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上海 (ゲーム)
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『上海』(シャンハイ)は、1986年7月にアメリカ合衆国のアクティビジョンから発売されたMacintosh用パズルゲーム。
積み上げられた麻雀牌の山から、ある一定のルールに従って牌を取り除いていく、「Mahjong solitaire」とも呼ばれるソリティアの一種である。パッケージに「the ancient Chinese game of Mah-jongg」と表記され、あたかも中国に古くからあるゲームであるかのように装っていた。
開発はアクティビジョンが行い、ゲーム・デザインおよびプログラムはブロディー・ロッカード(英語版)が担当している。ロッカードは後にパソコン用ソフト『石道』(1990年)の開発にも携わっている。
同年にAmiga、Atari ST、Atari 8ビット・コンピュータ、コモドール64、PC/AT互換機、Apple IIなどのパソコン各機種に移植され、翌1987年にPC-9801などの国産パソコンやファミリーコンピュータ、PCエンジンなどの家庭用ゲーム機でも発売され、日本国内でも広く知られるようになった。2001年よりサン電子が総代理店に指定され、2005年のニンテンドーDS移植版以降、家庭用(コンシューマー)及び業務用(アーケード)ゲーム版の新規開発・リリースはサクセスが行っている。
最初は、季節牌4枚(春、夏、秋、冬)、花牌4枚(梅、蘭、菊、竹)を含む合計144枚の麻雀牌が積み上げられた状態が表示される。
その牌の山の中から、同じ牌を2枚選ぶと、その牌を取り除くことができる(季節牌と花牌は、季節牌同士、花牌同士であれば良い)。ただし、左右両方に隣接する牌がある場合や、上に牌が乗っている場合はその牌を選ぶことはできない。
144枚全てを取り除くことができればゲームクリア、牌が残っているにもかかわらず、取り除くことのできる牌がなくなったら手詰まりでゲームオーバーとなる。
牌の配列によって難易度が異なり、様々な配列が考案されている。最も代表的な「DRAGON(龍配列)」の他、TIGER(虎配列)、MONKEY(猿配列)、SNAKE(蛇配列)などが知られ、また名称不明な配列も数多くある。中には144枚より少ない牌で構成された配列もあり、それらの難易度はより低くなっている。
作品によっては、時間制限があるモードや時間制限なしでゆったり攻略できるもの、通常より牌の数が少ないがどちらが早く取り除けるかを競う対戦プレイモードが用意してある。また、プレイヤーの手助けとしての回数制限ありのヒントといった初心者に配慮した機能を多くの作品で採用されている。ただし、ヒント機能はその時点で取れる牌の組み合わせを教えるだけであり、必ずしもそれを利用したところでクリアできるとは限らない。
タイトルが『上海』とされているもののみを列挙する。
この形のゲームはコンピュータゲームの一つの定番として、様々な機種やOSに移植され、いわゆるクローンゲームやフリーソフトも多数存在する。また少しずつ異なるルールによる、やはり麻雀牌の山から2つずつ次いで消してゆくゲームも色々作られた。それらの多くは中国の地名(四川省、香港など)をその名に持っていた。パソコン用ソフトでは『青海』(ちんはい)が有名であった。このソフトでは、画面上の牌をすべて消したとき、中央に「竜の画像予定地」と書かれた画面が出てきて、オリジナルの『上海』でクリアした際に龍の画像が表示されるのに対するパロディであることを意思表示していた。
Microsoft Windows Vista・7(一部の下位エディションを除く)には同様のゲーム「Mahjong Titans」が標準で含まれていたほか、2018年現在はMicrosoft Casual Gamesの一つとして「Microsoft Mahjong」がMicrosoftストアで配信されている。
オリジナルであるPLATO版の作者はハワイ在住のゲームデザイナー、ブロディー・ロッカード(Brodie Lockard)。 スタンフォード大学在学中、体操の選手だったが、トランポリンの練習中に首の骨を折り、首から下に麻痺が残ってしまった。このため『上海』のプログラミングも、全て口を使って行われたと、元アクティビジョンのプロデューサー、ブラッド・フレガーは証言している。 彼はのちに、アコレイドから『石道』も発表している。
ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」において、ファミリーコンピュータ版は合計28点(満40点)で高得点となったが、ゲームボーイ版は合計23点(満40点)と標準的な評価となった。
徳間書店のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は、PCエンジン版は『PC Engine FAN』において右記の通り19.13点(満30点)で標準的な評価となり、ファミリーコンピュータ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において右記の通り17.83点(満30点)で低評価、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において右記の通り19.59点(満30点)と標準的な評価となった。PCエンジン版はPCエンジン全ソフトの中で総合388位(485本中、1993年時点)の結果となった他、ファミリーコンピュータ版は同誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」において、他機種と比較して高さの違いを色で表現している点に関して「画面が見にくい」と否定的に評価され、ゲームボーイ版は同誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ」において、液晶画面のために牌の高さが理解しにくいと否定的に評価された。
アーケード版はゲーム誌『ゲーメスト』の企画「第2回ゲーメスト大賞」(1988年度)において、年間ヒットゲームで17位を獲得、ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのずるずるはいかに早く同じ絵柄の牌を揃えて消去するという点と、麻雀牌が4つ1組である事から組み合わせが必ず2つ存在し、牌が3つ見えている状態の組み合わせ方などを考慮しないと手詰まりとなる点が本作の面白さであると指摘した。一方で、配置によっては完全に手詰まりとなり強制的にゲームオーバーとなる点について苦言を呈した他、非常にシビアなゲームであり、華やかな演出もない事を指摘した。その他、稼働当時は昼間にサラリーマンが時間潰しにプレイしている事が多く、どこのゲームセンターにおいても必ずプレイ中であり、1人のプレイヤーが何度もコンティニューするためにプレイするチャンスが無かったと述懐した。また、ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.2 アクションゲーム・シューティングゲーム熟成期編』では、オリジナル版と比較して牌が立体的になっており見やすくなっている点や、操作性が優れていたとして肯定的に評価した。また、アーケード版は牌の並べ方が1通りしかないにも拘わらず人気が高かったと総括した。
カッコ内は初登場した作品。
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"text": "徳間書店のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は、PCエンジン版は『PC Engine FAN』において右記の通り19.13点(満30点)で標準的な評価となり、ファミリーコンピュータ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において右記の通り17.83点(満30点)で低評価、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において右記の通り19.59点(満30点)と標準的な評価となった。PCエンジン版はPCエンジン全ソフトの中で総合388位(485本中、1993年時点)の結果となった他、ファミリーコンピュータ版は同誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」において、他機種と比較して高さの違いを色で表現している点に関して「画面が見にくい」と否定的に評価され、ゲームボーイ版は同誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ」において、液晶画面のために牌の高さが理解しにくいと否定的に評価された。",
"title": "評価"
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"text": "アーケード版はゲーム誌『ゲーメスト』の企画「第2回ゲーメスト大賞」(1988年度)において、年間ヒットゲームで17位を獲得、ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのずるずるはいかに早く同じ絵柄の牌を揃えて消去するという点と、麻雀牌が4つ1組である事から組み合わせが必ず2つ存在し、牌が3つ見えている状態の組み合わせ方などを考慮しないと手詰まりとなる点が本作の面白さであると指摘した。一方で、配置によっては完全に手詰まりとなり強制的にゲームオーバーとなる点について苦言を呈した他、非常にシビアなゲームであり、華やかな演出もない事を指摘した。その他、稼働当時は昼間にサラリーマンが時間潰しにプレイしている事が多く、どこのゲームセンターにおいても必ずプレイ中であり、1人のプレイヤーが何度もコンティニューするためにプレイするチャンスが無かったと述懐した。また、ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.2 アクションゲーム・シューティングゲーム熟成期編』では、オリジナル版と比較して牌が立体的になっており見やすくなっている点や、操作性が優れていたとして肯定的に評価した。また、アーケード版は牌の並べ方が1通りしかないにも拘わらず人気が高かったと総括した。",
"title": "評価"
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『上海』(シャンハイ)は、1986年7月にアメリカ合衆国のアクティビジョンから発売されたMacintosh用パズルゲーム。 積み上げられた麻雀牌の山から、ある一定のルールに従って牌を取り除いていく、「Mahjong solitaire」とも呼ばれるソリティアの一種である。パッケージに「the ancient Chinese game of Mah-jongg」と表記され、あたかも中国に古くからあるゲームであるかのように装っていた。 開発はアクティビジョンが行い、ゲーム・デザインおよびプログラムはブロディー・ロッカードが担当している。ロッカードは後にパソコン用ソフト『石道』(1990年)の開発にも携わっている。 同年にAmiga、Atari ST、Atari 8ビット・コンピュータ、コモドール64、PC/AT互換機、Apple IIなどのパソコン各機種に移植され、翌1987年にPC-9801などの国産パソコンやファミリーコンピュータ、PCエンジンなどの家庭用ゲーム機でも発売され、日本国内でも広く知られるようになった。2001年よりサン電子が総代理店に指定され、2005年のニンテンドーDS移植版以降、家庭用(コンシューマー)及び業務用(アーケード)ゲーム版の新規開発・リリースはサクセスが行っている。
|
{{コンピュータゲーム
| Title = 上海
| image = [[Image:Mahjongg.png|280px]]<br />[[GNOME]]に標準で含まれている上海
| Genre = [[パズルゲーム]]
| Plat = [[Macintosh]] (Mac){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[Apple II]] (APII)<br />[[Amiga]]<br />[[Atari ST]] (ST)<br />[[コモドール64]] (C64)<br />[[PC/AT互換機]] (DOS)<br />Apple IIgs (APIIGS)<br />[[PC-8800シリーズ|PC-8801]] (PC88)<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]] (PC98)<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[PCエンジン]] (PCE)<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[X68000]] (X68)<br />[[文豪|文豪mini]]<br />[[:en:TRS-80 Color Computer|TRS CoCo]] (TRS)<br />[[アーケードゲーム|アーケード]] (AC)<br />[[セガ・マスターシステム]] (SMS)<br />[[Amstrad CPC]] (CPC)<br />[[Atari 8ビット・コンピュータ]] (A8)<br />[[MSX2]]<br />FMR-50 (FMR)<br />[[Macintosh II]] (MacII)<br />[[ゲームボーイ]] (GB)<br />[[FM TOWNS]] (FMT)<br />[[Atari Lynx]] (LX)<br />[[iアプリ]]<br />[[EZアプリ]]<br />[[ニンテンドーDS]] (DS)<br />[[PlayStation Portable]] (PSP)<br />[[Wii]]<br />[[iOS]]}}
| Dev = [[アクティビジョン]]
| Pub = アクティビジョン
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| Media = [[フロッピーディスク]]
| Date = {{vgrelease new|NA|July 1986}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''APII'''<br />{{vgrelease new|NA|September 1986}}'''Amiga,ST,C64'''<br />{{vgrelease new|NA|October 1986|EU|1986年}}'''DOS'''<br />{{vgrelease new|NA|October 1986}}'''APIIGS'''<br />{{vgrelease new|NA|February 1987}}'''PC88,PC98'''<br />{{vgrelease new|JP|May 1987}}'''X1'''<br />{{vgrelease new|JP|June 1987}}'''PCE'''<br />{{vgrelease new|JP|1987-10-30}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1987-12-04}}'''X68'''<br />{{vgrelease new|JP|1987-12-20}}'''文豪mini'''<br />{{vgrelease new|JP|1987年}}'''TRS'''<br />{{vgrelease new|NA|1987年}}'''AC'''<br />{{vgrelease new|JP|March 1988}}'''SMS'''<br />{{vgrelease new|NA|October 1988|EU|1988年}}'''CPC,A8'''<br />{{vgrelease new|EU|1988年}}'''MSX2'''<br />{{vgrelease new|JP|1988年}}'''FMR'''<br />{{vgrelease new|JP|June 1989}}'''MacII'''<br />{{vgrelease new|NA|July 1989}}'''GB'''<br />{{vgrelease new|JP|1989-07-28|NA|1989年}}'''FMT'''<br />{{vgrelease new|JP|1990-12-01}}'''LX'''<br />{{vgrelease new|NA|1990年}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-08-18}}'''EZアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2004-02-19}}'''DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2005-12-22}}'''PSP'''<br />{{vgrelease new|JP|2006-03-23}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|JP|2007-12-13}}'''iOS'''<br />{{vgrelease new|INT|2008-07-11}}'''Wii(ACの移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2012-09-04}}}}
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[[Image:Mahjong solitaire-01.jpg|thumb|right|シリーズで最も代表的な龍配列を再現した写真]]
『'''上海'''』(シャンハイ)は、[[1986年]][[7月]]に[[アメリカ合衆国]]の[[アクティビジョン]]から発売された[[Macintosh]]用[[パズルゲーム]]。
積み上げられた[[麻雀牌]]の山から、ある一定のルールに従って牌を取り除いていく、「Mahjong solitaire」とも呼ばれる[[ソリティア]]の一種である。パッケージに「the ancient Chinese game of Mah-jongg」と表記され、あたかも中国に古くからあるゲームであるかのように装っていた<ref>『上海』の登場以降、アメリカでは「mahjong solitaire」が本来の[[麻雀]]と混同されてしまっており、最近でも[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]向けの『上海』タイプの[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]『Random Mahjong Pro』の宣伝文句の中に、あたかも[[孔子]]が「mahjong solitaire」を発明したように思わせる記述が含まれている。<!--http://www.amazon.com/Paul-Burkey-Random-Mahjong-Ad-Free/dp/B0051HDDO2 より(宣伝が目的ではないのでコメントアウト)--></ref>。
開発はアクティビジョンが行い、ゲーム・デザインおよびプログラムは{{仮リンク|ブロディー・ロッカード|en|Brodie Lockard}}が担当している。ロッカードは後にパソコン用ソフト『石道』([[1990年]])の開発にも携わっている。
同年に[[Amiga]]、[[Atari ST]]、[[Atari 8ビット・コンピュータ]]、[[コモドール64]]、[[PC/AT互換機]]、[[Apple II]]などのパソコン各機種に移植され、翌[[1987年]]に[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]などの国産パソコンや[[ファミリーコンピュータ]]、[[PCエンジン]]などの[[家庭用ゲーム機]]でも発売され、日本国内でも広く知られるようになった。[[2001年]]より[[サン電子]]が総代理店に指定され、2005年の[[ニンテンドーDS]]移植版以降、家庭用(コンシューマー)及び業務用(アーケード)ゲーム版の新規開発・リリースは[[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]が行っている。
== ゲーム内容 ==
最初は、季節牌4枚(春、夏、秋、冬)、花牌4枚(梅、蘭、菊、竹)を含む合計144枚の麻雀牌が積み上げられた状態が表示される。
その牌の山の中から、同じ牌を2枚選ぶと、その牌を取り除くことができる(季節牌と花牌は、季節牌同士、花牌同士であれば良い)。ただし、左右両方に隣接する牌がある場合や、上に牌が乗っている場合はその牌を選ぶことはできない。
144枚全てを取り除くことができればゲームクリア、牌が残っているにもかかわらず、取り除くことのできる牌がなくなったら手詰まりで[[ゲームオーバー]]となる。
牌の配列によって難易度が異なり、様々な配列が考案されている。最も代表的な「DRAGON(龍配列)」の他、TIGER(虎配列)、MONKEY(猿配列)、SNAKE(蛇配列)などが知られ、また名称不明な配列も数多くある。中には144枚より少ない牌で構成された配列もあり、それらの難易度はより低くなっている。
作品によっては、時間制限があるモードや時間制限なしでゆったり攻略できるもの、通常より牌の数が少ないがどちらが早く取り除けるかを競う対戦プレイモードが用意してある。また、プレイヤーの手助けとしての回数制限ありのヒントといった初心者に配慮した機能を多くの作品で採用されている。ただし、ヒント機能はその時点で取れる牌の組み合わせを教えるだけであり、必ずしもそれを利用したところでクリアできるとは限らない。
== 他機種版 ==
タイトルが『上海』とされているもののみを列挙する。
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 備考
! 出典
|-
| style="text-align:right" | 1
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|September 1986}}
| [[Apple II]]
| アクティビジョン
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 2
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|October 1986|EU|1986年}}
| [[Amiga]]<br />[[Atari ST]]<br />[[コモドール64]]
| アクティビジョン
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 3
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|October 1986}}
| [[PC/AT互換機]]
| Programming Services
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|February 1987}}
| Apple IIgs
| [[:en:Manley & Associates|Manley & Associates]]
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 5
! 上海
| {{vgrelease new|JP|May 1987}}
| [[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]
| [[システムソフト]]
| システムソフト
| 3.5インチフロッピーディスク<br />5インチフロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! 上海
| {{vgrelease new|JP|June 1987}}
| [[X1 (コンピュータ)|X1]]
| システムソフト
| システムソフト
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 7
! 上海
| {{vgrelease new|JP|1987-10-30}}
| [[PCエンジン]]
| [[アルファ・システム]]
| [[ハドソン]]
| 2[[メガビット]][[HuCARD]]{{Sfn|PC Engine FAN|1993|p=133}}
| HC62004
| 本体と同時発売
|
|-
| style="text-align:right" | 8
! 上海
| {{vgrelease new|JP|1987-12-04}}
| [[ファミリーコンピュータ]]
| [[サン電子|サンソフト]]
| サンソフト
| 1メガビット+64キロRAM[[ロムカセット]]{{Sfn|ファミコンロムカセット オールカタログ|1991|p=317}}
| SUN-SS9-5300
|
|
|-
| style="text-align:right" | 9
! 上海
| {{vgrelease new|JP|1987-12-20}}
| [[X68000]]
| システムソフト
| システムソフト
| 5インチフロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 10
! Shanghai
| {{vgrelease new|JP|1987年}}
| [[文豪|文豪mini]]
| システムソフト
| システムソフト
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 11
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|1987年}}
| [[:en:TRS-80 Color Computer|TRS-80 Color Computer]]
| アクティビジョン
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 12
! 上海
| {{vgrelease new|JP|March 1988}}
| [[アーケードゲーム|アーケード]]
| [[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]
| サンソフト<br />[[エイブルコーポレーション]]
| [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]<br />(384[[キロバイト]])
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 13
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|October 1988|EU|1988年}}
| [[セガ・マスターシステム]]
| [[セガ]]
| セガ
| ロムカセット
| 5110
| 変換アダプターによる起動で日本版マスターシステムおよび<br />[[セガ・マークIII]]のFMサウンドユニットによるFM音源、日本語表記に対応
|
|-
| style="text-align:right" | 14
! Shanghai
| {{vgrelease new|EU|1988年}}
| [[Amstrad CPC]]<br />[[Atari 8ビット・コンピュータ]]
| アクティビジョン
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 15
! 上海
| {{vgrelease new|JP|1988年}}
| [[MSX2]]
| システムソフト
| システムソフト<br />[[ホット・ビィ]]
| 3.5インチフロッピーディスク<br />ロムカセット
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 16
! 上海
| {{vgrelease new|JP|June 1989}}
| FMR-50
| システムソフト
| システムソフト
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 17
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|July 1989}}
| [[Macintosh II]]
| アクティビジョン
| アクティビジョン
| フロッピーディスク
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 18
! 上海
| {{vgrelease new|JP|1989-07-28|NA|1989年|JP|1994年}}
| [[ゲームボーイ]]
| [[HAL研究所]]
| {{vgrelease new|JP|HAL研究所|NA|HAL研究所|JP|アクティビジョン}}
| 256[[キロビット]]ロムカセット{{Sfn|ゲームボーイ オールカタログ|1991|p=195}}
| {{vgrelease new|JP|DMG-SHJ|NA|DMG-SH-USA|JP|DMG-ZZJ}}
| 携帯型ゲーム機初の[[サードパーティー]]タイトル<br />DMG-ZZJはアクティビジョン・ジャパンによる同内容の再販版
|
|-
| style="text-align:right" | 19
! 上海
| {{vgrelease new|JP|1990-12-01}}
| [[FM TOWNS]]
| アクティビジョン
| [[アスキー (企業)|アスキー]]
| [[CD-ROM]]
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 20
! Shanghai
| {{vgrelease new|NA|1990年}}
| [[Atari Lynx]]
| アクティビジョン
| [[アタリ (企業)|アタリ]]
| ロムカセット
| PA2063
|
|
|-
| style="text-align:right" | 21
! 上海
| {{vgrelease new|JP|2003-08-18}}
| [[mova]]504iシリーズ<br />[[FOMA]]2051/2102V/2701シリーズ<br />([[iアプリ]])
| サンソフト
| サンソフト
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(ドキドキSUNSOFT)
| -
| 505i対応版は9月19日より配信開始<ref>{{Cite web|和書|author=北村孝和 |date=2003-09-19 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20030919/sun.htm |title=サン電子、iモード「ドキドキSUNSOFT」にて「いっき」、「すごいへべれけ」など5タイトルを配信開始 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2003-08-18 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0308/18/news05.html |title=上海,いっき,iアプリに! ドキドキSUNSOFT本日開始 |website=SOFTBANK GAMES NEWS INDEX |publisher=[[ITmedia]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=関口聖 |date=2003-08-18 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/15254.html |title=「いっき」や「上海」など名作ゲームがiアプリで登場 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=船津稔 |date=2003-08-18 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20030818/sun.htm |title=サンソフト、「いっき」などがiアプリで蘇る |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 22
! 上海
| {{vgrelease new|JP|2004-02-19}}
| [[BREW]]対応機種<br />([[EZアプリ]])
| [[タイトー]]
| タイトー
| ダウンロード
| -
|
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2004-02-19 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0402/19/news065.html |title=タイトー、麻雀パズルゲーム「上海」をEZアプリ向けに配信 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=関口聖 |date=2004-12-19 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/17694.html |title=人気パズルゲーム「上海」がEZアプリ(BREW)で登場 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 23
! 上海
| {{vgrelease new|JP|2005-12-22}}
| [[ニンテンドーDS]]
| サクセス
| サクセス
| DSカード
| NTR-P-AS8J/A
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=石田賀津男 |date=2005-10-26 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20051026/shang.htm |title=サクセス、タッチパネルに対応した定番パズルゲーム、DS「上海」 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 24
! 上海
| {{vgrelease new|JP|2006-03-23}}
| [[PlayStation Portable]]
| サクセス
| サクセス
| [[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]
| ULJM-05057
|
|
|-
| style="text-align:right" | 25
! 上海
| {{vgrelease new|JP|2007-12-13}}
| [[Wii]]
| サクセス
| サクセス
| Wii用12cm光ディスク
| RVL-P-RS8J-JPN
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=中野信二 |date=2007-10-09 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20071009/shan.htm |title=サクセス、Wii「上海」。定番パズルゲームがWiiに登場。Wiiリモコンを使った直感的な操作にも対応 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 26
! {{vgrelease new|JP|上海|INT|Mahjong Solitaire}}
| {{vgrelease new|INT|2008-07-11}}
| [[iPhone]]<br />[[iPod touch]]<br />([[iOS]])
| サンソフト
| サンソフト
| ダウンロード
|
| 2011年3月18日より3月31日まで、<br />[[東日本大震災]]復興支援のため値下げされた<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2011-03-18 |url=https://dengekionline.com/elem/000/000/354/354889/ |title=iPhone『上海』の売上を被災地に寄付、チャリティ壁紙も配信中 |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
| <ref>{{Cite web|和書|author=関口聖 |date=2008-06-19 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/40495.html?ref=rss |title=サン電子、iPhone向けに「上海」配信 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=中野信二 |date=2008-07-11 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080711/shang.htm |title=サン電子、iPhone/iPod touch用「パズルゲーム上海」。定番パズルゲームの配信を「App Store」で開始 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><ref>{{Cite web |author= |date=2008-07-11 |url=https://ascii.jp/elem/000/000/441/441486/ |title=サン電子、iPhone TM /iPod(R) touch用ゲーム 『パズルゲーム上海』販売開始! 英語版『Mahjong Solitaire』も世界各国で販売開始! |website=[[アスキー・メディアワークス|Ascii.jp]] |publisher=[[KADOKAWA]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 27
! 上海
| {{vgrelease new|JP|2012-09-04}}
| Wii
| サクセス
| [[D4エンタープライズ]]
| ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール|バーチャルコンソールアーケード]])
| -
| アーケード版の移植<br />2019年1月31日 配信・販売終了
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.famitsu.com/schedule/recent/wii/ |title=【Wii】 新作ゲームソフト発売日 - ゲーム発売スケジュール |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=木原卓 |date=2012-09-19 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/series/dl/560703.html |title=週刊ダウンロードソフトウェアカタログ 2012年9月第5週分 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|}
=== 類例 ===
この形のゲームは[[コンピュータゲーム]]の一つの定番として、様々な機種や[[オペレーティングシステム|OS]]に移植され、いわゆる[[クローンゲーム]]や[[フリーソフト]]も多数存在する。また少しずつ異なるルールによる、やはり麻雀牌の山から2つずつ次いで消してゆくゲームも色々作られた。それらの多くは[[中国]]の地名([[四川省 (ゲーム)|四川省]]、香港など)をその名に持っていた。パソコン用ソフトでは『青海』(ちんはい)が有名であった。このソフトでは、画面上の牌をすべて消したとき、中央に「竜の画像予定地」と書かれた画面が出てきて、オリジナルの『上海』でクリアした際に龍の画像が表示されるのに対する[[パロディ]]であることを意思表示していた。
[[Microsoft Windows Vista]]・[[Microsoft Windows 7|7]](一部の下位エディションを除く)には同様のゲーム「[[Mahjong Titans]]」が標準で含まれていたほか、[[2018年]]現在は[[Microsoft Casual Games]]の一つとして「Microsoft Mahjong」が[[Microsoftストア]]で配信されている。
== 開発 ==
オリジナルである[[PLATO]]版の作者は[[ハワイ州|ハワイ]]在住の[[ゲームデザイナー]]、ブロディー・ロッカード([[Brodie Lockard]])<ref>[https://tedium.co/2017/11/15/mahjong-shanghai-brodie-lockard/ Shanghai’s Untold Story]</ref>。
[[スタンフォード大学]]在学中、[[体操]]の選手だったが、[[トランポリン]]の練習中に首の骨を折り、首から下に麻痺が残ってしまった。このため『上海』の[[プログラミング]]も、全て口を使って行われたと、元[[アクティビジョン]]の[[プロデューサー]]、ブラッド・フレガーは証言している。<ref>月刊ログイン1986年9月号P218</ref>
彼はのちに、アコレイドから『石道』も発表している。
== スタッフ ==
;Macintosh版
*ゲーム・デザイン、プログラム:{{仮リンク|ブロディー・ロッカード|en|Brodie Lockard}}
*アート:ブロディー・ロッカード、ドン・ウー
*タイトル・スクリーン:デヴィッド・マクマッキン
;PCエンジン版
*音楽:[[前野知常]]
;ファミリーコンピュータ版
*ディレクター:CHO MUSOU
*プログラマー:DON GAVACHO(こまだよしあき)
*プログラム・ディレクター:HIRO-KUN(東谷浩明)
*アート・ディレクター:IKKO.(おくむらかずあき)
*タイトル:CHIAO、ASSHI(酒井敦史)
*音楽:[[小高直樹]]、諸田直久
*エンド・タイトル:こばやしかつのり
*アシスタント:KITACHAN(北角浩一)、LITTLE STONE、NORIBOU
*トレーダー:DAIREN
*タイトル・デザイン:DON GAVACHO(こまだよしあき)、KAZ(すぎうらかずゆき)、HCM-PIO SAKAI(さかいりえこ)
*パッケージ・デザイン:NAC
*スペシャル・サンクス:A・T(竹内昭人)、NOMU(野村雅仁)、NAOCHAN、MAC、HACKER-FUJI(ふじいひろかつ)
*オリジナル・ゲーム・デザイン:ブロディー・ロッカード
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|Allgame = {{Rating|3|5}} (SMS)<ref name="mobygames_SMS">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/sega-master-system/shanghai |title=Shanghai for SEGA Master System (1988) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|CVG = 48% (SMS)<ref name="mobygames_SMS"/><br />84% (LX)<ref name="mobygames_LX">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/lynx/shanghai |title=Shanghai for Lynx (1990) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|EGM = 20/40点 (GB)<ref name="mobygames_GB">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/gameboy/shanghai__ |title=Shanghai for Game Boy (1989) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|Fam = 28/40点 (FC)<ref name="famitsu"/><br />23/40点 (GB)<ref name="famitsu2"/>
|rev1 = [[:en:Amiga Power|Amiga Power]]
|rev1Score = {{Rating|5|5}} (Amiga)<ref name="mobygames_Amiga">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/amiga/shanghai |title=Shanghai for Amiga (1986) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|rev2 = [[:en:Aktueller Software Markt|Aktueller Software Markt]]
|rev2Score = 7.2/12点 (Amiga)<ref name="mobygames_Amiga"/><br />7.2/12点 (ST)<ref name="mobygames_ST">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/atari-st/shanghai |title=Shanghai for Atari ST (1986) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref><br />10/12点 (SMS)<ref name="mobygames_SMS"/><br />9.8/12点 (GB)<ref name="mobygames_GB"/><br />9.5/12点 (LX)<ref name="mobygames_LX"/>
|rev3 = [[:en:Commodore User|Commodore User]]
|rev3Score = 7/10点 (C64)<ref name="mobygames_C64">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/c64/shanghai |title=Shanghai for Commodore 64 (1986) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2020-09-20}}</ref>
|rev4 = [[PC Engine FAN]]
|rev4Score = 19.13/30点 (PCE){{Sfn|PC Engine FAN|1993|p=133}}<br />(総合388位)
|rev5 = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|rev5Score = 17.83/30点 (FC){{Sfn|ファミコンロムカセット オールカタログ|1991|p=317}}<br />19.59/30点 (GB){{Sfn|ゲームボーイ オールカタログ|1991|p=195}}
|rev6 = [[:en:Sega Power|Sega Power]]
|rev6Score = {{Rating|5|5}} (SMS)<ref name="mobygames_SMS"/>
|rev7 = [[:en:ACE (magazine)|ACE]]
|rev7Score = 796/1000点 (SMS)<ref name="mobygames_SMS"/>
|rev8 = 甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.2
|rev8Score = 肯定的 (AC){{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=122}}
|award1Pub = 第2回[[ゲーメスト大賞]]
|award1 = 年間ヒットゲーム17位{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=23}}
}}
{|class="wikitable floatright" style="font-size:70%; text-align:center; width:25%"
|+ 「ゲーム通信簿」評価
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! PCE版
| 2.54 || 3.08 || 3.16 || 3.65 || 3.25 || 3.45
! 19.13
|-
! FC版
| 2.39 || 2.80 || 3.03 || 3.35 || 2.88 || 3.38
! 17.83
|-
! GB版
| 2.92 || 3.33 || 3.37 || 3.37 || 3.26 || 3.34
! 19.59
|}
ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」において、ファミリーコンピュータ版は合計28点(満40点)<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|date= |url= http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=5810 |title= 上海 まとめ <nowiki>[ファミコン]</nowiki> |website= [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher= [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate= 2020-09-20}}</ref>で高得点となったが、ゲームボーイ版は合計23点(満40点)<ref name="famitsu2">{{Cite web|和書|date= |url= http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=13819 |title= 上海 まとめ <nowiki>[ゲームボーイ]</nowiki> |website= [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher= [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate= 2020-09-20}}</ref>と標準的な評価となった。
[[徳間書店]]のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は、PCエンジン版は『[[PC Engine FAN]]』において右記の通り19.13点(満30点){{Sfn|PC Engine FAN|1993|p=133}}で標準的な評価となり、ファミリーコンピュータ版は『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』において右記の通り17.83点(満30点){{Sfn|ファミコンロムカセット オールカタログ|1991|p=317}}で低評価、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において右記の通り19.59点(満30点){{Sfn|ゲームボーイ オールカタログ|1991|p=195}}と標準的な評価となった。PCエンジン版はPCエンジン全ソフトの中で総合388位(485本中、1993年時点){{Sfn|PC Engine FAN|1993|p=133}}の結果となった他、ファミリーコンピュータ版は同誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」において、他機種と比較して高さの違いを色で表現している点に関して「画面が見にくい」と否定的に評価され{{Sfn|ファミコンロムカセット オールカタログ|1991|p=317}}、ゲームボーイ版は同誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ」において、液晶画面のために牌の高さが理解しにくいと否定的に評価された{{Sfn|ゲームボーイ オールカタログ|1991|p=195}}。
アーケード版はゲーム誌『[[ゲーメスト]]』の企画「第2回[[ゲーメスト大賞]]」(1988年度)において、年間ヒットゲームで17位を獲得{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=23}}、ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』([[1998年]])では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのずるずるはいかに早く同じ絵柄の牌を揃えて消去するという点と、麻雀牌が4つ1組である事から組み合わせが必ず2つ存在し、牌が3つ見えている状態の組み合わせ方などを考慮しないと手詰まりとなる点が本作の面白さであると指摘した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=138}}。一方で、配置によっては完全に手詰まりとなり強制的にゲームオーバーとなる点について苦言を呈した他、非常にシビアなゲームであり、華やかな演出もない事を指摘した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=138}}。その他、稼働当時は昼間にサラリーマンが時間潰しにプレイしている事が多く、どこのゲームセンターにおいても必ずプレイ中であり、1人のプレイヤーが何度もコンティニューするためにプレイするチャンスが無かったと述懐した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=138}}。また、ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.2 アクションゲーム・シューティングゲーム熟成期編』では、オリジナル版と比較して牌が立体的になっており見やすくなっている点や、操作性が優れていたとして肯定的に評価した{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=122}}。また、アーケード版は牌の並べ方が1通りしかないにも拘わらず人気が高かったと総括した{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=122}}。
{{Clear}}
== 関連作品 ==
=== 続編 ===
<!-- 発売年月日順 -->
*AC『上海II』 開発:サクセス 販売:サンソフト [[1989年]]3月
*PC-9800シリーズ『上海II』 システムソフト 1989年発売{{Sfn|Oh!PC|1990|pp=228 - 229}}
: 日本オリジナルの続編。牌の積み方が6種類(帝、蠍、猿、蛇、豹、龍)に増加。制限時間内にステージをクリアしていくキャンペーンモード搭載。
*MSX2『上海II』 システムソフト 1989年
*X68000『上海II』 ハドソン 1989年
*PCエンジン[[CD-ROM2|CD-ROM²]]『上海II』 ハドソン [[1990年]][[4月13日]]
*ファミリーコンピュータ『上海II』 サンソフト [[1990年]][[8月24日]]
*[[ゲームギア]]『上海II』 サンソフト [[1990年]][[12月27日]]
*PC-9800シリーズ『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 ホット・ビィ [[1991年]][[6月28日]]
: 海外版「上海II ドラゴンズアイ」の移植。既に日本オリジナルの続編「上海II」が出ていたため、「スーパー上海 ドラゴンズアイ」のタイトルで発売された。
*[[メガドライブ]]『ドラゴンズアイ プラス上海III』 [[魔法 (ゲーム会社)|ホームデータ]] [[1991年]][[11月2日]]
*FM-TOWNS『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 ホット・ビィ 1991年
*PC-8800シリーズ『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 ホット・ビィ 1991年発売 ※[[TAKERU]]にて販売
*X68000『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 ホット・ビィ 1991年発売 ※[[TAKERU]]にて販売
*MSX2『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 ホット・ビィ 1991年発売 ※[[TAKERU]]にて販売
*[[スーパーファミコン]]『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 [[ホット・ビィ]] [[1992年]][[4月28日]]
*AC『スーパー上海 ドラゴンズアイ』 [[ホット・ビィ]] [[1992年]][[7月]]
*PCエンジン[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM²]]『上海III ドラゴンズアイ(バトル上海 ドラゴンズアイ)』 [[アスク講談社]] [[1992年]]12月18日
: 製品名は「上海III ドラゴンズアイ」となっているが、パッケージやタイトル画面では「バトル上海 ドラゴンズアイ」という名称がメイン表記になっている。
*AC『[[上海III]]』 開発:サクセス 販売:サンソフト [[1993年]][[11月]]
*スーパーファミコン『上海III』 サンソフト [[1994年]][[9月15日]]
*AC『上海 万里の長城』 開発:[[サクセス]] 販売:[[サンソフト]] [[1994年]][[8月]]
*[[3DO]]『上海 万里の長城』 [[エレクトロニック・アーツ・ビクター]] [[1994年]][[12月16日]]
*X68000『上海 万里の長城』 [[エレクトロニック・アーツ|EAビクター]] [[1994年]]
*[[セガサターン]]『上海 万里の長城』 サンソフト [[1995年]][[2月24日]]
*[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]『上海 万里の長城』 [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] [[1995年]][[3月24日]]
*スーパーファミコン『上海 万里の長城』 サンソフト [[1995年]][[11月17日]]
*[[PC-FX]]『上海 万里の長城』 [[NECホームエレクトロニクス]] [[1996年]][[3月15日]]
*AC『[[上海IV 竜門飛躍]]』 開発:サクセス 販売:サンソフト [[2023年]][[3月16日]]
:開発・販売企業が同じであるアーケード版『上海III』の系譜を受け継ぐという意味で『IV』とナンバリングされている。
=== 派生作品 ===
*スーパーファミコン『サンリオ上海』 [[キャラクターソフト]] [[1994年]][[8月31日]]発売
*スーパーファミコン、セガサターン、プレイステーション、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]『ゲームの鉄人 THE上海』 サンソフト [[1995年]][[10月13日]]
*[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]『上海 グレート・モーメンツ』 [[ゲームバンク]] [[1995年]]発売
*セガサターン『上海 グレート・モーメンツ』 サンソフト [[1996年]][[11月15日]]
*プレイステーション『上海 グレート・モーメンツ』 サンソフト [[1997年]][[1月17日]]
*ゲームボーイ『上海Pocket』 サンソフト [[1998年]][[8月6日]]
: [[スーパーゲームボーイ]]対応ソフト。アメリカなど海外では[[ゲームボーイカラー]]専用ソフトとして発売され、画面表記は日本語のままだが表示されるテキストがすべて英語に置き換えられた。
*AC『上海 真的武勇』サンソフト [[1998年]]8月発売
*プレイステーション『上海 真的武勇』 サンソフト [[1998年]][[9月23日]]
*[[ワンダースワン]]『上海Pocket』 サンソフト [[1999年]][[4月1日]]
*[[ネオジオポケット]]『上海ミニ』 [[SNK (1978年設立の企業)|SNK]] [[1999年]][[7月29日]]
*ドリームキャスト『上海 ダイナスティ』 [[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]] [[2000年]][[3月16日]]
*プレイステーション『value 1500 the 上海』 サンソフト [[2000年]][[5月2日]]
*[[PlayStation 2]]『[[上海フォーエレメント]]』 サンソフト [[2000年]][[9月28日]]
*AC『上海 ~昇龍再臨~』 開発:[[童 (ゲーム会社)|童]] 販売:[[タイトー]] [[2000年]]発売
*プレイステーション『SuperLite 1500 上海 ダイナスティ』 サクセス [[2001年]][[3月22日]]
*プレイステーション『上海 ~昇龍再臨~』 タイトー [[2001年]][[6月7日]]
*[[ゲームボーイアドバンス]]『上海アドバンス』 サンソフト [[2001年]][[12月14日]]
*AC『上海 ~三国牌闘儀~』 開発:[[童 (ゲーム会社)|童]] 販売:サンソフト [[2002年]]発売
*PlayStation 2『上海 ~三国牌闘儀~』 サンソフト [[2002年]][[12月19日]]
*[[ザウルス]]『上海』 サンソフト [[2003年]][[9月22日]]発売
*iアプリ・S!アプリ・EZアプリ『上海』『上海DX』『上海DXII』『上海DXIII』『上海EX』『上海☆娘』他多数。
*ゲームボーイアドバンス『みんなのソフトシリーズ 上海』 サクセス [[2003年]][[10月31日]]
*[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]~[[Microsoft Windows XP|XP]]『上海 ドラゴンズアイ』 [[メディアカイト]] [[2004年]][[11月19日]]発売
*PlayStation 2『スーパー上海2005』 スターフィッシュ [[2004年]][[11月25日]]
*AC『スーパー上海2005』 [[エイブルコーポレーション]] [[2005年]]発売
*[[ニンテンドーDS]]『上海』サクセス [[2005年]][[12月22日]]
*[[PlayStation Portable]]『上海』サクセス [[2006年]][[3月23日]]
*[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]・[[Microsoft Windows 7|7]] 内蔵ゲーム『[[Mahjong Titans]]』 [[マイクロソフト]] [[2006年]]公開
*[[Wii]]『上海』 サクセス [[2007年]][[12月13日]]
*[[iPhone]]/[[iPod touch]]『上海』サンソフト [[2008年]][[7月11日]]発売
*[[Wiiウェア]]『みんなで対戦パズル 上海Wii』 サンソフト [[2009年]][[4月7日]]
*Webゲーム『[[EXIT TUNES PRESENTS Vocaloanthems feat.初音ミク|Vocaloanthms]]上海』[[2010年]][[9月]]公開
*ニンテンドーDS『上海DS2』サンソフト [[2010年]][[9月23日]]
*iPhone/[[iPad]]『上海アミーゴ』サンソフト [[2010年]][[12月20日]]
*AC『上海 臥龍天昇』 開発・発売:サクセス 総販売元:[[アネックス]] [[2011年]]2月発売
*[[ニンテンドー3DS]]『上海3Dキューブ』サンソフト [[2011年]][[3月3日]]
*[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]『上海アミーゴ』サンソフト [[2011年]][[4月15日]]
*ニンテンドー3DS『上海3D』 [[アークシステムワークス]] ※ダウンロード専用[[2014年]][[2月12日]]
*[[PlayStation 4]]『アーケードアーカイブス 上海III』 サンソフト ダウンロード配信版 [[2015年]][[7月3日]]
*Microsoft Windows 7~『上海 ~十二支(鼠編)~』 サンソフト [[2015年]][[7月17日]]発売
*[[Nintendo Switch]]『上海Refresh』 サンソフト [[2018年]][[11月29日]]
*[[Steam]]『上海Refresh』 サンソフト [[2019年]][[9月12日]]
=== 派生ルール ===
カッコ内は初登場した作品。
;ドラゴンズアイ(スーパー上海 ドラゴンズアイ)
:対戦型上海。牌を全部取るのが目的の「ドラゴンスレイヤー」と、牌を置いて場を埋め尽くすのが目的の「ドラゴンマスター」に分かれる。
;タイムアタック(スーパー上海 ドラゴンズアイ)
:上海にタイムアタック要素が加わっているルール。全ての牌を取るまでのタイムを競う。
;青島(上海Ⅲ)
:対戦型上海。先に黄金牌を取った方が勝ちとなる。万里の長城から対戦相手の山からも牌を奪える仕様が追加。真的武勇では特殊牌(アイテム)を使用し様々な効果が起こすことができる。
;北京(上海 万里の長城)
:牌をスライドさせて同じ牌同士を隣接させることでその牌が取れる。
;グレートウォール(上海 万里の長城)
:牌は壁状に積まれている。各段の端にある牌だけが取れる。
;楼蘭上海(上海 真的武勇)
:立方体に並んでいる牌を左右に回転させ、同じ絵柄の牌を取っていく。取れる牌は、牌の片側又は両側が開いていて、牌が上に乗っていない物だけとなっている。
;ダイナスティ(上海 ダイナスティ)
:対戦型上海。先に牌を全て取った方が勝ちとなる。幻獣牌(アイテム)を使用し様々な効果が起こすことができる。
;パンダモニアム(上海 ~昇龍再臨~)
:対戦型上海。青島とは違い一つの山から複数のプレイヤーが牌を取り合い、最終的に取れた数で競う。
;キャンドルライト(上海 フォーエレメント)
:ルールは上海と同じだが、時間経過とともに山の周囲に立てられたロウソクが短くなり見づらくなる。風牌を取るとその方向のロウソクの火が1本消え、三元牌を取ると消えたロウソクに再び火が点く。
;フロート(上海 フォーエレメント)
:牌山が水中に沈んでいるという体で、牌を消すと下の牌が水面に浮かんでくる。
;ウインドストーム(上海 フォーエレメント)
:ルールは上海と同じだが、風牌か三元牌を取ると牌の取れる条件が変わる。
;二角取り(上海 ※DS版)
:詳細は「[[四川省 (ゲーム)]]」を参照
;キューブ上海(上海3Dキューブ)
:上海と楼蘭上海を掛け合わせたようなルール。色んな角度に牌が置かれている。取り方は上海と同じである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |journal = [[Oh!PC]] |volume = |number = |date = 1990-06-15 |publisher = [[SBクリエイティブ|ソフトバンクパブリッシング]] |pages = 228 - 229 |ref = {{SfnRef|Oh!PC|1990}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 9 |date = 1991-05-10 |publisher = [[徳間書店]] |page = 317 |ref = {{SfnRef|ファミコンロムカセット オールカタログ|1991}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 10 |date = 1991-05-24 |publisher = [[徳間書店]] |page = 195 |ref = {{SfnRef|ゲームボーイ オールカタログ|1991}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 10月号特別付録 PCエンジンオールカタログ'93 |journal = [[PC Engine FAN]] |volume = 6 |number = 10 |date = 1993-10-01 |publisher = [[徳間書店]] |page = 133 |ref = {{SfnRef|PC Engine FAN|1993}}}}
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* {{Cite book|和書 |title = 甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.2 アクションゲーム シューティングゲーム 熟成期編 |date = 2019-12-20 |publisher = メディアパル |page = 122 |isbn = 9784802110419 |ref = {{SfnRef|アーケードゲーム大全|2019}}}}
== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|コンピュータゲーム|[[画像:Gamepad.svg|34px|Portal:コンピュータゲーム]]}}
* [https://www.sun-denshi.co.jp/soft/shang/index.html パズルゲーム上海 オフィシャルウェブサイト](サン電子)
* [http://www.vc-arcade.d4e.co.jp/gametitle/shanghai/ バーチャルコンソールアーケード 上海]
* [http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0281npjj00023_000000000000000001.html PlayStation公式サイト ゲームアーカイブス 上海 ダイナスティ]
* [http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0202npjj00618_000000000000000001.html PlayStation公式サイト ゲームアーカイブス value 1500 The 上海]
* [https://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?contcode=7&product_id=829 上海 for FC(プロジェクトEGG)]
*{{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=ShangHai|title=上海 - PCエンジン(ハドソンゲームナビ)|date=20040505162247 }}
* {{MobyGames|id=/4272/shanghai/|name=Shanghai}}
* {{MobyGames|id=/48408/shanghai/|name=Shanghai (Game Boy)}}
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バルカン
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バルカン、ヴァルカン
ローマ神話のウゥルカーヌス(Vulcanus)にもとづく固有名詞。
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バルカン、ヴァルカン
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'''バルカン'''、'''ヴァルカン'''
==Balkan==
*[[ヨーロッパ]]東南部の地名。漢字表記では'''巴爾幹'''と書く。
** [[バルカン半島]]。バルカン半島にある国々をバルカン諸国という。
*** [[バルカン腎症]](バルカン半島諸国の国の農家に流行していた[[腎不全]]と尿路[[ガン]])
** [[バルカン山脈]]。バルカン半島にある山脈。
*[[バルカン州]] - [[トルクメニスタン]]の州。
* [[バルカン政治家]] - バルカン半島が由来とされる。
==Vulcan==
[[ローマ神話]]の[[ウゥルカーヌス]](Vulcanus)にもとづく固有名詞。
* ウルカヌスの英語名。
* かつて水星軌道の内側を公転すると考えられた仮説上の惑星。[[バルカン (仮説上の惑星)]]を参照。
* [[ポール・アレン]]が設立したアメリカの投資会社。
; 自動車
* [[三菱自動車工業]]の[[軽自動車]]用[[4ストローク]][[ガソリンエンジン]]、[[三菱・2G2系エンジン]]のペットネーム。上記惑星を由来とする。
* [[カワサキ・バルカン]] - [[川崎重工業]]が生産している、アメリカン・クラシックタイプの[[オートバイ]]
* [[アストンマーティン]]が販売していたサーキット専用車、[[アストンマーティン・ヴァルカン]]。
; 軍事・武器
* イギリス製の[[爆撃機]]、[[アブロ バルカン]]。
* バルカン砲 - アメリカ合衆国で開発された[[ガトリング砲]][[M61 バルカン|M61]]の製品名で、スイスのエリコン社の登録商標。当該項目を参照。
** この名が一般名詞化した結果[[ガトリング砲]]全般の代名詞、さらには誤用がもとで[[機関砲]]全般を意味する場合もある。
* [[第二次世界大戦]]中のアメリカ製の工作艦。 [[ヴァルカン (工作艦)]]を参照。
; 創作物
* SFのスタートレック・シリーズに登場する惑星及び種族。[[バルカン (スタートレック)]]・[[バルカン人]]を参照。
* [[漫画]]『[[金色のガッシュ!!]]』に登場する玩具のひとつ。[[金色のガッシュ!!の登場人物#バルカン・その他]]を参照。
* 特撮ドラマ『[[仮面ライダーゼロワン]]』で、登場人物である「不破諫」が変身する仮面ライダー、[[仮面ライダーゼロワン#仮面ライダーバルカン|仮面ライダーバルカン]]。
==VALCAN==
* [[カネボウ化粧品]]のブランド名。
==Vulcain==
* [[ヴァルカンエンジン]] - [[欧州宇宙機関|ESA]]が開発した[[人工衛星]]打上げ[[ロケット]][[アリアン]]のメインエンジンの名前。[[液体酸素]]と[[液体水素]]を用いる大型の[[ロケットエンジンの推進剤#液体燃料ロケット|液体燃料ロケットエンジン]]で、[[スペースシャトル]]の[[SSME]]や[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]の[[LE-7]]と並ぶ存在。
* [[ヴァルカン (ロケット)]] - 現在[[ユナイテッド・ローンチ・アライアンス]](ULA)で開発中のロケット
* ヴァルカン[[:de:Vulcain_(Uhrenmarke)]] - 1858年創立のスイスの時計メーカー。機械式アラーム機能付き腕時計である[[ヴァルカン・クリケット]]などのモデルがある。([http://www.vulcain-watches.ch/ Webページ])
==Vulkan==
*[[Vulkan (API)]]は、3DグラフィックスAPI。
==関連項目==
*[[ヴルカン]]:Vulkanの転写。
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台湾原住民
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台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、中国大陸からの移民が盛んになる17世紀以前から居住していた、台湾の先住民に対しての呼称。
日本語では「先住民」のほうが尊敬的な表現であるが、台湾中国語では「原住民」のほうが正しい表現となる。
台湾の中華民国憲法では、正式的な表記は「原住民」、または「原住民族(拼音: yuánzhù mínzú, 英語: Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)」と公式に定めていて、そのいくつかの権利を認めている。台湾国語で「先住民」と表記すると「既に滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この言い方は禁じられている。
しかし、台湾と反対に、日本においては「原住民」という単語は「原始・原人」などの意味も取り込んでいて、悪い意味を連想させる不適切の表現であり、「先住民」のほうが推奨している。日本のマスメディア等で「台湾の原住民」という仕組みを使うとき、必ずに「現地の呼称や少数民族の意見を尊重するため」などの説明が追加される。
1603年(万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加した18世紀から19世紀頃、漢化が進んだ原住民族は「平埔蕃」「熟蕃」と、漢化が進んでいない原住民族は「生蕃」「高山蕃」と、それぞれ呼ばれた。
1871年(明治4年 / 同治10年)に宮古・八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、54人が台湾原住民に殺害された(宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事されたため、日本政府は台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。
1895年(明治28年)、日清戦争に勝利した日本は、清より台湾を割譲され、台湾の領有を開始。清国時代の分類を基に日本は、原住民を「平埔族」と「高山族」に分類した。1903年(明治36年)の博覧会では日本帝国に属する民族として高山族女性が展示された(人類館事件)。原住民は抗日運動のゲリラ(土匪)ともなり、1907年に抗日事件の北埔事件が、1930年には霧社事件がそれぞれ勃発した。1935年(昭和10年)、秩父宮雍仁親王の要請により高山族は「高砂族(たかさごぞく)」と改称された。日本語は言語が異なる部族間の共通語として機能した。
太平洋戦争中、高砂族の若者は高砂義勇隊として南太平洋の密林戦に参加し、大きな貢献を果たした。第二次世界大戦後、義勇隊参加者が日本国籍を失ったことを理由に、日本政府は障害年金などを支払わなかった(高砂義勇隊を参照)。
日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は「高砂族」を、「高山族」「山地同胞」「山地人」と呼称し直し、漢民族との同化政策を進めた。原住民族が同化政策の変更を迫った結果、1980年代以降、高山族などの呼称は「原住民」に改められた。
1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置された。2005年(民国94年)「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビが開局した。2008年(民国97年)に、台湾政府はセデック族(賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。同年の原住民人口は488,773人で、台湾総人口の2.1%を占めた。
2016年、蔡英文が過去の不平等な原住民の扱いについて中華民国総統として初めて謝罪した。
2022年、シラヤ族の万淑娟が起こした訴訟により原住民を定義する「原住民身分法」の一部が違憲判決となる。
それぞれの民族名は、それぞれの民族の言語での呼び方がある。アイヌをはじめとする世界の先住民族同様、もとは「人間」を意味する言葉が民族名になっている例が多い。
また、日本語での呼び方の多くは、日本統治時代に日本人の民族学者たちが使った表記がそのまま現在も使われているものである。その多くは、その民族の言語での呼び方を基調にし、日本語の音韻に合わせた発音になっている。中国語での呼び方はそれぞれの民族の呼び方を、中国語の音韻に合わせて漢字表記したものになっている。
日本人による民族の呼称・分類は、言語や文化、帰属意識が違う民族集団を研究者が一つのものとしてくくって分類した例もあり、それが戦後も引き継がれて長年使われた。しかし、正名運動が高まる中、当事者からの意見を反映し、近年、少しずつ訂正されつつある。また、最近は民族の自称を尊重する流れが世界的にあることから、アミをパンツァハと呼んだり、ヤミをタオと呼び変えることも多くなっている。
日本による統治時代は、台湾総督府は7族に分類していた。すなわち、アミ・サイシャット・パイワン・タイヤル・ブヌン・ツォウ・ヤミである。
ただし、研究者は、言語や習俗、伝説などの観点から、より多く分類していたので、行政による分類との乖離があった。
戦後、長い間、台湾では9民族への分類が使われていたが、その分類で独立して扱われたプユマ・ルカイは、パイワンに含められていた。
これらの民族のうち、アミ族・パイワン族・タイヤル族・ブヌン族 ・プユマ族・ルカイ族・ツォウ族・サイシャット族・タオ族の9民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。
2001年(民国90年)10月にサオ族が10番目の台湾原住民族として承認、2002年(民国91年)12月にはクバラン族の原住民籍保有者が11番目の台湾原住民族に認定された。2004年(民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の立霧渓流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。
2007年(民国96年)1月17日にはそれまでアミ族に含められていたサキザヤ族が独立した民族と認められた。2008年(民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。
2014年(民国103年)6月26日にはそれまでツォウ族(南鄒)に含められていたカナカナブ族、サアロア族が独立した民族と認められた。
その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。
政府には認定されていないが、以下の通り、自治体が独自に認定している原住民族も存在する。
一方、政府からも地方自治体からも未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
これに加えて、現在「原住民族」として認定されている
も歴史的には平埔族に分類されていた。
「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。
平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。
サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。
また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。
他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。
台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者、言語学者達が台湾に渡った。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年 - 1953年)、伊能嘉矩(1867年 - 1925年)、鹿野忠雄(1906年 - 1945年?)、森丑之助(1877年 - 1926年)、移川子之蔵(1884年 - 1947年)、宮本延人(1901年 - 1987年)、馬淵東一(1909年 - 1988年)、千千岩助太郎(1897年 - 1991年)、小川尚義(1869年 - 1947年)、浅井恵倫(1894年 - 1969年)、ニコライ・ネフスキー(1892年 - 1937年)、らである。彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。台北帝国大学(現・国立台湾大学)土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。
オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似や北米先住民族の諸語、南米先住民の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている。
大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。
『原語による台湾高砂族伝説集』(台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。
その他、『高砂族慣習法語彙』など、幾つかの言語研究書が残されている。
部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられた。
台湾先住民にはY染色体ハプログループO1a系統が66.3%-89.6%の高頻度で観察される。
台湾原住民族にとって、入れ墨は通過儀礼の一つである。男女を問わず、顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。しかし日本統治時代に入れ墨は禁止となり1940年代には衰退した。戦時中に台湾特別志願兵制度が導入され、入れ墨が採用の妨げになると噂されたことも、入れ墨の伝統が後退するきっかけとなった。
台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異民族の構成員を殺し、その首を切り落とす風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。また、この行為には宗教的な意味もあった。
狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。
この習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。また、日本の武士が敵の首を切り落とす文化にも共通のものがある。
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アミ・サイシャットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤミ族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。
出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。
日清戦争後の乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、台湾総督府による理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。
1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の1915年(大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押収によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。
台湾総督府史料などを基にした説によると、1896年(明治29年)から1930年(昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。
日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。
出草を巡る阿里山原住民に関する呉鳳説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、
等。
また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。
文化、伝統を残している認定原住民と原住民アイデンティティを持つが同化の進んだ平埔族は原住民を二分する問題である。
台湾原住民は政府により認定され身分が定まる、違憲判決を受けた平埔族の訴訟で同化の進んだ原住民の認定が進むと見られている。この判決を混血、都市部の原住民は歓迎したが伝統的な地域に居住し続け文化の継承を努力している原住民の指導者からは原住民政策を歪め既存原住民の権利を侵害するとの声が出た。
台湾原住民とホーロー人、本省人とも呼ばれる漢民族の間には歴史的に根深い敵意が存在する。
差別的な意味のある「番」はホーロー人によって原住民に対してしばしば使用された。また原住民が言語の同化の影響を受ける民族はホーロー人である。
民進党の議員である邱議瑩が国民党の原住民議員に対し番仔(非文明人)と中傷した、邱は番仔に民族差別の意図は無く相手の対応が非文明的だったと述べたが後に謝罪をするも、この謝罪を国民党の原住民議員は受け入れなかった。
2016年中華民国総統として蔡英文が原住民に謝罪を行った。
この謝罪は、台湾の歴史の多様性を強調し、理解と和解を促進するとして、原住民族だけでなく非原住民族からも肯定的に捉えられた。
一方、一部の原住民の活動家からは以下の批判がでた。
「陳水扁の頃の対等な関係という約束から後退している。謝罪の会場が旧台湾総督府の建物であり原住民の代表が謁見を行っているようで中立的な場所にすべきだ。招く原住民も行政単位の代表ではなく伝統的な指導者にすべき、中華民国時代の区分けが現在の原住民政策の問題を生んでいる。」
台南市議会議員である Kumu Hacyoは「鄭成功によって原住民は中国の支配が受けたことを言及していない。また官僚的なショーに過ぎず原住民の権利回復の具体的な内容の無い謝罪だ。原住民に謝罪をするだけでなくマジョリティへの働きかけ、平埔族の認定をしろ。」と述べた。
「国民党の不当な党財産は問題にするのに原住民の奪われた不当な国家財産に触れないのはなぜだ」と総統の就任式で歌った歌手のPanai Kusuiは批判した。
しかし、この民進党に対する批判の一方、漢民族中心の中国文化を強調する国民党政権にはされなかったことから、原住民の政治的立場により意見が偏っていることを疑問視する声がみられる。これらの批判に該当する政策を実際に行ったのはすべて国民党政権のときであるが、国民党時代には批判がなされなかった。
また台湾歴史家の李筱峰は「この謝罪は蔡英文総統ではなく国民党がするべきだ」と国民党を非難した。
Marie Linの研究では台湾の漢族の85%が原住民由来の遺伝子を持っているとされており、この研究結果は台湾人は遺伝的に中国人と異なると台湾独立派が持ち出す事がある。
ホーロー人が原住民のルーツを持っていることを述べることは最初は原住民側からも歓迎されており、ホーロー人の元行政院長謝長廷は「私の祖母は原住民である。私は原住民、あなたは原住民ではないと言うべきではない、みんな原住民だ」と発言した。
しかし、台湾独立の理由付けの一つとして用いられるようになってからは一部の平埔族の子孫からは反発が生じるようになった。
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"text": "台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、中国大陸からの移民が盛んになる17世紀以前から居住していた、台湾の先住民に対しての呼称。",
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"text": "日本語では「先住民」のほうが尊敬的な表現であるが、台湾中国語では「原住民」のほうが正しい表現となる。",
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"text": "台湾の中華民国憲法では、正式的な表記は「原住民」、または「原住民族(拼音: yuánzhù mínzú, 英語: Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)」と公式に定めていて、そのいくつかの権利を認めている。台湾国語で「先住民」と表記すると「既に滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この言い方は禁じられている。",
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"text": "しかし、台湾と反対に、日本においては「原住民」という単語は「原始・原人」などの意味も取り込んでいて、悪い意味を連想させる不適切の表現であり、「先住民」のほうが推奨している。日本のマスメディア等で「台湾の原住民」という仕組みを使うとき、必ずに「現地の呼称や少数民族の意見を尊重するため」などの説明が追加される。",
"title": "名称と定義"
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"text": "1603年(万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加した18世紀から19世紀頃、漢化が進んだ原住民族は「平埔蕃」「熟蕃」と、漢化が進んでいない原住民族は「生蕃」「高山蕃」と、それぞれ呼ばれた。",
"title": "歴史"
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"text": "1871年(明治4年 / 同治10年)に宮古・八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、54人が台湾原住民に殺害された(宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事されたため、日本政府は台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。",
"title": "歴史"
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"text": "1895年(明治28年)、日清戦争に勝利した日本は、清より台湾を割譲され、台湾の領有を開始。清国時代の分類を基に日本は、原住民を「平埔族」と「高山族」に分類した。1903年(明治36年)の博覧会では日本帝国に属する民族として高山族女性が展示された(人類館事件)。原住民は抗日運動のゲリラ(土匪)ともなり、1907年に抗日事件の北埔事件が、1930年には霧社事件がそれぞれ勃発した。1935年(昭和10年)、秩父宮雍仁親王の要請により高山族は「高砂族(たかさごぞく)」と改称された。日本語は言語が異なる部族間の共通語として機能した。",
"title": "歴史"
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"text": "太平洋戦争中、高砂族の若者は高砂義勇隊として南太平洋の密林戦に参加し、大きな貢献を果たした。第二次世界大戦後、義勇隊参加者が日本国籍を失ったことを理由に、日本政府は障害年金などを支払わなかった(高砂義勇隊を参照)。",
"title": "歴史"
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"text": "日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は「高砂族」を、「高山族」「山地同胞」「山地人」と呼称し直し、漢民族との同化政策を進めた。原住民族が同化政策の変更を迫った結果、1980年代以降、高山族などの呼称は「原住民」に改められた。",
"title": "歴史"
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"text": "1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置された。2005年(民国94年)「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビが開局した。2008年(民国97年)に、台湾政府はセデック族(賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。同年の原住民人口は488,773人で、台湾総人口の2.1%を占めた。",
"title": "歴史"
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"text": "2016年、蔡英文が過去の不平等な原住民の扱いについて中華民国総統として初めて謝罪した。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年、シラヤ族の万淑娟が起こした訴訟により原住民を定義する「原住民身分法」の一部が違憲判決となる。",
"title": "歴史"
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"text": "それぞれの民族名は、それぞれの民族の言語での呼び方がある。アイヌをはじめとする世界の先住民族同様、もとは「人間」を意味する言葉が民族名になっている例が多い。",
"title": "民族と人口"
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"text": "また、日本語での呼び方の多くは、日本統治時代に日本人の民族学者たちが使った表記がそのまま現在も使われているものである。その多くは、その民族の言語での呼び方を基調にし、日本語の音韻に合わせた発音になっている。中国語での呼び方はそれぞれの民族の呼び方を、中国語の音韻に合わせて漢字表記したものになっている。",
"title": "民族と人口"
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"text": "日本人による民族の呼称・分類は、言語や文化、帰属意識が違う民族集団を研究者が一つのものとしてくくって分類した例もあり、それが戦後も引き継がれて長年使われた。しかし、正名運動が高まる中、当事者からの意見を反映し、近年、少しずつ訂正されつつある。また、最近は民族の自称を尊重する流れが世界的にあることから、アミをパンツァハと呼んだり、ヤミをタオと呼び変えることも多くなっている。",
"title": "民族と人口"
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"text": "日本による統治時代は、台湾総督府は7族に分類していた。すなわち、アミ・サイシャット・パイワン・タイヤル・ブヌン・ツォウ・ヤミである。",
"title": "分類"
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"text": "ただし、研究者は、言語や習俗、伝説などの観点から、より多く分類していたので、行政による分類との乖離があった。",
"title": "分類"
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"text": "戦後、長い間、台湾では9民族への分類が使われていたが、その分類で独立して扱われたプユマ・ルカイは、パイワンに含められていた。",
"title": "分類"
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"text": "これらの民族のうち、アミ族・パイワン族・タイヤル族・ブヌン族 ・プユマ族・ルカイ族・ツォウ族・サイシャット族・タオ族の9民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。",
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"text": "2001年(民国90年)10月にサオ族が10番目の台湾原住民族として承認、2002年(民国91年)12月にはクバラン族の原住民籍保有者が11番目の台湾原住民族に認定された。2004年(民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の立霧渓流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。",
"title": "分類"
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"text": "2007年(民国96年)1月17日にはそれまでアミ族に含められていたサキザヤ族が独立した民族と認められた。2008年(民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。",
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"text": "2014年(民国103年)6月26日にはそれまでツォウ族(南鄒)に含められていたカナカナブ族、サアロア族が独立した民族と認められた。",
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"text": "その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。",
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"text": "政府には認定されていないが、以下の通り、自治体が独自に認定している原住民族も存在する。",
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"text": "一方、政府からも地方自治体からも未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。",
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"text": "これに加えて、現在「原住民族」として認定されている",
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"text": "も歴史的には平埔族に分類されていた。",
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"text": "「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。",
"title": "分類"
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"text": "平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。",
"title": "分類"
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"text": "サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。",
"title": "分類"
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"text": "また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。",
"title": "分類"
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"text": "他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。",
"title": "分類"
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"text": "台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者、言語学者達が台湾に渡った。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年 - 1953年)、伊能嘉矩(1867年 - 1925年)、鹿野忠雄(1906年 - 1945年?)、森丑之助(1877年 - 1926年)、移川子之蔵(1884年 - 1947年)、宮本延人(1901年 - 1987年)、馬淵東一(1909年 - 1988年)、千千岩助太郎(1897年 - 1991年)、小川尚義(1869年 - 1947年)、浅井恵倫(1894年 - 1969年)、ニコライ・ネフスキー(1892年 - 1937年)、らである。彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。台北帝国大学(現・国立台湾大学)土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。",
"title": "研究史"
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"text": "オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似や北米先住民族の諸語、南米先住民の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている。",
"title": "言語"
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"text": "大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。",
"title": "言語"
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"tag": "p",
"text": "『原語による台湾高砂族伝説集』(台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。",
"title": "言語"
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"text": "その他、『高砂族慣習法語彙』など、幾つかの言語研究書が残されている。",
"title": "言語"
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"text": "部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられた。",
"title": "言語"
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"text": "台湾先住民にはY染色体ハプログループO1a系統が66.3%-89.6%の高頻度で観察される。",
"title": "遺伝子"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "台湾原住民族にとって、入れ墨は通過儀礼の一つである。男女を問わず、顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。しかし日本統治時代に入れ墨は禁止となり1940年代には衰退した。戦時中に台湾特別志願兵制度が導入され、入れ墨が採用の妨げになると噂されたことも、入れ墨の伝統が後退するきっかけとなった。",
"title": "風習"
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"text": "台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異民族の構成員を殺し、その首を切り落とす風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。また、この行為には宗教的な意味もあった。",
"title": "風習"
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"text": "狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。",
"title": "風習"
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"text": "この習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。また、日本の武士が敵の首を切り落とす文化にも共通のものがある。",
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"text": "大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アミ・サイシャットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤミ族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。",
"title": "風習"
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"text": "出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。",
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"text": "日清戦争後の乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、台湾総督府による理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。",
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"text": "1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の1915年(大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押収によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。",
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"text": "また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。",
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"tag": "p",
"text": "文化、伝統を残している認定原住民と原住民アイデンティティを持つが同化の進んだ平埔族は原住民を二分する問題である。",
"title": "平埔族の問題"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "台湾原住民は政府により認定され身分が定まる、違憲判決を受けた平埔族の訴訟で同化の進んだ原住民の認定が進むと見られている。この判決を混血、都市部の原住民は歓迎したが伝統的な地域に居住し続け文化の継承を努力している原住民の指導者からは原住民政策を歪め既存原住民の権利を侵害するとの声が出た。",
"title": "平埔族の問題"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "台湾原住民とホーロー人、本省人とも呼ばれる漢民族の間には歴史的に根深い敵意が存在する。",
"title": "ホーロー人との対立"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "差別的な意味のある「番」はホーロー人によって原住民に対してしばしば使用された。また原住民が言語の同化の影響を受ける民族はホーロー人である。",
"title": "ホーロー人との対立"
},
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "民進党の議員である邱議瑩が国民党の原住民議員に対し番仔(非文明人)と中傷した、邱は番仔に民族差別の意図は無く相手の対応が非文明的だったと述べたが後に謝罪をするも、この謝罪を国民党の原住民議員は受け入れなかった。",
"title": "ホーロー人との対立"
},
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"text": "2016年中華民国総統として蔡英文が原住民に謝罪を行った。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "この謝罪は、台湾の歴史の多様性を強調し、理解と和解を促進するとして、原住民族だけでなく非原住民族からも肯定的に捉えられた。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"text": "一方、一部の原住民の活動家からは以下の批判がでた。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"text": "「陳水扁の頃の対等な関係という約束から後退している。謝罪の会場が旧台湾総督府の建物であり原住民の代表が謁見を行っているようで中立的な場所にすべきだ。招く原住民も行政単位の代表ではなく伝統的な指導者にすべき、中華民国時代の区分けが現在の原住民政策の問題を生んでいる。」",
"title": "ホーロー人との対立"
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"text": "台南市議会議員である Kumu Hacyoは「鄭成功によって原住民は中国の支配が受けたことを言及していない。また官僚的なショーに過ぎず原住民の権利回復の具体的な内容の無い謝罪だ。原住民に謝罪をするだけでなくマジョリティへの働きかけ、平埔族の認定をしろ。」と述べた。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"text": "「国民党の不当な党財産は問題にするのに原住民の奪われた不当な国家財産に触れないのはなぜだ」と総統の就任式で歌った歌手のPanai Kusuiは批判した。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"text": "しかし、この民進党に対する批判の一方、漢民族中心の中国文化を強調する国民党政権にはされなかったことから、原住民の政治的立場により意見が偏っていることを疑問視する声がみられる。これらの批判に該当する政策を実際に行ったのはすべて国民党政権のときであるが、国民党時代には批判がなされなかった。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"text": "また台湾歴史家の李筱峰は「この謝罪は蔡英文総統ではなく国民党がするべきだ」と国民党を非難した。",
"title": "ホーロー人との対立"
},
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"text": "Marie Linの研究では台湾の漢族の85%が原住民由来の遺伝子を持っているとされており、この研究結果は台湾人は遺伝的に中国人と異なると台湾独立派が持ち出す事がある。",
"title": "ホーロー人との対立"
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"tag": "p",
"text": "ホーロー人が原住民のルーツを持っていることを述べることは最初は原住民側からも歓迎されており、ホーロー人の元行政院長謝長廷は「私の祖母は原住民である。私は原住民、あなたは原住民ではないと言うべきではない、みんな原住民だ」と発言した。",
"title": "ホーロー人との対立"
},
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "しかし、台湾独立の理由付けの一つとして用いられるようになってからは一部の平埔族の子孫からは反発が生じるようになった。",
"title": "ホーロー人との対立"
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台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、中国大陸からの移民が盛んになる17世紀以前から居住していた、台湾の先住民に対しての呼称。
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{{中華圏の事物
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|繁体字=臺灣原住民 / 台灣原住民
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[[画像:Formosan Distribution 01.png|300px|thumb]]
[[ファイル:A Baksa woman and child, Formosa 1871. Wellcome L0056719 (cropped).jpg|サムネイル|台湾原住民の女性と子供(1871年)]]
'''台湾原住民'''(たいわんげんじゅうみん)は、[[中国大陸]]からの移民が盛んになる[[17世紀]]以前から居住していた、[[台湾]]の[[先住民]]に対しての呼称。
== 名称と定義 ==
日本語では「先住民」のほうが一般的な表現であるが、[[台湾国語|台湾中国語]]では「原住民」のほうが正しい表現となる。
台湾の[[中華民国憲法]]では、正式的な表記は「'''原住民'''」、または「'''原住民族'''({{ピン音|yuánzhù mínzú}}, {{lang-en|Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine}})」と公式に定めていて、そのいくつかの権利を認めている。台湾国語で「先住民」と表記すると「既に滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この言い方は禁じられている<ref>{{Cite web|和書|title=知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化 {{!}} 台湾原住民族 ~日本の調査にみるその文化~ |url=https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p07.html |website=www.jacar.go.jp |accessdate=2022-01-24}}</ref>。
== 歴史 ==
{{see also|清朝統治時代の台湾|日本統治時代の台湾}}
[[1603年]]([[万暦]]31年)に著された『[[東蕃記]]』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。[[漢民族]]人口が増加した[[18世紀]]から[[19世紀]]頃、[[中国化|漢化]]が進んだ原住民族は「平埔蕃」「熟蕃」と、漢化が進んでいない原住民族は「生蕃」「高山蕃」と、それぞれ呼ばれた。
[[1871年]]([[明治]]4年 / [[同治]]10年)に[[宮古島|宮古]]・[[八重山列島|八重山]]の貢納船が台湾南東海岸に漂着、54人が台湾原住民に殺害された([[宮古島島民遭難事件]])。日本政府は清国に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事されたため、日本政府は[[台湾出兵]]を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。
[[1895年]](明治28年)、[[日清戦争]]に勝利した日本は、清より台湾を割譲され、台湾の領有を開始。清国時代の分類を基に日本は、原住民を「[[平埔族]]」と「高山族」に分類した。[[1903年]](明治36年)の[[博覧会]]では日本帝国に属する民族として高山族女性が展示された([[人類館事件]])。原住民は[[日本統治時代の台湾#抗日運動|抗日運動]]のゲリラ(土匪)ともなり、[[1907年]]に抗日事件の[[北埔事件]]が、[[1930年]]には[[霧社事件]]がそれぞれ勃発した。[[1935年]]([[昭和]]10年)、[[秩父宮雍仁親王]]の要請により高山族は「高砂族(たかさごぞく)」と改称された。日本語は言語が異なる部族間の[[共通語]]として機能した。
[[太平洋戦争]]中、高砂族の若者は[[高砂義勇隊]]として[[南洋諸島|南太平洋]]の密林戦に参加し、大きな貢献を果たした。[[第二次世界大戦]]後、義勇隊参加者が日本国籍を失ったことを理由に、[[日本の政治|日本政府]]は障害年金などを支払わなかった<ref>{{Cite web|和書|url=http://kohnotoshihiko.com/weblog_ja03.htm|title=棄てられた皇軍兵士たち—台湾人元日本兵—|accessdate=2014-09-28|author=河野利彦|date=2013-06-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140818083607/http://kohnotoshihiko.com/weblog_ja03.htm|archivedate=2014年8月18日|8=|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>([[高砂義勇隊]]を参照)。
日本に代わって台湾を統治した[[中華民国]]政府は「高砂族」を、「[[高山族]]」「山地同胞」「山地人」と呼称し直し、漢民族との[[同化政策]]を進めた。原住民族が同化政策の変更を迫った結果、[[1980年代]]以降、高山族などの呼称は「原住民」に改められた。
[[1996年]]([[民国紀元|民国]]85年)に原住民族を所管とする省庁である[[行政院原住民族委員会|原住民族委員会]]が設置された。[[2005年]](民国94年)「原住民族基本法」が制定され、国営の[[:zh:原住民族電視台|原住民族テレビ]]が開局した。[[2008年]](民国97年)に、台湾政府は[[セデック族]](賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。同年の原住民人口は488,773人で、台湾総人口の2.1%を占めた<ref>[http://www.moi.gov.tw/stat/news_list.aspx 最新消息-內政部統計處網站]</ref>。
2016年、[[蔡英文]]が過去の不平等な原住民の扱いについて[[中華民国総統]]として初めて謝罪した<ref>[http://japan.cna.com.tw/news/afav/201608010002.aspx 蔡英文総統、先住民に謝罪 平等な国家建設呼びかけ/台湾]
</ref>。
2022年、シラヤ族の万淑娟が起こした訴訟により原住民を定義する「原住民身分法」の一部が違憲判決となる<ref>{{Cite web|和書|url=「台湾原住民」定義する現行の法律は「違憲」 大法官会議が判断 |title=「台湾原住民」定義する現行の法律は「違憲」 大法官会議が判断 |access-date=2023年6月19日 |publisher=ライブドア}}</ref>。
== 民族と人口 ==
それぞれの民族名は、それぞれの民族の言語での呼び方がある。[[アイヌ]]をはじめとする世界の[[先住民|先住民族]]同様、もとは「人間」を意味する言葉が民族名になっている例が多い。
また、日本語での呼び方の多くは、日本統治時代に日本人の民族学者たちが使った表記がそのまま現在も使われているものである。その多くは、その民族の言語での呼び方を基調にし、日本語の音韻に合わせた発音になっている<ref>ただし、ヤミ(彼ら自身はタオと名乗っている)のように自称ではない言葉が民族名として使われた例もある。</ref>。中国語での呼び方はそれぞれの民族の呼び方を、中国語の音韻に合わせて漢字表記したものになっている。
<!--出典なく独自研究のおそれ
したがって日本語における民族名と、中国語における民族名には場合によっては乖離があることに留意する必要がある。日本語における民族名はむしろ言語の民族名に近いことも多い。日本語には、はっきり区別される5つの母音があり、無声音と有声音の区別もあり、中国語と比べると原住民族諸語と音韻的に近い。例えばセデックの中国語表記は「賽德克(ピンインではSàidékè)」であるが、あえてカタカナにするとサイドゥークーとなる<ref>中国語の普通話では、間投詞を除いて単母音[e]のみでで構成される音節は存在しない。であるので[se]もしくはそれに近い音を表す漢字は存在しない。</ref>。日本語のセデックというカタカナ表記とはかなりの違いがある。
-->
日本人による民族の呼称・分類は、言語や文化、帰属意識が違う民族集団を研究者が一つのものとしてくくって分類した例もあり、それが戦後も引き継がれて長年使われた。しかし、[[正名運動]]が高まる中、当事者からの意見を反映し、近年、少しずつ訂正されつつある。また、最近は民族の自称を尊重する流れが世界的にあることから、アミをパンツァハと呼んだり、ヤミをタオと呼び変えることも多くなっている。[[ファイル:Taiwan aborigine amis dance.jpg|アミ族 豊年祭の踊り|230px|thumb]]
[[ファイル:Amis postcard.jpg|アミ族の男女|190px|thumb]]
[[ファイル:Tsou youth of Taiwan (pre-1945).jpg|ツォウ族の青年|190px|thumb]]
[[ファイル:Er nd 3014 Thao.jpg|サオ族の男性(1904年)|190px|thumb]]
[[ファイル:Atayal.jpg|サムネイル|タイヤル族]]
== 分類 ==
日本による統治時代は、台湾総督府は7族に分類していた。すなわち、アミ・サイシャット・パイワン・タイヤル・ブヌン・ツォウ・ヤミである。
ただし、研究者は、言語や習俗、伝説などの観点から、より多く分類していたので、行政による分類との乖離があった。
戦後、長い間、台湾では9民族への分類が使われていたが、その分類で独立して扱われたプユマ・ルカイは、パイワンに含められていた。
=== 政府認定16民族 ===
*各部族の人口(2016年(民国105年)6月)、総計:549,679人<ref>http://www.apc.gov.tw/main/</ref>。
*[[アミ族]](アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 204,614人
*[[パイワン族]]98,243人
*[[タイヤル族]](アタヤル族とも) 87,601人
*[[ブヌン族]] 57,086人
*[[プユマ族]] 13,716人
*[[ルカイ族]] 13,041人
*[[ツォウ族]] 6,617人
*[[サイシャット族]] 6,507人
*[[タオ族]](ヤミ族とも) 4,505人
*[[サオ族]] 773人 ※2001年認定
*[[クバラン族]](カヴァラン族) 1,426人 ※2002年認定
*[[タロコ族]] 30,603人 ※2004年認定
*[[サキザヤ族]] 863人 ※2007年認定
*[[セデック族]] 9,538人 ※2008年認定
*[[カナカナブ族]] 284人 ※2014年認定
*[[サアロア族]] 341人 ※2014年認定
* 申告なし 13,921人
これらの民族のうち、アミ族・パイワン族・タイヤル族・ブヌン族 ・プユマ族・ルカイ族・ツォウ族・サイシャット族・タオ族の9民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた。「高山族」は、[[蘭嶼]](台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。
[[2001年]](民国90年)10月にサオ族が10番目の台湾原住民族として承認、[[2002年]](民国91年)12月にはクバラン族の原住民籍保有者が11番目の台湾原住民族に認定された。[[2004年]](民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の[[立霧渓]]流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。
[[2007年]](民国96年)[[1月17日]]にはそれまでアミ族に含められていたサキザヤ族が独立した民族と認められた。[[2008年]](民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。
[[2014年]](民国103年)[[6月26日]]にはそれまでツォウ族(南鄒)に含められていたカナカナブ族、サアロア族が独立した民族と認められた。
その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。
=== 地方自治体認定民族 ===
政府には認定されていないが、以下の通り、自治体が独自に認定している原住民族も存在する。
* [[シラヤ族]] 2005年[[台南市]]により認定、2013年富里郷により認定<ref>{{Cite web|url=https://tw.news.yahoo.com/平埔族為原民-富里鄉全國首先認定-004041487.html|title=平埔族為原民 富里鄉全國首先認定|accessdate=2019年9月11日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://japan.cna.com.tw/search/201502250002.aspx?q=%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%A4%E6%97%8F|title=台湾・台南市長、先住民シラヤ族の政府公認求める訴状を提出|accessdate=2019年9月11日|publisher=フォーカス台湾}}</ref>。
* [[マカタオ族]](シラヤの一支とも) 2013年富里郷により認定。2016年屏東県により認定<ref>{{Cite web|url=https://www.matataiwan.com/2016/09/09/pingtung-indigenous-makatao/|title=縣長也是原住民!屏東開放平埔登記,幕後推手是客家子弟:台獨不是台獨,原民才是台灣母體|accessdate=2019年9月11日|publisher=}}</ref>。
* [[タイボアン族]] 2013年[[富里郷]]により認定<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20131203010854/http://www.titv.org.tw/news/news_info.php?UID=51006|title=首例鄉定原住民 富里西拉雅族正名|accessdate=2019年9月11日|publisher=}}</ref>。
=== 未認定民族 ===
一方、政府からも地方自治体からも未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
*[[ケタガラン族]]
*[[クーロン族]](ケタガランの一支)
*[[バサイ族]](ケタガランの一支)
*{{仮リンク|トルビアワン族|en|Taiwanese_indigenous_peoples#Recognized_peoples}}(ケタガランの一支)
*[[タオカス族]]
*[[パゼッヘ族]]
*[[パポラ族]]
*[[バブザ族]]
*[[ホアンヤ族]]
*{{仮リンク|アリクン族|en|Arikun people}}(ホアンヤの一支)
*{{仮リンク|ロア族|en|Lloa people}}(ホアンヤの一支)
これに加えて、現在「原住民族」として認定されている
* サオ族
* クバラン族
も歴史的には平埔族に分類されていた。
「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。
平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。
サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。
また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。
他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶<!-- 保持? -->している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。
== 研究史 ==
台湾原住民族に対する研究は[[日本統治時代の台湾|日本の台湾統治時代]]に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの[[民族学|民族学者]]、[[人類学|人類学者]]、[[民俗学|民俗学者]]、[[言語学|言語学者]]達が台湾に渡った。代表的な人物は[[鳥居龍蔵]](1870年 - 1953年)、[[伊能嘉矩]](1867年 - 1925年)、[[鹿野忠雄]](1906年 - 1945年?)、[[森丑之助]](1877年 - 1926年)、[[移川子之蔵]](1884年 - 1947年)、[[宮本延人]](1901年 - 1987年)、[[馬淵東一]](1909年 - 1988年)、[[千千岩助太郎]](1897年 - 1991年)、[[小川尚義]](1869年 - 1947年)、[[浅井恵倫]](1894年 - 1969年)、[[ニコライ・ネフスキー]](1892年 - 1937年)、らである。彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。[[台北帝国大学]](現・[[国立台湾大学]])土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。
== 言語 ==
[[オーストロネシア語族]](マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともと[[インドネシア]]・[[フィリピン]]方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、[[太平洋]]各地に拡散したとする説が有力である。[[大西耕二]]は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似<ref>{{Cite report|url=https://www.researchgate.net/publication/231157409_Word-initial_consonant_correspondence_laws_between_Uralic_and_Austronesian_language_families_The_Origin_of_the_Uralic_language_family_from_a_language_closely_kin_to_Western_Oceanic_and_Sulawesi_langua |title=ウラル語族とオーストロネシア語族の語頭子音対応法則とウラル語族のスラウェシ語群近縁言語からの起源|author=大西耕二 |edition=日本言語学会夏期講座ナイトセッションにおけるハンドスクリプト, Aug. 24 , 2006, 東京大学駒場キャンパス |accessdate=2022-09-30}}</ref>や北米先住民族の諸語、南米先住民<ref>{{Cite web|和書|url=http://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/1210/1210.5321.pdf|format=PDF|title=マヤ語の台湾先住民(高砂族)語群からの起源|author=大西耕二|accessdate=2022-09-30}}</ref>の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている。
大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。
[{{NDLDC|1453611}} 『原語による台湾高砂族伝説集』](台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。
その他、[{{NDLDC|1267420}} 『高砂族慣習法語彙』]など、幾つかの言語研究書が残されている。
部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である[[国語 (中国語)|国語]]を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられた。
==遺伝子==
台湾先住民には[[Y染色体ハプログループ]][[ハプログループO1a (Y染色体)|O1a系統]]が66.3%<ref>Cristian Capelli et al 2001, A Predominantly Indigenous Paternal Heritage for the Austronesian-Speaking Peoples of Insular Southeast Asia and Oceania</ref>-89.6%<ref>Karafet, T. M.; Hallmark, B.; Cox, M. P.; Sudoyo, H.; Downey, S.; Lansing, J. S.; Hammer, M. F. (2010). "Major East-West Division Underlies Y Chromosome Stratification across Indonesia". Molecular Biology and Evolution 27 (8): 1833–44. {{doi|10.1093/molbev/msq063}}. PMID 20207712.</ref>の高頻度で観察される。
== 風習 ==
=== 入れ墨 ===
台湾原住民族にとって、[[刺青|入れ墨]]は[[通過儀礼]]の一つである。男女を問わず、顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。しかし日本統治時代に入れ墨は禁止となり1940年代には衰退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180418/k00/00m/030/081000c|title=先住民の入れ墨文化「紋面」消滅へ 映像などで保存|accessdate=2020年2月28日|publisher=毎日新聞}}</ref>。戦時中に[[台湾人日本兵|台湾特別志願兵]]制度が導入され、入れ墨が採用の妨げになると噂されたことも、入れ墨の伝統が後退するきっかけとなった。
=== 出草(首狩り) ===
台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異民族の構成員を殺し、その[[首狩り|首を切り落とす風習]]がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。また、この行為には宗教的な意味もあった。
狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。
この習慣は、他にも[[マレー人|マレー系]]、南米先住民族の一部などにも見られる。また、日本の武士が敵の首を切り落とす文化にも共通のものがある。
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アミ・サイシャットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤミ族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。
出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。
[[日清戦争]]後の[[乙未戦争]]で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、[[台湾総督府]]による[[理蕃政策]]により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に[[霧社事件]]後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。{{要出典|date=2016年11月}}
[[1910年]](明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の[[1915年]]([[大正]]4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押収によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。
台湾総督府史料などを基にした説によると、[[1896年]](明治29年)から[[1930年]](昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。
日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。
出草を巡る[[阿里山]]原住民に関する[[呉鳳]]説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。
===出草の動機===
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、
*壮年の班に加わろうとする時
*争いの正否を決定しようとする時
*悪疫の流行を払おうとする時
*嫌疑を解き、または冤罪を濯ごうとする時
*娶婦の競い(結婚女性の獲得)に勝とうとする時
*自己の武勇を誇ろうとする時
*凶兆ある場合、不吉を未然に払おうとする時
*自己の恨みを霽〔は〕らそうとする時
*死後に楽土に入る資格を得ようとする時
等。
また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。
== 平埔族の問題 ==
文化、伝統を残している認定原住民と原住民アイデンティティを持つが同化の進んだ平埔族は原住民を二分する問題である。
台湾原住民は政府により認定され身分が定まる、違憲判決を受けた平埔族の訴訟で同化の進んだ原住民の認定が進むと見られている。この判決を混血、都市部の原住民は歓迎したが伝統的な地域に居住し続け文化の継承を努力している原住民の指導者からは原住民政策を歪め既存原住民の権利を侵害するとの声が出た<ref>{{Cite web |url=https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/1066943.html |title=대만 원주민의 투쟁 “내 이름을 돌려줘”…정명운동의 이면 |access-date=2023年6月19日 |publisher=ハンギョレ}}</ref>。
== ホーロー人との対立 ==
{{出典の明記|section=1|date=2023-3}}{{百科事典的でない|type=notopinion|section=1|date=2023-9}}
台湾原住民とホーロー人、本省人とも呼ばれる漢民族の間には歴史的に根深い敵意が存在する。
差別的な意味のある「番」はホーロー人によって原住民に対してしばしば使用された。また原住民が言語の同化の影響を受ける民族はホーロー人である<ref>{{Cite web |url=https://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2014/06/15/2003592824 |title=Pazeh writers get awards for preserving language |access-date=2022年11月15日 |publisher=台北タイムズ}}</ref>。
民進党の議員である邱議瑩が国民党の原住民議員に対し番仔(非文明人)と中傷した、邱は番仔に民族差別の意図は無く相手の対応が非文明的だったと述べた<ref>{{Cite web |url=https://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2016/11/17/2003659431 |title=KMT slams DPP over Japan imports |access-date=2022年11月15日 |publisher=台北タイムズ}}</ref>が後に謝罪をするも、この謝罪を国民党の原住民議員は受け入れなかった<ref>{{Cite web |url=https://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2016/11/19/2003659569 |title=DPP lawmaker sorry for ethnic slur |access-date=2022年11月15日 |publisher=台北タイムズ}}</ref>。
2016年中華民国総統として蔡英文が原住民に謝罪を行った。
この謝罪は、台湾の歴史の多様性を強調し、理解と和解を促進するとして、原住民族だけでなく非原住民族からも肯定的に捉えられた。<ref>{{Cite web |title=公民論壇 - 從蔡英文向原住民道歉看台灣多元歷史現實 |url=https://www.rfi.fr/tw/%E6%94%BF%E6%B2%BB/20160809-%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 |website=RFI - 法國國際廣播電台 |date=2016-08-11 |access-date=2023-08-03 |language=zh-Hant |last=https://www.facebook.com/RFI-%E8%8F%AF%E8%AA%9E-%E6%B3%95%E5%9C%8B%E5%9C%8B%E9%9A%9B%E5%BB%A3%E6%92%AD%E9%9B%BB%E5%8F%B0-394354904092401}}</ref>
一方、一部の原住民の活動家からは以下の批判がでた<ref>{{Cite web |url=https://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2016/08/02/2003652279 |title=Apology failed to explicitly acknowledge Aboriginal sovereignty: demonstrators |access-date=2022年11月15日 |publisher=台北タイムズ}}</ref>。
「陳水扁の頃の対等な関係という約束から後退している。謝罪の会場が旧台湾総督府の建物であり原住民の代表が謁見を行っているようで中立的な場所にすべきだ。招く原住民も行政単位の代表ではなく伝統的な指導者にすべき、中華民国時代の区分けが現在の原住民政策の問題を生んでいる。」
台南市議会議員である Kumu Hacyoは「鄭成功によって原住民は中国の支配が受けたことを言及していない。また官僚的なショーに過ぎず原住民の権利回復の具体的な内容の無い謝罪だ。原住民に謝罪をするだけでなくマジョリティへの働きかけ、平埔族の認定をしろ。」と述べた。
「国民党の不当な党財産は問題にするのに原住民の奪われた不当な国家財産に触れないのはなぜだ」と総統の就任式で歌った歌手のPanai Kusuiは批判した。
しかし、この民進党に対する批判の一方、漢民族中心の中国文化を強調する国民党政権にはされなかったことから、原住民の政治的立場により意見が偏っていることを疑問視する声がみられる。<ref>{{Cite web |title=Initium Media |url=https://theinitium.com/article/20160803-opinion-yenwanlin-transitional-justice/ |website=Initium Media |access-date=2023-08-03 |language=zh-Hant}}</ref>これらの批判に該当する政策を実際に行ったのはすべて国民党政権のときであるが、国民党時代には批判がなされなかった。
また台湾歴史家の李筱峰は「この謝罪は蔡英文総統ではなく国民党がするべきだ」と国民党を非難した。
=== 原住民ルーツの利用 ===
Marie Linの研究では台湾の漢族の85%が原住民由来の遺伝子を持っているとされており、この研究結果は台湾人は遺伝的に中国人と異なると台湾独立派が持ち出す事がある。
ホーロー人が原住民のルーツを持っていることを述べることは最初は原住民側からも歓迎されており、ホーロー人の元行政院長謝長廷は「私の祖母は原住民である。私は原住民、あなたは原住民ではないと言うべきではない、みんな原住民だ」と発言した。
しかし、台湾独立の理由付けの一つとして用いられるようになってからは一部の平埔族の子孫からは反発が生じるようになった<ref>{{Cite web |url=https://www.academia.edu/12142226 |title=Plains Indigenous Ancestors and Taiwan Blood Nationalism |access-date=2023年8月6日}}</ref>。
== 関連作品 ==
;小説
* {{Cite book|和書|author=津島佑子|authorlink=津島佑子|title=あまりに野蛮な (上)|publisher=講談社|date=2008年11月29日|isbn=978-4-06-215113-9}}(電子版あり)
** {{Cite book|和書|author=津島佑子|title=あまりに野蛮な (上)|publisher=講談社|date=2016年07月09日|isbn=978-4-06-290316-5|series=講談社文芸文庫}}
* {{Cite book|和書|author=津島佑子|title=あまりに野蛮な (下)|publisher=講談社|date=2008年11月29日|isbn=978-4-06-215114-6}}(電子版あり)
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== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 日本順益台湾原住民研究会 編『台湾原住民研究への招待』風響社、1998年 ISBN 4938718197
* トウ相揚 著、魚住悦子、下村作次郎 訳『抗日霧社事件をめぐる人々 -翻弄された台湾原住民の戦前、戦後』日本機関紙出版センター、2001年 ISBN 4889008187
* 春山明哲『近代日本と台湾 -霧社事件・植民地統治政策の研究』藤原書店、2008年 ISBN 4894346354
* 山本春樹、パスヤ・ポイツォヌ、黄智慧、下村作次郎『台湾原住民族の現在』草風館、2005年 ISBN 488323147X
* 松岡格 『台湾原住民社会の地方化ーーマイノリティの20世紀 』研文出版、2012年 ISBN 9784876363421
* 野林厚志 窪田幸子編『先住民とはだれか』世界思想社、2009年 ISBN 9784790714385
*『台湾高砂族の音楽』[[黒沢隆朝]]、雄山閣、1973年
*[{{NDLDC|1453611}} 『原語による台湾高砂族伝説集』] 台北帝国大学言語学研究室編、刀江書院、1935年
*[{{NDLDC|1453781}} 『高砂族』] 大形太郎、育生社弘道閣、1942年
*[{{NDLDC|1267420}} 『高砂族慣習法語彙』] 帝国学士院編、ヘラルド社、1941年
*[{{NDLDC|1449529}} 『高砂族調査書 第5編』] 台湾総督府警務局理蕃課、1938年
*[{{NDLDC|1440781}} 『刑事政策の新動向』] 安平政吉、巌松堂、1940年、P218~
*[{{NDLDC|1437518}} 『外地の婦人生活と結婚』] 外地文化協会編、婦人之家社、1942年、P29~
*[{{NDLDC|1278570}} 『理蕃綱要』] 台湾総督府警務局理蕃課編、1939年
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|民俗学|[[画像:WLM logo-2.svg|34px|Portal:民俗学]]}}
{{ウィキプロジェクトリンク|台湾|[[File:Flag of the Republic of China.svg|40px|Project:台湾]]}}
* [[行政院原住民族委員会]]
* [[オーストロネシア語族]]
* [[先史時代 (台湾)]]
* [[台湾出兵]]
* [[理蕃政策]]
* [[台湾抗日運動]]
* [[北埔事件]]
* [[霧社事件]]
* [[高砂義勇隊]]
* [[セデック・バレ]]
* [[順益台湾原住民博物館]]
* {{仮リンク|原住民族テレビ|zh|原住民族電視台}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Aborigines of Taiwan}}
* [https://web.archive.org/web/20080217024119/http://www.for.aichi-pu.ac.jp/ch/tsuki/tsuki_p.htm 台湾原住民について] 月田尚美(愛知県立大学外国語学部教授)
* [http://www.gicas.jp/taiwan/about.html 台湾原住民とは]「台湾資料」東京外語大学アジア・アフリカ言語研究所
<!-- リンク切れ * [http://3d.nioerar.edu.tw/2d/native/default.asp 国立教育資料館 原住民教育](中国語)-->
* [http://www.apc.gov.tw/ 行政院原住民族委員会](中国語・英語)
* [http://www.museum.org.tw/symm_jp/index.htm 順益台湾原住民博物館](中国語・日本語)
* [http://ianthro.tw/~pingpu/ 平埔族群文化資訊網](中国語)
<!--行政院の重複 * [https://web.archive.org/web/20060824000420/http://www.apc.gov.tw/en/tribes/indi/tribes.aspx 原住民10民族紹介](英語)-->
=== 論文 ===<!--発表年順-->
* {{Cite journal|和書|author=松澤員子 |title=日本領台以前の台湾における漢人と原住民族の交易についての一考察 |journal=国立民族学博物館研究報告別冊 |issn=0288-190X |publisher=国立民族学博物館 |year=1991 |month=mar |issue=014 |pages=269-297 |naid=110004716064 |doi=10.15021/00003621 |url=https://doi.org/10.15021/00003621}}
* {{Cite journal|和書|author=野林厚志 |title=台湾原住民族の狩猟方法 : 日本統治時代の資料から |journal=国立民族学博物館調査報告 |issn=1340-6787 |publisher=国立民族学博物館 |year=2002 |month=dec |volume=34 |pages=215-230 |naid=110004472223 |doi=10.15021/00001990 |url=https://doi.org/10.15021/00001990}}
* {{Cite journal|和書|author=白石太良 |title=台湾原住民の生活様式:日本領時代の衣食住 |journal=兵庫地理 |issn=1341-4054 |publisher=兵庫地理学協会 / 兵庫県高等学校教育研究会地理部会 |year=1982 |month=mar |issue=27 |pages=2-10 |naid=120005446841 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90002321}}
* {{Cite journal|和書|author=竹尾茂樹 |title=台湾における「少数民族観光」の現状と課題 |journal=プライム |issn=13404245 |publisher=明治学院大学国際平和研究所 |year=2008 |month=oct |issue=28 |pages=77-87 |naid=120002911583 |url=https://hdl.handle.net/10723/691}}
* {{Cite journal|和書|author=山田英美 |title=台湾の原住民の村を訪ねて |journal=東洋文化研究所所報 |issn=1342-6605 |publisher=身延山大学東洋文化研究所 |year=2011 |month=apr |issue=15 |pages=61-76 |naid=120005839717 |doi=10.15054/00000095 |url=https://doi.org/10.15054/00000095}}
* {{Cite journal|和書|author=八木橋伸浩 |title=台湾原住民族角力事情覚書 |journal=玉川大学リベラルアーツ学部研究紀要 |issn=1882-8647 |year=2014 |month=mar |issue=7 |pages=31-44 |naid=120006868416 |url=https://hdl.handle.net/11078/123 |ref= harv}}
* {{Cite journal|和書|author=其楽木格 |title=台湾原住民の服飾について : ツオウ族、ルカイ族、アミ族を中心に |journal=修士論文 |volume=兵庫教育大学 |date=2014-03 |url=https://hdl.handle.net/10132/15038 |ref= harv}}
* {{Cite journal|和書|author=角南聡一郎 |title=民芸運動と台湾原住民の工芸 : 学説史及び集積された資料の整理に向けて |journal=人類学研究所研究論集 |issn=2434-9577 |publisher=南山大学人類学研究所 |year=2015 |month=mar |volume=2 |pages=69-80 |naid=120007097632 |doi=10.15119/00003532 |url=https://doi.org/10.15119/00003532}}
* {{Cite journal|和書|author=森田健嗣 |title=<論文>台湾先住民族社会の戦後過程 |journal=アジア・アフリカ地域研究 |issn=1346-2466 |publisher=京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 |year=2015 |month=nov |volume=15 |issue=1 |pages=1-19 |naid=130005140181 |doi=10.14956/asafas.15.1 |url=https://hdl.handle.net/2433/216721 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=野林厚志, 松岡格 |year=2019 |url=https://hdl.handle.net/10502/00009350 |title=台湾原住民の姓名と身分登録 |publisher=国立民族学博物館 |journal=国立民族学博物館調査報告 |volume=47 |NCID=BB27807529 |ISBN=9784906962730}}
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南京1937
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『南京1937』(なんきん1937、発表時のタイトル: 南京大屠殺)は、1995年に製作された中国・香港・台湾合作の映画。
日中戦争中の1937年に起こった南京事件を描いた作品。日本人俳優も出演している。日本での公開は1998年5月2日。
監督の呉子牛(中国語版)は様々な作品を手がけ、本作品は日中友好を願う中国側の機運の中で製作された。中国ではこれ以前にもこれ以降にも南京事件を描いた映画は多いが、本作は公開当時、それまでで最も制作費が大きく、平和的な作品であったため、中国ではあまり評価が高いとは言えない。
日本での公開に際しては右翼団体による上映への抗議や妨害行動があり、上映期間を短縮して打ち切った映画館があったほか、上映を企画していた市民団体が自治体から上映目的の施設使用を一時拒否される事態も発生した。
日中戦争のさなかの1937年、中華民国の首都南京へ中国人・日本人の夫婦・親子が帰ってくる。やがて南京も日本軍によって陥落する。日本軍は降伏した中国軍の将兵を虐殺、難民区に避難した南京の婦女子を夜な夜な襲う。難民区の管理者は必死に抵抗するが、ある晩ついに...。
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『南京1937』は、1995年に製作された中国・香港・台湾合作の映画。 日中戦争中の1937年に起こった南京事件を描いた作品。日本人俳優も出演している。日本での公開は1998年5月2日。
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{{Infobox 中華圏の映画
| 作品名 = 南京1937
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| 繁体字 = 南京1937
| 簡体字 = 南京1937
| ピン音 = Nánjīng yījiǔ sānqī
| 注音 =
| 粤語ピン音 =
| 英語題 = Don't Cry Nanking
| 監督 = [[呉子牛]](ウー・ズーニウ)
| 製作総指揮 = 王應祥(ワン・インシャン)
| 製作 = [[ジョン・ウー|呉宇森]](ジョン・ウー)
| 脚本 = 徐天生(シュー・ティエンション)<br />梁暁声(リャン・シャオション)<br />洪維健(ホン・ウェイジェン)<br />張翼平(ヂャン・イーピン)
| 出演者 = [[チン・ハン (台湾の俳優)|秦漢]](チン・ハン)<br/>[[早乙女愛]]
| 音楽 = [[譚盾]](タン・ドゥン)
| 撮影 = 楊慰(ヤン・ウェイ)<br />[[侯咏]](ホウ・ヨン)
| 編集 = 何文章(ホー・ウェンヂャン)
| アクション指導 =
| 衣装 =
| 美術 = 章暁濱(ヂャン・シャオビン)<br />朱剛(チュー・ガン)<br />路奇(ルー・チー)
| 制作会社 =
| 配給会社 =
| 公開日 = {{flagicon|Japan}} 1998年5月2日
| 上映時間 = 110分
| 製作者= {{CHN}}<br />{{HKG}}<br />{{TWN}}
| 言語 = [[中国語]]<br />[[日本語]]<br />[[英語]]<br />[[ドイツ語]]
| 制作費 =
| 興行収入 =
| 次作 =
}}
『'''南京1937'''』(なんきん1937、発表時のタイトル: ''南京大屠殺'')は、[[1995年]]に製作された[[中華人民共和国|中国]]・[[香港]]・[[台湾]]合作の[[映画]]。
[[日中戦争]]中の[[1937年]]に起こった[[南京事件]]を描いた作品。日本人俳優も出演している。日本での公開は[[1998年]][[5月2日]]。
== 概要 ==
監督の{{仮リンク|呉子牛|zh|吴子牛}}は様々な作品を手がけ、本作品は日中友好を願う中国側の機運の中で製作された。中国ではこれ以前にもこれ以降にも南京事件を描いた映画は多いが、本作は公開当時、それまでで最も制作費が大きく、平和的な作品であったため、中国ではあまり評価が高いとは言えない<ref>[[笠原十九司]]『南京事件論争史』[[平凡社新書]]、2007年</ref>。
日本での公開に際しては[[右翼団体]]による上映への抗議や妨害行動があり、上映期間を短縮して打ち切った映画館があったほか、上映を企画していた[[市民活動|市民団体]]が[[地方公共団体|自治体]]から上映目的の施設使用を一時拒否される事態も発生した<ref>[http://www.jca.apc.org/nmnankin/kokunai.html ノーモア南京の会・東京]</ref>。
== あらすじ ==
[[日中戦争]]のさなかの1937年、[[中華民国]]の首都[[南京市|南京]]へ中国人・日本人の夫婦・親子が帰ってくる。やがて南京も[[日本軍]]によって陥落する。日本軍は降伏した中国軍の将兵を虐殺、難民区に避難した南京の婦女子を夜な夜な襲う。難民区の管理者は必死に抵抗するが、ある晩ついに…。
==キャスト==
*成賢 … [[チン・ハン (台湾の俳優)|秦漢]](チン・ハン)
*理恵子 … [[早乙女愛]]
*劉書琴 … [[劉若英]](レネ・リウ)
*鄧天遠 … [[陳逸達 (俳優)|陳逸達]](チェン・イーダー)
*小綾 … [[王思北]](ワン・スーペイ)
*春子 … [[史芙嫣]](シー・フーイェン)
*李根発 … [[陶澤如]](タオ・ザァールー)
*[[松井石根]] … [[久保恵三郎]]
==脚注==
<references />
== 外部リンク ==
* [http://www.gentyuei.com/1937.html 南京1937 ホームページ] @ 現代中国映画上映会 (監督メッセージ等あり)
* {{Allcinema title|83291|南京1937}}
* {{Kinejun title|30760|南京1937}}
* {{Amg movie|492020|Don't Cry, Nanking}}
* {{IMDb title|0113930|Nanjing 1937}}
{{DEFAULTSORT:なんきん1937}}
[[Category:中国のドラマ映画]]
[[Category:中国の戦争映画]]
[[Category:香港のドラマ映画]]
[[Category:香港の戦争映画]]
[[Category:台湾のドラマ映画]]
[[Category:1995年の映画]]
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クイズ
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クイズ(Quiz)の英語での意味は、「(何か)質問すること」と 「知識をテストすること」 と、これらの名詞としての意味であり、日本語では後者の「知識を問う問題」の意味で使われている。出題者が既知の事実に対して質問をし、解答者がその質問に対する正解を答えるという遊び。あるいはその質問のこと。
あらかじめ出題側が、質問と正解のセットを多数用意しておく。出題者は解答者に対して質問をする。解答者が言った答えが出題者の用意していた答えと一致すれば正解、一致しなければ不正解である。
多くの場合、解答者は複数いて、正解数や、正解することで得られる得点を競う。狭義には知識を問うものをクイズというが、思考力を問うパズルや、言葉遊び、なぞなぞなどもクイズの一種とみなされることがある。
イベントや番組によっては、開催中は回答者に正誤や正解数(得点)を公表せず、開催終了後に勝者もしくは敗者を発表する場合もある。
quiz という語の起源に関しては、オックスフォード英語辞典(第3版)では、1781年に「変わった人」という意味で最初に使われたと記載されている。今日でもQuizzical(いぶかしげな、奇妙な)という語に名残を見ることが出来る。1843年からはオックスフォード英語辞典では、「問い合わせ、質問すること」の動詞として説明している。
Oxford Lexicoでは、おそらくinquisitiveという形容詞(名詞的に使うと「知りたがり」「好奇心旺盛な人」という意味になる語)の影響を受けている、と指摘している。
また、単にラテン語の quis(何)に由来する、とする説を2015年に出版された『脳に効く! 大人のパズル&クイズ』という本では採用している。一方、フジテレビのクイズ$ミリオネアでは"あなたは誰?"(Qui es-tu?)に由来すると、独自の解釈を呈示している。
クイズの形式で分類すると、以下のようなものがある。
ほかにもボードクイズ、シチュエーションパズル、複数の要素に隠された共通点などを見抜くあるなしクイズというものもある。
en:List of quiz channels
この節では世界のクイズテレビ番組について解説する。
時代とともに、クイズを出題してくれる電子ゲーム機、家庭用ゲーム機用のクイズソフト、PC(WindowsやMacintoshなど)用のクイズ・アプリケーションソフト、AndroidやiOS用のクイズ・アプリなどが提供されてきた歴史がある。ゲームセンターのアーケード機(業務機)でクイズで遊べるものが設置されることもある。
現在、Androidスマホを持っている人ならGoogle Playでアプリ検索画面を開きキーワードで「クイズ」と入力すれば多数のクイズ用アプリが表示されるので、好みのものを選んでインストールして遊ぶことができる。しかもAndroidならば(若干の広告表示などを我慢すれば)ほとんどのアプリが無料である。なかにはまったく広告表示もなくて無料のものもある。
なお日本での歴史にも少し触れておくと、日本でまだNECのPC-98が全盛だった1991年に『ごたく』というフリーウェア方式の、(シンプルな)5択式クイズのソフトがリリースされ、その後、これはさまざまな機種に移植された。(あくまで歴史として紹介したが、上述したように、現在ではAndroid向けに非常に多数のクイズソフトが無料で流通しているので、これを超えてもっと面白いクイズソフトが多数出ている。)
日本では、quizの訳語として、当初、本来は隠してある物を言い当てる遊びを指す「当てもの(あてもの)」という語を使用した時期もあるが、1951年頃からカタカナで「クイズ」と表記することが定着した。
第二次世界大戦後の1946年12月にNHKのラジオ番組『話の泉』、翌1947年11月には『二十の扉』というクイズ番組が登場して人気を呼んだ。これらの番組は、GHQのCIEラジオ課の指導により、アメリカ合衆国のクイズ番組を模倣した形で製作された。
以降、テレビ番組では数多くのクイズが行われ、『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)、『クイズダービー』(TBS)、『アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ)、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(同)、『マジカル頭脳パワー!!』(同)、『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ、イギリス『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア』の日本版)といったクイズ番組が放送された。
また、テレビ局などではなく、競技クイズの一環として、一般のクイズ愛好者が主催する「オープン大会」と呼ばれるクイズ大会でも、本格的な早押しクイズなどが行われている。高校生や大学生によるオープン大会も数多く開催されている。
更に派生して、コンピュータゲーム、アーケードゲーム、家庭用ゲーム機のソフトでも「クイズゲーム」に分類されるものが多く販売・稼動されている。本格的なものから、クイズ番組をゲーム化したもの、そしてある特定のジャンルに絞ったものまで千差万別である。現在では、アーケードゲーム『クイズマジックアカデミー』『ネットワーク対戦クイズ Answer×Answer』やスマホゲーム『みんなで早押しクイズ』などのオンライン対戦を利用したものもあり、オンラインで問題の修正も容易に行えるため、「時代の変化による問題の風化」という欠点の克服や、話題の時事問題(それもプレイ当日に生じたニュースに関する問題等)の出題までも可能としている。
2016年には クイズ業界では初となる一般社団法人日本クイズ協会が設立された。
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クイズ(Quiz)の英語での意味は、「(何か)質問すること」と 「知識をテストすること」 と、これらの名詞としての意味であり、日本語では後者の「知識を問う問題」の意味で使われている。出題者が既知の事実に対して質問をし、解答者がその質問に対する正解を答えるという遊び。あるいはその質問のこと。
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{{Otheruses}}
[[File:Norwegian quiz championship final 2009.jpg|thumb|200px|[[ノルウェー]]のクイズ・チャンピオンシップ(2009年)]]
[[File:TTQ-vlakvooropname2009.jpg|thumb|200px|[[オランダ]]のクイズ番組 [[:nl:That's the Question|That's the question]]のスタジオ風景]]
[[File:Brain-ring.jpg|thumb|right|200px|クイズのチーム対抗戦([[ロシア]]、2007年)]]
'''クイズ'''(Quiz)の[[英語]]での意味は、「(何か)質問すること」と 「知識をテストすること」 と、これらの[[名詞]]としての意味であり、[[日本語]]では後者の「知識を問う問題」の意味で使われている。出題者が既知の事実に対して質問をし、解答者がその質問に対する正解を答えるという遊び。あるいはその質問のこと。
== 概要 ==
あらかじめ出題側が、質問と正解のセットを多数用意しておく。出題者は解答者に対して質問をする。解答者が言った答えが出題者の用意していた答えと一致すれば正解、一致しなければ不正解である。
多くの場合、解答者は複数いて、正解数や、正解することで得られる得点を競う。狭義には知識を問うものをクイズというが、思考力を問う[[パズル]]や、言葉遊び、[[なぞなぞ]]などもクイズの一種とみなされることがある<ref group="注">{{要出典|date=2021年4月}}本来は教師が生徒に対して行う簡単な[[学力検査|テスト]]を意味し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では現在もこの意味でも使われる。</ref>。
イベントや番組によっては、開催中は回答者に正誤や正解数(得点)を公表せず、開催終了後に勝者もしくは敗者を発表する場合もある。
;語源
'''[[wikt:quiz|quiz]]''' という語の起源に関しては、[[オックスフォード英語辞典]](第3版)では、1781年に「変わった人」という意味で最初に使われたと記載されている。今日でもQuizzical(いぶかしげな、奇妙な)という語に名残を見ることが出来る。1843年からはオックスフォード英語辞典では、「問い合わせ、質問すること」の動詞として説明している<ref>{{Cite Oxford Dictionaries|Quizzes|accessdate=2020-03-10}}</ref>。
Oxford Lexicoでは、おそらくinquisitiveという形容詞(名詞的に使うと「知りたがり」「好奇心旺盛な人」という意味になる語)の影響を受けている、と指摘している<ref>[https://www.lexico.com/definition/quiz]</ref>。
また、単に[[ラテン語]]の ''{{lang|la|quis}}''(何)に由来する、とする説を2015年に出版された『脳に効く! 大人のパズル&クイズ』という本では採用している<ref>著:多湖輝、岩波邦明、小野寺紳『脳に効く! 大人のパズル&クイズ』 PHP研究所 2015/9/11 ISBN 4569826563 p.2</ref>。一方、フジテレビの[[クイズ$ミリオネア]]では"あなたは誰?"('''''Qui''' e'''s'''-tu?'')に由来すると、独自の解釈を呈示している<ref group="注">「{{要出典範囲|[[1791年]](あるいは[[1790年]])に、[[アイルランド]]の[[ダブリン]]で劇場支配人をしていたデイリーが、無意味な新語を作ってそれを流行させられるかどうかという賭けを友人と行ない、町中のいたるところに"quiz"と落書きをしたことからダブリン中に広まり、ついには辞書にも載った|date=2021年4月}}」と言う人もいる{{誰|date=2021年4月}}。</ref>。
== 歴史 ==
;世界でのクイズの歴史
{{節スタブ|date=2021年4月}}
== 分類、種類 ==
クイズの形式で分類すると、以下のようなものがある。
* [[なぞなぞ]](謎かけ、リドル)
* ある文章を提示しそれがマルかバツか(正しいか間違っているか)で答えさせる[[○×クイズ]]、複数の選択肢を提示されて解答者はそれの中からひとつだけ選択させる[[択一クイズ]]
* 問題文の長さで [[長文クイズ]] / [[短文クイズ]]と分類する方法もある。
* 多数の要素を列挙しなければならないものは[[多答クイズ]]と分類される。
ほかにも[[ボードクイズ]]、[[シチュエーションパズル]]、複数の要素に隠された共通点などを見抜く[[あるなしクイズ]]というものもある。
* なお問題が出題されるたびに解答者全員が解答を(ボードや解答用モニタ画面などに)書きこめる方式のものもあるが、解答者たちの中で早く解答ボタンを押した人だけが解答権を得て他の人が答えられない方式は特に[[早押しクイズ]]と分類する。
<!--** [[パズル]]-->
{{節スタブ|date=2021年4月}}
== 大会 ==
;国際大会
* [[World Quizzing Championship]]
* {{ill2|European Quizzing Championships|en|European Quizzing Championships}}
;一国の大会
* {{Ill2|British Quizzing Championships|en|British Quizzing Championships}}
;学校対抗や学生対抗形式のクイズ大会
* [[ユニバーシティ・チャレンジ]](イギリスの大学対抗クイズ大会のTV番組)
* {{ill2|National Academic Quiz Tournaments|en|National Academic Quiz Tournaments}}(アメリカの階級別(中・高・大学)学校対抗クイズ大会)
* [[College Bowl]](アメリカの大学対抗クイズ大会。当初(1953年から)はラジオで行われていたが、後に(1959年以降)TV番組になった。)
* [[Reach for the Top]]([[:en:Reach for the Top|en]]、カナダの高校生対抗クイズ番組)
* [[全国高等学校クイズ選手権]](日本のTV番組)
* [[abc (クイズ大会)|abc]](日本の学生向けクイズ大会)
* AQL(日本の全国リーグおよび地方リーグ)
== クイズイベント ==
* [[パブクイズ]] (Pub quiz、別名:quiz nights<ref>{{cite web|url=http://www.australiadaynt.com.au/fun/fun.html |title=Australia Day Fun Stuff |publisher=Australiadaynt.com.au |date= |accessdate=2009-08-31 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090531140132/http://www.australiadaynt.com.au/fun/fun.html |archivedate=May 31, 2009 }}</ref>、trivia nights<ref>{{cite web|url=http://www.championsforchildrenfoundation.ca/index.php?page=130 |title=World Trivia Night 2009 |publisher=Championsforchildrenfoundation.ca |date= |accessdate=2009-08-31}}</ref>)- イギリスの一般的な[[パブ]]で開催されている客寄せ目的のクイズイベントである。1970年代にパブクイズ企画会社 Burns and Porter が開催し、現在では年がら年中、国中のパブで開催され<ref>{{cite web|url=http://dpquiz.co.uk/special-features/399-pub-quiz-statistics.html |title=Pub quiz Statistics |publisher=dpquiz.co.uk |date= |accessdate=2009-07-29}}(2009年の調査では、英国では22,445のパブで毎週行われている)</ref>、イギリスの文化と言えるまで発展した<ref name="Pub challenge">{{cite news|title=Q: What is one of Britain’s fast-growing pastimes? A: The pub quizzes that are seeing big screens switched for answer sheets|url=https://www.independent.co.uk/life-style/food-and-drink/features/q-what-is-one-of-britain-s-fast-growing-pastimes-a-the-pub-quizzes-that-are-seeing-big-screens-8507761.html|publisher=The Independent|date=10 December 2015}}</ref>。
* {{ill2|クイズボウル|en|Quiz bowl}} - 1953年ごろから開催されているクイズ形式。2チーム間の早押しクイズ形式。多くの国で開催され、学校間の全米大会なども行われる。
== テレビ ==
;クイズ・チャンネル
[[:en:List of quiz channels]]
;テレビ番組
{{see|クイズ番組}}
この節では世界のクイズテレビ番組について解説する。
{{節スタブ|date=2021年4月}}
== コンピュータゲーム、アプリ等 ==
時代とともに、クイズを出題してくれる電子ゲーム機、[[家庭用ゲーム機]]用のクイズソフト、PC(WindowsやMacintoshなど)用のクイズ・[[アプリケーションソフト]]、AndroidやiOS用のクイズ・アプリなどが提供されてきた歴史がある。[[ゲームセンター]]のアーケード機(業務機)でクイズで遊べるものが設置されることもある。
現在、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]スマホを持っている人なら[[Google Play]]でアプリ検索画面を開きキーワードで「クイズ」と入力すれば多数のクイズ用アプリが表示されるので、好みのものを選んでインストールして遊ぶことができる。しかもAndroidならば(若干の広告表示などを我慢すれば)ほとんどのアプリが無料である。なかにはまったく広告表示もなくて無料のものもある。
なお日本での歴史にも少し触れておくと、日本でまだNECのPC-98が全盛だった1991年に『[[ごたく]]』というフリーウェア方式の、(シンプルな)5択式クイズのソフトがリリースされ、その後、これはさまざまな機種に移植された。(あくまで歴史として紹介したが、上述したように、現在ではAndroid向けに非常に多数のクイズソフトが無料で流通しているので、これを超えてもっと面白いクイズソフトが多数出ている。)
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File:Coleco Quiz Wiz, with cartridge 3 (Movies And TV), Model 2060, Circa 1980 (Electronic Handheld Game).jpg|Quiz Wiz。映画やテレビ番組に関するクイズを出題してくれるゲーム機。[[1980年]]ころのもの。英語圏向け。質問・正解を記憶したカートリッジを交換することで、新たなクイズも楽しめるタイプ。
File:Who Wants To Be A Millionaire machine (3126770904).jpg|[[クイズ$ミリオネア]]を遊べるゲーム機(英語圏)
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== 日本とクイズ ==
;日本におけるクイズの歴史
[[日本]]では、quizの訳語として、当初、本来は隠してある物を言い当てる遊びを指す「当てもの(あてもの)」という語を使用した時期もあるが<ref>丹羽美之 「第3章 クイズ番組の誕生」『クイズ文化の社会学』 石田佐恵子・小川博司編、2003年 p79</ref>、[[1951年]]頃からカタカナで「クイズ」と表記することが定着した<ref>前掲、丹羽 pp.103、[[小池清]] 「辛口クイズ甘口クイズ」『[[放送批評]]』176号([[1984年]]2月号)</ref>。
第二次世界大戦後の[[1946年]]12月に[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオ番組]]『[[話の泉]]』<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060075_00000 話の泉 -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>、翌[[1947年]]11月には『[[二十の扉]]』<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060078_00000 二十の扉 -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>という[[クイズ番組]]が登場して人気を呼んだ。これらの番組は、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[民間情報教育局|CIE]][[ラジオ]]課の指導により、[[アメリカ合衆国]]のクイズ番組を模倣した形で製作された<ref>前掲、丹羽 pp.79-81</ref>。
以降、[[テレビ番組]]では数多くのクイズが行われ、『[[パネルクイズ アタック25]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]])、『[[クイズダービー]]』([[TBSテレビ|TBS]])、『[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、『[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]』(同)、『[[マジカル頭脳パワー!!]]』(同)、『[[クイズ$ミリオネア]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[イギリス]]『[[フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア]]』の日本版)といったクイズ番組が放送された<ref group="注">「{{いつ|date=2021年4月}}からクイズを[[企業]]活動の{{how|date=2013年1月}}[[広報]]戦略や販売促進戦略に活かすビジネスブランディングツール、[[マーケティング]]戦略の一手法としての考え方が登場し、多くの企業に導入され始めている」と言う人が{{いつ|date=2021年4月}}{{誰|date=2021年4月}}登場した。</ref>。
また、テレビ局などではなく、[[競技クイズ]]の一環として、一般のクイズ愛好者が主催する「オープン大会」と呼ばれるクイズ大会でも、本格的な[[早押しクイズ]]などが行われている。[[高校生]]や[[大学生]]によるオープン大会も数多く開催されている。
更に派生して、[[コンピュータゲーム]]、[[アーケードゲーム]]、[[家庭用ゲーム]]機のソフトでも「[[クイズゲーム]]」に分類されるものが多く販売・稼動されている。本格的なものから、クイズ番組をゲーム化したもの、そしてある特定のジャンルに絞ったものまで千差万別である。現在では、アーケードゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』『[[ネットワーク対戦クイズ Answer×Answer2|ネットワーク対戦クイズ Answer×Answer]]』やスマホゲーム『[[みんなで早押しクイズ]]』などの[[オンライン対戦]]を利用したものもあり、オンラインで問題の修正も容易に行えるため、「時代の変化による問題の風化」という欠点の克服や、話題の[[時事問題]](それもプレイ当日に生じた[[ニュース]]に関する問題等)の出題までも可能としている。
2016年には クイズ業界では初となる一般社団法人[[日本クイズ協会]]が設立された。
== 世界記録 ==
;ギネス記録
:最大規模のクイズ大会などが登録されている。記録更新される事があるため、最新の情報は[[ギネス世界記録]]の公式ページ参照のこと。
[[ファイル:Edo Meisyo Hanji-mono.jpg|thumb|right|200px|[[歌川重宣]]「江戸名所[[判じ物|はんじもの]]」。それぞれ[[江戸]]の地名を表している(右上の魚以外)。椎名ひろむ<ref>'''ヒント''' [https://www.ndl.go.jp/landmarks/quiz/ 江戸名所判じ物クイズ]([[国立国会図書館]])</ref>。]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* その他
** [[クイズ番組]]、[[クイズ王]]
** [[クイズゲーム]]
** [[早押しクイズ]]
** [[学力検査]]
* [[競技クイズ]] - 日本で行われている、クイズを競技として行われている。
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:くいす}}
[[Category:クイズ|*]]
[[Category:学習]]
[[Category:知識]]
[[Category:英語の語句]]
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2003-08-26T22:11:33Z
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一輪車
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一輪車(いちりんしゃ)とは、主にスポーツや曲技に使われる、地面に接する車輪を1つしか持たない自転車の一種。
通常は動力無しで、人間自身がバランスを取って乗車するものをいう。電動および機械式制御によるものについては、自立安定一輪車を参照。
19世紀後期にペニー・ファージングを基に考案されたとされる。曲技用として用いられることが多く、日本にも曲技用として紹介された。1978年には日本一輪車クラブ(現・社団法人日本一輪車協会)が設立され、普及活動を行った。
一輪車には標準一輪車と原型一輪車がある。
なお、モノホイール(英語版)は、一輪の大きなホイールの中に運転者が乗り込むタイプの乗り物である。多くは原動機付で、フィクション作品にしばしば登場する(漫画『W3』『GANTZ』、アニメ映画『スチームボーイ』など)。
一般にはハンドルもブレーキもなく、クランク軸が車輪に直結しているため、ペダルだけで速度調整を行いながら前進または後退する。操舵機構がないため、乗り手が体を傾けて進行方向を変える(静止状態で車輪をひねって方向を変えることも可能)。一輪車の大きさは車輪のインチ数で表記され、主に20インチが使われている。
主にオフロード用にブレーキの付いたものがある(英語版記事のunicycleを参照)。
サーカスや大道芸には、チェーンで駆動する、背の高いもの(giraffe、画像を参照)が多く使われる。また、車輪をいくつも縦につらねたもの(multi-wheeled unicycle、英語版記事のunicycleを参照)もある。
その他、ギヤが付いたもの、クランクが同じ向きなもの、フレームが無いものなど(英語版記事のunicycleを参照)。
英語のユニサイクル(Unicycle、英語では原動機付きのものを含む)から略称はユニ (Uni)、一輪車に乗る事はユニサイクリング (Unicycling)、一輪車に乗る人間はユニサイクリスト (Unicyclist) と呼ばれる。
カナダなどでは一輪車はあくまでも物語の中やピエロ・曲芸師の乗り物と認識されており、一輪車はサーカスなどで見られるものの日常生活で目にする機会はないといわれる。
学習指導要領の趣旨や内容を解説する「学習指導要領解説」では、小学校第3学年および第4学年の内容で、「用具に乗るなどの動きで構成される運動」の例示として「補助を受けながら竹馬や一輪車に乗ること」が挙げられている。
日本工業規格では特殊自転車として扱っている。
日本では道路交通法によって「交通のひんぱんな道路」での一輪車の使用が禁止されている。「ひんぱん」の基準に関しては明確な基準はないが、凡そ他の歩行者や車両などとの交通の危険が生じうる程度の交通量がある場所と解される。
電動一輪車では、ブレーキや速度計といった保安部品を付けないと公道を走行できないため、違反して書類送検されたり、電動一輪車が他の車両や歩行者と交通事故を起こしたりする事例も発生している。電動機や内燃機関付きの一輪車についての詳細は自立安定一輪車を参照。
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一輪車(いちりんしゃ)とは、主にスポーツや曲技に使われる、地面に接する車輪を1つしか持たない自転車の一種。 通常は動力無しで、人間自身がバランスを取って乗車するものをいう。電動および機械式制御によるものについては、自立安定一輪車を参照。
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{{Otheruses|スポーツ用品|土木建築機材|手押し車}}
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'''一輪車'''(いちりんしゃ)とは、主にスポーツや曲技に使われる、地面に接する車輪を1つしか持たない[[自転車]]の一種。
通常は動力無しで、人間自身がバランスを取って乗車するものをいう。電動および機械式制御によるものについては、[[自立安定一輪車]]を参照。
== 歴史 ==
[[19世紀]]後期に[[ペニー・ファージング]]を基に考案されたとされる。曲技用として用いられることが多く<ref name="ISBN4829911077">佐野裕二『自転車の文化史 : 市民権のない5,500万台』文一総合出版、1985年 ISBN 4829911077 57ページ</ref>、日本にも曲技用として紹介された。[[1978年]]には日本一輪車クラブ(現・社団法人[[日本一輪車協会]])が設立され、普及活動を行った。
== 一輪車の種類 ==
一輪車には標準一輪車と原型一輪車がある<ref name="IUF_Rules_2004">{{Cite web|和書|url=https://unicycling.org/files/IUF_Rules_2004_japanese.pdf|title=2004 競技規約書(日本語版)|publisher=国際一輪車連盟|format=pdf|accessdate=2020-01-12}}</ref>。
; 標準一輪車
: 1つの車輪を有し、車軸に直接つながったクランクで駆動される支持装置のない一輪車<ref name="IUF_Rules_2004" />。
; 原型一輪車
: フレームやサドルのない車輪とペダルだけの一輪車<ref name="IUF_Rules_2004" />。
なお、{{仮リンク|モノホイール|en|Monowheel}}は、一輪の大きなホイールの中に運転者が乗り込むタイプの乗り物である。多くは原動機付で、[[フィクション]]作品にしばしば登場する(漫画『[[W3]]』『[[GANTZ]]』、アニメ映画『[[スチームボーイ]]』など)。
== 一輪車の構造 ==
一般には[[ハンドルバー (自転車)|ハンドル]]も[[ブレーキ (自転車)|ブレーキ]]もなく、[[クランク (機械要素)|クランク]]軸が[[車輪]]に直結しているため、[[ペダル (自転車)|ペダル]]だけで速度調整を行いながら前進または後退する。操舵機構がないため、乗り手が体を傾けて進行方向を変える(静止状態で車輪をひねって方向を変えることも可能)。一輪車の大きさは車輪のインチ数で表記され、主に20インチが使われている。
主にオフロード用にブレーキの付いたものがある(英語版記事の[[:en:Unicycle|unicycle]]を参照)。
[[サーカス]]や[[大道芸]]には、チェーンで駆動する、背の高いもの(giraffe、画像を参照)が多く使われる。また、車輪をいくつも縦につらねたもの(multi-wheeled unicycle、英語版記事の[[:en:Unicycle|unicycle]]を参照)もある。
その他、ギヤが付いたもの、クランクが同じ向きなもの、フレームが無いものなど(英語版記事の[[:en:Unicycle|unicycle]]を参照)。
== 一輪車の文化 ==
=== 欧米 ===
英語のユニサイクル(Unicycle、[[英語]]では[[原動機]]付きのものを含む)から略称は'''ユニ''' (Uni)、一輪車に乗る事は'''ユニサイクリング''' (Unicycling)、一輪車に乗る人間は'''ユニサイクリスト''' (Unicyclist) と呼ばれる。
カナダなどでは一輪車はあくまでも物語の中やピエロ・曲芸師の乗り物と認識されており、一輪車はサーカスなどで見られるものの日常生活で目にする機会はないといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kawamata.lg.jp/data/kouhoushi/pdf/201203-05.pdf|title=広報かわまた2012年3月号|publisher=福島県川俣町|format=pdf|accessdate=2020-01-12}}</ref>。
=== 日本 ===
==== 学習指導要領解説 ====
[[学習指導要領]]の趣旨や内容を解説する「学習指導要領解説」では、小学校第3学年および第4学年の内容で、「用具に乗るなどの動きで構成される運動」の例示として「補助を受けながら竹馬や一輪車に乗ること」が挙げられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/18/1387017_010.pdf|title=小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 体育編|publisher=文部科学省 |accessdate=2020-01-12}}</ref>。
==== 日本工業規格 ====
[[日本工業規格]]では特殊自転車として扱っている<ref>JIS D 9101 : 2012(自転車用語)にて「曲技、スポーツ、遊戯に使用する1輪の自転車」と定義されている。</ref>。
==== 道路交通法 ====
{{see also|軽車両#軽車両ではなく遊具とされるもの}}日本では[[道路交通法]]によって「交通のひんぱんな[[道路]]」での一輪車の使用が禁止されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=335AC0000000105#805 道路交通法第76条第4項第3号]''「交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。」''</ref>。「ひんぱん」の基準に関しては明確な基準はないが、凡そ他の歩行者や車両などとの交通の危険が生じうる程度の交通量がある場所と解される。
電動一輪車では、[[ブレーキ]]や速度計といった保安部品を付けないと[[公道]]を走行できないため、違反して[[書類送検]]されたり、電動一輪車が他の車両や歩行者と[[交通事故]]を起こしたりする事例も発生している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28858800R00C18A4CC1000/ 【センサー】危ない!公道に電動一輪車/原則は走行禁止トラブル相次ぐ]『日本経済新聞』朝刊2018年4月2日(社会面)</ref>。電動機や内燃機関付きの一輪車についての詳細は[[自立安定一輪車]]を参照。
== 一輪車を利用した各種競技 ==
* レース部門
** 国際一輪車連盟の競技規約書で100m、400m、800m、50m、片足レース、および30mタイヤ乗りレースの6種目とされている(他に特殊レースがある)<ref name="IUF_Rules_2004" />。
* 演技部門
** 国際一輪車連盟の競技規約書で標準技術、自由演技、オープンX部門の3種類とされている<ref name="IUF_Rules_2004" />。
* 一輪車ホッケー
* 一輪車バスケットボール
* 一輪車トライアル
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Unicycles}}
* [[日本一輪車協会]]
* [[マウンテン・ユニサイクリング]] - 山道でのユニサイクリング。
* [[自立安定一輪車]]
* {{仮リンク|モノホイール|en|Monowheel}}
{{スポーツ一覧}}
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[[Category:一輪車|*]]
[[Category:自転車の形態]]
[[Category:遊具]]
[[Category:スポーツ競技]]
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花火
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花火(はなび、煙火)は、火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付けて、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。原則として野外で使用するのが一般的である。
花火の光・色彩・煙を発生させる火薬の部分を星(ほし)という。多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火(蛇玉)、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、祝砲の代わりにも使われる。
英語では、fireworksという。近年は「華火」の字を当て字として使用している例も稀にある。
花火(広義の煙火)は、打揚花火や仕掛花火など「がん具煙火以外の煙火」と「がん具煙火」に大別できる。
信号又は観賞用の煙火は消費方法によって打揚煙火(打上花火、打揚花火)と仕掛煙火(仕掛花火)に分類される。
火薬を球状に成形した「星」を詰めた紙製の球体「玉」(煙火玉)を打ち上げる花火である。上方を向いた円筒の底に発射薬を敷きその上に玉を置き打ち上げに備える。打ち揚げは「投げ込み」と呼ぶ火種を円筒上方の射出口から投げ入れて発射薬に点火する。打ち上げと同時に玉から出ている導火線に引火し、玉は所定の高さまで上昇しながら導火線が燃え玉内部の割火薬に到達し玉が破裂し星に引火・飛散する。玉の大きさ(花火の高さ)によって発射薬の量と導火線の長さが調整・選定される。玉の破裂後、星には光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど、様々なタイプがある。玉の内部に星を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。
複数の花火を利用するなど作為的に仕掛けを施した花火。
信号又は観賞用の煙火は構造や性能によって煙火玉(花火玉)と煙火玉以外の煙火に分類される。
打上花火の主流は、打ち上げ時に光が同心円状に広がるものが多く、玉そのものの形も球形をしている。これに対し、初期の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形のものが多かった。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたと言われるが、明治期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。
伝統的に打上花火の「玉」の大きさは寸、尺で表される。直径約6.06cmの二寸玉(2号玉)から直径約60.6cmの二尺玉(20号玉)、さらに三尺玉(30号玉)、四尺玉(40号玉)まである。二尺玉は直径約500m程度、世界最大といわれている四尺玉は直径約800m程度まで広がる。ただし、この号数表記は打ち揚げ筒(内側)の太さであって、実際の花火玉の直径はこれよりも若干小さくなる。具体的には、20号玉の直径は60cmではなく約57cmである。また、最近開発された世界最小の打ち上げ花火は、玉の直径1cm、打ちあげる距離は2m。ただし、まだ開発段階のため、実用化。
『世界の果てまでイッテQ!』の企画で、開花時の直径が推定1kmになる花火玉(四尺三寸大千輪)を作り、打ち揚げた。しかし、花火玉自体が重過ぎたために上昇せず水中で爆発、失敗に終わった。
煙火玉(花火玉)は割物とぽか物に分類される。
代表的な打上花火である「割物」の鑑賞のポイントとして以下のようなものがある。
煙火玉はスターマインなどの仕掛花火にも用いる。
流星(龍勢)のように星を打ち出すロケット花火や、火の粉等を噴出させる手筒花火などである。
かつては玩具花火とも呼ばれたが、日本煙火協会での表記はこちらに統一されている。購入や使用に免許が不要な花火の総称で、線香花火のような手で持つものが代表的なものであるが、小型ではあっても打上花火になっていて、筒があって上空で破裂するものも存在する。日本では日本煙火協会が出荷品の検査を行っており、合格したものには「SFマーク」がつけられる。
火薬量の制限は、花火の種類により異なるが、最高でも15グラム以下となっている。おもちゃ花火であっても、束ねて使う場合はおもちゃ花火とは見なされず、煙火(届出・免許が必要な花火)としての届出が必要になる。
おもちゃ屋などで単品で発売されることも多いが、大抵は一つの種類の数本入りから複数種類の花火100本くらいを詰め合わせにしたものが、晩春から初秋にかけてスーパーマーケットやホームセンター、駄菓子屋などで売られている。
帰省や旅行の際、旅先で使うために出発前に購入したり、使い切れなかった花火を自宅に持ち帰ったりすることがあるが、花火を携行して交通機関を利用する場合、持ち込みに禁止や制限があるので注意を要する。航空機を利用して旅行する場合、安全上の理由から少量であっても機内への持込みも受託手荷物の取り扱いも出来ない。列車・バスを利用する場合、少量の持ち込みはできるが、持ち込める量に制限がある。また、宅配便での発送はできない。
原子を励起した時に電子が外側の軌道に移り、元の軌道に戻る時に放出されるエネルギーに応じた色の光を放出する炎色反応および放射を利用している。添加される元素はアルカリ金属、アルカリ土類金属が多く用いられる。
花火の起源については諸説ある。一般的には花火のルーツは古代中国の狼煙(のろし)とされ、煙による通信手段であり、火薬の技術の発達とともに花火が誕生することとなった。
21世紀の現代において、中華人民共和国は世界の花火生産量の9割を占めると推定されており、最大の輸出国である。「四大花火の里」と呼ばれる地域にメーカーが集積している(江西省万載県・上栗県と湖南省瀏陽市・醴陵市)。
ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたりしたものだったと考えられる。ヨーロッパでの主な生産地はイタリアで、火薬と花火製造が盛んに行われた。
鑑賞用の花火は14世紀、イタリアのフィレンツェに始まるとされ、キリスト教の祝祭で用いられる人形に口から火を吐く仕掛けのために用いられたとされている。
16世紀になるとイングランドで花火の技術が大きく進歩する。1532年、ヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しんだという記録がある。
さらに17世紀になるとポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、体系的な知識を有す専門的な花火師集団が形成されていった。イングランドのジェームズ1世はデンマークから技術者を招聘し、娘エリザベスの結婚式を花火で盛大に祝った。また1672年にはウリッジ兵器廠に花火研究所が設立され、1683年には花火に関するテキストが刊行されるなど、花火技術は漸次発展していった。
日本における花火の最古の記録としては、室町時代の公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』1447年5月5日(文安4年3月21日)条に記されている。浄華院における法事の後に境内にて、「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事が確認されている。そこでは、竹で枠を作り、火で薄や桔梗、仙翁花、水車などの形を表現したもの、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るもの、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛ぶもの、などが披露されたという。時房は「希代之火術也」と賞賛し、褒美を与えている。
この時代は足利義満の死後途絶えていた日明貿易が足利義教によって再開されており、花火も大陸から持ち込まれていたとも考えられる。
少なくとも戦国時代には鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火が伝来したとされている。まもなく日本でも花火が製造されるようになったとされているが、以後もキリスト教宣教師や「唐人」といった外国人の手による花火の記録が多く見られる。
1582年4月14日(天正10年3月22日)にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録(『イエズス会日本年報』『フロイス日本史』)は、大友宗麟が花火を活用して聖週間の祭儀をキリシタンを増やすための盛大な公開イベントとしたものである。聖土曜日の夜から翌明け方までの復活徹夜祭では、三つの城楼から花火細工が出て来る仕掛けが、三千もの提燈(教会堂や日本の物語を象った夜高行燈)の行列に豪華さを加えた。さらに数々の花火が「空中で実にさまざまな形となった」ので人々は皆立ち止まって花火見物をした。そして真夜中には教会堂も中庭も広場も立錐の余地もない人込みとなった。
外国人による花火の技術を学び日本でも独自に花火が作られたと考えられるが、その最初はよくわかっていない。1585年に、現在の栃木県栃木市で、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという説もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。
太田牛一著『信長公記』巻十四に見える1581年2月18日(天正9年正月15日)のところに「御爆竹の事」に見える「御爆竹」を花火の爆竹であるとし、安土城下で爆竹(花火の一種)の製作されたと考える説もあるが、これは竹を燃やして音を立てる小正月の催しの一つとして少なくとも鎌倉時代から行なわれているものであり、火薬を使用した花火であったかどうかは即断できない。
ただし、この頃には鉄砲に使用する需要から火薬の大量生産が行なわれるようになって、日本独自の花火の製作も行われていたことであろう。
戦国時代から江戸時代初期にかけて「花火見物」が行われたとする記録としては、伊達政宗が居城の米沢城で、1589年8月17日(天正17年7月7日)夜、「大唐人」による花火を見物したというもの(『貞山公治家記録』『伊達天正日記』など)、1613年8月に徳川家康が駿府城で英国使節ジョン・セーリスと謁見した際、同行した明の商人から火の粉が筒から吹き出るような形状の花火を見せられたという記事(『駿府政事録』『宮中秘策』『武徳編年集成』)などがある(但し政宗の記事は元禄頃の編纂資料によるものであり、家康の記事と酷似するなど問題が指摘されている)。
江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。徳川発祥の地である、岡崎を中心とした三河地方(現在の愛知県東部)は江戸時代、徳川幕府によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた。そのような歴史もあり花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにした。その名残か、現在においても三河とその東隣の遠州地方(現在の静岡県西部)周辺は全国的にみて煙火の製造業や問屋が多く集積している。
1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。1712年頃出版された絵入り百科事典『和漢三才図会』(寺島良安著)には、鼠花火、狼煙花火などが紹介されている。
花火禁止令が慶安元年(1648年)、寛文5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも出され、江戸中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。打ち上げ事故が起き、禁令が出されるということを繰り返したとされている。
2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。
鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(吉野郡、後に奈良県五條市)出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出した。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている(2018年時点で15代目)。その後、大型花火の研究を進め、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。
なお、隅田川川開きの花火の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。
しかし、このエピソードは、明治中期から昭和初期にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり、1730年代に流行したというのは事実に反する。詳細は「隅田川花火大会」を参照。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをして、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである。
このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出された。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という狂歌や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる。しかし1843年5月16日(天保14年4月17日)、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動があった。当時、失火は重罪と定められており、また偶然ながら将軍徳川家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった。
当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。また仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得て、見物人が大挙押しかけ、江戸藩邸近くの萬年橋の欄干が折れるという事故まで発生している。武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なった。この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術である。
日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年 - 2002年)によれば、打揚花火は、1751年に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。
鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、2013年時点では打ち揚げ専業業者となっている。
花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった九州と、長野県、愛知県などでは、江戸時代から花火が作られていた。特に、三河国岡崎地方(愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制が緩やかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。2013年現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の日本国内での花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多い。
ヨーロッパで18~19世紀に化学の発展によって新しい化合物が合成され、それらを原材料にした「西洋花火」が明治元年(1868年)に日本に初めて輸入された。
明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで炭火色といわれる橙色の強弱のみで表現されていた花火に新たな色彩が加わったばかりか明るさも大きく変化した。これらの物質の輸入開始は1879年から1887年にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある。
新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代である。特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となった。
多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の祝賀行事で、皇居の二重橋から打ち揚げたものである。
それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる。
大正期には発光剤としてのマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになった。また塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった。また青木儀作や廣岡幸太郎などの名花火師が登場したのも大正期である。
このように順調に技術を発展させていった花火であるが、昭和に入り、日中戦争など戦火が拡大する世界情勢下で、停滞期を迎えることになる。花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税がかけられたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていた。しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止となった。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒(焼夷弾の音を再現する)を製造していた。
第二次世界大戦敗戦後は1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられるが、翌10月に連合国軍総司令部(GHQ)により火薬製造が禁じられた。しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ、戦後初の花火大会として1946年8月10日、岐阜市の長良川河畔で全国煙火大会(後に全国花火大会となる)、9月29日と30日に茨城県土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(後に土浦全国花火競技大会となる)、1947年の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われた。
