぶとすぐにゲームオーバーになるなど難易度が高い。 アニメ映画版を見ておかないと正しい選択肢を選ぶことが困難であったため、アニメ映画版に関するカルトクイズ的な意味合いもあった。マルチエンディングシステムを採用し、バッドエンドも多数用意されているが、アキラの覚醒を金田が止めるといったアニメ映画版にはない展開や、大東京帝国の発足を匂わせるエンディングも見られる。 『AKIRA PSYCHO BALL』(アキラ サイコボール)は、2002年2月21日にバンダイ(現:バンダイナムコエンターテインメント)より発売されたPlayStation 2用ピンボールゲーム。開発はカゼ。 アニメ映画版をモチーフにしたピンボール台が4台(うち1台は対戦プレイ用)あり、条件を満たすと台が変形・合体する。オープニングやマルチボール、ステージクリア時にはアニメ映画版のムービーが挿入される。 Black Pearl SoftwareがGENESIS、SEGA CD、SNES、ゲームギア、ゲームボーイ向けに開発し、THQが1995年頃に米国で発売計画があったものの中止。1994年のSummer Consumer Electronics Showに出展の際、開発中のプレイ画面がフリーズする致命的なバグが出ている。2019年にGENESIS版のプロトタイプROMがコレクターの手に渡り、シューティングパートやアクションパートといった複数ジャンルを内包したゲーム内容が公開された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『AKIRA』(アキラ)は、大友克洋による日本の漫画。1982年から1990年にかけて講談社の漫画雑誌『週刊ヤングマガジン』にて連載され、1988年には大友自身が監督してアニメ映画化された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第三次世界大戦後の日本を舞台に、超能力者を巡って軍と反政府勢力、そして不良少年たちが巻き起こす騒乱とその後の崩壊した世界を描いたSF漫画。可視化できない超能力を絵で表現し、近未来の退廃と崩壊を描いたSF作品として高い評価を獲得した。その反響は海外にもおよび、世界中に熱狂的なファンを持つようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本漫画史の中で欠かすことのできない1980年代を代表する漫画とされ、SFのジャンルだけでなく、漫画の分野全体に影響を及ぼした。1988年に大友自身の手により劇場アニメが制作されると、アニメ業界にも大きなインパクトを与えた。また漫画やアニメだけでなく、アートやファッションを含むサブカルチャーにも多大な影響を与えたと言われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "数多くの日本の漫画が世界中に翻訳されるきっかけを作った作品で、それまで子供向けとされていた日本の漫画やアニメの評価を一気に引き上げ、海外のオタク第一世代を生み出した作品のひとつでもある。1980年代後半に原作漫画とアニメの両方が海外に輸出されると、米国やイギリスを中心に世界のクリエイターたちに衝撃を与え、高く評価された。当時、アメリカン・コミックスの世界には新しい時代の波が訪れており、『ウォッチメン』や『バットマン: ダークナイト・リターンズ』の登場により、スーパーヒーローが活躍する勧善懲悪の物語だけでなく、より複雑な人間関係や緻密な描写がなされた、大人の鑑賞に耐えうる長編作品『グラフィックノベル』が注目され始めていた。『AKIRA』も、その流れの一環として1988年に『スパイダーマン』などで有名なマーベル・コミックスから刊行された。その時点ではまだ知る人ぞ知る作品の位置に留まっていたが、1989年にアニメ映画が公開されると事態が一変。口コミで徐々に人気が広まり、日本を代表する作品となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2012年のアメリカ映画『クロニクル』は、公開時に多くの観客から『AKIRA』の影響を指摘されたが、その監督ジョシュ・トランクは作品のファンであることを公言している。アメリカ人ミュージシャンのカニエ・ウェストは、自身の楽曲「Stronger(英語版)」でアニメ映画『AKIRA』の世界観と映像をオマージュしたミュージック・ビデオを制作している。2016年のアメリカのSFホラードラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』では、製作者のダファー兄弟が『AKIRA』の影響が「とてつもなく大きなものであった」ことをインタビューで語っている。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の監督のライアン・ジョンソンは、自身のSF映画『LOOPER/ルーパー』の着想源が『AKIRA』であることを明かしている。1998年のSF映画『ダークシティ』のラストシーンについて、アレックス・プロヤス監督は「『AKIRA』へのオマージュ」とその影響を語っている。2013年のSF映画『パシフィック・リム』では、ギレルモ・デル・トロ監督が登場人物の一人、ペントコスト司令官は『AKIRA』に登場する大佐をモデルにしたと明かしている。さらに、アメリカのストリートウェアブランド「シュプリームは、2017年秋に『AKIRA』とコラボしたコレクション「AKIRA/Supreme」を発表し、ファレル・ウィリアムスはコラボしたシャネルのコレクションで『AKIRA』にインスパイアされたビジュアルを発表するなど、ファッション業界にまでも影響を及ぼしている。ヨーロッパでもその評価は高く、フランスのバンド・デシネ作家バスティアン・ヴィヴェスは、『AKIRA』に受けた衝撃について「若者がヒーローで、暴力、薬物、性といったタブーや大人の問題に対峙するストーリーにショックを受けた」と語っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "作品には、大友が尊敬する漫画家の一人、横山光輝の漫画『鉄人28号』へのオマージュがこめられている。アキラのナンバーが28号となっているのは鉄人の28号をそのまま使っているためであり、金田や鉄雄、大佐などのキャラクターの名前も同作からの引用である。また「大戦中に開発された究極の兵器が平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という全体の筋書きは『鉄人28号』とほぼ同じである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "漫画(コミックス第4巻以降)やアニメに使用された題字は平田弘史が手掛けたもの。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2000年代に入ってから米ハリウッドでの実写映画化が何度も報じられ、2019年には日本のアニメスタジオによる新アニメ化プロジェクトも発表されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『AKIRA』の企画は、『ヤングマガジン』が創刊されてから間もない時期にスタートした。大友は講談社の人間に何度も繰り返し「何か描いて欲しい」と頼まれ、短編の『武器よさらば』と『彼女の想いで...』を掲載した後、連載を開始した。最初の打ち合わせでは「エピソードが10話ほどとかなり短く、(連載は)すぐに終わるだろう」と言われたので、大友自身はヒットするとは全く思わなかったという。", "title": "制作の背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本作の原型は、双葉社の漫画雑誌『アクションデラックス』(1979年1月27日号)に掲載された中編『Fire-ball』。大友は未完だった同作をいつか描き足して完結させたいと思っていたが、自身の絵柄が大きく変化していった時期であったので、再び同じところへ戻るのは嫌だった。また、やるなら全部やり直さなければならないと考えていたため、同じものをやるくらいなら新しい作品の中に組み込もうということで『AKIRA』を始めた。そのため、超能力を題材に、力のある2人の葛藤・対決を描くという作品の構成は『Fire-ball』から変わっておらず、政府の超能力研究、反政府ゲリラ、都市の破壊等の要素も引き継がれている。物語のラストも、子供の頃の思い出話の中でエンディングを迎える予定だったという『Fire-ball』の構想を踏襲している。また大友は、本作を直前に連載していた『童夢』よりもう少し自由に作ろうと考えていた。『童夢』では、1本の映画のように描こうとして最初に構成をしっかり固めたせいでそれを守るために苦しむことになったので、登場人物たちが勝手に動いてどんどんストーリーを展開させていくという、白土三平の「カムイ伝」や手塚治虫の「火の鳥」や「ジャングル大帝」のようなある種の古い長編漫画の描き方を実践した。", "title": "制作の背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "東京(実際は復興したネオ東京)を舞台にしたことについて、大友はインタビューで「東京が好きで、別の形で東京を語り直してみたい欲望があった」「戦後の復興期から東京オリンピックの頃の様な混沌を構築したかった。(東京の様に)こんなに無思想で歪んでめまぐるしく変化していく都市は魅力的」と述べている。また、「『昭和の自分の記録』として、廃墟からオリンピックまでの昭和の東京を描こうとした」という事も語っている。", "title": "制作の背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ただし、「大友は失われつつある過去の東京を惜しむというよりは変化し続ける混沌の方をこそ愛している様だ」と雑誌ライターの近藤正高は評している。また、偶然にも現実の東京オリンピックが作中と同じ2020年に開催されたことについては、単純に現実世界で連載が開始された1982年が第2次世界大戦終結から37年後だったので、そのまま(作中の第3次世界大戦から同じ37年後の2020年に)当てはめたのだろうと述べている。", "title": "制作の背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "バイクの暴走族の不良少年を主人公とした事については以下の様に述べている。", "title": "制作の背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1982年12月6日午後2時17分、関東地方で「新型爆弾」が炸裂し、東京は崩壊。これが引き金となり起こった第三次世界大戦から、世界は再建の途上にあった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2019年。東京湾には超高層建築物が林立する新首都「ネオ東京」が建設され、その繁栄は爛熟の極に達していた。しかし、その足元では反政府デモ隊と警察が衝突する騒然とした状態が続いていた。崩壊ののち放置されていた「旧市街」(かつての東京)でも、2020年の東京オリンピック開催を機に、都市再開発が進められようとしていた。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "主人公である職業訓練校生・金田率いるバイクチームの少年たちは、旧市街へと続く遺棄されたハイウェイに入り込んでバイクを走らせていたところ、「爆心地」付近で白髪の少年と遭遇する。彼はアーミー(軍)の研究機関「ラボ」から、反政府ゲリラによって連れ出された実験体・タカシ(26号)であった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "バイクチームのメンバー・鉄雄は、突然現れたタカシを避けきれず事故を起こし負傷する。鉄雄は治療のためタカシと共にラボに連れ去られるが、タカシとの接触をきっかけに鉄雄の中に能力が目覚め始める。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "金田たちは連れ去られた鉄雄を探すなかで、能力研究の秘密を追う反政府ゲリラのメンバーである竜、ケイの二人と出会い、大佐率いるアーミーやマサル(27号)とのタカシ争奪戦に巻き込まれる。退院し学校に戻ってきた鉄雄は、以前のようなおとなしく気の弱い少年ではなく、敵対する暴走族・クラウンのメンバーを殺しかけ、止めに入った金田に反抗する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ラボの病院を脱走した鉄雄はクラウンのアジトに乗り込み、能力を使いメンバーを殺害し、リーダーのジョーカーを屈服させて新たなリーダーの座に納まると、他の暴走族への攻撃を開始した。金田はクラウンに対して、他の暴走族と糾合して反撃を試みる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ネオ東京の路上を舞台にバイクチーム同士の大規模な抗争が起こるが、金田たちは能力を使う鉄雄ひとりの前になすすべなく敗れる。鉄雄はかつての仲間であった山形を金田の目前で惨殺し、金田に拳銃で撃たれる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そこへアーミーの部隊が到着する。能力発現にともなう頭痛に苦しむ鉄雄に対し、大佐は研究機関への帰還を促し、彼に「41号」と呼びかける。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バイクチームの抗争はアーミーにより制圧され、鉄雄、金田、ケイらは大佐によってラボが入る超高層ビルに連行される。そこにはタカシ、キヨコ(25号)、マサルという、先の世界大戦以前の極秘研究プロジェクトで能力を開発された、老人のような顔をした子供たち「ナンバーズ」も住まわされていた。薬物を投与されながら能力を開花させつつあった鉄雄は、研究の核心にある「アキラ(28号)」に強い関心を持つ。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "かつてナンバーズの子供たちの仲間であったアキラは、30年近くに渡って政府が巨費を投じ封印し続けている、謎の存在だった。一方、ラボを訪れた大佐に対して、予知能力を持つキヨコは、アキラの目覚めとネオ東京の崩壊が間もなく起こることを告げる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "キヨコはケイを能力で操り、アキラを探る鉄雄を止めようとするが、鉄雄はラボを逃げ出して旧市街に向かい、爆心地に建設中のオリンピックスタジアムの地下に隠されたアーミーの極秘施設を襲撃する。追ってきた大佐らの説得に耳を貸さず、鉄雄は絶対零度で冷凍封印されていたアキラを目覚めさせ、連れ出してしまう。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アキラが外へ出たことを知った大佐は非常事態宣言を発令させ、軍事衛星「SOL」(軌道レーザー衛星兵器)によるレーザー照射を使ってアキラと鉄雄の殺害を試みる。鉄雄は攻撃を受けて右腕を失い生死不明となり、アキラは混乱の中でラボを脱出し追ってきたケイと金田によって保護される。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "連れ出されたアキラを巡って、アキラを特別な存在と考えるミヤコの教団と、アキラを取り返そうとするアーミーとの争奪戦が始まる。ケイたちからアキラを預かった野党党首の根津は、支持母体の長であるミヤコを裏切り、部下であるゲリラも切り捨て、自らの政治的野望のためにアキラを利用しようとするが、ケイや竜、チヨコ、金田らは根津の手先から逃げ延び、アキラを連れ去る。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、アキラ争奪戦における非常事態宣言発令の混乱の責を政府に問われた大佐は、アキラ行方不明という非常事態に際しても与野党の醜い政争が続く状況に業を煮やし、クーデターを決行。ネオ東京に戒厳令を敷いてアーミーの大部隊を出動させ、アキラを捜索する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "根津の私兵、ミヤコの教団が独自に育成した能力者、大佐率いるクーデター部隊、金田たちによるアキラ争奪戦は、早朝の運河で金田らがアーミーに追い詰められたことで幕を閉じる。大佐の連れてきたナンバーズの子供たちがアキラの元に集まるが、アキラを射殺しようとした根津の弾丸がタカシの頭に当たってしまう。ナンバーズやアキラたちの脳内に衝撃が走り、それを引き金にアキラは37年前に東京を壊滅させた能力を再び解放した。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アキラを中心に現れた光が爆発的に拡大してビル群を飲み込み、ネオ東京のあらゆる建物が崩壊し地盤とともに海へと崩れ落ちる。ケイや大佐らはナンバーズの子供たちによる瞬間移動で難を逃れたものの、金田は光に飲み込まれ行方不明になる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ネオ東京の崩壊後、ひとり爆心地にいたアキラの前に、SOLによる攻撃を生き延びていた鉄雄が現れる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "廃墟となったネオ東京は政府やアーミーによるコントロールを失い、完全な無政府状態と化していた。鉄雄はアキラを「大覚」に祭り上げ、被災者を集めて「大東京帝国」という勢力を築き上げる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "外部からの接触を拒み、孤立した集団の支配者となった鉄雄は、被災者への食料に薬物を混ぜ、帝国の構成員にも薬物を投与して能力者を育てようとしていた。一方、ミヤコの教団は被災者に食糧や能力による治癒を与えてもう一つの勢力を築いており、ケイらゲリラの生き残りも、薬物欠乏に苦しむナンバーズらと共に教団へと身を寄せる。鉄雄はやがて、薬物でも自らの力を抑えられないようになっていく。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ネオ東京の廃墟では、切り札であるSOLの発射ボタンを持って単身で鉄雄に挑む大佐、ジョージ山田率いるアメリカ海兵隊特殊部隊、ゲリラの生き残りである竜のグループが、それぞれ大東京帝国へと迫る。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "鉄雄は「隊長」が集めてきた少女たちに致死量の薬物を与え、破滅的なセックスに耽溺する。一人の少女が薬物を家族に持ち帰ろうとして飲まなかったため生き残ると、鉄雄はその少女・カオリを侍女として仕えさせるが、次第に彼女に依存していく。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "鉄雄は、一言も発さず感情を表さないアキラをいぶかしみ、アキラの心の中を覗いて激しいショックを受ける。アキラとは何なのかを問うため、鉄雄はひそかにミヤコの下を訪れる。自らもナンバーズ(19号)であるミヤコはプロジェクトの全容を語り、アキラに近づくことができるのは鉄雄しかいないと説く。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ナンバーズとミヤコの教団のつながりを掴んだ隊長は鉄雄に指示を請うが相手にされず、独断で兵を率いてミヤコの教団と激しい戦闘となる。その最中、薬物の摂取を止めて苦しみに耐える鉄雄は、大佐が再び放ったSOLのレーザーに刺激され、能力の爆発的覚醒を起こして空中へと飛翔し、光を集める。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その光の中から、ネオ東京崩壊時にアキラの球体に飲みこまれたビルの残骸が出現して地上へ落下し、その中に金田の姿もあった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ケイや甲斐、ジョーカーらと再会した金田がようやくネオ東京崩壊以後の状況を理解した頃、大東京帝国はミヤコ教の勢力に被災者を奪われている状況に危機感を持ち、構成員の士気を高めるためにオリンピックスタジアムで大集会を開くことを計画する。一方、ネオ東京沖合のアメリカ海軍艦隊の空母では、アキラを巡る現象を調査する米・ソ共同の「ジュヴィナイルA」計画に参加する軍人や科学者たちがアキラや鉄雄による力の発動を観測していた。鉄雄の能力の膨張は留まることを知らず、沖合の空母を急襲して自分を観測する科学者たちの前に姿を現し、研究者たちを嘲笑する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ジョージ山田としばらく行動を共にしていた竜は、山田がBC兵器でアキラと鉄雄を抹殺しようとしていることを知る。山田は竜と決別し、ジュヴィナイルA計画の遅滞に不信感を持つ海軍提督が呼び寄せた海兵隊の特殊部隊と合流する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "オリンピックスタジアムでは大東京帝国の集会が開催され、鉄雄は余興として月の一部を破壊する。しかし、あまりに大きな力を使った鉄雄の肉体は崩壊を始め、鉄雄自身にも制御できない、肉体と機械の融合した怪物となって暴走していく。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ケイは、ミヤコやナンバーズらの力の触媒となって鉄雄と戦う決意を固め、ミヤコから禊を受ける。沖合のアメリカ海軍艦隊に出現し破壊の限りを尽くす鉄雄に対し、ケイが立ち向い撃退する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ海兵隊、竜、大佐らはそれぞれの切り札を持ってスタジアムに侵入を開始。金田とケイもジョーカーと甲斐のグループに合流し、スタジアムに立て篭もる大東京帝国や鉄雄との間で最後の戦いを開始する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "沖合から戻ってきた鉄雄はカオリの前で肉体の崩壊を起こすが、機械の腕を身体から切り離すと失われた腕が再生し、一瞬自分の形を取り戻す。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "しかしそこに現れた大佐がSOLの照準器を鉄雄に向け、レーザーをスタジアムに発射する。SOLの再起動を受けて海軍提督はネオ東京への全面攻撃を決意する。SOLのレーザーの直撃を防御した鉄雄の体は直後に爆発的に膨れ上がり、もはや人の形をとどめない異形の姿となって襲いかかる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "化け物に成り果てた鉄雄を殺すため、アキラを盾にして進む隊長。それを鉄雄に伝えようとしたカオリは隊長に撃たれる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "再び暴走が止まり形を取り戻した鉄雄は、死の間際にあるカオリを見つける。そこへ隊長の武装勢力とアメリカ海兵隊がなだれ込んだ。ジョージ山田は鉄雄のために用意した特殊な細菌ガス弾を使用する。隊長の勢力はガスに呑まれ全滅するが、ガスを吸収した鉄雄はこれまでの苦悶が嘘のように晴れ、完全に肉体と精神のコントロールを取り戻す。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "海兵隊を全滅させた鉄雄の前に金田らが現れ、鉄雄と金田の決闘が始まる。ケイも加わるが、力が完全に高まった鉄雄に一方的に圧倒される。しかしアメリカ軍の戦闘爆撃機による絨毯爆撃が開始され、さらにアメリカ軍の衛星兵器「フロイド」によるレーザー攻撃がスタジアムを破壊する。鉄雄は衛星軌道へ飛翔してフロイドを破壊し、そのまま落下させて空母に直撃させる。ジュヴィナイルAの科学者たちは沈没する空母から辛くも脱出する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "フロイドの攻撃の中でさまよっていたアキラを連れてスタジアムを脱出した金田とジョーカーは、行方の分からなくなったケイを探そうとする。鉄雄は死んだカオリを蘇らせようとするが叶わず、カオリの体を抱え、オリンピック会場地下の冷凍施設へと向かう。スタジアム内で辛くも生き残った大佐とケイだったが、ケイはミヤコに呼び掛けられ、再び鉄雄と戦う準備をする。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アキラ用の冷凍封印カプセルにカオリの遺体を運んだ鉄雄の前にケイが出現するが、鉄雄の体の中では再び能力の暴走が始まろうとしていた。アキラも鉄雄に共鳴するかのように地下施設に足を向け、アキラの後を追う金田らも鉄雄がその先にいることを察知し、竜やチヨコらと合流して地下に向かう。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "地下では鉄雄が再び膨張を始める。地下に到達し鉄雄の姿を目の当たりにした金田に対し、鉄雄は一瞬姿を取り戻し「助けてくれ」と懇願するが、再び膨張を始めた鉄雄の中に金田は飲み込まれる。鉄雄とアキラは互いに呼応するかのように手の中に光を発生させるが、三度目の爆発を止めようとした竜がアキラを撃つ。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アキラとのつながりが切れた鉄雄は、自分たちを観測しているミヤコやナンバーズの能力に引き寄せられ、冷凍カプセルを地下から引き抜くとミヤコ教神殿上空に現れる。不安定な鉄雄を完全に覚醒させるため、ミヤコはナンバーズにアキラの力をもう一度解き放たせるよう頼み、鉄雄との最後の能力戦に挑む。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ミヤコに指示を受けたケイがSOLに移動し、鉄雄とミヤコのいる神殿にSOLのレーザーを落とす。すると、鉄雄の最後の覚醒が起こり、神殿を中心に光が発生した。同時に、ナンバーズの仲間と共に空に浮かぶアキラがもう一つの光を発生させる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アキラの光が鉄雄の光を飲み込んでいく中、鉄雄の体内に取り残されていた金田は、鉄雄の記憶、宇宙の始まり、宇宙が究極の状態を目指して進む「流れ」に介入して曲折をもたらす「能力」を人類が得つつあることの意義、そしてナンバーズの子供たちに行われた実験の過程を目撃する。アキラとナンバーズが鉄雄を吸収し、アキラの光により新しく生まれた宇宙の彼方へと去ろうとする瞬間、金田はケイによってアキラの光の中から救い出され、この宇宙に引き戻される。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "再び爆心地となったネオ東京に国連軍が上陸し、被災者への救援が始まる。しかし偵察中の国連軍の前に「大東京帝国」を名乗った金田、ケイ、チヨコ、甲斐、ジョーカー、そして仲間たちが現れ、「我々の国に口出しはするな!」と警告を与え、「アキラはまだ俺たちの中に生きてるぞ!!」と言い残してバイクで走り去る。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "廃墟の谷間をバイクで疾走する金田とケイを、山形と鉄雄の幻が追い越してゆき、崩壊したネオ東京が蘇るビジョンと共に物語は終わる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "原作、アニメ映画版、ゲーム版で設定に多少の差異がある。名前については、メインキャラクターのいくつかは『鉄人28号』へのオマージュであることが明らかにされている。これは『鉄人28号』の主人公である「金田正太郎」、鉄人28号を開発した敷島博士の息子「敷島鉄雄」から取られた「島鉄雄」、自我をもたないロボットである「鉄人28号」に由来する「28号(アキラ)」などに現れている。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "いずれも80年代の超能力実験の被験者であり、アキラの仲間でもあった。一定以上の力を持つ実験体には番号が付けられ、手の平にもその番号が刻印されるため、通称「ナンバーズ」と呼ばれる。2019年現在はラボの中のチャイルドルームで生活している。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "作品世界ではカウルからフレームレイアウトに至るまでのセミ・イージーオーダーシステムが主流となっているため、登場するバイクのスタイルは多種多様で、主人公の金田が操るバイク(通称「金田のバイク」)を始め、同じものは2つと存在しない個性的なものになっている。また、ボディのあちこちに貼られたステッカーは、1980年代回顧ブームによる流行である。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "駆動力は車輪内に組み込まれた常温超伝導モーターが生み出し(前後輪の両輪駆動)、電力供給はガソリンエンジンによる発電で行う。ただし、ジョーカーが乗る大型のアメリカンタイプは、彼の趣味で現在と同じガソリンエンジンによる後輪駆動車である。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "主人公の金田が乗るバイク、通称「金田のバイク」のスタイリッシュで未来的なデザインは画期的で、作品の人気獲得に一役買った。極端にホイールベースが長く低い車高の車体、またがるのではなく4輪のフォーミュラカーのように足を前に投げ出して乗り込むクエーサー(英語版)のようなフィート・フォワード(英語版)タイプのデザイン、フロントのハブセンター・ステアリング構造、車載コンピュータによるデジタルメーターなどは、発表当時、フィクション作品の中でも異彩を放っており、後世に多くの影響を与えた。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "赤一色で塗られた車体には「成田山」「Canon」「HONDA」「SHOEI」「Arai」「CITIZEN」等のステッカーが貼られている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "漫画やアニメ以外においても、各国の漫画祭やモーターショーなどでモックアップモデルが展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、スピルバーグ監督のハリウッド映画『レディ・プレイヤー1』に登場したりと、世界的な認知度を誇っている", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "デザインの着想は、映画『イージー・ライダー』に登場するチョッパーバイクのハンドルと、映画『トロン』に登場するシド・ミードがデザインしたバイク「ライトサイクル」の楕円形のフォルムから得ている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "造形上、2人以上の搭乗は想定されていないように見えるが、原作では「80kg以下ならなんとか乗れる」と言いながら金田がリアカウルを外し、露出させたフレームの上にケイを乗せている。またアニメ映画では鉄雄がカオリをシートの後ろに乗せたり、エンディングでも金田がケイを同様に乗せて二人乗りしているため、カウルを外さなくても二人乗りが可能なようだ。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アニメ映画では、劇中で「セラミックツーローターの両輪駆動」「コンピューター制御のアンチロックブレーキ(ABS)」「12,000回転の200馬力」と説明されている。バック走行も可能で、さらにコンソールにはスピードメーターなどの他にナビゲートシステムも搭載されている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ハンドルにはクラッチ・ブレーキレバーは存在せず、フットペダル右側がアクセル、左側がブレーキになっており、AT車または無段変速車であると見られる。前輪からフロントカウル、ハンドルまでのステアリングユニットは上下に動き、乗降時にユニットが起き上がることで乗降ポジションとなる。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "盗品を改造したものであるらしく、扱いに不慣れな鉄雄はエンジン5,000回転以下でギアチェンジをしたことでエンストさせてしまった。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "この未来的で前衛的なスタイルは、漫画・アニメファンのみならず、多くのカスタムバイク関係者の注目を集めた。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "まず最初に、アニメーション映画公開に併せてモックアップモデル(計器類は動くが、走らせることは不可能)が制作、東京モーターショーで展示される。同モックアップはカスタムバイクメーカー「ホワイトハウス」によって、映画公開に併せてタイアップしていたタイトーのスポンサードで制作された。当初、作画側から割り出したリアタイヤ径が21インチとされたが、そのような寸法のタイヤが存在しなかったため微妙に縮小されている。革ジャンメーカー「カドヤ」の提供したジャケットを着たモデルとの撮影も行われていたが、そのような事情からモデルには金田の設定よりも少し小柄な女性が担当した。その後、海外での公開時に持ち出された際に行方不明となっている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "250ccの市販アメリカンバイクをベースとして、同車の雰囲気を持つカスタムバイクも開発・発売された。この車両は保安基準を満たしているため、ナンバープレートを取得すれば公道走行も可能である。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "さらにこのバイクをモチーフにした「電動バイク」がベンチャー企業によって製作された。量産化の記事が2006年のバイク専門誌に掲載されたが、リアのアルミニウム削り出しのモーターハウジングは一点モノであり、製作単価は数百万円に上った。2007年には資本提携していた企業との関係解消などの報道もあり、その後の開発の進展の音沙汰は無い。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ホンダのスクーター「リード」をベースとしたカスタムバイクもある。ベース車両は50ccと90ccが選択できるが、2ストロークエンジンであるため生産が終了しており、ベース車両は中古とならざるを得ない。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "スズキからも、同車の雰囲気を持つバイクが開発され、2003年の東京モーターショーで展示された。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2004年4月には同スケール実動モデルが製作された。流石にアニメ版の常温超伝導デュアルパワー電動バイクとまではいかないものの(エンジンは249ccから998ccの単気筒から4気筒までの既存エンジンからユーザーが選択する方式を採っている。既にオーダーは受付終了)、実走可能なフルカスタムバイク(実際にナンバーを取得して公道をテスト走行している)が開発中である。なお同車は作者の原作・アニメ版監督の大友や講談社の「公認」を得ているとしている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ホンダの250ccスクーター「FUSION」をベースにした、カスタムコンプリートバイクが「才谷屋Factory」から販売されていた。また、バイク本体を含まない外装キットのみの販売もあった。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "作中にはアーミーの兵器をはじめとする近未来の最先端のマシンやテクノロジーが多数登場する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "大佐やアーミーが移動手段として用いる、タンデムローターの大型ヘリ。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "アメリカ軍等が使用する実在のヘリ、CH-47チヌークに類似しているが、アーミーのそれは大型乗用車を積載してなお余裕のあるカーゴルームを持ち、かなりの大型機であることが見て取れる。兵装は持っていないと見られる。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "アキラの居るオリンピック会場地下施設や地下水路をアーミーがパトロールする際に使用する、1人乗りの有人飛行兵器(5人乗り大型機も存在する)。最新兵器であり、存在自体が秘匿されている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "セラミック部品を多用したバイク並みの小型軽量ボディと常温超電導が実現可能にした高い機動力に加え、機首には操縦桿と連動する20mmガトリング砲を装備し、地上の敵勢力を圧倒する。金田らに鹵獲されて以降は彼らの戦力としても活躍する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "アメリカ海軍とヒラー社が1950年代に試作したVZ-1という1人乗りVTOL機、フライング・プラットフォーム(Flying Platform)が実在したが、アキラの世界に登場するこの飛行兵器はフライング・プラット・ホーム(FPH)と呼ばれている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "アーミーの最新携行型レーザー兵器。個人で運用可能なまでに小型化された高出力レーザー砲は鉄板をも貫き、高い殺傷能力を持つ。外部にバッテリーを持つが、重く大きいこと、発射回数が限られることに課題がある。ダイヤル操作で攻撃出力を変化させることもでき、照射し続けることで薙ぎ払うような攻撃も可能。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "キヨコに操られたケイがアーミーのビルに侵入した際に開発中の試作機を見つけ出し、チャイルドルームでの鉄雄との戦いで金田が使用する。アニメ版では実戦配備されており、アキラの元へ向かう鉄雄を阻止するためにアーミーの小隊が一斉射撃を行う。金田が鉄雄の力に対峙するための武器として、原作・アニメともに終盤まで登場する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "アーミーが保有する軍事衛星、Satellite in Orbital Laser-weaponの略称。静止軌道上の人工衛星に搭載されたレーザー砲が地上の標的をピンポイントで攻撃する。その爆撃のような破壊力は小型反応炉を動力源とし、短いインターバルでの連続攻撃を可能とする。命中精度は10m前後であるが、初弾の着弾地点を観測しフィードバックすることで命中精度を高めることができる。本体にはSOL-740とペイントされているが、同型機が複数存在するかどうかは不明。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "原作ではアキラと彼を目覚めさせた鉄雄を殺害するために使用され、ネオ東京崩壊後には大佐が持ち歩く超小型照準器で彼らの窮地を救い、物語の終局まで重要な役割を果たす。アニメ版ではSOLの攻撃で右手を失った鉄雄が軌道上まで飛翔し反撃、即座に破壊されてしまう。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "自律行動を行う地上型無人機。縦横高さ各2m、中心に直径1.5mの球体状のボディを持ち、4本足の先端に持つ車輪で高速移動が可能。核戦争後にシェルター外の活動を行うことを想定しており、放射線値の測定や敵勢力への攻撃までを担う能力を持つ。複数台での連携した活動や、連結しての移動も可能。その形状から炭団などと呼ばれる。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "原作内ではアキラ行方不明による第七級警報発令下のネオ東京に現れ、暴徒鎮圧や消火などの治安維持活動を行う。ネオ東京崩壊後にはハッキングされた個体が大佐の拠点を警護したり、破壊された残骸がジョーカーの手によって改造され、移動手段として用いられた。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アメリカ軍が使用する衛星兵器。SOLと同様のレーザー兵器だが、連続照射しながら着弾点を動かすことで、帯状の範囲を攻撃することが可能。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "鉄雄と金田の決戦のさなかにオリンピックスタジアム周辺に向け発射され、ネオ東京全体への無差別攻撃をかけるが、衛星軌道上へ翔んだ鉄雄にジャックされ、アメリカ軍の空母打撃群に向けてレーザーを発射しながら落下。鉄雄はフロイドをアメリカ海軍提督が乗る空母のブリッジに直撃させ、空母は沈没する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "単行本は講談社KCデラックスで発行された。週刊誌と同じ大判サイズで小口への色付けを施すなど、凝った装丁になっている。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アニメ映画が公開された1988年には国際版の刊行が始まった。アメリカン・コミックスのスタイルに合わせて原稿を左右反転させ、左開きにした上で彩色を施し、一冊あたりの収録ページを減らした薄いものに再編集されて出版された。日本国外ではこの外国語版が流通しており、これを日本語に逆翻訳したものが『オールカラー国際版AKIRA』『総天然色AKIRA』として日本でも発売された。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "単行本の4巻が刊行された後にアニメ映画版の制作が開始されたことで雑誌連載は長期間休載となり、日本では5巻の刊行までに3年間を要した。しかし、1巻あたりの収録話数が少ない『国際版』は、5巻の前半に相当する話数を収録した巻が日本に先行して発売された。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "4巻の巻末には「5巻が最終巻である」と告知されていたが、再開後に連載が長期化したため、結局5巻と6巻に分けられ、6巻が最終巻となった。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "最終回は単行本化の際に大幅に加筆修正された。雑誌掲載時は、アキラたちが消え去った後に金田とケイがビルの上で朝日を見つめるシーンで終わるが、単行本では後日談が追加され、大東京帝国を金田や甲斐、ケイたちが受け継ぎ、外国の軍隊に対しアキラが金田たちの中で生存していることを宣告。生き残っていた大佐や、山形、鉄雄も一瞬ながら登場、さらに崩壊したはずのネオ東京が元の姿へと戻ってゆく幕切れとなっている。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "本作の実写映画化は2000年代初めから何度も報じられ、そのたびに企画が見送られてきた。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2002年、実写映画化の噂が初めて世に伝えられた。ワーナー・ブラザースによる製作で、プロデューサーに映画『ワイルド・ワイルド・ウエスト』のジョン・ピーターズ、監督に『ブレイド』のスティーヴン・ノリントンが起用され、原作の雰囲気を保ちつつ欧米人が親近感を持って受け入れやすいような設定のストーリーになる予定だと報じられた。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2008年、映画化を巡って大手スタジオが争奪戦を展開した結果、ワーナー・ブラザースが権利を獲得した。同年2月にワーナーはレオナルド・ディカプリオの制作会社アッピアン・ウェイとともに準備を始め、プロデューサーにはディカプリオのほか、『アメリカン・スナイパー』のアンドリュー・ラザー、『レヴェナント: 蘇えりし者』のジェニファー・ダヴィッソンが就任。監督はCM出身でアカデミー短編アニメ映画賞にノミネートされたアイルランド人の若手監督ルアイリ・ロビンソン、脚本にはゲイリー・ウィッタ(英語版)が起用されると報じられた。映画は2部構成で製作され、前編の全米公開は2009年夏が予定された。コミックス全6巻をすべて映画化し、『ブレードランナー』と『シティ・オブ・ゴッド』を合わせたような作品を目指すとされた。舞台は原作の日本のネオ東京から新型爆弾に破壊されてから31年後の日本資本によって再生されたアメリカのニューマンハッタンに変更され、それにともなって配役がハリウッドスターになりそうだとも伝えられた。しかし、2009年6月にロビンソンが降板し、企画は一時中止されたと報じられた。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2010年2月、映画『フロム・ヘル』や『ブラック・ビジネス』を監督したアレンとアルバートのヒューズ兄弟がワーナー・ブラザーズと交渉中であると報じられた。その時点では、脚本に映画『アイアンマン』を執筆したマーク・ファーガスとホーク・オストビーが参加していた。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2011年5月、アルバート・ヒューズ監督が降板することになったと報じられ、理由は「制作上の困難」と発表された。同年7月、ワーナー・ブラザーズは製作続行の決定を下し、『アンノウン』や『エスター』のスペイン人監督ジャウム・コレット=セラを起用したと発表。「ハリー・ポッターシリーズ」の脚本家のスティーヴ・クローヴスが脚本をリライトし、2012年春の製作開始を予定しているとされた。金田役として『トロン: レガシー』に主演したギャレット・ヘドランドを起用し、そのほかにケイ役をクリステン・スチュワート、鉄雄役をマイケル・ピットやデイン・デハーン、軍の大佐役をゲイリー・オールドマンや渡辺謙、宗教指導者ミヤコ役をヘレナ・ボナム=カーターが演じると報じられた。1億ドル(約80億円)以上といわれた予算も9,000万ドル(約72億円)程度まで縮小された。舞台はネオマンハッタンに、主人公の金田はバー経営者で鉄雄とは兄弟という設定に変更された。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2012年1月、ワーナー・ブラザースが製作延期を発表。撮影直前までいったものの、プロジェクトは3度目の延期に追い込まれた。キャスティングや脚本、予算の問題で、企画が暗礁に乗り上げたことが理由だとされ、撮影予定地だったカナダ・バンクーバーのプロダクションオフィスは閉鎖されてスタッフらは解散となった。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2017年9月、ワーナーが『マイティ・ソー バトルロイヤル』のタイカ・ワイティティ監督との契約交渉に入ったと伝えられた。ワイティティは、「アニメ映画ではなく原作コミックを実写映画化したい」と述べ、出演者についても「アジア人のティーンエイジャーがいい」として、スター俳優ではなく新人を抜擢する意向を語った。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2019年5月、ワーナー・ブラザーズが米国での公開日(2021年5月21日)を正式発表し、タイカ・ワイティティが正式に監督に就任したことも併せて告知された。しかし、そのわずか2か月後の7月にワーナーは同企画を無期限に保留することを発表した。理由は、本作の制作が遅れたことでもう一つの監督作品『ソー:ラブ&サンダー』とスケジュールが重なったワイティティが後者を優先したため。ワイティティによれば、企画保留の決め手になったのは、その制作の遅れを招いた脚本作業やキャスティングの難航だったという。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2021年8月、ワイティティはインタビューでまだ本作を監督する意欲があることを認めたが、復帰できるかは未知数である。", "title": "実写映画化プロジェクト" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "1988年12月24日に、タイトーよりファミリーコンピュータ用ゲームソフトが発売された。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "いわゆるコマンド総当たり式のアドベンチャーゲームで、シナリオ、プロデュースは大友本人が担当。ストーリーはアニメ映画版に基づいて構築されており、凝ったグラフィックや演出で、原作(アニメ)の雰囲気を再現している。また、間違った選択肢を選ぶとすぐにゲームオーバーになるなど難易度が高い。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "アニメ映画版を見ておかないと正しい選択肢を選ぶことが困難であったため、アニメ映画版に関するカルトクイズ的な意味合いもあった。マルチエンディングシステムを採用し、バッドエンドも多数用意されているが、アキラの覚醒を金田が止めるといったアニメ映画版にはない展開や、大東京帝国の発足を匂わせるエンディングも見られる。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "『AKIRA PSYCHO BALL』(アキラ サイコボール)は、2002年2月21日にバンダイ(現:バンダイナムコエンターテインメント)より発売されたPlayStation 2用ピンボールゲーム。開発はカゼ。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "アニメ映画版をモチーフにしたピンボール台が4台(うち1台は対戦プレイ用)あり、条件を満たすと台が変形・合体する。オープニングやマルチボール、ステージクリア時にはアニメ映画版のムービーが挿入される。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "Black Pearl SoftwareがGENESIS、SEGA CD、SNES、ゲームギア、ゲームボーイ向けに開発し、THQが1995年頃に米国で発売計画があったものの中止。1994年のSummer Consumer Electronics Showに出展の際、開発中のプレイ画面がフリーズする致命的なバグが出ている。2019年にGENESIS版のプロトタイプROMがコレクターの手に渡り、シューティングパートやアクションパートといった複数ジャンルを内包したゲーム内容が公開された。", "title": "ゲーム" } ]
『AKIRA』(アキラ)は、大友克洋による日本の漫画。1982年から1990年にかけて講談社の漫画雑誌『週刊ヤングマガジン』にて連載され、1988年には大友自身が監督してアニメ映画化された。
{{Infobox animanga/Header |タイトル= AKIRA |ジャンル= [[サイエンス・フィクション|SF]]・[[青年漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者= [[大友克洋]] | 作画 = | 出版社= [[講談社]] | 他出版社= {{flagicon|United States}} Epic Comics / [[ダークホースコミックス|Dark Horse Comics]]<br>{{flagicon|Germany}} {{flagicon|Denmark}} [[カールセン出版社|Carlsen Comics]]<br>{{flagicon|Finland}} Like<br>{{flagicon|France}} {{flagicon|Belgium}} {{flagicon|Netherlands}} [[グレナ|Glénat]]<br>{{flagicon|Italy}} Planet Manga<br>{{flagicon|Poland}} Japonica Polonica Fantastica<br>{{flagicon|Spain}} Norma Editorial<br>{{flagicon|South Korea}} Semicolon | 掲載誌=[[週刊ヤングマガジン]] | レーベル = KCデラックス | 開始号 = 1982年12月20日号 | 終了号 = 1990年6月25日号 | 開始日 = | 終了日 = | 巻数= 全6巻 | 話数 = 全120話 | その他 = }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:漫画|漫画]] |ウィキポータル= [[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''AKIRA'''』(アキラ)は、[[大友克洋]]による[[日本]]の[[漫画]]。1982年から1990年にかけて[[講談社]]の漫画雑誌『[[週刊ヤングマガジン]]』にて連載され{{Refnest|group="注"|連載開始時はまだ隔週刊誌であり、その後、週刊化されても本作は隔週連載のままだった。}}、1988年には大友自身が[[監督]]して[[アニメ映画]]化された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sunrise-inc.co.jp/news/news.php?id=16832 |author= |title=ファン待望の大友克洋プロジェクトが続々始動! 大友克洋監督 新作映画「ORBITAL ERA」制作決定! |website= |publisher= 株式会社サンライズ|date= 2019-07-05|accessdate= 2022-12-21}}</ref>。 == 概要 == [[第三次世界大戦]]後の日本を舞台に、[[超能力]]者を巡って軍と反政府勢力、そして不良少年たちが巻き起こす騒乱とその後の崩壊した世界を描いた[[サイエンス・フィクション|SF]]漫画<ref name="kai-you65732">{{Cite web|和書|url= https://kai-you.net/article/65732 |author= |title =大友克洋、新作『ORBITAL ERA』制作決定 『AKIRA』新アニメ化も |date =2019-07-05 |accessdate= 2023-01-18|website =KAI-YOU.net|publisher =株式会社カイユウ}}</ref>。<!--タイトルの「AKIRA」は大友自身がファンであり影響を受けた映画監督[[黒澤明]]に由来する。-->可視化できない超能力を絵で表現し、[[近未来]]の退廃と崩壊を描いたSF作品として高い評価を獲得した<ref name="kai-you79266">{{Cite web|和書|url= https://kai-you.net/article/79266 |author= 小林優介 |title =『大友克洋全集』が2021年刊行決定! 世界的な漫画家 |date=2021-01-06 |accessdate= 2023-01-18|website =KAI-YOU.net|publisher =株式会社カイユウ}}</ref>。その反響は海外にもおよび、世界中に熱狂的なファンを持つようになった<ref name="manga38_otomo">{{Cite web|和書|url=https://edist.isis.ne.jp/dust/manga38_otomo/ |author=堀江純一 |title=マンガのスコア LEGEND38大友克洋 これがホントの以前/以後 |date=2021-10-14 |accessdate= 2023-01-18|website=遊刊エディスト |publisher= 編集工学研究所}}</ref>。 日本漫画史の中で欠かすことのできない[[1980年代]]を代表する漫画とされ、SFのジャンルだけでなく、漫画の分野全体に影響を及ぼした<ref name="itmedianews017">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1907/05/news017.html |author=数土直志 |title=『AKIRA』悲願のハリウッド映画に! 日本作品の実写化が止まらない真相 (1) |date=2019-07-05 |accessdate= 2023-01-18|website= ITmedia NEWS|publisher= [[アイティメディア]]}}</ref><ref name="animeanime2800">{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2008/02/21/2800.html |author= |title=大友克洋「AKIRA」ハリウッド実写化決定 2009年夏公開目指す |date=2008-02-21 |accessdate= 2023-01-18|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref>。1988年に大友自身の手により劇場アニメが制作されると、アニメ業界にも大きなインパクトを与えた<ref name="animeanime2800"/>。また漫画やアニメだけでなく、[[芸術|アート]]や[[ファッション]]を含む[[サブカルチャー]]にも多大な影響を与えたと言われる<ref name="kai-you65732"/><ref name="animeanime2800"/>。 数多くの日本の漫画が世界中に翻訳されるきっかけを作った作品で、それまで子供向けとされていた日本の漫画やアニメの評価を一気に引き上げ、海外の[[オタク]]第一世代を生み出した作品のひとつでもある<ref name="manga38_otomo"/><ref name="animeanime2800"/>。1980年代後半に原作漫画とアニメの両方が海外に輸出されると、[[米国]]や[[イギリス]]を中心に世界のクリエイターたちに衝撃を与え、高く評価された<ref name="animeanime2800"/>。当時、[[アメリカン・コミックス]]の世界には新しい時代の波が訪れており、『[[ウォッチメン]]』や『[[バットマン: ダークナイト・リターンズ]]』の登場により、[[スーパーヒーロー]]が活躍する勧善懲悪の物語だけでなく、より複雑な人間関係や緻密な描写がなされた、大人の鑑賞に耐えうる長編作品『[[グラフィックノベル]]』が注目され始めていた<ref name="magmix27482_1">{{Cite web|和書|url=https://magmix.jp/post/27482 |author=倉田雅弘 |title=『AKIRA』をジャパニメーションの金字塔に持ち上げた、アメリカ非公式のネットワークとは (1) |date=2020-05-06 |accessdate= 2023-01-24|website= マグミクス|publisher= [[メディア・ヴァーグ]]}}</ref>。『AKIRA』も、その流れの一環として1988年に『[[スパイダーマン]]』などで有名な[[マーベル・コミックス]]から刊行された<ref name="magmix27482_1"/>。その時点ではまだ知る人ぞ知る作品の位置に留まっていたが、1989年にアニメ映画が公開されると事態が一変<ref name="magmix27482_1"/>。口コミで徐々に人気が広まり、日本を代表する作品となった<ref name="magmix27482_2">{{Cite web|和書|url=https://magmix.jp/post/27482/2 |author=倉田雅弘 |title=『AKIRA』をジャパニメーションの金字塔に持ち上げた、アメリカ非公式のネットワークとは (2) |date=2020-05-06 |accessdate= 2023-01-24|website= マグミクス|publisher= [[メディア・ヴァーグ]]}}</ref>。 2012年のアメリカ映画『[[クロニクル (映画)|クロニクル]]』は、公開時に多くの観客から『AKIRA』の影響{{Refnest|group="注"|長年、劣等感に悩まされてきたが[[超能力]]という圧倒的な力を得たことにより大きく変貌していく主人公のキャラクター造形など。}}を指摘されたが、その監督[[ジョシュ・トランク]]は作品のファンであることを公言している<ref>{{Cite web|和書|url= https://ure.pia.co.jp/articles/-/16578|title=全米大ヒット『クロニクル』と『AKIRA』の関係とは? 監督が語る|website=ウレぴあ総研|publisher= [[ぴあ]] |date=2013-08-19|accessdate= 2023-01-18}}</ref>。[[アメリカ人]][[ミュージシャン]]の[[カニエ・ウェスト]]は、自身の楽曲「{{仮リンク|Stronger (カニエ・ウェストの曲)|label=Stronger|en|Stronger (Kanye West song)}}」でアニメ映画『AKIRA』の世界観と映像を[[オマージュ]]した[[ミュージック・ビデオ]]を制作している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wwdjapan.com/articles/676677 |author=小川陸|title=カニエ・ウェストが「全てのクリエイションは『AKIRA』に影響された」と告白 |date=2018-08-19|accessdate= 2023-01-18|website= |publisher=WWD(Women's Wear Daily)}}</ref>。2016年のアメリカのSF[[ホラードラマ]]『[[ストレンジャー・シングス 未知の世界]]』{{Refnest|group="注"|登場人物のイレブンという少女が、鉄雄と同様に政府の施設から逃げ出し、超能力を持っていることを悟る。}}では、製作者の[[ダファー兄弟]]が『AKIRA』の影響が「とてつもなく大きなものであった」ことをインタビューで語っている<ref name="courrier133646">{{Cite web|和書|url =https://courrier.jp/news/archives/133646/#paywall_anchor_133646 |author = |title =カニエ・ウエストも「ストレンジャー・シングス」も… 大友克洋『AKIRA』が30年間世界に影響力を持ち続ける理由|date = 2018-08-31|accessdate= 2023-01-24|website = [[クーリエ・ジャポン|COURRiER]]|publisher = [[講談社]]}}</ref>。『[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ]]』の監督の[[ライアン・ジョンソン]]は、自身のSF映画『[[LOOPER/ルーパー]]』{{Refnest|group="注"|映画では、ある少年が相手を念力だけで殺害できる能力を持つ。}}の着想源が『AKIRA』であることを明かしている<ref name="courrier133646"/>。1998年のSF映画『[[ダークシティ]]』のラストシーンについて、[[アレックス・プロヤス]]監督は「『AKIRA』へのオマージュ」とその影響を語っている<ref name="moviewalker227983">{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/news/article/227983/p2 |author= |title=スピルバーグ、デル・トロら巨匠たちも! 『AKIRA』が世界のクリエイションに与えた絶大なる影響 |date=2020-03-27 |accessdate= 2023-01-24|website= [[Movie Walker]]|publisher= [[株式会社ムービーウォーカー]]}}</ref>。2013年のSF映画『[[パシフィック・リム (映画)|パシフィック・リム]]』では、[[ギレルモ・デル・トロ]]監督が登場人物の一人、ペントコスト司令官は『AKIRA』に登場する大佐をモデルにしたと明かしている<ref name="moviewalker227983"/>。さらに、アメリカのストリートウェアブランド「[[シュプリーム (ブランド)|シュプリーム]]は、2017年秋に『AKIRA』とコラボしたコレクション「AKIRA/Supreme」を発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wwdjapan.com/articles/982883 |author=小川陸|title=大友克洋と河村康輔に「AKIRA」のアートウォールから「シュプリーム」コラボまでを聞く |date=2019-11-25|accessdate= 2023-01-24|website= |publisher=WWD(Women's Wear Daily)}}</ref>、[[ファレル・ウィリアムス]]はコラボした[[シャネル]]のコレクションで『AKIRA』にインスパイアされたビジュアルを発表するなど、ファッション業界にまでも影響を及ぼしている<ref name="moviewalker227983"/>。ヨーロッパでもその評価は高く、[[フランス]]の[[バンド・デシネ]]作家[[バスティアン・ヴィヴェス]]は、『AKIRA』に受けた衝撃について「若者がヒーローで、暴力、薬物、性といったタブーや大人の問題に対峙するストーリーにショックを受けた」と語っている<ref name="newsphere">{{Cite web|和書|url=https://newsphere.jp/entertainment/20150201-2/ |author= |title="漫画を進化させた" 「AKIRA」大友氏の仏漫画祭最高賞、現地大絶賛 |date=2015-02-01 |accessdate= 2023-01-18|website= NewSphera|publisher= Skyrocket株式会社}}</ref>。 作品には、大友が尊敬する漫画家の一人、[[横山光輝]]の漫画『[[鉄人28号]]』へのオマージュがこめられている<ref name="coolest-bike">{{cite web|url= https://www.forbes.com/sites/olliebarder/2017/05/26/katsuhiro-otomo-on-creating-akira-and-designing-the-coolest-bike-in-all-of-manga-and-anime/?sh=393dc94e6d25|title=Katsuhiro Otomo On Creating 'Akira' And Designing The Coolest Bike In All Of Manga And Anime |author= Ollie Barder|language= en|date= 2017-05-26|accessdate= 2023-01-18 |website= forbes.com |publisher= Forbes}}</ref>。アキラのナンバーが28号となっているのは鉄人の28号をそのまま使っているためであり、金田や鉄雄、大佐などのキャラクターの名前も同作からの引用である<ref name="coolest-bike"/>。また「大戦中に開発された究極の兵器が平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という全体の筋書きは『鉄人28号』とほぼ同じである<ref name="coolest-bike"/>。 漫画(コミックス第4巻以降{{Refnest|group="注"|第3章1回目(第49話)の雑誌連載時扉絵から。}})やアニメに使用された題字は[[平田弘史]]が手掛けたもの<ref>{{Cite web|和書| url =https://ddnavi.com/review/539616/a/ |author= |title= 画業60年を超える時代マンガの第一人者にして、『AKIRA』の題字を手がけた伝説の劇画家・平田弘史を6つのキーワードで読み解く|website= [[週プレNEWS]]|publisher= [[集英社]] | date= 2021-12-17|accessdate= 2023-01-18}}</ref>。 2000年代に入ってから米[[ハリウッド]]での実写映画化が何度も報じられ、2019年には日本の[[アニメスタジオ]]による新アニメ化プロジェクトも発表されている<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/338476|title=「AKIRA」新アニメ化!新作長編SFも製作、大友克洋がAnime Expoで発表|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|date=2019-07-05|accessdate=2019-07-05}}</ref>。 == 制作の背景 == 『AKIRA』の企画は、『ヤングマガジン』が創刊されてから間もない時期にスタートした<ref name="coolest-bike"/>。大友は講談社の人間に何度も繰り返し「何か描いて欲しい」と頼まれ、短編の『[[武器よさらば (漫画)|武器よさらば]]』と『[[彼女の想いで…]]』を掲載した後、連載を開始した<ref name="coolest-bike"/>。最初の打ち合わせでは「エピソードが10話ほどとかなり短く、(連載は)すぐに終わるだろう」と言われたので、大友自身はヒットするとは全く思わなかったという<ref name="coolest-bike"/>。 本作の原型は、[[双葉社]]の漫画雑誌『アクションデラックス』(1979年1月27日号)に掲載された中編『Fire-ball』<ref name="natalieshortpeace">{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/comic/pp/shortpeace/page/5 |author=斎藤宣彦 |title=映画「SHORT PEACE」特集、大友克洋1万字インタビュー|date=2013-12-18 |accessdate= 2023-01-18|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>{{Sfn|彼女の想いで…|2004| p= 255}}。大友は未完だった同作をいつか描き足して完結させたいと思っていたが、自身の絵柄が大きく変化していった時期であったので、再び同じところへ戻るのは嫌だった<ref name="natalieshortpeace"/>。また、やるなら全部やり直さなければならないと考えていたため、同じものをやるくらいなら新しい作品の中に組み込もうということで『AKIRA』を始めた{{Sfn|彼女の想いで…|2004| p= 255}}。そのため、超能力を題材に、力のある2人の葛藤・対決を描くという作品の構成は『Fire-ball』から変わっておらず、政府の超能力研究、反政府ゲリラ、都市の破壊等の要素も引き継がれている<ref name="natalieshortpeace"/>{{Sfn|彼女の想いで…|2004| p= 255}}。物語のラストも、子供の頃の思い出話の中でエンディングを迎える予定だったという『Fire-ball』の構想を踏襲している<ref name="natalieshortpeace"/>。また大友は、本作を直前に連載していた『[[童夢 (漫画)|童夢]]』よりもう少し自由に作ろうと考えていた<ref name="natalieshortpeace"/>。『童夢』では、1本の映画のように描こうとして最初に構成をしっかり固めたせいでそれを守るために苦しむことになったので、登場人物たちが勝手に動いてどんどんストーリーを展開させていくという、[[白土三平]]の「[[カムイ伝]]」や[[手塚治虫]]の「[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]」や「[[ジャングル大帝]]」のようなある種の古い長編漫画の描き方を実践した<ref name="natalieshortpeace"/>。 [[東京]](実際は復興したネオ東京)を舞台にしたことについて、大友はインタビューで「東京が好きで、別の形で東京を語り直してみたい欲望があった」「[[戦後復興期|戦後の復興期]]から[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の頃の様な混沌を構築したかった。(東京の様に)こんなに無思想で歪んでめまぐるしく変化していく都市は魅力的」と述べている<ref name="excite20130912">{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1378925577044/ |author=近藤正高 |title= 『AKIRA』はなぜ2020年東京オリンピックを予告できたのか|date=2013-09-12 |accessdate= 2023-01-18|website= エキレビ|publisher= [[エキサイト]]}}</ref>。また、「『[[昭和]]の自分の記録』として、廃墟からオリンピックまでの昭和の東京を描こうとした」という事も語っている<ref name="bunshun10080">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/10080 |author=近藤正高 |title= 『AKIRA』大友克洋が36年前に「2020東京五輪」を予言できたのはなぜか |date= 2018-12-20 |accessdate= 2023-01-18 |website=文春オンライン |publisher=[[文藝春秋]]}}</ref><ref name="nhkspecial">{{Cite web|和書|url= http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=17044 |title= 『AKIRA』の世界観のもと、東京の進化と再生を描く NHKスペシャル シリーズ「東京リボーン」 |date= 2018-12-14 |accessdate= 2023-01-18|website= |publisher= [[NHKオンライン]] |archiveurl= https://web.archive.org/web/20190223190328/http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=17044 |archivedate= 2018-12-24 }}</ref>。 {{Quotation|漫画の『AKIRA』は、自分の中では、世界観として「[[昭和]]の自分の記録」といいますか。[[太平洋戦争|戦争]]があって、[[日本の降伏|敗戦]]をして。政治や国際的ないろいろな動きがあり、[[安保闘争|安保反対運動]]があり、そして[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]があり……東京というのは昭和のイメージがものすごく大きいんですよね。|大友克洋|}} ただし、「大友は失われつつある過去の東京を惜しむというよりは変化し続ける混沌の方をこそ愛している様だ」と雑誌ライターの近藤正高は評している<ref name="excite20130912"/><ref name="bunshun10080"/>。また、偶然にも現実の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]が作中と同じ2020年に開催されたことについては、単純に現実世界で連載が開始された1982年が[[第2次世界大戦]]終結から37年後だったので、そのまま(作中の第3次世界大戦から同じ37年後の2020年に)当てはめたのだろうと述べている<ref name="excite20130912"/><ref name="bunshun10080"/>{{Refnest|group="注"|実際、東京は[[2016年夏季オリンピックの開催地選考|2016年の夏季オリンピック開催地]]にも立候補して4つの候補地の1つに選ばれており、2020年に決まったのは単なる偶然の一致であった。}}。 バイクの暴走族の不良少年を主人公とした事については以下の様に述べている<ref name="nhkspecial"/>。 {{Quotation|登場人物たちはみんな若者にしました。……ただ単に暴走して、つまんない世界にいる人間たちを主人公にして、東京の中のいろんな政治や、大きな秘密の中に触れながら、どうしようもない若者たちが少しは成長していくという話を作ったんです。 話はSFなんですけど、少しずつ自分たちで何かを見つけるんだよというメッセージは描きたいなと思っていました。それは、社会に参加して、または世界に参加して、自分たちで自分たちの道を発見する話なんです。…(中略)…いろんなことがあるんですけど、自分たちが見つけたもの、そして、自分たちがこれからなんかやってくんだよというメッセージは込めました。|大友克洋}} == 受賞 == * 1984年 - 第8回[[講談社漫画賞]]一般部門 * 1992年 - [[アイズナー賞]](アメリカ)最優秀彩色部門(『国際版AKIRA』) * 2002年 - アイズナー賞(アメリカ)最優秀アーカイブプロジェクト部門および最優秀国際作品部門(『国際版AKIRA』) == ストーリー == [[1982年]][[12月6日]]午後2時17分<ref name="bunshun10080"/>{{Refnest|group="注"|『AKIRA』の第一話が掲載された「週刊ヤングマガジン」1982年12月20日号の発売日と同じ日付。}}、[[関東地方]]で「新型爆弾」が炸裂し、東京は崩壊。これが引き金となり起こった[[第三次世界大戦]]から、世界は再建の途上にあった。 === 1巻(PART1 鉄雄) === [[2019年]]。[[東京湾]]には[[超高層建築物]]が林立する新首都「ネオ東京」が建設され、その繁栄は爛熟の極に達していた。しかし、その足元では反政府デモ隊と警察が衝突する騒然とした状態が続いていた。崩壊ののち放置されていた「旧市街」(かつての東京)でも、[[2020年]]の東京オリンピック開催を機に、[[都市再開発]]が進められようとしていた。 主人公である職業訓練校生・'''金田'''率いるバイクチームの少年たちは、旧市街へと続く遺棄されたハイウェイに入り込んでバイクを走らせていたところ、「爆心地」付近で白髪の少年と遭遇する。彼はアーミー(軍)の研究機関「ラボ」から、反政府ゲリラによって連れ出された実験体・'''タカシ'''(26号)であった。 バイクチームのメンバー・'''鉄雄'''は、突然現れたタカシを避けきれず事故を起こし負傷する。鉄雄は治療のためタカシと共にラボに連れ去られるが、タカシとの接触をきっかけに鉄雄の中に[[超能力|能力]]が目覚め始める。 金田たちは連れ去られた鉄雄を探すなかで、能力研究の秘密を追う反政府ゲリラのメンバーである'''竜'''、'''ケイ'''の二人と出会い、'''大佐'''率いるアーミーや'''マサル'''(27号)とのタカシ争奪戦に巻き込まれる。退院し学校に戻ってきた鉄雄は、以前のようなおとなしく気の弱い少年ではなく、敵対する暴走族・クラウンのメンバーを殺しかけ、止めに入った金田に反抗する。 ラボの病院を脱走した鉄雄はクラウンのアジトに乗り込み、能力を使いメンバーを殺害し、リーダーの'''ジョーカー'''を屈服させて新たなリーダーの座に納まると、他の暴走族への攻撃を開始した。金田はクラウンに対して、他の暴走族と糾合して反撃を試みる。 ネオ東京の路上を舞台にバイクチーム同士の大規模な抗争が起こるが、金田たちは能力を使う鉄雄ひとりの前になすすべなく敗れる。鉄雄はかつての仲間であった'''山形'''を金田の目前で惨殺し、金田に拳銃で撃たれる。 そこへアーミーの部隊が到着する。能力発現にともなう頭痛に苦しむ鉄雄に対し、大佐は研究機関への帰還を促し、彼に「41号」と呼びかける。 === 2巻(PART2 アキラ) === バイクチームの抗争はアーミーにより制圧され、鉄雄、金田、ケイらは大佐によってラボが入る超高層ビルに連行される。そこにはタカシ、'''キヨコ'''(25号)、マサルという、先の世界大戦以前の極秘研究プロジェクトで能力を開発された、老人のような顔をした子供たち「ナンバーズ」も住まわされていた。薬物を投与されながら能力を開花させつつあった鉄雄は、研究の核心にある「'''アキラ'''(28号)」に強い関心を持つ。 かつてナンバーズの子供たちの仲間であったアキラは、30年近くに渡って政府が巨費を投じ封印し続けている、謎の存在だった。一方、ラボを訪れた大佐に対して、予知能力を持つキヨコは、アキラの目覚めとネオ東京の崩壊が間もなく起こることを告げる。 キヨコはケイを能力で操り、アキラを探る鉄雄を止めようとするが、鉄雄はラボを逃げ出して旧市街に向かい、爆心地に建設中のオリンピックスタジアムの地下に隠されたアーミーの極秘施設を襲撃する。追ってきた大佐らの説得に耳を貸さず、鉄雄は絶対零度で冷凍封印されていたアキラを目覚めさせ、連れ出してしまう。 アキラが外へ出たことを知った大佐は[[非常事態宣言]]を発令させ、[[軍事衛星]]「SOL」(軌道レーザー衛星兵器)によるレーザー照射を使ってアキラと鉄雄の殺害を試みる。鉄雄は攻撃を受けて右腕を失い生死不明となり、アキラは混乱の中でラボを脱出し追ってきたケイと金田によって保護される。 === 3巻(PART3 アキラ II) === 連れ出されたアキラを巡って、アキラを特別な存在と考える'''ミヤコ'''の教団と、アキラを取り返そうとするアーミーとの争奪戦が始まる。ケイたちからアキラを預かった野党党首の'''根津'''は、支持母体の長であるミヤコを裏切り、部下であるゲリラも切り捨て、自らの政治的野望のためにアキラを利用しようとするが、ケイや竜、'''チヨコ'''、金田らは根津の手先から逃げ延び、アキラを連れ去る。 一方、アキラ争奪戦における非常事態宣言発令の混乱の責を政府に問われた大佐は、アキラ行方不明という非常事態に際しても与野党の醜い政争が続く状況に業を煮やし、クーデターを決行。ネオ東京に[[戒厳令]]を敷いてアーミーの大部隊を出動させ、アキラを捜索する。 根津の私兵、ミヤコの教団が独自に育成した能力者、大佐率いるクーデター部隊、金田たちによるアキラ争奪戦は、早朝の運河で金田らがアーミーに追い詰められたことで幕を閉じる。大佐の連れてきたナンバーズの子供たちがアキラの元に集まるが、アキラを射殺しようとした根津の弾丸がタカシの頭に当たってしまう。ナンバーズやアキラたちの脳内に衝撃が走り、それを引き金にアキラは37年前に東京を壊滅させた能力を再び解放した。 アキラを中心に現れた光が爆発的に拡大してビル群を飲み込み、ネオ東京のあらゆる建物が崩壊し地盤とともに海へと崩れ落ちる。ケイや大佐らはナンバーズの子供たちによる瞬間移動で難を逃れたものの、金田は光に飲み込まれ行方不明になる。 ネオ東京の崩壊後、ひとり爆心地にいたアキラの前に、SOLによる攻撃を生き延びていた鉄雄が現れる。 === 4巻(PART4 ケイ) === 廃墟となったネオ東京は政府やアーミーによるコントロールを失い、完全な無政府状態と化していた。鉄雄はアキラを「大覚」に祭り上げ、被災者を集めて「大東京帝国」という勢力を築き上げる。 外部からの接触を拒み、孤立した集団の支配者となった鉄雄は、被災者への食料に薬物を混ぜ、帝国の構成員にも薬物を投与して能力者を育てようとしていた。一方、ミヤコの教団は被災者に食糧や能力による治癒を与えてもう一つの勢力を築いており、ケイらゲリラの生き残りも、薬物欠乏に苦しむナンバーズらと共に教団へと身を寄せる。鉄雄はやがて、薬物でも自らの力を抑えられないようになっていく。 ネオ東京の廃墟では、切り札であるSOLの発射ボタンを持って単身で鉄雄に挑む大佐、'''ジョージ山田'''率いる[[アメリカ海兵隊]]特殊部隊、ゲリラの生き残りである竜のグループが、それぞれ大東京帝国へと迫る。 鉄雄は「'''隊長'''」が集めてきた少女たちに致死量の薬物を与え、破滅的なセックスに耽溺する。一人の少女が薬物を家族に持ち帰ろうとして飲まなかったため生き残ると、鉄雄はその少女・'''カオリ'''を侍女として仕えさせるが、次第に彼女に依存していく。 鉄雄は、一言も発さず感情を表さないアキラをいぶかしみ、アキラの心の中を覗いて激しいショックを受ける。アキラとは何なのかを問うため、鉄雄はひそかにミヤコの下を訪れる。自らもナンバーズ(19号)であるミヤコはプロジェクトの全容を語り、アキラに近づくことができるのは鉄雄しかいないと説く。 ナンバーズとミヤコの教団のつながりを掴んだ隊長は鉄雄に指示を請うが相手にされず、独断で兵を率いてミヤコの教団と激しい戦闘となる。その最中、薬物の摂取を止めて苦しみに耐える鉄雄は、大佐が再び放ったSOLのレーザーに刺激され、能力の爆発的覚醒を起こして空中へと飛翔し、光を集める。 その光の中から、ネオ東京崩壊時にアキラの球体に飲みこまれたビルの残骸が出現して地上へ落下し、その中に金田の姿もあった。 === 5巻(PART5 ケイ II) === ケイや'''甲斐'''、ジョーカーらと再会した金田がようやくネオ東京崩壊以後の状況を理解した頃、大東京帝国はミヤコ教の勢力に被災者を奪われている状況に危機感を持ち、構成員の士気を高めるためにオリンピックスタジアムで大集会を開くことを計画する。一方、ネオ東京沖合のアメリカ海軍艦隊の空母では、アキラを巡る現象を調査する米・ソ共同の「ジュヴィナイルA」計画に参加する軍人や科学者たちがアキラや鉄雄による力の発動を観測していた。鉄雄の能力の膨張は留まることを知らず、沖合の空母を急襲して自分を観測する科学者たちの前に姿を現し、研究者たちを嘲笑する。 ジョージ山田としばらく行動を共にしていた竜は、山田が[[BC兵器]]でアキラと鉄雄を抹殺しようとしていることを知る。山田は竜と決別し、ジュヴィナイルA計画の遅滞に不信感を持つ海軍提督が呼び寄せた海兵隊の特殊部隊と合流する。 オリンピックスタジアムでは大東京帝国の集会が開催され、鉄雄は余興として月の一部を破壊する。しかし、あまりに大きな力を使った鉄雄の肉体は崩壊を始め、鉄雄自身にも制御できない、肉体と機械の融合した怪物となって暴走していく。 ケイは、ミヤコやナンバーズらの力の[[触媒]]となって鉄雄と戦う決意を固め、ミヤコから[[禊]]を受ける。沖合のアメリカ海軍艦隊に出現し破壊の限りを尽くす鉄雄に対し、ケイが立ち向い撃退する。 アメリカ海兵隊、竜、大佐らはそれぞれの切り札を持ってスタジアムに侵入を開始。金田とケイもジョーカーと甲斐のグループに合流し、スタジアムに立て篭もる大東京帝国や鉄雄との間で最後の戦いを開始する。 === 6巻(PART6 金田) === 沖合から戻ってきた鉄雄はカオリの前で肉体の崩壊を起こすが、機械の腕を身体から切り離すと失われた腕が再生し、一瞬自分の形を取り戻す。 しかしそこに現れた大佐がSOLの照準器を鉄雄に向け、レーザーをスタジアムに発射する。SOLの再起動を受けて海軍提督はネオ東京への全面攻撃を決意する。SOLのレーザーの直撃を防御した鉄雄の体は直後に爆発的に膨れ上がり、もはや人の形をとどめない異形の姿となって襲いかかる。 化け物に成り果てた鉄雄を殺すため、アキラを盾にして進む隊長。それを鉄雄に伝えようとしたカオリは隊長に撃たれる。 再び暴走が止まり形を取り戻した鉄雄は、死の間際にあるカオリを見つける。そこへ隊長の武装勢力とアメリカ海兵隊がなだれ込んだ。ジョージ山田は鉄雄のために用意した特殊な細菌ガス弾を使用する。隊長の勢力はガスに呑まれ全滅するが、ガスを吸収した鉄雄はこれまでの苦悶が嘘のように晴れ、完全に肉体と精神のコントロールを取り戻す。 海兵隊を全滅させた鉄雄の前に金田らが現れ、鉄雄と金田の決闘が始まる。ケイも加わるが、力が完全に高まった鉄雄に一方的に圧倒される。しかしアメリカ軍の[[戦闘爆撃機]]による絨毯爆撃が開始され、さらにアメリカ軍の衛星兵器「フロイド」によるレーザー攻撃がスタジアムを破壊する。鉄雄は衛星軌道へ飛翔してフロイドを破壊し、そのまま落下させて空母に直撃させる。ジュヴィナイルAの科学者たちは沈没する空母から辛くも脱出する。 フロイドの攻撃の中でさまよっていたアキラを連れてスタジアムを脱出した金田とジョーカーは、行方の分からなくなったケイを探そうとする。鉄雄は死んだカオリを蘇らせようとするが叶わず、カオリの体を抱え、オリンピック会場地下の冷凍施設へと向かう。スタジアム内で辛くも生き残った大佐とケイだったが、ケイはミヤコに呼び掛けられ、再び鉄雄と戦う準備をする。 アキラ用の冷凍封印カプセルにカオリの遺体を運んだ鉄雄の前にケイが出現するが、鉄雄の体の中では再び能力の暴走が始まろうとしていた。アキラも鉄雄に共鳴するかのように地下施設に足を向け、アキラの後を追う金田らも鉄雄がその先にいることを察知し、竜やチヨコらと合流して地下に向かう。 地下では鉄雄が再び膨張を始める。地下に到達し鉄雄の姿を目の当たりにした金田に対し、鉄雄は一瞬姿を取り戻し「助けてくれ」と懇願するが、再び膨張を始めた鉄雄の中に金田は飲み込まれる。鉄雄とアキラは互いに呼応するかのように手の中に光を発生させるが、三度目の爆発を止めようとした竜がアキラを撃つ。 アキラとのつながりが切れた鉄雄は、自分たちを観測しているミヤコやナンバーズの能力に引き寄せられ、冷凍カプセルを地下から引き抜くとミヤコ教神殿上空に現れる。不安定な鉄雄を完全に覚醒させるため、ミヤコはナンバーズにアキラの力をもう一度解き放たせるよう頼み、鉄雄との最後の能力戦に挑む。 ミヤコに指示を受けたケイがSOLに移動し、鉄雄とミヤコのいる神殿にSOLのレーザーを落とす。すると、鉄雄の最後の覚醒が起こり、神殿を中心に光が発生した。同時に、ナンバーズの仲間と共に空に浮かぶアキラがもう一つの光を発生させる。 アキラの光が鉄雄の光を飲み込んでいく中、鉄雄の体内に取り残されていた金田は、鉄雄の記憶、宇宙の始まり、宇宙が究極の状態を目指して進む「流れ」に介入して曲折をもたらす「能力」を人類が得つつあることの意義、そしてナンバーズの子供たちに行われた実験の過程を目撃する。アキラとナンバーズが鉄雄を吸収し、アキラの光により新しく生まれた宇宙の彼方へと去ろうとする瞬間、金田はケイによってアキラの光の中から救い出され、この宇宙に引き戻される。 再び爆心地となったネオ東京に[[国連軍]]が上陸し、被災者への救援が始まる。しかし偵察中の国連軍の前に「大東京帝国」を名乗った金田、ケイ、チヨコ、甲斐、ジョーカー、そして仲間たちが現れ、「我々の国に口出しはするな!」と警告を与え、「アキラはまだ俺たちの中に生きてるぞ!!」と言い残してバイクで走り去る。 廃墟の谷間をバイクで疾走する金田とケイを、山形と鉄雄の幻が追い越してゆき、崩壊したネオ東京が蘇るビジョンと共に物語は終わる。 == 登場人物 == 原作、アニメ映画版、ゲーム版で設定に多少の差異がある。名前については、メインキャラクターのいくつかは『[[鉄人28号]]』へのオマージュであることが明らかにされている。これは『鉄人28号』の主人公である「[[金田正太郎]]」、鉄人28号を開発した敷島博士の息子「敷島鉄雄」から取られた「島鉄雄」、自我をもたないロボットである「鉄人28号」に由来する「28号(アキラ)」などに現れている<ref name="AKIRA CLUB">{{Harvnb | AKIRA CLUB | 1995 | p=}}</ref>。 === 主要人物 === ; 金田 正太郎(かねだ しょうたろう) : 主人公。2003年9月15日生まれ。16歳。身長164cm。体重52kg。第8区職業訓練校の生徒。バイクチームのリーダー格で、自称「健康優良不良少年」。自分専用に改造したバイク(盗品)を駆り、日々を無為な暴走行為に費やしている。そのすばしっこさや逃げ足の速さは、軍隊でも捕まえられないほどで、大佐を驚嘆させた。 : 高い運動神経の持ち主で、[[走り屋]]としては度胸のある走りをする。仲間や走り屋からの人望も篤い。また、鉄雄とは幼少からの幼馴染であり、イジメを受けやすい彼を庇護するような立場の親友として接していた。 : ケイを助けたことで、反政府ゲリラと関わる。能力に覚醒し、薬物に溺れた鉄雄がリーダーとなったバイクチーム「クラウン」との抗争で、鉄雄を追い込み銃口を突きつけるも幼馴染ゆえに引き金を引くことができず、その結果目の前で山形を殺害される。これをきっかけに鉄雄を止める使命感を抱くが、まだ彼に対して情を捨てきれない面を残している。 : 原作ではゲリラの一員としてケイやチヨコと行動を共にしていたが、覚醒したアキラの力に飲み込まれ、物語中盤で一旦姿を消す。後にアキラと鉄雄の力の発動の中で、第三次世界大戦を含む一連の出来事の真相を知る。彼らが去った後、ケイ、チヨコ、甲斐らと共に大東京帝国を鉄雄から引き継ぐ。 :職業訓練校の保健婦と関係を持っているらしく、妊娠したと告げられても大して意に介していない態度をとっていた。また興奮剤のような薬物を日常的に摂取している様子が見られるが物語後半以降はそういった描写はなく、薬の大量摂取で衰弱していた鉄雄を殴り飛ばして咎める場面もあった。 : アニメ版では、アキラの封印を解いた鉄雄との決戦で怪物と化した鉄雄に呑まれてしまうが、辛くも脱出。その後、ナンバーズたちによって覚醒したアキラの力を目の当たりにし、鉄雄の救いを求める声に応じて飛び込んだことで力に巻き込まれる中、アキラたちにすら制御できなかった能力を人類が受け入れられるような「目覚め」が始まっていることをナンバーズから告げられ、最終的にオリンピック会場の瓦礫の中に踏みとどまった。 :8歳の時に母親が家出、9歳の時に父親が扶養責任能力無しと見做され養護施設入りし、半年後に入園してきた鉄雄と出会う。11歳で施設卒園後、寄宿制の中学校へ入学し鉄雄と離れる。12歳、校内で反抗的態度が目立つようになり、13歳で非行少年になるも成績は中の上。14歳で警察沙汰を起こし退校、職業訓練校へ編入。15歳、バイクチームを結成する<ref name="AKIRA POSTER & GRAPHIC">{{Harvnb | AKIRA POSTER & GRAPHIC | 1988 | }}{{ASIN|B07VFPSG48}}</ref>。 : 本編では姓で呼ばれ、名前で呼ばれる場面はない(アニメ版では生徒手帳から「金田正」まで名前を確認できる)。 ; 島 鉄雄(しま てつお) : もう一人の主人公。2004年7月29日生まれ。15歳7ヶ月(物語スタート時点)。身長160cm。体重46kg。血液型A型。'''41号'''とも呼ばれる。金田の幼馴染。金田のバイクチームの[[スクラムハーフ]]として暴走中、タカシとの接触をきっかけに能力が覚醒。能力の爆発的な成長によりアキラに迫る力を手に入れ、世界を翻弄する。 : 何事においてもリーダーシップを発揮し喧嘩も強い金田に対し、幼少の頃から絶えず劣等感を抱き、自分が金田を始めとする仲間たちから庇護されることに不満を抱いていた。 : 能力に覚醒した後は、全能感に溺れ、それまでのおとなしかった性格が一変して凶暴な性格となる。大佐の研究所から脱走した後はネオ東京で破壊の限りを尽くし、多くの人々を殺害。今まで劣等感を抱いていた暴走族の仲間たちにさえ平然と手を出すまでになってしまい、山形を惨殺した。 : 大佐から研究所に戻るように説得されるが、タカシ、キヨコ、マサルのようになることを拒否。衛星兵器「[[SOL]]」による攻撃を受け、右腕を失ってしまう。 : 原作では超能力で右腕が再生し月の一部を破壊するまでの力を手に入れるが、その後は力を制御できなくなり、肉体と精神が崩壊していった。決戦の末に、再び覚醒したアキラとナンバーズによって別の宇宙へ去った。 : アニメ版ではSOLの攻撃で右腕を失い、瓦礫の破片で義手を作るが、右腕に激痛が走り苦しむようになる。オリンピック会場での決戦で制御不能となり、膨張する肉塊のような怪物へと変貌、意図せずカオリを体内に巻き込み圧殺してしまう。ナンバーズによって覚醒したアキラの力に呑み込まれ、タカシ、キヨコ、マサルら3人に導かれ、アキラと共に別の宇宙へ去った。 : 能力を手に入れるまで金田のバイクに固執していたが、扱いきれずにエンストを起こしている。 :3歳の時に父親が生来の病弱から風邪のち肺炎を起こし死亡。両親は正式な結婚をしておらず母方の実家では良く思われて居なかった。4歳で母親再婚。養子として他家へ行くが陰気な子として見られ敬遠される。8歳、養父母が実母へ返そうとするものの母は受け取らず養護施設へ。金田と出会う。11歳再度別の家の養子となり中学へ。12歳、登校拒否、家出が頻繁。13歳、小学校の生徒へいたずら、警察沙汰。この頃から学校へ行っていない。14歳、両親の説得で職業訓練校へ。金田と再会しバイクチームに入る<ref name="AKIRA POSTER & GRAPHIC">{{Harvnb | AKIRA POSTER & GRAPHIC | 1988 | }}{{ASIN|B07VFPSG48}}</ref>。 ; アキラ : この作品の核心に位置する少年。'''28号'''とも呼ばれる。政府の秘密の超能力実験の被験者でありその成功例でもあったが、1982年に覚醒、能力の暴走により東京崩壊を起こした。このことは「新型爆弾」によるものとされてアキラの存在は隠蔽され、アキラ自身は地下施設で極秘に冷凍封印され、アーミーの厳重な管理下にあった。 : 原作では地下から連れ出された後、タカシの死をきっかけに再び覚醒し、ネオ東京崩壊を招いた。後に鉄雄たちによって「大覚」として祭り上げられるも、自我を失ったまま、周囲の人間から奪い合いの対象となる。 : アニメ版では調査研究のために体をバラバラにされ、神経など各組織が別々の標本となって冷凍保存されていたが、ナンバーズたちの呼びかけに応じて標本を納めたガラス容器が砕け、アキラの幻が登場する。 : アキラを捜し求めることが、原作・アニメ版共に鉄雄の暴走と狂気へのきっかけとなるが、アニメ版では対面を果たすことはなかった。 : 原作では鉄雄の最後の覚醒に応じて真の覚醒を迎え、アニメ版では能力が暴走した鉄雄を救うためにナンバーズたちがアキラを呼び戻し覚醒を起こす。アキラや鉄雄が起こす覚醒による爆発は、原作のジュヴィナイルA計画の科学者により「リトル・[[ビッグバン]]」「宇宙の誕生」と、アニメ版ではドクターにより「まるで宇宙の誕生」と表現されており、ナンバーズやアキラらは鉄雄を連れて、新しく誕生した宇宙へと去ってゆくことになる。 === 暴走族 === ; 山形(やまがた) : 2003年11月生まれ <ref name="AKIRA POSTER & GRAPHIC">{{Harvnb | AKIRA POSTER & GRAPHIC | 1988 | }}{{ASIN|B07VFPSG48}}</ref>。金田のバイクチームの特攻隊長的存在。チームで2番目に背が高い。腕っ節が強く気性が激しいものの、仲間に対しては義理堅く面倒見もいい性格。原作・アニメ版いずれにおいても能力を得た鉄雄に詰め寄ったことで惨殺される。 :2歳、ヤクザの父親が逮捕され懲役25年。母親はホステスで生計を立て、4歳の時に別の男との間に弟が生まれる。5歳の時に母にまた別の男が出来、妹誕生。6歳、弟誕生。11歳、中学入学。母親は男を替え続け弟、妹を産み続ける。12歳、弟妹達の為に菓子類を盗み警察に捕まる。13歳、母が新興宗教に入り、この頃に家出する。14歳、職業訓練校へ<ref name="AKIRA POSTER & GRAPHIC">{{Harvnb | AKIRA POSTER & GRAPHIC | 1988 | }}{{ASIN|B07VFPSG48}}</ref>。 ; 甲斐(かい) :2004年1月8日生まれ<ref name="AKIRA POSTER & GRAPHIC">{{Harvnb | AKIRA POSTER & GRAPHIC | 1988 | }}{{ASIN|B07VFPSG48}}</ref>。金田のバイクチームのメンバー。160cmの鉄雄よりも更に小柄。ラフな服装の金田たちとは違い、ジャケットにタイといったトラッドな格好を好み、アニメ版でカオリが襲撃を受け服を破かれた際にはジャケットを掛けてやっていた。山形とよくつるんでおり、アニメ版では、鉄雄によって山形が殺される場面を目撃した。 : 原作では後のアキラ覚醒後に崩壊したネオ東京に踏みとどまって、ジョーカーと共に大東京帝国に対抗する機を覗っている。 : アニメ版では山形の死後、鉄雄へと挑む金田のサポートに回り、レーザー銃のバッテリー充電を行った。オリンピック会場へは避難民の群れに巻き込まれて移動できず、全てが終わった後、金田を救助するためケイと共に駆けつける。 :父は建築業で良い家庭環境に恵まれる。7歳、私立小学校に入学、成績優秀。12歳で同私立中学校へ。13歳、父親が家出するも探し当てるが、「自分は同性愛者であり、今まで家族をだましていたのだ……」と告白を受ける。14歳、卒業していく先輩達に総代として「人生はジョークか」と題する文章を読み停学になる。一週間後退学届を提出し自ら職業訓練校へ<ref name="AKIRA POSTER & GRAPHIC">{{Harvnb | AKIRA POSTER & GRAPHIC | 1988 | }}{{ASIN|B07VFPSG48}}</ref>。 ; 渡辺 栄一(わたなべ えいいち) : アニメ版でのみ登場。脇役であるが金田チームのうちの一人。丸刈りで眼鏡をかけている。転倒した鉄雄に対して「ったく、遊んでんじゃねェぞ、こらァ!」と怒鳴った。公式資料集「アキラ・アーカイヴ」にて名前が判明。 ; 竹山 裕二(たけやま ゆうじ) :アニメ版でのみ登場。金田チームの一人。少し髪の長い少年。ヘタなギャグにもすぐ吹き出してしまう。名前の出典元は同じ。 ; 桑田 満(くわた みつる) : アニメ版でのみ登場。金田チームの一人。垂れ目で身長が高い。腕まくりをしている。同上。 ; ジョーカー : バイクチーム「[[道化師|クラウン]]」のリーダーで、金田たちと敵対している。身長2m、体重150kgを超す巨漢{{Sfn|アキラ・グラフブック|1988| p= }}。 : チームメンバーのほぼ全員が違法薬物に耽溺するジャンキーで、薬物を手に入れるためなら強盗をも辞さない暴力的なグループであるため近隣のバイクチームからは憎悪を向けられており、ジョーカー自身もその豪腕や打たれ強さもあって他のチームから恐れられている。 : 能力に覚醒した鉄雄によってリーダーの座を奪われた挙句、打倒鉄雄に燃える金田たちとの抗争の末に少年院に送られる。原作ではそこで災厄に巻き込まれ重傷を負うが、同じく少年院に送られていた甲斐に助けられて以降、打倒鉄雄を掲げ行動を共にする。 : アニメ版では冒頭の暴走シーンのみに登場し、金田と対決。アーミーの検問が厳しくなって以降は姿を消したことがセリフでのみ語られる。 : バイクいじりが得意で、災厄により廃車となったバイクを何台も再生させている。偶然見つけた状態の良いフライング・プラット・ホームをも仲間と修理して自ら使用した。 : チーム名の通り、登場当初はピエロのフェイスペインティングを施していたが、災厄後はタイヤ跡や道路標識など、何度かデザインを変えている。 === 反政府ゲリラ === ; ケイ : ヒロイン。身長166cm。体重50kg。血液型B型。反政府ゲリラの少女。兄の後輩である竜とは息の合ったコンビで、当初は竜を慕っていた。 : 生年月日は2002年3月8日。グラフブックより。金田より年上と思われ、金田を子供扱いする。 : 原作・アニメ版いずれにおいても偶然出会った金田に窮地を救われ、言い寄られるのを拒否しつつも行動を共にする。 : 原作ではネオ東京崩壊後、ミヤコによって彼女らの能力の触媒となる能力を見いだされ、自らの意思で鉄雄と対決する。 : なお、原作内の金田に宛てた書き置きやアニメ版での絵コンテで「K」と記述されており、本名が明らかにされる場面はない。 ; 竜作(りゅうさく) : 通称「'''竜(りゅう)'''」。根津率いる反政府[[ゲリラ]]グループのリーダー。革命を信じて行動するも、より大きなうねりに翻弄され、幾度となく危機的な状況に陥った。 : 生年月日は1992年5月31日。グラフブックより。 : 原作では鉄雄と共鳴して力を発動させようとしたアキラを目の当たりにし、これを止めようとして発砲。弾け飛んだ力の余波で崩れた瓦礫に押し潰される。 : アニメ版では保身を図った根津に撃たれて致命傷を負った末、アキラの騒ぎを革命と勘違いしたまま倒れて死亡。 ; チヨコ : 反政府ゲリラの武器調達・連絡員で巨体の女性。通称「おばさん」。原作のみ登場。 : ケイを実の娘のように大切に思っている。大佐と比較しても遜色がないほどの体格を持ち、武器の扱いにも手馴れているだけにとどまらず、[[機関銃]]を片手で持ちながら発砲したり、[[対戦車ロケット弾|対戦車ロケット]]を鈍器として振り回すなど、高い戦闘能力の持ち主。 : ケイや金田と共に偶然アキラを保護するも、届け出た根津に切り捨てられそうになり離反、根津のバックにいたミヤコの勢力と衝突する。ネオ東京崩壊後はケイと共にマサルとキヨコを保護、アキラ・鉄雄の勢力に対抗していた。 === 軍(アーミー) === ; 敷島大佐(しきしまたいさ) : 42歳。1977年11月15日生まれ。身長203cm。体重92.5kg。血液型O型。軍の実質的な最高指揮官で、凍結封印されたアキラの管理者でもあった。自衛隊高官だった父親がアキラの災厄に遭って死亡したことから、アキラにこだわる。最高幹部会の一員でもある。 : 原作では[[クーデター]]を起こしてまで行方不明となったアキラを保護しようと試みるも、根津のタカシ誤射により失敗。再び開放されたアキラの力を目の当たりにする。ネオ東京崩壊後は単身で鉄雄を抹殺するチャンスを伺っていたが、後に同じ目的を持つケイやチヨコと共闘することとなる。 : アニメ版では鉄雄の暴走を食い止めようとクーデターを起こし、最高幹部会を全員拘束して失脚させる。ナンバーズを危険視しつつも親身に面倒を見ていたため、キヨコによってアキラの覚醒から救助される。 : 名前のモデルは[[鉄人28号|敷島博士]]。 ; ドクター : 大佐の下でアキラを始めとするナンバーズの研究管理を司る人物だが、研究に熱中するあまり、鉄雄のコントロールできないほどの成長を安全より優先してしまう。 : 原作ではアキラ覚醒の際の[[冷媒]]漏れに巻き込まれ[[凍死]]。 : アニメ版では鉄雄の能力データの収集に夢中になり、結果としてアキラの力の開放に巻き込まれ、つぶされる観測トレーラーの中で圧死する。「'''大西'''」と書かれた[[名札]]を付けている。 ; ドクター(SOL技術者) : 原作のみ登場。前述のドクターとは別人。崩壊後のネオ東京で大佐に匿われ、SOLの超小型照準装置を制作した。愛煙家でしきりにタバコを要求していた。 === ナンバーズ === いずれも80年代の超能力実験の被験者であり、アキラの仲間でもあった。一定以上の力を持つ実験体には番号が付けられ、手の平にもその番号が刻印されるため、通称「ナンバーズ」と呼ばれる。2019年現在はラボの中のチャイルドルームで生活している。 ; タカシ : '''26号'''とも呼ばれる。投与された薬品の副作用により8歳で肉体の成長が止まり、老化だけが進行した。 : 3人の古いナンバーズの中では、宇宙戦争アニメーションなどのテレビ番組を好んだり最も性格的に幼く、外の世界に出てみたいという単純な理由から物語冒頭にゲリラの手引きで研究施設から脱走、鉄雄の能力覚醒のきっかけとなる。 : 原作では根津に誤射され死亡するが、そのショックでアキラが覚醒し、ネオ東京崩壊の引き金となる。 : アニメ版ではアキラの覚醒を目の当たりにしてなお鉄雄を助けようとする金田を「あの人は関係ないもの」と救助に向かい、キヨコ、マサル、アキラ、鉄雄と共にこの世界から立ち去る。 ; キヨコ : '''25号'''とも呼ばれる。タカシと同じようにして9歳で成長が止まった。 : 彼女の未来予知は93 - 95%の確率で当たり、ネオ東京崩壊も予知した。身体的にはひどく弱っており、寝たきりで自力で動くことはほとんどできないが、超能力で自分のベッドや自分自身を浮かせることができる。最初にケイを精神力で操って鉄雄に対抗するが失敗、以降はその逃走を助けるなどした。 : 原作ではネオ東京崩壊後に経緯不詳ながらマサル共々ケイやチヨコに保護されていたが、後にミヤコの教団に身を寄せる。 : アニメ版ではアキラの覚醒から敷島大佐を逃がした後、タカシの行動を見て、未来を変えるために彼と共にアキラの光へ飛び込む。 ; マサル : '''27号'''と呼ばれる。タカシ、キヨコと同じようにして8歳で成長が止まった。 : [[急性灰白髄炎|小児マヒ]]を患っており、そのために念動力によって浮遊するカプセルに座って移動する。3人のナンバーズの中では大人に対する憧れが強く、スーツにネクタイを着用する。性格的にも冷静で落ち着いている。 : アニメ版では金田の救助は無理だと考えてタカシを止めていたが、それでも助けに向かった彼の姿に、アキラの光へ飛び込むことを決意する。 === ミヤコ教団 === ; ミヤコ : 宗教団体を指導する老婆。かつてアキラの力を目の当たりにして失明するも、強い感応力で他人と視覚を共有することができる。 : 原作では仮死状態のまま廃棄された元ナンバーズ('''19号''')であり、ネオ東京崩壊後は多くの人物に助言を与え、鉄雄とも直接対峙する。教団内では薬物を併用して僧たちの能力開発も行っていたようで、ネオ東京崩壊後に難民保護を行う僧の中に、能力者が複数存在している。 : アニメ版では脇役扱いで、鉄雄をアキラと思い込み、軍を蹴散らしながらアキラの下へ向かう鉄雄の後を追うも、鉄雄が道路橋を破壊した際に巻き込まれ、落下する炎上車に巻き込まれる。橋での行進時、輿の上で「おぉ清浄の炎よ 汚濁の街を焼き払い、我らの穢れた心を焼き尽くすがよい 死を恐れてはならぬ、その身を炎で清めるのだ」と大衆に演説していたが、橋の崩落に直面した際は情けなく助けを求めていた。 : ファミコン版ゲームではゲームを続きから始める際のパスワード入力画面に登場。 ; 根津(ねづ) : 野党に属する政治家で最高幹部会の一員。表ではミヤコの教団の力を背景に政界工作を行い(原作)、裏ではケイの反政府ゲリラに資金を与え指導している(原作・アニメ版共通)。ミヤコを利用している事を完全に見透かされており「ネズミ」と揶揄されている。 : 原作ではアキラを狙って拳銃を撃つが、射弾はアキラの隣にいたタカシに当たり、軍の応射によって射殺される。これが2度目のアキラの暴走を招き、それによって崩壊する建物の瓦礫と共に消滅した。 : アニメ版では軍が秘匿するアキラの正体を握ることで政治的優位に立つことを画策するが、大佐の起こしたクーデターにより失脚。混乱のさなか側近達を射殺して単身逃亡を図り、竜にも発砲して致命傷を負わせるが、心臓発作を起こして死亡する。 ; 榊(サカキ) : ミヤコの尖兵を担う少女。原作のみ登場。 : ナンバーズほどではないものの能力を使え、常人では不可能なレベルでの跳躍やショック波攻撃を得意とする。まとまりのない髪型をしているため、金田に「タンポポねえちゃん」というあだ名を付けられている。 : クーデターを起こした軍、根津派、ミヤコの教団、反政府グループ残党によるアキラ争奪戦の折に金田たちと衝突。最終的に軍によって瀕死の重傷を負ったところでアキラが暴走し、瓦礫と共に消滅した。 : 彼女ら教団の能力者3人組は、ミヤコのセリフから実の娘のように大切にされていた様子。 ; モズ : 榊、ミキ同様ミヤコの尖兵を担う少女で、能力を使う。原作のみ登場。 : 天然パーマを帽子で隠してアキラを探す軍を撹乱するも、タカシの攻撃の前にあえなく失神。軍に捕らえられる。 ; ミキ : 榊、モズ同様ミヤコの尖兵を担う少女で、能力を使う。原作のみ登場。 : 金田に頭突きを食らってノックアウトされた後、アーミーに捕獲されたモズを救出するために動くも、射殺される。 === 大東京帝国 === ; 隊長 : 鉄雄・アキラに仕える大東京帝国の幹部。原作のみ登場。 : 能力の素質のある人間や慰安婦の確保、帝国の力を誇示するための集会開催の助言を行う一方、鉄雄には内密に帝国軍を編成しミヤコ教団の神殿を襲撃したり、鉄雄に反旗を翻したりと、己の保身のために独走する一面を持っている。 : ジョージ山田が鉄雄に向けて放った細菌ガスに巻き込まれ死亡する。 ; カオリ : 原作ではネオ東京崩壊後の難民で、家族のために薬を持ち帰ろうとして大東京帝国の炊き出しに並んでいたが、隊長に目を付けられ、「もっといい薬がある」と騙されて鉄雄の前に慰安婦として連れ出された。カオリだけが鉄雄にもらったカプセルを家族に持ち帰ろうとして飲まなかったために生き残り、以後は鉄雄の侍女となりアキラの遊び相手などをしている。当初は被災体験のショックから感情の発露も少なかったが、本来は明るく優しい性格であり、アキラの面倒もよく見ていた。鉄雄の殺害を企てた隊長に背後から撃たれ死亡する。 : アニメ版では鉄雄の同級生でガールフレンド。卑屈とも言えるほどに大人しい性格。力に目覚めた鉄雄の不安定な精神の拠り所となるも、暴走した鉄雄の肉体に取り込まれて圧死する。 : アニメ版のメイキング映像『AKIRA PRODUCTION REPORT』では、「数少ないかわいらしい容姿のキャラクターのためか、スタッフからも人気が高い」と評されている。 === アメリカ軍 === ; ジョージ山田(ジョージ やまだ) : アメリカ軍の工作員。階級は中尉。原作のみ登場。 : アキラ抹殺のために大東京帝国に潜入するが、よそ者であることを察知されて同僚を殺され、自身も逃走しているところを竜に助けられ匿われる。後に竜と別れて後続部隊と合流、アキラや鉄雄を抹殺するために攻撃を仕掛けるが、即死性の細菌兵器をも無力化する鉄雄の前に敗れ、殺害された。 ; ジュヴィナイルAのスタッフ : 米・ソ等の先鋭科学者とチベットの密咒師で構成された、アキラ研究グループ。東京湾沖のアメリカ軍艦隊を拠点に、様々な観測データを基にアキラと鉄雄の動向を探る。 == メカニック == {{出典の明記|section=1|date=2018年8月}} === バイク === [[File:FIBD2016Otomo01.jpg|thumb|300px|金田のバイクのレプリカと作者の大友克洋(2016年の[[アングレーム国際漫画祭]]にて)]] 作品世界では[[カウル]]からフレームレイアウトに至るまでのセミ・イージーオーダーシステムが主流となっているため、登場するバイクのスタイルは多種多様{{Refnest|group="注"|[[スーパースポーツ|レーサーレプリカ]]風や[[スクーター|ビッグスクーター]]風などさまざま。}}で、主人公の金田が操るバイク(通称「金田のバイク」)を始め、同じものは2つと存在しない個性的なものになっている。また、ボディのあちこちに貼られたステッカーは、[[1980年代]]回顧ブームによる流行である。 駆動力は車輪内に組み込まれた[[室温超伝導|常温超伝導]]モーターが生み出し(前後輪の両輪駆動)、電力供給はガソリンエンジン{{Refnest|group="注"|原作では金田が薬物を燃料タンクに隠し、アニメ映画では冒頭で鉄雄がエンストしたバイクを[[押しがけ|押し掛け]]している。}}による発電で行う。ただし、ジョーカーが乗る大型の[[クルーザー (オートバイ)|アメリカン]]タイプは、彼の趣味で現在と同じガソリンエンジンによる後輪駆動車である{{Refnest|group="注"|アニメ映画冒頭の金田とジョーカーの[[チキンゲーム|チキンレース]]シーンでは、金田のバイクのモーター音とジョーカーのバイクの排気音が対比して描かれている{{Sfn|アキラ・グラフブック|1988| p= }}。}}。 ==== 「金田のバイク」 ==== 主人公の金田が乗るバイク、通称「金田のバイク」のスタイリッシュで未来的なデザインは画期的で、作品の人気獲得に一役買った<ref name="kai-you65732"/>。極端に[[ホイールベース]]が長く低い車高の車体、またがるのではなく4輪の[[フォーミュラカー]]のように足を前に投げ出して乗り込む{{仮リンク|クエーサー (オートバイ)|label=クエーサー|en|Quasar (motorcycle)}}のような{{仮リンク|フィート・フォワード|en|Feet forwards motorcycle}}タイプのデザイン、フロントの[[ハブセンター・ステアリング]]構造{{Refnest|group="注"|[[フロントフォーク]]構造によらない前輪支持構造。ただし原作の雑誌掲載開始当初(1982年)にはカウルで覆われているために明確な描写はなく、ハブステアに類似した描写がなされるのは単行本5巻(1986年頃)からである。}}、車載コンピュータによる[[デジタルメーター]]{{Refnest|group="注"|4輪では1976年の[[アストンマーティン・ラゴンダ#シリーズ2|アストンマーティン・ラゴンダ]]が世界初、バイクのデジタル表示は1982年頃から。}}などは、発表当時、フィクション作品の中でも異彩を放っており、後世に多くの影響を与えた<ref name="kai-you65732"/>。 赤一色で塗られた車体には「[[成田山新勝寺|成田山]]」「[[キヤノン|Canon]]」「[[本田技研工業|HONDA]]」「[[SHOEI]]」「[[アライヘルメット|Arai]]」「[[シチズン時計|CITIZEN]]」等のステッカーが貼られている{{Refnest|group="注"|後にアメリカのマクファーレントイズから発売された1/12スケールの金田のバイクには、CEOの[[トッド・マクファーレン]]のコミック会社「イメージ・コミックス」のキャラクター「[[スポーン]]」のロゴステッカーが貼られている。}}。 漫画やアニメ以外においても、各国の漫画祭や[[モーターショー]]などで[[モックアップ]]モデルが展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、[[スティーヴン・スピルバーグ|スピルバーグ]]監督のハリウッド映画『[[レディ・プレイヤー1]]』に登場{{Refnest|group="注"|作中でも「Kaneda's bike from AKIRA」と呼称される。}}したりと、世界的な認知度を誇っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20180405/3/ |author= |title=ガンダム、金田バイク、リュウ! あらゆるキャラ大集合の「レディ・プレイヤー1」新ポスター公開 |date=2018-04-05 |accessdate= 2022-12-20|website= [[映画.com]]|publisher= 株式会社エイガ・ドット・コム}}</ref> デザインの着想は、映画『[[イージー・ライダー]]』に登場する[[チョッパー]]バイクの[[ハンドルバー (自転車)|ハンドル]]と、映画『[[トロン (映画)|トロン]]』に登場する[[シド・ミード]]がデザインしたバイク「ライトサイクル」の[[楕円形]]のフォルムから得ている<ref name="coolest-bike"/><ref name="otomokawamura">{{Cite web|和書|url=https://www.cinra.net/article/interview-201904-otomokawamura |author= |title=大友克洋×河村康輔 未来のイメージを作った人物シド・ミードとは |date=2019-04-25 |accessdate= 2023-01-18|website= |publisher= CINRA}}</ref>{{Refnest|group="注"|ただし、ライトサイクルでは車幅が広いので、半分にしている。}}。 造形上、2人以上の搭乗は想定されていないように見えるが、原作では「80kg以下ならなんとか乗れる」と言いながら金田がリア[[カウル]]を外し、露出させたフレームの上にケイを乗せている{{Refnest|group="注"|単行本で加筆されたラストシーンでは座席に金田とケイが体を密着させて搭乗しており、二人がより親密な関係になったことを表している。}}。またアニメ映画では鉄雄がカオリをシートの後ろに乗せたり、エンディングでも金田がケイを同様に乗せて二人乗りしているため、カウルを外さなくても二人乗りが可能なようだ。 <!-- アニメ映画の感想・解説になっているのでコメントアウト。 アニメ映画では鉄雄にとっての「力」、そして「金田への憧憬」の象徴として扱われており、それゆえに能力に目覚めた鉄雄は金田のバイクへの興味を失う。超能力を持たない金田は鉄雄との対決に際してバイクを準備し、レーザーガンを入手してからはバッテリーの充電にも用いた。鉄雄との最終決戦でも金田を乗せて活躍し、最終的にはフロントカウルを破損しながらエンディングでも金田とケイを乗せて走り続けた。 --> ===== スペック ===== {| class="wikitable" style="float:right" |+諸元{{Sfn|アキラ・グラフブック|1988| p= }} !colspan="2"|金田のバイク |- |全長||2947mm |- |全高||1171mm(シールド含む) |- |全幅||831mm |- |シート高||340mm |- |最低地上高||76mm |- |ホイールベース||2194mm |- |タイヤサイズ||前18インチ、後19インチ |- |最高速度||243[[キロメートル毎時|km/h]] |- |[[乾燥重量]]||154[[キログラム|kg]] |- |発電形式||常温超伝導発電機 |- |最高発電量||83.0[[キロワット|kW]] |- |エンジン回転数||12500[[rpm (単位)|rpm]] |- |最大電圧||12000[[ボルト (単位)|V]] |- |その他|| * [[アンチロック・ブレーキ・システム|ABS]] * 対障害物用[[レーダー]] * オート[[カーナビゲーション|ナビ]]システム |} アニメ映画では、劇中で「セラミックツーローターの両輪駆動」「コンピューター制御の[[アンチロック・ブレーキ・システム|アンチロックブレーキ]](ABS)」「12,000回転の200[[馬力]]」と説明されている。バック走行も可能で、さらに[[コンソール]]にはスピードメーターなどの他に[[カーナビゲーション|ナビゲートシステム]]も搭載されている{{Refnest|group="注"|その後、ABS、バック走行、バイク用カーナビなどは市販車でも実用化された。}}。 ハンドルには[[クラッチ]]・[[ブレーキ]]レバーは存在せず、フットペダル右側がアクセル、左側がブレーキになっており、AT車または無段変速車であると見られる。前輪からフロントカウル、ハンドルまでのステアリングユニットは上下に動き、乗降時にユニットが起き上がることで乗降ポジションとなる。 盗品を改造したものであるらしく、扱いに不慣れな鉄雄はエンジン5,000回転以下で[[ギア]]チェンジをしたことで[[エンスト]]させてしまった。 ===== レプリカとカスタムバイク ===== この未来的で前衛的なスタイルは、漫画・アニメファンのみならず、多くのカスタムバイク関係者の注目を集めた。 まず最初に、アニメーション映画公開に併せて[[木型|モックアップ]]モデル(計器類は動くが、走らせることは不可能)が制作、[[東京モーターショー]]で展示される。同モックアップはカスタムバイクメーカー「[http://www.whouse.jp/ ホワイトハウス]」によって、映画公開に併せてタイアップしていた[[タイトー]]のスポンサードで制作された。当初、作画側から割り出したリアタイヤ径が21インチとされたが、そのような寸法のタイヤが存在しなかったため微妙に縮小されている。革ジャンメーカー「[https://ekadoya.com/ カドヤ]」の提供したジャケットを着たモデルとの撮影も行われていたが、そのような事情からモデルには金田の設定よりも少し小柄な女性が担当した。その後、海外での公開時に持ち出された際に行方不明となっている。 250ccの市販アメリカンバイクをベースとして、同車の雰囲気を持つカスタムバイクも開発・発売された。この車両は[[自動車検査登録制度|保安基準]]を満たしているため、[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]を取得すれば公道走行も可能である。 さらにこのバイクをモチーフにした「電動バイク」がベンチャー企業によって製作された。量産化の記事が2006年のバイク専門誌に掲載されたが、リアのアルミニウム削り出しのモーターハウジングは一点モノであり、製作単価は数百万円に上った。2007年には資本提携していた企業との関係解消などの報道もあり、その後の開発の進展の音沙汰は無い。 [[本田技研工業|ホンダ]]のスクーター「リード」をベースとしたカスタムバイクもある。ベース車両は50ccと90ccが選択できるが、2ストロークエンジンであるため生産が終了しており、ベース車両は中古とならざるを得ない。 [[スズキ (企業)|スズキ]]からも、同車の雰囲気を持つバイクが開発され、[[2003年]]の東京モーターショーで展示された。 [[2004年]]4月には同スケール実動モデルが製作された。流石にアニメ版の[[常温超伝導]]デュアルパワー電動バイクとまではいかないものの(エンジンは249ccから998ccの単気筒から4気筒までの既存エンジンからユーザーが選択する方式を採っている。既にオーダーは受付終了)、実走可能なフルカスタムバイク(実際にナンバーを取得して公道をテスト走行している)が開発中である。なお同車は作者の原作・アニメ版監督の大友や[[講談社]]の「公認」を得ているとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0404/02/news040.html |title=「ピーキー過ぎてお前にゃ無理だよ」――“金田バイク”が参考出展 |accessdate=2021-03-01 |author=西坂真人 |date=2004-4-2 |website=ITmedia NEWS |publisher=ITmedia |language=ja}}</ref>。 ホンダの250ccスクーター「FUSION」をベースにした、カスタムコンプリートバイクが「才谷屋Factory」から販売されていた。また、バイク本体を含まない外装キットのみの販売もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0504/01/news050.html |title=アナタのバイクを“AKIRAっぽい仕様”にするパーツ |accessdate=2021-03-01 |author=渡邊宏 |date=2005-4-1 |website=ITmedia NEWS |publisher=ITmedia |language=ja}}</ref>。 === 兵器とテクノロジー === 作中にはアーミーの兵器をはじめとする近未来の最先端のマシンやテクノロジーが多数登場する。 ;アーミーの輸送ヘリコプター 大佐やアーミーが移動手段として用いる、[[タンデムローター]]の大型ヘリ。 アメリカ軍等が使用する実在のヘリ、[[CH-47 (航空機)|CH-47チヌーク]]に類似しているが、アーミーのそれは大型乗用車を積載してなお余裕のあるカーゴルームを持ち、かなりの大型機であることが見て取れる。兵装は持っていないと見られる。 ;フライング・プラット・ホーム(FPH) アキラの居るオリンピック会場地下施設や地下水路をアーミーがパトロールする際に使用する、1人乗りの有人飛行兵器(5人乗り大型機も存在する)。最新兵器であり、存在自体が秘匿されている。 [[セラミックス|セラミック]]部品を多用したバイク並みの小型軽量ボディと[[室温超伝導|常温超電導]]が実現可能にした高い機動力に加え、機首には[[操縦桿]]と連動する20mm[[ガトリング砲]]を装備し{{Sfn|アキラ・グラフブック|1988| p= }}、地上の敵勢力を圧倒する。金田らに[[鹵獲]]されて以降は彼らの戦力としても活躍する。 アメリカ海軍とヒラー社が1950年代に試作した[[:en:Hiller_VZ-1_Pawnee|VZ-1]]という1人乗り[[垂直離着陸機|VTOL機]]、フライング・プラットフォーム(Flying Platform)が実在したが、アキラの世界に登場するこの飛行兵器はフライング・プラット・ホーム(FPH)と呼ばれている。 ;レーザー砲 アーミーの最新携行型[[レーザー]]兵器。個人で運用可能なまでに小型化された高出力レーザー砲は鉄板をも貫き、高い殺傷能力を持つ。外部にバッテリーを持つが、重く大きいこと、発射回数が限られることに課題がある。ダイヤル操作で攻撃出力を変化させることもでき、照射し続けることで薙ぎ払うような攻撃も可能。 キヨコに操られたケイがアーミーのビルに侵入した際に開発中の試作機を見つけ出し、チャイルドルームでの鉄雄との戦いで金田が使用する。アニメ版では実戦配備されており、アキラの元へ向かう鉄雄を阻止するためにアーミーの小隊が一斉射撃を行う。金田が鉄雄の力に対峙するための武器として、原作・アニメともに終盤まで登場する。 ;SOL アーミーが保有する[[軍事衛星]]、'''S'''atellite in '''O'''rbital '''L'''aser-weaponの略称。[[静止軌道]]上の[[人工衛星]]に搭載されたレーザー砲が地上の標的をピンポイントで攻撃する。その爆撃のような破壊力は小型[[原子炉|反応炉]]を動力源とし、短いインターバルでの連続攻撃を可能とする。命中精度は10m前後であるが、初弾の着弾地点を観測しフィードバックすることで命中精度を高めることができる{{Sfn|アキラ・グラフブック|1988| p= }}。本体にはSOL-740とペイントされているが、同型機が複数存在するかどうかは不明。 原作ではアキラと彼を目覚めさせた鉄雄を殺害するために使用され、ネオ東京崩壊後には大佐が持ち歩く超小型照準器で彼らの窮地を救い、物語の終局まで重要な役割を果たす。アニメ版ではSOLの攻撃で右手を失った鉄雄が軌道上まで飛翔し反撃、即座に破壊されてしまう。 ;セキュリティボール 自律行動を行う地上型[[無人機]]。縦横高さ各2m、中心に直径1.5mの球体状のボディを持ち、4本足の先端に持つ車輪で高速移動が可能。[[核戦争]]後に[[核シェルター|シェルター]]外の活動を行うことを想定しており、[[放射線]]値の測定や敵勢力への攻撃までを担う能力を持つ。複数台での連携した活動や、連結しての移動も可能{{Sfn|アキラ・グラフブック|1988| p= }}。その形状から[[炭団]]などと呼ばれる。 原作内ではアキラ行方不明による第七級警報発令下のネオ東京に現れ、暴徒鎮圧や消火などの治安維持活動を行う。ネオ東京崩壊後にはハッキングされた個体が大佐の拠点を警護したり、破壊された残骸がジョーカーの手によって改造され、移動手段として用いられた。 ;フロイド アメリカ軍が使用する衛星兵器。SOLと同様のレーザー兵器だが、連続照射しながら着弾点を動かすことで、帯状の範囲を攻撃することが可能。 鉄雄と金田の決戦のさなかにオリンピックスタジアム周辺に向け発射され、ネオ東京全体への無差別攻撃をかけるが、衛星軌道上へ翔んだ鉄雄にジャックされ、アメリカ軍の[[空母打撃群]]に向けてレーザーを発射しながら落下。鉄雄はフロイドをアメリカ海軍提督が乗る[[航空母艦|空母]]の[[艦橋|ブリッジ]]に直撃させ、空母は沈没する。 == 書誌情報 == 単行本は講談社[[KCデラックス]]で発行された。週刊誌と同じ大判サイズで小口への色付けを施すなど、凝った装丁になっている。 アニメ映画が公開された1988年には国際版の刊行が始まった。[[アメリカン・コミックス]]のスタイルに合わせて原稿を左右反転させ、左開きにした上で彩色を施し、一冊あたりの収録ページを減らした薄いものに再編集されて出版された<ref name="manga38_otomo"/>。日本国外ではこの外国語版が流通しており、これを日本語に逆翻訳したものが『オールカラー国際版AKIRA』『総天然色AKIRA』として日本でも発売された。 単行本の4巻が刊行された後にアニメ映画版の制作が開始されたことで雑誌連載は長期間休載となり、日本では5巻の刊行までに3年間を要した。しかし、1巻あたりの収録話数が少ない『国際版』は、5巻の前半に相当する話数を収録した巻が日本に先行して発売された。 4巻の巻末には「5巻が最終巻である」と告知されていたが、再開後に連載が長期化したため、結局5巻と6巻に分けられ、6巻が最終巻となった。 最終回は単行本化の際に大幅に加筆修正された。雑誌掲載時は、アキラたちが消え去った後に金田とケイがビルの上で朝日を見つめるシーンで終わるが、単行本では後日談が追加され、大東京帝国を金田や甲斐、ケイたちが受け継ぎ、外国の軍隊に対しアキラが金田たちの中で生存していることを宣告。生き残っていた大佐や、山形、鉄雄も一瞬ながら登場、さらに崩壊したはずのネオ東京が元の姿へと戻ってゆく幕切れとなっている。 === 単行本 === <div class="NavFrame" style="clear:;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">AKIRA(講談社KCデラックス)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;;"> # 1984年9月21日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-103711-0}} # 1985年9月4日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-103712-9}} # 1986年9月1日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-103713-7}} # 1987年7月10日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-103714-5}} # 1990年12月11日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313166-1}} # 1993年3月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-319339-X }} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">オールカラー国際版AKIRA(講談社&マーベル社)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;;"> # 1988年10月7日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305011-4}} # 1989年3月17日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305012-2}} # 1989年6月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305013-0}} # 1989年10月20日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305014-9}} # 1990年2月20日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305015-7}} # 1990年5月31日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305016-5}} # 1990年8月31日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305017-3}} # 1990年12月10日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305018-1}} # 1991年4月20日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305019-X}} # 1991年9月20日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305020-3}} # 1992年6月20日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305021-1}} # 1996年9月20日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-305022-X}} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">総天然色AKIRA(講談社KCピース)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;;"> # 2003年12月6日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-364500-2}} # 2003年12月6日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-364501-0}} # 2004年1月16日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-364502-9}} # 2004年2月16日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-364503-7}} # 2004年3月16日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-364504-5}} # 2004年4月16日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-364505-3}} </div></div> === フィルムブック === <div class="NavFrame" style="clear:;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">AKIRA アニメ版(講談社アニメコミックス)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;;"> ==== オリジナル版 ==== # 1988年8月29日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-174468-2}} # 1988年9月17日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-174469-0}} # 1988年10月13日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-174470-4}} # 1988年11月5日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-174471-2}} # 1988年12月1日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-174472-0}} ==== 新装版 ==== # 2000年8月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-310121-5}} # 2000年8月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-310122-3}} # 2000年8月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-310123-1}} # 2000年8月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-310124-X}} # 2000年8月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-310125-8}} </div></div> === 資料集 === * 「AKIRA CLUB」1995年6月9日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-330003-X}} * 「アキラ・アーカイヴ」2002年12月24日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-330195-8}} * [[ホットドッグ・プレス|HOT DOG PRESS]]増刊「AKIRA WORLD いま、アキラのすべてが解明される」講談社、1988年7月24日{{Refnest|group="注"|映画公開を記念して出版された。『国際版AKIRA』の一部や『AKIRA』と同じネオ東京を舞台にした[[今敏]]の短編漫画「PICNIC」などが収録されている。}} == アニメ映画 == {{Main|AKIRA (アニメ映画)}} == 実写映画化プロジェクト == <!-- {{Infobox Film | 作品名 = AKIRA | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[タイカ・ワイティティ]] | 脚本 = | 原案 = | 原作 = [[大友克洋]]<br>『AKIRA』 | 製作 = [[レオナルド・ディカプリオ]]<br>[[アンドリュー・ラザー]]<br>[[ジェニファー・ダヴィッソン]] | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = | 音楽 = | 主題歌 = | 撮影 = | 編集 = | 制作会社 = | 製作会社 = [[ワーナー・ブラザース]] | 配給 = | 公開 = {{Flagicon|USA}} 未定 | 上映時間 = | 製作国 = {{USA}} | 言語 = | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = }} --> 本作の実写映画化は2000年代初めから何度も報じられ、そのたびに企画が見送られてきた。 === 経緯 === 2002年、実写映画化の噂が初めて世に伝えられた<ref name="itmedianews017"/><ref name="N0001719">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0001719 |author= |title= 「AKIRA」、実写映画化決定|date=2002-04-16 |accessdate= 2023-01-24|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ}}</ref>。[[ワーナー・ブラザース]]による製作で、プロデューサーに映画『[[ワイルド・ワイルド・ウエスト]]』の[[ジョン・ピーターズ (映画プロデューサー)|ジョン・ピーターズ]]、監督に『[[ブレイド (映画)|ブレイド]]』の[[スティーヴン・ノリントン]]が起用され、原作の雰囲気を保ちつつ欧米人が親近感を持って受け入れやすいような設定のストーリーになる予定だと報じられた<ref name="itmedianews017"/><ref name="N0001719"/>。 2008年、映画化を巡って大手スタジオが争奪戦を展開した結果、ワーナー・ブラザースが権利を獲得した<ref name="sponichi20080223">{{Cite web|和書|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/02/23/05.html |title= 「AKIRA」ハリウッドで実写版|date= 2008-02-23 |accessdate= 2023-01-24|website= |publisher= [[スポーツニッポン]] |archiveurl= https://web.archive.org/web/20080228043341/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/02/23/05.html |archivedate= 2008-02-28}}</ref>。同年2月にワーナーは[[レオナルド・ディカプリオ]]の制作会社アッピアン・ウェイとともに準備を始め、プロデューサーにはディカプリオのほか、『[[アメリカン・スナイパー]]』のアンドリュー・ラザー、『[[レヴェナント: 蘇えりし者]]』のジェニファー・ダヴィッソンが就任<ref name="akira-us-release-date">{{cite news|url=https://theriver.jp/akira-us-release-date/|title=ハリウッド実写版『AKIRA』2021年5月、ついに米国公開決定 ─ 『マイティ・ソー バトルロイヤル』タイカ・ワイティティ監督、正式に就任発表|publisher=THE RIVER|date=2019-05-25|accessdate=2019-07-19}}</ref>。監督はCM出身でアカデミー短編アニメ映画賞にノミネートされた[[アイルランド人]]の若手監督[[ルアイリ・ロビンソン]]、脚本には{{仮リンク|ゲイリー・ウィッタ|label= |en|Gary Whitta}}が起用されると報じられた<ref name="animeanime2800"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/news/108676/ |author= |title=タイカ・ワイティティ監督によるハリウッド実写版「AKIRA」が2021年全米公開 |date=2019-05-29 |accessdate= 2023-01-25|website= アニメハック|publisher= [[エイガ・ドット・コム]]}}</ref><ref name="N0019582">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0019582|title= 実写映画版「AKIRA」は中止されていなかった!|publisher=シネマ・トゥディ|date=2009-09-09|accessdate=2010-02-13}}</ref>。映画は2部構成で製作され、前編の全米公開は2009年夏が予定された<ref name="gigazine20080222">{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20080222_akira_movie/ |title=ハリウッドで制作される「AKIRA」の実写映画は2部作で原作全てを描く |website= [[GIGAZINE]]|publisher=株式会社OSA|date=2008-02-22 |accessdate= 2023-01-24}}</ref><ref name="sponichi20080223"/>。コミックス全6巻をすべて映画化し、『[[ブレードランナー]]』と『[[シティ・オブ・ゴッド]]』を合わせたような作品を目指すとされた<ref name="gigazine20080222"/><ref name="sponichi20080223"/>。舞台は原作の日本のネオ東京から新型爆弾に破壊されてから31年後の日本資本によって再生されたアメリカのニューマンハッタンに変更され、それにともなって配役が[[ハリウッドスター]]になりそうだとも伝えられた<ref name="gigazine20080222"/><ref name="sponichi20080223"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0018461 |author= |title=ディカプリオのプロデュースによる実写映画版「AKIRA」は中止か? |date=2009-06-15 |accessdate= 2023-01-25|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ}}</ref>。しかし、2009年6月にロビンソンが降板し、企画は一時中止されたと報じられた<ref name="N0022410">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0022410|title= 実写版『AKIRA』の制作再始動! 舞台はニュー・マンハッタンでワーナーがヒューズ兄弟と交渉中|publisher=シネマトゥディ|date=2009-02-11|accessdate=2010-02-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20190525-akira-liveaction-movie/ |title=「AKIRA」実写映画版の公開が2021年に決定 |website= [[GIGAZINE]]|publisher=株式会社OSA|date=2019-05-25 |accessdate= 2022-12-19}}</ref>。 2010年2月、映画『[[フロム・ヘル]]』や『ブラック・ビジネス』を監督したアレンとアルバートの[[ヒューズ兄弟]]がワーナー・ブラザーズと交渉中であると報じられた<ref name="N0022410"/>。その時点では、脚本に映画『[[アイアンマン (映画)|アイアンマン]]』を執筆したマーク・ファーガスとホーク・オストビーが参加していた<ref name="N0019582"/><ref name="N0022410"/>。 2011年5月、アルバート・ヒューズ監督が降板することになったと報じられ、理由は「制作上の困難」と発表された<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0032646|title= ハリウッド実写版「AKIRA」の監督が降板を発表 クランクインは今年後半か来年に|publisher=シネマトゥディ|date=2011-05-27|accessdate=2011-05-28}}</ref>。同年7月、ワーナー・ブラザーズは製作続行の決定を下し、『[[アンノウン (映画)|アンノウン]]』や『[[エスター (映画)|エスター]]』の[[スペイン人]]監督[[ジャウム・コレット=セラ]]を起用したと発表<ref name="gqjapan7881">{{Cite web|和書|url=https://www.gqjapan.jp/culture/movie/20111025/7881 |author=Sayaka Honma |title=『AKIRA』にギャレット・ヘドランド主演? ゲイリー・オールドマン&ヘレナ・ボナム・カーターに出演オファーも! |date=2011-10-25 |accessdate= 2022-12-19|website= [[GQ JAPAN]]|publisher= [[コンデナスト・ジャパン]]}}</ref><ref name="N0036327">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0036327 |author=入倉功一 |title= 『AKIRA』実写版にワーナーがゴーサイン、金田役には『トロン』のギャレット・ヘドランドが有力候補|date=2011-10-20 |accessdate= 2023-01-25|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ}}</ref>。「[[ハリー・ポッターシリーズ]]」の脚本家の[[スティーヴ・クローヴス]]が脚本をリライトし、2012年春の製作開始を予定しているとされた<ref>{{cite news|url=https://eiga.com/news/20110715/20/|title= 実写版「AKIRA」監督は「アンノウン」ジャウム・コレット=セラ|publisher=[[映画.com]]|date=2011-07-15|accessdate=2011-07-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/news/article/25474/ |author= ブレイディみかこ |title=『AKIRA』実写版の主演はギャレット・ヘドランド? |date=2011-10-22 |accessdate= 2023-01-25|website= [[Movie Walker]]|publisher= [[株式会社ムービーウォーカー]]}}</ref>。金田役として『[[トロン: レガシー]]』に主演した[[ギャレット・ヘドランド]]を起用し、そのほかにケイ役を[[クリステン・スチュワート]]、鉄雄役を[[マイケル・ピット]]や[[デイン・デハーン]]、軍の大佐役を[[ゲイリー・オールドマン]]や[[渡辺謙]]、宗教指導者ミヤコ役を[[ヘレナ・ボナム=カーター]]が演じると報じられた<ref name="gqjapan7881"/><ref name="gqjapan9155">{{Cite web|和書| url =https://www.gqjapan.jp/culture/movie/20111206/9155 |author= Sayaka Honma|title= ハリウッド実写版『AKIRA』の驚愕のストーリーが明らかに!|website= [[GQ JAPAN]]|publisher= [[コンデナスト・パブリケーションズ]] | date= 2011-12-06|accessdate= 2023-01-25}}</ref><ref name="ign18208">{{Cite web|和書|url=https://jp.ign.com/akira-live-action/18208/news/akira |author=Jim Vejvoda |title=タイカ・ワイティティ監督、実写映画「AKIRA」についてコメント、キャストのホワイトウォッシングについても言及 |date=2017-10-11 |accessdate= 2023-01-25|website= IGN Japan |publisher= 産経デジタル }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0037198 |author= |title=実写版『AKIRA』、鉄雄役のスクリーンテスト実施! マイケル・ピットら8人の俳優が参加! |date=2011-11-22 |accessdate= 2023-01-25|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ}}</ref>。1億ドル(約80億円{{Refnest|group="注"|name="rate"|当時のレート、1ドル80円計算。}})以上といわれた予算も9,000万ドル(約72億円{{Refnest|group="注"|name="rate"}})程度まで縮小された<ref name="N0036327"/>。舞台はネオマンハッタンに、主人公の金田はバー経営者で鉄雄とは兄弟という設定に変更された<ref name="gqjapan9155"/><ref name="gqjapan10139">{{Cite web|和書| url =https://www.gqjapan.jp/culture/movie/20120110/10139 |author= Sayaka Honma|title= ハリウッド実写版『AKIRA』が、またも製作延期に……|website= [[GQ JAPAN]]|publisher= [[コンデナスト・パブリケーションズ]] | date= 2012-01-10|accessdate= 2023-01-25}}</ref>。 2012年1月、ワーナー・ブラザースが製作延期を発表<ref name="gqjapan10139"/>。撮影直前までいったものの、プロジェクトは3度目の延期に追い込まれた<ref name="gqjapan10139"/>。キャスティングや脚本、予算の問題で、企画が暗礁に乗り上げたことが理由だとされ、撮影予定地だった[[カナダ]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]のプロダクションオフィスは閉鎖されてスタッフらは解散となった<ref name="gqjapan10139"/>。 2017年9月、ワーナーが『[[マイティ・ソー バトルロイヤル]]』の[[タイカ・ワイティティ]]監督との契約交渉に入ったと伝えられた<ref name="akira-set-waititi-update">{{cite news|url=https://theriver.jp/akira-set-waititi-update/|title=ハリウッド実写版『AKIRA』2019年内に撮影開始か ─ 『マイティ・ソー バトルロイヤル』タイカ・ワイティティ監督が就任との報道|publisher=THE RIVER|date=2019-04-03|accessdate=2019-07-18}}</ref><ref>{{cite news|url=https://theriver.jp/taika-waititi-talks-in-akira/|title=ハリウッド版『AKIRA』新監督に『マイティ・ソー バトルロイヤル』タイカ・ワイティティが契約交渉中|publisher=THE RIVER|date=2017-09-20|accessdate=2019-07-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://gigazine.net/news/20200213-akira-remake-taika-waititi/ |title=実写映画版「AKIRA」は「すべて保留になった」とタイカ・ワイティティ監督がコメント |website= [[GIGAZINE]]|publisher=株式会社OSA|date=2020-02-13 |accessdate= 2023-01-25}}</ref>。ワイティティは、「アニメ映画ではなく原作コミックを実写映画化したい」と述べ、出演者についても「アジア人のティーンエイジャーがいい」として、スター俳優ではなく新人を抜擢する意向を語った<ref name="akira-set-waititi-update"/><ref name="akira-on-hold">{{cite news|url=https://theriver.jp/akira-on-hold/|title=ハリウッド実写映画『AKIRA』製作延期、無期限保留に ─ 脚本&キャスティング難航か、タイカ・ワイティティ監督は『マイティ・ソー』優先|publisher=THE RIVER|date=2019-07-17|accessdate=2019-07-17}}</ref>{{Refnest|group="注"|東洋人のキャラクターを[[ホワイトウォッシング (配役)|ホワイトウォッシング]](白人の俳優を配役すること)する強い傾向が未だに残るハリウッド映画界について、ワイティティは「僕だったら10代の東洋人にすると思いますね。それも有名な俳優よりも新しい才能を発掘して無名の若者たちが理想的です。そして、もっと漫画に近い形にすると思います」とコメントしている<ref name="ign18208"/>。}}。 2019年5月、ワーナー・ブラザーズが米国での公開日(2021年5月21日)を正式発表し、タイカ・ワイティティが正式に監督に就任したことも併せて告知された<ref name="akira-us-release-date"/>。しかし、そのわずか2か月後の7月にワーナーは同企画を無期限に保留することを発表した<ref name="akira-on-hold"/>。理由は、本作の制作が遅れたことでもう一つの監督作品『[[ソー:ラブ&サンダー]]』とスケジュールが重なったワイティティが後者を優先したため<ref>{{cite news|url=https://jp.ign.com/thor-ragnarok/37111/news/4|title=「マイティ・ソー」第4弾、『バトルロイヤル』のタイカ・ワイティティが執筆&監督へ|publisher=IGN JAPAN|date=2019-07-17|accessdate=2019-07-17}}</ref>。ワイティティによれば、企画保留の決め手になったのは、その制作の遅れを招いた脚本作業やキャスティングの難航だったという<ref name="waititi-still-trying-akira">{{cite news|url=https://theriver.jp/waititi-still-trying-akira/|title=ハリウッド実写映画『AKIRA』製作延期、無期限保留に ─ 脚本&キャスティング難航か、タイカ・ワイティティ監督は『マイティ・ソー』優先|publisher=THE RIVER|date=2019-07-17|accessdate=2019-07-17}}</ref>。 2021年8月、ワイティティはインタビューでまだ本作を監督する意欲があることを認めたが、復帰できるかは未知数である<ref name="waititi-still-trying-akira"/>。 <!-- === スタッフ(実写版) === * 監督 - [[タイカ・ワイティティ]] * プロデューサー - [[レオナルド・ディカプリオ]]、[[アンドリュー・ラザー]]、[[ジェニファー・ダヴィッソン]] * 製作 - [[ワーナー・ブラザース]] --> == ゲーム == === ファミコン版 === [[1988年]]12月24日に、タイトーより[[ファミリーコンピュータ]]用ゲームソフトが発売された。 いわゆるコマンド総当たり式のアドベンチャーゲームで、シナリオ、プロデュースは大友本人が担当。ストーリーはアニメ映画版に基づいて構築されており、凝ったグラフィックや演出で、原作(アニメ)の雰囲気を再現している。また、間違った選択肢を選ぶとすぐにゲームオーバーになるなど難易度が高い<ref name="kusoban">マイウェイ出版『ファミコンクソゲー番付』2017年1月25日、p111</ref>。 アニメ映画版を見ておかないと正しい選択肢を選ぶことが困難であったため、アニメ映画版に関するカルトクイズ的な意味合いもあった<ref name="kusoban" />。マルチエンディングシステムを採用し、バッドエンドも多数用意されているが、アキラの覚醒を金田が止めるといったアニメ映画版にはない展開や、大東京帝国の発足を匂わせるエンディングも見られる。 === AKIRA PSYCHO BALL === 『'''AKIRA PSYCHO BALL'''』(アキラ サイコボール)は、[[2002年]]2月21日に[[バンダイ]](現:[[バンダイナムコエンターテインメント]])より発売されたPlayStation 2用ピンボールゲーム。開発は[[カゼ・ネット|カゼ]]。 アニメ映画版をモチーフにしたピンボール台が4台(うち1台は対戦プレイ用)あり、条件を満たすと台が変形・合体する。オープニングやマルチボール、ステージクリア時にはアニメ映画版のムービーが挿入される。 === THQ版 === Black Pearl Softwareが[[メガドライブ|GENESIS]]、[[メガCD|SEGA CD]]、[[スーパーファミコン|SNES]]、[[ゲームギア]]、[[ゲームボーイ]]向けに開発し、[[THQ]]が1995年頃に米国で発売計画があったものの中止<ref name="screenrant">{{cite web |url=https://screenrant.com/akira-video-game-sega-discovered-gameplay/ |title=Akira's Long-Lost Video Game On Sega Genesis Has Been Discovered |author=Baird, Scott |website=[[スクリーン・ラント|Screen Rant]] |publisher= Valnet Inc. |date=2019-12-27 |accessdate=2023-05-09}}</ref>。1994年の[[コンシューマー・エレクトロニクス・ショー|Summer Consumer Electronics Show]]に出展の際、開発中のプレイ画面がフリーズする致命的なバグが出ている<ref>{{cite web |url=https://www.unseen64.net/2010/03/24/akira-genesis-mega-cd-snes-unreleased/ |title=Akira [SNES MegaDrive/Genesis – Cancelled] |author=monokoma |website=Unseen64 |date=2010-03-24 |accessdate=2023-05-09}}</ref>。2019年にGENESIS版のプロトタイプROMがコレクターの手に渡り、シューティングパートやアクションパートといった複数ジャンルを内包したゲーム内容が公開された<ref name="screenrant"/>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|date = 2004-04-01|author =大友克洋 |editor = |title =彼女の想いで…大友克洋短編集(1)|publisher = [[講談社]]|series =[[KCデラックス]]|isbn = 4-06-313145-9|ref = {{SfnRef|彼女の想いで…|2004}}}} * {{Cite book|和書|date = 1988-10-01|author =大友克洋 |editor = |title =アキラ・グラフブック|publisher = [[講談社]]|series =ヒットブックス|isbn = 4-06-177711-4|ref = {{SfnRef|アキラ・グラフブック|1988}}}} == 外部リンク == * [https://v-storage.bnarts.jp/sp-site/akira/ AKIRA公式サイト(バンダイビジュアル)] * [https://www.yamashirogumi.jp/akira/sankou/ 『AKIRA』ハイパーソニック・ワールドへようこそ(芸能山城組)] * [https://www.bandaigames.channel.or.jp/list/akira/move.html AKIRA PSYCHO BALL] {{講談社漫画賞一般部門|第8回}} {{大友克洋}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=AKIRA PSYCHO BALL |1-1=コンピュータピンボール |1-2=バンダイのゲームソフト |1-3=PlayStation 2用ソフト <!--AKIRA PSYCHO BALLに関するCategoryはREDIRECTに--> }} {{DEFAULTSORT:あきら}} [[Category:大友克洋の漫画作品]] [[Category:漫画作品 あ|きら]] [[Category:1982年の漫画]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:週刊ヤングマガジンの漫画作品]] [[Category:超能力を題材とした漫画作品]] [[Category:進化を題材とした漫画作品]] [[Category:東京を舞台とした漫画作品]] [[Category:オートバイを題材とした漫画作品]] [[Category:不良少年・不良少女を主人公とした漫画作品]] [[Category:暴走族を題材とした漫画作品]] [[Category:未来を題材とした漫画作品]] [[Category:サイバーパンク漫画]] [[Category:講談社漫画賞一般部門・総合部門の受賞作品]] [[Category:未完成の映画]] <!-- [[ar:أكيرا (فيلم)]] [[hr:Akira (1988)]] [[id:Akira (film 1988)]] [[nl:Akira (anime)]] [[no:Akira]] [[th:อากิระ คนไม่ใช่คน]] [[uk:Акіра]] -->
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貴族院
貴族院(きぞくいん)とは、貴族制度が存在する国の両院制議会において、貴族その他の非公選議員により組織される議院。 通常、上院に相当し、公選の議員により組織される下院(代議院、庶民院、衆議院など)に対置される。 貴族院の制度は、名称の如何を問わずフランス革命以前のフランス(三部会)や、第一次世界大戦以前のプロイセン、バイエルンなどのドイツ諸国家、オーストリア等に見られた。現代でもイギリスの議会に存在している。
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貴族院(きぞくいん)とは、貴族制度が存在する国の両院制議会において、貴族その他の非公選議員により組織される議院。
'''貴族院'''(きぞくいん)とは、[[貴族]]制度が存在する国の[[両院制]][[議会]]において、貴族その他の非公選議員により組織される[[議院]]。 ==概要== 通常、[[上院]]に相当し、公選の議員により組織される[[下院]]([[代議院]]、[[庶民院]]、[[衆議院]]など)に対置される。 貴族院の制度は、名称の如何を問わず{{要出典範囲|[[フランス革命]]以前の[[フランス]]([[三部会]])|date=2015年12月29日 (火) 07:58 (UTC)}}や、[[第一次世界大戦]]以前の[[プロイセン]]、[[バイエルン王国|バイエルン]]などの[[ドイツ]]諸国家、[[オーストリア]]等に見られた。現代でも[[イギリスの議会]]に存在している。 ==一覧== * {{仮リンク|貴族院 (アイルランド)|en|Irish House of Lords|preserve=yes}} - [[合同法 (1800年)|グレートブリテン王国との合同]]前の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]を構成した上院。 * [[貴族院 (イギリス)]] - [[イギリスの議会]]を構成する上院。現存。 ** [[第二院 (イングランド共和国)]] - [[イングランド共和国]]末期、[[護国卿]]が創設した議院。「貴族院」や「上院」とも呼ばれる。 * {{仮リンク|貴族院 (オーストリア)|de|Herrenhaus (Österreich)}} - {{仮リンク|オーストリア帝国議会|de|Reichsrat (Österreich)}}を構成した上院。 * {{仮リンク|貴族院 (スウェーデン)|sv|Sveriges ridderskap och adel}} - かつて[[リクスダーゲン|スウェーデン王国議会]]を構成した議院<!--両院制ではない-->。1866年に公選制の上下院が導入され議院としての権限は失ったが、伝統と文化の継承を目的とする組織として存続している。 * {{仮リンク|貴族院 (スペイン)|en|Chamber of Peers (Spain)}} - かつて[[国会 (スペイン)|スペイン王国議会]]を構成した上院。 * [[貴族院 (日本)]] - かつて[[日本]]の[[帝国議会]]を構成した上院。[[1890年]]([[明治]]23年)から[[1947年]]([[昭和]]22年)まで存在した。 * [[貴族院 (バイエルン)]] * {{仮リンク|貴族院 (ハンガリー)|hu|Főrendiház}} - かつて[[ハンガリー王国]]議会を構成した上院。 * [[貴族院 (フランス)]] - [[フランス復古王政|復古王政]]から[[7月王政]]までの[[フランス王国]]議会の上院。 * [[貴族院 (プロイセン)]] - かつて[[プロイセン議会]]を構成した上院。 * {{仮リンク|貴族院 (ポルトガル)|en|Chamber of Peers (Portugal)}} - かつて[[ポルトガル王国]]議会を構成した上院。 == 関連項目 == *{{Prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:きそくいん}}
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鹿島丈博
鹿島 丈博(かしま たけひろ、1980年7月16日 - )は、日本の元男子体操競技選手で、現在は指導者、スポーツ科学者。 大阪府大阪市生まれ。3歳から体操を始める。 1995年(平成7年)、中学3年生のとき、特別推薦で全日本選手権に出場し、同大会のあん馬を男子史上最年少の15歳で制した。 2003年(平成15年)の世界体操選手権では日本体操史上初めてあん馬で優勝した。他に鉄棒でも優勝、団体でも銅メダルを獲得。日本体操界久々の快挙であり、翌年のオリンピックへの期待が高まった。 アテネオリンピックでは団体で優勝、種目別でもあん馬で3位に輝いた。 アテネオリンピック後、怪我に悩ませられる。2006年(平成18年)1月に慢性的な痛みを抱えていた左肩の手術に踏み切り、同年のオーフス世界選手権を断念。手術は成功し、リハビリを経て、同年ワールドカップ決勝大会で復帰戦を飾る。しかし、2007年(平成19年)9月のシュトゥットガルト世界選手権の代表に選ばれたものの、ドイツの直前合宿で、あん馬の練習中に当時E難度(現在はD難度)のショーン(メリゴーランド:1ポメル上で片腕支持上向き360°転向)から、次の技に移行しようとして左手を器具の金属部分に強打。左手の甲を骨折して、代表チームから、緊急帰国し、手術となった。このシュッツガルト世界選手権では補欠だった水鳥寿思が出場し、4個のメダルをとった。 この怪我のため、2007年(平成19年)10月の北京オリンピック1次選考会の出場はできなかったが、これまでの実績が考慮され、2次選考会に出場。2次選考会とその後のNHK杯において、あん馬は他を寄せつけぬ強さをみせ、北京オリンピック代表に選出された。五輪本番では、あん馬での金メダルが期待されたが、種目別予選も兼ねた団体予選でのあん馬において、ショーン(メリゴーランド)の演技中にまさかの落下。あん馬での決勝進出を逃す。 団体決勝のあん馬においては、ショーン(メリゴーランド)を封印。技の難度をおとし(Aスコア6.6から6.3)、無難にまとめ、鹿島にしては低いものの15.575の高得点をマークし、金メダルは逃したが、団体での銀メダルを獲得した。 2008年(平成20年)10月末に引退を表明し、同年11月の豊田国際体操競技大会を最後に引退した。なお同学年で同じ所属の冨田洋之も同じ時期に引退を表明している。 引退後、2009年(平成21年)4月より大東文化大学専任講師。また、日本体操協会のロンドン五輪強化本部委員にも就任した。 2023年(令和5年)6月、日本体操協会理事・副会長に就任。また、日本スポーツ協会理事に就任。 得意種目はあん馬。日本勢初の世界チャンピオンに輝き「あん馬の申し子」と謳われた。 膝とつま先まで伸びた体の線の美しさと、体操選手としては比較的長身である169cmの身長を生かしたダイナミックで雄大な演技が特徴。身長の分だけ、それを支える筋力が必要という。 また、足の長さは股下86cm、手の長さも64cmあり、肩幅があん馬選手としては狭い40cmという利点もある。その恵まれた体で、日本のあん馬の歴史を塗り替えてきた。
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鹿島 丈博は、日本の元男子体操競技選手で、現在は指導者、スポーツ科学者。
{{Infobox 体操選手 | 氏名 = 鹿島 丈博 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | フルネーム = 鹿島 丈博 | 愛称 = | 国籍 = {{JPN}} | 種目 = 体操競技 | 所属 = [[順天堂大学]]・同大学院→[[セントラルスポーツ]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1980|7|16}} | 生誕地 = {{JPN}} [[大阪府]][[大阪市]][[阿倍野区]] | 居住地 = | 没年月日 = | 死没地 = | 身長 = 169cm(2008年10月時点)<ref name="yomi20081030">2008年10月30日 読売新聞「あん馬の鹿島、引退へ」</ref> | 体重 = 60kg(2008年10月時点)<ref name="yomi20081030"/> | コーチ = | 元コーチ = | 引退 = 2008年11月 | show-medals = yes | medaltemplates = {{MedalSport|男子 [[体操競技]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピック体操競技|オリンピック]]}} {{MedalGold|[[2004年アテネオリンピック|2004 アテネ]]|団体総合}} {{MedalBronze|[[2004年アテネオリンピック|2004 アテネ]]|あん馬}} {{MedalSilver|[[2008年北京オリンピック|2008 北京]]|団体総合}} {{MedalCompetition|[[世界体操競技選手権]]}} {{MedalBronze|[[2002年世界体操競技選手権|2002 デブレツェン]]|あん馬}} {{MedalGold|[[2003年世界体操競技選手権|2003 アナハイム]]|あん馬}} {{MedalGold|2003 アナハイム|鉄棒}} {{MedalBronze|2003 アナハイム|団体総合}} {{MedalSilver|[[2005年世界体操競技選手権|2005 メルボルン]]|あん馬}} }} {{Infobox 学者 |名前= 鹿島 丈博<br />(かしま たけひろ) |画像= |画像サイズ= |画像代替説明= |画像説明= |全名= |別名= |誕生名= |生年月日= {{生年月日と年齢|1980|7|16}} |生誕地= {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[阿倍野区]] |没年月日= <!-- {{死亡年月日と没年齢|YYYY|MM|DD|YYYY|MM|DD}} --> |死没地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> |死因= |居住= |市民権= |国籍= {{JPN}} |出身校= [[清風中学校・高等学校|清風高等学校]]<br />[[順天堂大学]]スポーツ健康科学部<br />順天堂大学[[大学院]]スポーツ科学研究科 |配偶者= |両親= |子供= |時代= |活動地域= |学派= |研究分野= [[スポーツ科学]] |研究機関= [[大東文化大学]] |博士課程指導教員= |他の指導教員= |博士課程指導学生= |主な指導学生= |学位= [[修士]](スポーツ健康科学) 順天堂大学 |称号= [[紫綬褒章]] |特筆すべき概念= |主な業績= |主要な作品= |影響を受けた人物= |影響を与えた人物= |学会= 日本体操競技・器械運動学会 |主な受賞歴= |署名= |公式サイト= |脚注= [https://gyouseki.jm.daito.ac.jp/dbuhp/KgApp?kyoinId=ymbggdyiggy 大東文化大学研究者情報] }} '''鹿島 丈博'''(かしま たけひろ、[[1980年]][[7月16日]] - )は、日本の元男子[[体操競技]]選手で、現在は指導者、[[スポーツ科学|スポーツ科学者]]。 == 略歴 == [[大阪府]][[大阪市]]生まれ。3歳から体操を始める。 [[1995年]](平成7年)、中学3年生のとき、特別推薦で全日本選手権に出場し、同大会のあん馬を男子史上最年少の15歳で制した。 [[2003年]](平成15年)の世界体操選手権では日本体操史上初めてあん馬で優勝した。他に鉄棒でも優勝、団体でも銅メダルを獲得。日本体操界久々の快挙であり、翌年のオリンピックへの期待が高まった。 [[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]では団体で優勝、種目別でもあん馬で3位に輝いた。 アテネオリンピック後、怪我に悩ませられる。[[2006年]](平成18年)1月に慢性的な痛みを抱えていた左肩の手術に踏み切り、同年の[[オーフス]]世界選手権を断念<ref>2006年2月2日 読売新聞「男子体操の鹿島が左肩手術 世界選手権絶望的」</ref>。手術は成功し、[[リハビリ]]を経て、同年ワールドカップ決勝大会で復帰戦を飾る。しかし、[[2007年]](平成19年)9月の[[シュトゥットガルト]]世界選手権の代表に選ばれたものの、ドイツの直前合宿で、あん馬の練習中に当時E難度(現在はD難度)のショーン(メリゴーランド:1ポメル上で片腕支持上向き360°転向)から、次の技に移行しようとして左手を器具の金属部分に強打。左手の甲を骨折して、代表チームから、緊急帰国し、手術となった。このシュッツガルト世界選手権では補欠だった[[水鳥寿思]]が出場し、4個のメダルをとった。 この怪我のため、2007年(平成19年)10月の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]1次選考会の出場はできなかったが、これまでの実績が考慮され、2次選考会に出場。2次選考会とその後の[[日本放送協会|NHK]]杯において、あん馬は他を寄せつけぬ強さをみせ、北京オリンピック代表に選出された。五輪本番では、あん馬での金メダルが期待されたが、種目別予選も兼ねた団体予選でのあん馬において、ショーン(メリゴーランド)の演技中にまさかの落下。あん馬での決勝進出を逃す。 団体決勝のあん馬においては、ショーン(メリゴーランド)を封印。技の難度をおとし(Aスコア6.6から6.3)、無難にまとめ、鹿島にしては低いものの15.575の高得点をマークし、金メダルは逃したが、団体での銀メダルを獲得した。 [[2008年]](平成20年)10月末に引退を表明し、同年11月の[[豊田国際体操競技大会]]を最後に引退した。なお同学年で同じ所属の[[冨田洋之]]も同じ時期に引退を表明している。 引退後、[[2009年]](平成21年)4月より[[大東文化大学]]専任講師。また、[[日本体操協会]]のロンドン五輪強化本部委員にも就任した。 [[2023年]](令和5年)6月、[[日本体操協会]]理事・副会長に就任<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2023/01/10/kiji/20230110s00067000060000c.html#:~:text=%E5%86%85%E6%9D%91%E8%88%AA%E5%B9%B3%E3%81%95%E3%82%93%20Photo%20By,%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%83%81%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%93%E6%93%8D%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%81%AF9%E6%97%A5%E3%80%81%E9%83%BD%E5%86%85%E3%81%A7%E8%87%A8%E6%99%82%E8%A9%95%E8%AD%B0%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E9%96%8B%E3%81%8D%E3%80%81%E4%BD%93%E6%93%8D%E7%94%B7%E5%AD%90%E3%81%A7%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E3%81%AE%E5%80%8B%E4%BA%BA%E7%B7%8F%E5%90%88%E3%82%92%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%A68%E9%80%A3%E8%A6%87%E3%81%97%E3%80%81%E6%98%A8%E5%B9%B4%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E5%BC%95%E9%80%80%E3%81%97%E3%81%9F%E5%86%85%E6%9D%91%E8%88%AA%E5%B9%B3%E6%B0%8F%EF%BC%8834%EF%BC%89%E3%82%92%E6%96%B0%E7%90%86%E4%BA%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82%203%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%90%86%E4%BA%8B%E4%BC%9A%E3%81%A7%E6%AD%A3%E5%BC%8F%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%80%816%E6%9C%88%E3%81%AB%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82%20%E4%BB%BB%E6%9C%9F%E3%81%AF2%E5%B9%B4%E3%80%82 日本体操協会 内村航平氏を新理事に選出 3月の理事会で正式決定、6月に就任へ]スポニチ 2023年1月10日</ref><ref>[https://www.sanspo.com/article/20230325-5RKGJ63GXZOCRMF62IGMEUFBXM/ 藤田直志会長2期目へ 日本体操協会、鹿島丈博さんが副会長]サンスポ 2023/03/25</ref>。また、[[日本スポーツ協会]]理事に就任<ref>[https://www.minpo.jp/globalnews/moredetail/2023060801001298 遠藤氏らスポ協の次期理事候補に 伊藤会長は退任へ]福島民報 2023/06/08</ref>。 ==特徴== 得意種目は[[あん馬]]。日本勢初の世界チャンピオンに輝き「あん馬の申し子」と謳われた。 [[膝]]と[[つま先]]まで伸びた体の線の美しさと、体操選手としては比較的長身である169cmの[[身長]]を生かしたダイナミックで雄大な[[演技]]が特徴。身長の分だけ、それを支える筋力が必要という<ref>[http://www.spopre.com/special/challenge144/ スポーツフリーマガジン -Spopre(スポプレ)-]</ref>。 また、足の長さは[[股下]]86cm、手の長さも64cmあり、肩幅があん馬選手としては狭い40cmという利点もある。その恵まれた体で、日本のあん馬の歴史を塗り替えてきた<ref>[http://www.sanspo.com/athens2004/gymnastics/news/more2004062601.html 鹿島、あん馬で体操ニッポンの悲願を叶える sanspo.com 20040626]</ref>。 ==その他== *[[マック体操クラブ]]では[[マスコット]]的存在だったらしい。([[城間晃]]コーチ談) *体操を始めた頃は、練習に行くたびに泣いていて、やめたいと洩らしたこともあったが、小5の頃に「オリンピックにでるまで止めない」と決めた。 *高校生のころ、背が伸びはじめ、[[筋肉]]の成長が追いつかず、伸び悩んだ。 *筋肉がつきにくいタイプであり、力技である[[吊り輪]]は苦手である。 *2006年5月に1歳下の女性と結婚した<ref>2006年9月13日 読売新聞「男子体操の鹿島が結婚」</ref>。 *2007年の左手甲骨折の手術の際に左手の薬指にもメスを入れたことで太くなったため、結果的に[[結婚指輪]]がはめられなくなった。 *[[冨田洋之]]選手とはJr時代から現在まで高校を除いて所属が同じである。 == 年譜・戦歴 == * [[1983年]]、[[マック体操クラブ]]で体操を始める。 * [[1987年]][[4月]]、大阪市立長池小学校に入学。 * [[1993年]]4月、大阪市立昭和中学校に入学。 * [[1994年]]、全国中学選手権で優勝。 * [[1995年]]、全国中学選手権を2連覇。 * 1995年[[11月]]、特例措置で出場した全日本選手権の種目別[[あん馬]]で男子史上最年少優勝。 * 1995年[[12月]]、毎日スポーツ人賞新人賞を受賞。 * [[1996年]]4月、[[清風中学校・高等学校|清風高校]]に入学。 * [[1998年]]、全日本選手権の種目別あん馬で2度目の優勝。 * [[1999年]]4月、[[順天堂大学]]に入学。 * [[2002年]]、全日本選手権の種目別あん馬で3度目の優勝。 * 2002年、[[2002年アジア競技大会|釜山アジア大会]]のあん馬で3位。 * 2002年11月、世界種目別選手権のあん馬で3位。 * [[2003年]]4月、順天堂大学院に入学。 * 2003年[[8月]]、世界選手権のあん馬と[[鉄棒]]の2種目で優勝。 *: あん馬では世界選手権・[[夏季オリンピック|オリンピック]]を通じて日本人選手史上初の[[金メダル]]獲得となった。 * 2003年[[11月3日]]、[[紫綬褒章]]を受章。 * 2003年、[[テレビ朝日]]ビッグスポーツ賞を受賞。 * [[2004年]][[6月]]、2003年度[[JOCスポーツ賞]]最優秀賞を受賞。 * 2004年[[8月16日]]、[[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]の男子体操団体で優勝。 * 2004年[[8月22日]]、アテネオリンピックの男子体操種目別でもあん馬で3位。 * 2004年[[9月1日]]、[[文部科学省|文部科学]]大臣顕彰を授与。 * 2004年[[9月3日]]、大阪府知事賞詞、大阪スポーツ大賞を受賞。 * 2004年[[10月21日]]、[[千葉県]]民栄誉賞を受賞。 * 2004年[[10月23日]]、[[佐倉市]]市民栄誉賞を受賞。 * 2004年11月3日、前年に続き2度目となる紫綬褒章(飾版)を受章。 * 2004年[[12月17日]]、[[毎日スポーツ人賞]]・感動賞を男子体操団体チームとして受賞。 * 2005年[[1月14日]]、20日、テレビ朝日[[ビッグスポーツ]]賞、[[朝日スポーツ賞]]を男子体操団体チームとして受賞。 * 2005年[[1月27日]]、[[日本スポーツ賞]]・オリンピック特別賞を男子体操団体チームとして受賞。 * 2005年[[6月20日]]、2004年度JOCスポーツ賞特別栄誉賞を受賞。 * 2005年[[11月26日]]、世界選手権のあん馬で3位。 * 2008年[[8月12日]]、北京オリンピックの団体で2位。 * 2008年[[9月8日]]、[[大阪スポーツ大賞]]を受賞。 * 2008年[[11月15日]]、[[豊田国際体操競技大会]]を最後に引退。種目別あん馬6位。 == 関連項目 == * [[体操競技選手一覧]] * [[体操競技の日本人オリンピックメダリスト一覧]] ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://gyouseki.jm.daito.ac.jp/dbuhp/KgApp?kyoinId=ymbggdyiggy 研究者情報] - 大東文化大学 * [https://www.joc.or.jp/games/olympic/beijing/sports/artistic/team/kashimatakehiro.html 選手プロフィール] - JOC * {{Fig|1187}} * {{Olympedia}} {{体操競技オリンピック金メダリスト男子団体総合}} {{JOCスポーツ賞最優秀賞}} {{DEFAULTSORT:かしま たけひろ}} [[Category:日本の男子体操競技選手]] [[Category:日本のオリンピック金メダリスト]] [[Category:日本のオリンピック銀メダリスト]] [[Category:日本のオリンピック銅メダリスト]] [[Category:体操競技のオリンピックメダリスト]] [[Category:オリンピック体操日本代表選手]] [[Category:日本のアジア競技大会銅メダリスト]] [[Category:アジア競技大会体操日本代表選手]] [[Category:順天堂大学出身の人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:1980年生]] [[Category:存命人物]]
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土屋昌巳
土屋 昌巳(つちや まさみ、1952年8月22日 - )は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー、ギタリスト。 ロックバンドである一風堂のリーダーおよびボーカル、ギターを担当、「すみれ September Love」 (1982年)のヒットで知られる。一風堂の活動休止後はソロ活動において「スターライト・シャワー」(1984年)や「東京バレエ」(1985年)などの楽曲をリリース。1990年代以降はロックバンドであるTHE BLANKEY JET CITYやGLAYのプロデュースを手掛ける。静岡県富士市出身、血液型はAB型。 1952年8月22日に生誕。静岡県富士市の出身。 姉と共に幼少期よりクラシックピアノを習わされたが好きではなかった。ロックやギターに興味を持つも、父親の強い反対を受け、深夜に自宅の屋上でこっそり練習を重ねる毎日であった。その後、地元で開かれた数々のギターコンクールで優勝するなど、ギターテクニックに磨きをかけていき15歳で家出。 ボブ・ディランの「窓からはい出せ」のタイトルの通り、文字通り風呂の窓からはい出し、1969年(昭和44年)に上京。年齢を偽りザ・ゴールデン・カップスのバンドボーイを勤めるも、ほどなく家族に連れ戻される。 日本大学芸術学部放送学科入学を機に再度上京。初めてのアルバイトで購入したヴィンテージ・ギターを校庭で弾いていたところを、斉藤ノブに声をかけられ、以来音楽の世界で身を立てることとなる。本人も「僕が音楽業界に入るきっかけを作ってくれたのはノブちゃん」の通り、この出会いが土屋の運命を大きく変える事になる。 1970年代に入ってからはスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。りりィのバックバンド「バイバイ・セッション・バンド」、大橋純子のバックバンド「美乃家セントラル・ステイション」を経て、1978年に見岳章、藤井章司、平田謙吾らと「一風堂」を結成し、1984年まで活動。イギリスのバンド・ジャパンのワールドツアーにサポートメンバーとして参加したことがある。それを機に1985年には同じイギリスのバンド・デュラン・デュランのサイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラーが結成したアーケイディアのレコーディングにも参加。その後ソロに転じ5枚のアルバムを発表。 1990年1月1日よりロンドンに移住。1990年代はTHE WILLARD、BLANKEY JET CITY、マルコシアス・バンプのプロデュースを次々と手掛ける。その後LUNA SEAのギタリスト・SUGIZOの勧めで再びソロアーティストとしても復帰した。 2001年には佐久間正英の呼びかけで屋敷豪太、ミック・カーン、ビビアン・スーと共にThe d.e.pを結成。アルバム1枚とシングル2枚をリリースした他、単独ライブやGLAYのライブへゲスト出演している。 2008年3月、加藤和彦、小原礼、屋敷豪太、ANZAとVITAMIN-Q featuring ANZA結成。12月にアルバムをリリース。2007年9月、ロック・フェスティバル「BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE」にソロ名義で出演。スティーヴ エトウ、TOKIE、ひぐちしょうこがバックを務めた。 2013年11月に15年振りに自身主宰のレーベルよりソロ・アルバムを発表。 2019年、吉川晃司の35周年記念ツアーにギタリストとして参加するも、演奏スタイルの違いから途中離脱することとなった。 ロンドンでは約14年間生活したが、移住当初は、受けた仕事がなかなか収入に結びつかなかったり、外国人という理由で銀行口座を開くことさえ容易ではないなど、文化・風習の違いに苦労した。 2003年12月にロンドンより帰国、以後日本に生活の場を移す。愛猫はKIKIという名前。ギターラボのインタビューでは、「自分はインターネットはやらない」と否定的なコメントをしていたが、2011年8月22日からFacebookを開設。定期的に更新している。 自身のFacebookやインタビューなどで「20代のころからベジタリアンになった」「お酒は30代の頃に既に止めているが、タバコだけは止められない。」と記載している。 一風堂時代は身長174cm、体重は44 - 47kgと非常にスリムな体型で、還暦を過ぎた現在でもデビュー当時と体型は変わっていない。 一風堂時代から担当楽器は基本的にはギターだが、ベース、キーボード、ドラムなども担当している。 2013年6月、新たなロックバンドKA.F.KAを結成、配信音源発表。 初ライブは京都のライブハウス「磔磔」にて行われた金子マリ主催イベント。このため急遽集結されたバンドであったと言われている(KenKenはこのライヴのみ参加)。 2014年1月、東京でお披露目となるライブが行われ、バンドとしてのオリジナル曲を一曲も持たない状況で行われた前代未聞のデビューライブであった。 2015年6月28日、LUNA SEA主催『LUNATIC FEST.』に出演。
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土屋 昌巳は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー、ギタリスト。 ロックバンドである一風堂のリーダーおよびボーカル、ギターを担当、「すみれ September Love」 (1982年)のヒットで知られる。一風堂の活動休止後はソロ活動において「スターライト・シャワー」(1984年)や「東京バレエ」(1985年)などの楽曲をリリース。1990年代以降はロックバンドであるTHE BLANKEY JET CITYやGLAYのプロデュースを手掛ける。静岡県富士市出身、血液型はAB型。
{{別人|土谷正実|土屋匡美|x1=[[同音異字]]のオウム真理教の幹部|x2=[[藤子・F・不二雄]]の長女}} {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> |名前 = 土屋 昌巳 |画像 = |画像説明 = |画像サイズ = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色 = maker<!-- singer/group/bandなど --> |出生名 = 土屋昌巳<!-- 個人のみ --><!-- 本名が公表されている場合のみ記入 --> |別名 = ツッチー |出生 = <!-- 個人のみ -->{{生年月日と年齢|1952|8|22}} |出身地 = {{JPN}}・[[静岡県]][[富士市]] |死没 = <!-- 個人のみ --> |学歴 = <!-- 個人のみ --> |ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]|[[電子音楽|エレクトロニック]]|[[ポップ・ミュージック]]|[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]|[[アバンギャルド]]|[[テクノポップ]]|[[実験音楽]]|[[オルタナティブ・ロック]]|[[環境音楽|アンビエント]]|[[ポップ・ロック]]|[[インテリジェント・ダンス・ミュージック|IDM]]|[[アート・ロック]]|[[ファンク]]}} |担当楽器 = <!-- 個人のみ -->{{Hlist-comma|[[歌手|ボーカル]]|[[ギター]]}} |職業 = <!-- 個人のみ -->{{Hlist-comma|[[音楽家|ミュージシャン]]|[[音楽プロデューサー]]|[[ギタリスト]]|[[編曲家]]}} |活動期間 = [[1969年]] - |レーベル = {{Unbulleted list|[[エピックレコードジャパン|EPIC/SONY RECORDS]]|(1979年 - 1989年)|[[ポリドール・レコード|ポリドールK.K.]]|(1997年 - 1998年)|Mazzy Bunny Records|(2013年 - )}} |配偶者 = <!-- 個人のみ --> |著名な家族 = <!-- 個人のみ --> |事務所 = クール・コーポレーション |共同作業者 = [[りりィ|りりィ & バイバイセッションバンド]]、[[大橋純子]] & [[美乃家セントラル・ステイション]]、[[一風堂 (バンド)|一風堂]]、[[ジャパン (バンド)|ジャパン]]、[[アーケイディア]]、[[The d.e.p]]、[[VITAMIN-Q featuring ANZA]]、KA.F.KA |公式サイト = [https://mazzybunnyinc.wixsite.com/masamitsuchiya Masami Tsuchiya Official Web Site] |メンバー = <!-- グループのみ --> |旧メンバー = <!-- グループのみ --> |著名使用楽器 = }} '''土屋 昌巳'''(つちや まさみ、[[1952年]][[8月22日]] - )は、日本の[[シンガーソングライター]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[音楽プロデューサー]]、[[ギタリスト]]。 [[バンド (音楽)|ロックバンド]]である[[一風堂 (バンド)|一風堂]]の[[代表|リーダー]]およびボーカル、ギターを担当、「[[すみれ September Love]]」 ([[1982年]])のヒットで知られる。一風堂の活動休止後はソロ活動において「スターライト・シャワー」([[1984年]])や「東京バレエ」([[1985年]])などの楽曲をリリース。1990年代以降はロックバンドである[[THE BLANKEY JET CITY]]や[[GLAY]]のプロデュースを手掛ける。[[静岡県]][[富士市]][[出身]]、[[ABO式血液型|血液型]]はAB型。 == 概要 == [[1952年]][[8月22日]]に生誕。[[静岡県]][[富士市]]の出身。 姉と共に幼少期より[[クラシック音楽|クラシック]][[ピアノ]]を習わされたが好きではなかった。[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ギター]]に興味を持つも、父親の強い反対を受け、深夜に自宅の屋上でこっそり練習を重ねる毎日であった。その後、地元で開かれた数々のギターコンクールで優勝するなど、ギターテクニックに磨きをかけていき15歳で家出。 [[ボブ・ディラン]]の「[[窓からはい出せ]]」のタイトルの通り、文字通り風呂の窓からはい出し、[[1969年]](昭和44年)に上京。年齢を偽り[[ザ・ゴールデン・カップス]]の[[ローディー|バンドボーイ]]を勤めるも、ほどなく家族に連れ戻される。 [[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]]放送学科入学を機に再度上京。初めてのアルバイトで購入したヴィンテージ・ギターを校庭で弾いていたところを、[[斉藤ノヴ|斉藤ノブ]]に声をかけられ、以来音楽の世界で身を立てることとなる。本人も「僕が音楽業界に入るきっかけを作ってくれたのはノブちゃん」の通り、この出会いが土屋の運命を大きく変える事になる。 [[1970年代]]に入ってからは[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動を開始。[[りりィ]]の[[バックバンド]]「バイバイ・セッション・バンド」、[[大橋純子]]のバックバンド「[[美乃家セントラル・ステイション]]」を経て、[[1978年]]に[[見岳章]]、[[藤井章司]]、[[平田謙吾]]らと「一風堂」を結成し、[[1984年]]まで活動。イギリスのバンド・[[ジャパン (バンド)|ジャパン]]のワールドツアーにサポートメンバーとして参加したことがある。それを機に1985年には同じイギリスのバンド・[[デュラン・デュラン]]のサイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラーが結成した[[アーケイディア]]のレコーディングにも参加。その後[[ソロ (音楽)|ソロ]]に転じ5枚の[[アルバム]]を発表。 [[1990年以後の企業の買収・合併の実績|1990年]]1月1日より[[ロンドン]]に移住。[[1990年代]]は[[THE WILLARD]]、[[BLANKEY JET CITY]]、[[マルコシアス・バンプ]]のプロデュースを次々と手掛ける。その後[[LUNA SEA]]のギタリスト・[[SUGIZO]]の勧めで再びソロアーティストとしても復帰した。 [[2001年]]には[[佐久間正英]]の呼びかけで[[屋敷豪太]]、[[ミック・カーン]]、[[ビビアン・スー]]と共に[[The d.e.p]]を結成。アルバム1枚とシングル2枚をリリースした他、単独ライブや[[GLAY]]のライブへゲスト出演している。 [[2008年]]3月、[[加藤和彦]]、[[小原礼]]、屋敷豪太、[[ANZA]]と[[VITAMIN-Q featuring ANZA]]結成。12月にアルバムをリリース。[[2007年]]9月、[[ロック・フェスティバル]]「[[BUCK-TICK]] FEST 2007 ON PARADE」にソロ名義で出演。[[スティーヴ エトウ]]、[[TOKIE]]、[[ひぐちしょうこ]]がバックを務めた。 2013年11月に15年振りに自身主宰のレーベルよりソロ・アルバムを発表。 2019年、[[吉川晃司]]の35周年記念ツアーにギタリストとして参加<ref>{{cite web|url=http://www.kikkawa.com/information/detail/2860|title=KIKKAWA KOJI 35th Anniversary Live 決定!|date=2018-05-11|work=K2 NET CAST[[[吉川晃司|KIKKAWA KOJI]] OFFICIAL WEB SITE]|accessdate=2020-03-04}}</ref>するも、演奏スタイルの違いから途中離脱することとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kikkawa.com/information/detail/2919|title=KIKKAWA KOJI 35th Anniversary Live サポートミュージシャン変更のお知らせ|date=2019-05-07|work=K2 NET CAST[KIKKAWA KOJI OFFICIAL WEB SITE]|accessdate=2020-03-04}}</ref>。 == 人物 == ロンドンでは約14年間生活したが、移住当初は、受けた仕事がなかなか収入に結びつかなかったり、外国人という理由で銀行口座を開くことさえ容易ではないなど、文化・風習の違いに苦労した。 2003年12月にロンドンより帰国、以後日本に生活の場を移す。愛猫はKIKIという名前。ギターラボのインタビューでは、「自分はインターネットはやらない」と否定的なコメントをしていたが、2011年8月22日からFacebookを開設。定期的に更新している。 自身の[[Facebook]]やインタビューなどで「20代のころから[[ベジタリアン]]になった」「お酒は30代の頃に既に止めているが、[[たばこ|タバコ]]だけは止められない。」と記載している。 一風堂時代は身長174cm、体重は44 - 47kgと非常にスリムな体型で、還暦を過ぎた現在でもデビュー当時と体型は変わっていない。 一風堂時代から担当楽器は基本的にはギターだが、[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]、[[ドラムセット|ドラム]]なども担当している。 == 作品 == === シングル === # スターライト・シャワー ''STARLIGHT SHOWER''(1984年6月1日) # 東京バレエ ''TOKYO BALLET''(1985年7月21日) # さよならフォリナー ''LIKE A FOREIGNER''(1985年9月21日) # レディ・ロキシー ''LADY ROXY''(1989年8月21日) === アルバム === # [[RICE MUSIC]](1982年6月21日) #: [[スティーヴ・ジャンセン]]、[[ミック・カーン]]、[[ビル・ネルソン (ミュージシャン)|ビル・ネルソン]]、[[坂本龍一]]、ナチコ、[[EVE (歌手グループ)|EVE]]参加。 # [[TOKYO BALLET]](1985年6月21日) #: [[井上鑑]]が共同制作。 # [[LIFE IN MIRRORS]](1987年10月21日) #: [[吉田美奈子]]、[[デヴィッド・シルヴィアン]]、ミック・カーン、[[福岡ユタカ]]、[[アンディ・マッケイ]]参加 # [[HORIZON (土屋昌巳のアルバム)|HORIZON]](1988年6月22日) #: [[清水靖晃]]との共同制作。ミック・カーン、デヴィッド・パーマー、福岡ユタカが参加 # [[TIME PASSENGER]](1989年9月1日) #: [[小原礼]]参加 # [[Mod' Fish]](1997年10月1日) #: 清水三恵子、ミック・カーン参加 # [[森の人 Forest People]](1998年10月21日) #: [[櫻井敦司]]、ミック・カーン、[[リチャード・バルビエリ]]参加 # [[Swan Dive]](2013年11月6日) #: [[ISSAY]]、[[ホッピー神山]]、[[宮上元克|MOTOKATSU]]、[[KenKen]]参加 # Privacy(2019年) #: サウンドトラック(新曲2曲収録)付ミニフォトブック === ベスト・アルバム === * VERY BEST〜すみれSeptember Love(1998年4月1日) ** 一風堂の作品も含むベスト・アルバム * ESSENCE:THE BEST OF MASAMI TSUCHIYA(2010年2月24日) ** 一風堂の作品も含むベスト・アルバム == 楽曲参加 == *[[左うでの夢]](1981年10月5日) ** バックコーラス参加 *[[ライフ・イン・トウキョウ・JAPAN・トリビュート・アルバム|Life in Tokyo -a tribute to JAPAN]](1996年9月4日) ** M-9 「Visions Of China」 *Q:Are we ANARCHIST?(1999年6月23日) ** M-5 「改革子供 (Revolution Kids)」 - MASAMI TSUCHIYA featuring KAORI KOGA, SUGIZO & MICK KARN名義。 * [[PARADE〜RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK〜]](2005年12月21日) ** M-4 「[[見えない物を見ようとする誤解 全て誤解だ]]」 * [[LUNA SEA MEMORIAL COVER ALBUM -Re:birth-]](2007年12月19日) ** M-12 「[[LUNA SEA (アルバム)|MOON]]」 *果てしなきグラムロック歌謡の世界(2011年8月3日) ** M-10 「[[花の首飾り]]」 == プロデュースしたアーティスト == * [[THE BLANKEY JET CITY]] * [[GLAY]] * [[キム・ワイルド]] * [[藤井尚之]] * [[小比類巻かほる]] * [[小泉今日子]] * [[THE MODS]] * [[THE MODS#メンバー|森山達也]] * [[杏子 (ミュージシャン)|杏子]] * [[ジャパハリネット]] * [[惑星 (バンド)| 惑星]] * [[三上博史]] * [[SPARKS GO GO]] * [[THE BACK HORN]] * [[マルコシアス・バンプ]] * [[THE WILLARD]] * [[マジック (バンド)|MAGIC]] * [[THE PRIVATES]] * [[中島美嘉]] * [[KAT (歌手)|KAT]] * [[かげぼうし]] * [[山口美央子]] * [[THE YELLOW MONKEY]] * [[THE NOVEMBERS]] == 楽曲を提供したアーティスト == * [[岩崎宏美]] * [[大橋純子]] * [[藤井フミヤ]] * [[濱田マリ]] * [[根津甚八 (俳優)|根津甚八]] * [[内海和子]] * [[沢田研二]] * [[陣内孝則]] * [[櫻井敦司]] * [[YOU (タレント)|YOU]] * [[SHAZNA]] * == 出演 == === テレビ番組 === *TOKIO ロック TV(1983年 - 1987年、[[テレビ東京]]) - 司会を担当。 *[[夕やけニャンニャン]](1985年 - 1987年、[[フジテレビ系列]]) - 「ツッチーホラーショー」のコーナーを担当。 === 映画 === * [[沙耶のいる透視図]](1986年、[[アスミック・エース|ヘラルド・エース]]) * ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム(2004年、[[アルタミラピクチャーズ]]) === ドラマ === * 天女の涙(1986年、TBS) === 舞台 === * ショート・アイズ(1985年) === CM === * [[三菱電機]]「[[ダイヤトーン]] ロボティ」(1983年 -1984年) == KA.F.KA == [[2013年]][[6月]]<ref name=official>[https://mazzybunnyinc.wixsite.com/masamitsuchiya#!kafka/cj4u 土屋昌巳Official | Masami Tsuchiya Official]</ref>、新たなロックバンド'''KA.F.KA'''を結成、配信音源発表。<!-- オフィシャルサイトの記述は「結成」となっているが、引用元記事の通り2月には結成されていた。現メンバーでの音源発表日をもって「結成」と表現していると推察される --> 初ライブは京都のライブハウス「磔磔」にて行われた[[金子マリ]]主催イベント。このため急遽集結されたバンドであったと言われている(KenKenはこのライヴのみ参加)。 [[2014年]][[1月]]<ref name=official>[https://mazzybunnyinc.wixsite.com/masamitsuchiya#!kafka/cj4u 土屋昌巳Official | Masami Tsuchiya Official]</ref>、東京でお披露目となるライブが行われ、バンドとしてのオリジナル曲を一曲も持たない状況で行われた前代未聞のデビューライブであった。 [[2015年]][[6月28日]]、[[LUNA SEA]]主催『[[LUNATIC FEST.]]』に出演。 === メンバー === *'''[[ISSAY]]''' - Vocal([[DER ZIBET]]) *'''土屋昌巳''' - Guitar,Vocal *'''[[ウエノコウジ]]''' - Bass([[the HIATUS]]、ex.[[THEE MICHELLE GUN ELEPHANT|TMGE]]) *'''[[宮上元克]]''' - Drums(ex.[[THE MAD CAPSULE MARKETS]]) *'''[[森岡賢]]''' - Keyboards([[minus(-)]]、ex.[[SOFT BALLET|ソフトバレエ]]) ==== 元メンバー ==== *[[KenKen]] - Bass([[RIZE]]) === ディスコグラフィー === *KA.F.KA(2曲入り配信シングル)2014/6/11 #The Prisoner #Silent Party *Fantome † Noir (CDアルバム) 2015/5/9 #Jack The Midnight #The Prisoner #夜明け前~Before the Dawn~ #Labiera Beladen #Silent Party #Coyote === ライヴ(イベント含む) === *2013年4月6日 - 『たっぷり金子な7日間』の6日目<ref>{{Cite web|和書|title=土屋昌巳の新ユニット「KA.F.KA」に森岡賢、KenKenら|date=2013年2月22日|url=https://natalie.mu/music/news/85413|publisher= [[音楽ナタリー]]|accessdate=2015-05-19}}</ref>([[京都]]磔磔)w/ [[金子マリ]] presents 5th Element Will *2014年1月30日 - 『Fantome † Noir episode Un』([[WWW (ライブハウス)|渋谷WWW]])w/ Der Zibet *2014年4月11日 - 『Fantome † Noir episode deux』(渋谷WWW)w/ [[ホッピー神山]] *2014年11月23日 - 『Fantôme † Noir épisode trois』([[渋谷]][[CLUB QUATTRO#店舗|クラブクアトロ]])w/ SUGIZO<ref>{{Cite web|和書|title=【ライブレポート】SUGIZO、土屋昌巳率いるKA.F.KAと共演「僕の親友です」|date=2014年12月21日|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000110946|publisher= [[BARKS]]音楽ニュース|accessdate=2015-05-19}}</ref>。 *2015年6月28日 - 『[[LUNATIC FEST.]]』2日目([[幕張メッセ]]) *2015年8月23日 - 『[[ワールド・ハピネス|WORLD HAPPINESS 2015]]』([[夢の島公園陸上競技場]])。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[一風堂 (バンド)|一風堂]] * [[VITAMIN-Q featuring ANZA]] == 外部リンク == * [https://mazzybunnyinc.wixsite.com/masamitsuchiya Masami Tsuchiya Official Web Site] * [https://web.archive.org/web/20210913105351/http://www.ne.jp/asahi/masami/london/ 土屋昌巳HP M's Reflexion] * {{facebook|masami.nightwalker|Masami Tsuchiya 土屋昌巳}} * {{twitter|tsuchiya_masami|土屋昌巳 Masami Tsuchiya}} * [https://web.archive.org/web/20160622034624/http://topic.auctions.yahoo.co.jp/music/guitarlabo/tsuchiya/ ギターラボ 土屋昌巳インタビュー] * {{Discogs artist|58970|name=Masami Tsuchiya|ディスコグラフィー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:つちや まさみ}} [[Category:1952年生]] [[Category:エピックレコードジャパンのアーティスト]] [[Category:在イギリス日本人]] [[Category:菜食主義者]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:日本の編曲家]] [[Category:日本のポップ・ミュージシャン]] [[Category:日本のロック・ギタリスト]] [[Category:日本のロック・ミュージシャン]] [[Category:日本大学出身の人物]]
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閩語
閩語(びんご)は、中国語の七大方言の一つであり、シナ・チベット語族、シナ語派の言語の一つあるいは一群である。中華人民共和国の福建省、広東省東部及び西南部、海南省、浙江省南部、中華民国、シンガポール共和国、マレーシア、タイ及び各国の華僑・華人の一部の間で使用される。中でも福建省が主地域であるため(広義の)福建語と呼ばれることもある。推定使用人口は7000万人程度である。閩語の各方言の差異は大きく、しばしば会話に支障がでるため、別々の言語とすることもある。中国政府の北京語普及政策のもとで、広東語・上海語・モンゴル語・朝鮮語・ウイグル語などの言語と共に危機に瀕している。 中国のシナ語派の諸言語は、国単位での分布があること、同系の共通語である普通話が存在すること、漢字という共通の正書法が存在することなどから、伝統的には中国語(漢語)という単一言語とし、各言語を十大方言もしくは七大方言として扱ってきた。 しかし、近年、タイ・カダイ語族、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族など近縁、近隣の言語集団との対照研究や考古学、人類学などとの学際的研究も進んだ結果、閩語、粤語、呉語など、かつて方言とされたものが、口頭言語としては互いに通じないばかりでなく、その違いが基層言語の違いであることも判明し、ゲルマン語派内の相互の違いに匹敵することから、単一言語ではなく、複数言語の集合体と考えるのが、海外の学者の間では一般的になった(王育徳、橋本萬太郎、諏訪哲郎、 Oi-kan Yue-Hashimoto, ジェリー・ノーマン、ポール・K・ベネディクトなど)。そしてこの集合体を漢語諸語(シナ諸語)という名前で呼ぶ場合もある。(百越語も参照) この中で、閩語(広義の福建語)とその他の漢語諸語(中国語の方言)との隔たりは大きい。王育徳の研究 (1960) によれば、閩南語アモイ方言の場合では、スワデッシュの基礎単語200語で比較した場合、北京語との類似性(同源語)は 48.9% に過ぎず、これはドイツ語と英語の 58.5% よりも少ない、つまり遠い。また、呉語蘇州話とでは 51.40% 、広東語とでは 55.31% 、比較的近い客家語とでも 58.65% しか類似性はない。中華人民共和国の言語学者の研究(鄧曉華、李如龍、倪大白など)でも、漢語が単一の言語ではなく、特に広義の福建語がその中でも特異な性質を持っていることが指摘されている。 また、広義の福建語はさらに主に5方言に分かれ、他に明確に分類できない2方言グループがある。これらは、たとえ語彙が同じでも発音の差が大きく、一般に相互に通じないとされる。このため別々の言語とすることもある。 閩南語は、福建省以外でも話されており、広東省の東部沿岸で話される潮州語、広東省西南部の雷州語(海南語、潮州語と近い)、海南省で話される海南語、浙江省南部で話される浙南閩語がある。 また、閩東語に属し、浙江省南部で話される蛮講などがある。 逆に、福建省西部の長汀、上杭、連城、武平、永定、寧化、清流などでは、客家語が用いられており、南平には北方方言の方言島がある。 福建は早い時期に百越族の七閩部落の地となった。春秋時代には越国に服属した。戦国時代後期には、越国が楚国に滅ぼされ、越国の王族は、逃げ延びた現在の福建省内で閩越国を建立した。その地の原住民と融合し、古代閩越語が形成された。これは現代のタイ・カダイ語族との間に一定の類縁関係があり、現代の閩語の各言語内には古代閩越語の語彙成分が保存されている。このことは言語学界の共通認識となっている。比較言語学的手法により、現代の閩語の底層語彙にタイ・カダイ語族の語彙が含まれていることが判明している。例えば、閩贛語(邵将語)の白読では、「人」(男性)を「倽」(「sa˨˨」または「ʃa˨˨」)と言うが、これはチワン語で同じ意味の単語「sai」に類似している。武夷山には「拿口」「拿坑」という地名があるが、この「拿」(ná)はタイ・カダイ語族では「田」の意味があり、チワン語の発音は「naz」となる。閩語・客家語・粵語(広東語)には「有音無字」(文字がなく音のみの単語)の語彙が大量に存在するが、これはタイ・カダイ語族から受け継がれて保存された底層語彙である。 紀元前110年、閩越国が漢の武帝に滅ぼされると、閩越族の人々は長江・淮河の一帯へと大量に移り住んで定住した。福建の地は空白地帯となり、漢王朝の軍駐屯地が置かれるのみとなった。この駐屯軍は主に広東の呉の人々と江西の楚の人々で構成されていたため、彼らの母語である古代呉語と古代楚語(古代湘語)が福建地方に持ち込まれ、閩越語の要素と融合して最終的に原始閩語が形成された。現代の閩語の各分支の常用語彙に、古代呉語と古代楚語の成分が多かれ少なかれ保存されているのは、この歴史的経緯によるものである。 西晋の末年に永嘉の乱(311年)が発生し、災禍を逃れた中原の漢民族が福建の地へと大量に移り住んだ。この結果、晋安郡では人口が激増し、歴史上、「八姓入閩」(漢族の代表的な八つの姓の人々が閩へ移入した)と呼ばれる現象が進行した。この移民たちは中原漢語の音素を豊富に持ち込み、唐の時代には、科挙制度の影響から、切韻の音韻体系が福建にもたらされた。唐末の五代十国時代(907年-979年)になると、歴史上重要な中原人の移動の波が福建を襲った。すでに669年には陳政・陳元光の父子が軍を率いて河南の固始県の地から福建に攻め入り、漳州を分離・独立させ、閩南(福建南部)での発展の礎を築いていたが、唐末の9世紀後半、固始県の王潮と王審知(初代閩王)が軍を率いて福建に攻め入ると、909年に福州(閩東)に閩国が建立され、40年余り割拠した(945年まで)。閩国の末期には、最後の閩王・王延政が閩北の建州(現在の南平市、建甌市)を占領し、殷王と称して自立し、福州(閩東)の閩国と対等の地位を築いた。これらの歴史的・政治的事象が閩語の歴史上、重大にして深甚な影響を及ぼした。 閩語支の主な通用地域である福建地区は山が多く、交通は不便で、「十里不同音」(10里離れると言語が違う)と呼ばれていた。閩語の祖語である原始閩語は、上古漢語、もしくは、中古漢語から分化したものであるが、これは巴蜀語(絶滅した四川の言語)の形成過程と非常によく似ている。原始閩語がいつの時代から分化を開始し、相互の意思疎通が不可能なまでに分かれたのかは、現代の言語学界でも大きな論争のテーマとなっている。『集韻』の言語音の分析によれば、閩語が分化を開始した時期は宋朝の初年よりも前であり、当時すでに、建州(閩北)、福州(閩東)、泉州(閩南)の三つの地方の方言には明瞭な差異が発生していた。言語学者の李如龍(中国語版)は、閩語各言語の分化の時期は唐末の五代の時代であるとしている。 この後の時代には、たびたび戦争が発生して人口の大規模な移転があったため、とりわけ閩北語の使用地域(建州)では大きな変化が見られた。呉語の話者が移り住んだ閩北の浦城県では言語の呉語化が進んだ。贛語の話者が移り住んだ邵武軍(現在の邵武・将楽の一帯)では客語化と贛語化が進行した。閩南人が客家人とともに移り住んだ沙渓の一帯では、その言語が閩北語と接触して閩中語を形成した。興化府の地域(現在の莆田市)は省の中心地・福州(閩東)との交通往来が活発だったため、その土地の閩東語の要素を大幅に吸収して莆仙語を形成した。このようにして閩東・閩南・閩北・閩中・莆仙の5つの地域の違いが徐々に際立つようになり、それぞれに独自の特徴を持つ言語が形成されていった。 明・清の時代には、大量の閩南人が船に乗って浙江南部、広東南部、海南島、台湾にまで移住したため、閩南語が沿海地方の各地にまで伝播し、その各地で現在見られる各地域の言語状況が形成されるに至った。また、少なからず福建人移民が海外の東南アジアなどに移民として移り住んだため、東南アジア諸国に閩語の各分支を話す人々が相当数に渡って広がる結果となった。 閩地方(福建地方)のうちで、北部(閩北)では古来、「十里不同音」と呼ばれていたように、山を一つ隔てれば相互に対話できなくなるほど言語の違いが大きかったが、沿海地方では、交通が便利で交流が活発だったことと、官話の影響を受けたことから、相互理解の程度はかなり高い。 閩南地区の泉州・廈門・漳州・台湾で使用される「泉漳話」(泉漳語)は、東南アジアの閩南語(閩台片)と意思疎通が可能であり、潮汕地区の潮州話(閩南語の一分支)との間でも、一定程度の相互理解が可能である。使用人口が非常に多い上に分布の範囲も広大な地域に及ぶため、その影響力も閩語の分支のうちではひときわ大きなものとなっている。 福州話(福州語、閩東語)は福州(福州の十邑)と海外(東南アジア、日本、北米)の福州人コミュニティーの間で意思疎通が可能な他、近隣の福安話に対しても一定程度の類似性があるものの、閩南語とは相互理解が不可能である。 各地の方言の発音を構成する要素の数には下記のような違いがある。 発音の差を除いても、下記の例の様な語彙の差が多くみられ、意思疎通の障害となっている。
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閩語(びんご)は、中国語の七大方言の一つであり、シナ・チベット語族、シナ語派の言語の一つあるいは一群である。中華人民共和国の福建省、広東省東部及び西南部、海南省、浙江省南部、中華民国、シンガポール共和国、マレーシア、タイ及び各国の華僑・華人の一部の間で使用される。中でも福建省が主地域であるため(広義の)福建語と呼ばれることもある。推定使用人口は7000万人程度である。閩語の各方言の差異は大きく、しばしば会話に支障がでるため、別々の言語とすることもある。中国政府の北京語普及政策のもとで、広東語・上海語・モンゴル語・朝鮮語・ウイグル語などの言語と共に危機に瀕している。
{{Pathnav|シナ・チベット語族|シナ語派|中国語|frame=1}} {{Chinese | t = 閩語 | s = 闽语 | poj = Bân gú | buc = {{unicode|Mìng ngṳ̄}} | p = Mǐn Yǔ | w = Min<sup>3</sup> Yü<sup>3</sup> }} {{語族 |name=閩語 |region= [[東アジア]]({{CHN}}、{{ROC-TW}})<br />[[東南アジア]]({{SGP}}<br />{{MYS}}<br />{{THA}})<br />[[北アメリカ]]({{USA}}) |familycolor=Sino-Tibetan |fam2=[[シナ語派]] |fam3=[[中国語]] |children = {{仮リンク|沿海閩語|zh|沿海閩語}}: |child1= [[閩東語]] |child2= [[莆仙語]] |child3= [[閩南語]] |child4= [[瓊雷語]]([[海南語]]・[[雷州語]]) {{仮リンク|沿山閩語|zh|沿山閩語}}: |child5= [[閩北語]] |child6= [[閩中語]] |child7= [[閩贛語]] |iso5= |map=[[File:Idioma min.png|260px]] |map_caption=閩語の分布図 }} '''閩語'''(びんご)は、[[中国語]]の七大方言の一つであり、[[シナ・チベット語族]]、[[シナ語派]]の[[言語]]の一つあるいは一群である。[[中華人民共和国]]の[[福建省]]、[[広東省]]東部及び西南部、[[海南省]]、[[浙江省]]南部、[[中華民国]]、[[シンガポール共和国]]、[[マレーシア]]、[[タイ王国|タイ]]及び各国の[[華僑]]・[[華人]]の一部の間で使用される。中でも福建省が主地域であるため(広義の)'''福建語'''と呼ばれることもある。推定使用人口は7000万人程度である。閩語の各[[方言]]の差異は大きく、しばしば会話に支障がでるため、別々の言語とすることもある。中国政府の北京語普及政策のもとで、広東語・上海語・モンゴル語・朝鮮語・ウイグル語などの言語と共に危機に瀕している<ref>{{Cite web|和書|title=中国・四川省の少女が「北京語」をうまく話せず号泣する動画が物議…海外の中国系住民「文化的ジェノサイド」=台湾報道(WoW!Korea)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/a886fa1d13db262b2e82729823e044f39398cbb7|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-11-11|language=ja}}</ref>。 ==系統== 中国のシナ語派の諸言語は、国単位での分布があること、同系の[[共通語]]である[[北京語|普通話]]が存在すること、[[漢字]]という共通の[[正書法]]が存在することなどから、伝統的には[[中国語]](漢語)という単一言語とし、各言語を十大[[方言]]もしくは七大方言として扱ってきた。 しかし、近年、[[タイ語|タイ・カダイ語族]]、ミャオ・ヤオ諸語、[[オーストロアジア語族]]、[[オーストロネシア語族]]など近縁、近隣の言語集団との対照研究や考古学、人類学などとの学際的研究も進んだ結果、閩語、[[粤語]]、[[呉語]]など、かつて方言とされたものが、口頭言語としては互いに通じないばかりでなく、その違いが[[基層言語]]の違いであることも判明し、[[ゲルマン語派]]内の相互の違いに匹敵することから、単一言語ではなく、複数言語の集合体と考えるのが、海外の学者の間では一般的になった([[王育徳]]、[[橋本萬太郎]]、[[諏訪哲郎]]、 Oi-kan Yue-Hashimoto, [[ジェリー・ノーマン]]、[[ポール・K・ベネディクト]]など)。そしてこの集合体を漢語諸語(シナ諸語)という名前で呼ぶ場合もある。([[百越語]]も参照) この中で、閩語(広義の福建語)とその他の漢語諸語(中国語の方言)との隔たりは大きい。王育徳の研究 (1960) によれば、[[閩南語]][[廈門市|アモイ]]方言の場合では、[[スワデシュ・リスト|スワデッシュの基礎単語200語]]で比較した場合、[[北京語]]との類似性(同源語)は 48.9% に過ぎず、これは[[ドイツ語]]と[[英語]]の 58.5% よりも少ない、つまり遠い。また、[[呉語]]蘇州話とでは 51.40% 、[[広東語]]とでは 55.31% 、比較的近い[[客家語]]とでも 58.65% しか類似性はない。中華人民共和国の言語学者の研究(鄧曉華、李如龍、倪大白など)でも、漢語が単一の言語ではなく、特に広義の福建語がその中でも特異な性質を持っていることが指摘されている。 また、広義の福建語はさらに主に5方言に分かれ、他に明確に分類できない2方言グループがある。これらは、たとえ語彙が同じでも発音の差が大きく、一般に相互に通じないとされる。このため別々の言語とすることもある。 *[[閩北語]] - 建甌、松渓、政和、建陽、崇安など *[[閩東語]] - [[福州語|福州]]、福清、古田、福安、蛮講など *[[莆仙語]] - 莆田、仙游など *[[閩南語]] - 廈門、泉州、漳州、竜岩、[[潮州語|潮州]]、雷州、海豊、海口、台湾など *[[閩中語]] - [[永安市|永安]]、三明、沙県など *大田土語、尤渓土語 - 大田、尤渓。上記5方言に囲まれた山間地域で、分類が困難。 *[[閩贛語]] - 邵武、光沢、将楽、泰寧、建寧。[[江西省]]の[[贛語]]との混合方言。さらに、順昌、明渓は、閩、贛、[[客家語|客家]]の三方言が混合した過渡的方言とされる。 閩南語は、福建省以外でも話されており、広東省の東部沿岸で話される[[潮州語]]、広東省西南部の[[雷州語]](海南語、潮州語と近い)、[[海南省]]で話される[[海南語]]、浙江省南部で話される浙南閩語がある。 また、閩東語に属し、浙江省南部で話される蛮講などがある。 逆に、福建省西部の長汀、上杭、連城、武平、永定、寧化、清流などでは、[[客家語]]が用いられており、南平には[[北方方言]]の方言島がある。 ==歴史== 福建は早い時期に[[百越|百越族]]の七閩部落の地となった。[[春秋時代]]には[[越|越国]]に服属した。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]後期には、越国が[[楚 (春秋)|楚国]]に滅ぼされ、越国の王族は、逃げ延びた現在の福建省内で[[閩越|閩越国]]を建立した。その地の原住民と融合し、古代閩越語が形成された。これは現代のタイ・カダイ語族との間に一定の類縁関係があり、現代の閩語の各言語内には古代閩越語の語彙成分が保存されている。このことは言語学界の共通認識となっている。比較言語学的手法により、現代の閩語の底層語彙にタイ・カダイ語族の語彙が含まれていることが判明している。例えば、閩贛語(邵将語)の白読では、「人」(男性)を「倽」(「sa˨˨」または「ʃa˨˨」)と言うが、これは[[チワン語]]で同じ意味の単語「sai」に類似している。武夷山には「拿口」「拿坑」という地名があるが、この「拿」(ná)はタイ・カダイ語族では「田」の意味があり、チワン語の発音は「naz」となる。閩語・客家語・粵語(広東語)には「[[有音無字]]」(文字がなく音のみの単語)の語彙が大量に存在するが、これはタイ・カダイ語族から受け継がれて保存された底層語彙である。 紀元前110年、閩越国が[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]に滅ぼされると、閩越族の人々は[[長江]]・[[淮河]]の一帯へと大量に移り住んで定住した。福建の地は空白地帯となり、漢王朝の軍駐屯地が置かれるのみとなった。この駐屯軍は主に広東の呉の人々と江西の楚の人々で構成されていたため、彼らの母語である古代呉語と古代楚語(古代湘語)が福建地方に持ち込まれ、閩越語の要素と融合して最終的に原始閩語が形成された。現代の閩語の各分支の常用語彙に、古代呉語と古代楚語の成分が多かれ少なかれ保存されているのは、この歴史的経緯によるものである。 [[西晋]]の末年に[[永嘉の乱]](311年)が発生し、災禍を逃れた中原の漢民族が福建の地へと大量に移り住んだ。この結果、[[晋安郡]]では人口が激増し、歴史上、「八姓入閩」(漢族の代表的な八つの姓の人々が閩へ移入した)と呼ばれる現象が進行した。この移民たちは中原漢語の音素を豊富に持ち込み、[[唐]]の時代には、[[科挙]]制度の影響から、[[切韻]]の音韻体系が福建にもたらされた。唐末の[[五代十国時代]](907年-979年)になると、歴史上重要な中原人の移動の波が福建を襲った。すでに669年には[[陳政]]・[[陳元光]]の父子が軍を率いて河南の[[固始県]]の地から福建に攻め入り、[[漳州]]を分離・独立させ、閩南(福建南部)での発展の礎を築いていたが、唐末の9世紀後半、固始県の[[王潮]]と[[王審知]](初代閩王)が軍を率いて福建に攻め入ると、909年に福州(閩東)に[[閩|閩国]]が建立され、40年余り割拠した(945年まで)。閩国の末期には、最後の閩王・[[王延政]]が閩北の建州(現在の[[南平市]]、[[建甌市]])を占領し、殷王と称して自立し、福州(閩東)の閩国と対等の地位を築いた。これらの歴史的・政治的事象が閩語の歴史上、重大にして深甚な影響を及ぼした。 閩語支の主な通用地域である福建地区は山が多く、交通は不便で、「十里不同音」(10里離れると言語が違う)と呼ばれていた。閩語の祖語である原始閩語は、上古漢語、もしくは、中古漢語から分化したものであるが、これは[[巴蜀語]](絶滅した四川の言語)の形成過程と非常によく似ている。原始閩語がいつの時代から分化を開始し、相互の意思疎通が不可能なまでに分かれたのかは、現代の言語学界でも大きな論争のテーマとなっている。『[[集韻]]』の言語音の分析によれば、閩語が分化を開始した時期は[[宋 (王朝)|宋]]朝の初年よりも前であり、当時すでに、建州(閩北)、福州(閩東)、泉州(閩南)の三つの地方の方言には明瞭な差異が発生していた。言語学者の{{仮リンク|李如龍|zh|李如龙}}は、閩語各言語の分化の時期は唐末の五代の時代であるとしている。 この後の時代には、たびたび戦争が発生して人口の大規模な移転があったため、とりわけ閩北語の使用地域(建州)では大きな変化が見られた。呉語の話者が移り住んだ閩北の[[浦城県]]では言語の呉語化が進んだ。贛語の話者が移り住んだ{{仮リンク|邵武軍|zh|邵武軍}}(現在の[[邵武]]・[[将楽]]の一帯)では客語化と贛語化が進行した。[[閩南人]]が[[客家|客家人]]とともに移り住んだ[[沙渓]]の一帯では、その言語が閩北語と接触して閩中語を形成した。[[興化府]]の地域(現在の[[莆田市]])は省の中心地・福州(閩東)との交通往来が活発だったため、その土地の閩東語の要素を大幅に吸収して[[莆仙語]]を形成した。このようにして閩東・閩南・閩北・閩中・莆仙の5つの地域の違いが徐々に際立つようになり、それぞれに独自の特徴を持つ言語が形成されていった。 明・清の時代には、大量の閩南人が船に乗って[[浙江省|浙江]]南部、[[広東省|広東]]南部、[[海南島]]、[[台湾]]にまで移住したため、閩南語が沿海地方の各地にまで伝播し、その各地で現在見られる各地域の言語状況が形成されるに至った。また、少なからず福建人移民が海外の東南アジアなどに移民として移り住んだため、東南アジア諸国に閩語の各分支を話す人々が相当数に渡って広がる結果となった。 ==差異== 閩地方(福建地方)のうちで、北部(閩北)では古来、「十里不同音」と呼ばれていたように、山を一つ隔てれば相互に対話できなくなるほど言語の違いが大きかったが、沿海地方では、交通が便利で交流が活発だったことと、官話の影響を受けたことから、相互理解の程度はかなり高い。 閩南地区の泉州・廈門・漳州・台湾で使用される「泉漳話」(泉漳語)は、東南アジアの閩南語(閩台片)と意思疎通が可能であり、潮汕地区の潮州話(閩南語の一分支)との間でも、一定程度の相互理解が可能である。使用人口が非常に多い上に分布の範囲も広大な地域に及ぶため、その影響力も閩語の分支のうちではひときわ大きなものとなっている。 福州話(福州語、閩東語)は福州(福州の十邑)と海外(東南アジア、日本、北米)の福州人コミュニティーの間で意思疎通が可能な他、近隣の福安話に対しても一定程度の類似性があるものの、閩南語とは相互理解が不可能である。 == 発音 == 各地の方言の発音を構成する要素の数には下記のような違いがある。 {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center" |+ '''音素対照表''' |- ! rowspan=3 |音素 ! colspan=9 |閩語(広義の福建語) ! rowspan=3 |[[贛語]]<BR>([[南昌市|南昌]]) ! rowspan=3 |[[客家語]]<BR>([[梅州市|梅州]]) ! rowspan=3 |[[広東語]]<BR>([[広州市|広州]]) ! rowspan=3 |[[北京語]]<BR>([[北京市|北京]]) |- |- ! rowspan=2 |[[閩東語]]<BR>([[福州市|福州]]) ! rowspan=2 |[[莆仙語]]<BR>([[莆田市|莆田]]) ! colspan=3 |(広義の)[[閩南語]] ! rowspan=2 |[[閩北語]]<BR>([[建甌市|建甌]]) ! rowspan=2 |[[閩中語]]<BR>([[永安市|永安]]) ! rowspan=2 |大田土語<BR>([[大田県|大田]]) ! rowspan=2 |[[閩贛語]]<BR>([[邵武市|邵武]]) |- ! [[閩南語]]<BR>([[泉州市|泉州]]) ! [[潮州語]]<BR>([[汕頭市|汕頭]]) ! [[海南語]]<BR>([[海口市|海口]]) |- ! [[声母]]数 | 15 | 15 | 14 | 18 | 16 | 17 | 15 | 15 | 20 | 19 | 18 | 18 | 22 |- ! [[韻母]]数 | 46 | 40 | 76 | 85 | 46 | 41 | 34 | 36 | 46 | 65 | 76 | 68 | 40 |- ! [[声調]]数 | 7 | 8 | 7 | 8 | 8 | 6 | 6 | 7 | 6 | 7 | 6 | 9 | 4 |} == 語彙 == 発音の差を除いても、下記の例の様な語彙の差が多くみられ、意思疎通の障害となっている。 {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center" |+ '''語彙対照表''' |- ! rowspan=4 |類型 ! colspan=11 |[[シナ語派]]([[中国語|広義の中国語]]) ! rowspan=4 |[[日本語]]<BR>([[東京都|東京]]) |- |- ! colspan=7 |閩語(広義の福建語) ! rowspan=3 |[[贛語]]<BR>([[南昌市|南昌]]) ! rowspan=3 |[[客家語]]<BR>([[梅州市|梅州]]) ! rowspan=3 |[[広東語]]<BR>([[広州市|広州]]) ! rowspan=3 |[[北京語]]<BR>([[北京市|北京]]) |- |- ! rowspan=2 |[[閩東語]]<BR>([[福州市|福州]]) ! rowspan=2 |[[莆仙語]]<BR>([[莆田市|莆田]]) ! colspan=3 |(広義の)[[閩南語]] ! rowspan=2 |[[閩北語]]<BR>([[建甌市|建甌]]) ! rowspan=2 |[[閩中語]]<BR>([[永安市|永安]]) |- ! [[閩南語]]<BR>([[泉州市|泉州]]) ! [[潮州語]]<BR>([[汕頭市|汕頭]]) ! [[海南語]]<BR>([[海口市|海口]]) |- ! rowspan=2 |全語共通 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |馬 |- |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |漢字 |- ! rowspan=1 |閩語共通 |鼎 |鼎 |鼎 |鼎 |鼎 |鼎 |鼎 |鑊<br>鼎罐 |鑊頭 |鑊 |鍋 |(中華)鍋 |- ! rowspan=2 |閩語・日本語共通 |箸 |箸 |箸 |箸 |箸 |箸 |箸 |筷子 |筷只<br>箸只 |筷子 |筷子 |箸 |- |鷄卵 |鷄卵 |鷄卵 |鷄卵 |鷄卵 |鷄卵 |鷄卵 |鷄蛋 |鷄卵 |鷄蛋、鷄春 |鷄蛋、鷄子兒 |鶏卵 |- ! rowspan=2 |内陸部・客家語共通 |犬姆 |狗母 |狗母 |狗母 |狗母 |狗嫲 |狗嫲 |狗婆 |狗嫲 |狗乸 |母狗 |雌犬 |- |稻(粙) |稻(粙) |稻(粙)<br>稻子(粙仔) |稻(粙) |稻(粙) |早子 |禾 |禾 |禾 |禾 |稻子 |稲 |- ! rowspan=3 |各語特有 |汝各儂 |汝輩 |恁<br>您 |恁<br>您 |汝儂 |你夥人 |汝儕 |你俚 |你等人 |你哋、妳哋 |你們 |貴方達 |- |琵琶兜壁 |鳥翕 |蜜婆 |蜜婆 |飛鼠<br>佛鼠 |比婆 |卑婆燕 |檐老鼠 |帛婆仔 |飛鼠<br>蝠鼠 |蝙蝠 |蝙蝠 |- |明旦 |逢早 |明旦日<br>明仔再 |明起、明日 |旦白 |明朝 |明朝 |明日 |天光日<br>晨朝日 |聽日<br>聽朝 |明天<br>明兒 |明日 |} == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *福建省地方志編纂委員会編,『福建省志 方言志』,方志出版社,1998年,ISBN 7-80122-279-2 *陳文太、李如龍,『閩語研究』,語文出版社,1991年,ISBN 7-80006-309-7 *陳鴻邁,『海口方言詞典』,江蘇教育出版社,1996年,ISBN 7-5343-2886-1 {{中国語}} {{DEFAULTSORT:ひんこ}} [[Category:中国の言語]] [[Category:中国語の方言]] [[Category:声調言語]] [[Category:福建省の文化]] [[Category:広東省の文化]] [[Category:浙江省の文化]] [[Category:海南省の文化]] [[Category:台湾の言語]]
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ラッセルのパラドックス
ラッセルのパラドックス(英: Russell's paradox)とは、素朴集合論において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると矛盾が導かれるというパラドックス。バートランド・ラッセルからゴットロープ・フレーゲへの1902年6月16日付けの書簡においてフレーゲの『算術の基本法則』における矛盾を指摘する記述に現れ、1903年出版のフレーゲの『算術の基本法則』第II巻(独: Grundgesetze der Arithmetik II)の後書きに収録された。なお、ラッセルに先立ってツェルメロも同じパラドックスを発見しており、ヒルベルトやフッサールなどゲッティンゲン大学の同僚に伝えた記録が残っている。 ラッセルの型理論(階型理論)の目的のひとつは、このパラドックスを解消することにあった。 自分自身を要素として持たない、集合全体からなる集合を R = { x ∣ x ∉ x } {\displaystyle R=\{x\mid x\notin x\}} とする。いま R ∈ R {\displaystyle R\in R} と仮定すると、 R {\displaystyle R} の定義より R ∉ R {\displaystyle R\notin R} となるから矛盾。一方、 R ∉ R {\displaystyle R\notin R} と仮定すると、再び R {\displaystyle R} の定義より R ∈ R {\displaystyle R\in R} となるから、やはり矛盾する。 集合論が形式化されていないことが矛盾の原因なのではなく、このパラドックスは、古典述語論理上の理論として形式化された無制限の内包公理を持つ素朴集合論や、直観主義論理上の素朴集合論においても生じる。したがって論理を古典論理から直観主義論理に変更してもラッセルのパラドックスは回避できない。パラドックスの回避については、様々な方法が提案されている。詳細は矛盾の解消を参照。 公理的集合論によって何をもって集合とするかについての形式的な整備が進められ、素朴(だが超越的)な R {\displaystyle R} の構成を許容しない体系が構築された。 公理的集合論ではまず集合論を形式化する。次にいかなる形の集合が存在するかを公理によって規定する。 例えば素朴集合論では、上のような集合の存在を保証するために次の内包公理を置いた: しかしながら、内包公理からは、上述のとおり、 が構成でき、パラドックスが発生する。 したがって、集合論の公理は通常の数学を集合論の上で展開するために十分なだけの集合の存在を保証しつつ、パラドックスを発生させる集合は構成できないように慎重に設定する必要がある。 通説では、1902年6月16日付のラッセルからフレーゲへの書簡がこのパラドックスの起源とされている。しかし、1899年から1900年にかけてエルンスト・ツェルメロが独立に同じパラドックスを発見し、ダフィット・ヒルベルトやエドムント・フッサールに伝えていた。そのため、「ツェルメロ=ラッセルのパラドックス」と呼ぶべきという意見もある。
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ラッセルのパラドックスとは、素朴集合論において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると矛盾が導かれるというパラドックス。バートランド・ラッセルからゴットロープ・フレーゲへの1902年6月16日付けの書簡においてフレーゲの『算術の基本法則』における矛盾を指摘する記述に現れ、1903年出版のフレーゲの『算術の基本法則』第II巻の後書きに収録された。なお、ラッセルに先立ってツェルメロも同じパラドックスを発見しており、ヒルベルトやフッサールなどゲッティンゲン大学の同僚に伝えた記録が残っている。 ラッセルの型理論(階型理論)の目的のひとつは、このパラドックスを解消することにあった。
'''ラッセルのパラドックス'''({{lang-en-short|Russell's paradox}})とは、素朴[[集合論]]において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると[[矛盾]]が導かれるという[[パラドックス]]。[[バートランド・ラッセル]]から[[ゴットロープ・フレーゲ]]への1902年6月16日付けの書簡においてフレーゲの『[[算術の基本法則]]』における矛盾を指摘する記述に現れ{{sfn|フレーゲ|2002|p=118f}}、1903年出版のフレーゲの『算術の基本法則』第II巻({{lang-de-short|Grundgesetze der Arithmetik II}})の後書きに収録された{{sfn|フレーゲ|2000|p=403f}}。なお、ラッセルに先立って[[エルンスト・ツェルメロ|ツェルメロ]]も同じパラドックスを発見しており、[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]や[[エトムント・フッサール|フッサール]]など[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]の同僚に伝えた記録が残っている{{sfn|フレーゲ|2002|p=90f}}{{sfn|Rang|Thomas|1981|p={{要ページ番号|date=2023年9月}} }}。 ラッセルの[[型理論]]([[階型理論]])の目的のひとつは、このパラドックスを解消することにあった{{sfn|Russell|1903|loc=Appendix B: The Doctrine of Types}}。 == 概要 == 自分自身を要素として持たない、集合全体からなる集合を<math>R</math>とする。いま <math>R\in R</math> と仮定すると、<math>R</math> の定義より <math>R\notin R</math> となるから矛盾。一方、<math>R\notin R</math> と仮定すると、再び <math>R</math> の定義より <math>R\in R</math> となるから、やはり矛盾する。 集合論が形式化されていないことが矛盾の原因なのではなく、このパラドックスは、古典述語論理上の理論として形式化された無制限の[[内包公理]]を持つ素朴集合論や、直観主義論理上の素朴集合論においても生じる。したがって論理を古典論理から直観主義論理に変更してもラッセルのパラドックスは回避できない。パラドックスの回避については、様々な方法が提案されている。詳細は[[#矛盾の解消|矛盾の解消]]を参照。 == 矛盾の解消 == [[公理的集合論]]によって何をもって集合とするかについての形式的な整備が進められ、素朴(だが超越的)な<math>R</math> の構成を許容しない体系が構築された。 公理的集合論ではまず集合論を形式化する。次にいかなる形の集合が存在するかを公理によって規定する。 例えば素朴集合論では、上のような集合の存在を保証するために次の内包公理を置いた: : 任意の性質 <math>P(x)</math> に対して、 <math>P(x)</math> を満たす元 <math>x</math> の集合 <math>\{ x | P(x) \}</math> が存在する しかしながら、内包公理からは、上述のとおり、 : <math>R = \{ x | x \notin x \}</math> が構成でき、パラドックスが発生する。 したがって、集合論の公理は通常の数学を集合論の上で展開するために十分なだけの集合の存在を保証しつつ、パラドックスを発生させる集合は構成できないように慎重に設定する必要がある。 ; 1.[[公理的集合論]]による解消{{efn2|ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策 *(1) (Restriction of basic principles) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070912/p2 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (1) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-12 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(1.5) NFと自己言及性に関する補足 <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070914/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (1.5) : NFと自己言及性に関する補足 |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-14 |accessdate=2023-09-03}}</ref>}} :具体的には内包公理を次の[[分出公理]]に弱める(ツェルメロによる版)。 :: 任意の性質 <math>P(x)</math> と集合 <math>A</math> に対して、 <math>P(x)</math> を満たす <math>A</math> の元 <math>x</math> の集合 <math>\{ x \in A | P(x) \}</math> が存在する :この場合、 :: <math>R_A = \{ x \in A | x \notin x \}</math> :は、<math>A</math> の要素でないため、それ自身を要素としなくても矛盾は発生しない。 :また <math>R</math> のような集合は構成できないのでやはり矛盾は発生しない。 :(なお現在のZFC集合論では、フレンケルが設定した[[置換公理]]から分出公理が導けるため、分出公理自体は公理としていない。) <!-- 第2不完全性定理より、このような修正によって矛盾が決して導かれなくなることを、集合論よりも無矛盾性に信頼が置けるような弱い理論(例えば有限の立場)から保証することはできないが、少なくとも、ラッセルのパラドックスの元々の議論がZFC集合論で通用しないということは言える。ZFC集合論の上で数学が展開されてから今日に至るまで矛盾が発見されていないことから、ZFC集合論の無矛盾性に十分な信頼が置ける理論であると考えられている。(誰が?) --> <!-- ZFC集合論では <math>R</math> のような集合の存在を仮定すると矛盾が導かれる。したがって <math>R</math> の存在の否定が証明される。公理的集合論ではこのような集合の単なる集まりのことを[[クラス (集合論)|クラス]]と呼ぶ。とくにその集合としての存在が否定されるようなクラスを真のクラスという。例えば全ての集合の集合が存在すれば、[[分出公理]]を適用することで、 <math>R</math> の存在が導かれる、ここに不合理を得る。したがって全ての集合の集合は存在せず、全ての集合のクラスは真のクラスである。ZFC集合論ではクラスそのものを体系の内部で扱うことができない。そこでクラスは形式的には変数を持つ論理式として扱われる。すなわち : <math>A = \{ x | P(x) \}</math> なるクラスは実体としては論理式 <math>P(x)</math> であって、クラスを用いた議論はクラスを用いない形に書き換えて行う。例えば論理式 <math>P(x)</math> と <math>Q(x)</math> で定まるクラス <math>A</math> と <math>B</math> について、それらが等しい <math>A=B</math> ということは、 : <math>\forall x(P(x)\Leftrightarrow Q(x))</math> なる論理式のことと考える。このようにZFC集合論ではクラスを扱う際にメタ理論と対象理論とを行き来する必要がある。NBG集合論では、クラスを表す変数と集合を表す変数を導入し、体系内でクラスを扱えるようにしている。(パラドックスの対策と無関係)--> :なお、ラッセルのパラドックスでは論理式 <math>x \notin x</math> に内包性公理を適用することによってパラドキシカルな集合を構成している。これは論理式 <math>x \in x</math> の否定である。ZFC集合論では <math>x \in x</math> のように循環的な帰属関係を持つ集合の存在は[[正則性公理]]によって否定される。もっとも正則性公理がラッセルのパラドックスを排除しているわけではない。何故なら公理を追加しても証明できる論理式は減らないからである。さらに[[反基礎公理]]と呼ばれる循環的な集合の存在を積極的に保証する公理を置く集合論の体系も存在しており、この体系の無矛盾性はZFC集合論の無矛盾性から相対的に導かれる。ただしある種の循環性を制限することによって無矛盾性を確保しようという試みは存在しており、例えば後述する単純型理論はその典型的な例である。 ; 2.[[型理論|単純型理論]]による解消{{efn2|ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策 *(2) Restriction of syntax <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070915/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (2) : Restriction of syntax |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-15 |accessdate=2023-09-03}}</ref>}} :項に型と呼ばれる自然数 0, 1, 2,… を割り当て、述語記号 ∈ を (n階の項)∈(n+1階の項) の形でのみ許容する(すなわち論理式の文法を制限する)ことで矛盾を回避する。単純型理論は階型毎に無制限の内包公理を持つが、無矛盾である。 ; 3.[[部分構造論理]]による解消{{efn2|ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策 *(3) Restriction of logic <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070917/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3) : Restriction of logic |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-17 |accessdate=2023-09-03}}</ref>}} :古典論理を(グリシン論理やBCK論理などの)縮約規則を取り除いた部分構造論理に置き換え、無制限な内包公理を認める代わりに[[外延性公理]]を排除した素朴集合論が矛盾無く展開できることが知られている{{efn2|ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策 *(3.1.0) 古典論理を制限するラッセル・パラドックスへの証明論的アプローチ(縮約規則!) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070917/p2 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.0) : 古典論理を制限するラッセル・パラドックスへの証明論的アプローチ(縮約規則!) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-17 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(補足) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070918/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (補足) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-18 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(本日の修正) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070919/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (本日の修正) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-19 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.1) グリシン論理 (1) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070920/p2 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.1) : グリシン論理 (1) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-20 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.2) グリシン論理 (2) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070922/p2 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.2) : グリシン論理 (2) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-22 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.3) グリシン論理 (3) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070923/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.3) : グリシン論理 (3) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-23 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.4) グリシン論理に関して前回の補足 <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070926/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.4) : グリシン論理に関して前回の補足 |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-26 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.5) グリシン論理 (4) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070929/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.5) : グリシン論理 (4) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-29 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.6) 補足 <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20070930/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.6) : 補足 |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-09-30 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.1.7) 証明論的アプローチへの補足;Fitchの “demonstrably consistent” な set theory F <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071021/p3 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.1.7) : 証明論的アプローチへの補足;Fitchの “demonstrably consistent” な set theory F |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-21 |accessdate=2023-09-03}}</ref>}}。外延性公理が排除されるのは、外延性公理から縮約規則が導かれ、したがって矛盾するからである。例えばBCK&beta;では次のようにして外延性公理から矛盾が導かれる。次の集合 <math>A</math> を考える。 :: <math> A = \{ x | A = \varnothing \}</math> :ここで <math>\varnothing</math> は空集合であり、 :: <math> \varnothing = \{ x | \bot \}</math> :で定義される。集合 <math>A</math> の定義には自己参照が含まれるが、[[不動点コンビネータ]]によってこれは可能である。この集合論において外延性公理が成立すると仮定する。すると次のようにして矛盾が導かれる。等号 <math>x = y</math> の形の仮定に対しては縮約規則が使用できることに注意。まず <math>A = \varnothing</math> を仮定する。集合 <math>x</math> を何でもいいのでひとつ取る。すると仮定および <math>A</math> の定義より <math>x \in A</math> が成り立つ。再び仮定を使用すれば <math>x \in \varnothing</math> が成り立つ。したがって空集合の定義より <math>\bot</math> が導かれる。これは不合理であるから <math>A \neq \varnothing</math> である。いま <math>y \in A</math> を一度だけ仮定する。すると仮定および <math>A</math> の定義より <math>A = \varnothing</math> が成り立つ。ところが <math>A \neq \varnothing</math> であったはずだから矛盾 <math>\bot</math> が導かれる。ゆえに空集合の定義より <math>y \in \varnothing</math> が成り立つ。逆に <math>y \in \varnothing</math> を一度だけ仮定する。すると仮定および空集合の定義より矛盾 <math>\bot</math> が導かれる。ゆえに爆発原理より <math>y \in A</math> が成り立つ。したがって <math>A</math> と空集合は外延的に等価である。外延性公理より <math>A = \varnothing</math> が成り立つ。これは <math>A \neq \varnothing</math> と矛盾する。 :[[3値論理#ウカシェヴィッチの3値論理|ウカシェヴィッチの3値論理]]上の素朴集合論では、 <math>R\in R</math> の真理値を不定値と解釈すればラッセルのパラドックスは生じない。ところが[[3値論理#莫少揆 (Moh Shaw-Kwei) のパラドックス|莫少揆のパラドックス]]と呼ばれる別のパラドックスが生じる{{efn2|ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策 *(3.2) 多値論理 <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071007/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2) : 多値論理 |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-07 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.2.1) クリーネ3値論理…お手軽に不動点を <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071007/p2 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2.1) : クリーネ3値論理・・・お手軽に不動点を |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-07 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.2.2) ウカシェーヴィチ3値論理…失敗例 <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071007/p3 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2.2) : ウカシェーヴィチ3値論理・・・失敗例 |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-07 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.2.2.5) 補足…ウカシェーヴィチの “Spiritual war” <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071011/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2.2.5) : 補足・・・ウカシェーヴィチの “Spiritual war” |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-11 |accessdate=2023-09-03}}</ref>}}。パラドックスを回避するには無限[[:en:Łukasiewicz logic|ウカシェヴィッチ論理]]を用いる必要がある{{efn2|ytb(矢田部俊介) あいまいな本日の私 blog ラッセルのパラドックス:傾向と対策 *(3.2.3) ウカシェーヴィチ無限値述語論理 ∀L…包括原理の限界 <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071013/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2.3) : ウカシェーヴィチ無限値述語論理 ∀L・・・包括原理の限界 |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-13 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.2.4.1) ファジイ論理…一番狭い意味で (1) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071014/p1 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2.4.1) :ファジイ論理・・・一番狭い意味で (1) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-14 |accessdate=2023-09-03}}</ref> *(3.2.4.2) ファジイ論理…一番狭い意味で (2) <ref>{{Cite web|和書|author=ytb |url=https://ytb.hatenablog.com/entry/20071021/p2 |title=ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.2.4.2) :ファジイ論理・・・一番狭い意味で (2) |website=あいまいな本日の私 blog |date=2007-10-21 |accessdate=2023-09-03}}</ref>}}。 == 歴史 == === 起源 === 通説では、[[1902年]][[6月16日]]付のラッセルからフレーゲへの書簡がこのパラドックスの起源とされている。しかし、[[1899年]]から[[1900年]]にかけて[[エルンスト・ツェルメロ]]が独立に同じパラドックスを発見し、[[ダフィット・ヒルベルト]]や[[エドムント・フッサール]]に伝えていた。そのため、「ツェルメロ=ラッセルのパラドックス」と呼ぶべきという意見もある{{sfn|フレーゲ|2002|p=90f}}{{sfn|Rang|Thomas|1981|p={{要ページ番号|date=2023年9月}} }}。 === 年表 === {{Dl2 | 1872年 - 1878年 | * [[リヒャルト・デーデキント|デーデキント]]が『[[数とは何かそして何であるべきか]]』のスケッチを作成して閲覧させる{{sfn|デデキント|2013|p=46}}。 | 1879年 | * フレーゲ『概念記法』出版。[[数理論理学]]の始まり。 | 1884年 | * フレーゲ『算術の基礎』出版。[[自然数論]]の始まり。 | 1888年 | * デーデキント『数とは何かそして何であるべきか』出版{{sfn|デデキント|2013|p={{要ページ番号|date=2023年9月}} }}。 | 1893年 | * フレーゲ『算術の基本法則』出版。 | 1902年6月16日 | * ラッセルからフレーゲ宛てにパラドックスを知らせる書簡が投函{{sfn|フレーゲ|2002|p=118f}}。 | 1902年6月22日 | * フレーゲからラッセル宛てに返信が投函。 | 1903年 | * フレーゲ『算術の基本法則』第II巻出版。後書きでラッセルのパラドックスを公開{{sfn|フレーゲ|2000|p=403f}}。 | 1903年 | * ラッセル『{{仮リンク|数学の原理|en|The Principles of Mathematics}}』出版。[[型理論]]の始まり。 | 1903年11月7日 | * ヒルベルトからフレーゲ宛に返信が投函。ラッセルのパラドックスが3年前から4年前にツェルメロによって発見されていたことを記載{{sfn|フレーゲ|2002|p=90f}}。 | 1908年 | * ツェルメロ「集合論の基礎に関する研究」発表{{sfn|Zermelo|1908|p={{要ページ番号|date=2023年9月}} }}{{sfn|ツェルメロ|2013|p={{要ページ番号|date=2023年9月}} }}。[[公理的集合論]]の始まり。 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == {{Refbegin}} * {{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|year=1996|month=12|title=近世数学史談・数学雑談|chapter=数理が躓く(?)|edition=合本・復刻版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01551-7|pages=188-233|ref={{sfnref|高木|1996}} }} * {{Cite book|和書|author=竹内外史|authorlink=竹内外史|date=2001-05-18|title=新装版 集合とはなにか はじめて学ぶ人のために|series=ブルーバックス B-1332|publisher=講談社|isbn=978-4-06-257332-0|ref={{sfnref|竹内|2001}} }} * {{Cite book|和書|author=デデキント|authorlink=リヒャルト・デーデキント|others=渕野昌 訳・解説|date=2013-07-10|title=数とは何かそして何であるべきか|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-09547-3|ref={{sfnref|デデキント|2013}} }} * {{Cite book|和書|author=フレーゲ|authorlink=ゴットロープ・フレーゲ|editor=野本和幸|editor-link=野本和幸|year=2000|month=9|title=フレーゲ著作集3 算術の基本法則|publisher=勁草書房|isbn=4-326-14822-5|ref={{sfnref|フレーゲ|2000}} }} * {{Cite book|和書|author=フレーゲ|editor=野本和幸|year=2002|month=5|title=フレーゲ著作集6 書簡集 付「日記」|publisher=勁草書房|isbn=4-326-14825-X|ref={{sfnref|フレーゲ|2002}} }} * {{Cite book|和書|author=三浦俊彦|authorlink=三浦俊彦 (哲学者)|date=2005-10-20|title=ラッセルのパラドクス 世界を読み換える哲学|series=岩波新書 新赤版975|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430975-1|ref={{sfnref|三浦|2005}} }} * {{Cite journal|last1=Rang|first1=B.|last2=Thomas|first2=W.|year=1981|title=Zermelo's discovery of the 'Russell Paradox'|journal=Historia Mathematica|volume=8|issue=1|pages=15-22|doi=10.1016/0315-0860(81)90002-1|language=en|ref=harv}} * {{Cite web|last=Russell|first=Bertrand|authorlink=バートランド・ラッセル|year=1903|title=The Principles of Mathematics|location=Cambridge|publisher=Cambridge University Press|url=http://fair-use.org/bertrand-russell/the-principles-of-mathematics/|accessdate=2023-09-03|language=en|ref=harv}} * {{Cite journal|last=Zermelo|first=Ernst|author-link=エルンスト・ツェルメロ|year=1908|title=Untersuchungen über die Grundlagen der Mengenlehre. I|journal=[[Mathematische Annalen]]|publisher=Teubner|volume=65|pages=261-281|url=http://resolver.sub.uni-goettingen.de/purl?PPN235181684_0065|accessdate=2023-09-03|language=de|ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=エルンスト・ツェルメロ|others=渕野昌 訳|date=2013-07|title=集合論の基礎に関する研究 I|ref={{sfnref|ツェルメロ|2013}} }} - {{Harv|デデキント|2013|pp=139-179}}に収録。 {{Refend}} == 関連項目 == <!--項目の50音順--> {{Columns-list|20em| * [[エピメニデスのパラドックス]] * [[エルンスト・ツェルメロ]] * [[型理論]] * [[カリーのパラドックス]] * [[グロタンディーク宇宙]] * [[公理的集合論]] - [[集合論]] * [[市長のパラドックス]] * [[ダフィット・ヒルベルト]] * [[床屋のパラドックス]] - ラッセルのパラドックスを分かり易くした例。 * [[バートランド・ラッセル]] * [[パラドックス]] * [[矛盾許容論理]] * [[モーダストレンス]] }} == 外部リンク == * {{Kotobank|ラッセルのパラドックス}} * {{IEP|par-russ|Russell's Paradox}} * {{SEP|russell-paradox|Russell's Paradox}} * {{MathWorld|title=Russell's Antinomy|urlname=RussellsAntinomy}} {{集合論}} {{パラドックス}} {{DEFAULTSORT:らつせるのはらとつくす}} [[Category:自己言及のパラドックス]] [[Category:集合論のパラドックス]] [[Category:バートランド・ラッセル]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ゴットロープ・フレーゲ]]
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広東語
広東語(カントンご、中: 廣東話 / 广东话、英: Cantonese)は、粤語の一方言である粤海方言(中国語版)を基盤に成立した言語で、広州のみならず香港、マカオのほか、マレーシア、シンガポール、ブルネイの華人、及び各国にいる華僑と華人の一部にも多くの話者がいる。欧米やオセアニアの華系社会でも主要な言語となっている。しかし、中国政府の北京語普及政策のもとで、福建語・上海語・モンゴル語・延辺朝鮮語・ウイグル語などの言語と共に危機に瀕している。 音韻的に入声や鼻音韻尾を有し、白文異読が少ないなど、中古音との整合性が高い。 一方で、広州は清代から他の地域に先駆けてイギリスなどの外国との接触が始まったため、英語からの借用語も少なくない。特にイギリスの植民地支配を長く受け、英語を併用していた香港の広東語には、英語からの借用語が多く使われている。同様にポルトガルに統治されていたマカオの広東語には少量のポルトガル語からの借用語がある。 形態論及び統語論的には、修飾辞が被修飾辞の後ろに付く複合語(「鷄公」、「椰青」、「豆腐潤」など)が食関連語彙を中心に見られる点、二重目的語構文において直接目的語が動詞の直後に現れる点、類別詞が数詞を伴わずに名詞に付いて定性を表す点など、北方の官話をベースとした標準中国語とは異なる部分がある。こうした特徴はタイ諸語のような東南アジアの言語にも認められる。なお、逆修飾は古中国語でも見られる。 香港では、英語とともにテレビやラジオのメディアで使われている公用言語であり、映画、演劇、歌謡曲でも広く使用されている。香港でも公式の書き言葉としては「書面語」と呼ばれる標準中国語が用いられるため、他の中国語方言同様正書法は無く文字で表記されることは一般的ではない。それでも広東語は非公式ながら中国語方言の中では文字表記されることが多い部類に入り、新聞、雑誌、Webサイトなどの活字媒体でも広東語の口語を交えた文章は多く見られ、口語を表すための漢字表記も多数編み出されている(文字節参照)。 香港のテレビ番組では基本的にチャンネル別で広東語か英語が使われており、字幕は繁体字表記の書き言葉である。一方、広東省のテレビやラジオでは、独自番組は広東語で放送することが多いが、普通話の番組も放送している。広東電視台珠江チャンネル、南方電視台南方衛星テレビは広東語のみのチャンネルである。仏山市や湛江市などの地方のテレビ局でも、広東語番組を放送している例がある。 広東語の話者人口は上海などで使用される呉語よりも少ないが、影響力や地位は広東語の方が高い。これは香港が中国本土から政治的に切り離されていたことと経済発展によってもたらされたもので、ドイツ語の一方言という扱いから国語になったオランダ語の例に似ている。 2010年7月5日、広州市の諮問機関、人民政治協商会議が地元テレビの広東語チャンネルを標準語に改めるべきだと同市に提案した結果、地元住民が反発。7月25日には、「広東語を守れ!」と叫ぶ2000人以上の地元住民による抗議集会が開かれ、出動した警察隊に解散させられた。広州市は同月28日、広東語チャンネルを維持する考えを表明し事態収拾に乗り出したが、住民の抗議活動は収まらず、8月1日には広州と香港でほぼ同時に広東語擁護を求める住民デモが行われた。広州市では数百人が参加して「広東語万歳!」とのスローガンを連呼、警察隊が抗議集会を解散させて一部の参加者が拘束され、香港でも民主派活動家ら約150人が参加して広州市の住民運動を支援するデモが繰り広げられた。 2011年12月1日、広東省政府は『広東省国家通用語言文字規定』を制定し、普通話の使用促進と方言の使用についてさらに明確な規定をし、2012年3月1日より施行するとした。これに関して、テレビなどの広東語放送ができなくなるなどの報道があったが、2011年12月24日広東省政府は記者会見を行い、広東省広播電影電視局何日丹副局長は、批准を受けている限り施行後も広東語などの方言放送ができなくなることはないと明言した。 また、香港の学校教育では、広東語で行われる授業が減ってきており、中国本土の影響が強まってきている。 香港市街の広東語を例に説明する。この項目では粤拼やイェール粤語拼音の声調表記を番号に変えて発音を示している。国際音声字母 (IPA) には[ ]を付けて示し、表には該当する漢字の例を付す。 広東語の音節は、他の中国語同様に声母(語頭子音)、韻母、声調に分ける事ができる。 現代の香港の広東語の例では、下記の表に示す19種に加えてゼロ声母(ʔ とすることもある)を加えた計20種の声母がある。 上記の声母に加えて、広東語の子音としては入声の音節末に見られる内破音がある。内破音には両唇 (-p [p̚])、歯茎 (-t [t̚] )、軟口蓋 (-k [k̚])の3種がある。また、非入声の音節末には両唇 (-m [m])、歯茎 (-n [n])、軟口蓋 (-ng [ŋ])の3種の鼻音韻尾を持つものがあり、意味の弁別に使われている。 s-、z-、c-は歯茎音([s]、[t͡s]、[t͡sh])で発音される場合と後部歯茎音([ʃ]、[t͡ʃ]、[t͡ʃh])で発音される場合があり、現在はこの違いは意味に影響しないが、20世紀前半までは意味の弁別に使われていた。 母音と音節末の子音の組み合わせである韻母は、50数種程度(借用語や擬音語にのみ見られる韻母などの数え方で異なる)ある。母音に長母音と短母音の対立があるなど、タイ語群の基層が残っていると考えられる。 注: 韻母 /ɛːu/・/ɛːm/・/ɛːn/・/ɛːp/・/ɛːt/ は口語用発音の為、イェール粤語拼音などのラテン文字表記システムはこれらの韻母を含んでいない。 広東語は、他の中国語と同様に声調言語であり、広州や香港の発音では平声、上声、去声、入声が陰陽(高低)各1対と、陰入声がさらに高低に分かれて増えた中促調の、計9つの声調がある。他に、意味に違いはないが、陰平声を高平調で発音する事も多く、高平調、高昇調、高昇降調と3つの変調があるので、細かく分けると12種、または13種の声調があるとも言えるが、実際には基本的に6種類か7種類の調値を区別すればよい。入声の一部には、陰上声と同じ調値(35)の高昇変調(超入声)を取るものもある(例:「鹿 luk2」「鴨 aap2/ngaap2」「郵局 jau4guk2」など)。 ここで示した調値は5度式であり、5が最も高く、1が最も低いことを表す。 「醫 (イェール式: yì, 粤拼: ji1)」と「衣 (yī, ji1)」に見られたような高降調と高平調の区別は、香港の広東語においては失われ、高降調は高平調に合流した。 閩南語や客家語のような他の南方漢語とは異なり、広東語において、音韻的条件のみに基づく連続変調は存在しない。もっとも、高降調と高平調を区別した話者の間では、高降調・高平調・高促調のいずれかに先行する高降調の音節が、高平調へと変化した。 同一成分が反復される場合や、接頭語の「阿」の後に陰平調の語が続く場合、単音節語を強調していう場合などには、声調の変化が起こる。単音節語の強調の場合、上昇後下降する変調である。 また、個別の語彙が陰上調に変調して意味を区別する例も少なくない。 香港の広東語では稀であるものの、一部の変種では、動詞に後続して完結相を表す「咗 zo2」が縮約されて、動詞の声調が陰上調に変化することで完結相が標示される現象も見られる。 一つの漢字に「白読音」(口語音)と「文読音」(文語音)が有る例はさほど多くないが、個別の字では見られる。 白読 : 文読 白読音で読ませるために別の漢字が作られ、方言字となっている場合もある。 香港を中心として次のような現象が多くみられ、否定的なニュアンスを伴って「懶音」とよばれる。 広東語における口語的な語彙の中には、「子音連結」を伴うものがある。 広東語の語彙には北京語と比べて、古中国語と共通する語彙が多い。 広東語 : 北京語 広東語にはチワン語と関連すると思われる語彙がいくつか見られる。基層となっている語彙なのか、借用語なのかは不明である。これらの多くは方言字で書かれる。 広東語 : チワン語 Yue-Hashimoto (1991) は、広東語の基層言語として、 チワン語のようなタイ諸語の他に、ミャオ語 (フモン語) を挙げている。Yue-Hashimotoがミャオ語由来の形態素と見做したのは、名詞接尾辞の「乸」、及び動詞に後続する「晒」の2つである。 また、Matthews (2007) は、類別詞を用いた所有構文が、フモン語にも見られる点を指摘している。 「子」のような接尾語を多用する北京語と比べ、基本語彙には単音節語が多い。 広東語 : 北京語 広東語は、卑語・スラングのような独特の語彙(粗口 cou1hau2)が多いことでも知られる。 広東語には英語からの借用語が多い。これは、清代からイギリスとの接触を持ち、ピジン英語が話されていた時代もあったことと関係がある。また、香港は155年間のイギリスによる統治を経て、さらに英語からの借用語が増えた。 英語からの借用語はかなり多いが、常用されるものの例を挙げる。 香港ではイニシャル化したり、音をアルファベットに当てて借用する例もある。 日本語からの借用語の例を挙げる。 マカオの広東語にはポルトガル語からの借用語がいくつか見られる。 マレーシアの広東語にはマレーシア語からの借用語がいくつか見られる。 日本語における広東語からの借用語には以下がある。 英語における広東語からの借用語には以下がある。 基本の語順はSVO型である。 例外として、目的語を主題として、先に提示する事がよく行われる。(実際に使う事は少ない) また、補足的に文法成分を後に付け足す言い方が、他の方言よりも多く見られる。 修飾語は被修飾語よりも前に置くが、個別の語彙においては修飾成分が後置される例もある。 北京語もしくは普通話とは違う語順となる。 広東語 : 北京語 北京語もしくは普通話とは違う語順となる場合が多い。(以下の例では「你」が間接目的語) 広東語 : 北京語 繋辞として「係」(hai6)が用いられる。「係」は中国語の書面語に表れることがある古語である。 書面語では中国語共通の「為」や「是」も用いられる。 通常動詞よりも前に置かれるが、ベトナム語にみられるような、動詞の後に置かれる副詞「先」や「添」などがある点が北京語などと異なる。 方向補語、可能補語、結果補語など、動詞の後に補充する成分がある点は北京語などと同じである。 中国語で「量詞」と呼ぶ類別詞が発達しており、数詞と名詞の間に置くのは中国語共通であるが、北京語とは異なる類別詞を使うものがある。 広東語 : 北京語 類別詞の前に数詞を伴わず、特定化のためだけに使うことが行われる。 中国語の中で最も豊富な文末語気助詞を持ち、100種以上が常用されている。 例: 基本的にどの地域でも公的な文章は標準中国語(香港では「書面語」と呼ぶ)に限られるため、広東語に関しては統一された正書法は存在しない。一方で民間レベルでは広東語を漢字表記する試みは長く続けられてきた。標準書き言葉同様、香港、マカオでは広東語は繁体字、広東省では簡体字が用いられる。この過程で広東語に特有の語彙を書き表すための方言字が発達したが、もともとは粤劇の台詞などを書き残すのに考案されたと考えられる。正書法が存在しないゆえに各々が用いる漢字が異なり、異体字も少なくないが、現在は、多くの字で自然に選別が進んで、香港の新聞や雑誌に使っても十分に理解されるものが多い。香港では香港増補字符集と呼ばれる、広東語の表記に必要な方言字などを補充する、コンピュータ用の文字セットが作られ、使用されている。広東省ではこれを簡体字の規則に従って書き換えた方言字も一部で俗字として使われている。香港、広東の事物が中国各地に広まった結果、中国の正式な漢字として『通用規範漢字表』に収録された「4962 焗」、「5506 煲」、「7156 啫」などの方言字もある。 広東語の発音表記は統一されておらず、書籍毎に異なる表記が用いられている。香港の英語書籍ではイェール大学のイェール粤語ピン音及びその変形が比較的多く使われている。香港の字書ではIPAを簡略化したものを使用している事が多く、また教育機関では教院式が使われており、他に粤拼(ユッピン)と呼ばれる香港語言学会の方式も広がりを見せている。中国大陸では、広東省教育部門の試案かIPAを使っている例が多い。日本では、これらの他、千島式(2種)などがある。ネット上では、本項で使用した、Yale式の声調表記を数字に改めたものがASCII文字だけで打てて簡便なため、比較的多く使用されている。
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"基本的にどの地域でも公的な文章は標準中国語(香港では「書面語」と呼ぶ)に限られるため、広東語に関しては統一された正書法は存在しない。一方で民間レベルでは広東語を漢字表記する試みは長く続けられてきた。標準書き言葉同様、香港、マカオでは広東語は繁体字、広東省では簡体字が用いられる。この過程で広東語に特有の語彙を書き表すための方言字が発達したが、もともとは粤劇の台詞などを書き残すのに考案されたと考えられる。正書法が存在しないゆえに各々が用いる漢字が異なり、異体字も少なくないが、現在は、多くの字で自然に選別が進んで、香港の新聞や雑誌に使っても十分に理解されるものが多い。香港では香港増補字符集と呼ばれる、広東語の表記に必要な方言字などを補充する、コンピュータ用の文字セットが作られ、使用されている。広東省ではこれを簡体字の規則に従って書き換えた方言字も一部で俗字として使われている。香港、広東の事物が中国各地に広まった結果、中国の正式な漢字として『通用規範漢字表』に収録された「4962 焗」、「5506 煲」、「7156 啫」などの方言字もある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "広東語の発音表記は統一されておらず、書籍毎に異なる表記が用いられている。香港の英語書籍ではイェール大学のイェール粤語ピン音及びその変形が比較的多く使われている。香港の字書ではIPAを簡略化したものを使用している事が多く、また教育機関では教院式が使われており、他に粤拼(ユッピン)と呼ばれる香港語言学会の方式も広がりを見せている。中国大陸では、広東省教育部門の試案かIPAを使っている例が多い。日本では、これらの他、千島式(2種)などがある。ネット上では、本項で使用した、Yale式の声調表記を数字に改めたものがASCII文字だけで打てて簡便なため、比較的多く使用されている。", "title": "文字" } ]
広東語は、粤語の一方言である粤海方言を基盤に成立した言語で、広州のみならず香港、マカオのほか、マレーシア、シンガポール、ブルネイの華人、及び各国にいる華僑と華人の一部にも多くの話者がいる。欧米やオセアニアの華系社会でも主要な言語となっている。しかし、中国政府の北京語普及政策のもとで、福建語・上海語・モンゴル語・延辺朝鮮語・ウイグル語などの言語と共に危機に瀕している。
{{Otheruses|[[珠江デルタ]]を中心に話される「広州話」とも呼ばれる言語|[[四川省]]の「土広東話」、[[陝西省]]の「広東話」並びに[[日本統治時代の台湾]]で「広東語」と呼ばれた言語|客家語}} {{複数の問題 |出典の明記 = 2018年12月20日 (木) 20:18 (UTC) |独自研究 = 2018年12月20日 (木) 20:18 (UTC) }} {{Pathnav|シナ・チベット語族|シナ語派|中国語|粤語|{{仮リンク|粤海方言|zh|粵海片}}|frame=1}} {{特殊文字|説明=中国の漢字}} {{Infobox language |name=広東語 |nativename= {{lang|zh|廣東話 / 广东话}}<br>''Gwóngdūng wá'' |areas= [[中華人民共和国]]、[[香港]]、[[マカオ]]、[[シンガポール]]、[[華僑|海外中国人共同体]] |region= [[広州市]]及び周辺の[[珠江デルタ]]、[[広東省]]西部、[[広西チワン族自治区]]東部、[[香港]]、[[マカオ]] |speakers=約3000万人 |familycolor=Sino-Tibetan |fam2=[[シナ語派]] |fam3=[[中国語]] |fam4=[[粤語]] |fam5={{仮リンク|粤海方言|zh|粵海片}} |dia1=広東語 |dia2={{仮リンク|西関方言|zh|西關口音}} |dia3=[[香港語]] |script = [[繁体字]]、[[簡体字]] |nation = {{flag|Hong Kong}}<br>{{flag|Macau}} |agency={{blist|法定語文事務部<ref>{{cite web|url=http://www.csb.gov.hk/english/aboutus/org/scsd/1470.html |title=Official Language Division, Civil Service Bureau, Government of Hong Kong |publisher=Csb.gov.hk |date=2008-09-19 |accessdate=2012-01-20}}</ref> <br>{{仮リンク|公務員事務局|zh-yue|公務員事務局}}<br>[[香港特別行政区政府]]|{{illm|行政公職局|zh|行政公職局}}<br>{{仮リンク|マカオ特別行政区政府|zh|澳門特別行政區政府}}}} |iso1= zh |iso3= yue |isoexception=dialect |iso6=yyef (Yue F)<br>guzh (Guangzhou) |glotto=cant1236 |glottorefname=Cantonese |lingua=79-AAA-ma }} '''広東語'''(カントンご、{{lang-zh-short|廣東話 / 广东话}}、{{lang-en-short|Cantonese}})は、[[粤語]]の一方言である{{仮リンク|粤海方言|zh|粵海片}}を基盤に成立した言語で、広州のみならず[[香港]]、[[マカオ]]のほか、[[マレーシア]]、[[シンガポール]]、[[ブルネイ]]の[[華人]]、及び各国にいる[[華僑]]と[[華人]]の一部にも多くの話者がいる。欧米や[[オセアニア]]の華系社会でも主要な[[言語]]となっている。 == 特徴 == 音韻的に[[入声]]や[[鼻音]][[韻尾]]を有し、白文異読が少ないなど、[[中古音]]との整合性が高い。 一方で、[[広州市|広州]]は[[清]]代から他の地域に先駆けて[[イギリス]]などの外国との接触が始まったため、[[英語]]からの[[借用語]]も少なくない。特にイギリスの[[植民地]]支配を長く受け、英語を併用していた[[香港]]の広東語には、英語からの借用語が多く使われている。同様に[[ポルトガル]]に統治されていた[[マカオ]]の広東語には少量の[[ポルトガル語]]からの借用語がある。 [[形態論]]及び[[統語論]]的には、[[修飾語|修飾辞]]が被修飾辞の後ろに付く[[複合語]](「鷄公」<!--「公鷄」は普通話-->、「椰青」、「豆腐潤」など)が食関連語彙を中心に見られる点{{sfn|Matthews|2007|pp=226-227}}、二重目的語構文において直接目的語が[[動詞]]の直後に現れる点{{sfn|Matthews|2007|pp=223-225}}、[[類別詞]]が[[数詞]]を伴わずに[[名詞]]に付いて[[定性]]を表す点{{sfn|Matthews|2007|p=230}}など、北方の[[官話]]をベースとした[[標準中国語]]とは異なる部分がある。こうした特徴は[[タイ・チワン諸語|タイ諸語]]のような[[東南アジア言語連合|東南アジアの言語]]にも認められる。なお、逆修飾は古中国語でも見られる<ref>「舜帝」→「帝舜」など</ref>。 == 使用範囲 == [[香港]]では、英語とともに[[テレビ]]や[[ラジオ]]の[[メディア (媒体)|メディア]]で使われている公用言語であり、[[映画]]、[[演劇]]、[[歌謡曲]]でも広く使用されている。香港でも公式の書き言葉としては「書面語」と呼ばれる標準中国語が用いられるため、他の中国語方言同様正書法は無く文字で表記されることは一般的ではない。それでも広東語は非公式ながら中国語方言の中では文字表記されることが多い部類に入り、[[新聞]]、雑誌、Webサイトなどの活字媒体でも広東語の口語を交えた文章は多く見られ、口語を表すための漢字表記も多数編み出されている([[#文字|文字節参照]])。 香港のテレビ番組では基本的にチャンネル別で広東語か[[英語]]が使われており、字幕は[[繁体字]]表記の[[書き言葉]]である<ref>一部に普通話のニュースなどがあり、また、芸能番組などでも[[普通話]]もしくは[[国語 (中国語)|台湾国語]]が公用語の中国大陸・台湾からの芸能人と話すシーンでは、香港人の芸能人が普通話、台湾国語で話す場合がある。</ref>。一方、広東省のテレビやラジオでは、独自番組は広東語で放送することが多いが、普通話の番組も放送している。広東電視台珠江チャンネル、南方電視台南方衛星テレビは広東語のみのチャンネルである。[[仏山市]]や[[湛江市]]などの地方のテレビ局でも、広東語番組を放送している例がある。 広東語の話者人口は上海などで使用される[[呉語]]よりも少ないが、影響力や地位は広東語の方が高い。これは香港が中国本土から政治的に切り離されていたことと経済発展によってもたらされたもので、[[ドイツ語]]の一方言という扱いから国語になった[[オランダ語]]の例に似ている。 === 広東語の制限と抗議行動 === {{Main|:en:Guangzhou Television Cantonese controversy|:zh:2010年廣州撐粵語行動}} [[2010年]][[7月5日]]、広州市の諮問機関、人民政治協商会議が地元テレビの広東語チャンネルを標準語に改めるべきだと同市に提案した結果、地元住民が反発。[[7月25日]]には、「広東語を守れ!」と叫ぶ2000人以上の地元住民による抗議集会が開かれ、出動した警察隊に解散させられた<!--リンク切れ<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/420514/]</ref>-->。広州市は同月28日、広東語チャンネルを維持する考えを表明し事態収拾に乗り出したが、住民の抗議活動は収まらず、8月1日には広州と香港でほぼ同時に広東語擁護を求める住民デモが行われた。広州市では数百人が参加して「広東語万歳!」とのスローガンを連呼、警察隊が抗議集会を解散させて一部の参加者が拘束され、香港でも民主派活動家ら約150人が参加して広州市の住民運動を支援するデモが繰り広げられた<!--リンク切れ<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/423452/]</ref>-->。 2011年[[12月1日]]、広東省政府は『広東省国家通用語言文字規定』<ref>{{Cite web|date=|url=http://www.gd.gov.cn/gdgk/gdyw/201112/t20111226_154125.htm|title=广东省人民政府令第165号《广东省国家通用语言文字规定》|publisher=广东省人民政府|language=中国語 |accessdate=2011年12月26日 }}</ref>を制定し、普通話の使用促進と方言の使用についてさらに明確な規定をし、2012年[[3月1日]]より施行するとした。これに関して、テレビなどの広東語放送ができなくなるなどの報道があったが、2011年[[12月24日]]広東省政府は記者会見を行い、広東省広播電影電視局何日丹副局長は、批准を受けている限り施行後も広東語などの方言放送ができなくなることはないと明言した<ref>{{Cite web|date=|url=http://www.gd.gov.cn/gdgk/gdyw/201112/t20111226_154125.htm|title=省政府召开新闻发布会通报通用语言文字规定有关情况|publisher=广东省人民政府|language=中国語 |accessdate=2011年12月26日 }}</ref>。 また、香港の学校教育では、広東語で行われる授業が減ってきており、中国本土の影響が強まってきている。 == 発音 == 香港市街の広東語を例に説明する。この項目では[[粤拼]]や[[イェール粤語拼音]]の声調表記を番号に変えて発音を示している。[[国際音声字母]] ([[国際音声記号|IPA]]) には[ ]を付けて示し、表には該当する漢字の例を付す。 広東語の音節は、他の中国語同様に[[声母]](語頭子音)、[[韻母]]、[[声調]]に分ける事ができる。 === 声母 === 現代の香港の広東語の例では、下記の表に示す19種に加えてゼロ声母({{IPAlink|ʔ||[}} とすることもある)を加えた計20種の[[声母]]がある。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+ '''広東語(香港標準粤語)の声母表''' |- ! colspan="2" rowspan="2" | ! rowspan="2" | [[唇音]] ! colspan="2" | [[歯茎音]] ! rowspan="2" | [[硬口蓋音]] ! colspan="2" | [[軟口蓋音]] ! rowspan="2" | [[声門音]] |- ! [[破裂音]] ! [[破擦音]] ! [[非円唇母音|非円唇]] ! [[円唇母音|円唇]] |- ! rowspan="2" | [[閉鎖音]] ! [[無声音|無声]][[無気音]] | b {{IPAlink|p||[}} 巴 | d {{IPAlink|t||[}} 打 | z {{IPAlink|t͡s||[}} 渣 | | g {{IPAlink|k||[}} 加 | gw {{IPAlink|kʷ||[}} 瓜 | ({{IPAlink|ʔ||[}} 啊) |- ! [[無声音|無声]][[有気音]] | p {{IPAlink|pʰ||[}} 怕 | t {{IPAlink|tʰ||[}} 他 |c {{IPAlink|t͡sʰ||[}} 茶 | | k {{IPAlink|kʰ||[}} 卡 | kw {{IPAlink|kʰ|kʷʰ|[}} 誇 | |- ! colspan="2" | [[鼻音]] | m {{IPAlink|m||[}} 媽 | n {{IPAlink|n||[}} 那 | | | ng {{IPAlink|ŋ||[}} 牙 | | |- ! colspan="2" | [[摩擦音]] | f {{IPAlink|f||[}} 花 | | s {{IPAlink|s||[}} 沙 | | | | h {{IPAlink|h||[}} 哈 |- ! colspan="2" | [[接近音]] | | l {{IPAlink|l||[}} 啦 | | j {{IPAlink|j||[}} 也 | | w {{IPAlink|w||[}} 話 | |} ==== 子音 ==== 上記の声母に加えて、広東語の子音としては[[入声]]の音節末に見られる[[内破音]]がある。内破音には[[両唇音|両唇]] (-p {{IPA|p̚}})、[[歯茎音|歯茎]] (-t {{IPA|t̚}} )、[[軟口蓋音|軟口蓋]] (-k {{IPA|k̚}})の3種がある。また、非[[入声]]の音節末には[[両唇鼻音|両唇]] (-m [m])、[[歯茎鼻音|歯茎]] (-n [n])、[[軟口蓋鼻音|軟口蓋]] (-ng [ŋ])の3種の[[鼻音]][[韻尾]]を持つものがあり、意味の弁別に使われている。 s-、z-、c-は歯茎音({{IPA|[s]}}、{{IPA|[t͡s]}}、{{IPA|[t͡sʰ]}})で発音される場合と後部歯茎音({{IPA|ʃ}}、{{IPA|&#116;&#865;&#643;}}、{{IPA|&#116;&#865;&#643;ʰ}})で発音される場合があり、現在はこの違いは意味に影響しないが、[[20世紀]]前半までは意味の弁別に使われていた。 === 韻母 === {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center" ! rowspan="3" | &nbsp; ! colspan="4" | [[前舌母音|前舌]] ! rowspan="2" colspan="2" | [[中舌母音|中舌]] ! rowspan="2" colspan="2" | [[後舌母音|後舌]] |- ! colspan="2" | [[非円唇母音|非円唇]] ! colspan="2" | [[円唇母音|円唇]] |- ! [[長母音|短]] !! [[長母音|長]] ! [[長母音|短]] !! [[長母音|長]] ! [[長母音|短]] !! [[長母音|長]] ! [[長母音|短]] !! [[長母音|長]] |- ! [[狭母音|狭]] | {{IPAlink|ɪ||/}} | {{IPAlink|iː||/}} | || {{IPAlink|yː||/}} | colspan="2" | &nbsp; | {{IPAlink|ʊ||/}} | {{IPAlink|uː||/}} |- ! [[中央母音|中央]] | {{IPAlink|e||/}} || {{IPAlink|ɛː||/}} | {{IPAlink|ɵ||/}} || {{IPAlink|œː||/}} | colspan="2" | &nbsp; | {{IPAlink|o||/}} || {{IPAlink|ɔː||/}} |- ! [[広母音|広]] | colspan="2" | &nbsp; | colspan="2" | &nbsp; | {{IPAlink|ɐ||/}} || {{IPAlink|ä|aː|/}} | colspan="2" | &nbsp; |} [[母音]]と音節末の子音の組み合わせである[[韻母]]は、50数種程度(借用語や擬音語にのみ見られる韻母などの数え方で異なる)ある。母音に[[長母音]]と[[短母音]]の対立があるなど、{{要出典|date=2019年4月|[[タイ語|タイ語群]]の基層が残っていると考えられる}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! colspan="3" rowspan="2"| ! colspan="8"|[[主母音]] ! rowspan="2"|[[成節子音]] |- !{{IPAlink|ä|aː|/}} !{{IPAlink|ɐ||/}} !{{IPAlink|ɔː||/}}, {{IPAlink|o||/}} !{{IPAlink|œː||/}}, {{IPAlink|ɵ||/}} !{{IPAlink|ɛː||/}}, {{IPAlink|e||/}} !{{IPAlink|iː||/}}, {{IPAlink|ɪ||/}} !{{IPAlink|uː||/}}, {{IPAlink|ʊ||/}} !{{IPAlink|yː||/}} |- ! rowspan="9"|[[韻尾]] ! colspan="2"|[[單母音]] |{{IPA2|aː}} 沙 |style="background: #aaa;"| |style="text-align: left" | {{IPA2|ɔː}} 疏 |style="text-align: left" | {{IPA2|œː}} 鋸 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛː}} 些 |style="text-align: left" | {{IPA2|iː}} 詩 |style="text-align: left" | {{IPA2|uː}} 夫 |{{IPA2|yː}} 書 | rowspan="3" style="background: #aaa;"| |- ! rowspan="2"|[[複母音]]<br>([[半母音]]) ! {{IPAlink|i||/}},<br>{{IPAlink|y||/}} |style="vertical-align: top" | {{IPA2|aːi}} 街 |style="vertical-align: top" | {{IPA2|ɐi}} 雞 |style="text-align: left; vertical-align: bottom" | {{IPA2|ɔːy}} 愛 |style="text-align: right; vertical-align: bottom" | {{IPA2|ɵy}} 水 |style="text-align: right; vertical-align: top" | {{IPA2|ei}} 你 |style="background: #aaa;"| |style="text-align: left; vertical-align: bottom" | {{IPA2|uːy}} 會 | |- ! {{IPAlink|u||/}} |{{IPA2|aːu}} 教 |{{IPA2|ɐu}} 夠 |style="text-align: right" | {{IPA2|ou}} 好 | |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːu}} 掉{{ref label|final|注|a}} |style="text-align: left" | {{IPA2|iːu}} 了 |style="background: #aaa;"| | |- ! rowspan="3"|[[鼻音]] ! {{IPAlink|m||/}} |{{IPA2|aːm}} 衫 |{{IPA2|ɐm}} 深 | | |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːm}} 舐{{ref label|final|注|b}} |style="text-align: left" | {{IPA2|iːm}} 點 | | |{{IPA2|m̩}} 唔 |- ! {{IPAlink|n||/}} |{{IPA2|aːn}} 山 |{{IPA2|ɐn}} 新 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɔːn}} 看 |style="text-align: right" | {{IPA2|ɵn}} 准 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːn}}{{ref label|final|注|c}} |style="text-align: left" | {{IPA2|iːn}} 見 |style="text-align: left" | {{IPA2|uːn}} 歡 |{{IPA2|yːn}} 遠 | |- ! {{IPAlink|ŋ||/}} |{{IPA2|aːŋ}} 橫 |{{IPA2|ɐŋ}} 宏 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɔːŋ}} 方 |style="text-align: left" | {{IPA2|œːŋ}} 傷 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːŋ}} 鏡 |style="text-align: right" | {{IPA2|ɪŋ}} 敬 |style="text-align: right" | {{IPA2|ʊŋ}} 風 | |{{IPA2|ŋ̩}} 五 |- ! rowspan="3"|[[入声韻]]<br>([[閉鎖音]]) ! {{IPAlink|p||/}} |{{IPA2|aːp}} 插 |{{IPA2|ɐp}} 輯 | | |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːp}} 夾{{ref label|final|注|d}} |style="text-align: left" | {{IPA2|iːp}} 接 | | | rowspan="3" style="background: #aaa;"| |- ! {{IPAlink|t||/}} |{{IPA2|aːt}} 達 |{{IPA2|ɐt}} 突 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɔːt}} 渴 |style="text-align: right" | {{IPA2|ɵt}} 出 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːt}}{{ref label|final|注|e}} |style="text-align: left" | {{IPA2|iːt}} 結 |style="text-align: left" | {{IPA2|uːt}} 沒 |{{IPA2|yːt}} 血 |- ! {{IPAlink|k||/}} |{{IPA2|aːk}} 百 |{{IPA2|ɐk}} 北 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɔːk}} 角 |style="text-align: left" | {{IPA2|œːk}} 着 |style="text-align: left" | {{IPA2|ɛːk}} 錫 |style="text-align: right" | {{IPA2|ɪk}} 亦 |style="text-align: right" | {{IPA2|ʊk}} 六 | |} '''注:''' {{note label|final||a}}{{note label|final||b}}{{note label|final||c}}{{note label|final||d}}{{note label|final||e}} 韻母 {{ipa|ɛːu}}・{{ipa|ɛːm}}・{{ipa|ɛːn}}・{{ipa|ɛːp}}・{{ipa|ɛːt}} は口語用発音の為、[[イェール粤語拼音]]などのラテン文字表記システムはこれらの韻母を含んでいない。 === 声調 === [[File:Cantonese Tones.png|right|thumb|180px|広東語の6声調。]] 広東語は、他の中国語と同様に[[声調言語]]であり、[[広州市|広州]]や[[香港]]の発音では[[平声]]、[[上声]]、[[去声]]、[[入声]]が陰陽(高低)各1対と、陰入声がさらに高低に分かれて増えた中促調の、計9つの[[声調]]がある。他に、意味に違いはないが、陰平声を高平調で発音する事も多く、高平調、高昇調、高昇降調と3つの[[連続変調#連続変調ではない声調変化|変調]]があるので、細かく分けると12種、または13種の声調があるとも言えるが、実際には基本的に6種類か7種類の[[声調#5度式|調値]]を区別すればよい。入声の一部には、陰上声と同じ調値(35)の高昇変調('''超入声'''<ref>{{cite book |author=千島英一 |title=標準広東語同音字表 |publisher=東方書店 |page=11,16 |id= |isbn=978-4-497-91317-3 |}}</ref>)を取るものもある(例:「鹿 luk2」「鴨 aap2/ngaap2」「[[wikt:郵局|郵局]] jau4guk2」など)<ref>入声(断音調[促音調])では、変調を除いて、第1声(陰入声[上陰入声])は大半が単母音(長母音は稀にしか現れない)と、第3声(中入声[下陰入声])は大半が長母音(単母音は稀にしか現れない)と、第6声(陽入声)は単母音・長母音の両方と結び付く。({{cite book |author=中嶋幹起 |title=現代廣東語辭典 |publisher=大学書林 |page= |id= |isbn=978-4-475-00128-1 |}})</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:95%;" |+ 広東語(香港粤語)の声調表 |- ! 声調番号 ! 声調名 ! 声調パターン ! 調値 ! 例字 ! Yale式 ! 改Yale式 ! 備考 |- | rowspan="2" | 第1声 | rowspan="2" | 陰平声<ref>高平調 (55) は「'''超平声'''」と呼ばれることがある(本来の声調 (中・低調) から高平変調したものを含む)。({{cite book |author=千島英一 |title=標準広東語同音字表 |publisher=東方書店 |page=16 |id= |isbn=978-4-497-91317-3 |}})</ref> | 高降調 | 53 | rowspan="2" | 絲 | sì | rowspan="2" | si1 | rowspan="2" style="text-align:left" | 現代において、調値が53でも55でも意味に違いはない |- | 高平調 | 55 | sī |- | 第2声 | 陰上声<ref>[[入声]](「'''超入声'''」)以外の本来の声調(中・低調)から高昇変調したものは「'''超上声'''」と呼ばれることがある。({{cite book |author=千島英一 |title=標準広東語同音字表 |publisher=東方書店 |page=16 |id= |isbn=978-4-497-91317-3 |}})</ref> | 高昇調 | 35 | 史 | sí | si2 | |- | 第3声 | 陰去声 | 中平調 | 33 | 試 | si | si3 | |- | 第4声 | 陽平声 | 低降調 | 21 / 11 | 時 | sìh | si4 | |- | 第5声 | 陽上声 | 低昇調 | 23 / 13 | 市 | síh | si5 | |- | 第6声 | 陽去声 | 低平調 | 22 | 士 | sih | si6 | |- | 第7声 | 陰入声(上陰入声) | 高促調 | 5 | 式 | sīk | sik1 | style="text-align:left" | 第1声と同じ調値 |- | 第8声 | 中入声(下陰入声) | 中促調 | 3 | 錫 | sek | sek3 | style="text-align:left" | 第3声と同じ調値 |- | 第9声 | 陽入声 | 低促調 | 2 | 食 | sihk | sik6 | style="text-align:left" | 第6声と同じ調値 |- |} ここで示した調値は5度式であり、5が最も高く、1が最も低いことを表す。 「醫 ([[イェール式]]: yì, [[香港語言学学会粤語拼音方案|粤拼]]: ji1)」と「衣 (yī, ji1)」に見られたような高降調と高平調の区別は、香港の広東語においては失われ、高降調は高平調に合流した{{sfn | Bauer | Benedict | 1997 | p=131}}。 ===連続変調と声調変化=== [[閩南語]]や[[客家語]]のような他の南方漢語とは異なり、広東語において、音韻的条件のみに基づく[[連続変調]]は存在しない{{sfn | Szeto | 2019 | p=43}}。もっとも、高降調と高平調を区別した話者の間では、高降調・高平調・高促調のいずれかに先行する高降調の音節が、高平調へと変化した{{sfn | Bauer | Benedict | 1997 | pp=162-163}}。 *醫生 yìsàng → yīsàng (医者) 同一成分が反復される場合や、接頭語の「阿」の後に陰平調の語が続く場合、単音節語を強調していう場合などには、声調の変化が起こる。単音節語の強調の場合、上昇後下降する変調である。 *妹妹 mui6mui6 → mui4mui2(妹) *阿 aa3+ 王 Wong4 → aa3wong2(王ちゃん) *有 jau5 → jau2'(有るとも) また、個別の語彙が陰上調に変調して意味を区別する例も少なくない。 *女 neoi5(女) → 女 neoi2(娘) 香港の広東語では稀であるものの、一部の[[言語変種|変種]]では、動詞に後続して[[完結相]]を表す「咗 zo2」が縮約されて、動詞の声調が陰上調に変化することで完結相が標示される現象も見られる{{sfn | Matthews | Yip | 1994 | p=26}}。 *食咗 sik6 zo2 → 食 sik2 「食べた」 === 白文異読 === 一つの漢字に「白読音」(口語音)と「文読音」(文語音)が有る例はさほど多くないが、個別の字では見られる。  白読 : 文読 *名 meng2 : ming4(名)(同様の韻母の交替例: 青、正、聲など) *斷 tyun5 : dyun6(切れる) 白読音で読ませるために別の漢字が作られ、方言字となっている場合もある。 *{{Lang|zh|嚟}} lai4 : 來 loi4 *{{Lang|zh|埗}} bou2 : 埠 bou6<!--/fau6 これは阜からの類推による俗音でありここでの説明とは無関係--> === 懶音 === 香港を中心として次のような現象が多くみられ、否定的なニュアンスを伴って「懶音」とよばれる。 *頭子音の n が l に変化する 例:「你 nei5」(あなた)→「lei5」(=李) *頭子音の ng が脱落する 例:「我 ngo5」(わたし)→「o5」(該当漢字なし)<ref>逆に母音(ゼロ声母)に ng を付加する場合もある 例:「愛 oi3」(愛する)→「ngoi3」(該当漢字なし)</ref> *gwo が go に、kwo が ko に変化する 「廣東 Gwong2dung1」→「Gong2dung1」(=港東) *音節末の ng や m が n に変化する 例:「行 hong4」→「hon4」(=寒)、「曇 taam4」→「taan4」(=壇) === 子音連結 === 広東語における口語的な語彙の中には、「[[子音連結]]」を伴うものがある{{sfn | Yue-Hashimoto | 1991 | pp=302-303}}。 */ham6 plaːŋ6/「全ての」(漢字ではしばしば「{{wikt-lang|zh|冚唪唥}}」と表記される。) */kalaːk1 dai2/ 「脇」(早口な発話では、最初の2音節が[klaːk]のように発音される。漢字では「{{wikt-lang|zh|胳肋底}}」と表記。) == 語彙 == === 語彙の特徴 === ==== 古語 ==== 広東語の語彙には[[北京語]]と比べて、古中国語と共通する語彙が多い。  広東語 : 北京語 *食 sik6 : 吃 {{Lang|zh|chī}} (食べる) *飲 jam2 : 喝 {{Lang|zh|hē}} (飲む) *{{Lang|zh|徛}}、企 kei5 : 站 {{Lang|zh|zhàn}} (立つ) *行 haang4 : 走 {{Lang|zh|zǒu}} (歩く) *面 min6 : 臉 {{Lang|zh|liǎn}} (顔) ==== チワン語との関連語 ==== 広東語には[[チワン語]]と関連すると思われる語彙がいくつか見られる。基層となっている語彙なのか、借用語なのかは不明である。これらの多くは[[方言字]]で書かれる。  広東語 : チワン語 *{{Lang|zh|啲}} di1 : di (少し、もっと、割に) *{{Lang|zh|曱甴}} gaat6zaat2 : gaenxcaengh ([[ゴキブリ]]) *{{Lang|zh|冚}} kam2 : hoemq (かぶせる、覆う、蓋をする) *{{Lang|zh|踎}} mau1 : maeuq (しゃがむ) *{{Lang|zh|啱}} ngaam1 : ngamj (ちょうど良い、正しい) *{{Lang|zh|呢}} ni1 : neix ([[指示代名詞|この]]) *{{Lang|zh|屙}} o1 : ok ([[排泄|排泄する]]) *{{Lang|zh|嘥}} saai1 : sai (無駄にする) ==== フモン語からの影響 ==== Yue-Hashimoto (1991) は、広東語の[[基層言語]]として、 [[チワン語]]のような[[タイ・チワン諸語|タイ諸語]]の他に、[[ミャオ語]] (フモン語) を挙げている{{sfn|Yue-Hashimoto|1991|p=303}}。Yue-Hashimotoがミャオ語由来の形態素と見做したのは、名詞接尾辞の「{{wikt-lang|zh|乸}}」、及び動詞に後続する「{{wikt-lang|zh|嗮|晒}}」の2つである{{sfn|Yue-Hashimoto|1991|pp=303-304}}{{sfn|Matthews|2007|p=222}}。 *'''乸''' naa2, laa2 : ミャオ語<ref>Yue-Hashimotoが参照しているミャオ語の辞書は、貴州民族出版社から1958年に出版された『苗汉简明词典』である。</ref> /na/ 「母」 **豬乸 zyu1-laa2 「雌豚」{{sfn|Matthews|2007|p=222}} **雞乸 gai1-laa2 「雌鶏」 *'''晒''' saai3 : ミャオ語 /sai/「全部」 **冇晒 mou5 saai3 「全て無くなる」{{sfn|Matthews|2007|p=222}}。 また、Matthews (2007) は、[[類別詞]]を用いた所有構文が、フモン語にも見られる点を指摘している{{sfn|Matthews|2007|p=231}}。 {{例文 |label=(1) |language=広東語 |ex1=我 |ex2=張 |ex3=檯 |gloss1=私 |gloss2={{abbr|CL| 類別詞}} |gloss3=机 |translation=「私の机」 }} {{例文 |label=(2) |language=フモン語 |ex1=kuv |ex2=lub |ex3=rooj |gloss1=私 |gloss2={{abbr|CL| 類別詞}} |gloss3=机 |translation=「私の机」 }} ==== 単音節語 ==== 「子」のような[[接尾語]]を多用する[[北京語]]と比べ、基本語彙には単音節語が多い。  広東語 : 北京語 *檯 toi2 : 桌子 {{Lang|zh|zhuōzi}} ([[テーブル (家具)|テーブル]]) *知 zi1 : 知道 {{Lang|zh|zhīdao}} (知る、分かる) ==== 粗口 ==== {{Main|en:Cantonese profanity}} 広東語は、[[卑語]]・[[スラング]]のような独特の語彙(粗口 cou1hau2)が多いことでも知られる。 === 借用語 === 広東語には[[英語]]からの[[借用語]]が多い。これは、[[清]]代から[[イギリス]]との接触を持ち、[[ピジン英語]]が話されていた時代もあったことと関係がある。また、[[香港]]は155年間のイギリスによる統治を経て、さらに英語からの借用語が増えた。 ==== 英語からの借用語 ==== 英語からの借用語はかなり多いが、常用されるものの例を挙げる。 *爹哋 de1dei6(変調:de1di4) : daddy (父親) *媽{{Lang|zh|咪}} maa1mai1(変調:maa1mi4) : mummy (母親) *肥{{Lang|zh|佬}} fei4lou2 : fail (不合格) *亞摩尼亞、阿摩尼阿 aa3mo1nei4aa3 : ammonia ([[アンモニア]]) *巴士 baa1si6(変調:baa1si2) : bus ([[バス (車両)|バス]]) *杯葛 bui1got3 : boycott ([[ボイコット]]) *暢 coeng3 : change ([[両替]]する) *的士 dik1si6(変調:dik1si2) : taxi ([[タクシー]]) *多士 do1si6(変調:do1si2) : toast ([[トースト]]) *菲林 fei1lam4(変調:fei1lam2) : film ([[写真フィルム|フィルム]]) *吉列 gat1lit6 : cutlet ([[カツレツ]]) *基 gei1 : gay ([[ゲイ]]、[[レズビアン]]) *檸檬 ling4mung4(変調:ling4mung1) : lemon ([[レモン]]) *忌廉 gei6lim4(変調:gei6lim1) : cream ([[クリーム]]) *芝士 zi1si6(変調:zi1si2) : cheese ([[チーズ]]) *茄士咩 ke4si6me1(変調:ke1si6me1) : cashmere ([[カシミヤ]]) *曲奇 kuk1kei4 : cookie ([[クッキー]]) *{{Lang|zh|咪}} mai1 : mic ([[マイクロフォン|マイク]]) *{{Lang|zh|咪}} mai5 : mile ([[マイル]]) *{{Lang|zh|米}} mai1 : metre ([[メートル]]) *三文治 saam1man4zi6 : sandwich ([[サンドイッチ]]) *士多 si6do1 : store ([[食料品]]店などを売る雑貨店) *{{Lang|zh|士多啤梨}} si6do1be1lei4(変調:si6do1be1lei2) : strawberry ([[イチゴ]]) *士碌架 si6luk1gaa2 : snooker ([[スヌーカー]]) *保齡 bou2ling4 : bowling ([[ボウリング]]) *貼士 tip3si6(変調:tip1si2) : tips ([[チップ (サービス)|チップ]](心付け)、ヒント) *碌士 luk1si6(変調:luk1si2) : notes (筆記) *波士 bo1si6(変調:bo1si2): boss ([[ボス]]、上司) *安士 on1si6(変調:on1si2) : ounce ([[オンス]]) *餐士 caan1si6(変調:caan1si2) : chance (機会) *渣 zaa1 : jar (瓶 [単位系]) *沙律 saa1leot6(変調:saa1leot2) : salad ([[サラダ]]) *咖啡 kaa1fei1(変調:gaa3fe1) : coffee ([[コーヒー]]) *咭/卡 gat1/kaa1(変調:kaat1) : card ([[カード]]) *卡通 kaa1tung1 : cartoon ([[アニメーション|アニメ]]) 香港ではイニシャル化したり、音をアルファベットに当てて借用する例もある。 *開P hoi1pi1 : 開 party ([[パーティー]]を開く) *Q版 kiu1baan2 : cute 版(キュート版、[[デフォルメ]]版) ==== 日本語からの借用語 ==== 日本語からの借用語の例を挙げる。 *壽司 sau6si1 : [[寿司]] *{{Lang|zh|卡拉}}OK kaa1laa1ou1kei1 : [[カラオケ]] *寫眞集 se2zan1zaap6 : (ヌードの載った)[[写真集]](和製漢語からの逆借用) *{{Lang|zh|榻榻米}} taap3taap3mai5 : [[畳]](台湾華語経由) *鐵板燒 tit3baan2siu1 : [[鉄板焼き]](鉄板は漢語) *人氣 jan4hei3 : 人気(和製漢語からの逆借用) *物語 mat6jyu5 : 物語 *WASABI waa6saa1bi4 : [[ワサビ|わさび]] *烏冬 wu1dung1 : [[うどん]] *課金 fo3gam1:[[課金]] ([[ソーシャルゲーム|ソシャゲー]]の流行で一般用語化、略して「課」) ==== ポルトガル語からの借用語 ==== [[マカオ]]の広東語には[[ポルトガル語]]からの借用語がいくつか見られる。 *□□ mi1go6 : amigo (友だち、黒人兵士) *窿丁 lung1ding1 : não tem (無い) *馬介休 maa5gaai3jau1 : bacalhau ([[バカラオ|バカリャウ]]、[[タラ|鱈]]の[[塩]]辛い[[干物]]) *梳巴 so1baa1 : sopa (野菜[[スープ]]) ==== マレーシア語からの借用語 ==== [[マレーシア]]の広東語には[[マレー語|マレーシア語]]からの借用語がいくつか見られる。 *甘榜 gam1bong1 : kampung (田舎) *{{Lang|zh|鐳}} leoi1 : duit(金銭) === 被借用語 === ==== 日本語中の被借用語 ==== [[日本語]]における広東語からの[[借用語]]には以下がある。 <!--*ホンコン香港 *ペキン北京 *ナンキン南京 地名は普通借用語として扱わない--> *[[キョンシー]] ({{Lang|zh|殭屍}} goeng1si1) *[[焼売|シューマイ]] (燒賣 siu1maai2) *[[チャーシュー]] (叉燒 caa1siu1) *[[パクチョイ]] (白菜 baak6coi3) *[[ハトシ]] (蝦多士 haa1do1si2) *[[ファンタン]] (番攤 faan1taan1) *[[飲茶|ヤムチャ]] (飮茶 jam2caa4) *[[レイシ|ライチ]] ({{Lang|zh|茘枝}} lai6zi1) *[[ワンタン]] (餛飩/{{Lang|zh|雲呑}} wan4tan1) ==== 英語中の被借用語 ==== [[英語]]における広東語からの借用語には以下がある。 *bok-choy (白菜 baak6choi3) (パクチョイ) *chop suey (雜碎 zaap6seoi3) ([[チャプスイ]]) *chow mein ({{Lang|zh|炒麵}} caau2min6) ([[焼きそば]]) *conpoy (乾貝 gon1bui3) (乾し[[貝柱]]) *cumquat, kumquat (金橘 gam1gwat1) ([[キンカン]]) <!--* (香港 Heung1gong2) ([[香港]]) 地名は普通借用語として扱わない--> *longan (龍眼 lung4ngaan2) ([[リュウガン]]) *loquat (蘆橘 lou4gwat1) ([[ビワ]]) *wampee (黃皮 wong4pei2) (キンカン) *wok ({{Lang|zh|鑊}} wok6) ([[中華鍋]]) *wonton (餛飩/雲呑 wan4tan1) (ワンタン) *dim sum (點心 dim2sam1) (テンシン) *ketchup (茄汁 ke2zap1) (ケチャップ)(閩南語の「膎汁 kê-tsiap」から借用したという説もある。) == 語法 == === 語順 === ==== 基本文型 ==== 基本の語順はSVO型である。 *{{Lang|zh|我 食 蛋糕。}} : 私はケーキを食べる。 (主語+動詞+目的語) 例外として、目的語を主題として、先に提示する事がよく行われる。(実際に使う事は少ない) *{{Lang|zh|蛋糕, 我 食!}} : ケーキは私が食べる! ([[話題化|主題化]]された目的語+主語+動詞) また、補足的に文法成分を後に付け足す言い方が、他の方言よりも多く見られる。 *{{Lang|zh|食 蛋糕 啦, 你!}} : ケーキ食べてよ、おまえ! (動詞+目的語+語気助詞+補足された主語) *{{Lang|zh|佢 食緊 蛋糕,我 諗。}} : 彼はケーキを食べている、私が思うに。 (目的語となる句+主語+動詞) ==== 修飾語の位置 ==== 修飾語は被修飾語よりも前に置くが、個別の語彙においては修飾成分が後置される例もある。 *青 沙律 : グリーン[[サラダ]] (修飾語+被修飾語) *青菜 : 青菜 (修飾成分+被修飾成分) *椰青 : 青い椰子の実 (被修飾成分+修飾成分) ==== 比較表現 ==== 北京語もしくは[[普通話]]とは違う語順となる。<br />  広東語 : 北京語<br /> *我 高 過 {{Lang|zh|佢}}  :  我 比 他 高 (私は彼より背が高い) ==== 間接目的語の位置 ==== 北京語もしくは[[普通話]]とは違う語順となる場合が多い。(以下の例では「{{Lang|zh|你}}」が間接目的語)<br />  広東語 : 北京語<br /> *{{Lang|zh|我 畀 錢 你  :  我 給 你 錢}} (私はあなたにお金をあげる)  *{{Lang|zh|我 對 你 唔 住  :  我 對 不 起 你}} (私はあなたに顔向けできない) === 繋辞 === [[コピュラ|繋辞]]として「係」(hai6)が用いられる。「係」は中国語の書面語に表れることがある古語である。 *我 係 學生 : 私は学生です。 書面語では中国語共通の「為」や「是」も用いられる。 === 副詞 === 通常動詞よりも前に置かれるが、[[ベトナム語]]にみられるような、動詞の後に置かれる副詞「先」や「添」などがある点が北京語などと異なる。 *我 慢慢 食 飯 : 私はゆっくりご飯を食べる (主語+副詞+動詞+目的語) *我 食 飯 先 : 私が先にご飯を食べる (主語+動詞+目的語+副詞) *我 又/都 食 飯 : 私はご飯も食べる (主語+副詞+動詞+目的語) ==== 補語 ==== 方向補語、可能補語、結果補語など、動詞の後に補充する成分がある点は北京語などと同じである。 *行 出去 : 歩いて出て行く *食 唔落 : 呑み下せない、食欲がない === 類別詞 === 中国語で「量詞」と呼ぶ[[助数詞|類別詞]]が発達しており、[[数詞]]と名詞の間に置くのは中国語共通であるが、北京語とは異なる類別詞を使うものがある。  広東語 : 北京語 *張 zoeng1 : 把 {{Lang|zh|bǎ}} (脚:椅子を数える場合) *把 baa2 : 口 {{Lang|zh|kǒu}} (声を数える場合) *單 daan1 : 件 {{Lang|zh|jiàn}}、起 {{Lang|zh|qǐ}} (件:事件、商売などを数える場合) *身 san1 : 頓 {{Lang|zh|dùn}} (発:体を殴る回数を数える場合) 類別詞の前に数詞を伴わず、特定化のためだけに使うことが行われる。 *{{Lang|zh|佢}} 有 一 架 車 : 彼は車を一台持っている *架 車 係 {{Lang|zh|佢 嘅}} : あの車は彼のだ === 語気助詞 === 中国語の中で最も豊富な文末語気助詞を持ち、100種以上が常用されている。 例: * 啊(または 呀) aa3 : 断定、強調、説明、疑問、反復など多くの語気の表し、最も多用される * {{Lang|zh|㗎}}(口へんに架) gaa3 : 疑問、説明を表す * 咩 me1 : 省略した「{{Lang|zh-hk|乜嘢}}」から。意外さや驚きを込めた疑問を表す * {{Lang|zh|啩}} gwaa3 : 推量を表す == 文字 == 基本的にどの地域でも公的な文章は[[標準中国語]](香港では「書面語」と呼ぶ)に限られるため、広東語に関しては統一された正書法は存在しない。一方で民間レベルでは広東語を漢字表記する試みは長く続けられてきた。標準書き言葉同様、香港、マカオでは広東語は[[繁体字]]、[[広東省]]では[[簡体字]]が用いられる。この過程で広東語に特有の語彙を書き表すための[[方言字]]が発達したが、もともとは[[粤劇]]の[[台詞]]などを書き残すのに考案されたと考えられる。正書法が存在しないゆえに各々が用いる漢字が異なり、[[異体字]]も少なくないが、現在は、多くの字で自然に選別が進んで、香港の新聞や雑誌に使っても十分に理解されるものが多い。香港では[[香港増補字符集]]と呼ばれる、広東語の表記に必要な方言字などを補充する、[[コンピュータ]]用の文字セットが作られ、使用されている。広東省ではこれを簡体字の規則に従って書き換えた方言字も一部で俗字として使われている。香港、広東の事物が中国各地に広まった結果、中国の正式な漢字として『[[通用規範漢字表]]』に収録された「4962 {{lang|zh|焗}}」、「5506 {{lang|zh|煲}}」、「7156 {{lang|zh|啫}}」などの方言字もある。 === 発音表記 === 広東語の発音表記は統一されておらず、書籍毎に異なる表記が用いられている。香港の英語書籍では[[イェール大学]]の[[イェール粤語ピン音]]及びその変形が比較的多く使われている。香港の字書では[[国際音声記号|IPA]]を簡略化したものを使用している事が多く、また教育機関では[[教育学院ピン音方案|教院式]]が使われており、他に[[香港語言学学会粤語ピン音方案|粤拼]](ユッピン)と呼ばれる香港語言学会の方式も広がりを見せている。中国大陸では、広東省教育部門の試案かIPAを使っている例が多い。日本では、これらの他、[[千島式]](2種)などがある。ネット上では、本項で使用した、Yale式の声調表記を数字に改めたものが[[ASCII]]文字だけで打てて簡便なため、比較的多く使用されている。 == 関連項目 == * [[香港語]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{cite book | last=Bauer | first=Robert S. | last2=Benedict | first2=Paul K. | title=Modern Cantonese Phonology | publisher=De Gruyter Mouton| publication-place=Berlin and New York | year=1997 | isbn=978-3-11-014893-0 | doi=10.1515/9783110823707}} *{{cite book | last=Matthews | first=Stephen | editor-last=Aikhenvald |editor-first=Alexandra Y. |editor2-last=Dixon |editor2-first=R. M. W. | title=Grammars in Contact: A Cross-Linguistic Typology | chapter=Cantonese Grammar in Areal Perspective | publisher=Oxford University Press | publication-place=Oxford | year=2007 | pages=220–236 | isbn=978-0-19-920783-1 | doi=10.1093/oso/9780199207831.003.0009}} * {{cite book | last=Matthews | first=Stephen | last2=Yip | first2=Virginia | title=Cantonese: A Comprehensive Grammar | publisher=Routledge | publication-place=London | date=1994 | isbn=0-415-08945-X}} *{{cite thesis |last=Szeto |first=Pui Yiu |year= 2019|title=Typological variation across Sinitic languages: contact and convergence |url=https://hub.hku.hk/handle/10722/279263 |degree=PhD |chapter= |publisher=The University of Hong Kong}} *{{cite book | editor-last=Wang | editor-first=W. S-Y. | last=Yue-Hashimoto | first=Anne | chapter=The Yue Dialect | title=Language and Dialects of China, Journal of Chinese linguistics Monograph Series 3 | publisher=The Chinese University of Hong Kong Press | publication-place=Hong Kong | year=1991 | pages=292-322 | url=http://www.jstor.org/stable/23827041}} == 外部リンク == {{wikipedia|zh-yue}} {{Wiktionary}} {{ウィキポータルリンク|言語学|[[画像:Logo_sillabazione.png|34px|Portal:言語学]]}} * [http://gattin.world.coocan.jp/canton.htm 広東語常用単語データベース] * [http://www.kodensha.jp/webapp/cantonese/can_converter.html 高電社の広東語ローマ字相互変換ページ] * [http://www.j-cantonese.info 広東語オンライン単語クイズなど] * [http://www.microsoft.com/hk/hkscs/chinese/default.aspx Microsoft香港の香港増補字符集を組み込んだWindowsフォントダウンロードページ] * [http://www.cantoneseinput.com/ 広東語ピンイン入力ソフト (廣東話拼音輸入法)] * [[香港中文大学]] [http://www.cuhk.edu.hk/clc/japindex.htm 中国語センター] (日本語の公式サイト) * [http://www.cukda.com/ime/ 速打粤語拼音輸入法] {{中国語}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かんとんこ}} [[Category:中国語の方言]] [[Category:中国の言語]] [[Category:マレーシアの言語]] [[Category:シンガポールの言語]] [[Category:ブルネイの言語]] [[Category:声調言語]] [[Category:広東省の文化]] [[Category:広西チワン族自治区の文化]] [[Category:香港の文化]] [[Category:マカオの文化]]
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行動主義心理学
行動主義(、英: behaviorism)は、心理学のアプローチの1つで、内的・心的状態に依拠せずとも科学的に行動を研究できるという主張である。行動主義は、唯物論・機械論の一形態であると考えられ、あたかもブラックボックスのような外からは観察ができない心が単独で存在することを認めていない。 多くの行動主義者に共通する1つの仮説は、「自由意志は錯覚であり、行動は遺伝と環境の両因子の組み合わせによって決定されていく」というものである。 20世紀、精神分析学のムーブメントと同時期に、行動主義学派は心理学に浸透した。 行動主義に影響を与えた主な人物には、 などがいる。 全ての行動主義者にも共通するようなアプローチは存在せず、多様な主張が存在する。 その代表的なものの幾つかを以下に挙げておく。 20世紀初頭、ワトソンは、自著『行動主義者の立場からの心理学』(Watson,1919)の中で、意識を研究する学問としてではなく、行動それ自体を研究する学問としての心理学を主張した。これは、その時代の心理学の主流であった構成心理学との決別を意味していた。彼のアプローチは、イワン・パブロフの研究に強く影響されたものであった。パブロフは、犬の消化機構の研究の過程で条件反射(古典的条件づけ)の現象を見出し、詳細にこの現象を研究したソ連の生理学者である。ワトソンは、生理学を強調しながら、生活体の環境への適応について、特に生活体から反応を引き出す刺激について研究した。彼の研究の殆どは、動物の行動を研究する比較心理学的なものであった。 なお、ワトソンのアプローチは、条件反射を誘発する刺激を重視したので、刺激-反応(S-R;stimulus-response)心理学とも表されている。また、ワトソンの主張する行動主義の立場は、ワトソン以後の行動主義である新行動主義と対比して、古典的行動主義とも呼ばれている。 方法論的行動主義とは、ワトソンが唱えた行動主義の要素の1つで、行動の観察を心理学の研究方法とする立場である。なお、新行動主義以降の方法論的行動主義では、行動の観察によって行動と環境の媒介である生活体や心的過程を研究する立場となっており、ワトソンが唱えた行動主義における方法論的行動主義が、生活体や心的過程を設定しないものであったこととは異なっている。 ワトソンの行動主義理論は、多くの実験心理学者に行動研究の重要性を痛感させた。特に、比較心理学の領域では、心的説明を動物に自由に当てはめたジョージ・ロマネスなどの擬人的解釈による研究に対して突き付けられた警告、(モーガンの公準:ある行動がより低次の心的能力によるものと解釈できる場合は,その行動をより高次の心的能力によるものと解釈するべきではないという節約説)と、ワトソンの主張が一致していた。そのため、比較心理学の研究者達は、ワトソンのアプローチに賛同したのであった。この中には、猫が問題箱から抜ける過程を研究したエドワード・ソーンダイクがいる。 また、その他の心理学者の殆ども、現在、方法論的行動理論と呼ばれることになる立場を支持した。彼らは、行動主義は、心理学の中で観察が容易な方法に過ぎないと考えたが、心的状態について研究するのに使用できるとして、この立場を取った。方法論的行動主義を採用した20世紀の行動主義者には、クラーク・ハルやエドワード・トールマンなどがいる。ハルは、自身の立場を新行動主義と表現した。また、エドワード・トールマンは、後の認知主義に繋がる研究を行った。トールマンは、報酬が無くともラットは迷路の認知地図を形成すると論じ、刺激と反応(S→R)の媒介として、第3の用語、生活体(organism)を導入した(S→O→R)。なお、トールマンのアプローチは、目的論的行動主義とも呼ばれている。 現在でも、方法論的行動主義は殆どの実験心理学者が採用する立場となっており、心理学の主流となっている認知心理学の研究者たちの殆どもこの立場を取っている。 スキナーは、体系化された行動主義哲学を構築した理論家・実験家・実践家である。彼の構築した行動主義哲学は、徹底的行動主義と呼ばれている。そして、その哲学と共に、彼は行動分析学という新しいタイプの科学を作りだした。 スキナーは、徹底的行動主義を打ち立てた。徹底的行動主義は、彼が行った研究(実験行動分析と呼ばれる)を基に体制化された哲学である。徹底的行動主義は、意識・認知・内観などは観察可能な行動と同様の原理が働くとし、意識・認知・内観を行動とは異なる二元論的なものとはしない。そして、意識・認知・内観は顕在的行動と同様に科学的に論じられうるとして、それらの存在を受け入れている。 また、“全ての行動が反射である”という説明を受け入れない点が、ワトソンの古典的行動主義(S-R心理学)と大きく異なる点であり、意識・認知・内観などの心的過程に行動の原因を求めない点が、新行動主義以降の方法論的行動主義と大きく異なる点である。 徹底的行動主義は、ラットとハトを使ったスキナーの初期の実験研究の成果によって構築された。なお、彼の初期の研究は、『生活体の行動』(Skinner, 1938)や『強化スケジュール』(Skinner & Ferster, 1957)などの彼の著書に記されている。徹底的行動主義の重要な概念は、彼が生み出したオペラント反応である。オペラント条件づけは、環境に作用する反応(オペラント行動、例えばラットのレバー押し)が自発され、直後の結果(例えば、餌が出る)によって再び自発される確率が変化する過程である。オペラントは、構造的に異なっていても、機能的に等価である反応の事をいう。例えば、ラットが左足でレバーを押す事と右足やお尻で押す事は、同様に世界に作用し、同じ結果を生むという点から、同じオペラントである。 スキナーの“フリーオペラント”を使った実証的研究は、ソーンダイクやガスリーなどが行った試行錯誤学習の概念を、ソーンダイクのように刺激-反応“連合”を用いずに、明確化し、拡張した。 代表的なフリーオペラントの実験では、レバーと餌が出る装置がついた箱(スキナーボックス)の中にラットを入れる。ラットがレバーに近づくと餌を出すのを繰り返すことで、ラットがレバーに近づく頻度が増加する。次に、レバーに触れると餌を出すことを繰り返すと、レバーに触れる行動が増加する。最終的に、レバーを押したところで餌を出すことを繰り返すことで、レバーを押す頻度が増加する。この実験では、実験者は餌を出す装置(環境)を操作しているが、ラットの行動に直接手を出していない。ラットは箱の中を「自由」に動き回ることができていたため、フリーオペラントと呼ばれる。レバーに特別近づくことがなかったところから、レバーを押すまでに行動を形成する技法はシェーピングと呼ばれる。そして、レバー押しの頻度が増えたことは、行動(レバーを押した)とその行動の結果(餌が出た)の関数関係で説明され(関数(function)は「機能」とも翻訳される)、この説明法は関数分析(機能分析)と呼ばれる。 スキナーはフリーオペラントを使った実験で、強化スケジュール(先の例では、実験者が餌を出すタイミング)の差異による、オペラント反応率の変化の違いを、実証的に研究した。そして、行動レベルの視点で、動物に様々な種類・頻度で反応を自発させることに成功したスキナーは、その実証的研究を根拠に厳密な理論的分析を行った。例えば、論文『学習理論は必要か?(Are theories of learning necessary?)』(Skinner, 1950)の中で、一般的な心理学が抱えている理論的弱点を批判している。 実験行動分析学によって導かれた行動原理は、応用行動分析学として教育・スポーツ・医療、ペットや介助犬のトレーニング、会社運営、社会的問題解決などに応用されている。 スキナーは、行動の科学の哲学的基盤を考察する過程で、人間の言語に関心を持つようになった。そして、著書『言語(的)行動』(Skinner, 1957)の中で、言語(的)行動を関数分析(機能分析)するための概念と理論を発表した。この本は、言語学者のノーム・チョムスキーのレビュー(Chomsky, 1959)によって厳しく酷評されたが、スキナー自身は「チョムスキーは、私が何について話しているのかを分かっておらず、どういう訳か、彼はそれを理解することができない」というコメント(Skinner, 1972)を残している程度で、このレビューに目立った反応をしていない。 スキナーは、言語(的)行動を「他者の仲介を通して強化された行動」と定義し、言語を他のオペラント行動と同様の方法(関数分析)で研究可能だと考えた。スキナーは、言語獲得よりも、言語と顕在的行動の相互作用への興味が強かった。彼は、著書『強化随伴性』(Skinner, 1969)の中で、ヒトは言語(的)刺激を構成し、言語(的)刺激は外的刺激と同様の方法で行動を制御出来る事を指摘している。この行動への言語(的)刺激という“教示性制御”の存在の可能性により、強化随伴性は他の動物の行動に影響するのと同様の現象を、ヒトの行動に必ずしももたらす訳でない事が指摘された。 これにより、徹底的行動主義によるヒトの行動の研究は、教示性制御と随伴性制御の相互作用を理解する試みへと移った。そして、<どのような教示が自発されるか>や<どのような行動の支配を教示が獲得するか>を決める行動過程の研究が行われるようになった。 なお、この分野の著明な研究者には、Murray Sidman,A. Charles Catania,C. Fergus Lowe,Steven C. Hayesなどがいる。 スキナーの著書『言語(的)行動』は理論的分析が殆どであり、言語行動に関する実験的研究を元に書かれたものではなかったが、この本の出版以後、言語行動は実験的に研究され、現在、カウンセリング技法(例えば、アクセプタンス&コミットメント・セラピー)や子どもの言語指導法(例えば、フリーオペラント技法、PECS)として応用されている。 スキナーの行動への視点は、“巨視的”であると批判されることが多い。つまり、スキナーの扱う行動は、より核となる部分に分解できるという批判である。しかし、スキナーは、数々の論文(例えば『結果による淘汰(Selection by Consequences)』(Skinner, 1981))の中で“行動の完全な記述”について書いており、この視点は巨視的と簡単には評せないものであった。 スキナーは、行動を完全に説明するためには、淘汰の歴史を3段階に分けて理解する必要があると主張している。それらは、以下の3段階である。 スキナーは、全ての生活体が、<全歴史>と<環境>との相互作用していると考えた。そして、自分自身の行動もまた、その瞬間の環境と相互作用している、<系統発生の歴史>と<(文化的慣習の学習をも含む)強化の歴史>の産物として表現した。 行動主義は、心理学のムーブメントであるだけでなく、心の哲学でもある。“徹底的行動主義”では、行動の研究が“科学”であるべきだという基本的前提があり、仮想された内的状態に頼らない。一方、“方法論的行動主義”は、仮想された内的状態を利用するが、精神世界にそれらを位置付けず、主観的経験に頼らない。行動主義は、行動の機能的側面に注目するのである。 分析哲学者の中には、行動主義者と呼ばれる者や、自称する者がいる。 ルドルフ・カルナップやカール・ヘンペルといった所謂論理実証主義者たちが称えた“論理的行動主義”では、心理的状態の意味付けは、実行された顕在的行動からなる検証条件である。ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、スキナーの考えに影響され、言語の研究の中で行動主義を利用した。ギルバート・ライルは、哲学的行動主義に傾倒し、自著『心の概念』の中で哲学的行動主義を概説した。そして、ライルは、二元論の例証では、日常言語の使用の誤解による“カテゴリーミステイク”が頻繁に生じていると考えた。ダニエル・デネットもまた、自身の論文「メッセージは;媒介などない」(The Message is: There is no Medium, Dennett, 1993年)の中で、自身を一種の行動主義者であると認めている。 <ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの哲学>と<論理的行動主義や徹底的行動主義>の間に共通点(例えば“ 箱の中のカブトムシ”)があると言われ、ウィトゲンシュタインは行動主義者と定義されることがある。しかし、ウィトゲンシュタインは、行動主義者と言い切れないし、彼の文体は様々な解釈が可能である。また、数学者のアラン・チューリングは、行動主義者と見なされることがあるが、彼は行動主義者と自称していない。
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"スキナーの“フリーオペラント”を使った実証的研究は、ソーンダイクやガスリーなどが行った試行錯誤学習の概念を、ソーンダイクのように刺激-反応“連合”を用いずに、明確化し、拡張した。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "代表的なフリーオペラントの実験では、レバーと餌が出る装置がついた箱(スキナーボックス)の中にラットを入れる。ラットがレバーに近づくと餌を出すのを繰り返すことで、ラットがレバーに近づく頻度が増加する。次に、レバーに触れると餌を出すことを繰り返すと、レバーに触れる行動が増加する。最終的に、レバーを押したところで餌を出すことを繰り返すことで、レバーを押す頻度が増加する。この実験では、実験者は餌を出す装置(環境)を操作しているが、ラットの行動に直接手を出していない。ラットは箱の中を「自由」に動き回ることができていたため、フリーオペラントと呼ばれる。レバーに特別近づくことがなかったところから、レバーを押すまでに行動を形成する技法はシェーピングと呼ばれる。そして、レバー押しの頻度が増えたことは、行動(レバーを押した)とその行動の結果(餌が出た)の関数関係で説明され(関数(function)は「機能」とも翻訳される)、この説明法は関数分析(機能分析)と呼ばれる。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "スキナーはフリーオペラントを使った実験で、強化スケジュール(先の例では、実験者が餌を出すタイミング)の差異による、オペラント反応率の変化の違いを、実証的に研究した。そして、行動レベルの視点で、動物に様々な種類・頻度で反応を自発させることに成功したスキナーは、その実証的研究を根拠に厳密な理論的分析を行った。例えば、論文『学習理論は必要か?(Are theories of learning necessary?)』(Skinner, 1950)の中で、一般的な心理学が抱えている理論的弱点を批判している。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "実験行動分析学によって導かれた行動原理は、応用行動分析学として教育・スポーツ・医療、ペットや介助犬のトレーニング、会社運営、社会的問題解決などに応用されている。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "スキナーは、行動の科学の哲学的基盤を考察する過程で、人間の言語に関心を持つようになった。そして、著書『言語(的)行動』(Skinner, 1957)の中で、言語(的)行動を関数分析(機能分析)するための概念と理論を発表した。この本は、言語学者のノーム・チョムスキーのレビュー(Chomsky, 1959)によって厳しく酷評されたが、スキナー自身は「チョムスキーは、私が何について話しているのかを分かっておらず、どういう訳か、彼はそれを理解することができない」というコメント(Skinner, 1972)を残している程度で、このレビューに目立った反応をしていない。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スキナーは、言語(的)行動を「他者の仲介を通して強化された行動」と定義し、言語を他のオペラント行動と同様の方法(関数分析)で研究可能だと考えた。スキナーは、言語獲得よりも、言語と顕在的行動の相互作用への興味が強かった。彼は、著書『強化随伴性』(Skinner, 1969)の中で、ヒトは言語(的)刺激を構成し、言語(的)刺激は外的刺激と同様の方法で行動を制御出来る事を指摘している。この行動への言語(的)刺激という“教示性制御”の存在の可能性により、強化随伴性は他の動物の行動に影響するのと同様の現象を、ヒトの行動に必ずしももたらす訳でない事が指摘された。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これにより、徹底的行動主義によるヒトの行動の研究は、教示性制御と随伴性制御の相互作用を理解する試みへと移った。そして、<どのような教示が自発されるか>や<どのような行動の支配を教示が獲得するか>を決める行動過程の研究が行われるようになった。", "title": "バラス・スキナーと徹底的行動主義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、この分野の著明な研究者には、Murray Sidman,A. 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行動主義(こうどうしゅぎ、は、心理学のアプローチの1つで、内的・心的状態に依拠せずとも科学的に行動を研究できるという主張である。行動主義は、唯物論・機械論の一形態であると考えられ、あたかもブラックボックスのような外からは観察ができない心が単独で存在することを認めていない。 多くの行動主義者に共通する1つの仮説は、「自由意志は錯覚であり、行動は遺伝と環境の両因子の組み合わせによって決定されていく」というものである。 20世紀、精神分析学のムーブメントと同時期に、行動主義学派は心理学に浸透した。 行動主義に影響を与えた主な人物には、 条件反射を研究したイワン・パブロフ 試行錯誤学習を研究したエドワード・ソーンダイク 内観法を破棄し、心理学の実験法を問い直したジョン・ワトソン 行動主義にプラグマティズム的な倫理的基点をもたらし、オペラント条件づけの研究を先導したバラス・スキナー などがいる。
{{Otheruses|[[心理学]]における行動主義 (behaviorism) |[[政治学]]における行動論主義 (behavioralism) |行動論主義}} {{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学}} {{心理学のサイドバー}} {{読み仮名|'''行動主義'''|こうどうしゅぎ|{{lang-en-short|behaviorism}}}}は、[[心理学]]のアプローチの1つで、内的・心的状態に依拠せずとも[[科学的方法|科学的]]に[[行動]]を研究できるという主張である。行動主義は、[[唯物論]]・[[機械論]]の一形態であると考えられ、あたかも[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]のような外からは観察ができない[[心]]が単独で存在することを認めていない。 多くの行動主義者に共通する1つの仮説は、「[[自由意志]]は[[錯覚]]であり、行動は[[遺伝学|遺伝]]と[[環境]]の両因子の組み合わせによって決定されていく」というものである。 [[20世紀]]、[[精神分析学]]のムーブメントと同時期に、行動主義学派は心理学に浸透した。 行動主義に影響を与えた主な人物には、 * [[条件反射]]を研究した[[イワン・パブロフ]] * [[試行錯誤学習]]を研究した[[エドワード・ソーンダイク]] * [[内観]]法を破棄し、心理学の[[実験心理学|実験法]]を問い直した[[ジョン・ブローダス・ワトソン|ジョン・ワトソン]] * 行動主義に[[プラグマティズム]]的な[[倫理学|倫理]]的基点をもたらし、[[オペラント条件づけ]]の研究を先導した[[バラス・スキナー]] などがいる。 == アプローチ == 全ての行動主義者にも共通するようなアプローチは存在せず、多様な主張が存在する。 その代表的なものの幾つかを以下に挙げておく。 *行動の[[観察]]が心的過程を研究する最高・最善の方法である。 *行動の観察が心的過程を研究する唯一の方法である。 *行動それのみが心理学の研究対象である。例えば「[[信念]]」や「[[性格]]」といった心的概念を表す一般的語彙は、単に行動への傾向性を主題とするための方便にすぎず、指示対象として何らかの心的実体を伴う訳ではない。 == ジョン・ワトソン == {{出典の明記|date=2023年3月}} 20世紀初頭、ワトソンは、自著『行動主義者の立場からの心理学』(Watson,1919)の中で、意識を研究する学問としてではなく、行動それ自体を研究する学問としての心理学を主張した。これは、その時代の心理学の主流であった[[構成心理学]]との決別を意味していた。彼のアプローチは、[[イワン・パブロフ]]の研究に強く影響されたものであった{{要出典|date=2023年3月}}。パブロフは、犬の消化機構の研究の過程で条件反射(古典的条件づけ)の現象を見出し、詳細にこの現象を研究したソ連の生理学者である{{要出典|date=2023年3月}}。ワトソンは、生理学を強調しながら、生活体の環境への適応について、特に生活体から反応を引き出す刺激について研究した{{要出典|date=2023年3月}}。彼の研究の殆どは、動物の行動を研究する[[比較心理学]]的なものであった{{要出典|date=2023年3月}}。 なお、ワトソンのアプローチは、条件反射を誘発する刺激を重視したので、刺激-反応(S-R;stimulus-response)心理学とも表されている{{要出典|date=2023年3月}}。また、ワトソンの主張する行動主義の立場は、ワトソン以後の行動主義である[[新行動主義心理学|新行動主義]]と対比して、[[古典的行動主義]]とも呼ばれている{{要出典|date=2023年3月}}。 === 方法論的行動主義 === [[方法論的行動主義]]とは、ワトソンが唱えた行動主義の要素の1つで、行動の観察を心理学の研究方法とする立場である{{要出典|date=2023年3月}}。なお、新行動主義以降の方法論的行動主義では、行動の観察によって行動と環境の媒介である生活体や心的過程を研究する立場となっており、ワトソンが唱えた行動主義における方法論的行動主義が、生活体や心的過程を設定しないものであったこととは異なっている{{要出典|date=2023年3月}}。 ワトソンの行動主義理論は、多くの実験心理学者に行動研究の重要性を痛感させた{{要出典|date=2023年3月}}。特に、比較心理学の領域では、心的説明を動物に自由に当てはめた[[ジョージ・ロマネス]]などの擬人的解釈による研究に対して突き付けられた警告、([[モーガンの公準]]:ある行動がより低次の心的能力によるものと解釈できる場合は,その行動をより高次の心的能力によるものと解釈するべきではないという[[節約説]])と、ワトソンの主張が一致していた{{要出典|date=2023年3月}}。そのため、比較心理学の研究者達は、ワトソンのアプローチに賛同したのであった。この中には、猫が問題箱から抜ける過程を研究した[[エドワード・ソーンダイク]]がいる{{要出典|date=2023年3月}}。 また、その他の心理学者の殆ども、現在、方法論的行動理論と呼ばれることになる立場を支持した{{要出典|date=2023年3月}}。彼らは、行動主義は、心理学の中で観察が容易な方法に過ぎないと考えたが、心的状態について研究するのに使用できるとして、この立場を取った。方法論的行動主義を採用した20世紀の行動主義者には、[[クラーク・ハル]]や[[エドワード・トールマン]]などがいる{{要出典|date=2023年3月}}。ハルは、自身の立場を新行動主義と表現した{{要出典|date=2023年3月}}。また、エドワード・トールマンは、後の[[認知心理学|認知主義]]に繋がる研究を行った{{要出典|date=2023年3月}}。トールマンは、報酬が無くとも[[ラット]]は[[迷路]]の[[認知地図]]を形成すると論じ、刺激と反応(S→R)の媒介として、第3の用語、生活体(organism)を導入した(S→O→R){{要出典|date=2023年3月}}。なお、トールマンのアプローチは、[[目的論的行動主義]]とも呼ばれている{{要出典|date=2023年3月}}。 現在でも、方法論的行動主義は殆どの[[実験心理学]]者が採用する立場となっており、心理学の主流となっている[[認知心理学]]の研究者たちの殆どもこの立場を取っている。 == バラス・スキナーと徹底的行動主義 == {{出典の明記|date=2023年3月}} スキナーは、体系化された行動主義哲学を構築した理論家・実験家・実践家である。彼の構築した行動主義哲学は、[[徹底的行動主義]]と呼ばれている。そして、その哲学と共に、彼は[[行動分析|行動分析学]]という新しいタイプの科学を作りだした。 === 定義 === スキナーは、徹底的行動主義を打ち立てた。徹底的行動主義は、彼が行った研究(実験行動分析と呼ばれる)を基に体制化された哲学である。徹底的行動主義は、意識・認知・内観などは観察可能な行動と同様の原理が働くとし、意識・認知・内観を行動とは異なる二元論的なものとはしない。そして、意識・認知・内観は顕在的行動と同様に科学的に論じられうるとして、それらの存在を受け入れている。 また、“全ての行動が反射である”という説明を受け入れない点が、ワトソンの古典的行動主義(S-R心理学)と大きく異なる点であり、意識・認知・内観などの心的過程に行動の原因を求めない点が、新行動主義以降の方法論的行動主義と大きく異なる点である。 === 革新的な実験法と概念 === 徹底的行動主義は、ラットとハトを使ったスキナーの初期の実験研究の成果によって構築された。なお、彼の初期の研究は、『生活体の行動』(Skinner, 1938)や『強化スケジュール』(Skinner & Ferster, 1957)などの彼の著書に記されている。徹底的行動主義の重要な概念は、彼が生み出した[[オペラント条件づけ|オペラント反応]]である。オペラント条件づけは、環境に作用する反応(オペラント行動、例えばラットのレバー押し)が自発され、直後の結果(例えば、餌が出る)によって再び自発される確率が変化する過程である。オペラントは、構造的に異なっていても、機能的に等価である反応の事をいう。例えば、ラットが左足でレバーを押す事と右足やお尻で押す事は、同様に世界に作用し、同じ結果を生むという点から、同じオペラントである。 スキナーの“フリーオペラント”を使った実証的研究は、ソーンダイクやガスリーなどが行った試行錯誤学習の概念を、ソーンダイクのように刺激-反応“連合”を用いずに、明確化し、拡張した。 代表的なフリーオペラントの実験では、レバーと餌が出る装置がついた箱(スキナーボックス)の中にラットを入れる。ラットがレバーに近づくと餌を出すのを繰り返すことで、ラットがレバーに近づく頻度が増加する。次に、レバーに触れると餌を出すことを繰り返すと、レバーに触れる行動が増加する。最終的に、レバーを押したところで餌を出すことを繰り返すことで、レバーを押す頻度が増加する。この実験では、実験者は餌を出す装置(環境)を操作しているが、ラットの行動に直接手を出していない。ラットは箱の中を「自由」に動き回ることができていたため、フリーオペラントと呼ばれる。レバーに特別近づくことがなかったところから、レバーを押すまでに行動を形成する技法はシェーピングと呼ばれる。そして、レバー押しの頻度が増えたことは、行動(レバーを押した)とその行動の結果(餌が出た)の関数関係で説明され(関数(function)は「機能」とも翻訳される)、この説明法は関数分析(機能分析)と呼ばれる。 スキナーはフリーオペラントを使った実験で、強化スケジュール(先の例では、実験者が餌を出すタイミング)の差異による、オペラント反応率の変化の違いを、実証的に研究した。そして、行動レベルの視点で、動物に様々な種類・頻度で反応を自発させることに成功したスキナーは、その実証的研究を根拠に厳密な理論的分析を行った。例えば、論文『学習理論は必要か?(Are theories of learning necessary?)』(Skinner, 1950)の中で、一般的な心理学が抱えている理論的弱点を批判している。 実験行動分析学によって導かれた行動原理は、応用行動分析学として教育・スポーツ・医療、ペットや介助犬のトレーニング、会社運営、社会的問題解決などに応用されている。 === 言語(的)行動 === スキナーは、行動の科学の哲学的基盤を考察する過程で、人間の[[言語]]に関心を持つようになった。そして、著書『[[言語行動|言語(的)行動]]』(Skinner, 1957)の中で、言語(的)行動を関数分析(機能分析)するための概念と理論を発表した。この本は、言語学者の[[ノーム・チョムスキー]]のレビュー(Chomsky, 1959)によって厳しく酷評されたが、スキナー自身は「チョムスキーは、私が何について話しているのかを分かっておらず、どういう訳か、彼はそれを理解することができない」というコメント(Skinner, 1972)を残している程度で、このレビューに目立った反応をしていない。 スキナーは、言語(的)行動を「他者の仲介を通して強化された行動」と定義し、言語を他のオペラント行動と同様の方法(関数分析)で研究可能だと考えた。スキナーは、[[言語獲得]]よりも、言語と顕在的行動の相互作用への興味が強かった。彼は、著書『強化随伴性』(Skinner, 1969)の中で、ヒトは言語(的)刺激を構成し、言語(的)刺激は外的刺激と同様の方法で行動を制御出来る事を指摘している。この行動への言語(的)刺激という“教示性制御”の存在の可能性により、強化随伴性は他の動物の行動に影響するのと同様の現象を、ヒトの行動に必ずしももたらす訳でない事が指摘された。 これにより、徹底的行動主義によるヒトの行動の研究は、教示性制御と随伴性制御の相互作用を理解する試みへと移った。そして、<どのような教示が自発されるか>や<どのような行動の支配を教示が獲得するか>を決める行動過程の研究が行われるようになった。 なお、この分野の著明な研究者には、Murray Sidman,A. Charles Catania,C. Fergus Lowe,Steven C. Hayesなどがいる。 スキナーの著書『言語(的)行動』は理論的分析が殆どであり、言語行動に関する実験的研究を元に書かれたものではなかったが、この本の出版以後、言語行動は実験的に研究され、現在、カウンセリング技法(例えば、アクセプタンス&コミットメント・セラピー)や子どもの言語指導法(例えば、フリーオペラント技法、PECS)として応用されている。 === 淘汰による行動の理解 === スキナーの行動への視点は、“巨視的”であると批判されることが多い。つまり、スキナーの扱う行動は、より核となる部分に分解できるという批判である。しかし、スキナーは、数々の論文(例えば『結果による淘汰(Selection by Consequences)』(Skinner, 1981))の中で“行動の完全な記述”について書いており、この視点は巨視的と簡単には評せないものであった。 スキナーは、行動を完全に説明するためには、淘汰の歴史を3段階に分けて理解する必要があると主張している。それらは、以下の3段階である。 #生物学:動物の[[自然淘汰]]、[[系統発生]]。 #行動:動物の行動レパートリーの強化歴、[[個体発生]]。 #(いくつかの種が持つ)[[文化_(代表的なトピック)|文化]]:その動物が属する社会集団の文化的慣習。 スキナーは、全ての生活体が、<全歴史>と<環境>との相互作用していると考えた。そして、自分自身の行動もまた、その瞬間の環境と相互作用している、<系統発生の歴史>と<(文化的慣習の学習をも含む)強化の歴史>の産物として表現した。 == 哲学における行動主義 == 行動主義は、心理学のムーブメントであるだけでなく、[[心の哲学]]でもある。“徹底的行動主義”では、行動の研究が“[[科学]]”であるべきだという基本的前提があり、仮想された内的状態に頼らない。一方、“方法論的行動主義”は、仮想された内的状態を利用するが、[[精神世界]]にそれらを位置付けず、主観的経験に頼らない。行動主義は、行動の機能的側面に注目するのである。 [[分析哲学]]者の中には、行動主義者と呼ばれる者や、自称する者がいる。 [[ルドルフ・カルナップ]]や[[カール・ヘンペル]]といった所謂[[論理実証主義]]者たちが称えた“[[論理的行動主義]]”では、心理的状態の意味付けは、実行された顕在的行動からなる[[検証条件]]である。[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]]は、スキナーの考えに影響され、言語の研究の中で行動主義を利用した。[[ギルバート・ライル]]は、哲学的行動主義に傾倒し、自著『[[心の概念]]』の中で哲学的行動主義を概説した。そして、ライルは、二元論の例証では、日常言語の使用の誤解による“[[カテゴリーミステイク]]”が頻繁に生じていると考えた。[[ダニエル・デネット]]もまた、自身の論文「メッセージは;媒介などない」({{lang|en|''The Message is: There is no Medium''}}, Dennett, [[1993年]])の中で、自身を一種の行動主義者であると認めている。 <[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]の哲学>と<論理的行動主義や徹底的行動主義>の間に共通点(例えば“ [[箱の中のカブトムシ]]”)があると言われ、ウィトゲンシュタインは行動主義者と定義されることがある。しかし、ウィトゲンシュタインは、行動主義者と言い切れないし、彼の文体は様々な解釈が可能である。また、数学者の[[アラン・チューリング]]は、行動主義者と見なされることがある{{Citation needed|date=January 2008}}が、彼は行動主義者と自称していない。 == 関連項目 == * [[行動療法]] == 外部リンク == {{IEP|Behavior|Behaviorism|行動主義}} {{SEP|behaviorism|Behaviorism|行動主義}} {{心理学}} {{心の哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうとうしゆき}} [[Category:行動主義心理学|*]] [[Category:心の哲学]] [[Category:心身問題]] [[Category:方法論]] [[Category:行動]] [[Category:機械論]]