日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可。これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活した。この時は打ち揚げ許可量僅か600発であったが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があった(『両国川開年表』)。
敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、2013年時点では中国からの輸入量の方が多く、輸出は激減している。多くの花火業者は、2013年時点でも地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。
日本では、夏の夜の風物詩とされている。一部の自治体では大規模な花火の打ち揚げを「花火大会」と称して行っている。花火大会の大半の開催時期は7、8月に集中している。
主に歴史のある花火を紹介する。この中には手筒花火の様に地方公演も行うなど地域交流の1つともなっているものもある。
日本の花火大会一覧を参照。
戦後、花火が解禁された1948年8月1日の記念に、東京本所厩橋で大規模な花火爆発事故の起きた1955年8月1日の追悼、世界最大ともいわれる教祖祭PL花火芸術の開催日8月1日の記念を兼ね、花火の日が8月1日に制定された(1967年制定)。このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、5月28日も花火の日となっている。
サプライズ花火は事前に予告せずに打ち上げる花火である。シークレット花火ともいう。新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、密集を避けるため等の理由から人気が高まっている。
花火の取り扱いには国ごとに法規制がある。がん具としての花火にも文化により法規制に違いがある。国によっては花火の爆音が銃声と混同されかねないことから、記念日以外は花火の使用を禁止していることもある。
火薬類取締法による規制がある。
消防法では危険物の扱いを受ける。
航空法により、打ち上げる花火が到達する空域によっては、打ち上げが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある(制限表面も参照)。
日本の「がん具煙火」に相当する物は「consumer fireworks」(消費者向け花火、花火師が上げる物はprofessional fireworksと呼ばれる)と呼ばれる。それらの取り扱い(購入、所持、消費)には、州ごとに年齢制限(多くの州は16歳)があり、消費も年末年始や独立記念日前後に限られている場合が多い。
パーティー用クラッカーなど一部の品目を除き購入や消費に制限がある。
パーティー用花火(party popper)やクラッカーボール(throwdown)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある。
手持ちスパークラー(handheld sparklers)やパーティー用花火(party popper)、噴水(ice fountain)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある。
がん具煙火の購入や所持には年齢制限(満16歳)があるが消費に許可は不要。
花火により、重金属の残留物、硫黄化合物、粒子状物質、その他の低濃度の毒性物質などを含有する煤煙が生じる。 これらの燃焼による副生成物は、原材料の混合の仕方により大きく異なってくる。 (例えば、バリウム塩を加えることで、花火の緑色を出すことがある。これらの物質には毒性のあるものも含まれる。)
また花火は過塩素酸塩の排出源にもなっているとされてきた。 アメリカ合衆国環境保護庁のリチャード・ウィルキンらは、環境中の過塩素酸塩による人体や野生動物への影響を念頭に置いて、水域上空での花火類の使用についての研究を行った。 過塩素酸塩の排出源は雷や特定の化学肥料からロケット燃料や爆発物中に含まれるものまで多岐にわたる。 科学者らは長年の間、地域の花火大会がもう一つの排出源となっているのではないかと疑ってきたが、ほとんど研究がなされていなかった。 ウィルキンの研究グループは2004年、2005年、2006年に花火大会の前後にオクラホマ州にある湖の水を分析することで、花火が過塩素酸塩汚染の原因の一つであることを立証した。 花火大会から14時間以内に、過塩素酸塩の濃度はバックグラウンド濃度の24倍から1,028倍へと上昇した。 24時間後に濃度は最大となり、20日から80日後には大会前の水準へと落ち着いた。
過塩素酸塩は固体塩の一種であり、地下水や表流水に容易に溶解し移動する。 過塩素酸塩が飲料水に混じっていると甲状腺のヨウ素の取り込みが阻害されることが知られている。 連邦全体での飲料水の基準は現在存在しないものの、いくつかの州では公衆衛生の目標や対策レベルを既に設定しており、最大基準値を確立しようしている州もある。 たとえば、アメリカ合衆国環境保護庁では飲料水と同様に環境への過塩素酸塩による影響が研究されている 。 またカリフォルニア州は過塩素酸塩使用に関する指針を発行した。
花火からの汚染物質は健康リスクについての懸念を招く。 大多数の人について長期にわたり多数の排出源からの低レベルの毒物へ暴露した場合の影響というのはよく分かってない。 一方でぜんそく患者や多種類化学物質過敏症の患者にとっては、花火からの煙が疾患を悪化させる可能性がある。
マサチューセッツ州を含む複数の州は過塩素酸塩についての飲料水の基準を立法化してきた。 カリフォルニア州議会では2003年に過塩素酸塩汚染防止法(AB 826)が制定された。 この法律ではカリフォルニア州有害物質規制局(DTSC)に対して過塩素酸塩および過塩素酸塩の含有物質についての最適な管理方法を示す規制を採択するよう求めた。 この管理方法は2005年12月31日に採択され、2006年7月1日に施行された 。 またカリフォルニア州は飲料水の基準を2007年に制定した。 アリゾナ州、メリーランド州、ネバダ州、ニューメキシコ州、ニューヨーク州、テキサス州を含む複数の州では、強制性のない勧告基準を制定した。
司法もまた過塩素酸塩汚染に関連した判決も下してきた。 例えば、2003年にカリフォルニア州の連邦地方裁判所は、過塩素酸塩は発火性であり「特徴的に」有害な廃棄物であるを理由に、包括的環境対処・補償・責任法(英語版)の適用を決定した。
中国の製造業者と協力し、汚染物質である過塩素酸塩を低減し、究極的には除去しようとしていると主張する米国企業も存在する。
インドでは都市部を中心に大気汚染が深刻化している中で、ヒンドゥー教の祭日であるディーワーリーの時期に鳴らされる爆竹が汚染レベルの悪化に拍車を掛ける傾向が見られた。2017年、インド最高裁判所は、ディーワーリ前後の期間の爆竹販売を禁止した
花火の事故としては、花火工場における製造過程での事故と花火大会における実演時の事故とに大きく分けられる。花火大会における事故は、花火の危険性だけでなく、群集事故など多くの観客が集まるために起こりうる事故を防ぐために事前にさまざまな予防措置が運営側によって施されるようになっているが、まだまだ防ぎ切れていない。また、家庭で行なわれる花火でも、火薬の危険性を十分認識していない児童が遊戯の主体であるため、取り扱い時の不注意や、ふざけて人、動物、物に向けるなど危険な行為を行なうことによって、事故を起こしがちである。また、遊戯後の火の不始末による火災の危険性もある。
家庭、公園等の個人で花火をする時は、バケツなどに水を汲むなどしていつでも消火できる環境にして遊び、燃え尽きた後の花火はきちんと水で消火を行い、十分に鎮火したことを確認したあと処理すること。また、小さい子供だけ等の成人した管理者が不在ので花火をするのは避けること。不発の花火(特に打ち上げ花火のものは「黒玉」と呼称される)には再発火や爆発の危険があり、水に漬けるなどの処置が必要となるので放置、管理を行う。
従来から花火の事故は多くあったが、統計が残っているのは1950年代ごろからである。1950年代から1960年代にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10人以上の死者が出ていた時代もあった。多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものだったが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなった。ただし、安全な種類の火薬を用い、保管量を守れば、そのような事故の大部分は防げたはずだという主張もある。
野球で両チームが本塁打を打ち合い、点の取り合いになる状況を「花火大会」と形容する。この場合、冒頭に球場名が付く事もある。
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"text": "花火(はなび、煙火)は、火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付けて、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。原則として野外で使用するのが一般的である。",
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"text": "花火の光・色彩・煙を発生させる火薬の部分を星(ほし)という。多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火(蛇玉)、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、祝砲の代わりにも使われる。",
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"text": "英語では、fireworksという。近年は「華火」の字を当て字として使用している例も稀にある。",
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"text": "花火(広義の煙火)は、打揚花火や仕掛花火など「がん具煙火以外の煙火」と「がん具煙火」に大別できる。",
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"text": "信号又は観賞用の煙火は消費方法によって打揚煙火(打上花火、打揚花火)と仕掛煙火(仕掛花火)に分類される。",
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"text": "火薬を球状に成形した「星」を詰めた紙製の球体「玉」(煙火玉)を打ち上げる花火である。上方を向いた円筒の底に発射薬を敷きその上に玉を置き打ち上げに備える。打ち揚げは「投げ込み」と呼ぶ火種を円筒上方の射出口から投げ入れて発射薬に点火する。打ち上げと同時に玉から出ている導火線に引火し、玉は所定の高さまで上昇しながら導火線が燃え玉内部の割火薬に到達し玉が破裂し星に引火・飛散する。玉の大きさ(花火の高さ)によって発射薬の量と導火線の長さが調整・選定される。玉の破裂後、星には光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど、様々なタイプがある。玉の内部に星を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。",
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"text": "複数の花火を利用するなど作為的に仕掛けを施した花火。",
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"text": "信号又は観賞用の煙火は構造や性能によって煙火玉(花火玉)と煙火玉以外の煙火に分類される。",
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"text": "打上花火の主流は、打ち上げ時に光が同心円状に広がるものが多く、玉そのものの形も球形をしている。これに対し、初期の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形のものが多かった。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたと言われるが、明治期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。",
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"text": "伝統的に打上花火の「玉」の大きさは寸、尺で表される。直径約6.06cmの二寸玉(2号玉)から直径約60.6cmの二尺玉(20号玉)、さらに三尺玉(30号玉)、四尺玉(40号玉)まである。二尺玉は直径約500m程度、世界最大といわれている四尺玉は直径約800m程度まで広がる。ただし、この号数表記は打ち揚げ筒(内側)の太さであって、実際の花火玉の直径はこれよりも若干小さくなる。具体的には、20号玉の直径は60cmではなく約57cmである。また、最近開発された世界最小の打ち上げ花火は、玉の直径1cm、打ちあげる距離は2m。ただし、まだ開発段階のため、実用化。",
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"text": "『世界の果てまでイッテQ!』の企画で、開花時の直径が推定1kmになる花火玉(四尺三寸大千輪)を作り、打ち揚げた。しかし、花火玉自体が重過ぎたために上昇せず水中で爆発、失敗に終わった。",
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"text": "煙火玉(花火玉)は割物とぽか物に分類される。",
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"text": "代表的な打上花火である「割物」の鑑賞のポイントとして以下のようなものがある。",
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"text": "煙火玉はスターマインなどの仕掛花火にも用いる。",
"title": "花火の種類"
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"text": "流星(龍勢)のように星を打ち出すロケット花火や、火の粉等を噴出させる手筒花火などである。",
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"text": "かつては玩具花火とも呼ばれたが、日本煙火協会での表記はこちらに統一されている。購入や使用に免許が不要な花火の総称で、線香花火のような手で持つものが代表的なものであるが、小型ではあっても打上花火になっていて、筒があって上空で破裂するものも存在する。日本では日本煙火協会が出荷品の検査を行っており、合格したものには「SFマーク」がつけられる。",
"title": "花火の種類"
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"text": "火薬量の制限は、花火の種類により異なるが、最高でも15グラム以下となっている。おもちゃ花火であっても、束ねて使う場合はおもちゃ花火とは見なされず、煙火(届出・免許が必要な花火)としての届出が必要になる。",
"title": "花火の種類"
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"text": "おもちゃ屋などで単品で発売されることも多いが、大抵は一つの種類の数本入りから複数種類の花火100本くらいを詰め合わせにしたものが、晩春から初秋にかけてスーパーマーケットやホームセンター、駄菓子屋などで売られている。",
"title": "花火の種類"
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"text": "帰省や旅行の際、旅先で使うために出発前に購入したり、使い切れなかった花火を自宅に持ち帰ったりすることがあるが、花火を携行して交通機関を利用する場合、持ち込みに禁止や制限があるので注意を要する。航空機を利用して旅行する場合、安全上の理由から少量であっても機内への持込みも受託手荷物の取り扱いも出来ない。列車・バスを利用する場合、少量の持ち込みはできるが、持ち込める量に制限がある。また、宅配便での発送はできない。",
"title": "花火の種類"
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"text": "原子を励起した時に電子が外側の軌道に移り、元の軌道に戻る時に放出されるエネルギーに応じた色の光を放出する炎色反応および放射を利用している。添加される元素はアルカリ金属、アルカリ土類金属が多く用いられる。",
"title": "花火と炎色"
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"text": "花火の起源については諸説ある。一般的には花火のルーツは古代中国の狼煙(のろし)とされ、煙による通信手段であり、火薬の技術の発達とともに花火が誕生することとなった。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "21世紀の現代において、中華人民共和国は世界の花火生産量の9割を占めると推定されており、最大の輸出国である。「四大花火の里」と呼ばれる地域にメーカーが集積している(江西省万載県・上栗県と湖南省瀏陽市・醴陵市)。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたりしたものだったと考えられる。ヨーロッパでの主な生産地はイタリアで、火薬と花火製造が盛んに行われた。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "鑑賞用の花火は14世紀、イタリアのフィレンツェに始まるとされ、キリスト教の祝祭で用いられる人形に口から火を吐く仕掛けのために用いられたとされている。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "16世紀になるとイングランドで花火の技術が大きく進歩する。1532年、ヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しんだという記録がある。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "さらに17世紀になるとポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、体系的な知識を有す専門的な花火師集団が形成されていった。イングランドのジェームズ1世はデンマークから技術者を招聘し、娘エリザベスの結婚式を花火で盛大に祝った。また1672年にはウリッジ兵器廠に花火研究所が設立され、1683年には花火に関するテキストが刊行されるなど、花火技術は漸次発展していった。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "日本における花火の最古の記録としては、室町時代の公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』1447年5月5日(文安4年3月21日)条に記されている。浄華院における法事の後に境内にて、「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事が確認されている。そこでは、竹で枠を作り、火で薄や桔梗、仙翁花、水車などの形を表現したもの、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るもの、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛ぶもの、などが披露されたという。時房は「希代之火術也」と賞賛し、褒美を与えている。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "この時代は足利義満の死後途絶えていた日明貿易が足利義教によって再開されており、花火も大陸から持ち込まれていたとも考えられる。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "少なくとも戦国時代には鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火が伝来したとされている。まもなく日本でも花火が製造されるようになったとされているが、以後もキリスト教宣教師や「唐人」といった外国人の手による花火の記録が多く見られる。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "1582年4月14日(天正10年3月22日)にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録(『イエズス会日本年報』『フロイス日本史』)は、大友宗麟が花火を活用して聖週間の祭儀をキリシタンを増やすための盛大な公開イベントとしたものである。聖土曜日の夜から翌明け方までの復活徹夜祭では、三つの城楼から花火細工が出て来る仕掛けが、三千もの提燈(教会堂や日本の物語を象った夜高行燈)の行列に豪華さを加えた。さらに数々の花火が「空中で実にさまざまな形となった」ので人々は皆立ち止まって花火見物をした。そして真夜中には教会堂も中庭も広場も立錐の余地もない人込みとなった。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "外国人による花火の技術を学び日本でも独自に花火が作られたと考えられるが、その最初はよくわかっていない。1585年に、現在の栃木県栃木市で、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという説もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。",
"title": "花火の歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "太田牛一著『信長公記』巻十四に見える1581年2月18日(天正9年正月15日)のところに「御爆竹の事」に見える「御爆竹」を花火の爆竹であるとし、安土城下で爆竹(花火の一種)の製作されたと考える説もあるが、これは竹を燃やして音を立てる小正月の催しの一つとして少なくとも鎌倉時代から行なわれているものであり、火薬を使用した花火であったかどうかは即断できない。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "ただし、この頃には鉄砲に使用する需要から火薬の大量生産が行なわれるようになって、日本独自の花火の製作も行われていたことであろう。",
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"text": "戦国時代から江戸時代初期にかけて「花火見物」が行われたとする記録としては、伊達政宗が居城の米沢城で、1589年8月17日(天正17年7月7日)夜、「大唐人」による花火を見物したというもの(『貞山公治家記録』『伊達天正日記』など)、1613年8月に徳川家康が駿府城で英国使節ジョン・セーリスと謁見した際、同行した明の商人から火の粉が筒から吹き出るような形状の花火を見せられたという記事(『駿府政事録』『宮中秘策』『武徳編年集成』)などがある(但し政宗の記事は元禄頃の編纂資料によるものであり、家康の記事と酷似するなど問題が指摘されている)。",
"title": "花火の歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。徳川発祥の地である、岡崎を中心とした三河地方(現在の愛知県東部)は江戸時代、徳川幕府によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた。そのような歴史もあり花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにした。その名残か、現在においても三河とその東隣の遠州地方(現在の静岡県西部)周辺は全国的にみて煙火の製造業や問屋が多く集積している。",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。1712年頃出版された絵入り百科事典『和漢三才図会』(寺島良安著)には、鼠花火、狼煙花火などが紹介されている。",
"title": "花火の歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "花火禁止令が慶安元年(1648年)、寛文5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも出され、江戸中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。打ち上げ事故が起き、禁令が出されるということを繰り返したとされている。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。",
"title": "花火の歴史"
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"text": "鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(吉野郡、後に奈良県五條市)出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出した。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている(2018年時点で15代目)。その後、大型花火の研究を進め、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。",
"title": "花火の歴史"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "なお、隅田川川開きの花火の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。",
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"text": "しかし、このエピソードは、明治中期から昭和初期にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり、1730年代に流行したというのは事実に反する。詳細は「隅田川花火大会」を参照。",
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"paragraph_id": 41,
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"text": "鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをして、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出された。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という狂歌や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる。しかし1843年5月16日(天保14年4月17日)、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動があった。当時、失火は重罪と定められており、また偶然ながら将軍徳川家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった。",
"title": "花火の歴史"
},
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。また仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得て、見物人が大挙押しかけ、江戸藩邸近くの萬年橋の欄干が折れるという事故まで発生している。武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なった。この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術である。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年 - 2002年)によれば、打揚花火は、1751年に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、2013年時点では打ち揚げ専業業者となっている。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった九州と、長野県、愛知県などでは、江戸時代から花火が作られていた。特に、三河国岡崎地方(愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制が緩やかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。2013年現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の日本国内での花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多い。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパで18~19世紀に化学の発展によって新しい化合物が合成され、それらを原材料にした「西洋花火」が明治元年(1868年)に日本に初めて輸入された。",
"title": "花火の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで炭火色といわれる橙色の強弱のみで表現されていた花火に新たな色彩が加わったばかりか明るさも大きく変化した。これらの物質の輸入開始は1879年から1887年にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある。",
"title": "花火の歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代である。特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となった。",
"title": "花火の歴史"
},
{
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"text": "多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の祝賀行事で、皇居の二重橋から打ち揚げたものである。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "大正期には発光剤としてのマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになった。また塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった。また青木儀作や廣岡幸太郎などの名花火師が登場したのも大正期である。",
"title": "花火の歴史"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このように順調に技術を発展させていった花火であるが、昭和に入り、日中戦争など戦火が拡大する世界情勢下で、停滞期を迎えることになる。花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税がかけられたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていた。しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止となった。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒(焼夷弾の音を再現する)を製造していた。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "第二次世界大戦敗戦後は1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられるが、翌10月に連合国軍総司令部(GHQ)により火薬製造が禁じられた。しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ、戦後初の花火大会として1946年8月10日、岐阜市の長良川河畔で全国煙火大会(後に全国花火大会となる)、9月29日と30日に茨城県土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(後に土浦全国花火競技大会となる)、1947年の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われた。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可。これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活した。この時は打ち揚げ許可量僅か600発であったが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があった(『両国川開年表』)。",
"title": "花火の歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、2013年時点では中国からの輸入量の方が多く、輸出は激減している。多くの花火業者は、2013年時点でも地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。",
"title": "花火の歴史"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本では、夏の夜の風物詩とされている。一部の自治体では大規模な花火の打ち揚げを「花火大会」と称して行っている。花火大会の大半の開催時期は7、8月に集中している。",
"title": "花火と文化"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "主に歴史のある花火を紹介する。この中には手筒花火の様に地方公演も行うなど地域交流の1つともなっているものもある。",
"title": "花火と文化"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本の花火大会一覧を参照。",
"title": "花火と文化"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "戦後、花火が解禁された1948年8月1日の記念に、東京本所厩橋で大規模な花火爆発事故の起きた1955年8月1日の追悼、世界最大ともいわれる教祖祭PL花火芸術の開催日8月1日の記念を兼ね、花火の日が8月1日に制定された(1967年制定)。このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、5月28日も花火の日となっている。",
"title": "花火と文化"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "サプライズ花火は事前に予告せずに打ち上げる花火である。シークレット花火ともいう。新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、密集を避けるため等の理由から人気が高まっている。",
"title": "花火と文化"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "花火の取り扱いには国ごとに法規制がある。がん具としての花火にも文化により法規制に違いがある。国によっては花火の爆音が銃声と混同されかねないことから、記念日以外は花火の使用を禁止していることもある。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "火薬類取締法による規制がある。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "消防法では危険物の扱いを受ける。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "航空法により、打ち上げる花火が到達する空域によっては、打ち上げが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある(制限表面も参照)。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本の「がん具煙火」に相当する物は「consumer fireworks」(消費者向け花火、花火師が上げる物はprofessional fireworksと呼ばれる)と呼ばれる。それらの取り扱い(購入、所持、消費)には、州ごとに年齢制限(多くの州は16歳)があり、消費も年末年始や独立記念日前後に限られている場合が多い。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "パーティー用クラッカーなど一部の品目を除き購入や消費に制限がある。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "パーティー用花火(party popper)やクラッカーボール(throwdown)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "手持ちスパークラー(handheld sparklers)やパーティー用花火(party popper)、噴水(ice fountain)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "がん具煙火の購入や所持には年齢制限(満16歳)があるが消費に許可は不要。",
"title": "花火の法規制"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "花火により、重金属の残留物、硫黄化合物、粒子状物質、その他の低濃度の毒性物質などを含有する煤煙が生じる。 これらの燃焼による副生成物は、原材料の混合の仕方により大きく異なってくる。 (例えば、バリウム塩を加えることで、花火の緑色を出すことがある。これらの物質には毒性のあるものも含まれる。)",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "また花火は過塩素酸塩の排出源にもなっているとされてきた。 アメリカ合衆国環境保護庁のリチャード・ウィルキンらは、環境中の過塩素酸塩による人体や野生動物への影響を念頭に置いて、水域上空での花火類の使用についての研究を行った。 過塩素酸塩の排出源は雷や特定の化学肥料からロケット燃料や爆発物中に含まれるものまで多岐にわたる。 科学者らは長年の間、地域の花火大会がもう一つの排出源となっているのではないかと疑ってきたが、ほとんど研究がなされていなかった。 ウィルキンの研究グループは2004年、2005年、2006年に花火大会の前後にオクラホマ州にある湖の水を分析することで、花火が過塩素酸塩汚染の原因の一つであることを立証した。 花火大会から14時間以内に、過塩素酸塩の濃度はバックグラウンド濃度の24倍から1,028倍へと上昇した。 24時間後に濃度は最大となり、20日から80日後には大会前の水準へと落ち着いた。",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "過塩素酸塩は固体塩の一種であり、地下水や表流水に容易に溶解し移動する。 過塩素酸塩が飲料水に混じっていると甲状腺のヨウ素の取り込みが阻害されることが知られている。 連邦全体での飲料水の基準は現在存在しないものの、いくつかの州では公衆衛生の目標や対策レベルを既に設定しており、最大基準値を確立しようしている州もある。 たとえば、アメリカ合衆国環境保護庁では飲料水と同様に環境への過塩素酸塩による影響が研究されている 。 またカリフォルニア州は過塩素酸塩使用に関する指針を発行した。",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "花火からの汚染物質は健康リスクについての懸念を招く。 大多数の人について長期にわたり多数の排出源からの低レベルの毒物へ暴露した場合の影響というのはよく分かってない。 一方でぜんそく患者や多種類化学物質過敏症の患者にとっては、花火からの煙が疾患を悪化させる可能性がある。",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "マサチューセッツ州を含む複数の州は過塩素酸塩についての飲料水の基準を立法化してきた。 カリフォルニア州議会では2003年に過塩素酸塩汚染防止法(AB 826)が制定された。 この法律ではカリフォルニア州有害物質規制局(DTSC)に対して過塩素酸塩および過塩素酸塩の含有物質についての最適な管理方法を示す規制を採択するよう求めた。 この管理方法は2005年12月31日に採択され、2006年7月1日に施行された 。 またカリフォルニア州は飲料水の基準を2007年に制定した。 アリゾナ州、メリーランド州、ネバダ州、ニューメキシコ州、ニューヨーク州、テキサス州を含む複数の州では、強制性のない勧告基準を制定した。",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "司法もまた過塩素酸塩汚染に関連した判決も下してきた。 例えば、2003年にカリフォルニア州の連邦地方裁判所は、過塩素酸塩は発火性であり「特徴的に」有害な廃棄物であるを理由に、包括的環境対処・補償・責任法(英語版)の適用を決定した。",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "中国の製造業者と協力し、汚染物質である過塩素酸塩を低減し、究極的には除去しようとしていると主張する米国企業も存在する。",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "インドでは都市部を中心に大気汚染が深刻化している中で、ヒンドゥー教の祭日であるディーワーリーの時期に鳴らされる爆竹が汚染レベルの悪化に拍車を掛ける傾向が見られた。2017年、インド最高裁判所は、ディーワーリ前後の期間の爆竹販売を禁止した",
"title": "花火による環境汚染"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "花火の事故としては、花火工場における製造過程での事故と花火大会における実演時の事故とに大きく分けられる。花火大会における事故は、花火の危険性だけでなく、群集事故など多くの観客が集まるために起こりうる事故を防ぐために事前にさまざまな予防措置が運営側によって施されるようになっているが、まだまだ防ぎ切れていない。また、家庭で行なわれる花火でも、火薬の危険性を十分認識していない児童が遊戯の主体であるため、取り扱い時の不注意や、ふざけて人、動物、物に向けるなど危険な行為を行なうことによって、事故を起こしがちである。また、遊戯後の火の不始末による火災の危険性もある。",
"title": "花火の事故"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "家庭、公園等の個人で花火をする時は、バケツなどに水を汲むなどしていつでも消火できる環境にして遊び、燃え尽きた後の花火はきちんと水で消火を行い、十分に鎮火したことを確認したあと処理すること。また、小さい子供だけ等の成人した管理者が不在ので花火をするのは避けること。不発の花火(特に打ち上げ花火のものは「黒玉」と呼称される)には再発火や爆発の危険があり、水に漬けるなどの処置が必要となるので放置、管理を行う。",
"title": "花火の事故"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "従来から花火の事故は多くあったが、統計が残っているのは1950年代ごろからである。1950年代から1960年代にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10人以上の死者が出ていた時代もあった。多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものだったが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなった。ただし、安全な種類の火薬を用い、保管量を守れば、そのような事故の大部分は防げたはずだという主張もある。",
"title": "花火の事故"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "野球で両チームが本塁打を打ち合い、点の取り合いになる状況を「花火大会」と形容する。この場合、冒頭に球場名が付く事もある。",
"title": "比喩表現"
}
] |
花火(はなび、煙火)は、火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付けて、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。原則として野外で使用するのが一般的である。 花火の光・色彩・煙を発生させる火薬の部分を星(ほし)という。多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火(蛇玉)、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、祝砲の代わりにも使われる。 英語では、fireworksという。近年は「華火」の字を当て字として使用している例も稀にある。
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{{Otheruses}}
{{Dablink|「'''打上花火'''」と「'''打ち上げ花火'''」はこの項目へ[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。その他の用法については「[[打上花火 (曖昧さ回避)]]」をご覧ください。}}
{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{脚注の不足|date=2018年8月}}
[[ファイル:Itabashi Hanabi Taikai Zenkei 1.jpg|thumb|300px|[[いたばし花火大会]]]]
[[ファイル:Suwa-ko firework 20080815 02.jpg|thumb|200px|[[諏訪湖祭湖上花火大会]]]]
[[ファイル:Nagaoka Festival Fireworks 2015 36 inches shell Fireworks 3 Barrage.webm|thumb|200px|thumbtime=0:27|動画:[[長岡まつり]]大花火大会「正三尺玉3連発」]]
'''花火'''(はなび、煙火)は、[[火薬]]と[[金属粉|金属の粉末]]を混ぜて包んだもので、火を付けて、[[燃焼]]・[[爆発|破裂]]時の音や[[火花]]の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の[[炎色反応]]を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。原則として野外で使用するのが一般的である。<ref>{{Cite web|和書|url=http://japan-fireworks.com/basics/shikumi.html |title=日本の花火の3つの仕組み |access-date=2023/07/15}}</ref>
花火の光・色彩・[[煙]]を発生させる火薬の部分を'''星'''(ほし)という<ref name="入門11">{{Cite book |和書 |author=日本煙火協会 |year=2017 |title=花火入門 平成28年版 |page=11 }}</ref>。多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火([[蛇玉]])、[[パラシュート]]花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、[[祝砲]]の代わりにも使われる。
[[英語]]では、{{En|[[:en:fireworks|fireworks]]}}という。近年は「華火」の字を[[当て字]]として使用している例も稀にある。<ref>{{Cite web|和書|title=“華火”の読み方と例文|ふりがな文庫 |url=http://furigana.info/w/%E8%8F%AF%E7%81%AB |website=furigana.info |access-date=2023-07-15 |language=ja |last=ふりがな文庫}}</ref>
{{TOC limit}}
{{clear}}
== 花火の種類 ==
[[ファイル:Takino_natsumatsuri_hanabi_20040828.jpg|thumb|200px|[[兵庫県]][[滝野町]]夏祭り]]
花火(広義の煙火)は、打揚花火や仕掛花火など「[[玩具|がん具]]煙火以外の煙火」と「がん具煙火」に大別できる<ref name="metro">{{Cite web|和書|url=https://www.kankyo.metro.tokyo.jp/safety/powder/attachement/enkatebiki201103.pdf |title=火薬類(煙火)消費許可申請の手引 |publisher=東京都環境局 |accessdate=2017-04-13 |page=63}}</ref>。
* がん具煙火以外の煙火
** 信号又は観賞用の煙火
*** 打揚煙火(打上花火、打揚花火)
*** 仕掛煙火(仕掛花火)
** その他の煙火
**: 競技用紙[[雷管]]、[[発煙筒]]、照明筒、鳥獣駆逐用煙火などが分類される<ref name="metro" />。
* がん具煙火(おもちゃ花火)
*: なお、日本では、がん具として用いられる煙火のほか、発煙火工品や自動車保安炎筒([[発炎筒]])など法令の適用上がん具に指定されている煙火もこれに分類する<ref name="powdercontrol_law">{{Cite web|和書
| last =
| first =
| author =
| authorlink =
| url = https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325M50000400088#Mp-At_1_5
| title = 火薬類取締法施行規則(昭和二十五年通商産業省令第八十八号) 第一条の五
| date = 2017-04-01
| website = e-Gov法令検索
| publisher =
| format =
| doi =
| accessdate = 2021-08-11 }}</ref><ref name="metro" />。
=== 消費方法による分類 ===
信号又は観賞用の煙火は消費方法によって打揚煙火(打上花火、打揚花火)と仕掛煙火(仕掛花火)に分類される<ref name="metro" />。
==== 打上花火(打揚花火) ====
[[File:2012年隅田川花火大会.jpg|thumb|225px|[[隅田川花火大会]]]]
[[ファイル:Kagoshima-shi-japan- hanabi-001.jpg|thumbnail|225px|[[鹿児島市]]、かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会]]
[[ファイル:Rainbow Bridge (Tokyo) - Fireworks 4.JPG|thumbnail|225px|[[お台場レインボー花火]]]]
[[ファイル:Fireworks in Sakura Chiba.jpg|thumb|[[佐倉市|佐倉]]の花火]]
[[File:Fogos durante a abertura de Tóquio 2020.jpg|thumb|225px|[[2020年東京オリンピックの開会式]]で打ち上げられた花火]]
火薬を球状に成形した「星」を詰めた紙製の球体「玉」(煙火玉)を打ち上げる花火である。上方を向いた円筒の底に発射薬を敷きその上に玉を置き打ち上げに備える。打ち揚げは「投げ込み」と呼ぶ火種を円筒上方の射出口から投げ入れて発射薬に点火する。打ち上げと同時に玉から出ている[[導火線]]に引火し、玉は所定の高さまで上昇しながら導火線が燃え玉内部の割火薬に到達し玉が破裂し星に引火・飛散する。玉の大きさ(花火の高さ)によって発射薬の量と導火線の長さが調整・選定される。玉の破裂後、星には光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど、様々なタイプがある。玉の内部に星を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。
<gallery>
ファイル:Nagaoka Station Fireworks launch tube 20041114.jpg|[[長岡駅]]前に展示されている花火打ち上げ筒
ファイル:2006 Ojiya Festival 042 Edit.jpg|[[おぢやまつり]]の花火
ファイル:San_Diego_Fireworks.jpg|[[サンディエゴ]]での[[独立記念日 (アメリカ合衆国)|アメリカ独立記念日]]の花火
</gallery>
==== 仕掛花火 ====
[[ファイル:20140729 Ichijima-Kawasuso Matsuri 市島川裾祭花火(丹波市市島町)竹田川DSCF0621.JPG|thumb|240px|right|市島[[川裾祭]]のナイアガラ([[丹波市]][[市島町]])[[竹田川 (兵庫県・京都府)|竹田川]]]]
[[ファイル:Nagaoka Festival Fireworks 2015 Extra Large Miracle Starmine 20150803.webm|thumb|240px|thumbtime=1:32|動画:[[長岡まつり]]大花火大会「超大型ミラクルスターマイン」]]
複数の花火を利用するなど作為的に仕掛けを施した花火。
* {{Anchors|スターマイン}}スターマイン(速射連発)<ref name="metro" />
*: 煙火玉や、星、笛等を順序よく配置し、速火線で連結し、高速で次々と連続して打ち上げるもの。枠仕掛けの最後に裏打ちとして使用されることもある。主に2号玉(約6cm)から4号玉(約14cm)の玉が用いられる。これらの制御に[[パソコン]]や電子式[[継電器|リレー]]を多用しているものは「デジタルスターマイン」などと呼ぶことがある。
* 枠仕掛<ref name="metro" />
*: [[速火線]]で連結した[[焔管]](えんかん)を、木や鉄パイプ等で文字や絵を型どった枠上に並べて配置し、点火によって焔管が一斉に[[燃焼]]することにより、数分程度[[文字]]や[[絵]]を浮かび上がらせるもの。
* {{Anchors|綱仕掛}}綱仕掛<ref name="metro" />(ナイアガラ)
*: 速火線で連結した焔管を数から数十メートルに渡り一列に吊し、点火によって焔管から火の粉が一斉に流れ落ちるもの。一部花火大会では2000mに及ぶものも存在する。[[ナイアガラ滝]]から。
* 水中仕掛<ref name="metro" />
* 立火仕掛<ref name="metro" />
*: 星や火の粉を筒から放出・噴出させるもの<ref name="metro" />。手持ちや抱えたまま噴出させるものは「手筒」という。
* 車花火<ref name="metro" />
*: 円盤等の周りに火薬を詰めた筒を配置し、火薬の噴射推進力により円盤を回転させ、火の粉を円状に噴出させるもの。
<gallery>
ファイル:Feuerwerk Ruhrort 3.jpg|ナイアガラ(綱仕掛) ドイツの[[デュースブルク]]市、2004年
ファイル:2006 Ojiya Festival 036.jpg|スターマイン
ファイル:大淀祇園祭・仕掛け花火.JPG|枠仕掛([[三重県]]・[[大淀祇園祭]])
</gallery>
=== 構造性能による分類 ===
信号又は観賞用の煙火は構造や性能によって煙火玉(花火玉)と煙火玉以外の煙火に分類される<ref name="metro" />。
==== 煙火玉(花火玉) ====
打上花火の主流は、打ち上げ時に光が同心円状に広がるものが多く、玉そのものの形も球形をしている。これに対し、初期の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形のものが多かった。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたと言われるが、[[明治]]期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。
伝統的に打上花火の「玉」の大きさは[[寸]]、[[尺]]で表される。直径約6.06cmの二寸玉(2号玉)から直径約60.6cmの二尺玉(20号玉)、さらに三尺玉(30号玉)、[[正四尺玉|四尺玉]](40号玉)まである。二尺玉は直径約500m程度、世界最大といわれている四尺玉は直径約800m程度まで広がる。ただし、この号数表記は打ち揚げ筒(内側)の太さであって、実際の花火玉の直径はこれよりも若干小さくなる。具体的には、20号玉の直径は60cmではなく約57cmである。また、最近{{いつ|date=2013年8月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->開発された世界最小の打ち上げ花火は、玉の直径1cm、打ちあげる距離は2m。ただし、まだ開発段階のため、実用化。
『[[世界の果てまでイッテQ!]]』の企画で、開花時の直径が推定1kmになる花火玉(四尺三寸大千輪)を作り、打ち揚げた。しかし、花火玉自体が重過ぎたために上昇せず水中で爆発、失敗に終わった。
煙火玉(花火玉)は割物とぽか物に分類される<ref name="metro" />。
* 割物
*: 星の部分を割火薬で球状に飛散させ開かせるもの<ref name="metro" /><ref name="入門11" />。中でも星が[[キク|菊]]の花のように尾を引いて広がるものを「菊物」、尾を引かないものを[[牡丹]]に喩えて「ボタン物」とよぶ。また、二重の球状に広がるものを「芯物」という。
*: 割物の変形で[[土星]]などの形に星が飛散するものを「型物」という。
* ぽか物
*: 空中で[[くす玉]]のように割れて部品が飛び出るもの。
** 音物
**: 俗に「のろし」「合図花火」等と呼ばれているもの。運動会など様々なイベントの開催の合図に使用されている。3回連続で音が鳴る「3段雷」と5回鳴る「5段雷」が主に使われている。
** 袋物・吊物など
**: 和紙など薄紙で袋状に作った人形や、パラシュートに吊った煙玉・旗などがゆっくりと落ちてくる昼花火。特定条件下以外の打ち上げが禁止されている。「袋物」は花火師の平山甚太が1883年にアメリカで特許を取得しているが、これが日本人がアメリカで取得した初の特許である<ref>{{Cite news|date=2013-10-14|newspaper=神奈川新聞|title=明治期の花火が横浜に里帰り、オランダ在住の男性が開港資料館に寄贈 専門家「現存、珍しい」/横浜|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131014173307/http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1310140003/|url=http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1310140003/|publisher=カナロコ|accessdate=2013-10-14|archivedate=2013-10-14}}</ref>。
代表的な打上花火である「割物」の鑑賞のポイントとして以下のようなものがある。
*玉の座りがしっかりしているか。玉が昇りつめた点で開いていることを「玉の座りがしっかりしている」という。きれいに広がるための重要なポイントである。
*盆が取れているか。星が盆のように真ん丸に見えているか。
*消え口が揃っているか。星の色が一斉に変化し、一斉に消えているかである。ただし、わざと消え口をずらしている花火もある。
*星がまんべんなく広がり、歯抜けになっていないか。
*星の発色が良く、はっきりとした色が出ているか。さらに、星をどのように配色するかは花火師の個性が発揮される重要なポイントである。
煙火玉はスターマインなどの仕掛花火にも用いる<ref name="metro" />。
==== 煙火玉(花火玉)以外の煙火 ====
流星(龍勢)のように星を打ち出すロケット花火や、火の粉等を噴出させる手筒花火などである<ref name="metro" /><ref name="入門24">{{Cite book |和書 |author=日本煙火協会 |year=2017 |title=花火入門 平成28年版 |page=24 }}</ref>。
=== おもちゃ花火 ===
<!-- この節の花火それぞれに対して、画像提供が求められています。-->
[[ファイル:Small fireworks.jpg|thumb|220px|[[駄菓子屋]]で売られている玩具花火 ([[三崎 (三浦市)|三浦市]]にて)]]
かつては玩具花火とも呼ばれたが、日本煙火協会での表記はこちらに統一されている<ref group="注">[[火薬類取締法]]、および火薬類取締法施行規則では「がん具煙火」と表記する。</ref>。購入や使用に免許が不要な花火の総称で、[[線香花火]]のような手で持つものが代表的なものであるが、小型ではあっても打上花火になっていて、筒があって上空で破裂するものも存在する。日本では日本煙火協会が出荷品の検査を行っており、合格したものには「SFマーク」がつけられる。
火薬量の制限は、花火の種類により異なるが、最高でも15グラム以下となっている<ref name="fireworks_introduction2021">{{Cite web|和書
| last =
| first =
| author =
| authorlink =
| url = http://www.hanabi-jpa.jp/booklet2021/html5.html
| title = 令和3年夏 花火入門
| date =
| website = 日本煙火協会
| publisher =
| format =
| doi =
| accessdate = 2021-07-21 }}</ref><ref group="注">火薬類取締法施行規則で、広義のおもちゃ花火である「緊急保安炎筒」([[発炎筒]])、「[[モデルロケット|模型ロケット]]に用いられる噴射推進器」、「内容物盗用防止装置付きかばんに用いられる発煙火工品」は、これより多量の火薬使用が認められている。最も火薬を使えるのは、発炎筒の150グラムである。</ref>。おもちゃ花火であっても、束ねて使う場合はおもちゃ花火とは見なされず、煙火(届出・免許が必要な花火)としての届出が必要になる<ref>{{Cite web|和書
| last =
| first =
| author =
| authorlink =
| url = http://ota-hanabi.net/gangu3-5.htm
| title = 連発花火
| date =
| website = 太田煙火製造所
| publisher =
| format =
| doi =
| accessdate = 2021-07-21 }}</ref><ref>{{Cite web|和書
| last =
| first =
| author = ピーターBaN
| authorlink =
| url = https://www.youtube.com/watch?v=yw4-cAOSakE
| title = コンビニで売ってる花火だけでロケットランチャーをつくったらとんでもない事になったw
| date = 2018-08-12
| website = YouTube
| publisher = ピーターBaN TV
| format =
| doi =
| accessdate = 2021-07-21 }}</ref>。
[[ファイル:手持ち玩具花火.JPG|thumb|手持ち玩具花火。ホームセンターなどで手軽に入手可能。]]
おもちゃ屋などで単品で発売されることも多いが、大抵は一つの種類の数本入りから複数種類の花火100本くらいを詰め合わせにしたものが、晩春から初秋にかけて[[スーパーマーケット]]や[[ホームセンター]]、[[駄菓子屋]]などで売られている。
[[帰省]]や[[旅行]]の際、旅先で使うために出発前に購入したり、使い切れなかった花火を自宅に持ち帰ったりすることがあるが、花火を携行して交通機関を利用する場合、持ち込みに禁止や制限があるので注意を要する。[[旅客機|航空機]]を利用して旅行する場合、安全上の理由から少量であっても機内への持込みも受託手荷物の取り扱いも出来ない<ref>[http://www.jal.com/ja/flight/safety/airport/baggage.html おあずけ・機内へのお持込に制限がある手荷物 | 安全・運航情報 | JAL企業サイト] - 日本航空</ref><ref>[http://www.ana.co.jp/domestic/prepare/baggage/index.html?menu=caution-restriction ANA 手荷物[国内線]制限のある手荷物(機内持ち込み・お預かりできないもの)]- 全日本空輸</ref>。列車・バスを利用する場合、少量の持ち込みはできるが、持ち込める量に制限がある{{Refnest|たとえば[[東海旅客鉄道|JR東海]]では、旅客営業規則にて列車に持ち込めない危険品を定めており、適用除外の物品に「がん具煙火、競技用紙雷管及びその他のがん具用軽火工品で、容器・荷造ともの重量が1キログラム以内のもの。」とあり、これを上回る量は持ち込めない<ref>{{PDFlink|[http://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/cjr-regulation/_pdf/000021424.pdf 東海旅客鉄道株式会社旅客営業規則 別表第4号]}}</ref>。他の鉄道事業者でも類似する規則をそれぞれ定めている。バスの場合は、旅客自動車運送事業運輸規則により100グラムを超える量の持ち込みを禁じている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=331M50000800044 旅客自動車運送事業運輸規則]第52条2項</ref>。|group="注"}}。また、[[宅配便]]での発送はできない<ref>[http://www.kuronekoyamato.co.jp/qa/03.html Q04.宅急便で送れない品物はどんなものがあるのですか?] - ヤマト運輸</ref><ref>[https://www.post.japanpost.jp/question/353.html 花火はゆうパックで送れますか?] - 日本郵便</ref>。
; [[ヘビ花火]]
: 火薬量5グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。「ヘビ玉(法令上は「へび玉」)」ともいい、地方によって名称の違いあり。色は黒。
: 後述のネズミ花火と同じく、生物名が付いた花火として知られる。
: 円形の炭状の火薬に火を点けると煙と共に燃えカスが[[ヘビ]]のような形状に伸びていく構造の花火。普通の花火とは異なり、色鮮やかな色の火花は出ず、煙しか出ない。このため、昼花火の一種に入れられることもある。
; ネズミ花火
: 火薬量1グラム以下。または、火薬量0.9グラム以下かつ爆薬0.1グラム以下<ref name="fireworks_introduction2021" />。炎を吹き出すタイプのひも状の花火を、円形に組んだもの。1929年創業の[[筒井時正玩具花火製造所]]の初代・[[筒井時正]]が考案<ref>[https://hitokoto-monokoto.jp/?post_type=interview&p=103 400年も形を変えずに残って来たスボ手牡丹の歴史も、うちが作るのをやめたら途絶えてしまう。 | ヒトコト・モノコト]</ref><ref>[https://www.harima.co.jp/legendary_technology/pdf/legendtech_no38.pdf 花火製造職人]</ref><ref>[https://www.ntv.co.jp/dash/contents/garage/takumi/03_tutui/index.html エンジニア]</ref>。火を点けて炎が吹き出すと重心に対して回転を与える向きの力がかかるため、地面に置かれた場合、高速に回転してその勢いで地面をはい回る。円形の炎がシュシュッと音を立ててはい回る様が[[ネズミ]]に喩えられたためにこの名がある。最後にパンとはじけるような仕掛けを施されたものが一般的。最近{{いつ|date=2013年8月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->は使い方が分からない人が多く、やけどをする人も珍しくないようである。
; コマ花火
: ネズミ花火の応用型で、本体が[[独楽]](こま)状になっている。ネズミ花火よりも高速に回転できるため、うなるような音を立てて地面上で回転する。
; トンボ花火
: コマ花火の応用系。双方向に噴射する本体の花火筒に二枚の紙羽根が付いており、表面を上にして平らな場所に置いて打ち上げる。二か所からの噴射力によって高速回転を行い、風を受けた紙羽根によって揚力を得て高速で錐揉み上昇する。上昇時に二段階で急上昇する特徴がある。日中でも使えるため、昼花火の一種に入れられることもある。
; UFO花火
: トンボ花火からの派生花火。扇風機の様な小型のフィンがついているため回転と同時にフィンに風を受け上昇する。平らな所に置かないと予想しない方向に飛んだりするので、注意が必要。日中でも使えるものもあり、昼花火の一種に入れられることもある。
[[ファイル:線香花火, 2006-08-14.jpg|thumb|[[線香花火]]]]
; [[線香花火]]
: 火薬量は法律によれば0.5グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />とされているが、実際には0.06 - 0.08グラム程度である。こよりや細い竹ひごの先端に火薬を付けた花火。日本の夏の情緒を代表する花火である。火を付けると火薬が丸くなり、小さな火花を散らすようになる。燃え方に様々な名前が付いている。現在{{いつ|date=2013年8月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->でも開発が行われている。最も長く安定させて燃えさせるには45度の角度に傾けた方が良いとも言われている。
; ロケット花火
: 火薬量0.5グラム以下かつ爆薬(笛音薬)2グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。打ち揚げ式の花火。[[瓶]]などを発射台にする。打ち揚げ後破裂するものと破裂しないもの、曳光の有るもの無いものがある。破裂しない物の場合は打ち揚げ時の大きな音を出すように改良されているものが多い。燃えカスが回収できないという問題があるため、海岸での使用を禁止している自治体も存在する。
; こうもり花火
: 基本的にはロケット花火と変わらないが、[[コウモリ]]のような羽がついており、真上に急上昇、柄が無いなどの特徴がある。地方によって名称の違いあり。
; 単発打上げ
: 火薬量10グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。一般的な打上花火。筒物で数個または1個の星を1回打ち上げる。筒状の容器に火薬を仕込んであるが、一部は業務用の打上花火同様に、球形の丸玉に火薬を仕込んだ製品もある。
; 連発打上げ
: 火薬量15グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。「乱玉」とも。筒物(筒の内径1㎝以下)で、火を付けると複数の星が間欠的に飛び出す。筒1本あたり、5連発から30連発程度まである。発数が多い製品は、複数の筒が最初から仕込まれていて、総数で70連発程度まで実現している。
; パラシュート花火(袋物)
: 火薬量10グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。打上花火の一種で、昼花火の一種でもある。法令上は単発打上げと同一の扱い。上空で破裂した玉の中に袋が入っており、万国旗やパラシュートが降りてくる仕組み。おもちゃ花火で小さなものが若干生産されている。1931年に細谷火工(創業1906年。1990年にホソヤエンタープライズの名で花火部門が独立<ref>[http://www.hosoya-hanabi.co.jp/profile/index.html 会社概要]株式会社ホソヤエンタープライズ</ref>)によって製造されたものが始まりとされる。電線にひっかかるなどの障害が生じるため、打ち上げの際には注意が必要。
; 噴出花火
: 火薬量15グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。紙製の筒から火花を[[噴水]]のように吹き上げるもの。かつて一世を風靡した太田煙火製作所の「ドラゴン」が代表的な製品である<ref>{{Cite news |和書|title=中国に負けるな、再び燃えろ!国産ドラゴン 花火会社8年ぶり製造再開 |newspaper=産経WEST |date=2016-08-08 |url=https://www.sankei.com/west/news/160808/wst1608080014-n1.html |accessdate=2019-05-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://ota-hanabi.net/info.htm |title=(株)太田煙火製造所の商品紹介 |publisher=株式会社太田煙火製造所 |accessdate=2019-05-17}}</ref>。地面に置いて、導火線に点火して使う。手持ち用として小パイプほどの太さに改良されたものもあり、後述のススキに似る。
; ススキ(より物)
: 火薬量10グラム以下<ref name="powdercontrol_law" />。手持ち用。竹ひご・針金などの持ち手に、火花の出る紙製の筒を取り付けた物。「朝顔」など、地方によって名称の違いがある。
; 銀波(より物)
: 火薬量10グラム以下<ref name="powdercontrol_law" />。手持ちまたは吊り下げ用。糸に、火花の出る紙製の筒をぶら下げた物。複数個の銀波を、あらかじめ用意した台などに吊り下げて同時に点火することで、擬似的にナイアガラ花火を再現できる。このため、複数個セットが「ナイアガラ」などの名称で市販されている。
; スパークラー(ねり物)
: 火薬量10グラム以下。または、[[鉄]]粉を30%以上含んでいる火薬量15グラム以下<ref name="powdercontrol_law" />。手持ち用。竹ひご・針金などの持ち手に、火薬を直接塗り込んだもの。
; 絵型
: 火薬量10グラム以下<ref name="powdercontrol_law" />。手持ち用。厚紙製の持ち手に、パイプを取り付け、火薬を詰め込んだもので、パイプの先に点火して使う。パイプはプラスチック製のものが多いが、環境問題から紙製のものも増えている。
; [[爆竹]]
: 1本で火薬量1グラム以下かつ爆薬0.05グラム以下。また、20連発以下の制限もある<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。長さ数センチの小型の花火。多くの場合複数の爆竹が導火線によって結びつけられており連続して爆発するようになっている。花火としての歴史は古く、もっとも古い種類の花火とする説もある。中国系文化圏では、[[旧正月]]などを祝うために使われる。別名、ダイナマイト。
; [[クラッカー (パーティーグッズ)|クラッカー]]
: 爆薬量0.05グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。長さ10cm程度の小型花火。発破同様、音を楽しむ花火であるが発破とは異なり単体で使用する。導火線は無く、代わりに筒の先端に有る火薬が導火線の役目を果たしている。点火後5秒程度で破裂する。
; 煙花火(煙玉)
: 火薬量15グラム以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。球体をしたもの(玉の[[色]]はさまざま)。花火の一種。火をつけるとその名のとおり煙を吹く。殆どが色の付いた煙を出す。もっぱら花火の使われ方より、その特性から[[悪戯]]などに使われるのが非常に多い。地方によって名称の違いあり。
; [[癇癪玉]](かんしゃくだま)
: 爆薬量0.08グラム以下。また、直径1センチメートル以下、総重量1グラム以下の制限もある<ref name="powdercontrol_law" />。踏んだり、物に当てたりすると[[音]]がなる。[[スリングショット|パチンコ]]などで飛ばすことが多い。クラッカーボールと呼ぶ場合もある。
: これを大型化したものが、異常時に線路上にセットし、列車が通過すると爆音を発して緊急停止を促す[[信号雷管]]である。
; [[紙火薬]]
: 「平玉」は爆薬量0.01グラム以下。また、一粒の直径4.5ミリメートル以下、高さ1ミリメートル以下の制限もある。「巻玉」は爆薬量0.004グラム以下で、なおかつ一粒の直径3.7ミリメートル以下、高さ0.7ミリメートル以下<ref name="powdercontrol_law" /><ref name="fireworks_introduction2021" />。[[遊戯銃]]、あるいは陸上競技のスタート用のピストルなどに使用され、火薬部分に打撃が加わると発火し、火花と破裂音を放つ。小粒な火薬を赤い巻紙に等間隔で配置したものを'''巻玉火薬'''、ミシン目の入った赤色または黄色のシートにやや大きめの火薬を配置したものを'''平玉火薬'''と呼ぶ。大量にまとめて使われる危険性があるため、後述のキャップ火薬の普及により淘汰されつつある。
[[ファイル:Modelgun caps1.jpg|thumb|220px|キャップ火薬]]
; [[キャップ火薬]]
: 主に遊戯銃に使用される、[[プラスチック]]製のキャップに紙火薬同様の火薬を詰めたもの。過剰装てんなどのおそれがなく、紙火薬より取り扱いが容易かつ発火も確実である。特に[[モデルガン]]に使用されるものは、作動を確実にするために厳密に調整されており、価格も高い。種類は、直径5mmと7mmの2種類ある。
== 花火と炎色 ==
[[ファイル:ColorfulFireworks.png|thumb|300px|炎色反応を用いて多種多様な色を花火に持たせることができる(第352回[[筑後川花火大会]])]]
[[原子]]を[[励起]]した時に電子が外側の軌道に移り、元の軌道に戻る時に放出されるエネルギーに応じた色の光を放出する[[炎色反応]]および[[放射]]を利用している<ref>{{Cite journal |和書 |author=桜井弘 |title=化学が好きになる元素図鑑 |journal=[[ニュートン (雑誌)|Newton]] |volume=43 |issue=11 |publisher=ニュートンプレス |date=2023-11-07 |pages=28-29 |id={{JAN|4910070471135}}}}</ref>。添加される元素はアルカリ金属、アルカリ土類金属が多く用いられる。
*[[第1族元素]](アルカリ金属)
**[[リチウム]] - 深紅色、670 nm
**[[ナトリウム]] - 黄色、588 nm
**[[カリウム]] - 淡紫色、760 nm
*[[第2族元素]](アルカリ土類金属)
**[[カルシウム]] - 橙赤色
**[[ストロンチウム]] - 深赤色、460 nm
**[[バリウム]] - 黄緑色
*[[第11族元素]]
**[[銅]] - 青緑色、510 nm
*[[第13族元素]](土類金属)
**[[ホウ素]] - 黄緑色
*[[第15族元素]]
**[[リン]] - 淡青色、[[リン酸|リン酸イオン]]による反応
== 花火の歴史 ==
=== 中国 ===
花火の起源については諸説ある。一般的には花火のルーツは古代中国の[[狼煙]](のろし)とされ、煙による通信手段であり、火薬の技術の発達とともに花火が誕生することとなった<ref name="trace">{{Cite web |url=https://www.ntt-card.com/trace/vol16/special/index.shtml |title=Trace vol.16 |publisher=NTTファイナンス |accessdate=2017-04-13 |page=1}}</ref>。
21世紀の現代において、[[中華人民共和国]]は世界の花火生産量の9割を占めると推定されており、最大の輸出国である<ref name="日経産業20221101">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM1024A0Q2A011C2000000/【グローバルViews】中国の花火産業が活況:中小メーカー多く安全面課題]『[[日経産業新聞]]』2022年11月1日グローバル面(2022年11月4日閲覧)</ref>。「四大花火の里」と呼ばれる地域にメーカーが集積している([[江西省]][[万載県]]・[[上栗県]]と[[湖南省]][[瀏陽市]]・醴陵市)<ref name="日経産業20221101"/>。
=== ヨーロッパ ===
[[ヨーロッパ]]に伝わったのは[[13世紀]]以降で、初期のものは[[祝砲]]の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたりしたものだったと考えられる。ヨーロッパでの主な生産地は[[イタリア]]で、火薬と花火製造が盛んに行われた。
鑑賞用の花火は14世紀、イタリアの[[フィレンツェ]]に始まるとされ、[[キリスト教]]の祝祭で用いられる人形に口から火を吐く仕掛けのために用いられたとされている<ref name="trace" />。
[[16世紀]]になると[[イングランド]]で花火の技術が大きく進歩する。[[1532年]]、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、[[戴冠式]]や王室の[[結婚式]]、[[誕生日]]などで[[テムズ川]]で水上花火を楽しんだという記録がある。
さらに[[17世紀]]になると[[ポーランド]]や[[スウェーデン]]、[[デンマーク]]などに花火学校が設立され、体系的な知識を有す専門的な花火師集団が形成されていった<ref name="trace" />。イングランドの[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]はデンマークから技術者を招聘し、娘[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]の結婚式を花火で盛大に祝った。また[[1672年]]には[[ウリッジ兵器廠]]に花火研究所が設立され、[[1683年]]には花火に関するテキストが刊行されるなど、花火技術は漸次発展していった。
=== 日本 ===
[[ファイル:100 views edo 098.jpg|thumb|225px|歌川広重『[[名所江戸百景]]』に描かれた19世紀中頃の[[隅田川花火大会|両国花火]]。]]
日本における花火の最古の記録としては、[[室町時代]]の[[公家]][[万里小路時房]]の日記『[[建内記]](建聖院内府記)』[[1447年]][[5月5日]]([[文安]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]])条に記されている。[[清浄華院|浄華院]]における法事の後に[[境内]]にて、「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事が確認されている。そこでは、竹で枠を作り、火で[[ススキ|薄]]や[[キキョウ|桔梗]]、[[センノウ属|仙翁花]]、[[水車]]などの形を表現したもの、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るもの、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛ぶもの、などが披露されたという。時房は「希代之火術也」と賞賛し、褒美を与えている。
この時代は[[足利義満]]の死後途絶えていた[[日明貿易]]が[[足利義教]]によって再開されており、花火も大陸から持ち込まれていたとも考えられる。
少なくとも[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火が伝来したとされている<ref name="trace" />。まもなく日本でも花火が製造されるようになったとされているが、以後もキリスト教[[宣教師]]や「唐人」といった外国人の手による花火の記録が多く見られる。
[[1582年]][[4月14日]]([[天正]]10年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]])に[[ポルトガル]]人の[[イエズス会]][[宣教師]]が現在の[[大分県]][[臼杵市]]にあった[[聖堂]]で花火を使用したという記録(『イエズス会日本年報』『[[フロイス日本史]]』)は、[[大友義鎮|大友宗麟]]が花火を活用して[[受難週|聖週間]]の祭儀を[[キリシタン]]を増やすための盛大な公開イベントとしたものである。[[聖土曜日]]の夜から翌[[明け方]]までの[[復活祭|復活徹夜祭]]では、三つの[[楼閣|城楼]]から花火細工が出て来る仕掛けが、三千もの提燈([[教会堂]]や日本の[[物語]]を象った[[夜高行燈]])の行列に豪華さを加えた。さらに数々の花火が「[[空]]中で実にさまざまな形となった」ので人々は皆立ち止まって花火見物をした。そして[[真夜中]]には教会堂も[[中庭]]も[[広場]]も立錐の余地もない人込みとなった<ref>『フロイス日本史 8 [[豊後国|豊後]]篇2』(1[[昭和]]53年([[1978年]])[[12月20日]]発行/訳者:[[松田毅一]]、[[川崎桃太]] 発行所:[[中央公論新社|中央公論社]])19~23頁</ref>。
外国人による花火の技術を学び日本でも独自に花火が作られたと考えられるが、その最初はよくわかっていない。[[1585年]]に、現在の[[栃木県]][[栃木市]]で、[[皆川広照|皆川山城守]]と[[佐竹氏|佐竹衆]]が戦のなぐさみに花火を立てたという説もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。
[[太田牛一]]著『[[信長公記]]』巻十四に見える[[1581年]][[2月18日]](天正9年[[1月15日 (旧暦)|正月15日]])のところに「御[[爆竹]]の事」に見える「御[[爆竹]]」を花火の爆竹であるとし、[[安土城]]下で爆竹(花火の一種)の製作されたと考える説もあるが、これは竹を燃やして音を立てる[[小正月]]の催しの一つとして少なくとも[[鎌倉時代]]から行なわれているものであり、火薬を使用した花火であったかどうかは即断できない。
ただし、この頃には鉄砲に使用する需要から火薬の大量生産が行なわれるようになって、日本独自の花火の製作も行われていたことであろう。
戦国時代から[[江戸時代]]初期にかけて「花火見物」が行われたとする記録としては、[[伊達政宗]]が居城の[[米沢城]]で、[[1589年]][[8月17日]](天正17年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]])夜、「大唐人」による花火を見物したというもの(『貞山公治家記録』『伊達天正日記』など)、[[1613年]]8月に[[徳川家康]]が[[駿府城]]で英国使節[[ジョン・セーリス]]と謁見した際、同行した明の商人から火の粉が筒から吹き出るような形状の花火を見せられたという記事(『[[駿府政事録]]』『宮中秘策』『武徳編年集成』)などがある(但し政宗の記事は元禄頃の編纂資料によるものであり、家康の記事と酷似するなど問題が指摘されている)<ref name="trace" />。
==== 江戸時代 ====
江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。徳川発祥の地である、[[岡崎市|岡崎]]を中心とした[[三河国|三河地方]](現在の[[愛知県]]東部)は江戸時代、[[江戸幕府|徳川幕府]]によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた。そのような歴史もあり花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにした。その名残か、現在においても三河とその東隣の[[遠江国|遠州地方]](現在の[[静岡県]]西部)周辺は全国的にみて煙火の製造業や問屋が多く集積している。
[[1648年]]には[[江戸幕府|幕府]]が[[隅田川]]以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。[[1712年]]頃出版された絵入り[[百科事典]]『[[和漢三才図会]]』([[寺島良安]]著)には、鼠花火、狼煙花火<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|992482/223|和漢三才図会. 巻之1-20|format=EXTERNAL}}</ref>などが紹介されている。
花火禁止令が[[慶安]]元年(1648年)、[[寛文]]5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも出され、[[江戸]]中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。打ち上げ事故が起き、禁令が出されるということを繰り返したとされている。
2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火'''鍵屋'''であり、[[1659年]]に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。
鍵屋初代弥兵衛は[[大和国]]篠原([[吉野郡]]、後に[[奈良県]][[五條市]])出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に[[星 (花火)|星]]を入れた玩具花火を売り出した。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている(2018年時点で15代目)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO38080330S8A121C1TY5000/ 【Women & Work】技術も情熱も 家業 私が継ぐ/花火研究で博士号■経営工学学ぶ]『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年11月26日(女性面)2018年12月15日閲覧</ref>。その後、大型花火の研究を進め、[[1717年]]には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。
なお、[[隅田川花火大会|隅田川川開きの花火]]の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。
{{Quotation|[[1733年]]、[[畿内]]を中心に[[飢饉]]に見舞われ、江戸では[[コレラ]]が猛威を振るい多数の死者を出した暗い世相の中、将軍[[徳川吉宗|吉宗]]が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて20発前後の花火が披露された<ref name="trace" />。}}
しかし、このエピソードは、明治中期から昭和初期にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている<ref>福澤徹三「享保一八年隅田川川開開始説の形成過程」すみだ郷土文化資料館編『隅田川花火の三九〇年』(すみだ郷土文化資料館、2018年)186、192-193頁</ref>。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822([[文政]]5)年に[[西日本]]一帯で起きたのが最初であり<ref>『[[国史大辞典_(昭和時代)|国史大辞典]] 第6巻』(吉川弘文館、1985年)、コレラの項。</ref>、1730年代に流行したというのは事実に反する<ref>福澤徹三「享保一八年隅田川川開開始説の形成過程」すみだ郷土文化資料館編『隅田川花火の三九〇年』(すみだ郷土文化資料館、2018年)192頁</ref>。詳細は「[[隅田川花火大会]]」を参照。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが'''玉屋'''である。玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が[[1810年]]に[[のれん分け|暖簾分け]]をして、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである<ref>『江戸東京地名辞典』([[講談社学術文庫]])</ref>。
このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、[[両国橋]]を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった<ref name="trace" />。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出された{{Refnest|“打ち上がって、花が開き、それが落ちていくまで「たーーーまやーーー」と声を出し続けるのが本寸法だと言い伝えられている。[[享保]]18年(1733年)の両国での花火大会はわずか二十発程度だったという”<ref>『[[中日新聞]]』「中日春秋」(2014年7月28日)</ref>。|group="注"}}。当時の[[浮世絵]]を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という[[狂歌]]や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という[[川柳]]が残っていることからも、{{独自研究範囲|玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる|date=2023年7月}}。しかし[[1843年]][[5月16日]]([[天保]]14年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]])、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500[[坪]])ほどの町並みを焼くという騒動があった<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 3 |publisher=講談社 }}</ref>。当時、失火は重罪と定められており、また偶然ながら[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]の[[日光東照宮|東照宮]]参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は[[闕所]](財産没収)、市兵衛は江戸[[構 (刑罰)|お構い]](追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった<ref name="trivia" />。
当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、[[大名]]らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は'''武家花火'''と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった[[尾張藩]]、[[紀州藩]]、[[水戸藩]]の3つの[[徳川御三家]]の花火は'''御三家花火'''と呼ばれ、江戸[[町人]]らに人気があった。また仙台の伊達家の武家花火も、[[伊達政宗]]以来の豪放な藩風を反映させ、'''仙台河岸の花火'''として江戸町人の人気を得て、見物人が大挙押しかけ、[[江戸藩邸]]近くの[[萬年橋]]の[[欄干]]が折れるという事故まで発生している。武家花火は、戦に用いる[[信号弾]]のようなものが進化したもので、'''狼煙花火'''と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なった。この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術である。
日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦([[1921年]] - [[2002年]])によれば、打揚花火は、[[1751年]]に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。
鍵屋は[[第二次世界大戦]]期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、2013年時点では打ち揚げ専業業者となっている。
花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった[[九州]]と、[[長野県]]、愛知県などでは、江戸時代から花火が作られていた。特に、[[三河国]]岡崎地方(愛知県[[岡崎市]]付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制が緩やかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。2013年現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の日本国内での花火の主な産地は長野県、[[新潟県]]、[[秋田県]]、[[茨城県]]で、徳川家にゆかりのある地方が多い。
==== 明治時代以降 ====
[[File:Mikawa-Hanabi-1.jpg|thumb|260px|大正時代の花火工場(愛知県[[岡崎市]])]]
ヨーロッパで18~19世紀に化学の発展によって新しい化合物が合成され、それらを原材料にした「西洋花火」が[[明治]]元年([[1868年]])に日本に初めて輸入された。<ref>{{Cite book|author=岡田登 |year=1995 |title=イタリア初期の花火と日本への伝流 }}</ref>
明治時代になると、海外から[[塩素酸カリウム]]、[[アルミニウム]]、[[マグネシウム]]、[[炭酸ストロンチウム]]、[[硝酸バリウム]]といった多くの薬品が輸入され、それまで炭火色といわれる橙色の強弱のみで表現されていた花火に新たな色彩が加わったばかりか明るさも大きく変化した<ref name="trace" />。これらの物質の輸入開始は[[1879年]]から[[1887年]]にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を'''和火'''、これ以後のものを'''洋火'''と言い分けることもある。
新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代である。特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となった。
多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、[[1889年]][[2月11日]]の[[大日本帝国憲法]]発布の祝賀行事で、[[皇居]]の[[二重橋]]から打ち揚げたものである。
それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、[[1910年]]に許可制となった。これ以前の地方の花火は、[[農家]]などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる。
[[大正]]期には発光剤としてのマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになった。また塩素酸カリウムに[[鶏冠石]]を混合した'''赤爆'''を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった。また[[青木儀作]]や[[廣岡幸太郎]]などの名花火師が登場したのも大正期である<ref name="trace" />。
このように順調に技術を発展させていった花火であるが、[[昭和]]に入り、[[日中戦争]]など戦火が拡大する世界情勢下で、停滞期を迎えることになる。花火製造は禁止はされないかわりに高い[[物品税]]がかけられたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、[[英霊]]を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていた。しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も[[1937年]]に中止となった。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒([[焼夷弾]]の音を再現する)を製造していた。
[[第二次世界大戦]]敗戦後は[[1945年]][[9月]]に[[長野市]]の[[諏訪神社]]で花火が揚げられるが、翌[[10月]]に[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ)により火薬製造が禁じられた。しかし、[[1946年]]7月4日には、各地の[[アメリカ軍]]基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ<ref name="trace" />、戦後初の花火大会として1946年8月10日、[[岐阜市]]の[[長良川]]河畔で全国煙火大会(後に全国花火大会となる)、[[9月29日]]と[[9月30日|30日]]に[[茨城県]][[土浦市]]で開催された第14回全国煙火競技大会(後に土浦全国花火競技大会となる)、[[1947年]]の新憲法施行記念で[[皇居前広場]](皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われた。
日本の花火製造業者の粘り強い説得により、[[1948年]]にはGHQが在庫花火の消費を許可。これを受け両国花火組合主催、[[読売新聞社]]が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年[[8月1日]]に復活した。この時は打ち揚げ許可量僅か600発であったが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があった(『両国川開年表』)。
敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、2013年時点では中国からの輸入量の方が多く、輸出は激減している。多くの花火業者は、2013年時点でも地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。
== 花火と文化 ==
=== 日本 ===
[[日本]]では、[[夏]]の夜の[[風物詩]]とされている。一部の自治体では大規模な花火の打ち揚げを「花火大会」と称して行っている。花火大会の大半の開催時期は7、8月に集中している。
==== 伝統花火 ====
主に歴史のある花火を紹介する。この中には手筒花火の様に地方公演も行うなど地域交流の1つともなっているものもある。
; 松下流綱火(茨城県[[つくばみらい市]])
: 別名を'''からくり人形仕掛花火'''ともいう。[[1603年]]、[[小張藩]]主となった[[松下重綱]]が戦勝祝いなど陣中で行ったのが始まりとされる。江戸時代になると火難除けと五穀豊穣を祈って愛宕神社に奉納するようになった。
: 小張松下流綱火は民族芸能の人形芝居と花火を組み合わせた珍しい行事である。高さ10m程度の柱を3本立て、3本の大綱を中心に綱を張り巡らし、人形を操作するための櫓を組み、お囃子に合わせて人形を操りながら仕掛け花火で人形の姿を照らすというものである。
: 上演外題は『[[源平盛衰記]]』や『[[桃太郎]]』、[[安珍・清姫伝説|安珍清姫日高川場]]などであり、お囃子も松下以外にも、[[巫女舞]]、繰こみ、[[三番叟|三番臾]]など外題(げだい)によって様々である。
: 人形は外題により上演ごとに[[藁]]を束ねたものを使用する。また仕掛け花火の火薬の調合は、[[1807年]]の文書『万華火本』が現存{{いつ|date=2013年8月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->しており、それに従った製法が守られている。
; 高岡流綱火(茨城県つくばみらい市)
: 「綱火」は、[[操り人形|あやつり人形]]と仕掛花火を結合させ、空中に張り巡らせた綱を操作し、お囃子に合わせて人形を操るもので、別名を'''あやつり人形仕掛花火'''とも言う。その歴史は古く、[[慶長|慶長年間]]から続いており、それを中止すると村内は不幸に見舞われると言われている。
: この綱火の起源について確かな記録は残っていないが、慶長年間の愛宕神社祭礼当日、黒蜘蛛と赤蜘蛛の空中での巣作りをみて、その動作から暗示を得て、藁で人形を作り、空中で演技をさせるようになったという。
: その後このあやつり人形にたいまつや提灯をつけるようになり、火薬の伝来とともに花火の製造技術を研究し、人形に取り付け神社に奉納し、村内の安全を祈願したといわれる。現在{{いつ|date=2013年8月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->は高岡地区に住む長男だけで組織される'''更進団'''により伝統が守られている。
; 秩父龍勢花火(埼玉県[[秩父市]])
: 天正年間に始まったといわれる秩父市下吉田、[[椋神社]]秋の大祭に奉納される手造りの花火。長さ約15mのロケット花火が300 - 500mの高さまで打ち上げる。
; 三河手筒花火(愛知県[[豊橋市]]・[[東三河]])
: 直径約10cm、長さは70-80cmの青竹の節をくりぬき、周囲を麻縄で巻きつけた手筒を使用した花火である。氏神に奉納する前日に内部には火薬をたたき詰め、奉納の当日は若衆が脇腹に抱えて点火する。すると炎が時には10メートルを超えて噴出すという勇壮なものである。
; 手力雄煙火([[岐阜市]]長森)
: 毎年5月、9月、11月に方策を祈って[[手力雄命]](たぢからおのみこと。手力男命とも)に奉納する花火である。神輿に取り付けた手筒花火や、舞火、滝花火などの種類がある。
; 流星(滋賀県[[米原市]]・近江他)
: [[関ヶ原の戦い]]の際、関ヶ原から[[石田三成]]が本陣を構えた佐和山まで狼煙花火で連絡を取っていたのを真似て今日に伝えたと言われている。
: 流星で使用されているのは日本の伝統的な黒色火薬であるが、集落ごとに配合が異なり流派を形成している。
; 篠田の花火(滋賀県[[近江八幡市]])
: 江戸中期に起源を持つ花火である。硝石と[[明礬]]を配合した上で糊を加え、板に絵や文字を描き、それを櫓に取り付けて火を放つというものである。
<!--花火陣屋(滋賀長浜)-->
; 成羽愛宕神社奉納花火(岡山県成羽)
: [[1704年]]に[[成羽藩|成羽]]領主の[[山崎義方]]が愛宕神社の勧請のための奉納花火を催したことに由来する花火大会である。
==== 花火大会一覧 ====
[[日本の花火大会一覧]]を参照。
==== 花火の日 ====
戦後、花火が解禁された1948年8月1日の記念に、東京本所[[厩橋]]で大規模な花火爆発事故の起きた1955年8月1日の追悼、世界最大ともいわれる[[教祖祭PL花火芸術]]の開催日8月1日の記念を兼ね、花火の日が[[8月1日]]に制定された(1967年制定)。このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、[[5月28日]]も花火の日となっている。
==== サプライズ花火 ====
サプライズ花火は事前に予告せずに打ち上げる花火である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=花火大会復活で注文増 花火の製造会社では生産急ピッチ|NHK 北海道のニュース |url=https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20230727/7000059504.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-09-01 |last=日本放送協会}}</ref>。'''シークレット花火'''ともいう<ref>{{Cite web|和書|title=【絶景夏写真】2023年「必見花火大会」を大公開! |url=https://news.livedoor.com/article/detail/24468779/ |website=ライブドアニュース |access-date=2023-09-01 |language=ja}}</ref>。[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の流行に伴い、密集を避けるため等の理由から人気が高まっている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=福岡・筑後市でサプライズ花火、自粛生活が続く市民にエールを |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/788770/ |website=西日本新聞me |access-date=2023-09-01 |language=ja}}</ref>。
=== 花火が関連する作品 ===
{{Main|Category:花火を題材とした作品|Category:花火を題材とした楽曲}}
== 花火の法規制 ==
花火の取り扱いには国ごとに法規制がある。がん具としての花火にも文化により法規制に違いがある。国によっては花火の爆音が銃声と混同されかねないことから、記念日以外は花火の使用を禁止していることもある。
=== 日本 ===
==== 火薬類取締法 ====
[[火薬類取締法]]による規制がある。
* 製造
*: 一般の火薬類と同じく煙火やがん具煙火の製造には許可が必要である<ref name="meti">[https://web.archive.org/web/20170414083241/http://www.meti.go.jp/committee/downloadfiles/g41006a40j.pdf 我が国におけるがん具煙火の規制概要について] [[経済産業省]]</ref>。
* 販売
*: 一般の火薬類と同じく煙火の販売には許可が必要である(がん具煙火の販売には許可は不要)<ref name="meti" />。
* 火薬庫での貯蔵
*: 一般の火薬類と同じく煙火の貯蔵には許可が必要である<ref name="meti" />。がん具煙火の貯蔵は25kg以下であれば許可は不要である<ref name="meti" />。
* 譲渡・譲受
*: 一般の火薬類と異なり煙火やがん具煙火の譲渡・譲受には許可は不要である<ref name="meti" />。
* 運搬
*: 一般の火薬類では100kg以上の運搬に届出が必要とされているが、煙火では600kg以上、がん具煙火では2t以上の運搬に届出が必要である<ref name="meti" />。
* 輸入
*: 一般の火薬類と同じく煙火やがん具煙火の輸入には許可が必要である<ref name="meti" />。
* 消費
*: 一般の火薬類と同じく煙火の消費には許可が必要である(がん具煙火の消費には許可は不要)<ref name="meti" />。一般の火薬類と同じく煙火の消費には、技術基準が定められているほか、18歳未満の取り扱いが禁止されている(がん具煙火にはこのような規制はない)<ref name="meti" />。
*: 例えば、打上花火を揚げるには、各都道府県知事による煙火消費許可が必要であり、申請には一般人から俗に花火師と呼ばれる煙火店所属の技能認定証明である日本煙火協会発行の[[煙火消費保安手帳]]を保持した「煙火打揚従事者」を記載する。
* 廃棄
*: 一般の火薬類と異なり煙火やがん具煙火の廃棄には許可は不要である<ref name="meti" />。
==== 消防法 ====
[[消防法]]では危険物の扱いを受ける。
==== 航空法 ====
[[航空法]]により、打ち上げる花火が到達する空域によっては、打ち上げが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある([[制限表面]]も参照)。
=== アメリカ ===
{{main|en:Fireworks policy of the United States}}
日本の「がん具煙火」に相当する物は「consumer fireworks」(消費者向け花火、花火師が上げる物はprofessional fireworksと呼ばれる)と呼ばれる。それらの取り扱い(購入、所持、消費)には、州ごとに年齢制限(多くの州は16歳)があり、消費も年末年始や独立記念日前後に限られている場合が多い<ref name="meti" />。
=== ドイツ ===
パーティー用クラッカーなど一部の品目を除き購入や消費に制限がある<ref name="meti" />。
=== イギリス ===
{{main|en:Fireworks law in the United Kingdom}}
パーティー用花火(party popper)やクラッカーボール(throwdown)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある<ref name="meti" />。
=== スウェーデン ===
手持ちスパークラー(handheld sparklers)やパーティー用花火(party popper)、噴水(ice fountain)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある<ref name="meti" />。
=== ノルウェー ===
がん具煙火の購入や所持には年齢制限(満16歳)があるが消費に許可は不要<ref name="meti" />。
=== 中国 ===
{{main|{{ill2|中国での花火禁止令|en|Fireworks bans in China}}}}
== 花火による環境汚染 ==
花火により、[[重金属]]の残留物、硫黄化合物、[[粒子状物質]]、その他の低濃度の毒性物質などを含有する煤煙が生じる<ref name="GrimaButler2012">{{cite journal|last1=Grima|first1=Matthew|last2=Butler|first2=Mark|last3=Hanson|first3=Robert|last4=Mohameden|first4=Ahmed|title=Firework displays as sources of particles similar to gunshot residue|journal=Science & Justice|volume=52|issue=1|year=2012|pages=49–57|issn=13550306|doi=10.1016/j.scijus.2011.04.005}}</ref><ref name="BaranyaiSimon2014">{{cite journal|last1=Baranyai|first1=Edina|last2=Simon|first2=Edina|last3=Braun|first3=Mihály|last4=Tóthmérész|first4=Béla|last5=Posta|first5=József|last6=Fábián|first6=István|title=The effect of a fireworks event on the amount and elemental concentration of deposited dust collected in the city of Debrecen, Hungary|journal=Air Quality, Atmosphere & Health|volume=8|issue=4|year=2014|pages=359–365|issn=1873-9318|doi=10.1007/s11869-014-0290-7}}</ref><ref name="TiwariChate2011">{{cite journal|last1=Tiwari|first1=S.|last2=Chate|first2=D. M.|last3=Srivastava|first3=M. K.|last4=Safai|first4=P. D.|last5=Srivastava|first5=A. K.|last6=Bisht|first6=D. S.|last7=Padmanabhamurty|first7=B.|title=Statistical evaluation of PM10 and distribution of PM1, PM2.5, and PM10 in ambient air due to extreme fireworks episodes (Deepawali festivals) in megacity Delhi|journal=Natural Hazards|volume=61|issue=2|year=2011|pages=521–531|issn=0921-030X|doi=10.1007/s11069-011-9931-4}}</ref><ref name="MorenoQuerol2007">{{cite journal|last1=Moreno|first1=Teresa|last2=Querol|first2=Xavier|last3=Alastuey|first3=Andrés|last4=Cruz Minguillón|first4=Mari|last5=Pey|first5=Jorge|last6=Rodriguez|first6=Sergio|last7=Vicente Miró|first7=José|last8=Felis|first8=Carles|last9=Gibbons|first9=Wes|title=Recreational atmospheric pollution episodes: Inhalable metalliferous particles from firework displays|journal=Atmospheric Environment|volume=41|issue=5|year=2007|pages=913–922|issn=13522310|doi=10.1016/j.atmosenv.2006.09.019}}</ref>。
これらの燃焼による副生成物は、原材料の混合の仕方により大きく異なってくる。
(例えば、[[バリウム]]塩を加えることで、花火の緑色を出すことがある<ref name="GrimaButler2012"/>。これらの物質には毒性のあるものも含まれる。)
また花火は[[過塩素酸塩]]の排出源にもなっているとされてきた<ref>[http://www.sciencedaily.com/releases/2007/05/070528095714.htm Fireworks Displays Linked To Perchlorate Contamination In Lakes]</ref><ref name="MunsterHanson2008">{{cite journal|last1=Munster|first1=Jennie|last2=Hanson|first2=Gilbert N.|last3=Jackson|first3=W. Andrew|last4=Rajagopalan|first4=Srinath|title=The Fallout from Fireworks: Perchlorate in Total Deposition|journal=Water, Air, and Soil Pollution|volume=198|issue=1-4|year=2008|pages=149–153|issn=0049-6979|doi=10.1007/s11270-008-9833-6}}</ref><ref name="YamadaAsano2009">{{cite journal|last1=Yamada|first1=Etsu|last2=Asano|first2=Hiroki|last3=Fuse|first3=Yasuro|title=Behavior of Atmospheric Perchlorate in Kyoto City|journal=BUNSEKI KAGAKU|volume=58|issue=4|year=2009|pages=241–247|issn=0525-1931|doi=10.2116/bunsekikagaku.58.241}}</ref>。
[[アメリカ合衆国環境保護庁]]のリチャード・ウィルキンらは、環境中の過塩素酸塩による人体や野生動物への影響を念頭に置いて、水域上空での花火類の使用についての研究を行った。
過塩素酸塩の排出源は雷や特定の化学肥料からロケット燃料や爆発物中に含まれるものまで多岐にわたる。
科学者らは長年の間、地域の花火大会がもう一つの排出源となっているのではないかと疑ってきたが、ほとんど研究がなされていなかった。
ウィルキンの研究グループは2004年、2005年、2006年に花火大会の前後にオクラホマ州にある湖の水を分析することで、花火が過塩素酸塩汚染の原因の一つであることを立証した。
花火大会から14時間以内に、過塩素酸塩の濃度はバックグラウンド濃度の24倍から1,028倍へと上昇した。
24時間後に濃度は最大となり、20日から80日後には大会前の水準へと落ち着いた<ref>{{Cite web|url=http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/es0700698 |title=Perchlorate Behavior in a Municipal Lake Following Fireworks Displays - Environmental Science & Technology (ACS Publications) |publisher=Pubs.acs.org |date= |accessdate=2010-06-24}}</ref>。
過塩素酸塩は固体塩の一種であり、地下水や表流水に容易に溶解し移動する。
過塩素酸塩が飲料水に混じっていると[[甲状腺]]の[[ヨウ素]]の取り込みが阻害されることが知られている<ref name="MunsterHanson2008"/><ref name="YamadaAsano2009"/><ref>{{cite web|title=Interim Drinking Water Health Advisory For Perchlorate |url=https://nepis.epa.gov/Exe/ZyPDF.cgi/P1004X7Q.PDF?Dockey=P1004X7Q.PDF |publisher=U.S. Environmental Protection Agency |accessdate=2017-07-30}}</ref><ref name="KOSAKAASAMI2007">{{cite journal|last1=KOSAKA|first1=Koji|last2=ASAMI|first2=Mari|last3=MATSUOKA|first3=Yukiko|last4=KAMOSHITA|first4=Masahiro|last5=KUNIKANE|first5=Shoichi|title=Occurrence of Perchlorate in Water Purification Plants in Tone River Basin|journal=Journal of Japan Society on Water Environment|volume=30|issue=7|year=2007|pages=361–367|issn=0916-8958|doi=10.2965/jswe.30.361}}</ref>。
連邦全体での飲料水の基準は現在存在しないものの、いくつかの州では公衆衛生の目標や対策レベルを既に設定しており、最大基準値を確立しようしている州もある。
たとえば、アメリカ合衆国環境保護庁では飲料水と同様に環境への過塩素酸塩による影響が研究されている<ref>{{Cite web|url=http://www.epa.gov/safewater/contaminants/unregulated/perchlorate.html |title=Perchlorate | Drinking Water Contaminants | Safewater | Water | US EPA |publisher=Epa.gov |date= |accessdate=2010-06-24}}</ref> 。
また[[カリフォルニア州]]は過塩素酸塩使用に関する指針を発行した<ref>{{Cite web|url=http://www.cdph.ca.gov/certlic/drinkingwater/Pages/Perchlorate.aspx |title=Perchlorate in Drinking Water |publisher=Cdph.ca.gov |date= |accessdate=2010-06-24}}</ref>。
花火からの汚染物質は健康リスクについての懸念を招く。
大多数の人について長期にわたり多数の排出源からの低レベルの毒物へ暴露した場合の影響というのはよく分かってない。
一方で[[ぜんそく]]患者や多種類化学物質過敏症の患者にとっては、花火からの煙が疾患を悪化させる可能性がある<ref>New Scientist - [http://www.newscientist.com/article/mg20026875.800 Great fireworks, shame about the toxic fallout]</ref><ref name="GouderMontefort2014">{{cite journal|last1=Gouder|first1=Caroline|last2=Montefort|first2=Stephen|title=Potential impact of fireworks on respiratory health|journal=Lung India|volume=31|issue=4|year=2014|pages=375|issn=0970-2113|doi=10.4103/0970-2113.142124}}</ref>。
=== アメリカ合衆国 ===
[[マサチューセッツ州]]を含む複数の州は過塩素酸塩についての飲料水の基準を立法化してきた。
カリフォルニア州議会では2003年に過塩素酸塩汚染防止法(AB 826)が制定された。
この法律ではカリフォルニア州有害物質規制局(DTSC)に対して過塩素酸塩および過塩素酸塩の含有物質についての最適な管理方法を示す規制を採択するよう求めた。
この管理方法は2005年12月31日に採択され、2006年7月1日に施行された<ref>{{Cite web|url=http://www.dtsc.ca.gov/HazardousWaste/Perchlorate/ |title=Perchlorate |publisher=Dtsc.ca.gov |date= |accessdate=2010-06-24}}</ref> 。
またカリフォルニア州は飲料水の基準を2007年に制定した。
[[アリゾナ州]]、[[メリーランド州]]、[[ネバダ州]]、[[ニューメキシコ州]]、[[ニューヨーク州]]、[[テキサス州]]を含む複数の州では、強制性のない勧告基準を制定した。
司法もまた過塩素酸塩汚染に関連した判決も下してきた。
例えば、2003年にカリフォルニア州の連邦地方裁判所は、過塩素酸塩は発火性であり「特徴的に」有害な廃棄物であるを理由に、{{仮リンク|包括的環境対処・補償・責任法|en|Comprehensive Environmental Response, Compensation and Liability Act}}の適用を決定した<ref>{{cite court
|litigants= Castaic Lake Water Agency v. Whittaker|vol= 272|reporter= F. Supp. 2d|opinion= 1053|pinpoint=|court= United States District Court, C.D. California.|date= July 15, 2003.|url= http://law.justia.com/cases/federal/district-courts/FSupp2/272/1053/2296018/|quote=}}</ref>。
中国の製造業者と協力し、汚染物質である過塩素酸塩を低減し、究極的には除去しようとしていると主張する米国企業も存在する<ref>[http://www.philly.com/philly/living/green/20090704_Pa__company_works_to_make_fireworks_greener.html Knee, Karen. Philadelphia Inquirer. 4 Jul 2009. Pa. company works to make fireworks greener]</ref>。
=== インド ===
[[インド]]では都市部を中心に[[大気汚染]]が深刻化している中で、[[ヒンドゥー教]]の祭日である[[ディーワーリー]]の時期に鳴らされる[[爆竹]]が汚染レベルの悪化に拍車を掛ける傾向が見られた。[[2017年]]、[[インド最高裁判所]]は、ディーワーリ前後の期間の爆竹販売を禁止した<ref>{{Cite web|和書|date= 2017年10月22日|url= https://www.asahi.com/articles/ASKBK56JNKBKUHBI01H.html|title= インド、首都で花火販売禁止|publisher= 朝日新聞|accessdate=2018-05-25}}</ref>
== 花火の事故 ==
[[ファイル:Ramp enschede.jpg|250px|サムネイル|右|エンスヘデ花火保管倉庫爆発事故]]
花火の[[事故]]としては、花火工場における製造過程での事故と花火大会における実演時の事故とに大きく分けられる。花火大会における事故は、花火の危険性だけでなく、[[群集事故]]など多くの観客が集まるために起こりうる事故を防ぐために事前にさまざまな予防措置が運営側によって施されるようになっているが、まだまだ防ぎ切れていない。また、家庭で行なわれる花火でも、火薬の危険性を十分認識していない[[児童]]が遊戯の主体であるため、取り扱い時の不注意や、ふざけて人、動物、物に向けるなど危険な行為を行なう<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2892461?pid=9311794 花火を尻に挟んで大やけど、パーティーの余興で]AFPBB.News 2012年07月30日]</ref>ことによって、事故を起こしがちである。また、遊戯後の火の不始末による火災の危険性もある。
家庭、公園等の個人で花火をする時は、[[バケツ]]などに水を汲むなどしていつでも消火できる環境にして遊び、燃え尽きた後の花火はきちんと水で消火を行い、十分に鎮火したことを確認したあと処理すること。また、小さい子供だけ等の成人した管理者が不在ので花火をするのは避けること。不発の花火(特に打ち上げ花火のものは「黒玉」と呼称される)には再発火や爆発の危険があり、水に漬けるなどの処置が必要となるので放置、管理を行う。
従来から花火の事故は多くあったが、統計が残っているのは[[1950年代]]ごろからである。1950年代から[[1960年代]]にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10人以上の死者が出ていた時代もあった。多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものだったが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなった。ただし、安全な種類の火薬を用い、保管量を守れば、そのような事故の大部分は防げたはずだという主張もある。
=== 花火が直接の原因の事故 ===
; {{Flagicon|JPN}} [[玩具問屋爆発事故]]
: [[1955年]][[8月1日]]午後1時頃
: [[東京都]][[墨田区]]厩橋で、おもちゃ花火を扱う卸問屋の経営する花火工場が爆発。死者18人。
; {{Flagicon|JPN}} [[東京宝塚劇場]]火災
: [[1958年]][[2月1日]]16時15分
: 無許可で演出のために使われた花火が引火。[[劇団]]員3人が死亡。以後[[劇場]]での花火の使用に厳しい規制がかけられる。特に東京都では全面禁止となった(1985年に一部規制緩和)。
; {{Flagicon|JPN}} [[上郷村花火工場爆発事故]]
: [[1959年]][[5月29日]]午後2時25分頃
: [[長野県]][[下伊那郡]][[上郷町 (長野県)|上郷村]](現・[[飯田市]])で死者7人を出した事故。花火工場に近接した[[小学校]]校庭で体操をしていた小学6年女子児童1人が爆風で死亡。花火製造への規制が強化される一因となる。
; {{Flagicon|JPN}} 岩槻花火工場爆発事故
: [[1969年]](昭和44年)[[12月1日]]午後9時頃
: 埼玉県岩槻市[[美幸町 (さいたま市)|美幸町]]にあった信号弾、花火を製造する工場で爆発事故が発生。2人死亡、8人が重軽傷。同社は1960年にも2人が死亡する爆発事故を起こしていた<ref>花火工場が爆発 二人死に八人が重軽傷『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月2日 12版 15面</ref>。
; {{Flagicon|JPN}} 横浜花火大会爆発事故
: [[1989年]][[8月2日]]
: [[山下公園]]前海上の台船で打ち上げていた花火の火が、他の打ち上げ前の花火に引火し花火玉325個が爆発。花火師2人が焼死、負傷者7人([[神奈川新聞花火大会]])。
; {{Flagicon|JPN}} 茨城県[[守谷町]]花火工場爆発事故
: [[1992年]][[6月16日]]
: 煙火製造工場内倉庫、薬品庫で爆発が発生、工場内で3人死亡、負傷者58人。
; {{Flagicon|NLD}} エンスヘデ花火保管倉庫爆発事故
: [[2000年]][[5月13日]]
: [[オランダ]]の[[エンスヘデ]]にあった花火保管倉庫に保管されていた100tの中国製花火が爆発し、街にオランダ史上第二次世界大戦以来と言われる壊滅的被害を与えた。20人以上が死亡、900人以上負傷、1,000人が住居を失った。原因は、倉庫の所有者による放火だと考えられている。被害総額8,900万ドル<ref>[http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CA0000254.html 失敗事例データベース]</ref>。
; {{Flagicon|JPN}} 北海道の女児死亡事故
: [[2002年]][[8月14日]]
: 第53回[[勝毎花火大会]]で、二尺玉花火の破片 (3.4kg) が観客席に落下、小学3年生が直撃を受けて死亡。この事故を受けて、北海道は安全距離基準を改定した。
; {{Flagicon|JPN}} [[鹿児島県]]南国花火製造所爆発事故
: [[2003年]][[4月11日]]
: 煙火製造工場内の配合所、火薬類一時置場を含む複数箇所で爆発が発生、10人死亡。この事故により法令が改正され、雷薬などの配合工程において導電性のある器具の使用義務が定められたほか、この工程における停滞量・人数が従来より縮小され、原材料に使われる金属の保管場所は危険区域外へ設置しなければならなくなった。
; {{Flagicon|CHN}} 中国赤峰市での爆発事故
: [[2012年]]1月10日
: [[中華人民共和国|中国]][[内モンゴル自治区]][[赤峰市]][[元宝山区]]で、野外販売中の花火に実演として点火したところ、売り物に引火し爆発した。5人が死亡、8人が負傷<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/6183880/ 花火爆発 5人死亡、8人けが 中国内モンゴル] - [[livedoor]]ニュース</ref>。
; {{Flagicon|CHN}} 中国杭州市での爆発事故
: [[2012年]]10月13日
: 中国[[浙江省]][[杭州市]]での第14回{{仮リンク|西湖国際博覧会|zh|西湖国际博览会}}開幕イベントの花火大会で、花火が暴発し、観客100人以上が負傷した(報道時点で死者はなし)<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/international/215805 花火大会で花火爆発、100人ケガ 中国] - [[日テレNEWS24]]</ref>。
; {{Flagicon|USA}} アメリカ合衆国での暴発事故
: [[2012年]]7月4日
: アメリカ合衆国サンディエゴの独立記念日花火大会で、コンピュータのプログラムミスにより、2万発を17分かけて打ち上げるはずが15秒で全て打ち上げてしまった。死者・負傷者はなし。
; {{Flagicon|NGR}} ナイジェリアでの爆発事故
: [[2012年]]12月26日
: [[ナイジェリア]]最大の都市[[ラゴス]]の人口密集地にある花火保管庫で大規模な火災と爆発が起こった。少なくとも1人が死亡、30人が負傷した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2918141?pid=10033635 ナイジェリアの花火倉庫で大規模な爆発] - [[フランス通信社|AFP]]BB News</ref>。
; {{Flagicon|IDN}} インドネシア、ジャカルタ花火工場爆発事故
: [[2017年]]10月26日
: [[ジャカルタ]]近郊の花火工場で爆発、死亡47人以上、負傷34人以上<ref>{{Cite web |date=2020-10-27 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35109451.html |title=花火工場で爆発、47人死亡 |publisher=CNN |accessdate=2020-12-04}}</ref>。
; {{Flagicon|JPN}} 静岡県浜松市花火工場爆発事故
: [[2018年]][[6月28日]]
: [[浜松市]]の煙火製造工場で爆発が発生、従業員ら2人死亡<ref>{{Cite web|和書|date=2018-06-29 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL6Y342SL6YUTPB007.html |title=花火工場爆発、重傷の51歳男性が死亡 浜松 |publisher=朝日新聞DIGITAL |accessdate=2020-12-04}}</ref>。
; {{Flagicon|TUR}} トルコ、サカリヤ県花火工場爆発事故
: [[2020年]][[6月16日]]
: [[トルコ]]、[[サカリヤ県]]の花火製造工場で[[SARSコロナウイルス2|コロナ禍]]で売れ残っていた大量の花火が爆発、死亡・行方不明7人、重軽傷108人<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-04 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200703/k10012495201000.html |title=トルコ 大量の花火が爆発 4人死亡 新型コロナで売れ残る |publisher=NHK |accessdate=2020-12-04}}</ref>。
; {{Flagicon|IND}} タミル・ナードゥ州ヴィルドゥナガル県の爆竹工場爆発事故
: [[2021年]][[2月12日]]
: [[インド]]、[[タミル・ナードゥ州]][[ヴィルドゥナガル県]]で違法操業をしていた爆竹工場で爆発。少なくとも19人が死亡、数十人が負傷<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-13 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3331588 |title=爆竹工場で爆発、19人死亡 インド |publisher= |accessdate=2021-02-13}}</ref>。
; {{Flagicon|THA}} ナラーティワート県の花火倉庫爆発事故
: [[2023年]][[7月29日]]
: [[タイ王国]][[ナラーティワート県]]の花火倉庫で[[溶接]]中の火花が花火に引火。爆発が発生して子供を含む10人以上が死亡、100人以上が負傷。家屋100軒以上が損壊<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230730-OYT1T50000/ |title=タイの花火倉庫で爆発、子供ら10人死亡・100人超けが…溶接作業の火花が引火か |publisher=読売新聞|date=2023-07-30 |accessdate=2023-07-29}}</ref>。
=== 花火大会での群集事故 ===
; {{Flagicon|JPN}} 両国橋落下事故
: [[1879年]][[8月10日]]
: 両国川開きの際、車の通る間だけ空いているほど混み合う見物人により、[[両国橋]]欄干が崩れ、見物人たちが川に転落、花火は途中中止となる。死傷者数十人に上る惨事となった<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|1920411/77|新聞集成明治編年史. 第十卷|format=EXTERNAL}}. 2016年3月27日閲覧。</ref>。
; {{Flagicon|JPN}} 萬代橋事件
: [[1948年]][[8月23日]]
: 「[[新潟まつり]]」の前身にあたる「川開き」の花火大会の際、打ち上がり始めたスターマインを見ようと、観衆が一斉に[[萬代橋]]下流側の欄干に殺到し欄干が落下、約100人の観衆が[[信濃川]]に転落。死者11人、重軽傷者29人。これ以降、花火大会の際には萬代橋を含む信濃川に架かる橋梁上での立ち止まっての花火見物は禁止されている。
; {{Flagicon|JPN}} [[明石花火大会歩道橋事故]]
: [[2001年]][[7月21日]]
: 花火大会の観客が[[人道橋|歩道橋]]で群集雪崩を起こし、死者11人・負傷者247人の大惨事に。[[警察]]・自治体の警備や対応の不備が浮き彫りになる([[大蔵海岸#事故]]も参照のこと)。
; {{Flagicon|IND}} ケララ州ヒンドゥー教寺院爆発事故
: [[2016年]][[4月10日]]
: [[インド]]、[[ケララ州]]の[[ヒンドゥー教]]寺院で行われた花火大会で、打ち上げた花火が保管場所に落下して爆発。数千人の群衆がパニック状態に陥ったことで100人超が死亡、200人超が重軽傷を負った。花火大会は地元当局が不許可としたにもかかわらず強行されたものであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3083638 |title=100人超死亡のインド花火大会、6人を訴追へ |publisher=AFP |date=2016-04-11 |accessdate=2023-10-10}}</ref>。
===花火大会周囲の不注意による事故===
; {{Flagicon|JPN}}[[2013年福知山花火大会露店爆発事故]]
: [[2013年]][[8月15日]]
:ドッコイセ花火大会に隣接する露店が、[[ガソリン携行缶]]で発電機に給油中に気化した[[ガソリン]]に引火したことで[[爆発]]。死者3名、負傷者59名。
===賠償事例===
*[[2017年]]、[[アメリカ合衆国]][[オレゴン州]]の[[森林]]に花火を投げ込み大規模な[[山火事]]を発生させた少年に対し、約3,700万ドルの損害賠償請求が行われた例がある<ref>{{Cite web |date= 2018.05.22|url= https://www.cnn.co.jp/usa/35119549.html|title= 山火事で194平方キロ焼失、少年に40億円の支払い命令|publisher= CNN|accessdate=2018-05-24}}</ref>。
== 比喩表現 ==
[[野球]]で両チームが[[本塁打]]を打ち合い、点の取り合いになる状況を「'''花火大会'''」と形容する。この場合、冒頭に[[野球場|球場]]名が付く事もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*監修:[[日本煙火協会]]、写真:[[泉谷玄作]]『花火の大図鑑』[[PHP研究所]]
*[[武藤輝彦]]『日本の花火のあゆみ』[[あずさ書店]]、2000年10月
*武藤輝彦『ドン!と花火だ』[[三空出版]]、1993年5月、ISBN 4-944063-05-9
*[[清水武夫 (花火)|清水武夫]]『花火の話』サークル花火万華鏡、1998年7月(1970年刊行の復刻版。著者は1912年生まれ、工学博士) ISBN 4-947620-39-0
*武藤輝彦『長野の花火は日本一』[[信濃毎日新聞社]]、2001年11月、ISBN 4-7840-9912-3
== 関連項目 ==
*[[パイロテクニクス]]
*[[手持ち花火]]
*[[日本の花火大会一覧]]
*[[世界一の一覧#その他|世界最大の打上花火]]
*[[世界一の一覧#その他|世界で最も重い花火]]
*[[正四尺玉]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Fireworks|Fireworks}}
* [http://www.hanabi-jpa.jp/index.html 日本煙火協会](日本の業界団体)
* [http://www.groupef.com/ グループF] (フランスの花火師グループ)
* {{Kotobank}}
{{日本の伝統芸能}}
{{公害}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はなひ}}
[[Category:花火|*]]
[[Category:光源]]
[[Category:玩具]]
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14,143 |
カメオ出演
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カメオ出演(カメオしゅつえん、cameo appearance / cameo role)は、俳優や歌手・監督・漫画や小説などの原作者、時には政治家やスポーツ選手などがゲストとしてとても短い時間、映画やドラマ・アニメ・舞台に出演すること。遠目からでもはっきりと分かる装飾品のカメオからそう呼ばれるようになったが、元々は主役以外に有名スターを起用することを意味していた。英語のcameoには「名場面」「山場」という意味もある。
日本国外では単に「cameo」と呼ばれることもある。スーパーエキストラという扱いの場合もある。
監督や主演俳優(女優)の友人や、原作者、作品のモデルとなった人物や作品に由縁の深い人物などが出演する。端役以下がほとんど。
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カメオ出演は、俳優や歌手・監督・漫画や小説などの原作者、時には政治家やスポーツ選手などがゲストとしてとても短い時間、映画やドラマ・アニメ・舞台に出演すること。遠目からでもはっきりと分かる装飾品のカメオからそう呼ばれるようになったが、元々は主役以外に有名スターを起用することを意味していた。英語のcameoには「名場面」「山場」という意味もある。 日本国外では単に「cameo」と呼ばれることもある。スーパーエキストラという扱いの場合もある。
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{{出典の明記|date=2010年6月}}
'''カメオ出演'''(カメオしゅつえん、cameo appearance / cameo role)は、[[俳優]]や[[歌手]]・[[監督]]・[[漫画]]や[[小説]]などの[[原作者]]、時には[[政治家]]や[[スポーツ選手]]などがゲストとしてとても短い時間、[[映画]]や[[ドラマ]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[演劇|舞台]]に出演すること。遠目からでもはっきりと分かる[[装飾品]]の[[カメオ]]からそう呼ばれるようになったが、元々は主役以外に有名スターを起用することを意味していた{{R|FCGMG}}。英語のcameoには「名場面」「山場」という意味もある。
日本国外では単に「cameo」と呼ばれることもある。'''スーパー[[エキストラ]]'''という扱いの場合もある。
== 事例 ==
=== 実写作品 ===
監督や主演俳優(女優)の友人や、原作者、作品のモデルとなった人物や作品に由縁の深い人物などが出演する。[[端役]]以下がほとんど。
* [[チャールズ・チャップリン]]は『[[巴里の女性]]』([[1923年]])および『[[伯爵夫人 (1967年の映画)|伯爵夫人]]』([[1967年]])では監督・脚本に専念したが、どちらにも一瞬だけ出演している<ref>{{Cite news|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20221101-YEW5DAPADFJ65LGZD3R7TKJSTY/|title=【今だから見ておきたい これがチャップリンの名作だ】悲劇を笑いに変えた「黄金狂時代」 喜劇王の究極の〝身体芸〟 困難な時代を生きる勇気に(1/2ページ)|newspaper=zakzak|publisher=産経デジタル|date=2022-11-01|accessdate=2023-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/17859|title=映画 伯爵夫人 (1967)について|website=allcinema|publisher=スティングレイ|accessdate=2023-08-09}}</ref>。
* [[1924年]]には、[[エリック・サティ]]とその友人たちが[[無声映画]]『幕間』(バレエ『[[本日休演]]』の幕間に上演された)に出演した。
* [[アルフレッド・ヒッチコック]]は自身の監督した作品([[1927年]]-[[1976年]])に頻繁に出演している(詳細は[[アルフレッド・ヒッチコックのカメオ出演一覧]]を参照)。
* {{要出典範囲|1956年の『[[八十日間世界一周 (映画)|八十日間世界一周]]』以来、カメオ出演は[[ハリウッド]]などでもお遊びとして取り入れられ、監督の人脈が映画の中で活かされている|date=2023年5月}}。
* 小説『[[野獣死すべし]]』が[[1959年]]に映画化された際、原作者の[[大藪春彦]]が学生役でカメオ出演している。
* [[パブロ・ピカソ]]は、[[ジャン・コクトー]]監督の映画『オルフェの遺言』([[1960年]])に自身の役でカメオ出演している。
* テレビドラマ『[[あかつき (テレビドラマ)|あかつき]]』([[1963年]]-[[1964年]])第235話に原作者の[[武者小路実篤]]が出演している。
* 脚本家の[[金城哲夫]]は、テレビドラマ『[[ウルトラQ]]』([[1966年]])第10話「地底超特急西へ」および同『[[ウルトラマン]]』(1966年 - [[1967年]])第18話「遊星から来た兄弟」(脚本も担当)にカメオ出演している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-63203|title=空想特撮シリーズ ウルトラQ(第10話)地底超特急西へ(シナリオNo.26)|website=テレビドラマデータベース|publisher=キューズ・クリエイティブ|accessdate=2023-11-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/program/0000903369/18/|title=ウルトラマン 第18話 ウルトラQ空想特撮シリーズ ウルトラマン「遊星から来た兄弟」(特撮)|website=WEBザテレビジョン|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-06-22}}</ref>。
* 『[[わたしが・棄てた・女#1969年版|私が棄てた女]]』([[1969年]]、[[日活]])には原作者の[[遠藤周作]]が医者役でカメオ出演している。
* 『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』([[1973年]])では原作者の[[小松左京]]が研究員として出演している{{efn2|計算書を「部長、これ出来ています」と差し出し、小野寺らに気づいて「よぉ!」と挨拶するシーン。}}。
* [[リチャード・マシスン]]は、『[[ゴッドファーザー PART II]]』([[1974年]])および『[[ある日どこかで]]』([[1980年]])にカメオ出演している。
* 映画『[[ジョーズ]]』([[1975年]])において、原作者である[[ピーター・ベンチリー]]がカメオ出演している<ref>{{Citation|title=Jaws|last=Spielberg|first=Steven|date=1975-06-20|url=https://www.imdb.com/title/tt0073195/|publisher=Zanuck/Brown Productions, Universal Pictures|others=Roy Scheider, Robert Shaw, Richard Dreyfuss|access-date=2023-11-13}}</ref>。
* 特撮テレビドラマ『[[快傑ズバット]]』([[1977年]])第10話「野球の敵を場外へ飛ばせ」では、原作者の[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]が架空の[[トーク番組]]に出演した元[[プロ野球選手]]の同姓人物(石森選手)役{{efn2|厳密には本人役ではない。}}でカメオ出演しているが、メインゲストとしても扱われており、中盤以降から本編終了まで一貫して出演した。
* 『[[白昼の死角]]』([[1979年]])の映画版で、原作者の[[高木彬光]]が[[エキストラ]]でカメオ出演している。
* [[スティーヴン・スピルバーグ]]は、『[[ブルース・ブラザース]]』([[1980年]])、『[[インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説]]』([[1984年]])、『[[グレムリン (映画)|グレムリン]]』([[1984年]])、『[[オースティン・パワーズ ゴールドメンバー]]』([[1997年]])、『[[バニラ・スカイ]]』([[2001年]])にカメオ出演している。
* 映画『[[2010年 (映画)|2010年]]』(1984年)において、原作者のアーサー・C ・クラークがカメオ出演している。
* [[TBSテレビ|TBS]]の2時間ドラマ『[[翔んでる警視]]』([[1986年]])および『翔んでる警視II』([[1987年]])には、原作者の[[胡桃沢耕史]]がカメオ出演している。
* 映画『[[地獄のデビル・トラック]]』([[1986年]])や『[[ペット・セマタリー#映画化|ペット・セメタリー]]』([[1989年]])などでは、原作者の[[スティーヴン・キング]]が出演している。
* [[マイルス・デイヴィス]]は『[[3人のゴースト]]』([[1988年]])にストリート・ミュージシャン役でカメオ出演している。
* [[長渕剛]][[主演]]で、[[とんぼ (長渕剛の曲)|自身の楽曲]]を[[原作]]かつ[[主題歌]]とし、長渕の主演作品としては初めて[[故郷|地元]]・[[鹿児島県]]を舞台とした作品である『[[とんぼ (テレビドラマ)|とんぼ]]』(1988年)の鹿児島パートで、主役が無名時代から帰省するたびに必ず会うほど親交が深く、同県にある[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列局]]の[[南日本放送]](MBC)[[アナウンサー]]である[[植田美千代]]{{efn2|MBC製作[[ラジオ番組]]『[[コカ・コーラ]] Presents ちぇすといけ!ヤング』(後の『チェストいけ!ヤング』→『[[内田詠子]]のGo! Go! Go!』→『[[スマイリー園田のLive Alive]]』)に[[アマチュア]]時代の長渕が出演したのが縁で、出演当時の[[ディレクター]]だったため。}}が近隣[[住民]]の役でカメオ出演していた。本人の意向による[[クレジットタイトル#友情出演|友情出演]]で、系列局所属のアナウンサーということから実現された。
* [[細川護煕]]は[[勅使河原宏]]監督の映画『[[利休 (映画)|利休]]』([[1989年]])に[[織田長益|織田有楽斎]]役で1カットのみカメオ出演している。
* 『[[大誘拐#映画|大誘拐 RAINBOW KIDS]]』([[1991年]])では、[[山藤章二]]と[[景山民夫]]がカメオ出演している。
* 『[[ホーム・アローン2]]』([[1992年]])では、[[プラザホテル]]における[[室内]]の[[撮影]]を[[許可]]する条件として、製作当時は[[実業家]]にして同ホテルの[[オーナー]]であった[[ドナルド・トランプ]]をカメオ出演させることが提示されたと、後に[[クリス・コロンバス]]監督が明かしている。
* 『[[S.W.A.T.]]』([[2003年]])には『[[特別狙撃隊S.W.A.T.]]』([[1975年]]-[[1976年]])の出演者たちが、『[[特攻野郎Aチーム THE MOVIE]]』([[2010年]])には『[[特攻野郎Aチーム]]』([[1983年]]-[[1987年]])の出演者たちが、それぞれカメオ出演している。
* 特撮映画『[[デビルマン (映画)|デビルマン]]』([[2004年]])では、原作者の[[永井豪]]が神父役でカメオ出演している。
* [[2005年]]版『[[キング・コング (2005年の映画)|キング・コング]]』では、[[1976年|1976]]年版『[[キングコング (1976年の映画)|キングコング]]』で造形物を手掛けスーツアクターも務めた[[リック・ベイカー]]が、パイロット役でカメオ出演している<ref>{{Cite web|和書|url=https://otocoto.jp/column/kingkonghistory/|title=映画『キングコング』の歴史<1933-2017>アメリカが世界に誇るモンスターの歩み|website=otocoto|publisher=バカ・ザ・バッカ|date=2017-03-27|accessdate=2023-11-09}}</ref>。
* 『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』の[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (テレビドラマ)|テレビドラマ版]]([[2009年]])および実写映画化版([[2011年]])では、[[両津勘吉]]([[香取慎吾]])の父親である[[両津家|両津銀次]]役に[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|テレビアニメ版]]([[1996年]])の両津勘吉役である[[ラサール石井]]が起用されている。テレビドラマ版の両津勘吉は[[住居|自宅暮らし]]のドラマオリジナル設定となっているため、毎回登場する脇役であった。{{要出典範囲|[[祖父]]の両津勘兵衛役を旧実写映画版([[1977年]])の両津勘吉役である[[せんだみつお]]を起用する案があったが、作品そのものの出演は無かった。|date=2023年8月15日}}
* [[Amazonビデオ]]のドラマ『[[プリティ・シュート!]]』([[2015年]])では、原作者の[[アレックス・モーガン]]が本人役でカメオ出演している。
* 特撮映画『[[シン・ゴジラ]]』([[2016年]])では、総監督の[[庵野秀明]]が声のみだが消防隊員役でカメオ出演している。
* 『[[十津川警部シリーズ (内藤剛志)|西村京太郎サスペンス 十津川警部シリーズ]]』([[2017年]]-[[2019年]])第3・4話には原作者・[[西村京太郎]]と瑞枝夫人がカメオ出演した。
* [[Netflix]]オリジナル映画『[[浅草キッド (小説)#映画|浅草キッド]]』([[2021年]])では、[[ヒップホップ]]ユニット「[[Creepy Nuts]]」がカメオ出演した<ref>{{Cite web |title=Creepy Nuts、「浅草キッド」にカメオ出演 “師匠”を語るインタビュー映像公開 : 映画ニュース |url=https://eiga.com/news/20211129/4/ |website=映画.com |access-date=2023-11-13 |language=ja}}</ref>。
=== アニメ作品 ===
* 『[[ロジャー・ラビット]]』は、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]の大人向け映画ブランドの[[タッチストーン・ピクチャーズ]]の作品で、アニメキャラクターが合成の形で出演する[[実写]]映画のひとつである。脇役までの登場アニメキャラクターはオリジナルがメインで、一応[[ディズニーキャラクターの一覧|ディズニーキャラクター]]ではあるが、版権保有元のディズニーや[[ルーニー・テューンズ]]{{efn2|本作と同じ[[アンブリン・エンターテインメント]]制作のため、[[派生作品|スピンオフ作品]]としての性格を兼ねた『[[スペース・ジャム]]』([[ワーナー・ブラザース]])にも本作と同じ手法で合成されたルーニー・テューンズのキャラクター単体が出演した実写映画もある。}}を主とした[[1930年代]]から[[1940年代]]までの[[テクニカラー]]を中心とした往年のアニメキャラが[[著作権]]の垣根を越えてカメオ出演している。それ以外では、唯一[[モノクロ]]で描かれた[[ベティ・ブープ]]や、キャラクター自体の出演の許可を獲られず、[[台詞]]のみに留まった[[トムとジェリー]]{{efn2|その後、[[トムとジェリー (2021年の映画)|2021年の映画版]]に作品自体の実写化を果たしている。}}の[[代替]]キャラクターとして起用された[[ドルーピー]]に、[[ウッディー・ウッドペッカー]]も出演の許可を受けている。
* 『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』の劇場版シリーズでは、[[版元]]である[[小学館]]の[[児童]]・[[少年]]向け[[雑誌]]が合同で出演声優を[[読者]]から募集しており、[[モブキャラクター|モブキャラ]]として登場した主要読者と同世代の人物を担当している。
* 『[[シナモロール#シナモン the movie|シナモン the MOVIE]]』は、[[サンリオキャラクター]]がメインの映画で、[[著作権]]を保有する[[サンリオ]]がクロスオーバーに積極的であるため、エンド[[クレジットタイトル]]の静止画部分に外部のサンリオキャラクターがカメオ出演しており、[[ハローキティ|キティ]]、[[バッドばつ丸|ばつ丸]]、[[コロコロクリリン|クリリン]]、[[マイメロディ]]、[[ポムポムプリン|プリン]]の順である。[[ヤフー (企業)|ヤフー]]が[[製作委員会方式|製作委員会]]に参加している関係で、[[Yahoo! JAPAN|Yahoo! きっず]]マスコットキャラクターでサンリオキャラクターも兼ねる「ちょボット」も他のサンリオキャラクターと同じクレジットタイトルにカメオ出演している。
* [[新海誠]]監督の映画作品において、前作の主要[[登場人物]]を積極的にカメオ出演させており、出演する作品の設定年での[[年齢]]で登場する。大抵は前作と同じ[[声優]]が担当し、通常は物語の進行に一切関わらない程度だが、場合によっては、物語の進行に関わる重要人物となる場合がある(『[[天気の子]]』でアクセサリーショップの店員となった『[[君の名は。]]』の宮水三葉など)。
* 『[[この世界の片隅に (映画)|この世界の片隅に]]』などの[[アニメーション映画|アニメ映画]]数作品では、[[A応P]]のメンバー全員が[[声優]]としてカメオ出演を行っている。
* 『[[カードファイト!! ヴァンガード]]』の[[カードファイト!! ヴァンガード (アニメ)|アニメ版]]では、[[Project MILKY HOLMES|ミルキィホームズシリーズ]]は同じ[[ブシロード]]の自社[[版権]]同士であり、主題歌も複数担当していたことから、[[探偵オペラ ミルキィホームズの登場人物|ミルキィホームズのメンバー]]が[[背景]]のみではあるが、複数話に渡って積極的にカメオ出演している(同じく、『[[BanG Dream!|バンドリ!シリーズ]]』の[[BanG Dream!の登場人物|RAISE A SUILENのメンバー]]も背景のみではあるがカメオ出演している)。
* 『[[映画ドラえもん のび太の新恐竜]]』では、[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん達]]が間違えて行った[[ジュラ紀]]の[[日本]]における[[場面]]で、『[[ドラえもん のび太の恐竜]]』の[[ピー助]]がカメオ出演している。『[[映画ドラえもん のび太の恐竜2006]]』でピー助を演じた[[神木隆之介]]が引き続き声を充てている。
* 『[[ザ・スーパーマリオ・ブラザーズ・ムービー]]』(2023年)では[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]と似た[[風貌]]のモブキャラクターの男性であるジュゼッペとマリオの[[父親]]の声を[[マリオシリーズ|ゲーム版マリオ]]の初代公式声優(1996年 - 2023年)であった[[チャールズ・マーティネー]]が担当している。
* 『[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]]』(1970年)には、『[[サザエさん]]』『[[カムイ外伝]]』『[[ハレンチ学園]]』といった作品のキャラクターがカメオ出演している。また、シーザー役の[[ハナ肇]]が自身のギャグの「あっと驚くタメゴロー」を披露する場面がある<ref>{{Cite web|和書|title=アニメラマ三部作 [クレオパトラ/解説、ストーリー&スタッフ] |url=https://columbia.jp/dvd/mushipro/animerama/cleoptra_s.html |website=columbia.jp |access-date=2023-07-13}}</ref>。
* 『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』1971年10月3日放送の「謎の訪問者」には、原作者の[[長谷川町子]]が登場した<ref>{{Cite web|和書|title=カスペ! 2013/11/26(火)19:00 の放送内容 ページ2 |url=https://datazoo.jp/ |website=TVでた蔵 |access-date=2023-08-09 |language=ja}}</ref>。
=== 複数メディア ===
* [[スタン・リー]]も[[マーベル・コミック]]の作品の映像化作品においてたびたび端役で出演することで知られており、実写作品や、アニメーション作品(本人に似せたキャラクターで、[[アメリカ英語|原語版]]のCVも担当していた)共々関係なく出演されていた。[[原作]]コミックの中でも例えば『アベンジャーズ・アニュアル』において[[ルーク・ケイジ]]の結婚式の場面で神父役を務めている。なお、スタン・リーはカメオ出演した映画の興行収入が世界一の俳優として、[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref>{{Cite book |和書 |title=ギネス世界記録2015(日本語版) |editor=クレイグ・グレンディ |publisher=角川アスキー総合研究所 |year=2014 |page=165 |isbn=978-4-04-899601-3 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |title=ギネス世界記録2018(日本語版) |editor=クレイグ・グレンディ |publisher=角川アスキー総合研究所 |year=2017 |page=172 |isbn=978-4-04-899609-9 }}</ref>。
* [[漫画家]]の[[島本和彦]]は、自身の作品を原作とする映像作品(アニメの声優や、実写は本人自身が直接出演)や[[コンピュータゲーム]]のCVに度々カメオ出演している。具体例としては、ドラマ『[[アオイホノオ]]』最終話のゲストであるバイク屋の店主役など。2022年に発売・配信された『[[ライブ・ア・ライブ]]』HD-2Dリマスター版の近未来編(島本和彦が登場[[キャラクター]]の[[原画]]を担当)にも出演している。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<ref name="FCGMG">{{Cite book|和書|title=ゴジラ×メカゴジラ|date=2002-12-30|publisher=[[朝日ソノラマ]]|series=[[ファンタスティックコレクション]]|page=73|chapter=ゴジラ×メカゴジラ用語辞典|isbn=4-257-03668-0}}</ref>
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トロリーバス
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トロリーバス (英語: trolleybus, trolley bus, trolley coach)とは、道路上空に張られた架線(架空電車線)から取った電気を動力として走るバスを指す。「トロリー」とは集電装置のこと。外観も操縦法も普通のバスに近い。略してトロバスとも呼ばれ、日本語では無軌条電車(むきじょうでんしゃ、英語: trackless trolley, trackless tram)と訳される。
電気バスも同じく電気で走るが、架線から集電するための「トロリー」がなく、法律上は自動車扱いになることからトロリーバスには含まれない。
トロリーバスは路面電車とバスの長所をもった交通機関で、排気ガスを出さない、軌道を敷設する必要がない、などの長所を持つ。しかし、稀にトロリーポール(集電装置)が架線から外れるトラブルが起こる。架線が分岐・交差する個所ではトラブルが起こりやすく、その手前では減速する必要があり、後続車列で充分な車間距離が保たれていないと交通渋滞を招く。現在は自動車交通量の増加に加え、性能が良いディーゼルエンジンやハイブリッド方式の大型路線バスの出現とともに廃止が進んでおり、日本では市街地を走るトロリーバス路線は全て廃止されている。世界的にはソ連の影響下で都市計画を行った社会主義国・旧社会主義国の都市には今も多く残されている。さらにカナダなどの水力発電による豊富で安価な電力が安定して供給される地域、日本の黒部ダムのような観光地でも利用されている。
給電用の架線が張れない場所で走行するための小排気量の補助エンジンを持つものもある。このエンジンは発電用ではなく、車両を直接推進するために用いられ、日本でもかつて都営トロリーバスで、電化された鉄道の踏切を渡るために使用するものがあった。最近では、ディーゼル発電機を搭載したハイブリッド方式や蓄電池を搭載した車両が開発され、架線がない道路でより長距離を走行できるようなものもある。中国 北京市では、王府井の繁華街の景観対策や長安街の横断対策(建国記念日である国慶節や節目の年には大規模な軍事パレードがあるため、架線を張ることができない)に利用されている。
道路上の架線(トロリーワイヤ = trolley wire)から棹状の集電装置(トロリーポール = trolley pole)を用いて集電して電動機を回し、動力とする。このトロリーから給電を受け走ることから「トロリーバス」と呼ばれる。トロリーポール先端部の架線と接触する部分は、ごく初期においては路面電車と同様な滑車(トロリーホイール = Trolley wheel)が用いられたが、トロリーバスは道路状況によっては架線の直下を大きく外れて走る必要があるため、滑車では架線との角度が大きくなった場合の追従性が不十分であり、U字断面で自由に回転できるスライダー(摺り板)式が開発され、普及した。
タイヤは普通の自動車と同じゴムタイヤである。外観も屋根上のトロリーポール以外は普通のバスとほぼ同じだが、動力源や主制御器は電車に等しい。ただ、普通の電車と違って線路にアースさせることができないため、架線は+と-の2本で、2本のトロリーポールをそれぞれ並行する架線に当てている。
トロリーポールと架線のそれぞれの剛性やトロリーポールの遠心力の問題から、カーブを曲がる時などに速度を出しすぎたり、急カーブを切ろうとすると、しばしばトロリーポールが架線から外れてしまうことがあり、その場合は一旦車両を停止させ、乗務員(運転士や車掌)が車両の後ろに回り、トロリーポールのケーブルを引っぱって、架線にトロリーポールを掛け直す必要がある。架線を外れたポールが跳ね上がって吊線(スパン ワイヤー)を切断することを防止するため、離線時のポールの上昇を防止するキャッチャーや、ぜんまいばねの働きで引きひもを巻き取り、ポールを下降させるリトリーバー(レトリーバー)が車体後部に設けられている。また離線をしなかった場合でも、車線を間違えた場合や、わずかなトロリーポールの揺れ等で、行くべき方向と異なる側の架線に繋がってしまった場合も、手動でトロリーポールを下ろして正規の架線に繋ぎ戻す必要がある。
なお、前述の理由で離線した時に安全で交通の妨げにならない場所まで車両を移動するとき、部分的に架線を取り付けることのできない区間(鉄道の電化区間にある踏切など)を走行するとき、道路工事、事故、火災、災害などで本来の路線の道路が通行止めになった際、一時的に路線外の道路を使用して迂回するときなどのため、補助エンジンやバッテリーを搭載している車両が主流になっている。また、かつては車体の絶縁が不十分であったことから、しばしば漏電を起こして乗客や運転士が感電することもあった。
鉄道における気動車に対する電車の優位性と共通する点が多い。
電動機で走行することは、内燃機関のバスとの比較では上記のような利点があるが、電気を動力とする電気バスとの比較では一部の項目を除き同等である。
総じて、車載バッテリーを主電源とする電気バスの技術向上により、あえて架線から集電する方式のトロリーバスを存続させる意味が希薄化しつつある。
1882年4月29日に、ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスがベルリン郊外のハレンゼー(Halensee)付近で540メートルの区間で運行を開始したのが世界初のトロリーバスとされる("エレクトロモト"の試験運行)。車体は開放式馬車をそのまま用いた形態となっていた。この実験は同年6月13日まで続けられた。この実験の後、1900年に開催されたパリ万博でデモンストレーションを行うなどヨーロッパ各地で実験が行われ、アメリカ合衆国などにも伝わった。集電方式については当初、小さな車輪を架線に載せ、これを柔軟性のある送電線で車体とつないで引っ張りながら走行する方法が採られていたが、後にトロリーポールが使用されるようになった。
世界初の営業運転は1901年7月10日、ドイツ・ドレスデン郊外のケーニッヒシュタインとヒュッテンの間で行われたものとするのが通説であるが、この路線は1904年に廃止され短命に終わっている。このときの車両では前後に並べた2本のトロリーポールで集電を行う方式が採用された。
1900年代初めには各国でトロリーバスの営業が開始されている。
ドイツはトロリーバス発祥の国であり、初めて営業運転が行われた国でもある。ポツダムなどでは現在でも都市交通として活躍している。
1901年7月15日にフォンテーヌブローで路線が開業した。また、1900年代初めにはフランスのリヨンでもトロリーバスが営業を開始した。パリでは1912年に路線が開業している。
1911年に初の営業路線がイングランド北部のリーズとブラッドフォードの間に開業した。イギリスのトロリーバスは2階建て仕様車が多く、かつてはロンドン市内でも2階建てトロリーバスが見られた。しかし、現在は都市交通でのトロリーバスは全廃されている。
1903年、スクラントンにおいて実験的な運行が行われ、1910年にはロサンゼルスで旅客営業が開始された。
アメリカ国内には観光地を中心にトロリーバスまたはトロリーと称するバス(en:Tourist trolley)が多く運行されているが、これらはレトロ調の車体を使用したディーゼルエンジンまたはガソリンエンジンの通常のバスである。
このほかに、現在も、サンフランシスコ、シアトルなどの一部の大都市で架線集電によるトロリーバスの営業運転が行われている。
また、これらの都市での営業運転だけでなく、イリノイ鉄道博物館(英語版)などのように旧型のトロリーバスの動態保存に取り組んでいる団体もある。
ロシアの首都モスクワは路線延長1251キロメートル、保有車両1,851両で、年間6億5千万人を輸送する世界最大のトロリーバス都市であったが、2020年8月末日をもって事実上の廃止となった。廃止の理由は、電気バスへの移行と利便性の向上のためとされているが、明確な理由は明らかにされておらず、一部の住民はモスクワ市長の利権がらみとして反発している。
旧ソビエト連邦などでは貨物運送目的のトロリートラックが採用されている例がある。
1912年(明治45年)には東京市電気局によってトロリーバスの実験車両が試作され、4月11日に浜松町の工場から数寄屋橋車庫まで運転された。また、1926年(大正15年)には日立製作所がフォード製の自動車を改造し、三相交流式のトロリーバスを試作している。
日本におけるトロリーバスの初めての営業運転は、1928年(昭和3年)8月1日に阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)花屋敷駅(現在は雲雀丘駅と統合されて雲雀丘花屋敷駅)と新花屋敷(現在の川西市満願寺町あたり)の間1.3キロメートルを結ぶ区間で運行を開始した日本無軌道電車とされる。当時この付近では温泉が湧いており、それを開発した温泉宿・遊園地へのアクセス路線として、当時のバス(ガソリンエンジン)では登坂不可能な急勾配を越えるためのものだった。しかし業績は思わしくなく、1932年(昭和7年)1月に休業、同年4月には廃止され、開業後わずか4年弱という短命に終わった。
都市交通機関として初めて開業したのは、1932年の京都市電気局(後、京都市交通局)の京都市営トロリーバスである。その後1943年(昭和18年)に名古屋市交通局の名古屋市営トロリーバスが開業するまで、この路線が日本唯一のトロリーバス路線であった。
戦後になっていくつかの大都市にトロリーバス路線が開業した。その背景には、当時の内燃機関バスは大型化には対応していたが、依然として出力性能が低く頻繁な整備が必要な上、騒音や振動にも改善の必要がある状況だったため、電車の技術を応用して車体の大型化に対応できるトロリーバスに期待が集まったこと、また路面電車に比べて建設費が1/3で済むことなどがあった。しかし架線下しか走れないこと、モータリゼーションによる自動車の増加で道路混雑が激化したため定時運行が困難になったこと、また性能の良いエンジンを持った大型バスの開発が進んだことなどから、1960年代後半から1970年代初めにかけて順次廃止されていった。
都市型トロリーバスで最後に開業・廃止されたのは横浜市交通局の横浜市営トロリーバスで、1959年開業、1972年廃止である。路線バスに比べて車両の費用が高く、また他都市のほとんどのトロリーバスが廃止されたため車両新造や部品調達に支障をきたすこと、横浜市交通局が財政再建団体に指定されたことにより廃止される横浜市電と共用の変電所を単独で維持することが難しいことなどの理由により、市電と同時に廃止された。
一方、1964年には関西電力が黒部峡谷(富山県)に建設した関電トンネルで関電トンネルトロリーバス(黒部ダム駅 - 扇沢駅)の運行を開始。日本から都市交通としてのトロリーバスが消滅したあとも運行を継続し、長きにわたり日本唯一のトロリーバスとして知られた。そして1996年には関電トンネルトロリーバスと同じく立山黒部アルペンルートを構成する立山黒部貫光がそれまでのディーゼルバスから転換し立山トンネルトロリーバス(室堂駅 - 大観峰駅)の運行を開始した。これは同路線の全区間がトンネルであるため換気に困難を伴うことと、周辺が国立公園内であることによる自然環境への配慮から、関電トンネルトロリーバスに倣って排気ガスを出さないトロリーバスに置き換えられたものである。その後、関電トンネルトロリーバスは2018年11月30日にて運行を終了して電気バスに置き換えられ、2018年12月以降は立山トンネルトロリーバスが日本における唯一のトロリーバスとなっているが、2024年11月30日をもって運行を終了することが予定されており、日本のトロリーバスは全廃となる見通しである。
日本の法令上は無軌条電車(むきじょうでんしゃ)とされ、鉄道の一種として扱われている。かつては無軌道電車(むきどうでんしゃ)と呼ばれていたが、「無軌道」には「常軌を逸した」という意味もあり悪い印象を与えるとして「無軌条電車」に改められた。1947年(昭和22年)以降、法規上は無軌条電車という鉄道の一種に分類され、軌道法または鉄道事業法が適用される。無軌条電車運転規則のほか、路線が公道上なら道路交通法に則って運行される。
運転士は大型二種免許に加え、動力車操縦者運転免許(無軌条電車運転免許)も取得しなければならない。大型二種運転免許を保持している者に対しては、無軌条電車運転免許の技能試験以外の試験が免除される(かつては試験すべてが免除されたが、2009年(平成21年)の省令改正により技能試験は免除対象外となった)。なお2001年に開業したバス車両を利用した案内軌条式鉄道(ガイドウェイバス)である名古屋ガイドウェイバスも「電気車」ではないが、法規上はこれらに分類されている。
公道上を走るトロリーバスは道路交通法の適用を受け、信号機や横断歩道などの規制の適用を受ける。ただし、分類としてはトロリーバスは同法の自動車には含まれず、同法の車両には含まれる。
一方でトロリーバスは公道を走る車両であっても道路運送車両法の規制は受けない。従って陸運局(当時)への登録、自賠責保険および車検は不要であり、(自動車としての)ナンバープレートも付いていない。
軌道法または鉄道事業法適用のトロリーバス(無軌条電車)路線は、下記の1路線のみが現存している。
狭義のトロリーバス(無軌条電車)は以上の路線のみとなるが、ラクテンチ(大分県別府市・2009年7月18日の新装開園からの運行開始、2022年廃止)、雲仙ゴルフ場(長崎県雲仙市)、ナゴパイナップルパーク(沖縄県名護市)の「パイナップル号」(1989年頃運行開始)、古宇利島オーシャンタワー(沖縄県今帰仁村古宇利島、2013年11月23日開業・運行開始)の電動カート、とまいぱり(宮古島熱帯果樹園・沖縄県宮古島市、2013年11月17日開業・運行開始)の「トロピカルガイドツアー」はいずれも自動操縦ゴルフカートの一種(電磁誘導カート)であり、車載バッテリーと電動機で走行する点はトロリーバスと同様だが、架線からの集電は行わず、施設内の遊戯施設扱いであり軌道法・鉄道事業法に基づく路線でもないため、通常はトロリーバス路線に含まれることはない。
また、過去に正規のトロリーバス運行実績が無い地域を含めた日本全国各地でも、公道で上述の電磁誘導カートを用いた実験運転が実施されている。
これらについても、架線からの集電は行わず、自家用有償旅客運送制度の活用を念頭に置いた社会実験であり、軌道法・鉄道事業法に基づく路線でもないため、通常はトロリーバス路線に含まれることはない。
現在はバス低床化が進んでおり、イリスバス社のCristalisなどのようにインホイールモーターを用いたノンステップ車が開発されている。
また、景観上の問題その他で架線の張れない区間用に新しいデュアルモード車も開発されている。ディーゼル 発電機を搭載したトロリー給電とのハイブリッド型やバッテリー技術の向上による蓄電池を搭載した車両が開発され、架線のない道路でより長距離を走行できるようになった。ディーゼル発電機を搭載したハイブリッドトロリーバスは、ニュージーランドやアメリカ ボストンのシルバーラインで採用されているネオプラン社製のものや、主にフランスで採用されているイリスバス社製のCristalisがある。中国ではバス停に併設された給電軌条にパンタグラフを押しつけてバス停で電池に充電する車両が実用化されている。イタリアでは一時期磁力ピックアップ方式による路面給電式のトロリーバス (Stream) が試験運転されたが、こちらは成績が芳しくなく本格採用には至っていない。ローマのトロリーバスは、終端のテルミニ駅付近の往復3キロメートルに架線が張られておらずバッテリーで走行している。
もう一つの技術革新は、ハンドル操作が不要のガイドウェイ技術の導入である。ドイツで一時期運行されていたローラー式に代わって、21世紀初頭には非接触のガイドウェイ式トロリーバスが試作されている。代表的なものは、光学式と磁力式である。光学式は地面にペイントされた白線をカメラで読み取って操舵するものである。磁力式は地面に埋め込んだ磁石を頼りに操舵するものである。前者はイリスバスのCIVISなど、後者はオランダのPhileasで採用されている。CIVIS・Phileasともに電気駆動のハイブリッドバスとして設計されており、トロリー給電のほか、ディーゼル発電のバスとして走行することも可能である。なお、CIVISはディーゼル発電のみのバス仕様のものしか採用されていない。
フランスのナンシーではボンバルディア・トランスポーテーションが開発した“TVR”というシステムのゴムタイヤトラムが採用されている。これは一本の案内レールに沿ってゴムタイヤで走行する路面電車に近いものだが、一部区間は案内レールがなくトロリーバスのような走行をしている。ただし、案内レールへの接続トラブルが頻発したため、TVRはナンシーとカーンの2都市のみの採用に留まっている。また、ガイドレールのカーブ区間で脱輪する事故が相次ぐなど、高速走行ができないという欠点も指摘されている。
また、近年普及しているハイブリッドバスの技術開発はトロリーバスにも大きな影響を与えているが、特にトロリーバスへのディーゼル発電機やバッテリーの搭載は、ハイブリッドバスや非接触充電式のバッテリーのみで走行するバスに比べ、頻繁な充放電による電池の劣化が少なく電池交換のコストが低い点で評価できる。
東南アジアでは唯一シンガポールで運行されていたが(「シンガポールのトロリーバス」を参照)、1962年に廃止された。韓国には(狭義の)トロリーバスはないが、ソウル近郊のソウル大公園に(走行中に外部から給電するという点でトロリーバスと類似する)オンライン電気自動車の「ぞう列車」が運行されている。アジア太平洋では(狭義の)トロリーバスが廃止傾向にある。その一方で、変種に当たる電磁走行カートやオンライン電気自動車の運行が始まっている。
なお、中国ではトロリーバスのことを「無軌電車」または単に「電車」という。
北朝鮮の標準語(文化語)では「無軌道電車」(무궤도 전차、ムグェドジョンチャ、Mugwedo jŏncha)という(韓国側では「トロリーバス」(트롤리버스、トゥロルリボス、Teurolli beoseu))。
ロシア国内ではこのほかの多くの都市でもトロリーバスが運行されている。
スイス国内ではこのほかの都市でもトロリーバスが運行されている。
など。
など。
など。
など。
など。
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[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "トロリーバス (英語: trolleybus, trolley bus, trolley coach)とは、道路上空に張られた架線(架空電車線)から取った電気を動力として走るバスを指す。「トロリー」とは集電装置のこと。外観も操縦法も普通のバスに近い。略してトロバスとも呼ばれ、日本語では無軌条電車(むきじょうでんしゃ、英語: trackless trolley, trackless tram)と訳される。",
"title": null
},
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"paragraph_id": 1,
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"text": "電気バスも同じく電気で走るが、架線から集電するための「トロリー」がなく、法律上は自動車扱いになることからトロリーバスには含まれない。",
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},
{
"paragraph_id": 2,
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"text": "トロリーバスは路面電車とバスの長所をもった交通機関で、排気ガスを出さない、軌道を敷設する必要がない、などの長所を持つ。しかし、稀にトロリーポール(集電装置)が架線から外れるトラブルが起こる。架線が分岐・交差する個所ではトラブルが起こりやすく、その手前では減速する必要があり、後続車列で充分な車間距離が保たれていないと交通渋滞を招く。現在は自動車交通量の増加に加え、性能が良いディーゼルエンジンやハイブリッド方式の大型路線バスの出現とともに廃止が進んでおり、日本では市街地を走るトロリーバス路線は全て廃止されている。世界的にはソ連の影響下で都市計画を行った社会主義国・旧社会主義国の都市には今も多く残されている。さらにカナダなどの水力発電による豊富で安価な電力が安定して供給される地域、日本の黒部ダムのような観光地でも利用されている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 3,
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"text": "給電用の架線が張れない場所で走行するための小排気量の補助エンジンを持つものもある。このエンジンは発電用ではなく、車両を直接推進するために用いられ、日本でもかつて都営トロリーバスで、電化された鉄道の踏切を渡るために使用するものがあった。最近では、ディーゼル発電機を搭載したハイブリッド方式や蓄電池を搭載した車両が開発され、架線がない道路でより長距離を走行できるようなものもある。中国 北京市では、王府井の繁華街の景観対策や長安街の横断対策(建国記念日である国慶節や節目の年には大規模な軍事パレードがあるため、架線を張ることができない)に利用されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "道路上の架線(トロリーワイヤ = trolley wire)から棹状の集電装置(トロリーポール = trolley pole)を用いて集電して電動機を回し、動力とする。このトロリーから給電を受け走ることから「トロリーバス」と呼ばれる。トロリーポール先端部の架線と接触する部分は、ごく初期においては路面電車と同様な滑車(トロリーホイール = Trolley wheel)が用いられたが、トロリーバスは道路状況によっては架線の直下を大きく外れて走る必要があるため、滑車では架線との角度が大きくなった場合の追従性が不十分であり、U字断面で自由に回転できるスライダー(摺り板)式が開発され、普及した。",
"title": "構造"
},
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"text": "タイヤは普通の自動車と同じゴムタイヤである。外観も屋根上のトロリーポール以外は普通のバスとほぼ同じだが、動力源や主制御器は電車に等しい。ただ、普通の電車と違って線路にアースさせることができないため、架線は+と-の2本で、2本のトロリーポールをそれぞれ並行する架線に当てている。",
"title": "構造"
},
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"paragraph_id": 6,
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"text": "トロリーポールと架線のそれぞれの剛性やトロリーポールの遠心力の問題から、カーブを曲がる時などに速度を出しすぎたり、急カーブを切ろうとすると、しばしばトロリーポールが架線から外れてしまうことがあり、その場合は一旦車両を停止させ、乗務員(運転士や車掌)が車両の後ろに回り、トロリーポールのケーブルを引っぱって、架線にトロリーポールを掛け直す必要がある。架線を外れたポールが跳ね上がって吊線(スパン ワイヤー)を切断することを防止するため、離線時のポールの上昇を防止するキャッチャーや、ぜんまいばねの働きで引きひもを巻き取り、ポールを下降させるリトリーバー(レトリーバー)が車体後部に設けられている。また離線をしなかった場合でも、車線を間違えた場合や、わずかなトロリーポールの揺れ等で、行くべき方向と異なる側の架線に繋がってしまった場合も、手動でトロリーポールを下ろして正規の架線に繋ぎ戻す必要がある。",
"title": "構造"
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "なお、前述の理由で離線した時に安全で交通の妨げにならない場所まで車両を移動するとき、部分的に架線を取り付けることのできない区間(鉄道の電化区間にある踏切など)を走行するとき、道路工事、事故、火災、災害などで本来の路線の道路が通行止めになった際、一時的に路線外の道路を使用して迂回するときなどのため、補助エンジンやバッテリーを搭載している車両が主流になっている。また、かつては車体の絶縁が不十分であったことから、しばしば漏電を起こして乗客や運転士が感電することもあった。",
"title": "構造"
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"text": "鉄道における気動車に対する電車の優位性と共通する点が多い。",
"title": "類似交通機関との比較"
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"text": "電動機で走行することは、内燃機関のバスとの比較では上記のような利点があるが、電気を動力とする電気バスとの比較では一部の項目を除き同等である。",
"title": "類似交通機関との比較"
},
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"tag": "p",
"text": "総じて、車載バッテリーを主電源とする電気バスの技術向上により、あえて架線から集電する方式のトロリーバスを存続させる意味が希薄化しつつある。",
"title": "類似交通機関との比較"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "1882年4月29日に、ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスがベルリン郊外のハレンゼー(Halensee)付近で540メートルの区間で運行を開始したのが世界初のトロリーバスとされる(\"エレクトロモト\"の試験運行)。車体は開放式馬車をそのまま用いた形態となっていた。この実験は同年6月13日まで続けられた。この実験の後、1900年に開催されたパリ万博でデモンストレーションを行うなどヨーロッパ各地で実験が行われ、アメリカ合衆国などにも伝わった。集電方式については当初、小さな車輪を架線に載せ、これを柔軟性のある送電線で車体とつないで引っ張りながら走行する方法が採られていたが、後にトロリーポールが使用されるようになった。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"text": "世界初の営業運転は1901年7月10日、ドイツ・ドレスデン郊外のケーニッヒシュタインとヒュッテンの間で行われたものとするのが通説であるが、この路線は1904年に廃止され短命に終わっている。このときの車両では前後に並べた2本のトロリーポールで集電を行う方式が採用された。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "1900年代初めには各国でトロリーバスの営業が開始されている。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "ドイツはトロリーバス発祥の国であり、初めて営業運転が行われた国でもある。ポツダムなどでは現在でも都市交通として活躍している。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1901年7月15日にフォンテーヌブローで路線が開業した。また、1900年代初めにはフランスのリヨンでもトロリーバスが営業を開始した。パリでは1912年に路線が開業している。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1911年に初の営業路線がイングランド北部のリーズとブラッドフォードの間に開業した。イギリスのトロリーバスは2階建て仕様車が多く、かつてはロンドン市内でも2階建てトロリーバスが見られた。しかし、現在は都市交通でのトロリーバスは全廃されている。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
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"text": "1903年、スクラントンにおいて実験的な運行が行われ、1910年にはロサンゼルスで旅客営業が開始された。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
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"text": "アメリカ国内には観光地を中心にトロリーバスまたはトロリーと称するバス(en:Tourist trolley)が多く運行されているが、これらはレトロ調の車体を使用したディーゼルエンジンまたはガソリンエンジンの通常のバスである。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"text": "このほかに、現在も、サンフランシスコ、シアトルなどの一部の大都市で架線集電によるトロリーバスの営業運転が行われている。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"text": "また、これらの都市での営業運転だけでなく、イリノイ鉄道博物館(英語版)などのように旧型のトロリーバスの動態保存に取り組んでいる団体もある。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"text": "ロシアの首都モスクワは路線延長1251キロメートル、保有車両1,851両で、年間6億5千万人を輸送する世界最大のトロリーバス都市であったが、2020年8月末日をもって事実上の廃止となった。廃止の理由は、電気バスへの移行と利便性の向上のためとされているが、明確な理由は明らかにされておらず、一部の住民はモスクワ市長の利権がらみとして反発している。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"text": "旧ソビエト連邦などでは貨物運送目的のトロリートラックが採用されている例がある。",
"title": "歴史及び現況"
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"text": "1912年(明治45年)には東京市電気局によってトロリーバスの実験車両が試作され、4月11日に浜松町の工場から数寄屋橋車庫まで運転された。また、1926年(大正15年)には日立製作所がフォード製の自動車を改造し、三相交流式のトロリーバスを試作している。",
"title": "歴史及び現況"
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"text": "日本におけるトロリーバスの初めての営業運転は、1928年(昭和3年)8月1日に阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)花屋敷駅(現在は雲雀丘駅と統合されて雲雀丘花屋敷駅)と新花屋敷(現在の川西市満願寺町あたり)の間1.3キロメートルを結ぶ区間で運行を開始した日本無軌道電車とされる。当時この付近では温泉が湧いており、それを開発した温泉宿・遊園地へのアクセス路線として、当時のバス(ガソリンエンジン)では登坂不可能な急勾配を越えるためのものだった。しかし業績は思わしくなく、1932年(昭和7年)1月に休業、同年4月には廃止され、開業後わずか4年弱という短命に終わった。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"text": "都市交通機関として初めて開業したのは、1932年の京都市電気局(後、京都市交通局)の京都市営トロリーバスである。その後1943年(昭和18年)に名古屋市交通局の名古屋市営トロリーバスが開業するまで、この路線が日本唯一のトロリーバス路線であった。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "戦後になっていくつかの大都市にトロリーバス路線が開業した。その背景には、当時の内燃機関バスは大型化には対応していたが、依然として出力性能が低く頻繁な整備が必要な上、騒音や振動にも改善の必要がある状況だったため、電車の技術を応用して車体の大型化に対応できるトロリーバスに期待が集まったこと、また路面電車に比べて建設費が1/3で済むことなどがあった。しかし架線下しか走れないこと、モータリゼーションによる自動車の増加で道路混雑が激化したため定時運行が困難になったこと、また性能の良いエンジンを持った大型バスの開発が進んだことなどから、1960年代後半から1970年代初めにかけて順次廃止されていった。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
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"text": "都市型トロリーバスで最後に開業・廃止されたのは横浜市交通局の横浜市営トロリーバスで、1959年開業、1972年廃止である。路線バスに比べて車両の費用が高く、また他都市のほとんどのトロリーバスが廃止されたため車両新造や部品調達に支障をきたすこと、横浜市交通局が財政再建団体に指定されたことにより廃止される横浜市電と共用の変電所を単独で維持することが難しいことなどの理由により、市電と同時に廃止された。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"paragraph_id": 28,
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"text": "一方、1964年には関西電力が黒部峡谷(富山県)に建設した関電トンネルで関電トンネルトロリーバス(黒部ダム駅 - 扇沢駅)の運行を開始。日本から都市交通としてのトロリーバスが消滅したあとも運行を継続し、長きにわたり日本唯一のトロリーバスとして知られた。そして1996年には関電トンネルトロリーバスと同じく立山黒部アルペンルートを構成する立山黒部貫光がそれまでのディーゼルバスから転換し立山トンネルトロリーバス(室堂駅 - 大観峰駅)の運行を開始した。これは同路線の全区間がトンネルであるため換気に困難を伴うことと、周辺が国立公園内であることによる自然環境への配慮から、関電トンネルトロリーバスに倣って排気ガスを出さないトロリーバスに置き換えられたものである。その後、関電トンネルトロリーバスは2018年11月30日にて運行を終了して電気バスに置き換えられ、2018年12月以降は立山トンネルトロリーバスが日本における唯一のトロリーバスとなっているが、2024年11月30日をもって運行を終了することが予定されており、日本のトロリーバスは全廃となる見通しである。",
"title": "歴史及び現況"
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{
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"text": "日本の法令上は無軌条電車(むきじょうでんしゃ)とされ、鉄道の一種として扱われている。かつては無軌道電車(むきどうでんしゃ)と呼ばれていたが、「無軌道」には「常軌を逸した」という意味もあり悪い印象を与えるとして「無軌条電車」に改められた。1947年(昭和22年)以降、法規上は無軌条電車という鉄道の一種に分類され、軌道法または鉄道事業法が適用される。無軌条電車運転規則のほか、路線が公道上なら道路交通法に則って運行される。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "運転士は大型二種免許に加え、動力車操縦者運転免許(無軌条電車運転免許)も取得しなければならない。大型二種運転免許を保持している者に対しては、無軌条電車運転免許の技能試験以外の試験が免除される(かつては試験すべてが免除されたが、2009年(平成21年)の省令改正により技能試験は免除対象外となった)。なお2001年に開業したバス車両を利用した案内軌条式鉄道(ガイドウェイバス)である名古屋ガイドウェイバスも「電気車」ではないが、法規上はこれらに分類されている。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "公道上を走るトロリーバスは道路交通法の適用を受け、信号機や横断歩道などの規制の適用を受ける。ただし、分類としてはトロリーバスは同法の自動車には含まれず、同法の車両には含まれる。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "一方でトロリーバスは公道を走る車両であっても道路運送車両法の規制は受けない。従って陸運局(当時)への登録、自賠責保険および車検は不要であり、(自動車としての)ナンバープレートも付いていない。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "軌道法または鉄道事業法適用のトロリーバス(無軌条電車)路線は、下記の1路線のみが現存している。",
"title": "歴史及び現況"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "狭義のトロリーバス(無軌条電車)は以上の路線のみとなるが、ラクテンチ(大分県別府市・2009年7月18日の新装開園からの運行開始、2022年廃止)、雲仙ゴルフ場(長崎県雲仙市)、ナゴパイナップルパーク(沖縄県名護市)の「パイナップル号」(1989年頃運行開始)、古宇利島オーシャンタワー(沖縄県今帰仁村古宇利島、2013年11月23日開業・運行開始)の電動カート、とまいぱり(宮古島熱帯果樹園・沖縄県宮古島市、2013年11月17日開業・運行開始)の「トロピカルガイドツアー」はいずれも自動操縦ゴルフカートの一種(電磁誘導カート)であり、車載バッテリーと電動機で走行する点はトロリーバスと同様だが、架線からの集電は行わず、施設内の遊戯施設扱いであり軌道法・鉄道事業法に基づく路線でもないため、通常はトロリーバス路線に含まれることはない。",
"title": "歴史及び現況"
},
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"paragraph_id": 35,
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"text": "また、過去に正規のトロリーバス運行実績が無い地域を含めた日本全国各地でも、公道で上述の電磁誘導カートを用いた実験運転が実施されている。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "これらについても、架線からの集電は行わず、自家用有償旅客運送制度の活用を念頭に置いた社会実験であり、軌道法・鉄道事業法に基づく路線でもないため、通常はトロリーバス路線に含まれることはない。",
"title": "歴史及び現況"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "現在はバス低床化が進んでおり、イリスバス社のCristalisなどのようにインホイールモーターを用いたノンステップ車が開発されている。",
"title": "歴史及び現況"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "また、景観上の問題その他で架線の張れない区間用に新しいデュアルモード車も開発されている。ディーゼル 発電機を搭載したトロリー給電とのハイブリッド型やバッテリー技術の向上による蓄電池を搭載した車両が開発され、架線のない道路でより長距離を走行できるようになった。ディーゼル発電機を搭載したハイブリッドトロリーバスは、ニュージーランドやアメリカ ボストンのシルバーラインで採用されているネオプラン社製のものや、主にフランスで採用されているイリスバス社製のCristalisがある。中国ではバス停に併設された給電軌条にパンタグラフを押しつけてバス停で電池に充電する車両が実用化されている。イタリアでは一時期磁力ピックアップ方式による路面給電式のトロリーバス (Stream) が試験運転されたが、こちらは成績が芳しくなく本格採用には至っていない。ローマのトロリーバスは、終端のテルミニ駅付近の往復3キロメートルに架線が張られておらずバッテリーで走行している。",
"title": "歴史及び現況"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "もう一つの技術革新は、ハンドル操作が不要のガイドウェイ技術の導入である。ドイツで一時期運行されていたローラー式に代わって、21世紀初頭には非接触のガイドウェイ式トロリーバスが試作されている。代表的なものは、光学式と磁力式である。光学式は地面にペイントされた白線をカメラで読み取って操舵するものである。磁力式は地面に埋め込んだ磁石を頼りに操舵するものである。前者はイリスバスのCIVISなど、後者はオランダのPhileasで採用されている。CIVIS・Phileasともに電気駆動のハイブリッドバスとして設計されており、トロリー給電のほか、ディーゼル発電のバスとして走行することも可能である。なお、CIVISはディーゼル発電のみのバス仕様のものしか採用されていない。",
"title": "歴史及び現況"
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"text": "フランスのナンシーではボンバルディア・トランスポーテーションが開発した“TVR”というシステムのゴムタイヤトラムが採用されている。これは一本の案内レールに沿ってゴムタイヤで走行する路面電車に近いものだが、一部区間は案内レールがなくトロリーバスのような走行をしている。ただし、案内レールへの接続トラブルが頻発したため、TVRはナンシーとカーンの2都市のみの採用に留まっている。また、ガイドレールのカーブ区間で脱輪する事故が相次ぐなど、高速走行ができないという欠点も指摘されている。",
"title": "歴史及び現況"
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"text": "また、近年普及しているハイブリッドバスの技術開発はトロリーバスにも大きな影響を与えているが、特にトロリーバスへのディーゼル発電機やバッテリーの搭載は、ハイブリッドバスや非接触充電式のバッテリーのみで走行するバスに比べ、頻繁な充放電による電池の劣化が少なく電池交換のコストが低い点で評価できる。",
"title": "歴史及び現況"
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"text": "東南アジアでは唯一シンガポールで運行されていたが(「シンガポールのトロリーバス」を参照)、1962年に廃止された。韓国には(狭義の)トロリーバスはないが、ソウル近郊のソウル大公園に(走行中に外部から給電するという点でトロリーバスと類似する)オンライン電気自動車の「ぞう列車」が運行されている。アジア太平洋では(狭義の)トロリーバスが廃止傾向にある。その一方で、変種に当たる電磁走行カートやオンライン電気自動車の運行が始まっている。",
"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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"text": "なお、中国ではトロリーバスのことを「無軌電車」または単に「電車」という。",
"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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"text": "北朝鮮の標準語(文化語)では「無軌道電車」(무궤도 전차、ムグェドジョンチャ、Mugwedo jŏncha)という(韓国側では「トロリーバス」(트롤리버스、トゥロルリボス、Teurolli beoseu))。",
"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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"text": "ロシア国内ではこのほかの多くの都市でもトロリーバスが運行されている。",
"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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"text": "スイス国内ではこのほかの都市でもトロリーバスが運行されている。",
"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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"text": "など。",
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"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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"title": "トロリーバスが存在する主な都市"
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トロリーバス とは、道路上空に張られた架線(架空電車線)から取った電気を動力として走るバスを指す。「トロリー」とは集電装置のこと。外観も操縦法も普通のバスに近い。略してトロバスとも呼ばれ、日本語では無軌条電車と訳される。 電気バスも同じく電気で走るが、架線から集電するための「トロリー」がなく、法律上は自動車扱いになることからトロリーバスには含まれない。
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{{右|
[[File:Vancouver trolley2101 050720.jpg|225px|thumb|none|[[カナダ]]、[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]のトロリーバス。写真は、試験走行中のもの。]]
[[File:Dsolaris.jpg|225px|thumb|none|[[ハンガリー]]、[[デブレツェン]]市の低床トロリーバス]]
[[File:Trolejbus jelcz 120m.jpg|225px|thumb|none|[[ポーランド]]、[[グディニャ]]市を走る旧式のトロリーバス。バス上部の2本の棹のような物がトロリーポール。]]
[[File:In front of Pyongyang Station DPRK.jpg|225px|thumb|none|[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[平壌駅]]前のターミナルを走るトロリーバス]]
}}
[[ファイル:Trólebus de SP nos anos 90.png|サムネイル|[[サンパウロ]]のトロリーバスは、1990年代に解体されて代替車に交換されるまで使用されていた。一部は保存され、その他は[[サンパウロ|SP]]の首都の南で稼働していた。]]
'''トロリーバス''' ({{Lang-en|trolleybus, trolley bus, trolley coach}})とは、道路上空に張られた[[架線]]([[架空電車線方式|架空電車線]])から取った[[電気]]を[[動力]]として走る[[バス (交通機関)|バス]]を指す。「トロリー」とは[[集電装置]]のこと。[[外観]]も[[操縦]]法も普通のバスに近い。略して'''トロバス'''とも呼ばれ、日本語では'''無軌条電車'''(むきじょうでんしゃ、{{Lang-en|trackless trolley, trackless tram}})と訳される。
[[電気バス]]も同じく電気で走るが、架線から集電するための「トロリー」がなく、法律上は自動車扱いになることからトロリーバスには含まれない。
== 概要 ==
[[File:Catenaryswitch.jpg|thumb|200px|架線交差部を通過するトロリーバス([[チェコ]]、2006年)]]
トロリーバスは[[路面電車]]とバスの長所をもった交通機関で、[[排気ガス]]を出さない、[[軌道 (鉄道)|軌道]]を敷設する必要がない、などの長所を持つ。しかし、稀にトロリーポール(集電装置)が架線から外れるトラブルが起こる。架線が分岐・交差する個所ではトラブルが起こりやすく、その手前では減速する必要があり、後続車列で充分な車間距離が保たれていないと[[渋滞|交通渋滞]]を招く{{efn|一時減速は渋滞の引き金になるとされる。「[[渋滞#渋滞の原因]]」参照。}}。現在は自動車交通量の増加に加え、性能が良い[[ディーゼルエンジン]]や[[ハイブリッドカー|ハイブリッド方式]]の大型[[路線バス]]の出現とともに廃止が進んでおり、日本では市街地を走るトロリーバス路線は全て廃止されている。世界的には[[ソ連]]の影響下で都市計画を行った[[社会主義国]]・旧社会主義国の都市には今も多く残されている。さらに[[カナダ]]などの[[水力発電]]による豊富で安価な電力が安定して供給される地域、日本の黒部ダムのような観光地でも利用されている。
給電用の架線が張れない場所で走行するための小[[排気量]]の補助エンジンを持つものもある。このエンジンは発電用ではなく、車両を直接推進するために用いられ、日本でもかつて[[都営トロリーバス]]で、[[鉄道の電化|電化]]された鉄道の[[踏切]]を渡るために使用するものがあった。最近では、[[ディーゼル]][[発電機]]を搭載したハイブリッド方式や[[二次電池|蓄電池]]を搭載した車両が開発され、架線がない道路でより長距離を走行できるようなものもある。[[中華人民共和国|中国]] [[北京市]]では、[[王府井]]の繁華街の景観対策や[[長安街]]の横断対策([[建国記念日]]である[[国慶節]]や節目の年には大規模な[[観兵式|軍事パレード]]があるため、架線を張ることができない)に利用されている。
== 構造 ==
[[File:Belgrade Bus.jpg|225px|thumb|right|トロリーバスの後部。リトリーバーが設けられている([[セルビア]]、[[GSPベオグラード]]の車両)。]]
[[File:Trolleybus Driver Adjusting Trolley Pole (cropped).jpg|thumb|200px|外れたトロリーポールを接続しなおす運転手([[北京市]]、2011年)]]
道路上の架線(トロリーワイヤ = trolley wire)から棹状の[[集電装置]](トロリーポール = trolley pole)を用いて集電して[[電動機]]を回し、動力とする。このトロリーから給電を受け走ることから「トロリーバス」と呼ばれる。トロリーポール先端部の架線と接触する部分は、ごく初期においては路面電車と同様な[[滑車]](トロリーホイール = Trolley wheel)が用いられたが、トロリーバスは道路状況によっては架線の直下を大きく外れて走る必要があるため、滑車では架線との角度が大きくなった場合の追従性が不十分であり、U字断面で自由に回転できるスライダー(摺り板)式が開発され、普及した。
[[タイヤ]]は普通の[[自動車]]と同じゴムタイヤである。外観も屋根上のトロリーポール以外は普通のバスとほぼ同じ{{efn|トロリーバスの車体は完全な箱型であり、内燃車で[[ボンネットバス]]が主流であった時代には外観は大きく異なるものであった。また、内燃車がボンネットのない[[キャブオーバー]]や[[リアエンジン]]に移行した後も、内燃車には[[ラジエーター]]のための大きな開口部があったことから、やはりトロリーバスの外観とは差異があった。}}だが、[[動力]]源や[[主制御器]]は電車に等しい。ただ、普通の電車と違って[[線路 (鉄道)|線路]]に[[接地|アース]]させることができないため、架線は+と-の2本で、2本のトロリーポールをそれぞれ並行する架線に当てている。
トロリーポールと架線のそれぞれの[[剛性]]やトロリーポールの[[遠心力]]の問題から、カーブを曲がる時などに速度を出しすぎたり、急カーブを切ろうとすると、しばしばトロリーポールが架線から外れてしまうことがあり、その場合は一旦車両を停止させ、乗務員([[運転士]]や[[車掌]])が車両の後ろに回り、トロリーポールのケーブルを引っぱって、架線にトロリーポールを掛け直す必要がある。架線を外れたポールが跳ね上がって吊線(スパン ワイヤー)を切断することを防止するため、[[離線]]時のポールの上昇を防止するキャッチャーや、[[ぜんまい]]ばねの働きで引きひもを巻き取り、ポールを下降させるリトリーバー(レトリーバー)<ref>[https://ejje.weblio.jp/content/retriever retriever] - [[Weblio]](更新日不明)2018年10月18日閲覧</ref>が車体後部に設けられている。また離線をしなかった場合でも、車線を間違えた場合や、わずかなトロリーポールの揺れ等で、行くべき方向と異なる側の架線に繋がってしまった場合も、手動でトロリーポールを下ろして正規の架線に繋ぎ戻す必要がある。
なお、前述の理由で離線した時に安全で交通の妨げにならない場所まで車両を移動するとき、部分的に架線を取り付けることのできない区間(鉄道の[[鉄道の電化|電化]]区間にある[[踏切]]など)を走行するとき、道路工事、[[事故]]、[[火災]]、[[災害]]などで本来の路線の道路が通行止めになった際、一時的に路線外の道路を使用して迂回するときなどのため、補助エンジンや[[二次電池|バッテリー]]を搭載している車両が主流になっている。また、かつては車体の[[絶縁 (電気)|絶縁]]が不十分であったことから、しばしば[[漏電]]を起こして乗客や運転士が[[感電]]することもあった。
== 類似交通機関との比較 ==
=== 鉄輪式の路面電車との比較 ===
==== 長所 ====
* 軌道が必要ない。
** その建設やメンテナンスが不要。
** 他の乗り物にとって邪魔な段差が無い。
* ある程度障害物を避けられる。
* 前輪の方向を変えて曲がる([[ステアリング]])ため、急カーブでも走行できる。
* ゴム製タイヤで走行する利点。
** 沿線への振動や騒音が少ない。
** 急[[線形 (路線)#勾配|勾配]]の斜面も登れる。
** 路面との[[摩擦係数]]が大きく加減速性能がよい。
==== 短所 ====
* タイヤがゴム製であり、[[転がり抵抗]]が大きいため、[[消費電力]]が多い。
* [[トロリーポール]]集電のため電車線分岐・収束部の構造が路面電車より複雑で、故障やポール逸脱も起きやすい。
* ゴム製のタイヤのため、鉄輪に比べ磨耗が激しく、比較的頻繁に交換しなければならない。
* 鉄製レールが地面に設置している鉄輪式と異なり、アース対策が別途必要となる。
* 道路が直線的かつ広大でない場合、後部がはみ出る危険があり長編成化に限度がある。
=== バス(動力源内蔵)との比較 ===
==== 長所 ====
鉄道における気動車に対する電車の優位性と共通する点が多い。
* エンジンやバッテリーが必要でないため車両が安い。
* [[電動機]]で走行するため、直接排気ガスを出さない。
* 重いバッテリーを積まなくてよい電気自動車のようなもので、(発送電も含めて)総合的な二酸化炭素排出量が少ない。
* 電動機で走行するため、[[内燃機関]]の運転費に比べ安く済む。
* 電動機で走行するため、騒音が少ない。
* 電動機で走行するため、変速振動がない。
* 架線から給電されるため、[[燃料]]等の補給による[[航続距離]]の制限がない。
* 起動時から大トルクを出力できる。都市部では加減速が頻繁であり、急な坂道での運用もあるため有利である。
* パワーパック(電動機・制御装置)が占める割合が比較的小さくて済む。
* 内燃機関式のバスと比べてメンテナンス項目が少なく、車体寿命が長い。
* 海抜が高く、酸素の薄い場所でも出力が低下しない。
電動機で走行することは、内燃機関のバスとの比較では上記のような利点があるが、電気を動力とする[[電気バス]]との比較では一部の項目を除き同等である。
==== 短所 ====
* 停電時には走れない。
* 架線が必要である。
** 架線の敷設や維持のために費用や時間がかかる。
** 路線の改廃が難しく、道路支障時などの迂回運行ができない。
** 路線道路を通過する他車の最大高が架線の高さ未満に制限される。
** 架線が沿線の[[景観]]を損ねる。
** [[変電所|変電施設]]の設置が必要。
** 架線からずれることができる距離に制限がある。
** 架線を共用するため、前のバスを追い越せない。
** 架線の分岐部や交差部でトロリーポールが外れるトラブルが比較的起こりやすく、その回避のための一時減速が交通支障の原因となりうる。ただし、現在はバッテリーや補助動力などを併用したものも開発されており、必ずしも架線からの常時給電が必要ではなくなっている。
* 鉄道・軌道としての法規制を受けることからの問題。
** 路線バスに比べると監督官庁への諸届等の事務量が多く煩雑である。
** 乗務員の育成および研修が煩雑であり、路線バスと比較して多大なコストがかかる。
* トロリーバスが一般的でない地域が多い。
** 路面電車とバスの両者に比べ、とくに日本では国内にメーカーが少なく製造費が割高で保守面でも不利になりやすい。
総じて、車載バッテリーを主電源とする[[電気バス]]の技術向上により、あえて架線から集電する方式のトロリーバスを存続させる意味が希薄化しつつある{{efn|関西電力がトロリーバスを廃止したのもこれが理由である。}}。
== 歴史及び現況 ==
=== ヨーロッパ諸国 ===
==== トロリーバスの誕生 ====
[[File:Elektromote1882.jpg|thumb|right|1882年、ドイツのベルリンの世界初のトロリーバスである"[[エレクトロモト]]"]]
[[File:Reading Trolleybus at Three Tuns.jpg|thumb|right|[[ループ線]]で折り返す[[イングランド]]・[[レディング]]の2階建てトロリーバス(1966年撮影)]]
[[File:Trolleybus4120.Harvard.agr.JPG|thumb|right|[[マサチューセッツ州]]ケンブリッジの[[ハーバード・スクエア]]付近の新しい[[マサチューセッツ湾交通局|MBTA]]トロリーバス]]
[[ファイル:Kyoto Trolley bus.JPG|サムネイル|京都市のトロリーバス(1930年代)]]
[[1882年]]4月29日に、[[ドイツ]]の[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]が[[ベルリン]]郊外のハレンゼー(Halensee)付近で540メートルの区間で運行を開始したのが世界初のトロリーバスとされる<ref name=":0">{{Cite book|title=日本のトロリーバス Trolleybuses in Japan|date=平成6年3月1日|year=|publisher=電気車研究会}}</ref>("[[エレクトロモト]]"の試験運行)。車体は開放式[[馬車]]をそのまま用いた形態となっていた。この実験は同年6月13日まで続けられた。この実験の後、[[1900年]]に開催された[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]でデモンストレーションを行うなどヨーロッパ各地で実験が行われ、アメリカ合衆国などにも伝わった。集電方式については当初、小さな車輪を架線に載せ、これを柔軟性のある送電線で車体とつないで引っ張りながら走行する方法が採られていたが、後に[[集電装置#トロリーポール|トロリーポール]]が使用されるようになった<ref name=":0" />。
世界初の営業運転は[[1901年]]7月10日、ドイツ・[[ドレスデン]]郊外のケーニッヒシュタインとヒュッテンの間で行われたものとするのが通説であるが、この路線は1904年に廃止され短命に終わっている。このときの車両では前後に並べた2本のトロリーポールで集電を行う方式が採用された<ref name=":0" />。
[[File:Rocar DeSimon 412EA 7459 in Bujoreni depot.jpg|thumb|right|ロカール・デ・サイモン 412EA(Rocar De Simon)<br />ブカレストのバスターミナルに停車中のトロリーバス(2018年撮影)]]
[[1900年代]]初めには各国でトロリーバスの営業が開始されている<ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/west_yorkshire/6755469.stm West Yorkshire BBC]</ref>。
==== ドイツ ====
ドイツはトロリーバス発祥の国であり、初めて営業運転が行われた国でもある。ポツダムなどでは現在でも都市交通として活躍している<ref name="kurobe">{{Cite web|和書|url=http://www.kurobe-dam.com/trolleybus/directory.html|title=トロバス名鑑(黒部ダムオフィシャルサイト)|publisher=[[関西電力]]|accessdate=2017-09-28}}</ref>。
==== フランス ====
[[1901年]]7月15日にフォンテーヌブローで路線が開業した。また、[[1900年代]]初めには[[フランス]]の[[リヨン]]でもトロリーバスが営業を開始した<ref name="kurobe" />。[[パリ]]では[[1912年]]に路線が開業している。
==== イギリス ====
[[1911年]]に初の営業路線が[[イングランド]]北部の[[リーズ]]と[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード]]の間に開業した<ref name=":0" />。イギリスのトロリーバスは2階建て仕様車が多く、かつては[[ロンドン]]市内でも2階建てトロリーバスが見られた。しかし、現在は都市交通でのトロリーバスは全廃されている<ref name="kurobe" />。
=== アメリカ合衆国 ===
1903年、[[スクラントン (ペンシルベニア州)|スクラントン]]において実験的な運行が行われ、1910年には[[ロサンゼルス]]で旅客営業が開始された<ref name=":0" />。
アメリカ国内には観光地を中心にトロリーバスまたはトロリーと称するバス([[:en:Tourist trolley]])が多く運行されているが、これらはレトロ調の車体を使用したディーゼルエンジンまたはガソリンエンジンの通常のバスである<ref>[[アリゾナ州]][[セドナ (アリゾナ州)|セドナ]]の"Sedona Trolley"など。{{cite web | title=Sedona Guided Tours with Sedona Trolley | website=Sedona Trolley公式ウェブサイト | url=http://www.sedonatrolley.com/ | accessdate=2018-05-28}}</ref>。
このほかに、現在も、[[サンフランシスコ]]、[[シアトル]]などの一部の大都市で架線集電によるトロリーバスの営業運転が行われている。
また、これらの都市での営業運転だけでなく、{{仮リンク|イリノイ鉄道博物館|en|Illinois Railway Museum}}などのように旧型のトロリーバスの[[動態保存]]に取り組んでいる団体もある。
=== ロシア ===
ロシアの首都モスクワは路線延長1251キロメートル、保有車両1,851両で、年間6億5千万人を輸送する世界最大のトロリーバス都市であったが<ref name="kurobe" />、2020年8月末日をもって事実上の廃止となった。廃止の理由は、電気バスへの移行と利便性の向上のためとされているが、明確な理由は明らかにされておらず、一部の住民はモスクワ市長の利権がらみとして反発している<ref> 『[[東京新聞]]』2020年9月9日夕刊E版3面「トロリーバス 不可解な退場 「モスクワの歴史」市民反発」</ref>。
旧[[ソビエト連邦]]などでは貨物運送目的の[[トロリートラック]]が採用されている例がある。
=== 日本 ===
==== 歴史 ====
[[1912年]]([[明治]]45年)には[[東京都交通局|東京市電気局]]によってトロリーバスの実験車両が試作され、4月11日に浜松町の工場から数寄屋橋車庫まで運転された。また、1926年(大正15年)には[[日立製作所]]が[[フォード・モーター|フォード]]製の自動車を改造し、三相交流式のトロリーバスを試作している。
日本におけるトロリーバスの初めての営業運転は、[[1928年]]([[昭和]]3年)8月1日に[[阪神急行電鉄]](現、[[阪急電鉄]])[[花屋敷駅]](現在は[[雲雀丘駅]]と統合されて[[雲雀丘花屋敷駅]])と[[新花屋敷]](現在の川西市[[満願寺町]]あたり)の間1.3キロメートルを結ぶ区間で運行を開始した[[日本無軌道電車]]とされる。当時この付近では[[温泉]]が湧いており、それを開発した温泉宿・[[遊園地]]へのアクセス路線として、当時のバス([[ガソリンエンジン]])では登坂不可能な急[[線形 (路線)#勾配|勾配]]を越えるためのものだった。しかし業績は思わしくなく、[[1932年]](昭和7年)1月に休業、同年4月には廃止され、開業後わずか4年弱という短命に終わった。
都市交通機関として初めて開業したのは、[[1932年]]の京都市電気局(後、[[京都市交通局]])の[[京都市営トロリーバス]]である。その後1943年(昭和18年)に[[名古屋市交通局]]の[[名古屋市営トロリーバス]]が開業するまで、この路線が日本唯一のトロリーバス路線であった。
[[戦後]]になっていくつかの大都市にトロリーバス路線が開業した。その背景には、当時の内燃機関[[日本のバス車両|バス]]は大型化には対応していたが、依然として出力性能が低く頻繁な整備が必要な上、騒音や振動にも改善の必要がある状況だったため、電車の技術を応用して車体の大型化に対応できるトロリーバスに期待が集まったこと、また路面電車に比べて建設費が1/3で済むことなどがあった。しかし架線下しか走れないこと、[[モータリゼーション]]による自動車の増加で道路混雑が激化したため定時運行が困難になったこと、また性能の良いエンジンを持った大型バスの開発が進んだことなどから、[[1960年代]]後半から[[1970年代]]初めにかけて順次廃止されていった。
<!--出典範囲ここから-->都市型トロリーバスで最後に開業・廃止されたのは[[横浜市交通局]]の[[横浜市営トロリーバス]]で、[[1959年]]開業、[[1972年]]廃止である<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9SV8T0BQMFg&t=253s 【横浜市電保存館映像シアターNo.11】横浜市電が走った街] トロリーバスが走る動画</ref>。[[路線バス]]に比べて車両の費用が高く、また他都市のほとんどのトロリーバスが廃止されたため車両新造や部品調達に支障をきたすこと、横浜市交通局が[[財政再建団体]]に指定されたことにより廃止される[[横浜市電]]と共用の変電所を単独で維持することが難しいことなどの理由により、市電と同時に廃止された<ref name="pictorial">三神康彦・[[吉川文夫]]「市街トロバスのしんがり 横浜市無軌条電車」『[[鉄道ピクトリアル]]』No.279、pp.74-75、1973年6月号、1973年6月1日発行、[[電気車研究会]]。</ref>。<!--※横浜市トロリーバスの財政状況については当該記事を参照(最後まで黒字ではない)。-->
一方、[[1964年]]には[[関西電力]]が[[黒部峡谷]]([[富山県]])に建設した[[関電トンネル]]で[[関電トンネルトロリーバス]]([[黒部ダム駅]] - [[扇沢駅]])の運行を開始。日本から都市交通としてのトロリーバスが消滅したあとも運行を継続し、長きにわたり日本唯一のトロリーバスとして知られた。そして[[1996年]]には関電トンネルトロリーバスと同じく[[立山黒部アルペンルート]]を構成する[[立山黒部貫光]]がそれまでの[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]]バスから転換し[[立山黒部貫光無軌条電車線|立山トンネルトロリーバス]]([[室堂駅]] - [[大観峰駅]])の運行を開始した。これは同路線の全区間がトンネルであるため[[換気]]に困難を伴うことと、周辺が[[国立公園]]内であることによる自然環境への配慮から、関電トンネルトロリーバスに倣って排気ガスを出さないトロリーバスに置き換えられたものである。その後、関電トンネルトロリーバスは2018年11月30日にて運行を終了して<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181130-00341612-sbcv-l20 半世紀以上の歴史に幕・黒部ダムのトロリーバスラストラン] [[SBC信越放送]] 2018年11月30日</ref>[[電気バス]]に置き換えられ、2018年12月以降は[[立山黒部貫光無軌条電車線|立山トンネルトロリーバス]]が日本における唯一のトロリーバスとなっているが、2024年11月30日をもって運行を終了することが予定されており<ref name=":1">{{Cite press release|title=立山トンネルにおける無軌条電車(トロリーバス)事業廃止の届出及び電気バスへの変更計画について|publisher=立山黒部貫光株式会社|date=2023-12-11|url=https://tkk.alpen-route.co.jp/wp/wp-content/themes/tkk002/pdf/ir-r051211.pdf|和書|accessdate=2023-12-11}}</ref>、日本のトロリーバスは全廃となる見通しである<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC318IN0R30C23A5000000/ 国内唯一のトロリーバス消滅へ 立山黒部貫光、EV転換]」『 日本経済新聞』2023年5月31日</ref>。
<!--これまで[[四大都市圏]]のうち、[[九州]]には(狭義の)トロリーバスは存在しなかったが、[[熊本県]][[芦北郡]][[芦北町]]で[[2017年]]([[平成]]29年)9月30日から10月7日まで[[ゴルフ場]]や[[遊園地|遊戯施設]]等で使われている電磁走行カートの[[公道]]運行実験を行った。地中に埋設された[[電磁誘導]]線による[[自動運転車|自動運転]]で、これは原理的には走行中に外部から給電するという点でトロリーバスに近いものである。期間限定で変種とはいえ、九州における公道トロリーバスの嚆矢といえる。また、[[福岡県]][[みやま市]]でも同年夏より実験を行っている。-->
==== 法規上の扱い ====
[[日本]]の[[法令]]上は'''無[[軌条]]電車'''(むきじょうでんしゃ)とされ、[[鉄道]]の一種として扱われている。かつては'''無軌道電車'''(むきどうでんしゃ)と呼ばれていたが、「無軌道」には「常軌を逸した」という意味もあり悪い印象を与えるとして「無軌条電車」に改められた。[[1947年]](昭和22年)以降、法規上は'''無軌条電車'''という鉄道の一種に分類され、[[軌道法]]または[[鉄道事業法]]が適用される。[[無軌条電車運転規則]]のほか、路線が公道上なら[[道路交通法]]に則って運行される。
運転士は[[第二種運転免許|大型二種免許]]に加え、[[動力車操縦者]]運転免許(無軌条電車運転免許)も取得しなければならない。大型二種運転免許を保持している者に対しては、無軌条電車運転免許の技能試験以外の試験が免除される(かつては試験すべてが免除されたが、[[2009年]](平成21年)の省令改正により技能試験は免除対象外となった)。なお[[2001年]]に開業したバス車両を利用した[[案内軌条式鉄道]]([[ガイドウェイバス]])である[[名古屋ガイドウェイバス]]も「電気車」ではないが、法規上はこれらに分類されている。
公道上を走るトロリーバスは道路交通法の適用を受け、信号機や横断歩道などの規制の適用を受ける。ただし、分類としてはトロリーバスは同法の[[自動車]]には含まれず、同法の[[車両]]には含まれる。
一方でトロリーバスは公道を走る車両であっても[[道路運送車両法]]の規制は受けない。従って[[陸運局]](当時)への登録、[[自動車損害賠償責任保険|自賠責保険]]および[[自動車検査登録制度|車検]]は不要であり、(自動車としての)[[ナンバープレート]]も付いていない。
==== 現存路線 ====
軌道法または鉄道事業法適用のトロリーバス(無軌条電車)路線は、下記の1路線のみが現存している。
[[File:Tateyama tunnel trolley bus 01.jpg|200px|thumb|立山黒部貫光立山トンネルトロリーバス]]
* [[立山黒部貫光無軌条電車線|立山トンネルトロリーバス]]([[立山黒部貫光]])室堂駅 - 大観峰駅(3.7km)
*: [[富山県]][[中新川郡]][[立山町]]の「[[立山黒部アルペンルート]]」内にある鉄道事業法適用の無軌条電車路線。
*: ディーゼルバスを用いた専用道を走るバス路線からの転換により[[1996年]]4月23日開業。
*: [[2024年]]12月1日(最終運行は11月30日)にトロリーバス(無軌条電車)路線を廃止し、[[2025年]]4月に[[電気バス]]を用いたバス路線へ転換予定<ref name=":1" /><ref>「[https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1095442 トロバス消滅の危機 立山黒部貫光、EV化方針]」『北国新聞』2023年6月13日</ref>。
===== 類似施設等 =====
狭義のトロリーバス(無軌条電車)は以上の路線のみとなるが、[[ラクテンチ]]([[大分県]][[別府市]]・2009年7月18日の新装開園からの運行開始、2022年廃止)、[[雲仙ゴルフ場]]([[長崎県]][[雲仙市]])、ナゴパイナップルパーク([[沖縄県]][[名護市]])の「パイナップル号」(1989年頃運行開始)、古宇利島オーシャンタワー(沖縄県[[今帰仁村]][[古宇利島]]、2013年11月23日開業・運行開始)の電動カート、とまいぱり(宮古島熱帯果樹園・沖縄県[[宮古島市]]、2013年11月17日開業・運行開始)の「トロピカルガイドツアー」はいずれも自動操縦[[ゴルフ#用具|ゴルフカート]]の一種([[グリーンスローモビリティ|電磁誘導カート]])であり、車載バッテリーと電動機で走行する点はトロリーバスと同様だが、架線からの集電は行わず、施設内の遊戯施設扱いであり軌道法・鉄道事業法に基づく路線でもないため、通常はトロリーバス路線に含まれることはない。
また、過去に正規のトロリーバス運行実績が無い地域を含めた日本全国各地でも、公道で上述の電磁誘導カートを用いた実験運転が実施されている<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/ITS/j-html/automated-driving-FOT/drive03.html]各地の道の駅で実証実験を実施</ref>。
* [[秋田県]][[上小阿仁村]] - 2017年12月3日 - 12月10日、2018年12月9日 - 2019年2月8日<ref>[https://www.thr.mlit.go.jp/road/koutsu/Michi-no-Eki/jidou-unten/index.html]</ref>
* [[滋賀県]][[東近江市]] - 2019年11月15日 - 12月20日<ref>[https://www.kkr.mlit.go.jp/road/sesaku/jidouunten/jikken.html]道の駅「奥永源寺渓流の里」を拠点とした自動運転サービス実証実験</ref>
* [[島根県]][[飯南町]] - 2020年9月1日 - 10月10日<ref>[https://www.cgr.mlit.go.jp/matsukoku/jidouunntennHP.pdf]道の駅「赤来高原」を拠点とした自動運転サービス 地域実験協議会 ホームページ</ref>
* [[熊本県]][[芦北町]] - 2017年9月30日 - 10月7日、2019年1月27日 - 3月15日<ref name="名前なし-1">[https://www.qsr.mlit.go.jp/n-michi/zidouunten/jikken.htm]道の駅等における 自動運転サービス実証実験</ref>
* [[茨城県]][[常陸太田市]] - 2017年11月19日 - 11月25日、2018年6月23日 - 7月21日<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/chiiki/road_chiiki00000121.html]道の駅「ひたちおおた」における自動運転サービス実証実験</ref>
* [[新潟県]][[長岡市]] 2019年3月17日 - 3月23日<ref>[https://www.hrr.mlit.go.jp/road/michinoeki/yamakoshi/yamakoshi-jidou-unten-index.html]「やまこし復興交流館おらたる」における 自動運転サービス実証実験</ref>
* [[岡山県]][[新見市]] - 2018年3月10日 - 3月16日<ref>[http://www.cgr.mlit.go.jp/okakoku/service/autodrive]道の駅「鯉が窪」を拠点とした自動運転サービス実証実験</ref>
* [[福岡県]][[みやま市]] - 2018年2月17日 - 2月24日、2018年11月2日 - 12月21日<ref name="名前なし-1"/>
これらについても、架線からの集電は行わず、[[自家用有償旅客運送|自家用有償旅客運送制度]]の活用を念頭に置いた[[社会実験]]であり、軌道法・鉄道事業法に基づく路線でもないため、通常はトロリーバス路線に含まれることはない。
==== 廃止路線・かつてトロリーバスが存在した都市 ====
{{File clip| Booklet of Yokohama city Trolleybus.jpg | width= 230 | 50 | 0 | 0 | 0 | w= 1522 | h= 2063 | 横浜市交通局のトロリーバス}}
[[File:Osakacity-trolley-bus255.JPG |200px|thumb|大阪市交通局のトロリーバス(保存車)]]
[[File:Kurobe Dam station platform.jpg|200px|thumb|関西電力関電トンネルトロリーバス]]
* [[東京都区部]] - [[都営トロリーバス]]([[東京都交通局]]):[[1952年]]5月20日開業、[[1968年]]9月30日廃止。軌道法適用。
* [[川崎市]] - [[川崎市営トロリーバス]]([[川崎市交通局]]):[[1951年]]3月1日開業、[[1967年]]5月1日廃止。軌道法適用。
* [[横浜市]] - [[横浜市営トロリーバス]]([[横浜市交通局]]):[[1959年]]7月16日開業、[[1972年]]4月1日廃止。軌道法適用。
* [[名古屋市]] - [[名古屋市営トロリーバス]]([[名古屋市交通局]]):[[1943年]]5月10日開業、[[1951年]]1月16日廃止。軌道法適用。
* [[京都市]] - [[京都市営トロリーバス]]([[京都市交通局]]):[[1932年]]4月1日開業、[[1969年]]10月1日廃止。軌道法適用。
* [[大阪市]] - [[大阪市営トロリーバス]]([[大阪市交通局]]):[[1953年]]9月1日開業、[[1970年]]6月15日廃止。軌道法適用。
* [[宝塚市]]・[[川西市]] - [[日本無軌道電車]]:[[1928年]]8月1日開業、[[1932年]]1月休止、同年4月廃止。軌道法適用。
* [[大町市]]・[[立山町]]([[立山黒部アルペンルート]]) - [[関電トンネルトロリーバス]]([[関西電力]])
*: [[1964年]]8月1日開業、[[2018年]]12月1日事業廃止(最終運行は11月30日)<ref>{{Cite book|和書|author=国土交通省鉄道局監修|title=平成30年度 鉄道要覧|date=2018-09-30|publisher=電気車研究会|isbn=978-4-88548-131-4|page=13}}</ref><ref>[http://www.kepco.co.jp/corporate/pr/2017/0828_2j.html 関電トンネルにおけるトロリーバスの電気バスへの変更について] - 関西電力株式会社(2017年8月28日)</ref>。
*: 立山黒部アルペンルート内の黒部ダム駅 - 扇沢駅間(6.1km)。鉄道事業法適用の無軌条電車路線であった。
*: [[2019年]]4月15日から、車載パンタグラフ方式の急速充電可能な[[電気バス]]による専用道を走るバス路線に転換<ref>{{PDFlink|[http://www.kepco.co.jp/corporate/pr/2017/pdf/0828_2j_01.pdf 関電トロリーバスと電気バスの仕様表]}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.fnn.jp/posts/3189NBS|title=立山黒部アルペンルート全線開通 電気バスが運行開始 長野|newspaper=[[長野放送]]|date=2019-04-15|accessdate=2019-04-20}}</ref>。
==== 未成線 ====
* [[長岡市]] - 長岡市([[長岡市営無軌条電車]])
* [[千葉市]]<ref>崙書房『ちばの鉄道一世紀』より</ref>
* [[西宮市]] - [[摂津電気自動車]]([[阪神電気鉄道]]傘下)
* [[姫路市]] - 姫路市が姫路市駅前 - 伊伝居 - 仁豊野と錦町 - 下手野、本町 - 市川橋通を計画するも<ref>[{{NDLDC|2963753/5}} 「運輸省告示第10号」『官報』1951年1月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>1953年に未開業線廃止となる<ref>森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.178</ref>。
* [[平塚市]]・[[伊勢原市]] - [[神奈川中央交通]]が平塚駅から現在の平94系統の経路で伊勢原駅を経由して[[大山登山鉄道]](未成線:[[大山観光電鉄大山鋼索線]]に接続する大山駅 - 追分駅間のロープウェイ)の大山駅に至る路線を計画していた<ref>[http://homepage2.nifty.com/asamamori/03/02/03/01/index.html 相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館]</ref>。
* [[養老鉄道養老線|養老電気鉄道]] - [[養老駅]]-[[養老公園]]間、1哩<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100200885|title=二日、更に私鉄免許 : 即日指令を発す|oldmeta=00102248}} 二日、更に私鉄免許即日指令を発す『国民新聞』1929年7月4日]([[神戸大学]]附属図書館新聞記事文庫)</ref>。計画は当時のバスでは超大型(定員24人)車両2台を日本輸送機製作所(現在の[[三菱ロジスネクスト]]・[[日本無軌道電車]]と同じ)で製作するはずであった<ref>湯口徹「幻の養老電気鉄道トロリーバス」『鉄道史料』No.131</ref>。
* [[熊本市]] - 1950年 - 1958年頃に構想されたが、水害などを考慮して断念している{{要出典|date=2021-12}}。構想区間不明。
=== トロリーバス技術の最新動向 ===
[[File:Interieur_Cristalis_ETB18_TCL_Ibou.JPG|thumb|right|連接低床トロリーバスである[[wikidata:Q957813|Cristalis]]の車内]]
現在はバス低床化が進んでおり、[[イリスバス]]社のCristalisなどのように[[インホイールモーター]]を用いた[[ノンステップバス|ノンステップ車]]が開発されている。
また、景観上の問題その他で架線の張れない区間用に新しい[[デュアルモード車]]も開発されている。[[ディーゼル]] [[発電機]]を搭載したトロリー給電とのハイブリッド型や[[二次電池|バッテリー]]技術の向上による[[二次電池|蓄電池]]を搭載した車両が開発され、架線のない道路でより長距離を走行できるようになった。ディーゼル発電機を搭載したハイブリッドトロリーバスは、[[ニュージーランド]]やアメリカ [[ボストン]]の[[シルバーライン]]で採用されている[[ネオプラン]]社製のものや、主にフランスで採用されているイリスバス社製のCristalisがある。中国ではバス停に併設された給電軌条にパンタグラフを押しつけてバス停で電池に充電する車両が実用化されている。[[イタリア]]では一時期[[磁力ピックアップ方式]]による路面給電式のトロリーバス ([[:it:Stream (trasporti)|Stream]]) が試験運転されたが、こちらは成績が芳しくなく本格採用には至っていない。[[ローマ]]のトロリーバスは、終端の[[テルミニ駅]]付近の往復3キロメートルに架線が張られておらずバッテリーで走行している。
もう一つの技術革新は、ハンドル操作が不要のガイドウェイ技術の導入である。ドイツで一時期運行されていたローラー式に代わって、21世紀初頭には非接触のガイドウェイ式トロリーバスが試作されている。代表的なものは、[[光学]]式と[[磁力]]式である。光学式は地面にペイントされた白線をカメラで読み取って操舵するものである。磁力式は地面に埋め込んだ磁石を頼りに操舵するものである。前者はイリスバスの[[:it:Irisbus Civis|CIVIS]]など、後者は[[オランダ]]の[[:en:Phileas (public transport)|Phileas]]で採用されている。CIVIS・Phileasともに電気駆動のハイブリッドバスとして設計されており、トロリー給電のほか、ディーゼル発電のバスとして走行することも可能である。なお、CIVISはディーゼル発電のみのバス仕様のものしか採用{{efn|[[ルーアン]]、[[ラスベガス]]で採用。}}されていない。
フランスの[[ナンシー]]では[[ボンバルディア・トランスポーテーション]]が開発した“TVR”というシステムの[[ゴムタイヤトラム]]が採用されている。これは一本の案内レールに沿ってゴムタイヤで走行する路面電車に近いものだが、一部区間は案内レールがなくトロリーバスのような走行をしている。ただし、案内レールへの接続トラブルが頻発したため、TVRはナンシーと[[カーン]]の2都市のみの採用に留まっている。また、[[ガイドレール]]のカーブ区間で[[脱輪]]する事故が相次ぐなど、高速走行ができないという欠点も指摘されている。
また、近年普及している[[ハイブリッドカー|ハイブリッドバス]]の技術開発はトロリーバスにも大きな影響を与えているが、特にトロリーバスへのディーゼル発電機やバッテリーの搭載は、ハイブリッドバスや[[非接触充電]]式のバッテリーのみで走行するバスに比べ、頻繁な充放電による電池の劣化が少なく電池交換のコストが低い点で評価できる。
== トロリーバスが存在する主な都市 ==
{{雑多|section=1|date=2023-8}}
{{百科事典的でない|type=iinfo|section=1|date=2023-8}}
=== アジア ===
{{Main2|日本については歴史・現況節の「[[#現存路線|日本]]」の節を}}
東南アジアでは唯一[[シンガポール]]で運行されていたが(「[[シンガポールのトロリーバス]]」を参照)、1962年に廃止された。韓国には(狭義の)トロリーバスはないが、ソウル近郊の[[ソウル大公園]]に(走行中に外部から給電するという点でトロリーバスと類似する)[[オンライン電気自動車]]の「ぞう列車」が運行されている。[[アジア太平洋]]では(狭義の)トロリーバスが廃止傾向にある。その一方で、変種に当たる電磁走行カートやオンライン電気自動車の運行が始まっている。
==== 中華人民共和国 ====
[[ファイル:扬子江WGD61U公交车.jpg|サムネイル|中国、武漢のトロリーバス(扬子江WG61U)]]
* [[北京市|北京]] - [[北京トロリーバス]]
* [[広州市|広州]]
* [[上海市|上海]] - [[上海トロリーバス]]
* [[武漢市|武漢]]
* [[青島市|青島]]
* [[済南市|済南]]
* [[太原市|太原]]
* [[杭州市|杭州]]
* [[洛陽市|洛陽]]
* [[大連市|大連]]
なお、中国ではトロリーバスのことを「無軌電車」または単に「電車」という。
==== 北朝鮮 ====
* [[平壌直轄市]]
* [[清津市]]
北朝鮮の標準語([[文化語 (朝鮮語)|文化語]])では「無軌道電車」({{lang|ko-kp|무궤도 전차}}、ムグェドジョンチャ、Mugwedo jŏncha)という(韓国側では「トロリーバス」({{lang|ko|트롤리버스}}、トゥロ<sub>ル</sub>リボス、Teurolli beoseu))。
==== モンゴル国 ====
* [[ウランバートル]]
** バスとともに市営のウランバートル市交通局で運行。車体などを製造しているのは、国営の「電気軌道」社。
** [[ウランバートル駅]] - ボタニク間を運行するトロリーバスは300トゥグルク。
==== ネパール ====
* [[カトマンズ]] - [[カトマンズ・トロリーバス]]
** 2009年まで運行していた。
==== キルギス ====
* [[ビシュケク]] - [[ビシュケク・トロリーバス]]
* [[オシ]] - [[オシ・トロリーバス]]
* [[ナルン]] - [[ナルン・トロリーバス]]
==== ウズベキスタン ====
* [[タシュケント]] - [[タシュケント市営トロリーバス]]
** 2010年に廃止。
* [[ウルゲンチ]] [[ヒヴァ]] - [[ウルゲンチ・トロリーバス]]
==== ロシア ====
* [[ウラジオストク]]
* [[ハバロフスク]]
* [[イルクーツク]]
* [[ノヴォシビルスク]]
* [[モスクワ]] - [[モスクワ・トロリーバス]]
* [[サンクトペテルブルク]] - [[サンクトペテルブルク・トロリーバス]]
* [[ペトロザヴォーツク]]
* [[カルーガ]]
* [[エカテリンブルク]]
* [[アバカン]]
* [[アルマヴィル (ロシア)|アルマヴィル]]
* [[アストラハン]]
* [[ベルゴロド]]
* [[ブリャンスク]]
* [[ノヴゴロド]]
* [[ヴォルゴグラード]]
* [[クリミア半島]] - [[クリミア・トロリーバス]]([[ウクライナ]]領だがロシアが実効支配)
ロシア国内ではこのほかの多くの都市でもトロリーバスが運行されている。
=== アメリカ大陸 ===
==== カナダ ====
* [[エドモントン]] - [[エドモントン・トロリーバス]]
* [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]、[[バーナビー]] - [[バンクーバー・トロリーバス]]
==== アメリカ合衆国 ====
[[File:Seattle_Metro_13.jpg|200px|thumb|[[シアトル]]市内にて、[[トロリーポール|ポール]]が離線して立ち往生した連接車を捉えたもの。シアトルは米大陸最大級のトロリーバス網を持つ]]
[[File:San Francisco Muni Marmon-Herrington Trolley Bus 776.jpg|200px|thumb|[[サンフランシスコ市営鉄道]]のトロリーバスの動態保存車(前後とも)]]
* [[サンフランシスコ]] - {{仮リンク|サンフランシスコ・トロリーバス|en|Trolleybuses in San Francisco}}
* [[シアトル]] - {{仮リンク|シアトル・トロリーバス|en|Trolleybuses in Seattle}}
* [[ボストン]] - {{仮リンク|ボストン・トロリーバス|en|Trolleybuses in Greater Boston}}、{{仮リンク|シルバーライン (マサチューセッツ湾交通局)|label=シルバーライン|en|Silver Line (MBTA)}}
* [[フィラデルフィア]] - {{仮リンク|フィラデルフィア・トロリーバス|en|Trolleybuses in Philadelphia}}
* [[デイトン (オハイオ州)|デイトン]] - [[デイトン・トロリーバス]]
==== メキシコ ====
* [[メキシコシティ]]
==== ブラジル ====
* [[サンパウロ]]
==== チリ ====
* [[バルパライソ]]
=== オセアニア ===
==== ニュージーランド ====
* [[ウェリントン]] - 2017年に廃止。
=== ヨーロッパ ===
[[File:Bucharest DAC articulated trolleybus 7362 in 2006.jpg|thumb|right|[[ブカレスト]]、ルーマニアの旧DAC 117Eトロリーバス, 2006年]]
[[File:Trolleybus 139 du Réseau de piatra Neamt.jpg|thumb|right|以前はTCL[[リヨン]]が運営していた[[ルノー]]ER100トロリーバス([[ピアトラ・ネアムツ]]、2017年)]]
==== オランダ ====
* [[アーネム]] - [[アーネム・トロリーバス]]
**ディーゼルバスとトロリーバスの機構を併せ持つ「デュオバス」が導入されている。
==== ベルギー ====
*[[ヘント]] - [[ヘント・トロリーバス]]
** 2009年に廃止。
==== フランス ====
* [[リヨン]] - フランス最大のトロリーバス路線網を持つ。LRTとの交差がある。
* [[サン=テティエンヌ]] - LRTとの交差がある。
* [[リモージュ]]
* [[ナンシー]]、[[カーン]] - ゴムタイヤトラムの一種の[[ゴムタイヤトラム#TVR|TVR]]が郊外区間でトロリーバスとして運行。
==== イタリア ====
* [[ローマ]] - 2005年に新規開業した。テルミニ駅付近約1キロメートルは架線を張らずバッテリーで走行する。
* [[ミラノ]]
* [[ヴェンティミリア]] - [[サンレーモ]]
* [[ラ・スペーツィア]]
* [[ジェノヴァ]]
* [[ボローニャ]]
* [[モーデナ]]
* [[パルマ]]
* [[リーミニ]]
* [[アンコーナ]]
* [[ナポリ]]
* [[バーリ]] - 休止中。
* [[カリャリ]]
==== ドイツ ====
* [[ゾーリンゲン]] - [[ゾーリンゲン・トロリーバス]]
* [[エーベルスヴァルデ]] - [[エーベルスヴァルデ・トロリーバス]]
* [[エスリンゲン・アム・ネッカー]] - [[エスリンゲン・アム・ネッカー・トロリーバス]]
==== ギリシャ ====
* [[アテネ]]
==== スウェーデン ====
* [[ランズクルーナ]] - [[ランズクルーナ・トロリーバス]]
==== ノルウェー ====
* [[ベルゲン]]
==== オーストリア ====
* [[ザルツブルク]]
* [[インスブルック]]
* [[リンツ]]
==== スイス ====
* [[チューリッヒ]]
* [[シャフハウゼン]]
* [[ジュネーヴ]]
* [[バーゼル]]
* [[ベルン]]
* [[ルツェルン]]
* [[ローザンヌ]]
スイス国内ではこのほかの都市でもトロリーバスが運行されている。
==== スペイン ====
* [[カステリョン・デ・ラ・プラナ]] - 2008年開業。光学ガイド式。
==== ベラルーシ ====
* [[ミンスク]]
など。
==== ウクライナ ====
* [[キエフ]]
* [[リヴィウ]]
など。
==== エストニア ====
* [[タリン]] - [[タリン・トロリーバス]]
==== リトアニア ====
* [[ヴィリニュス]] - [[ヴィリニュス・トロリーバス]]
* [[カウナス]] - [[カウナス・トロリーバス]]
==== ラトビア ====
* [[リガ]] - [[リガ・トロリーバス]]
==== アルメニア ====
* [[エレバン]] - [[エレバン・トロリーバス]]
==== ジョージア ====
* [[スフミ]] - [[スフミ・トロリーバス]]
==== チェコ ====
{{main|チェコのトロリーバス}}
* [[プルゼニ]]
* [[ブルノ]]
* [[イフラヴァ]]
など。
==== スロヴァキア ====
* [[ブラチスラヴァ]]
など。
==== ハンガリー ====
* [[ブダペスト]]
* [[セゲド]]
など。
==== セルビア ====
[[File:Beo trolejbus 00.jpg|thumb|right|セルビア、[[GSPベオグラード]]のトロリーバス]]
* [[ベオグラード]]
==== ボスニア・ヘルツェゴビナ ====
* [[サラエヴォ]]
==== ブルガリア ====
* [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]
* [[プロブディフ]]
==== モルドバ ====
* [[キシナウ]]
== 主なトロリーバスの製造メーカー ==
* [[大阪車輌工業]](日本) - 日本唯一のトロリーバス製造メーカー。[[立山黒部貫光8000形無軌条電車]]や[[関西電力300形無軌条電車]]を製造した。
* [[イリスバス]](Irisbus、フランス) - [[ルノー]]と[[フィアット]]・イベコのバス部門が合流したバス製造会社。現在はフィアット資本。トロリーバスはホイルインモーターとディーゼルハイブリッドが特徴のCristalisと、光学式ガイドのCIVISを製造。
* [[ネオプラン]](Neoplan、ドイツ) - ドイツの老舗メーカー。ドイツやスイスへの納入実績が多い。
* [[ヘス]](Hess、スイス) - Light Tramという3連接の大型トロリーバスを開発した。
* [[ソラリス (バス)|ソラリス]](Solaris、ポーランド) - 東欧改革で誕生した新興のバス製造会社。トロリーバスは、トロリーノ (Trolino) ブランドで製造。ローマへの納入実績がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[電気バス]] - 電気を動力とし[[架線]]を持たない[[バス (交通機関)|バス]]。[[電気自動車]]の一種。
** [[オンライン電気自動車]] - 地中の電力線から給電し架線を持たないもの。
* [[ガイドウェイバス]] - 案内軌条で誘導され走行するバス車両。
* [[ゴムタイヤトラム]] - 案内軌条で誘導されゴムタイヤで走行する。トロリーバスと[[路面電車]]の中間的[[交通機関]]。
* [[トロリーボート]] - 架線から給電する電動[[ボート]]。
* [[バス・ラピッド・トランジット]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.alpen-route.co.jp/ 立山黒部アルペンルート・各会社案内]
* [https://www.kurobe-dam.com/trolleybus/index.html 黒部ダムオフィシャルサイト 電気で走る日本唯一のトロリーバス] - 関電トンネルトロリーバスを中心として日本と世界のトロリーバスについて載っている。
*[https://www.youtube.com/watch?v=9SV8T0BQMFg&t=253s 横浜市営トロリーバス(廃止前)が走る動画] 横浜市電保存館映像シアターNo.11
{{公共交通}}
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[[Category:トロリーバス|*]]
[[Category:電気自動車]]
[[Category:ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]
[[Category:持続可能な交通]]
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2003-08-27T01:33:27Z
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2023-12-14T06:55:13Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%90%E3%82%B9
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志摩国
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志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。下国。東海道に属する。
明治維新直前の領域は、現在の三重県鳥羽市の全域と志摩市の大部分(磯部町山原・磯部町栗木広・磯部町桧山を除く)に相当する。
律令制以前は成務朝に設置された島津国造の領域であったとされ、令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立した。その後7世紀後半から8世紀初めに志摩国として分立したとされるが、伊勢国の隷属下に置かれたという。8世紀初めまで、嶋国、志麻国とも書かれた。
飛鳥・奈良時代には、代々内膳司を勤めていた高橋氏などが国司であったが、志摩に赴くことはなかったという。志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから稲米の収穫量が少なかったため、伊勢国や尾張国の田を志摩国の口分田とし、国衙や国分寺の費用を伊勢国・尾張国・三河国が負担した。海産物を贄として、宮中へ貢ぐ御食国の一つと推定される。
平城京発掘で出土した木簡に伊雑郷・名錐郷・船越郷などの表記が見られ、これらの地域から海産物を貢租していたことは確実である。船越郷は、現在の度会郡南伊勢町船越と解釈するのが一般的であるが、名錐郷に隣接する船越とする説もある。
当初の志摩国の領域は、現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけではなく、度会郡南伊勢町、大紀町の錦地区、北牟婁郡紀北町、尾鷲市全域までが志摩国英虞郡に含まれていた。
天正10年(1582年)、紀伊新宮城主の堀内氏善と伊勢国司の北畠信雄が荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された。
また古代には三河湾の篠島、日間賀島、佐久島も志摩国答志郡に属していたが室町時代に吉良氏の勢力下に入り、三河国幡豆郡に取り込まれたという説がある。その後、篠島と日間賀島は尾張藩領となり尾張国知多郡に属した。
国府は、『和名抄』および『拾芥抄』に、英虞郡とある。志摩市阿児町国府に比定されている。
二宮以下はなし。
守護代所が、室町時代に答志郡泊浦、現在の鳥羽市鳥羽にあったと考えられている。ただし、室町時代は守護は伊勢・志摩両国で一人だったともいう。
志摩国は飛鳥時代には志摩郡のみであったが、奈良時代に入り佐芸郡、答志郡の二郡に分けられた。佐芸郡はすぐに英虞郡に改名された。
伊勢国守護と兼任だったとされている。伊勢国を参照。
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] |
志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。下国。東海道に属する。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 志摩国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|志摩国}}
|別称 = 志州(ししゅう)<ref>{{Citation | ref = none | title = 泰平年表 | author1 = 竹内秀雄 | author2 = 続群書類従完成会 | publisher = 八木書店 | year = 1989 | publication-date = 1989-08 | isbn = 9784797104912 | page = 74}}</ref>
|所属 = [[東海道]]
|領域 = [[三重県]]東部([[志摩半島]]東端)
|国力 = [[下国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 2郡14郷
|国府 = 三重県[[志摩市]]
|国分寺 = 三重県志摩市(志摩国分寺跡)
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[伊雑宮]](三重県志摩市)<br/>[[伊射波神社]](三重県[[鳥羽市]])
}}
'''志摩国'''(しまのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[下国]]。[[東海道]]に属する。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[三重県]][[鳥羽市]]の全域と[[志摩市]]の大部分(磯部町山原・磯部町栗木広・磯部町桧山を除く)に相当する。
== 沿革 ==
[[ファイル:Shima Province.png|サムネイル|当初は桃色の地域も志摩国に含まれていた。]]
律令制以前は[[成務天皇|成務朝]]に設置された'''[[島津国造]]'''の領域であったとされ、令制国設置に伴い当国域をも含む[[伊勢国]]が成立した。その後7世紀後半から8世紀初めに志摩国として分立したとされるが、伊勢国の隷属下に置かれたという。8世紀初めまで、'''嶋国'''、'''志麻国'''とも書かれた<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17-19頁。</ref>。
飛鳥・奈良時代には、代々内膳司を勤めていた[[高橋氏]]などが国司であったが、志摩に赴くことはなかったという。志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから[[稲米]]の収穫量が少なかったため、伊勢国や[[尾張国]]の田を志摩国の[[口分田]]とし、国衙や国分寺の費用を伊勢国・尾張国・[[三河国]]が負担した。海産物を贄として、宮中へ貢ぐ[[御食国]]の一つと推定される。
[[平城京]]発掘で出土した木簡に'''伊雑郷'''・'''名錐郷'''・'''船越郷'''などの表記が見られ、これらの地域から海産物を貢租していたことは確実である。船越郷は、現在の[[度会郡]][[南伊勢町]]船越と解釈するのが一般的であるが、名錐郷に隣接する船越とする説もある。
当初の志摩国の領域は、現在の三重県の[[鳥羽市]]・[[志摩市]]だけではなく、度会郡[[南伊勢町]]、[[大紀町]]の錦地区、[[北牟婁郡]][[紀北町]]、[[尾鷲市]]全域までが志摩国[[英虞郡]]に含まれていた。
[[天正]]10年([[1582年]])、紀伊[[新宮城]]主の[[堀内氏善]]と伊勢国司の[[織田信雄|北畠信雄]]が[[荷坂峠]]を境として、それぞれが紀伊国[[牟婁郡]]と伊勢国[[度会郡]]に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された。
また古代には[[三河湾]]の[[篠島]]、[[日間賀島]]、[[佐久島]]も志摩国答志郡に属していたが[[室町時代]]に[[吉良氏]]の勢力下に入り、[[三河国]][[幡豆郡]]に取り込まれたという説がある。その後、篠島と日間賀島は[[尾張藩]]領となり[[尾張国]][[知多郡]]に属した。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が'''[[鳥羽藩]]'''領であった。(56村・21,535石余)
** [[答志郡]](37村・13,003石余)、[[英虞郡]](19村・8,532石余)
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[鳥羽県]]'''の管轄となる。
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により'''[[度会県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[三重県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
国府は、『[[和名抄]]』および『[[拾芥抄]]』に、英虞郡とある。志摩市[[阿児町国府]]に比定されている。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[志摩国分寺]]
*: 志摩市阿児町国府字御堂の後にあった。
* 志摩国分尼寺
*: 志摩市阿児町国府字大堂にあった。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社2座1社・小社1座1社の計3座2社が記載されている([[志摩国の式内社一覧]]参照)。大社1社は[[名神大社]]ではない。
* [[答志郡]]
** 粟島坐伊射波神社 二座 - '''式内大社'''。『[[大日本国一宮記]]』に「伊射波神社志摩国[[答志郡]]」とあるのが初見である。[[伊雑宮]]と[[伊射波神社]]が論社(後述)
** 同島坐神乎多乃御子神社 - [[佐美長神社]](伊雑宮境外所管社)に比定
; [[総社]]・[[一宮]]
* 総社:不詳
* 一宮
** '''[[伊雑宮]]''' (いざわのみや、志摩市[[磯部町上之郷]]) - [[伊勢神宮]]別宮
** '''[[伊射波神社]]''' (いざわじんじゃ、[[鳥羽市]][[安楽島町]])
: 伊雑宮と伊射波神社は、ともに式内大社の「粟島坐伊射波神社」論社であり、両社ともが志摩国一宮とされている。伊射波神社は「加布良古明神」とも呼ばれており、[[中世]]以前の史料では加布良古明神が伊射波神社と称したものは見つかっていない。これについては、伊雑宮が神宮別宮であるため、[[近世]]以降に加布良古明神を伊射波神社と称して一宮としたものとする説もあるが、[[安永]]4年([[1775年]])の『大神宮儀式解』では「或人の説」として、「延喜式では伊雑宮は大神宮式の中に収められており、安楽島の伊射波神社が神名帳に記されたのである。よって志摩国一宮の伊射波神社は加布良古明神である」と記している。一宮を真清田大明神とする史料もあるが、志摩国に該当する[[神社]]はなく、尾張国一の宮の[[真清田神社]]が誤って記述されたと思われる。
二宮以下はなし。
=== 守護所 ===
守護代所が、室町時代に答志郡泊浦、現在の鳥羽市[[鳥羽 (鳥羽市)|鳥羽]]にあったと考えられている。ただし、室町時代は守護は伊勢・志摩両国で一人だったともいう。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 三重県志摩市磯部町沓掛
== 地域 ==
=== 郡 ===
志摩国は飛鳥時代には志摩郡のみであったが、奈良時代に入り佐芸郡、答志郡の二郡に分けられた。佐芸郡はすぐに[[英虞郡]]に改名された。
*1郡制 飛鳥時代
**[[志摩郡 (三重県)|志摩郡]]
*2郡制 天平時代に志摩郡を2分割。
**[[英虞郡]](佐芸郡) - 当初は「佐芸郡」(さきぐん)と呼ばれた。 現在の英虞湾周辺の地域で、志摩市[[阿児町]]の安乗と国府を除く地域、[[大王町]]全域、[[志摩町 (三重県)|志摩町]]全域、[[浜島町]]全域がこの地域にあたる。[[天正]]10年([[1582年]])までは、現在の[[度会郡]][[南伊勢町]]、[[大紀町]]の一部(錦)、[[北牟婁郡]][[紀北町]]、[[尾鷲市]]を含んでいたが、[[荷坂峠]]を境に西が[[紀伊国]][[牟婁郡]]、東が[[伊勢国]]度会郡に、それぞれ編入された。
**[[答志郡]] -現在の[[鳥羽市]]、志摩市北部(阿児町の安乗と国府、成基地区を除いた[[磯部町 (三重県)|磯部町]])がこの地域に当たる。
=== 江戸時代の藩 ===
{| class="wikitable"
|+ 志摩国の藩の一覧
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
|-
! [[鳥羽藩]]
| [[鳥羽城]]
||
*[[九鬼氏|九鬼家]](5万5千石→5万6千石、1600年 - 1632年)。摂津[[三田藩]]3万6千石・丹後[[綾部藩]]2万石へ転封
*[[内藤氏|内藤家]](3万5千石、1632年 - 1680年)。改易
*[[天領]](1680年 - 1681年)
*[[土井利益]](7万石、1681年 - 1691年)。肥前[[唐津藩]]7万石へ転封
*[[松平乗邑]](6万石、1691年 - 1710年)。[[伊勢亀山藩]]6万石へ転封
*[[板倉重治]](5万石、1710年 - 1717年)。[[伊勢亀山藩]]5万石へ転封
*[[松平光慈]](7万石、1717年 - 1725年)。信濃[[松本藩]]6万石へ転封
*[[三河稲垣氏|稲垣家]](3万石、1725年 - 1871年)。
|}
== 人物 ==
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*[[1322年]] - [[北条貞顕]]
==== 室町幕府 ====
伊勢国守護と兼任だったとされている。[[伊勢国#室町幕府|伊勢国]]を参照。
=== 戦国時代 ===
*戦国大名
**[[北畠氏]](伊勢国司)
*織豊政権の大名
**[[九鬼嘉隆]]:[[鳥羽城]]3万5千石、1569年 - 1600年。関ヶ原の戦い後、息子の[[九鬼守隆]]が[[鳥羽藩]]主となる
=== 武家官位としての志摩守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[蒲池鑑広]]:戦国時代の筑後国の武将。上妻郡に8千町(8万石)を領した
*[[氏家行継]]:戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、[[豊臣政権]]の大名(近江国・伊勢国内1万5000石)
==== 江戸時代 ====
*肥後人吉藩[[相良氏|相良家]]
**[[相良頼福]]:第4代藩主
**[[相良頼峯]]:第7代藩主
**[[相良頼徳]]:第12代藩主
*[[松平直政|直政]]系[[越前松平家]]出雲[[母里藩]]分家
**[[松平直員]]:第3代藩主
**[[松平直方 (母里藩主)|松平直方]]:第7代藩主
**[[松平直興]]:第8代藩主
**[[松平直温 (母里藩主)|松平直温]]:第9代藩主
*[[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]][[松前氏|松前家]]
**[[松前公広]]:第2代藩主
**[[松前矩広]]:第5代藩主
**[[松前邦広]]:第6代藩主
**[[松前道広]]:第8代藩主
**[[松前昌広]]:第11代藩主
**[[松前徳広]]:第13代藩主
*美作[[美作勝山藩|勝山藩]]三浦家
**[[三浦正次]]:勝山藩三浦家初代。下総[[矢作藩]]主、下野[[壬生藩]]初代藩主
**[[三浦安次]]:勝山藩三浦家2代。壬生藩第2代藩主
**[[三浦義理]]:勝山藩三浦家5代。三河[[刈谷藩]]第3代藩主、三河[[西尾藩]]初代藩主
**[[三浦明次]]:勝山藩三浦家6代。西尾藩第2代藩主、美作勝山藩初代藩主
**[[三浦矩次]]:勝山藩三浦家7代。勝山藩第2代藩主
**[[三浦前次]]:勝山藩三浦家8代。勝山藩第3代藩主
**[[三浦朗次]]:勝山藩三浦家13代。勝山藩第8代藩主
*信濃[[岩村田藩]][[内藤家]]
**[[内藤忠重]]:志摩[[鳥羽藩]]初代藩主
**[[内藤正興]]:信濃岩村田藩第4代藩主
**[[内藤正誠]]:岩村田藩第7代主
*その他
**[[菅沼定仍]]:上野[[阿保藩]]主、伊勢[[長島藩]]初代藩主
**[[寺沢広高]]:肥前[[唐津藩]]初代藩主
**[[皆川隆庸]]:常陸[[常陸府中藩|府中藩]]第2代藩主
**[[森長孝]]:播磨[[赤穂藩]]第2代藩主
**[[山崎治祇]]:備中[[成羽藩]]第2代藩主
**[[山崎俊家]]:讃岐[[丸亀藩]]第2代藩主
**[[伊東祐賢 (志摩守)|伊東祐賢]]:[[旗本寄合席]]。江戸幕府[[小姓]]。中奥小姓。
== 志摩国の合戦 ==
*[[1181年]]:[[熊野海賊菜切攻め]]、反平家方(熊野の僧) x [[平家]]方(伊豆江四郎)
*[[1600年]]:[[鳥羽城]]の戦い、東軍([[九鬼守隆]]) x 西軍([[九鬼嘉隆]])
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 『磯部町史』
* 『阿児町史』
* 『大王町史』
* 『志摩町史』
* 『南勢町史』
* [[角川日本地名大辞典]] 24 三重県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shima Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[志摩弁]]
* [[鳥羽市]]
* [[志摩市]]
{{令制国一覧}}
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スピーカー
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スピーカー(英: speaker)、より正式にはラウドスピーカー(英: loudspeaker)とは、電気信号を音に変える装置である。 電気的振動を物理的振動に変える電気音響変換器。音響装置の一種。語尾を伸ばさずに「スピーカ」とも、漢字表現では「拡声器」とも。
なお「スピーカー」と言っても、厳密には「スピーカーシステム」(=エンクロージャーつまり箱や容器状のもの(後述)、におさめられたもの)全体を指している場合と、「スピーカーユニット」(後述)だけを指している場合とがある。どちらを指しているのかはっきりさせなければならない場合には「スピーカーシステム」「スピーカーユニット」と呼び分ける。
スピーカーは、音響を表現した電気信号を、物理的な音、つまり空気の振動に変える装置である。たとえば、声や楽器音などの音(音波)をマイクロホンなどで変換して得た電気信号(電気的振動)を再び音波にして空間に放ったり、シンセサイザーなどで電気的に作り出した電気信号(電気的振動)を人間が耳で聞ける物理的な音にして放ったりする装置である。
スピーカーは、ラジオ受信機、ステレオ装置、テレビ受像機、メガホン、携帯電話 等々、さまざまな音響装置に組み込まれている。
一般に、入力された電気信号をできるだけ忠実に音へと変換するスピーカーが「良いスピーカー」や「高性能のスピーカー」などとされている。つまり元の電気信号の波形と、スピーカーから放たれた音の波形を比較した場合に、それら波形の間に相違(歪み)が生じたり雑音が入ったりするのは「性能が低い」とされている。 なお性能が良いと価格も高めになる傾向がある。また、あまりにスピーカーのサイズが小さいと、低音(の信号)が音にほとんど変換されなくなる傾向がある。
用途ごとに、コストや、最終的に実現すべき製品サイズも考慮しつつ、スピーカーというのは選ばれている。たとえば、家庭やオーディオルームなどに据え置いて使うコンポーネントステレオ、特に高級オーディオのスピーカーでは、性能の良い高価なユニットを複数組み合わせて、低音用には直径が数十cmもあるユニットを選び、高さが数十cm~1m以上になるような箱状のエンクロージャーに組み込んで「スピーカーシステム」が組み上げられていることが一般的で、そのおかげで電気信号をかなり忠実に音に変換するものが多い。そのかわり、とても大きくて重く、部屋のスペースを奪い、簡単には移動させることもできないようなものになる。 一方、災害時などに持ち運ぶことなどを想定した携帯ラジオなどでは、持ち運こびやすいことが至上命題であり、製品を絶対に小さくそして軽く仕上げなければならないので、設計者は小さくて軽いスピーカーを選ぶことになり、結果として、低音がほとんど聞こえないようなスピーカーが選ばれる。特に安物の携帯ラジオは、それが顕著になる。とはいえ、そういった災害時用の携帯ラジオでは、アナウンサーの音声が聞こえて言葉の意味が分かれば十分なので、それで良いわけである。携帯ラジオ用のスピーカーは絶対に大きくて重いものであってはならない。
というわけで、スピーカーの諸性質には、しばしばいわゆる「トレードオフ」の関係、つまり「あちら立てればこちら立たず」の関係があり、設計者はコスト・大きさ・重さ・性能のバランスに配慮しつつスピーカーを選ぶことになる。
ダイナミックスピーカーは、1925年にエドワードW.ケロッグとチェスターW.ライスが発明し、1929年4月に米国特許を取得した。
音声から電気信号を生むダイナミックマイクとは逆に、ダイナミックスピーカーは電気信号から音を生成する。
永久磁石の極の間の円形の隙間にボイスコイルと呼ばれるコイル状のワイヤーを吊るし、そこに交流電気のオーディオ信号を流すと、ファラデーの法則により、コイルは急速に前後に震える。このコイルにダイアフラム(通常は円錐形)を固定することでダイヤフラムが前後に移動し、空気を押して音波を生成する。この最も一般的な方法に加えて、電気信号を音に変換するために使用できるいくつかの代替技術がある。
コーン紙など特定の振動板ではなく、直接に振動体(圧電振動子の耐熱樹脂ケース入など)を設置し家の壁、床、その他自動車の天井や花など共鳴するものを振動板とするスピーカーである。振動スピーカー、共鳴スピーカー、伝導スピーカーと呼ばれる。
また、放電型(イオン型)スピーカーやサーモホンのように振動板を使うことなく音を発生させるスピーカーもある。放電型スピーカーは高周波放電で発生する空気の振動を利用するもので、過渡応答が優れているという特徴がある。サーモホンは熱音響効果を利用し、周期的な熱の変動による圧力の変化を利用し音を発生させる。十分な音圧が得られなかったため長く忘れられていたが、カーボンナノチューブなどの新しい素材の発明に伴いシート状スピーカーなどへの応用が研究されている。
※これらは組み合わせて使用されることも多い。
スピーカーシステム側にアンプを内蔵しているタイプと、そうでないタイプがある。
アンプを内蔵するスピーカーシステムを慣習的に「アクティブスピーカー」と呼び、アンプを内蔵しないものは慣習的に「パッシブスピーカー」と呼んでいる。あくまで慣習である。深い意味は無い。
音を出す核心的な部分を「スピーカーユニット」(または単に「ユニット」)と呼ぶ。英語では「driver ドライバ」と呼んだりもする。これこそが音を出す核心的な部分であり、これだけでも音は出るが、通常は「むき出し」状態で使われることは少なく、ラジオやテレビなどの筐体に内蔵され、(最近はポータブルオーディオが圧倒的に優勢になり、大型のオーディオ装置は敬遠されるようになったが)コンポーネントステレオ(コンポ)のスピーカーの場合はその箱や容器に取り付けられた状態などで使用される。スーパートゥイーターの中にはスピーカーの箱や容器に入れず、単体で上部に置いた状態で使うものもある。
ひとつのユニットで人の可聴域(およそ 20 — 20,000 Hz)全てを再生できれば理想的ではあるが、現実には製作が難しい。それはコーン紙を大きくすると低音を出しやすくなるが、コーン紙が重くなること、分割振動や異なる部分からの音の干渉により高音が出しにくくなる。基本的に超低音域から超高音域まで一つのスピーカーで再生することは困難である。
そこで、特定の周波数帯(範囲)を得意とするスピーカーユニットが作られており、異なった周波数帯を得意とする、タイプの異なったユニットを複数組み合わせることで、全体として広い周波数域をカバーするということが行われている。スピーカーユニットは、その得意とする周波数帯域によって、以下のように分類されている。
なお、どの範囲の周波数が超低音・低音・中低音・中音・高音・超高音なのか、厳密な定義は存在しない。
上述のドライバー(スピーカーユニット)やエンクロージャーなどを組み合わせることで、スピーカーシステムが作られている。
以下はスピーカーシステムの種類をリストにしたもの
2ウェイ以上のスピーカー(フルレンジ以外のスピーカー)をマルチウェイスピーカーと呼ぶ。マルチウェイスピーカーにおいては、各ユニットの音域が重複しないように音域を制限する電気回路や電子機器を用いるのが通常である。パワーアンプの前(電圧信号の段階)で分割し音域毎に別のパワーアンプで駆動することもあるが、多くの場合パワーアンプで電力増幅後に分割される。各ユニットの音域の境界にあたる周波数をクロスオーバー周波数という。2ウェイであれば1つの、3ウェイであれば2つのクロスオーバー周波数が存在する。
マルチウェイスピーカーでは必然的に各ユニットの取付位置が異なるため、フルレンジと比較して楽器や声の位置がぼやけるという意見がある。これを解決するため、トゥイーターの上下を挟むように2つのウーファーを配置し、取付位置を見かけ上一致させたスピーカーシステムも販売されている。特殊な例として、ウーファーの中心部にトゥイーターを組み込むことで1つのユニットとした2ウェイユニットがあり同軸型(コアキシャル)2ウェイユニットと呼ばれる。
なお、上記のスピーカーシステムに、サブウーファーを別筐体として付加する場合もある。これは低音(超低音・重低音)のみを出すための専用スピーカーシステムである。ホームシアター製品のほとんどに付属しており、AV機器として広く普及しているといってよい。なお、サブウーファーについては、ドルビーデジタルなどのシステムにおいてLFEチャンネル(0.1ch)として付加される場合があるが、これはスピーカーが担当する音域を分割するものでなく、独立したチャンネルとして超低音を付加するものである。
一般的な音響機器に組み込まれているスピーカーユニットのほとんどがこの方式を採用している。1924年にチェスターW.ライスとエドワードW.ケロッグによって発明されてから現在に到るまでその基本構造が変わっていないのは、この方式が簡素で優れているからである。
ダイナミック型のスピーカーユニットにはドーナツ型の永久磁石が用いられる。このドーナツの穴にあたる円筒形の空間に、それよりわずかに直径の小さい筒「ボイスコイル」が挿入されている。ボイスコイルはコイルの一種であり、紙やプラスチックの筒に導線を巻きつけたものである。この導線に音声信号が流れると、電磁石になるためボイスコイルが波形に合わせて前後方向に振動する。ボイスコイルには振動板が直結しており、この振動板が一緒に振動することで音声信号と等しい波形の音が空気中に放射される。これはリニアモーターの原理そのものであり、ダイナミック型スピーカーはリニアモーターの一種であるといってもよい。
上記の各パーツはフレームと呼ばれる骨組に固定され、1つのユニットとして完成したものになる。永久磁石はフレームに強固に固定されるが、ボイスコイルと振動板は振動する必要があるため、ボイスコイルはダンパーを介して、振動板はその外周を取り巻くように張られた「エッジ」と呼ばれる柔軟な膜を介して、それぞれフレームに固定される。ダンパーとエッジは振動板をフレームに固定する懸架装置であるが、前後方向の動きだけは妨げないようになっている。また、ダンパーは振動板の固有振動を抑える役割もしている。フレームには通常ねじ穴があり、それによってユニットがスピーカーの箱や容器などに取り付けられる。
磁気回路に使われる永久磁石には高い磁束密度が求められる。コストパフォーマンスに優れたフェライト磁石がよく使われるが、小型スピーカーには磁力の強いサマリウムコバルト磁石やネオジム磁石なども使われる。なお、以前はアルニコ磁石も高級品を中心に使われていたが、ニッケル価格が高沸したため現在ではほとんど見られなくなった。またアルニコ磁石には磁気抵抗が少ないというメリットがあるが、減磁しやすい、特殊な磁気回路が必要というデメリットもある。また励磁型と呼ばれる磁気回路にも電磁石が用いられたスピーカーユニットが存在し、強い磁力の永久磁石が無かった1920年代から1960年ごろまではよく使用され、現在でも一部マニアに使用され生産もされているが、磁気回路用に専用の直流電源装置が必要となり使用はかなり大掛かりとなる。
理想的なスピーカーに求められる性能としては、原音に忠実で歪みがないこと、点音源であること、全ての方向に同一の音圧、同一の音質で音を放射すること等が挙げられる。これらを実現するため、振動板の形状や大きさ、取り付け方法が工夫されている。
振動板の形状としては、低音用にはコーン型(くぼんだ円錐形)、高音用にはコーン型やドーム型(ふくらんだ半球形)が主流である。1980年代前半に平面型が流行したが、現在はほとんど使われていない。正面から見て真円形のものがほとんどであるが、テレビなどへの内蔵用として楕円形や多角形のものも使われる。
なお、大きなコーン型振動板の中央に小さいコーン型振動板を取り付けることで、広い帯域の再生を狙った「ダブルコーン型」(サブコーン型、またはメカニカル2ウェイとも呼ばれる場合も)もある。
振動板には、分割振動や共鳴による固有振動が少ないこと、変換効率が良いことが求められる。このため、硬く(=高ヤング率)、内部損失が大きく、かつ軽量な素材が使われる。また、経年劣化が少ないことも重要である。これら全てを高い次元で満たす材料を求めるのは容易でない。このため、ユニットの担当する音域に合わせて素材の形状や厚み、成分を変えるのが一般的になっている。軽量なものはトゥイーター用としては好ましい特性であるが、ウーファー用としては共振周波数が高くなり好ましい事ではない。よって、ウーファー用のスピーカーユニットの振動板は、他のスピーカーユニットのそれよりも重い場合が多い。
受動素子のみで構成した音域分割用電気回路を「クロスオーバー・ネットワーク」あるいは「パッシブ・ネットワーク」(ないし単にネットワーク)と呼ぶ。
ネットワークはキャパシタとインダクタによるローパス・ハイパス等のフィルタによるチャネルディバイダと、各帯域のスピーカーの能率の違いによるアンバランスを調整する抵抗によるアッテネータから成る。
ネットワークにより広い範囲の周波数特性を改善することができる。一方、音源の位置が分散され、クロスオーバー周波数付近の位相特性や過渡特性が悪化する。このため、測定や試聴をくり返して最適な回路を組み上げていくのが普通である。
そのため、音域を多数のスピーカーに分割したほうが良いのか、シンプルな構成のほうが良いのかについては、メーカー、ユーザーともに意見が分かれている。
基本的には人間や楽器の再生音域である300Hzから3000Hzの間をネットワークで分割するのは好ましくないとされている。このため、最新のトレンドとしては、中音域のスピーカーに聴覚用で重要な周波数帯を担当させ、それにスーパーウーハーおよびスーパーツイーターを付加したものが増えている。
中心になるのは2wayもしくは3wayである。2wayではクロスオーバー周波数を低くするとツイーターが中音から高音まで広い再生帯域が要求される。一方、クロスオーバーを高くするとウーハーが中音域まで担当するためにコーン紙を軽くする必要があり、低音が不足する傾向がある。このため、低音用ウーハーのサイズが限られ、大音量や低音の再生に限界が出やすい。
3wayの場合は再生の大半は中音域のスピーカーが担当することで低音用のウーハーや高音用のツイーターの負担が減ることと、多数のユニットを使うことで最大音量が出しやすくなる。一方、各音源の位置が分散すること、クロスオーバーで位相や過渡特性の乱れが出やすいこと、各ユニットの音質を揃えることが難しいなどの問題がある。
ネットワークの設計において最も重要なのは、クロスオーバー周波数を適切に設定することである。ユニットを増やせば増やすほど再生できる音域は広がるが、反面クロスオーバー周波数が増えることでネットワークの設計が難しくなる。
エンクロージャーとはスピーカーユニットを取り付ける箱のことである。音には障害物の向こうに回り込む性質(回折)があり、低音になるほど顕著である。このため、ユニットをむき出しのまま使うと、裏から出た低音が前に回り込んで打ち消しあい、低音が小さくなってしまう。そこで、ユニットをエンクロージャーに取り付けることで裏から出た音を遮断するのである。ユニットをエンクロージャーに組み込んだものをスピーカーシステム(または単にスピーカー)と呼ぶ。ほとんど全てのスピーカーはこの状態で市販されている。
エンクロージャーは、振動板の反作用によって振動する。また、内部で音が反射して定常波が発生する。これらは音質を悪化させるため、補強材や隔壁で強度を確保し、フェルトなどの吸音材で定常波を吸収する。このエンクロージャーの設計によってスピーカーシステム全体の音質が決定され、製品の個性となる。つまり、音質の悪化を限りなくゼロに近づけるには巨大な面積を持つ1枚の板にユニットを取り付ければ理論上可能である(平面バッフル)。しかし、事実上困難である為「箱型」になった。
箱の材質は固有の振動を持たないことと加工性と強度が要求されるため、通常は木質材料(単板、MDF、パーティクルボード、合板)が使われる。樹脂製や金属製のものもあるが、樹脂製は小型で安価なもの、金属製は小型のものや高級品に限られている。
エンクロージャーには数多くの方式があるが、市販品のほとんどは「密閉型」か「バスレフ型(位相反転型)」である。いずれにせよ、自然な聴感のためには周波数特性が広い範囲でなるべく平滑なことが求められる。特に低音については、ウーハーの最低共振周波数fo付近の共鳴特性の鋭さを示すQoが0.7前後になることが求められる。
以下に主な方式を記す。
エンクロージャーの形式は、スピーカーユニットとの相性がある。スピーカーには振動板の重さ、動きやすさ(コンプライアンス)、磁気回路の強さなどによって最低共鳴周波数の共鳴の度合いを示すQo値が定まる。Qo値が大きいほど共鳴が大きくなる。
例えば振動板が重くなると振動が止まりにくくなりQo値が上がる。またコンプライアンスは低いほどQoが上がり、磁気回路が弱いほど制動が弱くなるためQoが上がる。システムとしての低音の再生が平滑で自然な聴感となるQo値を0.7とするために適切な組合わせが必要である。
なお、ユニットの前にラッパ状の曲面(ホーン)を取り付けたスピーカーを「フロントロードホーン型」と呼ぶ。これは上記の各エンクロージャーと組み合わせて使用されるものであり、エンクロージャーの方式を指す用語ではない。指向性をコントロールでき能率に優れている反面、大型になりやすい。超高級スピーカーや大型の自作スピーカー、コンサート用の大音響スピーカーに利用される。
オーディオ用のスピーカーは「周波数特性」「歪率」「過渡特性」「指向特性」などを改善するために様々な工夫がなされており、音質の良し悪しの指標として使われる。
スピーカーは、グラム単位の質量を有する振動板を動かすという構造上、歪みはどうしても大きくなる。適切に設計されたスピーカーの中には、可聴域(100Hz以上)の歪率が0.5%を切るものも存在するが、それでも他の機器(CDプレーヤー、アンプなど)の歪率が0.01%を切っていることを考えると2桁以上大きな歪率である。
歪みを発生させる非線形部品としてはダンパーやエッジ、そして設計が悪い磁気回路などが挙げられる。これらの非線形の影響が顕著になるのは振幅が大きい低音域のときである。等ラウドネス曲線が示しているがごとく、ヒトの聴覚は低音域の感度が鈍い。そのためたとえ低音・中音・高音がバランスよく鳴っているように聞こえる楽曲であっても、音響エネルギー分布は低音域に偏りがちであり、そのエネルギー分布を再現(再生)しようとするスピーカーは低音域で大きくストロークする。大きいストロークは振動系支持部材の非線形領域に踏み込み易いのである。また、低音用の振動板は重いため慣性による逆起電力(制動力)を発生させ、これも歪みの原因となる。このためスピーカーの歪みは低音域で発生しやすく、実際に測定してもそのような結果になる。
オーディオ用スピーカーが広い指向性を理想としているのに対し、指向性を絞って特定の方向に大きな音を伝えたい場面も存在する。たとえば学校教育現場のアナウンス、交通機関の案内放送、街宣車などである。
理論上は指向性を絞るには振動板を大きくすればよいが、直径数m以上ものが必要となり非現実的である。そこで、ホーンと呼ばれる円錐形に広がる管を取り付けたスピーカーが、上記用途の拡声器として使われている。
周波数が高ければ指向性が増すため、超音波を小さな振動部から指向性の強いビーム状で送り出し、音の歪みを利用して可聴音として人間が聞き取れるようにしたパラメトリック・スピーカーというものもある。
雑誌の付録等で組み立て式のスピーカーユニットが販売されていたこともある。
既存のユニットを元に、セーム革などによるエッジ交換や和紙や金属板などの自作の振動板に交換したり、より強力な磁石への交換や追加を行うといったユニットへの改造を行うオーディオマニアも一定数存在する。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "スピーカー(英: speaker)、より正式にはラウドスピーカー(英: loudspeaker)とは、電気信号を音に変える装置である。 電気的振動を物理的振動に変える電気音響変換器。音響装置の一種。語尾を伸ばさずに「スピーカ」とも、漢字表現では「拡声器」とも。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "なお「スピーカー」と言っても、厳密には「スピーカーシステム」(=エンクロージャーつまり箱や容器状のもの(後述)、におさめられたもの)全体を指している場合と、「スピーカーユニット」(後述)だけを指している場合とがある。どちらを指しているのかはっきりさせなければならない場合には「スピーカーシステム」「スピーカーユニット」と呼び分ける。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "スピーカーは、音響を表現した電気信号を、物理的な音、つまり空気の振動に変える装置である。たとえば、声や楽器音などの音(音波)をマイクロホンなどで変換して得た電気信号(電気的振動)を再び音波にして空間に放ったり、シンセサイザーなどで電気的に作り出した電気信号(電気的振動)を人間が耳で聞ける物理的な音にして放ったりする装置である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "スピーカーは、ラジオ受信機、ステレオ装置、テレビ受像機、メガホン、携帯電話 等々、さまざまな音響装置に組み込まれている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "一般に、入力された電気信号をできるだけ忠実に音へと変換するスピーカーが「良いスピーカー」や「高性能のスピーカー」などとされている。つまり元の電気信号の波形と、スピーカーから放たれた音の波形を比較した場合に、それら波形の間に相違(歪み)が生じたり雑音が入ったりするのは「性能が低い」とされている。 なお性能が良いと価格も高めになる傾向がある。また、あまりにスピーカーのサイズが小さいと、低音(の信号)が音にほとんど変換されなくなる傾向がある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "用途ごとに、コストや、最終的に実現すべき製品サイズも考慮しつつ、スピーカーというのは選ばれている。たとえば、家庭やオーディオルームなどに据え置いて使うコンポーネントステレオ、特に高級オーディオのスピーカーでは、性能の良い高価なユニットを複数組み合わせて、低音用には直径が数十cmもあるユニットを選び、高さが数十cm~1m以上になるような箱状のエンクロージャーに組み込んで「スピーカーシステム」が組み上げられていることが一般的で、そのおかげで電気信号をかなり忠実に音に変換するものが多い。そのかわり、とても大きくて重く、部屋のスペースを奪い、簡単には移動させることもできないようなものになる。 一方、災害時などに持ち運ぶことなどを想定した携帯ラジオなどでは、持ち運こびやすいことが至上命題であり、製品を絶対に小さくそして軽く仕上げなければならないので、設計者は小さくて軽いスピーカーを選ぶことになり、結果として、低音がほとんど聞こえないようなスピーカーが選ばれる。特に安物の携帯ラジオは、それが顕著になる。とはいえ、そういった災害時用の携帯ラジオでは、アナウンサーの音声が聞こえて言葉の意味が分かれば十分なので、それで良いわけである。携帯ラジオ用のスピーカーは絶対に大きくて重いものであってはならない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "というわけで、スピーカーの諸性質には、しばしばいわゆる「トレードオフ」の関係、つまり「あちら立てればこちら立たず」の関係があり、設計者はコスト・大きさ・重さ・性能のバランスに配慮しつつスピーカーを選ぶことになる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ダイナミックスピーカーは、1925年にエドワードW.ケロッグとチェスターW.ライスが発明し、1929年4月に米国特許を取得した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "音声から電気信号を生むダイナミックマイクとは逆に、ダイナミックスピーカーは電気信号から音を生成する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "永久磁石の極の間の円形の隙間にボイスコイルと呼ばれるコイル状のワイヤーを吊るし、そこに交流電気のオーディオ信号を流すと、ファラデーの法則により、コイルは急速に前後に震える。このコイルにダイアフラム(通常は円錐形)を固定することでダイヤフラムが前後に移動し、空気を押して音波を生成する。この最も一般的な方法に加えて、電気信号を音に変換するために使用できるいくつかの代替技術がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "コーン紙など特定の振動板ではなく、直接に振動体(圧電振動子の耐熱樹脂ケース入など)を設置し家の壁、床、その他自動車の天井や花など共鳴するものを振動板とするスピーカーである。振動スピーカー、共鳴スピーカー、伝導スピーカーと呼ばれる。",
"title": "スピーカーの種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、放電型(イオン型)スピーカーやサーモホンのように振動板を使うことなく音を発生させるスピーカーもある。放電型スピーカーは高周波放電で発生する空気の振動を利用するもので、過渡応答が優れているという特徴がある。サーモホンは熱音響効果を利用し、周期的な熱の変動による圧力の変化を利用し音を発生させる。十分な音圧が得られなかったため長く忘れられていたが、カーボンナノチューブなどの新しい素材の発明に伴いシート状スピーカーなどへの応用が研究されている。",
"title": "スピーカーの種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "※これらは組み合わせて使用されることも多い。",
"title": "スピーカーの種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "スピーカーの種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "スピーカーシステム側にアンプを内蔵しているタイプと、そうでないタイプがある。",
"title": "スピーカーの種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "アンプを内蔵するスピーカーシステムを慣習的に「アクティブスピーカー」と呼び、アンプを内蔵しないものは慣習的に「パッシブスピーカー」と呼んでいる。あくまで慣習である。深い意味は無い。",
"title": "スピーカーの種類・分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "音を出す核心的な部分を「スピーカーユニット」(または単に「ユニット」)と呼ぶ。英語では「driver ドライバ」と呼んだりもする。これこそが音を出す核心的な部分であり、これだけでも音は出るが、通常は「むき出し」状態で使われることは少なく、ラジオやテレビなどの筐体に内蔵され、(最近はポータブルオーディオが圧倒的に優勢になり、大型のオーディオ装置は敬遠されるようになったが)コンポーネントステレオ(コンポ)のスピーカーの場合はその箱や容器に取り付けられた状態などで使用される。スーパートゥイーターの中にはスピーカーの箱や容器に入れず、単体で上部に置いた状態で使うものもある。",
"title": "ドライバー(スピーカーユニット)"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ひとつのユニットで人の可聴域(およそ 20 — 20,000 Hz)全てを再生できれば理想的ではあるが、現実には製作が難しい。それはコーン紙を大きくすると低音を出しやすくなるが、コーン紙が重くなること、分割振動や異なる部分からの音の干渉により高音が出しにくくなる。基本的に超低音域から超高音域まで一つのスピーカーで再生することは困難である。",
"title": "ドライバー(スピーカーユニット)"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "そこで、特定の周波数帯(範囲)を得意とするスピーカーユニットが作られており、異なった周波数帯を得意とする、タイプの異なったユニットを複数組み合わせることで、全体として広い周波数域をカバーするということが行われている。スピーカーユニットは、その得意とする周波数帯域によって、以下のように分類されている。",
"title": "ドライバー(スピーカーユニット)"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお、どの範囲の周波数が超低音・低音・中低音・中音・高音・超高音なのか、厳密な定義は存在しない。",
"title": "ドライバー(スピーカーユニット)"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "上述のドライバー(スピーカーユニット)やエンクロージャーなどを組み合わせることで、スピーカーシステムが作られている。",
"title": "スピーカーシステム"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "以下はスピーカーシステムの種類をリストにしたもの",
"title": "スピーカーシステム"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2ウェイ以上のスピーカー(フルレンジ以外のスピーカー)をマルチウェイスピーカーと呼ぶ。マルチウェイスピーカーにおいては、各ユニットの音域が重複しないように音域を制限する電気回路や電子機器を用いるのが通常である。パワーアンプの前(電圧信号の段階)で分割し音域毎に別のパワーアンプで駆動することもあるが、多くの場合パワーアンプで電力増幅後に分割される。各ユニットの音域の境界にあたる周波数をクロスオーバー周波数という。2ウェイであれば1つの、3ウェイであれば2つのクロスオーバー周波数が存在する。",
"title": "スピーカーシステム"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "マルチウェイスピーカーでは必然的に各ユニットの取付位置が異なるため、フルレンジと比較して楽器や声の位置がぼやけるという意見がある。これを解決するため、トゥイーターの上下を挟むように2つのウーファーを配置し、取付位置を見かけ上一致させたスピーカーシステムも販売されている。特殊な例として、ウーファーの中心部にトゥイーターを組み込むことで1つのユニットとした2ウェイユニットがあり同軸型(コアキシャル)2ウェイユニットと呼ばれる。",
"title": "スピーカーシステム"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、上記のスピーカーシステムに、サブウーファーを別筐体として付加する場合もある。これは低音(超低音・重低音)のみを出すための専用スピーカーシステムである。ホームシアター製品のほとんどに付属しており、AV機器として広く普及しているといってよい。なお、サブウーファーについては、ドルビーデジタルなどのシステムにおいてLFEチャンネル(0.1ch)として付加される場合があるが、これはスピーカーが担当する音域を分割するものでなく、独立したチャンネルとして超低音を付加するものである。",
"title": "スピーカーシステム"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一般的な音響機器に組み込まれているスピーカーユニットのほとんどがこの方式を採用している。1924年にチェスターW.ライスとエドワードW.ケロッグによって発明されてから現在に到るまでその基本構造が変わっていないのは、この方式が簡素で優れているからである。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ダイナミック型のスピーカーユニットにはドーナツ型の永久磁石が用いられる。このドーナツの穴にあたる円筒形の空間に、それよりわずかに直径の小さい筒「ボイスコイル」が挿入されている。ボイスコイルはコイルの一種であり、紙やプラスチックの筒に導線を巻きつけたものである。この導線に音声信号が流れると、電磁石になるためボイスコイルが波形に合わせて前後方向に振動する。ボイスコイルには振動板が直結しており、この振動板が一緒に振動することで音声信号と等しい波形の音が空気中に放射される。これはリニアモーターの原理そのものであり、ダイナミック型スピーカーはリニアモーターの一種であるといってもよい。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "上記の各パーツはフレームと呼ばれる骨組に固定され、1つのユニットとして完成したものになる。永久磁石はフレームに強固に固定されるが、ボイスコイルと振動板は振動する必要があるため、ボイスコイルはダンパーを介して、振動板はその外周を取り巻くように張られた「エッジ」と呼ばれる柔軟な膜を介して、それぞれフレームに固定される。ダンパーとエッジは振動板をフレームに固定する懸架装置であるが、前後方向の動きだけは妨げないようになっている。また、ダンパーは振動板の固有振動を抑える役割もしている。フレームには通常ねじ穴があり、それによってユニットがスピーカーの箱や容器などに取り付けられる。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "磁気回路に使われる永久磁石には高い磁束密度が求められる。コストパフォーマンスに優れたフェライト磁石がよく使われるが、小型スピーカーには磁力の強いサマリウムコバルト磁石やネオジム磁石なども使われる。なお、以前はアルニコ磁石も高級品を中心に使われていたが、ニッケル価格が高沸したため現在ではほとんど見られなくなった。またアルニコ磁石には磁気抵抗が少ないというメリットがあるが、減磁しやすい、特殊な磁気回路が必要というデメリットもある。また励磁型と呼ばれる磁気回路にも電磁石が用いられたスピーカーユニットが存在し、強い磁力の永久磁石が無かった1920年代から1960年ごろまではよく使用され、現在でも一部マニアに使用され生産もされているが、磁気回路用に専用の直流電源装置が必要となり使用はかなり大掛かりとなる。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "理想的なスピーカーに求められる性能としては、原音に忠実で歪みがないこと、点音源であること、全ての方向に同一の音圧、同一の音質で音を放射すること等が挙げられる。これらを実現するため、振動板の形状や大きさ、取り付け方法が工夫されている。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "振動板の形状としては、低音用にはコーン型(くぼんだ円錐形)、高音用にはコーン型やドーム型(ふくらんだ半球形)が主流である。1980年代前半に平面型が流行したが、現在はほとんど使われていない。正面から見て真円形のものがほとんどであるが、テレビなどへの内蔵用として楕円形や多角形のものも使われる。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、大きなコーン型振動板の中央に小さいコーン型振動板を取り付けることで、広い帯域の再生を狙った「ダブルコーン型」(サブコーン型、またはメカニカル2ウェイとも呼ばれる場合も)もある。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "振動板には、分割振動や共鳴による固有振動が少ないこと、変換効率が良いことが求められる。このため、硬く(=高ヤング率)、内部損失が大きく、かつ軽量な素材が使われる。また、経年劣化が少ないことも重要である。これら全てを高い次元で満たす材料を求めるのは容易でない。このため、ユニットの担当する音域に合わせて素材の形状や厚み、成分を変えるのが一般的になっている。軽量なものはトゥイーター用としては好ましい特性であるが、ウーファー用としては共振周波数が高くなり好ましい事ではない。よって、ウーファー用のスピーカーユニットの振動板は、他のスピーカーユニットのそれよりも重い場合が多い。",
"title": "ダイナミック型スピーカーユニット"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "受動素子のみで構成した音域分割用電気回路を「クロスオーバー・ネットワーク」あるいは「パッシブ・ネットワーク」(ないし単にネットワーク)と呼ぶ。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ネットワークはキャパシタとインダクタによるローパス・ハイパス等のフィルタによるチャネルディバイダと、各帯域のスピーカーの能率の違いによるアンバランスを調整する抵抗によるアッテネータから成る。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ネットワークにより広い範囲の周波数特性を改善することができる。一方、音源の位置が分散され、クロスオーバー周波数付近の位相特性や過渡特性が悪化する。このため、測定や試聴をくり返して最適な回路を組み上げていくのが普通である。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "そのため、音域を多数のスピーカーに分割したほうが良いのか、シンプルな構成のほうが良いのかについては、メーカー、ユーザーともに意見が分かれている。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "基本的には人間や楽器の再生音域である300Hzから3000Hzの間をネットワークで分割するのは好ましくないとされている。このため、最新のトレンドとしては、中音域のスピーカーに聴覚用で重要な周波数帯を担当させ、それにスーパーウーハーおよびスーパーツイーターを付加したものが増えている。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "中心になるのは2wayもしくは3wayである。2wayではクロスオーバー周波数を低くするとツイーターが中音から高音まで広い再生帯域が要求される。一方、クロスオーバーを高くするとウーハーが中音域まで担当するためにコーン紙を軽くする必要があり、低音が不足する傾向がある。このため、低音用ウーハーのサイズが限られ、大音量や低音の再生に限界が出やすい。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "3wayの場合は再生の大半は中音域のスピーカーが担当することで低音用のウーハーや高音用のツイーターの負担が減ることと、多数のユニットを使うことで最大音量が出しやすくなる。一方、各音源の位置が分散すること、クロスオーバーで位相や過渡特性の乱れが出やすいこと、各ユニットの音質を揃えることが難しいなどの問題がある。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ネットワークの設計において最も重要なのは、クロスオーバー周波数を適切に設定することである。ユニットを増やせば増やすほど再生できる音域は広がるが、反面クロスオーバー周波数が増えることでネットワークの設計が難しくなる。",
"title": "クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "エンクロージャーとはスピーカーユニットを取り付ける箱のことである。音には障害物の向こうに回り込む性質(回折)があり、低音になるほど顕著である。このため、ユニットをむき出しのまま使うと、裏から出た低音が前に回り込んで打ち消しあい、低音が小さくなってしまう。そこで、ユニットをエンクロージャーに取り付けることで裏から出た音を遮断するのである。ユニットをエンクロージャーに組み込んだものをスピーカーシステム(または単にスピーカー)と呼ぶ。ほとんど全てのスピーカーはこの状態で市販されている。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "エンクロージャーは、振動板の反作用によって振動する。また、内部で音が反射して定常波が発生する。これらは音質を悪化させるため、補強材や隔壁で強度を確保し、フェルトなどの吸音材で定常波を吸収する。このエンクロージャーの設計によってスピーカーシステム全体の音質が決定され、製品の個性となる。つまり、音質の悪化を限りなくゼロに近づけるには巨大な面積を持つ1枚の板にユニットを取り付ければ理論上可能である(平面バッフル)。しかし、事実上困難である為「箱型」になった。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "箱の材質は固有の振動を持たないことと加工性と強度が要求されるため、通常は木質材料(単板、MDF、パーティクルボード、合板)が使われる。樹脂製や金属製のものもあるが、樹脂製は小型で安価なもの、金属製は小型のものや高級品に限られている。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "エンクロージャーには数多くの方式があるが、市販品のほとんどは「密閉型」か「バスレフ型(位相反転型)」である。いずれにせよ、自然な聴感のためには周波数特性が広い範囲でなるべく平滑なことが求められる。特に低音については、ウーハーの最低共振周波数fo付近の共鳴特性の鋭さを示すQoが0.7前後になることが求められる。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "以下に主な方式を記す。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "エンクロージャーの形式は、スピーカーユニットとの相性がある。スピーカーには振動板の重さ、動きやすさ(コンプライアンス)、磁気回路の強さなどによって最低共鳴周波数の共鳴の度合いを示すQo値が定まる。Qo値が大きいほど共鳴が大きくなる。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "例えば振動板が重くなると振動が止まりにくくなりQo値が上がる。またコンプライアンスは低いほどQoが上がり、磁気回路が弱いほど制動が弱くなるためQoが上がる。システムとしての低音の再生が平滑で自然な聴感となるQo値を0.7とするために適切な組合わせが必要である。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "なお、ユニットの前にラッパ状の曲面(ホーン)を取り付けたスピーカーを「フロントロードホーン型」と呼ぶ。これは上記の各エンクロージャーと組み合わせて使用されるものであり、エンクロージャーの方式を指す用語ではない。指向性をコントロールでき能率に優れている反面、大型になりやすい。超高級スピーカーや大型の自作スピーカー、コンサート用の大音響スピーカーに利用される。",
"title": "エンクロージャー"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "オーディオ用のスピーカーは「周波数特性」「歪率」「過渡特性」「指向特性」などを改善するために様々な工夫がなされており、音質の良し悪しの指標として使われる。",
"title": "音質の指標"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "スピーカーは、グラム単位の質量を有する振動板を動かすという構造上、歪みはどうしても大きくなる。適切に設計されたスピーカーの中には、可聴域(100Hz以上)の歪率が0.5%を切るものも存在するが、それでも他の機器(CDプレーヤー、アンプなど)の歪率が0.01%を切っていることを考えると2桁以上大きな歪率である。",
"title": "音質の指標"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "歪みを発生させる非線形部品としてはダンパーやエッジ、そして設計が悪い磁気回路などが挙げられる。これらの非線形の影響が顕著になるのは振幅が大きい低音域のときである。等ラウドネス曲線が示しているがごとく、ヒトの聴覚は低音域の感度が鈍い。そのためたとえ低音・中音・高音がバランスよく鳴っているように聞こえる楽曲であっても、音響エネルギー分布は低音域に偏りがちであり、そのエネルギー分布を再現(再生)しようとするスピーカーは低音域で大きくストロークする。大きいストロークは振動系支持部材の非線形領域に踏み込み易いのである。また、低音用の振動板は重いため慣性による逆起電力(制動力)を発生させ、これも歪みの原因となる。このためスピーカーの歪みは低音域で発生しやすく、実際に測定してもそのような結果になる。",
"title": "音質の指標"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "オーディオ用スピーカーが広い指向性を理想としているのに対し、指向性を絞って特定の方向に大きな音を伝えたい場面も存在する。たとえば学校教育現場のアナウンス、交通機関の案内放送、街宣車などである。",
"title": "音質の指標"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "理論上は指向性を絞るには振動板を大きくすればよいが、直径数m以上ものが必要となり非現実的である。そこで、ホーンと呼ばれる円錐形に広がる管を取り付けたスピーカーが、上記用途の拡声器として使われている。",
"title": "音質の指標"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "周波数が高ければ指向性が増すため、超音波を小さな振動部から指向性の強いビーム状で送り出し、音の歪みを利用して可聴音として人間が聞き取れるようにしたパラメトリック・スピーカーというものもある。",
"title": "音質の指標"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "雑誌の付録等で組み立て式のスピーカーユニットが販売されていたこともある。",
"title": "自作"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "既存のユニットを元に、セーム革などによるエッジ交換や和紙や金属板などの自作の振動板に交換したり、より強力な磁石への交換や追加を行うといったユニットへの改造を行うオーディオマニアも一定数存在する。",
"title": "自作"
}
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スピーカー、より正式にはラウドスピーカーとは、電気信号を音に変える装置である。
電気的振動を物理的振動に変える電気音響変換器。音響装置の一種。語尾を伸ばさずに「スピーカ」とも、漢字表現では「拡声器」とも。 なお「スピーカー」と言っても、厳密には「スピーカーシステム」(=エンクロージャーつまり箱や容器状のもの、におさめられたもの)全体を指している場合と、「スピーカーユニット」(後述)だけを指している場合とがある。どちらを指しているのかはっきりさせなければならない場合には「スピーカーシステム」「スピーカーユニット」と呼び分ける。
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{{see wt|電気信号を音に変える装置|スピーカー}}
{{Otheruses|音声発生装置全般|パーソナル・コンピュータで使われるスピーカー|スピーカー (コンピュータ)|その他}}
{{出典の明記|date=2021年4月}}
[[File:Electrodynamic-loudspeaker.png|thumb|スピーカーシステムの一例。<br />1.ミッドレンジ用ドライバ<br /> 2.ツイーター<br /> 3.ウーファーが2つ<br /> なおウーファーの下にも円形のものが見えるが、これは穴であり、[[バスレフ型|バスレフ・システム]]である。]]
[[File:Vintage Universal Transistor Radio (Inside View), Model PTR-62B, Tokyo Transistor Industry Co., AM Band Only, 6 Transistors, Made in Japan, Circa 1961 (48163925231).jpg|thumb|携帯[[ラジオ]]に組み込まれたスピーカーの例。裏ぶたを開けた状態。「8Ω 0.1W」と書かれているものがスピーカー。([[1961年]]ころの日本のUNIVERSAL社製の6石、つまり[[トランジスタ]]が6個のラジオ。)]]
[[File:A disassembled radio with a loudspeaker attached to it.jpg|thumb|別の携帯ラジオを分解した例。ラジオを分解し箱(筐体)からとりだし、スピーカー(上段の黒くて丸いもの)と回路基板(中段の2つの板)と電池ボックス(下段)に分けた状態。上の黒くて丸いもの(だけ)がスピーカー。スピーカーと回路基板は2本の電線(左側の2本の白色)でつながっているのが見える。電線経由で、音を表現した、[[振動]]する[[電流]]がスピーカーへと伝わり、スピーカーはその振動する電流を「音」つまり空気の振動に変換する。]]
[[File:A Speaker in TRA Xiangshan Station.jpg|thumb|駅や店舗などに設置されるスピーカーの例]]
'''スピーカー'''({{Lang-en-short|speaker}})<ref group="注釈">英語ではloudspeakerのほうが正式の呼称である。「speaker」では基本的には「話す人」とか「演説者」という意味になってしまい、誤解を受けやすいので、装置を指す場合は英語ではloudspeakerと呼ぶことを好む。装置を「speaker」と呼ぶのは、あくまで話す側にとっても聞く側にとっても、装置を指しているとはっきり分かっている時に限って使う、省略的な呼称である。</ref>、より正式には'''ラウドスピーカー'''({{Lang-en-short|loudspeaker}})とは、[[電気信号]]を[[音]]に変える装置である<ref>大辞泉</ref>。
電気的[[振動]]を物理的振動に変える[[電気音響変換器]]。[[音響機器|音響装置]]の一種。語尾を伸ばさずに「'''スピーカ'''」とも、漢字表現では「拡声器」とも。
なお「スピーカー」と言っても、厳密には「スピーカーシステム」(=エンクロージャーつまり箱や容器状のもの([[#エンクロージャー|後述]])、におさめられたもの)全体を指している場合と、「スピーカーユニット」([[#ドライバー(スピーカーユニット)|後述]])だけを指している場合とがある。どちらを指しているのかはっきりさせなければならない場合には「スピーカーシステム」「スピーカーユニット」と呼び分ける。
== 概説 ==
スピーカーは、音響を表現した電気信号を、物理的な音、つまり空気の振動に変える装置である。たとえば、声や楽器音などの音([[音波]])を[[マイクロホン]]などで変換して得た電気信号(電気的振動)を再び音波にして空間に放ったり、シンセサイザーなどで電気的に作り出した電気信号(電気的振動)を人間が耳で聞ける物理的な音にして放ったりする装置である。<ref group="注釈">なお電気で音を出す装置には、[[チャイム]]や[[ブザー]]や[[電鈴|ベル]]などもあるが、これらは(ひとつないし複数の)決まった振動数の音を発生させるにすぎず、原理が異なる。</ref>
スピーカーは、[[ラジオ]][[受信機]]、[[ステレオ]]装置、[[テレビ受像機]]、[[メガホン]]、[[携帯電話]] 等々、さまざまな音響装置に組み込まれている。
一般に、入力された電気信号をできるだけ忠実に音へと変換するスピーカーが「良いスピーカー」や「高性能のスピーカー」などとされている。つまり元の電気信号の[[波形]]と、スピーカーから放たれた音の波形を比較した場合に、それら波形の間に相違([[ディストーション (音響機器)|歪み]])が生じたり[[雑音]]が入ったりするのは「性能が低い」とされている。
なお性能が良いと価格も高めになる傾向がある。また、あまりにスピーカーのサイズが小さいと、低音(の信号)が音にほとんど変換されなくなる傾向がある。
用途ごとに、コストや、最終的に実現すべき製品サイズも考慮しつつ、スピーカーというのは選ばれている。たとえば、家庭やオーディオルームなどに据え置いて使うコンポーネントステレオ、特に[[高級オーディオ]]のスピーカーでは、性能の良い高価なユニットを複数組み合わせて、低音用には直径が数十cmもあるユニットを選び、高さが数十cm~1m以上になるような箱状のエンクロージャーに組み込んで「スピーカーシステム」が組み上げられていることが一般的で、そのおかげで電気信号をかなり忠実に音に変換するものが多い。そのかわり、とても大きくて重く、部屋のスペースを奪い、簡単には移動させることもできないようなものになる。
一方、災害時などに持ち運ぶことなどを想定した携帯ラジオなどでは、持ち運こびやすいことが至上命題であり、製品を絶対に小さくそして軽く仕上げなければならないので、設計者は小さくて軽いスピーカーを選ぶことになり、結果として、低音がほとんど聞こえないようなスピーカーが選ばれる。特に安物の携帯ラジオは、それが顕著になる。とはいえ、そういった災害時用の携帯ラジオでは、アナウンサーの音声が聞こえて言葉の意味が分かれば十分なので、それで良いわけである。携帯ラジオ用のスピーカーは絶対に大きくて重いものであってはならない。
というわけで、スピーカーの諸性質には、しばしばいわゆる「トレードオフ」の関係、つまり「あちら立てればこちら立たず」の関係があり、設計者はコスト・大きさ・重さ・性能のバランスに配慮しつつスピーカーを選ぶことになる。
== 歴史 ==
{{節スタブ|date=2021年8月}}
ダイナミックスピーカーは、1925年にエドワードW.ケロッグとチェスターW.ライスが発明し、1929年4月に米国特許を取得した。
音声から電気信号を生むダイナミックマイクとは逆に、ダイナミックスピーカーは電気信号から音を生成する。
永久磁石の極の間の円形の隙間にボイスコイルと呼ばれるコイル状のワイヤーを吊るし、そこに交流電気のオーディオ信号を流すと、ファラデーの法則により、コイルは急速に前後に震える。このコイルにダイアフラム(通常は円錐形)を固定することでダイヤフラムが前後に移動し、空気を押して音波を生成する。この最も一般的な方法に加えて、電気信号を音に変換するために使用できるいくつかの代替技術がある。
== スピーカーの種類・分類 ==
{{出典の明記|date=2023年4月}}
=== ユニットの変換方式による分類 ===
* ダイナミック型
* コンデンサ型(静電型)
* リボン型
* イオン型(放電型)
* マグネティック型
* 圧電型
=== 振動板の形状による分類 ===
* コーン型
* ドーム型
* 平面型
* ベンディングウェーブ型
** ウォルシュユニット
** マンガーユニット
** ハイルドライバー
** リニアムドライバー
=== 振動板の配置による分類 ===
* [[フルレンジ]]
: 1種類のスピーカーユニットで低音から高音まで全て再生する。
* マルチウェイ
: 複数種類のスピーカーユニットで、再生する音域を分担する(ユニットの種類数により2ウェイ、3ウェイ、‥‥というふうに増える)。
{{indent|
* バーチカルツイン(仮想同軸)
:マルチウエイにおいて、高音用のスピーカーユニットの上下に低音用のユニットを配置する。
* 同軸ユニット
:低音用のスピーカーユニットの中央部に高音用のスピーカーユニットを組み込み、それぞれのユニットの中心位置を一致させるもの。
}}
=== 特定の振動板がない振動スピーカー ===
コーン紙など特定の振動板ではなく、直接に振動体(圧電振動子の耐熱樹脂ケース入など)を設置し家の壁、床、その他[[自動車]]の天井や花など共鳴するものを振動板とするスピーカーである。振動スピーカー、共鳴スピーカー、伝導スピーカーと呼ばれる。
また、放電型(イオン型)スピーカーや[[サーモホン]]のように振動板を使うことなく音を発生させるスピーカーもある。放電型スピーカーは[[高周波]][[放電]]で発生する空気の振動を利用するもので、[[過渡応答]]が優れているという特徴がある。[[サーモホン]]は熱音響効果を利用し、周期的な熱の変動による圧力の変化を利用し音を発生させる。十分な音圧が得られなかったため長く忘れられていたが、[[カーボンナノチューブ]]などの新しい素材の発明に伴いシート状スピーカーなどへの応用が研究されている<ref name="NS2008">{{Cite web |author=Colin Barras |title=Hot nanotube sheets produce music on demand |url=http://www.newscientist.com/article/dn15098 |format= |publisher=New Scientist |date=2008-10-31 |accessdate=2011-02-01}}</ref>。
=== 形状・サイズによる分類 ===
* [[ブックシェルフ型]]
* [[フロア型]]
** [[トールボーイ型]]
* 埋め込み型
* 可般型
*[[ウェアラブルスピーカー]]
** [[ヘッドフォン]]
** ネックスピーカー
* [[平面バッフル]]/[[後面開口型]](ダイポール型)
* [[密閉型]]
* [[バスレフ型]]
** ダンプドバスレフ型
** ドローンコーン型
* [[ASW型]](ケルトン方式/チューニングダクト方式)
* ダブルバスレフ型
* [[共鳴管方式]]
** TQWT
** トランスミッションライン
** IR方式
* ホーン型
** [[フロントロードホーン型]]
** [[バックロードホーン型]]
<!-- アイソバリック型はエンクロージャーによる分類ではない -->
※これらは組み合わせて使用されることも多い。
=== 用途による分類 ===
* [[オーディオマニア|ピュアオーディオ]]用
* [[モニタースピーカー]]用
* [[Public_Address|PA]]/SR/拡声用
* [[アンプ_(楽器用)|楽器用]] - 構造上はアクティブスピーカーと同一であるが、対象の楽器の一部として考えられている。
* 水中用
* 組み込み用(携帯電話など)
* 軍用([[音響兵器]]他)
* その他 特殊用途
=== 内蔵アンプの 有 / 無 による分類 ===
{{出典の明記|date=2023年4月}}
スピーカーシステム側にアンプを内蔵しているタイプと、そうでないタイプがある。
アンプを内蔵するスピーカーシステムを慣習的に「[[アクティブスピーカー]]」と呼び、アンプを内蔵しないものは慣習的に「パッシブスピーカー」と呼んでいる。あくまで慣習である。深い意味は無い。
== {{vanc|ドライバー(スピーカーユニット)|ドライバー}}<!-- 節題を変えるさいは,アンカー呼び出し先の参照性継続に気を払ってください。 --> ==
[[File:Hp1.jpg|thumb|right|200px|「ドライバー」や「スピーカーユニット」などと呼ばれる部分。これだけでも音は出るが、通常はラジオ、テレビなどの筺体に内蔵された状態で使用され、コンポーネントステレオの場合は箱に組み付けた状態で使用される。]]
{{出典の明記|date=2023年4月}}
音を出す核心的な部分を「'''スピーカーユニット'''」(または単に「ユニット」)と呼ぶ。英語では「driver '''ドライバ'''」と呼んだりもする。これこそが音を出す核心的な部分であり、これだけでも音は出るが、通常は「むき出し」状態で使われることは少なく<!-- まず無く-->、ラジオやテレビなどの[[筐体]]に内蔵され、(最近は[[ポータブルオーディオ]]が圧倒的に優勢になり、大型のオーディオ装置は敬遠されるようになったが)[[コンポーネントステレオ]](コンポ)のスピーカーの場合はその箱や容器に取り付けられた状態などで使用される。スーパートゥイーターの中にはスピーカーの箱や容器に入れず、単体で上部に置いた状態で使うものもある。
ひとつのユニットで人の[[聴覚#可聴域|可聴域]](およそ 20 — 20,000 Hz)全てを再生できれば理想的ではあるが、現実には製作が難しい。それはコーン紙を大きくすると低音を出しやすくなるが、コーン紙が重くなること、分割振動や異なる部分からの音の干渉により高音が出しにくくなる。基本的に超低音域から超高音域まで一つのスピーカーで再生することは困難である。
そこで、特定の[[周波数]]帯(範囲)を得意とするスピーカーユニットが作られており、異なった周波数帯を得意とする、タイプの異なったユニットを複数組み合わせることで、全体として広い周波数域をカバーするということが行われている。スピーカーユニットは、その得意とする周波数帯域によって、以下のように分類されている。
* [[フルレンジ]] - 全帯域用であるが、中音域に比べ低音や高音の再生を両立することが難しい。これを改善するためにダブルコーンやイコライザーなどが使われることがある。
* [[サブウーファー]] - 超低音用
* [[ウーファー]] - 低音用
* [[ミッドバス]] - 中低音用
* [[スコーカー]]あるいはミッドレンジ - 中音用
* [[ツイーター]] - 高音用
* [[スーパーツイーター]] - 超高音用
なお、どの範囲の周波数が超低音・低音・中低音・中音・高音・超高音なのか、'''厳密な定義は存在しない'''。
== スピーカーシステム ==
{{出典の明記|date=2023年4月}}
上述のドライバー(スピーカーユニット)やエンクロージャーなどを組み合わせることで、スピーカーシステムが作られている。
; スピーカーシステムの種類・分類
以下はスピーカーシステムの種類をリストにしたもの
* 1ウェイスピーカー(「フルレンジスピーカー」とも) - スピーカーユニットがひとつだけのものであり、ひとつで済ませるために「フルレンジユニット」と呼ばれる、中音域に優れ全音域をほどほどにカバーするユニットを選ぶのが常套手段である。<ref group="注釈">中音域の音質に優れているとされるので、ボーカルつまり人の歌声などはよく再現する。逆に高音域や低音域に関してはやや弱点ではあるが、後でツイーターやサブウーファーを追加することもできる。構造が単純で比較的低コストでありながら良好な結果が得やすいので自作スピーカーによく用いられる。市販されるスピーカーの多くが2ウェイ以上のスピーカーでこれを採用しない。2ウェイ以上のスピーカーではスピーカーの理想的条件の一つとされる点音源から乖離してしまうため、フルレンジユニット1つでの再生を、一種の理想形と扱う場合もある。近年は人間の可聴帯域を遥かに超えた高周波を再生できるフルレンジユニットが数多くあり、低音側にも音域が拡大される傾向がある。</ref>
* 2ウェイスピーカー - 音域を2分割し、2種のスピーカーユニットで再生する。主に「ウーファー+トゥイーター」で構成される(例外もある)。
* 3ウェイスピーカー - 音域を3分割し、3種のスピーカーユニットで再生する。主に「ウーファー+スコーカー+トゥイーター」で構成される(例外もある)。
* 4ウェイスピーカー(以上) - 音域を4(以上に)分割し、4種(以上)のスピーカーユニットで再生する。2ウェイ・3ウェイと異なり、構成はまちまちである。
<gallery>
File:Contrast_AS3-Reference_%22PRO%22.jpg|スピーカーシステムの一例。ドライバが2つついている。つまり2ウェイスピーカー。
File:Keesonic Kub Loudspeaker, grille removed.jpg|2ウェイスピーカーシステムの別の例。これは穴があいており、[[バスレフ型]]。
File:JBL TI 2000 Hi-Fi loudspeaker box, 1990s.jpg|3ウェイスピーカーの一例。
File:Kenwood Model Sevens.jpg|4ウェイ・スピーカーの一例。
File:Kolumny podstawkowe PL100 Platinum firmy Monitor Audio.jpg|左はドライバーの保護が無い状態で使用するパターン。右はドライバーを保護するための金属[[メッシュ]]を表面にとりつけて使用するパターン。保護するものが無い状態で、うっかり足先やモノをぶつけたりすると、ドライバの薄膜が破れて壊れてしまう。
File:Keesonic Kub Loudspeaker with grille.jpg|しばしば、このような薄い(網状の)[[布]]を張った枠をとりつけて使用する。こうすれば個々のドライバが見えなくなり、視覚的にスッキリとし、部屋の[[インテリア]]を上品で洗練された状態に保てる。
</gallery>
2ウェイ以上のスピーカー(フルレンジ以外のスピーカー)をマルチウェイスピーカーと呼ぶ。マルチウェイスピーカーにおいては、各ユニットの音域が重複しないように音域を制限する電気回路や電子機器を用いるのが通常である。パワーアンプの前([[電圧]]信号の段階)で分割し音域毎に別のパワーアンプで駆動することもあるが、多くの場合パワーアンプで[[電力]]増幅後に分割される。各ユニットの音域の境界にあたる周波数をクロスオーバー周波数という。2ウェイであれば1つの、3ウェイであれば2つのクロスオーバー周波数が存在する。
マルチウェイスピーカーでは必然的に各ユニットの取付位置が異なるため、フルレンジと比較して楽器や声の位置がぼやけるという意見がある。これを解決するため、トゥイーターの上下を挟むように2つのウーファーを配置し、取付位置を見かけ上一致させたスピーカーシステムも販売されている。特殊な例として、ウーファーの中心部にトゥイーターを組み込むことで1つのユニットとした2ウェイユニットがあり同軸型(コアキシャル)2ウェイユニットと呼ばれる。
なお、上記のスピーカーシステムに、[[サブウーファー]]を別筐体として付加する場合もある。これは低音(超低音・重低音)のみを出すための専用スピーカーシステムである。[[ホームシアター]]製品のほとんどに付属しており、AV機器として広く普及しているといってよい。なお、サブウーファーについては、[[ドルビーデジタル]]などのシステムにおいてLFEチャンネル(0.1ch)として付加される場合があるが、これはスピーカーが担当する音域を分割するものでなく、独立したチャンネルとして超低音を付加するものである。
<gallery>
ファイル:jr149net.JPG|スピーカーシステムのネットワークの部分の一例、スピーカーユニットの振動を避ける為スピーカーの箱や容器の外側に設置されている、珍しい例。
</gallery>
== ダイナミック型スピーカーユニット ==
[[ファイル:Akustischer Kurzschluss4.png|thumb|200px|right|内部構造:右端の振動板で空気を振動させ音を出す]]
[[ファイル:Glosnik-eliptyczny.jpg|thumb|200px|right|スピーカーの振動板(コーン紙)]]
[[ファイル:DoubleConeSpeakerUnit.JPG|thumb|200px|right|ダブルコーンスピーカー]]
一般的な音響機器に組み込まれているスピーカーユニットのほとんどがこの方式を採用している。1924年にチェスターW.ライスとエドワードW.ケロッグによって発明されてから現在に到るまでその基本構造が変わっていないのは、この方式が簡素で優れているからである。
ダイナミック型のスピーカーユニットにはドーナツ型の[[永久磁石]]が用いられる。このドーナツの穴にあたる円筒形の空間に、それよりわずかに直径の小さい筒「ボイスコイル」が挿入されている。ボイスコイルは[[コイル]]の一種であり、紙やプラスチックの筒に導線を巻きつけたものである。この導線に音声信号が流れると、[[電磁石]]になるためボイスコイルが波形に合わせて前後方向に振動する。ボイスコイルには[[振動板]]が直結しており、この振動板が一緒に振動することで音声信号と等しい波形の音が空気中に放射される。これは[[リニアモーター]]の原理そのものであり、ダイナミック型スピーカーはリニアモーターの一種であるといってもよい。
上記の各パーツはフレームと呼ばれる骨組に固定され、1つのユニットとして完成したものになる。永久磁石はフレームに強固に固定されるが、ボイスコイルと振動板は振動する必要があるため、ボイスコイルは[[ショックアブソーバー|ダンパー]]を介して、振動板はその外周を取り巻くように張られた「エッジ」と呼ばれる柔軟な膜を介して、それぞれフレームに固定される。ダンパーとエッジは振動板をフレームに固定する懸架装置であるが、前後方向の動きだけは妨げないようになっている。また、ダンパーは振動板の[[固有振動]]を抑える役割もしている。フレームには通常ねじ穴があり、それによってユニットがスピーカーの箱や容器などに取り付けられる。
磁気回路に使われる永久磁石には高い[[磁束密度]]が求められる。[[コストパフォーマンス]]に優れた[[フェライト磁石]]がよく使われるが、小型スピーカーには磁力の強い[[サマリウムコバルト磁石]]や[[ネオジム磁石]]なども使われる。なお、以前は[[アルニコ磁石]]も高級品を中心に使われていたが、ニッケル価格が高沸したため現在ではほとんど見られなくなった。また[[アルニコ磁石]]には磁気抵抗が少ないというメリットがあるが、減磁しやすい、特殊な磁気回路が必要というデメリットもある。また励磁型と呼ばれる磁気回路にも電磁石が用いられたスピーカーユニットが存在し、強い磁力の永久磁石が無かった1920年代から1960年ごろまではよく使用され、現在でも一部マニアに使用され生産もされているが、磁気回路用に専用の直流電源装置が必要となり使用はかなり大掛かりとなる。
=== ダイナミック型スピーカーの振動板の構造 ===
理想的なスピーカーに求められる性能としては、原音に忠実で歪みがないこと、点音源であること、全ての方向に同一の音圧、同一の音質で音を放射すること等が挙げられる。これらを実現するため、振動板の形状や大きさ、取り付け方法が工夫されている。
振動板の形状としては、低音用にはコーン型(くぼんだ円錐形)、高音用にはコーン型やドーム型(ふくらんだ半球形)が主流である。1980年代前半に平面型が流行したが、現在はほとんど使われていない。正面から見て真円形のものがほとんどであるが、テレビなどへの内蔵用として楕円形や多角形のものも使われる。
なお、大きなコーン型振動板の中央に小さいコーン型振動板を取り付けることで、広い帯域の再生を狙った「ダブルコーン型」(サブコーン型、またはメカニカル2ウェイとも呼ばれる場合も)もある。
=== ダイナミック型スピーカーの振動板の材質 ===
振動板には、分割振動や[[音響共鳴|共鳴]]による固有振動が少ないこと、変換効率が良いことが求められる。このため、硬く(=高[[ヤング率]])、[[内部損失]]が大きく、かつ軽量な素材が使われる。また、経年劣化が少ないことも重要である。これら全てを高い次元で満たす材料を求めるのは容易でない。このため、ユニットの担当する音域に合わせて素材の形状や厚み、成分を変えるのが一般的になっている。軽量なものはトゥイーター用としては好ましい特性であるが、ウーファー用としては共振周波数が高くなり好ましい事ではない。よって、ウーファー用のスピーカーユニットの振動板は、他のスピーカーユニットのそれよりも重い場合が多い。
* 紙 - 時代を問わず最も多く利用されている。比較的丈夫で軽量なため、適度に内部損失があり、廉価品から超高級スピーカーまで、低音用から高音用までのすべての音域に使用されてれている。[[パルプ]]に種々の材料をコーティングしたり混漉することで剛性や内部損失を改善した紙も多く使われる。雲母や[[ホヤ]]や[[コンブ]]の繊維やバクテリアに産生させた[[バイオセルロース]]を使用した製品もある<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=石井大策 |url=https://doi.org/10.20697/jasj.66.12_616 |title=スピーカ振動板材料 : 主要材料と技術動向 |journal=日本音響学会誌 |issn=0369-4232 |publisher=日本音響学会 |year=2010 |volume=66 |issue=12 |pages=616-621 |naid=110007989165 |doi=10.20697/jasj.66.12_616}}</ref>。
* 樹脂- [[ポリエステル]]、[[ポリアミド系樹脂#アラミド|アラミド]]、[[ポリプロピレン]]、[[炭素繊維]]などの高分子樹脂を線維状にして編んだり、ハニカム構造にして利用することが多い。主に低音~中音用ユニットに使われる。[[絹]]などの繊維を構造基材にし、強度確保や物性改善を目的に高分子材料を含浸させることも行われる。
* 金属 - [[アルミニウム]]、[[チタン]]、[[ホウ素]]([[ボロン]])、[[ベリリウム]]、[[マグネシウム]]など。薄く軽量化でき、ヤング率が高い反面、内部損失が小さいので固有振動が発生しやすいため、主に高音用ユニットに利用される。これらの金属にダイヤモンド薄膜をコーティングしたり、炭化処理、窒化処理、酸化処理、非球面加工、ダンプ剤塗布などにより剛性や内部損失を改善する処理も広く行われている。
* 木 - 薄くスライスした木板を振動板としたもの。[[ビクター]]が「ウッドコーン」の名称でスピーカーやヘッドフォンに採用しているほか、自作スピーカー向けのユニットが販売されている。
* その他 - [[合成ダイヤモンド]]、絹ルやカーボンをシート化したものなどがあるが<ref name=":0" />、いずれも主流にはなっていない。
== クロスオーバー・ネットワーク(パッシブ・ネットワーク) ==
[[受動素子]]のみで構成した音域分割用電気回路を「クロスオーバー・ネットワーク」あるいは「パッシブ・ネットワーク」(ないし単にネットワーク)と呼ぶ。
ネットワークは[[キャパシタ]]と[[インダクタ]]による[[ローパスフィルタ|ローパス]]・[[ハイパスフィルタ|ハイパス]]等の[[フィルタ回路|フィルタ]]によるチャネルディバイダと、各帯域のスピーカーの能率の違いによるアンバランスを調整する[[電気抵抗|抵抗]]による[[減衰器|アッテネータ]]から成る。
ネットワークにより広い範囲の周波数特性を改善することができる。一方、音源の位置が分散され、クロスオーバー周波数付近の[[位相]]特性や[[過渡]]特性が悪化する。このため、測定や試聴をくり返して最適な回路を組み上げていくのが普通である。
そのため、音域を多数のスピーカーに分割したほうが良いのか、シンプルな構成のほうが良いのかについては、メーカー、ユーザーともに意見が分かれている。
基本的には人間や楽器の再生音域である300Hzから3000Hzの間をネットワークで分割するのは好ましくないとされている。このため、最新のトレンドとしては、中音域のスピーカーに聴覚用で重要な周波数帯を担当させ、それにスーパーウーハーおよびスーパーツイーターを付加したものが増えている。
中心になるのは2wayもしくは3wayである。2wayではクロスオーバー周波数を低くするとツイーターが中音から高音まで広い再生帯域が要求される。一方、クロスオーバーを高くするとウーハーが中音域まで担当するためにコーン紙を軽くする必要があり、低音が不足する傾向がある。このため、低音用ウーハーのサイズが限られ、大音量や低音の再生に限界が出やすい。
3wayの場合は再生の大半は中音域のスピーカーが担当することで低音用のウーハーや高音用のツイーターの負担が減ることと、多数のユニットを使うことで最大音量が出しやすくなる。一方、各音源の位置が分散すること、クロスオーバーで位相や過渡特性の乱れが出やすいこと、各ユニットの音質を揃えることが難しいなどの問題がある。
ネットワークの設計において最も重要なのは、クロスオーバー周波数を適切に設定することである。ユニットを増やせば増やすほど再生できる音域は広がるが、反面クロスオーバー周波数が増えることでネットワークの設計が難しくなる。
== エンクロージャー ==
{{main|エンクロージャー}}
エンクロージャーとはスピーカーユニットを取り付ける箱のことである。音には障害物の向こうに回り込む性質([[回折]])があり、低音になるほど顕著である。このため、ユニットをむき出しのまま使うと、裏から出た低音が前に回り込んで打ち消しあい、低音が小さくなってしまう。そこで、ユニットをエンクロージャーに取り付けることで裏から出た音を遮断するのである。ユニットをエンクロージャーに組み込んだものを'''スピーカーシステム'''(または単にスピーカー)と呼ぶ。ほとんど全てのスピーカーはこの状態で市販されている。
エンクロージャーは、振動板の[[反作用]]によって振動する。また、内部で音が反射して[[定常波]]が発生する。これらは音質を悪化させるため、補強材や隔壁で強度を確保し、[[フェルト]]などの吸音材で定常波を吸収する。このエンクロージャーの設計によってスピーカーシステム全体の音質が決定され、製品の個性となる。つまり、音質の悪化を限りなくゼロに近づけるには巨大な面積を持つ1枚の板にユニットを取り付ければ理論上可能である([[平面バッフル]])。しかし、事実上困難である為「箱型」になった。
箱の材質は固有の振動を持たないことと加工性と強度が要求されるため、通常は[[木質材料]](単板、[[中密度繊維板|MDF]]、[[パーティクルボード]]、[[合板]])が使われる。樹脂製や金属製のものもあるが、樹脂製は小型で安価なもの、金属製は小型のものや高級品に限られている。
エンクロージャーには数多くの方式があるが、市販品のほとんどは「[[密閉型]]」か「[[バスレフ型]](位相反転型)」である。いずれにせよ、自然な聴感のためには周波数特性が広い範囲でなるべく平滑なことが求められる。特に低音については、ウーハーの[[最低共振周波数]]fo付近の共鳴特性の鋭さを示す[[Qo]]が0.7前後になることが求められる。
以下に主な方式を記す。
* [[密閉型]] - 箱を密封し、振動板背面から発せられる音の影響を完全に遮蔽する。癖の少ない素直な音質が特徴である。反面、エンクロージャーが過小でスピーカーユニットの磁気回路が非力な場合、振動板の動きが制限され、低音の少ない詰まった音になりやすい。
* [[バスレフ型]] - エンクロージャーの前面や背面に筒状の貫通穴(ポート/ダクト)を設け、[[ヘルムホルツ共鳴]]の原理でユニット裏面から発せられた低音を共振、増強する。これが振動板の前面から発せられた低音に加算され、豊かな低音が得られる。反面、共振周波数よりさらに低い低音がほとんど出なくなる。また、設計が悪いと低音のダンピングが悪くブーミーと言われる音になったり、バスレフの開口部で風切り音が出たりする。
* [[バックロードホーン型]] - エンクロージャーの内部に、少しずつ太くなってゆく音の道(ホーン)が折りたたまれており、箱のどこかにホーンの出口がある。振動板の裏側から出た音のうち低音はホーンで増強され、中音高音は折り曲げ構造により減衰し、出口から放射される。バスレフ型に比べて低音増強効果は大きいが、反面、バスレフ型ほど低い帯域まで低音を増強させる事は困難である。設計や製作に手間がかかる。自作スピーカーや、海外メーカーの超高級品に使われている。
エンクロージャーの形式は、スピーカーユニットとの相性がある。スピーカーには振動板の重さ、動きやすさ(コンプライアンス)、磁気回路の強さなどによって最低共鳴周波数の共鳴の度合いを示すQo値が定まる。Qo値が大きいほど共鳴が大きくなる。
例えば振動板が重くなると振動が止まりにくくなりQo値が上がる。またコンプライアンスは低いほどQoが上がり、磁気回路が弱いほど制動が弱くなるためQoが上がる。システムとしての低音の再生が平滑で自然な聴感となるQo値を0.7とするために適切な組合わせが必要である。
* 平面バッフル - 振動板重量が軽く、かつ磁気回路が弱いユニットに向く。磁気回路が強いユニットでは過制動になり低音が不足しやすい。
* 密閉型 - 十分な低音を得るに振動板重量が重く、かつ磁気回路が強いユニットに向く。振動板重量が軽く、かつ磁気回路が弱いユニットを用いる場合は、背圧の影響を抑えるため内容積を大きく取る。
* バックロードホーン - 振動板重量が軽く、かつ磁気回路が強いユニットに向く。振動板が重いユニットとの組み合わせは、低音過剰になりやすい。磁気回路が弱いユニットではホーンを駆動するのに能力不足で、音質に悪影響がある。
* バスレフ型 - 設計によりユニットの適合範囲が広い。振動板重量が軽く、かつ磁気回路が弱いユニットを用いる場合は、密閉型の場合よりも内容積が小さくて済む。振動板重量が重く、かつ磁気回路が強いユニットでは、低音過剰になりやすいのでポートを小型にして効果を弱める。振動板重量が軽く、かつ磁気回路が強いユニットでは、ポート断面積を大型にして低音増強効果を強める反面、あまり低い帯域の低音増強は避ける。
なお、ユニットの前にラッパ状の曲面(ホーン)を取り付けたスピーカーを「[[フロントロードホーン型]]」と呼ぶ。これは上記の各エンクロージャーと組み合わせて使用されるものであり、エンクロージャーの方式を指す用語ではない。指向性をコントロールでき能率に優れている反面、大型になりやすい。超高級スピーカーや大型の自作スピーカー、コンサート用の大音響スピーカーに利用される。
== 音質の指標 ==
オーディオ用のスピーカーは「周波数特性」「歪率」「過渡特性」「指向特性」などを改善するために様々な工夫がなされており、音質の良し悪しの指標として使われる。
* [[周波数特性]] - 人間が[[可聴域]]の音程を全域再生でき、かつどの周波数でも均一な音圧が得られることが求められる。
* 歪率 - スピーカーに入力された音声信号の波形に相似する音声波が出力され、余分な音が加わらないことが求められる。
* 過渡特性 - スピーカーに複数の周波数の音が混じって入力された際、[[位相]]が正確であること(それらの音に時間的ズレが生じないこと)が求められる。
* [[指向性]] - スピーカーから、全方向に均等な音圧が放射されることが求められる。
* 音の好み - 人間の好みに基づく音を追求したもの。フラットでない周波数特性にする、エンクロージャーを共鳴させる、歪を増やすなど、様々な方法で音の色づけを行う。
=== 歪率 ===
スピーカーは、グラム単位の質量を有する振動板を動かすという構造上、歪みはどうしても大きくなる。適切に設計されたスピーカーの中には、可聴域(100Hz以上)の歪率が0.5%を切るものも存在するが、それでも他の機器(CDプレーヤー、アンプなど)の歪率が0.01%を切っていることを考えると2桁以上大きな歪率である。
歪みを発生させる[[非線形]]部品としてはダンパーやエッジ、そして設計が悪い磁気回路などが挙げられる。これらの非線形の影響が顕著になるのは振幅が大きい低音域のときである。[[等ラウドネス曲線]]が示しているがごとく、[[ヒト]]の聴覚は低音域の感度が鈍い。そのためたとえ低音・中音・高音がバランスよく鳴っているように聞こえる楽曲であっても、音響エネルギー分布は低音域に偏りがちであり、そのエネルギー分布を再現(再生)しようとするスピーカーは低音域で大きくストロークする。大きいストロークは振動系支持部材の非線形領域に踏み込み易いのである。また、低音用の振動板は重いため慣性による逆起電力(制動力)を発生させ、これも歪みの原因となる。このためスピーカーの歪みは低音域で発生しやすく、実際に測定してもそのような結果になる。
=== 指向性 ===
オーディオ用スピーカーが広い指向性を理想としているのに対し、指向性を絞って特定の方向に大きな音を伝えたい場面も存在する。たとえば学校教育現場のアナウンス、交通機関の案内放送、[[街宣車]]などである。
理論上は指向性を絞るには振動板を大きくすればよいが、直径数m以上ものが必要となり非現実的である。そこで、ホーンと呼ばれる円錐形に広がる管を取り付けたスピーカーが、上記用途の拡声器として使われている。
周波数が高ければ指向性が増すため、超音波を小さな振動部から指向性の強いビーム状で送り出し、音の歪みを利用して可聴音として人間が聞き取れるようにした[[パラメトリック・スピーカー]]というものもある。{{Sfn|日本音響学会|1996}}
== 自作 ==
; スピーカーシステムの自作
: スピーカーについて「自作」と言われているのは、往々にして、スピーカーユニットは市販のものを購入して、エンクロージャー(木箱や特殊な形状の容器)を自作してユニット設置用の穴を開け、エンクロージャーにスピーカーユニット(および端子など)を組みつけることを言っている。オーディオ雑誌などで時折、スピーカー(システム)の自作に関する特集記事が組まれることがある(数十年前は、非常にしばしばあった。)。熱心なオーディオマニアの中には、高価な(こだわりの)ユニットを(幾種類か)購入し、組み合わせて、こうした自作を行う人が一定割合いる。
; スピーカーユニット(自体)の自作
: なお、スピーカーユニットも、素朴なものであれば、[[紙コップ]]と[[磁石]]と[[エナメル線]]を用いて「紙コップスピーカー」というものをかなり簡単に自作することもできる<ref>http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunrui/gakupro/08000392/</ref>(「紙コップスピーカー」は、あくまで低音質のものである。音量はほどほどに大音量のものも簡単にできる。)。だが「紙コップスピーカー」制作を一度経験すれば、それを足掛かりにして、材料や構造の変更によって出る音がどのように変化するのか調べる実験を楽しむこともでき、(工夫と試行錯誤によって)中程度の性能までなら(素人でも身近な材料で)一応、自作可能である。
雑誌の付録等で組み立て式のスピーカーユニットが販売されていたこともある。
既存のユニットを元に、[[セーム革]]などによるエッジ交換や和紙や金属板などの自作の振動板に交換したり、より強力な磁石への交換や追加を行うといったユニットへの改造を行うオーディオマニアも一定数存在する。
== その他 ==
* スピーカーは[[エレクトロニクス]]関係の業界用語では「'''[[ラッパ]]'''」と呼ばれることがある。なお、[[1950年代]]までの古いラジオ関連の技術文献では「高声器」(こうせいき)という標記がされている。
* スピーカーは[[マイクロフォン]]として使うこともでき、かつてはコストダウンのためにインターホンなどで実用された(スピーカーとマイクを一つの部品で兼用できる)。ヤマハの「SUBKICK」など、ダイナミックスピーカーをバスドラム用の収音マイクとして使っている応用例もある。逆にマイクロフォンをスピーカーとして使うことも可能だが、小型で繊細な構造のものが多く、配慮しないと壊れやすい。
* 人間の耳で聴き採りが可能な音の周波数は、年齢等で個人差はあるが単音で測定すると40~18,000Hz程度である。しかしスピーカーから音楽等の複合音を再生する場合、[[アルファ波|可聴外と言われる超低音や超高音の有無が、音の自然さの再現に影響をもたらしている]]ことが実験的に判っている<ref group="注釈">{{Harv|大橋力|2008}}は、対象者に高音を聴かせ、その時の脳波を測定する事によって、当人が音を聴いたと自覚が無くとも、間違い無く音を聴いている事を実証した。</ref>。特に音の倍音成分の再現が重要で、近年では、20,000Hzを超える音の再生を可能とするスピーカーが一般的になっている。また、音楽記録媒体でも20,000Hzを超える高音域、または[[ハイレゾリューションオーディオ|40,000Hzを超える超高音域再生]]が可能な「[[SACD]]」や「[[DVD-Audio]]」、ごく一部に限られるが「[[Blu-ray Disc|BD]]-Audio」が市販されている。また可聴外の超低音については、耳で聞こえなくとも空気の振動として肌や[[毛穴]]で感じる事ができる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/carele/club-diatone/diatone_70th/column02.html|title=DIATONE70周年 スペシャルサイト 特別コラム Vol.02「オーディオ再生の現在 ハイレゾデータが変えたものと変わらないもの」(貝山知弘)|publisher=[[三菱電機]]|language=日本語|date=2016-11|accessdate=2016-11-12}}</ref>。
*エンクロージャーの特殊なものとしては、チャンバーやポートチューブを複数使用して低音の共鳴を最大限に増幅させる事により通常よりも小さな容量にした物や、エンクロージャー自体をわざと共鳴(箱鳴き)させて音を出すようにしたものなど、数多く開発されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{Cite book |和書 |editor=[[日本音響学会]] |date=1996-12 |title=音のなんでも小事典: 脳が音を聴くしくみから超音波顕微鏡まで |series=ブルーバックス |publisher=講談社 |ncid=BN15660574 |isbn=4-06-257150-1 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author=大橋力 |authorlink=大橋力 |coauthors=[[岡ノ谷一夫]]、ほか|editor=[[小泉英明]]編著 |year=2008 |chapter=至福の音体験と脳─全方位非分化型アプローチの射程から |title=脳科学と芸術 |publisher=工作舎 |ncid=BA88052217 |isbn=978-4-87502-414-9 |ref=harv }}
{{Refend}}
==関連項目==
{{Commonscat|Loudspeakers}}
{{columns-list|2|
* [[消音スピーカー]]
* [[スマートスピーカー]]
* [[サラウンド]]
** [[サラウンド|5.1サラウンド]]
** [[ドルビーデジタル]]
* [[音響機器]]
* [[オーディオ]]
* [[マイクロホン]]
* [[ヘッドフォン]]
* [[イヤホン]]
* [[プロセッサ]]
* [[タイムドメイン・スピーカー]]
* [[ドンシャリ]]
* [[サーモホン]]
<!--* [[アクティブスピーカー]]
* [[パッシブスピーカー]]-->
* [[パラメトリック・スピーカー]]
* [[定位感]]
}}
== 外部リンク ==
* [https://diy-sound.net/archives/28 スピーカーユニットの動作方法(DIY-Sound)]{{ja icon}}
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[[Category:スピーカー|*]]
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麒麟
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麒麟(きりん、拼音: qílín チーリン)は、中国神話に現れる伝説上の動物(瑞獣)の一種。 「麒」が雄で「麟」が雌を表すとされるが、通常は「麒麟」と雌雄同体で表記される。 (「鳳凰」も参照の事)
泰平の世に現れる。獣類の長とされ、鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる。ただし『淮南子』によれば、応竜が建馬を、建馬は麒麟を、麒麟は諸獣を生んだのに対し、鳳凰は鸞鳥を、鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっている。
日本語と朝鮮語では、この伝説上の動物に似た実在の動物も「麒麟」(キリン)と呼ぶ。
形は鹿に似て大きく背丈は5mあり、顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。古くは一本角、もしくは角の無い姿だが、後世では二本角や三本角で描かれる例もある。
普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う。
神聖な幻の動物と考えられており、動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。
また、『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされ、鳳凰、霊亀、応竜と共に「四霊」と総称されている。このことから、幼少から秀でた才を示す子どものことを、麒麟児や、天上の石麒麟などと称する。
孔子によって纏められたとされる古代中国の歴史書『春秋』では、聖人不在で泰平とは言えない時代に麒麟が現れ、捕らえた人々が麒麟を知らず気味悪がって打ち捨ててしまったことに、孔子は深く諦念し筆を擱(お)いてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている。
麒麟にはいくつか種類があると言われ、青い物を聳孤(しょうこ)、赤い物を炎駒(えんく)、白い物を索冥(さくめい)、黒い物を甪端(ろくたん)/角端(かくたん)、黄色い物を麒麟と言う。
宝船艦隊を率いて生涯に七度にわたって南海へ航海した明の鄭和は、東アフリカからキリンを持ち帰り永楽帝に献上した。信憑性は明らかではないが、永楽帝はキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたことから、“実在の麒麟”として珍重したと言われる。
このような経過もあり、日本においては、明治時代の田中芳男ら博物学者たちによる「giraffe」(ジラフ)の訳語制定のなかで「麒麟」が訳案として持ちだされ、最終的に「麒麟」が採用された。また、日本語だけでなく朝鮮語においてもキリンは「麒麟」(기린、麒麟、文化観光部2000年式:girin、マッキューン=ライシャワー式:kirin)と呼ばれている。一方で、中国語ではキリンは「麒麟」ではなく「長頸鹿」(“長いくびの鹿”、繁体字: 長頸鹿、簡体字: 长颈鹿、拼音: chángjǐnglù)と呼ばれている。
麒麟のように足の速い馬のこともキリンというが、漢字で書く場合は、偏(へん)を鹿から馬に変えて『騏驎』とすることがある。騏驎は、故事では一日に千里も走るすばらしい馬とされる。
ことわざ「騏驎も老いては駑馬(どば)に劣る」(たとえ優れた人物でも老いて衰えると能力的に凡人にも敵わなくなることの例え)は、中国戦国時代の書物「戦国策」・斉策・斉五の「騏驥之衰也 駑馬先之 孟賁之倦也 女子勝之」(騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁の疲るるや、女子これに優る)が語源。
織田信長は麒麟という字を具現化した花押(麟の花押)を使用している。その理由としては、信長が足利将軍家にかわってみずから天下を統一しよう、という願望を抱いていたためとされている。
徳川家康も王が仁のある政治を行うときに現れる麒麟を信仰していた。日光東照宮には陽明門や拝殿などに麒麟の彫刻や絵画などの装飾が施され、麒麟が様々な霊獣の中心的な存在として扱われている。
その他多くの神社等で麒麟は祀られている。太宰府天満宮の手水舎のそばには、幕末の博多の商人たちが寄付した麒麟像が幸せを運ぶ「うその像」とともに立つ。また、東京都中央区の日本橋には、獅子像、松や榎木の浮き彫りなどの装飾とともに、東京の繁栄を象徴する麒麟像が施されている。
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"text": "孔子によって纏められたとされる古代中国の歴史書『春秋』では、聖人不在で泰平とは言えない時代に麒麟が現れ、捕らえた人々が麒麟を知らず気味悪がって打ち捨ててしまったことに、孔子は深く諦念し筆を擱(お)いてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている。",
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"text": "麒麟にはいくつか種類があると言われ、青い物を聳孤(しょうこ)、赤い物を炎駒(えんく)、白い物を索冥(さくめい)、黒い物を甪端(ろくたん)/角端(かくたん)、黄色い物を麒麟と言う。",
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"text": "宝船艦隊を率いて生涯に七度にわたって南海へ航海した明の鄭和は、東アフリカからキリンを持ち帰り永楽帝に献上した。信憑性は明らかではないが、永楽帝はキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたことから、“実在の麒麟”として珍重したと言われる。",
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"title": "麒麟とキリン"
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"title": "騏驎"
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"text": "ことわざ「騏驎も老いては駑馬(どば)に劣る」(たとえ優れた人物でも老いて衰えると能力的に凡人にも敵わなくなることの例え)は、中国戦国時代の書物「戦国策」・斉策・斉五の「騏驥之衰也 駑馬先之 孟賁之倦也 女子勝之」(騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁の疲るるや、女子これに優る)が語源。",
"title": "騏驎"
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"text": "織田信長は麒麟という字を具現化した花押(麟の花押)を使用している。その理由としては、信長が足利将軍家にかわってみずから天下を統一しよう、という願望を抱いていたためとされている。",
"title": "日本における麒麟"
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"text": "徳川家康も王が仁のある政治を行うときに現れる麒麟を信仰していた。日光東照宮には陽明門や拝殿などに麒麟の彫刻や絵画などの装飾が施され、麒麟が様々な霊獣の中心的な存在として扱われている。",
"title": "日本における麒麟"
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"text": "その他多くの神社等で麒麟は祀られている。太宰府天満宮の手水舎のそばには、幕末の博多の商人たちが寄付した麒麟像が幸せを運ぶ「うその像」とともに立つ。また、東京都中央区の日本橋には、獅子像、松や榎木の浮き彫りなどの装飾とともに、東京の繁栄を象徴する麒麟像が施されている。",
"title": "日本における麒麟"
}
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麒麟は、中国神話に現れる伝説上の動物(瑞獣)の一種。
「麒」が雄で「麟」が雌を表すとされるが、通常は「麒麟」と雌雄同体で表記される。
(「鳳凰」も参照の事) 泰平の世に現れる。獣類の長とされ、鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる。ただし『淮南子』によれば、応竜が建馬を、建馬は麒麟を、麒麟は諸獣を生んだのに対し、鳳凰は鸞鳥を、鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっている。 日本語と朝鮮語では、この伝説上の動物に似た実在の動物も「麒麟」(キリン)と呼ぶ。
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{{Otheruseslist|'''伝説上の[[瑞獣|動物]]'''|実在の[[動物]]|キリン|[[日本]]の[[醸造]][[株式会社 (日本)|会社]]|麒麟麦酒|それ以外|麒麟 (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date= 2016年8月22日 (月) 14:16 (UTC)}}
{{独自研究|date= 2016年8月22日 (月) 14:16 (UTC)}}
{{中華圏の事物
|タイトル=麒麟
|画像種別=
|画像=[[File:QingQilin.jpg|250px]]
|画像の説明=[[頤和園]]にある麒麟像
|英文=Qilin
|簡体字=
|繁体字=
|ピン音=qílín
|通用=
|注音符号=
|ラテン字=
|広東語ピン音=
|広東語=
|上海語=
|閩南語白話字=
|台湾語=
|カタカナ=チーリン
|ひらがな=きりん
}}
[[ファイル:Qilin-shaped incense burner 1 CAC.JPG|thumb|right|麒麟をかたどった[[香炉]]([[清代]])]]
[[ファイル:Qilin in sancai tuhui.jpg|thumb|right|[[三才図会]]に描かれた麒麟([[明代]])]]
'''麒麟'''(きりん、{{ピン音|qílín|チーリン}})は、[[中国神話]]に現れる伝説上の[[動物]]([[瑞獣]])の一種。
「麒」が雄で「麟」が雌を表すとされるが、通常は「麒麟」と雌雄同体で表記される。
(「[[鳳凰]]」も参照の事)
泰平の世に現れる。[[哺乳類|獣類]]の長とされ、鳥類の長たる[[鳳凰]]と比せられ、しばしば対に扱われる<ref name="nakano121">{{Cite book|和書|author=中野美代子|authorlink=中野美代子|title=中国の妖怪|series=[[岩波新書]]|year=1983|page=121}}</ref>。ただし『[[淮南子]]』によれば、[[応竜]]が[[建馬]]を、建馬は麒麟を、麒麟は諸獣を生んだのに対し、[[鳳凰]]は[[鸞]]鳥を、鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっている<ref>{{Cite wikisource|title=淮南子/墬形訓|wslanguage=zh}}</ref>。
[[日本語]]と[[朝鮮語]]では、この伝説上の動物に似た実在の動物も「麒麟」([[キリン]])と呼ぶ。
== 外見 ==
形は[[シカ|鹿]]に似て大きく背丈は5mあり、顔は[[竜|龍]]に似て、[[ウシ|牛]]の尾と[[ウマ|馬]]の[[蹄]]をもち、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には[[鱗]]がある。古くは一本角、もしくは角の無い姿だが、後世では二本角や三本角で描かれる例もある。
== 性格 ==
普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や[[植物]]を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う。
神聖な幻の動物と考えられており、動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。
また、『[[礼記]]』によれば、王が[[仁]]のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「[[瑞獣]]」とされ、[[鳳凰]]、[[霊亀 (四霊)|霊亀]]、[[応竜]]と共に「[[四霊]]」と総称されている<ref>[http://www.tenhodo.co.jp/archives/zuiju.html 【天鳳堂資料室】瑞祥・瑞獣]</ref>。このことから、幼少から秀でた才を示す子どものことを、[[麒麟児]]や、天上の石麒麟などと称する。
[[孔子]]によって纏められたとされる[[古代中国]]の[[歴史書]]『[[春秋]]』では、聖人不在で泰平とは言えない時代に麒麟が現れ、捕らえた人々が麒麟を知らず気味悪がって打ち捨ててしまったことに、孔子は深く諦念し筆を擱(お)いてしまうという、いわゆる「[[獲麟]]」の記事をもって記述が打ち切られている。
== 種類 ==
麒麟にはいくつか種類があると言われ、青い物を聳孤(しょうこ)、赤い物を炎駒(えんく)、白い物を索冥(さくめい)、黒い物を甪端(ろくたん)/角端(かくたん)、黄色い物を麒麟と言う。
== 麒麟とキリン ==
[[ファイル:Chen Zhang's painting of a giraffe and its attendant.jpg|thumb|right|[[鄭和]]の航海をきっかけに[[朝貢]]された「麒麟」(『[[瑞応麒麟図]]』)]]{{See also|キリン#人間との関係|瑞応麒麟図}}
宝船艦隊を率いて生涯に七度にわたって南海へ航海した[[明]]の[[鄭和]]は、東アフリカから[[キリン]]を持ち帰り[[永楽帝]]に献上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kochinews.co.jp/article/detail/400154 |title=小社会 麒麟とキリン |access-date=2023-09-09 |publisher=高知新聞社 |date=2020-09-25}}</ref>。信憑性は明らかではないが、永楽帝はキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地の[[ソマリ語]]で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」の音に似ていたことから、“実在の麒麟”として珍重したと言われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0445/|title=「麒麟」とはもともと空想上の動物のことだそうですが、この熟語が実在のキリンを表すようになったのは、どうしてですか?|website=漢字文化資料館|publisher=大修館書店|accessdate=2020-03-30}}</ref>。
このような経過もあり、日本においては、[[明治時代]]の[[田中芳男]]ら[[博物学者]]たちによる「giraffe」(ジラフ)の訳語制定のなかで「麒麟」が訳案として持ちだされ、最終的に「麒麟」が採用された<ref>{{Cite journal|和書|last=湯城|first=吉信|year=2008|title=ジラフがキリンと呼ばれた理由: 中国の場合、日本の場合(麒麟を巡る名物学 その一)|url=https://doi.org/10.24729/00004459|journal=人文学論集|issue=26|page=79|publisher=[[大阪府立大学]]}}</ref>。また、日本語だけでなく[[朝鮮語]]においてもキリンは「麒麟」([[:ko:기린|기린]]、{{Lang|ko|麒麟}}、[[文化観光部2000年式]]:girin、[[マッキューン=ライシャワー式]]:kirin)と呼ばれている。一方で、[[中国語]]ではキリンは「麒麟」ではなく「長頸鹿」(“長いくびの鹿”、{{繁体字|長頸鹿}}、{{簡体字|长颈鹿}}、{{ピンイン|chángjǐnglù}})と呼ばれている。
== 騏驎 ==
麒麟のように足の速い馬のこともキリンというが、漢字で書く場合は、[[偏]](へん)を鹿から馬に変えて『騏驎』とすることがある。騏驎は、故事では一日に千里も走るすばらしい馬とされる。
[[ことわざ]]「騏驎も老いては駑馬(どば)に劣る」(たとえ優れた人物でも老いて衰えると能力的に凡人にも敵わなくなることの例え)は、中国[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の書物「[[戦国策]]」・斉策・斉五の「騏驥之衰也 駑馬先之 孟賁之倦也 女子勝之」(騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁の疲るるや、女子これに優る)が語源。
== 日本における麒麟 ==
[[織田信長]]は麒麟という字を具現化した[[花押]]([[麟 (織田信長の花押)|麟の花押]])を使用している。その理由としては、信長が[[足利将軍家]]にかわってみずから天下を統一しよう、という願望を抱いていたためとされている<ref>{{Citation|和書|author=佐藤進一|authorlink=佐藤進一|chapter=日本花押史の一節-十六世紀の武家の花押-|editor=名古屋大学文学部国史学研究室|title=名古屋大学日本史論叢|volume=下|year=1975|publisher=吉川弘文館}}</ref><ref>{{Citation|和書|author=勝俣鎮夫|authorlink=勝俣鎮夫|chapter=美濃斎藤氏の盛衰|title=岐阜県史通史編 原始・古代・中世|year=1980}}</ref>。
[[徳川家康]]も王が仁のある政治を行うときに現れる麒麟を信仰していた。[[日光東照宮]]には陽明門や拝殿などに麒麟の彫刻や絵画などの装飾が施され、麒麟が様々な霊獣の中心的な存在として扱われている。
その他多くの神社等で麒麟は祀られている。[[太宰府天満宮]]の手水舎のそばには、幕末の博多の商人たちが寄付した麒麟像が幸せを運ぶ「うその像」とともに立つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0000073.aspx |title=麒麟像(きりんぞう)/太宰府天満宮 |access-date=2023-09-09 |publisher=たびらい}}</ref>。また、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]の[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]には、獅子像、松や榎木の浮き彫りなどの装飾とともに、東京の繁栄を象徴する麒麟像が施されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://serai.jp/hobby/67325 |title=名橋「日本橋」に刻まれた歴史と謎|ミステリアスな彫刻には意味がある! |access-date=2023-09-09 |publisher=小学館 |date=2016-06-24 |work=サライ.jp}}</ref><ref name="koubunsho">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0717nihonbashi.htm |title=日本橋の麒麟(きりん)像-当館ホームページのロゴ画像について |accessdate=2023-09-09 |publisher=東京都公文書館}}</ref>。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Qilin|Qilin}}
* [[伝説の生物一覧]]
* [[麒麟児]]
* [[春秋]]、[[獲麟]]
* [[瑞応麒麟図]]
* [[麟 (織田信長の花押)]]
* [[麒麟獅子|麒麟獅子舞]] - [[鳥取県]]などに伝わる[[獅子舞]]の一種。麒麟の獅子頭を用いる。
* [[麒麟麦酒]] - 麒麟が名前の由来。
* [[四霊]]
* [[十二国記]]
* [[麒麟がくる]]
{{東アジアの伝説の生物}}
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[[Category:神話・伝説の合成獣]]
[[Category:中国神話の神]]
[[Category:竜生九子]]
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肉食動物
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肉食動物(にくしょくどうぶつ、Carnivore)は、動物の体に起源する食物を主に摂取する動物である。類義語に捕食者(Predator)がある。
「肉食動物」という語は誤解されやすいが、「肉食動物」とは、特に他の恒温動物を捕殺してその「肉」を摂食する動物ということではない。動物体あるいはそれに由来するものを食べる動物食性(zoophagous)のうち、生きている動物を食べる(carnivorous)動物のことを言う。より狭義には生きている動物を殺して食べる(predatory)動物(捕食者)をさす。 例えばモグラ類もアリクイ類もカワウソ類もペリカン類も肉食動物に分類される。
食物連鎖では二次消費者以上の高次消費者となる。
草食動物の食べる植物質と比較して消化吸収の容易な肉や内臓、骨などを摂食するため、胃や腸などの消化器官自体の構造は単純であるが、食物に脂肪が多く含まれるので、胆汁の分泌などの脂肪の利用に必要な形質は発達している。栄養素の面からも、自分自身とよく似た生物を食べるのだから、比較的不足なく摂取できる。塩分に関しても、獲物の肉や血液に入っている塩で足りている。
肉食に偏っている場合、摂取栄養がタンパク質と脂肪に偏り、同じく三大栄養素のひとつである糖分の摂取が不足することになる。猫のような肉食動物は、糖新生の酵素活性が高く、タンパク質から分解されて得られた糖原性アミノ酸から糖新生を行って体内で必要な糖分を生成している。
古くは古生代のアノマロカリスのような節足動物から、今ではオオカミのような哺乳類まで、地球の歴史には様々な肉食動物が登場してきた。そのうち少なくない種が狩りをする捕食者であると同時に死肉を漁るスカベンジャーであり、また他者から獲物を奪う横取り屋でもあった。例えばライオンは優秀な狩人であるが、チャンスさえあれば積極的にチーターの獲物を奪い取っている。
肉食動物が苦労しなければならないのは、むしろ餌の入手である。相手が動物であれば、なにかしらの運動性をもち、逃走や待避、防御、時には肉食動物への反撃といった行動を取るものがほとんどであり、肉食動物が草食動物の返り討ちに遭うことも珍しくない。肉食動物は、それらを越える探索能力や捕獲能力を発達させなければならない。当然食われる方も逃走や防御、反撃の能力を発達させるので、一種のいたちごっこ状態が生じる可能性がある。そこに赤の女王仮説が成立する土台がある。
多くの肉食動物は食べる獲物が時と場合によって異なり、たとえ同じ種類の動物であっても成体、若年個体、老年個体、病体、傷体、時として死体と、様々となる。 代表例はアフリカのライオンとゾウや、ガラパゴス諸島のガラパゴスノスリとウミイグアナの関係がある。どちらの獲物も成長しきれば捕食者の餌食とならないが、時として幼体が襲われて命を落とすことがある。
餌のとらえ方は、大きくは探索-捕獲と進む追跡型と、待ち伏せ型とがある。もちろん両方の間にはさまざまな中間がある。
また、自ら獲物となる動物を狩猟の形で殺害・捕獲するのではなく、他の動物が捕食した・あるいは寿命や疾病・負傷などで死亡した動物を食べる動物もいる。これらは「スカベンジャー」(→腐肉食)と呼ばれる。スカベンジャーは自ら動物を追い回し捕らえる苦労が無い代わりに、広い範囲を行動して狩りをする動物の食べ残しや傷病死した動物の死骸を探さなければならない。
これら動物は、他の動物を捕食することで、その捕食された動物が摂取した栄養素を二次的に利用する。この場合、骨や内臓も食べることになるため、それらに蓄積された栄養素も消化・吸収する。しかしその一方で、尿や汗によって体外に排泄されにくいために、これら被捕食動物の体に蓄積された脂溶性の汚染物質も吸収することになる。したがって、有害物質などが被捕食動物よりも高濃度で蓄積し、より大きな被害が出る場合もある(生物濃縮)。近年では一部地域で、これら食物連鎖による高濃度な公害による汚染によって、野生肉食動物の絶滅が危惧されている所もある。
捕食することでその餌動物から特殊能力を受け取る例もある。ウミウシの仲間には餌にする海綿動物などの動物の持つ毒物を体内に取り込んで、自分が魚などに食べられないための防御に用いるものが多いが、なかでもミノウミウシ類は刺胞動物を餌として、その時に餌のもつ刺胞を壊さずに取り込み、自分の背面などに保持して、自己防衛に使う。また嚢舌類と呼ばれるウミウシの仲間は緑藻類に属する海藻の細胞の中身を吸引して餌にしているが、そのとき葉緑体は消化せずに生きたまま背面にある細胞に取り込み、光合成をさせて活動に必要な栄養素を獲得している。餌に含まれる毒素の利用は昆虫でもよく知られており、マダラチョウ科のチョウの多くは幼虫時代に食草から取り込んだ毒物によって鳥に食べられにくくなっている。
牧畜や狩猟があまり盛んでない地域の人間は、その食習慣において、内臓をあまり好んで食べないので、これらの濃縮された汚染にさらされずに済んではいるが、食文化により内臓を調理して食べる場合には、注意が必要とされている。哺乳類の内臓の食習慣が余り一般的ではない日本でも、魚の内臓、特に高次消費者であるマグロなどの利用は同様の意味で注意が喚起されている。また肉食動物の肝臓には、高濃度のビタミンAが含まれるが、雑食動物である人間が肉食動物の肝臓を食べると、少量でビタミンA過剰摂取の危険もあるため、一般的には肉食動物の肝臓は食用に適さないとされている。実例として、ホッキョクグマの肝臓を多く摂取すると、ビタミンAの過剰症を起こすことが知られている。
肉食動物は活発に活動する関係から、スジが多く肉が臭いと言われているが、きちんと調理することで臭みが抑えられる。また鳥類や爬虫類の肉食動物では、味が淡白とされる。しかし寄生虫をもっていることも多いため、よく加熱調理しなければならない。
海には濾過摂食を行う動物群が多く存在するが、それらの中で深海を生息域とするものに肉食性に変化したものが見られる。例えばホヤ類では入水孔が大きく広がってより大きな餌が取れるようになっているオオグチボヤなど、海綿動物では骨片が外に突出して小型動物を引っかけて食べるようになった肉食性カイメンと呼ばれるものがある。これらは深海では懸濁物が少ないことで餌の範囲を広げたものと考えられる。
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"title": "人間の食料として"
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"text": "海には濾過摂食を行う動物群が多く存在するが、それらの中で深海を生息域とするものに肉食性に変化したものが見られる。例えばホヤ類では入水孔が大きく広がってより大きな餌が取れるようになっているオオグチボヤなど、海綿動物では骨片が外に突出して小型動物を引っかけて食べるようになった肉食性カイメンと呼ばれるものがある。これらは深海では懸濁物が少ないことで餌の範囲を広げたものと考えられる。",
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肉食動物(にくしょくどうぶつ、Carnivore)は、動物の体に起源する食物を主に摂取する動物である。類義語に捕食者(Predator)がある。
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{{複数の問題
|出典の明記 = 2020年3月15日
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'''肉食動物'''(にくしょくどうぶつ、Carnivore)は、動物の体に起源する食物を主に摂取する動物である。類義語に捕食者(Predator)がある。
== 食物 ==
[[File:Hierodula patellifera preys on maculaticollis.JPG|thumb|250px|カマキリも肉食動物である]]
「肉食動物」という語は誤解されやすいが、「肉食動物」とは、特に他の[[恒温動物]]を捕殺してその「肉」を摂食する動物ということではない。動物体あるいはそれに由来するものを食べる動物食性(zoophagous)のうち、生きている動物を食べる(carnivorous)動物のことを言う。より狭義には生きている動物を殺して食べる(predatory)動物(捕食者)をさす。
例えばモグラ類もアリクイ類もカワウソ類もペリカン類も肉食動物に分類される。
[[食物連鎖]]では[[二次消費者]]以上の[[頂点捕食者|高次消費者]]となる。
[[草食動物]]の食べる植物質と比較して[[消化]]吸収の容易な[[肉]]や[[内臓]]、[[骨]]などを摂食するため、[[胃]]や[[腸]]などの[[消化器官]]自体の構造は単純であるが、食物に[[脂肪]]が多く含まれるので、[[胆汁]]の分泌などの脂肪の利用に必要な形質は発達している。[[栄養素]]の面からも、自分自身とよく似た[[生物]]を食べるのだから、比較的不足なく摂取できる。塩分に関しても、獲物の肉や血液に入っている塩で足りている<ref>『塩の秘密』112頁。</ref>。
肉食に偏っている場合、摂取栄養が[[タンパク質]]と脂肪に偏り、同じく[[三大栄養素]]のひとつである[[糖分]]の摂取が不足することになる。[[猫]]のような肉食動物は、[[糖新生]]の酵素活性が高く、タンパク質から分解されて得られた[[糖原性アミノ酸]]から糖新生を行って体内で必要な糖分を生成している<ref>https://www1.hills.co.jp/vetssite/practice/hfs/hfs046.shtml</ref>{{リンク切れ|date=2020年3月}}。
== 興亡 ==
古くは古生代の[[アノマロカリス]]のような節足動物から、今ではオオカミのような哺乳類まで、地球の歴史には様々な肉食動物が登場してきた。そのうち少なくない種が狩りをする捕食者であると同時に死肉を漁るスカベンジャーであり、また他者から獲物を奪う横取り屋でもあった<ref>Making a scavenger—the meat-thieving traits that have stood the test of time(Trinity College Dublin:2017)</ref>。例えばライオンは優秀な狩人であるが、チャンスさえあれば積極的にチーターの獲物を奪い取っている。
==食物の獲得==
肉食動物が苦労しなければならないのは、むしろ餌の入手である。相手が動物であれば、なにかしらの運動性をもち、逃走や待避、防御、時には肉食動物への反撃といった[[行動]]を取るものがほとんどであり、肉食動物が草食動物の返り討ちに遭うことも珍しくない。肉食動物は、それらを越える探索能力や捕獲能力を発達させなければならない。当然食われる方も逃走や防御、反撃の能力を発達させるので、一種のいたちごっこ状態が生じる可能性がある。そこに[[赤の女王仮説]]が成立する土台がある。
多くの肉食動物は食べる獲物が時と場合によって異なり、たとえ同じ種類の動物であっても成体、若年個体、老年個体、病体、傷体、時として死体と、様々となる。
代表例はアフリカのライオンとゾウや<ref>NHK放送『プラネットアース』</ref>、ガラパゴス諸島のガラパゴスノスリとウミイグアナの関係がある。どちらの獲物も成長しきれば捕食者の餌食とならないが、時として幼体が襲われて命を落とすことがある。
餌のとらえ方は、大きくは探索-捕獲と進む追跡型と、待ち伏せ型とがある。もちろん両方の間にはさまざまな中間がある。
また、自ら獲物となる動物を[[狩猟]]の形で[[殺害]]・[[捕獲]]するのではなく、他の動物が捕食した・あるいは寿命や疾病・負傷などで死亡した動物を食べる動物もいる。これらは「スカベンジャー」(→[[腐肉食]])と呼ばれる。スカベンジャーは自ら動物を追い回し捕らえる苦労が無い代わりに、広い範囲を行動して狩りをする動物の食べ残しや傷病死した動物の死骸を探さなければならない。
== 生物濃縮 ==
これら動物は、他の動物を[[捕食]]することで、その捕食された動物が摂取した栄養素を二次的に利用する。この場合、骨や内臓も食べることになるため、それらに蓄積された栄養素も消化・吸収する。しかしその一方で、[[尿]]や[[汗]]によって体外に[[排泄]]されにくいために、これら被捕食動物の体に蓄積された脂溶性の[[汚染]]物質も吸収することになる。したがって、有害物質などが被捕食動物よりも高濃度で蓄積し、より大きな被害が出る場合もある([[生物濃縮]])。近年では一部地域で、これら食物連鎖による高濃度な[[公害]]による汚染によって、野生肉食動物の[[絶滅]]が危惧されている所もある。
捕食することでその餌動物から特殊能力を受け取る例もある。ウミウシの仲間には餌にする海綿動物などの動物の持つ毒物を体内に取り込んで、自分が魚などに食べられないための防御に用いるものが多いが、なかでもミノウミウシ類は刺胞動物を餌として、その時に餌のもつ刺胞を壊さずに取り込み、自分の背面などに保持して、自己防衛に使う。また[[嚢舌類]]と呼ばれるウミウシの仲間は[[緑藻]]類に属する[[海藻]]の細胞の中身を吸引して餌にしているが、そのとき[[葉緑体]]は消化せずに生きたまま背面にある細胞に取り込み、光合成をさせて活動に必要な栄養素を獲得している。餌に含まれる毒素の利用は昆虫でもよく知られており、マダラチョウ科のチョウの多くは幼虫時代に食草から取り込んだ毒物によって鳥に食べられにくくなっている。
==人間の食料として==
[[牧畜]]や[[狩猟]]があまり盛んでない地域の人間は、その食習慣において、内臓をあまり好んで食べないので、これらの濃縮された汚染にさらされずに済んではいるが、[[食文化]]により内臓を調理して食べる場合には、注意が必要とされている。哺乳類の内臓の食習慣が余り一般的ではない日本でも、魚の内臓、特に[[頂点捕食者|高次消費者]]であるマグロなどの利用は同様の意味で注意が喚起されている。また肉食動物の[[肝臓]]には、高濃度の[[ビタミンA]]が含まれるが、雑食動物である人間が肉食動物の肝臓を食べると、少量でビタミンA過剰摂取の危険もあるため、一般的には肉食動物の肝臓は食用に適さないとされている。実例として、ホッキョクグマの肝臓を多く摂取すると、[[ビタミンA#過剰症|ビタミンAの過剰症]]を起こすことが知られている。
肉食動物は活発に活動する関係から、スジが多く肉が臭いと言われているが、きちんと調理することで臭みが抑えられる。また鳥類や[[爬虫類]]の肉食動物では、味が淡白とされる。しかし[[寄生虫]]をもっていることも多いため、よく加熱調理しなければならない。
===深海での肉食化===
海には[[濾過摂食]]を行う動物群が多く存在するが、それらの中で深海を生息域とするものに肉食性に変化したものが見られる。例えば[[ホヤ類]]では入水孔が大きく広がってより大きな餌が取れるようになっているオオグチボヤなど、海綿動物では骨片が外に突出して小型動物を引っかけて食べるようになった[[肉食性カイメン]]と呼ばれるものがある。これらは深海では[[懸濁物]]が少ないことで餌の範囲を広げたものと考えられる。
== 関連項目 ==
* [[魚食動物]]
* {{ill2|純肉食性|en|Hypercarnivore}} ‐ 食料の70%以上が肉である動物。
* [[頂点捕食者]]
* [[生態ピラミッド]]
* [[余剰殺傷]] - 肉食動物が食べられる以上に獲物を狩ること。
==脚注==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[ハンス・クルーク]] [[垂水雄二]] 訳 『ハンター&ハンティッド 人はなぜ肉食獣を恐れ、また愛するのか』 [[どうぶつ社]] ISBN 488622332X
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躍度
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躍度(やくど)、加加速度(かかそくど)、 ジャーク (英: jerk, jolt) は、単位時間あたりの加速度の変化率である。
本項目では、角加速度の変化率を意味する角躍度についても紹介する。
加速度はベクトル量であるので、躍度も同様にベクトル量となるが、その絶対値を指すこともある。
加速度を a とすれば、定義から躍度 j は a の時間に関する微分
j = d a d t {\displaystyle {\boldsymbol {j}}={\frac {\mathrm {d} {\boldsymbol {a}}}{\mathrm {d} t}}}
で与えられる。
これは、変位を x、速度を v として
j = d 2 v d t 2 = d 3 x d t 3 {\displaystyle {\boldsymbol {j}}={\frac {\mathrm {d} ^{2}{\boldsymbol {v}}}{\mathrm {d} t^{2}}}={\frac {\mathrm {d} ^{3}{\boldsymbol {x}}}{\mathrm {d} t^{3}}}}
と表すこともできる。
大きな躍度(加速度、力の急激な変化)は、生物に不快感を与えたり、機械装置に対して損傷を与えたりする。特に大きな加速度に対応しなければならない戦闘機のパイロットにとっては、加加速度が大きいと対応しきれずに失神する危険性が高まり、続いて墜落する危険も生じる。
そのため、生体等の運動制御における逆モデルを考える場合、躍度を最小にすることを制御系の束縛条件として与え、不良設定問題に一意解をもたらす方法がある。
角躍度(かくやくど、英: angular jerk)は、角加速度の変化率を意味する。単位は国際単位系ではラジアン毎秒毎秒毎秒 (rad/s) で、または度毎秒毎秒毎秒 (deg/s) が用いられることもある。数式中の記号はギリシア文字のζで表されることが多い。
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躍度(やくど)、加加速度(かかそくど)、 ジャーク は、単位時間あたりの加速度の変化率である。 本項目では、角加速度の変化率を意味する角躍度についても紹介する。
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{{出典の明記|date=2020年10月}}
{{物理量
|名称=躍度(加加速度)
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}}
'''躍度'''(やくど)、'''加加速度'''(かかそくど)、 '''ジャーク''' ({{Lang-en-short|jerk, jolt}}) は、[[単位時間]]あたりの[[加速度]]の変化率である<ref>{{Cite journal|和書|journal=精密工学会誌|volume=80|issue=11|year=2014|pages=995–998|title=ジャーク (加加速度,躍度) の測定法|author=辺見信彦|url=https://doi.org/10.2493/jjspe.80.995|doi=10.2493/jjspe.80.995}}</ref>。
本項目では、[[角加速度]]の変化率を意味する角躍度についても紹介する。
==概要==
加速度は[[ベクトル量]]であるので、躍度も同様にベクトル量となるが、その[[絶対値]]を指すこともある。
加速度を {{mvar|'''a'''}} とすれば、定義から躍度 {{mvar|'''j'''}} は {{mvar|'''a'''}} の[[時間]]に関する[[微分]]
{{Indent|<math>\boldsymbol{j} = \frac{\mathrm d\boldsymbol{a}}{\mathrm dt}</math>}}
で与えられる。
これは、[[変位]]を {{mvar|'''x'''}}、[[速度]]を {{mvar|'''v'''}} として
{{Indent|<math>\boldsymbol{j} = \frac{\mathrm d^{2}\boldsymbol{v}}{\mathrm dt^{2}} = \frac{\mathrm d^3\boldsymbol{x}}{\mathrm dt^3}</math>}}
と表すこともできる。
大きな躍度(加速度、[[力_(物理学)|力]]の急激な変化)は、生物に不快感を与えたり、機械装置に対して損傷を与えたりする。特に大きな加速度に対応しなければならない戦闘機のパイロットにとっては、加加速度が大きいと対応しきれずに[[G-LOC|失神]]する危険性が高まり、続いて墜落する危険も生じる<ref>{{Cite web|和書|title=戦闘機パイロットの耐G訓練を素人が体験してみたムービーが公開中 |url=https://gigazine.net/news/20180430-g-force-jerk-passing-out-centrifuge/ |website=GIGAZINE |access-date=2022-06-26 |language=ja}}</ref>。
そのため、生体等の運動制御における[[逆モデル]]を考える場合、躍度を最小にすることを制御系の[[束縛条件]]として与え、不[[良設定問題]]に一意解をもたらす方法がある。
== 角躍度 ==
'''角躍度'''(かくやくど、[[英語|英]]: angular jerk)は、角加速度の変化率を意味する。単位は[[国際単位系]]では[[ラジアン]]毎[[秒]]毎秒毎秒 (rad/s<sup>3</sup>) で、または度毎秒毎秒毎秒 (deg/s<sup>3</sup>) が用いられることもある。数式中の記号はギリシア文字の'''[[ζ]]'''で表されることが多い。
== 出典 ==
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{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[加加加速度]]
* [[スポーツ科学]]
* [[応用力学]]
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[[Category:力学]]
[[Category:物理量]]
[[Category:物理学における時間]]
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14,153 |
孫子
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孫子(そんし)
孫武と孫臏は、共に『孫子』と呼ばれる兵法書を著したと伝えられている。一般に「孫子」という通称は孫武を指すことが多く、現在『孫子』として知られる著作は孫武のもので、かつては『呉孫子』と呼ばれ、孫臏の著作は『斉孫子』(孫臏の兵法書)と呼ばれていた。後者は長らく失われていたが、近年山東省でその竹簡が発掘され日の目を見た。この『斉孫子』は現在では『孫臏兵法』と呼ばれている。
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孫子(そんし) 中国の春秋時代の武将、孫武の尊称。
中国の戦国時代の武将で孫武の子孫とされる孫臏(臏は{月賓})の尊称。
中国の戦国時代の儒学者で、『荀子』に思想がまとめられた、孫卿(荀卿)の尊称。この呼び方は『戦国策』「楚策」などに見える。孫卿子とも。
孫子 (書物) - 中国で古より知られている、孫武の作とされる兵法書。
近年中国で新しく発見された、孫臏の作とされる兵法書。孫臏兵法を参照。
孫子 (数学者) - 中国の南北朝時代の数学者。孫子算経の著者。 孫武と孫臏は、共に『孫子』と呼ばれる兵法書を著したと伝えられている。一般に「孫子」という通称は孫武を指すことが多く、現在『孫子』として知られる著作は孫武のもので、かつては『呉孫子』と呼ばれ、孫臏の著作は『斉孫子』(孫臏の兵法書)と呼ばれていた。後者は長らく失われていたが、近年山東省でその竹簡が発掘され日の目を見た。この『斉孫子』は現在では『孫臏兵法』と呼ばれている。
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'''孫子'''(そんし)
*[[中国]]の[[春秋時代]]の武将、[[孫武]]の尊称。
*中国の[[戦国時代_(中国)|戦国時代]]の武将で孫武の子孫とされる[[孫臏]](臏は{月賓})の尊称。
*中国の戦国時代の[[儒学者]]で、『[[荀子]]』に思想がまとめられた、孫卿([[荀卿]])の尊称。この呼び方は『[[戦国策]]』「楚策」などに見える。孫卿子とも。
*[[孫子 (書物)]] - 中国で古より知られている、孫武の作とされる兵法書。
*近年中国で新しく発見された、{{Lang|zh|孫臏}}の作とされる兵法書。[[孫臏兵法]]を参照。
*[[孫子 (数学者)]] - 中国の[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の数学者。[[孫子算経]]の著者。
孫武と{{Lang|zh|孫臏}}は、共に『孫子』と呼ばれる兵法書を著したと伝えられている。一般に「孫子」という通称は孫武を指すことが多く、現在『孫子』として知られる著作は孫武のもので、かつては『呉孫子』と呼ばれ、[[孫臏]]の著作は『斉孫子』({{Lang|zh|孫臏}}の兵法書)と呼ばれていた。後者は長らく失われていたが、近年[[山東省]]でその竹簡が発掘され日の目を見た。この『斉孫子』は現在では『{{Lang|zh|孫臏兵法}}』と呼ばれている。
== 関連項目 ==
*[[竹簡孫子]]
*[[兵家]]
== 外部リンク ==
{{Wikiquote|孫子}}
{{wikisourcelang|zh|孫子兵法}}
*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/fukura1234/ |title=中国兵法}}『銀雀山漢墓竹簡・孫子』『十一家註孫子』『武経七書所収孫子』『魏武帝註孫子』原文及び翻訳
*[https://www.kazuhiro-nagao.com/suntzu/ 孫子兵法家]
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[[Category:兵法]]
[[Category:孫氏 (春秋戦国)|*]]
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14,154 |
韓非
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韓 非(かん ぴ、拼音: Hán Fēi、紀元前280年? - 紀元前233年)は、中国戦国時代の思想家。『韓非子』の著者。法家の代表的人物。韓非子(かんぴし)とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。
韓非の生涯は司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、貝塚茂樹は韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解を示している。いずれにしろ、『韓非子』や他の書にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわかっていない。
韓非は、生まれつき重度の吃音であり、幼少時代は王安や横陽君成も含む異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下され続けていたが、非常に文才に長け、書を認める事で、自分の考えを説明するようになった。この事が、後の『韓非子』の作成に繋がったものと思われる。
荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに紀元前260年の長平の戦い以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない(“且夫韓入貢職、与郡県無異也”)」といった状況であった。
故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。
韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。この背景には当時、既に最強国となっていた秦の動向を探るための各国密偵の暗躍、外国人の立身出世に対する秦国民の反感など、秦国内で外国人に対する警戒心、排斥心が高まり「逐客令(外国人追放令)」が発令されたため、韓非は「外国人の大物」としてスケープゴートにされたという経緯がある。
以上が『史記』の伝える韓非の最期だが、これには異聞もある。『戦国策』「秦策」では、韓非が姚賈という秦の重臣への讒言をしたために誅殺されたと伝わる。貝塚茂樹は、『史記』が誤りで『戦国策』が正しいと推察している。
韓非はすぐれた才能があり、後世に残る著作を記したが、そのために同門の李斯のねたみを買い、事実無根の汚名を着せられ自殺に追い込まれた。司馬遷は『史記』の韓非子伝を、「説難篇を著して、君主に説くのがいかに難しいかをいいながら、自分自身は秦王に説きに行って、その難しさから脱却できなかったのを悲しむ」と、結んでいる。
韓非の思想は著作の『韓非子』によって知られる。金谷治によれば、韓非の著作として確実と考えられるのはまず『史記』に言及されている「五蠹」編と「孤憤」編で、さらに「説難」編・「顕学」編である。その中心思想は政治思想で、法実証主義の傾向が見られる。
韓非が明らかに荀子に影響を受けていると思われるのが、
などであり、荀子の隠括も好んで使う。
ただし韓非の思想への荀子の影響については諸家において見解がやや分かれる。
韓非の人間観は原理上は孔子と共通の観点を取っているが、厳密には荀子の性悪説に近い。
功利主義の分かりやすい例に堯舜についての禅譲である。この禅譲に対して曰く。「堯が天下の王だった時は、質素な宮廷で、粗末な食事を食べ、貧しい衣服を着ていた。今の世の門番が貧しいとはいえ、これよりはましである。これらのことから言えば、かの古の時代の天下を譲るということは、門番の貧しい生活を捨てたり、奴隷の労役から離れるということだ。だから天下を譲るといっても大したことではない。しかし今の県令ですらその死後、子孫は末長く馬車を乗り回して暮らせるほど豊かである。だから人はその地位を重く思う。よって人が地位を譲るということ、古代は天子の地位を譲ることを軽んじ、現代は県令の職を離れ難いと思うのは、その実利が違うからである」。
人が少なかった頃は闘争はなかったという一種の自然状態仮説を提示し、外的環境と物的状況の変化が人間性に影響を与えるという議論を展開する。韓非によれば、物資が多くて人が少なければ人々は平和的で、逆に物資が少なくて人が多いと闘争的になる。韓非が生きた時代のような、人が増えた闘争的な社会では、平和的な環境に合った法や罰は意味が無く、時代に合わせて法も罰も変えなければいけない。ただ罰の軽重だけを見て、罰が少なければ慈愛であるといい、罰が厳しければ残酷だという人がいるが、罰は世間の動向に合わせるものであるから、この批判は当たらないという。
儒家と墨家の思想が客観的に真実であるかどうか検証不可能であることを指摘して、政治の基準にはならないと批判している。法律とその適用を厳格にしさえすれば、客観的に政治は安定する。儒家の言葉はあやふやでその真理として掲げている「知」や「賢」といった道徳的に優れた行為や言葉は誰でも取りうるものではなく知りうるものでもないという。よってこのような道徳性を臣下に期待するのは的はずれで、君主は法を定め、それに基づいて賞罰を厳正におこなえば、臣下はひとりでに君主のために精一杯働くようになるという。
政治の基準は万人に明らかであるべきで、それは制定法という形で君主により定められるべきものである。また法の運用・適用に関する一切は君主が取り仕切り、これを臣下に任せてはならない。
韓非の歴史思想については、「五蠹」編に述べられているところに依拠して説明する。
古の時代は今とは異なって未開な状態であり、古の聖人の事跡も当時としては素晴らしかったが、今日から見ると大したことはない。したがってそれが今の世の中の政治にそのまま適用できると考えている者(具体的には儒者を指す)は本質を見誤っている。時代は必然的に変遷するのであり、それに合わせて政治も変わるのである。ここには過去から未来へと変化するという直線的な歴史観、さらに古より当今のほうが複雑な社会構成をしているという認識、進歩史的な歴史観を見ることができる。この思想は荀子の「後王」思想を継承しているもので、古の「先王」の時代と「後王」の時代は異なるものであるから、政治も異なるべきという考えを述べているものを踏襲していると見られる。
韓非は「五蠹」編において、商工業者を非難している。
韓非によれば、農業を保護し商工業者や放浪者は身分的に抑圧すべきである。ところが韓非の時代においては、金で官職が買え、商工業者が金銭によって身分上昇が可能であり、収入も農業より多いので、農民が圧迫されているために国の乱れとなっているという。
韓非思想にとって、「法」「術」と並ぶ中心概念が「勢」である。「勢」の発想自体は慎子の思想の影響を受けている。ここでは「難勢」編に依拠して説明する。
「勢」とは単なる自然の移り変わり、つまり趨勢のことではなく、人為的に形成される権勢のことであるという。韓非は権勢が政治において重要性を持つと主張し、反対論者を批判する。反対論者は「賢者の『勢』も桀紂のような暴君も『勢』を持っているという点で共通であるから、もし『勢』が政治において重要性を持つのならば、なぜ賢者の時にはよく治まり、桀紂の時にはよく治まらないのか」と言うが、賢者の「勢」は自然の意味で権勢ではなく、このような論理は問題にならないという。賢者の治政が優れているのはなるほど道理だが、もし賢愚の区別だけが政治的に意味があるなら、賢人などというのは千代の間に一人いるかいないかであるから、これを待っているだけでは政治がうまくいくとは思われないという。法によって定まった権勢に従えば、政治は賢人の治政ほどではないだろうが、暴君の乱政に備えることはできると説いている。
「勢」とは、このような人為的な権勢であり、それは法的に根拠付けられた君主の地位である。これは上下の秩序を生み出す淵源である。もし君主の権勢より臣下の権勢のほうがすぐれていれば、ほかの臣下は権勢ある臣下を第一に考えるようになり、君主を軽んじるようになって、政治の乱れが生じる。したがって韓非の理想とする法秩序において、君主は権勢を手放してはならない。
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韓 非は、中国戦国時代の思想家。『韓非子』の著者。法家の代表的人物。韓非子(かんぴし)とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。
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'''韓 非'''(かん ぴ、{{ピン音|Hán Fēi}}、[[紀元前280年]]? - [[紀元前233年]])は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[思想家]]。『[[韓非子]]』の著者。[[法家]]の代表的人物。'''韓非子'''(かんぴし)とも呼ばれる<ref>「子」は「先生」を意味する男性に対する尊称。</ref>。元来は単に'''韓子'''と呼ばれていたが、唐代の詩人[[韓愈]]を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。
== 生涯 ==
韓非の生涯は[[司馬遷]]の『[[史記]]』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。『史記』によれば、出自は[[韓 (戦国)|韓]]の[[公子]]であり、後に[[秦]]の宰相となった[[李斯]]とともに[[荀子]]に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『[[韓非子]]』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、[[貝塚茂樹]]は韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解を示している。いずれにしろ、『韓非子』や他の書にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわかっていない。
韓非は、生まれつき重度の[[吃音]]であり、幼少時代は[[韓王安|王安]]や[[韓王成|横陽君成]]も含む異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下され続けていたが、非常に文才に長け、書を認める事で、自分の考えを説明するようになった。この事が、後の『韓非子』の作成に繋がったものと思われる。
荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。戦国時代末期になると[[春秋時代]]の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「[[戦国七雄]]」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに[[紀元前260年]]の[[長平の戦い]]以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない(“''且夫韓入貢職、与郡県無異也''”)」といった状況であった<ref>『韓非子』「存韓」編。韓王を弁護するために秦に赴いた韓非が上表したとされる文章と李斯の反駁文、さらにそれに対する韓非の反駁文で成り立つ。ただしこの編はおそらく韓非自身の著作ではないと考えられている。[[太田全斎|太田方]]は「初見秦」編とともにこれを『韓非子』の本編から外す。[[金谷治]]もおそらく韓非その人の著作ではないとしている。</ref>。
故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。<!--著作については後述。学界の動向については検証可能性にも考慮されたし--><!--ただ韓非子本人が記述したと確実視されているのは全五十五編のうち「孤憤第十一」「説難第十二」「和氏第十三」「姦劫弑臣第十四」「五蠹第四十九」「顕学第五十」のみとするのが、現在の学会でもっとも支持されている説である。それ以外の編は研究者によって出入りがある。-->
韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった[[始皇帝|秦王]]はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。この背景には当時、既に最強国となっていた秦の動向を探るための各国密偵の暗躍、外国人の立身出世に対する秦国民の反感など、秦国内で外国人に対する警戒心、排斥心が高まり「[[逐客令]](外国人追放令)」が発令されたため、韓非は「外国人の大物」としてスケープゴートにされたという経緯がある。
以上が『史記』の伝える韓非の最期だが、これには異聞もある。『[[戦国策]]』「秦策」では、韓非が[[姚賈]]という秦の重臣への讒言をしたために誅殺されたと伝わる。貝塚茂樹は、『史記』が誤りで『戦国策』が正しいと推察している{{Sfn|貝塚|2003|p=127}}。
韓非はすぐれた才能があり、後世に残る著作を記したが、そのために同門の李斯のねたみを買い、事実無根の汚名を着せられ自殺に追い込まれた。司馬遷は『史記』の韓非子伝を、「説難篇を著して、君主に説くのがいかに難しいかをいいながら、自分自身は秦王に説きに行って、その難しさから脱却できなかったのを悲しむ」と、結んでいる。
==思想==
韓非の思想は著作の『韓非子』によって知られる。金谷治によれば、韓非の著作として確実と考えられるのはまず『史記』に言及されている「五蠹」編と「孤憤」編で、さらに「説難」編・「顕学」編である。その中心思想は[[政治哲学|政治思想]]で、[[法実証主義]]の傾向が見られる。
===荀子の影響===
韓非が明らかに荀子に影響を受けていると思われるのが、
#功利的な人間観
#「後王」思想
#[[迷信]]の排撃
などであり、荀子の隠括も好んで使う。
ただし韓非の思想への荀子の影響については諸家において見解がやや分かれる。
#貝塚茂樹は韓非と荀子の間に思想的なつながりは認められなくはないが、[[商鞅]]や[[申不害]]らからの継承面の方が大きく、荀子の影響が軸となっているとの見解ではない。
#[[金谷治]]も荀子の弟子という通説を否定はしないが、あまり重視せず、やはり先行する法術思想からの継承面を重視する。
#それに対し、内山俊彦は荀子の[[性悪説]]や天人の分、「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから、「先王」の道を重んじ自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく、「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。
===功利的な人間観===
韓非の人間観は原理上は孔子と共通の観点を取っているが、厳密には荀子の[[性悪説]]に近い。
功利主義の分かりやすい例に[[堯]][[舜]]についての禅譲である。この禅譲に対して曰く。「堯が天下の王だった時は、質素な宮廷で、粗末な食事を食べ、貧しい衣服を着ていた。今の世の門番が貧しいとはいえ、これよりはましである。これらのことから言えば、かの古の時代の天下を譲るということは、門番の貧しい生活を捨てたり、奴隷の労役から離れるということだ。だから天下を譲るといっても大したことではない。しかし今の県令ですらその死後、子孫は末長く馬車を乗り回して暮らせるほど豊かである。だから人はその地位を重く思う。よって人が地位を譲るということ、古代は天子の地位を譲ることを軽んじ、現代は県令の職を離れ難いと思うのは、その実利が違うからである」。
人が少なかった頃は闘争はなかった<ref>「古者丈夫不耕、草木之實足食也。婦人不織、禽獸之皮足衣也。不事力而養足、人民少而財有餘、故民不爭。」"昔は男でも耕作せず、草木の実で十分食が足りた。女は機織りせず、禽獣の毛皮で衣服が足りた。労力を使わずとも十分生きていけたので、人々は少ないため財は余りがあって、そのため民衆は争うことがなかった。"</ref>という一種の自然状態仮説を提示し、外的環境と物的状況の変化が人間性に影響を与えるという議論を展開する<ref name="名前なし-1">「五蠹」編</ref>。韓非によれば、物資が多くて人が少なければ人々は平和的で、逆に物資が少なくて人が多いと闘争的になる。韓非が生きた時代のような、人が増えた闘争的な社会では、平和的な環境に合った法や罰は意味が無く、時代に合わせて法も罰も変えなければいけない。ただ罰の軽重だけを見て、罰が少なければ慈愛であるといい、罰が厳しければ残酷だという人がいるが、罰は世間の動向に合わせるものであるから、この批判は当たらないという。
===実証主義===
儒家と墨家の思想が客観的に真実であるかどうか検証不可能であることを指摘して、[[政治]]の基準にはならないと批判している<ref>「顕学」編</ref>。[[法律]]とその適用を厳格にしさえすれば、客観的に政治は安定する。儒家の言葉はあやふやでその真理として掲げている「知」や「賢」といった道徳的に優れた行為や言葉は誰でも取りうるものではなく知りうるものでもないという<ref name="名前なし-1"/>。よってこのような道徳性を臣下に期待するのは的はずれで、君主は法を定め、それに基づいて賞罰を厳正におこなえば、臣下はひとりでに君主のために精一杯働くようになるという。