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ドゥニ・ディドロ
ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot、1713年10月5日 - 1784年7月31日)は、フランスの哲学者、美術批評家、作家。主に美学、芸術の研究で知られる。18世紀の啓蒙思想時代にあって、ジャン・ル・ロン・ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物であり、多様な哲学者と交流した。徹底した唯物論者であり、神について初期は理神論の立場に立ったが後に無神論へ転向した。ポール=アンリ・ティリ・ドルバックなどとともに、近代の哲学者としては最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人とされる。書物によっては「ドニ・ディドロ」と仮名転写される場合もある。 フランス ラングル生まれ。パリ大学で神学と哲学を学んだ。思想的には、初期の理神論から唯物論、無神論に進んでいる。『盲人に関する手紙(盲人書簡)』(1749年刊)の唯物論的な主張のため投獄されたこともある。 英語に堪能で、ル・ブルトン書店から、イギリスで刊行し成功したチェンバーズの百科事典『サイクロペディア』のフランス語版を依頼されたことが、18世紀を代表する出版物『百科全書』の編纂・刊行につながった。事業としての『百科全書』が狙っていた主要な対象は新興のブルジョワ階級であり、その中心は当時の先端の技術や科学思想を紹介した項目だが、それらにまじえながら、社会・宗教・哲学等の批判を行ったため、『百科全書』を刊行すること自体が宗教界や特権階級から危険視された。ディドロは、たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返し、『百科全書』(1751年-1772年)の完結という大事業を成し遂げた(『百科全書』はフランス革命(1789-1794年)を思想的に準備したともいわれる)。 1751年、プロイセン科学アカデミーの外国会員となる。 ロシアの女帝エカチェリーナ2世と個人的に交流した。1765年、娘の結婚資金を確保するため、ディドロは蔵書をエカチェリーナ2世に売り渡したが、その契約は、ディドロの生存中はそれら蔵書を手元において自由に利用できるという条件付きであり、実際にはエカチェリーナからの資金援助という性格をもつ。そうした援助にむくいるため、『百科全書』完結後の1773年、ロシアを訪問した。 ディドロに由来するものとしてはパリ第7大学の名称や「ディドロ効果」がある。 ディドロは1752年に刊行された百科全書第二巻のなかに収録された項目「美」を執筆した。そこでの彼のテーマは美の根拠についてである。 彼はこの根拠を求めるために、美を定義するのに必要な性質は何かを探る。彼はまず、秩序、関係、釣り合い、配列、対称、適合、不適合がどのような美の中にも見つけることができるとする。それはそれらの概念が存在、数、横、高さ、およびその他異議をさしはさむ余地のない諸観念と同じ起源から生じるからである。 しかし、より一般的に、美しいと名づけるすべての存在に共通な性質のうち、美という言葉を記号にしうるものは何だろうかと、疑問を投げかける。それは、美がそれによって始まり、増大し、無限に変化し、減少し、消滅する性質だという。そして、これらの結果を引き起こしうるのは、関係の観念をおいてほかにないという。ここで彼は美の流動性や多様性を示唆している。例えば、美しい人の体重が5キロ増え、その人の顔に脂肪が溜まり、若干ふくれっ面になると、その人の顔は怒りを想起させ、既に美しい人ではなくなるかもしれない、という流動的な側面が美にはある。 また、彼は美の多様性についての証拠として、雷雨、暴風雨、天地創造以前の混沌の絵を挙げて、ある種の存在は秩序や対称の明白な外観とすら無縁だと述べている。したがって、これらの存在のすべてが一致するただひとつの共通な性質は、関係の観念であるという。美の多様性においては、上で示した「美しい人」がたとえふくれっ面になったとしても、それは怒りではなく健康を想起させ、その人はさらに美しくなるかもしれないということがいえる。 美しいという語をつくりださせたのは、関係の知覚であり、その関係と人物の精神との多様性に応じて、きれい、美しい、魅惑的な、偉大な、崇高な、神聖な、その他、肉体と精神とにかかわる無数の語がつくられた。これらが美のニュアンスである。 さらに、関係の観念であるところの美が往々にして感情の問題にされてしまうことに触れて、こう述べている。「確定しにくいけれども認めやすく、そしてその知覚に快感がともなうために、美は理性よりもむしろ感情の問題だと憶測されたのである。ごく小さな子供の頃から、ある原理がわれわれに知られていて、その原理が習慣的に、外部の事物に対して、気軽に、すみやかに適用されるような場合には、いつも必ず、われわれは感情によって判断を下していると思うだろう」。 美に対する意見の相違のことごとくは、自然の所産と芸術作品における、知覚された関係の多様性の結果として生じる。それならば一体、自然のうちで、その美しさに関して人々が完全に意見の一致をみるのはなんであろうか。この問いに対して彼はこう答えている。「同一対象のなかにまったく同じ関係を知覚し、それと同じ程度に美しいと判断する人は、恐らくこの地上に二人といないだろう。だが、いかなる種類の関係も感じたことのない人が一人でもいるとすれば、彼は完全なばか者だろう」。 グリムの『文藝通信』に断続的に掲載されたサロンの批評(「サロン評」)によって近代的美術批評の祖ともされる。その批評論は『絵画論』(Essai sur la peinture, 1766年刊)に結実した。 ディドロの美術論は、『絵画論』にその他美術に関する著作を加えた『絵画について』(佐々木健一訳、岩波文庫、2005年)に詳しい。 ディドロの時代は近代的な芸術概念の確立期に重なっていた。近代的な芸術概念とは、文学と造形美術(絵画、彫刻、建築)と音楽をひとまとまりのものとしてくくる考えのことである。近代的な芸術概念の核心は、絵画や彫刻を「頭の仕事」として格上げすることにあった。 ディドロと美術との関係が顕著に表れるのは、サロン展の批評を書き始めたころである。1759年を皮きりに、1781年まで9年分(59、61、63、65、67、69、71、75、81年)を書いている。サロン評が公表されたのは『文藝通信』というミニコミ誌だった。これを刊行していたのは、グリム(1723年-1807年)というパリ在住のドイツ人で、パリに定住して4年目の1753年から、或る人物のやっていたこの事業を引き継いだ。 ディドロの主要な著作のうち、サロン評と『絵画論』、更に『ダランベールの夢』と『ブガンヴィル航海記補遺』などが『文藝通信』に公表された。しかし、読者は極めて限られていて、最大でも15人ほどだった。ディドロは『絵画論』の刊行を『1765年のサロン』の末尾で予告して、1766年の『文藝通信』でそれは公表された。 『絵画論』は哲学的な絵画論であることを以て特徴としていた。彼は詩などを論じるために使われた修辞学的概念を切り捨て、絵画を純粋に絵画として論じた。 『絵画論』の最終章で彼はもう一度、項目「美」の主題だった美の根拠について論じている。彼は問う。「だが、もしも趣味が気まぐれなものであり、美については永遠の、不変の規則など存在しないのであれば、これらすべての原理にいかなる意味があるのか」。彼は美を真や善と結びつけることによって、この問題を解決しようとする。彼はいう。「真、善、美は密接に結びあっている。最初の二つの質に何か稀で目覚ましい状況を加えてみたまえ。真は美となろう、善は美となるだろう」。彼によれば趣味とは、「経験を重ねることによって、真や善がそれを美しくする状況ぐるみで容易に捉えられるようになり、それにすぐにそして強く感銘を受けるようになる、そのようにして身についた能力」だった。 彼は絵画を美しくするためには、その対象である自然の構造もしくは秘密につうじることが不可欠であると考えた。そこで、彼の絵画論の課題は、自ずから自然法則をよく知るという課題と重なりあった。この美と自然法則の照応は『絵画論』最終章の主題に直結している。そこで美は真と善に基礎づけられるが、ここで言う「自然法則」は真であるとともに善(特に有用性)の基盤となるものである。そして、この問題意識が、ディドロの美学的思索の展開においてひとつの中心的な主題をなしていたことに注意しておきたい、と佐々木健一は述べている。 文学作品の大半は実験的なもので、明確なストーリーをもたない。没後に刊行された著作も多い。
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ドゥニ・ディドロは、フランスの哲学者、美術批評家、作家。主に美学、芸術の研究で知られる。18世紀の啓蒙思想時代にあって、ジャン・ル・ロン・ダランベールとともに百科全書を編纂した、いわゆる百科全書派の中心人物であり、多様な哲学者と交流した。徹底した唯物論者であり、神について初期は理神論の立場に立ったが後に無神論へ転向した。ポール=アンリ・ティリ・ドルバックなどとともに、近代の哲学者としては最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人とされる。書物によっては「ドニ・ディドロ」と仮名転写される場合もある。
{{redirect|ディドロ|バレエ・マスターのディドロ|シャルル・ディドロ}} {{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = 18世紀の哲学 | image_name = Denis Diderot by Louis-Michel van Loo.jpg | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = ディドロ | name = ドゥニ・ディドロ<br />Denis Diderot | other_names = | birth_date = {{生年月日と年齢|1713|10|5|no}} | birth_place = {{FRA987}}・[[ラングル]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1713|10|5|1784|7|31}} | death_place = {{FRA987}}・[[パリ]] | school_tradition = [[啓蒙思想|啓蒙主義]]、[[百科全書派]]、[[理神論]]から[[無神論]]へ転向 | main_interests = [[自然哲学]]、[[美学]]、[[科学]]、[[文学]]、[[美術]]、[[芸術]] | notable_ideas = [[唯物論]]的[[一元論]]、[[身体]]、「[[美]]」の諸観念 | influences = [[アリストテレス]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ジョン・ロック]]、[[ヴォルテール]]、[[ミゲル・デ・セルバンテス]]、[[ローレンス・スターン]]、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]、[[サミュエル・リチャードソン]]、[[アイザック・ニュートン]]、[[ルクレティウス]]、[[ルネ・デカルト]]など | influenced = [[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[オーギュスト・コント]]、[[ミラン・クンデラ]]、[[ギュンター・グラス]]、[[ジャック・バーザン]]、[[カール・マルクス]]など | signature = Denis Diderot signature.svg | signature_alt = | 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[[英語]]に堪能で、ル・ブルトン書店から、[[イギリス]]で刊行し成功した[[イーフレイム・チェンバーズ|チェンバーズ]]の[[百科事典]]『[[サイクロペディア]]』のフランス語版を依頼されたことが、18世紀を代表する出版物『[[百科全書]]』の編纂・刊行につながった。事業としての『百科全書』が狙っていた主要な対象は新興の[[ブルジョワ]]階級であり、その中心は当時の先端の技術や科学思想を紹介した項目だが、それらにまじえながら、社会・宗教・哲学等の批判を行ったため、『百科全書』を刊行すること自体が宗教界や特権階級から危険視された。ディドロは、たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返し、<!---1772年に図版集を含む--->『百科全書』(1751年-1772年)の完結という大事業を成し遂げた(『百科全書』は[[フランス革命]](1789-1794年)を思想的に準備したともいわれる)。 1751年、[[プロイセン科学アカデミー]]の外国会員となる。 [[ロシア]]の女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]と個人的に交流した。1765年、娘の結婚資金を確保するため、ディドロは蔵書をエカチェリーナ2世に売り渡したが、その契約は、ディドロの生存中はそれら蔵書を手元において自由に利用できるという条件付きであり、実際にはエカチェリーナからの資金援助という性格をもつ。そうした援助にむくいるため、『百科全書』完結後の1773年、ロシアを訪問した。 ディドロに由来するものとしては[[パリ第7大学]]の名称や「ディドロ効果」<ref group="注釈">命名したのはディドロ本人ではなく、カナダの人類文化学者であるグラント・マクラッケン。ディドロのエッセイからこの名称がとられている。</ref>がある。 == 美学 == === 項目「美」 === ディドロは1752年に刊行された百科全書第二巻のなかに収録された項目「[[美]]」を執筆した。そこでの彼のテーマは美の根拠についてである。 彼はこの根拠を求めるために、美を定義するのに必要な性質は何かを探る。彼はまず、秩序、関係、釣り合い、配列、対称、適合、不適合がどのような美の中にも見つけることができるとする。それはそれらの概念が存在、数、横、高さ、およびその他異議をさしはさむ余地のない諸観念と同じ起源から生じるからである{{refnest|ディドロ、ダランベール編『百科全書 序論および代表項目』、桑原武夫編訳、岩波文庫、1971年、336頁<ref group="注釈">項目「美」は中川久定が訳担当。</ref>。}}。 しかし、より一般的に、美しいと名づけるすべての存在に共通な性質のうち、美という言葉を記号にしうるものは何だろうかと、疑問を投げかける。それは、美がそれによって始まり、増大し、無限に変化し、減少し、消滅する性質だという。そして、これらの結果を引き起こしうるのは、関係の観念をおいてほかにないという<ref>同上書、337頁。</ref>。ここで彼は美の流動性や多様性を示唆している。例えば、美しい人の体重が5キロ増え、その人の顔に脂肪が溜まり、若干ふくれっ面になると、その人の顔は怒りを想起させ、既に美しい人ではなくなるかもしれない、という流動的な側面が美にはある。 また、彼は美の多様性についての証拠として、雷雨、暴風雨、天地創造以前の混沌の絵を挙げて、ある種の存在は秩序や対称の明白な外観とすら無縁だと述べている。したがって、これらの存在のすべてが一致するただひとつの共通な性質は、関係の観念であるという<ref>同上書、348頁。</ref>。美の多様性においては、上で示した「美しい人」がたとえふくれっ面になったとしても、それは怒りではなく健康を想起させ、その人はさらに美しくなるかもしれないということがいえる。 美しいという語をつくりださせたのは、関係の知覚であり、その関係と人物の精神との多様性に応じて、きれい、美しい、魅惑的な、偉大な、崇高な、神聖な、その他、肉体と精神とにかかわる無数の語がつくられた。これらが美のニュアンスである<ref>同上書、349頁。</ref>。 さらに、関係の観念であるところの美が往々にして感情の問題にされてしまうことに触れて、こう述べている。「確定しにくいけれども認めやすく、そしてその知覚に快感がともなうために、美は理性よりもむしろ感情の問題だと憶測されたのである。ごく小さな子供の頃から、ある原理がわれわれに知られていて、その原理が習慣的に、外部の事物に対して、気軽に、すみやかに適用されるような場合には、いつも必ず、われわれは感情によって判断を下していると思うだろう」<ref>同上書、339頁。</ref>。 美に対する意見の相違のことごとくは、自然の所産と芸術作品における、知覚された関係の多様性の結果として生じる<ref>同上書、351頁。</ref>。それならば一体、自然のうちで、その美しさに関して人々が完全に意見の一致をみるのはなんであろうか<ref>同上書、359頁。</ref>。この問いに対して彼はこう答えている。「同一対象のなかにまったく同じ関係を知覚し、それと同じ程度に美しいと判断する人は、恐らくこの地上に二人といないだろう。だが、いかなる種類の関係も感じたことのない人が一人でもいるとすれば、彼は完全なばか者だろう」<ref>同上書、361頁。</ref>。 === 美術批評 === グリムの『文藝通信』に断続的に掲載されたサロンの批評(「サロン評」)によって近代的美術批評の祖ともされる。その批評論は『絵画論』(''Essai sur la peinture'', 1766年刊)に結実した。 ディドロの美術論は、『絵画論』にその他美術に関する著作を加えた『絵画について』([[佐々木健一 (美学者)|佐々木健一]]訳、岩波文庫、2005年)に詳しい。 ディドロの時代は近代的な芸術概念の確立期に重なっていた。近代的な芸術概念とは、文学と造形美術(絵画、彫刻、建築)と音楽をひとまとまりのものとしてくくる考えのことである。近代的な芸術概念の核心は、絵画や彫刻を「頭の仕事」として格上げすることにあった。 ディドロと美術との関係が顕著に表れるのは、[[サロン・ド・パリ|サロン展]]の批評を書き始めたころである。1759年を皮きりに、1781年まで9年分(59、61、63、65、67、69、71、75、81年)を書いている。サロン評が公表されたのは『文藝通信』というミニコミ誌だった。これを刊行していたのは、[[:en:Friedrich_Melchior,_Baron_von_Grimm|グリム]](1723年-1807年)というパリ在住のドイツ人で、パリに定住して4年目の1753年から、或る人物のやっていたこの事業を引き継いだ。 ディドロの主要な著作のうち、サロン評と『絵画論』、更に『ダランベールの夢』と『ブガンヴィル航海記補遺』などが『文藝通信』に公表された。しかし、読者は極めて限られていて、最大でも15人ほどだった。ディドロは『絵画論』の刊行を『1765年のサロン』の末尾で予告して、1766年の『文藝通信』でそれは公表された。 『絵画論』は哲学的な絵画論であることを以て特徴としていた。彼は詩などを論じるために使われた修辞学的概念を切り捨て、絵画を純粋に絵画として論じた。 『絵画論』の最終章で彼はもう一度、項目「美」の主題だった美の根拠について論じている。彼は問う。「だが、もしも趣味が気まぐれなものであり、美については永遠の、不変の規則など存在しないのであれば、これらすべての原理にいかなる意味があるのか」<ref>ディドロ『絵画について』、佐々木健一訳、岩波文庫、2005年、134頁。</ref>。彼は美を真や善と結びつけることによって、この問題を解決しようとする。彼はいう。「真、善、美は密接に結びあっている。最初の二つの質に何か稀で目覚ましい状況を加えてみたまえ。真は美となろう、善は美となるだろう」<ref>同上書、134頁。</ref>。彼によれば趣味とは、「経験を重ねることによって、真や善がそれを美しくする状況ぐるみで容易に捉えられるようになり、それにすぐにそして強く感銘を受けるようになる、そのようにして身についた能力」<ref>同上書、137頁。</ref>だった。 彼は絵画を美しくするためには、その対象である自然の構造もしくは秘密につうじることが不可欠であると考えた。そこで、彼の絵画論の課題は、自ずから自然法則をよく知るという課題と重なりあった<ref>同上書、239頁。</ref>。この美と自然法則の照応は『絵画論』最終章の主題に直結している。そこで美は真と善に基礎づけられるが、ここで言う「自然法則」は真であるとともに善(特に有用性)の基盤となるものである。そして、この問題意識が、ディドロの美学的思索の展開においてひとつの中心的な主題をなしていたことに注意しておきたい、と佐々木健一は述べている<ref>同上書、222頁。</ref>。 == 著作 == 文学作品の大半は実験的なもので、明確なストーリーをもたない。没後に刊行された著作も多い。 *『盲人書簡』[[吉村道夫]]・[[加藤美雄]]共訳 岩波文庫, 1949、復刊2001. *『修道女』(1760年執筆) **修道女の告白 [[吉氷清]]訳 二見書房, 1949. のち「シュザンヌの告白」 **修道女物語 [[佐藤文樹]]訳 弥生書房, 1957. **修道女 秋田谷覚訳. 極光社, 1992.11. *『ラモーの甥』(1761年執筆開始) **[[本田喜代治]]訳 芝書店, 1935 **[[小場瀬卓三]]訳 日本評論社, 1949 世界古典文庫、角川文庫, 1966  **本田喜代治・[[平岡昇]]訳 岩波文庫, 1940(改版1964、再改版2016) *『ダランベールの夢』(1769年執筆) **[[杉捷夫]]訳 青木書店, 1939 文化叢書 **ダランベールの夢 他四篇 [[新村猛]]訳 岩波文庫 1958. *『ブーガンヴィル航海記補遺』(1772年執筆) **[[ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル|ブーガンヴィル航海記]]補遺 他一篇 浜田泰佑訳 岩波文庫 1953、復刊1991. **[[中川久定]]訳 「[[世界の名著]] 29」中央公論社, 1970. ***改訳版「[[ユートピア旅行記叢書]] 第11巻」岩波書店, 1997.5. ***「[[シリーズ世界周航記]]2」岩波書店, 2007. *『運命論者ジャックとその主人』(ロシア滞在中に執筆) **小場瀬卓三訳 世界文学大系 第16 筑摩書房, 1960. ***他に、ある父親と子供たちとの対話,ブルボンヌの二人の友,これは物語ではない,世論の無定見について 各・小場瀬訳 **[[王寺賢太]]・[[田口卓臣]]訳 白水社, 2006.12、新装版2022 *[[不謹慎な宝石]] ヂィドロ 耽奇館主人訳 国際文献刊行会,1929  **不謹慎な宝石 デニス・ヂィデロ [[小林季雄]]訳 操書房, 1948. **お喋りな宝石 [[新庄嘉章]]訳 世界風流文学全集 第5巻 河出書房, 1956. ;思想関連 *『哲学者セネカの生涯とその著作』(1778年刊) *演劇論 小場瀬卓三訳 弘文堂書房・世界文庫, 1940.   *逆説 俳優について 小場瀬卓三訳 白水社, 1941. *自然の解釈に関する思索 小場瀬卓三訳 創元社・哲学叢書, 1948. *哲学著作集(小場瀬・平岡・大賀正喜訳) 世界大思想全集6・河出書房, 1959. *美学論文集(小場瀬訳) 世界大思想全集21・河出書房新社, 1960. *哲学断想 他二篇 新村猛・大賀正喜訳 岩波文庫, 1961. *[[百科全書]] 序論および代表項目 ディドロ、ダランベール編 [[桑原武夫]](訳者代表)岩波文庫, 1971 -『百科全書』に寄稿した項目 *絵画について [[佐々木健一 (美学者)|佐々木健一]]訳 岩波文庫, 2005.12 *オランダ旅行 川村文重訳 [[京都大学学術出版会]]「近代社会思想コレクション」, 2022.8 ;集成、フランス本国では「全集」は没後の1798年に刊行された。 *ディドロ著作集 第4巻 八雲書店 1948. ::ラモーの甥(本田訳), ブールボンヌの二人の友([[権守操一]]訳), 父親と子供たちと対話([[河内清]]訳) ::私の古い部屋に対する愛惜(武者小路実光訳), 父と私 彼と私(佐藤文樹訳) :*ディドロ著作集 第9巻 演劇論(小場瀬訳) *『'''ディドロ著作集'''』全4巻、[[法政大学出版局]]、2013年完結 **「第1・2巻」は2013年に新装版 **[[小場瀬卓三]]・[[平岡昇]]監修(第1~3巻、1976・1980・1989年)、[[鷲見洋一]]・[[井田尚]]監修(第4巻) **ディドロ著作集 第1巻 (哲学 I) ***「哲学断想」、「哲学断想 追補」、[[野沢協]]訳 ***「盲人に関する手紙」、「盲人に関する手紙 補遺」、平岡昇訳 ***「自然の解釈に関する思索」、小場瀬卓三訳 ***「基本原理入門」、[[中川久定]]訳 ***「ダランベールの夢」、[[杉捷夫]]訳 ****「ダランベールとディドロとの対話」 ****「対話のつづき」 ***「物質と運動に関する哲学的諸原理」、小場瀬卓三訳 ***「ブーガンヴィール旅行記補遺」、佐藤文樹訳 ***「女性について」、原宏訳 ***「哲学者とある元帥夫人との対話」、杉捷夫訳 ***解説、小場瀬卓三 **ディドロ著作集 第2巻 (哲学 II) ***「監修者のことば」、平岡昇著 ***『百科全書』より ****「アグヌス・スキティクス」(スキティア仔羊草)、野沢協訳 ****「折衷主義」(エクレクティスム)、大友浩訳 ****「百科全書」、中山毅訳 ****「ホッブズ哲学」、野沢協訳 ****「人間」、野沢協訳 ****「マールブランシュ哲学」、野沢協訳 ****「マニ教」、野沢協訳 ****「哲学者」、野沢協訳 ****「ピュロン哲学」(懐疑哲学)、野沢協訳 ****「スピノザ哲学」、野沢協訳 ***「エルヴェシウス『人間論』の反駁」(抜粋)、野沢協訳 ***「生理学要綱」(抜粋)、小場瀬卓三訳 ***解説、小場瀬卓三 **ディドロ著作集 第3巻 (政治・経済) ***『百科全書』より ****「政治的権威」、[[井上幸治 (西洋史学者)|井上幸治]]訳 ****「自然法」、井上幸治訳 ****「権力」、安斎和雄訳 ****「勢力〔国力〕」、安斎和雄訳 ****「主権者」、安斎和雄訳 ****「アルジャン〔銀・貨幣〕」、古賀英三郎訳 ****「農業」古賀英三郎訳 ****「技芸」、平田清明訳 ***「君主の政治原理」、[[大津真作]]訳 ***「出版業についての歴史的・政治的書簡」、[[原好男]]訳 ***「ガリアニ師讃」、平田清明訳 ***「エルヴェシウス反駁」、小井戸光彦訳 ***「エカテリーナ二世との対談」、野沢協訳 ***解説、平岡昇・古賀英三郎ほか **ディドロ著作集 第4巻(美学・美術 付・研究論集) ***「美の起源と本性についての哲学的探求」、小場瀬卓三・井田尚訳 ***「リチャードソン頌」、小場瀬卓三・鷲見洋一訳 ***「テレンティウス頌」、中川久定訳 ***「ディドロとファルコネの往復書簡」(抄)、中川久定訳 ***「絵画論断章」、[[青山昌文]]訳 ***《研究論集》 ****「ディドロはいかに読まれてきたか」、鷲見洋一著 ****「ディドロの文体」、レオ・シュピッツァー著、井田尚訳 ****「ディドロに関する五つの講義」(抄)、ハーバート・ディークマン著、田口卓臣訳 ****「ディドロと神智論者たち」、ジャン・ファーブル著、橋本到訳 ****「ディドロと他者の言葉」、ジャン・スタロバンスキー著、小関武史訳 ****「『百科全書』から『ラモーの甥』ヘ」、ジャック・プルースト著、鷲見洋一訳 ***解説、鷲見洋一ほか == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *ディドロ『運命論者ジャックとその主人』 王寺賢太・田口卓臣訳、[[白水社]]、2006年、ISBN 4-560-02758-7。 *ディドロ、ダランベール編『[[百科全書]] 序論および代表項目』 [[桑原武夫]]編・代表、[[岩波文庫]]、1971年。 *ディドロ『絵画について』 [[佐々木健一 (美学者)|佐々木健一]]訳、岩波文庫、2005年。 *[[中川久定]] 『啓蒙の世紀の光のもとで ディドロとその周辺』 [[岩波書店]]、1994年。 *『[[広辞苑]]』[[新村出]]編・代表、岩波書店、第5版1998年。第7版2018年、ISBN 978-4000801317。 *「思想 No.724 特集 没後200年 ディドロ - 近代のディレンマ」1984年10月号、岩波書店 *:ジャック・プルースト・中川久定・[[鷲見洋一]]・[[市川慎一]]・木崎喜代治・津田内匠・[[海老沢敏]] *:鈴木峯子・小宮彰・[[大津真作]]・[[青山昌文]]・J.シュイエ・[[平岡昇]]、ディドロ関係文献目録 *[[大橋完太郎]] 『ディドロの唯物論』 [[法政大学出版局]]、2011年。 *[[田口卓臣]] 『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』 [[講談社選書メチエ]]、2016年。 == 関連項目 == * [[関係性の美学]] == 関連人物 == *[[青山昌文]](「ディドロの美学」の研究者) == 外部リンク == * {{IEP|diderot|Denis Diderot}} {{Academic-bio-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ていとろ とうに}} [[Category:ドゥニ・ディドロ|*]] [[Category:18世紀フランスの哲学者]] [[Category:フランスの倫理学者]] [[Category:18世紀の無神論者]] [[Category:18世紀フランスの著作家]] [[Category:18世紀フランスの小説家]] [[Category:フランスの無神論者]] [[Category:フランスの無神論活動家]] [[Category:フランスの死刑廃止論者]] [[Category:美学者]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:形而上学者]] [[Category:愛の哲学者]] [[Category:存在論の哲学者]] [[Category:無神論の哲学者]] [[Category:宗教研究の哲学者]] [[Category:フランスの辞典編纂者]] [[Category:啓蒙思想家]] [[Category:エピクロス主義哲学者]] [[Category:百科全書派の人物 (1751–72)]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:オート=マルヌ県出身の人物]] [[Category:1713年生]] [[Category:1784年没]]
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プリニウス
プリニウスは帝政期のローマを生きた二人の人物の名前。大と小をつけて区別するのが一般的。
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プリニウスは帝政期のローマを生きた二人の人物の名前。大と小をつけて区別するのが一般的。 ガイウス・プリニウス・セクンドゥス - 博物学者、政治家、軍人。『博物誌』の著者。ヴェスヴィオの噴火により没。 ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス - 大プリニウスの甥。文人、政治家。ヴェスヴィオの噴火を記録。 プリニウス_(漫画) - 『新潮45』で連載され同誌休刊後は、『新潮』で連載中の歴史漫画。とり・みき、ヤマザキマリ合作。
'''プリニウス'''は帝政期のローマを生きた二人の人物の名前。大と小をつけて区別するのが一般的。 * [[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]](Gaius Plinius Secundus, '''大プリニウス''') - 博物学者、政治家、軍人。『博物誌』の著者。ヴェスヴィオの噴火により没。 * [[ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス]](Gaius Plinius Caecilius Secundus, '''小プリニウス''') - 大プリニウスの甥。文人、政治家。ヴェスヴィオの噴火を記録。 * [[プリニウス_(漫画)]] - 『[[新潮45]]』で連載され同誌休刊後は、『[[新潮]]』で連載中の歴史漫画。[[とり・みき]]、[[ヤマザキマリ]]合作。 {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ふりにうす}} [[Category:古代ローマの人名]]
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磯崎新
磯崎 新(いそざき あらた、1931年(昭和6年)7月23日 - 2022年(令和4年)12月28日)は、日本の建築家、一級建築士、アトリエ建築家。日本芸術院会員。 大分県大分市出身。父は実業家で俳人の磯崎操次。妻は彫刻家の宮脇愛子。茨城・つくばセンタービルや米国・ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した。 CIAM以降、さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した役割において、磯崎はポストモダン建築を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。 一方で磯崎の活動がつねに批評的な活動を伴っていた事実は、建築家としての磯崎新自身の建築設計や都市計画といった実務的な仕事を、建築史上の特定の動向、様式に位置づけることを著しく困難にさせてきた。ちなみに、様式や形式それ自体も、批評的に選択されていると彼自身が表明している。 そもそも磯崎の出発点は大分市の「新世紀群」という絵画サークルの活動から始まった。そこは後にネオ・ダダで活躍した吉村益信、赤瀬川原平、風倉匠らも在籍した前衛的土壌であった(なお赤瀬川原平の兄の赤瀬川隼(直木賞作家)とは、旧制中学の同級生)。また磯崎が1960年に丹下健三の東京計画1960に加わっていた頃、ネオ・ダダは新宿百人町の吉村アトリエ(通称ホワイトハウス:磯崎による設計)を拠点に反芸術的活動を展開しており、磯崎もたびたびそこを訪れていた。この時点において磯崎はネオ・ダダ的建築家として最も過激な思想の基に模索していた。 1980年代以降はロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など日本国外で活躍している。閉塞的な日本のアカデミズムを脱却し、世界的な次元で建築を構想する姿勢は、日本国内では批判に晒されるが、日本の現代建築を世界的なレベルに押し上げた建築家の一人である。古典的なプロポーションの均整を避けるため敢えてキューブのようなプラトン立体を多用することで知られている。 現在は活動の場を海外、とりわけ中国と中東、ヨーロッパなどに移している。そこでは、かつて自身が行ったさまざまな実験やアンビルトとなった建築計画などのレファレンス、構造家とのコラボレーションによる進化論的構造最適化手法などを採用し、オーガニックな形態で特異な空間を現出させようとしている。
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磯崎 新は、日本の建築家、一級建築士、アトリエ建築家。日本芸術院会員。 大分県大分市出身。父は実業家で俳人の磯崎操次。妻は彫刻家の宮脇愛子。茨城・つくばセンタービルや米国・ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した。
{{Infobox 建築家 |image = File:ARATA ISOZAKI, ARCHITECT 01.jpg |image_size = <!--250px以下に指定--> |caption = 磯崎新(2001年) |name = <small>いそざき あらた</small><br />磯崎 新 |nationality = {{JPN}} |birth_date = {{生年月日と年齢|1931|7|23|no}} |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1931|7|23|2022|12|28}}|death_place = {{JPN}}・[[沖縄県]][[那覇市]] |birth_place = {{JPN}}・[[大分県]][[大分市]] |alma_mater = [[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]][[建築学科]]卒業<br />[[東京大学大学院数物系研究科]][[建築学]]専攻[[博士課程]]修了 |spouse = [[宮脇愛子]] |師匠        = [[丹下健三]] |significant_buildings= [[大分県立大分図書館]]<br />[[つくばセンタービル]]<br />[[ロサンゼルス現代美術館]] |significant_design = モンローチェアー |literary_works = 空間へ |awards = [[日本建築学会賞]](1967、75年)<br />[[芸術選奨新人賞]](1969年)<br />[[毎日芸術賞]](1984年)<br />[[RIBAゴールドメダル]](1986年)<br />[[朝日賞]](1988年)<br />[[日本文化デザイン大賞]](1993年)<br />[[ヴェネチア・ビエンナーレ]]金獅子賞(1996年)<br />[[プリツカー賞]](2019年) }} [[File:Arata Isozaki.jpg|thumb|1976年撮影]] '''磯崎 新'''(いそざき あらた、[[1931年]]([[昭和]]6年)[[7月23日]] - [[2022年]]([[令和]]4年)[[12月28日]])は、[[日本]]の[[建築家]]、[[一級建築士]]、[[アトリエ系建築設計事務所|アトリエ建築家]]。[[日本芸術院]]会員。 [[大分県]][[大分市]]出身。父は[[実業家]]で[[俳人]]の[[磯崎操次]]。妻は[[彫刻家]]の[[宮脇愛子]]。[[茨城県|茨城]]・[[つくばセンタービル]]や[[米国]]・[[ロサンゼルス現代美術館]]などで知られ、[[ポストモダン建築]]をリードして国際的に活躍した。<!-- 宮脇の項目に記載すべきかと思います (注)宮脇愛子の最初の夫は、[[中央公論社]]の編集者で後に[[作家]]となった[[宮脇俊三]]だった。後に俊三がまだ編集者の時代に離婚したが、宮脇姓の頃に彫刻家として成功してしまったため、「宮脇」のままで活動している。なお、[[槇文彦]]の[[スパイラル]]にある彫刻は宮脇の作品である。 --> == 経歴 == * 1931年 - 磯崎藻二の長男として生まれる。父の藻二は中学卒業後[[中国]]に渡り、[[東亜同文書院]]を卒業、帰国して家業の米穀商と廻船業を継ぎ、1924年に大分合同トラックを創業、戦後社長を務めた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A3%AF%E5%B4%8E%20%E8%97%BB%E4%BA%8C-1638370 磯崎 藻二(読み)イソザキ ソウジ]コトバンク</ref><ref name=rireki/>。 * 1945年 - 母親が交通事故で死去<ref name=rireki>「私の履歴書 磯崎新」日本経済新聞、2009/5/3</ref>。 * 1950年 - 大分県立大分第一高等学校(現・[[大分県立大分上野丘高等学校]])を卒業。同級生に[[赤瀬川隼]]がいた。 * 1951年 - 父親死去。 * 1954年 - [[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京大学工学部]][[建築学科]]を卒業。 * 1960年 - [[丹下健三]]研究室で[[黒川紀章]]らとともに東京計画1960に関わる。 * 1961年 - [[東京大学大学院数物系研究科]]建築学専攻[[博士課程]]を修了。[[伊藤ていじ]]、[[川上秀光]]らと八田利也(はったりや)のペンネームを用い「現代建築愚作論」を執筆し、反響を呼ぶ。 * 1963年 - 丹下健三研究室(都市建築設計研究所)を退職し、磯崎新アトリエを設立。 * 1967年 - [[大分県立大分図書館]]竣工。(36歳)初期の代表作で、1997年に改修され[[アートプラザ]]になった。 * 1968年 - 株式会社環境計画代表取締役。 * 1970年 - [[日本万国博覧会|大阪万博]]のお祭り広場(1970年)を丹下と共同で手がけた。 * 1972年 - [[宮脇愛子]]と結婚。 * 1975年 - 著書『建築の解体』、[[群馬県立近代美術館]]、[[北九州市立美術館]]など多産な年。 * 1980年 - 写真家[[篠山紀信]]とコンビで「建築行脚」シリーズを刊行( - 1992年)。 * 1983年 - [[つくばセンタービル]]竣工。[[ポストモダン建築]]の旗手と目されるようになった。(52歳) * 1986年 - [[東京都庁舎]]のコンペに参加(8社指名)。[[超高層ビル|超高層建築]]の丹下健三案(当選)に対して、シティホールのあり方を問う[[中層建築物|中層建築]]の案を提出した。 * 1988年 - 熊本県知事の[[細川護熙]]に招かれる形で、[[くまもとアートポリス]]事業の初代コミッショナーに就任( - 1996年)。 * 1991年 - 2000年まで世界各地で開催された[http://www.anycorp.com/any/any.php Anyコンファレンス]を企画、参加。 * 1991年 - 2002年まで第一期、二期、三期にわたり『[http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/ 批評空間]』誌編集顧問。 * 1996年 - [[織部賞]]の選考委員長に就任。 * 1996年, 2000年, 2004年 - [[ヴェネツィア・ビエンナーレ]][http://www.labiennale.org/en/architecture/ 建築展]・日本館コミッショナー。 [[ファイル:Arata Isozaki (ph. GianAngelo Pistoia) 2.jpg|サムネイル|1996年撮影]] * 2017年 - [[日本芸術院]]会員に選出。 * 2020年 - [[同済大学]]建築都市計画学院名誉教授。 * 2022年12月28日 - 老衰のため那覇市の自宅で死去。{{没年齢|1931|7|23|2022|12|28}}<ref>{{cite news |title=Muere el arquitecto Arata Isozaki, autor del Palau Sant Jordi |url=https://www.lavanguardia.com/cultura/20221229/8662467/muere-arquitecto-arata-isozaki.html |access-date=29 December 2022 |publisher=La Vanguardia |date=29 December 2022}}</ref>。 == 受賞等 == * [[1967年]] - [[日本建築学会賞]]作品賞(大分県立大分図書館) * [[1969年]] - [[芸術選奨新人賞]]美術部門 * [[1975年]] **[[日本建築学会賞]]作品賞(群馬県立近代美術館) **[[BCS賞]](1984年、1989年、1991年にも受賞) * [[1984年]] - [[毎日芸術賞]](つくばセンタービル) * [[1986年]] - [[RIBAゴールドメダル]] * [[1988年]] - [[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 1971-2000年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738070 |accessdate=2022-08-31}}</ref> * [[1993年]] - [[日本文化デザイン大賞]] * [[1996年]] - [[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]建築展金獅子賞(第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「亀裂」)[[ファイル:Arata Isozaki (ph. GianAngelo Pistoia) 1.jpg|サムネイル|1996年撮影]] * [[2019年]] **[[プリツカー賞]](磯崎は賞の設立から10年近く審査する側にいた<ref>{{Cite web|和書|title=プリツカー賞 {{!}} 現代美術用語辞典ver.2.0|url=https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%AB%E3%83%BC%E8%B3%9E|website=artscape.jp|accessdate=2019-12-20|language=ja}}</ref>) **大分市名誉市民 **大分県特別功労者 == 評価 == {{独自研究|section=1|date=2009年1月}} [[CIAM]]以降、さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した役割において、磯崎は[[ポストモダン建築]]を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。 一方で磯崎の活動がつねに批評的な活動を伴っていた事実は、建築家としての磯崎新自身の建築設計や都市計画といった実務的な仕事を、建築史上の特定の動向、様式に位置づけることを著しく困難にさせてきた。ちなみに、様式や形式それ自体も、批評的に選択されていると彼自身が表明している。 そもそも磯崎の出発点は大分市の「新世紀群」という絵画サークルの活動から始まった。そこは後に[[ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ|ネオ・ダダ]]で活躍した[[吉村益信]]、[[赤瀬川原平]]、[[風倉匠]]らも在籍した前衛的土壌であった(なお赤瀬川原平の兄の[[赤瀬川隼]](直木賞作家)とは、旧制中学の同級生)。また磯崎が1960年に[[丹下健三]]の東京計画1960に加わっていた頃、[[ネオ・ダダ]]は新宿百人町の吉村アトリエ(通称[[新宿ホワイトハウス|ホワイトハウス]]:磯崎による設計)を拠点に反芸術的活動を展開しており、磯崎もたびたびそこを訪れていた。この時点において磯崎はネオ・ダダ的建築家として最も過激な思想の基に模索していた。 [[1980年代]]以降はロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など日本国外で活躍している。閉塞的な日本のアカデミズムを脱却し、世界的な次元で建築を構想する姿勢は、日本国内では批判に晒されるが、日本の現代建築を世界的なレベルに押し上げた建築家の一人である。古典的なプロポーションの均整を避けるため敢えてキューブのような[[プラトン立体]]を多用することで知られている。 現在は活動の場を海外、とりわけ中国と中東、ヨーロッパなどに移している。そこでは、かつて自身が行ったさまざまな実験やアンビルトとなった建築計画などのレファレンス、構造家とのコラボレーションによる進化論的構造最適化手法などを採用し、オーガニックな形態で特異な空間を現出させようとしている。 == その他 == * [[メタボリズム]]について、「一九六二年頃の私の思考を整理してみると、私はメタボリズムと明瞭に逢遇している」と書いている( http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/888/ 最終段落) * [[読売新聞]]で、バブル期の[[東京都]]の[[公共建築]]である[[東京芸術劇場]]、[[東京都庁舎]]、[[江戸東京博物館]]、[[東京都現代美術館]]、[[東京国際フォーラム]]の5作品を「[[粗大ゴミ]]」と評した。ただ、これは建築家のデザイン力だけではなく、東京都が建築家に要求した[[プログラム]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}に対する発言とされる<ref>磯崎新 『磯崎新の発想法 建築家の創作の秘密』 王国社</ref>。 * コンペの審査員も多数務め、[[長谷川逸子]]の[[湘南台文化センター]]や、[[伊東豊雄]]の[[せんだいメディアテーク]]の際の審査員でもある。[[プリツカー賞]]の審査員も務めた。 * 丹下健三を最もよく知る一人で、2005年の葬儀において弔辞を読んだ。 * 若い頃に影響を受けたのは[[チェ・ゲバラ]]と[[毛沢東]]<ref>『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) pp.25-32</ref><ref>[http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2004/04/09142147.html 10+1 web site|建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽|テンプラスワン・ウェブサイト]</ref>。 * 作家の[[沢木耕太郎]]と親交があり、沢木の紀行文『[[深夜特急]]』にも登場する<ref>沢木耕太郎 『深夜特急 4 シルクロード』 新潮社文庫</ref>。 * 建築模型を数多く制作している建築家としても知られている。1990年代にロサンゼルス現代美術館を皮切りに、国内(群馬県立近代美術館、水戸芸術館、北九州市立美術館、ハラミュージアム・アーク等)国外(スペイン、ギリシア、イギリスなど)をサーキットした大回顧展が行われ注目を集めた。現在それらの模型や資料は大分市のアートプラザ(磯崎新建築記念館、磯崎設計の旧大分県立大分図書館)に収蔵され、3階の磯崎新建築展示室で順次公開されており、磯崎建築を知る上で最も重要な拠点となっている。 *祖父の磯崎徳三郎は[[大分市議会]]議長も務めた米問屋で、その米倉庫は[[三浦義一]]や[[林房雄]]が子供の頃遊び場としており、その縁で三浦義一の寄付により建設された旧大分県立大分図書館の設計者に指名された。 *東京大学2年時に父を亡くしたため、[[渡辺一夫]]の本郷真砂町の自宅に住み込み、渡辺の息子に数学を教えた。英語を教えていたのは[[高橋康也]]。 *父の磯崎操次(1901-1951)は大分貨物自動車会社を経営する実業家であり、俳名を磯崎藻二として吉岡禅寺洞が福岡で1918年に創刊した新興俳句派の俳誌「天の川」同人であった俳人<!--(『建築家捜し』所収の「2 命名」及び平松剛『磯崎新の「都庁」』参照)-->。 *韓国近代建築の巨匠・[[金壽根]](1931-1986)は東京大学大学院時代に隣の研究室に所属しており、友人。 *[[関西大学]]名誉教授の古後楠徳は磯崎を数学好きにさせ、「"[[代数学|代数]]"はダメだ。"[[幾何学]]"に進め」とアドバイスし、結果的に建築学科へ導いた高校時代の恩師である。 *[[新建築住宅設計競技]]など審査員を歴任。[[1975年]]の「新建築住宅設計競技」では、「わがスーパースターたちのいえ」という課題を出し、1~3位の入賞者すべてを外国人にしたことで主催者を驚かせたが、賞金の一部は日本人に行くようにするという規定があったため、選外佳作という賞を急遽設け、日本人応募者に受賞させた<ref>https://live.nicovideo.jp/watch/lv33643068 [[ニコニコ生放送]]「[[村上隆]]の芸術闘争論#2」[[森川嘉一郎]]・談</ref>。1位は当時[[AAスクール]]在学中の[[トム・ヘネガン]]で、[[ハリウッドスター]]たちの家の写真にただ×(No!)が描かれただけのもので、2位、3位も同様にコンセプチュアルなものだった。磯崎は審査評として、[[新建築]]の12月号に「日本の建築教育の惨状を想う 」を発表し、建築界を騒がせた。 *[[静岡県コンベンションアーツセンター]]の完成から5年後の2004年にスレート製の外壁が落下してから、5年間に合計40回の剥落落下が相次ぎ、その責任を巡って問題となっている<ref>[http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20110201/545482/]</ref><ref>[http://www.granship.or.jp/news/20091020/index.html]</ref>。一時は、磯崎への賠償請求も検討された。落下対策には8億~14億円を要すると試算されている<ref>[http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20101119/544349/]</ref>。 *2014年、国際コンペで選ばれた新国立競技場案に対しての議論が巻き起こったおり、「新国立競技場 [[ザハ・ハディッド|ザハ・ハディド]]案の取り扱いについて」を発表し、改めてデザインをザハに任せるべきだと主張した<ref>{{Cite web|和書|title=磯崎新による、新国立競技場に関する意見の全文 |url=http://architecturephoto.net/38874/ |website=architecturephoto.net |date=2014-11-07 |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref>。 == 作品 == ===建築作品=== {| class="sortable wikitable" style="font-size:93%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国 !! 状態 !! 備考 |- | {{Display none|しんしゆくほわいとはうす/}}[[新宿ホワイトハウス]] ||1957年|| {{東京}}都[[新宿区]] ||{{JPN}}|| ||現カフェアリエ |- | {{Display none|おおいたいしかいかん/}}[[大分県医師会館|大分医師会館]] ||1960年|| {{大分}}県大分市 ||{{JPN}} ||現存せず|| |- | {{Display none|えぬてい/}}N邸(中山邸) ||1964年||{{大分}}県大分市||{{JPN}}||現存せず||1998年、秋吉台国際芸術村内にN邸をベースにし<br>た建物が建築された。 |- | {{Display none|いわたかくえん/}}[[岩田中学校・高等学校|岩田学園]] ||1964年|| {{大分}}県大分市 ||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|おおいたけんりつとしよかん/}}[[大分県立図書館|大分県立大分図書館]] ||1966年|| {{大分}}県大分市 ||{{JPN}}||||現[[アートプラザ]] |- | {{Display none|くしゆうおうかひ/}}久住歌翁碑||1967年|| {{大分}}県竹田市 ||{{JPN}} |||| |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうおおいたしてん/}}[[福岡相互銀行]]大分支店 ||1967年||{{大分}}県大分市 ||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうたいみよう/}}福岡相互銀行大名支店 ||1969年||{{福岡}}市中央区||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|にほんはんこくはくらんかい/}}[[日本万国博覧会]]・お祭り広場の諸装置<br />( [[ロボット]]の「デク」・「デメ」) ||1970年||{{大阪}}府吹田市||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうとうきょう/}}福岡相互銀行東京支店 ||1971年||{{東京}}都中央区||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうなかすみ/}}福岡相互銀行長住支店 ||1971年||{{福岡}}市南区||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうろつほんまつ/}}福岡相互銀行六本松支店 ||1971年||{{福岡}}市中央区||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうほんてん/}}福岡相互銀行本店 ||1972年||{{福岡}}市博多区||{{JPN}}||現存せず||現[[西日本シティ銀行]]本店 |- | {{Display none|ふくおかそうこきんこうさかしてん/}}福岡相互銀行佐賀支店 ||1973年||{{佐賀}}県佐賀市||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|くんまけんりつきんたいひしゆつかん/}}[[群馬県立近代美術館]] ||1974年||{{群馬}}県高崎市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ふしみかんとりいくらふ/}}[[富士見カントリークラブハウス|大分富士見カントリー倶楽部ハウス]] ||1974年||{{大分}}県大分市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|きたきゆうしゆうしりつひしゆつかん/}}[[北九州市立美術館]] ||1974年||北九州市戸畑区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|きたきゆうしゆうしりつとしよかん/}} [[北九州市立中央図書館]] ||1975年||北九州市小倉北区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|やのてい/}}矢野邸 ||1975年||{{神奈川}}県川崎市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|しゆうこうしやひる/}}秀巧社ビル ||1976年||{{福岡}}市中央区||{{JPN}}||現存せず|| |- | {{Display none|おおともそうりんのはか/}}大友宗麟の墓 ||1977年||{{大分}}県津久見市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|かいしまてい/}}貝島邸 ||1977年||{{東京}}都武蔵野市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|はやしてい/}}林邸 ||1977年||{{福岡}}市中央区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|にしにほんそうこうてんししよう/}}[[西日本総合展示場]] ||1977年||北九州市小倉北区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|からしまてい/}}辛島邸 ||1978年||{{大分}}県大分市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|かみおかまちやくは/}}旧神岡町役場 ||1978年||{{岐阜}}県飛騨市||{{JPN}}||||[[2016年]]に耐震工事を完了、飛騨市神岡振興事務所<br>(1階は[[飛騨市神岡図書館]])として利用<ref>飛騨市神岡図書館</ref>。 |- | {{Display none|すえおかくりにつく/}}末岡クリニック ||1978年||{{大分}}県大分市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|あおき/}}青木邸 ||1979年||{{東京}}都港区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|おおいたしちようかくせ/}}[[大分市情報学習センター|大分市視聴覚センター]] ||1979年||{{大分}}県大分市||{{JPN}}|||| |- | {{Display 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||1985年||ニューヨーク||{{USA}}||||古い映画館をディスコに改装したもの |- | {{Display none|しんとちようしや/}}[[新都庁舎コンペ]]案 ||1986年|||||||| |- | {{Display none|へるりんしゆうこうしゆうたく/}}ベルリン集合住宅 ||1986年||ベルリン||{{DEU}}|||| |- | {{Display none|ひよるそん/}}ビョルソン・ハウス/スタジオ ||1986年||ロサンゼルス||{{USA}}||||2004年まで[[エリック・クラプトン]]が所有 |- | {{Display none|にしとやまたわあ/}}西戸山タワーホウムズ ||1986年||{{東京}}都新宿区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ろさんせるすけんたい/}}[[ロサンゼルス現代美術館]] ||1986年||ロサンゼルス||{{USA}}|||| |- | {{Display none|こくりつえしふとふんめいはくふつかん/}}国立エジプト文明博物館展示計画 ||1986年-||カイロ||{{EGY}}|||| |- | {{Display none|おちやのみすすくえあ/}}[[お茶の水スクエアA館]]([[日本大学カザルスホール|カザルスホール]]) ||1987年||{{東京}}都千代田区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|きたきゆうしゆうひしゆつかんあなつくす/}}北九州市立美術館アネックス ||1987年||北九州市戸畑区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|こくさいふたいけいしゆつけんきゆうしよ/}}国際舞台芸術研究所 ||1988年||{{富山}}県南砺市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|むさしきゆうりようかんとり/}}武蔵丘陵カントリークラブ ||1988年||{{埼玉}}県ときがわ町||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|とうきようくろふさ/}}[[東京グローブ座]] ||1988年||{{東京}}都新宿区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|はらみゆうしあむああく/}}ハラ・ミュージアム・アーク ||1988年||{{群馬}}県渋川市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|きりすときようたいたんなりますきようかい/}}[[基督兄弟団]]成増教会 ||1989年||{{東京}}都練馬区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|とうきようきりすときようたいかく/}}[[東京基督教大学]]礼拝堂 ||1989年||{{千葉}}県印西市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|れいくさかみ/}}レイク相模カントリークラブ ||1989年||{{山梨}}県上野原市||{{JPN}}||||イギリスの建築家[[ブライアン・クラーク (美術家)|ブライアン・クラーク]]とのコラボレーション。 |- | {{Display none|こくさいはなとみとりの/}} [[国際花と緑の博覧会]]<br />国際陳列館・国際展示水の館 ||1990年||{{大阪}}市鶴見区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ほんとたいかく/}} [[ボンド大学]]図書館/人文学棟/管理棟 ||1989年||ゴールドコースト||{{AUS}}|||| |- | {{Display none|みとけいしゆつかん/}} [[水戸芸術館]] ||1990年||{{茨城}}県水戸市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|はらうさんしよるてい/}}[[パラウ・サン・ジョルディ]] ||1990年||バルセロナ||{{SPA}}|||| |- | {{Display none|きたきゆうしゆうこくさいかいきしよう/}}[[北九州国際会議場]] ||1990年||[[北九州市|北九州市小倉北区]]||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ていむていすにひるていんく/}}ティーム・ディズニー・ビルディング ||1991年||フロリダ||{{USA}}|||| |- | {{Display none|とやまけんりつひしゆつかん/}}[[富山県立山博物館]]展示館・遥望館||1991年||{{富山}}県立山町||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ゆふいんえきえきしや/}}[[由布院駅]][[駅舎]] ||1991年||{{大分}}県由布市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|まるたんほんしゃひる/}}マルタン本社ビル||1992年||{{神奈川}}県横浜市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ゆうしあん/}} 有時庵 ||1992年||{{東京}}都品川区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|とうきようそうけい/}}[[東京造形大学]]||1993年||{{東京}}都八王子市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ひようこけんせんたんかかく/}} [[兵庫県立先端科学技術支援センター]]||1993年||{{兵庫}}県上郡町||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|おふとはいつ/}} オプトハイツ ||1993年||{{兵庫}}県上郡町||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|なきちようけんたい/}}[[奈義町現代美術館]]・奈義町立図書館 ||1994年||{{岡山}}県奈義町||{{JPN}}||||2020年日本建築家協会JIA25年賞 |- | {{Display none|くらこふにほん/}}[[日本美術技術博物館“マンガ”館|クラコフ日本美術技術センター]] ||1994年||クラコフ||{{POL}}|||| |- | {{Display none|るいしのおののはか/}} [[ルイジ・ノーノ]]の墓||1994年||ヴェネチア||{{ITA}}|||| |- | {{Display none|きようとこんさと/}}[[京都コンサートホール]] ||1995年||{{京都}}市左京区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ひこんふらさ/}} [[ビーコンプラザ]]||1995年||{{大分}}県別府市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|とよのくに/}}[[豊の国情報ライブラリー]] ||1995年||{{大分}}県大分市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|あこるにや/}}[[ア・コルーニャ人間科学館]] ||1995年 ||ア・コルーニャ||{{SPA}}|||| |- | {{Display none|なかやうきちろう/}}[[中谷宇吉郎雪の科学館]] ||1994年||{{石川}}県加賀市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|はらふおるす/}} パラフォルス・レクリエーション施設||1996年 ||パラフォルス||{{SPA}}|||| |- | {{Display none|おかやまにしけいさつ/}} [[岡山西警察署]]||1996年||{{岡山}}市北区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|しすおかけんこんへえんしよん/}} 静岡県コンベンションアーツセンター  ||1997年||{{静岡}}市駿河区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|すしやまなか/}} 寿司割烹やま中本店||1997年||{{福岡}}市中央区||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|あきよしたい/}} [[秋吉台国際芸術村]]||1998年||{{山口}}県美祢市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ならひやくねん/}} [[なら100年会館]]||1998年||{{奈良}}県奈良市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|おはいお/}} オハイオ21世紀科学産業センター||1999年||オハイオ||{{USA}}|||| |- | {{Display none|くんまけんりつくんまてんもんたい/}}[[群馬県立ぐんま天文台]]||1999年||{{群馬}}県高山村||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|かいしやふおるむ/}} [[カイシャ・フォールム]]||2002年||バルセロナ||{{SPA}}|||| |- | {{Display none|せらみつくはく/}} [[セラミックパークMINO]]||2002年||{{岐阜}}県多治見市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|やまくちしようほうけいしゆつせ/}} [[山口情報芸術センター]]||2003年||{{山口}}県山口市||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|せんりみなみせんたひる/}} [[パラスポーツ・オリンピコ]]||2005年||トリノ||{{ITA}}|||| |- | {{Display none|きたかたちようしようかい/}} 北方町生涯学習センターきらり・<br />岐阜県建築情報センター||2005年||{{岐阜}}県北方町||{{JPN}}|||| |- | {{Display none|ふくおかこりん/}} 福岡五輪計画基本構想案 ||2005年||{{福岡}}県福岡市|||||| |- | {{Display none|しんせんふんか/}} 深圳文化中心 ||2007年||深圳||{{CHN}}|||| |- | {{Display none|ちゆうおうひしゆつかくいん/}} [[中央美術学院]]美術館||2007年||北京||{{CHN}}|||| |- | {{Display none|いそさきあてあ/}} [[イソザキ・アテア]] ||2008年||ビルバオ||{{SPA}}|||| |- | {{Display none|ちゆうこくしつちはくふつ/}} 中国湿地博物館||2009年||杭州||{{CHN}}|||| |- | {{Display none|めかろんこんさとほる/}} メガロン・コンサートホール||2010年||テサロニキ||{{GRC}}|||| |- | {{Display none|おふすきゆあと/}} オブスキュアド・ホライズン(砂漠の寝所)||2010年||[[:en:Pioneertown, California|パイオニアタウン]]||{{USA}}|||| |- | {{Display none|しやんはいせいひまらやけいしゆつ/}} 上海征大ヒマラヤ芸術センター||2010年||上海||{{CHN}}|||| |- | {{Display none|ちゆうこくこくさいけんちく/}} 中国国際建築芸術実践展 会議場||2011年||南京||{{CHN}}|||| |- | {{Display none|かたるこくりつこんへんしよん/}} カタール国立コンベンションセンター||2011年||ドーハ||{{QAT}}|||| |- | {{Display none|ああくのふあ/}} アーク・ノヴァ||2011年|||||||| アニッシュ・カプーアと協働 |- | {{Display none|しやんはいこうきようかくたんこん/}} [[上海交響楽団]]コンサートホール||2013年||上海||{{CHN}}|||| |- |成都日本侵略軍博物館 |2015年 |成都 |{{CHN}} | | |- | {{Display none|していらいふありあんつたわ/}} シティライフ・アリアンツ・タワー||2015年||ミラノ||{{ITA}}|||| |- | {{Display none|はるひんこんさとほる/}} ハルビン・コンサートホール||2015年||[[ハルビン]]||{{CHN}}|||| |- |} <gallery widths="250px" heights="230px"> ファイル:Ooita-Ishi.jpg|大分医師会館 ファイル:Oita iwata gakuen1.jpg|岩田学園 ファイル:Nishinihon city bank main office.jpg|福岡相互銀行本店 ファイル:Artplaza oita-city 1.jpg|現アートプラザ(旧大分県立大分図書館) ファイル:Kitakyushu Municipal Museum of Art 20090728.JPG|北九州市立美術館 ファイル:Kitakyusyu Central Library.jpg|北九州市立中央図書館 ファイル:West Japan Convention Center Panoramic.jpg|西日本総合展示場 ファイル:Tsukuba Center Building 2008.jpg|つくばセンタービル ファイル:Nihon-heso-koen Station ag10 14.JPG|[[岡之山美術館]] ファイル:The glove Tokyo.jpg|東京グローブ座 ファイル:MOCA LA 04.jpg|ロサンゼルス現代美術館 ファイル:Linkstr. 10-12, Berlin. 1997 errichtete Gebäude des Architekten Arata Isozaki für die Berliner Volksbank.jpg|ベルリン集合住宅/フォルクス銀行本店 ファイル:Nihon University Casals Hall 2009.jpg|お茶の水スクエアA館(カザルスホール) ファイル:Barcelona Palau Sant Jordi.jpg|パラウ・サン・ジョルディ ファイル:Nagi MOCA.jpg|奈義町現代美術館・奈義町立図書館 ファイル:Ceramics park mino cascade square.jpg|セラミックパークMINO カスケード広場 ファイル:Kyoto Concert Hall01n4272.jpg|京都コンサートホール ファイル:Domus.jpg|ア・コルーニャ人間科学館 ファイル:Bilbao - Zubizuri 04.jpg|イソザキ・アテア ファイル:Gunma Astronomical Observatory.jpg|群馬県立ぐんま天文台 ファイル:Granship Facade.jpg|静岡県コンベンションアーツセンター ファイル:Nara Centennial Hall02s3872.jpg|なら100年会館 </gallery> <gallery> ファイル:Otomo Sorin's Tombstone(Tsukumi-City).jpg|大友宗麟の墓碑 ファイル:Oita-city multimedia center building 1.jpg|旧大分市視聴覚センター ファイル:キリスト兄弟団成増教会 - panoramio.jpg|基督兄弟団成増教会 ファイル:Okayamanishi keisatsusyo.JPG|岡山西警察署 ファイル:Nakaya Ukichoro Museum of Snow and Ice.JPG|中谷宇吉郎雪の科学館 ファイル:Tokyo zokei.jpg|東京造形大学 ファイル:YCAM.jpg|山口情報芸術センター ファイル:Shanghai Symphony Hall (20191021080658).jpg|上海交響楽団コンサートホール </gallery> ===都市構想=== * 新宿計画(淀橋浄水場跡地開発計画)孵化過程・空中都市(1960年) * 丸の内計画・空中都市(1963年) * スコピエ・ユーゴスラビア都市再建計画設計競技に参画(1965年) * 応答場としての環境計画(1969年) * コンピューター・エイデッド・シティ(計画)(1972年) * 珠海/海市計画(計画案)(1995年) - 1997年、東京にて「[http://www.ntticc.or.jp/Archive/1997/Utopia/index_j.html 「海市」-もうひとつのユートピア」]と題した展覧会が開催された。その後、海外へと巡回。 === 展覧会 === * 第14回ミラノ・トリエンナーレ「電気的迷宮」(1968年) - ミラノ。2002年にカールスルーエと大阪、2003年に横浜で再制作作品を展示。 * 「日本の時空間―間―」展(1978年-1979年) - パリ。2000年、東京にて帰還展[http://www.geidai.ac.jp/museum/art_museum/maten.html 「間―20年後の帰還展」]を開催。 * 「磯崎新1960/1990建築展」(1991年-1998年) - ロサンゼルス、東京、茨城、群馬、大阪、福岡、ヨーロッパ各都市へと巡回。 * 「Nara Convention Hall International Design Competition」(1992年-1993年)- ニューヨーク近代美術館 * 第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「亀裂」(1996年) - 日本館コミッショナーを務める。 * 1996年度アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー「[http://before-and-afterimages.jp/opens/archofyear.html カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物館]」(1996年) - プロデューサーを務める。 * [http://www.ntticc.or.jp/Archive/1997/Utopia/index_j.html 「海市」-もうひとつのユートピア](1997年) * [[ネオ・ダダJAPAN 1958-1998 磯崎新とホワイトハウスの面々]](1998年) - 大分市アートプラザ。監修を務める。 * 第7回[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]建築展日本館展示「少女都市」(2000年) - 日本館コミッショナーを務める。 * [http://www.geidai.ac.jp/museum/art_museum/maten.html 「間―20年後の帰還展」](2000年) - 東京 * 第8回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「漢字文化圏における建築言語の生成」(2002年) - 日本館コミッショナーを務める。 * [http://www.toto.co.jp/gallerma/hist/ja/exhibi/isozak.htm 「アンビルト/反建築史」展](2002年) - 東京。以後、中国へ巡回。 * 「磯崎新版画展―百二十の見えない都市」(2002年)岡山 * [http://www.isozaki.co.jp/77project/?cat=4 「磯崎新:7つの自選展」](2008年) - 大分、高崎、ビルバオ、伊香保、東京、南京、ミラノにて開催。 * [http://www.watarium.co.jp/exhibition/1408isozaki/index2.html 「磯崎新 12x5=60」](2014年) - [[ワタリウム美術館]](東京・渋谷)にて開催。 *「[https://www.city.oita.oita.jp/o210/bunkasports/bunka/bijutsukan/special_exhibition/isozaki.html 磯崎新の謎]」(2019年) - [[大分市美術館]]にて開催。キュレーターにアリック・チャン、印牧岳彦、松井茂、[[藤村龍至]]を迎え「いき(息)」と「しま(島)」のふたつのテーマを軸に構成。<ref>{{Cite web|和書|title=「磯崎新の謎」展が大分市美術館で開催中。「いき」と「しま」を軸にその思考を紐解く|url=https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/20634|website=美術手帖|accessdate=2019-12-11|language=ja}}</ref> === 著作・作品集 === *「空間へ」[[美術出版社]]、1971年 *「建築の解体」美術出版社、1975年 *「建築の修辞」美術出版社、1979年 *「手法が」美術出版社、1979年 *「建築の地層」[[彰国社]]、1979年 *「'''磯崎新著作集'''」全4巻、美術出版社、1984 *「現代の建築家 磯崎新2」鹿島出版会、1984年 *「[[週刊本]] ポスト・モダン原論」[[朝日出版社]]、1985年 *「いま、見えない都市」[[大和書房]]、1985年 *「バルセロナ・ドローイング [[バルセロナ・オリンピック]]建築素描集」岩波書店、1990年 *「見立ての手法 日本的空間の読解」鹿島出版会、1990年 *「イメージゲーム-異文化との遭遇」鹿島出版会、1990年 *「<建築>という形式 1 」新建築社、1991年 *「磯崎新の建築30 模型、版画、ドローイング」[[六耀社]]、1992年 *「現代の建築家 磯崎新3-4」鹿島出版会、1993年 *「始源のもどき-ジャパネスキゼーション」鹿島出版会、1996年 *「磯崎新の仕事術 建築家の発想チャンネ」王国社、1996年 *「造物主議論-デミウルゴモルフィスム」鹿島出版会、1996年 *「建築家捜し」岩波書店、1996年/[[岩波現代文庫]]、2005年 *「空間へ 根源へと遡行する思考」鹿島出版会、1997年/[[河出文庫]]、2017年 *「オペラシティの彼方に エッジを測量する17の対話」[[NTT出版]]、1997年 *「磯崎新の発想法 建築家の創作の秘密」王国社、1998年 *「栖十二」住まいの図書館出版局・星雲社、1999年 *「人体の影-アントロポモルフィスム」鹿島出版会、2000年 *「建築家のおくりもの」王国社、2000年 *「ル・コルビュジエとはだれか」王国社、2000年 *「神の似姿-テオモルフィスム」鹿島出版会、2001年 *「反回想 1」A.D.A.EDITA Tokyo、2001年 *「反建築史/UNBUILT」TOTO出版、2001年 *「磯崎新の建築談議」全12巻、六耀社、2001-04年 *「建築における「日本的なもの」」[[新潮社]]、2003年 *「アントニ・ガウディとはだれか」王国社、2004年 *「磯崎新の思考力 建築家はどこに立っているか」王国社、2005年 * ''Japan-ness in Architecture'', [[:en:MIT Press|MIT Press]], 2006 * ''Arata Isozaki'', ed. by Arata Isozaki and Ken Tadashi Oshima, London, Phaidon, 2009 *「日本の建築遺産12選 語りなおし日本建築史」新潮社、2011年 *「気になるガウディ」新潮社、2012年 *「'''磯崎新建築論集'''」全8巻、岩波書店、2013-15年 *『挽歌集 建築があった時代へ』[[白水社]]、2014年 *『偶有性操縦法(コンティンジェンシーマニュアル) 何が新国立競技場問題を迷走させたのか』[[青土社]]、2016年 *『瓦礫の未来』青土社、2019年 ====共著など==== *「建築および建築外的思考 磯崎新対談」[[鹿島出版会]]、1976年 *「現代の建築家 磯崎新」鹿島出版会、1977年 *「建築の[[1930年代]]-系譜と脈絡 磯崎新対談」鹿島出版会、1978年 *「磯崎新+[[篠山紀信]]建築行脚1~12」[[六耀社]]、1980-92年 <!--ノート参照---> *「建築のパフォーマンス <[[つくばセンタービル]]>論争」、編著、PARCO出版局、1985年 *「ポスト・モダンの時代と建築 磯崎新対談」鹿島出版会、1985年 *「建築の政治学 磯崎新対談集」[[岩波書店]]、1989年 *「磯崎新作品集」第1巻、[[二川幸夫]]編、A.D.A.EDITA Tokyo、1991年 *「世紀末の思想と建築」、[[多木浩二]]共著、岩波書店、1991年 *「Anywhere 空間の諸問題」、[[浅田彰]]共編、NTT出版、1994年 *「Anyway 方法の諸問題」、浅田彰共編、NTT出版、1995年 *「季刊ja no.12 磯崎新」[[新建築社]]、1994年 *「建物が残った-近代建築の保存と転生」岩波書店、1998年 *「建築と時間 対論 [[土居義岳]]、岩波書店、2001年 *「空間の行間」[[福田和也]]共著、[[筑摩書房]]、2004年 *「Any-建築と哲学をめぐるセッション 1991-2008」、浅田彰共編、鹿島出版会、2010年 *「ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり 10 years after any 」、浅田彰共著、鹿島出版会、2010年 *「磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿」新保淳乃・阿部真弓共著、TOTO出版、2010年 *『磯崎新インタヴューズ』聞き手日埜直彦、[[LIXIL]]出版 2014 *『日本建築思想史』聞き手横手義洋、[[太田出版]] atプラス叢書 2015 *『磯崎新と[[藤森照信]]の茶席建築談義』藤森照信共著 六耀社 2015 *『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』藤森照信共著 六耀社 2016 *『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』藤森照信共著 六耀社 2017 ====翻訳==== *バーナード・レイトナー編『[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の建築』青土社 1989、新版2008ほか === 審査員を務めたコンペ・コーディネートを務めたプロジェクト === {| class="sortable wikitable" style="font-size:93%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国・地域 !! 1等案 !! 立場 |- | {{Display none|/}}ラ・ヴィレット公園 ||1982年|| [[パリ]] ||{{FRA}}||[[ベルナール・チュミ]] ||審査員 |- | {{Display none|/}}香港ピーク ||1983年|| [[香港島]] ||{{HKG}}||[[ザハ・ハディッド]] ||審査員 |- | {{Display none|/}}湘南台文化センター ||1986年|| 神奈川県藤沢市 ||{{JPN}}||[[長谷川逸子]] ||審査委員 |- | {{Display none|/}}高知県立坂本龍馬記念館||1986年|| 高知県高知市 ||{{JPN}}||[[ワークステーション]] ||審査委員 |- | {{Display none|/}}せんだいメディアテーク ||1995年|| 宮城県仙台市 ||{{JPN}}||[[伊東豊雄]] ||審査委員長 |- | {{Display none|/}}横浜港大さん橋国際客船ターミナル||1994-95年|| 神奈川県横浜市 ||{{JPN}}||[[エフ・オー・アーキテクツ]] ||審査委員 |- | {{Display none|/}}水俣メモリアル||1995年|| 熊本県水俣市 ||{{JPN}}||ジョゼッペ・バローネ ||審査委員 |- | {{Display none|/}}国営中国中央テレビ||2002年|| 北京 ||{{CHN}}||[[レム・コールハース]] ||審査委員 |- |} {| class="sortable wikitable" style="font-size:93%; line-height:1.4em;" |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" ! 名称 !! 年 !! 所在地 !! 国・地域 !! |- | {{Display none|/}}ネクサスワールド ||1991年-92年|| 福岡市東区 ||{{JPN}}|| |- | {{Display none|/}}岐阜県営住宅ハイタウン北方 ||1998年・2000年|| [[岐阜県]]北方町 ||{{JPN}}|| |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 文献 == *[[平松剛]] 「磯崎新の『都庁』 戦後日本最大のコンペ」 [[文藝春秋]]、2008年。 == 磯崎新アトリエ出身の人物 == === 建築家 === * [[六角鬼丈]] - 1965~68年、所員。建築家、[[東京芸術大学]]名誉教授 * [[西岡弘]] - 1970~84年、所員。建築家 * [[ウシダ・フィンドレイ・パートナーシップ|牛田英作]] - 1976~83年、所員。建築家 * [[渡辺誠 (建築家)|渡辺誠]] - 1976~84年、所員。建築家、渡辺誠アーキテクツオフィス主宰 * [[菊池誠 (建築家)]] - 1978~2002年、所員。建築家、建築評論家、[[芝浦工業大学]]教授 * [[八束はじめ]] - 1979~85年、所員。建築家、[[建築史家]]、[[建築評論家]]、[[芝浦工業大学]]教授 * [[堀内正弘]] - 1980~81年、所員。建築家、都市工房主宰、[[多摩美術大学]]教授 * [[渡辺真理 (建築家)|渡辺真理]] - 1981~87年、所員。建築家、[[法政大学]]教授 * [[青木淳]] - 1982~91年、所員。建築家、青木淳建築計画事務所主宰 * [[岸田省吾]] - 1982年~91年、所員。建築家、建築学者、[[東京大学]]教授 * [[坂茂]] - 1982~83年、所員。建築家、坂茂建築設計主宰 * [[吉松秀樹]] - 1984~87年、所員。建築家、アーキプロ主宰、[[東海大学]]教授 * 城戸崎和佐 - 1984~85年、所員。建築家、[[キカ (建築組織)]]主宰、[[京都工芸繊維大学]]准教授 * [[玄・ベルトー・進来]] - 1984年~90年、所員。建築家 * [[三浦周治]] - 1984~87年、所員。建築家 * [[今永和利]] - 1985~96年、所員。建築家、今永環境計画主宰 * 彦根明 - 1987~90年、所員。建築家、[[彦根建築設計事務所]]主宰 * [[高橋邦明 (建築家)]] - 1992年、所員。建築家 * 原田真宏 - 2003~04年、所員。建築家、[[MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO]]主宰、[[芝浦工業大学]]教授 * [[宮崎晃吉]] - 2008〜11年、所員。建築家、HAGISO代表取締役 * [[京谷友也]] - 2009〜16年、所員。建築家、京谷建築設計室代表 === 他 === * [[ヴィヴィアン佐藤]] - 1996年から磯崎新アトリエ == 関連項目・人物 == {{関連項目過剰|date=2020年7月}} * [[マニエリスム]] * [[ポストモダン]] * [[丹下健三]] * [[黒川紀章]] * [[槇文彦]] * [[谷口吉生]] * [[大江健三郎]] - 「[[へるめす]]」同人 * [[大岡信]] - 同上 * [[武満徹]] - 同上 * [[中村雄二郎]] - 同上 * [[山口昌男]] - 同上 * [[井上ひさし]] - 「へるめす」の前身である「例の会」メンバー * [[清水徹]] - 同上 * [[東野芳明]] - 同上 * [[高橋康也]] - 同上 * [[一柳慧]] - 同上 * [[鈴木忠志]] - 同上 * [[原広司]] - 同上 * [[吉田喜重]] - 同上 * [[渡邊守章]] - 同上 * [[藤村龍至]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Arata Isozaki}} * [http://www.isozaki.co.jp/ 磯崎新アトリエウェブサイト] * [http://www.arataisozaki.org/ Arata Isozaki & associates España] * 磯崎新_[https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Iq32MKcR_aMW6iWOEu-60mnGVHGFTyM&usp=sharing Google Map] {{プリツカー賞受賞者}} {{RIBAゴールドメダル}} {{毎日芸術賞}} {{日本建築学会賞作品賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いそさき あらた}} [[Category:磯崎新|*]] [[Category:ポストモダン建築家]] [[Category:20世紀日本の建築家]] [[カテゴリ:21世紀日本の建築家]] [[Category:日本の都市計画家]] [[Category:日本の男性芸術家]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:プリツカー賞受賞者]] [[Category:日本藝術院会員]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:イギリス王立芸術院名誉会員]] [[Category:大阪万博に関係した人物]] [[Category:花の万博]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:大分県立大分上野丘高等学校出身の人物]] [[Category:大分県出身の人物]] [[Category:1931年生]] [[Category:2022年没]]
2003-08-26T03:59:32Z
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ねこぢる
ねこぢる(本名:橋口 千代美:旧姓は中山、1967年1月19日 - 1998年5月10日)は、日本の女性漫画家。夫は同じく漫画家の山野一。 1990年『月刊漫画ガロ』誌6月号掲載の『ねこぢるうどん』でデビュー。当初のペンネームは「ねこぢるし」で後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、ポップでシュールな作風が人気を博す。しかし1998年5月10日、東京都町田市の自宅にて縊死(自殺)により死去した。31歳没。 ねこぢるは貧困や差別、電波、畸形、障害者などを題材にした反社会的な作風を得意とする鬼畜系漫画家の山野の妻であった女性のペンネームであり、ねこぢると山野の二人から成る漫画制作ユニットの共有筆名でもあった。 それまで、エキセントリックな短編集『夢の島で逢いましょう』『貧困魔境伝ヒヤパカ』『混沌大陸パンゲア』や長編怪作『四丁目の夕日』『どぶさらい劇場』の作者としてカルト的な人気を得ていた特殊漫画家の山野はある日、妻の描いた落書きに「尋常ではない何か」を感じとり、その落書きをもとに妻と『ねこぢるうどん』という短編を共同制作する。この漫画を山野が青林堂の『ガロ』に持ち込んだことでねこぢるは世に出ることになった。 ねこぢるの活動期間は1990年から1998年までのわずか8年間であったが、その特異な作風は「ガロ系」の枠を大きく飛び越えて当時のアイドルからバックパッカーまで幅広い支持を集めた。没後もテレビアニメやOVAなどのメディアミックスが行われており、現在に至るまでファンを増やし続けている。 ねこぢる名義の発表作品はすべて山野とねこぢるの共作であるが、作品ごとの役割分担ははっきりしていない。 埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町(生後すぐに当町は市制施行し、鳩ヶ谷市を経て現:川口市)出身。不動産業を営む裕福な家庭に生まれ、鳩ヶ谷市の東鳩ヶ谷団地の近所で育つ。最初に覚えた言葉は「ばか」で誰に対しても「ばか」と言っていたという。 学歴は不詳だが吉永嘉明の証言によれば地元の美容専門学校に通っており、学生時代は佐藤薫(1980年代の伝説的なニュー・ウェイヴバンド「EP-4」「TACO」で活躍していたミュージシャン)の追っかけをしていたという。 また当時購読していた青林堂発行の漫画雑誌『ガロ』を通して根本敬、丸尾末広、花輪和一、諸星大二郎などの作家に傾倒。特に山野一の作品集『夢の島で逢いましょう』(青林堂)に感銘を受ける。 ねこぢるは知人の知人を通して山野と接触し、押しかけ女房のような形で18歳の時に山野と結婚する。結婚後は山野のセミアシスタントとしてベタ塗りなどの単純作業を手伝うが、漫画家になるつもりは全くなかったという。 ある日、ねこぢるが暇を持てあまして画用紙に「奇妙なタコのようなネコの絵」を描いて遊んでいたところ、彼女の絵を見た山野が「言語化不可能なある種の違和感かもしれないけど、大人に解釈されたものではない生々しい幼児性というか、かわいさと気持ち悪さと残虐性が入り交じった奇妙な魅力」を感じ、その絵をモチーフにした原作を山野が作り、ねこぢるが絵を描いて一本の漫画を創作する。なお、夫妻とも漫画家としての訓練は一切受けておらず、絵に関しては完全に独学であるという。 この原稿を山野が青林堂に持ち込んだところ、ガロ編集部の高市真紀(山田花子の実妹、のちに担当編集者)や白取千夏雄(のちに『ガロ』副編集長)から好評を得て『月刊漫画ガロ』1990年6月号より『ねこぢるうどん』の連載を開始する。この連作の元にもなったデビュー作は、子猫がうどん屋で去勢されて死ぬというだけの内容である。 このデビュー作から夫の山野は「作・山野一 画・ねこぢるし」の共同名義でクレジットされるようになり、唯一無二の「共同創作者」としての役割を務めることになった。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、ねこぢるの発想やメモをもとに山野がストーリーをネームにして書き起こし「読める漫画」にまで再構成する役割などを担った(山野はこの作業を「通訳」と述べている)。これらの連作は、ねこぢる自身の夢の中の体験を基にした支離滅裂で不条理な展開やドラッグ中毒のようにサイケデリックな描写が特徴的である。 1992年には『ガロ』6月号で特集が組まれ、知久寿焼、岡崎京子、根本敬、逆柱いみり、スージー甘金、松尾スズキ、土橋とし子、井坂洋子、内田春菊、黒川創らが批評文を寄稿した。 1995年2月~3月、インドのバラナシを山野一と放浪し、場末のレストランにあったテレビで地下鉄サリン事件を知る。このインド体験は『ぢるぢる旅行記 インド編』として漫画化されており、自殺する直前の1998年2月にぶんか社から単行本が出版されている。なお、夫の山野は事件が発覚する数年前にカルト新興宗教団体の栄枯盛衰を描いた『どぶさらい劇場』という鬼畜漫画を連載していたほか、夫妻ともにヒンドゥー教に対する造詣が深く、シヴァを信奉するオウム真理教が起こした一連の事件は夫妻に強烈な印象を残すことになった。 1990年代後半になると、当時流行していた悪趣味ブームの流れで「ねこぢるブーム」が起こる。以後、『ガロ』『ヤングサンデー』『コミックビンゴ!』『ビッグコミックスピリッツ』『ヤングアニマル』『テレビブロス』『SPA!』『危ない1号』『小説すばる』まで漫画雑誌の枠を超えて数多くの媒体で多岐に渡り作品を発表、東京電力の宣伝キャラクターまで仕事の幅は非常に幅広かった。またポップな絵柄とシュールな作風のギャップからねこぢるの作品は『ガロ』以外の一般読者にも注目されるようになり、若年層や女子中高生の支持も集めたとされている。 山野とねこぢるは仕事ならなんでも引き受ける方針だったため、ブームによって増えた仕事の依頼を断ることができず、作品の量産と表現の自主規制を二人は強いられた。ねこぢるは次第に精神が不安定になり、自殺未遂を繰り返すなど奇行が目立つようになる。何度も「死は別に怖くない」と周囲に述べ、編集者にも「死のうと思ったことありますか?」と尋ねたこともあったという。 1998年4月、原稿依頼をした女性編集者に電話で2時間にわたり「自分はもう好きなものしか描きたくない。お金になるとかじゃなく描きたいものだけを描いていきたい」「仕事依頼が殺到して自分の方向性や資質と違うことばかりやらされていて本当につらい。いきなり仕事量が増えて体力が消耗しきっているので、もうこれ以上何も考えられないし、何もできない」と現状の不満を打ち明ける。翌5月5日には白泉社の担当編集者に「漫画を描くのは疲れた。もう漫画家をやめて旦那と一緒に発展途上国に行って暮らしたい」と電話口で漏らしていた。 1998年5月10日午後3時18分、町田市の自宅マンションのトイレにてドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態になっているのを夫の山野によって発見された。31歳没。遺体は発見が遅れて死後硬直が始まっていたという。 その後も山野は「ねこぢるy」のペンネームで、ねこぢるワールドを引き継いで創作を続けている。ねこぢるの死後制作されたOVA『ねこぢる草』は、『ねこぢるうどん』の各編のシチュエーションをモチーフにした幻想的な作品に仕上がっている。 ねこぢる自身は素顔や詳細なプロフィールをほとんど公表しておらず、『ガロ』1992年6月号の特集に掲載されたねこぢるの写真のみが一般に素顔を見せた唯一の例である。 ねこぢるの夫の山野はねこぢるの人物像について、「身長153センチ、体重37キロ、童顔...。18の時出会ってからずっと、彼女はその姿もメンタリティーも、ほとんど変わることはありませんでした。それは彼女を知る人が共通して持っていた感想で、私もそれが不思議であると同時に、不安でもあったのですが...」「生前彼女は、かなりエキセントリックな個性の持ち主でした。気が強い半面極めてナイーブで、私の他にはごく限られた“波長”の合う友人にしか心を開くことはありませんでした。“波長”の合わない人と会うことは、彼女にとって苦痛で、それが極端な場合には精神的にも肉体的にも、かなりダメージを受けていたようです。彼女程でないにしろ、私にも同じような傾向があり、二人ともノーマルな社会人としては全く不適格でした」と寄稿した追悼文の中で述べている。 ねこぢると交友のあった『危ない1号』編集者の吉永嘉明によると、ねこぢるは基本的に殆どの人間や対象にまるで関心がなく、それらに対する口癖も「つまんない」「嫌い」「相性が悪い」「興味がない」「関心がない」「波長が合わない」など嘘がつけない体質だけに極めてストレートなものだったという。“特殊漫画家”の根本敬もねこぢるの性格について、「他人の正体や物の本質をパッと見抜けてしまう人。またそれを素直に口にしてしまう正直者」と評している。 一方で、興味のある対象には非常に積極的であり、とくに“波長”の合う人物には熱狂的な好意を抱いた。また好意を抱いた人物には「追っかけ」とも言える行動に出ることもあり、夫・山野一と結婚した経緯も、ねこぢるが山野の住むアパートにまで押し掛けて、そのまま上がり込んでしまったからだという。吉永いわく山野はねこぢるの「お母さん」のような存在でもあり、ねこぢるの自殺についても「あそこまで生きたのも山野さんがいたからだとも思う」と語っている。 山野とねこぢるの関係性について1998年当時『ガロ』の編集長を務めていた長戸雅之も「仲が良く、波長が合っている二人」「お互いに心を許せるパートナーと思いました」と語っており、雨の日に喫茶店で待ち合わせした時も、夫妻は相合い傘をしてやってきて、帰りも一つの傘で一緒に帰って行ったと回想している。 吉永の証言によれば、ねこぢるはうつ病で精神科に通院しており、出会った頃には既に自閉的な性格が完全に確立していたという。吉永はねこぢるの自閉について、「精神的に孤立して自分の内面にこもる傾向が育まれたのかもしれない」と推察している。 また『月刊漫画ガロ』の担当編集者であった青林堂(現 :青林工藝舎)の高市真紀の証言でも、ねこぢるは殆ど外出せず、喫茶店も嫌いでお世辞や社交辞令にも敏感に反応してしまい、世間との付き合いは苦手だったという。その一方で高市の姉で漫画家の山田花子が1992年に投身自殺した時には、高市が山田の後追いをするのでないかと心配して「何でも相談するんだよ」と親身に話を聞いてくれたと述べている。なお、「心を見抜かれそう」と緊張していた高市に対して「大丈夫、緊張しないで」と声をかける一面もあったという。 ねこぢるには食欲が存在しなかったようで、ねこぢるについて吉永が「最期のほうは生きる欲望も薄れていった」とも述べている。また肉や魚に関しても「血の味がするから」と全く食べず、友人の巽早紀(元ペヨトル工房編集者。吉永嘉明の妻。2003年に縊死)が勧めたアボカドも一口食べて勢いよく吐き出したという。 これに関して生前、ねこぢるは「トンカツって豚の死体だよね」という感想を夫の山野に述べており、漫画の中でも豚は下等生物として罵られ殺され食べられる家畜程度の存在にしか描かれていない。 ねこぢるの死後、『COMIC GON!』(大洋図書/ミリオン出版)3号で「蘇るねこぢるワールド」という特集が組まれ、ねこぢるに接触した17人の編集者のインタビューが掲載された。この中で『テレビブロス』編集者の小田倉智も、ねこぢるが自殺する直前に過労で入院していたことを明かしている。 ねこぢるについて担当編集者らは、「原稿の締め切りをキッチリと守る人だった。月に数十本の原稿を抱えながら、締め切りを守るのは至難の業、それをやり遂げたねこぢるはムチャクチャ責任感のある人」「自分の漫画を読んでいる有名人をそれとなくチェックして帯の推薦文の人選を考えたり、10代の子が自分の本をおこづかいで買えるように、価格を下げるように交渉したり、単行本を作る過程でいろいろ知恵を絞っていた」と証言している。この特集を企画した編集者はこれらの証言を踏まえて「『自分の人気は一時的なもので、すぐ売れなくなる』と、自分の人気に甘んじない冷静さがあったので、彼女は来る仕事を拒まず、なおさら人気漫画家となったのでは」と推察していた。 ねこぢるは、売れっ子になる前から3日間起き続け、その後丸1日寝るという体内時計(サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っていた。その様子は自殺の二日前に描いた遺稿『ガラス窓』でも見ることが出来る。 山野一(ねこぢるy)による『おばけアパート前編』(アトリエサード)以外の単行本は現在すべて絶版である(ただし没後20年目の2018年10月に全作品を収録した『ねこぢる大全』上下巻が電子書籍の形でKindle・iBooks・Koboにて復刊された)。また一部の作品は海外で翻訳出版されている。 ねこぢるの漫画は、テレビ朝日系の深夜番組『爆笑問題のボスキャラ王』の1コーナーとして1998年に短編アニメ化されのちに『ねこぢる劇場』というタイトルのビデオとDVDが発売された。 2001年にはOVA『ねこぢる草』(監督・佐藤竜雄)が製作されている。これは『ねこぢる劇場』の続編ではなく全く無関係の作品である。脚本・絵コンテ・演出・作画監督の4役に湯浅政明を迎え、ねこぢる本来の画風を生かしつつ、湯浅独自の世界観を融合させた幻想的な映像になっている。同年の文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では優秀賞を受賞した。また『ねこぢる草』のタイトルでサウンドトラックも発売されている。 夫妻と面識があった評論家の黒川創が『ガロ』に寄稿したコラムの中で「山野一は、ねこぢるのストーリー作り補助、ペン入れ下働き、スクリーントーン貼り付け係、および渉外担当のような受け持ちをしてきたらしい。つまり、『ねこぢる』というのは個人名というより一種の屋号で、その『ねこぢる』の成分には10%か20%“山野一”が配合されているのだと考えられなくもない。私が彼女のことを“ねこぢる”と呼ぶたび、自分の頭のうしろのほうでは(......ただし、20%の山野一成分抜きの)と、落ち着きのないささやきが聞こえる。ちょっとイライラする。いったい、彼女は誰なのだろう」と述べており、二人の「極めて微妙」な関係性に困惑していたという。また“特殊漫画家”の根本敬も「ただの共作者とか夫婦とか友人とかとは違う、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ以上の何か深いものを感じていた」と語っている。 山野によると、ねこぢるの最初の漫画は、ねこぢるがチラシの裏や画用紙などに描いていた「奇妙なタコのようなネコの絵」をモチーフとして、ねこぢるの夢のメモをもとに山野がストーリーを書くことから始まった。そのため初期のねこぢる作品である『ねこぢるうどん』では山野が原作者としてクレジットされている。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、外部の人間をアシスタントとして入れることが出来なかったため、山野がねこぢるの「唯一の共同創作者」であった。 山野の作品中にも、ねこぢる作品から着想された物が多数登場する。1990年代前半の山野作品である『カリ・ユガ』や『どぶさらい劇場』にも、ねこぢる作品のキャラクターである「にゃーこ」や「にゃっ太」の絵が描かれている箇所が存在する。二人の作品に共通して現れる物の例として、「はぐれ豚」または「一匹豚」と書かれた看板が飾られている装飾付きの大型トラックなどがある。 ねこぢるのルポルタージュ漫画作品『ぢるぢる旅行記』(ぶんか社/青林堂)では、ねこぢると「旦那」の二人によるインドやネパールでの旅が描かれている。また、ねこぢるが自身の私生活を題材とした作品『ぢるぢる日記』にも「鬼畜系マンガ家」である「旦那」が登場している。 なお、山野の作品にもねこぢるが部分的に関与しており、山野が1980年代後半に『漫画スカット』(みのり書房、掲載年月日不明)に発表した短編『荒野のハリガネ虫』では冒頭のクレジットに「CHARACTER DESINE C.NAKAYAMA」というねこぢるの本名の記載がある。また『ガロ』1987年9月号掲載の短編『在日特殊小児伝きよしちゃん』には、ねこぢるの本名と同じ「チヨミ」という少女が登場しており、1990年に山野が『月刊HEN』というエロ本に発表した短編『さるのあな』でも「チヨミ」に似た少女が登場している。いずれの作品も子供的狂気と障害児虐待をメイン・テーマにしており、ねこぢる作品に近接した世界観となっている。 ねこぢるの死後、山野は雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、1998年5月以前の自身の活動について「私も以前は、だいぶ問題のある漫画を描いていたものですが、“酔った者勝ち”と申しましょうか...。上には上がいるもので、ここ数年はほとんどねこぢるのアシストに専念しておりました」と打ち明けている。また彼女の創作的な感性と可能性について「ねこぢるは右脳型というか、完全に感性がまさった人で、もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう」と評価している。 その後、山野はねこぢるの様式で描いた漫画作品を「ねこぢるy」の名義で受け継ぎ、ねこぢるの創作様式を踏襲する一方で、コンピュータによる作画を全般的に採り入れた。 ねこぢるは生前より自殺未遂経験があり、自殺の数年前に書かれた遺書が存在する。その遺書には「生きていたことさえも忘れてほしい」「お墓はいらない」「死んだ動機については一切話さないこと」と記されていたが、遺族の意向で墓が建てられている。ただ、吉永によれば墓石には名前が書かれておらず、梵字がひとつ彫ってあるのみであるという。 夫の山野は自殺の真相について「故人の遺志により、その動機、いきさつについては一切お伝えすることができません。一部マスコミで“某ミュージシャンの後追い”との憶測報道がなされましたが、そのような事実はありません。ねこぢるはテクノやゴア・トランスに傾倒しており、お通夜に流した音は、彼女が“天才”と敬愛して止まなかったAphex Twin(Richard D.James)の『SELECTED AMBIENT WORKS VOLUME II』で、本人の強い希望により、柩に納められたのは、彼女が持っていたAphex TwinのすべてのCDとビデオでした」とコメントしている。この某ミュージシャンとは、この数日前に他界したX JAPANのギタリストhideである。この事に関して山野は「(hideの曲に関して)彼女は多分一秒も聞いたことはない」と述べている。
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"1998年4月、原稿依頼をした女性編集者に電話で2時間にわたり「自分はもう好きなものしか描きたくない。お金になるとかじゃなく描きたいものだけを描いていきたい」「仕事依頼が殺到して自分の方向性や資質と違うことばかりやらされていて本当につらい。いきなり仕事量が増えて体力が消耗しきっているので、もうこれ以上何も考えられないし、何もできない」と現状の不満を打ち明ける。翌5月5日には白泉社の担当編集者に「漫画を描くのは疲れた。もう漫画家をやめて旦那と一緒に発展途上国に行って暮らしたい」と電話口で漏らしていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1998年5月10日午後3時18分、町田市の自宅マンションのトイレにてドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態になっているのを夫の山野によって発見された。31歳没。遺体は発見が遅れて死後硬直が始まっていたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その後も山野は「ねこぢるy」のペンネームで、ねこぢるワールドを引き継いで創作を続けている。ねこぢるの死後制作されたOVA『ねこぢる草』は、『ねこぢるうどん』の各編のシチュエーションをモチーフにした幻想的な作品に仕上がっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ねこぢる自身は素顔や詳細なプロフィールをほとんど公表しておらず、『ガロ』1992年6月号の特集に掲載されたねこぢるの写真のみが一般に素顔を見せた唯一の例である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ねこぢるの夫の山野はねこぢるの人物像について、「身長153センチ、体重37キロ、童顔...。18の時出会ってからずっと、彼女はその姿もメンタリティーも、ほとんど変わることはありませんでした。それは彼女を知る人が共通して持っていた感想で、私もそれが不思議であると同時に、不安でもあったのですが...」「生前彼女は、かなりエキセントリックな個性の持ち主でした。気が強い半面極めてナイーブで、私の他にはごく限られた“波長”の合う友人にしか心を開くことはありませんでした。“波長”の合わない人と会うことは、彼女にとって苦痛で、それが極端な場合には精神的にも肉体的にも、かなりダメージを受けていたようです。彼女程でないにしろ、私にも同じような傾向があり、二人ともノーマルな社会人としては全く不適格でした」と寄稿した追悼文の中で述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ねこぢると交友のあった『危ない1号』編集者の吉永嘉明によると、ねこぢるは基本的に殆どの人間や対象にまるで関心がなく、それらに対する口癖も「つまんない」「嫌い」「相性が悪い」「興味がない」「関心がない」「波長が合わない」など嘘がつけない体質だけに極めてストレートなものだったという。“特殊漫画家”の根本敬もねこぢるの性格について、「他人の正体や物の本質をパッと見抜けてしまう人。またそれを素直に口にしてしまう正直者」と評している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一方で、興味のある対象には非常に積極的であり、とくに“波長”の合う人物には熱狂的な好意を抱いた。また好意を抱いた人物には「追っかけ」とも言える行動に出ることもあり、夫・山野一と結婚した経緯も、ねこぢるが山野の住むアパートにまで押し掛けて、そのまま上がり込んでしまったからだという。吉永いわく山野はねこぢるの「お母さん」のような存在でもあり、ねこぢるの自殺についても「あそこまで生きたのも山野さんがいたからだとも思う」と語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "山野とねこぢるの関係性について1998年当時『ガロ』の編集長を務めていた長戸雅之も「仲が良く、波長が合っている二人」「お互いに心を許せるパートナーと思いました」と語っており、雨の日に喫茶店で待ち合わせした時も、夫妻は相合い傘をしてやってきて、帰りも一つの傘で一緒に帰って行ったと回想している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "吉永の証言によれば、ねこぢるはうつ病で精神科に通院しており、出会った頃には既に自閉的な性格が完全に確立していたという。吉永はねこぢるの自閉について、「精神的に孤立して自分の内面にこもる傾向が育まれたのかもしれない」と推察している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また『月刊漫画ガロ』の担当編集者であった青林堂(現 :青林工藝舎)の高市真紀の証言でも、ねこぢるは殆ど外出せず、喫茶店も嫌いでお世辞や社交辞令にも敏感に反応してしまい、世間との付き合いは苦手だったという。その一方で高市の姉で漫画家の山田花子が1992年に投身自殺した時には、高市が山田の後追いをするのでないかと心配して「何でも相談するんだよ」と親身に話を聞いてくれたと述べている。なお、「心を見抜かれそう」と緊張していた高市に対して「大丈夫、緊張しないで」と声をかける一面もあったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ねこぢるには食欲が存在しなかったようで、ねこぢるについて吉永が「最期のほうは生きる欲望も薄れていった」とも述べている。また肉や魚に関しても「血の味がするから」と全く食べず、友人の巽早紀(元ペヨトル工房編集者。吉永嘉明の妻。2003年に縊死)が勧めたアボカドも一口食べて勢いよく吐き出したという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これに関して生前、ねこぢるは「トンカツって豚の死体だよね」という感想を夫の山野に述べており、漫画の中でも豚は下等生物として罵られ殺され食べられる家畜程度の存在にしか描かれていない。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ねこぢるの死後、『COMIC GON!』(大洋図書/ミリオン出版)3号で「蘇るねこぢるワールド」という特集が組まれ、ねこぢるに接触した17人の編集者のインタビューが掲載された。この中で『テレビブロス』編集者の小田倉智も、ねこぢるが自殺する直前に過労で入院していたことを明かしている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ねこぢるについて担当編集者らは、「原稿の締め切りをキッチリと守る人だった。月に数十本の原稿を抱えながら、締め切りを守るのは至難の業、それをやり遂げたねこぢるはムチャクチャ責任感のある人」「自分の漫画を読んでいる有名人をそれとなくチェックして帯の推薦文の人選を考えたり、10代の子が自分の本をおこづかいで買えるように、価格を下げるように交渉したり、単行本を作る過程でいろいろ知恵を絞っていた」と証言している。この特集を企画した編集者はこれらの証言を踏まえて「『自分の人気は一時的なもので、すぐ売れなくなる』と、自分の人気に甘んじない冷静さがあったので、彼女は来る仕事を拒まず、なおさら人気漫画家となったのでは」と推察していた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ねこぢるは、売れっ子になる前から3日間起き続け、その後丸1日寝るという体内時計(サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っていた。その様子は自殺の二日前に描いた遺稿『ガラス窓』でも見ることが出来る。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "山野一(ねこぢるy)による『おばけアパート前編』(アトリエサード)以外の単行本は現在すべて絶版である(ただし没後20年目の2018年10月に全作品を収録した『ねこぢる大全』上下巻が電子書籍の形でKindle・iBooks・Koboにて復刊された)。また一部の作品は海外で翻訳出版されている。", "title": "漫画単行本" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ねこぢるの漫画は、テレビ朝日系の深夜番組『爆笑問題のボスキャラ王』の1コーナーとして1998年に短編アニメ化されのちに『ねこぢる劇場』というタイトルのビデオとDVDが発売された。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2001年にはOVA『ねこぢる草』(監督・佐藤竜雄)が製作されている。これは『ねこぢる劇場』の続編ではなく全く無関係の作品である。脚本・絵コンテ・演出・作画監督の4役に湯浅政明を迎え、ねこぢる本来の画風を生かしつつ、湯浅独自の世界観を融合させた幻想的な映像になっている。同年の文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では優秀賞を受賞した。また『ねこぢる草』のタイトルでサウンドトラックも発売されている。", "title": "アニメーション" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "夫妻と面識があった評論家の黒川創が『ガロ』に寄稿したコラムの中で「山野一は、ねこぢるのストーリー作り補助、ペン入れ下働き、スクリーントーン貼り付け係、および渉外担当のような受け持ちをしてきたらしい。つまり、『ねこぢる』というのは個人名というより一種の屋号で、その『ねこぢる』の成分には10%か20%“山野一”が配合されているのだと考えられなくもない。私が彼女のことを“ねこぢる”と呼ぶたび、自分の頭のうしろのほうでは(......ただし、20%の山野一成分抜きの)と、落ち着きのないささやきが聞こえる。ちょっとイライラする。いったい、彼女は誰なのだろう」と述べており、二人の「極めて微妙」な関係性に困惑していたという。また“特殊漫画家”の根本敬も「ただの共作者とか夫婦とか友人とかとは違う、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ以上の何か深いものを感じていた」と語っている。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "山野によると、ねこぢるの最初の漫画は、ねこぢるがチラシの裏や画用紙などに描いていた「奇妙なタコのようなネコの絵」をモチーフとして、ねこぢるの夢のメモをもとに山野がストーリーを書くことから始まった。そのため初期のねこぢる作品である『ねこぢるうどん』では山野が原作者としてクレジットされている。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、外部の人間をアシスタントとして入れることが出来なかったため、山野がねこぢるの「唯一の共同創作者」であった。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "山野の作品中にも、ねこぢる作品から着想された物が多数登場する。1990年代前半の山野作品である『カリ・ユガ』や『どぶさらい劇場』にも、ねこぢる作品のキャラクターである「にゃーこ」や「にゃっ太」の絵が描かれている箇所が存在する。二人の作品に共通して現れる物の例として、「はぐれ豚」または「一匹豚」と書かれた看板が飾られている装飾付きの大型トラックなどがある。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ねこぢるのルポルタージュ漫画作品『ぢるぢる旅行記』(ぶんか社/青林堂)では、ねこぢると「旦那」の二人によるインドやネパールでの旅が描かれている。また、ねこぢるが自身の私生活を題材とした作品『ぢるぢる日記』にも「鬼畜系マンガ家」である「旦那」が登場している。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、山野の作品にもねこぢるが部分的に関与しており、山野が1980年代後半に『漫画スカット』(みのり書房、掲載年月日不明)に発表した短編『荒野のハリガネ虫』では冒頭のクレジットに「CHARACTER DESINE C.NAKAYAMA」というねこぢるの本名の記載がある。また『ガロ』1987年9月号掲載の短編『在日特殊小児伝きよしちゃん』には、ねこぢるの本名と同じ「チヨミ」という少女が登場しており、1990年に山野が『月刊HEN』というエロ本に発表した短編『さるのあな』でも「チヨミ」に似た少女が登場している。いずれの作品も子供的狂気と障害児虐待をメイン・テーマにしており、ねこぢる作品に近接した世界観となっている。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ねこぢるの死後、山野は雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、1998年5月以前の自身の活動について「私も以前は、だいぶ問題のある漫画を描いていたものですが、“酔った者勝ち”と申しましょうか...。上には上がいるもので、ここ数年はほとんどねこぢるのアシストに専念しておりました」と打ち明けている。また彼女の創作的な感性と可能性について「ねこぢるは右脳型というか、完全に感性がまさった人で、もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう」と評価している。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その後、山野はねこぢるの様式で描いた漫画作品を「ねこぢるy」の名義で受け継ぎ、ねこぢるの創作様式を踏襲する一方で、コンピュータによる作画を全般的に採り入れた。", "title": "山野一との創作上の関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ねこぢるは生前より自殺未遂経験があり、自殺の数年前に書かれた遺書が存在する。その遺書には「生きていたことさえも忘れてほしい」「お墓はいらない」「死んだ動機については一切話さないこと」と記されていたが、遺族の意向で墓が建てられている。ただ、吉永によれば墓石には名前が書かれておらず、梵字がひとつ彫ってあるのみであるという。", "title": "自殺" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "夫の山野は自殺の真相について「故人の遺志により、その動機、いきさつについては一切お伝えすることができません。一部マスコミで“某ミュージシャンの後追い”との憶測報道がなされましたが、そのような事実はありません。ねこぢるはテクノやゴア・トランスに傾倒しており、お通夜に流した音は、彼女が“天才”と敬愛して止まなかったAphex Twin(Richard D.James)の『SELECTED AMBIENT WORKS VOLUME II』で、本人の強い希望により、柩に納められたのは、彼女が持っていたAphex TwinのすべてのCDとビデオでした」とコメントしている。この某ミュージシャンとは、この数日前に他界したX JAPANのギタリストhideである。この事に関して山野は「(hideの曲に関して)彼女は多分一秒も聞いたことはない」と述べている。", "title": "自殺" } ]
ねこぢるは、日本の女性漫画家。夫は同じく漫画家の山野一。 1990年『月刊漫画ガロ』誌6月号掲載の『ねこぢるうどん』でデビュー。当初のペンネームは「ねこぢるし」で後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、ポップでシュールな作風が人気を博す。しかし1998年5月10日、東京都町田市の自宅にて縊死(自殺)により死去した。31歳没。
{{Infobox 漫画家 | 本名 = 橋口 千代美 | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[埼玉県]][[北足立郡]]鳩ヶ谷町<br />(後の[[鳩ヶ谷市]]、現:[[川口市]]) | 没地 = {{flagicon|Japan}} [[東京都]][[町田市]][[中町 (町田市)|中町三丁目]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1967|1|19|没}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1967|1|19|1998|5|10}} | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1990年]]-[[1998年]] | ジャンル = [[ガロ系]] | 代表作 = 『[[ねこぢるうどん]]』 | 受賞 = | 公式サイト = }} '''ねこぢる'''(本名:'''橋口 千代美''':旧姓は中山、[[1967年]][[1月19日]] - [[1998年]][[5月10日]])は、[[日本]]の[[女性]][[漫画家]]。夫は同じく漫画家の[[山野一]]。 [[1990年]]『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』誌6月号掲載の『[[ねこぢるうどん]]』でデビュー。当初のペンネームは「ねこぢるし」で後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、[[ポップアート|ポップ]]で[[シュルレアリスム|シュール]]な作風が人気を博す。しかし1998年5月10日、[[東京都]][[町田市]]の自宅にて[[縊死]]([[自殺]])により死去した。{{没年齢|1967|1|19|1998|5|10}}。 == 概要 == ねこぢるは[[貧困]]や[[差別]]、[[電波系|電波]]、[[畸形]]、[[障害者]]などを題材にした[[反社会性パーソナリティ障害|反社会]]的な作風を得意とする[[鬼畜系]]漫画家の山野の妻であった女性の[[ペンネーム]]であり、ねこぢると山野の二人から成る漫画制作ユニットの[[二人組#その他の芸術活動|共有筆名]]でもあった。 それまで、エキセントリックな[[短編集]]『[[夢の島で逢いましょう]]』『[[貧困魔境伝ヒヤパカ]]』『[[混沌大陸パンゲア]]』や長編怪作『[[四丁目の夕日]]』『[[どぶさらい劇場]]』の作者としてカルト的な人気を得ていた[[ガロ系|特殊漫画家]]の山野はある日、妻の描いた[[落書き]]に「尋常ではない何か」を感じとり、その落書きをもとに妻と『[[ねこぢるうどん]]』という短編を共同制作する。この漫画を山野が[[青林堂]]の『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に持ち込んだことでねこぢるは世に出ることになった。 ねこぢるの活動期間は1990年から1998年までのわずか8年間であったが、その特異な作風は「[[ガロ系]]」の枠を大きく飛び越えて当時の[[アイドル]]から[[バックパッカー]]まで幅広い支持を集めた。没後も[[テレビアニメ]]や[[OVA]]などの[[メディアミックス]]が行われており、現在に至るまでファンを増やし続けている。 ねこぢる名義の発表作品はすべて山野とねこぢるの共作であるが、作品ごとの役割分担ははっきりしていない。 == 経歴 == === 生い立ち === [[埼玉県]][[北足立郡]]鳩ヶ谷町(生後すぐに当町は市制施行し<ref group="注釈">鳩ヶ谷市の市制施行日はねこぢるの生後約1ヶ月半後の1967年3月1日。</ref>、[[鳩ヶ谷市]]を経て現:[[川口市]])出身。[[不動産会社|不動産業]]を営む裕福な家庭に生まれ、鳩ヶ谷市の東鳩ヶ谷団地の近所で育つ<ref name="ooizumi">[[大泉実成]]「ねこぢる曼荼羅を探して」『消えたマンガ家 ダウナー系の巻』[[太田出版]] 2000年(初出:太田出版刊『[[Quick Japan]]』Vol.32)</ref>。最初に覚えた言葉は「[[馬鹿|ばか]]」で誰に対しても「ばか」と言っていたという<ref name="bungeiyamano">[[河出書房新社]]『[[文藝]]』2000年夏季号 ねこぢるyインタビュー「ねこぢる/ねこぢるy(山野一)さんにまつわる50の質問」</ref>。 学歴は不詳だが[[吉永嘉明]]の証言によれば地元の美容専門学校に通っており、学生時代は[[EP-4|佐藤薫]]([[1980年代]]の伝説的な[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]][[バンド (音楽)|バンド]]「[[EP-4]]」「[[山崎春美#TACO|TACO]]」で活躍していた[[音楽家|ミュージシャン]])の[[追っかけ]]をしていたという<ref name="shiseikatsu">[[吉永嘉明]]『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「私生活」より。</ref>。 また当時購読していた[[青林堂]]発行の漫画雑誌『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』を通して[[根本敬]]、[[丸尾末広]]、[[花輪和一]]、[[諸星大二郎]]などの作家に傾倒<ref name="bungeiyamano" /><ref name="loftbooks">[[根本敬]]、[[白取千夏雄]]、[[サエキけんぞう]]、[[鶴岡法斎]]「ねこぢる追悼ナイト」『TALKING LOFT3世』VOL.2 1999年11月 ロフトブックス</ref>。特に[[山野一]]の作品集『[[夢の島で逢いましょう]]』(青林堂)に感銘を受ける。 ねこぢるは知人の知人を通して山野と接触し<ref name="bungeiyamano" />、[[押しかけ女房]]のような形で18歳の時に山野と[[結婚]]する<ref name="shiseikatsu" />。結婚後は山野のセミアシスタントとして[[ベタ (漫画)|ベタ塗り]]などの単純作業を手伝うが、漫画家になるつもりは全くなかったという<ref name="mangaaroha">[[山野一]]「特別寄稿・追悼文」『まんがアロハ!増刊「ぢるぢる旅行記総集編」7/19号』ぶんか社 1998年7月19日 166頁。</ref>。 === 漫画家デビュー === ある日、ねこぢるが暇を持てあまして画用紙に「奇妙なタコのようなネコの絵」を描いて遊んでいたところ、彼女の絵を見た山野が「言語化不可能なある種の違和感かもしれないけど、大人に解釈されたものではない生々しい幼児性というか、かわいさと気持ち悪さと残虐性が入り交じった奇妙な魅力」<ref name="nemoto&yamano">ねこぢる『ねこぢる大全 下』([[文藝春秋]])対談 根本敬([[ガロ系|特殊漫画家]])×山野一([[漫画家]])「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」790-796頁。</ref>を感じ、その絵をモチーフにした原作を山野が作り、ねこぢるが絵を描いて一本の漫画を創作する。なお、夫妻とも漫画家としての訓練は一切受けておらず、絵に関しては完全に独学であるという<ref name="nemoto&yamano" />。 この原稿を山野が青林堂に持ち込んだところ<ref name="loftbooks" />、ガロ編集部の[[高市真紀]]([[山田花子 (漫画家)|山田花子]]の実妹、のちに担当編集者)や[[白取千夏雄]](のちに『ガロ』副編集長)から好評を得て『月刊漫画ガロ』[[1990年]]6月号より『'''[[ねこぢるうどん]]'''』の連載を開始する<ref name="loftbooks" /><ref name="aera1996">『[[AERA]]』1996年4月22日号 73頁。</ref>。この連作の元にもなったデビュー作は、子猫がうどん屋で[[去勢]]されて死ぬというだけの内容である。 このデビュー作から夫の山野は「作・山野一 画・ねこぢるし」<ref group="注釈">ねこぢるはデビューから1年間「'''ねこぢるし'''」名義で活動していたが、デビュー1年目にあたる『月刊漫画ガロ』1991年6月号掲載の『[[ねこぢるうどん]]』[[扉絵#漫画|扉絵]]に「ねこぢるし改め/画・ねこぢる 作・山野一」とある事から、これを機にペンネームを正式に改めていた事が判明している。またねこぢるは『[[文藝]]』1996年冬季号のインタビューで改名の経緯について「最初『ねこぢるし』だったんですけど、自分も『ねこぢる』『ねこぢる』と言っているから、そのほうが覚えやすいし、言いやすいし、インパクトが残るかなと思って」と語っている。また原作担当の山野一も『文藝』2000年夏季号のインタビューで「はじめは『ねこぢるし』という名前でしたが『ねこぢる』のほうがいいと本人が言い出したのでそうしたと思います」と同様の証言をしている。</ref>の共同名義でクレジットされるようになり、唯一無二の「共同創作者」としての役割を務めることになった。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、ねこぢるの発想やメモをもとに山野がストーリーを[[ネーム (漫画)|ネーム]]にして書き起こし「読める漫画」にまで再構成する役割などを担った(山野はこの作業を「通訳」と述べている)。これらの連作は、ねこぢる自身の夢の中の体験を基にした支離滅裂で不条理な展開やドラッグ中毒のように[[サイケデリック]]な描写が特徴的である。 [[1992年]]には『ガロ』6月号で特集が組まれ、[[知久寿焼]]、[[岡崎京子]]、根本敬、[[逆柱いみり]]、[[スージー甘金]]、[[松尾スズキ]]、[[土橋とし子]]、[[井坂洋子]]、[[内田春菊]]、[[黒川創]]らが批評文を寄稿した。 [[1995年]][[2月]]~[[3月]]、[[インド]]の[[ヴァーラーナシー|バラナシ]]を山野一と放浪し、場末のレストランにあったテレビで[[地下鉄サリン事件]]を知る。このインド体験は『[[ぢるぢる旅行記|ぢるぢる旅行記 インド編]]』として漫画化されており、自殺する直前の1998年2月に[[ぶんか社]]から単行本が出版されている<ref group="注釈">「ネパール編」はねこぢるの他界で未完となり、単行本化もされていなかったが、その後[[2001年]]に[[青林堂]]より刊行された「総集編」に収録された。</ref>。なお、夫の山野は事件が発覚する数年前に[[カルト]][[新興宗教]][[団体]]の栄枯盛衰を描いた『[[どぶさらい劇場]]』という[[鬼畜系|鬼畜漫画]]を連載していたほか、夫妻ともに[[ヒンドゥー教]]に対する造詣が深く、[[シヴァ]]を信奉する[[オウム真理教事件|オウム真理教が起こした一連の事件]]は夫妻に強烈な印象を残すことになった。 === ブーム到来 === [[1990年代]]後半になると、当時流行していた[[鬼畜系#鬼畜・悪趣味ブーム|悪趣味ブーム]]の流れで「ねこぢるブーム」が起こる。以後、『ガロ』『[[ヤングサンデー]]』『[[月刊コミックビンゴ|コミックビンゴ!]]』『[[ビッグコミックスピリッツ]]』『[[ヤングアニマル]]』『[[テレビブロス]]』『[[SPA!]]』『[[危ない1号]]』『[[小説すばる]]』まで漫画雑誌の枠を超えて数多くの媒体で多岐に渡り作品を発表、[[東京電力]]の宣伝キャラクターまで仕事の幅は非常に幅広かった<ref group="注釈">ねこぢるによる[[東京電力]]の宣伝キャラクター「デンキくん」は[[1997年]][[4月]]に公開された後、[[テレビ|TV]][[コマーシャルメッセージ|CM]]にも登場したが、翌[[1998年|98年]][[5月]]にねこぢるの自殺を受けて打ち切られた。デンキくんはTVCM放送中[[東京電力ホールディングス|TEPCO]]銀座館で展示され、ねこぢるの自殺後も撤去されることなく展示されたが、TEPCO銀座館の大幅な改装リニューアル工事のため[[2002年]][[3月31日]]をもって展示終了となった。</ref>。またポップな絵柄とシュールな作風のギャップからねこぢるの作品は『ガロ』以外の一般読者にも注目されるようになり、若年層や女子中高生の支持も集めたとされている。 山野とねこぢるは仕事ならなんでも引き受ける方針だったため<ref>吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「ブーム到来」より。</ref>、ブームによって増えた仕事の依頼を断ることができず、作品の量産と[[表現の自主規制]]を二人は強いられた。ねこぢるは次第に[[精神疾患|精神が不安定]]になり、自殺未遂を繰り返すなど奇行が目立つようになる<ref name="shinigao">吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「死に顔」より。</ref>。何度も「死は別に怖くない」と周囲に述べ<ref name="shihakowakunai" />、編集者にも「死のうと思ったことありますか?」と尋ねたこともあったという<ref name="mediado">メディアDo「ねこぢるの死」([[関西テレビ]] [[2001年]][[3月26日]])</ref>。 === 晩年 === [[1998年]][[4月]]、原稿依頼をした女性編集者に電話で2時間にわたり「自分はもう好きなものしか描きたくない。お金になるとかじゃなく描きたいものだけを描いていきたい」<ref>[[唐沢俊一]]『B級学マンガ編』(海拓舎)</ref>「仕事依頼が殺到して自分の方向性や資質と違うことばかりやらされていて本当につらい。いきなり仕事量が増えて体力が消耗しきっているので、もうこれ以上何も考えられないし、何もできない」<ref>ねこぢる『ねこぢる大全 下』(文藝春秋)寄稿・唐沢俊一「予言の書」369-370頁。</ref>と現状の不満を打ち明ける。翌[[5月5日]]には[[白泉社]]の担当編集者に「漫画を描くのは疲れた。もう漫画家をやめて旦那と一緒に[[発展途上国]]に行って暮らしたい」と電話口で漏らしていた<ref name="mediado" />。 1998年5月10日午後3時18分、[[町田市]]の自宅マンションのトイレにてドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態になっているのを夫の山野によって発見された<ref>「警視庁町田署によると、ねこぢるさんの夫で漫画家の山野一(はじめ)さんが、今月10日午後3時18分、自宅マンションのトイレで首をつっているねこぢるさんを発見し、町田消防署に119番通報。救急隊員が駆けつけたときには、既に死亡していた。ねこぢるさんはトイレのドアノブにタオルのようなものを掛けて首をつっており、この日の午前中に亡くなったとみられている。遺書はなく、自殺の理由は不明」『[[東京新聞]]』1998年5月13日付記事より。</ref>。{{没年齢|1967|1|19|1998|5|10}}。遺体は発見が遅れて[[死後硬直]]が始まっていたという<ref name="shinigao" />。 === 1998年5月10日以降 === {{Main|山野一#1998年5月10日以降}} その後も山野は「'''ねこぢるy'''」のペンネームで、ねこぢるワールドを引き継いで創作を続けている。ねこぢるの死後制作された[[OVA]]『[[ねこぢる草]]』は、『ねこぢるうどん』の各編のシチュエーションをモチーフにした幻想的な作品に仕上がっている。 == 人物 == ねこぢる自身は素顔や詳細なプロフィールをほとんど公表しておらず、『ガロ』1992年6月号の特集に掲載されたねこぢるの写真のみが一般に素顔を見せた唯一の例である<ref group="注釈">本人の{{疑問点範囲|遺志|date=2022年4月}}で顔写真は原則非公開となっている。</ref>。 === 容姿・性格 === ねこぢるの夫の山野はねこぢるの人物像について、「身長153センチ、体重37キロ、童顔…。18の時出会ってからずっと、彼女はその姿もメンタリティーも、ほとんど変わることはありませんでした。それは彼女を知る人が共通して持っていた感想で、私もそれが不思議であると同時に、不安でもあったのですが…」「生前彼女は、かなりエキセントリックな個性の持ち主でした。気が強い半面極めてナイーブで、私の他にはごく限られた“波長”の合う友人にしか心を開くことはありませんでした。“波長”の合わない人と会うことは、彼女にとって苦痛で、それが極端な場合には精神的にも肉体的にも、かなりダメージを受けていたようです。彼女程でないにしろ、私にも同じような傾向があり、二人ともノーマルな社会人としては全く不適格でした」と寄稿した追悼文の中で述べている<ref>ねこぢる『ぢるぢる日記』(二見書房 1998年)114-115頁。</ref>。 === 嫌いなものは嫌い === ねこぢると交友のあった『危ない1号』編集者の吉永嘉明によると、ねこぢるは基本的に殆どの人間や対象にまるで関心がなく、それらに対する口癖も「つまんない」「嫌い」「相性が悪い」「興味がない」「関心がない」「波長が合わない」など嘘がつけない体質だけに極めてストレートなものだったという<ref>吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「嫌いなものは嫌い」より。</ref>。“[[ガロ系#特殊漫画の定義|特殊漫画家]]”の根本敬もねこぢるの性格について、「他人の正体や物の本質をパッと見抜けてしまう人。またそれを素直に口にしてしまう正直者」と評している<ref>[[青林堂]]『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』1992年6月号「ほっかほっか家族天国」(根本敬)より。</ref>。 一方で、興味のある対象には非常に積極的であり、とくに“波長”の合う人物には熱狂的な好意を抱いた。また好意を抱いた人物には「[[追っかけ]]」とも言える行動に出ることもあり、夫・山野一と結婚した経緯も、ねこぢるが山野の住むアパートにまで押し掛けて、そのまま上がり込んでしまったからだという<ref name="shiseikatsu" />。吉永いわく山野はねこぢるの「お母さん」のような存在でもあり<ref name="hirameki">吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「直観の閃き」より。</ref>、ねこぢるの自殺についても「あそこまで生きたのも山野さんがいたからだとも思う」と語っている<ref>吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「殺すか、死ぬか」より。</ref>。 山野とねこぢるの関係性について1998年当時『ガロ』の編集長を務めていた長戸雅之も「仲が良く、波長が合っている二人」「お互いに心を許せるパートナーと思いました」と語っており、雨の日に喫茶店で待ち合わせした時も、夫妻は相合い傘をしてやってきて、帰りも一つの傘で一緒に帰って行ったと回想している<ref name="COMIC GON!">『[[GON!|COMIC GON!]]』第3号「ねこぢる担当者が語る ぢるぢる編集後記」(取材・構成/小野澄恵)1998年11月 [[ミリオン出版]]</ref>。 === 自閉的な性格 === 吉永の証言によれば、ねこぢるは[[うつ病]]で[[精神科]]に通院しており、出会った頃には既に自閉的な性格が完全に確立していたという<ref name="shihakowakunai">吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「死は恐くない」より。</ref>。吉永はねこぢるの自閉について、「精神的に孤立して自分の内面にこもる傾向が育まれたのかもしれない」と推察している<ref name="shihakowakunai" />。 また『月刊漫画ガロ』の担当編集者であった青林堂(現 :[[青林工藝舎]])の高市真紀の証言でも、ねこぢるは殆ど外出せず、喫茶店も嫌いでお世辞や社交辞令にも敏感に反応してしまい、世間との付き合いは苦手だったという<ref name="aera2001">[[速水由紀子]]「新人類世代の閉塞 サブカルチャーのカリスマたちの自殺」『[[AERA]]』2001年11月19日号所収。</ref>。その一方で高市の姉で漫画家の山田花子が1992年に[[飛び降り|投身自殺]]した時には、高市が山田の[[自殺|後追い]]をするのでないかと心配して「何でも相談するんだよ」と親身に話を聞いてくれたと述べている<ref name="COMIC GON!" /><ref name="aera2001" />。なお、「心を見抜かれそう」と緊張していた高市に対して「大丈夫、緊張しないで」と声をかける一面もあったという<ref name="aera2001" />。 === 乏しい食欲 === ねこぢるには[[食欲]]が存在しなかったようで、ねこぢるについて吉永が「最期のほうは生きる欲望も薄れていった」とも述べている<ref name="busouganbou">吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「武装願望」より。</ref>。また肉や魚に関しても「血の味がするから」と全く食べず<ref name="mediado" />、友人の[[巽早紀]](元[[ペヨトル工房]]編集者。吉永嘉明の妻。[[2003年]]に縊死)が勧めた[[アボカド]]も一口食べて勢いよく吐き出したという<ref name="busouganbou" />。 これに関して生前、ねこぢるは「[[トンカツ]]って豚の死体だよね」という感想を夫の山野に述べており<ref name="mediado" />、漫画の中でも豚は[[下等生物]]として罵られ殺され食べられる[[家畜]]程度の存在にしか描かれていない<ref>このような作品の例として、『ねこぢるだんご』(1997年 朝日ソノラマ)に収録されている「かちく」などがある。</ref>。 === 強い責任感 === ねこぢるの死後、『[[GON!|COMIC GON!]]』([[大洋図書]]/[[ミリオン出版]])3号で「蘇るねこぢるワールド」という特集が組まれ、ねこぢるに接触した17人の編集者のインタビューが掲載された<ref name="ooizumi" />。この中で『テレビブロス』編集者の小田倉智も、ねこぢるが自殺する直前に過労で入院していたことを明かしている<ref name="ooizumi" />。 ねこぢるについて担当編集者らは、「原稿の締め切りをキッチリと守る人だった。月に数十本の原稿を抱えながら、締め切りを守るのは至難の業、それをやり遂げたねこぢるはムチャクチャ責任感のある人」「自分の漫画を読んでいる有名人をそれとなくチェックして帯の推薦文の人選を考えたり、10代の子が自分の本をおこづかいで買えるように、価格を下げるように交渉したり、単行本を作る過程でいろいろ知恵を絞っていた」と証言している<ref name="ooizumi" />。この特集を企画した編集者はこれらの証言を踏まえて「『自分の人気は一時的なもので、すぐ売れなくなる』と、自分の人気に甘んじない冷静さがあったので、彼女は来る仕事を拒まず、なおさら人気漫画家となったのでは」と推察していた<ref name="ooizumi" />。 === 不規則な生活 === ねこぢるは、売れっ子になる前から3日間起き続け、その後丸1日寝るという[[生物時計|体内時計]]([[概日リズム|サーカディアン・リズム]])に逆らった不規則な生活を送っていた<ref name="shiseikatsu" />。その様子は自殺の二日前に描いた遺稿『ガラス窓』でも見ることが出来る<ref>「3日起きてたり30時間寝てたり…世の中のリズムとはだいぶズレてしまった…ガラス窓の外はまるで異次元のよーだ…出勤途中のサラリーマン…あの人の目にはどんな風に映ってるのかなー…」ねこぢる『ねこ神さま』第2巻(文藝春秋)遺稿「ガラス窓」133頁。</ref>。 == 作風 == * ねこぢる作品の多くは、子供特有の残酷さを持った無邪気な子猫の姉弟「にゃーこ」と「にゃっ太」を主人公とする一話完結型の[[ギャグ漫画|不条理漫画]]である(自身を主人公とした『[[ぢるぢる旅行記]]』や『ぢるぢる日記』などのエッセイ漫画でも、作者のねこぢるが猫の姿で描かれている)。唯一の例外として、短編『つなみ』はヒトが主人公である。 * 猫の「にゃーこ」と「にゃっ太」を主人公とした連作『'''[[ねこぢるうどん]]'''』(画・ねこぢる/作・[[山野一]])は評価が高い。にゃーことにゃっ太は子供であり、[[主婦]]の母と、工場勤務で[[アルコール使用障害]]の父を持つ。にゃーこは喋れるが、にゃっ太は猫の鳴き声でしか喋れないという設定である。しかし、唯一の例外として初登場回である『かぶとむしの巻』では、にゃっ太が普通に喋る姿が見られる<ref group="注釈">なお、この作品は現在、ねこぢるyの公式サイト「ねこぢるライス」にて閲覧することができる。</ref>。 * 夫で[[原作|原作者]]の山野はエッセイである『インドぢる』において、このキャラクターの出生について言及している。それによると、ねこぢるが暇を持てあまして画用紙に落書きをしていた時に、描いていたイラストが「にゃーこ」と「にゃっ太」の原型になっているとのこと<ref name="indodiru156">ねこぢるy『インドぢる』(2003年 文春ネスコ)156-158頁。</ref>。また山野は[[アルカイク・スマイル|アルカイックスマイル]]にも通じるねこぢるの独特な絵柄について「初期の[[蛭子能収]]さんの、何も考えないで描く人間の顔なんかも、当の蛭子さんが無自覚な狂気みたいなものまで、見る者に伝えたりするのと似たようなもの」を感じていたと述べている<ref name="nemoto&yamano" />。 * 作品中には猫の他にも動物の姿をしたキャラクターが多く登場するが話の舞台は人間世界であることが多く、現実社会におけるタブーや底辺社会を描写したブラックな作品も多い。また作品中には[[マジックマッシュルーム]]や[[LSD (薬物)|LSD]]といった違法な薬物もたびたび登場する。 * 山野によれば、漫画にどうしても反映せざるを得ない人や物を目撃する機会が多く、傍観するような視界の中にそういう人がよく登場するとインタビューで答えている<ref>青林堂『月刊漫画ガロ』1992年10月号「特殊漫画博覧会」の中「特殊漫画家の特殊な才能」より。</ref><ref>青林堂『月刊漫画ガロ』1994年2月号「混沌大陸パンゲア刊行記念 山野一インタビュー」249頁。</ref><ref>これに関してねこぢるも『月刊漫画ガロ』1992年6月号や『文藝』1996年冬季号のインタビューにて「変な人」に遭遇する機会が多いことを述べている。</ref>。また奇妙な人物との遭遇体験は『[[ねこぢるうどん]]』などの創作漫画にも強く反映されている<ref name="bungeiyamano" />。 * 山野曰く、ねこぢるには「変な人に遭遇する不思議な力」があり、人混みで明らかに怪しい男が遠くから真っ直ぐねこぢるに向かって歩いてきて「おれ、頭ばかなんだ」と言ってねこぢるの腕に掴みかかったというエピソードも存在する<ref name="bungeinekojiru">河出書房新社『文藝』1996年冬季号 ねこぢるインタビュー「なんかシンクロしちゃってるのかな、とかたまに思ったりして」</ref>。 * 『[[ねこぢるうどん]]3』([[文藝春秋]])に収録された「夢のメモ」からもわかるようにねこぢる自身の夢の中の体験を基にした奇想天外な内容の作品も多数存在する。一方でねこぢるはエッセイ作品においても「'''路上でうんこをしている人を見た'''」<ref>ねこぢる『ぢるぢる日記』(二見書房 1998年)67-69頁。</ref>「'''深夜目覚めると知らないおばさんが笑って見下ろしていた'''」<ref>ねこぢる『ねこぢる食堂』(1997年 白泉社)「ぢるぢる恐怖体験」72頁。</ref>「'''逆L字形をした物体が光りながら移動していた'''」<ref>ねこぢる『ぢるぢる日記』(二見書房 1998年)51頁。</ref>といった不可思議な体験を数多く描き残しており、生前のインタビューでも「そういえば夢が外に出てきちゃった時がありました。夜中に犬にかまれて手を振り払ったら、犬が布団の上にいて、すぐに泡のように消えていっちゃった」と述べたことがある<ref name="bungeinekojiru" />。これに関して[[吉永嘉明]]は「'''彼女は夢と現実があやふやに混じり合ったような、分裂的な思考回路を持っていた。たぶん本人の目には見えているのだろう'''」と語っている<ref>吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「コラボレーション」より。</ref><ref>吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「天然アシッド」より。</ref>。 == 漫画単行本 == [[山野一]](ねこぢるy)による『おばけアパート前編』([[アトリエサード]])以外の単行本は現在すべて[[絶版]]である(ただし没後20年目の[[2018年]]10月に全作品を収録した『ねこぢる大全』上下巻が[[電子書籍]]の形で[[Amazon Kindle|Kindle]]・[[iBooks]]・[[コボ|Kobo]]にて復刊された)。また一部の作品は[[海外]]で[[翻訳]][[出版]]されている。 === 「ねこぢる」名義 === * [[ねこぢるうどん]] (青林堂 1992~1995 全2巻/文藝春秋 1998~1999 全3巻) * ねこぢるだんご (朝日新聞社 1997/ソノラマコミック文庫 2002) * ねこぢる食堂 (白泉社 1997/白泉社文庫 2001) * [[ねこ神さま]] (全2巻 文藝春秋 1997~1998/全1巻 文春文庫PLUS 2001) * ねこぢるまんじゅう (文藝春秋 1998/文春文庫PLUS 2001) * ねこぢるせんべい (集英社 1998/集英社文庫 2002) * ぢるぢる日記 (二見書房 1998/二見書房 2000 文庫化) * [[ぢるぢる旅行記]]・インド編 (ぶんか社 1998/Kindle 2017) * ぢるぢる旅行記・総集編 (青林堂 2001) * ねこぢる大全 (文藝春秋 2008/Kindle 2018)上下巻 === 「ねこぢるy」名義 === * [[ねこぢるyうどん]] (青林堂 2000-2002)全3巻 * インドぢる (文春ネスコ 2003) * おばけアパート前編 (アトリエサード/書苑新社 2013) == アニメーション == ねこぢるの漫画は、[[テレビ朝日]]系の[[深夜番組]]『[[爆笑問題のボスキャラ王]]』の1コーナーとして[[1998年]]に短編アニメ化されのちに『[[ねこぢるうどん#テレビアニメ|ねこぢる劇場]]』というタイトルのビデオとDVDが発売された。 [[2001年]]には[[OVA]]『[[ねこぢる草]]』(監督・[[佐藤竜雄]])が製作されている。これは『ねこぢる劇場』の続編ではなく全く無関係の作品である。脚本・絵コンテ・演出・作画監督の4役に[[湯浅政明]]を迎え、ねこぢる本来の画風を生かしつつ、湯浅独自の世界観を融合させた幻想的な映像になっている。同年の[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]では優秀賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2001/animation/works/05an_Nekojiru-So/ |title=歴代受賞作品 第5回 2001年 アニメーション部門 受賞作品 優秀賞 - ねこぢる草 |work=文化庁メディア芸術祭 |publisher=文化庁 |accessdate=2016-07-30}}</ref>。また『ねこぢる草』のタイトルで[[サウンドトラック]]も発売されている。 == 山野一との創作上の関係 == 夫妻と面識があった[[評論家]]の[[黒川創]]が『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に寄稿したコラムの中で「山野一は、ねこぢるのストーリー作り補助、ペン入れ下働き、[[スクリーントーン]]貼り付け係、および渉外担当のような受け持ちをしてきたらしい。つまり、『ねこぢる』というのは個人名というより一種の屋号で、その『ねこぢる』の成分には10%か20%“山野一”が配合されているのだと考えられなくもない。私が彼女のことを“ねこぢる”と呼ぶたび、自分の頭のうしろのほうでは(……ただし、20%の山野一成分抜きの)と、落ち着きのないささやきが聞こえる。ちょっとイライラする。いったい、彼女は誰なのだろう」と述べており、二人の「極めて微妙」な関係性に困惑していたという<ref>[[黒川創]]「[https://web.archive.org/web/20190228175614/https://blogs.yahoo.co.jp/dougasetumei/55808618.html ねこぢるって誰?]」青林堂『月刊漫画ガロ』1995年10月号 103頁。</ref>。また“[[ガロ系#特殊漫画の定義|特殊漫画家]]”の[[根本敬]]も「ただの共作者とか夫婦とか友人とかとは違う、[[ジョン・レノン]]と[[オノ・ヨーコ]]以上の何か深いものを感じていた」と語っている<ref name="loftbooks" />。 === 山野一との相互影響 === 山野によると、ねこぢるの最初の漫画は、ねこぢるがチラシの裏や画用紙などに描いていた「奇妙なタコのようなネコの絵」をモチーフとして、ねこぢるの夢のメモをもとに山野がストーリーを書くことから始まった<ref name="mangaaroha" />。そのため初期のねこぢる作品である『[[ねこぢるうどん]]』では山野が[[原作|原作者]]としてクレジットされている。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、外部の人間をアシスタントとして入れることが出来なかったため、山野がねこぢるの「'''唯一の共同創作者'''」であった<ref name="mangaaroha" />。 山野の作品中にも、ねこぢる作品から着想された物が多数登場する。[[1990年代]]前半の山野作品である『[[混沌大陸パンゲア#収録作品|カリ・ユガ]]』や『[[どぶさらい劇場]]』にも、ねこぢる作品のキャラクターである「にゃーこ」や「にゃっ太」の絵が描かれている箇所が存在する。二人の作品に共通して現れる物の例として、「はぐれ豚」または「一匹豚」と書かれた看板が飾られている装飾付きの大型トラックなどがある<ref>山野作品での「はぐれ豚」の例は、山野一『[[貧困魔境伝ヒヤパカ|ヒヤパカ]]』(青林堂 1989年)56頁参照。ねこぢる作品での「はぐれ豚」の例は、ねこぢる『ねこぢるまんじゅう』(文藝春秋 1998年)25頁参照。ねこぢる作品での「一匹豚」の例は、ねこぢる『ねこぢるうどん3』(文藝春秋 1999年)36-37頁参照。ねこぢるy作品での「はぐれ豚」の例は、ねこぢるy『おばけアパート前編』(アトリエサード 2013年)107頁参照。</ref>。 ねこぢるの[[ルポルタージュ]]漫画作品『[[ぢるぢる旅行記]]』([[ぶんか社]]/[[青林堂]])では、ねこぢると「旦那」の二人による[[インド]]や[[ネパール]]での旅が描かれている。また、ねこぢるが自身の私生活を題材とした作品『ぢるぢる日記』にも「[[鬼畜系]]マンガ家」である「旦那」が登場している<ref name="dirudiru">ねこぢる『ぢるぢる日記』(二見書房 1998年)75頁。</ref>。 なお、山野の作品にもねこぢるが部分的に関与しており、山野が[[1980年代]]後半に『[[漫画スカット]]』([[みのり書房]]、掲載年月日不明)に発表した短編『[[貧困魔境伝ヒヤパカ#収録作品|荒野のハリガネ虫]]』では冒頭のクレジットに「CHARACTER DESINE C.NAKAYAMA」というねこぢるの本名の記載がある<ref group="注釈">ねこぢると親和性が高い本作は[[2016年]]の作品展「[https://bu9t-sm.wixsite.com/html/7-7-8-3 ねこぢるのなつやすみ]」でも当時の原画が展示されている。</ref>。また『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』[[1987年]][[9月]]号掲載の短編『[[貧困魔境伝ヒヤパカ#収録作品|在日特殊小児伝きよしちゃん]]』には、ねこぢるの本名と同じ「チヨミ」という少女が登場しており、[[1990年]]に山野が『[[月刊HEN]]』という[[エロ本]]に発表した短編『[[混沌大陸パンゲア#収録作品|さるのあな]]』でも「チヨミ」に似た少女が登場している。いずれの作品も子供的狂気と[[児童虐待|障害児虐待]]をメイン・テーマにしており、ねこぢる作品に近接した世界観となっている。 ねこぢるの死後、山野は雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、[[1998年]][[5月]]以前の自身の活動について「私も以前は、だいぶ問題のある漫画を描いていたものですが、“酔った者勝ち”と申しましょうか…。上には上がいるもので、ここ数年はほとんどねこぢるのアシストに専念しておりました」と打ち明けている<ref name="mangaaroha" />。また彼女の創作的な感性と可能性について「ねこぢるは右脳型というか、完全に感性がまさった人で、もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう」と評価している<ref name="mangaaroha" />。 その後、山野はねこぢるの様式で描いた漫画作品を「'''ねこぢるy'''」の名義で受け継ぎ、ねこぢるの創作様式を踏襲する一方で、コンピュータによる作画を全般的に採り入れた<ref group="注釈">ねこぢるy([[山野一]])が2013年に発表した漫画単行本『おばけアパート前編』([[アトリエサード]])では従来のアナログ作画を採用している。</ref>。 == 自殺 == ねこぢるは生前より自殺未遂経験があり、自殺の数年前に書かれた遺書が存在する<ref group="注釈">ねこぢる『ねこぢるまんじゅう』(文藝春秋 1998年)112-113頁「あとがき」によると、書かれた遺書は2年前(1996年)のものと山野は述べている。</ref><ref name="loftbooks" /><ref name="shinigao" />。その遺書には「'''生きていたことさえも忘れてほしい'''」<ref name="loftbooks" />「'''お墓はいらない'''」<ref name="shinigao" />「'''死んだ動機については一切話さないこと'''」<ref name="shinigao" />と記されていたが、遺族の意向で墓が建てられている。ただ、吉永によれば墓石には名前が書かれておらず、[[梵字]]がひとつ彫ってあるのみであるという<ref name="shinigao" />。 夫の山野は自殺の真相について「故人の遺志により、その動機、いきさつについては一切お伝えすることができません。一部マスコミで“[[hide|某ミュージシャン]]の[[自殺|後追い]]”との憶測報道がなされましたが、そのような事実はありません。ねこぢるは[[テクノポップ|テクノ]]や[[ゴアトランス|ゴア・トランス]]に傾倒しており、お通夜に流した音は、彼女が“天才”と敬愛して止まなかった[[Aphex Twin]](Richard D.James)の『SELECTED AMBIENT WORKS VOLUME II』で、本人の強い希望により、柩に納められたのは、彼女が持っていたAphex Twinのすべての[[コンパクトディスク|CD]]と[[磁気テープ|ビデオ]]でした」とコメントしている<ref>[[文藝春秋]]『[[月刊コミックビンゴ|コミックビンゴ!]]』1998年7月号 195頁「漫画家・山野一さんからの緊急メッセージ」</ref>。この某ミュージシャンとは、この数日前に他界した[[X JAPAN]]のギタリスト[[hide]]である。この事に関して山野は「(hideの曲に関して)彼女は多分一秒も聞いたことはない」と述べている。 == 評価・分析 == * [[知久寿焼]] - にゃー子とにゃっ太の表情は微妙だ。猫の口もとが「[[ω]]」なのも手伝ってはいるが。そんな、[[きちがい|キチガイ]]のそれっていう感じの表情のまんま、身のまわりで起こる出来事に対して、[[感情|情緒]]的なところをすこんと欠落させたみたいな単純でまっすぐな反応をする二匹──あれっ?やっぱりキチガイみたいだなぁ。そうか。そうです、ぼくは『[[ねこぢるうどん]]』の、この淡々としてキチガイなとこに感じちゃうんですよ。でも姉弟仲いいよね<ref>青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号 31頁 [[知久寿焼]]「ねこぢるうどんについて」</ref>。 * [[岡崎京子]] - ゆかいにむじゃきに「ぶちゅう」と虫をふみしだいてゆく2匹の幼いねこ姉弟。働く職工が黒こげの丸やきになって単々と死んでゆく、「ふーん」とみつめる2匹。いやな感じ。やだなぁ。でも私はこの「やだなぁ」という感じは人間が生きてゆく上でとても大切なものだと思うし実は好きです<ref>青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号 32頁 [[岡崎京子]]「やだなぁ」</ref>。 * [[唐沢俊一]] - 幼児の持つ、[[プリミティブ]]な残酷性をこれほど直観的に描き出した作品はないだろう。猫の姉弟の基本的に無表情なままの残酷行為は、われわれが子供のころ、親に怒られても叱られても、なぜかやめられなかった、小動物の虐待の記憶をまざまざとよみがえらせる。そして、それを一種痛快な記憶としてよみがえらせている自分に気がついてハッとさせられるのである<ref>[[青土社]]『[[ユリイカ]]』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」</ref>。 * [[速水由紀子]] - [[1970年代]]前後の懐かしい家や街、猫家族の[[メルヘン]]世界を、突如、殺戮や狂気がスパッと切り裂く唐突さ。物置の片隅に[[ファンタジー]]と[[お化け]]と[[殺意]]が同居していた、子供の頃の記憶がリアルに蘇ってくる。[[グリム童話]]の無垢な残酷さにも通じるものだ<ref name="aera1996"/>。 * [[山野一|ねこぢるy]] - その目を初めて見たのは、彼女が暇を持てあまして書き殴っていた画用紙だ。魅力は確かにあるのだが、その正体がよくわからない。可愛いようで怖い。単純なようでもあり計り知れなくもある。原始人の[[洞窟壁画|ケイブアート]]、あの半ば記号化されたような動物や人、あるいは[[六芒星]]や[[ハーケンクロイツ]]といったシンボリックな図形。そういった要素が、描いた本人も無自覚なうちに備わっているのではなかろうか<ref name="indodiru156" />。 * [[蛭子能収]] - 最初はとにかく、ばっと飛ばして見てた。『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に載ってても、真面目に見たことなかったんですよ。あれはただの可愛い漫画とばかり思っていたもんですから。見るとこんな残酷で。よくあれが受け容れられたと思いますよ。だから、不思議でたまらない<ref name="mediado" />。 * [[柳下毅一郎]] - ねこぢるがあれほどのポピュラリティーを獲得できた理由も毒に満ち満ちた内容と、アンバランスな丸っこい描線の可愛らしい絵柄。ミスマッチとも言えそうだが、甘ったるい絵柄が毒をくるむ糖衣となったおかげで、ほど良く辛みを効かせることになったのだ。これが山野一ではそうはいかない。透明な、抽象度の高い絵で生々しさを抜いたからこそ、女子供にも愛されるねこぢるケータイストラップが作られたわけである<ref name="bungei2000">河出書房新社『文藝』[[2000年]]夏季号 特集「ねこぢる。」</ref>。 * [[村崎百郎]] - ねこぢる漫画の根底にあるのは何かに対立する“反”の意識などではなく、非倫理、非道徳、非社会性ともいうべき、あらゆるものから隔絶し超然とした精神である<ref name="bungei2000" />。 * [[青山正明]] - ねこぢるの創作する世界では、凡百の[[童話#残酷性|残酷童話]]にありがちな説教めいた教訓などなく、強い動物は弱い動物にどんな暴力を振るおうが、その死肉を食らおうがお構いなしだ。ところが、その一方で、主人公たる猫一家は、奇妙なところは多々あるとはいえ、とりあえず仲むつまじい家族である。いつも手をつないで歩く、強く怖い父、分別ある母。こうした家族のあり方は、今の世にあっては、現実とは程遠いファンタジーと言えよう<ref>ねこぢる『ねこぢるだんご』(朝日ソノラマ 1997年)解説より。</ref>。 * [[吉永嘉明]] - ねこぢるは「おばさんになるぐらいなら死んだほうがいい」とよく話していた。ひょっとしたら、生きることは、死ぬよりもつらいのではないか?と考えたこともある。それでも生きていく中に、きっと、ささやかな喜びがある。年を取ることを恐れないでほしいし、残された人のつらさも考えてほしい<ref>{{Cite news|title=つらい、だから生きる 妻失った編集者手記「自殺されちゃった僕」|newspaper=[[朝日新聞]]・朝刊|date=2005年2月4日|author=斎藤利江子|page=21}}</ref>。 * [[根本敬]] - 大抵、自殺は不幸なものだ。だが、例外もある。自殺した当人が類い稀なるキャラクターを持ち、その人らしい生き方の選択肢のひとつとして成り立つ事もタマにはあるかと思う。ねこぢるの場合がそうだ。死後、つくづく彼女は「大物」で、そして「本物」だったと実感する。そのねこぢるが「この世はもう、この辺でいい」と決断してこうなった以上、これはもう認める他ないのである。年々盛り上る、漫画家としての世間的な人気をよそに、本人は「つなみ」の様な世界で浮遊していたのではないか。俗にいう“[[霊界|あの世]]”なんてない。[[丹波哲郎]]のいう“[[丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる|大霊界]]”などあってたまるか。だが、“[[現世|この世]]”以外の“[[異界|別世界]]”は確実にあると思う。ねこぢるは今そこにいる<ref>文藝春秋『コミックビンゴ!』1998年7月号 210頁 [[根本敬]][http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/1998-06-26.html 「本物」の実感]</ref>。[[山野一|ねこぢるy]]名義での諸作品を制作する過程で山野さんは別世界にいる、ねこぢると交感し、精神の安定を得ていたのではなかろうか。『[[ねこぢるうどん]]』が真の評価を受けるのはまだ先の事だろう。何故ならこの作品はどこかへ向かうための[[チベット死者の書|バルド]]っていうんですか、その途上にあるから。一体どこへ辿り着くのか? それは─山野さんの脳内で行われる─山野さんとねこぢるによる「脳内コックリさん」でコインがどの方向へスーッと動くのか、それによって決まるだろうが、どちらが主導権を握るか、それによって道筋も違って来る。が、いずれにせよ辿り着く先はひとつだろう<ref>根本敬:解説「ねこぢるうどん」……それはマンガで楽しむ山野家の「バルド・トドゥル」となるのか?(ねこぢるy『ねこぢるyうどん①』青林堂 2000年)</ref>。 * 山野一 - なぜ読者の方々は、ねこぢるの漫画に安堵感を覚えたのだろうか?…それは彼女の漫画がもつノスタルジックな雰囲気のせいかもしれない…。しかしそれよりも、自分との出会い…とうの昔に置き忘れてきた“自分自身”に再開した…そういう懐かしさなのではないだろうか? まだ何の分別もなく、本能のままに生きていた頃の自分…。道徳や良識や、学校教育による洗脳を受ける前の自分…。社会化される過程で、未分化なまま深層意識の奥底に幽閉されてしまった自分…。その無垢さの中には当然、暴力性や非合理性・本能的差別性も含まれる…。人間のそういう性質が、この現代社会にそぐわないことはよく解る。どんな人間であれ、その人の生まれた社会に順応することを強要され、またそうしないと生きてはいけない。しかし問題なのは、世の中の都合はどうであれ“元々人間はそのような存在ではない”ということだ。もって生まれた資質の一部を、押し殺さざるをえない個々の人間は、とても十全とはいえないし、幸福ともいえない…。ねこぢるの漫画は、そういった問題を潜在的にかかえ、またそれを自覚していない若者達に、[[カタルシス]]を与えていたのだと思う<ref>ねこぢる『ねこぢるせんべい』(集英社 1998年)136-137頁「夫・漫画家 山野一」による「あとがき」より。</ref>。生前彼女は[[チベット仏教|チベット密教]]の行者レベルまで[[トランス (意識)|トランス]]できる、類いまれな才能を持っておりました。お葬式でお経を上げていただいたお坊さまにははなはだ失礼ですが、少なくとも彼の千倍はステージが高かったと思われるので大丈夫…。今頃は俗世界も私のことも何もかも忘れ、[[ブラフマン]]と同一化してることでしょう<ref name="mangaaroha" />。 == 展示 == === 個展 === *2010.10.5-10.9 「ねこぢるyの世界2010」渋谷ポスターハリスギャラリー *2011.3.4-3.13 ねこぢるy個展「湾曲した記憶」渋谷ポスターハリスギャラリー *2011.9.17-9.26 山野一とねこぢるy個展「失地への帰還」渋谷ポスターハリスギャラリー *2013.11.1-11.17 漫画家生活30周年記念「ねこぢるy(山野一)新作漫画原画&絵画展2013」渋谷ポスターハリスギャラリー *2015.8.20-9.5 山野一/ねこぢるy個展「そこいらの涅槃(ニルヴァーナ)」ぎんけいさろん&ギャラリー 東京銀座 *2016.7.7-8.30 ねこぢる・ねこぢるy・山野一作品展「ねこぢるのなつやすみ」不思議博物館分室サナトリウム 福岡天神 *2017.1.19-2.4 ねこぢる生誕50周年記念「ねこぢる&ねこぢるy展」ぎんけいさろん&ギャラリー 東京銀座 *2018.3.23-4.7 ねこぢる・山野一・ねこぢるy展2018「幸せの成り行き」ぎんけいさろん&ギャラリー 東京銀座 *2018.7.5-8.28 ねこぢる・ねこぢるy・山野一作品展「ねこぢるの国」不思議博物館分室サナトリウム 福岡天神 == 関連人物 == === 影響を受けた人物 === ; [[山野一]] : [[鬼畜系]][[漫画家]]。ねこぢるの共同創作者として原作[[ネーム (漫画)|ネーム]]や[[アシスタント (漫画)|作画アシスタント]]を担当。また彼女の[[マネージャー]]として渉外担当の役回りも務めていた。 ; [[EP-4|佐藤薫]] : ねこぢるが[[1980年代]]に[[追っかけ]]をしていた[[ミュージシャン]]<ref name="shiseikatsu" />。[[山崎春美]]の伝説的な[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]「[[山崎春美#TACO|TACO]]」の主要メンバー。[[京都府|京都]]の[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]][[テクノポップ|テクノ]][[ファンク]][[バンド (音楽)|バンド]]「[[EP-4]]」のリーダー。 ; [[諸星大二郎]] : [[サイエンス・フィクション|SF]][[漫画家]]。ねこぢるは特に『[[無面目・太公望伝|無面目]]』という作品が大のお気に入りで、そのため、この作品の大ファンであるという旨のファンレターを諸星に送っている<ref name="mediado" />。 ; [[エイフェックス・ツイン]] : ねこぢるが最も傾倒していたミュージシャン。[[通夜]]に流した音楽もエイフェックス・ツインの『SELECTED AMBIENT WORKS VOLUME II』で、本人の強い希望により柩に納められたのは、彼女が持っていたエイフェックス・ツインのすべての[[コンパクトディスク|CD]]と[[磁気テープ|ビデオ]]だった。 === 家族・親族 === ; 山野一 : ねこぢるの夫。ねこぢるの[[ルポルタージュ]]漫画作品『[[ぢるぢる旅行記]]』では、ねこぢると「旦那」の二人による[[インド]]や[[ネパール]]での旅が描かれている。また、ねこぢるが自身の私生活を題材とした作品『ぢるぢる日記』にも「[[鬼畜系]]マンガ家」である「旦那」が登場している<ref name="dirudiru" />。 ; ただれ彦 : ねこぢるの弟で山野の義弟。「ただれ彦」は生前のねこぢるが即興で付けた綽名。山野の旅行記『インドぢる』では、ただれ彦との二人旅の様子が書かれている。 === 友人 === ; [[根本敬]] : [[ガロ系|特殊漫画家]]。夫妻ともに根本を尊敬しており<ref name="hirameki" />、特にねこぢるは根本作品を初単行本『花ひらく家族天国』([[青林堂]])から愛読していたという<ref name="nemoto&yamano" />。また根本もねこぢるの「本物性」を彼女のデビュー前から感じていたらしく、自殺を受けて「[http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/1998-06-26.html 本物の実感]」と題した追悼文を雑誌に寄稿した<ref>特殊漫画家・根本敬の追悼コメント「[http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/1998-06-26.html 本物の実感]」水道橋博士の悪童日記 1998年6月26日付</ref>。 ; [[吉永嘉明]] : [[鬼畜系]][[ムック (出版)|ムック]]『[[危ない1号]]』副編集長。ねこぢるとはデビュー当初からプライベートで交友があり、夫妻とも非常に親密な関係があった<ref name="hirameki" />。著書に『[[吉永嘉明|自殺されちゃった僕]]』([[飛鳥新社]]/[[幻冬舎文庫|幻冬舎アウトロー文庫]])がある。 ; 巽早紀 : 元[[ペヨトル工房]]の編集者(当時の同僚に[[鬼畜系]][[著作家|ライター]]の[[村崎百郎]]がいる)。ねこぢるとは夫の[[吉永嘉明]]を通じて交友関係を持っていた。[[2003年]][[9月28日]]に[[縊死|首吊り]][[自殺]]。 === 編集者 === ; [[高市真紀]] : 元[[青林堂]]『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』担当編集者<ref>[https://twitter.com/1yamano/status/825884866604527616 山野一のツイート] 2017年1月29日</ref>。姉は漫画家の[[山田花子 (漫画家)|山田花子]]。現・[[青林工藝舎]]『[[アックス (雑誌)|アックス]]』編集者。 ; [[白取千夏雄]] : 元青林堂『ガロ』副編集長。[[1998年]]に[[新宿ロフトプラスワン]]で行われた追悼トークライブ「ねこぢる追悼ナイト」に参加した。 ; 加藤宏子 : [[白泉社]]の担当編集者。『PUTAO』に連載された[[エッセイ漫画]]『ぢるぢる見聞録』に担当のKさんとして登場する。 ; 顔画工房 : かつて[[青山正明]]の[[編集プロダクション]]「[[青山正明#東京公司結成|東京公司]]」に在籍していた縁で[[鬼畜系]][[ムック (出版)|ムック]]『[[危ない1号]]』の編集を手伝う。ちなみに『[[ねこ神さま]]』第2巻収録の[[4コマ漫画]]では某出版社のバイト君として登場を果たしている<ref name="suraba"/><ref name="kaogakobo" /><ref>ねこぢる『ねこ神さま』第2巻(文藝春秋)「ぢるぢる4コマ漫画」100-102頁。</ref>。 ; [[蟹江幹彦]] : 現・[[青林堂]]社長(山野に付けられたあだ名は「泥棒社長」)<ref name="1yamano">[https://twitter.com/1yamano/status/1100399894055907329 山野一のツイート] 2019年2月26日</ref>。[[1990年代]]に[[CD-ROM]]制作会社の[[大和堂]]を経営しており、当時青林堂の社長であった[[山中潤]]よりねこぢるの版権を譲り受け、ねこぢる作品の[[CD-ROM]]版やグッズの販売を行っていた。ねこぢるの死後は青林堂の社長になり、故人の版権を数年間管理していたが、山野とは見解の相違により関係が悪化し絶縁状態となった(その後、[[OVA]]『[[ねこぢる草]]』の[[著作権使用料]]について実際は販売元から支払われていたにも関わらず「'''印税の支払いはない'''」という虚偽の報告を行い、山野に一銭たりとも支払わなかったことが判明する)<ref name="1yamano" /><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=r8o7SNAOsEw 山野一さん登場!! 濃い話が聞けました。] YouTube</ref>。また[[2010年代]]以降は[[サブカルチャー]]漫画中心だった[[青林堂]]を[[政治哲学|政治思想]]中心の極右出版社に路線転換させたこともあり<ref>{{cite news|title=昔「ガロ」今「ヘイト本」 伝説の漫画月刊誌 版元の転向 社長「経営上の問題」 出版関係者「踏み出してならない分野」|newspaper=[[東京新聞]](朝刊、特報)|date=2015-01-10|author=林啓太|publisher=[[中日新聞東京本社]]|page=24|language=[[日本語]]}}</ref>、現在の[[青林堂]]について[[白取千夏雄]]の弟子である[[編集者]]・[[劇画]][[評論家]]の[[劇画狼]]は「'''ガロの青林堂から社名買っただけの別会社'''」としている<ref>[https://twitter.com/gekigavvolf/status/829300732851585025 おおかみ書房公式/劇画狼のツイート] 2017年2月8日</ref>。 == 関連作品 == * '''[[山野一]]''' ** [[夢の島で逢いましょう]]([[青林堂]]) ** [[四丁目の夕日]](青林堂) ** [[貧困魔境伝ヒヤパカ]](青林堂) ** [[混沌大陸パンゲア]](青林堂) ** [[どぶさらい劇場]](青林堂) * '''ねこぢる''' ** [[ねこぢるうどん]](青林堂) ** [[ねこ神さま]]([[文藝春秋]]) ** [[ぢるぢる旅行記]]([[ぶんか社]]) ** ねこぢる食堂([[白泉社]]) ** ねこぢるだんご([[朝日ソノラマ]]) ** ねこぢるせんべい([[集英社]]) ** ねこぢるまんじゅう(文藝春秋) ** デンキくん([[東京電力]]) * '''[[山野一|ねこぢるy]]''' ** [[ねこぢるyうどん]](青林堂) ** インドぢる([[文藝春秋|文春ネスコ]]) ** おばけアパート([[アトリエサード]]) * '''[[吉永嘉明]]''' ** 自殺されちゃった僕([[幻冬舎文庫|幻冬舎アウトロー文庫]]) == 参考文献 == * 『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』1992年6月号 [[青林堂]] ** [[黒川創]]「{{Wayback|url=https://blogs.yahoo.co.jp/dougasetumei/55808614.html |title=夢の不穏 |date=*}}」 ** [[根本敬]]「ほっかほっか家族天国」 ** ねこぢるインタビュー「ゲームの世界に生まれたかった」 * 『ガロ』1995年10月号 青林堂 ** 黒川創「{{Wayback|url=https://blogs.yahoo.co.jp/dougasetumei/55808618.html |title=ねこぢるって誰? |date=20190228175614}}」 ** 夫・漫画家 [[山野一]]「{{Wayback|url=https://blogs.yahoo.co.jp/dougasetumei/55713451.html |title=あとがき バイオレント・リラクゼーション |date=20190228175823}}」136-137頁 * 『まんがアロハ!』増刊「ぢるぢる旅行記総集編」7/19号 [[ぶんか社]] 1998年 ** 山野一「{{Wayback|url=https://blogs.yahoo.co.jp/dougasetumei/55713451.html |title=特別寄稿・追悼文 |date=20190228175823}}」 * 『[[月刊コミックビンゴ|コミックビンゴ!]]』1998年7月号 [[文藝春秋]] ** 追悼特集「ねこぢるさん、さようなら」 ** 根本敬「[http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/1998-06-26.html 本物の実感]」 ** 山野一「{{Wayback|url=https://blogs.yahoo.co.jp/dougasetumei/55713451.html |title=読者のみなさんへ |date=20190228175823}}」 * 『[[GON!|COMIC GON!]]』第3号 1998年11月 [[ミリオン出版]] ** 蘇るねこぢるワールド「ねこぢる担当者が語る ぢるぢる編集後記」(取材・構成/小野澄恵) * ねこぢる『ねこぢるだんご』[[朝日ソノラマ]] 1997年(解説・[[青山正明]]) * ねこぢる『ぢるぢる日記』[[二見書房]] 1998年 * ねこぢる『ねこぢるせんべい』[[集英社]] 1998年 * 『TALKING LOFT3世』VOL.2 1999年11月 [[ロフト (ライブハウス)|ロフトブックス]] ** [[1998年]][[11月23日]]に[[新宿ロフトプラスワン]]で行われた[[根本敬]]、[[白取千夏雄]]、[[サエキけんぞう]]、[[鶴岡法斎]]による追悼トークライブ「ねこぢる追悼ナイト」を収録 * [[大泉実成]]『消えたマンガ家 ダウナー系の巻』[[太田出版]] 2000年 ** 「ねこぢる曼荼羅を探して」(初出:太田出版刊『[[Quick Japan]]』Vol.32) * 『[[AERA]]』1996年4月22日号 朝日新聞社 ** [[速水由紀子]]「ねこぢる『ねこぢるうどん』青林堂 担当編集者の高市真紀さん」 *『AERA』2001年11月19日号 朝日新聞社 ** 速水由紀子「新人類世代の閉塞 サブカルチャーのカリスマたちの自殺」 * [[吉永嘉明]]『自殺されちゃった僕』[[幻冬舎文庫|幻冬舎アウトロー文庫]] 2008年 * ねこぢる『ねこぢる大全』文藝春秋 2008年 * 『[[文藝]]』1996年冬季号 [[河出書房新社]] ** ねこぢるインタビュー「なんかシンクロしちゃってるのかな、とかたまに思ったりして」 * 『文藝』2000年夏季号 河出書房新社([[大西祥平 (ライター)|大西祥平]]/[[木村重樹]]/[[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]/[[柳下毅一郎]]/他) ** ねこぢるyインタビュー「ねこぢる/ねこぢるy(山野一)さんにまつわる50の質問」 * [[山野一|ねこぢるy]]『インドぢる』[[文藝春秋|文春ネスコ]] 2003年 * ねこぢる『ねこぢる大全 下』2008年 [[文藝春秋]] ** 対談 [[根本敬]]([[ガロ系|特殊漫画家]])×[[山野一]]([[漫画家]])「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」 * ねこぢる蒐集支援ホームページ『月に吠える』ねこぢる作品リスト-1990~2004- * ねこぢるへの批評など ** [[知久寿焼]]、[[逆柱いみり]]、[[岡崎京子]]、[[唐沢俊一]]、[[柳下毅一郎]]、[[青山正明]]、[[村崎百郎]]、[[根本敬]]、[[山野一]]らによる論考 * [http://09020586.at.webry.info/200904/article_2.html 黒のマガジン] - 顔画工房のブログ == 関連文献 == * 『[[SPA!]]』1995年12月20日号 [[扶桑社]] ** [[鶴見済]]「道徳信仰を突き放し、この世の真実を描く“裏イソップ物語”ねこぢる『ねこぢるうどん』」 * 『[[危ない1号]]』第2巻 1996年4月発行 [[データハウス]]/[[青山正明#東京公司結成|東京公司]] ** [[吉永嘉明]]「貧乏人の悲惨な生活を描かせたら右に出る者なし! ロングインタビュー山野一」 * 『[[週刊宝石]]』1997年12月18日号 [[光文社]] ** [[村上知彦]]「こだわりのコミック ネコの姉弟が考えた数々の遊びは現代の子どもを映しだす鏡である ねこぢる『ねこぢる食堂』白泉社」 * 『[[ブブカ (雑誌)|ブブカ]]』1998年1月号 [[コアマガジン]] ** かわいくってざんこくな本棚のペットねこぢるの飼い方/鬼畜なねこちゃんの何かがわかる本/特集ねこぢるマンガの生態 * 『[[GINZA]]』1998年1月号 [[マガジンハウス]] ** 対談 [[蟹江幹彦]]×ねこぢる * 『[[週刊新潮]]』1998年5月28日号 [[新潮社]] p.39「ドアノブで首吊り自殺した人気漫画家」 * 『[[女性自身]]』1998年6月2日号 光文社 p.47-48「忙しいOLのワイドショー講座 ねこぢるさん、hideと同じ方法で謎の自殺 熱狂的ファンにさよならも言わず」 * 『[[週刊朝日]]』1998年6月5日号 [[朝日新聞社]] p.28「ねこぢるだけではない漫画家自殺 波南カンコ、山田花子も自殺したのは5月だった」 * 『SPA!』1998年6月10日号 扶桑社 ** 末広泰志「自殺したマンガ家の自分と現実を見つめる冷めた視線」 * 『[[週刊プレイボーイ]]』1998年8月25日号 [[集英社]] p.275-276「98上半期事件簿 なぜ、そんなに死に急ぐのか?世紀末ニッポンに続出する『自殺』の裏側…。hideの自殺、女子高生・少年の後追い自殺、ねこぢるの自殺」 * 『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』2000年6月号 [[青林堂]] ** ねこぢるyインタビュー「特集ねこぢる10周年」 * 『ガロ』2001年1月号 青林堂 ** ねこぢるyインタビュー「特集ねこぢるy2001」 ** ねこぢる[[OVA]]監督・[[佐藤竜雄]]インタビュー * 『ガロ』2001年6月号 青林堂 ** ねこぢるyインタビュー「特集ねこぢるy的アジアの旅」 * 『[[新潮45]]』2004年4月号 新潮社 p.106-114 ** 吉永嘉明「わが友ねこぢるの思い出と愛妻の自殺 人気漫画家の自殺から5年、わが妻も自ら命をたった。痛恨の手記」 * 『[[BURST|DVD BURST]]』2005年2月号 [[コアマガジン]] p.34-37 ** [[吉永嘉明]]×[[山野一]]×[[根本敬]]「『自殺されちゃった僕』刊行特別鼎談─吉永嘉明×山野一×根本敬」 * 『[[実話ナックルズ|実話GON!ナックルズ]]』2006年1月号 [[ミリオン出版]] p.46-47 ** 吉永嘉明「親友のねこぢる・仕事仲間の青山正明・そして最愛の妻に自殺された 悲しみの最中に書き上げた『自殺されちゃった僕』。『自殺されちゃった僕』のその後」 * 『実話GON!ナックルズ』2006年5月号 ミリオン出版 p.111 ** 対談◎吉永嘉明×山野一「自殺されちゃった僕たち【Vol.3】正しく失望せよ!」 * 『[[創 (雑誌)|創]]』2006年11月号 創出版 p.138-143 ** [[唐沢俊一]]×[[岡田斗司夫]]「新世紀オタク清談 25回 マンガ家という生き方 犬丸りんの自殺、ねこぢる、高橋留美子、手塚治虫、吾妻ひでお、鳥山明…」 * 『[[サイゾー]]』2012年12月号 サイゾー p.42-43 ** 高橋ダイスケ「タブーなマンガ マンガ業界ウラ話『よいこの黙示録』『魂のアソコ』『ぢるぢる日記』etc…マンガ家たちはなぜ自殺したのか?最期の作品に隠された“遺言”」  == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="suraba">吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」の中「修羅場」より。</ref> <ref name="kaogakobo">[http://09020586.at.webry.info/200904/article_2.html 顔画工房の証言]より。</ref> }} == 関連項目 == * [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]] == 外部リンク == * {{Twitter|1yamano|山野一}} * {{facebook|nekojiruy|ねこぢるy}} * {{Wayback|url=http://s.maho.jp/homepage/d0e338ddcdae8ffb/ |title=有限会社ねこぱんち |date=20160409013303}} * [http://www.favor.co.jp/soseji/ そせじ kindle版応援サイト] * {{Wayback|url=http://www.yamato.or.jp/goods/ |title=ねこぢる公式ホームページ |date=20011023043646}} * {{Wayback|url=http://nekojiru.net/ |title=ねこぢるライス |date=20160310200217}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ねこちる}} [[Category:共有筆名]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:埼玉県出身の人物]] [[Category:自殺した日本の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:1998年没]] [[Category:ガロ|人]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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火星人刑事
『火星人刑事』(かせいじんデカ)は、安永航一郎の漫画。『ウルトラジャンプ』(集英社)1997年No.14から2002年9月号まで連載された。 単行本の刊行は2001年に第5巻が出て以降止まっており、2020年現在、本作と同じく最終巻である第6巻が発売するまで4年もかかった『陸軍中野予備校』よりも長いブランクになっている。 舞台は金滅亜(キンメリア)高校。学生潜入捜査官・5代目火星人刑事として活躍している主人公栗瀬十晴は、一見普通の高校生だが、年齢は30歳。進級などで足がつかないように、2年おきに転校を繰り返していた。十晴は「巾着(きんちゃく)!」という掛け声とともにスカートを裏返し、いわゆる茶巾の姿の火星人に変身することができる。火星人スーツは耐火性、通気性、攻撃力に優れており、足を駆使した必殺武術「火星人殺法」を使うことも可能になる(ただし、下半身はパンツ一枚の丸出しで手は使えない)。火星人の秘密を知ったものは消される運命にあるはずだったが、後半は公衆の面前で平然と変身したりしている。 そんな十晴の目的は、学生に成りすまし料理研究部として悪行を繰り返す織田川あかねを捕まえる事。だが、実はあかねは行方不明だった初代火星人刑事(42歳)だった。
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『火星人刑事』(かせいじんデカ)は、安永航一郎の漫画。『ウルトラジャンプ』(集英社)1997年No.14から2002年9月号まで連載された。 単行本の刊行は2001年に第5巻が出て以降止まっており、2020年現在、本作と同じく最終巻である第6巻が発売するまで4年もかかった『陸軍中野予備校』よりも長いブランクになっている。
{{出典の明記|date=2020-11-22}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=火星人刑事 |画像= |サイズ= |説明= |ジャンル=[[青年漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル= |作者=[[安永航一郎]] |作画= |出版社=[[集英社]] |他出版社= |掲載誌=[[ウルトラジャンプ]] |レーベル= |発行日= |発売日= |開始号=1997年No.14 |終了号=2002年9月号 |開始日= |終了日= |発表期間= |巻数=既刊5巻 |話数= |その他= |インターネット= }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= |ウィキポータル= }} 『'''火星人刑事'''』(かせいじんデカ)は、[[安永航一郎]]の[[漫画]]。『[[ウルトラジャンプ]]』([[集英社]])1997年No.14から2002年9月号まで連載された。 単行本の刊行は2001年に第5巻が出て以降止まっており、[[2020年]]現在、本作と同じく最終巻である第6巻が発売するまで4年もかかった『[[陸軍中野予備校]]』よりも長いブランクになっている。 == あらすじ == 舞台は金滅亜(キンメリア)高校。学生潜入捜査官・5代目[[火星人]]刑事として活躍している主人公'''栗瀬十晴'''は、一見普通の高校生だが、年齢は30歳。進級などで足がつかないように、2年おきに転校を繰り返していた。十晴は「巾着(きんちゃく)!」という掛け声とともにスカートを裏返し、いわゆる[[茶巾 (性的嗜好)|茶巾]]の姿の火星人に変身することができる。火星人スーツは耐火性、通気性、攻撃力に優れており、足を駆使した必殺武術「火星人殺法」を使うことも可能になる(ただし、下半身はパンツ一枚の丸出しで手は使えない)。火星人の秘密を知ったものは消される運命にあるはずだったが、後半は公衆の面前で平然と変身したりしている。 そんな十晴の目的は、学生に成りすまし料理研究部として悪行を繰り返す'''織田川あかね'''を捕まえる事。だが、実はあかねは行方不明だった初代火星人刑事(42歳)だった。 == 主要登場人物 == ; 栗瀬十晴(くりせ とはる) : 本作の主人公。女性。年齢:30歳。職業:警察官(5代目火星人刑事) : 10数年のキャリアを持つ火星人刑事。 : 友人はどんどん結婚して行き彼女も寿退職を心待ちしているらしいが、職務には熱心で、宿敵・織田川あかねとその手下集団と日夜戦い続ける。しかし、給料は減らされ、幹部にはつるし上げをくらい、満身創痍の報われない日々。それゆえ性格や考え方も微妙にひねくれてしまっている。 : 歴代刑事の中では身体の頑丈さが超人級であり、直属上司の黒羽曰く「織田川に長期かかわって未だ大した怪我してないのは栗瀬くらい」、火星人養成コースの候補生たち曰く「技も無いのに体力だけで火星人刑事になった」との事。 : 火星人殺法の実力は結構上位にあり、候補生レベルでは太刀打ちできない。 ; 北原京(きたはら みやこ) : 栗瀬の助手的存在(現地調達の民間協力者)。女性。高校生。名前は「北京原人」から採られたらしい。 : 国際レベルの柔道の達人。かつて海外の選手との試合に破れ、鍛え直すとの口実の元に朝鮮半島の山奥に投下され、自力帰還する過程で柔道の枠を超える「サバイバル柔道」を身に着けた。しかしサバイバル柔道は国際ルールに則っていないため、結局どんな公式試合にも使えない。 : サバイバル柔道習得の恩恵であろう身体能力は、生半可な力では破れない鋼線入り火星人スカート(スーツ)を引き裂くほど。 : 栗瀬には主として食べ物で手なずけられている。柔道と食事以外興味が無いように見えるが、[[アダルトビデオ]]評論家としての意外な側面をも持ち合わせる。 : 栗瀬のよき助手として活動し、その身体能力の高さと素質から、ついに8代目火星人刑事を拝命することになる。 ; 織田川あかね(おだがわ あかね) : 警察の重要手配人物であり、初代火星人刑事でもある。女性。42歳。高校生。 : 火星人課設立の功労者だったが、ある日突然失踪。以後15年間、年齢を詐称して学校を渡り歩き、学生を悪の道に引きずりこんではあくどい商売を繰り返す。火星人刑事の2~4代目は皆彼女によって返り討ちに遭っており、歴代最強の実力と経験を持つ元火星人刑事。金滅亜高校では「お料理研究部」の部長を務め、部員を手足のごとく使い悪事を重ねている。 : 40過ぎには絶対見えない若作りで小柄な体格ながら火星人殺法の実力は最強無比で、未だに歴代火星人刑事の誰もが及びもつかないハイレベルにある。 : かつて世界中の格闘家・武道家達を手篭めにして回った結果、色んな国とのハーフの娘が全世界に4~5人いるらしい。 : その目的は強い血を次代に遺すためだったが、火星人刑事の使命を捨ててまで血を遺そうとしたのは、実は火星人殺法の意義に関わる事であった。 ; 織田川雪風(おだがわ ゆきかぜ) : 織田川あかねの娘。年齢:14~15歳。無職。 : 幼い頃病弱だった(織田川が懐妊のまま逃亡中に腹部に打撃を受けた事が原因)が、母に面会に来てもらうべく激しい自己訓練の結果、現在は超人的な体力と格闘力を持つ180cm近い長身に成長した。 : 織田川が火星人刑事を倒すために火星人キラーとして育てたつもりが、北原に敗れてから彼女を敬愛するようになってしまった。 : 犯罪は平気で働くが、妙に正々堂々としており、栗瀬から財布を奪い取ろうと戦いを挑んだ際、栗瀬に出し抜かれて空の財布を取ってしまい、無銭飲食をやってしまったことがある(一方の栗瀬は「相手が財布を狙ってるのに中身そのままにしとくわけないっしょ」と財布に入っていた現金を事前に全て抜き取っており、一緒にいた北原から「ずるがしこい」と賞賛されていた)。 : 織田川の悪徳商売は雪風の治療費を稼ぐためだったらしいが、雪風が丈夫になっても悪事をやめる様子は無い。それもそのはず、世界に数人いる織田川の子供のうち最も織田川の理想に近い成長を示した雪風に、火星人殺法を継承させる事こそ織田川の目的のひとつであり、その準備のため資金がありすぎて困ることはなかったからである。 : そして雪風は、己のポテンシャルを持って母の期待に応えてしまう事になる。 ; 百道(ももち)課長 : 警視庁火星人課の課長。火星人道場統主。男性。 : 織田川あかねと共に火星人課を創設。現在も火星人課の頂点にいる。男だがスカートをはいて火星人殺法を使う。 : 火星人殺法・湖南山(こなんざん)流の伝承筋の家系ではないが、本家筋の伝承者候補が次期統首を辞退、分家筋の伝承者候補が余りに駄目人間だった事情も味方して、当時の門下生筆頭の百道が統首を拝命した。 ; 黒場(くろば)課長補佐 : 警視庁火星人課の課長補佐。女性。33歳。 : 百道の部下、栗瀬の上司にして4代目火星人刑事。一寸きつめな感じの美人。栗瀬にだまされてアダルトビデオに出演してしまう。ヘアバンドのようなものをいつも着けている。 : かつて織田川あかねの野球賭博の証拠を握り、彼女の高飛び追跡時に自転車に細工されて事故を起こした上、そこに奇襲をかけてきた織田川が繰り出した足技を神経に食らって火星人殺法を使えない体にされた。そのため現場任務を引退し、現在は内勤での現場サポートが中心。 ; 三浦伊豆美(みうら いずみ)(旧姓:山口) : かつて屋内戦闘のエキスパートと呼ばれた2代目火星人刑事だったが、今は引退して主婦。中学生男子の息子がいる。一戸建てに住み平和な生活。 : しかし、火星人の過去はそんな平和を許してくれなかった。色々経緯があり、織田川あかねの娘雪風を引き取ることになる。裏表のあるキャラクター。 ; 柏持(かしわもち)ちまき : 7代目火星人刑事。超小柄な体格を活かして、主に幼稚園児くらいの要人警護任務を中心に活動するが、実年齢22歳。火星人スーツも体格に合わせたミニサイズであり、一時借用した栗瀬が巾着したがサイズが合わず窒息しかけた。 : 火星人刑事を拝命したということは相応の実力があるはずだが、直接戦闘においてはあまり活躍場面がない。 : 建設業界大手・豊富士グループ会長の孫(幼稚園児)警護任務中に織田川あかねに襲撃されて、以降、織田川がらみの事態にちょこちょこ首を突っ込むことになる。 ; 柿沼純(かきぬまじゅん) : 火星人刑事を養成する湖南山(こなんざん)特別研修所の教官で、栗瀬十晴の同期生。栗瀬同様に若作りの30歳。 : かつて栗瀬と5代目の座を争ったほどの実力の持ち主だが、当時、最終検定で柿沼がトイレでタバコを吸ったのがバレて退学、棚ボタで栗瀬が5代目を拝命した経緯がある。 : 候補生たちからの信頼はそれなり厚い。 ; ショッカー(食化:お料理研究部'''食'''品'''化'''学斑の略) : 洋子(ようこ:洋食担当)、華子(はなこ:中華担当)、サトミ(デザート担当)の3人娘で構成されている。部長の織田川あかねの悪事に加担し、あごでこき使われている。織田川が入部するまでは普通の料理研としてまともなクラブ活動をしていたらしい。洋子が一番中心的役割を果たしているらしい。 ; イザベル : スペイン人。女性。推定年齢:約17~18歳(北原とほぼ同年代) : 織田川がスペインからスカウトしてきた、対火星人刑事用切り札。実は火星人はスペイン人には勝てないという因縁があったのである。しかも柔道の国際親善試合で北原に勝ち、北原が朝鮮半島に放り出される原因を作ったことすらあるという一種無敵の存在。 : しかし、お祭りの催し物で雪風と野球拳をやり、2人ともほとんど裸になってしまう。無敵の売り込みだったが、結構抜けたところもある。 : 実はその生まれには、イザベル本人が知らない織田川あかねに深く関わる秘密があった。 ; 石井巡査(女性警察官) : 栗瀬の後輩警察官。栗瀬と同じ独身寮(火之車寮)に住んでいる。花火大会の警備のときに痴漢の人質になってしまう。 == 関連項目 == * [[マンコ・カパック]] - 本作において、火星人殺法の祖であるとされる。また偉大な王の名を唱えることで力を発揮することができる。 * [[青空にとおく酒浸り]] - 幻の火星人刑事陸號が登場する。 * [[スター・レッド]] - [[萩尾望都]]の火星を舞台にしたSF漫画。実在の火星の地名キンメリアやクリュセほか、黒羽、トゥパールなどの固有名詞が本作に影響を及ぼしている。 {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:かせいしんてか}} [[Category:安永航一郎の漫画作品]] [[Category:漫画作品 か|せいしんてか]] [[Category:ウルトラジャンプ]]
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鈴木大拙
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。 生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。 石川県専門学校に入学後、同校の後身第四高等中学校に進学するも退学し、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。 1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラス(en:Paul Carus、1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラー( en:Edward C. Hegeler)が経営する出版社オープン・コート社(en:Open Court Publishing Company)で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。 1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した。1939年、妻のベアトリス・レイン死去。 晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1946年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1952年から1957年まで、コロンビア大学に客員教授として滞在し、仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。秘書として晩年の大拙を支えた日系2世の岡村美穂子(ブルックリン植物園の日本庭園担当者・岡村方雄の娘)も同大の聴講生だった。1957年には『ヴォーグ』『タイム』『ニューヨーカー』で大拙が紹介され、禅ブームとなった。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。 1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。 1966年7月12日、例年のように避暑も兼ねて軽井沢に3ヶ月程度の執筆に出かけようとしていた大拙は、自宅で激しい腹痛を訴え嘔吐を繰り返し、痛みに叫びながら救急車で運ばれた。同日未明、絞扼性イレウス(腸閉塞)のため東京築地の聖路加病院で死去、没年95。最期の言葉は、秘書の岡村美穂子が「Would you like something Sensei ?」と言ったのに対し、「No nothing. Thank you.」であったという。 没後は、鈴木学術財団(松ヶ岡文庫)が設立された。 墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎・和辻哲郎・安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。 妻のベアトリス(Beatrice Erskine Lane、日本名・琵琶子。1878-1939)は、ボストンで生まれ、ラドクリフ・カレッジ卒業後コロンビア大学で社会学を専攻(修士)、1911年末に横浜で大拙と結婚し、1921年より大谷大学教授(予科,実用英語と比較宗教学の原典講義担当)、同年東方仏教徒協会(Eastern Buddhist Society)を設立した。 「東京ブギウギ」の作詞者・鈴木アラン(勝)は、大拙とベアトリスの実子とも養子とも言われる。その妻がジャズ歌手の池真理子で、その間に生まれたのがセラピストの池麻耶である。 晩年に甥夫婦の四男の鈴木伊智男(造船技術士官、石川島播磨重工業勤務)を養子にした。 大拙は仏教の核心に、霊性の自覚を見出した。大拙の生涯の思索の大部分はその《霊性の自覚》に向けられていたといってもよく、これが普遍性や世界性を持つと確信したので、仏教思想を欧米へも紹介したのである。大拙が見出した仏教の霊性的自覚というのは《即非の論理》の体得である。 彼の著作群は膨大な量に上るが、その多くが《霊性の自覚》や《即非の論理》を巡るものとしてとらえることができる。たとえば『禅論文集1-3』は、禅における霊性的自覚つまり悟りの具体相と心理的過程をとらえている。『禅思想史研究第一 盤珪禅』は盤珪の不生禅を霊性的自覚としてとらえなおしたものである。『日本的霊性』は日本における《霊性の自覚》の歴史を解明した書である。『臨済の基本思想』は臨済が唱えた一無位真人のうちに《霊性の自覚》を見出したものである。『浄土系思想論』は浄土思想を《霊性の自覚》の立場から扱ったものである。 詳細は鈴木大拙館の略歴を参照。
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鈴木 大拙は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。 生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。
{{Infobox Buddhist |名前 = {{ruby|鈴木 大拙|すずき だいせつ}} |生没年 = [[1870年]][[11月11日]] - [[1966年]][[7月12日]] |幼名 = |名 = 貞太郎(ていたろう) |法名 = |号 = 大拙(だいせつ) |法号 = |院号 = |諱 = |諡号 = |尊称 = |生地 = [[石川県]][[金沢市]]下本田村(現・[[本多町 (金沢市)|本多町]]3丁目) |没地 = 東京[[築地]][[聖路加病院]] |画像 = [[画像:Daisetsu Teitarō Suzuki photographed by Shigeru Tamura.jpg|200px]] |説明文 = 1953年頃撮影 |宗旨 = |宗派 = [[臨済宗]] |寺院 = [[円覚寺]]の[[正伝庵]] |師 = [[今北洪川]]、[[釈宗演]] |弟子 = [[柳宗悦]]、[[松方三郎]] |著作 = 『[[大乗起信論]]』〔英訳〕(1900年)<br />『大乗仏教概論』〔英文〕(1908年)<br />『禅論文集1-3』〔英文〕(1927年、1933年、1934年)<br />『浄土系思想論』(1942年)<br />『禅思想史研究第一 盤珪禅』(1943年)<br />『日本的霊性』(1944年)<br />『臨済の基本思想』(1949年)<ref name="主な著作年表">{{Cite web|和書 |url = http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/about.html#panel-2 |title = 鈴木大拙 主な著作年表 |publisher = 鈴木大拙館 |language = 日本語 |accessdate = 2014-05-31 }}</ref> |廟= }} '''鈴木 大拙'''(すずき だいせつ、本名:'''貞太郎'''〈ていたろう〉、[[英語]]: D. T. Suzuki 〈''Daisetz Teitaro Suzuki''〉<ref name="略歴">{{Cite web|和書 |url = http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/about.html#panel-1 |title = 鈴木大拙 略歴 |publisher = 鈴木大拙館 |language = 日本語 |accessdate = 2012-02-17 }}</ref><ref>{{Cite web |author = Daisetz Teitaro Suzuki |coauthors = D.Litt |date = 1935 |url = http://www.buddhanet.net/pdf_file/manual_zen.pdf |format=PDF |title = Manual of Zen Buddhism |publisher = Buddha Dharma Education Association Inc. |language = 英語 |accessdate = 2012-02-17 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |author = D.T.SUZUKI DOCUMENTARY PROJECT |url = http://www.azenlife-film.org/top_j.htm |title = A ZEN LIFE |publisher = Japan Inter-Culture Foundation |language = 日本語 |accessdate = 2012-02-17 }}</ref>、[[1870年]][[11月11日]]〈[[明治]]3年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]〉<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=山口益,坂本弘|date=19966-09|title=鈴木大拙先生を偲ぶ〔含 略歴・著作論文目録(大谷大学関係誌)〕|url=http://id.nii.ac.jp/1374/00002678/|journal=大谷学報|volume=46|issue=2|pages=73-82|publisher=[[大谷大学]]}}</ref> - [[1966年]]〈[[昭和]]41年〉[[7月12日]]<ref name=":0" />)は、[[日本]]の[[仏教学者]]、[[文学博士]]である。[[禅]]についての著作を[[英語]]で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に[[文化勲章]]、[[日本学士院会員]]。 名の「大拙」は[[居士号]]である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の[[西田幾多郎]]、[[藤岡作太郎]]とは[[第四高等学校 (旧制)|石川県立専門学校]]以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である[[安宅産業]]の[[安宅弥吉]]は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した<ref>{{Cite book |和書 |url=https://books.google.co.jp/books?id=SATx-hACaFEC&pg=PA11|title= 鎌倉文学散歩 |author=安宅夏夫|others=松尾順造(写真) |publisher=保育社 |date= 1993 |page=11}}</ref>。 生前、[[1963年]]に[[ノーベル平和賞]]の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している<ref>{{Cite web |url=http://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12957 |title=Nomination Database |website=Nobelprize.org |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171004034516/https://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12957 |archivedate=2017-10-04 |accessdate=2019-06-03}}</ref>。 == 来歴 == [[画像:Suzukidaisetsuhaka.jpg|thumb|right|120px|鈴木大拙、ベアトリス夫妻の墓<br />[[金沢市]][[野田山|野田山墓地]]]] [[石川県]][[金沢市]]本多町に<ref name=":0" />、旧[[加賀藩|金沢藩]][[藩医]]の四男として生まれる。 石川県専門学校に入学後、同校の後身[[第四高等学校 (旧制)|第四高等中学校]]に進学するも退学し、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]を経て、[[東京大学|帝国大学]]選科に学び、在学中に[[鎌倉]][[円覚寺]]の[[今北洪川]]、[[釈宗演]]に[[参禅]]した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた[[神智学|神智学徒]]の[[ベアトリス・レイン・スズキ|ベアトリス・レイン]](Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身も[[インド]]の[[チェンナイ]]にある[[神智学協会]]の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の[[居士]]号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『[[老子|老子道徳経]]』と『[[碧巌録]]』が典拠であるという<ref>[[山田奨治]]『東京ブギウギと鈴木大拙』人文書院、2015年{{要ページ番号|date=2019-06-03}}。「大巧は拙なるに似たり」は、『[[碧巌録]]』の第百則「巴陵吹毛剣」の頌(じゅ)に「不平を平(たいら)げんことを要するも、大巧は拙(せつ)なるが若(ごと)し」とあり、この「大巧は拙(せつ)なるが若(ごと)し」は『[[老子]]』第四十五章「大成(たいせい)は欠けたるが若(ごと)きも、其の用は弊(へい)せず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若きも、其の用は窮まらず。大直(たいちょく)は屈せるが若く、大功は拙(せつ)なるが若く、(以下略)」からの引用である。</ref>。 1897年に釈宗演の選を受け、[[アメリカ合衆国|米国]]に渡り、[[東洋学者]]ポール・ケーラス([[:en:Paul Carus]]、1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラー( [[:en:Edward C. Hegeler]])が経営する出版社オープン・コート社([[:en:Open Court Publishing Company]])で[[東洋学]]関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『[[大乗起信論]]』(1900年)や『[[大乗仏教]]概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、[[禅]]文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。 [[File:Beatrice Lane.jpg|thumb|left|<center>妻の[[ベアトリス・レイン・スズキ]](1878-1939)</center>]] 1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、[[学習院]]に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に[[柳宗悦]]や[[松方三郎]]等がいる。1911年に[[ベアトリス・レイン・スズキ|ベアトリス]]と結婚。1921年に[[大谷大学]]教授に就任して、京都に転居した<ref name="asahi201867">{{Cite news | title = 古都ものがたり 京都 鈴木大拙の研究支えた大谷大学 慕われた教授、思想は世界へ | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2018-06-07 | author = 池田洋一郎 | publisher = 朝日新聞社 | page = 夕刊 5面 }}</ref>。同年、同大学内に[http://web.otani.ac.jp/EBS/index_j.html 東方仏教徒協会]を設立し、英文雑誌『[http://web.otani.ac.jp/EBS/about_journal_j.html イースタン・ブディスト]』(''Eastern Buddhist'' )を創刊した<ref name=":0" /><ref name="asahi201867"/>{{efn2|現在も同協会より刊行されている。}}。1939年、妻のベアトリス・レイン死去<ref name=":0" />。 晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の[[東慶寺]]住職[[井上禅定]]と共に、1946年に自ら創設した「[[松ヶ岡文庫]]」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、[[ハワイ大学]]で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、[[中華民国]]の[[胡適]]と禅研究法に関して討論を行う。同年に[[日本学士院会員]]となり、[[文化勲章]]を受章した<ref name=":0" />。1952年から1957年まで、[[コロンビア大学]]に客員教授として滞在し<ref name=":0" />、仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。秘書として晩年の大拙を支えた[[日系2世]]の岡村美穂子([[ブルックリン植物園]]の日本庭園担当者・[[:en:Frank Okamura|岡村方雄]]の娘)も同大の聴講生だった<ref>『東京ブギウギと鈴木大拙』山田奨治、人文書院 (2015/4/7)p172</ref>。1957年には『[[ヴォーグ]]』『[[タイム (雑誌)|タイム]]』『[[ザ・ニューヨーカー|ニューヨーカー]]』で大拙が紹介され、禅ブームとなった<ref>『東京ブギウギと鈴木大拙』p177-184</ref>。[[ハワイ大学]]、[[イェール大学|エール大学]]、[[ハーバード大学]]、[[プリンストン大学]]などでも講義を行なった。鈴木は[[カール・グスタフ・ユング]]とも親交があり、ユングらが主催した[[スイス]]での「[[エラノス会議]]」に出席した。また[[エマヌエル・スヴェーデンボリ]]などヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]とも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や[[日本文化]]についても講義を行った。 1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。 1966年7月12日、例年のように[[避暑]]も兼ねて[[軽井沢町|軽井沢]]に3ヶ月程度の執筆に出かけようとしていた大拙は、自宅で激しい腹痛を訴え嘔吐を繰り返し、痛みに叫びながら救急車で運ばれた<ref name ="dobugawa">溝川徳二『文化勲章名鑑 全受章者』(名鑑社, 1999年)135頁</ref><ref name ="zensho">[http://www.theway.jp/zen/kaiho1101/zensho1101.pdf 全生 第14号] 全生庵(平成23年正月)4頁</ref>。同日未明、[[絞扼性イレウス]]([[腸閉塞]])のため<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)15頁。</ref>東京築地の[[聖路加国際病院|聖路加病院]]で死去、没年95{{efn2|晩年の大拙の主治医が[[日野原重明]]で、その最後も看取った<ref>「禅学者鈴木大拙の最期」- {{Cite book |和書 |author=日野原重明|title=死をどう生きたか |series= |publisher=中公新書 |date=1983 |page=}}新版・中公文庫、2015年。</ref>。日野原によれば、高齢で麻酔がかけられないために近隣の鎌倉市内の病院はどこも手術を引き受けてくれず、救急車での長い移動ののちに聖路加病院に到着した<ref name ="zensho"/>。やはり血圧が下がり手術をするのに麻酔がかけられない状態で、その後10時間ほど療養して亡くなったという<ref name ="zensho"/>。親しくしていた東慶寺住職だった井上禅定は「大拙は惜しいことをした。(好物の)牡蠣をくって亡くなったのだ」という<ref name="藤沢教会">{{Cite web|和書|title=仏教とキリスト教 |author=兼子盾夫 |publisher=カトリック藤沢教会 |url=http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm#(1) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190217000941/http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm#(1) |archivedate=2019-02-17 |accessdate=2019-06-03}}</ref>。兼子は学生時代に東慶寺で庭の草抜きをしていた折りに井上から聞いたという<ref name="藤沢教会" />。}}{{efn2|日野原重明のみたてでは腸間膜動脈血栓症の疑いが強かったが、解剖の結果、拘緊性[[腸閉塞]]であったという<ref>「禅学者鈴木大拙の最期」、{{Cite book |和書 |author=日野原重明|title=死をどう生きたか |series= |publisher=中公新書 |date=1983 |page=}}新版・中公文庫、2015年。</ref>。なお、『日本的霊性』(岩波文庫、[[篠田英雄]]「解説」)での年譜では[[腸間膜動脈血栓症]]と表記されている。}}{{efn2|大拙が没した際、ニュースを読み上げた宿直明けのアナウンサーが、原稿に禅と書いてあるのを[[蝉]]と読み違えて「蝉の研究で有名な鈴木大拙氏が亡くなりました。著書には英文による『蝉と日本文化』…」と、誤って読み上げてしまい進退伺いを出すことになった。が、慰留された、という<ref>[[柴田南雄]]『わが音楽 わが人生』[[岩波書店]]、[[1995年]]、p.279。</ref>。なお彼は自著の著者紹介で「“[[褌]]”の研究家」と誤植されたこともある。{{要出典|date=2019-06-03}}}}。最期の言葉は、秘書の岡村美穂子が「Would you like something Sensei ?」と言ったのに対し、「No nothing. Thank you.」であったという<ref name ="dobugawa"/>。 没後は、鈴木[[財団法人|学術財団]]([[松ヶ岡文庫]])が設立された。 墓所は[[金沢市]][[野田山|野田山墓地]]の鈴木家墓所と、北鎌倉[[東慶寺]]、なお同じ境内に、[[岩波書店]]初代店主[[岩波茂雄]]や、[[西田幾多郎]]・[[和辻哲郎]]・[[安倍能成]]らの墓がある。毎年命日である[[7月12日]]には、大拙忌法要が行われる。 == 家族 == 妻のベアトリス(Beatrice Erskine Lane、日本名・琵琶子。1878-1939)は、[[ボストン]]で生まれ、[[ラドクリフ・カレッジ]]卒業後[[コロンビア大学]]で[[社会学]]を専攻(修士)、1911年末に[[横浜市|横浜]]で大拙と結婚し、1921年より[[大谷大学]]教授(予科,実用英語と比較宗教学の原典講義担当)、同年[[東方仏教徒協会]](Eastern Buddhist Society)を設立した<ref>[http://www.seiryo-u.ac.jp/u/research/gakkai/ronbunlib/e_ronsyu_pdf/No131/01_ueda131.pdf 鈴木琵琶子(鈴木大拙夫人)の「京洛逍遥」について─?その1]上田卓爾 金沢星稜大学論集 第51巻第2号 平成30年3月</ref>。 「[[東京ブギウギ]]」の作詞者・[[鈴木勝 (作詞家)|鈴木アラン(勝)]]は、大拙とベアトリスの[[実子]]とも[[養子]]とも言われる。その妻がジャズ歌手の[[池真理子]]で、その間に生まれたのがセラピストの池麻耶である<ref>池麻耶・[[伊藤玄二郎]]「祖父・鈴木大拙と私」『かまくら春秋』2015年1月。{{Full citation needed |date=2019-06-03 |title=雑誌でしたら「第何号目」かが不明です。発行元も不明。}}</ref>。 晩年に甥夫婦の四男の鈴木伊智男(造船技術士官、石川島播磨重工業勤務)を養子にした<ref>『東京ブギウギと鈴木大拙』山田奨治、人文書院 (2015/4/7)p116</ref>。 == 《霊性の自覚》と《即非の論理》 == {{出典の明記|date=2019年6月3日 (月) 06:36 (UTC)|section=1}} 大拙は仏教の核心に、[[霊性]]の自覚を見出した。大拙の生涯の思索の大部分はその《霊性の自覚》に向けられていたといってもよく、これが普遍性や世界性を持つと確信したので、仏教思想を欧米へも紹介したのである。大拙が見出した仏教の霊性的自覚というのは《即非の論理》の体得である。 彼の著作群は膨大な量に上るが、その多くが《霊性の自覚》や《即非の論理》を巡るものとしてとらえることができる。たとえば『禅論文集1-3』は、[[禅]]における霊性的自覚つまり[[悟り]]の具体相と心理的過程をとらえている。『禅思想史研究第一 盤珪禅』は[[盤珪]]の不生禅を霊性的自覚としてとらえなおしたものである。『日本的霊性』は日本における《霊性の自覚》の歴史を解明した書である。『臨済の基本思想』は[[臨済]]が唱えた一無位真人のうちに《霊性の自覚》を見出したものである。『浄土系思想論』は[[浄土思想]]を《霊性の自覚》の立場から扱ったものである。 == 年表 == {{出典の明記|date=2019年6月3日 (月) 06:36 (UTC)|section=1|title=「詳細は鈴木大拙館の略歴を参照」と書いてはあるが、ここに掲載されている内容(年表)自体の出典は不明確です。}} 詳細は[[鈴木大拙館]]の略歴を参照<ref name="略歴" />。 * [[1887年]](17歳) - [[第四高等学校 (旧制)|石川県専門学校]]初等中学科卒業<ref name=":0" />。 * [[1889年]](19歳) - [[第四高等学校 (旧制)|第四高等中学校]](現・[[金沢大学]])中退(予科卒業)。 * 1889年(19歳) - 飯田町小学校教師(英語担当)。 * [[1890年]](20歳) - 美川小学校[[訓導]]([[1891年]]まで)。 * 1891年(21歳) - 東京専門学校(現・[[早稲田大学]])中退。 * [[1892年]](22歳) - [[帝国大学#東京|帝国大学]](現・[[東京大学]])文科大学哲学科選科入学。 * [[1895年]](25歳) - 同修了。 * [[1909年]](39歳) - 8月、[[学習院]]講師<ref name=":0" />(英語担当)。10月、[[帝国大学#東京|東京帝国大学]](現・[[東京大学]])文科大学講師<ref name=":0" />([[1916年]]まで)。 * [[1910年]](40歳) - [[学習院]]教授<ref name=":0" />([[1921年]]まで)。 * 1921年(51歳) - [[大谷大学]]教授<ref name=":0" /><ref name="asahi201867" />([[1960年]]まで)。 * [[1930年]](60歳) - 英語論文で大谷大学より文学博士号を取得。題は''Studies in the Lankavatara Sutra''。 * [[1934年]](64歳) - 大谷大学教学研究所東亜教学部部長。 * [[1939年]](69歳) - 妻のベアトリス・アースキン・レイン死去。 * [[1946年]](75歳) - 鎌倉に[[松ヶ岡文庫]]を設立<ref name=":0" />。 * [[1949年]](79歳) - [[ハワイ大学]]で講義。[[日本学士院]]会員<ref name=":0" />。11月に[[文化勲章]]受章<ref name=":0" />。 * [[1950年]](80歳) - [[プリンストン大学]]・[[ニューヨーク大学]]などで講演。ニューヨークに居住する。 * [[1952年]](82歳) - [[コロンビア大学]]哲学科客員教授<ref name=":0" />。 * [[1954年]](84歳) - 英国・ドイツ・スイスなどで講演。 * [[1955年]](85歳) - [[朝日文化賞]]受賞<ref name=":0" />。 * [[1958年]](88歳) - 帰国。 * [[1959年]](89歳) - 松ヶ岡文庫で研究生活を送る。 * [[1964年]](94歳) - 第1回[[タゴール]]生誕百年賞受賞。 * [[1966年]]7月12日(95歳)- [[聖路加国際病院]]にて没する。 * [[2017年]]1月1日 - 没50年を経過し、著作権が終了。 == 主な著書 == * 『鈴木大拙全集 <small>増補新版</small>』 (全40巻、[[岩波書店]]、1999年-2003年) **旧版『鈴木大拙全集』(全32巻、1968-71年、復刊1980-83年) **『禅思想史研究』(全4冊、岩波書店、新装復刊1987年) * 『鈴木大拙禅選集』 (全11巻別巻1{{efn2|旧版選集は、続編も刊行し全26冊}}、[[春秋社]]、新装版2001年) * 『語る大拙 鈴木大拙講演集1 禅者の他力論』、『同 2 大智と大悲』 ([[書肆心水]]、2017年) * 『東洋の心』(春秋社、新版2011年) ISBN 4393133994。講演集・同社で多数刊。 * 『東洋的一』([[大東出版社]]、新版2010年) ISBN 4500007504。同社で多数刊。 ; 以下は文庫・選書での新版 * 『日本的霊性』 [[岩波文庫]](解説[[篠田英雄]]) **完全版・大東出版社(新版2008年)。角川ソフィア文庫(2010年、解説[[末木文美士]]) * 『新編 東洋的な見方』([[上田閑照]]編、岩波文庫、1997年、ワイド版2002年)。随想集 **『東洋的な見方』([[角川ソフィア文庫]]、2017年)。解説中村元・[[安藤礼二]] * 『禅の思想』(岩波文庫、2021年)。解説横田南嶺・解題小川隆 * 『浄土系思想論』([[法蔵館]]、新版1999年/岩波文庫、2016年) * 『無心ということ』([[角川ソフィア文庫]]、新版2007年) * 『禅とは何か』(角川ソフィア文庫、新版2008年) * 『一禅者の思索』([[講談社学術文庫]]、1987年)。講演、随想集 * 『禅の第一義』([[平凡社ライブラリー]]、2011年)。初期代表作 * 『仏教の大意』(角川ソフィア文庫、解説[[若松英輔]]/[[中公クラシックス]]、解説[[山折哲雄]]、各・2017年)。講義録 * 『禅百題』『宗教とは何ぞや』(河出書房新社、2020年)。新編文集 * 『禅のつれづれ』([[河出書房新社]]、2017年)。随想集 === 主な英文著作(訳書新版) === * 『禅と日本文化 正・続』([[北川桃雄]]訳、[[岩波新書]])- 続は旧かな版 ** 『禅と日本文化』([[碧海寿広]]訳・解説、角川ソフィア文庫、2022年)- 完全版の新訳。ISBN 4044006598 * 『禅』(工藤澄子訳、[[ちくま文庫]]、ワイド版2017年) ISBN 4480021574 * 『禅仏教入門』([[ひろさちや|増原良彦]]訳、春秋社、新版2008年/中公クラシックス、2017年)- 元版「選集」 * 『禅による生活』(小堀宗柏訳、春秋社、新版2020年)- 同上 * 『真宗入門』(佐藤平(顕明)訳、春秋社、新版2022年)- 同上 * 『真宗とは何か』(佐藤平 顕明訳、法藏館、新版2021年)ISBN 4831887870 * 『禅学入門』(講談社学術文庫、2004年)- 英文著作を自ら訳した。ISBN 4061596683 * 『禅に生きる 鈴木大拙コレクション』(守屋友江編訳、[[ちくま学芸文庫]]、2012年)- 編年体で書簡併録。ISBN 4480094458 * 『禅学への道』(坂本弘訳、[[アートデイズ]]、2003年)- 英文原文も収録。ISBN 4861190126。 * 『神秘主義 キリスト教と仏教』([[坂東性純]]・清水守拙訳、岩波書店、2004年/岩波文庫、2020年) ISBN 4003332369 * 『禅堂生活』(横川顕正訳、岩波文庫、2016年) ISBN 4003332334 * 『大乗仏教概論』([[佐々木閑]]訳、岩波書店、2004年/岩波文庫、2016年) ISBN 4003332342 * 『禅八講 鈴木大拙最終講義』([[角川学芸出版|角川選書]]、2013年、常盤義伸編・酒井懋訳) ISBN 404703522X * 『[[華厳]]の研究』(杉平シズ智【しずとし】訳、角川ソフィア文庫、2020年) ISBN 4044004536 * 『鈴木大拙 コロンビア大学セミナー講義』([[重松宗育]]・常盤義伸編訳、方丈堂出版(上・下)、2017年) == 共著 == * {{Citation|和書|date=1960-11-15|title=禅と精神分析|author1=[[エーリッヒ・フロム]]|author2=リチャード・デマルティーノ|translator=[[佐藤幸治 (心理学者)|佐藤幸治]]ほか|publisher=[[東京創元社]]|series=現代社会科学叢書|id={{NDLJP|2968362}}}}{{要登録}} == CD == * 『CD版 禅者のことば 鈴木大拙講演選集』(全6巻:[[アートデイズ]]、2003年) * 『禅と科学』、『最も東洋的なるもの』、『禅との出会い―私の自叙伝』 *: 鈴木大拙講演(新潮CD:[[新潮社]]、新版2007年)。旧版は同・カセット * 『CDブック 大拙 禅を語る-世界を感動させた三つの英語講演』 *:(アートデイズ、2006年、重松宗育監修・日本語訳) ISBN 4861190665 * 『CD版 禅 東洋的なるもの 鈴木大拙講演集』(全4巻:アートデイズ、2017年) == 関連文献 == * 『鈴木大拙 人と思想』 [[久松真一]]・[[山口益]]・[[古田紹欽]]編、岩波書店、1971年、再版1980年 * 『回想 鈴木大拙』 [[西谷啓治]]編、春秋社、1975年 * 『鈴木大拙の人と学問 禅選集・別巻』 松ヶ岡文庫編、[[春秋社]]、新装版1992年、2001年 - 生前(1961年)刊 ** 『鈴木大拙とは誰か』 [[上田閑照]]・岡村美穂子(秘書)編、[[岩波現代文庫]]、2002年 - 主に上記3冊から選集 * 古田紹欽 『鈴木大拙 その人とその思想』 春秋社、1993年 * 『鈴木大拙坐談集』(全5巻、古田編)、[[読売新聞社]]、1971-72年 *: 1人間の智慧、2東洋と西洋、3現代人と宗教、4弥陀の本願、5禅の世界 * 『大叔父・鈴木大拙からの手紙』 林田久美野編・解説、法蔵館、1995年 * [[西村恵信|西村惠信]] 『鈴木大拙の原風景』 [[大蔵出版]]、1993年/[[大法輪閣]](新装改訂版)、2016年 **『[[西田幾多郎]]宛 鈴木大拙書簡 億劫相別れて須臾も離れず』 西村惠信編、岩波書店、2004年 * [[竹村牧男]] 『西田幾多郎と鈴木大拙 その魂の交流に聴く』 [[大東出版社]]、2004年 **『〈宗教〉の核心 西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』 春秋社、2012年 * 『秋月龍珉著作集6 人類の教師・鈴木大拙』、『7 鈴木禅学入門』、三一書房、1978年 **『絶対無と場所 鈴木禅学と西田哲学』 青土社、1996年。旧版は上記『第8巻 鈴木禅学と西田哲学の接点』 * [[安藤礼二]]『大拙』 講談社、2018年 * 蓮沼直應『鈴木大拙 その思想構造』春秋社、2020年 * 『[[現代思想 (雑誌)|現代思想 臨時増刊号]] 鈴木大拙 生誕一五〇年 禅からZenへ』2020年11月 [[青土社]] * 『鈴木大拙 禅を超えて』 [[山田奨治]]/[[ジョン・ブリーン]]編、[[思文閣出版]]、2020年11月 ; ※以下は主に入門・案内書 *図録『大拙と松ケ岡文庫』 多摩美術大学美術館編、方丈堂出版、2017年 * 『鈴木大拙 没後40年』 [[松ヶ岡文庫]]編、[[河出書房新社]]〈[[KAWADE道の手帖]]〉、2006年 * 『鈴木大拙と日本文化』 浅見洋編、朝文社、2010年 - 記念シンポジウムほか * 『鈴木大拙 日本人のこころの言葉』 竹村牧男解説、創元社、2018年 - 小著 *『思い出の小箱から 鈴木大拙のこと』 燈影舎<燈影撰書29>、1997年 - 各 上田閑照・岡村美穂子 共著・解説 **『大拙の風景 鈴木大拙とは誰か』 [[一燈園|燈影舎]]<燈影撰書30>、1999年、増補新版2008年 **『相貌と風貌 鈴木大拙写真集』 [[禅文化研究所]]、2005年 * [[秋月龍珉]] 『鈴木大拙』 [[講談社学術文庫]]、2004年。元版『鈴木大拙の言葉と思想』[[講談社現代新書]]、1967年 *森清 『大拙と幾多郎』 [[朝日新聞社]]〈[[朝日選書]]〉、1991年/岩波現代文庫(増補版)、2011年 * 『禅 鈴木大拙-没後40年-』 [[北國新聞社]]編集局編、時鐘舎新書、2006年、新版2011年 *大熊玄 『鈴木大拙の言葉』 朝文社、2007年、新版2015年ほか **編著『はじめての大拙 鈴木大拙自然のままに生きていく一〇八の言葉』[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]]、2019年 == ドキュメンタリー == * [[こころの時代]]「大拙先生とわたし」(2017年5月、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])<ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/MYK77JXVWQ/ |title=大拙先生とわたし |date=2023-10-01 |publisher=NHK |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231008090326/https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/MYK77JXVWQ/ |df=ja |url-status=live |archivedate=2023-10-07 |accessdate=2023-10-07}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[鈴木大拙館]] - 生誕の地である石川県金沢市本多町に建てられた金沢市立の文化施設。 * [[金沢ふるさと偉人館]] - [[金沢市]]が設置する文化施設。金沢ゆかりの偉人として紹介されている。 * [[心 (雑誌)]] - 同人参加 * [[徳証寺 (白山市)]] - 鈴木大拙石碑がある。 * [[京都学派]] * [[ビート・ジェネレーション]] == 外部リンク == {{Wikiquotelang|it|Daisetsu Teitarō Suzuki}} {{Wikiquotelang|en|D. T. Suzuki}} {{Commonscat|Daisetsu Teitarō Suzuki}} * {{Kotobank|鈴木大拙|2=美術人名辞典/デジタル大辞泉など}} * {{青空文庫著作者|1833|鈴木 大拙}} * [http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/index.html 鈴木大拙館] * [https://tokeiji.com/ 松岡山東慶寺] * [http://web.otani.ac.jp/EBS/index_j.html The Eastern Buddhist Society] * [http://www.azenlife-film.org/top_j.htm A ZEN LIFE] - ドキュメンタリー・プロジェクト。 * [http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-daisetsu_guidance/ 思想家紹介 鈴木大拙、京都大学文学部「日本哲学史研究室」] * {{NHK人物録|D0009072045_00000}} * [https://www.youtube.com/watch?v=eKnNdAy0njE 横田南嶺「鈴木大拙に学ぶ」] - [[花園大学]]総長も務める僧侶が、鈴木大拙の生涯・思想などを概説する動画。 {{Buddhism2}} {{浄土教2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すすき たいせつ}}<!--カテゴリの50音順--> [[Category:19世紀日本の哲学者]] [[Category:20世紀日本の哲学者]] [[Category:19世紀日本の哲学教育者]] [[Category:20世紀日本の哲学教育者]] [[Category:20世紀の僧]] [[Category:禅に関連する人物]] [[Category:臨済宗|人すすきたいせつ]] [[Category:神智学]] [[Category:アメリカ合衆国の禅僧]] [[Category:在アメリカ合衆国日本人の学者]] [[Category:日本の仏教史]] [[Category:日本の仏教学者]] [[Category:真宗関連の人物]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:居士]] [[Category:大谷大学の教員]] [[Category:学習院大学の教員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:コロンビア大学の教員]] [[Category:日本学士院会員]] [[Category:松ヶ岡文庫の人物]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:加賀国の人物]] [[Category:石川県出身の人物]] [[Category:1870年生]] [[Category:1966年没]]
2003-08-26T04:37:51Z
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エトムント・フッサール
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ドイツ語: [ˈʔɛtmʊnt ˈhʊsɐl]、1859年4月8日 - 1938年4月27日)は、オーストリアの哲学者、数学者である。ファーストネームの「エトムント」は「エドムント」との表記もあり、またラストネームの「フッサール」は古く「フッセル」または「フッセルル」との表記も用いられた。 ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。 初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。 現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。 フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めたのである。そして、その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。 前期を代表する著書は、『論理学研究』である。フッサールが著作活動を始めた19世紀のヨーロッパは、後に「科学の世紀」「歴史の世紀」と呼ばれる時代であった。ガリレオ・ガリレイによって物理学の基礎付けに数学が導入されて以降、自然科学は飛躍的に発展した。その一方で、哲学は、「大哲学」の地位を追われて、新○○派といった様々な哲学的立場が乱立して、それぞれの世界像が対立していた。そのため、諸学の学問的基礎付けを求めて、さまざまな研究が進められていた。 そのような時代背景の下で、特に数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から諸学を基礎付けようとする「発達心理学」が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる対象の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。 数学の研究者から出発したフッサールの関心も、当初は心理学から数学を基礎付けようとするものであった。『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』は、そのような立場から書かれた著書である。しかし、そこでは心理学という「一つの理論」が前提とされており、そのような方法では、現象そのものを直接把握することができないとフッサールは考えた。 そこで、フッサールは、フランツ・ブレンターノの「志向性」(de:Intentionalität) の概念を継承し、現象によって与えられる心的体験を直感的明証的に把握し、あらゆる前提を取り払った諸学の学問的な基礎付けを求めた。 ブレンターノは、物理的原因から心理現象が発生することを理論的に説明する「発達的心理学」を批判して、心理現象が対象への「志向性」を持つ点で、物理現象と区別されるとして「記述心理学」の立場を明らかにした。そして、その上で「意識」が必ず対象を指し示すことを「志向的内在」を呼んだ。言い換えると、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であることを意味する。そこでは、デカルト的な心身二元論のように、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と「対象」が常に相関関係にあるとされる。 ブレンターノの記述的心理学においては、志向対象とその「内容」が区別されていなかった。しかし、フッサールは、意識から生まれ出る「内容」に関して対象をとらえた。たとえば、「丸い四角」という概念は、対象としては存在しない。しかし、それが内容として矛盾しているという意味は存在する。矛盾や背理法といった論理学の概念や法則は、いつでも、だれでも、どこでも、普遍的に共通するというイデア的な意味を有している。真の学は、普遍的な本質認識を求めるものであるため、単なる事実研究からは、偶然的な認識しか得られない。したがって、論理学の諸概念や諸法則のイデア的な意味をすべて取り出すためには、前提となりうるすべての理論を取り払った「直感」によって把握するしか方法がなく、その直感も完全に展開された明証的なものでなければならない。そのような方法によって記述される論理学は、「純粋論理学」である。純粋論理学が成立するためには、それが認識論によって基礎付けられていなければならない。そして、そのためには、現象学的な分析が必要であり、事あるごとに常に「事象そのものへ」へ立ち返り、繰り返し再生可能な直感との照合を繰り返すことによって、イデア的意味の不動の同一性を確保するために、不断に努力しなければならないとし、そのために記述的心理学には「現象学」が必要であるとしたのである。 フッサールの中期を代表する著書は、『イデーン』である。フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述しようとした。しかし、それでもなお、意識を自我の心理作用として解釈する心理学的な「一つの解釈」を前提にしており、心理学主義との批判を受ける余地があった。そこで、フッサールは、そのような解釈も含めて、すべての解釈を遮断する方法として「現象学的還元」が、また現象学的還元を方法として得られる個々の純粋現象の本質構造を明らかにする方法として「本質直感」が必要となるとするに至った。 日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。 このように現象学的還元によって得られた、自然的態度を一般定立されている世界内の心ではない意識を「純粋意識」という。 既に述べた通り、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であり、志向性を持つ。したがって、純粋意識の純粋体験によって得られる純粋現象も、志向的なものである。そして、このような志向的体験においては、意識の自我は、常に○○についての意識として、意識に与えられる感覚与件を何とかしてとらえようとする。フッサールは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考された対象をさす「ノエマ」という用語を用いて、意識の自我が感覚与件をとらえようとする動きを「ノエシス」、意識によって捉えられた限りの対象を「ノエマ」と呼んだ。 現象学的還元によって得られる純粋現象は、あらゆる学問的解釈のみならず、一般的な人間の日常的な自然的態度さえも遮断して得られるものである。しかし、それだけでは、個々の諸現象が得られるだけである。 真の学は、普遍的な本質認識を求めるものである。したがって、そのためには、純粋現象の本質構造を明らかにする方法が必要とされる。 フッサールは、既に『論理学研究』において、感覚的直感を超える直感があることを論じている。本質的直感とは、知覚された個別の対象をモデルとして、それを超えて諸対象に共通の普遍的な本質を取り出して、「原本的に与える」直感とされる。 現象学的還元によって得られた志向的諸体験のノエシス/ノエマ的類型的構造の本質を直感するところにより記述すると、現象学的還元によっていったんは遮断された自然的世界及びすべての理念的諸世界の対象を純粋意識が自分の中で「世界意味」として構成することになる。このような純粋意識は、すべてを超え出た「超越論的に純粋な意識」ないし「超越論的意識」と呼ばれ、以上のような反省を得た「超越論的現象学」は、デカルト以来の二元論の持つ問題、主観的な認識主体が自己を超え出た客観的世界をどのように認識し得るのかという難問を解決した上で、正しく認識論的に基礎づけることによってあらゆる諸学の基礎付けるものとなるのである。 後期思想の集大成とよぶべき著作が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』であり、『デカルト的省察』にその思想的転換が認められるとされる。そこでは、超越論的現象学によって明らかにされた個々の純粋意識の志向的体験を超えて、それに先立って存在する「先所与性」が存在し、それが発生する起源まで遡らなければ、世界構成を徹底的に明らかにすることはできないとされ、超越論的現象学の「静態的現象学」から「発生的現象学」への段階移行が説かれた。 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、フッサールは、普遍的な本質認識を求める真の学は、古代ギリシアにおいて、理性によって世界の全体を体系的に把握する普遍学として原創設されたとする。そこでは、学問以前に日常的に直感される「生活世界」(Lebenswelt)の基盤において、真の学が成立していた。ところが、ガリレオ・ガリレイによって物理学の基礎付けに数学が導入されて以降、自然は数式によって理念化されて「数学的・記号学的理念の衣」によって被われてしまった。その結果、生活世界は隠蔽されてしまったのであった。これが「ヨーロッパ諸学の危機」であるとする。そして、フッサールは、超越論的現象学によって「すべての客観的学問」をエポケーして生活世界を取り戻すことを主張したのである。 フッサールは、近代科学と古い形而上学を厳しく批判して、生活世界を取り戻すことを主張した。そして、そのことによって近代科学を支える物理学的経験の基盤となる、感覚と理性を含む「生活世界の経験」が可能になると見た。これは、客観的存在に先立つだけでなく、これを可能にするものである。そのため、「超越論的経験」とも呼ばれる。これは、近代科学の客観性に先立つ限りで、主観的なものであるが、同時に基盤的なものである。そして、その最下層には、最も基礎的な「原事実」がある。この原事実は、世界・私・他者の存在であり、これらは絡み合って大きな歴史的存在を形作っている。これを研究・解明するのが、新しい形而上学であるとした。 フッサールの時間論は、前期、中期、後期の三つに分けられるのが一般である。
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エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサールは、オーストリアの哲学者、数学者である。ファーストネームの「エトムント」は「エドムント」との表記もあり、またラストネームの「フッサール」は古く「フッセル」または「フッセルル」との表記も用いられた。
{{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = [[19世紀の哲学]]、20世紀の哲学 | image_name = Edmund Husserl 1900.jpg | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = 1900年のエトムント・フッサール | name = エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール<br />Edmund Gustav Albrecht Husserl | other_names = | birth_date = {{生年月日と年齢|1859|04|08|no}} | birth_place = {{AUT1804}}・[[モラヴィア]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1859|04|08|1938|04|27}} | death_place = {{DEU1935}}・[[フライブルク・イム・ブライスガウ]] | school_tradition = [[現象学]] | main_interests = [[認識論]]、[[存在論]]、[[数学の哲学]] | notable_ideas = [[現象学]]、[[エポケー]]、ノエマ/ノエシス、現象学的還元、過去把持(Retention)と未来予持(Protention)、生世界Lebenswelt、前反省的自己意識、超越論的主観論、[[物理主義]]([[物理学]])的[[客観主義]]への批判、後からの覚認、原信憑(ウアドクサ)Urdoxa、現象学的記述など | influences = [[フランツ・ブレンターノ]]、[[カール・シュトゥンプ]]、[[カール・ワイエルシュトラス]]、[[ベルナルト・ボルツァーノ]]、[[:en:Benno Kerry|Benno Kerry]]、[[ルネ・デカルト]]、[[イマヌエル・カント]]、[[デイヴィッド・ヒューム]]、[[:en:Hermann Lotze|Hermann Lotze]]、[[ヴィルヘルム・ヴィンデルバント]]、[[ハインリヒ・リッケルト]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[プラトン]]など | influenced = 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}}</ref>)は、[[オーストリア]]の[[哲学者]]、[[数学者]]である。ファーストネームの「エトムント」は「'''エドムント'''」との表記もあり、またラストネームの「フッサール」は古く「'''フッセル'''」または「'''フッセルル'''」との表記も用いられた<ref>粟田賢三・古在由重編『岩波哲学小事典』(岩波書店、1979)</ref>。 == 概要 == [[ウィーン大学]]で約2年間[[フランツ・ブレンターノ]]に師事し、[[ドイツ]]の[[ハレ大学]]、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]で教鞭をとる。 初めは[[数学基礎論]]の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「[[現象学]]」を提唱するに至る。 現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、[[マルティン・ハイデッガー]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[モーリス・メルロー=ポンティ]]らの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や[[芸術]]にまで影響を与えた。 == 生涯 == ;1859年:オーストリア帝国(現チェコ共和国)の[[プロスチェヨフ|プロスニッツ]]([[モラビア]])にユダヤ系織物商の子として生まれる。 ;1876年:オルミュッツのギムナジウム(高等中学校)を卒業。 :ライプツィヒ大学で三学期間数学・物理学・天文学・哲学を学ぶ。 ;1878年:春からベルリン大学の[[カール・ワイエルシュトラス]]、[[レオポルト・クロネッカー]]のもとで数学の研究を続ける。 ;1881年:ウィーン大学へ移る。 ;1883年:「変分法」に関する数学論文で学位を取得。 :ベルリンへ戻り、ワイエルシュトラスの助手となる。 :一年間の兵役を務める。 ;1884年:冬から二年間(四学期間)ブレンターノに師事し、強い影響を受けて専攻を哲学に変える。 === ハレ大学時代(1886年 - 1901年) === ;1886年:[[ルーテル教会]]に改宗。ブレンターノの推薦で心理学者のシュトゥンプがいるハレ大学へ行く。 ;1887年:教授資格論文「数の概念について―心理学的分析―」により教授資格を取得。この論文が、のちに出版される『算術の哲学』のもとになる。 ;1891年:『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』第1巻。 :[[ゴットロープ・フレーゲ]]、[[パウル・ナトルプ]]から心理学主義を批判される(フッサール自身もこの批判を受け入れ、心理学主義的な考えを捨てたため第二巻の出版は断念され未完)。 ;1900年:『論理学研究』第1巻「純粋論理学序説」。 :『算術の哲学』から一転して心理学主義に徹底した批判を加える(1913年の第2版でも大きな改訂はない)。 ;1901年:『論理学研究』第2巻「現象学と認識論のための諸研究」。 :ナトルプや[[ヴィルヘルム・ディルタイ]]から好評を博し、当時ミュンヘン大学にいた若手心理学者たちがこれを読んでフッサールのもとへ走り、「ミュンヘン現象学派」を形成する。 :6つの研究からなるこの第2巻は2部に分けられており、第1部(第1~第5研究)は1913年に、第2部(第6研究)は1921年にそれぞれ第2版が出るが、この増補改訂の中でフッサール自身の現象学についての考え方が大きく変化しているため(1913年は『イデーン』I出版の年でもある)、フッサールを理解するための難点の一つとなっている。 === ゲッティンゲン大学時代(1901年 - 1915年) === ;1901年:助教授としてゲッティンゲン大学へ招かれる。後を追ってきたミュンヘン現象学派の面々も加え、新たに「ゲッティンゲン現象学派」が形成される。 ;1904年:冬学期に『内的時間意識の現象学』講義(1928年参照)。 ;1905年:夏、弟子たちを連れてアルプス山中インスブルック近郊のゼーフェルトへ行き、研究会を開く。ここで書かれた原稿は「ゼーフェルト草稿」と呼ばれ、『フッサリアーナ』(フッサールの全集)第10巻に収録されている。 ;1906年:正教授に昇進。 ;1907年:夏学期に『現象学の理念』講義(死後『フッサリアーナ』第2巻として刊行される)。ここで「[[現象学]]的還元」の思想が明確に打ち出される。 ;1911年:哲学雑誌『ロゴス』の創刊号に『厳密な学問としての哲学』を発表。 ;1913年:現象学派の研究機関誌『哲学および現象学的研究年報』(以下『年報』)を創刊。1930年までに全11巻が刊行される。 :この創刊号に『純粋現象学および現象学的哲学のための<ruby><rb>諸考案</rb><rp>(</rp><rt>イデーン</rt><rp>)</rp></ruby>』Iを発表。現象学の確立を世に知らしめる。 === フライブルク大学時代(1916年 - 1928年) === ;1916年:[[ハインリヒ・リッケルト]]の後任としてフライブルク大学哲学科の正教授となる。 :『イデーン』II、IIIのための草稿や、『第一哲学』『現象学的心理学』『受動的綜合』などを執筆するが、いずれも刊行されるのは死後のこととなる(『イデーン』II、III草稿はIの公刊時にはすでに執筆を終えていながらその後も推敲を重ね続けていたともいわれる。現在は『フッサリアーナ』第4、5巻に収録)。 ;1919年:ハイデッガーが助手となる。 ;1927年:ハイデッガーの『[[存在と時間]]』を読み、自分の後継者とも目していたハイデッガーの考え方に自分との相違を感じ始める。 :大英百科事典の依頼を受けて新項目「現象学」を執筆することになり、協力者として(また、共同作業を通じて見解の相違を埋めるため)ハイデッガーを指名するが、結果として完全に相容れないものが明らかになり、一人で仕上げることとなる(この新項目のための原稿は「ブリタニカ草稿」と呼ばれている)。 ;1928年:1905年冬学期の講義『内的時間意識の現象学』がハイデッガーによって手稿から編集され、『年報』第9巻に発表される(フッサールとハイデッガーはすでに決裂していたが、関係修復の望みがまだフッサールの側に残っていた前年に依頼したものである)。 :この年をもってフライブルク大学を定年で退官。後任には、決裂してもなおフッサールの強く推薦したハイデッガーが就任する。 :この年、ドイツに留学してきた[[田辺元]]を通して、[[西田幾多郎]]が『自覚に於ける直観と反省』で展開した思想の概略を聞くことができた。フッサールは数学者の[[エルンスト・ツェルメロ]]と一緒に田辺の解説に耳を傾け、熱心に議論したのだという<ref>[[西谷啓治]]「田辺先生のこと」282頁,[[武内義範]]ら編『田辺元 思想と回想』(筑摩書房、1991)に収録</ref>。 === 退官後、ナチスの台頭 === ;1929年:弟子たちの手で70歳記念論文集として『年報』別巻が出版される。自身も『年報』第10巻に『形式論理学と超越論的論理学』を発表。これに関連した手稿が死後(1938年)に『経験と判断』として編集、出版される。 :[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]へ招かれてデカルト講堂で「超越論的現象学入門」と題した講演を行う。 ;1930年:『年報』第11巻(終刊号)に「『イデーン』へのあとがき」を発表。 ;1931年:ソルボンヌ講演を敷衍し、後期の代表作となる『デカルト的省察』として出版。 ;1933年:[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]政権成立。このころにはすでに国際的な名声も高まり、欧米各国ではアカデミー名誉会員に推されたりもしていたが、ドイツ国内ではユダヤ人であったため活動を極度に制限される(教授資格剥奪、大学構内への立入禁止、国内での全著作発禁、海外の国際哲学会議への参加不許可など)。このためフッサールはほとんど毎日を書斎の中で過ごし、1日10時間を執筆に充てていた。しかもフッサールは速記を学んでいたので、1938年に亡くなるまでに残された未発表草稿は45000ページにも及んだ。 ;1935年:5月、ウィーン講演「ヨーロッパ人類の危機における哲学」。 :11月、プラハ講演「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」。 ;1936年:1935年の2講演をもとに『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第1・2部を完成させ、政府の目を潜り抜けるため[[ベオグラード]]の雑誌『フィロソフィア』に発表(第3部は死後刊行)。 ;1938年:4月27日、歿。 :45000ページに及ぶ草稿はベルギーの神父ファン・ブレダの手によってナチスの検問を逃れ、「フッサール文庫」として[[ルーヴァン]]に保管されている。 == 思想 == === 概要 === フッサールの目標は、「'''事象そのものへ'''」({{Lang|de|Zu den Sachen selbst!}}) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる前提や[[先入観]]、[[形而上学]]的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めたのである。そして、その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。 === 現象学 === ==== 前期(記述的心理学としての現象学) ==== 前期を代表する著書は、『論理学研究』である。フッサールが著作活動を始めた[[19世紀]]の[[ヨーロッパ]]は、後に「科学の世紀」「歴史の世紀」と呼ばれる時代であった。[[ガリレオ・ガリレイ]]によって[[物理学]]の基礎付けに数学が導入されて以降、[[自然科学]]は飛躍的に発展した。その一方で、哲学は、「大哲学」の地位を追われて、新○○派といった様々な哲学的立場が乱立して、それぞれの世界像が対立していた。そのため、諸学の学問的基礎付けを求めて、さまざまな研究が進められていた。 そのような時代背景の下で、特に数学・[[論理学]]の領域で、[[心理主義|心理学主義]]・[[生物学主義]]的な、心理的現象から諸学を基礎付けようとする「発達心理学」が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる対象の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。 数学の研究者から出発したフッサールの関心も、当初は心理学から数学を基礎付けようとするものであった。『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』は、そのような立場から書かれた著書である。しかし、そこでは心理学という「一つの理論」が前提とされており、そのような方法では、現象そのものを直接把握することができないとフッサールは考えた。 そこで、フッサールは、[[フランツ・ブレンターノ]]の「[[志向性]]」([[:de:Intentionalitat|de:Intentionalität]]) の概念を継承し、現象によって与えられる心的体験を直感的明証的に把握し、あらゆる前提を取り払った諸学の学問的な基礎付けを求めた。 ブレンターノは、物理的原因から心理現象が発生することを理論的に説明する「発達的心理学」を批判して、心理現象が対象への「志向性」を持つ点で、物理現象と区別されるとして「記述心理学」の立場を明らかにした。そして、その上で「意識」が必ず対象を指し示すことを「志向的内在」を呼んだ。言い換えると、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であることを意味する。そこでは、デカルト的な心身二元論のように、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と「対象」が常に相関関係にあるとされる。 ブレンターノの記述的心理学においては、志向対象とその「内容」が区別されていなかった。しかし、フッサールは、意識から生まれ出る「内容」に関して対象をとらえた。たとえば、「丸い四角」という概念は、対象としては存在しない。しかし、それが内容として矛盾しているという意味は存在する。矛盾や背理法といった論理学の概念や法則は、いつでも、だれでも、どこでも、普遍的に共通するという[[イデア]]的な意味を有している。真の学は、普遍的な本質認識を求めるものであるため、単なる事実研究からは、偶然的な認識しか得られない。したがって、論理学の諸概念や諸法則のイデア的な意味をすべて取り出すためには、前提となりうるすべての理論を取り払った「直感」によって把握するしか方法がなく、その直感も完全に展開された明証的なものでなければならない。そのような方法によって記述される論理学は、「純粋論理学」である。純粋論理学が成立するためには、それが[[認識論]]によって基礎付けられていなければならない。そして、そのためには、現象学的な分析が必要であり、事あるごとに常に「'''事象そのものへ'''」へ立ち返り、繰り返し再生可能な直感との照合を繰り返すことによって、イデア的意味の不動の同一性を確保するために、不断に努力しなければならないとし、そのために記述的心理学には「現象学」が必要であるとしたのである。 ==== 中期(超越論的現象学) ==== フッサールの中期を代表する著書は、『イデーン』である。フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述しようとした。しかし、それでもなお、意識を自我の心理作用として解釈する心理学的な「一つの解釈」を前提にしており、心理学主義との批判を受ける余地があった。そこで、フッサールは、そのような解釈も含めて、すべての解釈を遮断する方法として「現象学的還元」が、また現象学的還元を方法として得られる個々の純粋現象の本質構造を明らかにする方法として「本質直感」が必要となるとするに至った。 =====現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)===== 日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。 #認識の対象の意味と存在を自明的としていること #世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること #世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度を[[エポケー]]という)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。 =====ノエシス/ノエマ===== このように現象学的還元によって得られた、自然的態度を一般定立されている世界内の心ではない意識を「純粋意識」という。 既に述べた通り、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であり、志向性を持つ。したがって、純粋意識の純粋体験によって得られる純粋現象も、志向的なものである。そして、このような志向的体験においては、意識の自我は、常に○○についての意識として、意識に与えられる感覚与件を何とかしてとらえようとする。フッサールは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考された対象をさす「ノエマ」という用語を用いて、意識の自我が感覚与件をとらえようとする動きを「ノエシス」、意識によって捉えられた限りの対象を「ノエマ」と呼んだ。 =====本質直観===== 現象学的還元によって得られる純粋現象は、あらゆる学問的解釈のみならず、一般的な人間の日常的な自然的態度さえも遮断して得られるものである。しかし、それだけでは、個々の諸現象が得られるだけである。 真の学は、普遍的な本質認識を求めるものである。したがって、そのためには、純粋現象の本質構造を明らかにする方法が必要とされる。 フッサールは、既に『論理学研究』において、感覚的直感を超える直感があることを論じている。本質的直感とは、知覚された個別の対象をモデルとして、それを超えて諸対象に共通の普遍的な本質を取り出して、「原本的に与える」直感とされる。 現象学的還元によって得られた志向的諸体験のノエシス/ノエマ的類型的構造の本質を直感するところにより記述すると、現象学的還元によっていったんは遮断された自然的世界及びすべての理念的諸世界の対象を純粋意識が自分の中で「世界意味」として構成することになる。このような純粋意識は、すべてを超え出た「超越論的に純粋な意識」ないし「超越論的意識」と呼ばれ、以上のような反省を得た「超越論的現象学」は、デカルト以来の[[二元論]]の持つ問題、主観的な認識主体が自己を超え出た客観的世界をどのように認識し得るのかという難問を解決した上で、正しく認識論的に基礎づけることによってあらゆる諸学の基礎付けるものとなるのである。 ====後期(発生的現象学)==== 後期思想の集大成とよぶべき著作が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』であり、『デカルト的省察』にその思想的転換が認められるとされる。そこでは、超越論的現象学によって明らかにされた個々の純粋意識の志向的体験を超えて、それに先立って存在する「先所与性」が存在し、それが発生する起源まで遡らなければ、世界構成を徹底的に明らかにすることはできないとされ、超越論的現象学の「静態的現象学」から「発生的現象学」への段階移行が説かれた。 =====生活世界===== 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、フッサールは、普遍的な本質認識を求める真の学は、古代ギリシアにおいて、理性によって世界の全体を体系的に把握する普遍学として原創設されたとする。そこでは、学問以前に日常的に直感される「生活世界」(Lebenswelt)の基盤において、真の学が成立していた。ところが、[[ガリレオ・ガリレイ]]によって[[物理学]]の基礎付けに数学が導入されて以降、自然は数式によって理念化されて「数学的・記号学的理念の衣」によって被われてしまった。その結果、生活世界は隠蔽されてしまったのであった。これが「ヨーロッパ諸学の危機」であるとする。そして、フッサールは、超越論的現象学によって「すべての客観的学問」をエポケーして生活世界を取り戻すことを主張したのである。 === 形而上学 === フッサールは、近代科学と古い形而上学を厳しく批判して、生活世界を取り戻すことを主張した。そして、そのことによって近代科学を支える物理学的経験の基盤となる、感覚と理性を含む「生活世界の経験」が可能になると見た。これは、客観的存在に先立つだけでなく、これを可能にするものである。そのため、「超越論的経験」とも呼ばれる。これは、近代科学の客観性に先立つ限りで、主観的なものであるが、同時に基盤的なものである。そして、その最下層には、最も基礎的な「原事実」がある。この原事実は、世界・[[独我論|私]]・[[他我|他者]]の存在であり、これらは絡み合って大きな歴史的存在を形作っている。これを研究・解明するのが、新しい形而上学であるとした。 ==== 時間論 ==== {{節スタブ}} フッサールの時間論は、前期、中期、後期の三つに分けられるのが一般である。 === 倫理学 === {{節スタブ}} === 美学 === {{節スタブ}} == 著作 == *『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』 *『論理学研究』 ''Logische Untersuchungen''、1900年 *『厳密な学としての哲学』''Philosophie als strenge Wissenschaft''、1911年 *『現象学の理念』 ''Die Idee der Phänomenologie'' *『純粋現象学、及び現象学的哲学のための考案(イデーン)』 : ''Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie''、1913年 *『内的時間意識の現象学』''Vorlesungen zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins''、1928年 *『形式論理学と超越論的論理学』''Formale und transzendentale Logik''、1929年 *『デカルト的省察』 ''Cartesianische Meditationen''、1931年 *『{{仮リンク|間主観性|de|Intersubjektivität}}の現象学』 ''Zur Phänomenologie des Intersubjektivität'' *『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 : ''Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie''、1936年 *『経験と判断』 ''Erfahrung und Urteil'' === 主な日本語訳 === *『現象学の理念』 [[長谷川宏]]訳、[[作品社]]、1997年 *『デカルト的省察』 浜渦辰二訳、[[岩波文庫]]、2001年 *『デカルト的省察』 船橋弘訳、谷徹解説、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2015年 *『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 [[細谷恒夫]]・[[木田元]]訳、[[中公文庫]]、1995年 *『ブリタニカ草稿』 谷徹訳、[[ちくま学芸文庫]]、2004年 *『間主観性の現象学I その方法』 ちくま学芸文庫、2012年。各・浜渦辰二・山口一郎監訳 **『間主観性の現象学II その展開』 ちくま学芸文庫、2013年 **『間主観性の現象学III その行方』 ちくま学芸文庫、2015年 *『内的時間意識の現象学』 谷徹訳、ちくま学芸文庫、2016年 *『フッサール・セレクション』 立松弘孝編訳、[[平凡社ライブラリー]]、2009年 *『現象学の理念』 立松弘孝訳、[[みすず書房]]、新装版2000年 *『内的時間意識の現象学』 立松弘孝訳、みすず書房、新装版2000年 *『形式論理学と超越論的論理学』 立松弘孝訳、みすず書房、新装版2017年 *『論理学研究』 立松弘孝・松井良和ほか訳、みすず書房(全4冊)、新装版2015年 *『イデーン I・II・III』 [[渡邊二郎]]・立松弘孝ほか訳、みすず書房(全5冊)。I・IIは各2分冊 *:1979年「イデーン I-1」を刊行開始、2009年に「イデーン II-2」、2010年に「イデーン III」を刊行完結。 *『能動的綜合 講義・超越論的論理学 1920-21年』 山口一郎・中山純一訳、[[知泉書館]]、2020年 *『フッサール書簡集 1915‐1938』 桑野耕三・佐藤真理人訳、[[せりか書房]]、1982年 *:弟子でポーランドの芸術哲学者[[ローマン・インガルデン]](1893-1970)あての書簡集 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *立松弘孝「フッサール」(Yahoo!百科事典) == 関連項目 == * [[現象学]] * [[歴史主義]] == 外部リンク == * [[立松弘孝]]{{Wayback|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB/ |title=「フッサール」(Yahoo!百科事典) |date=*}} * [https://husserl.exblog.jp/1274458/ 「雑誌フッサール研究」] * {{Wayback|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/hamauzu.html |title=浜渦辰二の公式HP |date=20091112103140}} **{{Wayback|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/HUA/j/HUA-home.html |title=「フッサール・データベース」 |date=20091026050901}} **{{Wayback|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/HUA/j/whois.html |title=「フッサールって誰?」 |date=20091026085604}} {{IEP|husserl|Edmund Husserl}} {{SEP|husserl|Edmund Husserl}} {{大陸哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつさる えとむんと}} [[Category:19世紀オーストリアの哲学者]] [[Category:20世紀オーストリアの哲学者]] [[Category:19世紀の数学者|590408]] [[Category:20世紀の数学者|-590408]] [[Category:オーストリアの数学者]] [[Category:オーストリアの科学哲学者]] [[Category:数学の哲学者]] [[Category:存在論の哲学者]] [[Category:認識論の哲学者]] [[Category:現象学者]] [[Category:形而上学者]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクの教員]] [[Category:ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンの教員]] [[Category:マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの教員]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ユダヤ人の哲学者]] [[Category:プロスチェヨフ出身の人物]] [[Category:1859年生]] [[Category:1938年没]]
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モーリス・メルロー=ポンティ
モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908年3月14日 - 1961年5月3日)は、フランスの哲学者。主に現象学の発展に尽くした。著書の日本語訳等においては、「モーリス・メルロ=ポンティ」、「モーリス・メルロ・ポンティ」など、Merleauに長音記号を付けない表記が多く用いられている。 ロシュフォール生まれ。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため死去。 1908年フランスのロシュフォールに生まれる。18歳のとき高等師範学校に入学し、サルトル、ボーヴォワール、レヴィ=ストロースらと知り合う。21歳のときフッサールの講演を聴講し、現象学に傾注する。以後現象学の立場から身体論を構想する。37歳のとき主著『知覚の現象学』を出版するとともに、サルトルと「レ・タン・モデルヌ(現代)」誌を発刊する。戦後はパリ大学文学部教授となり(1949年)、児童心理学・教育学を研究する一方、冷戦激戦化の状況の中、マルクス主義に幻滅し、サルトルとは決別した。 メルロ=ポンティは、知覚の主体である身体を主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、世界を人間の身体から柔軟に考察することを唱えた。身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察した。1959年、『見えるものと見えないもの』を刊行。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため急逝(1961年)。 哲学体系は「両義性(Ambiguïté)の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己の概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。 たとえば、それまで枯れ木を見たことがない人にとっては、枯れ木を見るだけでは、名前のない枯れ木を「現象」としてしか知ることができない。「枯れ木」を恒常的に認識できるようになるためには、「枯れ木」という言葉(記号)を知る必要がある。 また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。 そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。 それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術などに大きな影響を与えた。 また、知覚の優位性からの新しい存在論の試みが絶筆となった『見えるものと見えないもの』で見られる。
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モーリス・メルロー=ポンティは、フランスの哲学者。主に現象学の発展に尽くした。著書の日本語訳等においては、「モーリス・メルロ=ポンティ」、「モーリス・メルロ・ポンティ」など、Merleauに長音記号を付けない表記が多く用いられている。 ロシュフォール生まれ。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため死去。
{{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = 20世紀の哲学 | image_name = Mmp2.jpg | image_size = 220px | image_alt = | image_caption = | name = モーリス・メルロー=ポンティ<br />Maurice Merleau-Ponty | other_names = | birth_date = {{生年月日と年齢|1908|3|14|死去}} | birth_place = {{FRA1870}}・[[シャラント=マリティーム県]][[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1908|3|14|1961|5|3}} | death_place = {{FRA}}・[[パリ]] | school_tradition = [[大陸哲学]]、[[現象学]]、[[実存主義]]、[[西欧]][[マルクス主義]]、[[構造主義]]、[[ポスト構造主義]] | main_interests = [[心理学]]、身体化された認知、[[形而上学]]、[[知覚]]、[[ゲシュタルト心理学]]、[[認識論]]、[[美学]]、[[西欧]][[マルクス主義]] | notable_ideas = 知覚の現象学、匿名の集合、運動的志向性、世界の肉、「知覚する心は身体化された心である」、キアスム、浸透 | influences = [[アンリ・ベルクソン]]、[[オイゲン・フィンク]]、[[マルティン・ハイデッガー]]、[[エトムント・フッサール]]、[[セーレン・キェルケゴール]]、[[クルト・コフカ]]、[[ヴォルフガング・ケーラー]]、[[クロード・レヴィ=ストロース]]、[[カール・マルクス]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[フェルディナン・ド・ソシュール]]など | influenced = [[デイヴィッド・エイブラム]]、Renaud Barbaras、[[ジュディス・バトラー]]、[[コルネリュウス・カストリアディス]]、Paul Crowther、[[アーサー・ダントー]]、[[ジル・ドゥルーズ]]、[[ヒューバート・ドレイファス]]、James M. 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Sartre, "L'Imagination" (1936)'' - J・P・サルトル著『想像力』」「''J.-P. Sartre, "Les mouches"'' - J・P・サルトル著『蠅』」「実存の哲学」</ref> **『知覚の本性 -- 初期論文集』 [[加賀野井秀一]]編訳、[[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス(1988)、のち各・新版 * ''"La Structure du comportement" (1942)'' **『行動の構造』 [[日本の哲学者#た|滝浦静雄]]・[[木田元]]共訳 [[みすず書房]](1964)、新版(上下、2014) * ''"[[:en:Phenomenology of Perception|Phénoménologie de la perception]]" (1945)'' **『知覚の現象学 1』 [[竹内芳郎]]・[[加賀乙彦|小木貞孝]]共訳 みすず書房(1967)、のち各・新版 **『知覚の現象学 2』 [[竹内芳郎]]・木田元・[[宮本忠雄]]共訳 みすず書房(1974) **『知覚の現象学』 中島盛夫訳、法政大学出版局(叢書ウニベルシタス)(1982) * ''"Humanisme et terreur, essai sur le problème communiste" (1947)'' **『ヒューマニズムとテロル』 [[森本和夫]]訳 [[現代思潮社]](1965)、のち改訂版 * ''"Sens et non-sens" (1948)'' **『意味と無意味』 [[東京都立新宿高等学校の人物一覧#学問|永戸多喜雄]]訳 [[国文社]](1970)、のち改訂版 * ''"Les aventures de la dialectique" (1955)'' **『弁証法の冒険』 滝浦静雄・木田元・[[田島節夫]]・[[市川浩]]共訳 みすず書房(1972) * ''"Signes" (1960)'' **『シーニュ』全2巻 [[竹内芳郎]]監訳、みすず書房(1969-70) **『精選 シーニュ』 [[廣瀬浩司]]編訳、ちくま学芸文庫(2020) * ''"L’Œil et l’esprit" (1961)'' **『眼と精神』 滝浦静雄・木田元共訳、みすず書房(1966) **『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』 富松保文編訳注、[[武蔵野美術大学]]出版局(2015) * ''"Le Visible et l’invisible, suivi de notes de travail", texte établi par Claude Lefort (1964)'' **『見えるものと見えざるもの』 [[クロード・ルフォール]]編、中島盛夫監訳、[[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス(1994) **『見えるものと見えないもの』 [[滝浦静雄]]・[[木田元]]共訳 みすず書房(1989) * ''"Résumés de cours, Collège de France 1952-1960" (1968)'' **『言語と自然 - コレージュ・ド・フランス講義要録』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房(1979) * ''"La Prose du monde" (1969)'' 『世界の散文』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房(1979) == 関連項目 == :*[[ルビンの杯]] - 現象学を基盤として、人間の行動の構造と身体の性質(機能)による知覚の構造に適用し、[[現象学]]的[[身体論]]を展開した。 :*[[幻影肢]] - 生理学として説明されていた概念を現象学的身体論の見地からとらえ直した。 ;メルロー=ポンティに影響を与えた人物 :*[[フェルディナン・ド・ソシュール]] :*[[ハリー・スタック・サリヴァン]] :*[[アンリ・ベルクソン]] :*[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]] :*[[レオン・ブランシュヴィック]] :*[[アレクサンドル・コジェーヴ]] ;[[アグレガシオン]]合格後、教員資格取得の教育実習同期生<ref>[[アグレガシオン]]合格年は、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール|ボーヴォワール]]が[[1929年]]、メルロー=ポンティが[[1930年]]、[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]が[[1931年]]。</ref> :*[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]] :*[[クロード・レヴィ=ストロース]] - 雑誌「[[レ・タン・モデルヌ]]」を共に著した。 ;脚注 {{reflist}} == 外部リンク == *[[足立和浩]]{{Wayback|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3/ |title=「メルロ・ポンティ」(Yahoo!百科事典) |date=*}} *[http://www.merleau.jp/index.html 日本メルロー=ポンティサークル] *{{SEP|merleau-ponty/|Maurice Merleau-Ponty}} *{{IEP|merleau|Maurice Merleau-Ponty}} {{大陸哲学}} {{Philos-stub}} {{Academic-bio-stub}} {{DEFAULTSORT:めるろほんてい もりす}} [[Category:20世紀フランスの哲学者]] [[Category:現象学者]] [[Category:身体論]] [[Category:言語哲学者]] [[Category:実存主義者]] [[Category:心の哲学者]] [[Category:コレージュ・ド・フランスの教員]] [[Category:パリ大学の教員]] [[Category:リヨン大学の教員]] [[Category:シャラント=マリティーム県出身の人物]] [[Category:1908年生]] [[Category:1961年没]] {{Normdaten}}
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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者。イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く(前期ウィトゲンシュタイン)。その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑む(後期ウィトゲンシュタイン)が、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62歳。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『哲学探究』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。 哲学以外の業績として、航空工学分野でのチップジェット(プロペラ推進方式の一種)の発明、モダニズム建築(ストーンボロー邸)の設計が挙げられる。 Wittgensteinの「Wi」はオーストリアドイツ語および標準ドイツ語では「ウィ」ではなく「ヴィ」と発音される。ただし本項では、便宜的に日本語で慣用的に用いられてきた表記にしたがって、概要および以下の記述において、ルートヴィヒ本人に限り、「ウィトゲンシュタイン」に統一する。 1889年4月26日にオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンでヨーロッパ有数の裕福な家庭に生まれた。ウィトゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた。そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。祖父ヘルマン・クリスティアン・ヴィトゲンシュタイン(ドイツ語版)は、ドレスデン十字架教会で洗礼を受けユダヤ教からルター派に改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居したアシュケナジム・ユダヤ人商人であり、その息子カール・ヴィトゲンシュタイン(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリック信仰を実践したとはいえないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。 ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。ヴィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており、そのなかにはヨーゼフ・ホフマン、オーギュスト・ロダン、ハインリヒ・ハイネなどがいる。グスタフ・クリムトもヴィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている。 ヴィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でフェリックス・メンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(ロベルト・シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた。ルートヴィヒの兄パウル・ヴィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、モーリス・ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している。 ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった。哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例や隠喩をもちいている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としてはうつ病や自殺の傾向がある。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた。 ウィトゲンシュタインは、1903年まで自宅で教育を受けている。 その後、技術面の教育に重点を置いたリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。このとき、同じ学校の生徒にはアドルフ・ヒトラーがいた。 ウィトゲンシュタインは、この学校に在学している間に信仰を喪失したと後に語っている。宗教への懐疑に悩むウィトゲンシュタインに対して、姉のマルガレーテは、アルトゥル・ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読んでみるよう薦める。ウィトゲンシュタインが哲学の道へ進む以前に精読した哲学書は、この一冊だけである。また、ウィトゲンシュタインは、ショーペンハウエルに若干の付加や明確化を施せば、基本的には正しいと思っていたと後に語っている。 同じ頃、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講演集を読んで、ボルツマンのいるウィーン大学への進学を希望するが、ボルツマンの自殺により叶わなかった。そこで、航空工学に興味を持っていたウィトゲンシュタインは、高等実科学校を卒業した1906年から、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学び、1908年の卒業後にはマンチェスターで行われていた大気圏上層における凧の挙動についての研究に参加した。その後、工学の博士号を取得するために、マンチェスター大学工学部へ入学した。そこで、彼は、ブレード端に備えた小型ジェットエンジンの推力によって回転するプロペラの設計に携わり、1911年には特許権を認定された。 この期間に機械工学と不可分である数学への関心から、バートランド・ラッセルの『数学原理』などを読んで数学基礎論に興味を持つようになり、その後、現代の数理論理学の祖といわれるゴットロープ・フレーゲのもとで短期間学んだ。1911年秋、ウィトゲンシュタインは、フレーゲの勧めでケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで教鞭を取るラッセルを訪ねた。哲学について専門の教育をまったく受けていなかったウィトゲンシュタインと少し話しただけで、ラッセルは即座にウィトゲンシュタインの類い稀な才能を見抜いた。なお、ラッセルは、ウィトゲンシュタインと最初にあったときの印象について、次のように書いている。 翌1912年にトリニティ・カレッジに入学を認められ、ラッセルやジョージ・エドワード・ムーアのもとで論理の基礎に関する研究を始めた。また、マクロ経済学を確立したジョン・メイナード・ケインズと知り合ったのもこの頃である。ケインズは、ウィトゲンシュタインに対して、友情と尊敬の念を終生にわたって抱きつづけた。 1913年、父の最期を看取るためにウィーンへ戻る。父の死によってウィトゲンシュタインは莫大な資産を相続したが、彼はその一部を匿名でオーストリアの芸術家に寄付した。 ウィトゲンシュタインは、それまでケンブリッジで成功裡に研究を進めていたが、多くの学者に囲まれた中では、最も根元的な問題に到達できないという感覚を抱くようになっていた。そのため、彼は、この年イギリスを離れたままほとんどケンブリッジへは戻らず、ノルウェーの山小屋に隠遁し、第一次世界大戦が始まるまでの全生活を研究に捧げた。時々ケンブリッジへ行くこともあったものの、書いた原稿をラッセルに渡すだけで、ノルウェーへとんぼ返りするのが常だった。彼は、この頃に執筆した論理学に関する論文で学位を取得することを考え、ムーアを通して大学当局へ打診したことがある。しかし、規定によると、学位論文にはきちんと註が付いていなければならない(どこまでが先行研究の引用で、どこからがオリジナルな研究かを示すため)。そのため、ウィトゲンシュタインの論文は規定を満たさないので通過しないとの返事がムーアから寄せられた。ウィトゲンシュタインは「どうしてそんなくだらない規定があるのか」「地獄へ落ちたほうがマシだ」「さもなければあなたが地獄へ落ちろ」とムーアを罵倒した。この一件でウィトゲンシュタインは友人と学位を一挙に失い、取り戻すのは実に15年後のこととなる。ともあれこの時期が生涯で最も情熱的で生産的な時期だったと彼はのちに回顧している。前期ウィトゲンシュタインの主著で哲学界に激震をもたらした『論理哲学論考』の元になるアイディアはこのときに書かれた。 1914年、第一次世界大戦が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になっている。クラクフへ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それはレフ・トルストイによる福音書の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」というあだ名までつけられるほど熱中したという。 このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。これらのメモのうち最も注目に値するのはのちに『論考』で全面的に展開される写像理論のアイディアであろう。これは後年の述懐によると、塹壕の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。11月にはかつて財政支援をした詩人ゲオルク・トラークルが鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルがコカインの過剰摂取により自殺した3日後のことであった。またフリードリヒ・ニーチェの選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。 1915年に入ると、工廠の仕事に回されたため哲学的思索に耽る時間がなくなり自殺願望が再発するが、友人の手紙に励まされて再び執筆を始め、多くの草稿を残す。『論考』の第一稿もこのころには完成していたことがラッセル宛の書簡で知られているが現存していない。1916年3月、対ロシア戦の最前線に砲兵連隊の一員として配属される。ロシア軍の猛攻撃のさいには避難命令を斥けてまで戦い抜いた功績で勲章を受け、伍長へ昇進した。1917年後半にはロシア革命の影響で戦況が比較的平穏になり、ウィーンで休暇を取って過ごすこともできた。1918年には少尉に昇進、やがて協商国(イギリス、フランス、イタリア)軍と対峙するイタリア戦線の山岳砲兵部隊へ配属となる。ここでも偵察兵としてきわめて優秀な働きにより二度目の受勲をした。しかしオーストリア軍全体の劣勢は明らかであり、退却を余儀なくされたのち再び休暇が与えられる。この休暇中にはウィーンへ戻らず、ザルツブルクの叔父の家でついに『論考』を脱稿する)。さっそく敬愛する批評家カール・クラウスの著書を刊行していた出版社へ原稿を送るが、出版は拒否されてしまう。やむをえずウィトゲンシュタインはすでに崩壊しつつあるイタリアの前線へ戻るが、11月4日のオーストリア降伏の直前にイタリア軍の捕虜となり、はじめはコモ、のちにカッシーノの捕虜収容所へ送られることとなった。 1919年、ウィトゲンシュタインは収容所からラッセルに書き送った手紙で『論考』の概略を伝える。ラッセルはその重要性に気づき、収容所へ面会に行かなければならないと思ったが、そもそもラッセル自身が反戦運動により刑務所に投獄されていた。しかし、当時パリ講和会議のイギリス代表で各国政府機関に顔の利いたケインズの尽力で得た特権により、原稿はラッセルやフレーゲの元へ届けられた。そして8月21日、ウィトゲンシュタインはようやく釈放される。 ウィーンへ戻ったウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の原稿をヴィルヘルム・ブラウミュラー社へ持ち込んだが、印刷代を自分で持つなら出版してもよいとの返事しか帰ってこなかったため、この出版社からの刊行は断念する。というのもウィトゲンシュタインは復員して間もなく、親類や弁護士の説得に耳を傾けずに全財産を放棄していたためである。次いで彼はゴットロープ・フレーゲの論文を載せていた『ドイツ観念論哲学への寄与』という雑誌にフレーゲを通じて掲載を依頼するが、無名の新人哲学者のために雑誌の全紙面を割くわけにはいかないとの返事によりこれも断念。またこの間のやり取りによりフレーゲが『論考』をまったく理解していないことを知り落胆する。その後、かつてライナー・マリア・リルケやゲオルク・トラークルらへ財政支援をした際の代理人であり編集者でもあるルートヴィヒ・フォン・フィッカーを通じていくつかの出版社へ打診するがいずれもよい返事は得られず、ウィトゲンシュタインは失意の底へ落ち込むこととなる。この年(1919年)の12月、ウィトゲンシュタインはラッセルとハーグで待ち合わせて再会する。二人はこの本について語り合い、その議論に基づいた序文を高名なラッセルが書いて付け加えれば出版の望みは増すだろうというアイディアに達する。予想通りレクラム文庫が関心を寄せてきたためラッセルは序文を執筆するが、その原稿を見たウィトゲンシュタインは、ラッセルがフレーゲ同様に『論考』を理解できていないことを知りまたも失望する。1920年、レクラム社からも断りの返事が戻ってきたころ、ラッセルは「私の序文などどうでもいい、イギリスで出版してみてはどうか」と手紙を書くが、もはや『論考』出版への情熱を完全に失っていたウィトゲンシュタインは「ご自由にどうぞ」と返信。この頃ウィトゲンシュタインは再び自殺を考えるようになっていた。 著者であるウィトゲンシュタインが哲学への熱意を失い、田舎の小学校教師になったあとも(次節参照)なおラッセルは『論考』出版のために奔走した。1921年には友人のチャールズ・ケイ・オグデンを通してイギリスのキーガン・ポール社から英訳版の出版契約を、さらにヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』にオリジナルのドイツ語版を掲載する契約を取り付けるに至る。ラッセルの知らせを受けたウィトゲンシュタインは初めこそ素直に喜んだものの、オストワルトから送られてきた雑誌を見て、余りの誤植の多さに愕然とした。というのも、ウィトゲンシュタインがオストワルトに送ったタイプ原稿では、タイプライター上に存在しないさまざまな論理学記号をそれに似た形の別の記号で代用していたのであるが(例えば「⊂」の代わりに「C」など)、それがウィトゲンシュタインの校正を経ずにそのまま印刷されていたのである。しかしそれにやや遅れて開始された英語版の編集作業に関しては、翻訳にあたった数学者のフランク・ラムゼイとオグデンが誤植だらけのドイツ語版を見て感じた疑問点などをウィトゲンシュタインに問い合わせながら行ったため、その仕上がりはウィトゲンシュタインも満足のゆくものとなった。このときオグデンからウィトゲンシュタインに寄せられた質問の一つは題名に関するものであった。オストワルトのドイツ語版は原題 " Logisch-philosophische Abhandlung " のまま出版されたが、これをそのまま英訳すると意味の取りづらいものとなるため、英語版用に新しく題名を考えた方がよい、とオグデンは主張したのである。ラッセルは " Philosophical Logic " という案を寄せたが、ウィトゲンシュタインは「哲学的論理学」などというものは存在しないと拒否し、ムーアの提案したラテン語の表題 " Tractatus Logico - Philosophicus " を採用した。このタイトルは、バールーフ・デ・スピノザの " Tractatus Theologico-Politicus " (『神学・政治論』)になぞらえたものである。オグデンらとの打ち合わせを踏まえてウィトゲンシュタインは綿密な推敲、校正を行い、英独対訳版『論理哲学論考』は1922年11月、ようやく陽の目を見ることとなった。 『論理哲学論考』の前書きでも自負しているように、ウィトゲンシュタインは、この本を書き終えた時点で、哲学の問題はすべて解決されたと考え、ラッセルやオグデンらが刊行準備に奔走しているのを尻目に、哲学を離れてオーストリアに戻り、出征していたころから希望していた教師になるため、1919年9月から1920年7月まで教員養成学校へ通い、小学校教師資格証明書を取得する。 教育実習でウィトゲンシュタインが訪れたのは、ウィーンの南にあるニーダーエスターライヒ州の比較的に発展した町マリア・シュルッツの学校であった。しかし、ウィトゲンシュタインは、もっと田舎へ行きたいとみずから希望して、そこから近い村トラッテンバッハ(Trattenbach)へ赴任することとなった。 ウィトゲンシュタインの教育方針は、紙の上の知識よりも、子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。理科の授業では、猫の骸骨を生徒と集めて骨格標本を作ったり、夜に集まって天体観測をしたり、自分の顕微鏡で道端の植物を観察させたりした。また、銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった。その他にも、数学ではかなり早い段階から代数学を教えるなど、非常に熱心な教育者であった。というのも、ウィトゲンシュタインが教職資格を取得したのは、旧弊的な教育方針に対する改革が、社会民主主義者たちによって進められていた時期だったからである。 しかし、こうした動きに対して、農村などの保守的な地域では反発も生まれていた。独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインも、地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため、保護者たちは、よそ者であるウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。 ただし、このような一面もある。生徒の女の子が何度も綴りを誤ってノートに記入したため、ウィトゲンシュタインはいつものように体罰を加え、さらに字を誤った理由を問いただした。だが、その女の子は、黙ったまま何も答えなかった。ウィトゲンシュタインが「病気か」と尋ねると、女の子は「はい」と嘘をついた。しかし、彼は、その嘘に気付くことができず、その女の子に涙を流して許しを請いた。 ウィトゲンシュタインは、1922年にハスバッハ村の中学校へ転勤するが、1ヵ月後にはプフベルクの小学校へ移る。このころから、ラムゼイやケインズらと書簡を交わして、旧交を温めはじめている。1924年、トラッテンバッハの隣村オッタータル(Otterthal)へ赴任した。ウィトゲンシュタインは、この地で『小学生のための正書法辞典』の編纂に着手した。オーストリアでは一部地域を除きオーストリアドイツ語が使用され、標準ドイツ語(Hochdeutsch)とは発音・スペルが異なる。また農村では方言の影響も強く、子供たちはしばしばスペルを間違えた。従来の教育法では、生徒の間違えた単語の正しい綴りを教師がそのつど黒板に書いて教えるという効率の悪い方法しかなかった。また既存の辞書は小学生が使用できるものではなかった。生徒が自ら学ぶことを重視したウィトゲンシュタインは、生徒たちの書いた作文から使用頻度の高い基本単語をリストアップして、約2500項目からなる単語帳を作成した。これを参照することによって、生徒はあらかじめ正しい綴りをみずから見出すことができるようになり、教師の側では生徒の作文にスペルミスを見つけたときに、一々訂正せずとも欄外に簡単な印を付けるだけで済むことになった。この『小学生のための正書法辞典』は、1926年に刊行された。生前に出版された彼の著書は、『論理哲学論考』とこの辞書だけである。 しかし、こうしたウィトゲンシュタインの熱意は、地元の父兄には理解されることなく、両者の間の溝はますます深まり、狂人だという噂まで広がった。この頃、ケインズに宛てた書簡では、教職を諦めたときには、イギリスで仕事を探したいので、協力を頼みたいと伝えている。1926年4月、質問に答えられない一人の生徒に苛立ったウィトゲンシュタインは、例によって体罰を加えた。頭を叩かれたその生徒はその場で気絶してしまい、さすがのウィトゲンシュタインも慌てて医師を呼んだ。しかし、このとき気絶した生徒の母親を住み込みの家政婦として雇っていた男が、ウィトゲンシュタインに罵詈雑言を浴びせ、そのうえ他の村民と共謀してウィトゲンシュタインを精神鑑定にかけるよう警察に訴えるという法的行為に及んだため、事態は収拾困難になってしまった。4月28日、彼は辞表を提出した。 辞職して間もないころ、絶望の淵にあったウィトゲンシュタインは、修道僧になって世捨て人として生きようと考えて修道院を訪ねたが、修道院長から聖職者になる動機としては不純であると諭されて、諦めざるをえなかった。しかし、それでも社会復帰をする気になれなかったため、ウィーン郊外のヒュッテルドルフにある別の修道院へ行き庭師になった。 失意に沈むウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった。ひとつはこのころ、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家の設計をしたことである。 かつて、ウィトゲンシュタインから財政支援を受けていた建築家アドルフ・ロースの紹介によりヴィトゲンシュタイン家と親しくなっていたロースの弟子パウル・エンゲルマンはすでにウィトゲンシュタインの兄パウルの陶磁器コレクションの展示室などを手がけており、次いでマルガレーテの私宅の建築依頼を引き受けたさいに、大まかな設計図が完成したところでウィトゲンシュタインに細部の仕上げに関して協力をもちかけたのである。 細部も含めて設計図が完成したのは1926年のことであるが、家の落成までには実に2年を要することとなった。というのも、彼がドアノブや暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり、1ミリの誤差も技師に許さなかったためである。ほとんど完成に近づいたところで「天井をあと3センチ上にずらしてほしい」と言い出すなど、建築業者泣かせの無理な注文もしばしば出したと伝えられている。 ようやく完成した家は、外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれたものとなった。当時のウィーンの優美な建築の中にあっては極めて異色なこの家は、モダニズム建築としてある程度の賞賛を得た。この知的な仕事への献身がウィトゲンシュタインにとっては精神を回復させるのに役立った。 同時期にはこの建築の仕事のほかにも、第一次世界大戦末期にイタリアの捕虜収容所で知り合った彫刻家ミヒャエル・ドロービルのアトリエで少女の胸像を製作するなどして、もっぱら教師生活の挫折による精神的疲労を回復するための日々を送った。この胸像のモデルになったのはマルガレーテの紹介で知り合ったマルガリート・レスピンガーというスイス人女性であり、やがて二人はいずれ結婚することになるのだろうと周囲からみなされるほど親密になった。ウィトゲンシュタインがその生涯においてこうした関係をもったことが知られている女性はこのマルガリートただ一人であるが、この交際も1931年には破綻した。 ウィトゲンシュタインがまだ小学校教師として悪戦苦闘していた頃、学会では『論理哲学論考』が話題の的となっていたが、特にウィーン学団の名で知られる研究サークルでは、出版直後の1922年にハンス・ハーンが『論考』をゼミのテキストに用いてからというもの、『論考』を主題とした講演を行なったり、メンバー同士で1行ずつ検討を加えながら輪読したりするなど、並々ならぬ関心を寄せていた。 ウィーン学団とは、第一次世界大戦の前後から、ウィーン大学の若手の学者たちが、エルンスト・マッハやバートランド・ラッセル、ダフィット・ヒルベルト、アルベルト・アインシュタインなどの画期的な研究成果に刺激を受けて、作ったサークルを母体とする研究グループである。その中心となったのは、モーリッツ・シュリックやルドルフ・カルナップ、フリードリヒ・ヴァイスマンらであり、やがてハーバート・ファイグル、フィリップ・フランク(Philipp Frank)、クルト・ゲーデル、ハンス・ハーン、ヴィクトール・クラフト(Victor Kraft)、カール・メンガー、オットー・ノイラートなど錚々たるメンバーを擁することとなるこのサークルは、1929年にウィーン学団を名乗るようになる。ウィーン学団は、論理実証主義を標榜し、形而上学を脱却して科学的世界観を打ち立てようとの志を抱いていた。そして、そのためには論理学と科学、とりわけ数学の基礎に関する徹底的な再検証が必要であると考えて、ラッセルやフレーゲの仕事を熱心に研究していたのである。そんな矢先に現れた『論考』は、彼らにとって『聖書』のようなものとさえなった。 シュリックは、1924年に「自分は『論考』の重要さと正確さを確信しており、そこに述べられている思想を世に知らしめることを心底から望んでいる」との手紙を当時プフベルクにいたウィトゲンシュタインに書き送り、何とか面会したいという意向を伝えた。ウィトゲンシュタインは、快い返事を出したが、両者の都合がつかなかったために、シュリックが実際にストーンボロー邸に滞在していたウィトゲンシュタインのもとを訪れるのは、1927年2月のこととなった。ウィトゲンシュタインは、すぐにシュリックが理解力もあり人格も高潔な優れた人物であることに気付き、それ以後たびたび会合をもって議論を交わすようになった。 シュリックは、ウィトゲンシュタイン本人をウィーン学団に引き入れようとしていたがこれは叶わなかった。それどころか、当初ウィトゲンシュタインは、学団の討論会に顔を出すことすら拒絶した。何度かの会合を経た後に、ようやくシュリックはウィトゲンシュタインから「学団の討論会とは別のところで、ごく少数の気の合いそうなメンバーとだけなら会ってもよい」との返事を引き出すことに成功する。選ばれたのは、カルナップ、ワイスマン、ファイグルらであった。シュリックは、それまでにウィトゲンシュタインと接して得た経験から、いつも学団で交わされているような哲学談義をウィトゲンシュタインが望んでいないことを理解していた。そのため、他のメンバーにはなるべくこちらから議論をもちかけるのではなく、ウィトゲンシュタインに自発的に語らせるよう厳命した。すると、ウィトゲンシュタインは、彼らに対して「自分はもう哲学には関心がないのだ」と強調したり、突然ラビンドラナート・タゴールの詩(その神秘思想は論理実証主義の対極にある)を朗読するなどしてカルナップらを驚愕させた。一方、ウィトゲンシュタインも、シュリックらとの議論を通して、彼らが『論考』を根本的に誤解していることに気付き、ときには議論をまったく拒絶した。 こうした会合がしばらく続いたが、やがてウィトゲンシュタインは、カルナップとファイグルに対しては、方法論や関心事だけでなく、気質的にも相容れないものがあると感じて、距離を置くようになる。こうして、ウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、シュリックとワイスマンの二人に限られてしまうが、この二人とは後に『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』として記録がまとめられるほどの対話を重ねており、ワイスマンとは共著を出版する計画まで立てていた。しかし、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰後(次節参照)の1936年に、シュリックがウィーン大学構内で反ユダヤ主義者の学生に射殺されると、それきりウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、一切断ち切られてしまう。 このウィーン学団との関係がまだ友好的に保たれていた1928年3月、ウィーンでオランダの数学者ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワーが「数学・科学・言語」という題で直観主義 (数学の哲学)に関する講演を行なった。ワイスマンとファイグルは、嫌がるウィトゲンシュタインを何とか説得して、この講演に出席させることに成功した。講演終了後、3人は近くの喫茶店へ入って数時間を過ごした。そのとき、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめた。そのときウィトゲンシュタインが語ったのは、後期の彼の思想の萌芽ともいえるものであり、「おそらくこれを契機としてウィトゲンシュタインは再び哲学者になったのだ」とファイグルは述べている。また、ウィトゲンシュタインは、同じ頃にケンブリッジの若い哲学者であり『論考』の英訳者でもあるフランク・ラムゼイとも会って議論を重ねており、それを通じて次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになったことも哲学への関心を取り戻すきっかけとなっている。 ウィトゲンシュタインは、哲学研究に再び取り組む意思を固め、ストーンボロー邸の完成した1928年秋から、ケインズと手紙のやり取りを通してイギリスへ行く手筈を立て、1929年1月18日にケインズの客として16年ぶりにケンブリッジ大学へ足を踏み入れた。その日、ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻に宛てた手紙にこう書いた。 ウィトゲンシュタインは学位を取得していなかったが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、1929年『論理哲学論考』を博士論文として提出した。面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったという。ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記している。(但し、これはケンブリッジに導入されたアメリカ流の学位制度を軽蔑していたムーアによる学位制度への皮肉だという解釈もある。)ウィトゲンシュタインは講師として採用され、トリニティ・カレッジのフェローとなる。この時期、カフェテリア・グループと呼ばれた一群に参加して、ジョン・メイナード・ケインズの確率論や経済学者フリードリヒ・ハイエクの経済理論についての議論を行ったりもしている。 1939年にムーアが退職し、すでに哲学の天才と目されていたウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の哲学教授となり、その後すぐにイギリスの市民権を獲得した。 1946年10月25日、どの問題が本物である、あるいはまさに言語学的な問題であるかをカール・ポパーと議論した際にケンブリッジ大学キングス・カレッジ倫理科学部の会合でポパーに対し一つの倫理的命題を示せと言いながら火かき棒を振り回した際に「招待された講師を脅さないこと」とポパーに答えられ、激怒して会合から去ったと言われている。ただし、この話は目撃者の証言がまちまちである。 ウィトゲンシュタインは哲学研究のあいまに西部劇をみたり推理小説を読んだりして気分転換するという意外な面があった。これは、音楽はヨハネス・ブラームスまでしか認めず、それよりも後の時代の音楽作品は頽廃だとして受け入れなかったことと対照的である。また、彼が同性愛者であったという面についてはかなり議論があるが、フランシス・スキナーほか何人かの男性と関係をもったことは確かだといわれている。 晩年のウィトゲンシュタインの仕事は彼の意向でアイルランド西海岸の田舎の孤独のなかで行われた。1949年に前立腺がんと診断されたときには、死後に出版されることになる後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』の原稿がほぼできあがっていた。生涯最後の2年をウィトゲンシュタインはウィーン、アメリカ合衆国、オックスフォード、イギリスのケンブリッジで過ごした。オックスフォードで彼の影響をうけたのがギルバート・ライルである。1951年、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をしようとした友人たちが到着する数日前、ケンブリッジで死去した。最期の言葉は「素晴らしい人生だったと伝えてくれ(Tell them I've had a wonderful life)」だったという。 ウィトゲンシュタインの哲学は極めて単純には前期と後期に分けられる。やや詳しく見れば、 とその思考は細かく推移している。以下では、『論考』、『哲学的文法』、『青色本』、『哲学探求』、『確実性の問題』の5著作をそれぞれの段階の主要素材として彼の哲学の概要を紹介する。 原題は " Logisch-philosophische Abhandlung/ Tractatus Logico-Philosophicus " である。 『論考』は数字が振られた短い断章の寄せ集めとして構成されているが、ウィトゲンシュタインによれば命題 4 に対しては 4.1、4.2 ...が、4.1 に対しては 4.11、4.12 ...がそれぞれ注釈・敷衍を加えるといった関係になっており、したがって(その番号付けがどこまで厳密なものかはさておき)『論考』中の小数点以下のない七つの断章こそ『論考』の基本主張だということになる。その七つの断章は以下の通りである。 ウィトゲンシュタインの主著は『論考』である(まとまった著作はこれしか出版していないので当然である)が、今日では『哲学探究』も広く知られている。『探究』は1953年、彼の死後2年経ってようやく出版された。2部に分けられた(厳密にいうと、2つの遺稿が『哲学探究』という1つの題のもとに刊行された)うちの第1部(番号のつけられた693の断章)の大部分は、1946年には出版直前までこぎ着けていたが、ウィトゲンシュタイン自身によって差し止められた。第1部より短い第2部は遺稿の管理人であり『探究』の編纂者でもあった分析哲学者エリザベス・アンスコムとラッシュ・リーズによってつけ加えられた。 ウィトゲンシュタインの解説者たちの間ですべての見解が一致することはまずありえないとしばしばいわれるが、とりわけ『探究』に関しては紛糾を極め、議論百出の様相を呈している。『探究』のなかで、ウィトゲンシュタインは哲学を実践する上で決定的に重要であると考える言語の使用についての所見を述べる。端的にいうならば、われわれの言語を言語ゲーム(in sich geschlossene Systeme der Verständigung、言語的了解行為という自己完結した諸体系)として描いてみせる。意味の源泉を「言語の使用」に帰するこうした見解は、意味を「言葉からの表出」とする古典的言語学の観点はもちろん、『論考』時代のウィトゲンシュタイン自身の考え方からも大きくかけ離れている。 後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは考えたのである。 言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない——なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから——ということである。したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。 ウィトゲンシュタインの新しい哲学的方法論には、形而上学的な真実追究のために忘れ去られた言語の慣用法について読者に想起させることが必要だった。一般には、言語は単独ではなんら問題なく機能するということが要点である(これに関しては哲学者による訂正を必要としない)。このように、哲学者によって議論されてきた"大文字の問題"は、彼らが言語および言語と現実との関係について誤った観点にもとづいて仕事をしていたためにもたらされたのだということを彼は証明しようと試みた。歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。すなわち、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。 癌による自らの生涯の終わりを目前にし、眠っていた若き日のウィトゲンシュタインが再び目を覚ましたかのように、死に至る直前まで熱意をもって書き続けたもの。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者。イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く(前期ウィトゲンシュタイン)。その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑む(後期ウィトゲンシュタイン)が、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62歳。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『哲学探究』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "哲学以外の業績として、航空工学分野でのチップジェット(プロペラ推進方式の一種)の発明、モダニズム建築(ストーンボロー邸)の設計が挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Wittgensteinの「Wi」はオーストリアドイツ語および標準ドイツ語では「ウィ」ではなく「ヴィ」と発音される。ただし本項では、便宜的に日本語で慣用的に用いられてきた表記にしたがって、概要および以下の記述において、ルートヴィヒ本人に限り、「ウィトゲンシュタイン」に統一する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1889年4月26日にオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンでヨーロッパ有数の裕福な家庭に生まれた。ウィトゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた。そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。祖父ヘルマン・クリスティアン・ヴィトゲンシュタイン(ドイツ語版)は、ドレスデン十字架教会で洗礼を受けユダヤ教からルター派に改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居したアシュケナジム・ユダヤ人商人であり、その息子カール・ヴィトゲンシュタイン(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリック信仰を実践したとはいえないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。ヴィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており、そのなかにはヨーゼフ・ホフマン、オーギュスト・ロダン、ハインリヒ・ハイネなどがいる。グスタフ・クリムトもヴィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヴィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でフェリックス・メンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(ロベルト・シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた。ルートヴィヒの兄パウル・ヴィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、モーリス・ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった。哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例や隠喩をもちいている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としてはうつ病や自殺の傾向がある。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは、1903年まで自宅で教育を受けている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その後、技術面の教育に重点を置いたリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。このとき、同じ学校の生徒にはアドルフ・ヒトラーがいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは、この学校に在学している間に信仰を喪失したと後に語っている。宗教への懐疑に悩むウィトゲンシュタインに対して、姉のマルガレーテは、アルトゥル・ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読んでみるよう薦める。ウィトゲンシュタインが哲学の道へ進む以前に精読した哲学書は、この一冊だけである。また、ウィトゲンシュタインは、ショーペンハウエルに若干の付加や明確化を施せば、基本的には正しいと思っていたと後に語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "同じ頃、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講演集を読んで、ボルツマンのいるウィーン大学への進学を希望するが、ボルツマンの自殺により叶わなかった。そこで、航空工学に興味を持っていたウィトゲンシュタインは、高等実科学校を卒業した1906年から、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)で機械工学を学び、1908年の卒業後にはマンチェスターで行われていた大気圏上層における凧の挙動についての研究に参加した。その後、工学の博士号を取得するために、マンチェスター大学工学部へ入学した。そこで、彼は、ブレード端に備えた小型ジェットエンジンの推力によって回転するプロペラの設計に携わり、1911年には特許権を認定された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この期間に機械工学と不可分である数学への関心から、バートランド・ラッセルの『数学原理』などを読んで数学基礎論に興味を持つようになり、その後、現代の数理論理学の祖といわれるゴットロープ・フレーゲのもとで短期間学んだ。1911年秋、ウィトゲンシュタインは、フレーゲの勧めでケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで教鞭を取るラッセルを訪ねた。哲学について専門の教育をまったく受けていなかったウィトゲンシュタインと少し話しただけで、ラッセルは即座にウィトゲンシュタインの類い稀な才能を見抜いた。なお、ラッセルは、ウィトゲンシュタインと最初にあったときの印象について、次のように書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "翌1912年にトリニティ・カレッジに入学を認められ、ラッセルやジョージ・エドワード・ムーアのもとで論理の基礎に関する研究を始めた。また、マクロ経済学を確立したジョン・メイナード・ケインズと知り合ったのもこの頃である。ケインズは、ウィトゲンシュタインに対して、友情と尊敬の念を終生にわたって抱きつづけた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1913年、父の最期を看取るためにウィーンへ戻る。父の死によってウィトゲンシュタインは莫大な資産を相続したが、彼はその一部を匿名でオーストリアの芸術家に寄付した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは、それまでケンブリッジで成功裡に研究を進めていたが、多くの学者に囲まれた中では、最も根元的な問題に到達できないという感覚を抱くようになっていた。そのため、彼は、この年イギリスを離れたままほとんどケンブリッジへは戻らず、ノルウェーの山小屋に隠遁し、第一次世界大戦が始まるまでの全生活を研究に捧げた。時々ケンブリッジへ行くこともあったものの、書いた原稿をラッセルに渡すだけで、ノルウェーへとんぼ返りするのが常だった。彼は、この頃に執筆した論理学に関する論文で学位を取得することを考え、ムーアを通して大学当局へ打診したことがある。しかし、規定によると、学位論文にはきちんと註が付いていなければならない(どこまでが先行研究の引用で、どこからがオリジナルな研究かを示すため)。そのため、ウィトゲンシュタインの論文は規定を満たさないので通過しないとの返事がムーアから寄せられた。ウィトゲンシュタインは「どうしてそんなくだらない規定があるのか」「地獄へ落ちたほうがマシだ」「さもなければあなたが地獄へ落ちろ」とムーアを罵倒した。この一件でウィトゲンシュタインは友人と学位を一挙に失い、取り戻すのは実に15年後のこととなる。ともあれこの時期が生涯で最も情熱的で生産的な時期だったと彼はのちに回顧している。前期ウィトゲンシュタインの主著で哲学界に激震をもたらした『論理哲学論考』の元になるアイディアはこのときに書かれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1914年、第一次世界大戦が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になっている。クラクフへ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それはレフ・トルストイによる福音書の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」というあだ名までつけられるほど熱中したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。これらのメモのうち最も注目に値するのはのちに『論考』で全面的に展開される写像理論のアイディアであろう。これは後年の述懐によると、塹壕の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。11月にはかつて財政支援をした詩人ゲオルク・トラークルが鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルがコカインの過剰摂取により自殺した3日後のことであった。またフリードリヒ・ニーチェの選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1915年に入ると、工廠の仕事に回されたため哲学的思索に耽る時間がなくなり自殺願望が再発するが、友人の手紙に励まされて再び執筆を始め、多くの草稿を残す。『論考』の第一稿もこのころには完成していたことがラッセル宛の書簡で知られているが現存していない。1916年3月、対ロシア戦の最前線に砲兵連隊の一員として配属される。ロシア軍の猛攻撃のさいには避難命令を斥けてまで戦い抜いた功績で勲章を受け、伍長へ昇進した。1917年後半にはロシア革命の影響で戦況が比較的平穏になり、ウィーンで休暇を取って過ごすこともできた。1918年には少尉に昇進、やがて協商国(イギリス、フランス、イタリア)軍と対峙するイタリア戦線の山岳砲兵部隊へ配属となる。ここでも偵察兵としてきわめて優秀な働きにより二度目の受勲をした。しかしオーストリア軍全体の劣勢は明らかであり、退却を余儀なくされたのち再び休暇が与えられる。この休暇中にはウィーンへ戻らず、ザルツブルクの叔父の家でついに『論考』を脱稿する)。さっそく敬愛する批評家カール・クラウスの著書を刊行していた出版社へ原稿を送るが、出版は拒否されてしまう。やむをえずウィトゲンシュタインはすでに崩壊しつつあるイタリアの前線へ戻るが、11月4日のオーストリア降伏の直前にイタリア軍の捕虜となり、はじめはコモ、のちにカッシーノの捕虜収容所へ送られることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1919年、ウィトゲンシュタインは収容所からラッセルに書き送った手紙で『論考』の概略を伝える。ラッセルはその重要性に気づき、収容所へ面会に行かなければならないと思ったが、そもそもラッセル自身が反戦運動により刑務所に投獄されていた。しかし、当時パリ講和会議のイギリス代表で各国政府機関に顔の利いたケインズの尽力で得た特権により、原稿はラッセルやフレーゲの元へ届けられた。そして8月21日、ウィトゲンシュタインはようやく釈放される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ウィーンへ戻ったウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の原稿をヴィルヘルム・ブラウミュラー社へ持ち込んだが、印刷代を自分で持つなら出版してもよいとの返事しか帰ってこなかったため、この出版社からの刊行は断念する。というのもウィトゲンシュタインは復員して間もなく、親類や弁護士の説得に耳を傾けずに全財産を放棄していたためである。次いで彼はゴットロープ・フレーゲの論文を載せていた『ドイツ観念論哲学への寄与』という雑誌にフレーゲを通じて掲載を依頼するが、無名の新人哲学者のために雑誌の全紙面を割くわけにはいかないとの返事によりこれも断念。またこの間のやり取りによりフレーゲが『論考』をまったく理解していないことを知り落胆する。その後、かつてライナー・マリア・リルケやゲオルク・トラークルらへ財政支援をした際の代理人であり編集者でもあるルートヴィヒ・フォン・フィッカーを通じていくつかの出版社へ打診するがいずれもよい返事は得られず、ウィトゲンシュタインは失意の底へ落ち込むこととなる。この年(1919年)の12月、ウィトゲンシュタインはラッセルとハーグで待ち合わせて再会する。二人はこの本について語り合い、その議論に基づいた序文を高名なラッセルが書いて付け加えれば出版の望みは増すだろうというアイディアに達する。予想通りレクラム文庫が関心を寄せてきたためラッセルは序文を執筆するが、その原稿を見たウィトゲンシュタインは、ラッセルがフレーゲ同様に『論考』を理解できていないことを知りまたも失望する。1920年、レクラム社からも断りの返事が戻ってきたころ、ラッセルは「私の序文などどうでもいい、イギリスで出版してみてはどうか」と手紙を書くが、もはや『論考』出版への情熱を完全に失っていたウィトゲンシュタインは「ご自由にどうぞ」と返信。この頃ウィトゲンシュタインは再び自殺を考えるようになっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "著者であるウィトゲンシュタインが哲学への熱意を失い、田舎の小学校教師になったあとも(次節参照)なおラッセルは『論考』出版のために奔走した。1921年には友人のチャールズ・ケイ・オグデンを通してイギリスのキーガン・ポール社から英訳版の出版契約を、さらにヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』にオリジナルのドイツ語版を掲載する契約を取り付けるに至る。ラッセルの知らせを受けたウィトゲンシュタインは初めこそ素直に喜んだものの、オストワルトから送られてきた雑誌を見て、余りの誤植の多さに愕然とした。というのも、ウィトゲンシュタインがオストワルトに送ったタイプ原稿では、タイプライター上に存在しないさまざまな論理学記号をそれに似た形の別の記号で代用していたのであるが(例えば「⊂」の代わりに「C」など)、それがウィトゲンシュタインの校正を経ずにそのまま印刷されていたのである。しかしそれにやや遅れて開始された英語版の編集作業に関しては、翻訳にあたった数学者のフランク・ラムゼイとオグデンが誤植だらけのドイツ語版を見て感じた疑問点などをウィトゲンシュタインに問い合わせながら行ったため、その仕上がりはウィトゲンシュタインも満足のゆくものとなった。このときオグデンからウィトゲンシュタインに寄せられた質問の一つは題名に関するものであった。オストワルトのドイツ語版は原題 \" Logisch-philosophische Abhandlung \" のまま出版されたが、これをそのまま英訳すると意味の取りづらいものとなるため、英語版用に新しく題名を考えた方がよい、とオグデンは主張したのである。ラッセルは \" Philosophical Logic \" という案を寄せたが、ウィトゲンシュタインは「哲学的論理学」などというものは存在しないと拒否し、ムーアの提案したラテン語の表題 \" Tractatus Logico - Philosophicus \" を採用した。このタイトルは、バールーフ・デ・スピノザの \" Tractatus Theologico-Politicus \" (『神学・政治論』)になぞらえたものである。オグデンらとの打ち合わせを踏まえてウィトゲンシュタインは綿密な推敲、校正を行い、英独対訳版『論理哲学論考』は1922年11月、ようやく陽の目を見ることとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『論理哲学論考』の前書きでも自負しているように、ウィトゲンシュタインは、この本を書き終えた時点で、哲学の問題はすべて解決されたと考え、ラッセルやオグデンらが刊行準備に奔走しているのを尻目に、哲学を離れてオーストリアに戻り、出征していたころから希望していた教師になるため、1919年9月から1920年7月まで教員養成学校へ通い、小学校教師資格証明書を取得する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "教育実習でウィトゲンシュタインが訪れたのは、ウィーンの南にあるニーダーエスターライヒ州の比較的に発展した町マリア・シュルッツの学校であった。しかし、ウィトゲンシュタインは、もっと田舎へ行きたいとみずから希望して、そこから近い村トラッテンバッハ(Trattenbach)へ赴任することとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインの教育方針は、紙の上の知識よりも、子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。理科の授業では、猫の骸骨を生徒と集めて骨格標本を作ったり、夜に集まって天体観測をしたり、自分の顕微鏡で道端の植物を観察させたりした。また、銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった。その他にも、数学ではかなり早い段階から代数学を教えるなど、非常に熱心な教育者であった。というのも、ウィトゲンシュタインが教職資格を取得したのは、旧弊的な教育方針に対する改革が、社会民主主義者たちによって進められていた時期だったからである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、こうした動きに対して、農村などの保守的な地域では反発も生まれていた。独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインも、地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため、保護者たちは、よそ者であるウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ただし、このような一面もある。生徒の女の子が何度も綴りを誤ってノートに記入したため、ウィトゲンシュタインはいつものように体罰を加え、さらに字を誤った理由を問いただした。だが、その女の子は、黙ったまま何も答えなかった。ウィトゲンシュタインが「病気か」と尋ねると、女の子は「はい」と嘘をついた。しかし、彼は、その嘘に気付くことができず、その女の子に涙を流して許しを請いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは、1922年にハスバッハ村の中学校へ転勤するが、1ヵ月後にはプフベルクの小学校へ移る。このころから、ラムゼイやケインズらと書簡を交わして、旧交を温めはじめている。1924年、トラッテンバッハの隣村オッタータル(Otterthal)へ赴任した。ウィトゲンシュタインは、この地で『小学生のための正書法辞典』の編纂に着手した。オーストリアでは一部地域を除きオーストリアドイツ語が使用され、標準ドイツ語(Hochdeutsch)とは発音・スペルが異なる。また農村では方言の影響も強く、子供たちはしばしばスペルを間違えた。従来の教育法では、生徒の間違えた単語の正しい綴りを教師がそのつど黒板に書いて教えるという効率の悪い方法しかなかった。また既存の辞書は小学生が使用できるものではなかった。生徒が自ら学ぶことを重視したウィトゲンシュタインは、生徒たちの書いた作文から使用頻度の高い基本単語をリストアップして、約2500項目からなる単語帳を作成した。これを参照することによって、生徒はあらかじめ正しい綴りをみずから見出すことができるようになり、教師の側では生徒の作文にスペルミスを見つけたときに、一々訂正せずとも欄外に簡単な印を付けるだけで済むことになった。この『小学生のための正書法辞典』は、1926年に刊行された。生前に出版された彼の著書は、『論理哲学論考』とこの辞書だけである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、こうしたウィトゲンシュタインの熱意は、地元の父兄には理解されることなく、両者の間の溝はますます深まり、狂人だという噂まで広がった。この頃、ケインズに宛てた書簡では、教職を諦めたときには、イギリスで仕事を探したいので、協力を頼みたいと伝えている。1926年4月、質問に答えられない一人の生徒に苛立ったウィトゲンシュタインは、例によって体罰を加えた。頭を叩かれたその生徒はその場で気絶してしまい、さすがのウィトゲンシュタインも慌てて医師を呼んだ。しかし、このとき気絶した生徒の母親を住み込みの家政婦として雇っていた男が、ウィトゲンシュタインに罵詈雑言を浴びせ、そのうえ他の村民と共謀してウィトゲンシュタインを精神鑑定にかけるよう警察に訴えるという法的行為に及んだため、事態は収拾困難になってしまった。4月28日、彼は辞表を提出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "辞職して間もないころ、絶望の淵にあったウィトゲンシュタインは、修道僧になって世捨て人として生きようと考えて修道院を訪ねたが、修道院長から聖職者になる動機としては不純であると諭されて、諦めざるをえなかった。しかし、それでも社会復帰をする気になれなかったため、ウィーン郊外のヒュッテルドルフにある別の修道院へ行き庭師になった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "失意に沈むウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった。ひとつはこのころ、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家の設計をしたことである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "かつて、ウィトゲンシュタインから財政支援を受けていた建築家アドルフ・ロースの紹介によりヴィトゲンシュタイン家と親しくなっていたロースの弟子パウル・エンゲルマンはすでにウィトゲンシュタインの兄パウルの陶磁器コレクションの展示室などを手がけており、次いでマルガレーテの私宅の建築依頼を引き受けたさいに、大まかな設計図が完成したところでウィトゲンシュタインに細部の仕上げに関して協力をもちかけたのである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "細部も含めて設計図が完成したのは1926年のことであるが、家の落成までには実に2年を要することとなった。というのも、彼がドアノブや暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり、1ミリの誤差も技師に許さなかったためである。ほとんど完成に近づいたところで「天井をあと3センチ上にずらしてほしい」と言い出すなど、建築業者泣かせの無理な注文もしばしば出したと伝えられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ようやく完成した家は、外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれたものとなった。当時のウィーンの優美な建築の中にあっては極めて異色なこの家は、モダニズム建築としてある程度の賞賛を得た。この知的な仕事への献身がウィトゲンシュタインにとっては精神を回復させるのに役立った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同時期にはこの建築の仕事のほかにも、第一次世界大戦末期にイタリアの捕虜収容所で知り合った彫刻家ミヒャエル・ドロービルのアトリエで少女の胸像を製作するなどして、もっぱら教師生活の挫折による精神的疲労を回復するための日々を送った。この胸像のモデルになったのはマルガレーテの紹介で知り合ったマルガリート・レスピンガーというスイス人女性であり、やがて二人はいずれ結婚することになるのだろうと周囲からみなされるほど親密になった。ウィトゲンシュタインがその生涯においてこうした関係をもったことが知られている女性はこのマルガリートただ一人であるが、この交際も1931年には破綻した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインがまだ小学校教師として悪戦苦闘していた頃、学会では『論理哲学論考』が話題の的となっていたが、特にウィーン学団の名で知られる研究サークルでは、出版直後の1922年にハンス・ハーンが『論考』をゼミのテキストに用いてからというもの、『論考』を主題とした講演を行なったり、メンバー同士で1行ずつ検討を加えながら輪読したりするなど、並々ならぬ関心を寄せていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ウィーン学団とは、第一次世界大戦の前後から、ウィーン大学の若手の学者たちが、エルンスト・マッハやバートランド・ラッセル、ダフィット・ヒルベルト、アルベルト・アインシュタインなどの画期的な研究成果に刺激を受けて、作ったサークルを母体とする研究グループである。その中心となったのは、モーリッツ・シュリックやルドルフ・カルナップ、フリードリヒ・ヴァイスマンらであり、やがてハーバート・ファイグル、フィリップ・フランク(Philipp Frank)、クルト・ゲーデル、ハンス・ハーン、ヴィクトール・クラフト(Victor Kraft)、カール・メンガー、オットー・ノイラートなど錚々たるメンバーを擁することとなるこのサークルは、1929年にウィーン学団を名乗るようになる。ウィーン学団は、論理実証主義を標榜し、形而上学を脱却して科学的世界観を打ち立てようとの志を抱いていた。そして、そのためには論理学と科学、とりわけ数学の基礎に関する徹底的な再検証が必要であると考えて、ラッセルやフレーゲの仕事を熱心に研究していたのである。そんな矢先に現れた『論考』は、彼らにとって『聖書』のようなものとさえなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "シュリックは、1924年に「自分は『論考』の重要さと正確さを確信しており、そこに述べられている思想を世に知らしめることを心底から望んでいる」との手紙を当時プフベルクにいたウィトゲンシュタインに書き送り、何とか面会したいという意向を伝えた。ウィトゲンシュタインは、快い返事を出したが、両者の都合がつかなかったために、シュリックが実際にストーンボロー邸に滞在していたウィトゲンシュタインのもとを訪れるのは、1927年2月のこととなった。ウィトゲンシュタインは、すぐにシュリックが理解力もあり人格も高潔な優れた人物であることに気付き、それ以後たびたび会合をもって議論を交わすようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "シュリックは、ウィトゲンシュタイン本人をウィーン学団に引き入れようとしていたがこれは叶わなかった。それどころか、当初ウィトゲンシュタインは、学団の討論会に顔を出すことすら拒絶した。何度かの会合を経た後に、ようやくシュリックはウィトゲンシュタインから「学団の討論会とは別のところで、ごく少数の気の合いそうなメンバーとだけなら会ってもよい」との返事を引き出すことに成功する。選ばれたのは、カルナップ、ワイスマン、ファイグルらであった。シュリックは、それまでにウィトゲンシュタインと接して得た経験から、いつも学団で交わされているような哲学談義をウィトゲンシュタインが望んでいないことを理解していた。そのため、他のメンバーにはなるべくこちらから議論をもちかけるのではなく、ウィトゲンシュタインに自発的に語らせるよう厳命した。すると、ウィトゲンシュタインは、彼らに対して「自分はもう哲学には関心がないのだ」と強調したり、突然ラビンドラナート・タゴールの詩(その神秘思想は論理実証主義の対極にある)を朗読するなどしてカルナップらを驚愕させた。一方、ウィトゲンシュタインも、シュリックらとの議論を通して、彼らが『論考』を根本的に誤解していることに気付き、ときには議論をまったく拒絶した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "こうした会合がしばらく続いたが、やがてウィトゲンシュタインは、カルナップとファイグルに対しては、方法論や関心事だけでなく、気質的にも相容れないものがあると感じて、距離を置くようになる。こうして、ウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、シュリックとワイスマンの二人に限られてしまうが、この二人とは後に『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』として記録がまとめられるほどの対話を重ねており、ワイスマンとは共著を出版する計画まで立てていた。しかし、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰後(次節参照)の1936年に、シュリックがウィーン大学構内で反ユダヤ主義者の学生に射殺されると、それきりウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、一切断ち切られてしまう。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "このウィーン学団との関係がまだ友好的に保たれていた1928年3月、ウィーンでオランダの数学者ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワーが「数学・科学・言語」という題で直観主義 (数学の哲学)に関する講演を行なった。ワイスマンとファイグルは、嫌がるウィトゲンシュタインを何とか説得して、この講演に出席させることに成功した。講演終了後、3人は近くの喫茶店へ入って数時間を過ごした。そのとき、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめた。そのときウィトゲンシュタインが語ったのは、後期の彼の思想の萌芽ともいえるものであり、「おそらくこれを契機としてウィトゲンシュタインは再び哲学者になったのだ」とファイグルは述べている。また、ウィトゲンシュタインは、同じ頃にケンブリッジの若い哲学者であり『論考』の英訳者でもあるフランク・ラムゼイとも会って議論を重ねており、それを通じて次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになったことも哲学への関心を取り戻すきっかけとなっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは、哲学研究に再び取り組む意思を固め、ストーンボロー邸の完成した1928年秋から、ケインズと手紙のやり取りを通してイギリスへ行く手筈を立て、1929年1月18日にケインズの客として16年ぶりにケンブリッジ大学へ足を踏み入れた。その日、ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻に宛てた手紙にこう書いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは学位を取得していなかったが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、1929年『論理哲学論考』を博士論文として提出した。面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったという。ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記している。(但し、これはケンブリッジに導入されたアメリカ流の学位制度を軽蔑していたムーアによる学位制度への皮肉だという解釈もある。)ウィトゲンシュタインは講師として採用され、トリニティ・カレッジのフェローとなる。この時期、カフェテリア・グループと呼ばれた一群に参加して、ジョン・メイナード・ケインズの確率論や経済学者フリードリヒ・ハイエクの経済理論についての議論を行ったりもしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1939年にムーアが退職し、すでに哲学の天才と目されていたウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の哲学教授となり、その後すぐにイギリスの市民権を獲得した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1946年10月25日、どの問題が本物である、あるいはまさに言語学的な問題であるかをカール・ポパーと議論した際にケンブリッジ大学キングス・カレッジ倫理科学部の会合でポパーに対し一つの倫理的命題を示せと言いながら火かき棒を振り回した際に「招待された講師を脅さないこと」とポパーに答えられ、激怒して会合から去ったと言われている。ただし、この話は目撃者の証言がまちまちである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインは哲学研究のあいまに西部劇をみたり推理小説を読んだりして気分転換するという意外な面があった。これは、音楽はヨハネス・ブラームスまでしか認めず、それよりも後の時代の音楽作品は頽廃だとして受け入れなかったことと対照的である。また、彼が同性愛者であったという面についてはかなり議論があるが、フランシス・スキナーほか何人かの男性と関係をもったことは確かだといわれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "晩年のウィトゲンシュタインの仕事は彼の意向でアイルランド西海岸の田舎の孤独のなかで行われた。1949年に前立腺がんと診断されたときには、死後に出版されることになる後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』の原稿がほぼできあがっていた。生涯最後の2年をウィトゲンシュタインはウィーン、アメリカ合衆国、オックスフォード、イギリスのケンブリッジで過ごした。オックスフォードで彼の影響をうけたのがギルバート・ライルである。1951年、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をしようとした友人たちが到着する数日前、ケンブリッジで死去した。最期の言葉は「素晴らしい人生だったと伝えてくれ(Tell them I've had a wonderful life)」だったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインの哲学は極めて単純には前期と後期に分けられる。やや詳しく見れば、", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "とその思考は細かく推移している。以下では、『論考』、『哲学的文法』、『青色本』、『哲学探求』、『確実性の問題』の5著作をそれぞれの段階の主要素材として彼の哲学の概要を紹介する。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "原題は \" Logisch-philosophische Abhandlung/ Tractatus Logico-Philosophicus \" である。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "『論考』は数字が振られた短い断章の寄せ集めとして構成されているが、ウィトゲンシュタインによれば命題 4 に対しては 4.1、4.2 ...が、4.1 に対しては 4.11、4.12 ...がそれぞれ注釈・敷衍を加えるといった関係になっており、したがって(その番号付けがどこまで厳密なものかはさておき)『論考』中の小数点以下のない七つの断章こそ『論考』の基本主張だということになる。その七つの断章は以下の通りである。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインの主著は『論考』である(まとまった著作はこれしか出版していないので当然である)が、今日では『哲学探究』も広く知られている。『探究』は1953年、彼の死後2年経ってようやく出版された。2部に分けられた(厳密にいうと、2つの遺稿が『哲学探究』という1つの題のもとに刊行された)うちの第1部(番号のつけられた693の断章)の大部分は、1946年には出版直前までこぎ着けていたが、ウィトゲンシュタイン自身によって差し止められた。第1部より短い第2部は遺稿の管理人であり『探究』の編纂者でもあった分析哲学者エリザベス・アンスコムとラッシュ・リーズによってつけ加えられた。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインの解説者たちの間ですべての見解が一致することはまずありえないとしばしばいわれるが、とりわけ『探究』に関しては紛糾を極め、議論百出の様相を呈している。『探究』のなかで、ウィトゲンシュタインは哲学を実践する上で決定的に重要であると考える言語の使用についての所見を述べる。端的にいうならば、われわれの言語を言語ゲーム(in sich geschlossene Systeme der Verständigung、言語的了解行為という自己完結した諸体系)として描いてみせる。意味の源泉を「言語の使用」に帰するこうした見解は、意味を「言葉からの表出」とする古典的言語学の観点はもちろん、『論考』時代のウィトゲンシュタイン自身の考え方からも大きくかけ離れている。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは考えたのである。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない——なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから——ということである。したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ウィトゲンシュタインの新しい哲学的方法論には、形而上学的な真実追究のために忘れ去られた言語の慣用法について読者に想起させることが必要だった。一般には、言語は単独ではなんら問題なく機能するということが要点である(これに関しては哲学者による訂正を必要としない)。このように、哲学者によって議論されてきた\"大文字の問題\"は、彼らが言語および言語と現実との関係について誤った観点にもとづいて仕事をしていたためにもたらされたのだということを彼は証明しようと試みた。歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。すなわち、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。", "title": "その哲学" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "癌による自らの生涯の終わりを目前にし、眠っていた若き日のウィトゲンシュタインが再び目を覚ましたかのように、死に至る直前まで熱意をもって書き続けたもの。", "title": "その哲学" } ]