政治の基準は万人に明らかであるべき<ref>「且世之所謂賢者、貞信之行、所謂智者、微妙之言也。微妙之言、上智之所難知也。今為衆人法、而以上智之難知、則民無従識之矣」"また世にいう「賢」というのは誠実な行いのことで、「知」というのは繊細な機微に基づく言葉である。このような微妙な言葉は優れた知者にさえ難解である。一般の人々のための法にこのような難解な言葉を使えば、一般の人々がその内容を理解できるはずもない。"(「五蠹」編)</ref>で、それは制定法という形で君主により定められるべきものである。また法の運用・適用に関する一切は君主が取り仕切り、これを臣下に任せてはならない。
===歴史思想===
韓非の歴史思想については、「五蠹」編に述べられているところに依拠して説明する。
古の時代は今とは異なって未開な状態であり、古の聖人の事跡も当時としては素晴らしかったが、今日から見ると大したことはない。したがってそれが今の世の中の政治にそのまま適用できると考えている者(具体的には儒者を指す)は[[本質]]を見誤っている。時代は[[必然]]的に変遷するのであり、それに合わせて政治も変わるのである。ここには過去から未来へと変化するという[[直線]]的な歴史観、さらに古より当今のほうが複雑な社会構成をしているという認識、[[進歩]]史的な歴史観を見ることができる。この思想は荀子の「後王」思想を継承しているもので、古の「先王」の時代と「後王」の時代は異なるものであるから、政治も異なるべきという考えを述べているものを踏襲していると見られる。
===重農主義===
韓非は「五蠹」編において、商工業者を非難している。
韓非によれば、農業を保護し商工業者や放浪者は身分的に抑圧すべきである<ref>「夫明王治國之政、使其商工游食之民少而名卑、以寡舎本務而趨末作。」"名君の治政においては、商工業者や放浪者を少なくして身分を卑しくし、農民が本業を捨てて商工業にはしるのを少なくするのである。"(「五蠹」編)</ref>。ところが韓非の時代においては、金で官職が買え、商工業者が金銭によって身分上昇が可能であり、収入も農業より多いので、農民が圧迫されているために国の乱れとなっているという。
===「勢」の思想===
韓非思想にとって、「法」「術」と並ぶ中心概念が「勢」である。「勢」の発想自体は[[慎到|慎子]]の思想の影響を受けている。ここでは「難勢」編に依拠して説明する。
「勢」とは単なる自然の移り変わり、つまり趨勢のことではなく、人為的に形成される権勢のことであるという<ref>「勢必於自然、則無為言於勢矣。吾所為言勢者、言人之所設也。」"勢が自然についてに限られるのであれば、勢について語ることは何もない。私が勢と呼ぶのは、人の設ける勢のことである。"(「難勢」編)</ref>。韓非は権勢が政治において重要性を持つと主張し、反対論者を批判する。反対論者は「賢者の『勢』も桀紂のような暴君も『勢』を持っているという点で共通であるから、もし『勢』が政治において重要性を持つのならば、なぜ賢者の時にはよく治まり、桀紂の時にはよく治まらないのか」と言うが、賢者の「勢」は自然の意味で権勢ではなく、このような論理は問題にならないという。賢者の治政が優れているのはなるほど道理だが、もし賢愚の区別だけが政治的に意味があるなら、賢人などというのは千代の間に一人いるかいないかであるから、これを待っているだけでは政治がうまくいくとは思われないという。法によって定まった権勢に従えば、政治は賢人の治政ほどではないだろうが、暴君の乱政に備えることはできると説いている。
「勢」とは、このような人為的な権勢であり、それは法的に根拠付けられた君主の地位である<ref>韓非は実定法的正当性である「勢」と超実定法的正当性である「義」を対置して捉え(「且民者固服於勢、寡能懐於義。」"また民は「勢」には自然と服するが、「義」に従うことができる者は少ない。"、「五蠹」編)、さらに「義」より「勢」を重く見ている。このことは現代社会のような、外面的な法秩序と内面的な道徳秩序の共存を認める立場ではなく、むしろ法によって内面的な道徳秩序さえも排除しようという主張につながる。「故有道之主、遠仁義、去智能、服之以法。」"道をわきまえた君主は、仁義を遠ざけ、知能に頼らず、法にしたがうのである。"(「説疑」編)</ref>。これは上下の秩序を生み出す淵源である。もし君主の権勢より臣下の権勢のほうがすぐれていれば、ほかの臣下は権勢ある臣下を第一に考えるようになり、君主を軽んじるようになって、政治の乱れが生じる。したがって韓非の理想とする法秩序において、君主は権勢を手放してはならない。
==著作==
:※以下は現行での主な訳注。[[韓非子]]も参照
*[[金谷治]]訳注『韓非子』 [[岩波文庫]](全4巻)、1994年
*[[町田三郎]]訳注『韓非子』 [[中公文庫]](上下)、1992年、原文はなし
*[[竹内照夫]]訳注『韓非子』 [[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]11・12〉、1960-64年
**『韓非子』 明治書院「[[新書漢文大系]]13」、2002年。抜粋編訳
*[[本田済]]訳注『韓非子 全現代語訳』 [[講談社学術文庫]]、2022年、改訂新版
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*『韓非子翼毳』 [[太田全斎|太田方]]注、[[服部宇之吉]]校訂、[[冨山房]]、1911年、新装版1984年
*東京大学中国哲学研究室編『中国思想史』 [[東京大学出版会]]、1952年、新版1983年
*金谷治『中国思想を考える』 [[中公新書]]、1993年
*[[貝塚茂樹]]『韓非』 [[講談社学術文庫]]、2003年
*[[冨谷至]]『韓非子』 [[中公新書]]、2003年
*[[西野広祥]]ほか訳『中国の思想 1 韓非子』 [[徳間書店]]のち徳間文庫
*[[長尾龍一]]『古代中国思想ノート』 信山社、1999年
*[[狩野直禎]]『「韓非子」の知恵』 [[講談社現代新書]]、1987年
===荀子に関して===
*内山俊彦 『[[荀子]]』[[講談社学術文庫]]、1999年
*[[重澤俊郎]] 『周漢思想研究』大空社、1998年
*金谷治訳注 『荀子』 岩波文庫(上下)
==外部リンク==
{{Wikiquote|韓非子}}
*[https://ctext.org/hanfeizi/zh 韓非子] - [[中国哲学書電子化計画]]
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{{DEFAULTSORT:かん ひ}}
[[Category:紀元前3世紀中国の哲学者]]
[[Category:法家の人物]]
[[Category:戦国韓の人物]]
[[Category:春秋戦国秦の人物]]
[[Category:自殺した中国の人物]]
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[[Category:紀元前280年代生]]
[[Category:紀元前233年没]]
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国道
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国道(こくどう)とは、日本において国が政令で指定した道路の総称である。国道が全国的な幹線道路網を構成し、その他の道路がそれを補完する。
一般国道は全国に459路線あり、1号から507号までの番号が割り当てられている(48路線が欠番)。距離は最長である国道4号(742.5 km)、最短は国道2号と神戸港を結ぶ国道174号(0.1871 km)。幹線道路といっても、自動車が直接走れない航路が国道に指定されている「海上国道」、徒歩でしか行き来できない階段国道、自動車の走行が困難だったり慎重な運転が必要だったりする所謂「酷道」もある。
他国の国道に相当する道路も「国道」と呼ばれることがある(「国道 (曖昧さ回避)」 を参照)。
全国的な幹線道路網を構成する道路として道路法に基づき国が政令で指定するもので、現在は高速自動車国道と一般国道との総称となっている。単に「国道」といった場合には、一般国道のことを指していることが多い。、
高速自動車国道は『高速自動車国道の路線を指定する政令』により、 一般国道は『一般国道の路線を指定する政令』により指定されている。
路線の正式名称は、各政令の別表の路線名に「高速自動車国道」または「一般国道」を冠したものとなる。
例えば「高速自動車国道九州縦貫自動車道鹿児島線」「一般国道1号」などという。
国道に指定される道路は、主な都市と都市を結ぶ道路や、高速道路と連絡する機能を持つ道路、主要港湾や空港をつなぐ道路など、これらの連係により国の産業経済の発展に欠かすことができないもの、あるいは国の産業発展に貢献するであろうことが将来期待されるものとして、重要視された道路である。
国道の種類、または政令(一般国道の指定区間を指定する政令)によって特別に指定されているかどうかにより、道路管理者(法律上認められた特殊な包括的権能を持つもの)は異なる。
国道の種類を大きく分けると、高速自動車国道(高速道路)と一般国道の2つがあり、さらに一般国道は、指定区間と指定区間外に分けられる(道路法第三条および第五条)。高速自動車国道では、道路構造令によって道路の幅や設計速度などが細部にわたり定められているが、一般国道では必ずしも道路構造令による規定に準じて供用がなされている訳ではなく、道幅や歩道の有無など道路の整備の度合いに関する決まり事がないという大きな相違点があげられる。呼び方についても、高速自動車国道は中国自動車道、東北自動車道のように通過する広域地域の名称を付けて道案内の目安にするのに対し、一般国道では1号から507号まで(ただし、59号~100号、109~111号、214~216号までは欠番)の路線番号がつけられており、この中には江戸時代の旧街道の名前を通称として呼ばれる路線もある。
ただし、高速道路でも一般国道のバイパスとして建設される路線(例・一般国道2号広島岩国道路、一般国道468号首都圏中央連絡自動車道)も少なくない。
近代の日本における国道は、1876年(明治9年)太政官達第60号で、県道、里道とともに定められたのを起源とする。このときの国道は全てが東京の日本橋を起点として、江戸時代の五街道の伝統を引き継ぐ形となった。さらに、一等国道、二等国道、三等国道の3種の等級をつけて分けられ、幅員はそれぞれ七間(約12.7 m)、六間(約10.9 m)、五間(約9.1 m)と定められた。
一等国道は東京の日本橋から幕末に外国へ開港した6カ所の港湾を結んだ(横浜港、大阪港、神戸港、長崎港、新潟港、函館港)。二等国道は東京と伊勢神宮および、東京府、京都府、大阪府と陸軍の司令部であった各鎮台(東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本)とを結んでいた。三等国道は東京と各県庁所在地ならびに、各府と各鎮台同士を結ぶものであった。
一等から三等まであった国道の等級は1885年(明治18年)に廃止され、これに代わり國道表が告示された。この時初めて1号から44号までの番号が振られ、いわゆる明治国道とよばれる路線が認定された。これらは26号を除き明治新政府の拠点である東京を起点としており、「壹號」「東京ヨリ横浜ニ達スル路線」、「貳號」「同大阪港ニ達スル路線」から、「四十四號」「東京ヨリ沖縄県ニ達スル路線」までの44路線である。同時に全ての国道の幅員を七間と改められた。44ある路線として、1号から8号までが日本橋と開港場を結ぶ路線、9号が日本橋と伊勢神宮を、10号は日本橋と名古屋鎮台を、11号が日本橋と熊本鎮台を、12号から25号までと27号から44号までが日本橋と各県庁所在地を結ぶ路線が指定された。これらの国道では、他の路線と重複する部分がかなり多く、重複する区間の経由地は「壹號」などと記載され具体的な地名は省略されている。
日本では鉄道優先の政策が採られていたため、道路整備は諸外国に比べ後れを取った。しかし、日清戦争・日露戦争以降は軍事的な目的もあって、道路事業費の増加が見られ、いわゆる明治国道の路線は、1887年(明治20年)指定の四十五号「東京ヨリ横須賀鎮守府ニ達スル路線」から、1915年(大正4年)の最終改定での、六十一号「東京ヨリ第十五師團ニ達スル路線」まで17路線が追加された。
第二次世界大戦前の道路整備の基本法となった道路法(大正8年4月11日法律第58号、旧道路法とも呼ばれる)は、1919年(大正8年)3月21日に第41回帝国議会で成立し、4月10日に公布された。これにより、従来の明治国道の路線は廃止され、いわゆる大正国道が新たに定められた。この大正国道は、
の二種類からなり、東京市から各地方へ達する前者の路線については以下の38路線が、後者の軍事路線については26路線がそれぞれ定められ、国道は計64路線となった。さらに太平洋戦争終結時までに最終的には計82路線が認定された。明治国道に比べて軍港や軍事基地に達する路線が多く、軍事色がかなり強くなったことを特徴とする。国道1号となった路線の行先は、国家神道の中心である伊勢神宮であった。特に「軍事国道」と称される比較的距離の短い軍事路線には、特○号のナンバーが振られ、軍事国道一号である特一号は、1614年(慶長19年)に徳川家康が五街道の整備に先立ち造成した御成街道(現在の千葉県道69号長沼船橋線)であった。現在国道の無い小笠原諸島も軍事的要衝とみなされ、軍事国道が設置された。大正国道では、建設費および改修費は全額国が負担することになっており、依然として軍事優先主義が貫かれた。
道路法第八条一の規定(大正9年内務省告示第28号)により、東京市の道路元標は日本橋の中央に置かれ、引き続き日本橋が起点となっていた。
当時の通過市町村名は右記ウィキソース参照のこと。 以降、政府は1920年(大正9年)から「第一次道路改良計画」を実施し、道路改良政策を施していったが、1923年(大正12年)の関東大震災発生により予算が大幅に縮小された。
1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけて追加された路線。
1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)にかけて大幅な区間変更および経由地変更があった路線。
1934年(昭和9年)から、先の道路改良計画を改定した「第二次道路改良計画」が実施された。これにより国道6,903 km及び軍事国道275 kmを国が直轄で改良する計画が実行に移されたものの、長引く不況による財政難及び戦時体制への移行に伴い、予算的裏付けが十分になされず、これも頓挫するに至った。日本は1937年(昭和12年)に中華民国との全面戦争(日中戦争)、1941年(昭和16年)には太平洋戦争に突入した)。
一方、ドイツのアウトバーンの影響を受け、内務省は全国的な自動車道路網、いわゆる「弾丸道路」とよばれる高速道路の整備計画策定を開始している。1943年(昭和18年)には、戦時下であったが内務省は『大東亜共栄圏全国自動車国道計画』を策定し、東京 - 神戸間の自動車国道建設のための測量、設計などが実施された。しかし、戦況が悪化したことにより、翌1944年(昭和19年)には中止となった。
日本の降伏後、空襲により焦土と化していた日本は、アメリカ軍のダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領統治下に置かれ、GHQは日本側へ軍事的に重要な道路路線の整備を要求した。GHQは1948年(昭和23年)11月、連合国軍総司令官の日本政府に対する覚書(通称「マッカーサー覚書」)によって、政府は「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の覚書を出した。これにより、日本政府は道路の維持修繕の五箇年計画を作成し、連合国軍の援助を受けながら、荒廃した道路の路面補修や橋梁修繕などを行った。財政的な制約や、講和条約に伴い1951年(昭和26年)に覚書が失効されたことにより、この計画は完全には実施されなかったが、その後の道路整備事業に大きな影響を与えている。
戦後に再び敷かれることとなった国道の整備は、1952年(昭和27年)に道路法が全面改正されたことにより、それまでの国道路線は全廃されて、現代に通じる国道道路網の基礎が出来上がり、大きく前進することとなった。この新しい道路法では、道路は国道、都道府県道及び市町村道の3種類に分けられ、さらに国道は、いわゆる昭和国道とよばれる一級国道と二級国道にランク分けされることとなった。2年後の1954年(昭和29年)には「第一次道路整備五箇年計画」が策定され、のちに「高速自動車国道法」などの高速道路関連の国道の法律が次々と制定されていくことになった。
一級国道は、国土を縦貫し、横断し、又は循環して全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、かつ、都道府県庁所在地などを連絡する道路(第5条)とされ、政令で指定される。なお、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、これは第5条第1号に相当する。
二級国道は、一級国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ以下に上げる要件
のいずれか(第6条)を満たし、政令で指定される道路とされた。なお、後に第6条は削除されており、二級国道の要件は、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、第5条第1号から第4号に相当する。
一級国道は、1952年(昭和27年)12月に40路線(1–40号)が指定された(昭和27年12月政令第477号)。また、二級国道については翌1953年(昭和28年)5月に144路線(101–244号)が指定されている(昭和28年5月政令第96号)。これまでのように東京の日本橋のみを起点とせず、大正国道の軍事路線のように各都市をそれぞれ起点・終点として直接結ぶ機能的な路線設定となっている。
路線番号は、東京から放射状に延びる一級国道には1号線から順に番号が振られた。二級国道は101号線以降とされ、基本的に北から南へ行くに従って数字が大きくなるように路線番号が採番された。なお、事情が特殊な北海道については最後に回されたため、正確には本州東北地方 - 中国地方、四国、九州、北海道の順に採番された。一級国道は1桁ないし2桁とされ、全体的には二級国道同様に北から採番しているが、国の骨格を形成する最重要路線として、東京日本橋を起点に東海道に相当する路線が国道1号、山陽道に相当する路線が国道2号、九州中部を南北に縦貫する路線が国道3号といった具合に採番がなされた。
1956年(昭和31年)7月に7路線(245–251号)と1963年(昭和38年)4月には20路線(252–271号)の二級国道の追加指定がそれぞれ施行された。ちょうど同じ時期、二級国道のいくつかの路線が、その重要性が認められて一級国道に昇格し、国道番号も3桁から2桁に改める国道の再編も行われ、1959年(昭和34年)4月とに3路線(41–43号)、1963年(昭和38年)4月には14路線(44–57号)の一級国道の追加指定が施行された。この昇格で空き番号となった二級国道は、国道に指定された新たな道路が当てはめられたが、一部の番号は当てはめられることもなく、そのまま欠番になっている。
昭和40年代にはモータリゼーションの到来で、交通事情の時代の変化に伴って道路の様相が一変し、大都市圏では一級国道よりも二級国道の方が立派な道路が建設されることも珍しくなくなり、一級と二級のランク分けをすることが困難かつ無意味になってきた。こうした事情から、1965年(昭和40年)4月の道路法の改正により一級、二級国道が統合され、一般国道に改められた。特に重要な区間は指定区間として国が直轄し、その他の区間は、都府県または政令指定都市が管理を受け持つよう制度も同時変更された。旧二級国道でも、北海道内や高速自動車国道の補助となる国道171号(京阪神)や国道246号(首都圏及び静岡県)などが旧一級国道と同じ直轄指定区間になった。
1970年(昭和45年)4月には一般国道となってから初めての追加指定が行われ、57路線(272–328号)が指定された(昭和44年12月政令第280号)が、この時からは北海道、本州、四国、九州の順に採番されるようになった。沖縄県が日本復帰した1972年(昭和47年)5月には沖縄県初の国道指定で、国道58号と国道329–332号が指定された(昭和47年4月政令第116号)。その後は1975年(昭和50年)4月、1982年(昭和57年)4月、平成となってからの1993年(平成5年)4月にも一般国道の追加指定が施行されて、最終的に507番まで採番され現在に至る。(一般国道#路線指定の沿革も参照)
なお、1970年(昭和45年)以降に指定された国道は北海道を除き、大半が都府県及び政令指定都市の管理する指定区間外(補助国道)の道路である。1970年以降に指定または経路変更、路線延長された路線ではいわゆる「酷道」が今なお多数存在する。
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"text": "国道(こくどう)とは、日本において国が政令で指定した道路の総称である。国道が全国的な幹線道路網を構成し、その他の道路がそれを補完する。",
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"text": "一般国道は全国に459路線あり、1号から507号までの番号が割り当てられている(48路線が欠番)。距離は最長である国道4号(742.5 km)、最短は国道2号と神戸港を結ぶ国道174号(0.1871 km)。幹線道路といっても、自動車が直接走れない航路が国道に指定されている「海上国道」、徒歩でしか行き来できない階段国道、自動車の走行が困難だったり慎重な運転が必要だったりする所謂「酷道」もある。",
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"text": "他国の国道に相当する道路も「国道」と呼ばれることがある(「国道 (曖昧さ回避)」 を参照)。",
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"text": "全国的な幹線道路網を構成する道路として道路法に基づき国が政令で指定するもので、現在は高速自動車国道と一般国道との総称となっている。単に「国道」といった場合には、一般国道のことを指していることが多い。、",
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"text": "高速自動車国道は『高速自動車国道の路線を指定する政令』により、 一般国道は『一般国道の路線を指定する政令』により指定されている。",
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"text": "路線の正式名称は、各政令の別表の路線名に「高速自動車国道」または「一般国道」を冠したものとなる。",
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"text": "例えば「高速自動車国道九州縦貫自動車道鹿児島線」「一般国道1号」などという。",
"title": "概要"
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"text": "国道に指定される道路は、主な都市と都市を結ぶ道路や、高速道路と連絡する機能を持つ道路、主要港湾や空港をつなぐ道路など、これらの連係により国の産業経済の発展に欠かすことができないもの、あるいは国の産業発展に貢献するであろうことが将来期待されるものとして、重要視された道路である。",
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"text": "国道の種類、または政令(一般国道の指定区間を指定する政令)によって特別に指定されているかどうかにより、道路管理者(法律上認められた特殊な包括的権能を持つもの)は異なる。",
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"text": "国道の種類を大きく分けると、高速自動車国道(高速道路)と一般国道の2つがあり、さらに一般国道は、指定区間と指定区間外に分けられる(道路法第三条および第五条)。高速自動車国道では、道路構造令によって道路の幅や設計速度などが細部にわたり定められているが、一般国道では必ずしも道路構造令による規定に準じて供用がなされている訳ではなく、道幅や歩道の有無など道路の整備の度合いに関する決まり事がないという大きな相違点があげられる。呼び方についても、高速自動車国道は中国自動車道、東北自動車道のように通過する広域地域の名称を付けて道案内の目安にするのに対し、一般国道では1号から507号まで(ただし、59号~100号、109~111号、214~216号までは欠番)の路線番号がつけられており、この中には江戸時代の旧街道の名前を通称として呼ばれる路線もある。",
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"text": "ただし、高速道路でも一般国道のバイパスとして建設される路線(例・一般国道2号広島岩国道路、一般国道468号首都圏中央連絡自動車道)も少なくない。",
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"text": "近代の日本における国道は、1876年(明治9年)太政官達第60号で、県道、里道とともに定められたのを起源とする。このときの国道は全てが東京の日本橋を起点として、江戸時代の五街道の伝統を引き継ぐ形となった。さらに、一等国道、二等国道、三等国道の3種の等級をつけて分けられ、幅員はそれぞれ七間(約12.7 m)、六間(約10.9 m)、五間(約9.1 m)と定められた。",
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"text": "一等国道は東京の日本橋から幕末に外国へ開港した6カ所の港湾を結んだ(横浜港、大阪港、神戸港、長崎港、新潟港、函館港)。二等国道は東京と伊勢神宮および、東京府、京都府、大阪府と陸軍の司令部であった各鎮台(東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本)とを結んでいた。三等国道は東京と各県庁所在地ならびに、各府と各鎮台同士を結ぶものであった。",
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"text": "一等から三等まであった国道の等級は1885年(明治18年)に廃止され、これに代わり國道表が告示された。この時初めて1号から44号までの番号が振られ、いわゆる明治国道とよばれる路線が認定された。これらは26号を除き明治新政府の拠点である東京を起点としており、「壹號」「東京ヨリ横浜ニ達スル路線」、「貳號」「同大阪港ニ達スル路線」から、「四十四號」「東京ヨリ沖縄県ニ達スル路線」までの44路線である。同時に全ての国道の幅員を七間と改められた。44ある路線として、1号から8号までが日本橋と開港場を結ぶ路線、9号が日本橋と伊勢神宮を、10号は日本橋と名古屋鎮台を、11号が日本橋と熊本鎮台を、12号から25号までと27号から44号までが日本橋と各県庁所在地を結ぶ路線が指定された。これらの国道では、他の路線と重複する部分がかなり多く、重複する区間の経由地は「壹號」などと記載され具体的な地名は省略されている。",
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"text": "日本では鉄道優先の政策が採られていたため、道路整備は諸外国に比べ後れを取った。しかし、日清戦争・日露戦争以降は軍事的な目的もあって、道路事業費の増加が見られ、いわゆる明治国道の路線は、1887年(明治20年)指定の四十五号「東京ヨリ横須賀鎮守府ニ達スル路線」から、1915年(大正4年)の最終改定での、六十一号「東京ヨリ第十五師團ニ達スル路線」まで17路線が追加された。",
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"text": "第二次世界大戦前の道路整備の基本法となった道路法(大正8年4月11日法律第58号、旧道路法とも呼ばれる)は、1919年(大正8年)3月21日に第41回帝国議会で成立し、4月10日に公布された。これにより、従来の明治国道の路線は廃止され、いわゆる大正国道が新たに定められた。この大正国道は、",
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"text": "の二種類からなり、東京市から各地方へ達する前者の路線については以下の38路線が、後者の軍事路線については26路線がそれぞれ定められ、国道は計64路線となった。さらに太平洋戦争終結時までに最終的には計82路線が認定された。明治国道に比べて軍港や軍事基地に達する路線が多く、軍事色がかなり強くなったことを特徴とする。国道1号となった路線の行先は、国家神道の中心である伊勢神宮であった。特に「軍事国道」と称される比較的距離の短い軍事路線には、特○号のナンバーが振られ、軍事国道一号である特一号は、1614年(慶長19年)に徳川家康が五街道の整備に先立ち造成した御成街道(現在の千葉県道69号長沼船橋線)であった。現在国道の無い小笠原諸島も軍事的要衝とみなされ、軍事国道が設置された。大正国道では、建設費および改修費は全額国が負担することになっており、依然として軍事優先主義が貫かれた。",
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"text": "道路法第八条一の規定(大正9年内務省告示第28号)により、東京市の道路元標は日本橋の中央に置かれ、引き続き日本橋が起点となっていた。",
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"text": "当時の通過市町村名は右記ウィキソース参照のこと。 以降、政府は1920年(大正9年)から「第一次道路改良計画」を実施し、道路改良政策を施していったが、1923年(大正12年)の関東大震災発生により予算が大幅に縮小された。",
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"text": "1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけて追加された路線。",
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"text": "1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)にかけて大幅な区間変更および経由地変更があった路線。",
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"text": "1934年(昭和9年)から、先の道路改良計画を改定した「第二次道路改良計画」が実施された。これにより国道6,903 km及び軍事国道275 kmを国が直轄で改良する計画が実行に移されたものの、長引く不況による財政難及び戦時体制への移行に伴い、予算的裏付けが十分になされず、これも頓挫するに至った。日本は1937年(昭和12年)に中華民国との全面戦争(日中戦争)、1941年(昭和16年)には太平洋戦争に突入した)。",
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"text": "一方、ドイツのアウトバーンの影響を受け、内務省は全国的な自動車道路網、いわゆる「弾丸道路」とよばれる高速道路の整備計画策定を開始している。1943年(昭和18年)には、戦時下であったが内務省は『大東亜共栄圏全国自動車国道計画』を策定し、東京 - 神戸間の自動車国道建設のための測量、設計などが実施された。しかし、戦況が悪化したことにより、翌1944年(昭和19年)には中止となった。",
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"text": "日本の降伏後、空襲により焦土と化していた日本は、アメリカ軍のダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領統治下に置かれ、GHQは日本側へ軍事的に重要な道路路線の整備を要求した。GHQは1948年(昭和23年)11月、連合国軍総司令官の日本政府に対する覚書(通称「マッカーサー覚書」)によって、政府は「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の覚書を出した。これにより、日本政府は道路の維持修繕の五箇年計画を作成し、連合国軍の援助を受けながら、荒廃した道路の路面補修や橋梁修繕などを行った。財政的な制約や、講和条約に伴い1951年(昭和26年)に覚書が失効されたことにより、この計画は完全には実施されなかったが、その後の道路整備事業に大きな影響を与えている。",
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"text": "戦後に再び敷かれることとなった国道の整備は、1952年(昭和27年)に道路法が全面改正されたことにより、それまでの国道路線は全廃されて、現代に通じる国道道路網の基礎が出来上がり、大きく前進することとなった。この新しい道路法では、道路は国道、都道府県道及び市町村道の3種類に分けられ、さらに国道は、いわゆる昭和国道とよばれる一級国道と二級国道にランク分けされることとなった。2年後の1954年(昭和29年)には「第一次道路整備五箇年計画」が策定され、のちに「高速自動車国道法」などの高速道路関連の国道の法律が次々と制定されていくことになった。",
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"text": "一級国道は、国土を縦貫し、横断し、又は循環して全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、かつ、都道府県庁所在地などを連絡する道路(第5条)とされ、政令で指定される。なお、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、これは第5条第1号に相当する。",
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"text": "二級国道は、一級国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ以下に上げる要件",
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"text": "昭和40年代にはモータリゼーションの到来で、交通事情の時代の変化に伴って道路の様相が一変し、大都市圏では一級国道よりも二級国道の方が立派な道路が建設されることも珍しくなくなり、一級と二級のランク分けをすることが困難かつ無意味になってきた。こうした事情から、1965年(昭和40年)4月の道路法の改正により一級、二級国道が統合され、一般国道に改められた。特に重要な区間は指定区間として国が直轄し、その他の区間は、都府県または政令指定都市が管理を受け持つよう制度も同時変更された。旧二級国道でも、北海道内や高速自動車国道の補助となる国道171号(京阪神)や国道246号(首都圏及び静岡県)などが旧一級国道と同じ直轄指定区間になった。",
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"text": "1970年(昭和45年)4月には一般国道となってから初めての追加指定が行われ、57路線(272–328号)が指定された(昭和44年12月政令第280号)が、この時からは北海道、本州、四国、九州の順に採番されるようになった。沖縄県が日本復帰した1972年(昭和47年)5月には沖縄県初の国道指定で、国道58号と国道329–332号が指定された(昭和47年4月政令第116号)。その後は1975年(昭和50年)4月、1982年(昭和57年)4月、平成となってからの1993年(平成5年)4月にも一般国道の追加指定が施行されて、最終的に507番まで採番され現在に至る。(一般国道#路線指定の沿革も参照)",
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"text": "なお、1970年(昭和45年)以降に指定された国道は北海道を除き、大半が都府県及び政令指定都市の管理する指定区間外(補助国道)の道路である。1970年以降に指定または経路変更、路線延長された路線ではいわゆる「酷道」が今なお多数存在する。",
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国道(こくどう)とは、日本において国が政令で指定した道路の総称である。国道が全国的な幹線道路網を構成し、その他の道路がそれを補完する。 一般国道は全国に459路線あり、1号から507号までの番号が割り当てられている(48路線が欠番)。距離は最長である国道4号、最短は国道2号と神戸港を結ぶ国道174号。幹線道路といっても、自動車が直接走れない航路が国道に指定されている「海上国道」、徒歩でしか行き来できない階段国道、自動車の走行が困難だったり慎重な運転が必要だったりする所謂「酷道」もある。 他国の国道に相当する道路も「国道」と呼ばれることがある。
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{{Otheruseslist|日本における国道|他国の国道に相当する道路|国道 (曖昧さ回避)|JR鶴見線の駅|国道駅|廃止された浜中町営軌道茶内線の国道駅<ref name="1号北海道">『日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線』1号北海道 pp.22 , 23 , 50</ref>|浜中町営軌道#停留所一覧}}
[[Image:Japanese National Route Sign 0001.svg|thumb|160px|right|日本の一般国道1号の標識]]
'''国道'''(こくどう)とは、[[日本]]において[[日本国政府|国]]が[[政令]]で指定した[[道路]]の総称である。国道が全国的な[[幹線道路]]網を構成し、その他の道路がそれを補完する。
一般国道は全国に459路線あり、1号から507号までの番号が割り当てられている(48路線が欠番)<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_10b_04.html#:~:text=%E5%9B%BD%E9%81%93%E3%81%AE%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E6%95%B0%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%A4%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8B%EF%BC%9F&text=%E5%85%A8%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%81%93%E3%81%AF459,%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 道に関する各種データ集>道路 質問 国道の路線数はいくつあるのでしょうか?]国土交通省(2022年7月26日閲覧)</ref>。距離は最長である[[国道4号]]<ref name="日経20220416">【くらし探検隊】国道の番号、当初どう決めた?1級2桁まで 2級は北から順/海越えつながる国道にも理由『[[日本経済新聞]]』土曜朝刊別刷り「日経プラス1」2022年4月16日11面</ref>(742.5 [[キロメートル|km]])、最短は[[国道2号]]と[[神戸港]]を結ぶ<ref name="日経20220416"/>[[国道174号]](0.1871 km)。幹線道路といっても、[[自動車]]が直接走れない[[航路]]が国道に指定されている「[[海上国道]]」<ref name="日経20220416"/>、徒歩でしか行き来できない[[階段国道]]、自動車の走行が困難だったり慎重な運転が必要だったりする所謂「[[酷道]]」もある。
他国の国道に相当する道路も「国道」と呼ばれることがある(「[[国道 (曖昧さ回避)]]」 を参照)。
== 概要 ==
全国的な[[幹線道路]]網を構成する道路として[[道路法]]に基づき国が政令で指定するもので、現在は'''[[高速自動車国道]]'''と'''[[一般国道]]'''との総称となっている{{sfn|浅井建爾|2001|p=38}}。単に「国道」といった場合には、一般国道のことを指していることが多い{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=97}}。、
高速自動車国道は『高速自動車国道の路線を指定する政令<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=332CO0000000275 |title=高速自動車国道の路線を指定する政令 |accessdate=2004-12-06 |work=e-Gov法令検索 |publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>』により、
一般国道は『[[s:一般国道の路線を指定する政令|一般国道の路線を指定する政令]]』により指定されている。
路線の正式名称は、各政令の別表の路線名に「高速自動車国道」または「一般国道」を冠したものとなる。
例えば「[[九州自動車道|'''高速自動車国道'''九州縦貫自動車道鹿児島線]]」「[[国道1号|'''一般国道'''1号]]」などという。
国道に指定される道路は、主な都市と都市を結ぶ道路や、高速道路と連絡する機能を持つ道路、主要港湾や空港をつなぐ道路など、これらの連係により国の産業経済の発展に欠かすことができないもの、あるいは国の産業発展に貢献するであろうことが将来期待されるものとして、重要視された道路である{{sfn|浅井建爾|2001|pp=38-39}}。
国道の種類、または政令([[s:一般国道の指定区間を指定する政令|一般国道の指定区間を指定する政令]])によって特別に指定されているかどうかにより、[[道路管理者]](法律上認められた特殊な包括的権能を持つもの)は異なる。
== 種類 ==
国道の種類を大きく分けると、高速自動車国道(高速道路)と一般国道の2つがあり、さらに一般国道は、[[指定区間]]と指定区間外に分けられる([[道路法]]第三条および第五条)。高速自動車国道では、[[道路構造令]]によって道路の幅や設計速度などが細部にわたり定められているが、一般国道では必ずしも道路構造令による規定に準じて供用がなされている訳ではなく、道幅や歩道の有無など道路の整備の度合いに関する決まり事がないという大きな相違点があげられる{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=92}}。呼び方についても、高速自動車国道は[[中国自動車道]]、[[東北自動車道]]のように通過する広域地域の名称を付けて道案内の目安にするのに対し、一般国道では1号から507号まで(ただし、59号~100号、109~111号、214~216号までは欠番)の路線番号がつけられており、この中には江戸時代の旧街道の名前を通称として呼ばれる路線もある{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=44}}{{efn|例として、東京から放射状に延びる一般[[国道4号]]は[[日光街道]]、一般[[国道17号]]は[[中山道]]、一般[[国道20号]]は[[甲州街道]]という具合である。}}。
ただし、高速道路でも一般国道のバイパスとして建設される路線(例・一般国道2号[[広島岩国道路]]、一般国道468号[[首都圏中央連絡自動車道]])も少なくない。
; 高速自動車国道
: 新設、改築、維持、修繕、災害復旧事業その他の管理は[[国土交通大臣]]が行う。ただし、ほとんどの区間においては国土交通大臣の許可又は認可を受けて、[[東日本高速道路]]、[[中日本高速道路]]、[[西日本高速道路]]が権限を代行している{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=97}}。新直轄区間においては、国土交通大臣が事業および管理を行う。一般的に、'''高速道路'''または'''高速'''と呼ばれる。
; 一般国道
:; 指定区間
:: '''直轄国道'''ともよばれ{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=97}}、新設は原則として国土交通大臣が行う。維持、修繕、災害復旧その他の管理も国土交通大臣が行う{{sfn|浅井建爾|2001|p=38}}。ただし、[[有料道路]]区間はその道路を管理している東日本高速道路、中日本高速道路、西日本高速道路、[[本州四国連絡高速道路]]、[[地方道路公社]]が維持、修繕、災害復旧その他の管理を行っている。
:: 指定区間は一般国道の中でも特に重要な路線をいい、交通量も多く、道路整備も指定区間外道路に比べて優先されていることが普通である{{sfn|浅井建爾|2001|p=38}}。ただし、例外として[[北海道]]だけは全線が指定区間となっている{{sfn|浅井建爾|2001|p=38}}。
:; 指定区間外
:: '''補助国道'''ともよばれ{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=97}}、新設又は改築は原則として国土交通大臣が行うが、維持、修繕、災害復旧その他の管理は都道府県又は政令指定都市が行う{{sfn|浅井建爾|2001|p=38}}。ただし、道路法改正時の経過規定などによって、新設や改築も事実上都道府県に任されていることが多い。有料道路区間は東日本高速道路、中日本高速道路、西日本高速道路、本州四国連絡高速道路、地方道路公社が維持、修繕、災害復旧その他の管理を行っている。
== 国道の歴史 ==
{{main2|高速自動車国道|日本の高速道路#歴史}}
=== 明治時代 ===
{{wikisource|道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム}}
{{wikisource|國道表}}
近代の日本における国道は、[[1876年]]([[明治]]9年)[[太政官布告・太政官達|太政官達]]第60号で、[[都道府県道|県道]]、[[里道]]とともに定められたのを起源とする{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=88}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=43}}。このときの国道は全てが[[東京]]の[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]を起点として、[[江戸時代]]の[[五街道]]の伝統を引き継ぐ形となった{{sfn|浅井建爾|2015|p=67}}。さらに、一等国道、二等国道、三等国道の3種の等級をつけて分けられ、幅員はそれぞれ七[[間]](約12.7 m)、六間(約10.9 m)、五間(約9.1 m)と定められた{{sfn|浅井建爾|2015|p=67}}{{efn|この時定められた道路幅員は、県道が4間から5間とされ、里道には特に規定は設けられなかった{{sfn|浅井建爾|2015|p=67}}。}}。
一等国道は東京の日本橋から[[幕末]]に外国へ[[開港]]した6カ所の[[港湾]]を結んだ([[横浜港]]、[[大阪港]]、[[神戸港]]、[[長崎港]]、[[新潟港]]、[[函館港]])。二等国道は東京と[[伊勢神宮]]および、[[東京府]]、[[京都府]]、[[大阪府]]と[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[司令部]]であった各[[鎮台]](東京、大阪、[[名古屋市|名古屋]]、[[仙台市|仙台]]、[[広島市|広島]]、[[熊本市|熊本]])とを結んでいた{{sfn|浅井建爾|2015|p=68}}。三等国道は東京と各[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]ならびに、各府と各鎮台同士を結ぶものであった{{sfn|浅井建爾|2001|p=114}}。
一等から三等まであった国道の等級は[[1885年]](明治18年)に廃止され、これに代わり'''國道表'''が告示された{{sfn|浅井建爾|2001|p=114}}。この時初めて1号から44号までの番号が振られ、いわゆる'''明治国道'''とよばれる路線が認定された{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=43}}{{sfn|浅井建爾|2001|p=114}}{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}。これらは26号を除き明治新政府の拠点である東京を起点としており、「壹號」「東京ヨリ[[横浜市|横浜]]ニ達スル路線」、「貳號」「同[[大阪港]]ニ達スル路線」から、「四十四號」「東京ヨリ[[沖縄県]]ニ達スル路線」までの44路線である{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}<ref name=国道表>[[:s:國道表]]</ref>。同時に全ての国道の幅員を七間と改められた。44ある路線として、1号から8号までが日本橋と開港場を結ぶ路線、9号が日本橋と伊勢神宮を、[[本町通 (名古屋市)|10号]]は日本橋と名古屋鎮台を、11号が日本橋と熊本鎮台を、12号から25号までと27号から44号までが日本橋と各県庁所在地を結ぶ路線が指定された<ref name=国道表/>{{sfn|浅井建爾|2015|p=73}}。これらの国道では、他の路線と重複する部分がかなり多く、重複する区間の経由地は「壹號」などと記載され具体的な地名は省略されている<ref name=国道表/>{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=89}}。
日本では[[鉄道]]優先の政策が採られていたため、道路整備は諸外国に比べ後れを取った{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=88-89}}。しかし、[[日清戦争]]・[[日露戦争]]以降は[[軍事]]的な目的もあって、道路事業費の増加が見られ、いわゆる明治国道の路線は、[[1887年]](明治20年)指定の四十五号「東京ヨリ[[横須賀鎮守府]]ニ達スル路線」から、[[1915年]]([[大正]]4年)の最終改定での、六十一号「東京ヨリ[[第15師団 (日本軍)|第十五師團]]ニ達スル路線」まで17路線が追加された{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=89}}。
{| class="wikitable" style="font-size:9pt"
|+明治18年 内務省告示第6号(國道表)で認定された国道一覧<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2943698/10|title=内務省告示第六号別表|accessdate=2020年5月10日|publisher=国会図書館デジタルコレクション}}</ref>{{sfn|工学会|1929|p=56-57}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=41}}
|-
!国道名
!路線(起点 - 終点)
!備考
|-
|1号
|東京(日本橋) - 横浜
|
|-
|2号
|東京(日本橋) - 大坂港
|横浜まで1号と重複。東海道経由
|-
|3号
|東京(日本橋) - 神戸港
|京都まで2号と重複
|-
|4号
|東京(日本橋) - 長崎港
|神戸まで3号と重複
|-
|5号
|東京(日本橋) - 新潟港
|
|-
|6号
|東京(日本橋) - 函館港
|
|-
|7号
|東京(日本橋) - 神戸港
|3号路線の別路線(中山道経由)
|-
|8号
|東京(日本橋) - 新潟港
|5号路線の別路線(清水越道)
|-
|9号
|東京(日本橋) - 伊勢宗廟
|四日市まで2号と重複
|-
|[[本町通 (名古屋市)|10号]]
|東京(日本橋) - 名古屋鎮台
|
|-
|11号
|東京(日本橋) - 熊本鎮台
|
|-
|12号
|東京(日本橋) - 群馬縣
|
|-
|13号
|東京(日本橋) - 千葉縣
|
|-
|14号
|東京(日本橋) - 茨城縣
|
|-
|15号
|東京(日本橋) - 宮城縣
|陸前浜街道
|-
|16号
|東京(日本橋) - 山梨縣
|
|-
|17号
|東京(日本橋) - 岐阜縣
|
|-
|18号
|東京(日本橋) - 福井縣
|
|-
|19号
|東京(日本橋) - 石川縣
|
|-
|20号
|東京(日本橋) - 富山縣
|東海道・福井・石川経由
|-
|21号(甲)
|東京(日本橋) - 富山縣
|20号路線の別路線(信濃越後道)
|-
|21号(乙)
|東京(日本橋) - 富山縣
|20号路線の別路線(泊、三日市間山手道)
|-
|22号
|東京(日本橋) - 鳥取縣
|姫路・智頭経由
|-
|23号
|東京(日本橋) - 鳥取縣
|22号路線の別路線(福知山経由)
|-
|24号
|東京(日本橋) - 島根縣
|姫路・津山・根雨経由
|-
|25号
|東京(日本橋) - 島根縣
|24号路線の別路線(福知山・鳥取経由)
|-
|26号
|大阪府 - 廣島鎮台
|
|-
|27号
|東京(日本橋) - 山口縣
|東海道・山陽道経由
|-
|28号
|東京(日本橋) - 山口縣
|27号路線の別路線(東海道・山陰道経由)
|-
|29号
|東京(日本橋) - 和歌山縣
|
|-
|30号
|東京(日本橋) - 徳島縣
|
|-
|31号
|東京(日本橋) - 愛媛縣
|
|-
|32号
|東京(日本橋) - 高知縣
|岡山経由
|-
|33号
|東京(日本橋) - 高知縣
|32号路線の別路線(徳島経由)
|-
|34号
|東京(日本橋) - 福岡縣
|
|-
|35号
|東京(日本橋) - 大分縣
|
|-
|36号
|東京(日本橋) - 宮崎縣
|
|-
|37号
|東京(日本橋) - 鹿児島縣
|熊本経由
|-
|38号
|東京(日本橋) - 鹿児島縣
|37号路線の別路線(宮崎経由)
|-
|39号
|東京(日本橋) - 山形縣
|
|-
|40号
|東京(日本橋) - 秋田縣
|
|-
|41号
|東京(日本橋) - 青森縣
|
|-
|42号
|東京(日本橋) - 札幌縣
|
|-
|43号
|東京(日本橋) - 根室縣
|
|-
|44号
|東京(日本橋) - 沖縄縣
|
|}
=== 大正時代 ===
[[第二次世界大戦]]前の道路整備の基本法となった[[道路法]](大正8年4月11日法律第58号、旧道路法とも呼ばれる)は、[[1919年]]([[大正]]8年)3月21日に第41回[[帝国議会]]で成立し、4月10日に[[公布]]<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000015128&searchDiv=1¤t=1 日本法令索引 道路法(大正8年4月10日法律第58号)]</ref>された{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=73}}{{efn|旧道路法では、道路は国道、府県道、市道、町村道の4種類に分けられた{{sfn|浅井建爾|2015|p=73}}。<!--{{sfn|浅井建爾|2001|p=115}}では、郡道を含めた5種類としているが、ここでは最新文献の情報に合わせて4種類に訂正。-->}}。これにより、従来の明治国道の路線は廃止され、いわゆる'''大正国道'''が新たに定められた{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=89}}{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=74}}。この大正国道は、
#[[東京市]]ヨリ[[伊勢神宮|神宮]]、府県庁所在地、[[師団]][[軍]]司令部所在地、[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]所在地又ハ枢要ナ開港ニ達スル路線
#主トシテ軍事ノ目的ヲ有スル路線
の二種類からなり、東京市から各地方へ達する前者の路線については以下の38路線が、後者の軍事路線については26路線がそれぞれ定められ、国道は計64路線となった{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}。さらに太平洋戦争終結時までに最終的には計82路線が認定された。明治国道に比べて軍港や軍事基地に達する路線が多く、軍事色がかなり強くなったことを特徴とする{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=89}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=74}}。国道1号となった路線の行先は、国家神道の中心である[[伊勢神宮]]であった{{sfn|佐藤健太郎|p=90}}。特に「[[軍事国道]]」と称される比較的距離の短い軍事路線には、特○号のナンバーが振られ{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=89}}、軍事国道一号である特一号は、[[1614年]]([[慶長]]19年)に[[徳川家康]]が[[五街道]]の整備に先立ち造成した[[東金御成街道|御成街道]](現在の[[千葉県道69号長沼船橋線]])であった。現在国道の無い[[小笠原諸島]]も軍事的要衝とみなされ、軍事国道が設置された{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=89}}。大正国道では、建設費および改修費は全額国が負担することになっており、依然として軍事優先主義が貫かれた{{sfn|浅井建爾|2001|p=115}}。
道路法第八条一の規定(大正9年[[内務省 (日本)|内務省]]告示第28号)により、[[東京市]]の[[道路元標]]は[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]の中央に置かれ、引き続き日本橋が起点となっていた。
{| class="wikitable" style="font-size:9pt"
|-
!国道名
!路線
!経過地点(起終点を除き現代の市町村名に置換)
|-
|1号
|東京市 - 神宮
|横浜市、静岡市、浜松市、豊橋市、名古屋市、四日市市、津市
|-
|2号(甲)
|東京市 - 鹿児島県庁所在地
|1号路線四日市市日永で分岐、大津市、京都市、大阪市、神戸市、姫路市、岡山市、安芸郡海田町、広島市、山口市小郡町、下関市、<br />北九州市、福岡市、熊本市
|-
|3号(乙)
|同上
|2号路線北九州市小倉北区で分岐、中津市、別府市、大分市、宮崎市、都城市
|-
|4号
|東京市 - 北海道庁所在地
|宇都宮市、福島市、仙台市、盛岡市、青森市、函館市、小樽市
|-
|5号
|東京市 - 青森県庁所在地
|4号路線福島市本町で分岐し、米沢市、山形市、秋田市、弘前市
|-
|6号
|東京市 - 宮城県庁所在地
|4号路線東京都足立区千住町で分岐し、水戸市、岩沼市、4号路線
|-
|7号
|東京市 - 千葉県庁所在地
|4号路線東京都台東区浅草橋で分岐し、市川市
|-
|8号
|東京市 - 山梨県庁所在地
|1号路線東京都中央区日本橋通1丁目で分岐し、八王子市、相模原市緑区、上野原市、大月市
|-
|9号
|東京市 - 群馬県庁所在地
|4号路線東京都中央区日本橋室町で分岐し、板橋区、さいたま市浦和区、高崎市
|-
|10号
|東京市 - 秋田県庁所在地
|9号路線高崎市本町で分岐し、軽井沢町、上田市、長野市、飯山市、長岡市、新潟市、新発田市、鶴岡市、酒田市、本荘市
|-
|11号(甲)
|東京市 - 石川県庁所在地
|10号路線長野市徳間で分岐し、上越市、富山市、高岡市
|-
|12号(乙)
|同上
|1号路線名古屋市熱田区伝馬で分岐し、岐阜市、大垣市、関ケ原町、敦賀市、福井市
|-
|13号
|東京市 - 岐阜県庁所在地
|12号路線岐阜市加納町で分岐し、神田町通
|-
|14号
|東京市 - 京都府庁所在地
|10号路線北佐久郡軽井沢町で分岐し、下諏訪町、木曾福島町、岐阜市加納町、12号路線不破郡関ケ原町で分岐、草津市、2号路線
|-
|15号
|東京市 - 奈良県庁所在地
|2号路線京都市下京区七条で分岐し、伏見区、宇治市
|-
|16号
|東京市 - 和歌山県庁所在地
|2号路線大阪市中央区難波橋で分岐し、堺市
|-
|17号(甲)
|東京市 - 山口県庁所在地
|2号路線、山口市小郡町で分岐
|-
|18号(乙)
|同上
|2号路線京都市下京区大宮通で分岐し、福知山市、鳥取市、米子市、松江市、浜田市
|-
|19号
|東京市 - 島根県庁所在地
|2号路線岡山市北区富田町で分岐し、久米南町、津山市、真庭市、米子市、18号路線松江市雑賀町で分岐
|-
|20号
|東京市 - 鳥取県庁所在地
|2号路線姫路市西夢前台で分岐し、宍粟市、若桜町
|-
|21号(甲)
|東京市 - 徳島県庁所在地
|2号路線明石市鍛冶屋町で分岐し、淡路市、鳴門市
|-
|22号(乙)
|同上
|2号路線岡山市東区西大寺町で分岐し、玉野市、高松市、東かがわ市、板野町
|-
|23号
|東京市 - 高知県庁所在地
|22号路線高松市兵庫町で分岐し、丸亀市、善通寺市、三好市
|-
|24号
|東京市 - 愛媛県庁所在地
|23号路線善通寺市金蔵寺町で分岐し、四国中央市
|-
|25号
|東京市 - 長崎県庁所在地
|2号路線鳥栖市桜町で分岐し、佐賀市、武雄市
|-
|26号
|東京市 - 沖縄県庁所在地
|2号路線鹿児島市山下町で分岐し、鹿児島港、那覇市通堂町
|-
|27号(甲)
|東京市 - 第七師団司令部所在地(旭川市)
|4号路線札幌市中央区北1条で分岐し、岩見沢市
|-
|28号(乙)
|同上
|4号路線青森港で分岐し、室蘭市、岩見沢市、27号路線
|-
|29号
|東京市 - 第十四師団司令部所在地(栃木県河内郡国本村)
|4号路線宇都宮市材木町で分岐
|-
|30号
|東京市 - 第十五師団司令部所在地(愛知県渥美郡高師村)
|1号路線豊橋市札木町で分岐
|-
|31号
|東京市 - 横須賀鎮守府所在地(横須賀市)
|1号路線横浜市神奈川区台町で分岐し、横浜市金沢区
|-
|32号
|東京市 - 呉鎮守府所在地(呉市)
|2号路線安芸郡海田町で分岐
|-
|33号
|東京市 - 佐世保鎮守所在地(佐世保市)
|25号路線武雄市で分岐
|-
|34号(甲)
|東京市 - 舞鶴鎮守府所在地(京都府加佐郡舞鶴町)
|18号路線福知山市で分岐し、舞鶴市
|-
|35号(乙)
|同上
|12号路線敦賀市で分岐
|-
|36号
|東京市 - 横浜港
|31号路線横浜市中区本町で分岐
|-
|37号
|東京市 - 大阪港
|16号路線大阪市中央区本町で分岐
|-
|38号
|東京市 - 神戸港
|2号路線神戸市中央区三宮町で分岐
|}
{{wikisource|國道路線認定ノ件_(大正九年四月一日)}}
当時の通過市町村名は右記ウィキソース参照のこと。<br />
以降、政府は[[1920年]](大正9年)から「第一次道路改良計画」を実施し、道路改良政策を施していったが、[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]発生により予算が大幅に縮小された。
[[1939年]](昭和14年)から[[1945年]](昭和20年)にかけて追加された路線。
{| class="wikitable" style="font-size:9pt"
|-
!国道名
!路線
!経過地点(起終点を除き現代の市町村名に置換)
|-
|39号
|東京市 - 下関港
|2号路線下関市本町で分岐
|-
|40号
|東京市 - 若松港
|2号路線北九州市門司区本町で分岐し、小倉北区、戸畑区
|-
|41号(丙)
|東京都 - 和歌山県庁所在地
|1号路線松阪市宮町で分岐し、紀北町、新宮市、串本町、田辺市
|}
[[1930年]](昭和5年)から[[1945年]](昭和20年)にかけて大幅な区間変更および経由地変更があった路線。
{| class="wikitable" style="font-size:9pt"
|-
!国道名
!路線
!経過地点(起終点を除き現代の市町村名に置換)
|-
|8号(甲)
|東京市 - 京都府庁所在地
|1号路線東京都中央区日本橋通1丁目で分岐し、八王子市、相模湖町、上野原町、富士河口湖町、御坂町、甲府市、下諏訪町、木曾福島町、御嵩町、<br />岐阜市加納町、関ケ原町、草津市、2号路線
|-
|9号
|東京市 - 新潟県庁所在地
|4号路線東京都中央区日本橋室町で分岐し、板橋区、さいたま市浦和区、与野市、高崎市、前橋市、湯沢町、小千谷市、長岡市
|-
|15号(甲)
|東京市 - 和歌山県庁所在地
|2号路線京都市下京区七条で分岐し、伏見区、宇治市、奈良市、田原本町、橿原市、大和高田市、御所市、五條市、橋本市、紀の川市
|-
|23号(乙)
|東京都 - 愛媛県庁所在地
|22号路線高松市兵庫町で分岐し、丸亀市、善通寺市、三好市、高知市、佐川町、久万高原町
|-
|36号
|東京市 - 横浜港
|8号路線千代田区霞が関で分岐し、港区高輪、品川区西五反田、大田区矢口町、川崎市幸区小向町、横浜市鶴見区東寺尾、神奈川区青木町、1号路線、31号路線横浜市中区桜木町で分岐
|}
=== 昭和時代(終戦まで) ===
[[1934年]]([[昭和]]9年)から、先の道路改良計画を改定した「第二次道路改良計画」が実施された。これにより国道6,903 km及び軍事国道275 kmを国が直轄で改良する計画が実行に移されたものの、長引く不況による財政難及び戦時体制への移行に伴い、予算的裏付けが十分になされず、これも頓挫するに至った{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}。日本は1937年(昭和12年)に[[中華民国]]との全面戦争([[日中戦争]])、1941年(昭和16年)には[[太平洋戦争]]に突入した)。
一方、[[ドイツ]]の[[アウトバーン]]の影響を受け、[[内務省 (日本)|内務省]]は全国的な自動車道路網、いわゆる「弾丸道路」とよばれる高速道路の整備計画策定を開始している{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=96}}。[[1943年]](昭和18年)には、戦時下であったが内務省は『[[大東亜共栄圏]]全国自動車国道計画』を策定し、東京 - 神戸間の自動車国道建設のための[[測量]]、設計などが実施された<!--{{sfn|浅井建爾|2015|p=75}}-->。しかし、戦況が悪化したことにより、翌[[1944年]](昭和19年)には中止となった{{sfn|浅井建爾|2015|p=75}}。
=== 昭和時代(戦後) ===
[[日本の降伏]]後、[[日本本土空襲|空襲]]により焦土と化していた日本は、[[アメリカ軍]]の[[ダグラス・マッカーサー]]率いる[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の占領統治下に置かれ、GHQは日本側へ軍事的に重要な道路路線の整備を要求した{{sfn|浅井建爾|2015|p=75}}。GHQは[[1948年]](昭和23年)11月、連合国軍総司令官の日本政府に対する覚書(通称「マッカーサー覚書」)によって、政府は「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の覚書を出した{{sfn|武部健一|2015|p=178–179}}。これにより、[[日本政府]]は道路の維持修繕の五箇年計画を作成し、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の援助を受けながら、荒廃した道路の路面補修や橋梁修繕などを行った{{sfn|武部健一|2015|p=179–180}}。財政的な制約や、[[サンフランシスコ講和条約|講和条約]]に伴い[[1951年]](昭和26年)に覚書が失効されたことにより、この計画は完全には実施されなかったが、その後の道路整備事業に大きな影響を与えている。
[[戦後]]に再び敷かれることとなった国道の整備は、[[1952年]](昭和27年)に道路法が全面改正されたことにより、それまでの国道路線は全廃されて、現代に通じる国道道路網の基礎が出来上がり、大きく前進することとなった{{sfn|金町ゴールデン|2008|p=97}}。この新しい道路法では、道路は国道、[[都道府県道]]及び[[市町村道]]の3種類に分けられ、さらに国道は、いわゆる'''昭和国道'''とよばれる[[一級国道]]と[[二級国道]]にランク分けされることとなった{{sfn|浅井建爾|2015|p=76}}。2年後の[[1954年]](昭和29年)には「第一次道路整備五箇年計画」が策定され、のちに「[[高速自動車国道法]]」などの高速道路関連の国道の法律が次々と制定されていくことになった{{sfn|浅井建爾|2015|p=76}}。
一級国道は、国土を縦貫し、横断し、又は循環して全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、かつ、都道府県庁所在地などを連絡する道路(第5条)とされ、政令で指定される。なお、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、これは第5条第1号に相当する。
二級国道は、一級国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ以下に上げる要件
#都道府県庁所在地及び人口十万人以上の市(重要都市)を相互に連絡する道路
#重要都市と 一級国道とを連絡する道路
#[[港湾法]]で特に規定された港又は建設大臣が指定する重要な飛行場若しくは国際観光上重要な地と一級国道とを連絡する道路
#二つ以上の市を連結して一級国道に達する道路
のいずれか(第6条)を満たし、政令で指定される道路とされた。なお、後に第6条は削除されており、二級国道の要件は、昭和39年7月9日改正後の道路法の条項でいうと、第5条第1号から第4号に相当する。
一級国道は、1952年(昭和27年)12月に40路線(1–40号)が指定された(昭和27年12月政令第477号){{sfn|浅井建爾|2001|pp=40-41}}。また、二級国道については翌[[1953年]](昭和28年)5月に144路線(101–244号)が指定されている(昭和28年5月政令第96号){{sfn|浅井建爾|2001|pp=40-41}}。これまでのように[[日本橋 (東京都中央区の橋)|東京の日本橋]]のみを起点とせず、大正国道の軍事路線のように各都市をそれぞれ起点・終点として直接結ぶ機能的な路線設定となっている{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=91}}。
路線番号は、東京から放射状に延びる一級国道には1号線から順に番号が振られた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=44}}。二級国道は101号線以降とされ、基本的に北から南へ行くに従って数字が大きくなるように路線番号が採番された。なお、事情が特殊な北海道については最後に回されたため、正確には[[本州]][[東北地方]] - [[中国地方]]、[[四国]]、[[九州]]、北海道の順に採番された{{sfn|浅井建爾|2001|pp=42-43}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=44}}。一級国道は1桁ないし2桁とされ、全体的には二級国道同様に北から採番しているが、国の骨格を形成する最重要路線として、東京日本橋を起点に[[東海道]]に相当する路線が[[国道1号]]、[[山陽道]]に相当する路線が[[国道2号]]、九州中部を南北に縦貫する路線が[[国道3号]]といった具合に採番がなされた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=40-41}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=44}}。
[[1956年]](昭和31年)7月に7路線(245–251号)と[[1963年]](昭和38年)4月には20路線(252–271号)の二級国道の追加指定がそれぞれ施行された{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=97}}。ちょうど同じ時期、二級国道のいくつかの路線が、その重要性が認められて一級国道に昇格し、国道番号も3桁から2桁に改める国道の再編も行われ、[[1959年]](昭和34年)4月とに3路線(41–43号)、[[1963年]](昭和38年)4月には14路線(44–57号)の一級国道の追加指定が施行された{{sfn|佐藤健太郎|pp=97-99|ps=。単純に二級国道から一級国道への番号振り替えが行われただけでなく、旧141号の南半分だけ52号へ昇格するといった変則的な再編も行われた。}}。この昇格で空き番号となった二級国道は、国道に指定された新たな道路が当てはめられたが、一部の番号は当てはめられることもなく、そのまま欠番になっている{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=99-100|ps=。「[[一般国道#一般国道の路線番号一覧]]」も参照。}}。
=== 一般国道へ統合 ===
昭和40年代には[[モータリゼーション]]の到来で、交通事情の時代の変化に伴って道路の様相が一変し、大都市圏では一級国道よりも二級国道の方が立派な道路が建設されることも珍しくなくなり、一級と二級のランク分けをすることが困難かつ無意味になってきた。こうした事情から、[[1965年]](昭和40年)4月の道路法の改正により一級、二級国道が統合され、[[一般国道]]に改められた{{sfn|浅井建爾|2015|p=77}}。特に重要な区間は指定区間として国が直轄し、その他の区間は、[[都道府県|都府県]]または[[政令指定都市]]が管理を受け持つよう制度も同時変更された{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=102}}。旧二級国道でも、[[北海道]]内や[[高速自動車国道]]の補助となる[[国道171号]]([[京阪神]])や[[国道246号]]([[首都圏 (日本)|首都圏]]及び[[静岡県]])などが旧一級国道と同じ直轄[[指定区間]]になった。
[[1970年]](昭和45年)4月には一般国道となってから初めての追加指定が行われ、57路線(272–328号)が指定された(昭和44年12月政令第280号)が、この時からは北海道、本州、四国、九州の順に採番されるようになった。[[沖縄返還|沖縄県が日本復帰]]した[[1972年]](昭和47年)5月には沖縄県初の国道指定で、[[国道58号]]と国道329–332号が指定された(昭和47年4月政令第116号){{sfn|佐藤健太郎|2014|p=103}}。その後は[[1975年]](昭和50年)4月、[[1982年]](昭和57年)4月、[[平成]]となってからの[[1993年]](平成5年)4月にも一般国道の追加指定が施行されて、最終的に507番まで採番され現在に至る{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=103}}。([[一般国道#路線指定の沿革]]も参照)
なお、1970年(昭和45年)以降に指定された国道は北海道を除き、大半が都府県及び政令指定都市の管理する指定区間外(補助国道)の道路である。1970年以降に指定または経路変更、路線延長された路線ではいわゆる「[[酷道]]」が今なお多数存在する{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=103}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書|<!--author =松波成行|author2 =渡辺郁麻|-->author =金町ゴールデン<!--|author4 =大山顕|author5 =dark-RX|author6 =古澤誠一郎-->|title =人はなぜ酷道をめざすのか |date =2008-03-20 |publisher =[[イカロス出版]] |journal =酷道をゆく |pages=96-99|isbn=978-4-86320-025-8|ref ={{sfnRef|金町ゴールデン|2008}} }}
* {{Cite book|和書|author=佐藤健太郎|authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター)|year=2014|title=ふしぎな国道|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|isbn=978-4-06-288282-8|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎|date=2015-11-25 |title=国道者 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-339731-1 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |ref={{SfnRef|峯岸邦夫|2018}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=工学会 |date=1929-07-31 |title=明治工業史 2 土木篇 |publisher=工学会 |id={{NDLJP |1833208}}|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[一般国道]] - [[点線国道]] - [[海上国道]] - [[港国道]]
* [[高速自動車国道]] - [[高規格幹線道路]]
* [[都道府県道]] - [[市町村道]]
* [[里道]] - [[林道]] - [[農道]]
* [[国道駅]] - [[阪神国道駅]] - [[阪神国道線]]
* [[昭文社]] - [[酷道]] - [[道路緊急ダイヤル]]
* [[日本の道路一覧]] - [[日本の一般国道一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|National highways in Japan|日本の国道}}
*[http://www.kokudou.com/index.shtml kokudou.com]
*[https://www.mlit.go.jp/road/ 国土交通省道路局]
*{{Egov law|340CO0000000058|一般国道の路線を指定する政令}}
[[Category:道路|こくとう]]
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2003-08-27T03:44:16Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93
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スルターン
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スルターン(アラビア語: سلطان sulṭān, アラビア語発音: [sʊlˈtʕɑːn, solˈtʕɑːn], スルターン)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「力、権力、権威」「権力者、権威者」「王、絶対的君主」などを意味する。
マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。
スルターンの語は、クルアーンの中では「神に由来する権威」を意味する語として使われ、アッバース朝のカリフにおいて初めて君主の称号として採用された。11世紀にアッバース朝カリフの庇護者として勢力を伸ばしたセルジューク朝のトゥグリル・ベグはカリフからスルターンの称号を授与され、ちょうど西ヨーロッパにおける教皇に対する皇帝のように用いられる。セルジューク朝の衰退後はルーム・セルジューク朝やホラズム・シャー朝などのセルジューク朝から自立したイスラム王朝で君主の称号として採用され、スンナ派イスラム世界において一般的な称号として定着する。これ以降、アイユーブ朝、マムルーク朝などの諸王朝は、アッバース朝カリフの承認のもとでスルターンの君主号を称し、自らの権威付けに利用したが、しばしば比較される神聖ローマ帝国の皇帝がローマ教皇に戴冠されたように必ずカリフの任命を要したわけではない。
オスマン朝でスルターンの称号を最初に名乗ったのは2代オルハンで、シャー、ハンの称号と組み合わせて「スルタン・スレイマン・シャー・ハン」などと自称した。のちにオスマン朝が大帝国に発展するとパーディシャーの称号が一般的に用いられるようになるが、君主名の前にスルタンの語を添えて用いたり、「スルタンたちのスルタン」と称したりするようにもなり、また君主の后妃や娘の称号としてもスルタンの語が用いられた。19世紀に「スルタン=カリフ制」の主張が生まれると、オスマン帝国の君主は世俗権力であるスルタン権と宗教権威であるカリフ権を兼ね備えていると考えられるようになる。
現在はオマーン、ブルネイ、およびマレーシア各州の君主がスルターンの称号を使用している。
また、インドネシアは建国以来共和制国家だが、特別な経緯からジョグジャカルタ特別州にのみスルターンが存在しており、スルターン領を認められている。ジョグジャカルタ特別州はかつてはスルターンが世襲で終身知事に就く制度であったが、旧体制崩壊後は選挙で知事が選ばれる制度となり、名目上は世襲知事制度は廃止されているが、現スルターン(ハメンクブウォノ10世)は選挙で知事に選ばれている。
古漢籍における表記は「速魯檀」、「鎖魯檀」、「素里檀」、「唆里檀」、「算端」、「層檀」。近代の中国語における音訳は「素檀」、「蘇丹」。
マックス・ウェーバーは、伝統的支配の一形態である家産制について説明する際に、家産制を支配者の支配を正当化する伝統的権威と支配者自らが支配する家産官僚や軍隊の力を利用した恣意的行動とのせめぎ合いの上にあるとしたが、その中で支配者が伝統的権威の拘束から脱して唯一人が恣意的行動のままに国家を統治する体制が確立している様をイスラム世界のスルタンに擬えてスルタン制(sultanismus)と命名した。後にホアン・リンスはウェーバーの理論を発展させてスルタニズム論を唱えた。
スルターンを号する君主を戴く国家を指して、スルターン国(アラビア語: سلطنة)という呼称を用いることがある。王が君主の国家を「王国」、公が君主の国家を「公国」と呼ぶのと同じ理屈である。学術的な分野で支配体制を明示するとき以外、用いられることは稀であり、一般的にスルターン国は王国の範疇に含まれる。
国連加盟国の国家元首であるスルターンの一覧を示す。マレーシアの国王は、マレーシア内9州の君主の互選で選ばれ、「国王(アゴン)」として在位する際にも元々の位がスルターンであった場合はスルターン位を兼ねているが、マレーシアの国家元首としての地位はスルターンではない。
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"text": "国連加盟国の国家元首であるスルターンの一覧を示す。マレーシアの国王は、マレーシア内9州の君主の互選で選ばれ、「国王(アゴン)」として在位する際にも元々の位がスルターンであった場合はスルターン位を兼ねているが、マレーシアの国家元首としての地位はスルターンではない。",
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] |
スルターンは、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「力、権力、権威」「権力者、権威者」「王、絶対的君主」などを意味する。 マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。
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{{出典の明記|date=2017年8月}}
{{Otheruses|イスラムにおける君主の称号|その他の用法|スルタン (曖昧さ回避)}}
[[File:Gentile Bellini 003.jpg|thumb|250px|[[オスマン帝国]]'''スルターン'''である[[メフメト2世]]]]
'''スルターン'''({{lang-ar|'''سلطان'''}} {{transl|ar|sulṭān}}, {{IPA-ar|sʊlˈtˤɑːn, solˈtˤɑːn}}, スルターン)は、[[イスラム世界]]における[[君主号]]([[君主]]の[[称号]])のひとつ。アラビア語で「力、[[権力]]、[[権威]]」「権力者、権威者」「王、絶対的君主」などを意味<ref>{{Cite web |title=The Living Arabic Project - Classical Arabic and dialects |url=https://livingarabic.com/en/search |website=livingarabic.com |access-date=2023-08-11 |language=en |first=Living Arabic |last=Project}}</ref>する。
[[マレー語]]・[[トルコ語]]などの発音に準じて'''スルタン'''と書かれることも多く、「[[国王]]」、「[[皇帝]]」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。
== 概要 ==
スルターンの語は、[[クルアーン]]の中では「神に由来する権威」を意味する語として使われ、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]において初めて君主の称号として採用された。[[11世紀]]にアッバース朝カリフの庇護者として勢力を伸ばした[[セルジューク朝]]の[[トゥグリル・ベグ]]はカリフからスルターンの称号を授与され、ちょうど[[西ヨーロッパ]]における[[ローマ教皇|教皇]]に対する[[皇帝]]のように用いられる。セルジューク朝の衰退後は[[ルーム・セルジューク朝]]や[[ホラズム・シャー朝]]などのセルジューク朝から自立した[[イスラム王朝]]で君主の称号として採用され、[[スンナ派]]イスラム世界において一般的な称号として定着する。これ以降、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]などの諸王朝は、アッバース朝カリフの承認のもとでスルターンの君主号を称し、自らの権威付けに利用したが、しばしば比較される[[神聖ローマ帝国]]の皇帝が[[ローマ教皇]]に戴冠されたように必ずカリフの任命を要したわけではない。
[[オスマン帝国|オスマン朝]]でスルターンの称号を最初に名乗ったのは2代[[オルハン]]で、[[シャー]]、[[ハーン|ハン]]の称号と組み合わせて「スルタン・スレイマン・シャー・ハン」などと自称した。のちにオスマン朝が大帝国に発展すると[[パーディシャー]]の称号が一般的に用いられるようになるが、君主名の前にスルタンの語を添えて用いたり、「スルタンたちのスルタン」と称したりするようにもなり、また君主の后妃や娘の称号としてもスルタンの語が用いられた。[[19世紀]]に「[[スルタン=カリフ制]]」の主張が生まれると、オスマン帝国の君主は世俗権力であるスルタン権と宗教権威であるカリフ権を兼ね備えていると考えられるようになる。
現在は[[オマーン]]、[[ブルネイ]]、および[[マレーシア]]各州の君主がスルターンの称号を使用している。
また、[[インドネシア]]は建国以来共和制国家だが、特別な経緯から[[ジョグジャカルタ特別州]]にのみスルターンが存在しており、スルターン領を認められている。ジョグジャカルタ特別州はかつてはスルターンが世襲で終身知事に就く制度であったが、旧体制崩壊後は選挙で知事が選ばれる制度となり、名目上は世襲知事制度は廃止されているが、現スルターン([[ハメンクブウォノ10世]])は選挙で知事に選ばれている。
== 訳名 ==
古漢籍における表記は「'''速魯檀'''」、「'''鎖魯檀'''」、「'''素里檀'''」、「'''唆里檀'''」、「'''算端'''」、「'''層檀'''」。近代の中国語における音訳は「'''素檀'''」、「'''蘇丹'''」。
== スルタン制 ==
[[マックス・ウェーバー]]は、伝統的支配の一形態である[[家産制]]について説明する際に、家産制を支配者の支配を正当化する伝統的権威と支配者自らが支配する[[家産官僚]]や[[軍隊]]の力を利用した恣意的行動とのせめぎ合いの上にあるとしたが、その中で支配者が伝統的権威の拘束から脱して唯一人が恣意的行動のままに国家を統治する体制が確立している様をイスラム世界のスルタンに擬えて'''スルタン制'''(sultanismus)と命名した。後に[[ホアン・リンス]]はウェーバーの理論を発展させて[[スルタン主義体制|スルタニズム論]]を唱えた。
== スルターン国 ==
スルターンを号する君主を戴く国家を指して、'''スルターン国'''({{lang-ar|سلطنة}})という呼称を用いることがある。王が君主の国家を「[[王国]]」、公が君主の国家を「[[公国]]」と呼ぶのと同じ理屈である。学術的な分野で支配体制を明示するとき以外、用いられることは稀であり、一般的にスルターン国は王国の範疇に含まれる。
=== 現存するスルターン国 ===
* {{flagicon|OMN}} [[オマーン|オマーン国]]
* {{flagicon|BRN}} [[ブルネイ|ブルネイ・ダルサラーム国]]
==現在のスルターン ==
{{also|現在の君主の一覧}}
[[国連加盟国]]の[[国家元首]]であるスルターンの一覧を示す。[[マレーシア]]の国王は、マレーシア内9州の君主の互選で選ばれ、「国王(アゴン)」として在位する際にも元々の位がスルターンであった場合はスルターン位を兼ねているが、マレーシアの国家元首としての地位はスルターンではない。
* 在位年順
{| class="wikitable sortable"
!'''名'''
!'''国'''
!年齢
!即位年
|-
|[[ハサナル・ボルキア]]
|{{BRN}}
|{{年数|1946|7|15}}歳
|[[1967年]][[10月4日]]
|-
|[[ハイサム・ビン・ターリク・アール=サイード]]
|{{OMN}}
|{{年数|1954|10|13}}歳
|[[2020年]][[1月11日]]
|}
=== 国家内の地域に置いて実権を持つスルターン ===
{| class="wikitable sortable"
!'''国'''
!'''構成領邦名'''
!'''スルターン'''
|-
|{{MAL}}
|{{Flag|Johor}}
|{{仮リンク|ジョホールのスルターン|en|Sultan of Johor}}
|-
|{{MAL}}
| {{Flag|Kedah}}
|{{仮リンク|ケダのスルターン|en|Kedah Sultanate}}
|-
|{{MAL}}
|{{Flag|Kelantan}}
|{{仮リンク|クランタンのスルターン|en|Kelantan Sultanate}}
|-
|{{MAL}}
|{{Flag|Pahang}}
|{{仮リンク|パハンのスルターン|en|Sultan of Pahang}}
|-
|{{MAL}}
| {{Flag|Perak}}
|{{仮リンク|ペラのスルターン|en|Perak Sultanate}}
|-
|{{MAL}}
| {{Flag|Selangor}}
|{{仮リンク|セランゴールのスルターン|en|Selangor Sultanate}}
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== 関連項目 ==
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一般国道
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一般国道(いっぱんこくどう)とは、日本における高速自動車国道以外の道路法第5条で定められた国道のこと。日本で単に「国道」と言うと一般国道を指すことが多い。各道路には番号が振られ、「一般国道○○○号」または「国道○○○号」と呼ばれる。一般的に「国道○○○号線」または「○○○号線」と呼ばれることも多いが、正式には「線」を付けない。都道府県庁所在地や重要な都市間を結ぶ道路、重要な空港・港などと高速自動車国道や主要な一般国道とを結ぶ道路などが指定の対象で、1号から507号までの459本の路線がある。
道路法第5条では、「高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ、次の各号のいずれかに該当する道路で、政令で路線指定されたもの」としており、以下の各号を挙げている。
上記1の規定は、かつての一級国道と同じものであり、県庁所在地規模の都市を結ぶ幹線道路を指す。また、上記2、3、5の規定は、かつての二級国道の要件と同じものであり、複数の都市を結ぶか一級国道へと連絡する道路を規定しており、ネットワークを形成することがその要件となっている。そして上記4の規定は、重要な港湾や空港と、幹線国道を結ぶ道路を指すもので、俗に言う「港国道」のことである。 これらは道幅・長さ・歩道の有無・整備の度合いなどに関する規定が特になく、幹線道路網として上記に該当する政令で指定された道路が国道になっている。なお、路線の指定は「一般国道の路線を指定する政令」により行われる。
国道のうち一般国道では、「指定区間」と「指定区間外」に分けて道路を管轄している。指定区間も指定区間外も国道を建設するのは原則として国であるが、災害時の復旧や道路の改修などの道路の維持管理を行うのは、国は指定区間に限られ、指定区間外は都道府県および政令指定都市に任されている。おおむね路線番号1、2桁の国道が指定区間に指定されているが、2桁国道であっても指定区間外であったり、路線番号3桁の国道でも指定区間に指定された国道もある。また、一般国道路線の起点から終点までの全線が指定区間、あるいは指定区間外にされているわけではなく、たとえば国道1号ではほとんどの区間が指定区間であるが、横浜市内および箱根付近で指定区間外の区間もある。一般国道の路線延長全体に占める割合は、指定区間は約40 %、指定区間外が残りの約60 %である。ただし、「一般国道の指定区間を指定する政令」はしばしば改正されることから、指定区間が指定区間外になったり、その反対に指定区間外から指定区間に変更になる場合もある。
一般国道は路線番号により、国道1号から507号までが指定されている。ただし、歴史的経緯により欠番があるため、実在するのは459路線である。
1952年(昭和27年)6月に公布された現・道路法では、一級国道(1号以降、番号が1桁・2桁のもの。57号まで)と二級国道(101号以降、番号が3桁のもの。271号まで)に分けられ番号を付することとされており、1964年(昭和39年)7月の道路法改正により、1965年(昭和40年)4月から一級・二級の区分は廃止され、一般国道に統一された。このとき一級国道は100号に達していなかったが、一級・二級国道の統合以降に新設する一般国道は3桁の番号を指定することになったため、58 - 100号は欠番となった。その後、1972年(昭和47年)5月の沖縄の日本復帰時に、鹿児島市 - 那覇市の道路が特例として国道58号に指定された。
また、1963年(昭和38年)に実施された一級・二級国道再編に伴う路線の統合・変更により、109号(国道108号に統合)、110号(国道48号に変更)、111号(国道45号に変更)、214 - 216号(統合し国道57号に変更)も欠番になっている。現在の欠番は59 - 100号・109 - 111号・214 - 216号である。
通常、3桁国道は他の国道との重用区間(重複区間)が起点である場合大きい番号のものは表示していない。
一級国道と二級国道が統合され一般国道となったのち、次の5回にわたり路線が追加指定された(日付は政令の公布日である)。
特に、1993年の追加指定では、新規路線の指定の他に既存国道の路線延長指定が数多く行われたことと、高速道路に相当する一般国道の自動車専用道路が指定されたことが大きな特徴となっている。都市部以外の地方自治体では生活基盤が車社会となることから、一般国道に指定された道路が国の補助金によって整備されていくと、その沿道には市街地が形成されていく傾向が強く自治体の発展にもつながるため、1980年代末から1990年代を中心に一般国道が通っていなかった全国の各自治体によって結成された「ないないサミット」から、国へ既存道路の国道昇格陳情が行われたことで、多数の一般国道が誕生している。また、サイエンスライターの佐藤健太郎によれば、日本の国道路線網について、「今後は新たに国道路線指定がなされることはないだろう」との国土交通省の見解があったことを自身の著書の中で述べている。
一般国道の多くは、それまで都道府県道・主要地方道だった道が、国道に昇格するかたちで路線指定されている。さらに過去に遡れば、もともと古くからの街道に行き着く。江戸時代の五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)や脇街道の道筋も、ほぼ現在の一般国道にそのまま引き継がれていて、さらには鎌倉時代や戦国時代にできた街道筋を受け継いでいる。一般国道のなかでも最も古い道筋としては、推古天皇の時代に設置された官道だといわれる国道166号の竹内街道が知られている。これらかつての街道がそのまま一般国道になったわけではなく、時代ごとにその地域の交通の変化に合わせて道路拡幅・線形改良などの道路改良や、バイパス改築などの変遷があって、一般国道に指定されている道路自体の姿は変化し続けている。
また、原型となる道路がなかったところに一般国道となった道路がつくられたところも少数ながらあり、国道298号(東京外かく環状道路)や国道357号(東京湾岸道路)はその例である。
(59 - 100は欠番)
(109 - 111は欠番)
(214 - 216は欠番)
一般国道(以下、特記がない場合は「国道」と称する)は円滑な自動車交通のために存在しているが、実際には車両が通行不能な場所はいくつもある。定義で前述した通り、国道に指定される基準は、単に重要な地同士または重要な地と他の国道とを結ぶ道路ということであって、その道路の規模(幅や車線数、距離、舗装・未舗装の別など)によって決まるわけではない。港湾部などでは国道174号(港国道)のように総延長が数百メートル程度しかない国道もある。港(空港)は、日本の経済活動上、物資輸送など陸上交通を担う上でも最も重要視されており、国土交通省への走行経路届出が必要な大型コンテナトレーラーの届出を簡略化させる意味合いがある。
多くの国道は2車線以上に拡幅されており、6車線以上の非常に交通量の多い国道があったり、国道357号のように道路幅が最大100 m程もある広い国道がある一方で、落石や崖崩れの危険性から大雨のたびに通行止めになる道路や、積雪で冬季通行止めになる国道があったり、車のすれ違いが困難な狭隘道路や車の通行が全く不可能な道、オフロードの国道も存在し、さらには、登山道のような国道区間や、海上などの人の通れる道すらない区間がある国道も点在する。このような一般に抱かれているイメージから乖離した「国道らしからぬ」国道を「酷道」と呼ぶ者もおり、ファンの間で名所になることもある。
国道網の一部には、自動車や自転車の通行もできないような細い道が一般国道の経路に指定されている区間も存在しており、道路幅員が1.5 m未満で徒歩以外での通行ができないような交通路で、地図上において点線で表記される道は、俗に「点線国道」とよばれている。道路整備が進んでいない未開通区間で、地形が険しい峠付近に存在するほか、都市部の一部にもみられる。一例として、青森県津軽半島最北端で観光地としても知られる国道339号の「階段国道」も車両が通行できない点線国道である。
車両の交通路として供用されていない理由はさまざまで、地形が険しい山地では道路開発が困難のためいまだ開通していなかったり、海上をフェリーで渡る航路が国道に指定されていたりする。また、自然災害や事故などで道路が封鎖されてしまい、そのまま廃道化してしまったケースもある。
海上区間のある国道は、俗に「海上国道」と呼ばれており、本州と北海道を結ぶ津軽海峡や東京湾の横断航路、鹿児島 - 那覇間の南西諸島を結ぶ航路などいくつか該当する国道区間が存在する。これは、道路法第2条には「道路とは一般の用に供する道で、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等、道路と一体となってその効用を全うする施設、または工作物および道路の付属物で、当該道路に付属して設けられているものを含んだものとする」という道路法上の道路の定義があり、たとえば海上であっても1本の交通系統として重要な幹線道路と認められれば、フェリーボートの航路も国道になりえると解釈されるからである。
また海底に掘られた道路トンネルが国道に指定されているところもあり、本州と九州を結ぶ関門海峡の海底道路トンネルである国道2号の関門トンネルは、車道部とは独立した人道トンネルがあり、両陸地の地上と海底の人道トンネルを結ぶエレベーター自体も、道路法第2条の解釈により「工作物および道路の付属物」に該当する道路施設として橋やトンネル同様に国道の一部として扱われている。
国道30号の海上部分(宇野港 - 高松港)は、バイパス道路である瀬戸中央自動車道の通行料金の高さからJR四国の宇高連絡船廃止後も2008年(平成20年)3月までは3社で合計一日100便以上のフェリー便が運航されていたが、2009年(平成21年)3月から始まった瀬戸中央自動車道の休日割引等の影響で大幅減便となった。まず、2009年4月に津国汽船(本四フェリー)が撤退した。他の2社もいったんは航路廃止を表明しつつも、その後撤回し、ダイヤ調整などを行って存続を図ったが、2012年10月をもって宇高国道フェリーが航路休止した。さらに、四国フェリーも2017年4月現在、1日5便にまで減便したものの業績の悪化が著しく、2019年12月16日より運航を休止した。
他方、建設費の調達や償還などの都合から事実上高速自動車国道と同様の構造規格で建設されているにもかかわらず、一般国道のバイパス(一般国道自動車専用道路)として建設され、高規格幹線道路として機能している路線もある。高速自動車国道の建設にあたっては多大な手続きが必要なため、一般国道バイパス予算で国土交通省が整備し、実質的に高速自動車国道の一部として機能する高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路もある。
国道は上記の通り国と都道府県・市の二元管理が行われているが、道路は劣化するため舗装などの維持整備に多額の支出が起こり、自治体の支出増大の一因となっている。国の財政もまた悪化しており国道設置は新たな補助金支出につながるため、1993年の指定を最後に新設による都道府県道の国道昇格が行われなくなっている。
一般国道の標識は『道路標識、区画線及び道路標示に関する命令』(以下、本節では「標識令」と呼ぶ)で定められている。この標識の正式名称は「国道番号」であり、命令では「118-A」・「118-B」・「118-C」の分類番号が与えられている。「118-A」の形状は丸みを帯びた下向きの三角形で、国道の愛好家は標識の形状から「おにぎり」または「おむすび」と呼ぶことがある。「国道番号」標識は命令が施行された1960年(昭和35年)当時から設置が開始された標識である。これには、上から順に「国道」の文字、路線番号、「ROUTE」の文字が3段で描かれている。古いものや地方の一部では紺の近似色のものも見られるが、国道番号標識の青色はJIS規格で定められた色であり、全国的に統一されている。最初期の国道番号標識の文字は手書きされており、かつて字体は様々存在したが、現在では数字がヘルベティカ、国道の文字が丸ゴシック体にほぼ統一されている。他の標識に合わせた色・文字体変更がなされたが、形状は変更されていない。 国道番号の標識は、すべての一般国道路線上に設置されているとは限らず、首都圏中央連絡自動車道(国道468号)、東海環状自動車道(国道475号)、西九州自動車道(国道497号)のような一般国道の自動車専用道路の一部の路線に設置されていない場合もある。
地方により標識の形態や大きさも様々な特色あるものが見られる。右図は、設計速度40 - 60 km/hの一般国道でみられる標準的な寸法のものであるが、広島市など、中国地方の一部で幅1メートルを超えるような標識が時折みられる。東京都心部ではバックライトが埋め込まれ夜間に発光する字光式、政令指定都市である静岡市や仙台市の一部や、福島県などで四角いプレートに描かれたもの、三重県ではステッカー式のものなどがある。
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"text": "一般国道の標識は『道路標識、区画線及び道路標示に関する命令』(以下、本節では「標識令」と呼ぶ)で定められている。この標識の正式名称は「国道番号」であり、命令では「118-A」・「118-B」・「118-C」の分類番号が与えられている。「118-A」の形状は丸みを帯びた下向きの三角形で、国道の愛好家は標識の形状から「おにぎり」または「おむすび」と呼ぶことがある。「国道番号」標識は命令が施行された1960年(昭和35年)当時から設置が開始された標識である。これには、上から順に「国道」の文字、路線番号、「ROUTE」の文字が3段で描かれている。古いものや地方の一部では紺の近似色のものも見られるが、国道番号標識の青色はJIS規格で定められた色であり、全国的に統一されている。最初期の国道番号標識の文字は手書きされており、かつて字体は様々存在したが、現在では数字がヘルベティカ、国道の文字が丸ゴシック体にほぼ統一されている。他の標識に合わせた色・文字体変更がなされたが、形状は変更されていない。 国道番号の標識は、すべての一般国道路線上に設置されているとは限らず、首都圏中央連絡自動車道(国道468号)、東海環状自動車道(国道475号)、西九州自動車道(国道497号)のような一般国道の自動車専用道路の一部の路線に設置されていない場合もある。",
"title": "標識"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "地方により標識の形態や大きさも様々な特色あるものが見られる。右図は、設計速度40 - 60 km/hの一般国道でみられる標準的な寸法のものであるが、広島市など、中国地方の一部で幅1メートルを超えるような標識が時折みられる。東京都心部ではバックライトが埋め込まれ夜間に発光する字光式、政令指定都市である静岡市や仙台市の一部や、福島県などで四角いプレートに描かれたもの、三重県ではステッカー式のものなどがある。",
"title": "標識"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、右下図のような「118-B」・「118-C」の標識も標識令において定められている。",
"title": "標識"
}
] |
一般国道(いっぱんこくどう)とは、日本における高速自動車国道以外の道路法第5条で定められた国道のこと。日本で単に「国道」と言うと一般国道を指すことが多い。各道路には番号が振られ、「一般国道○○○号」または「国道○○○号」と呼ばれる。一般的に「国道○○○号線」または「○○○号線」と呼ばれることも多いが、正式には「線」を付けない。都道府県庁所在地や重要な都市間を結ぶ道路、重要な空港・港などと高速自動車国道や主要な一般国道とを結ぶ道路などが指定の対象で、1号から507号までの459本の路線がある。
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[[Image:Japanese National Route Sign 0271.svg|thumb|160px|right|一般国道の一般標識の基準は、1960(昭和35)年から使用されている。]]
'''一般国道'''(いっぱんこくどう)とは、[[日本]]における[[高速自動車国道]]以外の[[道路法]]第5条で定められた[[国道]]のこと。日本で単に「'''国道'''」と言うと一般国道を指すことが多い{{Sfn|浅井建爾|2015|p=152}}。各道路には番号が振られ、「一般国道○○○号」または「国道○○○号」と呼ばれる。一般的に「国道○○○号線」または「○○○号線」と呼ばれることも多いが、正式には「線」を付けない<ref>{{Cite book |和書 |author=長久保光明 |edition=初版|date=1981-10-25 |title=陸前浜街道地誌 |publisher=暁印書館|asin=B000J7PEB4|ref=harv|page=28}}</ref>。[[都道府県庁所在地]]や重要な都市間を結ぶ道路、重要な空港・港などと高速自動車国道や主要な一般国道とを結ぶ道路などが指定の対象で、1号から507号までの459本の路線がある。
== 定義 ==
道路法第5条では、「<!--第3条第2号の一般国道(以下「国道」という。)とは、-->高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ、次の各号のいずれかに該当する道路で、政令で路線指定されたもの」としており、以下の各号を挙げている{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=93}}。
# 国土を縦断し、横断し、又は循環して、都道府県庁所在地(北海道の[[支庁所在地]]を含む。)その他政治上、経済上又は文化上特に重要な都市(以下「重要都市」という。)を連絡する道路([[国道1号]]・[[国道4号]]など)
# 重要都市又は人口10万以上の市と高速自動車国道又は前号に規定する国道とを連絡する道路([[国道162号]]・[[国道428号]]など)
# 2以上の市を連絡して高速自動車国道又は第1号に規定する国道に達する道路([[国道259号]]など)
# [[港湾法]](昭和25年法律第218号)第2条第2項に規定する[[国際戦略港湾]]若しくは[[国際拠点港湾]]若しくは同法附則第2項に規定する[[港湾]]、重要な[[飛行場]]又は国際観光上重要な地と高速自動車国道又は第1号に規定する国道とを連絡する道路([[国道131号]]・[[国道177号]]など)
# 国土の総合的な開発又は利用上特別の建設又は整備を必要とする都市と高速自動車国道又は第1号に規定する国道とを連絡する道路([[国道464号]]、[[国道475号]]など)
上記1の規定は、かつての[[一級国道]]と同じものであり、県庁所在地規模の都市を結ぶ幹線道路を指す{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=94}}。また、上記2、3、5の規定は、かつての[[二級国道]]の要件と同じものであり、複数の都市を結ぶか一級国道へと連絡する道路を規定しており、ネットワークを形成することがその要件となっている{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=94}}。そして上記4の規定は、重要な港湾や空港と、幹線国道を結ぶ道路を指すもので、俗に言う「[[港国道]]」のことである{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=95}}。
これらは道幅・長さ・歩道の有無・整備の度合いなどに関する規定が特になく、幹線道路網として上記に該当する政令で指定された道路が国道になっている{{sfn|佐藤健太郎|2014|page=92}}。なお、路線の指定は「[[s:一般国道の路線を指定する政令|一般国道の路線を指定する政令]]」により行われる。
=== 指定区間(直轄国道)と指定区間外(補助国道) ===
国道のうち一般国道では、「指定区間」と「指定区間外」に分けて道路を管轄している<!--{{Sfn|浅井建爾|2015|p=152}}-->。指定区間も指定区間外も国道を建設するのは原則として国であるが、災害時の復旧や道路の改修などの道路の維持管理を行うのは、国は指定区間に限られ、指定区間外は[[都道府県]]および[[政令指定都市]]に任されている{{Sfn|浅井建爾|2015|p=152}}。おおむね路線番号1、2桁の国道が指定区間に指定されているが、2桁国道であっても指定区間外であったり、路線番号3桁の国道でも指定区間に指定された国道もある{{Sfn|浅井建爾|2015|p=153}}。また、一般国道路線の起点から終点までの全線が指定区間、あるいは指定区間外にされているわけではなく、たとえば国道1号ではほとんどの区間が指定区間であるが、横浜市内および箱根付近で指定区間外の区間もある{{Sfn|浅井建爾|2015|p=153}}。一般国道の路線延長全体に占める割合は、指定区間は約40 [[パーセント|%]]、指定区間外が残りの約60 %である{{Sfn|浅井建爾|2015|pp=153–154}}。ただし、「[[s:一般国道の指定区間を指定する政令|一般国道の指定区間を指定する政令]]」はしばしば改正されることから、指定区間が指定区間外になったり、その反対に指定区間外から指定区間に変更になる場合もある{{Sfn|浅井建爾|2015|p=154}}。
{{wikisource|一般国道の路線を指定する政令|一般国道の路線を指定する政令}}
{{wikisource|一般国道の指定区間を指定する政令|一般国道の指定区間を指定する政令}}
; 指定区間(直轄国道)
: 「一般国道の指定区間を指定する政令」による「[[指定区間]]」は、国([[国土交通省]][[地方整備局]]。北海道は[[北海道開発局]](国土交通省)、沖縄県は[[内閣府]][[沖縄総合事務局]]{{efn|かつては[[沖縄開発庁]]}})が管理を行い、これらを「直轄国道」と呼んでいる{{Sfn|浅井建爾|2015|p=152}}。
: [[1952年]]([[昭和]]27年)に公布された旧道路法では[[二級国道]]はすべて[[都道府県]]によって管理されるものとされたが、国にとって幹線道路網の整備は急務だったため、特に重要な区間を国による直轄管理とした改正道路法が[[1964年]](昭和39年)に公布され、[[1965年]](昭和40年)に施行された。これにより、旧[[一級国道]]のほとんどと[[北海道]]内の国道は全線が指定区間となった{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=102}}。旧二級国道であっても、千葉県[[木更津市]]と[[館山市]]を結ぶ[[国道127号]]や{{Sfn|浅井建爾|2015|p=153}}、[[高速自動車国道]]と並走する[[国道171号]]([[名神高速道路]]と全線で並走)は全線が指定区間である。
: 一般国道網のある区間が指定区間に指定されるか否かについては、一定の基準が設けられている。その要件は、高速道路と一体となって全国的な交通網を構成している国道、あるいは都道府県庁所在地や政令指定都市のように政治的、経済的に見て重要な都市を連絡する国道、また重要な港湾や空港と高速道路などの主要な幹線国道を連絡する国道が指定されている{{Sfn|浅井建爾|2015|pp=152–153}}。
; 指定区間外(補助国道)
: 「指定区間外」は、国から補助金を受けて各都府県と[[政令指定都市|政令市]]が管理する{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=102}}。こちらを「補助国道」と呼んでいる{{Sfn|浅井建爾|2015|p=152}}。かつての二級国道の多くのほか、[[1993年]]([[平成]]5年)までに国道に昇格した旧[[主要地方道]]・[[都道府県道|一般都府県道]]が含まれる。旧一級国道であっても、交通量の少ない一部区間や[[バイパス道路|バイパス]]に対する旧道を各都道府県・市町村に移管することがあり、各都道府県市町村道に転換するケース以外にも、補助国道として引き続き一般国道として存続されるケースがある。補助国道への転換は、国道番号はそのままで指定区間のみ解除されて補助国道とされる場合(例:[[国道14号]]の[[東京都]][[江戸川区]]東小松川 - [[千葉市]][[花見川区]][[幕張インターチェンジ|幕張IC]]間)と並走している既存の補助国道に転換する場合(例:[[国道17号]]の[[群馬県]][[前橋市]] - [[沼田市]]間における旧道を重複していた[[国道291号]]に転換)がある。
== 路線番号 ==
一般国道は路線番号により、[[国道1号]]から[[国道507号|507号]]までが指定されている。ただし、歴史的経緯により欠番があるため、実在するのは459路線である{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=86}}{{sfn|浅井建爾|2015|pp=77–79}}。
<!--(一般国道を主題に置いた解説にあらず、コメントアウトします)--なお、かつての二級国道には[[都道府県道]]や[[市町村道]]のように地点名を含む路線名がつけられており、これと別に路線番号があった{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=91}}。-->
{{wikisource|一級国道の路線を指定する政令|一級国道の路線を指定する政令(廃止)}}
{{wikisource|二級国道の路線を指定する政令|二級国道の路線を指定する政令(廃止)}}
[[1952年]](昭和27年)6月に公布された現・[[道路法]]では、'''[[一級国道]]'''(1号以降、番号が1桁・2桁のもの。[[国道57号|57号]]まで)と'''[[二級国道]]'''(101号以降、番号が3桁のもの。[[国道271号|271号]]まで)に分けられ番号を付することとされており、[[1964年]](昭和39年)7月の道路法改正により、[[1965年]](昭和40年)4月から一級・二級の区分は廃止され、'''一般国道'''に統一された{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=102}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=42}}。このとき一級国道は100号に達していなかったが、一級・二級国道の統合以降に新設する一般国道は3桁の番号を指定することになったため、58 - 100号は欠番となった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=42}}。その後、[[1972年]](昭和47年)5月の沖縄の日本復帰時に、[[鹿児島市]] - [[那覇市]]の道路が特例として[[国道58号]]に指定された{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=99}}。
また、1963年(昭和38年)に実施された一級・二級国道再編に伴う路線の統合・変更により、109号([[国道108号]]に統合)、110号([[国道48号]]に変更)、111号([[国道45号]]に変更)、214 - 216号(統合し[[国道57号]]に変更)も欠番になっている{{sfn|浅井建爾|2015|pp=77–79}}{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=99–100}}。現在の欠番は59 - 100号・109 - 111号・214 - 216号である{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=99}}。
通常、3桁国道は他の国道との[[重用区間]](重複区間)が[[起点]]である場合大きい番号のものは表示していない。
== 路線指定の沿革 ==
一級国道と二級国道が統合され一般国道となったのち、次の5回にわたり路線が追加指定された(日付は政令の公布日である){{sfn|佐藤健太郎|2014|p=103}}。
* [[1970年]](昭和45年)[[4月1日]]施行 [[国道272号]] - [[国道328号|328号]]([[1969年]][[12月4日]]政令第280号)
* [[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]施行 [[国道58号]]と[[国道329号|329号]] - [[国道332号|332号]](1972年[[4月28日]]政令第116号、{{ws|[[:s:沖縄の復帰に伴う建設省関係政令の改正に関する政令|原文]]}})
* [[1975年]](昭和50年)4月1日施行 [[国道333号]] - [[国道390号|390号]]([[1974年]][[11月12日]]政令第364号)
* [[1982年]](昭和57年)4月1日施行 [[国道391号]] - [[国道449号|449号]]([[1981年]][[4月30日]]政令第153号)
* [[1993年]](平成5年)4月1日施行 [[旭川紋別自動車道#国道450号|国道450号]] - [[国道507号|507号]]([[1992年]][[4月3日]]政令第104号)
特に、1993年の追加指定では、新規路線の指定の他に既存国道の路線延長指定が数多く行われたことと{{efn|例として、[[国道354号]]や[[国道403号]]など。}}、[[日本の高速道路|高速道路]]に相当する[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道の自動車専用道路]]が指定されたこと{{efn|[[首都圏中央連絡自動車道#国道468号|国道468号]]([[首都圏中央連絡自動車道]])、[[東海環状自動車道#国道475号|国道475号]]([[東海環状自動車道]])、[[国道478号]]([[京都縦貫自動車道]])など。}}が大きな特徴となっている{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=105–106}}。都市部以外の地方自治体では生活基盤が車社会となることから、一般国道に指定された道路が国の補助金によって整備されていくと、その沿道には市街地が形成されていく傾向が強く自治体の発展にもつながるため、1980年代末から1990年代を中心に一般国道が通っていなかった全国の各自治体によって結成された「[[ないないサミット]]」から、国へ既存道路の国道昇格陳情が行われたことで、多数の一般国道が誕生している{{sfn|佐藤健太郎|2015|pp=58–59}}。また、[[サイエンスライター]]の[[佐藤健太郎 (フリーライター)|佐藤健太郎]]によれば、日本の国道路線網について、「今後は新たに国道路線指定がなされることはないだろう」との[[国土交通省]]の見解があったことを自身の著書の中で述べている{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=106–107|ps=、「国道の歴史/今後、新たな国道は生まれるのか?」より}}。
=== ルーツ ===
一般国道の多くは、それまで都道府県道・主要地方道だった道が、国道に昇格するかたちで路線指定されている。さらに過去に遡れば、もともと古くからの街道に行き着く。江戸時代の[[五街道]]([[東海道]]・[[中山道]]・[[日光街道]]・[[奥州街道]]・[[甲州街道]])や[[脇街道]]の道筋も、ほぼ現在の一般国道にそのまま引き継がれていて{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=139}}、さらには鎌倉時代や戦国時代にできた街道筋を受け継いでいる{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=141}}。一般国道のなかでも最も古い道筋としては、[[推古天皇]]の時代に設置された[[官道]]だといわれる[[国道166号]]の[[竹内街道]]が知られている{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=141}}。これらかつての街道がそのまま一般国道になったわけではなく、時代ごとにその地域の交通の変化に合わせて道路拡幅・線形改良などの道路改良や、バイパス改築などの変遷があって、一般国道に指定されている道路自体の姿は変化し続けている{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=139}}。
また、原型となる道路がなかったところに一般国道となった道路がつくられたところも少数ながらあり、[[国道298号]](東京外かく環状道路)や[[国道357号]](東京湾岸道路)はその例である{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=139}}。
== 一般国道の路線番号一覧 ==
{{main|日本の一般国道一覧}}
=== 001 - 058 ===
{|
{{一般国道/list|1}}
{{一般国道/list|2}}
{{一般国道/list|3}}
{{一般国道/list|4}}
{{一般国道/list|5}}
{{一般国道/list|6|0000000011}}
|}
(59 - 100は欠番)
=== 101 - 108・112 - 200 ===
{|
{{一般国道/list|11|0000000011}}
{{一般国道/list|12|1000000000}}
{{一般国道/list|13}}
{{一般国道/list|14}}
{{一般国道/list|15}}
{{一般国道/list|16}}
{{一般国道/list|17}}
{{一般国道/list|18}}
{{一般国道/list|19}}
{{一般国道/list|20}}
|}
(109 - 111は欠番)
=== 201 - 213・217 - 300 ===
{|
{{一般国道/list|21}}
{{一般国道/list|22|0001110000}}
{{一般国道/list|23}}
{{一般国道/list|24}}
{{一般国道/list|25}}
{{一般国道/list|26}}
{{一般国道/list|27}}
{{一般国道/list|28}}
{{一般国道/list|29}}
{{一般国道/list|30}}
|}
(214 - 216は欠番)
=== 301 - 400 ===
{|
{{一般国道/list|31}}
{{一般国道/list|32}}
{{一般国道/list|33}}
{{一般国道/list|34}}
{{一般国道/list|35}}
{{一般国道/list|36}}
{{一般国道/list|37}}
{{一般国道/list|38}}
{{一般国道/list|39}}
{{一般国道/list|40}}
|}
=== 401 - 507 ===
{|
{{一般国道/list|41}}
{{一般国道/list|42}}
{{一般国道/list|43}}
{{一般国道/list|44}}
{{一般国道/list|45}}
{{一般国道/list|46}}
{{一般国道/list|47}}
{{一般国道/list|48}}
{{一般国道/list|49}}
{{一般国道/list|50}}
{{一般国道/list|51|0000000111}}
|}
== 国道の実態 ==
一般国道{{small|(以下、特記がない場合は「国道」と称する)}}は円滑な自動車交通のために存在しているが、実際には車両が通行不能な場所はいくつもある{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=16}}。[[#定義|定義]]で前述した通り、国道に指定される基準は、単に重要な地同士または重要な地と他の国道とを結ぶ道路ということであって、その道路の規模(幅や車線数、距離、舗装・未舗装の別など)によって決まるわけではない。[[港湾]]部などでは[[国道174号]]([[港国道]])のように総延長が数百[[メートル]]程度しかない国道もある{{sfn|浅井建爾|2001|p=49}}。港(空港)は、日本の経済活動上、物資輸送など陸上交通を担う上でも最も重要視されており{{sfn|浅井建爾|2001|p=49}}、国土交通省への走行経路届出が必要な大型[[海上コンテナ|コンテナ]][[牽引自動車|トレーラー]]の[[届出制|届出]]を簡略化させる意味合いがある。
多くの国道は2車線以上に拡幅されており、6車線以上の非常に交通量の多い国道があったり{{Sfn|浅井建爾|2015|p=152}}、[[国道357号]]のように道路幅が最大100 m程もある広い国道がある一方で{{sfn|浅井建爾|2001|p=55}}、落石や崖崩れの危険性から大雨のたびに通行止めになる道路や、積雪で冬季通行止めになる国道があったり、車のすれ違いが困難な[[狭隘道路]]や車の通行が全く不可能な道{{sfn|佐藤健太郎|2015|pp=16–21}}、[[オフロード]]の国道も存在し{{sfn|浅井建爾|2001|pp=38 39}}{{sfn|佐藤健太郎|2015|pp=22–27}}、さらには、[[登山]]道のような国道区間や{{sfn|浅井建爾|2015|p=152}}、海上などの人の通れる道すらない区間がある国道も点在する。このような一般に抱かれているイメージから乖離した「国道らしからぬ」国道を「'''[[酷道]]'''」と呼ぶ者もおり、ファンの間で名所になることもある<ref name="産経新聞20100606">{{Cite news|author=|authorlink=|url=|title= 【麗し大和・記者の裏話】(23)ジェットコースター並み!?の酷道308号「暗峠」|newspaper = 産経新聞|publisher = 産経新聞社|date = 2010-06-06|accessdate = }}</ref><ref name="日本経済新聞20140215">{{Cite news|author=|authorlink=|url=|title= ベタ踏み坂より急 酷道308号、東大阪・暗峠をゆく|newspaper = 日本経済新聞|publisher = 日本経済新聞社|date = 2014-02-15|accessdate = }}</ref><ref name="日本経済新聞20140512">{{Cite news|author=|authorlink=|url=|title= 空にアーケード、地に13時間通行止め…酷道をゆく|newspaper = 日本経済新聞|publisher = 日本経済新聞社|date = 2014-05-12|accessdate = }}</ref>。
=== 車両通行不能区間の存在 ===
国道網の一部には、自動車や自転車の通行もできないような細い道が一般国道の経路に指定されている区間も存在しており、道路幅員が1.5 m未満で徒歩以外での通行ができないような交通路で、地図上において点線で表記される道は、俗に「[[点線国道]]」とよばれている{{sfn|浅井建爾|2015|p=14}}{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=51}}。道路整備が進んでいない未開通区間で、地形が険しい峠付近に存在するほか、都市部の一部にもみられる{{sfn|浅井建爾|2015|p=14}}。一例として、青森県津軽半島最北端で観光地としても知られる[[国道339号]]の「[[階段国道]]」も車両が通行できない点線国道である{{sfn|浅井建爾|2015|pp=14–15}}{{sfn|佐藤健太郎|2015|pp=16–21}}。
車両の交通路として供用されていない理由はさまざまで、地形が険しい山地では道路開発が困難のためいまだ開通していなかったり、海上をフェリーで渡る航路が国道に指定されていたりする{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=16}}。また、自然災害や事故などで道路が封鎖されてしまい、そのまま廃道化してしまったケースもある{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=16}}。
=== 海上国道 ===
海上区間のある国道は、俗に「[[海上国道]]」と呼ばれており、本州と北海道を結ぶ津軽海峡や東京湾の横断航路、鹿児島 - 那覇間の南西諸島を結ぶ航路<!--([[国道58号]])-->などいくつか該当する国道区間が存在する{{sfn|浅井建爾|2001|p=52}}。これは、道路法第2条には「道路とは一般の用に供する道で、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等、道路と一体となってその効用を全うする施設、または工作物および道路の付属物で、当該道路に付属して設けられているものを含んだものとする」という[[道路#日本の法律上の定義|道路法上の道路の定義]]があり、たとえば海上であっても1本の交通系統として重要な幹線道路と認められれば、フェリーボートの航路も国道になりえると解釈されるからである{{sfn|浅井建爾|2001|p=52}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=16}}。
また海底に掘られた道路トンネルが国道に指定されているところもあり、本州と九州を結ぶ関門海峡の海底道路トンネルである[[国道2号]]の[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]は、車道部とは独立した人道トンネルがあり、両陸地の地上と海底の人道トンネルを結ぶ[[エレベーター]]自体も、道路法第2条の解釈により「工作物および道路の付属物」に該当する道路施設として橋やトンネル同様に国道の一部として扱われている{{sfn|浅井建爾|2015|p=20}}。
=== 高規格幹線道路 ===
[[国道30号]]の海上部分(宇野港 - 高松港)は、[[バイパス道路]]である[[瀬戸中央自動車道]]の通行料金の高さから[[四国旅客鉄道|JR四国]]の[[宇高連絡船]]廃止後も[[2008年]](平成20年)3月までは3社で合計一日100便以上のフェリー便が運航されていたが、[[2009年]](平成21年)3月から始まった瀬戸中央自動車道の休日割引等の影響で大幅減便となった<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkei.com/article/DGXNASJB2003Q_Q2A220C1LA0000/|title= 本四高速値下げ、歓迎と困惑が交錯|newspaper= 日本経済新聞 電子版|publisher= 日本経済新聞社|date= 2012/2/21|accessdate= 2017-09-13|author=嶋田有}}</ref>。まず、2009年4月に[[津国汽船]](本四フェリー)が撤退した<ref name="sanyo2017"/>。他の2社もいったんは航路廃止を表明しつつも、その後撤回し、ダイヤ調整などを行って存続を図ったが、[[2012年]]10月<!--17日-->をもって[[宇高国道フェリー]]が航路休止した<ref name="sanyo2017">{{Cite news|url=http://www.sanyonews.jp/article/466902/1/|title=宇高航路が1日5往復に半減 低迷止まらず、17年4月から|date=2016-12-27|accessdate=2017-9-13|newspaper=山陽新聞デジタル|publisher=山陽新聞社}}</ref>。さらに、[[四国フェリー]]も2017年4月現在、1日5便にまで減便したものの業績の悪化が著しく、2019年12月16日より運航を休止した<ref>{{Cite news|url=http://www.shikokuferry.com/wp/wp-content/uploads/2019/04/uno-oshirase.pdf|title=高松・宇野航路の運航休止のお知らせ|}}</ref>。
他方、建設費の調達や償還などの都合から事実上[[高速自動車国道]]と同様の[[道路構造令|構造規格]]で建設されているにもかかわらず、一般国道のバイパス([[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道自動車専用道路]])として建設され、[[高規格幹線道路]]として機能している路線もある。高速自動車国道の建設にあたっては多大な手続きが必要なため、一般国道バイパス予算で国土交通省が整備し、実質的に高速自動車国道の一部として機能する[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]もある。
国道は上記の通り国と都道府県・市の二元管理が行われているが、道路は[[劣化]]するため[[舗装]]などの維持整備に多額の支出が起こり、[[地方公共団体|自治体]]の支出増大の一因となっている。国の[[財政]]もまた悪化しており国道設置は新たな[[補助金]]支出につながるため、1993年の指定を最後に新設による[[都道府県道]]の国道昇格{{efn|バイパス道路の開通や[[線形 (路線)|線形]]改良に伴う経路変更によって都道府県道が既存の国道に昇格するケースはこれ以降も見られる。}}が行われなくなっている。
== 標識 ==
[[Image:Japan National Route Sign Unit Drawing.svg|thumb|right|「118-A: 国道番号」(寸法の単位: mm)<ref>{{Cite book |和書 |author=全国道路標識・標示業協会(編) |title=道路標識ハンドブック |year=2004 |publisher=全国道路標識・標示業協会 |id={{NDLBibID|000007499163}}}}</ref>]]
[[Image:国道372号線S-P7125049.jpg|thumb|right|「118-C: 国道番号」と「118の2-C: 都道府県道番号」<br />一般国道371号の標識]]
一般国道の標識は『[[道路標識、区画線及び道路標示に関する命令]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=335M50004002003 |title=道路標識、区画線及び道路標示に関する命令 |accessdate=2006-09-24 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref>』(以下、本節では「標識令」と呼ぶ)で定められている。この標識の正式名称は「国道番号」であり、命令では「118-A」・「118-B」・「118-C」の分類番号が与えられている。「118-A」の形状は丸みを帯びた下向きの[[三角形]]で、国道の愛好家は標識の形状から「[[おにぎり]]」または「おむすび」と呼ぶことがある{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=159}}。「国道番号」標識は命令が施行された[[1960年]](昭和35年)当時から設置が開始された標識である{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=214}}。これには、上から順に「国道」の文字、路線番号、「ROUTE」の文字が3段で描かれている{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=163}}。古いものや地方の一部では紺の近似色のものも見られるが、国道番号標識の青色は[[JIS規格]]で定められた色であり、全国的に統一されている{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=163}}。最初期の国道番号標識の文字は手書きされており{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=163}}、かつて字体は様々存在したが、現在では数字が[[ヘルベティカ]]、国道の文字が[[丸ゴシック体]]にほぼ統一されている{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=159}}。他の標識に合わせた色・文字体変更がなされたが、形状は変更されていない。
国道番号の標識は、すべての一般国道路線上に設置されているとは限らず、[[首都圏中央連絡自動車道]](国道468号)、[[東海環状自動車道]](国道475号)、[[西九州自動車道]](国道497号)のような[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道の自動車専用道路]]の一部の路線に設置されていない場合もある{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=160–161}}。
地方により標識の形態や大きさも様々な特色あるものが見られる。右図は、設計速度40 - 60 [[キロメートル毎時|km/h]]の一般国道でみられる標準的な寸法のものであるが、広島市など、中国地方の一部で幅1メートルを超えるような標識が時折みられる{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=163}}。東京都心部ではバックライトが埋め込まれ夜間に発光する字光式、政令指定都市である静岡市や仙台市の一部や、福島県などで四角いプレートに描かれたもの、三重県ではステッカー式のものなどがある{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=163–166}}。
また、右下図のような「118-B」・「118-C」の標識も標識令において定められている。
{{-}}
== 一般国道の記録 ==
; 距離が最も長い国道(陸上区間): [[国道4号]] - [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]] - [[青森県]][[青森市]]間の742.5 km(現道の実延長){{sfn|浅井建爾|2015|p=i}}。
; 距離が最も長い国道(総延長) : [[国道58号]] - [[鹿児島県]][[鹿児島市]] - [[沖縄県]][[那覇市]]の879.6 km。このうち、海上区間は約70 %にあたる609.5 km{{sfn|浅井建爾|2015|p=i}}。
; 距離が最も短い国道(陸上区間) : [[国道174号]] - [[神戸港]] - 国道2号間の187.1 m{{sfn|浅井建爾|2015|p=i}}{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=137}}。その次に短いのは[[岩国飛行場|岩国空港]]と結ばれる[[国道189号]](372 m)、その次に短いのは[[東京港]]と結ばれる[[国道130号]](482 m)で、いずれも[[港国道]]である{{sfn|浅井建爾|2001|p=49}}。
; トンネルが最も多い国道 : [[国道229号]] - [[北海道]][[小樽市]] - [[檜山郡]][[江差町]]間に76箇所の[[トンネル]]がある{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=146}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}。
; 橋が最も多い国道 : [[国道2号]] - [[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]] - [[北九州市]][[門司区]]間に1279箇所の[[橋]]がある{{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}。
; 最も長い国道トンネル : [[国道409号]] - [[アクアトンネル]](東京湾アクアライン)の全長9,610 m。なお、2位は[[国道140号]]の[[雁坂トンネル]](6,625 m)、3位は[[国道423号]]の[[箕面トンネル (箕面有料道路)|箕面トンネル]](5,620 m){{sfn|佐藤健太郎|2015|p=169}}。
=== 区間 ===
; 幅が最も広い区間 : [[国道357号]] - 東京都[[品川区]][[八潮 (品川区)|八潮]] - [[大田区]][[東海 (大田区)|東海]]間の幅100 m{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=142}}。なお、2位は[[国道423号]]の大阪市[[淀川区]]内(幅95 m)、3位は[[国道298号]]の千葉県[[松戸市]]内(幅71.5 m)である{{sfn|浅井建爾|2001|p=55}}。
; 幅が最も狭い区間 : [[国道339号]] - ただし公式の記録は無く、実質的には[[階段国道]]下の路地区間であるといわれている{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=142–143}}。
; 最も長い直線区間 : [[国道12号]] - 北海道[[美唄市]]光珠内町 - [[滝川市]]新町間の約29 km区間{{sfn|浅井建爾|2015|p=i}}。
; 最も長い重複区間 : [[国道229号]]・[[国道276号]]の北海道江差町 - [[岩内町]]間の約161 km区間{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=143}}。
; 重複路線数が最も多い区間 : 6路線の国道が重複する次の3区間。[[新潟市]]東港線十字路 - 本町1丁目(国道7号・8号・17号・113号・289号・350号)、愛媛県[[松山市]]勝山 - 松山市役所前(国道11号・33号・317号・379号・440号・494号)、[[高知市]]中宝永町 - 高知県庁前(国道32号・55号・56号・195号・197号・493号){{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=143–144}}。
=== 地点 ===
; 標高が最も高い地点 : [[国道292号]] - [[長野県]]と[[群馬県]]の県境の[[渋峠]]にある標高2,178 m地点{{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=139}}。なお、2位は[[国道299号]]の長野県・[[麦草峠]](標高2,120 m){{sfn|浅井建爾|2001|p=48}}、3位は[[国道120号]]の[[金精トンネル]]である{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=140}}。
; 標高が最も低い地点 : [[国道409号]] - [[東京湾アクアライン]]の[[東京湾]]の[[水底トンネル|海底]]にあるアクアトンネルで、海面下60 m地点{{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=141}}。なお、2位は[[国道2号]][[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]](海面下56 m地点)、3位が[[国道357号]][[東京港トンネル]](海面下34 m){{sfn|佐藤健太郎|2015|p=169}}。
; 最北端の地点 : [[国道238号]] - 北海道[[稚内市]]の[[宗谷岬]]にある北緯45度31分、東経141度56分の地点{{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}。
; 最南端の地点 : [[国道390号]] - 沖縄県[[石垣市]]([[石垣島]])の中心市街地にある北緯24度9分、東経124度9分の地点{{sfn|浅井建爾|2015|p=iii}}。
; 最東端の地点 : [[国道44号]] - 北海道根室市常盤町にある北緯43度19分、東経145度35分の地点{{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}。
; 最西端の地点 : 国道390号 - 国道最南端の地点より西に約1 kmの地点{{sfn|浅井建爾|2015|p=iii}}。
; 交差数が最多の地点 : 8路線の起終点が集まる次の2地点。新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]]の[[本町交差点 (新潟県)|本町交差点]](国道7号・8号・113号・289号・350号・17号・116号・402号)および、高知市の[[県庁前交差点 (高知県)|県庁前交差点]](国道33号・56号・194号・195号・197号・493号・32号・55号){{sfn|浅井建爾|2015|p=ii}}{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=40–42}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤健太郎|authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター)|date=2014-10-20|title=ふしぎな国道|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|isbn=978-4-06-288282-8|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎|date=2015-11-25 |title=国道者 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-339731-1 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|道路}}
{{ウィキプロジェクトリンク|道路}}
{{Commonscat}}
* [[日本の道路]]
* [[日本の道路一覧]]
* [[日本の一般国道一覧]]
* [[水準点]] - 一般国道や現在地方道となった旧国道沿いに設置されている測量の基準点。
* [[都道府県道]]
* [[市町村道]]
{{日本の一般国道一覧}}
{{DEFAULTSORT:いつはんこくとう}}
[[Category:一般国道|*]]
[[Category:日本の道路]]
[[Category:レトロニム]]
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日本の道路一覧
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日本の道路一覧(にほんのどうろいちらん)
北海道 - 東北地方 - 関東地方 - 中部地方 - 近畿地方 - 中国地方 - 四国地方 - 九州・沖縄地方
(59~100は欠番)
(109,110,111は欠番)
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日本の道路一覧(にほんのどうろいちらん)
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'''日本の道路一覧'''(にほんのどうろいちらん)
== 地方別の道路一覧 ==
[[北海道地方の道路一覧|北海道]] - [[東北地方の道路一覧|東北地方]] - [[関東地方の道路一覧|関東地方]] - [[中部地方の道路一覧|中部地方]] - [[近畿地方の道路一覧|近畿地方]] - [[中国地方の道路一覧|中国地方]] - [[四国地方の道路一覧|四国地方]] - [[九州地方の道路一覧|九州・沖縄地方]]
== 種類別の道路一覧 ==
=== 高速道路など ===
* [[日本の高速道路一覧]]
* [[道央自動車道|道央道]] - [[後志自動車道|後志道]] - [[札樽自動車道|札樽道]] - [[道東自動車道|道東道]] - [[日高自動車道|日高道]] - [[深川留萌自動車道|深川留萌道]] - [[旭川紋別自動車道|旭川紋別道]] - [[帯広広尾自動車道|帯広広尾道]] - [[函館江差自動車道|函館江差道]]
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* [[東京外環自動車道|外環道]] - [[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]] - [[関越自動車道|関越道]] - [[上信越自動車道|上信越道]] - [[常磐自動車道|常磐道]] - [[館山自動車道|館山道]] - [[東京湾アクアライン]] - [[京葉道路]] - [[東関東自動車道|東関東道]] - [[北関東自動車道|北関東道]] - [[新空港自動車道|新空港道]]
* [[東名高速道路|東名高速]] - [[中央自動車道|中央道]] - [[長野自動車道|長野道]] - [[北陸自動車道|北陸道]] - [[東海北陸自動車道|東海北陸道]] - [[能越自動車道|能越道]] - [[中部縦貫自動車道|中部縦貫道]] - [[中部横断自動車道|中部横断道]] - [[伊豆縦貫自動車道|伊豆縦貫道]] - [[三遠南信自動車道|三遠南信道]] - [[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道]] - [[名古屋第二環状自動車道|名二環]] - [[東名阪自動車道|東名阪道]] - [[伊勢自動車道|伊勢道]] - [[東海環状自動車道|東海環状道]] - [[新東名高速道路|新東名高速]]
* [[名神高速道路|名神高速]] - [[西名阪自動車道|西名阪道]] - [[近畿自動車道|近畿道]] - [[阪和自動車道|阪和道]] - [[紀勢自動車道|紀勢道]] - [[新名神高速道路|新名神高速]] - [[舞鶴若狭自動車道|舞鶴若狭道]] - [[京都縦貫自動車道|京都縦貫道]] - [[京奈和自動車道|京奈和道]] - [[関西空港自動車道|関空道]] - [[京滋バイパス]] - [[第二京阪道路|第二京阪]] - [[琵琶湖西縦貫道路|湖西道路]] - [[南阪奈道路]]
* [[中国自動車道|中国道]] - [[山陽自動車道|山陽道]] - [[播磨自動車道|播磨道]] - [[鳥取自動車道|鳥取道]] - [[岡山自動車道|岡山道]] - [[米子自動車道|米子道]] - [[尾道自動車道|尾道道]] - [[松江自動車道|松江道]] - [[広島自動車道|広島道]] - [[浜田自動車道|浜田道]] - [[山陰自動車道|山陰道]] - [[西神自動車道|西神道]] - [[尾道福山自動車道|尾道福山道]] - [[東広島呉自動車道|東広島呉道]] - [[北近畿豊岡自動車道|北近畿豊岡道]]
* [[神戸淡路鳴門自動車道|神戸淡路鳴門道]] - [[瀬戸中央自動車道|瀬戸中央道]] - [[西瀬戸自動車道|西瀬戸道]]
* [[徳島自動車道|徳島道]] - [[松山自動車道|松山道]] - [[高松自動車道|高松道]] - [[高知自動車道|高知道]] - [[今治小松自動車道|今治小松道]] - [[高知東部自動車道|高知東部道]]
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==== 地域高規格道路 ====
* [[地域高規格道路一覧]]
==== 一般有料道路 ====
* [[日本の一般有料道路一覧]]
* [[無料開放された道路一覧]]
* [[その他の自動車専用道路一覧]]
=== 一般国道 ===
* [[日本の一般国道一覧]]
* [[日本のバイパス道路一覧]]
==== 1~58 ====
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(59~100は欠番)
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([[国道57号|214~216]]は欠番)
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(508以降は2014年現在 指定されていない)
=== 都道府県道 ===
* [[北海道の道道一覧|北海道道]]
* [[青森県の県道一覧|青森県道]]、[[岩手県の県道一覧|岩手県道]]、[[宮城県の県道一覧|宮城県道]]、[[秋田県の県道一覧|秋田県道]]、[[山形県の県道一覧|山形県道]]、[[福島県の県道一覧|福島県道]]
* [[茨城県の県道一覧|茨城県道]]、[[栃木県の県道一覧|栃木県道]]、[[群馬県の県道一覧|群馬県道]]、[[埼玉県の県道一覧|埼玉県道]]、[[千葉県の県道一覧|千葉県道]]、[[東京都の都道一覧|東京都道]]、[[神奈川県の県道一覧|神奈川県道]]
* [[山梨県の県道一覧|山梨県道]]、[[長野県の県道一覧|長野県道]]、[[新潟県の県道一覧|新潟県道]]、[[富山県の県道一覧|富山県道]]、[[石川県の県道一覧|石川県道]]、[[福井県の県道一覧|福井県道]]、[[岐阜県の県道一覧|岐阜県道]]、[[静岡県の県道一覧|静岡県道]]、[[愛知県の県道一覧|愛知県道]]
* [[三重県の県道一覧|三重県道]]、[[滋賀県の県道一覧|滋賀県道]]、[[京都府の府道一覧|京都府道]]、[[大阪府の府道一覧|大阪府道]]、[[兵庫県の県道一覧|兵庫県道]]、[[奈良県の県道一覧|奈良県道]]、[[和歌山県の県道一覧|和歌山県道]]
* [[鳥取県の県道一覧|鳥取県道]]、[[島根県の県道一覧|島根県道]]、[[岡山県の県道一覧|岡山県道]]、[[広島県の県道一覧|広島県道]]、[[山口県の県道一覧|山口県道]]
* [[徳島県の県道一覧|徳島県道]]、[[香川県の県道一覧|香川県道]]、[[愛媛県の県道一覧|愛媛県道]]、[[高知県の県道一覧|高知県道]]
* [[福岡県の県道一覧|福岡県道]]、[[佐賀県の県道一覧|佐賀県道]]、[[長崎県の県道一覧|長崎県道]]、[[熊本県の県道一覧|熊本県道]]、[[大分県の県道一覧|大分県道]]、[[宮崎県の県道一覧|宮崎県道]]、[[鹿児島県の県道一覧|鹿児島県道]]、[[沖縄県の県道一覧|沖縄県道]]
=== その他の道路 ===
* [[日本の林道一覧]]
* [[日本の農道一覧]]
* [[日本の自転車道一覧]]
* [[日本の通り一覧]]
** [[札幌市内の通り|札幌市内の通り一覧]]
** [[京都市内の通り|京都市内の通り一覧]]
** [[大阪市内の筋・通一覧]]
== 道路施設 ==
* [[日本のインターチェンジ一覧]]
** [[日本のインターチェンジ一覧 あ行|あ行]] [[日本のインターチェンジ一覧 か行|か行]] [[日本のインターチェンジ一覧 さ行|さ行]] [[日本のインターチェンジ一覧 た行|た行]] [[日本のインターチェンジ一覧 な行|な行]] [[日本のインターチェンジ一覧 は行|は行]] [[日本のインターチェンジ一覧 ま行|ま行]] [[日本のインターチェンジ一覧 や-わ行|や-わ行]]
* [[日本のサービスエリア・パーキングエリア一覧]]
** [[日本のサービスエリア・パーキングエリア一覧 (道路別)]]
* [[道の駅一覧]]
** [[道の駅一覧 あ行|あ行]] [[道の駅一覧 か行|か行]] [[道の駅一覧 さ行|さ行]] [[道の駅一覧 た行|た行]] [[道の駅一覧 な行|な行]] [[道の駅一覧 は行|は行]] [[道の駅一覧 ま行|ま行]] [[道の駅一覧 や-わ行|や-わ行]]
** ''各地方ごとの道の駅一覧は[[道の駅一覧]]を参照されたい。''
== 関連項目 ==
* [[国道]]
* [[車道]]
[[Category:日本の道路一覧|*いちらん]]
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ナルニア国
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ナルニア国(ナルニアこく、Narnia)は、C・S・ルイスの児童文学「ナルニア国ものがたり」に登場する架空の国。アーケン国の北、荒地地帯の南に位置する国。王都はケア・パラベル。イタリア・ウンブリア州のナルニに由来する。
南方をカロールメン砂漠、北方を泥人荒地、西方を世果山脈、東方をアスラン海によって隔離されたナルニア地方のうち、南側の山がちな部分がアーケン国、北側の平野部がナルニア国である。
国土は西と南の山地を除いてはほぼ平野であり、街灯跡野、ドリアード森林地帯をへて、海に至る。
気候は温帯に属するが、北方と山地の一部は亜寒帯に属する。
公用語は英語。宗教は、ナルニア国の創造主であり「海の彼方の大帝の息子」、「森の王」、「王の王」とも呼ばれる巨大なライオン、アスランを信仰するアスラン教。異教の排斥が周辺国、特にカロールメンから批判されている。
魔法が存在するが、用いる事が出来るのはアスランや魔女など一部の者のみ。
政教一致王政。テルマール占領以来、貴族制がある。王になれるのは人間種だけである。
社会はおおむね安定しているが、小人族は分離独立指向が強い。北方からは巨人国、南方はカロールメンからの脅威があるが、前者が散発的・偶発的なのに対し、後者は計画的にナルニア占領を画策している。ナルニアはそれに対し、要塞を整備しているが、本格的な軍備増強はなされていない。
カロールメンとは宗教的に対立している。その背景に、ナルニアの政教一致政体と、その下でのタシ教排斥がある。カロールメンはその是正を求めているが、ナルニアは一貫して無視しているために、交渉は決裂している。
経済的には余り見るべき産物はない。自給自足であるが、カロールメンへは馬、金銀などを輸出し、油・絨毯などを輸入している。奴隷、および物言う獣の輸出は禁止されている。
創世主アスランがナルニアを含めた全世界を無から作り出した。その際、滅び行く世界「チャーン」から邪悪な女帝ジェイディスが入り込んだがアスランの姿を見ると辺境へ逃れた。アスランはロンドンの馬車屋であったフランクをナルニアの王に就けフランク朝が成立。フランク5世の時、王の次男コールがナルニアの南方を開拓しアーケン国を興した。フランク9世(疾風王)の時、離れ島諸島をナルニア領とした。
やがてフランク朝が衰えると、それに乗じて北方から白い魔女(ジェイディス)が侵入。ナルニアを制圧し、魔法により百年もの間、全土を冬とした。そのため、この時代を「冬の時代」と呼ぶ。魔女は密告と刑罰によって恐怖政治を敷いたため、ナルニアにはレジスタンス運動が発生した。そのレジスタンス運動を指揮したのが、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーのペベンシー4兄弟姉妹である。彼らは国民の不満を結集し、ついに魔女をベルナで打ち破り(第一次ベルナの戦い)、王都ケア・パラベルを回復、王位に就いた。長兄ピーターは開明君主として評され、“一の王ピーター”とも呼ばれる。ペベンシー朝は北方の巨人族を打ち破り、同盟国であるアーケン国に侵攻したカロールメンを撃退、また海外にまで植民地を建設するなど、ナルニアの黄金時代であった。しかしペベンシー兄弟姉妹は街灯あと野での狩の途中、行方不明になり、ナルニアは混乱期を迎える。
これ以後ナルニアは小国が乱立し、小規模な戦闘が繰り返される時代が続いたが、その分立状態にピリオドを打ったのがカスピアン1世率いるテルマールによる占領である。テルマール人は、もと南太平洋の海賊で、とある島の洞穴を経てナルニアの西方テルマールに移り住んだ者達の子孫である。ナルニアを掌握した彼らはベルナに新都を築き、人間以外を弾圧する政策を進めたため、小人や獣達は地下に潜る。カスピアン9世の弟ミラースは、実兄である王を暗殺し王位に就いた。その後、実子が生まれた事をきっかけに、王位継承権を持つカスピアン9世の実子カスピアン10世の暗殺を試みるが、カスピアン10世はかろうじて王宮を脱出し、レジスタンスに身を投じる。カスピアン10世はペベンシー兄弟の助けを得て、叔父ミラースを破り(第二次ベルナの戦い)、もの言う獣達の国を再建。また、朝びらき丸に乗り込み、この世の東の果てを目指した航海王としても知られる。
以降王朝はカスピアン10世の子リリアンから、その来孫エルリアンまで200年以上続くが、エルリアンの子チリアン王の時に「アスランとその従者」を僭称する毛ザルのヨコシマ、ロバのトマドイ(トマドイがライオンの皮を被った)がカロールメンと通じ侵攻を手助けする。ケア・パラベルが陥落し、ナルニアはカロールメン領になるかと思われた。しかし、ナルニアの存在する世界そのものが終わりの時を迎え、ナルニア人、アーケン人、カロールメン人のどれも等しく滅びた。
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ナルニア国(ナルニアこく、Narnia)は、C・S・ルイスの児童文学「ナルニア国ものがたり」に登場する架空の国。アーケン国の北、荒地地帯の南に位置する国。王都はケア・パラベル。イタリア・ウンブリア州のナルニに由来する。
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'''ナルニア国'''(ナルニアこく、Narnia)は、[[C・S・ルイス]]の児童文学「[[ナルニア国ものがたり]]」に登場する架空の国。アーケン国の北、荒地地帯の南に位置する国。王都はケア・パラベル。イタリア・[[ウンブリア州]]の[[ナルニ]]に由来する。
== 地理 ==
南方をカロールメン砂漠、北方を泥人荒地、西方を世果山脈、東方をアスラン海によって隔離されたナルニア地方のうち、南側の山がちな部分がアーケン国、北側の平野部がナルニア国である。
国土は西と南の山地を除いてはほぼ平野であり、街灯跡野、ドリアード森林地帯をへて、海に至る。
気候は[[温帯]]に属するが、北方と山地の一部は[[亜寒帯]]に属する。
== 言語と宗教 ==
[[公用語]]は英語。宗教は、ナルニア国の創造主であり「海の彼方の大帝の息子」、「森の王」、「王の王」とも呼ばれる巨大なライオン、[[アスラン (ナルニア国ものがたり)|アスラン]]を信仰するアスラン教。異教の排斥が周辺国、特にカロールメンから批判されている。
[[魔法]]が存在するが、用いる事が出来るのはアスランや魔女など一部の者のみ。
== 民族 ==
* 人型種として人間、[[ドワーフ|小人]](黒小人、赤小人)、[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]、[[魔女]]など。
* 混在種として[[ケンタウロス|セントール(ケンタウロス)]])、[[フォーン]]など。
* 精霊種として[[ドリュアス|ドリアード(木の精)]]、[[ナーイアス|ナイアード(水の精)]]、星の精など。
* 動物種として[[クマ|熊]]、[[イヌ|犬]]、[[鷲]]、[[アライグマ]]、[[ビーバー]]、[[ネコ|猫]]、[[ロバ]]、[[サル|猿]]、[[フクロウ|梟]]など。
* 水生種として沼人。
== 政治社会 ==
[[政教分離原則|政教一致]][[王政]]。テルマール占領以来、貴族制がある。王になれるのは人間種だけである。
社会はおおむね安定しているが、小人族は分離独立指向が強い。北方からは巨人国、南方はカロールメンからの脅威があるが、前者が散発的・偶発的なのに対し、後者は計画的にナルニア占領を画策している。ナルニアはそれに対し、要塞を整備しているが、本格的な軍備増強はなされていない。
カロールメンとは宗教的に対立している。その背景に、ナルニアの政教一致政体と、その下でのタシ教排斥がある。カロールメンはその是正を求めているが、ナルニアは一貫して無視しているために、交渉は決裂している。
経済的には余り見るべき産物はない。自給自足であるが、カロールメンへは馬、金銀などを輸出し、油・絨毯などを輸入している。奴隷、および物言う獣の輸出は禁止されている。
== 歴史 ==
創世主アスランがナルニアを含めた全世界を無から作り出した。その際、滅び行く世界「チャーン」から邪悪な女帝ジェイディスが入り込んだがアスランの姿を見ると辺境へ逃れた。アスランはロンドンの馬車屋であったフランクをナルニアの王に就けフランク朝が成立。フランク5世の時、王の次男コールがナルニアの南方を開拓しアーケン国を興した。フランク9世(疾風王)の時、離れ島諸島をナルニア領とした。
やがてフランク朝が衰えると、それに乗じて北方から白い魔女(ジェイディス)が侵入。ナルニアを制圧し、魔法により百年もの間、全土を冬とした。そのため、この時代を「冬の時代」と呼ぶ。魔女は密告と刑罰によって恐怖政治を敷いたため、ナルニアには[[レジスタンス運動]]が発生した。そのレジスタンス運動を指揮したのが、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーのペベンシー4兄弟姉妹である。彼らは国民の不満を結集し、ついに魔女をベルナで打ち破り([[第一次ベルナの戦い]])、王都ケア・パラベルを回復、王位に就いた。長兄ピーターは開明君主として評され、“一の王ピーター”とも呼ばれる。ペベンシー朝は北方の巨人族を打ち破り、同盟国であるアーケン国に侵攻したカロールメンを撃退、また海外にまで植民地を建設するなど、ナルニアの黄金時代であった。しかしペベンシー兄弟姉妹は街灯あと野での狩の途中、行方不明になり、ナルニアは混乱期を迎える。
これ以後ナルニアは小国が乱立し、小規模な戦闘が繰り返される時代が続いたが、その分立状態にピリオドを打ったのがカスピアン1世率いるテルマールによる占領である。テルマール人は、もと[[南太平洋]]の海賊で、とある島の洞穴を経てナルニアの西方テルマールに移り住んだ者達の子孫である。ナルニアを掌握した彼らはベルナに新都を築き、人間以外を弾圧する政策を進めたため、小人や獣達は地下に潜る。カスピアン9世の弟ミラースは、実兄である王を暗殺し王位に就いた。その後、実子が生まれた事をきっかけに、王位継承権を持つカスピアン9世の実子カスピアン10世の暗殺を試みるが、カスピアン10世はかろうじて王宮を脱出し、レジスタンスに身を投じる。カスピアン10世はペベンシー兄弟の助けを得て、叔父ミラースを破り([[第二次ベルナの戦い]])、もの言う獣達の国を再建。また、朝びらき丸に乗り込み、この世の東の果てを目指した航海王としても知られる。
以降王朝はカスピアン10世の子リリアンから、その来孫エルリアンまで200年以上続くが、エルリアンの子チリアン王の時に「アスランとその従者」を僭称する毛ザルのヨコシマ、ロバのトマドイ(トマドイがライオンの皮を被った)がカロールメンと通じ侵攻を手助けする。ケア・パラベルが陥落し、ナルニアはカロールメン領になるかと思われた。しかし、ナルニアの存在する世界そのものが終わりの時を迎え、ナルニア人、アーケン人、カロールメン人のどれも等しく滅びた。
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盆踊り
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盆踊り(ぼんおどり)は、日本において、盆の時期に先祖を供養する行事、またその行事内で行われる踊り。起源については諸説ある。
仏教・神道の影響を受けつつも世俗的な性格を強めていった盆踊りは、江戸時代初頭に絶頂を迎えるが、明治時代期には風紀を乱すとして警察による取締りの対象となった。
21世紀に入り、日本各地の盆踊りが重要無形民俗文化財ならびに選択無形民俗文化財の指定を受けている。その一方で、盆踊りは音楽の一ジャンルとして、ポピュラー音楽のなかで命脈を保っている。
盆踊りは日本国内にとどまらず、南北アメリカ・太平洋地域・東アジア・東南アジアでも行われている。
誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがある。前者は、広場の中央に櫓を立て、やぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的である。盆踊りの伴奏音楽としては多く音頭が奏でられる。近年は録音された音頭を電気的に再生して行うことが主流になっている。
歴史的には村落社会において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たした。そのため、各地にご当地音頭も多く存在し、自治体や商工会などが作成したオリジナルの地域的音頭も増えている。明治以前は歌垣などの風習に結びついていた。お盆の時期に行われるが、宗教的意味合いは薄く、農村や庶民の娯楽として楽しまれてきた。江戸時代には盛況しすぎるため一揆につながらないよう、幕府が場所や時間を規制するほどであった。
明治政府は、男女が夜通し騒ぐ、女装・男装するなどの行事は近代国家に相応しくないとして、1874年に盆踊り禁止令を出し、20世紀初頭には存在しているのかさえ不明なほど衰退したが、復活が叫ばれるようになり、大正末期から農村娯楽として奨励されはじめ、再び盛んになっていった。もともと盆踊りがなかった土地でも新作して踊るところもあり、町内会の祭り行事としてだけでなく、阿波踊りやエイサーなど、一地方の盆踊りから全国に広まったものもある。
夏休みの間の大きなイベントの一つである。かつては夜通しで行われることも多かったが、近年は治安維持のため深夜まで行われることは少なくなっている。
20世紀に入ると、初音家太三郎を始めとした「音頭取り」と呼ばれる人々によって河内音頭の近代化・継承が行われるなどの動きも見られた。21世紀に入ってからも音頭取りによる継承のほか、国内外各地の盆踊りの会や教室によって盆踊りの継承が図られている。
2020年2月19日、文化審議会は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録を目指す国内候補に「風流踊(ふりゅうおどり)」を選んだ。盆踊りや念仏踊りなどとして伝承された23都府県の37件をまとめて一つの遺産とみなし、3月末までに政府がユネスコに申請書を提出。2022年11月ごろのユネスコ政府間委員会で登録可否が審査される見通し。
盆踊りはもともとは仏教の盂蘭盆会であるとする説、歌垣の遺風とする説、原始信仰の儀式だったとする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは室町時代と言われる。平安時代、空也上人によって始められた踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという。
踊り念仏は、鎌倉時代には一遍上人が全国に広めたが、一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こした。それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになった。室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されている。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊る。口説きは、地区の伝統でもある。初盆の家を各戸を回って踊る所もある。昔は旧暦の7月15日に行われていた。ゆえに、盆踊りはいつも満月であった。
鎌倉時代以降、経済力や自治力を得た民衆により新奇な趣向が次々に考案され、江戸時代初頭には絶頂を極めることになる。江戸では7月に始まり連日踊り明かしながら10月にまで続いた。次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、念仏講、御詠歌講など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。明治時代にはしばしば風紀を乱すとして警察の取締りの対象となって一時は激減していた。盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びつき広まり、ざこ寝堂はほとんど全国の農村には存在した。これは昭和時代に至っても続いていた。
出雲阿国による一風変わった男装の念仏踊りは歌舞伎踊りと言われた(歌舞伎のかぶくとは、「常識外れ」や「異様な風体」と言う意味)。以後、歌舞伎など様々な芸能へと派生していったが、歌舞伎も売春を伴い幕府より厳しく取り締まりを受けていたことから鑑み、盆踊りに限定されず芸能全般に性が結びついた江戸文化風俗の一端と言える。
伝統的には、やぐらの上の太鼓方、音頭取りならびに踊り子は浴衣を着用することが多いが、一般参加者はカジュアルな平服でも良い。踊り手が同じグループである場合、揃いの浴衣を着ることが多い。また、団扇を背中の帯に差し込んでおくこともある。男性は、鉢巻をし、腰に印籠をぶら下げて踊ることもある。
地方によっては、狐などの仮面をつけて踊る場合や、舞台化粧並の厚化粧をして華やかな衣装で踊る場合がある。
国指定の重要無形民俗文化財ならびに国の選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択された盆踊りを列挙する。
代表的な楽曲(50音順)
南米のブラジルには、マツリ・ダンスというブラジル風に進化した盆踊りがある。日系3世のグループ「グループ・サンセイ」が始めたもので、J-popなどの曲に合わせて、全員で同じ振り付けを盆踊りのように繰り返して踊る。日本の盆踊りのように輪になって踊ることもあれば、観客がその場で一斉に踊る場合もある。1988年にロンドリーナ市の日系人のカラオケ教師が考案したものだが、2000年代に入ってから日本関連のイベントで踊られるようになり、ブラジル各地の日系コミュニティやアニメイベントなどを通じて広まった。
アルゼンチンでも1960年代、日系人が行っていた盆踊りが各地に残っており、なかでもラプラタで行われるものは最大級の規模になっている。
北米のアメリカ合衆国のハワイ州、カリフォルニア州、ニューヨーク州、カナダのブリティッシュ・コロンビア州など日系人が多い地域で、夏にBon Dance(盆踊り)が行われる。
特にハワイ州で盛んで、主要5島(東からカウアイ島、オアフ島、モロカイ島、マウイ島、ハワイ島)で6月から8月の金曜日を含めた週末の夕方に行われており、新聞・雑誌などでも毎年スケジュールが発表される。 仏教ミッション(小規模のお寺)で行われる場合が多く、過去一年以内に亡くなった人々の家族の焼香などの仏事が先立つこともあるが、ほとんどは宗教色がない。神社(「夏祭り」)やショッピングセンターで行われることもある。踊りは1時間から2時間の間に20曲くらいが録音で演奏され、同じ曲が繰り返されることは少ない。地域差はあるが、ハワイ島西部では通常「炭坑節」で始まり、途中「河内おとこ節」ではバチが配られてそれを持って踊り、会の初めに寄付金を納めるときに配られる手ぬぐいを持って踊る「ゆかた音頭」もあり、アメリカ発の「Beautiful Sunday」などの歌が使われたり、ハワイ州では広島県・山口県・熊本県・沖縄県からの移住者が他県よりずば抜けて多いので 歌に特徴がある沖縄の歌「安里屋ユンタ」や「遊び庭」(あしびなー)などで踊ったり、最近では子供向けの「ポケモン音頭」や若者向けにズンバを踊ったり、最後は「福島音頭」 で終わることが多い。また、太鼓隊がヤグラを囲んで景気を付けるのが通例である。ハワイ州は異人種間結婚(英語版)が進んでいることから、見るからの日系人もハオレ(英語版)(白人)も、ハワイ人も器用に踊るのが見られる。特に盛んな地域では事前に練習会も行われている。
シンガポールでは、毎年8月中旬の土曜日15時~21時に日本人学校小学部チャンギ校で、小学部クレメンティ校も含めた「夏祭り」の一環として盆踊りが行われる。祭り全体は、ダンスクラブの子どもたちの各種ダンスや、同好会の大人たちのフラ、マレーダンスなどの後、メインイベントとして盆踊りが同踊同好会の人々がやぐらの上で、ローカルの人々がその周りで、様々な民謡・歌に合わせて一体となって踊り、盛り上がる。
中国では、香港で見世物としての盆踊りが行われてきた。近年、中国大陸上海など大都市のショッピングセンターで、始めは日本留学・旅行帰りの人々を中心に、最近はそうでない人々も参加して盆踊りを含む「夏祭り」行事が行われてきたが、極く最近はそうした活動が「文化的侵略」としてSNSで批判を浴びて中止が報告されている。台湾では盆踊りは行われていない。韓国でも、盆踊りはない。
フィリピンでは、観光客も多いセブ島でセブ日本人会がセブ市の協力も得て、Bon Odoriイベントを2014年から開催してきた。コスプレ・コンテストやカラオケ大会、簡易レストランも出る総合的なまつりとなっている。
マレーシアでは、日本文化の紹介や草の根交流を目的として、1977年より日本人学校や在マレーシア日本大使館が盆踊り大会を首都クアラルンプールなどで開催しており、在留日本人やイスラム教徒のマレー人、華人を含めた3万5000人以上が参加する夏の風物詩となっている。2022年6月8日にはイドリス・アフマド(英語版)首相府相(宗教担当)が盆踊りは仏教に影響されているとして、同年7月16日に開催が予定されたイベントにイスラム教徒が参加しないよう忠告すると表明したことが波紋を広げた。
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"text": "盆踊り(ぼんおどり)は、日本において、盆の時期に先祖を供養する行事、またその行事内で行われる踊り。起源については諸説ある。",
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"text": "仏教・神道の影響を受けつつも世俗的な性格を強めていった盆踊りは、江戸時代初頭に絶頂を迎えるが、明治時代期には風紀を乱すとして警察による取締りの対象となった。",
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"text": "21世紀に入り、日本各地の盆踊りが重要無形民俗文化財ならびに選択無形民俗文化財の指定を受けている。その一方で、盆踊りは音楽の一ジャンルとして、ポピュラー音楽のなかで命脈を保っている。",
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"text": "誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがある。前者は、広場の中央に櫓を立て、やぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的である。盆踊りの伴奏音楽としては多く音頭が奏でられる。近年は録音された音頭を電気的に再生して行うことが主流になっている。",
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"text": "歴史的には村落社会において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たした。そのため、各地にご当地音頭も多く存在し、自治体や商工会などが作成したオリジナルの地域的音頭も増えている。明治以前は歌垣などの風習に結びついていた。お盆の時期に行われるが、宗教的意味合いは薄く、農村や庶民の娯楽として楽しまれてきた。江戸時代には盛況しすぎるため一揆につながらないよう、幕府が場所や時間を規制するほどであった。",
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"text": "明治政府は、男女が夜通し騒ぐ、女装・男装するなどの行事は近代国家に相応しくないとして、1874年に盆踊り禁止令を出し、20世紀初頭には存在しているのかさえ不明なほど衰退したが、復活が叫ばれるようになり、大正末期から農村娯楽として奨励されはじめ、再び盛んになっていった。もともと盆踊りがなかった土地でも新作して踊るところもあり、町内会の祭り行事としてだけでなく、阿波踊りやエイサーなど、一地方の盆踊りから全国に広まったものもある。",
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"text": "夏休みの間の大きなイベントの一つである。かつては夜通しで行われることも多かったが、近年は治安維持のため深夜まで行われることは少なくなっている。",
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"text": "20世紀に入ると、初音家太三郎を始めとした「音頭取り」と呼ばれる人々によって河内音頭の近代化・継承が行われるなどの動きも見られた。21世紀に入ってからも音頭取りによる継承のほか、国内外各地の盆踊りの会や教室によって盆踊りの継承が図られている。",
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"text": "2020年2月19日、文化審議会は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録を目指す国内候補に「風流踊(ふりゅうおどり)」を選んだ。盆踊りや念仏踊りなどとして伝承された23都府県の37件をまとめて一つの遺産とみなし、3月末までに政府がユネスコに申請書を提出。2022年11月ごろのユネスコ政府間委員会で登録可否が審査される見通し。",
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"text": "盆踊りはもともとは仏教の盂蘭盆会であるとする説、歌垣の遺風とする説、原始信仰の儀式だったとする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは室町時代と言われる。平安時代、空也上人によって始められた踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという。",
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"text": "踊り念仏は、鎌倉時代には一遍上人が全国に広めたが、一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こした。それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになった。室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されている。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊る。口説きは、地区の伝統でもある。初盆の家を各戸を回って踊る所もある。昔は旧暦の7月15日に行われていた。ゆえに、盆踊りはいつも満月であった。",
"title": "盆踊りの風俗"
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"text": "鎌倉時代以降、経済力や自治力を得た民衆により新奇な趣向が次々に考案され、江戸時代初頭には絶頂を極めることになる。江戸では7月に始まり連日踊り明かしながら10月にまで続いた。次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、念仏講、御詠歌講など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。明治時代にはしばしば風紀を乱すとして警察の取締りの対象となって一時は激減していた。盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びつき広まり、ざこ寝堂はほとんど全国の農村には存在した。これは昭和時代に至っても続いていた。",
"title": "盆踊りの風俗"
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"text": "出雲阿国による一風変わった男装の念仏踊りは歌舞伎踊りと言われた(歌舞伎のかぶくとは、「常識外れ」や「異様な風体」と言う意味)。以後、歌舞伎など様々な芸能へと派生していったが、歌舞伎も売春を伴い幕府より厳しく取り締まりを受けていたことから鑑み、盆踊りに限定されず芸能全般に性が結びついた江戸文化風俗の一端と言える。",
"title": "盆踊りの風俗"
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"text": "伝統的には、やぐらの上の太鼓方、音頭取りならびに踊り子は浴衣を着用することが多いが、一般参加者はカジュアルな平服でも良い。踊り手が同じグループである場合、揃いの浴衣を着ることが多い。また、団扇を背中の帯に差し込んでおくこともある。男性は、鉢巻をし、腰に印籠をぶら下げて踊ることもある。",
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"text": "地方によっては、狐などの仮面をつけて踊る場合や、舞台化粧並の厚化粧をして華やかな衣装で踊る場合がある。",
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"text": "国指定の重要無形民俗文化財ならびに国の選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択された盆踊りを列挙する。",
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"text": "代表的な楽曲(50音順)",
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"text": "南米のブラジルには、マツリ・ダンスというブラジル風に進化した盆踊りがある。日系3世のグループ「グループ・サンセイ」が始めたもので、J-popなどの曲に合わせて、全員で同じ振り付けを盆踊りのように繰り返して踊る。日本の盆踊りのように輪になって踊ることもあれば、観客がその場で一斉に踊る場合もある。1988年にロンドリーナ市の日系人のカラオケ教師が考案したものだが、2000年代に入ってから日本関連のイベントで踊られるようになり、ブラジル各地の日系コミュニティやアニメイベントなどを通じて広まった。",
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"text": "アルゼンチンでも1960年代、日系人が行っていた盆踊りが各地に残っており、なかでもラプラタで行われるものは最大級の規模になっている。",
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"text": "北米のアメリカ合衆国のハワイ州、カリフォルニア州、ニューヨーク州、カナダのブリティッシュ・コロンビア州など日系人が多い地域で、夏にBon Dance(盆踊り)が行われる。",
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"text": "特にハワイ州で盛んで、主要5島(東からカウアイ島、オアフ島、モロカイ島、マウイ島、ハワイ島)で6月から8月の金曜日を含めた週末の夕方に行われており、新聞・雑誌などでも毎年スケジュールが発表される。 仏教ミッション(小規模のお寺)で行われる場合が多く、過去一年以内に亡くなった人々の家族の焼香などの仏事が先立つこともあるが、ほとんどは宗教色がない。神社(「夏祭り」)やショッピングセンターで行われることもある。踊りは1時間から2時間の間に20曲くらいが録音で演奏され、同じ曲が繰り返されることは少ない。地域差はあるが、ハワイ島西部では通常「炭坑節」で始まり、途中「河内おとこ節」ではバチが配られてそれを持って踊り、会の初めに寄付金を納めるときに配られる手ぬぐいを持って踊る「ゆかた音頭」もあり、アメリカ発の「Beautiful Sunday」などの歌が使われたり、ハワイ州では広島県・山口県・熊本県・沖縄県からの移住者が他県よりずば抜けて多いので 歌に特徴がある沖縄の歌「安里屋ユンタ」や「遊び庭」(あしびなー)などで踊ったり、最近では子供向けの「ポケモン音頭」や若者向けにズンバを踊ったり、最後は「福島音頭」 で終わることが多い。また、太鼓隊がヤグラを囲んで景気を付けるのが通例である。ハワイ州は異人種間結婚(英語版)が進んでいることから、見るからの日系人もハオレ(英語版)(白人)も、ハワイ人も器用に踊るのが見られる。特に盛んな地域では事前に練習会も行われている。",
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"text": "シンガポールでは、毎年8月中旬の土曜日15時~21時に日本人学校小学部チャンギ校で、小学部クレメンティ校も含めた「夏祭り」の一環として盆踊りが行われる。祭り全体は、ダンスクラブの子どもたちの各種ダンスや、同好会の大人たちのフラ、マレーダンスなどの後、メインイベントとして盆踊りが同踊同好会の人々がやぐらの上で、ローカルの人々がその周りで、様々な民謡・歌に合わせて一体となって踊り、盛り上がる。",
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"text": "中国では、香港で見世物としての盆踊りが行われてきた。近年、中国大陸上海など大都市のショッピングセンターで、始めは日本留学・旅行帰りの人々を中心に、最近はそうでない人々も参加して盆踊りを含む「夏祭り」行事が行われてきたが、極く最近はそうした活動が「文化的侵略」としてSNSで批判を浴びて中止が報告されている。台湾では盆踊りは行われていない。韓国でも、盆踊りはない。",
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"text": "フィリピンでは、観光客も多いセブ島でセブ日本人会がセブ市の協力も得て、Bon Odoriイベントを2014年から開催してきた。コスプレ・コンテストやカラオケ大会、簡易レストランも出る総合的なまつりとなっている。",
"title": "海外"
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"text": "マレーシアでは、日本文化の紹介や草の根交流を目的として、1977年より日本人学校や在マレーシア日本大使館が盆踊り大会を首都クアラルンプールなどで開催しており、在留日本人やイスラム教徒のマレー人、華人を含めた3万5000人以上が参加する夏の風物詩となっている。2022年6月8日にはイドリス・アフマド(英語版)首相府相(宗教担当)が盆踊りは仏教に影響されているとして、同年7月16日に開催が予定されたイベントにイスラム教徒が参加しないよう忠告すると表明したことが波紋を広げた。",
"title": "海外"
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盆踊り(ぼんおどり)は、日本において、盆の時期に先祖を供養する行事、またその行事内で行われる踊り。起源については諸説ある。 仏教・神道の影響を受けつつも世俗的な性格を強めていった盆踊りは、江戸時代初頭に絶頂を迎えるが、明治時代期には風紀を乱すとして警察による取締りの対象となった。 21世紀に入り、日本各地の盆踊りが重要無形民俗文化財ならびに選択無形民俗文化財の指定を受けている。その一方で、盆踊りは音楽の一ジャンルとして、ポピュラー音楽のなかで命脈を保っている。 盆踊りは日本国内にとどまらず、南北アメリカ・太平洋地域・東アジア・東南アジアでも行われている。
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[[File:Bon odori at Sugiyama Kouen Park Nakano City Tokyo 04.jpg|thumb|250px|2段式盆踊りやぐら。やぐらの上段は太鼓。下段の舞台と、やぐらの周囲は踊り(東京都中野区の[[杉山公園]]にて)]]
[[画像:Bon Odori Nagoya.jpg|right|thumb|250px|盆踊りの一例(名古屋市港区にて)]]
[[Image:Bonbokobon.JPG|right|thumb|250px|盆踊りの一例([[多摩ニュータウン]])]]
'''盆踊り'''(ぼんおどり)は、日本において、[[お盆|盆]]の時期に先祖を[[供養]]する行事、またその行事内で行われる[[踊り]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=盆踊りとは |url=https://kotobank.jp/word/%E7%9B%86%E8%B8%8A%E3%82%8A-385405 |website=コトバンク |access-date=2022-08-15 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。起源については諸説ある。
[[仏教]]・[[神道]]の影響を受けつつも[[世俗|世俗的]]な性格を強めていった盆踊りは、[[江戸時代]]初頭に絶頂を迎えるが、明治時代期には[[風紀|風紀を乱す]]として警察による取締りの対象となった。
[[21世紀]]に入り、日本各地の盆踊りが[[重要無形民俗文化財]]ならびに[[選択無形民俗文化財]]の指定を受けている。その一方で、盆踊りは音楽の一ジャンルとして、[[ポピュラー音楽]]のなかで命脈を保っている。
盆踊りは日本国内にとどまらず、[[アメリカ州|南北アメリカ]]・[[太平洋諸島|太平洋地域]]・[[東アジア]]・[[東南アジア]]でも行われている。
== 概要 ==
誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがある<ref name=yoshikawa/>。前者は、広場の中央に[[櫓]]を立て、[[やぐら]]の周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的である。盆踊りの伴奏音楽としては多く[[音頭]]が奏でられる。近年は録音された音頭を電気的に再生して行うことが主流になっている。
歴史的には[[村落|村落社会]]において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たした。そのため、各地にご当地音頭も多く存在し、自治体や[[商工会]]などが作成したオリジナルの地域的音頭も増えている。明治以前は[[歌垣]]などの風習に結びついていた。お盆の時期に行われるが、宗教的意味合いは薄く、農村や庶民の娯楽として楽しまれてきた<ref name=heibon/>。江戸時代には盛況しすぎるため[[一揆]]につながらないよう、幕府が場所や時間を規制するほどであった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=「すこぶるわいせつ」禁止令も出た盆踊り、それでも各地で受け継がれ…無形文化遺産になるかも |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20220818-OYT1T50201/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-08-19 |access-date=2022-08-22 |language=ja}}</ref>。
[[明治政府]]は、男女が夜通し騒ぐ、[[女装]]・[[男装]]するなどの行事は近代国家に相応しくないとして、1874年に盆踊り禁止令を出し<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20220818-OYT1T50201/ 「すこぶるわいせつ」禁止令も出た盆踊り、それでも各地で受け継がれ…無形文化遺産になるかも : 読売新聞]</ref>、20世紀初頭には存在しているのかさえ不明なほど衰退したが<ref name=":1" /><ref>[[寺田寅彦]]『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2441_10303.html 田園雑感]』 [[青空文庫]]</ref>、復活が叫ばれるようになり<ref>[{{NDLDC|766493/35}} 盆踊復活論]『高松新繁昌史』長尾折三 (藻城) 著 (宮脇開益堂, 1902)</ref>、[[大正]]末期から農村娯楽として奨励されはじめ、再び盛んになっていった<ref name="heibon" />。もともと盆踊りがなかった土地でも新作して踊るところもあり<ref name="heibon" />、町内会の祭り行事としてだけでなく、[[阿波踊り]]や[[エイサー]]など、一地方の盆踊りから全国に広まったものもある<ref name="yoshikawa">[http://www.danceresearch.ac/buyougaku/2004/2004_50.pdf 盆踊りの場にあふれる若者の性の力] 京都市立芸術大学吉川周平、シンポジウム 「ダンスシーンから見た若者文化2」講演、2004</ref>。
[[夏休み]]の間の大きなイベントの一つである。かつては夜通しで行われることも多かったが、近年は治安維持のため深夜まで行われることは少なくなっている。
20世紀に入ると、初音家太三郎を始めとした「音頭取り」と呼ばれる人々によって[[河内音頭]]の近代化・継承が行われるなどの動きも見られた{{Sfn|竹内&藤本|2014|pp=30-31}}。21世紀に入ってからも音頭取りによる継承のほか、国内外各地の盆踊りの会や教室によって盆踊りの継承が図られている。
[[2020年]][[2月19日]]、[[文化審議会]]は[[国際連合教育科学文化機関|国連教育科学文化機関]](ユネスコ)の[[無形文化遺産]]への登録を目指す国内候補に「風流踊(ふりゅうおどり)」を選んだ。盆踊りや念仏踊りなどとして伝承された23都府県の37件をまとめて一つの遺産とみなし、3月末までに政府がユネスコに申請書を提出。[[2022年]]11月ごろのユネスコ政府間委員会で登録可否が審査される見通し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55816070Z10C20A2CR8000/|title=「風流踊」ユネスコ申請へ 無形遺産、文化審選定|accessdate=2020年2月20日|publisher=日本経済新聞}}</ref>。
== 起源 ==
盆踊りはもともとは[[仏教]]の[[盂蘭盆会]]であるとする説<ref name=":0" />、[[歌垣]]の遺風とする説、原始信仰の儀式だったとする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは[[室町時代]]と言われる<ref name=heibon>[{{NDLDC|1246471/17}} 盆踊り]大百科事典. 第24巻 第1冊、平凡社、1939年</ref>。[[平安時代]]、[[空也]]上人によって始められた[[念仏#踊念仏|踊念仏]]が、民間習俗と習合して[[念仏踊り]]となり<ref name=sakamoto>[http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2008/11.SAKAMOTO.pdf 仏教民俗としての念仏踊り] 坂本要、筑波学院大学紀要第3集、2008年</ref>、[[盂蘭盆会]]の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を[[供養]]するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした<ref name=sakamoto/>。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという<ref name=sakamoto/>。
== 盆踊りの風俗 ==
踊り念仏は、[[鎌倉時代]]には[[一遍]]上人が全国に広めたが、一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こした<ref name="sankei"/>。それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになった<ref name="sankei">[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120809/wlf12080919390013-n1.htm 「盆踊り」は乱交セックス 性を解放、神聖な伝統行事(明治大学文学部准教授 平山満紀、産経新聞2012年8月14日 )]</ref>。[[室町時代]]の初めには、[[太鼓]]などをたたいて踊るようになったといわれている。現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されている。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊る。口説きは、地区の伝統でもある。初盆の家を各戸を回って踊る所もある。昔は[[旧暦]]の7月15日に行われていた。ゆえに、盆踊りはいつも[[満月]]であった。
鎌倉時代以降、経済力や自治力を得た民衆により新奇な趣向が次々に考案され、[[江戸時代]]初頭には絶頂を極めることになる。江戸では7月に始まり連日踊り明かしながら10月にまで続いた。次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、[[念仏講]]、[[御詠歌講]]など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。[[明治時代]]にはしばしば[[風紀]]を乱すとして[[警察]]の取締りの対象となって一時は激減していた。盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み[[乱交]]を行う[[風習]]も起こり、盆踊りとも結びつき広まり、ざこ寝堂はほとんど全国の農村には存在した。これは[[昭和時代]]に至っても続いていた<ref name="sankei"/>。
[[出雲阿国]]による一風変わった男装の[[念仏踊り]]は[[歌舞伎]]踊りと言われた(歌舞伎のかぶくとは、「常識外れ」や「異様な風体」と言う意味){{要出典|date=2019-05-30|title=この文の出典も『江戸を賑わした色街文化と遊女の歴史』なのでしょうか? そうであれば、そのことが明らかに分かるようにするために、ここにも脚注を置いてください。}}。以後、[[歌舞伎]]など様々な芸能へと派生していったが、歌舞伎も[[売春]]を伴い幕府より厳しく取り締まりを受けていたことから鑑み、盆踊りに限定されず芸能全般に性が結びついた江戸文化風俗の一端と言える<ref>{{Cite book|title=江戸を賑わした色街文化と遊女の歴史|url=http://worldcat.org/oclc/1078645397|publisher=Kanzen|date=2018|isbn=9784862554949|oclc=1078645397|author=安藤優一郎|page=}}{{要ページ番号|date=2019-05-30|title=出典として使用したのは何ページ目なのか不明です。ご記入ください。}}</ref>。
== 衣装 ==
[[File:TakehisaYumeji-1921-Bon_Odori.png|thumb|100px|[[竹久夢二]]の絵「盆おどり」(1921年)。]]
伝統的には、やぐらの上の太鼓方、音頭取りならびに踊り子は[[浴衣]]を着用することが多いが、一般参加者はカジュアルな平服でも良い。踊り手が同じグループである場合、揃いの浴衣を着ることが多い。また、[[団扇]]を背中の[[帯]]に差し込んでおくこともある。男性は、[[鉢巻]]をし、腰に[[印籠]]をぶら下げて踊ることもある。
地方によっては、狐などの仮面をつけて踊る場合や、舞台化粧並の[[厚化粧]]をして華やかな衣装で踊る場合がある。
== その他 ==
* [[俳句]]では「踊」だけで「盆踊り」を指し秋の[[季語]]である。夏に行われるにもかかわらず秋の季語であるのは、[[立秋]]を過ぎてから行われるためである。
* 最近では、2010年から名古屋で開催されている「スリラー盆踊り」が東京に伝わって催されるなど、新しいスタイルの盆踊りも注目されている。
* [[愛知県]][[東海市]]大田町には参加者にイヤホンの付いた携帯ラジオを貸し出して行われる[[無音盆踊り]]がある。参加者はイヤホンで音楽を聴いて踊るため、周囲からは無音で踊っているように見える。
* [[東京都]][[八丈島]]では[[フォークダンス]]の「[[マイム・マイム]]」を踊り、末吉地区におけるバンドの電子演奏による速いリズムの「高速マイム・マイム」が特に有名であり観光客も参加している<ref>『[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/09hatijou/news/g/kankoubutu/03jigyougaiyou.pdf 事業概要 令和3年版]』、[[東京都総務局]][[八丈支庁]]、166ページ。</ref>。
== 文化財 ==
国指定の[[重要無形民俗文化財]]ならびに国の[[選択無形民俗文化財]](記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択された盆踊りを列挙する。
=== 国指定 ===
* [[西馬音内の盆踊]](秋田県)
* [[毛馬内の盆踊]](秋田県)
* [[大の阪]](新潟県)<ref>{{国指定文化財等データベース|302|643|大の阪}}</ref>
* [[新島の大踊]](東京都)<ref>{{国指定文化財等データベース|302|00000780|新島の大踊}}</ref>
* [[新野の盆踊り]](長野県)<!--(リンク先に記入すべきではないか) - 神道の形式を持つ神送りの儀式があり、仏教と習合する以前の形態を留めている<ref>{{Cite journal|和書|author=保延光一 |url=https://hdl.handle.net/2115/18862 |title=未科学的--科学的なることと非科学的なることの分離の終わり |journal=北海道大学大学院教育学研究科紀要 |publisher=北海道大学大学院教育学研究科 |year=2007 |month=jan |volume=100 |pages=25-28 |naid=120000962620 |doi=10.14943/b.edu.100.25 |issn=13457543}}</ref>。7つの曲があり、囃子はなく唄のみで踊る。3日間続き、最終日は夜通し行われる。-->
* [[和合の念仏踊]](長野県)<ref>{{国指定文化財等データベース|302|00000903|和合の念仏踊}}</ref>
* [[有東木の盆踊]](静岡県)
* [[徳山の盆踊]](静岡県)
* [[綾渡の夜念仏と盆踊]](愛知県)<ref>{{国指定文化財等データベース|302|637|綾渡の夜念仏と盆踊}}</ref>
* [[郡上踊]](岐阜県)
* [[十津川の大踊]](奈良県)
* [[大宮踊]](岡山県)<ref>{{国指定文化財等データベース|302|639|大宮踊}}</ref>
* [[白石踊]](岡山県)
=== 国選択 ===
* [[与島・櫃石の盆踊]](香川県)<ref>{{国指定文化財等データベース|312|00000790|与島・櫃石の盆踊}}</ref>
* [[姫島盆踊り|姫島の盆踊]](大分県)
* [[野母の盆踊]](長崎県)<ref>{{国指定文化財等データベース|312|551|野母の盆踊}}</ref>
* [[対馬厳原の盆踊]](長崎県)<ref>{{国指定文化財等データベース|312|658|対馬厳原の盆踊}}</ref>
* [[対馬美津島の盆踊]](長崎県)<ref>{{国指定文化財等データベース|312|561|対馬美津島の盆踊}}</ref>
代表的な楽曲(50音順)
* 交通安全音頭
* [[さくら音頭]]
* ズンパ音頭
* 大名古屋音頭
* [[東京音頭#その他|大東京音頭]]
* [[東京音頭]]
* [[東京五輪音頭]]
* 名古屋ばやし
* 名古屋まるはち音頭
* にっぽん花咲か音頭
* [[東村山音頭]]
* 火の国太鼓
* ホームラン音頭<ref group="注釈">同じタイトルの楽曲が複数存在する。[[1960年]]には作詞:[[たなかゆきを]]、作曲:佐伯としを、歌:[[春日八郎]]、下谷一二子の曲が[[キングレコード]]から発売され(品番:C-1780・EB-352)、[[1978年]]には作詞:[[夢虹二]]、作曲:[[飯田三郎]]、歌:青木清<!--[[青木清]]は将棋棋士へのリンクのため外す-->の曲が同じくキングレコードから発売(品番:GK-6008)。[[1982年]]には作詞:足立貞敏、作曲:横山太郎、歌:ビクター少年民謡会の曲が[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]]から発売されている(品番:MV-3049)。</ref>
* 鞠と殿さま
* 水戸黄門おどり
* ゆかた音頭
=== 民謡系(50音順)===
* 岡崎五万石おどり([[愛知県]])
* [[鹿児島おはら節]]([[鹿児島県]])
* 河内音頭(大阪府)
* [[郡上節]]([[岐阜県]])
* [[江州音頭]]([[滋賀県]])
* 白浜音頭([[千葉県]])
* [[相馬盆唄]]([[福島県]])
* [[ソーラン節|そうらん節]]([[北海道]])
* [[炭坑節]]([[福岡県]])
* [[デカンショ節]]([[兵庫県]])
* [[ドンパン節]]([[秋田県]])
* [[花笠まつり|花笠音頭]]([[山形県]])
* [[北海盆唄]]([[北海道]])
* [[八木節]]([[群馬県]]・[[栃木県]])
=== 歌謡曲・J-POP・ディスコソング系(50音順)===
* 1+1の音頭([[水前寺清子]])
* ええじゃないか音頭([[プロジェクトFUKUSHIMA!]]) - 東日本大震災後の福島県で、地元がどこであろうと踊れる曲として作られた。
* [[お座敷小唄]]([[和田弘とマヒナスターズ]]、[[松尾和子]])
* [[お祭りマンボ]]([[美空ひばり]])
* [[およげ!たいやきくん]]([[子門真人]])
* [[河内おとこ節]]([[中村美律子]])
* [[ギザギザハートの子守唄]]([[チェッカーズ]])
* きよしの数え歌([[氷川きよし]])
* [[ズンドコ節|きよしのズンドコ節]](氷川きよし)
* [[銀座カンカン娘]]([[高峰秀子]])
* [[恋するフォーチュンクッキー]]([[AKB48]])
* [[恋をするなら (橋幸夫の曲)|恋をするなら]]([[橋幸夫]])
* これから音頭([[大泉逸郎]])
* [[365日の紙飛行機]](AKB48)
* [[好きになった人 (曲)|好きになった人]]([[都はるみ]])
* [[世界に一つだけの花]]([[SMAP]])
* 大丈夫(氷川きよし)
* [[ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)|ダンシング・ヒーロー]]<ref group="注釈">もとは[[アンジー・ゴールド]]の楽曲であり、ディスコソングとして使用されていた。</ref>([[荻野目洋子]])
* [[チャンチキおけさ]]([[三波春夫]])
* 東京ばやし(安藤由美子)
* 道頓堀へいらっしゃい音頭([[嘉門達夫]])
* どだればち・サンバ(ぷりりんりん)
* [[ザ・ドリフターズ|ドリフ]]の[[ズンドコ節]]([[ザ・ドリフターズ]])
* どんとこいブギ!(藤みち子)
* 2000年音頭([[北島三郎]])
* ニッポン・ワッショイ([[怒髪天]])
* Bahama Mama([[ボニーM]])
* [[パプリカ (曲)|パプリカ]](Foorin)
* ハワイ音頭([[殿さまキングス]])
* [[ビューティフル・サンデー]]([[ダニエル・ブーン (歌手)|ダニエル・ブーン]]、盆踊りには[[田中星児]]盤が使われることが多い)
* ベイサイド・ブギ(氷川きよし)
* [[マツケンサンバ]]([[松平健]])
* まつのき小唄([[二宮ゆき子]])
* [[U.S.A. (曲)|U.S.A.]]([[DA PUMP]])
* [[湾岸太陽族]](荻野目洋子)
* [[One Night Carnival]]([[氣志團]])
=== アニメソング(年代順) ===
* 1965年 オバQ音頭([[オバケのQ太郎 (アニメ)|オバケのQ太郎]])
* 1967年 グズラ音頭([[おらぁグズラだど]])、悟空音頭([[悟空の大冒険]])
* 1968年 鬼太郎ナイナイ音頭([[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第1シリーズ)]])、チッペイ音頭([[バンパイヤ]])
* 1969年 モーレツ音頭([[もーれつア太郎]])
* 1970年 大ちゃん数え歌([[いなかっぺ大将]])
* 1972年 ハゼドン音頭([[ハゼドン]])、赤胴音頭([[赤胴鈴之助]])
* 1973年 ど根性ガエル音頭([[ど根性ガエル]])、ピンコラ音頭([[ワンサくん]])
* 1978年 名物!モグタン音頭([[まんがはじめて物語]])、ルパン音頭([[ルパン三世 ルパンVS複製人間]])
* 1979年 ドラえもん音頭([[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビアニメ第2作第1期)]])、[[銀河鉄道999 (ゴダイゴの曲)|銀河鉄道999]]([[銀河鉄道999]])
* 1980年 ドンデラ音頭 調子出てますか([[ずっこけナイトドンデラマンチャ|ずっこけナイト ドンデラマンチャ]])
* 1981年 ドタコン音頭([[めちゃっこドタコン]])、ヤットデタマン・ブギウギ音頭([[ヤットデタマン]])
* 1981年 アラレちゃん音頭([[Dr.スランプ アラレちゃん]])
* 1982年 根が明るい音頭([[オリンポスのポロン|おちゃめ神物語コロコロポロン]])、ハットリくん音頭([[忍者ハットリくん]])、バケツのおひさんつかまえた([[じゃりン子チエ]])
* 1982年・1983年 クックロビン音頭(ぼく[[パタリロ|パタリロ!]] )
* 1983年 パーマン音頭([[パーマン]])
* 1985年 キン肉マン音頭([[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]])、Qちゃん音頭(藤子不二雄劇場 [[オバケのQ太郎 (アニメ)|オバケのQ太郎]])
* 1988年 マイケル音頭([[ホワッツマイケル]])、ビックリマン音頭([[ビックリマン (アニメ)|ビックリマン]])
* 1988年・1989年 おそ松くん音頭([[おそ松くん]](第2作))、正調おそ松節([[おそ松くん]](第2作))
* 1989年 アンパンマン音頭'89([[それいけ!アンパンマン]])
* 1990年 [[おどるポンポコリン]]([[ちびまる子ちゃん]])
* 1991年 わぴこちゃん音頭([[きんぎょ注意報!]])、ちょっといいとこ見てみたい([[OH!MYコンブ]])、絶唱!!とっぴんしゃん音頭([[じゃりン子チエ|チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ]])
* 1994年 しんちゃん音頭([[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]])
* 1993年・1994年 ポコニャラ音頭([[ポコニャン|ポコニャン!]])
* 1994年 元気節([[平成狸合戦ぽんぽこ]])
* 1995年・1996年 たいたいづくし([[クマのプー太郎]])
* 1996年 にんにん忍たま音頭([[忍たま乱太郎]])、しんちゃん音頭?オラといっしょにおどろうよ?([[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]])
* 1998年 [[とりかえっこプリーズ|ポケモン音頭]]([[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]])
* 1999年 ちびまる子音頭([[ちびまる子ちゃん]])、アンパンマン音頭'99([[それいけ!アンパンマン]])
* 2000年 ゲキテイ音頭([[サクラ大戦 (テレビアニメ)|サクラ大戦]])、平成お行儀音頭([[アニメ浪曲紀行 清水次郎長伝]])
* 2002年 おジャ魔女音頭でハッピッピ!!([[おジャ魔女どれみドッカ〜ン!]])
* 2002年・2005年 ハムハムONDOだハムちゃんず!([[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]])
* 2003年 デ・ジ・キャラット音頭([[デ・ジ・キャラットにょ]])、鷹の爪音頭([[秘密結社鷹の爪]]MAX)
* 2004年 地球(ペコポン)侵略音頭([[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]])、ボーボボ音頭([[ボボボーボ・ボーボボ]])、シノブ音頭([[ニニンがシノブ伝]])
* 2005年・2008年?2013年 踊れ・どれ・ドラ ドラえもん音頭([[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビアニメ第2作第2期)]])
* 2006年 電ボのブンブン節([[おじゃる丸]])、びんちょう音頭([[びんちょうタン]])、踊る ばけぎゃもん~ ぷれい屋音頭([[妖逆門]])
* 2007年 踊れ・どれ・ドラ ドラえもん音頭 2007([[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビアニメ第2作第2期)]])、撲殺音頭でドクロちゃん([[撲殺天使ドクロちゃん|撲殺天使ドクロちゃん2]])、パンプキン音頭([[パンプキン・シザーズ]])、しずくちゃん音頭([[ぷるるんっ!しずくちゃん]])
* 2007年・2008年 妖怪横丁ゲゲゲ節([[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第5シリーズ)]])
* 2008年 ダイバスター音頭([[FNS地球特捜隊ダイバスター]])、のらみみ音頭([[のらみみ]])
* 2011年 やおよろず音頭([[猫神やおよろず]])
* 2012年 漆黒に躍る弧濁覇王節([[中二病でも恋がしたい! Lite]])、DT音頭([[イクシオン サーガ DT]])、あんこう音頭([[ガールズ&パンツァー]])、ハムハムON-DOだ、ハムちゃんず!2012([[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]])、しばいぬ音頭([[しばいぬ子さん]])
* 2013年 モノクマおんど([[ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生]])、はっぴぃ夏祭り([[超速変形ジャイロゼッター]])
* 2014年 ガンダムさん音頭([[機動戦士ガンダムさん]])、祭り囃子でゲラゲラポー([[妖怪ウォッチ (アニメ)|妖怪ウォッチ]])
* 2015年・2016年 [[プリキュアたいそう&プリキュア音頭〜スマイルWink〜|プリキュア音頭〜スマイルWink〜]]([[Go!プリンセスプリキュア]]・[[魔法つかいプリキュア!]])
* 2016年 ニャー将棋音頭([[3月のライオン]])、ししゃも音頭([[弱酸性ミリオンアーサー]])
* 2017年 イヤミ音頭([[おそ松さん]] (第2期))、大!地獄地獄節([[鬼灯の冷徹]] (第弐期))
* 2017年-2019年 踊れ・どれ・ドラ ドラえもん音頭 2017([[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビアニメ第2作第2期)]])
* 2018年 キラリ☆夢音頭([[デュエル・マスターズ (アニメ)|デュエル・マスターズ]])、なつっこ音頭([[シンデレラガールズ劇場|アイドルマスター シンデレラガールズ劇場]])
* 2020年 オトッペおんど([[オトッペ]])、笑顔ヶ丘音頭([[せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ|せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ]] (第3期))、ハナビラ音頭([[異種族レビュアーズ]])
=== 特撮テレビドラマ ===
* 1967年 怪獣音頭([[怪獣王子]])
* 1971年 怪獣音頭([[帰ってきたウルトラマン]])<ref group="注釈">怪獣王子で使用された楽曲とは同名の異曲。</ref>
* 1975年 ロボコン音頭([[がんばれ!!ロボコン]])
* 1996年 カーレンジャー音頭([[激走戦隊カーレンジャー]])
* 1997年 Bomb Dancing メガレンジャー([[電磁戦隊メガレンジャー]])
* 2017年 キュータマ音頭([[宇宙戦隊キュウレンジャー]])
==海外==
===中南米===
{{Anchors|マツリ・ダンス}}[[南米]]の[[ブラジル]]には、マツリ・ダンスというブラジル風に進化した盆踊りがある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=O2K4-ISxMTE Matsuri dance] Kalango Alado Videos, 2011/08/2</ref>。日系3世のグループ「グループ・サンセイ」が始めたもので、J-popなどの曲に合わせて、全員で同じ振り付けを盆踊りのように繰り返して踊る<ref name=nikkei>[http://www.discovernikkei.org/en/journal/2008/1/10/brazil-nihonjinmachi/ The Japantown in Brazil Chapter 10 (extras: part 2) Londrina ? The Nikkei Cultural Movement & The Matsuri Dance] Discover Nikkei, 10 Jan 2008</ref>。日本の盆踊りのように輪になって踊ることもあれば、観客がその場で一斉に踊る場合もある。1988年に[[ロンドリーナ]]市の[[日系人]]のカラオケ教師が考案したものだが、2000年代に入ってから日本関連のイベントで踊られるようになり、ブラジル各地の日系コミュニティやアニメイベントなどを通じて広まった<ref name=nikkei/>。
[[アルゼンチン]]でも1960年代、日系人が行っていた盆踊りが各地に残っており、なかでも[[ラプラタ]]で行われるものは最大級の規模になっている。
===北米===
[[北米]]の[[アメリカ合衆国]]の[[ハワイ州]]、[[カリフォルニア州]]、[[ニューヨーク州]]、[[カナダ]]の[[ブリティッシュ・コロンビア州]]など日系人が多い地域で、夏に'''Bon Dance'''(盆踊り)が行われる。
[[File:Bon Dance in Keei, Hawaii.jpg|thumb|right|250px|ハワイではごくひなびた所でも毎年盆踊りが開かれる(ハワイ島キエイ Ke'ei <ref>[https://www.hawaii.com/big-island/beaches/keei/ Keei Beach: Kona's Best-Kept Secret]</ref> の[[熊本県]][[八代郡]]出身者[[墓地]]の[[モンキーポッド]]の下で)]]
特にハワイ州で盛んで、主要5島(東から[[カウアイ島]]、[[オアフ島]]、[[モロカイ島]]、[[マウイ島]]、[[ハワイ島]])で6月から8月の金曜日を含めた週末の夕方に行われており、[[新聞]]・雑誌などでも毎年スケジュールが発表される<ref>[http://www.honolulumagazine.com/Honolulu-Magazine/June-2016/Hawaii-Summer-2016-Bon-Dance-Schedule/ Hawai'i Summer 2016 Bon Dance Schedule]</ref><ref>[http://www.staradvertiser.com/features/obon-season/ 2016 Obon season calendar in Hawaii]</ref>{{Sfn|竹内&藤本|2014|p=27}}。 仏教ミッション(小規模の[[お寺]])で行われる場合が多く、過去一年以内に亡くなった人々の家族の[[焼香]]などの仏事が先立つこともあるが、ほとんどは宗教色がない。神社(「夏祭り」)やショッピングセンターで行われることもある。踊りは1時間から2時間の間に20曲くらいが録音で演奏され、同じ曲が繰り返されることは少ない。地域差はあるが、ハワイ島西部では通常「[[炭坑節]]」で始まり、途中「[[河内おとこ節]]」ではバチが配られてそれを持って踊り、会の初めに[[寄付金]]を納めるときに配られる[[手ぬぐい]]を持って踊る「[[ゆかた音頭]]」もあり、アメリカ発の「[[:en:Beautiful Sunday (song)|Beautiful Sunday]]」などの歌が使われたり、ハワイ州では[[広島県]]・[[山口県]]・[[熊本県]]・[[沖縄県]]からの移住者が他県よりずば抜けて多いので <ref>[http://www.bonodori.net/kaigai/hawaii/1022.htm ハワイ日系人の出身県別人口(1929)]</ref> 歌に特徴がある沖縄の歌「[[安里屋ユンタ]]」や「遊び庭」(あしびなー)などで踊ったり、最近では子供向けの「ポケモン音頭」や若者向けに[[ズンバ]]を踊ったり、最後は「[[相馬盆唄|福島音頭]]」<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=i4BhRpA4584 "Fukushima Ondo in Hawaii" (YouTube)]</ref> で終わることが多い。また、[[太鼓]]隊が[[櫓|ヤグラ]]を囲んで景気を付けるのが通例である。ハワイ州は{{仮リンク|異人種間結婚|en|interracial marriage}}が進んでいることから、見るからの日系人も{{仮リンク|ハオレ|en|Haole}}(白人)も、[[ハワイ人]]も器用に踊るのが見られる。特に盛んな地域では事前に練習会も行われている<ref>[http://www.bonodori.net/kaigai/hawaii/102.htm 海を渡った盆踊り―――ハワイ:分布と特徴、盆踊りの母体と参加者、開催日程、ハワイ盆踊りの歴史など]</ref>。
===東南アジア===
[[シンガポール]]では、毎年8月中旬の土曜日15時~21時に[[日本人学校]]小学部チャンギ校で、小学部クレメンティ校も含めた「夏祭り」の一環として盆踊りが行われる<ref>[https://singapore.keizai.biz/headline/6191/ シンガポールで今年も「夏まつり」 和太鼓、ダンス、盆踊りも(シンガポール経済新聞)]</ref>。祭り全体は、ダンスクラブの子どもたちの各種ダンスや、同好会の大人たちのフラ、マレーダンスなどの後、メインイベントとして盆踊りが同踊同好会の人々がやぐらの上で、ローカルの人々がその周りで、様々な民謡・歌に合わせて一体となって踊り、盛り上がる。
[[中国]]では、[[香港]]で見世物としての盆踊りが行われてきた<ref>[https://hongkong.keizai.biz/headline/1930/ 香港で今年も「日本秋祭」 目玉はPMQでの盆踊りや草間彌生さん特別展(香港経済新聞)]</ref>。近年、中国大陸[[上海]]など大都市のショッピングセンターで、始めは日本留学・旅行帰りの人々を中心に、最近はそうでない人々も参加して盆踊りを含む「夏祭り」行事が行われてきたが<ref>[https://diamond.jp/articles/-/247112 中国での日本風「夏祭り」が驚くほど本格的で、大人気となっている理由(Diamond Online、2020年)]</ref>、極く最近はそうした活動が「文化的侵略」として[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]で批判を浴びて中止が報告されている<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/436f5eb755ad5cfdca3a56dfd9538fa0ec07b029 中国全土で「日本風夏祭り」中止相次ぐ 「文化的侵略」の批判(東方新報、2022年)]</ref>。[[台湾]]では盆踊りは行われていない。[[韓国]]でも、盆踊りはない。
[[フィリピン]]では、観光客も多い[[セブ島]]でセブ日本人会が[[セブ市]]の協力も得て、Bon Odoriイベントを2014年から開催してきた。[[コスプレ]]・コンテストや[[カラオケ]]大会、簡易レストランも出る総合的なまつりとなっている。<ref>[https://www.ja-cebu.com/bonodori/ セブ島盆踊り大会とは?(セブ日本人会)]</ref><ref>[https://sasacebu.com/bonodori 写真集:セブ島で盆踊り(セブ島留学センター)]</ref>
[[マレーシア]]では、日本文化の紹介や草の根交流を目的として、1977年より日本人学校や在マレーシア日本大使館が盆踊り大会を首都[[クアラルンプール]]などで開催しており、在留日本人やイスラム教徒の[[マレー人]]、[[華人]]を含めた3万5000人以上が参加する夏の風物詩となっている<ref name=sankei20220607>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20220607-ZIALIZOCKJMBDFZKQIBQGJQMAM/|title=盆踊り不参加を呼びかけ マレーシア閣僚、信仰理由|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2022-06-07|accessdate=2022-07-04}}</ref>。2022年6月8日には{{ill2|イドリス・アフマド (政治家)|en|Idris Ahmad (politician)|label=イドリス・アフマド}}首相府相(宗教担当)が盆踊りは仏教に影響されているとして、同年7月16日に開催が予定されたイベントに[[イスラム教徒]]が参加しないよう忠告すると表明したことが波紋を広げた<ref name="sankei20220607" /><ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20220703070842/https://nordot.app/916223740189409280?c=39550187727945729|title=マレーシアで盆踊り論争|agency=[[共同通信社]]|date=2022-07-03|accessdate=2022-07-04}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title=盆おどる本 盆踊りをはじめよう! |date=2014-07-31 |publisher=[[青幻社]] |ref={{SfnRef|竹内&藤本|2014}} |edition=初 |isbn=978-4-86152-457-8 |editor=竹内厚, 藤本智士}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Bon odori}}
* [[盂蘭盆会]]
* [[縁日]]
* [[死霊の盆踊り]]
== 外部リンク ==
* [http://www.bonodori.net/ 盆踊りの世界]
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46315_25541.html 「盆踊りと祭屋台と」折口信夫] 青空文庫
* [{{NDLDC|1131932/26}} 「盆踊り」ラフカディオ・ハーン] 1890年の[[鳥取県]]上市の盆踊りを描写
{{日本の伝統芸能}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほんおとり}}
[[Category:盆踊り|*]]
[[Category:音楽のジャンル]]
[[Category:日本の伝統芸能]]
[[Category:日本の年中行事]]
[[Category:日本舞踊]]
[[Category:日本の祭り]]
[[Category:仏教行事]]
[[Category:秋の季語]]
[[Category:お盆]]
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[[en:Bon Festival#Bon Odori]]
|
2003-08-27T04:55:07Z
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2023-11-28T21:29:56Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%86%E8%B8%8A%E3%82%8A
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14,163 |
秩父鉄道秩父本線
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秩父本線(ちちぶほんせん)は、埼玉県羽生市の羽生駅と同県秩父市の三峰口駅とを結ぶ秩父鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はCR。
寄居駅以西の三峰口方面側は山間を走る路線となるが、トンネルは全線を通して1箇所も存在しない。
本路線の名称は「秩父本線」だが、この名称は沿線住民には浸透しておらず、また秩父鉄道における旅客営業路線がこの1路線のみであることから、本路線は「秩父線」あるいは「秩父鉄道」「秩鉄(ちちてつ)」と呼ばれ親しまれている。
このことから秩父鉄道としても、利用者向けには「秩父本線」に相当する部分を「秩父鉄道」や「秩父線」と案内している。接続する東日本旅客鉄道(JR東日本)や東武鉄道、西武鉄道などでも、「秩父鉄道」または「秩父線」あるいは「秩父鉄道線」と案内される。なお、一部の自社発行の記念切符や看板等に「秩父電鉄」の表記が見られる。
秩父地方という一大観光・行楽地を抱えるため、ローカル輸送のほか観光輸送の比重も高い。普通列車(各駅停車、以下「各停」と表記)に加え、急行「秩父路」や蒸気機関車牽引列車(SL列車)「SLパレオエクスプレス」が運転されている。全線通し運転の列車のほか、熊谷駅や影森駅を始発・終着駅とする列車も多く運転されている。
秩父夜祭や熊谷うちわ祭、熊谷花火大会など沿線のイベント開催時には、急行・各停問わず臨時列車を多数運転し、輸送力を確保している。なお、秩父夜祭開催中の12月3日19時頃から22時頃にかけては、笠鉾・屋台の横断のために御花畑駅付近の踏切の架線が外されるため、秩父駅 - 影森駅間は運休となり、両駅から折り返し運転が行われる。
ダイヤ改正の実施頻度はJR線や他の私鉄線のように毎年ではなく、数年に一度程度である。
熊谷駅 - 三峰口駅間で1日1往復運転される蒸気機関車 (SL) C58 363牽引の観光列車。1988年3月より運行を開始した。土休日の運転が中心であるが、土休日でも運転しない日がある。学校の長期休暇中や秋の行楽シーズンなどには、平日にも運転する日がある。SLの乗車には、乗車券のほかに「SL指定席券」が必要である。2019年までは指定席1両、自由席3両の設定だったが、2021年からは全車指定席で運行されている。
2020年度は、蒸気機関車C58 363の全般検査のため運休していたが、2021年2月13日に運転を再開した。
線内運転の列車には「秩父路」の愛称がある。朝夕を中心に運転しており、速達サービスを提供している。使用車両は原則的に6000系だが、通勤形電車も使用されることがある。
基本的にはワンマン運転を実施しているが、秩父夜祭号などイベント開催時は車掌が乗務することがある。列車の種別表示はワンマン運転時は「ワンマン」、車掌乗務時は「急行」である。
一部の区間を除いて急行券が必要である。2022年3月12日のPASMO導入を記念して、同日から当分の間として急行料金無料化キャンペーンを実施し、キャンペーン終了日となった2023年3月31日までは急行券を不要としていた。
熊谷駅 - 影森駅間で平日に2往復、土休日に1往復が運転される。2021年3月13日のダイヤ改正で羽生駅 - 熊谷駅間、2022年10月1日のダイヤ改正で影森駅 - 三峰口駅間の設定がなくなったが、2023年3月18日のダイヤ改正で土休日に限り全線通しの列車が再設定された。
羽生駅 - 熊谷駅間・寄居駅 - 影森駅間では毎時1 - 2本程度、熊谷駅 - 寄居駅間では毎時2 - 3本程度、影森駅 - 三峰口駅間では毎時1本程度の運行である。熊谷駅、寄居駅、影森駅を境に運行本数が異なる。そのほか、東行田駅、長瀞駅、秩父駅で始終着となる列車が運行されている。
車両は、3両編成の列車は5000系、7000系、7500系が区別なく使用され、2両編成の列車は7800系が使用される。2022年10月1日以降は6000系も一部の各停に使用されている。
一部列車を除き都市型ワンマン運転を行っている。現在在籍している電車の運転台両側には客用ドアの開閉スイッチ、マスコンハンドルとブレーキハンドルの間に自動放送装置の操作盤が設置されており、運転士が座ったまま諸々の作業ができるようになっているが、進行右側の開閉スイッチについては安全面から使用されず、既設の車掌スイッチで開閉している。ただし、西武鉄道からの直通列車(後述)には車掌が乗務するほか、荷物輸送などを行う際にも車掌が乗務する。
公式サイトのご利用案内などでは「普通列車」と表記している。列車の種別表示はワンマン運転時は「ワンマン」、秩父鉄道の車両で車掌が乗務している列車と西武鉄道からの直通列車は「各停」である。2008年6月13日までの西武鉄道からの直通列車は「普通」を表示していた。
土休日のみ西武鉄道(池袋線・西武秩父線)からの直通列車があり、飯能駅発長瀞駅・三峰口駅行き(横瀬駅で分割)1本と横瀬駅発長瀞駅行き1本が運転される。車両は西武4000系電車が使用される。長瀞駅行きは秩父本線内急行(急行料金は不要)、三峰口駅行きは秩父本線内各駅停車での運転となる。なお、三峰口駅発西武秩父駅行きは時刻表上では直通列車として扱われていない。長瀞駅行きの折返しは普通御花畑駅行きとなり御花畑駅からは回送となるため、秩父本線から西武線方面への直通列車の旅客扱いは無い。
かつては、平日は飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間で、休日は池袋駅 - 長瀞駅・三峰口駅間で双方向に運行されていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で休日の西武線側の直通運転区間を飯能駅までに短縮、2021年3月13日のダイヤ改正で平日の直通列車を廃止、2023年3月18日のダイヤ改正で秩父本線から西武線方面への直通列車の廃止と、直通運転は徐々に縮小傾向となっている。池袋駅発着で運行されていた当時は池袋線内で速達運転を行っており、廃止時点のダイヤの2往復は、池袋駅発は快速急行、池袋駅行きは急行として運転されていた。2023年3月18日のダイヤ改正以前は長瀞行きも秩父本線内各駅停車での運転であった。また、2007年3月5日まで長瀞発着列車はさらに先の寄居駅まで運転されていた。
なお、秩父夜祭当日の直通列車は西武秩父駅発着になる。
かつては準急も存在したが、現在は廃止されている。1985年3月改正までは平日の通勤時間帯に設定され、朝は影森駅始発の熊谷駅行き、夕方は熊谷駅始発の三峰口駅行きだった。途中停車駅は石原・武川・寄居・野上(急行停車駅の長瀞は通過)・皆野・大野原から三峰口までの各駅。1990年代に再設定されたときの運転区間は熊谷駅 - 三峰口駅間、途中停車駅は石原・武川・小前田・寄居・野上・長瀞・皆野・大野原から三峰口までの各駅で、原則として2000系で運転されていた。
過去には東武鉄道(東上線・伊勢崎線〈臨時のみ〉)や国鉄・JR東日本(高崎線・八高線)からの直通列車も定期または不定期で運行されていた。かつての列車名として、以下のようなものがある。
東武東上線からの直通列車は1992年4月1日に「みつみね」「ながとろ」を最後に廃止された。また、国鉄より引き継いだJR東日本の高崎線からの乗り入れも同日に行われる秩父夜祭輸送を主眼とした2001年12月3日運転の「秩父夜祭り」が最後になっている。東武東上線からの直通車両については、開始当初は7300系と7800系であったが、1964年より登場間もなかった8000系電車へと変更され、1992年の保安装置等の理由で直通停止されるまで8000系電車が運用されていた。8000系電車も車両パターンが豊富で、1970年代後半までは非冷房車4+2編成や冷房改造前の6両固定編成が入線したが、1980年頃より冷房車6両固定編成に統一された。また、前面形状が変更された8000系の更新車も入線したことがある。高崎線から直通した115系電車についても、当初は非冷房編成で構成されていたが、一部の非冷房編成が新潟・岡山・広島地区へ転出した都合から冷房装置搭載の300・1000番台へ変更された。ただし、両社車両が秩父本線内では変電所の容量の都合で冷房装置を全開で使用できるわけではなく、夏期は送風及び弱設定での冷房運転であった。これらは秩父鉄道の車両全てが非冷房車のためであった。この状態が、西武線直通開始直後でも続くこととなった。
なお、直通運転が途絶えた後もJR東日本や東武鉄道との関係がなくなったわけではなく、「パレオエクスプレス」用蒸気機関車の管理をJR東日本で行っていたり、後述の通り羽生駅(東武伊勢崎線との接続駅) - 寄居駅(東武東上線との接続駅)間を東武鉄道の回送列車が走ったりするなどの関係がある。
JR東日本小山車両センター所属のE231系は、旧世代の115系・211系入線実績から、行き先表示器に「三峰口」などの秩父鉄道の駅が設定されていたが、乗り入れ実績がないまま、湘南新宿ラインの設定に伴い使用行き先パターンが増えた際に入れ替えに削除された。
貨物輸送は製品であるセメント輸送が全廃されるなど長期低落傾向にはあるものの、秩父市にある武甲山や、群馬県多野郡神流町にある叶山で産出される良質な石灰石を運ぶための貨物輸送が続けられている。またセメント焼成燃料や焼却灰の搬入もあり、現在でもその取扱高は日本の私鉄の中で上位に位置する。
1970年代までは秩父鉄道の鉄道収入のうち6 - 7割が貨物輸送を占め、黒字を計上していたが、1980年代以降セメント需要の減少や、貨物列車の乗り入れ先であった東武鉄道の貨物ヤード(業平橋、下板橋)が1986年10月に貨物の取り扱いを廃止したため、トラック輸送に切り替えられたことで赤字を計上した。秩父セメント工場の生産機材で使用される燃料が現在では石炭だが、以前は重油が用いられていた。重油時代では重油タンク列車(単体またはセメント・線路で用いる砂利運搬などの混結も存在)があった。三ヶ尻線開通以前は熊谷駅構内で国鉄線との連絡線があり、ここから重油タンク編成を受け取り当時分岐していた熊谷駅から武州原谷駅及び秩父駅まで直通していた。国鉄からでは根岸駅より発着。乗り入れ貨車も重油専用タンク車タキ1500形、タキ45000形、タキ9800形で直通していた。これらは石炭への燃料変更で、石炭専用のホキ10000形に切り替わったものの、自動車による輸送に変更されて廃止された。
貨物列車は、三ヶ尻線開通後は、同線を経由して熊谷貨物ターミナル駅に乗り入れ、さらに高崎線を経由して、秩父鉄道外へと通じていたが、2020年9月末をもって運行を終了し、同年12月31日付で同線の三ヶ尻駅 - 熊谷貨物ターミナル駅間が廃止されたことにより、貨物列車が社外と連絡することはなくなった。
鉱石列車は影森駅 - 武州原谷駅 - 三ヶ尻駅間で設定されており、ヲキ・ヲキフ100形20両編成による列車単位は1000t(うち貨物700t)に及ぶ。ダイヤ上は影森駅まで設定されているが、三輪・叶山両鉱山の生産状況により末端部の運行ダイヤが日によって調整されるため、午後の列車は武州原谷駅で折り返すことが多い。また、熊谷貨物ターミナル - 武川駅 - 武州原谷駅間で燃料となる石炭や原料に加える焼却灰の輸送があったが、三ヶ尻の工場へ輸送するのであっても列車は武川駅で折り返す。以上の取扱貨物の違いにより、日本貨物鉄道(JR貨物)との連絡運輸区間は武州原谷駅までとなっていた。
そのほか、東武鉄道の本線と東上線の車両の転配時や検査時などに寄居駅 - 羽生駅間で車両回送が頻繁に行われている。この車両回送は、以前は主に秩父鉄道仕様の保安装置 (ATS) を搭載した東武鉄道の8000系電車の牽引で行われ、回送ながらも秩父鉄道最長の10両編成での運転が見られていたが、2011年頃から秩父鉄道の電気機関車で牽引することも多くなっている。2020年、東武鉄道川越工場廃止後は東上線に在籍するすべての車両が南栗橋車両管区で全般検査を行うこととなったため、寄居駅と羽生駅では電気機関車の連結・解放が盛んに行われるようになっている。8000系ワンマン編成では引き続き寄居駅 - 南栗橋駅間で秩父鉄道仕様の保安装置併設の8000系電車2両固定編成が連結されて回送されるが、それ以外の9000系列 - 50000系列は保安装置が異なるため電気機関車が牽引している。この結果、秩父線内で牽引状態ながら有楽町線・副都心線直通用9000系・50070系や10両固定編成の10000系(10030系も含む)、TJライナー用50090系、そして以前は半蔵門線直通用だった30000系も見られるようになっている。また、東武鉄道の新車搬入も以前はすべて熊谷貨物ターミナル駅から三ヶ尻線・秩父本線経由で行われており、こちらは以前より電気機関車牽引となる。東上線へは寄居駅まで単機牽引、東武本線へは羽生駅までプッシュプルで輸送していたが、前述の三ヶ尻駅 - 熊谷貨物ターミナル駅間廃止後は、栗橋駅に設置された通常はJR新宿駅発着の特急列車のためのJR・東武連絡線を活用して新車搬入などの回送列車が運行されている。2017年 - 2020年には東武線と直通している東京メトロ日比谷線の13000系電車の輸送も行われた。
使用機関車はデキ100形、デキ300形、デキ500形の共通運用で、これらの形式による区別は一切なされていない。
埼玉北部・秩父地域において、重要な役割を果たす路線であるが、下記の通り、鉄道事業単体としては赤字で厳しい状況が続いている。このことから、埼玉県及び沿線市町より安全対策や利用促進など直接的な支援が行われている。
秩父本線の輸送実績を下表に記す。貨物輸送量は中小私鉄としては多いほうだが、最近は減少している。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
秩父本線の営業成績を下表に記す。貨物運輸収入の割合が高いが、減少が著しい。これに比べれば旅客運賃収入の変動は少ない。収入総合計額については増加した時期もあったが、最近では減少している。
表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
なお、根拠資料における「秩父鉄道」の営業成績であり、三ヶ尻線分が含まれていると考えられる。
『埼玉県統計年鑑』より算出。単位:人。
2021年時点で、電車が19編成53両、電気機関車13両、客車が1編成4両、蒸気機関車1両、貨車6両の計77両が在籍している。
電車は、1992年(平成4年)に300系が運行終了してからは他社から譲渡された車両のみで運用されている。また2014年(平成26年)3月23日をもって、1000系電車(旧国鉄101系電車)が営業運転から離脱したため、同年4月時点で、運行する自社所有の旅客用電車は全て冷房付き車両となっている。
貨物列車牽引、また客車列車牽引・補機として運用されている。
「パレオエクスプレス」牽引用として1988年に導入。
「パレオエクスプレス」その他イベント列車に運用。
熊谷駅 - 秩父駅間は前身の上武鉄道(丹荘駅 - 西武化学前駅間を営業していた上武鉄道とは別)によって開業し、秩父鉄道と改称後に秩父駅 - 三峰口駅間が延長された。羽生駅 - 熊谷駅間は北武鉄道によって開業し、秩父鉄道に合併され当線の一部となった。
全駅埼玉県内に所在。有人駅は羽生・熊谷・武川・ふかや花園・寄居・長瀞・秩父・御花畑・影森・三峰口のみで、他駅は終日駅員不在・係員による見回りが行われる。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。きっぷ・IC運賃とも同額。2019年10月1日改定。
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"text": "秩父本線(ちちぶほんせん)は、埼玉県羽生市の羽生駅と同県秩父市の三峰口駅とを結ぶ秩父鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はCR。",
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"text": "寄居駅以西の三峰口方面側は山間を走る路線となるが、トンネルは全線を通して1箇所も存在しない。",
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"text": "本路線の名称は「秩父本線」だが、この名称は沿線住民には浸透しておらず、また秩父鉄道における旅客営業路線がこの1路線のみであることから、本路線は「秩父線」あるいは「秩父鉄道」「秩鉄(ちちてつ)」と呼ばれ親しまれている。",
"title": "路線名について"
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"text": "このことから秩父鉄道としても、利用者向けには「秩父本線」に相当する部分を「秩父鉄道」や「秩父線」と案内している。接続する東日本旅客鉄道(JR東日本)や東武鉄道、西武鉄道などでも、「秩父鉄道」または「秩父線」あるいは「秩父鉄道線」と案内される。なお、一部の自社発行の記念切符や看板等に「秩父電鉄」の表記が見られる。",
"title": "路線名について"
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"text": "秩父地方という一大観光・行楽地を抱えるため、ローカル輸送のほか観光輸送の比重も高い。普通列車(各駅停車、以下「各停」と表記)に加え、急行「秩父路」や蒸気機関車牽引列車(SL列車)「SLパレオエクスプレス」が運転されている。全線通し運転の列車のほか、熊谷駅や影森駅を始発・終着駅とする列車も多く運転されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "秩父夜祭や熊谷うちわ祭、熊谷花火大会など沿線のイベント開催時には、急行・各停問わず臨時列車を多数運転し、輸送力を確保している。なお、秩父夜祭開催中の12月3日19時頃から22時頃にかけては、笠鉾・屋台の横断のために御花畑駅付近の踏切の架線が外されるため、秩父駅 - 影森駅間は運休となり、両駅から折り返し運転が行われる。",
"title": "運行形態"
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"text": "ダイヤ改正の実施頻度はJR線や他の私鉄線のように毎年ではなく、数年に一度程度である。",
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"text": "熊谷駅 - 三峰口駅間で1日1往復運転される蒸気機関車 (SL) C58 363牽引の観光列車。1988年3月より運行を開始した。土休日の運転が中心であるが、土休日でも運転しない日がある。学校の長期休暇中や秋の行楽シーズンなどには、平日にも運転する日がある。SLの乗車には、乗車券のほかに「SL指定席券」が必要である。2019年までは指定席1両、自由席3両の設定だったが、2021年からは全車指定席で運行されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "2020年度は、蒸気機関車C58 363の全般検査のため運休していたが、2021年2月13日に運転を再開した。",
"title": "運行形態"
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"text": "線内運転の列車には「秩父路」の愛称がある。朝夕を中心に運転しており、速達サービスを提供している。使用車両は原則的に6000系だが、通勤形電車も使用されることがある。",
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"text": "基本的にはワンマン運転を実施しているが、秩父夜祭号などイベント開催時は車掌が乗務することがある。列車の種別表示はワンマン運転時は「ワンマン」、車掌乗務時は「急行」である。",
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"text": "一部の区間を除いて急行券が必要である。2022年3月12日のPASMO導入を記念して、同日から当分の間として急行料金無料化キャンペーンを実施し、キャンペーン終了日となった2023年3月31日までは急行券を不要としていた。",
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"text": "熊谷駅 - 影森駅間で平日に2往復、土休日に1往復が運転される。2021年3月13日のダイヤ改正で羽生駅 - 熊谷駅間、2022年10月1日のダイヤ改正で影森駅 - 三峰口駅間の設定がなくなったが、2023年3月18日のダイヤ改正で土休日に限り全線通しの列車が再設定された。",
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"text": "羽生駅 - 熊谷駅間・寄居駅 - 影森駅間では毎時1 - 2本程度、熊谷駅 - 寄居駅間では毎時2 - 3本程度、影森駅 - 三峰口駅間では毎時1本程度の運行である。熊谷駅、寄居駅、影森駅を境に運行本数が異なる。そのほか、東行田駅、長瀞駅、秩父駅で始終着となる列車が運行されている。",
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"text": "車両は、3両編成の列車は5000系、7000系、7500系が区別なく使用され、2両編成の列車は7800系が使用される。2022年10月1日以降は6000系も一部の各停に使用されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "一部列車を除き都市型ワンマン運転を行っている。現在在籍している電車の運転台両側には客用ドアの開閉スイッチ、マスコンハンドルとブレーキハンドルの間に自動放送装置の操作盤が設置されており、運転士が座ったまま諸々の作業ができるようになっているが、進行右側の開閉スイッチについては安全面から使用されず、既設の車掌スイッチで開閉している。ただし、西武鉄道からの直通列車(後述)には車掌が乗務するほか、荷物輸送などを行う際にも車掌が乗務する。",
"title": "運行形態"
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"text": "公式サイトのご利用案内などでは「普通列車」と表記している。列車の種別表示はワンマン運転時は「ワンマン」、秩父鉄道の車両で車掌が乗務している列車と西武鉄道からの直通列車は「各停」である。2008年6月13日までの西武鉄道からの直通列車は「普通」を表示していた。",
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"text": "土休日のみ西武鉄道(池袋線・西武秩父線)からの直通列車があり、飯能駅発長瀞駅・三峰口駅行き(横瀬駅で分割)1本と横瀬駅発長瀞駅行き1本が運転される。車両は西武4000系電車が使用される。長瀞駅行きは秩父本線内急行(急行料金は不要)、三峰口駅行きは秩父本線内各駅停車での運転となる。なお、三峰口駅発西武秩父駅行きは時刻表上では直通列車として扱われていない。長瀞駅行きの折返しは普通御花畑駅行きとなり御花畑駅からは回送となるため、秩父本線から西武線方面への直通列車の旅客扱いは無い。",
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"text": "かつては、平日は飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間で、休日は池袋駅 - 長瀞駅・三峰口駅間で双方向に運行されていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で休日の西武線側の直通運転区間を飯能駅までに短縮、2021年3月13日のダイヤ改正で平日の直通列車を廃止、2023年3月18日のダイヤ改正で秩父本線から西武線方面への直通列車の廃止と、直通運転は徐々に縮小傾向となっている。池袋駅発着で運行されていた当時は池袋線内で速達運転を行っており、廃止時点のダイヤの2往復は、池袋駅発は快速急行、池袋駅行きは急行として運転されていた。2023年3月18日のダイヤ改正以前は長瀞行きも秩父本線内各駅停車での運転であった。また、2007年3月5日まで長瀞発着列車はさらに先の寄居駅まで運転されていた。",
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"text": "そのほか、東武鉄道の本線と東上線の車両の転配時や検査時などに寄居駅 - 羽生駅間で車両回送が頻繁に行われている。この車両回送は、以前は主に秩父鉄道仕様の保安装置 (ATS) を搭載した東武鉄道の8000系電車の牽引で行われ、回送ながらも秩父鉄道最長の10両編成での運転が見られていたが、2011年頃から秩父鉄道の電気機関車で牽引することも多くなっている。2020年、東武鉄道川越工場廃止後は東上線に在籍するすべての車両が南栗橋車両管区で全般検査を行うこととなったため、寄居駅と羽生駅では電気機関車の連結・解放が盛んに行われるようになっている。8000系ワンマン編成では引き続き寄居駅 - 南栗橋駅間で秩父鉄道仕様の保安装置併設の8000系電車2両固定編成が連結されて回送されるが、それ以外の9000系列 - 50000系列は保安装置が異なるため電気機関車が牽引している。この結果、秩父線内で牽引状態ながら有楽町線・副都心線直通用9000系・50070系や10両固定編成の10000系(10030系も含む)、TJライナー用50090系、そして以前は半蔵門線直通用だった30000系も見られるようになっている。また、東武鉄道の新車搬入も以前はすべて熊谷貨物ターミナル駅から三ヶ尻線・秩父本線経由で行われており、こちらは以前より電気機関車牽引となる。東上線へは寄居駅まで単機牽引、東武本線へは羽生駅までプッシュプルで輸送していたが、前述の三ヶ尻駅 - 熊谷貨物ターミナル駅間廃止後は、栗橋駅に設置された通常はJR新宿駅発着の特急列車のためのJR・東武連絡線を活用して新車搬入などの回送列車が運行されている。2017年 - 2020年には東武線と直通している東京メトロ日比谷線の13000系電車の輸送も行われた。",
"title": "運行形態"
},
{
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"tag": "p",
"text": "使用機関車はデキ100形、デキ300形、デキ500形の共通運用で、これらの形式による区別は一切なされていない。",
"title": "運行形態"
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{
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"tag": "p",
"text": "埼玉北部・秩父地域において、重要な役割を果たす路線であるが、下記の通り、鉄道事業単体としては赤字で厳しい状況が続いている。このことから、埼玉県及び沿線市町より安全対策や利用促進など直接的な支援が行われている。",
"title": "利用状況"
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"text": "秩父本線の輸送実績を下表に記す。貨物輸送量は中小私鉄としては多いほうだが、最近は減少している。",
"title": "利用状況"
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{
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"tag": "p",
"text": "表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "秩父本線の営業成績を下表に記す。貨物運輸収入の割合が高いが、減少が著しい。これに比べれば旅客運賃収入の変動は少ない。収入総合計額については増加した時期もあったが、最近では減少している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "なお、根拠資料における「秩父鉄道」の営業成績であり、三ヶ尻線分が含まれていると考えられる。",
"title": "利用状況"
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"text": "『埼玉県統計年鑑』より算出。単位:人。",
"title": "利用状況"
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"text": "2021年時点で、電車が19編成53両、電気機関車13両、客車が1編成4両、蒸気機関車1両、貨車6両の計77両が在籍している。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "電車は、1992年(平成4年)に300系が運行終了してからは他社から譲渡された車両のみで運用されている。また2014年(平成26年)3月23日をもって、1000系電車(旧国鉄101系電車)が営業運転から離脱したため、同年4月時点で、運行する自社所有の旅客用電車は全て冷房付き車両となっている。",
"title": "使用車両"
},
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"tag": "p",
"text": "貨物列車牽引、また客車列車牽引・補機として運用されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "「パレオエクスプレス」牽引用として1988年に導入。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "「パレオエクスプレス」その他イベント列車に運用。",
"title": "使用車両"
},
{
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"tag": "p",
"text": "熊谷駅 - 秩父駅間は前身の上武鉄道(丹荘駅 - 西武化学前駅間を営業していた上武鉄道とは別)によって開業し、秩父鉄道と改称後に秩父駅 - 三峰口駅間が延長された。羽生駅 - 熊谷駅間は北武鉄道によって開業し、秩父鉄道に合併され当線の一部となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "全駅埼玉県内に所在。有人駅は羽生・熊谷・武川・ふかや花園・寄居・長瀞・秩父・御花畑・影森・三峰口のみで、他駅は終日駅員不在・係員による見回りが行われる。",
"title": "駅一覧"
},
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。きっぷ・IC運賃とも同額。2019年10月1日改定。",
"title": "運賃"
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] |
秩父本線(ちちぶほんせん)は、埼玉県羽生市の羽生駅と同県秩父市の三峰口駅とを結ぶ秩父鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はCR。 寄居駅以西の三峰口方面側は山間を走る路線となるが、トンネルは全線を通して1箇所も存在しない。
|
{{Redirect|秩父線|西武鉄道の鉄道路線|西武秩父線}}
{{独自研究|date=2022年9月27日 (火) 11:16 (UTC)}}
{{Infobox rail line
| box_width = 300px;
| name = [[File:CTK logomark 2019.svg|20px|秩父鉄道]] 秩父本線
| image = Kaminagatoro-Series7800.jpg|300px|Chichibu railway 7502 20110531
| image_width = 300px
| image_alt =
| caption = [[荒川橋梁 (秩父鉄道秩父本線)|荒川橋梁]]を渡る[[秩父鉄道7500系電車|7800系電車]]<br>(2019年6月 [[上長瀞駅]] - [[親鼻駅]]間)
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| stations = 39駅([[貨物駅]]含む)
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| linelength_km = 71.7
| gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}}
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| el = [[直流電化|直流]] 1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
| speed =最高{{convert|85|kph|lk=on|abbr=on}}<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.45]]</ref>
| minradius = 149 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/>
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}}
'''秩父本線'''(ちちぶほんせん)は、[[埼玉県]][[羽生市]]の[[羽生駅]]と同県[[秩父市]]の[[三峰口駅]]とを結ぶ[[秩父鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''CR'''<ref name="stnno"/>。
[[寄居駅]]以西の三峰口方面側は山間を走る路線となるが、[[トンネル]]は全線を通して1箇所も存在しない。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):71.7 [[キロメートル|km]]
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]
* 駅数:39駅(起終点駅・[[貨物駅]]含む)
* [[複線]]区間:なし(全線[[単線]])
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1500[[ボルト (単位)|V]])
* 最高速度:85 km/h{{refnest|group="注釈"|急行:85 km/h<ref name="RPAS33">{{Cite journal ja-jp |author = 柴田 重利|title =私鉄車両めぐり 秩父鉄道 |journal = 鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション |volume = |issue = 33 |serial = 2016年3月臨時増刊 |publisher = 鉄道図書刊行会 |pages =70 |ref= RPAS33}} </ref> 普通:80 km/h<ref name="RPAS33"/><ref name="hara">{{Cite journal|和書|journal=Think-ing|author=原 弘介|title=秩父鉄道を活用した企業誘致と県北部地域経済の活性化について|page=55|date=2011-02|url=http://www.hitozukuri.or.jp/wp-content/uploads/thinking12_54-60_20220307.pdf#page=2|issue=12|publisher=彩の国さいたま人づくり広域連合|format=PDF}}</ref>}}
* 最急勾配:21.0 ‰<ref name="datebook"/>
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* [[自動列車保安装置|保安装置]]:[[自動列車停止装置|ATS]]
* [[車両基地]]:[[広瀬川原車両基地]]
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[PASMO]]エリア:全線(2022年3月12日より<ref name="20220312PASMOstart" /><ref name="press20210127" />)
== 路線名について ==
本路線の名称は「'''秩父本線'''」だが、この名称は沿線住民には浸透しておらず、また秩父鉄道における旅客営業路線がこの1路線のみであることから、本路線は「'''秩父線'''」あるいは「'''秩父鉄道'''」「'''秩鉄'''(ちちてつ)」と呼ばれ親しまれている。
このことから秩父鉄道としても、利用者向けには「秩父本線」に相当する部分を「秩父鉄道」<ref group="注釈">パンフレット類や運行情報公式[[Twitter]]アカウント名「秩父鉄道運行情報【公式】」など。</ref>や「秩父線」<ref group="注釈">Twitter秩父鉄道運行情報【公式】における個別のツイート上での表記など。</ref>と案内している。接続する[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)や[[東武鉄道]]、[[西武鉄道]]<ref group="注釈">[[西武秩父線]]は開通が[[1969年]](昭和44年)と本路線より遅かったため、区別するために「西武」も含めて正式な路線名としている。</ref>などでも、「秩父鉄道」または「秩父線」あるいは「秩父鉄道線」と案内される。なお、一部の自社発行の記念切符や看板等に「秩父'''電鉄'''」の表記が見られる。
== 運行形態 ==
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|停車場・施設・接続路線|}}
{{BS-table}}
{{BS5|||KRWgl|KRW+r||||↑↓[[東武鉄道|東武]]:[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]|}}
{{BS5|||BHF|BHF||0.0|CR01 [[羽生駅]]|}}
{{BS3||STRr|BHF|1.2|CR02 [[西羽生駅]]||}}
{{BS3|||BHF|2.6|CR03 [[新郷駅 (埼玉県)|新郷駅]]||}}
{{BS3|||BHF|4.8|CR04 [[武州荒木駅]]||}}
{{BS3|||BHF|7.3|CR05 [[東行田駅]]||}}
{{BS3|||BHF|8.3|CR06 [[行田市駅]]||}}
{{BS3|||BHF|10.1|CR07 [[持田駅]]||}}
{{BS3|||BHF|11.6|CR08 [[ソシオ流通センター駅]]||}}
{{BS5||hSTR+l|hSTRq|KRZh|hSTRq|||JR東:[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線|北陸]]新幹線→}}
{{BS5|STR+l|hKRZ|STRq|KRZo|STRq|||JR東:[[高崎線]]→}}
{{BS5|BHF|hBHF|exKXBHFa-L|XBHF-R||14.9|CR09 [[熊谷駅]]|||}}
{{BS5|STR|hSTRl|xKRZh|KRZh|hSTR+r||||}}
{{BS5|STRl|STR+r|exSTR|STR|hSTR||||}}
{{BS5||eKRWgl|exKRWg+r|STR|hSTR|||秩父鉄道・高崎線連絡}}
{{BS5||STR|exKRWgl|eKRWg+r|hSTR|||渡り線(使用停止)}}
{{BS5||STR|exXBHF-L|XBHF-R|O4=BHF|hSTR|15.8|CR10 [[上熊谷駅]]||}}
{{BS5||STRr|exSTR|STR|hSTR|||←JR東:高崎線}}
{{BS5|||exSTRr|STR|hSTR|||←東武:''[[東武熊谷線|熊谷線]]''}}
{{BS5||||BHF|hSTR|17.0|CR11 [[石原駅 (埼玉県)|石原駅]]||}}
{{BS5|||hSTRq|KRZh|hSTRr|||←JR東:上越・北陸新幹線|}}
{{BS3|||BHF|18.5|CR12 [[ひろせ野鳥の森駅]]|}}
{{BS3||KRW+l|KRWgr|||}}
{{BS3||DST|DST|19.0|(貨)[[広瀬川原駅]]|}}
{{BS3||KRWl|O2=POINTERg@f|KRWg+r||[[広瀬川原車両基地]]|}}
{{BS3|||BHF|20.3|CR13 [[大麻生駅]]|}}
{{BS3|||BHF|22.9|CR14 [[明戸駅]]|}}
{{BS3||STRq|ABZg+r|||←秩父鉄道:[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]([[貨物線]])}}
{{BS3|||BHF|24.8|CR15 [[武川駅]]|}}
{{BS3|||BHF|27.1|CR16 [[永田駅 (埼玉県)|永田駅]]|}}
{{BS3|||BHF|28.2|CR17 [[ふかや花園駅]]| }}
{{BS3|||SKRZ-Au|||[[関越自動車道]]}}
{{BS3|||BHF|30.5|CR18 [[小前田駅]]|}}
{{BS3|||BHF|31.9|CR19 [[桜沢駅 (埼玉県)|桜沢駅]]|}}
{{BS5|||STR+r|STR|STR+l|||←JR東:[[八高線]] / 東武:[[東武東上本線|東上本線]]→}}
{{BS5|||BHF|BHF|BHF|33.8|CR20 [[寄居駅]]|}}
{{BS5|||STR|KRWg+l|KRWr|||}}
{{BS5|||STRl|KRZo|STRq|||→[[八高線]]|}}
{{BS3|||BHF|37.7|CR21 [[波久礼駅]]|}}
{{BS3|||BHF|42.1|CR22 [[樋口駅]]|}}
{{BS3|||BHF|44.7|CR23 [[野上駅]]|}}
{{BS3|||BHF|46.5|CR24 [[長瀞駅]]|}}
{{BS5||||eKRWgl|exKRW+r||||}}
{{BS5||||BHF|exSTR|47.6|CR25 [[上長瀞駅]]|}}
{{BS5|||exKDSTaq|eKRZoxr|exSTRr||''(貨)荒川駅''|1926年廃止}}
{{BS3|||hKRZWae||[[荒川橋梁 (秩父鉄道秩父本線)|荒川橋梁]]|[[荒川 (関東)|荒川]]|}}
{{BS3|||BHF|49.2|CR26 [[親鼻駅]]|}}
{{BS3|||BHF|50.8|CR27 [[皆野駅]]|}}
{{BS3|||BHF|53.4|CR28 [[和銅黒谷駅]]|}}
{{BS3|||hKRZWae|||[[横瀬川]]|}}
{{BS3|||DST|55.5|(貨)[[武州原谷駅]]|}}
{{BS3|||BHF|56.6|CR29 [[大野原駅]]|}}
{{BS5||||exnABZl+l|O4=BHF|exnKBSTeq|59.0|CR30 [[秩父駅]]|秩父セメント第1工場}}
{{BS5||||BHF|O4=HUBaq|HUBlg|59.7|CR31 [[御花畑駅]]|}}
{{BS5||||STR|KBHFa|O5=HUBe|||[[西武秩父駅]]}}
{{BS5||||KRWgl|KRWg+r|||}}
{{BS5||||KRWg+l|KRWgr|||}}
{{BS5||||STR|STRl|||→[[西武鉄道|西武]]:[[西武秩父線]]}}
{{BS3|||BHF|{{BSkm|62.4|*0.0}}|CR32 [[影森駅]]||}}
{{BS5||||ABZgnl|nKBSTeq|||[[秩父太平洋セメント]]三輪鉱業所}}
{{BS5||||eABZgl|exKDSTeq|{{BSkm|-|*1.4}}|''(貨)武甲駅''|1984年廃止}}
{{BS3|||BHF|63.8|CR33 [[浦山口駅]]|}}
{{BS3|||hKRZWae||[[浦山川橋梁]]|浦山川}}
{{BS3|||BHF|66.2|CR34 [[武州中川駅]]|}}
{{BS3|||hKRZWae||[[安谷川橋梁]]|安谷川}}
{{BS3|||BHF|67.7|CR35 [[武州日野駅]]|}}
{{BS3|||hKRZWae||[[押手沢橋梁]]|}}
{{BS3|||BHF|70.4|CR36 [[白久駅]]|}}
{{BS3|||BHF|71.7|CR37 [[三峰口駅]]|}}
{{BS3|||ENDEe||}}
{{BS-colspan}}
|}
|}
=== 旅客輸送 ===
[[秩父地方]]という一大観光・行楽地を抱えるため、ローカル輸送のほか観光輸送の比重も高い。[[普通列車]]([[各駅停車]]、以下「各停」と表記)に加え、[[急行列車|急行]]「[[秩父路]]」や[[蒸気機関車牽引列車]](SL列車)「[[SLパレオエクスプレス]]」が運転されている。全線通し運転の列車のほか、[[熊谷駅]]や[[影森駅]]を[[始発]]・[[終着駅]]とする列車も多く運転されている。
[[秩父夜祭]]や[[熊谷うちわ祭]]、[[熊谷花火大会]]など沿線のイベント開催時には、急行・各停問わず[[臨時列車]]を多数運転し、輸送力を確保している。なお、秩父夜祭開催中の12月3日19時頃から22時頃にかけては、[[山車|笠鉾・屋台]]の横断のために御花畑駅付近の[[踏切]]の[[架線]]が外されるため<ref group="注釈">熊谷うちわ祭りにおいても、線路を屋台が横断するが、JR[[高崎線]]との並走区間であり、架線の取り外しはない。</ref>、秩父駅 - 影森駅間は運休となり、両駅から折り返し運転が行われる。
{{要出典範囲|[[ダイヤ改正]]の実施頻度はJR線や他の私鉄線のように毎年ではなく、数年に一度程度である。|date=2023年3月}}
==== SLパレオエクスプレス ====
{{Main|SLパレオエクスプレス}}
熊谷駅 - 三峰口駅間で1日1往復運転される蒸気機関車 (SL) [[国鉄C58形蒸気機関車|C58 363]]牽引の観光列車。1988年3月より運行を開始した。土休日の運転が中心であるが、土休日でも運転しない日がある。学校の長期休暇中や秋の行楽シーズンなどには、平日にも運転する日がある。SLの乗車には、乗車券のほかに「SL[[座席指定券|指定席券]]」が必要である。2019年までは指定席1両、自由席3両の設定だったが、2021年からは全車指定席で運行されている。
2020年度は、蒸気機関車C58 363の[[全般検査]]のため運休していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/slpaleo/kensa.html|title=SL全般検査とは|accessdate=2020年5月3日|publisher=秩父鉄道}}</ref>が、[[2021年]]2月13日に運転を再開した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-14 |url=https://news.mynavi.jp/article/20201214-1579533/ |title=秩父鉄道「SLパレオエクスプレス」2021年は2月から計105日間運行へ |website=[[マイナビニュース]] |publisher=マイナビ |accessdate=2021-02-14}}</ref>。
[[ファイル:2006 05040004.JPG|thumb|none|250px|C58 363牽引「パレオエクスプレス」]]
==== 急行「秩父路」 ====
{{Main|秩父路}}
線内運転の列車には「'''秩父路'''」の愛称がある。朝夕を中心に運転しており、速達サービスを提供している。使用車両は原則的に[[秩父鉄道6000系電車|6000系]]だが、通勤形電車も使用されることがある。
基本的には[[ワンマン運転]]を実施しているが、秩父夜祭号などイベント開催時は[[車掌]]が乗務することがある。列車の種別表示はワンマン運転時は「ワンマン」、車掌乗務時は「急行」である。
一部の区間を除いて[[急行券]]が必要である。2022年3月12日の[[PASMO]]導入を記念して、同日から当分の間として急行料金無料化キャンペーンを実施し、<ref>{{Cite press release|和書|title=秩父鉄道、交通系 IC カード「PASMO」のサービス開始記念セレモニーを3月12日に熊谷駅にて開催 〜同日より「急行秩父路」急行料金無料化を実施〜|publisher=秩父鉄道|date=2022-03-01|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/03/20220301_ICceremony.pdf|format=PDF|accessdate=2022-03-13|quote=実施期間 2022年3月12日(土)〜当分の間}}</ref>キャンペーン終了日となった2023年3月31日までは急行券を不要としていた<ref>{{Cite press release|和書|title=秩父鉄道の企画乗車券2種、紙券での販売を3/31をもって終了 「秩父路遊々フリーきっぷ デジタル版」は販売を継続 ~急行料金無料化キャンペーンは、3月31日(金)をもって終了します~|date=2023-03-07|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/assets/newsrelease/20230307_ticket.pdf#page=2|format=PDF|access-date=2023-03-08}}</ref>。
熊谷駅 - 影森駅間で平日に2往復、土休日に1往復が運転される<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/train/wp-content/uploads/sites/2/2022/09/a3_20221003-2.pdf 平日 秩父鉄道列車運転時刻表 2022年10月3日(月)改正]、[https://www.chichibu-railway.co.jp/train/wp-content/uploads/sites/2/2022/09/a3_20221001-2.pdf 土曜・休日 秩父鉄道列車運転時刻表 2022年10月1日(土)改正] - 秩父鉄道、2022年10月8日閲覧</ref>。2021年3月13日のダイヤ改正で羽生駅 - 熊谷駅間、2022年10月1日のダイヤ改正で影森駅 - 三峰口駅間の設定がなくなったが、2023年3月18日のダイヤ改正で土休日に限り全線通しの列車が再設定された。
==== 各停(普通) ====
羽生駅 - 熊谷駅間・寄居駅 - 影森駅間では毎時1 - 2本程度、熊谷駅 - 寄居駅間では毎時2 - 3本程度、影森駅 - 三峰口駅間では毎時1本程度の運行である。熊谷駅、寄居駅、影森駅を境に運行本数が異なる。そのほか、東行田駅、長瀞駅、秩父駅で始終着となる列車が運行されている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/assets/timetable/A4_20230318_all.pdf |title=秩父鉄道列車運転時刻表 |access-date=2023-08-20}}</ref>
車両は、3両[[編成 (鉄道)|編成]]の列車は[[秩父鉄道5000系電車|5000系]]、[[秩父鉄道7000系電車|7000系]]、[[秩父鉄道7500系電車|7500系]]が区別なく使用され、2両編成の列車は[[秩父鉄道7800系電車|7800系]]が使用される。2022年10月1日以降は6000系も一部の各停に使用されている。
一部列車を除き都市型ワンマン運転を行っている。現在在籍している電車の運転台両側には客用ドアの開閉スイッチ、[[マスター・コントローラー|マスコン]]ハンドルとブレーキハンドルの間に[[車内放送|自動放送装置]]の操作盤が設置されており、運転士が座ったまま諸々の作業ができるようになっているが、進行右側の開閉スイッチについては安全面から使用されず、既設の[[車掌スイッチ]]で開閉している。ただし、[[西武鉄道]]からの直通列車(後述)には車掌が乗務するほか、荷物輸送などを行う際にも車掌が乗務する。
公式サイトのご利用案内などでは「普通列車」と表記している<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/information/ ご利用案内] - 秩父鉄道、2022年10月19日</ref>。列車の種別表示はワンマン運転時は「ワンマン」、秩父鉄道の車両で車掌が乗務している列車と西武鉄道からの直通列車は「各停」である。2008年6月13日までの西武鉄道からの直通列車は「普通」を表示していた。
==== 西武線直通列車 ====
土休日のみ[[西武鉄道]]([[西武池袋線|池袋線]]・[[西武秩父線]]<!--西武秩父線は「西武」も路線名の一部-->)からの直通列車があり、[[飯能駅]]発[[長瀞駅]]・[[三峰口駅]]行き([[横瀬駅]]で分割)1本と横瀬駅発長瀞駅行き1本が運転される。車両は[[西武4000系電車]]が使用される。長瀞駅行きは秩父本線内急行(急行料金は不要)、三峰口駅行きは秩父本線内各駅停車での運転となる。なお、三峰口駅発[[西武秩父駅]]行きは時刻表上では直通列車として扱われていない。長瀞駅行きの折返しは普通[[御花畑駅]]行きとなり御花畑駅からは回送となるため、秩父本線から西武線方面への直通列車の旅客扱いは無い。
かつては、平日は飯能駅 - 長瀞駅・三峰口駅間で、休日は[[池袋駅]] - 長瀞駅・三峰口駅間で双方向に運行されていたが、[[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正で休日の西武線側の直通運転区間を飯能駅までに短縮<ref>[ https://www.seiburailway.jp/file.jsp?id=3426 2020年3月14日(土)ダイヤ改正を実施します]</ref>、[[2021年]][[3月13日]]のダイヤ改正で平日の直通列車を廃止<ref>[https://www.seiburailway.jp/file.jsp?id=3756 2021年3月13日(土)ダイヤ改正と駅名変更を実施します。]</ref>、[[2023年]][[3月18日]]のダイヤ改正で秩父本線から西武線方面への直通列車の廃止<ref>[
https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20221216_daiya.pdf 2023年3月18日(土) ダイヤ改正を実施します。]</ref>と、直通運転は徐々に縮小傾向となっている。池袋駅発着で運行されていた当時は池袋線内で速達運転を行っており、廃止時点のダイヤの2往復は、池袋駅発は[[快速急行#西武鉄道|快速急行]]、池袋駅行きは急行として運転されていた。[[2023年]][[3月18日]]のダイヤ改正以前は長瀞行きも秩父本線内各駅停車での運転であった。また、[[2007年]][[3月5日]]まで長瀞発着列車はさらに先の[[寄居駅]]まで運転されていた。
なお、[[秩父夜祭]]当日の直通列車は西武秩父駅発着になる。
==== 過去の種別 ====
かつては[[準急列車|準急]]も存在したが、現在は廃止されている。1985年3月改正までは平日の通勤時間帯に設定され、朝は影森駅始発の熊谷駅行き、夕方は熊谷駅始発の三峰口駅行きだった。途中停車駅は石原・武川・寄居・野上(急行停車駅の長瀞は通過)・皆野・大野原から三峰口までの各駅。1990年代に再設定されたときの運転区間は熊谷駅 - 三峰口駅間、途中停車駅は石原・武川・小前田・寄居・野上・長瀞・皆野・大野原から三峰口までの各駅で、原則として[[秩父鉄道2000系電車|2000系]]で運転されていた。
==== 過去の他社線との直通運転 ====
過去には[[東武鉄道]]([[東武東上本線|東上線]]・[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]〈臨時のみ〉)や[[日本国有鉄道|国鉄]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]([[高崎線]]・[[八高線]])からの直通列車も定期または不定期で運行されていた。かつての列車名として、以下のようなものがある。
* 東武東上線
** 「みつみね」「ちちぶ」「銀盤」(共に、池袋駅 - 寄居駅 - 三峰口駅)
** 「ながとろ」(池袋駅 - 寄居駅 - [[上長瀞駅]]、一部列車は隣駅の親鼻駅まで運行されていた)
** 「フライング東上」(池袋駅 - 寄居駅 - 長瀞駅)
* 高崎線
** 「ちちぶ」「くもとり」「みつみね」「秩父夜祭り」(共に、[[上野駅]] - [[熊谷駅]] - 三峰口駅)
** 「ながとろ」「秩父路」(上野駅 - 熊谷駅 - 上長瀞駅)
** 「いも掘り」(上野駅 - 熊谷駅 - [[武州中川駅]])
* 八高線
** 「八高秩父路」([[高崎駅]] - 寄居駅 - 上長瀞駅)
東武東上線からの直通列車は[[1992年]][[4月1日]]に「みつみね」「ながとろ」を最後に廃止された。また、国鉄より引き継いだJR東日本の高崎線からの乗り入れも同日に行われる秩父夜祭輸送を主眼とした[[2001年]][[12月3日]]運転の「秩父夜祭り」が最後になっている。東武東上線からの直通車両については、開始当初は[[東武7300系電車|7300系]]と[[東武7800系電車|7800系]]であったが、1964年より登場間もなかった[[東武8000系電車|8000系]]電車へと変更され、1992年の保安装置等の理由で直通停止されるまで8000系電車が運用されていた。8000系電車も車両パターンが豊富で、1970年代後半までは非冷房車4+2編成や冷房改造前の6両固定編成が入線したが、1980年頃より冷房車6両固定編成に統一された。また、前面形状が変更された8000系の更新車も入線したことがある。高崎線から直通した[[国鉄115系電車|115系]]電車についても、当初は非冷房編成で構成されていたが、一部の非冷房編成が[[新潟鉄道管理局|新潟]]・[[岡山鉄道管理局|岡山]]・[[広島鉄道管理局|広島]]地区へ転出した都合から冷房装置搭載の300・1000番台へ変更された。ただし、両社車両が秩父本線内では変電所の容量の都合で冷房装置を全開で使用できるわけではなく、夏期は送風及び弱設定での冷房運転であった。これらは秩父鉄道の車両全てが非冷房車のためであった。この状態が、西武線直通開始直後でも続くこととなった。
なお、直通運転が途絶えた後もJR東日本や東武鉄道との関係がなくなったわけではなく、「パレオエクスプレス」用蒸気機関車の管理をJR東日本で行っていたり、[[#貨物輸送|後述]]の通り羽生駅([[東武伊勢崎線]]との接続駅) - 寄居駅(東武東上線との接続駅)間を東武鉄道の[[回送]]列車が走ったりするなどの関係がある。
[[小山車両センター|JR東日本小山車両センター]]所属の[[JR東日本E231系電車|E231系]]は、旧世代の[[国鉄115系電車|115系]]・[[国鉄211系電車|211系]]入線実績から、[[方向幕|行き先表示器]]に「三峰口」などの秩父鉄道の駅が設定されていたが、乗り入れ実績がないまま、[[湘南新宿ライン]]の設定に伴い使用行き先パターンが増えた際に入れ替えに削除された。
=== 貨物輸送 ===
[[貨物]]輸送は製品である[[セメント]]輸送が全廃されるなど長期低落傾向にはあるものの、[[秩父市]]にある[[武甲山]]や、[[群馬県]][[多野郡]][[神流町]]にある叶山で産出される良質な[[石灰石]]を運ぶための貨物輸送が続けられている。またセメント焼成燃料や焼却灰の搬入もあり、現在でもその取扱高は日本の[[私鉄]]の中で上位に位置する。
1970年代までは秩父鉄道の鉄道収入のうち6 - 7割が貨物輸送を占め、黒字を計上していたが、1980年代以降セメント需要の減少や、[[貨物列車]]の乗り入れ先であった[[東武鉄道]]の[[日本の貨車操車場|貨物ヤード]]([[とうきょうスカイツリー駅#旧貨物ヤード|業平橋]]、[[下板橋駅|下板橋]])<ref group="注釈">秩父鉄道から高崎線、八高線、東武伊勢崎線、東武東上線を経由して乗り入れていた。</ref>が1986年10月に貨物の取り扱いを廃止したため、[[貨物自動車|トラック]]輸送に切り替えられたことで赤字を計上した。秩父セメント工場の生産機材で使用される燃料が現在では[[石炭]]だが、以前は[[重油]]が用いられていた。重油時代では重油タンク列車(単体またはセメント・線路で用いる砂利運搬などの混結も存在)があった。[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]開通以前は熊谷駅構内で国鉄線との連絡線<ref group="注釈">JR線との直通が停止している関係で熊谷駅からの連絡線は使用休止中。残りはSLパレオエクスプレス用蒸気機関車の回送で寄居駅からの連絡線が生かされているのみ。</ref>があり、ここから重油タンク編成を受け取り当時分岐していた熊谷駅から[[武州原谷駅]]及び秩父駅まで直通していた。国鉄からでは[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]より発着。乗り入れ貨車も重油専用タンク車[[国鉄タキ3000形貨車|タキ1500形]]、[[国鉄タキ35000形貨車|タキ45000形]]、[[国鉄タキ9900形貨車|タキ9800形]]で直通していた。これらは石炭への燃料変更で、石炭専用の[[国鉄ホキ10000形貨車|ホキ10000形]]に切り替わったものの、自動車による輸送に変更されて廃止された。
貨物列車は、[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]開通後は、同線を経由して[[熊谷貨物ターミナル駅]]に乗り入れ、さらに高崎線を経由して、秩父鉄道外へと通じていたが、2020年9月末をもって運行を終了し、同年12月31日付で同線の[[三ヶ尻駅]] - 熊谷貨物ターミナル駅間が廃止されたことにより、貨物列車が社外と連絡することはなくなった。
[[鉱石]]列車は影森駅 - 武州原谷駅 - 三ヶ尻駅間で設定されており、[[秩父鉄道ヲキ・ヲキフ100形貨車|ヲキ・ヲキフ100形]]20両編成による列車単位は1000[[トン|t]](うち貨物700t)に及ぶ。ダイヤ上は影森駅まで設定されているが、三輪・叶山両鉱山の生産状況により末端部の運行ダイヤが日によって調整されるため、午後の列車は武州原谷駅で折り返すことが多い。また、熊谷貨物ターミナル - 武川駅 - 武州原谷駅間で燃料となる石炭や原料に加える焼却灰の輸送があったが、三ヶ尻の工場へ輸送するのであっても列車は武川駅で折り返す。以上の取扱貨物の違いにより、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)との[[連絡運輸]]区間は武州原谷駅までとなっていた。
そのほか、東武鉄道の[[東武本線|本線]]と[[東武東上本線|東上線]]の車両の転配時や検査時などに寄居駅 - 羽生駅間で車両回送が頻繁に行われている。この車両回送は、以前は主に秩父鉄道仕様の保安装置 ([[自動列車停止装置|ATS]]) を搭載した東武鉄道の[[東武8000系電車|8000系電車]]の牽引で行われ、回送ながらも秩父鉄道最長の10両編成での運転が見られていたが、2011年頃から秩父鉄道の電気機関車で牽引することも多くなっている<ref>[http://railf.jp/news/2011/01/27/185800.html 東武30000系31601編成+31401編成が森林公園検修区へ] - railf.jp 鉄道ニュース、2011年1月27日掲載。</ref>。2020年、[[東武鉄道川越工場]]廃止後は東上線に在籍するすべての車両が南栗橋車両管区で全般検査を行うこととなったため、寄居駅と羽生駅では電気機関車の連結・解放が盛んに行われるようになっている。8000系ワンマン編成では引き続き寄居駅 - 南栗橋駅間で秩父鉄道仕様の保安装置併設の8000系電車2両固定編成が連結されて回送されるが、それ以外の9000系列 - 50000系列は保安装置が異なるため電気機関車が牽引している。この結果、秩父線内で牽引状態ながら有楽町線・副都心線直通用9000系・50070系や10両固定編成の10000系(10030系も含む)、TJライナー用50090系、そして以前は半蔵門線直通用だった30000系も見られるようになっている。また、東武鉄道の新車搬入も以前はすべて熊谷貨物ターミナル駅から三ヶ尻線・秩父本線経由で行われており、こちらは以前より電気機関車牽引となる。東上線へは寄居駅まで単機牽引、東武本線へは羽生駅まで[[動力集中方式#プッシュプル方式|プッシュプル]]で輸送していたが、前述の三ヶ尻駅 - 熊谷貨物ターミナル駅間廃止後は、[[栗橋駅]]に設置された通常は[[新宿駅|JR新宿駅]]発着の特急列車のためのJR・東武連絡線を活用して新車搬入などの回送列車が運行されている。2017年 - 2020年には東武線と直通している[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の[[東京メトロ13000系電車|13000系電車]]の輸送も行われた。
使用機関車は[[秩父鉄道デキ100形電気機関車|デキ100形]]、[[秩父鉄道デキ300形電気機関車|デキ300形]]、[[秩父鉄道デキ500形電気機関車|デキ500形]]の共通運用で、これらの形式による区別は一切なされていない。
<gallery>
デキ500(507).jpg|デキ500形507号機による石灰石の貨物輸送列車
Chichibu Railway Deki506 + Tobu 9000 Series 9108f 20201223.jpg|デキ500形506号機による東武東上線車両の牽引輸送列車
</gallery>
== 利用状況 ==
埼玉北部・秩父地域において、重要な役割を果たす路線であるが、下記の通り、鉄道事業単体としては赤字<!--(会社全体では黒字(2013年度時点))-->で厳しい状況が続いている。このことから、埼玉県及び沿線市町より安全対策や利用促進など直接的な支援が行われている<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/ctk-main/index.html 秩父鉄道の活性化支援] - 埼玉県</ref>。
=== 輸送実績 ===
秩父本線の輸送実績を下表に記す。貨物輸送量は中小私鉄としては多いほうだが、最近は減少している。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:85%; text-align:right; width:100%;"
|-
! colspan="9"|年度別輸送実績
|-
! rowspan="2"|年度
! colspan="5"|輸送実績(乗車人員):万人/年度
! rowspan="2"|輸送密度<br>人/1日
! rowspan="2"|貨物輸送量<br>万t/年度
! rowspan="2"|特記事項
|-
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|[[通勤]][[定期乗車券|定期]]
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|[[通学]]定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤通学<br>定期計
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|定期外
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|合計
|-
! style="font-weight: normal;"|1970年([[昭和]]45年)
|
|
| style="background-color: #ffcccc;"|1417.8
| style="background-color: #ffcccc;"|584.5
| style="background-color: #ffcccc;"|'''2002.3'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1971年(昭和46年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1972年(昭和47年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1973年(昭和48年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1974年(昭和49年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年)
| style="background-color: #ffcccc;"|644.5
| style="background-color: #ffcccc;"|533.0
|1177.5
|528.7
|'''1706.2'''
| style="background-color: #ffcccc;"|8,861
| style="background-color: #ccffcc;"|''714.5''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年)
|585.6
|521.0
|1106.6
|476.2
|'''1582.8'''
|8,074
|''733.6''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年)
|541.4
|499.6
|1041.0
|480.7
|'''1521.7'''
|7,975
|''742.9''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年)
|522.5
|475.2
|997.7
|452.0
|'''1449.7'''
|7,679
|''804.8''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年)
|506.5
|439.5
|946.0
|447.3
|'''1393.3'''
|7,399
| style="background-color: #ffcccc;"|''874.1''
| style="text-align: left;"|[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]開業、羽生 - 武川間貨物営業廃止
|-
! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年)
|504.2
|424.2
|928.4
|441.8
|'''1370.2'''
|7,350
|''849.8''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年)
|486.2
|419.4
|905.6
|420.4
|'''1326.0'''
|7,074
|''825.5''
| style="text-align: left;"|西羽生駅開業
|-
! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年)
|466.4
|398.7
|865.1
|411.3
|'''1276.4'''
|6,836
|''786.5''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年)
|448.5
|404.8
|853.3
|410.9
|'''1264.2'''
|6,834
|''712.7''
| style="text-align: left;"|武甲線 影森駅 - 武甲駅間廃止
|-
! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年)
|424.7
|412.2
|836.9
|393.2
|'''1230.1'''
|6,729
|''682.3''
| style="text-align: left;"|明戸駅開業
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
|411.2
|428.9
|840.1
|389.9
|'''1230.0'''
|6,672
|''618.2''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|390.4
|439.5
|829.9
|383.8
|'''1213.7'''
|6,565
|''572.1''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
|372.3
|453.6
|825.9
|380.8
|'''1206.7'''
|6,520
|''561.7''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|370.2
|475.7
|845.9
|393.3
|'''1239.2'''
|6,763
|''596.2''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年([[平成]]元年)
|353.2
|484.3
|837.5
|404.8
|'''1242.3'''
|6,715
|''680.5''
| style="text-align: left;"|桜沢駅開業
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|352.2
|506.2
|858.4
|420.1
|'''1278.5'''
|6,891
|''667.3''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|353.2
|514.2
|867.4
|421.8
|'''1289.2'''
|6,892
|''662.3''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|339.9
|505.2
|845.1
|391.3
|'''1236.4'''
|6,687
|''557.8''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|329.7
|492.9
|822.6
|384.8
|'''1207.4'''
|6,579
|''518.1''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|318.8
|478.7
|797.5
|376.8
|'''1174.3'''
|6,444
|''539.7''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|301.3
|465.8
|767.1
|370.2
|'''1137.3'''
|6,263
|''483.5''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|299.2
|448.5
|747.7
|363.2
|'''1110.9'''
|6,179
|''478.1''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|283.7
|417.9
|701.6
|335.8
|'''1037.4'''
|5,792
|''377.3''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|278.0
|408.0
|686.0
|313.9
|'''999.9'''
|5,592
|''299.4''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|263.1
|392.9
|656.0
|309.3
|'''965.3'''
|5,371
|''320.0''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|255.2
|381.4
|636.6
|303.6
|'''940.2'''
|5,261
|''305.2''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|247.4
|371.2
|618.6
|300.0
|'''918.6'''
|5,166
|''302.1''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|238.0
|357.0
|595.0
|294.9
|'''889.9'''
|5,052
|''306.4''
| style="text-align: left;"|ひろせ野鳥の森駅開業
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|236.1
|348.2
|584.3
|289.3
|'''873.6'''
|4,929
|''280.8''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
| style="background-color: #ccffff;"|230.1
|337.6
|567.7
| style="background-color: #ccffff;"|285.1
|'''852.8'''
| style="background-color: #ccffff;"|4,866
|''268.9''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|231.9
|328.5
|560.4
|294.7
|'''855.1'''
|4,889
|''270.5''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|234.9
| style="background-color: #ccffff;"|325.6
|560.5
|295.8
|'''856.3'''
|4,908
|''251.3''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
|
|
|style="background-color: #ccffff;"|555.0
|297.1
|'''852.1'''
|4,995
|''229.5''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|
|
|
|
|'''863.3'''
|
|''204.3''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|
|
|
|
|'''839.4'''
|
|style="background-color: #ccffff;"|''170.6''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|
|
|
|
|'''818.9'''
|
|''185.9''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|
|
|
|
|style="background-color: #ccffff;"|'''807.1'''
|
|''218.2''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|241.3
|308.0
|549.3
|264.7
|814.0
|
|204.8
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|237.4
|306.0
|543.4
|275.6
|'''819.0'''
|
|''221.6''
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|
|
|
|
|
|4,596
|
|
|}
=== 営業成績 ===
秩父本線の営業成績を下表に記す。貨物運輸収入の割合が高いが、減少が著しい。これに比べれば旅客運賃収入の変動は少ない。収入総合計額については増加した時期もあったが、最近では減少している。
表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
なお、根拠資料における「秩父鉄道」の営業成績であり、三ヶ尻線分が含まれていると考えられる。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;"
|-
! colspan="13"|年度別営業成績
|-
! rowspan="2"|年 度
! colspan="6"|旅客運賃収入:千円/年度
! rowspan="2"|貨物運輸<br>収入<br>千円/年度
! rowspan="2"|運輸雑収<br>千円/年度
! rowspan="2"|営業収益<br>千円/年度
! rowspan="2"|営業経費<br>千円/年度
! rowspan="2"|営業損益<br>千円/年度
! rowspan="2"|営業<br>係数
|-
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤通学<br>定期計
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|定期外
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|合計
|-
! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年)
|
|
| style="background-color: #ccffcc;"|429,387
| style="background-color: #ccffcc;"|732,534
| style="background-color: #ffcccc;"|''19,131''
| style="background-color: #ccffcc;"|'''1,181,051'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''1,646,850''
| style="background-color: #ccffcc;"|190,435
| style="background-color: #ccffcc;"|'''3,018,336'''
| style="background-color: #ccffcc;"|'''3,432,274'''
|'''△413,938'''
|113.7
|-
! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年)
|
|
|544,970
|880,736
|''15,329''
|'''1,441,035'''
|''2,003,254''
|260,686
|'''3,704,975'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年)
|
|
|552,656
|887,945
|''14,072''
|'''1,454,673'''
|''2,583,767''
|246,019
|'''4,284,459'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年)
|
|
|670,779
|1,022,694
|''11,760''
|'''1,705,233'''
|''2,957,065''
|223,252
|'''4,885,550'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年)
|
|
|697,386
|1,010,718
|''10,255''
|'''1,718,359'''
|''3,382,960''
|238,754
|'''5,340,073'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年)
|
|
|691,946
|1,001,750
|''9,038''
|'''1,702,734'''
|''3,644,153''
|245,221
|'''5,592,108'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年)
|
|
|767,289
|1,088,025
|''6,883''
|'''1,862,197'''
|''4,062,249''
|246,647
|'''6,171,093'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年)
|
|
|766,281
|1,061,700
|''4,699''
|'''1,832,680'''
| style="background-color: #ffcccc;"|''4,096,841''
|263,451
|'''6,192,972'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年)
|
|
|812,502
|1,150,535
|''2,763''
|'''1,965,800'''
|''3,672,642''
|233,803
|'''5,872,245'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年)
|
|
|850,902
|1,160,850
| style="background-color: #ccffff;"|''0''
|'''2,011,752'''
|''3,606,579''
|220,211
|'''5,838,542'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
|
|
|879,737
|1,197,719
|''0''
|'''2,077,456'''
|''3,633,406''
|225,716
|'''5,936,578'''
|'''6,276,333'''
|'''△339,755'''
|105.7
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|
|
|927,061
|1,248,414
|''0''
|'''2,175,475'''
|''3,430,716''
|224,262
|'''5,830,453'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
|595,251
| style="background-color: #ccffcc;"|319,802
|915,053
|1,249,200
|''0''
|'''2,164,253'''
|''3,372,746''
|230,858
|'''5,767,857'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|588,244
|338,497
|926,741
|1,307,152
|''0''
|'''2,233,893'''
|''3,495,094''
|340,730
|'''6,069,717'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年)
|554,032
|346,675
|900,707
|1,345,652
|''0''
|'''2,246,359'''
|''3,951,228''
|251,416
|'''6,449,003'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
| style="background-color: #ccffcc;"|553,119
|363,195
|916,314
|1,398,158
|''0''
|'''2,314,472'''
|''3,854,566''
|255,606
|'''6,424,644'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|569,492
|378,125
|947,617
|1,449,065
|''0''
|'''2,396,682'''
|''3,881,496''
|332,449
| style="background-color: #ffcccc;"|'''6,610,627'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
| style="background-color: #ffcccc;"|602,944
|417,625
| style="background-color: #ffcccc;"|1,020,569
| style="background-color: #ffcccc;"|1,506,684
|''0''
| style="background-color: #ffcccc;"|'''2,527,253'''
|''3,342,256''
|285,821
|'''6,155,330'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|586,708
|410,761
|997,469
|1,483,360
|''0''
|'''2,480,829'''
|''3,087,052''
|278,033
|'''5,845,914'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|570,067
|401,076
|971,143
|1,459,474
|''0''
|'''2,430,617'''
|''3,185,439''
|296,091
|'''5,912,147'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|540,138
|395,742
|935,880
|1,418,170
|''0''
|'''2,354,050'''
|''2,900,009''
|298,939
|'''5,552,998'''
|'''6,626,958'''
|'''△1,073,960'''
|119.3
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|554,685
|394,215
|948,900
|1,462,661
|''0''
|'''2,411,561'''
|''2,859,337''
| style="background-color: #ffcccc;"|302,573
|'''5,573,471'''
|'''6,251,056'''
|'''△677,585'''
|112.2
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|577,109
| style="background-color: #ffcccc;"|409,936
|987,045
|1,462,773
|''0''
|'''2,449,818'''
|''2,293,100''
|219,900
|'''4,962,818'''
|'''5,940,671'''
|'''△977,853'''
|119.7
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|570,602
|400,233
|970,835
|1,371,486
|''0''
|'''2,342,321'''
|''1,823,360''
| style="background-color: #ccffff;"|198,766
|'''4,364,447'''
|'''5,444,790'''
|'''△1,080,343'''
|124.8
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|537,084
|382,805
|919,889
|1,353,908
|''0''
|'''2,273,797'''
|''1,874,096''
|263,156
|'''4,411,049'''
|'''4,847,697'''
|'''△436,648'''
|109.9
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|520,272
|372,327
|892,599
|1,330,048
|''0''
|'''2,222,647'''
|''1,757,607''
|215,000
|'''4,195,254'''
|'''4,426,566'''
|'''△231,312'''
|105.5
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|502,538
|364,386
|866,924
|1,330,868
|''0''
|'''2,197,792'''
|''1,743,605''
|241,380
|'''4,182,777'''
|'''4,295,086'''
|'''△112,309'''
|102.7
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|484,863
|353,148
|838,011
|1,308,513
|''0''
|'''2,146,524'''
|''1,779,660''
|225,805
|'''4,151,989'''
|'''4,161,004'''
|'''△9,015'''
|100.2
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|480,620
|343,084
|823,704
|1,278,334
|''0''
|'''2,102,038'''
|''1,631,317''
|225,760
|'''3,959,115'''
|'''3,958,117'''
|'''998'''
|100.0
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
| style="background-color: #ccffff;"|468,030
|333,601
|801,631
| style="background-color: #ccffff;"|1,258,065
|''0''
| style="background-color: #ccffff;"|'''2,059,696'''
|''1,560,544''
|232,869
|'''3,853,109'''
|'''3,832,242'''
|'''20,867'''
|99.5
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|468,178
|324,409
| style="background-color: #ccffff;"|792,587
|1,274,881
|''0''
|'''2,067,468'''
|''1,578,515''
|256,966
|'''3,902,949'''
|'''3,873,589'''
|'''29,360'''
|99.2
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|473,507
| style="background-color: #ccffff;"|323,419
|796,926
|1,276,591
|''0''
|'''2,073,516'''
|''1,506,456''
|278,552
|'''3,858,525'''
|'''3,810,778'''
|'''47,747'''
|98.8
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
|
|
|797,479
|1,279,564
|''0''
|'''2,077,043'''
|style="background-color: #ccffff;"|''1,373,683''
|265,176
|style="background-color: #ccffff;"|'''3,715,903'''
|'''3,789,416'''
|'''△73,513'''
|102.0
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|478,178
|307,537
|785,715
|1,105,451
|0
|1,891,166
|1,216,907
|244,809
|3,352,882
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|468,541
|304,371
|772,912
|1,146,560
|0
|1,919,472
|1,316,296
|268,771
|3,504,539
|
|
|
|}
=== 駅別乗車人員 ===
『[http://www.pref.saitama.lg.jp/kense/toke/nenkan/index.html 埼玉県統計年鑑]』より算出。単位:人。
{| class="wikitable" style="margin-left:1.5em; font-size:85%;"
|-
!rowspan="2" style="width:1em"|順位||colspan="2"|2021年度
|-
!駅名!!一日平均<br />乗車人員
|-
!1
||[[熊谷駅]]||style="text-align:right;"|4,491
|-
!2
||[[羽生駅]]||style="text-align:right;"|1,838
|-
!3
||[[寄居駅]]||style="text-align:right;"|1,116
|-
!4
||[[東行田駅]]||style="text-align:right;"|1,001
|-
!5
||[[御花畑駅]]||style="text-align:right;"|931
|-
!6
||[[行田市駅]]||style="text-align:right;"|609
|-
!7
||[[ひろせ野鳥の森駅]]||style="text-align:right;"|498
|-
!8
||[[大野原駅]]||style="text-align:right;"|439
|-
!9
||[[秩父駅]]||style="text-align:right;"|400
|-
!10
||[[石原駅 (埼玉県)|石原駅]]||style="text-align:right;"|398
|-
!11
||[[武川駅]]||style="text-align:right;"|389
|-
!12
||[[皆野駅]]||style="text-align:right;"|384
|-
!13
||[[桜沢駅 (埼玉県)|桜沢駅]]||style="text-align:right;"|382
|-
!14
||[[持田駅]]||style="text-align:right;"|367
|-
!15
||[[小前田駅]]||style="text-align:right;"|365
|-
!16
||[[長瀞駅]]||style="text-align:right;"|357
|-
!17
||[[ソシオ流通センター駅]]||style="text-align:right;"|262
|-
!18
||[[上熊谷駅]]||style="text-align:right;"|256
|-
!19
||[[野上駅]]||style="text-align:right;"|229
|-
!20
||[[影森駅]]||style="text-align:right;"|173
|-
!21
||[[永田駅 (埼玉県)|永田駅]]||style="text-align:right;"|164
|-
!22
||[[親鼻駅]]||style="text-align:right;"|154
|-
!23
||[[和銅黒谷駅]]||style="text-align:right;"|151
|-
!24
||[[武州荒木駅]]||style="text-align:right;"|137
|-
!25
||[[新郷駅 (埼玉県)|新郷駅]]||style="text-align:right;"|109
|-
!26
||[[大麻生駅]]||style="text-align:right;"|108
|-
!27
||[[西羽生駅]]||style="text-align:right;"|105
|-
!28
||[[明戸駅]]||style="text-align:right;"|103
|-
!29
||[[波久礼駅]]||style="text-align:right;"|95
|-
!30
||[[武州中川駅]]||style="text-align:right;"|94
|-
!31
||[[三峰口駅]]||style="text-align:right;"|94
|-
!32
||[[上長瀞駅]]||style="text-align:right;"|91
|-
!33
||[[ふかや花園駅]]||style="text-align:right;"|89
|-
!34
||[[樋口駅]]||style="text-align:right;"|84
|-
!35
||[[浦山口駅]]||style="text-align:right;"|63
|-
!36
||[[武州日野駅]]||style="text-align:right;"|59
|-
!37
||[[白久駅]]||style="text-align:right;"|24
|}
== 使用車両 ==
=== 自社所有車両 ===
2021年時点で、[[電車]]が19編成53両、[[電気機関車]]13両、[[客車]]が1編成4両、蒸気機関車1両、[[貨車]]6両の計77両が在籍している。
==== 電車 ====
電車は、1992年(平成4年)に[[秩父鉄道300系電車|300系]]が運行終了してからは他社から譲渡された車両のみで運用されている。また2014年(平成26年)3月23日をもって、[[秩父鉄道1000系電車|1000系]]電車([[国鉄101系電車|旧国鉄101系]]電車)が営業運転から離脱したため、同年4月時点で、運行する自社所有の旅客用電車は全て冷房付き車両となっている<ref group="注釈">中間電動車のデハ1100形が廃車まで冷房改造を行わず、非冷房車のままだったため。</ref>。
; 各停
:* [[秩父鉄道5000系電車|5000系]](旧[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|都営6000形]])
:* [[秩父鉄道7000系電車|7000系]](旧[[東急8500系電車|東急8500系]])
:* [[秩父鉄道7500系電車|7500系・7800系]](旧[[東急8090系電車|東急8090系]])
; 急行
:* [[秩父鉄道6000系電車|6000系]](旧[[西武101系電車#新101系・301系|西武新101系]])
:
<gallery widths="180" perrow="4">
ファイル:Chichibu railway 5203 20110606.jpg|5000系
ファイル:Chichibu Railway 6000.jpg|6000系
ファイル:Chichibu-Series7201.jpg|7000系
ファイル:Chichibu Series7800-7902.jpg|7800系
ファイル:Chichibu-Series7504.jpg|7500系
</gallery>
==== 電気機関車 ====
貨物列車牽引、また客車列車牽引・補機として運用されている。
* [[秩父鉄道デキ100形電気機関車|デキ100形]]
* [[秩父鉄道デキ200形電気機関車|デキ200形]]
* [[秩父鉄道デキ300形電気機関車|デキ300形]]
* [[秩父鉄道デキ500形電気機関車|デキ500形]] - 507のみ[[太平洋セメント]]所有
==== 蒸気機関車 ====
「パレオエクスプレス」牽引用として1988年に導入。
* [[国鉄C58形蒸気機関車#C58 363|C58 363]]
==== 客車 ====
「パレオエクスプレス」その他イベント列車に運用。
* [[国鉄12系客車|12系]]
==== 貨車 ====
* [[秩父鉄道スム4000形貨車|スム4000形]]
* [[秩父鉄道トキ500形貨車|トキ500形]]
* [[秩父鉄道ホキ1形貨車|ホキ1形]]
=== 他社所有車両 ===
; [[太平洋セメント]]
:* [[秩父鉄道デキ500形電気機関車|デキ500形]]電気機関車 - 507のみ
:*[[秩父鉄道ヲキ・ヲキフ100形貨車|ヲキ・ヲキフ100形]]
; [[西武鉄道]]
:* [[西武4000系電車|4000系]]電車
== 歴史 ==
熊谷駅 - 秩父駅間は前身の上武鉄道([[丹荘駅]] - 西武化学前駅間を営業していた[[上武鉄道]]とは別)によって開業し、秩父鉄道と改称後に秩父駅 - 三峰口駅間が延長された。羽生駅 - 熊谷駅間は[[北武鉄道]]によって開業し、秩父鉄道に合併され当線の一部となった。
* [[1901年]]([[明治]]34年)[[10月7日]] 上武鉄道が熊谷駅 - 寄居駅間開業<ref>[{{NDLDC|2948782/3}} 「運輸開始」『官報』1901年10月10日]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>。
* [[1903年]](明治36年)
** [[4月2日]] 寄居駅 - 波久礼駅間開業<ref>[{{NDLDC|2949234/6}} 「運輸開始」『官報』1903年4月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[6月24日]] 田中駅を武川駅に改称<ref>官報では7月1日[{{NDLDC|2949303/17}} 「停車場改称」『官報』1903年6月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1911年]](明治44年)[[9月14日]] 波久礼駅 - 宝登山駅<ref group="注釈" name="hodosan">『[{{NDLDC|974228/134}} 明治44年度 鉄道院年報]』(国立国会図書館デジタルコレクションより)での表記。[http://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/milestone.html 秩父鉄道公式ページ]では「藤谷淵」としている。</ref>(現・長瀞駅) - 秩父駅(初代、後の初代・国神駅、荒川駅)間開業<ref>[{{NDLDC|2951833/9}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1911年9月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。[[ファイル:Higuchi Jobutetsudou gogan hagure 1.jpg|thumb|波久礼駅 - 樋口駅間の[[荒川 (関東)|荒川]]沿いの[[護岸]]上を通る列車(1913年)]][[ファイル:Minano First Chichibu Station Panorama 1.jpg|thumb|初代秩父駅(後の国神駅)遠景(大正初年)。右端の構造物は[[親鼻橋]]。]]
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[6月1日]] 永田駅開業。
* [[1914年]](大正3年)[[10月27日]] 宝登山駅<ref group="注釈" name="hodosan" /> - 秩父駅間開業。これまでの秩父駅を国神駅(初代)に改称のうえ、宝登山駅 - 国神駅(初代)間の旅客営業廃止<ref>[{{NDLDC|2952781/5}} 「軽便鉄道運輸開始及停車場名称改称並旅客取扱廃止」『官報』1914年10月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1916年]](大正5年)
** [[1月1日]] 国神駅(2代、現・上長瀞駅)が開業し、貨物支線の起点を国神駅に変更。これまでの国神駅(初代)を荒川駅に改称<ref>[{{NDLDC|2953144/7}} 「軽便鉄道停車場新設及停車場名称並哩程変更」『官報』1916年1月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[2月25日]] 上武鉄道が秩父鉄道に社名変更。
* [[1917年]](大正6年)[[9月27日]] 秩父駅 - 影森駅間開業。
* [[1918年]](大正7年)[[9月16日]] 武甲線 影森駅 - 武甲駅間開業(貨物営業のみ)<ref>[{{NDLDC|2953953/8}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1918年9月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1921年]](大正10年)[[4月1日]] 北武鉄道が羽生駅 - 行田駅(現・行田市駅)間開業<ref group="注釈">[[今尾恵介]]『日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2』([[新潮社]]、2008年)p.55では新郷駅・武州荒木駅は1922年7月28日開業とあるが、この区間の営業開始を報じた[{{NDLDC|2954716/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)には新郷駅・武州荒木駅も記載。[[鉄道省]]『[{{NDLDC|1025500/159}} 鉄道停車場一覧]』昭和2年版(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1922年]](大正11年)
** [[1月20日]] 熊谷駅 - 宝登山駅間電化(直流1,200 V)。
** [[1月21日]] 秩父駅 - 影森駅間電化。
** [[5月15日]] 石原駅 - 大麻生駅間に[[貨物駅|(貨)]]広瀬川原駅開業<ref>[{{NDLDC|2955072/7}} 「地方鉄道停車場設置」『官報』1922年6月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)では5月15日開業。</ref><ref group="注釈" name="databook_nihonnositetsu">今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2』(新潮社、2008年)p.55や寺田裕一『データブック日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年)p.192では1922年5月13日開業、1945年5月28日廃止、同年10月13日再開業。<br />なおこれらの書では1979年10月1日に広瀬川原駅廃止としているが、翌年以降の『[[鉄道要覧]]』では広瀬川原駅が掲載され続けている(平成9年度版、平成18年度版、平成28年度版で確認)。<!--出典元としては国交省監修『鉄道要覧』や、秩父鉄道公式ページのほうが信頼性が高い。参考文献の誤記では?--></ref>。
** [[5月20日]] 宝登山駅 - 秩父駅間、影森駅 - 武甲駅間電化。
** [[8月1日]] 北武鉄道が行田駅 - 熊谷駅間開業。
** [[9月18日]] 秩父鉄道が北武鉄道を合併<ref>{{PDFlink|[http://www.tetsupic.com/seigohyo/seigo.pdf 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』([[電気車研究会]]、1993年)の正誤表(再改訂版)2009年3月作成]}} で8月から9月18日に訂正。</ref>。
* [[1923年]](大正12年)[[7月7日]] 宝登山駅を長瀞駅に改称。
* [[1925年]](大正14年)[[11月15日]] 持田駅開業<ref>[{{NDLDC|2956127/7}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1925年11月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1926年]](大正15年)[[7月1日]] 貨物支線 国神駅 - 荒川駅間廃止<ref>[{{NDLDC|2956369/4}} 「鉄道営業廃止」『官報』1926年9月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)、『私鉄史ハンドブック』正誤表(再改訂版 2009年3月作成)では7月1日(6月30日限り)廃止、『日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2』『データブック日本の私鉄』では6月19日廃止。</ref>。
* 1927年(昭和2年)12月5日 鉄道免許状下付([[秩父郡]][[白川村 (埼玉県)|白川村]]-同郡[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]]間、大滝村[[大字]]大滝地内([[ケーブルカー|鋼索]]))<ref>[{{NDLDC|2956743/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年12月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[5月15日]] 国神駅を上長瀞駅に改称。
* [[1929年]](昭和4年)[[12月16日]] 本野上駅を野上駅に改称。
* [[1930年]](昭和5年)
** [[3月15日]] 影森駅 - 三峰口駅間開業。当初から電化。
** 12月26日 鉄道免許失効(1927年12月5日鉄道免許、秩父郡大滝村大字大滝地内 指定ノ期限マテニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)<ref>[{{NDLDC|2957666/12}} 「鉄道免許失効」『官報』1930年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1932年]](昭和7年)[[11月20日]] 東行田駅開業。
* [[1933年]](昭和8年)
** 4月1日 鎌倉町駅(現・上熊谷駅)開業。
** [[7月1日]] 鎌倉町駅を上熊谷駅に改称。
* 1936年(昭和11年)2月19日 鉄道免許失効(1927年12月5日鉄道免許、秩父郡白川村 - 同郡大滝村間 指定ノ期限マテニ工事施工ノ認可申請ヲセサルタメ)<ref>[{{NDLDC|2959217/4}} 「鉄道免許失効」『官報』1936年2月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[5月28日]] (貨)広瀬川原駅廃止<ref group="注釈" name="databook_nihonnositetsu" />。
** [[10月13日]] (貨)広瀬川原駅再開業<ref group="注釈" name="databook_nihonnositetsu" />。
* [[1949年]](昭和24年)[[4月3日]] [[東武鉄道]][[東武東上本線|東上線]]からの直通運転開始。
* [[1952年]](昭和27年)[[2月1日]] 全線の架線電圧を1,200 V から1,500 V に昇圧。
* [[1956年]](昭和31年)[[2月5日]] (貨)武州原谷駅開業。
* [[1966年]](昭和41年)6月1日 行田駅を行田市駅に改称。
* [[1967年]](昭和42年)9月 東武鉄道が池袋駅 - [[東武日光駅]]間直通の臨時団体列車を秩父鉄道の寄居駅 - 羽生駅間を経由して運転。
* [[1969年]](昭和44年)[[10月1日]] 急行「秩父路」運転開始<ref>{{Cite news |title=熊谷-三峰口に急行列車 秩父鉄道、十月一日から運転 |newspaper=[[交通新聞]] |date=1969-09-28 |publisher=交通協力会 |page=3 }}</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)10月1日 [[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]開業に伴い、羽生駅 - 武川駅間貨物営業廃止。
* [[1981年]](昭和56年)[[9月1日]] 西羽生駅開業<ref name="交通81">{{Cite news |title=秩父鉄道に新駅 来月一日から |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1981-08-16 |page=3 }}</ref>。
* [[1983年]](昭和58年) 東武鉄道のダイヤ改正に伴い、東武東上線との直通運転区間を[[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]までに短縮。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[1月31日]] 小荷物扱い廃止<ref group="注釈">昭和30年代は1日平均3000個以上を扱ったが、昭和57年には1日平均76個まで減少していた。</ref>。
** 2月1日 武甲線 影森駅 - 武甲駅間廃止。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]] 明戸駅開業。同日のダイヤ改正により、羽生駅 - 寄居駅間の朝夕の通勤時間帯に普通列車22本・急行列車1本が増発。これにより、同区間の運転間隔が平均30 - 40分だったのが平均20分に短縮。
* [[1988年]](昭和63年)3月15日 蒸気機関車列車「パレオエクスプレス」運転開始。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** 4月1日 桜沢駅開業。[[西武鉄道]][[西武秩父線]]から直通運転(飯能駅 - 三峰口駅・野上駅)開始。
** [[10月24日]] 東武鉄道のダイヤ改正に伴い、東武東上線との直通運転区間を池袋駅までに再延長。池袋駅から寄居駅を経由して上長瀞駅発着の特急「ながとろ」号と、三峰口駅発着の特急「みつみね」号を休日のみ各1往復ずつ設定した<ref group="注釈">所要時間は池袋駅 - 三峰口駅間が約2時間20分、上長瀞駅までが1時間50分程度。</ref>。
* [[1992年]](平成4年)4月1日 ATS使用開始。東武鉄道東上線からの直通運転中止。西武鉄道から野上駅までの直通運転を寄居駅までに延長。
* [[1993年]](平成5年)5月13日 [[天皇]]・[[皇后]]の埼玉県[[行幸|行幸啓]]において、長瀞駅 - 熊谷駅間で[[お召し列車]]が運転される(その後、高崎線に入り、[[上尾駅]]を経由して[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]まで運転)。
* [[1999年]](平成11年)[[12月1日]] ワンマン運転開始。
* [[2003年]](平成15年)[[3月27日]] ひろせ野鳥の森駅開業。
* [[2004年]](平成16年)[[10月22日]] 羽生駅を[[橋上駅|橋上駅舎]]化。
* [[2007年]](平成19年)[[3月6日]] 西武鉄道から寄居駅までの直通運転を長瀞駅までに短縮。
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月8日]] 影森駅構内で石灰石輸送の貨物列車が[[列車脱線事故|脱線]]して横転。[[機関士]]1名が軽傷を負った。
** 4月1日 黒谷駅を和銅黒谷駅に改称。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]] ダイヤ改正。羽生駅 - 熊谷駅間の増発、急行電車の増発、[[始発|初列車]]・[[終電|終列車]]の繰り上げ・繰り下げ、影森駅 - 三峰口駅間の区間運転等を実施。
* [[2014年]](平成26年)[[2月15日]] [[平成26年豪雪]]の影響により[[2月17日]]にかけて終日運休。[[秩父市]]内の各駅ではその後もダイヤに影響が出た。
* [[2015年]](平成27年)[[3月21日]] 影森駅 - 三峰口駅間のダイヤを一部改正。
* [[2016年]](平成28年)[[12月1日]] 大型ディスプレイによる旅客情報案内サイネージの運用を開始。運用開始時は9駅(羽生、熊谷、武川、寄居、長瀞、秩父、御花畑、影森、三峰口の各駅)で、平成29年度中に全駅に順次導入予定とされた。
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月25日]] ソシオ流通センター駅開業に伴い全線ダイヤを改正<ref name="ryutsu-press">{{PDFlink|[http://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2017/03/20170310_timetable_socio.pdf 「4/1(土)新駅『ソシオ流通センター駅』開業に伴い3/25(土)ダイヤ改正」]}}(秩父鉄道プレスリリース、2017年3月10日。2017年3月11日閲覧)</ref>。
** 4月1日 ソシオ流通センター駅開業<ref>{{Cite web|和書|title=熊谷都市計画に関する変更について |url=http://www.city.kumagaya.lg.jp/smph/about/soshiki/toshi/toshikeikaku/oshirase/toshikeikakuhenkou/kumagayaryutsucenter.html |publisher=熊谷市 |date=2017-01-27 |accessdate=2017-02-13}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** 10月1日 ふかや花園駅開業に伴い全線ダイヤを改正。
** [[10月20日]] ふかや花園駅開業。
*[[2020年]]([[令和]]2年)
**[[4月13日]] [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]拡大防止のため一部列車の計画運休を実施。急行列車および西武線直通列車を運休、一部列車の始発列車繰り下げ、最終列車繰り上げ。平日、土休日共通の臨時ダイヤでの運行となる<ref name="chichibu-railway20200413">{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2020/04/20200410_keikaku_unkyu.pdf|format=PDF|title=新型コロナウイルス感染症拡大に伴う 「計画運休」について|date=2020-04-10|accessdate=2020-04-13|publisher=秩父鉄道}}</ref>。
**[[6月1日]] 運休していた急行列車の一部の運転再開<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/2004010-1/ 【重要なお知らせ】新型コロナウイルス感染症拡大に伴う「計画運休」について(6/1以降一部時刻変更)(5/27更新)] - 秩父鉄道、2020年5月27日</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月13日]] ダイヤ改正を実施し、計画運休ダイヤを終了。西武線直通列車の運転を再開(土休日のみの設定となる)。
* [[2022年]](令和4年)
** [[3月12日]] 全旅客駅に交通系ICカード「[[PASMO]]」を導入し、同時に「[[Suica]]」などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]にも対応<ref name="20220312PASMOstart" />。これに合わせ、前日をもって羽生、熊谷、武川、ふかや花園、寄居、長瀞、秩父、御花畑、影森、三峰口を除く27駅の窓口営業を終了し、無人化<ref name="20220312PASMOstart" />。
** [[9月13日]] [[駅ナンバリング]]を導入<ref name="stnno">{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/20220913-3/|title=駅ナンバリングの導入について|date=2022-09-13|accessdate=2022-09-15|publisher=秩父鉄道}}</ref>。
** [[10月1日]] ふかや花園プレミアム・アウトレット開業に伴うダイヤ改正<ref>{{PDFlink|[https://www.chichibu-railway.co.jp/assets/newsrelease/20220913_kaisei.pdf 「ふかや花園プレミアム・アウトレット開業に伴い10月1日(土)ダイヤ改正 大幅増発し、利便性向上」]}}(秩父鉄道プレスリリース、2022年9月13日)</ref>。熊谷駅 - 寄居駅間で増発。ふかや花園駅がSL「パレオエクスプレス」と急行「秩父路」の停車駅になり、武川駅がSL「パレオエクスプレス」の通過駅になる。
* [[2023年]](令和5年)[[3月18日]] ダイヤ改正<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/20230227/ 「3月18日(土)ダイヤ改正について」] - 秩父鉄道、2023年3月22日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.chichibu-railway.co.jp/assets/newsrelease/20230227_daiyakaisei.pdf 「2023年3月18日(土)ダイヤ改正長瀞・秩父地域へのおでかけに長瀞行の列車を増発」]}}(秩父鉄道プレスリリース、2023年2月27日)</ref>。下り終電車の繰り下げ。土休日ダイヤにおいて下り列車のみ急行「秩父路」の全線での運転再開。西武線から直通する長瀞行きが秩父線内急行運転となる。
== 駅一覧 ==
全駅[[埼玉県]]内に所在。有人駅は羽生・熊谷・武川・ふかや花園・寄居・長瀞・秩父・御花畑・影森・三峰口のみで、他駅は終日駅員不在・係員による見回りが行われる<ref name="20220312PASMOstart" />。
; 凡例
: (貨):貨物駅
: 停車駅 … ●:停車、|:通過、↓↑:通過(矢印の方向のみ運転)
: パレオエクスプレス … △:停車、上り列車基準で後ろ1両のみドアが開かない、▲:停車、上り列車基準で後ろ2両のみドアが開かない
; 線路(全線単線)
: ◇・∨・∧:[[列車交換]]可、|:列車交換不可
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em;"|駅番号
!style="width:11em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em;"|営業<br />キロ
!style="width:1em;"|{{縦書き|各停}}
!style="width:1em; background:#ffc;""|{{縦書き|西武線直通各停}}
!style="width:1em; background:#ffc;""|{{縦書き|西武線直通急行}}
!style="width:1em; background:#fcf;"|{{縦書き|[[急行列車|急行]] [[秩父路]]|height=6em}}
!style="width:1em; background:#cfc; line-height:1em;"|{{縦書き|[[SLパレオエクスプレス|SLパレオエクスプレス]]|height=12em}}
!|接続路線
!style="width:1em;"|{{縦書き|線路}}
!colspan="2"|所在地
|-
|-
!style="text-align:center;"|CR01
|[[羽生駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="width:1em;"|
|style="width:1em;"|
|style="width:1em;background:#fcf; text-align:center;"|●
|
|[[東武鉄道]]:[[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]] (TI-07)
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="3" colspan="2"|[[羽生市]]
|-
!style="text-align:center;"|CR02
|[[西羽生駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.2
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR03
|[[新郷駅 (埼玉県)|新郷駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|2.6
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR04
|[[武州荒木駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|4.8
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan=4 colspan="2"|[[行田市]]
|-
!style="text-align:center;"|CR05
|[[東行田駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|7.3
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR06
|[[行田市駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|8.3
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR07
|[[持田駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|10.1
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR08
|[[ソシオ流通センター駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|11.6
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|
|
|style="text-align:center;"||
|rowspan="7" colspan="2"|[[熊谷市]]
|-
!style="text-align:center;"|CR09
|[[熊谷駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|14.9
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|18px|■]] [[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・{{Color|#f68b1e|■}}[[高崎線]]・{{Color|#f68b1e|■}}[[湘南新宿ライン]]・{{Color|#990099|■}}[[上野東京ライン]]
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR10
|[[上熊谷駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|15.8
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR11
|[[石原駅 (埼玉県)|石原駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|17.0
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR12
|[[ひろせ野鳥の森駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|18.5
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"| -
|(貨)[[広瀬川原駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|19.0
|style="background:#cff; text-align:center;"||
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR13
|[[大麻生駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|20.3
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR14
|[[明戸駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|22.9
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="5" colspan="2"|[[深谷市]]
|-
!style="text-align:center;"|CR15
|[[武川駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|24.8
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|秩父鉄道:[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]](貨物線)
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR16
|[[永田駅 (埼玉県)|永田駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|27.1
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR17
|[[ふかや花園駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|28.2
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR18
|[[小前田駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|30.5
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR19
|[[桜沢駅 (埼玉県)|桜沢駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|31.9
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="3" colspan="2"|[[大里郡]]<br />[[寄居町]]
|-
!style="text-align:center;"|CR20
|[[寄居駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|33.8
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|●
|東日本旅客鉄道:{{color|#b4aa96|■}}[[八高線]]<br />[[東武鉄道]]:[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東上本線]] (TJ-39)
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR21
|[[波久礼駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|37.7
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR22
|[[樋口駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|42.1
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|style="text-align:center; width:1em;" rowspan="6"|{{縦書き|[[秩父郡]]}}
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[長瀞町]]
|-
!style="text-align:center;"|CR23
|[[野上駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|44.7
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|
|
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR24
|[[長瀞駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|46.5
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|rowspan="9" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|西武秩父線から[[西武秩父駅]]を経て直通|height=18em}}
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR25
|[[上長瀞駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|47.6
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|↑
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR26
|[[親鼻駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|49.2
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|↑
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="2"|[[皆野町]]
|-
!style="text-align:center;"|CR27
|[[皆野駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|50.8
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|△
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR28
|[[和銅黒谷駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|53.4
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|↑
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="11" colspan="2"|[[秩父市]]
|-
!style="text-align:center;"| -
|(貨)[[武州原谷駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|55.5
|style="background:#cff; text-align:center;"||
|style="background:#ffc; text-align:center;"|↑
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR29
|[[大野原駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|56.6
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|↑
|style="background:#fcf; text-align:center;"||
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR30
|[[秩父駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|59.0
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR31
|[[御花畑駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|59.7
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|▲
|[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuIkebukuro.svg|18px|SI]] [[西武秩父線]]([[西武秩父駅]]:SI36)
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR32
|[[影森駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|62.4
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|rowspan="6" style="width:1em; text-align:left;"|{{縦書き|[[西武秩父線]]から直通|height=13em}}
|align="center" style="background:#fcf"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR33
|[[浦山口駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|63.8
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|↓
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR34
|[[武州中川駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|66.2
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|↓
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR35
|[[武州日野駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|67.7
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|↓
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!style="text-align:center;"|CR36
|[[白久駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|70.4
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|↓
|style="background:#cfc; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="text-align:center;"|CR37
|[[三峰口駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|71.7
|style="background:#cff; text-align:center;"|●
|style="background:#ffc; text-align:center;"|●
|style="background:#fcf; text-align:center;"|●
|style="background:#cfc; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|∧
|}
; 直通路線
: {{Main|#運行形態}}
: [[長瀞駅]]・[[三峰口駅]]まで、[[西武秩父線]]経由で[[西武池袋線]] [[飯能駅]]から直通運転を実施。
== 運賃 ==
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。きっぷ・IC運賃とも同額。2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2019/09/20190905_unchin2.pdf 鉄道旅客運賃の認可および改定について]}} - 秩父鉄道(2019年9月5日)2019年10月2日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2019/09/20191001_fare.pdf 秩父鉄道旅客運賃表及びキロ程表]}} - 秩父鉄道(2019年9月19日)2019年10月2日閲覧</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;"
|-
!style="width:8em;"|キロ程
!運賃(円)
!style="width:8em;"|キロ程
!運賃(円)
|-
|初乗り1 - 4km||170||33 - 35||800
|-
|5 - 6||240||36 - 38||820
|-
|7 - 8||310||39 - 41||840
|-
|9 - 10||390||42 - 44||860
|-
|11 - 12||450||45 - 47||880
|-
|13 - 14||480||48 - 50||900
|-
|15 - 16||510||51 - 53||920
|-
|17 - 18||550||54 - 56||940
|-
|19 - 20||590||57 - 59||960
|-
|21 - 22||620||60 - 62||990
|-
|23 - 24||650||63 - 65||1010
|-
|25 - 26||680||66 - 68||1030
|-
|27 - 28||710||69 - 71||1050
|-
|29 - 30||740||72||1070
|-
|31 - 32||780
|}
=== 乗車券 ===
* 自動券売機はほとんどの駅で設置済み。有人窓口発売の乗車券や[[定期乗車券|定期券]]類は全て手発行(定期券は需要の多い区間は既に印刷されたものを使うが、そうでない場合は昔ながらの、紙に有効期限の日付や区間等をスタンプで押して作成)される。また一部有人駅の窓口では昔ながらの[[硬券]]の乗車券も発売されている。定期券等、全ての乗車券は購入時に[[クレジットカード]]や[[金券]]類を使用することはできず、全て現金払いの必要がある。
* [[一日乗車券]]として、秩父本線が土休日やSL運転日に限り利用できる「秩父路遊々フリーきっぷ」(紙券)を大人1,600円・小児800円で販売していたが、後述するデジタル版やPASMOの導入に伴い2023年3月31日を以て通年販売を終了した。以降は期間限定で販売している<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/information/couponpass.html#yuuyuu おトクなきっぷ] - 秩父鉄道、2023年8月18日閲覧</ref>。
** 2021年11月4日からは、[[小田急電鉄]]の[[Mobility as a Service|MaaS]][[モバイルアプリケーション|アプリ]]「EMot」を利用したデジタルチケット「秩父路遊々フリーきっぷ デジタル版」を大人1,500円・小児500円で発売している<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/20211102/ 【デジタルチケット】MaaSアプリ「EMot」にて紙券よりお得なフリーきっぷを毎日発売] 秩父鉄道(2021年11月20日閲覧)</ref>。紙券の「秩父路遊々フリーきっぷ」と違い、平日を含む通年で毎日購入および利用ができる。
* [[PASMO]]、[[Suica]]等の[[乗車カード#ICカード乗車券|ICカード乗車券]]は、2022年3月12日から全線・全駅で利用できるようになった。ICカード乗車券を導入する計画は2021年1月に発表<ref name="press20210127">{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/20210127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127170626/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/20210127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ICカード乗車券システムを導入し、お客様の利便性の向上、感染症対策の向上を図ります|publisher=秩父鉄道|date=2021-01-27|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-27}}</ref>。2022年1月27日に、同年3月12日よりPASMOを導入するとともに、羽生、熊谷、武川、ふかや花園、寄居、長瀞、秩父、御花畑の各駅で定期券を含むPASMOの販売を行い、これらPASMO販売駅と影森駅、三峰口駅を除く、その他27駅においては窓口を閉鎖することが発表された<ref name="20220312PASMOstart">{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127093258/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秩父鉄道、交通系ICカード「PASMO」を導入 〜2022年3月12日(土)よりサービス開始〜|publisher=秩父鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-29|archivedate=2022-01-27}}</ref>。2022年3月12日以前においてもJR東日本・東武鉄道と改札口を共有する寄居駅では、乗換用ICカード専用簡易改札機が設置してあった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Chichibu Main Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.chichibu-railway.co.jp/ 秩父鉄道]
* {{Twitter|ctk_info|秩父鉄道運行情報【公式】}}
{{デフォルトソート:ちちふてつとうちちふほんせん}}
[[Category:秩父鉄道|路ちちふほんせん]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|ちちふほんせん]]
[[Category:埼玉県の交通|ちちふてつとうちちふほんせん]]
|
2003-08-27T05:02:01Z
|
2023-11-29T22:30:17Z
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[
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14,165 |
エディ・メルクス
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エディ・メルクス(Eddy Merckx, 1945年6月17日 - )は、ベルギー、ブラバント州ティールト=ウィンゲ(英語版)出身の自転車プロロードレースの選手。また、この人物の名前に由来する高級スポーツ自転車のブランド。本項ではその両方について説明する。
ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアをそれぞれ5回ずつ、ブエルタ・ア・エスパーニャを1回制覇しており、ツール通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・ジョーヌ保持日数96日はいずれもツールにおける最高記録である。
また世界選手権でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。さらにミラノ〜サンレモを7回、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュを5回制するなどクラシックでも数多くの記録を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン50勝以上を3回達成している)ほか、パトリック・セルキュとタッグを組んでトラック競技でも勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。
同一年度にツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、1972年、1974年の3回達成。1974年はさらに世界選手権も制して「トリプルクラウン」を史上初めて達成した選手でもある。
全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利を目指した貪欲さから、他の選手たちに「ザ・カニバル」(人食い)の異名で恐れられた(但し、本人曰く、他の選手から直接この名で呼ばれたことはないとのこと)。
その数々の伝説的偉業により、ロードレース・ファンからはファウスト・コッピと並んで「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―チャンピオンの中のチャンピオン)と呼ばれている。
1961年に16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さで東京オリンピックのベルギー代表のロード選手に選ばれ来日(記録は4時間39分51秒。1964年東京オリンピック時代は正式記録が秒単位であったため優勝記録と同タイム。ただ細かくは4時間39分51秒74で3位と同タイム。写真判定で12位だった。本レースはまれにみる混戦で、30位前後の選手までメルクスと100分の1秒まで同タイムだった。なおメルクスがレース後半で転倒していなければ優勝したはず、との風説もあるが、メルクス転倒の事実自体が未確認である)。さらにアマチュア世界選手権を制するなど、すでに大器の片鱗を見せ始めていた。
1965年にプロに転向。翌1966年にいきなりミラノ〜サンレモで優勝して衝撃のデビューを飾ったものの、この年は、大きな勝利はこの1つにとどまった。しかし1967年はミラノ〜サンレモの連覇を皮切りにヘント〜ウェヴェルヘムやフレッシュ・ワロンヌなどのビッグレースで優勝。ジロ・デ・イタリアではステージ2勝を挙げ、世界選手権も制し、一気にトップレーサーとなる。
1968年にはパリ〜ルーベを制覇したほか、ジロ・デ・イタリアで初めての総合優勝を遂げ、1969年はパリ〜ニースの総合優勝を皮切りにクラシックレースも次々制覇。その勢いのままツール・ド・フランスでもステージ6勝を含む総合優勝を達成。
そして1970年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方を制して「ダブルツール」を達成。最強の座を確たるものにした。
1971年もツール・ド・フランスの連覇を始め、ミラノ〜サンレモ、フレッシュ・ワロンヌ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ、ジロ・ディ・ロンバルディアと数々のクラシックで優勝。さらには世界選手権で2度目の優勝を達成した。
1972年には自身二度目の「ダブルツール」達成。さらにメキシコでアワーレコードに挑戦。49.43195kmの新記録を叩きだし、世間からは「これを塗り替えることは永遠に不可能」とまで言われた。
さらに1973年はジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャで優勝したほかパリ〜ルーベで3回目、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで4回目の優勝を飾るなどクラシックでも大活躍した。
1974年には前人未到となる三度目の「ダブルツール」を達成。ツール・ド・フランスでは史上最多となるステージ8勝という圧倒的な成績を残した。さらにこの年は世界選手権も制して史上初の「トリプルクラウン」を達成。栄光の絶頂を極めた年となった。
そして1975年も春のクラシックシーズンを絶好調で終えるが、ツール・ド・フランスでは、ベルナール・テブネの前に苦杯を喫し、2位に終わる。しかし、これはメルクスの力が衰えたからではなく、第14ステージの山頂ゴール手前でメルクスを嫌う観客に腹部を殴打されたのが原因であり、これによって次のステージから急激に体調を崩した上に落車して顎を骨折、ものを咀嚼できない状態になった。そのため体調はさらに悪化し血を吐くまでになり、誰もがリタイアすると思ったが最後まで走りぬき、しかも優勝をあきらめずに何度もアタックをかけ、周りを驚愕させた。
しかしその無茶がたたって以後は急速に走りに精彩を欠くようになり、1976年に7回目のミラノ〜サンレモ制覇を達成したのを最後に大きなレースでの勝利からは見放されてしまう。結局1978年に引退。
引退後はウーゴ・デローザに指導を受け、ブリュッセル郊外でバイクフレームの制作工場を興した(詳細は後述)。
そのほか現在ベルギーの自転車関係の団体の委員を歴任。1996年にはベルギーの国威高揚に貢献したということでベルギー王室からも男爵の爵位を贈られている。2010年現在はベルギーオリンピック委員会の委員を務めるほか、ツアー・オブ・カタール及びツアー・オブ・オマーンの運営にも関与している。
現役時代は機材に異常なまでのこだわりを見せる選手として有名であり、レースの前日であろうとフレームの改良を指示して、当日朝一番で届けさせることもしょっちゅうだった。
など機材に対する神経質なまでのこだわりを示すエピソードは枚挙に暇がない。
こうした随所に見せる「こだわり」は彼自身の性格もあるが、特に機材やポジションについては1970年にトラックレースの最中、クラッシュに巻き込まれて背中と腰を痛めてしまい、以後その痛みに悩まされ続けたためでもある(この時は頭部も強打して一時意識不明になっていた)。
※78年引退
1964年
1965年 ... 勝率:13%
1966年 ... 勝率:21%
1967年 ... 勝率:23%
1968年 ... 勝率:24%
1969年 ... 勝率:33%
1970年 ... 勝率:37%
1971年 ... 勝率:45%
1972年 ... 勝率:39%
1973年 ... 勝率:37%
1974年 ... 勝率:27%
1975年 ... 勝率:25%
1976年 ... 勝率:13%
1977年 ... 勝率:14%
メルクスは引退後、現役中に使用していたフレーム制作を依頼していたウーゴ・デローザに師事した後、自身の名を冠したフレームメーカーを創業した。現在では、ただ有名選手の名を冠しただけのメーカーではなく積極的にフレームの改良を行い、ビギナー向けからTT用のフレームまで制作するレーシングブランドとして確立した。
1973年から宮田工業がエディ・メルクスブランドを使用し、ジュニアスポーツ、ロードレーサー、ランドナーなどを生産したが、成功しなかった。しかしこれにより宮田工業はスポーツ車を生産する下地を作った。
2008年現在、日本での輸入代理店は深谷産業である。
なお、メルクスは2008年に「健康が第一」との理由から同社を売却し、経営から退いている。
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"text": "エディ・メルクス(Eddy Merckx, 1945年6月17日 - )は、ベルギー、ブラバント州ティールト=ウィンゲ(英語版)出身の自転車プロロードレースの選手。また、この人物の名前に由来する高級スポーツ自転車のブランド。本項ではその両方について説明する。",
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"text": "ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアをそれぞれ5回ずつ、ブエルタ・ア・エスパーニャを1回制覇しており、ツール通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・ジョーヌ保持日数96日はいずれもツールにおける最高記録である。",
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"text": "また世界選手権でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。さらにミラノ〜サンレモを7回、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュを5回制するなどクラシックでも数多くの記録を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン50勝以上を3回達成している)ほか、パトリック・セルキュとタッグを組んでトラック競技でも勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。",
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"text": "同一年度にツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、1972年、1974年の3回達成。1974年はさらに世界選手権も制して「トリプルクラウン」を史上初めて達成した選手でもある。",
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"text": "全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利を目指した貪欲さから、他の選手たちに「ザ・カニバル」(人食い)の異名で恐れられた(但し、本人曰く、他の選手から直接この名で呼ばれたことはないとのこと)。",
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"text": "その数々の伝説的偉業により、ロードレース・ファンからはファウスト・コッピと並んで「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―チャンピオンの中のチャンピオン)と呼ばれている。",
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"text": "1961年に16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さで東京オリンピックのベルギー代表のロード選手に選ばれ来日(記録は4時間39分51秒。1964年東京オリンピック時代は正式記録が秒単位であったため優勝記録と同タイム。ただ細かくは4時間39分51秒74で3位と同タイム。写真判定で12位だった。本レースはまれにみる混戦で、30位前後の選手までメルクスと100分の1秒まで同タイムだった。なおメルクスがレース後半で転倒していなければ優勝したはず、との風説もあるが、メルクス転倒の事実自体が未確認である)。さらにアマチュア世界選手権を制するなど、すでに大器の片鱗を見せ始めていた。",
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"text": "1965年にプロに転向。翌1966年にいきなりミラノ〜サンレモで優勝して衝撃のデビューを飾ったものの、この年は、大きな勝利はこの1つにとどまった。しかし1967年はミラノ〜サンレモの連覇を皮切りにヘント〜ウェヴェルヘムやフレッシュ・ワロンヌなどのビッグレースで優勝。ジロ・デ・イタリアではステージ2勝を挙げ、世界選手権も制し、一気にトップレーサーとなる。",
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"text": "さらに1973年はジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャで優勝したほかパリ〜ルーベで3回目、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで4回目の優勝を飾るなどクラシックでも大活躍した。",
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"text": "1974年には前人未到となる三度目の「ダブルツール」を達成。ツール・ド・フランスでは史上最多となるステージ8勝という圧倒的な成績を残した。さらにこの年は世界選手権も制して史上初の「トリプルクラウン」を達成。栄光の絶頂を極めた年となった。",
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"text": "そして1975年も春のクラシックシーズンを絶好調で終えるが、ツール・ド・フランスでは、ベルナール・テブネの前に苦杯を喫し、2位に終わる。しかし、これはメルクスの力が衰えたからではなく、第14ステージの山頂ゴール手前でメルクスを嫌う観客に腹部を殴打されたのが原因であり、これによって次のステージから急激に体調を崩した上に落車して顎を骨折、ものを咀嚼できない状態になった。そのため体調はさらに悪化し血を吐くまでになり、誰もがリタイアすると思ったが最後まで走りぬき、しかも優勝をあきらめずに何度もアタックをかけ、周りを驚愕させた。",
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"text": "しかしその無茶がたたって以後は急速に走りに精彩を欠くようになり、1976年に7回目のミラノ〜サンレモ制覇を達成したのを最後に大きなレースでの勝利からは見放されてしまう。結局1978年に引退。",
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"text": "引退後はウーゴ・デローザに指導を受け、ブリュッセル郊外でバイクフレームの制作工場を興した(詳細は後述)。",
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"text": "そのほか現在ベルギーの自転車関係の団体の委員を歴任。1996年にはベルギーの国威高揚に貢献したということでベルギー王室からも男爵の爵位を贈られている。2010年現在はベルギーオリンピック委員会の委員を務めるほか、ツアー・オブ・カタール及びツアー・オブ・オマーンの運営にも関与している。",
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"text": "現役時代は機材に異常なまでのこだわりを見せる選手として有名であり、レースの前日であろうとフレームの改良を指示して、当日朝一番で届けさせることもしょっちゅうだった。",
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"text": "など機材に対する神経質なまでのこだわりを示すエピソードは枚挙に暇がない。",
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"text": "こうした随所に見せる「こだわり」は彼自身の性格もあるが、特に機材やポジションについては1970年にトラックレースの最中、クラッシュに巻き込まれて背中と腰を痛めてしまい、以後その痛みに悩まされ続けたためでもある(この時は頭部も強打して一時意識不明になっていた)。",
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"text": "※78年引退",
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"text": "1964年",
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"text": "1965年 ... 勝率:13%",
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"text": "メルクスは引退後、現役中に使用していたフレーム制作を依頼していたウーゴ・デローザに師事した後、自身の名を冠したフレームメーカーを創業した。現在では、ただ有名選手の名を冠しただけのメーカーではなく積極的にフレームの改良を行い、ビギナー向けからTT用のフレームまで制作するレーシングブランドとして確立した。",
"title": "ブランドとしてのエディ・メルクス"
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"text": "1973年から宮田工業がエディ・メルクスブランドを使用し、ジュニアスポーツ、ロードレーサー、ランドナーなどを生産したが、成功しなかった。しかしこれにより宮田工業はスポーツ車を生産する下地を作った。",
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"text": "2008年現在、日本での輸入代理店は深谷産業である。",
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"text": "なお、メルクスは2008年に「健康が第一」との理由から同社を売却し、経営から退いている。",
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エディ・メルクスは、ベルギー、ブラバント州ティールト=ウィンゲ出身の自転車プロロードレースの選手。また、この人物の名前に由来する高級スポーツ自転車のブランド。本項ではその両方について説明する。
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{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{Expand English|Eddy Merckx|date=2021年3月|fa=yes}}
{{Infobox 自転車競技選手
| 選手名 = エディ・メルクス<br />Eddy Merckx
| 画像 = [[ファイル:Eddy Merckx Molteni 1973.jpg|230px]]
| 本名 = エドゥアール・ルイ・ジョゼフ・メルクス<br />Édouard Louis Joseph Merckx
| 愛称 = [[カニバリズム|人喰い]] ({{lang-nl-short|De kannibaal}})
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1945|6|17}}
| 国籍 = {{BEL}}
| 身長 =
| 体重 =
| 所属 =
| 分野 = ロードレース
| 役割 = 選手
| 特徴 = オールラウンダー
| アマ年代 =
| アマ所属チーム =
| プロ年代 = 1966-1967<br />1968-1970<br />1971-1976<br />1977<br />1978
| プロ所属チーム = プジョー-BP<br />ファエマ<br />モルテニ<br />フィアット<br />C&A
| 主要レース勝利 = [[ファイル:Jersey yellow.svg|25px]]ツール・ド・フランス 総合 1969,1970,1971,1972,1974<br />
[[ファイル:Jersey pink.svg|25px]]ジロ・デ・イタリア 総合 1968,1970,1972,1973,1974<br />
[[ファイル:Jersey gold.svg|25px]]ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合 1973
[[ファイル:Jersey rainbow.svg|25px]]世界選手権・プロロード 1967,1971,1974<br />
[[ファイル:Jersey green.svg|25px]]ツール・ド・フランス ポイント賞 1969,1971,1972
[[ファイル:Jersey red.svg|25px]]ジロ・デ・イタリア ポイント賞 1968,1973
|medaltemplates =
{{MedalCountry | {{BEL}} }}
{{MedalSport | 男子 [[自転車競技]]}}
{{MedalSport|[[Image:Arc en ciel.svg|50px]][[世界選手権自転車競技大会]]}}
{{MedalGold |1964|アマ・個人ロードレース}}
{{MedalGold |[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1967 ヘーレン]]|プロ・個人ロードレース}}
{{MedalGold |[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1971 メンデリシオ]]|プロ・個人ロードレース}}
{{MedalGold |[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1974 モントリオール]]|プロ・個人ロードレース}}
| 更新日 = [[2019年]][[9月21日]]
}}
'''エディ・メルクス'''(Eddy Merckx, [[1945年]][[6月17日]] - )は、[[ベルギー]]、[[ブラバント州]]{{仮リンク|ティールト=ウィンゲ|en|Tielt-Winge}}出身の自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]の選手。また、この人物の名前に由来する高級スポーツ自転車のブランド。本項ではその両方について説明する。
== 史上最強のロードレース選手、エディ・メルクス ==
[[ツール・ド・フランス]]と[[ジロ・デ・イタリア]]をそれぞれ5回ずつ、[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]を1回制覇しており、ツール通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・ジョーヌ保持日数96日はいずれもツールにおける最高記録である。
また[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。さらに[[ミラノ〜サンレモ]]を7回、[[リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ]]を5回制するなどクラシックでも数多くの記録を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン50勝以上を3回達成している)ほか、[[パトリック・セルキュ]]とタッグを組んでトラック競技でも勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。
同一年度にツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、1972年、1974年の3回達成。1974年はさらに[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]も制して「トリプルクラウン」を史上初めて達成した選手でもある。
全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利を目指した貪欲さから、他の選手たちに「ザ・[[カニバリズム|カニバル]]」(人食い)の異名で恐れられた(但し、本人曰く、他の選手から直接この名で呼ばれたことはないとのこと<ref>[http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=9538 エディ・メルクス インタビュー] サイクリングタイムドットコム</ref>)。
その数々の伝説的偉業により、ロードレース・ファンからは[[ファウスト・コッピ]]と並んで「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―[[チャンピオン]]の中のチャンピオン)と呼ばれている。
=== 経歴 ===
[[ファイル:Eddy Merckx 1966.jpg|thumb|エディ・メルクス(1966年の世界選手権にて)]]
1961年に16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さで[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]のベルギー代表のロード選手に選ばれ来日(記録は4時間39分51秒。1964年東京オリンピック時代は正式記録が秒単位であったため優勝記録と同タイム。ただ細かくは4時間39分51秒74で3位と同タイム。写真判定で12位だった。本レースはまれにみる混戦で、30位前後の選手までメルクスと100分の1秒まで同タイムだった。なおメルクスがレース後半で転倒していなければ優勝したはず、との風説もあるが、メルクス転倒の事実自体が未確認である)。さらにアマチュア[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]を制するなど、すでに大器の片鱗を見せ始めていた。
1965年にプロに転向。翌1966年にいきなり[[ミラノ〜サンレモ]]で優勝して衝撃のデビューを飾ったものの、この年は、大きな勝利はこの1つにとどまった。しかし1967年は[[ミラノ〜サンレモ]]の連覇を皮切りに[[ヘント〜ウェヴェルヘム]]や[[フレッシュ・ワロンヌ]]などのビッグレースで優勝。[[ジロ・デ・イタリア]]ではステージ2勝を挙げ、[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]も制し、一気にトップレーサーとなる。
1968年には[[パリ〜ルーベ]]を制覇したほか、[[ジロ・デ・イタリア]]で初めての総合優勝を遂げ、1969年は[[パリ〜ニース]]の総合優勝を皮切りに[[クラシック (ロードレース)|クラシックレース]]も次々制覇。その勢いのまま[[ツール・ド・フランス]]でもステージ6勝を含む総合優勝を達成。
そして1970年には[[ジロ・デ・イタリア]]と[[ツール・ド・フランス]]の両方を制して「ダブルツール」を達成。最強の座を確たるものにした。
1971年も[[ツール・ド・フランス]]の連覇を始め、[[ミラノ〜サンレモ]]、[[フレッシュ・ワロンヌ]]、[[リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ]]、[[ジロ・ディ・ロンバルディア]]と数々の[[クラシック (ロードレース)|クラシック]]で優勝。さらには[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]で2度目の優勝を達成した。
1972年には自身二度目の「ダブルツール」達成。さらにメキシコで[[アワーレコード]]に挑戦。49.43195kmの新記録を叩きだし、世間からは「これを塗り替えることは永遠に不可能」とまで言われた。
さらに1973年は[[ジロ・デ・イタリア]]と[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]で優勝したほか[[パリ〜ルーベ]]で3回目、[[リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ]]で4回目の優勝を飾るなど[[クラシック (ロードレース)|クラシック]]でも大活躍した。
1974年には前人未到となる三度目の「ダブルツール」を達成。[[ツール・ド・フランス]]では史上最多となるステージ8勝という圧倒的な成績を残した。さらにこの年は[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]も制して史上初の「トリプルクラウン」を達成。栄光の絶頂を極めた年となった。
[[File:Eddy Merckx Amstel Gold Race 1975 (cropped).jpg|181px|thumb||right]]
そして1975年も春のクラシックシーズンを絶好調で終えるが、[[ツール・ド・フランス]]では、[[ベルナール・テブネ]]の前に苦杯を喫し、2位に終わる。しかし、これはメルクスの力が衰えたからではなく、第14ステージの山頂ゴール手前でメルクスを嫌う観客に腹部を殴打されたのが原因であり、これによって次のステージから急激に体調を崩した上に落車して顎を骨折、ものを咀嚼できない状態になった。そのため体調はさらに悪化し血を吐くまでになり、誰もがリタイアすると思ったが最後まで走りぬき、しかも優勝をあきらめずに何度もアタックをかけ、周りを驚愕させた。
しかしその無茶がたたって以後は急速に走りに精彩を欠くようになり、1976年に7回目の[[ミラノ〜サンレモ]]制覇を達成したのを最後に大きなレースでの勝利からは見放されてしまう。結局1978年に引退。
引退後は[[ウーゴ・デローザ]]に指導を受け、[[ブリュッセル]]郊外でバイクフレームの制作工場を興した(詳細は後述)。
そのほか現在ベルギーの自転車関係の団体の委員を歴任。1996年には[[ベルギー]]の国威高揚に貢献したということでベルギー王室からも男爵の爵位を贈られている。2010年現在は[[ベルギーオリンピック委員会]]の委員を務めるほか、[[ツアー・オブ・カタール]]及び[[ツアー・オブ・オマーン]]の運営にも関与している<ref name="cn100617" />。
== 人物 ==
* 勝利に対する執着はすさまじく、時には愛娘と遊んでいるときの競争でさえ勝ちを譲らないこともあった。またレースでは、リアスプロケットの歯数が多ければ登りで勝負、少なければ平地で逃げを狙うかスプリントに絞っているなど、どんな作戦を立てているかをある程度推察されてしまうため、よくスタート直前までリアスプロケット部分を隠していた。
* かつて[[ツール・ド・フランス]]では全ステージ優勝を狙って走っていたと発言したことがある。実際、1968年の[[ジロ・デ・イタリア]]と1969年のツールでは総合優勝に加えて山岳賞とポイント賞まで独占するという空前絶後の結果を残しているほか、1970年から1972年のツール、1973年のジロ、[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]でも複数の賞を獲得しており、奪える勝利は全て奪う姿勢を貫いていた。
* 他人どころか自分に対しても容赦がなく、1970年の[[モン・ヴァントゥ]]への頂上ゴールでは、ゴール後に酸素吸入を必要とするほどのペースで走り、ステージ優勝こそしたもののダメージは大きく、危うくリタイアしかけた。また、チームドクターから疲労の蓄積によりアタックをやめるよう忠告されていたにも関わらず、真っ先に集団を飛び出してしまった事もある。
* 1975年のツールでの無茶が彼の選手生命を縮めたことは間違いなく、本人も「あれをしなければもう少し走れただろう」とその旨を認める発言をしている。また1968年のツールについても出場していたら優勝できただろうと語っており、もし妨害などがなければ1968-1975年にわたって8連覇(あるいはそれ以上)を達成していた可能性も十分にあった。
* 選手のドーピングに関しては厳しい非難をしているが、[[ランス・アームストロング]]が薬物使用を疑われたときには、真っ先に擁護した。一方でデビュー当時のランスはメルクスのことを知らず、所属していたモトローラチームが使用していたフレームの「Eddy Merckx」のロゴを見て、「エディ・マークス(メルクスの英語読み)って誰?」と発言し「“カンピオニッシモ”エディ・メルクスを知らないとは」と周囲を驚かせた。
* [[1969年]]の[[ジロ・デ・イタリア 1969|ジロ・デ・イタリア]]第15ステージを勝利しながらも、同レース終了後のドーピング検査で陽性が発覚したため、[[マリア・ローザ]]着用のまま、レースから除外された<ref>http://www.cyclingrevealed.com/timeline/Race%20Snippets/GdI/GdI_1969.htm</ref>。
* 選手時代からヘビースモーカーで、アワーレコード挑戦後にも一服つけていた。引退後も変わらず、サポートカーや審判車に乗りながらタバコを吸っている光景が時折、映し出されていた。
* 息子の[[アクセル・メルクス]]も父と同様プロのロードレーサーとなった。もっぱらアシストとしての仕事が多かったため成績は父に遠く及ばないが、15年の現役生活、2000年のベルギー選手権優勝とジロ・デ・イタリアステージ優勝、2004年アテネオリンピック銅メダル(オリンピックのメダルは父が獲得することができなかった数少ない勲章である。もっとも自転車競技がオリンピックでプロに開放されたのは1996年のアトランタオリンピックからであり、父は1964年東京オリンピック以外は出場権がなかった。)などの成績を残し、2007年のツール・ド・フランス完走を最後に引退した(アクセルが所属していたことでチームのバイクが「エディ・メルクス」であったり、別のブランドでも一人だけ「エディ・メルクス」を使用していたことがあった)。
=== 現役時代の「こだわり」===
現役時代は機材に異常なまでのこだわりを見せる選手として有名であり、レースの前日であろうとフレームの改良を指示して、当日朝一番で届けさせることもしょっちゅうだった。
*デビュー当初はチームで使用している[[プジョー]]のフレームが気に入らず、自費でアマチュアの世界選手権を制した時に使っていたマーズィのフレームを購入し、チームカラーにペイントして使用していたこともある<ref>『クロモリロードバイク』P16、P133。</ref>。
*1966年3月にメルクスは他チームだが同郷で、後にメルクスの「終生のライバル」となる(尤もメディアによって担ぎ上げられただけで実際は友人である)[[ヘルマン・ファンスプリンヘル]]に連れられて初めてイタリアのミラノにあるマーズィの工房を訪ねた。
:ヴァンスプリンゲルは2歳下で当時フルシーズン1年目でプロとしてはさしたる実績も無いメルクスのことを買っており、工房の職人であるアルベルト・マーズィに「このルーキー(メルクス)は(数日後に開催される)ミラノ〜サンレモで多分、3位以内に入るよ」と言っていたという。そして、この時作らせたフレームでメルクスはプロとして自身初のビッグタイトルである[[ミラノ〜サンレモ]]を制した。尚、ヴァンスプリンゲルも自身最高位の3位に入っている<ref>{{Cite book|和書|title=イタリアの自転車工房 栄光のストーリー |publisher=アテネ書房 |year=1994 |page=134 }}</ref>。
*プジョーからファエマを経てモルテーニに移籍した際、バイクもマーズィからコルナゴに変わった。メルクスはコルナゴの社長であるエルネスト・コルナゴに年間平均27本ものフレームを作らせた。
:そのうちの一本である1969年のジロで使用したバイクにはリアのスプロケットは4枚しかギアがないにも関わらず、歯数17のギアを2枚付けさせていた<ref>このバイクのギアセッティングは53・42 × 15・16・17・17だった</ref>(変速しても歯の枚数は同じなので変速にならない)。
:極め付けは1960年代後半までは度々ブレーキのワイヤーの左右を入れ替えたバイクを試していた(通常、メルクスは左が前ブレーキ、右が後ろブレーキのバイクを用いていたが先述の1969年のジロで使用したバイクでは左右逆になっている)<ref>{{Cite book|和書|title=イタリアの自転車工房 栄光のストーリー |publisher=アテネ書房 |year=1994 |page=98 }}</ref>。
*更にモルテーニのバイクがコルナゴからデローザに変わった1974年からはデローザの社長のウーゴ・デローザに年間40〜50本のフレームを製作させた。その中でも、ある年のジロの最後の1週間でメルクスは毎日新しいフレームを作らせた<ref>{{Cite book|和書|title=イタリアの自転車工房 栄光のストーリー |publisher=アテネ書房 |year=1994 |page=110 }}</ref>。
など機材に対する神経質なまでのこだわりを示すエピソードは枚挙に暇がない。
* ポジション調整にもこだわりを見せており、スタート直前まで微調整をしていることは日常茶飯事で、レース中に逃げを決めている時であっても1度自転車を降りてチームメカニシャンを呼びサドル高を調整させたという伝説まで残している(この様子は市販のDVDで確認できる)。
[[ファイル:EddyMerckxHourRecordBike.jpg|thumb|1972年、メキシコで[[アワー・レコード]]に挑戦し、世界新記録(49.43195km/h)を達成した際に使った[[コルナゴ]]製[[トラックレーサー]]([[ブリュッセル]]の地下鉄エディ・メルクス駅)]]
* 軽量化にも熱心でギアやハンドルなどのパーツに穴をあけて肉抜き加工を施すことも多く、現在に至るロードバイクの軽量化はメルクスから始まったと言える。1972年の[[アワーレコード]]挑戦時には当時のロードバイクの平均重量が10kg前後であったのに対し、チタンパーツを使用し5.75kgまで軽量化したスペシャルバイクを使用した。このバイクは[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]の地下鉄にある、彼の名を冠した「エディ・メルクス駅」のホームに展示されている。
* このように自転車に対しては革新的な姿勢を見せたメルクスだが、着る[[サイクルウェア]]については保守的で、[[ウール]]素材のレーサージャージを愛用し続けた。ファンから「メルクスと言えばウール」とまで評されたのは有名である。
こうした随所に見せる「こだわり」は彼自身の性格もあるが、特に機材やポジションについては1970年にトラックレースの最中、クラッシュに巻き込まれて背中と腰を痛めてしまい、以後その痛みに悩まされ続けたためでもある(この時は頭部も強打して一時意識不明になっていた)。
* メルクスが1973年にアワーレコード(49.431 km)を記録した時、これを破れる選手はいないと言われていた。その後、特殊な形状や乗車姿勢の自転車を用いたアワーレコードの更新が相次いだが、2000年の[[国際自転車競技連合]](UCI)の規則改正により、アワーレコードには「通常の[[トラックレーサー|トラックレース用自転車]]を用いること」が義務付けられたため、それらの記録は全て無効とされた。2014年に再び規則が改正され、[[トラックレース]]の個人追い抜き、団体追い抜きで用いられているエアロヘルメット、ディスクホイール、DHバーなどの使用が再び認められ、全く条件は変わってしまうが、2000年規則によるアワーレコードの最高記録はメルクスの32年後の2005年に[[オンドジェイ・ソセンカ]]が記録した49.700kmで、メルクスの記録より僅か0.3kmしか伸びていない。トラックレース用自転車においてエアロダイナミクス研究やカーボンなど素材の変化など機材の進歩が著しいことを考えれば、メルクスの残した記録がいかに圧倒的だったかが分かる。
=== 所属チーム ===
* 1966-1967年 プジョー-BP
* 1968-1970年 ファエマ(68-69年Faema、70年Faemino-Faema)
* 1971-1976年 モルテニ
* 1977年 フィアット
* 1978年 C&A
※78年引退
=== 主な戦績 ===
{{MedalTableTop}}
{{MedalSport|[[ファイル:Arc en ciel.svg|55px]]}}
{{MedalGold |1964 |アマ・個人ロードレース}}
{{MedalGold |[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1967 ヘーレン]]|プロ・個人ロードレース}}
{{MedalGold |[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1971 メンドリシオ]]|プロ・個人ロードレース}}
{{MedalGold |[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|1974 モントリオール]]|プロ・個人ロードレース}}
{{MedalBottom}}
'''1964年'''
* [[File:Jersey rainbow.svg|25px]] [[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]] アマチュア 個人ロードレース 優勝
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 アマチュア マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
'''1965年''' … 勝率:13%
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 アマチュア マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 29位
* ルーベ・オムニアム 優勝
* [[ヘント6日間レース]] 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
'''1966年''' … 勝率:21%
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 12位
* [[パリ~ニース]] 総合4位
* [[GP・デュ・ミディ・リブル]] 総合11位
* [[バロワーズ・ベルギー・ツアー|ツアー・オブ・ベルギー]] 総合11位
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合11位
* [[ミラノ~サンレモ]] 優勝
* [[パリ~ルーベ]] 15位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 8位
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 2位
* フランドル選手権 優勝
* ブリュッセル・オムニアム 優勝 (ペアは[[リック・ファン・ローイ]]と[[エドワード・セルス]])
* ブリュッセル・オムニアム 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]]、上記とは別)
* ブリュッセル・オムニアム 優勝 (ペアは[[リック・バンステーンベルヘン]]、上記2レースとは別)
* ヘント・オムニアム 優勝 (ペアは[[ワルテル・ホデフロート]])
* ヘント・オムニアム 優勝 (ペアは[[リック・バンステーンベルヘン]]、[[パトリック・セルキュ]]、[[ノエル・ファンクローステル]]、上記とは別)
* トロフェオ・バラッキ 優勝 (ペアは[[フェルディナント・ブラック]])
'''1967年''' … 勝率:23%
* [[File:Jersey rainbow.svg|25px]] [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 優勝
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[ジロ・デ・イタリア 1967|ジロ・デ・イタリア]]
** 総合9位
** 第12,14ステージ 優勝
* [[パリ~ニース]]
** 総合10位
** 第2,6ステージ 優勝
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]]
** 総合28位
** 第6,7ステージ 優勝
* [[ミラノ~サンレモ]] 優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 3位
* [[パリ~ルーベ]] 8位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 2位
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 7位
* [[フレッシュ・ワロンヌ]] 優勝
* [[ヘント~ウェヴェルヘム]] 優勝
* GP・サルヴァラーニ 優勝
* ヘント・オムニアム 優勝 (ペアは[[エドワード・セルス]]と[[リック・ファン・ローイ]])
* ヘント・オムニアム 優勝 (ペアは[[フェルディナント・ブラック]]、上記とは別)
* ミラノ・オムニアム 優勝
* ルーベ・オムニアム 優勝
* マドリード・マディソン 優勝 (ペアは[[ヤン・ヤンセン]])
* トロフェオ・バラッキ 優勝 (ペアは[[フェルディナント・ブラック]])
* [[ヘント6日間レース]] 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
'''1968年''' … 勝率:24%
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 8位
* [[ジロ・デ・イタリア]]
** [[File:Jersey pink.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey red.svg|25px]] ポイント賞
** 山岳賞
** 第1,2,8,12ステージ 優勝
* [[ツール・ド・ロマンディ]]
** 総合優勝
** 第1ステージ 優勝
* [[ボルタ・ア・カタルーニャ]]
** 総合優勝
** 第1,6,6bステージ 優勝
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]]
** 総合優勝
** 第1,5bステージ 優勝
* [[ミラノ~サンレモ]] 31位
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 9位
* [[パリ~ルーベ]] 優勝
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 3位
* [[グラン・プレミオ・ディ・ルガーノ]] 優勝
* ミラノ・オムニアム 優勝 (ペアは[[ルディ・アルティヒ]]、[[ルシアン・エマール]]、[[ジャン・ジュルダン]])
* ミラノ・オムニアム 優勝 (ペアは[[ルディ・アルティヒ]]、上記とは別)
'''1969年''' … 勝率:33%
* [[ツール・ド・フランス1969|ツール・ド・フランス]]
** [[File:Jersey yellow.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey green.svg|25px]] ポイント賞
** 山岳賞
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 複合賞
** [[File:Jersey red number.svg|25px]] 総合敢闘賞
** 第1b (TTT),6,8a,11,15,17,22bステージ 優勝
* [[ジロ・デ・イタリア 1969|ジロ・デ・イタリア]]
** [[File:Jersey pink.svg|25px]] 総合首位 第9 - 11,14 - 16ステージ
** 第3,4,7,15ステージ 優勝
* [[パリ~ニース]]
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 総合優勝
* 第2,3b,7bステージ 優勝
* [[ミラノ~サンレモ]] 優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 優勝
* [[パリ~ルーベ]] 2位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 優勝
* パリ~ルクセンブルク
** 総合優勝
** 第2ステージ 優勝
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ベルギー スポーツマンオブザイヤー]] 受賞
'''1970年''' … 勝率:37%
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 個人ロードレース 優勝
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 29位
* [[ツール・ド・フランス1970|ツール・ド・フランス]]
** [[File:Jersey yellow.svg|25px]] 総合優勝
** 山岳賞
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 複合賞
** [[File:Jersey red number.svg|25px]] 総合敢闘賞
** プロローグ、第3 (TTT),7a,10,11b,12,14,20b,23ステージ 優勝
* [[ジロ・デ・イタリア 1970|ジロ・デ・イタリア]]
** [[File:Jersey pink.svg|25px]] 総合優勝
** 複合賞
** 第2,7,9ステージ 優勝
* [[パリ~ニース]]
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 総合優勝
** 山岳賞
** 第3,7b,8bステージ 優勝
* [[バロワーズ・ベルギー・ツアー|ツアー・オブ・ベルギー]]
** 総合優勝
** ポイント賞
** 第1b,3bステージ 優勝
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合優勝
* [[ミラノ~サンレモ]] 8位
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 3位
* [[パリ~ルーベ]] 優勝
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 3位
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 4位
* [[フレッシュ・ワロンヌ]] 優勝
* [[ヘント~ウェヴェルヘム]] 優勝
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ベルギー スポーツマンオブザイヤー]] 受賞
'''1971年''' … 勝率:45%
* [[File:Jersey rainbow.svg|25px]] [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 優勝
* [[ツール・ド・フランス1971|ツール・ド・フランス]]
** [[File:Jersey yellow.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey green.svg|25px]] ポイント賞
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 複合賞
** 第2,13,17,20ステージ 優勝
* [[パリ~ニース]] [[File:Jersey white.svg|25px]] 総合優勝
* [[クリテリウム・デュ・ドフィネ|ドーフィネ・リベレ]] [[File:Jersey yellow.svg|25px]] 総合優勝
* [[GP・デュ・ミディ・リブル]] 総合優勝
* [[バロワーズ・ベルギー・ツアー|ツアー・オブ・ベルギー]] 総合優勝
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合優勝
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ベルギー スポーツマンオブザイヤー]] 受賞
'''1972年''' … 勝率:39%
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 4位
* [[ツール・ド・フランス1972|ツール・ド・フランス]]
** [[File:Jersey yellow.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey green.svg|25px]] ポイント賞
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 複合賞
** プロローグ、第5b,8,13,14a,20aステージ 優勝
* [[ジロ・デ・イタリア 1972|ジロ・デ・イタリア]]
** [[File:Jersey pink.svg|25px]] 総合優勝
** 第12a,14,16,19bステージ 優勝
* [[パリ~ニース]] 総合2位
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合33位
* [[ミラノ~サンレモ]] 優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 7位
* [[パリ~ルーベ]] 7位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 優勝
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 優勝
* [[フレッシュ・ワロンヌ]] 優勝
* [[ジロ・デッレミリア]] 優勝
* [[ジロ・デル・ピエモンテ]] 優勝
* [[スヘルデプライス]] 優勝
* トロフェオ・バラッキ 優勝 (ペアは[[ロジャー・スウェーツ]])
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ベルギー スポーツマンオブザイヤー]] 受賞
'''1973年''' … 勝率:37%
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 4位
* [[ジロ・デ・イタリア 1973|ジロ・デ・イタリア]]
** [[File:Jersey pink.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey violet.svg|25px]] ポイント賞
** 複合賞
** プロローグ、第1,4,8,10,18ステージ 優勝
* [[ブエルタ・ア・エスパーニャ1973|ブエルタ・ア・エスパーニャ]]
** [[File:Jersey gold.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey blue.svg|25px]] ポイント賞
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 複合賞
** スプリント賞
** プロローグ、第8,10,15b,16,17bステージ 優勝
* [[パリ~ニース]] 総合3位
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 3位
* [[パリ~ルーベ]] 優勝
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 優勝
* [[アムステルゴールドレース]] 優勝
* [[ヘント~ウェヴェルヘム]] 優勝
* [[グランプリ・デ・ナシオン]] 優勝
* [[オムロープ・ヘット・ニウスブラット|オムロープ・ヘット・フォルク]] 優勝
* [[パリ~ブリュッセル]] 優勝
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ベルギー スポーツマンオブザイヤー]] 受賞
'''1974年''' … 勝率:27%
* [[File:Jersey rainbow.svg|25px]] [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 優勝
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[ツール・ド・フランス1974|ツール・ド・フランス]]
** [[File:Jersey yellow.svg|25px]] 総合優勝
** [[File:Jersey white.svg|25px]] 複合賞
** [[File:Jersey red number.svg|25px]] 総合敢闘賞
** プロローグ、第7,9,10,15,19b,21a,22ステージ 優勝
* [[ジロ・デ・イタリア 1974|ジロ・デ・イタリア]]
** [[File:Jersey pink.svg|25px]] 総合優勝
** 第12,21ステージ 優勝
* [[ツール・ド・スイス]]
** 総合優勝
** ポイント賞
** 山岳賞
** プロローグ、第2,11ステージ 優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 3位
* [[パリ~ルーベ]] 4位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 4位
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 2位
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ベルギー スポーツマンオブザイヤー]] 受賞
'''1975年''' … 勝率:25%
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 8位
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[ツール・ド・フランス1975|ツール・ド・フランス]]
** 総合2位
** 第6ステージ 優勝
* [[パリ~ニース]] 総合2位
* [[ツール・ド・スイス]]
** 総合2位
** 第8ステージ 優勝
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合優勝
* [[ミラノ~サンレモ]] 優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 優勝
* [[パリ~ルーベ]] 2位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 優勝
* [[ジロ・ディ・ロンバルディア]] 6位
* [[アムステルゴールドレース]] 優勝
* [[スーパープレスティージュ]] 受賞
* [[ヘント6日間レース]] 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
'''1976年''' … 勝率:13%
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 5位
* [[File:MaillotBélgica.svg|25px]] [[ベルギー]]選手権 マディソン 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[ジロ・デ・イタリア 1976|ジロ・デ・イタリア]]
** 総合8位
** [[File:Jersey green.svg|25px]] 山岳賞首位 第3 - 8ステージ
* [[ツール・ド・ロマンディ]] 総合3位
* [[GP・デュ・ミディ・リブル]] 総合3位
* [[バロワーズ・ベルギー・ツアー|ツアー・オブ・ベルギー]] 総合26位
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合8位
* [[ミラノ~サンレモ]] 優勝
* [[ロンド・ファン・フラーンデレン]] 17位
* [[パリ~ルーベ]] 6位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 6位
'''1977年''' … 勝率:14%
* [[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者#個人ロードレース|世界選手権]] 個人ロードレース 33位
* [[ツール・ド・フランス1977|ツール・ド・フランス]] 総合6位
* [[ツール・ド・ロマンディ]] 総合7位
* [[クリテリウム・デュ・ドフィネ|ドーフィネ・リベレ]] 総合8位
* [[ツール・ド・スイス]]
** 総合12位
** 第7ステージ 優勝
* [[GP・デュ・ミディ・リブル]] 総合7位
* [[ツール・メディテラネアン]] 総合優勝
* [[ジロ・ディ・サルデーニャ]] 総合20位
* [[ミラノ~サンレモ]] 98位
* [[パリ~ルーベ]] 11位
* [[リエージュ~バストーニュ~リエージュ]] 6位
* [[チューリッヒ6日間レース]] 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
* [[ヘント6日間レース]] 優勝 (ペアは[[パトリック・セルキュ]])
== ブランドとしてのエディ・メルクス ==
[[File:Eddy Merckx Logo.jpg|320px|thumb||right]]
メルクスは引退後、現役中に使用していたフレーム制作を依頼していたウーゴ・デローザに師事した後、自身の名を冠したフレームメーカーを創業した。現在では、ただ有名選手の名を冠しただけのメーカーではなく積極的にフレームの改良を行い、ビギナー向けから[[自転車競技|TT]]用のフレームまで制作するレーシングブランドとして確立した。
[[1973年]]から[[宮田工業]]がエディ・メルクスブランドを使用し、ジュニアスポーツ、ロードレーサー、ランドナーなどを生産したが、成功しなかった。しかしこれにより宮田工業はスポーツ車を生産する下地を作った<ref>『クロモリロードバイク』P132。</ref>。
[[2008年]]現在、日本での輸入代理店は深谷産業である。
なお、メルクスは2008年に「健康が第一」との理由から同社を売却し、経営から退いている<ref name="cn100617">[http://www.cyclingnews.com/news/merckx-celebrates-65th-birthday Merckx celebrates 65th birthday] - cyclingnews.com・2010年6月17日</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『クロモリロードバイク』えい出版社 ISBN 978-4-7779-1674-0
== 関連項目 ==
*[[グランツール]]
*[[世界選手権自転車競技大会]]
*[[クラシック (ロードレース)|クラシックレース]]
*[[パトリック・セルキュ]]
*[[ルイス・オカーニャ]]
*[[リック・ファン・ローイ]]
*[[ロジェ・デフラミンク]]
*[[レイモン・プリドール]]
*[[コルナゴ]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Eddy Merckx}}
*[https://www.eddymerckx.com/ エディ・メルクスホームページ](英語)
* {{cycling archives|5892|エディ・メルクス}}
* {{Olympedia}}
{{ツール・ド・フランス総合優勝者}}
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{{ジロ・デ・イタリア ポイント賞}}
{{ブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝者}}
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:めるくす えてい}}
[[Category:ベルギーの男子自転車選手]]
[[Category:ツール・ド・フランス総合優勝者]]
[[Category:ジロ・デ・イタリア総合優勝者]]
[[Category:ブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝者]]
[[Category:世界選手権自転車競技大会ロードレース優勝者]]
[[Category:オリンピック自転車競技ベルギー代表選手]]
[[Category:ベルギーのドーピング違反選手]]
[[Category:ドーピング違反の自転車選手]]
[[Category:イタリアの自転車メーカー]]
[[Category:フラームス=ブラバント州出身の人物]]
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14,168 |
ニハーヴァンド
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ニハーヴァンド(ニハーワンドとも。نهاوند)はイラン西部の地名で、ハマダーン州ニハーヴァンド郡に属する都市。州都ハマダーンの南、(ハマダーン州)マラーイェルの東、(ロレスターン州)ボルージェルドの北西に位置する。古代イランの中心地のひとつで、クテシフォンの東、スーサの北、ペルセポリスの北西である。ニハーヴァンドはイランの最も古くからある街のひとつ。
Cities in Iran: 2005 Population Estimatesによれば、2005年の人口は77,206人。 Gazetteer.deによれば、2006年の人口は72,218人。
Index Mundiによれば34°11′31′′N(34.1919444) 48°21′57′′E(48.3658333)、Gazetteer.deによれば、34°12′0′′N(34.20) 48°22′12′′E(48.37)、2009年11月現在の英語版Wikipediaのニハーヴァンド項目によれば34°11′04′′N 48°22′21′′Eだが、どこをニハーヴァンドの中心点にするかの違いによって生じたわずかな差と考えられる。
ペルシア語でنهاوند。アルファベットへの転記でNahâvand、Nahaavand、Nahawand。ヨーロッパの書物ではNahavend、Nehavand、Nihavand、Nehavendなどともつづられる。
アケメネス朝のダレイオス一世により建設された。 642年、クテシフォンを奪って東方に進出したムスリム(イスラム教徒)のアラブ人は、この地で起こった「ニハーヴァンドの戦い」でサーサーン朝軍を破り、壊滅させた。
以下はニスバにニハーヴァンドが含まれる歴史上の人物。(ニスバについて:イスラーム圏の人名にはニスバ(出自由来名)というものがある。日本人や欧米人には姓と思われているが、正確には姓とは異なる。ニスバは出身地(あるいは所属部族や所属宗派)を表す。ただし、地名によるニスバは必ずしも当人の出身地を表すのではなく、父や祖先の出身地を表す場合がある→ニスバについて詳しくは「人名」項目の「イスラム圏の名前」節を参照せよ)
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ニハーヴァンド(ニハーワンドとも。نهاوند)はイラン西部の地名で、ハマダーン州ニハーヴァンド郡に属する都市。州都ハマダーンの南、(ハマダーン州)マラーイェルの東、(ロレスターン州)ボルージェルドの北西に位置する。古代イランの中心地のひとつで、クテシフォンの東、スーサの北、ペルセポリスの北西である。ニハーヴァンドはイランの最も古くからある街のひとつ。
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'''ニハーヴァンド'''(ニハーワンドとも。'''نهاوند''')は[[イラン]]西部の地名で、[[ハマダーン州]]ニハーヴァンド郡に属する都市。州都ハマダーンの南、(ハマダーン州)マラーイェルの東、(ロレスターン州)ボルージェルドの北西に位置する。古代イランの中心地のひとつで、[[クテシフォン]]の東、[[スーサ]]の北、[[ペルセポリス]]の北西である。ニハーヴァンドはイランの最も古くからある街のひとつ。
== 人口 ==
[http://www.mongabay.com/igapo/2005_world_city_populations/Iran.html Cities in Iran: 2005 Population Estimates]によれば、2005年の人口は77,206人。
Gazetteer.de[http://www.gazetteer.de/wg.php?x=&men=gcis&lng=fr&des=gamelan&dat=200&geo=-106&srt=pnan&col=aohdqcfbeimg&pt=c&va=x]によれば、2006年の人口は72,218人。
== 緯度・経度について ==
Index Mundi[http://indexmundi.com/zp//ir/]によれば34°11′31″N(34.1919444) 48°21′57″E(48.3658333)、Gazetteer.de[http://www.gazetteer.de/wg.php?x=&men=gcis&lng=fr&des=gamelan&dat=200&geo=-106&srt=pnan&col=aohdqcfbeimg&pt=c&va=x]によれば、34°12′0″N(34.20) 48°22′12″E(48.37)、2009年11月現在の英語版Wikipediaのニハーヴァンド項目によれば34°11′04″N 48°22′21″Eだが、どこをニハーヴァンドの中心点にするかの違いによって生じたわずかな差と考えられる。
== つづり ==
[[ペルシア語]]でنهاوند。アルファベットへの転記でNahâvand、Nahaavand、Nahawand。ヨーロッパの書物ではNahavend、Nehavand、Nihavand、Nehavendなどともつづられる。
===歴史===
アケメネス朝の[[ダレイオス1世|ダレイオス一世]]により建設された。
[[642年]]、クテシフォンを奪って東方に進出した[[ムスリム]](イスラム教徒)の[[アラブ人]]は、この地で起こった「[[ニハーヴァンドの戦い]]」で[[サーサーン朝]]軍を破り、壊滅させた。
== 人物 ==
以下はニスバにニハーヴァンドが含まれる歴史上の人物。(ニスバについて:[[イスラーム圏]]の人名にはニスバ(出自由来名)というものがある。日本人や欧米人には姓と思われているが、正確には姓とは異なる。ニスバは出身地(あるいは所属部族や所属宗派)を表す。ただし、地名によるニスバは必ずしも当人の出身地を表すのではなく、父や祖先の出身地を表す場合がある→ニスバについて詳しくは「[[人名]]」項目の「イスラム圏の名前」節を参照せよ)
*ベンジャミン・ナハワンディ(Benjamin Nahawandi、Benjamin ben Moses、Benyamin ben Moshe al-Nahawendi)は中世初期のユダヤ教[[カライ派]]学者の最も偉大な一人。
*アフマド・ナハヴァンディ(Ahmad ibn Muhammad al-Nahavandi)は[[8世紀]]の[[天文学者]]で、グンデシャープール大学で教鞭を取った。
== 音楽 ==
*アラブ古典音楽にはナハーワンド(Nahawand、アラビア語نهاوند)という名前の音階・旋法([[マカーム]])が存在する。この名称は地名のニハーヴァンドが元になっている。
*[[オスマン古典音楽|トルコ古典音楽]]にもニハーヴェンド(Nihavend)という名前の音階・旋法([[マカーム]])が存在する。この名称も地名のニハーヴァンドが元になっている。
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14,169 |
黒い雨
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黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時に巻き上げられた泥やほこり、すすや放射性物質などを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
原子爆弾が投下された広島市で、黒い雨の記録が残っている。また、フランスの核実験場であったムルロア環礁や、ソ連の核実験場であったセミパラチンスク周辺でも、原子爆弾投下後の降雨の記録が残っている。
広島市では、主に北西部(下記参照)を中心に大雨となって激しく降り注いだ。この黒い雨は強い放射能を持つため、この雨に直接打たれた者は、二次的な被曝が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの急性放射線障害が起こった。大火傷・大怪我をおった被爆者達はこの雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったという。原爆被災後、他の地域から救護・救援に駆けつけた者も含め、今まで何の異常もなく元気であったにもかかわらず、突然死亡する者が多かった。水は汚染され、川の魚はことごとく死んで浮き上がり、この地域の井戸水を飲用した者の中では、下痢をすることが非常に多かったという。
長崎でも、黒い雨の降雨記録が残っている。黒い雨は爆風や熱線の被害を受けなかった地域にも降り注ぎ、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらした。
従来、広島において黒い雨の降った範囲は、当時の気象技師の調査などに基づき、爆心地の北西部に1時間以上降った「大雨地域」(南北19km、東西11km)と1時間未満の「小雨地域」(南北29km、東西15km)だとされ、国はそれに基づき「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断やがんなどの特定疾患発病時の被爆者健康手帳の交付を行ってきた。だが、実際にはその地域よりはるかに遠い地域でも降雨が報告されており、この基準に対する批判が多かった。
近年になって降雨範囲が従来よりはるかに広いことが広島市による被爆者の聞き取り調査により判明した。さらに、広島大学原爆放射線医科学研究所の星正治教授らが2008年から2009年にかけて行った調査により、爆心地から8km離れた「小雨地域」の土よりセシウム137を検出した。
これらの事実を受け、広島市では2010年度から2年かけて改めて原爆投下当日の気象状況を元に黒い雨の降雨範囲のシミュレーションを行うことを発表した。広島市は降雨域の拡大を厚生労働省に求め、これによって、被爆者の援護対象の拡大などが期待されたが、厚生労働省の有識者検討会は2012年1月20日に、「降雨域を確定するのは困難」との結論を出した。
長崎市へ投下された原爆でも、黒い雨の降雨記録が残っている。
1975(昭和50)年、林京子は群像新人文学賞受賞・第73回芥川賞受賞作品の『祭りの場』の中で、母親が諫早に住んでいて「黒い雨」を体験したことを綴っている。
2008年、ノーベル化学賞を受賞した下村脩は、著書の中で、諫早市で黒い雨に濡れたことを記している。
「黒い雨」の降雨に関する記録は広島に比べ数は少ない。原爆炸裂当日の気象条件、降雨地域の人口密度などが関係している(森や林といった山間部が多かった)。また、雨ではなく降灰や塵埃として広範囲に地上に落下した。1945年9月から10月にかけて地上に残留していた放射線の測定値が熊本を含む多数の地点で記録されている。また、長崎の西山地域住民の血液検査(白血球数)なども数は少ないが記録が残されている。
工藤洋三・金子力の著書『原爆投下部隊』の175ページには橘湾上空を飛行するB-29爆撃機から撮影したキノコ雲の写真が3枚掲載されている。その一枚にはキノコ雲の東側(東長崎地区・諫早方面)に黒く延びる影(原爆による多量の降下物)を撮影した写真が掲載されている。
原爆傷害調査委員会(ABCC)は1950年代から被爆状況に関する面接調査を行っており、その設問として「黒い雨」に遭ったかどうかを質問していた。このことは2011年に放射線影響研究所により明らかにされデータの整理が行われていたが、2012年12月になり、広島において黒い雨を浴びた被爆者と浴びなかった被爆者ではガンおよび白血病の罹患率に有為な差はなかったことが発表された。長崎のデータでは雨に遭った被爆者は遭わなかった被爆者にくらべ死亡率が30%高かったが、雨にあった被爆者数が遭わなかった被爆者数に比べはるかに少ないため結論を下すことが出来ないとされた。
広島での被爆をテーマにした井伏鱒二の『黒い雨』という小説が知られる。1965年『新潮』で連載された。当初は『姪の結婚』という題であったが、連載途中で『黒い雨』に変わった。この作品は重松静馬著『重松日記』を原資料とし創作を加えたもので、今村昌平監督のもと1989年に同名の『黒い雨』として映画化された。
長崎では、林京子の文学作品やノーベル化学賞を受賞した下村脩の著書などがある。
2011年3月に発生した福島第一原子力発電所事故に絡んで、日本のシンガーソングライター・斉藤和義が原発批判ソング「ずっとウソだった」を同年翌月にYouTubeで公開し、この歌詞の中で「黒い雨」に触れている。
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黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時に巻き上げられた泥やほこり、すすや放射性物質などを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
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'''黒い雨'''(くろいあめ)とは、[[原子爆弾]]投下後に降る、原子爆弾炸裂時に巻き上げられた泥やほこり、すすや[[放射性物質]]などを含んだ[[重油]]のような粘り気のある大粒の[[雨]]で、[[放射性降下物]](フォールアウト)の一種である。
== 概要 ==
原子爆弾が投下された[[広島市]]で、黒い雨の記録が残っている。また、フランスの[[核実験場]]であった[[ムルロア環礁]]や<ref>[http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Politics/-99/98_franceexperiment-BIKINIDAY.html 核実験 - 機密にされた軍の文書館 フランスが決して告白しようとしなかったこと] ヴァンサン・ジョーヴェール、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』1998年2月5日-11日号</ref>、ソ連の核実験場であった[[セメイ|セミパラチンスク]]周辺でも<ref>[https://www.nhk.or.jp/special/detail/20090806.html 核は大地に刻まれていた~“死の灰” 消えぬ脅威~(NHKスペシャル)]、日本放送協会、2009年8月6日放送</ref>、原子爆弾投下後の降雨の記録が残っている。
広島市では、主に北西部(下記参照)を中心に大雨となって激しく降り注いだ。この黒い雨は強い[[放射能]]を持つため、この雨に直接打たれた者は、二次的な[[被曝]]が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性[[白血病]]による大量の[[吐血]]などの[[放射線障害|急性放射線障害]]が起こった。大火傷・大怪我をおった被爆者達はこの雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=DocumentView&document_id=232&lang=jpn|title=喉が渇き黒い雨を口で受ける女性|accessdate=2023-09-10|author=高蔵信子|coauthors=広島平和記念資料館|date=1945-08-06 |year=1945|website=https://www.chugoku-np.co.jp/|publisher=広島平和記念資料館|ref=harv}}</ref>。原爆被災後、他の地域から救護・救援に駆けつけた者も含め、今まで何の異常もなく元気であったにもかかわらず、突然死亡する者が多かった<!--<ref>[[佐々木禎子]]もその1人</ref>-->。水は汚染され、川の魚はことごとく死んで浮き上がり、この地域の井戸水を飲用した者の中では、[[下痢]]をすることが非常に多かったという。
長崎でも、黒い雨の降雨記録が残っている。黒い雨は[[爆風]]や熱線の被害を受けなかった地域にも降り注ぎ、広範囲に深刻な[[放射能汚染]]をもたらした。
== 広島における降雨地域 ==
従来、広島において黒い雨の降った範囲は、当時の気象技師の調査などに基づき、爆心地の北西部に1時間以上降った「大雨地域」(南北19km、東西11km)と1時間未満の「小雨地域」(南北29km、東西15km)だとされ、国はそれに基づき「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断や[[悪性腫瘍|がん]]などの特定疾患発病時の[[被爆者健康手帳]]の交付を行ってきた。だが、実際にはその地域よりはるかに遠い地域でも降雨が報告されており、この基準に対する批判が多かった。
近年になって降雨範囲が従来よりはるかに広いことが広島市による被爆者の聞き取り調査により判明した<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0125/OSK201001250150.html 広島原爆の「黒い雨」、国指定地域より広範囲か]、[[asahi.com]]。[[2010年]][[1月26日]]閲覧。{{リンク切れ|date=2011年4月}}</ref>。さらに、[[広島大学原爆放射線医科学研究所]]の星正治教授らが[[2008年]]から[[2009年]]にかけて行った調査により、爆心地から8km離れた「小雨地域」の土より[[セシウム137]]を検出した<ref>[[山本政儀]]他「広島原爆投下1-3年後に建築された家屋の床下土壌中の<sup>137</sup>Cs 測定: 広島原爆由来フォールアウトの降下量と分布を評価するための試み」[https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/000694132.pdf 『広島原爆“黒い雨”にともなう放射性降下物に関する研究の現状』] 2010年5月、79頁。[[2023年]][[9月10日]]閲覧。</ref><ref>[https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21344 被爆65年 「黒い雨」に迫る <3> 新たな証拠]、[[中国新聞]]、[[2010年]][[7月7日]]。[[2012年]][[8月6日]]閲覧。</ref>。
これらの事実を受け、広島市では2010年度から2年かけて改めて原爆投下当日の気象状況を元に黒い雨の降雨範囲の[[シミュレーション]]を行うことを発表した<ref>[http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100217-OYO1T00844.htm?from=main2 広島市が「黒い雨」シミュレーション、降下範囲解明へ]、[[読売新聞]]。[[2010年]][[2月17日]]閲覧。{{リンク切れ|date=2011年4月}}</ref>。広島市は降雨域の拡大を厚生労働省に求め、これによって、被爆者の援護対象の拡大などが期待されたが、厚生労働省の有識者検討会は2012年1月20日に、「降雨域を確定するのは困難」との結論を出した<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120120dde041040030000c.html 黒い雨:厚労省WG報告書「地域確定困難」]、毎日新聞、[[2012年]][[1月20日]]。{{リンク切れ|date=2012年8月}}</ref>。
== 長崎市へ投下された原爆による「黒い雨」降雨地域 ==
長崎市へ投下された原爆でも、黒い雨の降雨記録が残っている{{Sfn|長崎原爆資料館|2006|pp=243-253}}{{Sfn|長崎市役所|1984}}。
1975(昭和50)年、[[林京子]]は[[群像新人文学賞]]受賞・第73回[[芥川賞]]受賞作品の『祭りの場』の中で、母親が[[諫早市|諫早]]に住んでいて「黒い雨」を体験したことを綴っている{{Sfn|林京子|1988}}。
2008年、[[ノーベル化学賞]]を受賞した[[下村脩]]は、著書の中で、[[諫早市]]で黒い雨に濡れたことを記している<ref>{{Cite book |和書|author=下村脩|title=クラゲに学ぶ ノーベル賞への道|date=2010-11-01 |year=2010 |publisher=長崎文献社|ref=harv}}</ref>。
「黒い雨」の降雨に関する記録は広島に比べ数は少ない{{Sfn|長崎原爆資料館|2006|p=245}}{{Sfn|長崎原爆資料館b|2023}}。原爆炸裂当日の気象条件、降雨地域の人口密度などが関係している(森や林といった山間部が多かった)。また、雨ではなく降灰や塵埃として広範囲に地上に落下した{{Sfn|長崎原爆資料館|2006|pp=243-253}}{{Sfn|長崎原爆資料館b|2023}}{{Sfn|長崎市役所|1984|pp=63-75}}。1945年9月から10月にかけて地上に残留していた放射線の測定値が熊本を含む多数の地点で記録されている{{Sfn| NHKスペシャル取材班|2023|p=12-13}}。また、長崎の西山地域住民の血液検査(白血球数)なども数は少ないが記録が残されている{{Sfn| NHKスペシャル取材班|2023|p=52-57}}{{Sfn|長崎市役所|1984|pp=63-75}}。
工藤洋三・金子力の著書『原爆投下部隊』の175ページには[[橘湾 (長崎県)|橘湾]]上空を飛行する[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]から撮影した[[キノコ雲]]の写真が3枚掲載されている。その一枚にはキノコ雲の東側([[東長崎]]地区・[[諫早]]方面)に黒く延びる影(原爆による多量の降下物)を撮影した写真が掲載されている{{Sfn|工藤洋三・金子力|2013|p=175}}。{{Efn|写真の中に、次の説明文が「焼き込み」として記載されている。<br>
<br>
20AF (5SBM17 - 101 H-20) (8-9-1155) (6”-30,000’)<br>
(32°45’N-129”52’E)(NAGASAKI)(7297) <del>TOP SECRET</del><br>
<br>
"TOP SECRET"の部分は取り消し横線が引かれている。<br>
"20AF"は第20航空軍、"5SBM"は「1945年、“Special Bombing Mission”(特殊爆撃任務)」を意味する。"5SBM17"は"5SBM16"の間違い。原爆投下命令は、"Mission16"だった。<br>
このページの他の掲載写真から「101 H-20」が写真番号である。<br>
(8-9-1155) は8月9日11時55分。<br>
(6”-30,000’)の 6” はカメラの[[焦点距離]]が6インチ(156mm)を表す。<br>
30,000’ は高度 30,000 フィート(約9000m)を表す。<br>
(32°45’N-129”52’E)(NAGASAKI) <ref>{{Google maps |
url=https://www.google.co.jp/maps/place/32%C2%B045'00.0%22N+129%C2%B052'00.0%22E/@32.75,129.8640867,799m/data=!3m2!1e3!4b1!4m4!3m3!8m2!3d32.75!4d129.866667?entry=ttu| accessdate = 2023-09-10}}</ref><br>
(7297)は[[原子爆弾|原爆]]を投下したB-29爆撃機[[ボックスカー]]の機体番号。}}
==健康への影響==
[[原爆傷害調査委員会]](ABCC)は1950年代から被爆状況に関する面接調査を行っており、その設問として「黒い雨」に遭ったかどうかを質問していた。このことは2011年に[[放射線影響研究所]]により明らかにされデータの整理が行われていたが、2012年12月になり、広島において黒い雨を浴びた被爆者と浴びなかった被爆者ではガンおよび[[白血病]]の罹患率に有為な差はなかったことが発表された。長崎のデータでは雨に遭った被爆者は遭わなかった被爆者にくらべ死亡率が30%高かったが、雨にあった被爆者数が遭わなかった被爆者数に比べはるかに少ないため結論を下すことが出来ないとされた<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1208/OSK201212080023.html 「黒い雨」がんリスクに差なし 放影研が解析結果発表]、2012年12月8日</ref>。
== 関連作品 ==
{{see also|黒い雨 (小説)|黒い雨 (映画)}}
広島での被爆をテーマにした[[井伏鱒二]]の『[[黒い雨 (小説)|黒い雨]]』という[[小説]]が知られる。[[1965年]]『[[新潮]]』で連載された。当初は『姪の結婚』という題であったが、連載途中で『黒い雨』に変わった。この作品は重松静馬著『重松日記』を原資料とし創作を加えたもので、[[今村昌平]]監督のもと[[1989年]]に同名の『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』として映画化された。
長崎では、[[林京子]]の文学作品{{Sfn|林京子|1988}}や[[ノーベル化学賞]]を受賞した[[下村脩]]の著書{{Sfn|下村脩|2010}}などがある。
[[2011年]]3月に発生した[[福島第一原子力発電所事故]]に絡んで、日本の[[シンガーソングライター]]・[[斉藤和義]]が原発批判ソング「[[ずっと好きだった#ずっとウソだった|ずっとウソだった]]」を同年翌月に[[YouTube]]で公開し、この歌詞の中で「黒い雨」に触れている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書|author=NHKスペシャル取材班|title=原爆初動調査 隠された真実 |date=2023-08-25 |year=2023 |publisher=早川書房 |series=ハヤカワ新書|volume= 012|isbn=978-4-15-340012-2|ref={{SfnRef|NHKスペシャル取材班|2023}} }}
* {{Cite book |和書|author1=工藤洋三|author2=金子力|authorlink2= |title=原爆投下部隊 第509混成群団と原爆・パンプキン|date=2013-08-01 |year=2013 |publisher=大村印刷|isbn=978-4-9907248-1-8|ref=harv}}
* {{Cite book |和書|author=下村脩|title=クラゲに学ぶ ノーベル賞への道|date=2010-11-01 |year=2010 |publisher=長崎文献社|ref={{SfnRef|下村脩|2010}} }}
* {{Cite book |和書|author1=田村和之|coauthors=竹森雅泰・湯浅正恵・向井均・増田善信・矢ヶ﨑克馬・大瀧慈|translator=|editor=田村和之・竹森雅泰|title=原爆「黒い雨」訴訟 |date=2023-06-30 |year=2023 |publisher=本の泉社|isbn=978-4-7807-2245-1 |ref={{SfnRef|田村和之|2023}} }}
* {{Cite book |和書|editor=長崎原爆資料館|title=長崎原爆戦災誌 第一巻 総説編改訂版|date=2006-03-31|year=2006|publisher=長崎市|ref={{SfnRef|長崎原爆資料館|2006}} }}
* {{Cite book |和書|editor=長崎市役所|title=長崎原爆戦災誌 第四巻 学術編|date=1984-03|year=1984|publisher=長崎国際文化会館|ref={{SfnRef|長崎市役所|1984}} }}
* {{Cite web|和書|url=https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2023/04/emr.pdf|title=長崎の黒い雨等に関する専門家会議 報告書|accessdate=2023-09-01 |author=長崎の黒い雨等に関する専門家会議|date=2022-07 |year=2022|format=PDF|website= https://www.vidro.gr.jp/ |publisher=長崎県保険医協会|ref={{SfnRef|長崎の黒い雨等に関する専門家会議|2022}} }}
* {{Cite book |和書|author=林京子|others=川西政明 |title=祭りの場・ギヤマンビードロ|date=1988-08-04|year=1988|publisher=講談社|series=講談社文芸文庫|ref={{SfnRef|林京子|1988}} }}
* {{Cite book |和書|editor=広島“黒い雨”放射能研究会|others=第一種健康診断特例区域等の検証に関する検討会 |title=広島原爆“黒い雨”にともなう放射性降下物に関する研究の現状|date=2010-05|year=2010|publisher=厚生労働省|url=https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/000694132.pdf|format=PDF |accessdate=2023-09-10|ref={{SfnRef|広島“黒い雨”放射能研究会|2010}} }}
== 関連項目 ==
*[[放射性降下物#局地的な降下物]]
* [[放射性物質]]
* [[放射能]]
==外部リンク==
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009050024_00000 NHKスペシャル 黒い雨~活(い)かされなかった被爆者調査~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
*{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_14655.html |title=第一種健康診断特例区域等の検証に関する検討会(第1回~第6回)|accessdate=2023-09-10|author=厚生労働省|year=2023|website=https://www.mhlw.go.jp/|publisher=厚生労働省|ref=harv}}
*{{Cite web|和書|url=https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/ame.html
|title=「黒い灰・黒い雨」 ながさきの平和 |accessdate=2023-09-10 |author=長崎原爆資料館|year=2023|website=https://nagasakipeace.jp/search|publisher=長崎原爆資料館|ref={{SfnRef|長崎原爆資料館b|2023}} }}
*{{Cite web|和書|url=https://blackrain1.jimdofree.com/ |title=「黒い雨」訴訟を支援する会 |accessdate=2023-09-10|author=「黒い雨」訴訟を支援する会|date= |year=2023|website= https://blackrain1.jimdofree.com|publisher=「黒い雨」訴訟を支援する会|ref=harv}}
*{{Cite web|和書|url=https://www.vidro.gr.jp/nagasakigenbaku/ |title=長崎黒い雨地点 |accessdate=2023-09-10 |author=長崎県保険協会 |publisher=長崎県保険協会 |ref=harv}}
* 広島および長崎のキノコ雲の動画映像([[ハロルド・アグニュー]]が所有していたもの)。Hoover Institution Library & Archives が 2018/06/05 公開。<br>Motion picture film(広島原爆・長崎原爆に関連する動画映像) [https://www.youtube.com/watch?v=fy39k8wJKiw Harold Agnew Atomic Bomb film] - [[YouTube]]
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[[Category:雨]]
[[Category:原子爆弾]]
[[Category:広島と長崎への原子爆弾投下]]
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サーサーン朝
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サーサーン朝(サーサーンちょう, ペルシア語: ساسانيان, ラテン文字転写: Sāsāniyān, 英語: Sassanid)は、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国(226年 - 651年)。首都はクテシフォン(現在のイラク)。ササン朝ペルシアとも呼ばれる。
サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサスと中央アジアまで広がっていた。
特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。
サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ、アフリカ 、中国、インドを含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた。ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた。
公式には、帝国はイラン帝国(パフラヴィー語: ērānšahr、パルティア語: aryānšahr)として知られていた。この用語は、王が「私はイラン帝国の支配者である」(パフラヴィー語: ērānšahrxwadāyhēm、パルティア語: aryānšahrxwadāyahēm)というシャープール1世のゾロアスターのカアバの碑文(英語版)で最初に言及されている。
より一般的には、王朝はサーサーンにちなんで名付けられたという事実のために、歴史的・学術的な情報源ではサーサーン帝国として知られている。
日本語ではしばしばササン朝、ササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャとも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝か、数世紀前のアケメネス朝を指すことが多い。
サーサーン朝の起源は不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親バーバク(パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。
アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原諸国を次々制圧した。同年4月にホルミズダガンの戦い(英語版)でパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認した。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝・トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。
以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス(英語版)などの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝フィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後に皇帝ウァレリアヌスが再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いで皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。
シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教・仏教・キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。
バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。
その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦い(英語版)で侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。
対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。
バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。バハラームの死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年にセレウキア公会議(英語版)が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。
ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後バハラーム5世が即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝・東ローマ帝国テオドシウス朝間で交渉が持たれたが決裂。422年にローマ・サーサーン戦争(英語版)に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。
425年に、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。428年にアルサケス朝アルメニア(英語版)が滅亡し、サーサーン朝アルメニア(英語版)が成立。
バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))の後、441年に相互不可侵の約定を結んだ。443年に、キダーラ朝(英語版)との戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦い(英語版)で勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。
ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年に世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。
458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家(英語版)の王女が夫Varskenに殺害された。エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王ヴァフタング1世がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプ(英語版)を派遣したが、ヴァハン・マミコニアン(英語版)が蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。
ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い(英語版))。485年にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアのマルズバーンに指名される。
488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年–496年、498年-531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォン(英語版)に立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。
502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年–628年)の始まりであった。 526年に、イベリア戦争(526年–532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝(英語版)連合軍との間で行なわれた。530年、Battle of Dara、Battle of Satala。531年、Battle of Callinicum。
カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年-579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。
一方、東ローマ帝国ではキリスト教学の発展に伴う異教排除が進み、529年にはユスティニアヌス1世によってアテネのアカデミアが閉鎖された。ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティアがキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。この結果、ギリシア語・ラテン語)の文献が多数翻訳された。
ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ(英語版)』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。
タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期ペルシア語)訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語のシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書(ペルシア語版)』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン(英語版)(ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である)。
5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝(英語版)などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。
ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)(英語版)を引き起こした。
ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバフラーム・チョービーン(英語版)の反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。東ローマのマウリキウスの援助で反乱を鎮圧したが、602年に東ローマの政変でマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にクーデターでヘラクレイオスが帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。
連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年にはシリアのダマスカス、シリア(英語版)、翌614年には聖地エルサレムを占領した(エルサレム包囲戦(英語版))。この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。
615年にエジプト征服(英語版)が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)が起こった。621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ逃亡を計ろうとした。
しかし、622年にカッパドキアの戦い(英語版)でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。
627年に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱)。長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。そこに新興の宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。
アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ(正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。
641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス(英語版)、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラ、クーファから軍勢を招集する。
642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに唐の助勢を求め、自らが長安まで赴いて亡命政府を設立したが、成功することはなかった。『旧唐書』には大暦6年(771年)に唐に真珠を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。
サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラム共同体(帝国)が世界帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。
後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などイスラム帝国に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派の第3代イマーム・フサインの妻の一人となり、第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンの生母となった、といったものやサファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク(1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。
特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝やマーザンダラーンのバーワンド家(英語版、フランス語版)(Bawandids、8世紀-1349年)などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したイスラム教の預言者ムハンマドの一族であるハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。
サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーがアラビア語で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群やマニ教文書、パフラヴィー語による行政文書などの史料群、パフラヴィー語・アルメニア語・シリア語・ギリシア語・ラテン語などの年代記・通貨などにより歴史・実態・文化などが研究されている。
パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、古代イラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官(マギ)などが口伝で代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代から世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、パフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字の発明によりゾロアスター教文献書籍化の契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代のフェルドウスィーなどが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。
そのため、現在のイラン民族にとって、サーサーン朝が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝時代・パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する中期ペルシア語、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリア・イラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世を題材にしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。
サーサーン朝で育まれた行政組織や文化は後のイスラム時代にも多大な影響を残した。
サーサーン朝では、直径3cmの大型で薄い高純度の銀貨を用いた、1ドラクム銀貨を数多く発行した。図柄は共通しており、片面には王冠をかぶった王の横顔胸像と王名等を示すパフラヴィー語での銘文、片面には拝火檀並びに2名の守衛像と、発行地・発行年を示すパフラヴィー語銘文を記している。
三蔵法師玄奘はペルシャ訪問の機会は無かったが、ペルシャの伝聞情報を得ており、大唐西域記第11巻第20節には、波剌斯国(ペルシャ国)の記録として、「良い馬・駱駝が多く、貨幣は大銀銭を使用する」と記載した。中国の方孔円形銅貨と比べると、サーサーン朝の1ドラクム銀貨は美麗であり巨大である。
著名な貨幣学者マイケル・ミッチナーが編纂した「東洋貨幣とその価値 古代・古典期の世界」には1ドラクム銀貨を中心に、サーサーン朝の貨幣473点を収録しているが、近隣の諸国でもサーサーンに類似した貨幣を多く発行した。サーサーンで発行された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決済用の基軸通貨としても尊重された。
ガラス器や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、正倉院に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。
ホスロー2世時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後もアッバース朝イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、ケバブやブドウの葉のドルマが含まれている。
サーサーン朝時代は、西からキリスト教(ネストリウス派など)、東から仏教が伝来。サーサーン朝はインド、クシャーナ朝、ローマ帝国、中国、突厥など当時の大国と係わりがあり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。
サーサーン朝の国教
ズルワーン教はゾロアスター教に関連する宗教。善と悪は時間の神ズルワーンから生まれたと説いた。
紀元前4世紀ごろの小アジア・シリア・メソポタミア一帯で信仰されていたとみられる。サーサーン朝成立から5世紀にかけてギリシア語・ラテン語・アルメニア語・シリア語・アラビア語などの外国語資料が豊富に残っている。また、マニ教の教祖マニも最高神としてズルワーンに言及している。一方9~10世紀にかけてのゾロアスター教パフラヴィー語文献ではズルワーン主義に関する資料が残されておらず、後世に伝わる二元論的なゾロアスター教との関係は分かっていない。ズルワーン教に関しては以下のような説がある。
マニ教は、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの諸宗教を混合した世界宗教。教祖はマニ(216年頃 - 274年?)。
マニはアルサケス家の血を引くパルティア人で父と共にユダヤ教系キリスト教のグノーシス主義洗礼教団エルカサイ派に所属していた。24歳の時にエルカサイ派を離脱した彼は、父親や仲間たちと共にメソポタミア・メディア・インドなどを行き巡り、キリスト教・ゾロアスター教・仏教など諸宗教を混合した新興世界宗教(後にマニ教と呼ばれる)を開く。サーサーン家の人物まで改宗させた彼は、シャープール1世にも謁見し、廷臣として取り立てられた。そして自ら聖典を書き記し、教団の組織化と伝道活動に従事した。しかしシャープールの死後、ゾロアスター教神官カルティールが台頭し、マニは処刑されてしまう。
教祖の死後、マール・スィースィンが跡を継ぎ、アラブ人伝道にも成功するが、彼自身は殺されてしまう。その後、マニ教会の資料はほとんど残されておらず、キリスト教会に地盤を奪われたとみられている。
マズダク教はカワード1世の宰相マズダクにより提唱された宗教。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとしたが、それにより混乱を深めた。
サーサーン朝に広まったキリスト教は、ローマ帝国で広がったヘレニズム的なキリスト教とは一線を画すシリア系キリスト教であった。彼らはイエスが使った言語であるアラム語(シリア語)を用い、パルティア時代からローマ帝国におけるキリスト教の文化的中心都市エデッサを起点に東方との交流を行っていた。
サーサーン朝にキリスト教が広まるきっかけとなったのは、260年にサーサーン朝がエデッサを占領してからである。またサーサーン朝に捕らえられたローマ兵にもキリスト教徒がおり、彼らを通して国内にキリスト教が広まるようになった。なお、キリスト教徒は一枚岩ではなく、文化的背景によって以下のグループに分かれ、それぞれ緊張関係にあった。
なお、当初のサーサーン朝はローマ帝国で迫害されるキリスト教に好意的で、布教は順調に進んだ。4世紀にはセレウキア-クテシフォンに府主教座が設けられた。
313年にローマ帝国でのキリスト教公認が行われると、サーサーン朝はキリスト教の迫害(339年-379年)に転じる。当時はアーリア人の間でもキリスト教が広まっており、ゾロアスター教を基盤とするサーサーン朝にとって死活問題であった。シャープール2世によって主導された弾圧はキリスト教徒の反乱と多くの殉教者を出した。
ヤズデギルド1世の代になると、東ローマ帝国との関係改善のためにキリスト教徒の迫害が停止された。また、教会網が整備され、以下の6大教会が成立した。
しかし、ヤズデギルドの治世末期にはキリスト教会との衝突や、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次ぎ、再び迫害策(420年-484年)がとられた。また、ローマ帝国で異端とされた非カルケドン派(合性論派)とネストリウス派がサーサーン朝のキリスト教界に入り込み、事態はより複雑化した。5世紀半ばにはクテシフォンの府主教座が非カルケドン派に交代した。また、エデッサを追われたネストリウス派がニシビスに拠点を移した。ネストリウス派はローマ帝国と敵対する別種のキリスト教と解釈され、サーサーン朝と結びつき、クテシフォンの府主教座を獲得した(逆に非カルケドン派の府主教は処刑に追い込まれた)。ネストリウス派はサーサーン朝に公認された唯一のキリスト教として勢力を拡大し、クテシフォンの府主教座は東方総主教(カトリコス)の名称を用いるようになった。
ネストリウス派はニシビス一帯に神学校と修道院を整備したが、修道院制度と禁欲主義は元ゾロアスター教徒のアーリア人キリスト教徒たちにはなじまず、486年にはいったん廃止された。しかし文化的基盤であった修道院をなくすことはキリスト教会の文化的活力を低下させたため、シリア系キリスト教徒から反発を受けた。そのため6世紀には修道院制度が復活し、ネストリウス派神学が確立されていった。
キリスト教がサーサーン朝の領域に広まった理由として次の理由が挙げられる。
これらの理由からキリスト教会はゾロアスター教神官団に対して知的優位に立つことができた。ホスロー1世のもとでゾロアスター教にギリシア哲学やインド哲学が取り入れられたり、キリスト教パフレヴィー文字を参考にアヴェスター文字が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフラヴィー語注釈『ザンド』が書籍化されたのも、キリスト教会に対抗するためであったとされている。
歴代君主の称号は全てシャーハンシャー(諸王の王)である。
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"text": "サーサーン朝(サーサーンちょう, ペルシア語: ساسانيان, ラテン文字転写: Sāsāniyān, 英語: Sassanid)は、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国(226年 - 651年)。首都はクテシフォン(現在のイラク)。ササン朝ペルシアとも呼ばれる。",
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"text": "サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサスと中央アジアまで広がっていた。",
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"text": "特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。",
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"text": "サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ、アフリカ 、中国、インドを含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた。ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた。",
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"text": "公式には、帝国はイラン帝国(パフラヴィー語: ērānšahr、パルティア語: aryānšahr)として知られていた。この用語は、王が「私はイラン帝国の支配者である」(パフラヴィー語: ērānšahrxwadāyhēm、パルティア語: aryānšahrxwadāyahēm)というシャープール1世のゾロアスターのカアバの碑文(英語版)で最初に言及されている。",
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"text": "日本語ではしばしばササン朝、ササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャとも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝か、数世紀前のアケメネス朝を指すことが多い。",
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"text": "サーサーン朝の起源は不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親バーバク(パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。",
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"text": "アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原諸国を次々制圧した。同年4月にホルミズダガンの戦い(英語版)でパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認した。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝・トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。",
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"text": "以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス(英語版)などの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝フィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後に皇帝ウァレリアヌスが再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いで皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。",
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"text": "シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教・仏教・キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。",
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"text": "バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。",
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"text": "その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦い(英語版)で侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。",
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"text": "バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。バハラームの死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年にセレウキア公会議(英語版)が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。",
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"text": "ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後バハラーム5世が即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝・東ローマ帝国テオドシウス朝間で交渉が持たれたが決裂。422年にローマ・サーサーン戦争(英語版)に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。",
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"tag": "p",
"text": "488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年–496年、498年-531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォン(英語版)に立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年–628年)の始まりであった。 526年に、イベリア戦争(526年–532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝(英語版)連合軍との間で行なわれた。530年、Battle of Dara、Battle of Satala。531年、Battle of Callinicum。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年-579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、東ローマ帝国ではキリスト教学の発展に伴う異教排除が進み、529年にはユスティニアヌス1世によってアテネのアカデミアが閉鎖された。ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティアがキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。この結果、ギリシア語・ラテン語)の文献が多数翻訳された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ(英語版)』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。",
"title": "歴史"
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"text": "タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期ペルシア語)訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語のシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書(ペルシア語版)』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン(英語版)(ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である)。",
"title": "歴史"
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"text": "5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝(英語版)などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)(英語版)を引き起こした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバフラーム・チョービーン(英語版)の反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。東ローマのマウリキウスの援助で反乱を鎮圧したが、602年に東ローマの政変でマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にクーデターでヘラクレイオスが帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年にはシリアのダマスカス、シリア(英語版)、翌614年には聖地エルサレムを占領した(エルサレム包囲戦(英語版))。この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "615年にエジプト征服(英語版)が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)が起こった。621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ逃亡を計ろうとした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "しかし、622年にカッパドキアの戦い(英語版)でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "627年に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱)。長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。そこに新興の宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ(正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス(英語版)、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラ、クーファから軍勢を招集する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに唐の助勢を求め、自らが長安まで赴いて亡命政府を設立したが、成功することはなかった。『旧唐書』には大暦6年(771年)に唐に真珠を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラム共同体(帝国)が世界帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などイスラム帝国に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派の第3代イマーム・フサインの妻の一人となり、第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンの生母となった、といったものやサファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク(1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。",
"title": "後世への影響"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝やマーザンダラーンのバーワンド家(英語版、フランス語版)(Bawandids、8世紀-1349年)などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したイスラム教の預言者ムハンマドの一族であるハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。",
"title": "後世への影響"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーがアラビア語で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群やマニ教文書、パフラヴィー語による行政文書などの史料群、パフラヴィー語・アルメニア語・シリア語・ギリシア語・ラテン語などの年代記・通貨などにより歴史・実態・文化などが研究されている。",
"title": "後世への影響"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、古代イラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官(マギ)などが口伝で代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代から世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、パフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字の発明によりゾロアスター教文献書籍化の契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代のフェルドウスィーなどが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。",
"title": "後世への影響"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "そのため、現在のイラン民族にとって、サーサーン朝が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝時代・パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する中期ペルシア語、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリア・イラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世を題材にしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。",
"title": "後世への影響"
},
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝で育まれた行政組織や文化は後のイスラム時代にも多大な影響を残した。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "サーサーン朝では、直径3cmの大型で薄い高純度の銀貨を用いた、1ドラクム銀貨を数多く発行した。図柄は共通しており、片面には王冠をかぶった王の横顔胸像と王名等を示すパフラヴィー語での銘文、片面には拝火檀並びに2名の守衛像と、発行地・発行年を示すパフラヴィー語銘文を記している。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "三蔵法師玄奘はペルシャ訪問の機会は無かったが、ペルシャの伝聞情報を得ており、大唐西域記第11巻第20節には、波剌斯国(ペルシャ国)の記録として、「良い馬・駱駝が多く、貨幣は大銀銭を使用する」と記載した。中国の方孔円形銅貨と比べると、サーサーン朝の1ドラクム銀貨は美麗であり巨大である。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "著名な貨幣学者マイケル・ミッチナーが編纂した「東洋貨幣とその価値 古代・古典期の世界」には1ドラクム銀貨を中心に、サーサーン朝の貨幣473点を収録しているが、近隣の諸国でもサーサーンに類似した貨幣を多く発行した。サーサーンで発行された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決済用の基軸通貨としても尊重された。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ガラス器や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、正倉院に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ホスロー2世時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後もアッバース朝イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、ケバブやブドウの葉のドルマが含まれている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "サーサーン朝時代は、西からキリスト教(ネストリウス派など)、東から仏教が伝来。サーサーン朝はインド、クシャーナ朝、ローマ帝国、中国、突厥など当時の大国と係わりがあり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。",
"title": "宗教"
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{
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"text": "サーサーン朝の国教",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "ズルワーン教はゾロアスター教に関連する宗教。善と悪は時間の神ズルワーンから生まれたと説いた。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "紀元前4世紀ごろの小アジア・シリア・メソポタミア一帯で信仰されていたとみられる。サーサーン朝成立から5世紀にかけてギリシア語・ラテン語・アルメニア語・シリア語・アラビア語などの外国語資料が豊富に残っている。また、マニ教の教祖マニも最高神としてズルワーンに言及している。一方9~10世紀にかけてのゾロアスター教パフラヴィー語文献ではズルワーン主義に関する資料が残されておらず、後世に伝わる二元論的なゾロアスター教との関係は分かっていない。ズルワーン教に関しては以下のような説がある。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "マニ教は、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの諸宗教を混合した世界宗教。教祖はマニ(216年頃 - 274年?)。",
"title": "宗教"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "マニはアルサケス家の血を引くパルティア人で父と共にユダヤ教系キリスト教のグノーシス主義洗礼教団エルカサイ派に所属していた。24歳の時にエルカサイ派を離脱した彼は、父親や仲間たちと共にメソポタミア・メディア・インドなどを行き巡り、キリスト教・ゾロアスター教・仏教など諸宗教を混合した新興世界宗教(後にマニ教と呼ばれる)を開く。サーサーン家の人物まで改宗させた彼は、シャープール1世にも謁見し、廷臣として取り立てられた。そして自ら聖典を書き記し、教団の組織化と伝道活動に従事した。しかしシャープールの死後、ゾロアスター教神官カルティールが台頭し、マニは処刑されてしまう。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "教祖の死後、マール・スィースィンが跡を継ぎ、アラブ人伝道にも成功するが、彼自身は殺されてしまう。その後、マニ教会の資料はほとんど残されておらず、キリスト教会に地盤を奪われたとみられている。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "マズダク教はカワード1世の宰相マズダクにより提唱された宗教。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとしたが、それにより混乱を深めた。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "サーサーン朝に広まったキリスト教は、ローマ帝国で広がったヘレニズム的なキリスト教とは一線を画すシリア系キリスト教であった。彼らはイエスが使った言語であるアラム語(シリア語)を用い、パルティア時代からローマ帝国におけるキリスト教の文化的中心都市エデッサを起点に東方との交流を行っていた。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "サーサーン朝にキリスト教が広まるきっかけとなったのは、260年にサーサーン朝がエデッサを占領してからである。またサーサーン朝に捕らえられたローマ兵にもキリスト教徒がおり、彼らを通して国内にキリスト教が広まるようになった。なお、キリスト教徒は一枚岩ではなく、文化的背景によって以下のグループに分かれ、それぞれ緊張関係にあった。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "なお、当初のサーサーン朝はローマ帝国で迫害されるキリスト教に好意的で、布教は順調に進んだ。4世紀にはセレウキア-クテシフォンに府主教座が設けられた。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "313年にローマ帝国でのキリスト教公認が行われると、サーサーン朝はキリスト教の迫害(339年-379年)に転じる。当時はアーリア人の間でもキリスト教が広まっており、ゾロアスター教を基盤とするサーサーン朝にとって死活問題であった。シャープール2世によって主導された弾圧はキリスト教徒の反乱と多くの殉教者を出した。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ヤズデギルド1世の代になると、東ローマ帝国との関係改善のためにキリスト教徒の迫害が停止された。また、教会網が整備され、以下の6大教会が成立した。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "しかし、ヤズデギルドの治世末期にはキリスト教会との衝突や、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次ぎ、再び迫害策(420年-484年)がとられた。また、ローマ帝国で異端とされた非カルケドン派(合性論派)とネストリウス派がサーサーン朝のキリスト教界に入り込み、事態はより複雑化した。5世紀半ばにはクテシフォンの府主教座が非カルケドン派に交代した。また、エデッサを追われたネストリウス派がニシビスに拠点を移した。ネストリウス派はローマ帝国と敵対する別種のキリスト教と解釈され、サーサーン朝と結びつき、クテシフォンの府主教座を獲得した(逆に非カルケドン派の府主教は処刑に追い込まれた)。ネストリウス派はサーサーン朝に公認された唯一のキリスト教として勢力を拡大し、クテシフォンの府主教座は東方総主教(カトリコス)の名称を用いるようになった。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ネストリウス派はニシビス一帯に神学校と修道院を整備したが、修道院制度と禁欲主義は元ゾロアスター教徒のアーリア人キリスト教徒たちにはなじまず、486年にはいったん廃止された。しかし文化的基盤であった修道院をなくすことはキリスト教会の文化的活力を低下させたため、シリア系キリスト教徒から反発を受けた。そのため6世紀には修道院制度が復活し、ネストリウス派神学が確立されていった。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "キリスト教がサーサーン朝の領域に広まった理由として次の理由が挙げられる。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "これらの理由からキリスト教会はゾロアスター教神官団に対して知的優位に立つことができた。ホスロー1世のもとでゾロアスター教にギリシア哲学やインド哲学が取り入れられたり、キリスト教パフレヴィー文字を参考にアヴェスター文字が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフラヴィー語注釈『ザンド』が書籍化されたのも、キリスト教会に対抗するためであったとされている。",
"title": "宗教"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "歴代君主の称号は全てシャーハンシャー(諸王の王)である。",
"title": "歴代君主"
}
] |
サーサーン朝は、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。ササン朝ペルシアとも呼ばれる。 サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフルと呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサスと中央アジアまで広がっていた。 特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。 サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ、アフリカ 、中国、インドを含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた。ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた。
|
{{出典の明記|date=2020年5月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = ペルシア
|日本語国名 = サーサーン朝
|公式国名 = [[File:Eranshahr.svg|85px]]<br> 𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩
|建国時期 = [[224年]]
|亡国時期 = [[651年]]
|先代1 = パルティア
|先旗1 = blank.png
|先代2 = インド・パルティア王国
|先旗2 = blank.png
|先代3 = クシャーナ朝
|先旗3 = blank.png
|先代4 = アルメニア王国
|先旗4 = Standard of the Artaxiad dynasty.svg
|先代5 = イベリア王国
|先旗5 = Kartli - drosha jvari.svg
|先代6 = カフカス・アルバニア王国
|先旗6 = Flag of Mihranids.svg
|先代7 = エフタル
|先旗7 = Hephthalite tamgha.jpg
|先代8 = ラフム朝
|先旗8 = blank.png
|先代9 = 東ローマ帝国
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|次代1 = 正統カリフ
|次旗1 = Flag of Afghanistan (1880–1901).svg
|次代2 = クシャーノ・サーサーン朝
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|次代3 = イベリア公国
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|次代4 = ダブワイド朝
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|位置画像 = Sassanid Empire, Khosrow II period(AD620).png
|位置画像説明 = 西暦620年頃のサーサーン朝の最大版図
|公用語 = [[パフラヴィー語]]<br>[[パルティア語]]([[準公用語]])<br>[[ギリシャ語]]([[コイネー]])
|宗教 = [[ゾロアスター教]](公式)<br>[[ズルワーン教]](公式)<br>[[マニ教]]<br>[[仏教]]<br>[[キリスト教]][[ネストリウス派]]<br>[[ユダヤ教]]<br>[[マズダク教]]
|首都 = [[:en:Istakhr|イスタフル]]([[224年]] - [[226年]])<br>[[クテシフォン]](226年 - [[642年]])
|元首等肩書 = [[シャー|シャーハンシャー]]([[サーサーン朝の王の一覧|諸王の王]])
|元首等年代始1 = [[226年]]
|元首等年代終1 = [[241年]]
|元首等氏名1 = [[アルダシール1世]]
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|変遷1 = 建国
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{{イランの歴史}}
'''サーサーン朝'''(サーサーンちょう, '''{{翻字併記|fa|ساسانيان|Sāsāniyān}}''', {{Lang-en|Sassanid}})は、[[イラン高原]]・[[メソポタミア]]などを支配した[[王朝]]・[[帝国]](226年 - 651年)。首都は[[クテシフォン]](現在の[[イラク]])。'''ササン朝ペルシア'''とも呼ばれる。
サーサーン朝は、数世紀前の[[アケメネス朝]]と同じくイラン高原[[ファールス州|ファールス地方]]から勃興した勢力で、その支配領域は'''エーラーン・シャフル'''(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそ[[アナトリア]]東部、[[アルメニア]]から[[アムダリア川]]西岸、[[アフガニスタン]]と[[トルクメニスタン]]、果てに[[ウズベキスタン]]周辺まで及んだ。更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸([[エジプト]]を含む)から[[パキスタン]]まで、そしてアラビア南部の一部から[[コーカサス]]と[[中央アジア]]まで広がっていた。
特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身が[[ゾロアスター教]]の[[神官]]階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。
サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており<ref>Chronique d'Agathias.</ref>、多くの点で[[イスラーム教徒のペルシア征服|イスラム教徒の征服]]とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。サーサーン朝の文化的影響力は、[[西ヨーロッパ]]<ref>Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain..</ref>、[[アフリカ]] <ref>"Transoxiana 04: Sasanians in Africa". Transoxiana.com.ar. Retrieved 16 December 2013.</ref>、[[中国]]、[[インド]]<ref>Sarfaraz, pp. 329–330</ref>を含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた<ref>"Iransaga: The art of Sassanians". Artarena.force9.co.uk. Retrieved 16 December 2013.</ref>。[[ペルシャ文化]]はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた<ref>Abdolhossein Zarinkoob: Ruzgaran: tarikh-i Iran az aghz ta saqut saltnat Pahlvi, p. 305</ref>。
== 名称 ==
公式には、帝国は'''イラン帝国'''(パフラヴィー語: {{lang|pal|ērānšahr}}、[[パルティア語]]: {{lang|xpr|aryānšahr}})として知られていた。この用語は、王が「私は'''イラン帝国'''の支配者である」(パフラヴィー語: {{lang|pal|ērānšahrxwadāyhēm}}、パルティア語: {{lang|xpr|aryānšahrxwadāyahēm}})という{{仮リンク|シャープール1世のゾロアスターのカアバの碑文|en|Shapur I's inscription at the Ka'ba-ye Zartosht}}で最初に言及されている<ref>{{Cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/eran-eransah|title=ĒRĀN, ĒRĀNŠAHR – Encyclopaedia Iranica|website=www.iranicaonline.org|access-date=2019-11-09}}</ref>。
より一般的には、王朝は[[サーサーン]]にちなんで名付けられたという事実のために、歴史的・学術的な情報源では'''サーサーン帝国'''として知られている。
日本語ではしばしば'''ササン朝'''、'''ササン朝ペルシア'''、'''ササン朝ペルシャ'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ササン朝-68963 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ササン朝とは |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-03 }}</ref>。単に'''ペルシア帝国'''または'''ペルシャ帝国'''といった場合は、サーサーン朝か、数世紀前の[[アケメネス朝]]を指すことが多い。
== 歴史 ==
=== 起源 ===
サーサーン朝の起源は不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親[[バーバク]](パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなく[[パルティア]]と戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。
アルダシール1世は[[西暦]][[224年]]に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、[[エリマイス王国]]などイラン高原諸国を次々制圧した。同年4月に{{仮リンク|ホルミズダガンの戦い|en|Battle of Hormizdegan}}でパルティア王[[アルタバヌス4世]]と戦って勝利を収め、「[[諸王の王]]」という[[アルサケス朝]]の称号を引き継いで使用した。この勝利によって[[パルティア#貴族|パルティアの大貴族]]がアルダシール1世の覇権を承認した。[[230年]]にはメソポタミア全域を傘下に納め、[[ローマ帝国]][[セウェルス朝]]の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東では[[クシャーナ朝]]・[[トゥーラーン]]の王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの[[宗主権]]を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。
[[Image:Bas relief nagsh-e-rostam al.jpg|thumb|280px|right|降服する[[ウァレリアヌス]]帝らと騎乗のシャープール1世。[[ナクシェ・ロスタム]]の磨崖像より]]
以後サーサーン朝とローマ諸王朝([[東ローマ帝国|東ローマ諸王朝]])はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。[[244年]]、[[歴史的シリア|シリア地方]]の安全保障のためにサーサーン朝が占領していた{{仮リンク|ヌーサイビン|en|Nusaybin|label=ニシビス}}などの都市を奪回すべく[[ゴルディアヌス3世]]がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世は[[ミシケの戦い|マッシナの戦い]]でゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝[[フィリップス・アラブス|フィリップス]]との和平において莫大な賠償金を獲得した。後に皇帝[[ウァレリアヌス]]が再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は[[260年]]の[[エデッサの戦い]]で皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「'''エーラーンとエーラーン外の諸王の王'''」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。
=== 王位継承問題と弱体化 ===
[[File:Tour nagsh-e-rostam iran.jpg|thumb|200px|right|ナクシェ・ロスタムの「ゾロアスターのカアバ」[[:en:Ka'ba-i Zartosht]] と呼ばれる遺跡。建物の用途は不明だが、下部壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語碑文がある]]
シャープール1世の死後、長男[[ホルミズド1世]](ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男[[バハラーム1世]]が即位した。バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていた[[カルティール]](キルデール)が影響力を大幅に拡大した。絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、[[マニ教]]・[[仏教]]・[[キリスト教]]などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖[[マニ (預言者)|マニ]]の処刑に関わっていた。
バハラーム1世の死後、その弟[[ナルセ1世|ナルセ]]と、息子[[バハラーム2世]]との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世には[[ホラーサーン]]の反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセは[[クーデター]]によって王位についた。ナルセ1世はメ[[ソポタミア]]西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。
=== 統治体制の完成 ===
[[File:Julian Campaign 363.png|thumb|280px|right|ローマ皇帝ユリアヌスの東方遠征([[363年]])]]
その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。シャープール2世は[[スサ]]の反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。また前王の死後に領内に侵入していた[[アラブ人]]を撃退し、[[アラビア半島]]奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年に{{仮リンク|クテシフォンの戦い|en|Battle of Ctesiphon (363)|label=クテシフォンの戦い}}で侵攻してきた皇帝[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]を戦死させ、アルメニア支配権を握った。東方のトゥーラーンでは[[フン族]]の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。
対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。
=== 中間期 ===
[[File:Taq-e Bostan - High-relief Shapur II and Shapur III.jpg|thumb|280px|right|[[ターク・イ・ブスタン]]小洞の[[シャープール3世]](左)とその父シャープール2世(右)の像。像の左上、右上に各々の像主についてパフラヴィー語碑文が書かれている]]
[[バハラーム4世]]の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。バハラームの死後、[[ヤズデギルド1世]]が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で[[410年]]に{{仮リンク|セレウキア公会議|en|Council of Seleucia-Ctesiphon}}が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。
ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後[[バハラーム5世]]が即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝・[[東ローマ帝国]][[テオドシウス朝]]間で交渉が持たれたが決裂。[[422年]]に{{仮リンク|ローマ・サーサーン戦争|en|Roman–Sassanid War (421–422)}}に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。
=== エフタルの脅威 ===
[[ファイル:HephthaliteCoin.jpg|thumb|300px|[[インド・エフタル]] {{仮リンク|ナプキ・マルカ|en|Napki Malka}}王(c.475-576)の[[ビロン|貨幣用合金]][[ドラクマ]]]]
[[425年]]に、バハラーム5世の治世に東方から[[エフタル]]の侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。[[428年]]に{{仮リンク|アルサケス朝アルメニア|en|Arsacid dynasty of Armenia}}が滅亡し、{{仮リンク|サーサーン朝アルメニア|en|Persian Armenia}}が成立。
バハラーム5世の跡を継いだ息子の[[ヤズデギルド2世]]は、東ローマ帝国の[[テオドシウス2世]]と紛争([[東ローマ・サーサーン戦争 (440年)]])の後、[[441年]]に[[相互不可侵]]の約定を結んだ。[[443年]]に、{{仮リンク|キダーラ朝|en|Kidarites}}との戦いを始め、[[450年]]に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、[[451年]]にヤズデギルド2世が{{仮リンク|アヴァライルの戦い|en|Battle of Avarayr}}で勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。
ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく[[457年]]に世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドと[[ペーローズ1世]]は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。
[[458年]]にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒む{{仮リンク|マミコニアン家|en|Mamikonian}}の王女が夫Varskenに殺害された。エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、[[イベリア王国]]の王[[ヴァフタング1世]]がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世は{{仮リンク|アードゥル・グシュナースプ|en|Adhur Gushnasp}}を派遣したが、{{仮リンク|ヴァハン・マミコニアン|en|Vahan Mamikonian}}が蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。
ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく[[469年]]にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。[[旱魃]]により財政事情は逼迫、[[484年]]に再度エフタルを攻めたが敗死した({{仮リンク|ヘラートの戦い (484年)|en|Battle of Herat (484)|label=ヘラートの戦い}})。[[485年]]にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアの[[マルズバーン]]に指名される。
488年に、人質に出ていた[[カワード1世]](在位:[[488年]]–[[496年]]、[[498年]]-531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。しかし、[[マズダク教]]の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位([[重祚]])した。同年、[[ネストリウス派]]総主教が{{仮リンク|セレウキア-クテシフォン|en|Al-Mada'in}}に立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。
[[502年]]に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し([[アナスタシア戦争]])、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いが[[:en:Byzantine–Sassanid Wars]](502年–[[628年]])の始まりであった。
[[526年]]に、[[イベリア戦争]](526年–[[532年]])が、東ローマ帝国・{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}連合軍との間で行なわれた。[[530年]]、[[:en:Battle of Dara|Battle of Dara]]、[[:en:Battle of Satala (530)|Battle of Satala]]。531年、[[:en:Battle of Callinicum|Battle of Callinicum]]。
=== 最盛期 ===
カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年-579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも[[聖火]]の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。
一方、東ローマ帝国では[[キリスト教学]]の発展に伴う異教排除が進み、[[529年]]には[[ユスティニアヌス1世]]によって[[アテネ]]の[[アカデミア]]が閉鎖された。ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも[[415年]]に[[ヒュパティア]]が[[キリスト教徒]]により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。この結果、[[ギリシア語]]・[[ラテン語]])の文献が多数翻訳された。
[[File:ChosroesHuntingScene.JPG|thumb|280px|right|ホスロー1世の狩猟図を描いた銀盤]]
ホスロー1世から[[ホスロー2世]]の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『[[アヴェスター]]』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。現存しないが、後の『[[シャー・ナーメ]]』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『{{仮リンク|フワダーイ・ナーマグ|en|Khwaday-Namag}}』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。<ref>ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』(山本啓二 訳)勁草書房, 2002/12/20. </ref>
[[タバリー]]などの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期[[ペルシア語]])訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面の[[サンスクリット]]諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、[[チェス]]がインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語の[[シャトランジ]]の歴史物語『{{仮リンク|シャトランジ解き明かしの書|fa|گزارش شطرنج}}』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣{{仮リンク|ブズルグミフル|en|Bozorgmehr|label=ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン}}({{lang-fa|بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان}}、転写: {{lang|en|Bozorgmehr-e Bokhtagan}})の話である)。
5世紀前後から[[オマーン]]や[[イエメン]]といったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部の{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。
ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。[[ユスティニアヌス王朝|ユスティニアヌス朝]]との間に50年間の休戦を結ぶと、[[558年]]に東方で影響力を拡大するエフタルに対して[[突厥]]西方(現[[イリ]])の[[室点蜜]]と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、[[588年]]の{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。[[569年]]からビザンチンと[[西突厥]]は同盟関係となっていたことから、{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)|en|Byzantine–Sassanid War of 572–591}}を引き起こした。
=== 滅亡 ===
[[File:Persia 600ad.jpg|thumb|280px|right|600年前後のサーサーン朝周辺]]
ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方で{{仮リンク|バフラーム・チョービーン|en|Bahrām Chobin}}の反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は[[簒奪]]された。東ローマの[[マウリキウス]]の援助で反乱を鎮圧したが、[[602年]]に東ローマの[[政変]]でマウリキウスが殺され[[フォカス]]が帝位を[[僭称]]すると、仇討を掲げて[[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)|東ローマ・サーサーン戦争]]を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、[[610年]]にクーデターで[[ヘラクレイオス]]が帝位に即き、[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]を興した。
連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、[[613年]]にはシリアの[[ダマスカス]]、{{仮リンク|アンティオキアの戦い (613年)|en|Battle of Antioch (613)|label=シリア}}、翌[[614年]]には[[聖地]][[エルサレム]]を占領した({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (614年)|en|Siege of Jerusalem (614)|label=エルサレム包囲戦}})。この時エルサレムから「[[聖十字架|真なる十字架]]」を持ち帰ったという。
[[615年]]に{{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt|label=エジプト征服}}が始まり、[[619年]]に{{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}が起こった。[[621年]]にサーサーン朝は[[アエギュプトゥス|エジプト]]全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時は[[コンスタンティノープル]]も包囲し、ヘラクレイオス自身も故地[[カルタゴ]]逃亡を計ろうとした。
しかし、[[622年]]に{{仮リンク|カッパドキアの戦い (622年)|en|Heraclius' campaign of 622|label=カッパドキアの戦い}}でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け[[黒海]]東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。サーサーン朝は[[アヴァール]]と共同でヘラクレイオス不在の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲し、呼応して[[第三次ペルソ・テュルク戦争]]も起こったが、撃退される([[コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|コンスタンティノープル包囲戦]])。
[[627年]]に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス[[親征]]の東ローマ軍に[[ニネヴェの戦い (627年)|ニネヴェの戦い]]で敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子の[[カワード2世]]に裏切られ殺された。
[[File:Cherub plaque Louvre MRR245 n2.jpg|thumb|280px|right|ホスロー2世を屈服させるヘラクレイオス1世。(十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半)]]
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した([[サーサーン内乱 (628年‐632年)|サーサーン内乱]])。長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部における[[チグリス川|ディジュラ]]・[[ユーフラテス川|フラート河]]とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。そこに新興の宗教[[イスラム教]]が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。
アラビア半島に勃興した[[イスラム帝国|イスラム共同体]]は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。[[633年]]に[[ハーリド・イブン=アル=ワリード]]率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻([[イスラーム教徒のペルシア征服]])、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。翌[[634年]]にハーリドが[[シリア]]戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた<ref>後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47</ref>。しかし、同年の[[アブー=バクル]]の死による[[カリフ]]([[正統カリフ]])の[[ウマル・イブン・ハッターブ]]への交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、[[636年]]の[[カーディシーヤの戦い]]で敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。
[[641年]]にヤズデギルド3世は[[レイ (イラン)|ライ]]、{{仮リンク|シャールザー|en|Shahreza|label=クーミス}}、[[エスファハーン]]、[[ハマダーン]]などイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市の[[バスラ]]、[[クーファ]]から軍勢を招集する。
642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも[[643年]]から[[644年]]にかけてイスラム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れ[[ケルマーン]]や[[スィースターン]]へ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンの[[メルヴ]]へ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに[[唐]]の助勢を求め、自らが[[長安]]まで赴いて[[亡命政府]]を設立したが、成功することはなかった。『[[旧唐書]]』には大暦6年(771年)に唐に[[真珠]]を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。
サーサーン朝の滅亡は、[[ムスリム]]にとってはイスラム共同体(帝国)が[[世界帝国]]へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。
== 後世への影響 ==
後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後の[[アッバース朝]]など[[イスラム帝国]]に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーが[[シーア派]]の第3代[[イマーム]]・[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]の妻の一人となり、第4代イマーム・[[アリー・ザイヌルアービディーン]]の生母となった、といったものや[[サファヴィー朝]]の宗祖[[サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー|サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク]]([[1252年|1252/]][[1253年|3年]] - [[1334年]])がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。
特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降も[[カスピ海]]南岸の地域では[[ズィヤール朝]]や[[マーザンダラーン]]の{{仮リンク|バーワンド朝|en|Bavand dynasty|fr|Bawandides|label=バーワンド家}}({{lang|en|Bawandids}}、[[8世紀]]-[[1349年]])などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持った[[ブワイフ朝]]が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降に[[イラン]]方面まで進出したイスラム教の預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の一族である[[ハーシム家]]などの後に[[サイイド]]と呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。
=== 自国史の編纂 ===
[[File:Nushirwan Holds a Banquet for his Minister Buzurgmihr.jpg|thumb|220px|right|公正なるヌーシルラワーンことホスロー1世が大臣ブズルグミフルのために宴席を設ける。([[イルハン朝]]時代の『シャー・ナーメ』の1写本。[[1330年]]作成)]]
サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代の[[ウラマー]]であるタバリーが[[アラビア語]]で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群やマニ教文書、パフラヴィー語による行政文書などの史料群、パフラヴィー語・[[アルメニア語]]・[[シリア語]]・ギリシア語・ラテン語などの年代記・通貨などにより歴史・実態・文化などが研究されている。
パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、古代イラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官([[マギ]])などが口伝で代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代から世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、パフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字の発明によりゾロアスター教文献書籍化の契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代の[[フェルドウスィー]]などが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。
そのため、現在の[[ペルシア人|イラン民族]]にとって、サーサーン朝が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、[[セレウコス朝]]時代・パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的憧憬は[[神話]]時代を除くと[[ペルシア文学]]ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する[[パフラヴィー語|中期ペルシア語]]、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリア・イラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世を題材にした[[ニザーミー]]の『[[ホスローとシーリーン]]』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。
== 文化 ==
サーサーン朝で育まれた行政組織や文化は後の[[イスラム]]時代にも多大な影響を残した。
=== 銀貨 ===
サーサーン朝では、直径3㎝の大型で薄い高純度の銀貨を用いた、1ドラクム銀貨を数多く発行した。図柄は共通しており、片面には王冠をかぶった王の横顔胸像と王名等を示すパフラヴィー語での銘文、片面には拝火檀並びに2名の守衛像と、発行地・発行年を示すパフラヴィー語銘文を記している。
三蔵法師玄奘はペルシャ訪問の機会は無かったが、ペルシャの伝聞情報を得ており、大唐西域記第11巻第20節には、波剌斯国(ペルシャ国)の記録として、「良い馬・駱駝が多く、貨幣は大銀銭を使用する」と記載した。中国の方孔円形銅貨と比べると、サーサーン朝の1ドラクム銀貨は美麗であり巨大である。
著名な貨幣学者マイケル・ミッチナーが編纂した「東洋貨幣とその価値 古代・古典期の世界」には1ドラクム銀貨を中心に、サーサーン朝の貨幣473点を収録しているが、近隣の諸国でもサーサーンに類似した貨幣を多く発行した。サーサーンで発行された[[銀貨]]は、[[ソグド人]]などの[[中央ユーラシア]]社会における高額決済用の[[基軸通貨]]としても尊重された。
=== 手工芸 ===
[[ササンガラス|ガラス器]]や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、[[正倉院]]に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。
=== 料理 ===
ホスロー2世時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後もアッバース朝イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、[[ケバブ]]や[[ブドウ]]の葉の[[ドルマ]]が含まれている<ref>Arthur Christensen. ''Contes persans en langue populaire''. Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918.</ref>。
== 宗教 ==
サーサーン朝時代は、西から[[キリスト教]]([[ネストリウス派]]など)、東から[[仏教]]が伝来。サーサーン朝は[[インド]]、[[クシャーナ朝]]、[[ローマ帝国]]、[[唐]]、[[突厥]]など当時の大国と係わりがあり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、[[ゾロアスター教]]、仏教などの世界宗教を総合する[[マニ教]]が誕生した。
=== ゾロアスター教 ===
{{main|ゾロアスター教}}
サーサーン朝の国教
==== ズルワーン教 ====
{{main|ズルワーン教}}
[[ズルワーン教]]はゾロアスター教に関連する宗教。善と悪は時間の神[[ズルワーン]]から生まれたと説いた<ref name=青木2019p142> [[青木健 (宗教学者)|青木健]]『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)142-144ページ。</ref>。
紀元前4世紀ごろの[[小アジア]]・[[歴史的シリア|シリア]]・[[メソポタミア]]一帯で信仰されていたとみられる。サーサーン朝成立から5世紀にかけて[[ギリシア語]]・[[ラテン語]]・[[アルメニア語]]・[[シリア語]]・[[アラビア語]]などの外国語資料が豊富に残っている。また、マニ教の教祖[[マニ (預言者)|マニ]]も最高神としてズルワーンに言及している。一方9~10世紀にかけてのゾロアスター教パフラヴィー語文献ではズルワーン主義に関する資料が残されておらず、後世に伝わる二元論的なゾロアスター教との関係は分かっていない。ズルワーン教に関しては以下のような説がある<ref name=青木2019p142/>。
* 古代イラン神話の一形態 - [[ヘブライ大学]]教授シャーケードなど
* サーサーン朝初期~中期の保守本流 - [[コパンハーゲン大学]]教授アルトゥール・クリステンセンなど
* ゾロアスター教の異端 - [[メアリー・ボイス]]など
=== マニ教 ===
[[ファイル:Mani Bukhram-Gur.jpg|right|thumb|220px|バハラーム1世に召され、自ら著述した画集教典を王に差し出す「絵師マニ」([[16世紀]]、[[ミール・アリー・シール・ナヴァーイー]]作)]]
{{main|マニ教|マニ (預言者)}}
マニ教は、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの[[シンクレティズム|諸宗教を混合した]][[世界宗教]]。教祖は[[マニ (預言者)|マニ]](216年頃 - 274年?)<ref name=青木2019p144>前掲『新ゾロアスター教史』144-157ページ。</ref>。
マニはアルサケス家の血を引くパルティア人で父と共にユダヤ教系キリスト教のグノーシス主義洗礼教団エルカサイ派に所属していた。24歳の時にエルカサイ派を離脱した彼は、父親や仲間たちと共にメソポタミア・メディア・インドなどを行き巡り、キリスト教・ゾロアスター教・仏教など諸宗教を混合した新興世界宗教(後にマニ教と呼ばれる)を開く。サーサーン家の人物まで改宗させた彼は、シャープール1世にも謁見し、廷臣として取り立てられた。そして自ら聖典を書き記し、教団の組織化と伝道活動に従事した。しかしシャープールの死後、ゾロアスター教神官カルティールが台頭し、マニは処刑されてしまう<ref name=青木2019p144/>。
教祖の死後、マール・スィースィンが跡を継ぎ、アラブ人伝道にも成功するが、彼自身は殺されてしまう。その後、マニ教会の資料はほとんど残されておらず、キリスト教会に地盤を奪われたとみられている<ref name=青木2019p144/>。
=== マズダク教 ===
{{main|マズダク教}}
マズダク教はカワード1世の宰相[[マズダク]]により提唱された宗教。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとしたが、それにより混乱を深めた<ref>前掲『新ゾロアスター教史』178ページ。</ref>。
=== ユダヤ教 ===
{{main|イランのユダヤ人#サーサーン朝}}
=== キリスト教 ===
[[ファイル:Persiansyriansa.JPG|right|thumb|220px|19世紀ペルシアの[[アッシリア人]](ネストリウス派)達]]
サーサーン朝に広まったキリスト教は、ローマ帝国で広がった[[ヘレニズム]]的なキリスト教とは一線を画す[[歴史的シリア|シリア]]系キリスト教であった。彼らは[[イエスが使った言語]]である[[アラム語]]([[シリア語]])を用い、パルティア時代からローマ帝国におけるキリスト教の文化的中心都市[[シャンルウルファ|エデッサ]]を起点に東方との交流を行っていた<ref name=青木2019p157>前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。</ref>。
サーサーン朝にキリスト教が広まるきっかけとなったのは、260年にサーサーン朝がエデッサを占領してからである。またサーサーン朝に捕らえられたローマ兵にもキリスト教徒がおり、彼らを通して国内にキリスト教が広まるようになった。なお、キリスト教徒は一枚岩ではなく、文化的背景によって以下のグループに分かれ、それぞれ緊張関係にあった<ref name=青木2019p157/>。
* クリスティヤーン - ギリシア文化圏のキリスト教徒。ローマ帝国のキリスト教主流派
* ナズラーイ - シリア文化圏のキリスト教徒。
* アーリア人のキリスト教徒
なお、当初のサーサーン朝はローマ帝国で迫害されるキリスト教に好意的で、布教は順調に進んだ。4世紀には[[セレウキア]]-クテシフォンに[[府主教]]座が設けられた<ref name=青木2019p157/>。
313年にローマ帝国での[[ミラノ勅令|キリスト教公認]]が行われると、サーサーン朝はキリスト教の迫害(339年-379年)に転じる。当時は[[アーリア人]]の間でもキリスト教が広まっており、ゾロアスター教を基盤とするサーサーン朝にとって死活問題であった。シャープール2世によって主導された弾圧はキリスト教徒の反乱と多くの殉教者を出した<ref name=青木2019p157/>。
[[File:Church of the East provinces 10 c.svg|thumb|(参考)10世紀における東方教会の教会管区]]
ヤズデギルド1世の代になると、[[東ローマ帝国]]との関係改善のためにキリスト教徒の迫害が停止された。また、教会網が整備され、以下の6大教会が成立した<ref name=青木2019p157/>。
* セレウキア-クテシフォン
* [[ベート・ラパト]]
* [[カーミシュリー|ニシビス]]
* [[プラット・マイシャーン]]
* [[ガウガメラの戦い|アルベラ]]
* [[カルカード・ベート・スローク]]
しかし、ヤズデギルドの治世末期にはキリスト教会との衝突や、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次ぎ、再び迫害策(420年-484年)がとられた。また、ローマ帝国で異端とされた[[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]([[合性論]]派)と[[ネストリウス派]]がサーサーン朝のキリスト教界に入り込み、事態はより複雑化した。5世紀半ばにはクテシフォンの府主教座が非カルケドン派に交代した。また、エデッサを追われたネストリウス派がニシビスに拠点を移した。ネストリウス派はローマ帝国と敵対する別種のキリスト教と解釈され、サーサーン朝と結びつき、クテシフォンの府主教座を獲得した(逆に非カルケドン派の府主教は処刑に追い込まれた)。ネストリウス派はサーサーン朝に公認された唯一のキリスト教として勢力を拡大し、クテシフォンの府主教座は東方[[総主教]]([[カトリコス]])の名称を用いるようになった<ref name=青木2019p157/>。
ネストリウス派はニシビス一帯に[[神学校]]と[[修道院]]を整備したが、修道院制度と禁欲主義は元ゾロアスター教徒のアーリア人キリスト教徒たちにはなじまず、486年にはいったん廃止された。しかし文化的基盤であった修道院をなくすことはキリスト教会の文化的活力を低下させたため、シリア系キリスト教徒から反発を受けた。そのため6世紀には修道院制度が復活し、ネストリウス派神学が確立されていった<ref name=青木2019p157/>。
キリスト教がサーサーン朝の領域に広まった理由として次の理由が挙げられる<ref name=青木2019p157/>。
* 書物文化の発達 - キリスト教会は[[ユダヤ人]]・[[ギリシア人]]の書物文化を受け継いでいたのに対し、ゾロアスター教神官団には碑文以外の書物文化が乏しく、6世紀まではセム系文字の借用に甘んじていた
* 聖典の確立 - シリア語訳『[[外典福音書|ディアテッサロン]]』(2世紀)、[[パフラヴィー語]]訳『[[詩篇|詩編]]』(3~4世紀)、シリア語訳『[[聖書]]』(5世紀)など、キリスト教会は聖典翻訳を積極的に行っていた。特にパフラヴィー語訳『詩編』は新たに発明された書物用の[[パフラヴィー文字]]をもとに書かれており(それまでパフラヴィー文字は碑文用のものしかなかった)、6世紀まで口伝伝承しか持たなかったゾロアスター教神官団を圧倒していた([[#自国史の編纂]]参考)。
* [[ヘレニズム]]の知的遺産 - キリスト教会はギリシア人の学問の成果を受け継いでおり、神学校・修道院でそれらを継承・発展させていった。そのため医者・学者・占星術師など知的職業に占めるキリスト教徒の割合が高くなり、これらの層からも宣教師が輩出された。なお、初期[[イスラム教|イスラム]]文化もキリスト教徒によるヘレニズム文化のシリア語訳に頼っていた。
これらの理由からキリスト教会はゾロアスター教神官団に対して知的優位に立つことができた。ホスロー1世のもとでゾロアスター教に[[ギリシア哲学]]や[[インド哲学]]が取り入れられたり、キリスト教パフレヴィー文字を参考に[[アヴェスター文字]]が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフラヴィー語注釈『ザンド』が書籍化されたのも、キリスト教会に対抗するためであったとされている<ref>前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。</ref>。
== 年表 ==
* [[208年]]:バーバクがパールス地方を統一。サーサーン朝の基礎を起こす。
* 226年:アルダシール1世がパルティア(アルサケス朝)を滅ぼし、イラン・[[イラク]]を統一。
* [[240年]]頃:シャープール1世、[[クシャーナ]]に遠征し、[[ガンダーラ]]を奪う。
* 260年:シャープール1世、エデッサの戦いで[[ローマ軍]]と戦い、ウァレリアヌスを捕える。
* [[350年]]頃:シャープール2世、クシャーナを破り、再度征服。
* 363年:シャープール2世、[[ユリアヌス]]を敗死させる。
* [[409年]]:キリスト教寛容令。
* 425年:エフタルの侵入。
* 428年:[[アルメニア王国]]を廃絶し、サーサーン朝の知事を置く。
* 484年:ペーローズ1世、 エフタルとの戦いで戦死。
* [[540年]]:ホスロー1世、[[アンティオキア]]を占領。
* [[567年]]:ホスロー1世、エフタルを滅ぼす。
* [[575年]]:ホスロー1世、イエメンを占領。
* [[616年]]:ホスロー2世、[[東ローマ帝国|東ローマ]]領の[[歴史的シリア|シリア]]、[[エジプト]]を占領。
* 627年:ニネヴェの戦いで東ローマ・ヘラクレイオス朝のヘラクレイオスに敗れ、クテシフォン近郊への侵攻を許す。
* 628年:ホスロー2世暗殺、息子のカワード2世はヘラクレイオスと和睦、占領地を奪回される。
* [[637年]]:カーディシーヤの戦いでイスラム軍に敗れ、クテシフォンを占領される。
* 642年:ハマダーン近くのニハーヴァンドの戦いで敗北。
* 651年:ヤズデギルド3世が逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。
== 歴代君主 ==
[[File:Sasanids.png|thumb|right|280px|サーサーン朝系図]]
{{main|サーサーン朝の王の一覧}}
歴代君主の称号は全て[[シャー|シャーハンシャー]](諸王の王)である。
# [[アルダシール1世]] (224年-241年)
# [[シャープール1世]] (241年-272年)
# [[ホルミズド1世]] (272年-273年)
# [[バハラーム1世]] (273年-276年)
# [[バハラーム2世]] (276年-293年)
# [[バハラーム3世]] (293年)
# [[ナルセ1世]] (293年-302年)
# [[ホルミズド2世]] (302年-309年)
# [[アードゥルナルセ]] (309年)
# [[シャープール2世]] (309年-379年)
# [[アルダシール2世]] (379年-383年)
# [[シャープール3世]] (383年-388年)
# [[バハラーム4世]] (388年-399年)
# [[ヤズデギルド1世]] (399年-420年)
#* [[シャープール4世]] (420年)
#* [[ホスロー (バハラーム4世の皇子)|ホスロー]] (420年)
# [[バハラーム5世]] (420年-438年)
# [[ヤズデギルド2世]] (438年-457年)
# [[ホルミズド3世]] (457年-459年)
# [[ペーローズ1世]] (459年-484年)
# [[バラーシュ]] (484年-488年)
# [[カワード1世]] (488年-497年、499年-531年)
# [[ジャーマースプ]] (497年-499年)
# [[ホスロー1世]] (531年-579年)
# [[ホルミズド4世]] (579年-590年)
#* {{仮リンク|バフラーム・チョービン|en|Bahram Chobin}} (590年-[[591年]])
# [[ホスロー2世]] (590年-628年)
#* [[ヴィスタム]] (591年-595年)
#* {{仮リンク|ホルミズド5世|en|Farrukh Hormizd}}
# [[カワード2世]] (628年)
# [[アルダシール3世]] (628年-630年)
#* [[シャフルバラーズ]] (630年)
#* [[ホスロー3世]]
# [[ボーラーンドゥフト]] (630年-631年、女帝)
# [[ペーローズ2世]]
# [[ホスロー4世]]
# [[アーザルミードゥフト]] (631年-632年、女帝)
#* [[ホスロー5世]] (632年?-632年?)