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタインは、オーストリア・ウィーン出身の哲学者。イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。
{{redirect|ウィトゲンシュタイン}} {{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = 20世紀の哲学 | image_name = Ludwig Wittgenstein.jpg | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = [[1930年]] | name = ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン{{lang|de|Ludwig Wittgenstein}} | other_names = | birth_date = [[1889年]][[4月26日]] | birth_place = {{AUT1867}}・[[ウィーン]] | death_date = [[1951年]][[4月29日]] (満62歳没) | death_place = {{GBR}}・[[ケンブリッジ]] | school_tradition = [[分析哲学]]、[[言語論的転回]]、[[:en:Logical atomism|論理的原子論]]、[[真理の対応説]] | main_interests = [[論理学]]、[[形而上学]]、[[言語哲学]]、[[数学の哲学]]、[[心の哲学]]、[[認識論]] | notable_ideas = 言語の写像理論([[:en:Picture theory of language|Picture theory of language]])、[[真理関数]]、事態([[:en:State of affairs (philosophy)|State of affairs]])、論理的真実・論理的必然性([[:en:Logical truth|Logical truth]]、Logical necessity)、[[意味の使用説]](Meaning is use)、[[言語ゲーム]]、[[私的言語論]]、[[家族的類似]]、規則遵守(Rule following)、[[生活形式]]、ウィトゲンシュタインの信仰主義(Wittgensteinian fideism)、[[反実在論]]、ウィトゲンシュタインの数理哲学([[:en:Ludwig Wittgenstein's philosophy of mathematics|Ludwig 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(作家)|カール・クラウス]]、[[アドルフ・ロース]]、[[ピエロ・スラッファ]]、[[オットー・ヴァイニンガー]]、[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]]、[[ハインリヒ・ヘルツ]]、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|ヘルムホルツ]]など | influenced = [[:en:Rogers Albritton|Rogers Albritton]]、[[バートランド・ラッセル]]、[[ジョージ・エドワード・ムーア]]、[[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]、[[ウィーン学団]]、[[ルドルフ・カルナップ]]、[[アラン・チューリング]]、[[エリザベス・アンスコム]]、[[ピーター・ギーチ]]、[[バリー・ストラウド]]、[[ジョン・マクダウェル]]、[[ダニエル・デネット]]、[[コーラ・ダイアモンド]]、[[ギルバート・ライル]]、[[ソール・クリプキ]]、[[ジョン・サール]]、[[:en:Hans Sluga|Hans Sluga]]、[[ピーター・ハッカー]]、[[イアン・ハッキング]]、[[スティーヴン・トゥールミン]]、[[クェンティン・スキナー]]、[[ポール・ファイヤアーベント]]、[[ジャン=フランソワ・リオタール]]、[[リチャード・ローティ]]、[[:en:Jules Vuillemin|Jules Vuillemin]]、[[ジャック・ブーヴレス]]、[[:en:Reuben Goodstein|Reuben Goodstein]]、[[:en:Casimir Lewy|Casimir Lewy]]、[[トーマス・クーン]]、[[大森荘蔵]]、[[野矢茂樹]]、[[村上春樹]]、[[柄谷行人]]など | signature = | signature_alt = | website = <!-- {{URL|example.com}} --> }} '''ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン'''({{lang-de-short|Ludwig Josef Johann Wittgenstein}}、[[1889年]][[4月26日]] - [[1951年]][[4月29日]])は、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]出身の[[哲学者]]。[[イギリス]]・[[ケンブリッジ大学]][[教授]]となり、[[イギリス]]国籍を得た。以後の[[言語哲学]]、[[分析哲学]]に強い影響を与えた。 == 概要 == [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]の[[バートランド・ラッセル]]のもとで[[哲学]]を学ぶが<ref name="noe1999.24">[[#野家1999|野家 1999]]、24頁。</ref>、[[第一次世界大戦]]後に発表された初期の著作『[[論理哲学論考]]』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く(前期ウィトゲンシュタイン)。その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑む(後期ウィトゲンシュタイン)が、結局、これは完成することはなく、[[悪性腫瘍|癌]]によりこの世を去る。62歳。生涯[[独身]]であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『[[哲学探究]]』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。 哲学以外の業績として、[[航空工学]]分野での[[チップジェット]](プロペラ推進方式の一種)の発明、[[モダニズム建築]](ストーンボロー邸)の設計が挙げられる。 === 名前の表記 === Wittgensteinの「{{Unicode|Wi}}」は[[オーストリアドイツ語]]および標準ドイツ語では「'''ウィ'''」ではなく「'''ヴィ'''」と発音される<ref group="注">標準ドイツ語での発音は{{IPA|luːtvɪç 'joːzɛf 'joːhan 'vɪtgənʃtaɪn}}。本人は生涯「'''ヴィ'''」と発音していた。</ref><ref group="注">{{Cite web|和書|url=http://ja.forvo.com/word/ludwig_josef_johann_wittgenstein/#de|title=ネイティヴによる「Ludwig Josef Johann Wittgenstein」の発音|publisher=[[Forvo]]|accessdate=2013-12-11}}</ref><ref group="注">彼はイギリスでも活動したが、英語圏でも'''ヴィ'''トゲンシュタインまたは'''ヴィ'''トゲンスタインと発音される{{cite web |title=inogolo |url=http://inogolo.com/pronunciation/d838/Ludwig_Wittgenstein |accessdate=22 May 2014}}{{cite web |url=https://www.dictionary.com/browse/wittgenstein |title=Wittgenstein |work=[[Dictionary.com]] |accessdate=24 April 2020}}[[八木沢敬]]『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』[[講談社選書メチエ]]、ISBN 978-4-06-258547-7、p12</ref>。ただし本項では、便宜的に[[日本語]]で慣用的に用いられてきた表記にしたがって、概要および以下の記述において、ルートヴィヒ本人に限り、「'''ウィ'''トゲンシュタイン」に統一する。 == 生涯 == === 幼少時代 === [[1889年]][[4月26日]]に[[オーストリア・ハンガリー帝国]]の首都[[ウィーン]]でヨーロッパ有数の裕福な家庭に生まれた<ref name="noe1999.14">[[#野家1999|野家 1999]]、14頁。</ref>。ウィトゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた<ref>『アスペルガー症候群の天才たち』マイケル・フィッツジェラルド(著) 石坂 好樹 (訳) 2008年</ref>。そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。祖父{{仮リンク|ヘルマン・クリスティアン・ヴィトゲンシュタイン|de|Hermann Christian Wittgenstein }}は、[[ドレスデン聖十字架教会|ドレスデン十字架教会]]で[[洗礼]]を受け[[ユダヤ教]]から[[ルター派]]に改宗したのち、[[ザクセン州|ザクセン]]から[[ウィーン]]へと転居した[[アシュケナジム|アシュケナジム・ユダヤ人]]商人であり、その息子[[カール・ヴィトゲンシュタイン]](ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた<ref name="noe1999.14"/>。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)は[[カトリック教会|カトリック]]だったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリック信仰を実践したとはいえないものの、カトリック教会で[[洗礼]]を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。 [[ファイル:Gustav Klimt 055.jpg|thumb|[[グスタフ・クリムト]]によるルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像(1905年)]] ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。ヴィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており<ref name="noe1999.14"/>、そのなかには[[ヨーゼフ・ホフマン]]、[[オーギュスト・ロダン]]、[[ハインリヒ・ハイネ]]などがいる。[[グスタフ・クリムト]]もヴィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている<ref group="注">のちに捕虜収容所で友人から「クリムトが君と同じ姓の女性を描いているね」といわれたとき、「姉だけど」と答えても信じてもらえなかったという。</ref>。 ヴィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ[[音楽家]]との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストの[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]がおり、彼はヘルマンの紹介で[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、[[ヨハネス・ブラームス]]や[[グスタフ・マーラー]]、[[ブルーノ・ワルター]]らと親交を結んだ。叔母のアンナは[[フリードリヒ・ヴィーク]]([[ロベルト・シューマン]]の師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた<ref name="noe1999.18-19">[[#野家1999|野家 1999]]、18-19頁。</ref>。ルートヴィヒの兄[[パウル・ヴィトゲンシュタイン]]は有名なピアニストになり、[[第一次世界大戦]]で右腕を失ったのちも活躍を続け、[[モーリス・ラヴェル]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[セルゲイ・プロコフィエフ]]らが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している<ref name="noe1999.18-19"/>。 ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった<ref name="noe1999.18-19"/>。哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例や[[隠喩]]をもちいている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としては[[うつ病]]や[[自殺]]の傾向がある<ref group="注">ハプスブルク家治下のウィーンではそもそも自殺率が高かった。</ref>。4人の兄のうちパウルを除く3人が[[自殺]]しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた<ref name="noe1999.15">[[#野家1999|野家 1999]]、15頁。</ref>。 === 学生時代 === ウィトゲンシュタインは、[[1903年]]まで自宅で教育を受けている。 その後、技術面の教育に重点を置いた[[リンツ]]の高等[[実科学校]](レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。このとき、同じ学校の生徒には[[アドルフ・ヒトラー]]がいた<ref group="注">ウィトゲンシュタインとヒトラーが共に収まっているとされる集合写真が紹介されることがあるが、同級生だったという確証はない。</ref>。 ウィトゲンシュタインは、この学校に在学している間に信仰を喪失したと後に語っている。宗教への懐疑に悩むウィトゲンシュタインに対して、姉のマルガレーテは、[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]の『[[意志と表象としての世界]]』を読んでみるよう薦める。ウィトゲンシュタインが哲学の道へ進む以前に精読した哲学書は、この一冊だけである。また、ウィトゲンシュタインは、ショーペンハウエルに若干の付加や明確化を施せば、基本的には正しいと思っていたと後に語っている<ref>G.E.M.Anscombe, Introduction to Wittgenstein’s Tractatus(1959), pp.11-12.</ref>。 [[ファイル:Ludwig Wittgenstein 1910.jpg|サムネイル|255x255ピクセル|大学生時代のウィトゲンシュタイン([[1910年]])]] 同じ頃、[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]の講演集を読んで、ボルツマンのいる[[ウィーン大学]]への進学を希望するが、ボルツマンの自殺により叶わなかった。そこで、[[航空工学]]に興味を持っていたウィトゲンシュタインは、高等実科学校を卒業した[[1906年]]から、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現[[ベルリン工科大学]])で[[機械工学]]を学び、[[1908年]]の卒業後には[[マンチェスター]]で行われていた[[大気圏]]上層における[[凧]]の挙動についての研究に参加した。その後、工学の[[博士号]]を取得するために、[[マンチェスター大学]]工学部へ入学した。そこで、彼は、ブレード端に備えた小型[[ジェットエンジン]]の推力によって回転する[[プロペラ]]の設計に携わり、[[1911年]]には特許権を認定された<ref group="注">このアイディアは飛行機には応用できない欠陥を備えていたが、[[チップジェット]]の原型であり、後に[[ヘリコプター]]に応用されることとなった。</ref>。 この期間に機械工学と不可分である数学への関心から、[[バートランド・ラッセル]]の『[[プリンキピア・マテマティカ|数学原理]]』などを読んで[[数学基礎論]]に興味を持つようになり、その後、現代の[[数理論理学]]の祖といわれる[[ゴットロープ・フレーゲ]]のもとで短期間学んだ<ref name="noe1999.23">[[#野家1999|野家 1999]]、23頁。</ref>。[[1911年]]秋、ウィトゲンシュタインは、フレーゲの勧めで[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]で教鞭を取るラッセルを訪ねた<ref>不思議なことにケンブリッジのバートランド・ラッセルとの邂逅の際、ウィトゲンシュタインはフレーゲについて直接は知らなかったという話が存在する。ケンブリッジ大学に数学を教えるラッセル(Russell)という名前の教官がいることを誰かから教えられたのは、マンチェスター時代である可能性が高いようである。[[#マクギネス(1988)|マクギネス(1988)]] pp.123-124</ref>。哲学について専門の教育をまったく受けていなかったウィトゲンシュタインと少し話しただけで、ラッセルは即座にウィトゲンシュタインの類い稀な才能を見抜いた<ref name="noe1999.24"/>。なお、ラッセルは、ウィトゲンシュタインと最初にあったときの印象について、次のように書いている<!-- 「バートランド・ラッセルからオットーリーン・モレル夫人への手紙」18. 10. 11.からの引用と思われる. 発言者の項目に原文が記載されてしまっており,また,中略を明示せずに翻訳が与えられている.修正が必要であるが,孫引きっぽい雰囲気もあるので,この箇所を編集した方が直接参照した文献(野家1999?)が確認できる方に(誰でもよいので)加筆・修正,および参照指示を施してほしい. -->。 {{quote|見知らぬドイツ人が現れた。頑固でひねくれているが、馬鹿ではないと思う。|An unknown German appeared … obstinate and perverse, but I think not stupid.| }} 翌[[1912年]]にトリニティ・カレッジに入学を認められ、ラッセルや[[ジョージ・エドワード・ムーア]]のもとで論理の基礎に関する研究を始めた<ref group="注">この時点ですでにラッセルは、ウィトゲンシュタインのような天才に教えられることなどほとんどない、もう哲学の分野で自分が何かを達成することはないだろうといった感想を漏らしている。主著『数学原論』を書き終えていたこともあるが、実際にこれ以降ラッセルが著した哲学や数学、論理学についての著作はほとんどが一般大衆向けの解説書の類いであった。</ref>。また、[[マクロ経済学]]を確立した[[ジョン・メイナード・ケインズ]]と知り合ったのもこの頃である。ケインズは、ウィトゲンシュタインに対して、友情と尊敬の念を終生にわたって抱きつづけた。 [[1913年]]、父の最期を看取るためにウィーンへ戻る。父の死によってウィトゲンシュタインは莫大な資産を相続したが、彼はその一部を匿名でオーストリアの芸術家に寄付した<ref group="注">この寄付を受けた芸術家のなかには[[ライナー・マリア・リルケ]]や[[ゲオルク・トラークル]]、[[オスカー・ココシュカ]]、[[アドルフ・ロース]]らがいる。</ref>。 ウィトゲンシュタインは、それまでケンブリッジで成功裡に研究を進めていたが、多くの学者に囲まれた中では、最も根元的な問題に到達できないという感覚を抱くようになっていた。そのため、彼は、この年イギリスを離れたままほとんどケンブリッジへは戻らず、[[ノルウェー]]の山小屋に隠遁し、[[第一次世界大戦]]が始まるまでの全生活を研究に捧げた。時々ケンブリッジへ行くこともあったものの、書いた原稿をラッセルに渡すだけで、ノルウェーへとんぼ返りするのが常だった。彼は、この頃に執筆した論理学に関する論文で学位を取得することを考え、ムーアを通して大学当局へ打診したことがある。しかし、規定によると、学位論文にはきちんと註が付いていなければならない(どこまでが[[先行研究]]の[[引用]]で、どこからがオリジナルな研究かを示すため)。そのため、ウィトゲンシュタインの論文は規定を満たさないので通過しないとの返事がムーアから寄せられた。ウィトゲンシュタインは「どうしてそんなくだらない規定があるのか」「地獄へ落ちたほうがマシだ」「さもなければあなたが地獄へ落ちろ」とムーアを罵倒した。この一件でウィトゲンシュタインは友人と学位を一挙に失い、取り戻すのは実に15年後のこととなる。ともあれこの時期が生涯で最も情熱的で生産的な時期だったと彼はのちに回顧している。前期ウィトゲンシュタインの主著で哲学界に激震をもたらした『[[論理哲学論考]]』の元になるアイディアはこのときに書かれた。 === 第一次世界大戦時 === [[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発し、[[8月7日]]にウィトゲンシュタインは[[オーストリア・ハンガリー帝国]]軍の志願兵になっている<ref name="noe1999.26-27">[[#野家1999|野家 1999]]、26-27頁。</ref>。[[クラクフ]]へ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それは[[レフ・トルストイ]]による[[福音書]]の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」というあだ名までつけられるほど熱中したという<ref group="注">ちなみにウィトゲンシュタインに宗教的な影響を与えた人物には他に[[アウグスティヌス]]<span style="font-size:90%;">(『告白』を史上最も重要な著作と呼んでいる)</span>、[[フョードル・ドストエフスキー]]<span style="font-size:90%;">(このときの数少ない私物の一つ『[[カラマーゾフの兄弟]]』を全文暗誦できるほど読み込んだといわれる)</span>、[[セーレン・キェルケゴール]]<span style="font-size:90%;">(「知性に情熱はないが、キルケゴールは信仰には情熱があるといっている」と共感を寄せている)</span>などがいる。</ref>。 このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。これらのメモのうち最も注目に値するのはのちに『論考』で全面的に展開される'''写像理論'''のアイディアであろう<ref name="noe1999.26-27"/>。これは後年の述懐によると、[[塹壕]]の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。11月にはかつて財政支援をした[[詩人]][[ゲオルク・トラークル]]が鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルが[[コカイン]]の過剰摂取により自殺した3日後のことであった。また[[フリードリヒ・ニーチェ]]の選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。 [[1915年]]に入ると、工廠の仕事に回されたため哲学的思索に耽る時間がなくなり自殺願望が再発するが、友人の手紙に励まされて再び執筆を始め、多くの草稿を残す。『論考』の第一稿もこのころには完成していたことがラッセル宛の書簡で知られているが現存していない。[[1916年]]3月、対[[ロシア]]戦の最前線に[[砲兵]][[連隊]]の一員として配属される。ロシア軍の猛攻撃のさいには避難命令を斥けてまで戦い抜いた功績で勲章を受け、[[伍長]]へ昇進した<ref name="noe1999.26-27"/>。[[1917年]]後半には[[ロシア革命]]の影響で戦況が比較的平穏になり、ウィーンで休暇を取って過ごすこともできた。[[1918年]]には少尉に昇進、やがて[[協商国]]([[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]])軍と対峙する[[イタリア]]戦線の山岳砲兵部隊へ配属となる。ここでも偵察兵としてきわめて優秀な働きにより二度目の受勲をした。しかしオーストリア軍全体の劣勢は明らかであり、退却を余儀なくされたのち再び休暇が与えられる。この休暇中にはウィーンへ戻らず、[[ザルツブルク]]の叔父の家でついに『論考』を脱稿する<ref group="注">『論考』を捕虜収容所で書き上げたという俗説があるが、これは後に創られた神話である。</ref>)。さっそく敬愛する批評家[[カール・クラウス (作家)|カール・クラウス]]の著書を刊行していた出版社へ原稿を送るが、出版は拒否されてしまう。やむをえずウィトゲンシュタインはすでに崩壊しつつあるイタリアの前線へ戻るが、[[11月4日]]のオーストリア降伏の直前にイタリア軍の捕虜となり、はじめは[[コモ]]、のちに[[カッシーノ]]の捕虜収容所へ送られることとなった。 [[1919年]]、ウィトゲンシュタインは収容所からラッセルに書き送った手紙で『論考』の概略を伝える<ref group="注">原稿の郵送は認められなかった。</ref>。ラッセルはその重要性に気づき、収容所へ面会に行かなければならないと思ったが、そもそもラッセル自身が[[反戦運動]]により刑務所に投獄されていた。しかし、当時[[パリ講和会議]]のイギリス代表で各国政府機関に顔の利いたケインズの尽力で得た特権により、原稿はラッセルやフレーゲの元へ届けられた。そして[[8月21日]]、ウィトゲンシュタインはようやく釈放される。 === 『論考』出版 === [[ファイル:Wittgenstein1920.jpg|right|thumb|『論考』出版の頃のウィトゲンシュタイン(右から2番目に座っている人物・[[1920年]])]] [[ウィーン]]へ戻ったウィトゲンシュタインは『[[論理哲学論考]]』の原稿をヴィルヘルム・ブラウミュラー社へ持ち込んだが、印刷代を自分で持つなら出版してもよいとの返事しか帰ってこなかったため、この出版社からの刊行は断念する。というのもウィトゲンシュタインは復員して間もなく、親類や弁護士の説得に耳を傾けずに全財産を放棄していたためである。次いで彼は[[ゴットロープ・フレーゲ]]の論文を載せていた『ドイツ観念論哲学への寄与』という雑誌にフレーゲを通じて掲載を依頼するが、無名の新人哲学者のために雑誌の全紙面を割くわけにはいかないとの返事によりこれも断念。またこの間のやり取りによりフレーゲが『論考』をまったく理解していないことを知り落胆する。その後、かつて[[ライナー・マリア・リルケ]]や[[ゲオルク・トラークル]]らへ財政支援をした際の代理人であり編集者でもある[[ルートヴィヒ・フォン・フィッカー]]を通じていくつかの出版社へ打診するがいずれもよい返事は得られず、ウィトゲンシュタインは失意の底へ落ち込むこととなる。この年([[1919年]])の12月、ウィトゲンシュタインはラッセルと[[ハーグ]]で待ち合わせて再会する。二人はこの本について語り合い、その議論に基づいた序文を高名なラッセルが書いて付け加えれば出版の望みは増すだろうというアイディアに達する。予想通り[[レクラム文庫]]が関心を寄せてきたためラッセルは序文を執筆するが、その原稿を見たウィトゲンシュタインは、ラッセルがフレーゲ同様に『論考』を理解できていないことを知りまたも失望する。[[1920年]]、レクラム社からも断りの返事が戻ってきたころ、ラッセルは「私の序文などどうでもいい、イギリスで出版してみてはどうか」と手紙を書くが、もはや『論考』出版への情熱を完全に失っていたウィトゲンシュタインは「ご自由にどうぞ」と返信。この頃ウィトゲンシュタインは再び自殺を考えるようになっていた。 著者であるウィトゲンシュタインが哲学への熱意を失い、田舎の小学校教師になったあとも(次節参照)なおラッセルは『論考』出版のために奔走した。[[1921年]]には友人の[[チャールズ・ケイ・オグデン]]を通してイギリスのキーガン・ポール社から英訳版の出版契約を、さらにヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』にオリジナルのドイツ語版を掲載する契約を取り付けるに至る。ラッセルの知らせを受けたウィトゲンシュタインは初めこそ素直に喜んだものの、オストワルトから送られてきた雑誌を見て、余りの誤植の多さに愕然とした。というのも、ウィトゲンシュタインがオストワルトに送ったタイプ原稿では、タイプライター上に存在しないさまざまな論理学記号をそれに似た形の別の記号で代用していたのであるが(例えば「'''<span style="font-size:120%;">⊂</span>'''」の代わりに「C」など)、それがウィトゲンシュタインの校正を経ずにそのまま印刷されていたのである。しかしそれにやや遅れて開始された英語版の編集作業に関しては、翻訳にあたった数学者の[[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]とオグデンが誤植だらけのドイツ語版を見て感じた疑問点などをウィトゲンシュタインに問い合わせながら行ったため、その仕上がりはウィトゲンシュタインも満足のゆくものとなった。このときオグデンからウィトゲンシュタインに寄せられた質問の一つは題名に関するものであった。オストワルトのドイツ語版は原題 " '''''Logisch-philosophische Abhandlung''''' " のまま出版されたが、これをそのまま英訳すると意味の取りづらいものとなるため、英語版用に新しく題名を考えた方がよい、とオグデンは主張したのである。ラッセルは " ''Philosophical Logic'' " という案を寄せたが、ウィトゲンシュタインは「哲学的論理学」などというものは存在しないと拒否し、ムーアの提案した[[ラテン語]]の表題 " '''''Tractatus Logico - Philosophicus''''' " を採用した。このタイトルは、[[バールーフ・デ・スピノザ]]の " ''Tractatus Theologico-Politicus'' " (『神学・政治論』)になぞらえたものである。オグデンらとの打ち合わせを踏まえてウィトゲンシュタインは綿密な推敲、校正を行い、英独対訳版『[[論理哲学論考]]』は[[1922年]]11月、ようやく陽の目を見ることとなった。 === 『論考』後 === ==== 小学校教師として ==== 『[[論理哲学論考]]』の前書きでも自負しているように、ウィトゲンシュタインは、この本を書き終えた時点で、哲学の問題はすべて解決されたと考え、ラッセルやオグデンらが刊行準備に奔走しているのを尻目に、哲学を離れて[[オーストリア]]に戻り、出征していたころから希望していた教師になる<ref group="注">このころの友人宛の書簡では、教師になるもう一つの理由として、(トルストイの本に書かれているような)田舎で子供たちに教えることでしか、自分の病み疲れた精神を癒す方法はないだろうと思ったことを挙げている。</ref>ため、[[1919年]]9月から[[1920年]]7月まで教員養成学校へ通い、小学校教師資格証明書を取得する<ref name="noe1999.28">[[#野家1999|野家 1999]]、28頁。</ref>。 教育実習でウィトゲンシュタインが訪れたのは、ウィーンの南にある[[ニーダーエスターライヒ州]]の比較的に発展した町[[マリア・シュルッツ]]の学校であった。しかし、ウィトゲンシュタインは、もっと田舎へ行きたいとみずから希望して、そこから近い村[[トラッテンバッハ]]([[:en:Trattenbach|Trattenbach]])へ赴任することとなった。 ウィトゲンシュタインの教育方針は、紙の上の知識よりも、子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。[[理科]]の授業では、猫の骸骨を生徒と集めて[[骨格]]標本を作ったり、夜に集まって[[天体観測]]をしたり、自分の[[顕微鏡]]で道端の植物を観察させたりした。また、銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった<ref name="noe1999.29">[[#野家1999|野家 1999]]、29頁。</ref>。その他にも、[[数学]]ではかなり早い段階から[[代数学]]を教えるなど、非常に熱心な教育者であった。というのも、ウィトゲンシュタインが教職資格を取得したのは、旧弊的な教育方針<ref group="注">[[第一次世界大戦]]前のオーストリアでは、教えられたことを丸暗記する能力だけが重視され、教科書に載っていない内容を教えることは禁止されるという極度の[[詰め込み教育]]が行われていた。</ref>に対する改革が、[[社会民主主義|社会民主主義者]]たちによって進められていた時期だったからである。 しかし、こうした動きに対して、農村などの保守的な地域では反発も生まれていた。独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインも、地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため<ref name="noe1999.28-29">[[#野家1999|野家 1999]]、28-29頁。</ref><ref group="注">体罰自体は当時日常茶飯事であったが、ウィトゲンシュタインの教育方針への疑念もあって、不信感が一層強いものになった。</ref>、保護者たちは、よそ者であるウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。 ただし、このような一面もある。生徒の女の子が何度も綴りを誤ってノートに記入したため、ウィトゲンシュタインはいつものように体罰を加え、さらに字を誤った理由を問いただした。だが、その女の子は、黙ったまま何も答えなかった。ウィトゲンシュタインが「病気か」と尋ねると、女の子は「はい」と嘘をついた。しかし、彼は、その嘘に気付くことができず、その女の子に涙を流して許しを請いた<ref>Autism and Creativity: Is There a Link between Autism in Men and Exceptional Ability? (2003) written by Michael Fitzgerald</ref>。 ウィトゲンシュタインは、[[1922年]]に[[ハスバッハ]]村の中学校へ転勤するが、1ヵ月後には[[プフベルク]]の小学校へ移る。このころから、ラムゼイやケインズらと書簡を交わして、旧交を温めはじめている。[[1924年]]、トラッテンバッハの隣村[[オッタータル]]([[:en:Otterthal|Otterthal]])へ赴任した。ウィトゲンシュタインは、この地で『小学生のための正書法辞典』の編纂に着手した<ref name="noe1999.29"/>。オーストリアでは一部地域を除き[[オーストリアドイツ語]]が使用され、[[高地ドイツ語|標準ドイツ語]]([[:en:Hochdeutsch|Hochdeutsch]])とは発音・スペルが異なる。また農村では方言<ref group="注">赴任地は[[ニーダーエスターライヒ州|ニーダーエスターライヒ]]方言の地域。</ref>の影響も強く、子供たちはしばしばスペルを間違えた。従来の教育法では、生徒の間違えた単語の正しい綴りを教師がそのつど黒板に書いて教えるという効率の悪い方法しかなかった。また既存の[[辞書]]は小学生が使用できるものではなかった<ref group="注">当時オーストリアの地方都市で入手可能な標準ドイツ語の辞書は、学術目的の高価なものか、肝心の基本単語を省いた簡略版しかなかった。</ref>。生徒が自ら学ぶことを重視したウィトゲンシュタインは、生徒たちの書いた作文から使用頻度の高い基本単語をリストアップして、約2500項目からなる単語帳を作成した。これを参照することによって、生徒はあらかじめ正しい綴りをみずから見出すことができるようになり、教師の側では生徒の作文にスペルミスを見つけたときに、一々訂正せずとも欄外に簡単な印を付けるだけで済むことになった。この『小学生のための正書法辞典』は、[[1926年]]に刊行された。生前に出版された彼の著書は、『[[論理哲学論考]]』とこの辞書だけである。 しかし、こうしたウィトゲンシュタインの熱意は、地元の父兄には理解されることなく、両者の間の溝はますます深まり、狂人だという噂まで広がった。この頃、ケインズに宛てた書簡では、教職を諦めたときには、イギリスで仕事を探したいので、協力を頼みたいと伝えている。[[1926年]]4月、質問に答えられない一人の生徒に苛立ったウィトゲンシュタインは、例によって体罰を加えた。頭を叩かれたその生徒はその場で気絶してしまい、さすがのウィトゲンシュタインも慌てて医師を呼んだ。しかし、このとき気絶した生徒の母親を住み込みの家政婦として雇っていた男が、ウィトゲンシュタインに罵詈雑言を浴びせ、そのうえ他の村民と共謀してウィトゲンシュタインを精神鑑定にかけるよう警察に訴えるという法的行為に及んだため、事態は収拾困難になってしまった。[[4月28日]]、彼は辞表を提出した<ref name="noe1999.28"/>。 辞職して間もないころ、絶望の淵にあったウィトゲンシュタインは、修道僧になって世捨て人として生きようと考えて[[修道院]]を訪ねたが、[[修道院長]]から聖職者になる動機としては不純であると諭されて、諦めざるをえなかった。しかし、それでも社会復帰をする気になれなかったため、ウィーン郊外の[[ヒュッテルドルフ]]にある別の修道院へ行き[[庭師]]になった<ref name="noe1999.28"/>。 ==== 建築家として ==== [[ファイル:Wittgenstein haus.jpg|250px|thumb|ウィトゲンシュタインの設計したストーンボロー邸]] 失意に沈むウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった。ひとつはこのころ、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家の設計をしたことである<ref name="noe1999.32">[[#野家1999|野家 1999]]、32頁。</ref>。 かつて、ウィトゲンシュタインから財政支援を受けていた建築家[[アドルフ・ロース]]の紹介によりヴィトゲンシュタイン家と親しくなっていたロースの弟子[[パウル・エンゲルマン]]はすでにウィトゲンシュタインの兄パウルの陶磁器コレクションの展示室などを手がけており、次いでマルガレーテの私宅の建築依頼を引き受けたさいに、大まかな設計図が完成したところでウィトゲンシュタインに細部の仕上げに関して協力をもちかけたのである<ref name="noe1999.32"/>。 細部も含めて設計図が完成したのは[[1926年]]のことであるが、家の落成までには実に2年を要することとなった。というのも、彼がドアノブや暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり、1ミリの誤差も技師に許さなかったためである<ref name="noe1999.34">[[#野家1999|野家 1999]]、34頁。</ref>。ほとんど完成に近づいたところで「天井をあと3センチ上にずらしてほしい」と言い出すなど、建築業者泣かせの無理な注文もしばしば出したと伝えられている<ref>石田優、「[http://id.nii.ac.jp/1100/00000176/ ヴィトゲンシュタインの建築に関する研究]」 学位論文 34523 甲第35号, 2015年, 神戸芸術工科大学。ウィトゲンシュタインの写像理論を引き合いに、ストンボロー邸は、アイデアの正確無比な写像の繰り返しによって作り出されているとも言われる。</ref>。 ようやく完成した家は、外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれたものとなった<ref name="noe1999.33">[[#野家1999|野家 1999]]、33頁。</ref>。当時のウィーンの優美な建築の中にあっては極めて異色なこの家は、[[モダニズム建築]]としてある程度の賞賛を得た<ref group="注">[[ゲオルク・ヘンリク・フォン・ウリクト]]({{Lang|en|Georg Henrik von Wright}})は、この建築には『[[論理哲学論考]]』と同じ「静的な美」があるといい、またマルガレーテは「家の形をした論理学」と呼んだ。</ref>。この知的な仕事への献身がウィトゲンシュタインにとっては精神を回復させるのに役立った。 同時期にはこの建築の仕事のほかにも、第一次世界大戦末期にイタリアの捕虜収容所で知り合った彫刻家ミヒャエル・ドロービルのアトリエで少女の胸像を製作するなどして、もっぱら教師生活の挫折による精神的疲労を回復するための日々を送った。この胸像のモデルになったのはマルガレーテの紹介で知り合ったマルガリート・レスピンガーというスイス人女性であり、やがて二人はいずれ結婚することになるのだろうと周囲からみなされるほど親密になった。ウィトゲンシュタインがその生涯においてこうした関係をもったことが知られている女性はこのマルガリートただ一人であるが、この交際も[[1931年]]には破綻した。 ==== ウィーン学団 ==== ウィトゲンシュタインがまだ小学校教師として悪戦苦闘していた頃、学会では『[[論理哲学論考]]』が話題の的となっていたが、特に[[ウィーン学団]]の名で知られる研究サークルでは、出版直後の[[1922年]]に[[ハンス・ハーン]]が『論考』をゼミのテキストに用いてからというもの、『論考』を主題とした講演を行なったり、メンバー同士で1行ずつ検討を加えながら輪読したりするなど、並々ならぬ関心を寄せていた<ref name="noe1999.36">[[#野家1999|野家 1999]]、36頁。</ref>。 ウィーン学団とは、第一次世界大戦の前後から、[[ウィーン大学]]の若手の学者たちが、[[エルンスト・マッハ]]や[[バートランド・ラッセル]]、[[ダフィット・ヒルベルト]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]などの画期的な研究成果に刺激を受けて、作ったサークルを母体とする研究グループである。その中心となったのは、[[モーリッツ・シュリック]]や[[ルドルフ・カルナップ]]、[[フリードリヒ・ヴァイスマン]]らであり、やがて[[ハーバート・ファイグル]]、[[フィリップ・フランク]]({{Lang|en|Philipp Frank}})、[[クルト・ゲーデル]]、[[ハンス・ハーン]]、[[ヴィクトール・クラフト]]([[:en:Victor Kraft|Victor Kraft]])、[[カール・メンガー (数学者)|カール・メンガー]]、[[オットー・ノイラート]]など錚々たるメンバーを擁することとなるこのサークルは、[[1929年]]に[[ウィーン学団]]を名乗るようになる。ウィーン学団は、[[論理実証主義]]を標榜し、[[形而上学]]を脱却して科学的世界観を打ち立てようとの志を抱いていた。そして、そのためには論理学と科学、とりわけ数学の基礎に関する徹底的な再検証が必要であると考えて、ラッセルやフレーゲの仕事を熱心に研究していたのである。そんな矢先に現れた『論考』は、彼らにとって『[[聖書]]』のようなものとさえなった<ref group="注">このため、しばしば「ウィーン学団(ないし論理実証主義)は、ウィトゲンシュタインの影響下にあった」とされるが、『論考』の刊行以前からウィーン学団は独自に存在し活動していたことや、ウィーン学団が『論考』を熱烈に支持したとしても、(後述するように)著者にとってそれは誤解以外の何ものでもなかったこと、両者の交流は結局のところウィーン学団が望んだほど実り豊かとはいえないものに終わったことなどから、ウィトゲンシュタイン(ないし『論考』)がウィーン学団へ与えた影響は限定的なものである。また、影響が見られる例として挙げられることの多い「有意味性の検証可能性条件」なども、ウィトゲンシュタインからは独自に案出されたものだとする論者もある。</ref>。 シュリックは、[[1924年]]に「自分は『論考』の重要さと正確さを確信しており、そこに述べられている思想を世に知らしめることを心底から望んでいる」との手紙を当時プフベルクにいたウィトゲンシュタインに書き送り、何とか面会したいという意向を伝えた。ウィトゲンシュタインは、快い返事を出したが、両者の都合がつかなかったために、シュリックが実際にストーンボロー邸に滞在していたウィトゲンシュタインのもとを訪れるのは、[[1927年]]2月のこととなった<ref group="注">シュリックは、[[1926年]]4月に一度オッタータルを訪ねているが、このときにはすでにウィトゲンシュタインが教師を辞職していたため、会うことができなかった。</ref>。ウィトゲンシュタインは、すぐにシュリックが理解力もあり人格も高潔な優れた人物であることに気付き、それ以後たびたび会合をもって議論を交わすようになった。 シュリックは、ウィトゲンシュタイン本人をウィーン学団に引き入れようとしていたがこれは叶わなかった。それどころか、当初ウィトゲンシュタインは、学団の討論会に顔を出すことすら拒絶した。何度かの会合を経た後に、ようやくシュリックはウィトゲンシュタインから「学団の討論会とは別のところで、ごく少数の気の合いそうなメンバーとだけなら会ってもよい」との返事を引き出すことに成功する。選ばれたのは、カルナップ、ワイスマン、ファイグルらであった。シュリックは、それまでにウィトゲンシュタインと接して得た経験から、いつも学団で交わされているような哲学談義をウィトゲンシュタインが望んでいないことを理解していた。そのため、他のメンバーにはなるべくこちらから議論をもちかけるのではなく、ウィトゲンシュタインに自発的に語らせるよう厳命した。すると、ウィトゲンシュタインは、彼らに対して「自分はもう哲学には関心がないのだ」と強調したり、突然[[ラビンドラナート・タゴール]]の詩(その[[神秘主義|神秘思想]]は論理実証主義の対極にある)を朗読するなどしてカルナップらを驚愕させた。一方、ウィトゲンシュタインも、シュリックらとの議論を通して、彼らが『論考』を根本的に誤解していることに気付き、ときには議論をまったく拒絶した。 こうした会合がしばらく続いたが、やがてウィトゲンシュタインは、カルナップとファイグルに対しては、方法論や関心事だけでなく、気質的にも相容れないものがあると感じて、距離を置くようになる。こうして、ウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、シュリックとワイスマンの二人に限られてしまうが、この二人とは後に『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』として記録がまとめられるほどの対話を重ねており、ワイスマンとは共著を出版する計画まで立てていた。しかし、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰後(次節参照)の[[1936年]]に、シュリックがウィーン大学構内で[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]の学生に射殺される<ref group="注">シュリック自身はドイツ人だが、ユダヤ人に見えなくもない風貌をしていた。</ref>と、それきりウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、一切断ち切られてしまう。 このウィーン学団との関係がまだ友好的に保たれていた[[1928年]]3月、ウィーンでオランダの数学者[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]]が「数学・科学・言語」という題で[[直観主義 (数学の哲学)]]に関する講演を行なった。ワイスマンとファイグルは、嫌がるウィトゲンシュタインを何とか説得して、この講演に出席させることに成功した<ref name="noe1999.38">[[#野家1999|野家 1999]]、38頁。</ref>。講演終了後、3人は近くの喫茶店へ入って数時間を過ごした。そのとき、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめた。そのときウィトゲンシュタインが語ったのは、後期の彼の思想の萌芽ともいえるものであり、「おそらくこれを契機としてウィトゲンシュタインは再び哲学者になったのだ」とファイグルは述べている。また、ウィトゲンシュタインは、同じ頃にケンブリッジの若い哲学者であり『論考』の英訳者でもある[[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]とも会って議論を重ねており、それを通じて次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになったことも哲学への関心を取り戻すきっかけとなっている。 ウィトゲンシュタインは、哲学研究に再び取り組む意思を固め、ストーンボロー邸の完成した[[1928年]]秋から、ケインズと手紙のやり取りを通してイギリスへ行く手筈を立て、[[1929年]][[1月18日]]にケインズの客として16年ぶりに[[ケンブリッジ大学]]へ足を踏み入れた。その日、ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻<!--ロシアのバレリーナ、リディア・ロポコーヴァ([[:en:Lydia Lopokova]])-->に宛てた手紙にこう書いた。 {{quotation|さて、神が到着した。5時15分の電車でやって来た神に私は会った。|Well, God has arrived. I met him on the 5.15 train.| }} === ケンブリッジへの復帰 === ウィトゲンシュタインは学位を取得していなかったが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、[[1929年]]『[[論理哲学論考]]』を博士論文として提出した。面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったという。ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記している。(但し、これはケンブリッジに導入されたアメリカ流の学位制度を軽蔑していたムーアによる学位制度への皮肉だという解釈もある。)ウィトゲンシュタインは講師として採用され、[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]のフェローとなる。この時期、[[カフェテリア・グループ]]と呼ばれた一群に参加して、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]の[[確率論]]や経済学者[[フリードリヒ・ハイエク]]の経済理論についての議論を行ったりもしている。 [[ファイル:Wittgenstein Gravestone.jpg|thumb|250px|ウィトゲンシュタインの墓。<br /><span style="font-size:90%;">墓石の上方に小さなハシゴが架けられているのが見える。これは『論考』の命題6.54にある「読者はハシゴを登りきったあとでそのハシゴを取り払ってしまわなければならない」(=ここに書かれているようなことを乗り越えてもらわなければならない)という記述にちなんでいる。</span>]] [[1939年]]にムーアが退職し、すでに哲学の天才と目されていたウィトゲンシュタインは[[ケンブリッジ大学]]の哲学教授となり、その後すぐに[[イギリス]]の[[市民権]]を獲得した<ref group="注">ナチスによる[[アンシュルス|独墺合併]]により、ユダヤ系の血を引いていたウィトゲンシュタインとしては止むを得ずイギリス国籍を選ばなければならなくなった。</ref>。 1946年10月25日、どの問題が本物である、あるいはまさに言語学的な問題であるかを[[カール・ポパー]]と議論した際にケンブリッジ大学[[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ]]倫理科学部の会合でポパーに対し一つの倫理的命題を示せと言いながら[[火かき棒]]を振り回した際に「招待された講師を脅さないこと」とポパーに答えられ、激怒して会合から去ったと言われている。ただし、この話は目撃者の証言がまちまちである。 ウィトゲンシュタインは哲学研究のあいまに[[西部劇]]をみたり[[推理小説]]を読んだりして気分転換するという意外な面があった。これは、音楽は[[ヨハネス・ブラームス]]までしか認めず、それよりも後の時代の音楽作品は頽廃だとして受け入れなかったことと対照的である。また、彼が[[同性愛者]]であったという面についてはかなり議論があるが、[[フランシス・スキナー]]ほか何人かの男性と関係をもったことは確かだといわれている<ref name="noe1999.20-21">[[#野家1999|野家 1999]]、20-21頁。</ref>。 晩年のウィトゲンシュタインの仕事は彼の意向で[[アイルランド]]西海岸の田舎の孤独のなかで行われた。[[1949年]]に[[前立腺癌|前立腺がん]]と診断されたときには、死後に出版されることになる後期ウィトゲンシュタインの主著『[[哲学探究]]』の原稿がほぼできあがっていた。生涯最後の2年をウィトゲンシュタインは[[ウィーン]]、[[アメリカ合衆国]]、[[オックスフォード]]、[[イギリス]]の[[ケンブリッジ]]で過ごした。オックスフォードで彼の影響をうけたのが[[ギルバート・ライル]]である。[[1951年]]、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をしようとした友人たちが到着する数日前、ケンブリッジで死去した。最期の言葉は「素晴らしい人生だったと伝えてくれ(Tell them I've had a wonderful life)」だったという。 == その哲学 == ウィトゲンシュタインの哲学は極めて単純には前期と後期に分けられる。やや詳しく見れば、 ;前期(1889-1921年) :(ほとんど不詳な)学生時代、『'''[[論理哲学論考]]'''』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代。 ;中期前半(1922-1933年) :哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代。 ;中期後半(1933-1935年) :『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』、『青色本』、『茶色本』。 ;後期前半(1936-1945年) :『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで。 ;後期後半(1946-1949年) :『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代。 ;晩期(1949-1951年) :死の直前の『確実性の問題』。 とその思考は細かく推移している。以下では、『論考』、『哲学的文法』、『青色本』、『哲学探求』、『確実性の問題』の5著作をそれぞれの段階の主要素材として彼の哲学の概要を紹介する。 === 前期:『論理哲学論考』 === {{main|論理哲学論考}} 原題は " Logisch-philosophische Abhandlung/ Tractatus Logico-Philosophicus " である。 『論考』は数字が振られた短い断章の寄せ集めとして構成されているが、ウィトゲンシュタインによれば命題 4 に対しては 4.1、4.2 …が、4.1 に対しては 4.11、4.12 …がそれぞれ注釈・敷衍を加えるといった関係になっており、したがって(その番号付けがどこまで厳密なものかはさておき)『論考』中の小数点以下のない七つの断章こそ『論考』の基本主張だということになる。その七つの断章は以下の通りである。 #「世界は起こっている事の総体である」<br />" Die Welt ist alles, was der Fall ist." #「起こっている事、すなわち事象とは、諸事態の存立のことである」<br />" Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten." #「事象の論理像が思想(思考対象)である」<br />" Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke." #「思想は有意義な命題である」<br />" Der Gedanke ist der sinnvolle Satz." #「命題は諸要素命題の[[真理関数]]である」<br />" Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsätze." #「真理関数の一般形式は<math>[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]</math>である」<br />" Die Allgemeine Form der Wahrheitsfunktion ist : <math>[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]</math>" #「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」<br />" Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen." === 中期前半:『哲学的文法』 === {{main|哲学的文法}} === 中期後半:『青色本』 === {{main|青色本・茶色本}} === 後期:『哲学探究』 === {{main|哲学探究}} ウィトゲンシュタインの主著は『論考』である(まとまった著作はこれしか出版していないので当然である)が、今日では『哲学探究』も広く知られている。『探究』は1953年、彼の死後2年経ってようやく出版された。2部に分けられた(厳密にいうと、2つの遺稿が『哲学探究』という1つの題のもとに刊行された)うちの第1部(番号のつけられた693の断章)の大部分は、1946年には出版直前までこぎ着けていたが、ウィトゲンシュタイン自身によって差し止められた。第1部より短い第2部は遺稿の管理人であり『探究』の編纂者でもあった分析哲学者エリザベス・アンスコムとラッシュ・リーズによってつけ加えられた<ref group="注">もし、ウィトゲンシュタインが『探究』を完成させるまで生きていたら、第2部に見られる思想のいくばくかは第1部へ取り込まれ統合されていただろうという配慮による。両者には比較的独立性が認められるので疑問視する向きもある。</ref>。 ウィトゲンシュタインの解説者たちの間ですべての見解が一致することはまずありえないとしばしばいわれるが、とりわけ『探究』に関しては紛糾を極め、議論百出の様相を呈している。『探究』のなかで、ウィトゲンシュタインは哲学を実践する上で決定的に重要であると考える言語の使用についての所見を述べる。端的にいうならば、われわれの言語を'''[[言語ゲーム]]'''(in sich geschlossene Systeme der Verständigung、言語的了解行為という自己完結した諸体系)として描いてみせる。意味の源泉を「言語の使用」に帰するこうした見解は、意味を「言葉からの表出」とする古典的言語学の観点はもちろん、『論考』時代のウィトゲンシュタイン自身の考え方からも大きくかけ離れている。 後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。[[プラトン]]以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは考えたのである。 言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない——なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから——ということである。したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。 ウィトゲンシュタインの新しい哲学的方法論には、形而上学的な真実追究のために忘れ去られた言語の慣用法について読者に想起させることが必要だった。一般には、言語は単独ではなんら問題なく機能するということが要点である(これに関しては哲学者による訂正を必要としない)。このように、哲学者によって議論されてきた"大文字の問題"は、彼らが言語および言語と現実との関係について誤った観点にもとづいて仕事をしていたためにもたらされたのだということを彼は証明しようと試みた。歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。すなわち、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。 === 晩期:『確実性の問題』 === {{main|確実性の問題}} 癌による自らの生涯の終わりを目前にし、眠っていた若き日のウィトゲンシュタインが再び目を覚ましたかのように、死に至る直前まで熱意をもって書き続けたもの。 == 著作(日本語訳書) == *{{Cite book|和書|date=1975年-1988年|title=ウィトゲンシュタイン全集|volume=全10巻・補巻2|publisher=[[大修館書店]]|isbn=4-469-11010-8|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/List?hk=%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%88%e3%82%b2%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%b3%e5%85%a8%e9%9b%86}} **{{Cite book|和書|others=[[奥雅博]]訳|year=1975|title=第1巻 論理哲学論考 草稿 1914-1916 論理形式について|isbn=4-469-11011-6|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/20066}} **{{Cite book|和書|others=奥雅博訳|year=1978|month=10|title=第2巻 哲学的考察|isbn=4-469-11012-4|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20067}} **{{Cite book|和書|others=[[山本信]]訳|year=1975|title=第3巻 哲学的文法1|isbn=4-469-11013-2|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20068}} **{{Cite book|和書|others=[[坂井秀寿]]訳|year=1976|title=第4巻 哲学的文法2|isbn=4-469-11014-0|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20069}} **{{Cite book|和書|others=[[黒崎宏]]・[[杖下隆英]]訳|year=1976|title=第5巻 ウィトゲンシュタインとウィーン学団 倫理学講話|isbn=4-469-11015-9|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20070}} **{{Cite book|和書|others=[[大森荘蔵]]・[[杖下隆英]]訳|year=1975|title=第6巻 青色本・茶色本 個人的経験および感覚与件について フレーザー金枝篇への所見|isbn=4-469-11016-7|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20071}} ***{{Cite book|和書|others=[[大森荘蔵]]訳|year=2010|month=11|title=青色本|series=ちくま学芸文庫 ウ15-2|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-09326-4|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093264/|ref=ウィトゲンシュタイン&大森2010}} **{{Cite book|和書|others=[[中村秀吉]]・[[藤田晋吾]]訳|year=1976|title=第7巻 数学の基礎|isbn=4-469-11017-5|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20072}} **{{Cite book|和書|others=[[藤本隆志]]訳|year=1976|title=第8巻 哲学探究|isbn=4-469-11018-3|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20073}} **{{Cite book|和書|others=[[黒田亘]]・[[菅豊彦]]訳|year=1975|title=第9巻 確実性の問題・断片|isbn=4-469-11019-1|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20074}} **{{Cite book|和書|others=藤本隆志訳|year=1977|month=11|title=第10巻 講義集|isbn= 4-469-11020-5|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20075}} **{{Cite book|和書|others=[[佐藤徹郎]]訳|year=1985|month=4|title=補巻 1 心理学の哲学1|isbn=4-469-11026-4|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20076}} **{{Cite book|和書|others=[[野家啓一]]訳|year=1988|month=12|title=補巻 2 心理学の哲学2|isbn=4-469-11027-2|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/product/detail/20077}} *『論理哲学論考』("''Tractatus Logico-Philosophicus''") **{{Cite book|和書|others=[[藤本隆志]]・[[坂井秀寿]]訳|year=1968|title=論理哲学論考|series=叢書・ウニベルシタス 6|publisher=法政大学出版局|isbn=4-588-00006-3|url=http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00006-5.html|ref=ヴィトゲンシュタイン&藤本&坂井1968}} **{{Cite book|和書|others=[[山元一郎]]編|year=1971|title=ラッセル,ウィトゲンシュタイン,ホワイトヘッド|chapter=論理哲学論|series=世界の名著 58|publisher=中央公論社|ref=ウィトゲンシュタイン&山元1971}} **{{Cite book|和書|others=山元一郎編|year=1980|month=1|title=ラッセル,ウィトゲンシュタイン,ホワイトヘッド|chapter=論理哲学論|series=[[中公バックス]] 世界の名著 70|publisher=中央公論社|isbn=4-12-400680-2|url=http://www.chuko.co.jp/zenshu/1980/01/400680.html|ref=ウィトゲンシュタイン&山元1980}} **{{Cite book|和書|others=山元一郎訳|year=2001|month=7|title=論理哲学論|series=[[中公クラシックス]]|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-160010-X|url=http://www.chuko.co.jp/zenshu/2001/07/160010.html|ref=ウィトゲンシュタイン&山元2001}} **{{Cite book|和書|others=[[野矢茂樹]]訳|year=2003|month=8|title=論理哲学論考|series=[[岩波文庫]] 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book|和書|others=[[黒崎宏]]訳・解説|year=1994|month=3|title=哲学的探究 第1部|publisher=産業図書|isbn=4-7828-0085-1|ref=ウィトゲンシュタイン&黒崎1994}} **{{Cite book|和書|others=黒崎宏訳・解説|year=1995|month=1|title=哲学的探究 第2部|publisher=産業図書|isbn=4-7828-0090-8|ref=ウィトゲンシュタイン&黒崎1995}} **{{Cite book|和書|others=黒崎宏訳・解説|year=1997|month=4|title=『哲学的探求』読解|publisher=産業図書|isbn=4-7828-0107-6|ref=ウィトゲンシュタイン&黒崎1997}} **{{Cite book|和書|others=[[丘沢静也]]訳・[[野家啓一]]解説|year=2013|month=8|title=哲学探究|publisher=岩波書店|isbn=978-4-0002-4041-3|ref=ウィトゲンシュタイン&丘沢&2013}} **{{Cite book|和書|others=鬼界彰夫訳|year=2020|month=11|title=哲学探究|publisher=講談社|isbn=978-4-06-219944-5|ref=ウィトゲンシュタイン&鬼界&2020|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189677}} *講義録 **{{Cite book|和書|editor=[[デズモンド・リー]]編|others=[[山田友幸]]・[[千葉惠]]訳|year=1996|month=11|title=ウィトゲンシュタインの講義 I ケンブリッジ一九三〇年-一九三二年 ジョン・キングとテズモンド・リーのノートより|series=双書プロブレーマタ III-2|publisher=勁草書房|isbn=4-326-19895-8|url=http://www.keisoshobo.co.jp/book/b27005.html|ref=ウィトゲンシュタイン&リー&山田&千葉1996}} **{{Cite book|和書|editor=[[アリス・アンブローズ]]編|others=[[野矢茂樹]]訳|year=1991|month=10|title=ウィトゲンシュタインの講義 II ケンブリッジ1932-1935年 アリス・アンブローズとマーガレット・マクドナルドのノートより|series=双書プロブレーマタ 4|publisher=勁草書房|isbn=4-326-19884-2|url=http://www.keisoshobo.co.jp/book/b26994.html|ref=ウィトゲンシュタイン&アンブローズ&野矢1991}} ***{{Cite book|和書|editor=[[アリス・アンブローズ]]編|others=[[野矢茂樹]]訳|year=2013|month=10|title=ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ1932-1935年|series=講談社学術文庫|publisher=講談社|isbn=978-4-06-292196-1|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211676|ref=ウィトゲンシュタイン&アンブローズ&野矢2013}} **{{Cite book|和書|editor=コーラ・ダイアモンド編|others=[[大谷弘]]・[[古田徹也]]訳|year=2015|month=1|title=ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ 1939年|series=講談社学術文庫|publisher=講談社|isbn=978-4-06-292276-0|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211756|ref=ウィトゲンシュタイン&ダイアモンド&大谷&古田2015}} *その他 **{{Cite book|和書|others=丘沢静也訳|year=1982|month=3|title=反哲学的断章|publisher=青土社|ref=ヴィトゲンシュタイン&丘沢1982}} ***{{Cite book|和書|others=丘沢静也訳|year=1995|month=8|title=反哲学的断章|edition=新版|publisher=青土社|isbn=4-7917-5389-5|ref=ヴィトゲンシュタイン&丘沢1995}} ***{{Cite book|和書|others=丘沢静也訳|year=1999|month=7|title=反哲学的断章 文化と価値|edition=改訂新訳|publisher=青土社|isbn=4-7917-5732-7|url=http://www.seidosha.co.jp/index.php?cmd=read&page=%C8%BF%C5%AF%B3%D8%C5%AA%C3%C7%BE%CF&word=%C8%BF%C5%AF%B3%D8%C5%AA%C3%C7%BE%CF|ref=ヴィトゲンシュタイン&丘沢1999}} **{{Cite book|和書|author=ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(書簡)|coauthors=[[パウル・エンゲルマン]](著)|others=[[岡田柾弘]]訳注|year=1993|title=ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインからの書簡集 追想と共に|publisher=岡田柾弘|ref=ウィトゲンシュタイン&エンゲルマン&岡田1993}} **{{Cite book|和書|others=[[中村昇]]・[[瀬嶋貞徳]]訳|year=1997|month=9|title=色彩について|publisher=新書館|isbn=4-403-23052-0|url=http://www.shinshokan.co.jp/book/4-403-23052-0/|ref=ウィトゲンシュタイン&中村&瀬嶋1997}} **{{Cite book|和書|others=黒崎宏訳・解説|year=2001|month=7|title=『論考』『青色本』読解|publisher=産業図書|isbn=4-7828-0137-8|ref=ウィトゲンシュタイン&黒崎2001}} **{{Cite book|和書|editor=[[イルゼ・ゾマヴィラ]]編|others=[[鬼界彰夫]]訳|year=2005|month=11|title=ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 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book|和書|others=[[丘沢静也]]・[[萩原耕平]]訳・[[丘沢静也]]解説|year=2018|month=12|title=小学生のための正書法辞典|series=講談社学術文庫|publisher=講談社|isbn=978-4-06-514094-9|ref=ヴィトゲンシュタイン&丘沢2018}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} === 参考文献 === *{{Cite book|和書|editor=[[野家啓一]]編|year=1999|month=11|title=ウィトゲンシュタインの知88|series=Handbook of thoughts|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-25041-6|ref=野家1999}} == 資料 == {{参照方法|date=2018年10月|section=1}} === 解説書等 === ==== 研究者の著書 ==== *[[飯田隆 (哲学者)|飯田隆]]編『ウィトゲンシュタイン読本』[[法政大学出版局]]([[1995年]]) *飯田隆『ウィトゲンシュタイン―言語の限界』(現代思想の冒険者たちシリーズ)[[講談社]] ([[1997年]]) *[[入不二基義]]『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか 』[[日本放送出版協会]]([[2006年]]) *[[奥雅博]]『ウィトゲンシュタインの夢―言語・ゲーム・形式』勁草書房([[1982年]]) *奥雅博『思索のアルバム―後期ウィトゲンシュタインをめぐって』勁草書房([[1992年]]) *鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951』[[講談社現代新書]]([[2003年]]) *[[黒崎宏]]『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』[[勁草書房]]([[1984年]]) *黒崎宏『ウィトゲンシュタインが見た世界―哲学講義』[[新曜社]]([[2000年]]) *[[永井均]]『ウィトゲンシュタイン入門』[[ちくま新書]](1995年) *永井均『ウィトゲンシュタインの誤診―青色本を掘り崩す』ナカニシヤ出版(2012年)。[[講談社学術文庫]](2018年) * [[西部邁]]「48 ヴィトゲンシュタイン」『学問』所収、講談社(2004年)163-165頁、ISBN 4-06-212369-X * 西部邁「保守の哲学的根拠 L・ヴィトゲンシュタイン」『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて』所収、角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉(2012年)213-228頁、ISBN 978-4-7584-3629-8 *[[野矢茂樹]]『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』哲学書房(2002年)。[[ちくま学芸文庫]](2006年) *[[藤本隆志]]『ウィトゲンシュタイン』講談社(1981年)。[[講談社学術文庫]](1998年) *[[星川啓慈]]『宗教者ウィトゲンシュタイン』[[法藏館]](1990年)。法蔵館文庫(2020年) *細川亮一『形而上学者ウィトゲンシュタイン―論理・独我論・倫理』[[筑摩書房]](2002年) *[[山本信]]・黒崎宏編『ウィトゲンシュタイン小事典』[[大修館書店]](1987年) *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタインの「はしご」 『論考』における「像の理論」と「生の問題」|year=2009|publisher=ナカニシヤ出版|author=吉田寛|url=http://www.nakanishiya.co.jp/book/b134650.html|month=3|isbn=9784779503344}} *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタイン 最後の思考|year=2009|publisher=勁草書房|author=山田圭一|month=9|isbn=9784326101917}} *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタインvs.チューリング 計算、AI、ロボットの哲学|year=2012|publisher=勁草書房|author=水本正晴|url=https://www.keisoshobo.co.jp/book/b102870.html|month=11|isbn=978-4-326-10217-4}} *{{Cite book|和書|title=これからのウィトゲンシュタイン 刷新と応用のための14篇|year=2016|publisher=リベルタス出版|editors=荒畑靖宏・山田圭一・古田徹也|url=http://www.libertas-pub.com/common/data/978_4_905208_05_1.html|series=リベルタス学術叢書|month=11|author6=野村恭史|author9=水本正晴・吉田寛|author8=平田仁胤|author7=林大悟|author2=大屋雄裕|author5=西阪仰|author4=田中久美子|author3=菅崎香乃|author=入江俊夫|isbn=978-4-905208-05-1}} *{{Cite book|和書|title=『哲学探究』とはいかなる書物か|year=2018|publisher=勁草書房|month=10|isbn=978-4-326-15457-9|url=https://www.keisoshobo.co.jp/book/b373841.html|author=鬼界彰夫}} *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 (シリーズ世界の思想)|year=2019|publisher=KADOKAWA|author=古田徹也|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321707000026/|month=4|series=角川選書|isbn=9784047036314}} *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタイン 思考の生成原理–––『確実性について』解析の試み|year=2020|publisher=皓星社|author=鬼界彰夫|url=http://www.libro-koseisha.co.jp/thought_religion/wittgenstein/|month=2|isbn=9784774407173}} *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学|year=2020|publisher=青土社|author=大谷弘|url=http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3439|month=6|isbn=978-4-7917-7287-2}} *{{Cite book|和書|title=はじめてのウィトゲンシュタイン|year=2020|publisher=NHK出版|author=古田徹也|url=https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912662020.html|month=12|series=NHKブックス|isbn=978-4-14-091266-9}} ==== 訳書 ==== *[[デイヴィド・ブルア]]『ウィトゲンシュタイン―知識の社会理論』[[勁草書房]]、1988年 *[[クリスティアンヌ・ショヴィレ]]『ウィトゲンシュタイン―その生涯と思索』[[国文社]]、1994年 *{{cite book | 和書 | title=ウィトゲンシュタイン評伝 | author=ブライアン・マクギネス | editor=[[藤本隆志]]・今井道夫・宇都宮輝夫・高橋要 訳| series=叢書・ウベルシタス | publisher=[[法政大学出版局]] | year=1994 | ref=マクギネス(1988) }} *{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタイン|year=1995|publisher=みすず書房|author=レイ・モンク|month=11|isbn=9784622031857|volume=1|others=岡田雅勝}}{{Cite book|和書|title=ウィトゲンシュタイン|year=1994|publisher=みすず書房|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/03186/|month=11|isbn=978-4-622-03186-4|volume=2}} *[[バーナード レイトナー]]『ウィトゲンシュタインの建築』[[青土社]]、新装版1996年 *[[ポール・ストラザーン]]『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』青山出版社、1997年 *[[ノーマン・マルコム]]『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出』[[平凡社]]ライブラリー、1998年 *[[スティーヴン・トゥールミン]]『ウィトゲンシュタインのウィーン』[[平凡社ライブラリー]]、2001年 *[[アレグザンダー・ウォー]]『ウィトゲンシュタイン家の人びとー闘う家族』[[中央公論新社]]、2010年/[[中公文庫]]、2021年 === 映画 === *「[[ヴィトゲンシュタイン (映画)|ヴィトゲンシュタイン]]」(イギリス映画、1992年) 監督:[[デレク・ジャーマン]]、脚本:[[テリー・イーグルトン]] === 戯曲 === *谷賢一『従軍中のウィトゲンシュタイン(略)』[[工作舎]] (2019年) ISBN 978-4-87502-511-5 === ウィトゲンシュタインが登場するフィクション === *『[[シャーロック・ホームズ]]対オカルト怪人―あるいは「哲学者の輪」事件』ランダル・コリンズ著 *『ケンブリッジ・クインテット』ジョン・L・キャスティ著 *『神狩り』[[山田正紀]]著 == 関連項目 == {{wikiquote|ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン}} {{commons|Ludwig Josef Johann Wittgenstein}} * [[論理哲学論考]] * [[言語論的転回]] == 外部リンク == *{{Kotobank|ウィットゲンシュタイン|2=[[飯田隆 (哲学者)|飯田隆]]}} *{{Kotobank|ウィトゲンシュタイン}} *{{Kotobank|ウィトゲンシュタイン小事典}} {{IEP|wittgens|Ludwig Wittgenstein}} {{SEP|wittgenstein|Ludwig Wittgenstein}} {{ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン}}{{分析哲学}} {{言語哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ういとけんしゆたいん るとういひ}} [[Category:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|*]] [[Category:19世紀イギリスの哲学者]] [[Category:19世紀オーストリアの哲学者]] [[Category:20世紀イギリスの哲学者]] [[Category:20世紀オーストリアの哲学者]] [[Category:19世紀の論理学者]] [[Category:20世紀の論理学者]] [[Category:イギリスの科学哲学者]] [[Category:イギリスの論理学者]] 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台湾語
台湾語(たいわんご、白話字:Tâi-oân-oē、中: 台湾话、英: Taiwanese)または台語(白話字:Tâi-gí/Tâi-gú)、福佬語/河洛語/学老語(ホーローご) 、台湾閩南語(たいわんびんなんご)とは、台湾人口の74.5%以上を話者とする言語である。 台湾の客家人や台湾原住民ら他言語を話す台湾人の中にも理解し話せる人もいる。台湾語の母語話者は河洛人(ホーロー、福佬または学老)と呼ばれる(台湾語より台語と呼ぶ方が一般的である)。また、同じ台湾語でも地方により若干の発音の訛りや語の違いがある。例を挙げれば、台語のことを高雄近辺では Tâi-gí、台北近辺では Tâi-gú と発音するが、その違いは他の言語の方言に比べて大きなものではなく、相互理解に支障を来たすものでもない。近年標準的な方言と見なされているものは、高雄市とその周辺の高雄方言であり、教材の多くはこの方言を用いている。 台湾語は、福建省南部で話されている閩南語(Bân-lâm-gú、Hokkien)から派生し、独自の発展を遂げた変種であるが、部分相互理解が可能である。伝統的に、台湾語は 中国語という大きなグループ内の方言と見なされている。 伝統的な分類に従えば、以下のような階層構造で表される: 台湾人の祖先は、17世紀から19世紀にかけて福建から移住してきた人たちが大半であり、その言葉が基礎になって広まったため、台湾語は閩語の南部方言である閩南語に似ている。台湾語の語彙は、口語音系と文語音系とに分けられる。文語音系は中古漢語に基づくものであり、10世紀に閩語にて発達し、台湾へは知識人がもたらしたものである。この台湾文語音系にもとづく文語文(文章では)はかつて公的な場面で用いられたが、現在は一部台湾語読みの聖書、一部古典文芸、仏教典などに残るのみで、ほぼ廃れている。 盧溢棋や、李勤岸(ハーバード大学、Lí Khîn-hoān、Tavokan Khîn-hoān)などの研究者による最近の業績は王育徳などの研究者による以前の研究に基づくものである。 音韻的には、台湾語は非常に発達した連続変調規則を持つ声調言語である。一音節には頭子音、母音、末子音が含まれる。 ここでは、国際音声記号のほか、白話字、注音符号にて表記する。 子音には次のようなものがある。 近年では [ɡ] が [ʔ] に、[ʣ]・[ʥ] が [l] に同化する現象が見られる。 母音には次のようなものがあり、方式によって表記に違いがある。 白話字の母音 o は非円唇後舌半狭母音で、あいまい母音(シュワー)と類似している。それとは対照的に、o͘ は円唇後舌半広母音で、やや口を開いて唇をすぼめる。日本統治時代の台湾語仮名では「ヲ」「オ」で表記されている。 加えて、二重母音や三重母音が多くある(例えばiau)。また、母音 mやngは単独で音節となりうる。鼻音ではない母音と鼻母音は対をなすことが多い。例えば、aは普通の母音であるが、anは同じ調音位置で発音する鼻母音である。 すべての音節に声調がある。声調は7つある。伝統的に1 - 8と数字で表され、鹿港鎮などごく一部地域を除く大部分の地域では第2声と第6声とは同じ声調を表す。例えば、音節aを声調つきで示すと次のようになる: 伝統的な言語分析では、声調を5段階で記述し(声調を表す番号の右の数字は、レベル5が最も高く、レベル1が最も低いことを示す)、それを中古漢語の声調と結び付けている(下記では、その中古漢語の声調名が示されている): また、(一例として)参考文献にあるWi-vun Taiffalo Chiung'の現代音韻分析を参照。上記の分類に異議を唱えている。 第4声と第8声では、末子音にh、p、t、kの内破音が生じる。末子音がp、t、kの場合、その音が鼻音になることは不可能であり、これらはそれぞれ、他の声調の鼻子音m、n、ngに対応している。sianhのように、第4声や第8声での末子音がhの場合は、その音節が鼻音になることが可能である。 軽声は、動詞の行為の拡張や名詞句の終わりなどを示す際に現れる。軽声を表記する際は、前の音節とdouble dash(--)を介して表記することが多い。 台湾北部で話される方言では、第4声と第8声の区別がない。いずれも第4声として発音され、後述する連続変調規則も第4声の規則が適用される。 音節は、子音の間に母音(単母音 or 二重母音 or 三重母音)が必要である(ただし、子音であるmやngも、例外的に母音のように音節主音として機能する場合がある)。全ての子音は語頭に生じうる。子音p, t, k, m, n, ng(hを含める人もいる)は音節末に生じうる。故に、ngiau("かゆみ(をかく)")やthng("スープ")などが可能である。第二の例では鼻音ngが音節主音である。 台湾語には非常に多くの連続変調規則がある。発話の際、最後に発音される音節のみがこの規則の適用を受けない。'発話'とは何かという問題は、この言語の研究では熱いトピックである。概略的に言えば、発話は語、句、短文と考えられうる。下記の連続変調規則の記述は伝統的な説明方法にのっとったものであり、教育上記憶しやすい配列をなしている。影響を受ける音節(つまり、発語の最後の音節以外の全て)の声調がどのように変調するかは下記の通りである。 台湾語の語彙の出自について概観する。近年の言語研究によれば、(by Robert L. Cheng and Chin-An Li, for example) わずかの例外(およそ10% - 25%)を除き、大半の台湾語の語は他の中国語方言と同系語であるとしている。一方で、同系語であるかどうかよく分からない、漢字形態素による語構成であるとはっきり断定することのできないものも存在する。例えば、有名なものでchhit-thô(チットヲ、遊び)がある。その中のいくつかは、最近南方のシナ諸語の周縁言語グループであるタイ・カダイ諸語、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族などとの対照研究が進み、そうした非漢語系言語の残存であるという指摘もなされている。こうした漢語起源ではない語をあえて漢字で表記する場合は、意味や発音の似た漢字を当てて表記したり、日本における国字のように新たに創作した独自の漢字で表記する場合もある。最近の台湾語文字化運動では、明らかな漢語部分は漢字で、そうでないものはローマ字で混合表記する「漢羅」という表記方法が提唱され、いくつかの出版物も出ている。 以下に代表的な借用語を表にまとめた。 台湾語の語彙には日本統治時代に流入した日本語起源の語彙がいくつかある。 台湾語では“我々”を表す2通りの代名詞がある。阮 (góan) はいわゆる「除外の一人称複数 (聞き手を含まない)」であり、咱 (lán) は「包括の一人称複数(聞き手を含む)」である。これは英語の、"Let's go!"(聞き手を含む : 咱[lán]で翻訳)と"Let us go!"(聞き手を含まない : 阮[góan]で翻訳)の関係に似ている。包括の咱 (lán) は、丁寧さや連帯感を表現する際に使われることがある。 kán--ê the̍h-khì-chia̍h「敢个提去食」 - 勇気のあるヤツが取って食べてしまう。蛮勇を奮ったものが勝つ。 tsia̍h-pá-bē「呷飽未?」 - ご飯いっぱい食べたかの意味から変わり、挨拶言葉として使われてる。 o-ló iáu-bē suànn tiò tshiùnn tshīng-îng「讚美阿未散佇唱頌榮」 - 讃美が終わる前に称栄を歌い始まる。せっかちなどによる順番と秩序が乱れることを指す。 台湾語の文法は中国南部の諸方言に似ており、客家語 や 広東語と親戚関係にある。語順は普通話のように「主語 動詞 目的語」が典型的だが、「主語 目的語 動詞」や 受動態(語順は「目的語 主語 動詞」)は不変化詞を伴うと可能である。例えば簡単な文「私は君を抱く」を例に取ろう。 含まれる語はgoá(「我」:“私”)、phō(「抱」:“抱く”)、lí(「汝」:“君”)である。 標準的語順の文はGoá phō lí(「我抱汝」:"私は君を抱っこする")となる。 ほぼ同じ意味で異なる語順の文は Goá kā lí phō「我共汝抱」である。多少 "I take you and hold" や "I get to you and hold"のような意味が含まれる。 そして、Lí hō· goá phō「汝予我抱」も同じ意味を表すが、受動態で"You allow yourself to be held by me" や "You make yourself available for my holding"のような意味を含む。 これを元により複雑な文を作ることができる。Goá kā chúi hō· lí lim(「我共水予汝啉」"I give water for you to drink": chúi「水」は "water"、lim 「啉」は"to drink"の意味)。この記事では、文法に関してごくわずかしか例を挙げることができない。台湾語の統語論についての言語学の研究は、いまだに検討を要する学問のトピックである。 現在、台湾語の表記における正書法というものは存在しない。これまで多くの研究者によってさまざまな台湾語の表記方法が考案・改良されてきたが、正書法を定めるには至っていない。 中国語方言圏では歴史的に共通語としての文語が存在し、表記はその文語文が模範とされ、話し言葉としての中国語方言をそのまま表記するということはなかった。言文一致が定着した現在でも表記は普通話基調の口語文である。これは台湾でも同様であり、台湾語の話者が実生活において台湾語を表記する必然性はないのである。 台湾語の表記は主に研究・教育の目的で行なわれ、発音符号としての面が重視されたため、非漢字形態素をどう表記するかという問題よりも、台湾語の発音をいかに正確かつ明瞭に表記するかについて多く議論されてきた。近年は台湾語の地位向上により、台湾語の文書を意識的に作成するケースが見られ、純粋に正書法という観点で台湾語の表記法を模索する動きも見られるようになった。 台湾語を構成する形態素の大半は漢字形態素であり、基本的に台湾語を表記する文字は漢字である。しかし、語彙の項で前述したように、漢字でどう表記すべきかはっきりしない語があり、その場合は発音の似た漢字を借用して当て字としたり、意味の同じ字を訓読みしたり、新たに方言字を創作したりしたが、近年はローマ字で表記して漢字とローマ字の混ぜ書きを行なう試みもなされている。 台湾語をローマ字でどのように表記するかについてはこれまで様々な方法が考案され、現在でも更なる改良が進んでいる。台湾語のローマ字表記法の中で最も代表的なのは白話字(Pe̍h-ōe-jī, POJ)である(「教会ローマ字」とも呼ばれている)。白話字は長老派教会宣教師によって考案され、後に台湾基督長老教会によって改良された。この表記法は19世紀後半以降、台湾語の表記に積極的に用いられた。ウィキペディアの台湾語版zh-min-nan:もこの白話字で表記されている。 白話字で用いる伝統的な文字は以下の通りである: 現在は使われていないtsを含めて、全部で24種類である(tsは現在のchのうち、後に母音のiが立たない場合に用いられていた)。これらに加えて、鼻音を表す (上添字のn、大文字のNで表記することもある)および声調符号を付記する。 白話字以外のローマ文字ベースの表記法としては、TLPA (Taiwanese Language Phonetic Alphabet) 、通用拼音、TMSS (Taiwanese Modern Spelling System) なども提唱されたが、現状では白話字が優勢で、中華民国教育部も2006年、白話字に従った台湾語ラテン文字表記法 (The Taiwanese Romanization System) を公布し、教育の場で普及が図られている。ただし、まだまだ白話字に習熟した教育者が不足していたり、保守的勢力の妨害などもあって、その見通しは必ずしも明るくはない。 帝國時代には台湾総督府によって台湾語の発音を片仮名(台湾語仮名)で付記することが試みられた。そのため、現在も少数意見で、仮名文字を応用する意見もある。また、高砂族や本省人の高齢者には日本語を母語とするものも存在する。 普通話のために考案された注音符号を拡張して、台湾語の音声を表記できるようにする方法も考案されている。 閩南語のIETF言語タグの言語サブタグとしてnanが登録されている。台湾語には固有の言語サブタグが登録されていないが、言語サブタグと地域サブタグを合わせることで、台湾語をnan-TWと表現することができる。 以前は閩南語の言語タグとしてzh-min-nanが使われていた。これは古い仕様であるRFC 3066に基づいた言語タグであり、現行のRFC 5646でも互換性のため妥当な言語タグであるが、2009年7月29日より非推奨となった。 前述したように、既存の漢字で表記するのが困難な台湾語を、任意に創作した漢字で表記することがある。こうした文字はUnicode(およびそれに対応するISO/IEC 10646: 国際符号化文字集合)には収録されていないので、コンピュータ処理するときに問題が生じる。 白話字の場合は、声調符号を含め、ほとんど問題なくUnicodeで表記できる。2004年6月以前は、口を広く開ける母音o(oの右上に点を付けて表現する)がエンコードされていなかった。回避策として、中点 (· U+00B7) を使うか、組み合わせ文字の上点 ( ̇ U+0307) を使っていた。現在、前者は閩南語版ウィキペディアの表記において使われている。これらは理想からは程遠いので、1997年からISO-IEC 10646を担当するISO/IECワーキンググループ (ISO/IEC JTC 1/SC 2/WG2) に対し、新しい組み合わせ文字・上右点をエンコードするよう提案され、現在 COMBINING DOT ABOVE RIGHT ( ͘ U+0358) として正式に割り当てられている。対応フォントは「BabelStone Han」など。 台湾語の表記に必要な拡張注音符号も1999年にUnicode 3.0で Bopomofo Extended にU+31A0からU+31B7としてエンコードされた。2010年のUnicode 6.0でU+31B8からU+31BAまで3文字、2020年のUnicode 13.0でU+31BBからU+31BFまで5文字追加された。フォントの普及はこれからである。 大まかに区分すると、台湾語には高雄方言、台北方言、中部海岸に典型的に見られる海口(ハイカウ)諸方言、北部(北東)沿岸方言(特に宜蘭県の宜蘭方言)、鼻音が重い台南方言(特に台南市中心部、元台南省轄市)などのバリエーションが存在する。制度化されていないこともあって、今のところ「標準的な台湾語」というものは存在しないが、強いて言えば、歴史的に古く、台湾語も日常的に優勢な高雄方言が、事実上の標準の地位を占めつつある。また、台東で使われている方言は、音韻体系からいって白話字に最も近い。台北方言の一部は第八声がないことと、一部の母音に交換が起こること(例えば「i」と「u」、「e」と「oe」)が特徴である。台中方言は「i」と「u」の中間の母音があり、これを「ö」で表記することがある。宜蘭方言は母音「ng」が'uiN'に変化することが特徴である。 台湾人の大部分は、人によってその流暢さに大きな違いがあるものの、北京語と台湾語の両方を使用することができる。そのどちらを用いるかは状況によって異なるが、一般には公式の場では北京語を、非公式の場では台湾語を用いている。 台湾語は基本的には日常的に台湾すべての地域で話されているが、北京語が特に台北のような都市部でより多く用いられているのに対し、台湾語は地方部、特に中南部の地方でより好まれる傾向にある。また年齢層別に見た場合では、老年層が台湾語を、若年層が北京語をそれぞれより多く用いる傾向に有る。 七字仔 (Chhit-jī-á) は各行が七言からなる詩格である。 また、「歌仔戯 (koa-á-hì)(台湾オペラ)」という台湾語で表現するミュージカルもあり、多くの歴史の物語が台本化されている。 布袋戯(pò·-tē-hì,「台湾人形劇」)という人形劇もある。布袋戯は子供だけではなく大人も見る人形劇として有名で、台湾では日本の文楽のような存在とも言えよう。1970年代にテレビでドラマのように毎日放送され、97%の視聴率を記録した。国民の過熱を緩和するため放送禁止される事態となった。今もケーブルテレビ専門のチャンネルがあり、毎日一日中放送している。2000年頃に映画「聖石伝説」も製作され、日本でも日本版が販売されている。 また、ポピュラー音楽においても台湾語で歌う曲が多数製作されているが、主に中国語の書き言葉を広東語読みで作詞した香港ポップスと異なり、閩南語の口語の言葉と文法で作詞した曲がほとんどである。 18世紀から19世紀の台湾では、戦乱が続き人心は乱れた。政府(中国および日本)に対する蜂起に加え、民族同士の戦いも多かった。通常、交戦国は、使っている言語ごとに同盟を組んだ。歴史上、客家語と台湾語を使う民族との間、それらと台湾原住民との間、さらに泉州弁を使う民族と漳州弁を使う民族との間の戦いがあったと記されている。 その後20世紀になってから、台湾語の概念化は、ほとんどの中国語のどの変種よりも大きな物議をかもした。というのも、1949年に台湾に来た外省人と、既に台湾にいた大部分の台湾人(本省人)の間に明確な差が見られたからである。これら2つのグループ間における政治的、言語的な溝はほとんど埋まったにもかかわらず、台湾語に関する政治的問題は、他の中国語の変種にかかる問題よりも、大きな議論となり、また微妙な問題となった。 台湾語の歴史と、標準中国語である北方語(北京語、Mandarin)との相互関係は複雑で、常に議論の的になっている。台湾語をどう呼ぶかという呼称すらも議論の対象となっている。南福建系の一部の台湾人が自らを台湾人、台湾語と呼ぶ場合、原住民や客家など他の民族から、北京語、客家語、台湾原住民族語などのその他の言語の存在を過小評価する排外主義として、反対している。そういう人たちの多くは、これを中国福建省で使われる言語の変種であるする観点から、閩南語、または福建語 (Hokkien) という呼称の方が良いと主張する。しかし、福建省では客家語やショー語など異なる言語も存在するので、閩南語という呼称もまた福建省の多様性を無視するものとなっている。一方で、台湾は中国ではないとする観点から、閩南語、福建語という呼称は適切ではないとして、また台湾の他の言語集団にも配慮して、より中立的な名称としてホーロー語、あるいは台湾ホーロー語と呼ぶことが増えている。 中国国民党政権は、北京官話(北京語)を「国語」と呼んで、公用語としていたため、1980年代までは、学校での台湾語使用を禁止、あるいは媒体での台湾語の放送の量を制限していた。本省人の若者の間で台湾語よりも「国語」(北京官話)が支配的になっている理由としては教育やこれらの国策の影響がある。ただし現在のところ、台湾南部では、まだまだ民間社会のL領域(非公式な場)においては台湾語による会話の方が「国語」より優勢である。 教育においては相変わらず国語(北京官話)が支配的だが、台湾語、客家語、または原住民族の言語の教育が必要だとの声が次第に高まってきている。 北京語ではなく台湾語を使うということは、国民党独裁体制への抵抗や台湾独立運動の一環として始まったが、民主化が定着しつつある現在では政治と言語のつながりはかつてほど強くはない。民進党陣営や独立派にとっても国民党陣営にとっても、台湾の政治において、北京語と台湾語の並行使用は、既に当たり前の現実になっているためである。 たとえば、外省人である宋楚瑜は、国民党の要職に就いた当初、メディアコントロールの責任者(新聞局長)を務め、台湾語をはじめとする母語の使用を制限していた。しかし1980年代の民主化以降は、半公式的な場で台湾語を積極的に使おうとする最初の外省人政治家となった。彼を皮切りに、母語話者でなく、台湾独立に反対する政治家も、台湾語を頻繁に使うケースが続々と現れた。 逆に、台湾本土派の政治家でも、現在では公的な場で北京語を用いることも少なくない。たとえば、陳水扁前中華民国総統は、就任式や外国からの接客といった公的な場では北京語を用いることも多かった。しかし、公的な場面でも選挙戦や民進党関係の集会では台湾語を多用し、新年のあいさつのような非公式あるいは親密さを表す場では台湾語をよく用いていた。 現在では、外省人の二世、三世でも、母語並みに台湾語を操る人も増えている。また、日本統治時代以前から、台湾語が台湾社会で人口で優勢だったこともあって、台湾語を母語としない客家人の間でも、商売の必要性などから台湾語が流暢な者も多かった。逆に現在ではホーロー人であっても、都市中産層出身の場合は台湾語が下手な人も増えている。つまり、「台湾語はホーロー人の言語で、北京語は外省人の言語」などといった言語とエスニックグループの関連付けも崩れつつある。 しかしながら、このように台湾社会の現実では、エスニックグループに関係なく、いろんな言語を混在して使うケースが増えているにもかかわらず、台湾語と北京語の間の関係については、いまだに政治的な対立点にもなっている。 一般的に、保守的な国民党陣営は、国民党一党支配時代以来の北京語を優先する政策を堅持し、北京語は異なるエスニックグループ間の共通言語としての役割を果たすべきだと主張する傾向がある。この陣営はまた、国語や公用語は一つであるべきだと考えている。 それに対して、民進党陣営や台湾独立派は、台湾語をはじめとしたすべての台湾の言語が同等に尊重されるべきだと主張する傾向が強い。民進党は、1986年の成立時点から「多言語主義」を綱領の中でも主張してきた。 事実、2000年に民進党が政権を獲得してからは、国民党時代の「単一国語主義」ではなく、多言語政策が進められている。客家語を使う客家テレビや原住民族諸語も使う原住民族テレビなどが次々に成立し、政府の広報CMでも、台湾語や客家語も多用されるようになった。現在では台湾語だけを台湾の土着言語として重視するのではなく、客家語や原住民族諸語も国語あるいは公用語にすべきだという意見が強まっている。民進党政権(当時)は台湾のすべての言語を尊重して北京語独占を排除する「国家言語法」制定を推進しているが、保守的な勢力はこれに強く抵抗している。 台湾語という言葉が、誤って北京官話(マンダリン)系の言語のことを指して使われることもある。現在の多くの言語学者が、この北京官話系の台湾方言のことを台湾国語と呼んでいるほか、台湾華語という呼び名も台湾の留学生向け語学教育機関を中心に使われている。 台湾華語は、中華民国(台湾の政府)の事実上の公式言語であり、台湾人の約8割が流暢に話すことができる。ただ、台湾華語は、語彙、文法および発音において、中華人民共和国の(普通話)とはいくぶん異なる。その違いは、イギリス英語とアメリカ英語の違いと同程度のものである。特に1949年以降に発明されたり普及したものについては語彙が異なることが多い(例:バス(普通話: 公交车、台湾: 公車 )、光ディスク(普通話: 光盘、台湾: 光碟))。 差別撤廃の表現として、台湾で普及しているまたは台湾特有の全ての言語を包括して台湾語と呼ぶべきだと提唱している人もいる。つまり、ここでの台湾語とは客家語やオーストロネシア語族に属する先住民語などが含まれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "台湾語(たいわんご、白話字:Tâi-oân-oē、中: 台湾话、英: Taiwanese)または台語(白話字:Tâi-gí/Tâi-gú)、福佬語/河洛語/学老語(ホーローご) 、台湾閩南語(たいわんびんなんご)とは、台湾人口の74.5%以上を話者とする言語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "台湾の客家人や台湾原住民ら他言語を話す台湾人の中にも理解し話せる人もいる。台湾語の母語話者は河洛人(ホーロー、福佬または学老)と呼ばれる(台湾語より台語と呼ぶ方が一般的である)。また、同じ台湾語でも地方により若干の発音の訛りや語の違いがある。例を挙げれば、台語のことを高雄近辺では Tâi-gí、台北近辺では Tâi-gú と発音するが、その違いは他の言語の方言に比べて大きなものではなく、相互理解に支障を来たすものでもない。近年標準的な方言と見なされているものは、高雄市とその周辺の高雄方言であり、教材の多くはこの方言を用いている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "台湾語は、福建省南部で話されている閩南語(Bân-lâm-gú、Hokkien)から派生し、独自の発展を遂げた変種であるが、部分相互理解が可能である。伝統的に、台湾語は 中国語という大きなグループ内の方言と見なされている。 伝統的な分類に従えば、以下のような階層構造で表される:", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "台湾人の祖先は、17世紀から19世紀にかけて福建から移住してきた人たちが大半であり、その言葉が基礎になって広まったため、台湾語は閩語の南部方言である閩南語に似ている。台湾語の語彙は、口語音系と文語音系とに分けられる。文語音系は中古漢語に基づくものであり、10世紀に閩語にて発達し、台湾へは知識人がもたらしたものである。この台湾文語音系にもとづく文語文(文章では)はかつて公的な場面で用いられたが、現在は一部台湾語読みの聖書、一部古典文芸、仏教典などに残るのみで、ほぼ廃れている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "盧溢棋や、李勤岸(ハーバード大学、Lí Khîn-hoān、Tavokan Khîn-hoān)などの研究者による最近の業績は王育徳などの研究者による以前の研究に基づくものである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "音韻的には、台湾語は非常に発達した連続変調規則を持つ声調言語である。一音節には頭子音、母音、末子音が含まれる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ここでは、国際音声記号のほか、白話字、注音符号にて表記する。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "子音には次のようなものがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年では [ɡ] が [ʔ] に、[ʣ]・[ʥ] が [l] に同化する現象が見られる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "母音には次のようなものがあり、方式によって表記に違いがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "白話字の母音 o は非円唇後舌半狭母音で、あいまい母音(シュワー)と類似している。それとは対照的に、o͘ は円唇後舌半広母音で、やや口を開いて唇をすぼめる。日本統治時代の台湾語仮名では「ヲ」「オ」で表記されている。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "加えて、二重母音や三重母音が多くある(例えばiau)。また、母音 mやngは単独で音節となりうる。鼻音ではない母音と鼻母音は対をなすことが多い。例えば、aは普通の母音であるが、anは同じ調音位置で発音する鼻母音である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "すべての音節に声調がある。声調は7つある。伝統的に1 - 8と数字で表され、鹿港鎮などごく一部地域を除く大部分の地域では第2声と第6声とは同じ声調を表す。例えば、音節aを声調つきで示すと次のようになる:", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "伝統的な言語分析では、声調を5段階で記述し(声調を表す番号の右の数字は、レベル5が最も高く、レベル1が最も低いことを示す)、それを中古漢語の声調と結び付けている(下記では、その中古漢語の声調名が示されている):", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、(一例として)参考文献にあるWi-vun Taiffalo Chiung'の現代音韻分析を参照。上記の分類に異議を唱えている。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第4声と第8声では、末子音にh、p、t、kの内破音が生じる。末子音がp、t、kの場合、その音が鼻音になることは不可能であり、これらはそれぞれ、他の声調の鼻子音m、n、ngに対応している。sianhのように、第4声や第8声での末子音がhの場合は、その音節が鼻音になることが可能である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "軽声は、動詞の行為の拡張や名詞句の終わりなどを示す際に現れる。軽声を表記する際は、前の音節とdouble dash(--)を介して表記することが多い。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "台湾北部で話される方言では、第4声と第8声の区別がない。いずれも第4声として発音され、後述する連続変調規則も第4声の規則が適用される。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "音節は、子音の間に母音(単母音 or 二重母音 or 三重母音)が必要である(ただし、子音であるmやngも、例外的に母音のように音節主音として機能する場合がある)。全ての子音は語頭に生じうる。子音p, t, k, m, n, ng(hを含める人もいる)は音節末に生じうる。故に、ngiau(\"かゆみ(をかく)\")やthng(\"スープ\")などが可能である。第二の例では鼻音ngが音節主音である。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "台湾語には非常に多くの連続変調規則がある。発話の際、最後に発音される音節のみがこの規則の適用を受けない。'発話'とは何かという問題は、この言語の研究では熱いトピックである。概略的に言えば、発話は語、句、短文と考えられうる。下記の連続変調規則の記述は伝統的な説明方法にのっとったものであり、教育上記憶しやすい配列をなしている。影響を受ける音節(つまり、発語の最後の音節以外の全て)の声調がどのように変調するかは下記の通りである。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "台湾語の語彙の出自について概観する。近年の言語研究によれば、(by Robert L. Cheng and Chin-An Li, for example) わずかの例外(およそ10% - 25%)を除き、大半の台湾語の語は他の中国語方言と同系語であるとしている。一方で、同系語であるかどうかよく分からない、漢字形態素による語構成であるとはっきり断定することのできないものも存在する。例えば、有名なものでchhit-thô(チットヲ、遊び)がある。その中のいくつかは、最近南方のシナ諸語の周縁言語グループであるタイ・カダイ諸語、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族などとの対照研究が進み、そうした非漢語系言語の残存であるという指摘もなされている。こうした漢語起源ではない語をあえて漢字で表記する場合は、意味や発音の似た漢字を当てて表記したり、日本における国字のように新たに創作した独自の漢字で表記する場合もある。最近の台湾語文字化運動では、明らかな漢語部分は漢字で、そうでないものはローマ字で混合表記する「漢羅」という表記方法が提唱され、いくつかの出版物も出ている。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "以下に代表的な借用語を表にまとめた。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "台湾語の語彙には日本統治時代に流入した日本語起源の語彙がいくつかある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "台湾語では“我々”を表す2通りの代名詞がある。阮 (góan) はいわゆる「除外の一人称複数 (聞き手を含まない)」であり、咱 (lán) は「包括の一人称複数(聞き手を含む)」である。これは英語の、\"Let's go!\"(聞き手を含む : 咱[lán]で翻訳)と\"Let us go!\"(聞き手を含まない : 阮[góan]で翻訳)の関係に似ている。包括の咱 (lán) は、丁寧さや連帯感を表現する際に使われることがある。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "kán--ê the̍h-khì-chia̍h「敢个提去食」 - 勇気のあるヤツが取って食べてしまう。蛮勇を奮ったものが勝つ。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "tsia̍h-pá-bē「呷飽未?」 - ご飯いっぱい食べたかの意味から変わり、挨拶言葉として使われてる。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "o-ló iáu-bē suànn tiò tshiùnn tshīng-îng「讚美阿未散佇唱頌榮」 - 讃美が終わる前に称栄を歌い始まる。せっかちなどによる順番と秩序が乱れることを指す。", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "台湾語の文法は中国南部の諸方言に似ており、客家語 や 広東語と親戚関係にある。語順は普通話のように「主語 動詞 目的語」が典型的だが、「主語 目的語 動詞」や 受動態(語順は「目的語 主語 動詞」)は不変化詞を伴うと可能である。例えば簡単な文「私は君を抱く」を例に取ろう。 含まれる語はgoá(「我」:“私”)、phō(「抱」:“抱く”)、lí(「汝」:“君”)である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "標準的語順の文はGoá phō lí(「我抱汝」:\"私は君を抱っこする\")となる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ほぼ同じ意味で異なる語順の文は Goá kā lí phō「我共汝抱」である。多少 \"I take you and hold\" や \"I get to you and hold\"のような意味が含まれる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "そして、Lí hō· goá phō「汝予我抱」も同じ意味を表すが、受動態で\"You allow yourself to be held by me\" や \"You make yourself available for my holding\"のような意味を含む。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これを元により複雑な文を作ることができる。Goá kā chúi hō· lí lim(「我共水予汝啉」\"I give water for you to drink\": chúi「水」は \"water\"、lim 「啉」は\"to drink\"の意味)。この記事では、文法に関してごくわずかしか例を挙げることができない。台湾語の統語論についての言語学の研究は、いまだに検討を要する学問のトピックである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "現在、台湾語の表記における正書法というものは存在しない。これまで多くの研究者によってさまざまな台湾語の表記方法が考案・改良されてきたが、正書法を定めるには至っていない。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中国語方言圏では歴史的に共通語としての文語が存在し、表記はその文語文が模範とされ、話し言葉としての中国語方言をそのまま表記するということはなかった。言文一致が定着した現在でも表記は普通話基調の口語文である。これは台湾でも同様であり、台湾語の話者が実生活において台湾語を表記する必然性はないのである。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "台湾語の表記は主に研究・教育の目的で行なわれ、発音符号としての面が重視されたため、非漢字形態素をどう表記するかという問題よりも、台湾語の発音をいかに正確かつ明瞭に表記するかについて多く議論されてきた。近年は台湾語の地位向上により、台湾語の文書を意識的に作成するケースが見られ、純粋に正書法という観点で台湾語の表記法を模索する動きも見られるようになった。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "台湾語を構成する形態素の大半は漢字形態素であり、基本的に台湾語を表記する文字は漢字である。しかし、語彙の項で前述したように、漢字でどう表記すべきかはっきりしない語があり、その場合は発音の似た漢字を借用して当て字としたり、意味の同じ字を訓読みしたり、新たに方言字を創作したりしたが、近年はローマ字で表記して漢字とローマ字の混ぜ書きを行なう試みもなされている。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "台湾語をローマ字でどのように表記するかについてはこれまで様々な方法が考案され、現在でも更なる改良が進んでいる。台湾語のローマ字表記法の中で最も代表的なのは白話字(Pe̍h-ōe-jī, POJ)である(「教会ローマ字」とも呼ばれている)。白話字は長老派教会宣教師によって考案され、後に台湾基督長老教会によって改良された。この表記法は19世紀後半以降、台湾語の表記に積極的に用いられた。ウィキペディアの台湾語版zh-min-nan:もこの白話字で表記されている。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "白話字で用いる伝統的な文字は以下の通りである:", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現在は使われていないtsを含めて、全部で24種類である(tsは現在のchのうち、後に母音のiが立たない場合に用いられていた)。これらに加えて、鼻音を表す (上添字のn、大文字のNで表記することもある)および声調符号を付記する。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "白話字以外のローマ文字ベースの表記法としては、TLPA (Taiwanese Language Phonetic Alphabet) 、通用拼音、TMSS (Taiwanese Modern Spelling System) なども提唱されたが、現状では白話字が優勢で、中華民国教育部も2006年、白話字に従った台湾語ラテン文字表記法 (The Taiwanese Romanization System) を公布し、教育の場で普及が図られている。ただし、まだまだ白話字に習熟した教育者が不足していたり、保守的勢力の妨害などもあって、その見通しは必ずしも明るくはない。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "帝國時代には台湾総督府によって台湾語の発音を片仮名(台湾語仮名)で付記することが試みられた。そのため、現在も少数意見で、仮名文字を応用する意見もある。また、高砂族や本省人の高齢者には日本語を母語とするものも存在する。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "普通話のために考案された注音符号を拡張して、台湾語の音声を表記できるようにする方法も考案されている。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "閩南語のIETF言語タグの言語サブタグとしてnanが登録されている。台湾語には固有の言語サブタグが登録されていないが、言語サブタグと地域サブタグを合わせることで、台湾語をnan-TWと表現することができる。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "以前は閩南語の言語タグとしてzh-min-nanが使われていた。これは古い仕様であるRFC 3066に基づいた言語タグであり、現行のRFC 5646でも互換性のため妥当な言語タグであるが、2009年7月29日より非推奨となった。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "前述したように、既存の漢字で表記するのが困難な台湾語を、任意に創作した漢字で表記することがある。こうした文字はUnicode(およびそれに対応するISO/IEC 10646: 国際符号化文字集合)には収録されていないので、コンピュータ処理するときに問題が生じる。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "白話字の場合は、声調符号を含め、ほとんど問題なくUnicodeで表記できる。2004年6月以前は、口を広く開ける母音o(oの右上に点を付けて表現する)がエンコードされていなかった。回避策として、中点 (· U+00B7) を使うか、組み合わせ文字の上点 ( ̇ U+0307) を使っていた。現在、前者は閩南語版ウィキペディアの表記において使われている。これらは理想からは程遠いので、1997年からISO-IEC 10646を担当するISO/IECワーキンググループ (ISO/IEC JTC 1/SC 2/WG2) に対し、新しい組み合わせ文字・上右点をエンコードするよう提案され、現在 COMBINING DOT ABOVE RIGHT ( ͘ U+0358) として正式に割り当てられている。対応フォントは「BabelStone Han」など。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "台湾語の表記に必要な拡張注音符号も1999年にUnicode 3.0で Bopomofo Extended にU+31A0からU+31B7としてエンコードされた。2010年のUnicode 6.0でU+31B8からU+31BAまで3文字、2020年のUnicode 13.0でU+31BBからU+31BFまで5文字追加された。フォントの普及はこれからである。", "title": "文字と正書法" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大まかに区分すると、台湾語には高雄方言、台北方言、中部海岸に典型的に見られる海口(ハイカウ)諸方言、北部(北東)沿岸方言(特に宜蘭県の宜蘭方言)、鼻音が重い台南方言(特に台南市中心部、元台南省轄市)などのバリエーションが存在する。制度化されていないこともあって、今のところ「標準的な台湾語」というものは存在しないが、強いて言えば、歴史的に古く、台湾語も日常的に優勢な高雄方言が、事実上の標準の地位を占めつつある。また、台東で使われている方言は、音韻体系からいって白話字に最も近い。台北方言の一部は第八声がないことと、一部の母音に交換が起こること(例えば「i」と「u」、「e」と「oe」)が特徴である。台中方言は「i」と「u」の中間の母音があり、これを「ö」で表記することがある。宜蘭方言は母音「ng」が'uiN'に変化することが特徴である。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "台湾人の大部分は、人によってその流暢さに大きな違いがあるものの、北京語と台湾語の両方を使用することができる。そのどちらを用いるかは状況によって異なるが、一般には公式の場では北京語を、非公式の場では台湾語を用いている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "台湾語は基本的には日常的に台湾すべての地域で話されているが、北京語が特に台北のような都市部でより多く用いられているのに対し、台湾語は地方部、特に中南部の地方でより好まれる傾向にある。また年齢層別に見た場合では、老年層が台湾語を、若年層が北京語をそれぞれより多く用いる傾向に有る。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "七字仔 (Chhit-jī-á) は各行が七言からなる詩格である。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、「歌仔戯 (koa-á-hì)(台湾オペラ)」という台湾語で表現するミュージカルもあり、多くの歴史の物語が台本化されている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "布袋戯(pò·-tē-hì,「台湾人形劇」)という人形劇もある。布袋戯は子供だけではなく大人も見る人形劇として有名で、台湾では日本の文楽のような存在とも言えよう。1970年代にテレビでドラマのように毎日放送され、97%の視聴率を記録した。国民の過熱を緩和するため放送禁止される事態となった。今もケーブルテレビ専門のチャンネルがあり、毎日一日中放送している。2000年頃に映画「聖石伝説」も製作され、日本でも日本版が販売されている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、ポピュラー音楽においても台湾語で歌う曲が多数製作されているが、主に中国語の書き言葉を広東語読みで作詞した香港ポップスと異なり、閩南語の口語の言葉と文法で作詞した曲がほとんどである。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "18世紀から19世紀の台湾では、戦乱が続き人心は乱れた。政府(中国および日本)に対する蜂起に加え、民族同士の戦いも多かった。通常、交戦国は、使っている言語ごとに同盟を組んだ。歴史上、客家語と台湾語を使う民族との間、それらと台湾原住民との間、さらに泉州弁を使う民族と漳州弁を使う民族との間の戦いがあったと記されている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "その後20世紀になってから、台湾語の概念化は、ほとんどの中国語のどの変種よりも大きな物議をかもした。というのも、1949年に台湾に来た外省人と、既に台湾にいた大部分の台湾人(本省人)の間に明確な差が見られたからである。これら2つのグループ間における政治的、言語的な溝はほとんど埋まったにもかかわらず、台湾語に関する政治的問題は、他の中国語の変種にかかる問題よりも、大きな議論となり、また微妙な問題となった。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "台湾語の歴史と、標準中国語である北方語(北京語、Mandarin)との相互関係は複雑で、常に議論の的になっている。台湾語をどう呼ぶかという呼称すらも議論の対象となっている。南福建系の一部の台湾人が自らを台湾人、台湾語と呼ぶ場合、原住民や客家など他の民族から、北京語、客家語、台湾原住民族語などのその他の言語の存在を過小評価する排外主義として、反対している。そういう人たちの多くは、これを中国福建省で使われる言語の変種であるする観点から、閩南語、または福建語 (Hokkien) という呼称の方が良いと主張する。しかし、福建省では客家語やショー語など異なる言語も存在するので、閩南語という呼称もまた福建省の多様性を無視するものとなっている。一方で、台湾は中国ではないとする観点から、閩南語、福建語という呼称は適切ではないとして、また台湾の他の言語集団にも配慮して、より中立的な名称としてホーロー語、あるいは台湾ホーロー語と呼ぶことが増えている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "中国国民党政権は、北京官話(北京語)を「国語」と呼んで、公用語としていたため、1980年代までは、学校での台湾語使用を禁止、あるいは媒体での台湾語の放送の量を制限していた。本省人の若者の間で台湾語よりも「国語」(北京官話)が支配的になっている理由としては教育やこれらの国策の影響がある。ただし現在のところ、台湾南部では、まだまだ民間社会のL領域(非公式な場)においては台湾語による会話の方が「国語」より優勢である。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "教育においては相変わらず国語(北京官話)が支配的だが、台湾語、客家語、または原住民族の言語の教育が必要だとの声が次第に高まってきている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "北京語ではなく台湾語を使うということは、国民党独裁体制への抵抗や台湾独立運動の一環として始まったが、民主化が定着しつつある現在では政治と言語のつながりはかつてほど強くはない。民進党陣営や独立派にとっても国民党陣営にとっても、台湾の政治において、北京語と台湾語の並行使用は、既に当たり前の現実になっているためである。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "たとえば、外省人である宋楚瑜は、国民党の要職に就いた当初、メディアコントロールの責任者(新聞局長)を務め、台湾語をはじめとする母語の使用を制限していた。しかし1980年代の民主化以降は、半公式的な場で台湾語を積極的に使おうとする最初の外省人政治家となった。彼を皮切りに、母語話者でなく、台湾独立に反対する政治家も、台湾語を頻繁に使うケースが続々と現れた。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "逆に、台湾本土派の政治家でも、現在では公的な場で北京語を用いることも少なくない。たとえば、陳水扁前中華民国総統は、就任式や外国からの接客といった公的な場では北京語を用いることも多かった。しかし、公的な場面でも選挙戦や民進党関係の集会では台湾語を多用し、新年のあいさつのような非公式あるいは親密さを表す場では台湾語をよく用いていた。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "現在では、外省人の二世、三世でも、母語並みに台湾語を操る人も増えている。また、日本統治時代以前から、台湾語が台湾社会で人口で優勢だったこともあって、台湾語を母語としない客家人の間でも、商売の必要性などから台湾語が流暢な者も多かった。逆に現在ではホーロー人であっても、都市中産層出身の場合は台湾語が下手な人も増えている。つまり、「台湾語はホーロー人の言語で、北京語は外省人の言語」などといった言語とエスニックグループの関連付けも崩れつつある。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "しかしながら、このように台湾社会の現実では、エスニックグループに関係なく、いろんな言語を混在して使うケースが増えているにもかかわらず、台湾語と北京語の間の関係については、いまだに政治的な対立点にもなっている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "一般的に、保守的な国民党陣営は、国民党一党支配時代以来の北京語を優先する政策を堅持し、北京語は異なるエスニックグループ間の共通言語としての役割を果たすべきだと主張する傾向がある。この陣営はまた、国語や公用語は一つであるべきだと考えている。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "それに対して、民進党陣営や台湾独立派は、台湾語をはじめとしたすべての台湾の言語が同等に尊重されるべきだと主張する傾向が強い。民進党は、1986年の成立時点から「多言語主義」を綱領の中でも主張してきた。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "事実、2000年に民進党が政権を獲得してからは、国民党時代の「単一国語主義」ではなく、多言語政策が進められている。客家語を使う客家テレビや原住民族諸語も使う原住民族テレビなどが次々に成立し、政府の広報CMでも、台湾語や客家語も多用されるようになった。現在では台湾語だけを台湾の土着言語として重視するのではなく、客家語や原住民族諸語も国語あるいは公用語にすべきだという意見が強まっている。民進党政権(当時)は台湾のすべての言語を尊重して北京語独占を排除する「国家言語法」制定を推進しているが、保守的な勢力はこれに強く抵抗している。", "title": "社会言語学的側面" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "台湾語という言葉が、誤って北京官話(マンダリン)系の言語のことを指して使われることもある。現在の多くの言語学者が、この北京官話系の台湾方言のことを台湾国語と呼んでいるほか、台湾華語という呼び名も台湾の留学生向け語学教育機関を中心に使われている。", "title": "その他の意味" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "台湾華語は、中華民国(台湾の政府)の事実上の公式言語であり、台湾人の約8割が流暢に話すことができる。ただ、台湾華語は、語彙、文法および発音において、中華人民共和国の(普通話)とはいくぶん異なる。その違いは、イギリス英語とアメリカ英語の違いと同程度のものである。特に1949年以降に発明されたり普及したものについては語彙が異なることが多い(例:バス(普通話: 公交车、台湾: 公車 )、光ディスク(普通話: 光盘、台湾: 光碟))。", "title": "その他の意味" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "差別撤廃の表現として、台湾で普及しているまたは台湾特有の全ての言語を包括して台湾語と呼ぶべきだと提唱している人もいる。つまり、ここでの台湾語とは客家語やオーストロネシア語族に属する先住民語などが含まれる。", "title": "その他の意味" } ]
台湾語または台語(白話字:Tâi-gí/Tâi-gú)、福佬語/河洛語/学老語(ホーローご) 、台湾閩南語(たいわんびんなんご)とは、台湾人口の74.5%以上を話者とする言語である。 台湾の客家人や台湾原住民ら他言語を話す台湾人の中にも理解し話せる人もいる。台湾語の母語話者は河洛人(ホーロー、福佬または学老)と呼ばれる(台湾語より台語と呼ぶ方が一般的である)。また、同じ台湾語でも地方により若干の発音の訛りや語の違いがある。例を挙げれば、台語のことを高雄近辺では Tâi-gí、台北近辺では Tâi-gú と発音するが、その違いは他の言語の方言に比べて大きなものではなく、相互理解に支障を来たすものでもない。近年標準的な方言と見なされているものは、高雄市とその周辺の高雄方言であり、教材の多くはこの方言を用いている。
{{about|台湾人の母語および台湾最大の方言|台湾の標準中国語|台湾国語}} {{Otheruses|ホーロー語とも呼ばれる漢諸語、漢語方言の一つ|その他|#その他の意味}} {{独自研究|date=2010年5月}} {{Pathnav|シナ・チベット語族|シナ語派|中国語|閩語|{{仮リンク|沿海閩語|zh|沿海閩語}}|閩南語|泉漳語|frame=1}} {{特殊文字|説明=[[JIS X 0213]]、[[繁体字]]、[[簡体字]]、[[拡張漢字|CJK統合漢字拡張A]]}} {{Infobox Language |name=台湾語 |nativename={{lang|zh|臺灣話、臺語、河洛話/福佬話/學老話}}</span><br />{{Unicode|Tâi-oân-oē, Tâi-gí, Hō-ló-oē}} |states={{ROC-TW}} |region=[[東アジア]] |speakers=約1650万人([[台湾]]全体の74.5%)<br/>(行政院文化建設委員会) |familycolor=シナ・チベット語族 |fam2=[[シナ語派]] |fam3=[[中国語]] |fam4=[[閩語]] |fam5={{仮リンク|沿海閩語|zh|沿海閩語}} |fam6=[[閩南語]] |fam7=[[泉漳語]] |nation= {{TWN}}([[国家語]]) |agency= {{ROC}}[[文化部 (中華民国)|文化部]] |map=[[ファイル:Taiwanese Hoklo Usage Map.svg|300px]] |script=[[漢字]]<br>[[白話字]]}} {{Chinese |title=台湾語 |name1=台湾話 |t=臺灣話 |s=台湾话 |altname=台語 |t2=臺語 |s2=台语 |altname3=ホーロー語 |t3=福佬話/河洛話/學老話 |s3=福佬话/河洛话/学老话 |tl=Tâi-uân-uē |p=Táiwānhuà |bpmf=ㄊㄞˊ ㄨㄢ ㄏㄨㄚˋ |kana=タイ[[Image:Taiwanese kana normal tone 5.png|15px]]ヲァヌ[[Image:Taiwanese kana normal tone 5.png|15px]]ヲエ[[Image:Taiwanese kana normal tone 7.png|30px|15px]] |poj=Tâi-oân-oē |h=Thòi-vân-fa |j=Toi<sup>4</sup>waan<sup>1</sup>waa<sup>6*2</sup> |tl2=Tâi-gí |p2=Táiyǔ |bpmf2=ㄊㄞˊ ㄩˇ |kana2=タイ[[Image:Taiwanese kana normal tone 5.png|15px]]ギイ[[Image:Taiwanese kana normal tone 2.png|15px]] |poj2= |h2=Thòi-ngî |j2=Toi<sup>4</sup>jyu<sup>5</sup> |p3=HéLuòhuà |tl3=Hō-ló-oē |bpmf3=ㄏㄜˊ ㄌㄨㄛˋ ㄏㄨㄚˋ |h3=Hò-lo̍k-fa }} '''台湾語'''(たいわんご、[[白話字]]:{{Unicode|Tâi-oân-oē}}、{{lang-zh-short|台湾话}}、{{lang-en-short|Taiwanese}})または'''台語'''(白話字:{{Unicode|Tâi-gí/Tâi-gú}})、'''福佬語/河洛語/学老語'''(ホーローご) 、'''台湾閩南語'''(たいわんびんなんご)とは、[[台湾]]人口の74.5%以上を話者とする言語である<ref name="ethnologue">{{cite web |title = Languages of Taiwan |url = http://www.ethnologue.com/show_country.asp?name=TW |publisher = [[エスノローグ|Ethnologue]] |accessdate = 2008-12-04 }}</ref>。 [[台湾]]の[[客家人]]や[[台湾原住民]]ら他言語を話す[[台湾人]]の中にも理解し話せる人もいる。台湾語の[[第一言語|母語]]話者は[[河洛]]人(ホーロー、福佬または学老)と呼ばれる(台湾語より'''台語'''と呼ぶ方が一般的である)。また、同じ台湾語でも地方により若干の発音の訛りや語の違いがある。例を挙げれば、台語のことを[[高雄市|高雄]]近辺では Tâi-gí、[[台北]]近辺では {{Unicode|Tâi-gú}} と発音するが、その違いは他の言語の[[方言]]に比べて大きなものではなく、相互理解に支障を来たすものでもない。近年標準的な方言と見なされているものは、[[高雄市]]とその周辺の[[高雄市|高雄]]方言であり<ref>http://twblg.dict.edu.tw/holodict_new/index.html</ref>、教材の多くはこの方言を用いている。 == 分類 == 台湾語は、[[福建省]]南部で話されている[[閩南語]](B&#226;n-l&#226;m-g&#250;、Hokkien)から派生し、独自の発展を遂げた変種であるが、部分相互理解が可能である。伝統的に、台湾語は [[中国語]]という大きなグループ内の方言と見なされている。 伝統的な分類に従えば、以下のような階層構造で表される: :[[シナ・チベット語族]] > [[シナ語派]] > [[中国語]] > [[閩語]] > [[閩南語]] > [[泉漳語]] > '''台湾語''' [[台湾人]]の祖先は、[[17世紀]]から[[19世紀]]にかけて福建から移住してきた人たちが大半であり、その言葉が基礎になって広まったため、台湾語は[[閩語]]の南部方言である[[閩南語]]に似ている。台湾語の語彙は、[[口語]]音系と[[文語]]音系とに分けられる。文語音系は[[中古漢語]]に基づくものであり、[[10世紀]]に閩語にて発達し、台湾へは知識人がもたらしたものである。この台湾文語音系にもとづく文語文(文章では)はかつて公的な場面で用いられたが、現在は一部台湾語読みの[[聖書]]、一部古典文芸、仏教典などに残るのみで、ほぼ廃れている。 盧溢棋や、[[:zh:李勤岸|李勤岸]]([[ハーバード大学]]、{{Unicode|Lí Khîn-ho&#257;&#8319;}}、{{Unicode|Tavokan Khîn-ho&#257;&#8319;}})などの研究者による最近の業績は[[王育徳]]などの研究者による以前の研究に基づくものである。 == 音韻 == [[音韻論|音韻]]的には、台湾語は非常に発達した[[連続変調]]規則を持つ[[声調言語]]である。一[[音節]]には頭[[子音]]、[[母音]]、末[[子音]]が含まれる。 ここでは、[[国際音声記号]]のほか、[[白話字]]、[[注音符号]]にて表記する。 === 子音 === [[子音]]には次のようなものがある。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" lang="zh-tw" |-lang="ja" !rowspan=2 colspan=2| !!colspan=2|[[両唇音]]||colspan=2|[[歯茎音]]||colspan=2|[[歯茎硬口蓋音]]||colspan=2|[[軟口蓋音]]||[[声門音]] |-lang="ja" ![[無声音]]!![[有声音]]!!無声音!!有声音!!無声音!!有声音 !無声音!!有声音!!無声音 |- !lang="ja" colspan=2|[[鼻音]] | ||[[両唇鼻音|{{larger|'''{{IPA|m}}'''}}]]<br />m ㄇ 毛|| ||[[歯茎鼻音|{{larger|'''{{IPA|n}}'''}}]]<br />n ㄋ 耐|| || | ||[[軟口蓋鼻音|{{larger|'''{{IPA|ŋ}}'''}}]]<br />ng ㄫ 雅|| |- !lang="ja" rowspan=2|[[破裂音]]||lang="ja"|[[有気音|無気音]] |[[無声両唇破裂音|{{larger|'''{{IPA|p}}'''}}]]<br />p ㄅ 邊||[[有声両唇破裂音|{{larger|'''{{IPA|b}}'''}}]]<br />b ㆠ 文 |[[無声歯茎破裂音|{{larger|'''{{IPA|t}}'''}}]]<br />t ㄉ 地|| || || |[[無声軟口蓋破裂音|{{larger|'''{{IPA|k}}'''}}]]<br />k ㄍ 求||[[有声軟口蓋破裂音|{{larger|'''{{IPA|ɡ}}'''}}]]<br />g ㆣ 語 |[[声門破裂音|{{larger|'''{{IPA|ʔ}}'''}}]]<br />(無)英 |- !lang="ja"|[[有気音]] |[[無声両唇破裂音|{{larger|'''{{IPA|pʰ}}'''}}]]<br />ph ㄆ 波|| ||[[無声歯茎破裂音|{{larger|'''{{IPA|tʰ}}'''}}]]<br />th ㄊ 他|| || || |[[無声軟口蓋破裂音|{{larger|'''{{IPA|kʰ}}'''}}]]<br />kh ㄎ 去|| || |- !lang="ja" rowspan=2|[[破擦音]]!!lang="ja"|無気音 | || ||[[無声歯茎破擦音|{{larger|'''{{IPA|ʦ}}'''}}]]<br />ch,ts ㄗ 曾||[[有声歯茎破擦音|{{larger|'''{{IPA|ʣ}}'''}}]]<br />j ㆡ 熱 |[[無声歯茎硬口蓋破擦音|{{larger|'''{{IPA|ʨ}}'''}}]]<br />chi,tsi ㄐ 尖||[[有声歯茎硬口蓋破擦音|{{larger|'''{{IPA|ʥ}}'''}}]]<br />ji ㆢ 入|| || || |- !lang="ja"|有気音 | || ||[[無声歯茎破擦音|{{larger|'''{{IPA|ʦʰ}}'''}}]]<br />chh,tsh ㄘ 出|| |[[無声歯茎硬口蓋破擦音|{{larger|'''{{IPA|ʨʰ}}'''}}]]<br />chhi,tshi ㄑ 手|| || || || |- !lang="ja" colspan=2|[[摩擦音]] | || ||[[無声歯茎摩擦音|{{larger|'''{{IPA|s}}'''}}]]<br />s ㄙ 衫|| ||[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|{{larger|'''{{IPA|ɕ}}'''}}]]<br />si ㄒ 時|| || || |[[無声声門摩擦音|{{larger|'''{{IPA|h}}'''}}]]<br />h ㄏ 喜 |- !lang="ja" colspan=2|[[接近音]] | || || ||[[歯茎側面接近音|{{larger|'''{{IPA|l}}'''}}]]<br />l ㄌ 柳|| || || || || |} 近年では {{IPA|ɡ}} が {{IPA|ʔ}} に、{{IPA|ʣ}}・{{IPA|ʥ}} が {{IPA|l}} に同化する現象が見られる。 === 母音 === [[母音]]には次のようなものがあり、方式によって表記に違いがある。 {|class="wikitable" style="text-align:center;" lang="zh-tw" |- lang="ja" !rowspan=2| !!colspan=2|[[前舌母音]]!![[中舌母音]]!!colspan=2|[[後舌母音]] |- lang="ja" !基本!![[鼻音化]]!!基本!!基本!!鼻音化 |- !lang="ja"|[[狭母音]] |[[非円唇前舌狭母音|{{larger|'''{{IPA|i}}'''}}]]<br />i ㄧ 衣||[[非円唇前舌狭母音|{{larger|'''{{IPA|ĩ}}'''}}]]<br />{{Unicode|iⁿ,inn}} ㆪ 圓|| |[[円唇後舌狭母音|{{larger|'''{{IPA|u}}'''}}]]<br />u ㄨ 污(u)||[[円唇後舌狭母音|{{larger|'''{{IPA|ũ}}'''}}]]<br />{{Unicode|uⁿ,unn}} ㆫ 張 |- !lang="ja"|[[中央母音]] |[[非円唇前舌半狭母音|{{larger|'''{{IPA|e}}'''}}]]<br />e ㆤ 禮||[[非円唇前舌半狭母音|{{larger|'''{{IPA|ẽ}}'''}}]]<br />{{Unicode|eⁿ,enn}} ㆥ 生 |[[シュワー|{{larger|'''{{IPA|ə}}'''}}]]<br />o ㄜ 蚵 |[[円唇後舌半広母音|{{larger|'''{{IPA|ɔ}}'''}}]]<br />{{Unicode|o͘ ,oo}} ㆦ 烏||[[円唇後舌半広母音|{{larger|'''{{IPA|ɔ̃}}'''}}]]<br />{{Unicode|oⁿ,onn}} ㆧ 惡 |- !lang="ja"|[[広母音]] |[[非円唇前舌広母音|{{larger|'''{{IPA|a}}'''}}]]<br />a ㄚ 查||[[非円唇前舌広母音|{{larger|'''{{IPA|ã}}'''}}]]<br />{{Unicode|aⁿ,ann}} ㆩ 衫|| || || |} [[白話字]]の母音 '''o''' は[[非円唇後舌半狭母音]]で、[[シュワー|あいまい母音]]([[シュワー]])と類似している。それとは対照的に、'''{{Unicode|o͘}}''' は[[円唇後舌半広母音]]で、やや口を開いて唇をすぼめる。[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の[[台湾語仮名]]では「ヲ」「オ」で表記されている。 加えて、[[二重母音]]や[[三重母音]]が多くある(例えば''iau'')。また、母音 ''m''や''ng''は単独で音節となりうる。鼻音ではない母音と[[鼻母音]]は対をなすことが多い。例えば、''a''は普通の母音であるが、''{{Unicode|a&#8319;}}''は同じ[[調音位置]]で発音する鼻母音である。 === 声調 === すべての音節に[[声調言語|声調]]がある。声調は7つある。伝統的に1 - 8と数字で表され、[[鹿港鎮]]などごく一部地域を除く大部分の地域では第2声と第6声とは同じ声調を表す。例えば、音節''a''を声調つきで示すと次のようになる: #a; 高平 #{{Unicode|á}}; 降下 #{{Unicode|à}}; 低平 #ah; 低止 #{{Unicode|â}}; 上昇 #ǎ。ただし台湾語の殆どでは第2声に合流している。 #{{Unicode|&#257;}}; 中平 #{{Unicode|a&#781;h}}; 高止 伝統的な言語分析では、声調を5段階で記述し(声調を表す番号の右の数字は、レベル5が最も高く、レベル1が最も低いことを示す)、それを[[中古漢語]]の声調と結び付けている(下記では、その[[中古漢語]]の声調名が示されている): # 44; &#38512;&#24179; # 51; 陰&#19978; # 31; &#38512;&#21435; # 3; &#38512;&#20837; # 24; &#38525;&#24179; # 陽上。ただし台湾語の殆どでは陰&#19978;声に合流している。 # 33; &#38525;&#21435; # 5; &#38525;&#20837; また、(一例として)[[#参考文献|参考文献]]にあるWi-vun Taiffalo Chiung'の現代[[音韻論|音韻]]分析を参照。上記の分類に異議を唱えている。 第4声と第8声では、末子音に''h''、''p''、''t''、''k''の[[内破音]]が生じる。末子音が''p''、''t''、''k''の場合、その音が鼻音になることは不可能であり、これらはそれぞれ、他の声調の鼻子音''m''、''n''、''ng''に対応している。''sia&#8319;h''のように、第4声や第8声での末子音が''h''の場合は、その音節が鼻音になることが可能である。 [[軽声]]は、動詞の行為の拡張や名詞句の終わりなどを示す際に現れる。軽声を表記する際は、前の音節とdouble dash(''--'')を介して表記することが多い。 台湾北部で話される方言では、第4声と第8声の区別がない。いずれも第4声として発音され、後述する連続変調規則も第4声の規則が適用される。 === 音節構造 === [[音節]]は、子音の間に母音(単母音 or 二重母音 or 三重母音)が必要である(ただし、子音である''m''や''ng''も、例外的に母音のように音節主音として機能する場合がある)。全ての子音は語頭に生じうる。子音''p'', ''t'', ''k'', ''m'', ''n'', ''ng''(''h''を含める人もいる)は音節末に生じうる。故に、''ngiau''("かゆみ(をかく)")や''thng''(<!--湯?-->"スープ")などが可能である。第二の例では鼻音''ng''が音節主音である。 === 連続変調 === [[ファイル:MINANESE TONE.SVG|right|thumb|400px|台湾語における連続変調('''漳'''は[[漳州市|漳州]]訛り、'''泉'''は[[泉州市|泉州]]訛りを表す)]] 台湾語には非常に多くの[[連続変調]]規則がある。発話の際、最後に発音される音節のみがこの規則の適用を受けない。'[[発話]]'とは何かという問題は、この言語の研究では熱いトピックである。概略的に言えば、発話は[[語]]、[[句]]、短[[文]]と考えられうる。下記の連続変調規則の記述は伝統的な説明方法にのっとったものであり、教育上記憶しやすい配列をなしている。影響を受ける音節(つまり、発語の最後の音節以外の全て)の声調がどのように変調するかは下記の通りである。 * 元の声調が第'''5'''声ならば、第'''7'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''7'''声ならば、第'''3'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''3'''声ならば、第'''2'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''2'''声ならば、第'''1'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''1'''声ならば、第'''7'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''8'''声で語末子音が'''h'''でなければ(つまり'''p'''、'''t'''、'''k'''であれば)、第'''4'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''4'''声で語末子音が'''h'''でなければ(つまり'''p'''、'''t'''、'''k'''であれば)、第'''8'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''8'''声で語末子音が'''h'''であれば、第'''3'''声で発音せよ。 * 元の声調が第'''4'''声で語末子音が'''h'''であれば、第'''2'''声で発音せよ。 <!--音節末が鼻音の場合は?See the work by Tiu&#8319; J&#363;-hông and Wi-vun Taiffalo Chiung in the [[#参考文献|参考文献]], and the work by [http://www.chinesestudies.hawaii.edu/community/faculty/ cheng_robert.html Robert L. Cheng] (T&#275;&#8319; Liông-úi) of the University of Hawaii, for modern linguistic approaches to tones and tone sandhi in Taiwanese.--> == 語彙 == 台湾語の語彙の出自について概観する。近年の言語研究によれば、(by Robert L. Cheng and Chin-An Li, for example) わずかの例外(およそ10% - 25%)を除き、大半の台湾語の[[語]]は他の[[中国語]][[方言]]と[[同系語]]であるとしている。一方で、同系語であるかどうかよく分からない、漢字形態素による語構成であるとはっきり断定することのできないものも存在する。例えば、有名なもので''{{Unicode|chhit-thô}}''(チットヲ、遊び)がある。その中のいくつかは、最近南方のシナ諸語の周縁言語グループであるタイ・カダイ諸語、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族などとの対照研究が進み、そうした非漢語系言語の残存であるという指摘もなされている。こうした漢語起源ではない語をあえて漢字で表記する場合は、意味や発音の似た漢字を当てて表記したり、日本における国字のように新たに創作した独自の漢字で表記する場合もある。最近の台湾語文字化運動では、明らかな漢語部分は漢字で、そうでないものはローマ字で混合表記する「漢羅」という表記方法が提唱され、いくつかの出版物も出ている。 以下に代表的な[[借用語]]を表にまとめた<ref name=jyouyou>[http://twblg.dict.edu.tw/holodict_new/index.html 台湾教育部閩南語常用詞辞典] (正体字中国語)]</ref>。 === 平埔族の言語が由来の語彙 === {|class="wikitable" |- !width="100"| 台湾語 ! 日本語 ! [[平埔族]]語 ! [[国語 (中国語)|国語]]<br />(台湾華語) |- | {{Unicode|a-se}} || 漠然としていて事情がわからないさま || [[シラヤ語]]:assey || {{Lang|zh-tw|茫然不知實情}} |- | {{Unicode|khan-chhiú}}(牽手) || 妻 || シラヤ語由来 || {{Lang|zh-tw|妻子、夫人}} |- |} === マレー語由来の語彙 === {|class="wikitable" |- !width="100"| 台湾語 ! 日本語 ! [[マレー語]] ! 国語<br />(台湾華語) |- | {{Unicode|sai-kok-bí}} || [[サゴヤシ|サゴ]]パール || sagu || {{Lang|zh-tw|西谷米}}({{拼音|xīgǔmǐ}}) |- | {{Unicode|pin-nn̂g}} || [[ビンロウ]] || pinang || {{Lang|zh-tw|檳榔}}({{拼音|bīnláng}}) |- | {{Unicode|Lián-bū}} || [[レンブ]] || jambu || {{Lang|zh-tw|蓮霧}}({{拼音|Liánwù}}) |- |} === オランダ語由来の語彙 === {|class="wikitable" |- !width="100"| 台湾語 ! 日本語 ! [[オランダ語]] ! 国語<br />(台湾華語) ! 備考 |- | {{Unicode|kah}}({{Lang|zh-tw|[[甲 (単位)|甲]]}}) || [[エーカー]] || akker || 甲({{Lang|zh-tw|土地面積單位}}) || オランダの面積の単位[[モルゲン]]が由来 |- | {{Unicode|pa̍k}} || [[リース]] || pacht/pachten || {{Lang|zh-tw|承包、承租}} || [[オランダ東インド会社]]が台湾で実行していた請負制度 |- |} === 日本語由来の語彙 === 台湾語の語彙には日本統治時代に流入した日本語起源の語彙がいくつかある。 ==== 台湾語で発音する語彙 ==== {| class="wikitable sortable" |- ! width=8%|台湾語 ! width=13%|白話字 ! width=8%|日本語 ! width=10%|国語<br />(台湾華語) ! 備考 |- | 便當|| {{Unicode|piān-tong}} || [[弁当]] || {{Lang|zh-tw|餐盒}} || |- | 味素|| {{Unicode|bī-sò͘}} || [[味の素]] || {{Lang|zh-tw|味精}} || |- | 口座|| {{Unicode|kháu-chō}} || [[口座]] || {{Lang|zh-tw|帳戶}} || 主に台湾中部と南部で使用され、北部では「戶頭({{Unicode|hō͘-thâu}})」が使用される。 |- | 出張|| {{Unicode|chhut-tiuⁿ}} || [[出張]] || {{Lang|zh-tw|出差}} || 主に年輩者が使用し、若者は「出差({{Unicode|chhut-chhai}})」を使用する。 |- | 手形|| {{Unicode|chhiú-hêng}} || [[手形]]|| {{Lang|zh-tw|支票}} || 主に台湾中部と南部で使用され、北部では「支票({{Unicode|chi-phiò}})」が使用される。 |- | 注文|| {{Unicode|chù-bûn}} || [[注文]] || {{Lang|zh-tw|訂購}} || |- | 寄附|| {{Unicode|kià-hù}} || [[寄付]] || {{Lang|zh-tw|捐獻}} || |- | 疏開|| {{Unicode|so͘-khai}} || [[疎開]] || {{Lang|zh-tw|疏散}} || |- | 案内|| {{Unicode|àn-nāi}} || [[案内]] || {{Lang|zh-tw|招待}} || |- | 水道|| {{Unicode|chúi-tō}} || [[水道]] || {{Lang|zh-tw|水管}} || |- | 放送|| {{Unicode|hòng-sàng}} || [[放送]] || {{Lang|zh-tw|廣播}} || |- | 便所|| {{Unicode|piān-só͘}} || [[便所]] || {{Lang|zh-tw|廁所}} || |- | 郵便局|| {{Unicode|iû-piān-kio̍k}} || [[郵便局]] || {{Lang|zh-tw|郵局}} || 主に年輩者が使用し、若者は「郵局({{Unicode|iû-kio̍k}})」を使用する。 |- | 病院|| {{Unicode|pēⁿ-īⁿ}} || [[病院]] || {{Lang|zh-tw|醫院}} || |- | 注射|| {{Unicode|chù-siā}} || [[注射]] || {{Lang|zh-tw|打針}} || |- | 同窗|| {{Unicode|tông-chhong}} || 同窓 || {{Lang|zh-tw|同學}} || |- | 見本|| {{Unicode|kiàn-pún}} || [[見本]] || {{Lang|zh-tw|樣品}} || |- | 離緣|| {{Unicode|lī-iân}} || [[離縁]] || {{Lang|zh-tw|離婚}} || |- | 人氣|| {{Unicode|jîn-khì}} || [[人気]] || {{Lang|zh-tw|人氣}} || |- | 野球|| {{Unicode|iá-kiû}} || [[野球]] || {{Lang|zh-tw|棒球}} || |- | 飛行機|| {{Unicode|poe-hêng-ki}}<br/>{{Unicode|pe-hêng-ki}} || [[飛行機]] || {{Lang|zh-tw|飛機}} || |- | 自轉車|| {{Unicode|chū-chóan-chhia}} || [[自転車]] || 單車 || 主に台湾南部で使用され、中部と北部では「跤踏車({{Unicode|kha-ta̍h-chhia}})」、北部では「孔明車({{Unicode|khóng-bêng-chhia}})」が使用される。他に{{Unicode|chū-lián-chhia}}({{lang|zh|自輪車}})、{{Unicode|tōng-lián-chhia}}({{lang|zh|動輪車}})、{{Unicode|to̍k-lián-chhia}}({{lang|zh|獨輪車}})、{{Unicode|thih-bé}}({{lang|zh|鐵馬}})、{{Unicode|tan-chhia}}({{lang|zh|單車}})などとも言う。 |- | 自動車|| {{Unicode|chū-tōng-chhia}} || [[自動車]] || {{Lang|zh-tw|汽車}} || |- | 萬年筆|| {{Unicode|bān-liân-pit}} || [[万年筆]] || {{Lang|zh-tw|鋼筆}} || |- | 大通|| {{Unicode|tōa-thong}} || [[大通り]] || {{Lang|zh-tw|大道}} || |- | 風邪|| {{Unicode|hong-siâ}} || [[風邪]] || {{Lang|zh-tw|感冒/傷風}} ||主に台湾中部と南部で使用され、北部では「感冒({{Unicode|kám-mō͘}})」が使用される。 |- | 酸素|| {{Unicode|sng-sò͘}} || [[酸素]] || {{Lang|zh-tw|氧氣}} || |- | 辯護士|| {{Unicode|piān-hō͘-sū}} || [[弁護士]] || {{Lang|zh-tw|律師}} || 主に台湾中部と南部で使用され、北部では「律師({{Unicode|lu̍t-su}})」が使用される。 |- |} ==== 日本語のまま発音する語彙 ==== {|class="wikitable" style="font-size: 100%" |- ! 台湾語 ! 日本語 ! 国語<br />(台湾華語) ! 備考 |- | {{Unicode|nó͘-lih}} || [[海苔]] || {{Lang|zh-tw|海苔}} || |- | {{Unicode|mí-so͘h}} || [[味噌]] || {{Lang|zh-tw|味噌}} || |- | {{Unicode|sú-sih}} || [[寿司]] || {{Lang|zh-tw|壽司}} || |- | {{Unicode|a-geh}} || 揚げ(豆腐) || {{Lang|zh-tw|阿給}}/{{Lang|zh-tw|炸豆腐}} || [[新北市]][[淡水区]]には[[淡水阿給]]という名物料理がある。 |- | {{Unicode|o͘-lián}} || [[おでん]] || {{Lang|zh-tw|關東煮}} ||蒲鉾を指す。 |- | {{Unicode|oa-sá-bih}} || [[ワサビ]](山葵) || {{Lang|zh-tw|山葵}} || |- | {{Unicode|sa-sí-mih}} || [[刺身]] || {{Lang|zh-tw|沙西米}}/{{Lang|zh-tw|生魚片}} || |- | {{Unicode|thó͘-loh}} || [[トロ]] || {{Lang|zh-tw|鮪魚肚}} || |- | {{Unicode|thá-khò}} || [[タコ]] || {{Lang|zh-tw|章魚}} || |- | {{Unicode|khâng-páng}} || [[看板]] || {{Lang|zh-tw|招牌}} || |- | {{Unicode|bàng-gah}} || [[漫画]] || {{Lang|zh-tw|漫畫}} ||框仔冊とも呼ばれている。 |- | {{Unicode|lîn-jín}} || [[ニンジン]] || {{Lang|zh-tw|胡蘿蔔}} || |- | {{Unicode|gô͘-bó}} || [[ゴボウ]] || {{Lang|zh-tw|牛蒡}} || |- | {{Unicode|tò-sàng}} || [[父さん]] || {{Lang|zh-tw|多桑}}/{{Lang|zh-tw|父親}} || 台湾では戦前に日本の教育を受けた世代のことを「tò-sàng世代」という。 |- | {{Unicode|khà-sàng}} || [[母さん]] || {{Lang|zh-tw|卡桑}}/{{Lang|zh-tw|母親}} || |- | {{Unicode|nì-sàng}} || [[兄さん]] || {{Lang|zh-tw|兄}} || |- | {{Unicode|ah-ní-khih}} || [[兄貴]] || {{Lang|zh-tw|老大}} || |- | {{Unicode|nè-sàng}} || [[姉さん]] || {{Lang|zh-tw|姐}} || |- | {{Unicode|o͘-jí-sáng}} || [[おじさん]] || {{Lang|zh-tw|歐吉桑}}/{{Lang|zh-tw|老先生}} ||日本語と言うと《じいじい》の感覚と近い。 |- | {{Unicode|o͘-bá-sáng}} || [[おばさん]] || {{Lang|zh-tw|歐巴桑}}/{{Lang|zh-tw|老太太}} ||日本語と言うと《ババア》の感覚と近い。 |- | {{Unicode|sang}} || さん || ~{{Lang|zh-tw|桑}}/{{Lang|zh-tw|先生}} || |- | {{Unicode|ùn-chiàng}} || [[運転手|運ちゃん]] || {{Lang|zh-tw|運將}}/{{Lang|zh-tw|司機}} || 台湾華語の会話でも使われる。日本語と異なり、親しみの意味を含んでいるのが大半。  |- | {{Unicode|si-bí-loh}} || [[背広]] || {{Lang|zh-tw|西裝}} ||スーツ全体を指すことも有り |- | {{Unicode|jiù-jiuh}} || [[ちょうちょ]] || {{Lang|zh-tw|領結}} ||ちょうネクタイやリボンを指す。 |- | {{Unicode|jiak-kuh}} || [[線ファスナー|チャック]] || {{Lang|zh-tw|拉鍊}} || 線ファスナーのこと。日本の商品名に由来し、語源は[[巾着]]である。 |- | {{Unicode|kha-báng}} || [[鞄]] || {{Lang|zh-tw|皮包}} ||リュックを指すことも有り。 |- | {{Unicode|mé-sih}} || [[名刺]] || {{Lang|zh-tw|名片}} || |- | {{Unicode|tha-thá-mih}} || [[畳]] || {{Lang|zh-tw|榻榻米}}/{{Lang|zh-tw|疊蓆}} || |- | {{Unicode|hi-nó͘-khih}} || [[ヒノキ]](檜) || {{Lang|zh-tw|檜木}} || |- | {{Unicode|hi-sá-sih}} || [[庇]] || {{Lang|zh-tw|遮陽板}} || |- | {{Unicode|khiû-khé}} || [[休憩]] || {{Lang|zh-tw|休息}} || |- | {{Unicode|âi-sá-tsuh}} || [[挨拶]] || {{Lang|zh-tw|招呼}} || |- | {{Unicode|ô-én}} || 応援 || {{Lang|zh-tw|加油支援}} ||主に台湾南部で使用され、北部では「捧場({{Unicode|phâng-tiûⁿ}})」が使用される。 |- | {{Unicode|hàng-khoh}} || 反抗 || {{Lang|zh-tw|還手}} || |- | {{Unicode|na-ká-sih}} || 流し || {{Lang|zh-tw|那卡西}}/{{Lang|zh-tw|走唱}} || |- | {{Unicode|khi-mó͘-chih}} || 気持ち || {{Lang|zh-tw|奇蒙子}}/{{Lang|zh-tw|心情(情緒,感覺)}} || |- | {{Unicode|si-á-geh}} || 仕上げ || {{Lang|zh-tw|整修}} || |- | {{Unicode|bâi-kín}} || [[黴菌]] || {{Lang|zh-tw|病菌}} || |- | {{Unicode|kan-sò}} || [[乾燥]] || {{Lang|zh-tw|真空處理}} || |- | {{Unicode|sàng-so͘h}} || [[酸素]] || {{Lang|zh-tw|氧氣}} || |- | {{Unicode|a-sá-lì}} || あっさり || {{Lang|zh-tw|阿莎力}}/{{Lang|zh-tw|乾脆(做事)}} || |- | {{Unicode|khá-tah}} || 方 || {{Lang|zh-tw|支坑(礦坑)}} || 主に台湾北部、中部の[[鉱山]]で使用される。 |} ==== 日本語を経由して伝わった外来語 ==== {|class="wikitable" style="font-size: 100%" |- ! 台湾語 ! 日本語 ! 国語<br />(台湾華語) ! 備考 |- | {{Unicode|thiân-pú-lah}} || [[天ぷら]] || {{Lang|zh-tw|甜不辣}}/{{Lang|zh-tw|天婦羅}} || [[ポルトガル語]]の「tempero」 |- | {{Unicode|bak-khuh}} || [[バック]] || {{Lang|zh-tw|倒車}}/{{Lang|zh-tw|後}} || [[英語]]の「back」 |- | {{Unicode|sa̋-bì-sù}} || [[サービス]] || {{Lang|zh-tw|服務}} || 英語の「service」。此の発音は[[台湾閩南語ローマ字拼音方案]]で表記された。 |- | {{Unicode|hò͘-sù-kóng}} || [[ホース]] || {{Lang|zh-tw|水管}} || 英語の「hose」が由来であるが、語源は[[オランダ語]]の「hoos」である。最後の「{{Unicode|kóng}}」は「管」を意味する。 |- | {{Unicode|bu-lá-jiah}} || [[ブラジャー]] || {{Lang|zh-tw|胸罩}} || 英語の「brassiere」が由来であるが、語源は[[フランス語]]の「brassière」である。 |- | {{Unicode|a-lú-pài-to͘h}} || [[アルバイト]] || {{Lang|zh-tw|打工}} || [[ドイツ語]]の「arbeit」 |- | {{Unicode|gá-suh}} || [[ガス]] || {{Lang|zh-tw|瓦斯}} || オランダ語の「gas」 |- | {{Unicode|pháng}} || [[パン]] || {{Lang|zh-tw|麵包}} || ポルトガル語の「pão」。「{{Lang|zh-tw|麭}}」<ref>{{Cite web |url=https://sutian.moe.edu.tw/zh-hant/su/13832/ |title= 教育部台湾閩南語常用詞辞典 詞目:麭 |author=中華民國教育部 |publisher=中華民國教育部 |language=zh-tw |accessdate=2023-11-07 }}</ref>、「{{Lang|zh-tw|紡}}」と漢字で書く場合もある。 |- |{{Unicode|siap-pháng<br />siok-pháng}}||[[食パン]]||{{Lang|zh-tw|吐司麵包}}||漢語の「食」とポルトガル語の「pão」の[[混成語]]。「{{Lang|zh-tw|俗麭}}」<ref>{{Cite web |url=https://sutian.moe.edu.tw/zh-hant/su/14125/ |title= 教育部台湾閩南語常用詞辞典 詞目:俗麭 |author=中華民國教育部 |publisher=中華民國教育部 |language=zh-tw |accessdate=2023-11-07 }}</ref>、「{{Lang|zh-tw|澀紡}}」と漢字で書く場合もある |- | {{Unicode|sap-bûn<br />soat-bûn}} || [[シャボン]] || {{Lang|zh-tw|肥皂}} || ポルトガル語の「Sabão」。[[中国大陸]]の[[廈門]]・[[泉州市|泉州]]・[[漳州]]地域にも同じ言葉があるので、日本語経由ではない可能性もある。 |- | {{Unicode|san-tó͘-ìt-chih}} || [[サンドイッチ]] || {{Lang|zh-tw|三明治}} || 英語の「sandwich」 |- | {{Unicode|khu-lì-muh}} || [[クリーム]] || {{Lang|zh-tw|鮮奶油}} || 英語の「cream」、カスタードを指す。 |- | {{Unicode|bá-tah}} || [[バター]] || {{Lang|zh-tw|奶油}} || 英語の「butter」 |- | {{Unicode|thô͘-má-toh}} || [[トマト]] || {{Lang|zh-tw|番茄}} || 英語の「tomato」 |- | {{Unicode|khe-chiap-puh}} || (トマト)[[ケチャップ]] || {{Lang|zh-tw|番茄醬}} || 英語の「ketchup」が由来であるが、語源は閩南語の「{{Lang|zh-tw|鮭汁}}({{Unicode|kê-chiap}}、{{Unicode|kôe-chiap}})」である。 |- | {{Unicode|bih-luh}} || [[ビール]] || {{Lang|zh-tw|啤酒}} || オランダ語の「bier」 |- | {{Unicode|chio-kó͘-lè-to͘h}} || [[チョコレート]] || {{Lang|zh-tw|巧克力}} || 英語の「chocolate」 |- | {{Unicode|o͘-tó͘-bái}} || [[オートバイ]] || {{Lang|zh-tw|機車}} || 英語の「auto bike」が由来であるが、[[和製英語]]である。 |- | {{Unicode|tho͘-lá-khuh}} || [[貨物自動車|トラック]] || {{Lang|zh-tw|卡車}} || 英語の「truck」 |- | {{Unicode|han-tó-lù}} || [[ステアリング・ホイール|ハンドル]] || {{Lang|zh-tw|機車(腳踏車)手把或汽車方向盤}} || 英語の「handle」 |- | {{Unicode|ian-jín}} || [[エンジン]] || {{Lang|zh-tw|引擎}} || 英語の「engine」 |- | {{Unicode|thài-iah}} || [[タイヤ]] || {{Lang|zh-tw|輪胎}} || 英語の「tire」 |- | {{Unicode|lo͘-lài-bà}} || [[ドライバー (工具)]] || {{Lang|zh-tw|螺絲起子}} || 英語の「driver(screwdriver)」 |- | {{Unicode|phiàn-chih}} || [[ペンチ]] || {{Lang|zh-tw|鉗子}} || 英語の「pinch」(挟む) |- | {{Unicode|siò-to͘h}} || [[短絡|ショート]] || {{Lang|zh-tw|短路}} || 英語の「short」、壊れたや全ての故障と不具合を指す。 |- | {{Unicode|không-kuh-lih}} || [[コンクリート]] || {{Lang|zh-tw|混凝土}} || 英語の「concrete」、固い意味合いも含めている |- | {{Unicode|thài-luh}} || [[タイル]] || {{Lang|zh-tw|瓷磚}} || 英語の「tile」 |- | {{Unicode|siat-chuh}} || [[シャツ]] || {{Lang|zh-tw|襯衫}} || 英語の「shirt」 |- | {{Unicode|jiàm-bah}} || [[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]] || {{Lang|zh-tw|夾克}} || 英語の「jumper」 |- | {{Unicode|ne-kú-tái}} || [[ネクタイ]] || {{Lang|zh-tw|領帶}} || 英語の「necktie」 |- | {{Unicode|lè-suh}} || [[レース (手芸)|レース]](編み) || {{Lang|zh-tw|蕾絲}} || 英語の「lece」 |- | {{Unicode|suh-lí-pah}} || [[スリッパ]] || {{Lang|zh-tw|拖鞋}} || 英語の「slipper」 |- | {{Unicode|the-ní-suh}} || [[テニス]] || {{Lang|zh-tw|網球}} || 英語の「tennis」 |- | {{Unicode|khâ-tén}} || [[カーテン]] || {{Lang|zh-tw|窗簾}} || 英語の「curtain」 |- | {{Unicode|ho͘-té-lù}} || [[ホテル]] || {{Lang|zh-tw|旅館}} || 英語の「hotel」 |- | {{Unicode|gì-tah}} || [[ギター]] || {{Lang|zh-tw|吉他}} || 英語の「guitar」 |- | {{Unicode|phi-á-no͘h}} || [[ピアノ]] || {{Lang|zh-tw|鋼琴}} || 英語の「piano」 |- | {{Unicode|kha-mé-lah}} || [[カメラ]] || {{Lang|zh-tw|相機}} || 英語の「camera」 |- | {{Unicode|la-jí-oh}} || [[ラジオ]] || {{Lang|zh-tw|收音機}} || 英語の「radio」 |- | {{Unicode|mài-khuh}} || [[マイク]] || {{Lang|zh-tw|麥克風}} || 英語の「microphone」 |- | {{Unicode|lài-tah}} || [[ライター]] || {{Lang|zh-tw|打火機}} || 英語の「lighter」 |- | {{Unicode|set-to͘h}} || セット || {{Lang|zh-tw|髮型設計}} || 英語の「set」 |- | {{Unicode|sài-suh}} || [[サイズ]] || {{Lang|zh-tw|尺寸}} || 英語の「size」 |- | {{Unicode|phâ<br />phâ-sén<br />phâ-sèn-to͘h}} || パー/[[パーセント]] || {{Lang|zh-tw|百分比}} || 英語の「percent」 |- | {{Unicode|kho͘-í-siong}} || [[コミッション]] || {{Lang|zh-tw|回扣}} || 英語の「commission」 |- | {{Unicode|khò-tah}} || [[クオータ]] || {{Lang|zh-tw|額度}} || 英語の「quota」、予算を指す。 |- | {{Unicode|ma-chih}} || [[マッチ (曖昧さ回避)|マッチ]](する) || {{Lang|zh-tw|要好}} || 英語の「match」、仲良しを指す。 |- | {{Unicode|kòng-ku}} || [[スカンク]] || {{Lang|zh-tw|落空}} || 英語の「skunk」。 |- |} === “我々”を表す特別な代名詞: 阮 ({{Unicode|góan}}) と咱 ({{Unicode|lán}}) === 台湾語では“我々”を表す2通りの代名詞がある。阮 ({{Unicode|góan}}) はいわゆる「除外の一人称複数 (聞き手を含まない)」であり、咱 ({{Unicode|lán}}) は「包括の一人称複数(聞き手を含む)」である。これは英語の、"Let's go!"(聞き手を含む : 咱[{{Unicode|lán}}]で翻訳)と"Let us go!"(聞き手を含まない : 阮[{{Unicode|góan}}]で翻訳)の関係に似ている。包括の咱 ({{Unicode|lán}}) は、丁寧さや連帯感を表現する際に使われることがある。 === よく使われる言い回し === {{Unicode|káⁿ--ê the̍h-khì-chia̍h}}「敢个提去食」 - 勇気のあるヤツが取って食べてしまう。蛮勇を奮ったものが勝つ。 tsia̍h-pá-bē「呷飽未?」 - ご飯いっぱい食べたかの意味から変わり、挨拶言葉として使われてる。 o-ló iáu-bē suànn tiò tshiùnn tshīng-îng「讚美阿未散佇唱頌榮」 - 讃美が終わる前に称栄を歌い始まる。せっかちなどによる順番と秩序が乱れることを指す。 == 文法 == 台湾語の[[文法]]は中国南部の諸方言に似ており、[[客家語]] や [[広東語]]と親戚関係にある。語順は[[普通話]]のように「[[主語 動詞 目的語]]」が典型的だが、「[[主語 目的語 動詞]]」や [[受動態]](語順は「[[目的語 主語 動詞]]」)は[[不変化詞]]を伴うと可能である。例えば簡単な文「私は君を抱く」を例に取ろう。 含まれる語は''goá''(「我」:“私”)、''{{Unicode|ph&#333;}}''(「抱」:“抱く”)、''lí''(「汝」:“君”)である。 === 主語 動詞 目的語(標準的語順) === 標準的語順の文は''{{Unicode|Goá ph&#333; lí}}''(「我抱汝」:"私は君を抱っこする")となる。 === 主語 ''{{Unicode|k&#257;}}'' 目的語 動詞 === ほぼ同じ意味で異なる語順の文は ''{{Unicode|Goá k&#257; lí ph&#333;}}''「我共汝抱」である。多少 "I take you and hold" や "I get to you and hold"のような意味が含まれる。 === 目的語 ''{{Unicode|h&#333;&middot;}}'' 主語 動詞(受動態) === そして、''{{Unicode|Lí h&#333;&middot; goá ph&#333;}}''「汝予我抱」も同じ意味を表すが、[[受動態]]で"You allow yourself to be held by me" や "You make yourself available for my holding"のような意味を含む。 === まとめ === これを元により複雑な文を作ることができる。''{{Unicode|Goá k&#257; chúi h&#333;&middot; lí lim}}''(「我共水予汝啉」"I give water for you to drink": ''chúi''「水」は "water"、''lim'' 「啉」は"to drink"の意味)。この記事では、文法に関してごくわずかしか例を挙げることができない。台湾語の[[統語論]]についての言語学の研究は、いまだに検討を要する学問のトピックである。 == 文字と正書法 == 現在、台湾語の表記における正書法というものは存在しない。これまで多くの研究者によってさまざまな台湾語の表記方法が考案・改良されてきたが、正書法を定めるには至っていない。 中国語方言圏では歴史的に共通語としての文語が存在し、表記はその文語文が模範とされ、話し言葉としての中国語方言をそのまま表記するということはなかった。言文一致が定着した現在でも表記は[[普通話]]基調の口語文である。これは台湾でも同様であり、台湾語の話者が実生活において台湾語を表記する必然性はないのである。 台湾語の表記は主に研究・教育の目的で行なわれ、発音符号としての面が重視されたため、非漢字形態素をどう表記するかという問題よりも、台湾語の発音をいかに正確かつ明瞭に表記するかについて多く議論されてきた。近年は台湾語の地位向上により、台湾語の文書を意識的に作成するケースが見られ、純粋に正書法という観点で台湾語の表記法を模索する動きも見られるようになった。 === 漢字 === 台湾語を構成する[[形態素]]の大半は漢字形態素であり、基本的に台湾語を表記する文字は[[漢字]]である。しかし、語彙の項で前述したように、漢字でどう表記すべきかはっきりしない語があり、その場合は発音の似た漢字を借用して[[当て字]]としたり、意味の同じ字を[[訓読み]]したり、新たに[[方言字]]を創作したりしたが、近年はローマ字で表記して漢字とローマ字の混ぜ書きを行なう試みもなされている。 ;方言字の例<ref name=jyouyou/> {|class="wikitable" style="font-size: 100%" |- ! 台湾語 ! 日本語 ! 国語<br />(台湾華語) ! 読み !よく使われる当て字 |- | {{僻字|𣍐|左「勿」右「會」}} || できない || {{Lang|zh-tw|不會}} || {{Unicode|bē/bōe}} ||{{Lang|zh-tw|袂}} |- | {{僻字|𠢕|上「敖」下「力」}} || すごい、能力が良い || {{Lang|zh-tw|厲害的、能幹的}} || {{Unicode|gâu}}||{{Lang|zh-tw|賢、摮、爻}}、ガウ |- | {{僻字|𪜶|左「亻」右「因」}} || 彼ら、彼らの || {{Lang|zh-tw|他們、他們的}} || {{Unicode|in}}||{{Lang|zh-tw|怹}}、イン |- | {{僻字|𢓜|左「ㄔ」右「各」}} || また || {{Lang|zh-tw|又、再}} || {{Unicode|koh}}||{{Lang|zh-tw|擱、閣、故}} |- | {{僻字|𧟰|左「勿」右「要」}} || 欲しくない || {{Lang|zh-tw|不要}} || {{Unicode|boàih}}||{{Lang|zh-tw|無愛}} |- | {{僻字|𫝺|左「扌」右「甩」}} || (液体を)吹きかける、手を振る || {{Lang|zh-tw|噴灑、甩手}} || {{Unicode|hiù}}||{{Lang|zh-tw|灑}}、ヒュ |- | {{僻字|𨑨|外「⻎」内「日」}}{{僻字|迌|外「⻎」内「月」}} || 遊ぶ、弄ぶ || {{Lang|zh-tw|玩耍、玩弄}} || {{Unicode|chhit-thô/thit-thô}}||{{Lang|zh-tw|彳亍、佚陶、七逃}}、チットウ |} === ローマ字 === 台湾語をローマ字でどのように表記するかについてはこれまで様々な方法が考案され、現在でも更なる改良が進んでいる。台湾語のローマ字表記法の中で最も代表的なのは[[白話字]](Pe̍h-ōe-jī, POJ)である(「教会ローマ字」とも呼ばれている)。白話字は[[長老派教会]]宣教師によって考案され、後に[[台湾基督長老教会]]によって改良された。この表記法は19世紀後半以降、台湾語の表記に積極的に用いられた。ウィキペディアの台湾語版[[:zh-min-nan:]]もこの白話字で表記されている。 白話字で用いる伝統的な文字は以下の通りである: :a b ch chh e g h i j k kh l m n ng o o. p ph s t th (ts) u 現在は使われていないtsを含めて、全部で24種類である(tsは現在のchのうち、後に母音のiが立たない場合に用いられていた)。これらに加えて、鼻音を表す <sup>n</sup>(上添字のn、大文字のNで表記することもある)および声調符号を付記する。 白話字以外のローマ文字ベースの表記法としては、TLPA (Taiwanese Language Phonetic Alphabet) 、[[通用拼音]]、TMSS (Taiwanese Modern Spelling System) なども提唱されたが、現状では白話字が優勢で、中華民国教育部も2006年、白話字に従った台湾語ラテン文字表記法 (The Taiwanese Romanization System) を公布し、教育の場で普及が図られている。ただし、まだまだ白話字に習熟した教育者が不足していたり、保守的勢力の妨害などもあって、その見通しは必ずしも明るくはない。 === 仮名文字・日本語 === [[大日本帝国|帝國時代]]には[[台湾総督府]]によって台湾語の発音を[[片仮名]]([[台湾語仮名]])で付記することが試みられた。そのため、現在も少数意見で、仮名文字を応用する意見もある。また、[[高砂族]]や[[本省人]]の高齢者には[[日本語]]を母語とするものも存在する。 === 注音符号 === [[普通話]]のために考案された[[注音符号]]を拡張して、台湾語の音声を表記できるようにする方法も考案されている。 === 言語コード === 閩南語の[[IETF言語タグ]]の言語サブタグとして<code>nan</code>が登録されている。台湾語には固有の言語サブタグが登録されていないが、言語サブタグと地域サブタグを合わせることで、台湾語を<code>nan-TW</code>と表現することができる。 以前は閩南語の言語タグとして<code>zh-min-nan</code>が使われていた。これは古い仕様である<nowiki/>{{IETF RFC|3066}}<nowiki/>に基づいた言語タグであり、現行の<nowiki/>{{IETF RFC|5646}}<nowiki/>でも互換性のため妥当な言語タグであるが、2009年7月29日より非推奨となった。 === Unicode問題 === 前述したように、既存の漢字で表記するのが困難な台湾語を、任意に創作した漢字で表記することがある。こうした文字は[[Unicode]](およびそれに対応する[[ISO/IEC 10646]]: 国際符号化文字集合)には収録されていないので、コンピュータ処理するときに問題が生じる。 白話字の場合は、声調符号を含め、ほとんど問題なくUnicodeで表記できる。2004年6月以前は、口を広く開ける母音o(oの右上に点を付けて表現する)がエンコードされていなかった。回避策として、中点 ({{Unicode|·}} U+00B7) を使うか、組み合わせ文字の上点 (&nbsp;&#x0307;&nbsp;U+0307) を使っていた。現在、前者は[[閩南語版ウィキペディア]]の表記において使われている。これらは理想からは程遠いので、1997年からISO-IEC 10646を担当するISO/IECワーキンググループ ([[ISO/IEC JTC 1/SC 2]]/WG2) に対し、新しい組み合わせ文字・上右点をエンコードするよう提案され、現在 COMBINING DOT ABOVE RIGHT (<span style="font-family:Arial,'DejaVu Sans','花園明朝A','HAN NOM A','BabelStone Han',Code2000;">&nbsp;&#x0358;</span> U+0358) として正式に割り当てられている。対応フォントは「[https://babelstone.co.uk/Fonts/index.html BabelStone Han]」など。 台湾語の表記に必要な拡張注音符号も1999年にUnicode 3.0で Bopomofo Extended にU+31A0からU+31B7としてエンコードされた。2010年のUnicode 6.0でU+31B8からU+31BAまで3文字、2020年のUnicode 13.0でU+31BBからU+31BFまで5文字追加された。フォントの普及はこれからである。 {| class="wikitable" style="font-family:'Microsoft JhengHei', 'Source Han Sans', 'Hiragino Sans GB W3','Microsoft Yahei','花園明朝A','HAN NOM A','BabelStone Han',Code2000;text-align:center;border-collapse:collapse;" |+'''Bopomofo Extended U+31A0 - U+31BF''' |- !width="4%"|U+!!width="6%"|0!!width="6%"|1!!width="6%"|2!!width="6%"|3!!width="6%"|4!!width="6%"|5!!width="6%"|6!!width="6%"|7!!width="6%"|8!!width="6%"|9!!width="6%"|A!!width="6%"|B!!width="6%"|C!!width="6%"|D!!width="6%"|E!!width="6%"|F |- lang="zh-tw" !31A0 |ㆠ||ㆡ||ㆢ||ㆣ||ㆤ||ㆥ||ㆦ||ㆧ||ㆨ||ㆩ||ㆪ||ㆫ||ㆬ||ㆭ||ㆮ||ㆯ |- lang="zh-tw" !31B0 |ㆰ||ㆱ||ㆲ||ㆳ||ㆴ||ㆵ||ㆶ||ㆷ||&#x31B8;||&#x31B9;||&#x31BA;||&#x31BB;||&#x31BC;|||&#x31BD;|||&#x31BE;||&#x31BF; |} == 社会言語学的側面 == === 地域によるバリエーション === 大まかに区分すると、台湾語には高雄方言、台北方言、中部海岸に典型的に見られる海口(ハイカウ)諸方言、北部(北東)沿岸方言(特に[[宜蘭県]]の宜蘭方言)、鼻音が重い台南方言(特に台南市中心部、元台南省轄市)などのバリエーションが存在する。制度化されていないこともあって、今のところ「標準的な台湾語」というものは存在しないが、強いて言えば、歴史的に古く、台湾語も日常的に優勢な高雄方言が、事実上の標準の地位を占めつつある。また、台東で使われている方言は、音韻体系からいって白話字に最も近い。台北方言の一部は第八声がないことと、一部の母音に交換が起こること(例えば「i」と「u」、「e」と「oe」)が特徴である。台中方言は「i」と「u」の中間の母音があり、これを「ö」で表記することがある。宜蘭方言は母音「ng」が'uiN'に変化することが特徴である。 '''<center>台湾語方言のバリエーション</center>''' {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em auto 1em auto" |- ! style="background:#f90; color:black;"| [[泉州市|泉州]]訛り |- style="background:#fc0; text-align:center;" | <small>[[鹿港鎮|鹿港]]</small> |- style="background:#fc6; text-align:center;" | <small>[[澎湖県|澎湖]]、[[台西郷|台西]]、[[大甲区|大甲]]-[[布袋鎮|布袋]]の海沿い地域(海口方言)</small> |- style="background:#fc9; text-align:center;" | <small>[[台北市|台北]]盆地、[[新竹市]]付近('''第二優勢方言'''、海口訛り。{{link-zh|同安|同安縣}}語と類似)</small> |- style="background:#fcc; text-align:center;" | <small>[[嘉義]]-[[高雄市|高雄]]周辺、[[台東県|台東]]('''最優勢方言'''、[[廈門市|廈門]]語と類似)</small><ref>[http://www.lhvs.tn.edu.tw/mina5/p4-5.htm 台語主要腔調]</ref><ref>[http://lovepuppy999.pixnet.net/blog/post/14615941-%E5%8F%B0%E8%AA%9E%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E8%85%94%E8%AA%BF 台語四大腔調]</ref> |- style="background:#fcf; text-align:center;" | <small>[[台中市|台中]]盆地、[[彰化県|彰化]]-[[雲林県|雲林]]の内陸部、[[桃園市|北桃園]](内埔方言)</small> |- style="background:#c9f; text-align:center;" | <small>[[宜蘭県|宜蘭]]</small> |- ! style="background:#99f; color:black;"| [[漳州市|漳州]]訛り |} === 流暢さ === 台湾人の大部分は、人によってその流暢さに大きな違いがあるものの、北京語と台湾語の両方を使用することができる。そのどちらを用いるかは状況によって異なるが、一般には公式の場では北京語を、非公式の場では台湾語を用いている。 台湾語は基本的には日常的に台湾すべての地域で話されているが、北京語が特に[[台北]]のような都市部でより多く用いられているのに対し、台湾語は地方部、特に中南部の地方でより好まれる傾向にある。また年齢層別に見た場合では、老年層が台湾語を、若年層が北京語をそれぞれより多く用いる傾向に有る。 === 特有の芸術形式 === 七字仔 ({{Unicode|''Chhit-j&#299;-á''}}) は各行が七言からなる詩格である。 また、「[[歌仔戯]] (''koa-á-hì'')(台湾[[オペラ]])」という台湾語で表現する[[ミュージカル]]もあり、多くの歴史の物語が台本化されている。 [[布袋戯]]({{Unicode|''pò&middot;-t&#275;-hì''}},「台湾人形劇」)という[[人形劇]]もある。布袋戯は子供だけではなく大人も見る人形劇として有名で、台湾では日本の[[文楽]]のような存在とも言えよう。1970年代に[[テレビ]]でドラマのように毎日放送され、97%の視聴率を記録した。国民の過熱を緩和するため放送禁止される事態となった。今もケーブルテレビ専門のチャンネルがあり、毎日一日中放送している。2000年頃に映画「聖石伝説[http://www.bandaivisual.co.jp/seiseki/]」も製作され、日本でも日本版が販売されている。 また、[[ポピュラー音楽]]においても台湾語で歌う曲が多数製作されているが、主に[[中国語]]の書き言葉を[[広東語]]読みで[[作詞]]した[[香港ポップス]]と異なり、[[閩南語]]の口語の言葉と文法で作詞した曲がほとんどである。 === 概念化と歴史 === 18世紀から19世紀の台湾では、戦乱が続き人心は乱れた。政府(中国および日本)に対する蜂起に加え、民族同士の戦いも多かった。通常、交戦国は、使っている言語ごとに同盟を組んだ。歴史上、[[客家語]]と台湾語を使う民族との間、それらと[[台湾原住民]]との間、さらに泉州弁を使う民族と漳州弁を使う民族との間の戦いがあったと記されている。 その後20世紀になってから、台湾語の概念化は、ほとんどの中国語のどの変種よりも大きな物議をかもした。というのも、1949年に台湾に来た[[外省人]]と、既に台湾にいた大部分の台湾人([[本省人]])の間に明確な差が見られたからである。これら2つのグループ間における政治的、言語的な溝はほとんど埋まったにもかかわらず、台湾語に関する政治的問題は、他の中国語の変種にかかる問題よりも、大きな議論となり、また微妙な問題となった。 台湾語の歴史と、標準中国語である[[北方語]]([[北京語]]、Mandarin)との相互関係は複雑で、常に議論の的になっている。台湾語をどう呼ぶかという呼称すらも議論の対象となっている。南福建系の一部の台湾人が自らを台湾人、台湾語と呼ぶ場合、原住民や客家など他の民族から、北京語、客家語、台湾原住民族語などのその他の言語の存在を過小評価する排外主義として、反対している。そういう人たちの多くは、これを[[中国]][[福建省]]で使われる言語の変種であるする観点から、[[閩南語]]、または[[福建語]] (Hokkien) という呼称の方が良いと主張する<ref>{{Cite web |url=http://olddoc.tmu.edu.tw/chiaushin/shiuleh-11.htm |title=一百年來的閩南系臺灣話研究回顧 |access-date=2023年8月24日}}</ref>。しかし、福建省では客家語や[[シェ語|ショー語]]など異なる言語も存在するので、閩南語という呼称もまた福建省の多様性を無視するものとなっている。一方で、[[台湾]]は[[中国]]ではないとする観点から、閩南語、福建語という呼称は適切ではないとして、また台湾の他の言語集団にも配慮して、より中立的な名称としてホーロー語、あるいは台湾ホーロー語と呼ぶことが増えている。 === 政治 === [[中国国民党]]政権は、[[北京官話]]([[北京語]])を「[[国語 (中国語)|国語]]」と呼んで、[[公用語]]としていたため、[[1980年代]]までは、学校での台湾語使用を禁止、あるいは媒体での台湾語の放送の量を制限していた。本省人の若者の間で台湾語よりも「国語」(北京官話)が支配的になっている理由としては教育やこれらの国策の影響がある。ただし現在のところ、台湾南部では、まだまだ民間社会のL領域(非公式な場)においては台湾語による会話の方が「国語」より優勢である。 教育においては相変わらず国語(北京官話)が支配的だが、台湾語、[[客家語]]、または原住民族の言語の教育が必要だとの声が次第に高まってきている。 北京語ではなく台湾語を使うということは、国民党独裁体制への抵抗や台湾独立運動の一環として始まったが、民主化が定着しつつある現在では政治と言語のつながりはかつてほど強くはない。民進党陣営や独立派にとっても国民党陣営にとっても、台湾の政治において、北京語と台湾語の並行使用は、既に当たり前の現実になっているためである。 たとえば、外省人である[[宋楚瑜]]は、国民党の要職に就いた当初、メディアコントロールの責任者(新聞局長)を務め、台湾語をはじめとする母語の使用を制限していた。しかし1980年代の民主化以降は、半公式的な場で台湾語を積極的に使おうとする最初の外省人政治家となった。彼を皮切りに、母語話者でなく、台湾独立に反対する政治家も、台湾語を頻繁に使うケースが続々と現れた。 逆に、台湾本土派の政治家でも、現在では公的な場で北京語を用いることも少なくない。たとえば、[[陳水扁]]前[[中華民国総統]]は、就任式や外国からの接客といった公的な場では北京語を用いることも多かった。しかし、公的な場面でも選挙戦や民進党関係の集会では台湾語を多用し、新年のあいさつのような非公式あるいは親密さを表す場では台湾語をよく用いていた。 現在では、外省人の二世、三世でも、母語並みに台湾語を操る人も増えている。また、日本統治時代以前から、台湾語が台湾社会で人口で優勢だったこともあって、台湾語を母語としない客家人の間でも、商売の必要性などから台湾語が流暢な者も多かった。逆に現在ではホーロー人であっても、都市中産層出身の場合は台湾語が下手な人も増えている。つまり、「台湾語はホーロー人の言語で、北京語は外省人の言語」などといった言語とエスニックグループの関連付けも崩れつつある。 しかしながら、このように台湾社会の現実では、エスニックグループに関係なく、いろんな言語を混在して使うケースが増えているにもかかわらず、台湾語と北京語の間の関係については、いまだに政治的な対立点にもなっている。 一般的に、保守的な国民党陣営は、国民党一党支配時代以来の北京語を優先する政策を堅持し、北京語は異なるエスニックグループ間の共通言語としての役割を果たすべきだと主張する傾向がある。この陣営はまた、国語や公用語は一つであるべきだと考えている。 それに対して、民進党陣営や台湾独立派は、台湾語をはじめとしたすべての台湾の言語が同等に尊重されるべきだと主張する傾向が強い。民進党は、1986年の成立時点から「多言語主義」を綱領の中でも主張してきた。 事実、2000年に民進党が政権を獲得してからは、国民党時代の「単一国語主義」ではなく、多言語政策が進められている。客家語を使う客家テレビや原住民族諸語も使う原住民族テレビなどが次々に成立し、政府の広報CMでも、台湾語や客家語も多用されるようになった。現在では台湾語だけを台湾の土着言語として重視するのではなく、客家語や原住民族諸語も国語あるいは公用語にすべきだという意見が強まっている。民進党政権(当時)は台湾のすべての言語を尊重して北京語独占を排除する「国家言語法」制定を推進しているが、保守的な勢力はこれに強く抵抗している{{要出典|date=2010年5月}}。 == その他の意味 == === 中華民国国語 === [[台湾]]語という言葉が、誤って[[北京官話]](マンダリン)系の言語のことを指して使われることもある。現在の多くの言語学者が、この北京官話系の台湾方言のことを[[國語 (中国語)|台湾国語]]と呼んでいるほか、[[國語 (中国語)|台湾華語]]という呼び名も台湾の留学生向け語学教育機関を中心に使われている<ref>台湾の語学学校で広く使われている教科書は、『實用視聽華語』である。また、國家華語測驗推動工作委員會主催の外国人向け語学能力試験は、『華語文能力測驗』である。</ref>。 台湾華語は、[[中華民国]](台湾の政府)の事実上の公式言語であり、[[台湾人]]の約8割が流暢に話すことができる。ただ、台湾華語は、語彙、文法および発音において、中華人民共和国の([[普通話]])とはいくぶん異なる。その違いは、[[イギリス英語]]と[[アメリカ英語]]の違いと同程度のものである。特に[[1949年]]以降に[[発明]]されたり普及したものについては語彙が異なることが多い(例:[[バス (交通機関)|バス]](普通話: 公交车、台湾: 公車 )、[[光ディスク]](普通話: 光盘、台湾: 光碟))。 === 台湾語 === [[差別]]撤廃の表現として、台湾で普及しているまたは台湾特有の全ての言語を包括して台湾語と呼ぶべきだと提唱している人もいる{{要出典|date=2010年5月}}。つまり、ここでの台湾語とは[[客家語]]や[[オーストロネシア語族]]に属する[[台湾諸語|先住民語]]などが含まれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * Campbell, William. {{Unicode|&#274;-mn&#770;g-im Sin J&#299;-tián}} (Dictionary of the Amoy Vernacular). Tainan, Taiwan: {{Unicode|Tâi-oân Kàu-ho&#275; Kong-pò-si&#257;}} (Taiwan Church Press, Presbyterian Church in Taiwan). 1993-06 (First published 1913-07). * {{Unicode|Iâu Chèng-to. Cheng-soán Pe&#781;h-o&#275;-j&#299;}} (Concise Colloquial Writing). Tainan, Taiwan: Jîn-kong (an imprint of the Presbyterian Church in Taiwan). 1992. * Tân, K. T. A Chinese-English Dictionary: Taiwan Dialect. Taipei: Southern Materials Center. 1978. * Maryknoll Language Service Center. English-Amoy Dictionary. Taichung, Taiwan: Maryknoll Fathers. 1979. * {{Unicode|Tiu&#8319; J&#363;-hông, Principles of Pe&#781;h-o&#275;-j&#299; or the Taiwanese Orthography}}: an introduction to its sound-symbol correspondences and related issues. Taipei: Crane Publishing, 2001. ISBN 957-2053-07-8 * Wi-vun Taiffalo Chiung, [http://ling.uta.edu/~taiffalo/chuliau/lunsoat/english/tchange/abstract.htm Tone Change in Taiwanese: Age and Geographic Factors]. * [http://lomaji.com/poj/faq/ITASA_2001_Resources.pdf Taiwanese learning resources] (a good bibliography in English) [https://web.archive.org/web/20040608211010/http://lomaji.com/poj/faq/ITASA_2001_Resources.pdf (Google cache as a web page)] * すぐ使える!トラベル台湾語(近藤綾・温浩邦著、日中出版) *[[中川仁]](監修・解説)(2019)『日本統治下における台湾語・客家語・蕃語資料 第1巻 台湾語法 全 (附・台湾語助数詞)』近現代資料刊行会 ISBN 9784863645363 == 外部リンク == {{Wikipedia|zh-min-nan}} * [http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=CFR Ethnologue Report For Chinese Min-Nan]. This report uses a classification which considers Taiwanese a dialect of Min-Nan, which is classified as a separate language from Mandarin. This view of Taiwanese is controversial for the political reasons mentioned above. * [http://twblg.dict.edu.tw/holodict_new/index.html 台湾教育部閩南語常用詞辞典] (中国語) <!--以下、リンク切れ *[http://www.hoklo.org/YuetCulture Hoklo.org] explores the Austro-Tai roots of Taiwanese. *[http://www.glossika.com/en/dict/taiwanese/index.htm Learn Taiwanese] by James Campbell. The orthography used appears to be slightly modified Pe&#781;h-o&#275;-j&#299;. *[http://lomaji.com/ Lomaji.com]. Resources for Taiwanese language(s). * [http://203.64.42.21/TG/TLH/ TLH]: an organization promoting Pe&#781;h-o&#275;-j&#299; and other latinized (romanized) orthographies for languages in Taiwan * [http://daiwanway.dynip.com/ Daiwanway]: Tutorial, dictionary, and stories in Taiwanese. Uses a unique romanization system, different from Pe&#781;h-o&#275;-j&#299;. Includes sound files. * {{Curlie|World/Taiwanese/|World: Taiwanese}} *[http://taiwan.csie.ntu.edu.tw/Welcome.do Taiwanese language culture promotion] --> {{DEFAULTSORT:たいわんこ}} [[Category:台湾の言語]] [[Category:アジアの言語]] [[Category:声調言語]]
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宋 中国の地名、王朝名。ソン(拼音 Sòng、ウェード式 Sung)。 姓(漢姓)のひとつ。
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{{wiktionary|宋}} '''宋''' == 地名・国名 == [[中国]]の[[地名]]、[[王朝]]名。ソン([[拼音]] Sòng、[[ウェード式]] Sung)。 *[[周]]代・[[春秋戦国時代]]の諸侯国の一つ。⇒ '''[[宋 (春秋)]]''' *[[六朝]]のひとつ。[[劉裕]]がたてた王朝([[420年]] - [[479年]])。劉宋。南朝宋。⇒ '''[[宋 (南朝)]]''' *[[隋]]末の群雄[[輔公祏]]の建てた政権([[623年]] - [[624年]])。 *[[趙匡胤]]が立てた王朝([[960年]] - [[1279年]])。趙宋。宋王朝というとこの王朝を指すことが多い。⇒ '''[[宋 (王朝)]]''' **[[金 (王朝)|金]]によって華北を占領され、中国の統一を失う以前の'''[[北宋]]'''と、それ以後の中国の南半分のみを支配した'''[[南宋]]'''とに区分される。 *[[元 (王朝)|元]]末に[[紅巾の乱]]の指導者[[劉福通]]が、[[白蓮教]]教主[[韓林児]]を擁立した政権([[1355年]] - [[1366年]])。 *[[黒竜江省]][[綏化市]][[肇東市]]宋站鎮に位置する[[浜洲線]]の駅。⇒ [[宋駅]] == 人名 == 姓([[漢姓]])のひとつ。 *中国人の[[姓]]。ソン([[拼音]] Sòng、[[ウェード式]] Sung)。 **特に[[20世紀]]初頭に「[[浙江財閥]]」を率いた宋家の三姉妹は有名。長女の[[宋靄齢|靄齢]]は大蔵大臣[[孔祥熙]]と結婚、次女の[[宋慶齢|慶齢]]は[[孫文]]、三女[[宋美齢|美齢]]は[[蔣介石]]とそれぞれ結婚した。[[四大家族]]も参照のこと。 *[[朝鮮民族|朝鮮・韓国人]]の姓。ソン(Song、{{lang|ko|송}})。 *[[ベトナム人]]の姓。トン({{lang|vi|[[:vi:Tống (họ)|Tống]]}})。 {{see also|宋 (姓)}} == その他 == *[[中国人民解放軍海軍]]039型潜水艦のNATOコードネーム。[[039型潜水艦]]を参照。 *[[音]]の大きさを表す[[単位]][[ソーン (単位)|ソーン]](sone)の当て字。 {{aimai}} {{デフォルトソート:そう}}
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選挙権
選挙権(せんきょけん、英語: Suffrage)とは、政治における参政権の一種であり、国や地域での選挙に参加できる資格またはその地位を指す。これは選挙において投票する権利(投票権)のみならず、選挙人名簿への登録や選挙の公示を受ける権利や、議員定数に著しい不均衡が生じた際に選挙人がその是正のための立法措置を求める権利なども含まれる。 広義では、被選挙権を含める場合がある。 今日では国民主権の原則から、国民は主権者としての主権行使の一環として選挙に参加できるとする選挙権権利説(せんきょけんけんりせつ)が有力であるが、古くは選挙人団(選挙人の集団)の一員としての公務の一環として選挙に参加する選挙権公務説(せんきょけんこうむせつ)も有力であった。 前者の解釈をとった場合には、全ての国民は主権者としてそれぞれが平等の権利を保つために普通選挙が原則となるが、後者の解釈では公務を執行するに相応しいと認定された者にのみ、選挙権の付与を限定しても良いとする制限選挙の肯定を導き出すことも可能であった。 その選挙の立候補者であっても、選挙権を有しているために他の候補者に投票することは一応可能である(例外はある)。選挙権を有している者のことを有権者とも呼ぶ。 日本においては、1889年に大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法が公布され、直接国税15円以上納める25歳以上の男子に選挙権が与えられた。第2次山縣内閣の時(1900年)に直接国税10円以上を納める25歳以上の男子に緩和され、さらに原内閣の時(1919年)に直接国税3円以上を納める25歳以上の男子に再び緩和された。その後1925年に第2次護憲運動がおこり、普選断交を掲げて衆議院選挙に勝利した加藤高明内閣によって25歳以上の男子全員に選挙権が与えられた。 ただし、第二次世界大戦終戦前までは、女性や破産者、貧困により扶助を受けている者(例外として、軍事扶助法による扶助がある)、住居のない者、6年以上の懲役・禁錮に処せられた者、華族当主、現役軍人、応召軍人には選挙権は与えられていなかった。 終戦後の1946年に日本国憲法が公布され、これを受けて新たに制定された公職選挙法で20歳以上の男女と定められた。以来、選挙権は長らく20歳以上であったが、後述する公職選挙法の改正(2015年6月17日成立 同年同月19日に公布後、翌年6月19日施行)で「満18歳以上の男女」に変更されて18歳選挙権が認められるようになった。 選挙権年齢のデータがある192の国・地域のうち、170の国・地域が選挙権年齢が18歳以上となっている。 世界、地域における選挙権年齢(2020年7月現在) (のあるものはサミット参加国、太字はOECD参加国) 2007年6月にオーストリアが国政レベルの選挙権年齢を18歳から16歳に引き下げており、ドイツのように一部の州が地方選挙の選挙権年齢を先行的に16歳としている例もある。イギリスやドイツでは16歳への引き下げが議論されている。また韓国は選挙年齢を20歳から18歳に引き下げる段階的措置として、2005年6月に19歳に引き下げた。日本では2015年6月に18歳選挙権を認める改正公職選挙法が成立し、2016年6月19日に施行されたことにより、不在者投票・期日前投票を含めれば第24回参議院議員通常選挙(公示日:6月22日・投票日:7月10日)の公示日翌日から18歳・19歳選挙権が行使できるようになった(投票日では6月26日告示日・7月3日投票日の福岡県うきは市長選挙が参院選より1週間早く、初の18歳・19歳選挙権となった)。 日本では例外的に選挙権を有しない者については、公職選挙法第11条1項・第252条、政治資金規正法第28条、電磁記録投票法第17条に規定がある。 イギリスでは、かつてコモン・ローの下で知的障害者及び心神喪失者には選挙権が認められなかったが、2006年の選挙管理法73条でこれらの選挙権の欠格条項は全廃された。 フランスでは、かつて成年被後見人は欠格条項とされていたが、2007年の法改正では後見措置を受けたり更新したりする場合に裁判所の判事が選挙権の維持・停止を判断することとなった。 カナダでは、かつて選挙法で「精神疾患により行動の自由を制限されている者又は自己財産の管理を禁じられている者」が欠格要件となっていたが1993年に欠格条項は削除されている。 オーストリアでは、1971年国民議会選挙法で行為能力を剝奪された者は選挙権を有しないと規定されていたが、1984年の代弁人制度導入により代弁人を付された者が欠格事由となっていた。しかし、1987年に憲法裁判所が欠格条項を憲法違反としたため1988年に削除された。 オーストラリアでは、1918年連邦選挙法で「精神疾患の状態にある者」が欠格要件とされていたが、1983年の法改正を経て、1989年の法改正で医師の証明書を添えることで異議を申し立てることができるようになった。 日本でも2013年(平成25年)までは、成年被後見人も欠格者であったが、同年3月に東京地方裁判所で違憲判決が出されたことを受け、同年5月に改正公職選挙法が成立し、2013年(平成25年)7月1日から選挙権を回復した。 アメリカでは、メーン州とバーモント州を除く全ての州が収監中の重罪犯の投票を禁じているが、大半の州は釈放後あるいは保護観察中に選挙権を回復させている。フロリダを含む少数の州は、元重罪犯が選挙権を回復するまでに追加の待機時間や措置を義務付けており、貧困層やアフリカ系住民が狙い撃ちされていると指摘する声が上がっていた。 かつて、破産やその前身制度の身代限、家資分散の手続き中の者は、以下の規定により議員の選挙権を有しないものとされた。 しかし、これらの議員の欠格条項はいずれも、以下のとおり戦後まもなく削除された。
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選挙権とは、政治における参政権の一種であり、国や地域での選挙に参加できる資格またはその地位を指す。これは選挙において投票する権利(投票権)のみならず、選挙人名簿への登録や選挙の公示を受ける権利や、議員定数に著しい不均衡が生じた際に選挙人がその是正のための立法措置を求める権利なども含まれる。 広義では、被選挙権を含める場合がある。
{{Otheruses|選挙権一般|日本の公職選挙の選挙権|日本の選挙}} '''選挙権'''(せんきょけん、{{lang-en|Suffrage}})とは、[[政治]]における[[参政権]]の一種であり、[[国]]や[[地域]]での[[選挙]]に参加できる資格またはその地位を指す。これは選挙において[[投票]]する権利(投票権)のみならず、[[選挙人名簿]]への登録や選挙の公示を受ける権利や、議員定数に著しい不均衡が生じた際に[[有権者|選挙人]]がその是正のための立法措置を求める権利なども含まれる。 広義では、[[被選挙権]]を含める場合がある。 == 選挙権の本質 == 今日では[[国民主権]]の原則から、国民は[[主権者]]としての主権行使の一環として選挙に参加できるとする'''選挙権権利説'''(せんきょけんけんりせつ)が有力であるが、古くは選挙人団(選挙人の集団)の一員としての[[公務]]の一環として選挙に参加する'''選挙権公務説'''(せんきょけんこうむせつ)も有力であった。 前者の解釈をとった場合には、全ての国民は主権者としてそれぞれが平等の権利を保つために[[普通選挙]]が原則となるが、後者の解釈では公務を執行するに相応しいと認定された者にのみ、選挙権の付与を限定しても良いとする[[制限選挙]]の肯定を導き出すことも可能であった<ref group="注">[[日本]]においては憲法学者[[清宮四郎]]が唱えた「権利・公務両方の側面を有する」とする'''選挙権二元説'''(せんきょけんにげんせつ)も有力学説として存在している。</ref>。 その選挙の立候補者であっても、選挙権を有しているために他の候補者に投票することは一応可能である(例外はある)。選挙権を有している者のことを[[有権者]]とも呼ぶ。 == 日本の選挙権の歴史 == 日本においては、[[1889年]]に[[大日本帝国憲法]]及び[[衆議院議員選挙法]]が公布され、直接国税15円以上納める25歳以上の男子に選挙権が与えられた。[[第2次山縣内閣]]の時([[1900年]])に直接国税10円以上を納める25歳以上の男子に緩和され、さらに[[原内閣]]の時([[1919年]])に直接国税3円以上を納める25歳以上の男子に再び緩和された。その後[[1925年]]に第2次護憲運動がおこり、普選断交を掲げて衆議院選挙に勝利した[[加藤高明内閣]]によって25歳以上の男子全員に選挙権が与えられた<ref name="jiten"> {{Cite book|和書 |author=百瀬孝 |authorlink=百瀬孝 |others=[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]監修 |title=事典 昭和戦前期の日本…制度と実態 |origdate=1990-02-10 |accessdate=2009-09-01 |edition=初版 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn=9784642036191 |pages=p. 40 }}</ref>。 ただし、[[第二次世界大戦]]終戦前までは、[[女性]]や[[破産者]]、貧困により扶助を受けている者(例外として、軍事扶助法による扶助がある)、住居のない者、6年以上の懲役・禁錮に処せられた者、華族当主、現役軍人、応召軍人には選挙権は与えられていなかった<ref name="jiten"/>。 終戦後の[[1946年]]に[[日本国憲法]]が公布され、これを受けて新たに制定された[[公職選挙法]]で20歳以上の男女と定められた。以来、選挙権は長らく20歳以上であったが、後述する公職選挙法の改正(2015年6月17日成立 同年同月19日に公布後、翌年6月19日施行)で「満18歳以上の男女」に変更されて[[18歳選挙権]]が認められるようになった。 {{Seealso|日本の選挙#選挙の歴史}} == 選挙権と年齢 == === 世界各国・地域の現状 === 選挙権年齢のデータがある192の国・地域のうち、170の国・地域が選挙権年齢が18歳以上となっている<ref>{{Cite book |和書 |author=中山太郎 |authorlink=中山太郎 |date=2008-10-17 |title=未来の日本を創るのは君だ! 15歳からの憲法改正論 |publisher=[[PHP研究所]] |pages=57-63 |isbn=978-4-569-70409-8 |quote=63頁目に集計結果記載あり。発行年月日表記は[https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-70409-8 出版元Webサイトに掲載の当該書籍案内ページ]による}}</ref><ref>[http://www.youthpolicy.org/factsheets/ youthpolicy.org]</ref>。 === 世界各国、地域の選挙権年齢 === 世界、地域における選挙権年齢<ref>[https://www.moj.go.jp/content/000012508.pdf 世界各国、地域の選挙権年齢及び成人年齢](法務省HP)</ref><ref group="注">二院制の国は下院の選挙権年齢。各国において選挙権年齢と[[成年]]年齢は必ずしも一致していない。</ref><small>(2020年7月現在)</small> *16歳 - '''{{flag|オーストリア}}'''・{{flag|キューバ}}・{{flag|キルギス}}・{{flag|ニカラグア}}・{{flag|ブラジル}}・{{flag|アルゼンチン}}<ref>{{cite news |language=ja |title= アルゼンチン、投票年齢16歳へ引き下げ 13年選挙から |newspaper= [[CNN (アメリカの放送局)|CNN.co.jp]] |date= 2012/11/01 |url= http://www.cnn.co.jp/world/35023881.html |accessdate= 2016/07/02}}</ref> *17歳 - {{flag|インドネシア}}・{{flagicon|PRK}} [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・{{flag|スーダン}}・{{flag|東ティモール}} *18歳 - '''{{flag|アイスランド}}'''・'''{{flag|アイルランド}}'''・{{flag|アゼルバイジャン}}・{{flag|アフガニスタン}}・'''{{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国|アメリカ]]'''<sup>{{Color|olive|☆}}</sup>{{Refnest|group="注"|アメリカは1971年7月より選挙権年齢は連邦だけでなく州及び地方選挙も一律に18歳となった(合衆国憲法修正第26条の成立による)。ベトナム戦争の際に、18歳以上21歳未満の者は徴兵されるのに選挙権がないのは不当である、と主張されたのをきっかけとされている。}}・{{flag|アルジェリア}}・{{flag|アルバニア}}・{{flag|アルメニア}}・{{flag|アンゴラ}}・{{flag|アンティグア・バーブーダ}}・{{flag|アンドラ}}・{{flag|イエメン}}・'''{{flag|イギリス}}'''<sup>{{Color|olive|☆}}</sup>{{Refnest|group="注"|イギリスは1969年4月より選挙権年齢は18歳に引き下げられた。同じく1969年7月に成人年齢も18歳に引き下げられた(それぞれ国民代表法、家族法改正法の成立による)}}・'''{{flag|イスラエル}}'''・'''{{flag|イタリア}}'''<sup>{{Color|olive|☆}}</sup>{{Refnest|group="注"|選挙権年齢と成人年齢は、ともに1975年に18歳に引き下げられている。なお、上院の選挙権年齢は25歳である。}}・{{flag|イラク}}・{{flag|イラン}}・{{flag|インド}}・{{flag|ウガンダ}}・{{flag|ウクライナ}}・{{flag|ウズベキスタン}}・{{flag|ウルグアイ}}・{{flag|エクアドル}}・{{flag|エジプト}}・'''{{flag|エストニア}}'''・{{flag|エチオピア}}・{{flag|エリトリア}}・{{flag|エルサルバドル}}・'''{{flag|オーストラリア}}'''・'''{{flag|オランダ}}'''・{{flag|ガーナ}}・{{flag|カーボベルデ}}・{{flag|ガイアナ}}・{{flag|カザフスタン}}・'''{{flag|カナダ}}'''<sup>{{Color|olive|☆}}</sup>{{Refnest|group="注"|選挙権年齢は、1970年に18歳に引き下げられている。}}・{{flag|カメルーン}}・{{flag|ガンビア}}・{{flag|カンボジア}}・{{flag|ギニア}}・{{flag|ギニアビサウ}}・{{flag|キプロス}}・'''{{flag|ギリシャ}}'''・{{flag|キルギス}}・{{flag|グアテマラ}}・{{flag|グレナダ}}・{{flag|クロアチア}}・{{flag|ケニア}}・{{flag|コスタリカ}}・{{flag|コモロ}}・{{flag|コロンビア}}・{{flag|コンゴ民主共和国}}・{{flag|サントメ・プリンシペ}}・{{flag|ザンビア}}・{{flag|サンマリノ}}・{{flag|シエラレオネ}}・{{flag|ジブチ}}・{{flag|ジャマイカ}}・{{flag|ジョージア}}・{{flag|シリア}}・{{flag|ジンバブエ}}・'''{{flag|スイス}}'''・'''{{flag|スウェーデン}}'''・'''{{flag|スペイン}}'''・{{flag|スリナム}}・{{flag|スリランカ}}・'''{{flag|スロバキア}}'''・'''{{flag|スロベニア}}'''・{{flag|スワジランド}}・{{flag|セーシェル}}・{{flag|赤道ギニア}}・{{flag|セネガル}}・{{flag|セルビア}}・{{flag|セントクリストファー・ネイビス}}・{{flag|セントビンセント・グレナディーン}}・{{flag|セントルシア}}・{{flag|ソロモン諸島}}・{{flag|タイ}}・{{flag|タジキスタン}}・{{flag|タンザニア}}・'''{{flag|チェコ}}'''・{{flag|チャド}}・{{flagicon|CAF}} 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[[ミクロネシア連邦|ミクロネシア]]・{{flagicon|ZAF}} [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]・{{flag|ミャンマー}}・'''{{flag|メキシコ}}'''・{{flag|モーリシャス}}・{{flag|モーリタニア}}・{{flag|モザンビーク}}・{{flag|モナコ}}・{{flag|モンゴル}}・{{flag|モンテネグロ}}・{{flag|ヨルダン}}・{{flag|ラオス}}・{{flag|ラトビア}}・{{flag|リトアニア}}・{{flag|リビア}}・{{flag|リベリア}}・{{flag|ルーマニア}}・'''{{flag|ルクセンブルク}}'''・{{flag|ルワンダ}}・{{flag|レソト}}・{{flag|ロシア}}<sup>{{Color|olive|☆}}</sup>{{Refnest|group="注"|選挙権年齢、成人年齢及び婚姻適齢は、第二次世界大戦前から18歳となっている。}}・'''{{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]'''{{Refnest|group="注"|2005年8月以降。それまでは20歳以上}} *20歳 - {{flagicon|TWN}} [[台湾]]・{{flag|チュニジア}}・{{flag|ナウル}}・{{flag|バーレーン}}・{{flag|モロッコ}}・{{flag|リヒテンシュタイン}} *21歳 - {{flag|オマーン}}・{{flag|ガボン}}・{{flag|クウェート}}・{{flag|コートジボワール}}・{{flag|サモア}}・{{flag|シンガポール}}・{{flag|トンガ}}・{{flag|パキスタン}}・{{flag|フィジー}}・{{flag|マレーシア}}・{{flag|モルディブ}}・{{flag|レバノン}} *25歳 - {{flag|アラブ首長国連邦}} <small>(<sup>{{Color|olive|☆}}</sup>のあるものはサミット参加国、'''太字'''はOECD参加国)</small> 2007年6月にオーストリアが国政レベルの選挙権年齢を18歳から16歳に引き下げており、ドイツのように一部の州が地方選挙の選挙権年齢を先行的に16歳としている例もある。イギリスやドイツでは16歳への引き下げが議論されている。また韓国は選挙年齢を20歳から18歳に引き下げる段階的措置として、2005年6月に19歳に引き下げた<ref name="syuyoukoku">{{Cite book|language=ja |author=佐藤令 |author2=大月晶代 |author3=落美都里 |author4=澤村典子 |date=2008-12 |title=主要国の各種法定年齢 選挙権年齢・成人年齢引下げの経緯を中心に |url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2008/200806.pdf |format=PDF |accessdate=2017-10-19 |publisher=[[国立国会図書館]]調査及び立法考査局 |series=基本情報シリーズ(2) |isbn=978-4-87582-676-7}}</ref>。日本では[[2015年]]6月に18歳選挙権を認める改正公職選挙法が成立し<ref>{{cite news |language=ja |title= 選挙権年齢「18歳以上」に 改正公選法が成立 |newspaper= [[47NEWS]] |date= 2015-06-17 |url= https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html |archivedate=2015-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html |accessdate= 2017-10-19}}</ref>、[[2016年]]6月19日に施行されたことにより、不在者投票・期日前投票を含めれば[[第24回参議院議員通常選挙]](公示日:6月22日・投票日:7月10日)の公示日翌日から18歳・19歳選挙権が行使できるようになった<ref>{{cite news |language=ja |title= 18歳選挙権が施行=参院選で適用、240万人が参画 |newspaper= [[時事通信社|時事通信]] |date= 2016-06-19 |via=Yahoo!ニュース |url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160619-00000000-jij-pol |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160628220207/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160619-00000000-jij-pol |archivedate=2016-06-28 |accessdate= 2017-10-19}}</ref>(投票日では6月26日告示日・7月3日投票日の[[福岡県]][[うきは市]]長選挙が参院選より1週間早く、初の18歳・19歳選挙権となった)。 == 選挙権の欠格事由 == === 欠格条項 === 日本では例外的に選挙権を有しない者については、公職選挙法第11条1項・第252条、[[政治資金規正法]]第28条、[[地方公共団体の議会の議員及び長の選挙に係る電磁的記録式投票機を用いて行う投票方法等の特例に関する法律|電磁記録投票法]]第17条に規定がある。 *[[禁錮]]以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者 *禁錮以上の刑に処せられその執行を受けることがなくなるまでの者(刑の執行猶予中の者を除く) **具体的には、以下の何れも成立してない者 **#仮釈放後の残刑期期間満了 **#[[刑の時効]] **#[[恩赦]]による刑の執行免除 *[[公職]]<ref group="注" name="kousyoku">過去には公職ではない人物が収賄罪の執行猶予付き有罪確定になった際に、誤って執行猶予中に公民権が停止された例が存在する。例として公職でない元輪之内町農業委員<!--公選委員か選任委員か不明。-->、元鹿町町建設課長、元瑞穂郵便局保険課長、元建設省酒田工事事務所副所長が収賄罪で執行猶予付き有罪確定になった際に誤って執行猶予中に公民権が停止されたことがある。</ref>にある間に犯した[[賄賂罪|収賄罪]]または[[斡旋利得罪]]により刑期満了になっていない者 *公職<ref group="注" name="kousyoku" />にある間に犯した収賄罪または斡旋利得罪の実刑満了から5年間を経過しない者 *選挙に関する犯罪<ref group="注" name="senkyo">選挙人名簿の抄本等の閲覧に係る報告義務違反・選挙事務所、休憩所等の制限違反・選挙事務所の設置届出及び表示違反・選挙気勢を張る行為の禁止違反・自動車、船舶及び拡声機の使用表示違反・ポスター掲示違反・文書図画の撤去処分拒否・街頭演説の標旗提示拒否・夜間街頭演説禁止違反・選挙運動のための通常葉書等の返還拒否及び譲渡禁止違反・選挙期日後のあいさつ行為の制限違反・推薦団体の選挙運動の規制違反・政党その他の政治活動を行う団体の政治活動の規制の違反・選挙人等の偽証罪を除く。</ref>により禁錮以上の刑に処せられ、刑が執行猶予中の者 *選挙に関する犯罪<ref group="注" name="senkyo" />により実刑終了から5年間を経過しない者 *政治資金規正法に定める犯罪<ref group="注" name="seijisikin">政治資金監査報告書の虚偽記載・政治資金監査の業務等で知りえた秘密保持義務違反や除く</ref>により禁錮以上の刑に処せられ、刑が執行猶予中<ref group="注" name="joujou">裁判所によって情状により選挙権停止を適用しなかったり、停止期間を短縮したりすることもできる。</ref>の者 *政治資金規正法に定める犯罪<ref group="注" name="seijisikin" />により実刑満了から一定期間<ref group="注" name="joujou2">通常は最長5年間であるが、裁判所によって情状により短縮することもできる。</ref>を経過しない者 === 精神疾患の場合 === イギリスでは、かつてコモン・ローの下で知的障害者及び心神喪失者には選挙権が認められなかったが、2006年の選挙管理法73条でこれらの選挙権の欠格条項は全廃された<ref name="syogaikoku">国立国会図書館「諸外国における精神疾患を有する者等の選挙権」(2011年11月22日)</ref>。 フランスでは、かつて成年被後見人は欠格条項とされていたが、2007年の法改正では後見措置を受けたり更新したりする場合に裁判所の判事が選挙権の維持・停止を判断することとなった<ref name="syogaikoku" />。 カナダでは、かつて選挙法で「精神疾患により行動の自由を制限されている者又は自己財産の管理を禁じられている者」が欠格要件となっていたが1993年に欠格条項は削除されている<ref name="syogaikoku" />。 オーストリアでは、1971年国民議会選挙法で行為能力を剝奪された者は選挙権を有しないと規定されていたが、1984年の代弁人制度導入により代弁人を付された者が欠格事由となっていた<ref name="syogaikoku" />。しかし、1987年に憲法裁判所が欠格条項を憲法違反としたため1988年に削除された<ref name="syogaikoku" />。 オーストラリアでは、1918年連邦選挙法で「精神疾患の状態にある者」が欠格要件とされていたが、1983年の法改正を経て、1989年の法改正で医師の証明書を添えることで異議を申し立てることができるようになった<ref name="syogaikoku" />。 日本でも[[2013年]](平成25年)までは、[[成年被後見人]]も欠格者であったが、同年3月に[[東京地方裁判所]]で[[違憲判決]]が出されたことを受け、同年5月に改正公職選挙法が成立し、2013年(平成25年)7月1日から選挙権を回復した<ref>{{Cite news |url = https://web.archive.org/web/20130528055434/http://www.asahi.com/politics/update/0527/TKY201305270198.html |title = 成年被後見人の選挙権回復 改正公職選挙法が成立 |publisher = [[朝日新聞]] |date = 2013-05-27 |accessdate = 2017-10-19 |quote=記事本文の一部に会員専用領域有}} ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存</ref><ref>{{Cite news |url = http://www.nikkei.com/article/DGXNZO55547850Y3A520C1CC1000/ |title = 成年被後見人に選挙権 今夏の参院選から適用 |publisher = [[日本経済新聞]] |date = 2013-05-27 |accessdate = 2013-05-29 }}</ref><ref>{{Cite news |url = https://archive.is/eYUTN|title = 成年被後見人13万人に選挙権、改正公選法成立 |publisher = [[読売新聞]] |date = 2013-05-27 |accessdate = 2017-10-19 }} ※ 現在はウェブアーカイブサイト「archive.is」内に残存</ref>。 === 受刑者・仮釈放者の場合 === {{節スタブ|1=最近の日本の裁判例を踏まえた受刑者・仮釈放者であることを欠格事由とする是非について|date=2017年9月}} アメリカでは、メーン州とバーモント州を除く全ての州が収監中の重罪犯の投票を禁じているが、大半の州は釈放後あるいは保護観察中に選挙権を回復させている。フロリダを含む少数の州は、元重罪犯が選挙権を回復するまでに追加の待機時間や措置を義務付けており、貧困層やアフリカ系住民が狙い撃ちされていると指摘する声が上がっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/usa-election-felons-idJPKCN1NC0FP|title=米フロリダ州、元重罪犯の選挙権回復へ州憲法改正案を可決|publisher=|date=2018-11-07|accessdate=2018-11-17}}</ref>。 === 破産者の場合 === かつて、[[破産]]やその前身制度の[[身代限]]、[[分散 (破産)|家資分散]]の手続き中の者は、以下の規定により議員の選挙権を有しないものとされた。 *衆議院:衆議院議員選挙法(明治22年法律第3号)14条2号、同法(明治33年法律第73号による全部改正後)11条第2号、同法(大正14年法律第47号による全部改正後)6条2号。 *府県会:府県会規則(明治11年太政官布告第18号・明治13年太政官布告第15号)13条3款及び14条但書、府県制(明治32年法律第64号による全部改正後)6条<ref group="注" >市町村会議員の選挙権を有することが府県会議員の選挙権を有することの条件とされた</ref>。 *北海道会:北海道会法(明治34年法律第2号)5条2号、同法(大正15年法律第76号による一部改正後)3条1項但書2号。 *東京都議会:[[東京都制]](昭和18年法律第89号)6条1項但書2号及び13条但書。 *東京都の区会:東京都制6条1項但書2号及び145条但書。 *市会:[[市制]](明治21年法律第1号)9条2項及び12条1項但書、同(明治44年法律第68号による全部改正後)11条2項及び14条1項但書、同(大正15年法律74号による一部改正後)9条1項但書2号及び14条1項但書。 *町村会:[[町村制]](明治21年法律第1号)9条2項及び12条1項但書、同(明治44年法律第69号による全部改正後)9条2項但書及び12条1項但書、同(大正15年法律第75号による一部改正後)7条1項但書2号及び12条1項但書。 しかし、これらの議員の欠格条項はいずれも、以下のとおり戦後まもなく削除された。 *衆議院:衆議院議員選挙法の一部を改正する法律(昭和22年法律第43号)により削除。 *府県会及び北海道会:(下記の市町村会議員の選挙権変更による<ref group="注">府県制の一部を改正する法律(昭和21年法律第27号)により北海道会法が廃止され、北海道会についても府県制(改題されて道府県制となった)において定められることとなった</ref>) *東京都議会及び東京都の区会:東京都制の一部を改正する法律(昭和21年法律第26号)により削除。 *市会:市制の一部を改正する法律(昭和21年法律第28号)により削除。 *町村会:町村制の一部を改正する法律(昭和21年法律第29号)により削除 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[参政権]] * [[公民権]] * [[被選挙権]] * [[有権者]] * [[女性参政権]](婦人参政権) * [[外国人参政権]] * [[日本の選挙]] * [[成年]] * [[18歳選挙権]] * [[被選挙権]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せんきよけん}} [[Category:間接民主主義]] [[Category:選挙]] [[Category:地方自治]] [[Category:参政権]]
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前漢
前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡した。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l。 戦国時代を終わらせて、史上初めて中国を統一した秦の始皇帝は皇帝号の創出・郡県制の施行など、その後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。 前209年に河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害された。しかし、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、楚を復国し懐王を擁立、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。劉邦は懐王の命を受け、秦の都であった咸陽を落とし、ここに秦は滅亡した。その後、楚の実権を掌握し西楚の覇王を名乗った項羽と、その項羽から関中に封建されて漢王となった劉邦との間での戦争が発生した(楚漢戦争)。 当初、軍事力が優勢であった項羽に劉邦はたびたび敗北した。しかし、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行った。更に劉邦は将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。 劉邦は諸将に推戴され皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に子孫に継承されるかを憂慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王たるべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。 前195年、高祖は崩御し、劉盈(恵帝)が後を継いだ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、さらにその母の戚夫人を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は前少帝・後少帝(劉弘)を相次いで帝位に付けるが、劉弘は実際には劉氏ではなかったとされる。 呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産・呂禄らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ外戚政治を行う。「劉氏にあらざる者は......」という高祖の遺志は無視されたのである。呂后は呂氏体制の確立に努めたが、前180年に死去した。呂后が死去するや、朱虚侯劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり呂産ら呂氏一族を粛清し、呂氏の影響力は宮中から一掃された。 呂氏が粛清された後に皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である。 秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い戦争により、諸王国は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失っていた。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。 前157年に文帝は崩御した。遺詔で文帝は、新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けさせるように遺言した。後を継いだ劉啓(景帝)も、基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたという。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽の戸数は、当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。 国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し、商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを文帝に提言したのが賈誼と鼂錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである(#豪族節を参照のこと。)。 生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが袁盎や賈誼・鼂錯である。とりわけ景帝即位後の鼂錯は、諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。 これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。 景帝は前141年に崩御し、16歳の劉徹(武帝)が即位した。武帝は、文景の治で国家財政・経済が充実し、政治も安定したことから、積極的な活動を行おうと考えた。まず武帝は儒者を取り立てて政治の刷新を図ろうとしたが、これは祖母の竇太后の反対に遭って推進できなかった。しかし、紀元前135年に竇太后が死去すると状況が変わる。 竇太后という束縛の無くなった武帝はこれより「雄材大略」ぶりを発揮する。内政面においては儒者公孫弘、董仲舒らを重用し、郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。 外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では4人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は7度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げ、匈奴は壮丁数万、家畜数十万頭と記録される被害を受けた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという戦果も挙げた。漢軍の攻勢を避けるため、匈奴は漠北(ゴビ砂漠の北)への移住を余儀なくされた。漢は新たに獲得した領域に朔方・敦煌などの郡を設け直接統治を開始した。 朝鮮半島の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡など九郡を設け、新たな領土とした。また、匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛・その他の西域諸国と関係を結び、西域との間にいわゆるシルクロードの交易路が開けた。そして「中国」と呼ばれる領域の大枠がこの時代に形作られた。 さらに武帝は始皇帝の例にならい各地を巡行し、元封元年(前110年)には泰山で封禅を行った。これは聖天子にのみ許される儀式であり、それ以前に行ったのは始皇帝のみであった。この頃が武帝の絶頂期であったとされる。 しかし、相次ぐ軍事行動は財政の悪化を招き、国庫は空になっていた。武帝は経済官僚である桑弘羊を登用し、塩鉄専売を開始し、また商人に対しては均輸・平準を行ったほか、商工業者を対象とした新税を設けた。一連の政策により財政収入は増大したが、専売と新税により商人は商業活動に打撃を被った。 また、農民の自作放棄に伴う大地主による土地の併呑も深刻な問題となっていた。武帝の治世の後半は、没落した多数の農民や商人による盗賊の横行に悩まされる。社会不安に対して武帝は酷吏を登用し、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には、郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。 晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒し、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戾太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戾太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の禍)。後に戾太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。 武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題が萌芽した時代でもあった。 巫蠱の乱の後、皇太子は長期間空位が続いていたが、武帝は崩御の直前にわずか8歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日磾に後見役を命じた。 前87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日磾が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は深刻なものとなった。霍光は桑弘羊を排除すべく全国から集めた賢良・文学と称する儒学の徒を養い、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。この「塩鉄会議」の模様を記したのが『塩鉄論』である。しかし、優秀な経済官僚であった桑弘羊は儒教徒の建議を論破し、霍光の計画は頓挫した。 その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された。これにより霍光が政権を掌握、一族を次々と要職に就け霍氏を中心とした政権運営が行われた。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策を打ち出した。具体的には租税の減免、匈奴に対する和平策などである。 前74年、昭帝が21歳で早世すると、霍光は劉賀を皇帝に擁立した。しかし、素行不良を理由に即位後まもなく廃位させ、新たに戾太子の孫で戾太子の死後市井で暮らしていた劉病已(宣帝)を擁立した。宣帝は自らの立場を理解し、霍光による専横が引き続き行われた。しかし前68年に霍光が病死すると宣帝は霍氏一族の権力縮小を図り、前66年に霍氏一族を族滅させ親政を始めた。 宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善するように指導させる循吏を多く登用している。その一方、豪族に対しては酷吏を用いて厳しい姿勢で臨んだ。 対外面では、匈奴において短命な単于が相次いだ事による内紛や、天候不順による状況の悪化に乗じて前71年、校尉の常恵と烏孫の連合軍による攻撃で、3万9千余人の捕虜と70万余の家畜を得て匈奴に壊滅的な打撃を与えた。さらに西域に進出し、前60年には匈奴が西域オアシス諸国家の支配・徴税のために派遣していた日逐王先賢撣を投降させることに成功している。これを機に西域都護を設置し、帰服した日逐王を帰徳候に封じた。 匈奴は西域の失陥と年賦金の途絶により、衰退と内紛を激化させ五単于並立の抗争に至った。呼韓邪単于は匈奴国家の再統一を進めたが、兄の左賢王呼屠吾斯が新たに即位して郅支単于を名乗ると、これに敗れた。呼韓邪単于は南下して漢に援助を求め、51年、自ら入朝して宣帝に拝謁し客臣の待遇を得た。これを機に匈奴国は漢に臣従する東匈奴と、漢と対等な関係を志向しつつ対立する西匈奴に分裂した。 これらの功績により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。 前49年に宣帝が崩御し、劉奭(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる。 貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の後を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述)。 元帝の時代は儒者が政策の主導権を握り、儒教的教義が政治を決定を左右する等、政治が混乱した。また、宦官および外戚の台頭が進んだ。 宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政を取り仕切り権力を拡大、遂には中書令に就き政権を掌握した。前将軍の蕭望之らは、宦官の壟断を弾劾する文書を奏上するが、逆に罪に落とされ自殺へ追い込まれた。ただ、専横を振るった石顕も成帝の即位と共に失脚している。 漢への臣従を拒む西匈奴の郅支単于に対しては、臣従した東匈奴や西方で西匈奴に対立する烏孫と攻守同盟を結び次第に追い詰めていった。郅支単于は烏孫と対立する康居と同盟して部衆を率いて北に移動したが、折からの寒気により多くの家畜が凍死した。前36年、西域都護の甘延寿と西域副校尉の陳湯が独断で郅支単于を攻め、郅支単于を討ち取り西匈奴を滅ぼした。 前33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。政治の実権は外戚の王氏に握られており、成帝は側近を伴い市井で放蕩に耽るなど政治に関わらなかった。実際の政治を行ったのは皇太后である王政君(王太后)の兄弟の王鳳らである。成帝は王太后の近親を次々と列侯に封じた。その中には王莽も含まれる。 王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒教官僚の反発を招いた。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を装い、名声を高めた。 前7年、成帝の崩御により、成帝の甥の皇太子劉欣(哀帝)が即位した。哀帝の外戚が台頭した事で、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられ、一時的に失脚する。 哀帝は王氏派の大臣を処断するなど親政への意欲を見せ、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を課し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進した。しかし、前1年に哀帝は後継者を残さないまま突然崩御した。王太后と王莽は皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を擁立した。 政権を掌握した王莽は王氏の実力を背景に権勢を強めていく。『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築、遠国からの進貢や竜が出たやら鳳凰が飛んできたやら瑞祥とされる事柄を演出した。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ずると共に宰衡という称号を名乗り、九錫を授け、臣下として最高の地位に登った。 紀元後5年、平帝が崩御すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることを理由に正式には帝位に就けられず、翌6年に王莽は自ら仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となった。更に8年王莽は皇帝に即位、国号を新と改め、漢は一旦断絶することになった。 王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、あまりに性急な政策は失敗を重ねた。呂母の乱を切っ掛けに全国で農民の蜂起が発生し、王莽は敗亡した。戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。 劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えて多くを保護し、それを参考として漢律を作った。そのため秦と漢の連続性を強調する「秦漢」、「秦漢帝国」という熟語がよく使われる。 「皇帝」の号は、秦の始皇帝に始まり、清の宣統帝まで続く。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、全ての権威と名目上の権力は皇帝に帰属するものと考えられていた。 『史記』「秦始皇本紀」には、「皇帝」とは始皇帝が自らを三皇五帝にならぶほど尊い存在になぞらえて造語したものとあり、それまでの最高位であった王の上に立つ地位である。 一方で、漢代には天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた周代においても天子の語は使われている。 その間の差を説明する『孝経緯』には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。 この使い分けは現実の場面において、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。 なお、前漢・後漢を通じて、孝を諡号に付けて「孝○皇帝」という諡号の皇帝が多いが、これは治国立家のために「以孝為本(孝を以て本と為す)」を唱えたためである。 漢の官制において、共通する文字は同じ意味を表す。 令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。 漢制においては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字であったが、漢代では等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。 漢の中央官制は三公の下に九卿と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく2つに分類される。1つは政府の中枢にあって地方を統治する機関であり、1つは皇家の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。 後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。 国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である。また、元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間70億銭、少府と分離した水衡都尉の扱う金額が33億銭、地方の郡県で扱う金額が92億銭と、地方財政が大きいのも特徴である。 地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぎ、同時に皇族を封国して諸侯王とする並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。 行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉へそれぞれ改称される。なお辺境においては若干異なるが、それは#兵制の項で記述する。 武帝時代末期の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。 ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。 本節では諸侯国に関する事項を記す。高祖時代には韓信を初めとする武功を挙げた功臣を諸侯王とした。しかし、高祖は異姓の諸侯王を粛清して、親族を諸侯王に就け、劉氏政権の安定を図った。 文帝の時代には藩屏として期待された諸侯王に劉氏の本流たる中央の朝廷に対する反抗的姿勢が目立ち、また諸侯王の領土と実力が大きな脅威となっていた。諸侯国は自らの朝廷を持ち、丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官を置いた。この中、丞相は基本的には中央から派遣され、その他の官は全て諸侯王の名の下に任命した。基本的に諸侯国の政治に対して中央が介入することはできなかった。諸侯国中最大の呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要が無い程に富んでいたという。中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の鼂錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。 乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変わり、諸侯王の力は大幅に削られた。また、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。主父偃の献策による。この令により、諸侯王の封地は代を重ねる毎に細分化され弱体化した。一連の政策によりほぼ郡県制と大きな差はなくなった。 武帝以前の官吏採用制度は、一定以上の役職にある官吏の子(任子)や、一定以上の資産(10万銭、後に4万銭)を持つ家の者を採用する制度であった。 一方、諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われた。これは武帝期には郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。推薦する基準は賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受け、官僚となった。この制度は有力者の推薦を必要とするため、次第に豪族の子弟が主な対象となった。 戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143 cm)以下の者は除く。 軍事の最高職は太尉である。しかし全軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の元狩四年(紀元前119年)に将軍号に冠する一種の称号として大司馬が設置される。大司馬になった者としては衛青・霍去病の両者があり、その親族の霍光もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の地節三年(紀元前67年)に称号から実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬に就いて政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治職となった。 首都長安に置かれる中央軍は中尉が指揮する北軍と衛尉が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが郎中令によって統括される郎官たちである。長安の十二の門には城門候が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として城門都尉があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七校尉が統括する部隊がある。 地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。 これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍・衛将軍であり、それに加えて驃騎将軍が霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。 将軍は司令部として幕府を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と司馬が付き、それぞれ事務と兵を司る。参謀として従事中郎が2人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。 #皇帝の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、天帝によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢において、それまで漠然としていた皇帝祭祀が固まり、封禅と郊祀という形になった。 また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の祖廟の祀り方もまた定式化された。 郊祀とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象は天と地で、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は冬至、北郊は夏至に行われる。 前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは三皇五帝の五帝ではない。元々秦において、秦の旧首都である雍において四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを五畤という。 武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である后土を祀らないのはおかしいということになり、紀元前113年に汾陰の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である太一の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の3つを1年ごとに順番に回って祀ることにされた。 しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の紀元前32年に丞相の匡衡らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところとなった。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の5年に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された。 甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。封禅は聖天子以外行うことができないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。 武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることができず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。 このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。 高祖は自らの父である劉太公を祀る廟を作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年に韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。 また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の4代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。 元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見され、この年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中華民国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。 またそれまでの10月を正月としていた顓頊暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。 当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。 敦煌漢簡・居延漢簡の中の文書からある程度当時の物価が推測できる。それによれば、 とある。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。 戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。 その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代においても引き継がれ、唐で開元通宝が作られる621年まで続いた。 後漢から三国期、さらには五胡十六国時代に入ると、五銖銭は粗製乱造が進み、政権によって製造されるサイズはまちまちで統一規格は崩れ始め、貨幣経済は衰退に向かうが、それはまた後の話であろう。 税の徴収は人頭税・土地税・財産税・商税・畜税・労働税(徭役)・兵役・鉱林漁業に対する税などがある。 人頭税には、数え15歳から60歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める算賦と数え3歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口銭があり、武帝時代に3銭が上乗せされ、昭帝時代にそれぞれ数え56歳までと数え7歳からに変更された。また、妊婦の算賦は免除され、数え15歳から30歳の未婚女は5算を、奴婢には2算が課された。 財産税は算緡と呼ばれ、初期は市籍に登録された専業商家のみに課せれ、武帝以降は商業・手工業・鉱業を営む者に課された。商いを行う戸はあらゆる財産(土地、奴婢も含む)2000銭につき年間1算を納め、手工業と鉱業を営む戸は財産4000銭に付き年間1算を納めた。また、武帝時代に算車・算船と呼ばれる車と船に対する課税が行われ、官吏でない者は1車・1船につき1算、商いに携わる者は2算を課された。これらの増税は一定以上の資産を保有する専業兼業に係わらない全ての商いに関わる民が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。算緡令には罰則があり、家長が報告しなかった場合は売上利益を没収のうえ労働1年、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備5年という厳しいものである。 田に対する税は田律に規定され、漢初は収穫高の15分の1を収めるとされていたが、漢は実態の把握を放棄して次第に耕田面積当たりの定額税となり、穀類・稲や秣用の干草・藁など品目ごとに納税量が設定された。文帝の時代には廃止され、景帝の時代に1/30の税率で復活した。 労働税は賦と呼ばれ、数え15歳から60歳までの男女が、漢初は6ヶ月に1月の文帝以降は12ヶ月に1月の割合で、在地郡県での就労を義務付けられた。月300銭の納付により免除され更賦と呼んだ。 兵役は、数え17歳から60歳(昭帝以降は数え23歳から55歳)の男性に年間1月の兵役が課され、1年の訓練期間を除くと年11カ月で生涯通算3年或いは2年分の兵役が存在した。1年間(11カ月)の訓練の後に在官(予備役)と成り、年間11カ月の衛士(都城での衛兵勤務)を務め、代行の相場は月2000銭で践更と呼ばれた。また、数え15歳から60歳の男女には、年間3日(生涯で132日、99日)の戌兵(辺境防備)もしくは3日につき300銭が課され、辺境防備の従事者には給与として1日6銭或いは8銭が支給され、戌卒は給与が支払われ複数年に渡って勤める職業軍人の形をとった。 商税は占租律に規定があり、商品の売上・手工業品の販売・高利貸(上限利率は月利3%程度か)などの利益に課税され、登録業者は毎月ごとに、未登録の者はその場で徴収された。詳しい税率は解っていないが、最小2%~最大10%の間にあるとされる。 穀物や秣以外の果物・野菜・染料や繊維業・林業・牧畜業・養殖・漁業・鉄を除く鉱業冶金・牧畜業などの、田以外からの生産物に対してはおそらく1/10の税が課されていたとされる。 成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。 戦国時代の鉄製農具と牛耕の普及や二毛作により、生産力は向上したと思われる。前漢代は開発の進んだ北部の非稲作地域に人口が集中していたため、淮河以南に多い稲作地域では中期頃まで技術が発展途上で、苗床が作られず二毛作も行われていない。 『漢書』食貨志は武帝末期の趙過考案の代田法という耕田・閑休田を全面耕起する農法を記している。具体的な内容は記述が曖昧で解釈に議論があるが、2頭のウシと3人の人間により行われるものとされる。しかし民間でウシ二頭を持つ者は少なくあまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。 牧畜は、農民の間でもブタやニワトリ・イヌなどの飼育が一般的に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマやウシの生産は、これとは別に官有の大規模な牧場や豪族の牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたため、馬産で財産を築く者も多かった。 戦国時代から秦漢にかけては冶金業や窯業、手工業の発展時期でもある。 手工業で賄われたのは日用品や服飾品・装飾品・酒類などの他、一般民では作り得ない特別な道具(例えば銅製品や陶磁器、鉄製農具など)や奢侈品などである。 王侯の使用する高度な技術品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、少府や大司農が管轄した。尚方では官が使用するための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・鉄器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための棺や明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄製農具が作られた。 民営の工業として大きなモノは、製塩所や大規模な高炉、鉄器や銅銭に用いる大規模な鉱山などが存在した。それ以外にも酒や絹織物などが手工業として成立していた。 武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の重要な位置を占め、武帝末期には既に不可欠となっていた。塩も鉄も製造された産物は全て国家が買い取り、特に大規模な製鉄所は国家により運営され、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし密造を行う者も多く、それらは官製のものに比べ安価であった。 武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われ、後に『塩鉄論』という書物に纏められた。 その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が逼迫し、すぐに戻された。 当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人。一家が所有する田(農地)は大体100畝、耕作地は50~70畝で年間125~210石前後(3.5tから5.9t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基に課税や徴兵が行われた。 次男・三男がいた場合には分家した、分家の場合は私有田ではなく官給田を支給されて耕作するか、官田や権勢家の下で小作となり、所有田は1人が受け継ぐのが基本であった。 概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる。 漢以前の戦国時代においては集落は基本的に新石器時代から春秋時代までの都市国家の流れをくむ城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。邑は元々は姓を同じくする氏族が一纏まりになって生活する共同体で異姓の者は排除されていたが、漢代には既に戦国時代の人口の流動化を経ることでその様な区別は失われていた。集落の周辺は版築で築かれた城壁が囲い、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田まで行く生活をしていた。 集落の中心には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。市は自然発生的なものだったが、秦代以降は官吏により管理された。そのため罪人の処刑も市で行われる。 漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。 漢の長安は唐の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、 また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。 長安城内の人口は戸籍によれば24万6200人である。 漢の二十等爵制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。 爵位を持っているものはそれと引き換えに減刑特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。 漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われていて、年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成する目的があったとされる。 七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることはできない。 一般農民の住む家は5人程度であったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居した。また、所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させた。小作人は収穫の1/2程度を地主に収めた。豪族は里の父老となる場合も多かった。郷里選挙で一族の者が官吏になれば、更に影響力を持った。 戦国時代から商業が発達した事による貨幣経済の進展が基になった。商いに従事する戸の勢力を抑えるため前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。鼂錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。農民達の収入は穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売ることで商人に買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫を防くことを意図した。最高で18位の高位まで得ることができ、この政策は効果を上げた。 抑商政策で特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の下で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施したものである。均輸法は全国の物価を調査して安い地方の高額物資と穀物を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差を均すものである。平準法は安い時期に高額物資と穀物を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策は物価の安定と共に、商人が物資の輸送と取引へ介在することによって利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策は効果を上げた。 武帝の抑商政策と五銖銭の発行、増税による耕作地放棄の進行と土地の併呑に伴い豪族は奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。 遊侠は、罪を犯した逃亡者・正業に就かない者・生活が破綻した没落者などが、無頼の徒など公の外に位置するようになった存在。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家や劇孟といった人物であり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。 例えば呉楚七国の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分する大乱において影響力を発揮出来たということである。 遊侠の持つ任侠精神は前漢のある時期までは遊侠に留まらず、多くの人間関係に敷衍されており、皇帝と豪族を母体とする官吏の関係も任侠精神に基づく面があると述べている。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に示していると言える。 律令で差別されたのは奴婢と罪人であり、一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。 奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、罪を犯して官奴隷となった者や借金や飢餓により身を売った者が該当する。私奴婢の主な囲い先は豪族であり、豪族の所有する田の耕作や手工業に携わった。政府に管理される官奴婢もあり、罪を犯した者や罪を犯した官吏とその家族、戦争捕虜などが供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役された。 奴婢や罪人とは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・職人といった職業である。 史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したと記しているため、従前は紙の発明者は蔡倫とされていた。しかし、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものと考えられ、前漢時代の地図が書かれている。年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。 漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期には権勢家を中心とする黄老思想と秦以来の刑名思想が流行、時代と共に支配層にも儒教が広まり、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。 あるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。内容は基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。 このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説・災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した。 五経博士とは五経である『詩』・『書』・『礼』・『易』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。 テキストがばらばらなのは不便であるため成帝期の劉向・劉歆親子により、テキストの整理が行われて一本化された。現在伝わる経書はこの時に整理されたものに基づくものが多い。 また劉向・劉歆親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。 また前漢末期には緯書が流行を見せることになる。これに関しては#神秘思想で後述。 例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説・天人相関説・災異説がある。 陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる天と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。 五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克したので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉歆親子によってなされた。劉歆によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けた魏の最初の元号が黄初であることは黄色が火徳の次に来る土徳の色だからである。 天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。 讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。 前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を舜の子孫であると吹聴していたことに繋がっている。 黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙がるのは、高祖の功臣の一人曹参である。曹参は斉の丞相を務めていた際に、蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたので、その言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。 これ以外にも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この人物が何者で実在の人物かどうかも不明である。 仏教の中国伝来に付いては元寿元年(紀元前2年)に月氏を通じて『浮屠教』が伝来したというのが諸説の中でも最も早いものの1つとなっているが、前漢代には社会への影響力はほとんど無かった。但し、意匠や装飾としての仏像が、早期より伝来していた事を示す遺物が後漢以降にも見られ、東西交流の結果、仏教の片鱗も前漢代より中国に伝来していた可能性が想定されている。 歴史の分野で取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も大きい。『史記』は司馬遷の個人の著作として書かれたものであるから、後の史書と違い自由に司馬遷の思想が表れており、文学作品としても高い評価がある。 『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。 前漢代には漢詩(例えば杜甫・李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる2つの流れが存在していた。 1つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では竽(大型の笙。zh:竽)・笙・笛・簫、弦楽器では瑟(大型の琴。zh:瑟)・琴・箜篌(ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。 もう1つは『楚辞』を源流とする賦の流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。 前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。 漢代の墳墓からは副葬品の食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうため、実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常に趣向に富み、食器・家具・家屋、鶏・犬などの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。 漢代の出土物として特筆すべきものの一つに馬王堆漢墓で見つかった、保存状態の良好な女性の遺体がある。彼女は長沙国の丞相を務めた利蒼の妻で、発見時には頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻った。 もう一つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣である。玉の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって遺体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の3段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張であると思われていた。 墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このようなものを画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。 壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に日烏が月の中にヒキガエル(羿の妻の嫦娥が変化した姿)がいる。太陽と月の間には女媧がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。 漢代の陶磁器は広く釉薬が用いられるようになり、陶磁器の歴史において契機となった時期である。 戦国では灰釉が主流で鉛釉もあったが、出土例は少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)が盛んに使われ(ギャラリーの酒器が緑釉)三足の様式と共に流行し、その他に褐釉(酸化鉄)や黄釉・青磁が広く作られた。緑釉と褐釉は低温度(800度ほど)で焼かれ、緑釉陶の主な用途は投壺と呼ばれる遊戯用や祭器であった。黄釉陶は主として酒樽に用いられた、青磁は高温(1300度ほど)で焼かれ、主に瓶や保存容器などに使われた。その他、醤油や酢・油などの調味料の保存や水瓶・匙や皿など様々な食器・酒坏に陶磁器が用いられた。 上流層は日常的な食器として青磁や黄釉陶を、祭祀用に緑釉陶などを使い、下流層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。 漢服・ZH:中國服飾なども参照。 漢代において周代より続く深衣は男性はあまり着なくなった。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が1枚・下着が1枚というのが一般的になった。 身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「褲」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみで過ごすこともあったらしい。また、『礼記』には、「禅を絅(麻布で作った上着)と為し」と記され、上に羽織る衣だと解釈されている。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるように位の高い者の冕冠、宦官の長冠、武官の武冠、裁判官の法冠、文官の梁冠と区別されている。足に履くものは、祭祀の際に履く「舃」・出仕する際に履く「履」・家で履く「屨」・外出の際に履く「屐」がある。舃や履など大事なものは絹、屨は葛や麻で編まれた。屐は木で作られており、歯が2枚ある下駄のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。 労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。士大夫は冠であるが、庶民の男性は頭巾を被る(士大夫も私生活では頭巾を被る)。靴は履かず素足が基本である。 一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。 コモンズの漢代の美術のカテゴリも参照。 高祖時代に南越国・衛氏朝鮮の君主をそれぞれ皇帝に属する王として冊封した。これがいわゆる冊封体制の始まりとされている。皇帝に直接仕える臣下を内臣と呼ぶのに対して、南越や朝鮮の君主たちを外臣と呼び、その国を外藩と呼ぶ。 楚漢戦争期、匈奴では冒頓単于が立ち、東胡を滅亡させ、月氏を西に追いやり、烏孫などを支配下に置いて北アジアに覇を唱えた。更に韓王信が封じられていた代に大軍を持って侵入した。韓王信は匈奴に寝返ったため、高祖は自ら親征するが冒頓の策に嵌り、平城にて7日間にわたって包囲され、命からがら帰還した。 この時に結ばれた盟約が「漢と匈奴は兄弟となる」「漢の公主を匈奴の閼氏(皇后)とする」「漢から毎年贈り物を匈奴に贈る。」と匈奴側に有利なものであった。 その後、呂后時代に冒頓から呂后に対して無礼な親書が送られた際に匈奴攻撃が計画されたが、沙汰止みとなった。文帝時代には老上単于・軍臣単于らにより何度か侵攻があり、そのたびに和平を結び直された。 武帝は、張騫の西方への派遣を行うなど匈奴攻撃の準備を整え、紀元前134年に馬邑の土豪の聶壱という者が考えた策謀を採用し、対匈奴戦争を開始した。聶壱の策は軍臣単于に対して偽りの手紙を送り、軍臣を誘き出して討つものである。この作戦は察知されて失敗に終わり、聶壱は誅殺された。これ以後、紀元前119年まで計8回の遠征が行われる。 1回(紀元前129年)から6回(紀元前123年)までの主役となったのが衛青である。第1回の遠征において衛青・李広など4人の将軍がそれぞれ1万騎を率いて各方面から匈奴に攻め込んだが他の将軍は全て破れ、衛青のみが匈奴の首級数百を得た。これを皮切りに第3回(紀元前127年)ではオルドスを再び奪い、第4回(紀元前124年)では匈奴の右賢王(匈奴の右翼・西側の長)を敗走させ、大将軍に登った。 7回(紀元前121年)の遠征は衛青の甥・霍去病が主役になった。第7回では春・夏の二回遠征を行い、匈奴の渾邪王は数万の捕虜と共に漢に投降した。更に続く第8回(紀元前119年)では衛青は伊稚斜単于の軍を大破し、霍去病も匈奴の王・兵士数万を捕虜とする大戦果を挙げ、2人共に大司馬とされた。 この結果、匈奴は本拠をゴビ砂漠の北へと移さざるを得なくなり、漢は新領土に武威・酒泉・敦煌・張掖の河西四郡を設置した。以後、匈奴は二十年近く姿を現さなかったが、漢が西域に勢力を伸ばすと再び匈奴は漢と敵対する。 武帝は紀元前103年から再び軍事行動を再開。紀元前90年に至るまで李広利将軍を主として数度の遠征が行われ、小さな戦果と多くの損失を招いた。李陵は奮戦しながら罪に落とされ、司馬遷も宮刑に処された。最終的に李広利は匈奴に降伏し、武帝は「輪台の詔」を出して遠征により民衆が苦しんだことを自ら批判した。 一連の戦争により漢・匈奴共に疲弊したが、宣帝に至り西域諸国は漢に服属、西域都護が設置された。 紀元前58年、匈奴では呼韓邪単于が立つが、呼韓邪の兄も自立して郅支単于となり、東西に分裂した。呼韓邪は紀元前51年に自ら漢へ入朝し、宣帝は呼韓邪に「匈奴単于璽」を授けて呼韓邪を漢の外臣とする。更に元帝の紀元前36年には烏孫を攻撃した郅支単于を攻め、討ち取って首を長安に晒した。以後、前漢の終わりまで北方は安定した時期を迎えた。 紀元前139年、武帝は張騫をソグド地方の大月氏へ送り匈奴の挟撃策を説くが受け容れられなかった。帰還した張騫により、西域の情勢が伝えられた。 張騫以後は大宛(フェルガナ)・大月氏・安息(パルティア)などの西域諸国との交易が始まり、西方からブドウ・ザクロ・ウマゴヤシなどが輸入されて、漢からは絹織物が輸出された。交易にはいわゆるシルクロードが利用された。 武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた楼蘭・姑師を服属させるために紀元前108年に遠征軍を出し、その後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われ、駿馬とされる)を得るために李広利将軍を遠征させ、苦戦の末に大宛を服属させた。 西域都護を創設する頃には、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続くが、王莽の異民族を侮蔑する政策のため西域は漢の支配から離れた。 始皇帝はベトナムに遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人趙佗が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に冊封して懐柔した。 武帝は紀元前111年に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領とした。これ以降10世紀の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。 南西部には夜郎自大の言葉で有名な夜郎(貴州省)や滇(てん、滇の字はさんずいに真、雲南省)などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺されたことを契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。 朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部に漢四郡を置いた。 漢四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に400年間に及ぶ中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)といわれる部族国家連合が存在していた。 日本列島にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が日本にもたらされた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡した。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦国時代を終わらせて、史上初めて中国を統一した秦の始皇帝は皇帝号の創出・郡県制の施行など、その後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "前209年に河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害された。しかし、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、楚を復国し懐王を擁立、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。劉邦は懐王の命を受け、秦の都であった咸陽を落とし、ここに秦は滅亡した。その後、楚の実権を掌握し西楚の覇王を名乗った項羽と、その項羽から関中に封建されて漢王となった劉邦との間での戦争が発生した(楚漢戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初、軍事力が優勢であった項羽に劉邦はたびたび敗北した。しかし、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行った。更に劉邦は将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "劉邦は諸将に推戴され皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に子孫に継承されるかを憂慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王たるべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "前195年、高祖は崩御し、劉盈(恵帝)が後を継いだ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、さらにその母の戚夫人を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は前少帝・後少帝(劉弘)を相次いで帝位に付けるが、劉弘は実際には劉氏ではなかったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産・呂禄らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ外戚政治を行う。「劉氏にあらざる者は......」という高祖の遺志は無視されたのである。呂后は呂氏体制の確立に努めたが、前180年に死去した。呂后が死去するや、朱虚侯劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり呂産ら呂氏一族を粛清し、呂氏の影響力は宮中から一掃された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "呂氏が粛清された後に皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い戦争により、諸王国は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失っていた。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "前157年に文帝は崩御した。遺詔で文帝は、新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けさせるように遺言した。後を継いだ劉啓(景帝)も、基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたという。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽の戸数は、当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し、商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを文帝に提言したのが賈誼と鼂錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである(#豪族節を参照のこと。)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが袁盎や賈誼・鼂錯である。とりわけ景帝即位後の鼂錯は、諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "景帝は前141年に崩御し、16歳の劉徹(武帝)が即位した。武帝は、文景の治で国家財政・経済が充実し、政治も安定したことから、積極的な活動を行おうと考えた。まず武帝は儒者を取り立てて政治の刷新を図ろうとしたが、これは祖母の竇太后の反対に遭って推進できなかった。しかし、紀元前135年に竇太后が死去すると状況が変わる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "竇太后という束縛の無くなった武帝はこれより「雄材大略」ぶりを発揮する。内政面においては儒者公孫弘、董仲舒らを重用し、郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では4人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は7度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げ、匈奴は壮丁数万、家畜数十万頭と記録される被害を受けた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという戦果も挙げた。漢軍の攻勢を避けるため、匈奴は漠北(ゴビ砂漠の北)への移住を余儀なくされた。漢は新たに獲得した領域に朔方・敦煌などの郡を設け直接統治を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "朝鮮半島の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡など九郡を設け、新たな領土とした。また、匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛・その他の西域諸国と関係を結び、西域との間にいわゆるシルクロードの交易路が開けた。そして「中国」と呼ばれる領域の大枠がこの時代に形作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "さらに武帝は始皇帝の例にならい各地を巡行し、元封元年(前110年)には泰山で封禅を行った。これは聖天子にのみ許される儀式であり、それ以前に行ったのは始皇帝のみであった。この頃が武帝の絶頂期であったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし、相次ぐ軍事行動は財政の悪化を招き、国庫は空になっていた。武帝は経済官僚である桑弘羊を登用し、塩鉄専売を開始し、また商人に対しては均輸・平準を行ったほか、商工業者を対象とした新税を設けた。一連の政策により財政収入は増大したが、専売と新税により商人は商業活動に打撃を被った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、農民の自作放棄に伴う大地主による土地の併呑も深刻な問題となっていた。武帝の治世の後半は、没落した多数の農民や商人による盗賊の横行に悩まされる。社会不安に対して武帝は酷吏を登用し、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には、郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒し、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戾太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戾太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の禍)。後に戾太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題が萌芽した時代でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "巫蠱の乱の後、皇太子は長期間空位が続いていたが、武帝は崩御の直前にわずか8歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日磾に後見役を命じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "前87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日磾が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は深刻なものとなった。霍光は桑弘羊を排除すべく全国から集めた賢良・文学と称する儒学の徒を養い、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。この「塩鉄会議」の模様を記したのが『塩鉄論』である。しかし、優秀な経済官僚であった桑弘羊は儒教徒の建議を論破し、霍光の計画は頓挫した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された。これにより霍光が政権を掌握、一族を次々と要職に就け霍氏を中心とした政権運営が行われた。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策を打ち出した。具体的には租税の減免、匈奴に対する和平策などである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "前74年、昭帝が21歳で早世すると、霍光は劉賀を皇帝に擁立した。しかし、素行不良を理由に即位後まもなく廃位させ、新たに戾太子の孫で戾太子の死後市井で暮らしていた劉病已(宣帝)を擁立した。宣帝は自らの立場を理解し、霍光による専横が引き続き行われた。しかし前68年に霍光が病死すると宣帝は霍氏一族の権力縮小を図り、前66年に霍氏一族を族滅させ親政を始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善するように指導させる循吏を多く登用している。その一方、豪族に対しては酷吏を用いて厳しい姿勢で臨んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "対外面では、匈奴において短命な単于が相次いだ事による内紛や、天候不順による状況の悪化に乗じて前71年、校尉の常恵と烏孫の連合軍による攻撃で、3万9千余人の捕虜と70万余の家畜を得て匈奴に壊滅的な打撃を与えた。さらに西域に進出し、前60年には匈奴が西域オアシス諸国家の支配・徴税のために派遣していた日逐王先賢撣を投降させることに成功している。これを機に西域都護を設置し、帰服した日逐王を帰徳候に封じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "匈奴は西域の失陥と年賦金の途絶により、衰退と内紛を激化させ五単于並立の抗争に至った。呼韓邪単于は匈奴国家の再統一を進めたが、兄の左賢王呼屠吾斯が新たに即位して郅支単于を名乗ると、これに敗れた。呼韓邪単于は南下して漢に援助を求め、51年、自ら入朝して宣帝に拝謁し客臣の待遇を得た。これを機に匈奴国は漢に臣従する東匈奴と、漢と対等な関係を志向しつつ対立する西匈奴に分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これらの功績により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "前49年に宣帝が崩御し、劉奭(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の後を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "元帝の時代は儒者が政策の主導権を握り、儒教的教義が政治を決定を左右する等、政治が混乱した。また、宦官および外戚の台頭が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政を取り仕切り権力を拡大、遂には中書令に就き政権を掌握した。前将軍の蕭望之らは、宦官の壟断を弾劾する文書を奏上するが、逆に罪に落とされ自殺へ追い込まれた。ただ、専横を振るった石顕も成帝の即位と共に失脚している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "漢への臣従を拒む西匈奴の郅支単于に対しては、臣従した東匈奴や西方で西匈奴に対立する烏孫と攻守同盟を結び次第に追い詰めていった。郅支単于は烏孫と対立する康居と同盟して部衆を率いて北に移動したが、折からの寒気により多くの家畜が凍死した。前36年、西域都護の甘延寿と西域副校尉の陳湯が独断で郅支単于を攻め、郅支単于を討ち取り西匈奴を滅ぼした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "前33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。政治の実権は外戚の王氏に握られており、成帝は側近を伴い市井で放蕩に耽るなど政治に関わらなかった。実際の政治を行ったのは皇太后である王政君(王太后)の兄弟の王鳳らである。成帝は王太后の近親を次々と列侯に封じた。その中には王莽も含まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒教官僚の反発を招いた。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を装い、名声を高めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "前7年、成帝の崩御により、成帝の甥の皇太子劉欣(哀帝)が即位した。哀帝の外戚が台頭した事で、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられ、一時的に失脚する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "哀帝は王氏派の大臣を処断するなど親政への意欲を見せ、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を課し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進した。しかし、前1年に哀帝は後継者を残さないまま突然崩御した。王太后と王莽は皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を擁立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "政権を掌握した王莽は王氏の実力を背景に権勢を強めていく。『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築、遠国からの進貢や竜が出たやら鳳凰が飛んできたやら瑞祥とされる事柄を演出した。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ずると共に宰衡という称号を名乗り、九錫を授け、臣下として最高の地位に登った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "紀元後5年、平帝が崩御すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることを理由に正式には帝位に就けられず、翌6年に王莽は自ら仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となった。更に8年王莽は皇帝に即位、国号を新と改め、漢は一旦断絶することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、あまりに性急な政策は失敗を重ねた。呂母の乱を切っ掛けに全国で農民の蜂起が発生し、王莽は敗亡した。戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えて多くを保護し、それを参考として漢律を作った。そのため秦と漢の連続性を強調する「秦漢」、「秦漢帝国」という熟語がよく使われる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「皇帝」の号は、秦の始皇帝に始まり、清の宣統帝まで続く。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、全ての権威と名目上の権力は皇帝に帰属するものと考えられていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『史記』「秦始皇本紀」には、「皇帝」とは始皇帝が自らを三皇五帝にならぶほど尊い存在になぞらえて造語したものとあり、それまでの最高位であった王の上に立つ地位である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一方で、漢代には天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた周代においても天子の語は使われている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "その間の差を説明する『孝経緯』には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "この使い分けは現実の場面において、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、前漢・後漢を通じて、孝を諡号に付けて「孝○皇帝」という諡号の皇帝が多いが、これは治国立家のために「以孝為本(孝を以て本と為す)」を唱えたためである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "漢の官制において、共通する文字は同じ意味を表す。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "漢制においては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字であったが、漢代では等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "漢の中央官制は三公の下に九卿と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく2つに分類される。1つは政府の中枢にあって地方を統治する機関であり、1つは皇家の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である。また、元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間70億銭、少府と分離した水衡都尉の扱う金額が33億銭、地方の郡県で扱う金額が92億銭と、地方財政が大きいのも特徴である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぎ、同時に皇族を封国して諸侯王とする並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉へそれぞれ改称される。なお辺境においては若干異なるが、それは#兵制の項で記述する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "武帝時代末期の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "本節では諸侯国に関する事項を記す。高祖時代には韓信を初めとする武功を挙げた功臣を諸侯王とした。しかし、高祖は異姓の諸侯王を粛清して、親族を諸侯王に就け、劉氏政権の安定を図った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "文帝の時代には藩屏として期待された諸侯王に劉氏の本流たる中央の朝廷に対する反抗的姿勢が目立ち、また諸侯王の領土と実力が大きな脅威となっていた。諸侯国は自らの朝廷を持ち、丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官を置いた。この中、丞相は基本的には中央から派遣され、その他の官は全て諸侯王の名の下に任命した。基本的に諸侯国の政治に対して中央が介入することはできなかった。諸侯国中最大の呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要が無い程に富んでいたという。中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の鼂錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変わり、諸侯王の力は大幅に削られた。また、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。主父偃の献策による。この令により、諸侯王の封地は代を重ねる毎に細分化され弱体化した。一連の政策によりほぼ郡県制と大きな差はなくなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "武帝以前の官吏採用制度は、一定以上の役職にある官吏の子(任子)や、一定以上の資産(10万銭、後に4万銭)を持つ家の者を採用する制度であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "一方、諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われた。これは武帝期には郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。推薦する基準は賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受け、官僚となった。この制度は有力者の推薦を必要とするため、次第に豪族の子弟が主な対象となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143 cm)以下の者は除く。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "軍事の最高職は太尉である。しかし全軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の元狩四年(紀元前119年)に将軍号に冠する一種の称号として大司馬が設置される。大司馬になった者としては衛青・霍去病の両者があり、その親族の霍光もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の地節三年(紀元前67年)に称号から実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬に就いて政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治職となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "首都長安に置かれる中央軍は中尉が指揮する北軍と衛尉が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが郎中令によって統括される郎官たちである。長安の十二の門には城門候が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として城門都尉があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七校尉が統括する部隊がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍・衛将軍であり、それに加えて驃騎将軍が霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "将軍は司令部として幕府を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と司馬が付き、それぞれ事務と兵を司る。参謀として従事中郎が2人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "#皇帝の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、天帝によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢において、それまで漠然としていた皇帝祭祀が固まり、封禅と郊祀という形になった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の祖廟の祀り方もまた定式化された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "郊祀とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象は天と地で、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は冬至、北郊は夏至に行われる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは三皇五帝の五帝ではない。元々秦において、秦の旧首都である雍において四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを五畤という。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である后土を祀らないのはおかしいということになり、紀元前113年に汾陰の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である太一の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の3つを1年ごとに順番に回って祀ることにされた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の紀元前32年に丞相の匡衡らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところとなった。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の5年に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。封禅は聖天子以外行うことができないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることができず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "高祖は自らの父である劉太公を祀る廟を作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年に韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の4代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見され、この年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中華民国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "またそれまでの10月を正月としていた顓頊暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "敦煌漢簡・居延漢簡の中の文書からある程度当時の物価が推測できる。それによれば、", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "とある。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代においても引き継がれ、唐で開元通宝が作られる621年まで続いた。 後漢から三国期、さらには五胡十六国時代に入ると、五銖銭は粗製乱造が進み、政権によって製造されるサイズはまちまちで統一規格は崩れ始め、貨幣経済は衰退に向かうが、それはまた後の話であろう。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "税の徴収は人頭税・土地税・財産税・商税・畜税・労働税(徭役)・兵役・鉱林漁業に対する税などがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "人頭税には、数え15歳から60歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める算賦と数え3歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口銭があり、武帝時代に3銭が上乗せされ、昭帝時代にそれぞれ数え56歳までと数え7歳からに変更された。また、妊婦の算賦は免除され、数え15歳から30歳の未婚女は5算を、奴婢には2算が課された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "財産税は算緡と呼ばれ、初期は市籍に登録された専業商家のみに課せれ、武帝以降は商業・手工業・鉱業を営む者に課された。商いを行う戸はあらゆる財産(土地、奴婢も含む)2000銭につき年間1算を納め、手工業と鉱業を営む戸は財産4000銭に付き年間1算を納めた。また、武帝時代に算車・算船と呼ばれる車と船に対する課税が行われ、官吏でない者は1車・1船につき1算、商いに携わる者は2算を課された。これらの増税は一定以上の資産を保有する専業兼業に係わらない全ての商いに関わる民が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。算緡令には罰則があり、家長が報告しなかった場合は売上利益を没収のうえ労働1年、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備5年という厳しいものである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "田に対する税は田律に規定され、漢初は収穫高の15分の1を収めるとされていたが、漢は実態の把握を放棄して次第に耕田面積当たりの定額税となり、穀類・稲や秣用の干草・藁など品目ごとに納税量が設定された。文帝の時代には廃止され、景帝の時代に1/30の税率で復活した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "労働税は賦と呼ばれ、数え15歳から60歳までの男女が、漢初は6ヶ月に1月の文帝以降は12ヶ月に1月の割合で、在地郡県での就労を義務付けられた。月300銭の納付により免除され更賦と呼んだ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "兵役は、数え17歳から60歳(昭帝以降は数え23歳から55歳)の男性に年間1月の兵役が課され、1年の訓練期間を除くと年11カ月で生涯通算3年或いは2年分の兵役が存在した。1年間(11カ月)の訓練の後に在官(予備役)と成り、年間11カ月の衛士(都城での衛兵勤務)を務め、代行の相場は月2000銭で践更と呼ばれた。また、数え15歳から60歳の男女には、年間3日(生涯で132日、99日)の戌兵(辺境防備)もしくは3日につき300銭が課され、辺境防備の従事者には給与として1日6銭或いは8銭が支給され、戌卒は給与が支払われ複数年に渡って勤める職業軍人の形をとった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "商税は占租律に規定があり、商品の売上・手工業品の販売・高利貸(上限利率は月利3%程度か)などの利益に課税され、登録業者は毎月ごとに、未登録の者はその場で徴収された。詳しい税率は解っていないが、最小2%~最大10%の間にあるとされる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "穀物や秣以外の果物・野菜・染料や繊維業・林業・牧畜業・養殖・漁業・鉄を除く鉱業冶金・牧畜業などの、田以外からの生産物に対してはおそらく1/10の税が課されていたとされる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "戦国時代の鉄製農具と牛耕の普及や二毛作により、生産力は向上したと思われる。前漢代は開発の進んだ北部の非稲作地域に人口が集中していたため、淮河以南に多い稲作地域では中期頃まで技術が発展途上で、苗床が作られず二毛作も行われていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "『漢書』食貨志は武帝末期の趙過考案の代田法という耕田・閑休田を全面耕起する農法を記している。具体的な内容は記述が曖昧で解釈に議論があるが、2頭のウシと3人の人間により行われるものとされる。しかし民間でウシ二頭を持つ者は少なくあまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "牧畜は、農民の間でもブタやニワトリ・イヌなどの飼育が一般的に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマやウシの生産は、これとは別に官有の大規模な牧場や豪族の牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたため、馬産で財産を築く者も多かった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "戦国時代から秦漢にかけては冶金業や窯業、手工業の発展時期でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "手工業で賄われたのは日用品や服飾品・装飾品・酒類などの他、一般民では作り得ない特別な道具(例えば銅製品や陶磁器、鉄製農具など)や奢侈品などである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "王侯の使用する高度な技術品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、少府や大司農が管轄した。尚方では官が使用するための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・鉄器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための棺や明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄製農具が作られた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "民営の工業として大きなモノは、製塩所や大規模な高炉、鉄器や銅銭に用いる大規模な鉱山などが存在した。それ以外にも酒や絹織物などが手工業として成立していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の重要な位置を占め、武帝末期には既に不可欠となっていた。塩も鉄も製造された産物は全て国家が買い取り、特に大規模な製鉄所は国家により運営され、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし密造を行う者も多く、それらは官製のものに比べ安価であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われ、後に『塩鉄論』という書物に纏められた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が逼迫し、すぐに戻された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人。一家が所有する田(農地)は大体100畝、耕作地は50~70畝で年間125~210石前後(3.5tから5.9t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基に課税や徴兵が行われた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "次男・三男がいた場合には分家した、分家の場合は私有田ではなく官給田を支給されて耕作するか、官田や権勢家の下で小作となり、所有田は1人が受け継ぐのが基本であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "漢以前の戦国時代においては集落は基本的に新石器時代から春秋時代までの都市国家の流れをくむ城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。邑は元々は姓を同じくする氏族が一纏まりになって生活する共同体で異姓の者は排除されていたが、漢代には既に戦国時代の人口の流動化を経ることでその様な区別は失われていた。集落の周辺は版築で築かれた城壁が囲い、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田まで行く生活をしていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "集落の中心には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。市は自然発生的なものだったが、秦代以降は官吏により管理された。そのため罪人の処刑も市で行われる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "漢の長安は唐の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "長安城内の人口は戸籍によれば24万6200人である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "漢の二十等爵制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "爵位を持っているものはそれと引き換えに減刑特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われていて、年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成する目的があったとされる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることはできない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "一般農民の住む家は5人程度であったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居した。また、所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させた。小作人は収穫の1/2程度を地主に収めた。豪族は里の父老となる場合も多かった。郷里選挙で一族の者が官吏になれば、更に影響力を持った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "戦国時代から商業が発達した事による貨幣経済の進展が基になった。商いに従事する戸の勢力を抑えるため前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。鼂錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。農民達の収入は穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売ることで商人に買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫を防くことを意図した。最高で18位の高位まで得ることができ、この政策は効果を上げた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "抑商政策で特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の下で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施したものである。均輸法は全国の物価を調査して安い地方の高額物資と穀物を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差を均すものである。平準法は安い時期に高額物資と穀物を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策は物価の安定と共に、商人が物資の輸送と取引へ介在することによって利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策は効果を上げた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "武帝の抑商政策と五銖銭の発行、増税による耕作地放棄の進行と土地の併呑に伴い豪族は奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "遊侠は、罪を犯した逃亡者・正業に就かない者・生活が破綻した没落者などが、無頼の徒など公の外に位置するようになった存在。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家や劇孟といった人物であり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "例えば呉楚七国の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分する大乱において影響力を発揮出来たということである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "遊侠の持つ任侠精神は前漢のある時期までは遊侠に留まらず、多くの人間関係に敷衍されており、皇帝と豪族を母体とする官吏の関係も任侠精神に基づく面があると述べている。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に示していると言える。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "律令で差別されたのは奴婢と罪人であり、一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、罪を犯して官奴隷となった者や借金や飢餓により身を売った者が該当する。私奴婢の主な囲い先は豪族であり、豪族の所有する田の耕作や手工業に携わった。政府に管理される官奴婢もあり、罪を犯した者や罪を犯した官吏とその家族、戦争捕虜などが供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "奴婢や罪人とは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・職人といった職業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したと記しているため、従前は紙の発明者は蔡倫とされていた。しかし、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものと考えられ、前漢時代の地図が書かれている。年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期には権勢家を中心とする黄老思想と秦以来の刑名思想が流行、時代と共に支配層にも儒教が広まり、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "あるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。内容は基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説・災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "五経博士とは五経である『詩』・『書』・『礼』・『易』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "テキストがばらばらなのは不便であるため成帝期の劉向・劉歆親子により、テキストの整理が行われて一本化された。現在伝わる経書はこの時に整理されたものに基づくものが多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "また劉向・劉歆親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "また前漢末期には緯書が流行を見せることになる。これに関しては#神秘思想で後述。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説・天人相関説・災異説がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる天と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克したので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉歆親子によってなされた。劉歆によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けた魏の最初の元号が黄初であることは黄色が火徳の次に来る土徳の色だからである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を舜の子孫であると吹聴していたことに繋がっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙がるのは、高祖の功臣の一人曹参である。曹参は斉の丞相を務めていた際に、蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたので、その言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "これ以外にも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この人物が何者で実在の人物かどうかも不明である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "仏教の中国伝来に付いては元寿元年(紀元前2年)に月氏を通じて『浮屠教』が伝来したというのが諸説の中でも最も早いものの1つとなっているが、前漢代には社会への影響力はほとんど無かった。但し、意匠や装飾としての仏像が、早期より伝来していた事を示す遺物が後漢以降にも見られ、東西交流の結果、仏教の片鱗も前漢代より中国に伝来していた可能性が想定されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "歴史の分野で取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も大きい。『史記』は司馬遷の個人の著作として書かれたものであるから、後の史書と違い自由に司馬遷の思想が表れており、文学作品としても高い評価がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "前漢代には漢詩(例えば杜甫・李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる2つの流れが存在していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "1つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では竽(大型の笙。zh:竽)・笙・笛・簫、弦楽器では瑟(大型の琴。zh:瑟)・琴・箜篌(ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "もう1つは『楚辞』を源流とする賦の流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "漢代の墳墓からは副葬品の食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうため、実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常に趣向に富み、食器・家具・家屋、鶏・犬などの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "漢代の出土物として特筆すべきものの一つに馬王堆漢墓で見つかった、保存状態の良好な女性の遺体がある。彼女は長沙国の丞相を務めた利蒼の妻で、発見時には頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻った。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "もう一つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣である。玉の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって遺体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の3段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張であると思われていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このようなものを画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に日烏が月の中にヒキガエル(羿の妻の嫦娥が変化した姿)がいる。太陽と月の間には女媧がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "漢代の陶磁器は広く釉薬が用いられるようになり、陶磁器の歴史において契機となった時期である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "戦国では灰釉が主流で鉛釉もあったが、出土例は少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)が盛んに使われ(ギャラリーの酒器が緑釉)三足の様式と共に流行し、その他に褐釉(酸化鉄)や黄釉・青磁が広く作られた。緑釉と褐釉は低温度(800度ほど)で焼かれ、緑釉陶の主な用途は投壺と呼ばれる遊戯用や祭器であった。黄釉陶は主として酒樽に用いられた、青磁は高温(1300度ほど)で焼かれ、主に瓶や保存容器などに使われた。その他、醤油や酢・油などの調味料の保存や水瓶・匙や皿など様々な食器・酒坏に陶磁器が用いられた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "上流層は日常的な食器として青磁や黄釉陶を、祭祀用に緑釉陶などを使い、下流層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "漢服・ZH:中國服飾なども参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "漢代において周代より続く深衣は男性はあまり着なくなった。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が1枚・下着が1枚というのが一般的になった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「褲」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみで過ごすこともあったらしい。また、『礼記』には、「禅を絅(麻布で作った上着)と為し」と記され、上に羽織る衣だと解釈されている。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるように位の高い者の冕冠、宦官の長冠、武官の武冠、裁判官の法冠、文官の梁冠と区別されている。足に履くものは、祭祀の際に履く「舃」・出仕する際に履く「履」・家で履く「屨」・外出の際に履く「屐」がある。舃や履など大事なものは絹、屨は葛や麻で編まれた。屐は木で作られており、歯が2枚ある下駄のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。士大夫は冠であるが、庶民の男性は頭巾を被る(士大夫も私生活では頭巾を被る)。靴は履かず素足が基本である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "コモンズの漢代の美術のカテゴリも参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "高祖時代に南越国・衛氏朝鮮の君主をそれぞれ皇帝に属する王として冊封した。これがいわゆる冊封体制の始まりとされている。皇帝に直接仕える臣下を内臣と呼ぶのに対して、南越や朝鮮の君主たちを外臣と呼び、その国を外藩と呼ぶ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "楚漢戦争期、匈奴では冒頓単于が立ち、東胡を滅亡させ、月氏を西に追いやり、烏孫などを支配下に置いて北アジアに覇を唱えた。更に韓王信が封じられていた代に大軍を持って侵入した。韓王信は匈奴に寝返ったため、高祖は自ら親征するが冒頓の策に嵌り、平城にて7日間にわたって包囲され、命からがら帰還した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "この時に結ばれた盟約が「漢と匈奴は兄弟となる」「漢の公主を匈奴の閼氏(皇后)とする」「漢から毎年贈り物を匈奴に贈る。」と匈奴側に有利なものであった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "その後、呂后時代に冒頓から呂后に対して無礼な親書が送られた際に匈奴攻撃が計画されたが、沙汰止みとなった。文帝時代には老上単于・軍臣単于らにより何度か侵攻があり、そのたびに和平を結び直された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "武帝は、張騫の西方への派遣を行うなど匈奴攻撃の準備を整え、紀元前134年に馬邑の土豪の聶壱という者が考えた策謀を採用し、対匈奴戦争を開始した。聶壱の策は軍臣単于に対して偽りの手紙を送り、軍臣を誘き出して討つものである。この作戦は察知されて失敗に終わり、聶壱は誅殺された。これ以後、紀元前119年まで計8回の遠征が行われる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "1回(紀元前129年)から6回(紀元前123年)までの主役となったのが衛青である。第1回の遠征において衛青・李広など4人の将軍がそれぞれ1万騎を率いて各方面から匈奴に攻め込んだが他の将軍は全て破れ、衛青のみが匈奴の首級数百を得た。これを皮切りに第3回(紀元前127年)ではオルドスを再び奪い、第4回(紀元前124年)では匈奴の右賢王(匈奴の右翼・西側の長)を敗走させ、大将軍に登った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "7回(紀元前121年)の遠征は衛青の甥・霍去病が主役になった。第7回では春・夏の二回遠征を行い、匈奴の渾邪王は数万の捕虜と共に漢に投降した。更に続く第8回(紀元前119年)では衛青は伊稚斜単于の軍を大破し、霍去病も匈奴の王・兵士数万を捕虜とする大戦果を挙げ、2人共に大司馬とされた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "この結果、匈奴は本拠をゴビ砂漠の北へと移さざるを得なくなり、漢は新領土に武威・酒泉・敦煌・張掖の河西四郡を設置した。以後、匈奴は二十年近く姿を現さなかったが、漢が西域に勢力を伸ばすと再び匈奴は漢と敵対する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "武帝は紀元前103年から再び軍事行動を再開。紀元前90年に至るまで李広利将軍を主として数度の遠征が行われ、小さな戦果と多くの損失を招いた。李陵は奮戦しながら罪に落とされ、司馬遷も宮刑に処された。最終的に李広利は匈奴に降伏し、武帝は「輪台の詔」を出して遠征により民衆が苦しんだことを自ら批判した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "一連の戦争により漢・匈奴共に疲弊したが、宣帝に至り西域諸国は漢に服属、西域都護が設置された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "紀元前58年、匈奴では呼韓邪単于が立つが、呼韓邪の兄も自立して郅支単于となり、東西に分裂した。呼韓邪は紀元前51年に自ら漢へ入朝し、宣帝は呼韓邪に「匈奴単于璽」を授けて呼韓邪を漢の外臣とする。更に元帝の紀元前36年には烏孫を攻撃した郅支単于を攻め、討ち取って首を長安に晒した。以後、前漢の終わりまで北方は安定した時期を迎えた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "紀元前139年、武帝は張騫をソグド地方の大月氏へ送り匈奴の挟撃策を説くが受け容れられなかった。帰還した張騫により、西域の情勢が伝えられた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "張騫以後は大宛(フェルガナ)・大月氏・安息(パルティア)などの西域諸国との交易が始まり、西方からブドウ・ザクロ・ウマゴヤシなどが輸入されて、漢からは絹織物が輸出された。交易にはいわゆるシルクロードが利用された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた楼蘭・姑師を服属させるために紀元前108年に遠征軍を出し、その後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われ、駿馬とされる)を得るために李広利将軍を遠征させ、苦戦の末に大宛を服属させた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "西域都護を創設する頃には、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続くが、王莽の異民族を侮蔑する政策のため西域は漢の支配から離れた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "始皇帝はベトナムに遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人趙佗が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に冊封して懐柔した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "武帝は紀元前111年に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領とした。これ以降10世紀の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "南西部には夜郎自大の言葉で有名な夜郎(貴州省)や滇(てん、滇の字はさんずいに真、雲南省)などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺されたことを契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部に漢四郡を置いた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "漢四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に400年間に及ぶ中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)といわれる部族国家連合が存在していた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "日本列島にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が日本にもたらされた。", "title": "国際関係" } ]
前漢は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡した。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l。
{{Redirect|西漢|古代日本の渡来系氏族|西漢氏}} {{Pathnav|漢|frame=1}} {{出典の明記| date = 2021年6月}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 前漢 |日本語国名 = 前漢 |公式国名 = 漢 |建国時期 = [[紀元前206年|前206年]] |亡国時期 = [[8年]] |先代1 = 秦 |先旗1 = blank.png |次代1 = 新 |次旗1 = blank.png |位置画像 = 汉朝行政区划(繁).png |位置画像説明 =前漢の領域 |公用語 = 漢語([[上古漢語]]) |首都 = [[長安]] |元首等肩書 = [[皇帝]] |元首等年代始1 = [[紀元前202年|前202年]] |元首等年代終1 = [[紀元前195年|前195年]] |元首等氏名1 = [[劉邦]] |元首等年代始2 = [[紀元前11年|前11年]] |元首等年代終2 = [[5年]] |元首等氏名2= [[平帝 (漢)|平帝]](最後) |変遷1 = 建国、[[楚漢戦争]] |変遷年月日1 = [[紀元前206年|前206年]] |変遷2 = [[垓下の戦い]] |変遷年月日2 = [[紀元前202年|前202年]] |変遷3 = 王莽簒奪、滅亡 |変遷年月日3 = [[8年]] |national_motto = |continent = 東アジア |region = Pacific |country = 中国 |era = |status = Empire |status_text = |government_type = Monarchy |event_start = Establishment |event_end = Abdication to [[Cao Wei]] |p1 = Qin Dynasty |s1 = Cao Wei |s2 = Shu Han |s3 = Eastern Wu |event1 = |date_event1 = |event2 = [[Battle of Gaixia]]; Han rule of China begins |date_event2 = 202 BC |event3 = [[Xin Dynasty|Interruption of Han rule]] 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|legislature = |footnotes = |人口値1=57,671,400|人口測定時期1=2年|面積値1=6,800,000|面積測定時期1=50 BCE}} {{中国の歴史}} {{ベトナムの歴史}} '''前漢'''(ぜんかん、[[紀元前206年]] - [[8年]])は、[[中国]]の[[王朝]]である。[[秦]]滅亡後の[[楚漢戦争]]([[項羽]]との争い)に勝利した[[劉邦]]によって建てられ、[[長安]]を都とした。 [[武帝 (漢)|武帝]]の時に全盛を迎え、その勢力は北は[[外蒙古]]・南は[[ベトナム]]・東は[[朝鮮半島|朝鮮]]・西は[[敦煌市|敦煌]]まで及んだが、[[孺子嬰]]の時に重臣の[[王莽]]により[[禅譲|簒奪]]され一旦は滅亡した。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀([[光武帝]])により再興される。前漢に対しこちらを[[後漢]]と呼ぶ。 中国においては東の[[洛陽]]に都した後漢に対して西の長安に都したことから'''西漢'''と、後漢は'''東漢'''と称される<ref>京大東洋史辞典編纂会『新編東洋史辞典』東京創元社、1990、p170.</ref>。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて'''両漢'''と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 [[漢]]という固有名詞は元々は[[長江]]の支流である[[漢水]]に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした[[漢中郡|漢中]]という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「[[漢字]]」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l。 == 歴史 == === 建国 === [[Image:Hangaozu.jpg|thumb|right|200px|高祖劉邦]] [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]を終わらせて、史上初めて中国を統一した[[秦]]の[[始皇帝]]は[[皇帝]]号の創出・[[郡県制]]の施行など、その後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=46-56}}。しかしその死後、[[胡亥|二世皇帝]]が即位すると[[趙高]]の専横を許し、また[[阿房宮]]などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=77-79}}。 [[紀元前209年|前209年]]に河南の[[陳勝]]による反乱が発生したことが契機となり、[[陳勝・呉広の乱]]と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害された{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=77-82}}。しかし、反秦勢力は旧[[楚 (春秋)|楚]]の名族である[[項梁]]に継承され、楚を復国し[[義帝|懐王]]を擁立、項梁の死後はその甥の[[項羽]]が反秦軍を率いて反秦活動を行った{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=84-86}}。劉邦は懐王の命を受け、秦の都であった[[咸陽市|咸陽]]を落とし、ここに秦は滅亡した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=89-90}}。その後、楚の実権を掌握し西楚の覇王を名乗った項羽と、その項羽から[[関中]]に封建されて漢王となった劉邦との間での戦争が発生した([[楚漢戦争]]){{Sfn|西嶋定生|1997|pp=92-95}}。 当初、軍事力が優勢であった項羽に劉邦はたびたび敗北した。しかし、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては[[張良]]の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である[[蕭何]]を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行った。更に劉邦は将軍・[[韓信]]を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=95-98}}。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は[[紀元前202年|前202年]]の[[垓下の戦い]]にて項羽を打ち破り、中国全土を統一した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=98-99}}。 劉邦は諸将に推戴され[[皇帝]]に即位する(高祖){{Sfn|西嶋定生|1997|pp=100-101}}。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを[[諸侯王]]・[[列侯]]に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=104-110}}。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に子孫に継承されるかを憂慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「'''[[劉氏]]にあらざる者は王たるべからず'''」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を'''[[郡国制]]'''と呼ぶ{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=112-114}}。 === 呂氏の専横 === [[紀元前195年|前195年]]、高祖は崩御し、[[恵帝 (漢)|劉盈]](恵帝)が後を継いだ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった[[呂雉|呂后]]であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた[[劉如意]]を毒殺、さらにその母の[[戚夫人]]を[[だるま女|残忍な方法]]で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ、若くして崩御してしまう{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=127-129}}。呂后は[[前少帝 (前漢)|前少帝]]・[[少帝弘|後少帝(劉弘)]]を相次いで帝位に付けるが、劉弘は実際には劉氏ではなかったとされる{{Sfn|西嶋定生|1997|p=134}}{{Sfn|井波律子|2005|p=33}}。 呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である[[呂産]]・[[呂禄]]らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ[[外戚]]政治を行う{{Sfn|井波律子|2005|p=33}}。「劉氏にあらざる者は……」という高祖の遺志は無視されたのである。呂后は呂氏体制の確立に努めたが、[[紀元前180年|前180年]]に死去した{{Sfn|井波律子|2005|p=33}}。呂后が死去するや、朱虚侯[[劉章]]・[[丞相]]の[[陳平]]・[[太尉]]の[[周勃]]らが中心となり呂産ら呂氏一族を粛清し、呂氏の影響力は宮中から一掃された{{Sfn|西嶋定生|1997|p=134-137}}。{{see|呂氏の乱}} === 文景の治 === 呂氏が粛清された後に皇帝として即位したのが代王であった[[文帝 (漢)|劉恒]](文帝)である{{Sfn|西嶋定生|1997|p=138-140}}。 秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い戦争により、諸王国は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失っていた。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、[[肉刑]]を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした{{Sfn|西嶋定生|1997|p=156-157}}。 [[紀元前157年|前157年]]に文帝は崩御した。遺詔で文帝は、新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けさせるように遺言した{{Sfn|西嶋定生|1997|p=156}}。後を継いだ[[景帝 (漢)|劉啓]](景帝)も、基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたという{{#tag:ref|『史記』「平準書」|group=#}}。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば[[曹参]]が領地として与えられた平陽の戸数は、当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた{{#tag:ref|『史記』「高祖功臣侯者年表」|group=#}}。この2人の治世を讃えて'''[[文景の治]]'''と呼ぶ。 国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し、商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを文帝に提言したのが[[賈誼]]と[[晁錯|鼂錯]]であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである([[#豪族]]節を参照のこと。{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=157-164}})。 生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが[[袁盎]]や賈誼・鼂錯である{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=165-168}}。とりわけ景帝即位後の鼂錯は、諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王[[劉濞]]が中心となって[[紀元前154年|前154年]]に'''[[呉楚七国の乱]]'''を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが[[周亜夫]]らの活躍により半年で鎮圧される{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=170-176}}。 これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=176-180}}。 === 武帝期の光と影 === 景帝は[[紀元前141年|前141年]]に崩御し、16歳の[[武帝 (漢)|劉徹]](武帝)が即位した。武帝は、文景の治で国家財政・経済が充実し、政治も安定したことから、積極的な活動を行おうと考えた。まず武帝は儒者を取り立てて政治の刷新を図ろうとしたが、これは祖母の[[竇皇后 (漢文帝)|竇太后]]の反対に遭って推進できなかった{{Sfn|永田英正|2012|pp=22-27}}。しかし、[[紀元前135年]]に竇太后が死去すると状況が変わる{{Sfn|井波律子|2005|p=34}}。 竇太后という束縛の無くなった武帝はこれより「雄材大略<ref>『漢書』武帝紀・賛</ref>」ぶりを発揮する。内政面においては儒者[[公孫弘]]、[[董仲舒]]らを重用し、'''[[郷挙里選]]'''の法を定め儒者の官僚登用を開始した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=257-261}}{{Sfn|井波律子|2005|p=34}}。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す[[推恩の令]]を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=178-180}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=54-56}}。 外交面では北方の[[匈奴]]とは、[[紀元前200年|前200年]]に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=187-192}}。これに対して武帝は[[紀元前134年|前134年]]に[[馬邑]]{{#tag:ref|現[[山西省]][[朔州市]]|group=#}}の土豪であった[[聶壱]]の建策を採用、対匈奴戦に着手した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=203-204}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=63-69}}。[[紀元前129年|前129年]]に実施された第一回目の遠征では4人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・[[衛青]]は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=204-205}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=69-70}}。以後衛青は7度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げ、匈奴は壮丁数万、家畜数十万頭と記録される被害を受けた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=205-207}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=72-75}}。また衛青の甥である[[霍去病]]の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという戦果も挙げた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=207-209}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=75-77}}。漢軍の攻勢を避けるため、匈奴は漠北(ゴビ砂漠の北)への移住を余儀なくされた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=209-211}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=77-79}}。漢は新たに獲得した領域に[[朔方郡|朔方]]・[[敦煌郡|敦煌]]などの郡を設け直接統治を開始した{{Sfn|永田英正|2012|pp=73,99-100}}。 朝鮮半島の[[衛氏朝鮮]]・ベトナムの[[南越国]]への征服も実施し、朝鮮には[[楽浪郡]]などの四郡を、ベトナムには[[日南郡]]など九郡を設け、新たな領土とした{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=213-220}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=81-84}}。また、匈奴対策の一環として[[張騫]]を西方に派遣し、[[烏孫]]・[[大宛]]・その他の[[西域]]諸国と関係を結び、西域との間にいわゆる[[シルクロード]]の交易路が開けた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=223-229}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=86-99}}。そして「中国」と呼ばれる領域の大枠がこの時代に形作られた{{Sfn|井波律子|2005|p=35}}。 さらに武帝は始皇帝の例にならい各地を巡行し、元封元年([[紀元前110年|前110年]])には泰山で封禅を行った{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=277-278}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=154-158}}。これは聖天子にのみ許される儀式であり、それ以前に行ったのは始皇帝のみであった。この頃が武帝の絶頂期であったとされる{{Sfn|井波律子|2005|p=35}}。 しかし、相次ぐ軍事行動は財政の悪化を招き、国庫は空になっていた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=240-241}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=108-109}}。武帝は経済官僚である[[桑弘羊]]を登用し、'''塩鉄[[専売制|専売]]'''を開始し、また商人に対しては'''[[均輸・平準法|均輸・平準]]'''を行ったほか、商工業者を対象とした新税を設けた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=241-252}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=113-122}}。一連の政策により財政収入は増大したが、専売と新税により商人は商業活動に打撃を被った{{Sfn|永田英正|2012|pp=119-123}}。 また、農民の自作放棄に伴う大地主による土地の併呑も深刻な問題となっていた。武帝の治世の後半は、没落した多数の農民や商人による盗賊の横行に悩まされる{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=266-267}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=145-147}}。社会不安に対して武帝は[[酷吏]]を登用し、厳格な法治主義で対応した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=261-266}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=126-145}}。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また[[紀元前106年|前106年]]には、郡[[太守]]が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として'''州[[刺史]]'''職を新設した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=267-270}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=147-148}}。 晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒し、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=271-279}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=188-190}}。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして[[紀元前91年]]、皇太子であった[[劉拠|戾太子]]が常より対立していた酷吏・[[江充]]による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戾太子は長安で挙兵し、敗死した([[巫蠱の禍]]){{Sfn|西嶋定生|1997|pp=279-281}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=192-201}}。後に戾太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=281-283}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=201-204}}。 武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題が萌芽した時代でもあった{{Sfn|井波律子|2005|p=35}}。 === 霍光と宣帝 === 巫蠱の乱の後、皇太子は長期間空位が続いていたが、武帝は崩御の直前にわずか8歳の幼齢である[[昭帝 (漢)|劉弗陵]](昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった[[霍光]]・[[桑弘羊]]・[[上官桀]]・[[金日磾]]に後見役を命じた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=284-285}}{{Sfn|永田英正|2012|pp=204-207}}。 [[紀元前87年|前87年]]に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日磾が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は深刻なものとなった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=287-300}}。霍光は桑弘羊を排除すべく全国から集めた賢良・文学と称する儒学の徒を養い、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。この「塩鉄会議」の模様を記したのが『[[塩鉄論]]』である。しかし、優秀な経済官僚であった桑弘羊は儒教徒の建議を論破し、霍光の計画は頓挫した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=300-308}}。 その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王[[劉旦]]と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された{{#tag:ref|昭帝の皇后となっていた上官桀の孫娘([[上官皇后]])を除く|group=#}}{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=308-314}}。これにより霍光が政権を掌握、一族を次々と要職に就け霍氏を中心とした政権運営が行われた。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策を打ち出した。具体的には租税の減免、匈奴に対する和平策などである{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=314-317}}。 [[紀元前74年|前74年]]、昭帝が21歳で早世すると、霍光は[[劉賀]]を皇帝に擁立した。しかし、素行不良を理由に即位後まもなく廃位させ、新たに戾太子の孫で戾太子の死後市井で暮らしていた[[宣帝 (漢)|劉病已]](宣帝)を擁立した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=319-327}}。宣帝は自らの立場を理解し、霍光による専横が引き続き行われた。しかし[[紀元前68年|前68年]]に霍光が病死すると宣帝は霍氏一族の権力縮小を図り、[[紀元前66年|前66年]]に霍氏一族を族滅させ親政を始めた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=327-332}}。 宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善するように指導させる循吏を多く登用している。その一方、豪族に対しては酷吏を用いて厳しい姿勢で臨んだ{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=332-336}}。 対外面では、匈奴において短命な単于が相次いだ事による内紛や、天候不順による状況の悪化に乗じて[[紀元前71年|前71年]]、校尉の常恵と[[烏孫]]の連合軍による攻撃で、3万9千余人の捕虜と70万余の家畜を得て匈奴に壊滅的な打撃を与えた。さらに西域に進出し、[[紀元前60年|前60年]]には匈奴が西域オアシス諸国家の支配・徴税のために派遣していた日逐王先賢撣を投降させることに成功している。これを機に[[西域都護]]を設置し、帰服した日逐王を帰徳候に封じた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=336-338}}。 匈奴は西域の失陥と年賦金の途絶により、衰退と内紛を激化させ五単于並立の抗争に至った。[[呼韓邪単于]]は匈奴国家の再統一を進めたが、兄の左賢王呼屠吾斯が新たに即位して[[郅支単于]]を名乗ると、これに敗れた。呼韓邪単于は南下して漢に援助を求め、[[紀元前51年|51年]]、自ら入朝して宣帝に拝謁し客臣の待遇を得た。これを機に匈奴国は漢に臣従する東匈奴と、漢と対等な関係を志向しつつ対立する西匈奴に分裂した{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=338-340}}。 これらの功績により宣帝は漢の[[中興の祖]]と讃えられる。 === 儒教国家への道と簒奪 === [[紀元前49年|前49年]]に宣帝が崩御し、[[元帝 (漢)|劉奭]](元帝)が即位した。[[儒教]]に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である{{Sfn|西嶋定生|1997|p=341}}。即位後は[[貢禹]]などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=345-346}}。 貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=346-348}}。貢禹の後を受けた[[韋玄成]]らにより、[[郊祀]]制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=348-358}}(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては[[#祭祀]]で後述)。 元帝の時代は儒者が政策の主導権を握り、儒教的教義が政治を決定を左右する等、政治が混乱した。また、[[宦官]]および[[外戚]]の台頭が進んだ。 宣帝の信任を受けた宦官の[[弘恭]]、[[石顕]]は、病弱な元帝に代わって朝政を取り仕切り権力を拡大、遂には[[中書令]]に就き政権を掌握した。[[前将軍]]の[[蕭望之]]らは、宦官の壟断を弾劾する文書を奏上するが、逆に罪に落とされ自殺へ追い込まれた。ただ、専横を振るった石顕も成帝の即位と共に失脚している{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=342-343}}。 漢への臣従を拒む西匈奴の郅支単于に対しては、臣従した東匈奴や西方で西匈奴に対立する烏孫と攻守同盟を結び次第に追い詰めていった。郅支単于は烏孫と対立する[[康居]]と同盟して部衆を率いて北に移動したが、折からの寒気により多くの家畜が凍死した。[[紀元前36年|前36年]]、西域都護の[[甘延寿]]と西域副[[校尉]]の[[陳湯]]が独断で郅支単于を攻め、郅支単于を討ち取り西匈奴を滅ぼした。 [[紀元前33年|前33年]]、元帝の崩御により[[成帝 (漢)|劉驁]](成帝)が即位する{{Sfn|西嶋定生|1997|p=375}}。政治の実権は[[外戚]]の王氏に握られており、成帝は側近を伴い市井で放蕩に耽るなど政治に関わらなかった。実際の政治を行ったのは皇太后である[[王政君]](王太后)の兄弟の[[王鳳 (前漢)|王鳳]]らである。成帝は王太后の近親を次々と列侯に封じた。その中には[[王莽]]も含まれる{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=374-379}}。 王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は[[翟方進]]ら儒教官僚の反発を招いた。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を装い、名声を高めた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=378-379}}。 [[紀元前7年|前7年]]、成帝の崩御により、成帝の甥の皇太子[[哀帝 (漢)|劉欣]](哀帝)が即位した。哀帝の外戚が台頭した事で、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられ、一時的に失脚する{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=380-381}}。 哀帝は王氏派の大臣を処断するなど親政への意欲を見せ、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を課し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進した。しかし、[[紀元前1年|前1年]]に哀帝は後継者を残さないまま突然崩御した。王太后と王莽は皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪、元帝の末子の子である[[平帝 (漢)|劉衎]](平帝)を擁立した{{Sfn|西嶋定生|1997|p=382}}。 政権を掌握した王莽は王氏の実力を背景に権勢を強めていく。『[[周礼]]』に則り[[聖人]]が執政する場所とされる[[明堂]]を建築、遠国からの進貢や竜が出たやら鳳凰が飛んできたやら瑞祥とされる事柄を演出した。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ずると共に宰衡という称号を名乗り、[[九錫]]を授け、臣下として最高の地位に登った{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=383-386}}。 紀元後[[5年]]、平帝が崩御すると、王莽はわずか二歳の[[孺子嬰|劉嬰]]を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることを理由に正式には帝位に就けられず、翌[[6年]]に王莽は自ら仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=386-387}}。更に[[8年]]王莽は皇帝に即位、国号を[[新]]と改め、漢は一旦断絶することになった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=388-389}}。 王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、あまりに性急な政策は失敗を重ねた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=391-409}}。[[呂母の乱]]を切っ掛けに全国で農民の蜂起が発生し、王莽は敗亡した。戦乱の中から[[光武帝|劉秀]]が登場し再び中国を統一、漢が復興された([[後漢]]){{Sfn|西嶋定生|1997|pp=410-457}}。 == 政治 == 劉邦が[[咸陽市|咸陽]]入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えて多くを保護し、それを参考として漢律を作った。そのため秦と漢の連続性を強調する「秦漢」、「秦漢帝国」という熟語がよく使われる。 === 皇帝 === 「皇帝」の号は、[[秦]]の[[始皇帝]]に始まり、[[清]]の[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]まで続く{{Sfn|西嶋定生|1997|p=18}}。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、全ての権威と名目上の権力は皇帝に帰属するものと考えられていた。<!--すなわち「皇帝」の創始は中国史において極めて重大な画期であった。--><!--??--> 『史記』「秦始皇本紀」には、「皇帝」とは始皇帝が自らを[[三皇五帝]]にならぶほど尊い存在になぞらえて造語したものとあり、それまでの最高位であった[[王]]の上に立つ地位である。 一方で、漢代には[[天子]]の称号も使われている{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=102-103}}。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた[[周]]代においても天子の語は使われている。 その間の差を説明する『孝経緯』{{#tag:ref|『[[孝経]]』に対する[[緯書]]。緯書については「[[#神秘思想|神秘思想]]」の節を参照。|group=#}}には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=365-366}}。 この使い分けは現実の場面において、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の[[玉璽]]」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の[[玉璽]]」を押している{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=366-369}}。 なお、前漢・後漢を通じて、'''孝'''を諡号に付けて「孝○皇帝」という諡号の皇帝が多いが、これは治国立家のために「'''以孝為本(孝を以て本と為す)'''」を唱えたためである。 === 官制 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 漢の官制において、共通する文字は同じ意味を表す。 令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など{{Sfn|西嶋定生|1997|p=121}}。 漢制においては官僚の等級は[[二千石]]・六百石などと表される{{Sfn|西嶋定生|1997|p=121}}。この数字は以前は俸禄の数字であったが、漢代では等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。 {| class="wikitable" style="text-align:center; vertical-align:middle;" |- !官秩 |万石 || 中二千石 || 二千石 || 比二千石 || 千石 || 比千石 || 八百石 || 六百石 || 比六百石 || 五百石 || 四百石 || 比四百石 || 三百石 || 比三百石 || 二百石 || 比二百石 || 百石 |- !実際の官 |三公・大将軍 || 九卿 || 郡守・[[内史]]など || 郡尉・[[中郎将]]など || 三公の丞 || [[太中大夫]]など || || [[太史令]]など || [[博士]]・議郎・中郎など ||   || 県丞など || 侍郎など ||   || [[郎中]]など || 県尉など || || |- !俸禄{{#tag:ref|『漢書』「百官表」[[顔師古]]注|group=#}} |月350斛 || 180 || 120 || 100 || 90 || 80 || || 70 || 60 ||   || 50 || 45 || 40 || 37 || 30 || 27 || 16 |} ==== 中央 ==== 漢の中央官制は三公の下に九卿{{#tag:ref|十二とする場合も多い。|group=#}}と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく2つに分類される。1つは政府の中枢にあって地方を統治する機関であり、1つは皇家の[[家政機関]]としての役割を持つものである{{Sfn|西嶋定生|1997|p=118}}。前者に分類されるのは以下のようなものである。 *[[丞相]]→[[相国]]([[紀元前196年]])→左・右丞相([[紀元前194年]])→丞相([[紀元前178年]])→[[司徒|大司徒]]([[紀元前1年]]) **民政を中心とした政治の最高職であり、皇帝を助けて万機を総覧する。実際においては朝議を主宰し、その朝議の結果を皇帝に上奏し、認可を得て行政化する。また自らの官衙である丞相府を率いる。その員数は多いときで400近くにまでなった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=116-119}}。 {{see also|前漢丞相、相国、大司徒の一覧}} *[[御史大夫]]→[[司空|大司空]]([[紀元前8年]])→御史大夫([[紀元前5年]])→大司空([[紀元前1年]]) **御史府を率いて政策の立案を行い、それを丞相に伝える役割を負う。また属官の[[御史中丞]]は官僚の監察を行う{{Sfn|西嶋定生|1997|p=117}}。 *[[太尉]]→廃止([[紀元前129年]])→[[大司馬]]([[紀元前119年]])→大司馬将軍([[紀元前119年]]/大司馬は将軍位に付される称号のようなもの)→大司馬([[紀元前8年]]/将軍位に付かない独立した官位)→大司馬将軍([[紀元前5年]])→大司馬([[紀元前1年]]/将軍位に付かない独立した官位) **太尉は軍事を司る役職である{{Sfn|西嶋定生|1997|p=117}}。 *治粟内吏→大農令([[紀元前143年]])→大司農([[紀元前104年]]) **国家財政を司る。農政の管理、税の徴収および管理、官僚の俸給、経済政策の実施などを管轄{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=117-118}}。 *廷尉→大理([[紀元前144年]])→廷尉([[紀元前135年]])→大理([[紀元前1年]]) **廷尉は法の執行を司る。全国的な刑罰を行い、地方の郡県の司法官の権限を越える刑罰も行う{{Sfn|西嶋定生|1997|p=118}}。 *典客→大行令([[紀元前144年]]→大鴻臚([[紀元前104年]]) **諸侯および地方官らが上京した際の儀礼を司る。 *典属国([[紀元前28年]]に大鴻臚に吸収合併される。) **典属国は外藩の相手を担当。 後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。 *[[少府]] **少府は帝室財政を司るものである。それに加え、機密文書・後宮などの管理も行う。後者に属する官の中で最重要であり、その属官も多い。機密文書を取り扱う[[尚書]]([[尚書令]]・[[尚書僕射]])、宮中の医療を取り扱う太医令、食事を取り扱う太官令など{{Sfn|西嶋定生|1997|p=119}}。 **[[水衡都尉]] ***[[紀元前123年]]に少府より分離して設立。貨幣の発行などを司る。 *郎中令→[[光禄勲]]([[紀元前104年]]) **郎中令は主に皇帝の身辺警護を扱い、それ以外の皇帝の身辺に関することも扱う{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=118-119}}。 *衛尉→中大夫令([[紀元前156年]])→衛尉([[紀元前142年]]) *[[執金吾|中尉]]→[[執金吾]]([[紀元前104年]]) **衛尉の職務は宮中警備・防衛、中尉は首都長安の警備・防衛{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=118-119}}。 *[[太僕]] **皇帝の車馬及び軍馬等の管理{{Sfn|西嶋定生|1997|p=120}}。30万頭もの馬を養っていたという<ref>『漢官儀』</ref>。 *宗正→宗伯([[4年]]) **[[宗室]](皇族)および[[外戚]]に関する全てを扱う{{Sfn|西嶋定生|1997|p=120}}。 *奉常→太常([[紀元前144年]]) **奉常は皇帝の祖先祭祀を全て扱う{{Sfn|西嶋定生|1997|p=120}}。 国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である{{Sfn|西嶋定生|1997|p=118}}。また、[[元帝 (漢)|元帝]]時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間70億銭、少府と分離した水衡都尉の扱う金額が33億銭、地方の郡県で扱う金額が92億銭と、地方財政が大きいのも特徴である。 ==== 地方 ==== {{main|漢代の地方制度}} 地方制度は基本的には秦の[[郡県制]]を受け継ぎ、同時に皇族を封国して[[諸侯王]]とする並立制を布いた。これを[[郡国制]]と呼ぶ{{Sfn|西嶋定生|1997|p=112}}。諸侯王に付いては後述。 行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の[[紀元前148年]]に守は[[太守]]・郡尉は[[都尉]]へそれぞれ改称される{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=121-122}}。なお辺境においては若干異なるが、それは[[#兵制]]の項で記述する。 武帝時代末期の[[紀元前106年]]に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部[[刺史]]が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である[[司隷校尉]]が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。[[紀元前8年]]には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=269-270}}。 ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては[[#農村・都市]]を参照。 ==== 郡国制 ==== [[画像:呉楚七国.PNG|thumb|right|200px|呉楚七国の乱の際の諸侯王勢力図。黄色が直轄領、赤が諸侯国]] 本節では諸侯国に関する事項を記す。高祖時代には[[韓信]]を初めとする武功を挙げた功臣を諸侯王とした。しかし、高祖は異姓の諸侯王を粛清して、親族を諸侯王に就け、劉氏政権の安定を図った{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=107-114}}。 文帝の時代には藩屏として期待された諸侯王に劉氏の本流たる中央の朝廷に対する反抗的姿勢が目立ち、また諸侯王の領土と実力が大きな脅威となっていた。諸侯国は自らの朝廷を持ち、丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官を置いた。この中、丞相は基本的には中央から派遣され、その他の官は全て諸侯王の名の下に任命した。基本的に諸侯国の政治に対して中央が介入することはできなかった。諸侯国中最大の呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要が無い程に富んでいたという。中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の[[賈誼]]と景帝期の鼂錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=165-170}}。 乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変わり、諸侯王の力は大幅に削られた。また、[[紀元前127年]]に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。[[主父偃]]の献策による。この令により、諸侯王の封地は代を重ねる毎に細分化され弱体化した。一連の政策によりほぼ郡県制と大きな差はなくなった{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=176-179}}。 ==== 採用制度 ==== 武帝以前の官吏採用制度は、一定以上の役職にある官吏の子([[任子]])や、一定以上の資産(10万銭、後に4万銭)を持つ家の者を採用する制度であった{{Sfn|西嶋定生|1997|p=257}}。 一方、諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われた{{Sfn|西嶋定生|1997|p=257}}。これは武帝期には郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。推薦する基準は賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある[[太学]]と呼ばれる学問所に集められて[[五経博士]]による教育を受け、官僚となった。この制度は有力者の推薦を必要とするため、次第に豪族の子弟が主な対象となった。 === 兵制 === 戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143&nbsp;cm)以下の者は除く。 軍事の最高職は[[太尉]]である。しかし全軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の[[元狩]]四年([[紀元前119年]])に将軍号に冠する一種の称号として[[大司馬]]が設置される。大司馬になった者としては[[衛青]]・[[霍去病]]の両者があり、その親族の[[霍光]]もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の[[地節]]三年([[紀元前67年]])に称号から実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬に就いて政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治職となった。 首都長安に置かれる中央軍は[[中尉]]が指揮する北軍と[[衛尉]]が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが[[郎中令]]によって統括される[[郎官]]たちである。長安の十二の門には[[城門候]]が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として[[城門都尉]]があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七[[校尉]]が統括する部隊がある。 地方軍の単位は郡単位であり、統括者は[[太守]]である。太守の下で実際に軍事に携わるのが[[都尉]]である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡[[長史]]が付く。 これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための[[将軍]]が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が[[大将軍]]である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが[[車騎将軍]]・[[衛将軍]]であり、それに加えて[[驃騎将軍]]が[[霍去病]]の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる[[雑号将軍]]がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。 将軍は司令部として[[幕府 (中国)|幕府]]を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と[[司馬]]が付き、それぞれ事務と兵を司る。[[参謀]]として[[従事中郎]]が2人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。 === 祭祀 === [[#皇帝]]の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、[[天帝]]によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢において、それまで漠然としていた[[皇帝祭祀]]が固まり、[[封禅]]と[[郊祀]]という形になった。 また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の[[祖廟]]の祀り方もまた定式化された。 ==== 郊祀 ==== [[郊祀]]とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象は[[天]]と[[地]]で、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は[[冬至]]、北郊は[[夏至]]に行われる。 前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは[[三皇五帝]]の五帝ではない。元々秦において、秦の旧首都である[[雍]]{{#tag:ref|[[陝西省]][[宝鶏市]][[鳳翔区]]|group=#}}において四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを[[五畤]]という{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=273-274}}。 武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である[[后土]]を祀らないのはおかしいということになり、[[紀元前113年]]に汾陰{{#tag:ref|[[山西省]][[万栄県]]の北方|group=#}}の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である[[太一]]の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の3つを1年ごとに順番に回って祀ることにされた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=275-276}}。 しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の[[紀元前32年]]に丞相の[[匡衡]]らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところとなった。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の[[5年]]に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=354-357}}。 ==== 封禅 ==== 甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の[[紀元前110年]]、武帝は東方に巡幸に出て、[[泰山]]にて封禅の儀を執り行った{{Sfn|西嶋定生|1997|p=277}}。封禅は聖天子以外行うことができないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。 武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが[[始皇帝]]の時と同じように儒者はこれに答えることができず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=277-278}}。 このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後[[光武帝]]が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。 ==== 廟制 ==== 高祖は自らの父である[[劉太公]]を祀る[[廟]]を作るに当たり、同族である全国の[[諸侯王]]にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=127-128}}。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の[[紀元前40年]]に[[韋玄成]]らの建議によって郡国廟は廃止された{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=348-351}}。 また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九{{#tag:ref|劉太公・高祖・文帝・景帝・武帝・昭帝・宣帝・[[劉拠|戾太子]]・悼皇考(戾太子の子・宣帝の父)|group=#}}になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の4代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた{{Sfn|西嶋定生|1997|pp=351-354}}。 === 元号と暦 === [[元号]]は武帝期の[[紀元前113年]]に銅鼎が発見され、この年を[[元鼎]]4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は[[中華民国]]により廃止されるまで続き、朝鮮・[[日本]]など周辺各国でも採用された。 またそれまでの10月を正月としていた[[顓頊暦]]に代わって立春を正月とする[[太初暦]]を採用した。 == 経済 == === 貨幣制度 === [[Image:Han-Wuzhu.jpg|right|200px|thumb|漢の五銖銭]] {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。 [[敦煌漢簡]]・[[居延漢簡]]の中の文書からある程度当時の物価が推測できる。それによれば、 *絹一匹(27.65m)=450-477銭 *アワ1石(30kgほど)=105-130 *キビ=150 *大麦=110 *麦=120 *肉1斤(258.24g)=4-7 とある<ref>池田2003</ref>。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。 戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の[[半両銭]](約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。 その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の[[紀元前113年]]に上林三官という部署に新たな[[五銖銭]](約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・[[魏晋南北朝時代]]においても引き継がれ、[[唐]]で[[開元通宝]]が作られる[[621年]]まで続いた。 後漢から三国期、さらには五胡十六国時代に入ると、五銖銭は粗製乱造が進み、政権によって製造されるサイズはまちまちで統一規格は崩れ始め、貨幣経済は衰退に向かうが、それはまた後の話であろう。 === 税制 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 税の徴収は人頭税・土地税・財産税・商税・畜税・労働税(徭役)・兵役・鉱林漁業に対する税などがある。 人頭税には、数え15歳から60歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める算賦と数え3歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口銭があり、武帝時代に3銭が上乗せされ、昭帝時代にそれぞれ数え56歳までと数え7歳からに変更された。また、妊婦の算賦は免除され、数え15歳から30歳の未婚女は5算を、奴婢には2算が課された。 財産税は算緡と呼ばれ、初期は市籍に登録された専業商家のみに課せれ、武帝以降は商業・手工業・鉱業を営む者に課された。商いを行う戸はあらゆる財産(土地、奴婢も含む)2000銭につき年間1算を納め、手工業と鉱業を営む戸は財産4000銭に付き年間1算を納めた。また、武帝時代に算車・算船と呼ばれる車と船に対する課税が行われ、官吏でない者は1車・1船につき1算、商いに携わる者は2算を課された。これらの増税は一定以上の資産を保有する専業兼業に係わらない全ての商いに関わる民が対象であり、[[#豪族]]で述べる抑商政策の一環でもある。算緡令には罰則があり、家長が報告しなかった場合は売上利益を没収のうえ労働1年、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備5年という厳しいものである。 田に対する税は田律に規定され、漢初は収穫高の15分の1を収めるとされていたが、漢は実態の把握を放棄して次第に耕田面積当たりの定額税となり、穀類・稲や秣用の干草・藁など品目ごとに納税量が設定された。文帝の時代には廃止され、景帝の時代に1/30の税率で復活した。 労働税は'''賦'''と呼ばれ、数え15歳から60歳までの男女が、漢初は6ヶ月に1月の文帝以降は12ヶ月に1月の割合で、在地郡県での就労を義務付けられた。月300銭の納付により免除され更賦と呼んだ。 兵役は、数え17歳から60歳(昭帝以降は数え23歳から55歳)の男性に年間1月の兵役が課され、1年の訓練期間を除くと年11カ月で生涯通算3年或いは2年分の兵役が存在した。1年間(11カ月)の訓練の後に在官(予備役)と成り、年間11カ月の衛士(都城での衛兵勤務)を務め、代行の相場は月2000銭で践更と呼ばれた。また、数え15歳から60歳の男女には、年間3日(生涯で132日、99日)の戌兵(辺境防備)もしくは3日につき300銭が課され、辺境防備の従事者には給与として1日6銭或いは8銭が支給され、戌卒は給与が支払われ複数年に渡って勤める職業軍人の形をとった。 商税は占租律に規定があり、商品の売上・手工業品の販売・高利貸(上限利率は月利3%程度か)などの利益に課税され、登録業者は毎月ごとに、未登録の者はその場で徴収された。詳しい税率は解っていないが、最小2%~最大10%の間にあるとされる。 穀物や秣以外の果物・野菜・染料や繊維業・林業・牧畜業・養殖・漁業・鉄を除く鉱業冶金・牧畜業などの、田以外からの生産物に対してはおそらく1/10の税が課されていたとされる。 === 農業 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 成帝期に書かれた[[農書]]『[[氾勝之書]]』には当時生産されていた農産物として、[[キビ]]・[[ムギ]]・[[イネ]]・[[ヒエ]]・[[ダイズ]]・[[カラムシ]]・[[アサ]]・[[ウリ]]・[[ヒョウタン|ヒサゴ]]・[[芋|イモ]]・[[クワ]]などを挙げている{{Sfn|西嶋定生|1966|p=42}}。 戦国時代の鉄製農具と[[ウシ|牛]]耕の普及や二毛作により、生産力は向上したと思われる。前漢代は開発の進んだ北部の非稲作地域に人口が集中していたため、淮河以南に多い稲作地域では中期頃まで技術が発展途上で、[[苗床]]が作られず[[二毛作]]も行われていない。 『漢書』食貨志は武帝末期の[[趙過]]考案の[[代田法]]という耕田・閑休田を全面耕起する農法を記している。具体的な内容は記述が曖昧で解釈に議論があるが、2頭のウシと3人の人間により行われるものとされる。しかし民間でウシ二頭を持つ者は少なくあまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという{{Sfn|西嶋定生|1966|pp=61-184}}。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。 [[牧畜]]は、農民の間でも[[ブタ]]や[[ニワトリ]]・[[イヌ]]などの飼育が一般的に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。[[ウマ]]や[[ウシ]]の生産は、これとは別に官有の大規模な牧場や豪族の牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたため、馬産で財産を築く者も多かった。 === 手工業 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|西嶋定生|1966|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 戦国時代から秦漢にかけては冶金業や窯業、手工業の発展時期でもある。 手工業で賄われたのは日用品や服飾品・装飾品・酒類などの他、一般民では作り得ない特別な道具(例えば銅製品や陶磁器、鉄製農具など)や奢侈品などである。 王侯の使用する高度な技術品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、[[少府]]や[[大司農]]が管轄した。尚方では官が使用するための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・鉄器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための[[棺]]や[[明器]](埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また[[大司農]]では農民に支給する鉄製農具が作られた。 民営の工業として大きなモノは、製塩所や大規模な高炉、鉄器や銅銭に用いる大規模な鉱山などが存在した。それ以外にも[[酒]]や[[絹織物]]などが手工業として成立していた。 === 専売制 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|西嶋定生|1966|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 武帝期の[[紀元前119年]]に始まった塩鉄専売制は国家財政の重要な位置を占め、武帝末期には既に不可欠となっていた。塩も鉄も製造された産物は全て国家が買い取り、特に大規模な製鉄所は国家により運営され、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし密造を行う者も多く、それらは官製のものに比べ安価であった。 武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われ、後に『[[塩鉄論]]』という書物に纏められた。 その後の11代[[元帝 (漢)|元帝]]期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が逼迫し、すぐに戻された。 === 農村・都市 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|五井直弘|2001|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人。一家が所有する田(農地)は大体100畝、耕作地は50~70畝で年間125~210石前後(3.5[[トン|tから5.9t]])ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基に課税や徴兵が行われた。 次男・三男がいた場合には分家した、分家の場合は私有田ではなく官給田を支給されて耕作するか、官田や権勢家の下で小作となり、所有田は1人が受け継ぐのが基本であった。 概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる{{#tag:ref|郷・亭・里の関係に付いては論争がある。本文の考えは[[宮崎市定]]1957。それ以外にも説があるがここでは記さない。|group=#}}。 漢以前の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]においては集落は基本的に[[新石器時代]]から[[春秋時代]]までの[[都市国家]]の流れをくむ城塞都市であり、これを[[邑]]と呼ぶ。邑は元々は[[姓]]を同じくする[[氏族]]が一纏まりになって生活する[[共同体]]で異姓の者は排除されていたが、漢代には既に戦国時代の人口の流動化を経ることでその様な区別は失われていた。集落の周辺は[[版築]]で築かれた城壁が囲い、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田まで行く生活をしていた。 集落の中心には[[社稷|社]](しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。市は自然発生的なものだったが、秦代以降は官吏により管理された。そのため罪人の処刑も市で行われる。 ==== 首都長安 ==== {{Sfn|佐藤武敏|2004|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 漢の[[長安]]城は現在の[[西安]]市から北西に5kmほど離れた[[渭水]]の南岸にあり、渭水の対岸には秦の[[咸陽市|咸陽]]城があった。高祖は初めは[[周]]の都であった[[洛陽]]に都を構えるつもりであったが、[[婁敬]]と[[張良]]の進言により長安を都とし、その後[[蕭何]]によって広壮な宮殿が造られた。[[1956年]]より遺跡の発掘が進められている。 漢の長安は[[唐]]の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、 #長楽宮 #*都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮であった。高祖はここに住んだが、その後は皇后の住居となった。 #[[未央宮]] #*西南部にあり、蕭何により建造され、恵帝以後の皇帝の住居となった。 #北宮 #*その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住んだ。 #桂宮 #*これも北部にあり、武帝の時に作られた。 また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。 長安城内の人口は戸籍によれば24万6200人である。 === 爵制 === {{Sfn|西嶋定生|1961|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 漢の[[二十等爵]]制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・[[列侯]]{{#tag:ref|元は徹侯であったが、劉徹(武帝)を[[避諱]]して列侯となった。徹(列)とは皇帝との間に何も挟まないとの意味である。|group=#}}までの全部で20段階あり、列侯の上に[[諸侯王]]があり、更にその上に皇帝がある。 爵位を持っているものはそれと引き換えに減刑特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。 #公士 #上造 #簪裊 #不更 #大夫 #官大夫 #公大夫 #公乗 #五大夫 #左庶長 #右庶長 #左更 #中更 #右更 #少上造 #大上造 #駟車庶長 #大庶長 #関内侯 #列侯 漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われていて、年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成する目的があったとされる。 七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることはできない。 === 豪族 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|五井直弘|2001|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 一般農民の住む家は5人程度であったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居した。また、所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させた。小作人は収穫の1/2程度を地主に収めた。豪族は里の父老となる場合も多かった。郷里選挙で一族の者が官吏になれば、更に影響力を持った。 [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から商業が発達した事による貨幣経済の進展が基になった。商いに従事する戸の勢力を抑えるため前漢では度々抑商政策を取っており、[[#税制]]で述べた税制上での差別や[[#身分制]]に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。鼂錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。農民達の収入は穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売ることで商人に買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫を防くことを意図した。最高で18位の高位まで得ることができ、この政策は効果を上げた。 抑商政策で特筆すべきは武帝期の'''[[均輸・平準法]]'''である。これらの政策は武帝の下で経済的手腕を振るった[[桑弘羊]]が実施したものである。均輸法は全国の物価を調査して安い地方の高額物資と穀物を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差を均すものである。平準法は安い時期に高額物資と穀物を買い込んで[[国庫]]に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策は物価の安定と共に、商人が物資の輸送と取引へ介在することによって利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策は効果を上げた。 武帝の抑商政策と五銖銭の発行、増税による耕作地放棄の進行と土地の併呑に伴い豪族は奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。 === 遊侠 === {{Sfn|増淵龍夫|1996|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 遊侠は、罪を犯した逃亡者・正業に就かない者・生活が破綻した没落者などが、無頼の徒など公の外に位置するようになった存在。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている[[朱家]]や[[劇孟]]といった人物であり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。 例えば[[呉楚七国の乱]]の際に政府側の総大将であった[[周亜夫]]は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分する大乱において影響力を発揮出来たということである。 遊侠の持つ任侠精神は前漢のある時期までは遊侠に留まらず、多くの人間関係に敷衍されており、皇帝と豪族を母体とする官吏の関係も任侠精神に基づく面があると述べている。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『[[後漢書]]』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に示していると言える。 === 身分制度 === {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 律令で差別されたのは[[奴婢]]と罪人であり、一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。 奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、罪を犯して官奴隷となった者や借金や飢餓により身を売った者が該当する。私奴婢の主な囲い先は豪族であり、豪族の所有する田の耕作や手工業に携わった。政府に管理される官奴婢もあり、罪を犯した者や罪を犯した官吏とその家族、戦争捕虜などが供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役された。 奴婢や罪人とは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・職人といった職業である。 == 文化 == 史書(『[[後漢書]]』)によれば、後漢代の西暦[[105年]]に[[蔡倫]]が樹皮やアサのぼろから[[紙]]を作り、[[和帝 (漢)|和帝]]に献上したと記しているため、従前は紙の発明者は蔡倫とされていた。しかし、前漢代の[[遺跡]]から紙の原型とされるものが多数見つかっている。世界最古の紙は中国[[甘粛省]]の[[放馬灘紙|放馬灘]](ほうばたん)から出土したものと考えられ、前漢時代の地図が書かれている。年代的には[[紀元前2世紀|紀元前150年]]頃のものと推定されている。 === 思想 === 漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期には権勢家を中心とする[[黄老思想]]と秦以来の[[法家|刑名思想]]が流行、時代と共に支配層にも儒教が広まり、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。 ==== 儒教 ==== {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|狩野直喜|1988|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|武内義雄|2005|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} あるものは当時の書体である[[隷書体]]で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を[[今文]]・後者を[[古文]]という。内容は基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『[[書経]]』)においては[[伏勝]]が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に[[孔子]]の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。 このうち、『[[春秋公羊伝]]』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが[[董仲舒]]である。董仲舒は武帝に対して[[天人相関説]]・[[災異説]]を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・[[五経博士]]の設置などを建言した{{#tag:ref|[[1970年]]代まではこれにより儒教が国教化されたとしていたが、現在の日本の学界ではそれは否定され、儒教の国教化の時期は少なくとも元帝期に降るというのが定説である。具体的な国教化の時期については元帝期([[福井重雅]]1967)、王莽期(西嶋1970)、後漢光武帝期([[板野長八]])など|group=#}}。 五経博士とは[[四書五経|五経]]である『[[詩経|詩]]』・『[[書経|書]]』・『[[礼]]』・『[[易経|易]]』・『[[春秋公羊伝]]』それぞれを専門に学ぶ[[博士]]のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。 テキストがばらばらなのは不便であるため成帝期の[[劉向]]・[[劉歆]]親子により、テキストの整理が行われて一本化された。現在伝わる経書はこの時に整理されたものに基づくものが多い。 また劉向・劉歆親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『[[春秋左氏伝]]』・『[[周礼]]』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。 また前漢末期には[[緯書]]が流行を見せることになる。これに関しては[[#神秘思想]]で後述。 ==== 神秘思想 ==== {{Sfn|安居香山|1988|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 例えば武帝の傾倒した[[仙人|神仙]]思想や当時流行した[[巫蠱]]など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして[[陰陽五行説]]・[[天人相関説]]・[[災異説]]がある。 陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる[[天]]と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。 五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、[[紀元前104年]]に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克した{{#tag:ref|土克水。水の流れを土で出来た堤防が押し留めるように土は水に克つ。|group=#}}ので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉歆親子によってなされた。劉歆によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする{{#tag:ref|木生火。木を燃やすと火が生まれる|group=#}}。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた[[黄巾の乱]]や漢から禅譲を受けた[[魏 (三国)|魏]]の最初の元号が[[黄初]]であることは黄色が火徳の次に来る土徳{{#tag:ref|火生土。火が燃えた後には灰が出来る。|group=#}}の色だからである。 天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを[[讖緯]]という。 讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは[[経書]]に対しての[[緯書]]のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて[[緯書]]と呼ぶ場合もある。 前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を[[舜]]の子孫であると吹聴していたことに繋がっている{{#tag:ref|漢を火徳とすると遡って[[堯]]が火徳となる。|group=#}}。 ==== 道家 ==== {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|狩野直喜|1988|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|武内義雄|2005|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 黄は[[黄帝]]・老は[[老子]]のことで、[[道家]]の分派の一つである。信奉者として挙がるのは、高祖の功臣の一人[[曹参]]である。曹参は[[斉]]の丞相を務めていた際に、蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたので、その言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は[[蕭何]]の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。 これ以外にも景帝の母・[[竇太后]]は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「[[楽毅]]列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この人物が何者で実在の人物かどうかも不明である。 ==== 仏教 ==== [[仏教]]の中国伝来に付いては元寿元年([[紀元前2年]])に[[月氏]]を通じて『浮屠教』が伝来したというのが諸説の中でも最も早いものの1つとなっている{{#tag:ref|『[[魏書]]』「[[釈老志]]」|group=#}}が、前漢代には社会への影響力はほとんど無かった。但し、意匠や装飾としての仏像が、早期より伝来していた事を示す遺物が後漢以降にも見られ、東西交流の結果、仏教の片鱗も前漢代より中国に伝来していた可能性が想定されている{{Sfn|エーリク・チュルヒャー|1995|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}。 === 文学 === ==== 歴史 ==== {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 歴史の分野で取り上げるべきは何と言っても[[司馬遷]]の『[[史記]]』である。[[二十四史]]の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も大きい。『史記』は司馬遷の個人の著作として書かれたものであるから、後の史書と違い自由に司馬遷の思想が表れており、文学作品としても高い評価がある。 『史記』以外では[[陸賈]]『楚漢春秋』、劉向『[[戦国策]]』『[[新序 (劉向)|新序]]』『[[説苑]]』などが挙げられる。 ==== 漢詩 ==== {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|劉煒|2005|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|宇野直人|2005|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 前漢代には[[漢詩]](例えば[[杜甫]]・[[李白]]のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる2つの流れが存在していた。 1つは『[[詩経]]』を源流とする[[歌謡]]の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は[[楽府]](がくふ)という部署を作り、[[李延年]]をその主管とし、民間の歌謡および[[西域]]からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ{{#tag:ref|後代にこの楽府体を真似て作った漢詩群があり、これと区別する場合には古楽府と呼ぶ|group=#}}。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。[[管楽器]]では[[竽]](大型の笙。[[:zh:竽]])・[[笙]]・[[笛]]・[[簫]]、[[弦楽器]]では[[瑟]](大型の琴。[[:zh:瑟]])・[[古琴|琴]]・[[箜篌]]([[ハープ]]に似た楽器。[[:zh:箜篌]])・[[琵琶]]などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「[[WIKISOURCE:zh:歌詩 (李延年)|歌詩]]」が挙げられる。 もう1つは『[[楚辞]]』を源流とする[[賦]]の流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「[[垓下の歌]]」などである。それが武帝期の[[司馬相如]]に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては[[賈誼]]や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「[[WIKISOURCE:zh:上林賦|上林賦]]」が挙げられる。 === 芸術 === 前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、[[墓|墳墓]]の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。 ==== 墳墓 ==== {{multiple image| align = right | direction = horizontal | header = | header_align = left/right/center | footer = '''左画''': [[陝西省]][[咸陽市|咸陽]]、西漢の軍人の墓から出土した騎兵の陶磁器<br> '''右画''': 西もしくは東漢の鉛鞍がある青銅馬像| footer_align = left | image1 = CMOC Treasures of Ancient China exhibit - painted figure of a cavalryman.jpg | width1 = 143 | caption1 = | image2 = Bronze horse with lead saddle, Han Dynasty.jpg| width2 = 157 | caption2 = <ref name="英語版参照">英語版参照</ref>}} {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|マイケル・サリバン|1973|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|小杉一雄|1986|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}   漢代の墳墓からは副葬品の食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうため、実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを[[明器]]という。明器は非常に趣向に富み、食器・家具・家屋、鶏・犬などの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として[[竹簡]]・[[木簡]]類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。 漢代の出土物として特筆すべきものの一つに[[馬王堆漢墓]]で見つかった、保存状態の良好な女性の遺体がある。彼女は長沙国の丞相を務めた利蒼の妻で、発見時には頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻った。 もう一つは[[劉勝]]の墓・[[満城漢墓]]などで発見されている[[金縷玉衣]]である。[[ヒスイ|玉]]の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって遺体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の3段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『[[西京雑記]]』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張であると思われていた{{#tag:ref|なおギャラリーの写真は[[南越国|南越]]王墓から発見された絲鏤玉衣|group=#}}。 ==== 絵画 ==== {{Sfn|マイケル・サリバン|1973|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|小杉一雄|1986|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このようなものを画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。 壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に[[カラス|日烏]]が月の中に[[ヒキガエル科|ヒキガエル]]([[羿]]の妻の[[嫦娥]]が変化した姿)がいる。太陽と月の間には[[女媧]]がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。 ==== 陶磁器 ==== {{Sfn|矢部良明|1992|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 漢代の陶磁器は広く釉薬が用いられるようになり、陶磁器の歴史において契機となった時期である。 戦国では灰釉が主流で[[釉薬|鉛釉]]もあったが、出土例は少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉([[酸化銅]])が盛んに使われ(ギャラリーの酒器が緑釉)三足の様式と共に流行し、その他に褐釉([[酸化鉄]])や黄釉・青磁が広く作られた。緑釉と褐釉は低温度(800度ほど)で焼かれ、緑釉陶の主な用途は[[投壺]]と呼ばれる遊戯用や祭器であった。黄釉陶は主として酒樽に用いられた、青磁は高温(1300度ほど)で焼かれ、主に瓶や保存容器などに使われた。その他、醤油や酢・油などの調味料の保存や水瓶・匙や皿など様々な食器・酒坏に陶磁器が用いられた。 上流層は日常的な食器として青磁や黄釉陶を、祭祀用に緑釉陶などを使い、下流層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。 === 服飾 === {{Sfn|華梅|2006|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} [[File:Mawangdui silk banner from tomb no1.jpg|thumb|right|湖南省長沙の[[馬王堆漢墓]]より出土された絹の旗。長沙王国の高官、利蒼侯爵の妻辛追の棺に掛けられていた。<ref name="英語版参照">英語版参照</ref>]] [[漢服]]・[[:ZH:中國服飾]]なども参照。 漢代において周代より続く[[深衣]]は男性はあまり着なくなった。深衣とは[[十二単]]のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が1枚・下着が1枚というのが一般的になった。 身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「褲」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみで過ごすこともあったらしい。また、『礼記』には、「禅を絅(麻布で作った上着)と為し」と記され、上に羽織る衣だと解釈されている。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるように位の高い者の冕冠、宦官の長冠、武官の武冠、裁判官の法冠、文官の梁冠と区別されている。足に履くものは、[[祭祀]]の際に履く「舃」・出仕する際に履く「履」・家で履く「屨」・外出の際に履く「屐」がある。舃や履など大事なものは絹、屨は[[クズ|葛]]や[[アサ|麻]]で編まれた。屐は木で作られており、歯が2枚ある[[下駄]]のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。 労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。[[士大夫]]は冠であるが、庶民の男性は頭巾を被る(士大夫も私生活では頭巾を被る)。靴は履かず素足が基本である。 一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。 === ギャラリー === コモンズの[[Commons:Category:Art of the Han Dynasty|漢代の美術]]のカテゴリも参照。 <gallery> Image:Si lü yu yi.JPG|絲鏤玉衣 Image:Western Han Dynasty Bronze Lamp.jpg|三足のランプ・青銅製 Image:Western Han Dynasty Bronze Lamp3.jpg|ランプ・鍍金 Image:ChangXingongdeng.jpg|[[:Zh:長信宮燈|長信宮燈]]{{#tag:ref|河北省満城漢墓より出土。河北省博物館所蔵。高さ48cm・重さ15.78kg|group=#}} Image:FFM-Duftrauchbrenner.JPG|香炉を模した明器。陶製。 Image:Dame Han Guimet 2910.jpg|女性俑 Image:Servante Han Guimet 2910.jpg|女性俑 Image:FFM-HanWeingefäß.JPG|酒器 Image:Han Bronze Mirror.JPG|銅鏡{{#tag:ref|徐州西漢楚王陵墓より出土。|group=#}} Image:NuwaFuxi1.JPG|[[伏羲]]と[[女媧]] Image:Jingkeciqinwang.png|[[始皇帝]]を襲う[[荊軻]]{{#tag:ref|[[武氏祠]]画像石(左石室第四石)拓本。[[京都国立博物館]]所蔵。後漢。|group=#}} </gallery> == 国際関係 == {{Sfn|太田幸男|鶴間和幸|平勢隆郎|西江清高|2003|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}}{{Sfn|沢田勲|2005|ps={{要ページ番号|date=2021年12月}}}} 高祖時代に[[南越国]]・[[衛氏朝鮮]]の君主をそれぞれ皇帝に属する王として[[冊封]]した。これがいわゆる冊封体制の始まりとされている。皇帝に直接仕える臣下を内臣と呼ぶのに対して、南越や朝鮮の君主たちを外臣と呼び、その国を外藩と呼ぶ。 [[画像:Sakuhoutaisei W Han.png|360px|right|thumb|武帝時代初期の漢の国際関係]] === 北方 === 楚漢戦争期、[[匈奴]]では[[冒頓単于]]が立ち、[[東胡]]を滅亡させ、[[月氏]]を西に追いやり、[[烏孫]]などを支配下に置いて[[北アジア]]に覇を唱えた。更に[[韓王信]]が封じられていた[[代]]{{要曖昧さ回避|date=2023年3月}}に大軍を持って侵入した。韓王信は匈奴に寝返ったため、高祖は自ら[[親征]]するが冒頓の策に嵌り、[[大同市|平城]]にて7日間にわたって包囲され、命からがら帰還した。 この時に結ばれた盟約が「漢と匈奴は兄弟{{#tag:ref|どちらが兄でどちらが弟かは不明。|group=#}}となる」「漢の[[公主]]を匈奴の[[閼氏]](皇后)とする」「漢から毎年贈り物を匈奴に贈る。」と匈奴側に有利なものであった。 その後、呂后時代に冒頓から呂后に対して無礼な親書が送られた際に匈奴攻撃が計画されたが、沙汰止みとなった。文帝時代には[[老上単于]]・[[軍臣単于]]らにより何度か侵攻があり、そのたびに和平を結び直された。 武帝は、[[張騫]]の西方への派遣を行うなど匈奴攻撃の準備を整え、[[紀元前134年]]に馬邑{{#tag:ref|現[[山西省]][[朔州市]]|group=#}}の土豪の[[聶壱]]という者が考えた策謀を採用し、対匈奴戦争を開始した。聶壱の策は軍臣単于に対して偽りの手紙を送り、軍臣を誘き出して討つものである。この作戦は察知されて失敗に終わり、聶壱は誅殺された。これ以後、[[紀元前119年]]まで計8回の遠征が行われる。 1回([[紀元前129年]])から6回([[紀元前123年]])までの主役となったのが[[衛青]]である。第1回の遠征において衛青・[[李広]]など4人の将軍がそれぞれ1万騎を率いて各方面から匈奴に攻め込んだが他の将軍は全て破れ、衛青のみが匈奴の首級数百を得た。これを皮切りに第3回([[紀元前127年]])ではオルドスを再び奪い、第4回([[紀元前124年]])では匈奴の[[右賢王]](匈奴の右翼・西側の長)を敗走させ、[[大将軍]]に登った。 7回([[紀元前121年]])の遠征は衛青の甥・[[霍去病]]が主役になった。第7回では春・夏の二回遠征を行い、匈奴の渾邪王は数万の捕虜と共に漢に投降した。更に続く第8回([[紀元前119年]])では衛青は[[伊稚斜単于]]の軍を大破し、霍去病も匈奴の王・兵士数万を捕虜とする大戦果を挙げ、2人共に[[大司馬]]とされた。 この結果、匈奴は本拠をゴビ砂漠の北へと移さざるを得なくなり、漢は新領土に武威・酒泉・[[敦煌市|敦煌]]・張掖の河西四郡を設置した。以後、匈奴は二十年近く姿を現さなかったが、漢が[[西域]]に勢力を伸ばすと再び匈奴は漢と敵対する。 武帝は[[紀元前103年]]から再び軍事行動を再開。[[紀元前90年]]に至るまで[[李広利]]将軍を主として数度の遠征が行われ、小さな戦果と多くの損失を招いた。[[李陵]]は奮戦しながら罪に落とされ、[[司馬遷]]も[[宮刑]]に処された。最終的に李広利は匈奴に降伏し、武帝は「輪台の詔」を出して遠征により民衆が苦しんだことを自ら批判した。 一連の戦争により漢・匈奴共に疲弊したが、宣帝に至り西域諸国は漢に服属、[[西域都護]]が設置された。 [[紀元前58年]]、匈奴では[[呼韓邪単于]]が立つが、呼韓邪の兄も自立して[[郅支単于]]となり、東西に分裂した。呼韓邪は[[紀元前51年]]に自ら漢へ入朝し、宣帝は呼韓邪に「匈奴単于璽」を授けて呼韓邪を漢の外臣とする。更に元帝の[[紀元前36年]]には烏孫を攻撃した郅支単于を攻め、討ち取って首を長安に晒した。以後、前漢の終わりまで北方は安定した時期を迎えた。 === 西域 === [[ファイル:匈奴帝国.png|thumb|350px|[[紀元前2世紀]]頃の前漢と周辺]] [[紀元前139年]]、武帝は[[張騫]]を[[ソグド]]地方の[[月氏|大月氏]]へ送り匈奴の挟撃策を説くが受け容れられなかった。帰還した張騫により、西域の情勢が伝えられた。 張騫以後は大宛([[フェルガナ]])・大月氏・安息([[パルティア]])などの西域諸国との交易が始まり、西方から[[ブドウ]]・[[ザクロ]]・[[ウマゴヤシ]]などが輸入されて、漢からは[[絹織物]]が輸出された。交易にはいわゆる[[シルクロード]]が利用された。 武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた[[楼蘭]]・姑師を服属させるために[[紀元前108年]]に遠征軍を出し、その後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われ、駿馬とされる)を得るために[[李広利]]将軍を遠征させ、苦戦の末に大宛を服属させた。 [[西域都護]]を創設する頃には、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続くが、[[王莽]]の異民族を侮蔑する政策のため西域は漢の支配から離れた。 === ベトナム・南西部 === [[始皇帝]]は[[ベトナム]]に遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人[[趙佗]]が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に[[冊封]]して懐柔した。 武帝は[[紀元前111年]]に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領とした。これ以降[[10世紀]]の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。 南西部には[[夜郎自大]]の言葉で有名な[[夜郎]]([[貴州省]])や<span lang="zh" xml:lang="zh">[[滇]]</span>(てん、<span lang="zh" xml:lang="zh">滇</span>の字はさんずいに真、[[雲南省]])などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺されたことを契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。 === 朝鮮 === [[ファイル:Map of The east barbarian 0.png|thumb|350px|[[紀元前1世紀]]頃の前漢と[[漢四郡]]の位置]] 朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、[[紀元前108年]]に朝鮮半島北部に[[漢四郡]]を置いた。 *[[楽浪郡]](現在の[[平壌直轄市|平壌]]付近→[[313年]]に[[高句麗]]に滅ぼされる。) *[[玄菟郡]](現在の[[咸鏡南道]]咸興→[[遼東半島]]→[[撫順]]→[[315年]]に高句麗に滅ぼされる。) *[[真番郡]](楽浪郡の南。正確な位置は不明。→[[紀元前82年]]に廃止) *[[臨屯郡]](咸鏡南道の南部から[[江原道 (南)|江原道]]にかけて→[[紀元前82年]]に廃止) 漢四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に400年間に及ぶ中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、[[三韓]]([[馬韓]]、[[辰韓]]、[[弁韓]])といわれる部族国家連合が存在していた。 [[日本列島]]にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が日本にもたらされた。 == 前漢の皇帝 == [[画像:前漢帝国系図.PNG|right|thumb|300px|系図]] {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! || [[廟号]] || [[諡号]] || 姓名 || 在位 |- !1 |太祖 |髙皇帝 ![[劉邦]] |[[紀元前206年|前206]] - [[紀元前195年|前195年]] |- !2 | |恵帝 ![[恵帝 (漢)|劉盈]] |[[紀元前195年|前195]] - [[紀元前188年|前188年]] |- !3 | |rowspan=2|少帝 ![[前少帝 (前漢)|劉某]] |[[紀元前188年|前188]] - [[紀元前184年|前184年]] |- !4 | ![[少帝弘|劉弘]] |[[紀元前184年|前184]] - [[紀元前180年|前180年]] |- !5 |太宗 |文帝 ![[文帝 (漢)|劉恒]] |[[紀元前180年|前180]] - [[紀元前157年|前157年]] |- !6 | |景帝 ![[景帝 (漢)|劉啓]] |[[紀元前157年|前157]] - [[紀元前141年|前141年]] |- !7 |世宗 |武帝 ![[武帝 (漢)|劉徹]] |[[紀元前141年|前141]] - [[紀元前87年|前87年]] |- !8 | |昭帝 ![[昭帝 (漢)|劉弗陵]] |[[紀元前87年|前87]] - [[紀元前74年|前74年]] |- !9 | | ![[劉賀]] |[[紀元前74年|前74年]] |- !10 |中宗 |宣帝 ![[宣帝 (漢)|劉詢]] |[[紀元前74年|前74]] - [[紀元前48年|前48年]] |- !11 |高宗 |元帝 ![[元帝 (漢)|劉奭]] |[[紀元前48年|前48]] - [[紀元前33年|前33年]] |- !12 |統宗 |成帝 ![[成帝 (漢)|劉驁]] |[[紀元前33年|前33]] - [[紀元前7年|前7年]] |- !13 | |哀帝 ![[哀帝 (漢)|劉欣]] |[[紀元前7年|前7]] - [[紀元前1年|前1年]] |- !14 | |平帝 ![[平帝 (漢)|劉衎]] |[[紀元前1年|前1]] - [[5年|後5年]] |- !(15) | | ![[孺子嬰|劉嬰]] |[[5年|後5]] - [[8年|後8年]] |- |} * 高祖の本来の[[廟号]]・[[諡号]]は「太祖高皇帝」であるが、通常は「高祖」と呼ばれる。また後漢を含め、大半の皇帝の諡号は頭に「孝」が付く(例:文帝の諡号は「孝文皇帝」)が、日本ではほとんどの場合省略して呼ばれる。 * 第3代の少帝は諱が伝わっていない。「恭」とするのは誤写に由来する可能性が指摘されている。 * 劉嬰は実際には即位しておらず、皇太子のまま[[王莽]]に禅譲した。 * 第9代の劉賀は即位期間が27日と短いため、右の系図のように歴代皇帝に数えられないこともある。 == 前漢の元号 == #[[建元 (漢)|建元]]([[紀元前140年]]-[[紀元前135年]]) #[[元光 (漢)|元光]]([[紀元前134年]]-[[紀元前129年]]) #[[元朔]]([[紀元前128年]]-[[紀元前123年]]) #[[元狩]]([[紀元前122年]]-[[紀元前117年]]) #[[元鼎]]([[紀元前116年]]-[[紀元前111年]]) #[[元封 (漢)|元封]]([[紀元前110年]]-[[紀元前105年]]) #[[太初 (漢)|太初]]([[紀元前104年]]-[[紀元前101年]]) #[[天漢 (漢)|天漢]]([[紀元前100年]]-[[紀元前97年]]) #[[太始 (漢)|太始]]([[紀元前96年]]-[[紀元前93年]]) #[[征和]]([[紀元前92年]]-[[紀元前89年]]) #[[後元]]([[紀元前88年]]-[[紀元前87年]]) #[[始元 (漢)|始元]]([[紀元前86年]]-[[紀元前81年]]) #[[元鳳]]([[紀元前80年]]-[[紀元前75年]]) #[[元平]]([[紀元前74年]]) #[[本始]]([[紀元前73年]]-[[紀元前70年]]) #[[地節]]([[紀元前69年]]-[[紀元前66年]]) #[[元康 (漢)|元康]]([[紀元前65年]]-[[紀元前62年]]) #[[神爵]]([[紀元前61年]]-[[紀元前58年]]) #[[五鳳 (漢)|五鳳]]([[紀元前57年]]-[[紀元前54年]]) #[[甘露 (漢)|甘露]]([[紀元前53年]]-[[紀元前50年]]) #[[黄龍 (漢)|黄龍]]([[紀元前49年]]) #[[初元]]([[紀元前48年]]-[[紀元前44年]]) #[[永光 (漢)|永光]]([[紀元前43年]]-[[紀元前39年]]) #[[建昭]]([[紀元前38年]]-[[紀元前34年]]) #[[竟寧]]([[紀元前33年]]) #[[建始 (漢)|建始]]([[紀元前32年]]-[[紀元前29年]]) #[[河平]]([[紀元前28年]]-[[紀元前25年]]) #[[陽朔]]([[紀元前24年]]-[[紀元前21年]]) #[[鴻嘉]]([[紀元前20年]]-[[紀元前17年]]) #[[永始 (漢)|永始]]([[紀元前16年]]-[[紀元前13年]]) #[[元延]]([[紀元前12年]]-[[紀元前9年]]) #[[綏和]]([[紀元前8年]]-[[紀元前7年]]) #[[建平 (漢)|建平]]([[紀元前6年]]-[[紀元前3年]]) #[[元寿 (漢)|元寿]]([[紀元前2年]]-[[紀元前1年]]) #[[元始 (漢)|元始]]([[1年]]-[[5年]]) #[[居摂]]([[6年]]-[[8年]]) #[[初始]]([[8年]]) == 年表 == {| class="wikitable" style="text-align:center; vertical-align:middle; background-color:white" |- !年 !! 皇帝 !! colspan="2" | 元号 !! 国内 !! 国外 |- |紀元前210年 || [[始皇帝]] || 始皇帝 || 三十七年 || 始皇帝、崩御。二世皇帝即位。 || |- |前209年 || [[胡亥|二世皇帝]] || rowspan="2" | 二世皇帝 || 元年 || [[陳勝・呉広の乱]]勃発。[[陳勝・呉広の乱]]勃発。[[劉邦]]、故郷の沛で反乱軍に参加。 || |- |前207年 || 秦王[[子嬰]] || 三年 || 劉邦、秦都・[[咸陽市|咸陽]]を攻略。'''秦滅亡''' || |- |前206年 || rowspan="6" | 高祖 || rowspan="6" |高祖 || 元年 || 劉邦、[[項羽]]より[[漢中市|漢中]]に封ぜられ、漢王となる。劉邦、[[関中]]を攻略。 || |- |前205年 || 二年 || 項羽、[[義帝]]を殺害。 || |- |前202年 || 五年 || [[垓下の戦い]]。項羽戦死。'''劉邦、皇帝に即位'''('''高祖''')。 || |- |前201年 || 六年 ||   || [匈奴]高祖の親征軍、匈奴の[[冒頓単于]]軍に大敗。 |- |前196年 || 十一年 || [[彭越]]・[[英布]]ら功臣が粛清される。 || [ベトナム][[趙佗]]を[[南越国|南越]]王に封じる。<br>[朝鮮][[衛満]]、[[衛氏朝鮮]]を建てる。 |- |前195年 || 十二年 || '''高祖、崩御'''。恵帝即位。'''呂后体制始まる'''。 || |- |前188年 || [[恵帝 (漢)|恵帝]] || 恵帝 || 七年 || '''恵帝崩御'''。 || |- |前180年 || [[少帝弘]] || 少帝弘 || 四年 || 呂后、死去。周勃らにより呂氏族誅。'''[[文帝 (漢)|文帝]]即位'''。 || |- |前174年 ||rowspan="4" | 文帝 ||rowspan="2" | 文帝前 || 六年 ||   || [匈奴]冒頓が死去。[[老上単于]]立つ。 |- |前168年 || 十二年 || 田租を減じ、更に翌年より全廃。 || |- |前160年 || rowspan="2" | 文帝後 || 三年 ||   || [匈奴]老上が死去。軍臣単于立つ。 |- |前157年 || 六年 || '''文帝、崩御'''。'''景帝即位'''。 || |- |前156年 || rowspan="3" |景帝 || rowspan="2" |景帝前 || 元年 || 田租を復活させ、収穫の1/30とする。 ||  |- |前154年 || 三年 || '''[[呉楚七国の乱]]'''勃発。 || |- |前141年 || 景帝後 || 三年 || '''景帝、崩御'''。'''武帝即位'''。 || |- |前140年 || rowspan="27" | 武帝 ||rowspan="3" | [[建元 (漢)|建元]] || 元年 || [[張騫]]が西域に出発 || |- |前137年 || 三年 ||   || [ベトナム]趙佗が死去。孫の趙胡が跡を継ぐ。 |- |前136年 || 五年 || 五経博士を置く || |- |前133年 ||rowspan="2" | [[元光 (漢)|元光]] || 二年 || '''馬邑の役'''。対匈奴戦争の始まり || |- |前129年 || 六年 || 第一回対匈奴遠征 || |- |前128年 ||rowspan="5" | [[元朔]] || 元年 || 第二回対匈奴遠征 || |- |前127年 || 二年 || 第三回対匈奴遠征。[[衛青]]の活躍によりオルドスを奪う || |- |前126年 || 三年 || 張騫の帰還 || [匈奴]軍臣が死去。後継を巡って内紛がおき、[[伊稚斜単于]]が立つ。 |- |前124年 || 五年 || 第四回対匈奴遠征。衛青、大将軍となる || |- |前123年 || 六年 || 第五・六回対匈奴遠征・衛青と[[霍去病]]が出撃。痛み分けに終わる || |- |前121年 ||rowspan="2" | [[元狩]] || 二年 || 第七回対匈奴遠征。霍去病が匈奴の渾邪王を降す。 || |- |前119年 || 四年 || 第八回対匈奴遠征。'''塩鉄専売制'''の開始・'''[[五銖銭]]'''の制定 || [匈奴]本拠を北に移す。 |- |前115年 ||rowspan="5" | [[元鼎]] || 二年 || '''均輸法'''施行。 || |- |前114年 || 三年 ||   || [匈奴]伊稚斜が死去。 |- |前113年 || 四年 || 五銖銭の製造が国家の独占となる。 || |- |前112年 || 五年 || 南越に出兵。 || |- |前111年 || 六年 ||   || [ベトナム]'''南越滅亡'''。漢の郡が置かれる。 |- |前110年 ||rowspan="3" | [[元封 (漢)|元封]] || 元年 || 武帝、'''[[封禅]]'''を行う。'''平準法'''施行。 || [[閩越|東越国]](閩越)滅亡。<br>[雲南][[夜郎]]・[[滇]]が漢の外藩となる。 |- |前108年 || 三年 ||   || [朝鮮]'''衛氏朝鮮滅亡'''。<br>[[楽浪郡]]以下[[漢四郡|朝鮮四郡]]が置かれる。 |- |前106年 || 五年 || '''[[刺史]]'''の設置。 || |- |前104年 || rowspan="2" | [[太初 (漢)|太初]] || 元年 || [[李広利]]将軍の[[大宛]]出兵が失敗に終わる。 || |- |前102年 || 三年 || 再び、大宛を攻めて[[汗血馬]]を得て帰還する。 || |- |前99年 || [[天漢 (漢)|天漢]] || 二年 || 李広利を将軍として匈奴を攻撃する。[[李陵]]が降伏。[[司馬遷]]が[[宮刑]]を受ける。|| |- |前96年-前90年頃 || || || 『'''[[史記]]'''』の完成。 || |- |前91年 || rowspan="2" | [[征和]] || 二年 || [[巫蠱の禍]]。[[劉拠|戾太子]]死去。 || |- |前90年 || 三年 || 李広利、匈奴に降伏。 || |- |前87年 || [[後元]] || 二年 || 武帝、崩御。'''[[昭帝 (漢)|昭帝]]即位'''。 || |- | 前81年 || rowspan="3" | 昭帝 || [[始元 (漢)|始元]] || 六年 || [[塩鉄論|塩鉄会議]]が開催される。 || |- |前80年 || [[元鳳]] || 元年 || [[上官桀]]・[[桑弘羊]]ら誅殺され、'''[[霍光]]専権時代'''が始まる。 || |- |前74年 || [[元平]] || 元年 || '''昭帝崩御'''。[[劉賀|昌邑王]]の即位と廃位を経て、'''[[宣帝 (漢)|宣帝]]即位'''。 || |- |前73年 || rowspan="6" | 宣帝 || [[本始]] || 元年 ||   || |- |前68年 || rowspan="2" | [[地節]] || 二年 || 霍光、死去。 || |- |前66年 || 四年 || 霍氏、族誅され宣帝の親政始まる。 || |- |前60年 || [[神爵]] || 二年 || [[西域都護]]の設置。 || |- |前51年 || [[甘露 (漢)|甘露]] || 三年 || [[石渠閣会議]]が開催される。 || [匈奴]'''[[呼韓邪単于]]、漢に入朝'''。 |- |前49年 || [[黄龍 (漢)|黄龍]] || 元年 || 宣帝、崩御。'''[[元帝 (漢)|元帝]]即位'''。 || |- |前48年 || rowspan="3" | 元帝 || [[初元]] || 元年 ||   || |- |前40年 || [[永光 (漢)|永光]] || 四年 || 郡国廟の廃止。 || |- |前33年 || [[竟寧]] || 元年 || 元帝、崩御。'''成帝即位'''。 || |- |前32年 || rowspan="3" | 成帝 || [[建始 (漢)|建始]] || 元年 || [[郊祀]]制を始める || |- |前8年 || rowspan="2" | [[綏和]] || 元年 || [[王莽]]、[[大司馬]]になる。 || |- |前7年 || 二年 || 成帝、崩御。'''[[哀帝 (漢)|哀帝]]即位'''。 || |- |前6年 || rowspan="2" | 哀帝 || [[建平 (漢)|建平]] || 元年 || 王莽、下野する。 || |- |前1年 || [[元寿 (漢)|元寿]] || 二年 || 哀帝、崩御。'''[[平帝 (漢)|平帝]]即位'''。王莽、再び大司馬となる。 || |- |後1年 || rowspan="2" | 平帝 || rowspan="2" | [[元始 (漢)|元始]] || 元年 || 王莽、安漢公となり、政権を執る。 || |- |後5年 || 五年 || 平帝、崩御。王莽、[[孺子嬰]]を皇太子とし、自ら仮皇帝となる。 || |- |後8年 || 孺子嬰 || [[初始]] || 元年 || 王莽、皇帝となる。'''前漢滅亡''' || |} == 参考文献 == === 史料 === *[[司馬遷]][前漢]『[[史記]]』 *[[班固]][後漢]『[[漢書]]』 *[[荀悦]][後漢]『[[漢紀]]』 - 『漢書』の本紀・列伝を材料にして『左伝』風の文章に纏めたものであり、史料的価値は低い。 *[[陸賈]][前漢]『[[楚漢春秋]]』 - 『史記』の楚漢戦争期の記事の材料。『漢書』[[芸文志]]には全九編とあるが、現在は散逸。清の洪頤煊などによる輯本がある。 *[[蔡邕]][後漢]『[[独断]]』 *『[[西京雑記]]』 **{{Citation|和書|title=訳注 西京雑記・独断|year=2000|publisher=[[東方書店]]|author=福井重雅(編)|isbn=978-4497200075}} *[[孫星衍]][清]『[[漢官七種]]』 - 漢の制度に関する7つの[[逸文|逸書]]の輯本。 **撰者不詳『[[漢官]]』 **{{仮リンク|王隆 (後漢)|zh|王隆 (漢朝)|label=王隆}}[後漢]『[[漢官解詁]]』 **[[叔孫通]][前漢]『[[漢礼器制度]]』 **[[応劭]][後漢]『[[漢官儀]]』 **{{仮リンク|衛宏|zh|衛宏}}[後漢]『[[漢旧儀]]』 **[[蔡質]][後漢]『[[漢官典職儀式選用]]』 **[[丁孚]][[[三国時代 (中国)|三国]]]『[[漢儀]]』 *[南北朝〜唐?]『[[三輔黄図]]』 - 前漢長安に関する社会地理情報が記される地理書。 *[[常璩]][西晋]『[[華陽国志]]』 - 主に三国時代から晋代までの蜀地方に関する記述がまとめられた文献。中には古蜀王国時代の記述なども存在する。 *氾勝之[前漢]『[[氾勝之書]]』 - 散逸しており、輯本がある。 === 学術書 === *{{Citation|和書|title=敦煌文書の世界|year=2003|publisher=名著刊行会|author=池田温|author-link=池田温|isbn=4839003181}} *{{Citation|和書|title=儒教成立史の研究|date=1995-07-20|year=1995|publisher=[[岩波書店]]|author=板野長八|author-link=板野長八|isbn=978-4000029490}} *{{Citation|和書|title=中国史重要人物101|edition=新装|year=2005|publisher=新書館|author=井波律子|author-link=井波律子|series=ハンドブック・シリーズ|isbn=978-4403250866}} *{{Citation|和書|title=漢代社会経済史研究|year=1955|publisher=弘文堂書房|author=宇都宮清吉|author-link=宇都宮清吉}} *{{Citation|和書|title=漢詩の歴史 : 古代歌謡から清末革命詩まで|year=2005|date=2005-12-01|publisher=東方書店|author=宇野直人|isbn= 978-4497205117}} *{{Citation|和書|title=仏教の中国伝来|year=1995|publisher=せりか書房|author=エーリク・チュルヒャー|translator=田中純男|isbn=978-4796701884}} *{{Citation|和書|title=漢代の美術|year=1975|publisher=[[平凡社]]|author=大阪市立美術館|author-link=大阪市立美術館}} *{{Citation|和書|title=中国史1 : 先史〜後漢|date=2003-09-01|year=2003|publisher=[[山川出版社]]|author=太田幸男|author2=鶴間和幸|author3=平勢隆郎|author4=西江清高|author5=竹内康浩|isbn=978-4634461505}} *{{Citation|和書|title=秦漢帝国の威容|series=図説中国の歴史2|year=1977|publisher=[[講談社]]|author=大庭脩|author-link=大庭脩|isbn=}} *{{Citation|和書|title=中国服装史 : 五千年の歴史を検証する|year=2006|publisher=白帝社|author=華梅|translator=施潔民|isbn=4891745886}} *{{Citation|和書|title=両漢学術考|date=1988-10-30|year=1988|publisher=[[筑摩書房]]|author=狩野直喜|author-link=狩野直喜|isbn=978-4480835116}} *{{Citation|和書|title=漢代の豪族社会と国家|date=2001-05-01|year=2001|publisher=名著刊行会|author=五井直弘|author-link=五井直弘|series=歴史学叢書|isbn=978-4839003135}} *{{Citation|和書|title=中国美術史 : 日本美術の源流|year=1986|publisher=南雲堂|author=小杉一雄|author-link=小杉一雄|isbn=978-4523261193}} *{{Citation|和書|title=長安|date=2004-06-01|year=2004|publisher=講談社|author=佐藤武敏|author-link=佐藤武敏|series=講談社学術文庫1663|isbn=978-4061596634}} *{{Citation|和書|title=中国古代書簡集|date=2006-11-11|year=2006|publisher=講談社|author=佐藤武敏|series=講談社学術文庫1790|isbn=978-4061597907}} *{{Citation|和書|title=匈奴 : 古代遊牧国家の興亡|edition=新訂|year=2015|publisher=東方書店|author=沢田勲|series=東方選書|isbn=978-4497215147}} *{{Citation|和書|title=中国思想史|edition=新|year=2005|publisher=岩波書店|author=武内義雄|author-link=武内義雄|series=岩波全書セレクション|isbn=4000218727}} *{{Citation|和書|title=ファーストエンペラーの遺産 : 秦漢帝国|series=中国の歴史3|year=2020|publisher=講談社|author=鶴間和幸|author-link=鶴間和幸|isbn=978-4065215678}} *{{Citation|和書|title=漢の武帝|date=2012-08-10|year=2012|publisher=清水書院|author=永田英正|series=人と思想189|isbn=978-4389411893}} *{{Citation|和書|title=中国古代帝国の形成と構造 : 二十等爵制の研究|year=1961|publisher=[[東京大学出版会]]|author=西嶋定生}} *{{Citation|和書|title=中国経済史研究|year=1966|publisher=東京大学出版会|author=西嶋定生}} *{{Citation|和書|title=秦漢帝国 : 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朱熹
朱 熹(しゅ き、建炎4年9月15日〈1130年10月18日〉 - 慶元6年3月9日〈1200年4月23日〉)は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。朱子()と尊称される。 本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。 「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。 その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。 朱熹の祖先は、唐末から五代十国時代の呉にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという。その8世の子孫が朱熹の父の朱松(1097年 - 1143年)である。 朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。政和8年(1118年)、22歳の時に科挙に合格し、建州政和県の県尉に赴任した。その後、宣和5年(1123年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、建炎元年(1127年)に靖康の変が勃発し、金軍の侵攻が始まった。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともの転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた。建炎4年9月15日(1130年10月18日)のことである。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ。 その後しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た。紹興7年(1137年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年(1140年)に中央政界から追われて饒州知州に左遷された。朱松はこれを拒否し、建州崇安県の道教寺院の管理職となった。 地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた。朱松はもともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった。朱松は3年後の紹興13年(1143年)に47歳で死去した。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲(胡安国の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した。 なお、母の祝氏は乾道5年(1169年)に70歳で死去した。 朱熹は、字は元晦または仲晦。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ。朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期禅宗に傾斜した時期もあった。同時に儒教の古典の勉学に励み、18歳の秋に建州で行われた解試(科挙の第一段階の地方予備試験)に合格すると、紹興18年(1148年)、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、進士の資格を与えられた。同年の合格者には、『遂初堂書目』の著者として知られる尤袤もいる。 朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書、韓愈や曾鞏の文章などを読み、学問に没入した。朱熹はこの頃からすでに、従来の経書解釈に疑念を持つことがあった。 朱熹は24歳の頃、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている。主簿の務めは、赴任して4年目の紹興26年(1156年)7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した。 この間、朱熹は李侗(李延平)と出会い、師事した。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた。 紹興27年(1157年)、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め、12月に監潭州南学廟に任命された。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた。 隆興元年(1163年)朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃張栻と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる。張栻は、湖南学の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた。乾道3年(1167年)には、朱熹が長沙の張栻の家を訪問し、ともに衡山に登り、詩の応酬をした。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた。 しかし、乾道5年(1169年)春、友人の蔡元定と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた。 これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した。 朱熹は40代の頃、著作活動に最も励んだ。39歳に『程氏遺書』の編集、40歳に周敦頤『太極図説』『通書』(50歳の時に再校定)、41歳に張載『西銘』の注解(『西銘解』、以後も改訂し59歳で刊行)、42歳に『知言疑義』、43歳に『八朝名臣言行録』『資治通鑑綱目』、44歳に『伊洛淵源録』『程氏外書』、45歳に『古今家祭礼』、46歳に『近思録』、48歳に『四書集注』とその『或問』(その後も改訂を続ける)、49歳に『詩集伝』(57歳定本)を著した。 淳熙2年(1175年)4月、同安時代から交友のあった呂祖謙とともに『近思録』の執筆に当たったのち、彼の仲介で陸象山とその兄の陸九齢と会見した。これが後に言う鵝湖の会であり、対照的な思想を唱える両者は激しい議論を交わした。結果、兄の陸九齢の思想はのちに朱熹に接近したが、陸象山の思想は変わらず、両者の調停はならなかった。ただし、両者は互いを好敵手であると認識しており、賛辞の言葉も与えている。 乾道4年(1168年)に発生した建寧府の大飢饉に際して粟600石を貸し与えて民を救済し、その後も飢饉に応じて利息を加減しながら貸付を継続した。この社倉は「飢饉時に食を欠く者なし」と称される成功を収め、朱熹は孝宗に社倉法を献じてこれを全国で行わしめた。後にこの制度は朱子学を通じて江戸時代の日本に伝播して、各地に義倉が設けられることとなる。 淳熙5年(1178年)、朱熹49歳の時、宰相の史浩によって知南康軍の辞令を受けた。朱熹は何度も辞退したが、何度も推薦を受け、結局翌年3月に南康軍(中国語版)に赴いた。朱熹はここに二年間在職し、学校制度の整備、郷土の先覚者の顕彰、減税の請願、旱魃の対策などに奔走し、民生の安定に尽力した。特に、廬山の白鹿洞書院の復興に着手し、図書の充実を朝廷に願い、陸象山の講演を実現するなど、大きな功績を残した。なお、この頃から朱熹は脚の病に侵され、晩年に至るまで苦しんだ。 淳熙7年(1180年)、朱熹は孝宗に対して「庚子応詔封事」と呼ばれる上書を奉り、重税を省くこと、余分な軍事力を割くことを述べ、更に今の政治が皇帝によるものではなく、数人の権臣によって牛耳られていることを批判した。翌年、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙江南西路常平茶塩公事(江西省の茶塩の監督官の待次差遣)に任命され、また直秘閣(宮廷図書館の責任者)を与えられた。同年に浙東で飢饉が発生したため、朱熹は改めて提挙両浙東路常平茶塩公事に任命された。ここで朱熹は、絶えず管内を巡回し、飢饉対策と官吏の不正の摘発に励んだ。12月には、自身の崇安での経験に基づき、「社倉事目」を奏上し、各地に社倉が設置されることになった。 淳熙9年(1182年)7月、朱熹は台州知事(台州の治所は現在の浙江省台州市臨海市)の唐仲友が不正を働いたとして弾劾し、その罷免を朝廷に要求した。朱熹の弾劾は激しく執拗であり、朝廷がなかなか動かないのを見て、脅迫的な自身の罷免状を送り付けたほどであった。但し、唐仲友が実際にどれほど悪辣な行為があったのかは定かでなく、朱熹がここまで執拗に攻撃した理由は明らかでない。この事件によって、台州知事から江西提刑に移っていた唐仲友は罷免され、6年後の他界まで家で過ごした。この江西提刑のポストは朱熹に回されたが、朱熹はこれを辞退し、郷里に帰った。 53歳の時に郷里に帰った朱熹は、これから8年ほどは公務から遠ざかり、祠禄の官をもらって家で学業に励んだ。50代の著作として『易学啓蒙』『孝経刊誤』『詩集伝』『小学書』などがあり、次第に『四書』から『五経』へと研究対象が移行した。陸象山との無極太極論争や、陳亮との義利王覇論争が交わされたのもこの時期である。 淳熙16年(1189年)、孝宗が退位しその子の光宗が即位する。その翌年、朱熹は漳州知事に一年間赴任し、経界法の実施を試みたが、在地の土豪の反発を受けて上手く行かず、一年で離任する。また、紹熙4年(1193年)には潭州知事として3カ月間赴任し、張栻と縁の深い嶽麓書院を修復した。 紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、宰相の趙汝愚の推挙もあって寧宗は朱熹に強い関心を寄せ、煥章閣待制兼侍講(政治顧問)として朱熹を抜擢する。朱熹は、皇帝への意見具申や経書の講義などを積極的に行ったが、韓侂冑の怒りを買ってわずか45日で中央政府を追われ、郷里に戻った。その帰り道で、江西の玉山にて晩年の思想の集約であるとされる「玉山講義」を行った。 慶元元年(1195年)、趙汝愚は失脚し、韓侂冑が独裁的な権限を握るようになり、「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧が始まった。これによって道学は「偽学」として排撃され、道学者の語録は廃棄処分、科挙においても道学風の回答は拒絶された。この弾圧中には、道学派を弾劾すれば自分の官職が上がったため弾圧は激化し、朱熹も激しい弾劾に晒された。 慶元6年3月9日(1200年4月23日)、そうした不遇の中で朱熹は建陽の考亭で71歳の生涯を閉じた。朱熹の臨終の前後の様子は、蔡沈の「夢奠記」に記録されている。 『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。この四書への注釈は『四書集注』(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)に整理され、後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は儀礼に関する研究も行っている。孔子の祭りである釈奠の儀礼を整備したり儒服の深衣の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある。 朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『易経(周易)』に関する注釈書『周易本義』、『書経』に関する注釈書『書集伝』、『詩経』に関する注釈書『詩集伝』などがある。 朱熹の死後、朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが広めた。最終的に真徳秀(1178年 - 1235年)と魏了翁(1178年 - 1237年)が活躍し、朱子学の地位向上に貢献し、淳祐元年(1241年)に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で、朱子学の影響を受け、考証学という学問が形成される。南宋末の王応麟の『困学紀聞』がとりわけ重要で、その博識ぶりは有名であり、朱熹に対して最大限の敬意を払っている。この時代の考証学は、後に博大の清朝考証学に受け継がれる 。 元代に編纂された『宋史』は、朱子学者の伝を「道学伝」として、それ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。 13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。 日本においても中近世、ことに江戸時代に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。 朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』)と記している。 古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある。 韓琦が欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる。 朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる。 朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる。 『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は淳熙6年(1179年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。 劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。 劉珙が淳熙5年(1178年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。 『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、乾道8年(1172年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている。 『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で淳熙4年(1177年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm。 朱熹は朱塾・朱埜・朱在の三子があり、曾孫である朱潜は、南宋の翰林学士・太学士・秘書閣直学士の重臣を歴任するが、高麗に亡命して朝鮮の氏族新安朱氏の始祖となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "朱 熹(しゅ き、建炎4年9月15日〈1130年10月18日〉 - 慶元6年3月9日〈1200年4月23日〉)は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。朱子()と尊称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "朱熹の祖先は、唐末から五代十国時代の呉にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという。その8世の子孫が朱熹の父の朱松(1097年 - 1143年)である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。政和8年(1118年)、22歳の時に科挙に合格し、建州政和県の県尉に赴任した。その後、宣和5年(1123年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、建炎元年(1127年)に靖康の変が勃発し、金軍の侵攻が始まった。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともの転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた。建炎4年9月15日(1130年10月18日)のことである。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た。紹興7年(1137年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年(1140年)に中央政界から追われて饒州知州に左遷された。朱松はこれを拒否し、建州崇安県の道教寺院の管理職となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた。朱松はもともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった。朱松は3年後の紹興13年(1143年)に47歳で死去した。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲(胡安国の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、母の祝氏は乾道5年(1169年)に70歳で死去した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "朱熹は、字は元晦または仲晦。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ。朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期禅宗に傾斜した時期もあった。同時に儒教の古典の勉学に励み、18歳の秋に建州で行われた解試(科挙の第一段階の地方予備試験)に合格すると、紹興18年(1148年)、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、進士の資格を与えられた。同年の合格者には、『遂初堂書目』の著者として知られる尤袤もいる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書、韓愈や曾鞏の文章などを読み、学問に没入した。朱熹はこの頃からすでに、従来の経書解釈に疑念を持つことがあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "朱熹は24歳の頃、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている。主簿の務めは、赴任して4年目の紹興26年(1156年)7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この間、朱熹は李侗(李延平)と出会い、師事した。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紹興27年(1157年)、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め、12月に監潭州南学廟に任命された。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "隆興元年(1163年)朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃張栻と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる。張栻は、湖南学の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた。乾道3年(1167年)には、朱熹が長沙の張栻の家を訪問し、ともに衡山に登り、詩の応酬をした。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、乾道5年(1169年)春、友人の蔡元定と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "朱熹は40代の頃、著作活動に最も励んだ。39歳に『程氏遺書』の編集、40歳に周敦頤『太極図説』『通書』(50歳の時に再校定)、41歳に張載『西銘』の注解(『西銘解』、以後も改訂し59歳で刊行)、42歳に『知言疑義』、43歳に『八朝名臣言行録』『資治通鑑綱目』、44歳に『伊洛淵源録』『程氏外書』、45歳に『古今家祭礼』、46歳に『近思録』、48歳に『四書集注』とその『或問』(その後も改訂を続ける)、49歳に『詩集伝』(57歳定本)を著した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "淳熙2年(1175年)4月、同安時代から交友のあった呂祖謙とともに『近思録』の執筆に当たったのち、彼の仲介で陸象山とその兄の陸九齢と会見した。これが後に言う鵝湖の会であり、対照的な思想を唱える両者は激しい議論を交わした。結果、兄の陸九齢の思想はのちに朱熹に接近したが、陸象山の思想は変わらず、両者の調停はならなかった。ただし、両者は互いを好敵手であると認識しており、賛辞の言葉も与えている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "乾道4年(1168年)に発生した建寧府の大飢饉に際して粟600石を貸し与えて民を救済し、その後も飢饉に応じて利息を加減しながら貸付を継続した。この社倉は「飢饉時に食を欠く者なし」と称される成功を収め、朱熹は孝宗に社倉法を献じてこれを全国で行わしめた。後にこの制度は朱子学を通じて江戸時代の日本に伝播して、各地に義倉が設けられることとなる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "淳熙5年(1178年)、朱熹49歳の時、宰相の史浩によって知南康軍の辞令を受けた。朱熹は何度も辞退したが、何度も推薦を受け、結局翌年3月に南康軍(中国語版)に赴いた。朱熹はここに二年間在職し、学校制度の整備、郷土の先覚者の顕彰、減税の請願、旱魃の対策などに奔走し、民生の安定に尽力した。特に、廬山の白鹿洞書院の復興に着手し、図書の充実を朝廷に願い、陸象山の講演を実現するなど、大きな功績を残した。なお、この頃から朱熹は脚の病に侵され、晩年に至るまで苦しんだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "淳熙7年(1180年)、朱熹は孝宗に対して「庚子応詔封事」と呼ばれる上書を奉り、重税を省くこと、余分な軍事力を割くことを述べ、更に今の政治が皇帝によるものではなく、数人の権臣によって牛耳られていることを批判した。翌年、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙江南西路常平茶塩公事(江西省の茶塩の監督官の待次差遣)に任命され、また直秘閣(宮廷図書館の責任者)を与えられた。同年に浙東で飢饉が発生したため、朱熹は改めて提挙両浙東路常平茶塩公事に任命された。ここで朱熹は、絶えず管内を巡回し、飢饉対策と官吏の不正の摘発に励んだ。12月には、自身の崇安での経験に基づき、「社倉事目」を奏上し、各地に社倉が設置されることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "淳熙9年(1182年)7月、朱熹は台州知事(台州の治所は現在の浙江省台州市臨海市)の唐仲友が不正を働いたとして弾劾し、その罷免を朝廷に要求した。朱熹の弾劾は激しく執拗であり、朝廷がなかなか動かないのを見て、脅迫的な自身の罷免状を送り付けたほどであった。但し、唐仲友が実際にどれほど悪辣な行為があったのかは定かでなく、朱熹がここまで執拗に攻撃した理由は明らかでない。この事件によって、台州知事から江西提刑に移っていた唐仲友は罷免され、6年後の他界まで家で過ごした。この江西提刑のポストは朱熹に回されたが、朱熹はこれを辞退し、郷里に帰った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "53歳の時に郷里に帰った朱熹は、これから8年ほどは公務から遠ざかり、祠禄の官をもらって家で学業に励んだ。50代の著作として『易学啓蒙』『孝経刊誤』『詩集伝』『小学書』などがあり、次第に『四書』から『五経』へと研究対象が移行した。陸象山との無極太極論争や、陳亮との義利王覇論争が交わされたのもこの時期である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "淳熙16年(1189年)、孝宗が退位しその子の光宗が即位する。その翌年、朱熹は漳州知事に一年間赴任し、経界法の実施を試みたが、在地の土豪の反発を受けて上手く行かず、一年で離任する。また、紹熙4年(1193年)には潭州知事として3カ月間赴任し、張栻と縁の深い嶽麓書院を修復した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、宰相の趙汝愚の推挙もあって寧宗は朱熹に強い関心を寄せ、煥章閣待制兼侍講(政治顧問)として朱熹を抜擢する。朱熹は、皇帝への意見具申や経書の講義などを積極的に行ったが、韓侂冑の怒りを買ってわずか45日で中央政府を追われ、郷里に戻った。その帰り道で、江西の玉山にて晩年の思想の集約であるとされる「玉山講義」を行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "慶元元年(1195年)、趙汝愚は失脚し、韓侂冑が独裁的な権限を握るようになり、「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧が始まった。これによって道学は「偽学」として排撃され、道学者の語録は廃棄処分、科挙においても道学風の回答は拒絶された。この弾圧中には、道学派を弾劾すれば自分の官職が上がったため弾圧は激化し、朱熹も激しい弾劾に晒された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "慶元6年3月9日(1200年4月23日)、そうした不遇の中で朱熹は建陽の考亭で71歳の生涯を閉じた。朱熹の臨終の前後の様子は、蔡沈の「夢奠記」に記録されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。この四書への注釈は『四書集注』(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)に整理され、後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は儀礼に関する研究も行っている。孔子の祭りである釈奠の儀礼を整備したり儒服の深衣の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある。", "title": "朱子の業績" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『易経(周易)』に関する注釈書『周易本義』、『書経』に関する注釈書『書集伝』、『詩経』に関する注釈書『詩集伝』などがある。", "title": "朱子の業績" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "朱熹の死後、朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが広めた。最終的に真徳秀(1178年 - 1235年)と魏了翁(1178年 - 1237年)が活躍し、朱子学の地位向上に貢献し、淳祐元年(1241年)に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で、朱子学の影響を受け、考証学という学問が形成される。南宋末の王応麟の『困学紀聞』がとりわけ重要で、その博識ぶりは有名であり、朱熹に対して最大限の敬意を払っている。この時代の考証学は、後に博大の清朝考証学に受け継がれる 。", "title": "朱子の業績" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "元代に編纂された『宋史』は、朱子学者の伝を「道学伝」として、それ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。", "title": "朱子の業績" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。", "title": "朱子の業績" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本においても中近世、ことに江戸時代に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。", "title": "朱子の業績" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』)と記している。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "韓琦が欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は淳熙6年(1179年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "劉珙が淳熙5年(1178年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、乾道8年(1172年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で淳熙4年(1177年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm。", "title": "朱子の書" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "朱熹は朱塾・朱埜・朱在の三子があり、曾孫である朱潜は、南宋の翰林学士・太学士・秘書閣直学士の重臣を歴任するが、高麗に亡命して朝鮮の氏族新安朱氏の始祖となった。", "title": "子孫" } ]
朱 熹は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。朱子と尊称される。 本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。 「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。 その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。
{{中華圏の人物 | 名前=朱 熹 | 画像=[[File:Zhu xi.jpg|250px]] | 画像の説明= | 簡体字=朱 熹 | 繁体字=朱 熹 | ピン音=Zhū Xī | 注音=ㄓㄨ ㄒㄧ | 和名=しゅ き | 発音=ヂュ シー | ラテン字=Chu<sup>1</sup> Hsi<sup>1</sup> | 英語名=Zhu Xi }} [[File:Zhu Xi.jpg|thumb|朱熹]] [[File:Zhu-xi1.gif|thumb|朱熹]] {{儒教}} '''朱 熹'''(しゅ き、[[建炎]]4年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]〈[[1130年]][[10月18日]]〉 - [[慶元]]6年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]〈[[1200年]][[4月23日]]〉<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=朱子 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |accessdate=2023-02-05}}</ref>)は、[[中国]][[南宋]]の[[儒学者]]<ref name=":0" />。[[字]]は元晦または仲晦<ref name=":0" />。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など<ref name=":0" /><ref>{{Cite Kotobank |word=朱子 |encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |accessdate=2023-02-05}}</ref><ref name=":1">{{Cite Kotobank |word=朱熹 |encyclopedia=世界大百科事典 |accessdate=2023-02-05}}</ref><ref name=":2">{{Cite Kotobank |word=朱熹 |encyclopedia=デジタル大辞泉 |accessdate=2023-02-05}}</ref>。[[諡]]は文公<ref name=":2" />。{{読み仮名|'''朱子'''|しゅし}}と尊称される<ref name=":1" />。 本籍地は[[歙州]](後の[[徽州 (安徽省)|徽州]])婺源県(現在の[[江西省]][[上饒市]][[婺源県]])。南剣州尤渓県(現在の[[福建省]][[三明市]][[尤渓県]])に生まれ、建陽(現在の福建省[[南平市]][[建陽区]])の考亭にて没した。[[儒教]]の精神・本質を明らかにして体系化を図った'''儒教の中興者'''であり、「新儒教」の'''[[朱子学]]'''の創始者である。 「[[五経]]」への階梯として、[[孔子]]に始まり、[[孟子]]へと続く道が伝えられているとする「[[四書]]」を重視した。 その一つである『[[論語]]』では、語義や文意にとどまる従来の[[注釈]]には満足せず、[[北宋]]の[[程顥]]・[[程頤]]の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。 == 生涯 == === 父の朱松 === 朱熹の祖先は、[[唐]]末から[[五代十国時代]]の[[呉 (十国)|呉]]にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという{{Sfn|三浦|2010|p=59}}。その8世の子孫が朱熹の父の[[朱松]]([[1097年]] - [[1143年]])である<ref name=":1" />{{Sfn|三浦|2010|p=59}}。 朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。[[政和]]8年([[1118年]])、22歳の時に科挙に合格し、[[建州 (福建省)|建州]][[政和県]]の県尉に赴任した{{Sfn|三浦|2010|pp=65-66}}。その後、[[宣和]]5年([[1123年]])に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、[[建炎]]元年([[1127年]])に[[靖康の変]]が勃発し、[[金 (王朝)|金]]軍の侵攻が始まった{{Sfn|三浦|2010|pp=65-66}}。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともの転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた{{Sfn|木下|2013|p=52}}。建炎4年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[1130年]][[10月18日]])のことである{{Sfn|木下|2013|p=51}}。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ<ref name=":1" />{{Sfn|木下|2013|p=52}}。 その後しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る{{Sfn|三浦|2010|pp=66-67}}。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た{{Sfn|三浦|2010|pp=66-67}}。[[紹興 (宋)|紹興]]7年([[1137年]])に[[臨安府]]に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った{{Sfn|三浦|2010|pp=66-67}}。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは[[秦檜]]が政権を握ると決定的になった{{Sfn|三浦|2010|p=68}}。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年([[1140年]])に中央政界から追われて[[饒州]]知州に左遷された{{Sfn|三浦|2010|pp=28, 68}}。朱松はこれを拒否し、建州[[崇安県]]の道教寺院の管理職となった{{Sfn|三浦|2010|p=68}}。 地方に戻った朱松は、息子の朱熹に[[二程子]]の学を教えた{{Sfn|三浦|2010|p=33}}。朱松はもともと[[羅従彦]]を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である[[楊時]])、これを朱熹に伝えたのであった{{Sfn|三浦|2010|p=33}}。朱松は3年後の紹興13年([[1143年]])に47歳で死去した{{Sfn|三浦|2010|p=68}}。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲([[胡安国]]の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した{{Sfn|三浦|2010|p=34}}{{Sfn|木下|2013|p=53}}。 なお、母の祝氏は[[乾道 (宋)|乾道]]5年([[1169年]])に70歳で死去した{{Sfn|三浦|2010|p=78}}。 === 科挙合格まで === 朱熹は、字は元晦または仲晦{{Sfn|木下|2013|p=51}}。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった{{Sfn|三浦|2010|p=25}}。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ{{Sfn|三浦|2010|p=34}}。朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した{{Sfn|三浦|2010|p=40}}。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期[[禅宗]]に傾斜した時期もあった{{Sfn|三浦|2010|p=41}}。同時に[[儒教]]の古典の勉学に励み{{Sfn|三浦|2010|p=42}}、18歳の秋に建州で行われた解試([[科挙]]の第一段階の地方予備試験)に合格すると{{Sfn|三浦|2010|p=44}}、紹興18年([[1148年]])、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、[[進士]]の資格を与えられた{{Sfn|三浦|2010|p=45}}。同年の合格者には、『[[遂初堂書目]]』の著者として知られる[[尤袤]]もいる{{Sfn|三浦|2010|p=46}}。 朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『[[楚辞]]』や禅録、[[兵法書]]、[[韓愈]]や[[曾鞏]]の文章などを読み、学問に没入した{{Sfn|三浦|2010|p=49}}。朱熹はこの頃からすでに、従来の[[経書]]解釈に疑念を持つことがあった{{Sfn|三浦|2010|p=52}}。 === 同安時代 === 朱熹は24歳の頃、[[泉州 (古代)|泉州]]同安県(現在の福建省[[廈門市]][[同安区]])に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった{{Sfn|三浦|2010|pp=94-95}}。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった{{Sfn|三浦|2010|p=96}}。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている{{Sfn|三浦|2010|p=98-99}}。主簿の務めは、赴任して4年目の紹興26年([[1156年]])7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した{{Sfn|三浦|2010|pp=106-7}}。 この間、朱熹は[[李侗 (南宋)|李侗]](李延平)と出会い、師事した{{Sfn|三浦|2010|pp=108-9}}。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け{{Sfn|三浦|2010|p=111}}、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した{{Sfn|三浦|2010|pp=113-5}}。それまで朱熹は儒学と共に[[禅宗]]も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった{{Sfn|三浦|2010|p=119-120}}。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた{{Sfn|三浦|2010|pp=108-9}}。 === 張栻との出会い === 紹興27年([[1157年]])、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め{{Efn|祠禄の官とは、名目上は各地の[[道観]]などの管理がその任務だが、実際には赴任せずに俸給を受け取ることができ、宋代に始まった官吏の優遇ポストである{{Sfn|三浦|2010|p=34}}。}}、12月に監潭州南学廟に任命された{{Sfn|三浦|2010|pp=126-7}}。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ{{Sfn|三浦|2010|p=127}}。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた{{Sfn|三浦|2010|p=129}}{{Sfn|木下|2013|pp=54-55}}。 [[隆興]]元年([[1163年]])朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃[[張栻]]と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った{{Sfn|三浦|2010|p=126}}。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる{{Sfn|三浦|2010|pp=141-2}}。張栻は、[[湖南学]]の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた{{Sfn|三浦|2010|pp=140-1}}。[[乾道 (宋)|乾道]]3年([[1167年]])には、朱熹が長沙の張栻の家を訪問し、ともに[[衡山]]に登り、詩の応酬をした{{Sfn|三浦|2010|pp=142-156}}。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた{{Sfn|三浦|2010|pp=142-156}}。 === 四十歳の定論確立 === しかし、乾道5年([[1169年]])春、友人の[[蔡元定]]と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた{{Sfn|三浦|2010|p=158}}。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた{{Sfn|三浦|2010|p=158}}。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた{{Sfn|三浦|2010|pp=158-9}}。 これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた{{Sfn|三浦|2010|p=160}}。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた{{Sfn|三浦|2010|p=161}}。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる{{Sfn|三浦|2010|p=162}}。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した{{Sfn|三浦|2010|p=163}}。 === 鵝湖の会 === [[File:朱熹, 呂祖謙『近思録』.jpg|thumb|[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544450/2 国立国会図書館デジタルコレクション]<br />朱子学入門書である『近思録』の[[和刻本]](寛永年間の古活字版)。]] 朱熹は40代の頃、著作活動に最も励んだ。39歳に『程氏遺書』の編集、40歳に[[周敦頤]]『太極図説』『通書』(50歳の時に再校定)、41歳に[[張載]]『[[西銘]]』の注解(『西銘解』、以後も改訂し59歳で刊行)、42歳に『知言疑義』、43歳に『八朝名臣言行録』『[[資治通鑑綱目]]』、44歳に『伊洛淵源録』『程氏外書』、45歳に『古今家祭礼』、46歳に『[[近思録]]』、48歳に『[[四書集注]]』とその『或問』(その後も改訂を続ける)、49歳に『[[詩集伝]]』(57歳定本)を著した{{Sfn|三浦|2010|pp=164-5}}。 [[淳熙]]2年([[1175年]])4月、同安時代から交友のあった[[呂祖謙]]とともに『近思録』の執筆に当たったのち、彼の仲介で[[陸象山]]とその兄の陸九齢と会見した{{Sfn|三浦|2010|pp=175-7}}。これが後に言う'''[[鵝湖の会]]'''であり、対照的な思想を唱える両者は激しい議論を交わした{{Sfn|三浦|2010|pp=179-187}}。結果、兄の陸九齢の思想はのちに朱熹に接近したが、陸象山の思想は変わらず、両者の調停はならなかった{{Sfn|三浦|2010|pp=179-187}}。ただし、両者は互いを好敵手であると認識しており、賛辞の言葉も与えている{{Sfn|三浦|2010|pp=179-187}}。 === 政治家として === [[File:延宾馆.JPG|thumb|right|[[廬山]]の白鹿洞書院朱熹像]] [[乾道 (宋)|乾道]]4年([[1168年]])に発生した[[建寧府]]の大飢饉に際して[[アワ|粟]]600石を貸し与えて民を救済し、その後も飢饉に応じて利息を加減しながら貸付を継続した<ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=武田久義 |date=1996-03-01 |title=近世諸藩のリスクマネジメント(1) : 備荒貯蓄制度を中心として |url=https://stars.repo.nii.ac.jp/records/4250 |journal=桃山学院大学経済経営論集 |ISSN=02869721 |publisher=桃山学院大学総合研究所 |volume=37 |issue=4 |pages=10-11 |CRID=1050845762519346560}}</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=社倉 |encyclopedia=日本大百科全書 |accessdate=2023-02-05}}</ref>。この'''社倉'''は「飢饉時に食を欠く者なし」と称される成功を収め、朱熹は[[孝宗 (宋)|孝宗]]に社倉法を献じてこれを全国で行わしめた。後にこの制度は朱子学を通じて江戸時代の日本に伝播して、各地に[[義倉]]が設けられることとなる<ref name=":3" /><ref>{{Cite Kotobank |word=社倉 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |accessdate=2023-02-05}}</ref>。 淳熙5年([[1178年]])、朱熹49歳の時、宰相の[[史浩]]によって知南康軍の辞令を受けた。朱熹は何度も辞退したが、何度も推薦を受け、結局翌年3月に{{仮リンク|南康軍|zh|南康軍}}に赴いた{{Sfn|三浦|2010|pp=188-189}}。朱熹はここに二年間在職し、学校制度の整備、郷土の先覚者の顕彰、減税の請願、旱魃の対策などに奔走し、民生の安定に尽力した{{Sfn|三浦|2010|p=196}}。特に、[[廬山]]の[[白鹿洞書院]]の復興に着手し、図書の充実を朝廷に願い、陸象山の講演を実現するなど、大きな功績を残した{{Sfn|三浦|2010|pp=204-9}}。なお、この頃から朱熹は脚の病に侵され、晩年に至るまで苦しんだ{{Sfn|三浦|2010|p=197}}。 淳熙7年([[1180年]])、朱熹は[[孝宗 (宋)|孝宗]]に対して「庚子応詔封事」と呼ばれる上書を奉り、重税を省くこと、余分な軍事力を割くことを述べ、更に今の政治が皇帝によるものではなく、数人の権臣によって牛耳られていることを批判した{{Sfn|三浦|2010|p=273}}。翌年、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙江南西路常平茶塩公事(江西省の茶塩の監督官の待次差遣)に任命され、また直秘閣(宮廷図書館の責任者)を与えられた{{Sfn|三浦|2010|pp=211-2}}。同年に[[浙東]]で飢饉が発生したため、朱熹は改めて提挙両浙東路常平茶塩公事に任命された{{Sfn|三浦|2010|pp=211-2}}。ここで朱熹は、絶えず管内を巡回し、飢饉対策と官吏の不正の摘発に励んだ{{Sfn|三浦|2010|p=213}}。12月には、自身の崇安での経験に基づき、「社倉事目」を奏上し、各地に社倉が設置されることになった{{Sfn|三浦|2010|p=214}}。 淳熙9年([[1182年]])7月、朱熹は台州知事(台州の治所は現在の[[浙江省]][[台州市]][[臨海市]])の[[唐仲友]]が不正を働いたとして弾劾し、その罷免を朝廷に要求した{{Sfn|三浦|2010|pp=215-217}}。朱熹の弾劾は激しく執拗であり、朝廷がなかなか動かないのを見て、脅迫的な自身の罷免状を送り付けたほどであった{{Sfn|三浦|2010|pp=215-217}}。但し、唐仲友が実際にどれほど悪辣な行為があったのかは定かでなく、朱熹がここまで執拗に攻撃した理由は明らかでない{{Sfn|三浦|2010|pp=215-217}}。この事件によって、台州知事から江西提刑に移っていた唐仲友は罷免され、6年後の他界まで家で過ごした{{Sfn|三浦|2010|p=219}}。この江西提刑のポストは朱熹に回されたが、朱熹はこれを辞退し、郷里に帰った{{Sfn|三浦|2010|p=219}}。 === 偽学の禁 === [[File:Yuelu-Academy-Gate.jpg|thumb|200px|嶽麓書院|左]] 53歳の時に郷里に帰った朱熹は、これから8年ほどは公務から遠ざかり、祠禄の官をもらって家で学業に励んだ{{Sfn|三浦|2010|p=221}}。50代の著作として『易学啓蒙』『孝経刊誤』『詩集伝』『小学書』などがあり、次第に『[[四書]]』から『[[五経]]』へと研究対象が移行した{{Sfn|三浦|2010|p=221}}。[[陸象山]]との無極太極論争や、[[陳亮]]との義利王覇論争が交わされたのもこの時期である{{Sfn|三浦|2010|pp=348-9}}。 淳熙16年([[1189年]])、[[孝宗 (宋)|孝宗]]が退位しその子の[[光宗 (宋)|光宗]]が即位する。その翌年、朱熹は漳州知事に一年間赴任し、[[経界法]]の実施を試みたが、在地の土豪の反発を受けて上手く行かず、一年で離任する{{Sfn|三浦|2010|pp=276-7}}。また、[[紹熙]]4年([[1193年]])には潭州知事として3カ月間赴任し、[[張栻]]と縁の深い[[嶽麓書院]]を修復した{{Sfn|三浦|2010|pp=281-2}}。 [[File:Letter on Government Affairs - Zhu Xi.jpg|thumb|朝廷で再任されるために知事を辞めた際、朱熹が部下に地方行政について指示した書(1194年)]] 紹熙5年([[1194年]])、[[寧宗 (宋)|寧宗]]が即位すると、宰相の[[趙汝愚]]の推挙もあって寧宗は朱熹に強い関心を寄せ、煥章閣待制兼侍講(政治顧問)として朱熹を抜擢する{{Sfn|三浦|2010|pp=283-5}}。朱熹は、皇帝への意見具申や[[経書]]の講義などを積極的に行ったが、[[韓侂冑]]の怒りを買ってわずか45日で中央政府を追われ、郷里に戻った{{Sfn|三浦|2010|pp=283-5}}。その帰り道で、江西の玉山にて晩年の思想の集約であるとされる「玉山講義」を行った{{Sfn|三浦|2010|pp=283-5}}。 [[慶元]]元年([[1195年]])、[[趙汝愚]]は失脚し、韓侂冑が独裁的な権限を握るようになり、「偽学の禁([[慶元の党禁]])」と呼ばれる弾圧が始まった{{Sfn|三浦|2010|pp=295-7}}。これによって道学は「偽学」として排撃され、道学者の語録は廃棄処分、[[科挙]]においても道学風の回答は拒絶された{{Sfn|三浦|2010|pp=295-7}}。この弾圧中には、道学派を弾劾すれば自分の官職が上がったため弾圧は激化し、朱熹も激しい弾劾に晒された{{Sfn|三浦|2010|p=298}}。 慶元6年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]([[1200年]][[4月23日]]){{Sfn|木下|2013|p=51}}、そうした不遇の中で朱熹は建陽の考亭で71歳の生涯を閉じた{{Sfn|三浦|2010|p=322}}。朱熹の臨終の前後の様子は、[[蔡沈]]の「夢奠記」に記録されている{{Sfn|三浦|2010|p=322}}。 {{clear}} == 朱子の業績 == === 経書の整理 === [[File:Commentaries of the Four Classics.jpg|thumb|四書集注]] 『[[論語]]』・『[[孟子 (書物)|孟子]]』・『[[大学 (書物)|大学]]』・『[[中庸]]』(『[[礼記]]』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。この四書への注釈は『[[四書集注]]』(『[[論語集注]]』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)に整理され、後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は[[儀礼]]に関する研究も行っている。孔子の祭りである[[釈奠]]の儀礼を整備したり儒服の[[深衣]]の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある<ref>{{Cite|和書|author=湯浅邦弘|title=概説中国思想史|page=117|date=2010|edition=新|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4-623-05820-4|series=ミネルヴァ書房}}</ref>。 朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『[[易経]](周易)』に関する注釈書『周易本義』、『[[書経]]』に関する注釈書『書集伝』、『[[詩経]]』に関する注釈書『詩集伝』などがある<ref>{{Cite book|和書|author=木下鉄矢|title=朱子学|date=2013年7月|edition=|publisher=講談社選書メチエ|page=107|isbn=978-4-06-258558-3|series=}}</ref>。 === 朱子学の概要 === {{main|朱子学}} === 後世への影響 === 朱熹の死後、朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが広めた。最終的に[[真徳秀]]([[1178年]] - [[1235年]])と[[魏了翁]](1178年 - [[1237年]])が活躍し、朱子学の地位向上に貢献し、[[淳祐 (南宋)|淳祐]]元年([[1241年]])に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で、朱子学の影響を受け、考証学という学問が形成される。南宋末の[[王応麟]]の『困学紀聞』がとりわけ重要で、その博識ぶりは有名であり、朱熹に対して最大限の敬意を払っている。この時代の考証学は、後に博大の清朝考証学に受け継がれる <ref>{{Cite|和書|author=湯浅邦弘|title=概説中国思想史|date=2010年10月25日|edition=新|publisher=ミネルヴァ書房|pages=120-121|isbn=978-4-623-05820-4|series=ミネルヴァ書}}</ref>。 [[元 (王朝)|元]]代に編纂された『[[宋史]]』は、朱子学者の伝を「道学伝」として、それ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。[[朱子学]]は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、[[明]]によって行法を除く学問部分が国教と定められた。 13世紀には[[李氏朝鮮|朝鮮]]に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの[[高麗]]の国教であった[[仏教]]を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした<ref>[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/maritime/newsletter/20060709-2.html 「科挙からみた東アジア―科挙社会と科挙文化」] 東京大学 06年中国社会文化学会大会シンポジウム ニューズレター</ref><ref> {{Cite thesis|和書|title=日・韓語り物文芸における女性像と担い手たち : 「堤上」説話・「まつらさよ姫」から『沈清歌』まで |author=金京欄 |date=2005| url=https://hdl.handle.net/2065/5281 |volume=早稲田大学 |series=博士(文学) 乙第1965号 |hdl=2065/5281 |id={{naid|500000345374}} |ref=harv}}</ref>。 日本においても中近世、ことに[[江戸時代]]に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。 {{See also|朱子学#朝鮮半島への伝来と影響|朱子学#日本への伝来と影響|日本の儒教}} == 朱子の書 == [[File:Zhu Xi-Thatched Hut Hand Scroll-02.jpg|thumb|left|朱子の書]] 朱子は[[書道|書]]をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や[[尺牘]]などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。[[明]]の[[陶宗儀]]は、「[[楷書体|正書]]と[[行書体|行書]]をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『[[書史会要]]』<ref>[[:zh:s:書史會要|『書史会要』の原文]]</ref>)と記している{{sfn|中西(1981)|p=421}}<ref name="suzukiHiro94">鈴木洋保 P.94</ref><ref name="iijima341">飯島 P.341</ref><ref>西川 P.62</ref>。 古来、朱子の小字は[[王安石]]の書に似ているといわれる。これは[[#父の朱松|父・朱松]]が王安石の書を好み、その[[直筆|真筆]]を所蔵して[[臨書]]していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『[[#論語集注残稿|論語集注残稿]]』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある<ref name="miyazaki17">宮崎 PP..17-18</ref>。 [[韓琦]]が[[欧陽脩]]に与えた書帖に朱子が次のような[[書道用語一覧#題跋|跋]]を記している。「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる<ref name="miyazaki17"/><ref name="nishibayashi120"/>。 朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に[[曹操]]と[[王羲之]]を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法<ref>[[中国の書論#楷の定義]]を参照。</ref>の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の[[蔡襄]]まではその典則を守っていた。しかし、その後の[[蘇軾]]・[[黄庭堅]]・[[米芾]]の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる<ref name="uozumi62">魚住 P.62</ref>{{sfn|中西(1981)|p=421}}<ref name="kimura177">木村卜堂 P.177</ref><ref name="iijima341"/><ref name="hibino170">日比野 P.170</ref><ref name="miyazaki17"/><ref name="nishibayashi120">西林 PP..120-121</ref>。 朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『[[#劉子羽神道碑|劉子羽神道碑]]』、『[[#尺牘編輯文字帖|尺牘編輯文字帖]]』、『[[#論語集注残稿|論語集注残稿]]』などが知られる{{sfn|中西(1981)|p=421}}<ref name="suzukiHiro94"/><ref name="kimura177"/><ref name="iijima341"/>。 === 劉子羽神道碑 === 『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は[[淳熙]]6年([[1179年]])で、朱子の撰書である。[[書体]]はやや[[行書体|行書]]に近い穏健端正な[[楷書体|楷書]]で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。[[篆額]]は[[張栻]]の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた[[宋学]]の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省[[武夷山市]]の蟹坑にある[[#劉子羽|劉子羽]]の墓所に現存する。[[拓本]]は縦210cm、横105cmで、[[京都大学人文科学研究所]]に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。 <span id="劉子羽">'''劉子羽'''</span>(りゅう しう、[[1097年]] - [[1146年]])は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は[[靖康の変]]に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。 劉珙が淳熙5年([[1178年]])病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される<ref name="iijima341"/><ref name="hibino170"/><ref>日比野 PP..155-156</ref><ref name="kimura177"/>{{sfn|中西(1981)|p=991}}。 === 尺牘編輯文字帖 === 『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の[[尺牘]]で、[[乾道 (宋)|乾道]]8年([[1172年]])頃、[[鍾山]]に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の[[蘭亭序]]の[[書法]]が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として[[東京国立博物館]]に収蔵されている<ref name="iijima341"/><ref name="kimura156">木村英一 PP..156-157</ref><ref>[http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=TB1207 東京国立博物館(館蔵品詳細、草書尺牘巻)]</ref>。 === 論語集注残稿 === 『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で淳熙4年([[1177年]])頃に書したものとされる。書体は[[書道用語一覧#行草体|行草体]]で速筆であるが教養の深さがにじみ出た[[書道用語一覧#筆致|筆致]]との評がある。一時、[[長尾雨山]]が蔵していたが、現在は[[京都国立博物館]]蔵。紙本で縦25.9cm<ref name="kimura156"/><ref name="iijima341"/><ref name="uozumi62"/>{{sfn|中西(1981)|p=1037}}。 == 有名な言葉 == *「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきていることについては「[[少年老いやすく学なりがたし]]」の記事を参照。 * 精神一到何事か成らざらん == 子孫 == {{出典の明記|date=2020年1月|section=1}} 朱熹は朱塾・朱埜・朱在の三子があり、曾孫である[[朱潜]]は、[[南宋]]の[[翰林学士]]・太学士・秘書閣直学士の重臣を歴任するが、[[高麗]]に亡命して朝鮮の氏族[[新安朱氏]]の始祖となった。 == 朱熹の著作の翻訳・解説 == *{{Citation|和書|title=論語 朱熹の本文訳と別解|url=https://www.worldcat.org/oclc/1016002743|publisher=明徳出版社|date=2017|isbn=978-4-89619-941-3|oclc=1016002743|last2=青木|first2=洋司|author2=青木洋司|first1=道明|last1=石本|author1=石本道明}} *{{Citation|和書|title=近思録|series=[[新釈漢文大系]]|url=https://www.worldcat.org/oclc/27647605|publisher=明治書院|year=1991|isbn=4-625-57037-9|oclc=27647605|first=安司|last=市川|author=市川安司}} *{{Citation|和書|title=宋名臣言行録|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|year=1991|isbn=978-4-480-09712-5|last=梅原|first=郁|author=梅原郁|author-link=梅原郁}} *{{Citation|和書|title=『朱子語類』訳注|publisher=汲古書院|year=2007|isbn=9784762913006|editor1=垣内景子|editor2=恩田裕正}}(順次刊行中) *{{Citation|和書|title=大学・中庸|author=[[島田虔次]]|authorlink=島田虔次|last=島田|first=虔次|series=新訂 中国古典選|publisher=朝日新聞社|year=1967|ncid=BN01486027}} *{{Citation|和書|title=論語集注|volume=全4巻|publisher=平凡社|series=東洋文庫|url=https://www.worldcat.org/oclc/893481068|year=2013-2015|isbn=978-4-582-80841-4|oclc=893481068|author=土田健次郎|authorlink=土田健次郎|first=健次郎|last=土田}} *{{Citation|和書|title=朱熹詩集伝全注釈|volume=1-9|url=https://www.worldcat.org/oclc/38097787|publisher=明徳出版社|year=1996-1999||isbn=4-89619-421-7|oclc=38097787|others=石本道明|first=安|last=吹野|author=吹野安|author-link=吹野安}} *{{Citation|和書|title=近思録|url=https://www.worldcat.org/oclc/674668248|volume=全3巻|publisher=たちばな出版|series=タチバナ教養文庫|date=1996|isbn=4-88692-603-7|oclc=674668248|last=湯浅|first=幸孫|author=湯浅幸孫}} *今倉 章訳注 「全訳全注『孟子』朱子注 第一巻」 [https://kiboinc.com/ 株式会社希望]、2022年。ISBN 978-4909001047 *今倉 章訳注 「全訳全注『孟子』朱子注 第二巻」 [https://kiboinc.com/ 株式会社希望]、2022年。ISBN 978-4909001054 *今倉 章訳注 「全訳全注『孟子』朱子注 第三巻」 [https://kiboinc.com/ 株式会社希望]、2022年。ISBN 978-4909001061 *今倉 章訳注 「全訳全注『孟子』朱子注 第四巻」 [https://kiboinc.com/ 株式会社希望]、2023年。ISBN 978-4909001078 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020年1月|section=1}} *{{Citation|和書|title=朱熹|url=https://www.worldcat.org/oclc/674967213|publisher=白帝社|series=中国歴史人物選|date=1994|isbn=4-89174-226-7|oclc=674967213|author=衣川強|last=衣川|first=強|author-link=衣川強}} *{{Citation|和書|title=朱子の伝記と学問|url=https://www.worldcat.org/oclc/1183122469|publisher=明徳出版社|date=2008|isbn=978-4-89619-470-8|oclc=1183122469|author=岡田武彦|last=岡田|first=武彦|author-link=岡田武彦}} * {{Citation|和書|title=朱子 :「はたらき」と「つとめ」の哲学|series=書物誕生:あたらしい古典入門|url=https://www.worldcat.org/oclc/675896700|publisher=岩波書店|date=2009|isbn=978-4-00-028287-1|oclc=675896700|author=木下鉄矢|last=木下|first=鉄矢|author-link=木下鉄矢}} *{{Citation|和書|title=朱子学|url=https://www.worldcat.org/oclc/855437211|publisher=講談社|series=選書メチエ|date=2013|isbn=978-4-06-258558-3|oclc=855437211|author=木下鉄矢|last=木下|first=鉄矢}} *{{Citation|和書|title=朱子学と陽明学|isbn=4004120284|author=島田虔次|last=島田|first=虔次|series=岩波新書, 青|publisher=岩波書店|year=1967}} *{{Citation|和書|title=朱熹の思想体系|publisher=汲古書院|url=https://www.worldcat.org/oclc/1135810076|date=2019|isbn=978-4-7629-6652-1|oclc=1135810076|author=土田健次郎|first=健次郎|last=土田}} *{{Citation|和書|title=南宋道学の展開|series=プリミエ・コレクション|url=https://www.worldcat.org/oclc/1091896530|publisher=京都大学学術出版会|date=2019|isbn=978-4-8140-0207-8|oclc=1091896530|first=彬|last=福谷|author=福谷彬}} *{{Citation|和書|title=「朱子語類」抄|url=https://www.worldcat.org/oclc/676556458|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|date=2008|isbn=978-4-06-159895-9|oclc=676556458|author=三浦國雄|last=三浦|first=國雄|author-link=三浦國雄}} **元版 『中国文明選3 朱子集』 三浦国雄ほか訳・解説、[[朝日新聞社]](1976年)を改訂。 *{{Citation|和書|title=朱子伝|series=平凡社ライブラリー|url=https://www.worldcat.org/oclc/657599152|publisher=平凡社|date=2010|isbn=978-4-582-76707-0|oclc=657599152|author=三浦國雄|last=三浦|first=國雄|author-link=三浦國雄}} **元版 『朱子 人類の知的遺産19』 [[講談社]](1979年)を改訂。 *{{Citation|和書|title=朱子と気と身体|url=https://www.worldcat.org/oclc/40080323|publisher=平凡社|date=1997|isbn=4-582-48213-9|oclc=40080323|author=三浦國雄|last=三浦|first=國雄|author-link=三浦國雄}} ; 朱子の書 * [[西川寧]]編 「書道辞典」(『書道講座 第8巻』 [[二玄社]]、新版1969年(初版1955年)) * 西林昭一・[[石田肇]] 「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 [[雄山閣]]、1992年)ISBN 4-639-01036-2 * 「中国11 宋II」(『書道全集 第16巻』 [[平凡社]]、新版1971年(初版1967年)) ** [[宮崎市定]] 「朱子とその書」 ** [[日比野丈夫]] 「朱熹」、「劉子羽神道碑」 ** 木村英一 「論語集注残稿」、「尺牘編輯文字帖」 * 飯島春敬編 『書道辞典』([[東京堂出版]]、初版1975年) * {{Cite book|和書|author=中西慶爾 |title=中国書道辞典 |publisher=木耳社 |date=1981 |ISBN=4839303002 |ref={{harvid|中西(1981)}}}} ** {{Cite book|和書|author=中西慶爾 |title=中国書道辞典 |publisher=木耳社 |date=2005 |edition=第2版 |NCID=BA71765147 |ISBN=4839328501 |id={{全国書誌番号|20771457}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000007724029}} * [[木村卜堂]] 『[[日本と中国の書史]]』([[日本書作家協会]]、初版1971年) * 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明 『中国書人名鑑』(二玄社、初版2007年)ISBN 978-4-544-01078-7 * 魚住和晃 『書の歴史 宋〜民国』([[講談社]]、新版2008年(初版2005年))ISBN 4-06-213183-8 == 関連項目 == {{Wikisourcelang|zh|作者:朱熹|朱子の著作}} {{sisterlinks|commons=Category:Zhu_Xi|d=Q9397}} *[[四書五経]] *[[太極図]] *[[呂祖謙]]-共編で『[[近思録]]』を作成。 *[[武夷山]] *[[荻生徂徠]] == 外部リンク == * {{蔵書印データベース|id=CSDB_47640|name=朱熹之印|accessdate=2021-06-16}} *: 朱熹の蔵書印。 * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆ き}} [[Category:12世紀中国の儒学者]] [[Category:12世紀中国のノンフィクション作家]] [[Category:12世紀中国の歴史家]] [[Category:論語学者]] [[Category:宋明理学|+しゆ き]] [[Category:南宋の人物]] [[Category:反仏教]] [[Category:三明出身の人物]] [[Category:1130年生]] [[Category:1200年没]] [[Category:新安朱氏]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9
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北宋
北宋(ほくそう、拼音:Běisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。 907年に唐が滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に趙匡胤により建てられたのが宋である。太祖・趙匡胤から始まり、3代真宗の時代に遼からの侵攻を受け、これと和平を結ぶ(澶淵の盟)。これによって平和は確保され大きな文化の華が開いたが、一方では外国に支払う歳幣や弱体化して肥大した国軍の維持の為の財政の悪化など問題を抱えるようになる。6代神宗の時代に王安石の手により新法と呼ばれる政治改革が試みられるが、これが政争の原因となり、混乱を招いた(新法・旧法の争い)。8代徽宗の時代に新興の金と結んで遼を滅ぼすものの自らも金に滅ぼされ、南に逃れて王朝を再建した。華北時代を北宋、華南時代を南宋と呼び分けている。この項目で取り扱うのは960年から1127年までの北宋である。 全盛期には中央アジアにまで勢力を伸ばしていた唐に対して、宋は遼(契丹)・西夏(タングート)という外敵を抱え、対外的には萎縮していた時代と見られている。一方、国内では様々な面で充実を見、特に文化面では顕著な進展が見られた。 具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。 この項目では全般に渡って山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。 唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋の太祖趙匡胤である。 世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳で急死。あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官)の地位にあったが、翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ) このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが就いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた節度使(藩鎮)から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることにした。 更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体は隋の時代に始まったものであるが、武人優勢の五代では科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。 体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。 後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国4年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。 また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。 五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている。 太宗は太平興国9年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。 しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ったが戦線は膠着し、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。 澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという。この逸話が示すように唐代末期からの経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。 一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山において天を祀る封禅の儀、汾陰 において地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。 真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、慶暦4年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。 これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽脩などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。 強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。 しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。 仁宗は40年の長き治世の末嘉祐8年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽脩らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。 結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま治平4年(1067年)に4年の短い治世で崩御。子の趙頊(神宗)が即位する。20歳の青年皇帝神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。 白羽の矢が立ったのが王安石である。王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。 新法を推進しようとするのは主に江南地方出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派の領袖の王安石に対して旧法派の代表としては司馬光・蘇軾らの名が挙がる。王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。 神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は元豊の改革と呼ばれる官制改革を行い、西夏に対しての攻撃を行うも失敗に終わった。新法により表面上は上手くいっているかに見えたが、その裏で旧法派たちの不満は深く根を張っていた。 元豊8年(1085年)、神宗が崩御。子の趙煦(哲宗)が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗の皇后であった宣仁太后が垂簾聴政を行う。宣仁太后は中央を離れていた司馬光を宰相として新法の徹底的な排除を行わせた(元祐更化)。司馬光は宰相になって1年足らずで死去、王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代は旧法派の天下であったが、宣仁太后が元祐8年(1093年)に死去し、哲宗が親政を始めると再び新法が復活して新法派の天下となった。 この間、新法派・旧法派とも最早政策理念など関係無しに対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法と旧法が度々入れ替わることで国政は混乱した。一連の政治的争いを新法・旧法の争いと呼ぶ。 元符3年(1100年)に哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。 蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を悪用して汚職や増税を行うという有様であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が宣和2年(1120年)の方臘の乱である。また中国四大奇書の一つとして知られる水滸伝は、この時代背景を元とした創作である。 一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて1115年に金を建てる。この伸張ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考え、重和元年(1118年)金に対して使者を送り金と共に遼を挟撃することを約束した(海上の盟)。しかし同じ宣和2年に方臘の乱が勃発したことにより宋軍は出遅れてしまった。 翌宣和3年(1121年)に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝天祚帝は逃亡した。しかし弱い宋軍は燕京に篭る耶律大石ら遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の童貫は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。 五代以来の悲願である燕雲十六州の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の呉乞買(太宗)が跡を継いでいたが、この宋の背信行為に金の太宗は怒り、宣和7年(1125年)から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は「己を罪する詔」を出して退位。子の趙桓(欽宗)が即位する。 金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。 包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。また、同じく4歳から28歳までの多くの宋室の皇女達が連行され、金の王族達の妾にされるか(入宮)、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。 これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。 その後、たまたま救援要請の使者として靖康の変時に城外にいた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。 唐が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして科挙を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。春秋戦国時代・魏晋南北朝時代・五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。 宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、科挙に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。 この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、簒奪劇が二度と起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。 宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていたいわゆる使職体制を受け継いでいる。唐の律令体制では極めて細密かつ完成された官制が整備されていたが、唐の玄宗期以降の急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離が進んでいた。そこで実態に即するために律令にて定められていない官(令外官)の使職が置かれ、律令の官は形骸のみを残し、実権は使職に移った。 唐滅亡後の五代でも新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖・太宗は成立まもない国家が混乱することを恐れ、節度使の権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的・体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて寄禄官や職(館職)といった実際の職掌を示さない職の号があるために宋初の官制は歴代でも最も解りにくいといわれる。 このうち、同中書門下平章事は宰相、参知政事・枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)は執政と呼ばれ、合わせて宰執と呼ばれる。数人の宰執が皇帝を前にして合議制で政策を決定する。つまり宰相といえども議論の場の中の一人に過ぎず、権臣に皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖の措置の一つである。 これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。 唐の三省・六部・九寺・五監の役職は全てその名を残している。しかしこれらには実際の職掌は無く、単に官位・俸禄を示すものである。これを寄禄官(官・本官などとも)と言い、これに対して実際の職掌は差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。館職は文章・学問に秀でた者に対して、試験を行って任命される差遣の一種で、これを帯びた者は昇進の速度が格段に早くなった。 新法による改革を経て財政の充実を見た神宗親政期の元豊年間に官制の大幅な改革が行われた。 主な変更点を挙げると 地方官制における最大の行政区分は州、その下に県がある。また特別な州として府(開封府など特に重要な州)・軍(軍事上の要衝)・監(塩の生産地・鉱山・工場など多数の労働者が集まり、中央に直属する場所)がある。商業の要衝に作った集落を鎮という。 太祖は地方に軍事力を持って割拠していた節度使・観察使および刺史職を全て寄禄官とし、州の権限を知州に移し、また知州の独走を防ぐために通判を付けた。当初は知州の決定は通判が同意しないと効力を発揮しないという定めになっていた。しかし時代が下るごとにその地位を低下させ、州の次官となった。 知州の下には幕職官と曹官と呼ばれる官がある。節度使が地方に割拠していた頃、節度使はその領内の最重要な州の刺史を兼任した。刺史としての官衙を州院といい曹官が属した。後に州刺史も節度使に倣い、その下に幕職官・曹官を抱えるようになる。これが宋に入って知州が州の長官になるとそれまでは刺史によって任命されていた幕職官・曹官は中央によって任命されるようになり、その間の区分もほとんど消滅した。幕職官としては判官・推官(両者とも裁判を扱う)など、曹官は録事参軍(庶務取り扱い)・戸曹参軍(徴税・倉庫の管理など)といったものがある。後の徽宗時代に幕職官が廃されて曹官のみになるが、そのすぐ後に金によって南走したため旧に復された。 県の長は知県ないし県令である。京朝官が県の長になる場合は知県といい、選人が県の長になる場合は県令という。概ね知県は重要な州に、県令は小さな州に配される。知県ないし県令の下には県丞(次官)・主簿(事務官)・県尉(警察)などがあり、これらも選人が任命される(京朝官・選人に付いては#科挙で後述)。 また州の監督機関として路があり、そこに置かれる役職は以下のようなものがある。これらの職の上に立つ路の長官は存在しない。また路の区分は役職ごとに異なっており、例えば陝西は転運使では二路に安撫使では六路に分けられる。路の役割はあくまで監督であり、州は路に属するわけではなく中央直属の機関である。しかし時代が下るごとに路の重要性は増して次第に実際の行政機関に近くなり、後代の省の元となった。 隋の文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。唐では科挙を通過した者の地位は概して貴族層が恩蔭(高官の子が恩典として与えられる任官資格)によって得られる地位よりも低く、また科挙に合格していざ任官しようとしても官僚の任官・昇進を司る尚書吏部は貴族層の支配する部署であり、科挙合格者は昇進でも不利になることが多かった。しかし宋代になって既存の貴族層が没落(もしくは五代十国時代に消滅)していたため、そのような事は無くなった。 宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、後には落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に詩賦が重視されてこれが進士科とされていたが、王安石により進士科は経書の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。 科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き300-400人が合格した。 科挙に通過した後、寄禄官が与えられていない状態を選人という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。地方で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい唐九品制でいう所の従九品から従八品までがこの階梯になる。正八品から従七品までを朝官といい、一緒にして京朝官という。更に正七品を員郎、従六品を郎中という。 科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。 出自にかかわらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。元々、開封には国子監と太学という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋年二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。これを三舎法という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。 また、科挙によって立身した官僚たちは己の存在感を示すために様々な政治的な意見や提案を行った。それによって様々な政策が打ち出されていった反面、政争の頻発と宰相などの政権担当者の度重なる交替につながった。北宋成立時に生じた幕僚出身の趙普と科挙出身の盧多遜の対立、真宗時代の北人(五代王朝出身者)と南人(旧南唐などの華南出身者)の対立、仁宗時代の郭皇后廃后問題を巡って生じた慶暦の党議、英宗の実父趙允譲の待遇を巡って生じた濮議、そして神宗時代から北宋滅亡まで続いた新法党と旧法党の対立と断続的に繰り返され、その傾向は南宋時代の対金政策や朱子学を巡る論争にも影響を及ぼした。南宋におけるいわゆる「独裁宰相」の誕生にはこうした風潮を独裁的な権力の行使で解消しようとした側面があった。 北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、胥吏の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。 胥吏は元々は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを民間から募集した徭役の一種として始まったものである。このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。南宋代の記録であるが福州(福建省)では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり、胥吏無くして行政は機能しない状態であった。 この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して3年程度で別部署へ移る官では胥吏に頼らなければ職務を実行することは出来ず、完全に胥吏のいいなりであった。また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、「三年清知府、十万雪花銀」(3年知府をやれば、10万銀貯まる)と言われるような状態であった。 この状態に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」倉法という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、清の終わりに至るまでこの胥吏体制は続いていくことになる。 宋代は司法制度が非常に発達した時代である。唐において刑法に当たるものは律であるが、宋以後の大きな社会変化の中で硬直した律を使い続けることは弊害が大きかった。そこで律が不適当と思われる場合には勅が出されて判決が変更され、その勅に従って以後も進められていく。また過去行われた裁判の判例を後の裁判にも適用するようになった。これを断例という。徽宗の崇寧4年(1105年)にはこの断例を纏めた物を出版している。 宋代の刑罰は死・配流(流罪、3000里・2500里・2000里)・配役(強制労働、3年・2年・1年)・脊杖(背中を杖で打つ、20から13まで)・臀杖(尻を杖で打つ、20から7まで)の5種類である。五代の殺伐とした世の中で刑法も極めて厳しいものになっており、後漢の時には「1銭を盗めば死刑」となっていた。宋に入って刑を軽くしていったがそれでも死刑にされる人数が膨大になり、太祖はこれを救済するために死刑囚に対して自ら再審し、死刑が適さないとした者にたいしては配流に処した。また死刑以下の刑罰も軽くして新たに折杖法という刑法を作った。但し軽くなったといっても唐律に比べればまだかなり重く、范祖禹は「律に比べて勅の刑罰は三倍」と述べている。 宋代の司法の著しい特徴は警察・検察・裁判の三者がこの時代に既に分立していたことである。まず県に属する県尉と路・州に属する巡検とが犯罪者の逮捕に当たる。これを巡捕という。捕らえられた者は獄(留置所)に降され、ここで獄吏による取調べが行われる。これを推鞫という。取調べが終わり、犯罪事実が明らかになるとこれに対してどのような刑罰を行うべきかが審議される。これを検断という。この過程を行うのは全て独立した部署であり、これらの役職を兼ねることは厳に禁じられた。 巡捕・推鞫・検断が終わると知県が判決を下すが、知県に許された権限は臀杖20までで、それ以上の刑罰を科す場合には上の州へと送る。州では再び獄による取調べが行われる。州に於いては録事参軍・司理参軍がそれぞれ獄を持っており、その結果によって判官・推官によって判決の原案が作られ、最後は知州によって判決が下される。後に裁判に誤りがあったと分かれば判官・推官・録事参軍・司理参軍は全て連帯責任を負う。知州の権限は配流までであり、死刑の場合は中央へと送る。 州にて死刑が妥当とされた者のうち、死刑執行をためらう理由が無いと考えられる用件に付いては提点刑獄によって再検討するだけで良い。それ以外の者は中央へと送られる。中央にてまず大理寺がこれを受け取り、書類の上で審査する(詳断)。大理寺を通過すると次は審刑院に送られ、今度は直接本人に尋問するなどして再び審議される。意見がそれぞれ皇帝へと上奏され、皇帝による判決が下される。 これらの判決に対して不服がある場合には上告する権利がある(翻異)。 これら司法制度の整備により裁判は非常に多く行われるようになった。そのためこの時代には包拯に代表されるような「名裁判官」が登場し、その活躍は街中の芸人によって語られ人気を博した。一方で訴訟ゴロの登場や訴訟の激化(健訟)を招いたが、それだけ法と裁判が身近なものになったという証拠であろう。 宋の兵制は傭兵制であり、兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。 唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった(侍衛親軍)。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。 太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、満六十歳で退役し、退役後は俸給は半分に減らされた。一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。 唐代では藩鎮の将帥と兵士たちの間に私的な繋がりが生じ、それが割拠の一つの原因となっていた。これに対して宋では軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える更戍制を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。また一般に兵士には逃亡防止のために顔面に刺青が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋では「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。 また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な郷兵、辺境の異民族を軍隊に組み入れた蕃兵がある。郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。 宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役(役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。 宋 (王朝)#経済・金融を参照。 宋 (王朝)#社会を参照。 宋 (王朝)#文化を参照。 契丹族によって建てられた遼であるが、国号は遼と契丹とで何度か入れ替わっている。ここでは民族名として「契丹」、国号として「遼」に固定する。なお金との関係に付いては南宋で詳述する。 中唐から晩唐にかけての唐帝国の衰退・滅亡、五代の騒乱という中国の混乱は東アジア世界全体にも大きな影響を及ぼし、勢力図が激変することになる。北方ではモンゴルからトルキスタンまでに広く勢力を張っていたウイグル可汗国が840年にキルギスによって滅亡。その間隙を縫って勢力を伸ばしてきたのが契丹である。西方では877年に吐蕃が崩壊。青海地方ではタングートが勢力を伸ばす。南西では902年に南詔が滅亡。代わって大理国が興る。南では長く中国の支配下にあったベトナムが独立し、呉朝が興る。東では新羅の支配力が衰え、938年に高麗によって統一される。また渤海も国力を低下させ、926年に契丹により滅ぼされ、東丹国が作られる。日本でも935年に承平天慶の乱が起こり、武士の時代に入った。これらは当時の世界の中心であった唐帝国の冊封体制の崩壊が影響を及ぼしたと考えられる. その後、宋が中国を再統一するが、新たに作られた国際秩序は唐を頂点とする冊封体制に対し、宋と遼が二つの頂点となった。 宋の立場で言えば、最も重要な相手は遼(契丹)で、北宋建国時から対立状態にあったが、澶淵の盟が結ばれて以降は概ね平穏に推移し、これが遼滅亡の直前まで続く。遼に次いで重要なのが西夏であり、前身のタングート時代より宋に対して侵攻を繰り返しており、遼とは逆に北宋滅亡まで安定的な関係を築くには至らなかった。このように北宋は建国より滅亡まで常に戦争状態にあり、その財政はそのほとんどを軍事費が常に占める戦時経済であった。王安石の改革が必要になった主たる原因はこれである。 経済の項で述べたように宋は極めて強い経済力を誇っており、周辺諸国にとって宋との交易は莫大な利益を約束されており、周辺諸国の財政を支える存在となった。であるので契丹や西夏に対しては交易権はアメとムチのアメに当たる物であり、交易をどれだけ認めるかは宋の重要な外交カードとなった。 陸路にて交易が行われる場所を榷場といい、ここ以外で交易を行うことは厳に禁止された。海路にて交易を行う場合には市舶司が窓口となり、ここを通さない交易は同じく禁じられた。榷場の置かれた場所としては遼に対して雄州・覇州 など4箇所・西夏に対して鎮戎軍・保安軍 の2箇所。市舶司が置かれた場所としては広州・泉州など数箇所に置かれた。 宋が各国から受け取る物としては馬・塩・金・木材などがある。特に馬は前述の通り宋は常に戦時体制であり、国内では良馬が産出しないために重要視された。宋から各国へと輸出されるものとしては宋銭・茶・陶磁器・絹・穀物などである。 貨幣の項で述べたように宋国内では銭が不足しており、それに伴って宋銭の国外輸出は禁じられた。しかし密貿易によって大量に輸出が続けられており、各国内でも通貨として宋銭が流通することになった。この結果、東アジア全体が宋銭によるひとつの経済圏を作り出すに至った。 喫茶の風習は宋から周辺諸国へと広く伝わり、特に野菜が不足しがちな契丹・西夏では茶は貴重なビタミン源として生活に欠かせないものとなっていた。 契丹族は4世紀ごろより遼河上流域に居住していたが、唐の衰退を契機として自立性を高め、916年に耶律阿保機の元で自らの国を建てた。その後、東丹国・烏古などを滅ぼして勢力を拡大し、北アジアの一大勢力となった。 さらに南への進出を目指して五代王朝と争い、二代目耶律堯骨の936年には、石敬瑭の要請を受けて出兵。後唐を滅ぼして後晋を誕生させ、これを衛星国とし、燕雲十六州の割譲を受けた。石敬瑭の死後、後晋が遼に対して反抗的な態度を見せたために946年に再び出兵してこれを滅ぼすが、漢人の抵抗が激しかったために兵を引き上げ、その後に劉知遠が入って後漢を建てた。 951年に後漢は郭威によって滅ぼされて後周が建てられ、後漢の皇族の劉崇が北に逃れて北漢を建てる。遼はこれを支援して幾度か後周を攻めるが成果を得られず、逆に後周に燕雲十六州の一部を奪われる。この頃より遼内部での抗争が激しくなり皇帝の暗殺・擁立が繰り返され、また渤海の遺民たちが定安を興し、高麗も遼に対して反抗的になるなどして、南へと干渉できる状況ではなくなった。 その隙を突いて後周およびその後を継いだ宋による統一戦が進められ、979年に宋の太宗が北漢が滅ぼしたことで中国の統一がなった。宋の太宗は北漢を滅ぼした余勢を駆って遼へと侵攻してきたがこちらは撃退し、宋太宗が単騎で逃げ出すほどの惨敗となった。その後、西北でタングートが勃興し、宋はこちらの対応に追われるようになる。 982年、遼で聖宗が即位する。聖宗は995年に定安国を滅ぼし、更に高麗を服属させて東を安定させた。また990年には宋と交戦していたタングートの李継遷が遼の支援を求めてきたのでこれを夏国王に封じ、宋に対する圧力を強めた。 999年、聖宗は宋を討つ詔を出し、その後の数年間は小規模な戦いが行われたが、1004年に20万人の軍をもって本格的な攻撃を仕掛けた。宋朝廷では王欽若により金陵(南京市)遷都が唱えられたが、真宗は寇準の出した親征案を採用し、澶州 にて遼軍と対峙した。両軍はこう着状態となり、双方から使者が出され、和議が結ばれた(澶淵の盟)。 この盟約では などが定められた。この盟約は後の1042年に銀絹それぞれ10万ずつの増額されたが、それ以外は基本的に堅持され、宋と遼の間は小競り合いは常にあったものの概ね安定した状況を迎えた。 この状態が数十年続いたが、1115年に満州で女真族が阿骨打の元で勃興して金を建て、遼を激しく攻撃するようになった。これを見た宋の徽宗朝は燕雲十六州の奪還をもくろんで金と同盟を結んだ(海上の盟)。 この盟約により宋と金が遼を挟撃し、1125年に金軍により遼は滅びた。 タングート族は唐代より甘粛方面に居住しており、その勢力の中心となったのがオルドス地方南部の夏州に勢力を張る平夏部であった。その首長である拓跋思恭は唐を援助した功績で国姓の李を授かっていた。宋政府は平夏の懐柔に努めて西平王の地位を与え、概ね友好関係にあり、北漢討伐の際には平夏よりも兵が出ていた。 平夏部の支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出してそれと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。これは青白塩と呼ばれており、質が高く値も安いことから買い手には喜ばれた。しかし宋国内で塩の専売制が確立すると宋政府は青白塩を禁止し、自らの官塩を強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩を認めるように何度も宋政府へ要求するが、これを認められず次第に反抗的になってくる。 北漢滅亡後の980年に李継捧が地位を継ぐが、この継承には部内よりの反対が多く、その地位は不安定であった。これに不安を感じた李継捧は自らの支配地を宋に献納し、開封にて暮らしたいと申し出てきた。太宗はこれを大いに喜び、李継捧に対して莫大な財貨を与えて歓待した。しかし一族内の李継遷がこれに反対し、部内を纏め上げて宋に対して反抗の烽火を上げた。李継遷は遼に援助を求めて夏国王の地位を貰い、オルドスを席巻し、1002年に霊州を陥落させて西平府 と改名して、ここに遷都した。 1003年に李継遷が戦死して李徳明が跡を継ぐ。翌年には宋と遼とが澶淵の盟により和睦し、単独では宋に当たり難いので1005年に和議を結び、宋より西平王の地位を授けられ、毎年銀1万・絹1万・銅銭2万の歳賜を受けることになった。李徳明は遼からも同じ西平王の地位を授かっており、両属の形をとっていた。宋と和平した李徳明は西のウイグルを攻める。 1031年に李徳明が死去してその子の李元昊が跡を継ぐ。李元昊はかつて父の李徳明より「我らが錦や絹を着ることが出来るのは宋の恩である」と宋に背かないように諭されたときに「毛皮を着て牧畜に従事するのが我らの便とするところです。英雄の生は王覇の業にあります。錦や絹がどうしたというのですか」と豪語したという大器雄略の人物である。その言葉通り、ウイグルを攻撃して河西地域 を全て支配下に入れ、1038年に李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とし、宋からの独立を宣言した。これ以後は西夏とする。 宋は李元昊の官爵を全て剥奪し、西夏との交易を全て禁止して、交戦状態に入った。国初以来の文治政策により宋の軍隊は弱体化しており、宋軍は西夏軍に何度と無く敗れる。しかし宋との交易が途絶した西夏も経済的に苦しむようになり、両国ともに和平を望むようになり、以下のような条件で1044年に和議が結ばれた(慶暦の和議)。 しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては宋は要請をはねつけており、和議なったとはいえ西夏方面はその後も不安定であった。この後五回に渡って対立と和議が繰り返されることになる。王安石時代の1072年には吐蕃を討ち、ここに新たに熙河路を置いて西夏への牽制(けんせい)とした。しかし旧法党が政権を握るとこれは放棄され、新法党が盛り返すと再び設置されといった具体に新法・旧法の争いは外交にも影響を及ぼした。 宋夏関係は不安定なままに推移し、結局宋が南へと逃れたことで関係が途絶し、西夏は金に服属するようになった。 朝鮮半島は892年に弓裔により後高句麗が興されて後三国時代に入るが、弓裔の配下にいた王建(太祖)が高麗を建て、936年に全土を統一する。統一後すぐに太祖は五代王朝に対して朝貢し、宋が建つと正朔を奉じて冊封国となった。 太祖の統一戦と平行して遼が渤海を滅ぼしており、契丹が宋と争うようになると後背を気にした遼は993年より高麗へと侵攻し、994年に高麗は鴨緑江以南の領土と引き換えに契丹の正朔を報じ、宋との関係は絶たれることになる。その後しばらくは宋と高麗の関係は絶えたままであったが、神宗の1068年に宋からの非公式の使節が送られ、これに答えて高麗は宋に朝貢をするようになった。こうして高麗は宋、遼と二重の外交関係を結び、両国の対立を利用して 仲介貿易を行い、利益を獲得した。 宋と高麗との間で頻繁に使者が往復し、宋から『文苑英華』・『太平御覧』、高麗からは『宣和奉使高麗図経』が互いに送られた。また交易のための船も行き来し、北宋が金によって滅ぼされるまで関係は友好的に進んだ。 日宋貿易も参照 907年の遣唐使廃止以降日本は対外的に消極的になり、一般人の対外渡航を禁止する半鎖国状態となっていた。この後、基本的に宋と日本とは正式な国交は開かれないままであった。新法で財政が充実した神宗が外交でも積極策に出たことは上述したが、日本に対しても朝貢を促す使者が送られた。日本側ではどう扱うかで逡巡していたが、最後には受け入れて宋に対して返答の使者を送っている。しかし以後に続くことはなく両国の関係が本格的になるのは南宋になり平清盛が日宋貿易を大幅に拡大する時以後になる。 民間の交易では宋側が積極的であり、宋が成立した後の978年に初めて宋船が日本を訪れた。主に寄港地としては主に博多であったが、中には敦賀にやってくる船もあった。日本に来た外国船は大宰府の鴻臚館に収容し、衣食を供給する定めとなっていた。しかし宋船の来航回数が多いと費用がかさむので年紀を定めて来航するようにさせた。宋船ではこれを守らずに来航するものも多かったが、この場合はそのまま追い返してしまったようである。また広大な荘園を持つ貴族たちは「不入」の権を持つ荘園内で密貿易を行い、大宰府もこれに手を出すことが出来なかった。 宋から日本に持ち込まれる物品としては香料・茶・陶磁器・絹織物・書籍・薬品などである。これらの決済に使われたのが主に奥州産の砂金であり、日本から宋へはこれが最も重要な輸出品であった。他には硫黄・水銀などがあり、そして工芸品が重要な輸出品であり、中でも扇が宋の士大夫たちに大変好まれたという。 この間、日本の商人たちは受動的な商売に限定されるをえず、中には密航して宋へと渡ろうとしたものもあったが、発覚した者は徒罪や官職剥奪となった。しかし11世紀後半(宋の神宗・日本白河天皇)になると商人たちは大宰府の目をかいくぐり、自ら船を出して宋を目指すようになった。ただしこの時代の日本の造船・航海技術は低く、東シナ海を横断することは危険が大きく、始めは島伝いに高麗へ行き、そこで経験を積んだ後に宋へ赴くようになった。日本船が初めて宋の記録に現れるのは北宋滅亡後の1145年である。 日本の一般人の海外渡航は禁じられていたが、仏僧だけは例外であった。北宋期に宋へと渡った僧は奝然・成尋などがおり、奝然は太宗に召されて雨乞いの儀式を行い、また日本の天皇家が万世一系であると伝え、太宗がそれを羨んだという話が残っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北宋(ほくそう、拼音:Běisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "907年に唐が滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に趙匡胤により建てられたのが宋である。太祖・趙匡胤から始まり、3代真宗の時代に遼からの侵攻を受け、これと和平を結ぶ(澶淵の盟)。これによって平和は確保され大きな文化の華が開いたが、一方では外国に支払う歳幣や弱体化して肥大した国軍の維持の為の財政の悪化など問題を抱えるようになる。6代神宗の時代に王安石の手により新法と呼ばれる政治改革が試みられるが、これが政争の原因となり、混乱を招いた(新法・旧法の争い)。8代徽宗の時代に新興の金と結んで遼を滅ぼすものの自らも金に滅ぼされ、南に逃れて王朝を再建した。華北時代を北宋、華南時代を南宋と呼び分けている。この項目で取り扱うのは960年から1127年までの北宋である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "全盛期には中央アジアにまで勢力を伸ばしていた唐に対して、宋は遼(契丹)・西夏(タングート)という外敵を抱え、対外的には萎縮していた時代と見られている。一方、国内では様々な面で充実を見、特に文化面では顕著な進展が見られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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"paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体は隋の時代に始まったものであるが、武人優勢の五代では科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国4年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "太宗は太平興国9年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ったが戦線は膠着し、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという。この逸話が示すように唐代末期からの経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山において天を祀る封禅の儀、汾陰 において地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、慶暦4年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽脩などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "仁宗は40年の長き治世の末嘉祐8年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽脩らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま治平4年(1067年)に4年の短い治世で崩御。子の趙頊(神宗)が即位する。20歳の青年皇帝神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "白羽の矢が立ったのが王安石である。王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "新法を推進しようとするのは主に江南地方出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派の領袖の王安石に対して旧法派の代表としては司馬光・蘇軾らの名が挙がる。王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は元豊の改革と呼ばれる官制改革を行い、西夏に対しての攻撃を行うも失敗に終わった。新法により表面上は上手くいっているかに見えたが、その裏で旧法派たちの不満は深く根を張っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "元豊8年(1085年)、神宗が崩御。子の趙煦(哲宗)が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗の皇后であった宣仁太后が垂簾聴政を行う。宣仁太后は中央を離れていた司馬光を宰相として新法の徹底的な排除を行わせた(元祐更化)。司馬光は宰相になって1年足らずで死去、王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代は旧法派の天下であったが、宣仁太后が元祐8年(1093年)に死去し、哲宗が親政を始めると再び新法が復活して新法派の天下となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この間、新法派・旧法派とも最早政策理念など関係無しに対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法と旧法が度々入れ替わることで国政は混乱した。一連の政治的争いを新法・旧法の争いと呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "元符3年(1100年)に哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を悪用して汚職や増税を行うという有様であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が宣和2年(1120年)の方臘の乱である。また中国四大奇書の一つとして知られる水滸伝は、この時代背景を元とした創作である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて1115年に金を建てる。この伸張ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考え、重和元年(1118年)金に対して使者を送り金と共に遼を挟撃することを約束した(海上の盟)。しかし同じ宣和2年に方臘の乱が勃発したことにより宋軍は出遅れてしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "翌宣和3年(1121年)に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝天祚帝は逃亡した。しかし弱い宋軍は燕京に篭る耶律大石ら遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の童貫は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "五代以来の悲願である燕雲十六州の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の呉乞買(太宗)が跡を継いでいたが、この宋の背信行為に金の太宗は怒り、宣和7年(1125年)から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は「己を罪する詔」を出して退位。子の趙桓(欽宗)が即位する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。また、同じく4歳から28歳までの多くの宋室の皇女達が連行され、金の王族達の妾にされるか(入宮)、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。 これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、たまたま救援要請の使者として靖康の変時に城外にいた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "唐が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして科挙を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。春秋戦国時代・魏晋南北朝時代・五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、科挙に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、簒奪劇が二度と起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていたいわゆる使職体制を受け継いでいる。唐の律令体制では極めて細密かつ完成された官制が整備されていたが、唐の玄宗期以降の急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離が進んでいた。そこで実態に即するために律令にて定められていない官(令外官)の使職が置かれ、律令の官は形骸のみを残し、実権は使職に移った。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "唐滅亡後の五代でも新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖・太宗は成立まもない国家が混乱することを恐れ、節度使の権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的・体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて寄禄官や職(館職)といった実際の職掌を示さない職の号があるために宋初の官制は歴代でも最も解りにくいといわれる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "このうち、同中書門下平章事は宰相、参知政事・枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)は執政と呼ばれ、合わせて宰執と呼ばれる。数人の宰執が皇帝を前にして合議制で政策を決定する。つまり宰相といえども議論の場の中の一人に過ぎず、権臣に皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖の措置の一つである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "唐の三省・六部・九寺・五監の役職は全てその名を残している。しかしこれらには実際の職掌は無く、単に官位・俸禄を示すものである。これを寄禄官(官・本官などとも)と言い、これに対して実際の職掌は差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。館職は文章・学問に秀でた者に対して、試験を行って任命される差遣の一種で、これを帯びた者は昇進の速度が格段に早くなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "新法による改革を経て財政の充実を見た神宗親政期の元豊年間に官制の大幅な改革が行われた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "主な変更点を挙げると", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "地方官制における最大の行政区分は州、その下に県がある。また特別な州として府(開封府など特に重要な州)・軍(軍事上の要衝)・監(塩の生産地・鉱山・工場など多数の労働者が集まり、中央に直属する場所)がある。商業の要衝に作った集落を鎮という。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "太祖は地方に軍事力を持って割拠していた節度使・観察使および刺史職を全て寄禄官とし、州の権限を知州に移し、また知州の独走を防ぐために通判を付けた。当初は知州の決定は通判が同意しないと効力を発揮しないという定めになっていた。しかし時代が下るごとにその地位を低下させ、州の次官となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "知州の下には幕職官と曹官と呼ばれる官がある。節度使が地方に割拠していた頃、節度使はその領内の最重要な州の刺史を兼任した。刺史としての官衙を州院といい曹官が属した。後に州刺史も節度使に倣い、その下に幕職官・曹官を抱えるようになる。これが宋に入って知州が州の長官になるとそれまでは刺史によって任命されていた幕職官・曹官は中央によって任命されるようになり、その間の区分もほとんど消滅した。幕職官としては判官・推官(両者とも裁判を扱う)など、曹官は録事参軍(庶務取り扱い)・戸曹参軍(徴税・倉庫の管理など)といったものがある。後の徽宗時代に幕職官が廃されて曹官のみになるが、そのすぐ後に金によって南走したため旧に復された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "県の長は知県ないし県令である。京朝官が県の長になる場合は知県といい、選人が県の長になる場合は県令という。概ね知県は重要な州に、県令は小さな州に配される。知県ないし県令の下には県丞(次官)・主簿(事務官)・県尉(警察)などがあり、これらも選人が任命される(京朝官・選人に付いては#科挙で後述)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また州の監督機関として路があり、そこに置かれる役職は以下のようなものがある。これらの職の上に立つ路の長官は存在しない。また路の区分は役職ごとに異なっており、例えば陝西は転運使では二路に安撫使では六路に分けられる。路の役割はあくまで監督であり、州は路に属するわけではなく中央直属の機関である。しかし時代が下るごとに路の重要性は増して次第に実際の行政機関に近くなり、後代の省の元となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "隋の文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。唐では科挙を通過した者の地位は概して貴族層が恩蔭(高官の子が恩典として与えられる任官資格)によって得られる地位よりも低く、また科挙に合格していざ任官しようとしても官僚の任官・昇進を司る尚書吏部は貴族層の支配する部署であり、科挙合格者は昇進でも不利になることが多かった。しかし宋代になって既存の貴族層が没落(もしくは五代十国時代に消滅)していたため、そのような事は無くなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、後には落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に詩賦が重視されてこれが進士科とされていたが、王安石により進士科は経書の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き300-400人が合格した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "科挙に通過した後、寄禄官が与えられていない状態を選人という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。地方で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい唐九品制でいう所の従九品から従八品までがこの階梯になる。正八品から従七品までを朝官といい、一緒にして京朝官という。更に正七品を員郎、従六品を郎中という。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "出自にかかわらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。元々、開封には国子監と太学という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋年二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。これを三舎法という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、科挙によって立身した官僚たちは己の存在感を示すために様々な政治的な意見や提案を行った。それによって様々な政策が打ち出されていった反面、政争の頻発と宰相などの政権担当者の度重なる交替につながった。北宋成立時に生じた幕僚出身の趙普と科挙出身の盧多遜の対立、真宗時代の北人(五代王朝出身者)と南人(旧南唐などの華南出身者)の対立、仁宗時代の郭皇后廃后問題を巡って生じた慶暦の党議、英宗の実父趙允譲の待遇を巡って生じた濮議、そして神宗時代から北宋滅亡まで続いた新法党と旧法党の対立と断続的に繰り返され、その傾向は南宋時代の対金政策や朱子学を巡る論争にも影響を及ぼした。南宋におけるいわゆる「独裁宰相」の誕生にはこうした風潮を独裁的な権力の行使で解消しようとした側面があった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、胥吏の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "胥吏は元々は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを民間から募集した徭役の一種として始まったものである。このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。南宋代の記録であるが福州(福建省)では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり、胥吏無くして行政は機能しない状態であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して3年程度で別部署へ移る官では胥吏に頼らなければ職務を実行することは出来ず、完全に胥吏のいいなりであった。また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、「三年清知府、十万雪花銀」(3年知府をやれば、10万銀貯まる)と言われるような状態であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "この状態に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」倉法という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、清の終わりに至るまでこの胥吏体制は続いていくことになる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "宋代は司法制度が非常に発達した時代である。唐において刑法に当たるものは律であるが、宋以後の大きな社会変化の中で硬直した律を使い続けることは弊害が大きかった。そこで律が不適当と思われる場合には勅が出されて判決が変更され、その勅に従って以後も進められていく。また過去行われた裁判の判例を後の裁判にも適用するようになった。これを断例という。徽宗の崇寧4年(1105年)にはこの断例を纏めた物を出版している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "宋代の刑罰は死・配流(流罪、3000里・2500里・2000里)・配役(強制労働、3年・2年・1年)・脊杖(背中を杖で打つ、20から13まで)・臀杖(尻を杖で打つ、20から7まで)の5種類である。五代の殺伐とした世の中で刑法も極めて厳しいものになっており、後漢の時には「1銭を盗めば死刑」となっていた。宋に入って刑を軽くしていったがそれでも死刑にされる人数が膨大になり、太祖はこれを救済するために死刑囚に対して自ら再審し、死刑が適さないとした者にたいしては配流に処した。また死刑以下の刑罰も軽くして新たに折杖法という刑法を作った。但し軽くなったといっても唐律に比べればまだかなり重く、范祖禹は「律に比べて勅の刑罰は三倍」と述べている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "宋代の司法の著しい特徴は警察・検察・裁判の三者がこの時代に既に分立していたことである。まず県に属する県尉と路・州に属する巡検とが犯罪者の逮捕に当たる。これを巡捕という。捕らえられた者は獄(留置所)に降され、ここで獄吏による取調べが行われる。これを推鞫という。取調べが終わり、犯罪事実が明らかになるとこれに対してどのような刑罰を行うべきかが審議される。これを検断という。この過程を行うのは全て独立した部署であり、これらの役職を兼ねることは厳に禁じられた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "巡捕・推鞫・検断が終わると知県が判決を下すが、知県に許された権限は臀杖20までで、それ以上の刑罰を科す場合には上の州へと送る。州では再び獄による取調べが行われる。州に於いては録事参軍・司理参軍がそれぞれ獄を持っており、その結果によって判官・推官によって判決の原案が作られ、最後は知州によって判決が下される。後に裁判に誤りがあったと分かれば判官・推官・録事参軍・司理参軍は全て連帯責任を負う。知州の権限は配流までであり、死刑の場合は中央へと送る。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "州にて死刑が妥当とされた者のうち、死刑執行をためらう理由が無いと考えられる用件に付いては提点刑獄によって再検討するだけで良い。それ以外の者は中央へと送られる。中央にてまず大理寺がこれを受け取り、書類の上で審査する(詳断)。大理寺を通過すると次は審刑院に送られ、今度は直接本人に尋問するなどして再び審議される。意見がそれぞれ皇帝へと上奏され、皇帝による判決が下される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "これらの判決に対して不服がある場合には上告する権利がある(翻異)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "これら司法制度の整備により裁判は非常に多く行われるようになった。そのためこの時代には包拯に代表されるような「名裁判官」が登場し、その活躍は街中の芸人によって語られ人気を博した。一方で訴訟ゴロの登場や訴訟の激化(健訟)を招いたが、それだけ法と裁判が身近なものになったという証拠であろう。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "宋の兵制は傭兵制であり、兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった(侍衛親軍)。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、満六十歳で退役し、退役後は俸給は半分に減らされた。一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "唐代では藩鎮の将帥と兵士たちの間に私的な繋がりが生じ、それが割拠の一つの原因となっていた。これに対して宋では軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える更戍制を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。また一般に兵士には逃亡防止のために顔面に刺青が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋では「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な郷兵、辺境の異民族を軍隊に組み入れた蕃兵がある。郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役(役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "宋 (王朝)#経済・金融を参照。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "宋 (王朝)#社会を参照。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "宋 (王朝)#文化を参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "契丹族によって建てられた遼であるが、国号は遼と契丹とで何度か入れ替わっている。ここでは民族名として「契丹」、国号として「遼」に固定する。なお金との関係に付いては南宋で詳述する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "中唐から晩唐にかけての唐帝国の衰退・滅亡、五代の騒乱という中国の混乱は東アジア世界全体にも大きな影響を及ぼし、勢力図が激変することになる。北方ではモンゴルからトルキスタンまでに広く勢力を張っていたウイグル可汗国が840年にキルギスによって滅亡。その間隙を縫って勢力を伸ばしてきたのが契丹である。西方では877年に吐蕃が崩壊。青海地方ではタングートが勢力を伸ばす。南西では902年に南詔が滅亡。代わって大理国が興る。南では長く中国の支配下にあったベトナムが独立し、呉朝が興る。東では新羅の支配力が衰え、938年に高麗によって統一される。また渤海も国力を低下させ、926年に契丹により滅ぼされ、東丹国が作られる。日本でも935年に承平天慶の乱が起こり、武士の時代に入った。これらは当時の世界の中心であった唐帝国の冊封体制の崩壊が影響を及ぼしたと考えられる.", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "その後、宋が中国を再統一するが、新たに作られた国際秩序は唐を頂点とする冊封体制に対し、宋と遼が二つの頂点となった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "宋の立場で言えば、最も重要な相手は遼(契丹)で、北宋建国時から対立状態にあったが、澶淵の盟が結ばれて以降は概ね平穏に推移し、これが遼滅亡の直前まで続く。遼に次いで重要なのが西夏であり、前身のタングート時代より宋に対して侵攻を繰り返しており、遼とは逆に北宋滅亡まで安定的な関係を築くには至らなかった。このように北宋は建国より滅亡まで常に戦争状態にあり、その財政はそのほとんどを軍事費が常に占める戦時経済であった。王安石の改革が必要になった主たる原因はこれである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "経済の項で述べたように宋は極めて強い経済力を誇っており、周辺諸国にとって宋との交易は莫大な利益を約束されており、周辺諸国の財政を支える存在となった。であるので契丹や西夏に対しては交易権はアメとムチのアメに当たる物であり、交易をどれだけ認めるかは宋の重要な外交カードとなった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "陸路にて交易が行われる場所を榷場といい、ここ以外で交易を行うことは厳に禁止された。海路にて交易を行う場合には市舶司が窓口となり、ここを通さない交易は同じく禁じられた。榷場の置かれた場所としては遼に対して雄州・覇州 など4箇所・西夏に対して鎮戎軍・保安軍 の2箇所。市舶司が置かれた場所としては広州・泉州など数箇所に置かれた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "宋が各国から受け取る物としては馬・塩・金・木材などがある。特に馬は前述の通り宋は常に戦時体制であり、国内では良馬が産出しないために重要視された。宋から各国へと輸出されるものとしては宋銭・茶・陶磁器・絹・穀物などである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "貨幣の項で述べたように宋国内では銭が不足しており、それに伴って宋銭の国外輸出は禁じられた。しかし密貿易によって大量に輸出が続けられており、各国内でも通貨として宋銭が流通することになった。この結果、東アジア全体が宋銭によるひとつの経済圏を作り出すに至った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "喫茶の風習は宋から周辺諸国へと広く伝わり、特に野菜が不足しがちな契丹・西夏では茶は貴重なビタミン源として生活に欠かせないものとなっていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "契丹族は4世紀ごろより遼河上流域に居住していたが、唐の衰退を契機として自立性を高め、916年に耶律阿保機の元で自らの国を建てた。その後、東丹国・烏古などを滅ぼして勢力を拡大し、北アジアの一大勢力となった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "さらに南への進出を目指して五代王朝と争い、二代目耶律堯骨の936年には、石敬瑭の要請を受けて出兵。後唐を滅ぼして後晋を誕生させ、これを衛星国とし、燕雲十六州の割譲を受けた。石敬瑭の死後、後晋が遼に対して反抗的な態度を見せたために946年に再び出兵してこれを滅ぼすが、漢人の抵抗が激しかったために兵を引き上げ、その後に劉知遠が入って後漢を建てた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "951年に後漢は郭威によって滅ぼされて後周が建てられ、後漢の皇族の劉崇が北に逃れて北漢を建てる。遼はこれを支援して幾度か後周を攻めるが成果を得られず、逆に後周に燕雲十六州の一部を奪われる。この頃より遼内部での抗争が激しくなり皇帝の暗殺・擁立が繰り返され、また渤海の遺民たちが定安を興し、高麗も遼に対して反抗的になるなどして、南へと干渉できる状況ではなくなった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "その隙を突いて後周およびその後を継いだ宋による統一戦が進められ、979年に宋の太宗が北漢が滅ぼしたことで中国の統一がなった。宋の太宗は北漢を滅ぼした余勢を駆って遼へと侵攻してきたがこちらは撃退し、宋太宗が単騎で逃げ出すほどの惨敗となった。その後、西北でタングートが勃興し、宋はこちらの対応に追われるようになる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "982年、遼で聖宗が即位する。聖宗は995年に定安国を滅ぼし、更に高麗を服属させて東を安定させた。また990年には宋と交戦していたタングートの李継遷が遼の支援を求めてきたのでこれを夏国王に封じ、宋に対する圧力を強めた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "999年、聖宗は宋を討つ詔を出し、その後の数年間は小規模な戦いが行われたが、1004年に20万人の軍をもって本格的な攻撃を仕掛けた。宋朝廷では王欽若により金陵(南京市)遷都が唱えられたが、真宗は寇準の出した親征案を採用し、澶州 にて遼軍と対峙した。両軍はこう着状態となり、双方から使者が出され、和議が結ばれた(澶淵の盟)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "この盟約では", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "などが定められた。この盟約は後の1042年に銀絹それぞれ10万ずつの増額されたが、それ以外は基本的に堅持され、宋と遼の間は小競り合いは常にあったものの概ね安定した状況を迎えた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "この状態が数十年続いたが、1115年に満州で女真族が阿骨打の元で勃興して金を建て、遼を激しく攻撃するようになった。これを見た宋の徽宗朝は燕雲十六州の奪還をもくろんで金と同盟を結んだ(海上の盟)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "この盟約により宋と金が遼を挟撃し、1125年に金軍により遼は滅びた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "タングート族は唐代より甘粛方面に居住しており、その勢力の中心となったのがオルドス地方南部の夏州に勢力を張る平夏部であった。その首長である拓跋思恭は唐を援助した功績で国姓の李を授かっていた。宋政府は平夏の懐柔に努めて西平王の地位を与え、概ね友好関係にあり、北漢討伐の際には平夏よりも兵が出ていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "平夏部の支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出してそれと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。これは青白塩と呼ばれており、質が高く値も安いことから買い手には喜ばれた。しかし宋国内で塩の専売制が確立すると宋政府は青白塩を禁止し、自らの官塩を強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩を認めるように何度も宋政府へ要求するが、これを認められず次第に反抗的になってくる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "北漢滅亡後の980年に李継捧が地位を継ぐが、この継承には部内よりの反対が多く、その地位は不安定であった。これに不安を感じた李継捧は自らの支配地を宋に献納し、開封にて暮らしたいと申し出てきた。太宗はこれを大いに喜び、李継捧に対して莫大な財貨を与えて歓待した。しかし一族内の李継遷がこれに反対し、部内を纏め上げて宋に対して反抗の烽火を上げた。李継遷は遼に援助を求めて夏国王の地位を貰い、オルドスを席巻し、1002年に霊州を陥落させて西平府 と改名して、ここに遷都した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1003年に李継遷が戦死して李徳明が跡を継ぐ。翌年には宋と遼とが澶淵の盟により和睦し、単独では宋に当たり難いので1005年に和議を結び、宋より西平王の地位を授けられ、毎年銀1万・絹1万・銅銭2万の歳賜を受けることになった。李徳明は遼からも同じ西平王の地位を授かっており、両属の形をとっていた。宋と和平した李徳明は西のウイグルを攻める。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1031年に李徳明が死去してその子の李元昊が跡を継ぐ。李元昊はかつて父の李徳明より「我らが錦や絹を着ることが出来るのは宋の恩である」と宋に背かないように諭されたときに「毛皮を着て牧畜に従事するのが我らの便とするところです。英雄の生は王覇の業にあります。錦や絹がどうしたというのですか」と豪語したという大器雄略の人物である。その言葉通り、ウイグルを攻撃して河西地域 を全て支配下に入れ、1038年に李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とし、宋からの独立を宣言した。これ以後は西夏とする。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "宋は李元昊の官爵を全て剥奪し、西夏との交易を全て禁止して、交戦状態に入った。国初以来の文治政策により宋の軍隊は弱体化しており、宋軍は西夏軍に何度と無く敗れる。しかし宋との交易が途絶した西夏も経済的に苦しむようになり、両国ともに和平を望むようになり、以下のような条件で1044年に和議が結ばれた(慶暦の和議)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては宋は要請をはねつけており、和議なったとはいえ西夏方面はその後も不安定であった。この後五回に渡って対立と和議が繰り返されることになる。王安石時代の1072年には吐蕃を討ち、ここに新たに熙河路を置いて西夏への牽制(けんせい)とした。しかし旧法党が政権を握るとこれは放棄され、新法党が盛り返すと再び設置されといった具体に新法・旧法の争いは外交にも影響を及ぼした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "宋夏関係は不安定なままに推移し、結局宋が南へと逃れたことで関係が途絶し、西夏は金に服属するようになった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "朝鮮半島は892年に弓裔により後高句麗が興されて後三国時代に入るが、弓裔の配下にいた王建(太祖)が高麗を建て、936年に全土を統一する。統一後すぐに太祖は五代王朝に対して朝貢し、宋が建つと正朔を奉じて冊封国となった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "太祖の統一戦と平行して遼が渤海を滅ぼしており、契丹が宋と争うようになると後背を気にした遼は993年より高麗へと侵攻し、994年に高麗は鴨緑江以南の領土と引き換えに契丹の正朔を報じ、宋との関係は絶たれることになる。その後しばらくは宋と高麗の関係は絶えたままであったが、神宗の1068年に宋からの非公式の使節が送られ、これに答えて高麗は宋に朝貢をするようになった。こうして高麗は宋、遼と二重の外交関係を結び、両国の対立を利用して 仲介貿易を行い、利益を獲得した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "宋と高麗との間で頻繁に使者が往復し、宋から『文苑英華』・『太平御覧』、高麗からは『宣和奉使高麗図経』が互いに送られた。また交易のための船も行き来し、北宋が金によって滅ぼされるまで関係は友好的に進んだ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "日宋貿易も参照", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "907年の遣唐使廃止以降日本は対外的に消極的になり、一般人の対外渡航を禁止する半鎖国状態となっていた。この後、基本的に宋と日本とは正式な国交は開かれないままであった。新法で財政が充実した神宗が外交でも積極策に出たことは上述したが、日本に対しても朝貢を促す使者が送られた。日本側ではどう扱うかで逡巡していたが、最後には受け入れて宋に対して返答の使者を送っている。しかし以後に続くことはなく両国の関係が本格的になるのは南宋になり平清盛が日宋貿易を大幅に拡大する時以後になる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "民間の交易では宋側が積極的であり、宋が成立した後の978年に初めて宋船が日本を訪れた。主に寄港地としては主に博多であったが、中には敦賀にやってくる船もあった。日本に来た外国船は大宰府の鴻臚館に収容し、衣食を供給する定めとなっていた。しかし宋船の来航回数が多いと費用がかさむので年紀を定めて来航するようにさせた。宋船ではこれを守らずに来航するものも多かったが、この場合はそのまま追い返してしまったようである。また広大な荘園を持つ貴族たちは「不入」の権を持つ荘園内で密貿易を行い、大宰府もこれに手を出すことが出来なかった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "宋から日本に持ち込まれる物品としては香料・茶・陶磁器・絹織物・書籍・薬品などである。これらの決済に使われたのが主に奥州産の砂金であり、日本から宋へはこれが最も重要な輸出品であった。他には硫黄・水銀などがあり、そして工芸品が重要な輸出品であり、中でも扇が宋の士大夫たちに大変好まれたという。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "この間、日本の商人たちは受動的な商売に限定されるをえず、中には密航して宋へと渡ろうとしたものもあったが、発覚した者は徒罪や官職剥奪となった。しかし11世紀後半(宋の神宗・日本白河天皇)になると商人たちは大宰府の目をかいくぐり、自ら船を出して宋を目指すようになった。ただしこの時代の日本の造船・航海技術は低く、東シナ海を横断することは危険が大きく、始めは島伝いに高麗へ行き、そこで経験を積んだ後に宋へ赴くようになった。日本船が初めて宋の記録に現れるのは北宋滅亡後の1145年である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "日本の一般人の海外渡航は禁じられていたが、仏僧だけは例外であった。北宋期に宋へと渡った僧は奝然・成尋などがおり、奝然は太宗に召されて雨乞いの儀式を行い、また日本の天皇家が万世一系であると伝え、太宗がそれを羨んだという話が残っている。", "title": "国際関係" } ]
北宋は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。
{{基礎情報 過去の国 |略名 = 宋 |日本語国名 = 北宋 |公式国名 = {{lang|zh|'''宋'''}} |建国時期 = [[960年]] |亡国時期 = [[1127年]] |先代1 = 後周 |先旗1 = blank.png |先代2 = 後蜀 (十国) |先旗2 = blank.png |先代3 = 南漢 |先旗3 = blank.png |先代4 = 南唐 |先旗4 = blank.png |先代5 = 呉越 |先旗5 = blank.png |次代1 = 金 (王朝) |次旗1 = blank.png |次代2 = 南宋 |次旗2 = blank.png |次代3 = 楚 (張邦昌) |次旗3 = blank.png |次代4 = 劉豫 |次旗4 = blank.png |次代5 = 西夏 |次旗5 = blank.png |国旗画像 = |国旗リンク =Republic of China |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章幅 = |標語 = |標語追記 = |国歌 = |国歌追記 = |位置画像 = 北宋疆域图(繁).png |位置画像説明 = 北宋、[[遼]](簡体字で「辽」)、[[西夏]]の領域。北宋政和元年、遼天慶元年([[1111年]]) |公用語 = [[中古漢語]] |首都 = [[開封市|開封]] |元首等肩書 = [[皇帝 (中国)|皇帝]] |元首等年代始1 = [[960年]] |元首等年代終1 = [[976年]] |元首等氏名1 = [[趙匡胤|太祖 趙匡胤]] |元首等年代始2 = [[1022年]] |元首等年代終2 = [[1063年]] |元首等氏名2 = [[仁宗 (宋)|仁宗 趙禎]] |元首等年代始3 = [[1125年]] |元首等年代終3 = [[1127年]] |元首等氏名3 = [[欽宗|欽宗 趙桓]] |首相等肩書 = [[中国の宰相|宰相]] |首相等年代始1 = [[960年]] |首相等年代終1 = [[964年]] |首相等氏名1 = [[范質]] |首相等年代始2 = [[1101年]] |首相等年代終2 = [[1125年]] |首相等氏名2 = [[蔡京]] |面積測定時期1 = [[962年]] |面積値1 = 1,050,000 |面積測定時期2 = [[1111年]] |面積値2 = 2,800,000 |人口測定時期1 = [[980年]] |人口値1 = 32,500,000 |人口測定時期2 = [[1086年]] |人口値2 = 40,072,660 |人口測定時期3 = [[1120年]] |人口値3 = 130,000,000 |変遷1 = [[後周]]から禅譲・建国 |変遷年月日1 = [[960年]][[2月4日]] |変遷2 = [[北漢]]を滅ぼし、中国を統一 |変遷年月日2 = [[979年]] |変遷3 = [[澶淵の盟]] |変遷年月日3 = [[1004年]] |変遷4 = [[海上の盟]] |変遷年月日4 = [[1118年]] |変遷5 = [[靖康の変]] |変遷年月日5 = [[1126年]] |変遷6 = [[南京市|南京]]に南遷([[南宋]]) |変遷年月日6 = [[1127年]][[6月12日]] |通貨 = [[交子]]など |通貨追記 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |現在 = {{PRC}}<br>{{HKG}}<br>{{ROC}}([[金門県]]、[[連江県]]) |注記 = }} {{中国の歴史}} '''北宋'''(ほくそう、[[拼音]]:Běisòng、[[960年]] - [[1127年]])は、[[中国]]の[[王朝]]。[[趙匡胤]]が[[五代十国時代|五代]]最後の[[後周]]から[[禅譲]]を受けて建てた。国号は'''[[宋 (王朝)|宋]]'''であるが、[[金 (王朝)|金]]に[[開封市|開封]]を追われて南遷した後の[[南宋]]と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は[[開封市|開封]]であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・[[南宋]]の各記事で解説し、区分しにくい分野を[[宋 (王朝)|宋]]で解説することにする。 == 概要 == [[907年]]に[[唐]]が滅亡し、その後の[[五代十国時代]]の戦乱の時代の後、[[960年]]に趙匡胤により建てられたのが宋である。太祖・趙匡胤から始まり、3代[[真宗 (宋)|真宗]]の時代に[[遼]]からの侵攻を受け、これと和平を結ぶ([[澶淵の盟]])。これによって平和は確保され大きな文化の華が開いたが、一方では外国に支払う歳幣や弱体化して肥大した国軍の維持の為の財政の悪化など問題を抱えるようになる。6代[[神宗 (宋)|神宗]]の時代に[[王安石]]の手により新法と呼ばれる政治改革が試みられるが、これが政争の原因となり、混乱を招いた([[新法・旧法の争い]])。8代[[徽宗]]の時代に新興の金と結んで遼を滅ぼすものの自らも金に滅ぼされ、南に逃れて王朝を再建した。華北時代を北宋、華南時代を南宋と呼び分けている。この項目で取り扱うのは[[960年]]から[[1127年]]までの北宋である。 全盛期には中央アジアにまで勢力を伸ばしていた唐に対して、宋は[[遼]]([[契丹]])・[[西夏]]([[タングート]])という外敵を抱え、対外的には萎縮していた時代と見られている。一方、国内では様々な面で充実を見、特に文化面では顕著な進展が見られた。 具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった[[貴族 (中国)|貴族]]層が完全に消滅し、[[士大夫]]と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。 # 五代では有力な家臣(武人)による帝位簒奪が相次いだ。対して北宋では、武人の権限が弱められ、士大夫がそれを統制し、またその士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となることは構図的にありえなかった。これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」'''皇帝独裁制'''<ref group="注釈">独裁皇帝ではない。この違いに留意。</ref> が成立した。 # 貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。宋代では科挙に合格できるならばどのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られたのは確かである。 # 経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として[[交子]]が誕生した。 #唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い手も受け手も限られた階層の人間であった。これに対して宋代では文化の担い手も受け手も数が大幅に増え、多くの点で新機軸を生み出すことになったなどの変化(これ以外にも変化は多い)がこの時代に起きた。 * これらの変化は単に王朝の変遷というのみならず「中国史上で最も大きな変化があった」と思考できる学説がある。[[内藤湖南]]が唱えた'''[[唐宋変革論]]'''という[[大日本帝国]]時代の[[帝国大学]]で研究された[[東洋史]]の学説である。 <small>この項目では全般に渡って山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。</small> == 歴史 == [[File:China Song Dynasty.jpg|サムネイル|北宋]] === 建国 === [[唐]]の崩壊以後、中国は[[五代十国時代]]の分裂期に入り、北方の[[遼]]([[契丹]])などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の[[後周]]の2代[[皇帝]]である[[柴栄|世宗]]は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋の太祖[[趙匡胤]]である。 [[File:Zhao Kuangyin.jpg|right|200px|thumb|[[趙匡胤]]]] 世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国[[南唐]]を屈服させるなど統一への道筋を付けたが[[顕徳]]6年([[959年]])に39歳で急死。あとを継いだのはわずか7歳の[[柴宗訓]]であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官<ref group="注釈">北周の禁軍は[[殿前軍]]と[[侍衛親軍]]の2つがあり、殿前軍の長官が都点検で副長官が[[都指揮使]]。侍衛親軍は都指揮使が長官。</ref>)の地位にあったが、翌顕徳7年([[960年]])に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から[[禅譲]]を受けて宋を建国した([[陳橋の変]])。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ) このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが就いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた[[節度使]]([[藩鎮]])から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることにした。 更に[[科挙]]制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体は[[隋]]の時代に始まったものであるが、武人優勢の五代では科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、[[殿試]]を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。 体制固めと平行して、太祖は[[乾徳 (宋)|乾徳]]元年([[963年]])より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である[[湖北省|湖北]]の[[荊南]]であり、更に[[湖南省|湖南]]の[[楚 (十国)|楚]]を征服して東の[[南唐]]・西の[[後蜀 (十国)|後蜀]]の連携を絶った。翌乾徳2年([[964年]])からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、[[開宝]]3年([[970年]])には[[南漢]]を開宝7年([[974年]])には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の[[北漢]]・南の[[呉越]]を残すのみとなったが太祖は開宝9年([[976年]])に唐突に崩御。 後を継いだのは弟の[[太宗 (宋)|趙匡義]](太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された([[千載不決の議]])。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、[[太平興国]]3年([[978年]])には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国4年([[979年]])に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。 また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。 五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。[[宮崎市定]]はこの三者を日本の[[織田信長]]・[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]にそれぞれなぞらえている<ref>宮崎1935</ref>。 === 澶淵の盟 === 太宗は太平興国9年([[984年]])に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ([[真宗 (宋)|真宗]])。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。 しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。[[景徳]]元年([[1004年]])、北方の[[遼]]が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は[[王欽若]]らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の[[寇準]]の[[親征]]すべしという案を採用して遼を迎え撃ったが戦線は膠着し、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した('''[[澶淵の盟]]''')。また遼の侵攻と同時に西の[[タングート]]族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年([[1005年]])、財貨を送ることで和睦した。 澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという。この逸話が示すように唐代末期からの経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。 一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。[[大中祥符]]元年([[1008年]])、真宗は王欽若や[[丁謂]]らの薦めに乗って[[泰山]]において[[天]]を祀る[[封禅]]の儀、汾陰<ref group="注釈">[[山西省]][[万栄県]]の北方</ref> において地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。 真宗は[[乾興 (宋)|乾興]]元年([[1022年]])に崩御。子の趙禎([[仁宗 (宋)|仁宗]])が即位する。宋国内で塩の[[専売制]]が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、[[宝元]]元年([[1038年]])にタングートの首長[[李元昊]]は大夏([[西夏]])を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、[[范仲淹]]などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、[[慶暦]]4年([[1044年]])に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った([[慶暦の和約]])。 これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・[[韓琦]]・[[欧陽脩]]などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった[[貴族 (中国)|貴族]]に対して'''[[士大夫]]'''と呼ぶ。 強い経済力を元に文化の華が開き、[[印刷術]]による書物の普及・[[水墨画]]の隆盛・新[[儒教]]の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都[[開封]]では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に[[市]]を開く事が出来、道端では[[講談]]や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の[[慶暦]]年間の治世を称えて[[慶暦の治]]という。 しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと([[朋党]]の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。 仁宗は40年の長き治世の末[[嘉祐]]8年([[1063年]])に崩御。甥の趙曙([[英宗 (宋)|英宗]])が即位する。英宗の即位直後に[[濮議]]が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王[[趙允譲]]をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽脩らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、[[司馬光]]ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。 === 新法・旧法の争い === [[File:Wang Anshi.jpg|right|150px|thumb|[[王安石]]]] 結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま[[治平 (宋)|治平]]4年([[1067年]])に4年の短い治世で崩御。子の趙頊([[神宗 (宋)|神宗]])が即位する。20歳の青年皇帝神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。 白羽の矢が立ったのが[[王安石]]である。王安石は[[青苗法]]・[[募役法]]などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。 新法を推進しようとするのは主に[[江南|江南地方]]出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派の領袖の王安石に対して旧法派の代表としては[[司馬光]]・[[蘇軾]]らの名が挙がる。王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。 神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は[[元豊の改革]]と呼ばれる官制改革を行い、西夏に対しての攻撃を行うも失敗に終わった。新法により表面上は上手くいっているかに見えたが、その裏で旧法派たちの不満は深く根を張っていた。 [[元豊 (宋)|元豊]]8年([[1085年]])、神宗が崩御。子の趙煦([[哲宗 (宋)|哲宗]])が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗の皇后であった[[宣仁太后]]が[[垂簾聴政]]を行う。宣仁太后は中央を離れていた司馬光を宰相として新法の徹底的な排除を行わせた([[元祐更化]])。司馬光は宰相になって1年足らずで死去、王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代は旧法派の天下であったが、宣仁太后が[[元祐]]8年([[1093年]])に死去し、哲宗が親政を始めると再び新法が復活して新法派の天下となった。 この間、新法派・旧法派とも最早政策理念など関係無しに対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法と旧法が度々入れ替わることで国政は混乱した。一連の政治的争いを'''[[新法・旧法の争い]]'''と呼ぶ。 === 滅亡 === [[元符]]3年([[1100年]])に哲宗は崩御。弟の趙佶([[徽宗]])が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の[[蔡京]]である。徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。 蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い([[花石綱]])、その穴埋めのために新法を悪用して汚職や増税を行うという有様であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が[[宣和]]2年([[1120年]])の[[方臘の乱]]である。また中国四大奇書の一つとして知られる[[水滸伝]]は、この時代背景を元とした創作である。 一方、北方では遼の盟下にあった[[女真|女真族]]が英主[[阿骨打]]の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて[[1115年]]に[[金 (王朝)|金]]を建てる。この伸張ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考え、[[重和]]元年([[1118年]])金に対して使者を送り金と共に遼を挟撃することを約束した([[海上の盟]])。しかし同じ宣和2年に方臘の乱が勃発したことにより宋軍は出遅れてしまった。 翌宣和3年([[1121年]])に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝[[天祚帝]]は逃亡した。しかし弱い宋軍は[[燕京]]に篭る[[耶律大石]]ら遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の[[童貫]]は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。 五代以来の悲願である[[燕雲十六州]]の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の[[呉乞買]](太宗)が跡を継いでいたが、この宋の背信行為に金の太宗は怒り、宣和7年([[1125年]])から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は「[[罪己詔|己を罪する詔]]」を出して退位。子の趙桓([[欽宗]])が即位する。 金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は[[李綱]]などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の[[高宗 (宋)|高宗]])が人質となっている。 包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。[[1126年]]の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。また、同じく4歳から28歳までの多くの宋室の[[皇女]]達が連行され、金の王族達の妾にされるか(入宮)、[[洗衣院]]と呼ばれる[[売春宿|売春施設]]に送られて[[娼婦]]とさせられた。<ref>『靖康稗史箋證・卷3』</ref> これら一連の出来事を'''[[靖康の変]]'''と呼ぶ。 その後、たまたま救援要請の使者として靖康の変時に城外にいた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを[[南宋]]と呼ぶ。 == 政治 == [[唐]]が各地に軍閥とも言える[[節度使]]の割拠を許し、続く[[五代十国時代]]の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして[[科挙]]を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。[[春秋戦国時代]]・[[魏晋南北朝時代]]・五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。 宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、[[士大夫]]と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、[[科挙]]に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。 この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、[[簒奪]]劇が二度と起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、[[皇太后]]及び[[太皇太后]]が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。 === 官制 === <ref name=syokukan>この節は宮崎1963・『中国歴代職官事典』を参照。</ref> ==== 元豊以前 ==== 宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていたいわゆる[[使職]]体制を受け継いでいる。唐の[[律令体制]]では極めて細密かつ完成された官制が整備されていたが、唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]期以降の急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離が進んでいた。そこで実態に即するために律令にて定められていない官([[令外官]])の使職が置かれ、律令の官は形骸のみを残し、実権は使職に移った。 唐滅亡後の五代でも新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖・太宗は成立まもない国家が混乱することを恐れ、節度使の権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的・体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて[[寄禄官]]や職([[館職]])といった実際の職掌を示さない職の号があるために宋初の官制は歴代でも最も解りにくいといわれる。 * [[中書門下]] ** 民政を司る。長官は[[同中書門下平章事]](略して同平章事。2ないし3名)。同中書門下平章事を助ける[[参知政事]](2名)。主に高級官僚の人事を行う。 * [[枢密院 (中国)|枢密院]] ** 軍政を司る。長官は[[枢密使]]・副長官は副枢密使(又は知枢密院事・同知枢密院事)であり、その下に僉書枢密院事・同僉書枢密院事などの役職がある。 このうち、同中書門下平章事は[[宰相]]、参知政事・枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)は[[執政]]と呼ばれ、合わせて宰執と呼ばれる。数人の宰執が皇帝を前にして合議制で政策を決定する。つまり宰相といえども議論の場の中の一人に過ぎず、権臣に皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖の措置の一つである。 これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。 * [[三司]] ** 財政を司る。唐制の[[戸部 (六部)|戸部]]、唐代に設置された使職の[[塩鉄部]]・[[度支部]]が合体して出来たものである。長官は[[三司使]]・各部ごとに三司副使が一人・判官三人が付く。 * [[翰林学士]] ** 皇帝の命令を[[詔勅]]として文章化する役職。宋になって詔勅の数が増えたことから重要でないものを取り扱う[[知制誥]]が新設された。翰林学士は宰執へのエリートコースとされた。 * [[御史台]] ** 監察を司る。唐制から引き継いだものの中で実際の職掌を維持している稀有な部署。長官は[[御史中丞]]。 * [[大理寺]]・[[審刑院]] ** 刑罰を司る。詳しくは[[#司法]]の節を参照。 唐の[[三省六部|三省]]・[[三省六部|六部]]・[[九寺]]・[[五監]]の役職は全てその名を残している。しかしこれらには実際の職掌は無く、単に官位・俸禄を示すものである。これを[[寄禄官]](官・本官などとも)と言い、これに対して実際の職掌は差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。館職は文章・学問に秀でた者に対して、試験を行って任命される差遣の一種で、これを帯びた者は昇進の速度が格段に早くなった。 ==== 元豊の改革 ==== {{main|元豊の改革}} <ref name=syokukan/> 新法による改革を経て財政の充実を見た神宗親政期の[[元豊 (宋)|元豊]]年間に官制の大幅な改革が行われた。 主な変更点を挙げると * 三司の整理。経済に関するほとんど全てを司る三司は非常に巨大かつ複雑な機構と化していたが、王安石は[[制置三司条例司]]という部署を作って三司の改革に乗り出し、に三司の権限を[[司農寺]]・軍器監・将作監などの他部署に吸収させ、三司は単に経済関連の文書業務を担当するものとした。元豊時にはこの残った三司を戸部に吸収させる。 * 名目的には中書・門下・尚書の三省を建て、それぞれの長官はそれぞれ[[中書令]]・[[門下侍中]]・[[尚書令]]であるが、これらの役職には誰も任命されず、[[尚書]]左[[僕射]]に門下侍郎(門下省副長官)を兼任させて尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射に中書侍郎(中書省副長官)を兼任させて尚書右僕射兼中書侍郎とそれぞれ称して宰相とした。また参知政事の代わりに尚書左丞・尚書右丞を設けて補佐とした。 * 唐制六部を形骸から実際の権限を持つものに復活させる。中書門下や枢密院の持つ人事権は吏部に、審刑院などの持つ裁判権は刑部にそれぞれ吸収させた。 * それまで同じ階梯でも複数あった寄禄官を一本化し、一つの階梯に一つの寄禄官が対応するようにした。 ==== 地方 ==== [[File:宋・遼時代.PNG|right|thumb|300px|11世紀の北宋]] <ref>この節は宮崎1953・『中国歴代職官事典』を参照。</ref> 地方官制における最大の行政区分は[[州]]、その下に[[県]]がある。また特別な州として府(開封府など特に重要な州)・軍(軍事上の要衝)・監(塩の生産地・鉱山・工場など多数の労働者が集まり、中央に直属する場所)がある。商業の要衝に作った集落を鎮という。 太祖は地方に軍事力を持って割拠していた節度使・[[観察使]]および[[刺史]]職を全て寄禄官とし、州の権限を[[知州]]に移し、また知州の独走を防ぐために[[通判]]を付けた。当初は知州の決定は通判が同意しないと効力を発揮しないという定めになっていた。しかし時代が下るごとにその地位を低下させ、州の次官となった。 知州の下には幕職官と曹官と呼ばれる官がある。節度使が地方に割拠していた頃、節度使はその領内の最重要な州の刺史を兼任した。刺史としての官衙を州院といい曹官が属した。後に州刺史も節度使に倣い、その下に幕職官・曹官を抱えるようになる。これが宋に入って知州が州の長官になるとそれまでは刺史によって任命されていた幕職官・曹官は中央によって任命されるようになり、その間の区分もほとんど消滅した。幕職官としては判官・推官(両者とも裁判を扱う)など、曹官は録事[[参軍]](庶務取り扱い)・戸曹参軍(徴税・倉庫の管理など)といったものがある。後の徽宗時代に幕職官が廃されて曹官のみになるが、そのすぐ後に金によって南走したため旧に復された。 県の長は[[知県]]ないし[[県令]]である。[[京朝官]]が県の長になる場合は知県といい、[[選人]]が県の長になる場合は県令という。概ね知県は重要な州に、県令は小さな州に配される。知県ないし県令の下には県丞(次官)・主簿(事務官)・県尉(警察)などがあり、これらも選人が任命される(京朝官・選人に付いては[[#科挙]]で後述)。 また州の監督機関として[[路]]があり、そこに置かれる役職は以下のようなものがある。これらの職の上に立つ路の長官は存在しない。また路の区分は役職ごとに異なっており、例えば陝西は転運使では二路に安撫使では六路に分けられる。路の役割はあくまで監督であり、州は路に属するわけではなく中央直属の機関である。しかし時代が下るごとに路の重要性は増して次第に実際の行政機関に近くなり、後代の[[省 (行政区分)|省]]の元となった。 * [[転運使]] ** 路の運送を司り、路内の経済・民政に付いても監督する。 * [[経略安撫使]] ** 路の軍事を司り、路のうちのもっとも重要な州の知州が兼任する。 * [[提点刑獄]] ** 路の刑罰を司る。 * [[提挙常平]] ** 王安石により作られたもので、新法実施のための諸事を行う。 ==== 科挙 ==== [[File:Palastexamen-SongDynastie-Kaiser.jpg|right|200px|thumb|殿試の様子。]] <ref>この節は宮崎1946・1963を参照。</ref> [[隋]]の[[楊堅|文帝]]により始められた[[科挙]]制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。[[唐]]では科挙を通過した者の地位は概して[[貴族 (中国)|貴族]]層が[[恩蔭]](高官の子が恩典として与えられる任官資格)によって得られる地位よりも低く、また科挙に合格していざ任官しようとしても官僚の任官・昇進を司る尚書[[吏部]]は貴族層の支配する部署であり、科挙合格者は昇進でも不利になることが多かった。しかし宋代になって既存の貴族層が没落(もしくは[[五代十国時代]]に消滅)していたため、そのような事は無くなった。 宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、後には落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に[[漢詩|詩賦]]が重視されてこれが進士科とされていたが、王安石により進士科は[[経書]]の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。 科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き300-400人が合格した。 科挙に通過した後、寄禄官が与えられていない状態を[[選人]]という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。地方で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい唐九品制でいう所の従九品から従八品までがこの階梯になる。正八品から従七品までを[[朝官]]といい、一緒にして京朝官という。更に正七品を[[員郎]]、従六品を[[郎中]]という。 科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。 出自にかかわらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。元々、開封には[[国子監]]と[[太学]]という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋年二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。これを[[三舎法]]という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。 また、科挙によって立身した官僚たちは己の存在感を示すために様々な政治的な意見や提案を行った。それによって様々な政策が打ち出されていった反面、政争の頻発と宰相などの政権担当者の度重なる交替につながった。北宋成立時に生じた幕僚出身の趙普と科挙出身の盧多遜の対立、真宗時代の北人(五代王朝出身者)と南人(旧南唐などの華南出身者)の対立、仁宗時代の[[郭皇后 (宋仁宗)|郭皇后]]廃后問題を巡って生じた[[慶暦の党議]]、英宗の実父[[趙允譲]]の待遇を巡って生じた[[濮議]]、そして神宗時代から北宋滅亡まで続いた新法党と旧法党の対立と断続的に繰り返され、その傾向は南宋時代の対金政策や朱子学を巡る論争にも影響を及ぼした。南宋におけるいわゆる「独裁宰相」の誕生にはこうした風潮を独裁的な権力の行使で解消しようとした側面があった<ref>衣川強『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)P453-464</ref>。 ==== 胥吏 ==== <ref>この節は宮崎1930・1945を参照。</ref> 北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、[[胥吏]]の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。 胥吏は元々は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを民間から募集した[[徭役]]の一種として始まったものである。このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。南宋代の記録であるが福州([[福建省]])では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり<ref>山川『中国史3』、P136</ref>、胥吏無くして行政は機能しない状態であった。 この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して3年程度で別部署へ移る官では胥吏に頼らなければ職務を実行することは出来ず、完全に胥吏のいいなりであった。また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、「三年清知府、十万雪花銀」(3年[[知府]]をやれば、10万銀貯まる)と言われるような状態であった。 この状態に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」[[倉法]]という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、[[清]]の終わりに至るまでこの胥吏体制は続いていくことになる。 === 司法 === <ref>この節は宮崎1954を参照。</ref> 宋代は[[司法]]制度が非常に発達した時代である。唐において刑法に当たるものは[[律令|律]]であるが、宋以後の大きな社会変化の中で硬直した律を使い続けることは弊害が大きかった。そこで律が不適当と思われる場合には勅が出されて判決が変更され、その勅に従って以後も進められていく。また過去行われた裁判の[[判例]]を後の裁判にも適用するようになった。これを断例という。徽宗の[[崇寧]]4年([[1105年]])にはこの断例を纏めた物を出版している。 宋代の刑罰は[[死刑|死]]・配流([[流罪]]、3000里・2500里・2000里)・配役(強制労働、3年・2年・1年)・脊杖(背中を杖で打つ、20から13まで)・臀杖(尻を杖で打つ、20から7まで)の5種類である。五代の殺伐とした世の中で刑法も極めて厳しいものになっており、[[後漢 (五代)|後漢]]の時には「1銭を盗めば死刑」となっていた。宋に入って刑を軽くしていったがそれでも死刑にされる人数が膨大になり、太祖はこれを救済するために死刑囚に対して自ら再審し、死刑が適さないとした者にたいしては配流に処した。また死刑以下の刑罰も軽くして新たに[[折杖法]]という刑法を作った。但し軽くなったといっても唐律に比べればまだかなり重く、[[范祖禹]]は「律に比べて勅の刑罰は三倍」と述べている。 宋代の司法の著しい特徴は警察・検察・裁判の三者がこの時代に既に分立していたことである。まず県に属する県尉と路・州に属する巡検とが犯罪者の逮捕に当たる。これを巡捕という。捕らえられた者は獄([[留置場|留置所]])に降され、ここで獄吏による取調べが行われる。これを推鞫という。取調べが終わり、犯罪事実が明らかになるとこれに対してどのような刑罰を行うべきかが審議される。これを検断という。この過程を行うのは全て独立した部署であり、これらの役職を兼ねることは厳に禁じられた。 巡捕・推鞫・検断が終わると知県が判決を下すが、知県に許された権限は臀杖20までで、それ以上の刑罰を科す場合には上の州へと送る。州では再び獄による取調べが行われる。州に於いては録事参軍・司理参軍がそれぞれ獄を持っており、その結果によって判官・推官によって判決の原案が作られ、最後は知州によって判決が下される。後に裁判に誤りがあったと分かれば判官・推官・録事参軍・司理参軍は全て連帯責任を負う。知州の権限は配流までであり、死刑の場合は中央へと送る。 州にて死刑が妥当とされた者のうち、死刑執行をためらう理由が無いと考えられる用件に付いては提点刑獄によって再検討するだけで良い。それ以外の者は中央へと送られる。中央にてまず大理寺がこれを受け取り、書類の上で審査する(詳断)。大理寺を通過すると次は審刑院に送られ、今度は直接本人に尋問するなどして再び審議される。意見がそれぞれ皇帝へと上奏され、皇帝による判決が下される。 これらの判決に対して不服がある場合には上告する権利がある(翻異)。 これら司法制度の整備により裁判は非常に多く行われるようになった。そのためこの時代には[[包拯]]に代表されるような「名裁判官」が登場し、その活躍は街中の芸人によって語られ人気を博した。一方で訴訟ゴロの登場や訴訟の激化([[健訟]])を招いたが、それだけ法と裁判が身近なものになったという証拠であろう。 === 兵制 === <ref>この節は曾我部1937を参照。</ref> 宋の兵制は[[傭兵|傭兵制]]であり、兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。 唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった([[侍衛親軍]])。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。 太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、満六十歳で退役し、退役後は俸給は半分に減らされた。一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。 唐代では藩鎮の将帥と兵士たちの間に私的な繋がりが生じ、それが割拠の一つの原因となっていた。これに対して宋では軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える[[更戍制]]を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。また一般に兵士には逃亡防止のために顔面に[[刺青]]が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋では「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。 また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な[[郷兵]]、辺境の異民族を軍隊に組み入れた[[蕃兵]]がある。郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。 === 税制 === 宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで[[両税法]]が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し([[主戸客戸制]])、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、[[職役]]([[役]])である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は[[職役]]を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。 == 経済 == [[宋 (王朝)#経済・金融]]を参照。 == 社会 == [[宋 (王朝)#社会]]を参照。 == 文化 == [[宋 (王朝)#文化]]を参照。 == 国際関係 == [[契丹]]族によって建てられた[[遼]]であるが、国号は遼と契丹とで何度か入れ替わっている。ここでは民族名として「契丹」、国号として「遼」に固定する。なお[[金 (王朝)|金]]との関係に付いては[[南宋]]で詳述する。 === 概説 === 中唐から晩唐にかけての唐帝国の衰退・滅亡、五代の騒乱という中国の混乱は東アジア世界全体にも大きな影響を及ぼし、勢力図が激変することになる。北方ではモンゴルからトルキスタンまでに広く勢力を張っていた[[回鶻|ウイグル可汗国]]が[[840年]]に[[キルギス人|キルギス]]によって滅亡。その間隙を縫って勢力を伸ばしてきたのが契丹である。西方では[[877年]]に[[吐蕃 (王朝)|吐蕃]]が崩壊。[[青海]]地方では[[タングート]]が勢力を伸ばす。南西では[[902年]]に[[南詔]]が滅亡。代わって[[大理国]]が興る。南では長く中国の支配下にあった[[ベトナム]]が独立し、[[呉朝]]が興る。東では[[新羅]]の支配力が衰え、[[938年]]に[[高麗]]によって統一される。また[[渤海 (国)|渤海]]も国力を低下させ、[[926年]]に契丹により滅ぼされ、[[東丹国]]が作られる。[[日本]]でも[[935年]]に[[承平天慶の乱]]が起こり、武士の時代に入った。これらは当時の世界の中心であった唐帝国の[[冊封]]体制の崩壊が影響を及ぼしたと考えられる<ref group="注釈">[[冊封#冊封体制の崩壊と再生]]も参照。</ref>. その後、宋が中国を再統一するが、新たに作られた国際秩序は唐を頂点とする冊封体制に対し、宋と遼が二つの頂点となった。 宋の立場で言えば、最も重要な相手は遼(契丹)で、北宋建国時から対立状態にあったが、[[澶淵の盟]]が結ばれて以降は概ね平穏に推移し、これが遼滅亡の直前まで続く。遼に次いで重要なのが西夏であり、前身のタングート時代より宋に対して侵攻を繰り返しており、遼とは逆に北宋滅亡まで安定的な関係を築くには至らなかった。このように北宋は建国より滅亡まで常に戦争状態にあり、その財政はそのほとんどを軍事費が常に占める戦時経済であった。王安石の改革が必要になった主たる原因はこれである。 ==== 交易 ==== [[#経済|経済]]の項で述べたように宋は極めて強い経済力を誇っており、周辺諸国にとって宋との交易は莫大な利益を約束されており、周辺諸国の財政を支える存在となった。であるので契丹や西夏に対しては交易権はアメとムチのアメに当たる物であり、交易をどれだけ認めるかは宋の重要な外交カードとなった。 陸路にて交易が行われる場所を榷場といい、ここ以外で交易を行うことは厳に禁止された。海路にて交易を行う場合には[[市舶司]]が窓口となり、ここを通さない交易は同じく禁じられた。榷場の置かれた場所としては遼に対して雄州<ref group="注釈">[[河北省]][[雄県]]</ref>・覇州<ref group="注釈">[[河北省]][[覇州市]]</ref> など4箇所・西夏に対して鎮戎軍<ref group="注釈">[[寧夏回族自治区]][[固原市]][[原州区]]</ref>・保安軍<ref group="注釈">[[陝西省]][[志丹県]]</ref> の2箇所。市舶司が置かれた場所としては[[広州市|広州]]・[[泉州市|泉州]]など数箇所に置かれた。 宋が各国から受け取る物としては[[馬]]・[[塩]]・[[金]]・[[木材]]などがある。特に馬は前述の通り宋は常に戦時体制であり、国内では良馬が産出しないために重要視された。宋から各国へと輸出されるものとしては[[宋銭]]・[[茶]]・[[陶磁器]]・[[絹]]・[[穀物]]などである。 [[宋 (王朝)#貨幣|貨幣]]の項で述べたように宋国内では銭が不足しており、それに伴って宋銭の国外輸出は禁じられた。しかし密貿易によって大量に輸出が続けられており、各国内でも通貨として宋銭が流通することになった。この結果、東アジア全体が宋銭によるひとつの経済圏を作り出すに至った。 喫茶の風習は宋から周辺諸国へと広く伝わり、特に野菜が不足しがちな契丹・西夏では茶は貴重なビタミン源として生活に欠かせないものとなっていた。 === 各国との関係 === ==== 遼 ==== [[契丹]]族は[[4世紀]]ごろより[[遼河]]上流域に居住していたが、[[唐]]の衰退を契機として自立性を高め、[[916年]]に[[耶律阿保機]]の元で自らの国を建てた。その後、[[東丹国]]・[[烏古]]などを滅ぼして勢力を拡大し、北アジアの一大勢力となった。 さらに南への進出を目指して五代王朝と争い、二代目[[耶律堯骨]]の[[936年]]には、[[石敬瑭]]の要請を受けて出兵。[[後唐]]を滅ぼして[[後晋]]を誕生させ、これを衛星国とし、[[燕雲十六州]]の割譲を受けた。石敬瑭の死後、後晋が遼に対して反抗的な態度を見せたために[[946年]]に再び出兵してこれを滅ぼすが、漢人の抵抗が激しかったために兵を引き上げ、その後に[[劉知遠]]が入って[[後漢 (五代)|後漢]]を建てた。 [[951年]]に後漢は[[郭威]]によって滅ぼされて[[後周]]が建てられ、後漢の皇族の[[劉崇]]が北に逃れて[[北漢]]を建てる。遼はこれを支援して幾度か後周を攻めるが成果を得られず、逆に後周に燕雲十六州の一部を奪われる。この頃より遼内部での抗争が激しくなり皇帝の暗殺・擁立が繰り返され、また渤海の遺民たちが[[定安]]を興し、[[高麗]]も遼に対して反抗的になるなどして、南へと干渉できる状況ではなくなった。 その隙を突いて後周およびその後を継いだ宋による統一戦が進められ、[[979年]]に宋の[[太宗 (宋)|太宗]]が北漢が滅ぼしたことで中国の統一がなった。宋の太宗は北漢を滅ぼした余勢を駆って遼へと侵攻してきたがこちらは撃退し、宋太宗が単騎で逃げ出すほどの惨敗となった。その後、西北で[[タングート]]が勃興し、宋はこちらの対応に追われるようになる。 [[982年]]、遼で[[聖宗 (遼)|聖宗]]が即位する。聖宗は[[995年]]に定安国を滅ぼし、更に高麗を服属させて東を安定させた。また[[990年]]には宋と交戦していたタングートの[[李継遷]]が遼の支援を求めてきたのでこれを夏国王に封じ、宋に対する圧力を強めた。 [[999年]]、聖宗は宋を討つ詔を出し、その後の数年間は小規模な戦いが行われたが、[[1004年]]に20万人の軍をもって本格的な攻撃を仕掛けた。宋朝廷では[[王欽若]]により金陵([[南京市]])遷都が唱えられたが、[[真宗 (宋)|真宗]]は[[寇準]]の出した[[親征]]案を採用し、澶州<ref group="注釈">[[河北省]][[濮陽県]]</ref> にて遼軍と対峙した。両軍はこう着状態となり、双方から使者が出され、和議が結ばれた('''[[澶淵の盟]]''')。 この盟約では #国境は現状維持。 #宋は兄、遼は弟の礼とする。 #宋から遼に対して毎年銀10万両と絹20万匹を歳幣(幣は対等の贈り物の意)として送る。 などが定められた。この盟約は後の[[1042年]]に銀絹それぞれ10万ずつの増額されたが、それ以外は基本的に堅持され、宋と遼の間は小競り合いは常にあったものの概ね安定した状況を迎えた。 この状態が数十年続いたが、[[1115年]]に[[満州]]で[[女真]]族が[[阿骨打]]の元で勃興して[[金 (王朝)|金]]を建て、遼を激しく攻撃するようになった。これを見た宋の[[徽宗]]朝は燕雲十六州の奪還をもくろんで金と同盟を結んだ([[海上の盟]])。 この盟約により宋と金が遼を挟撃し、[[1125年]]に金軍により遼は滅びた。 ==== 西夏 ==== <ref>この節は佐伯1987・金2000を参照。</ref> タングート族は[[唐]]代より甘粛方面に居住しており、その勢力の中心となったのが[[オルドス高原|オルドス]]地方南部の夏州に勢力を張る平夏部であった。その首長である[[拓跋思恭]]は唐を援助した功績で国姓の李を授かっていた。宋政府は平夏の懐柔に努めて西平王の地位を与え、概ね友好関係にあり、北漢討伐の際には平夏よりも兵が出ていた。 平夏部の支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出してそれと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。これは青白塩と呼ばれており、質が高く値も安いことから買い手には喜ばれた。しかし宋国内で塩の専売制が確立すると宋政府は青白塩を禁止し、自らの官塩を強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩を認めるように何度も宋政府へ要求するが、これを認められず次第に反抗的になってくる。 北漢滅亡後の[[980年]]に[[李継捧]]が地位を継ぐが、この継承には部内よりの反対が多く、その地位は不安定であった。これに不安を感じた李継捧は自らの支配地を宋に献納し、開封にて暮らしたいと申し出てきた。太宗はこれを大いに喜び、李継捧に対して莫大な財貨を与えて歓待した。しかし一族内の[[李継遷]]がこれに反対し、部内を纏め上げて宋に対して反抗の烽火を上げた。李継遷は遼に援助を求めて夏国王の地位を貰い、オルドスを席巻し、[[1002年]]に霊州を陥落させて西平府<ref group="注釈">[[寧夏回族自治区]][[呉忠市]]</ref> と改名して、ここに遷都した。 [[1003年]]に李継遷が戦死して[[李徳明]]が跡を継ぐ。翌年には宋と遼とが澶淵の盟により和睦し、単独では宋に当たり難いので[[1005年]]に和議を結び、宋より西平王の地位を授けられ、毎年銀1万・絹1万・銅銭2万の歳賜を受けることになった。李徳明は遼からも同じ西平王の地位を授かっており、両属の形をとっていた。宋と和平した李徳明は西の[[ウイグル]]を攻める。 [[1031年]]に李徳明が死去してその子の李元昊が跡を継ぐ。李元昊はかつて父の李徳明より「我らが錦や絹を着ることが出来るのは宋の恩である」と宋に背かないように諭されたときに「毛皮を着て牧畜に従事するのが我らの便とするところです。英雄の生は王覇の業にあります。錦や絹がどうしたというのですか」と豪語したという大器雄略の人物である。その言葉通り、ウイグルを攻撃して河西地域<ref group="注釈">南流する黄河の西側</ref> を全て支配下に入れ、[[1038年]]に李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とし、宋からの独立を宣言した。これ以後は西夏とする。 宋は李元昊の官爵を全て剥奪し、西夏との交易を全て禁止して、交戦状態に入った。国初以来の文治政策により宋の軍隊は弱体化しており、宋軍は西夏軍に何度と無く敗れる。しかし宋との交易が途絶した西夏も経済的に苦しむようになり、両国ともに和平を望むようになり、以下のような条件で[[1044年]]に和議が結ばれた([[慶暦の和議]])。 # 西夏は皇帝号を止めて宋に臣として仕える。 # 宋から西夏に絹13万・銀5万・茶2万の歳賜が送られる。その他に夏国主の誕生日などに下賜され、合計で絹15万3000・銀7万2000・茶3万となる。 しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては宋は要請をはねつけており、和議なったとはいえ西夏方面はその後も不安定であった。この後五回に渡って対立と和議が繰り返されることになる。[[王安石]]時代の[[1072年]]には[[吐蕃 (王朝)|吐蕃]]を討ち、ここに新たに熙河路を置いて西夏への牽制(けんせい)とした。しかし旧法党が政権を握るとこれは放棄され、新法党が盛り返すと再び設置されといった具体に新法・旧法の争いは外交にも影響を及ぼした。 宋夏関係は不安定なままに推移し、結局宋が南へと逃れたことで関係が途絶し、西夏は金に服属するようになった。 ==== 高麗 ==== 朝鮮半島は[[892年]]に[[弓裔]]により[[後高句麗]]が興されて[[後三国時代]]に入るが、弓裔の配下にいた王建([[太祖 (高麗王)|太祖]])が[[高麗]]を建て、[[936年]]に全土を統一する。統一後すぐに太祖は五代王朝に対して[[朝貢]]し、宋が建つと正朔を奉じて冊封国となった。 太祖の統一戦と平行して遼が渤海を滅ぼしており、契丹が宋と争うようになると後背を気にした遼は[[993年]]より高麗へと侵攻し、[[994年]]に高麗は[[鴨緑江]]以南の領土と引き換えに契丹の正朔を報じ、宋との関係は絶たれることになる。その後しばらくは宋と高麗の関係は絶えたままであったが、[[神宗 (宋)|神宗]]の[[1068年]]に宋からの非公式の使節が送られ、これに答えて高麗は宋に朝貢をするようになった。こうして高麗は宋、遼と二重の外交関係を結び<ref name=z>周藤(2004)</ref>、両国の対立を利用して<ref name=z/> 仲介貿易を行い、利益を獲得した<ref name=z/>。 宋と高麗との間で頻繁に使者が往復し、宋から『[[文苑英華]]』・『[[太平御覧]]』、高麗からは『[[宣和奉使高麗図経]]』が互いに送られた。また交易のための船も行き来し、北宋が金によって滅ぼされるまで関係は友好的に進んだ。 ==== 日本 ==== <ref>この節は木宮1955・森1948a・1948b・1948c・1950を参照</ref>''[[日宋貿易]]も参照'' [[907年]]の[[遣唐使]]廃止以降日本は対外的に消極的になり、一般人の対外渡航を禁止する半鎖国状態となっていた。この後、基本的に宋と日本とは正式な国交は開かれないままであった。新法で財政が充実した神宗が外交でも積極策に出たことは上述したが、日本に対しても朝貢を促す使者が送られた。日本側ではどう扱うかで逡巡していたが、最後には受け入れて宋に対して返答の使者を送っている。しかし以後に続くことはなく両国の関係が本格的になるのは[[南宋]]になり[[平清盛]]が[[日宋貿易]]を大幅に拡大する時以後になる。 民間の交易では宋側が積極的であり、宋が成立した後の[[978年]]に初めて宋船が日本を訪れた。主に寄港地としては主に[[博多]]であったが、中には[[敦賀港|敦賀]]にやってくる船もあった。日本に来た外国船は[[大宰府]]の[[鴻臚館]]に収容し、衣食を供給する定めとなっていた。しかし宋船の来航回数が多いと費用がかさむので年紀を定めて来航するようにさせた。宋船ではこれを守らずに来航するものも多かったが、この場合はそのまま追い返してしまったようである。また広大な[[荘園]]を持つ[[貴族]]たちは[[不入の権 (日本)|「不入」の権]]を持つ荘園内で密貿易を行い、大宰府もこれに手を出すことが出来なかった。 宋から日本に持ち込まれる物品としては香料・茶・陶磁器・絹織物・書籍・薬品などである。これらの決済に使われたのが主に[[陸奥国|奥州]]産の砂金であり、日本から宋へはこれが最も重要な輸出品であった。他には硫黄・水銀などがあり、そして工芸品が重要な輸出品であり、中でも[[扇子|扇]]が宋の士大夫たちに大変好まれたという。 この間、日本の商人たちは受動的な商売に限定されるをえず、中には密航して宋へと渡ろうとしたものもあったが、発覚した者は[[徒罪]]や官職剥奪となった。しかし11世紀後半(宋の神宗・日本[[白河天皇]])になると商人たちは大宰府の目をかいくぐり、自ら船を出して宋を目指すようになった。ただしこの時代の日本の造船・航海技術は低く、東シナ海を横断することは危険が大きく、始めは島伝いに高麗へ行き、そこで経験を積んだ後に宋へ赴くようになった。日本船が初めて宋の記録に現れるのは北宋滅亡後の[[1145年]]である。 日本の一般人の海外渡航は禁じられていたが、[[仏教|仏]][[僧侶|僧]]だけは例外であった。北宋期に宋へと渡った僧は[[奝然]]・[[成尋]]などがおり、奝然は太宗に召されて雨乞いの儀式を行い、また日本の天皇家が万世一系であると伝え、太宗がそれを羨んだという話が残っている。 == 表 == === 皇帝と元号 === [[File:宋帝国系図.PNG|right|thumb|360px|宋帝国系図]] #[[趙匡胤|太祖]]([[960年]]-[[976年]]) #*[[建隆]] 960年-[[963年]] #*[[乾徳 (宋)|乾徳]] 963年-[[968年]] #*[[開宝]] 968年-976年 #* #[[太宗 (宋)|太宗]](976年-[[997年]]) #*[[太平興国]] 976年-[[984年]] #*[[雍熙]] 984年-[[987年]] #*[[端拱]] [[988年]]-[[989年]] #*[[淳化]] [[990年]]-[[994年]] #*[[至道]] [[995年]]-997年 #[[真宗 (宋)|真宗]](997年-[[1022年]]) #*[[咸平]] [[998年]]-[[1003年]] #*[[景徳]] [[1004年]]-[[1007年]] #*[[大中祥符]] [[1008年]]-[[1016年]] #*[[天禧 (宋)|天禧]] [[1017年]]-[[1021年]] #*[[乾興 (宋)|乾興]] 1022年 #[[仁宗 (宋)|仁宗]](1022年-[[1063年]]) #*[[天聖]] [[1023年]]-[[1032年]] #*[[明道 (北宋)|明道]] 1032年-[[1033年]] #*[[景祐]] [[1034年]]-[[1038年]] #*[[宝元]] 1038年-[[1040年]] #*[[康定 (宋)|康定]] 1040年-[[1041年]] #*[[慶暦]] 1041年-[[1048年]] #*[[皇祐]] [[1049年]]-[[1054年]] #*[[至和]] 1054年-[[1056年]] #*[[嘉祐]] 1056年-1063年 #[[英宗 (宋)|英宗]](1063年-[[1067年]]) #*[[治平 (宋)|治平]] [[1064年]]-1067年 #[[神宗 (宋)|神宗]](1067年-[[1085年]]) #*[[熙寧]] [[1068年]]-[[1077年]] #*[[元豊 (宋)|元豊]] [[1078年]]-1085年 #[[哲宗 (宋)|哲宗]](1085年-[[1100年]]) #*[[元祐]] [[1086年]]-[[1094年]] #*[[紹聖]] 1094年-[[1098年]] #*[[元符]] 1098年-1100年 #[[徽宗]](1100年-[[1125年]]) #*[[建中靖国]] [[1101年]] #*[[崇寧]] [[1102年]]-[[1106年]] #*[[大観 (宋)|大観]] [[1107年]]-[[1110年]] #*[[政和]] [[1111年]]-[[1118年]] #*[[重和]] 1118年-[[1119年]] #*[[宣和]] 1119年-1125年 #[[欽宗]](1125年-[[1127年]]) #*[[靖康]] [[1126年]]-1127年 === 年表 === {| class="wikitable" style="text-align:center; vertical-align:middle; background-color:white" |- ! style="width:5em;"|年 !! style="width:5em;"|皇帝 !! colspan="2" | 元号 !! 国内 !! 国外 |- | 907年 || 後梁<br/>[[朱全忠]] || [[開平 (五代後梁)|開平]] || 1 || [[朱全忠]]、[[唐]]を滅ぼして[[後梁]]を興す。 || |- | 916年 || rowspan="2" | 後梁<br/>[[朱友貞]] || rowspan="2" | [[貞明 (五代後梁)|貞明]] || 2 ||   || (遼)耶律阿保機、契丹皇帝(太祖)となり、[[遼]]の成立。 |- | 918年 || 4 || || (朝鮮)[[太祖 (高麗王)|王建]]、[[高麗]]を建てる。 |- | 923年 || 後唐<br/>[[李存勗]] || [[同光]] || 1 || [[李存勗]]、唐皇帝に即位し、後唐を建てる。後梁を滅ぼす。 || |- | 926年 || 後唐<br/>[[李嗣源]] || [[天成 (後唐)|天成]] || 1 || || (遼)太祖、[[渤海 (国)|渤海]]を滅ぼす。太祖崩御、[[耶律堯骨]](太宗)が跡を継ぐ。 |- | 935年 || 後唐<br/>[[李従珂]] || [[清泰]] || 2 || || (朝鮮)[[新羅]]滅ぶ。(日本)[[承平天慶の乱]]勃発。 |- | 936年 || rowspan="2" | 後晋<br/>[[石敬瑭]] || rowspan="2" | [[天福 (後晋)|天福]] || 1 || [[石敬瑭]]、契丹の助力を得て後唐を滅ぼし、[[後晋]]を建てる。'''[[燕雲十六州]]の割譲'''。 || (朝鮮)高麗、朝鮮半島を統一。 |- | 937年 || 2 || || (雲南)[[大理国]]成立。 |- | 946年 || 後晋<br/>[[石重貴]] || [[開運 (後晋)|開運]] || 3 || || (遼)太宗、後晋を滅ぼす。 |- | 947年 || 後漢<br/>[[劉知遠]] || 天福 || 12 || 劉知遠、遼軍が引き上げた後の開封に入り、帝位に就く。 || |- | 951年 || 後周<br/>[[郭威]] || [[広順]] || 1 || [[郭威]]、帝位に就き、[[後周]]を興す。 || |- | 955年 || rowspan="2" | 後周<br/>[[柴栄]] || rowspan="2" | [[顕徳]] || 2 || [[三武一宗の法難|廃仏]]を実行。|| |- | 958年 || 5 || [[南唐]]を攻めて、これを服属させる。 || |- | 960年 || rowspan="6" | [[趙匡胤|太祖]] || [[建隆]] || 1 || '''[[趙匡胤]]、後周[[柴宗訓|恭帝]]より禅譲を受け、宋朝建つ'''。<br/>宋に於いての最初の科挙が行われる。 || |- | 963年 || rowspan="2" | [[乾徳 (宋)|乾徳]] || 1 || [[荊南]]・[[楚 (十国)|楚]]を滅ぼす。 || (朝鮮)高麗、宋に入朝。 |- | 965年 || 3 || [[後蜀 (十国)|後蜀]]を滅ぼす。 || |- | 971年 || rowspan="3" | [[開宝]] || 4 || [[南漢]]を滅ぼす。<br/>『[[大蔵経]]』の出版事業を開始する。 || |- | 973年 || 6 || [[殿試]]の開始。 || |- | 975年 || 8 || [[南唐]]を滅ぼす。<br/>『[[旧五代史]]』の完成。 || |- | 976年 || rowspan="11" | [[太宗 (宋)|太宗]] || rowspan="6" | [[太平興国]] || 1 || '''太祖、崩御'''。'''弟の趙光義(太宗)が跡を継ぐ'''([[千載不決の議]])。 || |- | 978年 || 3 || [[呉越]]、自ら国を献じて滅ぶ。<br/>『[[太平広記]]』の完成。 || |- | 979年 || 4 || [[北漢]]を滅ぼし、'''中国統一なる'''。 || |- | 980年 || 5 || [[差役法]]を定める。 || (西夏)[[タングート]]の[[李継捧]]が定難軍節度使の地位を継ぐ。 |- | 982年 || 7 || || (遼)[[聖宗 (遼)|聖宗]]が立つ。<br/>(西夏)李継捧が自ら領土を宋に献じ、反対した[[李継遷]]が宋に反乱を起こす。 |- | 983年 || 8 || 『[[太平御覧]]』の完成。 || |- | 986年 || [[雍熙]] || 2 || 『[[文苑英華]]』の完成。 || |- | 992年 || rowspan="3" | [[淳化]] || 2 || [[常平倉]]を設置。 || |- | 993年 || 3 || 四川にて[[王小波 (宋)|王小波]]らが[[四川均産一揆]]を起こす(-995年) || |- | 994年 || 4 || || (遼)(朝鮮)高麗、遼に服属する。 |- | 997年 || [[至道]] || 3 || '''太宗、崩御。[[真宗 (宋)|真宗]]が跡を継ぐ'''。[[転運使]]を設置。 || |- | 1002年 || rowspan="9" | [[真宗 (宋)|真宗]] || rowspan="2" | [[咸平]] || 5 || || (西夏)李継遷、宋の霊州を陥落させて西平府と改名する。 |- | 1003年 || 6 || || (西夏)李継遷戦死。[[李徳明]]が跡を継ぐ。 |- | 1004年 || rowspan="2" | [[景徳]] || 1 || colspan="2" | (宋)(遼)'''遼聖宗、宋へ侵攻'''。'''[[澶淵の盟]]が結ばれる'''。 |- | 1007年 || 4 || 昌南鎮、[[景徳鎮]]と改名。 || |- | 1008年 || rowspan="4" | [[大中祥符]] || 1 || 天書舞い降り、真宗が[[封禅]]の儀を行う。 || |- | 1010年 || 3 || || (ベトナム)[[李朝 (ベトナム)|李朝]]の成立。 |- | 1012年 || 5 || '''[[占城稲]]'''が導入される。 || |- | 1013年 || 6 || 『[[冊府元亀]]』の完成。 || |- | 1022年 || [[乾興 (宋)|乾興]] || 1 || '''真宗崩御'''。'''[[仁宗 (宋)|仁宗]]が跡を継ぐ'''。[[限田法]]施行。 || |- | 1022年 || rowspan="7" | [[仁宗 (宋)|仁宗]] || rowspan="2" | [[天聖]] || 1 || '''官営[[交子]]の発行を始める'''。 || |- | 1031年 || 9 || || (西夏)李徳明死去し、[[李元昊]]が継ぐ。 |- | 1038年 || [[宝元]] || 1 || || (西夏)'''李元昊、皇帝となり大夏と号す'''。 |- | 1044年 || [[慶暦]] || 4 || colspan="2" | (宋)(西夏)李元昊を夏国主とし、和約が結ばれる([[慶暦]]和約) |- | 1053年 || [[皇祐]] || 5 || 『[[新五代史]]』完成。 || |- | 1060年 || rowspan="2" | [[嘉祐]] || 5 || [[王安石]]、『万言書』を上奏する。『[[新唐書]]』完成。 || |- | 1063年 || 8 || '''仁宗、崩御'''。'''[[英宗 (宋)|英宗]]が跡を継ぐ'''。 || |- | 1067年 || [[英宗 (宋)|英宗]] || [[治平 (宋)|治平]] || 4 || '''英宗、崩御'''。'''[[神宗 (宋)|神宗]]が跡を継ぐ'''。|| |- | 1069年 || rowspan="6" | [[神宗 (宋)|神宗]] || rowspan="3" | [[熙寧]] || 2 || 王安石、[[参知政事]]となり、'''新法改革の開始'''(新法に関する詳しい年表は[[新法・旧法の争い]]を参照のこと)。 || |- | 1072年 || 5 || 吐蕃を征し、熙河路を置く。 || |- | 1076年 || 9 || 王安石、引退。 || |- | 1080年 || rowspan="3" | [[元豊 (宋)|元豊]] || 3 || '''[[元豊の改革]]開始'''。 || |- | 1084年 || 7 || '''[[司馬光]]『[[資治通鑑]]』の完成'''。 || |- | 1085年 || 8 || '''神宗、崩御'''、'''哲宗が跡を継ぐ'''。'''宣仁太皇太后が司馬光を用いて新法を廃止させる([[元祐更化]])'''。 || |- | 1093年 || rowspan="3" | [[哲宗 (宋)|哲宗]] || [[元祐]] || 8 || 宣仁太皇太后死去。哲宗が親政を始める。 || |- | 1094年 || [[紹聖]] || 1 || [[章惇]]が宰相となり、再び新法を行う。 || |- | 1100年 || [[元符]] || 3 || '''哲宗崩御'''。'''[[徽宗]]が跡を継ぐ'''。[[向太后]]が新法党・旧法党の融和を図る。 || |- | 1101年 || rowspan="12" | [[徽宗]] || [[建中靖国]] || 1 || 向太后、死去。徽宗親政を始める。 || |- | 1102年 || [[崇寧]] || 1 || [[蔡京]]、宰相となり新法を進めると共に旧法党を弾圧。 || |- | 1107年 || [[大観 (宋)|大観]] || 1 || 四川で交子に代わって[[銭引]]を使うようになる。 || |- | 1113年 || rowspan="3" | [[政和]] || 3 || || (金)[[女真]]の[[阿骨打]]が[[完顔部]]の族長となる。 |- | 1114年 || 4 || || (金)阿骨打、遼に対して反旗を翻す。[[猛安・謀克]]の制を定める。 |- | 1115年 || 5 || || (金)阿骨打、金皇帝に即位。遼軍を打ち破る。 |- | 1118年 || [[重和]] || 1 || colspan="2" | (宋)(金)金に使者を送り、遼を挟撃する盟約を結ぶ([[海上の盟]]) |- | 1120年 || rowspan="5" | [[宣和]] || 2 || [[方臘の乱]]勃発。 || |- | 1121年 || 3 || 方臘の乱、鎮圧。 || |- | 1122年 || 4 || colspan="2" | (宋)(金)(遼)[[童貫]]、遼の[[燕京]]を攻撃するも失敗。金軍に依頼し、燕京を陥落させる。 |- | 1124年 || 6 || || (金)(西夏)西夏、金に服属。 |- | 1125年 || 7 || colspan="2" | (宋)(金)(遼)'''金、遼[[天祚帝]]を捕らえ、遼滅亡。宋の背信行為により金、開封を包囲。徽宗、退位して[[欽宗]]が跡を継ぐ。 ''' |- | 1126年 || [[欽宗]] || [[靖康]] || 1 || (宋)(金)'''金軍、開封を陥落させる'''。 || (金)(高麗)高麗、金に服属。 |- | 1127年 || 南宋[[高宗 (宋)|高宗]] || [[建炎]] || 1 || colspan="2" | (宋)(金)'''金、徽宗・欽宗を北に連れ去り、北宋滅亡([[靖康の変]])。高宗、南で即位する([[南宋]])''' |} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 全般・通史 === * 『世界歴史大系 中国史 3 五代 - 元』([[梅原郁]]他、[[山川出版社]]、1997年。ISBN 4634461706) * 『五代と宋の興亡』([[周藤吉之]]・中島敏、[[講談社学術文庫]]、2004年。ISBN 4061596799) * 「北宋史概説」([[宮崎市定]]、『世界文化史体系12 宋元時代』、[[誠文堂新光社]]、1935年)、『アジア史研究』・全集の10に所収。 * 『世界の歴史6 東アジア世界の変貌』([[堀敏一]]他、[[筑摩書房]]、1961年) * 『図説 中国の歴史 宋王朝と新文化』([[梅原郁]]、[[講談社]]、1977年) * 『民族の世界史5 漢民族と中国社会』([[斯波義信]]他、山川出版社、1983年。ISBN 4634440504) * 『中国の歴史07・中国思想と宗教の奔流』([[小島毅]]、講談社、2005年。ISBN 4062740575) === 論集 === * 『[[岩波講座世界歴史|岩波講座・世界歴史]]9 内陸アジア世界の展開1、東アジア世界の展開1』([[佐伯富]]他、[[岩波書店]]、1970年) * 『東洋史学論集-宋代史研究とその周辺-』([[中島敏]]、[[汲古書院]]、1988年) * 『戦後日本の中国史論争』、[[谷川道雄]]編、[[河合文化教育研究所]]、1993年。ISBN 487999989X) === 政治 === * [[佐伯富]] ** 1969年『中国史研究 第1』([[東洋史研究会]]) ** 1971年『第2』 ** 1987年『中国塩政史の研究』([[法律文化社]]、ISBN 4589013371) * [[曾我部静雄]] *#1937年「宋代軍隊の入墨について」(『東洋学報』24-3)、1943に収録。 *#1943年『支那政治習俗論放』(筑摩書房) * [[宮崎市定]] *#『宮崎市定全集10』(岩波書店、ISBN 4000916807) *##1930年「王安石の吏士合一策 - 倉法を中心として -」(『桑原博士還暦記念東洋史論叢』) *##1945年「胥吏の陪備を中心として-支那官吏生活の一面- 」(『[[史林]]』29-4) *##1953年「宋代州県制度の由来とその特色」(『史林』36-2) *##1963年「宋代官制序説」([[佐伯富]]編『宋史職官志索引』、東洋史研究会) *#『全集11』(ISBN 4000916815) *##1954年「宋元時代の法制と裁判機構」(『東方学報(京都)』24)、『アジア史研究 第四』に収録。 *#『全集15』(ISBN 4000916858) *##1946年『科挙』([[秋田屋書店]]) *##*1987年に[[平凡社]][[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]より『科挙史』として再出版。ISBN 4582804705。 * [[日中民族科学研究所]] *#『中国歴代職官事典』([[国書刊行会]]、1980年) === 国際関係 === * [[木宮泰彦]] *#1955年『日華文化交流史』([[冨山房]]) *#*『日支交通史』として1940年に発表されたものの改訂版。 * [[森克己]] *#1948年-a『日宋貿易の研究』([[国立書院]]、ISBN 9784585032007) *#*-b『続日宋貿易の研究』 *#*-c『続々日宋貿易の研究』 *#1950年『日宋文化交流の諸問題』([[刀江書院]]) ** 以上4冊は1975年発行の『森克己著作選集』の1-4巻として、更に2008年に[[勉誠出版]]より『新編森克己著作集』の1巻として『新訂日宋貿易の研究』が再版。付記したISBNは2008年のもの。 * [[金成奎]] *#2000年『宋代の西北問題と異民族政策』([[汲古書院]]、ISBN 9784762926457) {{Commons|Song Dynasty}} {{デフォルトソート:ほくそう}} [[Category:宋朝|*1ほくそう]]
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政府の失敗
経済学において政府の失敗(せいふのしっぱい、英語:Government failure)とは、経済のメカニズムの中で、政府主導の裁量的な経済政策が意図したような成果を上げられず、経済活動が非効率化すること。 現実の政策決定は、ハーヴェイロードの前提のような理想的な状況と異なり、そのような経済合理性に基づかない政策立案・施行システムが存在する場合には経済的損失をもたらす可能性がある。ジェームズ・M・ブキャナンは、拡張的な公共投資や減税が広く支持される一方で、公共サービスの削減や増税などの黒字財政が政治的に不人気な政策となることを指摘し、「民主政治の世界では、赤字予算に比べて黒字予算が生きのびる見込みは、はるかに少ない」と語っている。 世界恐慌以降の経済政策として、ジョン・メイナード・ケインズの思想に基づき、産出量ギャップを解消するには、財政赤字を前提とした上で国債発行による資金調達を行い、公共事業に投資することが経済活性化に有効であり、失業対策にもなるとされた。だが、効率性や採算に基づかない事業が政治的判断で行われ、莫大な国債発行残高は国家財政の重荷となってしまった。 その他の政府の失敗の原因としては、計画された政策の実現までのタイムラグなどの問題があげられる。 経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは、政府の介入による利益を、「政府の失敗」がもたらす社会的損失が上回る場合、そのような甚大な消費を伴う政府の介入は撤回されるべきであるとしている。 田中秀臣は「『政府の失敗』が深刻であるからといって、市場経済に問題を丸投げすることは素朴な手法である。『政府の失敗』が除去できたからといって、『市場の失敗』の可能性が消え去るわけではない」と指摘している。
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経済学において政府の失敗とは、経済のメカニズムの中で、政府主導の裁量的な経済政策が意図したような成果を上げられず、経済活動が非効率化すること。
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南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。 靖康元年(1126年)、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構(高宗)は南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(応天府、現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛・韓世忠・張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。 和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。 秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(紹興31年、1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙眘(孝宗)が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ(隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。 金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。 孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。 孝宗は淳熙16年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、慈懿皇后の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年(1197年)には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・朱熹・彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。慶元4年(1198年)には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。 韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧2年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐)。 しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎の史弥遠により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。 韓侂冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定6年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、1234年に金は滅びた。 その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。この戦いにおいて孟珙がモンゴル軍相手に大活躍し1239年に襄陽を南宋が奪還した。その後は、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。 やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦い(中国語版)が行なわれ、モンケ親征軍が出陣した。 しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。 モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。 しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。 徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。 中央官制のみの記事になっているが、これ以外では北宋とさほど大きな違いは無いので、その他の事については北宋#政治を参照のこと。 南宋の官制は北宋の元豊体制(元豊の改革を参照)を基本的に引き継いでいる。 元豊体制での宰相は尚書左僕射兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎の2人で、徽宗代にこの2つを大宰・小宰と改名されたが、南宋になってから一時同中書門下平章事・参知政事が復活されたりし、最終的に孝宗の乾道8年(1172年)に左僕射を左丞相・右僕射を右丞相として2人の宰相とし、副宰相として参知政事を付けた。 南宋の官制というよりは、南宋の政治史の特徴として「独裁宰相」の時代が非常に長かったことが挙げられる。南宋初の秦檜・孝宗時代を挟んで韓侂冑・韓侂冑を殺した史弥遠・そして南宋末の賈似道である。この4人が政権を握っていた時代は南宋150年のうち70年近くにわたる。もっとも、南宋は北宋時代に引き続いて出身地や思想・学問上の対立などが絡んだ党派対立が激しく、こうした「独裁宰相」に対する悪評も反対派およびこれをもてはやす当時の民衆の感情に由来するところが大きく、また諌官・御史台系の言論を職務とする官僚の進言によって皇帝がしばしば人事や政策をひっくり返してきた宋代において、政敵の徹底的排除なくして政権を保つことができなかった実情も無視することはできない。南宋時代に長期政権を維持した他の宰相(王淮・史嵩之・丁大全など)にも類似の傾向をみることができる。 これ以外の点では元豊体制とほぼ変わらず、2人の丞相の下に来るのが実務機関たる六部(戸部・吏部・刑部・兵部・礼部・工部)である。ただ唐代には人事権が吏部の元に集約されていたが、宋では高級文武官の人事は中書と枢密院、特に中書の手に握られていたことが大きな違いである。 更に言えば戸部・吏部・刑部の三者に比して兵部・礼部・工部の三者の重要性が著しく劣るということは特筆すべきことと思われる。兵部は枢密院が存続しているために実質的に取り扱うことは少なく、礼部・工部は元より重要性が低い。そのため例えば礼部尚書として他の戸部尚書などと同格として扱われているものの実質的にはその権能は限られたものであり、いわゆる「伴食大臣」となっていたのである。 一見すると「伴食大臣」を朝廷に置いておくことは無意味に思える。しかしこれら「伴食大臣」に実務能力は低いものの硬骨な人物を置いておき、いわばこれを「御意見番」として取り扱うことが朝廷のバランスを取る上で一定の意味があったと考えられるのである。 宋 (王朝)#経済・金融を参照。 宋 (王朝)#社会を参照。 宋 (王朝)#文化を参照。 南宋の外交相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した金、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした元(モンゴル帝国)である。北宋時代に関係があった高麗や西夏などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上技術が進んだこと、平清盛の登場などにより日本との関係は盛んになる。 宋を従えた金は高麗・西夏・大理国なども従え東アジアの覇者となった。しかしその経済的地盤は弱く、宋からの歳貢が無ければその経済活動を支えきれず、その歳貢にしても宋からの輸入品に対する決済で使い果たされる状態であった。 宋と金とは約100年にわたって中国を二分していた。両国の間では金から宋に対しては馬・絹などが、宋から金に対しては銀・銅銭・陶磁器・香料・書画・書物などが交易でやり取りされた。ここで特筆すべきことがこの交易品目は北宋代に華北と江南でやり取りされていたものとほとんど同じであるということである。つまり北と南で治める国が異なるとはいえ、江南の物資が華北を支えるという中国の経済システムはほとんど変わりなく、更に発展を遂げていたのである。その後の元、更には明・清の経済システムも基本的にはこの延長線上にあるものである。 1127年、金軍は開封を包囲陥落させ、欽宗・徽宗以下官僚・皇族数千人を北へ連れ去り、開封には傀儡として宋の大臣張邦昌を皇帝に据え、楚と号させることにした(靖康の変)。 金軍が引き上げた後、張邦昌は今後の対応を哲宗の皇后であった孟氏の薦めにより、皇帝を退位し欽宗の弟の趙構を南京(応天府、現在の商丘市)にて帝位に迎えた(高宗)。1132年に高宗は金の追撃を避けて杭州へと逃げ込み、ここを仮の首都として臨安と称した。 1130年に金は粘没喝の主導の下、宋の地方知事であった劉豫を傀儡の皇帝に据え、斉と号させた。金と斉は宋を何度も攻撃するが、宋の側もある程度の体勢を整え、軍閥勢力を中心とした軍をもって金・斉軍に対抗したため膠着状態に陥った。ここで粘没喝の政敵である撻懶は方針を転換、捕らえていた秦檜を解放し、宋を滅ぼすのではなく有利な条件での和約を望むようになった。 撻懶の思惑通り秦檜は宋の朝廷で力を発揮し和平論を進め、1138年に などの条件で和約が結ばれた。 その直後に撻懶が粘没喝らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、1141年に絹5万匹の増額・「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された(紹興の和議)。 銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、歳貢を送るとなっていることが重要である。遼に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。ところが金に対しては臣として仕えねばならず、送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる宋学的考えからは到底認めがたい物であり、南宋を通じて北伐論は止むことが無かった。 1149年に金の第3代皇帝熙宗を殺して新たに帝位に就いた海陵王は1161年に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに世宗が擁立された。世宗は国内統制に忙しいため宋に対して とかなり宋に譲歩した和約を結んだ(乾道和約)。 宋の孝宗・金の世宗の2人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。寧宗時期で専権を振るった韓侂冑は金の窮状を好機と捉え、1206年に北伐を開始する(開禧用兵)。しかしこの出兵は失敗に終わり、韓侂冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。 宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルではチンギス・カンが登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から契丹人が離反、1214年に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、これを撃退した。 追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、自らも滅ぼされた海上の盟のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。そして1234年、金の最後の皇帝哀宗は自殺し、金は完全に滅亡した。 金が滅ぼされるとその領土は蔡州と陳州とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。 背信に怒ったモンゴル皇帝オゴデイは宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に1241年にオゴデイが崩御し、その後継を巡ってグユクとモンケの間で争いが起こり、最終的に1251年にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。 国内を安定させたモンケは弟のクビライに対して大理国の征伐を命じ、クビライはこれに応えて1253年に征服を完了。モンケ自身も1258年に親征し、クビライ・ウリヤンカダイを別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。 しかし1259年にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟のアリクブケの間で争いとなり、1264年にアリクブケが降伏してクビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、1267年になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、1276年に臨安を占領され、更に1279年に最後の皇帝衛王も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は陳朝に亡命した。 日宋貿易も参照 長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制は徐々に崩れていった。その流れは平氏政権の成立とともに更に加速し、平清盛は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時福原京に遷都した。 一方、宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。 交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。 航海技術に不安のあった日本商船は最初は高麗へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に初めて現れるのが紹興15年(久安元年、1145年)に「日本商人男女19人が温州に漂着した」)というのが最初で、南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。 平氏政権が倒れ、鎌倉幕府が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、源実朝は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。また、鎌倉幕府も御分唐船という直営の交易船を出すようになったと言われているが、詳細については不明である。 鎌倉時代の中期頃になると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、建長6年(1254年)に唐船は5隻までそれ以上は破却せよという命令を出している。その命令の前後より宋はモンケの親征(1253年 - 1259年)を受けた。 咸淳2年(1266年、元至元3年、日本文永3年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。更にクビライの親征(1268年 - 1279年)に代わって、1279年の崖山の戦いでついに滅亡した。 宋が滅んだ後、元寇などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、日宋貿易は基本的に日元貿易へと引き継がれた。 北宋では太祖の子孫ではなく、その弟である太宗の子孫が帝位を継承していたが、高宗には子がなく兄弟も金へ連行されていたため、太祖の次男趙徳芳の子孫である趙伯琮が養子となって帝位を継ぎ、帝位が太祖の系統へと移動している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "靖康元年(1126年)、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構(高宗)は南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(応天府、現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛・韓世忠・張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(紹興31年、1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙眘(孝宗)が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ(隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "孝宗は淳熙16年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、慈懿皇后の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年(1197年)には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・朱熹・彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。慶元4年(1198年)には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧2年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎の史弥遠により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "韓侂冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定6年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、1234年に金は滅びた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。この戦いにおいて孟珙がモンゴル軍相手に大活躍し1239年に襄陽を南宋が奪還した。その後は、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦い(中国語版)が行なわれ、モンケ親征軍が出陣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中央官制のみの記事になっているが、これ以外では北宋とさほど大きな違いは無いので、その他の事については北宋#政治を参照のこと。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "南宋の官制は北宋の元豊体制(元豊の改革を参照)を基本的に引き継いでいる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "元豊体制での宰相は尚書左僕射兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎の2人で、徽宗代にこの2つを大宰・小宰と改名されたが、南宋になってから一時同中書門下平章事・参知政事が復活されたりし、最終的に孝宗の乾道8年(1172年)に左僕射を左丞相・右僕射を右丞相として2人の宰相とし、副宰相として参知政事を付けた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "南宋の官制というよりは、南宋の政治史の特徴として「独裁宰相」の時代が非常に長かったことが挙げられる。南宋初の秦檜・孝宗時代を挟んで韓侂冑・韓侂冑を殺した史弥遠・そして南宋末の賈似道である。この4人が政権を握っていた時代は南宋150年のうち70年近くにわたる。もっとも、南宋は北宋時代に引き続いて出身地や思想・学問上の対立などが絡んだ党派対立が激しく、こうした「独裁宰相」に対する悪評も反対派およびこれをもてはやす当時の民衆の感情に由来するところが大きく、また諌官・御史台系の言論を職務とする官僚の進言によって皇帝がしばしば人事や政策をひっくり返してきた宋代において、政敵の徹底的排除なくして政権を保つことができなかった実情も無視することはできない。南宋時代に長期政権を維持した他の宰相(王淮・史嵩之・丁大全など)にも類似の傾向をみることができる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これ以外の点では元豊体制とほぼ変わらず、2人の丞相の下に来るのが実務機関たる六部(戸部・吏部・刑部・兵部・礼部・工部)である。ただ唐代には人事権が吏部の元に集約されていたが、宋では高級文武官の人事は中書と枢密院、特に中書の手に握られていたことが大きな違いである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "更に言えば戸部・吏部・刑部の三者に比して兵部・礼部・工部の三者の重要性が著しく劣るということは特筆すべきことと思われる。兵部は枢密院が存続しているために実質的に取り扱うことは少なく、礼部・工部は元より重要性が低い。そのため例えば礼部尚書として他の戸部尚書などと同格として扱われているものの実質的にはその権能は限られたものであり、いわゆる「伴食大臣」となっていたのである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一見すると「伴食大臣」を朝廷に置いておくことは無意味に思える。しかしこれら「伴食大臣」に実務能力は低いものの硬骨な人物を置いておき、いわばこれを「御意見番」として取り扱うことが朝廷のバランスを取る上で一定の意味があったと考えられるのである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "宋 (王朝)#経済・金融を参照。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "宋 (王朝)#社会を参照。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "宋 (王朝)#文化を参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南宋の外交相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した金、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした元(モンゴル帝国)である。北宋時代に関係があった高麗や西夏などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上技術が進んだこと、平清盛の登場などにより日本との関係は盛んになる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "宋を従えた金は高麗・西夏・大理国なども従え東アジアの覇者となった。しかしその経済的地盤は弱く、宋からの歳貢が無ければその経済活動を支えきれず、その歳貢にしても宋からの輸入品に対する決済で使い果たされる状態であった。", "title": "国際関係" }, { 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"paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "などの条件で和約が結ばれた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その直後に撻懶が粘没喝らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、1141年に絹5万匹の増額・「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された(紹興の和議)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、歳貢を送るとなっていることが重要である。遼に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。ところが金に対しては臣として仕えねばならず、送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる宋学的考えからは到底認めがたい物であり、南宋を通じて北伐論は止むことが無かった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1149年に金の第3代皇帝熙宗を殺して新たに帝位に就いた海陵王は1161年に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに世宗が擁立された。世宗は国内統制に忙しいため宋に対して", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "とかなり宋に譲歩した和約を結んだ(乾道和約)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "宋の孝宗・金の世宗の2人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。寧宗時期で専権を振るった韓侂冑は金の窮状を好機と捉え、1206年に北伐を開始する(開禧用兵)。しかしこの出兵は失敗に終わり、韓侂冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルではチンギス・カンが登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から契丹人が離反、1214年に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、これを撃退した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、自らも滅ぼされた海上の盟のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。そして1234年、金の最後の皇帝哀宗は自殺し、金は完全に滅亡した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "金が滅ぼされるとその領土は蔡州と陳州とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "背信に怒ったモンゴル皇帝オゴデイは宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に1241年にオゴデイが崩御し、その後継を巡ってグユクとモンケの間で争いが起こり、最終的に1251年にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国内を安定させたモンケは弟のクビライに対して大理国の征伐を命じ、クビライはこれに応えて1253年に征服を完了。モンケ自身も1258年に親征し、クビライ・ウリヤンカダイを別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "しかし1259年にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟のアリクブケの間で争いとなり、1264年にアリクブケが降伏してクビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、1267年になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、1276年に臨安を占領され、更に1279年に最後の皇帝衛王も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は陳朝に亡命した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日宋貿易も参照", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制は徐々に崩れていった。その流れは平氏政権の成立とともに更に加速し、平清盛は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時福原京に遷都した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方、宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "航海技術に不安のあった日本商船は最初は高麗へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に初めて現れるのが紹興15年(久安元年、1145年)に「日本商人男女19人が温州に漂着した」)というのが最初で、南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "平氏政権が倒れ、鎌倉幕府が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、源実朝は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。また、鎌倉幕府も御分唐船という直営の交易船を出すようになったと言われているが、詳細については不明である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "鎌倉時代の中期頃になると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、建長6年(1254年)に唐船は5隻までそれ以上は破却せよという命令を出している。その命令の前後より宋はモンケの親征(1253年 - 1259年)を受けた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "咸淳2年(1266年、元至元3年、日本文永3年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。更にクビライの親征(1268年 - 1279年)に代わって、1279年の崖山の戦いでついに滅亡した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "宋が滅んだ後、元寇などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、日宋貿易は基本的に日元貿易へと引き継がれた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "北宋では太祖の子孫ではなく、その弟である太宗の子孫が帝位を継承していたが、高宗には子がなく兄弟も金へ連行されていたため、太祖の次男趙徳芳の子孫である趙伯琮が養子となって帝位を継ぎ、帝位が太祖の系統へと移動している。", "title": "南宋の皇帝と元号" } ]