#* [[ホルミズド6世]] (632年?-633年?)
# [[ヤズデギルド3世]] (632年-651年)
#* [[ペーローズ3世]] ([[唐 (王朝)|唐]]に亡命)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{commons|category:Sassanids}}
* [[クシャーノ・サーサーン朝]]
* {{仮リンク|ダブワイド朝|en|Dabuyid dynasty|fr|Dabwaïhides}}
* {{ill2|サーサーン朝の城|fa|فهرست قلعههای ساسانی}}
** {{ill2|アノーシャボード?|en|Castle of Oblivion}} - 忘却の城の意。存在が忘却されるべき人々(王室メンバーや政治犯など)が捕らえられ、場所さえも忘却されるべきとされたことから。
{{サーサーン朝君主}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:さあさあんちよう}}
[[Category:サーサーン朝|*]]
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2003-08-27T05:30:17Z
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2023-12-20T07:49:36Z
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マンハッタン計画
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マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、英: Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、戦後の核兵器開発・核実験競争の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。
科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。
なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初は「代用物質開発研究所 (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである。
ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
ルーズベルトは、国立標準局長官リーマン・ブリッグズに命じてS-1ウラン委員会を設け、シラードが提案した問題を検討した。ブリッグズは1939年10月21日にシラード、ユージン・ウィグナーとエドワード・テラーとの初めての会合を開いた。11月1日に、諮問委員会は大統領宛の報告書を作成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始することを報告した。しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のものならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破壊力をもった爆弾になろう」と付け加えた。
ブリッグズは合衆国防衛研究委員会 (NDRC) に対して、ウランと当時発見されたばかりのプルトニウムの研究に16万7000ドルの支出を要求した。しかし当初はルーズベルトは関心を示さず、そのまま委員会は中断した。
1939年6月、イギリスでは、バーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げた。2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構と、ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告の2つのレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。 これにより、1940年5月には、MAUD委員会と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織された。 委員会によって起草された調査報告書は、1941年10月に合衆国政府に伝えられた。それによってアメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示された。
1942年10月、ルーズベルトはアメリカ国防研究委員会 (NDRC) 議長のヴァネヴァー・ブッシュと副大統領ヘンリー・A・ウォレスとのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認した。ルーズベルトはプロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせた。また、ルーズベルトはイギリスとの協力体制についても同意し、10月11日にはイギリスの首相ウィンストン・チャーチルに書簡を送った。
プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。
マンハッタン計画が決まった翌日、グローヴス准将とジョージ・マーシャル大佐は提案されていた土地の調査のため汽車でテネシー州に向かうと、グローヴス准将はその土地に好印象を持った。 1942年2月、グローヴス准将は、ウラン精製工場と計画の司令部を設置するために、テネシー州東部クリンチ川沿いのオークリッジの土地を取得した。取得した土地の面積は56,000エーカー (23,000 ha) に上る。 米陸軍は、原爆製造に必要なウラン精製工場をオークリッジに建設した。 土地の取得費用、350万ドルは、9月29日にアメリカ合衆国陸軍次官のロバート・ポーター・パターソンによって承認された。追加の3,000エーカー (1,200 ha) も後に取得された。 10月7日に発せられた土地の取得によって影響を受けた家族は1,000以上に上る。抗議も懇願も1943年の議会による審問も何の抗力も成さなかった。11月中旬、連邦保安官は農家の家屋のドアにも退去の告知を貼り、建築請負人はここに転居してきた。いくつかの家族は1920年代にグレート・スモーキー山脈国立公園または1930年代にノリス・ダムの建設のために退去し、ここに落ち着き何世代にも受け継がれてきた家と農場からの退去に2週間の猶予を与えられた。1945年3月まで支払いが終わらなかったこの土地の買収価格は、想定価格は1エーカーにつき47ドルであったが合計たった260万ドルであった。オークリッジ全体が軍の許可なく誰も入ることができない排除区域となるという公共布告第2番が発せられた時、テネシー州知事プレンティス・クーパーは怒ってその布告書を破り捨てた。
最初はキングストン・デモリション・レンジと呼ばれていたが、1943年初頭、公式にクリントン・エンジニア・ワークス (CEW) と名付けられた。ストーン・アンド・ウェブスターは製造施設の集約を可能にするため、13,000人もの住宅地域は建築技術会社のスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルにより計画および建設された。この町は後にオーク・リッジと名付けられる元のブラック・オーク・リッジの丘の上に位置していた。1943年8月、マンハッタン技術者地域の長がマーシャルからケネス・ニコルスに替わると軍が占める地域は広がっていった。彼の最初の任務の1つはこの地域の本部をオーク・リッジに移転することであったが、名称は変えなかった。1943年9月、町の施設の管理を、オーク・リッジがあるアンダーソン郡とローン郡によるローン・アンダーソン・カンパニーとして知られる子会社を通してターナー・コンストラクション・カンパニーに外注した。最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名、ローン・アンダーソンに10,000名が雇われた時、最大の75,000名となった。
オークリッジの4つの施設にはX-10、Y-12、K-25、S-50というコードネームを与えられた。X-10サイトは後にオークリッジ国立研究所となり、Y-12サイトはY-12国家安全保障複合施設(en:Y-12 National Security Complex)として現存している。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ(秘密都市)と呼ばれるようになった。
計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロスアラモス(サイト Y、後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。彼を研究所長に、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする、数学の優秀な高校生も集められた。
その他、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。
プルトニウムの生産場所としてオークリッジは不適切であった。オークリッジは人口密集地であるノックスヴィルに近く、予期しない事故が起こった際に市街地へ放射性物質が降り注ぐ危険があったためである。 グローヴズ准将は、建設監督となるデュポン社の民間技術者を雇用し、プルトニウム工場用地を管理する将校と一緒に土地の査定を行わせた。 プルトニウムの生産には多量の水と電気が必要とされるため、ワシントン州南央のコロンビア川沿いの盆地が候補に上がった。1943年1月末に、そこの20万ヘクタールが510万ドルで取得され、ハンフォード技術工場(Hanford Engineer Works: HEW)と名付けられ(後のハンフォード・サイトで米国で最大級の核廃棄物問題の箇所)、サイトWというコードネームが与えられた。工場の建設に当たった労働者は最終的には5000人にのぼる。 陸軍による地主に対しての農作物に対する補償額が争点となり、ハンフォードでの土地の取得計画は難航した。一部の土地は終戦後のマンハッタン計画終了までに完了しなかった。
用地買収の問題はあったものの、工場建設は進められ1943年4月に工場は稼働を開始した。当初そこで働く労働者はおよそ25000人であり、その半数は工場内のバラックに住んでいた。
ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。またデュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画している。
この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル)が投入された。
ウラン鉱石の主な産地は、1940年当時世界で米国コロラド州、カナダ北部、チェコスロバキアのヤーヒモフ、ベルギー領コンゴの4か所しか知られておらず、ヤーヒモフ以外は連合国側にあった。1942年の調査でマンハッタン計画の需要にはとりあえず十分であったが、ベルギー領コンゴカタンガ州シンコロブエ鉱山などを持つユニオン・ミニエール社がニューヨーク州スタテン島に置いているストック(1,100トン)を使う決定をして、また長期的にウラン鉱石供給してもらう独占契約をユニオン・ミニエール社専務のエドガー・サンジエと秘密協定として結んだ。後に、ソビエト連邦も東ドイツにユニオン・ミニエール社が置いていたウラン鉱石のストックを察知して、それを原爆の開発に利用した。
マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、戦略物資として銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて電磁石のコイル用線材に用いた。銀は銅に比べ電気抵抗が少なく、多少なりとも発生磁力向上と消費電力削減に貢献した。
1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやレオ・シラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。
1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティ」が実施された。爆発実験に使用された人類最初の原子爆弾はガジェットというコードネームをつけられ、爆縮レンズを用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。8月9日長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」が同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄製のタワーの上に備え付けられた状態で爆発させた。
ファットマンおよび、8月6日広島に投下されたリトルボーイは、このガジェットと並行して製造された。
米国政府のヘンリー・スティムソン陸軍長官の下に設けられた暫定委員会は6月1日、原爆投下が複合的効果をもたらすよう、標的に無警告で投下すべきであると決議した。7月16日のトリニティ実験から一ヶ月も経たないうちに、日本に原子爆弾が投下された。原子爆弾は、8月6日に日本の広島に投下され(リトルボーイ)、さらに8月9日に長崎に投下された(ファットマン)。
1945年10月までのマンハッタン計画の費用は、18億4500万ドルであり、1947年1月1日のAECの試算によると21億9100万ドルだった。資金の90%以上がプラント建設と核分裂物質の生産のために使われ、兵器の開発と生産には費用の10%以下しか使われなかった。
1945年までにマンハッタン計画によって開発された4つの原子爆弾(トリニティ実験のガジェット、リトルボーイ、ファットマンと使用されなかった1つ)の、1つあたりの平均製造費用は5億ドル(当時の貨幣価値)である。 しかし、マンハッタン計画の1945年までの総費用は、同時期の合衆国の小火器生産額との比較では90%、戦車の生産費の34%でしかない。
比喩表現としての「マンハッタン計画」という言葉がある。「規模は壮大だがろくな結果にならない(ならなかった)もの」のことの例えとして、しばしば使われる。2008年のリーマン・ショックに際し、金融商品製作ソフトの元開発者マイク・オシンスキーが、サブプライムローンの破綻に代表される一連の惨劇の要因の一つだとして、自らの行いをこう表現した。
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"text": "比喩表現としての「マンハッタン計画」という言葉がある。「規模は壮大だがろくな結果にならない(ならなかった)もの」のことの例えとして、しばしば使われる。2008年のリーマン・ショックに際し、金融商品製作ソフトの元開発者マイク・オシンスキーが、サブプライムローンの破綻に代表される一連の惨劇の要因の一つだとして、自らの行いをこう表現した。",
"title": "文化的影響"
}
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マンハッタン計画は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、戦後の核兵器開発・核実験競争の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。 科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。 なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初は「代用物質開発研究所」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである。
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{{Expand English|Manhattan Project|date=2021年3月|fa=yes}}
[[Image:Trinity shot color.jpg|right|thumb|[[トリニティ実験]]の写真]]
'''マンハッタン計画'''(マンハッタンけいかく、{{lang-en-short|Manhattan Project}})は、[[第二次世界大戦]]中、[[ナチス・ドイツ]]などの一部[[枢軸国]]の[[原子爆弾]]開発に焦った[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]が原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、[[1945年]][[7月16日]]世界で初めて[[核実験|原爆実験]]を実施した。さらに、[[広島市への原子爆弾投下|広島]]に同年[[8月6日]]・[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]に[[8月9日]]に投下、合計数十万人が犠牲になり、戦後の[[核兵器]]開発・核実験競争の[[冷戦]]構造を生み出すきっかけともなった。
科学部門のリーダーは[[ロバート・オッペンハイマー]]があたった。大規模な計画を効率的に運営するために[[経営工学|管理工学]]が使用された。
なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・[[マンハッタン]]に置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初は「代用物質開発研究所 (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)[[レズリー・グローヴス]]が、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである<ref>{{cite book
| author= Norris, Robert S
| title= Racing for the Bomb: General Leslie R. Groves, the Manhattan Project's Indispensable Man
| year= 2002
| publisher= Steerforth
| isbn= 978-1-58642-039-0
| pages= p.170
}}</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|マンハッタン計画の年表|核兵器の歴史}}
=== 背景 ===
{{Main|アインシュタイン=シラードの手紙}}
[[ナチス・ドイツ]]が先に核兵器を保有することを恐れた亡命[[ユダヤ人]]物理学者[[レオ・シラード]]らが、1939年、同じ亡命ユダヤ人の[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の署名を借りて[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。この「進言」では[[連鎖反応 (核分裂)|核連鎖反応]]が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった<ref>{{Cite book|和書
|last=アシモフ
|first=アイザック
|authorlink=アイザック・アシモフ
|others=住田健二訳
|origdate=1991年8月20日
|title=原子核エネルギーの話
|publisher=東海大学出版会
|isbn=4486008715
|edition=第5版
|pages=pp.151-155
}}</ref>。
ルーズベルトは、国立標準局長官リーマン・ブリッグズに命じて[[S-1ウラン委員会]]を設け、シラードが提案した問題を検討した。ブリッグズは1939年10月21日にシラード、[[ユージン・ウィグナー]]と[[エドワード・テラー]]との初めての会合を開いた<ref>ローズ(上)p.555</ref>。11月1日に、諮問委員会は大統領宛の報告書を作成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始することを報告した。しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のものならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破壊力をもった爆弾になろう」<ref name="名前なし-1">ローズ(上), p.559</ref>と付け加えた。
ブリッグズは[[合衆国防衛研究委員会]] (NDRC) に対して、ウランと当時発見されたばかりのプルトニウムの研究に16万7000ドルの支出を要求した。しかし当初はルーズベルトは関心を示さず、そのまま委員会は中断した<ref name="名前なし-1"/>。
1939年6月、イギリスでは、バーミンガム大学のユダヤ系物理学学者[[オットー・フリッシュ]]と[[ルドルフ・パイエルス]]が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げた。2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構と、ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告の2つのレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任の[[マーク・オリファント]]を通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。
これにより、1940年5月には、[[MAUD委員会]]と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織された<ref>ローズ(上), p.579-581</ref>。
委員会によって起草された調査報告書は、1941年10月に合衆国政府に伝えられた。それによってアメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示された。
=== 着手 ===
[[Image:Groves Oppenheimer.jpg|thumb|240px|グローヴス(左)とオッペンハイマー]]
[[1942年]]10月、ルーズベルトはアメリカ[[国防研究委員会]] (NDRC) 議長の[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]と副大統領[[ヘンリー・A・ウォレス]]とのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認した。ルーズベルトはプロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせた。また、ルーズベルトはイギリスとの協力体制についても同意し、10月11日にはイギリスの首相[[ウィンストン・チャーチル]]に書簡を送った。
プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者は[[レズリー・グローヴス|レズリー・リチャード・グローヴス]]准将が1942年9月に着任した。
== プロジェクトの場所 ==
<imagemap>
Image:Manhattan Project US Canada Map 2.svg|thumb|700px|center|北米でマンハッタン計画において重要な役割を果たした場所。|alt=アメリカ合衆国と南カナダの地図。マンハッタン計画で重要な役割を果たした場所に印がある。
circle 50 280 20 [[Lawrence Berkeley National Laboratory|Berkeley, California]]
circle 140 400 20 [[Naval Air Weapons Station China Lake|Inyokern, California]]
circle 170 100 20 [[Hanford Site|Richland, Washington]]
circle 220 20 20 [[Trail, British Columbia]]
circle 230 270 20 [[Wendover Air Force Base|Wendover, Utah]]
circle 290 360 20 [[Monticello, Utah]]
circle 320 360 20 [[Uravan, Colorado]]
circle 340 440 20 [[Los Alamos National Laboratory|Los Alamos, New Mexico]]
circle 340 500 20 [[Trinity test|Alamogordo, New Mexico]]
circle 610 290 20 [[Ames Laboratory|Ames, Iowa]]
circle 660 400 20 [[Mallinckrodt Incorporated|St Louis, Missouri]]
circle 710 310 20 [[Argonne National Laboratory|Chicago, Illinois]]
circle 730 370 20 [[Newport Chemical Depot|Dana, Indiana]]
circle 800 350 20 [[Dayton Project|Dayton, Ohio]]
circle 760 540 20 [[Alabama Army Ammunition Plant|Sylacauga, Alabama]]
circle 890 390 20 [[Morgantown, West Virginia]]
circle 800 460 20 [[Oak Ridge, Tennessee]]
circle 910 160 20 [[Chalk River Laboratories]]
circle 920 260 20 [[Rochester, New York]]
circle 950 360 20 [[Washington, D.C.]]
desc none
</imagemap>
=== オークリッジ ===
[[File:Y-12 Shift Change.jpg|thumb|right|300px|オークリッジに置かれたY-12電磁的ウラン濃縮施設のシフト交代。1945年5月には、82000人の労働者がクリントン・エンジニア・ワークスで雇われていた<ref name="Johnson & Jackson pp. 168–169">{{harvnb|Johnson|Jackson|1981|pp=168–169}}</ref>|alt=]]
マンハッタン計画が決まった翌日、グローヴス准将と[[ジョージ・マーシャル]]大佐は提案されていた土地の調査のため汽車で[[テネシー州]]に向かうと、グローヴス准将はその土地に好印象を持った<ref>{{harvnb|Hewlett|Anderson|1962|pp=116–117}}.</ref><ref>{{harvnb|Groves|1962|pp=25–26}}.</ref>。
1942年2月、グローヴス准将は、ウラン精製工場と計画の[[アメリカ陸軍工兵司令部|司令部]]を設置するために、テネシー州東部クリンチ川沿いの[[オーク・リッジ (テネシー州)|オークリッジ]]の土地を取得した。取得した土地の面積は{{convert|56000|acre|ha}} に上る<ref>ローズ(下), p.155</ref>。
米陸軍は、原爆製造に必要なウラン精製工場をオークリッジに建設した。
土地の取得費用、350万ドルは、9月29日にアメリカ合衆国陸軍次官の[[ロバート・ポーター・パターソン]]によって承認された。追加の{{convert|3000|acre|ha}} も後に取得された。
10月7日に発せられた土地の取得によって影響を受けた家族は1,000以上に上る<ref>{{harvnb|Jones|1985|p=78}}.</ref>。抗議も懇願も1943年の議会による審問も何の抗力も成さなかった<ref name="Johnson & Jackson, pp. 39-43">{{harvnb|Johnson|Jackson|1981|pp=39–43}}.</ref>。11月中旬、[[連邦保安官]]は農家の家屋のドアにも退去の告知を貼り、建築請負人はここに転居してきた<ref name="Fine&Remington, pp. 663-664">{{harvnb|Fine|Remington|1972|pp=663–664}}.</ref>。いくつかの家族は1920年代に[[グレート・スモーキー山脈国立公園]]または1930年代に[[ノリス・ダム]]の建設のために退去し、ここに落ち着き何世代にも受け継がれてきた家と農場からの退去に2週間の猶予を与えられた<ref>{{cite web |title=Oak Ridge National Laboratory Review, Vol. 25, Nos. 3 and 4, 2002 |url=http://www.ornl.gov/info/ornlreview/rev25-34/chapter1.shtml |publisher=ornl.gov |accessdate=9 March 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090825162412/http://www.ornl.gov/info/ornlreview/rev25-34/chapter1.shtml |archivedate=2009年8月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。1945年3月まで支払いが終わらなかったこの土地の買収価格は、想定価格は1エーカーにつき47ドルであったが合計たった260万ドルであった<ref>{{harvnb|Jones|1985|pp=327–328}}.</ref>。オークリッジ全体が軍の許可なく誰も入ることができない排除区域となるという公共布告第2番が発せられた時、テネシー州知事[[プレンティス・クーパー]]は怒ってその布告書を破り捨てた<ref>{{harvnb|Johnson|Jackson|1981|p=49}}.</ref>。
最初はキングストン・デモリション・レンジと呼ばれていたが、1943年初頭、公式に[[クリントン・エンジニア・ワークス]] (CEW) と名付けられた。ストーン・アンド・ウェブスターは製造施設の集約を可能にするため、13,000人もの住宅地域は建築技術会社の[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]]により計画および建設された。この町は後にオーク・リッジと名付けられる元のブラック・オーク・リッジの丘の上に位置していた<ref>{{harvnb|Johnson|Jackson|1981|pp=14–17}}.</ref>。1943年8月、マンハッタン技術者地域の長がマーシャルから[[ケネス・ニコルス]]に替わると軍が占める地域は広がっていった。彼の最初の任務の1つはこの地域の本部をオーク・リッジに移転することであったが、名称は変えなかった<ref>{{harvnb|Jones|1985|p=88}}.</ref>。1943年9月、町の施設の管理を、オーク・リッジがあるアンダーソン郡とローン郡によるローン・アンダーソン・カンパニーとして知られる子会社を通して[[ターナー・コンストラクション・カンパニー]]に外注した<ref name="Roane-Anderson">{{harvnb|Jones|1985|pp=443–446}}.</ref>。最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名<ref name="Johnson & Jackson pp. 168–169"/>、ローン・アンダーソンに10,000名<ref name="Roane-Anderson" />が雇われた時、最大の75,000名となった。
オークリッジの4つの施設にはX-10、Y-12、K-25、S-50というコードネームを与えられた。X-10サイトは後に[[オークリッジ国立研究所]]となり、Y-12サイトはY-12国家安全保障複合施設([[:en:Y-12 National Security Complex]])として現存している。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ([[閉鎖都市|秘密都市]])と呼ばれるようになった。
=== ロスアラモス ===
計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者の[[ロバート・オッペンハイマー]]である。オッペンハイマーの提案で研究所は[[ニューメキシコ州]][[ロスアラモス]](サイト Y、後の[[ロスアラモス国立研究所]])に置かれることが1942年11月に決定した。彼を研究所長に、[[ニールス・ボーア]]、[[エンリコ・フェルミ]]、[[ジョン・フォン・ノイマン]]([[爆縮レンズ]]の計算担当)、[[オットー・フリッシュ]]、[[エミリオ・セグレ]]、[[ハンス・ベーテ]]、[[エドワード・テラー]]、[[スタニスワフ・ウラム]]など著名な科学者のほか、[[リチャード・P・ファインマン|リチャード・ファインマン]]など若手の研究者や[[ハーバード大学]]や[[カリフォルニア大学]]など名門校の学生などが集められた。当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする、数学の優秀な高校生も集められた。
その他、[[アーサー・コンプトン]]、[[レオ・シラード]]、[[アーネスト・ローレンス]]、[[ジョン・ホイーラー]]、[[グレン・シーボーグ]]などが協力した。
=== ハンフォード ===
<!---->
プルトニウムの生産場所としてオークリッジは不適切であった。オークリッジは人口密集地であるノックスヴィルに近く、予期しない事故が起こった際に市街地へ放射性物質が降り注ぐ危険があったためである<ref>ローズ(下), p171</ref>。
グローヴズ准将は、建設監督となるデュポン社の民間技術者を雇用し、プルトニウム工場用地を管理する将校と一緒に土地の査定を行わせた。
プルトニウムの生産には多量の水と電気が必要とされるため、ワシントン州南央のコロンビア川沿いの盆地が候補に上がった。1943年1月末に、そこの20万ヘクタールが510万ドルで取得され、ハンフォード技術工場(Hanford Engineer Works: HEW)と名付けられ(後の[[ハンフォード・サイト]]で米国で最大級の核廃棄物問題の箇所<ref>[https://web.archive.org/web/20090613180824/http://yosemite.epa.gov/r10/cleanup.nsf/7780249be8f251538825650f0070bd8b/2f133ac95a7d2684882564ff0078b367?OpenDocument ワシントン州ハンフォード (アメリカ合衆国環境保護庁)] (英語)</ref>)、サイトWというコードネームが与えられた<ref>ローズ(下), p172-173</ref>。工場の建設に当たった労働者は最終的には5000人にのぼる。
陸軍による地主に対しての農作物に対する補償額が争点となり、ハンフォードでの土地の取得計画は難航した<ref>資料・大月書店、p700</ref>。一部の土地は終戦後のマンハッタン計画終了までに完了しなかった。
用地買収の問題はあったものの、工場建設は進められ1943年4月に工場は稼働を開始した。当初そこで働く労働者はおよそ25000人であり、その半数は工場内のバラックに住んでいた。
;計画に参加した組織等
ロスアラモスの他にも[[シカゴ大学]][[冶金研究所]]や[[カリフォルニア大学バークレー校]]など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、米国以外では[[カナダ]]の[[モントリオール大学]]が計画に参加している。また[[デュポン]]、[[ゼネラル・エレクトリック]]、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]など民間の大企業も参画している。
この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]])が投入された。
==ウラン鉱石==
{{See|ベルギー領コンゴ#マンハッタン計画と秘密協定|ウラン#産出}}
[[ウラン鉱石]]の主な産地は、1940年当時世界で米国[[コロラド州]]、カナダ北部、[[チェコスロバキア]]の[[ヤーヒモフ]]、[[ベルギー領コンゴ]]の4か所しか知られておらず、ヤーヒモフ以外は[[連合国]]側にあった。1942年の調査でマンハッタン計画の需要にはとりあえず十分であったが、ベルギー領コンゴ[[カタンガ州]][[シンコロブエ鉱山]]などを持つ[[ユニオン・ミニエール]]社が[[ニューヨーク州]][[スタテン島]]に置いているストック(1,100トン)を使う決定をして、また長期的にウラン鉱石供給してもらう独占契約をユニオン・ミニエール社専務の[[エドガー・サンジエ]]と秘密協定として結んだ。後に、[[ソビエト連邦]]も[[東ドイツ]]にユニオン・ミニエール社が置いていたウラン鉱石のストックを察知して、それを原爆の開発に利用した。<ref>[https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pGRqPPg6mQ/ NHKスペシャル:原子爆弾・秘録 ~謎の商人とウラン争奪戦~(2023年放映)]</ref>
== 開発 ==
マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、[[戦略物資]]として銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて[[電磁石]]の[[コイル]]用線材に用いた。銀は銅に比べ[[電気抵抗]]が少なく、多少なりとも発生磁力向上と消費電力削減に貢献した。
=== フランクレポート ===
{{Main|フランクレポート}}
1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、[[ジェイムス・フランク]]やレオ・シラードらは、[[フランクレポート]]の提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。
=== トリニティ実験 ===
{{Main|トリニティ実験}}
[[1945年]][[7月16日]]、アメリカの[[ニューメキシコ州]][[ソコロ]]の南東48kmの地点にある[[アラモゴード]]砂漠の[[ホワイトサンズ射爆場]]において人類史上初の[[核実験]]「[[トリニティ実験|トリニティ]]」が実施された。爆発実験に使用された人類最初の[[原子爆弾]]は[[ガジェット (爆弾)|ガジェット]]という[[コードネーム]]をつけられ、[[爆縮レンズ]]を用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。8月9日[[長崎市|長崎]]に投下された原子爆弾「[[ファットマン]]」が同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄製のタワーの上に備え付けられた状態で爆発させた。
ファットマンおよび、8月6日[[広島市|広島]]に投下された[[リトルボーイ]]は、このガジェットと並行して製造された。
== 原爆投下 ==
{{Main|日本への原子爆弾投下}}
{{seealso|広島市への原子爆弾投下|長崎市への原子爆弾投下}}
[[米国]]政府の[[ヘンリー・スティムソン]][[陸軍長官]]の下に設けられた[[暫定委員会]]は6月1日、原爆投下が複合的効果をもたらすよう、標的に無警告で投下すべきであると決議した。[[7月16日]]の[[トリニティ実験]]から一ヶ月も経たないうちに、日本に原子爆弾が投下された。原子爆弾は、[[8月6日]]に日本の[[広島市への原子爆弾投下|広島に投下]]され([[リトルボーイ]])、さらに[[8月9日]]に[[長崎市への原子爆弾投下|長崎に投下]]された([[ファットマン]])。
== 費用 ==
{| class="wikitable" style="float:right; margin-top:0; margin-left:1em; font-size:9pt; line-height:10pt; width:30%;"
|+ style="margin-bottom: 5px;" | マンハッタン計画の費用。1945年12月31日まで<ref name="Schwartz">{{harvnb|Schwartz|1998}}.</ref>
! 場所
! 費用 (1945年(米ドル))
! 費用 (2011年現在の貨幣価値換算(米ドル))
|-
| オークリッジ
| align=right| 1,188,352,000ドル
| align=right| 145億ドル
|-
| ハンフォード
| align=right| 390,124,000ドル
| align=right| 47.6億ドル
|-
| 特別作戦物資
| align=right|103,369,000ドル
| align=right|12.6億ドル
|-
| ロスアラモス
| align=right|$74,055,000
| align=right|9億ドル
|-
| 研究開発
| align=right|69,681,000ドル
| align=right|8.5億ドル
|-
| 管理
| align=right|37,255,000ドル
| align=right|4.5億ドル
|-
| 重水炉
| align=right|26,768,000ドル
| align=right|3.27億ドル
|-
| '''計'''
| align=right|'''1,889,604,000ドル'''
| align=right|'''230億ドル'''
|}
1945年10月までのマンハッタン計画の費用は、18億4500万ドルであり、1947年1月1日のAECの試算によると21億9100万ドルだった。資金の90%以上がプラント建設と核分裂物質の生産のために使われ、兵器の開発と生産には費用の10%以下しか使われなかった<ref>{{harvnb|Nichols|1987|pp=34–35}}.</ref>。
1945年までにマンハッタン計画によって開発された4つの原子爆弾(トリニティ実験のガジェット、リトルボーイ、ファットマンと使用されなかった1つ)の、1つあたりの平均製造費用は5億ドル(当時の貨幣価値)である。
しかし、マンハッタン計画の1945年までの総費用は、同時期の合衆国の小火器生産額との比較では90%、戦車の生産費の34%<ref name="Schwartz"/>でしかない。
== 文化的影響 ==
[[比喩]]表現としての「マンハッタン計画」という言葉がある。「規模は壮大だがろくな結果にならない(ならなかった)もの」のことの例えとして、しばしば{{要出典|date=2013年3月}}使われる。2008年の[[リーマン・ショック]]に際し、[[金融商品]]製作[[ソフトウェア|ソフト]]の元開発者マイク・オシンスキーが、[[サブプライムローン]]の破綻に代表される一連の惨劇の要因の一つだとして、自らの行いをこう表現した<ref>『NHKスペシャル [[マネー資本主義]]』(2009)による。</ref>。
== 扱った作品 ==
;映画
*[[シャドー・メーカーズ]] (Fat Man and Little Boy、アメリカ、1989年) - [[ポール・ニューマン]]出演の創作を交えた劇場公開用映画。[[ベルリン国際映画祭]]ノミネート。公開後すぐに打ち切られた<ref>2013年8月6日付朝日新聞の別刷り特集より</ref> 。
*デイ・ワン (Day One、アメリカ、1989年) - 史実に沿って作られたテレビ映画。[[エミー賞]](ドラマ部門最優秀作品賞)受賞。
*デイ・アフター・トリニティー (The Day after Trinity、アメリカ、1980年) - マンハッタン計画とロバート・オッペンハイマーの半生を綴ったドキュメンタリー映画。1980年[[アカデミー賞]]、ベスト・ドキュメンタリー映画部門に入選。
<!--*2. 1939年、[[レオ・シラード]]と[[エンリコ・フェルミ]]は、コロンビア大学で米国初のウラニウムを使用した核分裂実験に成功した。実験が行われたPupin Hall(物理学部の校舎)は、合衆国歴史的建造物に指定されている。-->
;TV番組
* ドキュメンタリー「失われた世界の謎」シリーズ([[ヒストリー・チャンネル]])
** 第9回「極秘の核施設」
** 第21回「秘密の原爆工場」
* ドキュメンタリー「[[フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿]]」([[NHK BSプレミアム]])
** 第2回「原爆誕生 科学者たちの“罪と罰”」
;展覧会
* Secret cities: The Architecture and planning of the Manhattan Project - 国立建物博物館([[:en:National Building Museum]])、[[ワシントンD.C.]]、2018.5.3-2019.3.3<ref>[https://www.nbm.org/exhibition/secret-cities/ Secret Cities The Architecture and Planning of the Manhattan Project]National Building Museum</ref>
;文献
* 「[[この計画はひみつです]]」(THE SECRET PROJECT、アメリカ、2017年)、児童向け(日本語訳、[[鈴木出版]])
* ジェームズ・L・ノーランJr『原爆投下、米国人医師は何を見たか』藤沢町子訳、[[原書房]]、2022年
;音楽
* [[ラッシュ (カナダのバンド)|ラッシュ]]「Manhattan Project」(1985年、アルバム『[[パワー・ウィンドウズ (ラッシュのアルバム)|Power Windows]]』収録曲)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Manhattan Project}}
* [[マンハッタンプロジェクトにおけるイギリスの寄与]]([[:en:British contribution to the Manhattan Project|British contribution to the Manhattan Project]])
* [[カナダとマンハッタンプロジェクト]]([[:en:Canada and the Manhattan Project|Canada and the Manhattan Project]])
* [[アメリカ原子力委員会]]
* [[風船爆弾#戦果]]、[[アメリカ本土空襲#被害]]
* [[ソビエト連邦の原子爆弾開発]]([[:en:Soviet atomic bomb project|Soviet atomic bomb project]])、[[ベノナ|ヴェノナ・プロジェクト]]
* [[ドイツの原子爆弾開発]]
* [[日本の原子爆弾開発]]
* [[チューブ・アロイズ]](英国の原爆開発計画)
* [[スウェーデンの原子爆弾開発]]
* [[イランの核開発計画]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book |last=Johnson |first=Charles |last2=Jackson |first2=Charles |title= City Behind a Fence: Oak Ridge, Tennessee, 1942–1946 |location=Knoxville|publisher=University of Tennessee Press |year=1981 |isbn=0-87049-303-5|oclc= 6331350 |ref=harv }}
*Bruce Cameron Reed. The Physics of the Manhattan Project, 2014, Springer.
**『マンハッタン計画の科学と歴史』今野廣一訳、丸善プラネット、2018年
*Richard Rhodes, ''The Making of the Atomic Bomb'', 1987, Simon & Schuster.
** リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』神沼二真、渋谷泰一訳(上・下) [[啓学出版]]、1993年/[[紀伊國屋書店]]、1995年。ISBN 4314007109(上巻)、ISBN 4314007117(下巻)
*『資料 マンハッタン計画』 山極晃、立花誠逸 編、岡田良之助 訳、[[大月書店]]、1993年 ISBN 4-272-52026-1
* Denise Kiernan "The Girls of Atomic City: The Untold Story of the Women Who Helped Win World War II" , Touchstone, 2013
== 外部リンク ==
*[http://www.mbe.doe.gov/me70/manhattan/index.htm The Manhattan Project An Interactive History] - [[アメリカ合衆国エネルギー省]]のサイト
*[http://www.nytimes.com/2007/10/30/science/30manh.html/ The Manhattan Project] - 名前の由来に関する新説を紹介した[[ニューヨーク・タイムズ]]の記事
*[http://www.youtube.com/watch?v=mKYxj6n4xho The Girls of Atomic City] - 当時のオークリッジの写真を含む解説動画
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アヘン
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アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシ(芥子、opium poppy)の実から採取される果汁を乾燥させたもので、麻薬の一種である。
ケシの実から採取されるアルカロイドはオピエートと呼ばれ、そこから合成されるものがオピオイドである。麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートやオピオイドを指す。
ケシから採取されたアルカロイドや、そこから合成される化合物は、鎮痛、陶酔といった作用があり、また高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす。このようなアルカロイドや、合成化合物には、モルヒネ、ヘロイン、コデイン、オキシコドンを含む。
アヘンの名の由来は、英語名opiumの中国語の音訳である阿片(拼音: a piàn アーピエン)を音読みしたものである。明代の中国、江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。
ケシの実の汁は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきた。しかし同時に習慣性や、濫用による健康被害など、麻薬としての特性があり、アヘン戦争を引き起こすなど、重大な害悪も引き起こした。
現在では、1912年のハーグ阿片条約、これを引き継ぐ1961年の麻薬に関する単一条約において国際統制下にある。日本でもあへん法によって規制されている。
アヘンを収穫する伝統的な方法としては「ヘラ掻き」がある。ケシの開花後、10 - 20日経って花弁の落ちた未熟果(いわゆるケシ坊主)の表皮に、朝のうち浅い切り込みを入れると、乳液状の物質が分泌する。これを夕方掻き採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形物になる。こうして集められたのが生アヘンで、約10%ほどのモルヒネなどの多くのアルカロイド類(アヘンアルカロイド)を含む。
ヘラ掻きによるアヘンの採取は人手や手間がかなりかかる。そのわりに得られる量はごく僅か(1kgのアヘンを得るのに、ケシの実が約2000本も必要)である。貧しい農民が栽培に従事するアフガニスタンなど非合法栽培地域では現在も行われているが、合法的栽培においては、現在は有機溶媒で茎も含む全体を処理して化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が主流である。
作ったアヘンは産地で薬研で粉末にし、ブリキ缶に入れ、製品として出荷する。精製しなくても薬効があるために、極めて古くからそのまま吸引されてきた。しかし生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るため、そのままでの麻薬としての商品価値はかなり低い。価値を高めるにはさらに煮出して乾燥させるなど精製し、及び化学的に加工して、モルヒネやヘロインに加工する必要がある。精製すると量がアヘンのときの 20 - 25% までに減る。
以前は、東南アジアのタイ・ラオス・ミャンマーに跨る「黄金の三角地帯」で多く生産されていたが、抑制対策が功を奏してその地帯でのケシ栽培は大きく減少した。2009年の国連薬物犯罪事務所の報告によれば、アヘンの94%はアフガニスタンで生産されている。2010年にはケシの病害により生産量が減少、アヘンの農場出荷額が$64/kg から$169/kgへと高騰した。
2011年10月、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外務大臣は、「アフガニスタンのアヘン畑を一掃することにアメリカが消極的であることに驚きを禁じえない」と述べ、アフガニスタンでのアメリカのアヘン問題への態度を批判した。
アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中央アルプスにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた。メトロポリタン美術館にある、アッシュールナツィルパル2世の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣は、美術館はザクロと解説しているもののケシの未熟果の束を運んでいる。
紀元前300年頃のギリシャの哲学者であるテオプラストスの著書に、アヘンについての記述を見ることができる。ギリシャ神話では、アヘンの発見者は女神デメテルとされている。ローマ帝国ネロ帝時代の医師ディオスコリデスは、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだものである。古代ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、西ローマ帝国の滅亡により、一時廃ることとなった。
5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。シルクロードを通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘がある。
11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。
大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われた。
清国では、上海など都市の河沿い地域に使用者が多く、当初は運搬船の停泊船内や宿場などで煙草に混ぜて吸入されていた。19世紀、このアヘンの蔓延に危機感をつのらせた清国がイギリス商人のアヘンを焼却(中国語版)したことが、イギリスと清国の間で、アヘン戦争(1840年-)の引き金となった。しかし、この紛争後もアヘン流入量が縮小されず、市中では次第に半固形の阿片膏を煙管(キセル)に入れて吸入するようになっていた。この携行しやすい阿片膏によって、より清国内の広域へアヘンが浸透、アヘン窟も伝播した。20世紀初頭の清末には、清国の上流層にもアヘンが一部流れていたとされており、清滅亡後の1930年代においても、煙管など吸引用品の取扱店や「大煙」と看板を掲げた煙館など、アヘン関係の店が各地でみられた。
ヨーロッパにおいては、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴い19世紀には反アヘン運動が高まった。また、アメリカ・カナダへの中国人労働者の流入ともに、特にサンフランシスコをはじめとする地域でアヘン窟がみられるようになり、1875年に至り反ドラッグ法制定など対策が行われた。
20世紀初頭から、国際間におけるアヘンの統制が始まる。1912年にはハーグ阿片条約が調印され、アヘン貿易が制限された。1920年に国際連盟が成立してからは、連盟が統制に関する職務を負い、国際機関が設置された。1926年の第一・第二阿片会議条約では、アヘンの使用等に関しても統制され、1928年の麻薬製造制限条約においてアヘン貿易は完全に禁止された。国際連合に移行後も、同様の統制体制が持続し、現行の1961年の麻薬に関する単一条約においてもアヘンは統制されている。
文献に見える古い記録では、梶原性全(かじわらしょうぜん:1265 - 1337)『頓医抄』の中にすでに「罌粟」の用語が見られる。くだって室町時代には、南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある。その後江戸時代を通じて現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培されたが、いずれも少量で高価であり、用途としても麻酔などの医療用や投獄者への自白剤などに限られていた。寺島良安『和漢三才図会』(1713年頃)巻百三には「阿片」や他の生薬、辰砂などと調合した「一粒金丹」なる丸薬が止瀉薬として紹介されている。この処方箋は備前岡山藩藩医木村玄石の手によるといい、これが元禄2年(1689年)弘前藩藩医和田玄良に秘薬として伝わった。藩医の和田玄春による寛政11年(1799年)の効能書には鎮痛や強壮が謳われている。この薬の評判はすぐに江戸にまで及び、歌舞伎『富岡恋山開』には「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝手を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞が残されるまでとなり、江戸市中で売られていたようである。天保8年(1837年)摂津道修町の薬問屋奉公の太田四郎兵衛が種子を持ち帰って栽培し、はじめてアヘンの製造に成功したとの記述もみえる。
一方、16世紀半ばの明朝末期に、イギリスの三角貿易によりインドから大量のアヘンが中国内に流通し始め、やがて明が滅び清となった中国からは、長崎貿易を通じて吸煙用途の安価なアヘン(煙膏)や生アヘンが知られるようになった。日本は鎖国はしていたが、海外の情報はオランダ風説書によって得ていた。
19世紀に入るとオランダ以外の欧米諸国も日本にも執拗に開国を迫り出してきており、江戸幕府は対応に苦慮していた。1839年(天保10年)にアヘン戦争が始まると、オランダはそれまでの風説書とは別に、詳細な別段風説書としての報告書「阿片招禍録」を作成して欧米が関わる動乱を詳細に報告を始めた。その3年後、明に続く大国と認識していた清がイギリスに大敗したことは幕政を大いに揺るがし、同年に異国船打払令を取り消した。このためアヘンに関しては日本も清の後追いになる危険もあったが、佐久間象山らによって魏源『聖武記』『海国図志』などが熱心に研究され(斎藤竹堂『鴉片始末』など)、鎖国を解いた4年後の安政5年(1858年)に安政五カ国条約締結に至り、このいずれの国からもアヘンの輸入を禁制とする条文が記載された。
なお、国内では1822年から国内に散発していたコレラがこの年に江戸でも大流行し、蘭方医学者のポンペは患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたことが記録されており、また典医松本良順が開国を巡る朝廷説得の心労で倒れた徳川慶喜にアヘンを処方して不眠を収めたなど一定の需要があり、日本ではまだ吸煙の習慣も定着しておらず、栽培は全国に広がっていた。
長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸によりアヘンの煙膏を持ち込んで問題となっていた。長崎では中国人が日本人にアヘンの煙膏を大量に売りつけ、遊女などが中毒死する事件を伝えている。やがてたびたび「あへん御禁令」の高札が立つようになり、慶応4年閏4月(1868年6月)、明治政府から最初のアヘン禁令となる太政官布告第319号を布告し、「あへん煙草は人の生気を消耗し命を縮めるもの」と初めて人害であることが明記された。政府は法整備を進め、明治3年8月8日(1870年9月3日)には「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設け重罪とした。なおこの法律は後の現行法にほぼそのまま取り入れられ、「あへん煙に関する罪(刑法136-140条)」となっている。また、国内に流通するアヘンについても「生鴉片取扱規則」を同日発布し、記録や届出など管理の徹底を始めた。これらの法律は在留清国人にも適用された。
アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。
1877年にはイギリス商人によるアヘン密輸事件であるハートレー事件が起ったものの、治外法権を行使されて領事館から逆に1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。
日清戦争後、日本は下関条約により清から台湾を割譲させて植民地とした。当時、台湾においてアヘンの使用が広がっていたことを背景に、後藤新平は伊藤博文にアヘンの漸禁政策を提案し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。同令において、アヘン中毒者へのアヘン販売が許可された。1898年の阿片令では、台湾における民間のケシ栽培は禁止され、台湾総督府専売局による専売が始まった。内地では、台湾産の原料を使ったアヘン製造が活発に行われた。
その後、植民地支配に組み入れていった関東州や満州においても、日本はアヘンを厳禁しない漸禁政策を採用した。1915年にはモルヒネの国内生産が成功し、モルヒネの原料としてのアヘンの需要が高まったため、関東州・満州でもアヘンは製造された。
中華民国は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、四川省・雲南省などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。日中戦争がはじまると、関東軍の影佐禎昭大佐の指導のもと、里見甫が秘密結社の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立し、中国の通貨法幣を獲得するため、上海などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。
アヘンは多くの国で麻薬の一種としてその製造・販売・販売目的の所持が禁止または規制されている(自己使用を処罰する日本の法制は、比較法的には少数派である)。
日本では麻薬及び向精神薬取締法とあへん法が、アヘンやヘロインの使用、所持等を禁止している。同法により、原料のケシの栽培自体も禁止されている。あへん法にいう「けし」とは、Papaver somniferum L., Papaver setigerum DC. 及びその他のケシ属 (Papaveraceae) の植物であって、厚生労働大臣が指定するものをいい、「あへん」とは、けしの薬汁が凝固したもの及びこれに加工を施したもの(医薬品として加工を施したものを除く。)をいう(同法3条1号、2号)。使う意思がなくとも吸引用具を所持(海外では吸引用具が美術品として取引されているところがある)しているだけでも違法になる。刑法136条 - 141条でアヘンの製造・輸入・所持・吸煙および吸煙道具の製造・輸入・所持や吸煙場所の提供を禁じており、未遂も処罰される(刑法第2編 第14章「あへん煙に関する罪」)。
現在、モルヒネ用としてのアヘン輸出が国際的に認められている国はインド、日本、中国、北朝鮮だけである。しかし、外国へ輸出が出来るほどの生産量(少なくとも、表のルートで取引されるもの)があるのはインドだけである。また、オーストラリアでも比較的大規模な薬用アヘンの製造が行われているが、国内の需要の一部しか満たせない。その他の国では、少なくとも表向きは大規模なケシ栽培は行われていない。このため、世界の合法的なモルヒネは大半がインド産である。また、必要以上の在庫を保有することが禁じられているため、いかにインドと言えども、何らかの急な需要増加には対処できない。
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"text": "一方、16世紀半ばの明朝末期に、イギリスの三角貿易によりインドから大量のアヘンが中国内に流通し始め、やがて明が滅び清となった中国からは、長崎貿易を通じて吸煙用途の安価なアヘン(煙膏)や生アヘンが知られるようになった。日本は鎖国はしていたが、海外の情報はオランダ風説書によって得ていた。",
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"text": "19世紀に入るとオランダ以外の欧米諸国も日本にも執拗に開国を迫り出してきており、江戸幕府は対応に苦慮していた。1839年(天保10年)にアヘン戦争が始まると、オランダはそれまでの風説書とは別に、詳細な別段風説書としての報告書「阿片招禍録」を作成して欧米が関わる動乱を詳細に報告を始めた。その3年後、明に続く大国と認識していた清がイギリスに大敗したことは幕政を大いに揺るがし、同年に異国船打払令を取り消した。このためアヘンに関しては日本も清の後追いになる危険もあったが、佐久間象山らによって魏源『聖武記』『海国図志』などが熱心に研究され(斎藤竹堂『鴉片始末』など)、鎖国を解いた4年後の安政5年(1858年)に安政五カ国条約締結に至り、このいずれの国からもアヘンの輸入を禁制とする条文が記載された。",
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"text": "なお、国内では1822年から国内に散発していたコレラがこの年に江戸でも大流行し、蘭方医学者のポンペは患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたことが記録されており、また典医松本良順が開国を巡る朝廷説得の心労で倒れた徳川慶喜にアヘンを処方して不眠を収めたなど一定の需要があり、日本ではまだ吸煙の習慣も定着しておらず、栽培は全国に広がっていた。",
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"text": "長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸によりアヘンの煙膏を持ち込んで問題となっていた。長崎では中国人が日本人にアヘンの煙膏を大量に売りつけ、遊女などが中毒死する事件を伝えている。やがてたびたび「あへん御禁令」の高札が立つようになり、慶応4年閏4月(1868年6月)、明治政府から最初のアヘン禁令となる太政官布告第319号を布告し、「あへん煙草は人の生気を消耗し命を縮めるもの」と初めて人害であることが明記された。政府は法整備を進め、明治3年8月8日(1870年9月3日)には「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設け重罪とした。なおこの法律は後の現行法にほぼそのまま取り入れられ、「あへん煙に関する罪(刑法136-140条)」となっている。また、国内に流通するアヘンについても「生鴉片取扱規則」を同日発布し、記録や届出など管理の徹底を始めた。これらの法律は在留清国人にも適用された。",
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"text": "アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。",
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"text": "1877年にはイギリス商人によるアヘン密輸事件であるハートレー事件が起ったものの、治外法権を行使されて領事館から逆に1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。",
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"text": "日清戦争後、日本は下関条約により清から台湾を割譲させて植民地とした。当時、台湾においてアヘンの使用が広がっていたことを背景に、後藤新平は伊藤博文にアヘンの漸禁政策を提案し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。同令において、アヘン中毒者へのアヘン販売が許可された。1898年の阿片令では、台湾における民間のケシ栽培は禁止され、台湾総督府専売局による専売が始まった。内地では、台湾産の原料を使ったアヘン製造が活発に行われた。",
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"text": "その後、植民地支配に組み入れていった関東州や満州においても、日本はアヘンを厳禁しない漸禁政策を採用した。1915年にはモルヒネの国内生産が成功し、モルヒネの原料としてのアヘンの需要が高まったため、関東州・満州でもアヘンは製造された。",
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"text": "中華民国は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、四川省・雲南省などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。日中戦争がはじまると、関東軍の影佐禎昭大佐の指導のもと、里見甫が秘密結社の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立し、中国の通貨法幣を獲得するため、上海などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。",
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"text": "アヘンは多くの国で麻薬の一種としてその製造・販売・販売目的の所持が禁止または規制されている(自己使用を処罰する日本の法制は、比較法的には少数派である)。",
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"text": "日本では麻薬及び向精神薬取締法とあへん法が、アヘンやヘロインの使用、所持等を禁止している。同法により、原料のケシの栽培自体も禁止されている。あへん法にいう「けし」とは、Papaver somniferum L., Papaver setigerum DC. 及びその他のケシ属 (Papaveraceae) の植物であって、厚生労働大臣が指定するものをいい、「あへん」とは、けしの薬汁が凝固したもの及びこれに加工を施したもの(医薬品として加工を施したものを除く。)をいう(同法3条1号、2号)。使う意思がなくとも吸引用具を所持(海外では吸引用具が美術品として取引されているところがある)しているだけでも違法になる。刑法136条 - 141条でアヘンの製造・輸入・所持・吸煙および吸煙道具の製造・輸入・所持や吸煙場所の提供を禁じており、未遂も処罰される(刑法第2編 第14章「あへん煙に関する罪」)。",
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"text": "現在、モルヒネ用としてのアヘン輸出が国際的に認められている国はインド、日本、中国、北朝鮮だけである。しかし、外国へ輸出が出来るほどの生産量(少なくとも、表のルートで取引されるもの)があるのはインドだけである。また、オーストラリアでも比較的大規模な薬用アヘンの製造が行われているが、国内の需要の一部しか満たせない。その他の国では、少なくとも表向きは大規模なケシ栽培は行われていない。このため、世界の合法的なモルヒネは大半がインド産である。また、必要以上の在庫を保有することが禁じられているため、いかにインドと言えども、何らかの急な需要増加には対処できない。",
"title": "統制の状況"
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アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシの実から採取される果汁を乾燥させたもので、麻薬の一種である。
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[[Image:Papaver somniferum 2021 G3.jpg|right|thumb|ケシの果実(いわゆるケシ坊主)に傷をつけて、アルカロイド樹脂を採取する]]
'''アヘン'''('''阿片'''、'''鴉片'''、{{En|opium}})は、[[ケシ]](芥子、{{En|opium poppy}})の実から採取される果汁を乾燥させたもので、[[麻薬]]の一種である。
==概要==
<!--出典ここから-->ケシの実から採取される[[アルカロイド]]は[[オピエート]]と呼ばれ、そこから合成されるものが[[オピオイド]]である<ref name="whodrugterm1994"/>。[[麻薬]](narcotic)とは、本来このような[[オピエート]]や[[オピオイド]]を指す<ref name="whodrugterm1994"/>。
ケシから採取された[[アルカロイド]]や、そこから合成される化合物は、鎮痛、陶酔といった作用があり、また高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす<ref name="whodrugterm1994">{{Cite book|author=世界保健機関|authorlink=世界保健機関|title=Lexicon of alchol and drug term|publisher=World Health Organization|date=1994|url=http://whqlibdoc.who.int/publications/9241544686.pdf|format=pdf||isbn=92-4-154468-6|pages=47, 49-50}} [http://www.who.int/substance_abuse/terminology/who_lexicon/en/ (HTML版 introductionが省略されている])</ref>。このようなアルカロイドや、合成化合物には、[[モルヒネ]]、[[ヘロイン]]、[[コデイン]]、[[オキシコドン]]を含む。
アヘンの名の由来は、[[英語]]名{{En|'''opium'''}}の[[中国語]]の音訳である阿片({{ピン音|a piàn|アーピエン}})を音読みしたものである。[[明]]代の[[中国]]、[[江戸時代]]の日本では'''阿芙蓉'''(あふよう)と書いた。
ケシの実の汁は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきた。しかし同時に習慣性や、濫用による健康被害など、[[麻薬]]としての特性があり、[[阿片戦争|アヘン戦争]]を引き起こすなど、重大な害悪も引き起こした。
現在では、[[1912年]]の[[ハーグ阿片条約]]、これを引き継ぐ[[1961年]]の[[麻薬に関する単一条約]]において国際統制下にある。日本でも[[あへん法]]によって規制されている。
== 性質 ==
アヘンを収穫する伝統的な方法としては「ヘラ掻き」がある。ケシの開花後、10 - 20日経って花弁の落ちた未熟果(いわゆるケシ坊主)の表皮に、[[朝]]のうち浅い切り込みを入れると、乳液状の物質が分泌する。これを夕方掻き採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形物になる。こうして集められたのが生アヘンで、約10%ほどの[[モルヒネ]]などの多くの[[アルカロイド]]類(アヘンアルカロイド)を含む。
ヘラ掻きによるアヘンの採取は人手や手間がかなりかかる。そのわりに得られる量はごく僅か(1kgのアヘンを得るのに、ケシの実が約2000本も必要)である。貧しい農民が栽培に従事する[[アフガニスタン]]など非合法栽培地域では現在も行われているが、合法的栽培においては、現在は有機溶媒で茎も含む全体を処理して化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が主流である。
作ったアヘンは産地で[[薬研]]で粉末にし、[[ブリキ]]缶に入れ、製品として出荷する。精製しなくても薬効があるために、極めて古くからそのまま吸引されてきた。しかし生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るため、そのままでの麻薬としての商品価値はかなり低い。価値を高めるにはさらに煮出して乾燥させるなど精製し、及び化学的に加工して、モルヒネやヘロインに加工する必要がある。精製すると量がアヘンのときの 20 - 25% までに減る。
== 産地 ==
以前{{いつ|date=2023年6月}}は、[[東南アジア]]の[[タイ王国|タイ]]・[[ラオス]]・[[ミャンマー]]に跨る「[[黄金の三角地帯]]」で多く生産されていたが、抑制対策が功を奏してその地帯でのケシ栽培は大きく減少した。2009年の[[国連薬物犯罪事務所]]の報告<ref>2009 Annual Opium Survey</ref>によれば、アヘンの94%は[[アフガニスタン]]で生産されている。2010年にはケシの病害により生産量が減少、アヘンの農場出荷額が$64/kg から$169/kgへと高騰した<ref>2010 Annual Opium Survey</ref>。
2011年10月、ロシアの[[セルゲイ・ラブロフ]]外務大臣は、「アフガニスタンのアヘン畑を一掃することにアメリカが消極的であることに驚きを禁じえない」と述べ、アフガニスタンでのアメリカのアヘン問題への態度を批判した<ref>[http://japanese.ruvr.ru/2011/10/10/58485645.html アフガニスタンのアヘン畑一掃にアメリカは消極的 ロシアは疑問]</ref>。
== アヘン史 ==
[[ファイル:Chinese Opium smokers.jpg|サムネイル|阿片を吸う中国人]]
[[ファイル:阿片禁止令.jpg|サムネイル|禁止令により、焼却される喫煙具]]
アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃には[[メソポタミア]]でケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版には[[シュメール人]]の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中央アルプスにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃に[[エジプト]]にてアヘン製造がされていた事がわかる[[パピルス]]の文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた。[[メトロポリタン美術館]]にある、[[アッシュールナツィルパル2世]]の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣は、美術館は[[ザクロ]]と解説しているもののケシの未熟果の束を運んでいる。
[[紀元前300年]]頃の[[ギリシャ]]の[[哲学者]]である[[テオプラストス]]の著書に、アヘンについての記述を見ることができる。[[ギリシャ神話]]では、アヘンの発見者は[[女神]][[デメテル]]とされている。[[ローマ帝国]][[ネロ]]帝時代の医師[[ペダニウス・ディオスコリデス|ディオスコリデス]]は、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名opiumは、この時代の[[ラテン語]]名opiumを引き継いだものである。[[古代]]ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、[[西ローマ帝国]]の滅亡により、一時廃ることとなった。
5世紀前後、[[イスラム圏]]の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。[[アラブ]]商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。[[東アジア]]にも伝来した。[[シルクロード]]を通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった[[陶弘景]]により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘がある。
11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。
[[大航海時代]]を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。[[イギリス]]は交易において[[三角貿易]]の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われた。
[[清|清国]]では、[[上海]]など都市の河沿い地域に使用者が多く、当初は運搬船の停泊船内や宿場などで煙草に混ぜて吸入されていた。[[19世紀]]、このアヘンの蔓延に危機感をつのらせた清国がイギリス商人のアヘンを{{仮リンク|虎門銷煙|zh|虎门销烟|label=焼却}}したことが、イギリスと清国の間で、[[アヘン戦争]](1840年-)の引き金となった。しかし、この紛争後もアヘン流入量が縮小されず、市中では次第に半固形の阿片膏を煙管(キセル)に入れて吸入するようになっていた。この携行しやすい阿片膏によって、より清国内の広域へアヘンが浸透、[[アヘン窟]]も伝播した。20世紀初頭の清末には、清国の上流層にもアヘンが一部流れていたとされており、清滅亡後の1930年代においても、煙管など吸引用品の取扱店や「大煙」と看板を掲げた煙館など、アヘン関係の店が各地でみられた。
[[ヨーロッパ]]においては、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴い19世紀には反アヘン運動が高まった。また、[[アメリカ]]・[[カナダ]]への中国人労働者の流入ともに、特にサンフランシスコをはじめとする地域でアヘン窟がみられるようになり、1875年に至り反ドラッグ法制定など対策が行われた。
20世紀初頭から、国際間におけるアヘンの統制が始まる。1912年には[[万国阿片条約|ハーグ阿片条約]]が調印され、アヘン貿易が制限された。1920年に[[国際連盟]]が成立してからは、連盟が統制に関する職務を負い、国際機関が設置された。1926年の第一・第二阿片会議条約では、アヘンの使用等に関しても統制され、1928年の[[麻薬製造制限条約]]においてアヘン貿易は完全に禁止された。[[国際連合]]に移行後も、同様の統制体制が持続し、現行の1961年の[[麻薬に関する単一条約]]においてもアヘンは統制されている。
== 日本におけるアヘン史 ==
=== 江戸時代まで ===
文献に見える古い記録では、[[梶原性全]](かじわらしょうぜん:1265 - 1337)『頓医抄』の中にすでに「罌粟」の用語が見られる。くだって[[室町時代]]には、[[南蛮貿易]]によってケシの種が[[インド]]から[[津軽]]地方(現在の[[青森県]])にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある<ref>伊澤一男『薬草カラー図鑑』「ケシ」。</ref>。その後[[江戸時代]]を通じて現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培されたが、いずれも少量で高価であり、用途としても[[麻酔]]などの医療用や投獄者への自白剤などに限られていた。[[寺島良安]]『[[和漢三才図会]]』([[1713年]]頃)巻百三には「阿片」や他の生薬、[[辰砂]]などと調合した「一粒金丹」なる丸薬が[[止瀉薬]]として紹介されている。この処方箋は[[備前国|備前]][[岡山藩]][[藩医]][[木村玄石]]の手によるといい、これが[[元禄]]2年([[1689年]])[[弘前藩]]藩医[[和田玄良]]に秘薬として伝わった。藩医の[[和田玄春]]による[[寛政]]11年([[1799年]])の効能書には鎮痛や強壮が謳われている<ref name=mutsu>陸奥新報 2009年10月19日版[http://www.mutusinpou.co.jp/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%B4%A5%E8%BB%BD/2009/10/8658.html ケシ栽培が生んだ秘薬=36]。</ref>。この薬の評判はすぐに江戸にまで及び、[[歌舞伎]]『富岡恋山開』には「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝手を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞が残されるまでとなり、江戸市中で売られていたようである<ref name=mutsu />。[[天保]]8年([[1837年]])[[摂津国|摂津]][[道修町]]の[[薬問屋]][[奉公]]の太田四郎兵衛が種子を持ち帰って栽培し、はじめてアヘンの製造に成功したとの記述もみえる。
=== 幕末 ===
一方、[[16世紀]]半ばの[[明]]朝末期に、イギリスの三角貿易によりインドから大量のアヘンが中国内に流通し始め、やがて明が滅び[[清]]となった中国からは、[[長崎貿易]]を通じて吸煙用途の安価なアヘン(煙膏)や生アヘンが知られるようになった。日本は鎖国はしていたが、海外の情報は[[オランダ風説書]]によって得ていた。
19世紀に入るとオランダ以外の欧米諸国も日本にも執拗に開国を迫り出してきており、[[江戸幕府]]は対応に苦慮していた。[[1839年]](天保10年)にアヘン戦争が始まると、オランダはそれまでの風説書とは別に、詳細な別段風説書としての報告書「阿片招禍録<ref>[[国立公文書館]] [https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/07.html 激動幕末 開国の衝撃]</ref>」を作成して欧米が関わる動乱を詳細に報告を始めた。その3年後、明に続く大国と認識していた清がイギリスに大敗したことは幕政を大いに揺るがし、同年に[[異国船打払令]]を取り消した。このためアヘンに関しては日本も清の後追いになる危険もあったが、[[佐久間象山]]らによって[[魏源]]『聖武記』『海国図志』などが熱心に研究され([[斎藤竹堂]]『鴉片始末』など)、[[鎖国]]を解いた4年後の[[安政]]5年([[1858年]])に[[安政五カ国条約]]締結に至り、このいずれの国からもアヘンの輸入を禁制とする条文が記載された<ref>[http://www.h2.dion.ne.jp/~jiemon/j-o.pdf 日蘭修好通商条約]</ref><ref>[http://www.h2.dion.ne.jp/~jiemon/j-a.pdf 日米修好通商条約]</ref><ref>[http://www.h2.dion.ne.jp/~jiemon/j-e.pdf 日英修好通商条約]</ref><ref>[http://www.h2.dion.ne.jp/~jiemon/j-r.pdf 日露修好通商条約]</ref><ref>[http://www.h2.dion.ne.jp/~jiemon/j-f.pdf 日仏修好通商条約]</ref><ref group="注">オランダとはこの前年の[[日蘭追加条約]]ですでにアヘンに関しての禁輸が決められている。</ref>。
なお、国内では[[1822年]]から国内に散発していた[[コレラ]]がこの年に江戸でも大流行し、[[蘭方医学]]者の[[ポンペ]]は患者に[[キニーネ]]とアヘンの製剤を与えたことが記録されており<ref>[[長崎大学]]薬学部 [http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp1/chapter1-1.html 近代薬学の到来期]。</ref>、また典医[[松本良順]]が開国を巡る朝廷説得の心労で倒れた[[徳川慶喜]]にアヘンを処方して不眠を収めたなど一定の需要があり、日本ではまだ吸煙の習慣も定着しておらず、栽培は全国に広がっていた。
=== 明治期 ===
長崎、[[横浜港|横浜]]などの[[条約港]]では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸によりアヘンの煙膏を持ち込んで問題となっていた。長崎では中国人が日本人にアヘンの煙膏を大量に売りつけ、遊女などが中毒死する事件を伝えている<ref>崎陽雑報「阿片で遊女死なす」慶応4年8月</ref>。やがてたびたび「あへん御禁令」の高札が立つようになり、慶応4年閏4月(1868年6月)、[[明治政府]]から最初のアヘン禁令となる[[太政官布告]]第319号を布告し、「あへん煙草は人の生気を消耗し命を縮めるもの」と初めて人害であることが明記された。政府は法整備を進め、明治3年8月8日([[1870年]]9月3日)には「'''販売鴉片烟律'''」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設け重罪とした。なおこの法律は後の現行法にほぼそのまま取り入れられ、「[[あへん煙に関する罪]]([[刑法 (日本)|刑法]]136-140条)」となっている。また、国内に流通するアヘンについても「'''生鴉片取扱規則'''」を同日発布し、記録や届出など管理の徹底を始めた。これらの法律は在留清国人にも適用された。
=== 植民地におけるアヘン対策 ===
アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。
[[1877年]]にはイギリス商人によるアヘン密輸事件である[[ハートレー事件]]が起ったが、[[治外法権]]を行使されてハートレーは無罪となった。イギリス領事館から逆に法制度の未整備を指摘された明治政府は、[[1879年]](明治12年)[[5月1日]]に薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は政府に利益をもたらし、[[日清戦争]]の戦費となった。
日清戦争後、[[下関条約]]により清から[[台湾]]を割譲させて植民地とした日本は、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。[[台湾総督府]]衛生顧問だった[[後藤新平]]は[[伊藤博文]]に日本によるアヘン[[専売]]を建議し、[[1897年]]には[[台湾阿片令]]が敷かれる。同令においては、すでに常用者である台湾人は登録のうえアヘン購入を許可されたが、日本人、および中毒者でない台湾人の医療目的以外のアヘン使用は禁止された。[[1898年]]の阿片令では、[[台湾総督府専売局]]による専売が始まった。後藤は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させる一方、内地では、[[二反長音蔵]]などのケシ栽培を積極的に後援し、1935年頃には日本のアヘン年間生産量は15[[トン|t]]に達した。[[台湾総督府]]は、日本産アヘンの台湾への輸出・販売により、莫大な利益を得た。
昭和に入ると日本は[[朝鮮]]や[[満洲]]の[[熱河省 (満洲国)|熱河省]]、[[遼寧省]]、内モンゴルなどでケシ栽培を奨励し、[[第二次世界大戦]]中は満州産アヘンに高額の税をかけ戦費を調達した<ref>{{Cite web|和書|author= [[NHKスペシャル]]|title=調査報告 日本軍と阿片 |accessdate=Aug 17, 2008|url=https://www.nhk.or.jp/special/detail/20080817.html}}</ref>。
[[中華民国]]は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、[[四川省]]・[[雲南省]]などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた<ref>{{Cite journal|和書|author=定時秀和 |title=日本の阿片侵略と中国阿片の抵抗について |url=https://opac-ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/webopac/TD00001257 |journal=歴史研究 |issn=03869245 |publisher=大阪教育大学歴史学研究室 |year=1992 |issue=30 |pages=p87-122 |naid=120001060213}}</ref>。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。[[日中戦争]]がはじまると、[[関東軍]]の[[影佐禎昭]]大佐の指導のもと、[[里見甫]]が秘密結社の[[青幇]]や[[紅幇]]と連携し[[里見機関]]を設立し、中国の通貨[[法幣]]を獲得するため、[[上海]]などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。
== 統制の状況 ==
アヘンは多くの国で麻薬の一種としてその製造・販売・販売目的の所持が禁止または規制されている(自己使用を処罰する日本の法制は、比較法的には少数派である)。
日本では[[麻薬及び向精神薬取締法]]と[[あへん法]]が、アヘンやヘロインの使用、所持等を禁止している。同法により、原料のケシの栽培自体も禁止されている。あへん法にいう「けし」とは、''Papaver somniferum L.'', ''Papaver setigerum DC.'' 及びその他のケシ属 (''Papaveraceae'') の植物であって、厚生労働大臣が指定するものをいい、「あへん」とは、けしの薬汁が凝固したもの及びこれに加工を施したもの([[医薬品]]として加工を施したものを除く。)をいう(同法3条1号、2号)。使う意思がなくとも吸引用具を所持(海外では吸引用具が美術品として取引されているところがある)しているだけでも違法になる。[[刑法 (日本)|刑法]]136条 - 141条でアヘンの製造・輸入・所持・吸煙および吸煙道具の製造・輸入・所持や吸煙場所の提供を禁じており、未遂も処罰される(刑法第2編 第14章「[[あへん煙に関する罪]]」)。
現在、モルヒネ用としてのアヘン輸出が国際的に認められている国はインド、日本、中国、北朝鮮だけである。しかし、外国へ輸出が出来るほどの生産量(少なくとも、表のルートで取引されるもの)があるのはインドだけである。また、オーストラリアでも比較的大規模な薬用アヘンの製造が行われているが、国内の需要の一部しか満たせない。その他の国では、少なくとも表向きは大規模なケシ栽培は行われていない。このため、世界の合法的なモルヒネは大半がインド産である。また、必要以上の在庫を保有することが禁じられているため、いかにインドと言えども、何らかの急な需要増加には対処できない。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2015年5月}}
* 佐藤弘 『大東亜の特殊資源』 大東亜出版、1943年。『続・現代史料集 12』第一部第三資料。
* [[二反長半]] 『戦争と日本阿片史』 すばる書房、1977年。
* マーティン・ブース 『阿片』 田中昌太郎訳、中央公論社、1998年。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Opium}}
* [[モルヒネ]] - [[ヘロイン]] アヘンの精製物である。
* [[アヘン窟]]
* [[フェンタニル]](通称・チャイナホワイト)
* [[アヘンチンキ]]
* [[メコン酸]]
* [[アヘン戦争]]
**[[第一次アヘン戦争]]
**[[第二次アヘン戦争]]
* [[里見甫]]
* [[万国阿片条約]]
* [[黄金の三角地帯]]
* [[黄金の三日月地帯]]
* [[大衆のアヘン]]
== 外部リンク ==
* [https://www.customs.go.jp/mizugiwa/mitsuyu/report2001/sekaidoukou/sekaiyakubutsu/014ahenkei_jr.htm あへん系麻薬] - 税関のウェブページ。2001年の密輸動向について。
* [{{NDLDC|761461/54}} 写真「阿片製造場」(野口保興編『地理写真帖 第3冊』1900年。国会図書館近代デジタルライブラリー)]
* [http://vimeo.com/74710481 アヘン喫煙具コレクション] - [[マッグズ・ブラザーズ]]書店編
* [https://opiummuseum.com/ Opium Museum (英語)]
<!--コメントアウトします
*[http://www.dapc.or.jp/index.htm 薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」ホームページ]
*[http://www.hokenkai.or.jp/3/3-1/3-1.html 日本学校保健会「薬物乱用防止教育」ホームページ]
*[http://www8.cao.go.jp/souki/drug/sinsenryaku.html 薬物乱用防止新五か年戦略(内閣府・薬物乱用対策推進本部)]
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ケシ
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ケシ(芥子、罌粟、Opium poppy、学名 Papaver somniferum)は、ケシ科ケシ属に属する一年草の植物。
日本語の「ケシ」は英語の「poppy()」と同義とされるが、英語では単に「poppy」といえばイギリス各地に自生しており、園芸種としても盛んに栽培されているヒナゲシ(corn poppy())を指す。一方日本語で単にケシといった場合、それが種指定をも包含している場合はもっぱら本種を指す。英語では本種を「opium poppy()」と呼び「poppy」とは明確に区別している。日本語でも、他の園芸用ケシ属植物と区別するため、特に本種を阿片ケシ(アヘンケシ)と呼ぶことがあり、学会などでは種小名を用いソムニフェルム種と呼ぶ。このソムニフェルム種はリンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物種の一つでもある。
芥子という表記は本来カラシナを指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされる。
日本では「opium poppy」など「opium」産生植物はアヘン法で栽培が禁止されている種に指定されており、政府の許可を得ずして栽培してはならない。「opium」とはアヘン、麻薬の意味である。
地中海地方または東ヨーロッパ原産とも言われているが、野生下にある原種が発見されていないため確証はない。
草丈は1-2メートル程度で、葉の形は長楕円~長卵形で、上の葉ほど小さくなる。
葉に関して他のケシ属とは、
といった点で区別できるが、これらの特徴は品種によってかなり差がある。
播種後半年ほどで開花する。通常は前年の秋に播種するので開花期は4-6月頃になる。花は茎の先端に一つだけ付き、つぼみのときは下向きで開花と同時に天頂を向く。また2枚ある萼(がく)は開花と同時に脱落する。一日花であり翌日には散る。大きさは10-15cmと草丈に比較して大きく、悪臭がある。花弁は一重咲きの品種では4枚で、色は基本色として紅、白、紫があり青と黄はない。単色の品種も多いが、園芸種はこれらの中間や、これらが混じった「絞り」など様々な変化を見せる。だがOpium poppyは基本色に黄を欠くことから、他のpoppyには多い黄やオレンジ系の花を作ることは不可能である。八重咲きの品種では花弁の縁が細裂するものがある。なおアヘン採取用に品種改良されたOpium poppyはどれも一重咲きである。
花が枯れて数日すると、芥子坊主と呼ばれる独特の形の鶏卵~握りこぶし大の果実を実らす。この芥子坊主の形も品種によって真球に近い球形や楕円球形と、様々に変化する。八重咲きなどの園芸種も結実するが、実の大きさやモルヒネ含有量はアヘン採取用の品種には遠く及ばない。どの品種も未熟果の表面に浅い傷をつけると麻薬成分であるモルヒネを含む白色~淡紅色の乳液が浸出し、しばらくすると粘性を示し黒化する。これをへらでかき集め乾燥したものが生アヘンである。果実が熟すと植物体は枯死し、熟した果実の天頂に穴があき、径 0.5mm に満たない微細な種子が飛び出す(非常に細かい物を「ケシ粒のような~」と表現するのは、これが由来)。種子は腎形であり、表面には網目模様があるが、肉眼では確認しにくい。色は品種により白から黒まで変化するが、食用に売られているものは象牙色と黒が多い。
非常に古くから栽培されているだけあって、数多くの亜種や品種がある。下記は一部。
世界各地の気候に合わせた、以下の基本六型がある。各亜種の中にさらに様々な品種がある。
本種の未熟果に傷をつけると出てくる乳液からアヘンが穫れ、それから精製されるモルヒネや、モルヒネを化学的に変化させたヘロインは麻薬に指定されている。ヘロインは完全な麻薬だが、モルヒネは鎮痛鎮静剤として医学・薬学的に重要で、特にがん患者の激痛緩和や麻酔科、ペインクリニックでの治療に不可欠であり、医師の処方に依る適切な使用に基づけば依存症に陥ることもないとされる。
種子は煎ると香ばしく、あんパンやケーキに振り掛けたり、七味唐辛子に混ぜたりするなどして使われる。和菓子のけし餅、松風には必須の材料である。中央ヨーロッパから東ヨーロッパではポピーシードで作った餡状のペーストをシュトゥルーデル、シュトレン、パイ、ハマンタッシェンなどの菓子のフィリングとしてよく用いる。モルヒネの含まれていない品種は特にポーランド料理ではマコヴィエツ(ポーランド語版)などのパンやケーキに大量に用いられることが広く知られている。東インドでは、種子をすり潰して煮込み料理に加える他、ケシの実のチャツネも作られる。
栽培品種にもよるが、種子にはモルヒネが含まれていないか、含まれていてもごく微量である。長年にわたって食用に供されてきた歴史があるため、普通どの国においてもポピーシードは規制対象となっていない。日本においても、あへん法では種子は取り締りの対象から外されており、ゆえに所持していても法的には問題にならない。しかし発芽すると法に触れるので、日本で販売されているケシの種子は、加熱による発芽防止処理が施されている。
例外としてシンガポールのように、微量であってもモルヒネが含まれていることを問題視し、ポピーシードの使用そのものを禁止している国もある。またアメリカ合衆国には、ポピーシードを材料に用いた食品を食べたあとに、尿検査で陽性反応が出て解雇された、という事例がある。
また、種子には多量の油分が含まれているため、これを絞った芥子油(英語版)(ポピーシードオイル)も食用や石鹸の製造、油彩画の絵の具を溶く描画油に使われる。けし油は植物油としてはかなり高価な部類に入るので、一般的には食用よりはむしろ描画油として使用される。
ケシは移植することができないので、直播しなければならない。あぜ幅50cmに作り、9月下旬、10アール当たり180mlの割合で種子を播く。翌春、間引きして株間約10cmとする。5月上中旬に開花。花弁が落下し数日を経て子房が十分に発育した頃、子房の立隆線に沿って浅く切り傷をつけ、アヘンを採取する。
栽培植物としての歴史は古く、紀元前5000年頃と考えられるスイスの遺跡から本種の種子が発見されている。四大文明が興った頃には既に薬草として栽培されていたとされ、シュメールの楔形文字板にも本種の栽培記録がある。本種の薬用利用はそこから古代エジプトを経て古代ギリシアに伝わったと考えられ、ローマ帝国を経てヨーロッパ全土に広まった。その間に帝国の退廃を映して利用法も麻薬用へと変貌を遂げ、大航海時代を経てアヘン原料として世界各地に広まった。特にイギリスは植民地であったインドで本種の大々的な栽培を行い、生産されたアヘンを清へ輸出して莫大な利益をあげた。
日本では、室町時代に南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県西部)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある。その後現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで少量が産出されたがいずれも少量で高価であり、用途も医療用に限られていた。明治の半ば、大阪府の農民二反長音蔵がケシ栽培を政府に建白。地元の大阪府三島郡で大規模生産に乗り出すとともに、品種改良に尽力し、モルヒネ含有量が既存種の数倍に達する一貫種と呼ばれる優良品種を作出した。日本は台湾統治開始後、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。台湾総督府衛生顧問だった後藤新平は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させた一方で内地では二反長音蔵のケシ栽培を積極的に後援し、日本国内のアヘンの生産と台湾への輸出・販売を台湾総督府の専売制とし、莫大な利益を得た。1935年頃には全国作付けが100haに達し、5月の開花期には広大なケシ畑に雪白の花が広がり、非常な壮観を呈した。当時のアヘン年間生産量は15tに達し、全国産額の50%は和歌山県有田郡で、40%が大阪府三島郡がそれぞれ占めた。昭和に入ると日本は日本統治時代の朝鮮や満洲の一部(熱河省。現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の一部)でケシ栽培を奨励し、第二次世界大戦中は満洲国、蒙古聯合自治政府、南京国民政府などで大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけ戦費を調達した。太平洋戦争後の1946年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がケシ栽培を禁止し、国内生産は途絶した。あへん法が1954年に制定され、翌1955年から栽培が再開された。しかし戦前のような大規模栽培は復活することなく、現在の栽培量は実験室レベルに留まっている。
多くの国がケシ栽培に何らかの規制をかけている一方で、園芸用としてのケシ栽培については規制していない国も多い。アメリカ合衆国ではモルヒネ原料となる種を含むケシの栽培も種子の販売も自由で、ネット通販で種子を安価に購入できる。英国などヨーロッパでは、一面に咲きほこるケシ畑が春の風物詩になっている。なお、先進国においては乾燥させた本種の植物体を有機溶媒に浸してアルカロイド成分を浸出させる方法で効率的にモルヒネを回収している。原始的なへら掻きによる採取は、モルヒネの回収率が非効率なこともあり、形としてアヘンを生産する必要のあるアヘン輸出可能国か、非合法生産下でしか行われていない。現在、国際条約下でアヘンの輸出可能な国家はインド、中華人民共和国、日本、北朝鮮の4ヶ国に限定されているが、現在も輸出を継続しているのはインドのみであるため、国際条約下においては、インドが本種の最大の栽培地といえる。このほか国際的に紛争が起きている地域で、住民が手っ取り早く現金収入を得るために国際条約を無視して本種を栽培するケースが多い。旧ソ連の中央アジアや、長年内乱が続いたアフガニスタン、カンボジア、中米などが新たな非合法栽培の中心地となっている。このケースにおいて、20世紀に非常に有名だったのが、いわゆる黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)としても知られるミャンマー・タイ・ラオスの国境にまたがる地域であるが、2002年以降は同地域での紛争が沈静化し、ようやく同地の支配権を確保できた政府によって他の換金作物への転作が奨励されるようになったため、低調化している。ミャンマーでは政府や国連薬物犯罪事務所が代替作物としてコーヒー栽培への転換を進めており、仕入れなどで外国企業も支援している。
21世紀に入ってから条約無視の不法ケシ最大生産国はアフガニスタンで、2014年時点で全世界生産量の70%が同国産となっており、タリバンなど同国反政府組織の重要な資金源となっている。国連薬物犯罪事務所の発表では、2013年の世界の不法なケシの作付け面積は約29万7000ヘクタールに及ぶ。
日本でも、あへん法によってアヘンやモルヒネに対する規制がかけられている。同法は太平洋戦争前の満州や朝鮮で大規模に行われた戦費調達のためのアヘン生産の反省に基づき、国内での大規模栽培を例外なく禁止する意図の元に策定されている。ゆえにその内容は他国に比較して非常に厳しい。現代の日本において、あへん法に基づく栽培許可を受けるには、栽培地の周囲に二重の金網を張り巡らせ門扉には施錠する、夜間はレーザーセンサーを用いて警備するといった非常に厳しい条件を満たさなければならない。ゆえに実際に許可を得て栽培しているのは国や地方自治体の研究機関や、薬科大学や総合大学の薬学部の薬草園(東京都薬用植物園、日本大学薬学部や京都薬科大学の付属薬用植物園など)、および国の研究機関から委託されて栽培している数軒の農家が北海道にあるだけで、国内のアヘン生産量は実験室レベルに留まっている。これではとても国内需要を賄えないため他国からアヘンを輸入している。一方、前述した個人輸入や他の植物に種子が付着して(ケシとは知らずに)日本で栽培・自生してしまう例が少なからずある。
ソムニフェルム種の他にはアツミゲシなどのセティゲルム種が規制対象。
なお、これ以外のヒナゲシなどの観賞用のケシは、麻薬成分を含まないので栽培しても問題は無い。
見分け方などについては、群馬県HP、東京都健康安全研究センターなど、行政各所で説明が行われている。日本において、自生しているのを見つけた場合は抜かずに自治体の薬務課や警察などに通報することとしている。
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"text": "多くの国がケシ栽培に何らかの規制をかけている一方で、園芸用としてのケシ栽培については規制していない国も多い。アメリカ合衆国ではモルヒネ原料となる種を含むケシの栽培も種子の販売も自由で、ネット通販で種子を安価に購入できる。英国などヨーロッパでは、一面に咲きほこるケシ畑が春の風物詩になっている。なお、先進国においては乾燥させた本種の植物体を有機溶媒に浸してアルカロイド成分を浸出させる方法で効率的にモルヒネを回収している。原始的なへら掻きによる採取は、モルヒネの回収率が非効率なこともあり、形としてアヘンを生産する必要のあるアヘン輸出可能国か、非合法生産下でしか行われていない。現在、国際条約下でアヘンの輸出可能な国家はインド、中華人民共和国、日本、北朝鮮の4ヶ国に限定されているが、現在も輸出を継続しているのはインドのみであるため、国際条約下においては、インドが本種の最大の栽培地といえる。このほか国際的に紛争が起きている地域で、住民が手っ取り早く現金収入を得るために国際条約を無視して本種を栽培するケースが多い。旧ソ連の中央アジアや、長年内乱が続いたアフガニスタン、カンボジア、中米などが新たな非合法栽培の中心地となっている。このケースにおいて、20世紀に非常に有名だったのが、いわゆる黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)としても知られるミャンマー・タイ・ラオスの国境にまたがる地域であるが、2002年以降は同地域での紛争が沈静化し、ようやく同地の支配権を確保できた政府によって他の換金作物への転作が奨励されるようになったため、低調化している。ミャンマーでは政府や国連薬物犯罪事務所が代替作物としてコーヒー栽培への転換を進めており、仕入れなどで外国企業も支援している。",
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"text": "21世紀に入ってから条約無視の不法ケシ最大生産国はアフガニスタンで、2014年時点で全世界生産量の70%が同国産となっており、タリバンなど同国反政府組織の重要な資金源となっている。国連薬物犯罪事務所の発表では、2013年の世界の不法なケシの作付け面積は約29万7000ヘクタールに及ぶ。",
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"text": "日本でも、あへん法によってアヘンやモルヒネに対する規制がかけられている。同法は太平洋戦争前の満州や朝鮮で大規模に行われた戦費調達のためのアヘン生産の反省に基づき、国内での大規模栽培を例外なく禁止する意図の元に策定されている。ゆえにその内容は他国に比較して非常に厳しい。現代の日本において、あへん法に基づく栽培許可を受けるには、栽培地の周囲に二重の金網を張り巡らせ門扉には施錠する、夜間はレーザーセンサーを用いて警備するといった非常に厳しい条件を満たさなければならない。ゆえに実際に許可を得て栽培しているのは国や地方自治体の研究機関や、薬科大学や総合大学の薬学部の薬草園(東京都薬用植物園、日本大学薬学部や京都薬科大学の付属薬用植物園など)、および国の研究機関から委託されて栽培している数軒の農家が北海道にあるだけで、国内のアヘン生産量は実験室レベルに留まっている。これではとても国内需要を賄えないため他国からアヘンを輸入している。一方、前述した個人輸入や他の植物に種子が付着して(ケシとは知らずに)日本で栽培・自生してしまう例が少なからずある。",
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"text": "ソムニフェルム種の他にはアツミゲシなどのセティゲルム種が規制対象。",
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"text": "見分け方などについては、群馬県HP、東京都健康安全研究センターなど、行政各所で説明が行われている。日本において、自生しているのを見つけた場合は抜かずに自治体の薬務課や警察などに通報することとしている。",
"title": "アヘン法等により他に栽培が禁止されている仲間"
}
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ケシは、ケシ科ケシ属に属する一年草の植物。 日本語の「ケシ」は英語の「poppy」と同義とされるが、英語では単に「poppy」といえばイギリス各地に自生しており、園芸種としても盛んに栽培されているヒナゲシを指す。一方日本語で単にケシといった場合、それが種指定をも包含している場合はもっぱら本種を指す。英語では本種を「opium poppy」と呼び「poppy」とは明確に区別している。日本語でも、他の園芸用ケシ属植物と区別するため、特に本種を阿片ケシ(アヘンケシ)と呼ぶことがあり、学会などでは種小名を用いソムニフェルム種と呼ぶ。このソムニフェルム種はリンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物種の一つでもある。 芥子という表記は本来カラシナを指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされる。 日本では「opium poppy」など「opium」産生植物はアヘン法で栽培が禁止されている種に指定されており、政府の許可を得ずして栽培してはならない。「opium」とはアヘン、麻薬の意味である。
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{{生物分類表
| 名称 = ケシ<span style="font-size: smaller; font-weight: normal; ">([[クロンキスト体系]])</span>
| 色 = lightgreen
| 画像 = [[画像:Papaver_somniferum_-_K%C3%B6hler%E2%80%93s_Medizinal-Pflanzen-102.jpg|250px]]
| 画像キャプション = ケシ(ソムニフェルム種)
|界 = [[植物界]] [[:w:Plantae|Plantae]]
|門階級なし = [[被子植物]] [[:w:Angiosperm|Angiosperm]]
|綱階級なし = [[真正双子葉類]] [[:w:Eudicots|Eudicots]]
|目 = [[キンポウゲ目]] [[:w:Ranunculales|Ranunculales]]
| 科 = [[ケシ科]] [[:W:Papaveraceae|Papaveraceae]]
| 属 = [[ケシ属]] ''[[:w:Papaver|Papaver]]''
| 種 = '''ケシ''' ''P. somniferum''
| 学名 = ''Papaver somniferum''<br /><small>[[カール・フォン・リンネ|L]].</small>
| 和名 = ケシ(芥子)
| 英名 = [[:en:Opium poppy|Opium poppy]]
}}
'''ケシ'''('''芥子'''、'''罌粟'''、Opium poppy、[[学名]] ''Papaver somniferum'')は、[[ケシ科]][[ケシ属]]に属する[[一年生植物|一年草]]の[[植物]]。
[[日本語]]の「ケシ」は[[英語]]の「{{読み仮名|{{lang|en|poppy}}|ポピー}}」と同義とされる{{要検証|date=2012年5月}}が、英語では単に「{{lang|en|poppy}}」といえば[[イギリス]]各地に自生しており、[[栽培品種|園芸種]]としても盛んに栽培されている'''[[ヒナゲシ]]'''({{読み仮名|{{lang|en|corn poppy}}|コーン・ポピー}})を指す。一方日本語で単にケシといった場合、それが種指定をも包含している場合はもっぱら本種を指す。英語では本種を「{{読み仮名|{{lang|en|opium poppy}}|オピウム・ポピー}}」と呼び「{{lang|en|poppy}}」とは明確に区別している。日本語でも、他の園芸用ケシ属植物と区別するため、特に本種を阿片ケシ(アヘンケシ)と呼ぶことがあり、学会などでは種小名を用い'''ソムニフェルム種'''と呼ぶ。このソムニフェルム種は[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]の『[[植物の種]]』([[1753年]]) で記載された植物種の一つでもある<ref>{{Cite book|last=Linnaeus|first=Carolus|year=1753|title=Species Plantarum|location=Holmia[Stockholm]|publisher=Laurentius Salvius|page=508|url=https://www.biodiversitylibrary.org/page/358527|ref=harv|language=la}}</ref>。
芥子という表記は本来[[カラシナ]]を指す言葉であるが、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、[[室町時代]]中期に誤用されて定着したものであるとされる。
日本では「{{lang|en|opium poppy}}」など「{{lang|en|opium}}」産生植物は[[あへん法|アヘン法]]で栽培が禁止されている種に指定されており、政府の許可を得ずして栽培してはならない。「{{lang|en|opium}}」とは[[アヘン]]、[[麻薬]]の意味である。
== 分布 ==
[[地中海 (ヨーロッパ)|地中海]]地方または[[東ヨーロッパ]]原産とも言われているが、野生下にある[[原種]]が発見されていないため確証はない。
== 形態 ==
[[ファイル:Opium pod cut to demonstrate fluid extraction1.jpg|サムネイル|ケシ坊主(果実)に傷をつけて樹脂を採取する]]
草丈は1-2[[メートル]]程度で、[[葉]]の形は長楕円~長卵形で、上の葉ほど小さくなる。
葉に関して他の[[ケシ属]]とは、
* [[葉柄]]がなく茎を抱く。他のケシ属は[[葉柄]]がある。
* 切れ込みが浅く縁が波打つ。他のケシ属は深く切れ込み細かく裂けるものが多い。
* 色がロウで覆われたような緑灰色である。他のケシ属は緑が鮮明なものが多い。
* 表も裏もほとんど無毛である。葉に限らず、本種はほぼ無毛である。
といった点で区別できるが、これらの特徴は品種によってかなり差がある。
[[播種]]後半年ほどで開花する。通常は前年の秋に播種するので開花期は4-6月頃になる。[[花]]は茎の先端に一つだけ付き、つぼみのときは下向きで開花と同時に天頂を向く。また2枚ある[[萼|萼(がく)]]は開花と同時に脱落する。一日花であり翌日には散る。大きさは10-15[[センチメートル|cm]]と草丈に比較して大きく、悪臭がある。花弁は一重咲きの品種では4枚で、色は基本色として紅、白、紫があり青と黄はない。単色の品種も多いが、園芸種はこれらの中間や、これらが混じった「絞り」など様々な変化を見せる。だがOpium poppyは基本色に黄を欠くことから、他のpoppyには多い黄やオレンジ系の花を作ることは不可能である。八重咲きの品種では花弁の縁が細裂するものがある。なおアヘン採取用に品種改良されたOpium poppyはどれも一重咲きである。
[[Image:Poppy-seeds.jpg|right|thumb|種子]]
花が枯れて数日すると、[[芥子坊主]]と呼ばれる独特の形の鶏卵~握りこぶし大の果実を実らす。この芥子坊主の形も品種によって真球に近い球形や楕円球形と、様々に変化する。八重咲きなどの園芸種も結実するが、[[果実|実]]の大きさや[[モルヒネ]]含有量はアヘン採取用の品種には遠く及ばない。どの品種も未熟果の表面に浅い傷をつけると麻薬成分であるモルヒネを含む白色~淡紅色の乳液が浸出し、しばらくすると粘性を示し黒化する。これを[[へら]]でかき集め乾燥したものが生アヘンである。果実が熟すと植物体は枯死し、熟した果実の天頂に穴があき、径 0.5[[ミリメートル|mm]] に満たない微細な[[種子]]が飛び出す(非常に細かい物を「ケシ粒のような~」と表現するのは、これが由来)。種子は腎形であり、表面には網目模様があるが、肉眼では確認しにくい。色は品種により白から黒まで変化するが、食用に売られているものは象牙色と黒{{efn|ただし、英名では blue poppy seed と呼ばれ、色は青ということになっている。}}が多い。
== 亜種及び品種 ==
非常に古くから栽培されているだけあって、数多くの[[亜種]]や[[品種]]がある。下記は一部<ref>[[朝日新聞社]]編『植物の世界』第8,14巻(朝日新聞社、1997年9月)ISBN 4-02-380010-4</ref>。
=== アヘン採取目的の亜種 ===
世界各地の気候に合わせた、以下の基本六型がある。各亜種の中にさらに様々な品種がある。
; [[亜熱帯]]気候型
:''P. somuniferm'' ssp. ''indicum''
:[[インド]]系統種とも言う。アヘン採取用の品種はほとんどが白い花を咲かせるが、この種は赤い花を咲かせる。果実は小さく楕円球形、もしくは広楕円球形。
:
; [[小アジア]]気候型
:''P. somuniferm'' ssp. ''anatolicum''
:[[トルコ]]系統種とも[[ボスニア]]種とも言う。花は白か、または青紫色を帯びる。果実は大きく[[扁球]]形、もしくは卵形。
:
; [[中央アジア]]気候型
:''P. somuniferm'' ssp. ''centra-asiaticum''
:[[イラン]]系統種、イラン種などとも言う。英語では Persian White などと称される。果実は小さく、球形もしくは卵形。
:
; [[天山山脈|天山]]気候型
:''P. somuniferm'' ssp. ''tianshanicum''
:広楕円球形の大きな果実を稔らす。
:
; 北方気候型
:''P. somniferm'' ssp. ''eurasiaticum''
:果実は大きく卵形もしくは球形。
:
; [[モンゴル|蒙古]]気候型
:''P. somuniferm'' ssp. ''mongolicum''
:果実は大きく球形もしくは卵形。日本で[[大正]]から[[昭和]]の初めにかけて品種改良された'''一貫種'''もここに分類される。
=== 観賞目的のアヘン産生品種 ===
[[画像:Papaver somniferum Belgium.jpg|thumb|right|200px|ボタンゲシ]]
; ボタンゲシ
:''P. somniferum'' var. ''paeoniflorum''
:''P. somniferum'' var. ''laciniatum''
:八重咲きの品種で、[[ボタン (植物)|ボタン]]に似た非常に華やかな花を咲かせる。日本にはアヘン採取用のケシと同時期に渡来し、[[浮世絵]]などにも好んで描かれた。
:var. ''paeoniflorum'' と var. ''laciniatum'' では形態が異なり、後者は花弁が糸のように細く裂けるが、日本ではあへん法により栽培が禁止され、園芸種としての命脈が絶えたこともあるので、和名では区別していないようである。
:日本国外では種小名の ''somniferum'' を略して販売するところもあるので、海外旅行の際、あるいはインターネット等による通販で知らずに種子を購入し、栽培後にあへん法違反で摘発される(発見した[[警察官]]に摘み取り・焼却処分を命じられる)ことが多い品種でもある。
; デニッシュフラッグ Danish Flag
:日本国外で品種改良され開発された品種で、赤地に白い十字模様の入った花弁の縁が細く裂けるといった、凝った一重の花を咲かせる。その様相が[[デンマークの国旗]]に似るので、この品種名が付いたものと思われる。ただし ''P. somniferum'' であるため、日本では栽培できない。
== 人間との関係 ==
===用途===
====医薬品、麻薬原料====
本種の未熟果に傷をつけると出てくる乳液から[[アヘン]]が穫れ、それから精製される[[モルヒネ]]や、モルヒネを化学的に変化させた[[ヘロイン]]は[[麻薬]]に指定されている。ヘロインは完全な麻薬だが、モルヒネは[[鎮痛剤|鎮痛鎮静剤]]として[[医学]]・[[薬学]]的に重要で、特に[[悪性腫瘍|がん]]患者の激痛緩和や[[麻酔科]]、[[ペインクリニック]]での治療に不可欠であり、医師の処方に依る適切な使用に基づけば[[依存症]]に陥ることもないとされる。
====食用====
種子は煎ると香ばしく、[[あんパン]]や[[ケーキ]]に振り掛けたり、[[七味唐辛子]]に混ぜたりするなどして使われる。[[和菓子]]の[[けし餅]]、[[味噌松風|松風]]には必須の材料である。[[中央ヨーロッパ]]から[[東ヨーロッパ]]ではポピーシードで作った餡状のペーストを[[シュトゥルーデル]]、[[シュトレン]]、[[パイ]]、[[ハマンタッシェン]]などの菓子のフィリングとしてよく用いる。モルヒネの含まれていない品種は特に[[ポーランド料理]]では{{仮リンク|マコヴィエツ|pl|Makowiec (ciasto)}}などのパンやケーキに大量に用いられることが広く知られている。東[[インド]]では、種子をすり潰して煮込み料理に加える他、ケシの実の[[チャツネ]]も作られる。
栽培品種にもよるが、種子にはモルヒネが含まれていないか、含まれていてもごく微量である。長年にわたって食用に供されてきた歴史があるため、普通どの国においてもポピーシードは規制対象となっていない。日本においても、あへん法では種子は取り締りの対象から外されており、ゆえに所持していても法的には問題にならない。しかし[[発芽]]すると法に触れるので、日本で販売されているケシの種子は、加熱による発芽防止処理が施されている。
例外として[[シンガポール]]のように、微量であってもモルヒネが含まれていることを問題視し、ポピーシードの使用そのものを禁止している国もある。また[[アメリカ合衆国]]には、ポピーシードを材料に用いた食品を食べたあとに、[[尿検査]]で陽性反応が出て[[解雇]]された、という事例がある<ref>{{cite web|author= Snopes.com|title=Poppy seeds alter drug test results/|accessdate=June 16, 2018|url=https://www.snopes.com/fact-check/poppy-seeds-alter-drug-test-results/}}</ref>。
また、種子には多量の油分が含まれているため、これを絞った{{仮リンク|けし油|label=芥子油|en|Poppyseed oil}}(ポピーシードオイル)も食用や[[石鹸]]の製造、[[油彩]]画の[[絵の具]]を溶く[[描画油]]に使われる。けし油は[[植物油]]としてはかなり高価な部類に入るので、一般的には食用よりはむしろ描画油として使用される。
===栽培===
====栽培法====
ケシは移植することができないので、[[直播]]しなければならない。あぜ幅50cmに作り、9月下旬、10[[アール (単位)|アール]]当たり180[[ミリリットル|ml]]の割合で種子を播く。翌春、[[間引き]]して株間約10cmとする。5月上中旬に[[開花]]。[[花弁]]が落下し数日を経て[[子房]]が十分に発育した頃、子房の[[立隆線]]に沿って浅く切り傷をつけ、アヘンを採取する。
====栽培の歴史====
栽培植物としての歴史は古く、紀元前5000年頃と考えられる[[スイス]]の遺跡から本種の種子が発見されている<ref group="注釈">どのように利用されていたかは不明。</ref>。[[四大文明]]が興った頃には既に[[薬草]]として栽培されていたとされ、[[シュメール]]の[[楔形文字]]板にも本種の栽培記録がある。本種の薬用利用はそこから[[古代エジプト]]を経て[[古代ギリシア]]に伝わったと考えられ、[[ローマ帝国]]を経て[[ヨーロッパ]]全土に広まった。その間に帝国の退廃を映して利用法も[[麻薬]]用へと変貌を遂げ、[[大航海時代]]を経て[[アヘン]]原料として世界各地に広まった。特に[[イギリス]]は植民地であった[[インド]]で本種の大々的な栽培を行い、生産されたアヘンを[[清]]へ[[輸出]]して莫大な利益をあげた。
日本では、[[室町時代]]に[[南蛮貿易]]によってケシの種がインドから[[津軽]]地方(現在の[[青森県]]西部)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある<ref>「ケシ」/伊澤一男『薬草カラー図鑑』([[主婦の友社]])</ref>。その後現在の[[山梨県]]、[[和歌山県]]、[[大阪府]]付近などで少量が産出されたがいずれも少量で高価であり、用途も医療用に限られていた。[[明治]]の半ば、大阪府の農民[[二反長音蔵]]がケシ栽培を政府に建白。地元の大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]で大規模生産に乗り出すとともに、[[品種改良]]に尽力し、モルヒネ含有量が既存種の数倍に達する一貫種と呼ばれる優良品種を作出した。日本は[[日本統治時代の台湾|台湾統治]]開始後、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。[[台湾総督府]]衛生顧問だった[[後藤新平]]は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させた一方で内地では二反長音蔵のケシ栽培を積極的に後援し、日本国内のアヘンの生産と台湾への輸出・販売を[[台湾総督府]]の[[専売制]]とし、莫大な利益を得た。1935年頃には全国作付けが100[[ヘクタール|ha]]に達し、5月の開花期には広大なケシ畑に雪白の花が広がり、非常な壮観を呈した。当時のアヘン年間生産量は15[[トン|t]]に達し、全国産額の50%は和歌山県[[有田郡]]で、40%が大阪府三島郡がそれぞれ占めた。昭和に入ると日本は[[日本統治時代の朝鮮]]や[[満洲]]の一部([[熱河省 (満洲国)|熱河省]]。現在の[[河北省]]、[[遼寧省]]、[[内モンゴル自治区]]の一部)でケシ栽培を奨励し、[[第二次世界大戦]]中は[[満洲国]]、[[蒙古聯合自治政府]]、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]などで大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけ戦費を調達した<ref>{{Cite web|和書|author= [[NHKスペシャル]]|title=調査報告 日本軍と阿片 |accessdate=Aug 17, 2008|url=https://www.nhk.or.jp/special/detail/20080817.html}}</ref>。[[太平洋戦争]]後の1946年、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)がケシ栽培を禁止し、国内生産は途絶した。あへん法が1954年に制定され、翌1955年から栽培が再開された。しかし戦前のような大規模栽培は復活することなく、現在の栽培量は実験室レベルに留まっている。
====栽培の現状====
多くの国がケシ栽培に何らかの規制をかけている一方で、園芸用としてのケシ栽培については規制していない国も多い。[[アメリカ合衆国]]ではモルヒネ原料となる種を含むケシの栽培も種子の販売も自由で、ネット通販で種子を安価に購入できる。英国などヨーロッパでは、一面に咲きほこるケシ畑が春の[[風物詩]]になっている。なお、先進国においては乾燥させた本種の植物体を有機溶媒に浸してアルカロイド成分を浸出させる方法で効率的にモルヒネを回収している。原始的なへら掻きによる採取は、モルヒネの回収率が非効率なこともあり、形としてアヘンを生産する必要のあるアヘン輸出可能国か、非合法生産下でしか行われていない。現在、国際条約下でアヘンの輸出可能な国家はインド、[[中華人民共和国]]、日本、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の4ヶ国に限定されているが、現在も輸出を継続しているのはインドのみであるため、国際条約下においては、インドが本種の最大の栽培地といえる。このほか国際的に紛争が起きている地域で、住民が手っ取り早く現金収入を得るために国際条約を無視して本種を栽培するケースが多い。旧[[ソ連]]の[[中央アジア]]や、長年内乱が続いた[[アフガニスタン]]、[[カンボジア]]、[[中央アメリカ|中米]]などが新たな非合法栽培の中心地となっている。このケースにおいて、20世紀に非常に有名だったのが、いわゆる[[黄金の三角地帯]](ゴールデントライアングル)としても知られる[[ミャンマー]]・[[タイ王国|タイ]]・[[ラオス]]の国境にまたがる地域であるが、2002年以降は同地域での紛争が沈静化し、ようやく同地の支配権を確保できた政府によって他の換金作物への[[転作]]が奨励されるようになったため、低調化している。ミャンマーでは政府や国連薬物犯罪事務所が代替作物として[[コーヒー]]栽培への転換を進めており、仕入れなどで外国企業も支援している<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64327620Y0A920C2000000/ 良品計画がミャンマー産コーヒー ケシ畑からの転換支援]」[[日本経済新聞]]ニュースサイト(2020年9月28日)2020年10月10日閲覧</ref>。
21世紀に入ってから条約無視の不法ケシ最大生産国はアフガニスタンで、2014年時点で全世界生産量の70%が同国産となっており、[[ターリバーン#麻薬問題|タリバン]]など同国反政府組織の重要な資金源となっている<ref>{{Cite web|和書|author= [[フランス通信社|AFP]]ニュース|title=ケシ栽培から脱却できないアフガニスタンの農民|accessdate=May 3, 2011|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2797980?pid=7130010}}</ref><ref name="kyodo20140626">{{Cite news |title= 世界のケシ栽培面積、過去最大に 国連報告、アフガンも増加|date= 2014-06-26|url= http://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062601001551.html|accessdate= 2014-06-26|agency= [[共同通信]]|publisher= [[47NEWS]]}}</ref>。[[国連薬物犯罪事務所]]の発表では、[[2013年]]の世界の不法なケシの作付け面積は約29万7000[[ヘクタール]]に及ぶ<ref name="kyodo20140626"/>。
日本でも、あへん法によってアヘンやモルヒネに対する規制がかけられている。同法は太平洋戦争前の満州や朝鮮で大規模に行われた戦費調達のためのアヘン生産の反省に基づき、国内での大規模栽培を例外なく禁止する意図の元に策定されている。ゆえにその内容は他国に比較して非常に厳しい。現代の日本において、あへん法に基づく栽培許可を受けるには、栽培地の周囲に二重の[[金網]]を張り巡らせ門扉には施錠する、夜間はレーザーセンサーを用いて警備するといった非常に厳しい条件を満たさなければならない。ゆえに実際に許可を得て栽培しているのは国や地方自治体の研究機関や、[[薬科大学]]や総合大学の[[薬学部]]の薬草園([[東京都薬用植物園]]、[[日本大学]]薬学部や[[京都薬科大学]]の付属薬用植物園など)、および国の研究機関から委託されて栽培している数軒の農家が[[北海道]]にあるだけで、国内のアヘン生産量は実験室レベルに留まっている。これではとても国内需要を賄えないため他国からアヘンを輸入している。一方、前述した個人輸入や他の植物に種子が付着して(ケシとは知らずに)日本で栽培・自生してしまう例が少なからずある。
== アヘン法等により他に栽培が禁止されている仲間 ==
ソムニフェルム種の他には[[アツミゲシ]]などのセティゲルム種が規制対象。
; [[アツミゲシ]] ''Papaver setigerum''
: [[アフリカ]]原産。ケシの[[亜種]]と考えられていたが、[[染色体]]を調べた結果別種と判明。ケシよりは小型。[[1960年代]]に[[渥美半島]]で初めて[[帰化]]が確認されたことから命名された。今では日本全国に広がっている。花は薄紫色で、基部は濃紫色。本種からアヘンが生成された記録はなかったが、[[ケシ#栽培の現状|世界における栽培の現状]]で述べられている[[有機溶媒]]を使用した化学的手法によって本種からもアルカロイドの抽出が可能である。
; [[ハカマオニゲシ]] ''Papaver bracteatum''
: [[ペルシャ]]原産。花びらの下にハカマとよばれる小葉が付く。花は深紅で、基部に黒い斑点がある。[[麻薬]]類似成分である[[テバイン]]を含むため、[[麻薬及び向精神薬取締法]]により麻薬原料植物に定義されており、栽培が禁止されている。<BR>[[オニゲシ]] (''P. orientale'') によく似ているが、オニゲシに深紅の花の種類はないなどの点で区別できる。
なお、これ以外の[[ヒナゲシ]]などの観賞用のケシは、麻薬成分を含まないので栽培しても問題は無い。
見分け方などについては、群馬県HP<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.gunma.jp/page/3079.html |title=栽培が禁止されている「ケシ」の見分け方 - 群馬県ホームページ(薬務課) |access-date=2023-05-19 |website=www.pref.gunma.jp}}</ref>、東京都健康安全研究センター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tmiph.metro.tokyo.lg.jp/lb_iyaku/plant/tokyo-keshi/ |title=東京都健康安全研究センター » 不正なケシの見分け方 |access-date=2023-05-19 |website=www.tmiph.metro.tokyo.lg.jp}}</ref>など、行政各所で説明が行われている。日本において、自生しているのを見つけた場合は抜かずに自治体の薬務課や警察などに通報することとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230511/k00/00m/040/051000c |title=野生ケシ、京都で急増 4年で4倍以上 府「抜かずに通報を」 |access-date=2023-05-19 |last=https://www.facebook.com/mainichishimbun |website=毎日新聞 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000596.000005484.html |title=「大麻」・「けし」を発見したときは通報してください! |access-date=2023-05-19 |date=2021-04-26 |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES}}</ref>。
== ケシをモチーフとした作品 ==
*[[悪の華]] - [[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の[[詩集]]。「悪の華」とはすなわちケシであるという説がある。
*[[赤い花]] - [[ロシア]]の[[作家]]、[[フセーヴォロド・ガルシン]]の短編小説。「赤い花」は罌粟の花の事で、罌粟の赤い花を悪魔だと思い込んだ精神病患者が、苦労の末に病室を抜け出して花を摘み取り、そのまま絶命するまでを淡々と描いている。寡作だった[[フセーヴォロド・ガルシン|ガルシン]]の代表作。
*[[けしの花]] - 日本の伝統音楽である[[地歌]]の楽曲。はかないけしの花に女性をなぞらえて恋心をうたっている。
*[[ザ・クイズショウ]] - [[日本テレビ]]系列のドラマで、第2シーズンの劇中に登場。ヒナゲシのコインや絵本、ヒナゲシ畑など。
*罌粟の中 - [[横光利一]]の小説。主人公の梶が旅する[[ハンガリー]]郊外の提に罌粟が生い茂っており、小説の表題となっている。1944年作。
*[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族(1976年の映画)]]- 犬神佐兵衛が巨万の富と犬神財閥を成した基として登場。かつての軍部によって銃や爆弾に匹敵する兵器として使用された。
*[[満州アヘンスクワッド]] - [[2020年]]より[[講談社]]の漫画アプリ・[[コミックDAYS]]連載中の漫画。[[日中戦争]]直前の[[満州]]でケシと阿片密造に手を染めた若者達が裏社会でのし上がっていく様子が描かれる。
*[[ポリスノーツ]] - [[1994年]]に[[PC-9821シリーズ|PC-9821]]用としてリリースされたパソコンソフト。作中にNARC(ナーク)と呼ばれる合成麻薬を精製できる黒ケシ(ブラックポピー)が登場する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==関連項目==
* [[アヘン]]
* [[モルヒネ]]
* [[ヘロイン]]
* [[後藤新平]]
*:[[台湾総督府#総務長官|台湾総督府民政長官]]。[[台湾]]における阿片販売を免許制にしたことで、その漸禁を図った。
* [[二反長音蔵]]
*:農業技術者。ケシの栽培技術改良と品種改良を行い、日本国内はもとより[[満州]]、[[朝鮮]]、[[内蒙古]]でその普及に努めた。'''日本の阿片王'''と言われる。
* [[里見甫]]
*:[[新聞記者]]を振り出しに、[[関東軍]]と結託し第二次大戦中に中国大陸におけるアヘン流通ルートを開拓し、その後、日中両国にまたがるアヘンの一大シンジケートを差配した。戦後は表社会から身を退いたものの、そのとき成した財を用いて政官財を操る首領として裏社会に君臨する。彼もまた'''阿片王'''の名で呼ばれる。
* [[二反長半]]
*:児童文学者で[[二反長音蔵]]の息子。『戦争と日本阿片史』という著作がある。
* [[星一]]
*:[[星製薬]]創業者。二反長音蔵と組みアヘンの日本国内生産に尽力する。
== 外部リンク ==
{{commons|Papaver somniferum}}
* [https://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/04/dl/h0427-1b.pdf#search='%E8%8A%A5%E5%AD%90+%E5%8E%9A%E7%94%9F%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%9C%81' 大麻・けしの見分け方] - [[厚生労働省]]
* [http://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000002126.html ケシ(ソムニフェルム種)(植えてはいけないケシ)] - [[東大阪市]]役所
* 「[https://www.asahi.com/articles/ASN9L3TQVN7WPXLB00K.html 白い花、農家には隠された使途 日本が採った悪魔の戦略]」[[朝日新聞デジタル]]記事(2020年9月22日)
{{Normdaten}}
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抱き枕
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抱き枕(だきまくら)とは、寝具の一種である。「枕」の一種とされるが、頭の下に敷くものや、抱くようにして使用する大型のものを指す。
抱き枕を使用する際は、多くの場合は別に通常の頭の下に用いる枕を併用する。ただし、中には頭の下に敷く枕と兼用できるよう、十分な長さと柔軟性を持つものもあり、折り曲げて使用することもある。
中国における「竹夫人」など、様々な名称・形態で、東アジアには古くから見られる。今日の日本でよく見られるものでは筒状の布袋に綿やスポンジなどの弾力ある素材を詰めたものがある一方、竹籠のように中空の筒状になっているものも見られる。
これらは、仰臥(あお向け)姿勢で使うことはほとんどなく、横向きになって足をもたれさせて使用する。これにより、下側になる足に上の足の重量がかかりにくいようにして寝ることができ、横向き姿勢での安定感を向上させることができる。腕も同様に体の前面に突き出す形になるので、腕が体に圧迫されないようにできる。
抱き枕を使うと、寒い地方では横向き姿勢でできる腹側の隙間を埋めることで暖かく寝ることができ、暑い地方では中空の抱き枕を利用することで、掛け布団と寝床の間に空気の通り道ができ、放熱が促されて涼しく快適に寝ることができる。
日本ではロフテー株式会社が発売した抱き枕が元祖と言われている。
幼児・児童向けには古くから「抱きぐるみ」と呼ばれる大型のぬいぐるみも存在しており、こちらは玩具店や寝具店などで広く販売されている。枕同様に、愛用の抱きぐるみを持つ人も見られる。
アニメ・ゲームキャラクターをプリントした商品(または抱き枕カバー)も専門ショップなどで販売されている。他にもアイドルの写真や、AV女優の裸の写真などがプリントされているものも存在する。電気で温まる抱き枕もある。
抱き枕には、目的などによりいくつかの形状がある。
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抱き枕(だきまくら)とは、寝具の一種である。「枕」の一種とされるが、頭の下に敷くものや、抱くようにして使用する大型のものを指す。
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{{出典の明記|date=2011年11月}}
[[File:Body pillow.jpg|thumb|青い枕カバーで覆った抱き枕(body pillow)]]
'''抱き枕'''(だきまくら)とは、[[寝具]]の一種である。「[[枕]]」の一種とされるが、一般的には抱くようにして使用する大型のものを指すが、最近では頭の下に敷くものと抱くもの両方が一体になったものがある。
== 概要 ==
抱き枕を使用する際は、多くの場合は別に通常の[[頭]]の下に用いる枕を併用する。ただし、中には頭の下に敷く枕と兼用できるよう、十分な長さと柔軟性を持つものもあり、折り曲げて使用することもある。
[[中国]]における「[[竹夫人]]」など、様々な名称・形態で、[[東アジア]]には古くから見られる。今日の[[日本]]でよく見られるものでは筒状の[[布]]袋に[[綿]]や[[スポンジ]]などの弾力ある素材を詰めたものがある一方、[[竹]][[籠]]のように中空の筒状になっているものも見られる。
これらは、仰臥(あお向け)姿勢で使うことはほとんどなく、横向きになって足をもたれさせて使用する。これにより、下側になる足に上の足の重量がかかりにくいようにして寝ることができ、横向き姿勢での安定感を向上させることができる。腕も同様に体の前面に突き出す形になるので、腕が体に圧迫されないようにできる。
抱き枕を使うと、寒い地方では横向き姿勢でできる[[腹]]側の隙間を埋めることで暖かく寝ることができ、暑い地方では中空の抱き枕を利用することで、掛け布団と寝床の間に空気の通り道ができ、放熱が促されて涼しく快適に寝ることができる。
日本では[[ロフテー枕工房|ロフテー株式会社]]が発売した抱き枕が元祖と言われている。
==バリエーション==
[[File:Dakimakura.png|thumb|right|アニメキャラクターをプリントした抱き枕の一例]]
[[ファイル:Dakimakura, 2view s-2424069217.webp|サムネイル|抱き枕カバーに描かれるイラストの例]]
幼児・児童向けには古くから「抱きぐるみ」と呼ばれる大型の[[ぬいぐるみ]]も存在しており、こちらは玩具店や寝具店などで広く販売されている。枕同様に、愛用の抱きぐるみを持つ人も見られる。
[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[ゲーム]]キャラクターをプリントした商品(または抱き枕カバー)も専門ショップなどで販売されている。他にも[[アイドル]]の写真や、[[AV女優]]の裸の写真などがプリントされているものも存在する。電気で温まる抱き枕もある<ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/news/1091166.html 家電Watch]</ref>。
== 形状 ==
抱き枕には、目的などによりいくつかの形状がある。
; 扁平・楕円断面タイプ
: 通常の枕を長く引き延ばした形状(1m~1.8m程度)のタイプ。元々は、ダブルベッドなどで2人で1つの枕を使うためのものであったが、これを1人で抱いて寝るという用途に転用された。
: 健康志向が強まり、抱き枕が複雑な形状(下記の「人間形タイプ」)に進化したので一時はすたれていたが、上記のプリントタイプの枕カバーを使用するものの中身として、再び多用されるようになっている。
: 扁平なため「表と裏」の概念があり、枕カバーもこれに合わせて表側と裏側で別々のプリント(表は着衣姿、裏は脱衣姿など)がされることも多い(特に、アニメ・ゲーム関連のグッズとして作られる場合が多い)。
; 円柱形タイプ
: 直径20cm~50cm程度の長い円柱形状のタイプ。誰もが抱きやすいのが特徴。細めのタイプには2つ折りにして首から肩の下に通すことで、通常の枕の代わりに使えるものもある。
: 中身は[[ウレタン]]や[[ビーズ]]などの他、上記の籠タイプのものもある。
; 人間形タイプ
: より抱きやすいよう、[[枝豆]]のさやのような複雑な形状をしているタイプ。リアルな人間の形というわけではない。
: 一見抱きやすいと思われるが、体格によりサイズや形状を選ばないと、かえって抱きにくいこともある。
: 形状が複雑なので、カバーは専用のものを使うか、本体を丸洗い可能としてカバーなしで使うことが多い。カバーや外布など、直接肌に触れるものは、特に感触のよい素材が使用される。
: 健康志向のためのものがほとんどで、カバーや外布も無地のシンプルなものが多い。
: 特に大きいものの中には、端部に頭を乗せられるものがある(通常の枕が不要のタイプ)。
: 中身はウレタンやビーズが多い。通常、他のタイプに比べてかなり柔らかい。
; 動植物形タイプ
: リアルな動植物の形状を持つタイプ。水棲[[哺乳類]]([[イルカ]]や[[クジラ]]、[[アシカ]]など)が、その形状から抱きやすいものとして選ばれることが多い。植物では、[[バナナ]]や[[豆]]のさやなどがある。
: 中身はウレタンやビーズの他、[[綿]]や[[カポック|パンヤ]]などもある。
; ぬいぐるみタイプ
: 上記の「抱きぐるみ」に相当するタイプ。本来の使用目的が抱き枕ではない、単なる大型のぬいぐるみのことが多いが、中には抱き枕としての使用を前提にして作られているものもある。
: 形状によっては、抱き枕として使うとかえって寝づらいものもある。
: 中身はウレタンか、綿やパンヤ。型くずれを防ぐため、他のタイプに比べると硬めである。
; 馬蹄形タイプ
: 両側に抱き枕のある馬蹄形をしたタイプ。[[抱かれ枕]]®とも言われる。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[添い寝]]
* [[ダッチワイフ]]
** [[ラブドール]]
*[[JKリフレ]]
{{DEFAULTSORT:たきまくら}}
[[Category:枕]]
[[Category:日本の発明]]
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2003-08-27T07:52:10Z
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野比のび太
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野比 のび太(のび のびた)は、藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物で、同作品の副主人公。野比のび助と野比玉子の子。漫画では1962年(または1964年)8月7日生まれ。
漫画では東京都練馬区月見台在住の小学4年生。アニメでは小学5年生だが、原作・日本テレビ版・テレビ朝日版初期は小学4年生だった。原作で唯一、全話登場している。
勉強は苦手、スポーツは苦手、何をしても冴えない少年。物語はのび太の不幸な将来を変えるために、彼の5代目の子孫であるセワシからドラえもんが送られたことから始まる。以降、困りごと(宿題やおつかいなど)があったり、トラブルに巻き込まれる(ジャイアンとスネ夫にいじめられるなど)とドラえもんに泣きつき、ひみつ道具に頼ろうとするも、調子に乗って結果的に失敗することが多い。一人称は基本的に「ぼく」だが、高校生では「おれ」を使っていた。
大長編シリーズおよび映画シリーズでは上に述べた欠点もあるにはあるが、これをカバーして余りある勇敢な少年として描かれる傾向がある。このことは作品内でもスネ夫に、「のび太は大長編だとかっこよくなる」という旨のセリフを言わせている。
テーマソングとして「のんきなのび太くん」(作詞:ばばすすむ、作曲・編曲:菊池俊輔、歌:小原乃梨子)、「あした・あさって・しあさって」(作詞:高田ひろお、作曲:菊池俊輔、歌:小原乃梨子/森の木児童合唱団)と「のび太くん0点」(作詞:マイクスギヤマ、作曲・編曲:沢田完、歌:大原めぐみ、セリフ:水田わさび)、「キミのなかののび太」(作詞:マイクスギヤマ、作曲・編曲:沢田完、歌:堀江美都子)がある。前者はテレビアニメ第2作1期、後者はテレビアニメ第2作2期の曲となっている。
第三者からのよばれ方は、ドラえもんからは「のび太」(原作初期、テレビアニメ第2作第1期・第2期は「のび太くん」)、初期のしずかからは「のび太くん」、スネ夫・ジャイアン・のび助からは「のび太」、玉子からは「のびちゃん」(「のび太」とも呼ぶ)、しずか・ドラミ・ジャイ子からは「のび太さん」、先生・出木杉からは「野比君」(先生は「野比、ノビ」とも呼ぶ)。その他劇場版等のゲストキャラでも「のび太」「のび太くん」や全く別のよび方をする者がいる(例えば南海大冒険ではジャックに「ノビー」とよばれる)。
モデルについては作者の藤本自身であり、スポーツが不得意で、意志が弱く、夏休みの宿題をやっておらず泣き出すのは実体験である。
丸顔に大きな丸眼鏡をかけている。「ぼくの顔はどうして漫画みたいなんだろ」と自分の顔を気にして劣等感を抱いている。
野比家代々の先祖の少年時代の顔はそろってのび太に酷似している(つまり顔立ちは全ての直系長男が特徴として受け継いでいることになる)。大人になると父のび助似の風貌になり(髪型は似ていない)、これも作中に登場した野比家の大人になっても眼鏡をかけたままになっている。
眼鏡を取った顔は(しずかやスネ夫、出木杉に比べて)非常に小さい目をしており、この点は母親似である。のび太の父方の先祖や子孫が丸く大きな目(白目の部分が眼鏡のフレーム並みに大きい)であるのとは対照的である。就寝中に目を覚ました直後などには、眼が「3」や「ε」のような形をしている(いわゆる「寝ぼけまなこ」の状態。ただし、2005年リニューアル以降は「3」や「ε」のような形ではなく、普通の目として描写されている)。
連載初期においては鼻が尖っており、その尖り具合は、未来の姿として描写された青年以降で特に顕著であった(このため青年以降ののび太の顔は、連載初期と中期以降で大きく異なる)。
身長はジャイアンより低く、スネ夫より高い。他のクラスメイトたちと比較しても平均的な体格だが、やややせ気味。129.3cmのドラえもんと比べると高身長。大人ののび太の身長は176.9cmである。
未来ののび太は中年期以降には前述の通り父ののび助のような外見になっており、56歳になったのび太は眼鏡を外している。テレビアニメ第2作1期で大人ののび太は少年時代の特徴を残したまま大人になった印象で、細身で眼鏡をかけているが、テレビアニメ第2作2期における大人ののび太は原作に準拠したキャラクターデザインになっている。原作では細身の大人のび太と中年太りのび太も登場する。
衣服については、原作ではしばしば変更されていた。テレビアニメ第2作1期では、基本的に、襟部分だけが白い、黄色のシャツに紺色の半ズボン姿(一部の例外を除く)。テレビアニメ第2作2期ではほぼエピソードごとに服装が異なっていたが2017年7月28日の「あの名作が帰ってくる!ドラえもん夏の1時間スペシャル」からは再度リニューアルが行われ、黄色もしくは赤色、水色の襟付きシャツを着るようになった。
明るい性格でゆとりがあり、温厚で優しく、他人を深く思いやる心を持っている。臆病者だが正義感は強く、誰かを助けるために勇気を振り絞って危険に立ち向かうことも多い。小さなイタズラはともかく、暴力的かつ理不尽な言動はやろうと思ってもできず、ドラえもんから「きみが悪者になろうなんて思うのが無理なんだよ」と親しみを込めて言われたこともある。大好きな特撮ドラマが物価高騰により制作費を賄えず打ち切りの危機に瀕した際には、ドラえもんの力を借りて続行させたこともある。
しずかの父は「他人の幸せを共に喜び、他人の不幸を共に悲しむことのできる人」とのび太の性格を称賛している。のび太は、父・のび助をプロの画家にすれば裕福な暮らしができると考えて、タイムマシンで過去の世界に行き、学生時代ののび助にプロの画家へのチャンスを与えようとしたことがあるが、その結果自分はこの世に誕生しなくなる(のび助が別の女性と結婚することになるためタイムパラドックスが起きる)とドラえもんから知らされても、「パパが幸せになれるなら僕はそれでも構わない」と泣きながら言ったこともある。彼の優しさを知る者からの人望は厚く、のび太を慕う者たちの中にはのび太を深く想い、自身の存在と引き換えにしてでものび太を守ろうとする者も多く、その姿が描かれているエピソードもいくつかある。
こうしたのび太の優しさを語る上で外せないのが、祖母の存在である。幼稚園の頃に病没したが、のび太自身は鮮明に覚えているほどのおばあちゃん子。とても優しく、のび太が泣いていると必ずどこにいても飛んで来てくれた。それは亡くなる直前まで変わらず続いた。
人を疑うことを知らない純粋無垢な性格だが、そのためしばしばジャイアンやスネ夫に騙され、エイプリルフールともなると友人達から集中的に嘘をつかれるターゲットにされてしまう。一方でお世辞を言われたときは「今まで誰もそんなこと言わないよ」と多少なりとも疑念を抱く態度をとっていた(逆に他の友人はこれを疑わずに信じていた)。
普段は頼りないが、大長編シリーズではときにジャイアン以上の根性を見せて大活躍し、地球の危機を救うことも少なくない。大長編のキャラとはすぐに仲良くなるなど社交的な一面も見せる。自然や動物を愛でる気持ちは人一倍強く、学校の裏山が大好きであり、またそれらに関しての好奇心も強い。捨て犬や猫などを放っておけず、動物の方からもよく懐かれ、犬やネコの他、アリや幼木、恐竜、ゾウ、ライオン、タンポポ、果ては石ころや掃除機台風、雪(雪の精霊)や山(学校の裏山の心)にまで慕われたこともあった。また、絶滅寸前のニホンオオカミを救ったり絶滅動物のための島を作ったりし、『ドラえもん のび太と雲の王国』ではこれらの行動が結果として地球を救うことにも繋がった。動物や植物やロボットを傷付ける者に対しては怒りを露わにすることがあり、『ドラえもん のび太の南海大冒険』では地球上の生物を軍用の改造生物に作り上げ、様々な時代に売り飛ばそうとする時間犯罪者達に激しい怒りを見せており、拳銃で生物の改造装置を破壊している。『ドラえもん のび太とロボット王国』でもロボット達から感情を抜き取ろうとするデスターに対して怒りを見せており、彼らの前で「勝手過ぎる!」と訴っている。
竹を割ったようなさっぱりした性格で大体、細かいことにはこだわらない(ただし、格好いいものや流行っているものには目がない)。
勉強もスポーツも苦手だが、物事を楽しむのが得意で想像力にも長けており、ドラえもんの出す道具を器用に使って様々な空想を実現させて友人達を楽しませることも多い。その空想の豊かさは、普段はのび太をバカにするスネ夫とジャイアンも賞賛を送る程のものである。道具を使いこなすことについては非常に応用が利き、持ち主のドラえもんにも幾度となく「道具の使い方に関しては君は天才だ」などと言われている。中学時代・高校時代の自分自身と、学業成績不振の責任をなすり合う事態になっても最後には「少なくとも高校まで行けることは確かになった」とポジティブに思考していた。反面「幼稚園のプール」と言われただけで「子供を泣かして追い出される」というところまで想像するなどネガティブな思考をしてしまうことも多い。
ドラえもんや彼の持つひみつ道具に頼りきりだが、時としてそれを反省し、自分に降りかかった問題や困難などを自力で解決するべく諦めずに奮闘することも多い。特に道具を悪用して失敗してしまった際などは自責の念に駆られ、正しいやり方でけじめをつけたり、自分の非に気付いた時には言い訳をせずに謝罪をするなど誠実さを見せることもある。
怠け者で面倒くさがり屋である反面、人の役に立ちたいという気持ちは強く、特にしずかを思うあまりに彼女を役に立ちたいという気持ちを起こし、自己の不運が原因でおかしな方向に進むことも多く、道具をねだられるドラえもんに鬱陶しがられることもある。また、この事例だけでなく人の役に立とうと果敢に努力をするが、これらも自己の不運が原因で逆に人に迷惑をかけてしまい、周りから恨まれることが何度もある。
一方で、ひみつ道具を上手に活用し、人の役に立ったエピソードもある。一例として、22巻収録『うつしっぱなしミラー』では、「いいことを思いついた」と言うや否や、ドラえもんからうつしっぱなしミラーをもう1枚借り、転校生とその父親の船員(客船の乗組員で、その船のブリッジにはどこでもドアで乗り込んだ)に互いの相手の姿を映したミラーを持たせ、テレビ電話のように活用して転校生を元気づけた。
また、6巻収録『さようなら、ドラえもん』では、勝つはずのない相手だと思っていたジャイアン、剛田武に対して、「ドラえもんが、安心して、帰れないんだーっ!」と言って果敢に戦う姿が描かれている。爽やかな性格の反面、やろうと思ったことはやり遂げようとすることが多い。ジャイアンにはボロボロになりつつも勝利したという諦めない想いもあることがよくわかるエピソードである。
原作者の藤子・F・不二雄は、「のび太にも良いところが一つだけある。それは彼は反省するんです。(中略)いつまでもいつまでも今より良い人間になろうと努力するんです」とのび太の長所をあげている。
極めて意志薄弱な怠け者。都合が悪くなると、すぐ他者(主にドラえもん)に頼る。何か困ったことに出くわすと、大抵は「ドラえも〜ん!!」と泣き叫んでドラえもんに泣き付き、彼のポケットをあてにする。しかもひどく無気力で、自分のやりたいこと以外は、やらねばならないと解っていても、進んでやろうとはしない。道具を使って頭の中身は現在のまま幼児時代に戻った時などは、「天才少年」と誉められて浮かれ、調子に乗ってそのまま何の努力もしなくなり、タイムテレビでみた未来予想では元より頭が悪くなってしまったこともあった。
極端なほどの面倒くさがり屋であり、「トイレに行きたいけれど面倒くさいからどうしよう」と尿意を我慢しながら延々と考えるほど。
昼間からでも眠くなるようで、学校から帰って疲れているからと眠り、友達と遊んでまた疲れて眠り、一日が終わる頃にがっくりして眠り、24時間の半分寝ていると言われる。寝つきは異常なほど良く、通常は横になると同時に眠りにつくことができるなど、眠ることにかけては尋常でない才能を持つ(#睡眠を参照)。
注意力が極めて散漫。ぼんやり道を歩いていて石につまずき、空き缶で滑って転び、足を踏み外してドブや工事現場へ転落するなどは日常茶飯事である。その上持ち前の運の悪さも重なって、ジャイアンとスネ夫にいじめられる、野良犬に襲われる、どこからともなく飛んできたボールが顔面を直撃するなど、道を歩いているだけで酷い目に遭うこともしばしばある。
大の勉強嫌いであり、自主的には予習・復習・宿題はまずしない。授業中の居眠りや遅刻、宿題忘れ、成績不振などが多いことから母の玉子や先生に叱られることがしばしばある。寝坊などで遅刻することも日常茶飯事だが、本人は寝坊を悪いと思うどころか反対に「遅刻をしても怒られない方法は」や「先生を遅刻させる方法は」「日本中の時計を止める方法は」などと無意味なことを考えるばかりで、「『どうしたら寝坊しないか』とは夢にも考えない。困ったものだ」と、作中のナレーションでも突っ込まれている。食わず嫌いで、一度できないと決めてかかると頑として努力を拒む。そのため、やればできるにもかかわらず、やる気を出さないためにできないことも多いため、自身の母である玉子や先生から長時間にわたり説教を受けることは日常茶飯事。
例えば活字の本はまともに読むことができなかったが、道具を使って出木杉に本を朗読してもらい、本の内容に興味を持った後は自力で読むことができた。活字嫌いに関しては、本を「手にとっただけで頭がズキンとして」「開くと熱がでて目がまわってはき気がして」「二、三ページで意識不明」と述べたこともある。
先生の話は全く聞かない(上記の通りむしろ授業中の話を聞いていないというよりも授業中に寝ているといった方があてはまる)。テストで0点を取る頻度があまりに多い為、先生に「どうしてそんなに0点ばかり取るんだ?」と聞かれた際には無表情で、「先生がくれるから...」と答えており、「まるで反省しとらん!」と激怒された事もある。大変忘れっぽく、嫌なことはもちろん重要なこともすぐ忘れてしまう。
「魚は元々陸上の生物であり海水浴に出かけてそのまま居着いた」「割り箸で筏を作る」など、発想が極めて幼稚であり、ジャイアンとスネ夫はもちろん時にはドラえもんにすら馬鹿にされることがある。
言い訳や屁理屈は異常に上手いが自信家の割には軽率で油断しやすい。また、思考が極めて単純かつ妙に常識に囚われやすく、柔軟(ひみつ道具の使い方を除く)な考えができず、すぐ調子に乗ってしまう(また、人の意見にも流されやすい)。それが原因でさまざまなトラブルを抱えることがしばしばある。よけいな口を滑らせてジャイアンを怒らせ殴られたり、持っていたひみつ道具を奪われたり、調子に乗って軽はずみにできもしないことを広言し、困り果ててドラえもんに泣きつくことも多い。また、「できなかったら鼻でスパゲティーを食べる」「目でピーナッツを噛む」と無茶な約束をし、結局はできない(不可能だったわけではなく、のび太の優しさが災いしたといえる場合も多いが)ため、ドラえもんに泣いて懇願し、「できることかできないことか考えてからしゃべるもんだ!」と怒った彼と言い争いになることも。自分の思い通りにならないと感情的になり、両親やドラえもんに叱られたときに声を荒らげてしまい、ドラえもんと喧嘩することもある。また、スネ夫とジャイアン、大好きなしずか(※ただし、アニメ版ではしずかに対して声を荒らげるシーンの描写は少ない)に対しても声を荒らげる場合もある。しずかにとんでもないイタズラをし、面白がることもある。
その場の空気を読まないことが多く、見当はずれなことを言ってしまい、ムードを盛り下げてしまうことがある。また、初対面のおばさんに対して(ひみつ道具の影響もあるものの)サルと言ったり、草花を植えたジャイアンに対し、みんなが彼を誉める中、のび太は「がらにもないこと」といい、ジャイアンを怒らせてしまったこともある(ほうほうのていで逃げ出した後に、「ぼくはつい本当の事を言う」とボヤいている)。
ジャイアンやスネ夫に濡れ衣を着せられることも多い。特にスネ夫に「ガラスを割った」という濡れ衣を着せられた時は「犯人を突き止めてやる」と言って、過去に行ったものの結局は本人の自己責任であることが判明し、罪悪感を感じたスネ夫が謝りに来た時には自分が犯人だったと言えるはずもなく「過ぎたことだから」と言って許した。
ひみつ道具を調子に乗って使い過ぎたり悪用してしばしば失敗している。 また、勝手にひみつ道具を調子に乗って使った後に玉子と出木杉と先生と神成の4人も被害者になることもあり、理不尽なお仕置きをされたこともある。
ジャイアンやスネ夫にいじめられた際に逆襲として、ドラえもんと共にひみつ道具で彼らへ罰を与えるなどの一種の道理的面もある。だが、自己の不運で、彼らに返り討ちに遭うこともある等、自己の運により道理すら報われないこともある。
心を痛めやすく、ドラえもんの軽い気持ちで言った一言でひどく落ち込むこともよくある(大半は昼寝しながらすぐ忘れる)。落ち込んだ時には、「部屋の隅で壁に向かい、腕を組み、胡坐をかく」といったポーズをよくとる。すぐに泣き、のび太の号泣がドラえもんに道具を出させるきっかけや、物語の騒動の発端になることも多い。 また、ひみつ道具を持つと独裁者のような振る舞いをすることもしばしばある。 異常に臆病であり、怖い話をすると失禁したり、靴も履かずに外に逃げ出したりする。怖い夢を見ておねしょをしてしまうこともしばしばある。びっくり箱を開けただけでもすさまじい悲鳴を上げて逃げ出し、ドラえもんからも呆れられる。また心配性で、タイムマシンで過去や未来の真相を確かめに行くこともある。
テストの成績は極めて悪く、基本的にクラスで一番の劣等生として描かれているが、未来のノビスケの日記によれば「ビリから二番」であるらしい(作中でのび太よりも成績が悪い児童が描かれたのは第23巻「ぼくよりダメなやつがきた」の多目くんのみ)。0点の答案を貯め込み、それらが玉子に見つかり叱られることも多い。かつては5回に1回の割合で0点を取っていたが、後には0点を取る確率が10回に1回の割合へと下がっており少しずつ状況は良くなっているという。○×問題で全20問すべてを間違えたことがある(数学的に無作為に回答した場合、20問全部外す確率は2、つまり1,048,576回に1回の割合)。
しかし、たった1度だけ、ドラえもんの道具に頼るなどのカンニング行為も一切行わず、自分だけの力で100点満点を取ったことがある。しかもその際、出題されていた問題は、中学生が習う一次方程式など、小学生が解くには難しすぎる問題なども含まれていたが、のび太は全問正解していた。自分の実力で100点を取った際には、母親の玉子は感動して泣き、答案用紙を額縁に入れて飾ろうとした(実際生涯を通して一度しか取ったことがないといわれる)。10点で「思ったよりよかった」と喜び、30点で玉子から「まあ、30点もとったの。よかったわね」と褒められる。
これまで取った高得点は、前述の100点(に加えてドラえもんの道具を使った不正でもう一度100点を取っている。さらにアニメオリジナルエピソード「宇宙人を追いかえせ!」(2009年11月13日放送)ではまぐれで100点を取っている)の他、28巻収録「大ピンチ! スネ夫の答案」では10点。20巻収録「アヤカリンで幸運を」では、しずかの幸運を分けてもらうことで30点。37巻収録「のび太の0点脱出作戦」では、時門で時間の流れを遅くしつつ自らの正当な努力で65点、未収録「人間カメラはそれなりに写る」ではひみつ道具なしで65点。39巻収録「具象化鏡」では65点。36巻収録「サカユメンでいい夢みよう」では、まぐれだが出鱈目な解答で95点を取っている。『ザ・ドラえもんズ スペシャル』の3巻収録「戦国の覇王」では歴史のテスト勉強の為にタイムマシンで戦国時代を冒険し、85点を取った。
漢字が苦手で、自分の名前の「のび太」を「のび犬」と書くことが一度ならず何度かある。「太」を書く際に正しい文字を忘れ、「大」の右上と内側の両方に点を書く場合もあるが、本人は「両方に点があるならまあいいだろ」と言い、叔父宛の手紙にそう書いたのをそのまま出した。ほかにも「ミラー怪人」を「ミラー貝入」、「血」を「皿」と、「配」を「己酉」と、「今日」の「今」を左右逆に、「日」を「目」に、「恋人」を「変人」に書き間違えている。また、漢字だけでなくひらがなさえもしばしば間違う。例としては、「よろこぶ」を「よろころぶ」、「おじょうさん」を「おしょうさん」、「はなれててくださいな」を「はなれててくだちいな」、「図かん(図鑑)を」を「図かんお」、「今日は」を「今日わ」などがある(しかし日本語の使い方を間違えることは少ない)。2年のときの作文は読めないほど汚く(しかもたったの1行)、赤ペンで「もうすこしがんばりましょう」と書かれていた。
計算にも非常に弱く、「1+1=11」「4×2=6」「15-3=8」「6×7=67」「6×6=63」 と答えたり、8×2ができずに「ええと...たくさんになるんだ」と言ったりしている。しかし、その一方では「 2 3 ÷ 0.25 ÷ 0.8 = 3 1 3 {\displaystyle {\tfrac {2}{3}}\div 0.25\div 0.8=3{\tfrac {1}{3}}} 」という難解な答えを正解に導いたり、本来中学校で習うはずの一次方程式「 3 8 x = 9 10 {\displaystyle {\tfrac {3}{8}}x={\tfrac {9}{10}}} 」を解いたこともあり、100点を取っている。日本列島を巨大化させた21巻収録「ひろびろ日本」では、通学時間が「いつもの15分の10倍で150分、2時間半!」という計算を一人で暗算でやっており、タイムマシンに乗り江戸時代での生活を試みた30巻収録「昔はよかった」でも、目的地までの距離を「三里=12km」と、大まかではあるが尺貫法からメートル法に換算していた。
ドラえもんの道具「正確グラフ」による知力の計測結果はしずかの1/6、スネ夫の2/7、ジャイアンの1/2であった(しかし、ジャイアンに関してはジャイアンが知らない磁石の原理を知っているという場面もある)。人生やりなおし機によって現在の知力・体力のまま4歳のときの人生をやり直すエピソードでは、天才教育研究会なる架空団体の分析で小学2年生程度と絶賛される(本来ならのび太は4年生レベルであるべき)。この時、やり直し状態で行方を見守らせたところ小学4年生になっても能力は元のままだった(それ以下)(#短所参照)。
高校は「もののはずみで合格」し、一浪のすえ補欠合格で大学までは行けることがわかっており、知力には成長のあとが窺える(人間性はあまり成長していなかった)。大人ののび太の台詞によると「ぼく自身、あとで苦労したからね」とのこと。
勉強や科学といった分野を理解することも不得意で、相手が説明してもほとんど把握できないことが多く、物覚えも悪い。その一方で、聡明な一面を見せることもある。大長編の『のび太と鉄人兵団』ではミクロスに対して、かなりひねったクイズを出題する描写が二度ほど見られた。前述のように、ひみつ道具の使い方では大変な機転を利かせて持ち主のドラえもんですら思いつかない応用を見つけたり、ドラえもんでさえ気づかない意外な効用を指摘することも。プラス4巻収録「交通標識ステッカー」では、道路標識の意味を正確に理解し、それを応用しながらジャイアンを翻弄していた。ドラえもんが自身のもとへ来た目的を聞いた際、自分の将来(特に結婚相手)が変わった場合、それによってセワシが生まれない可能性(タイムパラドックス)を指摘している。悪知恵にも長けた一面もあり、度々悪事をしでかし大騒動に巻き込むことがある。また、『のび太の魔界大冒険』では、出木杉英才に魔法のことを自分から聞きに行き、彼の魔女狩りにまで踏み込んだ細かい解説を理解していると思われる描写がなされている。
基本的に運動能力は極めて低い。泳ぎも全く出来ないカナヅチ。非力でけんかも弱い。ジャイアンとスネ夫に「運動神経ゼロ」とバカにされ、スタミナもなく、学校の体育のマラソンでものび太一人だけがバテて遅れる。そんな短所を積極的に努力して改善するようなことはなく、例によってドラえもんに運動が上手くなる道具をねだってばかりいる。
ドラえもんの道具「正確グラフ」によると、筋力はジャイアンの3/10、スネ夫の3/7、しずかの3/5(ただしすぐ後のコマでは1/2となっている)。
野球を好んでしている描写はあるが、草野球の成績は打率1分(100打数で1安打)、防御率は2試合2イニングで405.0(ただし、これは失点をすべて自責点であると仮定したものである)、エラー多数。守備位置はライトを守ることが多い。
一方、映画『のび太の銀河超特急』では、1人対4人という絶体絶命のピンチに陥ったにも拘らず、空中を1回転しながらピストルを連射、全員に命中させるというアクションをしたことがある(後述・#射撃)。
0.93秒で眠りにつくことが可能。もしもボックスで作った眠ることがもっとも価値のある世界では、この速さはオリンピックの睡眠・昼寝大会でも金メダルを獲得できるほどの速さだとされ世界記録レベルらしい。アニメ版では0.3秒で眠りについたこともある。
あまりに昼寝をしすぎるとさすがに目がさえて眠ることができなくなることもあり、そんな時はしかたなく勉強やテレビを見たり街中を散歩したりすることもある。
一日の睡眠時間は12時間のようである。
射撃に関しては驚異的な命中精度と早撃ちの技術を持つ。これは勉強中に鼻糞を飛ばした際、電球に偶然命中し、試しに的を作り飛ばして、その能力に気づいた。ただ、のび太が射撃が得意だと正式に設定されたのは、てんとう虫コミックス12巻の「けん銃王コンテスト」で、それ以前は下手だったという描写もある。早撃ちではプロの殺し屋・ギラーミンに一騎討ちで勝っている。これに関しては本人も「僕が負けるはずがない」と自負するほどだが、同時に初対面であるギラーミンの技量を一目で見抜き、長期戦は不利と悟り一瞬で片を付ける方法で勝負に出た。映画「のび太と鉄人兵団」においては、護送されるリルルを拘束する鎖、つまり「遥か上空を移動する1本の鎖」を、スコープも無い単純な片手用の銃で一発で撃ち抜いている。ヤドリの親玉が憑依した巨大ゴーレムにわざと掴みあげられ、ヤドリがゴーレムから飛び出して襲いかかってくる瞬間を早撃ちで倒したこともあった。また、モルグ街の数十人のアウトローを独りで撃退したこともあれば、ドリーマーズランドの西部の街で保安官になったりもしている。この時一つの空き缶に対し、ピストルの弾丸6発を地面に落ちる前に連続で命中させるという離れ技も見せている。モルグ街での戦闘の際には本物の拳銃を撃っており、弾丸は肩と右横腹に命中した。致命傷には至っていないが、相手を負傷させてしまった罪悪感と出血を見たことで失神してしまい、「強いのか弱いのか、さっぱりわからん」と評されている。
本人は「西部劇時代のアメリカに生まれていればきっと名ガンマンになれただろう」と夢想することがあるが、ドラえもんいわく「現代では全く役に立たない能力」と評されている。
「おどるチョウ」「ギャラクシー」「銀河」「ほうき星」「のび太のママ」などという自作技を長期間かけて考案するほど、あやとりに入れ込む。ただしあやとりが好きなのは、こよなく愛しているというよりも「金もかからず、疲れず、腹も減らないから」とのこと。もしもボックスによってできた「あやとりの世界」では契約金3000万円(アニメ第2作第2期では1億円)で「日本プロあやとり協会」からスカウトされるほどの腕前。また同様のエピソードにおいて、家族が感心するプロの技を「てんで幼稚」と言ってしまえて、実際瞬時にプロ並みの大技をやってしまうことから、のび太=天才少年だということが瞬く間に広がったほか、プロのスカウト担当者から「世界チャンピオンになれる」と言われたほど。ひみつ道具の看板であやとりの家元になったところ、家一杯になるほどの弟子が来たこともある。ただ、ジャイアンやスネ夫をはじめとする友人に馬鹿にされたり、父ののび助からは「男の子らしくない遊び」、母の玉子からは「何の役にも立たない」と言われたり、空き地でみんなに見せようとした時にはすぐに退散されるなど、基本的に周囲からの受けは極めて良くない模様。
連載初期は、特技としてピーナッツを連続で空中に放り投げ、すべて口で受け止めるという隠し技を持っていた(「たった一つの特技」と自称)が、友人たちの受けは今ひとつだった。
漫画やアニメについては、高学年向けや大人向けの作品、少女漫画や少女アニメであっても分け隔てなく親しみ、造詣も深いようである。「ぼくがおもしろいと思ったマンガは必ずヒットする」と自分の審美眼に自信を持っている。本人だけでなく他人からも漫画評論の目利きも見込まれていて、ジャイアンがジャイ子の漫画の批評をのび太に求めたこともあった。だが、本人は絵も下手で漫画を描く才能もまったく持っておらず、ドラえもんの道具で自身の作品を掲載したマンガ雑誌を制作した時は誰にも見向きもされず、スネ夫たちに張り合ってアニメを自作した際もアニメーカーを使うことでドラえもんに制作を丸投げしてしまっていた。
ゴム風船のスペースシャトルを工作したこともある。また、鉄道模型の寝台車にベッドを組み込むといった細かい作業もこなしている。また「ハツメイカー」の出す設計図に従って、彼が作った発明品はすべて機能した。道具を探すのが得意で見つけにくい所でも簡単に見つけてしまう。
初期の頃は、足の指で器用にインベーダーゲームらしき物をしていた、また、足の指でけん玉をしていたこともある。
当初の歴史では、大学受験にも就職にも失敗し、ついには起業する(雑誌掲載版では父親の会社を継いだ)。しかし起業から5年後、自分で使用した花火の不始末により社屋が炎上、さらには2年後に倒産。孫の孫の代にまで残る借金を残し、さらにはジャイ子と結婚して子供も6人もうけている運命とセワシが説明したが、ドラえもんの登場により、将来は憧れていたしずかと結婚するように運命が変わる。
なお、上記の将来の設定は小学四年生版の第1回「未来の国からはるばると」によるものだが、小学三年生版の第1回「机からとび出したドラえもん」ではやや状況が異なる。大学浪人後は一応どこかの会社に就職できたようだが、大失敗をしでかしてクビになり、ゴムひもや歯ブラシの訪問販売員(当時の感覚では「押し売り」と呼ばれる職業)となった。その後、宝くじに当たり会社を設立したものの、1年で倒産し、その時の借金がセワシの代まで残っていることになっている。
その後の改変された歴史では、こちらでも大学受験には失敗するものの、二度目は補欠合格、将来はしずかと順調に交際することになるが、ある日未来のしずかが雪山で遭難したとき、(未来ののび太は風邪で寝込んでいたため)現在ののび太が大人になって現地に助けに行くが、失敗ばかりする。その後「そばについててあげないと、あぶなくて見てられないから」という理由で、結婚を承諾される。結婚式前日時点で運転免許を取得済。赤いスポーツカーを乗り回す等、経済的にも不自由していない点が書かれている。後に静香との間にノビスケを設けた。また、ジャイアンやスネ夫、出木杉との友人関係も健在であり、酒の席で歌いだしたジャイアンに「へたくそ」と野次を飛ばしていた。
50代後半ののび太は、ドラえもんとは少年期同様に会話している。そのため、ドラえもんが20世紀の野比家を離れた後も、二人の交流は続いているようである。両親については、45年後(1970年の連載開始を起点とすると2015年)の時点で健在かどうかは、具体的な描写がないため不明(テレビアニメ第2作第2期「45年後... ~未来のぼくがやって来た~」〈2009年12月31日放送〉では、50代後半ののび太が現在の母親の手料理を食べ、涙を流す場面が存在する)。ノビスケについては結婚したとのこと。
なお、原作では未来ののび太は容姿が大きく変化している(のび助に似ている容姿)。また、何らかの理由で視力が回復しており眼鏡はかけていない(本人も「なおったのは近眼だけ」と発言している)。
アニメのみで、環境保護局の自然調査員に就職するとの設定がある。
しずか、ジャイアン、スネ夫の三人とは幼少期からの幼馴染みであり、出木杉も含めて成人後も親交がある。
ジャイアンとスネ夫からはいじめや嫌がらせを頻繁に受けている。その為、しずかの家に行こうとしているところをジャイアン一人に邪魔をされたり、ジャイアンとスネ夫の二人に邪魔をされる事がある。のび太自身も仕返しをしようと企んだことがあるが、ことごとくしっぺ返しを食らっている。しかし、ジャイアンとスネ夫はのび太が先生に生徒として完全に否定された際、同情したり、のび太が見えない所で助けようとするなど憎からずも心のどこで友達だと思っている節があり、真の友とも言える描写もある。
クラスメイトの親や親族からもバカにされることがあり、スネ夫のママに至っては問題行為の原因がスネ夫側にあった(スネ夫から馬鹿にされた挙句、ピコピコハンマーで何十回か殴られたため逆上したのび太がピコピコハンマーで一発殴っただけ)にも拘らず、スネ夫が自分の非を棚に上げて泣き付いたことで「野蛮!残酷!」と評し、玉子にそのことに対するクレームの電話を入れ、玉子にのび太を怒らせる行為をした(のび太は弁明しようとしたが、玉子は「あんたが悪い!」と決め付けて一蹴した)。第三者からもジャイアンやスネ夫を始めとするクラスメイトが起こした問題行為(偶然の場合がほとんどだが、時折故意に起こされる場合がある)の責任を押し付けられ、怒られることが多い(塀に落書きした罪を押し付けられて住人に殴られる、ボールや石などで家の窓ガラス割った罪を押し付けられて住人に怒られるなど)。
こうした背景から主要人物や第三者からはトラブルの原因をのび太と勝手に決めつけられて怒られることも多く、冤罪と判明しても、ドラえもん以外のほとんどの人物はこれに対する謝罪を道具無しですることはあまり無いが、例外的にきちんと謝罪をされたこともある。
また、ドラえもんからひみつ道具を手に入れた際、自分をいじめたクラスメイト(主にジャイアンとスネ夫)や非常識な者(道端にゴミやたばこを捨てる者、乱暴な運転をする者等)、そして理不尽な理由で悪者扱いした大人(玉子、神成さん等)に復讐する事がある。
大長編では行く先々でゲストキャラや動物達に慕われたり、彼を否定する発言が多い友人や家族とは違い、のび太のことを高く評価され、「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」や「ドラえもん のび太のワンニャン時空伝」では英雄や神として称えられた。原作でも、命を助けた女王アリや他のアリ達からも感謝されたり、進化させて3億年前で暮らせるようにした野良犬たちから“自分達に知恵を授けてくれた神”と崇められて神殿つき神像が造られるなどしている。
出木杉については、彼が女子にもてるうえにしずかと親密であることでライバル視することも多いが、彼の優秀さ・誠実さを素直に認めている節もあり、見習って自分を変えようとすることもあったり、時折なにかの相談にのってもらったりもする。出木杉自身ものび太の優しさや潜在的な能力を認めており、のび太とは良き友人関係と言える。ただし、作品によっては彼とも本気で敵対した回も存在している。なお、成人後も家族ぐるみで交際が続いている様子である。
別時系列での自分自身とも、中学時代・高校時代など近未来の場合には、学業成績不振の責任を巡って対立することがある。
ドラえもんについては、困った時にはドラえもんに頼り切ったり、喧嘩する事もある。ドラえもんものび太の行動に呆れたり、毒舌を吐く事もあるが、基本的には仲が良く、「親友」と呼び合う程である。「のび太のブリキの迷宮」ではロボットに不信を抱くサピオから「ロボットなのに友達?」と言われた際、「ロボットでも人間以上の友達さ。」と返したり、「のび太とロボット王国」では「機械(ロボット)に感情は必要ない。」と言い放つデスターに対して「ドラえもんは機械じゃない、友達だ!」と訴える等、種族を越えた固い友情で結ばれている。
名前の呼称としては担任教師(呼び捨て)と出木杉ほか一部のクラスメイト(君付け)から苗字で呼ばれ、他の者からはたいてい下の名前(両親と男の子達からは呼び捨て、女の子達からはさん付け。原作初期およびアニメ版のドラえもんからは君付け)で呼ばれている。ただししずかに関しては、アニメ第2期第1作の初期ではのび太を「くん」付けで呼んでいたことがある。
小遣いは毎月500円。しばしばお金が足りなくなって、両親に小遣いの値上げをねだり、断られるたびにドラえもんに泣きついて何か道具を出してもらう。ドラえもんは基本的には「お金を出す道具なんてないと、何度言ったらわかるんだ!」とつっぱねるが、のび太をこらしめるために後でしっぺ返しを食らう道具をわざと貸し出すこともある(円ピツ、未来小切手帳など)。道具を使うことに関しては機転がきき、道具を使って金もうけをすることについてはとりわけ発想が富む。
どこでもドアをはじめ、移動系や透視系の道具を使うとほぼ毎回しずかの入浴に出くわし、「のび太さんのエッチ!!」と言われてお湯や洗面器などを投げつけられる。また、どこでもドアで源家に行こうとすると、ほぼ無条件でしずかが入浴中の風呂場につながってしまう。このことに対しのび太は、「習慣は恐ろしい」と語っている。
自分がいつも朝遅刻して廊下に立たされたり先生に叱られていることは悪いことであると自覚しているようで、自己嫌悪に陥ることもしばしばある。よく遅刻する理由は「学校が遠すぎるから」と自己分析しているが、のび太の足では家から学校まで15分程度の距離のようである。ただし、偶然犬の尻尾を踏んで犬に追い掛け回されたり噛み付かれたりすることが少なくなく、その対処に時間を費やしてまともに登校できないことも多い。
歌手の河合可愛(かわい かわい)、丸井マリ、星野スミレ、伊藤翼の大ファン。
ジャイアンの歌手活動のファンクラブ「剛田武ファンクラブ」会長(半ば押し付けであるが)。
上述の野良犬たちの国を含め、ドラえもんのひみつ道具を使って独自の国を作り上げたことがある。しかし、これらの国は崩壊してしまったり、のび太が自主的に元の生活に戻るなどの理由で最終的に消滅している。
勉強、宿題、運動(水泳に関しては、夏になると「あー練習しておけば良かった!」と昨夏を後悔したり「今年こそは!」と思うことが多い)全般。お使いや草むしりなどの面倒なことも苦手(できないというより怠惰な性格とやる気のなさから失敗することが多い)。料理や家事、ジャイアンの歌声、幽霊や怪談も苦手。かなりの風呂嫌いで、1、2週間に1度入る程度という時期があったが、連載・放送が進むにつれてそのような行動は見られなくなった。読書も嫌いで、活字の本は3ページも読まないうちに眠ってしまったり、1ページも読まないうちに昏倒したりする。
しかし、やる気があれば勉強以外の当たり前のことは普通にできる。また、複数のことに集中することや人の指示を一度で聞き取ることは普通にできるか結構得意であるかのどちらかで(これらもやる気がないと中々うまくできない)、自分に興味のある分野だとその限りではなく(のび太だけに限らず)、H・G・ウェルズのSF小説「透明人間」に関心を持ったり 、恐竜化石発掘に関する書物 、宇宙飛行士の実録 など専門的な書籍に熱中したり、シャーロック・ホームズ や『ロビンソン漂流記』などを読み耽っている話も見られる(知識はあまり身についておらず、技能ならともかく、興味のある分野でも優れた頭脳を発揮できるという訳でもない)。
また、ひみつ道具(タケコプター、空中シューズなど)で空を飛ぶ(歩く)ことが多い割には、自分で「高所恐怖症」と言っている。基本的に虫も苦手ではないがカエルやヘビ、毛虫、クモ、カマキリ、トカゲなど一部の虫や生物にかなり怖がっていた(毛虫は竜宮姫子やしずかの背中についたものを払っていることがあり、基本的にそれ以外の話ではそれほど怖がってはおらず、大蛇やクモ、トカゲ(恐竜などの姿が酷似した生物も例外ではない)も何度も見たことがあるがドラえもんのネズミ嫌いのように外見だけで怖がることは少なく、ゴキブリ等の上記で述べた以外の虫も平気。もっとも、自身の目の前に突然現れたものに驚いて気絶する癖がある)。
歯医者、注射やコロン、飲み薬も嫌いだが、後には大量の錠剤型道具を一度に飲む描写も多く見られる。一部の話では地震もかなり苦手であったが ドラえもんの道具によって震度7でも平然としていられる程の耐性を身に付けている。同様に、雷までも道具によって克服している(のび助や玉子はその道具により黒コゲにされた)。
絵が大の得意な父とは正反対で大の苦手であり、そのためジャイアンとスネ夫に馬鹿にされることがある。また、美術評論家であるしずかのおじに自分の絵を評価してもらうが、幼稚園の頃描いたものだと勘違いされ、ドラえもんには犬の絵を猫の絵と勘違いされたり、幼稚園のころ描いた絵を「今とあまり変わらない」と言われたりする。『のび太の創世日記』では、ドラえもんが恐竜の絵をトカゲの絵だと勘違いしている。自分でも絵の下手さは自覚しており、しずかをモデルに人物画を描いた際には誤魔化してしずかに見せず、後で自分の絵を「こんなの見せたらどんなに怒るか」と評している。ただし、絵を描くこと自体は決して嫌いではないようで、上手い下手を気にせずに、一人で漫画や落書きを楽しそうに描いていることもある。絵そのものが下手というよりは長期的な集中力が欠如している節もあり、戦艦大和の全体像を描くと下手だったが舳先だけなら上手に描けたケースもある。
玉子に叱られるなどして自宅にいることがイヤになり、しばしば家出することがある。シリーズを通して確認できるのは6回で、そのうち5回は両親に怒られたことが原因。しかし、10分が1時間に感じられる時間ナガナガ光線を使って、3時間だけ家出したり、珍しく1人で自分の力で暮らそうとしたときも、ナイヘヤドアを使ったりと、ひみつ道具の力にも頼る。また、10年間も無人島へ家出したこともあり、そのときはドラえもんが10年後に助けにきてタイムマシンで家出した日に戻り、タイムふろしきでもとに戻った。そして、大長編・映画『のび太の日本誕生』では、のび太、しずか、ドラえもん、スネ夫、ジャイアンの皆で7万年前の石器時代に家出することになる。家出未遂は1回。その他、「家出」ならぬ「家入り」と称してデンデンハウスで篭城をしている。
原作では、野比家が外食をするシーンはほとんど描かれないが、出前を取ることは多い。また、玉子がごちそうを奮発する ことがあり、またのび太もその腕前を評価している。大長編ではカレーライス、お子様ランチなど、子供らしい料理を注文している。江戸時代での生活を試みた際には、粟のおかゆを不味く感じ、また菜っ葉の汁や漬物との食べ合わせから、カレーライスやハンバーグを懐かしむ様子も見られた。アニメ第2作第1期では夕食をきちんと食べずにポテトチップスを食べる描写もあった。
作中におけるのび太の名前の命名理由、経緯については、父・のび助が、「すこやかに大きく、どこまでも、のびてほしいと願いを込めて『のび太』と命名した」と語っている。なお、映画『パラレル西遊記』の予告ではのび太の漢字表記は「乃比太」とされている。中国語圏の訳名は「野比大雄」または、「野比康夫」、「野比大宝」の3つが存在し、映画の名前をつけるときなどは「映画哆啦A夢 大雄的人魚大海戦」(日本語表記:映画ドラえもん のび太の人魚大海戦)のように、「大雄」が多く用いられる。韓国語版では「ノ・ジング(노진구)」と訳名で呼ばれて、英語版では「NOBY(ノビー)」の愛称で呼ばれる。 映画「ぼくの生まれた日」によれば、玉子が出産当時入院していた病院の中庭に生えていた大木が命名の由来とされる。この大木は後に東京都の土地区画整理事業によって伐採され、のび太の少年期には現存しない(病院も移転もしくは閉鎖され、周辺一帯が東京都所有の更地となっている)。しかし自分のルーツともなった大木が失われることを惜しんだのび太によって若枝の一部が川原の土手に挿し木され、10年後(のび太は小学5年生なので、正確には11年後)には元の大木のように成長している姿が確認されている。なお少年のび太が若枝を植栽したのは奇しくものび太の生まれた当日であるため、この木の樹齢はのび太の年齢と全く同じである。第2期『ぼくの生まれた日』では、病院の川沿いにある桜の木が名前の由来とされている。赤ちゃん(のび太のこと)が出来たと言われた日、仕事で来たときに、その木を見つけて、まだ寒い時期だったため、のび太が生まれるまでどんな花を咲かせるのか気になり、その木の近くの病院にしたという。また、その桜の木は、現在も現存している。
作者による命名理由、経緯としては藤子・F・不二雄が入院していた国立療養所久美浜病院の所在地、神奈川県横須賀市野比に由来しているとする説があり、同地が伸び伸びとした土地でそれを気に入って投影したとも言われているが、藤子プロなど関係者は事実かどうかは不明であるとしている。同地の商店街のYRP野比駅前商店街も名前の由来を探したが、結局は判明しなかったと地元紙の神奈川新聞は報じている 。
のび太が生まれたばかりの写真は現存しない。だがそれは、のび助がのび太を撮るために買ったばかりのカメラ(病院に行く直前に買っていた)を川に落としてしまい、撮る機会を逃してしまったからである。しかし、そのあとにのび助が代わりとして徹夜で描いたスケッチブックが残っていた。原作、第1期では特に言及されていない。
中国四川省で見付かった新種の肉食恐竜(足跡化石)に「のび太」を由来とするエウブロンテス・ノビタイと名付けられた。名付けたのは中国地質大学のシン・リダ准教授で、幼い頃からドラえもんが好きでのび太の夢を叶えたかったと述べた。
以下、★印はアニメのみのキャラクター、または藤本による漫画には登場しない名前。
野比家か片岡家か判別できないのび太の親戚を記す。
のび太の子孫と、その家族を記す。
木造モルタル2階建ての一軒家で、借家。原作の初期は家賃が度々値上げされ、玉子がのび助に禁煙するように訴えたりのび太の小遣いを減らそうとしたりする場面が見られた。窓は木製。庭に物置が置かれている。間取りは4LDK。1階に居間として使っている和室、応接セットと鉢植えのヤシがある応接室、のび助夫妻の寝室として使っている和室、2階にのび太の自室である和室、この向かいにもう1つ和室がある。この土地は値上がりが激しく、2、3メートル四方が100万円程する。 のび太の部屋は畳敷きの和室で、のび太の机は東向き。大きさは6畳。
テレビアニメ第2作第1期放送の際に起こされた間取り図は、原作と大きく異なっている。玄関には大きな窓がついている。ダイニングキッチンには裏口がある設定となり、大型ガス湯沸かし器が備え付けられている。原作にはベランダが登場している。
のび太の部屋は、原作ではのび太の机から見て右側(真後ろの場合もある)が出入り口のドアなのだが、本作ではふすまとなっていて、窓は出窓。また、ドラえもんの寝る場所はのび太の机からむかって後ろの位置にある押入れだった。
また、窓枠について、初期は木製だったが、放送期間が長くなるにつれてアルミサッシに変更されている。
大きくアレンジされていたテレビアニメ第2作第1期での間取りから原作寄りに修正が図られた。のび太の部屋は基本的に原作準拠で、向かってのび太の机の右側が押入れとなり、出窓は雨戸が付いた窓(原作では右側に付いているが、左側となっている)になり、部屋の出入口はのび太の机の真後ろとなっている。また、机も以前のスチールの机から原作と同じ木机に変更されている。ただし、床は原作と違って緑色のカーペットが敷かれており、2階の使われていなかった和室が消えて3DKになる。また、階段の位置(進行方向)も変更された。
以下のような変遷を辿っている。
現代から25年後の世界では野比家はマンションに引っ越しており、野比家の跡地は公園の公衆トイレになっていた。セワシとドラミの住む22世紀の野比家は「トーキョーシティー・ネリマブロック・ススキガハラストリート」にあるビルとされている。
また、野比家は骨川家から東に80メートルの地点にある。その骨川家が持つ自家用車のナンバープレートが「多摩55 33-88」、「多摩11 む 94-69」などであることから、骨川家は多摩地区、あるいは東京都練馬区月見台すすきヶ原3-10-5にあるとされている。
連載開始当初は白黒テレビが現役であるなど、当時から見てもアナクロな描写が目立っていたが、2011年7月24日の地上デジタル放送への移行にともない、アニメ版ではテレビがAVタイプになり、ダイニングキッチンにもテレビが付く、中古のエアコンがつくなど、長い連載期間の間に徐々に様変わりしていっている。
電話機も長らく黒電話だった。後に多機能コードレス電話機に代わっている。その後、コードレスでないプッシュ式電話機が使われる。
また、太田はアニメ第2作1期でセワシ、第2作1期の小原は第1作では野比玉子の声とそれぞれ別々の役柄で出演している。なお、丸山は小原が映画版『未来少年コナン』の収録中に声帯を損傷し、二週間にわたって治療に専念した関係で代役を務め、代役を担当した回(1979年7月23日 - 7月28日放送分の第97話〜第102話)はビデオには未収録となっている(2009年発売のDVD『ドラえもん タイムマシンBOX 1979』でソフト化された)。吹き替えに関しては1987年に放送された「タイムカプセル」「タイムワープリール」では橋本晃一が担当、1989年の映画『ドラミちゃん ミニドラSOS!!!』以降からは広森信吾が担当していたが、1995年ごろから未来ののび太が登場する機会が減ったために広森信吾がのび太として出演することはなかった。代わって登場したのが大川透だが、レギュラー通常放送の最後の一回のみの出演である。
なお、末期には『のび太の結婚前夜』が映画化された影響で大人ののび太を登場させる必要があったために、それまでのアニメ版のデザインをほぼ踏襲したメガネをかけたスタイルで大人ののび太が登場したが、このときは広森ではなく、小原が声をやや太めにして演じ別けていた。広森担当の大人のび太が登場する作品は比較的ソフト化されているものが多く、映画としては『ドラミちゃん ミニドラSOS!!!』が唯一で、ほかにドラえもんの特番として放送された「雪山のプレゼント」「無人島はボクの島」「家庭科エプロン」がある。
第2作2期で『のび太の結婚前夜』が放送(2011年3月18日)されたときも小原同様、大原が演じ分けた。
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"text": "野比 のび太(のび のびた)は、藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物で、同作品の副主人公。野比のび助と野比玉子の子。漫画では1962年(または1964年)8月7日生まれ。",
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"text": "漫画では東京都練馬区月見台在住の小学4年生。アニメでは小学5年生だが、原作・日本テレビ版・テレビ朝日版初期は小学4年生だった。原作で唯一、全話登場している。",
"title": "概要"
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"text": "勉強は苦手、スポーツは苦手、何をしても冴えない少年。物語はのび太の不幸な将来を変えるために、彼の5代目の子孫であるセワシからドラえもんが送られたことから始まる。以降、困りごと(宿題やおつかいなど)があったり、トラブルに巻き込まれる(ジャイアンとスネ夫にいじめられるなど)とドラえもんに泣きつき、ひみつ道具に頼ろうとするも、調子に乗って結果的に失敗することが多い。一人称は基本的に「ぼく」だが、高校生では「おれ」を使っていた。",
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"text": "大長編シリーズおよび映画シリーズでは上に述べた欠点もあるにはあるが、これをカバーして余りある勇敢な少年として描かれる傾向がある。このことは作品内でもスネ夫に、「のび太は大長編だとかっこよくなる」という旨のセリフを言わせている。",
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"text": "テーマソングとして「のんきなのび太くん」(作詞:ばばすすむ、作曲・編曲:菊池俊輔、歌:小原乃梨子)、「あした・あさって・しあさって」(作詞:高田ひろお、作曲:菊池俊輔、歌:小原乃梨子/森の木児童合唱団)と「のび太くん0点」(作詞:マイクスギヤマ、作曲・編曲:沢田完、歌:大原めぐみ、セリフ:水田わさび)、「キミのなかののび太」(作詞:マイクスギヤマ、作曲・編曲:沢田完、歌:堀江美都子)がある。前者はテレビアニメ第2作1期、後者はテレビアニメ第2作2期の曲となっている。",
"title": "概要"
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"text": "第三者からのよばれ方は、ドラえもんからは「のび太」(原作初期、テレビアニメ第2作第1期・第2期は「のび太くん」)、初期のしずかからは「のび太くん」、スネ夫・ジャイアン・のび助からは「のび太」、玉子からは「のびちゃん」(「のび太」とも呼ぶ)、しずか・ドラミ・ジャイ子からは「のび太さん」、先生・出木杉からは「野比君」(先生は「野比、ノビ」とも呼ぶ)。その他劇場版等のゲストキャラでも「のび太」「のび太くん」や全く別のよび方をする者がいる(例えば南海大冒険ではジャックに「ノビー」とよばれる)。",
"title": "概要"
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"text": "モデルについては作者の藤本自身であり、スポーツが不得意で、意志が弱く、夏休みの宿題をやっておらず泣き出すのは実体験である。",
"title": "概要"
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"text": "丸顔に大きな丸眼鏡をかけている。「ぼくの顔はどうして漫画みたいなんだろ」と自分の顔を気にして劣等感を抱いている。",
"title": "容姿"
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"text": "野比家代々の先祖の少年時代の顔はそろってのび太に酷似している(つまり顔立ちは全ての直系長男が特徴として受け継いでいることになる)。大人になると父のび助似の風貌になり(髪型は似ていない)、これも作中に登場した野比家の大人になっても眼鏡をかけたままになっている。",
"title": "容姿"
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"text": "眼鏡を取った顔は(しずかやスネ夫、出木杉に比べて)非常に小さい目をしており、この点は母親似である。のび太の父方の先祖や子孫が丸く大きな目(白目の部分が眼鏡のフレーム並みに大きい)であるのとは対照的である。就寝中に目を覚ました直後などには、眼が「3」や「ε」のような形をしている(いわゆる「寝ぼけまなこ」の状態。ただし、2005年リニューアル以降は「3」や「ε」のような形ではなく、普通の目として描写されている)。",
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"text": "連載初期においては鼻が尖っており、その尖り具合は、未来の姿として描写された青年以降で特に顕著であった(このため青年以降ののび太の顔は、連載初期と中期以降で大きく異なる)。",
"title": "容姿"
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"text": "身長はジャイアンより低く、スネ夫より高い。他のクラスメイトたちと比較しても平均的な体格だが、やややせ気味。129.3cmのドラえもんと比べると高身長。大人ののび太の身長は176.9cmである。",
"title": "容姿"
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"text": "未来ののび太は中年期以降には前述の通り父ののび助のような外見になっており、56歳になったのび太は眼鏡を外している。テレビアニメ第2作1期で大人ののび太は少年時代の特徴を残したまま大人になった印象で、細身で眼鏡をかけているが、テレビアニメ第2作2期における大人ののび太は原作に準拠したキャラクターデザインになっている。原作では細身の大人のび太と中年太りのび太も登場する。",
"title": "容姿"
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"text": "衣服については、原作ではしばしば変更されていた。テレビアニメ第2作1期では、基本的に、襟部分だけが白い、黄色のシャツに紺色の半ズボン姿(一部の例外を除く)。テレビアニメ第2作2期ではほぼエピソードごとに服装が異なっていたが2017年7月28日の「あの名作が帰ってくる!ドラえもん夏の1時間スペシャル」からは再度リニューアルが行われ、黄色もしくは赤色、水色の襟付きシャツを着るようになった。",
"title": "容姿"
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"text": "明るい性格でゆとりがあり、温厚で優しく、他人を深く思いやる心を持っている。臆病者だが正義感は強く、誰かを助けるために勇気を振り絞って危険に立ち向かうことも多い。小さなイタズラはともかく、暴力的かつ理不尽な言動はやろうと思ってもできず、ドラえもんから「きみが悪者になろうなんて思うのが無理なんだよ」と親しみを込めて言われたこともある。大好きな特撮ドラマが物価高騰により制作費を賄えず打ち切りの危機に瀕した際には、ドラえもんの力を借りて続行させたこともある。",
"title": "性格"
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"text": "しずかの父は「他人の幸せを共に喜び、他人の不幸を共に悲しむことのできる人」とのび太の性格を称賛している。のび太は、父・のび助をプロの画家にすれば裕福な暮らしができると考えて、タイムマシンで過去の世界に行き、学生時代ののび助にプロの画家へのチャンスを与えようとしたことがあるが、その結果自分はこの世に誕生しなくなる(のび助が別の女性と結婚することになるためタイムパラドックスが起きる)とドラえもんから知らされても、「パパが幸せになれるなら僕はそれでも構わない」と泣きながら言ったこともある。彼の優しさを知る者からの人望は厚く、のび太を慕う者たちの中にはのび太を深く想い、自身の存在と引き換えにしてでものび太を守ろうとする者も多く、その姿が描かれているエピソードもいくつかある。",
"title": "性格"
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"text": "こうしたのび太の優しさを語る上で外せないのが、祖母の存在である。幼稚園の頃に病没したが、のび太自身は鮮明に覚えているほどのおばあちゃん子。とても優しく、のび太が泣いていると必ずどこにいても飛んで来てくれた。それは亡くなる直前まで変わらず続いた。",
"title": "性格"
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"text": "人を疑うことを知らない純粋無垢な性格だが、そのためしばしばジャイアンやスネ夫に騙され、エイプリルフールともなると友人達から集中的に嘘をつかれるターゲットにされてしまう。一方でお世辞を言われたときは「今まで誰もそんなこと言わないよ」と多少なりとも疑念を抱く態度をとっていた(逆に他の友人はこれを疑わずに信じていた)。",
"title": "性格"
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"text": "普段は頼りないが、大長編シリーズではときにジャイアン以上の根性を見せて大活躍し、地球の危機を救うことも少なくない。大長編のキャラとはすぐに仲良くなるなど社交的な一面も見せる。自然や動物を愛でる気持ちは人一倍強く、学校の裏山が大好きであり、またそれらに関しての好奇心も強い。捨て犬や猫などを放っておけず、動物の方からもよく懐かれ、犬やネコの他、アリや幼木、恐竜、ゾウ、ライオン、タンポポ、果ては石ころや掃除機台風、雪(雪の精霊)や山(学校の裏山の心)にまで慕われたこともあった。また、絶滅寸前のニホンオオカミを救ったり絶滅動物のための島を作ったりし、『ドラえもん のび太と雲の王国』ではこれらの行動が結果として地球を救うことにも繋がった。動物や植物やロボットを傷付ける者に対しては怒りを露わにすることがあり、『ドラえもん のび太の南海大冒険』では地球上の生物を軍用の改造生物に作り上げ、様々な時代に売り飛ばそうとする時間犯罪者達に激しい怒りを見せており、拳銃で生物の改造装置を破壊している。『ドラえもん のび太とロボット王国』でもロボット達から感情を抜き取ろうとするデスターに対して怒りを見せており、彼らの前で「勝手過ぎる!」と訴っている。",
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"text": "竹を割ったようなさっぱりした性格で大体、細かいことにはこだわらない(ただし、格好いいものや流行っているものには目がない)。",
"title": "性格"
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"text": "勉強もスポーツも苦手だが、物事を楽しむのが得意で想像力にも長けており、ドラえもんの出す道具を器用に使って様々な空想を実現させて友人達を楽しませることも多い。その空想の豊かさは、普段はのび太をバカにするスネ夫とジャイアンも賞賛を送る程のものである。道具を使いこなすことについては非常に応用が利き、持ち主のドラえもんにも幾度となく「道具の使い方に関しては君は天才だ」などと言われている。中学時代・高校時代の自分自身と、学業成績不振の責任をなすり合う事態になっても最後には「少なくとも高校まで行けることは確かになった」とポジティブに思考していた。反面「幼稚園のプール」と言われただけで「子供を泣かして追い出される」というところまで想像するなどネガティブな思考をしてしまうことも多い。",
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"text": "ドラえもんや彼の持つひみつ道具に頼りきりだが、時としてそれを反省し、自分に降りかかった問題や困難などを自力で解決するべく諦めずに奮闘することも多い。特に道具を悪用して失敗してしまった際などは自責の念に駆られ、正しいやり方でけじめをつけたり、自分の非に気付いた時には言い訳をせずに謝罪をするなど誠実さを見せることもある。",
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"text": "怠け者で面倒くさがり屋である反面、人の役に立ちたいという気持ちは強く、特にしずかを思うあまりに彼女を役に立ちたいという気持ちを起こし、自己の不運が原因でおかしな方向に進むことも多く、道具をねだられるドラえもんに鬱陶しがられることもある。また、この事例だけでなく人の役に立とうと果敢に努力をするが、これらも自己の不運が原因で逆に人に迷惑をかけてしまい、周りから恨まれることが何度もある。",
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"text": "一方で、ひみつ道具を上手に活用し、人の役に立ったエピソードもある。一例として、22巻収録『うつしっぱなしミラー』では、「いいことを思いついた」と言うや否や、ドラえもんからうつしっぱなしミラーをもう1枚借り、転校生とその父親の船員(客船の乗組員で、その船のブリッジにはどこでもドアで乗り込んだ)に互いの相手の姿を映したミラーを持たせ、テレビ電話のように活用して転校生を元気づけた。",
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"text": "また、6巻収録『さようなら、ドラえもん』では、勝つはずのない相手だと思っていたジャイアン、剛田武に対して、「ドラえもんが、安心して、帰れないんだーっ!」と言って果敢に戦う姿が描かれている。爽やかな性格の反面、やろうと思ったことはやり遂げようとすることが多い。ジャイアンにはボロボロになりつつも勝利したという諦めない想いもあることがよくわかるエピソードである。",
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"text": "原作者の藤子・F・不二雄は、「のび太にも良いところが一つだけある。それは彼は反省するんです。(中略)いつまでもいつまでも今より良い人間になろうと努力するんです」とのび太の長所をあげている。",
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"text": "極めて意志薄弱な怠け者。都合が悪くなると、すぐ他者(主にドラえもん)に頼る。何か困ったことに出くわすと、大抵は「ドラえも〜ん!!」と泣き叫んでドラえもんに泣き付き、彼のポケットをあてにする。しかもひどく無気力で、自分のやりたいこと以外は、やらねばならないと解っていても、進んでやろうとはしない。道具を使って頭の中身は現在のまま幼児時代に戻った時などは、「天才少年」と誉められて浮かれ、調子に乗ってそのまま何の努力もしなくなり、タイムテレビでみた未来予想では元より頭が悪くなってしまったこともあった。",
"title": "性格"
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"text": "極端なほどの面倒くさがり屋であり、「トイレに行きたいけれど面倒くさいからどうしよう」と尿意を我慢しながら延々と考えるほど。",
"title": "性格"
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"text": "昼間からでも眠くなるようで、学校から帰って疲れているからと眠り、友達と遊んでまた疲れて眠り、一日が終わる頃にがっくりして眠り、24時間の半分寝ていると言われる。寝つきは異常なほど良く、通常は横になると同時に眠りにつくことができるなど、眠ることにかけては尋常でない才能を持つ(#睡眠を参照)。",
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"text": "注意力が極めて散漫。ぼんやり道を歩いていて石につまずき、空き缶で滑って転び、足を踏み外してドブや工事現場へ転落するなどは日常茶飯事である。その上持ち前の運の悪さも重なって、ジャイアンとスネ夫にいじめられる、野良犬に襲われる、どこからともなく飛んできたボールが顔面を直撃するなど、道を歩いているだけで酷い目に遭うこともしばしばある。",
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"text": "大の勉強嫌いであり、自主的には予習・復習・宿題はまずしない。授業中の居眠りや遅刻、宿題忘れ、成績不振などが多いことから母の玉子や先生に叱られることがしばしばある。寝坊などで遅刻することも日常茶飯事だが、本人は寝坊を悪いと思うどころか反対に「遅刻をしても怒られない方法は」や「先生を遅刻させる方法は」「日本中の時計を止める方法は」などと無意味なことを考えるばかりで、「『どうしたら寝坊しないか』とは夢にも考えない。困ったものだ」と、作中のナレーションでも突っ込まれている。食わず嫌いで、一度できないと決めてかかると頑として努力を拒む。そのため、やればできるにもかかわらず、やる気を出さないためにできないことも多いため、自身の母である玉子や先生から長時間にわたり説教を受けることは日常茶飯事。",
"title": "性格"
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"text": "例えば活字の本はまともに読むことができなかったが、道具を使って出木杉に本を朗読してもらい、本の内容に興味を持った後は自力で読むことができた。活字嫌いに関しては、本を「手にとっただけで頭がズキンとして」「開くと熱がでて目がまわってはき気がして」「二、三ページで意識不明」と述べたこともある。",
"title": "性格"
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"text": "先生の話は全く聞かない(上記の通りむしろ授業中の話を聞いていないというよりも授業中に寝ているといった方があてはまる)。テストで0点を取る頻度があまりに多い為、先生に「どうしてそんなに0点ばかり取るんだ?」と聞かれた際には無表情で、「先生がくれるから...」と答えており、「まるで反省しとらん!」と激怒された事もある。大変忘れっぽく、嫌なことはもちろん重要なこともすぐ忘れてしまう。",
"title": "性格"
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"text": "「魚は元々陸上の生物であり海水浴に出かけてそのまま居着いた」「割り箸で筏を作る」など、発想が極めて幼稚であり、ジャイアンとスネ夫はもちろん時にはドラえもんにすら馬鹿にされることがある。",
"title": "性格"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "言い訳や屁理屈は異常に上手いが自信家の割には軽率で油断しやすい。また、思考が極めて単純かつ妙に常識に囚われやすく、柔軟(ひみつ道具の使い方を除く)な考えができず、すぐ調子に乗ってしまう(また、人の意見にも流されやすい)。それが原因でさまざまなトラブルを抱えることがしばしばある。よけいな口を滑らせてジャイアンを怒らせ殴られたり、持っていたひみつ道具を奪われたり、調子に乗って軽はずみにできもしないことを広言し、困り果ててドラえもんに泣きつくことも多い。また、「できなかったら鼻でスパゲティーを食べる」「目でピーナッツを噛む」と無茶な約束をし、結局はできない(不可能だったわけではなく、のび太の優しさが災いしたといえる場合も多いが)ため、ドラえもんに泣いて懇願し、「できることかできないことか考えてからしゃべるもんだ!」と怒った彼と言い争いになることも。自分の思い通りにならないと感情的になり、両親やドラえもんに叱られたときに声を荒らげてしまい、ドラえもんと喧嘩することもある。また、スネ夫とジャイアン、大好きなしずか(※ただし、アニメ版ではしずかに対して声を荒らげるシーンの描写は少ない)に対しても声を荒らげる場合もある。しずかにとんでもないイタズラをし、面白がることもある。",
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"text": "その場の空気を読まないことが多く、見当はずれなことを言ってしまい、ムードを盛り下げてしまうことがある。また、初対面のおばさんに対して(ひみつ道具の影響もあるものの)サルと言ったり、草花を植えたジャイアンに対し、みんなが彼を誉める中、のび太は「がらにもないこと」といい、ジャイアンを怒らせてしまったこともある(ほうほうのていで逃げ出した後に、「ぼくはつい本当の事を言う」とボヤいている)。",
"title": "性格"
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"text": "ジャイアンやスネ夫に濡れ衣を着せられることも多い。特にスネ夫に「ガラスを割った」という濡れ衣を着せられた時は「犯人を突き止めてやる」と言って、過去に行ったものの結局は本人の自己責任であることが判明し、罪悪感を感じたスネ夫が謝りに来た時には自分が犯人だったと言えるはずもなく「過ぎたことだから」と言って許した。",
"title": "性格"
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"text": "ひみつ道具を調子に乗って使い過ぎたり悪用してしばしば失敗している。 また、勝手にひみつ道具を調子に乗って使った後に玉子と出木杉と先生と神成の4人も被害者になることもあり、理不尽なお仕置きをされたこともある。",
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"text": "ジャイアンやスネ夫にいじめられた際に逆襲として、ドラえもんと共にひみつ道具で彼らへ罰を与えるなどの一種の道理的面もある。だが、自己の不運で、彼らに返り討ちに遭うこともある等、自己の運により道理すら報われないこともある。",
"title": "性格"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "心を痛めやすく、ドラえもんの軽い気持ちで言った一言でひどく落ち込むこともよくある(大半は昼寝しながらすぐ忘れる)。落ち込んだ時には、「部屋の隅で壁に向かい、腕を組み、胡坐をかく」といったポーズをよくとる。すぐに泣き、のび太の号泣がドラえもんに道具を出させるきっかけや、物語の騒動の発端になることも多い。 また、ひみつ道具を持つと独裁者のような振る舞いをすることもしばしばある。 異常に臆病であり、怖い話をすると失禁したり、靴も履かずに外に逃げ出したりする。怖い夢を見ておねしょをしてしまうこともしばしばある。びっくり箱を開けただけでもすさまじい悲鳴を上げて逃げ出し、ドラえもんからも呆れられる。また心配性で、タイムマシンで過去や未来の真相を確かめに行くこともある。",
"title": "性格"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "テストの成績は極めて悪く、基本的にクラスで一番の劣等生として描かれているが、未来のノビスケの日記によれば「ビリから二番」であるらしい(作中でのび太よりも成績が悪い児童が描かれたのは第23巻「ぼくよりダメなやつがきた」の多目くんのみ)。0点の答案を貯め込み、それらが玉子に見つかり叱られることも多い。かつては5回に1回の割合で0点を取っていたが、後には0点を取る確率が10回に1回の割合へと下がっており少しずつ状況は良くなっているという。○×問題で全20問すべてを間違えたことがある(数学的に無作為に回答した場合、20問全部外す確率は2、つまり1,048,576回に1回の割合)。",
"title": "能力"
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"text": "しかし、たった1度だけ、ドラえもんの道具に頼るなどのカンニング行為も一切行わず、自分だけの力で100点満点を取ったことがある。しかもその際、出題されていた問題は、中学生が習う一次方程式など、小学生が解くには難しすぎる問題なども含まれていたが、のび太は全問正解していた。自分の実力で100点を取った際には、母親の玉子は感動して泣き、答案用紙を額縁に入れて飾ろうとした(実際生涯を通して一度しか取ったことがないといわれる)。10点で「思ったよりよかった」と喜び、30点で玉子から「まあ、30点もとったの。よかったわね」と褒められる。",
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"text": "これまで取った高得点は、前述の100点(に加えてドラえもんの道具を使った不正でもう一度100点を取っている。さらにアニメオリジナルエピソード「宇宙人を追いかえせ!」(2009年11月13日放送)ではまぐれで100点を取っている)の他、28巻収録「大ピンチ! スネ夫の答案」では10点。20巻収録「アヤカリンで幸運を」では、しずかの幸運を分けてもらうことで30点。37巻収録「のび太の0点脱出作戦」では、時門で時間の流れを遅くしつつ自らの正当な努力で65点、未収録「人間カメラはそれなりに写る」ではひみつ道具なしで65点。39巻収録「具象化鏡」では65点。36巻収録「サカユメンでいい夢みよう」では、まぐれだが出鱈目な解答で95点を取っている。『ザ・ドラえもんズ スペシャル』の3巻収録「戦国の覇王」では歴史のテスト勉強の為にタイムマシンで戦国時代を冒険し、85点を取った。",
"title": "能力"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "漢字が苦手で、自分の名前の「のび太」を「のび犬」と書くことが一度ならず何度かある。「太」を書く際に正しい文字を忘れ、「大」の右上と内側の両方に点を書く場合もあるが、本人は「両方に点があるならまあいいだろ」と言い、叔父宛の手紙にそう書いたのをそのまま出した。ほかにも「ミラー怪人」を「ミラー貝入」、「血」を「皿」と、「配」を「己酉」と、「今日」の「今」を左右逆に、「日」を「目」に、「恋人」を「変人」に書き間違えている。また、漢字だけでなくひらがなさえもしばしば間違う。例としては、「よろこぶ」を「よろころぶ」、「おじょうさん」を「おしょうさん」、「はなれててくださいな」を「はなれててくだちいな」、「図かん(図鑑)を」を「図かんお」、「今日は」を「今日わ」などがある(しかし日本語の使い方を間違えることは少ない)。2年のときの作文は読めないほど汚く(しかもたったの1行)、赤ペンで「もうすこしがんばりましょう」と書かれていた。",
"title": "能力"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "計算にも非常に弱く、「1+1=11」「4×2=6」「15-3=8」「6×7=67」「6×6=63」 と答えたり、8×2ができずに「ええと...たくさんになるんだ」と言ったりしている。しかし、その一方では「 2 3 ÷ 0.25 ÷ 0.8 = 3 1 3 {\\displaystyle {\\tfrac {2}{3}}\\div 0.25\\div 0.8=3{\\tfrac {1}{3}}} 」という難解な答えを正解に導いたり、本来中学校で習うはずの一次方程式「 3 8 x = 9 10 {\\displaystyle {\\tfrac {3}{8}}x={\\tfrac {9}{10}}} 」を解いたこともあり、100点を取っている。日本列島を巨大化させた21巻収録「ひろびろ日本」では、通学時間が「いつもの15分の10倍で150分、2時間半!」という計算を一人で暗算でやっており、タイムマシンに乗り江戸時代での生活を試みた30巻収録「昔はよかった」でも、目的地までの距離を「三里=12km」と、大まかではあるが尺貫法からメートル法に換算していた。",
"title": "能力"
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"tag": "p",
"text": "ドラえもんの道具「正確グラフ」による知力の計測結果はしずかの1/6、スネ夫の2/7、ジャイアンの1/2であった(しかし、ジャイアンに関してはジャイアンが知らない磁石の原理を知っているという場面もある)。人生やりなおし機によって現在の知力・体力のまま4歳のときの人生をやり直すエピソードでは、天才教育研究会なる架空団体の分析で小学2年生程度と絶賛される(本来ならのび太は4年生レベルであるべき)。この時、やり直し状態で行方を見守らせたところ小学4年生になっても能力は元のままだった(それ以下)(#短所参照)。",
"title": "能力"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "高校は「もののはずみで合格」し、一浪のすえ補欠合格で大学までは行けることがわかっており、知力には成長のあとが窺える(人間性はあまり成長していなかった)。大人ののび太の台詞によると「ぼく自身、あとで苦労したからね」とのこと。",
"title": "能力"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "勉強や科学といった分野を理解することも不得意で、相手が説明してもほとんど把握できないことが多く、物覚えも悪い。その一方で、聡明な一面を見せることもある。大長編の『のび太と鉄人兵団』ではミクロスに対して、かなりひねったクイズを出題する描写が二度ほど見られた。前述のように、ひみつ道具の使い方では大変な機転を利かせて持ち主のドラえもんですら思いつかない応用を見つけたり、ドラえもんでさえ気づかない意外な効用を指摘することも。プラス4巻収録「交通標識ステッカー」では、道路標識の意味を正確に理解し、それを応用しながらジャイアンを翻弄していた。ドラえもんが自身のもとへ来た目的を聞いた際、自分の将来(特に結婚相手)が変わった場合、それによってセワシが生まれない可能性(タイムパラドックス)を指摘している。悪知恵にも長けた一面もあり、度々悪事をしでかし大騒動に巻き込むことがある。また、『のび太の魔界大冒険』では、出木杉英才に魔法のことを自分から聞きに行き、彼の魔女狩りにまで踏み込んだ細かい解説を理解していると思われる描写がなされている。",
"title": "能力"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "基本的に運動能力は極めて低い。泳ぎも全く出来ないカナヅチ。非力でけんかも弱い。ジャイアンとスネ夫に「運動神経ゼロ」とバカにされ、スタミナもなく、学校の体育のマラソンでものび太一人だけがバテて遅れる。そんな短所を積極的に努力して改善するようなことはなく、例によってドラえもんに運動が上手くなる道具をねだってばかりいる。",
"title": "能力"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ドラえもんの道具「正確グラフ」によると、筋力はジャイアンの3/10、スネ夫の3/7、しずかの3/5(ただしすぐ後のコマでは1/2となっている)。",
"title": "能力"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "野球を好んでしている描写はあるが、草野球の成績は打率1分(100打数で1安打)、防御率は2試合2イニングで405.0(ただし、これは失点をすべて自責点であると仮定したものである)、エラー多数。守備位置はライトを守ることが多い。",
"title": "能力"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "一方、映画『のび太の銀河超特急』では、1人対4人という絶体絶命のピンチに陥ったにも拘らず、空中を1回転しながらピストルを連射、全員に命中させるというアクションをしたことがある(後述・#射撃)。",
"title": "能力"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "0.93秒で眠りにつくことが可能。もしもボックスで作った眠ることがもっとも価値のある世界では、この速さはオリンピックの睡眠・昼寝大会でも金メダルを獲得できるほどの速さだとされ世界記録レベルらしい。アニメ版では0.3秒で眠りについたこともある。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "あまりに昼寝をしすぎるとさすがに目がさえて眠ることができなくなることもあり、そんな時はしかたなく勉強やテレビを見たり街中を散歩したりすることもある。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一日の睡眠時間は12時間のようである。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "射撃に関しては驚異的な命中精度と早撃ちの技術を持つ。これは勉強中に鼻糞を飛ばした際、電球に偶然命中し、試しに的を作り飛ばして、その能力に気づいた。ただ、のび太が射撃が得意だと正式に設定されたのは、てんとう虫コミックス12巻の「けん銃王コンテスト」で、それ以前は下手だったという描写もある。早撃ちではプロの殺し屋・ギラーミンに一騎討ちで勝っている。これに関しては本人も「僕が負けるはずがない」と自負するほどだが、同時に初対面であるギラーミンの技量を一目で見抜き、長期戦は不利と悟り一瞬で片を付ける方法で勝負に出た。映画「のび太と鉄人兵団」においては、護送されるリルルを拘束する鎖、つまり「遥か上空を移動する1本の鎖」を、スコープも無い単純な片手用の銃で一発で撃ち抜いている。ヤドリの親玉が憑依した巨大ゴーレムにわざと掴みあげられ、ヤドリがゴーレムから飛び出して襲いかかってくる瞬間を早撃ちで倒したこともあった。また、モルグ街の数十人のアウトローを独りで撃退したこともあれば、ドリーマーズランドの西部の街で保安官になったりもしている。この時一つの空き缶に対し、ピストルの弾丸6発を地面に落ちる前に連続で命中させるという離れ技も見せている。モルグ街での戦闘の際には本物の拳銃を撃っており、弾丸は肩と右横腹に命中した。致命傷には至っていないが、相手を負傷させてしまった罪悪感と出血を見たことで失神してしまい、「強いのか弱いのか、さっぱりわからん」と評されている。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "本人は「西部劇時代のアメリカに生まれていればきっと名ガンマンになれただろう」と夢想することがあるが、ドラえもんいわく「現代では全く役に立たない能力」と評されている。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "「おどるチョウ」「ギャラクシー」「銀河」「ほうき星」「のび太のママ」などという自作技を長期間かけて考案するほど、あやとりに入れ込む。ただしあやとりが好きなのは、こよなく愛しているというよりも「金もかからず、疲れず、腹も減らないから」とのこと。もしもボックスによってできた「あやとりの世界」では契約金3000万円(アニメ第2作第2期では1億円)で「日本プロあやとり協会」からスカウトされるほどの腕前。また同様のエピソードにおいて、家族が感心するプロの技を「てんで幼稚」と言ってしまえて、実際瞬時にプロ並みの大技をやってしまうことから、のび太=天才少年だということが瞬く間に広がったほか、プロのスカウト担当者から「世界チャンピオンになれる」と言われたほど。ひみつ道具の看板であやとりの家元になったところ、家一杯になるほどの弟子が来たこともある。ただ、ジャイアンやスネ夫をはじめとする友人に馬鹿にされたり、父ののび助からは「男の子らしくない遊び」、母の玉子からは「何の役にも立たない」と言われたり、空き地でみんなに見せようとした時にはすぐに退散されるなど、基本的に周囲からの受けは極めて良くない模様。",
"title": "特技"
},
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "連載初期は、特技としてピーナッツを連続で空中に放り投げ、すべて口で受け止めるという隠し技を持っていた(「たった一つの特技」と自称)が、友人たちの受けは今ひとつだった。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "漫画やアニメについては、高学年向けや大人向けの作品、少女漫画や少女アニメであっても分け隔てなく親しみ、造詣も深いようである。「ぼくがおもしろいと思ったマンガは必ずヒットする」と自分の審美眼に自信を持っている。本人だけでなく他人からも漫画評論の目利きも見込まれていて、ジャイアンがジャイ子の漫画の批評をのび太に求めたこともあった。だが、本人は絵も下手で漫画を描く才能もまったく持っておらず、ドラえもんの道具で自身の作品を掲載したマンガ雑誌を制作した時は誰にも見向きもされず、スネ夫たちに張り合ってアニメを自作した際もアニメーカーを使うことでドラえもんに制作を丸投げしてしまっていた。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ゴム風船のスペースシャトルを工作したこともある。また、鉄道模型の寝台車にベッドを組み込むといった細かい作業もこなしている。また「ハツメイカー」の出す設計図に従って、彼が作った発明品はすべて機能した。道具を探すのが得意で見つけにくい所でも簡単に見つけてしまう。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "初期の頃は、足の指で器用にインベーダーゲームらしき物をしていた、また、足の指でけん玉をしていたこともある。",
"title": "特技"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "当初の歴史では、大学受験にも就職にも失敗し、ついには起業する(雑誌掲載版では父親の会社を継いだ)。しかし起業から5年後、自分で使用した花火の不始末により社屋が炎上、さらには2年後に倒産。孫の孫の代にまで残る借金を残し、さらにはジャイ子と結婚して子供も6人もうけている運命とセワシが説明したが、ドラえもんの登場により、将来は憧れていたしずかと結婚するように運命が変わる。",
"title": "未来の描写"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "なお、上記の将来の設定は小学四年生版の第1回「未来の国からはるばると」によるものだが、小学三年生版の第1回「机からとび出したドラえもん」ではやや状況が異なる。大学浪人後は一応どこかの会社に就職できたようだが、大失敗をしでかしてクビになり、ゴムひもや歯ブラシの訪問販売員(当時の感覚では「押し売り」と呼ばれる職業)となった。その後、宝くじに当たり会社を設立したものの、1年で倒産し、その時の借金がセワシの代まで残っていることになっている。",
"title": "未来の描写"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "その後の改変された歴史では、こちらでも大学受験には失敗するものの、二度目は補欠合格、将来はしずかと順調に交際することになるが、ある日未来のしずかが雪山で遭難したとき、(未来ののび太は風邪で寝込んでいたため)現在ののび太が大人になって現地に助けに行くが、失敗ばかりする。その後「そばについててあげないと、あぶなくて見てられないから」という理由で、結婚を承諾される。結婚式前日時点で運転免許を取得済。赤いスポーツカーを乗り回す等、経済的にも不自由していない点が書かれている。後に静香との間にノビスケを設けた。また、ジャイアンやスネ夫、出木杉との友人関係も健在であり、酒の席で歌いだしたジャイアンに「へたくそ」と野次を飛ばしていた。",
"title": "未来の描写"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "50代後半ののび太は、ドラえもんとは少年期同様に会話している。そのため、ドラえもんが20世紀の野比家を離れた後も、二人の交流は続いているようである。両親については、45年後(1970年の連載開始を起点とすると2015年)の時点で健在かどうかは、具体的な描写がないため不明(テレビアニメ第2作第2期「45年後... ~未来のぼくがやって来た~」〈2009年12月31日放送〉では、50代後半ののび太が現在の母親の手料理を食べ、涙を流す場面が存在する)。ノビスケについては結婚したとのこと。",
"title": "未来の描写"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なお、原作では未来ののび太は容姿が大きく変化している(のび助に似ている容姿)。また、何らかの理由で視力が回復しており眼鏡はかけていない(本人も「なおったのは近眼だけ」と発言している)。",
"title": "未来の描写"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "アニメのみで、環境保護局の自然調査員に就職するとの設定がある。",
"title": "未来の描写"
},
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "しずか、ジャイアン、スネ夫の三人とは幼少期からの幼馴染みであり、出木杉も含めて成人後も親交がある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ジャイアンとスネ夫からはいじめや嫌がらせを頻繁に受けている。その為、しずかの家に行こうとしているところをジャイアン一人に邪魔をされたり、ジャイアンとスネ夫の二人に邪魔をされる事がある。のび太自身も仕返しをしようと企んだことがあるが、ことごとくしっぺ返しを食らっている。しかし、ジャイアンとスネ夫はのび太が先生に生徒として完全に否定された際、同情したり、のび太が見えない所で助けようとするなど憎からずも心のどこで友達だと思っている節があり、真の友とも言える描写もある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "クラスメイトの親や親族からもバカにされることがあり、スネ夫のママに至っては問題行為の原因がスネ夫側にあった(スネ夫から馬鹿にされた挙句、ピコピコハンマーで何十回か殴られたため逆上したのび太がピコピコハンマーで一発殴っただけ)にも拘らず、スネ夫が自分の非を棚に上げて泣き付いたことで「野蛮!残酷!」と評し、玉子にそのことに対するクレームの電話を入れ、玉子にのび太を怒らせる行為をした(のび太は弁明しようとしたが、玉子は「あんたが悪い!」と決め付けて一蹴した)。第三者からもジャイアンやスネ夫を始めとするクラスメイトが起こした問題行為(偶然の場合がほとんどだが、時折故意に起こされる場合がある)の責任を押し付けられ、怒られることが多い(塀に落書きした罪を押し付けられて住人に殴られる、ボールや石などで家の窓ガラス割った罪を押し付けられて住人に怒られるなど)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "こうした背景から主要人物や第三者からはトラブルの原因をのび太と勝手に決めつけられて怒られることも多く、冤罪と判明しても、ドラえもん以外のほとんどの人物はこれに対する謝罪を道具無しですることはあまり無いが、例外的にきちんと謝罪をされたこともある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "また、ドラえもんからひみつ道具を手に入れた際、自分をいじめたクラスメイト(主にジャイアンとスネ夫)や非常識な者(道端にゴミやたばこを捨てる者、乱暴な運転をする者等)、そして理不尽な理由で悪者扱いした大人(玉子、神成さん等)に復讐する事がある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "大長編では行く先々でゲストキャラや動物達に慕われたり、彼を否定する発言が多い友人や家族とは違い、のび太のことを高く評価され、「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」や「ドラえもん のび太のワンニャン時空伝」では英雄や神として称えられた。原作でも、命を助けた女王アリや他のアリ達からも感謝されたり、進化させて3億年前で暮らせるようにした野良犬たちから“自分達に知恵を授けてくれた神”と崇められて神殿つき神像が造られるなどしている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "出木杉については、彼が女子にもてるうえにしずかと親密であることでライバル視することも多いが、彼の優秀さ・誠実さを素直に認めている節もあり、見習って自分を変えようとすることもあったり、時折なにかの相談にのってもらったりもする。出木杉自身ものび太の優しさや潜在的な能力を認めており、のび太とは良き友人関係と言える。ただし、作品によっては彼とも本気で敵対した回も存在している。なお、成人後も家族ぐるみで交際が続いている様子である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "別時系列での自分自身とも、中学時代・高校時代など近未来の場合には、学業成績不振の責任を巡って対立することがある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ドラえもんについては、困った時にはドラえもんに頼り切ったり、喧嘩する事もある。ドラえもんものび太の行動に呆れたり、毒舌を吐く事もあるが、基本的には仲が良く、「親友」と呼び合う程である。「のび太のブリキの迷宮」ではロボットに不信を抱くサピオから「ロボットなのに友達?」と言われた際、「ロボットでも人間以上の友達さ。」と返したり、「のび太とロボット王国」では「機械(ロボット)に感情は必要ない。」と言い放つデスターに対して「ドラえもんは機械じゃない、友達だ!」と訴える等、種族を越えた固い友情で結ばれている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "名前の呼称としては担任教師(呼び捨て)と出木杉ほか一部のクラスメイト(君付け)から苗字で呼ばれ、他の者からはたいてい下の名前(両親と男の子達からは呼び捨て、女の子達からはさん付け。原作初期およびアニメ版のドラえもんからは君付け)で呼ばれている。ただししずかに関しては、アニメ第2期第1作の初期ではのび太を「くん」付けで呼んでいたことがある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "小遣いは毎月500円。しばしばお金が足りなくなって、両親に小遣いの値上げをねだり、断られるたびにドラえもんに泣きついて何か道具を出してもらう。ドラえもんは基本的には「お金を出す道具なんてないと、何度言ったらわかるんだ!」とつっぱねるが、のび太をこらしめるために後でしっぺ返しを食らう道具をわざと貸し出すこともある(円ピツ、未来小切手帳など)。道具を使うことに関しては機転がきき、道具を使って金もうけをすることについてはとりわけ発想が富む。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "どこでもドアをはじめ、移動系や透視系の道具を使うとほぼ毎回しずかの入浴に出くわし、「のび太さんのエッチ!!」と言われてお湯や洗面器などを投げつけられる。また、どこでもドアで源家に行こうとすると、ほぼ無条件でしずかが入浴中の風呂場につながってしまう。このことに対しのび太は、「習慣は恐ろしい」と語っている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "自分がいつも朝遅刻して廊下に立たされたり先生に叱られていることは悪いことであると自覚しているようで、自己嫌悪に陥ることもしばしばある。よく遅刻する理由は「学校が遠すぎるから」と自己分析しているが、のび太の足では家から学校まで15分程度の距離のようである。ただし、偶然犬の尻尾を踏んで犬に追い掛け回されたり噛み付かれたりすることが少なくなく、その対処に時間を費やしてまともに登校できないことも多い。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "歌手の河合可愛(かわい かわい)、丸井マリ、星野スミレ、伊藤翼の大ファン。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ジャイアンの歌手活動のファンクラブ「剛田武ファンクラブ」会長(半ば押し付けであるが)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "上述の野良犬たちの国を含め、ドラえもんのひみつ道具を使って独自の国を作り上げたことがある。しかし、これらの国は崩壊してしまったり、のび太が自主的に元の生活に戻るなどの理由で最終的に消滅している。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "勉強、宿題、運動(水泳に関しては、夏になると「あー練習しておけば良かった!」と昨夏を後悔したり「今年こそは!」と思うことが多い)全般。お使いや草むしりなどの面倒なことも苦手(できないというより怠惰な性格とやる気のなさから失敗することが多い)。料理や家事、ジャイアンの歌声、幽霊や怪談も苦手。かなりの風呂嫌いで、1、2週間に1度入る程度という時期があったが、連載・放送が進むにつれてそのような行動は見られなくなった。読書も嫌いで、活字の本は3ページも読まないうちに眠ってしまったり、1ページも読まないうちに昏倒したりする。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "しかし、やる気があれば勉強以外の当たり前のことは普通にできる。また、複数のことに集中することや人の指示を一度で聞き取ることは普通にできるか結構得意であるかのどちらかで(これらもやる気がないと中々うまくできない)、自分に興味のある分野だとその限りではなく(のび太だけに限らず)、H・G・ウェルズのSF小説「透明人間」に関心を持ったり 、恐竜化石発掘に関する書物 、宇宙飛行士の実録 など専門的な書籍に熱中したり、シャーロック・ホームズ や『ロビンソン漂流記』などを読み耽っている話も見られる(知識はあまり身についておらず、技能ならともかく、興味のある分野でも優れた頭脳を発揮できるという訳でもない)。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また、ひみつ道具(タケコプター、空中シューズなど)で空を飛ぶ(歩く)ことが多い割には、自分で「高所恐怖症」と言っている。基本的に虫も苦手ではないがカエルやヘビ、毛虫、クモ、カマキリ、トカゲなど一部の虫や生物にかなり怖がっていた(毛虫は竜宮姫子やしずかの背中についたものを払っていることがあり、基本的にそれ以外の話ではそれほど怖がってはおらず、大蛇やクモ、トカゲ(恐竜などの姿が酷似した生物も例外ではない)も何度も見たことがあるがドラえもんのネズミ嫌いのように外見だけで怖がることは少なく、ゴキブリ等の上記で述べた以外の虫も平気。もっとも、自身の目の前に突然現れたものに驚いて気絶する癖がある)。",
"title": "その他"
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"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "歯医者、注射やコロン、飲み薬も嫌いだが、後には大量の錠剤型道具を一度に飲む描写も多く見られる。一部の話では地震もかなり苦手であったが ドラえもんの道具によって震度7でも平然としていられる程の耐性を身に付けている。同様に、雷までも道具によって克服している(のび助や玉子はその道具により黒コゲにされた)。",
"title": "その他"
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "絵が大の得意な父とは正反対で大の苦手であり、そのためジャイアンとスネ夫に馬鹿にされることがある。また、美術評論家であるしずかのおじに自分の絵を評価してもらうが、幼稚園の頃描いたものだと勘違いされ、ドラえもんには犬の絵を猫の絵と勘違いされたり、幼稚園のころ描いた絵を「今とあまり変わらない」と言われたりする。『のび太の創世日記』では、ドラえもんが恐竜の絵をトカゲの絵だと勘違いしている。自分でも絵の下手さは自覚しており、しずかをモデルに人物画を描いた際には誤魔化してしずかに見せず、後で自分の絵を「こんなの見せたらどんなに怒るか」と評している。ただし、絵を描くこと自体は決して嫌いではないようで、上手い下手を気にせずに、一人で漫画や落書きを楽しそうに描いていることもある。絵そのものが下手というよりは長期的な集中力が欠如している節もあり、戦艦大和の全体像を描くと下手だったが舳先だけなら上手に描けたケースもある。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "玉子に叱られるなどして自宅にいることがイヤになり、しばしば家出することがある。シリーズを通して確認できるのは6回で、そのうち5回は両親に怒られたことが原因。しかし、10分が1時間に感じられる時間ナガナガ光線を使って、3時間だけ家出したり、珍しく1人で自分の力で暮らそうとしたときも、ナイヘヤドアを使ったりと、ひみつ道具の力にも頼る。また、10年間も無人島へ家出したこともあり、そのときはドラえもんが10年後に助けにきてタイムマシンで家出した日に戻り、タイムふろしきでもとに戻った。そして、大長編・映画『のび太の日本誕生』では、のび太、しずか、ドラえもん、スネ夫、ジャイアンの皆で7万年前の石器時代に家出することになる。家出未遂は1回。その他、「家出」ならぬ「家入り」と称してデンデンハウスで篭城をしている。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "原作では、野比家が外食をするシーンはほとんど描かれないが、出前を取ることは多い。また、玉子がごちそうを奮発する ことがあり、またのび太もその腕前を評価している。大長編ではカレーライス、お子様ランチなど、子供らしい料理を注文している。江戸時代での生活を試みた際には、粟のおかゆを不味く感じ、また菜っ葉の汁や漬物との食べ合わせから、カレーライスやハンバーグを懐かしむ様子も見られた。アニメ第2作第1期では夕食をきちんと食べずにポテトチップスを食べる描写もあった。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "作中におけるのび太の名前の命名理由、経緯については、父・のび助が、「すこやかに大きく、どこまでも、のびてほしいと願いを込めて『のび太』と命名した」と語っている。なお、映画『パラレル西遊記』の予告ではのび太の漢字表記は「乃比太」とされている。中国語圏の訳名は「野比大雄」または、「野比康夫」、「野比大宝」の3つが存在し、映画の名前をつけるときなどは「映画哆啦A夢 大雄的人魚大海戦」(日本語表記:映画ドラえもん のび太の人魚大海戦)のように、「大雄」が多く用いられる。韓国語版では「ノ・ジング(노진구)」と訳名で呼ばれて、英語版では「NOBY(ノビー)」の愛称で呼ばれる。 映画「ぼくの生まれた日」によれば、玉子が出産当時入院していた病院の中庭に生えていた大木が命名の由来とされる。この大木は後に東京都の土地区画整理事業によって伐採され、のび太の少年期には現存しない(病院も移転もしくは閉鎖され、周辺一帯が東京都所有の更地となっている)。しかし自分のルーツともなった大木が失われることを惜しんだのび太によって若枝の一部が川原の土手に挿し木され、10年後(のび太は小学5年生なので、正確には11年後)には元の大木のように成長している姿が確認されている。なお少年のび太が若枝を植栽したのは奇しくものび太の生まれた当日であるため、この木の樹齢はのび太の年齢と全く同じである。第2期『ぼくの生まれた日』では、病院の川沿いにある桜の木が名前の由来とされている。赤ちゃん(のび太のこと)が出来たと言われた日、仕事で来たときに、その木を見つけて、まだ寒い時期だったため、のび太が生まれるまでどんな花を咲かせるのか気になり、その木の近くの病院にしたという。また、その桜の木は、現在も現存している。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "作者による命名理由、経緯としては藤子・F・不二雄が入院していた国立療養所久美浜病院の所在地、神奈川県横須賀市野比に由来しているとする説があり、同地が伸び伸びとした土地でそれを気に入って投影したとも言われているが、藤子プロなど関係者は事実かどうかは不明であるとしている。同地の商店街のYRP野比駅前商店街も名前の由来を探したが、結局は判明しなかったと地元紙の神奈川新聞は報じている 。",
"title": "その他"
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"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "のび太が生まれたばかりの写真は現存しない。だがそれは、のび助がのび太を撮るために買ったばかりのカメラ(病院に行く直前に買っていた)を川に落としてしまい、撮る機会を逃してしまったからである。しかし、そのあとにのび助が代わりとして徹夜で描いたスケッチブックが残っていた。原作、第1期では特に言及されていない。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "中国四川省で見付かった新種の肉食恐竜(足跡化石)に「のび太」を由来とするエウブロンテス・ノビタイと名付けられた。名付けたのは中国地質大学のシン・リダ准教授で、幼い頃からドラえもんが好きでのび太の夢を叶えたかったと述べた。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "以下、★印はアニメのみのキャラクター、または藤本による漫画には登場しない名前。",
"title": "関連人物"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "関連人物"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "野比家か片岡家か判別できないのび太の親戚を記す。",
"title": "関連人物"
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "のび太の子孫と、その家族を記す。",
"title": "関連人物"
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"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "関連人物"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "",
"title": "関連人物"
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{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "木造モルタル2階建ての一軒家で、借家。原作の初期は家賃が度々値上げされ、玉子がのび助に禁煙するように訴えたりのび太の小遣いを減らそうとしたりする場面が見られた。窓は木製。庭に物置が置かれている。間取りは4LDK。1階に居間として使っている和室、応接セットと鉢植えのヤシがある応接室、のび助夫妻の寝室として使っている和室、2階にのび太の自室である和室、この向かいにもう1つ和室がある。この土地は値上がりが激しく、2、3メートル四方が100万円程する。 のび太の部屋は畳敷きの和室で、のび太の机は東向き。大きさは6畳。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "テレビアニメ第2作第1期放送の際に起こされた間取り図は、原作と大きく異なっている。玄関には大きな窓がついている。ダイニングキッチンには裏口がある設定となり、大型ガス湯沸かし器が備え付けられている。原作にはベランダが登場している。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "のび太の部屋は、原作ではのび太の机から見て右側(真後ろの場合もある)が出入り口のドアなのだが、本作ではふすまとなっていて、窓は出窓。また、ドラえもんの寝る場所はのび太の机からむかって後ろの位置にある押入れだった。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "また、窓枠について、初期は木製だったが、放送期間が長くなるにつれてアルミサッシに変更されている。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "大きくアレンジされていたテレビアニメ第2作第1期での間取りから原作寄りに修正が図られた。のび太の部屋は基本的に原作準拠で、向かってのび太の机の右側が押入れとなり、出窓は雨戸が付いた窓(原作では右側に付いているが、左側となっている)になり、部屋の出入口はのび太の机の真後ろとなっている。また、机も以前のスチールの机から原作と同じ木机に変更されている。ただし、床は原作と違って緑色のカーペットが敷かれており、2階の使われていなかった和室が消えて3DKになる。また、階段の位置(進行方向)も変更された。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "以下のような変遷を辿っている。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "現代から25年後の世界では野比家はマンションに引っ越しており、野比家の跡地は公園の公衆トイレになっていた。セワシとドラミの住む22世紀の野比家は「トーキョーシティー・ネリマブロック・ススキガハラストリート」にあるビルとされている。",
"title": "のび太の家"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、野比家は骨川家から東に80メートルの地点にある。その骨川家が持つ自家用車のナンバープレートが「多摩55 33-88」、「多摩11 む 94-69」などであることから、骨川家は多摩地区、あるいは東京都練馬区月見台すすきヶ原3-10-5にあるとされている。",
"title": "のび太の家"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "連載開始当初は白黒テレビが現役であるなど、当時から見てもアナクロな描写が目立っていたが、2011年7月24日の地上デジタル放送への移行にともない、アニメ版ではテレビがAVタイプになり、ダイニングキッチンにもテレビが付く、中古のエアコンがつくなど、長い連載期間の間に徐々に様変わりしていっている。",
"title": "のび太の家"
},
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"paragraph_id": 110,
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"text": "電話機も長らく黒電話だった。後に多機能コードレス電話機に代わっている。その後、コードレスでないプッシュ式電話機が使われる。",
"title": "のび太の家"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "また、太田はアニメ第2作1期でセワシ、第2作1期の小原は第1作では野比玉子の声とそれぞれ別々の役柄で出演している。なお、丸山は小原が映画版『未来少年コナン』の収録中に声帯を損傷し、二週間にわたって治療に専念した関係で代役を務め、代役を担当した回(1979年7月23日 - 7月28日放送分の第97話〜第102話)はビデオには未収録となっている(2009年発売のDVD『ドラえもん タイムマシンBOX 1979』でソフト化された)。吹き替えに関しては1987年に放送された「タイムカプセル」「タイムワープリール」では橋本晃一が担当、1989年の映画『ドラミちゃん ミニドラSOS!!!』以降からは広森信吾が担当していたが、1995年ごろから未来ののび太が登場する機会が減ったために広森信吾がのび太として出演することはなかった。代わって登場したのが大川透だが、レギュラー通常放送の最後の一回のみの出演である。",
"title": "配役"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、末期には『のび太の結婚前夜』が映画化された影響で大人ののび太を登場させる必要があったために、それまでのアニメ版のデザインをほぼ踏襲したメガネをかけたスタイルで大人ののび太が登場したが、このときは広森ではなく、小原が声をやや太めにして演じ別けていた。広森担当の大人のび太が登場する作品は比較的ソフト化されているものが多く、映画としては『ドラミちゃん ミニドラSOS!!!』が唯一で、ほかにドラえもんの特番として放送された「雪山のプレゼント」「無人島はボクの島」「家庭科エプロン」がある。",
"title": "配役"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "第2作2期で『のび太の結婚前夜』が放送(2011年3月18日)されたときも小原同様、大原が演じ分けた。",
"title": "配役"
}
] |
野比 のび太は、藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物で、同作品の副主人公。野比のび助と野比玉子の子。漫画では1962年(または1964年)8月7日生まれ。
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| name = 野比 のび太
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| caption = [[富山県]][[高岡市]]の野比のび太像(手前左)
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'''野比 のび太'''(のび のびた)は、[[藤子・F・不二雄]]の[[漫画]]作品『[[ドラえもん]]』に登場する[[架空]]の人物で、同作品の副主人公<ref>『Fライフ第2弾(2014年)』に掲載されている1981年のエッセイにて、作者は「のび太は副主人公」と明確に述べており、[https://web.archive.org/web/20160906035537/https://dora-world.com/yojigen/int0211_f.html 1989年の講演](2016年9月6日時点の[https://dora-world.com/yojigen/int0211_f.html オリジナル]よりアーカイブ。2023年5月28日閲覧)でも、作者は「(のび太は)主人公、いや、副主人公」と述べている。更に『ドラえもん誕生(1978年)』と『ド・ラ・カルト 〜ドラえもん通の本〜(1997年)』と『てんとう虫コミックス ドラえもん 0巻(2019年)』では、作者が「ドラえもんが主人公」と述べている。ただし、藤子・F・不二雄大全集『ドラえもん』第1巻に再録された連載初期のキャラクター紹介図では「主人公」とされていたことがある。</ref><ref group="注">連載初回に初めて書かれた相関図における表記は「の比太」となっていたが、次回に書かれた相関図で現在の表記に修正された。</ref>。[[野比のび助]]と[[野比玉子]]の子。漫画では[[1962年]](または[[1964年]])[[8月7日]]生まれ<ref name="birthday">2巻収録「ぼくの生まれた日」で誕生年月日がセリフ中に登場する。誕生年は、初出である『[[小学館の学年別学習雑誌|小学四年生]]』[[1972年]](昭和47年)8月号掲載分では「昭和37年」とし、てんとう虫コミックス第2巻([[1974年]]発売)に収録する際に「昭和39年([[1964年]])」としている。藤子・F・不二雄自選集に収録する際、具体的な誕生年の明示を避けて、単に「10年前」としているが、その後は藤子・F・不二雄大全集『ドラえもん』第1巻に収録する際、再び「昭和37年」へと変更している。</ref>。
== 概要 ==
漫画では[[東京都]][[練馬区]]月見台在住の小学4年生<ref>『決定版ドラえもん大事典』(小学館、2001年)108-109頁</ref><ref group="注">これが基本であるが、初出時は掲載学年誌にあわせて1年生から6年生まで学年の設定が変化しており、藤子・F・不二雄大全集『ドラえもん』の各巻では「学年繰り上がり収録」に伴いこれが再現され、話によって学年表記が異なる場合がある。</ref>。アニメでは小学5年生<ref group="注">1973年放送の第1作のみ小学4年生</ref><ref>5年3組。第2作1期「おしゃべり切手(1996年5月17日放送)、第2作2期「熱血!のび太の運動会」(2009年11月6日放送)。</ref>だが、原作・[[ドラえもん_(1973年のテレビアニメ)|日本テレビ版]]・テレビ朝日版初期は小学4年生<ref>テレビアニメ第2作1期「テストにアンキパン」(1979年4月4日放送)による。また「のび太のおよめさん」(同年4月7日放送)でも誕生日ケーキのロウソクが10本である。ただし同年5月21日に放送された「おばあちゃんの思い出(前)」では過去へ訪れたのび太が「8年前のカレンダー」と言い、翌日放送の「おばあちゃんの思い出(後)」で幼児期の自分を見たのび太が「3歳の時の僕だ」と発言している。</ref>だった。<!--○×小学校の5年3組<ref>テレビアニメ第2作1期「おしゃべり切手」(1996年5月17日放送)ほか</ref>に在籍している。(※第2作1期のみ)-->原作で唯一、全話登場している<ref group="注">スピンオフ作品として連載されていた『ドラミちゃん』を『ドラえもん』に統合したため、主人公であるドラえもんが登場しない話が存在する。また、のび太も『ドラミちゃん』では「のび太郎」という別人だったが、『ドラえもん』に統合する際に「のび太」に修正された。</ref>。
勉強は苦手、スポーツは苦手、何をしても冴えない少年。物語はのび太の不幸な将来を変えるために、彼の5代目の子孫である[[セワシ]]から[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]が送られたことから始まる。以降、困りごと(宿題やおつかいなど)があったり、トラブルに巻き込まれる(ジャイアンとスネ夫にいじめられるなど)とドラえもんに泣きつき、[[ひみつ道具]]に頼ろうとするも、調子に乗って結果的に失敗することが多い。一人称は基本的に「ぼく」だが、高校生では「おれ」<ref>3巻収録「ぼくを、ぼくの先生に!」</ref>を使っていた。
[[大長編ドラえもん|大長編シリーズ]]および[[ドラえもん映画作品|映画シリーズ]]では上に述べた欠点もあるにはあるが、これをカバーして余りある[[勇敢]]な少年として描かれる傾向がある。このことは作品内でも[[骨川スネ夫|スネ夫]]に、「のび太は大長編だとかっこよくなる」という旨のセリフを言わせている<ref name="nobiginga">『[[ドラえもん のび太と銀河超特急|のび太と銀河超特急]]』。</ref>。
テーマソングとして「'''のんきなのび太くん'''」(作詞:ばばすすむ、作曲・編曲:[[菊池俊輔]]、歌:[[小原乃梨子]])、「'''あした・あさって・しあさって'''」(作詞:高田ひろお、作曲:菊池俊輔、歌:小原乃梨子/森の木児童合唱団)と「'''のび太くん0点'''」(作詞:[[マイクスギヤマ]]、作曲・編曲:[[沢田完]]、歌:[[大原めぐみ]]、セリフ:[[水田わさび]])、「'''キミのなかののび太'''」(作詞:マイクスギヤマ、作曲・編曲:沢田完、歌:[[堀江美都子]])がある。前者はテレビアニメ第2作1期、後者はテレビアニメ第2作2期の曲となっている。
第三者からのよばれ方は、ドラえもんからは「'''のび太'''」(原作初期、テレビアニメ第2作第1期・第2期は「'''のび太くん'''」)、初期のしずかからは「'''のび太くん'''」、スネ夫・ジャイアン・のび助からは「'''のび太'''」、玉子からは「'''のびちゃん'''」(「のび太」とも呼ぶ)、しずか・ドラミ・ジャイ子からは「'''のび太さん'''」、先生・出木杉からは「'''野比君'''」(先生は「野比、ノビ」とも呼ぶ)。その他劇場版等のゲストキャラでも「のび太」「のび太くん」や全く別のよび方をする者がいる(例えば南海大冒険ではジャックに「ノビー」とよばれる)。
モデルについては作者の藤本自身であり、スポーツが不得意で、意志が弱く、夏休みの宿題をやっておらず泣き出すのは実体験である<ref>ドラえもん0巻「ドラえもん 0巻」</ref>。
== 容姿 ==
=== 顔 ===
丸顔に大きな[[丸眼鏡]]をかけている。「ぼくの顔はどうして漫画みたいなんだろ」と自分の顔を気にして[[劣等感]]を抱いている<ref>27巻収録「かがみのない世界」</ref>。
野比家代々の先祖の少年時代の顔はそろってのび太に酷似している<ref name="ojiisan">14巻収録「夢まくらのおじいさん」</ref>(つまり顔立ちは全ての直系長男が特徴として受け継いでいることになる)。大人になると父のび助似の風貌になり(髪型は似ていない)、これも作中に登場した野比家の大人になっても眼鏡をかけたままになっている<ref name="anime-wakarazuya"/><ref name="minidorasos"/>。
眼鏡を取った顔は(しずかやスネ夫、出木杉に比べて)非常に小さい目をしており、この点は母親似である<ref group="注">他の藤子不二雄(A.F共通)作品の眼鏡をかけていない主人公の顔のほとんどはこの小さい目が基本である。</ref>。のび太の父方の先祖や子孫が丸く大きな目(白目の部分が眼鏡のフレーム並みに大きい)であるのとは対照的である。就寝中に目を覚ました直後などには、眼が「3」や「{{el|ε}}」のような形をしている(いわゆる「寝ぼけまなこ」の状態。ただし、2005年リニューアル以降は「3」や「{{el|ε}}」のような形ではなく、普通の目として描写されている)。
連載初期においては鼻が尖っており、その尖り具合は、未来の姿として描写された青年以降で特に顕著であった(このため青年以降ののび太の顔は、連載初期と中期以降で大きく異なる)。
=== 体格 ===
身長は[[剛田武|ジャイアン]]より低く、[[骨川スネ夫|スネ夫]]より高い。他のクラスメイトたちと比較しても平均的な体格だが、やややせ気味。129.3cmのドラえもんと比べると高身長<ref group="注">しかし、[[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|テレビアニメ第1作]]の頃は、ドラえもんの方が少し高めであった</ref>。大人ののび太の身長は176.9cmである<ref>『映画ドラえもん 感動名作選 帰ってきたドラえもん・のび太の結婚前夜』小学館〈THIS IS ANIMATION〉、1999年10月20日発行。ISBN 4-09-101550-6</ref>。
未来ののび太は中年期以降には前述の通り父ののび助のような外見になっており、56歳になったのび太は眼鏡を外している<ref>てんとう虫コミックス『ドラえもんプラス』5巻収録「45年後…」</ref>。[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|テレビアニメ第2作1期]]で大人ののび太は少年時代の特徴を残したまま大人になった印象で、細身で眼鏡をかけている<ref name="anime-wakarazuya">36巻収録「のび太の息子が家出した」のアニメ版「わからずやのパパは、のび太」(1984年11月16日放送)</ref><ref name="minidorasos">映画『[[ドラミちゃん ミニドラSOS!!!]]』</ref>が、[[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|テレビアニメ第2作2期]]における大人ののび太は原作に準拠したキャラクターデザインになっている。原作では細身の大人のび太<ref group="注">高校、大学生、しずかとの結婚前</ref>と中年太りのび太<ref group="注">ノビスケの生まれている中年期以降ののび太</ref>も登場する。
衣服については、原作ではしばしば変更されていた。テレビアニメ第2作1期では、基本的に、襟部分だけが白い、黄色のシャツに紺色の[[半ズボン]]姿(一部の例外を除く<ref group="注">1979年の開始当初、映画、1990年代以降は他の色もあった</ref>)。<!--アニメ内で箪笥の中の服が全て黄色の服と半ズボンだったことがある{{要出典|date=20年月}}。-->テレビアニメ第2作2期ではほぼエピソードごとに服装が異なっていたが2017年7月28日の「あの名作が帰ってくる!ドラえもん夏の1時間スペシャル」からは再度リニューアルが行われ、黄色もしくは赤色、水色の襟付きシャツを着るようになった。
== 性格 ==
=== 長所 ===
明るい性格でゆとりがあり、温厚で優しく、他人を深く思いやる心を持っている。臆病者だが正義感は強く、誰かを助けるために勇気を振り絞って危険に立ち向かうことも多い。小さなイタズラはともかく、暴力的かつ理不尽な言動はやろうと思ってもできず、ドラえもんから「きみが悪者になろうなんて思うのが無理なんだよ」と親しみを込めて言われたこともある<ref>13巻収録「悪魔のパスポート」</ref>。大好きな特撮ドラマが物価高騰により制作費を賄えず打ち切りの危機に瀕した際には、ドラえもんの力を借りて続行させたこともある<ref>16巻収録「宇宙ターザン」</ref>。
[[源静香|しずか]]の父は「他人の幸せを共に喜び、他人の不幸を共に悲しむことのできる人」とのび太の性格を称賛している<ref>25巻収録「のび太の結婚前夜」</ref>。のび太は、父・のび助をプロの画家にすれば裕福な暮らしができると考えて、タイムマシンで過去の世界に行き、学生時代ののび助にプロの画家へのチャンスを与えようとしたことがあるが、その結果自分はこの世に誕生しなくなる(のび助が別の女性と結婚することになるため[[タイムパラドックス]]が起きる)とドラえもんから知らされても、「パパが幸せになれるなら僕はそれでも構わない」と泣きながら言ったこともある<ref>43巻収録「のび太が消えちゃう?」。実際にはのび助は結果的にのび太が産まれる事になる選択をしていた。</ref>。彼の優しさを知る者からの人望は厚く、のび太を慕う者たちの中にはのび太を深く想い、自身の存在と引き換えにしてでものび太を守ろうとする者も多く、その姿が描かれているエピソードもいくつかある。
こうしたのび太の優しさを語る上で外せないのが、祖母の存在である。幼稚園の頃に病没したが、のび太自身は鮮明に覚えているほどのおばあちゃん子。とても優しく、のび太が泣いていると必ずどこにいても飛んで来てくれた。それは亡くなる直前まで変わらず続いた<ref>4巻収録「おばあちゃんのおもいで」、18巻収録「あの日あの時あのだるま」等。</ref>。
人を疑うことを知らない純粋無垢な性格だが、そのためしばしばジャイアンやスネ夫に騙され、[[エイプリルフール]]ともなると友人達から集中的に嘘をつかれるターゲットにされてしまう<ref>3巻収録「うそつ機」、7巻収録「帰ってきたドラえもん」、9巻収録「世の中うそだらけ」10巻収録「ハリ千本ノマス」など</ref>。一方でお世辞を言われたときは「今まで誰もそんなこと言わないよ」<ref>第2巻「うそつきかがみ」</ref>と多少なりとも疑念を抱く態度をとっていた(逆に他の友人はこれを疑わずに信じていた)。
普段は頼りないが、大長編シリーズではときにジャイアン以上の根性を見せて大活躍し、地球の危機を救うことも少なくない。大長編のキャラとはすぐに仲良くなるなど社交的な一面も見せる。自然や動物を愛でる気持ちは人一倍強く、学校の裏山が大好きであり、またそれらに関しての好奇心も強い。捨て犬や猫などを放っておけず、動物の方からもよく懐かれ、[[イヌ|犬]]<ref group="注">ただし猛犬に追い回されることもしばしばあるが、これはシッポを踏んでしまうなどアクシデントが原因で、決して嫌われているわけではない</ref>や[[ネコ]]<ref group="注">恩返しの時に引っかかれたことはある。</ref>の他、[[アリ]]<ref name="名前なし-1">25巻収録「羽アリのゆくえ」</ref>や幼木<ref>33巻収録「さらばキー坊」など</ref>、[[恐竜]]<ref>『[[ドラえもん のび太の恐竜]]』</ref>、[[ゾウ]]<ref>30巻収録「野生ペット小屋」</ref>、[[ライオン]]<ref>プラス1巻収録「強いペットがほしい」</ref>、[[タンポポ]]<ref>18巻収録「タンポポ空を行く」</ref>、果ては[[石|石ころ]]<ref>37巻収録「かわいい石ころの話」</ref>や[[掃除機]]<ref>プラス3巻収録「ペッター」</ref>[[台風]]<ref>6巻収録「台風のフー子」</ref>、[[雪]](雪の精霊)<ref>21巻収録「精霊よびだしうでわ」</ref>や[[山]](学校の裏山の心)<ref>26巻収録「森は生きている」</ref>にまで慕われたこともあった。また、絶滅寸前の[[ニホンオオカミ]]を救ったり<ref>2巻収録「オオカミ一家」</ref>絶滅動物のための島を作ったりし<ref name="moadodo">17巻収録「モアよドードーよ、永遠に」</ref>、『[[ドラえもん のび太と雲の王国]]』ではこれらの行動が結果として地球を救うことにも繋がった。動物や植物やロボットを傷付ける者に対しては怒りを露わにすることがあり、『[[ドラえもん のび太の南海大冒険]]』では地球上の生物を軍用の改造生物に作り上げ、様々な時代に売り飛ばそうとする時間犯罪者達に激しい怒りを見せており、拳銃で生物の改造装置を破壊している。『[[ドラえもん のび太とロボット王国]]』でもロボット達から感情を抜き取ろうとするデスターに対して怒りを見せており、彼らの前で「勝手過ぎる!」と訴っている。
竹を割ったようなさっぱりした性格で大体、細かいことにはこだわらない(ただし、格好いいものや流行っているものには目がない)。
勉強もスポーツも苦手だが、物事を楽しむのが得意で想像力にも長けており、ドラえもんの出す道具を器用に使って様々な空想を実現させて友人達を楽しませることも多い。その空想の豊かさは、普段はのび太をバカにするスネ夫とジャイアンも賞賛を送る程のものである。道具を使いこなすことについては非常に応用が利き、持ち主のドラえもんにも幾度となく「道具の使い方に関しては君は天才だ」などと言われている<ref>13巻収録「風神さわぎ」など</ref>。中学時代・高校時代の自分自身と、学業成績不振の責任をなすり合う事態になっても最後には「少なくとも高校まで行けることは確かになった」とポジティブに思考していた<ref>33巻収録「ガッコー仮面登場」</ref>。反面「幼稚園のプール」と言われただけで「子供を泣かして追い出される」というところまで想像するなどネガティブな思考をしてしまうことも多い<ref>3巻収録「ソウナルじょう」</ref>。
ドラえもんや彼の持つひみつ道具に頼りきりだが、時としてそれを反省し、自分に降りかかった問題や困難などを自力で解決するべく諦めずに奮闘することも多い。特に道具を悪用して失敗してしまった際などは自責の念に駆られ、正しいやり方でけじめをつけたり、自分の非に気付いた時には言い訳をせずに謝罪をするなど誠実さを見せることもある<ref>「のび太の0点脱出作戦」、「ドラえもんに休日を」、「やった木」、「ドラえもんが重病に!?」、大長編「のび太の恐竜」など。</ref>。
怠け者で面倒くさがり屋である反面、人の役に立ちたいという気持ちは強く、特にしずかを思うあまりに彼女を役に立ちたいという気持ちを起こし、自己の不運が原因でおかしな方向に進むことも多く、道具をねだられるドラえもんに鬱陶しがられることもある<ref>41巻収録「みえないボディガード」</ref>。また、この事例だけでなく人の役に立とうと果敢に努力をするが、これらも自己の不運が原因で逆に人に迷惑をかけてしまい、周りから恨まれることが何度もある<ref>14
巻収録「悪の道を進め!」</ref>。
一方で、ひみつ道具を上手に活用し、人の役に立ったエピソードもある。一例として、22巻収録『うつしっぱなしミラー』では、「いいことを思いついた」と言うや否や、ドラえもんから[[ドラえもんのひみつ道具 (うあ-うと)#うつしっぱなしミラー|うつしっぱなしミラー]]をもう1枚借り、転校生とその父親の船員(客船の乗組員で、その船のブリッジには[[どこでもドア]]で乗り込んだ)に互いの相手の姿を映したミラーを持たせ、テレビ電話のように活用して転校生を元気づけた。
また、6巻収録『さようなら、ドラえもん』では、勝つはずのない相手だと思っていたジャイアン、剛田武に対して、「ドラえもんが、安心して、帰れないんだーっ!」と言って果敢に戦う姿が描かれている。爽やかな性格の反面、やろうと思ったことはやり遂げようとすることが多い。ジャイアンにはボロボロになりつつも勝利したという諦めない想いもあることがよくわかるエピソードである。
原作者の藤子・F・不二雄は、「のび太にも良いところが一つだけある。それは彼は反省するんです。(中略)いつまでもいつまでも今より良い人間になろうと努力するんです」とのび太の長所をあげている<ref>NHK『[[あの人に会いたい]] #100 藤子・F・不二雄』</ref>。
=== 短所 ===
極めて意志薄弱な怠け者。都合が悪くなると、すぐ他者(主にドラえもん)に頼る<ref group="注">ただし、両親を頼ることは滅多にない。特にジャイアンやスネ夫などにいじめられた場合、親はもちろん先生に泣きつくことは皆無。もっとも、14巻収録「夢まくらのおじいさん」や15巻収録「タイムマシンで犯人を」のように、稀に親や先生に訴えることがあっても全く相手にされず、逆にのび太の方が悪いとされて叱られてしまうのが実情である。</ref>。何か困ったことに出くわすと、大抵は「ドラえも〜ん!!」と泣き叫んでドラえもんに泣き付き、彼のポケットをあてにする。しかもひどく無気力で、自分のやりたいこと以外は、やらねばならないと解っていても、進んでやろうとはしない。道具を使って頭の中身は現在のまま幼児時代に戻った時などは、「天才少年」と誉められて浮かれ、調子に乗ってそのまま何の努力もしなくなり、[[タイムテレビ]]でみた未来予想では元より頭が悪くなってしまったこともあった<ref>15巻収録「人生やり直し機」。なお、この時には「知能は小学2年生程度」と第三者から判定され、「ほんとは4年生なのに」と内心ショックを受けていた。</ref>。
極端なほどの面倒くさがり屋であり、「トイレに行きたいけれど面倒くさいからどうしよう」と尿意を我慢しながら延々と考えるほど<ref>13巻収録「いただき小判」</ref>。
昼間からでも眠くなるようで、学校から帰って疲れているからと眠り、友達と遊んでまた疲れて眠り、一日が終わる頃にがっくりして眠り、24時間の半分寝ていると言われる<ref>6巻収録「夜の世界の王さまだ!」</ref>。寝つきは異常なほど良く、通常は横になると同時に眠りにつくことができるなど、眠ることにかけては尋常でない才能を持つ([[#睡眠]]を参照)。
注意力が極めて散漫。ぼんやり道を歩いていて石につまずき、空き缶で滑って転び、足を踏み外してドブや工事現場へ転落するなどは日常茶飯事である。その上持ち前の運の悪さも重なって、ジャイアンとスネ夫にいじめられる、野良犬に襲われる、どこからともなく飛んできたボールが顔面を直撃するなど、道を歩いているだけで酷い目に遭うこともしばしばある。
大の勉強嫌いであり、自主的には予習・復習・宿題はまずしない。授業中の居眠りや遅刻、宿題忘れ、成績不振などが多いことから母の[[野比玉子|玉子]]や[[先生 (ドラえもん)|先生]]に叱られることがしばしばある。寝坊などで遅刻することも日常茶飯事だが、本人は寝坊を悪いと思うどころか反対に「遅刻をしても怒られない方法は」や「先生を遅刻させる方法は」「日本中の時計を止める方法は」などと無意味なことを考えるばかりで、「『どうしたら寝坊しないか』とは夢にも考えない。困ったものだ」と、作中の[[ナレーション]]でも突っ込まれている。食わず嫌いで、一度できないと決めてかかると頑として努力を拒む。そのため、やればできるにもかかわらず、やる気を出さないためにできないことも多いため、自身の母である玉子や先生から長時間にわたり説教を受けることは日常茶飯事。
例えば活字の本はまともに読むことができなかったが、道具を使って[[出木杉英才|出木杉]]に本を朗読してもらい、本の内容に興味を持った後は自力で読むことができた<ref name="ningenbook">27巻収録「人間ブックカバー」</ref>。活字嫌いに関しては、本を「手にとっただけで頭がズキンとして」「開くと熱がでて目がまわってはき気がして」「二、三ページで意識不明」と述べたこともある<ref name="oishikuyomo">32巻収録「本はおいしくよもう」</ref>。
先生の話は全く聞かない{{要出典|date=2023年7月}}(上記の通りむしろ授業中の話を聞いていないというよりも授業中に寝ているといった方があてはまる)。テストで0点を取る頻度があまりに多い為、先生に「どうしてそんなに0点ばかり取るんだ?」と聞かれた際には無表情で、「先生がくれるから...」と答えており、「まるで反省しとらん!」と激怒された事もある<ref>37巻収録「ふきかえ糸電話」</ref>。大変忘れっぽく、嫌なことはもちろん重要なこともすぐ忘れてしまう。
「魚は元々陸上の生物であり海水浴に出かけてそのまま居着いた」「割り箸で筏を作る」など、発想が極めて幼稚であり、ジャイアンとスネ夫はもちろん時にはドラえもんにすら馬鹿にされることがある。
言い訳や屁理屈は異常に上手い<ref>23巻収録「ぼくのまもり紙」</ref>が自信家の割には軽率で油断しやすい。また、思考が極めて単純かつ妙に常識に囚われやすく、柔軟(ひみつ道具の使い方を除く)な考えができず、すぐ調子に乗ってしまう(また、人の意見にも流されやすい)。それが原因でさまざまなトラブルを抱えることがしばしばある。よけいな口を滑らせてジャイアンを怒らせ殴られたり、持っていたひみつ道具を奪われたり、調子に乗って軽はずみにできもしないことを広言し、困り果ててドラえもんに泣きつくことも多い<ref>「恐竜丸ごとの化石を発掘してやる!」『のび太の恐竜』、「今、すごいものを作ろうとしているんだ! 」5巻収録「地球製造法」など</ref>。また、「できなかったら鼻でスパゲティーを食べる」「目でピーナッツを噛む」と無茶な約束をし、結局はできない(不可能だったわけではなく、のび太の優しさが災いしたといえる場合も多いが)ため、ドラえもんに泣いて懇願し、「できることかできないことか考えてからしゃべるもんだ!」と怒った彼と言い争いになることも。自分の思い通りにならないと感情的になり、両親やドラえもんに叱られたときに声を荒らげてしまい、ドラえもんと喧嘩することもある<ref>24巻収録「ションボリ、ドラえもん」、30巻収録「ハツメイカーで大発明」、35巻収録「悪魔のイジワール」、16巻収録「宇宙ターザン」、26巻収録「森は生きている」、プラス2巻収録「変心うちわ」、小学三年生1981年3月号収録 「キンシひょうしき」、映画『[[ドラえもん のび太の魔界大冒険|のび太の魔界大冒険]]』、映画『[[ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜|のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜]]』、映画『[[ドラえもん のび太のパラレル西遊記]]』、アニメ第2作第1期 「伝言花火」(1994年12月2日放映)、「バキュームゾウ」
より。</ref>。また、スネ夫とジャイアン<ref>第5巻収録「地球製造法」、第41巻収録「無人島の大怪物」、映画『[[ドラえもん のび太の恐竜]]』、映画『[[ドラえもん のび太の恐竜2006|のび太の恐竜2006]]』、映画『[[ドラえもん のび太とアニマル惑星|のび太のアニマル惑星]]』</ref>、大好きなしずか(※ただし、アニメ版ではしずかに対して声を荒らげるシーンの描写は少ない)に対しても声を荒らげる場合もある<ref>20巻収録「アヤカリンで幸運を」、41巻収録「時限バカ弾」、45巻収録「地図ちゅうしゃき」</ref>。しずかにとんでもないイタズラをし、面白がることもある<ref>13巻収録「マジックハンド」、16巻収録「雲ざいくで遊ぼう」、30巻収録「真夜中の電話魔」、アニメ第2作第1期「ロッカーカッター」(1984年5月7日放映)、32巻収録「ビデオ式なんでもリモコン」他</ref>。
その場の空気を読まないことが多く、見当はずれなことを言ってしまい、ムードを盛り下げてしまうことがある。また、初対面のおばさんに対して(ひみつ道具の影響もあるものの)サルと言ったり、草花を植えたジャイアンに対し、みんなが彼を誉める中、のび太は「がらにもないこと」といい、ジャイアンを怒らせてしまったこともある(ほうほうのていで逃げ出した後に、「ぼくはつい本当の事を言う」とボヤいている)。
ジャイアンやスネ夫に濡れ衣を着せられることも多い<ref>15巻収録「らくがきじゅう」、16巻収録「ナゲーなげなわ」、39巻収録「ずらしんぼ」、43巻収録「人間リモコン」、プラス5巻収録「ざんげぼう」、藤子・F・不二雄大全集7巻収録「どうぶつごヘッドホン」、藤子・F・不二雄大全集15巻収録「望遠メガフォン」、アニメ第2期1作「神さまロボット」、プラス5巻「無視虫」など</ref>。特にスネ夫に「ガラスを割った」という濡れ衣を着せられた時は「犯人を突き止めてやる」と言って、過去に行ったものの結局は本人の自己責任であることが判明し、罪悪感を感じたスネ夫が謝りに来た時には自分が犯人だったと言えるはずもなく「過ぎたことだから」と言って許した<ref>15巻収録「タイムマシンで犯人を」</ref>。
ひみつ道具を調子に乗って使い過ぎたり悪用してしばしば失敗している。<ref>彼が調子に乗りながら、ひみつ道具を悪用して使った後にジャイアンとスネ夫としずかの3人が被害者になり、ドラえもんに[[事情]]を説明した後にジャイアンとスネ夫とドラえもんの3人で彼をお仕置きすることもしばしばある。
(ぴっかぴかコミックス11巻収録「ロッカーカッター」、42巻収録「かくれん棒」、アニメ第2作第1期「ビデオ式なんでもリモコン」、アニメ第2作第2期「バリヤーポイント」、アニメ第2作第2期「のぞき穴ボード」、アニメ第2作第2期「のびタコ捕獲(ほかく)大作戦!」など)</ref>
また、勝手にひみつ道具を調子に乗って使った後に玉子と出木杉と先生と神成の4人も被害者になることもあり、理不尽なお仕置きをされたこともある。<ref>26巻収録「真実の旗印」、39巻収録「神さまセット」、37巻「ふきかえ糸電話」、テレビアニメ第2作第1期「ゆうどう足あとスタンプ」、「そっくりコントローラー」他</ref>
ジャイアンやスネ夫にいじめられた際に逆襲として、ドラえもんと共にひみつ道具で彼らへ罰を与えるなどの一種の道理的面もある<ref>39巻収録「メモリーディスク」、プラス5巻収録「ないしょ話」、「無視虫」、藤子・F・不二雄大全集15巻収録「望遠メガフォン」など</ref>。だが、自己の不運で、彼らに返り討ちに遭うこともある等<ref>37巻収録「魔法事典」、アニメ第2期1作「ニンニン修業セット」など</ref>、自己の運により道理すら報われないこともある。
心を痛めやすく、ドラえもんの軽い気持ちで言った一言でひどく落ち込むこともよくある(大半は昼寝しながらすぐ忘れる)。落ち込んだ時には、「部屋の隅で壁に向かい、腕を組み、[[胡坐]]をかく」といったポーズをよくとる。すぐに泣き<ref group="注">映画『[[ドラえもん のび太のパラレル西遊記|のび太のパラレル西遊記]]』では、のび太の夢の中に出てくる釈迦役のドラえもんに、孫悟空役ののび太に対して「勉強はしない、ママの言うことは聞かない、すぐに泣く、ドラえもんをいじめる」と言われる。</ref>、のび太の号泣がドラえもんに道具を出させるきっかけや、物語の騒動の発端になることも多い。
また、ひみつ道具を持つと[[独裁者]]のような振る舞いをすることもしばしばある<ref>15巻収録「階級ワッペン」、26巻収録「のび太の地底国」,39巻収録「のび太 神さまになる」など</ref>。
異常に臆病であり、怖い話をすると[[失禁]]したり<ref group="注">それ以外にも作中で失禁することが少なくなく、基本的にトイレを我慢するのが苦手らしいことが描かれている。</ref>、靴も履かずに外に逃げ出したりする。怖い夢を見ておねしょをしてしまうこともしばしばある。びっくり箱を開けただけでもすさまじい悲鳴を上げて逃げ出し、ドラえもんからも呆れられる<ref>16巻収録「びっくり箱ステッキ」</ref>。また心配性で、タイムマシンで過去や未来の真相を確かめに行くこともある<ref>19巻収録「あの窓にさようなら」、5巻収録「ドラえもんだらけ」「ゾウとおじさん」</ref><ref name="wannyan">『[[ドラえもん のび太のワンニャン時空伝|のび太のワンニャン時空伝]]』</ref>。
== 能力 ==
=== 知力 ===
テストの成績は極めて悪く、基本的にクラスで一番の劣等生として描かれているが、未来のノビスケの日記によれば「ビリから二番」<ref>16巻「りっぱなパパになるぞ」のノビスケの日記による。</ref>であるらしい(作中でのび太よりも成績が悪い児童が描かれたのは第23巻「ぼくよりダメなやつがきた」の多目くんのみ)。0点の答案を貯め込み、それらが玉子に見つかり叱られることも多い<ref>36巻「天つき地蔵」、『[[ドラえもん のび太と竜の騎士|のび太と竜の騎士]]』など。</ref>。かつては5回に1回の割合で0点を取っていたが<ref name="damenayatsu">23巻収録「ぼくよりダメなやつがきた」</ref><ref>37巻収録「のび太の0点脱出作戦」</ref>、後には0点を取る確率が10回に1回の割合へと下がっており少しずつ状況は良くなっているという<ref>42巻収録「もぐれ!ハマグリパック」</ref>。○×問題で全20問すべてを間違えたことがある(数学的に無作為に回答した場合、20問全部外す確率は2<sup>−20</sup>、つまり1,048,576回に1回の割合)<ref>テレビアニメ2期「テストにアンキパン」(2005年8月12日放送)でもそのことが触れられている。</ref>。
しかし、たった1度だけ、ドラえもんの道具に頼るなどのカンニング行為も一切行わず、自分だけの力で100点満点を取ったことがある。しかもその際、出題されていた問題は、中学生が習う一次方程式など、小学生が解くには難しすぎる問題なども含まれていたが、のび太は全問正解していた。自分の実力で100点を取った際には、母親の玉子は感動して泣き、答案用紙を額縁に入れて飾ろうとした<ref name="nobita100ten">25巻収録「な、なんと!!のび太が百点とった!!」</ref>(実際生涯を通して一度しか取ったことがないといわれる<ref name="timecupsule">26巻収録「タイムカプセル」</ref>)。10点で「思ったよりよかった」と喜び<ref>28巻収録「大ピンチ! スネ夫の答案」</ref>、30点で玉子から「まあ、30点もとったの。よかったわね」と褒められる<ref>20巻収録「アヤカリンで幸運を」</ref>。
これまで取った高得点は、前述の100点(に加えてドラえもんの道具を使った不正でもう一度100点を取っている<ref>34巻収録「のび太もたまには考える」</ref>。さらにアニメオリジナルエピソード「宇宙人を追いかえせ!」(2009年11月13日放送)ではまぐれで100点を取っている)の他、28巻収録「大ピンチ! スネ夫の答案」では10点。20巻収録「アヤカリンで幸運を」では、しずかの幸運を分けてもらうことで30点。37巻収録「のび太の0点脱出作戦」では、[[ドラえもんのひみつ道具 (しは-しん)#時門|時門]]で時間の流れを遅くしつつ自らの正当な努力で65点、未収録「人間カメラはそれなりに写る」ではひみつ道具なしで65点。39巻収録「具象化鏡」では65点。36巻収録「サカユメンでいい夢みよう」では、まぐれだが出鱈目な解答で95点を取っている。『ザ・ドラえもんズ スペシャル』の3巻収録「戦国の覇王」では歴史のテスト勉強の為にタイムマシンで戦国時代を冒険し、85点を取った。
[[漢字]]が苦手で、自分の名前の「のび'''太'''」を「のび'''犬'''」と書くことが一度ならず何度かある<ref name="kksiji">8巻収録「ライターしばい」</ref><ref name="kokkai">15巻収録「ポータブル国会」</ref>。「太」を書く際に正しい文字を忘れ、「大」の右上と内側の両方に点を書く場合もあるが、本人は「両方に点があるならまあいいだろ」と言い、叔父宛の手紙にそう書いたのをそのまま出した<ref>ただし「のび犬」と書くミスに関しては本人も気にしている模様。23巻収録「透視シールで大ピンチ」</ref>。ほかにも「ミラー'''怪人'''」を「ミラー'''貝入'''」<ref>33巻収録「鏡の中の世界」。</ref>、「血」を「皿」と<ref name="kksiji"/>、「配」を「己酉」と<ref>『[[ドラえもん のび太の魔界大冒険|のび太の魔界大冒険]]』</ref>、「今日」の「今」を左右逆に、「日」を「目」に<ref name="otononai">16巻収録「音のない世界」</ref>、「恋人」を「変人」に書き間違えている。また、漢字だけでなく[[平仮名|ひらがな]]さえもしばしば間違う。例としては、「よろこぶ」を「よろこ'''ろ'''ぶ」、「おじょうさん」を「お'''し'''ょうさん」、「はなれててくださいな」を「はなれててくだ'''ち'''いな」<ref name="kksiji"/>、「図かん(図鑑)を」を「図かん'''お'''」<ref>23巻収録「もはん手紙ペン」</ref>、「今日は」を「今日'''わ'''」<ref name="otononai"/>などがある(しかし日本語の使い方を間違えることは少ない)。2年のときの作文は読めないほど汚く(しかもたったの1行)、赤ペンで「もうすこしがんばりましょう」と書かれていた<ref>「のび太のハチャメチャ入学式」(2011年3月25日放送)</ref>。
[[計算]]にも非常に弱く、「1+1=11」「4×2=6」「15-3=8」「6×7=67」「6×6=63」 と答えたり、8×2ができずに「ええと…たくさんになるんだ」と言ったりしている<ref>17巻収録「バイバイン」</ref>。しかし、その一方では「<math>\tfrac{2}{3}\div0.25\div0.8 = 3\tfrac{1}{3}</math>」という難解な答えを正解に導いたり、本来[[中学校]]で習うはずの[[一次方程式]]「<math>\tfrac{3}{8} x = \tfrac{9}{10}</math>」を解いたこともあり、100点を取っている<ref name="nobita100ten"/><ref>テレビアニメ2期リメイク版「な、なんと!!のび太が100点とった!!」では図形問題も出題されている。</ref>。日本列島を巨大化させた21巻収録「ひろびろ日本」では、通学時間が「いつもの15分の10倍で150分、2時間半!」という計算を一人で暗算でやっており、タイムマシンに乗り江戸時代での生活を試みた30巻収録「昔はよかった」でも、目的地までの距離を「三里=12km」と、大まかではあるが尺貫法からメートル法に換算していた。
ドラえもんの道具「[[ドラえもんのひみつ道具 (せ)#正かくグラフ|正確グラフ]]」による知力の計測結果はしずかの1/6、スネ夫の2/7、ジャイアンの1/2であった<ref name="seikaku-graph">8巻収録「グラフはうそつかない」</ref>(しかし、ジャイアンに関してはジャイアンが知らない磁石の原理を知っているという場面もある<ref>てんコミ2巻「N・Sワッペン」</ref>)。[[ドラえもんのひみつ道具 (しは-しん)#人生やりなおし機|人生やりなおし機]]によって現在の知力・体力のまま4歳のときの人生をやり直すエピソードでは、天才教育研究会なる架空団体の分析で小学2年生程度と絶賛される(本来ならのび太は4年生レベルであるべき)。この時、やり直し状態で行方を見守らせたところ小学4年生になっても能力は元のままだった(それ以下)([[#短所]]参照)。
高校は「もののはずみで合格」し、一浪のすえ補欠合格で大学までは行けることがわかっており<ref>42巻収録「宇宙完全大百科」</ref>、知力には成長のあとが窺える(人間性はあまり成長していなかった<ref name="dr20yr">20巻収録「雪山のロマンス」</ref>)。大人ののび太の台詞によると「ぼく自身、あとで苦労したからね」とのこと<ref name="dr36nbm">36巻収録「のび太の息子が家出した」</ref>。
{{See also|#青年期}}
勉強や科学といった分野を理解することも不得意で、相手が説明してもほとんど把握できないことが多く、物覚えも悪い。その一方で、聡明な一面を見せることもある。大長編の『[[ドラえもん のび太と鉄人兵団|のび太と鉄人兵団]]』ではミクロスに対して、かなりひねったクイズを出題する描写が二度ほど見られた<ref group="注">こじかとおやじかのどっちが大きいかというクイズで「子鹿」と親父の「蚊」でこじかが大きい、など。出題されたミクロスは頭の回路がショートしてしまった</ref>。前述のように、ひみつ道具の使い方では大変な機転を利かせて持ち主のドラえもんですら思いつかない応用を見つけたり、ドラえもんでさえ気づかない意外な効用を指摘することも。プラス4巻収録「交通標識ステッカー」では、道路標識の意味を正確に理解し、それを応用しながらジャイアンを翻弄していた。ドラえもんが自身のもとへ来た目的を聞いた際、自分の将来(特に結婚相手)が変わった場合、それによってセワシが生まれない可能性([[タイムパラドックス]])を指摘している<ref name="harubaruto">1巻収録「未来の国からはるばると」</ref>。悪知恵にも長けた一面もあり、度々悪事をしでかし大騒動に巻き込むことがある。また、『[[ドラえもん のび太の魔界大冒険|のび太の魔界大冒険]]』では、[[出木杉英才]]に魔法のことを自分から聞きに行き、彼の[[魔女狩り]]にまで踏み込んだ細かい解説を理解していると思われる描写がなされている<ref>『[[ドラえもん のび太の魔界大冒険|のび太の魔界大冒険]]』より。</ref>。
=== 身体能力 ===
基本的に運動能力は極めて低い。泳ぎも全く出来ないカナヅチ。非力でけんかも弱い<ref>6巻「さようならドラえもん」ではジャイアンに勝っているが、これはのび太が見せたしつこさに根負けしたジャイアンが勝負を放棄した事による。</ref>。ジャイアンとスネ夫に「運動神経ゼロ」とバカにされ<ref>4巻収録「石ころぼうし」など</ref>、スタミナもなく、学校の体育のマラソンでものび太一人だけがバテて遅れる<ref>24巻収録「ションボリ、ドラえもん」</ref>。そんな短所を積極的に努力して改善するようなことはなく、例によってドラえもんに運動が上手くなる道具をねだってばかりいる<ref>7巻収録「ジャイアンズをぶっとばせ」など。</ref>。
ドラえもんの道具「正確グラフ」によると、筋力はジャイアンの3/10、スネ夫の3/7、しずかの3/5(ただしすぐ後のコマでは1/2となっている)<ref name="seikaku-graph" />。
野球を好んでしている描写はあるが、[[日本のアマチュア野球|草野球]]の成績は[[打率]]1分(100打数で1安打)<ref>35巻収録「空ぶりは巻きもどして…」</ref>、[[防御率]]は2試合2イニングで405.0(ただし、これは[[失点]]をすべて[[自責点]]であると仮定したものである)<ref>7巻収録「ジャイアンズをぶっとばせ」で1イニング13失点、33巻収録「あの道この道楽な道」で1イニング77失点</ref>、エラー多数。守備位置はライトを守ることが多い。
一方、映画『[[ドラえもん のび太と銀河超特急|のび太の銀河超特急]]』では、1人対4人という絶体絶命のピンチに陥ったにも拘らず、空中を1回転しながらピストルを連射、全員に命中させるというアクションをしたことがある(後述・[[#射撃]])。
== 特技 ==
=== 睡眠 ===
0.93秒で眠りにつくことが可能<ref>30巻収録「ねむりの天才のび太」初期は3秒だった(7巻収録「小人ロボット」)</ref>。[[もしもボックス]]で作った眠ることがもっとも価値のある世界では、この速さはオリンピックの睡眠・[[昼寝]]大会でも金メダルを獲得できるほどの速さだとされ世界記録レベルらしい。アニメ版では0.3秒で眠りについたこともある<ref>第2作1期「予言者ジャイアン」</ref>。
あまりに昼寝をしすぎるとさすがに目がさえて眠ることができなくなることもあり、そんな時はしかたなく勉強やテレビを見たり街中を散歩したりすることもある<ref>2巻収録「ゆめふうりん」、7巻収録「小人ロボット」、15巻収録「ゆめのチャンネル」、23巻収録「オキテテヨカッタ」</ref>。
一日の睡眠時間は12時間のようである<ref>6巻収録「夜の世界の王さまだ!」で、「24時間の半分、ねてる」と自ら語っている</ref>。
=== 射撃 ===
射撃に関しては驚異的な命中精度と早撃ちの技術を持つ。これは勉強中に[[鼻糞]]を飛ばした際、電球に偶然命中し、試しに的を作り飛ばして、その能力に気づいた<ref>てんとう虫コミックス『ドラえもんプラス』2巻収録「夢中機を探せ」</ref>。ただ、のび太が射撃が得意だと正式に設定されたのは、てんとう虫コミックス12巻の「けん銃王コンテスト」で、それ以前は下手だったという描写もある<ref>『[[藤子・F・不二雄大全集]]』2巻「アタールガン」(『小学一年生』1970年2月号掲載)など、「けん銃王コンテスト」連載後にのび太は射撃が苦手という設定が書かれたこともある(「写真入りこみスコープ」(『小学一年生』1981年5月号掲載)など)</ref>。早撃ちではプロの殺し屋・ギラーミンに[[一騎討ち]]で勝っている<ref group="注">このシーンについては『[[ドラえもん のび太の宇宙開拓史|のび太の宇宙開拓史]]』では一連のシーンはカットされている(=映像化されていない)が、『[[ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史]]』では原作に忠実とまではいかないが一騎討ちのシーンは再現されている。</ref>。これに関しては本人も「僕が負けるはずがない」と自負するほどだが、同時に初対面であるギラーミンの技量を一目で見抜き、長期戦は不利と悟り一瞬で片を付ける方法で勝負に出た。映画「のび太と鉄人兵団」においては、護送されるリルルを拘束する鎖、つまり「遥か上空を移動する1本の鎖」を、スコープも無い単純な片手用の銃で一発で撃ち抜いている。ヤドリの親玉が憑依した巨大[[ゴーレム]]にわざと掴みあげられ、ヤドリがゴーレムから飛び出して襲いかかってくる瞬間を早撃ちで倒したこともあった<ref name="nobiginga"/>。また、モルグ街の数十人の[[アウトロー]]を独りで撃退したこともあれば<ref>24巻収録「ガンファイターのび太」</ref>、ドリーマーズランドの西部の街で[[保安官]]になったりもしている。この時一つの空き缶に対し、ピストルの弾丸6発を地面に落ちる前に連続で命中させるという離れ技も見せている<ref name="nobiginga"/>。モルグ街での戦闘の際には本物の拳銃を撃っており、弾丸は肩と右横腹に命中した。致命傷には至っていないが、相手を負傷させてしまった罪悪感と出血を見たことで失神してしまい、「強いのか弱いのか、さっぱりわからん」と評されている<ref>テレビアニメ第2作第1期では、本物の拳銃ではなくおもちゃの拳銃を撃ち、弾が敵の馬の鼻の穴に入り馬が暴れたため敵は落馬し、のび太が勝利した。第2作第2期では人ではなく、足場や看板を狙って撃っている。これにより敵は足場から落ちたり、看板に当たる等で気絶しており、ドラえもん達が助けに来るまではこのやり方で敵を倒している。</ref>。
本人は「西部劇時代のアメリカに生まれていればきっと名ガンマンになれただろう」と夢想することがあるが、ドラえもんいわく「現代では全く役に立たない能力」と評されている。
=== あやとり ===
「おどるチョウ」「ギャラクシー」「銀河」「ほうき星」「のび太のママ」<ref>テレビアニメ第2作1期「のび太の家出」2004年8月13日放送</ref>などという自作技を長期間かけて考案するほど、[[あやとり]]に入れ込む。ただしあやとりが好きなのは、こよなく愛しているというよりも「金もかからず、疲れず、腹も減らないから」とのこと<ref>8巻収録「カネバチはよく働く」</ref>。[[もしもボックス]]によってできた「あやとりの世界」では契約金3000万円(アニメ第2作第2期では1億円)で「日本プロあやとり協会」からスカウトされるほどの腕前<ref>15巻収録「あやとり世界」</ref>。また同様のエピソードにおいて、家族が感心するプロの技を「てんで幼稚」と言ってしまえて、実際瞬時にプロ並みの大技をやってしまうことから、のび太=天才少年だということが瞬く間に広がったほか、プロのスカウト担当者から「世界チャンピオンになれる」と言われたほど<ref group="注">ただ、これは前述にもある「もしもボックス」で作った仮想の世界であるため、もとの世界に戻った瞬間、人々の関心がなくなった</ref>。ひみつ道具の看板であやとりの家元になったところ、家一杯になるほどの弟子が来たこともある。ただ、ジャイアンやスネ夫をはじめとする友人に馬鹿にされたり、父ののび助からは「男の子らしくない遊び」、母の玉子からは「何の役にも立たない」と言われたり、空き地でみんなに見せようとした時にはすぐに退散されるなど、基本的に周囲からの受けは極めて良くない模様。
=== ピーナッツの投げ食い ===
連載初期は、特技として[[ピーナッツ]]を連続で空中に放り投げ、すべて口で受け止めるという隠し技を持っていた(「たった一つの特技」と自称)が、友人たちの受けは今ひとつだった<ref>2巻収録「ロボ子が愛してる」</ref>。
=== 漫画 ===
漫画やアニメについては、高学年向けや大人向けの作品、[[少女漫画]]や少女アニメであっても分け隔てなく親しみ、造詣も深いようである。「ぼくがおもしろいと思ったマンガは必ずヒットする」と自分の審美眼に自信を持っている。本人だけでなく他人からも[[漫画評論]]の目利きも見込まれていて、ジャイアンがジャイ子の漫画の批評をのび太に求めたこともあった<ref>37巻収録「大人気!クリスチーネ先生」</ref>。だが、本人は絵も下手で漫画を描く才能もまったく持っておらず、ドラえもんの道具で自身の作品を掲載したマンガ雑誌を制作した時は誰にも見向きもされず<ref>17巻収録「週刊のび太」</ref>、スネ夫たちに張り合ってアニメを自作した際も[[ドラえもんのひみつ道具 (あな-あん)#アニメーカー|アニメーカー]]を使うことでドラえもんに制作を丸投げしてしまっていた<ref>24巻収録「アニメ制作なんてわけないよ」</ref>。
=== その他の特技・技能 ===
ゴム風船のスペースシャトルを工作したこともある<ref>25巻収録「のび太のスペースシャトル」</ref>。また、[[鉄道模型]]の寝台車にベッドを組み込むといった細かい作業もこなしている<ref>39巻収録「のび太の模型鉄道」</ref>。また「[[ドラえもんのひみつ道具 (はあ-はと)#ハツメイカー|ハツメイカー]]」の出す設計図に従って、彼が作った発明品はすべて機能した。道具を探すのが得意で見つけにくい所でも簡単に見つけてしまう。
初期の頃は、足の指で器用に[[スペースインベーダー|インベーダーゲーム]]らしき物をしていた<ref>19巻収録「天井うらの宇宙戦争」</ref>、また、足の指で[[けん玉]]をしていたこともある<ref>アニメ「ウラオモテックス」</ref>。
== 未来の描写 ==
=== 青年期 ===
当初の歴史では、[[大学受験]]にも[[就職]]にも失敗し、ついには[[起業]]する(雑誌掲載版では父親の会社を継いだ)。しかし起業から5年後、自分で使用した花火の不始末により社屋が炎上、さらには2年後に倒産。[[続柄|孫の孫]]の代にまで残る借金を残し、さらには[[ドラえもんの登場人物一覧#剛田家|ジャイ子]]と結婚して子供も6人もうけている運命と[[セワシ]]が説明したが<ref name="harubaruto"/>、ドラえもんの登場により、将来は憧れていたしずかと結婚するように運命が変わる。
なお、上記の将来の設定は[[小学四年生]]版の第1回「未来の国からはるばると」によるものだが、小学三年生版の第1回「机からとび出したドラえもん」ではやや状況が異なる。大学浪人後は一応どこかの会社に就職できたようだが、大失敗をしでかしてクビになり、ゴムひもや歯ブラシの[[訪問販売]]員(当時の感覚では「[[押し売り]]」と呼ばれる職業)となった。その後、宝くじに当たり会社を設立したものの、1年で倒産し、その時の借金がセワシの代まで残っていることになっている<ref>藤子不二雄ランド1巻、藤子・F・不二雄大全集1巻収録「机からとび出したドラえもん」</ref>。
その後の改変された歴史では、こちらでも大学受験には失敗するものの、二度目は補欠合格、将来はしずかと順調に交際することになるが、ある日未来のしずかが雪山で遭難したとき、(未来ののび太は風邪で寝込んでいたため)現在ののび太が大人になって現地に助けに行くが、失敗ばかりする。その後「そばについててあげないと、あぶなくて見てられないから」という理由で、結婚を承諾される<ref name="dr20yr"/><ref group="注">この理由はのび太にとって非常に屈辱的であり、タイムテレビでだらしない表情で喜ぶ未来の自分を見た彼は「こんなのいやだ!」と怒っていた。</ref>。結婚式前日時点で運転免許を取得済。赤いスポーツカーを乗り回す等、経済的にも不自由していない点が書かれている。後に静香との間にノビスケを設けた。また、ジャイアンやスネ夫、出木杉との友人関係も健在であり、酒の席で歌いだしたジャイアンに「へたくそ」と野次を飛ばしていた。
=== 壮年期 ===
50代後半ののび太は、ドラえもんとは少年期同様に会話している。そのため、ドラえもんが20世紀の野比家を離れた後も、二人の交流は続いているようである。両親については、45年後(1970年の連載開始を起点とすると2015年)の時点で健在かどうかは、具体的な描写がないため不明(テレビアニメ第2作第2期「45年後… ~未来のぼくがやって来た~」〈2009年12月31日放送〉では、50代後半ののび太が現在の母親の手料理を食べ、涙を流す場面が存在する)。ノビスケについては結婚したとのこと。
なお、原作では未来ののび太は容姿が大きく変化している(のび助に似ている容姿)。また、何らかの理由で視力が回復しており眼鏡はかけていない(本人も「なおったのは近眼だけ」と発言している)<ref group="注">テレビアニメ第2作1期では20年後までは眼鏡をかけたままである。</ref>。
アニメのみで、環境保護局の自然調査員に就職するとの設定がある<ref>書籍『コロコロコミックデラックス 映画アニメドラえもん・ドラミちゃん』</ref>。
== その他 ==
=== 人間関係 ===
しずか、ジャイアン、スネ夫の三人とは幼少期からの[[幼馴染み]]であり、出木杉も含めて成人後も親交がある。
ジャイアンとスネ夫からはいじめや嫌がらせを頻繁に受けている。その為、しずかの家に行こうとしているところをジャイアン一人に邪魔をされたり<ref>17巻収録「家がロボットになった」など</ref>、ジャイアンとスネ夫の二人に邪魔をされる事がある<ref>41巻収録「出ちょう口目」など</ref>。のび太自身も仕返しをしようと企んだことがあるが、ことごとくしっぺ返しを食らっている。しかし、ジャイアンとスネ夫はのび太が先生に生徒として完全に否定された際、同情したり<ref>32巻収録「しずちゃんさようなら」</ref>、のび太が見えない所で助けようとするなど憎からずも心のどこで友達だと思っている節があり、真の友とも言える描写もある<ref>22巻収録「のび太救出決死探検隊」のアニメ版のアニメ第2期1作「裏山のガリバー探検」</ref>。
クラスメイトの親や親族からもバカにされることがあり、スネ夫のママに至っては問題行為の原因がスネ夫側にあった(スネ夫から馬鹿にされた挙句、ピコピコハンマーで何十回か殴られたため逆上したのび太がピコピコハンマーで一発殴っただけ)にも拘らず、スネ夫が自分の非を棚に上げて泣き付いたことで「野蛮!残酷!」と評し、玉子にそのことに対するクレームの電話を入れ、玉子にのび太を怒らせる行為をした(のび太は弁明しようとしたが、玉子は「あんたが悪い!」と決め付けて一蹴した)<ref>プラス6巻収録「チューシン倉でかたきうち」</ref>。第三者からもジャイアンやスネ夫を始めとするクラスメイトが起こした問題行為(偶然の場合がほとんどだが、時折故意に起こされる場合がある)の責任を押し付けられ、怒られることが多い(塀に落書きした罪を押し付けられて住人に殴られる<ref>15巻収録「らくがきじゅう」、アニメ第2期1作「神さまロボット」など</ref>、ボールや石などで家の窓ガラス割った罪を押し付けられて住人に怒られる<ref>プラス5巻「ざんげぼう」、藤子・F・不二雄大全集15巻収録「望遠メガフォン」など</ref>など)。
こうした背景から主要人物や第三者からはトラブルの原因をのび太と勝手に決めつけられて怒られることも多く<ref>例としてテレビアニメ第2作第1期「ほしい人アロー」では、少年に犬を飼ってほしいと頼んだ際、その少年が我が儘を言った為、のび太は怒ったが、少年が泣いた後、その母親が現れ、「貴方何年生?子供を虐めるつもり?そんなんじゃ将来、ろくな大人にならないわよ!」とのび太に怒り、のび太は泣いてしまった。</ref>、[[冤罪]]と判明しても、ドラえもん以外のほとんどの人物はこれに対する謝罪を道具無しですることはあまり無いが、例外的にきちんと謝罪をされたこともある。
また、ドラえもんからひみつ道具を手に入れた際、自分をいじめたクラスメイト(主にジャイアンとスネ夫)や非常識な者(道端にゴミやたばこを捨てる者、乱暴な運転をする者等)、そして理不尽な理由で悪者扱いした大人(玉子、神成さん等)に復讐する事がある<ref>例として8巻「マッド・ウオッチ」では狭い道を猛スピードで走ってのび太を轢きそうになった車の運転手(のび太に「気を付けろ、のろま!」と怒鳴った)に対して、狂時機で動きを遅くしてその車体に落書きした。プラス6巻「チューシン倉でかたきうち」では自分を悪者扱いした玉子に対して、仇を討つ役をドラえもんに任せ、玉子の花瓶を壊させた。テレビアニメ第2作第1期「真実の旗印」ではのび太を落書きの犯人と決めつけて壁の掃除をさせた神成さんに対して、わざと塀に落書きをし、真実の旗印を見せて「壁に落書きされている家には福が訪れ、落書きが多いほど福が多く来る」と嘘を述べた。</ref>。
大長編では行く先々でゲストキャラや動物達に慕われたり、彼を否定する発言が多い友人や家族とは違い、のび太のことを高く評価され、「[[ドラえもん のび太の宇宙開拓史]]」や「[[ドラえもん のび太のワンニャン時空伝]]」では英雄や神として称えられた。原作でも、命を助けた女王アリや他のアリ達からも感謝されたり<ref name="名前なし-1"/>、進化させて3億年前で暮らせるようにした野良犬たちから“自分達に知恵を授けてくれた神”と崇められて神殿つき神像が造られるなどしている<ref>22巻収録「のら犬「イチ」の国」</ref>。
出木杉については、彼が女子にもてるうえにしずかと親密であることでライバル視することも多いが、彼の優秀さ・誠実さを素直に認めている節もあり<ref group="注">のび太は悪口のつもりで吐き捨てた事が全て褒め言葉になっており、「悪いところが一つも無い!」と愕然とした事もある。</ref>、見習って自分を変えようとすることもあったり、時折なにかの相談にのってもらったりもする。出木杉自身ものび太の優しさや潜在的な能力を認めており、のび太とは良き友人関係と言える。ただし、作品によっては彼とも本気で敵対した回も存在している。なお、成人後も家族ぐるみで交際が続いている様子である<ref>40巻収録「しずちゃんをとりもどせ」</ref>。
別時系列での自分自身とも、中学時代・高校時代など近未来の場合には、学業成績不振の責任を巡って対立することがある<ref>3巻収録「ぼくを、ぼくの先生に」、33巻収録「ガッコー仮面登場」</ref>。
ドラえもんについては、困った時にはドラえもんに頼り切ったり、喧嘩する事もある。ドラえもんものび太の行動に呆れたり、毒舌を吐く事もあるが、基本的には仲が良く、「親友」と呼び合う程である。「のび太のブリキの迷宮」ではロボットに不信を抱くサピオから「ロボットなのに友達?」と言われた際、「ロボットでも人間以上の友達さ。」と返したり、「のび太とロボット王国」では「機械(ロボット)に感情は必要ない。」と言い放つデスターに対して「ドラえもんは機械じゃない、友達だ!」と訴える等、種族を越えた固い友情で結ばれている。
名前の呼称としては担任教師(呼び捨て)と出木杉ほか一部のクラスメイト(君付け)から苗字で呼ばれ、他の者からはたいてい下の名前(両親と男の子達からは呼び捨て、女の子達からはさん付け。原作初期およびアニメ版のドラえもんからは君付け)で呼ばれている。ただししずかに関しては、アニメ第2期第1作の初期ではのび太を「くん」付けで呼んでいたことがある。
=== 日常生活 ===
小遣いは毎月500円<ref name="zeikin">22巻収録「税金鳥」</ref>。しばしばお金が足りなくなって、両親に小遣いの値上げをねだり、断られるたびにドラえもんに泣きついて何か道具を出してもらう。ドラえもんは基本的には「お金を出す道具なんてないと、何度言ったらわかるんだ!」<ref>25巻収録「円ピツで大金持ち」</ref>とつっぱねるが、のび太をこらしめるために後でしっぺ返しを食らう道具をわざと貸し出すこともある([[ドラえもんのひみつ道具 (あな-あん)#アルバイト料先ばらい円ピツ|円ピツ]]、[[ドラえもんのひみつ道具 (み)#未来小切手帳|未来小切手帳]]など)。道具を使うことに関しては機転がきき、道具を使って金もうけをすることについてはとりわけ発想が富む。
[[どこでもドア]]をはじめ、移動系や透視系の道具を使うとほぼ毎回しずかの入浴に出くわし、「のび太さんのエッチ!!」と言われてお湯や洗面器などを投げつけられる。また、どこでもドアで源家に行こうとすると、ほぼ無条件でしずかが入浴中の風呂場につながってしまう<ref>27巻収録「10分遅れのエスパー」や38巻収録「カチンカチンライト」では無人の風呂場へ移動してしまうほどである</ref><ref group="注">これはのび太がしずかのところへ行きたいと思っているのをどこでもドアが読み取り、しずかの目の前に出てきてしまうのである。例外としてしずかの家の前などと明確な場所を示せば風呂場にたどり着くことはない。</ref>。このことに対しのび太は、「習慣は恐ろしい」と語っている<ref>43巻収録「強〜いイシ」</ref>。
自分がいつも朝遅刻して廊下に立たされたり先生に叱られていることは悪いことであると自覚しているようで<ref>23巻収録「オキテテヨカッタ」</ref>、自己嫌悪に陥ることもしばしばある。よく遅刻する理由は「学校が遠すぎるから」と自己分析しているが<ref>39巻収録「四次元若葉マーク」</ref>、のび太の足では家から学校まで15分程度の距離のようである<ref name="名前なし-2">21巻収録「ひろびろ日本」</ref>。ただし、偶然犬の尻尾を踏んで犬に追い掛け回されたり噛み付かれたりすることが少なくなく、その対処に時間を費やしてまともに登校できないことも多い。
[[歌手]]の河合可愛(かわい かわい)、丸井マリ、[[星野スミレ]]、[[ドラえもんの登場人物一覧#伊藤翼|伊藤翼]]の大ファン。
ジャイアンの歌手活動のファンクラブ「剛田武ファンクラブ」会長(半ば押し付けであるが)<ref>33巻収録「フィーバー!! ジャイアンF・C」</ref>。
上述の野良犬たちの国を含め、ドラえもんのひみつ道具を使って独自の国を作り上げたことがある<ref>26巻収録「のび太の地底国」、40巻収録「おこのみ建国用品いろいろ」</ref>。しかし、これらの国は崩壊してしまったり、のび太が自主的に元の生活に戻るなどの理由で最終的に消滅している。
=== 苦手なもの ===
勉強、宿題、運動(水泳<ref group="注">原作45巻にて「強力ハイポンプガス」を使っていたが、最終的に一応ながらカナヅチを克服している。</ref>に関しては、夏になると「あー練習しておけば良かった!」と昨夏を後悔したり「今年こそは!」と思うことが多い)全般。お使いや草むしりなどの面倒なことも苦手(できないというより怠惰な性格とやる気のなさから失敗することが多い)。料理や家事、ジャイアンの歌声<ref group="注">ただし、これはのび太だけに限らず登場人物のほぼ全員が嫌っている。また、のび太自身の歌声は「ジャイアンよりひどい」と評された事がある。</ref>、[[幽霊]]や[[怪談]]も苦手<ref>2巻収録「怪談ランプ」、21巻収録「ドラキュラセット」、37巻収録「しかしユーレイは出た!」など</ref>。かなりの風呂嫌いで、1、2週間に1度入る程度という時期があった<ref>てんとう虫コミックス『ドラえもんプラス』2巻収録「ドロン巻き物」</ref>が、連載・放送が進むにつれてそのような行動は見られなくなった。読書も嫌いで、活字の本は3ページも読まないうちに眠ってしまったり<ref name="ningenbook"/>、1ページも読まないうちに昏倒したりする<ref name="oishikuyomo"/>。
しかし、やる気があれば勉強以外の当たり前のことは普通にできる。また、複数のことに集中することや人の指示を一度で聞き取ることは普通にできるか結構得意であるかのどちらかで(これらもやる気がないと中々うまくできない)、自分に興味のある分野だとその限りではなく(のび太だけに限らず)、[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]のSF小説「[[透明人間 (小説)|透明人間]]」<ref>8巻収録「とう明人間めぐすり」</ref>に関心を持ったり 、恐竜[[化石]][[発掘]]に関する書物<ref>10巻収録「のび太の恐竜」原作</ref> 、宇宙飛行士の実録<ref>13巻収録『宝さがしごっこセット』</ref> など専門的な書籍に熱中したり、[[シャーロック・ホームズ]]<ref>3巻収録「シャーロックホームズセット」</ref> や『[[ロビンソン・クルーソー|ロビンソン漂流記]]』などを読み耽っている話も見られる(知識はあまり身についておらず、技能ならともかく、興味のある分野でも優れた頭脳を発揮できるという訳でもない)。
また、ひみつ道具(タケコプター、[[ドラえもんのひみつ道具 (くあ-くと)#空中シューズ|空中シューズ]]など)で空を飛ぶ(歩く)ことが多い割には、自分で「[[高所恐怖症]]」と言っている<ref name="mirainomachi">21巻収録「未来の町にただ一人」</ref>。基本的に虫も苦手ではないが[[カエル]]や[[ヘビ]]、[[ケムシ|毛虫]]、[[クモ]]、[[カマキリ]]、[[トカゲ]]など一部の虫や生物にかなり怖がっていた<ref name="dr27kyouhu">27巻収録「○□恐怖症」</ref>(毛虫は竜宮姫子やしずか<ref>プラス1巻収録「スリルチケット」</ref>の背中についたものを払っていることがあり<ref name="urashima-candy">9巻収録「ウラシマキャンデー」</ref><ref name="moadodo"/>、基本的にそれ以外の話ではそれほど怖がってはおらず、大蛇やクモ、トカゲ(恐竜などの姿が酷似した生物も例外ではない)も何度も見たことがあるがドラえもんのネズミ嫌いのように外見だけで怖がることは少なく、ゴキブリ等の上記で述べた以外の虫も平気。もっとも、自身の目の前に突然現れたものに驚いて気絶する癖がある)。
[[歯医者]]、[[注射]]<ref>20巻収録「お医者さんカバン」</ref>やコロン<ref>テレビアニメ2期「のろのろ、じたばた」(2005年4月22日放送)</ref>、[[医薬品|飲み薬]]も嫌い<ref>5巻収録「のろのろ、じたばた」ほか</ref>だが、後には大量の錠剤型道具を一度に飲む描写も多く見られる<ref>5巻収録「うちのプールは太平洋」、21巻収録「ママをたずねて三千キロじょう」など</ref><ref name="harapeko">44巻収録「腹ぺこのつらさ知ってるかい」</ref>。<ref>8巻「ニクメナイン」</ref>一部の話では地震もかなり苦手であったが<ref>26巻収録「地震なまず」</ref> ドラえもんの道具によって震度7でも平然としていられる程の耐性を身に付けている<ref>34巻収録「地震訓練ペーパー」</ref>。同様に、雷までも道具によって克服している(のび助や玉子はその道具により黒コゲにされた)。
[[絵画|絵]]が大の得意な父とは正反対で大の苦手<ref>5巻収録「つづきスプレー」、34巻収録「見たままベレーで天才画家」など</ref>であり、そのためジャイアンとスネ夫に馬鹿にされることがある。また、美術評論家であるしずかのおじに自分の絵を評価してもらうが、幼稚園の頃描いたものだと勘違いされ<ref>8巻収録「ロボットがほめれば……」</ref>、ドラえもんには犬の絵を猫の絵と勘違いされたり<ref>3巻収録「そっくりクレヨン」</ref>、幼稚園のころ描いた絵を「今とあまり変わらない」と言われたりする。『[[ドラえもん のび太の創世日記|のび太の創世日記]]』では、ドラえもんが恐竜の絵をトカゲの絵だと勘違いしている。自分でも絵の下手さは自覚しており、しずかをモデルに人物画を描いた際には誤魔化してしずかに見せず、後で自分の絵を「こんなの見せたらどんなに怒るか」と評している<ref name="sketch">41巻収録「いつでもどこでもスケッチセット」</ref>。ただし、絵を描くこと自体は決して嫌いではないようで、上手い下手を気にせずに、一人で漫画や落書きを楽しそうに描いていることもある<ref>17巻収録「週刊のび太」、22巻収録「メカ・メーカー」など</ref>。絵そのものが下手というよりは長期的な集中力が欠如している節もあり、[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の全体像を描くと下手だったが舳先だけなら上手に描けたケースもある<ref>5巻収録「つづきスプレー」</ref>。
=== 家出 ===
玉子に叱られるなどして自宅にいることがイヤになり、しばしば[[家出]]することがある。シリーズを通して確認できるのは6回で、そのうち5回は両親に怒られたことが原因<ref name="daijiten">『決定版 ドラえもん大事典』(小学館)</ref>。しかし、10分が1時間に感じられる[[ドラえもんのひみつ道具 (しあ-しの)#時間ナガナガ光線|時間ナガナガ光線]]を使って、3時間だけ家出したり<ref>25巻収録「のび太のなが〜い家出」</ref>、珍しく1人で自分の力で暮らそうとしたときも、[[ドラえもんのひみつ道具 (な)#ナイヘヤドア|ナイヘヤドア]]を使ったりと<ref>15巻収録「ナイヘヤドア」</ref>、ひみつ道具の力にも頼る。また、10年間も無人島へ家出したこともあり<ref group="注">その間の食事や行動については描かれていない。</ref><ref>この時「僕が大人になったらこの漫画(アニメ)終わりじゃないか!」と言っていた。</ref>、そのときはドラえもんが10年後に助けにきてタイムマシンで家出した日に戻り、[[タイムふろしき]]でもとに戻った<ref>14巻収録「無人島へ家出」</ref>。そして、大長編・映画『[[ドラえもん のび太の日本誕生|のび太の日本誕生]]』では、のび太、しずか、ドラえもん、スネ夫、ジャイアンの皆で7万年前の石器時代に家出することになる。家出未遂は1回<ref name="dr36nbm"/>。その他、「家出」ならぬ「家入り」と称して[[ドラえもんのひみつ道具 (て)#デンデンハウス|デンデンハウス]]で篭城をしている<ref>9巻収録「デンデンハウスは気楽だな」</ref>。
=== 食べ物の嗜好 ===
原作では、野比家が外食をするシーンはほとんど描かれないが、[[出前]]を取ることは多い<ref>6巻収録「温泉旅行」</ref><ref>19巻収録「出前電話」</ref>。また、玉子がごちそうを奮発する<ref>1巻収録「プロポーズ大作戦」</ref> ことがあり、またのび太もその腕前を評価している<ref>14巻収録「ムードもりあげ楽団」</ref><ref>劇場版ドラえもん「のび太のパラレル西遊記」</ref>。大長編では[[カレーライス]]、[[お子様ランチ]]など、子供らしい料理を注文している。江戸時代での生活を試みた際には、[[アワ|粟]]のおかゆを不味く感じ、また菜っ葉の汁や漬物との食べ合わせから、カレーライスや[[ハンバーグ]]を懐かしむ様子も見られた。アニメ第2作第1期では夕食をきちんと食べずにポテトチップスを食べる描写もあった。
; 原作で、好物であるという描写のある食べ物
*[[餅]]<ref>2巻収録「タタミの田んぼ」</ref>
*[[ねこまんま|しるかけごはん]]<ref name="marichan">8巻収録「ぼく、マリちゃんだよ」</ref>
*[[刺身]]<ref>10巻収録「[[ドラえもん のび太の恐竜|のび太の恐竜]]」</ref>
*[[柏餅]]<ref>11巻収録「おすそわけガム」</ref>
*[[ブドウ]]<ref name="amaenbo">16巻収録「パパもあまえんぼ」</ref>
*[[ホットケーキ]]<ref>18巻「ガールフレンドカタログメーカー」19巻「無敵コンチュー丹」「テレパスロボット」</ref>
*[[たらこ]]の[[おにぎり]]<ref>34巻収録「水たまりのピラルク」</ref>
*[[ナシ|梨]]<ref>41巻収録「無人島の大怪物」</ref>
*[[ケーキ]]<ref name="tachimono">42巻収録「断ち物願かけ神社」</ref>
*[[卵焼き]]<ref name="tachimono"/>
*[[ラーメン]]<ref name="harapeko"/>
*[[すき焼き]]<ref>44巻収録「十円なんでもストア」</ref>
*[[カップ麺]]<ref name="bokuwotomeru">プラス1巻収録「ぼくを止めるのび太」</ref>
; アニメ・オリジナル設定で、好物とされる食べ物
*[[ハンバーグ|チーズバーグ]]<ref>『テストにアンキパン』(1979年4月4日放送)</ref>
*[[パスタ|スパゲッティナポリタン]]<ref>『未来の街が危ない』(1993年10月8日放送)</ref>
*[[ドーナツ (菓子)|ドーナツ]]([[ミスタードーナツ]]の[[パロディ]]のマスタードーナツ)<ref>アニメ第2作第1期『パパだって甘えんぼ』</ref>
*[[バナナ]]<ref>『生き残るのはダレだ!? 無人島の大怪物』(2006年3月10日放送)</ref>
*[[サクランボ]]<ref>『パパもあまえんぼ』(2014年6月13日放送)</ref>
*[[から揚げ]]<ref>『のび太のおよめさん』(2014年8月8日放送)</ref>
*[[卵かけご飯]]<ref>『ぼく、マリちゃんだよ』(2016年2月5日放送)</ref>
*[[カレー]]<ref>映画『ドラえもんのび太の大魔境』、映画『ドラえもん新・のび太の大魔境~ペコと5人の探検隊』</ref>
; 嫌いであるとされる食べ物
*刺身を除いた魚全般、特に[[イワシ]]<ref name="tachimono"/>
*[[ニンジン]]<ref>31巻収録「やどり木で楽しく家出」</ref>
*[[ピーマン]]<ref>大全集17巻収録「空まです通しフレーム」</ref>
=== 名前 ===
作中におけるのび太の名前の命名理由、経緯については、父・のび助が、「すこやかに大きく、どこまでも、のびてほしいと願いを込めて『のび太』と命名した」と語っている<ref group="注">しかし、命名した父本人の名前も「のび助」である。それどころか、野比家の男性は先祖代々「のび――」と命名されることが多い([[諱#通字|通字]])。</ref>。なお、映画『[[ドラえもん のび太のパラレル西遊記|パラレル西遊記]]』の予告ではのび太の漢字表記は「乃比太」とされている。中国語圏の訳名は「野比大雄」または、「野比康夫」、「野比大宝」の3つが存在し、映画の名前をつけるときなどは「{{lang|ZH|映画哆啦A夢 大雄的人魚大海戦}}」(日本語表記:映画ドラえもん のび太の人魚大海戦)のように、「大雄」が多く用いられる。韓国語版では「ノ・ジング(노진구)」と訳名で呼ばれて、英語版では「NOBY(ノビー)」の愛称で呼ばれる。
映画「ぼくの生まれた日」によれば、玉子が出産当時入院していた病院の中庭に生えていた大木が命名の由来とされる。この大木は後に東京都の土地区画整理事業によって伐採され、のび太の少年期には現存しない(病院も移転もしくは閉鎖され、周辺一帯が東京都所有の更地となっている)。しかし自分のルーツともなった大木が失われることを惜しんだのび太によって若枝の一部が川原の土手に挿し木され、10年後(のび太は小学5年生なので、正確には11年後)には元の大木のように成長している姿が確認されている。なお少年のび太が若枝を植栽したのは奇しくものび太の生まれた当日であるため、この木の樹齢はのび太の年齢と全く同じである。第2期『ぼくの生まれた日』では、病院の川沿いにある桜の木が名前の由来とされている。赤ちゃん(のび太のこと)が出来たと言われた日、仕事で来たときに、その木を見つけて、まだ寒い時期だったため、のび太が生まれるまでどんな花を咲かせるのか気になり、その木の近くの病院にしたという。また、その桜の木は、現在も現存している。
作者による命名理由、経緯としては藤子・F・不二雄が入院していた[[国立病院機構久里浜医療センター|国立療養所久美浜病院]]の所在地、[[神奈川県]][[横須賀市]][[北下浦|野比]]に由来しているとする説があり、同地が伸び伸びとした土地でそれを気に入って投影したとも言われているが、藤子プロなど関係者は事実かどうかは不明であるとしている。同地の商店街の[[YRP野比駅前商店街]]も名前の由来を探したが、結局は判明しなかったと地元紙の[[神奈川新聞]]は報じている
<ref>{{Cite news |title=「のび太」の名前の由来を探せ/横須賀、野比の商店街|newspaper=神奈川新聞|date=2007-01-04|url=http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiijan61/|accessdate=2020-08-30|publisher=神奈川新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070109210507/http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiijan61/|archivedate=2007-01-09}}</ref><ref>{{Cite news |title=「のび太君の生まれた街」地名が由来? 有志が作曲|newspaper=タウンニュース|date=2018-09-14|url=https://www.townnews.co.jp/0501/2018/09/14/448776.html|accessdate=2020-08-30|publisher=タウンニュース社}}</ref>。
=== 生まれたときの写真 ===
のび太が生まれたばかりの写真は現存しない。だがそれは、のび助がのび太を撮るために買ったばかりのカメラ(病院に行く直前に買っていた)を川に落としてしまい、撮る機会を逃してしまったからである。しかし、そのあとにのび助が代わりとして徹夜で描いたスケッチブックが残っていた<ref>テレビアニメ2期『ぼくの生まれた日』(2008年4月25日放送)</ref>。原作、第1期では特に言及されていない。
=== 恐竜に命名 ===
中国[[四川省]]で見付かった新種の肉食恐竜(足跡化石)に「のび太」を由来とする[[エウブロンテス・ノビタイ]]と名付けられた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=jFFHOsxpcP8 新種恐竜に「のび太」命名 映画から出た本当の話(2021年7月8日)]</ref>。名付けたのは中国地質大学のシン・リダ准教授で、幼い頃からドラえもんが好きでのび太の夢を叶えたかったと述べた。
== 関連人物 ==
以下、★印はアニメのみのキャラクター、または藤本による漫画には登場しない名前。
{{Anchors|家系}}
=== 親 ===
* [[野比のび助]](父)
* [[野比玉子]](母)
=== 先祖 ===
{{Main|野比のび助#関連人物}}
{{Main|野比玉子#関連人物}}
=== 親戚 ===
[[野比のび助#関連人物|野比家]]か[[野比のび助#関連人物|片岡家]]か判別できないのび太の親戚を記す。
; 五郎(ごろう)
: 声 - [[峰あつ子]](1979.5)→不明(1989.5)→不明(1990.11)→[[保村真]](2012.5)、[[檜山修之]](2017.4、6)
: のび太の従兄。野比家の近くのアパートで一人暮らしをしている大学生<ref>10巻収録「アパートの木」</ref>。のび太と同様にかなりだらしない性格をしており、アパートの室内には本が所々積み重なり、布団の中で寝そべったまま食事をしている。遊び過ぎてお金がなくなったため、空腹のあまり食事を求め、のび太の家に来ることもある<ref>42巻収録「目は口ほどに物を食べ」</ref>。血筋は不明だが、玉子のことを「おばさん」と呼んでいる。第2作第2期ではのび郎の役回りで登場したこともあり、メガネからコンタクトに変えている。従弟と同じくかなりの近眼で、裸眼では何も見えない。
: テレビアニメ第2作第2期「半分の半分のまた半分」にも登場した(原作漫画ではのび郎が務めた役回りを担当)。
; 砂時計をくれた青年
: 20巻「アヤカリンで幸運を」<ref>114頁</ref>に登場する、のび太の親戚と思われる風貌の眼鏡の青年。ヒッチハイク旅行のおみやげとして、のび太に砂時計を渡す。のび太の従兄の五郎と同一人物という説もある。
; 岡山のおじさん
: おはなしバッジ([[桃太郎]])の効力できび団子を送った<ref>3巻「おはなしバッジ」</ref>。
; 大阪のおじさん
: ドラえもんとのび太におこづかいをあげた<ref>『ドラえもんのびっくり日本の歴史 遺跡・大建築編〜平安京から境の町〜』</ref>。
; 世界一ケチなおじさん
: とてもふくよかな体型で、高級そうな身形をしているステレオタイプな金持ちと言った風貌の男性。しかし、のび太に一度もお年玉をくれたことがなく、ドラえもんの道具を使ってやっと何束もの札束で構成されたお年玉をもらうことが出来た。
; 親戚のお兄さん
: 親のすねかじりらしく、のび太曰く「今年から勤め出したら、小遣いが貰えなくなって苦しくなった」とのこと<ref>『ドラえもん 国語おもしろ攻略ことわざ辞典』</ref>。
; いつもお小遣いをくれるおばさん
: 声 - 千々松幸子(1979.11)→水原リン(1997.5)→[[冨樫かずみ]](2013.2)
: 2巻「かならず当たる手相セット」に登場。野比家を訪れるたびにお小遣いをくれるおばさん。血縁関係の有無は不明。
:; キイちゃん
:: 声 - 横沢啓子(1979.11)→南央美(1997.5)→[[長沢美樹]](2013.2)
:: おばさんが連れてきた幼児。2階から物を投げたり、階段から落ちて縄に絡まったのび太に包丁(テレビアニメ第2作第2期ではハサミに変更)を持ち出すなど、過激な行動を取る。
:: 同時期に連載されていた[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]の作品『[[魔太郎がくる!!]]』に登場する「阿部切人」を意識したキャラクター。
=== 子孫 ===
のび太の子孫と、その家族を記す。
{{Anchors|ジャイ子の子}}
; のび太とジャイ子の子供たち
: 1巻「未来の国からはるばると」等にて、写真や立体映像でのみ登場。のび太とジャイ子が結婚した場合の未来には、少なくとも6人の子供が生まれている。
{{Anchors|ノビスケ}}
; ノビスケ
: 声 - 小原乃梨子(1979.4 - 1989.3)→[[亀井芳子]](2005.4 - )
: のび太としずかの子。現在から約15年後に誕生する。現代(のび太が小学生である物語本編)から25年後(2002年<ref name="TC16" />の時点で小学生。メガネはかけていないものの、容姿はのび太と瓜二つ<ref group="注">テレビアニメ第2作1期「のび太のおよめさん」(1979年4月7日放送)でのみメガネをかけている</ref>。スポーツが得意だが、勉強は苦手。音楽に興味を持っており、「睡眠圧縮剤」を飲めば問題ないと言い訳をして、「プラネッツ」の深夜コンサートに行こうとしたことがある<ref name="TC16">てんとう虫コミックス16巻収録「りっぱなパパになるぞ!」</ref>。
: 父親(のび太)を「わからず屋で頭が古い」<ref group="注">ただしノビスケ自身も、自らの息子からは「頭が古くて、怒りんぼで…」と評される。</ref>、母親(しずか)を「口うるさい鬼ババ」と評しており、特に母親には頭が上がらない様子。しかし実際には親のことを想っており、父親に対しては少年時代のアルバムを読んだりドラミから父親の話が出ると嬉しそうにする、現代にやって来たときに少年ジャイアンの暴力から少年のび太をかばったことがある。
: アニメ映画『[[ドラミちゃん ミニドラSOS!!!]]』では気性が荒く、ジャイアンやスネ夫の息子たちを子分として従える姿が描かれている。同映画での名前の表記は「のびスケ」。
: テレビアニメ第2作1期での名前が「ノビオ」だった時期がある<ref name="TVA2-1タイムカプセル">テレビアニメ第2作1期「タイムカプセル」(1987年10月9日放送)</ref><ref>テレビアニメ第2作1期「タイムワープリール」(1987年12月25日放送)</ref>。
:; ユカリ★(のび太の息子の妻)
:: 声 - [[麻見順子]](1989.3)
:: 現在から約45年後、ノビスケと結婚、後にのび太の孫、セワシの祖父にあたる息子をもうける。義理の母となるしずかが入浴を好んでいたようにプールが好きなようである<ref>『[[ドラミちゃん ミニドラSOS!!!]]』</ref>。
; ノビスケの息子(のび太の孫)
: 声 - [[折笠愛]](2012.3)→[[國立幸]](2022.8)
: 36巻「のび太の息子が家出した」に2コマだけ登場。髪の色は黒ではない。
: テレビアニメ第2作1期では、顔はのび太やノビスケに似ており、髪の色は茶色となっている台詞は「パパったら、頭が古くておこりんぼで勉強しろ、勉強しろと……」のみ<ref name="anime-wakarazuya"/>。
: テレビアニメ第2作2期では金髪で、髪形は曾祖母の玉子に似ている。
; セワシの父
: ノビスケの孫。のび太のひ孫。
: 原作漫画の本編には登場しないが、てんとう虫コミックス11巻の巻末付録にそれらしき人物が登場する<ref>11巻・巻末付録「ドラえもんは22世紀のトーキョーで生まれた」</ref>。
: [[1995年]]のアニメ映画『[[2112年 ドラえもん誕生]]』にも登場する。映画ではコミックスとは顔が異なり、のび太の父の[[野比のび助|のび助]]とよく似た顔で口ひげを生やしている。セワシがドラえもんを気に入ったため居候させることを決める。
:; セワシの母
:: 声-[[佐久間レイ]]
:: てんとう虫コミックス11巻の巻末付録と映画『[[2112年 ドラえもん誕生]]』に登場。
; [[セワシ]]
: ノビスケのひ孫。のび太の孫の孫。
=== 系図 ===
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0 | 001 |001=[[野比のび助#関連人物|野比家]] }}
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* この他は血筋不明。
* ★印はアニメのみのキャラクター、または藤本による漫画には登場しない名前。
=== その他の関連人物 ===
; ノンちゃん
: 声 - 野村道子(1979.5)→不明(1987.3)→倉田雅世(2007.4)→[[五十嵐裕美]](2017.10)
: 6巻「赤い靴の女の子」に登場した、のび太が幼稚園の頃に隣に母親(声 - [[大原さやか]]〈2017.10〉)と住んでいた女の子。のび太はジャイアンとスネ夫にからかわれたことをきっかけに、ノンちゃんに意地悪をして泣かせてしまったうえに靴を持って行ってしまい、返せないままノンちゃんは祖父に連れられてアメリカに行ってしまった。
: 小学生ののび太はタイムマシンで引越直前に行き、タイムふろしきで当時の姿に戻って靴を返す。ノンちゃんは一緒に遊んだままごと道具をくれたが、現代の野比家は片付け中で玉子にがらくた扱いされてしまった。
;かば島でか子
:18巻「ガールフレンドカタログ」に名前付きの顔写真のみ登場。将来、のび太が知り合う予定の女性。名前の通り、[[カバ]]のようで、体型が大きい。
;星空はるか
:18巻「ガールフレンドカタログ」に名前付きの顔写真のみ登場。将来、のび太が知り合う予定の女性。これといった特徴は特になく、写真では微笑んでいる。
== のび太の家 ==
{{独自研究|section=1|date=2011年10月}}
木造[[モルタル]]2階建ての一軒家で、[[借家]]<ref>第12巻収録「ゆうれい城へ引っこし」</ref>。原作の初期は家賃が度々値上げされ<ref name="名前なし-2"/>、玉子がのび助に禁煙するように訴えたりのび太の小遣いを減らそうとしたりする場面が見られた<ref>9巻収録「無人島の作り方」</ref>。[[窓]]は木製。庭に[[物置]]が置かれている。[[間取り]]は4LDK。1階に居間として使っている和室、応接セットと鉢植えのヤシがある応接室、のび助夫妻の寝室として使っている和室、2階にのび太の自室である和室、この向かいにもう1つ和室がある。この土地は値上がりが激しく、2、3メートル四方が100万円程する。
のび太の部屋は畳敷きの和室で、のび太の机は東向き<ref>第35巻収録「地球下車マシン」</ref>。大きさは6畳<ref>第2巻収録「勉強べやの大なだれ」</ref>。
=== アニメ第1作での間取り ===
{{節stub}}
=== アニメ第2作第1期での間取り ===
[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|テレビアニメ第2作第1期]]放送の際に起こされた間取り図は、原作と大きく異なっている。玄関には大きな窓がついている。ダイニングキッチンには裏口がある設定となり、大型ガス[[給湯器|湯沸かし器]]が備え付けられている。原作にはベランダが登場している。
のび太の部屋は、原作ではのび太の机から見て右側(真後ろの場合もある)が出入り口のドアなのだが、本作では[[襖|ふすま]]となっていて、[[窓]]は出窓。また、ドラえもんの寝る場所はのび太の机からむかって後ろの位置にある押入れだった。
また、窓枠について、初期は木製だったが、放送期間が長くなるにつれて[[サッシ|アルミサッシ]]に変更されている。
=== アニメ第2作第2期での間取り ===
大きくアレンジされていたテレビアニメ第2作第1期での間取りから原作寄りに修正が図られた。のび太の部屋は基本的に原作準拠で、向かってのび太の机の右側が押入れとなり、出窓は[[雨戸]]が付いた窓(原作では右側に付いているが、左側となっている)になり、部屋の出入口はのび太の机の真後ろとなっている。また、机も以前のスチールの机から原作と同じ木机に変更されている。ただし、床は原作と違って緑色の[[カーペット]]が敷かれており<ref group="注">『[[ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史]]』(2009年)ではカーペットがクリーニングに出されたという設定(作中でその旨を記したメモが一瞬登場する)のため、本来の畳敷きの床が露わとなっている。また、作中の季節が夏である『[[ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険]]』(2017年)、『[[ドラえもん のび太の宝島]]』(2018年)、『[[ドラえもん のび太の新恐竜]]』(2020年)でもカーペットが外され、畳敷きの床となっている。</ref>、2階の使われていなかった和室が消えて3DKになる。また、階段の位置(進行方向)も変更された<ref group="注">アニメ2作1期では玄関から廊下を進んで曲がっていたが、2期では原作のように曲がらず進める。</ref>。
=== 住所 ===
以下のような変遷を辿っている。
; 原作での設定
# 最寄り駅は[[生田駅 (神奈川県)|生田駅]](神奈川県川崎市多摩区生田、[[小田急小田原線]])(1974年『小学二年生』による<!--(※具体的な説明がないが「通せんぼう」を指すものか)-->)
# '''東京都 練馬区 月見台'''… '''〒176-00'''(当時は5桁)<ref>第24巻収録「虹谷ユメ子さん」</ref>(1981年)
# 後楽園球場から西北西<ref group="注">その方向に東京都練馬区がある</ref>に野比家の近所<ref>第27巻収録「ポラマップスコープとポラマップ地図」</ref>(1981年)
; アニメでの設定
# 都心から離れた住宅街(テレビアニメ第1作の設定)(1973年)
# 東京都中練馬区 3-14-(以下不明)(1980年)<ref>アニメ第2作1期「タイムマシンでお正月」(1980年1月1日放送)</ref>
# 東京都田無市大字田無1234(1990年)<ref>アニメ第2作1期「ペーパークラフト」(1990年3月16日放送)</ref>
# '''[[多摩地域|多摩地区]]'''(1996年当時では東京都田無市(現:[[西東京市]])がこれに含まれていた)<ref>テレビアニメ第2作第1期「エイプリルフール」(てんとう虫コミックス11巻収録「化石大発見!」のアニメ化作品。1996年3月29日放送、ビデオ「ドラえもん テレビ版スペシャル特大号」春の巻5、およびDVD「ドラえもん コレクション・スペシャル」春の5に収録)</ref>(1996年)
現代から25年後の世界では野比家はマンションに引っ越しており、野比家の跡地は公園の公衆トイレになっていた<ref>第6巻収録「のび太のおよめさん」</ref>。セワシとドラミの住む22世紀の野比家は「トーキョーシティー・ネリマブロック・ススキガハラストリート」にあるビルとされている<ref name="mirainomachi"/>。
また、野比家は骨川家から東に80メートルの地点にある<ref>藤子不二雄ランド第4巻収録「物体瞬間移動機」</ref>。その骨川家が持つ自家用車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]が<!--[[品川ナンバー]](「品川 あ 12-34」の場合が多い)(※根拠不明。何をもって「多い」とするのかも説明がない)-->「多摩55 33-88」<ref>テレビアニメ第2作第1期「トカゲロン」(1985年4月26日放送、ビデオ『21世紀テレビ文庫 テレビ版ドラえもん』第5巻に収録)</ref>、「多摩11 む 94-69」<ref>テレビアニメ第2作第1期「つめあわせオバケ」(てんとう虫コミックス第32巻収録「つめあわせオバケ」のアニメ化作品。1995年8月11日放送、ビデオ『ドラえもん テレビ版スペシャル特大号』夏の巻4、およびDVD『ドラえもん コレクション・スペシャル』夏の4に収録)</ref>などであることから、骨川家は多摩地区、あるいは東京都練馬区月見台すすきヶ原3-10-5<ref>第15巻収録「不幸の手紙同好会」</ref>にあるとされている。
=== 家電 ===
連載開始当初は[[白黒テレビ]]が現役<ref>第2巻収録「タイムふろしき」</ref>であるなど、当時から見ても[[時代錯誤|アナクロ]]な描写が目立っていたが、2011年7月24日の地上デジタル放送への移行にともない、アニメ版ではテレビがAVタイプ<ref name="ryunokishi">『[[ドラえもん のび太と竜の騎士|のび太と竜の騎士]]』</ref>になり、ダイニングキッチンにもテレビが付く<ref>『大長編ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』</ref>、中古のエアコンがつく<ref>第44巻収録「季節カンヅメ」</ref>など、長い連載期間の間に徐々に様変わりしていっている。
電話機も長らく[[黒電話]]だった。後に多機能[[コードレス電話機]]<ref>『[[ドラえもん のび太と夢幻三剣士|のび太と夢幻三剣士]]』</ref>に代わっている。その後、コードレスでないプッシュ式電話機が使われる<ref>第45巻収録「ガラパ星からきた男」</ref>。
== 配役 ==
=== 担当声優 ===
==== 日本 ====
; [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|テレビアニメ第1作]](1973年)
* [[太田淑子]](1973)
; [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|テレビアニメ第2作1期]](1979年4月〜2005年3月)
* [[小原乃梨子]](1979.4 - 2005.3)
* [[丸山裕子]](一時的な代役)
* 赤ちゃん:小原乃梨子(1979.7 - 1987.10)→[[松本さち]](2002.3)
* 幼少時代:小原乃梨子(1979.5 - 1994.4)→[[大本眞基子]](2000.3 - 2004.3)
* 青年・大人時代:[[橋本晃一|三橋洋一]](1979)→小原乃梨子(1980.8 - 1981.10)→[[塩屋浩三]](1984.10、高校生・大人)→[[森しん|拡森信吾]](1987.12 - 1989.5)→小原乃梨子(1999.3 - 2004)、[[橋本晃一]](時期不明、青年)
* 大人時代(45年後):[[大川透]](2005.3)
;[[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|テレビアニメ第2作2期]](2005年4月〜)
* [[大原めぐみ]](2005.4 - )
* 赤ちゃん:大原めぐみ(2008.4 - )
* 幼少時代:[[門脇舞以]](2005.4 - 2007.4)→大原めぐみ(2008.4 - )→[[寺崎裕香]](2021.2)
* 青年・大人時代:[[川中子雅人]](2005.8、ガキ大将)、[[堀秀行]](2006.4 - )、大原めぐみ(2011.3、2014)
* 大人時代(45年後):[[堀秀行]](2009)
; 映画『[[STAND BY ME ドラえもん]]』シリーズ
:第1作は2014.8、[[STAND BY ME ドラえもん 2|第2作]]は2020.11に公開。
* [[大原めぐみ]](2014.8、2020.11)
* 赤ちゃん:[[守屋楽弥]](2020.11)
* 幼少時代:[[川原瑛都]](2020.11)
* 青年時代:、[[妻夫木聡]](2014.8、2020.11)
また、太田はアニメ第2作1期でセワシ、第2作1期の小原は第1作では野比玉子の声とそれぞれ別々の役柄で出演している。なお、丸山は小原が映画版『[[未来少年コナン]]』の収録中に声帯を損傷し、二週間にわたって治療に専念した関係で代役を務め、代役を担当した回(1979年7月23日 - 7月28日放送分の第97話〜第102話)はビデオには未収録となっている(2009年発売のDVD『ドラえもん タイムマシンBOX 1979』でソフト化された)。吹き替えに関しては1987年に放送された「タイムカプセル」「タイムワープリール」では[[橋本晃一]]が担当、1989年の映画『[[ドラミちゃん ミニドラSOS!!!]]』以降からは[[拡森信吾|広森信吾]]が担当していたが、1995年ごろから未来ののび太が登場する機会が減ったために広森信吾がのび太として出演することはなかった。代わって登場したのが大川透だが、レギュラー通常放送の最後の一回のみの出演である。
なお、末期には『[[のび太の結婚前夜]]』が映画化された影響で大人ののび太を登場させる必要があったために、それまでのアニメ版のデザインをほぼ踏襲したメガネをかけたスタイルで大人ののび太が登場したが、このときは広森ではなく、小原が声をやや太めにして演じ別けていた。広森担当の大人のび太が登場する作品は比較的ソフト化されているものが多く、映画としては『[[ドラミちゃん ミニドラSOS!!!]]』が唯一で、ほかにドラえもんの特番として放送された「雪山のプレゼント」「無人島はボクの島」「家庭科エプロン」がある。
第2作2期で『のび太の結婚前夜』が放送(2011年3月18日)されたときも小原同様、大原が演じ分けた。
==== 外国版 ====
* [[ジョニー・ヨング・ボッシュ]](アメリカ合衆国)
* イ・ミジャ(韓国・[[文化放送 (韓国)|MBC版]])
* キム・ジョンア(韓国・チャンプ版/映画)
=== 俳優 ===
* [[坂本真]] - 『[[ドラえもん のび太とアニマル惑星]]』舞台版。
* [[妻夫木聡]]<ref group="注">3DCGアニメ映画『[[STAND BY ME ドラえもん]]』でものび太の青年期の声を担当している。</ref> - 2011年11月から放送される[[トヨタ自動車]] コーポレート[[コマーシャルメッセージ|CM]]にて担当。『[[ReBORN#ドラえもん|Re BORN]]』も参照。しずかとは結婚しておらず30歳になって無免許で独身という設定。ドジな性格は変わっていない。トヨタウンの住人としても登場する。
* [[堺雅人]]<ref name=sakaimasatoCM>[https://news.yahoo.co.jp/articles/843cb2a5e5ec5d67d4fc9b0a9572f2c6a942e254 堺雅人→堺雅人→堺雅人... 「半沢直樹」、サントリー・ソフトバンク・マクドナルドと出演CM連発で「いろんな会社に出向してるなぁ」YAHOO!JAPANニュース]</ref>- 2020年3月より放送された[[ソフトバンク]]のテレビCM「[[SoftBank 5G]] 5Gってドラえもん?篇」にて担当。45歳時を担当。
*[[鈴木福]]- 2020年3月より放送されたソフトバンクのテレビCM「SoftBank 5G 5Gってドラえもん?篇」にて担当。15歳時を担当。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
* 「x巻」は、てんとう虫コミックス『ドラえもん』の単行本での収録巻数を指す。
{{Reflist|2|refs=
<ref name="mirainomachi">21巻収録「未来の町にただ一人」</ref>
<ref name="harapeko">44巻収録「腹ぺこのつらさ知ってるかい」</ref>
<ref name="sketch">41巻収録「いつでもどこでもスケッチセット」</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[ドラえもん]]
* [[ドラえもん (キャラクター)]]
* [[野比のび助]]
* [[野比玉子]]
* [[ジョゼップ・マリア・バルトメウ]] - その眼鏡姿からNobitaというあだ名がある[[FCバルセロナ]]の元会長。
* [[エウブロンテス・ノビタイ]]:のび太を由来とする恐竜<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000284.000047048.html 【国立科学博物館】「のび太」の夢を叶えた“ノビタイ”足跡化石のレプリカ公開 国立科学博物館でミニ企画展開催]</ref>。
* [[内藤のび太]] - リングネームの由来になっている。
{{ドラえもん}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のひ のひた}}
[[Category:ドラえもんの登場人物]]
[[Category:インターネット・ミーム]]
[[Category:映画とテレビに関するミーム]]
|
2003-08-27T08:00:06Z
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のび太 (曖昧さ回避)
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のび太
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のび太 野比のび太 - 『ドラえもん』の登場人物。
長谷川のび太 - 長谷川太のアニラジ関連でのマイクネーム。
及川のび太 - コントトリオ『サムライ日本』のメンバー。
山田のび太 - こちら葛飾区亀有公園前派出所に登場する葛飾署署員。
赤塚不二夫の漫画『へんな子ちゃん』に登場する犬の名前。
ロックバンドWHITE ASHのボーカル。
内藤のび太 - ボクシング
いずれも眼鏡をかけた風貌に由来する下記の人物の愛称。
古田敦也 - 元プロ野球選手
ジョゼップ・マリア・バルトメウ - 元FCバルセロナオーナー
|
'''のび太'''
*[[野比のび太]] - 『[[ドラえもん]]』の登場人物。
*長谷川のび太 - [[長谷川太]]の[[アニラジ]]関連での[[マイクネーム]]。
*及川のび太 - コントトリオ『[[サムライ日本]]』のメンバー。
*山田のび太 - [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]に登場する葛飾署署員。
*[[赤塚不二夫]]の[[漫画]]『[[へんな子ちゃん]]』に登場する犬の名前。
*ロックバンド[[WHITE ASH]]のボーカル。
*[[内藤のび太]] - [[ボクシング]]
*いずれも眼鏡をかけた風貌に由来する下記の人物の愛称。
**[[古田敦也]] - 元[[プロ野球選手]]
**[[ジョゼップ・マリア・バルトメウ]] - 元[[FCバルセロナ]]オーナー
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[[Category:人物の愛称]]
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14,181 |
風呂
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風呂(ふろ)とは、身体の洗浄や温浴・入浴するための設備。浴室・浴場ともいう。
元々は衛生上の必要性や、宗教的観念から古くから水のある場所で水浴を行ってきたが、温泉を利用した寒冷を払拭するためや、一層の新陳代謝や老廃物の除去や排出をするため、温かい水や蒸気を利用して、温泉のない場所でも温浴が行われるようになった。 5000年前のインダス文明のモヘンジョ=ダロや都市の中心に大規模な公衆浴場が完備していた。 風呂の起源として現在確認されるものでは紀元前4000年のころメソポタミアで、払い清めの沐浴のための浴室が作られ、紀元前2000年頃には薪を使用した温水の浴室が神殿に作られていた。同時にギリシア文明では、現在のオリンピック精神の元となった「健全な精神は健全な肉体に宿られかし」との考えから、スポーツ施設に付帯して沐浴のための大規模な公衆浴場としての水風呂が作られていた。紀元前100年のローマ帝国の時代になると、古代ローマの公衆浴場として知られる豪華な公衆浴場と、湯を沸かす際の熱を利用したハイポコーストという床暖房設備が発達し、地中海世界では現在の日本でも見られるような、社交場としての男女混浴の公衆浴場が楽しまれていた。ハドリアヌス帝の頃に男女別浴になった。
しかし、キリスト教の浸透にともない裸で同一の場所に集うことが忌避され、廃れていった。ローマ帝国の領土を受け継いだヨーロッパの地では、13世紀頃までは、辺境の地であっても入浴習慣が普及していたが、教会に行くための清めとして、大きめの木桶に温水を入れて身を簡単にすすぐ行水の様なものだった。都心においては公衆浴場があり、住民は週に1・2度程度、温水浴や蒸し風呂を楽しんだといわれる。しかし、男女混浴であったため、みだらな行為や売春につながり、それにキリスト教の観念が加わり廃れていった。それに拍車をかけるように、14世紀にはペストの流行により、公衆浴場はもちろんのこと入浴自体も「ペスト菌を積極的に体に取り込んでしまう」といった間違った解釈がなされ、風呂といった習慣自体が忌避され、地中海やヨーロッパから風呂文化が縮小していった。 一方、かつてのローマ帝国領の東部に当たる中近東では入浴文化が受け継がれ、ハンマームと呼ばれる公衆浴場が住民の社交場としての役割を担っていた。 紀元前2600年頃のインダス文明のモヘンジョダロや、ハラッパー等の都市には大規模な公衆浴場が完備していた。 古代インド十六大国のマガダ国の首都王舎城(現・ビハール州ラージギル)にあった仏教最初の寺院である竹林精舎の近くに、温泉がある仏教僧院 (Tapodarama) があった。湯治を目的としていたと思われる。現在、跡地にはヒンドゥー寺院が建てられているが、温泉は今も健在である。
ヨーロッパでは医学の進歩に伴い、18世紀には「入浴が積極的に病原菌を体に取り込む」といった解釈が否定され、むしろ健康の上で好ましいと見なされるようになった。それに伴い遠隔であった入浴の習慣が積極的に行われるようになったが、温水に浸かる風呂ではなくシャワーとして温水を浴びる習慣が普及していった。現在の欧米でも浴槽のない風呂場もあり、温水の風呂に浸かるのは月に1・2度程度が一般的となっている。
もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。
仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。
平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。
鎌倉時代には東大寺復興に尽力した重源による施浴にて鉄湯船が見られる。これは南都焼討で焼失した東大寺伽藍の再建のため巨木の用材を求めた重源が1186年頃に周防国に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為に行われた湯施行である。重源が開山した阿弥陀寺の旧鉄湯舟残欠は渡宋経験のある重源が南宋で知り得たものを国内で再現したもので、 キッチン・バス工業会ではこれを長州風呂の元祖と紹介している。現存する鉄湯船は1197年に大仏鋳造に従事していた河内鋳物師の草部是助らにより東大寺に奉納された物、1290年に同じく河内鋳物師の山河貞清による物が成相寺と智恩寺にみられる。
浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。慶長年間の終わり頃に、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。
日本語の風呂の語源は、2説ある。
英語の"bath"は、イギリスにある温泉場の街の名前、バース(Bath)が語源という俗説があるが、日本の「温泉町」という地名と同様、温泉があるから"Bath"と呼ばれるようになったのである。英語"bath"にあたる「温浴」もしくは「温めること」を意味する名詞はゲルマン古語に既にあり、さらに遡れば遠く印欧祖語に由来すると考えられる。
蒸し風呂(むしぶろ)は、蒸気により体を蒸らす風呂である。前述のように、日本では元来風呂という場合はこれを指していた。蒸気が豊富な温泉でもよく見られ、大分県別府市の鉄輪温泉にある鉄輪むし湯は一遍上人が施浴のために開いたものとされる。温泉で熱せられた床の上には石菖という薬草を敷きつめ高温で蒸す状態にして、テルペン(鎮痛効果がある)を成分とする芳香を放出させて、皮膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する。箱型の1人用蒸し風呂は、特に箱蒸し風呂と呼ばれる。蒸気を使わない乾式のものも含めてサウナ風呂とも呼ばれるが、狭義のサウナ (英: sauna bath) はフィンランド式の乾式のもののみを指す。
また人が入るためのものではないが、漆器に塗った漆を乾燥させる室(むろ)である漆風呂も蒸し風呂の一種である。
岩風呂(いわぶろ)、もしくは石風呂(いしぶろ)は、主に日本の瀬戸内海など海岸地帯にあった蒸し風呂である。天然の石窟などの密閉された岩穴の中で火を焚いて熱し、水気を与えることで蒸気浴や熱気浴をする。 入浴時は裸にはならず、着衣のまま茣蓙に座るか寝そべる。 伝統的な石風呂は高度経済成長期に入ると順次姿を消し、一部地域で残存したものについては有形民俗文化財に指定された。
海辺の風呂と山間地の風呂では蒸気を起こす方法に違いがある。海辺の風呂では適当な温度になったところで灰の上に海藻や海水で濡らした莚(むしろ)を引く。川沿いの風呂は真水で濡らした稲藁と菖蒲を敷いて蒸気を起こした。
釜風呂(かまぶろ)は、主に日本列島の内陸部で広まった蒸し風呂である。特に京都の八瀬の竈風呂が代表的。岩で直径2m程度のドーム型に組んだ下側に小さな入口がある構成。最初にドーム内で火を焚き熱する。加熱後に換気を行い、塩水で濡らした莚を引いて、その上に人が横たわる形で入浴をした。
五右衛門風呂(ごえもんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つ。安土桃山時代の盗賊石川五右衛門が京都の三条河原で釜茹での刑に処せられたことが、名称の由来である。
『東海道中膝栗毛』には小田原の宿屋で、弥次さん喜多さんが五右衛門風呂に入る話がある。そこでは当時の五右衛門風呂の構造について「土釜のうえに直接風呂の桶を据え、底板は上に浮いている。入浴時は底板を足で底に沈めて入る。薪が少なくて済み、経済的である」と説明し、上方の形式であったとしている。弥次喜多はこの風呂の入り方を知らず、底板をとりのけて入ろうとしたため釜底に触れて足を火傷し、悩んだ末に便所下駄をはいて風呂に入る。喜多さんは下駄で踏みつけたあげく、釜を壊して大恥をかく。
江戸時代の『守貞漫稿』の居風呂の条に、「京坂専用は桶に底を付せず代㆑之に平釜を用ひ土竈の上に置㆑之で薪及び古材古器機朽木之類焚㆑之故に湯屋に不㆑与㆑之也此風呂を五右衛門風呂と号ることは昔の五右衛門なる者油煮の刑俗の釜煮と云ふに行るると云伝へ理相似たるを以て也」という。
2014年11月現在、五右衛門風呂は唯一の生産メーカーである広島県の大和重工で鋳鉄製のものが生産されている。厳密には、全部が鉄でできているものは「長州風呂」と呼び、五右衛門風呂は縁が木桶で底のみ鉄のものを指す。厚い鋳鉄製のため、比較的高い保温力が期待できる。
ドラム缶風呂(ドラムかんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つで、空いたドラム缶を廃品利用して風呂として使用したものであり、五右衛門風呂の亜種である。石を積んで作った釜の上に置いたドラム缶に水を満たし、底部を釜の火で熱してお湯にする。入浴は五右衛門風呂と同様に、木の蓋を踏んで入るか、あるいは下駄を履いて入るかである。第二次世界大戦中には燃料の空き缶など素材が調達しやすいことから戦地でよく作られ、戦後も簡易な風呂として内風呂のない家庭も多かった昭和40年代(≒1965年 - 1975年)頃までは一般家庭でもしばしば行われていた。現在でも、ボーイスカウトや子供会などの行事、あるいは宿泊施設の娯楽として野外でドラム缶風呂に入浴できるようなドラム缶加工品(底部に水抜き用水栓が付いている)が市販されている。
日本の風呂の1つで、ヒノキを用いた大型の小判型木桶に、火を焚くため鋳物製の釜と煙突が付属する形状をしている。煙突のついた釜の形状が鉄砲に似ているため、「鉄砲風呂」と呼ばれることもある。江戸時代から存在したが、一般に普及したのは明治時代から大正時代にかけてと言われている。右の写真のものは二重構造の釜に浴槽内の水を対流循環させる、現在の追い焚き型の風呂沸かし器と同様の構造の比較的新しい型である。原型は浴槽内に沈めた金属筒に火のついた薪や炭を入れて湯を加温するものであった。湯船と一体構造とした釜と煙突により直接加温する型も存在した。過渡期には、木桶の鉄砲風呂の熱源をガスバーナーに置き換えたり、逆に写真の物のような薪焚きの釜にFRP製の浴槽を組み合わせた例など、近代日本の家庭の風呂の発達史を見ることができる。現在では五右衛門風呂と同じく見られる機会は少ない。
明治時代から1950年代まで使われ、初期の団地にも使われた。構造は鉄砲風呂にガスバーナーを取り付けただけのものであった。高価なために普及しなかった。 主に浴室内吸排気タイプがほとんどで、中毒事故が多発した。
1958年、伊奈製陶(現LIXIL)がFRPと循環釜を組み合わせた「ポリバス」を発売。浴槽は、高温にも耐えられ、保温性も良く木桶風呂に代わるものとなった。以降、他社の参入やバランス釜の組み合わせにより、全国の団地や家庭に普及した。
壁・天井・浴槽・床を工場で成型しておき、現場に搬入して組み立てる風呂。洗面台やトイレと一体型となっているものもあるが、排泄に用いるトイレを風呂と一体化することを不衛生と見なす価値観が日本では主流である。そのため、西洋式のホテル以外では、低所得者向け住宅などへの設置がある程度であり、日本で流通しているユニットバスはそのほとんどが風呂トイレ分離型である。第二次世界大戦前のアメリカでは特許が取られたが、普及しなかった。日本では1960年代半ばにホテルを皮切りとして1970年代半ばより、集合住宅向けに大量かつ容易に組み立てられる浴室として普及した。最初に大量納入されたのは、1964年の東京オリンピックに向けて突貫工事が行われていた、東京のホテルニューオータニからの発注で作られた東洋陶器(現・TOTO)の製品である。初期の製品は繊維強化プラスチック (FRP) 製の浴槽が主流であったが、素材の開発が進んだ1980年代以降ではポリエステル樹脂やアクリル樹脂を用いた人工大理石浴槽や、保温性の高いステンレス浴槽を用いたものも出現した。
浴槽内に勢いのある泡を出す風呂を「噴流式泡風呂」と言うが、一般には「ジェットバス」「ジャクージ」「ジャクジー」「ジャグジー(日本語の「蛇口」由来の誤読)」などと呼ばれる。浴槽内を照らす照明を備えるものもある。
「噴流式泡風呂」は、イタリア系アメリカ人のJacuzzi(イタリア語発音: [jaˈkuttsi] ヤクッツィ、英語発音: [ʤəˈkuːzi] ジャクーズィ)兄弟が起こした会社ジャクージ社(英語版)の3代目Roy Jacuzziが1968年に開発したWhirlpool tub(渦流浴桶)が初めてとされる。その後、各国でJacuzziが「噴流式泡風呂」全般を指す一般名詞となっていった。
ノーリツ、松下電工(現・パナソニック)、東陶機器(現・TOTO)、日立化成工業(現・ハウステック)、INAX(現・LIXIL)が製造・販売したジェット噴流装置を備えた浴槽で、入浴中に何らかのトラブル(事故)が発生した例が報告された。なかでも、INAXやノーリツが製造・販売したジェット噴流装置を備えた浴槽に至っては、前者が1992年に、後者が2000年に、それぞれ死亡事故を発生させてしまったという事例もある。
その名の通り、お湯の代わりに水を張った風呂である。夏場、暑いときに入ることが多い。また、サウナに入った後に汗を引かせるために入ることもある。
江戸時代の農村では、風呂といえば、水風呂=桶の中での行水であったとされ、各地に残されている道中日記や本陣文書には「水風呂二つ」や「水風呂三個」といった記述がみられ、行水用の桶と推測される。『大和名所図会』(寛政3年)には桶の中にいる子供に母親が行水させる絵が見られる。
住宅用浴槽は、洋式・和式・和洋折衷式の3種類に分類される。洋式は長さ1400 mm - 1600 mmで長く、深さ400 mm - 450 mmで浅い。和式は長さ800 mm - 1200 mmで短く、深さは450 mm - 650 mmと深い。これは入浴方法の違いによるもので、体を伸ばして洗う洋式と、肩まで湯につかる和式の違いの表れである。単純に浴槽を大きくすれば両用に耐えるが、必要な湯量が増えるため、中間的な大きさである和洋折衷式がよく使われる。
浴槽が深い場合、入る際に足を高く上げなければならず危険である。浴槽の設置方法には埋め込み式・半埋め込み式・据え置き式がある。浴槽の設置方法もまたぐ高さを抑える半埋め込み式が最も安全である。
住宅の浴室は、床下からの害虫の侵入や湿気によるカビの繁殖を防ぐため、通常は床下空間が設けられるが、タイルを貼るような浴室は浴槽の埋め込みや耐水性のある床仕上げを行うため、直接地面に接して作られる。冬でも高温多湿の状態が維持される浴室回りは、カビや害虫(例えばシロアリ)の温床になりやすい。これらの害を食い止めるためには、日頃から点検を行うことや点検が可能な作りにしておくことが重要である。ユニットバスの場合、通常は地面から離れた状態で設置されるため、直接地面と接していないが、やはり高温多湿の状態が起こるため、同様の注意は必須である。 入浴後は換気扇を回しておくのが望ましい。
都市部では狭小地を有効利用するため、上階に浴室を設置することがある。木造住宅の場合、木材の伸縮によって防水層が破断することが十分考えられ、漏水には十分注意が必要である。
浴室関係では、へちま・バスチェア、湯・桶(ゆおけ)・足ふきマット・お風呂ブーツ・石けん類・シャンプー類・それらを置く台など、数多くの品目が使用される。
浴室は洗濯物を干す場所としても使われる。浴室乾燥機を設置・運転することで浴室内の空気を乾燥させ、悪天候や花粉の付着といった心配をすることなく洗濯物を乾かすことができる。熱源は電気もしくはガスが用いられ、性能やイニシャルコスト(初期費用)・ランニングコストといった面で一長一短である。
列車で風呂設備が設けられているケースは少なく、『TRAIN SUITE 四季島』『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』といった豪華な寝台列車に見られる程度である。過去に運行されていた列車では『夢空間』にも存在した。ちなみにシャワーや足湯といったレベルでは『サンライズ瀬戸』『サンライズ出雲』『とれいゆ つばさ(現在運行終了)』や、近畿日本鉄道の観光列車『つどい』などの例がある。
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"text": "明治時代から1950年代まで使われ、初期の団地にも使われた。構造は鉄砲風呂にガスバーナーを取り付けただけのものであった。高価なために普及しなかった。 主に浴室内吸排気タイプがほとんどで、中毒事故が多発した。",
"title": "種類"