南宋は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。
{{参照方法|date=2019年6月}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 南宋 |日本語国名 = 南宋 |公式国名 = 宋 |建国時期 = [[1127年]] |亡国時期 = [[1279年]] |国旗画像 = |国旗リンク = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章幅 = |標語 = |標語追記 = |国歌 = |国歌追記 = |位置画像 = 南宋疆域图(繁).png |位置画像説明 = 南宋及び金の地図 |位置画像幅 = 250px |公用語 = [[古官話]] |先代1 = 北宋 |先旗1 = blank.png |先代2 = 楚 (張邦昌) |先旗2 = blank.png |次代1 = 元 (王朝) |次旗1 = Flag of the Mongol Empire.svg |次旗1縁 = no |次代2 = |次旗2 = |首都 = [[杭州|臨安]] |元首等肩書 = [[皇帝 (中国)|皇帝]] |元首等年代始1 = [[1127年]] |元首等年代終1 = [[1162年]] |元首等氏名1 = [[高宗 (宋)|高宗]] |元首等年代始2 = [[1274年]] |元首等年代終2 = [[1276年]] |元首等氏名2 = [[恭帝 (宋)|恭帝]] |元首等年代始3 = [[1278年]] |元首等年代終3 = [[1279年]] |元首等氏名3 = [[祥興帝]] |首相等肩書 = [[中国の宰相|丞相]] |首相等年代始1 = [[1131年]] |首相等年代終1 = [[1155年]] |首相等氏名1 = [[秦檜]] |首相等年代始2 = [[1278年]] |首相等年代終2 = [[1279年]] |首相等氏名2 = [[陸秀夫]] |面積測定時期1 = [[1127年]] |面積値1 = 2,100,000 |面積測定時期2 = [[1204年]] |面積値2 = 1,800,000 |人口測定時期1 = [[1218年]] |人口値1 = 80,600,000 |人口測定時期2 = |人口値2 = |変遷1 = 建国 |変遷年月日1 = [[1127年]] |変遷2 = [[紹興の和議]] |変遷年月日2 = [[1142年]] |変遷3 = [[開禧用兵]] |変遷年月日3 = [[1206年]] |変遷4 = [[襄陽・樊城の戦い]] |変遷年月日4 = [[1267年]] - [[1273年]] |変遷5 = [[崖山の戦い]]で滅亡 |変遷年月日5 = [[1279年]] |通貨 = [[交子]]など |通貨追記 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |現在 = {{PRC}}<br>{{ROC}}([[金門県]]、[[連江県]]) |注記 = }} {{中国の歴史}} '''南宋'''(なんそう、[[1127年]] - [[1279年]])は、[[中国]]の[[王朝]]の一つ。[[趙匡胤]]が建国した[[北宋]]が、[[女真|女真族]]の[[金 (王朝)|金]]に[[華北]]を奪われた後、南遷して[[淮河]]以南の地に再興した政権。首都は[[杭州|臨安]]であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは[[北宋]]・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を[[宋 (王朝)]]で解説することとする。 == 歴史 == {{中国の歴史}} === 建国 === [[靖康]]元年([[1126年]])、北宋最後の皇帝[[欽宗]]が[[金 (王朝)|金]]によって[[開封府|開封]]から北に連れ去られ([[靖康の変]])、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構([[高宗 (宋)|高宗]])は南に移って、翌年の[[建炎]]元年([[1127年]])に南京([[宋州 (河南省)|応天府]]、現在の[[商丘市]])で即位し、宋を再興した。はじめ[[岳飛]]・[[韓世忠]]・[[張俊 (武将)|張俊]]らの活躍によって金に強固に抵抗するが、[[秦檜]]が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。 和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。[[紹興 (宋)|紹興]]10年([[1140年]])には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年([[1142年]])、宋と金の間で和議([[紹興の和議]])が成立し、[[淮河]]から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。 === 孝宗の治世 === 秦檜の死後に金の第4代皇帝[[海陵王]]が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、[[采石磯の戦い]](紹興31年、[[1161年]])で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、[[世宗 (金)|世宗]])が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して[[太上皇]]となり、養子の趙眘([[孝宗 (宋)|孝宗]])が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ([[隆興の和議]]、または[[乾道の和議]]とも言う)。 金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。 孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子([[紙幣]])の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。 === 韓侂冑時代 === 孝宗は[[淳熙]]16年([[1189年]])に退位して上皇となり、[[光宗 (宋)|光宗]]が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、[[李鳳娘|慈懿皇后]]の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相[[趙汝愚]]・[[韓侂冑]]などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、[[慶元]]元年([[1195年]])、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年([[1197年]])には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・[[朱熹]]・彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。慶元4年([[1198年]])には朱熹の[[朱子学]](当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を[[慶元の党禁]]という。 韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた[[恭淑皇后]]と慈懿皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方の[[タタール]]などの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、[[開禧]]2年([[1206年]])に[[北伐]]の軍を起こす([[開禧の北伐]])。 しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年([[1207年]])、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた[[礼部]][[侍郎]]の[[史弥遠]]により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の[[嘉定 (南宋)|嘉定]]元年([[1208年]])に再び和議がもたれた([[嘉定の和議]])。 === モンゴルの脅威 === 韓侂冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北の[[モンゴル高原]]には[[モンゴル帝国]]が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した[[紹定]]6年([[1233年]])にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝[[哀宗 (金)|哀宗]]を宋軍と協力して追い詰めて、[[1234年]]に金は滅びた。 {{main|端平入洛}} その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して[[洛陽]]・開封を[[端平入洛|手に入れた]]。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は[[1235年]]に南進を開始する。この戦いにおいて[[孟珙]]がモンゴル軍相手に大活躍し[[1239年]]に[[襄陽府|襄陽]]を南宋が奪還した。その後は、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。 やがて、[[開慶]]元年([[1259年]])に{{仮リンク|釣魚城の戦い|zh|釣魚城之戰}}が行なわれ、[[モンケ]]親征軍が出陣した。 === 滅亡へ === {{main|モンゴル・南宋戦争}} しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときに[[クビライ]]が攻めていた[[鄂州]]に援軍にやってきた[[賈似道]]はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。 モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。 しかしモンゴル平原で[[アリクブケ]]を倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、[[1268年]]から[[1273年]]までの5年間にわたる包囲戦([[襄陽・樊城の戦い]])で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。 [[徳祐]]2年([[1276年]])、モンゴルの[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]に臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、[[張世傑]]・[[陸秀夫]]ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。[[祥興]]2年([[1279年]])に彼らは[[広州湾]]の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた([[崖山の戦い]])。 == 政治 == 中央官制のみの記事になっているが、これ以外では北宋とさほど大きな違いは無いので、その他の事については[[北宋#政治]]を参照のこと。 === 官制 === 南宋の官制は北宋の元豊体制([[元豊の改革]]を参照)を基本的に引き継いでいる。 元豊体制での宰相は尚書左僕射兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎の2人で、徽宗代にこの2つを大宰・小宰と改名されたが、南宋になってから一時[[同中書門下平章事]]・[[参知政事]]が復活されたりし、最終的に孝宗の[[乾道 (宋)|乾道]]8年([[1172年]])に左僕射を左丞相・右僕射を右丞相として2人の宰相とし、副宰相として参知政事を付けた。 南宋の官制というよりは、南宋の政治史の特徴として「独裁宰相」の時代が非常に長かったことが挙げられる。南宋初の[[秦檜]]・孝宗時代を挟んで[[韓侂冑]]・韓侂冑を殺した[[史弥遠]]・そして南宋末の[[賈似道]]である。この4人が政権を握っていた時代は南宋150年のうち70年近くにわたる。もっとも、南宋は北宋時代に引き続いて出身地や思想・学問上の対立などが絡んだ党派対立が激しく、こうした「独裁宰相」に対する悪評も反対派およびこれをもてはやす当時の民衆の感情に由来するところが大きく、また諌官・御史台系の言論を職務とする官僚の進言によって皇帝がしばしば人事や政策をひっくり返してきた宋代において、政敵の徹底的排除なくして政権を保つことができなかった実情も無視することはできない。南宋時代に長期政権を維持した他の宰相([[王淮]]・[[史嵩之]]・[[丁大全]]など)にも類似の傾向をみることができる<ref>衣川強「秦檜の講和政策と南宋初期の官界」『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)所収、同書「結び」も参照</ref>。 これ以外の点では元豊体制とほぼ変わらず、2人の丞相の下に来るのが実務機関たる六部([[戸部 (六部)|戸部]]・[[吏部]]・[[刑部]]・[[兵部]]・[[礼部]]・[[工部 (六部)|工部]])である。ただ唐代には人事権が吏部の元に集約されていたが、宋では高級文武官の人事は中書と[[枢密院 (中国)|枢密院]]、特に中書の手に握られていたことが大きな違いである。 更に言えば戸部・吏部・刑部の三者に比して兵部・礼部・工部の三者の重要性が著しく劣るということは特筆すべきことと思われる。兵部は枢密院が存続しているために実質的に取り扱うことは少なく、礼部・工部は元より重要性が低い。そのため例えば礼部尚書として他の戸部尚書などと同格として扱われているものの実質的にはその権能は限られたものであり、いわゆる「伴食大臣」となっていたのである。 一見すると「伴食大臣」を朝廷に置いておくことは無意味に思える。しかしこれら「伴食大臣」に実務能力は低いものの硬骨な人物を置いておき、いわばこれを「御意見番」として取り扱うことが朝廷のバランスを取る上で一定の意味があったと考えられるのである<ref>この節は特に注記が無い限りは宮崎1963・『中国歴代職官事典』を参照。</ref>。 == 経済 == [[宋 (王朝)#経済・金融]]を参照。 == 社会 == [[宋 (王朝)#社会]]を参照。 == 文化 == [[宋 (王朝)#文化]]を参照。 == 国際関係 == === 概説 === 南宋の外交相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した[[金 (王朝)|金]]、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした[[元 (王朝)|元]]([[モンゴル帝国]])である。北宋時代に関係があった[[高麗]]や[[西夏]]などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上技術が進んだこと、[[平清盛]]の登場などにより[[日本]]との関係は盛んになる。 宋を従えた金は高麗・西夏・大理国なども従え[[東アジア]]の覇者となった。しかしその経済的地盤は弱く、宋からの歳貢が無ければその経済活動を支えきれず、その歳貢にしても宋からの輸入品に対する決済で使い果たされる状態であった。 宋と金とは約100年にわたって中国を二分していた。両国の間では金から宋に対しては馬・絹などが、宋から金に対しては銀・銅銭・陶磁器・香料・書画・書物などが交易でやり取りされた。ここで特筆すべきことがこの交易品目は北宋代に華北と江南でやり取りされていたものとほとんど同じであるということである。つまり北と南で治める国が異なるとはいえ、江南の物資が華北を支えるという中国の経済システムはほとんど変わりなく、更に発展を遂げていたのである。その後の元、更には[[明]]・[[清]]の経済システムも基本的にはこの延長線上にあるものである。 === 各国との関係 === ==== 金 ==== [[1127年]]、金軍は開封を包囲陥落させ、[[欽宗]]・[[徽宗]]以下官僚・皇族数千人を北へ連れ去り、開封には傀儡として宋の大臣[[張邦昌]]を皇帝に据え、楚と号させることにした([[靖康の変]])。 金軍が引き上げた後、張邦昌は今後の対応を[[哲宗 (宋)|哲宗]]の皇后であった孟氏の薦めにより、皇帝を退位し欽宗の弟の趙構を南京(応天府、現在の[[商丘市]])にて帝位に迎えた([[高宗 (宋)|高宗]])。[[1132年]]に高宗は金の追撃を避けて杭州へと逃げ込み、ここを仮の首都として臨安と称した。 [[1130年]]に金は[[粘没喝]]の主導の下、宋の地方知事であった[[劉豫]]を傀儡の皇帝に据え、斉と号させた。金と斉は宋を何度も攻撃するが、宋の側もある程度の体勢を整え、軍閥勢力を中心とした軍をもって金・斉軍に対抗したため膠着状態に陥った。ここで粘没喝の政敵である[[撻懶]]は方針を転換、捕らえていた[[秦檜]]を解放し、宋を滅ぼすのではなく有利な条件での和約を望むようになった。 撻懶の思惑通り秦檜は宋の朝廷で力を発揮し和平論を進め、[[1138年]]に #斉は解体し、その領土は宋のものとする。 #宋帝は金帝に対して臣礼をとる。 #宋から金に銀25万両・絹20万匹を歳貢として送る。 などの条件で和約が結ばれた。 その直後に撻懶が粘没喝らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、[[1141年]]に絹5万匹の増額・「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された([[紹興の和議]])。 銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、歳貢を送るとなっていることが重要である。[[遼]]に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。ところが金に対しては臣として仕えねばならず、送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる[[宋 (王朝)#儒教|宋学]]的考えからは到底認めがたい物であり、南宋を通じて[[北伐]]論は止むことが無かった。 [[1149年]]に金の第3代皇帝[[熙宗 (金)|熙宗]]を殺して新たに帝位に就いた[[海陵王]]は[[1161年]]に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに[[世宗 (金)|世宗]]が擁立された。世宗は国内統制に忙しいため宋に対して #国境は現状維持。 #金が君・宋が臣の関係から金を叔父・宋を甥の関係にする。 #歳貢を歳幣に改め、銀絹それぞれ5万の減額。 とかなり宋に譲歩した和約を結んだ([[乾道の和議|乾道和約]])。 宋の孝宗・金の世宗の2人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。[[寧宗 (宋)|寧宗]]時期で専権を振るった韓侂冑は金の窮状を好機と捉え、[[1206年]]に北伐を開始する([[開禧用兵]])。しかしこの出兵は失敗に終わり、韓侂冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。 宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルでは[[チンギス・カン]]が登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から[[契丹]]人が離反、[[1214年]]に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、これを撃退した。 追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、自らも滅ぼされた[[海上の盟]]のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。そして[[1234年]]、金の最後の皇帝[[哀宗 (金)|哀宗]]は自殺し、金は完全に滅亡した。 === モンゴル・元 === 金が滅ぼされるとその領土は[[蔡州 (河南省)|蔡州]]と[[陳州]]とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。 背信に怒ったモンゴル皇帝[[オゴデイ]]は宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に[[1241年]]にオゴデイが崩御し、その後継を巡って[[グユク]]と[[モンケ]]の間で争いが起こり、最終的に[[1251年]]にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。 国内を安定させたモンケは弟の[[クビライ]]に対して[[大理国]]の征伐を命じ、クビライはこれに応えて[[1253年]]に征服を完了。モンケ自身も[[1258年]]に親征し、クビライ・[[ウリヤンカダイ]]を別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。 しかし[[1259年]]にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟の[[アリクブケ]]の間で争いとなり、[[1264年]]にアリクブケが降伏してクビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、[[1267年]]になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、[[1276年]]に臨安を占領され、更に[[1279年]]に最後の皇帝[[祥興帝|衛王]]も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は陳朝に亡命した。 === 日本 === ''[[日宋貿易]]も参照'' 長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制は徐々に崩れていった。その流れは[[平氏政権]]の成立とともに更に加速し、[[平清盛]]は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時[[福原京]]に遷都した。 一方、宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。 交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。 航海技術に不安のあった日本商船は最初は[[高麗]]へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に初めて現れるのが[[紹興 (宋)|紹興]]15年([[久安]]元年、[[1145年]])に「日本商人男女19人が温州に漂着した」<ref>『[[建炎以来繋年要録]]』</ref>)というのが最初で、南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。 平氏政権が倒れ、[[鎌倉幕府]]が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、[[源実朝]]は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。また、鎌倉幕府も[[御分唐船]]という直営の交易船を出すようになったと言われているが、詳細については不明である。 鎌倉時代の中期頃になると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、[[建長]]6年([[1254年]])に唐船は5隻までそれ以上は破却せよという命令を出している<ref>『[[吾妻鏡]]』</ref>。その命令の前後より宋は[[モンケ]]の親征(1253年 - 1259年)を受けた。 [[咸淳]]2年([[1266年]]、元[[至元 (元世祖)|至元]]3年、日本[[文永]]3年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。更に[[クビライ]]の親征(1268年 - 1279年)に代わって、[[1279年]]の[[崖山の戦い]]でついに滅亡した。 宋が滅んだ後、[[元寇]]などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、日宋貿易は基本的に[[日元貿易]]へと引き継がれた<ref>この節は木宮1955・森1948a・1948b・1948c・1950を参照</ref>。 == 南宋の皇帝と元号 == 北宋では[[趙匡胤|太祖]]の子孫ではなく、その弟である[[太宗 (宋)|太宗]]の子孫が帝位を継承していたが、高宗には子がなく兄弟も金へ連行されていたため、太祖の次男[[趙徳芳]]の子孫である[[孝宗 (宋)|趙伯琮]]が養子となって帝位を継ぎ、帝位が太祖の系統へと移動している。 [[ファイル:宋帝国系図.PNG|thumb|right|360px|宋帝国系図]] #[[高宗 (宋)|高宗]] [[1127年]]-[[1162年]] ##[[建炎]] 1127年-[[1130年]] ##[[紹興 (宋)|紹興]] [[1131年]]-1162年 #[[孝宗 (宋)|孝宗]] 1162年-[[1189年]] ##[[隆興]] [[1163年]]-[[1164年]] ##[[乾道 (宋)|乾道]] [[1165年]]-[[1173年]] ##[[淳熙]] [[1174年]]-1189年 #[[光宗 (宋)|光宗]] 1189年-[[1194年]] ##[[紹熙]] [[1190年]]-1194年 #[[寧宗 (宋)|寧宗]] 1194年-[[1224年]] ##[[慶元]] [[1195年]]-[[1200年]] ##[[嘉泰 (宋)|嘉泰]] [[1201年]]-[[1204年]] ##[[開禧]] [[1205年]]-[[1207年]] ##[[嘉定 (南宋)|嘉定]] [[1208年]]-1224年 #[[理宗]] 1224年-[[1264年]] ##[[宝慶]] [[1225年]]-[[1227年]] ##[[紹定]] [[1228年]]-[[1233年]] ##[[端平]] [[1234年]]-[[1236年]] ##[[嘉熙]] [[1237年]]-[[1240年]] ##[[淳祐 (南宋)|淳祐]] [[1241年]]-[[1252年]] ##[[宝祐]] [[1253年]]-[[1258年]] ##[[開慶]] [[1259年]] ##[[景定]] [[1260年]]-1264年 #[[度宗]] 1264年-[[1274年]] ##[[咸淳]] [[1265年]]-1274年 #[[恭帝 (宋)|恭帝]] 1274年-[[1276年]] ##[[徳祐]] [[1275年]]-1276年 #[[端宗 (宋)|端宗]] 1276年-[[1278年]] ##[[景炎]] 1276年-1278年 #[[祥興帝|衛王]] 1278年-[[1279年]] ##[[祥興]] 1278年-1279年 == 年表 == {| class="wikitable" style="text-align:center; vertical-align:middle; background-color:white;" |- ! 年 !! 皇帝 !! colspan="2" | 元号 !! 国内 !! 国外 |- | [[1127年|1127]] || ! style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="15" | [[高宗 (宋)|高宗]] || rowspan="3" | [[建炎]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)'''[[靖康の変]]。北宋滅ぶ。'''徽宗・欽宗、北方に連れ去られ、[[張邦昌]]が金により楚皇帝に立てられる。'''趙構、南京で即位する(高宗)。''' |- | [[1129年|1129]] || 3 || colspan="2" | (宋)(金)[[杭州]]を臨安府に昇格させて行在とする。金軍、杭州を陥れる。 |- | [[1130年|1130]] || 4 || colspan="2" | (宋)(金)高宗、金の攻撃を避けて[[温州 (浙江省)|温州]]へ逃れる。[[劉豫]]が金により斉皇帝に立てられる。[[秦檜]]、帰還して礼部尚書とされる。 |- | [[1131年|1131]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="12" | [[紹興 (宋)|紹興]] || 元 || 秦檜、宰相となる。 || |- | [[1132年|1132]] || 2 || 高宗、臨安へ帰還する。 || (遼)[[遼]]の皇族[[耶律大石]]が[[西遼]]を建国。 |- | [[1135年|1135]] || 5 || 徽宗、北方の地で死去する。 || (金)[[太宗 (金)|太宗]]崩御し、[[熙宗 (金)|熙宗]]立つ。 |- | [[1137年|1137]] || 7 || || (金)金が斉を廃して直接支配に切り替える。 |- | [[1138年|1138]] || 8 || 正式に臨安が都となる。 || |- | [[1142年|1142]] || 12 || colspan="2" | (宋)(金)'''宋と金で和約がなる([[紹興の和議|紹興和約]])。''' |- | [[1149年|1149]] || 19 || || (金)'''熙宗を弑逆して[[海陵王]]が帝位に就く。''' |- | [[1153年|1153]] || 23 || || (金)[[上京会寧府|会寧府]]から燕京へと遷都する。 |- | [[1155年|1155]] || 25 || 秦檜、死去。 || |- | [[1156年|1156]] || 26 || || (日本)[[保元の乱]]。 |- | [[1159年|1159]] || 29 || || (日本)[[平治の乱]]。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1161年|1161]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 31 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(金)'''海陵王、親征して南宋を征服せんとするが、国内に反乱頻発し、部下により暗殺される。代わって[[世宗 (金)|世宗]]が立つ。'''(宋)'''高宗、退位して[[太上皇|上皇]]となり、[[孝宗 (宋)|孝宗]]が立つ。'''会子の発行を始める。 |- | [[1163年|1163]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="9" | [[孝宗 (宋)|孝宗]] || [[隆興]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)淮北へ進撃した宋軍が金軍に大敗する。 |- | [[1165年|1165]] || rowspan="4" | [[乾道 (宋)|乾道]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)'''宋と金で和約がなる([[乾道の和議|乾道和約]])。''' |- | [[1167年|1167]] || 3 || || (日本)[[平清盛]]、[[太政大臣]]となる。 |- | [[1168年|1168]] || 4 || || (日本)僧[[明菴栄西|栄西]]が入宋。 |- | [[1172年|1172]] || 8 || colspan="2" | (宋)(日本)'''孝宗、[[趙伯圭|明州知州]]を通じて[[後白河天皇|後白河法皇]]と[[平清盛]]に国書と贈り物を送る([[日宋貿易]])。''' |- | [[1174年|1174]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="4" |[[淳熙]] || 元 || [[交州|交趾]]の[[李英宗|李天祚]]を[[李朝 (ベトナム)|安南]]国王に冊封する。 || |- | [[1175年|1175]] || 2 || [[朱熹]]と[[陸象山|陸九淵]]の[[鵞湖の会]]がもたれる。 || |- | [[1185年|1185]] || 12 || || (日本)[[平氏政権|平氏]]滅亡。[[鎌倉幕府]]の成立。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1189年|1189]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 16 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''孝宗、退位して上皇となる。[[光宗 (宋)|光宗]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" | |- | [[1192年|1192]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="2" | [[光宗 (宋)|光宗]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="2" | [[紹熙]] || 3 || || (日本)[[源頼朝]]、[[征夷大将軍]]となる。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1194年|1194]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 5 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''光宗、[[趙汝愚]]・[[韓侂冑]]らにより退位させられ[[寧宗 (宋)|寧宗]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" | (金)[[黄河]]が氾濫して水路が二股に分かれる。 |- | [[1195年|1195]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="15" | [[寧宗 (宋)|寧宗]] || rowspan="2" | [[慶元]] || 元 || 韓侂冑、趙汝愚・朱熹らの一派を偽学の党に追い込んで弾圧する([[慶元党禁]])。 || |- | [[1200年|1200]] || 6 || 朱熹、死去。 || |- | [[1204年|1204]] || [[嘉泰 (宋)|嘉泰]] || 4 || [[岳飛]]、鄂王に追封される。 || |- | [[1206年|1206]] || rowspan="2" | [[開禧]] || 2 || colspan="2" | (宋)(金)韓侂冑の主導により北伐が実行される([[開禧用兵]])。(モンゴル)'''テムジンが[[チンギス・カン]]となる。''' |- | [[1207年|1207]] || 3 || 韓侂冑、[[史弥遠]]により殺される。 || |- | [[1208年|1208]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="10" | [[嘉定 (南宋)|嘉定]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)'''和約を結び直す([[嘉定の和議|嘉定和約]])。'''(宋)史弥遠、宰相となる。 |- | [[1209年|1209]] || 2 || 偽学の党に対する禁令が解ける。 || |- | [[1211年|1211]] || 4 || || (金)(モンゴル)モンゴル、[[第一次対金戦争|金を攻撃]]。契丹の[[耶律留哥]]、金に反旗を翻す。 |- | [[1214年|1214]] || 7 || colspan="2" | (宋)(金)(モンゴル)宋、金に送る歳幣を停止する。'''金、モンゴルの脅威を避けて中都から開封へと遷都。''' |- | [[1215年|1215]] || 8 || || (金)(モンゴル)モンゴル、中都を陥落させる。 |- | [[1217年|1217]] || 10 || colspan="2" | (宋)(金)金、歳幣支給の停止を口実に宋への侵攻を始める。 |- | [[1218年|1218]] || 11 || colspan="2" | (宋)(金)山東軍閥の[[李全]]、宋に帰順する。 |- | [[1221年|1221]] || 14 || 臨安の[[岳王廟]]が建てられる。 || (日本)[[承久の乱]]。 |- | [[1223年|1223]] || 16 || || (日本)僧[[道元]]が入宋。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1224年|1224]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 17 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''寧宗崩御。[[理宗]]が立つ。'''|| style="border-bottom:3px solid #100" | |- | [[1227年|1227]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="17" | [[理宗]] || [[宝慶]] || 3 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)李全、宋を裏切ってモンゴルに投降する。'''モンゴルの攻撃により[[西夏]]滅ぶ。チンギス崩御。[[オゴデイ]]立つ。''' |- | [[1231年|1231]] || rowspan="2" | [[紹定]] || 4 || colspan="2" | (宋)(金)(モンゴル)[[揚州 (古代)|揚州]]を攻めた李全が敗死。[[第二次対金戦争|金攻略]]に乗り出したモンゴル軍が宋の境内を経由して河南へ進撃する。 |- | [[1233年|1233]] || 6 || 史弥遠、死去。理宗、親政を始める([[端平更化]])。 || (金)(モンゴル)モンゴル、開封を陥落。金の[[哀宗 (金)|哀宗]]は[[汝南県|蔡州]]へ逃げる。 |- | [[1234年|1234]] || rowspan="2" | [[端平]] || 元 || colspan="2" | (宋)(金)(モンゴル)'''宋・モンゴル、蔡州を挟撃して陥落。哀宗の自決により金滅亡。'''宋、開封・洛陽を回復するが、モンゴルに奪い返される([[端平入洛]])。 |- | [[1235年|1235]] || 2 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)モンゴルの大軍が[[モンゴル・南宋戦争|宋に侵攻する]]。 |- | [[1239年|1239]] || [[嘉熙]] || 3 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)宋、モンゴルの攻勢を撃退させ、長江中流域にわたって防御線を構築する。 |- | [[1241年|1241]] || rowspan="4" | [[淳祐 (南宋)|淳祐]] || 元 || '''朱熹、[[孔子廟]]に従祀されることで[[朱子学]]が儒学の正統となる。''' || (モンゴル)オゴデイ崩御。[[グユク]]が立つが、その継承を巡ってモンゴル国内は争いとなる。 |- | [[1247年|1247]] || 7 || || (日本)[[宝治合戦]]。 |- | [[1251年|1251]] || 11 || || (モンゴル)後継争いを収めて[[モンケ]]が立つ。 |- | [[1252年|1252]] || 12 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)宋、[[四川]]に侵入したモンゴル軍を阻止する。 |- | [[1254年|1254]] || rowspan="3" | [[宝祐]] || 2 || || (モンゴル)[[クビライ]]、[[雲南・大理遠征|大理国を滅ぼして雲南が平定される]]。 |- | [[1257年|1257]] || 5 || || (モンゴル)[[ウリヤンカダイ]]、[[陳朝|安南]]を攻めて服属させる。 |- | [[1258年|1258]] || 6 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)モンケ、伐宋戦のために出征。モンゴル軍は四方に分かれて攻める。 |- | [[1259年|1259]] || [[開慶]] || 元 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)'''宋攻撃中にモンケが崩御。モンゴル軍は引き上げてクビライと[[アリクブケ]]の[[モンゴル帝国帝位継承戦争|継承争い]]となる。''' |- | [[1260年|1260]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="3" | [[景定]] || 元 || [[賈似道]]、右丞相に起用され朝廷の全権を掌握する。 || |- | [[1263年|1263]] || 4 || 賈似道により[[公田法]]が行われる。 || |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1264年|1264]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 5 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''理宗崩御。[[度宗]]が立つ。''' || style="border-bottom:3px solid #100" | (モンゴル)クビライ、アリクブケを降し、正式にモンゴル皇帝となる。 |- | [[1267年|1267]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="4" | [[度宗]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="4" | [[咸淳]] || 3 || colspan="2" | (宋)(モンゴル)モンゴル軍が南下し、再び南宋攻略に乗り出す。 |- | [[1271年|1271]] || 7 || || (モンゴル)'''国号を[[元 (王朝)|大元]]に改める。''' |- | [[1273年|1273]] || 9 || colspan="2" | (宋)(元)'''[[襄陽・樊城の戦い|襄陽・樊城の陥落]]。宋の対モンゴル防御線が瓦解される。''' |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1274年|1274]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 10 || style="border-bottom:3px solid #100" | '''度宗崩御。[[恭帝 (宋)|恭帝]]が立つ。'''|| style="border-bottom:3px solid #100" | (元)(日本)[[元寇|文永の役]]。 |- | [[1275年|1275]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="2" | [[恭帝 (宋)|恭帝]] || style="border-bottom:3px solid #100" rowspan="2" | [[徳祐]] || 元 || 賈似道、対モンゴル戦の敗北で失脚して殺される。 || |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1276年|1276]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 2 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(元)'''臨安陥落。恭帝が降伏し宋事実上の滅亡。'''一部の宋残党により[[端宗 (宋)|端宗]]が擁立される。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1278年|1278]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[端宗 (宋)|端宗]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[景炎]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 3 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(元)端宗崩御。[[祥興帝|衛王]]が擁立される。 |- | style="border-bottom:3px solid #100" | [[1279年|1279]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[祥興帝|衛王]] || style="border-bottom:3px solid #100" | [[祥興]] || style="border-bottom:3px solid #100" | 2 || style="border-bottom:3px solid #100" colspan="2" | (宋)(元)衛王入水。宋完全滅亡。 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 全般・通史 === * 『世界歴史大系・中国史3』([[梅原郁]]他、山川出版社、[[1997年]] ISBN 4634461706) * 『五代と宋の興亡』([[周藤吉之]]・中島敏、[[講談社学術文庫]]、[[2004年]] ISBN 4061596799) * 「南宋政治史概説」([[宮崎市定]]、『支那地理歴史体系』4、[[白揚社]]、[[1941年]])、『アジア史研究』2・全集の10に所収。 * 『世界の歴史6 東アジア世界の変貌』([[堀敏一]]他、[[筑摩書房]]、[[1961年]]) * 『図説 中国の歴史 宋王朝と新文化』([[梅原郁]]、[[1977年]]、[[講談社]]) * 『民族の世界史5 漢民族と中国社会』([[斯波義信]]他、[[山川出版社]]、[[1983年]]、ISBN 4634440504) * 『中国の歴史07・中国思想と宗教の奔流』([[小島毅]]、[[講談社]]、[[2005年]] ISBN 4062740575) === 論集 === * 『[[岩波講座世界歴史|岩波講座・世界歴史]]9 内陸アジア世界の展開1、東アジア世界の展開1』([[佐伯富]]他、[[岩波書店]]、[[1970年]]) * 『東洋史学論集-宋代史研究とその周辺-』([[中島敏]]、[[汲古書院]]、[[1988年]]) * 『戦後日本の中国史論争』、[[谷川道雄]]編、[[河合文化教育研究所]]、1993年、ISBN 487999989X) === 政治 === * [[宮崎市定]] *#『宮崎市定全集10』([[岩波書店]]、ISBN 4000916807) *##[[1963年]]「宋代官制序説」([[佐伯富]]編『宋史職官志索引』、[[東洋史研究会]]) * [[日中民族科学研究所]] *#『中国歴代職官事典』([[国書刊行会]]、[[1980年]]) === 国際関係 === * [[木宮泰彦]] *#[[1955年]]『日華文化交流史』([[冨山房]]) *#*『日支交通史』として[[1940年]]に発表されたものの改訂版。 * [[外山軍治]] *#[[1963年]]『金朝史研究』([[同朋舎]]) * [[森克己]] *#[[1948年]]-a『日宋貿易の研究』([[国立書院]]、ISBN 9784585032007) *#*-b『続日宋貿易の研究』 *#*-c『続々日宋貿易の研究』 *#[[1950年]]『日宋文化交流の諸問題』([[刀江書院]]) ** 以上4冊は『森克己著作選集』(国書刊行会)1-4巻として[[1975年]][[8月]]に発行。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{デフォルトソート:なんそう}} [[Category:宋朝|*2なんそう]] [[Category:中国の王朝]] [[en:Song Dynasty#Southern Song, 1127–1279]]
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元町・中華街駅
元町・中華街駅(もとまち・ちゅうかがいえき)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜高速鉄道みなとみらい線の駅。同線の終点である。駅番号はMM06。副名称は「山下公園(やましたこうえん)」。 計画段階での仮称は「元町駅」であった。これに対し横浜中華街関係者が『中華街』を加えて「元町中華街駅」とするように要望したが、元町商店街関係者が「中華街と一緒にするな」と反対するなど、水面下で元町商店街側と横浜中華街側で論争となっていた。結局、駅名は元町と中華街の間に「・」(中点)を使用した上で両方の名前を並記することになり、さらに観光地としての知名度が高い『山下公園』が副名称として加わった。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。元町口寄りは中村川の直下に位置している。伊東豊雄建築設計事務所が設計を行い、施工は熊谷組・東洋建設・相鉄建設JVが担当した。 2013年3月16日より相互直通先である東急東横線が渋谷駅での東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線との相互直通運転開始に伴い、特急・通勤特急・急行を現行の8両編成から10両編成に増強させるため有効長延伸工事が行われた。みなとみらい線も東横線を介して副都心線方面に直通する。 駅舎(東側改札口および元町口)上部には全国初の立体都市公園となるアメリカ山公園がある。 みなとみらい線では土曜・休日ダイヤのみ運行する有料座席指定列車「S-TRAIN」が発着する。 夜間留置が2本設定されている。 改札は東西別々に2か所あり、それぞれ以下の出入口とつながっている(出入口は全6か所あり、番号付けがされている)。 2022年度の1日平均乗降人員は54,705人(乗車人員:26,586人、降車人員:28,119人)である。みなとみらい線の駅では横浜駅、みなとみらい駅に次ぐ第3位である。 開業以来の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。 駅周辺地区(関内・関外地区)は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである「横浜都心」に指定されている。 元町商店街もしくは中華街を抜けてJR根岸線の石川町駅までは10分程度である。 開業後3か月ほどは構内通路のほぼ直上にテレビ神奈川本社があったが、太田町へ移転した。 「中華街入口」(朝陽門、出口1・2) / 「山下町(タワー入口)」 (出口3・4) - 横浜市営バス・神奈川中央交通(11系統のみ) 「元町入口」(出口5) - 横浜市営バス・神奈川中央交通(11系統のみ)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "元町・中華街駅(もとまち・ちゅうかがいえき)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜高速鉄道みなとみらい線の駅。同線の終点である。駅番号はMM06。副名称は「山下公園(やましたこうえん)」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "計画段階での仮称は「元町駅」であった。これに対し横浜中華街関係者が『中華街』を加えて「元町中華街駅」とするように要望したが、元町商店街関係者が「中華街と一緒にするな」と反対するなど、水面下で元町商店街側と横浜中華街側で論争となっていた。結局、駅名は元町と中華街の間に「・」(中点)を使用した上で両方の名前を並記することになり、さらに観光地としての知名度が高い『山下公園』が副名称として加わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅である。元町口寄りは中村川の直下に位置している。伊東豊雄建築設計事務所が設計を行い、施工は熊谷組・東洋建設・相鉄建設JVが担当した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2013年3月16日より相互直通先である東急東横線が渋谷駅での東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線との相互直通運転開始に伴い、特急・通勤特急・急行を現行の8両編成から10両編成に増強させるため有効長延伸工事が行われた。みなとみらい線も東横線を介して副都心線方面に直通する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "駅舎(東側改札口および元町口)上部には全国初の立体都市公園となるアメリカ山公園がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "みなとみらい線では土曜・休日ダイヤのみ運行する有料座席指定列車「S-TRAIN」が発着する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "夜間留置が2本設定されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "改札は東西別々に2か所あり、それぞれ以下の出入口とつながっている(出入口は全6か所あり、番号付けがされている)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2022年度の1日平均乗降人員は54,705人(乗車人員:26,586人、降車人員:28,119人)である。みなとみらい線の駅では横浜駅、みなとみらい駅に次ぐ第3位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "開業以来の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駅周辺地区(関内・関外地区)は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである「横浜都心」に指定されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元町商店街もしくは中華街を抜けてJR根岸線の石川町駅までは10分程度である。 開業後3か月ほどは構内通路のほぼ直上にテレビ神奈川本社があったが、太田町へ移転した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「中華街入口」(朝陽門、出口1・2) / 「山下町(タワー入口)」", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(出口3・4) - 横浜市営バス・神奈川中央交通(11系統のみ)", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「元町入口」(出口5) - 横浜市営バス・神奈川中央交通(11系統のみ)", "title": "駅周辺" } ]
元町・中華街駅(もとまち・ちゅうかがいえき)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜高速鉄道みなとみらい線の駅。同線の終点である。駅番号はMM06。副名称は「山下公園(やましたこうえん)」。
{{Otheruses||元町・中華街という副名称を使っている駅|石川町駅}} {{Redirect|中華街駅|「チャイナタウン」(Chinatown)を名乗るその他の駅|チャイナタウン駅}} {{駅情報 |社色 = #09357f |文字色 = |駅名 = 元町・中華街駅 |画像 = File:Motomachi-Chukagai Station Exit5.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 元町口(2010年12月) |地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point}} |よみがな = もとまち・ちゅうかがい |ローマ字 = Motomachi-Ch&#363;kagai |副駅名 = 山下公園 - Yamashita-K&#333;en |隣の駅 = |前の駅 = MM05 [[日本大通り駅|日本大通り]] |駅間A = 0.9 |駅間B = |次の駅 = |駅番号 = {{駅番号r|MM|06|#09357f|3}} |所属事業者 = [[横浜高速鉄道]] |所属路線 = {{color|#09357f|■}}[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]] |キロ程 = 4.1 |起点駅 = [[横浜駅|横浜]] |所在地 = [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[山下町 (横浜市)|山下町]]65 |緯度度 = 35 |緯度分 = 26 |緯度秒 = 32.7 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 39 |経度秒 = 1.7 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[2004年]]([[平成]]16年)[[2月1日]]<ref name="press20030709" /> |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="市統計" name="yokohamah2022" />54,705 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} '''元町・中華街駅'''(もとまち・ちゅうかがいえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[山下町 (横浜市)|山下町]]にある、[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]の[[鉄道駅|駅]]。同線の終点である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''MM06'''。副名称は「'''[[山下公園]]'''(やましたこうえん)」。 == 歴史 == * [[2004年]]([[平成]]16年)[[2月1日]]:みなとみらい線の開通と同時に開業<ref name="press20030709">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/030709.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217054958/https://www.tokyu.co.jp/file/030709.pdf|format=PDF|language=日本語|title=みなとみらい21線の開業日・東急東横線との相互直通運転の開始日が決まりました!|publisher=横浜高速鉄道/東京急行電鉄|date=2003-07-09|accessdate=2021-01-15|archivedate=2020-12-17}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[8月7日]]:駅舎上部に全国初の立体[[都市公園]]となる[[アメリカ山公園]]が一部開園。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月28日]]:[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20200324.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200324093137/http://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20200324.pdf|format=PDF|language=日本語|title=元町・中華街駅可動式ホーム柵が稼働します|publisher=横浜高速鉄道|date=2020-03-24|accessdate=2020-03-24|archivedate=2020-03-24}}</ref>。 === 駅名の決定の経緯 === {{出典の明記|section=1|date=2017年5月20日 (土) 07:27 (UTC)}} 計画段階での仮称は「元町駅」であった<ref group="注釈">その名残で、東急東横線の一部の車両には方向幕に「元町」の表示があった。</ref>。これに対し[[横浜中華街]]関係者が『中華街』を加えて「元町中華街駅」とするように要望したが、[[元町 (横浜市)#元町商店街|元町商店街]]関係者が「中華街と一緒にするな」と反対するなど、水面下で元町商店街側と横浜中華街側で論争となっていた。結局、駅名は元町と中華街の間に「[[・]]」(中点)を使用した上で両方の名前を並記することになり、さらに観光地としての知名度が高い『[[山下公園]]』が副名称として加わった。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である。元町口寄りは中村川の直下に位置している。[[伊東豊雄]]建築設計事務所が設計を行い、施工は[[熊谷組]]・[[東洋建設]]・[[相鉄建設]][[共同企業体|JV]]が担当した<ref>{{Cite journal|和書 |url=http://www.japan-architect.co.jp/jp/works/index.php?book_cd=100403&pos=7&from=backnumber |title=作品詳細 |journal=新建築 |page=108 |issue=2004年3月号 |publisher=新建築 |accessdate=2015-01-13}}</ref>。 2013年3月16日より相互直通先である[[東急東横線]]が[[渋谷駅]]での[[東京メトロ副都心線]]・[[西武池袋線]]・[[東武東上線]]との相互直通運転開始に伴い、特急・通勤特急・急行を現行の8両編成から10両編成に増強させるため[[有効長]]延伸工事が行われた。みなとみらい線も東横線を介して副都心線方面に直通する。 駅舎(東側改札口および元町口)上部には全国初の立体都市公園となる[[アメリカ山公園]]がある。 みなとみらい線では土曜・休日ダイヤのみ運行する有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」が発着する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201127142858/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有料座席指定列車の愛称・詳細が決定! 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2017-01-10|accessdate=2021-01-18|archivedate=2020-11-27}}</ref>。 夜間留置が2本設定されている。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/station/motomachi/motomachi_wy.html |title=<nowiki>時刻表 | 元町・中華街駅 | みなとみらい線</nowiki> |publisher=横浜高速鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1・2 |[[File:Number prefix Minatomirai.svg|15px]] みなとみらい線 |[[横浜駅|横浜]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]方面 |} === 改札・出入口 === [[改札]]は東西別々に2か所あり、それぞれ以下の出入口とつながっている(出入口は全6か所あり、番号付けがされている)。 ; 西側改札口 : [[山下公園]]口 (1) : [[山下町 (横浜市)|山下町]]口 (2) : [[横浜中華街|中華街]]口 (3) : [[横浜マリンタワー|マリンタワー]]口 (4) ; 東側改札口 : [[元町 (横浜市)|元町]]口 (5) - 「[[ヤマザキデイリーストア]]」を併設、横浜高速鉄道本社入口 : アメリカ山公園口 (6) <gallery widths="210" heights="160"> ファイル:Motomachi-Chukagai-STA West-Gate.jpg|西側改札口(2021年12月) ファイル:Motomachi-Chukagai-STA East-Gate.jpg|東側改札口(2021年12月) ファイル:Motomachi-Chukagai-STA Home.jpg|ホーム(2021年12月) </gallery> == 利用状況 == 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''54,705人'''(乗車人員:26,586人、降車人員:28,119人)である<ref group="市統計" name="yokohamah2022" />。みなとみらい線の駅では横浜駅、[[みなとみらい駅]]に次ぐ第3位である。 開業以来の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員 !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref group="*">[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.html 横浜市統計書] - 横浜市</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref group="*">[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県県勢要覧]</ref> !出典 |- |<ref group="注釈">2004年2月1日開業。</ref>2003年(平成15年) | | | |- |2004年(平成16年) |45,113 |21,490 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 224ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |47,321 |23,004 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 224ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |49,634 |24,226 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 226ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |51,998 |25,518 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 230ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |53,529 |26,174 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 240ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |54,904 |26,769 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 238ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |53,815 |26,196 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}} - 238ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |54,172 |26,565 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}} - 234ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |56,112 |27,499 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 236ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |60,394 |29,541 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 238ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |59,148 |29,079 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 238ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |60,326 |29,646 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 246ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="MM" name="yokohamah2016">{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|title=各駅の乗降人員と広告・出店・催事スペースのご案内|format=|publisher=横浜高速鉄道株式会社|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181202200740/http://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|archivedate=2018-12-02}}</ref>61,361 |30,129 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20180614094521if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 238ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="MM" name="yokohamah2017">{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|title=各駅の乗降人員と広告・出店・催事スペースのご案内|format=|publisher=横浜高速鉄道株式会社|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190401111233/http://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|archivedate=2019-04-01}}</ref>62,658 |30,792 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20190702120542if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成30年]}} - 222ページ</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="MM" name="yokohamah2018">{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|title=各駅の乗降人員と広告・出店・催事スペースのご案内|format=|publisher=横浜高速鉄道株式会社|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200513154305/http://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|archivedate=2020-05-13}}</ref>64,569 |31,664 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 令和元年]}} - 222ページ</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="MM" name="yokohamah2019">{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|title=各駅の乗降人員と広告・出店・催事スペースのご案内|format=|publisher=横浜高速鉄道株式会社|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210510224550/https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|archivedate=2021-05-10}}</ref>63,291 |31,048 | |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="MM" name="yokohamah2020">{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|title=各駅の乗降人員と広告・出店・催事スペースのご案内|format=|publisher=横浜高速鉄道株式会社|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220616061508/https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|archivedate=2022-06-16}}</ref>39,611 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="MM" name="yokohamah2021">{{Cite web|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|title=各駅の乗降人員と広告・出店・催事スペースのご案内|format=|publisher=横浜高速鉄道株式会社|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220827113613/https://www.mm21railway.co.jp/media/space/minatomirai_sta.html|archivedate=2022-08-27}}</ref>45,066 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="市統計" name="yokohamah2022">{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.files/t091303-year.csv|title=みなとみらい線乗降車人員_年次/最新掲載:令和4年度|format=csv|publisher=横浜市|accessdate=2023-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230618020801/https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.files/t091303-year.csv|archivedate=2023-06-18}}</ref>54,705 | | |} == 駅周辺 == 駅周辺地区([[関内]]・関外地区)は、横浜市における[[都心]](ツインコア)の一つである「横浜都心」に指定されている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/kikaku/cityplan/master/kaitei/kaitei/pdf/kaiteiplan.pdf 横浜市都市計画マスタープラン(全体構想)]}}平成25年3月発行。編集・発行、横浜市都市整備局企画部企画課。</ref>。 * [[元町 (横浜市)|元町商店街]] * [[横浜中華街]] * 横浜高速鉄道本社 * 中税務署 * 横浜山下町[[郵便局]] * [[ホテルニューグランド]] * [[横浜人形の家]] * [[横浜マリンタワー]] *港山下nanairo * [[山下公園]] ** 観光船ターミナル *** [[ポートサービス#定期航路|シーバス]](赤レンガ倉庫・みなとみらい21・横浜駅東口方面) *** [[ポートサービス#定期航路|マリーンシャトル・マリーンルージュ]](遊覧船) ** [[日本郵船]][[氷川丸]] * [[山手 (横浜市)|山手]] ** [[アメリカ山公園]](当駅の駅舎上部に造られた立体都市公園) ** [[横浜外国人墓地]] ** [[港の見える丘公園]] ** [[山手資料館]] ** [[大佛次郎]]記念館 ** [[神奈川近代文学館]] ** [[学校法人岩崎学園|岩崎博物館(ゲーテ座記念)]] ** [[横浜インターナショナルスクール]] ** [[国家公務員共済組合連合会|KKRポートヒル横浜]] ** [[横浜地方気象台]] 元町商店街もしくは中華街を抜けてJR[[根岸線]]の[[石川町駅]]までは10分程度である。 開業後3か月ほどは構内通路のほぼ直上に[[テレビ神奈川]]本社があったが、太田町へ移転した。 <gallery widths="210" heights="160"> ファイル:Yokohama Minatomirai Railway Company.jpg|横浜高速鉄道本社(2010年12月) </gallery> === 路線バス === '''「中華街入口」'''(朝陽門、出口1・2) / '''「山下町(タワー入口)」 '''(出口3・4) - [[横浜市営バス]]・[[神奈川中央交通]](11系統のみ) * 北方向乗り場 ** <[[横浜市営バス磯子営業所#2系統|2]]> 上大岡駅行(羽衣町経由) ** <[[横浜市営バス本牧営業所#8・168・363系統|8]] 横浜駅前行(日本大通り駅県庁前・桜木町駅前・花咲橋経由) ** <[[横浜市営バス本牧営業所#20系統|20]]> 山下ふ頭行(平日朝のみ)、桜木町駅行 **<109> 横浜駅前行(日本大通り駅県庁前・桜木町駅前・[[ぴあアリーナMM]]経由) ** <[[横浜市営バス本牧営業所#8・168・363系統|168]]> 横浜駅前行(ぴあアリーナMM経由) ** <[[神奈川中央交通舞岡営業所#YAMATE LINER(桜木町駅 - 保土ケ谷駅方面)|11]]> 桜木町駅前行 * 南方向乗り場 ** <2> [[横浜市立みなと赤十字病院|みなと赤十字病院]]行 ** <8> 本牧車庫前行(みなと赤十字病院入口・本牧経由) ** <20> [[山手駅]]前行(港の見える丘公園前経由) ** <58> 磯子車庫前行(みなと赤十字病院入口・本牧・[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]前・[[磯子駅]]前経由、平日8本のみみなと赤十字病院も経由) **<109> L8バース・流通センター循環 ** <11> [[保土ケ谷駅|保土ヶ谷駅]]東口行(港の見える丘公園前経由) '''「元町入口」'''(出口5) - 横浜市営バス・神奈川中央交通(11系統のみ) * 北方向乗り場 ** <11> 桜木町駅前行(日本大通り駅県庁前経由) ** <[[横浜市営バス本牧営業所#271系統(観光スポット周遊バス「あかいくつ」)|あかいくつ]]> 桜木町駅前行(大さん橋客船ターミナル経由) ** <20> 山下ふ頭行(平日朝のみ)、桜木町駅行 * 南方向乗り場 ** <11> 保土ヶ谷駅東口行(港の見える丘公園前経由) ** <あかいくつ> 港の見える丘公園循環 ** <20> 山手駅前行(港の見える丘公園前経由) == 今後の予定 == * 駅の終点側の線路を延長し、港の見える丘公園の地下に10両編成4本を留置可能な[[引き上げ線]]兼[[留置線]]を設置する計画が進行中である<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.mm21railway.co.jp/info/news/2022/05/post-120.html|title=みなとみらい線車両留置場の整備事業について|publisher=[[横浜高速鉄道]]|date=2022-05-27|accessdate=2022-10-01}}</ref><ref>{{Cite News |title=横浜高速鉄道/300m車両留置場を計画|publisher= 建設通信新聞デジタル|date= |url=https://www.kensetsunews.com/archives/135598|accessdate=2018-4-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171208174803/https://www.kensetsunews.com/archives/135598|archivedate=2017-12-08}}</ref>。 * みなとみらい線が当駅より[[本牧]]を通り[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]、[[磯子駅]]方面に延伸する計画があるが、現在は凍結されている。 * [[横浜市営地下鉄]][[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]が中山駅から[[二俣川駅]]や[[上大岡駅]]を通って根岸駅より当駅に乗り入れる計画があるが、こちらはみなとみらい線とほぼ同じルートを通る予定である。 == 隣の駅 == ; 横浜高速鉄道 : [[File:Number prefix Minatomirai.svg|15px]] みなとみらい線 :* {{Color|#0066cc|□}}[[S-TRAIN]]発着駅 :: {{Color|#f7931d|■}}特急 ::: [[みなとみらい駅]] (MM03) - '''元町・中華街駅 (MM06)''' :: {{Color|#f7931d|□}}通勤特急・{{Color|#ef3123|■}}急行・{{Color|#1359a9|■}}各駅停車(渋谷方面 通勤特急・急行はみなとみらいまで各駅に停車) ::: [[日本大通り駅]] (MM05) - '''元町・中華街駅 (MM06)''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === ==== 記事本文の出典 ==== {{reflist|2}} ==== 利用状況の出典 ==== ;1日平均利用客数 {{Reflist|group="MM"|2}} ;データ {{Reflist|group="*"}} ;神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}} ; 横浜市統計書 {{Reflist|group="市統計"|16em}} == 関連項目 == {{commonscat|Motomachi-Chūkagai Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[元町駅 (曖昧さ回避)|その他の元町駅]] == 外部リンク == * [https://www.mm21railway.co.jp/station/motomachi/ 横浜高速鉄道 元町・中華街駅] {{横浜高速鉄道みなとみらい21線}} {{DEFAULTSORT:もとまちちゆうかかいえき}} [[Category:横浜市中区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 も|とまちちゆうかかい]] [[Category:横浜高速鉄道]] [[Category:横浜中華街]] [[Category:2004年開業の鉄道駅]] [[Category:交通に関する呼称問題]] [[Category:伊東豊雄]] [[Category:関内]]
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横浜高速鉄道みなとみらい線
みなとみらい線(みなとみらいせん)は、神奈川県横浜市西区の横浜駅から同市中区の元町・中華街駅までを結ぶ横浜高速鉄道の鉄道路線である。都市計画法に基づく都市高速鉄道としての名称は「横浜国際港都建設計画都市高速鉄道第4号みなとみらい21線」。『鉄道要覧』記載の正式路線名はみなとみらい21線となっているが、旅客案内上は使用されていない。 路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは紺色、路線記号はMM。 2004年2月1日に開業した。全線が地下区間で、ターミナル駅の横浜駅から横浜新都心の「横浜みなとみらい21」地区や関内地区、観光地の横浜中華街など横浜市の中心部を通る。馬車道駅 - 元町・中華街駅間では本町通りの直下を走っている。最大で約800メートルほど離れているものの全線にわたって東日本旅客鉄道(JR東日本)の根岸線や横浜市営地下鉄ブルーラインと並走している。通過する地域は地盤が非常に軟弱な埋立地(太田屋新田・横浜新田)であり、各駅とも地下4階 - 地下5階と深いところを走行する。なお、全線が地下区間の路線ではあるが、国土交通省によれば当路線は「地下鉄」には含まれない。 当路線の開業に際して、東急東横線の横浜駅 - 桜木町駅間が廃止され、東急東横線と当路線の相互直通運転が開始された。東急東横線の渋谷駅から先は東京メトロ副都心線に直通運転を行い、東京メトロ副都心線を経由して東武東上線小川町駅及び西武池袋線飯能駅まで直通している。東武東上線系統の小川町駅 - 元町・中華街駅間及び西武池袋線系統の飯能駅 - 元町・中華街駅間において、日中の時間帯に特別料金不要で各線内を最速で結ぶ列車には「Fライナー」という愛称が付与される(みなとみらい線内は特急運転)。土曜・休日には観光輸送に特化して有料座席指定列車の「S-TRAIN」が当路線を経由して西武秩父線西武秩父駅 - 元町・中華街駅間で運行される。 すべての列車が横浜駅 - 元町・中華街駅間の全線通しで運転し、途中駅での折り返しはない。 運転業務は東急電鉄に委託しており、横浜駅で乗務員交代は行わず、東急電鉄の運転士が本路線内も引き続き乗務する。 駅業務は、東急電鉄が管轄している横浜駅を除き自社社員が行うが、自社社員の大半が東急電鉄からの出向者である。 列車の運行管理は横浜高速鉄道の運転指令所で制御している。鉄道設備の維持管理などについても横浜高速鉄道が対応するが、実際の作業は東急電鉄等に委託している。 横浜高速鉄道は自社の車両基地を保有しないため、夜間の車両留置は東急電鉄元住吉検車区(5編成)と元町・中華街駅(1編成)で行われる。なお、元町・中華街駅の先の港の見える丘公園の地下に、二連トンネル構造の車両留置線(4編成分)を建設する計画があり、2020年以降の建設を予定している。 元町・中華街行きの始発列車が横浜発である以外は、全列車が東急東横線と相互直通運転を実施しており、本路線と東急東横線は列車運行面では、事実上一つの路線として運行されている。 2013年3月16日に乗り入れ先である東急東横線が東京メトロ副都心線との相互直通運転を開始し、本路線も東急東横線を経由して東京メトロ副都心線と相互直通運転を実施している。東京メトロ副都心線は2008年6月14日開業時から東武東上線、西武有楽町線・西武池袋線・西武狭山線(臨時列車のみ)と相互直通運転を行っており、2017年3月25日からは西武秩父線との直通運転も開始された。これにより、東京メトロ副都心線・東急東横線を介して本路線までが一本で結ばれ、本路線を含めた鉄道5事業者(横浜高速・東急・東京メトロ・東武・西武)による相互直通運転が行われるようになった。 これに合わせ、東急東横線および本路線の速達列車(特急・通勤特急・急行)は急行の一部列車をのぞいて8両編成から10両編成に増強し、本路線の速達列車停車駅でも東急東横線と同様に10両編成の列車が停車できるようにホーム延長工事が実施された(速達列車が停車しない新高島駅も非常時に備えて延伸工事を施工しているが、通常時は柵で封鎖される)。なお、このホーム延伸を考慮した形でトンネルは建設されている。一方、各駅停車は東京メトロ副都心線直通運転開始後も全列車が8両編成での運転となる。 定期列車については横浜駅で列車種別変更を行わずに、全列車が東急東横線の列車種別を引き継いで運行される。また、東急東横線菊名駅 - みなとみらい線元町・中華街駅間は待避設備がないため、この区間については平行ダイヤとなっており、先行する列車が元町・中華街駅または菊名駅まで先着する。西武線内ではS-TRAIN・快速急行(各停除く)・快速・準急・各停で、東武東上線内は快速急行(特急のみ)・急行(各停除く)・各停で、東京メトロ副都心線内は急行(各停除く)・通勤急行(各停除く)・各停で運転されている(Fライナーも参照)。 2017年3月25日のダイヤ改正より運転を開始した。みなとみらい線初の座席指定列車。土曜・休日に2.5往復(元町・中華街行き2本、元町・中華街発3本)が運行されている。全列車が西武池袋線まで乗り入れ、うち1往復は西武秩父線西武秩父駅発着となる。みなとみらい線内は横浜駅・みなとみらい駅・元町・中華街駅に停車するが、みなとみらい線内のみの座席指定券は発行されない。 10両固定編成の西武40000系が専用で使用される。 平日は昼間のみ、土曜・休日は早朝・深夜以外の時間帯に運転。全列車が10両編成で運転される。みなとみらい線内の停車駅は横浜駅・みなとみらい駅・元町・中華街駅。西武池袋線方面は保谷駅・清瀬駅(発のみ)・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。また西武ドームでの埼玉西武ライオンズ主催試合開催日では西武球場前駅着が設定される。東武東上線方面は川越市駅・森林公園駅・小川町駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅発着が設定されている。 ほとんどの列車が東京メトロ副都心線に直通し(原則として東京メトロ副都心線内急行で運転)、基本的には西武池袋線直通小手指駅発着と東武東上線直通森林公園駅発着が1時間あたり各2本運転される(西武池袋線及び東武東上線内快速急行、朝晩を中心に途中駅発着列車あり)。2019年3月ダイヤ改正以降は、下り3本、上り1本が小川町駅発着となる。 2016年3月26日以降、東京メトロ副都心線内急行、そして西武線及び東武東上線内快速急行で運行される列車には「Fライナー」の愛称が付く。 平日の朝夕ラッシュ時間帯と夜間に運転。全列車が10両編成で運転される。原則として副都心線内は通勤急行で運転される。みなとみらい線内は新高島駅のみ通過。 西武池袋線方面は清瀬駅(着のみ)・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。東武東上線方面は志木駅(発のみ)・川越市駅・森林公園駅発着が設定されている。副都心線内発着として和光市駅・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅着が設定されている。 終日にわたって運転。みなとみらい線内は新高島駅のみ通過。8両編成と10両編成の両方が使用される。 日中は原則として渋谷駅発着と和光市駅発着が毎時2本ずつ運転され、西武池袋線・東武東上線には日中時以外に乗り入れる。直通先では菊名駅、自由が丘駅のうち1、2駅で各駅停車に連絡する列車があり、副都心線直通列車は東新宿駅で後続のFライナー(副都心線内急行)に抜かれる。朝ラッシュ時を除いて副都心線内は各駅停車。 西武池袋線方面は石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。東武東上線方面は志木駅・川越市駅・森林公園駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅・武蔵小杉駅・日吉駅(発のみ)着が設定されている。 2023年8月10日より、平日の夕ラッシュ時に下り一部列車で4・5号車に連結された指定席車Qシートのサービスが行われているが、みなとみらい線内はフリー乗降区間として指定券不要で乗降できる。 すべての列車が東急・横浜高速・東京メトロの車両による8両編成で運転されている。 主に渋谷駅発着が毎時2本、東京メトロ副都心線直通池袋駅発着と和光市駅発着が毎時2本づつ、西武池袋線直通石神井公園駅発着が毎時2本運転されている。東上線発着には志木駅発着が一部設定されているのみである。 西武池袋線方面は石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。また西武ドームでの試合日では西武球場前駅発が設定される。東武東上線方面は志木駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅・小竹向原駅(発のみ)・千川駅(発のみ)・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅・自由が丘駅(着のみ)・武蔵小杉駅・元住吉駅・日吉駅・菊名駅(着のみ)発着が設定されている。また線内運転として横浜発が設定されている。 本路線沿線で花火大会などのイベント開催により一時的な多客時輸送を行う場合、混雑のピークが予想される時間帯に限り、みなとみらい線内では全列車各駅停車とする臨時ダイヤを組む。その場合は事前に駅構内ポスターや電光掲示板、東急およびみなとみらいの公式ウェブサイト上で告知されるほか、臨時列車も運転されることもある。 クリスマスやゴールデンウィークなどにおいて、臨時列車として埼玉高速鉄道線浦和美園駅(東京メトロ南北線経由)・都営三田線高島平駅・東京メトロ日比谷線北千住駅から東急東横線を経由して元町・中華街駅まで「みなとみらい号」が運行されていた。みなとみらい線内では運転開始当初は急行として運転していたが、2007年(平成19年)4月運転分より各駅に停車するようになった。 2004年(平成16年)の設定当初は「横浜みらい号」の名称で、東急1000系を使用し、北千住駅 - 元町・中華街駅間を1往復運転した。この際、東京メトロ日比谷線内は急行運転・東急東横線内は通勤特急と同じ停車駅で運転した。2回目以降の運転時から現在の名称である「みなとみらい号」に変更し、全区間急行として運転された。その後、2004年(平成16年)の年末からは埼玉高速鉄道線(東京メトロ南北線経由)および都営三田線から東急目黒線・東急東横線を経由したみなとみらい号も運行されるようになった。2006年(平成18年)秋から東急目黒線内でも急行が設定されたため、同線内も急行運転を行うようになった。 小手指行きのFライナー(みなとみらい線・東横線内特急、副都心線内急行、西武線内快速急行)を西武線内快速に変更の上で西武球場前行きとして運行する。西武線内代替として、ひばりヶ丘発の小手指行き快速急行(Fライナーとは名乗らない)が運行される。 乗り入れ先である東急東横線・東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線と合わせ、平日始発から9時30分まで上下線とも全列車の1号車(池袋方先頭車)が女性専用車となる。午前9時30分になった時点で、女性専用車の運用を一斉に終了する。小学6年生までの児童、障害者およびその介助者は、男女問わず女性専用車への乗車が認められている。人身事故などの輸送障害発生によりダイヤが大幅に乱れた際は、女性専用車の運用を中止する。 みなとみらい線の女性専用車は、2005年(平成17年)7月25日に東急東横線と同時に初めて導入された。対象列車は平日の特急・通勤特急・急行であり、首都圏では初となる終日運用であった。この当時は、現在とは反対側の元町・中華街方先頭車である8号車に導入されたが、元町・中華街駅の元町口の最寄り車両が8号車であり、さらに東急東横線菊名駅では元町・中華街寄りの一箇所しか階段がなく、ここに最も近い8号車が女性専用となったことで危険な駆け込み乗車や乗り遅れなどの問題が多発。列車遅延の原因にもなった上、男性客から東急に対する抗議が殺到した(いわゆる菊名問題)。 これを受け、翌2006年(平成18年)7月18日からは横浜方から数えて5両目である5号車に変更したほか、昼間や夕方以降の渋谷方面行は女性専用車の利用率が低いとして終日設定を取り止め、平日の特急・通勤特急・急行のうち、始発から10時までの上下線と17時以降に東急東横線渋谷駅を発車する元町・中華街方面行のみの実施となった。2013年(平成25年)3月15日までは夕方にも女性専用車の運用を実施する列車が存在していたため、年末や毎年8月1日に行われる神奈川新聞花火大会をはじめとする大規模イベント開催に伴う一時的な多客輸送を行う場合は、女性専用車としての運用を解除していた。 そして、2013年3月16日に新たに相互直通運転を開始した東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線と実施内容の統一を図るため、相互直通運転開始後初めての平日となった3月18日からは、直通先に合わせて各駅停車を含めた全列車に対象列車を拡大し、横浜方先頭車である1号車に変更した。ただし設定時間帯は平日始発から9時30分までに縮小し、それまでの夕方以降の設定は廃止となり現在に至る。 1966年(昭和41年)の都市交通審議会答申第9号で3号線の一部として提案され、横浜市営地下鉄3号線の一部として建設が計画されていながらも、建設に着手することができなかった桜木町(桜木町駅)- 本町(日本大通り駅付近)- 山下町(元町・中華街駅付近)- 本牧(三溪園付近) に由来する路線である。みなとみらい線としては、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号で「みなとみらい21線」の名称で建設が計画された。 建設当時の仮称駅名は、横浜側から順に「横浜駅」(横浜地下駅とも呼ばれた)・「高島駅」・「みなとみらい中央駅」・「北仲駅」・「県庁前駅」・「元町駅」だった。またもともと、高島駅(現在の新高島駅)は計画されていなかったが、東横線高島町駅廃止の補償も考え、後に都市計画が決定したことにより追加された駅である。 1966年(昭和41年)の都市交通審議会答申第9号で3号線として、本牧 - 山下町 - 伊勢佐木町 - 横浜 - 新横浜 - 勝田(港北ニュータウン付近)の路線が計画されたことが発端になっている。これを受けて横浜市は前年に発表した横浜市六大事業の高速鉄道建設事業に組み込み、1967年(昭和42年)3月には横浜市営地下鉄3号線として上大岡駅 - 港町(現在のJR関内駅)・北幸町(横浜駅)- 山下町(横浜マリンタワー付近)の鉄道事業免許を取得した。海岸通り直下の地盤が予想以上に悪かったため、1973年(昭和48年)に北幸町 - 山下町の区間を1つ南側の国道133号(通称:コンテナ街道・本町通り)直下を通る尾上町(現在の横浜市営地下鉄関内駅)- 山下町(現在の元町・中華街駅)への経路変更も行われた。しかし当時は東京港最大の大井コンテナ埠頭が建設される前であったため横浜港の需要は高かった。また横浜港に向かう首都高速神奈川1号横羽線・首都高速湾岸線などのう回路も存在しなかったため、横浜市の中心部を通る国道133号に交通が集中し、慢性的な渋滞が発生して問題になっていた。地下鉄建設工事により渋滞がさらに悪化して貨物輸送に支障をきたすことが懸念され、横浜港湾労働組合協議会・横浜船主会などから工事延期を願う陳情書が提出し、建設反対運動も行われた。その結果、横浜 - 尾上町(関内駅)については横浜市営地下鉄1号線との直通運転という形で1976年(昭和60年)9月に先行開業したものの、尾上町 - 山下町については運輸大臣の認可が下りず、建設に着手することができなくなってしまった。なお1990年(平成2年)4月にみなとみらい線が鉄道事業免許を取得したため、重複区間である横浜市営地下鉄3号線の尾上町 - 山下町の鉄道事業免許は同日付けで廃止された。 横浜市六大事業でみなとみらい地区の開発がはじまり、横浜都心部(関内地区周辺・みなとみらい地区・横浜駅周辺)の輸送需要の増加が見込まれたものの、横浜市営地下鉄3号線の尾上町 - 山下町の建設の目途は立たなかった。 そこで1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では「みなとみらい21線」の名称で、起点の東神奈川駅で国鉄横浜線と直通し、元町・本牧経由で国鉄根岸駅に至る計画が立てられた。本路線の横浜駅は横浜駅東口に設ける計画で、横浜新都市ビル・横浜スカイビル東側にある、横浜市営バス横浜駅東口バス操車場が新駅の建設用地として確保された。また横浜新都市ビル建設時には、地下1階のバス会社窓口・コンビニエンスストアがある、はまみらいウォーク方面への通路が、新駅への連絡通路として用意された。 しかし、並走する根岸線の処理や国鉄分割民営化議論の影響、国鉄の財政問題もあり、国鉄横浜線への直通計画は実現しなかった。 その後、横浜市は東京急行電鉄(現在の東急電鉄)・京浜急行電鉄・相模鉄道・横浜市交通局などと交渉を重ねつづけ、横浜駅ホームの拡幅が困難であったり、横浜駅以南の輸送効率の改善などの課題を抱えていた東京急行電鉄が1987年(昭和62年)に申し入れを受け入れ、東急東横線との直通へと計画が変更された。これが同年6月11日に神奈川新聞の一面でスクープとして報道され、地域住民に広く知られることとなった。 計画変更により、終着駅として栄えてきた東急東横線桜木町駅は廃止となる可能性があるため、桜木町・野毛町地区住民からの猛反発を招き、最初の地元説明会は横浜市当局への「糾弾の場」と化した。東急東横線桜木町駅廃止に加え、JR桜木町駅駅舎の改修に伴う移設・道路整備によるものも含め、野毛町地区への補償として、桜木町駅と野毛地区を結ぶ地下道「野毛ちかみち」・桜木町駅前歩道橋が整備された。また野毛町地区の地域振興策として、野毛大道芸の実施、野毛本通りのモール化、横浜にぎわい座の開設が行われた。 前述した神奈川新聞のスクープ記事では1995年(平成7年)の開業を目指すとされ、工事着手当初は1999年(平成11年)に開業すると工事中の看板に書かれていた。しかし横浜駅の地上部を通るJRとの調整や、線路が過密であるため搬入口・資材置き場などの工事用地が狭小であること、終電から始発のわずかな間にしか施工できない箇所があること、横浜市による横浜駅自由通路「きた通路」「みなみ通路」の建設計画 もあいまって、横浜駅の地下化工事が難航したため、開業が大幅に遅れることとなる。 2002年(平成14年)ごろに一度、横浜地下駅の完成を待たずに、横浜市営地下鉄1号線のように先に工事が進んでいたみなとみらい中央 - 元町(駅名はいずれも仮称)間での暫定部分開業が検討されたほか、新高島駅付近に車両搬入専用の施設や電車区を設けるとの話が浮上した。しかし試算では年間で数億円の赤字が発生し、10億円以上の追加費用がかかることがわかり、また車両の搬入方法や検査設備の確保、独自車両か東急からの借用かなどの問題もあり立ち消えになった。 元町・中華街駅から「横浜環状鉄道」として本牧・根岸方面への延長構想があるが、現時点では計画が凍結状態にある。 これとは別に、元町・中華街駅からトンネルを約600m延長し、港の見える丘公園の地下に10両編成4本を留置できる留置線を設置する計画が進行中である。 前述の通り、横浜高速鉄道は自社の車両基地を持たず、元住吉検車区を間借りしている。開業時に車両留置場を建設しなかったのは、本牧・根岸方面への延伸構想があったためで、延伸時に根岸方面などに留置場を設置することを前提に、開業時は東急から15年間間借りすることになり、2004年に2019年1月までの期限で元住吉検車区の借地契約を締結した。契約途中の2011年には東急から「契約終了後は新しい留置場を探してほしい」と催促があったが、直通先の西武鉄道や東武鉄道からも留置線の借用を断られるなど移設先の確保が進まず、契約期限までに本牧・根岸方面への延伸の見込みがなくなったことで、自前の留置場を建設することを決定した。建設には時間が掛かることから、東急には借地契約の延長を申し入れ、2024年まで5年間延長された。留置線の完成は2030年度中になる見込みで、6年 - 7年ほど車両の置き場がない空白期間が生じることになり、対応が迫られている。 開業初日の2004年2月1日は日曜日だったこともあり、日本各地から多くの観光客や鉄道ファンが殺到し、乗客数が駅の処理能力を超え、ダイヤが乱れた。そのため、昼過ぎより急遽、本来は通過する馬車道駅と日本大通り駅に特急が臨時停車し、開業2度目の週末に当たる2月7日・2月8日にも同じ措置が採られた。これは、横浜中華街において春節を記念するイベントが行われる時期でもあったため、みなとみらい線の開業および中華街への観光客が集中したことも影響していた。 駅ごとの利用状況としては、横浜駅を利用(乗降・通過)する乗客が96%を占めており、次いで元町・中華街駅、みなとみらい駅の利用客が多くなっている。 2006年度には、当初の1日平均利用客計画数である13万7000人を初めて上回り、定期客の利用も増え、こどもの国線と合わせた会社全体の営業利益も2007年度で16億9000万円となっている。2013年度は東急東横線の東京メトロ副都心線相互直通開始による効果で、利用者数・営業収益とも大幅に増加し、2016年度には1日平均利用者数が初めて20万人を突破した。 営業利益は開業初年度より黒字だが、22億円弱という巨額の支払利息があるため、経常損益では開業以来の赤字経営が続き(2007年度は3億6,900万円の赤字)、2008年度は開通以降の残工事分費用と利子の支払いを減価償却費に当てたことから、赤字額が大幅に増加した。2013年度は特別利益の計上で当期の純利益が黒字となり、さらに2016年度は経常損益で初の黒字となった。 大都市での地下路線建設であり、地盤の軟弱な湾岸部で河川や既存鉄道、高速道路との交差部が多かった。各駅とも地下深く駅の規模も大きく工事も長期間にわたり、建設費は全線・関連工事などを含め約3000億円と非常に高額であった。そのため運賃は既存鉄道と比べて割高となっている。 前述のとおり本路線は東急東横線と一体的に運行されており、東急東横線の廃止区間の沿線住民も含め、みなとみらい線 - 東急東横線を通して利用する乗客が大多数を占める。だが本路線の開業以前は、高島町駅や桜木町駅まで乗車しても東急東横線内の運賃で済んだが、みなとみらい線開業後は横浜駅を境に他社線として運賃が別となるため非常に割高となる。この運賃の割高感が乗客(特に定期利用の都心方面への通勤・通学客)から嫌われ、JR根岸線など並行路線からの移行が当初の見込みを大きく下回った。 このため横浜高速鉄道では増収策として、沿線施設とタイアップしたイベントを実施したり、臨時列車「みなとみらい号」の運転を継続するほか、横浜市からも沿線の企業や官庁へ要請し、みなとみらい線の通勤定期を利用推進する活動を行った。また、一日乗車券(みなとみらい線単独の他、東急線などの往復乗車券とのセット券もある)、ヨコハマ・みなとみらいパス(ただしJR東日本での発売)を発売して、横浜への観光客などを呼び込むための取り組みも行っている。これまでに実施されたキャンペーン(みなとみらい号などの臨時電車運転に伴うものを除く)としては、2004年の「みなとみらいチケット・みなとみらい線一日乗車券まる得キャンペーン」、2006年の「早春のみなとみらいキャンペーン」 などがある。 連絡乗車券は、2013年3月16日に開業時から直通運転している東急東横線が副都心線・西武池袋線・東武東上本線との相互直通運転を開始し、運転区間が大幅に広がったが、みなとみらい線内の駅(東急管轄の横浜駅を除く)での連絡乗車券の発売は東急東横線渋谷駅までと従来のままとなっており、渋谷駅以北の東京メトロ・西武・東武東上線方面への乗車券は発売していない。このためPASMOなどのIC乗車券を使わずにみなとみらい線内から渋谷より北へ直通乗車する場合は、東急東横線渋谷駅までの乗車券を購入し最終下車駅で精算することになる。 全駅にエスカレーターやエレベーターが設置されている。前述のとおり地下深い場所を通っているため、「高速エスカレーター」が採用されている。赤外線で利用者を検知し、「高速運転」と「通常運転」の切り替えを行い、高速運転時は通常のエスカレーターの約1.3倍の速さとなる。 また、全駅のトイレに温水洗浄便座が設置され、多機能トイレはすべてオストメイト対応設備を備えている。 2012年9月下旬ごろより、各駅の駅名標などの案内にナンバリングが表記されている(記号はMM)。 みなとみらい21プロジェクトの関連事業として、横浜の都市デザイン計画のもと横浜市営地下鉄と同様にデザイン計画が立てられ、建設主体である鉄道建設・運輸施設整備支援機構が設置した「駅デザイン委員会」(渡辺定夫委員長、ほか11名)によって行われた。 駅の発車標は東急仕様のものとほぼ同一だがサイズが一回り小さい。駅名標は各駅でほぼ同一フォーマットだが、駅によりデザインやフォントが異なる。 発車メロディは、横浜駅を除く各駅には同一のものが採用されており、上りと下りで異なるメロディが流れる(元町・中華街駅では組み合わせが逆になっている)。横浜スタジアム最寄りの日本大通り駅では、2013年4月2日より横浜DeNAベイスターズの球団歌「熱き星たちよ」が使用されていたが、2019年3月29日より同球団の応援歌「勇者の遺伝子」に変更されている。 各駅にはパブリックアートが設置されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "みなとみらい線(みなとみらいせん)は、神奈川県横浜市西区の横浜駅から同市中区の元町・中華街駅までを結ぶ横浜高速鉄道の鉄道路線である。都市計画法に基づく都市高速鉄道としての名称は「横浜国際港都建設計画都市高速鉄道第4号みなとみらい21線」。『鉄道要覧』記載の正式路線名はみなとみらい21線となっているが、旅客案内上は使用されていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは紺色、路線記号はMM。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2004年2月1日に開業した。全線が地下区間で、ターミナル駅の横浜駅から横浜新都心の「横浜みなとみらい21」地区や関内地区、観光地の横浜中華街など横浜市の中心部を通る。馬車道駅 - 元町・中華街駅間では本町通りの直下を走っている。最大で約800メートルほど離れているものの全線にわたって東日本旅客鉄道(JR東日本)の根岸線や横浜市営地下鉄ブルーラインと並走している。通過する地域は地盤が非常に軟弱な埋立地(太田屋新田・横浜新田)であり、各駅とも地下4階 - 地下5階と深いところを走行する。なお、全線が地下区間の路線ではあるが、国土交通省によれば当路線は「地下鉄」には含まれない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当路線の開業に際して、東急東横線の横浜駅 - 桜木町駅間が廃止され、東急東横線と当路線の相互直通運転が開始された。東急東横線の渋谷駅から先は東京メトロ副都心線に直通運転を行い、東京メトロ副都心線を経由して東武東上線小川町駅及び西武池袋線飯能駅まで直通している。東武東上線系統の小川町駅 - 元町・中華街駅間及び西武池袋線系統の飯能駅 - 元町・中華街駅間において、日中の時間帯に特別料金不要で各線内を最速で結ぶ列車には「Fライナー」という愛称が付与される(みなとみらい線内は特急運転)。土曜・休日には観光輸送に特化して有料座席指定列車の「S-TRAIN」が当路線を経由して西武秩父線西武秩父駅 - 元町・中華街駅間で運行される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "すべての列車が横浜駅 - 元町・中華街駅間の全線通しで運転し、途中駅での折り返しはない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "運転業務は東急電鉄に委託しており、横浜駅で乗務員交代は行わず、東急電鉄の運転士が本路線内も引き続き乗務する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "駅業務は、東急電鉄が管轄している横浜駅を除き自社社員が行うが、自社社員の大半が東急電鉄からの出向者である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "列車の運行管理は横浜高速鉄道の運転指令所で制御している。鉄道設備の維持管理などについても横浜高速鉄道が対応するが、実際の作業は東急電鉄等に委託している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "横浜高速鉄道は自社の車両基地を保有しないため、夜間の車両留置は東急電鉄元住吉検車区(5編成)と元町・中華街駅(1編成)で行われる。なお、元町・中華街駅の先の港の見える丘公園の地下に、二連トンネル構造の車両留置線(4編成分)を建設する計画があり、2020年以降の建設を予定している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "元町・中華街行きの始発列車が横浜発である以外は、全列車が東急東横線と相互直通運転を実施しており、本路線と東急東横線は列車運行面では、事実上一つの路線として運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2013年3月16日に乗り入れ先である東急東横線が東京メトロ副都心線との相互直通運転を開始し、本路線も東急東横線を経由して東京メトロ副都心線と相互直通運転を実施している。東京メトロ副都心線は2008年6月14日開業時から東武東上線、西武有楽町線・西武池袋線・西武狭山線(臨時列車のみ)と相互直通運転を行っており、2017年3月25日からは西武秩父線との直通運転も開始された。これにより、東京メトロ副都心線・東急東横線を介して本路線までが一本で結ばれ、本路線を含めた鉄道5事業者(横浜高速・東急・東京メトロ・東武・西武)による相互直通運転が行われるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これに合わせ、東急東横線および本路線の速達列車(特急・通勤特急・急行)は急行の一部列車をのぞいて8両編成から10両編成に増強し、本路線の速達列車停車駅でも東急東横線と同様に10両編成の列車が停車できるようにホーム延長工事が実施された(速達列車が停車しない新高島駅も非常時に備えて延伸工事を施工しているが、通常時は柵で封鎖される)。なお、このホーム延伸を考慮した形でトンネルは建設されている。一方、各駅停車は東京メトロ副都心線直通運転開始後も全列車が8両編成での運転となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "定期列車については横浜駅で列車種別変更を行わずに、全列車が東急東横線の列車種別を引き継いで運行される。また、東急東横線菊名駅 - みなとみらい線元町・中華街駅間は待避設備がないため、この区間については平行ダイヤとなっており、先行する列車が元町・中華街駅または菊名駅まで先着する。西武線内ではS-TRAIN・快速急行(各停除く)・快速・準急・各停で、東武東上線内は快速急行(特急のみ)・急行(各停除く)・各停で、東京メトロ副都心線内は急行(各停除く)・通勤急行(各停除く)・各停で運転されている(Fライナーも参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2017年3月25日のダイヤ改正より運転を開始した。みなとみらい線初の座席指定列車。土曜・休日に2.5往復(元町・中華街行き2本、元町・中華街発3本)が運行されている。全列車が西武池袋線まで乗り入れ、うち1往復は西武秩父線西武秩父駅発着となる。みなとみらい線内は横浜駅・みなとみらい駅・元町・中華街駅に停車するが、みなとみらい線内のみの座席指定券は発行されない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "10両固定編成の西武40000系が専用で使用される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "平日は昼間のみ、土曜・休日は早朝・深夜以外の時間帯に運転。全列車が10両編成で運転される。みなとみらい線内の停車駅は横浜駅・みなとみらい駅・元町・中華街駅。西武池袋線方面は保谷駅・清瀬駅(発のみ)・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。また西武ドームでの埼玉西武ライオンズ主催試合開催日では西武球場前駅着が設定される。東武東上線方面は川越市駅・森林公園駅・小川町駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅発着が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ほとんどの列車が東京メトロ副都心線に直通し(原則として東京メトロ副都心線内急行で運転)、基本的には西武池袋線直通小手指駅発着と東武東上線直通森林公園駅発着が1時間あたり各2本運転される(西武池袋線及び東武東上線内快速急行、朝晩を中心に途中駅発着列車あり)。2019年3月ダイヤ改正以降は、下り3本、上り1本が小川町駅発着となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2016年3月26日以降、東京メトロ副都心線内急行、そして西武線及び東武東上線内快速急行で運行される列車には「Fライナー」の愛称が付く。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "平日の朝夕ラッシュ時間帯と夜間に運転。全列車が10両編成で運転される。原則として副都心線内は通勤急行で運転される。みなとみらい線内は新高島駅のみ通過。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "西武池袋線方面は清瀬駅(着のみ)・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。東武東上線方面は志木駅(発のみ)・川越市駅・森林公園駅発着が設定されている。副都心線内発着として和光市駅・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅着が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "終日にわたって運転。みなとみらい線内は新高島駅のみ通過。8両編成と10両編成の両方が使用される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日中は原則として渋谷駅発着と和光市駅発着が毎時2本ずつ運転され、西武池袋線・東武東上線には日中時以外に乗り入れる。直通先では菊名駅、自由が丘駅のうち1、2駅で各駅停車に連絡する列車があり、副都心線直通列車は東新宿駅で後続のFライナー(副都心線内急行)に抜かれる。朝ラッシュ時を除いて副都心線内は各駅停車。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "西武池袋線方面は石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。東武東上線方面は志木駅・川越市駅・森林公園駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅・武蔵小杉駅・日吉駅(発のみ)着が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2023年8月10日より、平日の夕ラッシュ時に下り一部列車で4・5号車に連結された指定席車Qシートのサービスが行われているが、みなとみらい線内はフリー乗降区間として指定券不要で乗降できる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "すべての列車が東急・横浜高速・東京メトロの車両による8両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "主に渋谷駅発着が毎時2本、東京メトロ副都心線直通池袋駅発着と和光市駅発着が毎時2本づつ、西武池袋線直通石神井公園駅発着が毎時2本運転されている。東上線発着には志木駅発着が一部設定されているのみである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "西武池袋線方面は石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。また西武ドームでの試合日では西武球場前駅発が設定される。東武東上線方面は志木駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅・小竹向原駅(発のみ)・千川駅(発のみ)・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅・自由が丘駅(着のみ)・武蔵小杉駅・元住吉駅・日吉駅・菊名駅(着のみ)発着が設定されている。また線内運転として横浜発が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "本路線沿線で花火大会などのイベント開催により一時的な多客時輸送を行う場合、混雑のピークが予想される時間帯に限り、みなとみらい線内では全列車各駅停車とする臨時ダイヤを組む。その場合は事前に駅構内ポスターや電光掲示板、東急およびみなとみらいの公式ウェブサイト上で告知されるほか、臨時列車も運転されることもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "クリスマスやゴールデンウィークなどにおいて、臨時列車として埼玉高速鉄道線浦和美園駅(東京メトロ南北線経由)・都営三田線高島平駅・東京メトロ日比谷線北千住駅から東急東横線を経由して元町・中華街駅まで「みなとみらい号」が運行されていた。みなとみらい線内では運転開始当初は急行として運転していたが、2007年(平成19年)4月運転分より各駅に停車するようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)の設定当初は「横浜みらい号」の名称で、東急1000系を使用し、北千住駅 - 元町・中華街駅間を1往復運転した。この際、東京メトロ日比谷線内は急行運転・東急東横線内は通勤特急と同じ停車駅で運転した。2回目以降の運転時から現在の名称である「みなとみらい号」に変更し、全区間急行として運転された。その後、2004年(平成16年)の年末からは埼玉高速鉄道線(東京メトロ南北線経由)および都営三田線から東急目黒線・東急東横線を経由したみなとみらい号も運行されるようになった。2006年(平成18年)秋から東急目黒線内でも急行が設定されたため、同線内も急行運転を行うようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "小手指行きのFライナー(みなとみらい線・東横線内特急、副都心線内急行、西武線内快速急行)を西武線内快速に変更の上で西武球場前行きとして運行する。西武線内代替として、ひばりヶ丘発の小手指行き快速急行(Fライナーとは名乗らない)が運行される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "乗り入れ先である東急東横線・東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線と合わせ、平日始発から9時30分まで上下線とも全列車の1号車(池袋方先頭車)が女性専用車となる。午前9時30分になった時点で、女性専用車の運用を一斉に終了する。小学6年生までの児童、障害者およびその介助者は、男女問わず女性専用車への乗車が認められている。人身事故などの輸送障害発生によりダイヤが大幅に乱れた際は、女性専用車の運用を中止する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "みなとみらい線の女性専用車は、2005年(平成17年)7月25日に東急東横線と同時に初めて導入された。対象列車は平日の特急・通勤特急・急行であり、首都圏では初となる終日運用であった。この当時は、現在とは反対側の元町・中華街方先頭車である8号車に導入されたが、元町・中華街駅の元町口の最寄り車両が8号車であり、さらに東急東横線菊名駅では元町・中華街寄りの一箇所しか階段がなく、ここに最も近い8号車が女性専用となったことで危険な駆け込み乗車や乗り遅れなどの問題が多発。列車遅延の原因にもなった上、男性客から東急に対する抗議が殺到した(いわゆる菊名問題)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これを受け、翌2006年(平成18年)7月18日からは横浜方から数えて5両目である5号車に変更したほか、昼間や夕方以降の渋谷方面行は女性専用車の利用率が低いとして終日設定を取り止め、平日の特急・通勤特急・急行のうち、始発から10時までの上下線と17時以降に東急東横線渋谷駅を発車する元町・中華街方面行のみの実施となった。2013年(平成25年)3月15日までは夕方にも女性専用車の運用を実施する列車が存在していたため、年末や毎年8月1日に行われる神奈川新聞花火大会をはじめとする大規模イベント開催に伴う一時的な多客輸送を行う場合は、女性専用車としての運用を解除していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "そして、2013年3月16日に新たに相互直通運転を開始した東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線と実施内容の統一を図るため、相互直通運転開始後初めての平日となった3月18日からは、直通先に合わせて各駅停車を含めた全列車に対象列車を拡大し、横浜方先頭車である1号車に変更した。ただし設定時間帯は平日始発から9時30分までに縮小し、それまでの夕方以降の設定は廃止となり現在に至る。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1966年(昭和41年)の都市交通審議会答申第9号で3号線の一部として提案され、横浜市営地下鉄3号線の一部として建設が計画されていながらも、建設に着手することができなかった桜木町(桜木町駅)- 本町(日本大通り駅付近)- 山下町(元町・中華街駅付近)- 本牧(三溪園付近) に由来する路線である。みなとみらい線としては、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号で「みなとみらい21線」の名称で建設が計画された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "建設当時の仮称駅名は、横浜側から順に「横浜駅」(横浜地下駅とも呼ばれた)・「高島駅」・「みなとみらい中央駅」・「北仲駅」・「県庁前駅」・「元町駅」だった。またもともと、高島駅(現在の新高島駅)は計画されていなかったが、東横線高島町駅廃止の補償も考え、後に都市計画が決定したことにより追加された駅である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1966年(昭和41年)の都市交通審議会答申第9号で3号線として、本牧 - 山下町 - 伊勢佐木町 - 横浜 - 新横浜 - 勝田(港北ニュータウン付近)の路線が計画されたことが発端になっている。これを受けて横浜市は前年に発表した横浜市六大事業の高速鉄道建設事業に組み込み、1967年(昭和42年)3月には横浜市営地下鉄3号線として上大岡駅 - 港町(現在のJR関内駅)・北幸町(横浜駅)- 山下町(横浜マリンタワー付近)の鉄道事業免許を取得した。海岸通り直下の地盤が予想以上に悪かったため、1973年(昭和48年)に北幸町 - 山下町の区間を1つ南側の国道133号(通称:コンテナ街道・本町通り)直下を通る尾上町(現在の横浜市営地下鉄関内駅)- 山下町(現在の元町・中華街駅)への経路変更も行われた。しかし当時は東京港最大の大井コンテナ埠頭が建設される前であったため横浜港の需要は高かった。また横浜港に向かう首都高速神奈川1号横羽線・首都高速湾岸線などのう回路も存在しなかったため、横浜市の中心部を通る国道133号に交通が集中し、慢性的な渋滞が発生して問題になっていた。地下鉄建設工事により渋滞がさらに悪化して貨物輸送に支障をきたすことが懸念され、横浜港湾労働組合協議会・横浜船主会などから工事延期を願う陳情書が提出し、建設反対運動も行われた。その結果、横浜 - 尾上町(関内駅)については横浜市営地下鉄1号線との直通運転という形で1976年(昭和60年)9月に先行開業したものの、尾上町 - 山下町については運輸大臣の認可が下りず、建設に着手することができなくなってしまった。なお1990年(平成2年)4月にみなとみらい線が鉄道事業免許を取得したため、重複区間である横浜市営地下鉄3号線の尾上町 - 山下町の鉄道事業免許は同日付けで廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "横浜市六大事業でみなとみらい地区の開発がはじまり、横浜都心部(関内地区周辺・みなとみらい地区・横浜駅周辺)の輸送需要の増加が見込まれたものの、横浜市営地下鉄3号線の尾上町 - 山下町の建設の目途は立たなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "そこで1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では「みなとみらい21線」の名称で、起点の東神奈川駅で国鉄横浜線と直通し、元町・本牧経由で国鉄根岸駅に至る計画が立てられた。本路線の横浜駅は横浜駅東口に設ける計画で、横浜新都市ビル・横浜スカイビル東側にある、横浜市営バス横浜駅東口バス操車場が新駅の建設用地として確保された。また横浜新都市ビル建設時には、地下1階のバス会社窓口・コンビニエンスストアがある、はまみらいウォーク方面への通路が、新駅への連絡通路として用意された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかし、並走する根岸線の処理や国鉄分割民営化議論の影響、国鉄の財政問題もあり、国鉄横浜線への直通計画は実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その後、横浜市は東京急行電鉄(現在の東急電鉄)・京浜急行電鉄・相模鉄道・横浜市交通局などと交渉を重ねつづけ、横浜駅ホームの拡幅が困難であったり、横浜駅以南の輸送効率の改善などの課題を抱えていた東京急行電鉄が1987年(昭和62年)に申し入れを受け入れ、東急東横線との直通へと計画が変更された。これが同年6月11日に神奈川新聞の一面でスクープとして報道され、地域住民に広く知られることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "計画変更により、終着駅として栄えてきた東急東横線桜木町駅は廃止となる可能性があるため、桜木町・野毛町地区住民からの猛反発を招き、最初の地元説明会は横浜市当局への「糾弾の場」と化した。東急東横線桜木町駅廃止に加え、JR桜木町駅駅舎の改修に伴う移設・道路整備によるものも含め、野毛町地区への補償として、桜木町駅と野毛地区を結ぶ地下道「野毛ちかみち」・桜木町駅前歩道橋が整備された。また野毛町地区の地域振興策として、野毛大道芸の実施、野毛本通りのモール化、横浜にぎわい座の開設が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "前述した神奈川新聞のスクープ記事では1995年(平成7年)の開業を目指すとされ、工事着手当初は1999年(平成11年)に開業すると工事中の看板に書かれていた。しかし横浜駅の地上部を通るJRとの調整や、線路が過密であるため搬入口・資材置き場などの工事用地が狭小であること、終電から始発のわずかな間にしか施工できない箇所があること、横浜市による横浜駅自由通路「きた通路」「みなみ通路」の建設計画 もあいまって、横浜駅の地下化工事が難航したため、開業が大幅に遅れることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)ごろに一度、横浜地下駅の完成を待たずに、横浜市営地下鉄1号線のように先に工事が進んでいたみなとみらい中央 - 元町(駅名はいずれも仮称)間での暫定部分開業が検討されたほか、新高島駅付近に車両搬入専用の施設や電車区を設けるとの話が浮上した。しかし試算では年間で数億円の赤字が発生し、10億円以上の追加費用がかかることがわかり、また車両の搬入方法や検査設備の確保、独自車両か東急からの借用かなどの問題もあり立ち消えになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "元町・中華街駅から「横浜環状鉄道」として本牧・根岸方面への延長構想があるが、現時点では計画が凍結状態にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これとは別に、元町・中華街駅からトンネルを約600m延長し、港の見える丘公園の地下に10両編成4本を留置できる留置線を設置する計画が進行中である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "前述の通り、横浜高速鉄道は自社の車両基地を持たず、元住吉検車区を間借りしている。開業時に車両留置場を建設しなかったのは、本牧・根岸方面への延伸構想があったためで、延伸時に根岸方面などに留置場を設置することを前提に、開業時は東急から15年間間借りすることになり、2004年に2019年1月までの期限で元住吉検車区の借地契約を締結した。契約途中の2011年には東急から「契約終了後は新しい留置場を探してほしい」と催促があったが、直通先の西武鉄道や東武鉄道からも留置線の借用を断られるなど移設先の確保が進まず、契約期限までに本牧・根岸方面への延伸の見込みがなくなったことで、自前の留置場を建設することを決定した。建設には時間が掛かることから、東急には借地契約の延長を申し入れ、2024年まで5年間延長された。留置線の完成は2030年度中になる見込みで、6年 - 7年ほど車両の置き場がない空白期間が生じることになり、対応が迫られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "開業初日の2004年2月1日は日曜日だったこともあり、日本各地から多くの観光客や鉄道ファンが殺到し、乗客数が駅の処理能力を超え、ダイヤが乱れた。そのため、昼過ぎより急遽、本来は通過する馬車道駅と日本大通り駅に特急が臨時停車し、開業2度目の週末に当たる2月7日・2月8日にも同じ措置が採られた。これは、横浜中華街において春節を記念するイベントが行われる時期でもあったため、みなとみらい線の開業および中華街への観光客が集中したことも影響していた。", "title": "利用状況・経営状態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "駅ごとの利用状況としては、横浜駅を利用(乗降・通過)する乗客が96%を占めており、次いで元町・中華街駅、みなとみらい駅の利用客が多くなっている。", "title": "利用状況・経営状態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2006年度には、当初の1日平均利用客計画数である13万7000人を初めて上回り、定期客の利用も増え、こどもの国線と合わせた会社全体の営業利益も2007年度で16億9000万円となっている。2013年度は東急東横線の東京メトロ副都心線相互直通開始による効果で、利用者数・営業収益とも大幅に増加し、2016年度には1日平均利用者数が初めて20万人を突破した。", "title": "利用状況・経営状態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "営業利益は開業初年度より黒字だが、22億円弱という巨額の支払利息があるため、経常損益では開業以来の赤字経営が続き(2007年度は3億6,900万円の赤字)、2008年度は開通以降の残工事分費用と利子の支払いを減価償却費に当てたことから、赤字額が大幅に増加した。2013年度は特別利益の計上で当期の純利益が黒字となり、さらに2016年度は経常損益で初の黒字となった。", "title": "利用状況・経営状態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "大都市での地下路線建設であり、地盤の軟弱な湾岸部で河川や既存鉄道、高速道路との交差部が多かった。各駅とも地下深く駅の規模も大きく工事も長期間にわたり、建設費は全線・関連工事などを含め約3000億円と非常に高額であった。そのため運賃は既存鉄道と比べて割高となっている。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "前述のとおり本路線は東急東横線と一体的に運行されており、東急東横線の廃止区間の沿線住民も含め、みなとみらい線 - 東急東横線を通して利用する乗客が大多数を占める。だが本路線の開業以前は、高島町駅や桜木町駅まで乗車しても東急東横線内の運賃で済んだが、みなとみらい線開業後は横浜駅を境に他社線として運賃が別となるため非常に割高となる。この運賃の割高感が乗客(特に定期利用の都心方面への通勤・通学客)から嫌われ、JR根岸線など並行路線からの移行が当初の見込みを大きく下回った。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "このため横浜高速鉄道では増収策として、沿線施設とタイアップしたイベントを実施したり、臨時列車「みなとみらい号」の運転を継続するほか、横浜市からも沿線の企業や官庁へ要請し、みなとみらい線の通勤定期を利用推進する活動を行った。また、一日乗車券(みなとみらい線単独の他、東急線などの往復乗車券とのセット券もある)、ヨコハマ・みなとみらいパス(ただしJR東日本での発売)を発売して、横浜への観光客などを呼び込むための取り組みも行っている。これまでに実施されたキャンペーン(みなとみらい号などの臨時電車運転に伴うものを除く)としては、2004年の「みなとみらいチケット・みなとみらい線一日乗車券まる得キャンペーン」、2006年の「早春のみなとみらいキャンペーン」 などがある。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "連絡乗車券は、2013年3月16日に開業時から直通運転している東急東横線が副都心線・西武池袋線・東武東上本線との相互直通運転を開始し、運転区間が大幅に広がったが、みなとみらい線内の駅(東急管轄の横浜駅を除く)での連絡乗車券の発売は東急東横線渋谷駅までと従来のままとなっており、渋谷駅以北の東京メトロ・西武・東武東上線方面への乗車券は発売していない。このためPASMOなどのIC乗車券を使わずにみなとみらい線内から渋谷より北へ直通乗車する場合は、東急東横線渋谷駅までの乗車券を購入し最終下車駅で精算することになる。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "全駅にエスカレーターやエレベーターが設置されている。前述のとおり地下深い場所を通っているため、「高速エスカレーター」が採用されている。赤外線で利用者を検知し、「高速運転」と「通常運転」の切り替えを行い、高速運転時は通常のエスカレーターの約1.3倍の速さとなる。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、全駅のトイレに温水洗浄便座が設置され、多機能トイレはすべてオストメイト対応設備を備えている。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2012年9月下旬ごろより、各駅の駅名標などの案内にナンバリングが表記されている(記号はMM)。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "みなとみらい21プロジェクトの関連事業として、横浜の都市デザイン計画のもと横浜市営地下鉄と同様にデザイン計画が立てられ、建設主体である鉄道建設・運輸施設整備支援機構が設置した「駅デザイン委員会」(渡辺定夫委員長、ほか11名)によって行われた。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "駅の発車標は東急仕様のものとほぼ同一だがサイズが一回り小さい。駅名標は各駅でほぼ同一フォーマットだが、駅によりデザインやフォントが異なる。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "発車メロディは、横浜駅を除く各駅には同一のものが採用されており、上りと下りで異なるメロディが流れる(元町・中華街駅では組み合わせが逆になっている)。横浜スタジアム最寄りの日本大通り駅では、2013年4月2日より横浜DeNAベイスターズの球団歌「熱き星たちよ」が使用されていたが、2019年3月29日より同球団の応援歌「勇者の遺伝子」に変更されている。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "各駅にはパブリックアートが設置されている。", "title": "駅一覧" } ]
みなとみらい線(みなとみらいせん)は、神奈川県横浜市西区の横浜駅から同市中区の元町・中華街駅までを結ぶ横浜高速鉄道の鉄道路線である。都市計画法に基づく都市高速鉄道としての名称は「横浜国際港都建設計画都市高速鉄道第4号みなとみらい21線」。『鉄道要覧』記載の正式路線名はみなとみらい21線となっているが、旅客案内上は使用されていない。 路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは紺色、路線記号はMM。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:YMRC logomark.svg|20px|text-bottom|link=横浜高速鉄道]] みなとみらい線 |路線色=#0067c0 |ロゴ=File:Minatomirai Line logo.svg<!--左記が路線ロゴでFile:Number prefix Minatomirai.PNGは駅番号ロゴ--> |ロゴサイズ=250px |画像=File:Motomachi-Chukagai-STA Home.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=東急5050系電車が停車中の[[元町・中華街駅]] |国={{JPN}} |所在地=[[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]、[[中区 (横浜市)|中区]] |起点=[[横浜駅]] |終点=[[元町・中華街駅]] |駅数=6駅 |路線記号= [[File:Number prefix Minatomirai.svg|20px|MM]] MM |路線色3={{Color sample|#0067c0|border=none}} 紺色 |開業=[[2004年]][[2月1日]] |所有者=[[横浜高速鉄道]] |運営者=横浜高速鉄道 |車両基地=[[元住吉検車区]](自社・東急車):[[東急電鉄]]所属<br />[[和光検車区]](メトロ車)<br />[[森林公園検修区]](東武車)<br />[[小手指車両基地]](西武車)<br />[[武蔵丘車両基地]](西武車) |使用車両=[[#使用車両|車両]]を参照 |路線構造=地下 |路線距離=4.1 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]]) |線路数=[[複線]] |複線区間=横浜駅 - 元町・中華街駅間 |電化区間=横浜駅 - 元町・中華街駅間 |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配=17 ‰ <ref name="JRCEA1996-9">開発行政懇話会『開発往来』1994年9月号工事報告「みなとみらい21線 -横浜 - 元町間を全線地下方式で施工する」pp.28 - 33。</ref> |最小曲線半径= 180 m <ref name="JRCEA1996-9"/>(横浜駅付近、制限45km/h<ref name="JRCEA1996-9"/>) |閉塞方式=[[車内信号]]閉塞式 |保安装置=[[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]] |最高速度=70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="kiseki">三好好三『京浜東北線100年の軌跡』JTBパブリッシング、2015年 p.187</ref> |路線図={{smaller|※駅をクリックすると駅記事へ移動します。}}<br> {{#tag:imagemap|ファイル:Minatomirai Line Map.svg{{!}}center{{!}}256px circle 148 79 16 {{sta|横浜}} circle 248 209 16 {{sta|新高島}} circle 377 323 16 {{sta|みなとみらい}} circle 470 544 16 {{sta|馬車道}} circle 619 640 16 {{sta|日本大通り}} circle 802 769 16 {{sta|元町・中華街}} circle 19 254 16 {{sta|平沼橋}} circle 81 355 16 {{sta|戸部}} circle 244 677 16 {{sta|日ノ出町}} circle 150 843 16 {{sta|黄金町}} circle 178 304 16 {{sta|高島町}} circle 341 557 16 {{sta|桜木町}} circle 480 735 16 {{sta|関内}} circle 395 801 16 {{sta|伊勢佐木長者町}} circle 348 526 16 {{sta|桜木町}} circle 633 888 16 {{sta|石川町}} desc top-right }} }} [[File:Minatomirai Station from Queens Square.jpg|thumb|300px|みなとみらい駅に向かう吹き抜け空間]] '''みなとみらい線'''(みなとみらいせん)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]の[[横浜駅]]から同市[[中区 (横浜市)|中区]]の[[元町・中華街駅]]までを結ぶ[[横浜高速鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[都市計画法]]に基づく[[都市高速鉄道]]としての名称は「[[横浜国際港都建設法|横浜国際港都建設計画]]都市高速鉄道第4号みなとみらい21線」。『[[鉄道要覧]]』記載の正式路線名は'''みなとみらい21線'''<ref group="注釈">1985年7月の[[運輸政策審議会答申第7号]]では東神奈川駅で国鉄[[横浜線]]と直通し、横浜みなとみらい21地区・元町・本牧を経由し根岸駅へ向かう路線の名称として登場。2000年1月の[[運輸政策審議会答申第18号]]で、現在の路線の名称となる。</ref>となっているが、旅客案内上は使用されていない。 [[路線図]]や[[駅ナンバリング]]で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|路線カラー]]は紺色、路線記号は'''MM'''。 == 概要 == [[2004年]][[2月1日]]に開業した。全線が地下区間で、[[ターミナル駅]]の横浜駅から横浜[[新都心]]の「[[横浜みなとみらい21]]」地区や[[関内]]地区、観光地の[[横浜中華街]]など横浜市の中心部を通る。[[馬車道駅]] - 元町・中華街駅間では本町通りの直下を走っている。最大で約800メートルほど離れているものの全線にわたって[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[根岸線]]や[[横浜市営地下鉄]][[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]]と並走している。通過する地域は地盤が非常に軟弱な[[埋立地]]([[太田屋新田]]・横浜新田)であり{{Refnest| group="注釈"|[[横浜市営地下鉄ブルーライン|横浜市営地下鉄3号線]]の一部として建設が計画されていた頃にも地盤の悪さは指摘されており、当初計画から現在のみなとみらい線のルートと同じ比較的地盤がましな1つ南側の[[国道133号]](通称 コンテナ街道)直下を通る計画に変更されている<ref name="ReferenceA">『横浜市高速鉄道建設史』 横浜市交通局、1987年12月、83-86ページ</ref>。}}、各駅とも地下4階 - 地下5階と深いところを走行する。なお、全線が地下区間の路線ではあるが、[[国土交通省]]によれば当路線は「[[地下鉄]]」には含まれない<ref name="milt1">[https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000032.html 鉄道統計年報]の「(23) JR旅客会社、大手民鉄及び地下鉄事業者の基準単価及び基準コストの算定に係るデータ一覧」</ref><ref name="milt2">[https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000029.html JR旅客会社、大手民鉄及び地下鉄事業者の基準単価・基準コスト等の公表について]</ref><ref group="注釈">一方で、横浜市営地下鉄は一部地上区間を有するがこちらは「地下鉄」として扱われている。</ref>。 当路線の開業に際して、[[東急東横線]]の横浜駅 - [[桜木町駅]]間が廃止され、東急東横線と当路線の[[直通運転|相互直通運転]]が開始された。東急東横線の[[渋谷駅]]から先は[[東京メトロ副都心線]]に直通運転を行い、東京メトロ副都心線を経由して[[東武東上本線|東武東上線]][[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]及び[[西武池袋線]][[飯能駅]]まで直通している<ref>{{Cite web|和書|title=路線図・乗り換え案内 {{!}} みなとみらい線 {{!}} 横浜高速鉄道株式会社|url=http://www.mm21railway.co.jp/sp/info/route_map.html|website=みなとみらい線 公式サイト|accessdate=2021-05-23|language=ja}}</ref>。東武東上線系統の小川町駅 - 元町・中華街駅間及び西武池袋線系統の飯能駅 - 元町・中華街駅間において、日中の時間帯に特別料金不要で各線内を最速で結ぶ列車には「[[Fライナー]]」という愛称が付与される(みなとみらい線内は特急運転)<ref>{{Cite web|和書|title=新愛称「Fライナー」、メトロ副都心線系統に来春導入|url=https://trafficnews.jp/post/47029|website=乗りものニュース|accessdate=2021-05-23|language=ja}}</ref>。土曜・休日には観光輸送に特化して[[ホームライナー|有料座席指定列車]]の「[[S-TRAIN]]」が当路線を経由して[[西武秩父線]][[西武秩父駅]] - 元町・中華街駅間で運行される<ref>{{Cite web|和書|title=S-TRAIN:西武鉄道Webサイト|url=https://www.seiburailway.jp/express/s-train/about/index.html|website=西武鉄道Webサイト|accessdate=2021-05-23|language=ja}}</ref>。 === 路線データ === * 管轄:横浜高速鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線名:みなとみらい21線(通称:みなとみらい線<ref name="Minatomirai200007092">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20030724113130/http://www.mm21railway.co.jp/www/pdf/p20030709b.PDF みなとみらい線のシンボルマーク及び略称について]}}(横浜高速鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref>) * 路線距離([[営業キロ]]):4.1 km * 駅数:6駅(起終点駅含む) * [[軌間]]:1067 mm * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1500 V・[[架空電車線方式]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号閉塞式 ([[自動列車制御装置#新しいATC|ATC-P]]) * 最高速度:70 km/h<ref name="kiseki" /> * 建設主体:[[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] ** [[2003年]]([[平成]]15年)[[10月1日]]に[[日本鉄道建設公団]]より事業承継 == 運行形態 == {{see also|東急電鉄のダイヤ改正}} {{BS-map |width = |title = 停車場・施設・接続路線 |title-bg = #0067c0 |title-color = white |collapse = no |map = {{BS4||||||'''横浜以遠の直通区間'''||}} {{BS4-startCollapsible||||||||}} {{BS2|HST||||[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]|}} {{BS2|STR||||{{rail-interchange|tokyo|tobu}} {{rint|tokyo|tj|link=東武東上本線}} [[東武東上本線|東上本線]]|}} {{BS2|HST||||[[和光市駅]]|}} {{BS4|HST|tSTRa|||||[[飯能駅]]|}} {{BS4|STR|O1=POINTERg@fq|tSTR|||||{{rail-interchange|saitama|seibu}} {{rint|saitama|si}} [[西武池袋線|池袋線]]|}} {{BS4|HST|tSTR|||||[[練馬駅]]|}} {{BS4|tSTRa|tSTR|O2=POINTERg@fq|||||{{rail-interchange|tokyo|metro}} {{rint|tokyo|y}} [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]({{rint|tokyo|f}} [[東京メトロ副都心線|副都心線]]重複)|}} {{BS4|tSTR|O1=POINTERg@fq|tSTR|||||{{rail-interchange|saitama|seibu}} {{rint|saitama|si|link=西武有楽町線}} [[西武有楽町線]]|}} {{BS4|tSTRl|tABZg+r||||}} {{BS2|tHST||||[[小竹向原駅]]|}} {{BS2|tABZgl||||{{rail-interchange|tokyo|metro}} {{rint|tokyo|y}} 有楽町線|}} {{BS2|tSTR||||{{rail-interchange|tokyo|metro}} {{rint|tokyo|f}} 副都心線|}} {{BS2|tHST||||[[渋谷駅]]|}} {{BS2|tSTRe|||||}} 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{{BS4||uSTRq|mtKRZ|uSTRq|||[[泉陽興業]]:[[YOKOHAMA AIR CABIN]]}} {{BS2||tBHF|2.6|MM04 [[馬車道駅]]|}} {{BS2||tSTR|||[[大さん橋]]<[[東海汽船|伊豆諸島航路]]>}} {{BS4|||tBHF|BOOT|3.2|MM05 [[日本大通り駅]]|||}} {{BS2||tKBHFe|4.1|MM06 [[元町・中華街駅]]|}} }} すべての列車が横浜駅 - 元町・中華街駅間の全線通しで運転し、途中駅での折り返しはない。 === 乗務員・運行管理 === 運転業務は[[東急電鉄]]に委託しており、横浜駅で乗務員交代は行わず、東急電鉄の[[動力車操縦者|運転士]]が本路線内も引き続き乗務する<ref name=hamarepo6283>[https://hamarepo.com/story.php?story_id=6283 どうしてこうなの!? 東横線と直通するみなとみらい線が東急電鉄と別会社な深いワケ] [[はまれぽ.com]]、2017年08月25日、2020年1月19日閲覧。</ref><ref group="注釈">臨時で乗り入れていた都営地下鉄および埼玉高速鉄道の車両を含む。</ref>。 駅業務は、東急電鉄が管轄している横浜駅を除き自社社員が行うが<ref name=hamarepo6283 /><ref>{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/tetudou/tetudou_kansa/date/h28/28_yokohamakosoku.pdf 横浜高速鉄道株式会社に対する業務監査の実施結果]}} - 国土交通省関東運輸局</ref>、自社社員の大半が東急電鉄からの出向者である。 列車の運行管理は横浜高速鉄道の[[運転指令所]]で制御している。鉄道設備の維持管理などについても横浜高速鉄道が対応するが<ref name=hamarepo6283 />、実際の作業は東急電鉄等に委託している。 横浜高速鉄道は自社の[[車両基地]]を保有しないため、夜間の車両留置は東急電鉄[[元住吉検車区]](5編成)と[[元町・中華街駅]](1編成)で行われる。なお、元町・中華街駅の先の[[港の見える丘公園]]の地下に、二連トンネル構造の車両留置線(4編成分)を建設する計画があり<ref>「お知らせ [http://www.mm21railway.co.jp/info/news/2018/12/post-120.html みなとみらい線車両留置場の整備計画を進めています]」『横浜高速鉄道株式会社』 2018年12月17日、横浜高速鉄道株式会社</ref><ref>「[http://web1.hamarepo.com/story.php?story_id=7077 みなとみらい線の延伸につながる!? 元町・中華街駅に計画中の「車両留置場」について直撃取材!]」はまれぽ.com、2019年2月2日。</ref>、2020年以降の建設を予定している<ref>「[https://www.decn.co.jp/?p=106104 横浜高速鉄道/MM線車両留置場建設(横浜市中区)/優先交渉権者に鹿島JV]」『日刊建設工業新聞』 2019年3月14日、株式会社日刊建設工業新聞社</ref>。 === 東急東横線との直通運転 === [[元町・中華街駅|元町・中華街]]行きの始発列車が[[横浜駅|横浜]]発である以外は、全列車が[[東急東横線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を実施しており、本路線と東急東横線は列車運行面では、事実上一つの路線として運行されている。 === 東京メトロ副都心線との直通運転 === [[2013年]][[3月16日]]に乗り入れ先である東急東横線が[[東京メトロ副都心線]]との相互直通運転を開始し、本路線も東急東横線を経由して東京メトロ副都心線と相互直通運転を実施している<ref>{{Cite press_release | url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/120724-1.pdf | title=東急東横線と東京メトロ副都心線 相互直通運転の開始日が2013年3月16日に決定! | publisher=[[東京急行電鉄]] | date=2012-07-24 | accessdate=2012-07-24 | format=PDF}}</ref><ref>{{Cite press_release | url=http://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20120724metronews_soutyoku.pdf | format=PDF| title=平成25年3月16日(土)から相互直通運転開始 副都心線と東急東横線・横浜高速みなとみらい線がつながります| publisher=[[東京地下鉄]] | date=2012-07-24 | accessdate=2012-07-24}}</ref><ref>{{Cite press_release | url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/9e67f9298f0c2a004a27615807b6cc25/120724.pdf | title=東武東上線がより便利に! 自由が丘、横浜、元町・中華街方面とつながります! | publisher=[[東武鉄道]] | date=2012-07-24 | accessdate=2012-07-24 | format=PDF}}</ref><ref>{{Cite press_release | url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/07/24/20120724soutyoku.pdf | title=池袋線が東急東横線、横浜高速みなとみらい線との相互直通運転を開始します。 | publisher=[[西武鉄道]] | date=2012-07-24 | accessdate=2012-07-24 | format=PDF}}</ref>。東京メトロ副都心線は2008年6月14日開業時から[[東武東上本線|東武東上線]]、[[西武有楽町線]]・[[西武池袋線]]・[[西武狭山線]](臨時列車のみ)と相互直通運転を行っており、2017年3月25日からは[[西武秩父線]]との直通運転も開始された。これにより、東京メトロ副都心線・東急東横線を介して本路線までが一本で結ばれ、本路線を含めた鉄道5事業者(横浜高速・東急・[[東京地下鉄|東京メトロ]]・[[東武鉄道|東武]]・[[西武鉄道|西武]])による相互直通運転が行われるようになった。 これに合わせ、東急東横線および本路線の速達列車(特急・通勤特急・急行)は急行の一部列車をのぞいて8両編成から10両編成に増強し、本路線の速達列車停車駅でも東急東横線と同様に10両編成の列車が停車できるようにホーム延長工事が実施された(速達列車が停車しない[[新高島駅]]も非常時に備えて延伸工事を施工しているが、通常時は柵で封鎖される)。なお、このホーム延伸を考慮した形でトンネルは建設されている。一方、各駅停車は東京メトロ副都心線直通運転開始後も全列車が8両編成での運転となる。 === 列車種別 === {{See also|東急東横線#列車種別}} 定期列車については横浜駅で[[列車種別]]変更を行わずに、全列車が東急東横線の列車種別を引き継いで運行される。また、東急東横線[[菊名駅]] - みなとみらい線元町・中華街駅間は[[待避駅|待避設備]]がないため、この区間については[[平行ダイヤ]]となっており、先行する列車が元町・中華街駅または菊名駅まで先着する。西武線内ではS-TRAIN・快速急行(各停除く)・快速・準急・各停で、東武東上線内は快速急行(特急のみ)・急行(各停除く)・各停で、東京メトロ副都心線内は急行(各停除く)・通勤急行(各停除く)・各停で運転されている([[Fライナー]]も参照)。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" |+日中の運行パターン |- ! 路線名 ! rowspan="2" |運行本数 ! colspan="2" rowspan="2" |東武東上線<br>西武池袋線<br>方面 ! colspan="8" |東京メトロ<br>副都心線 ! colspan="5" |東急東横線 ! colspan="3" |みなと<br>みらい線 ! rowspan="2" |備考 |- !駅名<br>\<br>種別 ! style="width:1em;" |和光市 !… ! colspan="2" style="width:1em;" |小竹向原 !… ! style="width:1em;" |池袋 !… ! colspan="2" style="width:1em;" |渋谷 !… ! style="width:1em;" |日吉 !… ! colspan="2" style="width:1em;" |横浜 !… ! style="width:1em;" |元町<br />・<br />中華街 |- style="text-align:center;" | rowspan="2" style="background:orange; white-space:nowrap;" |特急<br />(Fライナー) |2本 | colspan="2" style="text-align:right" |←森林公園|| colspan="8" style="background:pink;" | | colspan="8" style="background:orange;" | | rowspan="2" style="text-align:center;" |副都心線内(Fライナー)急行<br />西武線・東武線内(Fライナー)快速急行 |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="4" style="text-align:right" |←小手指|| colspan="6" style="background:pink;" | | colspan="8" style="background:orange;" | |- style="text-align:center;" | rowspan="2" style="background:pink;" |急行 |2本 | colspan="2" style="text-align:right" | || colspan="8" style="background:lightblue;" | | colspan="8" style="background:pink;" | | style="text-align:center;" style="text-align:center;" |副都心線内各駅停車 |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="10" style="text-align:right" | || colspan="8" style="background:pink;" | | style="text-align:left;" | |- style="text-align:center;" | rowspan="4" style="background:lightblue;" |各停 |2本 | colspan="2" style="text-align:right" | || colspan="16" style="background:lightblue;" | | rowspan="4" style="text-align:left;" | |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="4" style="text-align:right" |←石神井公園|| colspan="14" style="background:lightblue;" | |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="7" style="text-align:right" | || colspan="11" style="background:lightblue;" | |- style="text-align:center;" |2本 | colspan="10" style="text-align:right" | || colspan="8" style="background:lightblue;" | |} ==== S-TRAIN ==== {{Main|S-TRAIN}} 2017年3月25日のダイヤ改正より運転を開始した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/20170110_press%20release.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道、東京地下鉄、東京急行電鉄、横浜高速鉄道|date=2017-01-10}}</ref>。みなとみらい線初の[[座席指定席|座席指定列車]]。土曜・休日に2.5往復(元町・中華街行き2本、元町・中華街発3本)が運行されている。全列車が西武池袋線まで乗り入れ、うち1往復は[[西武秩父線]][[西武秩父駅]]発着となる。みなとみらい線内は横浜駅・みなとみらい駅・元町・中華街駅に停車するが、みなとみらい線内のみの[[座席指定券]]は発行されない。 10両固定編成の[[西武40000系電車|西武40000系]]が専用で使用される。 <gallery widths="200"> File:40000kei Motomachi-Chūkagai station train door.jpg|西武40000系S-TRAIN(元町・中華街駅に停車中) </gallery> ==== 特急 ==== {{See also|Fライナー}} 平日は昼間のみ、土曜・休日は早朝・深夜以外の時間帯に運転。全列車が10両編成で運転される。みなとみらい線内の停車駅は横浜駅・みなとみらい駅・元町・中華街駅。西武池袋線方面は保谷駅・清瀬駅(発のみ)・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。また[[西武ドーム]]での[[埼玉西武ライオンズ]]主催試合開催日では[[西武球場前駅]]着が設定される。東武東上線方面は川越市駅・森林公園駅・小川町駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅発着が設定されている。 ほとんどの列車が東京メトロ副都心線に直通し(原則として東京メトロ副都心線内急行で運転)、基本的には西武池袋線直通小手指駅発着と東武東上線直通森林公園駅発着が1時間あたり各2本運転される(西武池袋線及び東武東上線内快速急行、朝晩を中心に途中駅発着列車あり)。2019年3月ダイヤ改正以降は、下り3本、上り1本が小川町駅発着となる。 2016年3月26日以降、東京メトロ副都心線内急行、そして西武<!--有楽町線・池袋-->線及び東武東上線内快速急行で運行される列車には「Fライナー」の愛称が付く<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/20151218press.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東武東上線・西武池袋線速達性の高い直通~列車の~愛称横浜高速みなとみらい線名を『Fライナー』間を運転するといたします~親しみやすく、より分かりやすい鉄道をご利用いただくために|publisher=東武鉄道、西武鉄道、東京地下鉄、東京急行電鉄、横浜高速鉄道|date=2015-12-18}}</ref>。 ==== 通勤特急 ==== 平日の朝夕ラッシュ時間帯と夜間に運転。全列車が10両編成で運転される。原則として副都心線内は通勤急行で運転される。みなとみらい線内は新高島駅のみ通過。 西武池袋線方面は清瀬駅(着のみ)・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。東武東上線方面は志木駅(発のみ)・川越市駅・森林公園駅発着が設定されている。副都心線内発着として和光市駅・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅着が設定されている。 ==== 急行 ==== 終日にわたって運転。みなとみらい線内は新高島駅のみ通過。8両編成と10両編成の両方が使用される。 日中は原則として渋谷駅発着と和光市駅発着が毎時2本ずつ運転され、西武池袋線・東武東上線には日中時以外に乗り入れる。直通先では菊名駅、自由が丘駅のうち1、2駅で各駅停車に連絡する列車があり、副都心線直通列車は東新宿駅で後続のFライナー(副都心線内急行)に抜かれる。朝ラッシュ時を除いて副都心線内は各駅停車。 西武池袋線方面は石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。東武東上線方面は志木駅・川越市駅・森林公園駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅・武蔵小杉駅・日吉駅(発のみ)着が設定されている。 2023年8月10日より、平日の夕ラッシュ時に下り一部列車で4・5号車に連結された指定席車[[Qシート]]のサービスが行われているが、みなとみらい線内はフリー乗降区間として指定券不要で乗降できる。 ==== 各駅停車 ==== すべての列車が東急・横浜高速・東京メトロの車両による8両編成で運転されている。 主に渋谷駅発着が毎時2本、東京メトロ副都心線直通池袋駅発着と和光市駅発着が毎時2本づつ、西武池袋線直通石神井公園駅発着が毎時2本運転されている。東上線発着には志木駅発着が一部設定されているのみである。 西武池袋線方面は石神井公園駅・保谷駅・清瀬駅・所沢駅・小手指駅・飯能駅発着が設定されている。また西武ドームでの試合日では西武球場前駅発が設定される。東武東上線方面は志木駅発着が設定されている。東京メトロ副都心線内発着として和光市駅・小竹向原駅(発のみ)・千川駅(発のみ)・池袋駅(着のみ)・新宿三丁目駅発着が設定されている。東急東横線内発着として渋谷駅・自由が丘駅(着のみ)・武蔵小杉駅・元住吉駅・日吉駅・菊名駅(着のみ)発着が設定されている。また線内運転として横浜発が設定されている。 === 臨時列車 === 本路線沿線で[[花火]]大会などの[[イベント]]開催により一時的な多客時輸送を行う場合、混雑のピークが予想される時間帯に限り、みなとみらい線内では全列車各駅停車とする臨時ダイヤを組む。その場合は事前に駅構内ポスターや電光掲示板、東急およびみなとみらいの公式[[ウェブサイト]]上で告知されるほか、[[臨時列車]]も運転されることもある。 ==== みなとみらい号 ==== {{Main|みなとみらい号}} [[クリスマス]]や[[ゴールデンウィーク]]などにおいて、臨時列車として[[埼玉高速鉄道線]][[浦和美園駅]]([[東京メトロ南北線]]経由)・[[都営地下鉄三田線|都営三田線]][[高島平駅]]・[[東京メトロ日比谷線]][[北千住駅]]から東急東横線を経由して[[元町・中華街駅]]まで「'''みなとみらい号'''」が運行されていた。みなとみらい線内では運転開始当初は急行として運転していたが、[[2007年]](平成19年)[[4月]]運転分より各駅に停車するようになった。 [[2004年]](平成16年)の設定当初は「横浜みらい号」の名称で、[[東急1000系電車|東急1000系]]を使用し、北千住駅 - 元町・中華街駅間を1往復運転した。この際、東京メトロ日比谷線内は急行運転・東急東横線内は通勤特急と同じ停車駅で運転した。2回目以降の運転時から現在の名称である「みなとみらい号」に変更し、全区間急行として運転された。その後、2004年(平成16年)の年末からは埼玉高速鉄道線(東京メトロ南北線経由)および都営三田線から[[東急目黒線]]・東急東横線を経由したみなとみらい号も運行されるようになった。[[2006年]](平成18年)秋から東急目黒線内でも急行が設定されたため、同線内も急行運転を行うようになった。 ==== 西武ドームへの観客輸送 ==== {{Main|西武有楽町線#西武ドームへの観客輸送}} 小手指行きのFライナー(みなとみらい線・東横線内特急、副都心線内急行、西武線内快速急行)を西武線内快速に変更の上で西武球場前行きとして運行する。西武線内代替として、ひばりヶ丘発の小手指行き快速急行(Fライナーとは名乗らない)が運行される。 ==== 女性専用車 ==== 乗り入れ先である[[東急東横線]]・[[東京メトロ副都心線]]・[[西武池袋線]]・[[東武東上本線|東武東上線]]と合わせ、平日始発から9時30分まで上下線とも全列車の1号車(池袋方先頭車)が女性専用車となる。午前9時30分になった時点で、女性専用車の運用を一斉に終了する。小学6年生までの児童、[[障害者]]およびその介助者は、男女問わず女性専用車への乗車が認められている。人身事故などの輸送障害発生によりダイヤが大幅に乱れた際は、女性専用車の運用を中止する。 みなとみらい線の女性専用車は、[[2005年]](平成17年)[[7月25日]]に東急東横線と同時に初めて導入された。対象列車は平日の特急・通勤特急・急行であり、首都圏では初となる終日運用であった。この当時は、現在とは反対側の元町・中華街方先頭車である8号車に導入されたが、[[元町・中華街駅]]の元町口の最寄り車両が8号車であり、さらに東急東横線[[菊名駅]]では元町・中華街寄りの一箇所しか階段がなく、ここに最も近い8号車が女性専用となったことで危険な駆け込み乗車や乗り遅れなどの問題が多発。列車遅延の原因にもなった上、男性客から東急に対する抗議が殺到した(いわゆる[[菊名駅#菊名問題|菊名問題]]<ref>[https://web.archive.org/web/20060110032729/http://www.kanalog.jp/news/local/entry_17114.html ☆女性専用車両の位置を変更へ/東横線☆ 2006年1月5日 神奈川新聞(インターネットアーカイブ)]</ref>)。 これを受け、翌[[2006年]](平成18年)[[7月18日]]からは横浜方から数えて5両目である5号車に変更したほか、昼間や夕方以降の渋谷方面行は女性専用車の利用率が低いとして終日設定を取り止め、平日の特急・通勤特急・急行のうち、始発から10時までの上下線と17時以降に東急東横線[[渋谷駅]]を発車する元町・中華街方面行のみの実施となった。[[2013年]](平成25年)[[3月15日]]までは夕方にも女性専用車の運用を実施する列車が存在していたため、年末や毎年[[8月1日]]に行われる[[神奈川新聞#イベント|神奈川新聞花火大会]]をはじめとする大規模イベント開催に伴う一時的な多客輸送を行う場合は、女性専用車としての運用を解除していた。 そして、2013年[[3月16日]]に新たに[[直通運転|相互直通運転]]を開始した東京メトロ副都心線・西武池袋線・東武東上線と実施内容の統一を図るため、相互直通運転開始後初めての平日となった[[3月18日]]からは、直通先に合わせて各駅停車を含めた全列車に対象列車を拡大し、横浜方先頭車である1号車に変更した。ただし設定時間帯は平日始発から9時30分までに縮小し、それまでの夕方以降の設定は廃止となり現在に至る。 == 歴史 == [[1966年]](昭和41年)の[[都市交通審議会答申第9号]]で3号線の一部として提案され、[[横浜市営地下鉄ブルーライン|横浜市営地下鉄3号線]]の一部として建設が計画されていながらも、建設に着手することができなかった[[桜木町 (横浜市)|桜木町]]([[桜木町駅]])- [[本町 (横浜市)|本町]]([[日本大通り駅]]付近)- [[山下町 (横浜市)|山下町]]([[元町・中華街駅]]付近)- [[本牧]]([[三溪園]]付近)<ref name="OrdinanceS41-65">横浜市条例 昭和41年第65号「横浜市交通事業の設置等に関する条例」 、1966年、横浜市</ref> に由来する路線である。みなとみらい線としては、[[1985年]](昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]で「みなとみらい21線」の名称で建設が計画された。 建設当時の仮称駅名は、横浜側から順に「横浜駅」(横浜地下駅とも呼ばれた)・「[[新高島駅|高島駅]]」・「[[みなとみらい駅|みなとみらい中央駅]]」・「[[馬車道駅|北仲駅]]」・「[[日本大通り駅|県庁前駅]]」・「[[元町・中華街駅|元町駅]]」だった<ref name="Minatomirai20021216">[https://web.archive.org/web/20031203022701/http://www.mm21railway.co.jp/www/open.html みなとみらい線の駅名が決定しました](横浜高速鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2002年時点の版)。</ref>。またもともと、高島駅(現在の[[新高島駅]])は計画されていなかったが、東横線[[高島町駅]]廃止の補償も考え、後に都市計画が決定したことにより追加された駅である<ref>{{Cite book|和書|author=長谷川 弘和|title=横浜の鉄道物語―陸蒸気からみなとみらい線まで|publisher=JTBパブリッシング|date=2004-10-1|page=116|isbn=4533056229}}</ref>。 === 横浜市営地下鉄3号線の計画 === {{See also|横浜市営地下鉄#計画廃止路線}} 1966年(昭和41年)の都市交通審議会答申第9号で3号線として、本牧 - 山下町 - 伊勢佐木町 - 横浜 - [[新横浜駅|新横浜]] - 勝田([[港北ニュータウン]]付近)の路線が計画されたことが発端になっている。これを受けて[[横浜市]]は前年に発表した[[横浜市六大事業]]の高速鉄道建設事業に組み込み、[[1967年]](昭和42年)3月には横浜市営地下鉄3号線として[[上大岡駅]] - [[港町 (横浜市)|港町]](現在のJR[[関内駅]])・[[北幸|北幸町]](横浜駅)- 山下町([[横浜マリンタワー]]付近)の鉄道事業免許を取得した。海岸通り直下の地盤が予想以上に悪かったため、[[1973年]](昭和48年)に北幸町 - 山下町の区間を1つ南側の[[国道133号]](通称:コンテナ街道・本町通り)直下を通る[[尾上町 (横浜市)|尾上町]](現在の横浜市営地下鉄関内駅)- 山下町(現在の[[元町・中華街駅]])への経路変更も行われた。しかし当時は[[東京港]]最大の[[大井コンテナ埠頭]]が建設される前であったため[[横浜港]]の需要は高かった。また横浜港に向かう[[首都高速神奈川1号横羽線]]・[[首都高速湾岸線]]などのう回路も存在しなかったため、横浜市の中心部を通る国道133号に交通が集中し、慢性的な渋滞が発生して問題になっていた。地下鉄建設工事により渋滞がさらに悪化して[[貨物輸送]]に支障をきたすことが懸念され、横浜港湾労働組合協議会・横浜船主会などから工事延期を願う[[請願#陳情|陳情書]]が提出し、建設反対運動も行われた。その結果、横浜 - 尾上町(関内駅)については横浜市営地下鉄1号線との直通運転という形で[[1976年]](昭和60年)9月に先行開業したものの、尾上町 - 山下町については[[運輸大臣]]の認可が下りず、建設に着手することができなくなってしまった<ref name="ReferenceA">『横浜市高速鉄道建設史』 横浜市交通局、1987年12月、83-86ページ</ref><ref>{{Cite book|和書 |author = 横浜市交通局 |year = 2001 |title = 横浜市営交通八十年史 |pages = 558-559 }}</ref>。なお[[1990年]](平成2年)4月にみなとみらい線が鉄道事業免許を取得したため、重複区間である横浜市営地下鉄3号線の尾上町 - 山下町の鉄道事業免許は同日付けで廃止された。 === 国鉄横浜線との直通計画 === {{File clip| UnyuSeisakuShingikai7_Yokohama.png | width= 230 | 25.5 | 30 | 45 | 50 | w= 1763 | h= 1968 | 薄い実線(原図では黄色)が、運輸政策審議会答申第7号で計画されていた路線。}} [[横浜市六大事業]]で[[横浜みなとみらい21|みなとみらい地区]]の開発がはじまり、横浜都心部([[関内]]地区周辺・みなとみらい地区・横浜駅周辺)の輸送需要の増加が見込まれたものの、横浜市営地下鉄3号線の尾上町 - 山下町の建設の目途は立たなかった。 そこで[[1985年]](昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]では「みなとみらい21線」の名称で、起点の[[東神奈川駅]]で[[日本国有鉄道|国鉄]][[横浜線]]と直通し、[[元町 (横浜市)|元町]]・[[本牧]]経由で国鉄[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]に至る計画が立てられた。本路線の横浜駅は横浜駅東口に設ける計画で、[[横浜新都市センター#横浜新都市ビル|横浜新都市ビル]]・[[横浜スカイビル]]東側にある、[[横浜市営バス]]横浜駅東口バス操車場が新駅の建設用地として確保された。また横浜新都市ビル建設時には、地下1階のバス会社窓口・[[コンビニエンスストア]]がある、はまみらいウォーク方面への通路が、新駅への連絡通路として用意された<ref>『横浜新都市センター30年史』 横浜新都市センター、2010年12月、92-93・156ページ</ref>。 しかし、並走する根岸線の処理や[[国鉄分割民営化]]議論の影響、国鉄の財政問題もあり、国鉄横浜線への直通計画は実現しなかった。 === 直通先を東急へ変更 === その後、横浜市は東京急行電鉄(現在の東急電鉄)・[[京浜急行電鉄]]・[[相模鉄道]]・[[横浜市交通局]]などと交渉を重ねつづけ<ref>『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語 計画から開通までのドラマ』39ページ</ref>、横浜駅ホームの拡幅が困難であったり、横浜駅以南の輸送効率の改善などの課題を抱えていた東京急行電鉄が[[1987年]](昭和62年)に申し入れを受け入れ、東急東横線との直通へと計画が変更された。これが同年[[6月11日]]に[[神奈川新聞]]の一面でスクープとして報道され、地域住民に広く知られることとなった。 計画変更により、終着駅として栄えてきた東急東横線[[桜木町駅]]は廃止となる可能性があるため、[[桜木町]]・[[野毛町]]地区住民からの猛反発を招き、最初の地元説明会は横浜市当局への「糾弾の場」と化した<ref>『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語 計画から開通までのドラマ』9ページ</ref>。東急東横線桜木町駅廃止に加え、JR桜木町駅駅舎の改修に伴う移設・道路整備によるものも含め、野毛町地区への補償として、桜木町駅と野毛地区を結ぶ[[地下横断歩道|地下道]]「野毛ちかみち」<ref>[https://hamarepo.com/story.php?story_id=1473 野毛ちかみちで店を出したり、イベントを開かないのはなぜ?] はまれぽ.com、2012年11月22日、2020年1月19日閲覧。</ref><ref>[https://hamarepo.com/story.php?story_id=2291 普通に上から歩いたほうが早そうな「野毛ちかみち」は本当に近道か?] はまれぽ.com、2013年09月28日、2020年1月19日閲覧。</ref>・桜木町駅前[[人道橋|歩道橋]]が整備された。また野毛町地区の[[地域振興]]策として、[[野毛大道芸]]の実施、野毛本通りのモール化、[[横浜にぎわい座]]の開設が行われた<ref>『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語 計画から開通までのドラマ』47-68ページ</ref>。 === 工事と開業の遅れ === 前述した神奈川新聞のスクープ記事では[[1995年]](平成7年)の開業を目指すとされ、工事着手当初は[[1999年]](平成11年)に開業すると工事中の看板に書かれていた。しかし横浜駅の地上部を通るJRとの調整や、線路が過密であるため搬入口・資材置き場などの工事用地が狭小であること、終電から始発のわずかな間にしか施工できない箇所があること、横浜市による横浜駅[[通路#自由通路|自由通路]]「きた通路」「みなみ通路」の建設計画<ref>[https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/kotsu/toshikotsu/saku-seibi/tsuroseibi/gaiyo.html 横浜駅通路整備事業の概要 駅の東西を連絡する、「きた通路」・「みなみ通路」を整備しました。] 横浜市公式サイト、2019年7月17日更新、2020年1月19日閲覧。</ref> もあいまって、横浜駅の[[地下駅|地下化]]工事が難航したため、開業が大幅に遅れることとなる。 [[2002年]](平成14年)ごろに一度、横浜地下駅の完成を待たずに、[[横浜市営地下鉄ブルーライン|横浜市営地下鉄1号線]]のように先に工事が進んでいたみなとみらい中央 - 元町(駅名はいずれも仮称)間での暫定部分開業が検討されたほか、新高島駅付近に車両搬入専用の施設や[[車両基地|電車区]]を設けるとの話が浮上した。しかし試算では年間で数億円の赤字が発生し、10億円以上の追加費用がかかることがわかり、また車両の搬入方法や検査設備の確保、独自車両か東急からの借用かなどの問題もあり立ち消えになった。 === 延伸構想と留置線設置計画 === {{See also|横浜市営地下鉄グリーンライン#延伸計画|横浜市営地下鉄#計画事業中路線}} 元町・中華街駅から「[[横浜環状鉄道]]」として[[本牧]]・[[根岸駅 (神奈川県)|根岸]]方面への延長構想があるが、現時点では計画が凍結状態にある<ref name=hamarepo170625>[https://hamarepo.com/story.php?story_id=6172 市営地下鉄グリーンラインの延伸計画は、その後どうなった?] はまれぽ.com、2017年6月25日、2020年1月19日閲覧。</ref>。 これとは別に、元町・中華街駅からトンネルを約600m延長し、[[港の見える丘公園]]の地下に10両編成4本を留置できる留置線を設置する計画が進行中である<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudo-ch.com/11040218.html|title=元町・中華街駅の先に10両編成4本の車庫、横浜高速鉄道みなとみらい線 車両留置場計画|publisher=鉄道チャンネル|date=2020-12-26|accessdate=2020-12-26}}</ref>。 [[#乗務員・運行管理|前述]]の通り、横浜高速鉄道は自社の車両基地を持たず、元住吉検車区を間借りしている。開業時に車両留置場を建設しなかったのは、本牧・根岸方面への延伸構想があったためで、延伸時に根岸方面などに留置場を設置することを前提に、開業時は東急から15年間間借りすることになり、2004年に2019年1月までの期限で元住吉検車区の借地契約を締結した。契約途中の2011年には東急から「契約終了後は新しい留置場を探してほしい」と催促があったが、直通先の西武鉄道や東武鉄道<!--出典の記事で明記されているのはこの2社。東京地下鉄に関しては明記なし。-->からも留置線の借用を断られるなど移設先の確保が進まず、契約期限までに本牧・根岸方面への延伸の見込みがなくなったことで、自前の留置場を建設することを決定した。建設には時間が掛かることから、東急には借地契約の延長を申し入れ、2024年まで5年間延長された。留置線の完成は2030年度中になる見込みで、6年 - 7年ほど車両の置き場がない空白期間が生じることになり、対応が迫られている<ref>{{Cite web|和書|title=横浜・MM線の車両留置場 住民反対も工事再開なぜ(下) 追う!マイ・カナガワ |url=https://www.kanaloco.jp/news/social/article-895232.html |website=カナロコ by 神奈川新聞 |date=2022-04-04|access-date=2022-09-30 |language=ja}}</ref>。 === 年表 === * [[1950年]]([[昭和]]25年)[[10月21日]]:太平洋戦争後の地域復興政策として、[[横浜国際港都建設法]]を公布。 * [[1957年]](昭和32年) :横浜市が「横浜国際港都建設総合基幹計画」を策定。 * [[1965年]](昭和40年) :[[横浜市六大事業|横浜市の六大事業]]の一つとして、後の[[横浜みなとみらい21|みなとみらい地区]]の再開発・[[横浜市営地下鉄]]の建設構想が提唱される。 *: ただしこのときは、現在のみなとみらい線に相当する路線の構想はなかった。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[7月15日]]:[[都市交通審議会答申第9号]]において、1985年までに整備すべき路線の一つとして、3号線([[本牧]]([[三溪園]]付近) - [[関内]] - [[桜木町 (横浜市)|桜木町]] - [[横浜駅|横浜]] - [[新横浜]] - 勝田([[港北ニュータウン]]付近))が提案される。 **: 本牧 - 横浜の一部が現在のみなとみらい線に、関内 - 勝田は横浜市営地下鉄1号線([[横浜市営地下鉄ブルーライン]])に相当する。 ** [[10月11日]]:横浜市議会で、横浜市条例 昭和41年第65号「横浜市交通事業の設置等に関する条例」が成立し、横浜市営地下鉄1号線 - 4号線の建設を決定。 * [[1967年]](昭和42年)[[3月7日]]:[[横浜市交通局]]が、現在のみなとみらい線に相当する横浜市営地下鉄2号線([[北幸|北幸町]]([[横浜駅]])-山下町([[山下公園]]付近))の鉄道事業免許を取得。 * [[1973年]](昭和48年)[[9月6日]]:横浜市営地下鉄2号線の経路を、[[尾上町 (横浜市)|尾上町]]([[関内駅]])- 山下町([[元町・中華街駅]]付近)に変更。 *: ただし本牧の港湾業界から地下鉄工事による[[国道133号線]]の交通渋滞悪化の懸念が出て、う回路になる[[首都高速神奈川1号横羽線]]の山下町方面への延伸完了まで建設を遅らせるように要請があり、これにより[[運輸大臣]]の工事施工認可が保留された。このため首都高速神奈川1号横羽線の延伸後まで工事の着手を延期することになった<ref>『横浜市高速鉄道建設史』 横浜市交通局、1987年12月、83-84ページ</ref>。 * [[1979年]](昭和54年):「横浜市都心臨海部総合整備計画」基本構想発表。 * [[1985年]](昭和60年)[[7月11日]]:[[運輸政策審議会答申第7号]]において、「みなとみらい21線」として「東神奈川━みなとみらい21地区━元町付近」が、目標年次(2000年)までに新設することが適当である区間、「元町付近…本牧町…根岸」が今後新設を検討すべき区間、とされる。 * [[1987年]](昭和62年)[[6月11日]]:東急東横線との直通計画を、[[神奈川新聞]]がスクープとして報じる。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月29日]]:横浜高速鉄道株式会社設立。 * [[1990年]](平成2年)[[4月19日]]:第一種鉄道事業免許取得。 *: 同日付で、競合する横浜市営地下鉄2号線の鉄道事業免許が廃止された<ref>「横浜市高速鉄道建設史II 年表(昭和61年 - 平成15年)」『横浜市高速鉄道建設史II』 横浜市交通局、2004年3月</ref>。 * [[1991年]](平成3年)11月:第一期工区(みなとみらい中央駅 - 元町駅)施工認可。 * [[1992年]](平成4年)[[11月24日]]:第一期工区起工式<ref>{{Cite news |title=「MM21線」来月起工式 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-21 |page=3 }}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)10月:第二期工区(横浜駅 - みなとみらい中央駅)施工認可。 * [[1995年]](平成7年)2月:第二期工区起工式。 * [[1997年]](平成9年)1月:高島駅(現在の新高島駅)新設計画変更認可。 * [[2000年]](平成12年)[[1月27日]]:[[運輸政策審議会答申第18号]]において、目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線、とされる。 * [[2002年]](平成14年)[[12月16日]]:正式な駅名が決定し、横浜駅から順に[[新高島駅]](高島駅)、[[みなとみらい駅]](みなとみらい中央駅)、[[馬車道駅]](北仲駅)、[[日本大通り駅]](県庁前駅)、元町・中華街駅(元町駅)となる(カッコ内はこれまでの仮称)<ref name="Minatomirai20021216"/>。また、日本大通り駅には「[[神奈川県庁|県庁]]・[[大さん橋]]」、元町・中華街駅には「山下公園」という副名称がそれぞれ付けられた<ref name="Minatomirai20021216"/>。 * [[2003年]](平成15年) ** [[7月9日]]:開業日を2004年(平成16年)2月1日とし、同時に[[東急東横線]]との相互直通運転を行うと正式に発表した<ref name="Minatomirai20030709">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20031203022701/http://www.mm21railway.co.jp/www/pdf/p20030709a.PDF みなとみらい線の開業日の決定について]}}(横浜高速鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref>。また、シンボルマークの制定と路線名を「'''みなとみらい線'''」という略称で統一することを明らかにした<ref name="Minatomirai200007092"/>。 ** [[7月23日]]:横浜駅構内でレール締結式を開催<ref name="Minatomirai20030723">[https://web.archive.org/web/20031209183846/http://www.mm21railway.co.jp/www/conclude.html みなとみらい線・東急東横線レール締結式を実施しました](横浜高速鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2002年時点の版)。</ref>。 ** [[11月]]:線内先行[[習熟運転|試運転]]開始。これに先立ち、Y500系Y516編成と東急9000系9008F編成が[[長津田車両工場]]から[[牽引自動車|トレーラー]]による陸上輸送で東横線[[東白楽駅]]付近まで運ばれ、一時的に設置された地下線への線路を使って搬入された。また、開業前日の[[2004年]][[1月31日]]は、みなとみらい線内を[[回送]]扱いにして東横線と通しでの最終訓練を実施。 * [[2004年]](平成16年)[[ファイル:Yokohama kōsoku tetsudō Y500 001.JPG|thumb|開業4周年ヘッドマーク]] ** [[2月1日]]:開業。同時に東急東横線との相互直通運転を開始した。 ** 5月:[[臨時列車]]「横浜みらい号」として[[東京メトロ日比谷線]][[北千住駅]]から乗り入れ開始。8月以降、名称を「[[みなとみらい号]]」に改称。 ** 12月:「みなとみらい号」を[[埼玉高速鉄道線]][[浦和美園駅]]および[[都営地下鉄三田線|都営三田線]][[高島平駅]]からも乗り入れ開始。 * [[2005年]](平成17年)[[7月25日]]:平日の特急・通勤特急・急行の8号車が[[女性専用車両|女性専用車]]となる<ref>{{Cite journal |和書 |title=7月25日(月)から東横線、みなとみらい線に女性専用車両を導入します|journal =HOT ほっと TOKYU |date=2005-07-20|issue =300|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0508/0508.pdf |publisher=東京急行電鉄|accessdate=2017-01-22|format=PDF}}</ref>([[#女性専用車|前述]])。 * [[2006年]](平成18年) ** [[4月14日]]:利用者数が累計1億人を達成。 ** [[7月18日]]:女性専用車の設定内容を変更([[#女性専用車|前述]])。 * [[2009年]](平成21年)[[10月22日]]:利用者数が累計3億人を達成。 * [[2012年]](平成24年):横浜駅 - 新高島駅間のトンネルに変状が確認される。現状でも安全性に支障はないものの、8月から地盤の改良を含めた補強工事を行うと発表。なお工事の完了時期については当初、2014年(平成26年)6月末を予定していたが<ref>{{Cite press release | 和書 | url=http://www.mm21railway.co.jp/topics/pdf/0726takashimat.pdf | title=みなとみらい線工事のお知らせ | publisher=横浜高速鉄道 | date=2012-07-26 | accessdate=2012-07-27|format=PDF}}</ref>、後に2015年(平成27年)3月末に延期された。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:[[東京メトロ副都心線]]を介し、[[東武東上本線|東武東上線]]・[[西武有楽町線]]・[[西武池袋線]]との相互直通運転開始。これに伴い、女性専用車の設定内容を変更([[#女性専用車|前述]])。 * [[2015年]](平成27年)3月7日:横浜駅に[[ホームドア|可動式ホーム柵]]を設置し、稼働開始<ref>{{Cite web|和書|title=平成26年度 安全報告書 |url=http://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/report26.pdf |publisher=横浜高速鉄道 |format=PDF |page=14 |date=2015-06 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。以降、線内各駅に順次整備される<ref>{{Cite press release |和書 |title=可動式ホーム柵の全駅整備を平成32年度までに完了します。 |url=http://www.mm21railway.co.jp/info/news/2017/01/32.html |publisher=横浜高速鉄道 |date=2017-01-13 |accessdate=2017-01-20}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[6月6日]]:[[横浜市役所]]が[[北仲通地区|北仲通南地区]]に移転することに伴い、新市庁舎の最寄り駅となった馬車道駅に「横浜市役所」の副名称を付与<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/363858 みなとみらい線馬車道駅、副名は「横浜市役所」に 20年から](神奈川新聞〈カナロコ〉 2018年10月4日)</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=6月6日(土)より馬車道駅に副名称「横浜市役所」を付けてご案内します! |publisher=横浜高速鉄道 |date=2020-06-03 |url=https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20200603.pdf |format=PDF |accessdate=2020-06-07 }}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[11月6日]]:新高島駅での可動式ホーム柵使用開始により、線内全駅での整備が完了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20211104.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104041306/https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20211104.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新高島駅可動式ホーム柵が11月6日(土)より使用開始 〜みなとみらい線全駅における可動式ホーム柵の整備が完了〜|publisher=横浜高速鉄道|date=2021-11-04|accessdate=2021-11-04|archivedate=2021-11-04}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[3月6日]]:元町・中華街駅を除く全駅で[[発車メロディ|発車サイン音]]を[[乗車促進音|車両から鳴らす方式]]に順次更新<ref name="mm21railway20230215">[https://web.archive.org/web/20230217172751/https://www.mm21railway.co.jp/info/news/2023/02/post-300.html みなとみらい線のワンマン運転を開始します。] - お知らせ一覧2023年2月15日閲覧</ref>。 ** [[3月18日]]:[[ワンマン運転]]を開始<ref name="mm21railway20230215" />。 == 利用状況・経営状態 == {| class="wikitable" style="text-align:right" |- !年度 !1日平均利用者数 !営業収益 !経常利益 |- |[[2004年]](平成16年) |12.1万人 |73億9600万円 |<nowiki>-20億3100万円</nowiki> |- |[[2005年]](平成17年) |13.2万人 |79億9200万円 |<nowiki>-10億6100万円</nowiki> |- |[[2006年]](平成18年) |14.0万人 |84億8000万円 |<nowiki>-5億6300万円</nowiki> |- |[[2007年]](平成19年) |15.3万人 |90億8200万円 |<nowiki>-3億6900万円</nowiki> |- |[[2008年]](平成20年) |16.1万人 |94億5900万円 |<nowiki>-19億0500万円</nowiki> |- |[[2009年]](平成21年) |16.6万人 |97億9800万円 |<nowiki>-14億7200万円</nowiki> |- |[[2010年]](平成22年) |16.3万人 |94億9900万円 |<nowiki>-16億5000万円</nowiki> |- |[[2011年]](平成23年) |16.7万人 |94億9900万円 |<nowiki>-14億3000万円</nowiki> |- |[[2012年]](平成24年) |17.5万人 |100億7600万円 |<nowiki>-7億6000万円</nowiki> |- |[[2013年]](平成25年) |19.1万人 |112億7700万円 |<nowiki>-3億4300万円</nowiki> |- |[[2014年]](平成26年) |19.4万人 |112億1000万円 |<nowiki>-3億1700万円</nowiki> |- |[[2015年]](平成27年) |19.7万人 |114億7300万円 |<nowiki>-1億8400万円</nowiki> |- |[[2016年]](平成28年) |20.1万人 |116億6800万円 |<nowiki>2億1500万円</nowiki> |- |[[2017年]](平成29年) |20.9万人 |119億8800万円 |<nowiki>5億8900万円</nowiki> |- |[[2018年]](平成30年) |21.8万人 |123億6800万円 |<nowiki>9億1100万円</nowiki> |} 開業初日の[[2004年]][[2月1日]]は[[日曜日]]だったこともあり、日本各地から多くの観光客や[[鉄道ファン]]が殺到し、乗客数が駅の処理能力を超え、ダイヤが乱れた。そのため、昼過ぎより急遽、本来は通過する[[馬車道駅]]と[[日本大通り駅]]に特急が臨時停車し、開業2度目の週末に当たる2月7日・2月8日にも同じ措置が採られた。これは、[[横浜中華街]]において[[春節]]を記念するイベントが行われる時期でもあったため、みなとみらい線の開業および中華街への観光客が集中したことも影響していた。 駅ごとの利用状況としては、横浜駅を利用(乗降・通過)する乗客が96%を占めており、次いで元町・中華街駅、みなとみらい駅の利用客が多くなっている。 [[2006年]]度には、当初の1日平均利用客計画数である13万7000人を初めて上回り、定期客の利用も増え、[[東急こどもの国線|こどもの国線]]と合わせた会社全体の営業[[利益]]も[[2007年]]度で16億9000万円となっている。[[2013年]]度は東急東横線の東京メトロ副都心線相互直通開始による効果で、利用者数・営業収益とも大幅に増加し、[[2016年]]度には1日平均利用者数が初めて20万人を突破した<ref name="ke">[http://www.kanaloco.jp/article/259941 みなとみらい線が初の黒字に 横浜高速鉄道・17年3月期](神奈川新聞〈カナロコ〉 2017年6月24日)</ref>。 営業利益は開業初年度より[[黒字]]だが、22億円弱という巨額の支払[[利子|利息]]があるため、経常損益では開業以来の[[黒字と赤字|赤字]]経営が続き(2007年度は3億6,900万円の赤字)、[[2008年]]度は開通以降の残工事分費用と利子の支払いを[[減価償却]]費に当てたことから、赤字額が大幅に増加した。2013年度は特別利益の計上で当期の純利益が黒字となり、さらに2016年度は経常損益で初の黒字となった<ref name="ke" />。 == 運賃・乗車券 == {{Main2|みなとみらい線内の運賃|横浜高速鉄道#運賃}} 大都市での地下路線建設であり、地盤の軟弱な湾岸部で河川や既存鉄道、高速道路との交差部が多かった。各駅とも地下深く駅の規模も大きく工事も長期間にわたり、建設費は全線・関連工事などを含め約3000億円と非常に高額であった。そのため運賃は既存鉄道と比べて割高となっている。 前述のとおり本路線は東急東横線と一体的に運行されており、東急東横線の廃止区間の沿線住民も含め、みなとみらい線 - 東急東横線を通して利用する乗客が大多数を占める。だが本路線の開業以前は、高島町駅や桜木町駅まで乗車しても東急東横線内の運賃で済んだが<ref group="注釈">東急東横線時代は高島町駅・桜木町駅まで乗車しても、横浜駅までの普通運賃と比べて最大40円程度加算されるだけであった。</ref>、みなとみらい線開業後は横浜駅を境に他社線として運賃が別となるため非常に割高となる<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/212129 JR各社をまたぐ運賃「通算制度」はここが変だ] [[東洋経済新報社|東洋経済オンライン]]、2018年3月13日、2020年1月19日閲覧。記事中には「横浜駅で接続する東京急行電鉄東横線と横浜高速鉄道みなとみらい線は、ほぼ一体となって列車が運転されているにもかかわらず、運賃は併算制である。」「東横線の起点である渋谷駅とみなとみらい線の終点元町・中華街駅との間で乗車券を発券した際の大人運賃は480円で、東横線の運賃270円にみなとみらい線の運賃210円を加えた金額が採用されている。」とある。</ref>。この運賃の割高感が乗客(特に[[定期乗車券|定期]]利用の都心方面への通勤・通学客)から嫌われ、JR[[根岸線]]など並行路線からの移行が当初の見込みを大きく下回った。 このため横浜高速鉄道では増収策として、沿線施設とタイアップしたイベントを実施したり、臨時列車「みなとみらい号」の運転を継続するほか、横浜市からも沿線の企業や官庁へ要請し、みなとみらい線の通勤定期を利用推進する活動を行った。また、[[一日乗車券]](みなとみらい線単独の他、東急線などの往復乗車券とのセット券もある)、[[ヨコハマ・みなとみらいパス]](ただし[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]での発売)を発売して、横浜への観光客などを呼び込むための取り組みも行っている。これまでに実施されたキャンペーン(みなとみらい号などの臨時電車運転に伴うものを除く)としては、2004年の「みなとみらいチケット・みなとみらい線一日乗車券まる得キャンペーン」<ref>[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/040930_2.pdf みなとみらいチケット・みなとみらい線一日乗車券まる得キャンペーン] 東急電鉄公式サイト{{リンク切れ|date=2020年1月}}</ref>、2006年の「早春のみなとみらいキャンペーン」<ref>{{Wayback |url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/060127.pdf |title=早春のみなとみらいキャンペーン |date=20060507145027}}東急電鉄公式サイト(2006年1月27日).2020年1月21日閲覧。</ref> などがある。 [[連絡乗車券]]は、[[2013年]][[3月16日]]に開業時から直通運転している[[東急東横線]]が[[東京メトロ副都心線|副都心線]]・[[西武池袋線]]・[[東武東上本線]]との相互直通運転を開始し、運転区間が大幅に広がったが、みなとみらい線内の駅(東急管轄の横浜駅を除く)での連絡乗車券の発売は東急東横線[[渋谷駅]]までと従来のままとなっており、渋谷駅以北の東京メトロ・西武・東武東上線方面への乗車券は発売していない。このため[[PASMO]]などの[[乗車カード|IC乗車券]]を使わずにみなとみらい線内から渋谷より北へ直通乗車する場合は、東急東横線渋谷駅までの乗車券を購入し最終下車駅で精算することになる。 == 駅一覧 == 全駅に[[エスカレーター]]や[[エレベーター]]が設置されている。前述のとおり地下深い場所を通っているため、「'''高速エスカレーター'''」が採用されている。赤外線で利用者を検知し、「高速運転」と「通常運転」の切り替えを行い、高速運転時は通常のエスカレーターの約1.3倍の速さとなる。 また、全駅の[[便所|トイレ]]に[[温水洗浄便座]]が設置され、多機能トイレはすべて[[オストメイト]]対応設備を備えている。 2012年9月下旬ごろより、各駅の駅名標などの案内に[[駅ナンバリング|ナンバリング]]が表記されている(記号はMM)。 * 全線[[神奈川県]][[横浜市]]内に所在。 * 停車駅 … ●:停車、|:通過 * 各駅停車は全駅に停車(表では省略)。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:4em;"|駅番号 !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:8em;"|駅名 !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:2.5em;"|駅間<br />キロ !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:2.5em;"|累計<br />キロ !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:1em; background:pink;"|{{縦書き|急行}} !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:1em; background:lightgreen;"|{{縦書き|通勤特急}} !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:1em; background:orange;"|{{縦書き|特急}} !style="border-bottom:solid 3px #0067c0; width:1em; background:white;"|{{縦書き|S-TRAIN|height=5.2em}} !style="border-bottom:solid 3px #0067c0;"|接続路線 !style="border-bottom:solid 3px #0067c0;white-space:nowrap;"|所在地 |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="6"|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線]]・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|14px|F]] [[東京メトロ副都心線]]経由で以下の路線・駅まで * [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線]][[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]まで * [[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] [[西武有楽町線]]経由[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] [[西武池袋線]][[飯能駅]]まで([[S-TRAIN]]は[[File:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] [[西武秩父線]][[西武秩父駅]]まで) |- !MM01 |[[横浜駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:pink; text-align:center;"|● |style="background:lightgreen; text-align:center;"|● |style="background:orange; text-align:center;"|● |style="background:white; text-align:center;"|● |[[東急電鉄]]:[[File:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] '''東横線 (TY21)(直通運転:上記参照)'''<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] (JT 05)・[[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]] (JO 13)・[[ファイル:JR_JS_line_symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 13)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 12)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[根岸線]] (JK 12)・[[ファイル:JR_JH_line_symbol.svg|18px|JH]] [[横浜線]]<br />[[京浜急行電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急本線|本線]] (KK37)<br />[[相模鉄道]]:[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線|本線]] (SO01)<br />[[横浜市営地下鉄]]:[[ファイル:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|18px|B]] [[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]] (B20) |rowspan="3"|[[西区 (横浜市)|西区]] |- !MM02 |[[新高島駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|0.8 |style="background:pink; text-align:center;"|| |style="background:lightgreen; text-align:center;"|| |style="background:orange; text-align:center;"|| |style="background:white; text-align:center;"|| |&nbsp; |- !MM03 |[[みなとみらい駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|1.7 |style="background:pink; text-align:center;"|● |style="background:lightgreen; text-align:center;"|● |style="background:orange; text-align:center;"|● |style="background:white; text-align:center;"|● |&nbsp; |- !MM04 |[[馬車道駅]]<br />{{Smaller|(横浜市役所)}} |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|2.6 |style="background:pink; text-align:center;"|● |style="background:lightgreen; text-align:center;"|● |style="background:orange; text-align:center;"|| |style="background:white; text-align:center;"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[中区 (横浜市)|中区]] |- !MM05 |[[日本大通り駅]]<br />{{Smaller|(県庁・大さん橋)}} |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|3.2 |style="background:pink; text-align:center;"|● |style="background:lightgreen; text-align:center;"|● |style="background:orange; text-align:center;"|| |style="background:white; text-align:center;"|| |&nbsp; |- !MM06 |[[元町・中華街駅]]<br />{{Smaller|(山下公園)}} |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|4.1 |style="background:pink; text-align:center;"|● |style="background:lightgreen; text-align:center;"|● |style="background:orange; text-align:center;"|● |style="background:white; text-align:center;"|● |&nbsp; |} === 駅舎 === [[横浜みなとみらい21|みなとみらい21]]プロジェクトの関連事業として、[[横浜の都市デザイン]]計画のもと[[横浜市営地下鉄]]と同様にデザイン計画が立てられ、建設主体である[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が設置した「駅デザイン委員会」([[渡辺定夫]]委員長、ほか11名)によって行われた<ref name="MMSen_81-100">『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語 計画から開通までのドラマ』、81-100ページ</ref>。 * 新高島駅:モチーフは「海とモダン」。(デザイナー:UG都市建築〔[[山下昌彦]]〕) * みなとみらい駅:モチーフは「船」で、青と白のストライプで表現されている。地下2階コンコースは、直径20メートルの半円形の通路が70メートルにわたって続いている。(デザイナー:早川邦彦建築研究室〔[[早川邦彦]]〕) * 馬車道駅:モチーフは「[[明治]]時代の横浜」。内装に赤[[レンガ]]風のタイルが使われている。地下2階のコンコースには、ステージを思わせる吹き抜けの円形ドーム空間がある。(デザイナー:内藤廣建築設計事務所〔[[内藤廣]]〕) * 日本大通り駅:ガラス・金属を用いた内装と、駅周辺に所在する歴史的な建物を思わせるレンガ・石材を用いた内装が同居している。(デザイナー:鉄道建設・運輸施設整備支援機構) * 元町・中華街駅:プラットホーム階が無柱の巨大な空間になっていることが特徴。壁面には横浜の文化を伝える写真などがタイル画として設置されている。(デザイナー:伊東豊雄建築設計事務所〔[[伊東豊雄]]〕) 駅の[[発車標]]は東急仕様のものとほぼ同一だがサイズが一回り小さい。[[駅名標]]は各駅でほぼ同一フォーマットだが、駅によりデザインや[[フォント]]が異なる。 <gallery> Shin-Takashima_Station_B1.JPG|新高島駅連絡通路 Minatomirai_Station_Escalator_to_Platform.jpg|みなとみらい駅コンコース Bashamichi_Station_01.JPG|馬車道駅コンコース Nihon-odori_Station_Gates.jpg|日本大通り駅改札口 Motomachi-Chukagai Station Platform2.jpg|元町・中華街駅プラットホーム </gallery> === 発車メロディ === [[発車メロディ]]は、横浜駅を除く各駅には同一のものが採用されており、上りと下りで異なるメロディが流れる(元町・中華街駅では組み合わせが逆になっている)。[[横浜スタジアム]]最寄りの日本大通り駅では、2013年4月2日より[[横浜DeNAベイスターズ]]の球団歌「[[熱き星たちよ]]」が使用されていたが<ref>[https://www.mm21railway.co.jp/info/news/2013/04/post-46.html 日本大通り駅の発車メロディーが"熱き星たちよ"に!] 横浜高速鉄道公式サイト、2013年4月1日、2020年1月23日閲覧。</ref><ref>[https://www.mm21railway.co.jp/info/news/2013/04/post-47.html 今年も横浜DeNAベイスターズを応援します!] 横浜高速鉄道公式サイト、2013年4月1日、2020年1月23日閲覧。</ref><ref>[https://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/20130401baystars.pdf DeNA BAY STARS Train 2013に乗って、横浜DeNAベイスターズを応援しよう!] 横浜高速鉄道公式サイト、2013年4月1日、2020年1月23日閲覧。</ref>、2019年3月29日より同球団の[[応援歌]]「勇者の遺伝子」に変更されている<ref>[http://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20190322_1.pdf 祝!プロ野球開幕!今年もみなとみらい線に乗って横浜DeNAベイスターズを応援しよう!] 横浜高速鉄道プレスリリース、2019年3月22日、2020年1月23日閲覧。</ref>。 === パブリックアート === 各駅には[[パブリックアート]]が設置されている。 {| class="wikitable" style="width:100%" style="font-size:90%" |+ パブリックアート作品の一覧<ref name="MMSen_81-100" /> |- ! style="max-width: 5em;" | 駅名 !! style="max-width: 12em;" | 作品名 !! 作者 !! style="max-width: 7月分em;" | 種類 !! style="max-width: 10em;" | 制作費補助 !! 備考 |- | 横浜駅 || VIVA YOKOHAMA || [[絹谷幸二]] || 陶板レリーフ || style="text-align:center;" | - || 寄贈:[[崎陽軒]] 制作:[[日本交通文化協会]] |- | 新高島駅 || Deep Sea Dreams || style="white-space:nowrap" |[[ルイ・フランセン|Louis Fransen]] || style="white-space:nowrap" |[[ステンドグラス]] || style="white-space:nowrap" |[[日本宝くじ協会]] || |- | rowspan="2" | 馬車道駅 || 金波、銀波 || [[澄川喜一]] || 金属レリーフ || style="white-space:nowrap" |MM21ロータリークラブ || |- | style="white-space:nowrap" |横浜銀行旧本店 壁面彫刻 || [[中村順平]] || 壁面彫刻 || [[横浜銀行]] || かつて当地にあった横浜銀行旧本店に設置されていたもの。テーマは「横浜の文化・都市発展史」。石膏成型、表面メタリコン仕上げ。1960年制作。 |- | style="white-space:nowrap" |日本大通り駅 || style="white-space:nowrap" |横浜港―過去から現在まで || [[柳原良平]] || ステンドグラス || 日本宝くじ協会 || |} <gallery widths="160" heights="110px"> Yokohama Station - VIVA YOKOHAMA.jpg|横浜駅「VIVA YOKOHAMA」(絹谷幸二) Shin-Takashima Station (Stained glass).JPG|新高島駅「Deep Sea Dreams」(Louis Fransen) </gallery> <!-- ※ 上のギャラリーは、[[Wikipedia:屋外美術を被写体とする写真の利用方針]]による制限があるため、制限対象となる画像を3つ以上記載しないでください。 --> == 使用車両 == === 自社車両 === * [[横浜高速鉄道Y500系電車|Y500系]](8両編成) <gallery widths="200" heights="140px"> ファイル:Yokohama-Kosoku-Y500.jpg|Y500系 </gallery> === 他社所有車両 === * [[東急電鉄]] ** [[東急5000系電車 (2代)#5050系4000番台|5050系4000番台]](10両編成) ** [[東急5000系電車 (2代)#5050系|5050系]](8両編成) ** [[東急5000系電車 (2代)|5000系]](8両編成・転属車) * [[東京地下鉄]](東京メトロ) ** [[東京メトロ17000系電車|17000系]](8・10両編成) ** [[東京メトロ10000系電車|10000系]](10両編成) * [[東武鉄道]](10両編成) ** [[東武50000系電車|50070型]] ** [[東武9000系電車|9000型・9050型]] * [[西武鉄道]](10両編成) ** [[西武40000系電車|40000系]](デュアルシート車はS-TRAIN限定で通常は一般列車での運用無し。ロングシート車は一般列車で運用) ** [[西武6000系電車|6000系]] <gallery widths="200" heights="140px"> File:Tokyu-Series5050-4000.jpg|東急5050系4000番台 File:Tokyu-Series5878.jpg|東急5050系 File:Toukyu 5050kei.jpg|東急5000系 File:Tokyo-Metro-Series17000 17105.jpg|東京メトロ17000系 File:Tokyo-Metro-Series10000 10102.jpg|東京メトロ10000系 File:Tobu-51076 Toyoko-Line.jpg|東武50070型 File:Tobu-Series9050R 9152.jpg|東武9000型・9050型 File:Seibu-Series40000 40053.jpg|西武40000系50番台 File:Seibu-Series6000-6003.jpg|西武6000系 </gallery> ==== その他 ==== * [[相模鉄道]] ** [[相鉄20000系電車|20000系]](但し通常時の営業列車での運転はなく、ダイヤ乱れが発生した際に入線する場合がある(入線実績あり)。) <gallery widths="200" heights="140px"> Sagami-Railway-21000-20103F.jpg|相鉄20000系 </gallery> === 過去の運用車両 === * 東京急行電鉄 ** [[東急8000系電車|8000系]]:2008年1月13日に終了 ** [[東急8090系電車|8590系]] ** [[東急9000系電車|9000系]]:2013年3月15日に終了 ** [[東急1000系電車|1000系]]:臨時列車「みなとみらい号」として入線していた。1000系専用の停車位置目標が各駅にある。2013年3月15日に終了 ** [[東急5000系電車 (2代)#5080系|5080系]]:臨時列車「みなとみらい号」として入線していた。 * 東京地下鉄 ** [[営団7000系電車|7000系]]:2022年4月18日に終了 * [[東京都交通局]] ** [[東京都交通局6300形電車|6300形]]:臨時列車「みなとみらい号」として入線していた。 * [[埼玉高速鉄道]] ** [[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]]:臨時列車「みなとみらい号」として入線していた。 <gallery widths="200" heights="140px"> File:Tokyu8000NoBand.jpg|東急8000系 File:Tokyu8590.jpg|東急8590系 File:Tokyu9000.jpg|東急9000系 File:TKK1004F minatomirai-go.jpg|東急1000系 File:Tokyo-Metro-Series7000 7130.jpg|東京メトロ7000系 </gallery> == キャラクター == ; 神繍皇女(かんぬみこ) : 2010年にみなとみらい線開通7周年記念として、プロジェクトカンヌ<ref group="注釈">[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリ]]の開発元は株式会社ニューブックで、プロジェクトカンヌは同社社長の豊川竜也らによるプロジェクトである。</ref> が制作した、みなとみらい線のイメージキャラクター<ref>川邉絢一郎「[https://hamarepo.com/story.php?story_id=271 MM線のイメージキャラ、「神繍皇女」を生み出したプロジェクトカンヌはどんな集団?]」はまれぽ.com、2011年6月19日</ref>。[[皇女]]・[[巫女]]という設定で、キャラクターデザインは[[さくやついたち]]、[[イラストレーター]]はさくやついたち・[[ヤス (イラストレーター)|ヤス]]・[[七尾奈留]]<ref>「[https://ameblo.jp/project-cannes/entry-10817868151.html 『DT神繍皇女』のカードについて]」『カンヌミコ OFFICIAL BLOG』、2011年3月2日</ref>。キャラクターはみなとみらい線の各駅に1人ずつイメージされており、合わせて5人となっている。2010年12月27日からキャラクターを使用したヘッドマークの掲出とオリジナルグッズの販売を開始し、12月30日には[[iPhone]]アプリ「皆富来神社」を使用したバーチャル神社が開設された<ref>{{Cite press release |和書 |title=みなとみらい駅にバーチャル神社が出現! |publisher= 横浜高速鉄道|date= |url=http://www.mm21railway.co.jp/dc/sites/default/files/H221227JINJA.pdf |format=PDF |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110722115242/http://www.mm21railway.co.jp/dc/sites/default/files/H221227JINJA.pdf |archivedate=2011-07-22}}</ref><ref>「[https://www.hamakei.com/headline/5750/ みなとみらい駅にバーチャル「皆富来神社」-Phoneアプリで参拝]」[[みんなの経済新聞ネットワーク|ヨコハマ経済新聞]]、2010年12月29日</ref>。また、2011年2月11日より台紙付き[[乗車券#硬券|硬券]]入場券セットの発売を開始し<ref>{{Cite press release |和書 |title=みなとみらい線 開通7周年を記念してイベントを開催 ! ! |publisher=横浜高速鉄道 |date=2011-01-17 |url=http://www.mm21railway.co.jp/dc/sites/default/files/u3/H2301207year.pdf |format=PDF |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110722115211/http://www.mm21railway.co.jp/dc/sites/default/files/u3/H2301207year.pdf |archivedate=2011-07-22}}</ref>、翌12日までの2日間にはみなとみらい駅に各駅のキャラクターが集結するイベントも行われた<ref>[http://twitpic.com/3y8rcb 神繍皇女イベント告知ポスター] ([[Twitpic]])</ref>。 : [[2011年]][[6月30日]]の投稿を最後に公式ブログ・公式[[Twitter]]は更新を停止しており、公式サイトも2015年にドメインの有効期限切れにより消滅している。またスマートフォンアプリの配信も終了しているため、現在は活動を行っていない。 ; えむえむさん : [[横浜港]]の[[カモメ]]をモチーフにした海鳥。誕生日は2月1日。性格は何でも聞いてくれて、とても優しい。趣味は世界のひとびとに幸せをふりまくこと。みなとみらい線沿線さんぽ、食べ歩き。[[2019年]][[10月5日]]開催の「みなとみらい線開通15周年記念イベント トレインフェスタ2019」でデビュー<ref>「記者発表資料 [http://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20190913.pdf みなとみらい線開通15周年記念イベント トレインフェスタ2019を開催します!]」『横浜高速鉄道株式会社』 2019年9月13日、横浜高速鉄道株式会社</ref>。 == その他 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2020年1月|section=1}} * 開通後最初に[[駅長|一日駅長]]に就任したのは、開通2周年記念イベントの一つとして[[2006年]](平成18年)[[2月4日]]馬車道駅にて[[横浜信用金庫|ジェリービーンズコンサート]]を行った「[[N.U.]]」。他に一日駅長に就任したのは、[[江戸川コナン]]、[[コマメちゃん]]、[[渡辺裕之]]、[[CHURU-CHUW]]である。 * ラッシュ時に座席を確保する目的で、横浜駅から渋谷駅方面へ行く東急東横線利用者の一部による、みなとみらい線の[[不正乗車]](無賃折り返し乗車)が5年前から目立つようになったと、2017年5月に報じられている<ref>[https://news.careerconnection.jp/?p=35562 みなとみらい線で絶えない「折り返し乗車」被害 「改札出なくても運賃発生」と呼びかけるも、1日で19人の不正乗車] - キャリコネニュース、2017年5月17日、同月18日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 廣瀬良一『ヨ・コ・ハ・マ「みなとみらい線」誕生物語 計画から開通までのドラマ』([[神奈川新聞社]]、2004年) ISBN 4-87645-343-8 == 関連項目 == {{Commonscat|Minatomirai Line}} * [[横浜高速鉄道]] * [[東急こどもの国線]] * [[東急東横線]] * [[第三セクター鉄道]] * [[横浜みなとみらい21]] * [[日本の地下鉄]] * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[東横特急 (SUPER BELL"Z&向谷実のアルバム)]] - 作品中にみなとみらい線が登場する。 == 外部リンク == * [https://www.mm21railway.co.jp/ みなとみらい線] * {{Twitter|mm21railway|みなとみらい線}} * {{Twitter|MM_line_unkou|みなとみらい線運行情報}} * {{Facebook|4.1sanpo|わたしの横浜4.1キロさんぽ}} * {{Instagram|mm21railway_official|みなとみらい線}} * [https://www.jrtt.go.jp/construction/achievement/minatomirai.html みなとみらい線|これまでの整備実績] - 鉄道建設・運輸施設整備支援機構 {{土木学会デザイン賞}} {{デフォルトソート:よこはまこうそくてつとうみなとみらいせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|みなとみらいせん]] [[Category:第三セクター路線]] [[Category:横浜高速鉄道|路みなとみらい]] [[Category:神奈川県の交通]] [[Category:横浜みなとみらい21]]
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王陽明
王 陽明(おう ようめい、成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日))は、中国明代の儒学者・高級官僚。諱は守仁、字は伯安、号は陽明子。諡は文成侯といった。弟は王守文。妻は諸譲(中国語版)の娘と張氏。子に王正億(中国語版)、孫に王承勛(中国語版)・王承学・王承恩、曾孫に王先進(王承勛の子)・王先通(王承恩の子)がいる。養子は王正憲(叔父の王袞の孫)。 思想家として当時の朱子学に対して批判的であり更に発展させた。聖人になるにあたり朱熹とは格物致知への解釈が異なり、四書五経を代表とする書物を通し物事を窮めることによって理を得ていくのではなく、理は元来より自分自身に備わっており物事の探究の結果得られるものではないとし、陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。 王華(中国語版)(1446年-1522年)の嫡長子として紹興府餘姚県(現在の浙江省寧波市餘姚市)に生まれる。琅邪王氏の王導の37世の孫といわれる。初名は雲。 父の王華は、成化17年(1481年)に科挙を状元で通った秀才で、後に南京吏部尚書(中国語版)に至り、龍山先生と称された。祖父の王倫にとっては最初に生まれた孫であり、王雲は祖父から大変寵愛されたが、5歳になっても口がきけず、とある僧侶の指摘により王守仁と改名した。10歳までは田舍町の餘姚で、自由奔放に成長したとされる。 この後王守仁は秀才ぶりを発揮し、11歳にして見事な詩を詠み祖父や周囲を驚かせたという。11歳の時、父の任官を受けて共に上京した。父の王華は王守仁に科挙での成功を強く期待し、否応なく勉学を強制した。しかし王守仁は隙を見つけては友人を遊びに連れ出していた。ある日、雀をめぐって術士と諍いを起こして諌められ、さらに不思議な予言を言われたことで突然「聖学」に憧れ、「聖賢」になろうと志した。弘治5年(1492年)に21歳で郷試に合格し、挙人となる。しかし翌弘治6年(1493年)の三年に一度の試験である会試には失敗、故郷の餘姚に戻って詩社を結んだ。26歳の時には北京で兵法を学んだ。王守仁は26-28歳を京師で暮らした。時勢を概して、挺身国事にあたろうとする気概、武芸を好んで、騎射にかけても人に負けまいとする情熱、詩歌風流に情緒の満足を得ようとする要求と、同時にまた永遠というものに心を馳せて、神仙の道に強く心を惹かれた。それには早くに健康を害し、病と戦わなければならなかった切実な問題もあった。また朱子学に傾倒し、その思索に失敗した後に「養生」を談じた。そこで、当然老荘や仏教にも思いを潜めて、ついには世を遁れて山に入る志にも動かされたこともあったという。このように青年時代には杓子定規な勉学に倦んで武術に熱中し、また辺境問題の解決には軍略も必要だと考え、自らその任に当たるべく兵法を修め、その一方で儒学を志した。 弘治12年(1499年)の会試に合格し、殿試にも合格、進士となった。王守仁は濬県で、名将であった王越(中国語版)の墳墓を築く役職に就き、見事な指揮を執った。また寝る時間を惜しみ、夜分まで書物を読み漁り勉学に励んだ。しかしそのために肺病を患ったため、職を辞して故郷に帰り養生することになった。この時、病を克服するため道教・仏道に傾倒した。これを陽明の五溺という。伝記では「はじめは任侠の習いに溺れ、次には騎射の習いに溺れ、次には辞章の習いに溺れ、次には神仙の習いに溺れ、次には仏教の習いに溺れた」としている。 弘治17年(1504年)、33歳で病も癒え、今度は山東で郷試の試験官となった。この後兵部主事となって都に戻る。この時、既に高名であった王守仁を慕って入門する門徒が徐々に増えて行き、40歳になるまで門徒の数は増え続けた。弘治18年(1505年)に弘治帝が崩御して正徳帝が即位すると、朝廷では宦官が絶大な権力を握るようになった。王守仁ら気鋭の官吏はこれらの宦官に強く抵抗するも、逆に多くが投獄されてしまい、王守仁も鞭打ち四十の刑罰を受け、何とか一命を取り留めるものの、その後も宦官の権力者であった劉瑾に疎まれ貴州龍場駅(現在の貴州省貴陽市修文県)に左遷された。この時龍場は彝族が住む地であり、文化も言葉も違い、居住する家屋の作りからしても華やかな都とはかけ離れた、まさに辺境の地であった。この地で王守仁は去来する煩悶を超越しようとし、また生死の恐れを超越しようとした。ある時、都から付き従ってきた従者三人が病に倒れた。王守仁は懸命に薪割りや水汲みを自ら行い、従者に粥を飲ませたり、詩や故郷餘姚の俗謡を歌ったりして彼らを元気づけた。この時、生死の恐れをすっかり忘れていた王守仁は「今この場に聖人があればどのように振る舞うであろうか。きっと自分と同じように過ごすに違いない。自分は今聖人と同じ行いをしているのだ」と悟り、格物致知の意味を悟るようになる。こうして王守仁は修養して過ごすうちに陽明学を生み出した。 劉瑾の追放後は高官となり、3つの軍事的業績を挙げ、後世「三征」と呼ばれた。1つ目は正徳11年(1516年)から5年かけた、江西・福建南部で相次いだ農民反乱や匪賊の巡撫・鎮圧である。この地方は地方官衙の統制が及びにくく、様々な紛争や軋轢が絶えなかった。追討の命を受けた王守仁は、商船を徴用して水路で進軍、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧、民政にも手腕を発揮し治安維持に務めた。 2つ目はその最中の正徳14年(1519年)6月に明の宗室が起こした寧王の乱である。15日に反乱の一報を聞いた王守仁は直ちに軍を返し、未だ朝廷から追討命令が出ていないにもかかわらず吉安府で義兵を組織した。7月13日に吉安を進発し、寧王朱宸濠の軍が南京攻略のため不在となっていた反乱軍本拠地の南昌を急襲、これを落とした。慌てて戻ってきた寧王軍と24・25日にわたって会戦してこれを撃破し、26日に首謀者である寧王を捕らえた。王守仁はまともな軍事訓練をしていない烏合の衆を率いて、反乱に向けて準備を進めていた寧王軍を僅か2カ月足らずで鎮圧したことになり、その軍事能力の高さが窺える。8月、朝廷は寧王の残党が燻っていることを理由に正徳帝の親征を企てたが、王守仁は無用だと建白している。皇帝が北京を留守にすれば、宿敵たる西北国境の異民族に隙を付かれかねず、その経費や労力にかかる民衆への負担が大きすぎると述べ、王守仁の優秀な前線指揮官に留まらない、国家の大局・大勢を踏まえた戦略的思考がわかる。これらの功績により、王守仁は正徳16年(1521年)10月に新建伯に封じられた。 3つ目は嘉靖6年(1527年)に広西で反乱が起きると、その討伐の命が下った件である。王守仁は辞退したが許されず、病(結核)をおして討伐軍を指揮し、それらを平定し事後処理を進めた。帰還命令が出ない中、独断で帰郷を図ったが、その帰途、病が重くなって南安府大庾県(現在の江西省贛州市大余県青龍鎮)の船中において57歳で死去した。最後の言葉は、「わが心光明なり、また何をか言わん」であったといわれている。遺骸は越城を去ること三十里、蘭亭を入ること五里、生前の王守仁が自ら択んだ洪渓の墳墓(中国語版)に葬られた。 王守仁ほどの大官になると、しかもこのように使命を果たしての凱旋途中での病歿であるから、当然、諡(おくりな)が贈られ、様々な恩典が加えられるのが通例であったが、勅裁を待たずして凱旋の途についたことを非難した大学士桂萼の上奏によって、諡は贈られず、伯位の世襲も停止させられ、追賞は一切行われず、かつその学問は偽学であると宣告された。しかし門人有志は利害の損失を顧みず、いたるところに師を祀り、遺教を講じ、祠堂の建つこと数百に達した。そして次代の隆慶元年(1567年)には新建伯を追贈、文成という諡を賜り、その子王正億への伯位の世襲を許された。また王陽明を祀る書院は七十を超えた。 非常に難解とされ訳されたことがなかった「公移」は、難波江通泰による詳細な訳注で『王陽明全集』第5巻(1985年、明徳出版社 全10巻)として刊行。同じ版元で岡田武彦の『全集』(全24巻)も王陽明関連の著作が半数以上ある。 中華民国(台湾)の台北市にある陽明山は、日本留学中に陽明学に感銘を受けた蔣介石が王陽明を記念して名付けたものである。
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王 陽明は、中国明代の儒学者・高級官僚。諱は守仁、字は伯安、号は陽明子。諡は文成侯といった。弟は王守文。妻は諸譲の娘と張氏。子に王正億、孫に王承勛・王承学・王承恩、曾孫に王先進(王承勛の子)・王先通(王承恩の子)がいる。養子は王正憲(叔父の王袞の孫)。 思想家として当時の朱子学に対して批判的であり更に発展させた。聖人になるにあたり朱熹とは格物致知への解釈が異なり、四書五経を代表とする書物を通し物事を窮めることによって理を得ていくのではなく、理は元来より自分自身に備わっており物事の探究の結果得られるものではないとし、陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。
{{簡易区別|台湾の俳優({{仮リンク|王陽明 (俳優)|zh|王陽明 (演員)|label=サニー・ワン}})}} {{中華圏の人物 |名前=王陽明 |画像種別= |画像=[[ファイル:王守仁.jpg|代替文=王守仁.jpg|200px]] |画像の説明=新建伯贈侯王文成公像 |出生= |死去= |出身地= |職業= |籍貫地= |出生地= |死没地= |繁体字=王陽明 |簡体字=王阳明 |ピン音=Wáng Yángmíng |通用ピン音= |ラテン字= |注音符号=ㄨㄤˊ ㄧㄤˊㄇㄧㄥˊ |注音二式= |粤語=Wong4 Joeng4Ming4 |台湾語= |和名= |発音= |本名繁体字=王守仁 |本名簡体字=王守仁 |本名ピン音=Wáng Shŏurén |本名通用ピン音= |本名ラテン字= |本名注音符号=ㄨㄤˊ ㄕㄡˇㄖㄣˊ |本名注音二式= |本名粤語=Wong4 Sau2Jan4 |本名台湾語= |本名和名= |本名発音= }} [[ファイル:王守仁容像.jpg|thumb|朝礼服の王守仁]] [[ファイル:Wang Shoujen.jpg|thumb|王守仁(『晩笑堂竹荘画伝』より)]] '''王 陽明'''(おう ようめい、[[成化]]8年[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]([[1472年]][[10月31日]]) - [[嘉靖]]7年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1529年]][[1月9日]]))は、[[中国の歴史|中国]][[明]]代の[[儒学者]]・高級官僚。[[諱]]は守仁、[[字]]は伯安、[[号 (称号)|号]]は陽明子{{Refnest|group="注釈"|[[餘姚市|餘姚]]の四明山にある{{仮リンク|陽明洞|zh|阳明洞}}にちなむ。}}。[[諡]]は文成侯といった。弟は王守文。妻は{{仮リンク|諸譲|zh|諸讓}}の娘と張氏。子に{{仮リンク|王正億|zh|王正亿}}、孫に{{仮リンク|王承勛|zh|王承勋}}・王承学・王承恩、曾孫に王先進(王承勛の子)・王先通(王承恩の子)がいる。養子は王正憲(叔父の王袞の孫{{Refnest|group="注釈"|王守信の子。}})。 [[思想家]]として当時の[[朱子学]]に対して批判的であり更に発展させた。聖人になるにあたり朱熹とは[[格物致知]]への解釈が異なり、[[四書五経]]を代表とする書物を通し物事を窮めることによって[[理]]を得ていくのではなく、理は元来より自分自身に備わっており物事の探究の結果得られるものではないとし、[[陽明学]]を起こした。一方で[[武将]]としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。 == 生涯 == {{仮リンク|王華 (明)|zh|王华 (明朝)|label=王華}}(1446年-1522年)の嫡長子として[[紹興府]]餘姚県(現在の[[浙江省]][[寧波市]][[餘姚市]])に生まれる<ref>{{Cite Kotobank|和書 |url = https://kotobank.jp/word/王陽明-38918 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-10}}</ref>。[[王氏#琅邪王氏|琅邪王氏]]の[[王導]]の37世の孫といわれる。初名は雲。 父の王華は、[[成化]]17年([[1481年]])に[[科挙]]を[[状元]]で通った秀才で、後に[[南京市|南京]][[吏部]]{{仮リンク|尚書 (官職)|label=尚書|zh|尚书 (官职)}}に至り、龍山先生{{Refnest|group="注釈"|餘姚の{{仮リンク|龍泉山 (餘姚)|label=龍泉山|zh|龍泉山 (餘姚)}}にちなむ。}}と称された。祖父の王倫にとっては最初に生まれた孫であり、王雲は祖父から大変寵愛されたが、5歳になっても口がきけず、とある僧侶の指摘により王守仁と改名した。10歳までは田舍町の餘姚で、自由奔放に成長したとされる。 この後王守仁は秀才ぶりを発揮し、11歳にして見事な詩を詠み祖父や周囲を驚かせたという。11歳の時、父の任官を受けて共に上京した。父の王華は王守仁に科挙での成功を強く期待し、否応なく勉学を強制した。しかし王守仁は隙を見つけては友人を遊びに連れ出していた。ある日、雀をめぐって術士と諍いを起こして諌められ、さらに不思議な予言を言われたことで突然「聖学」に憧れ、「聖賢」になろうと志した。[[弘治 (明)|弘治]]5年([[1492年]])に21歳で[[郷試]]に合格し、[[挙人]]となる。しかし翌弘治6年([[1493年]])の三年に一度の試験である[[会試]]には失敗、故郷の餘姚に戻って詩社を結んだ。26歳の時には[[北京市|北京]]で兵法を学んだ。王守仁は26-28歳を京師で暮らした。時勢を概して、挺身国事にあたろうとする気概、武芸を好んで、騎射にかけても人に負けまいとする情熱、詩歌風流に情緒の満足を得ようとする要求と、同時にまた永遠というものに心を馳せて、神仙の道に強く心を惹かれた。それには早くに健康を害し、病と戦わなければならなかった切実な問題もあった。また[[朱子学]]に傾倒し、その思索に失敗した後に「養生」を談じた。そこで、当然老荘や仏教にも思いを潜めて、ついには世を遁れて山に入る志にも動かされたこともあったという。このように青年時代には杓子定規な勉学に倦んで[[中国武術|武術]]に熱中し、また辺境問題の解決には軍略も必要だと考え、自らその任に当たるべく[[兵学|兵法]]を修め、その一方で[[儒学]]を志した。 弘治12年([[1499年]])の会試に合格し、[[殿試]]にも合格、[[進士]]となった。王守仁は[[浚県|濬県]]で、名将であった{{仮リンク|王越 (明)|label=王越|zh| 王越 (明朝)}}の墳墓を築く役職に就き、見事な指揮を執った。また寝る時間を惜しみ、夜分まで書物を読み漁り勉学に励んだ。しかしそのために肺病を患ったため、職を辞して故郷に帰り養生することになった。この時、病を克服するため[[道教]]・[[解脱への道|仏道]]に傾倒した。これを陽明の'''五溺'''という。伝記では「はじめは任侠の習いに溺れ、次には騎射の習いに溺れ、次には辞章の習いに溺れ、次には神仙の習いに溺れ、次には仏教の習いに溺れた」としている<ref>{{Harvnb|安岡|1974|pp=15-17}}</ref><ref>{{Harvnb|安岡|2014|p=23}}</ref><ref>{{Harvnb|島田|1975|p=29}}</ref>。 弘治17年([[1504年]])、33歳で病も癒え、今度は[[山東省|山東]]で郷試の試験官となった。この後[[兵部]][[主事]]となって都に戻る。この時、既に高名であった王守仁を慕って入門する門徒が徐々に増えて行き、40歳になるまで門徒の数は増え続けた。弘治18年([[1505年]])に[[弘治帝]]が崩御して[[正徳帝]]が即位すると、朝廷では[[宦官]]が絶大な権力を握るようになった。王守仁ら気鋭の官吏はこれらの宦官に強く抵抗するも、逆に多くが投獄されてしまい、王守仁も鞭打ち四十の刑罰を受け、何とか一命を取り留めるものの、その後も宦官の権力者であった[[劉瑾]]に疎まれ貴州龍場駅(現在の[[貴州省]][[貴陽市]][[修文県]])に左遷された。この時龍場は[[イ族|彝族]]が住む地であり、文化も言葉も違い、居住する家屋の作りからしても華やかな都とはかけ離れた、まさに[[辺境]]の地であった。この地で王守仁は去来する煩悶を超越しようとし、また生死の恐れを超越しようとした。ある時、都から付き従ってきた従者三人が病に倒れた。王守仁は懸命に薪割りや水汲みを自ら行い、従者に粥を飲ませたり、詩や故郷餘姚の[[俗謡]]を歌ったりして彼らを元気づけた。この時、生死の恐れをすっかり忘れていた王守仁は「今この場に聖人があればどのように振る舞うであろうか。きっと自分と同じように過ごすに違いない。自分は今聖人と同じ行いをしているのだ」と悟り、格物致知の意味を悟るようになる。こうして王守仁は修養して過ごすうちに陽明学を生み出した。 === 三征 === 劉瑾の追放後は高官となり、3つの軍事的業績を挙げ、後世「三征」と呼ばれた。1つ目は[[正徳 (明)|正徳]]11年([[1516年]])から5年かけた、[[江西省|江西]]・[[福建省|福建]]南部で相次いだ農民反乱や匪賊の巡撫・鎮圧である。この地方は地方官衙の統制が及びにくく、様々な紛争や軋轢が絶えなかった。追討の命を受けた王守仁は、商船を徴用して水路で進軍、[[民兵]]を組織してこれらをことごとく鎮圧、民政にも手腕を発揮し治安維持に務めた。 2つ目はその最中の正徳14年([[1519年]])[[6月 (旧暦)|6月]]に明の[[宗室]]が起こした[[寧王の乱]]である。[[6月15日 (旧暦)|15日]]に反乱の一報を聞いた王守仁は直ちに軍を返し、未だ朝廷から追討命令が出ていないにもかかわらず[[吉安府]]で義兵を組織した。[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]に吉安を進発し、寧王[[朱宸濠]]の軍が南京攻略のため不在となっていた反乱軍本拠地の[[南昌府|南昌]]を急襲、これを落とした。慌てて戻ってきた寧王軍と24・25日にわたって会戦してこれを撃破し、26日に首謀者である寧王を捕らえた。王守仁はまともな軍事訓練をしていない烏合の衆を率いて、反乱に向けて準備を進めていた寧王軍を僅か2カ月足らずで鎮圧したことになり、その軍事能力の高さが窺える。[[8月 (旧暦)|8月]]、朝廷は寧王の残党が燻っていることを理由に正徳帝の親征を企てたが、王守仁は無用だと建白している。皇帝が北京を留守にすれば、宿敵たる西北国境の異民族に隙を付かれかねず、その経費や労力にかかる民衆への負担が大きすぎると述べ、王守仁の優秀な前線指揮官に留まらない、国家の大局・大勢を踏まえた戦略的思考がわかる。これらの功績により、王守仁は正徳16年([[1521年]])[[10月 (旧暦)|10月]]に新建伯に封じられた。 3つ目は[[嘉靖]]6年([[1527年]])に[[広西省|広西]]で反乱が起きると、その討伐の命が下った件である。王守仁は辞退したが許されず、病(結核)をおして討伐軍を指揮し、それらを平定し事後処理を進めた。帰還命令が出ない中、独断で帰郷を図ったが、その帰途、病が重くなって[[南安府]]大庾県(現在の[[江西省]][[贛州市]][[大余県]]青龍鎮)の船中において57歳で死去した。最後の言葉は、「わが心光明なり、また何をか言わん」であったといわれている。遺骸は[[越城区|越城]]を去ること三十里、[[蘭亭]]を入ること五里、生前の王守仁が自ら択んだ洪渓の{{仮リンク|王守仁墓|label=墳墓|zh|王守仁墓}}に葬られた<ref>{{Harvnb|島田|1975|p=33}}</ref><ref>{{Harvnb|安岡|1974|p=76}}</ref>。 == 死後 == 王守仁ほどの大官になると、しかもこのように使命を果たしての凱旋途中での病歿であるから、当然、諡(おくりな)が贈られ、様々な恩典が加えられるのが通例であったが、勅裁を待たずして凱旋の途についたことを非難した大学士[[桂萼]]の上奏によって、諡は贈られず、伯位の世襲も停止させられ、追賞は一切行われず、かつその学問は偽学であると宣告された。しかし門人有志は利害の損失を顧みず、いたるところに師を祀り、遺教を講じ、祠堂の建つこと数百に達した。そして[[隆慶帝|次代]]の[[隆慶 (明)|隆慶]]元年([[1567年]])には新建伯を追贈、文成という諡を賜り、その子王正億への伯位の世襲を許された。また王陽明を祀る書院は七十を超えた<ref>{{Harvnb|安岡|1974|p=77}}</ref><ref>{{Harvnb|島田|1975|p=34}}</ref><ref>{{Harvnb|安岡|2014|p=114}}</ref>。 == 備考 == 非常に難解とされ訳されたことがなかった「公移」は、[[難波江通泰]]による詳細な訳注で『王陽明全集』第5巻([[1985年]]、[[明徳出版社]] 全10巻)として刊行。同じ版元で[[岡田武彦]]の『全集』(全24巻)も王陽明関連の著作が半数以上ある。 [[中華民国]]([[台湾]])の[[台北市]]にある[[陽明山]]は、日本留学中に陽明学に感銘を受けた[[蔣介石]]が王陽明を記念して名付けたものである。 == 関連書 == *[[伝習録]] *{{仮リンク|王文成公全書|zh|王文成公全书}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Commonscat|Wang_Yangming}} {{Wikiquotelang|zh|王守仁}} {{Wikisourcelang|zh|Author:王守仁}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{脚注の不足|date=2023年5月|section=1}} * {{Cite book|和書|author=島田虔次|authorlink= 島田虔次|title=王陽明集|date=1975-09|publisher=[[明徳出版社]]|ref={{SfnRef|島田|1975}}}} * {{Cite book|和書|author=安岡正篤|authorlink=安岡正篤|title=伝習録|date=1974-07|publisher=[[明徳出版社]]|ISBN= 9784896192698|ref={{SfnRef|安岡|1974}}}} * {{Cite book|和書|author=安岡正篤|authorlink=安岡正篤|title=王陽明と朱子|date=2014-04|publisher=[[明徳出版社]]|ISBN= 9784896199819|ref={{SfnRef|安岡|2014}}}} ; 伝記 * {{Cite book|和書|author=岡田武彦|authorlink=岡田武彦|title=王陽明小伝|publisher=明徳出版社|date=1995年}} * {{Cite book|和書|author=岡田武彦|title=王陽明大伝|volume=1~5|publisher=明徳出版社|date=2002年}} ; 論文 * {{Cite journal|和書|author=小島毅|authorlink=小島毅|title=王守仁 - いくさを嫌った名将|periodical=【アジア遊学173】 日中韓の武将伝|publisher=[[勉誠出版]]|date=2014年3月|pages=110-117}} ; 小説 * {{Cite book|和書|author=芝豪|authorlink=芝豪|title=小説 王陽明|volume=上・下|publisher=明徳出版社|date=2006年}} == 外部リンク == *{{Wayback|url=http://www17.ocn.ne.jp/~ichitubo/yomei/yomeiroom.html |title=陽明思想の部屋 |date=20051224190018}} 「伝習録」の和訳および、王陽明に関する諸種の伝記。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おう ようめい}} [[Category:琅邪王氏|ようめい]] [[Category:明代の進士]] [[Category:陽明学者|*]] [[Category:中国の儒学者]] [[Category:観念論者]] [[Category:宋明理学|+おう ようめい]] [[Category:道徳心理学]] [[Category:寧波出身の人物]] [[Category:1472年生]] [[Category:1529年没]]
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京王9000系電車
京王9000系電車(けいおう9000けいでんしゃ)は、2000年(平成12年)から 2009年(平成21年)にかけて264両が製造された京王電鉄京王線用の通勤形電車である。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、9701編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献にならい新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中に「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 6000系の代替および次世代車両として都営地下鉄新宿線(以下、新宿線)への乗り入れも想定、バリアフリー、メンテナンス・ランニングコストの削減、環境への配慮を盛り込んで設計された。社名を「京王電鉄」に変更してから初めての新規系列となった。 6000系が経年の高い車両から順次廃車されていくにあたり、8両編成から先に廃車が進行し、2両編成が残ることが想定されたため、6000系・7000系と併結運転が可能なシステムが9000系に搭載され、8両編成8本が製造された。当初は2両編成を京王八王子寄りに連結して新宿線に乗り入れる構想だったが、当時VVVFインバータ制御車は新宿線のアナログ式自動列車制御装置 (ATC) による誘導障害が懸念されたことから同線に乗り入れられなかったため、8両編成には新宿線乗り入れ対応の装備は設けられなかった。2005年(平成17年)に新宿線のATCが更新され、VVVF車の乗り入れが可能となったことから、同年より新宿線乗り入れ対応の10両編成20本が製造され、6000系新宿線乗り入れ編成を順次置き換えている。10両編成では2002年12月に地下鉄の火災対策に関する基準が見直された(以下、新火災対策基準とする)ことなどを考慮した設計変更が行われ、8両編成とは内外観の細部が異なる。 2001年(平成13年)にグッドデザイン賞を受賞している。 7000系・8000系に続いてステンレス車体、20 m両開き4扉、扉間に窓2枚の基本レイアウトが採用された。ビードがなく、側扉部に縦線が見える日本車輌製造(以下、日車)の『日車ブロック工法』が採用され、車体強度向上、軽量化のため戸袋窓が廃止された。側窓は8000系と同様2枚をひと組にしたサッシュレスの1枚下降窓となったが、軽量化のため一部窓が固定式とされた。新宿線乗り入れのため、地下鉄乗り入れ車両の構造規定に従い、前面は貫通構造とされ、幅610 mmの開き戸が中央に設けられた。 正面は初代5000系のイメージを残した形状となり、傾斜をつけた側面まで回り込む曲面ガラスが採用された。前面は一見平面的に見えるが、上面からみたときに半径10,000 mmの曲面で構成されており、工作の容易化のため乗務員扉部分までの前頭部がアイボリー塗装の普通鋼製とされ、スカートも同色に塗装された。正側面腰部にはイメージカラーである京王レッドと京王ブルーの帯が巻かれたが、8000系とは趣の異なるデザインとされた。8000系で窓上に貼られていた京王レッドの帯は9000系では採用されていない。8両編成では幌を用いて編成間を貫通することが想定されていたため幌を取り付ける台座が先頭部に設けられているが、10両編成にはこの台座がなく、正面下部アンチクライマの形状が若干異なる。8両編成では車体下部に傾斜が設けられていたが、10両編成では直線状とされているほか、客用ドア窓支持方式も両者で異なる。車椅子スペースに隣接するドアには車椅子での乗降を考慮した傾斜が設けられた。8両編成の両車端には固定式の妻窓が設けられたが、10両編成では廃止されている。8000系に続いて車外スピーカーが設置された。 車端部4人掛け、扉間7人掛けの京王線用20 m車としては標準的な配置が採用されたが、1人当たり座席寸法は8000系よりも10 mm拡大され450 mmとなっている。座席は片持ち式のバケット式が採用され、色は8000系よりやや濃いローズピンクとなった。7人掛け部分には3人と4人に仕切る握り棒が設けられているほか、一部の座席の裏には非常脱出時に用いる階段が取り付けられている。出入口脇には袖仕切り板を設け、立客の背もたれと座客の保護の機能を持たせているが、8両編成と10両編成では袖仕切りの形状が異なり、10両編成のうち9736編成以降の15本では握り棒が緩やかな曲線状に変更されている。明るさと清楚さを出すため壁と天井は白色系とされた。妻部は乗務員室後部を含み8両編成ではグレーの木目模様だが、10両編成では他の壁と同色とされた。床は茶系のツートンカラーで、中央部が薄く、座席付近が濃くなっている。天井は冷房ダクトと横流ファンを埋め込んだ平天井で、8000系よりも天井高さが25 mm高い2,270 mmとなった。8両編成の天井はFRP製だが、10両編成では新火災対策基準対応のため塗装アルミ材が採用されている。8両編成では2・4・6両目の京王八王子寄りに貫通路を仕切る引き戸(貫通扉)が設けられているが、10両編成では京王八王子寄り先頭車をのぞきすべての車両へ設置された。 バリアフリー対応として、8両編成の2両目と7両目、10両編成の2・4・6・9両目の車端部1箇所に車椅子スペースが設けられたほか、車端4人がけ部のつり手・荷棚・座席をそれぞれ50 mm・100 mm・10 mm低くしている。車椅子スペースに隣接するドアの靴擦り部には傾斜が設けられ、車椅子での乗降容易化が図られている。京王で初めてドアチャイムと旅客案内装置が設けられ、8両編成全編成と2006年製までの10両編成5本にはLED式旅客案内装置が客用ドア上に1両に4箇所設置されたが、2007年以降製造の10両編成15本はLCD式車内案内表示器がすべての客用ドアの上に設けられている。 運転席からの視認性向上のため京王で初めて高乗務員室が採用され、従来車より乗務員室位置が約200 mm高くなっている。乗務員室はグレー系に塗装され、8000系のデジタル式速度計に変えて7000系以前と同様機械式の速度計が採用された。従来車同様ワンハンドルマスコンが採用されたが、ハンドル本体は8000系よりも大型化された。力行2段目で定速制御を行うことができる。乗務員の支援、行先・種別表示、検修時の支援などを目的としたモニタ装置が乗務員室上部に設置された。8両編成の京王八王子寄り先頭車は2両編成を連結して幌で貫通することが想定されていたため可動式の仕切りが設置されているが、その他の先頭車には仕切りがない。8両編成には6000系・7000系と併結するための伝送変換器が設けられた。10両編成には新宿線用ATCが設置され、一部の10両編成は京王ATCが設置された。京王ATCは後に全車に設置されている。 ここでは製造時の機器構成について述べる。 定格3,300 V・1,200 AのIGBTを用いたVVVFインバータ制御が採用され、1つの主制御装置で電動車2両1ユニット、8個の主電動機を制御するが、4個ずつ解放可能な2群構成とされた 日立製作所(以下、日立)製VFI-HR-2820が採用され、デハ9000形に搭載された。10両編成の9100番台はユニットを組まない単独M車として使用されるため、1群のみ搭載のVFI-HR-1420が搭載されている。京王線用車両として初めてIGBT素子を使用した制御装置を採用した。 主電動機は従来車より高出力の出力170 kW(定格電圧1,100 V、電流115 A)のかご形三相誘導電動機、日立製HS-33534-02RBおよび日立製EFK-K60が採用された。 駆動装置は京王従来車と同様WN駆動方式が採用され、歯車比は85:14である。 制動装置は電気指令式 ナブコ製HRDA-1が8000系に続いて採用された。電動車と非電動車各1両を1組として回生ブレーキを優先する制御が採用された。9000系では全車両にブレーキコントロールユニットが搭載され、車両ごとに独立してブレーキ信号を受信している。踏面ブレーキは8000系最終製造車と同じユニット式の片押しブレーキが採用されている。 台車は8000系最終製造車と同一の東急車輛製造(以下、東急)製軸梁式軸箱支持ボルスタレス空気ばねのTS-1017動力台車、TS-1018付随台車(いずれも固定軸距2,200 mm、車輪経860 mm)が採用された。台車枠の横梁は空気ばねの補助空気室を兼ねている。 パンタグラフは東洋電機製造製PT-7110シングルアーム式がデハ9000形全車と、8両編成の9100番台を除くデハ9050形に搭載された。 補助電源装置は8両編成のうち9706編成までの8本は出力170 kVAの静止形インバータ (SIV)が、9707編成・9708編成は空調装置能力増強のため210 kVAのSIVが、10両編成には出力250 kVAのSIVがそれぞれデハ9050形に搭載された。空気圧縮機は毎分吐出容量1,600リットルのスクリュー式電動空気圧縮機ドイツ・クノールブレムゼ製(クノールブレムゼ鉄道システムジャパン)SL-22がデハ9050形に搭載された。 冷房装置は9706編成までの8両編成には屋上集中式48.84 kW (42,000 kcal/h) の冷房装置が各車に1台、9707編成・9708編成と10両編成には屋上集中式58.14 kW (50,000 kcal/h) のものが同様に各車に1台搭載された。 以下の形式で構成される。各形式とも同一編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。10両編成は下2桁が30 / 80から附番されている。「デ」は電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。 主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。編成位置により番号の百の位が異なっている。8両編成の2両目に9000番台(デハ9001 - デハ9008)、6両目に9100番台(デハ9101 - デハ9108)、10両編成の2両目・5両目・8両目にそれぞれ9000番台(デハ9031 - デハ9049、デハ9030)・9100番台(デハ9131 - デハ9149、デハ9130)・9200番台(デハ9231 - デハ9249、デハ9230)が組み込まれている。10両編成の9100番台以外はデハ9050形とユニットを組み、デハ9000形に搭載された主制御装置で2両1ユニット、8個の主電動機を制御するが、10両編成の9100番台は単独で使用され、1両分4個の主電動機を制御し、主制御装置容量も他車とは異なる。2000年から2009年にかけて合計76両が製造された。 デハ9000形とユニットを組み、電動空気圧縮機、補助電源装置を搭載する中間電動車である。百の位はユニットを組むデハ9000形と同一で、2000年から2009年に56両が製造された。8両編成の3両目に9000番台(デハ9051 - デハ9058)、7両目に9100番台(デハ9151 - デハ9158)、10両編成の3両目・9両目にそれぞれ9000番台(デハ9081 - デハ9099、デハ9080)・9200番台(デハ9281 - デハ9299、デハ9280)が組み込まれている。10両編成用の9100番台は存在しない。8両編成の9100番台以外には京王八王子寄りにパンタグラフ1基が搭載されている。 付随車である。8両編成と10両編成の4両目に組み込まれ、2000年から2009年にサハ9501 - サハ9508、サハ9531 - サハ9549、サハ9530の28両が製造された。 付随車である。8両編成の5両目に9500番台の車両、10両編成の6両目に9500番台、7両目に9600番台の車両が組み込まれ、2000年から2009年にサハ9551 - サハ9558、サハ9581 - サハ9599、サハ9580、サハ9681 - サハ9699、サハ9680の48両が製造された。 新宿寄り制御車である。2000年から2004年(平成16年)に8両編成用クハ9701 - クハ9708が、2005年から2009年に10両編成用クハ9731 - クハ9749、クハ9730の28両が製造された。 京王八王子寄り制御車である。2000年から2004年に8両編成用クハ9751 - クハ9758が、2005年から2009年に10両編成用クハ9781 - クハ9799、クハ9780の28両が製造された。8両編成用は京王八王子寄りに連結した2両編成と幌で貫通できるよう運転室が仕切れる構造となっている。 ここでは製造時のバリエーションについて述べ、後年の改造は後述する。 最初に製造されたグループである。2001年1月24日に営業運転を開始した。6000系の代替として新宿線乗り入れも考慮した設計が採用されている。2000年に2編成 、2001年に3編成、2002年から2004年にかけて毎年各1編成の合計8編成64両が製造され、番号末尾奇数が日車製、偶数が東急製である。9707編成と9708編成では冷房出力が48.84 kWから58.14 kWに増強され、SIVの容量が170 kVAから210 kVAに変更されている。 8両編成に続いて2005年に2編成、2006年と2007年に各3編成、2008年と2009年に各6編成の合計20編成200両が日車で製造された。車両番号末尾31 / 81から附番され、8両編成と区分されている。新宿線乗り入れのため新宿線用ATC、列車無線などの装備が追加されたほか、2008年製の9739編成から京王ATCが搭載された。新火災対策基準に対応するため、各車両間への貫通扉設置、内装材の変更、天井材のFRPから塗装アルミに変更するなどの設計変更が行われた。他編成と連結する運用を考慮する必要がないため、他形式と併結するための伝送変換器が設置されず、正面貫通幌座も廃止された。アンチクライマ形状が変更され、運行番号表示器が助手席側窓下部に設置されたことが先頭部の8両編成との相違点である。 8両編成で灰色の木目模様だった妻部内装材は他の壁と同じ白色系に変更、座席端部袖仕切り板も大型のものに変更され、車内車両番号表示がプレートからシールに変更されている。サービス向上とコストダウンのため車椅子スペースを2両に1箇所に増設、全車両の両車端部全席を「おもいやりぞーん」としたほか、UVカットガラスの採用による側窓カーテンの廃止、客用扉窓の取付方法変更、客用扉内側化粧板の廃止(ステンレス無地)、台枠隅部傾斜廃止などが変更された。 補助電源装置は1台で5両に給電するため容量が250 kVAとなり、IGBTの1段分圧方式に変更されたものがデハ9050形に搭載された。正側面の種別表示装置がフルカラーLEDに変更された。2007年製造の9736編成以降では付随車に滑走防止装置が取り付けられたほか、側面種別・行先表示装置がやや大きくなり、全体がフルカラーLEDとなった。車内案内表示器はLED式から液晶モニター(LCD)に変更され、すべてのドアの上に設置された。座席部に設けられているつかみ棒は大きな曲線状のものとなり、貫通路幅拡大、吊手高さ変更などが行われた。客用扉は先端部ならびに床面への黄色着色を行った。乗務員支援装置はモニタ装置に代わり、日立製作所が開発した「ATI」(車両情報制御装置)シリーズの中から、補機制御機能、検修支援機能などモニタ機能に特化した「ATI-M」と乗客情報サービス機能に特化した「ATI-S」を統合した高機能形「ATI-M&S装置」を採用した。 当初乗入用編成は15編成と予定されたため、末尾31 / 81から車両番号が付番されたが、19編成目で末尾49 / 99となったため20編成目は末尾30 / 80となった。最終製造の9730編成は前面の「KEIO」ロゴが他編成と異なり前照灯ケースの下部に貼付されていたが2019年の検査で他編成と同じ位置に移設された。 2008年(平成20年)ごろから8両編成の正側面行先表示装置のフルカラーLED化が行われ、2009年(平成21年)6月に完了した。 京王ATC非設置で製造された編成に対して、ATC装置の設置工事がATC運用開始に先立つ2008年1月から2010年4月にかけて行われている。 新宿駅 - 高尾山口駅間が外国人観光旅客の来訪の促進等による国際観光の振興に関する法律(外客旅行容易化法)の情報提供促進措置を講ずべき区間に指定され、英語での放送が求められたこと、放送品質の均一化を目的に2010年(平成22年)5月1日より一部の編成に自動放送が導入された。 2013年(平成25年)2月に、サハ9680の台車がPQモニタリング台車 (SS180) に交換された。 8000系に続いて2020年9月より0番台の前部標識灯のLED化が開始されたほか、2022年3月に9732Fと9733FがLED化され、また、同年4月に9731FがLED化された。 都営新宿線乗り入れをのぞき形式による運用の限定はないため、8両編成・10両編成とも他形式と共通に広く全線で運用される。8両編成は7000系との併結が可能で、2両編成を連結した10両編成として運用されることもある。10両編成は都営新宿線乗り入れ対応となっているため、新宿線乗り入れにも使用される。 2020年4月20日に、高幡不動検車区で定期検査を受けていた編成のうち、3両目のデハ9000形と8両目のデハ9050形について、主電動機取付金具の熔接部に亀裂が発見されたことが京王電鉄より明らかにされた。亀裂の原因は不明であるが、同社はこれを受けて同一構造の台車を使用している京王線176両、井の頭線87両に対して目視点検や探傷検査を実施し、異常がないことを確認した。同時に「本件を厳粛に受け止め、さらなる安全対策の徹底を図ってまいります」と陳謝し、今後当該車両の修理対応を車両メーカーと協議するとしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京王9000系電車(けいおう9000けいでんしゃ)は、2000年(平成12年)から 2009年(平成21年)にかけて264両が製造された京王電鉄京王線用の通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、9701編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献にならい新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中に「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "6000系の代替および次世代車両として都営地下鉄新宿線(以下、新宿線)への乗り入れも想定、バリアフリー、メンテナンス・ランニングコストの削減、環境への配慮を盛り込んで設計された。社名を「京王電鉄」に変更してから初めての新規系列となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "6000系が経年の高い車両から順次廃車されていくにあたり、8両編成から先に廃車が進行し、2両編成が残ることが想定されたため、6000系・7000系と併結運転が可能なシステムが9000系に搭載され、8両編成8本が製造された。当初は2両編成を京王八王子寄りに連結して新宿線に乗り入れる構想だったが、当時VVVFインバータ制御車は新宿線のアナログ式自動列車制御装置 (ATC) による誘導障害が懸念されたことから同線に乗り入れられなかったため、8両編成には新宿線乗り入れ対応の装備は設けられなかった。2005年(平成17年)に新宿線のATCが更新され、VVVF車の乗り入れが可能となったことから、同年より新宿線乗り入れ対応の10両編成20本が製造され、6000系新宿線乗り入れ編成を順次置き換えている。10両編成では2002年12月に地下鉄の火災対策に関する基準が見直された(以下、新火災対策基準とする)ことなどを考慮した設計変更が行われ、8両編成とは内外観の細部が異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)にグッドデザイン賞を受賞している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "7000系・8000系に続いてステンレス車体、20 m両開き4扉、扉間に窓2枚の基本レイアウトが採用された。ビードがなく、側扉部に縦線が見える日本車輌製造(以下、日車)の『日車ブロック工法』が採用され、車体強度向上、軽量化のため戸袋窓が廃止された。側窓は8000系と同様2枚をひと組にしたサッシュレスの1枚下降窓となったが、軽量化のため一部窓が固定式とされた。新宿線乗り入れのため、地下鉄乗り入れ車両の構造規定に従い、前面は貫通構造とされ、幅610 mmの開き戸が中央に設けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正面は初代5000系のイメージを残した形状となり、傾斜をつけた側面まで回り込む曲面ガラスが採用された。前面は一見平面的に見えるが、上面からみたときに半径10,000 mmの曲面で構成されており、工作の容易化のため乗務員扉部分までの前頭部がアイボリー塗装の普通鋼製とされ、スカートも同色に塗装された。正側面腰部にはイメージカラーである京王レッドと京王ブルーの帯が巻かれたが、8000系とは趣の異なるデザインとされた。8000系で窓上に貼られていた京王レッドの帯は9000系では採用されていない。8両編成では幌を用いて編成間を貫通することが想定されていたため幌を取り付ける台座が先頭部に設けられているが、10両編成にはこの台座がなく、正面下部アンチクライマの形状が若干異なる。8両編成では車体下部に傾斜が設けられていたが、10両編成では直線状とされているほか、客用ドア窓支持方式も両者で異なる。車椅子スペースに隣接するドアには車椅子での乗降を考慮した傾斜が設けられた。8両編成の両車端には固定式の妻窓が設けられたが、10両編成では廃止されている。8000系に続いて車外スピーカーが設置された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "車端部4人掛け、扉間7人掛けの京王線用20 m車としては標準的な配置が採用されたが、1人当たり座席寸法は8000系よりも10 mm拡大され450 mmとなっている。座席は片持ち式のバケット式が採用され、色は8000系よりやや濃いローズピンクとなった。7人掛け部分には3人と4人に仕切る握り棒が設けられているほか、一部の座席の裏には非常脱出時に用いる階段が取り付けられている。出入口脇には袖仕切り板を設け、立客の背もたれと座客の保護の機能を持たせているが、8両編成と10両編成では袖仕切りの形状が異なり、10両編成のうち9736編成以降の15本では握り棒が緩やかな曲線状に変更されている。明るさと清楚さを出すため壁と天井は白色系とされた。妻部は乗務員室後部を含み8両編成ではグレーの木目模様だが、10両編成では他の壁と同色とされた。床は茶系のツートンカラーで、中央部が薄く、座席付近が濃くなっている。天井は冷房ダクトと横流ファンを埋め込んだ平天井で、8000系よりも天井高さが25 mm高い2,270 mmとなった。8両編成の天井はFRP製だが、10両編成では新火災対策基準対応のため塗装アルミ材が採用されている。8両編成では2・4・6両目の京王八王子寄りに貫通路を仕切る引き戸(貫通扉)が設けられているが、10両編成では京王八王子寄り先頭車をのぞきすべての車両へ設置された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "バリアフリー対応として、8両編成の2両目と7両目、10両編成の2・4・6・9両目の車端部1箇所に車椅子スペースが設けられたほか、車端4人がけ部のつり手・荷棚・座席をそれぞれ50 mm・100 mm・10 mm低くしている。車椅子スペースに隣接するドアの靴擦り部には傾斜が設けられ、車椅子での乗降容易化が図られている。京王で初めてドアチャイムと旅客案内装置が設けられ、8両編成全編成と2006年製までの10両編成5本にはLED式旅客案内装置が客用ドア上に1両に4箇所設置されたが、2007年以降製造の10両編成15本はLCD式車内案内表示器がすべての客用ドアの上に設けられている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "運転席からの視認性向上のため京王で初めて高乗務員室が採用され、従来車より乗務員室位置が約200 mm高くなっている。乗務員室はグレー系に塗装され、8000系のデジタル式速度計に変えて7000系以前と同様機械式の速度計が採用された。従来車同様ワンハンドルマスコンが採用されたが、ハンドル本体は8000系よりも大型化された。力行2段目で定速制御を行うことができる。乗務員の支援、行先・種別表示、検修時の支援などを目的としたモニタ装置が乗務員室上部に設置された。8両編成の京王八王子寄り先頭車は2両編成を連結して幌で貫通することが想定されていたため可動式の仕切りが設置されているが、その他の先頭車には仕切りがない。8両編成には6000系・7000系と併結するための伝送変換器が設けられた。10両編成には新宿線用ATCが設置され、一部の10両編成は京王ATCが設置された。京王ATCは後に全車に設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ここでは製造時の機器構成について述べる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "定格3,300 V・1,200 AのIGBTを用いたVVVFインバータ制御が採用され、1つの主制御装置で電動車2両1ユニット、8個の主電動機を制御するが、4個ずつ解放可能な2群構成とされた 日立製作所(以下、日立)製VFI-HR-2820が採用され、デハ9000形に搭載された。10両編成の9100番台はユニットを組まない単独M車として使用されるため、1群のみ搭載のVFI-HR-1420が搭載されている。京王線用車両として初めてIGBT素子を使用した制御装置を採用した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主電動機は従来車より高出力の出力170 kW(定格電圧1,100 V、電流115 A)のかご形三相誘導電動機、日立製HS-33534-02RBおよび日立製EFK-K60が採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "駆動装置は京王従来車と同様WN駆動方式が採用され、歯車比は85:14である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "制動装置は電気指令式 ナブコ製HRDA-1が8000系に続いて採用された。電動車と非電動車各1両を1組として回生ブレーキを優先する制御が採用された。9000系では全車両にブレーキコントロールユニットが搭載され、車両ごとに独立してブレーキ信号を受信している。踏面ブレーキは8000系最終製造車と同じユニット式の片押しブレーキが採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "台車は8000系最終製造車と同一の東急車輛製造(以下、東急)製軸梁式軸箱支持ボルスタレス空気ばねのTS-1017動力台車、TS-1018付随台車(いずれも固定軸距2,200 mm、車輪経860 mm)が採用された。台車枠の横梁は空気ばねの補助空気室を兼ねている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "パンタグラフは東洋電機製造製PT-7110シングルアーム式がデハ9000形全車と、8両編成の9100番台を除くデハ9050形に搭載された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "補助電源装置は8両編成のうち9706編成までの8本は出力170 kVAの静止形インバータ (SIV)が、9707編成・9708編成は空調装置能力増強のため210 kVAのSIVが、10両編成には出力250 kVAのSIVがそれぞれデハ9050形に搭載された。空気圧縮機は毎分吐出容量1,600リットルのスクリュー式電動空気圧縮機ドイツ・クノールブレムゼ製(クノールブレムゼ鉄道システムジャパン)SL-22がデハ9050形に搭載された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "冷房装置は9706編成までの8両編成には屋上集中式48.84 kW (42,000 kcal/h) の冷房装置が各車に1台、9707編成・9708編成と10両編成には屋上集中式58.14 kW (50,000 kcal/h) のものが同様に各車に1台搭載された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以下の形式で構成される。各形式とも同一編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。10両編成は下2桁が30 / 80から附番されている。「デ」は電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。編成位置により番号の百の位が異なっている。8両編成の2両目に9000番台(デハ9001 - デハ9008)、6両目に9100番台(デハ9101 - デハ9108)、10両編成の2両目・5両目・8両目にそれぞれ9000番台(デハ9031 - デハ9049、デハ9030)・9100番台(デハ9131 - デハ9149、デハ9130)・9200番台(デハ9231 - デハ9249、デハ9230)が組み込まれている。10両編成の9100番台以外はデハ9050形とユニットを組み、デハ9000形に搭載された主制御装置で2両1ユニット、8個の主電動機を制御するが、10両編成の9100番台は単独で使用され、1両分4個の主電動機を制御し、主制御装置容量も他車とは異なる。2000年から2009年にかけて合計76両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "デハ9000形とユニットを組み、電動空気圧縮機、補助電源装置を搭載する中間電動車である。百の位はユニットを組むデハ9000形と同一で、2000年から2009年に56両が製造された。8両編成の3両目に9000番台(デハ9051 - デハ9058)、7両目に9100番台(デハ9151 - デハ9158)、10両編成の3両目・9両目にそれぞれ9000番台(デハ9081 - デハ9099、デハ9080)・9200番台(デハ9281 - デハ9299、デハ9280)が組み込まれている。10両編成用の9100番台は存在しない。8両編成の9100番台以外には京王八王子寄りにパンタグラフ1基が搭載されている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "付随車である。8両編成と10両編成の4両目に組み込まれ、2000年から2009年にサハ9501 - サハ9508、サハ9531 - サハ9549、サハ9530の28両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "付随車である。8両編成の5両目に9500番台の車両、10両編成の6両目に9500番台、7両目に9600番台の車両が組み込まれ、2000年から2009年にサハ9551 - サハ9558、サハ9581 - サハ9599、サハ9580、サハ9681 - サハ9699、サハ9680の48両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "新宿寄り制御車である。2000年から2004年(平成16年)に8両編成用クハ9701 - クハ9708が、2005年から2009年に10両編成用クハ9731 - クハ9749、クハ9730の28両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "京王八王子寄り制御車である。2000年から2004年に8両編成用クハ9751 - クハ9758が、2005年から2009年に10両編成用クハ9781 - クハ9799、クハ9780の28両が製造された。8両編成用は京王八王子寄りに連結した2両編成と幌で貫通できるよう運転室が仕切れる構造となっている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ここでは製造時のバリエーションについて述べ、後年の改造は後述する。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "最初に製造されたグループである。2001年1月24日に営業運転を開始した。6000系の代替として新宿線乗り入れも考慮した設計が採用されている。2000年に2編成 、2001年に3編成、2002年から2004年にかけて毎年各1編成の合計8編成64両が製造され、番号末尾奇数が日車製、偶数が東急製である。9707編成と9708編成では冷房出力が48.84 kWから58.14 kWに増強され、SIVの容量が170 kVAから210 kVAに変更されている。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "8両編成に続いて2005年に2編成、2006年と2007年に各3編成、2008年と2009年に各6編成の合計20編成200両が日車で製造された。車両番号末尾31 / 81から附番され、8両編成と区分されている。新宿線乗り入れのため新宿線用ATC、列車無線などの装備が追加されたほか、2008年製の9739編成から京王ATCが搭載された。新火災対策基準に対応するため、各車両間への貫通扉設置、内装材の変更、天井材のFRPから塗装アルミに変更するなどの設計変更が行われた。他編成と連結する運用を考慮する必要がないため、他形式と併結するための伝送変換器が設置されず、正面貫通幌座も廃止された。アンチクライマ形状が変更され、運行番号表示器が助手席側窓下部に設置されたことが先頭部の8両編成との相違点である。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "8両編成で灰色の木目模様だった妻部内装材は他の壁と同じ白色系に変更、座席端部袖仕切り板も大型のものに変更され、車内車両番号表示がプレートからシールに変更されている。サービス向上とコストダウンのため車椅子スペースを2両に1箇所に増設、全車両の両車端部全席を「おもいやりぞーん」としたほか、UVカットガラスの採用による側窓カーテンの廃止、客用扉窓の取付方法変更、客用扉内側化粧板の廃止(ステンレス無地)、台枠隅部傾斜廃止などが変更された。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "補助電源装置は1台で5両に給電するため容量が250 kVAとなり、IGBTの1段分圧方式に変更されたものがデハ9050形に搭載された。正側面の種別表示装置がフルカラーLEDに変更された。2007年製造の9736編成以降では付随車に滑走防止装置が取り付けられたほか、側面種別・行先表示装置がやや大きくなり、全体がフルカラーLEDとなった。車内案内表示器はLED式から液晶モニター(LCD)に変更され、すべてのドアの上に設置された。座席部に設けられているつかみ棒は大きな曲線状のものとなり、貫通路幅拡大、吊手高さ変更などが行われた。客用扉は先端部ならびに床面への黄色着色を行った。乗務員支援装置はモニタ装置に代わり、日立製作所が開発した「ATI」(車両情報制御装置)シリーズの中から、補機制御機能、検修支援機能などモニタ機能に特化した「ATI-M」と乗客情報サービス機能に特化した「ATI-S」を統合した高機能形「ATI-M&S装置」を採用した。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "当初乗入用編成は15編成と予定されたため、末尾31 / 81から車両番号が付番されたが、19編成目で末尾49 / 99となったため20編成目は末尾30 / 80となった。最終製造の9730編成は前面の「KEIO」ロゴが他編成と異なり前照灯ケースの下部に貼付されていたが2019年の検査で他編成と同じ位置に移設された。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)ごろから8両編成の正側面行先表示装置のフルカラーLED化が行われ、2009年(平成21年)6月に完了した。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "京王ATC非設置で製造された編成に対して、ATC装置の設置工事がATC運用開始に先立つ2008年1月から2010年4月にかけて行われている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "新宿駅 - 高尾山口駅間が外国人観光旅客の来訪の促進等による国際観光の振興に関する法律(外客旅行容易化法)の情報提供促進措置を講ずべき区間に指定され、英語での放送が求められたこと、放送品質の均一化を目的に2010年(平成22年)5月1日より一部の編成に自動放送が導入された。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)2月に、サハ9680の台車がPQモニタリング台車 (SS180) に交換された。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "8000系に続いて2020年9月より0番台の前部標識灯のLED化が開始されたほか、2022年3月に9732Fと9733FがLED化され、また、同年4月に9731FがLED化された。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "都営新宿線乗り入れをのぞき形式による運用の限定はないため、8両編成・10両編成とも他形式と共通に広く全線で運用される。8両編成は7000系との併結が可能で、2両編成を連結した10両編成として運用されることもある。10両編成は都営新宿線乗り入れ対応となっているため、新宿線乗り入れにも使用される。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2020年4月20日に、高幡不動検車区で定期検査を受けていた編成のうち、3両目のデハ9000形と8両目のデハ9050形について、主電動機取付金具の熔接部に亀裂が発見されたことが京王電鉄より明らかにされた。亀裂の原因は不明であるが、同社はこれを受けて同一構造の台車を使用している京王線176両、井の頭線87両に対して目視点検や探傷検査を実施し、異常がないことを確認した。同時に「本件を厳粛に受け止め、さらなる安全対策の徹底を図ってまいります」と陳謝し、今後当該車両の修理対応を車両メーカーと協議するとしている。", "title": "その他" } ]
京王9000系電車(けいおう9000けいでんしゃ)は、2000年(平成12年)から 2009年(平成21年)にかけて264両が製造された京王電鉄京王線用の通勤形電車である。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、9701編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献にならい新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中に「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。
{{鉄道車両 | 車両名 = 京王9000系電車 | 背景色 = #dd0077 | 文字色 = #FFFFFF | 画像 = Keio-Series9000-9701.jpg | 画像説明 = 京王9000系電車9701編成<br />(2021年11月 [[長沼駅 (東京都)|長沼駅]]) | 運用者 = [[京王電鉄]] | 製造所 = [[日本車輌製造]]<br />[[東急車輛製造]]<ref name="RP734p252"/><ref name="ダイヤ情報310p15"/> | 製造年 = 2000年 - 2009年 | 製造数 = 28編成264両(8両×8編成、10両×20編成)<ref name="ダイヤ情報310p15"/> | 運用開始 = | 投入先 = [[京王線]]([[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]直通) | 編成 = 8・10両編成<ref name="ダイヤ情報310p90"/> | 軌間 = 1,372 mm<ref name="RF479p73"/>([[狭軌]]) | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<ref name="RF479p73"/> | 最高運転速度 = 110 km/h<ref name="RP734p26"/><ref name="年鑑2006p178"/> | 設計最高速度 = 120 km/h<ref name="RF479p73"/> | 起動加速度 = 2.5&nbsp;km/h/s(登場時)<br/>3.3 km/h/s(現在)<ref name="RF479p73"/> | 常用減速度 = 4.0&nbsp;km/h/s<ref name="RF479p73"/> | 非常減速度 = 4.5&nbsp;km/h/s<ref name="RF479p73"/> | 編成定員 = | 車両定員 = 141名(先頭車)<br/>152名(中間車)<ref name="RF479p73"/> | 自重 = | 編成重量 = | 全長 = 20,000 mm<ref name="PF479付図"/> | 全幅 = 2,845 mm<ref name="PF479付図"/> | 全高 = 4,017 mm([[集電装置|パンタグラフ]]なし)<br/>4,100 mm(パンタグラフ付)<ref name="PF479付図"/> | 車体長 = 19,500 mm<ref name="PF479付図"/> | 車体幅 = 2,768 mm<ref name="PF479付図"/> | 車体高 = | 車体 = [[ステンレス鋼]]<ref name="RF479p69"/> | 台車 = | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<ref name="RF479p73"/> | 主電動機出力 = 170 [[ワット|kW]]<ref name="RF479p73"/><ref name="年鑑2006p178"/> | 駆動方式 = [[WN駆動方式|WN平行カルダン駆動]]<ref name="RF479p73"/> | 歯車比 = 85:14 = 6.07<ref name="RF479p73"/><ref name="年鑑2006p178"/> | 編成出力 = | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<br/>([[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]])<ref name="RF479p73"/><ref name="年鑑2006p178"/> | 制御装置 = | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式空気ブレーキ]]<ref name="RF479p73"/><ref name="年鑑2006p178"/> | 保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|京王形ATS]]<ref name="RF479p73"/><br/>[[自動列車制御装置#京王電鉄(京王ATC)|京王ATC]]<ref name="RP893p49"/><br/>[[自動列車制御装置#D-ATC|D-ATC(JR型)]] 10両編成のみ<ref name="年鑑2006p150"/> | 備考 = }} '''京王9000系電車'''(けいおう9000けいでんしゃ)は、[[2000年]]([[平成]]12年)から<ref name="RP734p252"/> [[2009年]](平成21年)にかけて264両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p15"/>[[京王電鉄]][[京王線]]<ref group="注釈">新宿 - 京王八王子間の路線を指す場合もあるが、ここでは京王電鉄の1,372 mm軌間の路線の総称として用いる。</ref>用の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。[[編成 (鉄道)|編成]]単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]で代表し、9701編成の様に表現する<ref group="注釈">鉄道ファン向けの雑誌記事などでは「編成」をFと略して9701Fなどと表現されることや、編成中一番番号が小さい車両で代表して9001Fなどと表記されることがあるが、京王電鉄が寄稿した記事([[#鉄道ファン479|新車ガイド「京王電鉄9000系」]]、[[#年鑑2004|「京王電鉄7000系 VVVFインバータ化改造」]]など)では新宿寄り先頭車で代表し、9701編成などと書かれているためこちらに合わせた。</ref>。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示している<ref name="ダイヤ情報310p14"/>が、本稿では各種文献にならい新宿寄りを左側として編成表を表記し<ref name="RP734p44"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/><ref name="RF605formation"/>、文中に「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 == 概要 == [[京王6000系電車|6000系]]の代替および次世代車両として[[都営地下鉄新宿線]](以下、新宿線)への乗り入れも想定、バリアフリー、メンテナンス・ランニングコストの削減、環境への配慮を盛り込んで設計された<ref name="RF479p69"/>。社名を「京王電鉄」に変更してから初めての新規系列となった。 6000系が経年の高い車両から順次廃車されていくにあたり、8両編成から先に廃車が進行し、2両編成が残ることが想定されたため<ref name="RP734p46" />、6000系・7000系と併結運転が可能なシステムが9000系に搭載され<ref name="RF479p69" /><ref name="RP734p47" />、8両編成8本が製造された<ref name="ダイヤ情報310p15" />。当初は2両編成を京王八王子寄りに連結して新宿線に乗り入れる構想だった<ref name="RF479p73" />が、当時[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]車は新宿線のアナログ式[[自動列車制御装置]] (ATC) による誘導障害が懸念されたことから同線に乗り入れられなかったため、8両編成には新宿線乗り入れ対応の装備は設けられなかった<ref name="とれいん397p21" /><ref name="村松2012p112" />。[[2005年]](平成17年)に新宿線のATCが更新<ref name="PHP2012p102" />され、VVVF車の乗り入れが可能となったことから、同年より新宿線乗り入れ対応の10両編成20本が製造され、6000系新宿線乗り入れ編成を順次置き換えている<ref name="ダイヤ情報310p13" />。10両編成では2002年12月に[[地下鉄]]の[[火災]]対策に関する基準が見直された<ref group="注釈">国鉄技第125号 「{{Cite web|和書|url=http://www.fdma.go.jp/html/data/tuchi1612/pdf/161227yo264-b1.pdf|title=鉄道に関する技術上の基準を定める省令等の解釈基準の一部改正について|date=2004-12-27|accessdate=2014-07-23|publisher=国土交通省|format=pdf}}」による。</ref>(以下、[[地下鉄等旅客車#現行の“技術基準省令の解釈基準”に示された火災対策|新火災対策基準]]とする)ことなどを考慮した設計変更が行われ、8両編成とは内外観の細部が異なる<ref name="年鑑2006p150" /><ref name="年鑑2006p151" />。 2001年(平成13年)に[[グッドデザイン賞]]を受賞している<ref name="RP734p47" /><ref name="GD" /><ref>[https://web.archive.org/web/20020204090224fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2272.htm 京王線9000系車両・飛田給(東京スタジアム前)駅がグッドデザイン賞を受賞(京王電鉄ニューリリース)](インターネットアーカイブ・2002年時点の版)。</ref>。 == 車両概説 == [[ファイル:Keio 9000 Front.JPG|thumb|150px|先頭部側面(2012年10月 橋本駅)]] === 車体 === 7000系・8000系に続いてステンレス車体、20 [[メートル|m]]両開き4扉、扉間に窓2枚の基本レイアウトが採用された<ref name="RF479p70"/><ref name="RF479p71"/><ref name="PF479付図"/>。ビードがなく、側扉部に縦線が見える[[日本車輌製造]](以下、日車)の『[[N-QUALIS|日車ブロック工法]]』{{refnest|group="注釈"|側扉部・窓部などの外板を含む構体をブロックごとに製造し、これらを結合して側構体を構成する工法で、側構体組み立て時の[[マテリアルハンドリング]]を容易にすることで組み立てコストの低減を狙っている<ref name="RP740p23"/>。}}が採用され<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="とれいん397p21"/>、車体強度向上、軽量化のため[[戸袋]]窓が廃止された<ref name="RF479p70"/>。側窓は8000系と同様2枚をひと組にしたサッシュレスの1枚下降窓となったが、軽量化のため一部窓が固定式とされた<ref name="RF479p70"/><ref name="とれいん397p25"/>。新宿線乗り入れのため、地下鉄乗り入れ車両の構造規定<ref group="注釈">「{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=413M60000800151#354 |title=鉄道に関する技術上の基準を定める省令(平成13年12月25日国土交通省令第151号)第75条|quote=2001年12月25日施行分|date=2001-12-25|accessdate=2019-12-24}}」に側面からの脱出が困難な区間を走行する列車は列車の最前部及び最後部から確実に脱出できる構造であることが規定されている。</ref>に従い、前面は貫通構造とされ<ref name="RF479p70"/>、幅610 [[ミリメートル|mm]]の開き戸が中央に設けられた<ref name="RP734p225"/>。 正面は[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]のイメージを残した形状となり、傾斜をつけた側面まで回り込む曲面ガラスが採用された<ref name="RF479p69" />。前面は一見平面的に見えるが、上面からみたときに半径10,000 mmの曲面で構成されており<ref name="とれいん397p25" />、工作の容易化のため乗務員扉部分までの前頭部がアイボリー塗装の普通鋼製とされ<ref name="RF479p69" /><ref name="RF479p70" />、[[排障器|スカート]]も同色に塗装された<ref name="RP734p225" />。正側面腰部にはイメージカラーである京王レッドと京王ブルーの帯が巻かれた<ref name="ダイヤ情報310p13" />が、8000系とは趣の異なるデザインとされた<ref name="RF479p69" />。8000系で窓上に貼られていた京王レッドの帯は9000系では採用されていない<ref name="ダイヤ情報310p13" />。8両編成では幌を用いて編成間を貫通することが想定されていた<ref name="年鑑2006p150" />ため幌を取り付ける台座が先頭部に設けられているが、10両編成にはこの台座がなく<ref name="とれいん397p21" />、正面下部[[アンチクライマー|アンチクライマ]]の形状が若干異なる<ref name="とれいん397p25" />。8両編成では車体下部に傾斜が設けられていたが、10両編成では直線状とされているほか、客用ドア窓支持方式も両者で異なる<ref name="年鑑2006p150" />。車椅子スペースに隣接するドアには車椅子での乗降を考慮した傾斜が設けられた<ref name="RF479p70" /><ref name="RP734p225" />。8両編成の両車端には固定式の妻窓が設けられた<ref name="RF479p70" />が、10両編成では廃止されている<ref name="ダイヤ情報310p13" />。8000系に続いて車外スピーカーが設置された<ref name="とれいん397p25" />。{{-}} <gallery> ファイル:Keio Series9000 9706-9744.jpg|10両編成(左)には幌の台座がなく、8両編成(右)には幌の台座が設けられている。 ファイル:Keio 9000 basement.JPG|8両編成車体下部の傾斜 ファイル:Keio 9030 frame.JPG|10両編成の車体下部 直線状 ファイル:Keio 9000 outside speaker.JPG|車外スピーカー ファイル:Keio 9030 door step.JPG|靴擦り部の傾斜 ファイル:Doors Keio 9000.JPG|8両編成のドア ファイル:Keio 9030 doors.JPG|10両編成のドア </gallery> === 内装 === 車端部4人掛け、扉間7人掛けの京王線用20 m車としては標準的な配置が採用された<ref name="PF479付図"/><ref name="RF479p70"/>が、1人当たり座席寸法は8000系よりも10 mm拡大され450 mmとなっている<ref name="RF479p70"/>。座席は片持ち式のバケット式が採用され<ref name="RF479p70"/>、色は8000系よりやや濃いローズピンクとなった<ref name="PHP2012p103"/>。7人掛け部分には3人と4人に仕切る握り棒が設けられている<ref name="RF479p70"/>ほか、一部の座席の裏には非常脱出時に用いる階段が取り付けられている<ref name="RF479p71"/>。出入口脇には袖仕切り板を設け、立客の背もたれと座客の保護の機能を持たせている<ref name="RF479p71"/>が、8両編成と10両編成では袖仕切りの形状が異なり<ref name="ダイヤ情報310p17"/>、10両編成のうち9736編成以降の15本では握り棒が緩やかな曲線状に変更されている<ref name="ダイヤ情報310p17"/>。明るさと清楚さを出すため壁と天井は白色系とされた<ref name="RF479p70"/>。妻部は乗務員室後部を含み8両編成ではグレーの木目模様だが<ref name="RF479p70"/>、10両編成では他の壁と同色とされた<ref name="ダイヤ情報310p15"/><ref name="ダイヤ情報310p17"/>。床は茶系のツートンカラーで、中央部が薄く、座席付近が濃くなっている<ref name="RF479p70"/>。天井は冷房ダクトと横流ファンを埋め込んだ平天井で、8000系よりも天井高さが25 mm高い2,270 mmとなった<ref name="RF479p70"/>。8両編成の天井は[[繊維強化プラスチック|FRP]]製<ref name="RF479p70"/>だが、10両編成では新火災対策基準対応のため塗装アルミ材が採用されている<ref name="年鑑2006p150"/>。8両編成では2・4・6両目の京王八王子寄りに貫通路を仕切る引き戸([[貫通扉]])が設けられている<ref name="ダイヤ情報310p15"/>が、10両編成では京王八王子寄り先頭車をのぞきすべての車両へ設置された<ref name="年鑑2006p150"/>。 バリアフリー対応として、8両編成の2両目と7両目<ref name="RF479p70" />、10両編成の2・4・6・9両目の車端部1箇所に[[車椅子スペース]]が設けられた<ref name="年鑑2006p150" />ほか、車端4人がけ部のつり手・荷棚・座席をそれぞれ50 mm・100 mm・10 mm低くしている<ref name="RF479p70" />。車椅子スペースに隣接するドアの靴擦り部には傾斜が設けられ、車椅子での乗降容易化が図られている<ref name="RF479p70" />。京王で初めてドアチャイムと[[車内案内表示装置|旅客案内装置]]が設けられ<ref name="PHP2012p103" />、8両編成全編成と2006年製までの10両編成5本には[[発光ダイオード|LED]]式旅客案内装置が客用ドア上に1両に4箇所設置された<ref name="ダイヤ情報310p15" />が、2007年以降製造の10両編成15本は[[液晶ディスプレイ|LCD]]式車内案内表示器がすべての客用ドアの上に設けられている<ref name="ダイヤ情報310p15" />。 <gallery> ファイル:Keio Series9000-9741 Inside.jpg|車内 ファイル:Keio Series9000-9741 Priority-seat.jpg|優先席 ファイル:Keio Series9000-9041 Free-space.jpg|車椅子スペース ファイル:Keio Series9000-9741 7Seat.jpg|7人掛け席 ファイル:Keio Series9000-9741 4Seat.jpg|4人掛け席(優先席) ファイル:LED information board of Keio 9000.jpg|LED式車内案内表示器 ファイル:Keio Series9000-9741 Inside-LCD.jpg|LCD式車内案内表示器 </gallery> ==== 乗務員室 ==== 運転席からの視認性向上のため京王で初めて高乗務員室が採用され、従来車より乗務員室位置が約200 mm高くなっている<ref name="RF479p71"/>。乗務員室はグレー系に塗装され、8000系のデジタル式速度計に変えて7000系以前と同様機械式の速度計が採用された<ref name="RF479p71"/>。従来車同様ワンハンドルマスコンが採用され<ref name="RF479p71"/>たが、ハンドル本体は8000系よりも大型化された<ref name="とれいん397p24"/>。力行2段目で定速制御を行うことができる<ref name="ダイヤ情報310p16"/>。乗務員の支援、行先・種別表示、検修時の支援などを目的としたモニタ装置が乗務員室上部に設置された<ref name="RF479p71"/>。8両編成の京王八王子寄り先頭車は2両編成を連結して幌で貫通することが想定されていたため可動式の仕切りが設置されているが<ref name="RF479p73"/>、その他の先頭車には仕切りがない<ref name="年鑑2006p150"/>。8両編成には6000系・7000系と併結するための伝送変換器が設けられた<ref name="RF479p71"/>。10両編成には新宿線用ATCが設置され<ref name="年鑑2006p150"/>、一部の10両編成は京王ATCが設置された<ref name="RP893p49"/>。京王ATCは後に全車に設置されている<ref name="年鑑2009動向"/>。 <gallery> ファイル:Keio9000_tc9754_cab.jpg|京王ATC設置前の8両編成の乗務員室(クハ9754、2004年) ファイル:Keio 9758 cabin.JPG|8両編成用クハ9750形の運転室<br/>貫通路を仕切る壁がある ファイル:Keio 9735 cabin.JPG|その他の運転室<br/>貫通路を仕切る壁はない </gallery> === 主要機器 === ここでは製造時の機器構成について述べる。 [[定格]]3,300 [[ボルト (単位)|V]]・1,200 [[アンペア|A]]の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]を用いたVVVFインバータ制御が採用され、1つの主制御装置で電動車2両1ユニット、8個の主電動機を制御するが、4個ずつ解放可能な2群構成とされた<ref name="RF479p71"/> [[日立製作所]](以下、日立)製<ref name="ダイヤ情報310p15"/>VFI-HR-2820が採用され、デハ9000形に搭載された<ref name="年鑑2001p173"/>。10両編成の9100番台はユニットを組まない単独M車として使用される<ref name="とれいん397p22"/>ため、1群のみ搭載のVFI-HR-1420が搭載されている<ref name="年鑑2006p178"/>。京王線用車両として初めてIGBT素子を使用した制御装置を採用した<ref name="RF479p71"/>{{refnest|group="注釈"|京王電鉄としては[[1997年]](平成9年)に[[京王井の頭線|井の頭線]]用[[京王1000系電車 (2代)|1000系]]の一部にIGBT素子を使用した制御装置を採用している<ref name="RP734p234"/>。}}。 主電動機は従来車より高出力の出力170 k[[ワット|W]](定格電圧1,100 V、電流115 A)の[[かご形三相誘導電動機]]<ref name="RF479p73"/><ref name="RP734p223"/>、日立製<ref name="ダイヤ情報310p15"/>HS-33534-02RB<ref name="年鑑2001p173"/>および日立製EFK-K60が採用された<ref name="年鑑2006p178"/><ref name="年鑑2006p179"/>。 駆動装置は京王従来車と同様[[WN駆動方式]]が採用され、[[歯車比]]は85:14である<ref name="RF479p73"/>。 制動装置は電気指令式 [[ナブテスコ|ナブコ]]製HRDA-1<ref group="注釈">本稿の参考文献に列挙した各記事では9000系用ブレーキ指令装置の製造者名が確認できないが、HRDA-1は[[#ナブコ94|ナブコ技報]]からナブコ(2003年からナブテスコ)製であることが分かる。</ref>が8000系に続いて採用された<ref name="RF479p73"/>。電動車と非電動車各1両を1組として[[回生ブレーキ]]を優先する制御が採用された<ref name="RF479p71"/>。9000系では全車両にブレーキコントロールユニットが搭載され、車両ごとに独立してブレーキ信号を受信している<ref name="RF479p71"/>。踏面ブレーキは8000系最終製造車と同じユニット式の片押しブレーキが採用されている<ref name="RF479p71"/>。[[ファイル:TS-1017 Takahata.JPG|thumb|200px|TS-1017台車]] [[鉄道車両の台車|台車]]は8000系最終製造車と同一の[[東急車輛製造]](以下、東急)製<ref name="ダイヤ情報310p15"/>軸梁式軸箱支持ボルスタレス空気ばねのTS-1017動力台車、TS-1018付随台車(いずれも固定軸距2,200 mm、車輪経860 mm)が採用された<ref name="RF479p72"/><ref name="RF479p73"/>。台車枠の横梁は空気ばねの補助空気室を兼ねている<ref name="RF479p73"/>。[[ファイル:Keio 9000 Pantograph.JPG|thumb|200px|PT-7110パンタグラフ]] [[集電装置|パンタグラフ]]は[[東洋電機製造]]製<ref group="注釈">本稿の参考文献に列挙した各記事ではパンタグラフの製造者名が確認できないが、[[#東洋技報121|東洋電機技報]]には京王にパンタグラフを納入したとの記載がある。</ref>PT-7110シングルアーム式<ref name="RP734p260"/>がデハ9000形全車と、8両編成の9100番台を除くデハ9050形に搭載された<ref name="RF479p69"/><ref name="RP734p223"/><ref name="年鑑2006p150"/>。 補助電源装置は8両編成のうち9706編成までの8本は出力170 k[[ボルトアンペア|VA]]の[[静止形インバータ]] (SIV)<ref name="RF479p73"/>が、9707編成・9708編成は空調装置能力増強のため<ref name="年鑑2006p151"/>210 kVAのSIV<ref name="ダイヤ情報310p15"/>が、10両編成には出力250 kVAのSIV<ref name="ダイヤ情報310p15"/>がそれぞれデハ9050形に搭載された<ref name="RF479p69"/><ref name="年鑑2006p178"/>。空気圧縮機は毎分吐出容量1,600[[リットル]]のスクリュー式電動空気圧縮機[[ドイツ]]・[[クノールブレムゼ]]製<ref name="JRMA2008-8">日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』2008年8月号研究と開発「オイルフリーCPの運用試験」pp.33 - 36。</ref>(クノールブレムゼ鉄道システムジャパン<ref name="JRMA2008-8"/>)SL-22がデハ9050形に搭載された<ref name="年鑑2001p173" /><ref name="RF479p73" />。 冷房装置は9706編成までの8両編成には屋上集中式48.84 kW (42,000 kcal/h) の[[エア・コンディショナー|冷房装置]]が各車に1台<ref name="RF479p73" />、9707編成・9708編成と10両編成には屋上集中式58.14 kW (50,000 kcal/h) のものが同様に各車に1台搭載された<ref name="年鑑2006p151" />。 == 形式構成 == 以下の形式で構成される。各形式とも同一編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている<ref name="RP734p44"/>。10両編成は下2桁が30 / 80から附番されている<ref name="年鑑2006p150"/>。「デ」は[[電動車]]を、「ク」は[[制御車]]を、「サ」は[[付随車]]を、「ハ」は[[普通車 (鉄道車両)|普通座席車]]を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。 === デハ9000形 === 主制御装置、パンタグラフを搭載する中間[[動力車|電動車]]である<ref name="RF479p72"/>。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている<ref name="RF479p69"/>。編成位置により番号の百の位が異なっている<ref name="ダイヤ情報310p90"/>。8両編成の2両目に9000番台(デハ9001 - デハ9008)、6両目に9100番台(デハ9101 - デハ9108)、10両編成の2両目・5両目・8両目にそれぞれ9000番台(デハ9031 - デハ9049、デハ9030)・9100番台(デハ9131 - デハ9149、デハ9130)・9200番台(デハ9231 - デハ9249、デハ9230)が組み込まれている<ref name="ダイヤ情報310p90"/>。10両編成の9100番台以外はデハ9050形とユニットを組み<ref name="ダイヤ情報310p90"/>、デハ9000形に搭載された主制御装置<ref name="RF479p71"/>で2両1ユニット、8個の主電動機を制御する<ref name="RF479p72"/>が、10両編成の9100番台は単独で使用され、1両分4個の主電動機を制御し、主制御装置容量も他車とは異なる<ref name="年鑑2006p150"/>。2000年から2009年にかけて合計76両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>。 === デハ9050形 === デハ9000形とユニットを組み、[[圧縮機|電動空気圧縮機]]、補助電源装置を搭載する中間電動車である<ref name="RF479p72"/>。百の位はユニットを組むデハ9000形と同一<ref name="ダイヤ情報310p90"/>で、2000年から2009年に56両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>。8両編成の3両目に9000番台(デハ9051 - デハ9058)、7両目に9100番台(デハ9151 - デハ9158)、10両編成の3両目・9両目にそれぞれ9000番台(デハ9081 - デハ9099、デハ9080)・9200番台(デハ9281 - デハ9299、デハ9280)が組み込まれている<ref name="ダイヤ情報310p90"/>。10両編成用の9100番台は存在しない<ref name="ダイヤ情報310p90"/>。8両編成の9100番台以外には京王八王子寄りにパンタグラフ1基が搭載されている<ref name="RF479p72"/><ref name="年鑑2006p150"/>。 === サハ9500形 === [[付随車]]<ref name="RP734p224"/>である。8両編成と10両編成の4両目に組み込まれ<ref name="ダイヤ情報310p90"/>、2000年から2009年にサハ9501 - サハ9508、サハ9531 - サハ9549、サハ9530の28両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>。 === サハ9550形 === 付随車<ref name="RP734p224"/>である。8両編成の5両目に9500番台の車両、10両編成の6両目に9500番台、7両目に9600番台の車両が組み込まれ<ref name="ダイヤ情報310p90"/>、2000年から2009年にサハ9551 - サハ9558、サハ9581 - サハ9599、サハ9580、サハ9681 - サハ9699、サハ9680の48両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>。 === クハ9700形 === 新宿寄り[[制御車]]である<ref name="RF479p72"/>。2000年から[[2004年]](平成16年)に8両編成用クハ9701 - クハ9708が、2005年から2009年に10両編成用クハ9731 - クハ9749、クハ9730の28両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>。 === クハ9750形 === 京王八王子寄り制御車である<ref name="RF479p72"/>。2000年から2004年に8両編成用クハ9751 - クハ9758が、2005年から2009年に10両編成用クハ9781 - クハ9799、クハ9780の28両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>。8両編成用は京王八王子寄りに連結した2両編成と幌で貫通できるよう運転室が仕切れる構造となっている<ref name="RF479p73"/>。 == 新製時のバリエーション == ここでは製造時のバリエーションについて述べ、後年の改造は後述する。 === 8両編成 === 最初に製造されたグループである。2001年1月24日に営業運転を開始した<ref>[https://web.archive.org/web/20020805053840fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2000_58.htm 21世紀の新時代を担う京王線に新型9000系車両 - 来年1月24日(水)営業運転開始 - (京王電鉄ニューリリース)](インターネットアーカイブ・2002年時点の版)</ref><ref name="年鑑2001p120"/>。6000系の代替として新宿線乗り入れも考慮した設計が採用されている<ref name="RF479p69"/>。2000年に2編成<ref>[https://web.archive.org/web/20021210012609fw_/http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2149.htm 京王線に新型車両を導入(京王電鉄ニューリリース)](インターネットアーカイブ・2002年時点の版)</ref> <ref name="年鑑2001一覧"/>、2001年に3編成<ref name="RP734p252"/>、2002年から2004年にかけて毎年各1編成<ref name="年鑑2003一覧"/><ref name="年鑑2004一覧"/><ref name="年鑑2005一覧"/>の合計8編成64両が製造され、番号末尾奇数が日車製、偶数が東急製である<ref name="RP734p252"/><ref name="年鑑2003一覧"/><ref name="年鑑2004一覧"/><ref name="年鑑2005一覧"/>。9707編成と9708編成では冷房出力が48.84 kWから58.14 kWに増強され<ref name="年鑑2006p151"/>、SIVの容量が170 kVAから210 kVAに変更されている<ref name="ダイヤ情報310p15"/>。 {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:80%;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・橋本・高尾山口}}<br /> |- !形式 |'''クハ9700'''||'''デハ9000'''||'''デハ9050'''||'''サハ9500'''||'''サハ9550'''||'''デハ9000'''||'''デハ9050'''||'''クハ9750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #d07;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #d07;"|Tc1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|T1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|T2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|Tc2 |- !車両番号<ref name="ダイヤ情報310p90"/> |'''9701'''<br/>'''9702'''<br/>'''9703'''<br/>'''9704'''<br/>'''9705'''<br/>'''9706'''<br/>'''9707'''<br/>'''9708'''||'''9001'''<br/>'''9002'''<br/>'''9003'''<br/>'''9004'''<br/>'''9005'''<br/>'''9006'''<br/>'''9007'''<br/>'''9008'''||'''9051'''<br/>'''9052'''<br/>'''9053'''<br/>'''9054'''<br/>'''9055'''<br/>'''9056'''<br/>'''9057'''<br/>'''9058'''||'''9501'''<br/>'''9502'''<br/>'''9503'''<br/>'''9504'''<br/>'''9505'''<br/>'''9506'''<br/>'''9507'''<br/>'''9508'''||'''9551'''<br/>'''9552'''<br/>'''9553'''<br/>'''9554'''<br/>'''9555'''<br/>'''9556'''<br/>'''9557'''<br/>'''9558'''||'''9101'''<br/>'''9102'''<br/>'''9103'''<br/>'''9104'''<br/>'''9105'''<br/>'''9106'''<br/>'''9107'''<br/>'''9108'''||'''9151'''<br/>'''9152'''<br/>'''9153'''<br/>'''9154'''<br/>'''9155'''<br/>'''9156'''<br/>'''9157'''<br/>'''9158'''||'''9751'''<br/>'''9752'''<br/>'''9753'''<br/>'''9754'''<br/>'''9755'''<br/>'''9756'''<br/>'''9757'''<br/>'''9758'''||2000年12月<ref name="RP734p252"/><br/>2000年12月<ref name="RP734p252"/><br/>2001年11月<ref name="RP734p252"/><br/>2001年11月<ref name="RP734p252"/><br/>2001年12月<ref name="RP734p252"/><br/>2002年10月<ref name="年鑑2003一覧"/><br/>2003年10月<ref name="年鑑2004一覧"/><br/>2004年6月<ref name="年鑑2005一覧"/> |- !搭載機器<ref name="RF479p69"/> |&nbsp;||CON・PT||SIV・CP・PT||&nbsp;||&nbsp;||CON・PT||SIV・CP||&nbsp; ||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF479p73"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 [[トン|t]]||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|33.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|33.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 t |- !定員<ref name="年鑑2001p173"/> |141||153||152||152||152||152||153||141 |} ;凡例 :Tc …制御車、M …中間電動車、T…付随車、CON…[[主制御器|制御装置]]、SIV…補助電源装置([[静止形インバータ]])、CP…電動空気圧縮機、PT…[[集電装置]](京王八王子寄り)以下同じ。 === 10両編成 === [[ファイル:Keio 9000 Series 9730 Formation Semi Special Express.jpg|thumb|240px|前面の社名ロゴの貼付位置が他車と異なっていた頃の9730編成]] 8両編成に続いて2005年に2編成<ref name="年鑑2006一覧"/>、2006年と2007年に各3編成<ref name="年鑑2007一覧"/><ref name="年鑑2008一覧"/>、2008年と2009年に各6編成の合計20編成200両が日車で製造された<ref name="年鑑2009一覧"/><ref name="年鑑2010一覧"/>。車両番号末尾31 / 81から附番され、8両編成と区分されている<ref name="年鑑2006p150"/>。新宿線乗り入れのため新宿線用ATC、列車無線などの装備が追加された<ref name="年鑑2006p150"/>ほか、2008年製の9739編成から京王ATCが搭載された<ref name="RP893p49"/>。新火災対策基準に対応するため、各車両間への[[貫通扉]]設置、内装材の変更、天井材のFRPから塗装アルミに変更するなどの設計変更が行われた<ref name="年鑑2006p150"/>。他編成と連結する運用を考慮する必要がないため、他形式と併結するための伝送変換器が設置されず<ref name="年鑑2006p150"/>、正面貫通幌座も廃止された<ref name="とれいん397p22"/>。アンチクライマ形状が変更され<ref name="とれいん397p22"/>、[[列車番号|運行番号]]表示器が助手席側窓下部に設置された<ref name="年鑑2006p150"/><ref name="とれいん397p27"/>ことが先頭部の8両編成との相違点である。 8両編成で灰色の木目模様だった妻部内装材は他の壁と同じ白色系に変更、座席端部袖仕切り板も大型のものに変更され<ref name="ダイヤ情報310p17"/>、車内車両番号表示がプレートから[[シール]]に変更されている<ref name="ダイヤ情報310p18"/>。サービス向上とコストダウンのため車椅子スペースを2両に1箇所に増設、全車両の両車端部全席を「おもいやりぞーん」としたほか、UVカットガラスの採用による側窓カーテンの廃止、客用扉窓の取付方法変更、客用扉内側化粧板の廃止(ステンレス無地)、台枠隅部傾斜廃止などが変更された<ref name="年鑑2006p150"/><ref name="ダイヤ情報310p17"/>。 補助電源装置は1台で5両に給電するため容量が250 kVAとなり、IGBTの1段分圧方式に変更されたものがデハ9050形に搭載された<ref name="年鑑2006p151"/>。正側面の種別表示装置がフルカラーLEDに変更された<ref name="とれいん397p25"/><ref name="とれいん397p26"/>。2007年製造の9736編成以降では付随車に[[フラット防止装置|滑走防止装置]]が取り付けられたほか、側面種別・行先表示装置がやや大きくなり、全体がフルカラーLEDとなった<ref name="年鑑2008動向"/>。車内案内表示器はLED式から液晶モニター(LCD)に変更され、すべてのドアの上に設置された<ref name="年鑑2008動向"/>。座席部に設けられているつかみ棒は大きな曲線状のものとなり、貫通路幅拡大、吊手高さ変更などが行われた<ref name="年鑑2008動向"/>。客用扉は先端部ならびに床面への黄色着色を行った<ref name="ダイヤ情報310p17"/>。乗務員支援装置はモニタ装置に代わり、日立製作所が開発した「ATI」(車両情報制御装置)シリーズの中から<ref name="Tetsushako454">日本鉄道車輌工業会「鉄道車両工業」454号(2010年4月)新製品と新技術「京王電鉄株式会社殿納め9000系ATI-M&S装置」27-30P。</ref>、補機制御機能、検修支援機能などモニタ機能に特化した「ATI-M」と乗客情報サービス機能に特化した「ATI-S」を統合した<ref name="Tetsushako454"/>高機能形「'''ATI-M&S装置'''」を採用した<ref name="Tetsushako454"/>。 当初乗入用編成は15編成と予定されたため<ref name="RP893p49"/>、末尾31 / 81から車両番号が付番されたが、19編成目で末尾49 / 99となったため20編成目は末尾30 / 80となった<ref name="年鑑2010動向"/>。最終製造の9730編成は前面の「KEIO」ロゴが他編成と異なり前照灯ケースの下部に貼付されていた<ref name="ダイヤ情報310p15"/>が2019年の検査で他編成と同じ位置に移設された<ref>[https://2nd-train.net/topics/article/24400/ 京王9000系9730編成出場試運転]</ref>。 <gallery> ファイル:Keio9000 sideled 9034.jpg|9735編成以前の側面種別・行先表示装置 ファイル:Keio9030 rapidmotoyawata sideled.JPG|9736編成以降は側面種別・行先表示装置がやや大型化された ファイル:Keio9030 inside.jpg|9731編成- 9735編成の車内<br />車端部の窓が無く、袖仕切りの形状も異なる ファイル:Seat of Keio 9030-9036F.jpg|つかみ棒が曲線状となった9736編成以降の座席 </gallery> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:80%;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="10"|{{TrainDirection|新宿・本八幡|京王八王子・橋本・高尾山口}}<br /> |- !形式 |'''クハ9700'''||'''デハ9000'''||'''デハ9050'''||'''サハ9500'''||'''デハ9000'''||'''サハ9550'''||'''サハ9550'''||'''デハ9000'''||'''デハ9050'''||'''クハ9750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #d07;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #d07;"|Tc1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|T1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|T2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|T2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M1||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|M2||style="border-bottom:solid 3px #d07;"|Tc2 |- !車両番号<ref name="ダイヤ情報310p90"/> |'''9731'''<br/>'''9732'''<br/>'''9733'''<br/>'''9734'''<br/>'''9735'''<br/>'''9736'''<br/>'''9737'''<br/>'''9738'''<br/>'''9739'''<br/>'''9740'''<br/>'''9741'''<br/>'''9742'''<br/>'''9743'''<br/>'''9744'''<br/>'''9745'''<br/>'''9746'''<br/>'''9747'''<br/>'''9748'''<br/>'''9749'''<br/>'''9730'''||'''9031'''<br/>'''9032'''<br/>'''9033'''<br/>'''9034'''<br/>'''9035'''<br/>'''9036'''<br/>'''9037'''<br/>'''9038'''<br/>'''9039'''<br/>'''9040'''<br/>'''9041'''<br/>'''9042'''<br/>'''9043'''<br/>'''9044'''<br/>'''9045'''<br/>'''9046'''<br/>'''9047'''<br/>'''9048'''<br/>'''9049'''<br/>'''9030'''||'''9081'''<br/>'''9082'''<br/>'''9083'''<br/>'''9084'''<br/>'''9085'''<br/>'''9086'''<br/>'''9087'''<br/>'''9088'''<br/>'''9089'''<br/>'''9090'''<br/>'''9091'''<br/>'''9092'''<br/>'''9093'''<br/>'''9094'''<br/>'''9095'''<br/>'''9096'''<br/>'''9097'''<br/>'''9098'''<br/>'''9099'''<br/>'''9080'''||'''9531'''<br/>'''9532'''<br/>'''9533'''<br/>'''9534'''<br/>'''9535'''<br/>'''9536'''<br/>'''9537'''<br/>'''9538'''<br/>'''9539'''<br/>'''9540'''<br/>'''9541'''<br/>'''9542'''<br/>'''9543'''<br/>'''9544'''<br/>'''9545'''<br/>'''9546'''<br/>'''9547'''<br/>'''9548'''<br/>'''9549'''<br/>'''9530'''||'''9131'''<br/>'''9132'''<br/>'''9133'''<br/>'''9134'''<br/>'''9135'''<br/>'''9136'''<br/>'''9137'''<br/>'''9138'''<br/>'''9139'''<br/>'''9140'''<br/>'''9141'''<br/>'''9142'''<br/>'''9143'''<br/>'''9144'''<br/>'''9145'''<br/>'''9146'''<br/>'''9147'''<br/>'''9148'''<br/>'''9149'''<br/>'''9130'''||'''9581'''<br/>'''9582'''<br/>'''9583'''<br/>'''9584'''<br/>'''9585'''<br/>'''9586'''<br/>'''9587'''<br/>'''9588'''<br/>'''9589'''<br/>'''9590'''<br/>'''9591'''<br/>'''9592'''<br/>'''9593'''<br/>'''9594'''<br/>'''9595'''<br/>'''9596'''<br/>'''9597'''<br/>'''9598'''<br/>'''9599'''<br/>'''9580'''||'''9681'''<br/>'''9682'''<br/>'''9683'''<br/>'''9684'''<br/>'''9685'''<br/>'''9686'''<br/>'''9687'''<br/>'''9688'''<br/>'''9689'''<br/>'''9690'''<br/>'''9691'''<br/>'''9692'''<br/>'''9693'''<br/>'''9694'''<br/>'''9695'''<br/>'''9696'''<br/>'''9697'''<br/>'''9698'''<br/>'''9699'''<br/>'''9680'''||'''9231'''<br/>'''9232'''<br/>'''9233'''<br/>'''9234'''<br/>'''9235'''<br/>'''9236'''<br/>'''9237'''<br/>'''9238'''<br/>'''9239'''<br/>'''9240'''<br/>'''9241'''<br/>'''9242'''<br/>'''9243'''<br/>'''9244'''<br/>'''9245'''<br/>'''9246'''<br/>'''9247'''<br/>'''9248'''<br/>'''9249'''<br/>'''9230'''||'''9281'''<br/>'''9282'''<br/>'''9283'''<br/>'''9284'''<br/>'''9285'''<br/>'''9286'''<br/>'''9287'''<br/>'''9288'''<br/>'''9289'''<br/>'''9290'''<br/>'''9291'''<br/>'''9292'''<br/>'''9293'''<br/>'''9294'''<br/>'''9295'''<br/>'''9296'''<br/>'''9297'''<br/>'''9298'''<br/>'''9299'''<br/>'''9230'''||'''9781'''<br/>'''9782'''<br/>'''9783'''<br/>'''9784'''<br/>'''9785'''<br/>'''9786'''<br/>'''9787'''<br/>'''9788'''<br/>'''9789'''<br/>'''9790'''<br/>'''9791'''<br/>'''9792'''<br/>'''9793'''<br/>'''9794'''<br/>'''9795'''<br/>'''9796'''<br/>'''9797'''<br/>'''9798'''<br/>'''9799'''<br/>'''9780'''||2006年1月<ref name="年鑑2006一覧"/><br/>2006年3月<ref name="年鑑2006一覧"/><br/>2006年12月<ref name="年鑑2007一覧"/><br/>2007年2月<ref name="年鑑2007一覧"/><br/>2007年2月<ref name="年鑑2007一覧"/><br/>2008年1月<ref name="年鑑2008一覧"/><br/>2008年2月<ref name="年鑑2008一覧"/><br/>2008年3月<ref name="年鑑2008一覧"/><br/>2008年4月<ref name="年鑑2009一覧"/><br/>2008年5月<ref name="年鑑2009一覧"/><br/>2008年6月<ref name="年鑑2009一覧"/><br/>2008年7月<ref name="年鑑2009一覧"/><br/>2008年9月<ref name="年鑑2009一覧"/><br/>2008年10月<ref name="年鑑2009一覧"/><br/>2009年3月<ref name="年鑑2010一覧"/><br/>2009年4月<ref name="年鑑2010一覧"/><br/>2009年5月<ref name="年鑑2010一覧"/><br/>2009年6月<ref name="年鑑2010一覧"/><br/>2009年7月<ref name="年鑑2010一覧"/><br/>2009年8月<ref name="年鑑2010一覧"/> |- !搭載機器<ref name="年鑑2006p150"/> |&nbsp;||CON・PT||SIV・CP・PT||&nbsp;||CON・PT||&nbsp;||&nbsp;||CON・PT||SIV・CP・PT||&nbsp; ||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF479p73"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|33.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|33.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|33.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|25.5 t |- !定員<ref name="年鑑2006p178"/><ref name="年鑑2006p179"/> |141||153||152||153||152||153||152||152||153||141 |} == 改造工事 == === 表示装置フルカラーLED化 === [[2008年]](平成20年)ごろから8両編成の正側面行先表示装置のフルカラーLED化が行われ、[[2009年]](平成21年)6月に完了した<ref name="railf.jp20090625"/><ref name="RP893p48"/>。 === ATC設置工事 === [[ファイル:Keio9000 tc9752controler.jpg|thumb|200px|ATCが設置された運転台(クハ9752)]] [[自動列車制御装置#京王電鉄(京王ATC)|京王ATC]]非設置で製造された編成に対して、ATC装置の設置工事がATC運用開始に先立つ2008年1月から2010年4月にかけて行われている<ref name="RP893p52"/>。 === 自動放送装置設置 === 新宿駅 - 高尾山口駅間が[[外国人観光旅客の来訪の促進等による国際観光の振興に関する法律]](外客旅行容易化法)の情報提供促進措置を講ずべき区間に指定され、英語での放送が求められたこと、放送品質の均一化を目的<ref name="RP893p53"/>に[[2010年]](平成22年)5月1日より一部の編成に自動放送が導入された<ref name="keionr100426"/>。 === 台車交換 === [[ファイル:Keio 9680 bogie truck.jpg|thumb|200px|サハ9680の台車]] [[2013年]](平成25年)2月に、サハ9680の台車が[[PQモニタリング台車]] (SS180) に交換された<ref name="RF20130305"/><ref name="RF628db"/><ref name="RP893p252"/>。{{-}} === 前部標識灯LED化 === {{要出典|範囲=8000系に続いて2020年9月より0番台の前部標識灯のLED化が開始されたほか、2022年3月に9732Fと9733FがLED化され、また、同年4月に9731FがLED化された。|date=2023年3月}} == 運用 == 都営新宿線乗り入れをのぞき形式による運用の限定はないため、8両編成・10両編成とも他形式と共通に広く全線で運用される<ref name="ダイヤ情報310p14"/>。8両編成は7000系との併結が可能で、2両編成を連結した10両編成として運用されることもある<ref name="RP734p8"/><ref name="ダイヤ情報310p14"/>。10両編成は都営新宿線乗り入れ対応となっているため、新宿線乗り入れにも使用される<ref name="ダイヤ情報310p14"/>。 <gallery> ファイル:Keio-Series9000-9740.jpg|都営新宿線へ直通する本八幡行きの9740編成<br />(2017年5月20日 / 稲城駅) ファイル:Keio6413F+9702F.jpg|9000系9702編成(奥8両)と6000系(営業終了)6413編成(手前2両)を併結した列車<br />(2007年2月17日 / 南平 - 平山城址公園) ファイル:Keio 9000 series and 7000 series sagamihara line 20170605.jpg|9000系と7000系の併結運転<br />(2017年6月5日 / 稲城 - 京王よみうりランド) </gallery> === ラッピング編成 === * [[京王競馬場線|競馬場線]]開業60周年記念ラッピング ** [[2015年]][[5月11日]]~[[8月15日]](第60回[[京王杯スプリングカップ]]・第82回[[東京優駿|日本ダービー]]を含む期間)、JRA([[日本中央競馬会]])との合同キャンペーンとして、9701Fに記念ロゴをドア付近に貼付<ref>[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150423_tokyokeibajo-spring.pdf 「京王線に乗って春の東京競馬場へ行こう!」キャンペーン ~ 競馬場線開業60周年を記念して5月16日(土)にはイベントを実施します~] - 京王電鉄 2015年4月23日</ref>。 ** 記念ロゴステッカーのうち1枚には、以下の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠馬]]4頭の写真付き。 *** [[シンザン]](1964年牡馬三冠、鞍上・[[栗田勝]]) *** [[ミスターシービー]](1983年牡馬三冠、鞍上・[[吉永正人]]) *** [[メジロラモーヌ]](1986年牝馬三冠、鞍上・[[河内洋]]) *** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](2005年牡馬三冠、鞍上・[[武豊]]) * 日本ダービー ** 例年、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]開催週の5月最終週前後に、開催記念ラッピングを運行。 ** [[2015年]](第82回)・[[2016年]]([[第83回東京優駿|第83回]])は、歴代ダービー馬及び鞍上騎手のほぼ実物大ラッピングを施している。 ** [[2020年]]([[第87回東京優駿|第87回]])は、[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウィルス]]の感染拡大に伴う[[2019年コロナウイルス感染症によるスポーツへの影響|全公営競技無観客開催措置]]のため、ラッピングの実施が見送られた。 * [[サンリオ]]キャラクターフルラッピングトレイン ** [[2018年]][[11月1日]]より、京王、[[サンリオピューロランド]]、[[多摩市]]による地域活性プロジェクトの一環として、ピンクを基調とし、[[ハローキティ]]等のサンリオキャラクターをあしらった特別編成を運行。ドア注意喚起ステッカーも専用のものに交換される<ref>[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr181004_hellokitty.pdf ハローキティをはじめサンリオキャラクターのフルラッピングトレインが11月1日(木)から京王線で運行を開始します!] - 京王電鉄・株式会社サンリオエンターテイメント 2018年10月4日</ref>。 [[ファイル:Keio-Series9000-9731 SANRIO-wrapping.jpg|サムネイル|サンリオキャラクターフルラッピングトレイン(2021年11月 長沼駅)]] == その他 == [[2020年]][[4月20日]]に、[[高幡不動検車区]]で定期検査を受けていた編成のうち、3両目のデハ9000形と8両目のデハ9050形について、主電動機取付金具の熔接部に亀裂が発見されたことが京王電鉄より明らかにされた。亀裂の原因は不明であるが、同社はこれを受けて同一構造の台車を使用している京王線176両、井の頭線87両<ref group="注釈">この内訳は明らかにされていないが、東急製又は総合車両所製ボルスタレス動力台車を採用した8000系最終増備車、9000系全編成、5000系(2代目)全編成、並びに1000系全編成の電動車の両数と一致している。</ref>に対して目視点検や探傷検査を実施し、異常がないことを確認した。同時に「本件を厳粛に受け止め、さらなる安全対策の徹底を図ってまいります」と陳謝し、今後当該車両の修理対応を車両メーカーと協議するとしている<ref>[https://response.jp/article/2020/04/24/333984.html 京王9000系で亀裂トラブル…モーター取付金具の溶接部に2か所]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist|2|refs= <ref name="RF479p69">[[#鉄道ファン479|『鉄道ファン』通巻479号p69]]</ref> <ref name="RF479p70">[[#鉄道ファン479|『鉄道ファン』通巻479号p70]]</ref> <ref name="RF479p71">[[#鉄道ファン479|『鉄道ファン』通巻479号p71]]</ref> <ref name="RF479p72">[[#鉄道ファン479|『鉄道ファン』通巻479号p72]]</ref> <ref name="RF479p73">[[#鉄道ファン479|『鉄道ファン』通巻479号p73]]</ref> <ref name="PF479付図">[[#RF22547|『鉄道ファン』通巻479号付図]]</ref> <ref name="年鑑2001p120">[[#年鑑2001|『鉄道車両年鑑2001年版』p120]]</ref> <ref name="年鑑2001p173">[[#年鑑2001諸元|『鉄道車両年鑑2001年版』p173]]</ref> <ref name="年鑑2001一覧">[[#年鑑2001一覧|『鉄道車両年鑑2001年版』p175]]</ref> <ref name="RP734p8">[[#2003-9000|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p8]]</ref> <ref name="RP734p26">[[#2003輸送|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p26]]</ref> <ref name="RP734p44">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p44]]</ref> <ref name="RP734p46">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p46]]</ref> <ref name="RP734p47">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p47]]</ref> <ref name="RP734p223">[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p223]]</ref> <ref name="RP734p224">[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p224]]</ref> <ref name="RP734p225">[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p225]]</ref> <ref name="RP734p234">[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p234]]</ref> <ref name="RP734p252">[[#2003車歴|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p252]]</ref> <ref name="RP734p260">[[#2003諸元|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p260]]</ref> <ref name="年鑑2003一覧">[[#年鑑2003一覧|『鉄道車両年鑑2003年版』p210]]</ref> <ref name="RP740p23">[[#鉄道ピクトリアル740|『鉄道ピクトリアル』通巻740号p23]]</ref> <ref name="年鑑2004一覧">[[#年鑑2004一覧|『鉄道車両年鑑2004年版』p218]]</ref> <ref name="年鑑2005一覧">[[#年鑑2005一覧|『鉄道車両年鑑2005年版』p216]]</ref> <ref name="年鑑2006p150">[[#年鑑2006|『鉄道車両年鑑2006年版』p150]]</ref> <ref name="年鑑2006p151">[[#年鑑2006|『鉄道車両年鑑2006年版』p151]]</ref> <ref name="年鑑2006p178">[[#年鑑2006諸元|『鉄道車両年鑑2006年版』p178]]</ref> <ref name="年鑑2006p179">[[#年鑑2006諸元|『鉄道車両年鑑2006年版』p179]]</ref> <ref name="年鑑2006一覧">[[#年鑑2006一覧|『鉄道車両年鑑2006年版』p209]]</ref> <ref name="年鑑2007一覧">[[#年鑑2007一覧|『鉄道車両年鑑2007年版』p225]]</ref> <ref name="とれいん397p21">[[#とれいん397|『とれいん』通巻397号p21]]</ref> <ref name="とれいん397p22">[[#とれいん397|『とれいん』通巻397号p22]]</ref> <ref 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京王6000系電車
京王6000系電車(けいおう6000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。1972年から1991年に304両が製造され、2011年まで運用された。 また、同社最後の「アイボリー」塗装の車両であった。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、6731編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 都営地下鉄新宿線への乗り入れを前提に設計され、京王で初めて20 m級並びに両開扉4ドアの車体を採用した。製造当時の法令に従い、6000系は A-A基準 を満足するよう設計されている。京王で初めて電気指令式ブレーキを採用し、主幹制御器がブレーキハンドルと一体化されたワンハンドルマスコンが採用された。 後述のように、最大幅2,844mmの初代5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入で規定された最大幅2,800mmで実現するための設計上の工夫が施された。 先頭車は全車東急車輛製造(以下、東急)製、中間車は25両が東急製、7両が日立製作所(以下、日立)製であるほかは日本車輌製造(以下、日車)製である。 京王線全線・都営地下鉄新宿線で運用されたのち、1998年から2011年にかけて廃車が発生し、2004年に事業用車に改造された3両と静態保存された1両を除いて廃車・解体された。事業用車に改造された3両も、デヤ901形・902形に代替され2016年4月に廃車されている。 三多摩地区開発による沿線人口の増加、相模原線延伸による多摩ニュータウン乗り入れ、都営地下鉄10号線(現都営地下鉄新宿線、以下新宿線と表記する)乗入構想により、京王線の利用客増加が見込まれ、相当数の車両を準備する必要に迫られるなか、製造費用、保守費用を抑えた新型車両として本形式が構想された。 新宿線建設に際してはすでに1号線(後の浅草線)を1,435mm軌間で開業させていた東京都は京成電鉄と1号線との乗り入れにあたり京成電鉄の路線を1,372mmから1,435 mmに改軌させた事例や、1,372 mm軌間の特殊性から運輸省(当時、2001年から国土交通省)と共に京王にも改軌を求めたが、改軌工事中の輸送力確保が困難なことを理由に改軌しないことで決着している。 6000系は5000系の全長18 mに対し、京王線の建築限界を修正した上で、京王線用として初めて全長20 mの車体を採用した。6000系以降の京王線の新型車両は20 m車体となったが、7000系以降はステンレス車体となったため、6000系は京王線用として20 m級車体を採用した唯一の普通鋼製車両である。6000系で床面(台枠上面)の幅が5000系の最大2,700 mmから2,780 mmに拡げられたため、ホームの改修が行われ、5000系以前の車両は出入口の踏段を拡幅する工事が施工された。 最初の6編成の制御方式は5000系とほぼ同一の部品を採用した抵抗制御だったが、これ以外はすべて界磁チョッパ制御となり、7000系にもほぼ同じ方式が継承された。電気指令ブレーキとT形のワンハンドルマスコンは改良を加えながら6000系以降の京王線用車両に採用されている。 5000系では多種多様の台車が使用されたが、6000系ではほぼ同一形態の2種類の台車に統一され、基本構造は7000系、最終製造車を除く8000系まで継承された。 6000系は製造時から全車が冷房装置装備となり、初期の先頭車は集約分散式冷房装置を採用したが、途中から全車集中式冷房装置に統一され、以降新5000系に至るまで京王線では集約分散式の採用はない。 6000系304両の製造期間である1972年4月から1991年3月の19年間に7000系132両と併せて436両が製造され、井の頭線からの転用車20両、2600系15両、2000系・2010系・2700系合計103両、5000系17両、5100系24両の179両が廃車された。京王線の車両数は257両増加したことになり、この間にいわゆるグリーン車と、吊り掛け式駆動車が全廃された。 6000系304両の廃車は1998年1月から2011年3月にかけての13年間行われ、この間に8000系40両、9000系264両の合計304両が製造された。6000系を代替したのはすべてVVVFインバータ制御、ステンレス車体の車両であり、6000系の全廃により京王線の営業車から普通鋼製の電車が消滅した。6000系の廃車と並行して6000系とほぼ同じ制御装置を採用していた7000系のVVVF化改造工事が進められたが、京王線から界磁チョッパ制御車が消滅したのは6000系全廃後の2012年となった。 新宿線乗り入れに対応するため、京王として初の20 m車体、1,300 mm幅両開き片側4扉の普通鋼製車体を採用した。最大幅2,844 mmの初代5000系と同じ室内幅2,600 mmを新宿線乗入協定で定められた最大幅2,800 mmで実現するため、側窓を1枚下降式として壁厚さを薄くする手法が取られ、6両編成で5000系7両編成に匹敵する収容力をもつものとされた。車体外幅は同寸法で車体をステンレス化する場合にコルゲートを追加できるよう2,780 mmとなり、5000系に続いてアイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。登場前には窓上にも赤帯を巻くことも検討されたが、実現しなかった。従来の車両に取り付けられていた社紋の代わりに京王帝都電鉄を表すKTRのプレートが取り付けられた。 床面の車体幅が5000系の2,700 mmから2,780 mmに拡幅されたことと併せ、20 m車の導入に際して曲線上のホームとの干渉が発生するためホームの修正などの準備が行われたが、車両設計認可には時間を要した。 平面を中心とした凹凸や曲面の少ない外観となり、客室屋根高さを高く取るため屋根も平面に近くなった。側窓はサッシ付き一枚下降式で、床面から1,300 mmまで窓が下がる。戸袋窓が設けられ、戸袋窓にもサッシが付いた。サッシの角が角ばっているのは少しでも視界を広く取りたいためとされている。客用ドアは体格向上に併せ、5000系の高さ1,800 mmから1,850 mmに変更された。 戸閉表示、非常通報、ブレーキ不緩解の3つの表示灯は車体中央部窓上にまとめて設置され、表示灯群の両側に種別と行先の表示装置が設けられた。 先頭部には地下線走行時の非常脱出や、複数編成間を貫通幌でつなぐ目的で中央部に幅600 mmの貫通扉が設けられ。貫通扉を中心に緩やかに後退角がついた折妻構成とされた。最初の3編成は貫通幌の座がなかったが、後に追加されている。4編成目以降は幌の座を備えて新造された。登場直後は5000系同様正面貫通路両側でえんじ帯が徐々に細くなっていたが、すぐに一定幅に変更された。貫通路上に行先、正面右側窓上に種別表示を備え、正面左窓上は運行番号表示用とされたため、前照灯は正面窓下に設置された。窓上表示装置の両脇に尾灯と列車種別識別用の表示灯兼用の角型の灯具が設けられ、夜間に表示灯が際立つよう表示幕類は黒地とされ、各表示装置の周りが黒く塗られた。登場当初は装置ごとに黒色部が3分割されていたが、すぐに一体に塗装された。車掌室窓部にリレー類を納める箱を設置したため、正面向かって左側の窓の天地寸法が運転席側より小さくなり、バランスをとるため窓下に車号板が取り付けられた。 1992年ごろに先頭車正面床下にスカートが取り付けられ、2002年に帯色が京王レッドと京王ブルーに変更されているが、それ以外に外観の印象を変えるような大きな改造は行われなかった。 座席はロングシートで、褐色のモケットが貼られた。壁色は5000系に続いてアイボリー系となった。天井の冷風ダクトの枕木方向の幅を広げることで天地を薄くでき、天井高さは床面上2,210 mmとなった。車内照度確保のため、室内灯は乗客により近くなるよう冷風ダクトに取り付けられた他、天井には先頭車9台、中間車10台のラインデリアが埋め込まれた。座席端のアームレストは着座客のアームレストとしても、立客が寄りかかる場所としても両者が不快になることなく利用できるよう工夫されている。冷暖房効果向上などを目的として全中間連結部に引戸が設けられている。 京王の車両で初めてワンハンドル式主幹制御器を採用した。押して制動か、引いて制動か、の議論が設計時にあり、先に登場していた東急8000系に倣って押して制動する方式が採用された。運転士前面に配置する計器類は速度計と圧力計、一部のスイッチ類などの最低限とされ、電流計・電圧計などは添乗する係員から見やすいよう乗務員室側開戸の上に設けられた。ATC設置に備えて、速度計外側には車内信号が表示できるスペースが設けられた。乗務員室中央部を貫通路として使用する場合、運転室・車掌室が仕切れるような構造となっていた。ワイパーは乗用車用を流用した電動式となった。 1972年製の6編成は抵抗制御を採用、5000系最終製造車とほぼ同様の日立製主制御装置MMC-HTB-20J(直列11段、並列7段、弱め界磁6段)、主電動機として直流直巻電動機・日立製HS-834Crb、東洋電機製造(以下、東洋)製TDK-8520A(出力150 kW、端子電圧375 V、定格電流450 A、回転数1,450 rpm)が搭載された。5両編成・6両編成でデハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされ、発電ブレーキが使用できなかった。 1973年以降は主回路を界磁チョッパ制御に変更するとともに回生ブレーキも採用し、主制御装置は日立製MMC-HTR-20B(直列14段、並列11段)、主電動機は直流複巻電動機・日立製HS-835GrbまたはHS-835Jrb、東洋製TDK-8525AまたはTDK-8526A(150 kW、端子電圧375 V、定格電流445 A、分巻界磁電流28.3 A、回転数1,500 rpm)となった。抵抗制御車同様、デハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされたが、回生ブレーキは使用できた。当初からユニットを組まない電動車として計画されたデハ6400形にはスペースの制約から他形式と異なる機器が採用され、主制御装置も日立製MMC-HTR-10C(永久直列14段)となった。5000系では日立製主電動機の数が多かったが、6000系では東洋製が主力となった。 駆動装置はTD平行カルダン駆動が採用され、抵抗制御車の歯車比は85:14、界磁チョッパ制御車の歯車比は85:16である。後年7000系と共通のWN駆動装置に交換されたものがある。 制動装置は日本エヤーブレーキ製全電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD-1) が採用された。 5000系では数多くの種類の台車が採用されたが、6000系以降の各形式では統一された形態のものとなった。台車は車体直結式空気ばね、ペデスタル方式軸箱支持 の東急製TS-809動力台車、TS-810付随台車が採用された。界磁チョッパ制御車の台車は回生ブレーキ使用に対応してTS-809Aに形式変更されている。TS-809の軸距は2,200 mm、TS-810は2,100 mmで、全台車両抱式の踏面ブレーキを装備する。サハ6550形は電装を考慮していたため全車電動車用TS-809系を装備し、クハ6801 - クハ6806はサハ6551 - サハ6556から転用されたTS-809改台車を装備していた。デハ6456は落成当初、軸箱支持方式をシェブロン式とした試作台車TS-901を装着していたが、1年程度でTS-809Aに交換されている。 集電装置として、東洋製PT-4201形パンタグラフがデハ6000形・デハ6400形・デハ6450形の全車に、2両編成ではクハ6750形のそれぞれ京王八王子寄りに搭載されたほか、一部のデハ6050形にも搭載された。 6000系では4種類の容量の5種類の補助電源装置が使用された。1972年製のサハ6550形と1973年製のデハ6050形・サハ6550形には容量130 kVAのHG544Er電動発電機 (MG)、1972年製のデハ6050形には容量75 kVAのHG584Er電動発電機、それ以外の4扉車には容量130 kVAのTDK3344ブラシレス電動発電機 (BL-MG) が搭載された。HG854Erは1972年製造車の5+3両編成化時にデハ6450形に移設され、同時にクハ6751 - クハ6756に井の頭線用3000系から転用されたTDK362/1-B電動発電機(容量7 kVA)が搭載された。のちにHG544Erの大半がTDK3344に載せ替えられている。5扉車にはSVA-130-477SIV(容量110 kVA)が採用された。1983年ごろにデハ6261に試験的にSIVが搭載された。 電動空気圧縮機は、2両編成を除いて、毎分吐出容量2,130リットルのHB-2000および1987年以降の製造車では性能は同一で小型低騒音のHS-20Dが、3・5両編成用のクハ6700形とデハ6050形、サハ6550形全車に各1台が搭載された。2両編成では床下スペースの制約から、井の頭線から転用された毎分吐出容量1,120リットルのC-1000を採用し、デハ6400形に搭載された。 1972年製造の制御車には集約分散式能力9.3 kW (8,000 kcal/h) の東芝製冷房装置が4台搭載された。1973年から1976年製造の制御車は同じ冷房装置5台を搭載することが可能な構造となったが4台のみが搭載され、中央の1台分にはカバーだけが載せられた。1973年から1976年製造の制御車には1986年、5台目の冷房装置が搭載されている。1972年製の中間車と、これを8両編成化するために製造されたデハ6450形には日立製集中式34.9 kW (30,000 kcal/h) の冷房装置1台が搭載されたが、1991年に集中式46.5 kW (40,000 kcal/h) のものに載せ替えられている。それ以外の4扉車は全車集中式46.5 kWの冷房装置を搭載し、5扉車のみ48.8 kW (42,000 kcal/h) とされた。冷房装置の寿命は15年程度であるため、何回か載せ替えが行われ、型式が異なるものに変えられたもの、3000系や5000系と交換したものなどがある。能力46.5 kWのものを搭載していた車両の大半が48.8 kWのものに交換されている。 6000系は以下の形式で構成される。各形式とも一部の例外を除いて固定編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。ここでは1991年の製造終了時までを述べる。「デ」は制御電動車及び電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。各車の製造年時は項末の表を参照のこと。 主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。3両編成の2両目、5両編成と6両編成の2両目と4両目、初期の8両編成の3・5・6両目、それ以外の8両編成の2・4・6両目に組み込まれた。初期の8両編成を除き編成位置により新宿寄りから順に百の位が0・1・2に附番され、3両編成用は百の位が4となったが、下記の制御電動車デハ6400形とは別形式である。デハ6050形とユニットを組んで使用されることが基本だが、5両編成の4両目と乗入用を除く8両編成の4両目、初期の6両編成の4両目と初期の8両編成の5両目に組み込まれた6100番台の車両はデハ6000形単独で使用された。デハ6001 - デハ6006・デハ6101 - デハ6106の12両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である。1972年から1991年にかけて95両が製造された。1976年に6両編成の8両編成化に伴ってサハ6550形サハ6551 - サハ6556が電装されてデハ6401 - デハ6406となった。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 デハ6000形とユニットを組む 電動空気圧縮機、京王八王子寄り屋根上にパンタグラフを搭載する中間電動車である。6100番台には初期と最末期の一部を除きパンタグラフは設置されなかった。百の位はユニットを組むデハ6000形と同一で、初期の6両編成と5両編成の3両目、初期の8両編成の4・7両目、それ以外の京王線用8両編成の3・7両目、乗入対応8両編成の3・5・7両目に組み込まれた。デハ6051 - デハ6056の6両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である。8両編成の7両目に組み込まれた車両以外には電動発電機が搭載された。1972年から1991年にかけて67両が製造された。乗入対応のため1979年にサハ6557 - サハ6559・サハ6564 - サハ6569が電装されてデハ6181 - デハ6189に改番されている。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 2両編成で新宿寄りに連結される制御電動車で、主制御装置、電動空気圧縮機、京王八王子寄りにパンタグラフを搭載する。1981年から1989年にかけて18両が製造された。デハ6401 - デハ6406はデハ6000形に属する中間電動車であり、デハ6400形ではない。 3両編成で京王八王子寄りに連結される制御電動車で、補助電源装置、パンタグラフを搭載する。パンタグラフは他車種同様京王八王子寄りに搭載されたため、運転台側にパンタグラフがある。1976年、1977年に7両が製造された。 電動空気圧縮機付きの付随車で、初期の6両編成の5両目と初期の8両編成の2両目、京王線用8両編成の5両目に組み込まれる。1972年から1983年にかけて22両が製造された。1976年に8両編成化のため6両がデハ6000形に、1977年 - 1978年に乗入対応のため6両がデハ6050形に改造されている。電動車化が想定されていたため、屋根上にパンタグラフ取付用の台、客室床に主電動機点検蓋があり、電動車用TS-809系台車を装備している。 新宿寄り制御車である。3・5両編成用には電動空気圧縮機が搭載された。3両編成用は百の位が8。1972年から1991年にかけて42両が製造された。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 京王八王子寄り制御車である。2両編成用は百の位が8。1972年から1991年にかけて53両が製造された。2両編成用は京王八王子寄りにパンタグラフ1基を搭載している。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 6000系の製造ごとの仕様の変化、改造、改番などを時系列にまとめる。複数の年にまたがった事例でも、同一の仕様、改造であればひとつの項にまとめた。 以下、京王相模原線と都営地下鉄新宿線の方面表記については、時代に合わせる形で、終着駅を変えている。 6000系として最初に製造されたグループであり、1972年に製造された6編成36両のグループだけが抵抗制御となった。登場時は前面表示装置付近の塗り分けや、貫通路両脇のえんじ帯の処理が後に見られるものと異なっていた。先頭部貫通幌を取り付けるための台座もなかったが、すぐに取り付けられている。全車1972年5月に竣工し、先頭車とサハ6550形が東急製、デハ6053 - デハ6056が日立製、それ以外の中間車が日車製である。登場時はサハ6556にもパンタグラフが設置されていたが、1か月ほどで撤去されている。 6000系36両の代替として井の頭線から転用されていたデハ1700形デハ1701 - デハ1707・クハ1710形クハ1711・デハ1710形デハ1712 - デハ1715・サハ1200形サハ1202の13両が廃車された。 1973年に入籍した車両から主制御装置が界磁チョッパ制御となった。先頭車には5個目の冷房装置を搭載できるよう準備が行われ、カバーだけが設置された。中間車の冷房装置能力が34.9 kWから46.5 kWに増強されている。先頭車とデハ6050形が東急製、デハ6010 - デハ6012が日立製、それ以外が日車製である。6000系で日立製の車両はデハ6053 - デハ6056、デハ6010 - デハ6012の7両のみである。最初の3編成が1973年12月、残りの3編成が1974年3月に竣工している。このときの製造車から先頭車に新宿線用無線アンテナ設置用の台が設けられ、以降乗入対応・非対応、パンタグラフ有無に関わらずすべての先頭車にこの台が設けられた。 この36両の入線に先立つ1973年10月にクハ1200形クハ1203・デハ1400形デハ1401・デハ1403・デハ1800形デハ1801の4両が、次いで1974年2月にクハ1200形クハ1204・デハ1400形デハ1402・デハ1800形デハ1802・デハ1803の4両が廃車され、井の頭線からの転用車が一掃された。 界磁チョッパ制御の6両6編成を8両編成化するために中間電動車12両が日車で製造された。新造された車両には6200番台の番号が付与されている。当時は検車設備が6両編成までしか対応できなかったため、2両と6両に容易に分割できるよう、5両目に組み込まれていたサハ6550形を2両目に移動し、新造した車両が3両目と4両目に組み込まれた。6100番台のデハ6000形と6000番台の電動車ユニットの位置が併せて入れ替えられている。3両目から7両目まで連続してパンタグラフが設置された。新造車は1975年1月に落成し、高幡不動に搬入されていたが、一部駅でホーム延伸が間に合わなったため、1975年10月ごろまで冷房装置を取り付けない状態で高幡不動に留置された。つつじヶ丘駅のホーム延伸は8両編成運転に間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。 8両編成化された6000系は平日の特急にも運用されたが、分割・併合が行われるオフシーズン休日の特急には依然5000系が運用されていた。これを6000系で置き換えることを目的に、6両編成で残っていた抵抗制御車に1976年5月に東急で新造された先頭車2両を組み込んで5両編成・3両編成各6編成が組成された。登場直後は新宿寄りに3両編成、京王八王子寄りに5両編成を連結していたが、1977年に特急に運用される直前に逆に組み替えられた。 組み込みにあたってはサハ6550形が6両編成から抜かれ、電装の上デハ6000形に改番、新造されたデハ6450形とユニットを組み、新造されたクハ6700形(6800番台)と併せて3両編成を組んだ。サハ6550形の台車は新造されたクハ6700形(6800番台)に改造の上流用(TS-809改台車)、サハ6550形の電動空気圧縮機は新たに5両編成となった既存編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に移設、サハ6550形の75 kVA電動発電機はデハ6450形に移設され、5両編成のデハ6050形には新製された130 kVAの電動発電機が搭載された。5両編成のクハ6750形には井の頭線から転用された7 kVAの電動発電機が搭載された。サハ6550形の電装工事は京王重機整備北野工場に車両を陸送して実施された。デハ6450形の冷房装置は集中式とされ、ユニットを組むサハ6550形改造のデハ6000形に併せ、容量は34.9 kWとなった。 分割運転時の誤乗防止のため、3両編成のつり手は緑色、5両編成は白とされた。5両編成は平日日中にグリーン車とともに 各駅停車にも運用された。 6000系には先頭部助手席側窓下と側面窓上にナンバープレートが設けられており、1974年以前の製造車の前面はアイボリー地に黒文字、側面は紺地にステンレス文字だったが、1976年製造車から側面はアイボリー地にステンレス文字になった。このとき投入された車両の代替として1977年3月に2600系3両2編成が廃車された。 デハ6450形と電装されたデハ6000形は回生ブレーキ付き界磁チョッパ制御となり、発電ブレーキ付き抵抗制御車の5両編成と併結運転されるため、回生ブレーキ車と発電ブレーキ車の併結試運転が1976年5月15日に下記の編成で事前に行われている。 1977年には5両+3両の8両編成1本と8両編成2本が製造された。このときから先頭車の冷房装置が集中式に、補助電源装置がブラシレスMGに変更された。8両編成は6707編成 - 6712編成とは編成構成が変更され、サハ6550形は5両目となり、後の京王線車両と同様電動車ユニットの車両番号の百の位は新宿寄りから順に0・1・2となっている。先頭車は東急製、中間車は日車製である。代替として1977年12月に2600系3両3編成、2700系2両1編成とデハ2701の計12両が廃車され、2600系が消滅した。 1980年3月の都営新宿線乗入開始に備え、乗入対応として電動車を1両増やして6両とした8両3編成が1978年8月から9月にかけて製造された。5両目に組み込まれたデハ6050形(6100番台)のパンタグラフは登場まもなく降下され、後に撤去された。 同時期に6707編成 - 6709編成・6714編成・6715編成の乗入対応改造が行われたが、乗入改造はサハ6550形を電装してデハ6050形とすること、両先頭車にATCを搭載することが中心で、この改造の間遊休化する編成中のその他車両を有効活用するため、クハ6719・クハ6769・サハ6569の3両も今回の新造車と同時に製造され、対象各編成の改造期間中、中間車を順次組み込んで運用された。デハ6217・デハ6218と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である。 1978年10月に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚 - 新線新宿間の折り返し運転が行われた。 1979年7月から11月にかけて6707編成 - 6709編成・6714編成 - 6718編成に新宿線乗入対応工事が施行され、30番台に改番された。6707編成 - 6709編成は編成内の車両順位が6714編成以降と同一に変更され、6100番台と6200番台のデハ6000形の番号が入れ替えられている。6707編成 - 6709編成・6714編成・6715編成には先頭車への新宿線用自動列車制御装置 (ATC) と新宿線用列車無線装置搭載、屋根上への列車無線アンテナ設置、とサハ6550形の電装が、6716編成 - 6718編成は先頭車へのATC・新宿線用列車無線搭載が行われた。ATCは先頭車の床下に搭載された。サハ6550形改造のデハ6050形にはパンタグラフが設置されなかった。新宿線内では運転台に新宿線用のマスコンキーを挿入することで起動加速度が京王線内の2.5 km/h/sから3.3 km/h/sに切り換わる。 1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、後に大島まで、本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。 新宿線乗入対応としてATCと新宿線用無線を新製時から搭載し、30番台に区分された8両2編成が製造された。前年に製造されていたクハ6719・クハ6769・サハ6569と組んで8両編成を構成する中間車5両も同時に製造され、この編成も乗入対応編成とされたため、サハ6569はデハ6189に、両先頭車もクハ6739・クハ6789に改造、改番された。デハ6190・デハ6191と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である。6740編成の両先頭車であるクハ6740・クハ6790の先頭部ナンバープレートは試験的に紺地にアイボリー文字となっていた。のちにナンバープレートの書体が変更されるまでこのままで使用された。 この21両の代替として、1979年11月と12月に2700系2両3編成と4両1編成の合計10両が廃車されている。 1980年1月に30番台に改造された空き番号を埋める形で6713編成・6813編成がそれぞれ6707編成・6807編成に改番された。 京王新線への乗り入れや、混雑時に立ち席スペースを増やす目的で5 + 3編成の中間部の先頭車に1978年ごろに貫通幌が設置され、一部列車で貫通幌が使用された。 1980年に3編成、1981年・1983年に各2編成、合計7編成京王線専用の8両編成が製造された。いずれの編成も新宿線乗入対応の30番台に改造・改番されて空いた番号を埋める形で附番され、サハ6550形の一部と6719編成の一部を除き2代目の車両番号となった。 6718編成・6719編成にはATC取付用のステーが設けられ、客用ドア下部の靴擦りがステンレス無塗装となった。デハ6265 - デハ6267と先頭車全車が東急製、それ以外が日車製である。1982年製造の6716編成以降は屋根の絶縁処理が変更され、ビニール張りから絶縁塗装(塗り屋根)に変更された。 この56両が製造される間、1981年2月に2700系6両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各5両の計16両が、1981年12月に2000系4両、2700系8両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各2両の計16両が、1983年10月に2010系12両が廃車され、2700系・2000系が形式消滅した。 1981年9月から始まった朝ラッシュ時新宿線乗入運用の一部10両編成化用として2両編成が製造された。全車東急製である。 デハ6400形とクハ6750形で構成され、使用電力増と回生ブレーキ使用に対応するためクハ6750形の京王八王子寄にもパンタグラフが搭載された。限られた床下スペースに必要な機器を搭載するため、主制御装置の小型化、空気圧縮機の小型化、ATS受信機、空制部品の一部を客室内椅子下に配置するなどの工夫がほどこされた。デハ6400形には新宿線用ATC装置を搭載するスペースが取れなかったため、新宿線乗入運用に入る際はクハ6750形が先頭となるよう、8両編成の京王八王子寄りに連結された。デハ6400形の先頭部には貫通幌が備えられ、乗入運用時には8両編成と幌で貫通された。 10両編成での運転は準備の整った相模原線から新宿線に乗り入れる系統から先に実施されたため、新宿線乗入対応の30番台が先行して製造されたが、東京都との調整の遅れから就役が遅れ、当初は競馬場線に2両編成で使用された。1982年10月から京王線系統の10両編成運転も開始されたため、新宿線用ATCを搭載しない京王線専用の10番台も製造された。 2両編成では運転台直後の客室に車内灯が増設されている。 6436編成・6437編成は京王線専用、乗入対応用共通の予備車(兼用車)とされ、両者の運用に入った。1984年から後継となる7000系の製造が始まっているが、10両編成運用の増加により、6000系2両編成が継続して製造された。 1982年製造の6410編成・6436編成以降は塗り屋根に変更されたほか、1983年以降製造の6436編成・6413編成以降は客用ドアの靴擦りがステンレス化された。京王線内運用時は新宿寄りに連結され、連結・解放時間短縮のため京王線専用編成のクハ6750形には自動連結解放装置が設けられた。 新宿線乗入運用では2両編成のデハ6400形に貫通幌を設置、8両編成のクハ6700形との間が貫通幌でつながれ、その着脱に時間を要することから、兼用車以外の30番台には自動連結解放装置は設置されなかった。 分割・併合作業の容易化のため、一部の先頭車に自動連結解放装置が設置された。クハ6755とクハ6805に1981年に設置されて試験ののち、1982年ごろに京王線専用の8両編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に、1983年ごろに残りの5 + 3編成のクハ6750形とクハ6700形(6800番台)に同装置が設置された。5+3編成の新宿寄り先頭車クハ6700形(6700番台)にも次いで1982年ごろに、5+3編成の編成順位が3 + 5に変更されたため、デハ6450形にも1992年ごろに同装置が設置されている。30番台は分割・併合時に貫通幌を使用し、その脱着に時間を要するため、自動連結解放装置は設けられなかった。 1981年から1982年にかけて他の8両編成と編成構成が異なっていた6710編成 - 6712編成を他編成に併せるための組み替えが行われた。6100番台と6200番台のデハ6000形の間で車両番号の振替が行われた。 1981年から1982年にかけて百の位0のデハ6050形のパンタグラフが使用停止とされたのち、1983年から1985年にかけて撤去され、井の頭線に転用された。 1986年に1973年製造のクハ6731 - クハ6733・クハ6710 - クハ6712・クハ6781 - クハ6783・クハ6760 - クハ6762に冷房装置が1台増設された。これらの車両には5台目の冷房装置を設置できるよう製造時から空の冷房装置カバーが1台設けられており、この中に冷房装置が搭載されている。 1986年から2両 + 5両 + 3両の10両編成運転が始まり、5両編成が抵抗制御車の場合は編成中に3種類の制御段数の車両が含まれることになるため、前後動を抑えるため0番台先頭車の連結器緩衝器が改良型に変更され、以降の新造車にも取り入れられた。 製造から15年 - 20年経過した時点で経年により劣化した部位の更新工事が順次行われている。大半の車両で屋根が塗り屋根となり、1992年以降に内装を張り替えた車両は車内壁色が8000系と同じ大理石模様に変更されている。 相模原線の南大沢、橋本延伸に伴う乗入運用の増加に対応し、30番台8両編成が1988年・1989年・1990年に各1編成製造された。デハ6092・デハ6292・デハ6094と先頭車が東急製、それ以外が日車製である。この3編成は空気圧縮機が低騒音形のHS-20Dに変更されている。1989年11月に京王グループの新しいシンボルマークが制定され、4扉車の最終製造となった6744編成では側面の社章がKTRからKEIOに変更され、既存車も順次同様に変更されている。6743編成と6744編成では2両編成同様運転台直後の客室に車内灯が増設されている。 京王線では1972年から朝ラッシュ時1時間あたり最大30本の列車を運転しており、増発余力がなかったため以降は車両の大型化、長編成化により輸送力の増強をはかってきた。1990年代初頭には朝ラッシュ時の30本の列車のうち各駅停車15本が8両編成、急行・通勤快速15本が10両編成となったが、各駅停車の全列車10両編成化は1996年3月まで待たねばならなかった。列車自体の輸送力増加に加え、混雑の分散、停車時分の短縮のため駅階段の増設、閉そく区間の列車追い込みをスムーズにするための信号改良やホームの交互使用などの施策を併せて行ってきた中、ホームの交互使用が出来ない千歳烏山駅と明大前駅での乗降時間短縮を目的として、客用扉を片側5か所とした5両4編成が1991年に製造された。5扉車の導入により、明大前駅の停車時分は62.5秒から54.5秒に短縮されたとされている。18 m級車体の車両では5扉車を採用した事例が他にもあるが、20 m級車体で5扉は4扉車と扉位置がずれることもあり、6000系5扉車が唯一の事例である。また、普通鋼で製造された多扉車も6000系が唯一の存在である。 5扉車では車両番号の下2桁が21 (71) から附番されている。車両重量を増やすことなく車体強度を保つため、京王の車両として初めて戸袋窓が廃止された。戸袋窓廃止による採光面積の縮小を少しでも補うため、扉間の窓はサッシなしとされた。外板の腐食対策のため、車体下部の構造と窓から流れ込む雨水の処理方法が変更されている。主要機器は従来の6000系と同様とされたが、補助電源装置は静止型インバータとされ、冷房装置も換気機能を付加したものに変更された。4扉車では車体中央部に種別・行先表示装置、車側灯がまとめて設置されていたが、5扉車では設置できるスペースがないため、1つずつ扉間の窓上に設置された。これまで京王の車両は車両番号に独特の角ばった書体を採用していたが、5扉車では一般的な欧文書体に変更され、以降の新造車すべてに採用されるとともに6000系・7000系の既存車も順次新書体に変更されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両 + 5両 + 3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。両先頭車に自動連結解放装置が設置されている。 1992年から順次先頭部床下にスカートが設置された。通常の運用で先頭に出ない30番台2両編成のデハ6400形、10番台2両編成のクハ6750形はデハ6436・デハ6437を除いてスカートが設置されなかった。 京王線専用の2両編成のうち、6418編成 - 6420編成が1993年から1996年にかけて乗入対応に改造され、30番台に改番された。この3編成は京王線専用編成時代にスカートを設置し、後に乗入対応に改造されたため、両方の先頭車にスカートがある。 1998年から6000系の廃車が始まった。1998年には6701編成(3月)・6702編成(2月)・6704編成(1月)の5両3編成、6801編成(3月)・6802編成(2月)・6804編成(1月)の3両3編成の合計24両が廃車された。代替として8000系8両3編成が新造されている。 抵抗制御車の廃車を先行させるため、6803編成・6806編成の3両編成2本から抜き取られた車両と抵抗制御車の電動車デハ6053を電装解除した付随車で5両編成が1999年3月に組成された。デハ6053は電装解除され、サハ6553となった。デハ6456のパンタグラフは後に撤去されている。残ったクハ6806は1999年1月に、6703編成のデハ6053を除く4両と6803編成のデハ6453は1999年2月に廃車されている。 1999年には6705編成(2月)・6706編成(1月)の5両2編成の計16両が廃車された。代替として8000系8両2編成が製造されている。1998年・1999年で抵抗制御車が全廃された。廃車時に発生した部品のうち、抵抗制御車の主制御装置は上毛電気鉄道700型に、運転台機器は松本電気鉄道3000形、岳南鉄道8000形をそれぞれ井の頭線3000系から改造する際に利用された。 登場時から座席数が少ないことが問題視されていたことに加え、長編成化などにより混雑が緩和されてきたこと、乗車扉位置の異なる車両の運用に苦情もあったことなどから、これら問題の解決を目的に5扉車のうち2編成が4扉に改造された。 両端の扉を存置してその他側面部を全面的に改造、中央扉を撤去し、その両側の扉を移設して4扉とした。改造にあたっては車体が歪まないよう片側ずつ施工されたと言われている。種別と行先表示装置は他の4扉車同様車体中央に移設された。戸袋窓は引き続き設けられず、採光確保のため窓が増設され、京王線用車両として初の固定窓となった。 当初は他の5両編成と共通に運用されたが、この2本だけが5両編成となったのちはこの2編成を連結した10両編成として運用された。5扉で残った2編成は6両編成と4両編成に組み替えられ、それぞれ相模原線と動物園線の区間運用に使用された。デハ6072にはパンタグラフが設置された。 初期に製造された30番台を置き換えるため、後期製造の車両を新宿線乗入対応に改造する工事が行われた 。6748編成・6749編成は正面の運行番号表示器がLED式になっている。これらの追加改造車に置き換えられ、6731編成が2001年11月に、6732編成が2002年10月に、6733編成が2003年10月にそれぞれ廃車されている。 2001年には6731編成の他に6710編成が12月、6711編成が1月、1999年に組成された暫定6803編成と6805編成が2月に廃車され、計32両が廃車された。6711編成は界磁チョッパ車初の廃車、6731編成は30番台で初の廃車である。2002年には6732編成のほか、6712編成が1月に廃車され、計16両が廃車となった。2003年の6733編成の廃車により、分散冷房装置搭載車が消滅している。この56両の代替のため、2000年から2003年にかけて9000系56両が製造されている。 中間連結面間に転落防止の外幌を設ける工事が1997年から2001年にかけて施工されている。 競馬場線用として1999年7月に6416編成と6417編成に、動物園線用として2000年10月に6722編成にワンマン化対応改造が行われた。助手席側運転台には客室と通話できる電話機が設けられた。6722編成には同時にTama Zoo Trainのラッピングがほどこされた。 2000年に登場した9000系には6000系・7000系と連結可能な読替装置が搭載されたため、9000系8両編成に6000系2両編成が連結されて運用されることもあった。6000系と7000系は併結可能だったが、2010年8月22日の6717編成の廃車回送時に7423編成を橋本寄りに連結して運転した事例があるのみである。 2002年10月に全編成の帯色がえんじから8000系と同じ京王レッドと京王ブルーに変更されている。 6721編成の6両編成化以降もデハ6000形デハ6122はM1車として使用されてきたが、M2車デハ6050形デハ6171に改造された。デハ6171は通常パンタグラフを搭載しないM2車であるが、パンタグラフは存置された。 2005年ごろに一部の車両のパンタグラフが東洋製PT-7110シングルアーム形に換装されている。2009年にデワ600形のパンタグラフもシングルアーム形に換装された。 1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107は新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けた。デワ600形の詳細は後述する。デワ600形に改造されなかったクハ6707・デハ6007・デハ6057・クハ6757・クハ6807の5両が7月に廃車され、デハ6450形が形式消滅、0番台が消滅した。 6707編成・6807編成の代替として9000系8両が2004年に製造された。 2005年に9000系新宿線乗入対応車が登場して以降、6000系の廃車が加速するようになった。 2009年11月に6000系として最後に定期検査に入場した6416編成を1972年の登場時に近い塗装に復元し、廃車までこの塗装で運用された。帯色がえんじとなったほか、社名表記がKEIOからKTRに戻されている。2010年以降も残存した車両の廃車が継続した。 6000系は急行用として6両編成で製造されたため、当初は5000系が7両編成で特急、6000系は6両編成で急行に運用された。1975年に6000系の8両編成が登場、平日の特急にも運用されるようになったが、一部駅ではホーム延伸が間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。 オフシーズン休日の特急は高幡不動で京王八王子方面と高尾山口方面で分割される運転形態だったため、5000系が引き続き充当されていたが、一部の6000系の5両+3両編成化により6000系がオフシーズン休日の特急にも運用されるようになり、オンシーズン時には8両編成で「高尾」「陣馬」などのヘッドマーク付き列車などにも運用された。5両編成は平日日中にグリーン車とともに 各駅停車にも運用された。 1978年に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚 - 新線新宿間の折り返し運転が行われた。 1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、1987年12月に大島まで、1989年3月に本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。1981年9月からは朝ラッシュ時の乗入運用の一部が10両編成化され、2007年9月に京王車両で運用される列車は終日10両編成での運転となった。乗入開始当初から10両編成化までの間、乗入距離精算のため6000系が新宿線内を折り返す運用が1運用設定されていた。 朝ラッシュ時の相模原線から調布以東に直通する列車(相模原線系統)は京王八王子・高尾山口から調布以東に直通する系統(京王本線)の1時間当たり10本に対して半分の5本だったため、京王本線より先に輸送力が限界に達すると予想されたこと、京王線新宿駅と府中以西各駅の10両編成対応に時間を要したことから京王本線よりも先行して相模原線 - 新宿線乗入系統の10両編成化が実施された。東京都交通局は新宿線を6両編成対応で開業させた直後に8両・10両対応への延伸を行うこととなったが、東京都も開発に関連している多摩ニュータウンの輸送力確保が目的であることから協力的だったと言われている。 京王線新宿駅の10両編成対応が完了した1982年11月から京王本線 - 京王線新宿駅系統も10両編成化されたが、乗入系統とは2両編成の連結位置が異なっていた。30番台の2両編成は当初日中の運用がなく、全車若葉台で待機していた。 8000系の登場により特急が10両編成化され、6000系は特急運用の任を下りたが、1992年から相模原線で8両編成の特急が運転されるようになったためこれに6000系が充当された。同時にシーズンダイヤの午後に高幡不動で高尾山口行き5両と多摩動物公園行き5両に分割・併合する急行が運転されるようになり、これに6000系が充当された。多摩動物公園発の編成は高幡不動到着後いったん京王八王子側に引き上げられ、高尾山口発の編成と連結された。 相模原線特急は8000系8両編成に順次置き換えられ、2001年に分割急行は廃止されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両+5両+3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。 競馬場線が1999年に、動物園線が2000年にワンマン化されて以降はワンマン対応の6000系専用編成が使用された。 廃車進行により徐々に運用の範囲を狭めていったが、都営新宿線のATCは耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車が乗り入れられなかったことから、ATC更新まで6000系が乗入用に専用された。2007年(平成19年)9月に新宿線乗入運用がすべて10両編成となって以降30番台は8両+2両の実質的な固定編成として運用された。 新宿線のATC更新後は急速に廃車が進行し、2009年(平成21年)6月に乗入運用から離脱、2010年(平成22年)8月に8両編成が全廃された。 5扉車改造の4扉車は当初他の5両編成と共通に運用されたが、他の5両編成が廃車されたのちは2本組み合わせた10両編成で使用された。5扉車6両編成は相模原線内折り返しの各駅停車に運用され、5扉車4両編成はワンマン化改造・ラッピングがほどこされたうえ、動物園線で運用された。競馬場線と動物園線のワンマン運転対応車が最後に残り、競馬場線用は2011年(平成23年)1月、動物園線用は2011年(平成23年)3月で運用を終え、全車廃車された。 1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107はデワ601に改造されたが、1両単独で運転できるよう、新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けるとともに自走に必要なすべての機器が搭載された。京王八王子寄りには構内運転用の簡易運転台が設けられた。空気圧縮機と主制御装置を床下に、ブレーキ制御装置、空気タンク、電動発電機が車内に搭載された。高圧機器が車内に搭載されたため、換気のため窓の一部が鎧戸とされた。デハ6407はデワ621となり、新宿寄りに簡易運転台が設けられた。ATS車上子を床下に搭載するため、一部の空気タンクが車内に搭載され、ATS装置本体も車内に搭載された。デハ6457を改造したデワ631には電動空気圧縮機を搭載するため、ブレーキ制御装置、一部の空気タンクが車内に移設された。デワ601の両側とデワ621の京王八王子寄連結器は棒連結器から密着連結器に交換されるとともにデワ601とデワ621の間に挟まれる貨車に電源を供給できるよう電気連結器が設けられた。車体塗装はグレーに変更され、夜間作業の視認性を高めるため正側面に赤白斜めのラインが入れられ、正面の白ラインは反射テープとなった。 チキ290形又はクヤ900形をデワ601とデワ621の間に挟んで使用されるほか、相模原線がATC化されたのちはATC非設置の6000系が若葉台検車区・若葉台工場に入出庫する際のけん引車としても使用された。 デヤ901・902形に置き換えられ、2016年4月に廃車された。 デハ6438が廃車後若葉台検車区で保管された後、2013年4月に多摩動物公園駅付近に移動、2013年10月から京王れーるランドで静態保存されているほか、クハ6722とクハ6772の運転台部分が同所に展示されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京王6000系電車(けいおう6000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。1972年から1991年に304両が製造され、2011年まで運用された。 また、同社最後の「アイボリー」塗装の車両であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、6731編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "都営地下鉄新宿線への乗り入れを前提に設計され、京王で初めて20 m級並びに両開扉4ドアの車体を採用した。製造当時の法令に従い、6000系は A-A基準 を満足するよう設計されている。京王で初めて電気指令式ブレーキを採用し、主幹制御器がブレーキハンドルと一体化されたワンハンドルマスコンが採用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "後述のように、最大幅2,844mmの初代5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入で規定された最大幅2,800mmで実現するための設計上の工夫が施された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "先頭車は全車東急車輛製造(以下、東急)製、中間車は25両が東急製、7両が日立製作所(以下、日立)製であるほかは日本車輌製造(以下、日車)製である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "京王線全線・都営地下鉄新宿線で運用されたのち、1998年から2011年にかけて廃車が発生し、2004年に事業用車に改造された3両と静態保存された1両を除いて廃車・解体された。事業用車に改造された3両も、デヤ901形・902形に代替され2016年4月に廃車されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "三多摩地区開発による沿線人口の増加、相模原線延伸による多摩ニュータウン乗り入れ、都営地下鉄10号線(現都営地下鉄新宿線、以下新宿線と表記する)乗入構想により、京王線の利用客増加が見込まれ、相当数の車両を準備する必要に迫られるなか、製造費用、保守費用を抑えた新型車両として本形式が構想された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "新宿線建設に際してはすでに1号線(後の浅草線)を1,435mm軌間で開業させていた東京都は京成電鉄と1号線との乗り入れにあたり京成電鉄の路線を1,372mmから1,435 mmに改軌させた事例や、1,372 mm軌間の特殊性から運輸省(当時、2001年から国土交通省)と共に京王にも改軌を求めたが、改軌工事中の輸送力確保が困難なことを理由に改軌しないことで決着している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "6000系は5000系の全長18 mに対し、京王線の建築限界を修正した上で、京王線用として初めて全長20 mの車体を採用した。6000系以降の京王線の新型車両は20 m車体となったが、7000系以降はステンレス車体となったため、6000系は京王線用として20 m級車体を採用した唯一の普通鋼製車両である。6000系で床面(台枠上面)の幅が5000系の最大2,700 mmから2,780 mmに拡げられたため、ホームの改修が行われ、5000系以前の車両は出入口の踏段を拡幅する工事が施工された。", "title": "京王の車両史での位置づけ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "最初の6編成の制御方式は5000系とほぼ同一の部品を採用した抵抗制御だったが、これ以外はすべて界磁チョッパ制御となり、7000系にもほぼ同じ方式が継承された。電気指令ブレーキとT形のワンハンドルマスコンは改良を加えながら6000系以降の京王線用車両に採用されている。", "title": "京王の車両史での位置づけ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "5000系では多種多様の台車が使用されたが、6000系ではほぼ同一形態の2種類の台車に統一され、基本構造は7000系、最終製造車を除く8000系まで継承された。", "title": "京王の車両史での位置づけ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "6000系は製造時から全車が冷房装置装備となり、初期の先頭車は集約分散式冷房装置を採用したが、途中から全車集中式冷房装置に統一され、以降新5000系に至るまで京王線では集約分散式の採用はない。", "title": "京王の車両史での位置づけ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "6000系304両の製造期間である1972年4月から1991年3月の19年間に7000系132両と併せて436両が製造され、井の頭線からの転用車20両、2600系15両、2000系・2010系・2700系合計103両、5000系17両、5100系24両の179両が廃車された。京王線の車両数は257両増加したことになり、この間にいわゆるグリーン車と、吊り掛け式駆動車が全廃された。", "title": "京王の車両史での位置づけ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "6000系304両の廃車は1998年1月から2011年3月にかけての13年間行われ、この間に8000系40両、9000系264両の合計304両が製造された。6000系を代替したのはすべてVVVFインバータ制御、ステンレス車体の車両であり、6000系の全廃により京王線の営業車から普通鋼製の電車が消滅した。6000系の廃車と並行して6000系とほぼ同じ制御装置を採用していた7000系のVVVF化改造工事が進められたが、京王線から界磁チョッパ制御車が消滅したのは6000系全廃後の2012年となった。", "title": "京王の車両史での位置づけ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "新宿線乗り入れに対応するため、京王として初の20 m車体、1,300 mm幅両開き片側4扉の普通鋼製車体を採用した。最大幅2,844 mmの初代5000系と同じ室内幅2,600 mmを新宿線乗入協定で定められた最大幅2,800 mmで実現するため、側窓を1枚下降式として壁厚さを薄くする手法が取られ、6両編成で5000系7両編成に匹敵する収容力をもつものとされた。車体外幅は同寸法で車体をステンレス化する場合にコルゲートを追加できるよう2,780 mmとなり、5000系に続いてアイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。登場前には窓上にも赤帯を巻くことも検討されたが、実現しなかった。従来の車両に取り付けられていた社紋の代わりに京王帝都電鉄を表すKTRのプレートが取り付けられた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "床面の車体幅が5000系の2,700 mmから2,780 mmに拡幅されたことと併せ、20 m車の導入に際して曲線上のホームとの干渉が発生するためホームの修正などの準備が行われたが、車両設計認可には時間を要した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "平面を中心とした凹凸や曲面の少ない外観となり、客室屋根高さを高く取るため屋根も平面に近くなった。側窓はサッシ付き一枚下降式で、床面から1,300 mmまで窓が下がる。戸袋窓が設けられ、戸袋窓にもサッシが付いた。サッシの角が角ばっているのは少しでも視界を広く取りたいためとされている。客用ドアは体格向上に併せ、5000系の高さ1,800 mmから1,850 mmに変更された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "戸閉表示、非常通報、ブレーキ不緩解の3つの表示灯は車体中央部窓上にまとめて設置され、表示灯群の両側に種別と行先の表示装置が設けられた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "先頭部には地下線走行時の非常脱出や、複数編成間を貫通幌でつなぐ目的で中央部に幅600 mmの貫通扉が設けられ。貫通扉を中心に緩やかに後退角がついた折妻構成とされた。最初の3編成は貫通幌の座がなかったが、後に追加されている。4編成目以降は幌の座を備えて新造された。登場直後は5000系同様正面貫通路両側でえんじ帯が徐々に細くなっていたが、すぐに一定幅に変更された。貫通路上に行先、正面右側窓上に種別表示を備え、正面左窓上は運行番号表示用とされたため、前照灯は正面窓下に設置された。窓上表示装置の両脇に尾灯と列車種別識別用の表示灯兼用の角型の灯具が設けられ、夜間に表示灯が際立つよう表示幕類は黒地とされ、各表示装置の周りが黒く塗られた。登場当初は装置ごとに黒色部が3分割されていたが、すぐに一体に塗装された。車掌室窓部にリレー類を納める箱を設置したため、正面向かって左側の窓の天地寸法が運転席側より小さくなり、バランスをとるため窓下に車号板が取り付けられた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1992年ごろに先頭車正面床下にスカートが取り付けられ、2002年に帯色が京王レッドと京王ブルーに変更されているが、それ以外に外観の印象を変えるような大きな改造は行われなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "座席はロングシートで、褐色のモケットが貼られた。壁色は5000系に続いてアイボリー系となった。天井の冷風ダクトの枕木方向の幅を広げることで天地を薄くでき、天井高さは床面上2,210 mmとなった。車内照度確保のため、室内灯は乗客により近くなるよう冷風ダクトに取り付けられた他、天井には先頭車9台、中間車10台のラインデリアが埋め込まれた。座席端のアームレストは着座客のアームレストとしても、立客が寄りかかる場所としても両者が不快になることなく利用できるよう工夫されている。冷暖房効果向上などを目的として全中間連結部に引戸が設けられている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "京王の車両で初めてワンハンドル式主幹制御器を採用した。押して制動か、引いて制動か、の議論が設計時にあり、先に登場していた東急8000系に倣って押して制動する方式が採用された。運転士前面に配置する計器類は速度計と圧力計、一部のスイッチ類などの最低限とされ、電流計・電圧計などは添乗する係員から見やすいよう乗務員室側開戸の上に設けられた。ATC設置に備えて、速度計外側には車内信号が表示できるスペースが設けられた。乗務員室中央部を貫通路として使用する場合、運転室・車掌室が仕切れるような構造となっていた。ワイパーは乗用車用を流用した電動式となった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1972年製の6編成は抵抗制御を採用、5000系最終製造車とほぼ同様の日立製主制御装置MMC-HTB-20J(直列11段、並列7段、弱め界磁6段)、主電動機として直流直巻電動機・日立製HS-834Crb、東洋電機製造(以下、東洋)製TDK-8520A(出力150 kW、端子電圧375 V、定格電流450 A、回転数1,450 rpm)が搭載された。5両編成・6両編成でデハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされ、発電ブレーキが使用できなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1973年以降は主回路を界磁チョッパ制御に変更するとともに回生ブレーキも採用し、主制御装置は日立製MMC-HTR-20B(直列14段、並列11段)、主電動機は直流複巻電動機・日立製HS-835GrbまたはHS-835Jrb、東洋製TDK-8525AまたはTDK-8526A(150 kW、端子電圧375 V、定格電流445 A、分巻界磁電流28.3 A、回転数1,500 rpm)となった。抵抗制御車同様、デハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされたが、回生ブレーキは使用できた。当初からユニットを組まない電動車として計画されたデハ6400形にはスペースの制約から他形式と異なる機器が採用され、主制御装置も日立製MMC-HTR-10C(永久直列14段)となった。5000系では日立製主電動機の数が多かったが、6000系では東洋製が主力となった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "駆動装置はTD平行カルダン駆動が採用され、抵抗制御車の歯車比は85:14、界磁チョッパ制御車の歯車比は85:16である。後年7000系と共通のWN駆動装置に交換されたものがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "制動装置は日本エヤーブレーキ製全電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD-1) が採用された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "5000系では数多くの種類の台車が採用されたが、6000系以降の各形式では統一された形態のものとなった。台車は車体直結式空気ばね、ペデスタル方式軸箱支持 の東急製TS-809動力台車、TS-810付随台車が採用された。界磁チョッパ制御車の台車は回生ブレーキ使用に対応してTS-809Aに形式変更されている。TS-809の軸距は2,200 mm、TS-810は2,100 mmで、全台車両抱式の踏面ブレーキを装備する。サハ6550形は電装を考慮していたため全車電動車用TS-809系を装備し、クハ6801 - クハ6806はサハ6551 - サハ6556から転用されたTS-809改台車を装備していた。デハ6456は落成当初、軸箱支持方式をシェブロン式とした試作台車TS-901を装着していたが、1年程度でTS-809Aに交換されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "集電装置として、東洋製PT-4201形パンタグラフがデハ6000形・デハ6400形・デハ6450形の全車に、2両編成ではクハ6750形のそれぞれ京王八王子寄りに搭載されたほか、一部のデハ6050形にも搭載された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "6000系では4種類の容量の5種類の補助電源装置が使用された。1972年製のサハ6550形と1973年製のデハ6050形・サハ6550形には容量130 kVAのHG544Er電動発電機 (MG)、1972年製のデハ6050形には容量75 kVAのHG584Er電動発電機、それ以外の4扉車には容量130 kVAのTDK3344ブラシレス電動発電機 (BL-MG) が搭載された。HG854Erは1972年製造車の5+3両編成化時にデハ6450形に移設され、同時にクハ6751 - クハ6756に井の頭線用3000系から転用されたTDK362/1-B電動発電機(容量7 kVA)が搭載された。のちにHG544Erの大半がTDK3344に載せ替えられている。5扉車にはSVA-130-477SIV(容量110 kVA)が採用された。1983年ごろにデハ6261に試験的にSIVが搭載された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "電動空気圧縮機は、2両編成を除いて、毎分吐出容量2,130リットルのHB-2000および1987年以降の製造車では性能は同一で小型低騒音のHS-20Dが、3・5両編成用のクハ6700形とデハ6050形、サハ6550形全車に各1台が搭載された。2両編成では床下スペースの制約から、井の頭線から転用された毎分吐出容量1,120リットルのC-1000を採用し、デハ6400形に搭載された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1972年製造の制御車には集約分散式能力9.3 kW (8,000 kcal/h) の東芝製冷房装置が4台搭載された。1973年から1976年製造の制御車は同じ冷房装置5台を搭載することが可能な構造となったが4台のみが搭載され、中央の1台分にはカバーだけが載せられた。1973年から1976年製造の制御車には1986年、5台目の冷房装置が搭載されている。1972年製の中間車と、これを8両編成化するために製造されたデハ6450形には日立製集中式34.9 kW (30,000 kcal/h) の冷房装置1台が搭載されたが、1991年に集中式46.5 kW (40,000 kcal/h) のものに載せ替えられている。それ以外の4扉車は全車集中式46.5 kWの冷房装置を搭載し、5扉車のみ48.8 kW (42,000 kcal/h) とされた。冷房装置の寿命は15年程度であるため、何回か載せ替えが行われ、型式が異なるものに変えられたもの、3000系や5000系と交換したものなどがある。能力46.5 kWのものを搭載していた車両の大半が48.8 kWのものに交換されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "6000系は以下の形式で構成される。各形式とも一部の例外を除いて固定編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。ここでは1991年の製造終了時までを述べる。「デ」は制御電動車及び電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。各車の製造年時は項末の表を参照のこと。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。3両編成の2両目、5両編成と6両編成の2両目と4両目、初期の8両編成の3・5・6両目、それ以外の8両編成の2・4・6両目に組み込まれた。初期の8両編成を除き編成位置により新宿寄りから順に百の位が0・1・2に附番され、3両編成用は百の位が4となったが、下記の制御電動車デハ6400形とは別形式である。デハ6050形とユニットを組んで使用されることが基本だが、5両編成の4両目と乗入用を除く8両編成の4両目、初期の6両編成の4両目と初期の8両編成の5両目に組み込まれた6100番台の車両はデハ6000形単独で使用された。デハ6001 - デハ6006・デハ6101 - デハ6106の12両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である。1972年から1991年にかけて95両が製造された。1976年に6両編成の8両編成化に伴ってサハ6550形サハ6551 - サハ6556が電装されてデハ6401 - デハ6406となった。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "デハ6000形とユニットを組む 電動空気圧縮機、京王八王子寄り屋根上にパンタグラフを搭載する中間電動車である。6100番台には初期と最末期の一部を除きパンタグラフは設置されなかった。百の位はユニットを組むデハ6000形と同一で、初期の6両編成と5両編成の3両目、初期の8両編成の4・7両目、それ以外の京王線用8両編成の3・7両目、乗入対応8両編成の3・5・7両目に組み込まれた。デハ6051 - デハ6056の6両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である。8両編成の7両目に組み込まれた車両以外には電動発電機が搭載された。1972年から1991年にかけて67両が製造された。乗入対応のため1979年にサハ6557 - サハ6559・サハ6564 - サハ6569が電装されてデハ6181 - デハ6189に改番されている。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2両編成で新宿寄りに連結される制御電動車で、主制御装置、電動空気圧縮機、京王八王子寄りにパンタグラフを搭載する。1981年から1989年にかけて18両が製造された。デハ6401 - デハ6406はデハ6000形に属する中間電動車であり、デハ6400形ではない。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "3両編成で京王八王子寄りに連結される制御電動車で、補助電源装置、パンタグラフを搭載する。パンタグラフは他車種同様京王八王子寄りに搭載されたため、運転台側にパンタグラフがある。1976年、1977年に7両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "電動空気圧縮機付きの付随車で、初期の6両編成の5両目と初期の8両編成の2両目、京王線用8両編成の5両目に組み込まれる。1972年から1983年にかけて22両が製造された。1976年に8両編成化のため6両がデハ6000形に、1977年 - 1978年に乗入対応のため6両がデハ6050形に改造されている。電動車化が想定されていたため、屋根上にパンタグラフ取付用の台、客室床に主電動機点検蓋があり、電動車用TS-809系台車を装備している。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "新宿寄り制御車である。3・5両編成用には電動空気圧縮機が搭載された。3両編成用は百の位が8。1972年から1991年にかけて42両が製造された。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "京王八王子寄り制御車である。2両編成用は百の位が8。1972年から1991年にかけて53両が製造された。2両編成用は京王八王子寄りにパンタグラフ1基を搭載している。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "6000系の製造ごとの仕様の変化、改造、改番などを時系列にまとめる。複数の年にまたがった事例でも、同一の仕様、改造であればひとつの項にまとめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以下、京王相模原線と都営地下鉄新宿線の方面表記については、時代に合わせる形で、終着駅を変えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "6000系として最初に製造されたグループであり、1972年に製造された6編成36両のグループだけが抵抗制御となった。登場時は前面表示装置付近の塗り分けや、貫通路両脇のえんじ帯の処理が後に見られるものと異なっていた。先頭部貫通幌を取り付けるための台座もなかったが、すぐに取り付けられている。全車1972年5月に竣工し、先頭車とサハ6550形が東急製、デハ6053 - デハ6056が日立製、それ以外の中間車が日車製である。登場時はサハ6556にもパンタグラフが設置されていたが、1か月ほどで撤去されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "6000系36両の代替として井の頭線から転用されていたデハ1700形デハ1701 - デハ1707・クハ1710形クハ1711・デハ1710形デハ1712 - デハ1715・サハ1200形サハ1202の13両が廃車された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1973年に入籍した車両から主制御装置が界磁チョッパ制御となった。先頭車には5個目の冷房装置を搭載できるよう準備が行われ、カバーだけが設置された。中間車の冷房装置能力が34.9 kWから46.5 kWに増強されている。先頭車とデハ6050形が東急製、デハ6010 - デハ6012が日立製、それ以外が日車製である。6000系で日立製の車両はデハ6053 - デハ6056、デハ6010 - デハ6012の7両のみである。最初の3編成が1973年12月、残りの3編成が1974年3月に竣工している。このときの製造車から先頭車に新宿線用無線アンテナ設置用の台が設けられ、以降乗入対応・非対応、パンタグラフ有無に関わらずすべての先頭車にこの台が設けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この36両の入線に先立つ1973年10月にクハ1200形クハ1203・デハ1400形デハ1401・デハ1403・デハ1800形デハ1801の4両が、次いで1974年2月にクハ1200形クハ1204・デハ1400形デハ1402・デハ1800形デハ1802・デハ1803の4両が廃車され、井の頭線からの転用車が一掃された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "界磁チョッパ制御の6両6編成を8両編成化するために中間電動車12両が日車で製造された。新造された車両には6200番台の番号が付与されている。当時は検車設備が6両編成までしか対応できなかったため、2両と6両に容易に分割できるよう、5両目に組み込まれていたサハ6550形を2両目に移動し、新造した車両が3両目と4両目に組み込まれた。6100番台のデハ6000形と6000番台の電動車ユニットの位置が併せて入れ替えられている。3両目から7両目まで連続してパンタグラフが設置された。新造車は1975年1月に落成し、高幡不動に搬入されていたが、一部駅でホーム延伸が間に合わなったため、1975年10月ごろまで冷房装置を取り付けない状態で高幡不動に留置された。つつじヶ丘駅のホーム延伸は8両編成運転に間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "8両編成化された6000系は平日の特急にも運用されたが、分割・併合が行われるオフシーズン休日の特急には依然5000系が運用されていた。これを6000系で置き換えることを目的に、6両編成で残っていた抵抗制御車に1976年5月に東急で新造された先頭車2両を組み込んで5両編成・3両編成各6編成が組成された。登場直後は新宿寄りに3両編成、京王八王子寄りに5両編成を連結していたが、1977年に特急に運用される直前に逆に組み替えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "組み込みにあたってはサハ6550形が6両編成から抜かれ、電装の上デハ6000形に改番、新造されたデハ6450形とユニットを組み、新造されたクハ6700形(6800番台)と併せて3両編成を組んだ。サハ6550形の台車は新造されたクハ6700形(6800番台)に改造の上流用(TS-809改台車)、サハ6550形の電動空気圧縮機は新たに5両編成となった既存編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に移設、サハ6550形の75 kVA電動発電機はデハ6450形に移設され、5両編成のデハ6050形には新製された130 kVAの電動発電機が搭載された。5両編成のクハ6750形には井の頭線から転用された7 kVAの電動発電機が搭載された。サハ6550形の電装工事は京王重機整備北野工場に車両を陸送して実施された。デハ6450形の冷房装置は集中式とされ、ユニットを組むサハ6550形改造のデハ6000形に併せ、容量は34.9 kWとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "分割運転時の誤乗防止のため、3両編成のつり手は緑色、5両編成は白とされた。5両編成は平日日中にグリーン車とともに 各駅停車にも運用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "6000系には先頭部助手席側窓下と側面窓上にナンバープレートが設けられており、1974年以前の製造車の前面はアイボリー地に黒文字、側面は紺地にステンレス文字だったが、1976年製造車から側面はアイボリー地にステンレス文字になった。このとき投入された車両の代替として1977年3月に2600系3両2編成が廃車された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "デハ6450形と電装されたデハ6000形は回生ブレーキ付き界磁チョッパ制御となり、発電ブレーキ付き抵抗制御車の5両編成と併結運転されるため、回生ブレーキ車と発電ブレーキ車の併結試運転が1976年5月15日に下記の編成で事前に行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1977年には5両+3両の8両編成1本と8両編成2本が製造された。このときから先頭車の冷房装置が集中式に、補助電源装置がブラシレスMGに変更された。8両編成は6707編成 - 6712編成とは編成構成が変更され、サハ6550形は5両目となり、後の京王線車両と同様電動車ユニットの車両番号の百の位は新宿寄りから順に0・1・2となっている。先頭車は東急製、中間車は日車製である。代替として1977年12月に2600系3両3編成、2700系2両1編成とデハ2701の計12両が廃車され、2600系が消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1980年3月の都営新宿線乗入開始に備え、乗入対応として電動車を1両増やして6両とした8両3編成が1978年8月から9月にかけて製造された。5両目に組み込まれたデハ6050形(6100番台)のパンタグラフは登場まもなく降下され、後に撤去された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同時期に6707編成 - 6709編成・6714編成・6715編成の乗入対応改造が行われたが、乗入改造はサハ6550形を電装してデハ6050形とすること、両先頭車にATCを搭載することが中心で、この改造の間遊休化する編成中のその他車両を有効活用するため、クハ6719・クハ6769・サハ6569の3両も今回の新造車と同時に製造され、対象各編成の改造期間中、中間車を順次組み込んで運用された。デハ6217・デハ6218と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1978年10月に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚 - 新線新宿間の折り返し運転が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1979年7月から11月にかけて6707編成 - 6709編成・6714編成 - 6718編成に新宿線乗入対応工事が施行され、30番台に改番された。6707編成 - 6709編成は編成内の車両順位が6714編成以降と同一に変更され、6100番台と6200番台のデハ6000形の番号が入れ替えられている。6707編成 - 6709編成・6714編成・6715編成には先頭車への新宿線用自動列車制御装置 (ATC) と新宿線用列車無線装置搭載、屋根上への列車無線アンテナ設置、とサハ6550形の電装が、6716編成 - 6718編成は先頭車へのATC・新宿線用列車無線搭載が行われた。ATCは先頭車の床下に搭載された。サハ6550形改造のデハ6050形にはパンタグラフが設置されなかった。新宿線内では運転台に新宿線用のマスコンキーを挿入することで起動加速度が京王線内の2.5 km/h/sから3.3 km/h/sに切り換わる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、後に大島まで、本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "新宿線乗入対応としてATCと新宿線用無線を新製時から搭載し、30番台に区分された8両2編成が製造された。前年に製造されていたクハ6719・クハ6769・サハ6569と組んで8両編成を構成する中間車5両も同時に製造され、この編成も乗入対応編成とされたため、サハ6569はデハ6189に、両先頭車もクハ6739・クハ6789に改造、改番された。デハ6190・デハ6191と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である。6740編成の両先頭車であるクハ6740・クハ6790の先頭部ナンバープレートは試験的に紺地にアイボリー文字となっていた。のちにナンバープレートの書体が変更されるまでこのままで使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "この21両の代替として、1979年11月と12月に2700系2両3編成と4両1編成の合計10両が廃車されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1980年1月に30番台に改造された空き番号を埋める形で6713編成・6813編成がそれぞれ6707編成・6807編成に改番された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "京王新線への乗り入れや、混雑時に立ち席スペースを増やす目的で5 + 3編成の中間部の先頭車に1978年ごろに貫通幌が設置され、一部列車で貫通幌が使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1980年に3編成、1981年・1983年に各2編成、合計7編成京王線専用の8両編成が製造された。いずれの編成も新宿線乗入対応の30番台に改造・改番されて空いた番号を埋める形で附番され、サハ6550形の一部と6719編成の一部を除き2代目の車両番号となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "6718編成・6719編成にはATC取付用のステーが設けられ、客用ドア下部の靴擦りがステンレス無塗装となった。デハ6265 - デハ6267と先頭車全車が東急製、それ以外が日車製である。1982年製造の6716編成以降は屋根の絶縁処理が変更され、ビニール張りから絶縁塗装(塗り屋根)に変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "この56両が製造される間、1981年2月に2700系6両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各5両の計16両が、1981年12月に2000系4両、2700系8両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各2両の計16両が、1983年10月に2010系12両が廃車され、2700系・2000系が形式消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1981年9月から始まった朝ラッシュ時新宿線乗入運用の一部10両編成化用として2両編成が製造された。全車東急製である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "デハ6400形とクハ6750形で構成され、使用電力増と回生ブレーキ使用に対応するためクハ6750形の京王八王子寄にもパンタグラフが搭載された。限られた床下スペースに必要な機器を搭載するため、主制御装置の小型化、空気圧縮機の小型化、ATS受信機、空制部品の一部を客室内椅子下に配置するなどの工夫がほどこされた。デハ6400形には新宿線用ATC装置を搭載するスペースが取れなかったため、新宿線乗入運用に入る際はクハ6750形が先頭となるよう、8両編成の京王八王子寄りに連結された。デハ6400形の先頭部には貫通幌が備えられ、乗入運用時には8両編成と幌で貫通された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "10両編成での運転は準備の整った相模原線から新宿線に乗り入れる系統から先に実施されたため、新宿線乗入対応の30番台が先行して製造されたが、東京都との調整の遅れから就役が遅れ、当初は競馬場線に2両編成で使用された。1982年10月から京王線系統の10両編成運転も開始されたため、新宿線用ATCを搭載しない京王線専用の10番台も製造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2両編成では運転台直後の客室に車内灯が増設されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "6436編成・6437編成は京王線専用、乗入対応用共通の予備車(兼用車)とされ、両者の運用に入った。1984年から後継となる7000系の製造が始まっているが、10両編成運用の増加により、6000系2両編成が継続して製造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1982年製造の6410編成・6436編成以降は塗り屋根に変更されたほか、1983年以降製造の6436編成・6413編成以降は客用ドアの靴擦りがステンレス化された。京王線内運用時は新宿寄りに連結され、連結・解放時間短縮のため京王線専用編成のクハ6750形には自動連結解放装置が設けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "新宿線乗入運用では2両編成のデハ6400形に貫通幌を設置、8両編成のクハ6700形との間が貫通幌でつながれ、その着脱に時間を要することから、兼用車以外の30番台には自動連結解放装置は設置されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "分割・併合作業の容易化のため、一部の先頭車に自動連結解放装置が設置された。クハ6755とクハ6805に1981年に設置されて試験ののち、1982年ごろに京王線専用の8両編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に、1983年ごろに残りの5 + 3編成のクハ6750形とクハ6700形(6800番台)に同装置が設置された。5+3編成の新宿寄り先頭車クハ6700形(6700番台)にも次いで1982年ごろに、5+3編成の編成順位が3 + 5に変更されたため、デハ6450形にも1992年ごろに同装置が設置されている。30番台は分割・併合時に貫通幌を使用し、その脱着に時間を要するため、自動連結解放装置は設けられなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1981年から1982年にかけて他の8両編成と編成構成が異なっていた6710編成 - 6712編成を他編成に併せるための組み替えが行われた。6100番台と6200番台のデハ6000形の間で車両番号の振替が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1981年から1982年にかけて百の位0のデハ6050形のパンタグラフが使用停止とされたのち、1983年から1985年にかけて撤去され、井の頭線に転用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1986年に1973年製造のクハ6731 - クハ6733・クハ6710 - クハ6712・クハ6781 - クハ6783・クハ6760 - クハ6762に冷房装置が1台増設された。これらの車両には5台目の冷房装置を設置できるよう製造時から空の冷房装置カバーが1台設けられており、この中に冷房装置が搭載されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1986年から2両 + 5両 + 3両の10両編成運転が始まり、5両編成が抵抗制御車の場合は編成中に3種類の制御段数の車両が含まれることになるため、前後動を抑えるため0番台先頭車の連結器緩衝器が改良型に変更され、以降の新造車にも取り入れられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "製造から15年 - 20年経過した時点で経年により劣化した部位の更新工事が順次行われている。大半の車両で屋根が塗り屋根となり、1992年以降に内装を張り替えた車両は車内壁色が8000系と同じ大理石模様に変更されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "相模原線の南大沢、橋本延伸に伴う乗入運用の増加に対応し、30番台8両編成が1988年・1989年・1990年に各1編成製造された。デハ6092・デハ6292・デハ6094と先頭車が東急製、それ以外が日車製である。この3編成は空気圧縮機が低騒音形のHS-20Dに変更されている。1989年11月に京王グループの新しいシンボルマークが制定され、4扉車の最終製造となった6744編成では側面の社章がKTRからKEIOに変更され、既存車も順次同様に変更されている。6743編成と6744編成では2両編成同様運転台直後の客室に車内灯が増設されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "京王線では1972年から朝ラッシュ時1時間あたり最大30本の列車を運転しており、増発余力がなかったため以降は車両の大型化、長編成化により輸送力の増強をはかってきた。1990年代初頭には朝ラッシュ時の30本の列車のうち各駅停車15本が8両編成、急行・通勤快速15本が10両編成となったが、各駅停車の全列車10両編成化は1996年3月まで待たねばならなかった。列車自体の輸送力増加に加え、混雑の分散、停車時分の短縮のため駅階段の増設、閉そく区間の列車追い込みをスムーズにするための信号改良やホームの交互使用などの施策を併せて行ってきた中、ホームの交互使用が出来ない千歳烏山駅と明大前駅での乗降時間短縮を目的として、客用扉を片側5か所とした5両4編成が1991年に製造された。5扉車の導入により、明大前駅の停車時分は62.5秒から54.5秒に短縮されたとされている。18 m級車体の車両では5扉車を採用した事例が他にもあるが、20 m級車体で5扉は4扉車と扉位置がずれることもあり、6000系5扉車が唯一の事例である。また、普通鋼で製造された多扉車も6000系が唯一の存在である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "5扉車では車両番号の下2桁が21 (71) から附番されている。車両重量を増やすことなく車体強度を保つため、京王の車両として初めて戸袋窓が廃止された。戸袋窓廃止による採光面積の縮小を少しでも補うため、扉間の窓はサッシなしとされた。外板の腐食対策のため、車体下部の構造と窓から流れ込む雨水の処理方法が変更されている。主要機器は従来の6000系と同様とされたが、補助電源装置は静止型インバータとされ、冷房装置も換気機能を付加したものに変更された。4扉車では車体中央部に種別・行先表示装置、車側灯がまとめて設置されていたが、5扉車では設置できるスペースがないため、1つずつ扉間の窓上に設置された。これまで京王の車両は車両番号に独特の角ばった書体を採用していたが、5扉車では一般的な欧文書体に変更され、以降の新造車すべてに採用されるとともに6000系・7000系の既存車も順次新書体に変更されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両 + 5両 + 3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。両先頭車に自動連結解放装置が設置されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1992年から順次先頭部床下にスカートが設置された。通常の運用で先頭に出ない30番台2両編成のデハ6400形、10番台2両編成のクハ6750形はデハ6436・デハ6437を除いてスカートが設置されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "京王線専用の2両編成のうち、6418編成 - 6420編成が1993年から1996年にかけて乗入対応に改造され、30番台に改番された。この3編成は京王線専用編成時代にスカートを設置し、後に乗入対応に改造されたため、両方の先頭車にスカートがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1998年から6000系の廃車が始まった。1998年には6701編成(3月)・6702編成(2月)・6704編成(1月)の5両3編成、6801編成(3月)・6802編成(2月)・6804編成(1月)の3両3編成の合計24両が廃車された。代替として8000系8両3編成が新造されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "抵抗制御車の廃車を先行させるため、6803編成・6806編成の3両編成2本から抜き取られた車両と抵抗制御車の電動車デハ6053を電装解除した付随車で5両編成が1999年3月に組成された。デハ6053は電装解除され、サハ6553となった。デハ6456のパンタグラフは後に撤去されている。残ったクハ6806は1999年1月に、6703編成のデハ6053を除く4両と6803編成のデハ6453は1999年2月に廃車されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "1999年には6705編成(2月)・6706編成(1月)の5両2編成の計16両が廃車された。代替として8000系8両2編成が製造されている。1998年・1999年で抵抗制御車が全廃された。廃車時に発生した部品のうち、抵抗制御車の主制御装置は上毛電気鉄道700型に、運転台機器は松本電気鉄道3000形、岳南鉄道8000形をそれぞれ井の頭線3000系から改造する際に利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "登場時から座席数が少ないことが問題視されていたことに加え、長編成化などにより混雑が緩和されてきたこと、乗車扉位置の異なる車両の運用に苦情もあったことなどから、これら問題の解決を目的に5扉車のうち2編成が4扉に改造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "両端の扉を存置してその他側面部を全面的に改造、中央扉を撤去し、その両側の扉を移設して4扉とした。改造にあたっては車体が歪まないよう片側ずつ施工されたと言われている。種別と行先表示装置は他の4扉車同様車体中央に移設された。戸袋窓は引き続き設けられず、採光確保のため窓が増設され、京王線用車両として初の固定窓となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "当初は他の5両編成と共通に運用されたが、この2本だけが5両編成となったのちはこの2編成を連結した10両編成として運用された。5扉で残った2編成は6両編成と4両編成に組み替えられ、それぞれ相模原線と動物園線の区間運用に使用された。デハ6072にはパンタグラフが設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "初期に製造された30番台を置き換えるため、後期製造の車両を新宿線乗入対応に改造する工事が行われた", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "。6748編成・6749編成は正面の運行番号表示器がLED式になっている。これらの追加改造車に置き換えられ、6731編成が2001年11月に、6732編成が2002年10月に、6733編成が2003年10月にそれぞれ廃車されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2001年には6731編成の他に6710編成が12月、6711編成が1月、1999年に組成された暫定6803編成と6805編成が2月に廃車され、計32両が廃車された。6711編成は界磁チョッパ車初の廃車、6731編成は30番台で初の廃車である。2002年には6732編成のほか、6712編成が1月に廃車され、計16両が廃車となった。2003年の6733編成の廃車により、分散冷房装置搭載車が消滅している。この56両の代替のため、2000年から2003年にかけて9000系56両が製造されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "中間連結面間に転落防止の外幌を設ける工事が1997年から2001年にかけて施工されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "競馬場線用として1999年7月に6416編成と6417編成に、動物園線用として2000年10月に6722編成にワンマン化対応改造が行われた。助手席側運転台には客室と通話できる電話機が設けられた。6722編成には同時にTama Zoo Trainのラッピングがほどこされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2000年に登場した9000系には6000系・7000系と連結可能な読替装置が搭載されたため、9000系8両編成に6000系2両編成が連結されて運用されることもあった。6000系と7000系は併結可能だったが、2010年8月22日の6717編成の廃車回送時に7423編成を橋本寄りに連結して運転した事例があるのみである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2002年10月に全編成の帯色がえんじから8000系と同じ京王レッドと京王ブルーに変更されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "6721編成の6両編成化以降もデハ6000形デハ6122はM1車として使用されてきたが、M2車デハ6050形デハ6171に改造された。デハ6171は通常パンタグラフを搭載しないM2車であるが、パンタグラフは存置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2005年ごろに一部の車両のパンタグラフが東洋製PT-7110シングルアーム形に換装されている。2009年にデワ600形のパンタグラフもシングルアーム形に換装された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107は新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けた。デワ600形の詳細は後述する。デワ600形に改造されなかったクハ6707・デハ6007・デハ6057・クハ6757・クハ6807の5両が7月に廃車され、デハ6450形が形式消滅、0番台が消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "6707編成・6807編成の代替として9000系8両が2004年に製造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2005年に9000系新宿線乗入対応車が登場して以降、6000系の廃車が加速するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2009年11月に6000系として最後に定期検査に入場した6416編成を1972年の登場時に近い塗装に復元し、廃車までこの塗装で運用された。帯色がえんじとなったほか、社名表記がKEIOからKTRに戻されている。2010年以降も残存した車両の廃車が継続した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "6000系は急行用として6両編成で製造されたため、当初は5000系が7両編成で特急、6000系は6両編成で急行に運用された。1975年に6000系の8両編成が登場、平日の特急にも運用されるようになったが、一部駅ではホーム延伸が間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "オフシーズン休日の特急は高幡不動で京王八王子方面と高尾山口方面で分割される運転形態だったため、5000系が引き続き充当されていたが、一部の6000系の5両+3両編成化により6000系がオフシーズン休日の特急にも運用されるようになり、オンシーズン時には8両編成で「高尾」「陣馬」などのヘッドマーク付き列車などにも運用された。5両編成は平日日中にグリーン車とともに 各駅停車にも運用された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "1978年に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚 - 新線新宿間の折り返し運転が行われた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、1987年12月に大島まで、1989年3月に本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。1981年9月からは朝ラッシュ時の乗入運用の一部が10両編成化され、2007年9月に京王車両で運用される列車は終日10両編成での運転となった。乗入開始当初から10両編成化までの間、乗入距離精算のため6000系が新宿線内を折り返す運用が1運用設定されていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時の相模原線から調布以東に直通する列車(相模原線系統)は京王八王子・高尾山口から調布以東に直通する系統(京王本線)の1時間当たり10本に対して半分の5本だったため、京王本線より先に輸送力が限界に達すると予想されたこと、京王線新宿駅と府中以西各駅の10両編成対応に時間を要したことから京王本線よりも先行して相模原線 - 新宿線乗入系統の10両編成化が実施された。東京都交通局は新宿線を6両編成対応で開業させた直後に8両・10両対応への延伸を行うこととなったが、東京都も開発に関連している多摩ニュータウンの輸送力確保が目的であることから協力的だったと言われている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "京王線新宿駅の10両編成対応が完了した1982年11月から京王本線 - 京王線新宿駅系統も10両編成化されたが、乗入系統とは2両編成の連結位置が異なっていた。30番台の2両編成は当初日中の運用がなく、全車若葉台で待機していた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "8000系の登場により特急が10両編成化され、6000系は特急運用の任を下りたが、1992年から相模原線で8両編成の特急が運転されるようになったためこれに6000系が充当された。同時にシーズンダイヤの午後に高幡不動で高尾山口行き5両と多摩動物公園行き5両に分割・併合する急行が運転されるようになり、これに6000系が充当された。多摩動物公園発の編成は高幡不動到着後いったん京王八王子側に引き上げられ、高尾山口発の編成と連結された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "相模原線特急は8000系8両編成に順次置き換えられ、2001年に分割急行は廃止されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両+5両+3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "競馬場線が1999年に、動物園線が2000年にワンマン化されて以降はワンマン対応の6000系専用編成が使用された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "廃車進行により徐々に運用の範囲を狭めていったが、都営新宿線のATCは耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車が乗り入れられなかったことから、ATC更新まで6000系が乗入用に専用された。2007年(平成19年)9月に新宿線乗入運用がすべて10両編成となって以降30番台は8両+2両の実質的な固定編成として運用された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "新宿線のATC更新後は急速に廃車が進行し、2009年(平成21年)6月に乗入運用から離脱、2010年(平成22年)8月に8両編成が全廃された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "5扉車改造の4扉車は当初他の5両編成と共通に運用されたが、他の5両編成が廃車されたのちは2本組み合わせた10両編成で使用された。5扉車6両編成は相模原線内折り返しの各駅停車に運用され、5扉車4両編成はワンマン化改造・ラッピングがほどこされたうえ、動物園線で運用された。競馬場線と動物園線のワンマン運転対応車が最後に残り、競馬場線用は2011年(平成23年)1月、動物園線用は2011年(平成23年)3月で運用を終え、全車廃車された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107はデワ601に改造されたが、1両単独で運転できるよう、新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けるとともに自走に必要なすべての機器が搭載された。京王八王子寄りには構内運転用の簡易運転台が設けられた。空気圧縮機と主制御装置を床下に、ブレーキ制御装置、空気タンク、電動発電機が車内に搭載された。高圧機器が車内に搭載されたため、換気のため窓の一部が鎧戸とされた。デハ6407はデワ621となり、新宿寄りに簡易運転台が設けられた。ATS車上子を床下に搭載するため、一部の空気タンクが車内に搭載され、ATS装置本体も車内に搭載された。デハ6457を改造したデワ631には電動空気圧縮機を搭載するため、ブレーキ制御装置、一部の空気タンクが車内に移設された。デワ601の両側とデワ621の京王八王子寄連結器は棒連結器から密着連結器に交換されるとともにデワ601とデワ621の間に挟まれる貨車に電源を供給できるよう電気連結器が設けられた。車体塗装はグレーに変更され、夜間作業の視認性を高めるため正側面に赤白斜めのラインが入れられ、正面の白ラインは反射テープとなった。", "title": "デワ600形" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "チキ290形又はクヤ900形をデワ601とデワ621の間に挟んで使用されるほか、相模原線がATC化されたのちはATC非設置の6000系が若葉台検車区・若葉台工場に入出庫する際のけん引車としても使用された。", "title": "デワ600形" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "デヤ901・902形に置き換えられ、2016年4月に廃車された。", "title": "デワ600形" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "デハ6438が廃車後若葉台検車区で保管された後、2013年4月に多摩動物公園駅付近に移動、2013年10月から京王れーるランドで静態保存されているほか、クハ6722とクハ6772の運転台部分が同所に展示されている。", "title": "保存車" } ]
京王6000系電車(けいおう6000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。1972年から1991年に304両が製造され、2011年まで運用された。 また、同社最後の「アイボリー」塗装の車両であった。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、6731編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。
{{鉄道車両 | 車両名 = 京王6000系電車 | 背景色 = #dd006d | 文字色 = #FFFFFF | 画像 = Keio6416.jpg | 画像説明 = 登場時復刻塗装(アイボリー塗装)の6000系<br>(2009年11月 [[東府中駅]]) | 運用者 = [[京王電鉄]] | 製造所 = [[日本車輌製造]]<br />[[東急車輛製造]]<br />[[日立製作所]]<ref name="RP578p212"/> | 製造年 = 1972年 - 1991年 | 製造数 = 304両<ref name="RP578p187"/> | 運用開始 = [[1972年]][[5月23日]]<ref name="HB2021-P110" /><ref name="100周年年表" /> | 運用終了 = [[2011年]][[3月13日]]<ref name="HB2021-P118" /> | 廃車 = 1998年1月-2011年3月 | 投入先 = [[京王線]]([[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]直通) | 編成 = 2・3・4・5・6・8両<ref name="RP734p8"/> | 軌間 = 1,372 mm<ref name="RF137p88"/> | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br/>([[架空電車線方式]])<ref name="RF137p88"/> | 最高運転速度 = 110 km/h<ref name="RP734p26"/> | 設計最高速度 = 120 km/h<ref name="RP578p234"/><ref name="RF452p70"/> | 起動加速度 = 2.5 km/h/s<br/>3.3 km/h/s(都営新宿線内)<ref name="RP578p235"/> | 常用減速度 = 4.0 km/h/s<ref name="RP734p260"/> | 非常減速度 = 4.5 km/h/s<ref name="RP734p260"/> | 車両定員 = 150(先頭車)/170(中間車){{refnest|group="注"|1972年入籍車は先頭車156人、中間車167人と登場時の資料に記載がある<ref name="RF137p88"/><ref name="RP278p70"/><ref name="RP278p71"/>。1972年入籍車で[[定員]]が変わった理由が記載された文献は本稿の参考文献にはないが、1983年の諸元表では1972年入籍車もそれ以降の車両と同じ定員となっており<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/>、定員が増減するような改造が行われた形跡もないことから、立席定員の算出方法が変更されたものと推定される。}} | 自重 = | 全長 = 20,000 mm<ref name="RF137p88"/> | 全幅 = 2,800 mm<ref name="RF137p88"/> | 全高 = 4,045 mm([[集電装置|パンタグラフ]]なし)<br/>4,100 mm(パンタグラフ付)<ref name="RF137p88"/> | 車体長 = 19,500 mm<ref name="RF137p88"/> | 車体幅 = 2,780 mm<ref name="RF137p88"/> | 車体高 = | 車体 = [[炭素鋼|普通鋼]]<ref name="RP578p36"/> | 台車 = | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]]<ref name="RF137p89"/><br/>[[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]] <ref name="RP422p148"/> | 主電動機出力 = 150 [[ワット|kW]]<ref name="RF137p89"/>×4<ref name="RP578p36"/> | 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD平行カルダン駆動]]<ref name="RF137p88"/><br/>[[WN駆動方式|WN平行カルダン駆動]] <ref name="RP578p235"/> | 歯車比 = 85:14=6.07(抵抗制御車)<ref name="RF137p89"/><br/>85:16=5.31(界磁チョッパ車)<ref name="RP422p169"/><ref name="RP578p35"/> | 制御方式 = [[抵抗制御]]<ref name="RF137p89"/>・[[界磁チョッパ制御]] <ref name="RP422p152"/> | 制御装置 = | 制動装置 = [[発電ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]<ref name="RF137p89"/><br/>[[回生ブレーキ]]併用<br />電気指令式空気ブレーキ<ref name="RP422p85"/><ref name="RP734p212"/> | 保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|京王形ATS]]<ref name="RF137p90"/><br />[[自動列車制御装置|都営新宿線用ATC]]<ref name="RP422p85"/> |[[自動列車制御装置#D-ATC|D-ATC(JR型)]] | 備考 = }} '''京王6000系電車'''(けいおう6000けいでんしゃ)は、[[京王電鉄]][[京王線]]{{refnest|group="注"|新宿 - 京王八王子間の路線を指す場合もあるが、ここでは京王電鉄の1,372 mm軌間の路線の総称<ref name="PHP2012p14"/>として用いる。}}用の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]<ref name="RF137p86"/>である。[[1972年]]から[[1991年]]に304両<ref name="RP578p187"/>が製造され、[[2011年]]まで運用された<ref name="年鑑2011動向"/><ref name="年鑑2011一覧"/>。 また、同社最後の「アイボリー」塗装の車両であった。 本稿では京王線上で東側を「[[新宿駅|新宿]]寄り」、西側を「[[京王八王子駅|京王八王子]]寄り」と表現する。[[編成 (鉄道)|編成]]単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]で代表し、6731編成の様に表現する{{refnest|group="注"|鉄道ファン向けの雑誌記事などでは「編成」をFと略して6731Fなどと表現されること<ref name="RF452p72"/>や、編成中一番番号が小さい車両で代表して6031Fなどと表記されることがある<ref name="村松2012p96"/>が、京王電鉄が寄稿した記事<ref name="RP578p35"/>では新宿寄り先頭車で代表し、6721編成などと表現されているためこちらにあわせた。1980年代までは下二桁の番号が若い順に編成番号が付与され、「6000系第27編成」などと呼ばれていた<ref name="RP422p83"/><ref name="RP422p149"/>。}}。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示している<ref name="ダイヤ情報310p14"/>が、本稿では各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し<ref name="RP278p63"/><ref name="RP578p38"/><ref name="RP734p44"/><ref name="ダイヤ情報310p90"/>、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 == 概要 == [[都営地下鉄新宿線]]への乗り入れを前提に設計され、京王で初めて20 [[メートル|m]]級並びに両開[[扉]]4ドアの車体を採用した<ref name="RF137p86" />。製造当時の法令に従い、6000系は [[地下鉄等旅客車#A-A基準|A-A基準]] {{refnest|group="注"|1969年5月15日付通達の火災対策基準に定められたが、1987年に普通鉄道構造規則に置き換えられ、さらにこの規則も2001年に[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]]に置き換えられた。1987年以降の規則・省令ではこの基準名称は使用されていない。}}を満足するよう設計されている<ref name="飯島1986p21" />。京王で初めて[[電気指令式ブレーキ]]を採用し、[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]がブレーキハンドルと一体化された[[ワンハンドルマスコン]]が採用された<ref name="RF137p88" />。 後述のように、最大幅2,844mmの初代5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入で規定された最大幅2,800mmで実現するための[[設計]]上の工夫が施された<ref name="RF137p86"/>。 [[制御車|先頭車]]は全車[[東急車輛製造]](以下、東急)製、中間車は25両が東急製、7両が[[日立製作所]](以下、日立)製であるほかは[[日本車輌製造]](以下、日車)製である<ref name="RP578p212" />。 京王線全線・都営地下鉄新宿線で運用されたのち、[[1998年]]から2011年にかけて廃車が発生し、[[2004年]]に[[事業用車]]に改造された3両と[[静態保存]]された[[#保存車|1両]]を除いて[[廃車 (鉄道)|廃車]]・[[解体]]された<ref name="RF452p81" /><ref name="年鑑2011動向" /><ref name="RP893p191" />。事業用車に改造された3両も、[[京王デヤ901・902形電車|デヤ901形・902形]]に代替され[[2016年]]4月に廃車されている<ref name="RF676App" />。 === 登場の経緯 === [[多摩地域|三多摩地区]]開発による沿線[[人口]]の増加、[[京王相模原線|相模原線]]延伸による[[多摩ニュータウン]]乗り入れ、都営地下鉄10号線(現[[都営地下鉄新宿線]]、以下新宿線と表記する)[[直通運転|乗入]]構想により、京王線の[[旅客|利用客]]増加が見込まれ、相当数の[[車両]]を準備する必要に迫られるなか、製造[[費用]]、[[メンテナンス|保守]]費用を抑えた新型車両として本形式が構想された<ref name="RF137p86" />。 新宿線建設に際してはすでに[[都営地下鉄浅草線|1号線(後の浅草線)]]を[[標準軌|1,435]][[ミリメートル|mm]][[軌間]]で[[起業|開業]]させていた[[東京都交通局|東京都]]は[[京成電鉄]]と1号線との乗り入れにあたり京成電鉄の路線を[[4フィート6インチ軌間|1,372]]mmから1,435 mmに[[改軌]]させた事例や、1,372 mm軌間の特殊性から[[運輸省]](当時、[[2001年]]から[[国土交通省]])と共に京王にも改軌を求めたが、改軌[[建設業|工事]]中の[[輸送力]]確保が困難なことを理由に改軌しないことで決着している<ref name="RP422p20" /><ref name="RP578p106" /><ref name="RP578p115" />。 == 京王の車両史での位置づけ == 6000系は5000系の全長18 m<ref name="RP422p157"/>に対し、京王線の[[建築限界]]を修正した<ref name="RP422p159"/>上で、京王線用として初めて全長20 mの車体を採用した<ref name="RF137p86"/>。6000系以降の京王線の新型車両は20 m車体となった<ref name="ダイヤ情報310p14"/>が、7000系以降はステンレス車体となった<ref name="RF277p52"/>ため、6000系は京王線用として20 m級車体を採用した唯一の[[炭素鋼|普通鋼]]製車両である<ref name="ダイヤ情報310p14"/>。6000系で床面(台枠上面)の幅が5000系の最大2,700 mmから2,780 mmに拡げられたため、ホームの改修が行われ、5000系以前の車両は出入口の踏段を拡幅する工事が施工された<ref name="RF269p56"/>。 最初の6編成の制御方式は5000系とほぼ同一の部品を採用した抵抗制御だった<ref name="RF137p90"/>が、これ以外はすべて界磁チョッパ制御となり<ref name="RP422p159"/>、7000系にもほぼ同じ方式が継承された<ref name="RF277p54"/>。電気指令ブレーキとT形のワンハンドルマスコンは改良を加えながら6000系以降の京王線用車両に採用されている<ref name="ダイヤ情報310p27"/>。 5000系では多種多様の[[鉄道車両の台車|台車]]が使用されたが、6000系ではほぼ同一形態の2種類の台車に統一され、基本構造は7000系、最終製造車を除く8000系まで継承された<ref name="ダイヤ情報310p21"/><ref name="ダイヤ情報310p28"/>。 6000系は製造時から全車が冷房装置装備となり、初期の先頭車は[[集約分散式冷房装置]]を採用したが、途中から全車[[集中式冷房装置]]に統一され<ref name="RP578p215"/><ref name="RP578p216"/>、以降新5000系に至るまで京王線では集約分散式の採用はない<ref name="RP734p218"/><ref name="RP734p260"/>。 6000系304両の製造期間である1972年4月から1991年3月の19年間に7000系132両と併せて436両が製造され<ref name="RP734p246"/><ref name="RP734p247"/><ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/><ref name="RP734p250"/><ref name="RP734p251"/>、井の頭線からの転用車20両<ref name="RP578p245"/>、[[京王2600系電車|2600系]]15両<ref name="RP578p246"/>、[[京王2000系電車|2000系・2010系]]・[[京王2700系電車|2700系]]合計103両<ref name="RP578p245"/><ref name="RP578p246"/><ref name="RP578p247"/>、5000系17両<ref name="RP578p247"/><ref name="RP578p248"/>{{refnest|group="注"|廃車された5000系17両のうち、1979年11月16日に廃車されたクハ5871は1979年10月3日に発生した[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京王帝都電鉄京王線列車障害事故|踏切事故]]による廃車である<ref name="RF269p51"/>。}}、5100系24両<ref name="RP578p247"/><ref name="RP578p248"/>の179両が廃車された。京王線の車両数は257両増加したことになり、この間にいわゆる[[グリーン車 (京王)|グリーン車]]<ref name="RP578p245"/>と、[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け式駆動]]車が全廃された<ref name="RP578p247"/>。 6000系304両の廃車は1998年1月<ref name="RP734p246"/>から2011年3月にかけての13年間行われ<ref name="年鑑2011一覧"/>、この間に8000系40両、9000系264両の合計304両が製造された<ref name="ダイヤ情報310p13"/>。6000系を代替したのはすべて[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]、ステンレス車体の車両であり<ref name="ダイヤ情報310p14"/>、6000系の全廃により京王線の営業車から普通鋼製の電車が消滅した<ref name="ダイヤ情報310p14"/>。6000系の廃車と並行して6000系とほぼ同じ制御装置を採用していた7000系のVVVF化改造工事が進められたが<ref name="ダイヤ情報310p13"/>、京王線から界磁チョッパ制御車が消滅したのは6000系全廃後の[[2012年]]となった<ref name="年鑑2013動向"/>。 == 構造 == === 外観 === {{Double image aside|right|Keio6000 6030.jpg|220|KEIO6000K.T.R.Plate.jpg|220|正面左右の窓の大きさが異なっている|KTRのプレート<br/>復刻塗装車のもの}} 新宿線乗り入れに対応するため、京王として初の20 m車体、1,300 mm幅両開き片側4扉の[[炭素鋼|普通鋼]]製車体を採用した<ref name="RF137p86"/><ref name="RF137p89"/>。最大幅2,844 mmの[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]と同じ室内幅2,600 mmを新宿線乗入協定で定められた最大幅2,800 mmで実現するため、側窓を1枚下降式として壁厚さを薄くする手法が取られ<ref name="RF137p86"/>、6両編成で5000系7両編成に匹敵する収容力をもつものとされた<ref name="RF137p86" />。車体外幅は同寸法で車体をステンレス化する場合にコルゲートを追加できるよう2,780 mmとなり<ref name="RF137p86"/>、5000系に続いて[[アイボリー]]色の車体の窓下に[[えんじ色]]の帯が巻かれた<ref name="RF137p88"/>。登場前には窓上にも赤帯を巻くことも検討されたが、実現しなかった<ref name="RF137p87"/>。従来の車両に取り付けられていた社紋の代わりに京王帝都電鉄を表すKTRのプレートが取り付けられた<ref name="世界p101"/>。 [[床]]面の車体幅が5000系の2,700 mmから2,780 mmに拡幅されたことと併せ、20 m車の導入に際して[[線形 (路線)|曲線]]上の[[プラットホーム|ホーム]]との干渉が発生するためホームの修正などの準備が行われた<ref name="RF269p56" /><ref name="RP578p104" /><ref name="村松2012p96" />が、車両設計認可には時間を要した<ref name="RP578p104" />。 平面を中心とした凹凸や曲面の少ない外観となり、客室屋根高さを高く取るため屋根も平面に近くなった<ref name="RF137p87"/>。側窓はサッシ付き一枚下降式で、床面から1,300 mmまで窓が下がる<ref name="RF137p87"/>。[[戸袋]]窓が設けられ、戸袋窓にもサッシが付いた<ref name="ダイヤ情報154p18"/>。サッシの角が角ばっているのは少しでも視界を広く取りたいためとされている<ref name="RF137p87"/>。客用ドアは[[身長|体格]]向上に併せ、5000系の高さ1,800 mmから1,850 mmに変更された<ref name="RF137p86"/>。 [[File:Keio 6000 indicator lamps.JPG|thumb|100px|一体になった車側灯<br/>上から戸閉、非常通報、不緩解]] 戸閉表示、非常通報、ブレーキ不緩解の3つの[[車側表示灯|表示灯]]は車体中央部窓上にまとめて設置され、表示灯群の両側に[[列車種別|種別]]と行先の[[方向幕|表示装置]]が設けられた<ref name="RF137p87"/>。 先頭部には地下線走行時の非常[[脱出]]や、複数編成間を[[幌#貫通幌|貫通幌]]でつなぐ目的で中央部に幅600 mmの貫通扉が設けられ<ref name="RF137p89"/>。貫通扉を中心に緩やかに後退角がついた折妻構成とされた<ref name="RJ472p107"/>。最初の3編成は貫通幌の座がなかったが、後に追加されている<ref name="RF452p72"/>。4編成目以降は幌の座を備えて新造された<ref name="RF452p72"/>。登場直後は5000系同様正面貫通路両側でえんじ帯が徐々に細くなっていた<ref name="RF452p72"/>が、すぐに一定幅に変更された<ref name="RP422p158"/>。貫通路上に行先、正面右側窓上に種別表示を備え、正面左窓上は運行番号表示用とされたため、前照灯は正面窓下に設置された<ref name="RF137p87"/>。窓上表示装置の両脇に[[尾灯]]と[[通過標識灯|列車種別識別用の表示灯]]兼用の角型の灯具が設けられ、夜間に表示灯が際立つよう表示幕類は黒地とされ、各表示装置の周りが黒く塗られた<ref name="RF137p87"/>。登場当初は装置ごとに黒色部が3分割されていた<ref name="RF452p72"/>が、すぐに一体に塗装された<ref name="RP422p158"/>。車掌室窓部にリレー類を納める箱を設置したため、正面向かって左側の窓の天地寸法が運転席側より小さくなり、バランスをとるため窓下に車号板が取り付けられた<ref name="RF137p87"/>。 [[1992年]]ごろに先頭車正面床下に[[排障器|スカート]]が取り付けられ<ref name="RF452p78"/>、2002年に帯色が京王レッドと[[インディゴ (色)|京王ブルー]]に変更されている<ref name="RP734p42"/>が、それ以外に外観の印象を変えるような大きな[[改造]]は行われなかった<ref name="RF452p77"/>。 === 内装 === {{Double image aside|right|Keio6000 inside.jpg|200|Seat of Keio 6000.jpg|110|車内|座席(7人掛け)}} [[座席]]は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]で、[[茶色|褐色]]の[[モケット]]が貼られた<ref name="RF137p87"/>。[[壁]]色は5000系に続いて[[アイボリー]]系となった<ref name="RF137p87"/>。天井の冷風[[ダクト]]の[[枕木]]方向の幅を広げることで天地を薄くでき<ref name="RF137p87"/>、[[天井]]高さは床面上2,210 mmとなった<ref name="RF137p86"/>。車内[[照度]]確保のため、[[照明|室内灯]]は[[旅客|乗客]]により近くなるよう冷風ダクトに取り付けられた他<ref name="RF137p87"/>、天井には先頭車9台、中間車10台の[[送風機|ラインデリア]]が埋め込まれた<ref name="RP578p217"/>。座席端の[[肘掛け|アームレスト]]は着座客のアームレストとしても、立客が寄りかかる場所としても両者が不快になることなく利用できるよう工夫されている<ref name="RF137p87"/>。冷暖房効果向上などを目的として全中間連結部に引戸が設けられている<ref name="RF137p87"/>。 === 乗務員室 === {{Double image aside|right|Keio6000_Tc6717_Controler.jpg|220|Keio 6772 meters.JPG|220|運転台(クハ6717)|乗務員扉上に設置された計器類}} 京王の車両で初めてワンハンドル式[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]を採用した<ref name="RF137p88"/>。押して制動か、引いて制動か、の議論が設計時にあり、先に登場していた[[東急8000系電車|東急8000系]]に倣って押して[[ブレーキ|制動]]する方式が採用された<ref group="注">日本の鉄道車両では押して制動、引いて加速が一般的だが、[[ロンドン地下鉄]]の車両など日本国外の車両はこれが逆である例も少なくない。</ref><ref name="RF137p88"/><ref name="RP278p67"/>。[[運転士]]前面に配置する[[計器]]類は[[速度計]]と[[圧力測定|圧力計]]、一部の[[開閉器|スイッチ]]類などの最低限とされ、[[電流計]]・[[電圧計]]などは添乗する係員から見やすいよう乗務員室側開戸の上に設けられた<ref name="RF137p88"/><ref name="RF137p89"/>。ATC設置に備えて、速度計外側には車内信号が表示できるスペースが設けられた<ref name="RP893p186"/>。乗務員室中央部を貫通路として使用する場合、運転室・車掌室が仕切れるような構造となっていた<ref name="RF137p88"/><ref name="RF137p89"/>。[[ワイパー]]は[[乗用車]]用を流用した電動式となった<ref name="RP422p158"/>。 === 主要機器 === ==== 走行関係装置 ==== 1972年製の6編成は抵抗制御を採用<ref name="RP578p213"/>、5000系最終製造車とほぼ同様<ref name="RF137p90"/>の日立製[[制御装置|主制御装置]]MMC-HTB-20J<ref name="RP422p169"/>([[直列回路と並列回路|直列]]11段、並列7段、弱め界磁6段)<ref name="RP578p213"/>、主電動機として[[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]]・日立製HS-834Crb、[[東洋電機製造]](以下、東洋)製TDK-8520A<ref name="RP422p169"/>(出力150 k[[ワット|W]]、端子電圧375 [[ボルト (単位)|V]]、定格電流450 [[アンペア|A]]、回転数1,450 [[rpm (単位)|rpm]])<ref name="RF137p89"/>が搭載された。5両編成・6両編成でデハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされ、[[発電ブレーキ]]が使用できなかった<ref name="RP578p213"/>。 1973年以降は主回路を[[界磁チョッパ制御]]に変更するとともに[[回生ブレーキ]]も採用<ref name="RP422p159"/>し、主制御装置は日立製MMC-HTR-20B(直列14段、並列11段)<ref name="RP578p214"/>、主電動機は[[複巻整流子電動機|直流複巻電動機]]・日立製HS-835GrbまたはHS-835Jrb、東洋製TDK-8525AまたはTDK-8526A<ref name="RP578p214"/>(150 kW、端子電圧375 V、定格電流445 A、分巻界磁電流28.3 A、回転数1,500 rpm)<ref name="RP578p36"/><ref name="RP578p37"/>となった。抵抗制御車同様、デハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされたが、回生ブレーキは使用できた<ref name="RP578p214"/>。当初からユニットを組まない電動車として計画されたデハ6400形にはスペースの制約から他形式と異なる機器が採用され<ref name="RF243p93"/>、主制御装置も日立製MMC-HTR-10C(永久直列14段)となった<ref name="RP578p214"/>。5000系では日立製主電動機の数が多かったが、6000系では東洋製が主力となった<ref name="RP422p158"/>。 駆動装置は[[TD平行カルダン駆動方式|TD平行カルダン駆動]]が採用され、抵抗制御車の[[歯車比]]は85:14<ref name="RF137p89"/>、界磁チョッパ制御車の歯車比は85:16である<ref name="RP422p170"/>。後年7000系と共通の[[WN駆動方式|WN駆動装置]]に交換されたものがある<ref name="RP578p235"/>。 制動装置は[[ナブテスコ|日本エヤーブレーキ]]製全電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD-1) が採用された<ref name="RF137p89"/><ref group="注">本稿の参考文献に列挙した各記事では6000系用ブレーキ指令装置の製造者名が確認できないが、HRDは[[#ナブコ72|ナブコ技報]]から日本エヤーブレーキ(ナブコを経て2003年からナブテスコ)製であることが分かる。</ref>。 [[File:Keio 6000 TS-809.jpg|thumb|220px|TS-809台車]] 5000系では数多くの種類の台車が採用されたが、6000系以降の各形式では統一された形態のものとなった<ref name="ダイヤ情報310p28"/>。[[鉄道車両の台車|台車]]は車体直結式[[空気ばね]]、[[鉄道車両の台車#軸箱守式(ペデスタル式)|ペデスタル方式軸箱支持]] <ref name="RP578p215"/>の東急製<ref name="RP578p215"/>TS-809動力台車<ref name="RP278p70"/>、TS-810付随台車が採用された<ref name="RP278p71"/>。界磁チョッパ制御車の台車は回生ブレーキ使用に対応してTS-809Aに形式変更されている<ref name="RP578p235"/>。TS-809の軸距は2,200 mm、TS-810は2,100 mmで<ref name="RF137p88"/>、全台車両抱式の踏面ブレーキを装備する<ref name="RP578p235"/>。サハ6550形は電装を考慮していたため全車電動車用TS-809系を装備し<ref name="RP578p212"/>、クハ6801 - クハ6806はサハ6551 - サハ6556から転用されたTS-809改台車を装備していた<ref name="RP578p215"/>。デハ6456は落成当初、軸箱支持方式を[[鉄道車両の台車#軸箱守のないもの|シェブロン式]]とした試作台車TS-901を装着していたが、1年程度でTS-809Aに交換されている<ref name="RP578p215"/>。 ==== 補機類 ==== 集電装置として、東洋製<ref group="注">本稿の参考文献に列挙した各記事ではパンタグラフの製造者名が確認できないが、[[#東洋技報121|東洋電機技報]]には京王にパンタグラフを納入したとの記載がある。</ref>PT-4201<ref name="RF137p89"/>形パンタグラフがデハ6000形・デハ6400形・デハ6450形の全車に、2両編成ではクハ6750形のそれぞれ京王八王子寄りに搭載されたほか、一部のデハ6050形にも搭載された<ref name="RP578p38"/>。 6000系では4種類の容量の5種類の補助[[電源回路|電源装置]]が使用された<ref name="RP578p214"/>。1972年製のサハ6550形と1973年製のデハ6050形・サハ6550形には容量130 k[[ボルトアンペア|VA]]のHG544Er[[電動発電機]] (MG)、1972年製のデハ6050形には容量75 kVAのHG584Er電動発電機、それ以外の4扉車には容量130 kVAのTDK3344ブラシレス電動発電機 (BL-MG) が搭載された<ref name="RP578p214"/>。HG854Erは1972年製造車の5+3両編成化時にデハ6450形に移設され<ref name="RF452p78"/>、同時にクハ6751 - クハ6756に[[井の頭線]]用[[京王3000系電車|3000系]]から転用されたTDK362/1-B電動発電機(容量7 kVA)が搭載された<ref name="RF452p78"/>。のちにHG544Erの大半がTDK3344に載せ替えられている<ref name="RP578p214"/>。5扉車にはSVA-130-477[[静止形インバータ|SIV]](容量110 kVA)が採用された<ref name="年鑑1991p157"/><ref name="RP578p214"/>。1983年ごろにデハ6261に試験的にSIVが搭載された<ref name="RP422p85"/>。 電動空気圧縮機は、2両編成を除いて、毎分吐出容量2,130[[リットル]]のHB-2000<ref name="RF137p89"/><ref name="RP578p215"/>および[[1987年]]以降の製造車では性能は同一で小型[[静粛性能|低騒音]]のHS-20D<ref name="RP578p215"/>が、3・5両編成用のクハ6700形とデハ6050形、サハ6550形全車に各1台が搭載された<ref name="RP578p38"/>。2両編成では床下スペースの制約から、井の頭線から転用された<ref name="RP578p215"/>毎分吐出容量1,120リットルのC-1000を採用し、デハ6400形に搭載された<ref name="RF243p94"/>。 ==== 冷房装置 ==== 1972年製造の制御車には[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]能力9.3 kW (8,000 kcal/h) の[[東芝]]製[[エア・コンディショナー|冷房装置]]が4台搭載された<ref name="RP578p216"/>。1973年から1976年製造の制御車は同じ冷房装置5台を搭載することが可能な構造となったが4台のみが搭載され、中央の1台分には[[筐体|カバー]]だけが載せられた<ref name="RP578p216"/>。1973年から1976年製造の制御車には[[1986年]]、5台目の冷房装置が搭載されている<ref name="RP578p216"/>。1972年製の中間車と、これを8両編成化するために製造されたデハ6450形には日立製[[集中式冷房装置|集中式]]34.9 kW (30,000 kcal/h) の冷房装置1台が搭載された<ref name="RF137p89"/><ref name="RP578p216"/>{{refnest|group="注"|6000系が登場した1972年当時、[[国鉄103系電車|国鉄103系]]や[[国鉄113系電車|国鉄113系]]の[[プロトタイプ|試作]]冷房車、京王5000系の一部、[[京急1000形電車 (初代)|京急1000形]]、[[相鉄6000系電車|相鉄新6000系]]などでパンタグラフのない車両に集中式冷房装置を搭載した事例はすでにあった<ref name="RF137p39"/>が、[[#鉄道ファン137グラフ|6000系登場時の紹介記事]]にはパンタグラフのないサハ6550形にも集中式冷房装置が採用されたことが「苦笑させられる」<ref name="RF137p92"/>と表現されており、通勤冷房車黎明期、集中式冷房装置をパンタグラフが搭載されない車両に採用することは一般的ではなかったことが伺える。}}が、1991年に集中式46.5 kW (40,000 kcal/h) のものに載せ替えられている<ref name="RP578p216"/>。それ以外の4扉車は全車集中式46.5 kWの冷房装置を搭載し<ref name="RP578p216"/>、5扉車のみ48.8 kW (42,000 kcal/h) とされた<ref name="年鑑1991p238"/>。冷房装置の[[寿命]]は15年程度であるため<ref name="RF452p78"/>、何回か載せ替えが行われ、型式が異なるものに変えられたもの、3000系や5000系と交換したものなどがある<ref name="RP578p216"/>。能力46.5 kWのものを搭載していた車両の大半が48.8 kWのものに交換されている<ref name="RP578p216"/><ref name="RF452p78"/>。 == 形式構成 == 6000系は以下の形式で構成される<ref name="RP578p212"/>。各形式とも一部の例外を除いて固定編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている<ref name="RP578p38"/>。ここでは1991年の製造終了時までを述べる。「'''デ'''」は制御電動車及び[[電動車]]を、「'''ク'''」は[[制御車]]を、「'''サ'''」は[[付随車]]を、「'''ハ'''」は[[普通車 (鉄道車両)|普通座席車]]を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。各車の製造年時は項末の表を参照のこと。 === デハ6000形 === [[File:Keio 6139 Wakabadai.jpg|thumb|220px|デハ6000形]] 主制御装置、[[集電装置|パンタグラフ]]を搭載する中間電動車である<ref name="RP578p212"/>。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている<ref name="RP734p213"/>。3両編成の2両目<ref name="RP734p44"/>、5両編成と6両編成の2両目と4両目<ref name="RF137p88"/><ref name="RP734p44"/>、初期の8両編成の3・5・6両目<ref name="RP422p159"/>、それ以外の8両編成の2・4・6両目に組み込まれた<ref name="RP734p44"/><ref name="RP734p45"/>。初期の8両編成を除き編成位置により新宿寄りから順に百の位が0・1・2に附番され<ref name="RP734p214"/>、3両編成用は百の位が4<ref name="RP578p38"/>となったが、下記の制御電動車デハ6400形とは別形式である<ref name="RP578p212"/>。デハ6050形とユニットを組んで使用されることが基本だが、5両編成の4両目と乗入用を除く8両編成の4両目<ref name="RP578p38"/>、初期の6両編成の4両目<ref name="RF137p88"/>と初期の8両編成の5両目に組み込まれた6100番台の車両<ref name="RP422p159"/>はデハ6000形単独で使用された<ref name="RP578p212"/>。デハ6001 - デハ6006・デハ6101 - デハ6106の12両が抵抗制御<ref name="RP578p233"/>で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である<ref name="RP578p234"/>。1972年から1991年にかけて95両が製造された<ref name="RP734p246"/><ref name="RP734p247"/><ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/>。[[1976年]]に6両編成の8両編成化に伴ってサハ6550形サハ6551 - サハ6556が電装されてデハ6401 - デハ6406となった<ref name="RP734p247"/>。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて[[改番]]されている<ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/>。 === デハ6050形 === [[File:Keio 6289 Wakabadai.jpg|thumb|220px|デハ6050形]] デハ6000形とユニットを組む<ref name="RP578p212"/> [[圧縮機|電動空気圧縮機]]、京王八王子寄り屋根上にパンタグラフを搭載する中間電動車である<ref name="RP578p212"/><ref name="RP578p213"/>。6100番台には初期と最末期の一部を除きパンタグラフは設置されなかった<ref name="RP578p216"/>。百の位はユニットを組むデハ6000形と同一<ref name="RP578p38"/>で、初期の6両編成と5両編成の3両目<ref name="RF137p88"/><ref name="RP734p44"/>、初期の8両編成の4・7両目<ref name="RP422p159"/>、それ以外の京王線用8両編成の3・7両目、乗入対応8両編成の3・5・7両目に組み込まれた<ref name="RP578p38"/>。デハ6051 - デハ6056の6両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である<ref name="RP578p233"/>。8両編成の7両目に組み込まれた車両以外には[[電動発電機]]が搭載された<ref name="RP578p213"/>。1972年から1991年にかけて67両が製造された<ref name="RP734p246"/><ref name="RP734p247"/><ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/>。乗入対応のため1979年にサハ6557 - サハ6559・サハ6564 - サハ6569が[[電装]]されてデハ6181 - デハ6189に改番されている<ref name="RP578p249"/>。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている<ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/>。 === デハ6400形 === [[File:Keio 6433 Wakabadai.jpg|thumb|220px|デハ6400形]] 2両編成で新宿寄りに連結される制御電動車<ref name="RF243Mc"/>で、主制御装置、電動空気圧縮機、京王八王子寄りにパンタグラフを搭載する<ref name="RF243Mc"/>。1981年から[[1989年]]にかけて18両が製造された<ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/>。デハ6401 - デハ6406はデハ6000形に属する中間電動車であり、デハ6400形ではない<ref name="RP578p212"/>。 === デハ6450形 === 3両編成で京王八王子寄りに連結される制御電動車<ref name="RP578p38"/>で、補助電源装置、パンタグラフを搭載する<ref name="RP578p212"/><ref name="RP578p213"/>。パンタグラフは他車種同様京王八王子寄りに搭載されたため、[[操縦席|運転台]]側にパンタグラフがある<ref name="RP578p212"/>。1976年、[[1977年]]に7両が製造された<ref name="RP422p170"/>。 === サハ6550形 === 電動空気圧縮機付きの付随車<ref name="RP734p212"/>で、初期の6両編成の5両目と初期の8両編成の2両目、京王線用8両編成の5両目に組み込まれる<ref name="RF137p88"/><ref name="RP734p44"/>。1972年から[[1983年]]にかけて22両が製造された<ref name="RP578p249"/>。1976年に8両編成化のため6両がデハ6000形に、1977年 - [[1978年]]に乗入対応のため6両がデハ6050形に改造されている<ref name="RP578p234"/><ref name="RP578p249"/>。電動車化が想定されていたため、屋根上にパンタグラフ取付用の台、客室床に[[主電動機]]点検[[蓋]]があり、電動車用TS-809系台車を装備している<ref name="RP578p212"/>。 === クハ6700形 === 新宿寄り制御車である<ref name="RF137p86"/>。3・5両編成用には電動空気圧縮機が搭載された<ref name="RP578p213"/>。3両編成用は百の位が8<ref name="RP422p149"/>。1972年から1991年にかけて42両が製造された<ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/>。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている<ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/>。 === クハ6750形 === 京王八王子寄り制御車である<ref name="RF137p86"/>。2両編成用は百の位が8<ref name="RP422p149"/>。1972年から1991年にかけて53両が製造された<ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/>。2両編成用は京王八王子寄りにパンタグラフ1基を搭載している<ref name="RF243p94"/>。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている<ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+6000系形式別製造年次<ref name="RP734p246"/><ref name="RP734p247"/><ref name="RP734p248"/><ref name="RP734p249"/> !形式 | style="width:20em;" colspan="4" |'''デハ6000'''|| style="width:15em;" colspan="3" | '''デハ6050''' || style="width:5em;border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2"|'''デハ6400''' || style="width:5em;border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2"| '''デハ6450''' || style="width:5em;border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2"| '''サハ6550''' || style="width:10em;" colspan="2" | '''クハ6700''' || style="width:10em;" colspan="2" | '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6000''' || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6100''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6200''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6400''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6050''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6150''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6250''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6700''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6800''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6750''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''6850''' |- |'''1972年'''|| '''6001'''<br/>'''∥'''<br/>'''6006''' || '''6101'''<br/>'''∥'''<br/>'''6106''' ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6051'''<br/>'''∥'''<br/>'''6056'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6551'''<br/>'''∥'''<br/>'''6556''' || '''6701'''<br/>'''∥'''<br/>'''6706'''|| &nbsp;||'''6751'''<br/>'''∥'''<br/>'''6756'''||&nbsp; |- |'''1973年'''|| '''6007'''<br/>'''6008'''<br/>'''6009''' || '''6107'''<br/>'''6108'''<br/>'''6109''' ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6057'''<br/>'''6058'''<br/>'''6059'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6557'''<br/>'''6558'''<br/>'''6559''' || '''6707'''<br/>'''6708'''<br/>'''6709'''|| &nbsp;||'''6757'''<br/>'''6758'''<br/>'''6759'''||&nbsp; |- |'''1974年'''|| '''6010'''<br/>'''6011'''<br/>'''6012''' || '''6110'''<br/>'''6111'''<br/>'''6112''' ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6060'''<br/>'''6061'''<br/>'''6062'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6560'''<br/>'''6561'''<br/>'''6562''' || '''6710'''<br/>'''6711'''<br/>'''6712'''|| &nbsp;||'''6760'''<br/>'''6761'''<br/>'''6762'''||&nbsp; |- |'''1975年'''||&nbsp;||&nbsp;||'''6207'''<br/>'''∥'''<br/>'''6212'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6257'''<br/>'''∥'''<br/>'''6262'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| &nbsp;|| &nbsp;||&nbsp; |- |'''1976年'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| &nbsp;||&nbsp;|| '''6451'''<br/>'''∥'''<br/>'''6456'''||&nbsp;||&nbsp;|| '''6801'''<br/>'''∥'''<br/>'''6806'''|| &nbsp;||&nbsp; |- |'''1977年'''|| '''6013'''<br/>'''6014'''<br/>'''6015''' || '''6113'''<br/>'''6114'''<br/>'''6115''' || '''6214'''<br/>'''6215''' ||'''6413'''||'''6063'''<br/>'''6064'''<br/>'''6065'''||&nbsp;||'''6264'''<br/>'''6265'''||&nbsp;||'''6463'''|| '''6564'''<br/>'''6565'''||'''6713'''<br/>'''6714'''<br/>'''6715'''|| '''6813'''||'''6763'''<br/>'''6764'''<br/>'''6765'''||&nbsp; |- |'''1978年'''|| '''6016'''<br/>'''6017'''<br/>'''6018''' || '''6116'''<br/>'''6117'''<br/>'''6118''' || '''6216'''<br/>'''6217'''<br/>'''6218'''||&nbsp;||'''6066'''<br/>'''6067'''<br/>'''6068'''||'''6166'''<br/>'''6167'''<br/>'''6168'''||'''6266'''<br/>'''6267'''<br/>'''6268'''||&nbsp;|| &nbsp;||'''6569'''||'''6716'''<br/>'''∥'''<br/>'''6719'''|| &nbsp;||'''6766'''<br/>'''∥'''<br/>'''6769'''||&nbsp; |- |'''1979年'''|| '''6039'''<br/>'''6040'''<br/>'''6041''' || '''6139'''<br/>'''6140'''<br/>'''6141''' || '''6239'''<br/>'''6240'''<br/>'''6241'''||&nbsp;||'''6089'''<br/>'''6090'''<br/>'''6091'''||'''6190'''<br/>'''6191'''||'''6289'''<br/>'''6290'''<br/>'''6291'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6740'''<br/>'''6741'''||&nbsp;||'''6790'''<br/>'''6791'''||&nbsp; |- |'''1980年'''||'''6013''' (II)<br/>'''6014''' (II)<br/>'''6015''' (II)||'''6113''' (II)<br/>'''6114''' (II)<br/>'''6115''' (II)|| '''6213'''<br/>'''6214''' (II)<br/>'''6215''' (II)|| &nbsp;||'''6063''' (II)<br/>'''6064''' (II)<br/>'''6065''' (II)||&nbsp;|| '''6263'''<br/>'''6264''' (II)<br/>'''6265''' (II)||&nbsp;|| &nbsp;|| '''6563'''<br/>'''6564''' (II)<br/>'''6565''' (II)||'''6713''' (II)<br/>'''6714''' (II)<br/>'''6715''' (II)|| &nbsp;||'''6763''' (II)<br/>'''6764''' (II)<br/>'''6765''' (II)||&nbsp; |- |'''1981年'''||'''6016''' (II)<br/>'''6017''' (II)||'''6116''' (II)<br/>'''6117''' (II)|| '''6216''' (II)<br/>'''6217''' (II)|| &nbsp;||'''6066''' (II)<br/>'''6067''' (II)||&nbsp;|| '''6266''' (II)<br/>'''6267''' (II)|| '''6431'''<br/>'''∥'''<br/>'''6435'''|| &nbsp;|| '''6566'''<br/>'''6567'''||'''6716''' (II)<br/>'''6717''' (II)|| &nbsp;||'''6766''' (II)<br/>'''6767''' (II)|| '''6881'''<br/>'''∥'''<br/>'''6885''' |- |'''1982年'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| '''6410'''<br/>'''∥'''<br/>'''6412'''|| &nbsp;|| &nbsp;|| &nbsp;||&nbsp;|| &nbsp;|| '''6860'''<br/>'''∥'''<br/>'''6862''' |- |'''1983年'''||'''6018''' (II)<br/>'''6019''' (II)||'''6118''' (II)<br/>'''6119''' (II)|| '''6218''' (II)<br/>'''6219''' (II)|| &nbsp;||'''6068''' (II)<br/>'''6069''' (II)||&nbsp;|| '''6268''' (II)<br/>'''6269''' (II)|| '''6436'''|| &nbsp;|| '''6568'''<br/>'''6569''' (II)||'''6718''' (II)<br/>'''6719''' (II)|| &nbsp;||'''6768''' (II)<br/>'''6769''' (II)||'''6886''' |- |'''1984年'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| '''6413''' (II)<br/>'''6414'''<br/>'''∥'''<br/>'''6416'''|| &nbsp;|| &nbsp;|| &nbsp;||&nbsp;|| &nbsp;|| '''6863'''<br/>'''∥'''<br/>'''6866''' |- |'''1985年'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; |- |'''1986年'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| '''6417'''<br/>'''∥'''<br/>'''6419'''|| &nbsp;|| &nbsp;|| &nbsp;||&nbsp;|| &nbsp;|| '''6867'''<br/>'''∥'''<br/>'''6869''' |- |'''1987年'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; |- |'''1988年'''||'''6042'''||'''6142'''|| '''6242'''||&nbsp;||'''6092'''||'''6192'''||'''6292'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6742'''||&nbsp;||'''6792'''||&nbsp; |- |'''1989年'''||'''6043'''||'''6143'''|| '''6243'''||&nbsp;||'''6093'''||'''6193'''||'''6293'''||'''6420'''<br/>'''6437'''||&nbsp;||&nbsp;||'''6743'''||&nbsp;||'''6793'''||'''6870'''<br/>'''6787''' |- |'''1990年'''||'''6044'''||'''6144'''|| '''6244'''||&nbsp;||'''6094'''||'''6194'''||'''6294'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6744'''||&nbsp;||'''6794'''||&nbsp; |- |'''1991年'''||'''6021'''<br/>'''∥'''<br/>'''6024'''||'''6121'''<br/>'''∥'''<br/>'''6124'''||&nbsp;||&nbsp;|| '''6071'''<br/>'''∥'''<br/>'''6074'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| '''6721'''<br/>'''∥'''<br/>'''6724'''||&nbsp;|| '''6771'''<br/>'''∥'''<br/>'''6774'''||&nbsp; |} ; 注記 : (II) と付記されている車両は同じ番号を付けた2代目の車両であることを指す。以下同じ。 == 歴史 == 6000系の製造ごとの仕様の変化、改造、改番などを[[時系列]]にまとめる。複数の年にまたがった事例でも、同一の[[仕様]]、改造であればひとつの項にまとめた。 以下、[[京王相模原線]]と[[都営地下鉄新宿線]]の方面表記については、時代に合わせる形で、終着駅を変えている。 === 6両編成 === 6000系として最初に製造されたグループであり、1972年に製造された6編成36両のグループだけが抵抗制御となった<ref name="飯島1986p24"/>。登場時は前面表示装置付近の塗り分けや、貫通路両脇のえんじ帯の処理が後に見られるものと異なっていた<ref name="RF583p82"/><ref name="RF583p83"/>。先頭部貫通幌を取り付けるための台座もなかったが、すぐに取り付けられている<ref name="RF583p82"/>。全車1972年5月に竣工し、先頭車とサハ6550形が東急製、デハ6053 - デハ6056が日立製、それ以外の中間車が日車製である<ref name="RP278p70"/><ref name="RP278p71"/>。登場時はサハ6556にもパンタグラフが設置されていたが、1か月ほどで撤去されている<ref name="RF583p85"/>。 6000系36両の代替として井の頭線から転用されていた[[京王デハ1700形電車|デハ1700形]]デハ1701 - デハ1707・[[京王デハ1710形電車|クハ1710形]]クハ1711・デハ1710形デハ1712 - デハ1715・[[帝都電鉄モハ100形電車|サハ1200形]]サハ1202の13両が廃車された<ref name="RP578p247"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="6"|{{TrainDirection|[[新宿駅|新宿]]|[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]・[[京王よみうりランド駅|京王よみうりランド]]}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP278p70"/><ref name="RP278p71"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''サハ6550''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 | '''6701'''<br/>'''∥'''<br/>'''6706''' || '''6001'''<br/>'''∥'''<br/>'''6006''' || '''6051'''<br/>'''∥'''<br/>'''6056'''|| '''6101'''<br/>'''∥'''<br/>'''6106''' || '''6551'''<br/>'''∥'''<br/>'''6556'''|| '''6751'''<br/>'''∥'''<br/>'''6756'''||1972年5月 |- !搭載機器<ref name="RF137p89"/> |&nbsp;|| CON・PT|| CP<br/>MG 75|| CON・PT|| CP<br/>MG 130|| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF137p88"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 27.7 [[トン|t]]||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|32.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 36.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|27.7 t |- !定員<ref name="RP578p36"/><ref name="RF137p88"/> | 156 || 167 || 167 || 167 || 167 || 156 |} * 凡例 ** Tc …[[制御車]] ** M …中間[[動力車|電動車]] ** Mc …制御電動車 ** T …[[付随車]] ** CON …[[制御装置|主制御装置]] ** MG …補助電源装置(電動発電機) ** BMG …補助電源装置(ブラシレス電動発電機) ** SIV …補助電源装置(静止型インバータ) *** 補助電源装置の右の数字は容量、単位kVA ** CP …電動空気圧縮機 ** PT …[[集電装置]](京王八王子寄り)以下同じ。 1973年に入籍した車両から主制御装置が界磁チョッパ制御となった<ref name="RP422p158"/>。先頭車には5個目の冷房装置を搭載できるよう準備が行われ、カバーだけが設置された<ref name="飯島1986p29"/>。中間車の冷房装置能力が34.9 kWから46.5 kWに増強されている<ref name="飯島1986p29"/>。先頭車とデハ6050形が東急製、デハ6010 - デハ6012が日立製、それ以外が日車製である<ref name="RP578p212"/>。6000系で日立製の車両はデハ6053 - デハ6056、デハ6010 - デハ6012の7両のみである<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/>。最初の3編成が1973年12月、残りの3編成が[[1974年]]3月に竣工している<ref name="RP578p248"/><ref name="RP578p249"/>。このときの製造車から先頭車に新宿線用無線アンテナ設置用の台が設けられ、以降乗入対応・非対応、パンタグラフ有無に関わらずすべての先頭車にこの台が設けられた<ref name="RP578p216"/>。 この36両の入線に先立つ1973年10月に[[帝都電鉄モハ100形電車|クハ1200形]]クハ1203・[[帝都電鉄モハ100形電車|デハ1400形]]デハ1401・デハ1403・[[京王1800系電車|デハ1800形]]デハ1801の4両<ref name="RP578p247"/>が、次いで1974年2月にクハ1200形クハ1204・デハ1400形デハ1402・デハ1800形デハ1802・デハ1803の4両が廃車され、井の頭線からの転用車が一掃された<ref name="RP578p247"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="6"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・[[多摩センター駅|京王多摩センター]]}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p248"/><ref name="RP578p249"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''サハ6550''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6707'''<br/>'''6708'''<br/>'''6709'''<br/>'''6710'''<br/>'''6711'''<br/>'''6712'''||'''6007'''<br/>'''6008'''<br/>'''6009'''<br/>'''6010'''<br/>'''6011'''<br/>'''6012'''||'''6057'''<br/>'''6058'''<br/>'''6059'''<br/>'''6060'''<br/>'''6061'''<br/>'''6062'''||'''6107'''<br/>'''6108'''<br/>'''6109'''<br/>'''6110'''<br/>'''6111'''<br/>'''6112'''||'''6557'''<br/>'''6558'''<br/>'''6559'''<br/>'''6560'''<br/>'''6561'''<br/>'''6562'''||'''6757'''<br/>'''6758'''<br/>'''6759'''<br/>'''6760'''<br/>'''6761'''<br/>'''6762'''||1973年12月<br/>1973年12月<br/>1973年12月<br/>1974年3月<br/>1974年3月<br/>1974年3月 |- !搭載機器<ref name="RP578p214"/> |&nbsp;|| CON・PT|| CP<br/>MG 130|| CON・PT|| CP<br/>MG 130|| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 27.7 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|32.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 36.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|27.7 t |- !定員<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 170 || 150 |} === 6両編成の8両編成化 === 界磁チョッパ制御の6両6編成を8両編成化するために中間電動車12両が日車で製造された<ref name="RP422p159"/>。新造された車両には6200番台の番号が付与されている<ref name="RP578p249"/>。当時は[[日本の鉄道車両検査|検車]]設備が6両編成までしか対応できなかったため、2両と6両に容易に分割できるよう、5両目に組み込まれていたサハ6550形を2両目に移動し、新造した車両が3両目と4両目に組み込まれた<ref name="RP422p159"/><ref name="RF452p77"/>。6100番台のデハ6000形と6000番台の電動車ユニットの位置が併せて入れ替えられている<ref name="RF452p77"/>。3両目から7両目まで連続してパンタグラフが設置された<ref name="村松2012p97"/>。新造車は1975年1月に落成し、高幡不動に搬入されていたが、一部駅でホーム延伸が間に合わなったため、1975年10月ごろまで冷房装置を取り付けない状態で高幡不動に留置された<ref name="RP893p187"/>。[[つつじヶ丘駅]]のホーム延伸は8両編成運転に間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた<ref name="RP734p115"/><ref name="RP893p187"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期 |- !形式 | '''(クハ6700)''' || '''(サハ6550)''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''(デハ6000)''' || '''(デハ6000)''' || '''(デハ6050)''' || '''(クハ6750)''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 | '''6707'''<br/>'''∥'''<br/>'''6712'''|| '''6557'''<br/>'''∥'''<br/>'''6562'''||'''6207'''<br/>'''∥'''<br/>'''6212'''||'''6257'''<br/>'''∥'''<br/>'''6262'''|| '''6107'''<br/>'''∥'''<br/>'''6112''' ||'''6007'''<br/>'''∥'''<br/>'''6012'''||'''6057'''<br/>'''∥'''<br/>'''6062'''||'''6757'''<br/>'''∥'''<br/>'''6762'''||1975年2月 |- !搭載機器<ref name="RP578p38"/> | &nbsp;||CP<br/>MG 130||CON・PT|| CP・PT<br/>MG 130||CON・PT|| CP・PT<br/>MG 130|| CON・PT|| &nbsp;||rowspan="2"| &nbsp; |- !定員<ref name="RP578p36"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 150 |} ; 注記 : 形式に括弧がない車両が今回の製造車。以下同じ。 8両編成化された6000系は平日の特急にも運用された<ref name="RP422p159"/>が、分割・併合が行われるオフシーズン休日{{refnest|group="注"|京王では4月・5月・10月・11月をオンシーズン、それ以外をオフシーズンとし、休日日中のダイヤが異なっていた<ref name="RP422p30"/>。2006年9月1日のダイヤ改正でオンシーズンとオフシーズンのダイヤが一本化され、特急の分割併合運転も廃止された<ref name="RP783p83"/>。}}の特急には依然5000系が運用されていた<ref name="RF452p78"/>。これを6000系で置き換えることを目的に、6両編成で残っていた抵抗制御車に1976年5月に東急で新造された先頭車2両を組み込んで5両編成・3両編成各6編成が組成された<ref name="RP422p159"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/>。登場直後は新宿寄りに3両編成、京王八王子寄りに5両編成を連結していたが、1977年に特急に運用される直前に逆に組み替えられた<ref name="RP893p188"/>。 組み込みにあたってはサハ6550形が6両編成から抜かれ、電装の上デハ6000形に改番、新造されたデハ6450形とユニットを組み、新造されたクハ6700形(6800番台)と併せて3両編成を組んだ<ref name="RF452p78"/>。サハ6550形の台車は新造されたクハ6700形(6800番台)に改造の上流用(TS-809改台車)、サハ6550形の電動空気圧縮機は新たに5両編成となった既存編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に移設、サハ6550形の75 kVA電動発電機はデハ6450形に移設され、5両編成のデハ6050形には新製された130 kVAの電動発電機が搭載された<ref name="RF452p78"/>。5両編成のクハ6750形には井の頭線から転用された7 kVAの電動発電機が搭載された<ref name="RF452p78"/>。サハ6550形の電装工事は[[京王重機整備]]北野工場に車両を陸送して実施された<ref name="RP678p45"/>。デハ6450形の冷房装置は集中式とされ、ユニットを組むサハ6550形改造のデハ6000形に併せ、容量は34.9 kWとなった<ref name="飯島1986p29"/>。 分割運転時の誤乗防止のため、3両編成の[[つり革|つり手]]は緑色、5両編成は白とされた<ref name="RF452p71"/>。5両編成は平日日中にグリーン車{{refnest|group="注"|車体がグリーンに塗装されていた京王線旧型車両の総称。対応して5000系と6000系はアイボリー車と呼ばれていた<ref name="RP278p62"/>。}}とともに [[各駅停車]]にも運用された<ref name="飯島1986p37"/>。 6000系には先頭部助手席側窓下と側面窓上にナンバープレートが設けられており、1974年以前の製造車の前面はアイボリー地に黒文字、側面は紺地にステンレス文字だったが、1976年製造車から側面はアイボリー地にステンレス文字になった<ref name="RF452p78"/>。このとき投入された車両の代替として1977年3月に[[京王2600系電車|2600系]]3両2編成が廃車された<ref name="RP578p247"/>。 <div style="float: left;"> <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+5両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="5"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p234"/> |- !形式 | '''(クハ6700)'''|| '''(デハ6000)''' || '''(デハ6050)''' || '''(デハ6000)''' || '''(クハ6750)''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6701'''<br/>'''∥'''<br/>'''6706'''||'''6001'''<br/>'''∥'''<br/>'''6006'''||'''6051'''<br/>'''∥'''<br/>'''6056'''||'''6101'''<br/>'''∥'''<br/>'''6106'''||'''6751'''<br/>'''∥'''<br/>'''6756'''||1976年11月<br/>又は<br/>1976年12月 |- !搭載機器<ref name="RP578p38"/> |CP|| CON・PT|| CP<br/>MG 130|| CON・PT|| <br/>MG 7||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP578p36"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 29 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|28.6 t |- !定員<ref name="RP578p36"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 150 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+3両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="3"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期 |- !形式 |'''クハ6700'''||'''デハ6000'''||'''デハ6450''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc2 |- !車両番号 |'''6801'''<br/><br/>'''6802'''<br/><br/>'''6803'''<br/><br/>'''6804'''<br/><br/>'''6805'''<br/><br/>'''6806'''<br/>&nbsp;||'''6401'''<br/><small>'''(6551)'''</small><br/>'''6402'''<br/><small>'''(6552)'''</small><br/>'''6403'''<br/><small>'''(6553)'''</small><br/>'''6404'''<br/><small>'''(6554)'''</small><br/>'''6405'''<br/><small>'''(6555)'''</small><br/>'''6406'''<br/><small>'''(6556)'''</small>|| '''6451'''<br/><br/>'''6452'''<br/><br/>'''6453'''<br/><br/>'''6454'''<br/><br/>'''6455'''<br/><br/>'''6456'''<br/>&nbsp;||1976年12月<br/><br/>1976年11月<br/><br/>1976年11月<br/><br/>1976年12月<br/><br/>1976年12月<br/><br/>1976年12月<br/><br/> |- !搭載機器<ref name="RP578p36"/><ref name="RP578p38"/> |CP||CON・PT||PT<br/>MG 75||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP578p36"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 29.2 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 38.8 t |- !定員<ref name="RP578p36"/> | 150 || 170 || 150 |} </div></div> ; 注記 : 括弧内は旧番号。以下同じ。 デハ6450形と電装されたデハ6000形は回生ブレーキ付き界磁チョッパ制御となり、発電ブレーキ付き抵抗制御車の5両編成と併結運転されるため、回生ブレーキ車と発電ブレーキ車の併結試運転が1976年5月15日に下記の編成で事前に行われている<ref name="RP578p213"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="11"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|車両番号<ref name="RP578p213"/> |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''クハ6706''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''デハ6006''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''デハ6056'''||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''デハ6106''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''サハ6556''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''デハ6012''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''デハ6062''' ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| '''クハ6762''' |- !備考<ref name="RP578p213"/> | &nbsp;||発電制動||発電制動||&nbsp;||&nbsp;||回生制動||回生制動||&nbsp; |} === 1977年製造車 === 1977年には5両+3両の8両編成1本と8両編成2本が製造された<ref name="RF452p73"/>。このときから先頭車の冷房装置が集中式に<ref name="RP422p159"/>、補助電源装置が[[無整流子電動機|ブラシレス]]MGに変更された<ref name="RP578p214"/>。8両編成は6707編成 - 6712編成とは編成構成が変更され、サハ6550形は5両目となり<ref name="RP422p159"/>、後の京王線車両と同様電動車ユニットの車両番号の百の位は新宿寄りから順に0・1・2となっている<ref name="RP422p159"/>。先頭車は東急製、中間車は日車製である<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/>。代替として1977年12月に2600系3両3編成、[[京王2700系電車|2700系]]2両1編成とデハ2701の計12両が廃車され、2600系が消滅した<ref name="RP578p247"/>。 <div style="float: left;"> <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+5両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="5"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6713'''||'''6013'''|| '''6013'''||'''6113'''||'''6763'''||1977年11月 |- !搭載機器<ref name="RP422p149"/><ref name="RP734p216"/> |CP|| CON・PT|| CP<br/>BMG 130|| CON・PT||<br/>BMG 130||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 29.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|31.7 t |- !定員<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 150 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+3両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="3"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |- !形式 |'''クハ6700'''||'''デハ6000'''||'''デハ6450''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc2 |- !車両番号 |'''6813'''||'''6413'''||'''6463'''||1977年11月 |- !搭載機器<ref name="RP422p149"/> |CP||CON・PT||PT<br/>BMG 130||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 29.2 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 38.8 t |- !定員<ref name="RP578p36"/> | 150 || 170 || 150 |} </div></div> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+8両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''サハ6550''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6714'''<br/>'''6715'''||'''6014'''<br/>'''6015'''||'''6064'''<br/>'''6065'''||'''6114'''<br/>'''6115'''|| '''6564'''<br/>'''6565''' ||'''6214'''<br/>'''6215'''||'''6264'''<br/>'''6265'''||'''6764'''<br/>'''6765'''||1977年11月<br/>1977年11月 |- !搭載機器<ref name="RP422p149"/> | &nbsp;||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130||CON・PT||CP<br/>BMG 130||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130|| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP578p36"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|27.7 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|32.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|27.7 t |- !定員<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 150 |} === 新宿線乗入準備の8両編成 === 1980年3月の都営新宿線乗入開始に備え、乗入対応として電動車を1両増やして6両とした8両3編成が1978年8月から9月にかけて製造された<ref name="RP422p159"/><ref name="RF452p74"/><ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/>。5両目に組み込まれたデハ6050形(6100番台)のパンタグラフは登場まもなく降下され、後に撤去された<ref name="RP578p216"/>。 同時期に6707編成 - 6709編成・6714編成・6715編成の乗入対応改造が行われたが、乗入改造はサハ6550形を電装してデハ6050形とすること、両先頭車にATCを搭載することが中心で、この改造の間遊休化する編成中のその他車両を有効活用するため、クハ6719・クハ6769・サハ6569の3両も今回の新造車と同時に製造され、対象各編成の改造期間中、中間車を順次組み込んで運用された<ref name="RF452p74"/>。デハ6217・デハ6218と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/>。 1978年10月に[[京王新線]]が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、[[笹塚駅|笹塚]] - 新線新宿間の折り返し運転が行われた<ref name="RP358p56"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6716'''<br/>'''6717'''<br/>'''6718'''||'''6016'''<br/>'''6017'''<br/>'''6018'''||'''6066'''<br/>'''6067'''<br/>'''6068'''||'''6116'''<br/>'''6117'''<br/>'''6118'''|| '''6166'''<br/>'''6167'''<br/>'''6168''' ||'''6216'''<br/>'''6217'''<br/>'''6218'''||'''6266'''<br/>'''6267'''<br/>'''6268'''||'''6766'''<br/>'''6767'''<br/>'''6768'''||1978年8月<br/>1978年9月<br/>1978年9月 |- !搭載機器<ref name="RP422p149"/> | &nbsp;||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130|| &nbsp;||rowspan="2"| &nbsp; |- !定員<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 150 |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p249"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''(デハ6000)''' || '''(デハ6050)''' || '''(デハ6000)''' || '''サハ6550''' || '''(デハ6000)''' || '''(デハ6050)''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6719'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||'''6569''' ||&nbsp;||&nbsp;||'''6769'''||1978年11月 |- !搭載機器<ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | &nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||CP<br/>BMG 130||&nbsp;||&nbsp;|| &nbsp;||rowspan="2"| &nbsp; |- !定員<ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 170 ||&nbsp;||&nbsp;|| 150 |} === 新宿線乗入対応工事 === [[File:Model 6030 of Keio Corporation.JPG|thumb|220px|新宿線乗入運用に入る6734編成]] 1979年7月から11月にかけて6707編成 - 6709編成・6714編成 - 6718編成に新宿線乗入対応工事が施行され、30番台に改番された<ref name="RP422p159"/><ref name="RP422p160"/>。6707編成 - 6709編成は編成内の車両順位が6714編成以降と同一に変更され、6100番台と6200番台のデハ6000形の番号が入れ替えられている<ref name="RP578p234"/>。6707編成 - 6709編成・6714編成・6715編成には先頭車への新宿線用[[自動列車制御装置]] (ATC) と新宿線用[[列車無線]]装置搭載、屋根上への[[列車無線アンテナ]]設置、とサハ6550形の電装が、6716編成 - 6718編成は先頭車へのATC・新宿線用列車無線搭載が行われた<ref name="RF452p78"/><ref name="RP578p188"/>。ATCは先頭車の床下に搭載された<ref name="RP422p85"/>。サハ6550形改造のデハ6050形にはパンタグラフが設置されなかった<ref name="RP422p159"/>。新宿線内では運転台に新宿線用の[[鍵|マスコンキー]]を挿入することで[[起動加速度]]が京王線内の2.5 km/h/sから3.3 km/h/sに切り換わる<ref name="RP578p235"/>。 1980年3月から都営新宿線への乗入が始まった<ref name="RP422p30"/>が、[[岩本町駅|岩本町]]より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり<ref name="RP422p39"/><ref name="RP578p26"/>、後に[[大島駅 (東京都)|大島]]まで、[[本八幡駅|本八幡]]までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された<ref name="RP578p26"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿・岩本町|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p234"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6731'''<br/><small>'''(6707)'''</small><br/>'''6732'''<br/><small>'''(6708)'''</small><br/>'''6733'''<br/><small>'''(6709)'''</small><br/>'''6734'''<br/><small>'''(6714)'''</small><br/>'''6735'''<br/><small>'''(6715)'''</small><br/>'''6736'''<br/><small>'''(6716)'''</small><br/>'''6737'''<br/><small>'''(6717)'''</small><br/>'''6738'''<br/><small>'''(6718)'''</small>||'''6031'''<br/><small>'''(6007)'''</small><br/>'''6032'''<br/><small>'''(6008)'''</small><br/>'''6033'''<br/><small>'''(6009)'''</small><br/>'''6034'''<br/><small>'''(6014)'''</small><br/>'''6035'''<br/><small>'''(6015)'''</small><br/>'''6036'''<br/><small>'''(6016)'''</small><br/>'''6037'''<br/><small>'''(6017)'''</small><br/>'''6038'''<br/><small>'''(6018)'''</small>||'''6081'''<br/><small>'''(6057)'''</small><br/>'''6082'''<br/><small>'''(6058)'''</small><br/>'''6083'''<br/><small>'''(6059)'''</small><br/>'''6084'''<br/><small>'''(6064)'''</small><br/>'''6085'''<br/><small>'''(6065)'''</small><br/>'''6086'''<br/><small>'''(6066)'''</small><br/>'''6087'''<br/><small>'''(6067)'''</small><br/>'''6088'''<br/><small>'''(6068)'''</small>||'''6131'''<br/><small>'''(6207)'''</small><br/>'''6132'''<br/><small>'''(6208)'''</small><br/>'''6133'''<br/><small>'''(6209)'''</small><br/>'''6134'''<br/><small>'''(6114)'''</small><br/>'''6135'''<br/><small>'''(6115)'''</small><br/>'''6136'''<br/><small>'''(6116)'''</small><br/>'''6137'''<br/><small>'''(6117)'''</small><br/>'''6138'''<br/><small>'''(6118)'''</small>||'''6181'''<br/><small>'''(6557)'''</small><br/>'''6182'''<br/><small>'''(6558)'''</small><br/>'''6183'''<br/><small>'''(6159)'''</small><br/>'''6184'''<br/><small>'''(6564)'''</small><br/>'''6185'''<br/><small>'''(6565)'''</small><br/>'''6186'''<br/><small>'''(6166)'''</small><br/>'''6187'''<br/><small>'''(6167)'''</small><br/>'''6188'''<br/><small>'''(6168)'''</small> ||'''6231'''<br/><small>'''(6107)'''</small><br/>'''6232'''<br/><small>'''(6108)'''</small><br/>'''6233'''<br/><small>'''(6109)'''</small><br/>'''6234'''<br/><small>'''(6214)'''</small><br/>'''6235'''<br/><small>'''(6215)'''</small><br/>'''6236'''<br/><small>'''(6216)'''</small><br/>'''6237'''<br/><small>'''(6217)'''</small><br/>'''6238'''<br/><small>'''(6218)'''</small>||'''6281'''<br/><small>'''(6257)'''</small><br/>'''6282'''<br/><small>'''(6258)'''</small><br/>'''6283'''<br/><small>'''(6259)'''</small><br/>'''6284'''<br/><small>'''(6264)'''</small><br/>'''6285'''<br/><small>'''(6265)'''</small><br/>'''6286'''<br/><small>'''(6266)'''</small><br/>'''6287'''<br/><small>'''(6267)'''</small><br/>'''6288'''<br/><small>'''(6268)'''</small>||'''6781'''<br/><small>'''(6757)'''</small><br/>'''6782'''<br/><small>'''(6758)'''</small><br/>'''6783'''<br/><small>'''(6759)'''</small><br/>'''6784'''<br/><small>'''(6764)'''</small><br/>'''6785'''<br/><small>'''(6765)'''</small><br/>'''6786'''<br/><small>'''(6766)'''</small><br/>'''6787'''<br/><small>'''(6767)'''</small><br/>'''6788'''<br/><small>'''(6768)'''</small>||1979年7月<br/><br/>1979年7月<br/><br/>1979年7月<br/><br/>1979年7月<br/><br/>1979年11月<br/><br/>1979年11月<br/><br/>1979年11月<br/><br/>1979年11月<br/><br/> |- !搭載機器<ref name="RP422p149"/> | &nbsp;||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130||CON・PT||CP<br/>BMG 130||CON・PT||CP・PT<br/>BMG 130|| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|29.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|29.5 t |- !定員<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 170 || 150 |} === 1979年製造車 === 新宿線乗入対応としてATCと新宿線用無線を新製時から搭載し、30番台に区分された8両2編成が製造された<ref name="RF452p74"/>。前年に製造されていたクハ6719・クハ6769・サハ6569と組んで8両編成を構成する中間車5両も同時に製造され、この編成も乗入対応編成とされたため、サハ6569はデハ6189に、両先頭車もクハ6739・クハ6789に改造、改番された<ref name="RP578p234"/><ref name="RF452p74"/>。デハ6190・デハ6191と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である<ref name="RP578p212"/>。6740編成の両先頭車であるクハ6740・クハ6790の先頭部ナンバープレートは試験的に紺地にアイボリー文字となっていた<ref name="RP578p218"/>。のちにナンバープレートの書体が変更されるまでこのままで使用された<ref name="RP893p189"/>。 この21両の代替として、1979年11月と12月に2700系2両3編成と4両1編成の合計10両が廃車されている<ref name="RP578p246"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿・岩本町|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP422p169"/><ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6739'''<br/>'''<small>(6719)</small>'''<br/>'''6740'''<br/>'''6741'''||'''6039'''<br/>&nbsp;<br/>'''6040'''<br/>'''6041'''||'''6089'''<br/>&nbsp;<br/>'''6090'''<br/>'''6091'''||'''6139'''<br/>&nbsp;<br/>'''6140'''<br/>'''6141'''||'''6189'''<br/>'''<small>(6569)</small>'''<br/>'''6190'''<br/>'''6191''' ||'''6239'''<br/>&nbsp;<br/>'''6240'''<br/>'''6241'''||'''6289'''<br/>&nbsp;<br/>'''6290'''<br/>'''6291'''||'''6789'''<br/>'''<small>(6769)</small>'''<br/>'''6790'''<br/>'''6791'''||1979年10月<br/><br/>1979年9月<br/>1979年10月 |} === 6713編成・6813編成の改番 === 1980年1月に30番台に改造された空き番号を埋める形で6713編成・6813編成がそれぞれ6707編成・6807編成に改番された<ref name="RP578p234"/>。 <div style="float: left;"><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+5両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="5"|{{TrainDirection|新宿・岩本町|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p234"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6707''' (II)<br/><small>'''(6713)'''</small>||'''6007''' (II)<br/><small>'''(6013)'''</small>|| '''6057''' (II)<br/><small>'''(6063)'''</small>||'''6107''' (II)<br/><small>'''(6113)'''</small>|| '''6757''' (II)<br/><small>'''(6763)'''</small>||1980年1月<br/><br/> |} </div><div style="float: left; vertical-align: top;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+3両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="3"|{{TrainDirection|新宿・岩本町|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p234"/> |- !形式 |'''クハ6700'''||'''デハ6000'''||'''デハ6450''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc2 |- !車両番号 |'''6807'''<br/><small>'''(6813)'''</small>||'''6407'''<br/><small>'''(6413)'''</small>||'''6457'''<br/><small>'''(6463)'''</small>||1980年1月<br/><br/> |} </div></div>{{clear|left}} ; 注記 : クハ6707・デハ6007・デハ6057・デハ6107・クハ6757は2代目。 [[京王新線]]への乗り入れや、混雑時に立ち席スペースを増やす目的で5 + 3編成の中間部の先頭車に1978年ごろに貫通幌が設置され、一部列車で貫通幌が使用された<ref name="RF452p79"/><ref name="RF452p80"/>。 === 1980年以降製造の京王線専用8両編成 === [[File:Keio 6769 Wakabadai.jpg|thumb|220px|6719編成。[[連結器]]下にATC取り付け用のステーがある]] 1980年に3編成、1981年・1983年に各2編成、合計7編成京王線専用の8両編成が製造された<ref name="RP422p160"/><ref name="RP578p248"/><ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/>。いずれの編成も新宿線乗入対応の30番台に改造・改番されて空いた番号を埋める形で附番され、サハ6550形の一部と6719編成の一部を除き2代目の車両番号となった<ref name="RP422p160"/>。 6718編成・6719編成にはATC取付用のステーが設けられ<ref name="RP578p215"/>、客用ドア下部の靴擦りがステンレス無塗装となった<ref name="RF452p75"/>。デハ6265 - デハ6267と先頭車全車が東急製、それ以外が日車製である<ref name="RP578p248"/><ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/>。1982年製造の6716編成以降は屋根の[[絶縁 (電気)|絶縁]]処理が変更され、[[ビニール]]張りから絶縁[[塗装]](塗り屋根)に変更された<ref name="RP578p215"/><ref name="RF452p80"/>。 この56両が製造される間、1981年2月に2700系6両、[[京王2000系電車|2010系]]の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各5両の計16両が、1981年12月に[[京王2000系電車|2000系]]4両、2700系8両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各2両の計16両が、1983年10月に2010系12両が廃車され、2700系・2000系が形式消滅した<ref name="RP578p246"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・京王多摩センター}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p248"/><ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''サハ6550''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6713''' (II)<br/>'''6714''' (II)<br/>'''6715''' (II)<br/>'''6716''' (II)<br/>'''6717''' (II)<br/>'''6718''' (II)<br/>'''6719''' (II)||'''6013''' (II)<br/>'''6014''' (II)<br/>'''6015''' (II)<br/>'''6016''' (II)<br/>'''6017''' (II)<br/>'''6018''' (II)<br/>'''6019'''||'''6063''' (II)<br/>'''6064''' (II)<br/>'''6065''' (II)<br/>'''6066''' (II)<br/>'''6067''' (II)<br/>'''6068''' (II)<br/>'''6069'''||'''6113''' (II)<br/>'''6114''' (II)<br/>'''6115''' (II)<br/>'''6116''' (II)<br/>'''6117''' (II)<br/>'''6118''' (II)<br/>'''6119'''|| '''6563'''<br/>'''6564''' (II)<br/>'''6565''' (II)<br/>'''6566'''<br/>'''6567'''<br/>'''6568'''<br/>'''6569''' (II)||'''6213'''<br/>'''6214''' (II)<br/>'''6215''' (II)<br/>'''6216''' (II)<br/>'''6217''' (II)<br/>'''6218''' (II)<br/>'''6219'''||'''6263'''<br/>'''6264''' (II)<br/>'''6265''' (II)<br/>'''6266''' (II)<br/>'''6267''' (II)<br/>'''6268''' (II)<br/>'''6269'''||'''6763''' (II)<br/>'''6764''' (II)<br/>'''6765''' (II)<br/>'''6766''' (II)<br/>'''6767''' (II)<br/>'''6768''' (II)<br/>'''6769''' (II)||1980年11月<br/>1980年10月<br/>1980年11月<br/>1981年11月<br/>1981年11月<br/>1983年10月<br/>1983年10月 |} ; 注記 : サハ6563・デハ6213・デハ6263・サハ6566・サハ6567・サハ6568・デハ6019・デハ6069・デハ6119・デハ6219・デハ6269以外は2代目。 === 2両編成 === [[File:Keio-6863.JPG|thumb|220px|[[若葉台駅|若葉台]]で入れ替え作業中の2両編成]] 1981年9月から始まった朝ラッシュ時新宿線乗入運用の一部10両編成化用として2両編成が製造された<ref name="RF243p93"/>。全車東急製である<ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/>。 デハ6400形とクハ6750形で構成され、使用電力増と回生ブレーキ使用に対応するためクハ6750形の京王八王子寄にもパンタグラフが搭載された<ref name="RF243p93"/>。限られた床下スペースに必要な機器を搭載するため、主制御装置の小型化、空気圧縮機の小型化、ATS受信機、空制部品の一部を客室内椅子下に配置するなどの工夫がほどこされた<ref name="RF243p94"/>。デハ6400形には新宿線用ATC装置を搭載するスペースが取れなかったため、新宿線乗入運用に入る際はクハ6750形が先頭となるよう、8両編成の京王八王子寄りに連結された<ref name="RF243p94"/>。デハ6400形の先頭部には貫通幌が備えられ、乗入運用時には8両編成と幌で貫通された<ref name="RF243p95"/>。 10両編成での運転は準備の整った[[京王相模原線|相模原線]]から新宿線に乗り入れる系統から先に実施されたため、新宿線乗入対応の30番台が先行して製造されたが、東京都との調整の遅れから就役が遅れ、当初は[[京王競馬場線|競馬場線]]に2両編成で使用された<ref name="RF452p75"/>。1982年10月から京王線系統の10両編成運転も開始されたため、新宿線用ATCを搭載しない京王線専用の10番台も製造された<ref name="RP422p160"/>。 2両編成では運転台直後の客室に車内灯が増設されている<ref name="ダイヤ情報154p19"/>。 6436編成・6437編成は京王線専用、乗入対応用共通の予備車(兼用車)とされ、両者の運用に入った<ref name="RF452p76"/><ref name="RF452p77"/>。1984年から後継となる7000系の製造が始まっている<ref name="RP578p251"/>が、10両編成運用の増加により、6000系2両編成が継続して製造された<ref name="RF452p76"/><ref name="RF452p77"/>。 1982年製造の6410編成・6436編成以降は塗り屋根に変更されたほか、1983年以降製造の6436編成・6413編成以降は客用ドアの靴擦りがステンレス化された<ref name="RP578p215"/><ref name="RF452p80"/>。京王線内運用時は新宿寄りに連結され、連結・解放時間短縮のため京王線専用編成のクハ6750形には自動連結解放装置が設けられた<ref name="RP422p160"/>。 [[File:Keio 6430s Wakabadai.jpg|220px|thumb|若葉台に並ぶ幌を装備した2両編成]] 新宿線乗入運用では2両編成のデハ6400形に貫通幌を設置、8両編成のクハ6700形との間が貫通幌でつながれ、その着脱に時間を要することから、兼用車以外の30番台には自動連結解放装置は設置されなかった<ref name="RF452p79"/>。 <div style="float: left;"> <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+新宿線乗入対応(30番台) |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="2"|{{TrainDirection|新宿・[[本八幡駅|本八幡]]| }}<br/>{{TrainDirection| |京王八王子・[[南大沢駅|南大沢]]}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/> |- !形式 | '''デハ6400''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6431'''<br/>'''6432'''<br/>'''6433'''<br/>'''6434'''<br/>'''6435'''<br/>'''6436'''<br/>'''6437'''||'''6881'''<br/>'''6882'''<br/>'''6883'''<br/>'''6884'''<br/>'''6885'''<br/>'''6886'''<br/>'''6887'''||1981年3月<br/>1981年3月<br/>1981年3月<br/>1981年3月<br/>1981年3月<br/>1983年10月<br/>1989年3月 |- !搭載機器<ref name="RF243Mc"/><ref name="RF243Tc"/> |CON・PT<br/>CP||PT<br/>BMG 130||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF243Mc"/><ref name="RF243Tc"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|40.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|31.5 t |- !定員<ref name="RF243Mc"/><ref name="RF243Tc"/> | 150 || 150 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+京王線専用(10番台) |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="2"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}}<br/>{{TrainDirection| |府中競馬正門前}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p249"/><ref name="RP578p250"/> |- !形式 | '''デハ6400''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6410'''<br/>'''6411'''<br/>'''6412'''<br/>'''6413''' (II)<br/>'''6414'''<br/>'''6415'''<br/>'''6416'''<br/>'''6417'''<br/>'''6418'''<br/>'''6419'''<br/>'''6420'''||'''6860'''<br/>'''6861'''<br/>'''6862'''<br/>'''6863'''<br/>'''6864'''<br/>'''6865'''<br/>'''6866'''<br/>'''6867'''<br/>'''6868'''<br/>'''6869'''<br/>'''6870'''||1982年10月<br/>1982年10月<br/>1982年10月<br/>1984年9月<br/>1984年9月<br/>1984年9月<br/>1984年9月<br/>1986年8月<br/>1986年8月<br/>1986年8月<br/>1989年3月 |- !搭載機器<ref name="RP422p149"/> |CON・PT<br/>CP||PT<br/>BMG 130||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|40.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|31.5 t |- !定員<ref name="RP422p170"/><ref name="RP422p171"/> | 150 || 150 |} </div></div>{{clear|left}} ; 注記 : デハ6413は2代目。 === 1980年代の諸改造 === 分割・併合作業の容易化のため、一部の先頭車に自動連結解放装置が設置された<ref name="RF452p79"/>。クハ6755とクハ6805に1981年に設置されて試験ののち、1982年ごろに京王線専用の8両編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に、1983年ごろに残りの5 + 3編成のクハ6750形とクハ6700形(6800番台)に同装置が設置された<ref name="RF452p79"/>。5+3編成の新宿寄り先頭車クハ6700形(6700番台)にも次いで1982年ごろに、5+3編成の編成順位が3 + 5に変更されたため、デハ6450形にも1992年ごろに同装置が設置されている<ref name="RF452p79"/>。30番台は分割・併合時に貫通幌を使用し、その脱着に時間を要するため、自動連結解放装置は設けられなかった<ref name="RF452p79"/>。 1981年から[[1982年]]にかけて他の8両編成と編成構成が異なっていた6710編成 - 6712編成を他編成に併せるための組み替えが行われた<ref name="RP578p234"/>。6100番台と6200番台のデハ6000形の間で車両番号の振替が行われた<ref name="RP578p234"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p234"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''サハ6550''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6710'''<br/>&nbsp;<br/>'''6711'''<br/>&nbsp;<br/>'''6712'''<br/>&nbsp;||'''6010'''<br/>&nbsp;<br/>'''6011'''<br/>&nbsp;<br/>'''6012'''<br/>&nbsp;||'''6060'''<br/>&nbsp;<br/>'''6061'''<br/>&nbsp;<br/>'''6062'''<br/>&nbsp;||'''6110''' (II)<br/>'''<small>(6210)</small>'''<br/>'''6111''' (II)<br/>'''<small>(6211)</small>'''<br/>'''6112''' (II)<br/>'''<small>(6212)</small>|| '''6560'''<br/>&nbsp;<br/>'''6561'''<br/>&nbsp;<br/>'''6562'''<br/>&nbsp;||'''6210''' (II)<br/>'''<small>(6110)</small>'''<br/>'''6211''' (II)<br/>'''<small>(6111)</small>'''<br/>'''6212''' (II)<br/>'''<small>(6112)</small>||'''6260'''<br/>&nbsp;<br/>'''6261'''<br/>&nbsp;<br/>'''6262'''<br/>&nbsp;||'''6760'''<br/>&nbsp;<br/>'''6761'''<br/>&nbsp;<br/>'''6762'''<br/>&nbsp;||1981年7月<br/><br/>1981年7月<br/><br/>1982年1月<br/><br/> |} 1981年から1982年にかけて百の位0のデハ6050形のパンタグラフが使用停止とされたのち、1983年から[[1985年]]にかけて撤去され、井の頭線に転用された<ref name="飯島1986p114"/><ref name="RP578p216"/>。 1986年に1973年製造のクハ6731 - クハ6733・クハ6710 - クハ6712・クハ6781 - クハ6783・クハ6760 - クハ6762に冷房装置が1台増設された<ref name="RP578p216"/>。これらの車両には5台目の冷房装置を設置できるよう製造時から空の冷房装置カバーが1台設けられており、この中に冷房装置が搭載されている<ref name="RP578p216"/>。 1986年から2両 + 5両 + 3両の10両編成運転が始まり、5両編成が抵抗制御車の場合は編成中に3種類の制御段数の車両が含まれることになるため、前後動を抑えるため0番台先頭車の連結器緩衝器が改良型に変更され、以降の新造車にも取り入れられた<ref name="RP578p215"/>。 製造から15年 - 20年経過した時点で経年により劣化した部位の更新工事が順次行われている<ref name="RJ472p108"/>。大半の車両で屋根が塗り屋根となり、1992年以降に内装を張り替えた車両は車内壁色が8000系と同じ大理石模様に変更されている<ref name="RP578p218"/>。 === 1987年以降製造の乗入対応8両編成 === [[File:Keio 6000 Logo.JPG|220px|thumb|京王ロゴ<br/>保存車両のもの]] 相模原線の[[南大沢駅|南大沢]]、[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]延伸に伴う乗入運用の増加に対応し、30番台8両編成が[[1988年]]・1989年・1990年に各1編成製造された<ref name="RF452p76"/><ref name="RF452p77"/><ref group="注">すでにこの時期後継である7000系も後期車と言えるビードプレス車体に移行しており、7000系も新宿線乗入を考慮した性能、外寸を採用しているが、6000系の製造が継続された理由は本稿の参考文献にはない。</ref>。デハ6092・デハ6292・デハ6094と先頭車が東急製、それ以外が日車製である<ref name="RP578p250"/>。この3編成は空気圧縮機が低騒音形のHS-20Dに変更されている<ref name="RP578p215"/>。1989年11月に京王グループの新しいシンボルマークが制定<ref name="PHP2012p136"/>され、4扉車の最終製造となった6744編成では側面の[[社章]]がKTRからKEIOに変更され、既存車も順次同様に変更されている<ref name="RP734p14"/><ref name="RF452p77"/>。6743編成と6744編成では2両編成同様運転台直後の客室に車内灯が増設されている<ref name="ダイヤ情報154p19"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿・本八幡|京王八王子・高尾山口・橋本}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP578p250"/> |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6742'''<br/>'''6743'''<br/>'''6744'''||'''6042'''<br/>'''6043'''<br/>'''6044'''||'''6092'''<br/>'''6093'''<br/>'''6094'''||'''6142'''<br/>'''6143'''<br/>'''6144'''||'''6192'''<br/>'''6193'''<br/>'''6194'''||'''6242'''<br/>'''6243'''<br/>'''6244'''||'''6292'''<br/>'''6293'''<br/>'''6294'''||'''6792'''<br/>'''6793'''<br/>'''6794'''||1988年3月<br/>1989年3月<br/>1990年2月 |} === 5扉車 === {{Double image aside|right|Inside of Keio 6020.jpg|180|Seat of Keio 6020.jpg|180|5扉車車内|座席(4人掛け)}} 京王線では1972年から朝ラッシュ時1時間あたり最大30本の列車を運転しており<ref name="RP578p27"/>、増発余力がなかったため以降は車両の大型化、長編成化により輸送力の増強をはかってきた<ref name="RP578p28"/>。1990年代初頭には朝ラッシュ時の30本の列車のうち各駅停車15本が8両編成、急行・通勤快速15本が10両編成となった<ref name="RP578p27"/><ref name="RP578p28"/>が、各駅停車の全列車10両編成化は1996年3月まで待たねばならなかった<ref name="世界p83"/>。列車自体の輸送力増加に加え、混雑の分散、停車時分の短縮のため駅階段の増設、閉そく区間の列車追い込みをスムーズにするための信号改良やホームの交互使用などの施策を併せて行ってきた<ref name="RP578p27"/><ref name="RP578p28"/>中、ホームの交互使用が出来ない[[千歳烏山駅]]と[[明大前駅]]での乗降時間短縮を目的として、客用扉を片側5か所とした5両4編成が1991年に製造された<ref name="年鑑1991p156"/><ref name="年鑑1991p242"/><ref name="RP578p20"/>。5扉車の導入により、明大前駅の停車時分は62.5秒から54.5秒に短縮されたとされている<ref name="RP578p20"/>。18 m級車体の車両では5扉車を採用した事例が他にもあるが、20 m級車体で5扉は4扉車と扉位置がずれることもあり、6000系5扉車が唯一の事例である<ref name="PHP2012p117"/>。また、普通鋼で製造された多扉車も6000系が唯一の存在である。 5扉車では車両番号の下2桁が21 (71) から附番されている<ref name="年鑑1991p156"/>。車両重量を増やすことなく車体[[強度]]を保つため、京王の車両として初めて[[戸袋]]窓が廃止された<ref name="年鑑1991p156"/>。戸袋窓廃止による[[採光]]面積の縮小を少しでも補うため、扉間の窓はサッシなしとされた<ref name="年鑑1991p156"/>。外板の腐食対策のため、車体下部の構造と窓から流れ込む雨水の処理方法が変更されている<ref name="年鑑1991p156"/>。主要機器は従来の6000系と同様とされたが、補助電源装置は静止型インバータとされ<ref name="年鑑1991p157"/>、冷房装置も[[換気]]機能を付加したものに変更された<ref name="年鑑1991p156"/>。4扉車では車体中央部に種別・行先表示装置、車側灯がまとめて設置されていたが、5扉車では設置できるスペースがないため、1つずつ扉間の窓上に設置された<ref name="RP578p217"/><ref name="RP578p218"/>。これまで京王の車両は車両番号に独特の角ばった書体を採用していたが、5扉車では一般的な欧文[[フォント|書体]]に変更され、以降の新造車すべてに採用されるとともに6000系・7000系の既存車も順次新書体に変更されている<ref name="RP578p218"/><ref name="世界p74"/>。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両 + 5両 + 3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された<ref name="年鑑1991p157"/>。両先頭車に自動連結解放装置が設置されている<ref name="RF452p81"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="5"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・橋本}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="年鑑1991p242"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6721'''<br/>'''6722'''<br/>'''6723'''<br/>'''6724'''||'''6021'''<br/>'''6022'''<br/>'''6023'''<br/>'''6024'''|| '''6071'''<br/>'''6072'''<br/>'''6073'''<br/>'''6074'''||'''6121'''<br/>'''6122'''<br/>'''6123'''<br/>'''6124'''||'''6771'''<br/>'''6772'''<br/>'''6773'''<br/>'''6774'''||1991年2月<br/>1991年3月<br/>1991年3月<br/>1991年3月 |- !搭載機器<ref name="年鑑1991p238"/> |CP|| CON・PT|| CP<br/>SIV 110|| CON・PT||<br/>SIV 110||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="年鑑1991p238"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 29.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 37.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|30.7 t |- !定員<ref name="年鑑1991p238"/> | 149 || 160 || 160 || 160 || 149 |} === スカート設置 === 1992年から順次先頭部床下にスカートが設置された<ref name="RF452p78"/>。通常の運用で先頭に出ない30番台2両編成のデハ6400形、10番台2両編成のクハ6750形はデハ6436・デハ6437を除いてスカートが設置されなかった<ref name="RF452p78"/>。 === 2両編成の乗入対応改造 === 京王線専用の2両編成のうち、6418編成 - 6420編成が[[1993年]]から[[1996年]]にかけて乗入対応に改造され、30番台に改番された<ref name="RF452p76"/><ref name="RF452p77"/>。この3編成は京王線専用編成時代にスカートを設置し、後に乗入対応に改造されたため、両方の先頭車にスカートがある<ref name="ダイヤ情報154p22"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="2"|{{TrainDirection|新宿・本八幡|}}<br/>{{TrainDirection||京王八王子・橋本}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP734p249"/> |- !形式 | '''デハ6400''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6438'''<br/><small>'''(6420)'''</small><br/>'''6439'''<br/><small>'''(6419)'''</small><br/>'''6440'''<br/><small>'''(6418)'''</small>||'''6888'''<br/><small>'''(6870)'''</small><br/>'''6889'''<br/><small>'''(6869)'''</small><br/>'''6890'''<br/><small>'''(6868)'''</small>||1993年7月<br/><br/>[[1995年]]6月<br/><br/>1996年2月<br/>&nbsp; |} === 抵抗制御車の廃車と変則編成 === 1998年から6000系の廃車が始まった<ref name="年鑑1998p86"/>。1998年には6701編成(3月)<ref name="年鑑1998p209"/>・6702編成(2月)<ref name="年鑑1998p209"/>・6704編成(1月)<ref name="年鑑1998p209"/>の5両3編成、6801編成(3月)<ref name="年鑑1998p209"/>・6802編成(2月)<ref name="年鑑1998p209"/>・6804編成(1月)<ref name="年鑑1998p209"/>の3両3編成の合計24両が廃車された。代替として8000系8両3編成が新造されている<ref name="ダイヤ情報154p13"/>。 抵抗制御車の廃車を先行させるため、6803編成・6806編成の3両編成2本から抜き取られた車両と抵抗制御車の電動車デハ6053を電装解除した付随車で5両編成が[[1999年]]3月に組成された<ref name="年鑑1999p95"/>。デハ6053は電装解除され、サハ6553となった<ref name="年鑑1999p95"/><ref name="RP734p247"/>。デハ6456のパンタグラフは後に撤去されている<ref name="RP734p236"/>。残ったクハ6806は1999年1月に、6703編成のデハ6053を除く4両と6803編成のデハ6453は1999年2月に廃車されている<ref name="年鑑1999p184"/>。 1999年には6705編成(2月)・6706編成(1月)の5両2編成の計16両が廃車された<ref name="年鑑1999p184" />。代替として8000系8両2編成が製造されている<ref name="ダイヤ情報154p13" />。1998年・1999年で抵抗制御車が全廃された<ref name="年鑑1999p95" />。廃車時に発生した部品のうち、抵抗制御車の主制御装置は[[上毛電気鉄道700型電車|上毛電気鉄道700型]]に、運転台機器は[[松本電気鉄道3000形電車|松本電気鉄道3000形]]、[[岳南鉄道7000形電車|岳南鉄道8000形]]をそれぞれ井の頭線3000系から改造する際に利用された<ref name="RP678p51" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="5"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="年鑑1999p178"/><ref name="RP734p247"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''サハ6550''' || '''デハ6000''' || '''デハ6450''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc2 |- !車両番号 |'''6803'''<br/>&nbsp;||'''6403'''<br/>&nbsp;||'''6553''' (II)<br/>'''<small>(6053)</small>'''||'''6406'''<br/>&nbsp;||'''6456'''<br/>&nbsp;||1999年3月<br/>&nbsp; |} ; 注記 : サハ6553は2代目。隣に連結されたデハ6403の電装前の番号が初代サハ6553である<ref name="年鑑1999p95"/>。 === 5扉車の4扉化及び編成組替 === [[File:6020 modification.jpg|thumb|250px|left|4扉改造の概念図]] [[File:Keio-EC6000 5door cars.jpg|thumb|220px|相模原線内運用で使われていた元5扉車6両編成(2005年4月 調布駅)]] [[ファイル:keio6723+6724.JPG|thumb|220px|4扉化された元5扉車の6723編成(2006年3月 高幡不動駅 - 南平駅間)]] 登場時から座席数が少ないことが問題視されていたこと<ref name="RP578p20"/>に加え、長編成化などにより混雑が緩和されてきたこと<ref name="年鑑2000p126"/>、乗車扉位置の異なる車両の運用に苦情もあったことなどから<ref name="RF583p84"/><ref name="村松2012p98"/>、これら問題の解決を目的に5扉車のうち2編成が4扉に改造された<ref name="年鑑2000p190"/>{{refnest|group="注"|5扉車が導入された時期から京王電鉄の輸送人員は横ばい<ref name="RP734p23"/>となる中で[[特定都市鉄道整備促進特別措置法]]事業により輸送力が増強され<ref name="RP734p26"/>、列車混雑が緩和されたことも5扉車が不要となった背景にある。}}。 両端の扉を存置してその他側面部を全面的に改造、中央扉を撤去し、その両側の扉を移設して4扉とした<ref name="年鑑2000p126"/>。改造にあたっては車体が歪まないよう片側ずつ施工されたと言われている<ref name="RJ472p108"/>。種別と行先表示装置は他の4扉車同様車体中央に移設された<ref name="年鑑2000p126"/>。戸袋窓は引き続き設けられず、採光確保のため窓が増設され、京王線用車両として初の固定窓となった<ref name="年鑑2000p126"/>。 当初は他の5両編成と共通に運用された<ref name="年鑑2000p126"/>が、この2本だけが5両編成となったのちはこの2編成を連結した10両編成として運用された<ref name="ダイヤ情報310p26"/>。5扉で残った2編成は6両編成と4両編成に組み替えられ、それぞれ相模原線と[[京王動物園線|動物園線]]の区間運用に使用された<ref name="年鑑2001p95"/><ref name="年鑑2008p129"/><ref name="年鑑2008p130"/><ref name="ダイヤ情報310p26"/>。デハ6072にはパンタグラフが設置された<ref name="年鑑2001p96"/><ref name="RP734p44"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+4扉改造された編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="5"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子・高尾山口・橋本}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="年鑑2000p190"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6723'''<br/>'''6724'''||'''6023'''<br/>'''6024'''|| '''6073'''<br/>'''6074'''||'''6123'''<br/>'''6124'''||'''6773'''<br/>'''6774'''||2000年3月<br/>2000年1月 |- !搭載機器<ref name="年鑑2000p185"/> |CP|| CON・PT|| CP<br/>SIV 110|| CON・PT||<br/>SIV 110||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="年鑑2000p185"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.9 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 37.8 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|38.8 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|30.6 t |- !定員<ref name="年鑑2000p185"/> | 148 || 158 || 158 || 158 || 148 |} <div style="float: left;"><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+6両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="6"|{{TrainDirection|調布|橋本}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="年鑑2001p95"/> |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6000''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6721'''||'''6021'''|| '''6071'''||'''6121'''||'''6122'''||'''6771'''||2000年8月 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+4両編成 |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="4"|{{TrainDirection|多摩動物公園|高幡不動}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="年鑑2001p95"/> |- !形式 |'''クハ6700'''||'''デハ6000'''||'''デハ6050'''||'''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Mc2 |- !車両番号 |'''6722'''||'''6022'''||'''6072'''||'''6772'''||2000年8月 |} </div></div>{{clear|left}} === 追加の乗入対応工事と廃車進行=== 初期に製造された30番台を置き換えるため、後期製造の車両を新宿線乗入対応に改造する工事が行われた<ref name="年鑑2002p108"/><ref name="年鑑2003p210"/><ref name="年鑑2003p211"/><ref name="年鑑2004p218"/> <ref name="ダイヤ情報310p28" />。6748編成・6749編成は正面の運行番号表示器がLED式になっている<ref name="RP734p215" /><ref name="RJ472p109" />。これらの追加改造車に置き換えられ、6731編成が2001年11月に<ref name="年鑑2002p192" />、6732編成が2002年10月に<ref name="年鑑2003p210" />、6733編成が2003年10月に<ref name="年鑑2004p218" />それぞれ廃車されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期 |- !形式 | '''クハ6700''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6746'''<br/><small>'''(6716)'''</small><br/>'''6748'''<br/><small>'''(6718)'''</small><br/>'''6749'''<br/><small>'''(6719)'''</small> ||'''6046'''<br/><small>'''(6016)'''</small><br/>'''6048'''<br/><small>'''(6018)'''</small><br/>'''6049'''<br/><small>'''(6019)'''</small> ||'''6096'''<br/><small>'''(6066)'''</small><br/>'''6098'''<br/><small>'''(6068)'''</small><br/>'''6099'''<br/><small>'''(6069)'''</small> ||'''6146'''<br/><small>'''(6116)'''</small><br/>'''6148'''<br/><small>'''(6118)'''</small><br/>'''6149'''<br/><small>'''(6119)'''</small> ||'''6196'''<br/><small>'''(6566)'''</small><br/>'''6198'''<br/><small>'''(6568)'''</small><br/>'''6199'''<br/><small>'''(6569)'''</small> ||'''6246'''<br/><small>'''(6216)'''</small><br/>'''6248'''<br/><small>'''(6218)'''</small><br/>'''6249'''<br/><small>'''(6219)'''</small> ||'''6296'''<br/><small>'''(6266)'''</small><br/>'''6298'''<br/><small>'''(6268)'''</small><br/>'''6299'''<br/><small>'''(6269)'''</small> ||'''6796'''<br/><small>'''(6766)'''</small><br/>'''6798'''<br/><small>'''(6768)'''</small><br/>'''6799'''<br/><small>'''(6719)'''</small> ||2003年12月<ref name="年鑑2004p218"/><br/><br/>2002年12月<ref name="年鑑2003p210"/><ref name="年鑑2003p211"/><br/><br/>2002年1月<ref name="年鑑2002p108"/><br/><br/> |} 2001年には6731編成の他に6710編成が12月<ref name="年鑑2002p192"/>、6711編成が1月<ref name="年鑑2001p182"/>、1999年に組成された暫定6803編成と6805編成が2月<ref name="年鑑2001p182"/>に廃車され、計32両が廃車された。6711編成は界磁チョッパ車初の廃車、6731編成は30番台で初の廃車である。2002年には6732編成のほか、6712編成が1月に廃車され、計16両が廃車となった<ref name="年鑑2002p192"/>。2003年の6733編成の廃車により、分散冷房装置搭載車が消滅している。この56両の代替のため、2000年から2003年にかけて9000系56両が製造されている<ref name="ダイヤ情報154p13"/>。 === 1990年代末以降の諸改造 === 中間連結面間に転落防止の外幌を設ける工事が[[1997年]]から2001年にかけて施工されている<ref name="RP734p49"/>。 [[ファイル:keio6721tamazootrain.JPG|thumb|220px|right|動物園線内のワンマン列車に使用される6722編成「TAMA ZOO TRAIN」(2006年3月 高幡不動駅 - 多摩動物公園駅間)]] 競馬場線用として1999年7月に6416編成と6417編成に<ref name="年鑑2000p104"/><ref name="RP734p215"/>、動物園線用として2000年10月に6722編成にワンマン化対応改造が行われた<ref name="年鑑2001p95"/>。助手席側運転台には客室と通話できる[[電話機]]が設けられた<ref name="ダイヤ情報310p27"/>。6722編成には同時にTama Zoo Trainの[[ラッピング車両|ラッピング]]がほどこされた<ref name="年鑑2001p95"/>。 [[File:Keio6413F+9702F.jpg|thumb|220px|9000系と連結されて運用される6413編成]] 2000年に登場した[[京王9000系電車|9000系]]には6000系・7000系と連結可能な読替装置が搭載されたため、9000系8両編成に6000系2両編成が連結されて運用されることもあった<ref name="RP734p47"/>。6000系と7000系は併結可能<ref name="RP734p46"/>だったが、2010年[[8月22日]]の6717編成の廃車回送時に7423編成を橋本寄りに連結して運転した事例があるのみである<ref name="railf20100823"/>{{refnest|group="注"|2010年3月26日に相模原線にATCが導入<ref name="村松2012p175"/><ref name="PHP2012p174"/>されて以降、京王ATC非設置の6000系は単独では相模原線に入線できなくなったためにこのような形態で行われた。}}。 2002年10月に全編成の帯色がえんじから[[京王8000系電車|8000系]]と同じ京王レッドと京王ブルー<ref name="RP578p46"/>に変更されている<ref name="RP734p42"/>。 6721編成の6両編成化以降もデハ6000形デハ6122はM1車として使用されてきたが、M2車デハ6050形デハ6171に改造された<ref name="年鑑2004p126"/>。デハ6171は通常パンタグラフを搭載しないM2車であるが、パンタグラフは存置された<ref name="年鑑2004p126"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A; background-color:#ccc;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="6"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3"|竣工時期 |- !形式 | '''クハ6700'''|| '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''デハ6000''' || '''デハ6050''' || '''クハ6750''' |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc1 || style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M1 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #B04740;"| Tc2 |- !車両番号 |'''6721'''<br/>&nbsp;||'''6021'''<br/>&nbsp;||'''6071'''<br/>&nbsp;||'''6121'''<br/>&nbsp;||'''6171'''<br/><small>'''(6122)'''</small>||'''6771'''<br/>&nbsp;||2003年5月<ref name="年鑑2004p218"/><br/>&nbsp; |} 2005年ごろに一部の車両のパンタグラフが東洋製PT-7110シングルアーム形に換装されている<ref name="年鑑2006動向"/><ref name="RP893p190"/>{{refnest|group="注"|本稿の参考文献に6000系に搭載されたシングルアームパンタグラフの形式が記載されたものはないが、7000系のもの<ref name="年鑑2012諸元"/>とデワ600のものがPT-7110とされている<ref name="RP893p254"/>ため、6000系用もPT-7110とここではしている。}}。2009年にデワ600形のパンタグラフもシングルアーム形に換装された<ref name="RF583p85"/><ref name="RP893p254"/>。 === 事業用車デワ600形への改造と0番台の消滅 === [[1995年]]から[[事業用車]]として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が[[2004年]]10月にデワ600形電動貨車に改造された<ref name="年鑑2005p130"/>。デハ6107は新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けた<ref name="年鑑2005p130"/><ref name="年鑑2005p131"/>。デワ600形の詳細は[[京王6000系電車#デワ600形|後述]]する。デワ600形に改造されなかったクハ6707・デハ6007・デハ6057・クハ6757・クハ6807の5両が7月に廃車され<ref name="年鑑2005p216"/>、デハ6450形が形式消滅、0番台が消滅した<ref name="年鑑2005p96"/>。 6707編成・6807編成の代替として9000系8両が2004年に製造された<ref name="ダイヤ情報154p13"/>。 === 2007年以降の廃車 === [[ファイル:KEIO-DASSEN-6721F.JPG|thumb|220px|脱線救出訓練に使われたクハ6721(2007年8月9日 南大沢駅付近)]] 2005年に9000系新宿線乗入対応車が登場して以降、6000系の廃車が加速するようになった。 * [[2007年]] ** 2005年・2006年には9000系10両5編成が製造され<ref name="ダイヤ情報154p13"/>、6737編成(2月)<ref name="年鑑2007一覧"/>・6746編成(3月)<ref name="年鑑2007一覧"/>の8両2編成、6721編成<ref name="年鑑2008一覧"/>の6両1編成(6月)、6431編成(3月)<ref name="年鑑2007一覧"/>の2両1編成、合計24両が廃車された。このうち6721編成のクハ6721は同年8月に[[南大沢駅]]付近の[[保線車両]][[車両基地|基地]]で脱線救出訓練に使用されたのち、解体された<ref name="RF583p84"/>。 * 2008年 ** 2008年には9000系10両9編成が製造され<ref name="ダイヤ情報154p13"/>、6000系30番台が大量に廃車された<ref name="年鑑2009動向"/>。6734編成(7月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6735編成(5月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6736編成(3月)<ref name="年鑑2008一覧"/>・6738編成(2月)<ref name="年鑑2008一覧"/>・6739編成(3月)<ref name="年鑑2008一覧"/>・6743編成(4月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6744編成(10月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6748編成(8月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6749編成(11月)<ref name="年鑑2009一覧"/>の8両9編成と6433編成(4月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6434編成(5月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6435編成(5月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6436編成(10月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6437編成(11月)<ref name="年鑑2009一覧"/>・6439編成(8月)<ref name="年鑑2009一覧"/>の2両6編成の合計84両が廃車された。 * 2009年 ** 9000系10両編成の製造が続き、2009年も6編成が製造された<ref name="ダイヤ情報154p13"/>。6000系は6713編成(7月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6714編成(8月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6740編成(4月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6741編成(5月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6742編成(6月)<ref name="年鑑2010一覧"/>の8両5編成、6723編成(9月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6724編成(9月)<ref name="年鑑2010一覧"/>の5両2編成、6432編成(4月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6438編成(6月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6440編成(5月)<ref name="年鑑2010一覧"/>の2両3編成の56両が廃車された。2009年6月で都営新宿線乗入から離脱<ref name="railf20090613"/>し、30番台が全廃された<ref name="年鑑2010動向"/>。 === 復刻塗装と6000系の全廃 === [[File:Keio6686.jpg|thumb|220px|復刻塗装となった6416編成]] [[File:Keio-Dobutsuen-Line-6722.jpg|thumb|220px|惜別ヘッドマークを付けた6722編成]] 2009年11月に6000系として最後に定期検査に入場した6416編成を1972年の登場時に近い塗装に復元し<ref name="ダイヤ情報310p25"/>、廃車までこの塗装で運用された<ref name="年鑑2011動向"/>。帯色がえんじとなったほか、社名表記がKEIOからKTRに戻されている<ref name="ダイヤ情報310p25"/>。2010年以降も残存した車両の廃車が継続した。 * 2010年 ** 2010年は新車の導入はなかったが、6715編成(1月)<ref name="年鑑2010一覧"/>・6717編成(8月)<ref name="年鑑2011一覧"/>の8両2編成、6410編成(4月)<ref name="年鑑2011一覧"/>・6413編成(4月)<ref name="年鑑2011一覧"/>・6414編成(4月)<ref name="年鑑2011一覧"/>・6415編成(4月)<ref name="年鑑2011一覧"/>の2両4編成、合計24両が廃車され、8両編成が消滅した。 * 2011年 ** 2011年も新車の導入はなかったが、6411編成(2月)<ref name="年鑑2011一覧"/>・6412編成(2月)<ref name="年鑑2011一覧"/>・6416編成(2月)<ref name="年鑑2011一覧"/>・6417編成(2月)<ref name="年鑑2011一覧"/>の2両4編成、6722編成(3月)<ref name="年鑑2011一覧"/>の4両1編成、合計12両が廃車された。 ** 2011年[[3月13日]]をもって営業運転を終了<ref name="HB2021-P118">[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2021/2021_p106_p124.pdf データ集 - 年表] 2021年京王ハンドブック、p.118、京王電鉄、2021年8月発行。</ref><ref name="年鑑2011動向"/>。 == 運用 == === 1970年代 === 6000系は急行用として6両編成で製造され<ref name="RF137p86"/>たため、当初は5000系が7両編成で特急、6000系は6両編成で急行に運用された<ref name="RP422p159"/>。1975年に6000系の8両編成が登場、平日の特急にも運用されるようになった<ref name="RP422p159"/>が、一部駅ではホーム延伸が間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた<ref name="RP734p115"/>。 オフシーズン休日の特急は[[高幡不動駅|高幡不動]]で京王八王子方面と[[高尾山口駅|高尾山口]]方面で分割される運転形態だったため、5000系が引き続き充当されていたが、一部の6000系の5両+3両編成化により6000系がオフシーズン休日の特急にも運用されるようになり<ref name="RP422p159"/>、オンシーズン時には8両編成で「高尾」「陣馬」などのヘッドマーク付き列車などにも運用された<ref name="ダイヤ情報310p28"/>。5両編成は平日日中にグリーン車とともに [[各駅停車]]にも運用された<ref name="飯島1986p37"/>。 1978年に[[京王新線]]が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、[[笹塚駅|笹塚]] - 新線新宿間の折り返し運転が行われた<ref name="RP358p56"/>。 === 1980年代 === 1980年3月から都営新宿線への乗入が始まった<ref name="RP422p30"/>が、[[岩本町駅|岩本町]]より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり<ref name="RP422p39"/><ref name="RP578p26"/>、1987年12月に[[大島駅 (東京都)|大島]]まで、1989年3月に[[本八幡駅|本八幡]]までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された<ref name="RP578p26"/>。1981年9月からは朝ラッシュ時の乗入運用の一部が10両編成化され<ref name="飯島1986p113"/><ref name="RF243p93"/>、2007年9月に京王車両で運用される列車は終日10両編成での運転となった<ref name="年鑑2008p129"/>。乗入開始当初から10両編成化までの間、乗入距離精算のため6000系が新宿線内を折り返す運用が1運用設定されていた<ref name="RP578p121"/>。 朝ラッシュ時の相模原線から[[調布駅|調布]]以東に直通する列車(相模原線系統)は京王八王子・高尾山口から調布以東に直通する系統(京王本線)の1時間当たり10本に対して半分の5本だったため、京王本線より先に輸送力が限界に達すると予想されたこと、京王線新宿駅と府中以西各駅の10両編成対応に時間を要したことから京王本線よりも先行して相模原線 - 新宿線乗入系統の10両編成化が実施された<ref name="RP734p117"/>。東京都交通局は新宿線を6両編成対応で開業させた直後に8両・10両対応への延伸を行うこととなったが、東京都も開発に関連している多摩ニュータウンの輸送力確保が目的であることから協力的だったと言われている<ref name="RP734p117"/>。 京王線新宿駅の10両編成対応が完了した1982年11月から京王本線 - 京王線新宿駅系統も10両編成化されたが、乗入系統とは2両編成の連結位置が異なっていた<ref name="飯島1986p33"/><ref name="飯島1986p114"/>。30番台の2両編成は当初日中の運用がなく、全車若葉台で待機していた<ref name="飯島1986p37"/>。 === 1990年代 === 8000系の登場により特急が10両編成化され、6000系は特急運用の任を下りたが<ref name="RP578p29"/>、1992年から相模原線で8両編成の特急が運転されるようになったためこれに6000系が充当された<ref name="RP578p30"/>。同時にシーズンダイヤの午後に高幡不動で高尾山口行き5両と[[多摩動物公園駅|多摩動物公園]]行き5両に分割・併合する急行が運転されるようになり、これに6000系が充当された<ref name="RP578p30"/>。多摩動物公園発の編成は高幡不動到着後いったん京王八王子側に引き上げられ、高尾山口発の編成と連結された<ref name="RP578p30"/>。 相模原線特急は8000系8両編成に順次置き換えられ<ref name="ダイヤ情報154p26"/>、2001年に分割急行は廃止されている<ref name="RP734p158"/>。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両+5両+3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された<ref name="年鑑1991p157"/>。 競馬場線が1999年に<ref name="RP734p215"/>、動物園線が2000年にワンマン化されて以降はワンマン対応の6000系専用編成が使用された<ref name="年鑑2000p104"/>。 === 2000年代から全廃まで === [[File:Scrapping Keio 6000 12022011.JPG|thumb|220px|解体中の6416編成ほか]] 廃車進行により徐々に運用の範囲を狭めていったが、都営新宿線のATCは耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車が乗り入れられなかったことから、ATC更新まで6000系が乗入用に専用された<ref name="とれいん397p21"/><ref name="世界p76"/>。2007年(平成19年)9月に新宿線乗入運用がすべて10両編成となって以降30番台は8両+2両の実質的な固定編成として運用された<ref name="年鑑2008p129"/>。 新宿線のATC更新後は急速に廃車が進行し、2009年(平成21年)6月に乗入運用から離脱<ref name="railf20090613"/>、2010年(平成22年)8月に8両編成が全廃された<ref name="年鑑2011一覧"/>。 5扉車改造の4扉車は当初他の5両編成と共通に運用された<ref name="年鑑2000p126"/>が、他の5両編成が廃車されたのちは2本組み合わせた10両編成で使用された<ref name="ダイヤ情報310p26"/>。5扉車6両編成は相模原線内折り返しの各駅停車に運用され、5扉車4両編成はワンマン化改造・ラッピングがほどこされたうえ、動物園線で運用された<ref name="年鑑2001p95"/>。競馬場線と動物園線のワンマン運転対応車が最後に残り、競馬場線用は2011年(平成23年)1月、動物園線用は2011年(平成23年)3月で運用を終え、全車廃車された<ref name="年鑑2011動向"/>。 == デワ600形 == [[File:Dewa600.JPG|thumb|デワ600形<br/>(2014年6月 [[笹塚駅]])]] [[1995年]]から[[事業用車]]として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が[[2004年]]10月にデワ600形電動貨車に改造された<ref name="年鑑2005p130"/>。デハ6107はデワ601に改造されたが、1両単独で運転できるよう、新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けるとともに自走に必要なすべての機器が搭載された<ref name="年鑑2005p130"/><ref name="年鑑2005p131"/>。京王八王子寄りには構内運転用の簡易運転台が設けられた<ref name="年鑑2005p130"/>。空気圧縮機と主制御装置を床下に、ブレーキ制御装置、空気タンク、電動発電機が車内に搭載された。高圧機器が車内に搭載されたため、換気のため窓の一部が鎧戸とされた<ref name="年鑑2005p130"/><ref name="年鑑2005p131"/>。デハ6407はデワ621となり、新宿寄りに簡易運転台が設けられた<ref name="年鑑2005p130"/><ref name="年鑑2005p131"/>。ATS車上子を床下に搭載するため、一部の空気[[容器|タンク]]が車内に搭載され、ATS装置本体も車内に搭載された<ref name="年鑑2005p131"/>。デハ6457を改造したデワ631には電動空気圧縮機を搭載するため、ブレーキ制御装置、一部の空気タンクが車内に移設された<ref name="年鑑2005p131"/>。デワ601の両側とデワ621の京王八王子寄[[連結器]]は棒連結器から密着連結器に交換されるとともにデワ601とデワ621の間に挟まれる[[貨車]]に電源を供給できるよう電気連結器が設けられた<ref name="年鑑2005p131"/>。車体塗装はグレーに変更され、夜間作業の視認性を高めるため正側面に赤白斜めのラインが入れられ、正面の白ラインは反射テープとなった<ref name="年鑑2005p131"/>。 [[京王チキ290形貨車|チキ290形]]又は[[京王クヤ900形電車|クヤ900形]]をデワ601とデワ621の間に挟んで使用されるほか<ref name="年鑑2005p131"/><ref name="RF583p85"/>、相模原線がATC化されたのちはATC非設置の6000系が[[若葉台検車区|若葉台検車区・若葉台工場]]に入出庫する際のけん引車としても使用された<ref name="railf20130208"/>。 [[京王デヤ901・902形電車|デヤ901・902形]]に置き換えられ、2016年4月に廃車された<ref name="RF676App"/><ref name="RP893p23"/><ref name="RF657p58"/><ref name="年鑑2016p138"/>。 == 保存車 == [[File:Keio 6000 6438 revival at Keio Rail-Land.jpg|thumb|220px|京王れーるランドに保存されたデハ6438(旧塗装、スカートなし)]] [[File:Keio 6000 6772 at Keio Rail-Land.jpg|thumb|220px|京王れーるランドに保存されたクハ6772のカットボディ]] デハ6438が廃車後[[若葉台検車区]]で保管された<ref name="railf20130208_2"/>後、[[2013年]]4月に[[多摩動物公園駅]]付近に移動<ref name="railf20130404"/>、2013年10月から[[京王れーるランド]]で静態保存されているほか、クハ6722とクハ6772の運転台部分が同所に展示されている<ref name="RP893p191"/>。 {{Clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <ref name="RF137p39">[[#鉄道ファン137冷房|『鉄道ファン』通巻137号p39]]</ref> <ref name="RF137p86">[[#鉄道ファン137|『鉄道ファン』通巻137号p86]]</ref> <ref name="RF137p87">[[#鉄道ファン137|『鉄道ファン』通巻137号p87]]</ref> <ref name="RF137p88">[[#鉄道ファン137|『鉄道ファン』通巻137号p88]]</ref> <ref name="RF137p89">[[#鉄道ファン137|『鉄道ファン』通巻137号p89]]</ref> <ref 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漢(かん、拼音: Hàn)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。 この劉邦が開いた漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに亘った。中国初の統一王朝は秦王朝だったが短命で滅びたこともあり、中国の統一状態を実質的に確定した王朝は直後の漢王朝とみなされることとなった。これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。 紀元前202年に中国を統一した初代皇帝である劉邦(高祖)が紀元前195年に没したのち、しばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握ったものの、紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位した5代文帝および6代景帝は文景の治と呼ばれる優れた統治を行い民力の休養に努めたため、漢の国力は伸長した。また、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が呉楚七国の乱と呼ばれる大反乱を起こしたが半年で鎮定され、これによって諸侯の勢力は大きく削られて中央政府の権力が強大化した。その後即位した7代武帝はこの充実した国力を背景に隣接地域に積極的な出兵を行い、北方の遊牧大勢力であった匈奴を破り、南越を併合し西域諸国を服属させて漢の全盛期を現出した。しかしこうした軍事行動は漢の財政を圧迫し、国力はこのころから下り坂に向かった。10代宣帝は前漢の中興の祖とたたえられる名君であり、この時期に国力は一時回復したものの、その後は衰退が進み、外戚の王莽が8年に簒奪を行って新王朝を建国し、漢王朝はいったん滅びた。 漢王朝は滅びたものの、王莽の政治は時代錯誤的なものが多く、社会にはなはだしい混乱を招いた。各地に群雄が割拠する中、新王朝は漢王家の劉家一族である更始帝によって打倒された。その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興した。この王朝のことを後漢と呼ぶ。後漢は2代明帝、3代章帝といった名君が続いて国力を回復させ、班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出したが、その後は皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政を壟断するようになって国力は低下していった。そして184年に起こった黄巾の乱によって漢の統治力は大きく減退し、董卓の暴政とその董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝に実権は全くなくなり、以後は各地に群雄が割拠する中で曹操の庇護の下、細々と名目のみ存続する状態となった。やがて各地の群雄は華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、三国鼎立の様相を呈するようになった。220年に曹操が死去すると、後継者である曹丕は後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国して、ここに漢王朝は滅亡した。 ※代数は前後を合わす。また太字以外の皇帝は歴代に含めない場合もある。 漢の国号は皇帝であった劉氏の姓と密接に結びつき、前漢・後漢の両漢王朝以後も劉姓の王朝によってたびたび使われた。劉姓の王朝において「漢」を号しなかったものは、匈奴系の夏と南朝の宋のみであるが、逆に劉姓以外の王朝が漢を号したことは幾度かある。 戦国時代、この地を支配した秦は漢江の上流域に漢中郡を置いた(「〜中」は河川流域の盆地をいう命名法)。秦が滅ぼされると、咸陽攻略の功労者劉邦が漢中・巴・蜀の地に王として封ぜられ、漢王(「漢中王」の意)を名乗った。 「漢土」の語は、古写経本や僧侶の書簡などにみえ、これよりかつての日本では中国の地を指す名詞として用いられていたとされる。同様な言葉に「秦」「唐(もろこし)」がある。(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)と華中(長江流域)を区別し、前者のみをさす用法もあった) 民族としての「漢民族」、エスニックグループとしての「漢人」「漢族」、そして漢字、漢語、漢風などの特定文化をさす「漢」は漢王朝の名に由来している。(漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般的である)(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)住民と華中(長江流域)住民を区別し、前者のみをさす用法もあった)
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漢は、中国の王朝である。通例、前漢と後漢の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。 この劉邦が開いた漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに亘った。中国初の統一王朝は秦王朝だったが短命で滅びたこともあり、中国の統一状態を実質的に確定した王朝は直後の漢王朝とみなされることとなった。これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。
{{See Wiktionary|中国の王朝}} {{Otheruses||前漢・後漢以外の王朝|#漢を国号とした諸国|日本のヒップホップミュージシャン|漢 (ラッパー)}} {{出典の明記|date=2023年4月}} {{Infobox former country |native_name = [[File:漢-seal.svg|x24px|alt=𗴂]] |conventional_long_name = 漢 |common_name = 漢 |continent = アジア |region = 東アジア |country = 中国 |era = |status = 帝国 |government_type = 君主制 |year_start = 紀元前206年 |year_end = 220年 |event_start = 建国 |event_end = [[魏 (三国)|魏]]による簒奪 |life_span = 紀元前206年〜8年 23年〜220年 |p1 = 秦 |s1 = 魏 (三国) |s2 = 呉 (三国) |s3 = 蜀漢 |event1 =[[垓下の戦い]]によって漢王朝の中国支配がはじまる |date_event1 =前202年 |event2 = [[呉楚七国の乱]]の平定により[[中央集権]]統一政府の再成立 |date_event2 = 前154年 |event3 = [[漢の対匈奴戦争|武帝による対匈奴遠征]] |date_event3 = 前133年–前71年 |event4 =[[新]]による簒奪と漢王朝の中断 |date_event4 =9年–23年 |event5 = |date_event5 = |stat_year1 = 紀元前50年<ref>{{cite journal |title=Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D. |given=Rein |surname=Taagepera |journal=Social Science History |volume=3 |issue=3/4 |year=1979 |pages=115–138 |doi=10.1017/S014555320002294X |jstor=1170959 }}</ref> |stat_area1 = 6000000 |stat_year2 = 2{{sfnp|Nishijima|1986|pp=595–596}} |stat_pop2 = 57671400 |capital = [[長安]]<small><br />(紀元前206年– 9年、190年–195年)</small><br />[[洛陽]]<small><br />(25年–190年、196年)</small><br />[[許昌]]<small><br />(196年–220年)</small> |common_languages = [[上古漢語]] |religion = [[儒教]] |currency = [[半両銭]]や[[五銖銭]]など |leader1 = [[劉邦|太祖]] |leader2 = [[平帝 (漢)|平帝]] |leader3 = [[光武帝|世祖]] |leader4 = [[献帝 (漢)|献帝]] |leader5 = |year_leader1 = 紀元前202年–紀元前195年 |year_leader2 = 紀元前11年-5年 |year_leader3 = 25年–57年 |year_leader4 = 189年–220年 |year_leader5 = |title_leader = [[皇帝 (中国)|皇帝]] |deputy1 = [[蕭何]] |deputy2 = [[曹参]] |deputy3 = [[董卓]] |deputy4 = [[曹操]] |deputy5 = [[曹丕]] |deputy6 = |deputy7 = |year_deputy1 = 紀元前206年–紀元前193年 |year_deputy2 = 紀元前193年–紀元前190年 |year_deputy3 = 189年–192年 |year_deputy4 = 208年–220年 |year_deputy5 = 220年 |year_deputy6 = |year_deputy7 = |title_deputy = [[中国の宰相|宰相]] |legislature = |today = {{flag|PRC}}<br/>{{flag|North Korea}}<br/>{{flag|South Korea}}<br/>{{flag|Vietnam}}<br/>{{flag|Mongolia}}<br>{{flag|ROC}}([[連江県]]、[[金門県]]) |footnotes = |image_map=Han Dynasty 206 BC – 220.PNG}} {{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}}{{中国の歴史}} '''漢'''(かん、{{ピン音|Hàn}})は、[[中国]]の王朝である。通例、'''[[前漢]]'''([[紀元前206年]] - [[8年]])と'''[[後漢]]'''([[25年]] - [[220年]])の二つの王朝('''両漢''')を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった[[秦朝|秦王朝]]が[[紀元前206年]]に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、[[漢中郡|漢中]]及び[[四川省|巴蜀]]に封じられていた[[劉邦]]が[[紀元前202年]]に[[垓下の戦い]]で[[項羽]]を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。 この劉邦が開いた漢と、いったん滅亡したのち[[光武帝|劉秀]]によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに亘った。中国初の統一王朝は秦王朝だったが短命で滅びたこともあり、中国の統一状態を実質的に確定した王朝は直後の漢王朝とみなされることとなった。これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった<ref group="注釈">西方の世界へは「秦」の名が伝わり用いられた。</ref>。 漢王朝の歴史の詳細については、[[前漢]]・[[後漢]]をそれぞれ参照。 ==歴史== ===漢(前漢)=== {{main|前漢}} 紀元前202年に中国を統一した初代皇帝である劉邦(高祖)が[[紀元前195年]]に没したのち、しばらく高祖の皇后であった[[呂雉|呂后]]とその一族が実権を握ったものの、[[紀元前180年]]に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位した5代[[文帝 (漢)|文帝]]および6代[[景帝 (漢)|景帝]]は[[文景の治]]と呼ばれる優れた統治を行い民力の休養に努めたため、漢の国力は伸長した。また、景帝時代の[[紀元前154年]]には各地に封じられていた諸侯が[[呉楚七国の乱]]と呼ばれる大反乱を起こしたが半年で鎮定され、これによって諸侯の勢力は大きく削られて中央政府の権力が強大化した。その後即位した7代[[武帝 (漢)|武帝]]はこの充実した国力を背景に隣接地域に積極的な出兵を行い、北方の遊牧大勢力であった[[匈奴]]を破り、[[南越国|南越]]を併合し[[西域]]諸国を服属させて漢の全盛期を現出した。しかしこうした軍事行動は漢の財政を圧迫し、国力はこのころから下り坂に向かった。10代[[宣帝 (漢)|宣帝]]は前漢の中興の祖とたたえられる名君であり、この時期に国力は一時回復したものの、その後は衰退が進み、[[外戚]]の[[王莽]]が8年に簒奪を行って[[新]]王朝を建国し、漢王朝はいったん滅びた。 ===後漢=== {{main|後漢}} 漢王朝は滅びたものの、王莽の政治は時代錯誤的なものが多く、社会にはなはだしい混乱を招いた。各地に群雄が割拠する中、新王朝は漢王家の劉家一族である[[更始帝]]によって打倒された。その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である[[光武帝]](劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興した。この王朝のことを後漢と呼ぶ。後漢は2代[[明帝 (漢)|明帝]]、3代[[章帝 (漢)|章帝]]といった名君が続いて国力を回復させ、[[班超]]の働きによって一度撤退していた西域にも再進出したが、その後は皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、[[宦官]]や[[外戚]]が国政を壟断するようになって国力は低下していった。そして[[184年]]に起こった[[黄巾の乱]]によって漢の統治力は大きく減退し、[[董卓]]の暴政とその董卓が[[192年]]に暗殺されたことで、漢王朝に実権は全くなくなり、以後は各地に群雄が割拠する中で[[曹操]]の庇護の下、細々と名目のみ存続する状態となった。やがて各地の群雄は華北の曹操、江南の[[孫権]]、蜀の[[劉備]]の三勢力に統合され、[[三国時代 (中国)|三国]]鼎立の様相を呈するようになった。[[220年]]に曹操が死去すると、後継者である[[曹丕]]は後漢最後の君主であった[[献帝 (漢)|献帝]]に皇位を禅譲させ、新たに[[魏 (三国)|魏]]王朝を建国して、ここに漢王朝は滅亡した。 ===漢朝歴代皇帝=== [[ファイル:炎漢世系圖.png|thumb|left|漢朝皇帝世系図]] ※代数は前後を合わす。また'''太字'''以外の皇帝は歴代に含めない場合もある。 {| class="wikitable" |- !代 !名前 !在位 |- |||―[[前漢|漢]](前漢)―|| |- |1||'''太祖[[劉邦|高帝]]'''||[[紀元前206年]] - [[紀元前195年]] |- |2||'''[[恵帝 (漢)|恵帝]]'''||紀元前195年 - [[紀元前188年]] |- |3||[[前少帝 (前漢)|前少帝]]||紀元前188年 - [[紀元前184年]] |- |4||[[少帝弘|後少帝]]||紀元前184年 - [[紀元前180年]] |- |5||'''太宗[[文帝 (漢)|文帝]]'''||紀元前180年 - [[紀元前157年]] |- |6||'''[[景帝 (漢)|景帝]]'''||紀元前157年 - [[紀元前141年]] |- |7||'''世宗[[武帝 (漢)|武帝]]'''||紀元前141年 - [[紀元前87年]] |- |8||'''[[昭帝 (漢)|昭帝]]'''||紀元前87年 - [[紀元前74年]] |- |9||[[劉賀|昌邑王(海昏侯)]]||紀元前74年 |- |10||'''中宗[[宣帝 (漢)|宣帝]]'''||紀元前74年 - [[紀元前49年]] |- |11||'''高宗[[元帝 (漢)|元帝]]'''||紀元前49年 - [[紀元前33年]] |- |12||'''統宗[[成帝 (漢)|成帝]]'''||紀元前33年 - [[紀元前7年]] |- |13||'''[[哀帝 (漢)|哀帝]]'''||紀元前7年 - [[紀元前1年]] |- |14||'''元宗[[平帝 (漢)|平帝]]'''||紀元前1年 - [[5年]] |- |||―[[新末後漢初]]―|| |- |15||武順王[[更始帝]]||[[23年]] - 25年 |- |||―[[後漢]]―|| |- |16||'''世祖[[光武帝]]'''||25年 - [[57年]] |- |17||'''顕宗[[明帝 (漢)|明帝]]'''||57年 - [[75年]] |- |18||'''粛宗[[章帝 (漢)|章帝]]'''||75年 - [[88年]] |- |19||'''穆宗[[和帝 (漢)|和帝]]'''||88年 - [[105年]] |- |20||'''[[殤帝 (漢)|殤帝]]'''||105年 - [[106年]] |- |21||'''恭宗[[安帝 (漢)|安帝]]'''||106年 - [[125年]] |- |22||[[少帝懿]]||125年 |- |23||'''敬宗[[順帝 (漢)|順帝]]'''||125年 - [[144年]] |- |24||'''[[沖帝]]'''||144年 - [[145年]] |- |25||'''[[質帝]]'''||145年 - [[146年]] |- |26||'''威宗[[桓帝 (漢)|桓帝]]'''||146年 - [[167年]] |- |27||'''度宗[[霊帝 (漢)|霊帝]]'''||167年 - [[189年]] |- |28||[[少帝弁]]||189年 |- |29||'''[[献帝 (漢)|献帝]]'''||189年 - [[220年]] |} == 漢を国号とした諸国 == 漢の国号は皇帝であった[[劉氏]]の姓と密接に結びつき、前漢・後漢の両漢王朝以後も劉姓の王朝によってたびたび使われた。劉姓の王朝において「漢」を号しなかったものは、匈奴系の[[夏 (五胡十六国)|夏]]と南朝の[[宋 (南朝)|宋]]のみであるが、逆に劉姓以外の王朝が漢を号したことは幾度かある。 *[[蜀漢]]([[三国時代 (中国)|三国時代]]の王朝、中山靖王[[劉勝]]あるいは斉武王[[劉縯]]の後裔と称した[[劉備]]が建国) *[[前趙|前趙(漢趙国・劉趙)]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[三崎良章]]|title=五胡十六国 中国史上の民族大移動|journal=|publisher=[[東方書店]]|date=2002-06|page=60}}</ref>([[匈奴]][[南匈奴#十九種族|屠各種]][[攣鞮氏|攣鞮部]]の王朝) *[[成漢|成漢(成蜀・前蜀)]]([[チベット系民族|チベット系]][[氐]]族の[[李特]]の政権) *[[後漢 (五代)]]([[テュルク系民族|テュルク系]][[突厥]][[沙陀族|沙陀部]]の[[劉知遠]]の王朝) **[[北漢]](五代の後漢系の王朝) *[[南漢]]([[五代十国]]のひとつ。[[広州 (広東省)|広州]]周辺を領土とする。[[アラブ人|アラブ系]]説あり<ref>{{Cite journal|和書|author=[[藤田豊八]]|title=南漢劉氏の祖先につきて|journal=東洋学報 6(2)|publisher=[[東洋文庫]]|date=1916-05|url=http://id.nii.ac.jp/1629/00004005/|page=247-257}}</ref><ref>{{Cite news|author=[[陳寅恪]]|date=1939|title=劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題|publisher=[[中央研究院歴史語言研究所]]|newspaper=歷史語言研究所集刊第八本第一分|url=http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4878HxvVMRs.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220223112641/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4878HxvVMRs.pdf|format=PDF|archivedate=2022-02-23|quote=近年桑原騭藏教授《蒲壽庚事跡考》及藤田豐八教授《南漢劉氏祖先考》(見《東西交涉史之研究南海篇》),皆引朱彧《萍州可談》貳所載北宋元祐間廣州番坊劉姓人娶宗室女事,以證伊斯蘭教徒多姓劉者,其說誠是。但藤田氏以劉為伊斯蘭教徒習用名字之音譯,固不可信,而桑原氏以廣州通商回教徒之劉氏實南漢之賜姓,今若以復愚之例觀之,其說亦非是。鄙見劉與李俱漢唐兩朝之國姓,外國人之改華姓者,往往喜採用之,復愚及其它伊斯蘭教徒之多以劉為姓者,殆以此故歟? 關於復愚氏族疑非出自華夏一問題,尚可從其文章體制及論說主張諸方面推測,但以此類事證多不甚適切,故悉不置論,謹就其以劉為氏,而家世無九品之官,四海無強大之親,父子俱以儒學進仕至中書舍人禮部尚書,而不祭祀先祖,及籍貫紛歧,而俱賈胡(註:通商的胡人)僑寄之地三端,推證之如此。}}</ref>) *漢([[南北朝時代 (中国)|中国南北朝]]末の宇宙大将軍[[侯景]]の王朝。わずか5ヶ月で滅ぶ) *漢([[唐|中唐]]の[[朱泚]]の政権。はじめは'''秦'''と称した) *漢([[元 (王朝)|元末]]の[[陳友諒]]の政権) *漢([[明]]中期の[[劉通]]の政権) == 「漢」名の由来 == === 漢中(郡名・国名) === [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、この地を支配した[[秦]]は[[漢江 (中国)|漢江]]の上流域に[[漢中郡]]を置いた(「〜中」は河川流域の盆地をいう命名法)。秦が滅ぼされると、[[咸陽市|咸陽]]攻略の功労者[[劉邦]]が漢中・巴・蜀の地に王として封ぜられ、'''漢王'''(「[[漢中王]]」の意)を名乗った。 == 漢王朝に由来する諸名称 == === 中国の地を意味する「漢」 === 「漢土」の語は、古写経本や僧侶の[[書簡]]などにみえ、これよりかつての日本では[[中国]]の地を指す名詞として用いられていたとされる。同様な言葉に「秦」「唐(もろこし)」がある。(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)と華中(長江流域)を区別し、前者のみをさす用法もあった) === 民族名・文化名としての「漢」 === 民族としての「[[漢民族]]」、エスニックグループとしての「漢人」「漢族」、そして[[漢字]]、[[漢語]]、[[漢風]]などの特定文化をさす「漢」は漢王朝の名に由来している。(漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国では一般的である)(南北朝期からモンゴル時代にかけて、華北(黄河流域)住民と華中(長江流域)住民を区別し、前者のみをさす用法もあった) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat}} {{Wiktionarypar|漢}} * [[091型原子力潜水艦]] - “漢級(Han class)”の[[NATOコードネーム]]がつけられている。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かん}} [[Category:漢朝| ]] [[Category:中国の別名]] [[Category:紀元前1世紀の中国|*]] [[Category:1世紀の中国|*]] [[Category:2世紀の中国|*]]
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京王8000系電車
京王8000系電車(けいおう8000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。 また編成単位での表記は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、○○編成の形で記載(例:8701編成)し、10両の分割編成においてはプラス記号を用いて京王八王子寄りから両編成を併記する(例:8701編成+8801編成)。 京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では、各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 京王線用として初めてVVVFインバータ制御を採用し、府中駅・北野駅付近で行われていた高架化工事完了を機に計画されたダイヤ改定による輸送力増強に備え、6000系以来20年ぶりのフルモデルチェンジ車として登場した。1992年にグッドデザイン賞を受賞している。 1992年(平成4年)から1999年(平成11年)にかけて244両、2009年(平成21年)に事故廃車代替で1両の合計245両が新製された。 1989年(平成元年)から「リフレッシング京王」運動が展開されるなか、京王社内に新形電車を期待する声が高まったこと、府中駅付近および北野駅付近で約10年かけて行われていた高架化工事が完了、大規模なダイヤ改定による輸送力増強が可能となり、相模原線特急計画なども加わって所要車両数が増加したことから、6000系以来約20年ぶりのフルモデルチェンジ車として製造された。曲面ガラスを採用した正面デザイン、京王ブルー(インディゴー)と京王レッド(チェリーレッド)の独自の2色帯を採用するとともに内装の色彩も見直されるなどゼロベースからの設計が行われた。 都営地下鉄新宿線乗り入れ車両とする場合に受ける設計上の制約を避けるため、京王線専用車とされたが、京王新線への乗り入れを考慮した車体寸法が採用されている。 7000系に続いてステンレス車体、20 m両開き4扉、窓間に戸袋窓2枚、1枚下降窓2枚を、車端部に戸袋窓と1枚下降窓各1枚を備える基本配置が採用されたが、扉間の下降窓は2連のユニット窓構造とすることで窓面積を広げ、肩部分と台枠下部に丸みをもたせることで印象が異なるものとなった。 8000系の設計にあたっては流線型を含む各種前面デザインが検討されたが、客室面積を犠牲にしないこと、全長を20 mとすること、分割編成で使用されるために正面に貫通口をもつことなどの各種制約から実車のデザインが決定された。上側を4度30分、下側を11度40分で傾斜させるとともに、初代5000系のイメージを加えるため、R8000の曲面妻が採用されるなど、前面形状が複雑となったため、乗務員扉部分までの前頭部が普通鋼製とされ、アイボリーに塗装された。上下に丸みを持たせた側面まで回りこむ3次元構成の曲面ガラスが採用され、左右と貫通口部で三分割されたが、柱を黒く処理することで一体感を持たせている。貫通口にはプラグ式ドアが設けられたが、軽微な改造で貫通幌が取り付けられるよう考慮されている。 正側面腰部にはイメージカラーである京王レッドと京王ブルーの独自の色の帯が巻かれ、側面幕板部にも京王レッドの帯が巻かれた。腰部の帯は運転台後部でブルーとレッドが上下入れ替わる構成とされた。京王で初めて車外スピーカーが設置された。 扉間に7人掛の座席、車端部に4人掛の座席である優先席「おもいやりぞーん」が配置された京王20 m4扉車の標準的な配置ながら、1人あたりの座席幅が7000系より10 mm拡大された440 mmとされた。内装色は模型を使った色合わせにより決定され、壁、扉内面、扉鴨居部に大理石模様のアイボリー系、天井は白、床はチップ模様入りのベージュ系とされた。7000系から採用されたフットラインは幅20 mmのセピア系の線とされ、天井ラインフローファン吐出口も同系色に処理されている。 座席は初めてバケット型が採用され、斜め格子柄の入ったローズレッドとされた。座り心地改善のための試作が行われ、従来車より堅めのシートが採用された。 各編成とも、新宿寄りから2両目の新宿方に座席を設けずに手すりが取り付けられた車椅子スペースが設置された。 車両の外板と内装の化粧板の間に断熱塗料が塗布されているが、後年の調査で、成形樹脂内に石綿(アスベスト)の含有が発覚している。 乗務員室は一体LED表示とされ、コンソールはグレー系に塗装された。速度計はデジタル併用表示であった。 なお、京王ATCの設置に伴う改造工事により、アナログ式となった。現在デジタル式速度計の運転台は、通常ではもう見ることが出来ないが、京王れーるランドの京王れーるランドアネックス内車両展示館で見ることができる。。6000系・7000系と同様ワンハンドルマスコンが採用された。 乗務員の支援、行先・種別表示、検修時の支援などを目的としたモニタ装置が設置され、運転台右側に行先・種別設定装置、運転台背面仕切り扉上にガイダンス表示器が設けられた。 トレインナビゲーション装置 (TNS) が設置できるようディスプレイ設置準備工事が施された。1992年10月に製造された8807編成+8707編成以降はTNSを設置し、既存車にも後に設置されている。 ここでは製造時の機器構成について述べる。 定格4500 V・4000 AのGTOサイリスタを用いたVVVFインバータ制御が採用され、1つの主制御装置で電動車2両1ユニット、8個の主電動機を制御する日立製作所(以下、日立)製VFG-HR1820Cが採用された。定速制御機能が盛り込まれているが、35 km/h以下では連続使用1分半の制限がある。6000系都営新宿線乗入車などと同様、加速度を切り替える高加速回路が設けられているが、使用されていない。4両単独で運転される場合、補助電源装置が故障するとフィルタリアクトルのブロワが作動せず運転不能になるため、主制御装置からブロワ電源を取ることができるよう切り換えスイッチが設けられている。 主電動機は出力150 kWのかご形三相誘導電動機、東洋電機製造(以下、東洋)製TDK-6155Aまたは日立製HS-33534-01RBが採用された。 駆動装置は京王従来車と同様WN駆動方式が採用され、歯車比は85:14である。 制動装置は電気指令式が6000系・7000系に引き続いて採用された。8000系では日本エヤーブレーキ製HRDA-1となり、3ビットの信号線を用いた7段階の制動力が得られる。電動車2両と非電動車1両の3両または電動車・非電動車それぞれ2両の4両を1組として回生ブレーキを優先する制御が採用され、回生ブレーキだけで必要制動力が得られない際はまず非電動車の空気制動を作動させ、次いで電動車の空気制動が作動する。空気ばね圧力を歪ゲージで検知する応荷重器が装備され、空気ばね圧力は空調制御にも利用されている。ブレーキ不緩解が発生した場合、その車両の車側灯が点灯するとともにガイダンス表示器、各車のブレーキ制御器に表示される。 台車は7000系用と同一設計の車体直結式空気ばね式東急車輛製造(以下、東急)製TS-823A動力台車、TS-824付随台車が採用された。動力台車は交流モーター装架のための設計変更が行われたが、直流モーターを搭載することもできる設計となっている。1999年製造の2編成は東急製ボルスタレス式TS-1017動力台車、TS-1018付随台車に変更された。TS-1017とTS-1018では片押し式のユニットブレーキが採用された。 パンタグラフは東洋製PT-4201、ブロイメットすり板装備品がデハ8000形全車と、各編成1両のデハ8050形に搭載された。 補助電源装置は4両・6両編成では6000系5扉車と同一の静止形インバータ(SIV、AC200 V、出力130 kVA)が、8両編成では出力190 kVAの静止形インバータが採用された。各編成ともデハ8050形に1台が搭載されている。 空気圧縮機は毎分吐出容量2130リットルのHS-20D形がデハ8050形・サハ8550形全車と4両編成のクハ8700形に搭載された。 冷房装置は屋上集中式48.84 kW (42,000kcal/h) が各車に1台搭載された。 8000系は以下の形式で構成される。各形式とも同一編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。8両編成は下2桁が21(71)から附番されている。ここでは新製時の形式構成・両数を述べ、後年の改造については各改造の項にまとめた。「デ」は電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。 主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。編成位置により番号の百の位が異なっている。6両編成の2両目に8000番台(デハ8001 - デハ8014)、4両目に8100番台(デハ8101-デハ8114)、4両編成の2両目に8200番台(デハ8201-デハ8214)、8両編成の2両目・6両目にそれぞれ8000番台(デハ8021-デハ8033)・8100番台(デハ8121-デハ8133)に附番された車両が組み込まれている。1992年から1997年にかけて合計68両が製造された。 デハ8000形とユニットを組み、電動空気圧縮機、補助電源装置を搭載する中間電動車である。百の位はユニットを組むデハ8000形と同一でデハ8000形同様1992年から1997年に68両が製造された。6両編成の3両目に8000番台(デハ8051-デハ8064)、5両目に8100番台(デハ8151-デハ8164)、4両編成の3両目に8200番台(デハ8251-デハ8264)、8両編成の3両目・7両目にそれぞれ8000番台(デハ8071-デハ8083)・8100番台(デハ8171-デハ8183)の車両が組み込まれている。6両編成の8000番台、8両編成の8100番台以外には京王八王子寄りにパンタグラフ1基が搭載されている。 電動空気圧縮機がない付随車 である。8両編成の4両目に組み込まれ、1995年から1997年にサハ8521-サハ8533の13両が製造された。 電動空気圧縮機付きの付随車である。8両編成の5両目に組み込まれ、1995年から1997年にサハ8571-サハ8583の13両、事故廃車代替のため2009年にサハ8564の合計14両が製造された。サハ8564は10両編成の7両目に組み込まれた。 新宿寄り制御車である。4両編成用は百の位が8とされ、電動空気圧縮機を搭載している。1992年から1994年に6両編成用クハ8701-クハ8714と4両編成用クハ8801-クハ8814の28両、1995年から1997年に8両編成用クハ8721-クハ8733の13両、合計41両が製造された。 京王八王子寄り制御車で、クハ8700形同様4両編成用は百の位が8とされている。1992年から1994年に6両編成用クハ8751-クハ8764と4両編成用クハ8851-クハ8864の28両、1995年から1997年に8両編成用クハ8771-クハ8783の13両、合計41両が製造された。 最初に製造されたグループである。優等系列車に運用される想定で10両編成となったが、当時休日の特急が高幡不動で高尾山口方面と京王八王子方面に分割・併合されていたことから、新宿寄りから4両+6両に分割できる編成構成となった。1992年3月から4月にかけて4両+6両の10両6編成が竣工、5月から順次営業入り、同年5月28日のダイヤ改定から特急運用に投入された。同年10月から11月に4編成、1994年に4編成の合計14編成140両が製造された。編成ごとに車両メーカーがそろえられており、日本車輌製造(以下、日車)製と東急製でそれぞれ7編成ずつである。 8807編成+8707編成以降は客室貫通仕切戸の窓が下方向に拡大された。8811編成+8711編成以降は先頭車のスカートが下方向に拡大され、8813編成+8713編成以降はスカートの塗装色がクリーム色に変更されている。灰色のスカートで竣工した編成についても順次クリーム色に変更された。 8808編成+8708編成と1994年製造の40両は側面行先・種別表示装置がLED式に変更されている。 1995年(平成7年)以降は8両編成での製造に移行した。8両編成では番号が番号下2桁を21 (71) から附番し、分割併合が考慮されなかったことから新形式サハ8500形・サハ8550形を含む8両貫通編成となった。自動連解結装置が装備されなかったため、先頭車スカートに同装置用の切欠がない。1999年にかけて13編成が製造され、6編成が日車製、7編成が東急製である。8725編成以前の編成は正面行先・種別表示装置が幕式、側面がLED式で製造されたが、8724編成と8725編成は営業入り前に、その他の編成は営業入り後に正面もLED式に交換された。8726編成以降は製造時から正側面ともLED式である。8726編成以降は車両間に転落防止外幌が設置され、2001年までに既存車にも追加された。8723編成以降は貫通仕切戸のガラスが従来の薄ブラウンから無色に変更されている。最終製造の8732編成と8733編成は台車が軸梁式ボルスタレス台車TS-1017、TS-1018に変更された。 2008年8月に高尾線内(高尾山口駅〜高尾駅間)で発生した土砂崩れに8728編成が巻き込まれ、先頭車のクハ8728が2009年3月に廃車となった。 その後2009年12月、まず8714編成+8814編成向けにサハ8564を新製し、当時中間に封じ込められていたクハ8814と入れ替えた。そして捻出したクハ8814をクハ8728(2代目)として8728編成に組み込み、事故の代替とした。 これにより8714編成は先頭部と中間車が連結する特殊な編成となっていた。なお2014年には運転台の撤去が行われており、違和感は小さくなっている。 新製されたサハ8564は新宿側に先頭部を連結するため、当初貫通路が塞がれていたほか、ドアなどが9000系30番台などと共通になるなど、従来車から変更されている。新クハ8728においては改番とともに電動空気圧縮機の撤去等が行われた。 両編成のその後の動きは他の編成と概ね変わらないが、サハ8564と連結するクハ8764→サハ8514においては2012年3月に運転台部分へ転落防止外幌が設置されたことが特筆される。 8728編成(全車東急車輛製) 8714編成(全車東急車輛製) 2000系の車体色をベースとし高尾山の自然をイメージしたラッピングを、8713編成に施して2015年(平成27年)9月30日から運行している。 デハ8125の菱形パンタグラフが1998年に東洋製PT-7110シングルアーム式に、2005年ごろに残り全車のパンタグラフが同じくPT-7110に換装されている。 2001年から2003年にかけて客室ドア上部にLED式の旅客案内装置が設置された。 2006年のダイヤ改定で特急の分割併合運用が無くなっていたが(シーズンダイヤの廃止)、2007年12月ごろに10両編成の編成順位を新宿寄りから4両+6両から6両+4両に変更している。 2008年ごろから、行先表示装置のフルカラーLED化が行われ、現在は全車フルカラーLED化されている。 ATC車上装置の設置工事がATC運用開始に先立つ2008年度前後に行われている。特徴的だったLED表示の速度計はATC設置工事時に通常の機械式に変更された。ATC設置工事と同時期に大型の座席袖仕切設置、座席部への手すり設置が行われている。また、一部の編成はドアの交換も実施された。 2011年8月25日付で、10両編成の中間に入っていたクハ8700形とクハ8750形がそれぞれサハ8550形とサハ8500形に形式変更されている。なお、実際の車両に表示されている番号はこの時点では変更されておらず、後の車体修理工事の際に変更が行われた。 8733編成は2012年2月にLED照明に交換している。2018年度までに京王線車両全車をLED照明化する計画となっている。 10両編成には、2012年から自動放送装置の取付が行われている。8両編成には、後述の車体改修工事と同時に取付が行われている。 GTO素子などの生産中止に伴う予備品確保と省エネルギー化のため、2013年3月に8730編成の制御装置が更新された。1編成に2つの異なる装置が搭載されているため、2箇月の改造期間のほか、1箇月をかけて調整が行われた。 その後、2015年4月には8729編成にメーカーを逆にする形で改造が行われ、8100番台のユニットを8730編成と入れ替えた。これにより8729編成は東芝製、8730編成は日立製機器搭載となった。 本格的な実施 2016年3月には東芝製の装置を用いて8721編成にも改造が行われた。翌2016年度からは後述の車体修理工事と同時に実施されることとなり、またメーカーは10両編成が日立、8両編成が東芝とされた。これらの編成は当該節を参照。 2015年度以前に車体修理工事を施工した10両7本についても、2021年2月には8707編成に制御装置更新が実施されている。 2013年から大規模な改造工事が行われている。主な内容は以下の通り。 上記の車体修理工事に際しては、車両メーカーからの設計図に基づき、断熱塗料に石綿が含有されていない認識で施工されていたが、その後の調査の結果、断熱塗料に石綿が含有していたことが判り、結果的に石綿関係法令に基づいた処理を施すことなく工事を行っていたことを、2017年10月20日に京王電鉄は公表・謝罪した。 京王電鉄側は、1989年以降に製造した車両の断熱塗料には、石綿が含有していない材料を用いて製造していることを車両メーカーからの書面にて確認していた。だが、2017年9月15日に同社で運用されていた1992年製造の7000系において廃車処理前の検査を実施したところ、一部の車両の断熱塗料に石綿が含有していたことが判明。そのため当該車と同時期に製造した8000系のうち過去に改造工事を実施した2両でも検査した結果、石綿が含有していたことが同年9月29日に判明した。のちに車両メーカーである総合車両製作所と日本車輌製造が行った同形式の検査でも、石綿が含有していたことが同年10月10日に判明している。 2017年現在、「原因は調査中」とされている。工事および廃棄処理を担当した全従業員に対して、健康相談や健康診断などを継続的に実施していくとしている。 車内での安全性向上のために、7000系7701編成、7705編成、5000系(2代)に次いで、2018年度に8710編成に防犯カメラが設置され、2019年度にも26両に設置される予定である。車内のLED式案内表示器の左上に埋め込んで設置されている。 10両編成は製造後特急運用を中心に運用され、休日の分割特急にも使用されたほか、分割特急以外の6両編成単独運用や4両編成を2本組み合わせた運用もあった。 8両編成は当初相模原線特急などに運用されたが、2001年のダイヤ改定で8両編成・10両編成とも列車種別を限定しない運用となり、8両編成は他形式と連結できないため各駅停車中心、10両編成は京王線の各駅停車から特急まで全線で幅広く運用されている。
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"各編成とも、新宿寄りから2両目の新宿方に座席を設けずに手すりが取り付けられた車椅子スペースが設置された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "車両の外板と内装の化粧板の間に断熱塗料が塗布されているが、後年の調査で、成形樹脂内に石綿(アスベスト)の含有が発覚している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "乗務員室は一体LED表示とされ、コンソールはグレー系に塗装された。速度計はデジタル併用表示であった。 なお、京王ATCの設置に伴う改造工事により、アナログ式となった。現在デジタル式速度計の運転台は、通常ではもう見ることが出来ないが、京王れーるランドの京王れーるランドアネックス内車両展示館で見ることができる。。6000系・7000系と同様ワンハンドルマスコンが採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "乗務員の支援、行先・種別表示、検修時の支援などを目的としたモニタ装置が設置され、運転台右側に行先・種別設定装置、運転台背面仕切り扉上にガイダンス表示器が設けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "トレインナビゲーション装置 (TNS) が設置できるようディスプレイ設置準備工事が施された。1992年10月に製造された8807編成+8707編成以降はTNSを設置し、既存車にも後に設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ここでは製造時の機器構成について述べる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "定格4500 V・4000 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"台車は7000系用と同一設計の車体直結式空気ばね式東急車輛製造(以下、東急)製TS-823A動力台車、TS-824付随台車が採用された。動力台車は交流モーター装架のための設計変更が行われたが、直流モーターを搭載することもできる設計となっている。1999年製造の2編成は東急製ボルスタレス式TS-1017動力台車、TS-1018付随台車に変更された。TS-1017とTS-1018では片押し式のユニットブレーキが採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "パンタグラフは東洋製PT-4201、ブロイメットすり板装備品がデハ8000形全車と、各編成1両のデハ8050形に搭載された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "補助電源装置は4両・6両編成では6000系5扉車と同一の静止形インバータ(SIV、AC200 V、出力130 kVA)が、8両編成では出力190 kVAの静止形インバータが採用された。各編成ともデハ8050形に1台が搭載されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "空気圧縮機は毎分吐出容量2130リットルのHS-20D形がデハ8050形・サハ8550形全車と4両編成のクハ8700形に搭載された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "冷房装置は屋上集中式48.84 kW (42,000kcal/h) が各車に1台搭載された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "8000系は以下の形式で構成される。各形式とも同一編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。8両編成は下2桁が21(71)から附番されている。ここでは新製時の形式構成・両数を述べ、後年の改造については各改造の項にまとめた。「デ」は電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。編成位置により番号の百の位が異なっている。6両編成の2両目に8000番台(デハ8001 - デハ8014)、4両目に8100番台(デハ8101-デハ8114)、4両編成の2両目に8200番台(デハ8201-デハ8214)、8両編成の2両目・6両目にそれぞれ8000番台(デハ8021-デハ8033)・8100番台(デハ8121-デハ8133)に附番された車両が組み込まれている。1992年から1997年にかけて合計68両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "デハ8000形とユニットを組み、電動空気圧縮機、補助電源装置を搭載する中間電動車である。百の位はユニットを組むデハ8000形と同一でデハ8000形同様1992年から1997年に68両が製造された。6両編成の3両目に8000番台(デハ8051-デハ8064)、5両目に8100番台(デハ8151-デハ8164)、4両編成の3両目に8200番台(デハ8251-デハ8264)、8両編成の3両目・7両目にそれぞれ8000番台(デハ8071-デハ8083)・8100番台(デハ8171-デハ8183)の車両が組み込まれている。6両編成の8000番台、8両編成の8100番台以外には京王八王子寄りにパンタグラフ1基が搭載されている。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "電動空気圧縮機がない付随車 である。8両編成の4両目に組み込まれ、1995年から1997年にサハ8521-サハ8533の13両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "電動空気圧縮機付きの付随車である。8両編成の5両目に組み込まれ、1995年から1997年にサハ8571-サハ8583の13両、事故廃車代替のため2009年にサハ8564の合計14両が製造された。サハ8564は10両編成の7両目に組み込まれた。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "新宿寄り制御車である。4両編成用は百の位が8とされ、電動空気圧縮機を搭載している。1992年から1994年に6両編成用クハ8701-クハ8714と4両編成用クハ8801-クハ8814の28両、1995年から1997年に8両編成用クハ8721-クハ8733の13両、合計41両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "京王八王子寄り制御車で、クハ8700形同様4両編成用は百の位が8とされている。1992年から1994年に6両編成用クハ8751-クハ8764と4両編成用クハ8851-クハ8864の28両、1995年から1997年に8両編成用クハ8771-クハ8783の13両、合計41両が製造された。", "title": "形式構成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "最初に製造されたグループである。優等系列車に運用される想定で10両編成となったが、当時休日の特急が高幡不動で高尾山口方面と京王八王子方面に分割・併合されていたことから、新宿寄りから4両+6両に分割できる編成構成となった。1992年3月から4月にかけて4両+6両の10両6編成が竣工、5月から順次営業入り、同年5月28日のダイヤ改定から特急運用に投入された。同年10月から11月に4編成、1994年に4編成の合計14編成140両が製造された。編成ごとに車両メーカーがそろえられており、日本車輌製造(以下、日車)製と東急製でそれぞれ7編成ずつである。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "8807編成+8707編成以降は客室貫通仕切戸の窓が下方向に拡大された。8811編成+8711編成以降は先頭車のスカートが下方向に拡大され、8813編成+8713編成以降はスカートの塗装色がクリーム色に変更されている。灰色のスカートで竣工した編成についても順次クリーム色に変更された。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "8808編成+8708編成と1994年製造の40両は側面行先・種別表示装置がLED式に変更されている。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)以降は8両編成での製造に移行した。8両編成では番号が番号下2桁を21 (71) から附番し、分割併合が考慮されなかったことから新形式サハ8500形・サハ8550形を含む8両貫通編成となった。自動連解結装置が装備されなかったため、先頭車スカートに同装置用の切欠がない。1999年にかけて13編成が製造され、6編成が日車製、7編成が東急製である。8725編成以前の編成は正面行先・種別表示装置が幕式、側面がLED式で製造されたが、8724編成と8725編成は営業入り前に、その他の編成は営業入り後に正面もLED式に交換された。8726編成以降は製造時から正側面ともLED式である。8726編成以降は車両間に転落防止外幌が設置され、2001年までに既存車にも追加された。8723編成以降は貫通仕切戸のガラスが従来の薄ブラウンから無色に変更されている。最終製造の8732編成と8733編成は台車が軸梁式ボルスタレス台車TS-1017、TS-1018に変更された。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2008年8月に高尾線内(高尾山口駅〜高尾駅間)で発生した土砂崩れに8728編成が巻き込まれ、先頭車のクハ8728が2009年3月に廃車となった。", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後2009年12月、まず8714編成+8814編成向けにサハ8564を新製し、当時中間に封じ込められていたクハ8814と入れ替えた。そして捻出したクハ8814をクハ8728(2代目)として8728編成に組み込み、事故の代替とした。", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "これにより8714編成は先頭部と中間車が連結する特殊な編成となっていた。なお2014年には運転台の撤去が行われており、違和感は小さくなっている。", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新製されたサハ8564は新宿側に先頭部を連結するため、当初貫通路が塞がれていたほか、ドアなどが9000系30番台などと共通になるなど、従来車から変更されている。新クハ8728においては改番とともに電動空気圧縮機の撤去等が行われた。", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "両編成のその後の動きは他の編成と概ね変わらないが、サハ8564と連結するクハ8764→サハ8514においては2012年3月に運転台部分へ転落防止外幌が設置されたことが特筆される。", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "8728編成(全車東急車輛製)", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "8714編成(全車東急車輛製)", "title": "特殊な編成" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2000系の車体色をベースとし高尾山の自然をイメージしたラッピングを、8713編成に施して2015年(平成27年)9月30日から運行している。", "title": "車体ラッピング" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "デハ8125の菱形パンタグラフが1998年に東洋製PT-7110シングルアーム式に、2005年ごろに残り全車のパンタグラフが同じくPT-7110に換装されている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2001年から2003年にかけて客室ドア上部にLED式の旅客案内装置が設置された。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2006年のダイヤ改定で特急の分割併合運用が無くなっていたが(シーズンダイヤの廃止)、2007年12月ごろに10両編成の編成順位を新宿寄りから4両+6両から6両+4両に変更している。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2008年ごろから、行先表示装置のフルカラーLED化が行われ、現在は全車フルカラーLED化されている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ATC車上装置の設置工事がATC運用開始に先立つ2008年度前後に行われている。特徴的だったLED表示の速度計はATC設置工事時に通常の機械式に変更された。ATC設置工事と同時期に大型の座席袖仕切設置、座席部への手すり設置が行われている。また、一部の編成はドアの交換も実施された。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2011年8月25日付で、10両編成の中間に入っていたクハ8700形とクハ8750形がそれぞれサハ8550形とサハ8500形に形式変更されている。なお、実際の車両に表示されている番号はこの時点では変更されておらず、後の車体修理工事の際に変更が行われた。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "8733編成は2012年2月にLED照明に交換している。2018年度までに京王線車両全車をLED照明化する計画となっている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "10両編成には、2012年から自動放送装置の取付が行われている。8両編成には、後述の車体改修工事と同時に取付が行われている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "GTO素子などの生産中止に伴う予備品確保と省エネルギー化のため、2013年3月に8730編成の制御装置が更新された。1編成に2つの異なる装置が搭載されているため、2箇月の改造期間のほか、1箇月をかけて調整が行われた。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "その後、2015年4月には8729編成にメーカーを逆にする形で改造が行われ、8100番台のユニットを8730編成と入れ替えた。これにより8729編成は東芝製、8730編成は日立製機器搭載となった。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "本格的な実施", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2016年3月には東芝製の装置を用いて8721編成にも改造が行われた。翌2016年度からは後述の車体修理工事と同時に実施されることとなり、またメーカーは10両編成が日立、8両編成が東芝とされた。これらの編成は当該節を参照。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2015年度以前に車体修理工事を施工した10両7本についても、2021年2月には8707編成に制御装置更新が実施されている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2013年から大規模な改造工事が行われている。主な内容は以下の通り。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "上記の車体修理工事に際しては、車両メーカーからの設計図に基づき、断熱塗料に石綿が含有されていない認識で施工されていたが、その後の調査の結果、断熱塗料に石綿が含有していたことが判り、結果的に石綿関係法令に基づいた処理を施すことなく工事を行っていたことを、2017年10月20日に京王電鉄は公表・謝罪した。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "京王電鉄側は、1989年以降に製造した車両の断熱塗料には、石綿が含有していない材料を用いて製造していることを車両メーカーからの書面にて確認していた。だが、2017年9月15日に同社で運用されていた1992年製造の7000系において廃車処理前の検査を実施したところ、一部の車両の断熱塗料に石綿が含有していたことが判明。そのため当該車と同時期に製造した8000系のうち過去に改造工事を実施した2両でも検査した結果、石綿が含有していたことが同年9月29日に判明した。のちに車両メーカーである総合車両製作所と日本車輌製造が行った同形式の検査でも、石綿が含有していたことが同年10月10日に判明している。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2017年現在、「原因は調査中」とされている。工事および廃棄処理を担当した全従業員に対して、健康相談や健康診断などを継続的に実施していくとしている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "車内での安全性向上のために、7000系7701編成、7705編成、5000系(2代)に次いで、2018年度に8710編成に防犯カメラが設置され、2019年度にも26両に設置される予定である。車内のLED式案内表示器の左上に埋め込んで設置されている。", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "", "title": "改造工事" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "10両編成は製造後特急運用を中心に運用され、休日の分割特急にも使用されたほか、分割特急以外の6両編成単独運用や4両編成を2本組み合わせた運用もあった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "8両編成は当初相模原線特急などに運用されたが、2001年のダイヤ改定で8両編成・10両編成とも列車種別を限定しない運用となり、8両編成は他形式と連結できないため各駅停車中心、10両編成は京王線の各駅停車から特急まで全線で幅広く運用されている。", "title": "運用" } ]
京王8000系電車(けいおう8000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。 また編成単位での表記は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、○○編成の形で記載し、10両の分割編成においてはプラス記号を用いて京王八王子寄りから両編成を併記する。 京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では、各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。
{{鉄道車両 | 車両名 = 京王8000系電車 | 背景色 = #dd006d | 文字色 = #ffffff | 画像 = Keio-Series8000.jpg | 画像説明 = 京王8000系電車<br>(2021年11月 [[長沼駅 (東京都)|長沼駅]]) | 運用者 = [[京王電鉄]] | 製造所 = [[日本車輌製造]]<br />[[東急車輛製造]]<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> | 製造年 = 1992年 - 1999年、2009年 | 製造数 = 27編成244両+代替車1両 | 運用範囲 = [[京王線]] | 編成 = 8・10両編成 (過去に4・6両編成) | 軌間 = 1,372 [[ミリメートル|mm]]<ref name="RF374p52"/>([[狭軌]]) | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br/>([[架空電車線方式]])<ref name="RF374p52"/> | 最高運転速度 = 110 km/h<ref name="RP734p26"/> | 設計最高速度 = 120 km/h<ref name="RF374p52"/> | リミッター = 140 km/h<ref name="RF374p52"/> | 起動加速度 = 2.5&nbsp;km/h/s(登場時)<br/>3.3&nbsp;km/h/s(高加速化改造後) | 常用減速度 = 4.0&nbsp;km/h/s<ref name="RF374p52"/> | 非常減速度 = 4.5&nbsp;km/h/s<ref name="RF374p52"/> | 編成定員 = | 車両定員 = 143名(先頭車)・154名(中間車)<ref name="RF374p52"/> | 自重 = | 編成重量 = | 編成長 = | 全長 = 20,000 mm<ref name="PF374付図"/> | 全幅 = 2,845 mm<ref name="PF374付図"/> | 全高 = 4,055 mm([[集電装置|パンタグラフ]]なし)<br/>4,100 mm(パンタグラフ付)<ref name="RP734p37"/> | 車体長 = 19,500 mm<ref name="PF374付図"/> | 車体幅 = 2,770 mm<ref name="PF374付図"/> | 車体高 = | 車体材質 = [[ステンレス鋼]]<ref name="RF374p52"/> | 台車 = | 主電動機 = 未更新車・10連更新車:[[かご形三相誘導電動機]] <ref name="RF374p52"/><br>8連更新車:全密閉[[永久磁石同期電動機]] | 主電動機出力 = 150 [[ワット|kW]]<ref name="RF374p52"/><ref>[https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2016/04/71_04pdf/a03.pdf 省エネ性能を追求した鉄道車両用主回路システム] 東芝レビュー71巻4号</ref> × 4<ref name="RP734p37"/> | 駆動方式 = [[WN駆動方式|WN平行カルダン駆動]] <ref name="RF374p52"/> | 歯車比 = 85:14 = 6.07<ref name="RF374p52"/> | 編成出力 = | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]] | 制御装置 = 未更新車:VFG-HR1820C([[日立製作所|日立]]製[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]])<ref name="RF374p50"/><br>10連更新車:VFI-HR2820M(日立製[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子、2015年からハイブリッドSiC適用)<br>8連更新車:SVF102-A0([[東芝]]製IGBT素子) | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|全電気指令式空気ブレーキ]] <ref name="RF374p52"/> | 保安装置 = [[自動列車制御装置|京王形ATC]] <ref name="RF374p52"/> | 備考 = |運用開始=1992年5月11日}} '''京王8000系電車'''(けいおう8000けいでんしゃ)は、[[京王電鉄]][[京王線]]<ref group="注">新宿 - 京王八王子間の路線を指す場合もあるが、ここでは京王電鉄の1,372 mm軌間の路線の総称として用いる。</ref>用の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/>である。 本稿では京王線上で東側を「[[新宿駅|新宿]]寄り」、西側を「[[京王八王子駅|京王八王子]]寄り」と表現する。 また[[編成 (鉄道)|編成]]単位での表記は新宿寄り先頭車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]で代表し、○○編成の形で記載(例:8701編成)<ref group="注">鉄道ファン向けの雑誌記事などでは「編成」をFと略して8701Fなどと表現されることや、編成中一番番号が小さい車両で代表して8001Fなどと表記されることがあるが、京王電鉄が寄稿した記事([[#鉄道ファン604|「京王7000系 VVVF化工事10両編成化工事について」]]、[[#2003総説|「車両総説」鉄道ピクトリアル通巻734号(京王特集)掲載]]など)では新宿寄り先頭車で代表し、8726編成などと表記されているためこちらに併せた。</ref>し、10両の分割編成においてはプラス記号を用いて京王八王子寄りから両編成を併記する(例:8701編成+8801編成)。 京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示している<ref name="ダイヤ情報310p14" />が、本稿では、各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し<ref name="RP734p44" /><ref name="ダイヤ情報310p90" /><ref name="RF617-F" />、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 == 概要 == [[File:Keio-EC8000-2.jpg|thumb|200px|8000系併結作業(2004年9月26日 [[高幡不動駅]])]] [[京王線]]用として初めて[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]を採用し<ref name="RF374p48" />、[[府中駅 (東京都)|府中駅]]・[[北野駅 (東京都)|北野駅]]付近で行われていた高架化工事完了を機に計画されたダイヤ改定による輸送力増強に備え<ref name="RP578p43" />、[[京王6000系電車|6000系]]以来20年ぶりのフルモデルチェンジ車として登場した<ref name="RF374p48" />。1992年に[[グッドデザイン賞]]を受賞している<ref name="RF374p50" />。 [[1992年]]([[平成]]4年)から[[1999年]](平成11年)にかけて244両、[[2009年]](平成21年)に事故[[廃車 (鉄道)|廃車]]<ref name="年鑑2009動向" />代替で1両<ref name="年鑑2010動向" /><ref name="年鑑2010一覧" />の合計245両が新製された。 === 導入の経緯 === [[1989年]](平成元年)から「リフレッシング京王」運動が展開されるなか、京王社内に新形電車を期待する声が高まったこと、[[府中駅 (東京都)|府中駅]]付近および[[北野駅 (東京都)|北野駅]]付近で約10年かけて行われていた[[高架化]]工事が完了、大規模な[[ダイヤ改定]]による輸送力増強が可能となり、[[京王相模原線|相模原線]]特急計画なども加わって所要車両数が増加したことから、[[京王6000系電車|6000系]]以来約20年ぶりの[[フルモデルチェンジ]]車として製造された<ref name="RP578p43" />。曲面[[ガラス]]を採用した正面デザイン、京王ブルー(インディゴー)と京王レッド(チェリーレッド)の独自の2色帯を採用するとともに内装の色彩も見直されるなど<ref name="RF374p48" />ゼロベースからの設計が行われた<ref name="RP578p43" />。 == 車両概説 == === 車体 === [[都営地下鉄新宿線]]乗り入れ車両とする場合に受ける設計上の制約を避けるため、京王線専用車とされたが、[[京王新線]]への乗り入れを考慮した車体寸法が採用されている<ref name="RP578p45" />。 [[京王7000系電車|7000系]]に続いてステンレス車体<ref name="RF374p50"/>、20 [[メートル|m]]両開き4扉、窓間に[[戸袋]]窓2枚、1枚下降窓2枚を、[[車端部]]に戸袋窓と1枚下降窓各1枚を備える基本配置が採用されたが、扉間の下降窓は2連のユニット窓構造とすることで窓面積を広げ<ref name="RF374p50"/>、肩部分と台枠下部に丸みをもたせることで印象が異なるものとなった<ref name="RF374p49"/>。 8000系の設計にあたっては流線型を含む各種前面デザインが検討されたが、客室面積を犠牲にしないこと、全長を20 mとすること、分割編成で使用されるために正面に貫通口をもつことなどの各種制約から実車のデザインが決定された<ref name="RP578p45"/>。上側を4度30分、下側を11度40分で[[傾斜]]させるとともに、[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]のイメージを加えるため、R8000の曲面妻が採用されるなど、前面形状が複雑となったため、乗務員扉部分までの前頭部が普通鋼製とされ<ref name="RP578p45"/>、[[アイボリー]]に塗装された<ref name="RF374p49"/>。上下に丸みを持たせた側面まで回りこむ3次元構成の曲面ガラスが採用され、左右と貫通口部で三分割されたが、柱を黒く処理することで一体感を持たせている<ref name="RP578p45"/>。貫通口にはプラグ式ドアが設けられた<ref name="RF374p49"/>が、軽微な改造で貫通幌が取り付けられるよう考慮されている<ref name="RP578p237"/>。 正側面腰部にはイメージカラーである京王レッドと京王ブルーの独自の色の帯が巻かれ、側面幕板部にも京王レッドの帯が巻かれた<ref name="RF374p49"/>。腰部の帯は運転台後部でブルーとレッドが上下入れ替わる構成とされた<ref name="とれいん397p33"/>。京王で初めて[[車外スピーカー]]が設置された<ref name="RF374p52"/>。 <gallery> File:Keio 8000 side view.JPG|8000系先頭部側面(2012年8月18日 高幡不動駅) File:Keio 8000 bottom.JPG|台枠に設けられた丸み File:Outside speaker on Keio 8000.JPG|8000系の車外スピーカ― </gallery> === 内装 === 扉間に7人掛の座席、車端部に4人掛の座席である優先席「[[優先席|おもいやりぞーん]]」が配置された京王20 m4扉車の標準的な配置ながら、1人あたりの座席幅が7000系より10 [[ミリメートル|mm]]拡大された440 mmとされた<ref name="RF374p50"/>。内装色は模型を使った色合わせにより決定され<ref name="RP578p47"/>、壁、扉内面、扉鴨居部に[[大理石]]模様のアイボリー系<ref name="RF374p49"/><ref name="RP578p47"/>、天井は白<ref name="RF374p50"/>、床はチップ模様入りのベージュ系とされた<ref name="RF374p49"/>。[[京王7000系電車|7000系]]から採用されたフットラインは幅20 mmのセピア系の線とされ<ref name="RF374p49"/>、天井ラインフローファン吐出口も同系色に処理されている<ref name="RP578p47"/>。 座席は初めてバケット型が採用され<ref name="RF374p49"/>、斜め格子柄の入ったローズレッドとされた<ref name="RP578p47"/>。座り心地改善のための試作が行われ、従来車より堅めのシートが採用された<ref name="RP578p47"/>。 各編成とも、[[新宿駅|新宿]]寄りから2両目の新宿方に座席を設けずに手すりが取り付けられた車椅子スペースが設置された<ref name="RF374p50"/><ref name="RF374p51"/><ref name="RP734p221"/>。 車両の外板と内装の化粧板の間に断熱塗料が塗布されているが、後年の調査で、成形樹脂内に[[石綿]](アスベスト)の含有が発覚している<ref name="Keio20171020"/>。 <gallery perrow="4"> ファイル:Keio8000 inside.jpg|車内 ファイル:Seat of Keio 8000.jpg|座席(7人がけ) ファイル:Priority seat of Keio 8000.jpg|優先席(4人がけ) ファイル:Wheelchair space of Keio 8000.jpg|車椅子スペース </gallery> ==== 乗務員室 ==== [[ファイル: Keio 8000 Drivers cab.JPG|thumb|200px|デジタル式(旧型)運転台]] [[ファイル:Keio ATC signal no2.JPG|thumb|right|250px|京王ATC化後の運転台の車内信号。停車駅の停止位置までのパターンが発生している状態。]] [[操縦席|乗務員室]]は一体LED表示とされ、コンソールはグレー系に塗装された<ref name="RF374p50"/>。速度計は[[デジタル]]併用表示であった。 なお、[[京王ATC]]の設置に伴う改造工事により、[[アナログ]]式となった。現在デジタル式速度計の運転台は、通常ではもう見ることが出来ないが、[[京王れーるランド]]の京王れーるランドアネックス内車両展示館で見ることができる。<ref name="RF374p50"/>。6000系・7000系と同様ワンハンドルマスコンが採用された<ref name="RF374p50"/>。 [[乗務員]]の支援、行先・種別表示、検修時の支援などを目的としたモニタ装置が設置され、運転台右側に行先・種別設定装置、運転台背面仕切り扉上にガイダンス表示器が設けられた<ref name="RF374p50"/>。 トレインナビゲーション装置 (TNS) が設置できるよう[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]設置準備工事が施された<ref name="RF374p50"/>。1992年10月に製造された8807編成+8707編成以降はTNSを設置し<ref name="RP578p237"/>、既存車にも後に設置されている<ref name="とれいん397p33"/>。 === 主要機器 === ここでは製造時の機器構成について述べる。 定格4500 [[ボルト (単位)|V]]・4000 [[アンペア|A]]のGTOサイリスタを用いたVVVFインバータ制御が採用され、1つの主制御装置で電動車2両1ユニット、8個の主電動機を制御する<ref name="RF374p50"/>[[日立製作所]](以下、日立)製VFG-HR1820Cが採用された<ref name="RP734p260"/>。定速制御機能が盛り込まれているが、35 [[キロメートル毎時|km/h]]以下では連続使用1分半の制限がある<ref name="RP578p237"/>。[[京王6000系電車|6000系]]都営新宿線乗入車などと同様、加速度を切り替える高加速回路が設けられているが、使用されていない<ref name="RP578p237"/>。4両単独で運転される場合、補助電源装置が故障するとフィルタリアクトルのブロワが作動せず運転不能になるため、主制御装置からブロワ電源を取ることができるよう切り換えスイッチが設けられている<ref name="RF374p51"/>。 主電動機は出力150 k[[ワット|W]]の[[かご形三相誘導電動機]]、[[東洋電機製造]](以下、東洋)製TDK-6155Aまたは日立製HS-33534-01RBが採用された<ref name="RP578p37"/>。 駆動装置は京王従来車と同様[[WN駆動方式]]が採用され、[[歯車比]]は85:14である<ref name="RF374p52"/>。 制動装置は電気指令式が6000系・7000系に引き続いて採用された<ref name="RF374p51"/>。8000系では[[ナブテスコ|日本エヤーブレーキ]]製HRDA-1<ref name="RP578p37"/><ref group="注">本稿の参考文献に列挙した各記事では8000系用ブレーキ指令装置の製造者名が確認できないが、HRDA-1は[[#ナブコ94|ナブコ技報]]から日本エヤーブレーキ(ナブコを経て2003年からナブテスコ)製であることが分かる。</ref>となり、3ビットの信号線を用いた7段階の制動力が得られる<ref name="RF374p51"/>。電動車2両と非電動車1両の3両または電動車・非電動車それぞれ2両の4両を1組として回生ブレーキを優先する制御が採用され<ref name="RF374p51"/>、回生ブレーキだけで必要制動力が得られない際はまず非電動車の空気制動を作動させ、次いで電動車の空気制動が作動する<ref name="RF374p51"/>。空気ばね圧力を歪ゲージで検知する応荷重器が装備され、空気ばね圧力は空調制御にも利用されている<ref name="RF374p51"/>。ブレーキ不緩解が発生した場合、その車両の車側灯が点灯するとともにガイダンス表示器、各車のブレーキ制御器に表示される<ref name="RF374p52"/>。[[ファイル:TS-824 Keio 7000.jpg|200px|thumb|right|TS-824台車、写真は7000系用のもの]] [[File:TS-1017 Takahata.JPG|200px|thumb|right|TS-1017台車、写真は9000系用のもの]] 台車は7000系用と同一設計の車体直結式空気ばね式[[東急車輛製造]](以下、東急)製TS-823A動力台車、TS-824付随台車が採用された<ref name="ダイヤ情報310p14"/><ref name="RP578p237"/>。動力台車は交流モーター装架のための設計変更が行われたが、直流モーターを搭載することもできる設計となっている<ref name="RP578p237"/>。1999年製造の2編成は東急製ボルスタレス式TS-1017動力台車、TS-1018付随台車に変更された<ref name="ダイヤ情報310p14"/><ref name="RP734p222"/>。TS-1017とTS-1018では片押し式のユニットブレーキが採用された<ref name="RF479p71"/>。 [[集電装置|パンタグラフ]]は東洋製<ref group="注">本稿の参考文献に列挙した各記事ではパンタグラフの製造者名が確認できないが、[[#東洋技報121|東洋電機技報]]には京王にパンタグラフを納入したとの記載がある。</ref>PT-4201<ref name="RP578p235"/>、ブロイメットすり板装備品<ref name="RP578p237"/>がデハ8000形全車と、各編成1両のデハ8050形に搭載された<ref name="RP734p44"/>。 補助電源装置は4両・6両編成では6000系5扉車と同一の[[静止形インバータ]](SIV、AC200 V、出力130 k[[ボルトアンペア|VA]])<ref name="RF374p52"/>が、8両編成では出力190 kVAの静止形インバータが採用された<ref name="RP734p44"/>。各編成ともデハ8050形に1台が搭載されている<ref name="RP734p44"/>。 空気圧縮機は毎分吐出容量2130[[リットル]]<ref name="RF374p52"/>のHS-20D形<ref name="RP578p37"/>がデハ8050形・サハ8550形全車と4両編成のクハ8700形に搭載された<ref name="RP734p44"/>。 [[エア・コンディショナー|冷房装置]]は屋上集中式48.84 kW (42,000kcal/h) が各車に1台搭載された<ref name="RF374p52"/>。 == 形式構成 == 8000系は以下の形式で構成される。各形式とも同一編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている<ref name="RP734p44"/>。8両編成は下2桁が21(71)から附番されている<ref name="年鑑1995動向"/>。ここでは新製時の形式構成・両数を述べ、後年の改造については各改造の項にまとめた。「デ」は[[電動車]]を、「ク」は[[制御車]]を、「サ」は[[付随車]]を、「ハ」は[[普通車 (鉄道車両)|普通座席車]]を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。 === デハ8000形 === 主制御装置、パンタグラフを搭載する中間[[動力車|電動車]]である<ref name="RF374p49"/>。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている<ref name="RP734p44"/>。編成位置により番号の百の位が異なっている<ref name="RP734p44"/>。6両編成の2両目に8000番台(デハ8001 - デハ8014)、4両目に8100番台(デハ8101-デハ8114)、4両編成の2両目に8200番台(デハ8201-デハ8214)、8両編成の2両目・6両目にそれぞれ8000番台(デハ8021-デハ8033)・8100番台(デハ8121-デハ8133)に附番された車両が組み込まれている<ref name="RP734p44"/>。1992年から1997年にかけて合計68両が製造された<ref name="RP734p251"/>。 === デハ8050形 === デハ8000形とユニットを組み、[[圧縮機|電動空気圧縮機]]、補助電源装置を搭載する中間電動車である<ref name="RF374p48"/>。百の位はユニットを組むデハ8000形と同一<ref name="RP734p44"/>でデハ8000形同様1992年から1997年に68両が製造された<ref name="RP734p251"/>。6両編成の3両目に8000番台(デハ8051-デハ8064)、5両目に8100番台(デハ8151-デハ8164)、4両編成の3両目に8200番台(デハ8251-デハ8264)、8両編成の3両目・7両目にそれぞれ8000番台(デハ8071-デハ8083)・8100番台(デハ8171-デハ8183)の車両が組み込まれている<ref name="RP734p44"/>。6両編成の8000番台、8両編成の8100番台以外には京王八王子寄りにパンタグラフ1基が搭載されている<ref name="RP734p44"/>。 === サハ8500形 === 電動空気圧縮機がない[[付随車]] <ref name="RP734p222"/>である。8両編成の4両目に組み込まれ、1995年から1997年にサハ8521-サハ8533の13両が製造された<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p44"/>。 === サハ8550形 === 電動空気圧縮機付きの付随車<ref name="RP734p222"/>である。8両編成の5両目に組み込まれ<ref name="RP734p44"/>、1995年から1997年にサハ8571-サハ8583の13両<ref name="RP734p251"/>、事故廃車代替のため2009年にサハ8564<ref name="年鑑2010一覧"/>の合計14両が製造された。サハ8564は10両編成の7両目に組み込まれた<ref name="RF617-F"/>。 === クハ8700形 === 新宿寄り[[制御車]]である<ref name="RF374p49"/>。4両編成用は百の位が8とされ、電動空気圧縮機を搭載している<ref name="RF374p48"/><ref name="RF374p49"/>。1992年から1994年に6両編成用クハ8701-クハ8714と4両編成用クハ8801-クハ8814の28両、1995年から1997年に8両編成用クハ8721-クハ8733の13両、合計41両が製造された<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/>。 === クハ8750形 === 京王八王子寄り制御車で<ref name="RF374p49"/>、クハ8700形同様4両編成用は百の位が8とされている<ref name="RF374p48"/>。1992年から1994年に6両編成用クハ8751-クハ8764と4両編成用クハ8851-クハ8864の28両、1995年から1997年に8両編成用クハ8771-クハ8783の13両、合計41両が製造された<ref name="RP734p252"/>。 == 新製時のバリエーション == ===10両編成=== {{Vertical_images_list |幅=240px |枠幅=240px |1=Keio8803F.JPG |2=短いスカート(先頭クハ8803・2007年2月) |3=Keio-Series8000-8711.jpg |4=長いスカート(先頭クハ8711・2017年5月) }} 最初に製造されたグループである。優等系列車に運用される想定で10両編成となったが、当時休日の[[特急]]が高幡不動で[[高尾山口駅|高尾山口]]方面と[[京王八王子駅|京王八王子]]方面に分割・併合されていたことから、新宿寄りから4両+6両に分割できる編成構成となった<ref name="RP578p45"/>。1992年3月から4月にかけて4両+6両の10両6編成が竣工<ref name="RP578p252"/>、5月から順次営業入り<ref name="RP578p50"/>、同年5月28日のダイヤ改定から特急運用に投入された<ref name="RP578p50"/>。同年10月から11月に4編成<ref name="RP578p252"/>、1994年に4編成の合計14編成140両が製造された<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/>。編成ごとに車両メーカーがそろえられており、[[日本車輌製造]](以下、日車)製と東急製でそれぞれ7編成ずつである<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/>。 8807編成+8707編成以降は客室貫通仕切戸の窓が下方向に拡大された<ref name="とれいん397p34"/>。8811編成+8711編成以降は先頭車の[[排障器|スカート]]が下方向に拡大され、8813編成+8713編成以降はスカートの塗装色がクリーム色に変更されている<ref name="とれいん397p34"/>。灰色のスカートで竣工した編成についても順次クリーム色に変更された<ref name="とれいん397p34"/>。 8808編成+8708編成と1994年製造の40両は側面行先・種別表示装置がLED式に変更されている<ref name="RP734p222"/><ref name="RP578p238"/>。 <gallery perrow="3"> ファイル:Outside Information Board of Keio 8000.jpg|幕式側面種別・行先表示装置 ファイル:LED Outside Information Board of KTR 8000.jpg|3色LED式側面種別・行先表示装置 </gallery> <div style="float: left; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+4両編成 |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" |style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="4"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |rowspan="3"|製造所<br/><ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> |rowspan="3"|新製年月<br/><ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> |- !形式 | '''クハ8700''' || '''デハ8000''' || '''デハ8050''' || '''クハ8750''' |- ! 区分 | Tc1 || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07; border-bottom:solid 3px #7B766A;" !車両番号 |8801<br/>8802<br/>8803<br/>8804<br/>8805<br/>8806<br/>8807<br/>8808<br/>8809<br/>8810<br/>8811<br/>8812<br/>8813<br/>8814 |8201<br/>8202<br/>8203<br/>8204<br/>8205<br/>8206<br/>8207<br/>8208<br/>8209<br/>8210<br/>8211<br/>8212<br/>8213<br/>8214 |8251<br/>8252<br/>8253<br/>8254<br/>8255<br/>8256<br/>8257<br/>8258<br/>8259<br/>8260<br/>8261<br/>8262<br/>8263<br/>8264 |8851<br/>8852<br/>8853<br/>8854<br/>8855<br/>8856<br/>8857<br/>8858<br/>8859<br/>8860<br/>8861<br/>8862<br/>8863<br/>8864 |日車<br/>日車<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>東急<br/>日車<br/>日車<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>東急 |1992.03<br/>1992.03<br/>1992.03<br/>1992.03<br/>1992.04<br/>1992.04<br/>1992.10<br/>1992.11<br/>1992.11<br/>1992.12<br/>1994.01<br/>1994.02<br/>1994.02<br/>1994.12 |- !搭載機器<ref name="RF374p48"/> |CP|| CON, PT|| SIV, CP, PT|| &nbsp;||rowspan="3" colspan="2"| &nbsp; |- !自重<ref name="RF374p52"/> | 29 [[トン|t]]||37.5 t || 36.5 t||28 t |- !定員<ref name="RF374p52"/><ref name="RF374p48"/> | 143 || 155 || 154 || 143 |} </div> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+6両編成 |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" |style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="6"|{{TrainDirection|[[新宿駅|新宿]]|[[京王八王子駅|京王八王子]]}} |rowspan="3"|製造所<br/><ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> |rowspan="3"|新製年月<br/><ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> |- !形式 | '''クハ8700'''|| '''デハ8000''' || '''デハ8050''' || '''デハ8000''' || '''デハ8050''' || '''クハ8750''' |- !区分 | Tc1 || M1 || M2 || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07; border-bottom:solid 3px #7B766A;" !車両番号 |8701<br/>8702<br/>8703<br/>8704<br/>8705<br/>8706<br/>8707<br/>8708<br/>8709<br/>8710<br/>8711<br/>8712<br/>8713<br/>8714 |8001<br/>8002<br/>8003<br/>8004<br/>8005<br/>8006<br/>8007<br/>8008<br/>8009<br/>8010<br/>8011<br/>8012<br/>8013<br/>8014 |8051<br/>8052<br/>8053<br/>8054<br/>8055<br/>8056<br/>8057<br/>8058<br/>8059<br/>8060<br/>8061<br/>8062<br/>8063<br/>8064 |8101<br/>8102<br/>8103<br/>8104<br/>8105<br/>8106<br/>8107<br/>8108<br/>8109<br/>8110<br/>8111<br/>8112<br/>8113<br/>8114 |8151<br/>8152<br/>8153<br/>8154<br/>8155<br/>8156<br/>8157<br/>8158<br/>8159<br/>8160<br/>8161<br/>8162<br/>8163<br/>8164 |8751<br/>8752<br/>8753<br/>8754<br/>8755<br/>8756<br/>8757<br/>8758<br/>8759<br/>8760<br/>8761<br/>8762<br/>8763<br/>8764 |日車<br/>日車<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>東急<br/>日車<br/>日車<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>東急 |1992.03<br/>1992.03<br/>1992.03<br/>1992.03<br/>1992.04<br/>1992.04<br/>1992.10<br/>1992.11<br/>1992.11<br/>1992.12<br/>1994.01<br/>1994.02<br/>1994.02<br/>1994.12 |- !搭載機器<ref name="RF374p48"/> |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP|| CON, PT|| SIV, CP, PT|| &nbsp; ||rowspan="3" colspan="2"| &nbsp; |- !自重<ref name="RF374p52"/> | 28 t||37.5 t || 36.5 t||37.5 t || 36.5 t||28 t |- !定員<ref name="RF374p52"/><ref name="RF374p48"/> | 143 || 155 || 154 || 154 || 154 || 143 |} {{clear|left}} ; 凡例 : Tc …制御車、M …中間電動車、T…付随車、CON…[[主制御器|制御装置]]、SIV…補助電源装置([[静止形インバータ]])、CP…電動空気圧縮機、PT…[[集電装置]](京王八王子寄り)以下同じ。 === 8両編成 === [[1995年]](平成7年)以降は8両編成での製造に移行した<ref name="RP734p222"/>。8両編成では番号が番号下2桁を21 (71) から附番<ref name="年鑑1995動向"/>し、分割併合が考慮されなかったことから新形式サハ8500形・サハ8550形を含む8両貫通編成となった<ref name="年鑑1995動向"/>。自動連解結装置が装備されなかったため、先頭車スカートに同装置用の切欠がない<ref name="年鑑1995動向"/><ref name="とれいん397p34"/>。1999年にかけて13編成が製造され<ref name="RP734p222"/>、6編成が日車製、7編成が東急製である<ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/>。8725編成以前の編成は正面行先・種別表示装置が幕式、側面がLED式で製造されたが、8724編成と8725編成は営業入り前に、その他の編成は営業入り後に正面もLED式に交換された<ref name="とれいん397p33"/>。8726編成以降は製造時から正側面ともLED式である<ref name="RP734p222"/>。8726編成以降は車両間に転落防止外幌が設置され<ref name="RP734p46"/>、2001年までに既存車にも追加された<ref name="RP734p42"/>。8723編成以降は貫通仕切戸のガラスが従来の薄ブラウンから無色に変更されている<ref name="とれいん397p34"/>。最終製造の8732編成と8733編成は台車が軸梁式ボルスタレス台車TS-1017、TS-1018に変更された<ref name="RP734p222"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" |style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |rowspan="3"|製造所<br/><ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> |rowspan="3"|新製年月<br/><ref name="RP734p251"/><ref name="RP734p252"/> |- !形式 | '''クハ8700'''|| '''デハ8000''' || '''デハ8050''' || '''サハ8500''' || '''サハ8550''' || '''デハ8000''' || '''デハ8050''' || '''クハ8750''' |- !区分 | Tc1 || M1 || M2 || T1 || T2 || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07; border-bottom:solid 3px #7B766A;" !車両番号 |8721<br/>8722<br/>8723<br/>8724<br/>8725<br/>8726<br/>8727<br/>8728<br/>8729<br/>8730<br/>8731<br/>8732<br/>8733 |8021<br/>8022<br/>8023<br/>8024<br/>8025<br/>8026<br/>8027<br/>8028<br/>8029<br/>8030<br/>8031<br/>8032<br/>8033 |8071<br/>8072<br/>8073<br/>8074<br/>8075<br/>8076<br/>8077<br/>8078<br/>8079<br/>8080<br/>8081<br/>8082<br/>8083 |8521<br/>8522<br/>8523<br/>8524<br/>8525<br/>8526<br/>8527<br/>8528<br/>8529<br/>8530<br/>8531<br/>8532<br/>8533 |8571<br/>8572<br/>8573<br/>8574<br/>8575<br/>8576<br/>8577<br/>8578<br/>8579<br/>8580<br/>8581<br/>8582<br/>8583 |8121<br/>8122<br/>8123<br/>8124<br/>8125<br/>8126<br/>8127<br/>8128<br/>8129<br/>8130<br/>8131<br/>8132<br/>8133 |8171<br/>8172<br/>8173<br/>8174<br/>8175<br/>8176<br/>8177<br/>8178<br/>8179<br/>8180<br/>8181<br/>8182<br/>8183 |8771<br/>8772<br/>8773<br/>8774<br/>8775<br/>8776<br/>8777<br/>8778<br/>8779<br/>8780<br/>8781<br/>8782<br/>8783 |東急<br/>東急<br/>日車<br/>日車<br/>日車<br/>日車<br/>東急<br/>東急<br/>東急<br/>東急<br/>日車<br/>東急<br/>日車 |1995.01<br/>1995.02<br/>1995.02<br/>1995.03<br/>1995.03<br/>1995.10<br/>1995.11<br/>1996.12<br/>1998.02<br/>1998.03<br/>1998.03<br/>1999.01<br/>1999.01 |- !搭載機器<ref name="RP734p44"/> |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP, PT||&nbsp;|| CP || CON, PT|| SIV, CP|| &nbsp; ||rowspan="3" colspan="2"| &nbsp; |- !自重<ref name="RP734p260"/> |28 t||37.5 t|| 36.5 t||27 t||28 t||37.5 t || 36.5 t||28 t |- !定員<ref name="RP734p221"/><ref name="RP734p260"/> | 143 || 155 || 154 || 154 || 154 || 154 || 154 || 143 |} == 特殊な編成 == {{Double image aside|right|Keio_Saha8654.jpg|230|Ko8764.jpg|197|サハ8564(2010年2月17日 明大前駅)|転落防止幌設置後のサハ8514とサハ8564の連結部(2012年6月22日 北野駅)}} [[file:Keio 8714F refurbished outside.jpg|thumb|230px|車体修理工事後のサハ8514とサハ8564の連結部。<br>(2020年12月23日)]] 2008年8月に高尾線内([[高尾山口駅]] - [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]間)で発生した土砂崩れに8728編成が巻き込まれ、先頭車のクハ8728が2009年3月に[[廃車]]となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/emergency/bousai/m12873/006/p005645_d/fil/8goukiroku.pdf |format=pdf |accessdate=2012-07-19 |title=「平成20年8月末豪雨」 八王子の記録 |publisher=八王子市}}</ref><ref name="年鑑2009動向" />。 その後2009年12月、まず8714編成+8814編成向けにサハ8564を新製し、当時中間に封じ込められていたクハ8814と入れ替えた。そして捻出したクハ8814をクハ8728(2代目)として8728編成に組み込み、事故の代替とした<ref name="年鑑2010動向" /><ref name="年鑑2010一覧" />。 これにより8714編成は先頭部と中間車が連結する特殊な編成となっていた。なお2014年には運転台の撤去が行われており、違和感は小さくなっている。 新製されたサハ8564は新宿側に先頭部を連結するため、当初貫通路が塞がれていたほか<ref name="RP893p246" />、ドアなどが9000系30番台などと共通になるなど、従来車から変更されている<ref name="RP893p245" />。新クハ8728においては改番とともに電動空気圧縮機の撤去等が行われた<ref name="RF604p93" />。 両編成のその後の動きは他の編成と概ね変わらないが、サハ8564と連結するクハ8764→サハ8514においては2012年3月に運転台部分へ転落防止外幌が設置された<ref>『鉄道ファン』2012年8月号(通巻616号)付録「大手私鉄車両ファイル」</ref>ことが特筆される。 '''8728編成'''(全車東急車輛製){{Anchors|8728編成}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="8"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |- !形式 | クハ8700|| デハ8000 || デハ8050 || サハ8500 || サハ8550 || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 |- style="border-top:solid 3px #d07;" !車両番号 | '''8728'''(II)<br />(8814)|| 8028<br />&nbsp;|| 8078<br />&nbsp;|| 8528<br />&nbsp;|| 8578<br />&nbsp;|| 8128<br />&nbsp;|| 8178<br />&nbsp;|| 8778<br />&nbsp; |- !搭載機器 |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP, PT||&nbsp;|| CP || CON, PT|| SIV, CP|| &nbsp; |- !新製年月 |1994.12 | colspan="7" |1996.12 |- !車号変更 |'''2009.12''' | colspan="7" |&nbsp; |} '''8714編成'''(全車東急車輛製) {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="10"|{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} |- !形式 | クハ8700|| デハ8000 || デハ8050 || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 || '''サハ8500''' || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 |- style="border-top:solid 3px #d07;" !車両番号 | 8714 || 8014 || 8064 || 8114 || 8164 || 8764 ||'''8564''' || 8214 || 8264 || 8864 |- !搭載機器 |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP|| CON, PT|| SIV, CP, PT|| &nbsp; |CP |CON, PT |SIV, CP, PT |&nbsp; |- !新製年月 | colspan="6" |1994.12 |'''2009.12''' | colspan="3" |1994.12 |} == 車体ラッピング == [[京王2000系電車|2000系]]の車体色をベースとし[[高尾山]]の自然をイメージしたラッピングを、8713編成に施して[[2015年]](平成27年)9月30日から運行している<ref name="Keio20150924" /><ref name="RP911p99" />。 <gallery> Keio-Series8000-8713 Takao-wrapping.jpg|緑色のラッピングが施された8713編成(2021年11月 北野駅 - 長沼駅間) </gallery> == 改造工事 == === パンタグラフ換装 === デハ8125の菱形パンタグラフが1998年に東洋製PT-7110シングルアーム式に<ref name="RP893p247"/>、2005年ごろに残り全車のパンタグラフが同じくPT-7110に換装されている<ref name="年鑑2006動向"/><ref name="RP893p286"/><ref name="RP893p287"/>。 === 旅客案内装置設置 === 2001年から2003年にかけて客室ドア上部にLED式の旅客案内装置が設置された<ref name="とれいん397p34"/>。 [[File:Keio-Series8000 Inside LED.jpg|thumb|180px|LED式の旅客案内装置]] === 編成順位変更 === 2006年のダイヤ改定で特急の分割併合運用が無くなっていた<ref name="とれいん397p34"/>が(シーズンダイヤの廃止)、2007年12月ごろに10両編成の編成順位を新宿寄りから4両+6両から6両+4両に変更している<ref name="railf20071217"/>。 === 表示装置LED化 === {{Double image aside|right|Keio-Series8000-8712.jpg|200|Rapid Tsutsujigaoka.JPG|180|急行灯の白色LED化、種別・行先表示装置のフルカラーLED化が施工された編成(2021年11月)|フルカラーLED化された側面種別・行先表示装置(2013年6月)}} 2008年ごろから、行先表示装置のフルカラーLED化が行われ、現在は全車フルカラーLED化されている。{{-}} === ATC設置工事 === {{Double image aside|right|Keio8000 Tc8854 Controler.jpg|200|Keio8000inside.JPG|200|ATC設置後の運転台|大型袖仕切が設置された後の車内}} [[自動列車制御装置#京王電鉄(京王ATC)|ATC]]車上装置の設置工事がATC運用開始に先立つ2008年度前後に行われている<ref name="年鑑2009動向"/>。特徴的だったLED表示の速度計はATC設置工事時に通常の機械式に変更された<ref name="ダイヤ情報310p19"/>。ATC設置工事と同時期に大型の座席袖仕切設置、座席部への手すり設置が行われている<ref name="ダイヤ情報310p20"/>。また、一部の編成はドアの交換も実施された。{{-}} === 中間先頭車の付随車化 === 2011年8月25日付で、10両編成の中間に入っていたクハ8700形とクハ8750形がそれぞれサハ8550形とサハ8500形に形式変更されている<ref name="DJ339p125"/>。なお、実際の車両に表示されている番号はこの時点では変更されておらず、後の車体修理工事の際に変更が行われた<ref name="RF617-Ap"/><ref name="年鑑2015動向"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" |style="background-color:#ccc;"|&nbsp; | colspan="10" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} | rowspan="3" |車号変更 |- !形式 | クハ8700|| デハ8000 || デハ8050 || デハ8000 || デハ8050 || '''サハ8500'''<br />(クハ8750) || '''サハ8550'''<br />(クハ8700) || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 |- !区分 | Tc1 || M1 || M2 || M1 || M2 || '''T1'''<br />(Tc2) || '''T2'''<br />(Tc1) || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07;" ! rowspan="2" |車両番号 |8701<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8713<br/>&nbsp;|| 8001<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8013<br/>&nbsp;|| 8051<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8063<br/>&nbsp;|| 8101<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8113<br/>&nbsp;|| 8151<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8163<br/>&nbsp;|| '''8501'''<br/>(8751)<br/>'''∥'''<br/>'''8513'''<br/>(8763)|| '''8551'''<br/>(8801)<br/>'''∥'''<br/>'''8563'''<br/>(8813)|| 8201<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8213<br/>&nbsp;|| 8251<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8263<br/>&nbsp;|| 8851<br/>&nbsp;<br/>∥<br/>8863<br/>&nbsp; | rowspan="2" |2011.08 |- |8714<br />&nbsp; |8014<br />&nbsp; |8064<br />&nbsp; |8114<br />&nbsp; |8164<br />&nbsp; |'''8514'''<br />(8764) |8564<br />&nbsp; |8214<br />&nbsp; |8264<br />&nbsp; |8864<br />&nbsp; |- style="border-top:solid 3px #7B766A;" !搭載機器<ref name="RF617-Ap" /> |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP|| CON, PT|| SIV, CP, PT ||&nbsp;|| CP || CON, PT|| SIV, CP, PT|| &nbsp; |&nbsp; |} ;注記 : 括弧内は旧番号(車両に表記されている番号)。 === LED照明化 === 8733編成は2012年2月に[[LED照明]]に交換している<ref name="年鑑2012一覧"/>。2018年度までに京王線車両全車をLED照明化する計画となっている<ref name="Keio20150723"/>。 === 自動放送装置取付 === 10両編成には、2012年から自動放送装置の取付が行われている<ref name="年鑑2012一覧"/>。8両編成には、後述の車体改修工事と同時に取付が行われている。 === 制御装置更新 === GTO素子などの生産中止に伴う予備品確保と省エネルギー化のため<ref name="RP893p54"/><ref name="年鑑2014p161"/>、2013年3月に8730編成の制御装置が更新された<ref name="年鑑2013一覧"/>。1編成に2つの異なる装置が搭載されているため、2箇月の改造期間のほか、1箇月をかけて調整が行われた<ref name="年鑑2014p160" />。 * デハ8030・デハ8080ユニットには日立製、冗長性の向上のため主電動機4台を1群として2群を一括制御し、故障時は1群を開放できるよう変更、主電動機は全密閉型となった<ref name="年鑑2013一覧" /><ref name="年鑑2013動向" /><ref name="年鑑2014p160" />。 * デハ8130・デハ8180ユニットには[[東芝]]製[[永久磁石同期電動機]] (PMSM) が採用され、東芝製4in1<ref group="注">インバータ4基を1台のパワーユニットに集約したシステム。PMSMでは回転数に同期した制御が必要となるため各軸個別制御となるが、パワーユニット数を減少させることで小型軽量化を図った。</ref>×2群の制御装置が搭載された<ref name="年鑑2013一覧" /><ref name="年鑑2013動向" />。 その後、2015年4月には8729編成にメーカーを逆にする形で改造が行われ、8100番台のユニットを8730編成と入れ替えた。これにより8729編成は東芝製、8730編成は日立製機器搭載となった<ref name="年鑑2016動向" />。 '''本格的な実施''' 2016年3月には東芝製の装置を用いて8721編成にも改造が行われた。翌2016年度からは後述の車体修理工事と同時に実施されることとなり、またメーカーは10両編成が日立、8両編成が東芝とされた。これらの編成は当該節を参照。 2015年度以前に車体修理工事を施工した10両7本<ref group="注">8703・8705・8707・8708・8711・8713・8714編成</ref>についても、2021年2月には8707編成に制御装置更新が実施されている。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" !編成 !竣工年月 !メーカー !備考 |- |8730編成 |2013.03<ref name="年鑑2013一覧" /> |8000番台:日立 8100番台:東芝 | rowspan="2" |2015年4月に一部中間車トレード<br />以後は8730編成が日立・8729編成が東芝 |- |8729編成 |2015.04<ref name="年鑑2016一覧" /> |8000番台:東芝 8100番台:日立 |- |8721編成 |2016.03<ref name="年鑑2016一覧" /> |東芝 |&nbsp; |- |8707編成 |2021.02<ref name=":0">『鉄道ファン』2021年8月号(通巻724号)付録 大手私鉄車両ファイル</ref> |日立 | rowspan="7" |車体修理工事を2015年度以前に実施 |- |8703編成 | colspan="2" rowspan="6" |(未施工) |- |8705編成 |- |8708編成 |- |8711編成 |- |8713編成 |- |8714編成 |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="8" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} | rowspan="3" |車号変更 |- !形式 | クハ8700|| デハ8000 || デハ8050 || サハ8500 || サハ8550 || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 |- !区分 | Tc1 || M1 || M2 || T1 || T2 || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07;" ! rowspan="2" |車両番号 | 8729<br />&nbsp;|| 8029<br />&nbsp;|| 8079<br />&nbsp;|| 8529<br />&nbsp;|| 8579<br />&nbsp;|| '''8129'''(II)<br />(8130)|| '''8179'''(II)<br />(8180)|| 8779<br />&nbsp; | rowspan="2" |2015.04<ref name="年鑑2016一覧" /><ref name="年鑑2016一覧2" /> |- |8730<br />&nbsp; |8030<br />&nbsp; |8080<br />&nbsp; |8530<br />&nbsp; |8580<br />&nbsp; |'''8130'''(II)<br />(8129) |'''8180'''(II)<br />(8179) |8780<br />&nbsp; |- style="border-top:solid 3px #7B766A;" !搭載機器<ref name="RF605formation" /> |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP, PT||&nbsp;|| CP || CON, PT|| SIV, CP|| &nbsp; || rowspan="3" | &nbsp; |- !自重<ref name="年鑑2014諸元" /> |28 t||37.5 t|| 37 t||27 t||28 t||37.5 t || 37 t||28 t |- !定員<ref name="年鑑2014諸元" /> | 143 || 155 || 154 || 154 || 154 || 154 || 154 || 143 |} ;注記 : 括弧内は旧番号、(II) と付記されている車両は同じ番号を付けた2代目の車両であることを指す。 === 車体修理工事 === 2013年から大規模な改造工事が行われている<ref name="RF640-Ap"/><ref name="RP891p132"/><ref name="年鑑2014p158"/>。主な内容は以下の通り。 * 10両編成において、中間に組み込まれていた元先頭車の[[運転台撤去車|運転台の撤去]]を撤去し貫通編成化<ref name="keiojuuki" />(非常時における乗客の避難誘導の円滑化、定員増加、メンテナンス削減を目的として実施)。 ** 運転台部分490 mmが切断され、シルバーメタリックに塗装された普通鋼製の切妻の構体が取り付けられた<ref name="RP893p247" /><ref name="RP893p54" /><ref name="年鑑2014p158" />。該当部は妻窓・戸袋窓がなく<ref name="RP893p247" />、側窓も固定式となった<ref name="年鑑2014p158" />。サハ8550形(旧クハ8700形)には貫通扉を設置している<ref name="年鑑2014p160" />。 ** 代替新造車が組み込まれた8714編成に対しては、他編成と仕様を揃えるべく独自の工事メニューが追加された。 ** 8709編成サハ8559(旧クハ8809)から切断された運転台部分は、2018年10月11日にオープンした「[[京王れーるランド|京王れーるランドアネックス]]」にカットボディ展示物として設置された<ref>{{Cite press release|和書|title=開業5周年企画として「京王れーるランドアネックス」をオープンします|publisher=京王電鉄株式会社|date=2018-08-28|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr180828_keiorailland.pdf|accessdate=2021-01-20}}</ref>。 *10両編成において、8850番台を冠する京王八王子寄り先頭車を8750番台に改番<ref name="RP891p132" />。 *内装を全て交換<ref group="注">サハ8564を除く。</ref>。床は従来の線で区分する方式から、茶色の濃淡床色を変えて区分する方式に変更<ref name="RP893p247" />。 **シートの色を赤色系からグリーン系に変更<ref name="RP893p230" />。 **[[地下鉄等旅客車#現行の“技術基準省令の解釈基準”に示された火災対策|新火災対策基準]]<ref group="注">国鉄技第125号 「{{Cite web|和書|url=http://www.fdma.go.jp/html/data/tuchi1612/pdf/161227yo264-b1.pdf |format=PDF |title=鉄道に関する技術上の基準を定める省令等の解釈基準の一部改正について |date=2004-12-27 |accessdate=2014-07-23 |publisher=国土交通省 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140606233558if_/http://www.fdma.go.jp/html/data/tuchi1612/pdf/161227yo264-b1.pdf |archivedate=2014-06-06}}」による。</ref>に適合するよう、FRP製だった冷房吹き出し口をアルミ製に交換<ref name="RP893p247" /><ref name="年鑑2014p158" />。 **扉開閉表示灯をドア部車内に新設<ref name="RP893p247" />。 *側引戸を交換。引き込み防止のため、内側のガラス面に周囲との段差がないものとなった<ref name="年鑑2014p159" />。 *車椅子スペースを増設。 **8708編成までは2両に一か所となった。配置の都合上、デハ8000形のうち8100番台と8200番台を改番の上で振り替えている<ref name="RP893p247" /><ref name="年鑑2015動向" />。 **8707編成からは全車両に設置された。 *自動放送装置を新設(8両編成のみ・10両編成は更新<ref group="注">10両編成は2012年度に全編成設置済み。</ref>)。 *補助電源装置の更新・削減<ref name="RP893p287" /><ref name="RP893p260" /><ref name="年鑑2014動向" /> **250 kVAのSVH250-4073A<ref name="TDK130" />へ交換。削減は10両編成のみで、8150番台から撤去。 *一部編成において、空気圧縮機を更新・削減<ref name="RP893p287" /><ref name="RP893p260" /><ref name="年鑑2014動向" /> **1,600 L/minのスクリュー式RWS20Jへ交換し、8150番台から撤去。 *8両編成のみ、パンタグラフを増設(8150番台に設置) *2016年度施工分より、制御装置更新を実施。10両編成は日立製、8両編成は東芝製を採用。 * 2019年施工分のみ、防犯カメラを設置(後述)。 <gallery> Keio-Series8000 Inside.jpg|更新車の車内 Keio-Series8000 Inside-Priority-seat.jpg|更新車の優先席 Keio-Series8000 Inside Free-space.jpg|増設された車椅子スペース </gallery> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="10" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} | rowspan="3" |竣工年月 | rowspan="3" |CP更新<br />・削減 | rowspan="3" |車椅子<br />スペース | rowspan="3" |制御装置<br />更新 |- !形式 | クハ8700|| デハ8000 || デハ8050 || デハ8000 || デハ8050 || サハ8500 || サハ8550 || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 |- !区分 | Tc1 || M1 || M2 || M1 || M2 || T1 || T2 || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07;" ! rowspan="14" |車両番号 |8703<br />&nbsp; |8003<br />&nbsp; |8053<br />&nbsp; |'''8103'''(II)<br />(8203) |8153<br />&nbsp; |8503<br />&nbsp; |8553<br />&nbsp; |'''8203'''(II)<br />(8103) |8253<br />&nbsp; |'''8753'''(II)<br />(8853) |2014.03<ref name="年鑑2014一覧" /> |〇 | rowspan="6" |半数 | rowspan="7" |- |- |8713<br />&nbsp; |8013<br />&nbsp; |8063<br />&nbsp; |'''8113'''(II)<br />(8213) |8163<br />&nbsp; |8513<br />&nbsp; |8563<br />&nbsp; |'''8213'''(II)<br />(8113) |8263<br />&nbsp; |'''8763'''(II)<br />(8863) |2014.07<ref name="DJ369p125" /> | rowspan="3" |- |- |8714<br />&nbsp; |8014<br />&nbsp; |8064<br />&nbsp; |'''8114'''(II)<br />(8214) |8164<br />&nbsp; |8514<br />&nbsp; |8564<br />&nbsp; |'''8214'''(II)<br />(8114) |8264<br />&nbsp; |'''8764'''(II)<br />(8864) |2014.11<ref name="年鑑2015一覧" /> |- |8705<br />&nbsp; |8005<br />&nbsp; |8055<br />&nbsp; |'''8105'''(II)<br />(8205) |8155<br />&nbsp; |8505<br />&nbsp; |8555<br />&nbsp; |'''8205'''(II)<br />(8105) |8255<br />&nbsp; |'''8755'''(II)<br />(8855) |2015.03<ref name="年鑑2015一覧" /> |- |8711<br />&nbsp; |8011<br />&nbsp; |8061<br />&nbsp; |'''8111'''(II)<br />(8211) |8161<br />&nbsp; |8511<br />&nbsp; |8561<br />&nbsp; |'''8211'''(II)<br />(8111) |8261<br />&nbsp; |'''8761'''(II)<br />(8861) |2015.08<ref name="年鑑2016一覧" /> | rowspan="4" |〇 |- |8708<br />&nbsp; |8008<br />&nbsp; |8058<br />&nbsp; |'''8108'''(II)<br />(8208) |8158<br />&nbsp; |8508<br />&nbsp; |8558<br />&nbsp; |'''8208'''(II)<br />(8108) |8258<br />&nbsp; |'''8758'''(II)<br />(8858) |2015.11<ref name="年鑑2016一覧" /> |- |8707<br />&nbsp; |8007<br />&nbsp; |8057<br />&nbsp; |8107<br />&nbsp; |8157<br />&nbsp; |8507<br />&nbsp; |8557<br />&nbsp; |8207<br />&nbsp; |8257<br />&nbsp; |'''8757'''(II)<br />(8857) |2016.03<ref name="年鑑2016一覧" /> | rowspan="8" |全車 |- |8701<br />&nbsp; |8001<br />&nbsp; |8051<br />&nbsp; |8101<br />&nbsp; |8151<br />&nbsp; |8501<br />&nbsp; |8551<br />&nbsp; |8201<br />&nbsp; |8251<br />&nbsp; |'''8751'''(II)<br />(8851) |2016.09<ref name="RS2017改造" /> | rowspan="7" |日立 |- |8702<br />&nbsp; |8002<br />&nbsp; |8052<br />&nbsp; |8102<br />&nbsp; |8152<br />&nbsp; |8502<br />&nbsp; |8552<br />&nbsp; |8202<br />&nbsp; |8252<br />&nbsp; |'''8752'''(II)<br />(8852) |2016.12<ref name="RS2017改造" /> | rowspan="6" |- |- |8704<br />&nbsp; |8004<br />&nbsp; |8054<br />&nbsp; |8104<br />&nbsp; |8154<br />&nbsp; |8504<br />&nbsp; |8554<br />&nbsp; |8204<br />&nbsp; |8254<br />&nbsp; |'''8754'''(II)<br />(8854) |2017.09<ref name=":1">『鉄道ファン』2018年8月号(通巻688号)付録 大手私鉄車両ファイル</ref> |- |8706<br />&nbsp; |8006<br />&nbsp; |8056<br />&nbsp; |8106<br />&nbsp; |8156<br />&nbsp; |8506<br />&nbsp; |8556<br />&nbsp; |8206<br />&nbsp; |8256<br />&nbsp; |'''8756'''(II)<br />(8856) |2018.03<ref name=":1" /> |- |8709<br />&nbsp; |8009<br />&nbsp; |8059<br />&nbsp; |8109<br />&nbsp; |8159<br />&nbsp; |8509<br />&nbsp; |8559<br />&nbsp; |8209<br />&nbsp; |8259<br />&nbsp; |'''8759'''(II)<br />(8859) |2018.09<ref name=":2">『鉄道ファン』2019年8月号(通巻700号)付録 大手私鉄車両ファイル</ref> |- |8710<br />&nbsp; |8010<br />&nbsp; |8060<br />&nbsp; |8110<br />&nbsp; |8160<br />&nbsp; |8510<br />&nbsp; |8560<br />&nbsp; |8210<br />&nbsp; |8260<br />&nbsp; |'''8760'''(II)<br />(8860) |2019.03<ref name=":2" /> |- |8712<br />&nbsp; |8012<br />&nbsp; |8062<br />&nbsp; |8112<br />&nbsp; |8162<br />&nbsp; |8512<br />&nbsp; |8562<br />&nbsp; |8212<br />&nbsp; |8262<br />&nbsp; |'''8762'''(II)<br />(8862) |2019.10<!-- 10/03出場とのことですが、大手私鉄車両ファイルでは09/08になってました。 --> |- style="border-top:solid 3px #7B766A;" !搭載機器<ref name="年鑑2014諸元" /><ref name="RF640-F" /> |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP|| CON, PT||(CP,) PT ||&nbsp;||&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP, PT|| &nbsp; | colspan="4" rowspan="2" | |- !車椅子スペース |△ |〇 |△ |〇 |△ |〇 |〇 |△ |〇 |△ |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" | style="background-color:#ccc;" |&nbsp; | colspan="8" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子}} | rowspan="3" |竣工年月 | rowspan="3" |CP更新<br />・削減 | rowspan="3" |車椅子<br />スペース | rowspan="3" |制御装置<br />更新 |- !形式 | クハ8700|| デハ8000 || デハ8050 || サハ8500 || サハ8550 || デハ8000 || デハ8050 || クハ8750 |- !区分 | Tc1 || M1 || M2 || T1 || T2 || M1 || M2 || Tc2 |- style="border-top:solid 3px #d07;" ! rowspan="10" |車両番号 | 8721||8021||8071||8521||8571||8121||8171||8771||2022 | rowspan="10" |- | rowspan="10" |全車 | rowspan="10" |東芝 |- |8722 |8022 |8072 |8522 |8572 |8122 |8172 |8772 |2017.03<ref name="RS2017" /> |- |8723 |8023 |8073 |8523 |8573 |8123 |8173 |8773 |2017.12<ref name=":1" /> |- |8724 |8024 |8074 |8524 |8574 |8124 |8174 |8774 |2019.12<ref name=":3">『鉄道ファン』2020年8月号(通巻712号)付録 大手私鉄車両ファイル</ref> |- |8725 |8025 |8075 |8525 |8575 |8125 |8175 |8775 |2020.03<ref name=":3" /> |- |8726 |8026 |8076 |8526 |8576 |8126 |8176 |8776 |2020.08<ref name=":0" /> |- |8727 |8027 |8077 |8527 |8577 |8127 |8177 |8777 |2020.12<!-- 12/11出場とのことですが、大手私鉄車両ファイルでは11/19になってました。 --> |- |8729 |8029 |8079 |8529 |8579 |8129 |8179 |8779 |若葉台入場中 |- |8732 |8032 |8082 |8532 |8582 |8132 |8182 |8782 |2021.08<ref>『鉄道ファン』2022年8月号(通巻736号)付録 大手私鉄車両ファイル</ref> |- |8733 |8033 |8083 |8533 |8583 |8133 |8183 |8783 |2021.12<!-- 12/16出場とのことですが、大手私鉄車両ファイルでは11/25になってました。 --> |- style="border-top:solid 3px #7B766A;" !搭載機器<ref name="RF605formation" /> |&nbsp;|| CON, PT|| SIV, CP, PT||&nbsp;|| CP || CON, PT|| SIV, CP, PT|| &nbsp; | colspan="4" rowspan="2" |&nbsp; |- !車椅子スペース |〇 |〇 |〇 |〇 |〇 |〇 |〇 |〇 |} ;注記 : 括弧内は旧番号、(II) と付記されている車両は同じ番号を付けた2代目の車両であることを指す。 : 制御装置更新は車体修理工事と同時に施工されたもののみを示す。本工事以前・以後に行われたものは[[#制御装置更新]]を参照。 ==== 石綿取扱処理の未実施問題 ==== 上記の車体修理工事に際しては、車両メーカーからの設計図に基づき、断熱塗料に[[石綿]]が含有されていない認識で施工されていたが、その後の調査の結果、断熱塗料に石綿が含有していたことが判り、結果的に石綿関係法令に基づいた処理を施すことなく工事を行っていたことを、2017年10月20日に京王電鉄は公表・謝罪した<ref name="Keio20171020"/>。 京王電鉄側は、[[1989年]]以降に製造した車両の断熱塗料には、石綿が含有していない材料を用いて製造していることを車両メーカーからの書面にて確認していた。だが、2017年9月15日に同社で運用されていた1992年製造の[[京王7000系電車|7000系]]において廃車処理前の検査を実施したところ、一部の車両の断熱塗料に石綿が含有していたことが判明。そのため当該車と同時期に製造した8000系のうち過去に改造工事を実施した2両でも検査した結果、石綿が含有していたことが同年9月29日に判明した。のちに車両メーカーである総合車両製作所と日本車輌製造が行った同形式の検査でも、石綿が含有していたことが同年10月10日に判明している<ref name="Keio20171020"/>。 2017年現在、「原因は調査中」とされている。工事および廃棄処理を担当した全従業員に対して、健康相談や健康診断などを継続的に実施していくとしている<ref name="Keio20171020"/>。 === 車内防犯カメラ設置 === 車内での安全性向上のために、7000系7701編成、7705編成、5000系(2代)に次いで、2018年度に8710編成に[[防犯カメラ]]が設置され、2019年度にも26両に設置される予定である。車内のLED式案内表示器の左上に埋め込んで設置されている<ref name="Keio20190323"/>。{{-}} <gallery> 8000-Keio-Door.jpg|防犯カメラが設置された8710編成(2019年7月4日 聖蹟桜ヶ丘駅) </gallery> == 運用 == 10両編成は製造後特急運用を中心に運用され、休日の分割特急にも使用された<ref name="RF374p48"/><ref name="RP578p50"/>ほか、分割特急以外の6両編成単独運用や4両編成を2本組み合わせた運用もあった<ref name="とれいん397p34"/>。 8両編成は当初相模原線特急などに運用された<ref name="年鑑1995動向" />が、2001年のダイヤ改定で8両編成・10両編成とも列車種別を限定しない運用となり<ref name="とれいん397p34" />、8両編成は他形式と連結できないため各駅停車中心、10両編成は京王線の各駅停車から特急まで全線で幅広く運用されている<ref name="とれいん397p34" /><ref name="RP734p8" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="RF374p48">[[#鉄道ファン374|『鉄道ファン』通巻374号p48]]</ref> <ref name="RF374p49">[[#鉄道ファン374|『鉄道ファン』通巻374号p49]]</ref> <ref name="RF374p50">[[#鉄道ファン374|『鉄道ファン』通巻374号p50]]</ref> <ref name="RF374p51">[[#鉄道ファン374|『鉄道ファン』通巻374号p51]]</ref> <ref name="RF374p52">[[#鉄道ファン374|『鉄道ファン』通巻374号p52]]</ref> <ref name="PF374付図">[[#RF22217|『鉄道ファン』通巻374号付図]]</ref> <ref name="RP578p37">[[#1993総説|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p37]]</ref> <ref name="RP578p43">[[#1993-8000|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p43]]</ref> <ref name="RP578p45">[[#1993-8000|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p45]]</ref> <ref name="RP578p47">[[#1993-8000|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p47]]</ref> <ref name="RP578p50">[[#1993-8000|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p50]]</ref> <ref name="RP578p235">[[#1993めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p235]]</ref> <ref name="RP578p237">[[#1993めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p237]]</ref> <ref name="RP578p238">[[#1993めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p238]]</ref> <ref name="RP578p252">[[#1993車歴|『鉄道ピクトリアル』通巻578号p252]]</ref> <ref name="年鑑1995動向">[[#年鑑1995動向|『新車年鑑1995年版』p90]]</ref> <ref name="RF479p71">[[#鉄道ファン479|『鉄道ファン』通巻479号p71]]</ref> <ref name="RP734p8">[[#2003-8000|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p8]]</ref> <ref name="RP734p26">[[#2003輸送|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p26]]</ref> <ref name="RP734p37">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p37]]</ref> <ref name="RP734p42">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p42]]</ref> <ref name="RP734p44">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p44]]</ref> <ref name="RP734p46">[[#2003総説|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p46]]</ref> <ref name="RP734p221">[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p221]]</ref> <ref name="RP734p222">[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p222]]</ref> <ref name="RP734p251">[[#2003車歴|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p251]]</ref> <ref name="RP734p252">[[#2003車歴|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p252]]</ref> <ref name="RP734p260">[[#2003諸元|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p260]]</ref> <ref name="年鑑2006動向">[[#年鑑2006動向|『鉄道車両年鑑2006年版』p124]]</ref> <ref name="とれいん397p33">[[#とれいん397|『とれいん』通巻397号p33]]</ref> <ref name="とれいん397p34">[[#とれいん397|『とれいん』通巻397号p34]]</ref> <ref name="年鑑2009動向">[[#年鑑2009動向|『鉄道車両年鑑2009年版』p115]]</ref> <ref name="ダイヤ情報310p14">[[#DJ310概況|『鉄道ダイヤ情報』通巻310号p14]]</ref> <ref name="ダイヤ情報310p19">[[#ダイヤ情報310|『鉄道ダイヤ情報』通巻310号p19]]</ref> <ref name="ダイヤ情報310p20">[[#ダイヤ情報310|『鉄道ダイヤ情報』通巻310号p20]]</ref> <ref name="ダイヤ情報310p90">[[#DJ310F|『鉄道ダイヤ情報』通巻310号p90]]</ref> <ref name="年鑑2010動向">[[#年鑑2010動向|『鉄道車両年鑑2010年版』p123]]</ref> <ref name="年鑑2010一覧">[[#年鑑2010一覧|『鉄道車両年鑑2010年版』p214]]</ref> <ref name="RF604p93">[[#鉄道ファン604|『鉄道ファン』通巻604号p93]]</ref> <ref name="RF605formation">[[#鉄道ファン605編成表|『鉄道ファン』通巻605号付録]]</ref> <ref name="DJ339p125">[[#ダイヤ情報201207|『鉄道ダイヤ情報』2012年7月号p125]]</ref> <ref name="RF617-Ap">[[#鉄道ファン617バンク|『鉄道ファン』通巻617号付録]]</ref> <ref name="RF617-F">[[#鉄道ファン617編成表|『鉄道ファン』通巻617号付録]]</ref> <ref name="年鑑2012一覧">[[#年鑑2012一覧|『鉄道車両年鑑2012年版』p222]]</ref> <ref name="年鑑2012一覧">[[#年鑑2012一覧|『鉄道車両年鑑2012年版』p222]]</ref> <ref name="年鑑2013動向">[[#年鑑2013動向|『鉄道車両年鑑2013年版』p110]]</ref> <ref name="年鑑2013一覧">[[#年鑑2013一覧|『鉄道車両年鑑2013年版』p219]]</ref> <ref name="RP891p132">[[#RP891|『鉄道ピクトリアル』通巻891号p132]]</ref> <ref name="RF640-Ap">[[#鉄道ファン640バンク|『鉄道ファン』通巻640号付録]]</ref> <ref name="RF640-F">[[#鉄道ファン640編成表|『鉄道ファン』通巻640号付録]]</ref> <ref name="RP893p54">[[#2014総説|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p54]]</ref> <ref name="RP893p230">[[#2014めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p230]]</ref> <ref name="RP893p245">[[#2014めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p245]]</ref> <ref name="RP893p245">[[#2014めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p245]]</ref> <ref name="RP893p246">[[#2014めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p246]]</ref> <ref name="RP893p247">[[#2014めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p247]]</ref> <ref name="RP893p260">[[#2014編成表|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p260]]</ref> <ref name="RP893p286">[[#2014諸元|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p286]]</ref> <ref name="RP893p287">[[#2014諸元|『鉄道ピクトリアル』通巻893号p287]]</ref> <ref name="年鑑2014動向">[[#年鑑2014動向|『鉄道車両年鑑2014年版』p127]]</ref> <ref name="年鑑2014p158">[[#年鑑2014-10|『鉄道車両年鑑2014年版』p158]]</ref> <ref name="年鑑2014p159">[[#年鑑2014-10|『鉄道車両年鑑2014年版』p159]]</ref> <ref name="年鑑2014p160">[[#年鑑2014-8730|『鉄道車両年鑑2014年版』p160]]</ref> <ref name="年鑑2014p161">[[#年鑑2014-8730|『鉄道車両年鑑2014年版』p161]]</ref> <ref name="年鑑2014諸元">[[#年鑑2014諸元|『鉄道車両年鑑2014年版』p197]]</ref> <ref name="年鑑2014一覧">[[#年鑑2014一覧|『鉄道車両年鑑2014年版』p226]]</ref> <ref name="DJ369p125">[[#ダイヤ情報201501|『鉄道ダイヤ情報』通巻369号p125]]</ref> <ref name="年鑑2015動向">[[#年鑑2015動向|『鉄道車両年鑑2015年版』p126]]</ref> <ref name="年鑑2015一覧">[[#年鑑2015一覧|『鉄道車両年鑑2015年版』p240]]</ref> <ref name="RP911p99">[[#RP911p99|『鉄道ピクトリアル』通巻911号p99]]</ref> <ref name="年鑑2016動向">[[#年鑑2016動向|『鉄道車両年鑑2016年版』p101]]</ref> <ref name="年鑑2016一覧">[[#年鑑2016一覧|『鉄道車両年鑑2016年版』p217]]</ref> <ref name="年鑑2016一覧2">[[#年鑑2016一覧|『鉄道車両年鑑2016年版』p218]]</ref> <ref name="RS2017">[[#編成表2017|『私鉄車両編成表 2017』p55]]</ref> <ref name="RS2017改造">[[#編成表2017改造|『私鉄車両編成表 2017』p199]]</ref> <ref name="railf20071217">{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2007/12/17/101100.html|title=京王8000系の話題|publisher=railf.jp (交友社)|date=2007-12-17|accessdate=2012-08-06}}</ref> <ref name="TDK130">[https://web.archive.org/web/20220525130457/https://www.toyodenki.co.jp/technical-report/pdf/giho130/s13014.pdf 京王電鉄株式会社8000系補助電源装置](PDF) - 東洋電機技報130号(2014年・インターネットアーカイブ)。</ref> <ref name="keiojuuki">{{Cite web|和書|url=https://www.keiojuuki.co.jp/renewal/index.html|title=車両の改造・リニューアル|publisher=京王重機整備株式会社|accessdate=2019-10-15}}</ref> <ref name="Keio20150723">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150723_kankyotrain.pdf|title=新型VVVFインバータ制御装置の導入など さらに環境に優しい電車に生まれ変わります!|publisher=京王電鉄ニュースリリース|date=2015-07-23|accessdate=2016-07-28}}</ref> <ref name="Keio20171020">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/announce2017/nr171020_syaryou.pdf|title=車両改造工事における断熱塗料の石綿取扱処理の未実施について|publisher=京王電鉄ニュースリリース|format=|date=2017-10-20|accessdate=2019-10-15}}</ref> <ref name="Keio20150924">{{Cite web|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150924_takaosandensya.pdf|title=9 月 30 日(水)から京王線で 高尾山をイメージしたラッピング車両を運行 ~往年の車両 2000 系のカラーを復刻~ 高尾山エリアの魅力を PR|date=2015-09-24|accessdate=2015-11-29}}</ref> <ref name="Keio20190323">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190318_camera2.pdf|title=京王線・井の頭線の車両に車内防犯カメラを設置します|publisher=京王電鉄ニュースリリース|date=2019-03-23|accessdate=2019-05-12}}</ref> }} == 参考文献 == === 雑誌記事 === * 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』通巻374号(1992年6月・交友社) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author= 京王帝都電鉄車両部車両課|year= |month= |title=ニューカラーで登場 京王8000系 |journal= |issue= |pages= 48-52 |publisher= |ref = 鉄道ファン374}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author= |year= |month= |title=付図 RF22363 京王帝都電鉄 制御客車 形式 クハ8700(Tc1)|journal= |issue= |pages= |publisher= |ref = RF22363}} * 『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻578号「特集 京王帝都電鉄」(1993年7月・[[電気車研究会]]) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=京王帝都電鉄車両部車両課|year= |month= |title=車両総説 |journal= |issue= |pages= 34-42 |publisher= |ref = 1993総説}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=京王帝都電鉄車両部車両課|year= |month= |title=8000系の構想から誕生まで |journal= |issue= |pages= 43-50 |publisher= |ref = 1993-8000}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author= |year= |month= |title=現有車両全形式 |journal= |issue= |pages= 186-192 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ja-jp|和書|author=田中 健輔|year= |month= |title=輸送と運転 近年の動向 |journal= |issue= |pages= 23-32 |publisher= |ref = 2003輸送}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=京王電鉄車両電気部車両課|year= |month= |title=車両総説 |journal= |issue= |pages= 42-49 |publisher= |ref = 2003総説}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=京王電鉄 現有車両プロフィール |journal= |issue= |pages= 212-239 |publisher= |ref = 2003プロフィール}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=京王電鉄 主要車歴表 |journal= |issue= |pages= 240-259 |publisher= |ref = 2003車歴}} ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=京王電鉄 主要車両諸元表 |journal= |issue= |pages= 259-260 |publisher= |ref = 2003諸元}} * 『ナブコ技報』通巻94号(2003年7月)(2003年7月・株式会社ナブコ) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author= 佐藤 晋 (ナブコ 車両事業部 技術部)|year= |month= |title=沖縄都市モノレールHRDA‐1ブレーキ装置 |journal= |issue= |pages= 25-31 |publisher= |ref = ナブコ94}} * 『鉄道ピクトリアル』通巻781号「鉄道車両年鑑2006年版」(2006年10月・電気車研究会) ** {{Cite journal ja-jp|和書|author=|year= |month= |title=2005年度民鉄車両動向 |journal= |issue= |pages= 118-140 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[[東洋電機製造]]「東洋電機技報」No.130(2014年発行){{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20220525130457/https://www.toyodenki.co.jp/technical-report/pdf/giho130/s13014.pdf 「京王電鉄株式会社8000系補助電源装置」]}}(インターネットアーカイブ) {{Good article}} {{京王電鉄の車両}} {{デフォルトソート:けいおう8000けいてんしや}} [[Category:京王電鉄の電車|8000]] [[Category:1992年製の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:日本車輌製造製の電車]] [[Category:グッドデザイン賞受賞車 (鉄道車両)]] [[Category:鉄道車両関連]]
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京王5000系電車 (初代)
京王5000系電車(けいおう5000けいでんしゃ)は、かつて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に在籍していた通勤形電車である。 本系列は狭義の意味での5000系と、その増結用として製造された5100系が存在したが、一般的に両者をまとめて5000系として扱うことが多い。このため、本項では2形式についてまとめて記述する。なお5100系は当初5070系と名乗っていたが、車両増備で番号重複が発生するため、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて改番されて5100系となった。 本記事では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は、新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、「5701編成」もしくは「5701F」の様に表現する。編成表は各種文献に倣って新宿寄りを左側として表記する。 京王線系統は1963年(昭和38年)8月4日に架線電圧の1,500V昇圧を実施し、同年10月に新宿 - 東八王子間をそれまでより10分短縮した40分で結ぶ特急電車の運行を開始した。その特急などの優等列車運用に使用するため、昇圧と同時にデビューしたのが本系列である。1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)にかけて5000系が4両編成23本、5100系が2両編成12本・3両編成13本の計155両が日本車輌製造・東急車輛製造・日立製作所で製造された。 それまでの京王線車輛とは車体色・デザインが一新され、路面電車由来の軌道線から本格的な都市鉄道への脱皮を果たしたことを象徴する車両として、京王のイメージアップに大いに貢献した。また前年1962年(昭和37年)に登場した井の頭線用の3000系に続いて、登場翌年の1964年(昭和39年)度の鉄道友の会ローレル賞を受賞している。同一鉄道事業者の2年連続受賞は京王が初であった。 また1968年(昭和43年)4月に導入された車両からは関東地方初、また通勤形電車のうちロングシートを装備した車両という条件に限れば日本初の冷房車となった。 旅客用車としては1996年(平成8年)12月1日まで、事業用車に転用された3両が2004年(平成16年)8月1日まで京王線で運用され、引退後は1両が京王れーるランドで保存されている。また1987年(昭和62年)以降、伊予鉄道をはじめとした地方私鉄に全体の4割以上となる67両が譲渡され、一部は本系列のデビューから60年を経過した2023年現在も運用されている。 1950年代以降、太平洋戦争後の復興と日本経済の順調な発展から、京王線が走る東京都下西郊の三多摩地区の人口は急増していた。京王線の乗客も急増し、輸送人員全体で見ても1950年から1955年の間に1.8倍に、1960年には1950年の2.7倍にまで伸びた。 京王も輸送力増強に努め、1950年の2600系より他の大手民鉄並みの車両の大型化、京王電軌時代からの中型車にも長編成化工事を行い、曲線改良や重軌条化などを進めて1960年(昭和35年)10月1日のダイヤ改正からは最大5両編成で、翌年にはラッシュ時の運転間隔を2分15秒まで縮めるなどの輸送力増強対策を矢継ぎ早に進行していた。しかし抜本的な輸送力増強のためには、車両の全面的な大型化と長編成化・スピードアップが必要であり、そのために架線電圧の1500Vへの昇圧、新宿駅及び付近の路線の地下移設を計画した。 京王は新宿駅地下化に際しては地上の敷地に駅ビル建設を行い、百貨店業に進出することを決定し、百貨店のあるべき姿の参考として1962年(昭和37年)7月、沿線利用者を対象に「京王のイメージ」に対するアンケート調査を行った。しかし「暗い」「地味でパッとしない」「電車がのろい」というマイナス評価が「堅実」・「大衆的」というプラス評価を上回るという厳しい結果となった。 このため、鉄道部門でも従来のイメージを刷新するべく新宿駅- 東八王子間を40分以内で結ぶ定期特急を新設するとともに、昇圧時に中型車を置き換えるための車両は、その特急運用に充当するのにふさわしいエクステリア、すなわちアンケートのマイナス評価を覆すような「スマート」「明るい」「速い」イメージを持った車両として開発されることとなった。 5000系は2M2Tの4両固定編成を構成し、系列中に4形式が存在する。5100系は1M1Tの2両編成もしくは2M1Tの3両編成で、系列中に3形式が存在する。本系列は京王線としては初めて、当初から運転台を持たない中間電動車が製造された。 3両編成と4両編成の電動車はMM'ユニット方式を採用しており、集電容量的にはパンタグラフは1ユニットに1つで十分だったが、電気摩耗を少なくするため、各車1基搭載としてどちらも上げて使用した。 本節では以下1963年に登場した1次車の仕様を基本として記述し、増備途上での変更点は別途節を設けて記述するため、5100系については当時の形式名・5070系として記載する。編成については編成表を参照のこと。 車体は5000系と5070系は共通の普通鋼製車体である。井の頭線に投入した3000系はステンレス車体だったが、同系の設計段階で踏切事故後の復旧法が検討された際、京王線は踏切が約340箇所と多く、踏切事故の発生頻度も井の頭線とは比較にならないほど高かったため、京王線向け車両は修復を容易にするために普通鋼製車体を採用している。 先頭車・中間車ともに全長17,500 mm(連結面間長18,000 mm)・車体幅2,700 mm(外板間、最大寸法は2,744 mm)・屋根上高さ3,530 mm・パンタグラフ折り畳み高さ4,100 mmである。全長と車体幅は2010系よりも拡大され、井の頭線3000系の第1・2編成と同寸(連結面間は3000系の方が長く、台車中心間距離は5000系の方が長い)となった。京王線の既設ホームとの兼ね合いから、車体断面がストレートだった3000系の第1・2編成とは異なり、車体裾部分を絞る形状として台枠上面部の幅は既存車と同じ2,600 mmとしている。そのため車体前位の扉間窓下に取り付けた京王帝都の社紋は、車体を絞る部分を避け、既存車よりも高めの位置とした。腰板を折った裾絞りの断面形状は当時首都圏の通勤形車両としては珍しく、他社では本系列の1年後の1964年(昭和39年)に登場した小田急2600形と、1970年(昭和45年)に登場した相鉄新6000系程度しか類例を見ない。 側面窓及び扉の配置は、2ドアクロスシート車とする案もあったが、新宿ー八王子間の距離が40kmにも満たないことや、朝ラッシュアワーの新宿方面の列車に必ず使用されるため、その際の客扱いに懸念があったことと、在来車との汎用性を持たせることから、2700系以降の京王線車輛や3000系第1・2編成と同様にいわゆる「新関東型」を踏襲し、3ドアロングシート車とした。先頭車がd1D3D3D2、中間車が2D3D3D2となっている。客用扉として幅1,200 mmの片開扉を3か所に配し、扉間は1,000 mm幅の上段下降・下段上昇タイプで3000系でも採用したバランサー付きのセミユニット方式アルミサッシを、窓間250mm・ドア吹き寄せ部300mmの柱を挟んでドア間に3枚ずつ・連結面に2枚ずつ配した。ガラスはそれまでの京王車両でも破損防止のために採用されていた5mm厚の強化ガラスを用いた。 前面のデザインは京王社内で出た意見をもとに、東急車輛のデザイナーがまとめた。当初から5000系と5070系を併結した6両編成での運転が計画されていたことと、新宿 - 初台間の地下線での脱出路として使うことも想定して、京王史上初めて前面に貫通扉を設けるデザインを採用している。貫通路は幌台座をシールドビーム2灯を配したヘッドライト部分まで一体化したデザインとし、扉下部に行先方向幕、連結した時に前後の車両を行き来できるよう渡り板を備えている。運転台窓は車体全体の曲面デザインに合わせること、更に貫通路や併結時に使用される運転台仕切りで狭くなった乗務員の視野を広げる目的で、熱線吸収式の曲面ガラスを採用した。幕板は運転席直下に種別表示のサボを掛け式で設け、上部に尾灯、車体下部に標識灯を横長の角形形状のランプで配した。位置はそれまでの京王線車両と共通である。曲面を巧みに取り込んだこの前面デザインは、1992年(平成4年)に登場した8000系の曲面を取り入れた前頭部と、2001年(平成13年)に登場した9000系の正面デザインにまで影響を及ぼしている。 屋根は車体色に調和させるためライトグリーン塗装とし、アイボリーに塗装されたFRP製の通風器が1両当たり6つ配置されている。3000系のそれと同じく、東急7000系など1960年代初期に登場した東急車輛製のオールステンレスカーで多く採用された台形の形状をしたもので、パンタグラフ部は干渉しないようやや斜めに変形されている。 車内設備に関しては極力3000系と共通設計を行った。室内は天井は白、それ以外はベージュの白色系メラミン化粧板、客用扉は軽量で剛性の高いヘアライン仕上げのステンレスを採用した。客室側はステンレス地そのままとした他、荷物棚などはつかみ棒を兼用するステンレスパイプで構成するなど、無塗装化が図られている。ロングシートは赤茶色系統のモケットを使用し、全体としては暖色系にまとめられている。車内通路にはドア部分も含めた全長にわたって吊手を設置した。 天井には3000系と同様に送風装置として採用された40cm径のファンデリアが配置され、先頭車は2,700mm・中間車は2,900mm間隔でそれぞれ6つ、通風器の真下に取り付けられている。ファンデリアの化粧板は無塗装化を図ったその他の内装に合わせ、アルマイト仕上げとした。連結面は2000系、2010系や3000系と同じく、扉などが設けられていない1,250mm幅の広幅貫通路である。 なお運転台についても内装はメラミン化粧板を採用、機器類はステンレスによるキセ(カバー)で覆うなど、無塗装化と配置の工夫による乗務員室の居住性向上を図っている。 先述のアンケートの結果を踏まえ、塗装もそれまで京王線及び井の頭線の多くの車両に使われていた緑色の単色塗装にこだわらないものが模索された。当時京王帝都電鉄の鉄道担当常務だった井上正忠からは、新たな京王のイメージを形作るものとして「(ライトグリーンよりも)明るい色にしなさい」「白が良い」との意見が出され、踏切担当部門や電車区からの「ライトグリーンよりも視認性の高い車体色を」との声も取り入れ、外部デザイナーによってデザインが作成された。桜上水工場ではクハ2783が新塗装の見本として塗装が行われた。 最終的に5000系の塗装は新宿副都心をイメージする色として車体全体をアイボリーに塗装し、力強い発展というイメージでえんじ色の帯を、側面窓下から正面まで回り込むように配したデザインとなった。帯の太さは80mmとかなり細いが、これはあえて不安定な太さとすることで適度な緊張感を持たせ、見る者の意識に引っ掛かるようにするという意図があった。更にスマートさやスピード感を出す狙いで、先頭車の帯は乗務員室扉付近から、ひれやヒゲのように飛び出すラインが加えられた。 このアイボリーはその後京王グループのコーポレートカラーとして、バスやタクシーなどを含めて広く用いられている。 完全新造車の5000系と機器流用車の5070系では、大きく異なるためそれぞれ説明する。 なお5000系の増備に際して生じた走行機器バリエーションはきわめて豊富で、駆動方式は吊り掛け駆動方式とカルダン駆動方式、主電動機・主制御器は3種、台車は12種が存在したが、詳細は別項で解説する。 本系列は2M2T・電動車はMM'ユニットの4両固定編成である。1959年(昭和34年)より京王線に投入されていた2010系4連が十分な性能を発揮していることから、同系列の構成をほぼ踏襲し、電動車を中間車に変更・特急運用に伴う高速走行を考慮した主電動機の熱容量アップ・前年に導入された井の頭線3000系の経験を生かした改良を加えた。車体に比べて革新的な要素は少ないが安定した仕組みの高経済車である。 主電動機は2010系が搭載した日立製作所HS-837-Brbの出力増強版である直流直巻補償巻線付主電動機・HS-833-Grbを採用した。この主電動機は最弱界磁19%Fという広範囲な界磁制御を可能としたもので、85:14=1:6.07という大歯車比でトルクを高めることで、定員の2倍程度まで加減速度を一定に保つという牽引力を重視した特性を持ちつつ、80km/h時の加速度1.5km/h/s、平坦線釣合速度120km/hの高速性能を実現した。軌道加速度は2.5km/h/s。 制御装置は日立製作所製MMC-HTB20Bを搭載したが、これは新造ではなく2010系が昇圧に際して完全なMM'ユニット化され、デハ2060形の搭載していたMMC-LHTB20が不要になるため、それを1500V専用・HS-833用に改造したものである。シンプルな大径1回転カムであるが多段制御が可能で、非常回送回路を装備し、遮断器などの故障で段数を進められなくなっても、主電動機・主抵抗器が無事なら回送スイッチを押すことで運転を続けられるようになっている。 集電装置は製造費低減のため、廃車になった京王線中型車などからPS13パンタグラフを流用した。3000系はPT42パンタグラフを新造したが、当時京王線車両のほとんどが使っていて取り扱いにも慣れていること、後述するように空気ばね台車を装着しているため、高速走行時も充分安定して集電できるということから流用品で済まされた。 制動装置は後述する増結用の5070系の走行装置や、既存の京王線車輛との関係上、2010系と同じA動作弁を用いブレーキ管減圧制御を行う自動空気ブレーキに、中継弁によるブレーキ力増幅と電磁弁による電磁速動機能・発電ブレーキとの連動機能を追加した、予備直通ブレーキ機能および機械式応荷重装置付きのARSE-D電磁自動空気ブレーキを搭載する。 台車はデハ5000形・5050形がアンチローリング装置を設けた日立KH-39、クハ5700形が東急車輛製造TS-320、クハ5750形は日本車輌製造NA-312T、いずれもインダイレクトマウント構造を採用した空気ばね台車で、京王線向けでは初の空気ばね台車採用となった。日立製と日車製はウィングばね式であるため外見上DT32形台車とよく似ている。東急製は軸ばね式で、更に保守不要のゴムベロー制動筒付きユニットブレーキを装備した。いずれの台車も標準軌に改軌できるようになっていたほか、制御車用の台車はどちらも電動車用にできる構造になっていた。1次車の制御車わずか6両に2種の台車が使用されているのは、当初クハは製造費低減のためにパンタグラフ同様、昇圧工事に際して廃車となった中型車のイコライザー式の台車が流用される予定であったところ、東急車輛と日本車輛が試作的な空気バネ台車を制作して京王に提供したためと言われる。 本系列はMc+Tcの2両編成で、6両編成運転時の増結や2両+2両で運用することを想定して作られた。 主電動機・台車・制御器・パンタグラフはデハ2700形を電送解除して流用している。主電動機は東洋電機製TDK553/4-CM、歯車比59:21 = 2.81の吊り掛け駆動、制御器は東洋電機製ES-556B、制動装置もARSE電磁直通自動空気ブレーキで、性能についてはデハ2700形+クハ2770形の2両編成と同一であった。 車体だけのセミ新車とした理由は、昇圧や路線の改良などにも費用を費やしており車両にかけられる予算に限界のあった京王が、その中でも輸送力増強と車輛の体質改善を行おうとした施策の一環である。2010系の運用実績から、京王社内では5000系+5070系の6両編成は3M3Tで運用できる自信を持っていたが、MM'ユニットの電動車を1Mとして使った実績はあったものの機能の制限が必要で、MTユニットの新形式を開発する余裕もなかった。そこで当時京王社内でスモールマルティー(○に小文字tを入れる。以下t)と呼ばれたサハ2500形・2550形を置換する大型サハ、通称ラージマルティー(○に大文字Tを入れる。以下T)の一部はデハ2700形を中間サハに改造することで充当し、発生した電装品を5070系に流用することとした。元々2700系の電装品はカルダン駆動車と伍して優等運用に耐えうる性能を持っていたので、電気ブレーキは装備していなかったが、5000系との併結運用は大きな問題はなかった。 デハ5070形の台車は、先述の通りデハ2700形から流用の東急TS-101B、クハ5770形も2両が流用品の東急TS-306B台車、1両は2000系予備台車を改造した日立KH-14改を装着した。いずれもコイルばね台車である。コイルばね台車ゆえに、5000系と併結すると空車時の車高には差があった。 1次車(1963年8月 5701F-5703F、5071F-5073F) 2次車(1963年12月 5074F-5076F、1964年2月 5004F-5006F) 3次車(1965年3月 5707F・5708F 、1965年4月 5077F・5078F) 4次車(1966年4月 5709F・5710F 1966年5月 5079F・5080F) 5次車(1966年12月 5711F-5713F、5081F-8083F) 6次車(1967年3月 5714F・5715F、5084F・5085F) 7次車(1967年9月 5716F・5717F、5086F-5088F) 8次車(1968年5月 5718F・5719F 1968年6月 5119F-5121F、デハ5164-5168、1968年12月 デハ5163) 9次車(1969年2月 5020F・5021F、5122F・5123F) 10次車(1969年6月 5022F・5023F、1969年8月 5124F・5125F) 1968年(昭和43年)に製造された8次車が冷房装置を搭載した。9次車と同時に非冷房車1編成が1969年に冷房化され、その後非冷房車も大きく2回の時期に分けて改造されたが、車軸の安全強度上、問題のない車両に限って行われ、5701 - 5710編成とつりかけ駆動の5101 - 5112編成が改造対象から外れた。 5716編成のデハは冷房容量の不足が否めなかったため、1985年(昭和60年)に集中型FTUR-375-208Bに交換された。また、新製冷房車のうち集中型を搭載した車両は冷房装置更新の際に、5719編成がクーラーキセが独特の形状をした集中型FTUR-375-206(冷凍能力30,000kcal/h・34.88kW)に、5720編成・5124 - 5125編成が集中型FTUR-375-205に交換された。なお、FTUR-375-205に関しては後年、6000系のクーラー更新時に余剰となったFTUR-375-208Bに交換された車両もある。 1979年(昭和54年)10月3日に武蔵野台駅東側の飛田給11号踏切においてトレーラーより転落した重機との二重衝突による事故で、クハ5871号は損傷が大きかったことから復旧を断念し同年11月16日付で廃車され(詳細は「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京王帝都電鉄京王線列車障害事故」を参照)、翌1980年1月末に高幡不動検車区にて解体された。この際に残った5121編成の2両は当時編成を組んでいた5713編成との変則6両編成で運用復帰した。後年、5721編成からクハ5771を抜き取って7両編成となった。他方でクハ5771を供出した5721編成は5716編成との変則7両編成を組成した。 1963年の投入直後は、京王のフラッグシップ車両として新宿 - 東八王子(直後に京王八王子と改称)間の特急に使用された。1967年の高尾線開業で設定された高幡不動で分割・併合する特急にも充当されたが、この時5100系には社員のアイデアで誤乗防止の「緑の吊り輪」が採用された。これは、「前3両・後4両」などと案内しても乗客には分かりにくいが、「緑の吊り輪の車両・白の吊り輪の車両」と言えば誰でも間違いなく行先がわかるというものである。このアイデアは、6000系や8000系にも受け継がれている。 1972年(昭和47年)の6000系登場以後は徐々に急行系列車の運用から撤退し、特に冷房のない初期編成は冷房車の登場で早期に急行系列車から外され、1970年代後半からは各停を主体に運用されるようになった。それでも引き続きハイキング特急「陣馬」や大晦日から元旦に運行される特急「迎光」、競輪特急、競馬特急、急行などの季節列車・臨時列車には1980年代中頃まで5000系冷房車が使用されることがあった。 その他、6000系の工場入りが重なった際にも5000系の急行系列車が一時的に見られることがあり、1988年(昭和63年)夏頃には6000系8両編成の予備車確保の目的で5000系4連の片側先頭車を外した編成を2本連結し、さらに5100系3連を連結した9両編成が現われ、平日では午前中に通勤急行や特急で、休日には特急「陣馬」で使用されたこともある。1990年(平成2年)頃までは土曜・休日の朝に5000系6・7両編成使用の快速京王八王子行が片道1本のみ存在したが、これが最後の定期急行系運用とされる。これら急行系列車への使用は冷房車に限定されていた。その後、1995年(平成7年)5月1日はダイヤ乱れがあったため、特急橋本行に片道1回のみ使用されたことがある。 5000系は地下鉄乗り入れ用車両ではないので、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線には入線しなかった。また、車両限界の関係から笹塚 - 新線新宿間にも営業列車としては入線していなかった。 本格的な廃車は1987年(昭和62年)から始まった。最初は2両編成の吊り掛け駆動車(5101編成 - 5112編成)が対象で、1989年3月21日までに営業運転を終了し、京王から吊り掛け駆動車が消滅した。これらの車両のうち21両は非冷房のまま伊予鉄道に譲渡された。この時点で残った車両は4両+4両編成と4両+3両編成にまとめられ、各駅停車で運用された。1990年(平成2年)は相模原線の橋本開業による車両増備で廃車はなかったが、翌1991年(平成3年)から狭幅4両編成の廃車も始まり、冷房のない狭幅編成は1992年(平成4年)2月までにすべて廃車となった。同年5月に8000系60両が投入されたが、橋本特急新設による運用増のためにこの時点では廃車は発生しなかった。その後、同年10月から再び置き換えが開始され、同年12月までに29両が廃車となり、非冷房車は全廃された。そして、1994年(平成6年)春に12両、1995年(平成7年)春に38両が廃車になり、5100系は事実上全廃となった。この時点で5000系のみ24両が残った。同年11月 - 12月にさらに16両を廃車したことで、4両編成を2本連結した8両編成1本のみとなり、平日は朝ラッシュ時のみ、土曜・休日は競馬場線・動物園線といった支線内折り返し列車を中心に運用されていた。 1996年(平成8年)3月のダイヤ改正以降は本線から完全に撤退し、動物園線の区間運転で使用されたが、同年11月30日に「さよなら運転」の準備と移動を兼ねて高幡不動 - 京王八王子 - 新宿 - 若葉台で最後の営業運転を行った。翌12月1日に「さよなら運転」を行ったが、この時にかつての帯の「ひげ」をクハ5722に追加した。若葉台 - 新宿 - 京王多摩センター - 若葉台を2回運転し、午前と午後の運転の間には若葉台で撮影会も実施した。このさよなら運転は招待制であり、1,000人(午前・午後各500人)が公募されたが、実際の応募者が3,000人余りに達したことから、京王では落選通知のはがきを撮影会場に持参した人に対し、さよなら運転告知の中吊りポスターをプレゼントする程であった。さよなら運転後、8両が四国の高松琴平電気鉄道に譲渡され、1両が京王資料館に静態保存された。これにより、京王線系統から片開きドア車は姿を消す事になった。 最終増備車5125編成の3両が、1995年に事業用車である貨物電車として改造された。チキ290形(長物車)と接した貫通路を閉鎖、同時に吊り輪が撤去され、クワ車内にバッテリを移設、チキを連結するため棒連結器が密着自動連結器に交換され、制動が空気のみになったものの、外見は旅客営業運転に使用していた時代の状態を保っていた。普段は高幡不動検車区で待機していることが多かったが、保線作業や工事の輸送のため、時々夜間に(ごく稀に昼間にも)運転されていた。 その後、2004年(平成16年)8月1日夜中のレール運搬をもって事業用車としての使用は終了した。後継車として6000系の改造車であるデワ600形が投入された。 事業用車に使用されていた3両は、同年11月14日の若葉台検車区でのメモリアル撮影会にて一般に公開された後、翌12月16日 - 17日に車体を切断の上で群馬県館林市(東武鉄道・北館林荷扱所隣接地)へトラックで輸送され、解体業者に引き渡された。なお、1両の前頭部を京王れーるランドに静態保存する計画もあったが、中止されている。 5000系は全長18mの3ドア車で地方鉄道で使いやすいことに加え、デハ5100形という短編成化に向いた制御電動車が設定されていたこともあり、京王グループの京王重機整備が積極的に販売事業を行った結果、多くの車両が改造の上、地方私鉄に譲渡されて使用されている。いずれの会社もゲージが京王電鉄京王線系統(1,372mm)とは違う1,067mm、もしくは1,435mmのため、電動車の台車や主電動機は営団3000系や京急初代1000形などの廃車発生品を流用している。 ただし、これらの譲渡先でも最終増備車登場から半世紀が経過して老朽化が顕著であることなどから、2015年(平成27年)頃より順次廃車が進行している。一方で伊予鉄道で廃車になった車両が同じ京王OBの車両を使用している銚子電気鉄道へ、富士急行で廃車になった車両が、同じ富士急グループの岳南電車へそれぞれ転じ、第三の職場で活躍を続けるという事例も現れている。 これらの車両はすべて譲渡先のオリジナルカラーで運転されていたが、2012年(平成24年)7月に一畑電車2100系、同年10月に富士急行1000形電車のそれぞれ1編成2両が京王時代の塗装になった。これらは、2013年(平成25年)に5000系が登場50周年を迎えたことから、3社共同企画として実施された。 さよなら運転に充当した5722編成と5723編成のうち、クハ5723が東京都八王子市堀之内の京王資料館に保存された。2013年4月に京王れーるランドでの保存展示に備えて多摩動物公園駅前に移動し、同年10月から京王れーるランドに作られた屋根付きの展示スペースで、一般公開が開始されている。 下記の表は『鉄道ファン』408号および『鉄道ピクトリアル』578号・678号・734号・893号に基づく。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京王5000系電車(けいおう5000けいでんしゃ)は、かつて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に在籍していた通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本系列は狭義の意味での5000系と、その増結用として製造された5100系が存在したが、一般的に両者をまとめて5000系として扱うことが多い。このため、本項では2形式についてまとめて記述する。なお5100系は当初5070系と名乗っていたが、車両増備で番号重複が発生するため、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて改番されて5100系となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本記事では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は、新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、「5701編成」もしくは「5701F」の様に表現する。編成表は各種文献に倣って新宿寄りを左側として表記する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "京王線系統は1963年(昭和38年)8月4日に架線電圧の1,500V昇圧を実施し、同年10月に新宿 - 東八王子間をそれまでより10分短縮した40分で結ぶ特急電車の運行を開始した。その特急などの優等列車運用に使用するため、昇圧と同時にデビューしたのが本系列である。1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)にかけて5000系が4両編成23本、5100系が2両編成12本・3両編成13本の計155両が日本車輌製造・東急車輛製造・日立製作所で製造された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "それまでの京王線車輛とは車体色・デザインが一新され、路面電車由来の軌道線から本格的な都市鉄道への脱皮を果たしたことを象徴する車両として、京王のイメージアップに大いに貢献した。また前年1962年(昭和37年)に登場した井の頭線用の3000系に続いて、登場翌年の1964年(昭和39年)度の鉄道友の会ローレル賞を受賞している。同一鉄道事業者の2年連続受賞は京王が初であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また1968年(昭和43年)4月に導入された車両からは関東地方初、また通勤形電車のうちロングシートを装備した車両という条件に限れば日本初の冷房車となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "旅客用車としては1996年(平成8年)12月1日まで、事業用車に転用された3両が2004年(平成16年)8月1日まで京王線で運用され、引退後は1両が京王れーるランドで保存されている。また1987年(昭和62年)以降、伊予鉄道をはじめとした地方私鉄に全体の4割以上となる67両が譲渡され、一部は本系列のデビューから60年を経過した2023年現在も運用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1950年代以降、太平洋戦争後の復興と日本経済の順調な発展から、京王線が走る東京都下西郊の三多摩地区の人口は急増していた。京王線の乗客も急増し、輸送人員全体で見ても1950年から1955年の間に1.8倍に、1960年には1950年の2.7倍にまで伸びた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "京王も輸送力増強に努め、1950年の2600系より他の大手民鉄並みの車両の大型化、京王電軌時代からの中型車にも長編成化工事を行い、曲線改良や重軌条化などを進めて1960年(昭和35年)10月1日のダイヤ改正からは最大5両編成で、翌年にはラッシュ時の運転間隔を2分15秒まで縮めるなどの輸送力増強対策を矢継ぎ早に進行していた。しかし抜本的な輸送力増強のためには、車両の全面的な大型化と長編成化・スピードアップが必要であり、そのために架線電圧の1500Vへの昇圧、新宿駅及び付近の路線の地下移設を計画した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "京王は新宿駅地下化に際しては地上の敷地に駅ビル建設を行い、百貨店業に進出することを決定し、百貨店のあるべき姿の参考として1962年(昭和37年)7月、沿線利用者を対象に「京王のイメージ」に対するアンケート調査を行った。しかし「暗い」「地味でパッとしない」「電車がのろい」というマイナス評価が「堅実」・「大衆的」というプラス評価を上回るという厳しい結果となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "このため、鉄道部門でも従来のイメージを刷新するべく新宿駅- 東八王子間を40分以内で結ぶ定期特急を新設するとともに、昇圧時に中型車を置き換えるための車両は、その特急運用に充当するのにふさわしいエクステリア、すなわちアンケートのマイナス評価を覆すような「スマート」「明るい」「速い」イメージを持った車両として開発されることとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "5000系は2M2Tの4両固定編成を構成し、系列中に4形式が存在する。5100系は1M1Tの2両編成もしくは2M1Tの3両編成で、系列中に3形式が存在する。本系列は京王線としては初めて、当初から運転台を持たない中間電動車が製造された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "3両編成と4両編成の電動車はMM'ユニット方式を採用しており、集電容量的にはパンタグラフは1ユニットに1つで十分だったが、電気摩耗を少なくするため、各車1基搭載としてどちらも上げて使用した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "本節では以下1963年に登場した1次車の仕様を基本として記述し、増備途上での変更点は別途節を設けて記述するため、5100系については当時の形式名・5070系として記載する。編成については編成表を参照のこと。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "車体は5000系と5070系は共通の普通鋼製車体である。井の頭線に投入した3000系はステンレス車体だったが、同系の設計段階で踏切事故後の復旧法が検討された際、京王線は踏切が約340箇所と多く、踏切事故の発生頻度も井の頭線とは比較にならないほど高かったため、京王線向け車両は修復を容易にするために普通鋼製車体を採用している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "先頭車・中間車ともに全長17,500 mm(連結面間長18,000 mm)・車体幅2,700 mm(外板間、最大寸法は2,744 mm)・屋根上高さ3,530 mm・パンタグラフ折り畳み高さ4,100 mmである。全長と車体幅は2010系よりも拡大され、井の頭線3000系の第1・2編成と同寸(連結面間は3000系の方が長く、台車中心間距離は5000系の方が長い)となった。京王線の既設ホームとの兼ね合いから、車体断面がストレートだった3000系の第1・2編成とは異なり、車体裾部分を絞る形状として台枠上面部の幅は既存車と同じ2,600 mmとしている。そのため車体前位の扉間窓下に取り付けた京王帝都の社紋は、車体を絞る部分を避け、既存車よりも高めの位置とした。腰板を折った裾絞りの断面形状は当時首都圏の通勤形車両としては珍しく、他社では本系列の1年後の1964年(昭和39年)に登場した小田急2600形と、1970年(昭和45年)に登場した相鉄新6000系程度しか類例を見ない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "側面窓及び扉の配置は、2ドアクロスシート車とする案もあったが、新宿ー八王子間の距離が40kmにも満たないことや、朝ラッシュアワーの新宿方面の列車に必ず使用されるため、その際の客扱いに懸念があったことと、在来車との汎用性を持たせることから、2700系以降の京王線車輛や3000系第1・2編成と同様にいわゆる「新関東型」を踏襲し、3ドアロングシート車とした。先頭車がd1D3D3D2、中間車が2D3D3D2となっている。客用扉として幅1,200 mmの片開扉を3か所に配し、扉間は1,000 mm幅の上段下降・下段上昇タイプで3000系でも採用したバランサー付きのセミユニット方式アルミサッシを、窓間250mm・ドア吹き寄せ部300mmの柱を挟んでドア間に3枚ずつ・連結面に2枚ずつ配した。ガラスはそれまでの京王車両でも破損防止のために採用されていた5mm厚の強化ガラスを用いた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "前面のデザインは京王社内で出た意見をもとに、東急車輛のデザイナーがまとめた。当初から5000系と5070系を併結した6両編成での運転が計画されていたことと、新宿 - 初台間の地下線での脱出路として使うことも想定して、京王史上初めて前面に貫通扉を設けるデザインを採用している。貫通路は幌台座をシールドビーム2灯を配したヘッドライト部分まで一体化したデザインとし、扉下部に行先方向幕、連結した時に前後の車両を行き来できるよう渡り板を備えている。運転台窓は車体全体の曲面デザインに合わせること、更に貫通路や併結時に使用される運転台仕切りで狭くなった乗務員の視野を広げる目的で、熱線吸収式の曲面ガラスを採用した。幕板は運転席直下に種別表示のサボを掛け式で設け、上部に尾灯、車体下部に標識灯を横長の角形形状のランプで配した。位置はそれまでの京王線車両と共通である。曲面を巧みに取り込んだこの前面デザインは、1992年(平成4年)に登場した8000系の曲面を取り入れた前頭部と、2001年(平成13年)に登場した9000系の正面デザインにまで影響を及ぼしている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "屋根は車体色に調和させるためライトグリーン塗装とし、アイボリーに塗装されたFRP製の通風器が1両当たり6つ配置されている。3000系のそれと同じく、東急7000系など1960年代初期に登場した東急車輛製のオールステンレスカーで多く採用された台形の形状をしたもので、パンタグラフ部は干渉しないようやや斜めに変形されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "車内設備に関しては極力3000系と共通設計を行った。室内は天井は白、それ以外はベージュの白色系メラミン化粧板、客用扉は軽量で剛性の高いヘアライン仕上げのステンレスを採用した。客室側はステンレス地そのままとした他、荷物棚などはつかみ棒を兼用するステンレスパイプで構成するなど、無塗装化が図られている。ロングシートは赤茶色系統のモケットを使用し、全体としては暖色系にまとめられている。車内通路にはドア部分も含めた全長にわたって吊手を設置した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "天井には3000系と同様に送風装置として採用された40cm径のファンデリアが配置され、先頭車は2,700mm・中間車は2,900mm間隔でそれぞれ6つ、通風器の真下に取り付けられている。ファンデリアの化粧板は無塗装化を図ったその他の内装に合わせ、アルマイト仕上げとした。連結面は2000系、2010系や3000系と同じく、扉などが設けられていない1,250mm幅の広幅貫通路である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお運転台についても内装はメラミン化粧板を採用、機器類はステンレスによるキセ(カバー)で覆うなど、無塗装化と配置の工夫による乗務員室の居住性向上を図っている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "先述のアンケートの結果を踏まえ、塗装もそれまで京王線及び井の頭線の多くの車両に使われていた緑色の単色塗装にこだわらないものが模索された。当時京王帝都電鉄の鉄道担当常務だった井上正忠からは、新たな京王のイメージを形作るものとして「(ライトグリーンよりも)明るい色にしなさい」「白が良い」との意見が出され、踏切担当部門や電車区からの「ライトグリーンよりも視認性の高い車体色を」との声も取り入れ、外部デザイナーによってデザインが作成された。桜上水工場ではクハ2783が新塗装の見本として塗装が行われた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "最終的に5000系の塗装は新宿副都心をイメージする色として車体全体をアイボリーに塗装し、力強い発展というイメージでえんじ色の帯を、側面窓下から正面まで回り込むように配したデザインとなった。帯の太さは80mmとかなり細いが、これはあえて不安定な太さとすることで適度な緊張感を持たせ、見る者の意識に引っ掛かるようにするという意図があった。更にスマートさやスピード感を出す狙いで、先頭車の帯は乗務員室扉付近から、ひれやヒゲのように飛び出すラインが加えられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このアイボリーはその後京王グループのコーポレートカラーとして、バスやタクシーなどを含めて広く用いられている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "完全新造車の5000系と機器流用車の5070系では、大きく異なるためそれぞれ説明する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお5000系の増備に際して生じた走行機器バリエーションはきわめて豊富で、駆動方式は吊り掛け駆動方式とカルダン駆動方式、主電動機・主制御器は3種、台車は12種が存在したが、詳細は別項で解説する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "本系列は2M2T・電動車はMM'ユニットの4両固定編成である。1959年(昭和34年)より京王線に投入されていた2010系4連が十分な性能を発揮していることから、同系列の構成をほぼ踏襲し、電動車を中間車に変更・特急運用に伴う高速走行を考慮した主電動機の熱容量アップ・前年に導入された井の頭線3000系の経験を生かした改良を加えた。車体に比べて革新的な要素は少ないが安定した仕組みの高経済車である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "主電動機は2010系が搭載した日立製作所HS-837-Brbの出力増強版である直流直巻補償巻線付主電動機・HS-833-Grbを採用した。この主電動機は最弱界磁19%Fという広範囲な界磁制御を可能としたもので、85:14=1:6.07という大歯車比でトルクを高めることで、定員の2倍程度まで加減速度を一定に保つという牽引力を重視した特性を持ちつつ、80km/h時の加速度1.5km/h/s、平坦線釣合速度120km/hの高速性能を実現した。軌道加速度は2.5km/h/s。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "制御装置は日立製作所製MMC-HTB20Bを搭載したが、これは新造ではなく2010系が昇圧に際して完全なMM'ユニット化され、デハ2060形の搭載していたMMC-LHTB20が不要になるため、それを1500V専用・HS-833用に改造したものである。シンプルな大径1回転カムであるが多段制御が可能で、非常回送回路を装備し、遮断器などの故障で段数を進められなくなっても、主電動機・主抵抗器が無事なら回送スイッチを押すことで運転を続けられるようになっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "集電装置は製造費低減のため、廃車になった京王線中型車などからPS13パンタグラフを流用した。3000系はPT42パンタグラフを新造したが、当時京王線車両のほとんどが使っていて取り扱いにも慣れていること、後述するように空気ばね台車を装着しているため、高速走行時も充分安定して集電できるということから流用品で済まされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "制動装置は後述する増結用の5070系の走行装置や、既存の京王線車輛との関係上、2010系と同じA動作弁を用いブレーキ管減圧制御を行う自動空気ブレーキに、中継弁によるブレーキ力増幅と電磁弁による電磁速動機能・発電ブレーキとの連動機能を追加した、予備直通ブレーキ機能および機械式応荷重装置付きのARSE-D電磁自動空気ブレーキを搭載する。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "台車はデハ5000形・5050形がアンチローリング装置を設けた日立KH-39、クハ5700形が東急車輛製造TS-320、クハ5750形は日本車輌製造NA-312T、いずれもインダイレクトマウント構造を採用した空気ばね台車で、京王線向けでは初の空気ばね台車採用となった。日立製と日車製はウィングばね式であるため外見上DT32形台車とよく似ている。東急製は軸ばね式で、更に保守不要のゴムベロー制動筒付きユニットブレーキを装備した。いずれの台車も標準軌に改軌できるようになっていたほか、制御車用の台車はどちらも電動車用にできる構造になっていた。1次車の制御車わずか6両に2種の台車が使用されているのは、当初クハは製造費低減のためにパンタグラフ同様、昇圧工事に際して廃車となった中型車のイコライザー式の台車が流用される予定であったところ、東急車輛と日本車輛が試作的な空気バネ台車を制作して京王に提供したためと言われる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "本系列はMc+Tcの2両編成で、6両編成運転時の増結や2両+2両で運用することを想定して作られた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "主電動機・台車・制御器・パンタグラフはデハ2700形を電送解除して流用している。主電動機は東洋電機製TDK553/4-CM、歯車比59:21 = 2.81の吊り掛け駆動、制御器は東洋電機製ES-556B、制動装置もARSE電磁直通自動空気ブレーキで、性能についてはデハ2700形+クハ2770形の2両編成と同一であった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "車体だけのセミ新車とした理由は、昇圧や路線の改良などにも費用を費やしており車両にかけられる予算に限界のあった京王が、その中でも輸送力増強と車輛の体質改善を行おうとした施策の一環である。2010系の運用実績から、京王社内では5000系+5070系の6両編成は3M3Tで運用できる自信を持っていたが、MM'ユニットの電動車を1Mとして使った実績はあったものの機能の制限が必要で、MTユニットの新形式を開発する余裕もなかった。そこで当時京王社内でスモールマルティー(○に小文字tを入れる。以下t)と呼ばれたサハ2500形・2550形を置換する大型サハ、通称ラージマルティー(○に大文字Tを入れる。以下T)の一部はデハ2700形を中間サハに改造することで充当し、発生した電装品を5070系に流用することとした。元々2700系の電装品はカルダン駆動車と伍して優等運用に耐えうる性能を持っていたので、電気ブレーキは装備していなかったが、5000系との併結運用は大きな問題はなかった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "デハ5070形の台車は、先述の通りデハ2700形から流用の東急TS-101B、クハ5770形も2両が流用品の東急TS-306B台車、1両は2000系予備台車を改造した日立KH-14改を装着した。いずれもコイルばね台車である。コイルばね台車ゆえに、5000系と併結すると空車時の車高には差があった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1次車(1963年8月 5701F-5703F、5071F-5073F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2次車(1963年12月 5074F-5076F、1964年2月 5004F-5006F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "3次車(1965年3月 5707F・5708F 、1965年4月 5077F・5078F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "4次車(1966年4月 5709F・5710F 1966年5月 5079F・5080F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "5次車(1966年12月 5711F-5713F、5081F-8083F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "6次車(1967年3月 5714F・5715F、5084F・5085F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "7次車(1967年9月 5716F・5717F、5086F-5088F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "8次車(1968年5月 5718F・5719F 1968年6月 5119F-5121F、デハ5164-5168、1968年12月 デハ5163)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "9次車(1969年2月 5020F・5021F、5122F・5123F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "10次車(1969年6月 5022F・5023F、1969年8月 5124F・5125F)", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)に製造された8次車が冷房装置を搭載した。9次車と同時に非冷房車1編成が1969年に冷房化され、その後非冷房車も大きく2回の時期に分けて改造されたが、車軸の安全強度上、問題のない車両に限って行われ、5701 - 5710編成とつりかけ駆動の5101 - 5112編成が改造対象から外れた。", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "5716編成のデハは冷房容量の不足が否めなかったため、1985年(昭和60年)に集中型FTUR-375-208Bに交換された。また、新製冷房車のうち集中型を搭載した車両は冷房装置更新の際に、5719編成がクーラーキセが独特の形状をした集中型FTUR-375-206(冷凍能力30,000kcal/h・34.88kW)に、5720編成・5124 - 5125編成が集中型FTUR-375-205に交換された。なお、FTUR-375-205に関しては後年、6000系のクーラー更新時に余剰となったFTUR-375-208Bに交換された車両もある。", "title": "増備途上での変更点" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)10月3日に武蔵野台駅東側の飛田給11号踏切においてトレーラーより転落した重機との二重衝突による事故で、クハ5871号は損傷が大きかったことから復旧を断念し同年11月16日付で廃車され(詳細は「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京王帝都電鉄京王線列車障害事故」を参照)、翌1980年1月末に高幡不動検車区にて解体された。この際に残った5121編成の2両は当時編成を組んでいた5713編成との変則6両編成で運用復帰した。後年、5721編成からクハ5771を抜き取って7両編成となった。他方でクハ5771を供出した5721編成は5716編成との変則7両編成を組成した。", "title": "事故廃車" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1963年の投入直後は、京王のフラッグシップ車両として新宿 - 東八王子(直後に京王八王子と改称)間の特急に使用された。1967年の高尾線開業で設定された高幡不動で分割・併合する特急にも充当されたが、この時5100系には社員のアイデアで誤乗防止の「緑の吊り輪」が採用された。これは、「前3両・後4両」などと案内しても乗客には分かりにくいが、「緑の吊り輪の車両・白の吊り輪の車両」と言えば誰でも間違いなく行先がわかるというものである。このアイデアは、6000系や8000系にも受け継がれている。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)の6000系登場以後は徐々に急行系列車の運用から撤退し、特に冷房のない初期編成は冷房車の登場で早期に急行系列車から外され、1970年代後半からは各停を主体に運用されるようになった。それでも引き続きハイキング特急「陣馬」や大晦日から元旦に運行される特急「迎光」、競輪特急、競馬特急、急行などの季節列車・臨時列車には1980年代中頃まで5000系冷房車が使用されることがあった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "その他、6000系の工場入りが重なった際にも5000系の急行系列車が一時的に見られることがあり、1988年(昭和63年)夏頃には6000系8両編成の予備車確保の目的で5000系4連の片側先頭車を外した編成を2本連結し、さらに5100系3連を連結した9両編成が現われ、平日では午前中に通勤急行や特急で、休日には特急「陣馬」で使用されたこともある。1990年(平成2年)頃までは土曜・休日の朝に5000系6・7両編成使用の快速京王八王子行が片道1本のみ存在したが、これが最後の定期急行系運用とされる。これら急行系列車への使用は冷房車に限定されていた。その後、1995年(平成7年)5月1日はダイヤ乱れがあったため、特急橋本行に片道1回のみ使用されたことがある。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "5000系は地下鉄乗り入れ用車両ではないので、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線には入線しなかった。また、車両限界の関係から笹塚 - 新線新宿間にも営業列車としては入線していなかった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "本格的な廃車は1987年(昭和62年)から始まった。最初は2両編成の吊り掛け駆動車(5101編成 - 5112編成)が対象で、1989年3月21日までに営業運転を終了し、京王から吊り掛け駆動車が消滅した。これらの車両のうち21両は非冷房のまま伊予鉄道に譲渡された。この時点で残った車両は4両+4両編成と4両+3両編成にまとめられ、各駅停車で運用された。1990年(平成2年)は相模原線の橋本開業による車両増備で廃車はなかったが、翌1991年(平成3年)から狭幅4両編成の廃車も始まり、冷房のない狭幅編成は1992年(平成4年)2月までにすべて廃車となった。同年5月に8000系60両が投入されたが、橋本特急新設による運用増のためにこの時点では廃車は発生しなかった。その後、同年10月から再び置き換えが開始され、同年12月までに29両が廃車となり、非冷房車は全廃された。そして、1994年(平成6年)春に12両、1995年(平成7年)春に38両が廃車になり、5100系は事実上全廃となった。この時点で5000系のみ24両が残った。同年11月 - 12月にさらに16両を廃車したことで、4両編成を2本連結した8両編成1本のみとなり、平日は朝ラッシュ時のみ、土曜・休日は競馬場線・動物園線といった支線内折り返し列車を中心に運用されていた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)3月のダイヤ改正以降は本線から完全に撤退し、動物園線の区間運転で使用されたが、同年11月30日に「さよなら運転」の準備と移動を兼ねて高幡不動 - 京王八王子 - 新宿 - 若葉台で最後の営業運転を行った。翌12月1日に「さよなら運転」を行ったが、この時にかつての帯の「ひげ」をクハ5722に追加した。若葉台 - 新宿 - 京王多摩センター - 若葉台を2回運転し、午前と午後の運転の間には若葉台で撮影会も実施した。このさよなら運転は招待制であり、1,000人(午前・午後各500人)が公募されたが、実際の応募者が3,000人余りに達したことから、京王では落選通知のはがきを撮影会場に持参した人に対し、さよなら運転告知の中吊りポスターをプレゼントする程であった。さよなら運転後、8両が四国の高松琴平電気鉄道に譲渡され、1両が京王資料館に静態保存された。これにより、京王線系統から片開きドア車は姿を消す事になった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "最終増備車5125編成の3両が、1995年に事業用車である貨物電車として改造された。チキ290形(長物車)と接した貫通路を閉鎖、同時に吊り輪が撤去され、クワ車内にバッテリを移設、チキを連結するため棒連結器が密着自動連結器に交換され、制動が空気のみになったものの、外見は旅客営業運転に使用していた時代の状態を保っていた。普段は高幡不動検車区で待機していることが多かったが、保線作業や工事の輸送のため、時々夜間に(ごく稀に昼間にも)運転されていた。", "title": "事業用車への転用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "その後、2004年(平成16年)8月1日夜中のレール運搬をもって事業用車としての使用は終了した。後継車として6000系の改造車であるデワ600形が投入された。", "title": "事業用車への転用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "事業用車に使用されていた3両は、同年11月14日の若葉台検車区でのメモリアル撮影会にて一般に公開された後、翌12月16日 - 17日に車体を切断の上で群馬県館林市(東武鉄道・北館林荷扱所隣接地)へトラックで輸送され、解体業者に引き渡された。なお、1両の前頭部を京王れーるランドに静態保存する計画もあったが、中止されている。", "title": "事業用車への転用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "5000系は全長18mの3ドア車で地方鉄道で使いやすいことに加え、デハ5100形という短編成化に向いた制御電動車が設定されていたこともあり、京王グループの京王重機整備が積極的に販売事業を行った結果、多くの車両が改造の上、地方私鉄に譲渡されて使用されている。いずれの会社もゲージが京王電鉄京王線系統(1,372mm)とは違う1,067mm、もしくは1,435mmのため、電動車の台車や主電動機は営団3000系や京急初代1000形などの廃車発生品を流用している。", "title": "地方鉄道への譲渡" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ただし、これらの譲渡先でも最終増備車登場から半世紀が経過して老朽化が顕著であることなどから、2015年(平成27年)頃より順次廃車が進行している。一方で伊予鉄道で廃車になった車両が同じ京王OBの車両を使用している銚子電気鉄道へ、富士急行で廃車になった車両が、同じ富士急グループの岳南電車へそれぞれ転じ、第三の職場で活躍を続けるという事例も現れている。", "title": "地方鉄道への譲渡" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "これらの車両はすべて譲渡先のオリジナルカラーで運転されていたが、2012年(平成24年)7月に一畑電車2100系、同年10月に富士急行1000形電車のそれぞれ1編成2両が京王時代の塗装になった。これらは、2013年(平成25年)に5000系が登場50周年を迎えたことから、3社共同企画として実施された。", "title": "地方鉄道への譲渡" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "さよなら運転に充当した5722編成と5723編成のうち、クハ5723が東京都八王子市堀之内の京王資料館に保存された。2013年4月に京王れーるランドでの保存展示に備えて多摩動物公園駅前に移動し、同年10月から京王れーるランドに作られた屋根付きの展示スペースで、一般公開が開始されている。", "title": "保存車両" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "下記の表は『鉄道ファン』408号および『鉄道ピクトリアル』578号・678号・734号・893号に基づく。", "title": "編成表" } ]
京王5000系電車(けいおう5000けいでんしゃ)は、かつて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に在籍していた通勤形電車である。 本系列は狭義の意味での5000系と、その増結用として製造された5100系が存在したが、一般的に両者をまとめて5000系として扱うことが多い。このため、本項では2形式についてまとめて記述する。なお5100系は当初5070系と名乗っていたが、車両増備で番号重複が発生するため、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて改番されて5100系となった。 本記事では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は、新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、「5701編成」もしくは「5701F」の様に表現する。編成表は各種文献に倣って新宿寄りを左側として表記する。
{{鉄道車両 | 車両名 = 京王5000系電車(初代)<br />京王5070系電車<br />→京王5100系電車 | 背景色 = #B04740 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Keio5000-JINBA.jpg | 画像説明 = 京王5000系(初代)<br/>(2004年11月14日、若葉台検車区) | 運用者 = [[京王帝都電鉄]] | 製造所 = [[日本車輌製造]]・[[東急車輛製造]]・[[日立製作所]] | 製造年 = 1963年 - 1969年 | 製造数 = 155両 | 運用範囲 = [[京王線]] | 編成 =4両編成(5701F - 5723F)<br/> 2両編成(5101F - 5112F)<br/> 3両編成(5113F - 5125F){{Refnest|group="注釈"|5113F - 5118Fは投入当初は2両編成}} | 軌間 = 1,372 mm | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V<br />([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 105 km/h | 設計最高速度 = | 起動加速度 = 2.5 km/h/s | 常用減速度 = 3.5 km/h/s | 非常減速度 = 4.0 km/h/s | 車両定員 = 5701F - 5706F、5101F - 5106F ː 133(先頭車)・144(中間車)<br/> 5707F - 5723F、5107F - 5125F ː 138(先頭車)・150(中間車) | 自重 = 25 t - 36.3 t | 編成重量 = | 全長 = 18,000 mm | 全幅 = 2,744 mm(5701F - 5706F、5101F - 5106F)<ref group="注釈">製造時。後年乗降口にステップを増設して2,800 mmに。</ref><br/> 2,844 mm(5707F - 5723F、5107F - 5125F) | 全高 = 4,100 mm | 車体材質 =[[炭素鋼|普通鋼]] | 台車 = | 主電動機 =[[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]]日立HS-833Grb(5701F - 5710F、5113F - 5118F)<br/>日立HS-834Arb/東洋電機TDK-882A(5711F - 5723F、5119F - 5125F)<br/>東洋電機TDK553/4-CM→TDK553/4-HM(5101F - 5112F) | 主電動機出力 = 130kW(5701F - 5710F、5113F - 5118F)<br/>150kW(5711F - 5723F、5119F - 5125F)<br/>110kW→130kW(5101F - 5112F) | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]](5701F - 5723F、5113F - 5125F)<br/> [[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]](5101F - 5112F) | 歯車比 = 85:14=1:6.07(5701F - 5723F、5113F - 5125F)<br/>59:21=1:2.81(5101F - 5112F) | 編成出力 = | 制御方式 = [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁]] | 制御装置 =日立MMC-HTB20B(5701F - 5710F、5113F - 5118F)<br/>日立MMC-HTB20C(5711F - 5723F、5119F - 5125F)<br/>東洋電機ES-556B(5101F - 5112F) | 制動装置 = ARSE[[自動空気ブレーキ|自動空気制動]]<ref group="注釈">5701F - 5708F、5101F - 5108Fの製造当初。のちに改造</ref>→[[電磁直通ブレーキ|電磁直通制動]]、[[発電ブレーキ|発電制動]](カルダン車のみ) | 保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|京王形ATS]] | 備考 = | 備考全幅 = {{ローレル賞|4|1964|link=no}} |運用開始=1963年8月4日|運用終了=1996年12月1日(旅客用車として) 2004年8月1日(事業用車として)|車体幅=2,700 mm(5701F - 5706F、5101F - 5106F)<br/> 2,800 mm(5707F - 5723F、5107F - 5125F)}} '''京王5000系電車'''(けいおう5000けいでんしゃ)は、かつて京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])に在籍していた[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である。 本系列は狭義の意味での'''5000系'''と、その増結用として製造された'''5100系'''が存在したが、一般的に両者をまとめて5000系として扱うことが多い。このため、本項では2形式についてまとめて記述する。なお5100系は当初'''5070系'''と名乗っていたが、車両増備で番号重複が発生するため、[[1967年]](昭和42年)から[[1968年]](昭和43年)にかけて改番されて5100系となった。 本記事では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は、新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、「5701編成」もしくは「5701F」の様に表現する。編成表は各種文献に倣って新宿寄りを左側として表記する。 == 概要 == 京王線系統は[[1963年]](昭和38年)8月4日<ref>京王れーるランド内展示の「京王線5000系のあゆみ」〈京王電鉄株式会社運輸部営業課、2002年10月作成〉より</ref><ref name=":4">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.10-13</ref><ref name=":5">[[京王5000系電車 (初代)#rf268 5000 1|『鉄道ファン』通巻268号(1983)]] p.70-71</ref><ref name=":1">[[京王5000系電車 (初代)#rp578青木|『鉄道ピクトリアル』通巻578号(1993)]] p102-103</ref><ref name="keio5060_p133" />に架線電圧の1,500V昇圧を実施し、同年10月に[[新宿駅|新宿]] - [[京王八王子駅|東八王子]]間をそれまでより10分短縮した40分で結ぶ特急電車の運行を開始した<ref name="rf408-p14_15" /><ref name="rp8309_p36-37">[[#rp8309 masu|『鉄道ピクトリアル』通巻422号(1983)]] p.36-37</ref>。その特急などの優等列車運用に使用するため<ref name="keio5060_p133">[[京王5000系電車 (初代)#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.133</ref>、昇圧と同時にデビュー<ref name=":4" /><ref name=":5" /><ref name="keio5060_p133" />したのが本系列である。[[1963年]]([[昭和]]38年)から[[1969年]](昭和44年)にかけて5000系が4両編成23本、5100系が2両編成12本・3両編成13本の計155両が[[日本車輌製造]]・[[東急車輛製造]]・[[日立製作所]]で製造された。 それまでの京王線車輛とは車体色・デザインが一新され、路面電車由来の軌道線から本格的な都市鉄道への脱皮を果たしたことを象徴する車両として、京王のイメージアップに大いに貢献<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/train/museum/history/postwar03.html |title=電車図鑑 > 鉄道車両の変遷 > 戦後復興・発展期.3 |access-date=2023-11-04 |publisher=京王グループ |archive-url=http://web.archive.org/web/20230115121717/https://www.keio.co.jp/train/museum/history/postwar03.html |archive-date=2023-01-15}}</ref>した。また前年[[1962年]](昭和37年)に登場した[[京王井の頭線|井の頭線]]用の[[京王3000系電車|3000系]]に続いて、登場翌年の[[1964年]](昭和39年)度の[[鉄道友の会]][[ローレル賞]]を受賞している<ref>[[京王5000系電車 (初代)#rf268 5000 1|『鉄道ファン』通巻268号(1983)]] p.68-69</ref><ref>[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.14</ref>。同一[[鉄道事業者]]の2年連続受賞は京王が初であった。 また[[1968年]](昭和43年)4月に導入された車両からは[[関東地方]]初、また通勤形電車のうち[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]を装備した車両という条件に限れば日本初の[[冷房]]車<ref group="注釈">特別料金なしで乗車でき、通勤用にも供される汎用冷房車は、[[大手私鉄]]では[[1959年]](昭和34年)に登場した[[名鉄5500系電車]]が日本初であり、京王5000系電車は二番目となる。その後1969年(昭和44年)に[[京阪2400系電車]]が[[近畿地方]]初で日本でも三番目の大手私鉄の汎用冷房車として竣功している。</ref>となった。 旅客用車としては[[1996年]](平成8年)12月1日まで、[[事業用車]]に転用された3両が2004年(平成16年)8月1日まで京王線で運用され、引退後は1両が[[京王れーるランド]]で保存されている。また[[1987年]](昭和62年)以降、[[伊予鉄道]]をはじめとした地方私鉄に全体の4割以上となる67両が譲渡され、一部は本系列のデビューから60年を経過した2023年現在も運用されている。 === 登場の背景 === 1950年代以降、[[太平洋戦争]]後の復興と日本経済の順調な発展から、京王線が走る東京都下西郊の[[多摩地域|三多摩]]地区の人口は急増していた{{Refnest|group="注釈"|1955年以降日本住宅公団が[[芦花公園駅|芦花公園]]と[[府中駅 (東京都)|府中]]に団地を建設し、京王も1957年から[[つつじヶ丘駅|つつじが丘]]<ref group=注釈>団地開発にあたって駅名を変更し、駅自体も2面4線化した。</ref>に団地を建設するなど、新たな住宅地開発に取り組んだ<ref name="rp578_100-101">[[#rp578青木|「鉄道ピクトリアル』通巻578号(1993)]] p.100-101</ref>。}}。京王線の乗客も急増し、輸送人員全体で見ても1950年から1955年の間に1.8倍に、1960年には1950年の2.7倍にまで伸びた<ref name="rp578_100-101"/>。 京王も輸送力増強に努め、1950年の[[京王2600系電車|2600系]]より他の大手民鉄並みの車両の大型化、京王電軌時代からの[[京王線中型車|中型車]]にも長編成化工事を行い、曲線改良や重軌条化などを進めて[[1960年]](昭和35年)10月1日のダイヤ改正からは最大5両編成<ref name="rp8309_p36-37" />で、翌年にはラッシュ時の運転間隔を2分15秒まで縮める<ref name="rp8309_p36-37" /><ref group="注釈">単純計算すると1時間に26~27本の電車が走ることになる。これは信号システムが[[自動列車制御装置|ATC]]化された京王電鉄が、2023年3月20日のダイヤ改正で平日朝のラッシュ時に新宿方面に走らせている電車の本数に匹敵する。後年[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]乗入に際しても、この運転本数を維持しながらの改軌は不可能との京王の主張に東京都が折れる形となった。【参照】[https://transfer-train.navitime.biz/keio/directions/timetable?station=8602&line=1&direction=0&target=weekday 明大前駅のダイヤ]</ref>などの輸送力増強対策を矢継ぎ早に進行していた。しかし抜本的な輸送力増強のためには、車両の全面的な大型化と長編成化・スピードアップ{{Refnest|name="maxspeed"|group="注釈"|京王線の最高速度は[[1962年]](昭和37年)9月30日までは75km/h<ref name="rp8309_p36-37" />。不定期運転の「ハイキング特急」新宿駅 - 東八王子駅間の所要時間は48分で、通常は53分の急行が最速だった。}}が必要であり、そのために架線電圧の1500Vへの昇圧、新宿駅及び付近の路線の地下移設{{Refnest|group="注釈"|当時の新宿 - 初台間には、改良を行ったとはいえ急曲線や甲州街道中央を走る区間が残り<ref name="rm146_p4">[[#rm146|鈴木(2011)]] p.4</ref>、更に環状6号線の踏切があるなど高速化の障害が多数残っていた。}}を計画した。 京王は新宿駅地下化に際しては地上の敷地に駅ビル建設を行い、[[百貨店]]業に進出することを決定し、百貨店のあるべき姿の参考として[[1962年]](昭和37年)7月、沿線利用者を対象に「京王のイメージ」に対する[[アンケート]]調査を行った<ref name="rf408-p14_15" />。しかし「暗い」<ref name="rm146_p4"/>「地味でパッとしない」「電車がのろい」{{Refnest|name="maxspeed"|group="注釈"|}}<ref group="注釈">朝ラッシュ時は2分15秒間隔での運転のため、先行の列車に後続が何本も続くいわゆるダンゴ運転状態になる。</ref>というマイナス評価が「堅実」・「大衆的」というプラス評価を上回るという厳しい結果となった<ref name="rf408-p14_15">[[#rf408 5000|『鉄道ファン』通巻408号(1995)]] p.14-15</ref>。 このため、鉄道部門でも従来のイメージを刷新するべく新宿駅- 東八王子間を40分以内で結ぶ定期特急を新設する<ref name="rf408-p14_15" />とともに、昇圧時に中型車を置き換えるための車両は、その特急運用に充当するのにふさわしいエクステリア、すなわちアンケートのマイナス評価を覆すような「スマート」「明るい」「速い」イメージを持った車両として開発されることとなった<ref name="rf408-p14_15"/>。 == 車両概説 == 5000系は2M2Tの4両固定編成<ref name="keio5060_p93">[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.93</ref>を構成し、系列中に4形式が存在する。5100系は1M1Tの2両編成もしくは2M1Tの3両編成で、系列中に3形式が存在する。本系列は京王線としては初めて、当初から運転台を持たない中間電動車が製造された<ref name="keio5060reader_148">[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)』]] p.148</ref>。 3両編成と4両編成の電動車は[[動力車#MM'ユニット方式|MM'ユニット方式]]を採用しており、集電容量的には[[集電装置|パンタグラフ]]は1ユニットに1つで十分だったが、電気摩耗を少なくするため、各車1基搭載としてどちらも上げて使用した<ref name="rf268_5000_1-p72-73" />。 ;クハ5700形:5000系の編成において新宿側の先頭車となる制御車 (Tc1) 。補助電源装置を搭載している。 ;デハ5000形:5000系の編成において中間に組み込まれる電動車 (M1) 。デハ5050形と電動車ユニットを組む新宿側の車両。パンタグラフの搭載位置は新宿側。主制御装置を搭載している。 ;デハ5050形:5000系の編成において中間に組み込まれる電動車 (M2) 。デハ5000形と電動車ユニットを組む八王子側の車両。パンタグラフの搭載位置は八王子側。電動空気圧縮機と電動発電機をそれぞれ2基搭載している<ref name="rf268_5000_1-p72-73" />。 ;クハ5750形:5000系の編成において八王子側の先頭車となる制御車 (Tc2) 。電動空気圧縮機を搭載している。 ;デハ5100形:5100系の編成において新宿側の先頭車となる制御電動車。1967年の新造車までは'''デハ5070形'''として登場した。パンタグラフの搭載位置は八王子側。主制御装置を搭載している。デハ5101 - 5112はデハ2700形の電装品を流用した(Mc)、デハ5113以降はデハ5150形とユニットを組む(Mc1)。 ;クハ5850形:5100系の編成において京王八王子側の先頭車となる制御車 (Tc) 。1967年の新造車までは'''クハ5770形'''として登場した。補助電源装置・電動発電機を搭載し、2両編成用の車両は電動空気圧縮機も搭載している<ref name="rf268_5000_1-p72-73" />。 ;デハ5150形:5100系のうち、電装品も新造している5113編成以降の中間に組み込まれた電動車(M2)。1968年に登場したため、当初からデハ5150形である。パンタグラフ搭載位置は八王子側。電動空気圧縮機、補助電源装置を搭載し、デハ5100形とユニットを組む。 本節では以下1963年に登場した1次車の仕様を基本として記述し、増備途上での変更点は別途節を設けて記述するため、5100系については当時の形式名・5070系として記載する。編成については[[#編成表|編成表]]を参照のこと。 === 車体 === 車体は5000系と5070系は共通の[[炭素鋼|普通鋼]]製車体である。井の頭線に投入した3000系は[[ステンレス鋼|ステンレス]]車体だったが、同系の設計段階で[[踏切]]事故後の復旧法が検討された際、京王線は踏切が約340箇所と多く<ref>京王電鉄まるごと探見 (キャンブックス)、2012年3月30日発行</ref>、踏切事故の発生頻度も井の頭線とは比較にならないほど高かったため、京王線向け車両は修復を容易にするために普通鋼製車体を採用している<ref name=":1" /><ref>[[京王5000系電車 (初代)#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.77</ref>。 先頭車・中間車ともに全長17,500 mm(連結面間長18,000 mm)・車体幅2,700 mm(外板間、最大寸法は2,744 mm)・屋根上高さ3,530 mm・パンタグラフ折り畳み高さ4,100 mmである<ref name="rp578_p206-207">[[京王5000系電車 (初代)#rp578 5000|『鉄道ピクトリアル 第578号(1993)』]] p.206-207</ref>。全長と車体幅は[[京王2000系電車#2010系|2010系]]よりも拡大され<ref name="rf268_5000_1-p72-73">[[京王5000系電車 (初代)#rf268 5000 1|『鉄道ファン』通巻268号(1983)]] p.72-73</ref>、井の頭線3000系の第1・2編成と同寸(連結面間は3000系の方が長く、台車中心間距離は5000系の方が長い)となった。京王線の既設ホームとの兼ね合い{{Refnest|1963年当時の京王線は、路面区間や玉川上水を暗渠化した部分を含む新宿 - 初台間の複線間隔が狭かった<ref name="keio5060_p93"/>ことと、同区間西参道付近にあったSカーブ<ref name="rp578_100-101"/>の関係で、台枠上面寸法が2,600 mmに制限されていた<ref name="rf268_5000_1-p72-73"/>。|group=注釈}}から、車体断面がストレートだった3000系の第1・2編成とは異なり、車体裾部分を絞る形状として[[台枠]]上面部の幅は既存車と同じ2,600 mmとしている<ref name="keio5060_p93" /><ref name="keio5060_p134" />。そのため車体前位の扉間窓下に取り付けた京王帝都の社紋は、車体を絞る部分を避け、既存車よりも高めの位置とした<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name=":2">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.8-9</ref>。腰板を折った裾絞りの断面形状は当時首都圏の通勤形車両としては珍しく、他社では本系列の1年後の[[1964年]](昭和39年)に登場した[[小田急2600形電車|小田急2600形]]と、[[1970年]](昭和45年)に登場した[[相鉄6000系電車#新6000系|相鉄新6000系]]程度しか類例を見ない。 側面窓及び扉の配置は、2ドアクロスシート車とする案もあったが、新宿ー八王子間の距離が40kmにも満たないことや、朝[[ラッシュ時|ラッシュアワー]]の新宿方面の列車に必ず使用されるため、その際の客扱いに懸念があったことと、在来車との汎用性を持たせることから、[[京王2700系電車|2700系]]以降の京王線車輛や3000系第1・2編成と同様にいわゆる「新関東型」を踏襲し、3ドアロングシート車とした<ref name=":3">[[#rf408 5000|『鉄道ファン』通巻408号(1995)]] p.16-17</ref>。先頭車がd1D3D3D2、中間車が2D3D3D2となっている。客用扉として幅1,200 mmの片開扉を3か所に配し、扉間は1,000 mm幅の上段下降・下段上昇タイプで3000系でも採用したバランサー付きのセミユニット方式[[サッシ|アルミサッシ]]を、窓間250mm・ドア吹き寄せ部300mmの柱を挟んでドア間に3枚ずつ・連結面に2枚ずつ配した<ref name="keio5060_p134" />。ガラスはそれまでの京王車両でも破損防止のために採用されていた5mm厚の[[強化ガラス]]を用いた<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name="keio5060_p134" />。 前面のデザインは京王社内で出た意見をもとに、東急車輛のデザイナーがまとめた<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name="rm146_p7" />。当初から5000系と5070系を併結した6両編成での運転が計画されていたことと、新宿 - 初台間の地下線での脱出路として使うことも想定して<ref name="rf268_5000_1-p72-73" />、京王史上初めて前面に[[貫通扉]]を設けるデザインを採用している。貫通路は[[幌#貫通幌|幌]]台座を[[シールドビーム]]2灯を配した[[前照灯|ヘッドライト]]部分まで一体化したデザインとし、扉下部に[[方向幕|行先方向幕]]、連結した時に前後の車両を行き来できるよう渡り板を備えている。[[操縦席|運転台]]窓は車体全体の曲面デザインに合わせること、更に貫通路や併結時に使用される運転台仕切りで狭くなった乗務員の視野を広げる目的で、[[窓ガラス|熱線吸収式]]の曲面ガラスを採用した<ref name="keio5060_p134" /><ref name="rm146_p7" />{{Refnest|group="注釈"|前面のデザインについて[[#rp578_5000|高橋(1993)]]は「他社に影響を与えた」<ref name="rp578_p206-207"/>、[[#rp146|鈴木(2011)]]は「それまでにないもの」<ref name="rm146_p7"/>と記載しているが、低運転台にパノラマミックウィンドウという形態自体は、[[1958年]](昭和33年)デビューの[[国鉄153系電車]](平面ガラス構成ではその前年に登場した[[名鉄5000系電車 (初代)|名鉄5200系電車]])がその始祖で、国鉄では初期の急行形電車および近郊形の[[国鉄415系電車|国鉄401・421系電車]]の初期車にも採用されている。ただし当時の通勤車では1961年(昭和36年)登場の[[営団3000系電車]]以外に例のない形態だった。}}。幕板は運転席直下に種別表示の[[行先標#概要|サボ]]を掛け式で設け、上部に[[尾灯]]、車体下部に[[通過標識灯|標識灯]]を横長の角形形状のランプで配した。位置はそれまでの京王線車両と共通である。曲面を巧みに取り込んだこの前面デザインは、[[1992年]](平成4年)に登場した[[京王8000系電車|8000系]]の曲面を取り入れた前頭部<ref name="RP578p45">[[#rp578 8000|『鉄道ピクトリアル』通巻578号(1993)]] p.45</ref>と、[[2001年]](平成13年)に登場した[[京王9000系電車|9000系]]の正面デザイン<ref name="RF479p69">[[#rf479_9000|『鉄道ファン』通巻479号(2001)]] p.69</ref>にまで影響を及ぼしている。 屋根は車体色に調和させるためライトグリーン塗装<ref name="keio5060_p134" />とし、アイボリーに塗装された[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の[[ベンチレーター|通風器]]が1両当たり6つ配置されている<ref name="keio5060_p134" />。3000系のそれと同じく<ref name="rf268_5000_1-p72-73" />、[[東急7000系電車 (初代)|東急7000系]]など1960年代初期に登場した東急車輛製の[[オールステンレス車両|オールステンレスカー]]で多く採用された台形の形状をしたもの<ref name=":2" />で、パンタグラフ部は干渉しないようやや斜めに変形されている<ref name="keio5060_p134" />。 === 内装 === 車内設備に関しては極力3000系と共通設計を行った<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name="keio5060_p134">[[京王5000系電車 (初代)#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.134 - 135</ref>。室内は天井は白、それ以外はベージュの白色系[[メラミン化粧合板|メラミン化粧板]]、客用扉は軽量で剛性の高い[[ステンレス鋼#研磨仕上げ|ヘアライン仕上げのステンレス]]を採用した。客室側はステンレス地そのままとした他、荷物棚などはつかみ棒を兼用するステンレスパイプで構成するなど、無塗装化が図られている<ref name="keio5060_p134" /><ref name=":3" />。ロングシートは赤茶色系統のモケットを使用し、全体としては暖色系にまとめられている。車内通路にはドア部分も含めた全長にわたって吊手を設置した。 天井には3000系と同様に送風装置として採用された40cm径の[[ファンデリア]]が配置<ref name="keio5060_p134" /><ref name=":2" />され、先頭車は2,700mm・中間車は2,900mm間隔でそれぞれ6つ、通風器の真下に取り付けられている。ファンデリアの化粧板は無塗装化を図ったその他の内装に合わせ、[[アルマイト]]仕上げとした<ref name="keio5060_p134" />。連結面は2000系、2010系や3000系と同じく、扉などが設けられていない1,250mm幅の広幅貫通路である。 なお運転台についても内装はメラミン化粧板を採用、機器類はステンレスによるキセ(カバー)で覆う<ref name="rm146_p7" />など、無塗装化と配置の工夫による乗務員室の居住性向上を図っている<ref name="keio5060_p134" />。 === 塗装 === [[ファイル:Keio 5722 19961201-8.jpg|サムネイル|初期の車両にみられた'''「ヒゲ」'''をサヨナライベント時に再現したクハ5722(1996年12月1日)]] 先述のアンケートの結果を踏まえ、塗装もそれまで京王線及び井の頭線の多くの車両に使われていた[[グリーン車 (京王)|緑色の単色塗装]]にこだわらない<ref name="keio5060_p134" />ものが模索された。当時京王帝都電鉄の鉄道担当常務だった[[井上正忠]]からは、新たな京王のイメージを形作るものとして「(ライトグリーンよりも)明るい色にしなさい」「白が良い」との意見が出され<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name="rm146_p7">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.6-7</ref>、踏切担当部門や電車区からの「ライトグリーンよりも視認性の高い車体色を」との声{{Refnest|group="注釈"|当時沿線に緑が多いため<ref name="DJ310_p38-39">『[[#DJ310 1|鉄道ダイヤ情報 No.310]]』 p38-39</ref>目立ちづらかった。5000系と同じようにえんじ色の帯を入れるという案がクハ2783で試された<ref name=":4"/>こともあったが、最終的に[[1965年]](昭和40年)に、より明るいスタンリットライトグリーンに変更している<ref name="rm163_p23">[[#rm163|鈴木(2013)]] p.23</ref><ref name="keio5060reader_151">[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.151</ref>。}}も取り入れ、外部デザイナーによってデザインが作成された。[[若葉台検車区|桜上水工場]]では[[京王2700系電車|クハ2783]]が新塗装の見本として塗装が行われた<ref name=":4" />。 最終的に5000系の塗装は[[西新宿|新宿副都心]]をイメージする色として車体全体を[[アイボリー]]{{Refnest|group="注釈"|偶然にも[[新幹線0系電車]]のアイボリー([[クリーム10号]]{{Color|#ECE0D1|■}})とほとんど違いがなかった<ref name="rf268_5000_1-p72-73"/>。}}に塗装し、力強い発展というイメージで[[えんじ色]]の帯を、側面窓下から正面まで回り込むように配したデザインとなった。帯の太さは80mmとかなり細いが、これはあえて不安定な太さ<ref name="rm146_p7" />とすることで適度な緊張感を持たせ<ref name="DJ310_p38-39"/>、見る者の意識に引っ掛かるようにするという意図<ref name="rf268_5000_1-p72-73"/>があった。更にスマートさやスピード感を出す狙い<ref name="keio5060_p134"/><ref name=":2" />で、先頭車の帯は乗務員室扉付近から、ひれ{{Refnest|group="注釈"|鉄道愛好者は「ヒゲ」と呼ぶことが多いが、5000系登場当時の車両課長であった疋田の寄稿<ref name="keio5060_p134"/>、車両課に所属していた合葉<ref name=":4"/>の寄稿<ref name="rf268_5000_1-p72-73"/>は、どちらも「ひれ」と表現している。}}やヒゲのように飛び出すラインが加えられた<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name="keio5060_p134" /><ref name="rp578_p206-207"/>。 このアイボリーはその後[[京王グループ]]の[[コーポレートカラー]]として、[[バス (交通機関)|バス]]や[[タクシー]]などを含めて広く用いられている。 === 機器 === [[ファイル:Bogie Truck TS-805A.jpg|thumb|250px|right|TS-805A台車(クハ5723)]]完全新造車の5000系と機器流用車の5070系では、大きく異なるためそれぞれ説明する。 なお5000系の増備に際して生じた走行機器バリエーションはきわめて豊富で、駆動方式は[[吊り掛け駆動方式]]と[[カルダン駆動方式]]、[[電動機|主電動機]]・主制御器は3種、[[鉄道車両の台車|台車]]は12種が存在したが、詳細は別項で解説する。 ==== 5000系 ==== 本系列は2M2T・電動車はMM'ユニットの4両固定編成である。[[1959年]](昭和34年)より京王線に投入されていた2010系4連が十分な性能を発揮している<ref name=":5" />ことから、同系列の構成をほぼ踏襲し、電動車を中間車に変更・特急運用に伴う高速走行を考慮した主電動機の熱容量アップ<ref name=":5" />・前年に導入された井の頭線3000系の経験を生かした改良を加えた。車体に比べて革新的な要素は少ないが安定した仕組みの高経済車である。 主電動機は2010系が搭載した[[日立製作所]]HS-837-Brbの出力増強版である[[直巻整流子電動機|直流直巻補償巻線付主電動機]]・HS-833-Grb<ref name="keio5060_p133" />{{Refnest|端子電圧375V時、定格出力130kw。80 %界磁時の定格回転数1,550 rpm<ref name="keio5060_p133" />|group=注釈}}を採用した。この主電動機は最弱界磁19%Fという広範囲な界磁制御を可能としたもの<ref name="rp578_p206-207" /><ref name=":6">[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.136 - 137</ref>で、85:14=1:6.07という大歯車比<ref name=":6" />でトルクを高めることで、定員の2倍程度まで加減速度を一定に保つ<ref name=":6" />という牽引力を重視した特性を持ちつつ、80km/h時の加速度1.5km/h/s、平坦線釣合速度120km/hの高速性能を実現した<ref group="注釈">在籍当時の営業最高速度は105km/h。</ref>。[[起動加速度|軌道加速度]]は2.5km/h/s。 制御装置は日立製作所製MMC-HTB20B<ref name="keio5060_p133" />を搭載したが、これは新造ではなく2010系が昇圧に際して完全なMM'ユニット化され、デハ2060形の搭載していたMMC-LHTB20が不要になるため、それを1500V専用・HS-833用に改造したものである<ref name=":7">[[#rf268 5000 1|『鉄道ファン』通巻268号(1983)]] p.74</ref>。シンプルな大径1回転カムであるが多段制御が可能<ref name=":6" />で、非常回送回路を装備し、遮断器などの故障で段数を進められなくなっても、主電動機・主抵抗器が無事なら回送スイッチを押すことで運転を続けられるようになっている<ref name="rp578_p206-207" /><ref name=":6" />。 集電装置は製造費低減のため、廃車になった京王線中型車などから[[集電装置#日本における主要形式|PS13パンタグラフ]]を流用した<ref name="rp578_p206-207" /><ref name="rm146_p7" />。3000系はPT42パンタグラフを新造したが、当時京王線車両のほとんどが使っていて取り扱いにも慣れていること、後述するように空気ばね台車を装着しているため、高速走行時も充分安定して集電できるということから流用品で済まされた。 制動装置は後述する増結用の5070系の走行装置や、既存の京王線車輛との関係上、2010系と同じA動作弁を用いブレーキ管減圧制御を行う[[自動空気ブレーキ]]に、中継弁によるブレーキ力増幅と[[電磁弁]]による電磁速動機能・[[発電ブレーキ]]との連動機能を追加した、予備直通ブレーキ機能および機械式[[応荷重装置]]付きのARSE-D[[自動空気ブレーキ#電磁自動空気ブレーキ|電磁自動空気ブレーキ]]を搭載する<ref name=":6" />。 台車はデハ5000形・5050形がアンチローリング装置を設けた日立KH-39<ref name="rm146_p7" /><ref name=":8">[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.110 - 111</ref><ref name=":0">[[京王5000系電車 (初代)#rf028手塚飯島|『鉄道ファン』第28号(1963)]] p.57</ref>、クハ5700形が[[東急車輛製造]]TS-320<ref name=":2" /><ref name=":8" />、クハ5750形は[[日本車輌製造]]NA-312T<ref name=":8" />、いずれも[[ボルスタアンカー#インダイレクトマウント方式|インダイレクトマウント]]構造を採用した[[空気ばね#鉄道車両|空気ばね]]台車で、京王線向けでは初の空気ばね台車採用となった。日立製と日車製はウィングばね式であるため外見上[[国鉄DT32形台車|DT32形台車]]とよく似ている<ref name="keio5060_p93" /><ref name=":0" />。東急製は軸ばね式で、更に保守不要のゴムベロー制動筒付きユニットブレーキを装備した<ref name="rp578_p206-207" /><ref name=":6" /><ref name=":7" /><ref name=":0" />。いずれの台車も[[標準軌]]に[[改軌]]できるようになっていた<ref name="rp578_p206-207" /><ref name="rm146_p7" />ほか、制御車用の台車はどちらも電動車用にできる構造になっていた<ref name=":2" /><ref name=":6" />。1次車の制御車わずか6両に2種の台車が使用されている<ref name=":7" />のは、当初クハは製造費低減のためにパンタグラフ同様、昇圧工事に際して廃車となった中型車の[[イコライザー]]式の台車が流用される予定であったところ、東急車輛と日本車輛が試作的な空気バネ台車を制作して京王に提供したためと言われる<ref name="DJ310_p38-39" />。 ====5070系==== 本系列はMc+Tcの2両編成で、6両編成運転時の増結や2両+2両で運用することを想定して作られた。 主電動機・台車・制御器・パンタグラフはデハ2700形を電送解除して流用している<ref name=":5" /><ref name=":9">[[京王5000系電車 (初代)#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60 (2005)』]] p.94</ref><ref name=":10">[[#rp578 5000|『鉄道ピクトリアル 第578号(1993)』 p.2]]10</ref>。主電動機は東洋電機製TDK553/4-CM<ref group="注釈">端子電圧750V時、定格出力110kw。</ref>、歯車比59:21 = 2.81の[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]、制御器は東洋電機製ES-556B、制動装置もARSE電磁直通自動空気ブレーキで<ref name=":9" /><ref name=":10" />、性能についてはデハ2700形+クハ2770形の2両編成と同一であった。 車体だけのセミ新車とした理由は、昇圧や路線の改良などにも費用を費やしており車両にかけられる予算に限界のあった京王が、その中でも輸送力増強と車輛の体質改善を行おうとした施策の一環である<ref name=":5" /><ref name=":9" /><ref name=":11">『[[京王5000系電車 (初代)#keio5060|鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60 (2005)]]』 p.94</ref>。2010系の運用実績から、京王社内では5000系+5070系の6両編成は3M3Tで運用できる自信を持っていたが<ref name=":5" />、MM'ユニットの電動車を1Mとして使った実績はあった{{refnest|group=注釈|井の頭線が3両編成時代の1957年に投入された[[京王1000系電車 (初代)|1000系]]で、4両化される1961年までユニットを組むデハ1000形 - デハ1050形にデハ1000形を連結して運用していた事例があった<ref name=":5" />。また後年の[[京王6000系電車|6000系]]でも同様の事例がある<ref name="rp578̠_p213">[[#rp578石井|『鉄道ピクトリアル』第578号(1993)』 p.213]]</ref>}}ものの機能の制限が必要で<ref group="注釈">[[直列回路と並列回路|回路を永久直列化]]して電気ブレーキの機能を停止する必要があった。</ref>、MTユニットの新形式を開発する余裕もなかった。そこで当時京王社内でスモールマルティー(○に小文字tを入れる。以下ⓣ)と呼ばれた[[京王2000系電車#14 m級在来車からの編入車グループ|サハ2500形・2550形]]{{refnest|group=注釈|路線改良や輸送力増強で予算がひっ迫していた京王が、昇圧に対応できない[[京王電気軌道110形電車|サハ2110形]]などに広幅貫通路設置・交流電源化などの改造を行った車両。車体が小さいためあくまでもつなぎ的な施策だった。}}を置換する大型サハ、通称ラージマルティー(○に大文字Tを入れる。以下Ⓣ)の一部はデハ2700形を中間サハに改造することで充当し{{Refnest|group=注釈|最終的に2010系のサハ32両中、20両がデハ2700形12両に加え、サハ2750形やクハ2770形のⓉ改造車で占められている。なお5070系に電装品を供出したデハのうち5両は、一旦クハ2770形になってからⓉ化された<ref name="rm163̞p23">[[#rm163|鈴木(2013)]] p.23</ref>。2700系の記事も参照のこと。}}、発生した電装品を5070系に流用することとした。元々2700系の電装品はカルダン駆動車と伍して優等運用に耐えうる性能を持っていたので、電気ブレーキは装備していなかったが、5000系との併結運用は大きな問題はなかった<ref name=":5" /><ref>[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.77-78</ref>。 デハ5070形の台車は、先述の通りデハ2700形から流用の東急TS-101B<ref name=":2" /><ref name=":0" /><ref name="rm146p19">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.19</ref><ref name="rf408_500p26">[[#rf408 5000|『鉄道ファン』通巻408号(1995)]] p.26</ref>、クハ5770形も2両が流用品の東急TS-306B台車<ref name=":2" /><ref name=":0" />{{Refnest|クハ5770形1次車2両で使用されたTS-306B台車の流用元については、京王関係者の雑誌寄稿でも2説あり、[[#rf268_5000_1|合葉(1983)]] は[[京王電気軌道110形電車|サハ2111→サハ2531]]と、1962年に廃車になった[[京王電気軌道200形電車|デハ2201→サハ2110]]の2両の台車(TS-306A台車。ブレーキシリンダは車体取付で台車枠にはない点がTS-306Bと違う)を改造したと記載し、[[#rf408_5000|永井(1995)]]はTS-306Bを履いていたサハ2751 - 2753のうち2両からの流用であると記載している。[[#rm146|鈴木(2011)]]掲載の台車交換一覧<ref name="rm146p19"/>は永井の記述に準拠している。|group=注釈}}、1両は2000系予備台車を改造した日立KH-14改<ref name="rf268_5000_1-p72-73" /><ref name=":0" /><ref name="rm146p19"/><ref name="rf408_500p26"/>を装着した。いずれもコイルばね台車である。コイルばね台車ゆえに、5000系と併結すると空車時の車高には差があった<ref name=":7" />。 == 増備途上での変更点 == '''1次車(1963年8月 5701F-5703F、5071F-5073F)''' * 京王線1500V昇圧当日の1963年8月4日にデビューしたグループ。車内のスピーカーは4か所で、ドア上の鴨居部には塗装品が使用されていた<ref name=rp1308_funa>[[#rp1308_funa|『鉄道ピクトリアル』第893号(2014) p.210-211]]</ref>。クハ5771などは増結運用を想定し、前面に貫通幌を取り付けて入線している<ref name="keio5060_p94">[[#keio5060|『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション 京王電鉄 1950-60』(2005)]] p.94</ref>。 '''2次車(1963年12月 5074F-5076F、1964年2月 5004F-5006F)''' * 1964年4月29日の[[京王動物園線|動物園線]]開業を控え、新宿からの直通運転を行うことと、同年秋の特急の全列車6連化のための増備車<ref name="rp146_p15">[[#rm146|鈴木(2011)]] p.15</ref>。ただし5070系は1963年の冬のラッシュ時対策で6連運転を増やすために先行で導入した<ref name=":4"/>。クハ5770形が貫通幌をつけて導入された点は1次車と同様<ref name=":4"/>。 * 車体及び台車はほぼ1次車と共通だが、室内設備で客室内スピーカーを6か所に増設し、ドア上の鴨居部分もステンレス製に変更した点が異なる<ref name="rp1308_funa" />。 '''3次車(1965年3月 5707F・5708F 、1965年4月 5077F・5078F)''' * 京王線の車体限界拡張工事が完了し、ホーム上面高さが2,700mmに拡大されたことで最大寸法2,844mm、車体は2,800mm・すそ幅2,700mmと車体幅を100mm拡大した<ref>[[京王5000系電車 (初代)#rf269 5000 2|『鉄道ファン』通巻269号(1983)]] p.51</ref><ref name=":12">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.18</ref>。正面窓幅・柱幅なども変更している<ref name=":11" />。また側面幕板部分に運転台から操作可能な行燈式の種別表示器を追加し<ref name=":11" />、パンタグラフをPT-42に変更。 * デハ5000形・デハ5050形の台車がKH-39A、クハ5700形・クハ5750形は日本車輛NA-312Aとなった<ref name=":12" />。またクハ5770形も新造台車装備となったが、こちらは中型車からグリーン車に流用されていた老朽台車の淘汰用台車のテストを目的に、クハ5777が日車NA-16T、クハ5778が東急TS-321という空気ばね台車に改造可能な金属ばね台車を新造して装着した<ref name=":11" />。 '''4次車(1966年4月 5709F・5710F 1966年5月 5079F・5080F)''' * 翌年の[[京王高尾線|高尾線]]開業を控え、分割特急運用を想定して先頭車の連結器は[[連結器#電気連結器|電気連結器]]付きの[[連結器#柴田式密着連結器|密着連結器]]に変更<ref name=":13">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.20-21</ref>。これにより他系列との連結を想定しなくなった{{Refnest|八王子向き先頭車(クハ5750形、クハ5770形)には非常時に備えて[[連結器#中間連結器|中間連結器]]が装備された。|group=注釈}}ことと、京王線への[[自動列車停止装置]](ATS)導入を見越し、ブレーキをより高性能な[[電磁直通ブレーキ]](HSC)への変更を実施した<ref name=":13" /><ref name=":14">[[京王5000系電車 (初代)#rf269 5000 2|『鉄道ファン』通巻269号(1983)]] p.52-53</ref>。既存車も1966年度中に連結器交換とブレーキ改造を実施した<ref name=":13" /><ref name=":14" />。外観では前面幕板部、車号の下にあった手すりが車号の上に移動している<ref name=":13" />。 * デハ5000形・デハ5050形の台車は日車NA-312A<ref name=":13" />。クハ5700形・クハ5750形・クハ5770形は日車NA-318Tという[[ボルスタアンカー]]のない台車を履いていた。 '''5次車(1966年12月 5711F-5713F、5081F-8083F)''' * 分割特急の誤乗防止策も兼ね、側面に車両順位札差(何号車かを表示する)と行先方向表示幕を追加<ref name=":13" /><ref name=":14" />。これに伴い種別表示器を巻取り式に変更し、前面方向幕とともに自動化・一斉操作できるように変更した<ref name=":14" />。既存車も高尾線開業までに全車改造。正面窓上(パノラマウィンドウの桟の上)に手すり追加<ref name=":13" />。 * 5000系の主電動機を150kWに強化したHS-833-Grbに変更し<ref name=":13" />、制御器も新造品MMC-HTB20cとした。いずれも勾配のある高尾線運用を見据えたもの。 * 5070系は優等列車の7両化計画、サハ2500・2550形置き換えのためのデハ2700形の電装解除が必要なくなったことから、デハ5083より将来の2M1T化を見据えて下回りもカルダン駆動の新造品となった<ref name=":13" /><ref name=":14" />。電装品は4次車までの5000系と同一で130kWの主電動機とデハ2060から流用したMMC-HTB20B。 * デハ5000形・デハ5050形、デハ5083の台車は日立KH-55<ref name=":13" />、または東急TS-324{{Refnest|デハ5013+5063、5014+5064の4両。|group=注釈}}に変更。クハ5700形・クハ5750形・クハ5770形は日車NA-321T<ref name=":13" />。 '''6次車(1967年3月 5714F・5715F、5084F・5085F)''' * 高尾線開通に備えた増備車。京王線で導入が決まったATSを装備<ref name=":15">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.22-23</ref>。 * デハ5000形・デハ5050形・デハ5070形の台車は日立KH-55A<ref name=":15" />。クハ5700形・クハ5750形は日車NA-321AT<ref name=":15" />。 '''7次車(1967年9月 5716F・5717F、5086F-5088F)''' * 6次車同様高尾線開業に備えた増備。高尾線開業時のダイヤで5000系を京王八王子方面、5070系を高尾山口方面で使用することとしたが、距離の関係から高尾線特急は高幡不動に戻ってくるタイミングが1本遅くなるため、5070系を1運用分増やすために1本多く増備された<ref name=":14" />。 * 先頭車の「ひれ」塗装を廃止。5000系と5070系が常時併結されていることが多くなり外見をすっきりさせたい、帯を塗装ではなくテープに変更するなどの事情<ref name=":15" />。 * 5717FはATS機器などの保護を目的に試験的に前面にスカートをつけて登場<ref name=":14" /><ref name=":16">[[京王5000系電車 (初代)#rm146|鈴木(2011)]] p.24-25</ref>。5086Fと連結して高尾線開通祝賀列車にも起用された<ref name=":16" />。 * 台車はこの増備から東急車輛製に統一。電動車がTS-804、制御車がTS-805<ref name=":16" />。 '''8次車(1968年5月 5718F・5719F 1968年6月 5119F-5121F、デハ5164-5168、1968年12月 デハ5163)''' * 5000系の増備が進み、「5070系」では番号が埋まってしまう可能性が高くなったため、5100系として登場した。特急の7連化に伴い当初から3両編成を組んでいる<ref name=":14" />。 * 後述するように5718F・5719F、5119F-5121Fは試作冷房車<ref name=":14" />。それに伴いデハ5050形とデハ5150形の電動発電機を大容量化し、さらに2台搭載している。5119F-5121Fも冷房搭載による重量増加を見越して主電動機を150kWに変更<ref name=":14" />し、制御器も流用分がないため新造している。台車は電動車がTS-804A、制御車がTS-805A。 * 5100系用の増結車は電装品から新造された5113F(旧5083F)以降に連結し、当初予定通りMM’ユニットを組む。主電動機は連結相手に合わせて130kwで、非冷房で登場した<ref name=":14" />。台車は8次車とサフィックス違いのTS-804B。 '''9次車(1969年2月 5020F・5021F、5122F・5123F)''' * 量産型冷房車<ref name=":14" />。メカニズム的には8次車とほぼ同様で台車・電装品などは共通。 '''10次車(1969年6月 5022F・5023F、1969年8月 5124F・5125F)''' * 最終増備車。基本的に9次車と同じで台車・電装品などは共通。 === 冷房装置 === [[ファイル:KUHA 5723 of Keio Corporation.jpg|thumb|250px|right|分散型RPU-1508 (4,500kcal/h・5.23kW) ×6基を搭載したクハ5723]] [[1968年]](昭和43年)に製造された8次車が冷房装置を搭載した。9次車と同時に非冷房車1編成が1969年に冷房化され、その後非冷房車も大きく2回の時期に分けて改造されたが、車軸の安全強度上、問題のない車両に限って行われ、5701 - 5710編成とつりかけ駆動の5101 - 5112編成が改造対象から外れた。 ; 試作新製冷房車(1968年) :* 5718編成・5119 - 5121編成 : [[分散式冷房装置|分散型]]RPU-1506(冷凍能力4,500kcal/h・5.23kW)×8基(デハ5100形は7基) :* 5719編成 : [[集中式冷房装置|集中型]]FTUR-375-301 (39,000kcal/h・45.34kW) :純然たる通勤形電車への冷房装置設置は前例がないため、乗車定員2倍を目標として比較が行われた。横流ファンを搭載したために天井高さが低くなり、吊り広告が廃止された。また、各車とも海側にベンチレーターがある。 ; 試作改造冷房車(1969年) :* 5716編成 : 分散型RPU-1507 (4,500kcal/h・5.23kW) ×6基(デハは4基) : 定員乗車を目標として元々あった通風器の箇所に設置した。そのため、そのまま交換・設置するとパンタグラフと干渉するデハ5000・5050形では4基しか搭載していなかった。 ; 量産新製冷房車(1969年) :* 5720・5124 - 5125編成 : 集中型FTUR-375-202 (27,000kcal/h・31.39kW) :* 5721 - 5723・5122 - 5123編成 : 分散型RPU-1508 (4,500kcal/h・5.23kW) ×6基 : 試作新製冷房車での比較検討の結果、冷房容量が過大であったために見直しを行い、横流ファンの取り付けは見送られ、吊り広告が復活した。ベンチレーターも設置されていない。 ; 量産改造冷房車1(1970年 - 1972年) :* 5711 - 5715・5717編成 : クハ5700・5750形は分散型<ref group="注釈">「私鉄の車両 17 京王帝都電鉄」(ネコ・パブリッシング)では [[集約分散式冷房装置|集約分散型]]とされている。</ref>RPU-2203 (8,000kcal/h・9.3kW) ×4基、デハ5000・5050形は集中型FTUR-375-205 (30,000kcal/h・34.88kW) : 先頭車と中間車でクーラー形状が分けられた。以後、このパターンが新製・改造問わず標準的となり、3000系・[[京王6000系電車|6000系]]でも採用される。 ; 量産改造冷房車2(1979年) :* 5113 - 5118編成 : 集中型FTUR-375-208 (30,000kcal/h・34.88kW) : [[1977年]](昭和52年)以降の新製車から全車集中型が標準となったことにより、最後に改造された本グループも集中型のみとなった。 5716編成のデハは冷房容量の不足が否めなかったため、[[1985年]](昭和60年)に集中型FTUR-375-208Bに交換された。また、新製冷房車のうち集中型を搭載した車両は冷房装置更新の際に、5719編成がクーラーキセが独特の形状をした集中型FTUR-375-206(冷凍能力30,000kcal/h・34.88kW)に、5720編成・5124 - 5125編成が集中型FTUR-375-205に交換された。なお、FTUR-375-205に関しては後年、6000系のクーラー更新時に余剰となったFTUR-375-208Bに交換された車両もある。 == 事故廃車 == [[1979年]](昭和54年)[[10月3日]]に[[武蔵野台駅]]東側の飛田給11号踏切において[[牽引自動車|トレーラー]]より転落した重機との二重衝突<ref group="注釈">鉄道ファン1980年1月号によると、衝突した上り急行は新宿側から5122+5714編成。衝突し脱線転覆した下り特急は後述通り新宿側から5713+5121編成。</ref>による事故で、クハ5871号は損傷が大きかったことから復旧を断念し同年[[11月16日]]付で[[廃車 (鉄道)|廃車]]され(詳細は「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京王帝都電鉄京王線列車障害事故]]」を参照)、翌[[1980年]]1月末に[[高幡不動検車区]]にて解体された<ref>「鉄道ファン」1980年5月号</ref>。この際に残った5121編成の2両は当時編成を組んでいた5713編成との変則6両編成で運用復帰した<ref group="注釈">デハ5121 - デハ5171 - クハ5713 - デハ5013 - デハ5063 - クハ5763。デハ5171の京王八王子方貫通路は塞がれ、クハ5713とは棒連結器で連結された。</ref>。後年、5721編成からクハ5771を抜き取って7両編成となった<ref group="注釈">デハ5121 - デハ5171 - クハ5771 - クハ5713 - デハ5013 - デハ5063 - クハ5763。デハ5171の京王八王子方貫通路を復活させた。</ref>。他方でクハ5771を供出した5721編成は5716編成との変則7両編成を組成した<ref group="注釈">クハ5721 - デハ5021 - デハ5071 - クハ5716 - デハ5016 - デハ5066 - クハ5766。デハ5071の京王八王子方貫通路は塞がれている。</ref>。 == 運用の変遷 == [[ファイル:Keio-5721.jpg|thumb|250px|right|各駅停車の運用に就く5000系<br/>(1991年7月8日、京王八王子 - 北野間)]] 1963年の投入直後は、京王の[[フラグシップ機|フラッグシップ]]車両として[[新宿駅|新宿]] - [[京王八王子駅|東八王子]](直後に京王八王子と改称)間の[[特別急行列車|特急]]に使用された。1967年の[[京王高尾線|高尾線]]開業で設定された[[高幡不動駅|高幡不動]]で分割・併合する特急にも充当されたが、この時5100系には社員のアイデアで誤乗防止の「緑の[[つり革|吊り輪]]」が採用された。これは、「前3両・後4両」などと案内しても乗客には分かりにくいが、「緑の吊り輪の車両・白の吊り輪の車両」と言えば誰でも間違いなく行先がわかるというものである。このアイデアは、6000系や[[京王8000系電車|8000系]]にも受け継がれている。 [[1972年]](昭和47年)の6000系登場以後は徐々に[[優等列車|急行系列車]]の運用から撤退し、特に冷房のない初期編成は冷房車の登場で早期に急行系列車から外され、[[1970年代]]後半からは[[各駅停車|各停]]を主体に運用されるようになった。それでも引き続きハイキング特急「陣馬」や[[大晦日]]から[[元日|元旦]]に運行される特急「迎光」、競輪特急、競馬特急、[[急行列車|急行]]などの季節列車・[[臨時列車]]には[[1980年代]]中頃まで5000系冷房車が使用されることがあった。 その他、6000系の工場入りが重なった際にも5000系の急行系列車が一時的に見られることがあり、[[1988年]](昭和63年)夏頃には6000系8両編成の予備車確保の目的で5000系4連の片側先頭車を外した編成を2本連結し<ref group="注釈">一例として、クハ5718 - デハ5018 - デハ5068 - デハ5020 - デハ5070 - クハ5770。</ref>、さらに5100系3連を連結した9両編成が現われ、平日では午前中に[[列車種別#通勤種別|通勤急行]]や特急で、休日には特急「陣馬」で使用されたこともある。[[1990年]](平成2年)頃までは土曜・休日の朝に5000系6・7両編成使用の[[快速列車|快速]]京王八王子行が片道1本のみ存在したが、これが最後の定期急行系運用とされる。これら急行系列車への使用は冷房車に限定されていた。その後、[[1995年]](平成7年)[[5月1日]]はダイヤ乱れがあったため、特急[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]行に片道1回のみ使用されたことがある。 5000系は[[地下鉄対応車両|地下鉄乗り入れ用車両]]ではないので、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]には入線しなかった。また、車両限界の関係から[[笹塚駅|笹塚]] - 新線新宿間にも営業列車としては入線していなかった。[[ファイル:Keio-5722.jpg|thumb|right|250px|さよなら運転のヘッドマークを付けた5000系<br/>(1996年12月1日、若葉台検車区)]]本格的な廃車は[[1987年]](昭和62年)から始まった。最初は2両編成の[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動車]](5101編成 - 5112編成)が対象で、1989年[[3月21日]]までに営業運転を終了し、京王から吊り掛け駆動車が消滅した。これらの車両のうち21両<ref group="注釈">クハ5853・5855・5856は1988年2月に譲渡先無く廃車済み。</ref>は非冷房のまま[[伊予鉄道]]に譲渡された<ref group="注釈">後に譲渡先で[[カルダン駆動]]化・冷房化。</ref>。この時点で残った車両は4両+4両編成と4両+3両編成にまとめられ、各駅停車で運用された。1990年(平成2年)は[[京王相模原線|相模原線]]の橋本開業による車両増備で廃車はなかったが、翌[[1991年]](平成3年)から狭幅4両編成の廃車も始まり、冷房のない狭幅編成は[[1992年]](平成4年)2月までにすべて廃車となった。同年5月に8000系60両が投入されたが、橋本特急新設による運用増のためにこの時点では廃車は発生しなかった。その後、同年10月から再び置き換えが開始され、同年12月までに29両が廃車となり、非冷房車は全廃された。そして、[[1994年]](平成6年)春に12両、1995年(平成7年)春に38両が廃車になり<ref group="注釈">他に3両が後述する事業用車に改造。</ref>、5100系は事実上全廃となった。この時点で5000系のみ24両が残った。同年11月 - 12月にさらに16両を廃車したことで、4両編成を2本連結した8両編成1本のみとなり、平日は朝ラッシュ時のみ、土曜・休日は[[京王競馬場線|競馬場線]]・[[京王動物園線|動物園線]]といった支線内折り返し列車を中心に運用されていた。 [[1996年]](平成8年)3月のダイヤ改正以降は本線から完全に撤退し、動物園線の区間運転で使用されたが、同年[[11月30日]]に「[[さよなら運転]]」の準備と移動を兼ねて高幡不動 - 京王八王子 - 新宿 - [[若葉台駅|若葉台]]で最後の営業運転を行った<ref group="注釈">新宿 - 若葉台間の運用は、ダイヤ設定上は各停橋本行としての運用であったが、若葉台で車両交換を行った。</ref>。翌[[12月1日]]に「さよなら運転」を行ったが、この時にかつての帯の「ひげ」をクハ5722に追加した。若葉台 - 新宿 - [[多摩センター駅|京王多摩センター]] - 若葉台を2回運転し、午前と午後の運転の間には若葉台で撮影会も実施した。このさよなら運転は招待制であり、1,000人(午前・午後各500人)が公募されたが、実際の応募者が3,000人余りに達したことから、京王では落選通知の[[はがき]]を撮影会場に持参した人に対し、さよなら運転告知の中吊りポスターをプレゼントする程であった。さよなら運転後、8両が四国の[[高松琴平電気鉄道]]に譲渡され、1両が[[京王資料館]]に[[静態保存]]された<ref group="注釈">残り1両は運転台部分を譲渡車両に供出するために解体された。</ref>。これにより、京王線系統から片開きドア車は姿を消す事になった。 == 事業用車への転用 == [[ファイル:Model 5000 of Keio Electric Railway 2.JPG|thumb|250px|right|5000系メモリアル撮影会<br/>(2004年11月14日、若葉台検車区)]] 最終増備車5125編成の3両が、1995年に[[事業用車]]である貨物電車として改造された<ref group="注釈">デハ5125・5175、クハ5875→デワ5125・5175、クワ5875。</ref>。[[京王チキ290形貨車|チキ290形]]([[長物車]])と接した貫通路を閉鎖、同時に吊り輪が撤去され、クワ車内に[[鉛蓄電池|バッテリ]]を移設、チキを連結するため[[連結器#棒連結器(永久連結器)・半永久連結器|棒連結器]]が[[連結器#密着自動連結器|密着自動連結器]]に交換され、制動が空気のみになったものの、外見は旅客営業運転に使用していた時代の状態を保っていた。普段は[[高幡不動検車区]]で待機していることが多かったが、保線作業や工事の輸送のため、時々夜間に(ごく稀に昼間にも)運転されていた。 その後、[[2004年]](平成16年)[[8月1日]]夜中のレール運搬をもって事業用車としての使用は終了した。後継車として6000系の改造車である[[京王6000系電車#デワ600形|デワ600形]]が投入された。 事業用車に使用されていた3両は、同年[[11月14日]]の[[若葉台検車区]]でのメモリアル撮影会にて一般に公開された後、翌[[12月16日]] - [[12月17日|17日]]に車体を切断の上で[[群馬県]][[館林市]]([[東武鉄道]]・[[北館林荷扱所]]隣接地)へ[[貨物自動車|トラック]]で輸送され、解体業者に引き渡された。なお、1両の前頭部を[[京王れーるランド]]に[[静態保存]]する計画もあったが、中止されている<ref group="注釈">後述のクハ5723は[[京王資料館]](非公開)で保存されていたが、2013年10月オープンの京王れーるランドに保存され、一般公開している。</ref>。 == 地方鉄道への譲渡 == 5000系は全長18mの3ドア車で地方鉄道で使いやすいことに加え、デハ5100形という短編成化に向いた制御電動車が設定されていたこともあり、京王グループの[[京王重機整備]]が積極的に販売事業を行った結果、多くの車両が改造の上、地方私鉄に譲渡されて使用されている。いずれの会社もゲージが京王電鉄京王線系統(1,372mm)とは違う1,067mm、もしくは1,435mmのため、電動車の台車や主電動機は[[営団3000系電車|営団3000系]]や[[京急1000形電車 (初代)|京急初代1000形]]などの廃車発生品を流用している。 ただし、これらの譲渡先でも最終増備車登場から半世紀が経過して老朽化が顕著であることなどから、2015年(平成27年)頃より順次廃車が進行している。一方で[[伊予鉄道]]で廃車になった車両が同じ京王OBの車両を使用している[[銚子電気鉄道]]へ、[[富士山麓電気鉄道|富士急行]]で廃車になった車両が、同じ富士急グループの[[岳南電車]]へそれぞれ転じ、第三の職場で活躍を続けるという事例も現れている。 === 譲渡先 === * 伊予鉄道 - [[伊予鉄道700系電車|700系]] * 富士急行(現・[[富士山麓電気鉄道]]) - [[富士急行1000形電車|1000形・1200形]] * [[一畑電気鉄道]](現・[[一畑電車]]) - [[一畑電気鉄道2100系電車|2100系]]・[[一畑電気鉄道5000系電車|5000系]] * [[高松琴平電気鉄道]] - [[高松琴平電気鉄道1100形電車|1100形]] * [[わたらせ渓谷鐵道]] - [[わたらせ渓谷鐵道わ99形客車|わ99-5020・5070]]「[[トロッコ列車|トロッコわたらせ渓谷号]]」<ref group="注釈">トロッコ客車として大きく改造されたため、譲渡された中では最も原形を留めていない。</ref>。旧デハ5020・デハ5070 * [[銚子電気鉄道]] - [[銚子電気鉄道線#3000形(デハ3000形・クハ3500形)|3000形]](元・伊予鉄道700系) * [[岳南電車]] - [[岳南電車9000形電車|9000形]](元・富士急行1200形) これらの車両はすべて譲渡先のオリジナルカラーで運転されていたが、[[2012年]](平成24年)7月に一畑電車2100系<ref>[https://web.archive.org/web/20160404020916/http://www.ichibata.co.jp/railway/topics/2100系お披露目運行・記念撮影会.pdf 2101・2111号車京王電鉄カラーお披露目臨時列車の運転について] - 一畑電車 2012年7月18日([[インターネットアーカイブ]])</ref>、同年10月に富士急行1000形電車<ref>[http://railf.jp/news/2012/10/30/120000.html 富士急行1000系が京王5000系の塗装に] - 交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース 2012年10月30日</ref>のそれぞれ1編成2両が京王時代の塗装になった。これらは、[[2013年]](平成25年)に5000系が登場50周年を迎えたことから、3社共同企画として実施された<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2012/10/post_342.html|title=編集長敬白 富士急行1000系に「京王5000系カラー」。|publisher=ネコ・パブリッシング|author=名取紀之|date=2012-10-30|accessdate=2017-06-24}}</ref>。 === 譲渡車両の画像 === <gallery perrow="6"> ファイル:Fujikyu 1002F.jpg|富士急行1000形 ファイル:Fujikyu 1000gata.JPG|富士急行1200形 ファイル:Iyotetsu782.JPG|伊予鉄道700系(旧塗装) ファイル:764 iyotetsu Yogo.jpg|伊予鉄道700系(新塗装) ファイル:Kotoden1104.jpg|高松琴平電気鉄道1100形(旧塗装) ファイル:Kotoden-Type1100-1103.jpg|高松琴平電気鉄道1100形(新塗装) ファイル:Ichibata2113.JPG|一畑電車2100系 ファイル:Ichibata Electric Railway 5110.JPG|一畑電車5000系 ファイル:銚子電気鉄道3000形.jpg|銚子電気鉄道3000形 ファイル:Gakunan 9000 20190115.jpg|岳南電車9000形 ファイル:20201114 Watarase Wa99 5020.jpg|わたらせ渓谷鐵道<br>わ99-5020 </gallery> == 保存車両 == [[ファイル:Series 5000 Conservation Train of Keio Corporation.jpg|thumb|250px|right|京王資料館に保存されていた当時の5000系クハ5723(2009年4月5日)]] さよなら運転に充当した5722編成と5723編成のうち、クハ5723が東京都[[八王子市]]堀之内の京王資料館に保存された<ref>[[#2003プロフィール|『鉄道ピクトリアル』通巻734号p235]]</ref>。[[2013年]]4月に京王れーるランドでの保存展示に備えて[[多摩動物公園駅]]前に移動し<ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2013/04/08/130000.html |title=京王れーるランド展示車両が陸送される |publisher=交友社「鉄道ファン」railf.jp 鉄道ニュース |accessdate=2013-04-04}}</ref>、同年10月から京王れーるランドに作られた屋根付きの展示スペースで、一般公開が開始されている。 == 編成表 == 下記の表は『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』408号および『[[鉄道ピクトリアル]]』578号・678号・734号・893号に基づく。 === 凡例 === : Tc …[[制御車]]、M …[[動力車|電動車]]、Mc…[[制御電動車]]<br/>CON…[[主制御器|制御装置]]、MG…補助電源装置、CP…[[圧縮機|電動空気圧縮機]]、PT…[[集電装置]] {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+5000系(4両編成) |- |style="border-bottom:solid 3px #B04740; background-color:#ccc;"| |style="border-bottom:solid 3px #B04740;" colspan="4" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子・橋本}} !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="3" |製造次数 ! colspan="2" |製造所 ! colspan="6" |備考 |- !形式 !クハ5700 !デハ5000 !デハ5050 !クハ5750 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |先頭車 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |中間車 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |製造年月 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |車体幅 ! colspan="2" |冷房形態 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |除籍・改造 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |譲渡先 |- !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|区分 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|Tc !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|M !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|M !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|Tc !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|先頭車 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;"|中間車 |- ! rowspan="23" |[[鉄道の車両番号|車両番号]] |'''5701''' |'''5001''' |'''5051''' |'''5751''' | rowspan="3" |1次車 | rowspan="3" |東急車輛 | rowspan="12" |日立製作所 | rowspan="3" |1963年8月 | rowspan="6" |狭幅 | colspan="2" rowspan="10" |非冷房 |1991年3月20日 |クハ5701は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5702''' |'''5002''' |'''5052''' |'''5752''' |1991年3月20日 |クハ5702は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5703''' |'''5003''' |'''5053''' |'''5753''' |1991年3月1日 |クハ5703は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5704''' |'''5004''' |'''5054''' |'''5754''' | rowspan="3" |2次車 | rowspan="2" |日本車輛 | rowspan="3" |1964年2月 |1991年3月1日 |クハ5704、5754は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5705''' |'''5005''' |'''5055''' |'''5755''' |1992年2月25日 | |- |'''5706''' |'''5006''' |'''5056''' |'''5756''' |東急車輛 |1992年2月25日 |- |'''5707''' |'''5007''' |'''5057''' |'''5757''' | rowspan="2" |3次車 | rowspan="8" |日本車輛 | rowspan="2" |1965年3月 | rowspan="17" |広幅 |1992年11月16日 | |- |'''5708''' |'''5008''' |'''5058''' |'''5758''' |1992年11月6日 | |- |'''5709''' |'''5009''' |'''5059''' |'''5759''' | rowspan="2" |4次車 | rowspan="2" |1966年4月 |1992年12月26日 | |- |'''5710''' |'''5010''' |'''5060''' |'''5760''' |1992年12月10日 |クハ5710は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5711''' |'''5011''' |'''5061''' |'''5761''' | rowspan="3" |5次車 | rowspan="3" |1966年12月 | rowspan="5" |冷房改造 分散式(集約分散式)4基 | rowspan="5" |冷房改造 集中式1基 |1992年11月6日 | |- |'''5712''' |'''5012''' |'''5062''' |'''5762''' |1995年3月4日 | |- |'''5713''' |'''5013''' |'''5063''' |'''5763''' | rowspan="2" |東急車輛 |1995年2月9日 | |- |'''5714''' |'''5014''' |'''5064''' |'''5764''' | rowspan="2" |6次車 | rowspan="2" |1967年3月 |1995年12月1日 | |- |'''5715''' |'''5015''' |'''5065''' |'''5765''' | colspan="2" |日本車輛 |1995年12月1日 |クハ5715、5765は[[一畑電気鉄道5000系電車|一畑電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5716''' |'''5016''' |'''5066''' |'''5766''' | rowspan="2" |7次車 |日本車輛 |日立製作所 | rowspan="2" |1967年9月 |冷房改造 分散式6基 |冷房改造 分散式4基→集中式1基 |1995年2月21日 |クハ5766は[[一畑電気鉄道2100系電車|一幡電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5717''' |'''5017''' |'''5067''' |'''5767''' | colspan="2" |東急車輛 |冷房改造 分散式(集約分散式)4基 |冷房改造 集中式1基 |1995年11月17日 |クハ5717、5767は[[一畑電気鉄道5000系電車|一畑電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5718''' |'''5018''' |'''5068''' |'''5768''' | rowspan="2" |8次車 | colspan="2" |日本車輛 | rowspan="2" |1968年5月 | colspan="2" |分散式8基 |1995年3月17日 |クハ5718、5768は[[一畑電気鉄道2100系電車|一幡電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5719''' |'''5019''' |'''5069''' |'''5769''' | colspan="2" rowspan="2" |日立製作所 | colspan="2" |集中式1基 |1995年3月4日 | |- |'''5720''' |'''5020''' |'''5070''' |'''5770''' | rowspan="2" |9次車 | rowspan="2" |1969年2月 | colspan="2" |集中式1基 |1995年11月17日 |クハ5720、5770は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] デハ5020、5070は[[わたらせ渓谷鐵道わ99形客車|わたらせ渓谷鉄道へ譲渡]] |- |'''5721''' |'''5021''' |'''5071''' |'''5771''' | colspan="2" |日本車輛 | colspan="2" rowspan="3" |分散式6基 |1995年2月1日 |クハ5721、5771は[[高松琴平電気鉄道1100形電車|高松琴平電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5722''' |'''5022''' |'''5072''' |'''5772''' | rowspan="2" |10次車 | colspan="2" rowspan="2" |東急車輛 | rowspan="2" |1969年6月 |1996年12月21日 |4両とも[[高松琴平電気鉄道1100形電車|高松琴平電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5723''' |'''5023''' |'''5073''' |'''5773''' |1996年12月21日 |クハ5723は京王資料館→京王れーるランドで保存 デハ5023、5073は[[高松琴平電気鉄道1100形電車|高松琴平電気鉄道へ譲渡]] |- !'''搭載機器''' |MG |CON, PT |MG, CP, PT |CP | | colspan="8" | |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+5070系→5100系(2両編成)吊り掛け駆動 |- | style="border-bottom:solid 3px #B04740; background-color:#ccc;" | | colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子<br/>・橋本}} ! rowspan="3" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |製造次数 ! rowspan="3" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |製造所 ! colspan="5" |備考 |- !形式 !デハ5100 <small>(5070)</small> !クハ5850 <small>(5780)</small> !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |製造年月 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |車体幅 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |冷房形態 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |除籍・改造 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |譲渡先 |- ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |区分 ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |Mc ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |Tc |- ! rowspan="12" |[[鉄道の車両番号|車両番号]] |'''5101''' (5071) |'''5851''' (5771) | rowspan="3" |1次車 | rowspan="12" |日本車輛 | rowspan="3" |1963年8月 | rowspan="6" |狭幅 | rowspan="12" |非冷房 |1986年12月22日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5102''' (5072) |'''5852''' (5772) |1986年12月22日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5103''' (5073) |'''5853''' (5773) |1988年2月29日 |デハ5103は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5104''' (5074) |'''5854''' (5774) | rowspan="3" |2次車 | rowspan="3" |1963年12月 |1986年12月22日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5105''' (5075) |'''5855''' (5775) |1988年2月29日 |デハ5105は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5106''' (5076) |'''5856''' (5776) |1988年2月29日 |デハ5106は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5107''' (5077) |'''5857''' (5777) | rowspan="2" |3次車 | rowspan="2" |1965年4月 | rowspan="6" |広幅 |1988年10月14日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5108''' (5078) |'''5858''' (5778) |1989年3月22日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5109''' (5079) |'''5859''' (5779) | rowspan="2" |4次車 | rowspan="2" |1966年5月 |1988年10月14日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5110''' (5080) |'''5860''' (5780) |1988年10月14日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5111''' (5081) |'''5861''' (5781) | rowspan="2" |5次車 | rowspan="2" |1966年12月 |1989年3月22日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5112''' (5082) |'''5862''' (5782) |1988年10月14日 |2両とも[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- !'''搭載機器''' |CON, PT |MG, CP | | colspan="6" | |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+5070系→5100系(3両編成 カルダン駆動) |- | style="border-bottom:solid 3px #B04740; background-color:#ccc;" | | colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |{{TrainDirection|新宿|京王八王子<br/>・橋本}} ! rowspan="3" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |製造次数 ! colspan="2" |製造所 ! colspan="5" |備考 |- !形式 !デハ5100 <small>(5070)</small> !デハ5150 !クハ5850 <small>(5780)</small> !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |先頭車 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |中間車 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |製造年月 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |車体幅 !style="border-bottom:solid 3px #B04740;" rowspan="2" |冷房形態 ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |除籍・改造 ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |譲渡先 |- ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |区分 ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |Tc ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |M ! style="border-bottom:solid 3px #B04740;" |Tc |- ! rowspan="13" |[[鉄道の車両番号|車両番号]] |'''5113''' (5083) |'''5163''' |'''5863''' (5783) |5次車 | rowspan="6" |日本車輛 | rowspan="6" |東急車輛 |先頭車:1966年12月 中間車:1968年12月 | rowspan="13" |広幅 | rowspan="6" |冷房改造 集中式1基 |1992年12月16日 |デハ5113、クハ5863は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5114''' (5084) |'''5164''' |'''5864''' (5784) | rowspan="2" |6次車 | rowspan="2" |先頭車:1967年3月 中間車:1968年6月 |1992年11月26日 |デハ5114は[[伊予鉄道700系電車|伊予鉄道に譲渡]] |- |'''5115''' (5085) |'''5165''' |'''5865''' (5785) |1992年12月11日 |デハ5115、クハ5865は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5116''' (5086) |'''5166''' |'''5866''' (5786) | rowspan="3" |7次車 | rowspan="3" |先頭車:1967年9月 中間車:1968年6月 |1994年2月9日 |デハ5116、クハ5866は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5117''' (5087) |'''5167''' |'''5867''' (5787) |1994年2月9日 |デハ5117、クハ5867は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5118''' (5088) |'''5168''' |'''5868''' (5788) |1994年2月14日 |デハ5118、クハ5868は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5119''' |'''5169''' |'''5869''' | rowspan="3" |8次車 | colspan="2" rowspan="5" |日本車輛 | rowspan="3" |1968年6月 | rowspan="3" |デハ5100形:分散式7基<br/> デハ5150形・クハ5850形:分散型8基 |1994年2月14日 |デハ5119、クハ5869は[[一畑電気鉄道2100系電車|一幡電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5120''' |'''5170''' |'''5870''' |1995年12月23日 |デハ5120、クハ5870は[[一畑電気鉄道2100系電車|一幡電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5121''' |'''5171''' |'''5871''' |クハ5871:1979年1月16日 デハ5121、デハ5171:1995年2月9日 |デハ5121は[[一畑電気鉄道2100系電車|一幡電気鉄道へ譲渡]] |- |'''5122''' |'''5172''' |'''5872''' | rowspan="2" |9次車 | rowspan="2" |1969年2月 | rowspan="2" |分散式6基 |1995年3月4日 |デハ5122、クハ5872は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5123''' |'''5173''' |'''5873''' |1995年3月4日 |デハ5123、クハ5873は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5124''' |'''5174''' |'''5874''' | rowspan="2" |10次車 | colspan="2" rowspan="2" |日立製作所 | rowspan="2" |1969年8月 | rowspan="2" |集中式1基 |1995年3月4日 |デハ5124、クハ5874は[[富士急行1000形電車|富士急行へ譲渡]] |- |'''5125''' |'''5175''' |'''5875''' |1995年3月8日(電動貨車に改造) 2004年9月6日(廃車) | |- !'''搭載機器''' |CON, PT |MG, CP, PT |MG | | colspan="7" | |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献== ===書籍=== * {{Cite book|和書 |title=私鉄電車のアルバム3 大量輸送時代の到来 |year=1977 |publisher=交友社 |editor=慶應義塾大学鉄道研究会}} * {{Cite book|和書|title=【RM LIBRARY 146】京王5000系の時代 ファンの目から見た33年|date=2011-10-01|year=2011|publisher=株式会社ネコ・パブリッシング|ref=rm146|isbn=978-4-7770-5316-2|author=鈴木洋}} * {{Cite book|和書|title=【RM LIBRARY 163】京王線グリーン車の時代|date=2013-03-31|year=2013|publisher=株式会社ネコ・パブリッシング|ref=rm163|isbn=978-4-7770-5339-1|author=鈴木洋}} * {{Cite book|和書|title=鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車|date=2019-05-01|year=2019|publisher=株式会社ネコ・パブリッシング|ref = neko2019|editor=宮下洋一|isbn=978-4-7770-2350-9}} === 雑誌記事 === * {{Cite journal|和書|year=2005|month=2005-08-10|title=|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 1950-60|pages=|publisher=[[鉄道図書刊行会]]|ref=keio5060}} ** p.60-105 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(65) 京王帝都電鉄」※『鉄道ピクトリアル』第171号、第172号、第174号、第176号、第177号より再録 ** p.106-118 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(72) 京王帝都電鉄 補遺」※『鉄道ピクトリアル』第197号より再録 ** p.124-127 荒井孝之・合葉博治「京王帝都電鉄京王線 新宿地下駅乗入工事抄」※『鉄道ピクトリアル』第142号より再録 ** p.133-137 疋田裕美「京王線ビジネス特急5000系車両について」※『電気車の科学』1963年10月号より再録 ** p.144-153 読者短信に見る京王電鉄の記録 1950-1960 * {{Cite journal|和書|author1=手塚一之|author2=飯島正資|year=1963|date=1963-10-01|title=京王帝都新車登場後のあれこれ|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=28|page=57|publisher=[[交友社]]|ref=rf028手塚飯島|id=}} * {{Cite journal|和書|author1=合葉博治|author2=猪俣剛 |year=1973 |month=5 |title=私鉄車両めぐり(97) 京王帝都電鉄|journal=[[鉄道ピクトリアル]] |issue=278 |page=|publisher=[[電気車研究会]] |ref = rp7305|pages=62-72}} * {{Cite journal|和書|author=合葉博治|year=1983|month=8|title=京王5000系物語(1)|journal=鉄道ファン|issue=268|page=|publisher=交友社|ref=rf268_5000_1|pages=68-74}} * {{Cite journal|和書|author=合葉博治|year=1983|month=9|title=京王5000系物語(2)|journal=鉄道ファン|issue=269|page=|publisher=交友社|ref=rf268_5000_2|pages=47-56}} * {{Cite journal|和書|author=|year=1983|month=9|title=京王5000系ノート Q&A|journal=鉄道ファン|issue=269|page=|publisher=交友社|ref=rf268_5000_3|pages=61-65}} * {{Cite journal|和書|author=益崎興紀|year=1983 |month=9 |title=スジをたどる=運転の変遷|journal=鉄道ピクトリアル |issue=422 |page= |publisher=電気車研究会 |ref = rp8309_masu|pages=32-40}} * {{Cite journal|和書|author=|year=1983 |month=9 |title=京王線70周年・井の頭線50周年-それぞれの時代|journal=鉄道ピクトリアル |issue=422 |page= |publisher=電気車研究会 |ref = keio70_50|pages=41-61}} * {{Cite journal|和書|author=鉄道ピクトリアル編集部|year=1983 |month=9 |title=京王帝都電鉄車両めぐり|journal=鉄道ピクトリアル |issue=422 |page= |publisher=電気車研究会 |ref = 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伊勢国
伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 語源は「伊呂勢(=弟)」であり、出雲の分派としての機能から発達したという説がある。また、海に近いことから「イソ」が転じたとする説もある。 表記例としては、「伊世国」も見られる(『続日本紀』天平勝宝4年10月8日条)。 明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 『日本書紀』などの倭姫命伝説では美し国(うましくに)と称された。 『伊勢国風土記』逸文によると、神武東征の際に派遣された天日別命が、国津神(土着の勢力)の伊勢津彦(イセツヒコ)を追放して伊勢平定を復命し、これを喜んだ神武天皇が神の名「イセ」にちなんで命名したとされる。大和政権の勢力がこの地域にまでおよんだことを神格化したものと考える説がある。 宝賀寿男は、伊勢津彦後裔の国造一族の動向から、弥生時代後期に神武天皇の勢力に追われて東国へ逃れた神狭命の史実がその実態であると主張した。なお天日別命は伊勢国造になったとされる。 7世紀の孝徳天皇の時代に、島津国造、伊賀国造、佐那県造、度逢県造、川俣県造、壱志県造、飯高県造、阿野県造の領域も含んだ伊勢国造の領域を中心に成立した。 天武天皇9年(680年)7月に伊賀国を分置した。 8世紀はじめまでに志摩国を分立したが、その正確な時期は不明である。分立当初、熊野灘に面した沿岸部(現在の南伊勢町にあたる地域)は志摩国に属していたが、天正10年(1582年)、伊勢国司の北畠信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善が荷坂峠を境として、伊勢国度会郡と紀伊国牟婁郡に編入したため、志摩国は現在の鳥羽市・志摩市だけの地域となった。 『和名抄』によれば伊勢国府は鈴鹿郡に所在した。奈良時代中ごろの国府(前期国府)は長者屋敷遺跡(鈴鹿市広瀬町・西富田町、北緯34度53分3.85秒 東経136度29分50.47秒 / 北緯34.8844028度 東経136.4973528度 / 34.8844028; 136.4973528 (長者屋敷遺跡(奈良時代の伊勢国府跡)))とされ、同地は「伊勢国府跡」として国の史跡に指定されている。発掘調査では政庁および官衙の遺構が発見されているが、国府としての整備は未完成のまま機能を終えたと見られる。 初期国府・後期国府(奈良時代前期、奈良時代後期-平安時代)に関しては、鈴鹿市国府町付近にある可能性が非常に高いとされる。同地では三宅神社遺跡・天王山西遺跡などで関連遺構が見つかっているが、中心施設は未だ検出されていない。 なお国分寺跡・国分尼寺跡そばでは、白鳳寺院の遺構である南浦廃寺跡(大鹿廃寺跡)や、河曲郡衙跡(狐塚遺跡)の立地が知られる。 延喜式内社 総社・一宮以下 なお、都波岐神社(鈴鹿市一の宮町)に関しても『大日本国一宮記』を基に一宮とする説が知られる。しかしこれは、椿大神社に関して「椿宮」を「チングウ」と読まれないように「椿宮<都波岐神社>」と記されたのが、都波岐神社との混同を招いたことによるとされる。 室町幕府成立後も、南朝の重臣北畠親房の子孫が伊勢国司となって南伊勢に勢力を誇り、北伊勢を治める幕府守護と対立した。5代国司(伊勢北畠家としては4代)北畠教具の代に幕府と和睦し、伊勢守護も兼ねるようになった。 志摩国守護も兼任。
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伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 伊勢国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|伊勢国}} |別称 = 勢州(せいしゅう)<ref group="注">「伊州」は伊賀国の別称。稀にだが、[[近鉄特急]]の阪伊特急・名伊特急のように「伊」と略している事例もある。</ref> |所属 = [[東海道]] |領域 = [[三重県]]の北中部、[[愛知県]][[弥富市]]の一部、愛知県[[愛西市]]の一部、[[岐阜県]][[海津市]]の一部 |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = [[近国]] |郡 = 13[[郡]]84[[郷]] |国府 = 三重県[[鈴鹿市]](伊勢国府跡) |国分寺 = 三重県鈴鹿市([[伊勢国分寺跡]]) |国分尼寺 = (推定)三重県鈴鹿市 |一宮 = [[椿大神社]](三重県鈴鹿市) }} '''伊勢国'''(いせのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。 == 「伊勢」の名称と由来 == 語源は「伊呂勢(=弟)」であり、出雲の分派としての機能から発達したという説がある。また、海に近いことから「イソ」が転じたとする説もある。 表記例としては、「伊世国」も見られる(『続日本紀』天平勝宝4年10月8日条)。 == 領域 == [[明治維新]]直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 * [[三重県]] ** [[桑名郡]][[木曽岬町]] ** [[桑名市]] ** [[員弁郡]][[東員町]] ** [[いなべ市]] ** [[三重郡]][[川越町]]・[[朝日町 (三重県)|朝日町]]・[[菰野町]] ** [[四日市市]] ** [[鈴鹿市]] ** [[亀山市]] ** [[津市]] ** [[松阪市]] ** [[多気郡]][[明和町 (三重県)|明和町]]・[[多気町]]・[[大台町]] ** [[度会郡]][[玉城町]]・[[度会町]]・[[南伊勢町]] ** 度会郡[[大紀町]]の大部分(錦を除く) ** [[伊勢市]] ** [[志摩市]]の一部(磯部町山原・磯部町栗木広・磯部町桧山) * [[愛知県]] ** [[弥富市]]の一部(五明・五明町・小島町・川原欠・加稲・加稲九郎次町・三好・三好町・富島・富島町・中原・中原町・稲荷崎・加稲山町・稲荷崎町・境町および川平の一部・海老江の一部・栄南町の一部<ref group="注">いずれも[[1880年]]([[明治]]13年)に[[尾張国]]に移管。</ref>) ** [[愛西市]]の一部(福原新田町の一部<ref group="注">1880年(明治13年)に尾張国に移管。</ref>) * [[岐阜県]] ** [[海津市]]の一部(海津町金廻・海津町油島<ref group="注">いずれも[[1883年]](明治16年)に[[美濃国]]に移管。</ref>) == 沿革 == 『[[日本書紀]]』などの[[倭姫命]]伝説では'''美し国'''(うましくに)と称された。 『伊勢国風土記』逸文によると、[[神武東征]]の際に派遣された[[天日別命]]が、[[国津神]](土着の勢力)の[[伊勢津彦]](イセツヒコ)を追放して伊勢平定を復命し、これを喜んだ[[神武天皇]]が神の名「イセ」にちなんで命名したとされる。[[大和政権]]の勢力がこの地域にまでおよんだことを神格化したものと考える説がある<ref>稲本紀昭・駒田利治・勝山清次・上野秀治西川洋『三重県の歴史』山川出版社 2000年</ref>。 宝賀寿男は、伊勢津彦後裔の[[国造]]一族の動向から、[[弥生時代]]後期に神武天皇の勢力に追われて東国へ逃れた[[神狭命]]の史実がその実態であると主張した<ref>[[宝賀寿男]]『「神武東征」の原像』青垣出版、2017年。</ref>。なお天日別命は[[伊勢国造]]になったとされる。 [[7世紀]]の[[孝徳天皇]]の時代に、[[島津国造]]、[[伊賀国造]]、佐那県造、度逢県造、川俣県造、壱志県造、飯高県造、阿野県造の領域も含んだ[[伊勢国造]]の領域を中心に成立した。 [[天武天皇]]9年([[680年]])7月に[[伊賀国]]を分置した。 [[8世紀]]はじめまでに[[志摩国]]を分立したが、その正確な時期は不明である。分立当初、[[熊野灘]]に面した沿岸部(現在の[[南伊勢町]]にあたる地域)は志摩国に属していたが、[[天正]]10年([[1582年]])、伊勢[[国司]]の[[織田信雄|北畠信雄]]と紀伊[[新宮城]]主の[[堀内氏善]]が荷坂峠を境として、伊勢国度会郡と紀伊国[[牟婁郡]]に編入したため、志摩国は現在の[[鳥羽市]]・[[志摩市]]だけの地域となった。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,269村・679,122石)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[桑名郡]](166村・61,266石余) - [[天領|幕府領]]([[美濃郡代]])、'''[[桑名藩]]'''、'''[[長島藩]]''' ** [[員弁郡]](111村・50,772石余) - 桑名藩、[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]、[[上総国|上総]][[一宮藩]] ** [[朝明郡]](64村・33,620石余) - 桑名藩、武蔵忍藩 ** [[三重郡]](91村・67,104石余) - 幕府領(信楽代官所)、[[地方知行|旗本領]]、'''[[菰野藩]]'''、津藩、久居藩、桑名藩、亀山藩、神戸藩、武蔵忍藩、上総一宮藩、[[下野国|下野]][[吹上藩]]、[[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]]、[[皇大神宮|伊勢内宮]][[御師]]領 ** [[河曲郡]](33村・27,370石余) - 旗本領、'''[[神戸藩]]'''、亀山藩、津藩、久居藩、下野吹上藩、紀伊和歌山藩 ** [[奄芸郡]](60村・40,510石余) - 津藩、久居藩、紀伊和歌山藩 ** [[鈴鹿郡]](89村・66,554石余) - 幕府領(信楽代官所)、'''[[伊勢亀山藩|亀山藩]]'''、久居藩、津藩、神戸藩、[[伊勢神宮]]領 ** [[安濃郡 (三重県)|安濃郡]](83村・59,914石余) - '''[[津藩]]'''、久居藩 ** [[一志郡]](115村・89,748石余) - 津藩、'''[[久居藩]]'''、紀伊和歌山藩 ** [[飯高郡]](110村・52,492石余) - 紀伊和歌山藩 ** [[飯野郡]](46村・26,049石余) - 津藩、[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]、紀伊和歌山藩 ** [[多気郡]](131村・48,409石余) - 津藩、紀伊和歌山藩、下野吹上藩、志摩鳥羽藩、上総一宮藩、伊勢神宮領、[[豊受大神宮|伊勢外宮]]御師領 ** [[度会郡]](170村・55,307石余) - 幕府領(信楽代官所・[[山田奉行]])、紀伊和歌山藩、志摩鳥羽藩、伊勢神宮領、久志本式部領<ref group="注">伊勢神宮首位祠宮[[度会氏]]分系。</ref> * [[慶応]]4年 ** [[1月22日 (旧暦)|1月22日]]([[1868年]][[2月15日]]) - [[戊辰戦争]]により[[桑名城]]が開城し、桑名藩領が[[名古屋藩]]取締地となる。 ** [[3月7日 (旧暦)|3月7日]](1868年[[3月30日]]) - 信楽代官所の管轄地域が'''[[大津裁判所]]'''の管轄となる。 ** [[4月15日 (旧暦)|4月15日]](1868年[[5月7日]]) - 美濃郡代の管轄地域が'''[[笠松裁判所]]'''の管轄となる。 ** [[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1868年[[5月20日]])<ref group="注">[[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]](1868年[[6月15日]])とする資料もあるが、ここでは「[[角川日本地名大辞典]]」の記述によった。</ref> - 大津裁判所の管轄地域が'''[[大津県]]'''、笠松裁判所の管轄地域が'''[[笠松県]]'''の管轄となる。 ** [[7月6日 (旧暦)|7月6日]](1868年[[8月23日]]) - 伊勢神宮領などが'''[[度会府]]'''の管轄となる。 * 明治2年 ** [[7月17日 (旧暦)|7月17日]]([[1869年]][[8月24日]]) - 度会府が改称して'''度会県'''となる。 ** [[8月2日 (旧暦)|8月2日]](1869年[[9月7日]]) - 伊勢国内の笠松県・大津県の管轄地域が度会県の管轄となる。 ** [[8月10日 (旧暦)|8月10日]](1869年[[9月15日]]) - 桑名藩が[[減封]]のうえ再興。桑名郡・朝明郡の領地はすべて安堵。員弁郡・三重郡の領地の一部は引き続き名古屋藩取締地となる。 * 明治3年([[1870年]]) ** 3月 - 名古屋藩取締地が度会県の管轄となる。 ** 10月 - 一宮藩領が度会県の管轄となる。 * 明治4年 ** 1月 - [[徳川将軍家|徳川宗家]]の[[駿府藩|駿河府中藩]]への[[転封]]にともない、度会県が管轄する桑名郡の旧・幕府領の一部が[[遠江国]][[榛原郡]]の領地に替えて長島藩領となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[桑名県]]'''、'''[[長島県]]'''、'''[[菰野県]]'''、'''[[津県]]'''、'''[[久居県]]'''、'''[[亀山県]]'''、'''[[神戸県]]'''および[[忍県]]、[[吹上県]]、[[和歌山県]]、[[鳥羽県]]の飛地となる。 ** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、桑名郡・員弁郡・朝明郡・三重郡・鈴鹿郡・河曲郡・奄芸郡・安濃郡が'''[[安濃津県]]'''、一志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・度会郡が'''度会県'''の管轄となる。 * 明治5年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]](1872年[[4月24日]]) - 安濃津県が改称して'''[[三重県]]'''となる。 * 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 第2次府県統合により、全域が'''三重県'''の管轄となる。 * 明治13年([[1880年]])[[5月10日]] - [[鍋田川]]左岸の桑名郡五明村・小島新田・福原新田・川原欠新田・赤津亀貝新田・加稲新田・加稲九郎治新田・三好新田・加稲附新田・富島新田・富島附新田・加稲山新田・稲荷崎新田・稲荷崎附新田・富崎新田・境新田の所属が[[愛知県]][[海西郡 (愛知県)|海西郡]]に変更(福原新田は現・[[愛西市]]、その他は現・[[弥富市]])。 * 明治16年([[1883年]])[[11月1日]] - 桑名郡江内村・油島新田・金廻村の所属が[[岐阜県]][[下石津郡]]に変更(現・[[海津市]])。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === [[File:Choja-yashiki-iseki gaikan.JPG|thumb|220px|right|{{center|長者屋敷遺跡(伊勢国府跡)<br />([[三重県]][[鈴鹿市]])}}]] 『[[和名抄]]』によれば伊勢[[国府]]は[[鈴鹿郡]]に所在した<ref name="一宮制"/>。[[奈良時代]]中ごろの国府(前期国府)は長者屋敷遺跡([[鈴鹿市]]広瀬町・西富田町、{{Coord|34|53|3.85|N|136|29|50.47|E|region:JP-24_type:landmark|name=長者屋敷遺跡(奈良時代の伊勢国府跡)}})とされ<ref name="伊勢国府跡19"/>、同地は「伊勢国府跡」として国の史跡に指定されている<ref>{{国指定文化財等データベース|401|3322|伊勢国府跡}}</ref>。発掘調査では政庁および官衙の遺構が発見されているが、国府としての整備は未完成のまま機能を終えたと見られる<ref name="伊勢国府跡">{{PDFlink|[http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/kokufu-p.pdf 「国史跡伊勢国府跡 -三重県鈴鹿市長者屋敷遺跡の発掘調査-」]}}(鈴鹿市考古博物館)。</ref>。 初期国府・後期国府(奈良時代前期、奈良時代後期-[[平安時代]])に関しては、鈴鹿市国府町付近にある可能性が非常に高いとされる<ref name="伊勢国府跡19">[http://sitereports.nabunken.go.jp/21196 『伊勢国府跡19』] 鈴鹿市、2017年、p. 1(リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」)。</ref>。同地では三宅神社遺跡・天王山西遺跡などで関連遺構が見つかっているが、中心施設は未だ検出されていない<ref name="伊勢国府跡"/>。 === 国分寺・国分尼寺 === [[File:Ise Kokubunji gaikan.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[伊勢国分寺跡]]([[三重県]][[鈴鹿市]])}}]] * [[伊勢国分寺跡]](鈴鹿市国分町、{{Coord|34|54|33.46|N|136|33|49.92|E|region:JP-24_type:landmark|name=伊勢国分寺跡}}) *: 国の史跡。鈴鹿郡の国府跡から東に約7キロメートル離れ、[[河曲郡]]に属する。推定寺域は約180メートル四方で、金堂・講堂・中門・僧坊といった主要伽藍の遺構が見つかっているが、塔跡は見つかっていない<ref name="国分寺跡"/>。古代寺院跡近くにある常慶山金光明院国分寺(鈴鹿市国分町)のほか、[[国分寺 (亀山市)|明星山国分寺]](亀山市白木町新田)、護国山人生尹丸刀院国分寺(松阪市伊勢寺町)が法燈を伝承する。 * [[伊勢国分尼寺跡]] *: 未詳。鈴鹿市国分町の集落部分に位置する国分遺跡と推定されるが、詳らかではない。発掘調査では、寺域区画と推測される溝・掘立柱塀が発見されている<ref name="国分寺跡">{{PDFlink|[http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/isekokubunji.pdf 「国史跡伊勢国分寺跡」]}}(鈴鹿市考古博物館)。</ref>。 なお国分寺跡・国分尼寺跡そばでは、白鳳寺院の遺構である南浦廃寺跡(大鹿廃寺跡)や、河曲郡衙跡(狐塚遺跡)の立地が知られる<ref name="国分寺跡"/>。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社18座9社・小社235座223社の計253座232社が記載されている(「[[伊勢国の式内社一覧]]」参照)。大社9社は以下に示すもので、そのうち2社は[[名神大社]]である。 * [[度会郡]] ** 大神宮三座 - 式内大社。 *** 比定社:[[皇大神宮]]([[伊勢市]]宇治館町、{{Coord|34|27|18.56|N|136|43|30.74|E|region:JP-24_type:landmark|name=式内大社:皇大神宮(伊勢神宮内宮)}}) - [[伊勢神宮]]内宮。 ** 荒祭宮 - 式内大社。 *** 比定社:[[荒祭宮]](伊勢市宇治館町、{{Coord|34|27|22.06|N|136|43|29.86|E|region:JP-24_type:landmark|name=式内大社:荒祭宮}}) - 皇大神宮別宮。皇大神宮境内。 ** 滝原宮 - 式内大社。 *** 比定社:[[瀧原宮]]([[度会郡]][[大紀町]]滝原、{{Coord|34|21|58.64|N|136|25|33.37|E|region:JP-24_type:landmark|name=式内大社:瀧原宮}}) - 皇大神宮別宮。 ** 伊佐奈岐宮二座 - 式内大社。 *** 比定社:[[月讀宮|伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮]](伊勢市中村町) - 皇大神宮別宮。[[月讀宮]]境内。 ** 月読宮二座 - 式内大社。 *** 比定社:[[月讀宮|月讀宮・月讀荒御魂宮]](伊勢市中村町、{{Coord|34|28|24.19|N|136|43|44.00|E|region:JP-24_type:landmark|name=式内大社:月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮}}) - 皇大神宮別宮。 ** 度会宮四座 *** 比定社:[[豊受大神宮]](伊勢市豊川町、{{Coord|34|29|14.09|N|136|42|10.41|E|region:JP-24_type:landmark|name=式内大社:豊受大神宮(伊勢神宮外宮)}}) - 伊勢神宮外宮。 ** 高宮 - 式内大社。 *** 比定社:[[多賀宮]](伊勢市豊川町、{{Coord|34|29|7.64|N|136|42|14.18|E|region:JP-24_type:landmark|name=式内大社:多賀宮}}) - 豊受大神宮別宮。豊受大神宮境内。 * [[壱志郡]] 阿射加神社三座 - 名神大社。 ** 比定論社:[[阿射加神社#阿射加神社(小阿坂)|阿射加神社]]([[松阪市]]小阿坂町、{{Coord|34|35|26.92|N|136|28|7.27|E|region:JP-24_type:landmark|name=名神大社論社:阿射加神社}}) ** 比定論社:[[阿射加神社#阿射加神社(大阿坂)|阿射加神社]](松阪市大阿坂町、{{Coord|34|35|53.65|N|136|28|5.64|E|region:JP-24_type:landmark|name=名神大社論社:阿射加神社}}) * [[桑名郡]] 多度神社 - 名神大社。 ** 比定社:[[多度大社]]([[桑名市]]多度町多度) '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref name="一宮制">『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 82-89。</ref>。 * 総社:不詳 ** [[三宅神社 (鈴鹿市国府町)|三宅神社]](鈴鹿市国府町、{{Coord|34|51|16.18|N|136|30|25.92|E|region:JP-24_type:landmark|name=伊勢国総社か:三宅神社}}) - 明治以前の旧称を「惣社大明神」といい、平安時代ごろの伊勢国府推定地に鎮座。 ** 伊奈冨神社(鈴鹿市稲生西、{{Coord|34|50|14.45|N|136|33|8.22|E|region:JP-24_type:landmark|name=伊勢国総社:伊奈富神社}}) - 中世以来は事実上総社として機能したとされる。 * 一宮:[[椿大神社]](鈴鹿市山本町御旅、{{Coord|34|57|51.17|N|136|27|5.57|E|region:JP-24_type:landmark|name=伊勢国一宮:椿大神社}}) *: 山本神主家所蔵『[[大般若波羅蜜多経|大般若経]]』のうち[[明徳]]2年([[1391年]])の奥書を有する巻が初見。ただし後世の追筆の可能性があり、その場合は『類聚既験抄』(南北朝時代)が初見。 * 二宮:[[多度大社|多度神社]] (桑名市多度町多度、{{Coord|35|8|4.39|N|136|37|26.42|E|region:JP-24_type:landmark|name=伊勢国二宮、名神大社:多度大社}}) *: 『類聚既験抄』が初見(ただしこの史料のみ)。事実上は一宮であった可能性が高いとされる。 なお、[[都波岐神社]](鈴鹿市一の宮町)に関しても『[[大日本国一宮記]]』を基に一宮とする説が知られる。しかしこれは、椿大神社に関して「椿宮」を「チングウ」と読まれないように「椿宮<都波岐神社>」と記されたのが、都波岐神社との混同を招いたことによるとされる<ref name="一宮制"/>。 === 安国寺利生塔 === * [[總見寺 (名古屋市)|總見寺]] - 愛知県名古屋市中区大須。 == 地域 == === 郡 === *[[桑名郡]] *[[員弁郡]] *[[朝明郡]] *[[三重郡]] *[[鈴鹿郡]] *[[河曲郡]] *[[奄芸郡]] *[[安濃郡 (三重県)|安濃郡]] *[[一志郡]] *[[飯高郡]] *[[飯野郡]] *[[多気郡]] *[[度会郡]] === 江戸時代の藩 === {| class="wikitable" |+ 伊勢国の藩の一覧 ! 藩名 !! 居城 !! 藩主 |- ! [[津藩]] | [[津城]]|| [[富田信高]](7万石、1600年-1608年)。伊予[[宇和島市|宇和島]]12万石に移封<br> [[藤堂氏|藤堂家]](22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石、1608年-1871年) |- ! [[久居藩]]<br>津藩支藩 | 久居陣屋 || [[藤堂氏|藤堂家]](5万石→5万3000石→5万8700石、1669年-1871年) |- ! [[桑名藩]] | [[桑名城]] || [[本多氏#平八郎家 (忠勝の家系)|本多家]](10万石、1601年-1617年)。播磨[[姫路藩]]15万石に移封<br> [[久松氏|松平(久松)家]](11万石→11万7000石→11万石、1617年-1635年)伊予松山藩15万石に移封<br> 松平(久松)家(11万3000石、1635年-1710年)。越後[[高田藩]]11万3千石に移封<br> [[奥平氏|松平(奥平)家]] (10万石、1710年-1823年)武蔵[[忍藩]]10万石に移封。<br> 松平(久松)家 (11万3000石→(1868年取り潰し)→6万石、1823年-1871年) |- ! [[伊勢亀山藩]] | [[亀山城 (伊勢国)|伊勢亀山城]] || [[関一政]](3万石、1600年-1610年)。伯耆[[黒坂藩]]5万石に移封<br> [[松平忠明]](5万石、1610年-1615年)。摂津[[大坂藩]]10万石に移封<br> [[天領]](1615年-1619年)<br> [[三宅氏#三河田原城主三宅氏|三宅家]](1万石→1万2千石、1619年-1636年)。三河[[挙母藩]]1万2千石に移封<br> [[本多俊次]](5万石、1636年-1651年)。近江[[膳所藩]]7万石に移封<br> [[石川憲之]](5万石、1651年-1669年)。山城[[淀藩]]6万石に移封<br> [[松平乗邑]](6万石、1669年-1717年)。山城淀藩6万石に移封<br> [[板倉氏|板倉家]](5万石、1717年-1744年)。[[備中松山藩]]5万石に移封<br> [[石川氏#三河石川氏|石川家]](6万石、1744年-1871年) |- ! [[長島藩]] | [[長島城]] || [[菅沼氏|菅沼家]](2万石、1601年-1621年)。近江[[膳所藩]]3万1千石に移封<br> [[久松氏|松平(久松)家]](1万石、1649年-1702年)。改易<br> [[増山氏|増山家]](2万石、1702年-1871年) |- ! [[神戸藩]] | [[神戸城]] || [[一柳直盛]](5万石、1601年-1636年)。伊予[[西条藩]]6万8千石に移封<br> 天領(1636年-1651年)<br> 石川家(1万石→2万石→1万7千石、1651年-1732年)。常陸[[下館藩]]2万石に移封<br> [[本多氏#彦八郎家 (康俊の家系)|本多家]](1万石→1万5千石、1732年-1871年) |- ! [[菰野藩]] | 菰野陣屋 || 土方家(1万2000石、1600年-1871年) |- ! [[田丸藩]] | [[田丸城]] || [[稲葉氏|稲葉家]](4万5700石、1600年-1616年)。摂津[[中島藩]]4万5700石へ移封<br> [[久野氏|久野家]](1万石、1619年-1871年)。但し、紀伊和歌山藩御附家老 |- ! [[松坂藩]] | 松坂城 || 古田家(5万5千石、1600年-1619年)。石見[[浜田藩]]5万4千石に移封。領地は紀州藩領に |- ! [[伊勢上野藩]] | [[伊勢上野城]] || [[分部氏|分部家]](2万石、1600年-1619年)。近江[[大溝藩]]2万石に移封。領地は紀州藩領に |- ! [[八田藩]] | 東阿倉川陣屋 || [[加納氏|加納家]](1万石→1万3000石、1726年-1826年)。飛び地であった上総[[一宮藩]]へ陣屋を移す |- ! [[伊勢西条藩]] | 菊間陣屋 || [[摂津有馬氏|有馬家]](1万石、1727年-1737年(1745年))。南林崎に陣屋を移す |- ! [[南林崎藩]] | 南林崎陣屋 || 有馬家(1万石、1737年(1745年)-1781年)。上総[[五井藩]]に陣屋を移す |- ! [[林藩]] | 林城 || [[織田信重]](1万石、1600年-1615年)。改易・廃藩 |- ! [[雲出藩]] | || [[蒔田広定]](1万石、1600年-1603年)。備中浅尾藩に1万3千石に移封。領地は津藩領に |} == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 伊勢守 ==== *[[石川名足]](従五位下):[[天平宝字]]7年([[763年]])任官 *[[百済王理伯]](従四位下):[[宝亀]]2年([[771年]])任官 *[[大伴家持]](従四位下):宝亀7年([[776年]])任官 *[[石川名足]](従四位下):宝亀11年([[780年]])任官 *[[菅野真道]](従四位下):[[延暦]]16年([[797年]])任官 *[[和入鹿麻呂]](従四位下):延暦25年([[806年]])任官 *[[藤原大継]](従四位下):延暦25年(806年)任官 *[[吉備泉]](正四位下):[[大同 (日本)|大同]]5年([[810年]])任官 *[[藤原真夏]](正四位下):大同5年(810年)任官 *[[藤原仲成]](従四位下):大同5年(810年)任官 *[[御長広岳]](従四位下):[[弘仁]]元年(810年)任官 *[[藤原貞嗣]](従四位上):弘仁10年([[819年]])任官 *[[藤原藤成]](従四位下):弘仁13年([[822年]])任官 *[[藤原吉野]](従五位上):[[天長]]3年([[826年]])任官 *[[藤原家雄]](従四位下):天長8年([[831年]])任官 *[[清原長田|長田王]](従五位下):天長10年([[833年]])任官 *[[丹墀清貞]](従五位上):天長11年([[834年]])任官 *[[和気仲世]](従四位下):[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])任官 *[[三原春上]](従四位上):承和6年(839年)任官 *[[長岑高名]](正四位下):承和10年([[843年]])任官 *[[藤原仲統]](従五位上):[[嘉祥]]2年([[849年]])任官 *[[藤原長良]](従四位上):嘉祥3年([[850年]])任官 *[[源融]](従三位):[[仁寿]]元年([[851年]])任官 *[[藤原長良]](従四位上):嘉祥3年(850年)任官 **[[紀有常]](従五位上):[[天安 (日本)|天安]]元年(850年)任官(権守) *[[菅原是善]](従四位下):天安2年(851年)任官 *[[源多]](従四位上):天安2年(851年)任官 *[[源冷]](従四位上):[[貞観 (日本)|貞観]]3年([[861年]])任官 *[[源興]](従四位上):貞観6年([[864年]])任官 **[[藤原宜|藤原宣]](従五位上):貞観7年([[865年]])任官(権守) *[[多治貞岑]](従四位下):貞観10年([[868年]])任官 **[[藤原有蔭]](従五位下):貞観11年([[869年]])任官(権守) *[[基棟王]](従四位上):貞観16年([[874年]])任官 **[[藤原諸藤]](従五位上):[[元慶]]2年([[878年]])任官(権守) *[[源興基|興基王]](従四位上):元慶4年([[880年]])任官 *[[藤原興世]](従五位下):元慶7年([[883年]])任官 **[[安倍興行]](従五位上):元慶7年(883年)任官(権守) *[[藤原継蔭]](従五位下):[[仁和]]元年([[885年]])任官 **[[源興基]](従四位下):仁和3年([[887年]])任官(権守) *[[平維衡]]:[[寛弘]]3年([[1006年]])任官。[[伊勢平氏]]の基礎を築く *[[中原致時]](従四位上):寛弘5年([[1008年]])任官 *[[藤原長能]](従五位上):寛弘6年([[1009年]])任官 *[[源俊重]]:[[長和]]2年([[1013年]])任官 *[[藤原考忠]]:長和5年([[1016年]])任官 *[[源兼資]]:[[寛仁]]2年([[1018年]])任官 **[[藤原正忠]]:寛仁3年([[1019年]])任官(権守) *[[源頼親]]:[[万寿]]元年([[1024年]])任官 *[[源頼信]]:[[長元]]元年([[1028年]])離任 *[[源頼兼 (伊勢守)|源頼兼]]:長元8年([[1035年]])任官 *[[橘兼懐]]:[[長暦]]2年([[1038年]])任官 *[[平盛国]] ==== 伊勢介 ==== *[[田中浄人]]:[[延暦]]8年([[789年]])任官 ==== 室町時代伊勢国司 ==== 室町幕府成立後も、[[南朝 (日本)|南朝]]の重臣[[北畠親房]]の子孫が伊勢国司となって南伊勢に勢力を誇り、北伊勢を治める幕府守護と対立した。5代国司(伊勢北畠家としては4代)[[北畠教具]]の代に幕府と和睦し、伊勢守護も兼ねるようになった。 *[[北畠顕信]]:初代。[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年(1336年)任官 *[[北畠顕能]]:2代。延元3年/建武5年(1338年)任官。伊勢北畠家初代 *[[北畠顕泰]]:3代。[[永徳]]3年/[[弘和]]3年(1383年)任官 *[[北畠満雅]]:4代。[[応永]]19年([[1412年]])?任官 *[[北畠教具]]:5代。[[嘉吉]]元年([[1441年]])任官。伊勢国守護も兼ねる *[[北畠政郷]]:6代。[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])任官。伊勢国守護も兼ねる *[[北畠材親]]:7代。文明18年([[1486年]])任官。伊勢国守護も兼ねる *[[北畠晴具]]:8代。[[永正]]8年([[1511年]])任官 *[[北畠具教]]:9代。[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])任官 *[[北畠具房]]:10代。[[永禄]]6年([[1563年]])任官 *[[織田信雄|北畠具豊]](織田信雄):11代。[[天正]]3年([[1575年]])任官 === 武家官位としての伊勢守 === ==== 江戸時代以前 ==== *[[岡田時常]] *[[室町幕府]][[政所]]執事[[伊勢氏]] **[[伊勢貞親]] **[[伊勢貞宗]] **[[伊勢貞陸]] **[[伊勢貞忠]] **[[伊勢貞孝]] **[[伊勢貞興]] *[[尾張国]]上四郡[[守護代]]岩倉織田氏(伊勢守家) **[[織田敏広]]:岩倉織田氏第2代当主 **[[織田寛広]]:岩倉織田氏第3代当主 **[[織田信安]]:岩倉織田氏第5代当主 **[[織田信賢]]:岩倉織田氏第6代当主 *[[織田敏定]]:尾張国下四郡[[守護代]]清洲織田氏(大和守家)第3代当主 *[[石川晴光]]:戦国時代の大名。[[陸奥石川氏]]第24代当主 *[[木村定重]]:安土桃山時代の武将、[[豊臣政権]]の大名 *[[水谷正村]]:[[結城氏]]家臣の[[武将|戦国武将]]。[[御料所]]回復の功績によって特に授けられる *[[上泉信綱]]:上泉伊勢守、戦国時代の兵法家。[[新陰流]]の祖 *[[籠谷政高]]:籠谷伊勢守、宇都宮氏の家臣で戦国武将 ==== 江戸時代 ==== *[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]][[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]] **[[阿部正福]]:第2代藩主・老中 **[[阿部正倫]]:第4代藩主・老中 **[[阿部正弘]]:第7代藩主・老中首座 *[[丹波国|丹波]][[園部藩]][[小出氏|小出家]] **[[小出英知]]:第2代藩主 **[[小出英利]]:第3代藩主 **[[小出英持]]:第5代藩主 **[[小出英常]]:第6代藩主 **[[小出英筠]]:第7代藩主 **[[小出英発]]:第8代藩主 **[[小出英尚]]:第10代藩主 *[[信濃国|信濃]][[諏訪藩|高島藩]][[諏訪氏|諏訪家]] **[[諏訪忠林]]:第5代藩主 **[[諏訪忠粛]]:第7代藩主 **[[諏訪忠恕]]:第8代藩主 **[[諏訪忠礼]]:第10代藩主 *[[豊後国|豊後]][[佐伯藩]][[毛利氏 (藤原氏)|毛利家]] **[[毛利高政]]:初代藩主 **[[毛利高直]]:第3代藩主 **[[毛利高標]]:第8代藩主 **[[毛利高泰]]:第11代藩主 **[[毛利高謙]]:第12代藩主 *[[越後国|越後]][[黒川藩]][[柳沢氏|柳沢家]] **[[柳沢里済]]:第2代藩主 **[[柳沢信有]]:第5代藩主 **[[柳沢光被]]:第6代藩主 **[[柳沢光昭]]:第7代藩主 *[[武蔵国|武蔵]][[久喜藩]]・[[出羽国|出羽]][[長瀞藩]][[米津氏|米津家]] **[[米津政武]]:武蔵久喜藩初代藩主 **[[米津政懿]]:出羽長瀞藩第2代藩主 **[[米津政明]]:長瀞藩第4代藩主 **[[米津政敏]]:長瀞藩第5代藩主 *その他 **[[安藤重長]]:[[上野国|上野]][[高崎藩]]第2代藩主 **[[安藤信正]]:[[陸奥国|陸奥]][[磐城平藩]]第5代藩主・老中 **[[板倉勝暁]]:上野[[安中藩]]第2代藩主 **[[稲葉恒通]]:豊後[[臼杵藩]]第7代藩主 **[[植村家教]]:[[大和国|大和]][[高取藩]]第10代藩主 **[[内田正純]]:[[下総国|下総]][[小見川藩]]第4代藩主 **[[内田正容]]:小見川藩第6代藩主 **[[遠藤慶利]]:[[美濃国|美濃]][[郡上藩|八幡藩]]第2代藩主 **[[大村純庸]]:[[肥前国|肥前]][[大村藩]]第6代藩主 **[[織田信学]]:出羽[[天童藩]]第2代藩主 **[[加藤明経]]:[[近江国|近江]][[水口藩]]第2代藩主 **[[加藤明堯]]:水口藩第4代藩主 **[[京極高盛]]:[[丹後国|丹後]][[丹後田辺藩|田辺藩]]第3代藩主、[[但馬国|但馬]][[豊岡藩]]初代藩主 **[[九鬼隆由]]:[[摂津国|摂津]][[三田藩]]第7代藩主 **[[黒田直侯]]:[[上総国|上総]][[久留里藩]]第6代藩主 **[[黒田直和]]:久留里藩第8代藩主 **[[関長克]]:[[備中国|備中]][[新見藩]]第9代藩主 **[[戸田氏長]]:美濃[[大垣藩]]第5代藩主 **[[南部信房]]:陸奥[[八戸藩]]第7代藩主 **[[北条氏治]]:[[河内国|河内]][[狭山藩]]第4代藩主 **[[北条氏燕]]:狭山藩第11代藩主 **[[本庄道利]]:美濃[[高富藩]]第7代藩主 **[[本庄道貫]]:高富藩第9代藩主 **[[本多康重]]:[[三河国|三河]][[岡崎藩]]初代藩主 **[[本多康紀]]:岡崎藩第2代藩主 **[[牧野忠泰]]:越後[[三根山藩]]主 **[[松平光和]]:信濃[[松本藩]]第4代藩主 **[[松平康員]]:[[石見国|石見]][[浜田藩]]第3代藩主 **[[水谷勝隆]]:[[常陸国|常陸]][[下館藩]]第2代藩主 **[[森政房]]:[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]第4代藩主 **[[柳沢吉里]]:[[甲斐国|甲斐]][[甲府藩]]第2代藩主、大和[[郡山藩]]初代藩主 **[[脇坂安清]]:播磨[[龍野藩]]第3代藩主 **[[脇坂安実]]:龍野藩第6代藩主 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *[[山内首藤経俊]](1185年 - 1204年) *[[平賀朝雅]](1204年 - 1205年) *[[大内惟信]](1205年 - 1221年) *[[北条時房]](1221年 - 1238年) *[[北条顕時]](1278年 - 1301年) *[[北条貞顕]](1301年 - 1330年) *[[北条貞冬]](1331年 - 1333年) ==== 室町幕府 ==== [[志摩国]]守護も兼任。 *[[畠山高国]](1336年 - 1338年) *[[高師秋]](1338年 - 1342年) *[[仁木義長]](1342年 - 1349年) *[[石塔頼房]](1349年 - 1351年) *[[細川清氏]](1352年) *仁木義長(1352年 - 1360年) *[[土岐頼康]](1360年 - 1366年) *仁木義長(1366年 - 1367年) *[[細川頼之]](1367年 - 1371年) *[[細川満之]](1372年 - 1376年) *山名五郎(1377年 - 1379年) *土岐頼康(1379年 - 1387年) *[[土岐康行]](1387年 - 1389年) *[[仁木満長]](1389年 - 1391年) *土岐康行(1391年 - 1392年) *仁木満長(不明 - 1396年) *[[仁木義員]](1396年 - 1399年) *土岐康行(1400年 - 1404年) *[[土岐康政]](1404年 - 1424年) *[[畠山満家]](1424年 - 1428年) *[[土岐持頼]](1428年 - 1440年) *[[一色教親]](1440年 - 1451年) *[[一色義直]](1451年 - 1467年) *[[土岐政康]](1467年 - 不明) *[[北畠教具]](不明 - 1471年) *[[北畠政郷]](1471年 - 不明) *[[一色義春]](1477年 - 1484年) *一色義直(1484年 - 1491年) *[[一色義秀]](不明 - 1498年) *[[北畠材親]](1508年 - 1511年) === 戦国時代 === *戦国大名 **[[関氏#平姓関氏|関氏]](伊勢北部) **[[長野工藤氏]](伊勢中部) **[[神戸氏]](伊勢中部) **[[北畠家]](伊勢南部) *織豊政権の大名 **[[織田信雄]](北畠具豊):[[松ヶ島城]]→[[清洲城]]→[[長島城]]、1575年-1590年。南伊勢の他尾張・伊賀・約100万石を領有するが、[[豊臣秀吉]]により改易 **[[織田信孝]](神戸信孝):[[神戸城]]、1572年-1582年。美濃国[[岐阜城]]に移封 **[[織田信包]](長野信包):[[上野城 (伊勢国)|伊勢上野城]]→[[津城]]、1576年-1594年。秀吉により改易 **[[滝川一益]]:[[長島城]]、1574年-1582年。上野[[厩橋城]]に移封 **[[蒲生氏郷]]:[[松ヶ島城]]→[[松坂城]]12万石、1582年-1590年。陸奥[[会津城]]42万石に移封 **[[豊臣秀次]]:1590年-1595年。信雄改易後にその旧領を受け継ぐが、切腹。 **[[富田一白]]・[[富田信高|信高]]:津城5万石、1595年-1600年。関ヶ原の戦い後も[[津藩]]7万石として領土安堵 **[[氏家行広]]:[[桑名城]]2万2000石、1590年-1600年。関ヶ原の戦い後に改易 **[[牧村利貞]]・[[稲葉道通]]:岩出2万石、1590年-1600年。関ヶ原の戦い後に伊勢[[田丸藩]]4万5700石に移封 **[[滝川雄利]]:[[神戸城]]2万石、1590年-1600年。関ヶ原の戦い後に改易、後に常陸[[片野藩]]2万石 **[[土方雄氏]]:菰野1万石、1596年-1599年。関ヶ原の戦い後に[[菰野藩]]1万2千として復活 **[[福島高晴]]:長島城1万石、1598年-1600年。関ヶ原の戦い後に大和[[宇陀松山藩]]に移封 **[[織田信重]]:伊勢林城1万石、1594年-1600年。関ヶ原の戦い後にも[[林藩]]1万石として領土安堵 **[[分部光嘉]]:伊勢上野城1万石、1598年-1600年。関ヶ原の戦い後にも[[伊勢上野藩]]2万石として領土安堵 **[[蒔田広光]]・[[蒔田広定]]:4万石、-1600年。関ヶ原の戦い後に一旦改易、後に[[雲出藩]]1万石として復活 == 伊勢国の合戦 == *[[998年]]:[[平維衡]]と[[平致頼]]の合戦 *[[1184年]]:[[三日平氏の乱 (平安時代)]]、反平家軍([[大内惟義]]) x 平家軍残党([[平家継]]) *[[1204年]]:[[三日平氏の乱 (鎌倉時代)]]、[[鎌倉幕府]]軍([[平賀朝雅]]) x [[伊勢平氏]]残党(若菜五郎) *[[1336年]] - [[1392年]]:[[南北朝時代 (日本)|南北朝の騒乱]] **伊勢国は南朝方の拠点の一つであり、断続的に北朝方との合戦が行われた。国司・[[北畠顕泰]]は南北朝統一後も、南朝の元号をしばらく使用していた *[[1414年]]:[[北畠満雅]]の挙兵。[[後亀山天皇]]の皇子である[[小倉宮恒敦]]をたてて幕府(北朝)に対して挙兵し、[[阿坂城]]に籠城したが、後に和睦 *[[1428年]]:北畠満雅の挙兵。小倉宮恒敦の子[[小倉宮聖承]]をたてて再び挙兵したが、満雅は伊勢阿濃郡岩田の戦いで戦死。 *[[1569年]]:[[大河内城の戦い]]、[[織田信長]]軍 x [[北畠具教]]・[[北畠具房]] *[[1570年]] - [[1574年]]:[[長島一向一揆|織田信長の伊勢平定]]、織田信長軍 x [[本願寺]] *[[1600年]]:[[津城|安濃津城]]の戦い、東軍([[富田信高]]) x 西軍([[毛利秀元]]、[[長宗我部盛親]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 24 三重県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] ==関連項目== {{Commonscat|Ise Province}} * [[令制国一覧]] * [[北勢]] * [[中勢]] * [[南勢]] * [[伊勢崎市]]([[群馬県]])、[[伊勢原市]]([[神奈川県]]) - 共に[[伊勢神宮]]の分社を祀ったことに由来する地名。 * [[伊勢 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。[[伊勢型戦艦]]の1番艦。艦名は伊勢国に因む。 * [[いせ (護衛艦)]]‐[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]。[[ひゅうが型護衛艦]]の2番艦。 {{令制国一覧}} {{伊勢国の郡}} {{デフォルトソート:いせのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東海道|国いせ]] [[Category:三重県の歴史]] [[Category:伊勢国|*]]
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23年
23年(23 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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23年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{yearbox| 前世紀={{紀元前/世紀|1}} | 世紀=1 | 次世紀=2 | 前10年紀2=0 | 前10年紀1=10 | 10年紀=20 | 次10年紀1=30 | 次10年紀2=40 | 3年前=20 | 2年前=21 | 1年前=22 | 年=23 | 1年後=24 | 2年後=25 | 3年後=26 | }} {{year-definition|23}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[垂仁天皇]]52年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]683年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[新]] : [[地皇 (元号)|地皇]]4年 ** [[新末後漢初|漢(新滅亡後)]] : [[更始 (漢)|更始]]元年 *** [[隗囂]] : [[漢復]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[大武神王]]6年 ** [[新羅]] : [[南解次次雄|南解王]]20年 ** [[百済]] : [[温祚王]]41年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2356年 * [[仏滅紀元]] : 566年 * [[ユダヤ暦]] : 3783年 - 3784年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=23|Type=J|表題=可視}} == できごと == === ローマ帝国 === * [[ストラボン]]が『[[地理誌]]』を発刊。 * [[ローマ皇帝]][[ティベリウス]]の後継者[[小ドルスス]]が暗殺される。後に[[ルキウス・アエリウス・セイヤヌス|セイヤヌス]]の犯行と判明。 === 中国 === * [[昆陽の戦い]]で劉秀(後の[[光武帝]])軍が[[新]]軍に勝利。 * 10月 - [[更始帝]]軍の攻撃により[[王莽]]が討たれ、新が滅亡。 == 誕生 == {{see also|Category:23年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]](大プリニウス) - [[古代ローマ]]の[[博物学者]]、[[政治家]]、[[軍人]](+ [[79年]]) == 死去 == {{see also|Category:23年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月14日]] - [[小ドルスス]]、第2代[[ローマ皇帝]][[ティベリウス]]の息子(* [[紀元前14年]]?) * [[10月6日]] - 王莽、中国[[新]]の[[皇帝]](* [[紀元前45年]]) * [[劉縯]] - [[中国]][[新]]代の武将、[[光武帝]]の兄。 * [[ユバ2世]] - [[マウレタニア]]王(* [[紀元前52年]]/[[紀元前50年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|23}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=1|年代=0}} {{デフォルトソート:23ねん}} [[Category:23年]] [[als:20er#23]]
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61年
61年(61 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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61年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{yearbox| 前世紀={{紀元前/世紀|1}} | 世紀=1 | 次世紀=2 | 前10年紀2=40 | 前10年紀1=50 | 10年紀=60 | 次10年紀1=70 | 次10年紀2=80 | 3年前=58 | 2年前=59 | 1年前=60 | 年=61 | 1年後=62 | 2年後=63 | 3年後=64 | }} {{year-definition|61}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[垂仁天皇]]90年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]721年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[永平 (漢)|永平]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[太祖大王|太祖王]]9年 ** [[新羅]] : [[脱解尼師今|脱解王]]5年 ** [[百済]] : [[多婁王]]34年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2394年 * [[仏滅紀元]] : 604年 * [[ユダヤ暦]] : 3821年 - 3822年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=61|Type=J|表題=可視}} == できごと == * (この年または[[60年]])[[ローマ帝国]]の[[属州]][[ブリタンニア]]で[[ブーディカ]]の乱が起こる。ローマ軍は[[ワトリング街道の戦い]]でブーディカ軍を破り、反乱を鎮圧。 == 誕生 == {{see also|Category:61年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス]](小プリニウス)、[[古代ローマ]]の[[文人]]、[[政治家]](+ [[112年]]) == 死去 == {{see also|Category:61年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|61}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=1|年代=0}} {{デフォルトソート:61ねん}} [[Category:61年]] [[als:60er#61]]
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112年
112年(112 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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112年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|112}} {{year-definition|112}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[景行天皇]]42年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]772年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[永初 (漢)|永初]]6年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[太祖大王|太祖王]]60年 ** [[新羅]] : [[婆娑尼師今|婆娑王]]33年、[[祇摩尼師今|祇摩王]]元年 ** [[百済]] : [[己婁王]]36年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2445年 * [[仏滅紀元]] : 655年 * [[ユダヤ暦]] : 3872年 - 3873年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=112|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:112年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:112年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス]] - 「小プリニウス」、[[古代ローマ]]の[[文人]]、[[政治家]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|112}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=2|年代=100}} {{デフォルトソート:112ねん}} [[Category:112年]]
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1279年
1279年(1279 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1279年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1279}} {{year-definition|1279}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[弘安]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1939年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[祥興]]2年([[旧2月6日 (旧暦)|2月6日]]まで) ** [[元 (王朝)|元]] : [[至元 (元世祖)|至元]]16年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠烈王]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3612年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[紹宝]]元年 * [[仏滅紀元]] : 1821年 - 1822年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 677年 - 678年 * [[ユダヤ暦]] : 5039年 - 5040年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1279|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[崖山の戦い]]、[[宋 (王朝)|宋]]滅亡。 * [[無学祖元]]が[[北条時宗]]の招請を受け、[[寧波]]から[[博多]]を経て[[鎌倉]]に入る == 誕生 == {{see also|Category:1279年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[国分盛胤]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将、[[国分氏 (陸奥国)|陸奥国国分氏]]の第6代当主(+ [[1353年]]) * [[北条煕時]]、[[鎌倉幕府]]第12代[[執権]](+ [[1315年]]) * [[ルイ1世 (ブルボン公)|ルイ1世]]、初代[[ブルボン公]]、[[クレルモン伯]]、ラ・マルシュ伯(+ [[1342年]]) == 死去 == {{see also|Category:1279年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月20日]](弘安元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[塩谷泰朝]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1214年]]) * [[3月19日]]([[祥興]]2年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[陸秀夫]]、[[南宋]]の重臣(* [[1236年]]) * 3月19日(祥興2年2月6日)- [[祥興帝]]、南宋の第9代[[皇帝]](* [[1272年]]) * [[4月14日]] - [[ボレスワフ・ポボジュヌィ]]、[[ヴィエルコポルスカ]]公(* 1221年-1227年) * [[4月23日]](弘安2年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[岩倉宮忠成王]]、鎌倉時代の[[皇族]](* [[1221年]]) * [[5月5日]] - [[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]、第5代[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1210年]]) * [[7月4日]](弘安2年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[京極為教]]、鎌倉時代の[[公卿]]、[[歌人]](* [[1227年]]) * [[7月14日]]/[[7月15日]](弘安2年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]/[[6月5日 (旧暦)|5日]]) - [[北条宗頼]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[12月7日]] - [[ボレスワフ5世]]、[[サンドミェシュ]]公、[[長子領|クラクフ]]公(* [[1226年]]) * [[サイイド・アジャッル]]、[[元 (王朝)|元]]の[[官僚]](* [[1211年]]) * [[張世傑]]、南宋の軍人(* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1279}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1279ねん}} [[Category:1279年|*]]
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1472年
1472年(1472 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1472年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1472}} {{year-definition|1472}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文明 (日本)|文明]]4年 *** [[古河公方]] : [[享徳]]21年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2132年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[成化]]8年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3805年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2014年 - 2015年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 876年 - 877年 * [[ユダヤ暦]] : 5232年 - 5233年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1472|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1472年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ]]、[[イタリア]]の[[コンドッティエーレ]]、[[ウルビーノ公国|ウルビーノ公]](+ [[1508年]]) * [[2月15日]] - [[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ]]、[[フィレンツェ]]の[[メディチ家]]の当主の1人(+ [[1503年]]) * [[3月28日]] - [[フラ・バルトロメオ]]、[[ルネサンス]]期のフィレンツェの[[画家]](+ [[1517年]]) * [[4月5日]] - [[ビアンカ・マリア・スフォルツァ]]、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ]]皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の皇后(+ [[1510年]]) * [[10月4日]] - [[ルーカス・クラナッハ]]、ルネサンス期の[[ドイツ]]の画家(+ [[1553年]]) * [[11月12日]](文明4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[近衛尚通]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[公卿]]、[[近衞家]]の第15代当主(+ [[1544年]]) * [[王陽明]]、[[明]]の[[儒学者]]、思想家(+ [[1529年]]) * [[小田治孝]]、[[室町時代]]、戦国時代の[[戦国大名]]、[[小田氏]]の第13代当主(+ [[1496年]]) * [[佐野秀綱]]、戦国時代の武将(+ [[1548年]]) * [[ラーマーティボーディー2世]]、[[アユタヤ王朝]]の第11代の王(+ [[1529年]]) == 死去 == {{see also|Category:1472年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月5日]](文明3年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[大内教幸]]、室町時代の武将(* [[1430年]]) * [[3月30日]] - [[アメデーオ9世・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア公]]、[[ピエモンテ公]]、[[アオスタ]]伯、[[モーリエンヌ]]伯、[[ニース]]伯(* [[1435年]]) * [[4月25日]] - [[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]、[[ジェノヴァ]]出身の[[ルネサンス]]期の[[人文主義者]]、建築理論家、[[建築家]](* [[1404年]]) * [[5月14日]](文明4年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]) - [[日底]]、室町時代の[[日蓮正宗]]の僧(* 生年不詳) * [[5月24日]] - [[シャルル・ド・ヴァロワ (ベリー公)|シャルル・ド・ヴァロワ]]、[[フランス]]の王族、[[ベリー公]]、[[ノルマンディー公]](* [[1446年]]) * [[6月7日]](文明4年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[長尾景人]]、室町時代の武将(* 生年不詳) * [[12月20日]](文明4年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[日乗]]、室町時代の日蓮正宗の僧(* 生年不詳) * [[ガストン4世 (フォワ伯)|ガストン4世]]、フランスの貴族、[[フォワ]]伯(* [[1422年]]) * [[シャルル4世・ダンジュー]]、[[メーヌ]]伯、[[ギーズ伯]](* [[1414年]]) * [[ネサワルコヨトル]]、[[テツココ]]の王(* [[1402年]]) * [[バッティスタ・スフォルツァ]]、[[ウルビーノ公国|ウルビーノ公]][[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]の妃(* [[1446年]]) * [[ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ]]、[[フィレンツェ]]出身のルネサンス期の[[彫刻家]]、建築家(* [[1396年]]) * [[ヨハンネス・ベッサリオン]]、[[東ローマ帝国]]の[[人文主義者]]、[[聖職者]](* [[1399年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1472}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1472ねん}} [[Category:1472年|*]]
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14,092
1528年
1528年(1528 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1528年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1528}} {{year-definition|1528}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[大永]]8年、[[享禄]]元年8月20日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2188年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]7年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3861年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[明徳 (莫朝)|明徳]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2070年 - 2071年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 934年 - 935年 * [[ユダヤ暦]] : 5288年 - 5289年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1528|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[9月3日]](大永8年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - 日本、[[改元]]して[[享禄]]元年 == 誕生 == {{see also|Category:1528年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:1528年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月6日]] - [[アルブレヒト・デューラー]]、[[画家]](* [[1471年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1528}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1528ねん}} [[Category:1528年|*]]
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14,093
南与野駅
南与野駅(みなみよのえき)は、埼玉県さいたま市中央区鈴谷二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。駅番号はJA 23。 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線(支線)であるが、運転系統上は埼京線として案内される。 島式ホーム1面2線を持つ高架駅である。外側2線が通過線となっており、平日の朝夕ラッシュ時に当駅で通勤快速の通過待ちを行う各駅停車が存在する。ただ同様の構造を持つ戸田公園駅よりは少なく、特に夕方以降は上りの1本のみである。快速通過駅のころは快速も通過線を走行していた。 浦和西営業統括センター管理で、JR東日本ステーションサービスが業務を受託する業務委託駅。指定席券売機、自動改札機設置。みどりの窓口は指定席券売機の設置に伴い、2007年10月31日をもって廃止された。2018年3月21日からは、始発から午前6時30分までの間、及び日中・夜間の一部時間は遠隔対応のため改札係員は不在となる。 ATCのシステム上、当駅に停車する上り電車はホーム進入前に25km/h以下に減速してから再加速し分岐器を通過するため、車内が大きく揺れたが、ATACSの導入で進入速度が65km/hまで向上した。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1985年(昭和60年)9月30日開業の埼京線の各駅(北赤羽駅 - 北与野駅間)には、駅ごとに異なるステーションカラーが付けられている。現在も引き継がれている。当駅のカラーは常盤色(■)である。 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は17,428人である。 JR東日本および埼玉県統計年鑑によると、開業以降の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。 埼玉大学の最寄駅である。かつては鉄道が建設されるまで、駅西側一面は農耕地であった。1990年代までには、小規模な工場や駐車場・休耕地に変わっていったが、与野本町駅や中浦和駅と異なり、駅前から住宅地が広がる地域ではなかった。駅周辺は東口側の線路に沿う市道を除いて、生活道路と鉄道建設時に敷かれた狭道ばかりで、大型車の駅前への乗り入れは困難であった。 そのため2003年からは、さいたま市により17haに上る「南与野駅西口土地区画整理事業」が着手され、坂道など高低差がある部分には盛り土によって地盤が底上げのうえ整地され、2007年に鈴谷西公園と連接させるかたちで駅西口に交通ロータリーの設置と、国道463号を結ぶ2車線道路の敷設が完了し、路線バスの駅前乗り入れが実現した。 再開発地区の区画では、マンションやアパート、商業施設の建設が行われている。かつては台地と低地のはざまにあるため水が溜まることもあったが、嵩上げによって水害は発生していない。東口の鈴谷東公園地下にも貯水槽が整備されている。 2000年に、駅前高架下にジェイアール東日本都市開発により富士ガーデンが入居する「南与野駅ビル」が、2006年には東口隣接の高架下に埼京線の駅としては初となる「南与野駅医療モール」が開業している。 バス停は、西口駅ロータリーと駅北側徒歩5分ほどの場所にある国道463号(埼大通り)上にある。
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南与野駅(みなみよのえき)は、埼玉県さいたま市中央区鈴谷二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。駅番号はJA 23。 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線(支線)であるが、運転系統上は埼京線として案内される。
{{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 南与野駅 |画像 = Minami-Yono-STA West.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2023年1月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|52|2.75|N|139|37|52.28|E}}}} |よみがな = みなみよの |ローマ字 = Minami-Yono |前の駅 = JA 22 [[中浦和駅|中浦和]] |駅間A = 1.7 |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[与野本町駅|与野本町]] JA 24 |電報略号 = ミヨ |駅番号 = {{駅番号r|JA|23|#00ac9a|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]<br />(線路名称上は[[東北本線]]の支線) |キロ程 = 13.5&nbsp;km([[赤羽駅|赤羽]]起点)<br />[[大崎駅|大崎]]から32.4 |起点駅 = |所在地 = [[さいたま市]][[中央区 (さいたま市)|中央区]][[鈴谷 (さいたま市)|鈴谷]]二丁目548 |座標 = {{coord|35|52|2.75|N|139|37|52.28|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |ホーム = 1面2線(通過線2線あり) |開業年月日 = [[1985年]]([[昭和]]60年)[[9月30日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 17,428 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] |駅構造=[[高架駅]]}} [[ファイル:Minami-Yono Station east exit.jpg|thumb|240px|東口(2015年2月)]] '''南与野駅'''(みなみよのえき)は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[中央区 (さいたま市)|中央区]][[鈴谷 (さいたま市)|鈴谷]]二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JA 23'''。 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]](支線)であるが、運転系統上は[[埼京線]]として案内される。 == 歴史 == * [[1985年]]([[昭和]]60年)[[9月30日]]:開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=422}}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[8月4日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[10月31日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了。 * [[2017年]](平成29年)[[11月4日]]:[[ATACS]]の導入により、進入速度が65Km/hに向上した。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月30日]]:[[ダイヤ改正]]により、快速電車の停車駅となる<ref name=":0">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年11月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-09-06|accessdate=2019-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190906152613/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|archivedate=2019-09-06}}</ref>。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線を持つ[[高架駅]]である。外側2線が通過線となっており、平日の朝夕[[ラッシュ時]]に当駅で通勤快速の通過待ちを行う[[各駅停車]]が存在する。ただ同様の構造を持つ[[戸田公園駅]]よりは少なく、特に夕方以降は上りの1本のみである。快速通過駅のころは快速も通過線を走行していた。 [[武蔵浦和駅|浦和西営業統括センター]]管理で、[[JR東日本ステーションサービス]]が業務を受託する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]。[[自動券売機#指定券自動券売機|指定席券売機]]、[[自動改札機]]設置。[[みどりの窓口]]は指定席券売機の設置に伴い、[[2007年]][[10月31日]]をもって廃止された。[[2018年]][[3月21日]]からは、始発から午前6時30分までの間、及び日中・夜間の一部時間は遠隔対応のため改札係員は不在となる。 [[自動列車制御装置|ATC]]のシステム上、当駅に停車する上り電車はホーム進入前に25km/h以下に減速してから再加速し[[分岐器]]を通過するため、車内が大きく揺れたが、[[ATACS]]の導入で進入速度が65km/hまで向上した<ref group="注">埼京線内では[[戸田公園駅]]も同様だった。</ref>。 === のりば === {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- ! rowspan="2" | 1 | rowspan="4" |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 | style="text-align:center"|南行 | rowspan="2" |[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大崎駅|大崎]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面 |- | style="text-align:center"|上り |- ! rowspan="2" | 2 | style="text-align:center"|北行 | rowspan="2" |[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[川越駅|川越]]方面 |- | style="text-align:center"|下り |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1505.html JR東日本:駅構内図]) === ステーションカラー === [[1985年]]([[昭和]]60年)[[9月30日]]開業の埼京線の各駅([[北赤羽駅]] - [[北与野駅]]間)には、駅ごとに異なるステーションカラーが付けられている。現在も引き継がれている。当駅のカラーは常盤色({{Color|#99cc99|■}})である。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Minami-Yono-STA Gate.jpg|改札口(2023年1月) Minami-Yono-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年1月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''17,428人'''である。 JR東日本および埼玉県統計年鑑によると、開業以降の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref><ref group="統計">[http://www.city.saitama.jp/006/013/001/005/index.html さいたま市統計書] - さいたま市</ref><ref group="統計">{{Cite web|和書|title=さいたま市/旧与野市統計書|url=https://www.city.saitama.jp/006/013/001/002/index.html|website=www.city.saitama.jp|accessdate=2020-05-20}}</ref> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典<!--1985年度から1998年度までは旧与野市統計書から出典--> |- |1985年(昭和60年) |<ref group="備考">1985年9月30日開業。開業日から翌年3月31日までの183日間を集計したデータ。</ref>3,910 | |- |1986年(昭和61年) |6,552 | |- |1987年(昭和62年) |7,685 | |- |1988年(昭和63年) |8,964 | |- |1989年(平成元年) |9,979 | |- |1990年(平成{{0}}2年) |11,051 | |- |1991年(平成{{0}}3年) |11,839 | |- |1992年(平成{{0}}4年) |12,504 | |- |1993年(平成{{0}}5年) |13,501 | |- |1994年(平成{{0}}6年) |13,884 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |14,064 | |- |1996年(平成{{0}}8年) |14,677 | |- |1997年(平成{{0}}9年) |14,492 | |- |1998年(平成10年) |14,526 | |- |1999年(平成11年) |14,223 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>14,297 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>14,607 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>14,790 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>14,973 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>14,950 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>14,960 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>15,050 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>15,094 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>15,230 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>15,434 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>15,565 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>15,612 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>15,901 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>16,348 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>16,349 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>17,046 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>17,662 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>18,089 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>18,758 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>18,917 |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>13,795 |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>15,568 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>17,428 | |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[埼玉大学]]の最寄駅である。かつては鉄道が建設されるまで、駅西側一面は[[農耕地]]であった。[[1990年代]]までには、小規模な[[工場]]や[[駐車場]]・休耕地に変わっていったが、[[与野本町駅]]や[[中浦和駅]]と異なり、駅前から住宅地が広がる地域ではなかった。駅周辺は東口側の線路に沿う市道を除いて、[[生活道路]]と鉄道建設時に敷かれた狭道ばかりで、[[大型車]]の駅前への乗り入れは困難であった。 そのため[[2003年]]からは、さいたま市により17[[ヘクタール|ha]]に上る「南与野駅西口[[土地区画整理事業]]」が着手され、坂道など高低差がある部分には[[盛り土]]によって地盤が底上げのうえ整地され、[[2007年]]に鈴谷西公園と連接させるかたちで駅西口に交通[[ロータリー交差点|ロータリー]]の設置と、国道463号を結ぶ2車線道路の敷設が完了し、路線バスの駅前乗り入れが実現した。 再開発地区の区画では、[[マンション]]や[[アパート]]、商業施設の建設が行われている。かつては台地と低地のはざまにあるため水が溜まることもあったが、嵩上げによって水害は発生していない。東口の鈴谷東公園地下にも貯水槽が整備されている。 [[2000年]]に、駅前高架下にジェイアール東日本都市開発により[[富士ガーデン]]が入居する「南与野[[駅ビル]]」が、[[2006年]]には東口隣接の高架下に埼京線の駅としては初となる「南与野駅医療モール」が開業している。 ; 公共施設 * [[さいたま市保健所]] * 与野鈴谷郵便局 * 与野大戸郵便局 ;学校 * [[埼玉大学]](バス利用) * [[さいたま市立与野南中学校]] * [[さいたま市立鈴谷小学校]] * [[さいたま市立中島小学校]] * [[さいたま市立与野南小学校]] ; 商業施設 * コンコース内 ** [[JR東日本リテールネット|キヨスク]] * 鉄道敷地内 ** [[マルエツ]] 南与野店 ** [[NewDays]]南与野店 ** 南与野医療モール(内科・薬局など) * 駅周辺 ** イオン北浦和店 ** [[しまむら]] 南与野店 ** [[ベルク (企業)|ベルク]] さいたま南与野店 ** [[西松屋]] 南与野埼大通り店 ** [[タイムズカーレンタル]] 南与野駅前店 ; 道路 * [[国道463号]]([[浦和所沢バイパス|埼大通り]]) * [[道場三室線]](建設中) == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> バス停は、西口駅ロータリーと駅北側徒歩5分ほどの場所にある[[国道463号]](埼大通り)上にある。 ; 南与野駅西口 * 1番のりば ** [[西武バス]]・[[国際興業バス]] *** [[国際興業バス西浦和営業所#北浦和駅 - 南与野駅 - 埼玉大学線|南与01]]:[[埼玉大学]]行 ** 国際興業バス *** 南与02:下大久保行 *** [[国際興業バス西浦和営業所#志木駅 - 埼玉大学 - 南与野駅線|志03-3]]:[[志木駅]]東口行 *** [[国際興業バス西浦和営業所#北朝霞駅 - 埼玉大学 - 南与野駅線|北朝02]]:[[北朝霞駅]]行 ; 南与野駅北入口 * 1番のりば ** 西武バス・国際興業バス *** 北浦03:埼玉大学行 * 2番のりば ** 西武バス・国際興業バス *** 北浦03:[[北浦和駅]]西口行 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速 ::: '''通過''' :: {{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車 ::: [[中浦和駅]] (JA 22) - '''南与野駅 (JA 23)''' - [[与野本町駅]] (JA 24) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Minami-Yono Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1505|name=南与野}} {{埼京線}} {{DEFAULTSORT:みなみよの}} [[Category:さいたま市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 み|なみよの]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:埼京線]] [[Category:さいたま市中央区の交通]] [[Category:さいたま市中央区の建築物]] [[Category:1985年開業の鉄道駅]] [[Category:埼玉県の駅ビル]]
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武蔵浦和駅
武蔵浦和駅(むさしうらわえき)は、埼玉県さいたま市南区別所七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 本項では同駅の前身で武蔵野線に以前存在していた田島信号場についても記述する。 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線(支線)と武蔵野線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、東北本線を当駅の所属線としている。東北本線については、運転系統としては埼京線の電車が乗り入れており、旅客案内では「東北(本)線」の名称は用いられない。駅番号は埼京線がJA 21、武蔵野線がJM 26。 この他、当駅の武蔵野線西浦和方からは東北本線の与野・大宮方面へ通じる武蔵野線支線(西浦和支線)が分岐している。この支線は主に貨物列車が使用するほか、「しもうさ号」などの旅客列車も経由している。下り線(与野方面)は駅のすぐ西側で武蔵野線から分岐しているが、上り線は西500メートルほどの地点で合流している。これらの分岐・合流地点は、当駅が開業する前は田島信号場とされていた。 武蔵野線は相対式ホーム2面2線(1・2番線)、埼京線は島式ホーム2面4線(3 - 6番線)を有する高架駅である。埼京線の通勤快速は、当駅で上下線ともほとんどの列車が緩急接続を行う。 埼京線が武蔵野線をオーバークロスしているが、武蔵野線支線への分岐のためそれぞれのホームは両線の交点から少しずれた位置にある。1番線ホームへは階段を使い武蔵野線の線路の下をくぐって至る格好となるため、乗り換えは長い距離を歩く。4・5番線は各駅停車が通勤快速の待ち合わせを行うほか、当駅折り返しの新宿・大崎・新木場・相鉄線直通海老名方面の列車が使用する。武蔵野線と埼京線との連絡通路には、埼京線の始発電車の時間が書かれているポスターがある。 改札口は一カ所のみである。指定席券売機・自動券売機・みどりの窓口が埼京線ホーム下の改札口右手に設置されている。 埼京線のホームは新幹線高架と同じ高さに位置しているため、平均的な高架駅より相当高度があり、改札外の地上からは数回の垂直移動が強いられる。また、大宮駅方面ホーム(5・6番線)の新幹線側には仕切られる防風壁が無いため、地上から高位置でもあり悪天候時はまともに風雨が吹き込む。 武蔵野線のホームへは連絡通路を介するため距離がある。また、武蔵野線ホームから駅ナカ・埼京線ホーム・一カ所のみの改札口・トイレなど、駅中移動のための全ての連絡手段は西浦和駅方面のホーム端一カ所のみであり、ホーム幅も狭いことから電車到着時の混雑が非常に激しく、危険回避のため発車が遅れることもしばしばある。 以上のように、当駅はターミナル駅ではないにもかかわらず、各路線への乗車事情において首都圏各駅の中でも決してアクセスがスムーズな構造とは言えないため、武蔵野線から赤羽駅や大宮駅への乗り換えに、あえて隣の南浦和駅で京浜東北線を利用する乗客も少なくない。バリアフリーに関しても充分便利とは言えず、後述のとおり武蔵野線ホームではエレベーターを2回使用するホーム間移動のみとなっている。 直営駅であり、当駅と戸田公園駅、北朝霞駅を融合した浦和西営業統括センターの所在駅である。浦和西営業統括センターとして埼京線戸田公園駅 - 北与野駅間、武蔵野線西浦和駅、北朝霞駅を管理し、大宮支線の別所信号場のポイント操作を行う。 埼京線ホームは外側の3番線と6番線を本線としており、当駅で通勤快速の待ち合わせを行う各駅停車や当駅折り返しの列車は、待避線である4番線と5番線を使用する。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1985年9月30日開業の埼京線の各駅(北赤羽駅 - 北与野駅間)には、駅ごとに異なる色が配されている。当駅のカラーは桜色(■)である。その後、武蔵野線の駅カラー導入時にも当駅は埼京線のホームと同じ色になっている。 以前は全番線ともテイチク制作の発車メロディを使用しており、埼京線ホームの3・4番線と5・6番線はそれぞれメロディが統一されていたが、2019年8月8日に、待避線である4・5番線のメロディがスイッチ制作のものに変更された。 バリアフリー設備は、埼京線ホーム(3・4番線、5・6番線)へは上り・下りエスカレーターとエレベーターが各1基設置されている。このうちエスカレーターは、平日朝ラッシュ時には2台とも上り専用となる。武蔵野線ホームの2番線(府中本町方面)へは階段を使わずに移動できる。1番線(西船橋方面)側にはエスカレーターが設置されているが、エスカレーター設置以前は階段昇降機(リフト)が設置されていた。また、1番線と2番線とはエレベーター2基と通路で結ばれている(2014年3月17日に供用開始)。 トイレは、改札内に1箇所設置されている。多機能トイレも設置されている。 コインロッカーおよび証明写真自動撮影機が、改札内外にそれぞれ1箇所設置されている。 改札内を通過する乗り換え客が一日約15万人に上ることから(下記)、2014年12月11日に店舗22店で構成される駅ナカビーンズキッチンを開業した。運営はジェイアール東日本都市開発が行っている。また、老舗書店として知られる須原屋が初めて駅ナカに店舗を展開した。その他のテナントの詳細は公式サイト「フロアガイド」を参照 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は46,593人で、JR東日本管内では新子安駅に次いで第88位である。 また、2010年度の埼京線 - 武蔵野線間の1日平均乗換人員は91,971人である。なお、統計には含まれていない乗り換え客も含めた場合は1日約15万人となっている。 埼京線の赤羽駅 - 大宮駅間で通勤快速が停車する唯一の駅であることもあり、都心への距離やアクセス時間が短い駅として利便性が高い。再開発によってタワーマンションが次々と建設されていることから、利用者数は増加傾向にある。埼京線内(大崎駅 - 大宮駅間)では20駅中第8位、武蔵野線内では26駅中南浦和駅に次いで第5位である。 開業以降の年度別の1日平均乗車人員は下表の通りである。 当駅周辺は、さいたま市の副都心と位置付けられており、約52haが9つの街区に分けられ、複数の大規模再開発プロジェクトが進行中または完成している。駅前には南区役所の入る複合施設サウスピアがあり、超高層のタワーマンションが8棟竣工、または建設中である。ホテル・オフィス・商業施設などの建設も検討されている。 当駅に発着する路線バスは、国際興業バスにより運行されている(羽田空港への共同運行路線を除く)。東西の駅ロータリーおよび駅高架下の「田島通り」に、複数のバス乗り場が設置されている。 国道17号方面から来たバスは、直接田島通り乗り場へ向かうのではなく、いったん東口ロータリー乗り場を経由してから田島通り乗り場へ向かう。ただし、例外として南浦08系統はロータリーに入らず、直接田島通り乗り場へ向かう。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "武蔵浦和駅(むさしうらわえき)は、埼玉県さいたま市南区別所七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では同駅の前身で武蔵野線に以前存在していた田島信号場についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線(支線)と武蔵野線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、東北本線を当駅の所属線としている。東北本線については、運転系統としては埼京線の電車が乗り入れており、旅客案内では「東北(本)線」の名称は用いられない。駅番号は埼京線がJA 21、武蔵野線がJM 26。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この他、当駅の武蔵野線西浦和方からは東北本線の与野・大宮方面へ通じる武蔵野線支線(西浦和支線)が分岐している。この支線は主に貨物列車が使用するほか、「しもうさ号」などの旅客列車も経由している。下り線(与野方面)は駅のすぐ西側で武蔵野線から分岐しているが、上り線は西500メートルほどの地点で合流している。これらの分岐・合流地点は、当駅が開業する前は田島信号場とされていた。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "武蔵野線は相対式ホーム2面2線(1・2番線)、埼京線は島式ホーム2面4線(3 - 6番線)を有する高架駅である。埼京線の通勤快速は、当駅で上下線ともほとんどの列車が緩急接続を行う。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "埼京線が武蔵野線をオーバークロスしているが、武蔵野線支線への分岐のためそれぞれのホームは両線の交点から少しずれた位置にある。1番線ホームへは階段を使い武蔵野線の線路の下をくぐって至る格好となるため、乗り換えは長い距離を歩く。4・5番線は各駅停車が通勤快速の待ち合わせを行うほか、当駅折り返しの新宿・大崎・新木場・相鉄線直通海老名方面の列車が使用する。武蔵野線と埼京線との連絡通路には、埼京線の始発電車の時間が書かれているポスターがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "改札口は一カ所のみである。指定席券売機・自動券売機・みどりの窓口が埼京線ホーム下の改札口右手に設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "埼京線のホームは新幹線高架と同じ高さに位置しているため、平均的な高架駅より相当高度があり、改札外の地上からは数回の垂直移動が強いられる。また、大宮駅方面ホーム(5・6番線)の新幹線側には仕切られる防風壁が無いため、地上から高位置でもあり悪天候時はまともに風雨が吹き込む。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "武蔵野線のホームへは連絡通路を介するため距離がある。また、武蔵野線ホームから駅ナカ・埼京線ホーム・一カ所のみの改札口・トイレなど、駅中移動のための全ての連絡手段は西浦和駅方面のホーム端一カ所のみであり、ホーム幅も狭いことから電車到着時の混雑が非常に激しく、危険回避のため発車が遅れることもしばしばある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以上のように、当駅はターミナル駅ではないにもかかわらず、各路線への乗車事情において首都圏各駅の中でも決してアクセスがスムーズな構造とは言えないため、武蔵野線から赤羽駅や大宮駅への乗り換えに、あえて隣の南浦和駅で京浜東北線を利用する乗客も少なくない。バリアフリーに関しても充分便利とは言えず、後述のとおり武蔵野線ホームではエレベーターを2回使用するホーム間移動のみとなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "直営駅であり、当駅と戸田公園駅、北朝霞駅を融合した浦和西営業統括センターの所在駅である。浦和西営業統括センターとして埼京線戸田公園駅 - 北与野駅間、武蔵野線西浦和駅、北朝霞駅を管理し、大宮支線の別所信号場のポイント操作を行う。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "埼京線ホームは外側の3番線と6番線を本線としており、当駅で通勤快速の待ち合わせを行う各駅停車や当駅折り返しの列車は、待避線である4番線と5番線を使用する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1985年9月30日開業の埼京線の各駅(北赤羽駅 - 北与野駅間)には、駅ごとに異なる色が配されている。当駅のカラーは桜色(■)である。その後、武蔵野線の駅カラー導入時にも当駅は埼京線のホームと同じ色になっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "以前は全番線ともテイチク制作の発車メロディを使用しており、埼京線ホームの3・4番線と5・6番線はそれぞれメロディが統一されていたが、2019年8月8日に、待避線である4・5番線のメロディがスイッチ制作のものに変更された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "バリアフリー設備は、埼京線ホーム(3・4番線、5・6番線)へは上り・下りエスカレーターとエレベーターが各1基設置されている。このうちエスカレーターは、平日朝ラッシュ時には2台とも上り専用となる。武蔵野線ホームの2番線(府中本町方面)へは階段を使わずに移動できる。1番線(西船橋方面)側にはエスカレーターが設置されているが、エスカレーター設置以前は階段昇降機(リフト)が設置されていた。また、1番線と2番線とはエレベーター2基と通路で結ばれている(2014年3月17日に供用開始)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "トイレは、改札内に1箇所設置されている。多機能トイレも設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "コインロッカーおよび証明写真自動撮影機が、改札内外にそれぞれ1箇所設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "改札内を通過する乗り換え客が一日約15万人に上ることから(下記)、2014年12月11日に店舗22店で構成される駅ナカビーンズキッチンを開業した。運営はジェイアール東日本都市開発が行っている。また、老舗書店として知られる須原屋が初めて駅ナカに店舗を展開した。その他のテナントの詳細は公式サイト「フロアガイド」を参照", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は46,593人で、JR東日本管内では新子安駅に次いで第88位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、2010年度の埼京線 - 武蔵野線間の1日平均乗換人員は91,971人である。なお、統計には含まれていない乗り換え客も含めた場合は1日約15万人となっている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "埼京線の赤羽駅 - 大宮駅間で通勤快速が停車する唯一の駅であることもあり、都心への距離やアクセス時間が短い駅として利便性が高い。再開発によってタワーマンションが次々と建設されていることから、利用者数は増加傾向にある。埼京線内(大崎駅 - 大宮駅間)では20駅中第8位、武蔵野線内では26駅中南浦和駅に次いで第5位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "開業以降の年度別の1日平均乗車人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "当駅周辺は、さいたま市の副都心と位置付けられており、約52haが9つの街区に分けられ、複数の大規模再開発プロジェクトが進行中または完成している。駅前には南区役所の入る複合施設サウスピアがあり、超高層のタワーマンションが8棟竣工、または建設中である。ホテル・オフィス・商業施設などの建設も検討されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当駅に発着する路線バスは、国際興業バスにより運行されている(羽田空港への共同運行路線を除く)。東西の駅ロータリーおよび駅高架下の「田島通り」に、複数のバス乗り場が設置されている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国道17号方面から来たバスは、直接田島通り乗り場へ向かうのではなく、いったん東口ロータリー乗り場を経由してから田島通り乗り場へ向かう。ただし、例外として南浦08系統はロータリーに入らず、直接田島通り乗り場へ向かう。", "title": "バス路線" } ]
武蔵浦和駅(むさしうらわえき)は、埼玉県さいたま市南区別所七丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 本項では同駅の前身で武蔵野線に以前存在していた田島信号場についても記述する。
{{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 武蔵浦和駅 |画像 = Musashi-Urawa-STA East-Entrance.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2023年1月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|50|46.01|N|139|38|52.68|E}}}} |よみがな = むさしうらわ |ローマ字 = Musashi-Urawa |電報略号 = ムラ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]][[別所 (さいたま市)|別所]]七丁目12-1 |座標 = {{coord|35|50|46.01|N|139|38|52.68|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1985年]]([[昭和]]60年)[[9月30日]] |駅構造 = [[高架駅]]<ref name="jtb58"/> |ホーム = {{Plainlist| * 2面2線(武蔵野線) * 2面4線(埼京線)}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 46,593 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{Color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]<br />(線路名称上は[[東北本線]]の支線) |前の駅1 = JA 20 [[北戸田駅|北戸田]] |駅間A1 = 2.4 |駅間B1 = 1.2 |次の駅1 = [[中浦和駅|中浦和]] JA 22 |駅番号1 = {{駅番号r|JA|21|#00ac9a|1}} |キロ程1 = 10.6&nbsp;km([[赤羽駅|赤羽]]起点)<br />[[大崎駅|大崎]]から29.5 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#f15a22|■}}[[武蔵野線]] |前の駅2 = JM 27 [[西浦和駅|西浦和]] |駅間A2 = 2.0 |駅間B2 = 1.9 |次の駅2 = [[南浦和駅|南浦和]] JM 25 |駅番号2 = {{駅番号r|JM|26|#f15a22|1}} |キロ程2 = 58.6&nbsp;km([[鶴見駅|鶴見]]起点)<br />[[府中本町駅|府中本町]]から29.8 |起点駅2 = |所属路線3 = 武蔵野線貨物支線(西浦和支線) |駅間B3 = 5.2{{Refnest|group="*"|営業キロが設定されていた国鉄時代のもので、下の別所信号場との距離を含め現在は営業キロが設定されていない。}} |次の駅3 = [[与野駅|与野]]{{Refnest|group="*"|この間に[[別所信号場]]あり(当駅より1.6&nbsp;km先)。}} |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 武蔵浦和 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[ファイル:Musashi-urawa-STA West-Entrance.jpg|thumb|西口(2022年10月)]] '''武蔵浦和駅'''(むさしうらわえき)は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]][[別所 (さいたま市)|別所]]七丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 本項では同駅の前身で武蔵野線に以前存在していた田島信号場についても記述する。 == 乗り入れ路線 == 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]](支線)と[[武蔵野線]]であり(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」を参照)、東北本線を当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている{{sfn|石野|1998|p=422}}。東北本線については、運転系統としては[[埼京線]]の電車が乗り入れており、旅客案内では「東北(本)線」の名称は用いられない。[[駅ナンバリング|駅番号]]は埼京線が'''JA 21'''、武蔵野線が'''JM 26'''。 この他、当駅の武蔵野線[[西浦和駅|西浦和]]方からは東北本線の[[与野駅|与野]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面へ通じる武蔵野線支線(西浦和支線)が分岐している<ref name="jtb58">[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、pp.56-58。</ref>。この支線は主に[[貨物列車]]が使用するほか、「[[しもうさ号]]」などの旅客列車も経由している。下り線(与野方面)は駅のすぐ西側で武蔵野線から分岐しているが、上り線は西500メートルほどの地点で合流している<ref>[[#jtb|武蔵野線まるごと探見]]、pp.54-55。</ref>。これらの分岐・合流地点は、当駅が開業する前は'''田島信号場'''とされていた<ref name="jtb58"/>。 == 歴史 == * [[1973年]]([[昭和]]48年)[[4月1日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)[[武蔵野線]]の'''田島信号場'''が開業{{sfn|石野|1998|p=74}}。 * [[1985年]](昭和60年)[[9月30日]]:[[埼京線]]の開通に伴い武蔵浦和駅が開業{{sfn|石野|1998|p=422}}。田島信号場を当駅構内に統合する。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{sfn|石野|1998|p=422}}。 ** [[6月28日]]:駅ビル「武蔵浦和ウィセカンド」が開業<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=愛称は「ウイセカンド」 JR武蔵浦和駅ステーションビル 28日にオープン |newspaper=[[埼玉新聞]] |date=1987-06-18 |edition=朝刊 |publisher=埼玉新聞社 |page=1 }}</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月15日]]:駅ビル「武蔵浦和ウィセカンド」が「ビーンズ武蔵浦和」に改称<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[8月4日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年)[[12月4日]]:ダイヤ改正で[[武蔵野線]]で[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]と[[南船橋駅]]方面を結ぶ[[しもうさ号]]が運転を開始。これにより、2番線ホームからも大宮駅へ行くことが可能となった{{Refnest|group="注釈"|しもうさ号の大宮行きは、当駅を発車すると次が終点の大宮駅となる。}}。 * [[2014年]](平成26年)[[12月11日]]:耐震補強工事とともに実施されていた駅全面改修工事(床面を[[御影石]]化・トイレ拡張・みどりの窓口移設など<ref group="新聞" name="saitamaNP 20131119">[http://www.saitama-np.co.jp/news/2013/11/19/01.html 武蔵浦和駅を全面改修 安全、利便性向上へ/JR東日本大宮支社] - 埼玉新聞(2013年11月19日付、同年12月18日閲覧)</ref>)が完了し、店舗22店から構成される[[駅ナカ]]「ビーンズキッチン」が開業<ref group="報道" name="press/20141106">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/201411062.pdf|title=武蔵浦和駅構内に「ビーンズキッチン」がグランドオープンします。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社/ジェイアール東日本都市開発|date=2014-11-06|accessdate=2020-04-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200411075909/http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/201411062.pdf|archivedate=2020-04-11}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年) ** [[8月8日]]:4・5番線の[[発車メロディ]]が変更される。 ** [[11月30日]]:[[相鉄・JR直通線]]開業に伴うダイヤ改正により、朝に相鉄[[海老名駅]]との直通列車が設定される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年11月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-09-06|accessdate=2020-04-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190906152613/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|archivedate=2019-09-06}}</ref><ref group="注釈">当駅 - 大宮間で大幅に減便され、当駅始発・終着の新宿方面列車が平日日中と土休日の全日で増加した。</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[11月16日]]:改札外に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 大宮/武蔵浦和の2駅にSTATION BOOTHが開業!|publisher=STATION WORK|date=2020-11-13|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118062545/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2020-11-18}}</ref>。 == 駅構造 == 武蔵野線は[[相対式ホーム]]2面2線(1・2番線)、埼京線は[[島式ホーム]]2面4線(3 - 6番線)を有する[[高架駅]]である<ref name="jtb58"/>。埼京線の通勤快速は、当駅で上下線ともほとんどの列車が[[待避駅|緩急接続]]を行う。 埼京線が武蔵野線をオーバークロスしているが、武蔵野線支線への分岐のためそれぞれのホームは両線の交点から少しずれた位置にある<ref name="jtb58"/>。1番線ホームへは階段を使い武蔵野線の線路の下をくぐって至る格好となるため、乗り換えは長い距離を歩く<ref name="jtb58"/>。4・5番線は[[埼京線#列車種別|各駅停車]]が[[埼京線#列車種別|通勤快速]]の待ち合わせを行うほか、当駅折り返しの[[新宿駅|新宿]]・[[大崎駅|大崎]]・[[新木場駅|新木場]]・相鉄線直通海老名方面の列車が使用する。武蔵野線と埼京線との連絡通路には、埼京線の始発電車の時間が書かれているポスターがある。 改札口は一カ所のみである。[[指定席券売機]]・[[自動券売機]]・[[みどりの窓口]]が埼京線ホーム下の改札口右手に設置されている。 埼京線のホームは[[新幹線]]高架と同じ高さに位置しているため、平均的な高架駅より相当高度があり、改札外の地上からは数回の垂直移動が強いられる。また、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]方面ホーム(5・6番線)の新幹線側には仕切られる防風壁が無いため、地上から高位置でもあり悪天候時はまともに風雨が吹き込む。 武蔵野線のホームへは連絡通路を介するため距離がある。また、武蔵野線ホームから駅ナカ・埼京線ホーム・一カ所のみの改札口・トイレなど、駅中移動のための全ての連絡手段は[[西浦和駅]]方面のホーム端一カ所のみであり、ホーム幅も狭いことから電車到着時の混雑が非常に激しく、危険回避のため発車が遅れることもしばしばある。 {{要出典|以上のように、当駅は[[ターミナル駅]]ではないにもかかわらず、各路線への乗車事情において[[首都圏 (日本)|首都圏]]各駅の中でも決してアクセスがスムーズな構造とは言えないため、武蔵野線から[[赤羽駅]]や大宮駅への乗り換えに、あえて隣の[[南浦和駅]]で[[京浜東北線]]を利用する乗客も少なくない。|date=2023年7月}}[[バリアフリー]]に関しても充分便利とは言えず、後述のとおり武蔵野線ホームではエレベーターを2回使用するホーム間移動のみとなっている。 [[直営駅]]であり、当駅と[[戸田公園駅]]、[[北朝霞駅]]を融合した浦和西営業統括センターの所在駅である。浦和西営業統括センターとして埼京線[[戸田公園駅]] - [[北与野駅]]間、武蔵野線[[西浦和駅]]、[[北朝霞駅]]を管理し、[[武蔵野線#大宮支線|大宮支線]]の[[別所信号場]]のポイント操作を行う。 === のりば === 埼京線ホームは外側の3番線と6番線を[[停車場#本線|本線]]としており、当駅で通勤快速の待ち合わせを行う各駅停車や当駅折り返しの列車は、待避線である4番線と5番線を使用する。 <!-- 原則として、公式サイトの「駅構内図」における「のりば案内」の表記に準拠。また、同一単語のリンクの繰り返しは、[[Wikipedia:記事どうしをつなぐ#リンクの冗長・繰返し]]より推奨されていません。 --> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!colspan="2"|方向!!行先!!備考 |- style="border-top:solid 3px #999" | colspan="6" style="background-color:#eee" |'''2階ホーム''' |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JM line symbol.svg|15x15px|JM]] 武蔵野線 |colspan="2" style="text-align:center;"|下り |[[南浦和駅|南浦和]]・[[新松戸駅|新松戸]]・[[西船橋駅|西船橋]]方面 | |- !2 |colspan="2" style="text-align:center;"|上り |[[西国分寺駅|西国分寺]]・[[府中本町駅|府中本町]]方面<br />{{Color|#ff66cc|■}}[[しもうさ号]] [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]行<!-- しもうさ号は駅設置の電照式案内標のみ記載(2012年7月時点) --> | |- style="border-top:solid 3px #999;" |colspan="6" style="background-color:#eee;"|'''3階ホーム''' |- !3 |rowspan="5" |[[File:JR JA line symbol.svg|15x15px|JA]] 埼京線 |style="text-align:center;"|南行 |style="text-align:center;"|上り |[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大崎駅|大崎]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面 |&nbsp; |- !4 |style="text-align:center;"|南行 |style="text-align:center;"|上り |池袋・新宿・大崎・りんかい線方面 |通勤快速の待ち合わせ |- !rowspan="2"|5 |style="text-align:center;"|南行 |style="text-align:center;"|上り |池袋・新宿・大崎・りんかい線・相鉄線方面 |当駅始発<br/>すべて各駅停車 |- |style="text-align:center;"|北行 |style="text-align:center;"|下り |大宮・[[川越駅|川越]]方面 |通勤快速の待ち合わせ |- !6 |style="text-align:center;"|北行 |style="text-align:center;"|下り |大宮・川越方面 |&nbsp; |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1525.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> Musashi-urawa-STA Gate.jpg|改札口(2022年8月) Musashi-urawa-STA Platform1-2.jpg|1・2番線(武蔵野線)ホーム(2022年8月) Musashi-Urawa-STA_Home3-4.jpg|3・4番線(埼京線)ホーム(2021年10月) Musashi-Urawa-STA_Home5-6.jpg|5・6番線(埼京線)ホーム(2021年10月) </gallery> === ステーションカラー === 1985年9月30日開業の埼京線の各駅([[北赤羽駅]] - [[北与野駅]]間)には、駅ごとに異なる色が配されている。当駅のカラーは桜色({{Color|#ffdbed|■}})である。その後、武蔵野線の駅カラー導入時にも当駅は埼京線のホームと同じ色になっている。 === 発車メロディ === 以前は全番線とも[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]制作の発車メロディを使用しており、埼京線ホームの3・4番線と5・6番線はそれぞれメロディが統一されていたが、2019年8月8日に、待避線である4・5番線のメロディが[[スイッチ_(音楽制作会社)|スイッチ]]制作のものに変更された。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] メロディー |- !2 |[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] スプリングボックス |- !3 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 新たな季節 |- !4 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 恋の通勤列車 |- !5 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] [[惑星 (組曲)#木星、快楽をもたらす者|ジュピター G]] |- !6 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] コーラルリーフ |} === 改札内の主な旅客設備 === バリアフリー設備は、埼京線ホーム(3・4番線、5・6番線)へは上り・下り[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が各1基設置されている。このうちエスカレーターは、平日朝ラッシュ時には2台とも上り専用となる。武蔵野線ホームの2番線(府中本町方面)へは階段を使わずに移動できる。1番線(西船橋方面)側にはエスカレーターが設置されているが、エスカレーター設置以前は階段昇降機(リフト)が設置されていた。また、1番線と2番線とはエレベーター2基と通路で結ばれている(2014年3月17日に供用開始)。 トイレは、改札内に1箇所設置されている。多機能トイレも設置されている。 [[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]および[[証明写真#証明写真自動撮影機を使用する場合|証明写真自動撮影機]]が、改札内外にそれぞれ1箇所設置されている。 === 駅ナカ === 改札内を通過する乗り換え客が一日約15万人に上ることから(下記)、[[2014年]]12月11日に店舗22店で構成される[[駅ナカ]]'''ビーンズキッチン'''を開業した<ref group="報道" name="press/20141106" />。運営は[[ジェイアール東日本都市開発]]が行っている。また、老舗書店として知られる[[須原屋]]が初めて駅ナカに店舗を展開した。その他のテナントの詳細は公式サイト「[http://beans.jrtk.jp/musashiurawa/floormap/ フロアガイド]」を参照 == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''46,593人'''で、JR東日本管内では[[新子安駅]]に次いで第88位である。 また、2010年度の埼京線 - 武蔵野線間の1日平均乗換人員は91,971人である<ref>平成24年版 都市交通年報 - 運輸政策研究機構、1日平均は掲載値より計算</ref>。なお、統計には含まれていない乗り換え客も含めた場合は1日約15万人となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.saitama.jp/minami/001/002/001/004/p021419_d/fil/2kaigiroku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119183359/https://www.city.saitama.jp/minami/001/002/001/004/p021419_d/fil/2kaigiroku.pdf|title=さいたま市総合振興計画次期基本計画(区の将来像)に係る 第2回南区検討懇話会 会議録 |archivedate=2021-01-19|accessdate=2021-01-21|publisher=さいたま市|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 埼京線の赤羽駅 - 大宮駅間で通勤快速が停車する唯一の駅であることもあり、都心への距離やアクセス時間が短い駅として利便性が高い。再開発によってタワーマンションが次々と建設されていることから、利用者数は増加傾向にある。埼京線内(大崎駅 - 大宮駅間)では20駅中第8位、武蔵野線内では26駅中[[南浦和駅]]に次いで第5位である。 開業以降の年度別の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref><ref group="統計">[http://www.city.saitama.jp/006/013/001/005/index.html さいたま市統計書] - さいたま市</ref><ref group="統計">{{Cite web|和書|title=さいたま市/旧浦和市統計書|url=https://www.city.saitama.jp/006/013/001/003/index.html|website=www.city.saitama.jp|accessdate=2020-05-20}}</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1985年(昭和60年) |<ref group="備考">1985年9月30日開業。開業日から翌年3月31日までの183日間を集計したデータ。</ref>7,446 | |- |1986年(昭和61年) |11,269 | |- |1987年(昭和62年) |14,913 | |- |1988年(昭和63年) |18,174 | |- |1989年(平成元年) |20,269 | |- |1990年(平成{{0}}2年) |22,294 | |- |1991年(平成{{0}}3年) |23,950 | |- |1992年(平成{{0}}4年) |25,515 | |- |1993年(平成{{0}}5年) |26,392 | |- |1994年(平成{{0}}6年) |27,194 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |28,018 | |- |1996年(平成{{0}}8年) |29,187 | |- |1997年(平成{{0}}9年) |29,482 | |- |1998年(平成10年) |31,017 | |- |1999年(平成11年) |31,510 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>32,280 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>34,307 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>36,431 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>37,994 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>38,958 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>39,847 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>41,318 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>42,919 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>44,115 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>45,327 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>45,978 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>46,290 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>47,236 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>48,610 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>48,588 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>50,407 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>51,849 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>53,533 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>53,963 |<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>53,992 |<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>41,451 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>43,359 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>46,593 | |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[画像:武蔵浦和駅周辺.JPG|thumb|武蔵浦和駅周辺のタワー群(2015年)]] [[画像:プラウドタワー武蔵浦和マークスとサウスピア.JPG|thumb|[[サウスピア]]、[[プラウドタワー武蔵浦和マークス]]]] [[画像:SMBC Musashi-Urawa branch.jpg|thumb|三井住友銀行武蔵浦和支店]] {{See also|別所 (さいたま市)|沼影}} 当駅周辺は、さいたま市の[[都心|副都心]]と位置付けられており、約52[[ヘクタール|ha]]が9つの街区に分けられ、複数の大規模[[都市再開発|再開発]]プロジェクトが進行中または完成している。駅前には南区役所の入る複合施設[[サウスピア]]があり、[[超高層マンション|超高層のタワーマンション]]が8棟竣工、または建設中である。[[ホテル]]・[[オフィスビル|オフィス]]・商業施設などの建設も検討されている。 <!--以下、チェーン店を含む個別の飲食店・コンビニ・個人商店・ATMのみ銀行無人店舗・携帯ショップなどは特筆性希薄かつ際限がないので記載しない。--> ; 駅ビル {{columns-list|2| * 「[[ジェイアール東日本都市開発|ビーンズ武蔵浦和]]」 ''※テナントの詳細は公式サイト「[http://beans.jrtk.jp/musashiurawa/guide/ フロアマップ & ショップリスト]」を参照'' ** [[みずほ銀行]] 武蔵浦和支店 ** [[マルエツ]] 武蔵浦和店 ** [[スターバックスコーヒー]]武蔵浦和BEANS店 * 「マーレ」 ''※テナントの詳細は公式サイト「[http://mare-urawa.com/shopguide/ ショップガイド]」参照'' * <!--[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]] 武蔵浦和店-->[[MEGAドン・キホーテ]]武蔵浦和店(旧[[ビバホーム]]跡地) ※2021年3月26日オープン |}} ; 西口 {{columns-list|2| * [[サウスピア]]([[ペデストリアンデッキ]]により駅直結) ** さいたま市南区役所(4 - 7階)<ref name="jtb58"/> ** [[さいたま市立武蔵浦和図書館]](2-3階) * ラムザタワー(駅直結) ** 埼玉県武蔵浦和合同庁舎 ** [[全国生活協同組合連合会]](2022年5月まで) ** [[都市再生機構]]埼玉地域支社 ** [[埼玉りそな銀行]] 武蔵浦和支店 ** [[プルデンシャル生命保険]]さいたま支社 ** [[スギドラッグ]]武蔵浦和駅前店(2023年11月23日オープン)<ref>{{Cite web|和書|title=【開店】スギドラッグ 武蔵浦和駅前店|url=https://kaiten-heiten.com/sugidrug-musashiurawaekimae/kaurawa/|website=開店閉店.com|date=2023-11-23|accessdate=2023-11-25|language=ja|last=|publisher=}}</ref> * [[プラウドタワー武蔵浦和ガーデン]]・[[プラウドタワー武蔵浦和テラス]](NALIA、駅直結) ** マルエツ ナリア武蔵浦和店 ** [[ウエルシア薬局]] 武蔵浦和店 * [[武蔵浦和SKY&GARDEN]] ** [[高田製薬]]本社 * [[プラウドタワー武蔵浦和マークス]](駅直結) * プラウドシティ武蔵浦和 ステーションアリーナ(駅直結、2024年2月竣工予定) * [[武蔵浦和ラーメンアカデミー]] * [[群馬銀行]] 武蔵浦和支店 * [[川口信用金庫]]武蔵浦和支店 * [[ロッテ浦和工場]]・中央研究所 * [[島忠]] ホームズ浦和南店 * 埼玉県さいたま県土整備事務所 * [[沼影市民プール]] * [[彩湖・道満グリーンパーク]] * [[ロッテ浦和球場]] * [[ヤクルト戸田球場]] |}} ; 東口 {{columns-list|2| * ライブタワー(駅直結) ** [[須原屋]] 武蔵浦和店 ** [[スポーツクラブNAS]] 武蔵浦和 * [[MUSE CITY ザ・ファーストタワー]] (MUSE CITY) ** 武蔵浦和メディカルセンター ** [[Olympicグループ|オリンピック]] 武蔵浦和店 ** [[ニトリ]] 武蔵浦和店 ** [[コナミスポーツクラブ]] 武蔵浦和 * 武蔵浦和 味の散歩道(飲食店街) * VINES TERRACE(飲食施設) * 7th.Ave(セブンス・アベニュー)(飲食施設) * [[さいたま中央郵便局]]<ref name="jtb58"/> ** [[ゆうちょ銀行]] さいたま支店 * [[さいたま市文化センター]] * [[三井住友銀行]] 武蔵浦和支店 * [[武蔵野銀行]] 武蔵浦和支店 * [[東京信用金庫]]浦和白幡支店 * [[ADEKA]] 浦和開発研究所 * [[ケルヒャージャパン]] 東京支店 * [[東京ガスライフバル]]浦和 武蔵浦和店 * スターバックスコーヒー浦和別所店 * [[埼玉建産連会館]] * [[白幡沼]] * [[睦神社]] * [[南消防署 (さいたま市)|南消防署]] * [[餃子の王将]]武蔵浦和駅前店 * [[フンドーキン醤油]]東京支店 * [[とんでん]]本社(とんでん白幡店) |}} ; 学校 {{columns-list|2| * [[埼玉県立浦和商業高等学校]] * [[さいたま市立浦和南高等学校]] * [[さいたま市立白幡中学校]] * [[さいたま市立内谷中学校]] * [[さいたま市立南浦和中学校]] * [[戸田市立美笹中学校]] * [[さいたま市立浦和大里小学校]] * [[さいたま市立沼影小学校]] * [[さいたま市立浦和別所小学校]] * [[さいたま市立岸町小学校]] * [[さいたま市立南浦和小学校]] * [[さいたま市立辻小学校]] * [[戸田市立美谷本小学校]] |}} == バス路線 == 当駅に発着する[[路線バス]]は、[[国際興業バス]]により運行されている(羽田空港への[[共同運行]]路線を除く)。東西の駅ロータリーおよび駅高架下の「田島通り」に、複数のバス乗り場が設置されている。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!style="width:35em;"|備考 |- !colspan="4"|東口発着 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|国際興業バス |[[国際興業バス戸田営業所#浦和駅 - 根岸五丁目 - 北町4丁目 - 蕨駅線|'''浦81''']]:[[浦和駅]]西口 |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[国際興業バス戸田営業所#武蔵浦和駅 - 下笹目線|'''武浦01''']]:下笹目|'''浦81'''・'''南浦80'''・'''武浦80''':[[国際興業バス戸田営業所|戸田車庫]]}} |&nbsp; |- !colspan="4"|田島通り発着 |- !3 |rowspan="2" style="text-align:center;"|国際興業バス |{{Unbulleted list|[[国際興業バス戸田営業所#南浦和駅 - 武蔵浦和駅 - 田島団地線|'''南浦08''']]・'''南浦80''':[[南浦和駅]]西口|'''浦81''':浦和駅西口}} |&nbsp; |- !4 |{{Unbulleted list|'''武浦01''':下笹目|'''南浦08''':田島団地|'''南浦80'''・'''武浦80'''・'''浦81''':戸田車庫}} |&nbsp; |- !colspan="4"|西口発着 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|国際興業バス |{{Unbulleted list|[[国際興業バス戸田営業所#浦和駅 - 武蔵浦和駅 - 田島団地線|'''武浦10''']]:浦和駅西口|'''武浦10'''・'''武浦10-2''':田島団地}} |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[国際興業バス戸田営業所#武蔵浦和駅 - 松本循環線|'''武浦02''']]:武蔵浦和駅東口(循環)|'''武浦02-2''':松本三丁目}} |&nbsp; |- !3<ref group="注釈">公式サイトでは10番のりばと案内されている。</ref> |[[さいたま市コミュニティバス#南区コミュニティバス|さいたま市南区コミュニティバス]]:明花 |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |style="text-align:center;"|国際興業バス |{{Unbulleted list|[[イオンモール北戸田]]|[[国際興業バス戸田営業所#高速バス|'''武蔵浦和・池袋 - 東京ディズニーリゾート線''']]:[[東京ディズニーリゾート]]}} |イオンモール北戸田行は無料シャトルバス。土休日とお客様感謝デー実施日のみ運行。 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|国際興業バス|[[東京空港交通]]}} |'''空港連絡バス''':[[東京国際空港|羽田空港]] / 浦和駅西口 |羽田空港行は乗車扱いのみ。浦和駅西口行は降車扱いのみ。 |} ; 備考 国道17号方面から来たバスは、直接田島通り乗り場へ向かうのではなく、いったん東口ロータリー乗り場を経由してから田島通り乗り場へ向かう。ただし、例外として南浦08系統はロータリーに入らず、直接田島通り乗り場へ向かう。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速 ::: [[赤羽駅]] (JA 15) - '''武蔵浦和駅 (JA 21)''' - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] (JA 26) :: {{Color|#0099ff|■}}快速 ::: [[戸田公園駅]] (JA 18) - '''武蔵浦和駅 (JA 21)''' - [[中浦和駅]] (JA 22) :: {{Color|#00ac9a|■}}各駅停車 ::: [[北戸田駅]] (JA 20) - '''武蔵浦和駅 (JA 21)''' - 中浦和駅 (JA 22) : [[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線 :: {{Color|#0099ff|■}}各駅停車 ::: [[南浦和駅]] (JM 25) - '''武蔵浦和駅 (JM 26)''' - [[西浦和駅]] (JM 27) :: {{Color|#ff66cc|■}}[[しもうさ号]] ::: 南浦和駅 (JM 25) - '''武蔵浦和駅 (JM 26)''' - 大宮駅 (JS 24) ::* 「しもうさ号」については、大宮駅 - [[与野駅]]間は[[東北貨物線]]、与野駅 - [[別所信号場]]間は武蔵野線大宮支線、別所信号場 - 当駅間は短絡線(武蔵野線西浦和支線)を経由する。 ::* 特急「[[鎌倉 (列車)|鎌倉]]」停車駅 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ;JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=三好好三 |author2=垣本泰宏 |title=武蔵野線まるごと探見 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |date=2010-02-01 |ref=jtb}} * {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|author=石野哲(編)|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Musashi-Urawa Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1525|name=武蔵浦和}} * [http://beans.jrtk.jp/musashiurawa/ ビーンズ武蔵浦和] {{埼京線}} {{武蔵野線・京葉線}} {{武蔵野線 (貨物線)}} {{DEFAULTSORT:むさしうらわ}} [[Category:さいたま市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 む|さしうらわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1985年開業の鉄道駅]] [[Category:埼京線]] [[Category:さいたま市南区の交通|むさしうらわえき]] [[Category:さいたま市南区の建築物]] [[Category:埼玉県の駅ビル]] [[Category:武蔵野線]]
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エレノア・ルーズベルト
アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt, 1884年10月11日 - 1962年11月7日)は、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻(ファーストレディ)、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。リベラル派として高名であった。身長5フィート11インチ(約180cm)。 アナ・エレノア・ルーズベルトは1884年10月11日、ニューヨーク37番街西56で、エリオット・ルーズベルト、アナ・エレノア・ホール夫妻の間に生まれる。エリオットは第26代大統領セオドア・ルーズベルトの弟であり、エレノアはセオドアの姪に当たる。父はハンサムだったが、アルコール中毒患者となった。母は美人であったが、冷酷であった。両親とも大富豪の名門で、金銭的にはとても恵まれていたが、家庭環境は理想とはかけ離れたものだった。 両親と早くに死別したため、母方の祖母の下、家庭教師によって、厳格に養育される。その後イギリスに渡り、ロンドン南西部、ウインブルドンにあった女学校に入学、卒業した(1899-1902)。そのときの女学校の校長でフェミニストとしても有名だったマリー・スーヴェストゥールの進歩的な考えに大きな影響を受ける。帰国後ニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、人生で初めて貧困の現状を目にし、大きな衝撃を受ける。このときの体験が、彼女が生涯人権のために働いた原動力であったともいえる。 1905年に、父親の五いとこ(fifth cousin)に当たるフランクリン・ルーズベルトと結婚し、5男1女の子供をもうけた。もともとエレノアは内気で子供の教育に熱心な妻であり母親であったが、夫フランクリンの政界入りに伴い、エレノアもニューヨーク州民主党婦人部長を務めたことがきっかけで、家庭の外で活躍を始めた。 1921年に、夫フランクリンが突然ポリオに罹患し、政治活動を断念しようとしたときは、彼女はフランクリンにとって政治こそが精神的に立ち直るために必要であると励まし、ルーズベルトが復帰する原動力となったことは良く知られている。1918年に自分の秘書ルーシー・マーサ・ラザフォードと夫との不倫を知った(そしてそれを容認した)ことも政治への情熱の一助となったかもしれないと評されている。一方、1928年に出会い、長年に亘り強い友情で結ばれていた女性記者ロレーナ・ヒコックとの関係は、同性愛であったのではないかとされている。また、夫が秘書のマーガレット・ルハンドらと不倫関係にあるのと同時期に、エレノアは夫の側近のハリー・ホプキンス やボディガードのアール・ミラーと不倫関係にあり、夫妻は共にお互いの不倫を知り、それを認め合い、更にそのことで「励ましあう」関係だった、という。ミラーとの関係はエレノアが亡くなるまで続いた。 大恐慌後の世界的な不景気下の1933年3月4日に、ルーズベルトが大統領に就任した。その後ルーズベルトが3選されたホワイトハウス時代の12年間、エレノアは夫フランクリンの政策に対して大きな影響を与えた。ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものである。 なお、エレノアはルーズベルトが第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対している。さらに、この間に多くの友人を得たことが夫の死後「第二の人生」を開く大きな財産となった。 1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、エレノアは家族と共にニューヨーク州ハイドパークの私邸に退き、そこで静かな余生を送るつもりだった。しかし、夫の後を受け継いだトルーマン大統領の要請で国際連合の第1回総会代表団の一員に指名される。上院の同意を得て正式に任命されたエレノアは、1946年にロンドンに赴任し総会に参加した。ロンドンの総会では人権委員会に参加し、委員長に選出される。人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。 エレノアはそのまま1952年までアメリカの国連代表をつとめている。国連代表を退任した1953年からは各国の女性団体に招聘され、女性の地位向上に八面六臂の活躍をした。同年に来日し各地で講演したほか、昭和天皇と香淳皇后と会見している。更に香港、ギリシア、トルコ、ユーゴスラビアの各国を精力的に訪問。ユーゴでは、チトー大統領と会談。1957年には、当時のソビエト連邦を訪問し、フルシチョフソ連共産党第一書記と会談している。 政治的には伝統的な民主党リベラル派に近い位置にあり、人種差別問題に対する態度は果敢かつ大胆だった。1956年の大統領選挙の民主党予備選ではアドレー・スティーブンソン候補を支持した。1960年の大統領選でも民主党候補に指名されたケネディ候補に対して、ケネディが冷戦初期に下院非米活動委員会に加わりジョセフ・マッカーシー議員の赤狩りに積極的に加担していたことから不支持を表明している。これは、彼女が左翼運動を支持していたからではなく、リベラル派(自由主義者)として表現の自由や思想の自由を最大限に尊重していたからだった。 1962年11月7日、ニューヨーク市の自宅で死去、78歳だった。 死後、息子のエリオット・ルーズベルトはエレノアを主人公とした推理小説を発表した。内容は大統領夫人のエレノアが警察を助けて犯罪を暴くというもので、実在の場所や当時実在した人物が登場するが、筋書きはあくまでもフィクションである。発売当時こそ話題をさらったが、ベストセラーにはならなかった。それは通常のファーストレディならともかく、ことエレノア・ルーズベルトに限っては、ノンフィクションの伝記を書いても有り余るほどの事績と逸話に豊富な人物だったからにほかならない。 エレノアの活躍は、最も活動的なファーストレディ、人権活動家、コラムニスト、世界人権宣言の起草者など、多岐に亘る。しかし彼女の最も大きな業績は、「人権擁護の象徴」として光り輝く存在であったことに尽きる。エレノアは文字通りリベラル・アメリカのシンボルであり、スターだった。誰もが納得できるそうした存在が、それまでのアメリカにはなかったのである。そのエレノアが歴史上の人物となった今日でも、彼女に対して崇敬の念を抱く者は多い。
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アナ・エレノア・ルーズベルトは、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻(ファーストレディ)、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。リベラル派として高名であった。身長5フィート11インチ(約180cm)。
{{Infobox officeholder | name = Eleanor Roosevelt<br>エレノア・ルーズヴェルト | image = Eleanor Roosevelt portrait 1933.jpg<!--do not change without discussion at Talk page--> | caption = 1933年7月撮影 | birth_name = アナ・エレノア・ルーズヴェルト<br>(Anna Eleanor Roosevelt) | birth_date = {{birth date|1884|10|11}} | birth_place = {{USA}}<br>[[ファイル:Flag of New York.svg|border|25px]] [[ニューヨーク州]]<br>[[ファイル:Flag of New York City.svg|border|25px]] [[ニューヨーク市]] | death_date = {{death date and age|1962|11|7|1884|10|11}} | death_place = {{USA}}<br>[[ファイル:Flag of New York.svg|border|25px]] [[ニューヨーク州]]<br>[[ファイル:Flag of the Borough of Manhattan.svg|border|25px]] [[マンハッタン]] | restingplace = [[:en:Home of Franklin D. Roosevelt National Historic Site|Home of FDR National Historic Site]]([[:en:Hyde Park, New York|Hyde Park, New York]]) | party = [[ファイル:US Democratic Party Logo.svg|20px]] [[民主党 (アメリカ)|民主党]] | spouse = [[フランクリン・ルーズヴェルト|フランクリン・D・ルーズヴェルト]]<br>(1905年結婚、1945年死別) | children = [[フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト・ジュニア|フランクリン]]<br>[[:en:Anna Roosevelt Halsted|アナ]]<br>[[エリオット・ルーズベルト|エリオット]]<br>[[ジェームズ・ルーズベルト|ジェームズ]]<br>[[ジョン・アスピンウォール・ルーズヴェルト|ジョン]] | parents = {{plainlist| * [[エリオット・ルーズベルト|エリオット・B・ルーズベルト]] (父) * [[:en:Anna Hall Roosevelt|アナ・レベッカ・ホール]] (母) }} | relatives = [[ルーズヴェルト家]] | signature = Eleanor Roosevelt Signature-.svg | office = 初代[[:en:Presidential Commission on the Status of Women|女性の地位大統領委員会]]議長 | president = [[ジョン・F・ケネディ]] | term_start = [[1961年]][[1月20日]] | term_end = [[1962年]][[11月7日]] | predecessor = (初代) | successor = エスター・ピーターソン<br>([[:en:Esther Peterson|Esther Peterson]]) | office1 = {{flagicon|UN}} 初代[[国際連合人権委員会]]<br>{{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]代表 | president1 = [[ハリー・S・トルーマン]] | term_start1 = [[1947年]][[1月27日]]<ref>{{cite web | title=Eleanor Roosevelt and Harry Truman Correspondence: 1947 | website=trumanlibrary.org | date=November 14, 2015 | url=https://www.trumanlibrary.org/eleanor/1947.html | archive-url=https://web.archive.org/web/20151114005433/https://www.trumanlibrary.org/eleanor/1947.html | archive-date=November 14, 2015 | url-status=dead | access-date=August 23, 2019}}</ref> | term_end1 = [[1953年]][[1月20日]]<ref>{{cite web | title=Eleanor Roosevelt and Harry Truman Correspondence: 1953–60| website=trumanlibrary.org | date=September 24, 2015 | url=http://www.trumanlibrary.org/eleanor/1953.html | archive-url=https://web.archive.org/web/20150924000902/http://www.trumanlibrary.org/eleanor/1953.html | archive-date=September 24, 2015 | url-status=dead | access-date=August 23, 2019}}</ref> | predecessor1 = (初代) | successor1 = メアリー・ピルズベリー・ロード<br>([[:en:Mary Pillsbury Lord|Mary Pillsbury Lord]]) | office2 = {{flagicon|UN}} 初代[[国際連合人権委員会]]議長 | term_start2 = [[1946年]][[4月29日]]<ref>{{Cite web|url=https://www.fdrlibrary.org/documents/356632/390886/sears.pdf/c300e130-b6e6-4580-8bf1-07b72195b370|title=Eleanor Roosevelt and the Universal Declaration of Human Rights|last=Sears|first=John|date=2008|website=FDR Presidential Library & Museum|format=PDF|accessdate=2021-05-17}}</ref> | term_end2 = [[1952年]][[12月30日]]<ref>{{cite book|last=Fazzi|first=Dario|title=Eleanor Roosevelt and the Anti-Nuclear Movement: The Voice of Conscience|url=https://books.google.com/books?id=w87BDQAAQBAJ&pg=PA109|date=December 19, 2016|publisher=Springer|isbn=978-3-319-32182-0|at=p. 109, Note 61}}</ref> | predecessor2 = (初代) | successor2 = チャールズ・マリク<br>([[:en:Charles Malik|Charles Malik]]) | office3 = {{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国のファーストレディ]] | president3 = [[フランクリン・ルーズヴェルト|フランクリン・D・ルーズヴェルト]] | term_label3 = 任期 | term_start3 = [[1933年]][[3月4日]] | term_end3 =[[1945年]][[4月12日]] | predecessor3 = ロウ・ヘンリー・フーヴァー<br>([[:en:Lou Henry Hoover|Lou Henry Hoover]]) | successor3 = [[ベス・トルーマン]] | office4 = [[ファイル:Flag of New York.svg|border|25px]] [[ニューヨーク州]]の[[ファーストレディ]] | governor4 = フランクリン・D・ルーズヴェルト | term_label4 = 任期 | term_start4 = [[1929年]][[1月1日]] | term_end4 = [[1932年]][[12月31日]] | predecessor4 = キャサリン・ダン<br>(Catherine Dunn) | successor4 = エディス・アルツシュル<br>(Edith Altschul) }} [[ファイル:Franklin and Eleanor Roosevelt, November 1935.jpg|250px|サムネイル|夫F・D・ルーズヴェルトと(1935年)]] '''アナ・エレノア・ルーズベルト'''('''Anna Eleanor Roosevelt''', [[1884年]][[10月11日]] - [[1962年]][[11月7日]])は、[[アメリカ合衆国]]第32代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]の妻([[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]])、アメリカ[[国際連合|国連]]代表、婦人運動家、文筆家。[[自由主義|リベラル]]派として高名であった。身長5[[フィート]]11インチ(約180cm)<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。 == プロフィール == === 生い立ち === アナ・エレノア・ルーズベルトは1884年10月11日、[[ニューヨーク]]37番街西56で、[[エリオット・B・ルーズベルト|エリオット・ルーズベルト]]、アナ・エレノア・ホール夫妻の間に生まれる。エリオットは第26代大統領[[セオドア・ルーズベルト]]の弟であり、エレノアはセオドアの姪に当たる。父はハンサムだったが、アルコール中毒患者となった。母は美人であったが、冷酷であった。両親とも大富豪の名門で、金銭的にはとても恵まれていたが、家庭環境は理想とはかけ離れたものだった。 両親と早くに死別したため、母方の祖母の下、家庭教師によって、厳格に養育される。その後[[イギリス]]に渡り、ロンドン南西部、ウインブルドンにあった女学校に入学、卒業した(1899-1902)。そのときの女学校の校長でフェミニストとしても有名だった[[w:Marie Souvestre|マリー・スーヴェストゥール]]の進歩的な考えに大きな影響を受ける。帰国後ニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、人生で初めて貧困の現状を目にし、大きな衝撃を受ける。このときの体験が、彼女が生涯人権のために働いた原動力であったともいえる。 === 結婚 === [[1905年]]に、父親の五いとこ(fifth cousin)に当たるフランクリン・ルーズベルトと結婚し、5男1女の子供をもうけた。もともとエレノアは内気で子供の教育に熱心な妻であり母親であったが、夫フランクリンの政界入りに伴い、エレノアもニューヨーク州[[民主党 (アメリカ)|民主党]]婦人部長を務めたことがきっかけで、家庭の外で活躍を始めた。 [[1921年]]に、夫フランクリンが突然[[急性灰白髄炎|ポリオ]]に罹患し、政治活動を断念しようとしたときは、彼女はフランクリンにとって政治こそが精神的に立ち直るために必要であると励まし、ルーズベルトが復帰する原動力となったことは良く知られている。[[1918年]]に自分の秘書ルーシー・マーサ・ラザフォードと夫との不倫を知った(そしてそれを容認した)ことも政治への情熱の一助となったかもしれないと評されている。一方、[[1928年]]に出会い、長年に亘り強い友情で結ばれていた女性記者ロレーナ・ヒコックとの関係は、同性愛であったのではないかとされている<ref>[http://www.brainpickings.org/index.php/2012/10/11/eleanor-roosevelt-lorena-hickok-love-letters/ Eleanor Roosevelt’s Controversial Love Letters to Lorena Hickok]</ref>。また、夫が秘書のマーガレット・ルハンドらと不倫関係にあるのと同時期に、エレノアは夫の側近の[[ハリー・ホプキンス]]<ref>Goodwin, Doris Kearns (1994). No Ordinary Time. Simon & Schuster. ISBN 978-0-684-80448-4</ref> やボディガードのアール・ミラーと不倫関係にあり、夫妻は共にお互いの不倫を知り、それを認め合い、更にそのことで「励ましあう」関係だった、という。ミラーとの関係はエレノアが亡くなるまで続いた<ref>Smith, Jean Edward (2007). FDR. Random House. ISBN 978-0-8129-7049-4</ref>。 === ファーストレディ === [[File:1940-05-22 Mrs Roosevelt In Red Cross Appeal.ogv|thumb|right|[[アメリカ赤十字社]]のため宣伝するエレノア(1940年5月22日)]] [[File:1943-09-30 Mrs FDR Tells One.ogv|thumb|戦地の兵士を激励するエレノア(1943年9月)]] [[ファイル:Gary Cooper Eleanor Roosevelt2.jpg|サムネイル|G・クーパーと(1950年4月3日 ニューヨーク)]] [[大恐慌]]後の世界的な不景気下の[[1933年]][[3月4日]]に、ルーズベルトが大統領に就任した。その後ルーズベルトが3選された[[ホワイトハウス]]時代の12年間、エレノアは夫フランクリンの政策に対して大きな影響を与えた。ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものである。 なお、エレノアはルーズベルトが[[第二次世界大戦]]中に推し進めた[[日系人の強制収容|日系アメリカ人強制収容]]に反対している。さらに、この間に多くの友人を得たことが夫の死後「第二の人生」を開く大きな財産となった。 === 晩年 === {{listen |title= 一般教書演説 (4つの自由)<br>(1941年1月6日) |filename=FDR's 1941 State of the Union (Four Freedoms speech) Edit 1.ogg |description =夫の[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]]大統領が1941年1月6日の[[一般教書演説]]で[[4つの自由]]を発表する (32:02から) |image=[[File:Eleanor Roosevelt UDHR (27758131387).jpg|thumb|150px|亡き夫が掲げた[[4つの自由]]を盛り込んだ[[世界人権宣言]]を手にするエレノア]] }} 1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、エレノアは家族と共に[[ニューヨーク州]]ハイドパークの私邸に退き、そこで静かな余生を送るつもりだった。しかし、夫の後を受け継いだ[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領の要請で国際連合の第1回総会代表団の一員に指名される。上院の同意を得て正式に任命されたエレノアは、1946年に[[ロンドン]]に赴任し総会に参加した。ロンドンの総会では[[国際連合人権委員会|人権委員会]]に参加し、委員長に選出される。人権委員会は[[世界人権宣言]]の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。 [[ファイル:Eleanor Roosevelt and Frank Sinatra in Los Angeles, California - NARA - 196117 (retouched).jpg|right|220px|thumb|[[フランク・シナトラ]]と(1947年)]] [[File:Eleanor-Roosevelt-WH-Portrait.jpg|right|220px|thumb|ダグラス・チャンダーによるルーズベルトのこの1949年の肖像画は、1966年にホワイトハウスによって購入された。]] エレノアはそのまま1952年までアメリカの国連代表をつとめている。国連代表を退任した1953年からは各国の女性団体に招聘され、女性の地位向上に八面六臂の活躍をした。同年に来日し各地で講演したほか、[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]と会見している。更に[[香港]]、[[ギリシア]]、[[トルコ]]、[[ユーゴスラビア]]の各国を精力的に訪問。ユーゴでは、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]大統領と会談。1957年には、当時の[[ソビエト連邦]]を訪問し、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]][[ソ連共産党]]第一書記と会談している。 [[ファイル:Franklin and Eleanor Roosevelt Statues.JPG|サムネイル|フランクリン・ルーズベルト夫妻像(ニューヨーク)]] 政治的には伝統的な民主党[[リベラル派]]に近い位置にあり、[[人種差別]]問題に対する態度は果敢かつ大胆だった。1956年の大統領選挙の民主党予備選では[[アドレー・スティーブンソン]]候補を支持した。1960年の大統領選でも民主党候補に指名された[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]候補に対して、ケネディが冷戦初期に[[下院非米活動委員会]]に加わり[[ジョセフ・マッカーシー]]議員の[[赤狩り]]に積極的に加担していたことから不支持を表明している。これは、彼女が左翼運動を支持していたからではなく、リベラル派(自由主義者)として表現の自由や思想の自由を最大限に尊重していたからだった。 === レガシー === [[File:Elroos72st.JPG|right|220px|thumb|マンハッタンの[[:en:Riverside Park (Manhattan)|リバーサイド公園]]にある[[:en:Eleanor Roosevelt Monument|エレノア・ルーズベルト像]]]] [[File:Val Kill Historic Site Home of Eleanor Roosevelt in Hyde Park, NY -- 13 April 2013.jpg|right|220px|thumb|Val-Kill Historic Site(Hyde Park, New York)の掲示板に「Home of Eleanor Roosevelt」とある]] [[1962年]][[11月7日]]、ニューヨーク市の自宅で死去、78歳だった。 死後、息子の[[エリオット・ルーズベルト]]はエレノアを主人公とした[[推理小説]]を発表した。内容は大統領夫人のエレノアが警察を助けて犯罪を暴くというもので、実在の場所や当時実在した人物が登場するが、筋書きはあくまでもフィクションである。発売当時こそ話題をさらったが、ベストセラーにはならなかった。それは通常のファーストレディならともかく、ことエレノア・ルーズベルトに限っては、ノンフィクションの伝記を書いても有り余るほどの事績と逸話に豊富な人物だったからにほかならない。 エレノアの活躍は、最も活動的なファーストレディ<ref>[[ヒラリー・クリントン]]が登場するまで、アメリカで「最も活動的なファーストレディ」の評価を独占していたのはエレノアだった。現在に至るまでアメリカでは、ホワイトハウスを去った後に公職に就いたファーストレディはこのエレノアとヒラリーの<!--(第42代大統領[[ビル・クリントン]]の夫人。上院議員→[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]])--><!--脱線トリビア-->2名だけである。</ref>、人権活動家、コラムニスト、世界人権宣言の起草者など、多岐に亘る。しかし彼女の最も大きな業績は、「人権擁護の象徴」として光り輝く存在であったことに尽きる。エレノアは文字通りリベラル・アメリカのシンボルであり、スターだった。誰もが納得できるそうした存在が、それまでのアメリカにはなかったのである。そのエレノアが歴史上の人物となった今日でも、彼女に対して崇敬の念を抱く者は多い。 == 語録 == *「[[歴史]]の光に照らしてみても、恐れるよりは希望をもつ方が、やらないよりはやる方が、より賢明なことは明らかである。それに、『そんなことできるわけがない』という人間からは何一つ生まれたためしがないということも、動かすことのできない事実なのである。」 *「この世界に[[平和]]を創造するためには、一人の人間との理解を深めることから始めなければなりません。」 *「新しい人に近づくとき、冒険心をもって接することにすれば、今までにない新しい人格、新しい経験、新しい考えの水脈を発見して、それに無限の魅力をおぼえることがきっとあるに違いない。」 *「[[女性]]というのは、さまざまな障害をはねのけて、1センチずつ前進するものなのです。」 *「一つが切り抜けられたら、次には何でも切り抜けられるはずではないか。立ち止まって、恐怖と正面から対決する度に、人には力と勇気と自信がついてくる。」 *「普遍的な[[人権]]とは、どこから始まるのでしょう。実は、家の周囲など、小さな場所からなのです。あまりにも身近すぎて、世界地図などには載っていません。ご近所の人、かよっている[[学校]]、働いている[[工場]]や[[農場]]、[[会社]]などの個人個人の世界こそ、始まりの場なのです。」 *「私たちが本当に強く願い、その願いに対して確信を持ち、その実現のために誠心誠意、行動するならば、人生において、願いどおりに変革できない分野など、何ひとつないと確信しています」<ref name="seikyosb_20210516">[[聖教新聞]] 2021年(令和3年)5月16日付 1・2面「HEROES ヒーローズ 逆境を勝ち超えた英雄たち 第7回 エレノア・ルーズベルト」</ref> == 系図 == {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree| NCL | | | | | | | | | | | | | | | | |NCL=[[ニコラス・ルーズベルト (1658年 – 1742年)|ニコラス]]<br>(1658–1742) }} {{familytree| |)|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | | }} {{familytree| JHN | | | | | | JCB | | | | | | | | |JHN=[[ヨハネス・ルーズベルト|ヨハネス]]<br>(1689–1750)|JCB=ジャコブス<br>(1692-1776) }} {{familytree| |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }} {{familytree| JCB | | | | | | ISC | | | | | | | | |JCB=ジャコブス<br>(1724-1777)|ISC=[[アイザック・ルーズベルト|アイザック]]<br>(1726-1794) }} {{familytree| |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }} {{familytree| JMJ | | | | | | JMS | | | | | | | | |JMJ=ジェームズ・ジャコブス<br>(1759–1840)|JMS=[[ジェームズ・ルーズベルト (1760年 – 1847年)|ジェームズ]]<br>(1760-1847) }} {{familytree| |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }} {{familytree| CRN | | | | | | ISC | | | | | | | | |CRN=[[コーネリアス・ルーズベルト|コーネリアス]]<br>(1794-1871)|ISC=[[アイザック・ダニエル・ルーズベルト|アイザック]]<br>(1790-1863) }} {{familytree| |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | }} {{familytree| TDR | | | | | | JM1 | | | | | | | | |TDR=セオドア<br>(1831–1878)|JM1=[[ジェームズ・ルーズベルト1世|ジェームズ]]<br>(1828–1900) }} {{familytree| |)|-|-|-|.| | | |!| | | | | | | | | | }} {{familytree| TDR | | ELT | | |!| | | | | | | | | |TDR='''[[セオドア・ルーズベルト|セオドア]]'''<br>(1858–1919)|ELT=[[エリオット・B・ルーズベルト|エリオット]]<br>(1860-1894) }} {{familytree| |!| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | }} {{familytree| TDR | | ELN |y| FRK | | | | | | | | |TDR=セオドア<br>(1887–1944)|ELN='''エレノア'''<br>(1884–1962)|FRK='''[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン]]'''<br>(1882–1945) }} {{familytree| | | | | |,|-|^|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | }} {{familytree| | | | | JMS | | ELT | | FRK | | JHN |JMS=[[ジェームズ・ルーズベルト|ジェームズ]]<br>(1907-1991)|ELT=[[エリオット・ルーズベルト|エリオット]]<br>(1910-1990)|FRK=[[フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア|フランクリン]]<br>(1914–1988)|JHN=[[ジョン・アスピンウォール・ルーズベルト|ジョン]]<br>(1916-1981) }} {{familytree/end}} == ギャラリー == <gallery> Eleanor Roosevelt in Long Island, New York - NARA - 195449.jpg|子供の頃のエレノア(1887年) Eleanor Roosevelt in school portrait - NARA - 197245.jpg|14歳のエレノア(1898年) Eleanor Roosevelt wearing her wedding dress in New York City - NARA - 195393.jpg|フランクリンとの結婚時(1905年) Franklin D. Roosevelt and Eleanor Roosevelt with Anna and baby James, formal portrait in Hyde Park, New York 1908.jpg|エレノアとフランクリン・ルーズベルト、最初の生まれた2人の子供(1908年) Eleanor Roosevelt and Fala at Val,Kill in Hyde Park, New York - NARA - 196181.jpg|飼い犬[[ファラ (犬)|ファラ]]と(1951年) Eleanor Roosevelt cph.3b16000.jpg|エレノア(1932年) Eleanor-Franklin-Roosevelt-August-1932.jpg|夫のフランクリンとともに(1932年8月) Eleanor Roosevelt, King George VI, Queen Elizabeth in London, England - NARA - 195320.jpg|1942年10月23日、訪英時ロンドンにて、[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]国王と[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス王妃]]夫妻とともに (Mary McLeod Bethune), "Mrs. Eleanor Roosevelt and others at the opening of Midway Hall, one of two residence halls buil - NARA - 533032.jpg|フランクリン・D・ルーズベルトの[[:en:Black Cabinet|黒人内閣]]のメンバーの一人である[[:en:Mary McLeod Bethune|メアリー・マクラウド・ベスーン]]と(1943年) Eleanor Roosevelt and Shirley Temple - NARA - 195615.jpg|[[シャーリー・テンプル]]と(1938年) Birthday-Ball-Lucille-Ball-ER-Life-1944.jpg|ワシントンD.C.のホテルのツアー中に[[ルシル・ボール]]と一緒に、[[ポリオ]]と戦うための大統領の誕生日ボールの募金活動を紹介(1944年) Eleanor Roosevelt, General Harmon, and Admiral Halsey in New Caledonia - NARA - 195974.jpg|[[:en:Millard Harmon|ミラード・ハーモン]]将軍、[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]とともに、[[:en:Pacific Ocean theater of World War II|第二次世界大戦太平洋戦線]]にて(1943年) Eleanor Roosevelt in Galapagos Island - NARA - 196623.jpg|兵士を激励するエレノア(1944年3月21日) Eleanor Roosevelt Frank Sinatra.jpg|[[フランク・シナトラ]]と(1960年) Eleanor Roosevelt at United Nations.png|国際連合でスピーチするエレノア(1947年7月) Eleanor Roosevelt and John F. Kennedy in New York - NARA - 196360.jpg|[[ジョン・F・ケネディ]]大統領候補を支持するエレノア(1960年10月11日) Magsaysay Roosevelt.jpg|第7代フィリピン大統領[[ラモン・マグサイサイ]]夫妻と[[マラカニアン宮殿]]にて(1955年8月25日) Eleanor Roosevelt, Walter Reuther, Milton Eisenhowerand Cuban Invasion Prisoners Delegation in Washington... - NARA - 196284.jpg|ワシントンD.C.にて、[[:en:Walter Reuther|ウォルター・ロイサー]]、[[:en:Milton S. Eisenhower|ミルトン・アイゼンハワー]]とキューバ捕虜交換代表団と(1961年5月22日) </gallery> == 著書 == * 『あなたと私の十代』([[一色義子]]訳, 秋元書房, 1963年) * 『国際連合のかつやく・世界平和の戦士』([[白木茂]]訳, [[あかね書房]]《少年少女20世紀の記録》, 1963年) * 『エリノア・ルーズヴェルト自叙伝』([[坂西志保]]訳, [[時事通信社]], 1964年) * 『エチケット』(坂西志保訳, [[白水社]], 1969) / 新版『人生とエチケット』(1971年) * 『愛すること生きること ― 女性のための人生案内』(出口泰生訳, [[大和書房]], 1971年) * 『生きる姿勢について ― 女性の愛と幸福を考える』(佐藤佐智子, 伊藤ゆり子訳, 大和書房, 1971年) == 文献 == *坂西志保『アメリカの良心 ルーズベルト夫人伝』(日本評論社 1950年) *ジャネット・イートン『内気なバブズ ルーズベルト夫人物語』([[吉川絢子]]訳 鏡浦書房 1958年) *デイビッド・ウィナー『エリノア・ルーズベルト アメリカ大統領夫人で、世界人権宣言の起草に大きな役割を果たした人道主義者』([[箕浦万里子]]訳 偕成社(伝記世界を変えた人々) 1994年2月) *『学習漫画・世界の伝記NEXT エレノア・ルーズベルト』(シナリオ 和田奈津子 漫画 [[よしまさこ]] 集英社 2013年) == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[特殊慰安施設協会]] == 外部リンク == {{commons category|Eleanor Roosevelt}} *[http://www.nps.gov/elro Eleanor Roosevelt National Historic Site] *[http://www.ervk.org/index.htm The Eleanor Roosevelt Center at Val-Kill] *[http://www.gwu.edu/~erpapers The Eleanor Roosevelt Papers] *[http://www.fdrlibrary.marist.edu/ Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum] *[http://www.firstladies.org/ National First Ladies' Library] *[http://www.feri.org The Franklin and Eleanor Roosevelt Institute] *[http://rooseveltinstitution.org The Roosevelt Institution, a student think tank inspired in part by Eleanor Roosevelt] *''[http://www.biresource.org/features/roosevelt.html An 'Outing' of Historical Proportions]''- an article about E.R.'s possible bisexuality, by Cliff Arsen, a gay rights activist who was friends with Roosevelt during his childhood and adolescence. * [http://www.teddyroosevelt.com TeddyRoosevelt.com: Information about Eleanor and her favorite, famous uncle Teddy.] * [http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/roosevelt2.html], ''Mrs. Roosevelt dies at 78. New York Times Obituary, November 8, 1962''. {{アメリカ合衆国のファーストレディ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:るうすへると えれのあ}} [[Category:アメリカ合衆国の大統領夫人]] [[Category:アメリカのソーシャライト]] [[Category:赤十字の人物]] [[Category:フランクリン・ルーズベルト]] [[Category:ルーズヴェルト家|えれのあ]] [[Category:マンハッタン出身の人物]] [[Category:1884年生]] [[Category:1962年没]]
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野方駅
野方駅(のがたえき)は、東京都中野区野方六丁目にある西武鉄道新宿線の駅。駅番号はSS07。 島式ホーム1面2線の地上駅で、南北自由通路を兼ねた橋上駅舎を有する。新宿線の各駅停車のみの停車駅では唯一島式ホームを持つ駅である。ホーム有効長は8両編成分である。 ホームと改札階、および改札階と地上の間をそれぞれ連絡するエレベーター・エスカレーターが設置されている。2010年3月28日より、新たに北口が開設され、同時に新駅舎の供用を開始した。南口は同年10月に完成し、南口の駅前広場は同年12月より使用を開始した。 ホーム幅員の都合上、階段・上りエスカレーター・下りエスカレーターは個別に設置されている。 トイレは改札内コンコースに設置され、多機能トイレを併設する。 2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は21,546人であり、西武鉄道全92駅中43位。新宿線の各駅しか停まらない駅としては中井駅に次いで多い。 近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下記の通りである。 駅の南北には商店街が広がっている。 駅周辺に野方駅、野方駅北口、野方駅入口(都営バスのみ野方駅南口)の3停留所が設置されており、このうち野方駅と野方駅北口が当駅への乗換停留所として案内されている。各路線の詳細については個別の記事を参照。 駅南口から徒歩2分ほどの所にあり、これが当駅最寄りの停留所である。環七通りから当駅方面へ進み、突き当たりとなるT字路内に設置されている。全て関東バスによる運行。 2011年11月15日まで停留所名称は「野方」であった。 駅北口から徒歩5分ほどの環七通り上にあり、丸山陸橋と西武新宿線アンダーパスの間の側道に設置されている。注記がない場合は全て関東バスによる運行。 高円寺~野方間はいずれの路線も環七通りを経由するが、赤31・赤31-2・王78は途中の大場通りと八幡前に停車しない他、北隣の野方消防署前にも停車しない。 新宿線では、中井駅から当駅までの約2.4 km区間で連続立体交差事業(当該区間の地下化)を進めているが、2016年6月13日付の西武鉄道公式HPで新たに当駅と井荻駅付近の連続立体交差が計画されている。
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野方駅(のがたえき)は、東京都中野区野方六丁目にある西武鉄道新宿線の駅。駅番号はSS07。
{{駅情報 |社色 = #36C |文字色 = |駅名 = 野方駅 |画像 = Nogata new southgate.JPG |pxl = 300px |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}} |画像説明 = 南口(2011年3月4日) |よみがな = のがた |ローマ字 = Nogata |前の駅 = SS06 [[沼袋駅|沼袋]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 0.9 |次の駅 = [[都立家政駅|都立家政]] SS08 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|SS|07|#0099cc|2}} |所属事業者 = [[西武鉄道]] |所属路線 = {{color|#09c|■}}[[西武新宿線|新宿線]] |キロ程 = 7.1 |起点駅 = [[西武新宿駅|西武新宿]] |所在地 = [[東京都]][[中野区]][[野方 (中野区)|野方]]六丁目3-3 |座標 = {{coord|35|43|10.8|N|139|39|9.9|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月16日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="西武" name="seibu2022" />21,546 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |乗換 = |備考 = }} {{Vertical images list |幅 = 200px |枠幅 = 200px |1 = Nogata_new_kaisatsu.jpg |2 = 新改札口(2010年6月22日) |3 = Seibu-Nogatast.jpg |4 = 旧駅舎。2010年秋まで仮設南口として使用されていた(2007年8月)。 }} '''野方駅'''(のがたえき)は、[[東京都]][[中野区]][[野方 (中野区)|野方]]六丁目にある[[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]の[[鉄道駅|駅]]。駅番号は'''SS07'''。 == 歴史 == * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月16日]] - 開業。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[4月14日]] - 新駅舎使用開始<ref>『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100-103頁</ref>。 ** [[8月11日]] - [[跨線橋]]使用開始。同日、構内踏切廃止<ref>『写真で見る西武鉄道100年』([[ネコ・パブリッシング]])93ページ</ref>。 * [[2006年]]([[平成]]18年)[[9月23日]] - 新宿線運行管理システムの更新に伴い、ホームに設置された[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標]]の使用を開始。 * [[2009年]](平成21年)4月 - [[国土交通省]]の鉄道駅総合改善事業として駅舎改良工事開始。事業主体は[[第三セクター]]の野方駅整備株式会社<ref>『西武新宿線野方駅南北自由通路整備(北口開設)について』中野区議会・ 建設委員会資料 2007年11月16日</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月28日]] - 駅舎改良工事の一部が完了し、南口を除く新駅舎の供用を開始<ref name="pr20100318">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/03/18/20100318_nogata_kyoujouekisya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100331070320/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/03/18/20100318_nogata_kyoujouekisya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月28日(日)初電車より野方駅橋上駅舎・自由通路(一部)を供用開始します 〜施設見学会を3月27日(土)実施(事前申し込み不要)〜|publisher=西武鉄道|date=2010-03-18|accessdate=2020-05-08|archivedate=2010-03-31}}</ref>。南口側には仮設階段を設置。 ** [[11月15日]] - 新駅舎南口の供用開始。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線の[[地上駅]]で、南北自由通路を兼ねた[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する。新宿線の[[西武新宿線#各駅停車|各駅停車]]のみの停車駅では唯一島式ホームを持つ駅である。ホーム[[有効長]]は8両編成分である。 ホームと[[改札]]階、および改札階と地上の間をそれぞれ連絡する[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]が設置されている。2010年3月28日より、新たに北口が開設され、同時に新駅舎の供用を開始した<ref name="pr20100318"/>。南口は同年10月に完成し、南口の[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]は同年12月より使用を開始した。 ホーム幅員の都合上、階段・上りエスカレーター・下りエスカレーターは個別に設置されている。 [[便所|トイレ]]は改札内コンコースに設置され、多機能トイレを併設する。 === のりば === {|class="wikitable" !ホーム!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 |style="text-align:center"|下り |[[所沢駅|所沢]]・[[本川越駅|本川越]]・[[拝島駅|拝島]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|上り |[[高田馬場駅|高田馬場]]・[[西武新宿駅|西武新宿]]方面 |} == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''21,546人'''であり、西武鉄道全92駅中43位<ref group="西武" name="seibu2022" />であり、[[西武新宿線|新宿線]]の各駅停車しか停まらない駅としては[[中井駅]]に次いで多い。 近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/tokei/tokeisho/ 練馬区統計書] - 練馬区</ref><ref>[http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d015274.html 中野区統計書] - 中野区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) | |14,427 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |14,396 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |13,992 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |13,756 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |13,315 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | |13,082 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |12,879 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |25,195 |12,641 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |24,216 |12,230 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |23,829 |12,041 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |23,800 |11,989 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |23,463 |11,801 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |23,024 |11,534 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |22,675 |11,342 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |22,258 |11,112 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |21,885 |10,923 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |22,121 |11,066 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |22,415 |11,221 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |22,486 |11,252 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |22,154 |11,066 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |21,900 |11,000 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |21,844 |10,986 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |22,549 |11,315 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |22,941 |11,542 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |22,929 |11,521 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |23,629 |11,861 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |24,441 |12,252 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |25,056 |12,564 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |25,522 |12,805 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |25,560 |12,809 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月20日閲覧</ref>18,888 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月20日閲覧</ref>19,979 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>21,546 | | |} == 駅周辺 == [[画像:Nogata new northgate.jpg|thumb|200px|right|北口(2010年6月22日)]] {{See also|野方 (中野区)|若宮 (中野区)|大和町 (中野区)|丸山 (中野区)}} 駅の南北には[[商店街]]が広がっている。 * 環七通り([[東京都道318号環状七号線]]) - ホームの西武新宿側をアンダーパスで直交している。西武新宿線では数少ない[[立体交差]]の一つである。 * [[野方警察署]] 野方駅前交番 * 野方WIZ ** 中野区野方地域事務所 ** 野方区民活動センター ** 中野区野方区民ホール ** 中野野方五郵便局 * [[東京都立中野工科高等学校]] * [[中野区立野方図書館]] * [[中野区立北原小学校]] * [[三菱UFJ銀行]] 野方支店 * [[新日本木村ボクシングジム]] * [[ベルボン]] 本社 * [[めいらくグループ|東京めいらく]] 練馬営業所 == バス路線 == 駅周辺に'''野方駅'''、'''野方駅北口'''、'''野方駅入口'''(都営バスのみ'''野方駅南口''')の3停留所が設置されており、このうち野方駅と野方駅北口が当駅への乗換停留所として案内されている。各路線の詳細については個別の記事を参照。 === 野方駅 === 駅南口から徒歩2分ほどの所にあり、これが当駅最寄りの停留所である。環七通りから当駅方面へ進み、突き当たりとなるT字路内に設置されている。全て[[関東バス]]による運行。 ; のりば1 * [[関東バス阿佐谷営業所#野方線|宿05]]:'''野方駅''' - 野方三丁目 - [[東京警察病院]]北門前 - [[中野駅 (東京都)|中野駅]] - 堀越学園前 - [[大久保駅 (東京都)|大久保駅]] - [[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]行 * [[関東バス阿佐谷営業所#野方線|中01]]:'''野方駅''' - 野方三丁目 - 東京警察病院北門前 - 中野駅 * [[関東バス阿佐谷営業所#野方線|中02]]:'''野方駅''' - 大場通り - 東京警察病院北門前 - 中野駅(平日深夜のみ運行) * 野方駅 - 大場通り - [[関東バス阿佐谷営業所|阿佐谷営業所]](平日深夜のみ運行) ; のりば2 * '''野方駅''' - 野方三丁目 - 東京警察病院北門前 - 大場通り - 阿佐谷営業所 2011年11月15日まで停留所名称は「野方」であった。 === 野方駅北口 === 駅北口から徒歩5分ほどの環七通り上にあり、丸山陸橋と西武新宿線アンダーパスの間の側道に設置されている。注記がない場合は全て関東バスによる運行。 * [[関東バス五日市街道営業所#高円寺線|高10]]:[[高円寺駅]]北口 - 大場通り - '''野方駅北口''' - 豊玉南住宅 - [[練馬駅]](平日朝1往復のみ運行) * [[関東バス五日市街道営業所#高円寺線|高60]]:高円寺駅北口 - 大場通り - '''野方駅北口''' - 豊玉中 - 練馬駅 * [[関東バス五日市街道営業所#高円寺線|高63]]:高円寺駅北口 - 大場通り - '''野方駅北口''' - [[豊玉南]]住宅 * [[関東バス丸山営業所#丸山線|高70]]:高円寺駅北口 - '''野方駅北口''' - 江古田二丁目 - [[関東バス丸山営業所|丸山営業所]](朝1往復のみ運行) * [[関東バス阿佐谷営業所#赤羽線|赤31]]:高円寺駅北口 - '''野方駅北口''' - 豊玉中 - 大和町 - [[赤羽駅]]東口([[国際興業バス]]との共同運行) * [[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅 - 大和町 - 野方駅 - 高円寺駅線|赤31-2]]:高円寺駅北口 - '''野方駅北口''' - 豊玉中 - 大和町 - [[国際興業バス赤羽営業所|赤羽車庫]](国際興業バス、平日最終1本のみ運行) * [[関東バス阿佐谷営業所#中野線|K01/K02]]:中野駅 - 東京警察病院北門前 - 大場通り - '''野方駅北口''' - [[鷺ノ宮駅]]入口 - 八成小学校( - 井草一丁目:K02のみ) * [[関東バス阿佐谷営業所#野方線|中03]]:中野駅 - 東京警察病院北門前 - 大場通り - '''野方駅北口''' - 豊玉南住宅 - 練馬駅 * [[都営バス杉並支所#王78系統|王78]]:新宿駅西口 - 高円寺駅入口 - '''野方駅北口''' - 大和町 - [[王子駅]](都営バス) ** 早朝・夜間などに杉並車庫発着便もある。 <!-- * [[リムジンバス]]:練馬駅 - '''野方駅北口''' - 中野駅 - [[東京国際空港|羽田空港]]([[東京空港交通]])※ 2021年7月15日を持って、乗り入れ廃止<ref>{{cite web | url = https://www.limousinebus.co.jp/uploads/info/2021/07/4c5bde74a8f110656874902f07378009.pdf | title = 練馬駅(北口)・野方駅北口停留所の廃止について | publisher = [[東京空港交通]] | accessdate = 2021-07-10}}</ref> ** 記載停留所のみ停車。早朝に羽田空港行きが3本、夜に練馬駅行きが4本運行される。野方駅北口から練馬行きに乗車することはできない。---> 高円寺~野方間はいずれの路線も環七通りを経由するが、赤31・赤31-2・王78は途中の大場通りと八幡前に停車しない他、北隣の野方消防署前にも停車しない。 == 連続立体交差事業 == 新宿線では、[[中井駅]]から当駅までの約2.4&nbsp;km区間で連続立体交差事業(当該区間の地下化)を進めているが、2016年6月13日付の西武鉄道公式HPで新たに当駅と[[井荻駅]]付近の連続立体交差が計画されている<ref>{{Cite press release|和書|title=新宿線の連続立体交差化を推進! |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2016/20160613shinjyukusenrenritu.pdf |publisher=西武鉄道 |format=PDF|date=2016-06-13 |accessdate=2016-09-16}}</ref>。 == 隣の駅 == ; 西武鉄道 <!--有料特急の通過は記載しない(拝島ライナーは無料区間があるため記載)--> : [[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 :: {{Color|#9c0|■}}拝島ライナー・{{Color|#c69|■}}快速急行・{{Color|#fc0|■}}通勤急行・{{Color|#f60|■}}急行・{{Color|#0c9|■}}準急 :::; 通過 :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: [[沼袋駅]] (SS06) - '''野方駅 (SS07)''' - [[都立家政駅]] (SS08) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;西武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="西武"|3}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=nogata}} {{西武新宿線}} {{DEFAULTSORT:のかた}} [[Category:中野区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 の|かた]] [[Category:西武鉄道の鉄道駅]] [[Category:西武鉄道 (初代)の鉄道駅]] [[Category:1927年開業の鉄道駅]]
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ポーツマス条約
ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英: Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty、露: Портсмутский мирный договор)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。 また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した。 講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満洲および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。 この条約によって日本は、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。 1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた。 1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた。 米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている。 パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである。 また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米もふくんだ勢力均衡の実現をはかるという思惑があった。 中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満洲を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった。 ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している。 日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した。 結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている。 対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフ外相は駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ(英語版)を首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれた。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したといわれる。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。次席全権のロマン・ローゼン駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、西徳二郎外相とのあいだで1898年に西・ローゼン協定を結んだ経歴のある人物である。 すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである。 すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満洲軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。 6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した。その内容は、(1)韓国を日本の自由処分にゆだねること、(2)日露両軍の満洲撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除であった。 首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かう新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれる。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した。 児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。黒龍会が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、ポシェト湾の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた。陸羯南の『日本』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていた。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた。 日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した。 ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた。 それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった。 講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスル(英語版)のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。 交渉参加者は以下の通りである。 講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月10日からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。 8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。 それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた。こうして、1.についても同意が得られた。 8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満洲開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った。 8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。 8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた。 ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世から講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。 政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同たいへんな衝撃を受けた。 これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。 アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。 以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した。 ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満洲・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした。 ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は持久戦に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが失脚することはほぼ間違いない状況であった。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、北緯50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた。 講和内容の骨子は、以下の通りである。 日本は1905年10月10日に講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准している。 「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。 しかし日本国民とそのマスコミの多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである。 日本政府としては、このような大きなジレンマをかかえていたが、果たして、ポーツマス講和条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。このような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。 小村はといえば、講和会議直後の9月9日、滞米中に発病して、医師より絶対安静を命じられ、9月14日付の電報で腸チフス初期の兆候であることを桂太郎に伝えている。元来、小村には肺結核の持病があったが、心身ともに疲弊して帰国したのがようやく10月16日のことであった。その日、横浜港に停泊していた日本艦隊と来舶中の英国艦隊は礼砲を撃ったが、横浜市民は小村が上陸すると知るや、英国艦隊歓迎のために掲げた国旗を皆おろしてしまったという。しかし、伊藤博文は小村を出迎え、厚く慰労のことばをかけた。また、留守宅襲撃と一家殺害の知らせを前もって聞いていた小村は、船内まで入ってきた長男小村欣一の姿をみて「おまえ生きておったか」と声をかけ、しばらく愛息の顔を見つめていたと伝わっている。新橋駅では、群衆より「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」との罵声を浴びた。乗降場に降り立った小村を、総理大臣桂太郎と海軍大臣山本権兵衛が左右両側から抱きかかえるように寄り添い、小村を撃とうとする者がいた場合に備えて命をかけて小村を守ったといわれている。 ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村外相の反対によって破棄された。 清国に対しては、1905年12月、満洲善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。 大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。 この条約の結果、日本は「一等国」と国内外から呼ばれるようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した。 セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年にノーベル平和賞を受賞した。また、この条約ののちアメリカは極東地域への発言権と関与をしだいに強めていった。ルーズベルトの意欲的な仲介工作によって、ポーツマス講和会議は国際社会における「アメリカの世紀」への第一歩となったという評価もある。 ロシアでは、皇帝の専制支配に対する不満が社会を覆い、10月に入るとインフレーションに対する国民の不満は一挙に爆発してゼネスト(ゼネラル・ストライキ)の様相を呈した。講和会議のロシア全権であったセルゲイ・ウィッテは混乱収拾のために十月詔書を起草、皇帝ニコライ2世はそれに署名した。しかし、なおもロシア第一革命にともなう混乱は1907年までつづいた。 ポーツマスはニューハンプシャー側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。 アメリカでは、ポーツマス講和会議にかかわる歴史遺産の保全活動が進められている。 日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテル(英語版)は1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みもひどかった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ愛、復元作業がなされた。 公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された。2005年、老朽化のため海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。 また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した。 モンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している。 ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。 いずれも1905年(明治38年)。調印7日後に太平洋間海底ケーブルについて契約が締結されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英: Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty、露: Портсмутский мирный договор)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年(明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩(岩手県)出身の駐米公使高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満洲および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この条約によって日本は、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、ポーツマスは合衆国政府の直轄地で近郊にポーツマス海軍造船所があり、宿舎となるホテルもあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "パリ(ロシア案)、芝罘またはワシントンD.C.(日本の当初案)、ハーグ(米英案)を押さえての開催地決定であった。ポーツマスは、ニューヨークの北方約400キロメートル地点に立地し、軍港であると同時に別荘の建ち並ぶ閑静な避暑地でもあり、警備がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される親日的な性格に加え、講和の調停工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった東アジアにおいて、日・米もふくんだ勢力均衡の実現をはかるという思惑があった。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満洲を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである。ドイツ・フランス両国からも、「ロシアの内訌がフランス革命の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「モンロー主義」と称されてきた伝統的な孤立主義からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本の国内において、首相桂太郎が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老伊藤博文であった。桂政権(第1次桂内閣)は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "結局、日向国飫肥藩(宮崎県)の下級藩士出身で、第1次桂内閣(1901年-1906年)の外務大臣として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "対するロシア全権代表セルゲイ・ウィッテ(元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中はロシア帝国の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝ニコライ2世は彼を好まなかった。ウラジーミル・ラムスドルフ外相は駐仏大使のアレクサンドル・ネリードフ(英語版)を首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた。その後、駐日公使の経験をもつデンマーク駐在大使のアレクサンドル・イズヴォリスキー(のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれた。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したといわれる。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった。次席全権のロマン・ローゼン駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、西徳二郎外相とのあいだで1898年に西・ローゼン協定を結んだ経歴のある人物である。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満洲軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "6月30日、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した。その内容は、(1)韓国を日本の自由処分にゆだねること、(2)日露両軍の満洲撤兵、(3)遼東半島租借権とハルビン・旅順間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)樺太および付属諸島の割譲、(4)沿海州沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)ウラジオストク港の武装解除であった。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年7月8日、渡米のため横浜港に向かう新橋停車場を出発したが、そのとき新橋駅には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている。井上馨はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれる。小村一行は、シアトルには7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。黒龍会が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、ポシェト湾の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた。陸羯南の『日本』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていた。日清戦争後の下関条約では、台湾の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた。 日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国世論を巧みに味方につけていった。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスル(英語版)のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "交渉参加者は以下の通りである。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月10日からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた。こうして、1.についても同意が得られた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満洲開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世から講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同たいへんな衝撃を受けた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の国民大衆はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満洲・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも日露戦争をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は持久戦に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが失脚することはほぼ間違いない状況であった。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、北緯50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "講和内容の骨子は、以下の通りである。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本は1905年10月10日に講和条約を批准し、ロシアは10月14日に批准している。", "title": "交渉の経緯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかし日本国民とそのマスコミの多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本政府としては、このような大きなジレンマをかかえていたが、果たして、ポーツマス講和条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。このような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "小村はといえば、講和会議直後の9月9日、滞米中に発病して、医師より絶対安静を命じられ、9月14日付の電報で腸チフス初期の兆候であることを桂太郎に伝えている。元来、小村には肺結核の持病があったが、心身ともに疲弊して帰国したのがようやく10月16日のことであった。その日、横浜港に停泊していた日本艦隊と来舶中の英国艦隊は礼砲を撃ったが、横浜市民は小村が上陸すると知るや、英国艦隊歓迎のために掲げた国旗を皆おろしてしまったという。しかし、伊藤博文は小村を出迎え、厚く慰労のことばをかけた。また、留守宅襲撃と一家殺害の知らせを前もって聞いていた小村は、船内まで入ってきた長男小村欣一の姿をみて「おまえ生きておったか」と声をかけ、しばらく愛息の顔を見つめていたと伝わっている。新橋駅では、群衆より「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」との罵声を浴びた。乗降場に降り立った小村を、総理大臣桂太郎と海軍大臣山本権兵衛が左右両側から抱きかかえるように寄り添い、小村を撃とうとする者がいた場合に備えて命をかけて小村を守ったといわれている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村外相の反対によって破棄された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "清国に対しては、1905年12月、満洲善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この条約の結果、日本は「一等国」と国内外から呼ばれるようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年にノーベル平和賞を受賞した。また、この条約ののちアメリカは極東地域への発言権と関与をしだいに強めていった。ルーズベルトの意欲的な仲介工作によって、ポーツマス講和会議は国際社会における「アメリカの世紀」への第一歩となったという評価もある。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ロシアでは、皇帝の専制支配に対する不満が社会を覆い、10月に入るとインフレーションに対する国民の不満は一挙に爆発してゼネスト(ゼネラル・ストライキ)の様相を呈した。講和会議のロシア全権であったセルゲイ・ウィッテは混乱収拾のために十月詔書を起草、皇帝ニコライ2世はそれに署名した。しかし、なおもロシア第一革命にともなう混乱は1907年までつづいた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ポーツマスはニューハンプシャー側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アメリカでは、ポーツマス講和会議にかかわる歴史遺産の保全活動が進められている。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本全権が宿舎としたウェントワース臨海ホテル(英語版)は1981年に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みもひどかった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ愛、復元作業がなされた。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "公式会場となったポーツマス海軍工廠では、1994年3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された。2005年、老朽化のため海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており、2010年にはニューハンプシャー州で9月5日を州の記念日にする条例が成立した。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "モンテネグロ公国は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して宣戦布告したという説がある。これについては、2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の質問主意書を提出。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。", "title": "補説" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "いずれも1905年(明治38年)。調印7日後に太平洋間海底ケーブルについて契約が締結されている。", "title": "年譜" } ]
ポーツマス条約は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアの間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。 また、条約内容を交渉した会議のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。
{{条約 |題名 =ポーツマス条約<br>日露両国講和条約及追加約款 |画像 =Japan Russia Treaty of Peace 5 September 1905.jpg |画像サイズ=350px |画像キャプション =日露講和条約の正文(日本外務省蔵)<br/>''Komura'' と ''Takahira'' の[[署名]]が確認できる |通称 =ポーツマス条約<br>日露講和条約 |起草 = |署名 =[[1905年]][[9月5日]]<ref name="br"/> |署名場所={{USA1896}} [[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]<ref name="br"/> |捺印 = |効力発生 =1905年[[11月25日]] |現況 =失効 |失効 =[[1945年]][[9月2日]] |締約国 ={{JPN}}<ref name="br"/><br>{{RUS1883}}<ref name="br"/> |当事国 = |寄託者 = |文献情報 =明治38年10月16日官報号外勅令 |言語 =[[英語]]、[[フランス語]] |内容 =日露戦争の講和条約 |関連 = |ウィキソース =日露講和條約 |リンク =[https://www.digital.archives.go.jp/img/693725 国立公文書館デジタルアーカイブ]<br />[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950024/26 国立国会図書館デジタルコレクション]<br />[https://worldjpn.net/documents/texts/pw/19050905.T1J.html 東京大学東洋文化研究所] }} '''ポーツマス条約'''(ポーツマスじょうやく、{{lang-en-short|Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty}}、{{lang-ru-short|Портсмутский мирный договор}})は、[[アメリカ合衆国大統領]][[セオドア・ルーズベルト]]の斡旋によって、[[日本]]と[[ロシア帝国|ロシア]]の間で結ばれた[[日露戦争]]の[[平和条約|講和条約]]<ref name="br">{{Cite Kotobank|word=ポーツマス条約|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|access-date=2021年1月11日}}</ref>。'''日露講和条約'''とも称する。 [[1905年]]([[明治]]38年)[[9月4日]](日本時間では[[9月5日]]15時47分)、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューハンプシャー州]][[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]近郊<ref group="注釈">ポーツマス造船所自体はメイン州に位置する。</ref>の[[ポーツマス海軍造船所]]において、日本全権[[小村壽太郎|小村寿太郎]]([[外務大臣 (日本)|外務大臣]])とロシア全権[[セルゲイ・ウィッテ]]の間で調印された<ref name="br"/>。 また、条約内容を交渉した会議(同年[[8月10日]] -)のことを'''ポーツマス会議'''、''' 日露講和会議'''、'''ポーツマス講和会議'''などと呼ぶ。 == 概要 == [[ファイル:Japanese Peace Commission & other, 1905.jpg|250px|right|thumb|日本の講和団<br />[[小村寿太郎]](前列右)と[[高平小五郎]](前列左)、随員2名および米国人外交顧問[[ヘンリー・デニソン|ヘンリー・ウィラード・デニソン]](後列中央)。]] [[日露戦争]]において終始優勢を保っていた日本は、[[日本海海戦]]戦勝後の[[1905年]](明治38年)6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた[[アメリカ合衆国]]に対し「中立の友誼的斡旋」(外交文書)を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、[[陸奥国]][[一関藩]]([[岩手県]])出身の駐米公使[[高平小五郎]]であり、以後、和平交渉の動きが加速化した<ref name=20c>{{Harvnb|永峰|2001|pp=29-37}}</ref>。 講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満洲および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、[[戦争賠償|戦争賠償金]]には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った。 この条約によって日本は、[[満洲]]南部の鉄道及び領地の租借権、[[大韓帝国]]に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって[[日比谷焼打事件]]などの暴動が起こった。 == 交渉の経緯 == === 交渉に至るまで === 1905年3月、[[日本軍]]は[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]を破って[[奉天市|奉天]](現在の[[瀋陽市|瀋陽]])を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損耗が甚大で払底しつつあり、なおかつ、[[武器]]・[[弾薬]]の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]などにみられる国内情勢の混乱と[[ロシア第一革命]]の広がり、ロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、さらに日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた<ref name=20c/>。 [[ファイル:Takahira, Kogoro.jpg|190px|right|thumb|駐米公使[[高平小五郎]]]] 1905年[[5月27日]]から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。[[5月31日]]、[[小村壽太郎|小村寿太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]は、高平小五郎駐米公使<ref group="注釈">米露間の外交関係は、日米関係のそれよりも歴史が古く、アメリカとロシアはたがいに[[大使]]を派遣しあっていたが、日本とアメリカでは[[公使]]を派遣しあうにとどまっていた。</ref>にあてて訓電を発し、中立国アメリカの[[セオドア・ルーズベルト]]大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた<ref name=inoki53>{{Harvnb|猪木|1995|pp=53-56}}</ref>。ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また[[w:en:American Jewish Committee|全米ユダヤ人協会]]会長で銀行家の[[ジェイコブ・シフ|ヤコブ・シフ]]と鉄道王の[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]が先頭に立って日本の[[国債]]を買い支えるなど、アメリカは[[満洲]]、[[蒙古]]、[[シベリア]]、[[沿海州]]、[[朝鮮]]への権益介入のために日本を支援していた<ref name="ah">若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 : 日本人に知られては困る歴史 』2012, ISBN 9784898311899</ref>。 米大統領の仲介を得た高平は、小村外相に対し、[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]は合衆国政府の直轄地で近郊に[[ポーツマス海軍造船所]]があり、宿舎となる[[ホテル]]もあって、日露両国の全権委員は互いに離れて起居できることを伝えている<ref name=20c/>。 [[パリ]](ロシア案)、[[芝罘区|芝罘]]または[[ワシントンD.C.]](日本の当初案)、[[デン・ハーグ|ハーグ]](米英案)を押さえての開催地決定であった<ref name=20c/>。ポーツマスは、[[ニューヨーク]]の北方約400キロメートル地点に立地し、[[軍港]]であると同時に[[別荘]]の建ち並ぶ閑静な[[避暑地]]でもあり、[[警備]]がきわめて容易なことから公式会場に選定されたのである<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog365.html 国際派日本人養成講座「地球史探訪:ポーツマス講和会議」]</ref>。 [[ファイル:Theodore Roosevelt circa 1902.jpg|180px|left|thumb|「テディ」として親しまれたアメリカ第26代大統領[[セオドア・ルーズベルト]]]] また、米国内の開催には、セオドア・ルーズベルトの「日本にとって予の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」(外交文書)という発言に象徴される[[親日]]的な性格{{efn|セオドア・ルーズベルトは「(日本への)同情が欠如している」として駐韓米公使の選任を変更したこともあるほどで、日本海海戦の際も一日中そのニュースだけを追い、ルーズベルト自身「私は興奮して自分の身はまったく日本人と化して、公務を処理することもできず終日海戦の話ばかりしていた」と、その日のことを振り返っている<ref>{{Harvnb|永峰|2001|p=34}}</ref>。}}に加え、講和の[[調停]]工作を利用し、米国をして国際社会の主役たらしめ、従来ロシアの強い影響下にあった[[東アジア]]において、日・米もふくんだ[[勢力均衡]]の実現をはかるという思惑があった<ref name=20c/>。 中国の[[門戸開放政策|門戸開放]]を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満洲を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである<ref name=fujimura>{{Harvnb|藤村|2004|ref=win}}</ref>。[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[フランス]]両国からも、「ロシアの内訌が[[フランス革命]]の時のように隣国に容易ならざる影響を及ぼす虞がある」(外交文書)として講和が打診されていた。ルーズベルトの仲介はこれを踏まえたものであったが、その背景には、米国がその長期戦略において、従来「[[モンロー主義]]」と称されてきた伝統的な[[孤立主義]]からの脱却を図ろうとする思潮の変化があった<ref name=20c/>。 ルーズベルト大統領は、駐露アメリカ大使のジョージ・マイヤーにロシア皇帝への説得を命じたあと、1905年[[6月9日]]、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の[[6月10日]]、ロシアが[[6月12日]]であった<ref name=inoki53/>。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は[[樺太]](サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している<ref name=inoki53/>{{efn|小村外相や[[長岡外史]]参謀次長はロシアとの講和条件を少しでも日本側に有利なものとするために講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡はこれを軍首脳に上申したが、海軍は不賛成で参謀総長[[山縣有朋]]もこれに同意しなかった。そのため長岡は満洲軍の児玉源太郎に手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、樺太攻撃を決めた。ロシアは講和の準備中での日本軍の軍事作戦に怒ったが、ルーズベルトは黙認した<ref>{{Harvnb|隅谷|1974|pp=309-310}}</ref>。}}。 日本の国内において、[[内閣総理大臣|首相]][[桂太郎]]が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相小村寿太郎ではなく元老[[伊藤博文]]であった。桂政権([[第1次桂内閣]])は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである<ref name="kuroiwa9">{{Harvnb|黒岩|2005|pp=9-10}}</ref>。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した<ref name="kuroiwa9" />{{refnest|group="注釈"|伊藤博文はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。1901年11月、伊藤が自ら単身[[モスクワ]]入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだで[[グレート・ゲーム]]を繰り広げていた[[イギリス]]を刺激する結果となり、翌[[1902年]]1月の[[日英同盟]]締結へとつながったことはよく知られている<ref>{{Harvnb|黒岩|2005|p=10}}</ref>。}}。 結局、[[日向国]][[飫肥藩]]([[宮崎県]])の下級藩士出身で、第1次桂内閣([[1901年]]-[[1906年]])の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として日英同盟の締結に功のあった小村壽太郎が全権代表に選ばれた。小村は、身長150センチメートルに満たぬ小男で、当時50歳になる直前であった<ref name=kuroiwa8>{{Harvnb|黒岩|2005|pp=8-9}}</ref>。伊藤博文もまた交渉の容易でないことをよく知っており、小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている<ref name=inoki56>{{Harvnb|猪木|1995|pp=56-62}}</ref>。 [[ファイル:Sergius Witte Portrait by Ilya Repin.jpeg|180px|left|thumb|ロシア全権[[セルゲイ・ウィッテ]]([[イリヤ・レーピン]]画)]] 対するロシア全権代表[[セルゲイ・ウィッテ]](元蔵相)は、当時56歳で身長180センチメートルを越す大男であった<ref name=kuroiwa8/>。戦前は財政事情等から日露開戦に反対していたものの、かれの和平論は対日強硬派により退けられ、戦争中は[[ロシア帝国]]の政権中枢より遠ざけられていた。ロシア国内では、全権としてウィッテが最適任であることは衆目の一致するところであったが、皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]は彼を好まなかった<ref name=inoki56/>。[[ウラジーミル・ラムスドルフ]]外相は駐仏大使の{{仮リンク|アレクサンドル・ネリードフ|en|Aleksandr Nelidov}}を首席全権とする案が有力だったが、本人から一身上の都合により断られた<ref name=inoki56/><ref name="takada362">[[#高田|高田(1994)pp.362-363]]</ref>。その後、駐日公使の経験をもつ[[デンマーク]]駐在大使の[[アレクサンドル・イズヴォリスキー]](のち外相)らの名も挙がったが、結局ウィッテが首席全権に選ばれた<ref name=inoki56/><ref name="takada362"/>。イズヴォリスキーはウィッテの名を挙げてラムスドルフ外相に献策したといわれる<ref name="asada141">[[#麻田|麻田(2018)pp.141-143]]</ref>。失脚していたウィッテが首席全権に選ばれたのは、日本が伊藤博文を全権として任命することをロシア側が期待したためでもあった<ref name="asada141" />。ウィッテは、皇帝より「一にぎりの土地も、一ルーブルの金も日本に与えてはいけない」という厳命を受けていた<ref name=kuroiwa8/>。そのためウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった<ref name=kuroiwa8/>。次席全権の[[ロマン・ローゼン]]駐米大使は開戦時の日本公使であり、彼自身は戦争回避の立場に立っていたとされ、また、[[西徳二郎]]外相とのあいだで[[1898年]]に[[西・ローゼン協定]]を結んだ経歴のある人物である<ref name=furuya29>[[#古屋|古屋(1966)pp.29-30]]</ref>。 すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた<ref name=kuroiwa12>{{Harvnb|黒岩|2005|pp=12-13}}</ref>。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の[[奉天会戦]]の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった{{refnest|group="注釈"|ロシア軍は伝統的に攻めには弱い一方、守りに強く、持久戦になれば[[地勢]]的な縦深性や厳しい[[気候]]上の特性({{仮リンク|バートラム・ウルフ|en|Bertram Wolfe}}によれば「距離将軍」「冬将軍」)を活用して侵入者の[[兵站]]ラインを遮断して反撃に転じる。[[19世紀]]初頭の[[ナポレオン・ボナパルト]]や後世の[[アドルフ・ヒトラー]]なども、このロシアの戦術により、結局は敗退している<ref>{{Harvnb|木村|1993|p=69}}</ref>。}}。5月末の日本海海戦でロシア[[バルチック艦隊]]を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである<ref name=kuroiwa12/>。 すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]][[総参謀長]]の[[児玉源太郎]]は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた<ref name=kuroiwa12/>。とくに専門的教育に年月を要する下級[[将校]]クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた<ref name=inoki56/>。一方、ロシアは、海軍は失ったものの[[シベリア鉄道]]を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった<ref name=kuroiwa12/>。 [[6月30日]]、桂内閣は閣議において小村・高平両全権に対して与える訓令案を決定した<ref name=ASRnichiro>[https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji08_detail.html 『日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで』「政治・外交(解説を読む)ポーツマス会議開始」]([[国立公文書館]] アジア歴史資料センター)</ref>。その内容は、(1)[[大韓帝国|韓国]]を日本の自由処分にゆだねること、(2)日露両軍の満洲撤兵、(3)[[遼東半島]]租借権と[[ハルビン市|ハルビン]]・[[旅順口区|旅順]]間の鉄道の譲渡の3点が「甲・絶対的必要条件」、(1)軍費の賠償、(2)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(3)[[樺太]]および付属諸島の割譲、(4)[[沿海州]]沿岸の漁業権獲得の4点が「乙・比較的必要条件」であり、他に「丙・付加条件」があった<ref name=ASRnichiro/>。それは、(1)ロシア海軍力の制限、(2)[[ウラジオストク港]]の武装解除であった<ref name=handoh106>{{Harvnb|半藤|1983|pp=106-109}}</ref>。 [[ファイル:Jutaro Komura.jpg|190px|right|thumb|外交官時代「ネズミ公使」と渾名された日本全権[[小村壽太郎|小村寿太郎]]]] 首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。小村の一行は1905年[[7月8日]]、渡米のため[[横浜港]]に向かう[[新橋停車場]]を出発したが、そのとき[[新橋駅]]には大勢の人が集まり、大歓声で万歳し、小村を盛大に見送った。小村は桂首相に対し「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」とつぶやくように告げたと伝わっている<ref name=inoki56/><ref name=kuroiwa12/>。[[井上馨]]はこのとき、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれる<ref>{{Harvnb|隅谷|1974|p=311}}</ref>。小村一行は、[[シアトル]]には7月20日に到着し、一週間後ワシントンでルーズベルト大統領に表敬訪問をおこない、仲介を引き受けてくれたことに謝意を表明した<ref name=inoki56/>{{efn|小村の表敬訪問の際、「大統領はなぜ日本に対して好意をお持ちですか」という質問に対し、ルーズベルトは英訳の『[[忠臣蔵]]』を示したといわれる<ref>{{Harvnb|猪木|1995|p=57}}</ref>。}}。 児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという<ref name=kuroiwa13>{{Harvnb|黒岩|2005|pp=13-14}}</ref>。日露開戦前に小村外相に「[[七博士意見書]]」を提出した七博士の代表格として知られる[[戸水寛人]]は、講和の最低条件として「償金30億円、[[樺太]]・[[カムチャッカ半島]]・[[沿海州]]全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた<ref name=kuroiwa13/>。[[黒龍会]]が1905年6月に刊行した『和局私案』では、韓国を完全に勢力圏におき、東三省(満洲)からのロシアの駆逐、[[ポシェト湾]]の割譲、樺太回復、カムチャッカ半島の領有が必要だと論じられた<ref name=nagayama170>{{Harvnb|長山|2004|pp=170-174}}</ref>。[[陸羯南]]の『[[日本 (新聞)|日本]]』でも、賠償金30億円は「諸氏の一致せる最小限度の条件」のひとつに位置づけられていた<ref name=nagayama170/>。[[日清戦争]]後の[[下関条約]]では、[[台湾]]の割譲のほか賠償金も得たため、日本国民の多くは大国ロシアならばそれに見合った賠償金を支払うことができると信じ、巷間では「30億円」「50億円」などの数字が一人歩きしていた<ref name=kuroiwa13/>。 日本国内においては、政府の思惑と国民の期待のあいだに大きな隔たりがあり<ref name=kuroiwa13/>、一方、日本とロシアとのあいだでは、「賠償金と領土割譲」の2条件に関して最後の最後まで議論が対立した<ref name=kuroiwa8/>。 ロシア全権大使ウィッテは、[[7月19日]]、[[サンクト・ペテルブルク]]を出発し、[[8月2日]]に[[ニューヨーク]]に到着した。ただちに記者会見を試み、[[ジャーナリスト]]に対しては愛想良く対応して、洗練された話術と[[ユーモア]]により、米国[[世論]]を巧みに味方につけていった<ref name=kuroiwa8/><ref name=inoki56/>。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求する厳しいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心を持つようになるだろうと考えたのである<ref name=kuroiwa8/>。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた<ref name=kuroiwa8/>。 それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、中には激怒した記者もいたという<ref name=kuroiwa8/>。小村はまた、[[マスメディア]]に対し秘密主義を採ったため、現地の[[新聞]]にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった<ref name=kuroiwa8/>{{refnest|group="注釈"|このことは、日本国内でも条約締結後の10月に「小村の新聞操縦の失敗」として『[[大阪朝日新聞]]』で批判記事が掲載された<ref>{{Harvnb|黒岩|2005|p=9}}</ref>。}}。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった<ref name=inoki56/>。 === 講和会議 === [[ファイル:Treaty of Portsmouth.jpg|thumb|330px|ポーツマス会議。向こう側左からコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ、ローゼン、ブランソン、手前左から安達、落合、小村、高平、佐藤。]] ---- [[File:Treaty of Portsmouth table 2014 Museum Meiji Mura 2.jpg|thumb|330px|会議で使われた写真中の[[テーブル (家具)|テーブル]]は[[愛知県]]の[[博物館明治村]]にて展示されている。]] 講和会議の公式会場は[[メイン州]][[キタリー (メイン州)|キタリー]]に所在する[[ポーツマス海軍工廠]]86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸が[[ニューハンプシャー州]][[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス市]]<ref group="注釈">ポーツマス市は、小村壽太郎の出身地である[[宮崎県]][[日南市]]とは[[姉妹都市]]の関係にある。</ref>である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接する{{仮リンク|ニューキャッスル (ニューハンプシャー州)|en|New Castle, New Hampshire|label=ニューカッスル}}のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。 交渉参加者は以下の通りである。 ;{{Flagicon|JPN1889}} 日本側 *全権委員:[[小村壽太郎|小村寿太郎]]([[外務大臣 (日本)|外務大臣]])、[[高平小五郎]](駐米公使) *随員:[[佐藤愛麿]](駐メキシコ弁理公使)、[[山座円次郎]](外務省政務局長)、[[安達峰一郎]](外務省参事官)、[[本多熊太郎]](外務大臣秘書官)、[[落合謙太郎]](外務省二等書記官)、小西孝太郎(外交官補)、[[立花小一郎]]陸軍大佐(駐米公使館付陸軍武官)、[[竹下勇]]海軍中佐(駐米公使館付海軍武官)、[[ヘンリー・デニソン]](外務省顧問) ;{{flagicon2|Russian Empire}} ロシア側 *全権委員:[[セルゲイ・ウィッテ]](元蔵相・伯爵)、[[ロマン・ローゼン]](駐米大使、開戦時の駐日公使) *随員:{{仮リンク|ゲオルギー・プランソン|ru|Плансон, Георгий Антонович}}(外務省条約局長)、[[フョードル・フョードロヴィチ]](ペテルブルク大学国際法学者・外務省顧問)、{{仮リンク|イワン・シポフ|ru|Шипов, Иван Павлович}}(大蔵省理財局長)、{{仮リンク|ニコライ・エルモロフ|ru|Ермолов, Николай Сергеевич}}陸軍少将(駐英陸軍武官)、{{仮リンク|ウラジーミル・サモイロフ|ru|Самойлов, Владимир Константинович}}陸軍大佐(元駐日公使館付陸軍武官)、{{仮リンク|イリヤ・コロストウェツ|ru|Коростовец, Иван Яковлевич}}(ウィッテ秘書、後に駐清公使)、{{仮リンク|コンスタンチン・ナボコフ|ru|Набоков, Константин Дмитриевич}}(外務省書記官) 講和会議は、1905年[[8月1日]]より17回にわたって行われた<ref name=fujimura/>。[[8月10日]]からは本会議が始まった<ref name=inoki56/>。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。 8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。 # ロシアは韓国([[大韓帝国]])における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。 # ロシア軍の満洲よりの全面撤退、満洲におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または[[機会均等]]主義に反するものはこれをすべて放棄すること。 # 満洲のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、[[露清密約#旅順・大連租借に関する露清条約|遼東半島租借条約]]に包含される地域は除く。 # 日露両国は、清国が満洲の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。 # ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。 # 旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。 # ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する[[炭坑]]をロシアより日本に移転交附すること。 # 満洲横貫鉄道([[東清鉄道]]本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。 # ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。 # 戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の[[戦利品]]として日本に引き渡すこと。 # ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。 # ロシアは[[日本海]]、[[オホーツク海]]および[[ベーリング海]]におけるロシア領土の沿岸、[[港湾]]、[[入江]]、[[河川]]において[[漁業権]]を日本国民に許与すること。 [[ファイル:TR Roman Baron Rosen.jpg|180px|右|thumb|ロシア側の次席全権、[[ロマン・ローゼン]]]] それに対してウィッテは、[[8月12日]]午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、[[太平洋]]上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した<ref name=inoki56/>。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた<ref name=inoki56/>。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した<ref name=katayama172>{{Harvnb|片山|2011|pp=172-173}}</ref>。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した<ref name=katayama172/>。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した<ref name=inoki56/><ref name=katayama172/>。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した<ref name=katayama172/>。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた<ref name=katayama172/>。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた<ref name=katayama172/>。こうして、1.についても同意が得られた。 [[8月14日]]の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満洲開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った<ref name=inoki56/>。 [[8月17日]]の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた[[金子堅太郎]]がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた<ref name=inoki56/>。ルーズベルトは[[8月21日]]、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。 8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた<ref name=handoh109>{{Harvnb|半藤|1983|pp=109-111}}</ref>。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった<ref name=handoh109/>。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した<ref name=handoh109/><ref name=yomi253>{{Harvnb|読売新聞取材班|2010|pp=253-256}}</ref>。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた<ref name=handoh109/>。 ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世から講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。[[8月26日]]午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった<ref name=inoki56/>。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる<ref name=yomi253/>。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電した<ref name=yomi253/>。 政府は緊急に[[元老]]および[[国務大臣|閣僚]]による会議を開き、[[8月28日]]の[[御前会議]]を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された[[特派員|特派記者]]もこれには一同たいへんな衝撃を受けた<ref name=kuroiwa14>{{Harvnb|黒岩|2005|pp=14-15}}</ref>。 これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国[[イギリス]]から東京に伝えられたため、[[8月29日]]午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した<ref name=yomi253/>。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた<ref name=wada>{{Harvnb|和田春樹|2002|pp=265-267}}</ref>。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている<ref name=inoki56/>。 アメリカや[[ヨーロッパ]]の新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した<ref name=kuroiwa14/>。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった<ref name=wada/>。[[9月1日]]、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。 以上のような曲折を経て、1905年[[9月5日]]([[ユリウス暦|露暦]]8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]は絶望した<ref name=wada/>。 === 合意内容 === [[image:Verhandlungen zum Vertrag von Portsmouth 1905 - Empfang der Delegierten.jpg|thumb|330px|ポーツマス講和会議のレセプション。<br/>ロシア・アメリカ・日本の関係者の集合写真で、最前列(やや右)中央の背の高い人物がウィッテ。その三つ右隣で、一際背の低い人物が小村、その右が高平。]] [[File:Kurilen und Sachalin 1875-1945.svg|thumb|upright=1.4|領土開発1875年から1945年:<br />1875年: [[樺太・千島交換条約]]<br />1905年: ポーツマス条約<br />1945年:第二次世界大戦の終わり<br />(なお、日本は北海道に面している[[北方領土問題|4島の返還]]を求めている。)]] ポーツマス会議における日本全権小村壽太郎の態度はロシア全権ウィッテと比較してはるかに冷静であったとロシア側の傍聴者が感嘆して記している<ref name=kimura>{{Harvnb|木村|1993|pp=67-72}}</ref>。すでに日本の軍事力と財政力は限界に達しており、にもかかわらず日本の[[国民]][[大衆]]はそのことを充分認識していないという状況のなか、ロシアの満洲・朝鮮からの撤兵という日本がそもそも[[日露戦争]]をはじめた目標を実現し、新たな権益を獲得して強国の仲間入りを果たした<ref name=kimura/>。 ウィッテは、ロシア国内に緒戦の敗北は[[持久戦]]に持ち込むことによって取り戻すことができるとする戦争継続派が存在するなかの交渉であった。講和会議が決裂した場合には、ウィッテが[[失脚]]することはほぼ間違いない状況であった<ref name=kimura/>。国内の混乱も極限状態であり、革命前夜といってよかった。ウィッテは小村以上の窮状に身をおきながら、日本軍が侵攻した樺太全島のうち、[[北緯]]50度以南をあたえただけで北部から撤退する約束のみならず、賠償金支払いをおこなわない旨の合意を日本から取り付けることができた<ref name=kimura/>。 講和内容の骨子は、以下の通りである。 # 日本の[[朝鮮半島]]に於ける優越権を認める。 # 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満洲から撤退する。 # ロシアは[[樺太]]の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。 # ロシアは[[東清鉄道]]の内、旅順-[[長春市|長春]]間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。 # ロシアは[[関東州]](旅順・[[大連市|大連]]を含む[[遼東半島]]南端部)の[[租借権]]を日本へ譲渡する。 # ロシアは[[沿海州]]沿岸の[[漁業権]]を日本人に与える。 日本は1905年[[10月10日]]に講和条約を批准し、ロシアは[[10月14日]]に批准している<ref name=inoki56/>。 == 影響 == [[ファイル:Hibiya Incendiary Incident1.JPG|250px|right|thumb|1905年9月5日、東京日比谷公園でひらかれた講和条約反対の決起集会]] 「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。 しかし日本国民とそのマスコミの多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った<ref name=kimura/>。有力紙であった『[[万朝報]]』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した<ref name=inoki56/>。しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである<ref name=kimura/>。 日本政府としては、このような大きな[[ジレンマ]]をかかえていたが、果たして、ポーツマス講和条約締結の9月5日、東京の[[日比谷公園]]で[[小村外交]]を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする[[日本の警察|警官隊]]と衝突し、さらに数万の大衆が[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された[[国民新聞社]]を襲撃、[[交番]]や[[電車]]を焼き打ちするなどの[[暴動]]が発生した([[日比谷焼打事件]])<ref name=nagayama174>{{Harvnb|長山|2004|pp=174-181}}</ref>。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、[[アメリカ人]][[牧師]]の働く[[教会 (キリスト教)|キリスト教会]]までも襲撃の対象となった<ref name=inoki56/><ref name=kimura/>。結局、政府は[[戒厳令]]をしき軍隊を出動させた<ref name=nagayama174/>。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、[[藩閥政府]]批判と結びついて、翌[[1906年]](明治39年)、[[第1次桂内閣]]は退陣を余儀なくされた。このような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。 小村はといえば、講和会議直後の[[9月9日]]、滞米中に発病して、医師より絶対安静を命じられ、[[9月14日]]付の電報で[[腸チフス]]初期の兆候であることを桂太郎に伝えている<ref name="ASRnichiro" />。元来、小村には[[肺結核]]の持病があったが、心身ともに疲弊して帰国したのがようやく[[10月16日]]のことであった<ref name="handoh115">{{Harvnb|半藤|1983|pp=115-118}}</ref>。その日、[[横浜港]]に停泊していた日本艦隊と来舶中の英国艦隊は[[礼砲]]を撃ったが、横浜市民は小村が上陸すると知るや、英国艦隊歓迎のために掲げた[[国旗]]を皆おろしてしまったという<ref name="handoh115" />。しかし、伊藤博文は小村を出迎え、厚く慰労のことばをかけた<ref name="handoh115" />。また、留守宅襲撃と一家殺害の知らせを前もって聞いていた小村は、船内まで入ってきた長男[[小村欣一]]の姿をみて「おまえ生きておったか」と声をかけ、しばらく愛息の顔を見つめていたと伝わっている<ref name="handoh115" />。新橋駅では、群衆より「速やかに切腹せよ」「日本に帰るよりロシアに帰れ」との罵声を浴びた<ref name="handoh115" />。[[プラットホーム|乗降場]]に降り立った小村を、総理大臣桂太郎と[[海軍大臣]][[山本権兵衛]]が左右両側から抱きかかえるように寄り添い、小村を撃とうとする者がいた場合に備えて命をかけて小村を守ったといわれている<ref name="handoh115" />。 [[セオドア・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]の意向を受けて[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]が来日し、[[1905年]][[10月12日]]に[[奉天]]以南の[[東清鉄道]]の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、[[JPモルガン・チェース|モルガン商会]]からより有利な条件を提示されていた小村外相の反対によって破棄された<ref name="ah"/>。 清国に対しては、1905年12月、[[満洲善後条約]]が[[北京]]において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、[[南満洲鉄道]]の[[吉林]]までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線[[鉱山]]の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、[[安奉鉄道]]の使用権継続と日清両国の共同事業化、[[営口]]・[[安東]]および奉天における日本人居留地の設置、さらに、[[鴨緑江]]右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。 [[大韓帝国]]皇帝[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる<ref name=wada/>。韓国に関しては、7月の[[桂・タフト協定]]でアメリカに、8月の[[日英同盟|第二次日英同盟条約]]でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の[[第二次日韓協約]]によって韓国は外交権を失った。12月、首都[[ソウル特別市|漢城]]に[[統監府]]が置かれ、韓国は日本の[[保護国]]となった。 この条約の結果、日本は「[[先進国|一等国]]」と国内外から呼ばれるようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも[[大使館]]に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった<ref>{{Harvnb|猪木|1995|p=66}}</ref>。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の[[合意形成]]は崩壊の様相を呈した<ref>{{Harvnb|隅谷|1974|pp=321-323}}</ref>。 セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年に[[ノーベル平和賞]]を受賞した。また、この条約ののちアメリカは極東地域への発言権と関与をしだいに強めていった。ルーズベルトの意欲的な仲介工作によって、ポーツマス講和会議は国際社会における「アメリカの世紀」への第一歩となったという評価もある<ref name=20c/>。 ロシアでは、皇帝の[[専制]]支配に対する不満が社会を覆い、10月に入ると[[インフレーション]]に対する国民の不満は一挙に爆発してゼネスト([[ゼネラル・ストライキ]])の様相を呈した。講和会議のロシア全権であったセルゲイ・ウィッテは混乱収拾のために[[十月詔書]]を起草、皇帝ニコライ2世はそれに署名した。しかし、なおも[[ロシア第一革命]]にともなう混乱は[[1907年]]までつづいた。 == 補説 == === 歴史遺産としてのポーツマス === [[ファイル:Portsmouth Naval Shipyard.jpg|thumb|250px|ポーツマス海軍工廠<br />(2004年9月撮影)]] ポーツマスはニューハンプシャー側に位置し、ポーツマス海軍工廠はメイン州側で州を挟んでいる。 アメリカでは、ポーツマス講和会議にかかわる[[歴史遺産]]の保全活動が進められている。 日本全権が宿舎とした{{仮リンク|ウェントワース臨海ホテル|en|Wentworth by the Sea}}は[[1981年]]に閉鎖されたままとなっており、老朽化が著しく、雨漏りや傷みもひどかった。そこで、ポーツマス日米協会が窓口となって「ウェントワース友の会」が設立され、ホテルの再建計画が立てられ愛、復元作業がなされた<ref name=20c/>{{refnest|group="注釈"|ポーツマス講和会議に関するフォーラムの開催やホテルの保存運動に尽力したニューハンプシャー日米協会会長のチャールズ・ドレアックに対し、日本政府は[[2011年]]6月、日米の友好親善に寄与したとして[[旭日小綬章]]を授与している<ref>[https://www.boston.us.emb-japan.go.jp/ja/WHATS%20NEW/2011doleac.html チャールズ・B・ドレアック・ニューハンプシャー日米協会会長,旭日小綬章を受章] 在ボストン日本国総領事館、2020年10月14日閲覧</ref>。}}。 公式会場となったポーツマス海軍工廠では、[[1994年]]3月、会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設された<ref name=20c/>。[[2005年]]、老朽化のため海軍工廠を閉鎖するとの政府決定が発表されたが、ポーツマスではそれに対する反対運動が起こり、その結果、閉鎖は撤回されている。 また、現地では、日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が幾度か開催されており<ref name=20c/>、[[2010年]]にはニューハンプシャー州で9月5日を[[アメリカ合衆国の州|州]]の記念日にする[[条例]]が成立した<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/national/international/article.aspx?id=20100906000152 ポーツマス市で多彩な行事/日露講和条約の調印記念日](四国新聞社)</ref>。 === モンテネグロ公国参戦について === [[モンテネグロ公国]]は日露戦争に際してロシア側に立ち、日本に対して[[宣戦布告]]したという説がある。これについては、[[2006年]]([[平成]]18年)[[2月14日]]に[[鈴木宗男]]議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか」との内容の[[質問主意書]]を提出<ref>{{Cite news |url = https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm |title = 一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書 |publisher = |date = |accessdate = 2011-03-21 }}</ref>。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない」との答弁書を出している<ref>{{Cite news |url = https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm |title = 衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書 |publisher = |date = |accessdate = 2011-03-21 }}</ref>。 ロシアの公文書を調査したところ、ロシア帝国がモンテネグロの参戦打診を断っていたことが明らかとなり、独立しても戦争状態にならないことが確認された。 == 年譜 == いずれも[[1905年]]([[明治]]38年)。調印7日後に太平洋間[[海底ケーブル]]について契約が締結されている。 * [[5月28日]] - [[日本海海戦]]が日本大勝利のうちに終わる。 * [[5月31日]] - 小村外相が高平駐米公使にあててセオドア・ルーズベルト米大統領に日露講和の斡旋を依頼するよう訓電。 * [[6月1日]] - 高平公使、ルーズベルト大統領に仲介の斡旋を依頼。 * [[6月2日]] - ルーズベルト大統領、高平公使の依頼を承諾。 * [[6月9日]] - ルーズベルト大統領、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案。 * [[6月10日]] - 日本、ルーズベルト提案を受諾。 * [[6月12日]] - ロシア、ルーズベルト提案を受諾。 * [[7月7日]] - 陸軍[[第13師団 (日本軍)|第13師団]]、南樺太に上陸。 * [[7月8日]] - 小村、渡米のため新橋停車場を出発、盛大に送迎される。陸軍第13師団、大泊を占領。 * [[7月19日]] - ウィッテ、[[サンクトペテルブルク]]を出発。 * [[7月20日]] - 小村、[[シアトル]]に到着。 * [[7月24日]] - 陸軍第13師団、北樺太に上陸。アレクサンドロフスク(現在の[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー]])を占領。 * [[7月29日]] - 桂太郎首相と来日中の[[ウィリアム・タフト]]米陸軍長官が会談。[[桂・タフト協定]]を締結。 * [[7月31日]] - [[樺太]]のロシア軍が降伏。樺太全島が日本軍政下に。 * [[8月2日]] - ウィッテ、[[ニューヨーク]]に到着。 * [[8月8日]] - 日露両国の全権団がポーツマスに到着。 * [[8月10日]] - '''ポーツマス会議が始まる'''。'''第1回本会議'''。 * [[8月12日]] ** '''第2回本会議'''。 ** 第二次日英同盟条約締結。 * [[8月14日]] ** '''第3回本会議'''。 ** 桂首相、[[立憲政友会]]の[[原敬]]と会談。日露講和支持を取り付けることに成功。 ** [[大阪朝日新聞]]が、商況電報のかたちで検閲をくぐりぬけた特派員電で、ポーツマス会議で[[戦争賠償|賠償金]]が獲得できないことを[[号外]]でスクープ。日本国内騒然となる。 * [[8月15日]] - '''第4回本会議'''。 * [[8月16日]] - '''第5回本会議'''。 * [[8月17日]] ** '''第6回本会議'''。 ** 講和問題同志連合会、[[東京]][[明治座]]で集会。講和条約譲歩絶対反対決議を採択。 * [[8月18日]] - '''第7回本会議'''。 * [[8月19日]] - ロシア皇帝ニコライ2世、[[ドゥーマ]](第一国会)を召集する。 * [[8月21日]] - ルーズベルト米大統領、ニコライ2世あてに善処を求める親電を発信。 * [[8月22日]] - ルーズベルト米大統領、日本全権団に賠償金要求放棄を勧告。 * [[8月23日]] - '''第8回本会議'''。ウィッテ、日本側妥協案を拒否。 * [[8月24日]] - [[戸水寛人]][[東京大学|東京帝国大学]]法科大学[[教授]]、講和会議に反対する論文で休職になる(戸水事件)。 * [[8月26日]] - '''第9回本会議'''。 * [[8月28日]] - [[御前会議]]で賠償金、領土割譲に関し譲歩してでも講和条約締結を優先することを決定。小村全権に訓令。 * [[8月29日]] - '''第10回本会議で日露講和成立'''。 * [[9月1日]] ** 日露休戦条約を締結。  ** [[國民新聞|国民新聞]]を除く有力各紙が日露講和条約に反対する社説を掲載。 * [[9月2日]] -[[立憲政友会]]代議士会及び[[院外団]]有志、[[憲政本党]][[政務調査会]]がそれぞれ政府問責決議と講和条約反対を決議する。 * [[9月3日]] - [[大阪市]]公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開催される。 * [[9月5日]] ** '''日露両国、講和条約(ポーツマス条約)に調印'''。 ** [[日比谷焼討事件]]。 * [[9月6日]] - [[東京市]]、[[東京府]]5郡に[[戒厳令]]、即日施行。内務大臣に治安妨害の新聞雑誌の発行停止権をあたえられる(勅令)(のち大阪朝日、東京朝日、万朝報、報知など発行停止を命じられる) * [[9月9日]] - 小村寿太郎、腸チフスを発症。 * [[9月11日]] - [[三笠 (戦艦)|戦艦三笠]]、[[佐世保港]]内で火災のため沈没、死者339名を出す。 * [[9月12日]] - ''[[ケーブル・アンド・ワイヤレス|Commercial Pacific Cable Company]]'' と契約。ケーブルの敷設を分担。米企業側がグアム-小笠原間、日本側が小笠原-横浜間という共同事業。<ref>[[アジア歴史資料センター]] B04011009100</ref> * [[9月14日]] - [[大山巌]]満洲軍総司令官、全軍に戦闘停止命令。 * [[9月21日]] - 東大七博士、講和条約批准拒否の上奏文を提出する。 * [[10月10日]] - 日本、講和条約を批准。 * [[10月14日]] - ロシア、講和条約を批准。 * [[10月16日]] - 講和条約を公布。 * [[10月27日]] - 日本政府、韓国保護国化を[[閣議]]決定。 * [[10月23日]] - 東京湾で、海軍凱旋式による大観艦式挙行、艦艇200隻、観衆数万人。 * [[10月30日]] - ロシア、[[十月詔書]](十月宣言)発布。 * [[11月17日]] - [[第二次日韓協約]]。 * [[11月29日]] - 戒厳令、廃止。 * [[12月2日]] - 外交官・領事官官制改正公布(勅令。あらたに大使・大使館をおく)。駐英公使館を大使館に昇格(告示)。 * [[12月21日]] - 第二次日韓協約に基づき[[統監府]]を漢城に設置(初代統監[[伊藤博文]])。 * [[12月22日]] - 日清両国、[[北京市|北京]]で[[満洲善後条約]]を締結。 ==関連作品== ;小説 * [[吉村昭]]『[[ポーツマスの旗]]』[[新潮社]]、1979年/&lt;[[新潮文庫]]&gt;、1983年。ISBN 410-1117144。電子出版あり ;テレビ番組 *『ポーツマスの旗』[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、1981年12月5日と12月12日のスペシャルドラマで放映(全4部・6時間) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=麻田雅文|authorlink=麻田雅文|year=2018|month=4|title=日露近代史|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4-06-288476-1|ref=麻田}} * {{Citation |和書|last=猪木|first=正道|author-link=猪木正道|editor=|year=1995|month=3|title=軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=4121012321|pages=|chapter=}}[[中公文庫]]で再刊、2021年1月 * {{Citation |和書|last=片山|first=慶隆|author-link=片山慶隆|year=2011|month=11|title=小村寿太郎|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102141-0}} * {{Citation |和書|last=木村|first=汎|author-link=木村汎|editor=|year=1993|month=9|title=日露国境交渉史 : 領土問題にいかに取り組むか |publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=4121011473|pages=|chapter=}} * {{Citation |和書|last=黒岩|first=比佐子|author-link=黒岩比佐子|editor=|year=2005|month=10|title=日露戦争勝利のあとの誤算 |publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春新書]]|isbn=4166604732|pages=|chapter=}} * {{Citation |和書|last=隅谷|first=三喜男 ほか|author-link=隅谷三喜男|editor=|year=1974|month=8|title=日本の歴史22 大日本帝国の試煉|publisher=中央公論社|series=中公文庫|isbn=4122001315|pages=|chapter=}} * {{Citation |和書|last=永峰|first=好美|author-link=|editor=[[読売新聞]]20世紀取材班|year=2001|title=20世紀大日本帝国|publisher=中央公論新社|series=[[中公文庫]]|isbn=4122038774|pages=|chapter=日露戦争 脱亜の果ての分割}} * {{Citation |和書|last=長山|first=靖生|author-link=長山靖生|editor=|year=2004|month=1|title=日露戦争 もうひとつの「物語」|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮新書]]|isbn=4-10-610049-5|pages=|chapter=}} * {{Citation |和書|last=半藤|first=一利|author-link=半藤一利|editor=|year=1983|month=6|title=日本のリーダー4 日本外交の旗手|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|series=|isbn=|pages=|chapter=小村寿太郎-積極的な大陸外交の推進者-|ref=handoh}} * {{Citation |和書|last=藤村|first=道生|author-link=藤村道生|editor=[[小学館]]|year=2004|month=2|title=スーパー・ニッポニカ Professional for Windows 『日本大百科全書』|publisher=小学館|series=|isbn=4099067459|pages=|chapter=ポーツマス条約|ref=win}} * {{Citation |和書|last=古屋|first=哲夫|author-link=古屋哲夫|editor=|year=1966|month=8|title=日露戦争|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=4-12-100110-9|pages=|chapter=|ref=}} * {{Citation |和書|last=|first=|author-link=|editor=読売新聞取材班|year=2010|month=9|title=検証・日露戦争|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205371-7|pages=|chapter=|ref=yomi}} * {{Citation |和書|editor=和田春樹|editor-link=和田春樹|chapter=ロシア帝国の動揺|year=2002|month=8|title=ロシア史|publisher=[[山川出版社]]|series=世界各国史|isbn=978-4-634-41520-1|}} * {{Cite book|和書|editor1-first=陽児|editor1-last=田中|editor1-link=田中陽児|editor2-first=俊一|editor2-last=倉持|editor2-link=倉持俊一|editor3-first=春樹|editor3-last=|year=1994|month=10|title=世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)|publisher=山川出版社|isbn=4-06-207533-4}} ** {{Cite book|和書|editor=田中・倉持・和田|author=高田和夫|authorlink=高田和夫|year=1994|chapter=第9章 1905年革命|title=世界歴史大系 ロシア史2|publisher=山川出版社|ref=高田}} == 関連項目 == * [[小村・ウェーバー協定]] * [[山縣・ロバノフ協定]] * [[西・ローゼン協定]] * [[桂・タフト協定]] * [[日比谷焼打事件]] * [[満洲善後条約]] * [[第二次日韓協約]] * [[坂の上の雲]] == 外部リンク == {{commonscat|Treaty of Portsmouth}} {{wikisource|日露講和條約}} * [https://worldjpn.net/documents/texts/pw/19050905.T1J.html 日露講和条約] * [https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm 日露戦争特別展―公文書にみる日露戦争] - 国立公文書館 アジア歴史資料センター * [https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html 日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録] - 国立公文書館 アジア歴史資料センター * {{Kotobank}} {{日本の条約}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:ほおつますしようやく}} [[Category:日露二国間条約]] <!-- 戦争カテゴリ(講和条約の場合) --> [[Category:日露戦争]] <!-- 条約種類カテゴリ --> [[Category:ロシアの講和条約]] [[Category:日本の講和条約]] [[Category:ロシア帝国の条約]] [[Category:明治時代の日本の条約]] <!-- 国別歴史カテゴリ(歴史上の条約の場合。講和条約では参戦国は戦争カテゴリにあるので特にあげる国のみ。「Category:日露二国間条約」があるため「Category:日露関係史」は除外) --> [[Category:李氏朝鮮の国際関係]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1865年-1918年)]] [[Category:日朝関係史]] [[Category:ニューハンプシャー州の歴史]] [[Category:メイン州の歴史]] 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14,107
1666年
1666年(1666 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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1666年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1666}} {{year-definition|1666}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2326年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]5年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]20年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3999年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2208年 - 2209年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1076年 - 1077年 * [[ユダヤ暦]] : 5426年 - 5427年 * [[ユリウス暦]] : 1665年12月22日 - 1666年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1666}} == できごと == * [[9月1日]]~[[9月5日]] - [[ロンドン大火]]。 * [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、[[在ローマ・フランス・アカデミー]]を設立。 * [[スウェーデン]]:[[ルンド大学]]創立。 * [[アイザック・ニュートン]]が[[万有引力|万有引力の法則]]を発見する。{{Sfn|ゴーガン|2012|pp=30-35|ps=「すべてはここから始まった」}} === 日本 === * [[4月30日]](寛文6年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]) - [[酒井忠清]]が[[大老]]に就任([[5月3日]](寛文6年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]])付で[[老中]]を辞任)。 * [[11月3日]](寛文6年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]) - 国公私立を通し、日本最古の高等学校である[[岡山県立岡山朝日高等学校]]が[[岡山城]]西ノ丸(現・[[岡山市民会館]])に仮学館として設置される。 * [[江戸幕府]]から[[諸国山川掟]]が出される。 == 誕生 == {{see also|Category:1666年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[アントニオ・マリア・ヴァルサルヴァ]]([[w:Antonio Maria Valsalva|Antonio Maria Valsalva]])、[[解剖学者]](+ [[1723年]]) * [[3月15日]] - [[ゲオルク・ベーア]]([[w:George Bähr|George Bähr]])、[[建築家]](+ [[1738年]]) * [[3月21日]](寛文6年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[荻生徂徠]]、[[儒学者]]、[[思想家]]、[[文献学]]者(+ [[1728年]]) * [[4月30日]](寛文6年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]) - [[近衛熙子|天英院]]、[[近衛基熙]]の息女、[[徳川家宣]][[正室]](+ [[1741年]]) * [[5月14日]] - [[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公爵]](+ [[1732年]]) * [[6月18日]](寛文6年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[間部詮房]]、[[上野国|上野]][[高崎藩]][[藩主]]、[[越後国|越後]][[村上藩]]藩主、[[側用人]](+ [[1720年]]) * [[7月2日]](寛文6年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[松平信庸 (篠山藩主)|松平信庸]]、[[老中]](+ [[1717年]]) * [[8月28日]] - [[イヴァン5世]]、[[モスクワ大公]](+ [[1696年]]) * [[9月5日]] - [[ゴットフリート・アーノルド]]([[w:Gottfried Arnold|Gottfried Arnold]])、[[神学者]](+ [[1714年]]) * [[12月]] - [[スティーヴン・グレイ]]、[[科学者]]、[[天文学者]](+ [[1736年]]) * [[12月5日]] - [[フランチェスコ・スカルラッティ]]([[w:Francesco Scarlatti|Francesco Scarlatti]])、[[アレッサンドロ・スカルラッティ]]の弟、[[作曲家]](+ [[1741年]]頃) * [[ジャン=フェリ・ルベル]]、作曲家、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1747年]]) * [[ウィリアム・カウパー]]、解剖学者(+ [[1709年]]) * [[ジョン・ハリス (作家)|ジョン・ハリス]]([[w:John Harris (writer)|John Harris]])、[[作家]](+ [[1719年]]) * [[ベネデット・ルティ]]、[[画家]](+ [[1724年]]) == 死去 == {{see also|Category:1666年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月20日]] - [[アンヌ・ドートリッシュ]]、[[フランス君主一覧|フランス国王]][[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の[[王妃]](* [[1601年]]) * [[1月22日]] - [[シャー・ジャハーン]]、[[ムガル帝国]]皇帝(* [[1592年]]) * [[2月21日]] - [[アルマンド (コンティ公)|コンティ公アルマンド・ド・ブルボン]]、[[軍人]](* [[1629年]]) * [[3月8日]](寛文6年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[松平直政]]、[[大名]](* [[1601年]]) * [[3月11日]](寛文6年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[千姫]]、[[徳川秀忠]]の娘、[[豊臣秀頼]]の正室(* [[1597年]]<ref>『幕府祚胤伝』による。ただし、[[山科言経]]の日記『[[言経卿記]]』慶長二年五月十四日条では5月10日とされている。</ref>) * [[6月7日]](寛文6年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[吉川広正]]、[[岩国藩]]藩主(* [[1601年]]) * [[8月15日]] - [[アダム・シャール]]、[[イエズス会]][[宣教師]](* [[1591年]]) * [[8月26日]] - [[フランス・ハルス]]、画家(* [[1580年代]]) * [[9月23日]] - [[フランソワ・マンサール]]、建築家(* [[1598年]]) * 9月23日 - [[ハンニバル・セヘステッド]]([[w:Hannibal Sehested (governor)|Hannibal Sehested]])、[[ノルウェー]][[総督]](* [[1609年]]) * [[10月29日]] - [[ジェイムズ・シャーリー]]([[w:James Shirley|James Shirley]])、[[劇作家]](* [[1596年]]) * [[12月22日]] - [[グエルチーノ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Il-Guercino Il Guercino Italian artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、画家(* [[1591年]]) == フィクションのできごと == * テリレプティルが疫病に感染したネズミを人間社会に放ち[[黒死病]]を引き起こす。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=リチャード・ゴーガン |year=2012 |title=天才科学者のひらめき36 世界を変えた大発見物語 |publisher=創元社 |isbn=978-4-422-40022-8 |ref={{Sfnref|ゴーガン|2012}}}}<!-- 2012年4月10日第1版第1刷発行 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1666}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]]<!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1666ねん}} [[Category:1666年|*]]
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14,108
1664年
1664年(1664 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
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1664年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1664}} {{year-definition|1664}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2324年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]3年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]18年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3997年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2206年 - 2207年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1074年 - 1075年 * [[ユダヤ暦]] : 5424年 - 5425年 * [[ユリウス暦]] : 1663年12月22日 - 1664年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1664}} == できごと == * [[4月30日]](寛文4年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]) - [[江戸幕府]]が[[寛文印知]]を発給し、全ての大名の所領の範囲を確定させる。 * [[フランス東インド会社]]、[[フランス西インド会社]]が[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]により設立(東インド会社:-[[1769年]]、西インド会社:-[[1674年]])。 * [[フランス領ギアナ]]にフランス人の本格的な定住が始まる。 * [[オランダ]][[植民地]][[ニューアムステルダム]]、[[イギリス]]に占領されて、[[ニューヨーク]]と改名。 == 誕生 == {{see also|Category:1664年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[ジョン・ヴァンブラ]]、[[建築家]]・[[劇作家]](+ [[1726年]]) * [[2月6日]] - [[ムスタファ2世]]、[[オスマン帝国]]第22代[[スルタン]](+ [[1703年]]) * [[2月24日]] - [[トーマス・ニューコメン]]、[[蒸気機関]]を商業用に改良したイギリスの[[発明家]](+ [[1729年]]) * [[4月6日]] - [[アルヴィド・ホルン]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1742年]]) * [[4月30日]] - [[フランソワ・ルイ・ド・ブルボン (コンティ公)|コンティ公フランソワ・ルイ・ド・ブルボン]]、軍人(+ [[1709年]]) * [[5月9日]] - [[ジャハーンダール・シャー]]、[[ムガル帝国]]第8代[[皇帝]](+ [[1713年]]) * [[5月30日]] - [[ジュリオ・アルベローニ]]([[:en:Giulio Alberoni|Giulio Alberoni]])、[[枢機卿]](+ [[1752年]]) * [[6月3日]] - [[ラッヘル・ライス]]、[[女性|女流]][[画家]](+ [[1750年]]) * [[6月24日]] - [[フランソワ・プルフール・デュ・プチ]]、[[解剖学者]]・[[医者]](+ [[1741年]]) * [[7月21日]] - [[マシュー・プライアー]]([[:en:Matthew Prior|Matthew Prior]])、[[詩人]]・[[外交官]](+ [[1721年]]) * 7月又は8月(寛文4年6月) - [[建部賢弘]]、 [[数学者]](+ [[1739年]]) * [[12月26日]] - [[ヨハン・メルヒオール・ディングリンガー]]([[:en:Johann Melchior Dinglinger|Johann Melchior Dinglinger]])、[[金細工師]](+ [[1731年]]) * 月日不明 - [[鳥居清信]]、[[浮世絵師]](+ [[1729年]]) == 死去 == {{see also|Category:1664年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月8日]] - [[モイゼ・アミロー]]([[:en:Moses Amyraut|Moyse Amyraut]])、[[神学者]](* [[1596年]]) * [[1月18日]]([[寛文]]3年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[野中兼山]]、[[土佐藩]][[家老]](* [[1615年]]) * [[2月20日]] - [[コルフィッツ・ウルフェルト]]([[:en:Corfitz Ulfeldt (1606-1664)|Corfitz Ulfeldt]])、政治家(* [[1606年]]) * [[4月15日]] - [[ロレンツォ・リッピ]]([[:en:Lorenzo Lippi|Lorenzo Lippi]])、画家、詩人(* [[1606年]]) * [[4月23日]](寛文4年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[水野成之|水野成之(十郎左衛門)]]、[[旗本]](* [[1630年]]) * [[7月16日]] - [[アンドレアス・グリューフィウス]]、詩人、[[劇作家]](* [[1616年]]) * [[8月27日]] - [[フランシスコ・デ・スルバラン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Francisco-de-Zurbaran Francisco de Zurbarán Spanish painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、画家(* [[1598年]]) * [[11月18日]] - [[ニコラ・ズリンスキ]]([[:en:Nikola Zrinski|Nikola Zrinski]])、軍人、政治家(* [[1620年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1664}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1664ねん}} [[Category:1664年|*]]
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14,109
マルタ語
マルタ語(マルタ語:Malti, Lingwa Maltija)は、マルタ共和国で公用語として話される言語。欧州連合(EU)の公式言語の一つ。言語はアラビア語の口語(アーンミーヤ)の変種の一つであるが、ロマンス系語彙の借用語が多いことから(ただし、これはマグリブの口語全体にいえることである)別言語とする学者もいる。マルタ語はヨーロッパで話されている唯一のセム語である。 マルタは870年から220年間ファーティマ朝が支配した。その間に言語のアラビア化が進んだとされる。 ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の言語である。アラビア語の口語(アーンミーヤ)の中では、マグリブ方言に最も近い。 シチリア語、イタリア語など、ロマンス系の語彙を多く含み、セム系言語で唯一のラテン文字による正書法を持つ。 それまで公用語であったイタリア語に代わり、1936年に英語と並んでマルタの公用語に採用された。今日では、約60万人の話者がいる。オーストラリアやアメリカ合衆国、カナダへ移民した人々の間でも使われている。 現存する最も古い使用例は、15世紀にPietro Caxaroにより書かれた、「Il Cantilena」である。何世紀もの間、マルタ語は話し言葉であり、記述する時には、アラビア語、のちにイタリア語が使用された。 ロマンス語の影響を受けてはいるが、マルタ語の文法は依然としてアラビア語そのものである。形容詞は名詞を後ろから修飾し、本来副詞は少なく、語順はかなり自由である。アラビア語やヘブライ語と同様、名詞が定冠詞をとる場合、それを修飾するセム語起源の形容詞も定冠詞をとる。例:L-Art l-Imqaddsa(=〈定冠詞〉-土地 〈定冠詞〉-聖なる)。ちなみに、アラビア語では'al-'arḍ 'al-muqaddasa、ヘブライ語ではha'arets hakkedoša。但し、形容詞が定冠詞をとらないこともある。ロマンス語起源の形容詞は定冠詞をとらない。 名詞の数には部分的に双数が残存している。 動詞はアラビア語の「三語根のパターン」を保持している。つまり、子音三つからなる語根に貫通接辞を付け加えることで動詞に文法的な意味を付与するのである。例えば、「書く」を表す三つの子音KTBに接中辞-i, 接尾辞-naを加えてktibna(私たちは書いた)を作る(ちなみにアラビア語ではkatabna, ヘブライ語ではkatavnu)。時制は非過去と過去の二つである。 ロマンス語起源の動詞にはアラビア語的な動詞派生法は適用されないが、動詞活用は、アラビア語の活用法をそのまま使い、接頭辞と接尾辞がつく。例えば、iddeċidejna(私たちは決めた)はロマンス語の動詞(i)ddeċidaにアラビア語の語尾-ejna(一人称複数完了)がついたものである。チュニジア方言などいくつかの方言でこのような動詞活用が見られるとはいえ、アラビア語ではこのような動詞活用は行わないのが基本である。 マルタ語の文法にはアラビア語的なものとロマンス語的なものが共存しており、語彙の起源と慣習に従って使い分けられる。英語からの借用語に見られるアングロサクソン語的な要素は最近の現象である。 ロマンス的な文法は概して周辺的である。ロマンス語起源の名詞は-iか-ijietを付け加えることで複数になる。例えば、lingwa(言語)はlingwiと複数化される。アラビア語語彙の複数はもう少し複雑である。語尾複数は-at/-iet/-ijiet(アラビア語の-at, ヘブライ語の-ot)、-(i)n(アラビア語の-iin, ヘブライ語の-im)、-an/-ien(アラビア語の-aan)をつけることで行われ、語内複数はktieb(本)/kotba; raġel(男)/(i)rġielのように母音の変化によって表される。これらはアラビア語のほか、セム語系では一般的な屈折である(ヘブライ語ではsefer(本)/ sfarim) マルタ語の語彙はアラビア語語彙を基礎とし、(イタリア語トスカーナ方言よりむしろ)シチリア語から膨大な借用語をとりいれたハイブリッドである。この点においてフランス語の影響を強く受けたゲルマン語である英語、アラビア語の影響を強く受けたインド・イラン語派のペルシア語と似ている。なお、ロマンス語を基調としつつアラビア語語彙を受け入れたスペイン語とは鏡像的な関係であるとも言える。 語彙の60%はアラビア語語彙であり、残りはロマンス語であると概算される。Zammit (2000) によるとコーラン・アラビア語からサンプルをとった1820語の語根のうち40%がマルタ語に見出すことができるとのことである。これは他のアラビア語のモロッコ方言 (58%) やシリア方言(英語版) (72%) に比べて少ない。一般に基本的な概念を表す語彙はアラビア語であり、新しい概念、物、政府、法律、教育、芸術、文学に関する「高尚」な語彙はシチリア語から借用されている。よって、raġel(男)、mara(女)、tifel(子供)、dar(家)、xemx(太陽)、sajf(夏)といった語彙は全てアラビア語起源であり、skola(学校)、gvern(政府)、repubblika(共和国)、re(王)、natura(自然)、pulizija(警察)、ċentru(中心)、 teatru(劇場、映画館)、differenza(差異)などはシチリア語からの借用語である。よって、ロマンス語の話者はマルタ語版ウィキペディアのメインページや新聞記事の見出しを理解することはできるが、「その男は家にいる」のような基本的な文でさえ理解できない。これは、外国語のできない英語話者がフォーマルな、あるいは学術的なフランス語の意味を推測することができるのに、簡単な文章はむしろ理解できないというのに似ている。 例として人権宣言の最初の部分を挙げる。 Il-bnedmin kollha jitwieldu ħielsa u ugwali fid-dinjità u d-drittijiet. Huma mogħnija bir-raġuni u bil-kuxjenza u għandhom iġibu ruħhom ma' xulxin bi spirtu ta' aħwa. ロマンス系の語彙はイタリア語トスカーナ方言ではなくシチリア語の発音を反映している。よって、イタリア語の語末のoはuに、語末のeはiとなっている。例えばイタリア語の Cristo(キリスト), arte(芸術)は、マルタ語ではそれぞれ Kristu(シチリア語ではCristu), arti(シチリア語でもarti)である。
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マルタ語は、マルタ共和国で公用語として話される言語。欧州連合(EU)の公式言語の一つ。言語はアラビア語の口語(アーンミーヤ)の変種の一つであるが、ロマンス系語彙の借用語が多いことから(ただし、これはマグリブの口語全体にいえることである)別言語とする学者もいる。マルタ語はヨーロッパで話されている唯一のセム語である。
{{Infobox Language |name=マルタ語 |nativename=Malti |familycolor=アフロ・アジア語族 |states={{MLT}}<br />{{CAN}}<br />{{AUS}}<br />{{USA}}<br />{{GBR}} |region=ヨーロッパ及び北米 |speakers=60万人 |rank= |fam1=[[アフロ・アジア語族]] |fam2=[[セム語派]] |fam3=中央セム語 |fam4=南中央セム語 |fam5=[[アラビア語]] |script=[[ラテン文字]] |nation={{MLT}}<br />{{EUR}} |agency=[[:en:National Council for the Maltese Language|Il-Kunsill Nazzjonali ta' l-Ilsien Malti]] (since April 2005) |iso1=mt |iso2=mlt |iso3=mlt }} '''マルタ語'''(マルタ語:Malti, Lingwa Maltija)は、[[マルタ|マルタ共和国]]で[[公用語]]として話される[[言語]]。[[欧州連合]](EU)の公式言語の一つ。言語は[[アラビア語]]の[[口語]]([[アーンミーヤ]])の変種の一つであるが、[[ロマンス諸語|ロマンス系]][[語彙]]の[[借用語]]が多いことから(ただし、これは[[マグリブ]]の口語全体にいえることである)別言語とする学者もいる。マルタ語は[[ヨーロッパ]]で話されている唯一の[[セム語]]である。 ==概要== マルタは[[870年]]から220年間[[ファーティマ朝]]が支配した。その間に言語のアラビア化が進んだとされる。 [[ヨーロッパ]]圏唯一の[[アフロ・アジア語族]] - [[セム語派]]の言語である。アラビア語の口語([[アーンミーヤ]])の中では、[[マグリブ]]方言に最も近い。 [[シチリア語]]、[[イタリア語]]など、[[ロマンス語派|ロマンス系]]の語彙を多く含み、セム系言語で唯一の[[ラテン文字]]による[[正書法]]を持つ。 それまで公用語であったイタリア語に代わり、[[1936年]]に[[英語]]と並んでマルタの公用語に採用された。今日では、約60万人の話者がいる。[[オーストラリア]]や[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]へ移民した人々の間でも使われている。 現存する最も古い使用例は、[[15世紀]]にPietro Caxaroにより書かれた、「[[:en:Il Cantilena|Il Cantilena]]」である。何世紀もの間、マルタ語は話し言葉であり、記述する時には、[[アラビア語]]、のちに[[イタリア語]]が使用された。 == 文字と発音 == {|class="wikitable" style="text-align:center;" |- !文字 |[[A]]||[[B]]||class="Unicode"|[[Ċ]]||[[D]]||[[E]]||[[F]]||[[Ġ]]||[[G]]||class="Unicode"|[[GĦ]]||[[H]]||class="Unicode"|[[Ħ]]||[[I]]||[[IE]]||[[J]]||[[K]] |- !音価 |class="IPA"|/a/||class="IPA"|/b/||class="IPA"|/ʧ/||class="IPA"|/d/||class="IPA"|/ɛ/||class="IPA"|/f/||class="IPA"|/ʤ/||class="IPA"|/g/||<ref group="発音">GĦは結合した母音を長母音化する。もとは[[咽頭音]]であった。ただし、直後にHが来た場合には、{{ipa|h:}}となる。語尾では{{ipa|h}}の[[単音|音価]]を持つ。例:qtigħ{{ipa|ʔtiːh}}</ref>||<ref group="発音">HはĦ・GĦに続く場合や語尾では{{ipa|h}}、それ以外では音価なし。</ref>||class="IPA"|/ħ/||class="IPA"|/i/||class="IPA"|/iɛ, iː/||class="IPA"|/j/||class="IPA"|/k/ |- !文字 |[[L]]||[[M]]||[[N]]||[[O]]||[[P]]||[[Q]]||[[R]]||[[S]]||[[T]]||[[U]]||[[V]]||[[W]]||[[X]]||class="Unicode"|[[Ż]]||[[Z]] |- !音価 |class="IPA"|/l/||class="IPA"|/m/||class="IPA"|/n/||class="IPA"|/o/||class="IPA"|/p/||class="IPA"|/ʔ/||class="IPA"|/r/||class="IPA"|/s/||class="IPA"|/t/||class="IPA"|/u/||class="IPA"|/v/||class="IPA"|/w/||class="IPA"|/ʃ, ʒ/||class="IPA"|/z/||class="IPA"|/ʦ, ʣ/ |} ===注釈=== {{脚注ヘルプ}}{{Reflist|group=発音}} * {{ipa|ʃ}}は'x'で表記される。ambaxxata{{ipa|ambaʃːaːta}}は「[[大使館]]」であり、xena{{ipa|ʃeːna}}は「場面 (scene)」である(イタリア語ではambasciata, scena)。 == 文法 == ロマンス語の影響を受けてはいるが、マルタ語の文法は依然として[[アラビア語]]そのものである。[[形容詞]]は[[名詞]]を後ろから修飾し、本来[[副詞]]は少なく、語順はかなり自由である。[[アラビア語]]や[[ヘブライ語]]と同様、名詞が[[定冠詞]]をとる場合、それを修飾するセム語起源の形容詞も定冠詞をとる。例:L-Art l-Imqaddsa(=〈定冠詞〉-土地 〈定冠詞〉-聖なる)。ちなみに、アラビア語では'al-'arḍ 'al-muqaddasa、ヘブライ語ではha'arets hakkedoša。但し、形容詞が定冠詞をとらないこともある。ロマンス語起源の形容詞は定冠詞をとらない。 名詞の数には部分的に[[双数]]が残存している。 [[動詞]]はアラビア語の「三語根のパターン」を保持している。つまり、子音三つからなる語根に[[貫通接辞]]を付け加えることで動詞に文法的な意味を付与するのである。例えば、「書く」を表す三つの子音KTBに接中辞-i, 接尾辞-naを加えてktibna(私たちは書いた)を作る(ちなみにアラビア語ではkatabna, ヘブライ語ではkatavnu)。[[時制]]は[[非過去]]と[[過去時制|過去]]の二つである。 ロマンス語起源の動詞にはアラビア語的な動詞派生法は適用されないが、動詞活用は、アラビア語の活用法をそのまま使い、接頭辞と接尾辞がつく。例えば、iddeċidejna(私たちは決めた)はロマンス語の動詞(i)ddeċidaにアラビア語の語尾-ejna(一人称複数完了)がついたものである。[[チュニジア方言]]などいくつかの方言でこのような動詞活用が見られるとはいえ、アラビア語ではこのような動詞活用は行わないのが基本である。 マルタ語の文法にはアラビア語的なものとロマンス語的なものが共存しており、語彙の起源と慣習に従って使い分けられる。英語からの借用語に見られる[[アングロサクソン語]]的な要素は最近の現象である。 ロマンス的な文法は概して周辺的である。ロマンス語起源の名詞は-iか-ijietを付け加えることで複数になる。例えば、lingwa(言語)はlingwiと複数化される。アラビア語語彙の複数はもう少し複雑である。語尾複数は-at/-iet/-ijiet(アラビア語の-at, ヘブライ語の-ot)、-(i)n(アラビア語の-iin, ヘブライ語の-im)、-an/-ien(アラビア語の-aan)をつけることで行われ、語内複数はktieb(本)/kotba; raġel(男)/(i)rġielのように母音の変化によって表される。これらはアラビア語のほか、セム語系では一般的な屈折である(ヘブライ語ではsefer(本)/ sfarim) == 語彙 == {{独自研究|section=1|date=2012年8月}} マルタ語の語彙はアラビア語語彙を基礎とし、(イタリア語[[トスカーナ方言]]よりむしろ)[[シチリア語]]から膨大な借用語をとりいれたハイブリッドである。この点において[[フランス語]]の影響を強く受けた[[ゲルマン語]]である[[英語]]、アラビア語の影響を強く受けた[[インド・イラン語派]]の[[ペルシア語]]と似ている。なお、ロマンス語を基調としつつアラビア語語彙を受け入れたスペイン語とは鏡像的な関係であるとも言える。 語彙の60%はアラビア語語彙であり、残りはロマンス語であると概算される。Zammit (2000) によると[[フスハー|コーラン・アラビア語]]からサンプルをとった1820語の語根のうち40%がマルタ語に見出すことができるとのことである。これは他の[[アラビア語]]の[[アラビア語モロッコ方言|モロッコ方言]] (58%) や{{仮リンク|アラビア語シリア方言|en|Syrian Arabic|label=シリア方言}} (72%) に比べて少ない。一般に基本的な概念を表す語彙はアラビア語であり、新しい概念、物、政府、法律、教育、芸術、文学に関する「高尚」な語彙はシチリア語から借用されている。よって、raġel(男)、mara(女)、tifel(子供)、dar(家)、xemx(太陽)、sajf(夏)といった語彙は全てアラビア語起源であり、skola(学校)、gvern(政府)、repubblika(共和国)、re(王)、natura(自然)、pulizija(警察)、ċentru(中心)、 teatru(劇場、映画館)、differenza(差異)などはシチリア語からの借用語である。よって、ロマンス語の話者は[http://mt.wikipedia.org マルタ語版ウィキペディアのメインページ]や新聞記事の見出しを理解することはできるが、「その男は家にいる」のような基本的な文でさえ理解できない。これは、外国語のできない英語話者がフォーマルな、あるいは学術的なフランス語の意味を推測することができるのに、簡単な文章はむしろ理解できないというのに似ている。 例として[[人権宣言]]の最初の部分を挙げる。 Il-bnedmin kollha jitwieldu ħielsa u ugwali fid-dinjità u d-drittijiet. Huma mogħnija bir-raġuni u bil-kuxjenza u għandhom iġibu ruħhom ma' xulxin bi spirtu ta' aħwa. ロマンス系の語彙はイタリア語トスカーナ方言ではなくシチリア語の発音を反映している。よって、イタリア語の語末のoはuに、語末のeはiとなっている。例えばイタリア語の Cristo([[キリスト]]), arte(芸術)は、マルタ語ではそれぞれ Kristu(シチリア語ではCristu), arti(シチリア語でもarti)である。 == その他 == * かつて[[アンダルス|アル・アンダルス]]で使われていたアラビア語を復元する際には、言語のルーツの近さと接触した言語の類似性からマルタ語が大きな参考とされている。詳しくは[[アル・アンダルス=アラビア語]]を参照のこと。 * 類似の状況の他言語としては、[[ドンガン語]]が挙げられる。[[キルギス]]など[[中央アジア]]諸国で[[漢民族]]系[[ムスリム]]によって使用され、[[中国語]][[方言]]を基本としながらも、[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]・[[テュルク諸語]]・[[ロシア語]]からの借用語が多く、[[キリル文字]]で表記される。 == 関連項目 == * [[言語]] - [[言語の分類一覧]] * [[アラビア語シチリア方言]] * [[イタリア語]] * [[アラビア語]] ** [[アル・アンダルス=アラビア語]] * [[ロマンス語]] * [[フスハー]] * [[アーンミーヤ]] == 参考文献 == * Aquilina, Joseph (1995). “Maltese: A Complete Course for Beginners (Teach Yourself) ”, NTC Publishing Group, ISBN 0844236977. * Aquilina, Joseph (1987). “Maltese-English Dictionary: A-L Vol 1”, Midsea Books Ltd, ISBN 999099336X. * Aquilina, Joseph (1989). “Maltese-English Dictionary: M-Z Vol 2”, Midsea Books Ltd, ISBN 9990993319. * Zammit, Martin (2000). “Arabic and Maltese Cognate Roots”, Manwel Mifsud Proceedings of the Third International Conference of Aida, 241-245. ISBN 9993200441. == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == {{Wikipedia|mt}} * {{ethnologue|code=mlt}} {{アラビア語}}{{authority control}} {{デフォルトソート:まるたこ}} [[Category:マルタ語|*]] [[Category:アーンミーヤ]] [[Category:マルタの言語]] [[Category:セム語派]] [[Category:ヨーロッパの言語]] [[Category:アラビア語]] [[Category:アラビア語の方言]] [[Category:言語接触]] [[Category:SOV型言語]]
2003-08-26T16:39:56Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF%E8%AA%9E
14,114
肺炎
肺炎(はいえん)とは、肺の炎症性疾患の総称である。 治療法はその原因によって異なり、細菌性のものであれば抗生物質が用いられる。重症の場合は一般的に入院となる。酸素飽和度(SpO2)が低い場合は酸素吸入を行う。 肺炎の予防方法としては、肺炎レンサ球菌による感染性の肺炎に限ればワクチンによって予防可能ではある。他の予防方法としては、手洗い、禁煙などがある。 肺炎は世界で年間4.5億人(人口の7%)が発症しており、うち400万人が死亡している。日本の死亡統計においても、肺炎は死亡原因としては2018年で第5位である。 肺炎は19世紀にはウイリアム・オスラーに「男性死因の代表格」として描かれていたが、20世紀には抗生物質とワクチンの普及により 生存率 (英語版)が改善された。しかしながら途上国では、現在も主要な死因の一つとされ、高齢者と若年者、5歳未満の子供において代表的な慢性疾患である。上で述べたように現代日本の全世代の死亡統計でも死因の第4位であり、しかも85 - 89歳では死因第3位、90 - 99歳では第2位、と年齢が上がるにつれ次第に順位が上がる(高齢化社会になればなるほど肺炎で死亡する人の割合が増え、医療側もそれを重視し、念入りに予防策を講じなければならないことになる)。 しばしば肺炎は、死に近づいている者の象徴として描かれており「老人の友」と呼ばれている。 肺炎は年齢・性別に関係なく一般的な病気であり、全世界で毎年4.5億人が発症している。その死者は年間400万人に上り、世界における死者の約7%を占めている。有病率は5%以下の児童と、75歳以上の成人が最大で、また先進国よりも途上国に5倍多い。肺炎発症者のうち、ウイルス性肺炎が2億人を占めている。 米国において肺炎は8番目の死因であった(2009年)。日本の原因疾患別死亡者数の割合と順位では、肺炎は1947年は2位、1948年は4位、1949年から1951年で3位、1952年は5位、1953年は4位、1957年から1960年まで5位、1962年5位、1973年から1974年まで5位、1975年から2010年まで4位、2011年から2015年まで3位であり、2015年度は死亡者数129万0428人のうち、肺炎による死者数は12万0846人であり、死亡者総数に対する割合は9.4%である。 2008年には、およそ1億5600万人の児童が肺炎を発症したが、そのうち発展途上国の肺炎発症者は1億5100万人にのぼり、先進国の児童の肺炎発症者は約500万人だった。 2010年には約130万人の児童が肺炎で死亡したが、そのうち18%は5歳未満であり、またこのうち95%は発展途上国の児童で占められていた。児童の患者数が最も多いのはインド(4300万人)であり、次いで中国(2100万人)、パキスタン(1000万人)が続く。肺炎は低所得国の児童の主な死因となっている。世界保健機関は、新生児の死亡者の3分の1が肺炎によって占められていると推定している。これらの死亡のうち約半分は効果的なワクチンが入手可能な病原菌によって引き起こされるものであるため、予防が可能である。 2011年には、アメリカで肺炎は乳幼児及び児童が救急隊によって搬送され入院するもっとも一般的な理由となっていた。 感染性肺炎は細菌性肺炎、ウイルス性肺炎、真菌性肺炎に分けられる。一般に感冒・上気道炎後の続発性肺炎は細菌性肺炎であるが、時にウイルスそのものによる肺炎・間質性肺炎をきたすことがある。 インフルエンザウイルス肺炎、コロナウイルス肺炎、麻疹肺炎など。病原体が原因ではない非感染性の肺炎にはアレルギー性の過敏性肺炎がある。 細菌は市中肺炎(CAP)で最も一般的な原因であり、その50%のケースでは肺炎レンサ球菌単独によるものであった。 その他の菌ではインフルエンザ菌(20%)、クラミジア(13%)、マイコプラズマ(3%)ほか、黄色ブドウ球菌、モラクセラ・カタラーリス、レジオネラ菌、グラム陰性菌などであった。 それが薬剤耐性菌であることも多く、薬剤耐性肺炎球菌(DRSP)や、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)などと呼ばれている。 治療は、抗マイコプラズマ抗体が上昇するまで数日かかるため確定診断を待ってから治療するのでは遅いので、寒冷凝集反応から経験的治療に基づいて化学療法を行う。化学療法は抗生物質を用いる。マイコプラズマは細胞壁を持たないのでβ-ラクタム系等の細胞壁合成阻害薬は無効である。 また、アミノグリコシド系も気道移行性が悪いので無効である。マクロライド系、テトラサイクリン系、ケトライド系を第一選択薬とする。 肺炎は、成人では1⁄3、児童では15%がウイルスを原因としている。一般的にはライノウイルス、コロナウイルス、インフルエンザウイルス、RSウイルス、アデノウイルス、パラインフルエンザなど。 単純ヘルペスウイルスではめったに起こらないが、例外として新生児、癌患者、臓器移植受容者、重度熱傷が挙げられる。 サイトメガロウイルスは、臓器移植患者や免疫不全患者に起こり得る。 ヒストプラスマ・カプスラーツム、ブラストミセス、クリプトコッカス、ニューモシスチス、コクシジオイデスなどが挙げられる。 トキソプラズマ、糞線虫、回虫、マラリア原虫など。以前原虫とされていたニューモシスチス肺炎は現在は真菌に分類される。 発熱、咳、痰、呼吸困難、全身倦怠感、胸部痛など。初期はのどの痛みはあまりないが、痰を排出しようと咳を繰り返すことで炎症を起こす場合がある。 しかし、高齢者の場合、発熱がみられないなど非典型的な症状を呈することが多く、食欲低下、何となく元気がない、といったちょっとした体調の変化をきっかけとして肺炎の診断につながる例も少なくないので注意が必要である。 身体所見 (聴診所見など体の症状)、胸部X線写真、胸部CT、採血 (白血球数、CRP値、KL-6、LDH)、喀痰培養など。従来は行われていなかったが超音波断層撮影の有用性が報告されている。 喀痰のグラム染色は有用と考えられ、好中球による貪食像(どんしょくぞう: 好中球が細菌を取り込んでいる像)は起炎菌の同定(原因となる病原体を特定すること)につながることもある(肺炎球菌では特に)。ただし、臨床研究では喀痰グラム染色と起炎菌とは一致しないと結論され、アメリカのガイドラインでは推奨されていない。 近年は迅速診断キットにより肺炎球菌、レジオネラについては尿を検体(検査をする対象物)として検査が可能となった (商品名 BinaxNOW肺炎球菌、レジオネラ。溶血連鎖球菌の検査キットBinaxStrepAは咽頭粘液を検体とする)。 なお、肺炎の原因菌の中でも特殊な結核に付いては、常に鑑別にあげなければならない。 結核を疑う場合は、チール・ニールセン染色(Ziehl-Neelsen stain)や蛍光塗抹検査、T-SPOTなどを行う。 肺炎の分類としては、いくつかの異なった分類が存在する。 ビタミンCの肺炎予防と治療に対する効果の、2013年のコクランレビューは、特殊な集団における証拠があるがさらなる調査が必要とし、特にビタミンCが少ない場合にどうなるかさらなる研究を求めたが、安く安全性が高いため、血中ビタミンC濃度が低い肺炎患者への使用は妥当だとした。 肺炎レンサ球菌による肺炎の場合、肺炎球菌ワクチンの投与によってかなりの程度予防することができる。このワクチンにはいくつかの種類があり、投与の対象も異なる。日本では1988年に成人用の23価不活化ワクチンが承認され、2014年には65歳以上の高齢者に対する定期接種の対象となった。次いで2009年には小児用の7価ワクチンが承認され、2013年4月には定期接種の対象となり、同年11月には13価のワクチンに切り替わった。ハーバード大学医学部は、65 歳以上の人に肺炎球菌ワクチンの接種を強く推奨している。 細菌性肺炎が疑われる場合は原因菌に抗力のある抗生物質を投与するが、原因菌特定には、喀痰培養同定・感受性検査など、時間のかかることが多く菌の種類を推定して抗生剤の選択を行うことが多い。 肺真菌症では抗真菌薬、ウイルス性肺炎では対応した抗ウイルス薬を用いる。 施設による違いはあるが、米国式のやり方をとっている施設では、菌の種類は推定せず、市中肺炎であるか院内肺炎であるかによって抗生剤を使い分ける。それは、胸部レントゲン像で菌の種類をみわけることはできないとする臨床研究の結果にしたがったものである。 しかし、日本の一般的な医療機関では、まず広域抗生剤といわれる多くの種類の細菌に効く抗生剤を、患者の状況などから経験的に投与し、培養検査(肺炎の場合喀痰を培養し、原因菌を調べ、またどの抗生剤が有効かを調べる検査)の結果が出た時点で抗生剤を適宜変更するというのが標準である。 小児の肺炎では、経験的治療は大きく異なってくる。その違いは肺炎の起炎菌の違いによるものである。 新生児を除く乳幼児では、肺炎の3大起炎菌といえるのはインフルエンザ桿菌、肺炎球菌、モラキセラ・カタラーリスである。成人と異なりクレブシエラ属や緑膿菌は少ないため、第3世代セフェムよりも抗菌スペクトラムの狭いペニシリン系抗生物質を選択するのが一般的である (施設によってはセフェムを選択するところもある)。 モラクセラ (モラキセラ、ブランハメラともいう) はほぼ100 %の株でβラクタム分解酵素 (β-ラクタマーゼ) を有するため、ベータラクタム分解酵素阻害薬を配合した抗菌薬製剤 (スルバクタム・アンピシリン、タゾバクタム・ピペラシリンなど) を選択することが多い。喀痰塗抹グラム染色を参考にできるような施設では、肺炎球菌が疑わしい場合にはアンピシリンなどより狭いスペクトラムを持つ薬剤を選択する。 特に乳児では誤嚥性の肺炎も少なからず見られるが、高齢者と異なり誤嚥性肺炎でも緑膿菌感染症は少ないため、スルバクタム・アンピシリン (嫌気性菌にも有効であるため) を選択する。誤嚥性肺炎が疑わしい場合には、気道症状が治まるまで経口哺乳の禁止が必要となることもある。 学童以上の年齢ではマイコプラズマによる肺炎が多くなる。細菌性肺炎との鑑別はX線像ではまず不可能であり、血液所見 (好中球増加の有無、C反応性蛋白(CRP)上昇の有無、マイコプラズマIgM迅速検査など) や全身状態、気道症状の程度などが参考となる。 マイコプラズマにはβラクタム系の抗菌薬が無効であるが、テトラサイクリン系抗生物質 (ミノサイクリンなど) やニューキノロン系抗菌薬は副作用の問題で小児には投与しにくい、あるいはできないため、マクロライド系抗生物質を選択する (永久歯が生えていない小児にテトラサイクリンを投与すると、後に生えた永久歯に黄色く色素沈着することがある。また骨成長障害が副作用としてみられることも知られている。 ニューキノロン系多くではの小児への投与は、動物実験で関節障害が見られたために日本では禁忌となっている。トスフロキサシン (商品名:オゼックス小児用細粒) は例外で小児への適応症をもつ)。 基礎疾患や障害のある患児では、その疾患によって肺炎の起炎菌に特徴がある。また、過去の細菌検査の結果も起炎菌推定の助けになる。
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"マイコプラズマにはβラクタム系の抗菌薬が無効であるが、テトラサイクリン系抗生物質 (ミノサイクリンなど) やニューキノロン系抗菌薬は副作用の問題で小児には投与しにくい、あるいはできないため、マクロライド系抗生物質を選択する (永久歯が生えていない小児にテトラサイクリンを投与すると、後に生えた永久歯に黄色く色素沈着することがある。また骨成長障害が副作用としてみられることも知られている。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ニューキノロン系多くではの小児への投与は、動物実験で関節障害が見られたために日本では禁忌となっている。トスフロキサシン (商品名:オゼックス小児用細粒) は例外で小児への適応症をもつ)。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "基礎疾患や障害のある患児では、その疾患によって肺炎の起炎菌に特徴がある。また、過去の細菌検査の結果も起炎菌推定の助けになる。", "title": "治療" } ]
肺炎(はいえん)とは、肺の炎症性疾患の総称である。 治療法はその原因によって異なり、細菌性のものであれば抗生物質が用いられる。重症の場合は一般的に入院となる。酸素飽和度(SpO2)が低い場合は酸素吸入を行う。 肺炎の予防方法としては、肺炎レンサ球菌による感染性の肺炎に限ればワクチンによって予防可能ではある。他の予防方法としては、手洗い、禁煙などがある。 肺炎は世界で年間4.5億人(人口の7%)が発症しており、うち400万人が死亡している。日本の死亡統計においても、肺炎は死亡原因としては2018年で第5位である。 肺炎は19世紀にはウイリアム・オスラーに「男性死因の代表格」として描かれていたが、20世紀には抗生物質とワクチンの普及により 生存率 が改善された。しかしながら途上国では、現在も主要な死因の一つとされ、高齢者と若年者、5歳未満の子供において代表的な慢性疾患である。上で述べたように現代日本の全世代の死亡統計でも死因の第4位であり、しかも85 - 89歳では死因第3位、90 - 99歳では第2位、と年齢が上がるにつれ次第に順位が上がる(高齢化社会になればなるほど肺炎で死亡する人の割合が増え、医療側もそれを重視し、念入りに予防策を講じなければならないことになる)。 しばしば肺炎は、死に近づいている者の象徴として描かれており「老人の友」と呼ばれている。
{{Infobox medical condition | Name = 肺炎 | Image = PneumonisWedge09.JPG | Caption = 肺のX線写真。細菌性肺炎の特徴が見られる。 | pronounce = {{IPAc-en|n|juː|ˈ|m|əʊ|.|n|i|.|ə}} | field = 感染症学、呼吸器学 | DiseasesDB = 10166 | ICD10 = {{ICD10|J|12||j|09}}, {{ICD10|J|13||j|09}}, {{ICD10|J|14||j|09}}, {{ICD10|J|15||j|09}}, {{ICD10|J|16||j|09}}, {{ICD10|J|17||j|09}}, {{ICD10|J|18||j|09}}, {{ICD10|P|23||p|20}} | ICD9 = {{ICD9|480}}-{{ICD9|486}}, {{ICD9|770.0}} | MedlinePlus = 000145 | eMedicineSubj = search | eMedicineTopic = pneumonia | MeshID = D011014 }} '''肺炎'''(はいえん)とは、[[肺]]の炎症性疾患の総称である。 <!--Prevention and treatment--> 治療法はその原因によって異なり<ref name="NIH2011">{{cite web|title=What Is Pneumonia?|url=http://www.nhlbi.nih.gov/health/health-topics/topics/pnu|website=NHLBI|accessdate=2 March 2016|date=March 1, 2011}}</ref>、細菌性のものであれば[[抗生物質]]が用いられる<ref name="NIH2011Tx">{{cite web|title=How Is Pneumonia Treated?|url=http://www.nhlbi.nih.gov/health/health-topics/topics/pnu/treatment|website=NHLBI|accessdate=3 March 2016|date=March 1, 2011}}</ref>。重症の場合は一般的に[[入院]]となる<ref name="NIH2011"/>。[[酸素飽和度]](SpO<sub>2</sub>)が低い場合は[[酸素吸入]]を行う<ref name="NIH2011Tx"/>。 肺炎の[[予防]]方法としては、[[肺炎レンサ球菌]]による感染性の肺炎に限れば[[ワクチン]]によって予防可能ではある。他の予防方法としては、[[手洗い]]、[[禁煙]]などがある<ref name="NIH2011Pre">{{cite web|title=How Can Pneumonia Be Prevented?|url=http://www.nhlbi.nih.gov/health/health-topics/topics/pnu/prevention|website=NHLBI|accessdate=3 March 2016|date=March 1, 2011}}</ref>。 <!--Prognosis, epidemiology, history--> 肺炎は世界で年間4.5億人(人口の7%)が発症しており、うち400万人が死亡している<ref name="Lancet11">{{cite journal|last=Ruuskanen|first=O|author2=Lahti, E |author3=Jennings, LC |author4= Murdoch, DR |title=Viral pneumonia|journal=Lancet|date=2011-04-09|volume=377|issue=9773|pages=1264–75|pmid=21435708|doi=10.1016/S0140-6736(10)61459-6}}</ref><ref name="CochraneTx13">{{cite journal|last1=Lodha|first1=R|last2=Kabra|first2=SK|last3=Pandey|first3=RM|title=Antibiotics for community-acquired pneumonia in children.|journal=The Cochrane database of systematic reviews|date=4 June 2013|volume=6|pages=CD004874|pmid=23733365|doi=10.1002/14651858.CD004874.pub4}}</ref>。日本の死亡統計においても、肺炎は死亡原因としては2018年で第5位である<ref>{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai18/dl/kekka30-190626.pdf 結果の概要]}} [https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai18/ 平成30年(2018)人口動態統計月報年計(概数)の概況]</ref>。 肺炎は19世紀には[[ウイリアム・オスラー]]に「男性死因の代表格」として描かれていたが<ref>{{cite book | last=Osler | first=William | title=Principles and Practice of Medicine, 4th Edition | year=1901 | publisher=D. Appleton and Company | location=New York | pages=108 | url=http://mcgovern.library.tmc.edu/data/www/html/people/osler/PPM4th/OP400067.htm}}</ref>、20世紀には抗生物質とワクチンの普及により{{仮リンク | 生存率 | en | Survival rate}}が改善された<ref name="Lancet11"/>。しかしながら途上国では、現在も主要な死因の一つとされ、高齢者と若年者、5歳未満の子供において代表的な慢性疾患である<ref>{{Cite web|和書| url=https://medical.jiji.com/prtimes/22220 | title=11月12日は世界肺炎デー:COVID-19で医療用酸素不足、医療サービスの中断も影響 | publisher=時事メディカル | date=2020-11-12 | accessdate=2020-11-18}}</ref><ref name="Lancet11"/><ref>{{cite book | last=George | first=Ronald B. | title=Chest medicine : essentials of pulmonary and critical care medicine | year=2005 | publisher=Lippincott Williams & Wilkins | location=Philadelphia, PA | isbn=9780781752732 | pages=353 | url=https://books.google.com/books?id=ZzlX2zJMbdgC&pg=PA353 | edition=5th}}</ref>。上で述べたように現代日本の全世代の死亡統計でも死因の第4位であり、しかも85 - 89歳では死因第3位、90 - 99歳では第2位、と年齢が上がるにつれ次第に順位が上がる<ref name="mhlw_deth8" />([[高齢化社会]]になればなるほど肺炎で死亡する人の割合が増え、医療側もそれを重視し、念入りに予防策を講じなければならないことになる)。 しばしば肺炎は、死に近づいている者の象徴として描かれており「老人の友」と呼ばれている<ref name="EBMED05">{{cite journal|last=Eddy|first=Orin|title=Community-Acquired Pneumonia: From Common Pathogens To Emerging Resistance|journal=Emergency Medicine Practice|date=Dec 2005|volume=7|issue=12|url=https://www.ebmedicine.net/topics.php?paction=showTopic&topic_id=118}}</ref>。 {{TOC limit|3}} == 疫学 == [[File:Lower respiratory infections world map-Deaths per million persons-WHO2012.svg|thumb|upright=1.3|人口100万あたり下気道感染症による死者数(2012年){{div col|colwidth=7em}} {{legend|#ffff20|24-120}}{{legend|#ffe820|121-151}}{{legend|#ffd820|152-200}}{{legend|#ffc020|201-241}}{{legend|#ffa020|242-345}}{{legend|#ff9a20|346-436}}{{legend|#f08015|437-673}}{{legend|#e06815|674-864}}{{legend|#d85010|865-1,209}}{{legend|#d02010|1,210-2,085}} {{div col end}}]] [[File:Lower respiratory infections world map - DALY - WHO2004.svg|thumb|upright=1.3|人口100万あたり下気道感染症の[[障害調整生命年]](WHO, 2004年){{div col|colwidth=10em}} {{legend|#b3b3b3|データなし}} {{legend|#ffff65|less than 100}} {{legend|#fff200|100–700}} {{legend|#ffdc00|700–1,400}} {{legend|#ffc600|1,400–2,100}} {{legend|#ffb000|2,100–2,800}} {{legend|#ff9a00|2,800–3,500}} {{legend|#ff8400|3,500–4,200}} {{legend|#ff6e00|4,200–4,900}} {{legend|#ff5800|4,900–5,600}} {{legend|#ff4200|5,600–6,300}} {{legend|#ff2c00|6,300–7,000}} {{legend|#cb0000|7,000を超える}} {{div col end}}]] 肺炎は年齢・性別に関係なく一般的な病気であり、全世界で毎年4.5億人が発症している<ref name="Lancet11"/>。その死者は年間400万人に上り、世界における死者の約7%を占めている<ref name="Lancet11"/><ref name="CochraneTx13"/>。有病率は5%以下の児童と、75歳以上の成人が最大で<ref name="Lancet11"/>、また先進国よりも途上国に5倍多い<ref name="Lancet11"/>。肺炎発症者のうち、ウイルス性肺炎が2億人を占めている<ref name="Lancet11"/>。 米国において肺炎は8番目の死因であった(2009年)<ref name="Clinic2011">{{cite journal | last=Nair | first=GB | author2=Niederman, MS | title=Community-acquired pneumonia: an unfinished battle | journal=The Medical clinics of North America | date=November 2011 | volume=95 | issue=6 | pages=1143–61 | pmid=22032432 | doi=10.1016/j.mcna.2011.08.007}}</ref>。日本の原因疾患別死亡者数の割合と順位では、肺炎は1947年は2位、1948年は4位、1949年から1951年で3位、1952年は5位、1953年は4位、1957年から1960年まで5位、1962年5位、1973年から1974年まで5位、1975年から2010年まで4位、2011年から2015年まで3位であり<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii10/dl/s03.pdf 厚生労働省>統計情報・白書>各種統計調査>厚生労働統計一覧>人口動態調査>人口動態統計(確定数)の概況>平成22年(2010)人口動態統計(確定数)の概況>人口動態統計年報 主要統計表(最新データ、年次推移)>14ページ 第7表 死因順位(第5位まで)別にみた死亡数・死亡率(人口10万対)の年次推移]</ref><ref name="mhlw-2011-jdt-06">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai11/toukei06.html 厚生労働省>人口動態統計>平成23年度>第6表 死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別]</ref><ref name="mhlw-2011-jdt-07">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai11/toukei07.html 厚生労働省>人口動態統計>平成23年度>第7表 死因順位(1~5位)別死亡数・死亡率(人口10万対),性・年齢(5歳階級)別]</ref><ref name="mhlw-2013-jdt-06">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai13/dl/h6.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成25年度>第6表 死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別]</ref><ref name="mhlw-2013-jdt-07">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai13/dl/h7.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成25年度>第7表 死因順位(1~5位)別死亡数・死亡率(人口10万対),性・年齢(5歳階級)別]</ref><ref name="mhlw-2015-jdt-06">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai15/dl/h6.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成27年度>第6表 死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別]</ref><ref name="mhlw-2015-jdt-07">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai15/dl/h7.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成27年度>第7表 死因順位(1~5位)別死亡数・死亡率(人口10万対),性・年齢(5歳階級)別]</ref>、2015年度は死亡者数129万0428人のうち、肺炎による死者数は12万0846人であり<ref name="mhlw-2015-jdt-06" /><ref name="mhlw-2015-jdt-07" />、死亡者総数に対する割合は9.4%である。 === 児童 === 2008年には、およそ1億5600万人の児童が肺炎を発症したが、そのうち[[発展途上国]]の肺炎発症者は1億5100万人にのぼり、先進国の児童の肺炎発症者は約500万人だった<ref name=Lancet11/>。 2010年には約130万人の児童が肺炎で死亡したが、そのうち18%は5歳未満であり、またこのうち95%は発展途上国の児童で占められていた<ref name=Lancet11/><ref name=Develop11>{{cite journal | author = Singh V, Aneja S | title = Pneumonia - management in the developing world | journal = Paediatric Respiratory Reviews | volume = 12 | issue = 1 | pages = 52-59 | date = March 2011 | pmid = 21172676 | doi = 10.1016/j.prrv.2010.09.011 }}</ref><ref>{{cite journal | author = Liu L, Johnson HL, Cousens S, Perin J, Scott S, Lawn JE, Rudan I, Campbell H, Cibulskis R, Li M, Mathers C, Black RE | title = Global, regional, and national causes of child mortality: an updated systematic analysis for 2010 with time trends since 2000 | journal = Lancet | volume = 379 | issue = 9832 | pages = 2151-261 | date = June 2012 | pmid = 22579125 | doi = 10.1016/S0140-6736(12)60560-1 }}</ref>。児童の患者数が最も多いのは[[インド]](4300万人)であり、次いで[[中国]](2100万人)、[[パキスタン]](1000万人)が続く<ref>{{cite journal | author = Rudan I, Boschi-Pinto C, Biloglav Z, Mulholland K, Campbell H | title = Epidemiology and etiology of childhood pneumonia | journal = Bulletin of the World Health Organization | volume = 86 | issue = 5 | pages = 408-416 | date = May 2008 | pmid = 18545744 | pmc = 2647437 | doi = 10.2471/BLT.07.048769 }}</ref>。肺炎は[[低所得国]]の児童の主な死因となっている<ref name=Lancet11/><ref name=CochraneTx13/>。[[世界保健機関]]は、[[赤ちゃん|新生児]]の死亡者の3分の1が肺炎によって占められていると推定している<ref name=garenne>{{cite journal | author = Garenne M, Ronsmans C, Campbell H | title = The magnitude of mortality from acute respiratory infections in children under 5 years in developing countries | journal = World Health Statistics Quarterly. Rapport Trimestriel De Statistiques Sanitaires Mondiales | volume = 45 | issue = 2-3 | pages = 180-191 | year = 1992 | pmid = 1462653 }}</ref>。これらの死亡のうち約半分は効果的な[[ワクチン]]が入手可能な[[病原菌]]によって引き起こされるものであるため、予防が可能である<ref>{{cite journal | author = WHO | title = Pneumococcal vaccines. WHO position paper | journal = Releve Epidemiologique Hebdomadaire | volume = 74 | issue = 23 | pages = 177-183 | date = June 1999 | pmid = 10437429 }}</ref>。 2011年には、アメリカで肺炎は乳幼児及び児童が救急隊によって搬送され入院するもっとも一般的な理由となっていた<ref>{{cite web | author = Weiss AJ, Wier LM, Stocks C, Blanchard J | title = Overview of Emergency Department Visits in the United States, 2011 | work = HCUP Statistical Brief #174 | publisher = Agency for Healthcare Research and Quality | location = Rockville, MD | date = June 2014 | url = https://www.hcup-us.ahrq.gov/reports/statbriefs/sb174-Emergency-Department-Visits-Overview.jsp | deadurl = no | archive-url = https://web.archive.org/web/20140803154735/http://www.hcup-us.ahrq.gov/reports/statbriefs/sb174-Emergency-Department-Visits-Overview.jsp | archive-date = 3 August 2014 |accessdate= 2018年9月5日 | df = dmy-all }}</ref>。 {| class="wikitable" style="width:40em" |- !'''日本の肺炎死亡者数の推移'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1a.html | title = 人口動態調査 | publisher = 厚生労働省 | accessdate = 2022-01-23 }}</ref>{{Refnest|group="注"|なお、2020年の「新型コロナウイルス感染症」の死亡数は3,466人である<ref>{{Cite report|和書| author = 厚生労働省 | author-link = 厚生労働省 | title = 令和2年(2020)人口動態統計(確定数)の概況 結果の概要 | date = 2021-09-10 | url = https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei20/dl/02_kek.pdf |format=PDF }}</ref>。}} |- |{{Graph:Chart|width=400|height=200|yAxisTitle=死亡者数(人)|legend=凡例|type=line|x=1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020 |y1=79629,70971,78904,79952,93994,86938,85305,87421,94942,95534,107241,107242,110159,115317,112004,118888,124749,123925,122969,119650,120846,119300,96841,94661,95518,78450|colors=#800000aa,#80ff8000 |y1Title=死亡者数(人)}} |} == 原因 == [[File:Streptococcus pneumoniae.jpg|thumb|[[肺炎レンサ球菌]]の電子顕微鏡写真]] 感染性肺炎は[[細菌性肺炎]]、[[ウイルス性肺炎]]、真菌性肺炎に分けられる。一般に[[風邪|感冒]]・[[風邪|上気道炎]]後の続発性肺炎は細菌性肺炎であるが、時にウイルスそのものによる肺炎・間質性肺炎をきたすことがある。 [[インフルエンザ]]ウイルス肺炎、[[コロナウイルス]]肺炎、[[麻疹]]肺炎など。病原体が原因ではない非感染性の肺炎には[[アレルギー]]性の[[過敏性肺炎]]がある。 === 細菌 === [[File:MRSAPneumoCT.png|thumb|MRSAによる肺炎のCT写真]] {{Main|細菌性肺炎}} 細菌は[[市中肺炎]](CAP)で最も一般的な原因であり、その50%のケースでは[[肺炎レンサ球菌]]単独によるものであった<ref name="Rad07">{{cite journal|last=Sharma|first=S|author2=Maycher, B |author3=Eschun, G |title=Radiological imaging in pneumonia: recent innovations|journal=Current Opinion in Pulmonary Medicine|date=May 2007 |volume=13|issue=3|pages=159–69|pmid=17414122|doi=10.1097/MCP.0b013e3280f3bff4}}</ref><ref name="EOP10">{{cite journal |author=Anevlavis S |author2=Bouros D |title=Community acquired bacterial pneumonia|journal=Expert Opin Pharmacother |volume=11 |issue=3 |pages=361–74 |date=February 2010|pmid=20085502|doi=10.1517/14656560903508770 }}</ref>。 その他の菌では[[インフルエンザ菌]](20%)、[[クラミジア]](13%)、[[マイコプラズマ]](3%)<ref name="Rad07"/>ほか、[[黄色ブドウ球菌]]、[[モラクセラ・カタラーリス]]、[[レジオネラ菌]]、[[グラム陰性菌]]などであった<ref name="EBMED05"/>。 それが薬剤耐性菌であることも多く、薬剤耐性肺炎球菌(DRSP)や、[[メチシリン耐性黄色ブドウ球菌]](MRSA)などと呼ばれている<ref name="Clinic2011"/>。 * [[非定型肺炎]] ** [[マイコプラズマ肺炎]] *** [[マイコプラズマ]]による肺炎。潜伏期2〜3週間。統計は、院内肺炎ではなく[[市中肺炎]]が多い。検査は、血液検査では[[寒冷凝集反応]]や抗マイコプラズマ抗体の上昇を見る。胸部[[X線写真]]は区域性の所見を示さず、すりガラス状の間質性陰影を見ることが多い。ルーチン検査の喀痰培養検査でも検出できないので参考にならない。診断は、抗マイコプラズマ抗体の上昇で確定診断になる。 治療は、抗マイコプラズマ抗体が上昇するまで数日かかるため確定診断を待ってから治療するのでは遅いので、寒冷凝集反応から経験的治療に基づいて化学療法を行う。化学療法は[[抗生物質]]を用いる。[[マイコプラズマ]]は細胞壁を持たないので[[β-ラクタム系抗生物質|β-ラクタム系]]等の細胞壁合成阻害薬は無効である。 また、[[アミノグリコシド]]系も気道移行性が悪いので無効である。[[マクロライド]]系、[[テトラサイクリン]]系、[[ケトライド]]系を第一選択薬とする。 === ウイルス === 肺炎は、成人では{{分数|1|3}}、児童では15%がウイルスを原因としている<ref name="M31">Murray and Nadel (2010). Chapter 31.</ref>。一般的には[[ライノウイルス]]、[[コロナウイルス]]、[[インフルエンザウイルス]]、[[RSウイルス]]、[[アデノウイルス]]、[[パラインフルエンザ]]など<ref name="Lancet11"/><ref name="Viral09">{{cite journal |author=Figueiredo LT |title=Viral pneumonia: epidemiological, clinical, pathophysiological, and therapeutic aspects |journal=J Bras Pneumol |volume=35 |issue=9 |pages=899–906 |date=September 2009 |pmid=19820817 |doi=10.1590/S1806-37132009000900012}}</ref>。 [[単純ヘルペスウイルス]]ではめったに起こらないが、例外として新生児、癌患者、臓器移植受容者、重度熱傷が挙げられる<ref name="Text2010">{{cite book|last=Behera|first=D.|title=Textbook of pulmonary medicine|year=2010|publisher=Jaypee Brothers Medical Pub.|location=New Delhi|isbn=8184487495|pages=391–394|url=https://books.google.com/books?id=0TbJjd9eTp0C&pg=PA391|edition=2nd }}</ref>。 [[サイトメガロウイルス]]は、臓器移植患者や免疫不全患者に起こり得る<ref name="M31"/><ref name="Text2010"/>。 === 菌類 === [[File:Cryptococcus neoformans using a light India ink staining preparation PHIL 3771 lores.jpg|thumb|right|[[クリプトコッカス]]]] [[ヒストプラスマ・カプスラーツム]]、[[ブラストミセス]]、[[クリプトコッカス]]、[[ニューモシスチス]]、[[コクシジオイデス]]などが挙げられる。 === 寄生虫 === [[トキソプラズマ]]、[[糞線虫]]、[[回虫]]、[[マラリア原虫]]など。以前原虫とされていたニューモシスチス肺炎は現在は真菌に分類される。 === 非感染性 === [[File:Aspiration pneumonia201711-3264.jpg|thumb|誤嚥性肺炎(右側下葉)]] * 機械的肺炎 ** [[誤嚥性肺炎]] (嚥下性肺炎) ** 閉塞性肺炎 ** 吸入性肺炎 * 薬剤性肺炎<ref>{{Cite journal|和書|author=花岡正幸 |title=薬剤性肺炎の病態、診断、治療 |journal=日本臨床薬理学会学術総会抄録集 |publisher=日本臨床薬理学会 |year=2021 |volume=第42回日本臨床薬理学会学術総会 |pages=1-S05-1 |naid=130008130775 |doi=10.50993/jsptsuppl.42.0_1-S05-1 |url=https://doi.org/10.50993/jsptsuppl.42.0_1-S05-1}}</ref> ** [[インターフェロン]] - [[間質性肺炎]]をきたすことがある。 ** [[抗がん剤]] ** [[漢方薬]] * 症候性肺炎 ** [[膠原病]]性肺炎 ([[関節リウマチ]]におけるリウマチ肺が代表) * その他 ** [[好酸球性肺炎]]、過敏性肺炎 ** 化学性肺炎 *** フッ素化合物(防水スプレー)の吸引<ref>{{Cite journal|和書|author=齋藤とも子, 豊嶋浩之, 久保田倍生, 森浩一, 徳永紗織, 岩下智之, 安部睦美 |year=2008 |url=https://doi.org/10.32294/mch.12.1_89 |title=防水スプレーの吸入により急性肺障害を呈した一例 |journal=松江市立病院医学雑誌 |ISSN=1343-0866 |publisher=松江市立病院 |volume=12 |issue=1 |pages=89-93 |doi=10.32294/mch.12.1_89 |naid=130007687797 |CRID=1390845713086082048}}</ref> == 症状 == [[発熱]]、[[咳]]、[[痰]]、[[呼吸困難]]、全身倦怠感、胸部痛など。初期はのどの痛みはあまりないが、痰を排出しようと咳を繰り返すことで炎症を起こす場合がある。 しかし、高齢者の場合、発熱がみられないなど非典型的な症状を呈することが多く、食欲低下、何となく元気がない、といったちょっとした体調の変化をきっかけとして肺炎の診断につながる例も少なくないので注意が必要である。 {|class="wikitable" text-align:center" ; margin-left:2em" |+ 症状の頻度<ref name="Tint10">{{cite book |author=Tintinalli, Judith E. |title=Emergency Medicine: A Comprehensive Study Guide (Emergency Medicine (Tintinalli))|publisher=McGraw-Hill Companies |location=New York|year=2010|pages=480 |isbn=0-07-148480-9 |oclc= |doi= |accessdate=}}</ref> |- ! 症状 !! 頻度 |- | 咳 || 79–91% |- | 疲労 || 90% |- | 熱 || 71–75% |- | 息切れ || 67–75% |- | 喀痰 || 60–65% |- | 胸痛 || 39–49% |- |} == 診断 == [[File:RtPneuKidMark.png|thumb|画像診断にて見られる影]] 身体所見 ([[聴診]]所見など体の症状)、胸部[[X線写真]]、胸部[[コンピュータ断層撮影|CT]]、採血 ([[白血球]]数、[[C反応性蛋白|CRP]]値、[[シアル化糖鎖抗原KL-6|KL-6]]、[[乳酸脱水素酵素|LDH]])、喀痰培養など。従来は行われていなかったが[[超音波断層撮影]]の有用性が報告されている<ref name="ShahTunik2013">{{cite journal|last1=Shah|first1=Vaishali P.|last2=Tunik|first2=Michael G.|last3=Tsung|first3=James W.|title=Prospective Evaluation of Point-of-Care Ultrasonography for the Diagnosis of Pneumonia in Children and Young Adults|journal=JAMA Pediatrics|volume=167|issue=2|year=2013|pages=119|issn=2168-6203|doi=10.1001/2013.jamapediatrics.107}}</ref><ref name="DargeChen2013">{{cite journal|last1=Darge|first1=Kassa|last2=Chen|first2=Aaron|title=Ultrasonography of the Lungs and Pleurae for the Diagnosis of Pneumonia in Children|journal=JAMA Pediatrics|volume=167|issue=2|year=2013|pages=187|issn=2168-6203|doi=10.1001/2013.jamapediatrics.409}}</ref>。 喀痰の[[グラム染色]]は有用と考えられ、[[好中球]]による貪食像(どんしょくぞう: 好中球が細菌を取り込んでいる像)は起炎菌の同定(原因となる病原体を特定すること)につながることもある([[肺炎球菌]]では特に)。ただし、臨床研究では喀痰グラム染色と起炎菌とは一致しないと結論され、アメリカのガイドラインでは推奨されていない。 近年は迅速診断キットにより[[肺炎レンサ球菌|肺炎球菌]]、[[レジオネラ]]については尿を検体(検査をする対象物)として検査が可能となった (商品名 BinaxNOW肺炎球菌、レジオネラ。[[化膿レンサ球菌|溶血連鎖球菌]]の検査キットBinaxStrepAは咽頭粘液を検体とする)。 なお、肺炎の原因菌の中でも特殊な結核に付いては、常に鑑別にあげなければならない。 [[結核]]を疑う場合は、チール・ニールセン染色([[:en:Ziehl-Neelsen stain|Ziehl-Neelsen stain]])や蛍光塗抹検査、[[T-SPOT]]などを行う。 === 分類 === 肺炎の分類としては、いくつかの異なった分類が存在する。 ==== 罹患場所による分類 ==== * [[市中肺炎]](community-acquired pneumonia; CAP): 普通の生活のなかで発症した肺炎。なお、退院後2週間までに起こった肺炎は院内肺炎と見なす。これは原因菌の想定を妥当なものとするためである。 * 院内肺炎(hospital-acquired pneumonia; HAP): [[医療機関]]で治療中の患者、他の疾患を持つ患者に発症した肺炎。なお、入院後48時間までに発症した肺炎は市中肺炎と見なす。これも原因菌の想定を妥当なものとするためである。 * 医療ケア関連肺炎(Healthcare-associated Pneumonia; HCAP): 老人ホームなどの医療・介護施設で発症した肺炎。<ref>進藤有一郎、長谷川好規:医療ケア関連肺炎. 『化学療法の領域』27(4)、p117-124、2011.</ref> ==== 病変の形態による分類 ==== * [[肺胞性肺炎]] ** 大葉性肺炎 ** [[気管支肺炎]] * [[間質性肺炎]] * 器質化肺炎<ref>[https://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=23 特発性器質化肺炎] 日本呼吸器学会</ref> == 予防 == ビタミンCの肺炎予防と治療に対する効果の、2013年の[[コクラン共同計画|コクラン]]レビューは、特殊な集団における証拠があるがさらなる調査が必要とし、特にビタミンCが少ない場合にどうなるかさらなる研究を求めたが、安く安全性が高いため、血中ビタミンC濃度が低い肺炎患者への使用は妥当だとした<ref name="pmid23925826">{{cite journal|author=Hemilä H, Louhiala P|title=Vitamin C for preventing and treating pneumonia|journal=Cochrane Database Syst Re|issue=8|pages=CD005532|date=August 2013|pmid=23925826|doi=10.1002/14651858.CD005532.pub3|url=http://cochranelibrary-wiley.com/doi/10.1002/14651858.CD005532.pub3/full}} [http://www.cochrane.org/ja/CD005532/fei-yan-noyu-fang-tozhi-liao-nidui-surubitaminc 肺炎の予防と治療に対するビタミンC]</ref>。 肺炎レンサ球菌による肺炎の場合、[[肺炎球菌ワクチン]]の投与によってかなりの程度予防することができる。このワクチンにはいくつかの種類があり、投与の対象も異なる。日本では1988年に成人用の23価不活化ワクチンが承認され<ref>「予防接種の現場で困らない まるわかりワクチンQ&A」p227 中野貴司編著 日本医事新報社 2015年4月10日第1版 ISBN 978-4-7849-4473-6</ref>、2014年には65歳以上の高齢者に対する定期接種の対象となった<ref>「ワクチンと予防接種のすべて 見直されるその威力」p90 尾内一信・高橋元秀・田中慶司・三瀬勝利編著 金原出版 2019年10月15日改訂第3版、ISBN 978-4307170741。</ref>。次いで2009年には小児用の7価ワクチンが承認され<ref>「予防接種の現場で困らない まるわかりワクチンQ&A」p227 中野貴司編著 日本医事新報社 2015年4月10日第1版 ISBN 978-4-7849-4473-6</ref>、2013年4月には定期接種の対象となり、同年11月には13価のワクチンに切り替わった<ref>「ワクチンと予防接種のすべて 見直されるその威力」p91 尾内一信・高橋元秀・田中慶司・三瀬勝利編著 金原出版 2019年10月15日改訂第3版、ISBN 978-4307170741。</ref>。ハーバード大学医学部は、65 歳以上の人に肺炎球菌ワクチンの接種を強く推奨している<ref>{{Cite web |title=Fall vaccination roundup |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/fall-vaccination-roundup |website=Harvard Health |date=2022-09-01 |access-date=2022-08-18 |language=en |first=Heidi |last=Godman}}</ref>。 == 治療 == 細菌性肺炎が疑われる場合は原因菌に抗力のある[[抗生物質]]を投与するが、原因菌特定には、喀痰培養同定・感受性検査など、時間のかかることが多く菌の種類を推定して抗生剤の選択を行うことが多い。 [[肺真菌症]]では抗真菌薬、[[ウイルス]]性肺炎では対応した抗ウイルス薬を用いる。 施設による違いはあるが、米国式のやり方をとっている施設では、菌の種類は推定せず、[[市中肺炎]]であるか[[院内感染|院内肺炎]]であるかによって抗生剤を使い分ける。それは、胸部レントゲン像で菌の種類をみわけることはできないとする臨床研究の結果にしたがったものである。 しかし、日本の一般的な医療機関では、まず広域抗生剤といわれる多くの種類の細菌に効く抗生剤を、患者の状況などから経験的に投与し、培養検査(肺炎の場合喀痰を培養し、原因菌を調べ、またどの抗生剤が有効かを調べる検査)の結果が出た時点で抗生剤を適宜変更するというのが標準である。 * 入院を必要としない市中肺炎では、[[肺炎球菌]]、[[インフルエンザ菌]]、[[クラミジア科|クラミジア]]、[[マイコプラズマ]]、[[黄色ブドウ球菌]]、[[モラクセラ]]、[[レジオネラ]]を主なターゲットとして[[マクロライド系]]抗生剤 ([[クラリスロマイシン]]、[[アジスロマイシン]]) や新世代[[ニューキノロン]] ([[レボフロキサシン]]、[[ガレノキサシン]]) を用いるが、肺炎球菌に対するクラリスロマイシンの感性が低下(効果が不十分)していることを初め、ここ数年では顕著な変化は見られないものの、風邪に対する抗菌薬の乱用が一因と考えられる各種の抗菌薬に対する耐性化が深刻な問題となっている。入院が必要とされる市中肺炎では、βラクタマーゼ阻害剤を含む[[ペニシリン]]製剤であるアンピシリン・スルバクタム配合剤の高容量投与や、ピペラシリン・タゾバクタム配合剤が用いられることが多い。 ** 細菌性市中肺炎の原因となる頻度としては肺炎球菌が最も多く、特に65歳以上では28.1 %を占めていた。<ref>{{Cite Journal | author=Atsushi Saito, Shigeru Kohno, Toshiharu Matsushima, Akira Watanabe, Kotaro Oizumi, Keizo Yamaguchi, Hiroshi Oda, | title=Prospective multicenter study of the causative organisms of community-acquired pneumonia in adults in Japan | Journal=Journal of Infection and Chemotherapy | volume=12 | issue=2 | year=2006 | pages=63-69 | ISSN=1341-321X | url=https://doi.org/10.1007/s10156-005-0425-8 |ref=harv}}</ref>また65歳以上では[[クレブシエラ]]などのグラム陰性桿菌による肺炎も4.4 %ほどみられている。<br>近年では肺炎球菌のペニシリン耐性化が進んでおりPISP/PRSPは2003年の調査では59.8 %にも及んだ。<ref>{{Cite journal|和書|author=猪狩淳 |url=https://search.jamas.or.jp/link/ui/2004264031 |title=順天堂医院における耐性菌の年次推移と現状 |journal=順天堂医学 |issn=00226769 |publisher=順天堂大学 |year=2004 |month=jun |volume=50 |issue=2 |pages=124-132 |naid=110004323315 |doi=10.14789/pjmj.50.124}}{{要購読}}</ref> * 入院を必要とする市中肺炎では、抗菌剤の投与は5日に留めることが推奨されている<ref>Vaughn VM et al. Excess antibiotic treatment duration and adverse events in patients hospitalized with pneumonia: A multihospital cohort study. Ann Intern Med 2019;171:153, {{doi|10.7326/M18-3640}}</ref><ref>Spellberg B and Rice LB. Duration of antibiotic therapy: Shorter is better. Ann Intern Med 2019;171:210. {{doi|10.7326/M19-1509}}</ref>(治療が上手くいっていない場合は薬剤を変更して、延長される)。 * 院内肺炎ではグラム陰性桿菌、たとえば[[緑膿菌]]や[[セラチア]]菌をターゲットとして第3世代[[セフェム系|セフェム]] (セフォタキシム等) を用いる。 * 過敏性肺炎では、原因抗体からの隔離<ref>[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/プロフェッショナル/05-肺疾患/間質性肺疾患/過敏性肺炎 過敏性肺炎] MSDマニュアル プロフェッショナル版</ref><ref>稲瀬直彦、「[https://doi.org/10.2169/naika.105.991 過敏性肺炎の最近の動向]」『日本内科学会雑誌』 105巻 2016年 6号 p.991-996, {{doi|10.2169/naika.105.991}}。</ref>。 === 小児の肺炎 === {{出典の明記|date=2015年10月20日 (火) 11:51 (UTC)|section=1}} 小児の肺炎では、経験的治療は大きく異なってくる。その違いは肺炎の起炎菌の違いによるものである。 新生児を除く乳幼児では、肺炎の3大起炎菌といえるのは[[インフルエンザ菌|インフルエンザ桿菌]]、肺炎球菌、[[モラキセラ・カタラーリス]]である。成人と異なり[[クレブシエラ]]属や緑膿菌は少ないため、第3世代セフェムよりも抗菌[[スペクトラム]]の狭い[[ペニシリン系抗生物質]]を選択するのが一般的である (施設によってはセフェムを選択するところもある)。 [[モラクセラ]] (モラキセラ、ブランハメラともいう) はほぼ100 %の株でβラクタム分解酵素 ([[β-ラクタマーゼ]]) を有するため、[[ベータラクタム分解酵素阻害薬]]を配合した抗菌薬製剤 ([[スルバクタム・アンピシリン]]、[[タゾバクタム・ピペラシリン]]など) を選択することが多い。喀痰塗抹[[グラム染色]]を参考にできるような施設では、肺炎球菌が疑わしい場合には[[アンピシリン]]などより狭いスペクトラムを持つ薬剤を選択する。 特に乳児では誤嚥性の肺炎も少なからず見られるが、高齢者と異なり誤嚥性肺炎でも緑膿菌感染症は少ないため、スルバクタム・アンピシリン (嫌気性菌にも有効であるため) を選択する。誤嚥性肺炎が疑わしい場合には、気道症状が治まるまで経口哺乳の禁止が必要となることもある。 学童以上の年齢ではマイコプラズマによる肺炎が多くなる。細菌性肺炎との鑑別はX線像ではまず不可能であり、血液所見 ([[好中球]]増加の有無、[[C反応性蛋白]](CRP)上昇の有無、マイコプラズマIgM迅速検査など) や全身状態、気道症状の程度などが参考となる。 マイコプラズマには[[β-ラクタム系抗生物質|βラクタム系の抗菌薬]]が無効であるが、[[テトラサイクリン系抗生物質]] ([[ミノサイクリン]]など) や[[ニューキノロン|ニューキノロン系抗菌薬]]は副作用の問題で小児には投与しにくい、あるいはできないため、[[マクロライド系抗生物質]]を選択する (永久歯が生えていない小児にテトラサイクリンを投与すると、後に生えた永久歯に黄色く色素沈着することがある。また骨成長障害が副作用としてみられることも知られている<ref>{{PDFlink|[http://database.japic.or.jp/pdf/newPINS/00062327.pdf 添付文書 テトラサイクリン系抗生物質製剤]}}</ref>。 ニューキノロン系多くではの小児への投与は、動物実験で関節障害が見られたために日本では禁忌となっている。[[トスフロキサシン]] (商品名:オゼックス小児用細粒) は例外で小児への適応症をもつ)。 基礎疾患や障害のある患児では、その疾患によって肺炎の起炎菌に特徴がある。また、過去の細菌検査の結果も起炎菌推定の助けになる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="mhlw_deth8">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html 厚生労働省、第8表]</ref> }} == 関連項目 == {{Commons category|Pneumonia}} * [[呼吸器学]] * [[歯周病]] * [[感染症]] * [[口腔細菌学]] * [[非定型肺炎]] * [[重症急性呼吸器症候群]] * [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)]] * {{仮リンク|肺炎で亡くなった著名人の一覧|en|List of pneumonia deaths}} == 外部リンク == * [https://www.jrs.or.jp/ 日本呼吸器学会] * {{Kotobank}} {{呼吸器疾患}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいえん}} [[Category:肺炎|*]]
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馬 (曖昧さ回避)
馬(うま、ま、ば)
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馬(うま、ま、ば)
{{Wiktionary|馬}} '''馬'''(うま、ま、ば) * 動物の[[ウマ]]。 * [[馬 (姓)]] - 漢姓のひとつ。 * [[馬 (シャンチー)]] - [[シャンチー]](中国象棋)の駒。 * [[馬 (チャンギ)]] - [[チャンギ]](朝鮮将棋)の駒。 * [[馬 (映画)]] - 1941年に製作された日本映画。 * [[ホースニュース・馬]] - [[競馬]][[予想紙|予想専門紙]]。 == 通称・略称 == === 地名 === * [[マレーシア]](馬来西亜)および[[マレー]](馬来)の略表記。 === 産業 === * 道路工事などで立ち入りを制限するための、移動式[[バリケード]]の通称。 * [[自動車]]の整備・展示用の固定式[[ジャッキ]]の通称。 === 娯楽 === * [[将棋]]における、以下の駒の略称。 ** [[竜馬]] ** [[桂馬]] - 上記に比べ、使われることはまれである(通常は桂)。 *** [[ごいた]]では各駒を一字で表記するが、桂馬に相当する駒は「馬」と表記する。 * [[ウマ (麻雀)]] - [[麻雀]]で、ゲーム終了時の順位によって増減される点数のこと。 === その他 === * 遊興費などの不足を徴収するために、客の帰宅に同行する店員を指す俗称「付け馬(付き馬)」の略称。{{see|[[落語]]の[[付き馬]]}} == 関連項目 == * {{prefix|ウマ}} * {{intitle|ウマ}} * {{prefix|馬}} * {{intitle|馬}} {{aimai}} {{デフォルトソート:うま}}
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ねずみ
ねずみ
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ねずみ
{{Wiktionary|ねずみ}} '''ねずみ''' ==一覧== * [[ネズミ]] - 哺乳類ネズミ目に属する[[動物]]。 * [[ねずみ (落語)]] - [[落語]]の演目の一つ。 * [[関節遊離体]] - 俗にネズミと呼ばれる。 * [[松田佑貴]]の旧・[[芸名]]の一つ。 * [[今村ねずみ]] - [[俳優]]、[[演出家]]。[[THE CONVOY]]の[[経営学|主宰者]]。 * [[鼠色]] * [[鼠宿]] - 長野県にあった宿場。 * ねずみ - 漢字の部首・[[鼠部]]の通称の一つ。 == 関連項目 == * {{Prefix|ねずみ}}、{{Prefix|鼠}} * {{Intitle|ねずみ}}、{{Intitle|鼠}} * [[Wikipedia:索引 ねす#ねすみ]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ねすみ}}
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牛 (曖昧さ回避)
牛(うし、ぎゅう)
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牛(うし、ぎゅう) ウシ(牛) - 哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物。 丑 - 十二支のひとつ。 牛部 - 漢字の部首のひとつ。 牛肉 - ウシの食用肉。 牛宿 - 二十八宿のひとつ。 牛 (姓) - 漢姓のひとつ。 牛枠 - 河川治水工事の一種。牛枠のほかに聖牛、菱牛などいくつか種類がある。 莫言の小説。 伊藤永之介の小説。
'''牛'''(うし、ぎゅう) {{Wiktionary|牛}} * [[ウシ]](牛) - [[哺乳類|哺乳綱]][[鯨偶蹄目]][[ウシ科]][[ウシ亜科]]の動物。 * [[丑]] - 十二支のひとつ。 * [[牛部]] - 漢字の部首のひとつ。 * [[牛肉]] - ウシの食用肉。 * [[牛宿]] - [[二十八宿]]のひとつ。 * [[牛 (姓)]] - 漢姓のひとつ。 * [[牛枠]] - 河川治水工事の一種。牛枠のほかに聖牛、菱牛などいくつか種類がある。 * [[莫言]]の小説。 * [[伊藤永之介]]の小説。 == 関連項目 == * {{prefix|牛}} * {{intitle|牛}} {{デフォルトソート:うし}} {{aimai}}
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竜(りゅう、りょう、たつ、龍)は、神話・伝説の生きもの。西洋のドラゴンとの違いについては当該項目参照。 旧字体では「龍」で、「竜」は「龍」の略字であるが、古字でもある。「龍」は今日でも広く用いられ、人名用漢字にも含まれている。中華人民共和国で制定された簡体字では「龙」の字体が用いられる。「りょう」は正音、「りゅう」は慣用音となる。 英語の dragon(や他の西洋諸語におけるこれに相当する単語)の訳語として「竜」が用いられるように、巨大な爬虫類を思わせる伝説上の生物を広く指す場合もある。さらに、恐竜をはじめとする爬虫類の種名や分類名に用いられる saurus(σαῦρος、トカゲ)の訳語としても「竜」が用いられている。このように、今日では広範な意味を持つに至っている。 中国の竜は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説をはじめとして、中国では皇帝のシンボルとして扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。 中華人民共和国内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃に存在した紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。 恐竜など大型動物の化石は竜の骨(竜骨)と信じられ、長く漢方の材料として使用された。 竜を意味する辰は、十二支における12種類の動物の一つである。また、竜生九子という9つの子を産んだという。 竜(やドラゴン)の伝承の発端としては、クジラや恐竜などの大型動物の骨や化石、ワニやオオトカゲなどの爬虫類、人間の本能的な蛇などへの恐怖などの仮説が挙げられている。青木良輔は、竜の起源は、古代に長江や漢水に残存していたワニの一種(マチカネワニ)であり、寒冷化や人類による狩猟により絶滅した後、伝説化したものだと主張している。これは現在残っている竜の図像の歴史的変化からも窺えるとのことである。 竜の起源に関する正確な定説は存在しないが、インドの蛇神であり水神でもあるナーガの類も、仏典が中国に伝わった際、「竜」や「竜王」などと訳され、八部衆の一として組み込まれた。そうした関係から、仏教伝来以後の中国の竜もまた、蛇神ナーガのイメージから影響を受けたことは想像に難くない。例えば、道教における竜王は、ほとんどインドのナーガラージャと同じ性質を持つ。しかし、仏教が中国に伝わる前に、中国の竜はすでに雨水をつかさどるイメージがあった(例えば応竜)。ちなみに日本でヒンドゥー教など他の聖典や文学などを翻訳する場合でも、それらインドの神格を「蛇」ないし「竜」とするのが通例となっている。 竜にも善悪があり、法行竜と非法行竜があるとされる。また竜には、一つに熱風熱沙に焼かれる苦悩、二つに住居を悪風が吹きさらし宝を失い衣が脱げる苦悩、三つに金翅鳥(こんじちょう、迦楼羅)に食される苦悩があるとされる(ただし阿耨達池に住む竜王にはこの苦悩はない)。 仏教では、釈迦が生誕した際に二匹の竜が清浄水を灌ぎ、成道時に七日間の降雨を釈迦の身を覆って守護した。また仏が毒龍を降伏させたり盲竜を治癒させるなどの多くの説話がある。また法華経提婆達多品では、八歳の竜女の成仏が説かれている。 彦火火出見尊(初代天皇の神武天皇)は、竜の腹から生まれており、日本神話に登場する高志(のちの越)の八岐大蛇、海神の八尋和邇の龍宮が、現在に伝わる。もともと日本にあった自然を神として崇拝する信仰と中国から伝来した文様や中国の竜とが融合して日本の竜とされる。四神・五獣と繋がり、特に青竜は古墳などに現在の姿で描かれて有名である。神話の八岐大蛇伝説と仏教の八大竜王伝説などが習合した倶利伽羅竜、九頭竜、善女竜王(清瀧権現)伝承も有名。玄武とも繋り北の越国など辺りの竜を黒竜とした。蜃気楼に竜宮・霊亀蓬莱山が現れて吉祥とされる。 治水や灌漑技術が未熟だった時代には、河川の氾濫や旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたりした。その象徴が、神道では櫛名田比売(くしなだひめ)などとして語られ、仏教では、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いの行事が行われた。神泉苑(二条城南)で空海が祈りを捧げて善女竜王(清瀧権現)を呼び、雨を降らせたという逸話が有名である。 また、剣は、炎の竜の化身とされており、八岐大蛇から生まれた剣は天皇であることを表す神器として伊勢神宮(後に熱田神宮)に天叢雲剣(のちに草薙剣)が祭られ、また、守り神とされた。中世ころには刀剣、兜に竜をかたどり戦が行われた。 他にも水の神として、また戦いの神として各地で民間信仰の対象として広まった。日本列島が水の国であることを象徴する。 ドラゴンは、ヨーロッパの文化で共有されている伝承や神話における伝説上の生物である。もとは天使で、天上から堕ちた天使のうちのひとつとされる。その姿はトカゲあるいはヘビに似ている。想像上の動物であるが、かつては実在の生きものとされていた。 英語では、小さい竜や竜の子はドラゴネット (dragonet) という。
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竜(りゅう、りょう、たつ、龍)は、神話・伝説の生きもの。西洋のドラゴンとの違いについては当該項目参照。 旧字体では「龍」で、「竜」は「龍」の略字であるが、古字でもある。「龍」は今日でも広く用いられ、人名用漢字にも含まれている。中華人民共和国で制定された簡体字では「龙」の字体が用いられる。「りょう」は正音、「りゅう」は慣用音となる。 英語の dragon(や他の西洋諸語におけるこれに相当する単語)の訳語として「竜」が用いられるように、巨大な爬虫類を思わせる伝説上の生物を広く指す場合もある。さらに、恐竜をはじめとする爬虫類の種名や分類名に用いられる saurus(σαῦρος、トカゲ)の訳語としても「竜」が用いられている。このように、今日では広範な意味を持つに至っている。
{{Redirect|龍||竜 (曖昧さ回避)}} [[ファイル:Neun-Drachen-Mauer.jpg|thumb|320px|北京・[[紫禁城|故宮]]の[[九龍壁]]]] '''竜'''(りゅう、りょう、たつ、'''龍''')は、神話・伝説の生きもの。西洋のドラゴンとの違いについては[[ドラゴン|当該項目]]参照。 [[旧字体]]では「[[wikt:龍|龍]]」で、「[[wikt:竜|竜]]」は「龍」の略字である<ref>『大漢語林』 [[大修館書店]]</ref>が、古字でもある<ref>『新明解漢和辞典 第四版』966頁、[[三省堂]]</ref>。「龍」は今日でも広く用いられ、[[人名用漢字]]にも含まれている。[[中華人民共和国]]で制定された[[簡体字]]では「[[wikt:龙|龙]]」の字体が用いられる。「りょう」は正音、「りゅう」は慣用音となる。 英語の {{En|dragon}}(や他の西洋諸語におけるこれに相当する単語)の訳語として「竜」が用いられるように、巨大な[[爬虫類]]を思わせる伝説上の生物を広く指す場合もある。さらに、[[恐竜]]をはじめとする爬虫類の種名や分類名に用いられる '''saurus'''({{lang|grc|[[wikt:en:σαῦρος|σαῦρος]]}}、[[トカゲ]])の訳語としても「竜」が用いられている。このように、今日では広範な意味を持つに至っている。 == 中国の竜 == [[ファイル:Nine-Dragons1.jpg|250px|thumb|「九龍図巻」[[陳容]]画([[南宋]])、[[ボストン美術館]]蔵]] {{Main|中国の竜}} 中国の'''竜'''は神獣・霊獣であり、『[[史記]]』における[[劉邦]]出生伝説をはじめとして、中国では[[皇帝]]の[[シンボル]]として扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また[[竜巻]]となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の[[逆鱗]]があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。 [[中華人民共和国]][[内モンゴル自治区]]東南部、[[遼寧省]]西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃に存在した[[紅山文化]]の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。 [[恐竜]]など大型動物の[[化石]]は'''竜の骨'''([[竜骨]])と信じられ、長く漢方の材料として使用された。 竜を意味する[[辰]]は、[[十二支]]における12種類の動物の一つである。また、[[竜生九子]]という9つの子を産んだという。 竜(や[[ドラゴン]])の伝承の発端としては、クジラや恐竜などの大型動物の骨や化石、ワニやオオトカゲなどの爬虫類、人間の本能的な蛇などへの恐怖などの仮説が挙げられている<ref>Joseph Stromberg, 2012年, [https://www.smithsonianmag.com/science-nature/where-did-dragons-come-from-23969126/ Where Did Dragons Come From?], {{仮リンク|スミソニアンマガジン|en|Smithsonian (magazine)}}, [[スミソニアン博物館]]</ref>。[[青木良輔]]は、竜の起源は、古代に[[長江]]や[[漢水]]に残存していた[[ワニ]]の一種([[マチカネワニ]])であり、寒冷化や人類による狩猟により絶滅した後、伝説化したものだと主張している<ref>{{ Citation | title=ワニと龍 - 恐竜になれなかった動物の話 | last=青木良輔 | publisher=平凡社 | isbn=978-4582850918 | year=2001 }}</ref>。これは現在残っている竜の図像の歴史的変化からも窺えるとのことである。 == ナーガと仏教の竜王 == {{see also|ナーガ}} [[File:龍王名1.jpg|thumb|350x350px|<center>仏教における様々な龍王の名。</center>]] 竜の起源に関する正確な定説は存在しないが、[[インド]]の蛇神であり水神でもある[[ナーガ]]の類も、[[仏典]]が中国に伝わった際、「竜」や「竜王」などと訳され、[[八部衆]]の一として組み込まれた。そうした関係から、[[仏教]]伝来以後の中国の竜もまた、蛇神ナーガのイメージから影響を受けたことは想像に難くない。例えば、[[道教]]における竜王は、ほとんどインドの[[ナーガラージャ]]と同じ性質を持つ。しかし、仏教が中国に伝わる前に、中国の竜はすでに雨水をつかさどるイメージがあった(例えば[[応竜]])。ちなみに日本で[[ヒンドゥー教]]など他の聖典や文学などを翻訳する場合でも、それらインドの神格を「蛇」ないし「竜」とするのが通例となっている。 竜にも善悪があり、法行竜と非法行竜があるとされる。また竜には、一つに熱風熱沙に焼かれる苦悩、二つに住居を悪風が吹きさらし宝を失い衣が脱げる苦悩、三つに金翅鳥(こんじちょう、[[迦楼羅]])に食される苦悩があるとされる(ただし阿耨達池に住む竜王にはこの苦悩はない)。 仏教では、[[釈迦]]が生誕した際に二匹の竜が清浄水を灌ぎ、成道時に七日間の降雨を釈迦の身を覆って守護した。また仏が毒龍を降伏させたり盲竜を治癒させるなどの多くの説話がある。また[[法華経]]提婆達多品では、八歳の[[竜女]]の成仏が説かれている。 == 日本の竜 == {{Main|日本の竜}} [[ファイル:Kunisada II The Dragon.jpg|thumb|250x250px|「釈迦八相記今様写絵」<br>二代目[[歌川国貞]]([[歌川国政]])、[[19世紀]]]] [[磐余彦尊|彦火火出見尊]](初代天皇の神武天皇)は、竜の腹から生まれており、[[日本神話]]に登場する高志(のちの[[越国|越]])の[[ヤマタノオロチ|八岐大蛇]]、海神の八尋[[和邇]]の[[龍宮]]が、現在に伝わる。もともと日本にあった自然を神として崇拝する信仰と中国から伝来した文様や中国の竜とが融合して日本の竜とされる。[[四神]]・五獣と繋がり、特に[[青竜]]は[[古墳]]などに現在の姿で描かれて有名である。神話の[[ヤマタノオロチ|八岐大蛇]]伝説と仏教の[[八大竜王]]伝説などが習合した[[倶利伽羅剣|倶利伽羅竜]]、[[九頭竜伝承|九頭竜]]、[[善女竜王]]([[清瀧権現]])伝承も有名。[[玄武]]とも繋り北の[[越国]]など辺りの竜を[[黒竜]]とした。[[蜃気楼]]に竜宮・[[霊亀 (四霊)|霊亀]][[蓬萊|蓬莱山]]が現れて吉祥とされる。 治水や[[灌漑]]技術が未熟だった時代には、河川の氾濫や[[旱魃]]が続くと、竜神に食べ物や[[生け贄]]を捧げたりした。その象徴が、神道では[[クシナダヒメ|櫛名田比売]](くしなだひめ)などとして語られ、仏教では、高僧が祈りを捧げるといった[[雨乞い]]の行事が行われた。[[神泉苑]]([[二条城]]南)で[[空海]]が祈りを捧げて[[善女竜王]]([[清瀧権現]])を呼び、雨を降らせたという逸話が有名である。 また、剣は、[[倶利伽羅剣|炎の竜の化身]]とされており、八岐大蛇から生まれた剣は天皇であることを表す[[三種の神器|神器]]として[[伊勢神宮]](後に[[熱田神宮]])に[[天叢雲剣|天叢雲剣(のちに草薙剣)]]が祭られ、また、守り神とされた。中世ころには刀剣、兜に竜をかたどり戦が行われた。 他にも水の神として、また戦いの神として各地で[[民間信仰]]の対象として広まった。日本列島が水の国であることを象徴する。 == 道教の竜王 == {{Main|竜王}} * [[四海竜王]] - 四海(東西南北四方の海)を司る竜王。 ** 東海竜王 - 『[[西遊記]]』では名を敖広(ごうこう ; {{ピンイン|Áo Guǎng}}) *** 敖丙(ごうへい ; {{ピンイン|Áo Bǐng}}) - 東海竜王の三男で、[[哪吒]]に殺される。 ** 南海竜王 ** 西海竜王 ** 北海竜王 == ドラゴン(西洋の竜) == {{Main|ドラゴン}} ドラゴンは、ヨーロッパの文化で共有されている伝承や神話における伝説上の生物である。もとは天使で、天上から堕ちた天使のうちのひとつとされる。その姿はトカゲあるいは[[ヘビ]]に似ている。想像上の動物であるが、かつては実在の生きものとされていた。 英語では、小さい竜や竜の子はドラゴネット ({{En|dragonet}}) という。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|竜|龍|龙}} {{Commons cat multi|Dragons by country}} * [[竜王]] * [[りゅう座]] * [[辰年]] * [[烏龍茶]] - 竜が名前の由来 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りゆう}} [[Category:竜|*]] [[Category:神話・伝説の動物]]
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[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "雉", "title": null } ]
雉 キジ (雉・雉子) - キジ目キジ科の鳥。日本の国鳥に定められている。 日本海軍の水雷艇 「雉」 - 隼型水雷艇 「雉」 - 鴻型水雷艇 禽将棋の駒の動き ⇒ 禽将棋#駒の動き
'''雉''' * [[キジ]] (雉・雉子) - キジ目キジ科の鳥。日本の国鳥に定められている。 * 日本海軍の水雷艇 ** 「[[雉 (隼型水雷艇)|雉]]」 (初代 1904年-1923年) - [[隼型水雷艇]] ** 「[[雉 (鴻型水雷艇)|雉]]」 (二代 1937年-1947年) - [[鴻型水雷艇]] * [[禽将棋]]の駒の動き ⇒ [[禽将棋#駒の動き]] {{aimai}} {{デフォルトソート:きし}} [[Category:日本海軍・海上自衛隊の同名艦船]]
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14,132
熊谷駅
熊谷駅(くまがやえき)は、埼玉県熊谷市にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・秩父鉄道の駅である。 所在地はJR東日本が筑波二丁目、秩父鉄道が桜木町一丁目となっている。 JR東日本の上越新幹線と高崎線、秩父鉄道の秩父本線が乗り入れ、接続駅となっている。 当駅に乗り入れる新幹線は、線路名称上は上越新幹線のみだが、高崎駅を起点とする北陸新幹線の列車も上越新幹線に乗り入れている。また高崎線は上野駅発着系統と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが停車する。 事務管理コードは▲411407を使用している。 北口(正面口)・南口・東口(ティアラ口)・駅ビルのアズ・隣接するティアラ21(東口直結)・アズ(高崎ターミナルビル)運営の定期契約及び一般の駅駐車場・熊谷市運営の自転車駐輪場から駅構内へ出入りできる。 JR東日本および秩父鉄道の改札口はそれぞれ別になっており、連絡改札口はない(以前は共用だったが、上越新幹線の建設工事に伴い改札口が分けられた)。また、改札口は両社それぞれ1か所(JR東日本新幹線専用改札口も存在せず、在来線改札を経由し、乗換改札利用となっている)で、どの入口から入っても同じ改札口を利用することになる(東口‐高崎線の利用はガラスの壁1枚を隔てて大きく迂回する形になっており、東口から最短の位置に改札設置を求める市民の声もあるが、市・JR東日本双方の予算・管理の問題で拒否されている)。 自由通路内(北口方面エレベーター付近)に2022年12月24日よりストリートピアノが設置されている。 籠原・上熊谷側に高崎線と秩父鉄道との連絡する渡り線(高崎線当駅下りホーム-秩父鉄道上熊谷駅を接続)が敷設されているが、高崎線 - 秩父鉄道直通列車の運行が定期臨時問わず行われていないことから、2021年現在は渡り線中間部分に枕木が針金で固定され仮封鎖されている(貨物列車等に関しては、熊谷貨物ターミナル駅を介しての行き来が行われていたが、こちらは2020年末に秩父鉄道三ヶ尻線(貨物線)が部分廃線となったことにより、完全に乗り入れ不能となった)。 在来線きっぷうりば前および新幹線コンコース内待合室にJR東日本のシェアオフィス事業『STATION WORK』の個室ブース「STATION BOOTH」が、2021年に1台ずつ設置された。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有しており、自動券売機・自動体外式除細動器(AED、改札内)が設置されている。2022年3月12日にPASMOが導入され、同時に自動改札機も導入されているが、きっぷ投入口が無いICカード専用(タワー型の簡易機ではない)となっている。きっぷ利用時は窓口に面したIC・きっぷ兼用通路(ここも自動改札機だが、ICタッチ時のエラー検知がない限りゲートは閉じない)にて窓口内にいる駅員に見せて(渡して)通過する。 直営駅であり、管理駅として、西羽生駅 - 永田駅の各駅(ただし武川駅は自駅管理のため除く)を管理している。ホームの羽生寄りに運転指令所などの施設、6番線の南側に留置線が4本(それぞれ2編成ずつ留置可能)ある。6番線の線路は留置線への入れ換えにも使用するため、上熊谷寄りに複線が長くとられている。 改札階とホームを行き来するには階段のみで、ホームにあるトイレも老朽化が進んでいたが、熊谷市によって2008年度にエレベーター・多機能トイレが設置された。かつて、ホーム上で立ち食いそば店と売店が営業していたが、2014年初頭に営業終了・什器等が撤去された。2021年現在は自動販売機とベンチが設置されている。 熊谷駅で1883年(明治16年)7月に、寿司とパンを売り出したのが駅弁の始まりとされている(諸説あり)。 それ以降、地元業者が駅弁を販売し(大盛商店・栗めし他)、駅構内での立ち売りも行われていたが、2021年12月現在は販売されていない。週末になると、改札外のNewDays前で荻野屋(群馬県安中市松井田町)の峠の釜めしや、全国の名物・物産がワゴン販売されることがある。 各年度の1日平均乗車人員数は下表のとおり。 駅周辺は、熊谷市の「路上喫煙マナー条例」(2006年(平成18年)10月1日施行)により駅周辺での喫煙が禁止されているが、喫煙者への配慮のため、正面口ロータリーに2か所・南口ロータリーに1か所喫煙所が設けてある。 出入口に面するロータリーを管理する熊谷市は『正面口』と呼称しているが、利用者には『北口』で定着している。駅舎を管理するJR東日本では『北口(正面口)』と案内している。 その名の通り、熊谷市の玄関口としての役割を果たしており、また付近は旧熊谷宿にも近いことから熊谷市の中心市街地として発展してきた。熊谷うちわ祭の初叩合い、年始の出初め式など伝統的な行事を行う会場の一つでもある。 しかし、多くの地方都市と同様、近年は郊外ロードサイド型店舗の影響を受けて丸井(バス3番のりば前にあった)・ニチイ(2021年現在のイオン熊谷店とは別の位置)といった大型店舗をはじめ店舗の撤退がみられる状況にあり、衰退傾向にある。 また、埼玉県北部における東武鉄道のバス事業撤退(後述)に伴い、バス路線の統廃合や多くの本数が運行されていた立正大学行きの始発・終点停留所が熊谷駅南口に変更されるなど、北口始発のバス本数は減少しているが、臨時バス降車場が廃止された(後述)影響で、一般車と入り混じり、混雑が緩和されていない。 正面口ロータリーは、公共交通向けの施設と市は位置づけている。そこで、隣接する場所に一般車用の東口ロータリーを新設し、一般車はそちらを利用するよう市報等で促しているが、交通規制はしておらず、正面口の混雑を緩和させるまでの効果には至っていない。この時に臨時バス降車場を廃止して、東口へスムーズにアクセスできるよう正面口(北口)ロータリー入口の交差点手前(埼玉県道91号熊谷停車場線)を左折専用レーンとして東口方面にアクセスできるようにした(以前は左折禁止だった)ため、路線バスは必ず正面口ロータリー内で降車させなければならなくなった(ラッシュ時にロータリー内降車場が混雑している場合や信号待ちの際に臨時降車場が利用されていた)。前述のようにバスの本数自体は減少しているが、ロータリー内バス降車場周辺の混雑度が増し(正面口には一般車向け乗降場所がなく、一般車がバス降車場付近で乗り降りさせていることが多いことも影響)、朝ラッシュ時は閉塞状態になることも多い。 2018年から2019年にかけて、ラグビーワールドカップ2019の開催に向けロータリーの改修を行った(基本構造は変わらず、バリアフリーなどを強化)。この間はバスの降車場をかつての臨時降車場に仮移転するなど一時的にバス・タクシーの発着地を入れ替えて行われた。また、混雑回避の為の交通流動見直しに伴い、正面口ロータリー-東口ロータリー間を行き来できる道路(みずほ銀行前)を正面口側から東口側への一方通行路に転換された。加えて、ロータリー手前に一般送迎車を右折方向(東口)へと誘導する標識(ただし、一般車両進入禁止規制では無い)や、バス降車場に国際十王交通による駐停車禁止を注意喚起する看板(一般車両は道路交通法第44条によって、バス停留所付近の駐停車は禁止されている)も設置され、東口の利用が増えるなどの効果が出ている。 後から設置したこともあり開発年代は遅く、住宅街が広がるなど閑静なエリアとなっている。一方で近年は線路沿いでのマンション開発もみられる。荒川の河川敷が近くにあり、春は熊谷さくら祭り、夏は熊谷花火大会で賑わう。 熊谷駅東地区市街地再開発事業の中心施設として2004年11月20日に開業した駅直結の複合商業施設ティアラ21に設けられた出入口。正面口のすぐ東側、アズと熊谷駅前ビル・熊谷通運ビルを挟んだ裏側に位置する。ティアラ21の隣接地には、1970年代の再開発で開業したニットーモール・カルパといった大きな商業ビルが並ぶ。北口や南口と比べると国道17号などの大通りと直接結ばれた連絡路が無いが、熊谷市による北口の一般車を東口に誘導する広報活動により利用車は増加傾向にある。また、北口に加えて、熊谷うちわ祭の初叩合い会場の一つとなった。 熊谷市により「あっぱれ・天晴・熊谷駅広場冷却ミスト事業」として、正面口・南口・東口の入口に冷却ミストが設置されている。毎年5月〜10月までの期間の8時〜20時まで「気温28°C以上・湿度70%未満・風速3m未満・降雨なし」の気象条件がそろった時に自動噴霧される。東口に設置されている冷却ミストのノズルの位置が一番低いため、ミストを実感するには一番良いとされている。 当駅は2021年現在、JR東日本と秩父鉄道の鉄道駅であるが、路線バスに関しては大手私鉄である東武鉄道グループの国際十王交通・朝日自動車が主体となっている(かつては直営)。かつては秩父鉄道も路線バスを運行していたが、1993年までに全路線廃止されている。 国際十王交通・朝日自動車が運行する路線(高速羽田空港線含む。ゆうゆうバス除く)では、PASMO・Suica(及び相互利用している各種交通系ICカード)が利用可能である。 停留所名は『熊谷駅』。1 - 3番と共通降車場はロータリー内にある。5・6番はロータリー外の埼玉県道91号熊谷停車場線上にあるが、22時以降は使用せずに3番のりばからの発車となる。4番は欠番。 停留所名は『熊谷駅東口』。東口は一般車向けという熊谷市による位置づけの為、原則ロータリーに乗り入れず、「R&Bホテル熊谷駅前」東側市道を発着する。 停留所名は『熊谷駅南口』。南口ロータリー内に大別して3か所のりばがあるが、番号等は無い。
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熊谷駅(くまがやえき)は、埼玉県熊谷市にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・秩父鉄道の駅である。 所在地はJR東日本が筑波二丁目、秩父鉄道が桜木町一丁目となっている。
{{駅情報 |駅名 = 熊谷駅 |画像 = JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station North Exit.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 北口(正面口)<br />(2021年10月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|36|8|22.9|N|139|23|23.7|E}}|title=JR東日本 熊谷駅|coord2={{coord|36|8|21.4|N|139|23|22.3|E}}|title2=秩父鉄道 熊谷駅|marker-color=008000|marker-color2=0000ff}} |よみがな = くまがや |ローマ字 = Kumagaya |所在地 = [[埼玉県]][[熊谷市]] |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])<br />[[秩父鉄道]]([[#秩父鉄道|駅詳細]]) |開業年月日 = [[1883年]]([[明治]]16年)[[7月28日]]<ref name="zeneki12">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =12号 大宮駅・野辺山駅・川原湯温泉駅ほか |date =2012-10-28 |page =20 }}</ref> |乗車人員 = |統計年度 = }} '''熊谷駅'''(くまがやえき)は、[[埼玉県]][[熊谷市]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[秩父鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 所在地はJR東日本が筑波二丁目、秩父鉄道が桜木町一丁目となっている。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[上越新幹線]]と[[高崎線]]、秩父鉄道の[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]が乗り入れ、接続駅となっている。 当駅に乗り入れる新幹線は、線路名称上は上越新幹線のみだが、[[高崎駅]]を起点とする[[北陸新幹線]]の列車も上越新幹線に乗り入れている。また高崎線は[[上野駅]]発着系統と、[[新宿駅]]経由で[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]に直通する[[湘南新宿ライン]]、上野駅・[[東京駅]]経由で東海道線に直通する[[上野東京ライン]]が停車する。 [[事務管理コード]]は▲411407を使用している<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:Kumagaya Station Opening Ceremony 1.jpg|thumb|熊谷駅の開業式]] [[ファイル:Kumagaya Station.1975.jpg|thumb|熊谷駅周辺の空中写真(1975年1月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1883年]]([[明治]]16年) ** [[7月28日]]:[[上野駅]] - 熊谷駅間の[[日本鉄道]]第1期線(現在の[[高崎線]])の駅(当時[[終着駅]])として開業{{R|zeneki12}}<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=447}}</ref>。当駅は高崎線内で[[浦和駅]]・[[上尾駅]]・[[鴻巣駅]]と並んで最も古い駅の一つとなっている。 ** [[10月21日]]:日本鉄道第1期線が当駅から[[本庄駅|本庄]]まで延伸(以降前橋まで延伸される)。 * [[1901年]](明治34年)[[10月7日]]:上武鉄道(当時)開業。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道[[鉄道国有法|国有化]]{{R|停車場}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:上野駅 - [[前橋駅]]間の鉄道路線が、分割・名称設定により、当駅は[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - 高崎駅間の高崎線の駅となる。 * [[1916年]]([[大正]]5年)[[2月25日]]:上武鉄道が社名を[[秩父鉄道]]に変更。 * [[1922年]](大正11年)[[8月1日]]:[[北武鉄道]]が建設した行田・当駅間が延伸開業。北武鉄道が秩父鉄道に合併される。 * [[1943年]]([[昭和]]18年)[[12月5日]]:[[東武鉄道]][[東武熊谷線|熊谷線]]開通(秩父鉄道ホームを間借り)。 * [[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]:[[熊谷空襲]]により貨物・運転事務室、集会所、官舎などが焼失したが、主要な建物や線路への被害は免れた<ref>{{Cite book|和書|author=熊谷駅|title=熊谷駅100年史 鉄道開通から今日までそして21世紀へ|publisher=日本国有鉄道熊谷駅|asin=B000J77OGC|page=72}}</ref>。 * [[1963年]](昭和38年)[[12月15日]]:駅舎改築。 * [[1973年]](昭和48年)[[5月1日]]:秩父鉄道ホーム改良、[[羽生駅|羽生]]方面と[[三峰口駅|三峰口]]方面の直通運転開始。 * [[1979年]](昭和54年)[[10月1日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:[[上越新幹線]]開業、同時に国鉄と秩父鉄道の駅舎・改札を分離。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[6月1日]]:東武熊谷線廃止。 ** [[11月12日]]:南口設置。それまでは、正面口(北口)のみだった。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 ** [[4月24日]]:駅ビル・アズ開業<ref>{{Cite news |title=駅ビル「アズ」 4月24日オープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1987-01-28 |page=1 }}</ref>。 ** 12月15日:正面口広場(ロータリー)設置。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月25日]]:駅旅行センターが改装され、[[びゅうプラザ]]となる<ref group="新聞">{{Cite news |title=JR熊谷駅にびゅうプラザ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-03-28 |page=2 }}</ref>。 * [[1995年]](平成7年)[[3月10日]]:JR改札口に[[自動改札機]]設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-30|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 ** [[12月1日]]:JR「[[湘南新宿ライン]]」列車運転開始。当駅で出発式が挙行された。 * [[2003年]](平成15年)10月12日:新幹線でSuica FREX定期券およびSuica FREXパル定期券の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|title=10月12日(日)、「SuicaFREX 定期券」デビュー!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2003-09-10|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304120356/https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref> * [[2004年]](平成16年)[[11月20日]]:駅に直結する商業ビルTiara21開業、東口(ティアラ口)設置。 * [[2013年]](平成25年)[[7月28日]]:開業130周年を迎え、記念イベントが開催される<ref group="新聞">{{Cite news|author=|authorlink=|url=http://www.saitama-np.co.jp/news/2013/07/26/08.html|title=高崎線130周年に3駅で記念行事 28日、オリジナル入場券も|newspaper = 埼玉新聞|publisher = 埼玉新聞社|date = 2013年7月26日|accessdate = 2013年7月28日}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)4月1日:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の開始について ~新幹線もタッチ&ゴー、新幹線の新しい乗車スタイル~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-12-05|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200922054704/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|archivedate=2020-09-22}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の詳細について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-01-25|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510103143/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[12月28日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]が営業を終了<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/takasaki/news/pdf/20191009-01info.pdf|title=びゅうプラザ熊谷駅 営業終了のお知らせ|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道高崎支社|date=2019-10-09|accessdate=2019-10-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191009072410/https://www.jreast.co.jp/takasaki/news/pdf/20191009-01info.pdf|archivedate=2019-10-09}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[3月14日]]:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/北海道旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226110513/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-02-26}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:秩父鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道" name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127093258/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秩父鉄道、交通系ICカード「PASMO」を導入 〜2022年3月12日(土)よりサービス開始〜|publisher=秩父鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref>。あわせて同線改札口に自動改札機(IC専用)を導入<ref name="faq20220303">{{Cite web|和書|format=PDF|title=秩父鉄道ICカード乗車券 PASMO(パスモ)導入に関するよくあるご質問|publisher=秩父鉄道|date=2022-03-03|accessdate=2022-03-15|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/03/20220303_PASMO_faq.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220307231723/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/03/20220303_PASMO_faq.pdf|archivedate=2022-03-08|deadlinkdate=2022-06-06}}</ref>。 == 駅構造 == 北口(正面口)・南口・東口(ティアラ口)・駅ビルのアズ・隣接するティアラ21(東口直結)・アズ([[高崎ターミナルビル]])運営の定期契約及び一般の駅駐車場・熊谷市運営の自転車駐輪場から駅構内へ出入りできる。 JR東日本および秩父鉄道の改札口はそれぞれ別になっており、連絡改札口はない(以前は共用だったが、上越新幹線の建設工事に伴い改札口が分けられた)。また、改札口は両社それぞれ1か所(JR東日本新幹線専用改札口も存在せず、在来線改札を経由し、乗換改札利用となっている)で、どの入口から入っても同じ改札口を利用することになる(東口‐高崎線の利用はガラスの壁1枚を隔てて大きく迂回する形になっており、東口から最短の位置に改札設置を求める市民の声もあるが、市・JR東日本双方の予算・管理の問題で拒否されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.kumagaya.lg.jp/shicho/mail_ichiran/h19_4/sityoumail036.html |title= 熊谷駅東口連絡通路に改札口新設を |work= 市長の部屋 |website= 熊谷市ホームページ |date= 2008-03-11 |accessdate= 2022-07-25 }}</ref>)。 自由通路内(北口方面エレベーター付近)に2022年12月24日より[[ストリートピアノ]]が設置されている<ref>[https://kumagaya.keizai.biz/headline/1190/ 熊谷駅にストリートピアノ 音楽を通じ、人と人の心つなぐきっかけづくりを - 熊谷経済新聞]</ref>。 [[籠原駅|籠原]]・[[上熊谷駅|上熊谷]]側に高崎線と秩父鉄道との連絡する渡り線(高崎線当駅下りホーム-秩父鉄道上熊谷駅を接続)が敷設されているが、高崎線 - 秩父鉄道直通列車の運行が定期臨時問わず行われていないことから、2021年現在は渡り線中間部分に枕木が針金で固定され仮封鎖されている(貨物列車等に関しては、熊谷貨物ターミナル駅を介しての行き来が行われていたが、こちらは2020年末に[[秩父鉄道三ヶ尻線]]([[貨物線]])が部分廃線となったことにより、完全に乗り入れ不能となった)。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 熊谷駅 |画像 = kumagaya_sta_east.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 東口(ティアラ口)<br />(2006年3月) |よみがな = くまがや |ローマ字 = Kumagaya |電報略号 = クマ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[埼玉県]][[熊谷市]]筑波二丁目112 |緯度度 = 36|緯度分 = 8|緯度秒 = 22.9 |経度度 = 139|経度分 = 23|経度秒 = 23.7 |座標右上表示 = Yes |開業年月日 = [[1883年]]([[明治]]16年)[[7月28日]]{{R|zeneki12}} |廃止年月日 = |駅構造 = [[高架駅]](新幹線)<br />[[橋上駅]](在来線) |ホーム = 4面7線(合計)<br />2面3線(新幹線){{R|zeneki12}}<br />2面4線(在来線){{R|zeneki12}} |乗車人員 = {{Smaller|(新幹線)-2022年-}}<br /><ref group="新幹線" name="shin2022" />3,246人/日(降車客含まず)<hr>{{Smaller|(合計)-2022年-}}<br /><ref group="JR" name="JR2022" />25,318 |統計年度 = |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{Color|green|■}}[[上越新幹線]]<br/>({{Color|green|■}}[[北陸新幹線]]直通含む) |前の駅1 = * [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] |駅間A1 = 34.4 |駅間B1 = 21.3 |次の駅1 = [[本庄早稲田駅|本庄早稲田]] |キロ程1 = 34.4km([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から64.7 |起点駅1 = |所属路線2 = {{Color|#f68b1e|■}}[[高崎線]] |前の駅2 = [[行田駅|行田]] |駅間A2 = 4.8 |駅間B2 = 6.6 |次の駅2 = [[籠原駅|籠原]]** |キロ程2 = 34.4km([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]起点)<br />東京から[[尾久駅|尾久]]経由で64.9 |起点駅2 = |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有{{R|zeneki12}} |備考全幅 = * この間に[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]と[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から本庄早稲田寄りは高崎支社管内)<br />** この間に[[熊谷貨物ターミナル駅]]有り(大宮起点 39.3km)。 }} 在来線きっぷうりば前および新幹線コンコース内待合室にJR東日本の[[シェアードオフィス|シェアオフィス]]事業『STATION WORK』の個室ブース「STATION BOOTH」が、2021年に1台ずつ設置された<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2021/20211108_ho01.pdf STATION WORKは全国300カ所超のネットワークへ](東日本旅客鉄道株式会社プレスリリース、2021年11月8日)</ref>。 ==== 在来線 ==== * 地平部に高崎線、高架上に上越新幹線のホームがそれぞれあり、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]所属の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]。[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として[[行田駅]]を管理する。また、熊谷営業統括センター(センター長は駅長が兼務)が併設され、[[上尾駅]]・[[鴻巣駅]]・[[籠原駅]]など埼玉県内の高崎線直営駅の統括を行っている<ref>[https://news.kotsu.co.jp/Contents/20220317/cd79fa5d-5290-41d8-bf1b-4a5b16e5f1ab 交通新聞 電子版|JR東日本高崎支社人事 2022年3月12日付]</ref>。・[[みどりの窓口]]・[[自動券売機]](黒)・自動チャージ機・[[指定席券売機]](改札内外ともに設置)・[[自動改札機]](一部[[Suica]]専用自動改札機)・[[ビューアルッテ]](改札口外)・[[自動体外式除細動器]](AED、新幹線改札内)が設置されている。南北自由通路となっている橋上に高崎線の改札口があり、その内側に新幹線乗り換え改札口がある。改札内には[[NewDays|NewDaysミニ]]および駅そば店があり、トイレは駅そば店北側にある。 * 高崎線は、[[島式ホーム]]2面4線の[[地上駅]]である。1・2番線の上野寄りの階段の昇り口付近にSuica専用[[グリーン券]]の券売機があり、そのさらに上野寄りに[[キヨスク]]があったが閉店、[[2007年]]([[平成]]19年)[[4月25日]]に工事を行い、「AUTO KIOSK」と称した菓子などの自動販売機を設置した無人販売エリアとなった。[[2009年]]に両ホームの上野寄りに待合室が設置された。 * ホームに向かう[[エレベーター]]が各方面の階段の間に、高崎寄りの階段のさらに高崎寄りに[[エスカレーター]](上り下り両方)が設置されている。かつては1・2番線のこの辺りに立ち食いそば店があった。 * 快速「アーバン」・特別快速は当駅を境に高崎・前橋方面は各駅に停車、上野・新宿方面は快速運転となり、いずれも次の停車駅が[[鴻巣駅]]となる。なお、かつては高崎・前橋方面へも快速運転を続けていた(当駅から先は、深谷駅・本庄駅・新町駅・高崎駅・新前橋駅・終点前橋駅の順に停車。なお、快速運転は快速「アーバン」のみで、かつての通勤快速(「タウン」の愛称付き時代も含む)は各駅に停車していた)。さらにかつては2021年現在とは逆に、前橋・高崎方面から当駅までを快速運転し、上野方面を各駅に停車する快速列車も存在した。 * 長らく当駅止まりの定期列車は設定されていない。当駅始発列車は2017年3月6日-2022年3月11日の約5年間のみ平日朝6時過ぎに当駅始発特急[[あかぎ (列車)|スワローあかぎ]]2号上野行きが設定されていた<ref group="報道">[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161219.pdf 2017年3月ダイヤ改正について(JR東日本プレスリリース、2016年12月16日)]3ページ目『2.特急「スワローあかぎ2号」を朝通勤時間帯に設定します』</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=2022年 3 月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道高崎支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/takasaki/20211217_ta01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064123/https://www.jreast.co.jp/press/2021/takasaki/20211217_ta01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。 * 3番線は上り方面も利用可能で折り返しも可能な構造になっており、ダイヤが乱れた場合に大宮駅方面からの下り列車が当駅で運転を打ち切って上り方面へ折り返す場合に使用される(このときに利用者が混乱しないよう駅員が出て次の上り列車は3番線からの発車であること直接案内する)ほか、過去に運転されていた夏季臨時快速[[マリンブルーくじらなみ号]]をはじめとする当駅始発の臨時列車の発着に使われ、通常は下り特急や快速の待ち合わせ用として使用されている。かつては秩父鉄道直通列車の連結・切り離しが行われていたことがあった。 * なお1番線は快速列車の待避以外にも、2021年現在は当駅始発スワローあかぎや[[熊谷花火大会]]帰宅客輸送用の当駅始発大宮行き臨時普通列車の乗車ホームとして使用される。かつては使用車両の大宮総合車両センター転属以降はマリンブルーくじらなみ号が3番線に代わって降車ホームとして使用していた<!--<ref>[http://www.airtripper.net/18-080721.html 上野発着上越日帰り旅]</ref>-->。 * 3・4番線ホーム上野寄り階段上には、埼玉県警察本部[[鉄道警察隊]]熊谷分駐隊の入口があるが、常駐している警察官はいない。 ==== 新幹線 ==== * 新幹線は[[単式・島式ホーム]]の2面3線の[[高架駅]]である。副本線にホームがあり、下りは単式ホームの1線、上りは島式ホームの2線である(2015年3月時点で上りは通常12番線を使用し、11番線の使用は少ないながら定期列車で使用している)。 * 本線は、上下各副本線の間を走っている。上りホームの中央付近に喫煙室が設置されている。東京方に階段、高崎方にエスカレータ(昇り降り両方)が設置されている。エレベータは11・12番線は東京方の階段の横に、13番線は階段・エスカレータの間に設置されている。上り・下りともホーム上に有人の売店は存在しない。上りホームには飲料と菓子類の自動販売機がある。コンコースにはNewDaysミニがある。 * 2009年10月より終日禁煙(新幹線ホーム上の喫煙室を除く)となった(それまでは平日午前7時から午前9時の間、全面禁煙)。 ==== のりば ==== <!--方面表記および路線表記は、JR東日本の駅の情報の「構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" rules="rows" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考 |-style="border-top:solid 3px #999;" |colspan="5" style="background-color:#eee;"|'''在来線 地上ホーム''' |- !rowspan="3"|1・2 |{{Color|#f68b1e|■}} 高崎線 |rowspan="3" style="text-align:center;"|上り |rowspan="3"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[東京駅|東京]]・[[新宿駅|新宿]]・[[横浜駅|横浜]]方面 |rowspan="3"|1番線は一部列車のみ |- |{{Color|#f68b1e|■}} [[湘南新宿ライン]] |- |{{Color|#f68b1e|■}} [[上野東京ライン]] |- !3・4 |{{Color|#f68b1e|■}} 高崎線 |style="text-align:center;"|下り |[[高崎駅|高崎]]・[[水上駅|水上]]・[[長野原草津口駅|長野原草津口]]方面 |3番線は一部列車のみ |- |colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''新幹線 高架ホーム''' |- !11・12 |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 新幹線<!--出典の「駅構内図」では「上越・北陸新幹線」とは記載されていない。--> |style="text-align:center;"|上り |大宮・[[上野駅|上野]]・東京方面 |11番線は一部列車のみ |- !rowspan="2"|13 |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越新幹線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|下り |高崎・[[新潟駅|新潟]]方面 |&nbsp; |- |[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 北陸新幹線 |[[長野駅|長野]]・[[金沢駅|金沢]]方面 |&nbsp; |} (出典:JR東日本:駅構内図<ref>[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/625.html JR東日本:駅構内図]</ref>) * 1・3番線は待避線であり、使用する列車は少ない。 * 11番線は待避線であるが使用頻度は非常に少ない。 * 富山・金沢方面との表示があるが、北陸新幹線で通常当駅に停車する列車は長野駅発着の[[あさま]]のみであり、富山・金沢方面は1回以上の乗り換えが必要となる。ただし、2019年10月25日-11月30日限定で、[[令和元年東日本台風]]の影響による暫定ダイヤにて、金沢駅発着のはくたか上り2本、下り1本が、当駅に停車していた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title= 北陸新幹線(東京~金沢間)運転再開に伴う暫定ダイヤについて |publisher= 東日本旅客鉄道株式会社 |date= 2019-10-23 |url= https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191023_ho01.pdf |accessdate= 2022-07-25 }}</ref>。 * 11・12番線は「新幹線」とのみ表記され、「上越」「北陸」は省略されている。 * 上越新幹線は日中の時間帯(12時台 - 15時台)はすべて当駅を通過するため、越後湯沢・新潟方面へは北陸新幹線あさまを利用し、高崎駅での乗り換えが必要となる。なお、高崎駅で途中下車<ref group="注釈">ここで言う「途中下車」とは、改札を通らないという意味であり、高崎に限らず新幹線を何度降りても同じ扱いである。</ref>しない限り、特急料金は目的地までの距離に応じた料金が適用される。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station Gates.jpg|JR 熊谷駅改札口(2021年10月) JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station JR Line・Shinkansen Transfer Gates.jpg|在来線⇔新幹線乗換改札口(2021年10月) JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station JR Line Platform 1・2.jpg|在来線1・2番線ホーム(2021年10月) JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station JR Line Platform 3・4.jpg|在来線3・4番線ホーム(2021年10月) JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station Shinkansen Platform 11・12.jpg|新幹線11・12番線ホーム(2021年10月) JR East・Chichibu Railway Kumagaya Station Shinkansen Platform 13.jpg|新幹線13番線ホーム(2021年10月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== * [[2008年]](平成20年)[[4月1日]]より、在来線ホームの[[発車メロディ]]が熊谷市歌のサビの部分をアレンジしたものに変更された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.kumagaya.lg.jp/kakuka/sogo/kikaku/oshirase/hassyamerodhi/index.html |title= JR熊谷駅・籠原駅の発車メロディーが市歌になります!|publisher= 熊谷市 |date= 2008-03-28 |accessdate= 2022-07-25 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20080405161505/https://www.city.kumagaya.lg.jp/kakuka/sogo/kikaku/oshirase/hassyamerodhi/index.html |archivedate= 2008-04-05 }}</ref>。これは、熊谷市が市歌普及を促すために計画したものである<ref>[https://web.archive.org/web/20080525154130/http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/zaisei/yosantuite/1912hoseiyosan/index.html 平成19年度12月補正予算の概要:熊谷市]</ref>。 === 秩父鉄道 === {{駅情報 |社色 = blue |文字色 = |駅名 = 秩父鉄道 熊谷駅 |画像 = Kumagaya-STA South-entrance.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 南口(2021年4月) |よみがな = くまがや |ローマ字 = KUMAGAYA |所属事業者= [[秩父鉄道]] |所在地 = [[埼玉県]][[熊谷市]]桜木町一丁目202-1 | 緯度度 = 36|緯度分 = 8|緯度秒 = 21.4 | 経度度 = 139|経度分 = 23|経度秒 = 22.3 |開業年月日= [[1901年]]([[明治]]34年)[[10月7日]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |廃止年月日= |電報略号 = クマ |乗車人員 = 4,491 |乗降人員 = 8,771 |統計年度 = 2021年 |所属路線 = {{Color|blue|■}}[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] |前の駅 = CR08 [[ソシオ流通センター駅|ソシオ流通センター]] |駅間A = 3.3 |駅間B = 0.9 |次の駅 = CR10 [[上熊谷駅|上熊谷]] |駅番号 = CR 09 |キロ程 = 14.9 |起点駅 = [[羽生駅|羽生]] |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])}} {{駅情報 |社色 = #ccc |文字色 = #000 |駅名 = 東武鉄道 熊谷駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |よみがな = くまがや |ローマ字 = KUMAGAYA |所属事業者 = [[東武鉄道]] |所在地 = 埼玉県熊谷市桜木町 |座標 = |駅構造 = 地上駅 |ホーム = 1面1線(秩父鉄道と共用) |開業年月日 = [[1943年]](昭和18年)[[12月5日]] |廃止年月日 = [[1983年]](昭和58年)[[6月1日]] |乗車人員 = |乗降人員 = |統計年度 = |電報略号 = |所属路線 = [[東武熊谷線|熊谷線]] |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 0.9 |次の駅 = [[上熊谷駅|上熊谷]] |駅番号 = |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 熊谷 |乗換 = |備考 = 路線廃止に伴う廃駅 |備考全幅 = }} 島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有しており、自動券売機・自動体外式除細動器(AED、改札内)が設置されている。[[2022年]]3月12日に[[PASMO]]が導入され<ref group="報道" name="press20220127" />、同時に[[自動改札機]]も導入されているが<ref name="faq20220303"/>、きっぷ投入口が無いICカード専用(タワー型の簡易機ではない)となっている。きっぷ利用時は窓口に面したIC・きっぷ兼用通路(ここも自動改札機だが、ICタッチ時のエラー検知がない限りゲートは閉じない)にて窓口内にいる駅員に見せて(渡して)通過する<ref>{{Cite tweet|author=秩父鉄道【公式】|user=paleo_palena|number=1502381400359530501|title=熊谷駅 ICカードスタートです|date=2022-03-12|accessdate=2022-03-15}}</ref>。 [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として、[[西羽生駅]] - [[永田駅 (埼玉県)|永田駅]]の各駅(ただし[[武川駅]]は自駅管理のため除く)を管理している。ホームの羽生寄りに[[運転指令所]]などの施設、6番線の南側に留置線が4本(それぞれ2編成ずつ留置可能)ある。6番線の線路は留置線への入れ換えにも使用するため、[[上熊谷駅|上熊谷]]寄りに複線が長くとられている。 改札階とホームを行き来するには階段のみで、ホームにあるトイレも老朽化が進んでいたが、熊谷市によって2008年度にエレベーター・多機能トイレが設置された。かつて、ホーム上で立ち食いそば店と売店が営業していたが、2014年初頭に営業終了・什器等が撤去された。2021年現在は自動販売機とベンチが設置されている。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先 |- ! 5 | rowspan="2"| {{Color|blue|■}}秩父線 | style="text-align:center" | 上り |[[行田市駅|行田市]]・[[羽生駅|羽生]]方面 |- ! 6 | style="text-align:center" | 下り |[[寄居駅|寄居]]・[[長瀞駅|長瀞]]・[[秩父駅|秩父]]・[[三峰口駅|三峰口]]方面 |} * パレオエクスプレスは5番線に発着する。 * SLの発着時間帯の前後など、ダイヤによっては5番線から三峰口方向へ、6番線から羽生方面に出発することもある。 * 2021年現在の5番線の上熊谷寄りには、1983年まで[[東武熊谷線]]が発着していた。当時は、ホームの中程で線路を砂利盛りで仕切り、上熊谷側を東武熊谷線、[[持田駅|持田]]側を秩父線が使用していた。そのため、秩父線の5番線は羽生方面からの発着しかできない構造だった<ref>『鉄道ピクトリアル』2013年10月号(通巻880号)、電気車研究会、2013年、69頁。</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Kumagaya-STA_Chichibu-Gate.jpg|改札口(2022年3月) </gallery> {{-}} == 駅弁 == 熊谷駅で[[1883年]](明治16年)[[7月]]に、寿司とパンを売り出したのが駅弁の始まりとされている(諸説あり)<ref>1999年「さいたまの鉄道」さきたま出版会</ref>。 それ以降、地元業者が駅弁を販売し(大盛商店・栗めし他)、駅構内での立ち売りも行われていたが<ref>1998年鉄道ジャーナル11月号別冊「懐かしの国鉄列車PART II」20系客車急行〈天の川〉の項目より</ref>、2021年12月現在は販売されていない。週末になると、改札外の[[NewDays]]前で[[荻野屋]]([[群馬県]][[安中市]][[松井田町]])の[[峠の釜めし]]や、全国の名物・物産がワゴン販売されることがある。 == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''25,318人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: JR東日本高崎線全線(東北本線として運行されている駅を含む)の駅の中で[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、[[上野駅]]、[[赤羽駅]]、[[浦和駅]]、[[さいたま新都心駅]]、[[上尾駅]]、[[高崎駅]]に次ぐ第8位。 ** 2022年度の新幹線の1日平均'''乗車'''人員は'''3,246人'''である<ref group="新幹線" name="shin2022" />。 **: 同社の駅では第14位。 * '''秩父鉄道''' - 2021年度の1日平均'''乗車'''人員は'''4,491人'''である<ref group="*" name="saitama"/>。 *: 秩父本線35駅中1位。 各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表のとおり。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |- |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="saitama">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref><ref group="*">[https://www.city.kumagaya.lg.jp/about/chousa_toukei/tokei/index.html 熊谷市統計書] - 熊谷市</ref> |- !rowspan=2|年度  !colspan=2|JR東日本 !rowspan=2|秩父鉄道 !rowspan=2|出典 |- !合計 !新幹線 |- |1990年(平成{{0}}2年) |30,505 | |7,691 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 148、151ページ</ref>--> |- |1991年(平成{{0}}3年) |32,164 | |7,867 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 148、151ページ</ref>--> |- |1992年(平成{{0}}4年) |32,600 | |7,863 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 158、161ページ</ref>--> |- |1993年(平成{{0}}5年) |32,987 | |7,872 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 162、165ページ</ref>--> |- |1994年(平成{{0}}6年) |35,470 | |7,753 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 162、165ページ</ref>--> |- |1995年(平成{{0}}7年) |32,612 | |7,513 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 168、171ページ</ref>--> |- |1996年(平成{{0}}8年) |32,867 | |7,153 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 168、171ページ</ref>--> |- |1997年(平成{{0}}9年) |31,952 | |6,672 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 174、177ページ</ref>--> |- |1998年(平成10年) |31,480 | |6,696 |<!--<ref group="埼玉県統計">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 182、185ページ</ref>--> |- |1999年(平成11年) |31,126 | |6,452 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>31,091 | |6,288 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>31,187 | |6,091 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/kense/toke/nenkan/h14/index.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>30,792 | |5,844 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>30,896 | |5,743 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>31,040 | |5,588 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>31,305 | |5,622 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>31,620 | |5,746 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>31,662 | |5,832 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>31,597 | |5,971 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>31,010 | |5,888 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>30,715 | |5,808 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>30,644 | |5,759 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>30,852 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>4,467 |5,770 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>31,290 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>4,557 |5,805 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>30,432 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>4,441 |5,831 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>30,864 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>4,358 |5,766 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>30,686 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>4,363 |5,731 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>30,706 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>4,367 |5,758 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>30,556 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>4,350 |5,575 |<ref group="埼玉県統計">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>30,064 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>4,232 |5,597 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>20,134 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>2,545 |3,846 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>22,331 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>2,659 |4,491 |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2022_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和4年)]</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>25,318 |<ref group="新幹線" name="shin2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>3,246 | |<ref group="埼玉県統計">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2022_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和4年)]</ref> |} == 駅周辺 == 駅周辺は、熊谷市の「路上喫煙マナー条例」([[2006年]](平成18年)[[10月1日]]施行)<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.city.kumagaya.lg.jp/kakuka/kankyo/haikibutsutaisaku/oshirase/rojokitsuen/index.html |title= 10月1日から「路上喫煙マナー条例」が施行されます |publisher= 熊谷市 |date= 2006-09-01 |accessdate= 2022-07-25 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20061006090752/http://www.city.kumagaya.lg.jp/kakuka/kankyo/haikibutsutaisaku/oshirase/rojokitsuen/index.html |archivedate= 2006-10-06 }}</ref>により駅周辺での[[路上喫煙禁止条例|喫煙が禁止]]されているが、喫煙者への配慮のため、正面口ロータリーに2か所・南口ロータリーに1か所喫煙所が設けてある。 === 駅ビル === * [[アズ熊谷]] (AZ・AZ 2nd・AZ ROAD・AZ EAST) === 正面口(北口) === 出入口に面するロータリーを管理する熊谷市は『正面口』と呼称しているが、利用者には『北口』で定着している。駅舎を管理するJR東日本では『北口(正面口)』と案内している。 その名の通り、熊谷市の玄関口としての役割を果たしており、また付近は旧[[熊谷宿]]にも近いことから熊谷市の[[中心市街地]]として発展してきた。[[熊谷うちわ祭]]の初叩合い、年始の[[出初め式]]など伝統的な行事を行う会場の一つでもある。 しかし、多くの地方都市と同様、近年は郊外[[ロードサイド店舗|ロードサイド型店舗]]の影響を受けて[[丸井]](バス3番のりば前にあった)・[[マイカル|ニチイ]](2021年現在の[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]熊谷店とは別の位置)といった大型店舗をはじめ店舗の撤退がみられる状況にあり、衰退傾向にある。 また、埼玉県北部における[[東武鉄道]]のバス事業撤退(後述)に伴い、バス路線の統廃合や多くの本数が運行されていた[[立正大学]]行きの始発・終点停留所が熊谷駅南口に変更されるなど、北口始発のバス本数は減少しているが、臨時バス降車場が廃止された(後述)影響で、一般車と入り混じり、混雑が緩和されていない。 正面口ロータリーは、公共交通向けの施設と市は位置づけている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.kumagaya.lg.jp/shicho/mail_ichiran/h18_4/sityoumail023.html |title= 熊谷駅北口ロータリーに「乗降場所」の新設を |work= 市長の部屋 |website= 熊谷市ホームページ |date= 2007-02-16 |accessdate= 2022-07-25 }}</ref>。そこで、隣接する場所に一般車用の東口ロータリーを新設し、一般車はそちらを利用するよう市報等で促しているが、交通規制はしておらず、正面口の混雑を緩和させるまでの効果には至っていない。この時に臨時バス降車場を廃止して、東口へスムーズにアクセスできるよう正面口(北口)ロータリー入口の交差点手前([[埼玉県道91号熊谷停車場線]])を左折専用レーンとして東口方面にアクセスできるようにした(以前は左折禁止だった)ため、路線バスは必ず正面口ロータリー内で降車させなければならなくなった(ラッシュ時にロータリー内降車場が混雑している場合や信号待ちの際に臨時降車場が利用されていた)。前述のようにバスの本数自体は減少しているが、ロータリー内バス降車場周辺の混雑度が増し(正面口には一般車向け乗降場所がなく、一般車がバス降車場付近で乗り降りさせていることが多いことも影響)、朝ラッシュ時は閉塞状態になることも多い。 2018年から2019年にかけて、[[ラグビーワールドカップ2019]]の開催に向けロータリーの改修を行った(基本構造は変わらず、バリアフリーなどを強化)。この間はバスの降車場をかつての臨時降車場に仮移転するなど一時的にバス・タクシーの発着地を入れ替えて行われた。また、混雑回避の為の交通流動見直しに伴い、正面口ロータリー-東口ロータリー間を行き来できる道路(みずほ銀行前)を正面口側から東口側への一方通行路に転換された。加えて、ロータリー手前に一般送迎車を右折方向(東口)へと誘導する標識(ただし、一般車両進入禁止規制では無い)や、バス降車場に国際十王交通による駐停車禁止を注意喚起する看板(一般車両は[[道路交通法]]第44条によって、バス停留所付近の駐停車は禁止されている)も設置され、東口の利用が増えるなどの効果が出ている<ref>[https://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/sogo/kikaku/koutu/koutukaigikaisai.html 熊谷市地域公共交通会議の開催状況:熊谷市ホームページ](第26回交通会議の概要及び資料のPDF参照)</ref>。 [[ファイル:Kumagai Naozane Statue 01a.jpg|thumb|[[熊谷直実|熊谷次郎直実]]像(北口)]] * 北口ロータリー/路線バス・タクシーのりば * [[ラグビーロード]]([[埼玉県道91号熊谷停車場線]]) ※ [[熊谷ラグビー場]]へと繋がる「ラグビータウン熊谷」の象徴的道路 * [[熊谷郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]熊谷店併設) * [[みずほ銀行]]熊谷支店(駅舎側にもATMが設置されている) * [[八十二銀行]]熊谷支店 * 熊谷駅前防犯センター安心館/[[熊谷市立図書館|熊谷市立熊谷図書館熊谷駅前分室]] * [[埼玉県立熊谷女子高等学校]] * [[国道17号]] * 熊谷筑波町郵便局 * [[熊谷市役所]] * 熊谷市立熊谷東小学校 * [[自衛隊埼玉地方協力本部]]熊谷地域事務所 * [[東京法務局|さいたま地方法務局]]熊谷支局 * 埼玉県熊谷地方庁舎 * [[熊谷総合病院]] * [[熊谷寺 (熊谷市)|熊谷寺]]([[熊谷直実|熊谷次郎直実]]菩提寺) === 南口 === [[ファイル:chichibutetsudohonsha.jpg|thumb|秩父鉄道本社(2012年4月)]] 後から設置したこともあり開発年代は遅く、住宅街が広がるなど閑静なエリアとなっている。一方で近年は線路沿いでのマンション開発もみられる。[[荒川 (関東)|荒川]]の河川敷が近くにあり、春は[[熊谷桜堤|熊谷さくら祭り]]、夏は[[熊谷花火大会]]で賑わう。 * 南口ロータリー/路線バス・高速バス・コミュニティバス・タクシーのりば * 秩父鉄道熊谷ビル * 秩父鉄道本社 * 熊谷年金事務所 * 熊谷市立文化センター([[熊谷市立図書館|熊谷市立熊谷図書館]]・文化会館・プラネタリウム館) * 熊谷市民体育館 * 熊谷市立桜木小学校 * 熊谷万平郵便局 * 荒川・[[熊谷桜堤]] * [[ホテルサンルート]]熊谷駅前 === 東口(ティアラ口) === 熊谷駅東地区市街地再開発事業の中心施設として[[2004年]][[11月20日]]に開業した駅直結の[[複合商業施設]][[ティアラ21]]に設けられた出入口。正面口のすぐ東側、アズと熊谷駅前ビル・熊谷通運ビルを挟んだ裏側に位置する。ティアラ21の隣接地には、[[1970年代]]の再開発で開業した[[ニットーモール]]・カルパといった大きな商業ビルが並ぶ。北口や南口と比べると国道17号などの大通りと直接結ばれた連絡路が無いが、熊谷市による北口の一般車を東口に誘導する広報活動により利用車は増加傾向にある。また、北口に加えて、[[熊谷うちわ祭]]の初叩合い会場の一つとなった。 * 東口ロータリー(別名「さくら広場」) * [[野村證券]]熊谷支店 * ティアラ21 ※東口(ティアラ口)直結 * ニットーモール * [[ニットーモール#関連施設|CARPA]] === 冷却ミスト === 熊谷市により「あっぱれ・天晴・熊谷駅広場冷却ミスト事業」として、正面口・南口・東口の入口に冷却ミストが設置されている。毎年5月〜10月までの期間の8時〜20時まで「気温28°C以上・湿度70%未満・風速3m未満・降雨なし」の気象条件がそろった時に自動噴霧される。東口に設置されている冷却ミストのノズルの位置が一番低いため、ミストを実感するには一番良いとされている<ref>[http://www.city.kumagaya.lg.jp/appare/appare/ekihiroba.html 熊谷市ホームページ「あっぱれ!熊谷流」]</ref>。 == バス路線 == 当駅は2021年現在、JR東日本と秩父鉄道の鉄道駅であるが、路線バスに関しては[[大手私鉄]]である[[東武グループ|'''東武鉄道'''グループ]]の[[国際十王交通]]・[[朝日自動車]]が主体となっている(かつては[[東武バス|直営]])。かつては秩父鉄道も路線バスを運行していたが、1993年までに全路線廃止されている。 国際十王交通・朝日自動車が運行する路線(高速羽田空港線含む。ゆうゆうバス除く)では、[[PASMO]]・[[Suica]](及び相互利用している各種交通系ICカード)が利用可能である。 {{Main2|国際十王交通による運行路線の詳細は「[[国際十王交通熊谷営業所#運行路線]]」を}} {{Main2|朝日自動車による運行路線の詳細は「[[朝日自動車太田営業所#現行路線]]」を}} {{Main2|熊谷市ゆうゆうバスの詳細は「[[ゆうゆうバス (熊谷市)#路線]]」を}} === 北口発 === <!--発着路線の一覧は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]より、必要最小限の内容に留めています。また、経由地等の詳細はバス事業者の記事に案内する形式をとっています([[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]では、各路線の経由地については記載しないこととなっています)。--> 停留所名は『熊谷駅』。1 - 3番と共通降車場はロータリー内にある。5・6番はロータリー外の[[埼玉県道91号熊谷停車場線]]上にあるが、22時以降は使用せずに3番のりばからの発車となる。4番は[[欠番]]。 ; 1番のりば(国際十王交通) * [[国際十王交通熊谷営業所#大里・東松山方面|KM11]]:[[東松山駅]]行 * KM12:冑山行 * [[国際十王交通熊谷営業所#江南・循環器呼吸器病センター・小川町方面|KM14・15]]:[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]行 * KM16:[[埼玉県立循環器・呼吸器病センター|県立循環器呼吸器病センター]]行 * KM17:大沼公園行 ; 2番のりば(国際十王交通) * [[国際十王交通熊谷営業所#陸上競技場・行田市南河原・犬塚方面|KM21]]:犬塚行 * [[国際十王交通熊谷営業所#新島車庫・籠原方面|KM23]]:[[籠原駅]]行 * KM24:新島車庫行 ; 3番のりば * 国際十王交通 ** [[国際十王交通熊谷営業所#KM3|KM31]]:葛和田行 ** KM32:[[上中条 (熊谷市)|上中条]]行 ** KM33:[[熊谷スポーツ文化公園#彩の国くまがやドーム|くまがやドーム]]行 ** KM34:[[熊谷スポーツ文化公園]]([[熊谷ラグビー場|ラグビー場]])行 ** KM35:箱田車庫行 ** 臨時:[[熊谷うちわ祭]][[パークアンドライド]]バス * 朝日自動車(22時以降のみ) ** [[朝日自動車太田営業所#バイパス経由|KM53]]・[[朝日自動車太田営業所#旧道経由|KM65]]:[[妻沼町|妻沼]]行(平日のみ) ** KM61:[[太田駅 (群馬県)|太田駅]]行 ** KM62:西矢島行(平日2便のみ、最終便は[[深夜バス]]運賃割増扱い) ** KM64:[[歓喜院 (熊谷市)|妻沼聖天]]行 * 国際十王交通、[[川越観光自動車]] ** [[国際十王交通熊谷営業所#熊谷スポーツ文化公園方面|臨時]]:(直通)[[熊谷スポーツ文化公園陸上競技場|陸上競技場]]行 * 国際十王交通、[[川越観光自動車]]、朝日自動車、[[東武バスウエスト]] ** 臨時:(直通)熊谷スポーツ文化公園(ラグビー場)行 ; 5番のりば(22時まで)(朝日自動車) ** KM51〜53:妻沼行 ; 6番のりば(22時まで)(朝日自動車) ** KM61:太田駅行 ** KM63:[[西小泉駅]]行 ** KM64:妻沼聖天行 ** KM65:妻沼行 <!-- * (大栄日生熊谷ビル前) ** 地元企業[[リード (企業)|リード]]の従業員送迎マイクロバスや[[読売旅行]]の企画旅行のバスなどが発着している。 --> : 2020年2月15日以降、[[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]](2021年まではラグビートップリーグ)試合開催日に直通熊谷ラグビー場行きを運行する場合は、熊谷駅ロータリー周辺の混雑緩和を目的として、5・6番のりばの路線を大栄日生熊谷ビル前に2か所設置する臨時バス停からの発車に一時的に移動し、熊谷ラグビー場行きシャトルバスを本来の5・6番のりばの場所から発車させるように変更される<ref>{{Cite web|和書|url= https://asahibus.jp/pdf/topics20200214.pdf |title= お知らせ |publisher= 朝日自動車株式会社 |accessdate= 2022-07-25 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20200215060517/https://asahibus.jp/pdf/topics20200214.pdf |archivedate= 2020-02-15 }}※ラグビートップリーグ開催に伴う熊谷駅のりばの変更について。</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://asahibus.jp/cms-pdf/news/f0530543e81fdd5e92b911cb4f9d0bf512211920221301.pdf |title= お知らせ |publisher= 朝日自動車株式会社 |date= |accessdate= 2022-07-25 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20220121044200/https://asahibus.jp/cms-pdf/news/f0530543e81fdd5e92b911cb4f9d0bf512211920221301.pdf |archivedate= 2022-01-21 }}※ラグビーリーグワン開催に伴う熊谷駅のりばの変更について。</ref>。 === 東口発 === <!--発着路線の一覧は[[PJ:RAIL#駅の記事の記述]]より、必要最小限の内容に留めています。また、各系統・各便ごとの行先・経由地の違いはバス事業者の営業所の記事などを参照する内容としています。--> 停留所名は『熊谷駅東口』。東口は一般車向けという熊谷市による位置づけの為、原則ロータリーに乗り入れず、「[[ワシントンホテル_(愛知県の企業)|R&Bホテル]]熊谷駅前」東側市道を発着する。 * [[ゆうゆうバス (熊谷市)|熊谷市ゆうゆうバス]] ** [6・くまぴあ号] 籠原駅北口 行き([[協同バス]]) ** [9・直実号] 熊谷市街地循環(国際十王交通) === 南口発 === <!--発着路線の一覧は[[PJ:RAIL#駅の記事の記述]]より、必要最小限の内容に留めています。また、各系統・各便ごとの行先・経由地の違いはバス事業者の営業所の記事などを参照する内容としています。--> 停留所名は『熊谷駅南口』。南口ロータリー内に大別して3か所のりばがあるが、番号等は無い。 * (ロータリー北東側)<ref group="注釈">駅の階段近くセブン-イレブン前。</ref> ** 熊谷市ゆうゆうバス *** [[ゆうゆうバス (熊谷市)#第1系統 さくら号|1・さくら号]]:籠原駅南口行(協同バス、国際十王交通) *** [[ゆうゆうバス (熊谷市)#第2系統 グライダー号|2・グライダー号]]:[[熊谷市役所#妻沼庁舎|妻沼行政センター]]行(協同バス) *** [[ゆうゆうバス (熊谷市)#第5系統 ムサシトミヨ号・熊谷駅 - 籠原駅|5・ムサシトミヨ号]]:籠原駅南口行(協同バス) *** [[ゆうゆうバス (熊谷市)#第8系統 ひまわり号|8・ひまわり号]]:[[長島記念館]]行([[北斗交通]]) *** [[ゆうゆうバス (熊谷市)#第9系統 直実号・熊谷市街循環|9・直実号]]:熊谷駅南口行(国際十王交通) *** [[ゆうゆうバス (熊谷市)#第10系統_ほたる号|10・ほたる号]]:[[熊谷市役所#江南庁舎|江南行政センター]]行(国際十王交通) ** 空港連絡バス *** [[東京国際空港|羽田空港]](国際十王交通・[[東京空港交通]]) * (ロータリー北西側)<ref group="注釈">交番派出所や[[ニッポンレンタカー]]・[[オリックスレンタカー]]の近く。</ref> ** 国際十王交通 *** [[国際十王交通熊谷営業所#RU系統|RU01]]:[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]行 *** RU03:[[立正大学]]行(開校日ダイヤ最終2本は深夜バス割増運賃扱い) : RU03は、通常の平日・土休日ダイヤではなく、立正大学に合わせた開校日・休校日ダイヤでの運行。 * (ロータリー西側)<ref group="注釈">立正大学方面のりばの後ろにつく形で存在し、屋根等無くポールが乱雑に置かれている。</ref> ** [[矢島タクシー#おおたCityシャトル500|OTA CITY シャトル500]] 太田駅南口 行き([[矢島タクシー]]) ** [[スクールバス]] *** [[武蔵越生高等学校]]/[[大妻嵐山中学校・高等学校]](協同バス) *** [[東京農業大学第三高等学校・附属中学校|東京農業大学第三高等学校]](BM観光) *** [[星野学園中学校・星野高等学校]]([[関東自動車 (埼玉県)|関東バス]]) *** [[東京電機大学]]埼玉鳩山キャンパス([[ロイヤル交通 (埼玉県)|ロイヤル観光]]) ** 送迎バス *** 昭和浄苑<ref group="注釈">無料送迎バス。</ref> <!-- *** 企業従業員送迎バスや[[クラブツーリズム]]の企画旅行のバスなども発着している。--> == タクシー == * 北口・南口の各ロータリーのタクシーのりばには、熊谷市内に営業所を持つ事業者のうち、以下の事業者のタクシーが乗り入れる。 ** 熊谷構内タクシー ** 中央タクシー ** 七福タクシー ** かごはらタクシー ** 大沼公園タクシー(南口) == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越新幹線・北陸新幹線 ::: [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - '''熊谷駅''' - [[本庄早稲田駅]] : {{Color|#f68b1e|■}}高崎線 :* 特急「[[草津・四万]]」「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」停車駅 :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速・{{Color|#f68b1e|■}}快速「アーバン」(当駅から高崎・[[前橋駅|前橋]]方面は各駅に停車) ::: 鴻巣駅 - '''熊谷駅''' - [[籠原駅]] :: {{Color|#18a629|■}}普通 ::: [[行田駅]] - '''熊谷駅''' - (([[貨物駅|貨]])[[熊谷貨物ターミナル駅]]) - 籠原駅 ; 秩父鉄道 : {{Color|blue|■}}秩父本線 :: 急行「[[SLパレオエクスプレス]]」 ::: '''熊谷駅(CR 09)''' - [[ふかや花園駅]](CR 17) :: 急行「[[秩父路]]」(当駅から羽生方面は土休日のみ運転) ::: [[行田市駅]](CR 06) - '''熊谷駅(CR 09)''' - [[武川駅]](CR 15) :: 各駅停車 ::: [[ソシオ流通センター駅]](CR 08) - '''熊谷駅(CR 09)''' - [[上熊谷駅]](CR 10) === かつて存在した路線 === ; 東武鉄道 : 熊谷線 (妻沼線) ::: '''熊谷駅''' - [[上熊谷駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|3}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 新幹線の2012年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="新幹線"|22em}} ; JR・私鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="埼玉県統計"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[埼玉県道91号熊谷停車場線]]([[ラグビーロード]]) - 北口駅前通り * [[スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇]] - 第16話で[[大西結花]]が演じる風間結花が、かつてのボーイフレンドだった誠を送り出すシーンでロケが行われていた。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=625|name=熊谷}} * [http://www.chichibu-railway.co.jp/station/08_kuma.html 秩父鉄道 熊谷駅] {{鉄道路線ヘッダー}} {{上越新幹線}} {{北陸新幹線}} {{高崎線|ss=1}} {{秩父鉄道秩父本線}} {{東武熊谷線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:くまかやえき}} [[Category:熊谷駅|*]] [[Category:熊谷市の鉄道駅|くまかや]] [[Category:日本の鉄道駅 く|まかや]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅|くまかや]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅|くまかや]] [[Category:高崎線]] [[Category:上越新幹線]] [[Category:秩父鉄道の鉄道駅|くまかや]] [[Category:東武鉄道の廃駅|くまかや]] [[Category:1883年開業の鉄道駅|くまかや]] [[Category:1880年代日本の設立]]
2003-08-26T19:09:25Z
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