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"text": "1958年、伊奈製陶(現LIXIL)がFRPと循環釜を組み合わせた「ポリバス」を発売。浴槽は、高温にも耐えられ、保温性も良く木桶風呂に代わるものとなった。以降、他社の参入やバランス釜の組み合わせにより、全国の団地や家庭に普及した。",
"title": "種類"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "壁・天井・浴槽・床を工場で成型しておき、現場に搬入して組み立てる風呂。洗面台やトイレと一体型となっているものもあるが、排泄に用いるトイレを風呂と一体化することを不衛生と見なす価値観が日本では主流である。そのため、西洋式のホテル以外では、低所得者向け住宅などへの設置がある程度であり、日本で流通しているユニットバスはそのほとんどが風呂トイレ分離型である。第二次世界大戦前のアメリカでは特許が取られたが、普及しなかった。日本では1960年代半ばにホテルを皮切りとして1970年代半ばより、集合住宅向けに大量かつ容易に組み立てられる浴室として普及した。最初に大量納入されたのは、1964年の東京オリンピックに向けて突貫工事が行われていた、東京のホテルニューオータニからの発注で作られた東洋陶器(現・TOTO)の製品である。初期の製品は繊維強化プラスチック (FRP) 製の浴槽が主流であったが、素材の開発が進んだ1980年代以降ではポリエステル樹脂やアクリル樹脂を用いた人工大理石浴槽や、保温性の高いステンレス浴槽を用いたものも出現した。",
"title": "種類"
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"text": "浴槽内に勢いのある泡を出す風呂を「噴流式泡風呂」と言うが、一般には「ジェットバス」「ジャクージ」「ジャクジー」「ジャグジー(日本語の「蛇口」由来の誤読)」などと呼ばれる。浴槽内を照らす照明を備えるものもある。",
"title": "種類"
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"text": "「噴流式泡風呂」は、イタリア系アメリカ人のJacuzzi(イタリア語発音: [jaˈkuttsi] ヤクッツィ、英語発音: [ʤəˈkuːzi] ジャクーズィ)兄弟が起こした会社ジャクージ社(英語版)の3代目Roy Jacuzziが1968年に開発したWhirlpool tub(渦流浴桶)が初めてとされる。その後、各国でJacuzziが「噴流式泡風呂」全般を指す一般名詞となっていった。",
"title": "種類"
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"text": "ノーリツ、松下電工(現・パナソニック)、東陶機器(現・TOTO)、日立化成工業(現・ハウステック)、INAX(現・LIXIL)が製造・販売したジェット噴流装置を備えた浴槽で、入浴中に何らかのトラブル(事故)が発生した例が報告された。なかでも、INAXやノーリツが製造・販売したジェット噴流装置を備えた浴槽に至っては、前者が1992年に、後者が2000年に、それぞれ死亡事故を発生させてしまったという事例もある。",
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"text": "その名の通り、お湯の代わりに水を張った風呂である。夏場、暑いときに入ることが多い。また、サウナに入った後に汗を引かせるために入ることもある。",
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"text": "江戸時代の農村では、風呂といえば、水風呂=桶の中での行水であったとされ、各地に残されている道中日記や本陣文書には「水風呂二つ」や「水風呂三個」といった記述がみられ、行水用の桶と推測される。『大和名所図会』(寛政3年)には桶の中にいる子供に母親が行水させる絵が見られる。",
"title": "種類"
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"text": "住宅用浴槽は、洋式・和式・和洋折衷式の3種類に分類される。洋式は長さ1400 mm - 1600 mmで長く、深さ400 mm - 450 mmで浅い。和式は長さ800 mm - 1200 mmで短く、深さは450 mm - 650 mmと深い。これは入浴方法の違いによるもので、体を伸ばして洗う洋式と、肩まで湯につかる和式の違いの表れである。単純に浴槽を大きくすれば両用に耐えるが、必要な湯量が増えるため、中間的な大きさである和洋折衷式がよく使われる。",
"title": "住宅の浴室"
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"text": "浴槽が深い場合、入る際に足を高く上げなければならず危険である。浴槽の設置方法には埋め込み式・半埋め込み式・据え置き式がある。浴槽の設置方法もまたぐ高さを抑える半埋め込み式が最も安全である。",
"title": "住宅の浴室"
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"text": "住宅の浴室は、床下からの害虫の侵入や湿気によるカビの繁殖を防ぐため、通常は床下空間が設けられるが、タイルを貼るような浴室は浴槽の埋め込みや耐水性のある床仕上げを行うため、直接地面に接して作られる。冬でも高温多湿の状態が維持される浴室回りは、カビや害虫(例えばシロアリ)の温床になりやすい。これらの害を食い止めるためには、日頃から点検を行うことや点検が可能な作りにしておくことが重要である。ユニットバスの場合、通常は地面から離れた状態で設置されるため、直接地面と接していないが、やはり高温多湿の状態が起こるため、同様の注意は必須である。 入浴後は換気扇を回しておくのが望ましい。",
"title": "住宅の浴室"
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"text": "都市部では狭小地を有効利用するため、上階に浴室を設置することがある。木造住宅の場合、木材の伸縮によって防水層が破断することが十分考えられ、漏水には十分注意が必要である。",
"title": "住宅の浴室"
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"text": "浴室関係では、へちま・バスチェア、湯・桶(ゆおけ)・足ふきマット・お風呂ブーツ・石けん類・シャンプー類・それらを置く台など、数多くの品目が使用される。",
"title": "住宅の浴室"
},
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"paragraph_id": 35,
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"text": "浴室は洗濯物を干す場所としても使われる。浴室乾燥機を設置・運転することで浴室内の空気を乾燥させ、悪天候や花粉の付着といった心配をすることなく洗濯物を乾かすことができる。熱源は電気もしくはガスが用いられ、性能やイニシャルコスト(初期費用)・ランニングコストといった面で一長一短である。",
"title": "住宅の浴室"
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"text": "列車で風呂設備が設けられているケースは少なく、『TRAIN SUITE 四季島』『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』といった豪華な寝台列車に見られる程度である。過去に運行されていた列車では『夢空間』にも存在した。ちなみにシャワーや足湯といったレベルでは『サンライズ瀬戸』『サンライズ出雲』『とれいゆ つばさ(現在運行終了)』や、近畿日本鉄道の観光列車『つどい』などの例がある。",
"title": "列車における風呂"
}
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風呂(ふろ)とは、身体の洗浄や温浴・入浴するための設備。浴室・浴場ともいう。
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{{出典の明記|date=2012年8月7日 (火) 10:55 (UTC)}}
'''風呂'''(ふろ)とは、身体の洗浄や[[温浴]]・[[入浴]]するための設備。[[浴室]]・[[浴場]]ともいう。
== 歴史 ==
元々は衛生上の必要性や、宗教的観念から古くから水のある場所で水浴を行ってきたが、[[温泉]]を利用した寒冷を払拭するためや、一層の[[新陳代謝]]や老廃物の除去や排出をするため、温かい水や蒸気を利用して、温泉のない場所でも温浴が行われるようになった。
5000年前の[[インダス文明]]の[[モヘンジョダロ|モヘンジョ=ダロ]]や都市の中心に大規模な[[公衆浴場]]が完備していた。
風呂の起源として現在確認されるものでは[[紀元前4000年]]のころ[[メソポタミア]]で、払い清めの[[沐浴]]のための[[浴室]]が作られ、[[紀元前2000年]]頃には[[薪]]を使用した温水の浴室が[[神殿]]に作られていた。同時に[[ギリシア文明]]では、現在の[[近代オリンピック|オリンピック]]精神の元となった「健全な精神は健全な肉体に宿られかし」との考えから、スポーツ施設に付帯して沐浴のための大規模な公衆浴場としての[[水風呂]]が作られていた。[[紀元前100年]]の[[ローマ帝国]]の時代になると、[[古代ローマの公衆浴場]]として知られる豪華な公衆浴場と、湯を沸かす際の熱を利用した[[ハイポコースト]]という[[床暖房]]設備が発達し、[[地中海世界]]では現在の[[日本]]でも見られるような、社交場としての[[男女混浴]]の公衆浴場が楽しまれていた。[[ハドリアヌス|ハドリアヌス帝]]の頃に男女別浴になった<ref>[[テルマエロマエ]]{{Full citation needed|date=2020-08-12}}</ref>。
[[File:Mohenjo-daro.jpg|thumb|[[モヘンジョダロ]]の大浴場]]
しかし、[[キリスト教]]の浸透にともない裸で同一の場所に集うことが忌避され、廃れていった<ref>[[テルマエロマエ]]DVD収録オーディオコメンタリー{{Full citation needed|date=2020-08-12}}</ref>。ローマ帝国の領土を受け継いだ[[ヨーロッパ]]の地では、[[13世紀]]頃までは、辺境の地であっても[[入浴]]習慣が普及していたが、[[教会 (キリスト教)|教会]]に行くための清めとして、大きめの木桶に温水を入れて身を簡単にすすぐ[[行水]]の様なものだった。都心においては公衆浴場があり、住民は週に1・2度程度、温水浴や蒸し風呂を楽しんだといわれる。しかし、男女混浴であったため、みだらな行為や[[売春]]につながり、それに{{要出典範囲|キリスト教の観念が加わり廃れていった|date=2014年10月}}。それに拍車をかけるように、[[14世紀]]には[[ペスト]]の流行により、公衆浴場はもちろんのこと入浴自体も「ペスト菌を積極的に体に取り込んでしまう」といった間違った解釈がなされ、風呂といった習慣自体が忌避され、地中海やヨーロッパから風呂文化が縮小していった。
一方、かつてのローマ帝国領の東部に当たる[[中近東]]では入浴文化が受け継がれ、[[ハンマーム]]と呼ばれる公衆浴場が住民の社交場としての役割を担っていた。
[[紀元前2600年]]頃のインダス文明のモヘンジョダロや、[[ハラッパー]]等の都市には大規模な公衆浴場が完備していた。
古代[[インド]][[十六大国]]の[[マガダ国]]の首都[[王舎城]](現・[[ビハール州]][[ラージギル]])にあった[[仏教]]最初の寺院である[[竹林精舎]]の近くに、温泉がある仏教僧院 (Tapodarama) があった。[[湯治]]を目的としていたと思われる。現在、跡地には[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]寺院が建てられているが、温泉は今も健在である。
ヨーロッパでは医学の進歩に伴い、[[18世紀]]には「入浴が積極的に病原菌を体に取り込む」といった解釈が否定され、むしろ健康の上で好ましいと見なされるようになった。それに伴い遠隔であった入浴の習慣が積極的に行われるようになったが、温水に浸かる風呂ではなく[[シャワー]]として温水を浴びる習慣が普及していった。現在の欧米でも[[浴槽]]のない風呂場もあり、温水の風呂に浸かるのは月に1・2度程度が一般的となっている。
=== 日本の風呂 ===
[[ファイル:Syokokuji_senmyo.jpg|thumb|240px|[[相国寺]]の浴室『宣明』(応永7年 (1400年) 頃の創建。現在のものは慶長4年 (1596年) の再建)]]
[[ファイル:Oobuka Onsen Akita 02.jpg|thumb|240px|[[温泉]]を利用した風呂の例<br/>[[大深温泉]]]]
[[ファイル:JGSDF bath.jpg|thumb|240px|[[野外入浴セット2型]]([[陸上自衛隊]])]]
もともと日本では[[神道]]の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる[[禊]](みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている<ref>『神道ガイド』村上書店 1996年1月30日発行222頁中108頁</ref>。
仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは[[僧|僧尼]]のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる[[経典]]も存在し、[[施浴]]によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に[[光明皇后]]が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる[[法華寺]]の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、[[薬草]]などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。
[[平安時代]]になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の[[公家]]の屋敷内に取り込む様式が現れる。『[[枕草子]]』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。
[[鎌倉時代]]には[[東大寺]]復興に尽力した[[重源]]による[[施浴]]にて鉄湯船が見られる。これは[[南都焼討]]で焼失した東大寺伽藍の再建のため巨木の用材を求めた重源が[[1186年]]頃に[[周防国]]に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為に行われた湯施行である。重源が開山した[[阿弥陀寺 (防府市)|阿弥陀寺]]の旧鉄湯舟残欠は渡[[宋 (王朝)|宋]]経験のある重源が[[南宋]]で知り得たものを国内で再現したもので<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/301/155 |title=阿弥陀寺の湯屋 附 旧鉄湯釜 旧鉄湯舟残欠 |website=国指定文化財等データベース |accessdate=2016-06-29}}</ref>、
キッチン・バス工業会ではこれを長州風呂の元祖と紹介している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kitchen-bath.jp/statistics/changesbath |title=五右衛門風呂、長州風呂から鋳物ホーロー浴槽へ |publisher=キッチン・バス工業会 |accessdate=2016-06-29}}</ref>。現存する鉄湯船は[[1197年]]に大仏鋳造に従事していた[[河内国|河内]][[鋳物]]師の草部是助らにより東大寺に奉納された物、[[1290年]]に同じく河内鋳物師の山河貞清による物が[[成相寺]]と[[智恩寺 (宮津市)|智恩寺]]にみられる。
浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う'''[[行水]]'''というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が一般化したのは[[江戸時代]]に入ってからと考えられている。戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。[[慶長]]年間の終わり頃に、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。
== 語源 ==
[[日本語]]の'''風呂'''の語源は、2説ある。
* もともと「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ'''室'''(むろ)が転じたという説
*[[抹茶]]を点てる際に使う釜の「[[風炉]]」から来たという説
[[英語]]の"bath"は、[[イギリス]]にある温泉場の街の名前、[[バース (イギリス)|バース]](Bath)が語源という俗説があるが、日本の「温泉町」という地名と同様、温泉があるから"Bath"と呼ばれるようになったのである。英語"bath"にあたる「温浴」もしくは「温めること」を意味する名詞は[[ゲルマン語派|ゲルマン古語]]に既にあり、さらに遡れば遠く[[印欧祖語]]に由来すると考えられる。
== 種類 ==
=== 蒸し風呂 ===
[[ファイル:Yudono Shoin Honmaru Palace Nagoya Castle old.png|thumb|200px|名古屋城本丸御殿の風呂屋形、裏側にある竈から蒸気を供給する蒸し風呂]]
[[ファイル:KannawaMushiyu.jpg|thumb|200px|一遍上人の開いた蒸し湯跡の前に建つ現在の鉄輪むし湯]]
'''蒸し風呂'''(むしぶろ)は、蒸気により体を蒸らす風呂である。前述のように、日本では元来風呂という場合はこれを指していた。蒸気が豊富な温泉でもよく見られ、[[大分県]][[別府市]]の[[鉄輪温泉]]にある[[鉄輪むし湯]]は[[一遍]]上人が施浴のために開いたものとされる。温泉で熱せられた床の上には[[セキショウ|石菖]]という薬草を敷きつめ高温で蒸す状態にして、[[テルペン]](鎮痛効果がある)を成分とする芳香を放出させて、皮膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する。箱型の1人用蒸し風呂は、特に箱蒸し風呂と呼ばれる。蒸気を使わない乾式のものも含めて'''[[サウナ|サウナ風呂]]'''とも呼ばれるが、狭義のサウナ ({{lang-en-short|''sauna bath''}}) は[[フィンランド]]式の乾式のもののみを指す。
{{clear|right}}
また人が入るためのものではないが、[[漆器]]に塗った[[漆]]を乾燥させる室(むろ)である'''漆風呂'''も蒸し風呂の一種である。
=== 岩風呂 ===
'''岩風呂'''(いわぶろ)、もしくは'''石風呂'''(いしぶろ)は、主に日本の[[瀬戸内海]]など海岸地帯にあった蒸し風呂である<ref name="maeda">{{Cite journal |和書|author =前田勝雄|title=石風呂|date=1988-1989年|publisher=日本温泉気候物理医学会|journal=日本温泉気候物理医学会雑誌|volume =52|issue=1|doi=10.11390/onki1962.52.32|pages=32|ref = }}</ref>。天然の[[石窟]]などの密閉された岩穴の中で火を焚いて熱し、水気を与えることで蒸気浴や熱気浴をする<ref name="maeda"/>。
入浴時は裸にはならず、着衣のまま[[茣蓙]]に座るか寝そべる<ref>山口県立大学国際文化学部(編)『大学的 やまぐちガイド:「歴史と文化」の新視点』 昭和堂 2011 ISBN 978-4-8122-1069-7 pp.234-236.</ref>。
伝統的な石風呂は[[高度経済成長|高度経済成長期]]に入ると順次姿を消し、一部地域で残存したものについては有形[[民俗文化財]]に指定された<ref name="maeda"/>。
海辺の風呂と山間地の風呂では蒸気を起こす方法に違いがある。海辺の風呂では適当な温度になったところで灰の上に海藻や海水で濡らした[[莚]](むしろ)を引く。川沿いの風呂は真水で濡らした[[藁|稲藁]]と[[菖蒲]]を敷いて蒸気を起こした<ref>山口県歴史散歩編修委員会 編『山口県の歴史散歩』山川出版社、2006年、ISBN 463424635X、pp.24-25.</ref>。
=== 釜風呂 ===
'''釜風呂'''(かまぶろ)は、主に[[日本列島]]の内陸部で広まった蒸し風呂である。特に[[京都]]の[[八瀬 (京都市)|八瀬]]の竈風呂が代表的。岩で直径2m程度のドーム型に組んだ下側に小さな入口がある構成。最初にドーム内で火を焚き熱する。加熱後に換気を行い、塩水で濡らした莚を引いて、その上に人が横たわる形で入浴をした。
=== 五右衛門風呂 ===
[[ファイル:Old furo 002.jpg|right|200px]]
'''五右衛門風呂'''(ごえもんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つ。[[安土桃山時代]]の盗賊[[石川五右衛門]]が[[京都市|京都]][[三条京阪|の三条]][[四条河原町|河原]]で[[釜茹で]]の刑に処せられたことが、名称の由来である。
『[[東海道中膝栗毛]]』には[[小田原市|小田原]]の宿屋で、弥次さん喜多さんが五右衛門風呂に入る話がある。そこでは当時の五右衛門風呂の構造について「土釜のうえに直接風呂の桶を据え、底板は上に浮いている。入浴時は底板を足で底に沈めて入る。薪が少なくて済み、経済的である」と説明し、上方の形式であったとしている<ref group="注釈">構造について詳しく書いてあるのは当時関西ではあったが、江戸ではまだ一般的でなかったからだろう(小林祥次郎『人名ではない人名録』[[勉誠出版]] [[2014年]]p.58-60)。</ref>。弥次喜多はこの風呂の入り方を知らず、底板をとりのけて入ろうとしたため釜底に触れて足を火傷し、悩んだ末に便所[[下駄]]をはいて風呂に入る。喜多さんは下駄で踏みつけたあげく、釜を壊して大恥をかく。
江戸時代の『[[守貞漫稿]]』の居風呂の条に、「京坂専用は桶に底を付せず代{{sub|㆑}}之に平釜を用ひ土竈の上に置{{sub|㆑}}之で薪及び古材古器機朽木之類焚{{sub|㆑}}之故に湯屋に不{{sub|㆑}}与{{sub|㆑}}之也此風呂を五右衛門風呂と号ることは昔の五右衛門なる者油煮の刑俗の釜煮と云ふに行るると云伝へ理相似たるを以て也」という。
2014年11月現在、五右衛門風呂は唯一の生産メーカーである[[広島県]]の[[大和重工]]で[[鋳鉄]]製のものが生産されている。厳密には、全部が鉄でできているものは「長州風呂」と呼び、五右衛門風呂は縁が木桶で底のみ鉄のものを指す。厚い鋳鉄製のため、比較的高い保温力が期待できる。
[[ファイル:Old furo 001.jpg|right|200px]]
; かつての日本の風呂場
: 日本式風呂桶(五右衛門風呂、長州風呂)と洗い場。洗い場に置かれているのは、脚つきのたらいと脚つきの洗面桶。洗い場からは一段上がった風呂桶にまたいで入る。風呂桶の縁は、桶からあふれた湯が洗い場側に流れ落ちるように、一段下がったしつらえになっている。画面右側の壁には、上段に薪をくべる穴と下段に薪が燃えた後の灰を掻き出す穴が穿たれている。この例では火勢が落ちないよう、[[レンガ]]を穴に挿し込んで蓋をする構造になっている。[[水道]]がない時代は外部から湯桶に水をくみ入れたり、入浴後の風呂桶の残り湯を外へ運び出したり、外部で汚れた足を洗い流せるよう、洗い場から一段下がった部分は[[土間]]のたたきになっている。
==== ドラム缶風呂 ====
'''ドラム缶風呂'''(ドラムかんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つで、空いた[[ドラム缶]]を廃品利用して風呂として使用したものであり、五右衛門風呂の亜種である。石を積んで作った釜の上に置いたドラム缶に水を満たし、底部を釜の火で熱してお湯にする。入浴は五右衛門風呂と同様に、木の蓋を踏んで入るか、あるいは下駄を履いて入るかである。[[第二次世界大戦]]中には燃料の空き缶など素材が調達しやすいことから戦地でよく作られ、戦後も簡易な風呂として内風呂のない家庭も多かった昭和40年代(≒[[1965年]] - [[1975年]])頃までは一般家庭でもしばしば行われていた。現在でも、[[ボーイスカウト]]や[[子供会]]などの行事、あるいは宿泊施設の娯楽として野外でドラム缶風呂に入浴できるようなドラム缶加工品(底部に水抜き用水栓が付いている)が市販されている。
=== 木桶風呂(鉄砲風呂)===
[[ファイル:Old furo 003.jpg|thumb|150px|木桶風呂(2003年撮影)]]
[[File:Bathing woman of Japan, Taisho era (1911 by Elstner Hilton).jpg|thumb|left|150px|木桶風呂に浸かる様子(1911年)]]
日本の風呂の1つで、[[ヒノキ]]を用いた大型の小判型木桶に、火を焚くため鋳物製の釜と煙突が付属する形状をしている。煙突のついた釜の形状が鉄砲に似ているため、「鉄砲風呂」と呼ばれることもある。江戸時代から存在したが、一般に普及したのは[[明治時代]]から[[大正時代]]にかけてと言われている。右の写真のものは二重構造の釜に浴槽内の水を対流循環させる、現在の追い焚き型の風呂沸かし器と同様の構造の比較的新しい型である。原型は浴槽内に沈めた金属筒に火のついた薪や炭を入れて湯を加温するものであった。湯船と一体構造とした釜と煙突により直接加温する型も存在した。過渡期には、木桶の鉄砲風呂の熱源を[[ブンゼンバーナー|ガスバーナー]]に置き換えたり、逆に写真の物のような薪焚きの釜に[[FRP]]製の浴槽を組み合わせた例など、近代日本の家庭の風呂の発達史を見ることができる。現在では五右衛門風呂と同じく見られる機会は少ない。
{{clear|right}}
=== ガス風呂 ===
明治時代から[[1950年代]]まで使われ<ref>東京ガスのカタログから{{Full citation needed|date=2020-08-12}}</ref>、初期の[[団地]]{{Efn|主に荻窪団地など。}}にも使われた。構造は鉄砲風呂にガスバーナーを取り付けただけのものであった。高価なために普及しなかった。 主に浴室内吸排気タイプがほとんどで{{Efn|CF式というタイプで、逆風止がある。台風などの強風で立ち消えしないように(ガス漏れ防止)排気ガスを風圧で浴室内へ逃がす方式。また換気扇などを使用すると室内が負圧になるために浴室内に[[一酸化炭素中毒|一酸化炭素が漏れ出し中毒になる]]ため危険。現在は新規設置はやむを得ない場合を除き禁止。}}、[[一酸化炭素中毒|中毒事故]]が多発した。<ref>産業技術技術史データベース{{Full citation needed|date=2020-08-12}}</ref>
===FRP風呂===
[[1958年]]、[[INAX|伊奈製陶]](現[[LIXIL]])がFRPと循環釜を組み合わせた「ポリバス」を発売。浴槽は、高温にも耐えられ、保温性も良く<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lixil.co.jp/madeby/history/poly_bath/default.htm?utm_source=yahoo&utm_medium=display&utm_campaign=MB_D_YCD_PC&utm_content=history_b |title =陶器メーカーが挑んだ新素材 |date= |accessdate=2016年09月16日 |website=LIXIL|publisher=}}</ref>木桶風呂に代わるものとなった。以降、他社の参入や[[バランス釜]]の組み合わせにより、全国の団地や家庭に普及した。
=== ユニットバス ===
[[ファイル:Modern Ofuro.jpg|thumb|200px|ユニットバス]]
{{main|ユニットバス}}
壁・天井・浴槽・床を工場で成型しておき、現場に搬入して組み立てる風呂。[[洗面器|洗面台]]や[[便所|トイレ]]と一体型となっているものもあるが、[[排泄]]に用いるトイレを風呂と一体化することを不衛生と見なす価値観が日本では主流である。そのため、西洋式の[[ホテル]]以外では、低所得者向け住宅などへの設置がある程度であり、日本で流通しているユニットバスはそのほとんどが風呂トイレ分離型である。[[第二次世界大戦]]前の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[特許]]が取られたが、普及しなかった。日本では[[1960年代]]半ばにホテルを皮切りとして[[1970年代]]半ばより、集合住宅向けに大量かつ容易に組み立てられる浴室として普及した。最初に大量納入されたのは、1964年の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に向けて突貫工事が行われていた、東京の[[ホテルニューオータニ]]からの発注で作られた東洋陶器(現・[[TOTO (企業)|TOTO]])の製品である<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.asahi.com/articles/ASG8V0SCQG8TTIPE02Y.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20140915151849/http://www.asahi.com/articles/ASG8V0SCQG8TTIPE02Y.html
| title = 初代ユニットバスを発見 東京五輪から進化の50年
| author = 角田要
| website = [[朝日新聞デジタル]]
| date = 2014-8-31
| accessdate = 2014-10-2
| archivedate = 2014-9-15
| deadlinkdate = 2018年12月14日
}}</ref>。初期の製品は[[繊維強化プラスチック]] (FRP) 製の浴槽が主流であったが、素材の開発が進んだ[[1980年代]]以降では[[ポリエステル樹脂]]や[[アクリル樹脂]]を用いた[[人工大理石]]浴槽や、保温性の高い[[ステンレス]]浴槽を用いたものも出現した。
{{clear|right}}
=== 噴流式泡風呂 ===
[[ファイル:Hotel de Maya02n4272.jpg|thumb|200px|ジャクージの一例]]
浴槽内に勢いのある[[泡]]を出す風呂を「噴流式泡風呂」と言うが、一般には「[[ジェットバス]]」「ジャクージ」「ジャクジー」「ジャグジー(日本語の「[[蛇口]]」由来の誤読)」などと呼ばれる。浴槽内を照らす照明を備えるものもある。
「噴流式泡風呂」は、[[イタリア系アメリカ人]]のJacuzzi({{IPA-it|jaˈkuttsi}} ヤ'''ク'''ッツィ、{{IPA-en|ʤəˈkuːzi}} ジャ'''クー'''ズィ)兄弟が起こした会社{{仮リンク|ジャクージ (会社)|label=ジャクージ社|en|Jacuzzi}}の3代目Roy Jacuzziが[[1968年]]に開発したWhirlpool tub(渦流浴桶)が初めてとされる。その後、各国でJacuzziが「噴流式泡風呂」全般を指す一般[[名詞]]となっていった。
{{clear|right}}
{{also|浴槽#気泡浴槽}}
==== 当該風呂の問題点 ====
[[ノーリツ]]、[[松下電工]](現・[[パナソニック]])、[[東陶機器]](現・[[TOTO (企業)|TOTO]])、[[日立化成工業]](現・[[ハウステック]])、[[INAX]](現・[[LIXIL]])が製造・販売した[[浴槽#気泡浴槽|ジェット噴流装置を備えた浴槽]]で、[[浴槽#当該浴槽の問題点|入浴中に何らかのトラブル(事故)が発生した]]例が報告された。なかでも、INAXやノーリツ[[浴槽#気泡浴槽|が製造・販売したジェット噴流装置を備えた浴槽]]に至っては、[[INAX|前者]]が1992年に、[[ノーリツ#沿革|後者が2000年]]に、それぞれ[[浴槽#当該浴槽の問題点|死亡事故を発生させてしまったという事例]]もある。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sydrose.com/case100/129/ |title=失敗百選-ジェットバスで女児が溺死 |accessdate=2019-11-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20010326_2.pdf |title=「ジェット噴流バス」入浴中に子どもが事故! |publisher=国民生活センター |accessdate=2019-11-29 |format=PDF |deadlinkdate=2020-08-12 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11436742/www.kokusen.go.jp/pdf/n-20010326_2.pdf |archivedate=2011-11-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nite.go.jp/jiko/chuikanki/specialnews/news32.html |title=事故情報特記ニュースNo.32 |publisher=独立行政法人製品評価技術基盤機構 |accessdate=2019-11-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.noritz.co.jp/info/04.html |title=ジェット噴流バスの無償部品交換について{{!}}製品に関する大切にお知らせ |publisher=株式会社ノーリツ |accessdate=2019-11-29}}</ref>
{{also|ノーリツ#沿革|浴槽#当該浴槽の問題点}}
=== 水風呂 ===
その名の通り、お湯の代わりに水を張った風呂である。夏場、暑いときに入ることが多い。また、[[サウナ風呂|サウナ]]に入った後に汗を引かせるために入ることもある。
[[江戸時代]]の農村では、風呂といえば、水風呂=桶の中での行水であったとされ、各地に残されている道中日記や本陣文書には「水風呂二つ」や「水風呂三個」といった記述がみられ、行水用の桶と推測される<ref>[[本田豊]] 『絵が語る 知らなかった江戸の暮らし 農山漁民の巻』 [[遊子館]] 2009年 pp.68 - 69.</ref>。『[[大和名所図会]]』([[寛政]]3年)には桶の中にいる子供に母親が行水させる絵が見られる。
== 住宅の浴室 ==
住宅用浴槽は、洋式・和式・和洋折衷式の3種類に分類される。洋式は長さ1400 [[ミリメートル|mm]] - 1600 mmで長く、深さ400 mm - 450 mmで浅い。和式は長さ800 mm - 1200 mmで短く、深さは450 mm - 650 mmと深い。これは入浴方法の違いによるもので、体を伸ばして洗う洋式と、肩まで湯につかる和式の違いの表れである。単純に浴槽を大きくすれば両用に耐えるが、必要な湯量が増えるため、中間的な大きさである和洋折衷式がよく使われる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.homepro.jp/bath/bath-basic/005/ |title=浴槽の選び方|publisher=ホームプロ|date=2015-6-10|accessdate=2020-7-9}}</ref>。
浴槽が深い場合、入る際に足を高く上げなければならず危険である。浴槽の設置方法には埋め込み式・半埋め込み式・据え置き式がある。浴槽の設置方法もまたぐ高さを抑える半埋め込み式が最も安全である。
住宅の浴室は、床下からの[[害虫]]の侵入や湿気による[[カビ]]の繁殖を防ぐため、通常は床下空間が設けられるが、[[タイル]]を貼るような浴室は浴槽の埋め込みや耐水性のある床仕上げを行うため、直接地面に接して作られる。冬でも高温多湿の状態が維持される浴室回りは、カビや害虫(例えば[[シロアリ]])の温床になりやすい。これらの害を食い止めるためには、日頃から点検を行うことや点検が可能な作りにしておくことが重要である。[[ユニットバス]]の場合、通常は地面から離れた状態で設置されるため、直接地面と接していないが、やはり高温多湿の状態が起こるため、同様の注意は必須である。
入浴後は[[換気扇]]を回しておくのが望ましい<ref>{{Cite web|和書|url=https://iemo.jp/43115 |title=浴室換気扇、電気代はどれくらい?カビ防止には24時間回しておきたい! |publisher=iemo |date=2016-07-21 |accessdate=2016-09-24 }}</ref>。
都市部では狭小地を有効利用するため、上階に浴室を設置することがある。[[木造住宅]]の場合、木材の伸縮によって防水層が破断することが十分考えられ、漏水には十分注意が必要である。
<!--日本だけ?-->浴室関係では、[[ヘチマ|へちま]]・バスチェア、湯・桶(ゆおけ)・足ふきマット・お風呂ブーツ・[[石鹸|石けん]]類・[[シャンプー]]類・それらを置く台など、数多くの品目が使用される。
浴室は[[洗濯]]物を干す場所としても使われる。浴室乾燥機を設置・運転することで浴室内の空気を乾燥させ、悪天候や花粉の付着といった心配をすることなく洗濯物を乾かすことができる。[[熱源]]は[[電気]]もしくは[[ガス燃料|ガス]]が用いられ、性能や[[イニシャルコスト]](初期費用)・[[ランニングコスト]]といった面で一長一短である<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/浴室乾燥機-1128896 |title=コトバンク 浴室乾燥機とは(リフォーム用語集) |accessdate=2016-09-24 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://iemo.jp/25778 |title=浴室乾燥機の上手な使い方。洗濯物の乾かし方や臭いの対策方法も |publisher=iemo |date=2016-05-26 |accessdate=2016-09-24 }}</ref>。
== 列車における風呂 ==
[[列車]]で風呂設備が設けられているケースは少なく、『[[TRAIN SUITE 四季島]]』『[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]』といった豪華な[[寝台列車]]に見られる程度である。過去に運行されていた列車では『[[夢空間]]』にも存在した。ちなみにシャワーや足湯といったレベルでは『[[サンライズ瀬戸]]』『[[サンライズ出雲]]』『[[とれいゆ つばさ]](現在運行終了)』や、[[近畿日本鉄道]]の観光列車『つどい』などの例がある。
== 関連項目 ==
風呂の種類・形態
* [[サウナ風呂]]/[[ジャングル風呂]]/[[露天風呂]]/[[砂風呂]]/[[岩盤風呂]]/[[水風呂]]/[[テマスカル]]/[[打たせ湯]]/[[電気風呂]]
* [[湯道]]
* [[銭湯風呂]]
** [[スーパー銭湯]]/[[健康ランド]]
* [[混浴風呂]]/[[トルコ風呂]]
* [[宇宙アポロ風呂]] - [[有田観光ホテル]]([[和歌山県]][[有田市]])が所有・運行していた展望風呂ロープウェイ。
* [[空中温泉露天風呂]] - [[北海道]][[音更町]]で毎年開催されるイベント[[ゆめ気球とかち]]の目玉のひとつである気球風呂。
* [[まるみつ百貨店]] - 日本で唯一、店内フロアに公衆浴場施設があった[[長野県]][[諏訪市]]の[[日本の百貨店|百貨店]]。2011年2月20日に閉店した。
* [[家族風呂]]
* [[温泉]]
入浴方法
* [[半身浴]]/[[交代浴]]/[[温冷浴]]/[[雁風呂]]/[[足湯]]/[[手湯]]/[[手足浴]]
設備機器としての風呂
*[[シャワー]]/[[給湯器]]/[[1418]] - 日本におけるユニットバスの平面図上の縦横を表す、規格としてのサイズの一つ。
*[[床暖房#関連項目|浴室床暖房]]
*[[浴室]]
日本の入浴に関連する衣服等の習慣
*[[風呂敷]]
*[[浴衣]](ゆかた)
比喩、喩え
* [[風呂吹き]]
起源
*[[禊]]
同音異語
*[[漆器]]に塗った[[漆]](うるし)を乾燥させるために、専用の部屋や空間を蒸気で満たした施設。ムロ(室)ともいう
*[[風炉]]。茶道において湯をわかす炉。もしくは冶金で[[るつぼ]]を加熱する装置。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=ドミニック・ラティ|translator=[[高遠弘美]] |title=お風呂の歴史 |series=[[文庫クセジュ]] |publisher=[[白水社]] |isbn=4-560-50897-6 |ref=harv}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Bathrooms|浴室(バスルーム)}}
{{Commonscat|Bathrooms in Japan|日本の浴室(風呂)}}
* [http://willypuchner.com/de/diereise/japan%201/japan_index.htm Japanese Bath] - Photographs by [[ヴィリー・プフナー]]
{{部屋}}
{{DEFAULTSORT:ふろ}}
[[Category:衛生設備]]
[[Category:入浴]]
[[Category:住宅]]
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2023-12-04T22:18:08Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82
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14,182 |
13
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13(十三、じゅうさん、とおあまりみつ)は自然数、また整数において、12の次で14の前の数である。英語では thirteen(サーティン、サーティーン)と表記される。西洋を中心に「13 = 忌み数」という認識が強いことから、様々な効果を狙って作品のタイトルなどに使用されることも多い。なお、英語の序数詞では 13th (thirteenth) と表記される。19 (nineteen) まで続く英語の語尾 “-teen”(ティーン)の始まりとなる。ラテン語での表記は tredecim (トレーデキム)。
日本の人名に、十三(「じゅうぞう」など)もしくは一三(「かずみ」「いちぞう」など)がある。
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13(十三、じゅうさん、とおあまりみつ)は自然数、また整数において、12の次で14の前の数である。英語では thirteen(サーティン、サーティーン)と表記される。西洋を中心に「13 = 忌み数」という認識が強いことから、様々な効果を狙って作品のタイトルなどに使用されることも多い。なお、英語の序数詞では 13th (thirteenth) と表記される。19 (nineteen) まで続く英語の語尾 “-teen”(ティーン)の始まりとなる。ラテン語での表記は tredecim (トレーデキム)。
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{{整数|Decomposition=([[素数]])}}
'''13'''('''十三'''、じゅうさん、とおあまりみつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[12]]の次で[[14]]の前の数である。[[英語]]では {{en|'''thirteen'''}}(サーティン、サーティーン)と表記される。[[西洋]]を中心に「[[13 (忌み数)|13 = 忌み数]]」という認識が強いことから、様々な効果を狙って作品のタイトルなどに使用されることも多い。なお、英語の[[序数詞]]では {{en|13th (''thirteenth'')}} と表記される。[[19]] {{en|(nineteen)}} まで続く英語の語尾 {{en|“-teen”}}(ティーン)の始まりとなる。[[ラテン語]]での表記は {{la|tredecim}} (トレーデキム)。
== 性質 ==
*13は6番目の[[素数]]である。1つ前は[[11]]、次は[[17]]。
**[[約数の和]]は[[14]]。
*[[ソフィー・ジェルマン素数]]でも[[安全素数]]でもない最小の素数である。
*[[ガウス整数#ガウス素数|ガウス素数]]でも[[アイゼンシュタイン整数#アイゼンシュタイン素数|アイゼンシュタイン素数]]てもない最小の素数である。
*最小の完全数番目の素数である。次は[[107]]。
* 11と13は3番目の[[双子素数]]である。1つ前は ([[5]], [[7]])、次は (17, [[19]])。
* 7と13は2番目の[[セクシー素数]]である。1つ前は (5, 11)、次は (11, 17)。
* (5, 7, 11, 13) 、(11, 13, 17, 19) はそれぞれ1番目、2番目の[[四つ子素数]]である。次は ([[101]], [[103]], 107, [[109]])。
* ''p'' = 13 のときの 2{{sup|''p''}} − 1 で表される 2{{sup|13}} − 1 = [[8191]] は5番目の[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]である。1つ前は7、次は17。
**なお、2{{sup|''p''}} − 1 が素数であるためには ''p'' もまた素数でなければならない。
* 7番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は[[8]]、次は[[21]]。
** 4番目の[[フィボナッチ素数]]である。1つ前は5、次は[[89]]。
* 6番目の[[フィボナッチ数#トリボナッチ数|トリボナッチ数]]である。1つ前は7、次は[[24]]。
** トリボナッチ数が素数になる3番目の数である。1つ前は7、次は[[149]]。
* 13# + 1 = 2 × 3 × 5 × 7 × 11 × 13 + 1 = 30031 = 59 × 509
**''n''# + 1 の形で合成数を生む最小の ''n'' である(''n''# は[[素数階乗]]、つまり ''n'' 以下の素数の[[総乗]])。
* {{sfrac|1|13}} = 0.{{underline|076923}}… (下線部は循環節で長さは6)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる2番目の数である。1つ前は7、は14。
** 13は素数であるが999999の約数なので、{{sfrac|1|13}} は[[巡回数]]にならない。
***巡回数にならない5番目の素数である。1つ前は11、次は[[31]]。({{OEIS|A186641}})
** 13と14は逆数が同じ循環節の長さになる。2連続で同じ循環節になる最小の数である。次は[[77]]。
***''n'' 連続で同じ循環節になる最小の数とみたとき次の3連続は2426。
* 10進数表記において桁を入れ替えても素数となる最小の[[エマープ]]である。(13 ←→ 31) 次は17。
* 1 と 3 を使った最小の素数である。次は31。ただし単独使用を可とするなら1つ前は11。({{OEIS|A020451}})
** 13…3 の形の最小の素数である。次は1333333333333333。({{OEIS|A093671}})
** 1…13 の形の最小の素数である。次は[[113]]。({{OEIS|A093011}})
*連続[[奇数]]を昇順に並べてできる最小の素数である。次は135791113151719。({{OEIS|A048847}})
**[[三角数]]を昇順に並べてできる最小の素数である。次は136101521。({{OEIS|A158750}})
*** [[三角数]]を昇順に並べた数とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[136]]。({{OEIS|A078795}})
* 13 = 2{{sup|3}} + 5
** ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''}} + 5 の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は21。({{OEIS|A168614}})
*** 2{{sup|''n''}} + 5 の形の2番目の素数である。1つ前は7、次は[[37]]。({{OEIS|A057733}})
* 13 = 2{{sup|3}} + 2{{sup|2}} + 1
** ''n'' = 2 のときの ''n'' {{sup|3}} + ''n'' {{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[3]]、次は37。({{OEIS|A098547}})
* 13 = 3{{sup|2}} + 4
** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + 4 の値とみたとき1つ前は7、次は31。({{OEIS|A168609}})
** 3{{sup|''n''}} + 4 の形の3番目の素数である。1つ前は7、次は31。({{OEIS|A102903}})
* 13 = 5{{sup|1}} + 8
** ''n'' = 1 のときの 5{{sup|''n''}} + 8 の値とみたとき1つ前は9、次は[[33]]。
** 5{{sup|''n''}} + 8 の形の最小の素数である。次は2524354896707237777317531408904915934954260592348873615264892578133。({{OEIS|A102910}})
* 13{{sup|2}} = [[169]] → [[961]] = 31{{sup|2}}
**いかなるN進法で169とか961を表記しても、169及び961は必ず平方数となる。
**平方した数を逆順に並べ替えた数も平方数となる2番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[21]]。({{OEIS|A035123}})
** このような性質をもつ最小の素数である。次は31。
* 13<sup>2</sup> = 169、14<sup>2</sup> = [[196]]
**連続した整数の[[平方数]]の数字が同じ組み合わせになる最小の数である。次は[[157]]。({{OEIS|A072841}})
**連続した整数の平方数の数字が同じ組み合わせになる最小の素数である。次は157。({{OEIS|A175519}})
* [[階乗|13!]] = 6227020800
* 13 = 3{{sup|0}} + 3{{sup|1}} + 3{{sup|2}}
** ''a'' = 3 のときの ''a'' <sup>0</sup> + ''a'' <sup>1</sup> + ''a'' <sup>2</sup> の値とみたとき1つ前は7、次は21。
** ''a'' <sup>0</sup> + ''a'' <sup>1</sup> + ''a'' <sup>2</sup> の形で表せる2番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は3、次は21。
** ''a'' <sup>0</sup> + ''a'' <sup>1</sup> + ''a'' <sup>2</sup> の形で表せる3番目の素数である。1つ前は7、次は31。
* 13 = {{sfrac|3{{sup|3}} − 1|3 − 1}} = {{sfrac|4{{sup|3}} + 1|4 + 1}}
** ''n'' = 3 のときの {{sfrac|''n''{{sup|''n''}} − 1|''n'' − 1}} の値とみたとき1つ前は3、次は[[85]]。({{OEIS|A023037}})
** 素数 ''p'' = 3 のときの {{sfrac|''p'' {{sup|''p''}} − 1|''p'' − 1}} の値とみたとき1つ前は3、次は[[781]]。({{OEIS|A001039}})
** 3の累乗和とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[40]]。
** 素数 ''p'' = 3 のときの ''p'' {{sup|0}} + ''p'' {{sup|1}} + ''p'' {{sup|2}} の値とみたとき1つ前は7、次は31。({{OEIS|A060800}})
* 各位の和が13となる[[ハーシャッド数]]の最小は[[247]]、1000までに5個、10000までに36個ある。
* 13, 14, 15 の3連続整数の3辺でできる三角形の面積が整数 ([[84]]) となる2番目の組である。1つ前は (3, 4, 5) 、次は ([[51]], [[52]], [[53]]) 。
* 2番目の[[六芒星数]]である。1つ前は1、次は37。
*各位の[[平方和]]が10になる最小の数である。次は31。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の9は3、次の11は[[113]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が28になる最小の数である。次は31。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の27は3、次の29は113。({{OEIS|A165370}})
* 各位の積が3になる2番目の数である。1つ前は3、次は31。({{OEIS|A034050}})
**各位の積が3になる数で素数になる2番目の数である。1つ前は3、次は31。({{OEIS|A107689}})
* 13番目の[[三角数]]は[[91]]で2桁の最大数になる。いいかえると[[自然数]]を1から13まで加えていくと2桁最大数になる。1つ前は3、次は[[44]]。({{OEIS|A095863}})
* 13 = 3 × 2{{sup|2}} + 1
**4番目の[[プロス数]]である。1つ前は9、次は17。
**3番目の[[プロス数#プロス素数|プロス素数]]である。1つ前は5、次は17。
**5番目の[[ピアポント素数]]である。1つ前は7、次は17({{OEIS|A005109}})。
* 13 = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}}
** 異なる2つの素数の[[自乗|平方]]の和で表せる最小の素数である。次は[[29]] (=2{{sup|2}} + 5{{sup|2}})。
** 異なる2つの平方数の和で表せる3番目の数である。1つ前は[[10]]、次は17。({{OEIS|A004431}})
** ''n'' = 2 のときの ''n'' {{sup|2}} + (''n'' + 1){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は5、次は[[25]]。({{OEIS|A001844}})
** ''n'' {{sup|2}} + (''n'' + 1){{sup|2}} で表せる2番目の素数である。1つ前は5、次は[[41]]。({{OEIS|A027862}})
*3番目の[[中心つき四角数]]である。1つ前は5、次は25。
* ''n'' から始まる ''n'' 連続整数の平方和で表せる数である。1つ前は1、次は[[50]]。({{OEIS|A050410}})
* 13 = 2{{sup|2}} + 9
** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 9 の値とみたとき1つ前は11、次は17。({{OEIS|A188165}})
** 2{{sup|''n''}} + 9 の形の2番目の素数である。1つ前は11、次は17。({{OEIS|A104070}})
* 13 = 7{{sup|2}} − 6{{sup|2}} = (7 + 6) × (7 − 6)
** ''n'' = 7 のときの (''n'' + 6)(''n'' − 6) の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[28]]。({{OEIS|A098847}})
* 5番目の[[幸運数]]の要素である。1つ前は9、次は15。
**4番目の幸運数かつフィボナッチ数である。1つ前は3、次は21。
** [[累乗数]]はもちろん1にもなり得ない3番目の幸運数である。1つ前は7、次は15。
**幸運数自身のすべての約数が幸運数になる数としても5番目である。次は21。
* 4番目の[[マルコフ数]]である。1つ前は5、次は29。
** 1{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 13{{sup|2}} = 3 × 1 × 5 × 13
* 13 = 2{{sup|4}} − 3{{sup|1}} = 2{{sup|8}} − 3{{sup|5}}
** ''a'' > 1 , ''b'' > 1 のとき ''a'' {{sup|''x''}} − ''b'' {{sup|''y''}} = c を成り立たせる自然数 ''x'' , ''y'' の解を2つもつ7番目の数である。1つ前は10、次は[[89]]。({{OEIS|A236211}})
* 13 = 2{{sup|4}} − 2{{sup|2}} + 2{{sup|0}}
** ''n'' = 2 のときの ''n'' {{sup|4}} − ''n'' {{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は1、次は[[73]]。({{OEIS|A060886}})
*約数の和が13になる数は1個ある。(9) 約数の和1個で表せる7番目の数である。1つ前は[[8]]、次は14。
**約数の和が奇数になる4番目の奇数である。1つ前は7、次は[[15]]。
* [[各位の和]]が4になる2番目の数である。1つ前は4、次は[[22]]。
** 各位の和が4になる数で素数になる最小の数である。次は31。({{OEIS|A062339}})
** [[奇数]]という条件をつけると各位の和が4になる最小の数である。
== その他 13 に関連すること ==
* 13 の[[接頭辞]]:tredec([[ラテン語|拉]])、triskaideca または triskaideka([[ギリシャ語|希]])
* 13[[倍]]を'''トリーデキュプル''' (tredecuple) という。
* [[英語]]で'''[[パン屋の1ダース]]''' (''[[:en:Baker's dozen|Baker's dozen]]'') は、13 を表す表現。
* 英語では 13 から [[19]] までの数には語尾に“teen”(ティーン)が付く。そのため、10代の[[若者]]を「ティーンズ」「[[ティーンエイジャー]]」と呼ぶこともある。また、[[ドイツ語|独語]]も同様に 13 から [[19]] までの数には語尾に“zehn”(10) が付く。
* [[UTC+13]]は、[[キリバス]]の一部や[[サモア]]、[[トンガ]]などで採用されている[[標準時]]である。
* 13時は[[日本]]における[[時刻]]の24時間表記([[24時制]])で使用され、[[午後]]1時を指す。
* [[カイコ|カイコガの幼虫]]の体節数は13である。
* 13は、E24系列の[[標準数#JIS C 60063の標準数列|標準数]](寸法を選ぶ際の[[工業規格]]による基準値)。
* [[バーコード]]規格である[[EANコード|EAN]]の国コード13は、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]。
* EAN規格における「標準バーコード」は13桁の数字で構成される。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の 13 は[[東京都]]。すなわち都道府県コードの番号順に都道府県を配列したとき、13番目は東京都。
* [[トランプ]]の各[[スート]]は13枚ずつ。また、13のカードは[[キング (トランプ)|キング]] ('''[[K]]''')。
* [[麻雀]]の[[手牌]]の枚数は通常13枚。また、[[麻雀牌#么九牌|么九牌]]は13種類。全て集めると十三么九([[国士無双 (麻雀)|国士無双]])という役になる。手役の合計が13翻以上で数え[[役満貫|役満]]とするルールもある。ほかにもローカル役満役として<!--配牌時に[[面子 (麻雀)#刻子|刻子]]、[[面子 (麻雀)#順子|順子]]、[[面子 (麻雀)#塔子|塔子]]などの組み合わせがなく[[面子 (麻雀)#対子|対子]]が1つだけある場合の-->[[十三不塔]]という役がある。
* [[囲碁]]ではしばしば十三路盤が使われる。
* 日本の[[刑法 (日本)|刑法]]では、[[性的同意年齢]]が13歳とされており、13歳未満の[[児童]]への[[性行為]]は合意の上でも[[性犯罪]]と見なされる。実際には[[淫行条例]]により18歳未満の児童への性行為が禁止されている場合が多い。
* 日本の[[テレビ]]業界では、13週(=91日≒約3箇月)を1[[クール (放送)|クール]]と呼ぶ。そのため、[[テレビドラマ|ドラマ]]や[[テレビアニメ|アニメ]]などは13話を単位として作られることが多い。
* [[ボクシング]]の世界王座連続防衛日本記録は[[具志堅用高]]の13度。
* [[十三角形]]
=== 13番目のもの ===
==== 元素・惑星 ====
* [[第13族元素]]をホウ素族元素という。
* [[原子番号]]13の[[元素]]は、[[アルミニウム]] (Al)。
==== 歴史上の人物 ====
* 第13代[[天皇]]は、[[成務天皇]]。
* 第13代[[内閣総理大臣]]は、[[桂太郎]]。
* 通算して第13代の[[征夷大将軍]]は、[[久明親王]](鎌倉幕府第8代将軍)。
* [[鎌倉幕府]]第13代[[執権]]は、[[北条基時]]。
* [[室町幕府]]第13代将軍は、[[足利義輝]]。
* [[江戸幕府]]第13代将軍は、[[徳川家定]]。
* [[大相撲]]第13代[[横綱]]は、[[鬼面山谷五郎]]。
* アメリカ合衆国第13代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、[[ミラード・フィルモア]]。
* [[殷|殷朝]]第13代帝は、[[祖乙]]。
* [[周|周朝]]第13代王は、[[平王 (周)|平王]]。
* [[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]は、[[ブルボン朝]]第2代[[フランス国王]]。
* [[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]は、[[スペイン・ブルボン朝|ボルボン朝]]第二次[[王政復古|復古]]における同朝としては9人目の[[スペイン国王]]。
* [[ダライ・ラマ13世]]は、第13代の[[ダライ・ラマ]]。
* 第13代[[教皇|ローマ教皇]]は[[エレウテルス (ローマ教皇)|エレウテルス]](在位:[[175年]] - [[189年]])である。
* [[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]は、第226代[[ローマ教皇]]。
* [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]は、第256代ローマ教皇。
==== その他 ====
* 年始から13日目は[[1月13日]]。
* [[イスラム教]]の[[クルアーン]]における第13番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[雷電 (クルアーン)|雷電]]である。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]で XIII は、[[死神 (タロット)|死神]]。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第13番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#同人|天火同人]]。
* 13th Generation(第13世代)は、アメリカ合衆国において概ね[[ジェネレーションX]]に該当する。[[アメリカ合衆国の独立|同国の独立]]前より20年ごとに[[世代]]を区切った場合、「13番目の世代」に該当することから。
* [[アポロ13号]]は[[月]]への途上にトラブルを起こしたが、奇跡的に[[地球]]に生還した。
* [[X-13 (航空機)|X-13]]は、アメリカの[[垂直離着陸機|垂直離着陸 (VTOL)]] 実験機。
* 第十三国立銀行は[[1877年]]に[[鴻池家]]が開業した[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]。後に[[鴻池銀行]]に転換、さらに他銀行との合併により[[三和銀行]]→現・[[三菱UFJ銀行]]となっている。
* [[東京港#東京港整備計画|東京港埋立第13号地]](13号埋立地) ‐ [[東京港]]港湾計画による[[埋立地]]の一つで、[[東京臨海副都心]]の一部。[[お台場]]とも呼ばれる。
* 音楽
** [[交響曲第13番]]
** [[ピアノソナタ第13番]]
** [[弦楽四重奏曲第13番]]
* [[憲法]]、[[法律]]の13条
** [[アメリカ合衆国憲法修正第13条]]は同憲法の修正条項で、[[奴隷制]]を廃止しまたこれを継続すること、さらに「[[犯罪]]を犯した者」を制限のある例外付きとして自発的ではない隷属を禁じている。
** [[日本国憲法第13条]]は同憲法第3章の条文の1つで、[[個人の尊重]](尊厳)、[[幸福追求権]]及び[[公共の福祉]]について規定。
** 日本の[[:wikibooks:ja:刑法第13条|刑法第13条]]は、[[禁錮]]について規定している。
** 日本の[[:wikibooks:ja:民法第13条|民法第13条]]は、[[保佐人]]の権限の範囲(同意を有する行為)等について規定している。
* [[東京メトロ副都心線]] - 計画当初、[[帝都高速度交通営団|営団]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])13号線。
* [[軍隊]]関連の第13<!--あくまでも番号が割り振られた名称であり、必ずしも13番目(これより前に第1〜12が全てある)とは限らない-->
** 各国の[[第13軍]]
** 各国の[[第13師団]]
** 各国の[[第13旅団]]
** [[大日本帝国陸軍]][[第13方面軍 (日本軍)|第13方面軍]]
** 第13連隊
*** 大日本帝国陸軍[[歩兵第13連隊]]
*** [[陸上自衛隊]]
**** [[第13普通科連隊]]
**** [[第13特科隊]]
**** [[第13後方支援隊]]
*** [[フランス陸軍]][[第13工兵連隊 (フランス軍)|第13工兵連隊]]
* [[戦艦]]・[[潜水艦]]・[[戦闘機]]の第13号
** [[十三号型巡洋戦艦]]は、起工前に全隻建造中止となった[[大日本帝国海軍]]の[[巡洋戦艦]]。
** [[伊号第十三潜水艦]]は、[[大日本帝国海軍]]の[[潜水艦]]。
=== 宗教・風習・文化 ===
* [[忌み数]]: [[西洋]]では 13 が忌み数とされている(『'''''[[13 (忌み数)]]''''' 』を参照)。なお、[[キリスト教]]圏でも忌み数としない地域が存在する。
** 上記のことに関連して、日本で使用される[[駐留軍等労働者|駐留軍]]の車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]には、下2桁13の番号は払い出されない(希望番号を除く)。[[野球]]の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]では、背番号13は[[アレックス・ロドリゲス]]を初めとして中南米出身の選手を中心によく用いられている。
** 作品のタイトルや作中において、不吉さやダークさ、トリッキーさを象徴する数字として使用されることが多い。また、[[北欧神話]]やキリスト教の俗説などから「(13人目の)招かれざる客」という意味合いもある。
** 日本における忌み数[[4]]と[[9]]を足すと13になる。上述した十三塚や十三重塔における「13」という数は[[死者]]を象徴しているとする説<ref>吉野裕子『陰陽五行と日本の歴史』(大和書房)</ref> がある一方、これらの存在を以て吉数とする見方もある。
** [[中華人民共和国|中国]]の[[広東語]]圏では一般的に13は吉数である。これは十三の{{lang|zh|[[:wikt:諧音|諧音]]}}が「{{lang|zh|[[実生|實生]]}}」(実るという意)のためである。
** [[ヨーロッパ]]の国の中でも、[[イタリア]]では13はラッキーナンバーとなっている。
** アメリカ合衆国においても建国時の[[州]]数が13([[独立十三州]])であるため、かつては吉数とされていた。同国では[[アメリカ合衆国の国旗|国旗]]の[[縞模様|縞]]の数の他、[[アメリカ合衆国ドル|1ドル紙幣]]の裏面や[[アメリカ合衆国の国章|国章]]にも13の数に因んだものが多く見受けられる。
* [[ユネスコ]]の[[世界文化遺産]]に登録された、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が描いた絵画『[[最後の晩餐]]』には13人が描かれている。
* [[マヤ文明]]の代表的な[[長期暦]]は13[[バクトゥン]]を一つのサイクルとしている。また、より小さい暦では[[ツォルキン]]暦における係数を13までとするなど、マヤにとって13は特別な数の一つである。
* [[ユダヤ教]]において13は聖数とされる。
* [[十三仏]](十三佛)は、日本で考えられた冥界の審理に関わる13の[[仏陀|仏]]。
** これに関連した霊場・[[巡礼]]行として[[伊予十三仏霊場]]、[[おおさか十三仏霊場]]、[[大和十三仏霊場]]、[[京都十三仏霊場]]などがある<ref>[http://www.narutokanko.co.jp/shikoku88/reijyo2.htm 十三仏霊場](鳴門観光興業)</ref>。
* [[十三塚]]は、日本各地にある[[民間信仰]]による[[土木]]構造物。
** 大阪 - 奈良の[[十三峠]]および[[俊徳街道・十三街道]]の名称はこれに由来する。
* 十三重塔
** [[談山神社]](旧・多武峯妙楽寺)にある[[多重塔]]で、国の[[重要文化財]]に指定されている。現在の塔は[[1532年]]([[享禄]]5年)の再建だが、世界で唯一現存する木造十三重塔である<ref>[http://www.tanzan.or.jp/houmotsu/bunkazai.html 十三重塔] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121031045600/http://tanzan.or.jp/houmotsu/bunkazai.html |date=2012年10月31日 }}(談山神社公式サイト)</ref>。
** この他、石造の十三重塔は浮島十三重塔など複数現存しており、このうち国の重要文化財に指定されているのは18塔である<ref>[http://www.h5.dion.ne.jp/~sk924/arekore/13toiu_suu/13jyuunotou_new.html 十三重塔いろいろ]{{リンク切れ|date=2015年6月}}(徒然なるままに)</ref>。
* [[諏訪大社]]上社の[[文献|古文献]]の中で、[[神社]](神名)を十三所にまとめた記述がある。後に中・下の各々十三所が追加され全部で三十九所となるが、本来の最初の十三所を「上の十三所」という。なお、十三は1年の12ヶ月に[[閏月]]を足した数とされる<ref>[http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/39.htm 諏訪大社上社:十三所(上十三所・中十三所・下十三所)](諏訪大社と諏訪神社 from八ヶ岳原人版)</ref>。
* 十三箇所巡礼
** [[相模国の式内社一覧|相模国十三社]](巡り)は旧[[相模国]][[延喜式内社]]の13社、およびその巡礼行。なお、式内社の数が13の旧[[令制国]]としては他に[[淡路国]]がある。
** 信濃国十三社巡りは、旧[[信濃国]]の13の神社における巡礼行<ref>[http://www.genbu.net/engi/sinano13.htm 信濃國十三社巡り](玄松子の記憶)</ref>。
* [[神社]]の名称
** [[十三神社]]は、[[和歌山県]][[海草郡]][[紀美野町]]に鎮座する神社<ref>[http://www.7kamado.net/13jinjya.html 十三神社](神社ふり〜く)</ref><ref>[http://kamnavi.jp/ny/juusan.htm 十三神社・神野宮](神奈備)</ref>。当社および[[摂社]]二社の[[本殿]](計三社殿)が国の[[重要文化財]]に指定されている。
** [[十三騎神社]]は、[[秋田県]][[南秋田郡]][[五城目町]]に鎮座する神社。
** [[十三社神社]]は、[[東京都]][[新島村]]本村([[新島]])に鎮座する[[伊豆諸島]]最大規模の神社<ref>[http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/27_thosho/27001.html 十三社神社](東京都[[神社庁]])</ref>。
** [[十三所社 (山梨県)|十三所社]]は、[[山梨県]][[南アルプス市]]上今諏訪に鎮座する神社。[[諏訪大社]]上社の摂末社、上・中・下の十三所社に由来する(上社を模して勧請した)ものと考えられる<ref>[http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/5068 十三所社](山梨県神社庁)</ref>。
** 十三戎神社(とみえびすじんじゃ)は、[[大阪市]][[淀川区]]十三東に鎮座する[[神津神社]]の境内社(摂社)<!--下記、地名の節にも詳しく記載-->。
* 中尾山 十三寺(なかおさん じゅうそうじ)は、[[富山県]][[下新川郡]][[入善町]]舟見にある[[高野山真言宗]]の[[寺院]]([[北陸三十三ヵ所観音霊場]]の第三十二番)<ref>[http://www.hokurikukannonreijyoukai.jp/reisho/32.html 北陸三十三ヵ所観音霊場巡り:第三十二番 中尾山 十三寺]</ref>。
* [[年忌#年忌法要一覧|十三回忌]]は、没後、12年目の祥月命日。
* 結婚13周年記念日は、[[結婚記念日|レース婚式]]。
* [[9月13日 (旧暦)|旧暦9月13日]]の[[月見]]を'''十三夜'''、この夜の月を'''豆名月'''または'''栗名月'''という。
* [[サツマイモ]]の売り言葉として、「[[クリ|栗]]より美味い十三[[里 (尺貫法)|里]]」がある。「栗」は九里、「より」が四里にかかっており、足すと十三里になる。由来などの詳細は「''[[サツマイモ#文化]]''」を参照。
* [[櫛|くし]]屋の名称として[[東京]]や[[京都]]に「十三や」がある。くしの[[語呂合わせ]]である数字の九四は「苦死」に通じて[[縁起]]がよくないため、足して十三としている<ref>[https://web.archive.org/web/20090704115007/http://www.geocities.jp/kinomemocho/kiasobi_juusanya.html 櫛の十三や 東京と京都 どっちが本家?](木のメモ帳:木あそび)</ref>。
* [[京都]]周辺など[[関西]]を中心とした一部地域では、子供が[[数え年]]で13歳になると「[[十三詣り]]」という祝い事をする。
* [[沖縄県]]では、子供が数え年で13歳になると家族や周囲が「十三祝い」という祝い事をする。生年祝い(トゥシビー)の一つ。
=== 13 に関する名称 ===
==== 地名 ====
* [[十三湖]](じゅうさんこ)は、[[青森県]]にある[[湖]]。
** [[十三湊]]は、[[中世]]から[[近世]]にかけて十三湖周辺にあった[[港|湊]]。湖の西岸に残されている[[十三湊遺跡]]に当たる<ref>[http://www.city.goshogawara.lg.jp/21_kyoiku/syakyo/bunkazai/siura/tosaminato.html 十三湊遺跡](五所川原市ホームページ)</ref>。
** [[道の駅十三湖高原]]は、[[国道339号]]における青森県[[五所川原市]]の[[道の駅]]。
** [[十三村]]は、青森県にかつてあった村([[1955年]]の合併により廃止)。
** [[十三 (五所川原市)|十三]]は、青森県五所川原市の[[大字]]。
* [[十三 (大阪市)|十三]](じゅうそう)は、[[大阪市]]北部の[[淀川区]]にある地名。→[[阪急電鉄]][[十三駅]]
*: 主に十三駅の西側、十三本町一丁目を中心とした[[繁華街]]を指す。十三東など周辺の[[住宅地]]を含む場合もある。
** [[十三信用金庫]]は、十三本町に本店を置いていた[[信用金庫]]。現在の[[北おおさか信用金庫]]。
** 十三戎神社(とみえびすじんじゃ)は十三東に鎮座する[[神津神社]]の境内社([[摂社]])で、[[今宮戎神社]]より[[勧請]]されたもの。毎年1月には「十三戎祭」が催されている。
** 道路の名称として[[十三筋]]、十三バイパス、橋の名称として[[十三大橋]]、[[新十三大橋]]などがある。鉄道関係では[[十三線]]も参照。
* [[十三日町]]は、青森県[[八戸市]]にある地名。
* [[十三塚原]]は、[[鹿児島県]]に広がる台地。
* [[十三浜村]]は、[[宮城県]]にかつてあった村(1955年の合併により廃止)、現在の[[石巻市]]北上町十三浜。
* [[十三峠]]は、[[大阪府]][[八尾市]]と[[奈良県]][[生駒郡]][[平群町]]の境にある[[峠]]。上述の通り、峠付近に現存する[[生駒十三峠の十三塚|十三塚]]に由来する。
* [[十三本木峠]]は、[[岩手県]][[二戸郡]][[一戸町]]南部の峠。
==== 作品 ====
; タイトル
* 『[[サーティーン あの頃欲しかった愛のこと]]』は、原題が“Thirteen”のアメリカ[[映画]]。
* 『[[13日の金曜日シリーズ|13日の金曜日]]』は、アメリカの[[ホラー映画]]。
* 『[[十三人の刺客]]』は、[[1963年]]と[[2010年]]に公開された[[時代劇]][[日本映画]]。
* 『レベル・サーティーン』(LEVEL THIRTEEN)は、[[2006年]]に公開された[[タイ王国|タイ]]のホラー[[タイ映画|映画]]。
* 『[[サーティーン・ボーイ|サーティーン・ボーイ 僕は札束中学生]]』は、[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送された[[テレビドラマ]]。
* 『[[サーティーン/13 誘拐事件ファイル]]』(Thirteen) は、イギリス[[英国放送協会|BBC]]のテレビドラマ。
** 『 [[13 (テレビドラマ)|13(サーティーン)]]』は、[[フジテレビ]]系列で放送されたテレビドラマ。上記の日本版リメイク作品。
* 『[[サーティーン (ティーンエイジ・ファンクラブのアルバム)|サーティーン]]』は、イギリスのロックバンド、[[ティーンエイジ・ファンクラブ]]の[[1993年]]の[[アルバム]]。
* 『[[13 (ブラーのアルバム)|13]]』は、イギリスのロックバンド、[[ブラー]]の[[1999年]]のアルバム。
* 『[[13 (ブライアン・セッツァーのアルバム)|13]]』は、アメリカのミュージシャン、[[ブライアン・セッツァー]]の[[2006年]]のアルバム。
* 『This is Thirteen』は、[[カナダ]]の[[ヘヴィメタル]]バンド、[[アンヴィル]]の[[2007年]]のアルバム。
* 『[[13 (SADSのアルバム)|13(サーティーン)]]』は、日本のロックバンド、[[SADS]]のアルバム。
* 『[[サーティーン (メガデスのアルバム)|サーティーン]]』は、アメリカのヘヴィメタルバンド、[[メガデス (バンド)|メガデス]]の[[2011年]]のアルバム。
* 『[[13 (ブラック・サバスのアルバム)|13]]』は、イングランドのヘヴィメタルバンド、[[ブラック・サバス]]の[[2013年]]のアルバム。
* 『[[ゴルゴ13]]』は、[[さいとう・たかを]]の[[劇画]]およびその主人公。
* 『[[XIII|XIII サーティーン〜大統領を殺した男〜]]』は日本のゲームソフト。
* 『[[十三支演義 〜偃月三国伝〜]]』は日本のゲームソフト。「[[三国志]]」をテーマにした恋愛アドベンチャーゲーム。
* 『[[13階段]]』は[[高野和明]]の長編[[推理小説|ミステリー小説]]、およびこれを題材にした映画作品。
* 『[[十三番目のアリス]]』は[[伏見つかさ]]著(イラスト:[[シコルスキー (イラストレーター)|シコルスキー]])の[[ライトノベル]]作品。
* 『[[パラドックス13]]』は[[東野圭吾]]の[[サイエンス・フィクション|SF]][[サバイバル]][[小説]]。
* 『十三の呪』は[[三津田信三]]の[[ホラー小説]]。
* 『十三回忌』は[[小島正樹]]の[[推理小説]]。
* 『[[13歳のハローワーク]]』は[[村上龍]]の書籍。また、これを題材にしたゲームやドラマ作品がある。
; 作品内に登場
* 「[[十三妹]]」は、中国・[[清]]代末期に書かれた[[武侠小説]]『児女英雄伝』の登場人物、およびこの人物を題材とした作品。
* 「[[第13独立部隊]]」は、アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』に登場する架空の部隊。
* 「13th Racing」は、レースゲーム『[[リッジレーサーシリーズ]]』に登場する架空のレーシングカー。
* 「十三鬼将(THIRTEEN DEVILS)」は、レースゲーム『[[首都高バトルシリーズ]]』に登場する架空の走り屋チーム。
* 十三騎士団
** 「聖槍十三騎士団」はアダルトゲーム『[[Dies irae -Also sprach Zarathustra-]]』に登場する架空の敵組織(軍団)。
** 「ローマ正教十三騎士団」は[[鎌池和馬]]のライトノベル『[[とある魔術の禁書目録]]』及び、これを原作としたアニメ・漫画作品に登場する架空の宗教組織「[[ローマ正教]]」内の[[騎士団]]。
==== 人名 ====
日本の[[人名]]に、[[十三]](「じゅうぞう」など)もしくは一三(「かずみ」「いちぞう」など)がある。
* [[伊丹十三]](いたみ・じゅうぞう)は『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』(1985) や『[[マルサの女]]』(1987) の[[映画監督]]。
* [[田中十三]](たなか・じゅうぞう)は[[撮影技師]]、「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)を設立した。
* [[高橋一三]](たかはし・かずみ)は、元[[プロ野球選手]]。アニメ『[[巨人の星]]』において、主人公[[星飛雄馬]]の巨人入団以降におけるピッチングフォームのモデルにもなった。
* [[小林一三]](こばやし・いちぞう)は[[阪急電鉄]]をはじめとする[[阪急東宝グループ]](現・[[阪急阪神東宝グループ]])の創業者として知られる[[実業家]]。
* [[一三]](いちぞう)は日本の俳優・タレント、以前は本名の屋宮一三で活動していた。
* [[ペンネーム]]として[[所十三]](ところ・じゅうぞう)、[[やまさき十三]](じゅうぞう、本名に由来)、[[海野十三]](うんの・じゅうざ、または じゅうぞう)などがある。
<!--{{seealso|十三}}-->
==== 鉄道関連 ====
* [[十三里信号場]](旧・十三里駅)は、[[北海道]][[夕張市]]紅葉山にある信号場。
* [[十三号街駅]]は、中国[[遼寧省]][[瀋陽市]][[鉄西区 (瀋陽市)|鉄西区]]の駅。
==== その他 ====
* 13トリソミーは、[[13番染色体]]における[[染色体異常]]の一種。
* [[横浜ブルク13]]は、[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[桜木町駅]]近くにある[[ヒューリックみなとみらい]]の[[映画館]]([[ティ・ジョイ]]運営)。開業時点で13[[スクリーン]]を持つ。
* 株式会社十三は損害保険事業、不動産開発・管理事業、カーリース事業を行う会社。[[1980年]]、[[日産火災海上保険]]の専属代理店として創業。
* 十三の窓があり「十三窓席」と俗称される[[小堀政一|小堀遠州]]作の茶室「[[擁翠亭]]」が、[[京都市]]にある。
* 「[[Afro13]]」は、[[佐々木智広]]が結成した[[劇団]]。
* [[明の十三陵]]は、中国・[[明]]代の[[皇帝]]、[[后妃]]の陵墓群。
* [[広東十三行]]は、中国・清代の[[広州]]において外国貿易を独占した商人団。
* [[十三勢]]は、[[中国武術]]の一つである[[太極拳]]の基本武功。
* [[十三年戦争]]は、[[1454年]]からの13年間に[[プロイセン同盟]]と[[ドイツ騎士団国]]の間で行われた戦争。
* [[十三翼の戦い]]は、[[モンゴル帝国]]の祖[[チンギス・ハーン]]と[[ジャムカ]]の戦い。
* 13年ゼミは、アメリカ合衆国東部に生息する[[周期ゼミ]]。13年周期で発生し4種存在する。
* 各種の[[C13]]<!--ローマ字と13の組み合わせによる名称が増えたら「ローマ字と13の組み合わせ」節分離検討-->
== 十三個一組で数えるもの ==
* '''十三星座''':[[黄道十二星座|十二星座]]に[[へびつかい座|蛇使い座]]を加えた[[星座]]。また、[[占星術]]において「[[13星座占い|十三星座占い]]」が使用されることもある。
* '''[[十三経]]''':[[易]]・[[書経|書]]・[[詩]]・[[周礼]]・[[儀礼]]・[[礼記]]・[[春秋左氏伝]]・[[春秋公羊伝]]・[[春秋穀梁伝]]・[[論語]]・[[孝経]]・[[爾雅]]・[[孟子 (書物)|孟子]]
* 日本の[[自動車]]十三大メーカー:[[トヨタ自動車|トヨタ]]・[[日産自動車|日産]]・[[本田技研工業|ホンダ]]・[[三菱自動車工業|三菱]]・[[マツダ]]・[[富士重工業|スバル]]・[[スズキ (企業)|スズキ]]・[[ダイハツ工業|ダイハツ]]・[[光岡自動車|光岡]]・[[日野自動車|日野]]・[[いすゞ自動車|いすゞ]]・[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]・[[UDトラックス]]
; 行政区画・植民地
* [[13植民地]]→'''独立十三州''':[[アメリカ合衆国]]の独立時の州。それに因んで、[[アメリカ合衆国の国旗]]の縞は13本となっている。
* [[十三道制]]:[[李氏朝鮮]]の地方[[行政区画]]。13道による構成はその後の[[大韓帝国]]、[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]にも引き継がれた。
; 宗派・教派
* [[中国十三宗]]:中国で栄えた[[仏教]]における13[[宗派]]の総称。
* [[十三宗五十六派]]:[[宗教団体法]]施行([[1940年]])以前で、日本における仏教の成立に大きく関わる大本の宗派。
* [[教派神道#神道十三派|神道十三派]]:[[明治時代]]から[[1945年]]の宗教団体法廃止までにおける日本政府公認の[[教派神道|神道教派]]13派。
; 13人によるもの
* [[アッシリア十三士]]:[[キリスト教]]信仰強化のため[[6世紀]]に[[メソポタミア]]から[[グルジア]]に派遣された13人の[[修道士]]。
* [[十三人の合議制]]:[[鎌倉時代]]初期における有力[[御家人]]十三人による[[合議制]]。
* [[吉田13人衆]]:[[内閣総理大臣]]・[[吉田茂]]の主力側近グループ13人を指す。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
-->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 符号位置 ==
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|}
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|13}}
{{Wiktionarypar|十三}}
* [[数に関する記事の一覧]]
** [[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]]
** [[10]] [[11]] [[12]] '''13''' [[14]] [[15]] [[16]] [[17]] [[18]] [[19]]
** '''13''' [[26]] [[39]] [[52]] [[65]] [[78]] [[91]] [[104]] [[117]] [[130]]
* [[西暦]][[13年]] [[紀元前13年]] [[1913年]] [[2013年]] [[13世紀]] - [[平成13年]] [[昭和13年]] [[大正13年]] [[明治13年]] - [[1月3日]]
* [[13月]]([[13の月の暦]]、[[Undecimber]])
* [[名数一覧]]
{{自然数}}
{{Normdaten}}
|
2003-08-27T08:42:02Z
|
2023-11-15T05:54:44Z
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トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜
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『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(トリビアのいずみ すばらしきムダちしき)は、フジテレビ系列で2002年10月8日から2006年9月27日までレギュラー放送された後、2007年から2012年まで不定期放送の特別番組として放送されていた、雑学バラエティ番組である。字幕放送、音声多重放送(副音声解説)、2010年の特番の放送からハイビジョン制作が実施されていた。
通称は『トリビア』『トリビアの泉』。
当番組は「生きていく上で何の役にも立たない無駄な知識、しかし、つい人に教えたくなってしまうようなトリビア(雑学・知識)」を視聴者からの一般公募により、トリビアプレゼンター(司会)を務める高橋克実と八嶋智人がVTRにて紹介し、品評会会長のタモリを筆頭にゲスト品評会員らが品評していく。英語にある「trivia(「トリビア」)」とは、日本語で「雑学・些末な」という意味である。
評価・品評するメインコーナー「トリビアの泉」をはじめ、実用性はないが「明日人に教えたくなる」ような話題の提供をコンセプトに放送する。番組タイトル名は“トリビア”と“トレビの泉”のかばん語である。
当番組の制作・企画・構成に関しては、番組スタッフが飲み会中、ある番組スタッフの薀蓄話に別のスタッフが「へぇ」と答えたことに始まっている。また、当番組スーパーバイザーとして、番組のヒントになった『トンデモ一行知識の世界』 と『トンデモ一行知識の逆襲』の著者である唐沢俊一が監修し、当番組に参加している。
2002年10月7日から毎週火曜日 1:40 - 2:10(月曜深夜)に深夜番組(月深枠)としてレギュラー放送が開始され、2003年3月17日まで深夜枠で放送。視聴率5%超えという1時台の深夜番組としては高視聴率を獲得した。 2003年1月4日(土曜日)15:15 - 16:15には、番組初となる1時間の拡大版の特別番組が放送された。なお、当時はレギュラー放送が深夜だったが、異例の昼の時間帯で放送された。
番組の人気や高視聴率に伴い、ゴールデンタイム・プライムタイム枠に昇格し、品評会会長としてレギュラーにタモリを加えて、2003年7月2日から毎週水曜日 21:00 - 21:54にレギュラー放送された。3ヶ月間ブランクがあったのは、遅れネット局に配慮したためである。ゴールデンタイム・プライムタイム枠での番組は、毎回25%を超える高視聴率を連発したり、番組内で使用される用語「へぇ」も当時の流行語大賞にノミネートされ、トップテンに選出されるなどの社会現象を巻き起こした。このように、フジテレビ制作のバラエティ番組としては、平成中期の最大のヒットとなった。
2004年1月1日(木曜日)21:15 - 22:45と、2005年1月1日(土曜日)21:15 - 22:30に、2年連続で元日に拡大版の特別番組が放送された。
2006年1月11日 19:00 - 22:48には、『トリビアの泉 〜最強の国民ランキングSP!〜』と題して、当番組過去最長の放送時間の228分(3時間48分)の拡大版の特別番組を放送。放送111回を記念とした4時間スペシャルを放送。また、これまで放送される事がなかった19時台・20時台に初めて放送された。なお、この日の放送では、「トリビアの泉」「トリビアの種」共に、新作は一切取り上げず、過去のトリビアの総集編が行われた。「トリビアの泉」は、番組ホームページで予め募集をかけた視聴者による国民投票で選ばれた傑作トリビアBEST20がカウントダウン形式で発表された。また、過去のトリビアでも再放送ではなく再度品評されたものが収録された。「トリビアの種」は、もう一度見たいトリビアの種としてこちらも番組ホームページで予め募集をかけた視聴者による国民投票で選ばれたトリビアの種7本傑作選が放送された。
番組改編期となる2006年9月27日 21:00 - 23:18に『トリビアの泉 〜君の心に“へぇ”はあるかSP〜』と題して、レギュラー放送最終回が放送された。これを以て、水曜21時枠のレギュラー放送を終了し、深夜時代を含めた約4年間のレギュラー放送に終止符を打った。発表されたトリビアはこの時点で、深夜時代を含めて999個だった。
レギュラー放送が終了して約4ヶ月が経った2007年1月27日(土曜日)21:00 - 22:54(『土曜プレミアム』枠)に、『トリビアの泉 復活SP 踊る大へぇへぇ祭り』と題して、レギュラー放送終了後初めての復活特別番組が放送された。当初は同枠で約2ヶ月に1回の頻度での放送が予定されており、2回目は同年3月10日に放送が予定されていた。しかし、ナレーターを担当していた中江真司の体調不良をはじめとした諸事情により3月の放送は中止となり、その約2ヶ月後の2007年5月12日(土曜日)21:00 - 23:10(『土曜プレミアム』枠)に、『トリビアの泉 〜無駄無駄無駄無駄ァ! ムダ知識大放出SP〜』と題して、2回目の特番を放送。実際には不定期となった。その後、中江は2007年6月に死去し、2007年11月28日放送分のスペシャル以降は窪田等が担当した。また、約半年後の2007年11月28日(水曜日)21:00 - 22:48に、『トリビアの泉 世界で一番“へぇ”が好きSP』と題して、3回目の特番を放送。また、同日は『土曜プレミアム』枠でなく、ゴールデン時代のレギュラー枠と同じ水曜21時枠での放送だった。
この3回目の放送から約1年8ヶ月後の2009年7月18日に映画『アマルフィ 女神の報酬』の公開を記念して、特別編のスピンオフ番組が放送された。内容は映画撮影秘話が中心で、倉庫の片隅のような場所で番組レギュラーのビビる大木一人だけで品評を行った。この回は、品評会会長のタモリは出演していない。
2010年2月27日(土曜日)21:00 - 23:10(『土曜プレミアム』枠)に、約2年3ヶ月ぶりの復活として『トリビアの泉 へぇへぇの種で大満開 久しぶりにやったらギネスまでとっちゃったよSP』と題して、特別番組が放送された。番組冒頭では特別企画(八嶋曰く「2年3か月ぶりの放送なので、当番組を知らない小さな子供達のために作った」)。としてテレビアニメ『ONE PIECE』とのコラボレーション企画が行われ、『ONE PIECE』の第1期オープニングテーマ「ウィーアー!」(歌 - きただにひろし、第1話 - 第47話)の映像の登場キャラクターを品評会会長のタモリ・トリビアプレゼンター(司会)の高橋克実、八嶋智人の3名に置き換えて新たに制作されたものが流された。この映像では麦わらの一味 が登場したほか、『ONE PIECE』のオリジナル声優である田中真弓(モンキー・D・ルフィ役)、大塚周夫(ゴールド・ロジャー役)、大場真人(ナレーター)がアフレコに参加した。また、オープニングでは「フジテレビ開局51周年に放送する番組」とテロップが表示されていた。視聴率はスペシャル番組としては最高となる20.1%を記録した。
2012年で深夜時代から数えて番組生誕10周年を迎えた。これを記念して、2011年12月21日(水曜日)21:00 - 23:13には、深夜時代と全国ネット(ゴールデン時代)も含めた総集編の『トリビアの泉 10周年「へぇ」祭りはベストオブベストで! 承知しましたSP』が放送され、2012年1月1日(日曜日)21:00 - 23:30には、オール新作放送の『トリビアの泉 祝10周年! あけましてムダ知識SP』が放送された。この回を最後に、放送は行われていない。
2017年12月16日・2018年6月30日に同局で放送された『ギリギリ昔話』では「今じゃもう出来ない!? 攻めすぎなゴールデン番組」として、当番組で紹介された「トリビアの泉」や検証された「トリビアの種」で過激・過酷なトリビアが取り上げられた。
2017年・2020年にgooで行われた「復活してほしいバラエティ番組ランキング」においては共に2位を記録するなど、番組の放送が終了して以降も根強い人気を誇っている。
番組開始当初より2004年までは番組冒頭にSF作家のアイザック・アシモフの発言とされる「この地球でトリビアを増やすことに喜びを感ずるのは人間のみである」や「人間は無用な知識が増えることで快感を感じることができる唯一の動物である」を引用し、番組コンセプトと結びつけた。
2005年1月以降レギュラー放送終了まではこれに代わり、同様の目的で哲学者アリストテレスの『形而上学』第一巻冒頭の文「全ての人間は生まれながらにして知ることを欲する」(980a) を引用した。
ゴールデン枠でのレギュラー放送終了後、不定期のスペシャルでも継続して放送されているのは、「トリビアの泉」、「トリビアの種」、「おさらいトリビア」の3つのコーナーのみである。
当番組のメインコーナー。番組の視聴者から投稿された「知っていても人生の役に立たない、でも知っていたら楽しい」「明日人に教えたくなるような雑学・知識=情報を元に「トリビア」となりうる雑学を紹介し「確認VTR」を使って、「トリビアプレゼンター」(司会)の高橋克実、八嶋智人がユーモアを交えつつ紹介するコーナー。タモリを筆頭とする「トリビア品評会」の面々が品評していく。
スタジオでは「トリビア」を紹介する2人の司会者「トリビアプレゼンター」と「トリビア」を評価する「品評会会長」を始めとする5人のパネラー「トリビア品評会」が登場し、番組を盛り上げる。司会者は「補足トリビア」と称して「トリビア」に解説を加え、パネラーは「へぇボタン」を使って評価(番組内では「品評」と称す)する。
構成としては、まず投稿者名と「トリビア」の概要のみが導入のVTRで紹介され、パネラーはそこで1回「品評」を行う。その後、「トリビア」の具体的な内容が「確認VTR」で紹介され、スタジオではパネラーが再び「品評」、「補足トリビア」へと移る。
「トリビア」の投稿は郵送および番組ホームページで行われる。また、同内容の場合の採用には先着順であったが、視聴率上昇に伴い投稿数が増え先着の判断が困難となってからは抽選となった。時折「あの人からのトリビア」と称し、有名人、芸能人、著名人から投稿者に因んだ「トリビア」が送られることがある。「トリビア」の中には「っぽく見える」、「っぽく聴こえる」などシリーズ化したものがある。
1回分の放送では、深夜時代は6〜7本紹介されて、ゴールデン時代は当初は7〜8本、「ガセビアの沼」のコーナーが始まった2005年からは4〜6本紹介されていた。
第1回の放送から視聴者からの投稿で成り立っているスタイルだが、初期にはスーパーバイザーの唐沢俊一の書籍から採用したものを他人の投稿者名を紹介して取り上げていたとの指摘があり、唐沢も自身が運営する掲示板の内容の使用を許可したと明かしている。
VTRの基本構成は「〇〇はこう語る(他に「〇〇に聞いてみた」)」というナレーションの後に、詳細を知る人物(大学教授など専門家や当事者、関係者、被伝者本人)へのインタビューから始まり、そこから証拠となる書物などの引用、記録映像や実験映像の放映、専門家の証言や書物の内容を基にしたイラストなどを用いて紹介するというもの。インタビューでは「はい、確かに...(英語ではYes, that's right...)」で始まることが多い。また、解説が長いと本人が話している最中に「要するに」というナレーションとテロップと共にフェードアウトされ、改めて簡潔な回答をすることがある。稀に、取材に伺った専門家もその事実を知らず、後日改めてインタビューし直す場合もあった。これにユーモアを交え、時には本題とあまり関係のない事柄やパロディもネタとして取り入れる。
VTRには、特に実験を必要をする場合などスタッフが出演することが多い(原則、白衣を着用)。また、番組がゴールデンタイムに移行した後は「トリビア」内容とは直接関係のない人物を起用することもあり、大物タレントを出演させたりプロ漫画家の描いたイラストを使用するなどして「トリビア」を紹介する無駄な豪華さも見どころとする。
一見不可能に見えることも再現したり、実験したりしてみせるのが特徴。以下はその例である。
洋画の一瞬の映像を使う際にスロー再生や一時停止が許可されなかったため、「大人の事情により映像を一時停止することが出来ないのでお手数ですが目を凝らしてご覧ください」とし画面上のどの辺りかを説明して繰り返し再生したり、「ゴールデンタイム番組にふさわしくない映像(例:放送許諾の得られなかった他局の映像や、暴力的な内容など)」を使う際にモザイクをかけたりといったVTRも放送した。
「トリビア」の内容によっては稀に確認VTRが無いこともある(単なる言葉遊びなど)。
確認VTRに入る前、1回目の品評時にパネラーがVTRの核心に触れる事柄を発言することは禁止されている。
確認VTRに含まれない補足情報や関連事項などを八嶋が説明する。確認VTRに大物タレントやプロ漫画家などを起用した際にはその人物も紹介し、時には宣伝も行う。
最後に高橋がその「トリビア」から思いついた一言を言い、「トリビア」紹介を締める(自身の頭髪や過去にまつわる自虐的な内容や下ネタが多いが、時には八嶋を皮肉る)。この一言は番組内容を収録した『トリビアの泉 へぇの本』で「高橋語録」と称している(ただし、実際に番組内で高橋がトリビアの最後に言った言葉と『へぇの本』の「高橋語録」での一言とが必ずしも一致するとは限らない)。稀にパネラーとのトークや「補足トリビア」で締めて高橋の一言が無い事もあった。本題よりもこの「補足トリビア」で得点が入ることは多々ある。
紹介された「トリビア」に対し、「品評会会長」のタモリを含む5人のパネリストからなる「トリビア品評会」が「トリビア」の驚き、意外性、また「確認VTR」の面白さなどを感銘度とし「へぇボタン」と称する丸形の青いボタン を押して評価する。このボタンを押すと「へぇ」という女性の声が流れる(この声の主は、初回の収録に参加していた女性カメラアシスタントである)。「へぇボタン」は設置された透明ケースから取り外すことができる。なお、品評会会長席の「へぇボタン」は、他のパネリスト席のものとは形状が異なる。
パネリストは感銘度を「へぇ」という単位に換算し、「へぇボタン」を1回押すごとに「1へぇ」ずつ得点をつけることができる。しかし、実際にはいつでも押すことができるため「トリビア」にほとんど関係の無いトークの場面で押される場合も多々ある。1人につき「20へぇ」が与えられ、その合計値で「トリビア」の優劣をつける。「20へぇ」の評価で「満へぇ」となり、5人全員が「満へぇ」、つまり合計「100へぇ」で満点となる。基本的には「確認VTR」を見ている最中に「へぇボタン」を押す事はできない。「満へぇ」になっても「へぇボタン」を押すことはできるが(「へぇ」の音声は無く色が発光するのみ)、21へぇ以上は得点として加算されない。
ゴールデンタイム移行後は初回のみ紹介された全てのトリビアに、2回目以降は合計「80へぇ」以上の評価が出た場合、品評会会長から「粗品」が授与される。「品評会会長」はタモリであり、ゴールデン移行後はその厳しい評価のため高得点が出にくい傾向にある。スペシャル版はパネリストが10人に増え(「満へぇ」は合計「200へぇ」になり、賞金は20万円である。)、「150へぇ」以上の評価で粗品がもらえる(『土曜プレミアム』の放送においては、「160へぇ」以上で粗品)。
品評会員ごとの「へぇ」の得点、および合計値はそれぞれスタジオの電光掲示板に表示される。品評員席の表示は通常は白、「満へぇ」になると赤になる。合計値の表示は深夜番組時代は白のみだったが、ゴールデン移行直後は値が増えるにつれて紫→青→水色→緑→黄色→オレンジ→赤(100へぇ)と変わっていく方式に。後に色の変化は不規則になる。「100へぇ」を達成すると電光掲示板の下にある噴水口から100円玉が100枚出るという仕掛けがある。2006年1月18日放送分より誰か1人でも「満へぇ」が出るとパネラー席後方のランプが不規則に点滅するようになった。
視聴者から「調べてみることでトリビアになりそうな日常の疑問」を公募し、「世間ではバカバカしくてやっていないような素朴な疑問」を調査・実験など実際やったらどうなるかを当番組スタッフが検証し、明らかにする。その検証VTRに対して意外性、内容の充実度、検証の労力などを感銘度とし、品評会会長のタモリが評価をする。番組がゴールデンタイムへ移行した2003年7月2日放送分から開始した。
感銘度は「一分咲き」から「九分咲き」および「満開」の10段階で表し、「満開」へ近づくほど感銘度が高いことを示す。2004年2月18日放送分までは「一分咲き」・「三分咲き」・「五分咲き」・「八分咲き」・「満開」の5段階評価だったが、タモリが八分咲きを連発したことで本人の意向により同年2月25日放送分からは「二分咲き」・「四分咲き」・「六分咲き」・「七分咲き」・「九分咲き」が加わり10段階に変更した。品評会会長のタモリが独断と偏見で「何分咲きの花になったか」を手元にあるレバーで評価し、レバーを引くとスタジオ後ろに控える多数のエキストラ がそれぞれ手に掲げたパネルを裏返し、「○分咲き」および「満開」の花が描かれたイラストを作る。「満開」が出た時はさらにパネルが裏返り、「やったね!」の文字が現れる。パネルの動きが遅かったり向きが間違っていたりすると、八嶋による指摘を受けることがある。大抵の評価は「八分咲き」以上だが、まれに「五分咲き」や「七分咲き」が出たこともあった。なお「『へぇ』の本」では、「10段階になってから満開が出にくくなった」と記述されている。
VTRの最後には、日の出の映像を背景にナレーションが必ず「こうしてこの世界にまた一つ新たなトリビアが生まれた」と言う。その後、調査結果を基に種から生まれたトリビアのタイトルを読み上げる。
当初は10分程度のコーナーだったが次第に15〜20分と放送時間が長くなり、ときには2本立て・3本立てで放送されることもあり、番組のメインであるトリビアの紹介よりも放送時間が長くなることがある。ゴールデン後期や単発特番の際の番組表の文章も、種の予告の分量が多いことがあった。
当コーナーが行われるのは番組後半が多いが、たまに、番組前半で行われることがある。また、2005年1月19日から「ガセビアの沼」が番組後半で行われるようになってからは、当コーナーは番組前半で行われている。稀に、番組の最初に行われることもある。
また種を読み上げて紹介する際、○○(検証により判明する、語句や数値などが入るホニャララ部分)を八嶋が「アーッ!」「アーイ!」「ンッ」などの意味のない言葉で叫び、スタッフの笑いが入るのが恒例だった。
そして、実験によっては万全の安全対策で行わなければならないものや実際に真似できてしまう危険な実験も少なくないため、八嶋がコーナーの最後に「皆さんは、絶対に真似しないで下さい」と注意をする事が多かった。その際にはタモリや高橋から「真似できない」「しようと思う人はいない」とツッこまれることが多い。
1回分の放送では、レギュラー時代は原則1本(稀に2本)紹介され、不定期時代は5〜7本紹介されていた。
「トリビアの種」はシリーズ化する傾向が多く見られ、ベン・ジョンソンやジェファーソン・ペレスが検証に参加する「スポーツシリーズ」、等身大ペッタン人形を高層タワーから落とし、タワーから離れる前までの距離を測る「ペッタン人形シリーズ」、日本刀がピストルなどと勝負をする「対決シリーズ」、カップラーメンや菓子、ご飯のおかずなどをプロの料理人やタレントに食してもらう「食べ物シリーズ」、雑種の犬が血統種(特別な訓練された犬)の犬と同じことができるかを検証する「雑種犬シリーズ」などがある。
「トリビアの泉」に投稿された情報のうち、全くの嘘やガセネタであったものを「ガセビア」として紹介する。誤解している人が多く相当数存在するいつの間にか当たり前となった知識・急に広まった都市伝説の類を主に取り扱い、間違いを正す。タモリ、高橋、八嶋のトークを交え、通常の「トリビアの泉」と同様のVTRを使ってガセネタであることを示し、目の前の沼にハガキを沈め、永久に封印する。「トリビアの泉」「トリビアの種」とは対照的なコーナーでもある。放送期間は2005年1月19日から、当番組(レギュラー放送)最終回の2006年9月27日まで。
元々は1月1日放送分『あけましてムダ知識スペシャル』から開始予定だったが、約2週間後の1月19日に延期される。当初は毎週放送されていたが、2006年に入ってからは休止されることがほとんどで、一時はコーナー自然消滅とも言われた(2006年8月9日放送分から復活)。
最初は通常の「トリビアの泉」と同様に投稿者名を公表していたが、第2回目以降は投稿者名部分にモザイクをかけ、下段に「ガセビア投稿者の気持ちを考慮し 氏名は伏せさせていただきます」と注釈を入れている(「へぇの本」掲載時は第1回の投稿者名も「三重県・××さん」と伏せられた)。
このコーナーでは、「トリビアの泉」「トリビアの種」とは対照的に、画面左上には紫字の明朝体で「明日使えないウソ知識に注意」とテロップが表記されている。
当コーナーは番組後半もしくは番組終盤で行われていた。
1回の放送で、1本紹介されていた。
番組の最後(エンディング/ 当番組のスタッフエンドロール部分)に、各放送回に紹介した「トリビア」の概要を得点の低いものから順に放送する。また、確認VTRに登場した声優やナレーターがナレーションを務め、「トリビア」の内容を読み上げるといった「お遊び」の要素も。ゴールデン移行当初から放送し、2004年以降は不定期での放送となる。
BGMは通常 フレッド・ジョリオの『Romance』だが、一時期DJ Gert & M. Woodsの『Once Upon A Time In The West (DJ Gert vs DJ Conka Opera Mix)』が使用されていたこともあるほか、『まんが水戸黄門』のオープニング曲『ザ・チャンバラ』、『子連れ狼』(3番のみ)、反町隆史の『POISON』など、紹介したトリビアにちなんだ曲に変更されることもある。2005年頃は『ニャホニャホタマクロー(かつて『みんなのうた』(NHK) で放送された『ラジャ・マハラジャー』の替え歌)』がほぼ毎週使われていた。
2006年7月5日と7月26日にはClassの『夏の日の1993』がBGMにフルコーラス使われたが、放送回のおさらいトリビアの後、長いのでスタッフロールの上に前回のおさらいトリビアも流れた。その際はClassの2人が砂浜で歌い、小窓でおさらいトリビアが流れた。
予告トリビア
おさらいトリビアの後、次週放送されるトリビアの中から選ばれた一つを途中まで読み上げる。その後すぐ、提供表示に移り、そのサイドテロップではそのトリビアに関係する一言が書かれている。
「トリビアの泉」に投稿された情報のうち、「へぇ」とすら言えない通常の「トリビアの泉」で扱うに至らないものをピックアップして紹介する。タイトルの「はぁ〜」はため息を表す。深夜番組時代に番組の最後にほぼ毎回行われていた。「一番むかつく「はぁ〜」は......」と言うトリビアも放送されたことがある。
主に投稿者の個人的なこと、検証が不可能なもの、バラエティ番組のネタとして適切でないものなど「こんなことをわざわざ送ってこなくっても......」と感じ取れるものを紹介した。
流れとして、タイトルコール後に高橋と八嶋が「はぁ〜」な投稿内容が書かれたハガキもしくはメールを見て「はぁ〜」とため息をつき、それをテーブルに置いて内容に文句を言いながらスタジオを去り、最後にその文面をカメラで映してどんな内容だったかが分かる。
2006年3月15日放送分より、メインのナレーションとは別に副音声付放送で並行して別の声優やタレントがナレーションを担当する『トリビアの影のナレーション(影ナレ)』が行われた。地上デジタル放送ではモノステレオ放送で実施されていた。
“影ナレ”はメインのナレーションをベースに、その担当者が過去に演じた有名なキャラクターなどを暗示させる演技や語尾などのアレンジを加える。完全に副音声のみではなく、そのキャラクターの関連BGMと共にシルエット(実在する人物についてはシルエットではない)を出す紹介コーナーが番組中に何度か挿入される。また、番組中に別の“影ナレ”と交代する場合があり、その際はキャラクター同士で何かしらのやり取りをする。
エンドロールには「影のナレーション:???」としかクレジットされず、キャラクター名や著作権者の明記や(C)のマークの表記はない。しかし、「トリビアの種」内では影ナレを担当した声優本人および実名が出たことがあった。
地上アナログ放送の音声多重放送やデジタルチューナーが二重音声に対応していないといった受信環境や、一部のネット局設備で副音声に対応していないといった送信側の事情がある場合、紹介コーナー以外聞くことができない。北海道文化放送では札幌地区以外は番組が放送終了するまでは音声多重放送を実施していなかった。また、テレビ山口では当初“影ナレ”に対応していなかったが、2006年4月放送分から対応した。特番時代からは不定期で音声多重放送に対応する形になった。
2005年11月16日、同局の報道番組『FNNレインボー発』をもじった「レインボ・一発」(れいんぼ・いっぱつ)を放送した。
過去の「トリビアの泉」で紹介されたトリビアのその後の展開を紹介するコーナー。
正式コーナータイトル名は「高橋克実のスペシャルコーナー Stardust Memory 〜言葉では伝えきれない映像〜」。
トリビアプレゼンター(司会)である高橋克実の持ち込み企画であり『土曜プレミアム』枠のスペシャル放送から登場。高橋が日常であまり見ることのない「言葉にできない」映像、また誰かに伝えたいけれども、上手く伝えられない「トリビア」を小田和正の「言葉にできない」に合わせて紹介(ことわざ「ヘビににらまれたカエル」を実際に行う、ガチャピンがアルバイトや地味な仕事をするなど)。コーナーの背景は銀河系をモチーフとしたCGをブルーバックで合成している。VTR後は高橋がブラックホールに吸い込まれ、タモリと八嶋は呆れながら去って行く。VTRのナレーションは通常ナレーションを行う中江ではなく、田中秀幸が担当している。
行われたのは2007年1月27日・5月12日のスペシャルのみ。
2007年11月28日の特別番組時に放送。
コーナー名の元ネタは唱歌「ちいさい秋みつけた」。少しなら、確実に「へぇ」と言える小さな雑学を紹介するコーナー。「トリビア」紹介は通常形式だが小さい「へぇ」であるので、品評は品評会会長のタモリだけが行い、「へぇ」数はボタンに付いた小さなパネルで表示された。
2012年1月1日の特別番組時に放送。テレビで見せる程の「トリビア」では無いため、一部だけを紹介し、後は当番組専用ホームページにて24時間限定で紹介された。
番組放送開始10周年目でテレビで言えなかった「禁断のトリビア」を2012年1月1日の特別番組時の放送内にて分けて紹介。全てのキーワードをつなげると「禁断のトリビア」が完成する仕組みとなっていたが、番組内では最後まで放送されず、最後の部分は当番組専用ホームページにて24時間限定で紹介された。
投稿採用者には獲得した「へぇ」の数に応じた賞金が贈られる。通常は1へぇにつき100円(例として70へぇの場合、賞金は70へぇ×100円=7,000円)で、「満へぇ」(100へぇ)の場合は10万円となる。ただし、今までの最高は「99へぇ」で、「満へぇ」の出た「トリビア」は放送終了まで1つもなかった(10人の時は「198へぇ」)。ちなみに今までの最低は「12へぇ」である(ただし、「小さい"へぇ"見つけた」のコーナーを除く)。深夜時代のある「トリビア」で「99へぇ」まで行った時、最後の「1へぇ」を残したパネラーが「そこ(司会者が読んでいる紙)にない情報を教えてくれたら押す」などと言い結局押さなかったことがある。スペシャル放送(一部を除く)および『土曜プレミアム』枠での放送では審査員が10人に増やされ、最高は200へぇとなり、賞金は20万円である。
放送日時は日本標準時(JST)。
レギュラー放送時代には、毎年正月にスペシャルが放送されていた。
放送日時は日本標準時(JST)。番組タイトル名はそれぞれ、『踊る大捜査線』、『ジョジョの奇妙な冒険』のディオ・ブランドーのセリフ、『世界で一番君が好き!』、『家政婦のミタ』の三田灯のセリフが元ネタ。
放送日時は日本標準時(JST)。2012年1月1日 21:00 - 23:30(JST)(番組生誕10周年)の『トリビアの泉 10周年! あけましてムダ知識SP』の放送前に4夜連続で「深夜にニヤっとできるトリビア」を各10分間放送した。
深夜時代から高視聴率を獲得し続けた結果、2003年7月2日に水曜日21時台のゴールデンタイムに昇格。ゴールデンタイムの第1回の放送で20.5%の高視聴率を記録する好スタートを切った。その後も25%前後の高視聴率を獲得し続けて、時間帯のトップに躍り出た。
番組自体も社会現象になるほどのブームとなり、2004年に突入しても衰えることなく視聴率ランキングの常連に入っていたが、2005年になってしばらくした頃から視聴率は徐々に下がっていった。それでも2006年9月時点で平均2桁は維持していたもののレギュラー番組でやっていく上での改善が困難となりレギュラー放送を終了、その後は不定期の特番として放送されている。ゴールデンタイムでのレギュラー放送の平均視聴率17.8%は2003年以降に放送を開始したバラエティ番組では1位であり、2001年以降に放送を開始したバラエティ番組のレギュラー放送で最高視聴率が25%を超えたのはこの番組と『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系列)のみである。
以下のデータはいずれもビデオリサーチ調べ。
人気番組だったため、本番組を様々な放送番組がパロディにしたことがあった。
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"text": "評価・品評するメインコーナー「トリビアの泉」をはじめ、実用性はないが「明日人に教えたくなる」ような話題の提供をコンセプトに放送する。番組タイトル名は“トリビア”と“トレビの泉”のかばん語である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "当番組の制作・企画・構成に関しては、番組スタッフが飲み会中、ある番組スタッフの薀蓄話に別のスタッフが「へぇ」と答えたことに始まっている。また、当番組スーパーバイザーとして、番組のヒントになった『トンデモ一行知識の世界』 と『トンデモ一行知識の逆襲』の著者である唐沢俊一が監修し、当番組に参加している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "2002年10月7日から毎週火曜日 1:40 - 2:10(月曜深夜)に深夜番組(月深枠)としてレギュラー放送が開始され、2003年3月17日まで深夜枠で放送。視聴率5%超えという1時台の深夜番組としては高視聴率を獲得した。 2003年1月4日(土曜日)15:15 - 16:15には、番組初となる1時間の拡大版の特別番組が放送された。なお、当時はレギュラー放送が深夜だったが、異例の昼の時間帯で放送された。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "番組の人気や高視聴率に伴い、ゴールデンタイム・プライムタイム枠に昇格し、品評会会長としてレギュラーにタモリを加えて、2003年7月2日から毎週水曜日 21:00 - 21:54にレギュラー放送された。3ヶ月間ブランクがあったのは、遅れネット局に配慮したためである。ゴールデンタイム・プライムタイム枠での番組は、毎回25%を超える高視聴率を連発したり、番組内で使用される用語「へぇ」も当時の流行語大賞にノミネートされ、トップテンに選出されるなどの社会現象を巻き起こした。このように、フジテレビ制作のバラエティ番組としては、平成中期の最大のヒットとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "2004年1月1日(木曜日)21:15 - 22:45と、2005年1月1日(土曜日)21:15 - 22:30に、2年連続で元日に拡大版の特別番組が放送された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "2006年1月11日 19:00 - 22:48には、『トリビアの泉 〜最強の国民ランキングSP!〜』と題して、当番組過去最長の放送時間の228分(3時間48分)の拡大版の特別番組を放送。放送111回を記念とした4時間スペシャルを放送。また、これまで放送される事がなかった19時台・20時台に初めて放送された。なお、この日の放送では、「トリビアの泉」「トリビアの種」共に、新作は一切取り上げず、過去のトリビアの総集編が行われた。「トリビアの泉」は、番組ホームページで予め募集をかけた視聴者による国民投票で選ばれた傑作トリビアBEST20がカウントダウン形式で発表された。また、過去のトリビアでも再放送ではなく再度品評されたものが収録された。「トリビアの種」は、もう一度見たいトリビアの種としてこちらも番組ホームページで予め募集をかけた視聴者による国民投票で選ばれたトリビアの種7本傑作選が放送された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "番組改編期となる2006年9月27日 21:00 - 23:18に『トリビアの泉 〜君の心に“へぇ”はあるかSP〜』と題して、レギュラー放送最終回が放送された。これを以て、水曜21時枠のレギュラー放送を終了し、深夜時代を含めた約4年間のレギュラー放送に終止符を打った。発表されたトリビアはこの時点で、深夜時代を含めて999個だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "レギュラー放送が終了して約4ヶ月が経った2007年1月27日(土曜日)21:00 - 22:54(『土曜プレミアム』枠)に、『トリビアの泉 復活SP 踊る大へぇへぇ祭り』と題して、レギュラー放送終了後初めての復活特別番組が放送された。当初は同枠で約2ヶ月に1回の頻度での放送が予定されており、2回目は同年3月10日に放送が予定されていた。しかし、ナレーターを担当していた中江真司の体調不良をはじめとした諸事情により3月の放送は中止となり、その約2ヶ月後の2007年5月12日(土曜日)21:00 - 23:10(『土曜プレミアム』枠)に、『トリビアの泉 〜無駄無駄無駄無駄ァ! ムダ知識大放出SP〜』と題して、2回目の特番を放送。実際には不定期となった。その後、中江は2007年6月に死去し、2007年11月28日放送分のスペシャル以降は窪田等が担当した。また、約半年後の2007年11月28日(水曜日)21:00 - 22:48に、『トリビアの泉 世界で一番“へぇ”が好きSP』と題して、3回目の特番を放送。また、同日は『土曜プレミアム』枠でなく、ゴールデン時代のレギュラー枠と同じ水曜21時枠での放送だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "この3回目の放送から約1年8ヶ月後の2009年7月18日に映画『アマルフィ 女神の報酬』の公開を記念して、特別編のスピンオフ番組が放送された。内容は映画撮影秘話が中心で、倉庫の片隅のような場所で番組レギュラーのビビる大木一人だけで品評を行った。この回は、品評会会長のタモリは出演していない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2010年2月27日(土曜日)21:00 - 23:10(『土曜プレミアム』枠)に、約2年3ヶ月ぶりの復活として『トリビアの泉 へぇへぇの種で大満開 久しぶりにやったらギネスまでとっちゃったよSP』と題して、特別番組が放送された。番組冒頭では特別企画(八嶋曰く「2年3か月ぶりの放送なので、当番組を知らない小さな子供達のために作った」)。としてテレビアニメ『ONE PIECE』とのコラボレーション企画が行われ、『ONE PIECE』の第1期オープニングテーマ「ウィーアー!」(歌 - きただにひろし、第1話 - 第47話)の映像の登場キャラクターを品評会会長のタモリ・トリビアプレゼンター(司会)の高橋克実、八嶋智人の3名に置き換えて新たに制作されたものが流された。この映像では麦わらの一味 が登場したほか、『ONE PIECE』のオリジナル声優である田中真弓(モンキー・D・ルフィ役)、大塚周夫(ゴールド・ロジャー役)、大場真人(ナレーター)がアフレコに参加した。また、オープニングでは「フジテレビ開局51周年に放送する番組」とテロップが表示されていた。視聴率はスペシャル番組としては最高となる20.1%を記録した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "2012年で深夜時代から数えて番組生誕10周年を迎えた。これを記念して、2011年12月21日(水曜日)21:00 - 23:13には、深夜時代と全国ネット(ゴールデン時代)も含めた総集編の『トリビアの泉 10周年「へぇ」祭りはベストオブベストで! 承知しましたSP』が放送され、2012年1月1日(日曜日)21:00 - 23:30には、オール新作放送の『トリビアの泉 祝10周年! あけましてムダ知識SP』が放送された。この回を最後に、放送は行われていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2017年12月16日・2018年6月30日に同局で放送された『ギリギリ昔話』では「今じゃもう出来ない!? 攻めすぎなゴールデン番組」として、当番組で紹介された「トリビアの泉」や検証された「トリビアの種」で過激・過酷なトリビアが取り上げられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2017年・2020年にgooで行われた「復活してほしいバラエティ番組ランキング」においては共に2位を記録するなど、番組の放送が終了して以降も根強い人気を誇っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "番組開始当初より2004年までは番組冒頭にSF作家のアイザック・アシモフの発言とされる「この地球でトリビアを増やすことに喜びを感ずるのは人間のみである」や「人間は無用な知識が増えることで快感を感じることができる唯一の動物である」を引用し、番組コンセプトと結びつけた。",
"title": "番組構成"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2005年1月以降レギュラー放送終了まではこれに代わり、同様の目的で哲学者アリストテレスの『形而上学』第一巻冒頭の文「全ての人間は生まれながらにして知ることを欲する」(980a) を引用した。",
"title": "番組構成"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ゴールデン枠でのレギュラー放送終了後、不定期のスペシャルでも継続して放送されているのは、「トリビアの泉」、「トリビアの種」、「おさらいトリビア」の3つのコーナーのみである。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "当番組のメインコーナー。番組の視聴者から投稿された「知っていても人生の役に立たない、でも知っていたら楽しい」「明日人に教えたくなるような雑学・知識=情報を元に「トリビア」となりうる雑学を紹介し「確認VTR」を使って、「トリビアプレゼンター」(司会)の高橋克実、八嶋智人がユーモアを交えつつ紹介するコーナー。タモリを筆頭とする「トリビア品評会」の面々が品評していく。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "スタジオでは「トリビア」を紹介する2人の司会者「トリビアプレゼンター」と「トリビア」を評価する「品評会会長」を始めとする5人のパネラー「トリビア品評会」が登場し、番組を盛り上げる。司会者は「補足トリビア」と称して「トリビア」に解説を加え、パネラーは「へぇボタン」を使って評価(番組内では「品評」と称す)する。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "構成としては、まず投稿者名と「トリビア」の概要のみが導入のVTRで紹介され、パネラーはそこで1回「品評」を行う。その後、「トリビア」の具体的な内容が「確認VTR」で紹介され、スタジオではパネラーが再び「品評」、「補足トリビア」へと移る。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "「トリビア」の投稿は郵送および番組ホームページで行われる。また、同内容の場合の採用には先着順であったが、視聴率上昇に伴い投稿数が増え先着の判断が困難となってからは抽選となった。時折「あの人からのトリビア」と称し、有名人、芸能人、著名人から投稿者に因んだ「トリビア」が送られることがある。「トリビア」の中には「っぽく見える」、「っぽく聴こえる」などシリーズ化したものがある。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1回分の放送では、深夜時代は6〜7本紹介されて、ゴールデン時代は当初は7〜8本、「ガセビアの沼」のコーナーが始まった2005年からは4〜6本紹介されていた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "第1回の放送から視聴者からの投稿で成り立っているスタイルだが、初期にはスーパーバイザーの唐沢俊一の書籍から採用したものを他人の投稿者名を紹介して取り上げていたとの指摘があり、唐沢も自身が運営する掲示板の内容の使用を許可したと明かしている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "VTRの基本構成は「〇〇はこう語る(他に「〇〇に聞いてみた」)」というナレーションの後に、詳細を知る人物(大学教授など専門家や当事者、関係者、被伝者本人)へのインタビューから始まり、そこから証拠となる書物などの引用、記録映像や実験映像の放映、専門家の証言や書物の内容を基にしたイラストなどを用いて紹介するというもの。インタビューでは「はい、確かに...(英語ではYes, that's right...)」で始まることが多い。また、解説が長いと本人が話している最中に「要するに」というナレーションとテロップと共にフェードアウトされ、改めて簡潔な回答をすることがある。稀に、取材に伺った専門家もその事実を知らず、後日改めてインタビューし直す場合もあった。これにユーモアを交え、時には本題とあまり関係のない事柄やパロディもネタとして取り入れる。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "VTRには、特に実験を必要をする場合などスタッフが出演することが多い(原則、白衣を着用)。また、番組がゴールデンタイムに移行した後は「トリビア」内容とは直接関係のない人物を起用することもあり、大物タレントを出演させたりプロ漫画家の描いたイラストを使用するなどして「トリビア」を紹介する無駄な豪華さも見どころとする。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一見不可能に見えることも再現したり、実験したりしてみせるのが特徴。以下はその例である。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "洋画の一瞬の映像を使う際にスロー再生や一時停止が許可されなかったため、「大人の事情により映像を一時停止することが出来ないのでお手数ですが目を凝らしてご覧ください」とし画面上のどの辺りかを説明して繰り返し再生したり、「ゴールデンタイム番組にふさわしくない映像(例:放送許諾の得られなかった他局の映像や、暴力的な内容など)」を使う際にモザイクをかけたりといったVTRも放送した。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "「トリビア」の内容によっては稀に確認VTRが無いこともある(単なる言葉遊びなど)。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "確認VTRに入る前、1回目の品評時にパネラーがVTRの核心に触れる事柄を発言することは禁止されている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "確認VTRに含まれない補足情報や関連事項などを八嶋が説明する。確認VTRに大物タレントやプロ漫画家などを起用した際にはその人物も紹介し、時には宣伝も行う。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "最後に高橋がその「トリビア」から思いついた一言を言い、「トリビア」紹介を締める(自身の頭髪や過去にまつわる自虐的な内容や下ネタが多いが、時には八嶋を皮肉る)。この一言は番組内容を収録した『トリビアの泉 へぇの本』で「高橋語録」と称している(ただし、実際に番組内で高橋がトリビアの最後に言った言葉と『へぇの本』の「高橋語録」での一言とが必ずしも一致するとは限らない)。稀にパネラーとのトークや「補足トリビア」で締めて高橋の一言が無い事もあった。本題よりもこの「補足トリビア」で得点が入ることは多々ある。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "紹介された「トリビア」に対し、「品評会会長」のタモリを含む5人のパネリストからなる「トリビア品評会」が「トリビア」の驚き、意外性、また「確認VTR」の面白さなどを感銘度とし「へぇボタン」と称する丸形の青いボタン を押して評価する。このボタンを押すと「へぇ」という女性の声が流れる(この声の主は、初回の収録に参加していた女性カメラアシスタントである)。「へぇボタン」は設置された透明ケースから取り外すことができる。なお、品評会会長席の「へぇボタン」は、他のパネリスト席のものとは形状が異なる。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "パネリストは感銘度を「へぇ」という単位に換算し、「へぇボタン」を1回押すごとに「1へぇ」ずつ得点をつけることができる。しかし、実際にはいつでも押すことができるため「トリビア」にほとんど関係の無いトークの場面で押される場合も多々ある。1人につき「20へぇ」が与えられ、その合計値で「トリビア」の優劣をつける。「20へぇ」の評価で「満へぇ」となり、5人全員が「満へぇ」、つまり合計「100へぇ」で満点となる。基本的には「確認VTR」を見ている最中に「へぇボタン」を押す事はできない。「満へぇ」になっても「へぇボタン」を押すことはできるが(「へぇ」の音声は無く色が発光するのみ)、21へぇ以上は得点として加算されない。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ゴールデンタイム移行後は初回のみ紹介された全てのトリビアに、2回目以降は合計「80へぇ」以上の評価が出た場合、品評会会長から「粗品」が授与される。「品評会会長」はタモリであり、ゴールデン移行後はその厳しい評価のため高得点が出にくい傾向にある。スペシャル版はパネリストが10人に増え(「満へぇ」は合計「200へぇ」になり、賞金は20万円である。)、「150へぇ」以上の評価で粗品がもらえる(『土曜プレミアム』の放送においては、「160へぇ」以上で粗品)。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "品評会員ごとの「へぇ」の得点、および合計値はそれぞれスタジオの電光掲示板に表示される。品評員席の表示は通常は白、「満へぇ」になると赤になる。合計値の表示は深夜番組時代は白のみだったが、ゴールデン移行直後は値が増えるにつれて紫→青→水色→緑→黄色→オレンジ→赤(100へぇ)と変わっていく方式に。後に色の変化は不規則になる。「100へぇ」を達成すると電光掲示板の下にある噴水口から100円玉が100枚出るという仕掛けがある。2006年1月18日放送分より誰か1人でも「満へぇ」が出るとパネラー席後方のランプが不規則に点滅するようになった。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "視聴者から「調べてみることでトリビアになりそうな日常の疑問」を公募し、「世間ではバカバカしくてやっていないような素朴な疑問」を調査・実験など実際やったらどうなるかを当番組スタッフが検証し、明らかにする。その検証VTRに対して意外性、内容の充実度、検証の労力などを感銘度とし、品評会会長のタモリが評価をする。番組がゴールデンタイムへ移行した2003年7月2日放送分から開始した。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "感銘度は「一分咲き」から「九分咲き」および「満開」の10段階で表し、「満開」へ近づくほど感銘度が高いことを示す。2004年2月18日放送分までは「一分咲き」・「三分咲き」・「五分咲き」・「八分咲き」・「満開」の5段階評価だったが、タモリが八分咲きを連発したことで本人の意向により同年2月25日放送分からは「二分咲き」・「四分咲き」・「六分咲き」・「七分咲き」・「九分咲き」が加わり10段階に変更した。品評会会長のタモリが独断と偏見で「何分咲きの花になったか」を手元にあるレバーで評価し、レバーを引くとスタジオ後ろに控える多数のエキストラ がそれぞれ手に掲げたパネルを裏返し、「○分咲き」および「満開」の花が描かれたイラストを作る。「満開」が出た時はさらにパネルが裏返り、「やったね!」の文字が現れる。パネルの動きが遅かったり向きが間違っていたりすると、八嶋による指摘を受けることがある。大抵の評価は「八分咲き」以上だが、まれに「五分咲き」や「七分咲き」が出たこともあった。なお「『へぇ』の本」では、「10段階になってから満開が出にくくなった」と記述されている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "VTRの最後には、日の出の映像を背景にナレーションが必ず「こうしてこの世界にまた一つ新たなトリビアが生まれた」と言う。その後、調査結果を基に種から生まれたトリビアのタイトルを読み上げる。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "当初は10分程度のコーナーだったが次第に15〜20分と放送時間が長くなり、ときには2本立て・3本立てで放送されることもあり、番組のメインであるトリビアの紹介よりも放送時間が長くなることがある。ゴールデン後期や単発特番の際の番組表の文章も、種の予告の分量が多いことがあった。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "当コーナーが行われるのは番組後半が多いが、たまに、番組前半で行われることがある。また、2005年1月19日から「ガセビアの沼」が番組後半で行われるようになってからは、当コーナーは番組前半で行われている。稀に、番組の最初に行われることもある。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また種を読み上げて紹介する際、○○(検証により判明する、語句や数値などが入るホニャララ部分)を八嶋が「アーッ!」「アーイ!」「ンッ」などの意味のない言葉で叫び、スタッフの笑いが入るのが恒例だった。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "そして、実験によっては万全の安全対策で行わなければならないものや実際に真似できてしまう危険な実験も少なくないため、八嶋がコーナーの最後に「皆さんは、絶対に真似しないで下さい」と注意をする事が多かった。その際にはタモリや高橋から「真似できない」「しようと思う人はいない」とツッこまれることが多い。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1回分の放送では、レギュラー時代は原則1本(稀に2本)紹介され、不定期時代は5〜7本紹介されていた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "「トリビアの種」はシリーズ化する傾向が多く見られ、ベン・ジョンソンやジェファーソン・ペレスが検証に参加する「スポーツシリーズ」、等身大ペッタン人形を高層タワーから落とし、タワーから離れる前までの距離を測る「ペッタン人形シリーズ」、日本刀がピストルなどと勝負をする「対決シリーズ」、カップラーメンや菓子、ご飯のおかずなどをプロの料理人やタレントに食してもらう「食べ物シリーズ」、雑種の犬が血統種(特別な訓練された犬)の犬と同じことができるかを検証する「雑種犬シリーズ」などがある。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "「トリビアの泉」に投稿された情報のうち、全くの嘘やガセネタであったものを「ガセビア」として紹介する。誤解している人が多く相当数存在するいつの間にか当たり前となった知識・急に広まった都市伝説の類を主に取り扱い、間違いを正す。タモリ、高橋、八嶋のトークを交え、通常の「トリビアの泉」と同様のVTRを使ってガセネタであることを示し、目の前の沼にハガキを沈め、永久に封印する。「トリビアの泉」「トリビアの種」とは対照的なコーナーでもある。放送期間は2005年1月19日から、当番組(レギュラー放送)最終回の2006年9月27日まで。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "元々は1月1日放送分『あけましてムダ知識スペシャル』から開始予定だったが、約2週間後の1月19日に延期される。当初は毎週放送されていたが、2006年に入ってからは休止されることがほとんどで、一時はコーナー自然消滅とも言われた(2006年8月9日放送分から復活)。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "最初は通常の「トリビアの泉」と同様に投稿者名を公表していたが、第2回目以降は投稿者名部分にモザイクをかけ、下段に「ガセビア投稿者の気持ちを考慮し 氏名は伏せさせていただきます」と注釈を入れている(「へぇの本」掲載時は第1回の投稿者名も「三重県・××さん」と伏せられた)。",
"title": "コーナー"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "このコーナーでは、「トリビアの泉」「トリビアの種」とは対照的に、画面左上には紫字の明朝体で「明日使えないウソ知識に注意」とテロップが表記されている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "当コーナーは番組後半もしくは番組終盤で行われていた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1回の放送で、1本紹介されていた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "番組の最後(エンディング/ 当番組のスタッフエンドロール部分)に、各放送回に紹介した「トリビア」の概要を得点の低いものから順に放送する。また、確認VTRに登場した声優やナレーターがナレーションを務め、「トリビア」の内容を読み上げるといった「お遊び」の要素も。ゴールデン移行当初から放送し、2004年以降は不定期での放送となる。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "BGMは通常 フレッド・ジョリオの『Romance』だが、一時期DJ Gert & M. Woodsの『Once Upon A Time In The West (DJ Gert vs DJ Conka Opera Mix)』が使用されていたこともあるほか、『まんが水戸黄門』のオープニング曲『ザ・チャンバラ』、『子連れ狼』(3番のみ)、反町隆史の『POISON』など、紹介したトリビアにちなんだ曲に変更されることもある。2005年頃は『ニャホニャホタマクロー(かつて『みんなのうた』(NHK) で放送された『ラジャ・マハラジャー』の替え歌)』がほぼ毎週使われていた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2006年7月5日と7月26日にはClassの『夏の日の1993』がBGMにフルコーラス使われたが、放送回のおさらいトリビアの後、長いのでスタッフロールの上に前回のおさらいトリビアも流れた。その際はClassの2人が砂浜で歌い、小窓でおさらいトリビアが流れた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "予告トリビア",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "おさらいトリビアの後、次週放送されるトリビアの中から選ばれた一つを途中まで読み上げる。その後すぐ、提供表示に移り、そのサイドテロップではそのトリビアに関係する一言が書かれている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "「トリビアの泉」に投稿された情報のうち、「へぇ」とすら言えない通常の「トリビアの泉」で扱うに至らないものをピックアップして紹介する。タイトルの「はぁ〜」はため息を表す。深夜番組時代に番組の最後にほぼ毎回行われていた。「一番むかつく「はぁ〜」は......」と言うトリビアも放送されたことがある。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "主に投稿者の個人的なこと、検証が不可能なもの、バラエティ番組のネタとして適切でないものなど「こんなことをわざわざ送ってこなくっても......」と感じ取れるものを紹介した。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "流れとして、タイトルコール後に高橋と八嶋が「はぁ〜」な投稿内容が書かれたハガキもしくはメールを見て「はぁ〜」とため息をつき、それをテーブルに置いて内容に文句を言いながらスタジオを去り、最後にその文面をカメラで映してどんな内容だったかが分かる。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2006年3月15日放送分より、メインのナレーションとは別に副音声付放送で並行して別の声優やタレントがナレーションを担当する『トリビアの影のナレーション(影ナレ)』が行われた。地上デジタル放送ではモノステレオ放送で実施されていた。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "“影ナレ”はメインのナレーションをベースに、その担当者が過去に演じた有名なキャラクターなどを暗示させる演技や語尾などのアレンジを加える。完全に副音声のみではなく、そのキャラクターの関連BGMと共にシルエット(実在する人物についてはシルエットではない)を出す紹介コーナーが番組中に何度か挿入される。また、番組中に別の“影ナレ”と交代する場合があり、その際はキャラクター同士で何かしらのやり取りをする。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "エンドロールには「影のナレーション:???」としかクレジットされず、キャラクター名や著作権者の明記や(C)のマークの表記はない。しかし、「トリビアの種」内では影ナレを担当した声優本人および実名が出たことがあった。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "地上アナログ放送の音声多重放送やデジタルチューナーが二重音声に対応していないといった受信環境や、一部のネット局設備で副音声に対応していないといった送信側の事情がある場合、紹介コーナー以外聞くことができない。北海道文化放送では札幌地区以外は番組が放送終了するまでは音声多重放送を実施していなかった。また、テレビ山口では当初“影ナレ”に対応していなかったが、2006年4月放送分から対応した。特番時代からは不定期で音声多重放送に対応する形になった。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2005年11月16日、同局の報道番組『FNNレインボー発』をもじった「レインボ・一発」(れいんぼ・いっぱつ)を放送した。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "過去の「トリビアの泉」で紹介されたトリビアのその後の展開を紹介するコーナー。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "正式コーナータイトル名は「高橋克実のスペシャルコーナー Stardust Memory 〜言葉では伝えきれない映像〜」。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "トリビアプレゼンター(司会)である高橋克実の持ち込み企画であり『土曜プレミアム』枠のスペシャル放送から登場。高橋が日常であまり見ることのない「言葉にできない」映像、また誰かに伝えたいけれども、上手く伝えられない「トリビア」を小田和正の「言葉にできない」に合わせて紹介(ことわざ「ヘビににらまれたカエル」を実際に行う、ガチャピンがアルバイトや地味な仕事をするなど)。コーナーの背景は銀河系をモチーフとしたCGをブルーバックで合成している。VTR後は高橋がブラックホールに吸い込まれ、タモリと八嶋は呆れながら去って行く。VTRのナレーションは通常ナレーションを行う中江ではなく、田中秀幸が担当している。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "行われたのは2007年1月27日・5月12日のスペシャルのみ。",
"title": "コーナー"
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{
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"tag": "p",
"text": "2007年11月28日の特別番組時に放送。",
"title": "コーナー"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "コーナー名の元ネタは唱歌「ちいさい秋みつけた」。少しなら、確実に「へぇ」と言える小さな雑学を紹介するコーナー。「トリビア」紹介は通常形式だが小さい「へぇ」であるので、品評は品評会会長のタモリだけが行い、「へぇ」数はボタンに付いた小さなパネルで表示された。",
"title": "コーナー"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2012年1月1日の特別番組時に放送。テレビで見せる程の「トリビア」では無いため、一部だけを紹介し、後は当番組専用ホームページにて24時間限定で紹介された。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "番組放送開始10周年目でテレビで言えなかった「禁断のトリビア」を2012年1月1日の特別番組時の放送内にて分けて紹介。全てのキーワードをつなげると「禁断のトリビア」が完成する仕組みとなっていたが、番組内では最後まで放送されず、最後の部分は当番組専用ホームページにて24時間限定で紹介された。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "投稿採用者には獲得した「へぇ」の数に応じた賞金が贈られる。通常は1へぇにつき100円(例として70へぇの場合、賞金は70へぇ×100円=7,000円)で、「満へぇ」(100へぇ)の場合は10万円となる。ただし、今までの最高は「99へぇ」で、「満へぇ」の出た「トリビア」は放送終了まで1つもなかった(10人の時は「198へぇ」)。ちなみに今までの最低は「12へぇ」である(ただし、「小さい\"へぇ\"見つけた」のコーナーを除く)。深夜時代のある「トリビア」で「99へぇ」まで行った時、最後の「1へぇ」を残したパネラーが「そこ(司会者が読んでいる紙)にない情報を教えてくれたら押す」などと言い結局押さなかったことがある。スペシャル放送(一部を除く)および『土曜プレミアム』枠での放送では審査員が10人に増やされ、最高は200へぇとなり、賞金は20万円である。",
"title": "投稿者特典"
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"text": "放送日時は日本標準時(JST)。",
"title": "ネット局と放送時間"
},
{
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"text": "レギュラー放送時代には、毎年正月にスペシャルが放送されていた。",
"title": "ネット局と放送時間"
},
{
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"text": "放送日時は日本標準時(JST)。番組タイトル名はそれぞれ、『踊る大捜査線』、『ジョジョの奇妙な冒険』のディオ・ブランドーのセリフ、『世界で一番君が好き!』、『家政婦のミタ』の三田灯のセリフが元ネタ。",
"title": "ネット局と放送時間"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "放送日時は日本標準時(JST)。2012年1月1日 21:00 - 23:30(JST)(番組生誕10周年)の『トリビアの泉 10周年! あけましてムダ知識SP』の放送前に4夜連続で「深夜にニヤっとできるトリビア」を各10分間放送した。",
"title": "ネット局と放送時間"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "深夜時代から高視聴率を獲得し続けた結果、2003年7月2日に水曜日21時台のゴールデンタイムに昇格。ゴールデンタイムの第1回の放送で20.5%の高視聴率を記録する好スタートを切った。その後も25%前後の高視聴率を獲得し続けて、時間帯のトップに躍り出た。",
"title": "視聴率"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "番組自体も社会現象になるほどのブームとなり、2004年に突入しても衰えることなく視聴率ランキングの常連に入っていたが、2005年になってしばらくした頃から視聴率は徐々に下がっていった。それでも2006年9月時点で平均2桁は維持していたもののレギュラー番組でやっていく上での改善が困難となりレギュラー放送を終了、その後は不定期の特番として放送されている。ゴールデンタイムでのレギュラー放送の平均視聴率17.8%は2003年以降に放送を開始したバラエティ番組では1位であり、2001年以降に放送を開始したバラエティ番組のレギュラー放送で最高視聴率が25%を超えたのはこの番組と『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系列)のみである。",
"title": "視聴率"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "以下のデータはいずれもビデオリサーチ調べ。",
"title": "視聴率"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "人気番組だったため、本番組を様々な放送番組がパロディにしたことがあった。",
"title": "パロディ番組・企画"
}
] |
『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』は、フジテレビ系列で2002年10月8日から2006年9月27日までレギュラー放送された後、2007年から2012年まで不定期放送の特別番組として放送されていた、雑学バラエティ番組である。字幕放送、音声多重放送(副音声解説)、2010年の特番の放送からハイビジョン制作が実施されていた。 通称は『トリビア』『トリビアの泉』。
|
{{複数の問題|出典の明記=2022-8|独自研究=2022-8|雑多な内容の箇条書き=2022-8}}
{{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = トリビアの泉<br />{{small|〜素晴らしきムダ知識〜}}
| 画像 =
| 画像説明 =
| ジャンル = [[雑学|雑学番組]] / [[バラエティ番組]]
| 放送国 = {{JPN}}
| 制作局 = [[フジテレビジョン|フジテレビ]]
| 監修 = [[唐沢俊一]]{{Smaller|([[スーパーバイザー]])}}
| 演出 = 木村剛・塩谷亮{{Smaller|(共にフジテレビ)}}
| プロデューサー = 増谷秀行{{Smaller|([[ザ・スピングラス]])}}<br /> [[坪井貴史]]{{Smaller|(フジテレビ、[[チーフプロデューサー|CP]])}}
| 出演者 = [[タモリ]]<ref group="注">ゴールデン・全国ネット時代以降から品評会会長として出演。</ref><br />[[高橋克実]]<br />[[八嶋智人]]<br />{{Smaller|ほか([[#出演者|出演者]]を参照)}}
| 審査員 = タモリ(品評会会長)<br/>[[ビビる大木]]ほか
| ナレーター = [[中江真司]](初代) [[大友龍三郎]](2代目) [[窪田等]](3代目)
| 音声 = [[モノラル放送]] → [[音声多重放送]]([[#影のナレーション|影のナレーション]]を参照)<ref group="注">2005年放送の『[[FNSの日]]』内スペシャル放送時は[[ステレオ放送]]を実施。</ref>
| 字幕 = [[文字多重放送]]
| データ放送 =
| OPテーマ = テーマ曲合唱:[[たまりの]]
| EDテーマ = [[音楽]]:[[堂島孝平]] [[Fred Jorio]]「[[Romance]]」
| 外部リンク = https://www.fujitv.co.jp/b_hp/trivia/index.html
| 外部リンク名 = トリビアの泉
| 番組名1 = 深夜・関東ローカル枠【第1期】
| 放送時間1 = [[火曜日]] 1:40 - 2:10([[月曜日|月曜]][[深夜]])
| 放送分1 = 30
| 放送枠1 = [[月深]]
| 放送期間1 = [[2002年]][[10月8日]] - [[2003年]][[3月18日]]
| 放送回数1 = 20回
| 番組名2 = ゴールデン・全国ネット枠【第2期】
| 放送時間2 = [[水曜日]] 21:00 - 21:54
| 放送分2 = 54
| 放送枠2 =
| 放送期間2 = [[2003年]][[7月2日]] - [[2006年]][[9月27日]]
| 放送回数2 = 136回
| 番組名3 = 復活特別番組
| 放送時間3 = [[土曜プレミアム|土曜日 21:00 - 22:54]](第1回)<br />[[タモリの雑学の祭典!|土曜日 21:00 - 23:10]](第2回)<br />水曜日 21:00 - 22:48(第3回)<br />[[土曜プレミアム|土曜日 21:00 - 23:10]](第4回)<br />水曜日 21:00 - 23:13(第5回)<br />[[日曜日]] 21:00 - 23:30(第6回)
| 放送分3 = (回数順)114分、130分、108分、130分、133分、150
| 放送枠3 =
| 放送期間3 = [[2007年]][[1月27日]](第1回)<br />2007年[[5月12日]](第2回)<br />2007年[[11月28日]](第3回)<br />[[2010年]][[2月27日]](第4回)<br />[[2011年]][[12月21日]](第5回)<br />[[2012年]][[1月1日]](第6回)
| 放送回数3 = 合計6回
| 番組名4 = トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜<br />[[映画]]「[[アマルフィ 女神の報酬]]」で<br />久しぶりに「へぇ」SP<!--スピンオフ番組のため復活特別番組には入りません。-->
| 放送時間4 = 土曜日 13:30 - 14:25
| 放送分4 = 55
| 放送期間4 = 2009年7月18日
| 放送回数4 = 1回
| 番組名5 = もう○日寝るとお正月&トリビアの泉10周年SP
| 放送時間5 = 水曜日 0:45 - 0:55<br />[[木曜日]] 0:10 - 0:20<br />[[金曜日]] 0:40 - 0:50<br />土曜日 0:10 - 0:20
| 放送分5 = 各10
| 放送期間5 = 2011年[[12月28日]] - [[12月31日]]
| 放送回数5 = 4回
| 特記事項 = 上記の[[スタッフ]]は、[[特別番組]](2012年1月1日放送分)現在。
}}
{{色}}
『'''トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜'''』(トリビアのいずみ すばらしきムダちしき)は、[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]で[[2002年]][[10月8日]]から[[2006年]][[9月27日]]までレギュラー放送された後、[[2007年]]から[[2012年]]まで不定期放送の[[特別番組]]として放送されていた、[[雑学]][[バラエティ番組]]である。[[文字多重放送|字幕放送]]、[[音声多重放送]]([[解説放送|副音声解説]])、2010年の特番の放送から[[ハイビジョン制作]]が実施されていた。
通称は『'''トリビア'''』『'''トリビアの泉'''』。
== 概要 ==
当番組は「'''生きていく上で何の役にも立たない無駄な[[知識]]、しかし、つい人に教えたくなってしまうような[[トリヴィア|トリビア]]'''([[雑学]]・知識)」を[[視聴者]]からの一般[[公募]]により、トリビアプレゼンター(司会)を務める[[高橋克実]]と[[八嶋智人]]が[[ビデオテープレコーダ|VTR]]にて紹介し、品評会会長の[[タモリ]]を筆頭にゲスト品評会員らが品評していく。英語にある「'''trivia'''(「トリビア」)」とは、日本語で「雑学・些末な」という意味である。
評価・品評するメインコーナー「トリビアの泉」をはじめ、実用性はないが「明日人に教えたくなる」ような話題の提供を[[概念|コンセプト]]に放送する。番組タイトル名は“トリビア”と“[[トレヴィの泉|トレビの泉]]”の[[かばん語]]である。
当番組の制作・企画・構成に関しては、番組スタッフが飲み会中、ある番組スタッフの[[うんちく|薀蓄]]話に別のスタッフが「'''へぇ'''」と答えたことに始まっている。また、当番組[[スーパーバイザー]]として、番組のヒントになった『トンデモ一行知識の世界』 と『トンデモ一行知識の逆襲』の著者である[[唐沢俊一]]が[[監修]]し、当番組に参加している。
== 歴史 ==
[[2002年]][[10月7日]]から毎週[[火曜日]] 1:40 - 2:10([[月曜日|月曜]]深夜)に[[深夜番組]]([[月深]]枠)としてレギュラー放送が開始され、[[2003年]][[3月17日]]まで深夜枠で放送。[[視聴率]]5%超えという1時台の深夜番組としては高視聴率を獲得した。
2003年[[1月4日]](土曜日)15:15 - 16:15には、番組初となる1時間の拡大版の[[特別番組]]が放送された。なお、当時はレギュラー放送が深夜だったが、異例の[[昼]]の時間帯で放送された。
番組の人気や高視聴率に伴い、[[ゴールデンタイム]]・[[プライムタイム]]枠に昇格し、品評会会長としてレギュラーに[[タモリ]]を加えて、2003年[[7月2日]]から毎週[[水曜日]] 21:00 - 21:54にレギュラー放送された。3ヶ月間ブランクがあったのは、遅れネット局に配慮したためである。ゴールデンタイム・プライムタイム枠での番組は、毎回25%を超える高視聴率を連発したり、番組内で使用される用語「へぇ」も当時の[[新語・流行語大賞|流行語大賞]]にノミネートされ、トップテンに選出されるなどの[[社会現象]]を巻き起こした。このように、フジテレビ制作のバラエティ番組としては、平成中期の最大のヒットとなった。
[[2004年]][[1月1日]]([[木曜日]])21:15 - 22:45と、[[2005年]]1月1日(土曜日)21:15 - 22:30に、2年連続で[[元日]]に拡大版の特別番組が放送された。
[[2006年]][[1月11日]] 19:00 - 22:48には、『'''トリビアの泉 〜最強の国民ランキングSP!〜'''』と題して、当番組過去最長の放送時間の228分(3時間48分)の拡大版の特別番組を放送。放送111回を記念とした4時間スペシャルを放送。また、これまで放送される事がなかった19時台・20時台に初めて放送された。なお、この日の放送では、「トリビアの泉」「トリビアの種」共に、新作は一切取り上げず、過去のトリビアの総集編が行われた。「トリビアの泉」は、番組[[ホームページ]]で予め募集をかけた視聴者による国民投票で選ばれた傑作トリビアBEST20がカウントダウン形式で発表された。また、過去のトリビアでも再放送ではなく再度品評されたものが収録された。「トリビアの種」は、もう一度見たいトリビアの種としてこちらも番組ホームページで予め募集をかけた視聴者による国民投票で選ばれたトリビアの種7本傑作選が放送された。
番組改編期となる2006年[[9月27日]] 21:00 - 23:18に『'''トリビアの泉 〜君の心に“へぇ”はあるかSP〜'''』と題して、レギュラー放送最終回が放送された。これを以て、水曜21時枠のレギュラー放送を終了し、深夜時代を含めた約4年間のレギュラー放送に終止符を打った。発表されたトリビアはこの時点で、深夜時代を含めて999個だった。
レギュラー放送が終了して約4ヶ月が経った[[2007年]][[1月27日]](土曜日)21:00 - 22:54(『[[土曜プレミアム]]』枠)に、『'''トリビアの泉 復活SP 踊る大へぇへぇ祭り'''』と題して、レギュラー放送終了後初めての復活特別番組が放送された。当初は同枠で約2ヶ月に1回の頻度での放送が予定されており、2回目は同年3月10日に放送が予定されていた。しかし、ナレーターを担当していた[[中江真司]]の体調不良をはじめとした諸事情により3月の放送は中止となり、その約2ヶ月後の2007年[[5月12日]](土曜日)21:00 - 23:10(『土曜プレミアム』枠)に、『'''トリビアの泉 〜無駄無駄無駄無駄ァ! ムダ知識大放出SP〜'''』と題して、2回目の特番を放送<ref group="注">この回のみナレーターは[[大友龍三郎]]が担当。</ref>。実際には不定期となった。その後、中江は2007年6月に死去し、2007年11月28日放送分のスペシャル以降は[[窪田等]]が担当した。また、約半年後の2007年[[11月28日]](水曜日)21:00 - 22:48に、『'''トリビアの泉 世界で一番“へぇ”が好きSP'''』と題して、3回目の特番を放送。また、同日は『土曜プレミアム』枠でなく、ゴールデン時代のレギュラー枠と同じ水曜21時枠での放送だった。
この3回目の放送から約1年8ヶ月後の[[2009年]][[7月18日]]に映画『[[アマルフィ 女神の報酬]]』の公開を記念して、特別編のスピンオフ番組が放送された。内容は映画撮影秘話が中心で、倉庫の片隅のような場所で番組レギュラーの[[ビビる大木]]一人だけで品評を行った。この回は、品評会会長のタモリは出演していない。
[[2010年]][[2月27日]](土曜日)21:00 - 23:10(『土曜プレミアム』枠)に、約2年3ヶ月ぶりの復活として『'''トリビアの泉 へぇへぇの種で大満開 久しぶりにやったらギネスまでとっちゃったよSP'''』と題して、特別番組が放送された<ref>[https://natalie.mu/owarai/news/28342 明日夜に2年3カ月ぶり「トリビアの泉2010」が放送] お笑いナタリー 2010年2月26日発行・閲覧。</ref>。番組冒頭では特別企画(八嶋曰く「2年3か月ぶりの放送なので、当番組を知らない小さな子供達のために作った」)。として[[テレビアニメ]]『[[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]]』とのコラボレーション企画が行われ、『ONE PIECE』の第1期オープニングテーマ「[[ウィーアー!]]」(歌 - [[きただにひろし]]、第1話 - 第47話)の映像の登場[[キャラクター]]を品評会会長のタモリ・トリビアプレゼンター(司会)の高橋克実、八嶋智人の3名に置き換えて新たに制作されたものが流された。この映像では[[海賊 (ONE PIECE)#麦わらの一味|麦わらの一味]]<ref group="注">ルフィは劇場版第10作『[[ONE PIECE FILM STRONG WORLD]]』([[2009年]][[12月12日]]公開)の衣装を着用。</ref> が登場したほか、『ONE PIECE』のオリジナル声優である[[田中真弓]]([[モンキー・D・ルフィ]]役)、[[大塚周夫]]([[海賊 (ONE PIECE)#ゴール・D・ロジャー|ゴールド・ロジャー]]役)、[[大場真人]](ナレーター)が[[アフレコ]]に参加した。また、オープニングでは「フジテレビ開局51周年に放送する番組」と[[テロップ]]が表示されていた。視聴率はスペシャル番組としては最高となる'''20.1%'''を記録した。
2012年で深夜時代から数えて番組生誕'''10周年'''を迎えた。これを記念して、[[2011年]][[12月21日]](水曜日)21:00 - 23:13には、深夜時代と全国ネット(ゴールデン時代)も含めた総集編の『'''トリビアの泉 10周年「へぇ」祭りはベストオブベストで! 承知しましたSP'''』が放送され、[[2012年]]1月1日([[日曜日]])21:00 - 23:30には、オール新作放送の『'''トリビアの泉 祝10周年! あけましてムダ知識SP'''』が放送された。この回を最後に、放送は行われていない。
[[2017年]][[12月16日]]・[[2018年]][[6月30日]]に同局で放送された『[[ギリギリ昔話]]』では「今じゃもう出来ない!? 攻めすぎなゴールデン番組」として、当番組で紹介された「トリビアの泉」や検証された「トリビアの種」で過激・過酷なトリビアが取り上げられた。
2017年・[[2020年]]に[[goo]]で行われた「'''復活してほしいバラエティ番組ランキング'''」においては共に2位を記録する<ref>[https://ranking.goo.ne.jp/column/4256/ レギュラーで復活してほしい「バラエティ番組」ランキング]</ref><ref>[https://ranking.goo.ne.jp/column/6323/ 復活してほしい!平成のバラエティー番組ランキング]</ref>など、番組の放送が終了して以降も根強い人気を誇っている。
== 出演者 ==
=== トリビア プレゼンター(司会) ===
*[[高橋克実]]
*[[八嶋智人]]
*:進行や補足は八嶋が担当。
=== 品評会会長(会長) ===
*[[タモリ]]
*: ゴールデン移行後にレギュラー出演。採点には厳しく満へぇは出したことがない。平日12時台の『[[笑っていいとも!]]』と兼任。
=== 品評会会員(レギュラーパネラー) ===
==== 深夜放送時代 ====
*[[ビビる大木]]
*[[ベッキー]]
*[[荒俣宏]]
*[[はしのえみ]]
*[[金子昇]]
*[[ジャスミン]]
*[[永井大]]
*[[賀集利樹]]
*[[杉浦太陽]]
*[[小川仁志]]([[日経エンタテインメント!]]編集長)
*[[MEGUMI]]
*[[柳沢慎吾]]
==== ゴールデンタイム時代 ====
*ビビる大木
*MEGUMI
*ベッキー
*[[荒俣宏]]
*[[糸井重里]]
*[[筒井康隆]]
*はしのえみ
*:タモリ・大木以外の会員は不定期出演。
=== ナレーター ===
;初代
:*[[中江真司]](2002年10月7日 - 2007年1月27日、深夜〜ゴールデン・レギュラー放送)
:
;2代目
:*[[大友龍三郎]](2007年5月12日、特別番組)
:
;3代目
:*[[窪田等]](2007年11月28日・2010年2月27日・2011年12月21日・2012年1月1日、特別番組 - )
:*:当番組の初代[[ナレーター]]は、[[中江真司]]だったが、静養のため2007年5月12日放送分では[[大友龍三郎]]が表のナレーションを担当した。その後、中江は2007年6月28日に亡くなり、2007年11月28日・2010年2月27日・2011年12月21日・2012年1月1日放送分の特別番組では[[窪田等]]<ref group="注">かつて中江が担当していた『[[Wii]]』や『[[ニンテンドーDS]]』の[[コマーシャルメッセージ|CM]][[ナレーション]]の後任も担当。</ref> がナレーションを担当した。
:
;その他
:*[[皆口裕子]](2004年8月10日)
:*[[永井一郎]](2007年1月27日、アバンタイトル)
:*[[大塚周夫]]([[コラボレーション]][[企画]]『[[ONE PIECE (アニメ)|ONEPIECE]]』、2010年2月27日)
:*[[田中真弓]](同上)
:*[[大場真人]](同上)
:*[[吉村誠一郎]]([[フリーアナウンサー]]、2010年2月27日)
:*[[中村光宏]]([[フジテレビのアナウンサー一覧#現職アナウンサー|フジテレビアナウンサー]]、2010年2月27日)
=== コーナー出演者 ===
*[[緒川たまき]]
*:レギュラー放送でのコーナー『ガセビアの沼』の[[VTR]]に2005年1月19日より出演。ただし、出演者・スタッフのエンドロールに出ていない。
*[[牧原俊幸]]・[[宮瀬茉祐子]](共に当時フジテレビ[[アナウンサー]])
*:レギュラー放送でのコーナー「トリビアニュース」の[[ニュースキャスター]]として両名が担当
*[[田中圭]]
*:2006年1月25日から、トリビア紹介の冒頭の映像や確認VTRにおいて何の脈絡もなく微笑みかける謎の青年として1 - 3回登場していた。
*[[山中秀樹]](当時フジテレビアナウンサー、現在はフリーアナウンサー)
*:番組中の訂正文や謝罪文などの読み上げ担当。この読み上げをネタとして使う場合も山中が行う。一般には翌週以降に行われるが、「訓読みの『訓』は音読み」というトリビアの時にはトリビア紹介後すぐに「わかりにくくて恐縮ですが」と補足説明のために登場した。
== 番組構成 ==
番組開始当初より2004年までは番組冒頭に[[SF作家]]の[[アイザック・アシモフ]]の発言とされる「この[[地球]]でトリビアを増やすことに喜びを感ずるのは人間のみである」や「人間は無用な知識が増えることで快感を感じることができる唯一の動物である<ref group="注">この文は唐沢の『トンデモ一行知識の世界』にアイザック・アシモフの書籍からの引用として掲載されているが、具体的な書名は明記されていない。(唐沢俊一『トンデモ一行知識の世界』[[筑摩書房]]([[ちくま文庫]])、2002年、10頁。ISBN 4-480-03724-1)</ref>」を引用し、番組コンセプトと結びつけた<ref name="trivia030808">{{Cite web|和書|url=http://www.fujitv.co.jp:80/trivia/index.html |title=フジテレビ(番組公式サイト) |publisher=フジテレビ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030808131622/http://www.fujitv.co.jp/trivia/index.html |archivedate=2003年8月8日 |accessdate=2017年6月17日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
2005年1月以降レギュラー放送終了まではこれに代わり、同様の目的で哲学者[[アリストテレス]]の『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』第一巻冒頭の文「全ての人間は生まれながらにして知ることを欲する」(980a) を引用した<ref name="trivia060813">{{Cite web|和書|url=http://www.fujitv.co.jp:80/trivia/index.html |title=フジテレビ(番組公式サイト) |publisher=フジテレビ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060813114548/http://www.fujitv.co.jp/trivia/index.html |archivedate=2006年8月13日 |accessdate=2017年6月17日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
== コーナー ==
ゴールデン枠でのレギュラー放送終了後、不定期のスペシャルでも継続して放送されているのは、「トリビアの泉」、「トリビアの種」、「おさらいトリビア」の3つのコーナーのみである。
=== トリビアの泉 ===
当番組のメインコーナー。番組の視聴者から投稿された「知っていても人生の役に立たない、でも知っていたら楽しい」「明日人に教えたくなるような雑学・知識=情報を元に「トリビア」となりうる雑学を紹介し「確認VTR」を使って、「トリビアプレゼンター」(司会)の高橋克実、八嶋智人がユーモアを交えつつ紹介するコーナー。タモリを筆頭とする「トリビア品評会」の面々が品評していく。
スタジオでは「トリビア」を紹介する2人の司会者「トリビアプレゼンター」と「トリビア」を評価する「品評会会長」を始めとする5人のパネラー「トリビア品評会」が登場し、番組を盛り上げる。司会者は「補足トリビア」と称して「トリビア」に解説を加え、パネラーは「へぇボタン」を使って評価(番組内では「品評」と称す)する。
構成としては、まず投稿者名と「トリビア」の概要のみが導入のVTRで紹介され、パネラーはそこで1回「品評」を行う。その後、「トリビア」の具体的な内容が「確認VTR」で紹介され、スタジオではパネラーが再び「品評」、「補足トリビア」へと移る。
「トリビア」の投稿は郵送および番組[[ホームページ]]で行われる。また、同内容の場合の採用には先着順であったが、視聴率上昇に伴い投稿数が増え先着の判断が困難となってからは抽選となった。時折「あの人からのトリビア」と称し、有名人、芸能人、著名人から投稿者に因んだ「トリビア」が送られることがある。「トリビア」の中には「っぽく見える」、「っぽく聴こえる」などシリーズ化したものがある。
1回分の放送では、深夜時代は6〜7本紹介されて、ゴールデン時代は当初は7〜8本、「ガセビアの沼」のコーナーが始まった2005年からは4〜6本紹介されていた。
第1回の放送から視聴者からの投稿で成り立っているスタイルだが、初期にはスーパーバイザーの唐沢俊一の書籍から採用したものを他人の投稿者名を紹介して取り上げていたとの指摘があり<ref>{{Cite journal |和書 |title = 今年の「流行語大賞」も囁かれるフジテレビ「トリビアの泉」の舞台裏 |date = 2003-12 |publisher = 株式会社噂の真相 |journal = 噂の眞相 |pages = 80-84}}</ref>、唐沢も自身が運営する掲示板の内容の使用を許可したと明かしている<ref>{{Cite web|和書|date= 2004-10-04|url=http://www.tobunken.com/diary/diary20021004000000.html |title=日記 :: 2002年 :: 10月 :: 4日(金曜日) |publisher=唐沢俊一ホームページ |accessdate=2020-01-19}}</ref>。
==== 確認VTR ====
VTRの基本構成は「〇〇はこう語る(他に「〇〇に聞いてみた」)」というナレーションの後に、詳細を知る人物(大学教授など専門家や当事者、関係者、被伝者本人)へのインタビューから始まり、そこから証拠となる書物などの引用、記録映像や実験映像の放映、専門家の証言や書物の内容を基にしたイラストなどを用いて紹介するというもの。インタビューでは「はい、確かに…(英語ではYes, that's right...)」で始まることが多い。また、解説が長いと本人が話している最中に「要するに」というナレーションとテロップと共にフェードアウトされ、改めて簡潔な回答をすることがある。稀に、取材に伺った専門家もその事実を知らず、後日改めてインタビューし直す場合もあった。これにユーモアを交え、時には本題とあまり関係のない事柄やパロディもネタとして取り入れる。
VTRには、特に実験を必要をする場合などスタッフが出演することが多い(原則、白衣を着用)。また、番組がゴールデンタイムに移行した後は「トリビア」内容とは直接関係のない人物を起用することもあり、大物タレントを出演させたりプロ漫画家の描いたイラストを使用するなどして「トリビア」を紹介する無駄な豪華さも見どころとする。
一見不可能に見えることも再現したり、実験したりしてみせるのが特徴。以下はその例である。
* No.008「[[ドライブスルー]]は馬でも行ける」 : 実際に[[日本ケンタッキー・フライド・チキン|ケンタッキー・フライド・チキン]]のドライブスルーへ、カウボーイの格好をした上で馬に乗って来店、フライドチキンを購入する。
* No.311「[[古代オリンピック]]の選手は全員全裸で競技していた」 : 複数人の男性が全裸で100m走、砲丸投げ、走り幅跳びを行う。
* No.384「[[鳥取県]][[境港市]]の住民票は透かすと「[[ゲゲゲの鬼太郎]]」が浮かび上がる」 : 境港市の住民票を取得するために、スタッフ1名が境港市に引っ越す。
* No.442「将棋には804枚の駒を使うものがある」 : 実際に有間温泉旅館の銀水荘別館兆楽で、[[伊藤博文 (棋士)|伊藤博文]]プロ(当時六段)と[[安用寺孝功]](当時四段)プロが古文書を基に忠実に再現した大局将棋を使って対戦した。時間は32時間41分(3日間)、3805手で安用寺孝功プロが勝利した。なお会場はある。また撮影中、世界初の大局将棋の対局と言うことで、将棋の専門誌「[[週刊将棋|週間将棋]]」のスタッフが取材に来た。2004年5月19日発行の「週間将棋」にこの対局についての記事が掲載された。
* No.538「日本の家庭で飼える最大のペットはキリン」 : 一軒家でキリンを飼い、餌やりや散歩を行う。
洋画の一瞬の映像を使う際にスロー再生や一時停止が許可されなかったため、「[[大人の事情]]により映像を一時停止することが出来ないのでお手数ですが目を凝らしてご覧ください」とし画面上のどの辺りかを説明して繰り返し再生したり、「ゴールデンタイム番組にふさわしくない映像(例:放送許諾の得られなかった他局の映像や、暴力的な内容など)」を使う際に[[モザイク処理|モザイク]]をかけたりといったVTRも放送した。
「トリビア」の内容によっては稀に確認VTRが無いこともある(単なる言葉遊びなど)。
確認VTRに入る前、1回目の品評時にパネラーがVTRの核心に触れる事柄を発言することは禁止されている。
==== 補足トリビア ====
確認VTRに含まれない補足情報や関連事項などを八嶋が説明する。確認VTRに大物タレントやプロ漫画家などを起用した際にはその人物も紹介し、時には宣伝も行う。
最後に高橋がその「トリビア」から思いついた一言を言い、「トリビア」紹介を締める(自身の頭髪や過去にまつわる自虐的な内容や下ネタが多いが、時には八嶋を皮肉る)。この一言は番組内容を収録した『トリビアの泉 へぇの本』で「高橋語録」と称している(ただし、実際に番組内で高橋がトリビアの最後に言った言葉と『へぇの本』の「高橋語録」での一言とが必ずしも一致するとは限らない)。稀にパネラーとのトークや「補足トリビア」で締めて高橋の一言が無い事もあった。本題よりもこの「補足トリビア」で得点が入ることは多々ある。
==== 品評 ====
紹介された「トリビア」に対し、「品評会会長」の[[タモリ]]を含む5人のパネリストからなる「トリビア品評会」が「トリビア」の驚き、意外性、また「確認VTR」の面白さなどを感銘度とし「へぇボタン」と称する丸形の青いボタン<ref group="注">深夜時代の呼称は「へぇスイッチ」で、初回のみ赤いシンプルなボタン、第2回以降は黄緑色となり、押すとボタンそのものが発光するタイプに変更された。</ref> を押して評価する。このボタンを押すと「へぇ」という女性の声が流れる(この声の主は、初回の収録に参加していた女性カメラアシスタントである<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-12-20|url=https://www.1242.com/lf/articles/147646/?cat=entertainment&pg=happy |title=八嶋智人が明かす 『トリビアの泉』で流れていた「へぇ~」の声の正体 |publisher=ニッポン放送 |accessdate=2020-01-20}}</ref>)。「へぇボタン」は設置された透明ケースから取り外すことができる。なお、品評会会長席の「へぇボタン」は、他のパネリスト席のものとは形状が異なる。
パネリストは感銘度を「へぇ」という単位に換算し、「へぇボタン」を1回押すごとに「1へぇ」ずつ得点をつけることができる。しかし、実際にはいつでも押すことができるため「トリビア」にほとんど関係の無いトークの場面で押される場合も多々ある。1人につき「20へぇ」が与えられ、その合計値で「トリビア」の優劣をつける。「20へぇ」の評価で「満へぇ」となり、5人全員が「満へぇ」、つまり合計「100へぇ」で満点となる。基本的には「確認VTR」を見ている最中に「へぇボタン」を押す事はできない。「満へぇ」になっても「へぇボタン」を押すことはできるが(「へぇ」の音声は無く色が発光するのみ)、21へぇ以上は得点として加算されない。
ゴールデンタイム移行後は初回のみ紹介された全てのトリビアに、2回目以降は合計「80へぇ」以上の評価が出た場合、品評会会長から「粗品」が授与される。「品評会会長」はタモリであり、ゴールデン移行後はその厳しい評価のため高得点が出にくい傾向にある<ref group="注">実際、タモリが「満へぇ」の評価を下したことは1度もなく(最高で「18へぇ」)、「確認VTR」の前では「0へぇ」であることも珍しくない。</ref>。スペシャル版はパネリストが10人に増え(「満へぇ」は合計「200へぇ」になり、賞金は20万円である。)、「150へぇ」以上の評価で粗品がもらえる(『[[土曜プレミアム]]』の放送においては、「160へぇ」以上で粗品)。
品評会員ごとの「へぇ」の得点、および合計値はそれぞれスタジオの[[電光掲示板]]に表示される。品評員席の表示は通常は白、「満へぇ」になると赤になる。合計値の表示は深夜番組時代は白のみだったが、ゴールデン移行直後は値が増えるにつれて紫→青→水色→緑→黄色→オレンジ→赤(100へぇ)と変わっていく方式に。後に色の変化は不規則になる。「100へぇ」を達成すると電光掲示板の下にある噴水口から100円玉が100枚出るという仕掛けがある。2006年1月18日放送分より誰か1人でも「満へぇ」が出るとパネラー席後方のランプが不規則に点滅するようになった。
=== トリビアの種 ===
視聴者から「調べてみることでトリビアになりそうな日常の疑問」を公募し、「世間ではバカバカしくてやっていないような素朴な疑問」を調査・実験など実際やったらどうなるかを当番組スタッフが検証し、明らかにする。その検証VTRに対して意外性、内容の充実度、検証の労力などを感銘度とし、品評会会長のタモリが評価をする。番組がゴールデンタイムへ移行した2003年7月2日放送分から開始した。
感銘度は「一分咲き」から「九分咲き」および「満開」の10段階で表し、「満開」へ近づくほど感銘度が高いことを示す。2004年2月18日放送分までは「一分咲き」・「三分咲き」・「五分咲き」・「八分咲き」・「満開」の5段階評価だったが、タモリが八分咲きを連発したことで本人の意向により同年2月25日放送分からは「二分咲き」・「四分咲き」・「六分咲き」・「七分咲き」・「九分咲き」が加わり10段階に変更した。品評会会長のタモリが独断と偏見で「何分咲きの花になったか」を手元にあるレバーで評価し、レバーを引くとスタジオ後ろに控える多数のエキストラ<ref group="注">全員[[サングラス]]をかけており、その理由はスタッフによれば「タモリの脳内を[[具象化]]しているから」。</ref> がそれぞれ手に掲げたパネルを裏返し、「○分咲き」および「満開」の花が描かれたイラストを作る。「満開」が出た時はさらにパネルが裏返り、「やったね!」の文字が現れる。パネルの動きが遅かったり向きが間違っていたりすると、八嶋による指摘を受けることがある。大抵の評価は「八分咲き」以上だが、まれに「五分咲き」や「七分咲き」が出たこともあった。なお「『へぇ』の本」では、「10段階になってから満開が出にくくなった」と記述されている。
VTRの最後には、日の出の映像を背景にナレーションが必ず「こうしてこの世界にまた一つ新たなトリビアが生まれた」と言う。その後、調査結果を基に種から生まれたトリビアのタイトルを読み上げる。
当初は10分程度のコーナーだったが次第に15〜20分と放送時間が長くなり、ときには2本立て・3本立てで放送されることもあり、番組のメインであるトリビアの紹介よりも放送時間が長くなることがある。ゴールデン後期や単発特番の際の番組表の文章も、種の予告の分量が多いことがあった。
当コーナーが行われるのは番組後半が多いが、たまに、番組前半で行われることがある。また、2005年1月19日から「ガセビアの沼」が番組後半で行われるようになってからは、当コーナーは番組前半で行われている。稀に、番組の最初に行われることもある。
また種を読み上げて紹介する際、○○(検証により判明する、語句や数値などが入るホニャララ部分)を八嶋が「アーッ!」「アーイ!」「ンッ」などの意味のない言葉で叫び、スタッフの笑いが入るのが恒例だった。
そして、実験によっては万全の安全対策で行わなければならないものや実際に真似できてしまう危険な実験も少なくないため、八嶋がコーナーの最後に「皆さんは、絶対に真似しないで下さい」と注意をする事が多かった。その際にはタモリや高橋から「真似できない」「しようと思う人はいない」とツッこまれることが多い。
1回分の放送では、レギュラー時代は原則1本(稀に2本)紹介され、不定期時代は5〜7本紹介されていた。
「トリビアの種」はシリーズ化する傾向が多く見られ、[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]や[[ジェファーソン・ペレス]]が検証に参加する「スポーツシリーズ」、等身大ペッタン人形を高層タワーから落とし、タワーから離れる前までの距離を測る「ペッタン人形シリーズ」、[[日本刀]]が[[ピストル]]などと勝負をする「対決シリーズ」、[[カップラーメン]]や[[菓子]]、ご飯のおかずなどをプロの料理人やタレントに食してもらう「食べ物シリーズ」、雑種の犬が血統種(特別な訓練された犬)の犬と同じことができるかを検証する「雑種犬シリーズ」などがある。
=== ガセビアの沼 ===
「トリビアの泉」に投稿された情報のうち、全くの嘘や[[ガセネタ]]であったものを「ガセビア」として紹介する。誤解している人が多く相当数存在するいつの間にか当たり前となった知識・急に広まった[[都市伝説]]の類を主に取り扱い、間違いを正す。タモリ、高橋、八嶋のトークを交え、通常の「トリビアの泉」と同様のVTRを使ってガセネタであることを示し、目の前の沼にハガキを沈め、永久に封印する。「トリビアの泉」「トリビアの種」とは対照的なコーナーでもある。放送期間は2005年1月19日から、当番組(レギュラー放送)最終回の2006年9月27日まで。
元々は1月1日放送分『あけましてムダ知識スペシャル』から開始予定だったが、約2週間後の1月19日に延期される。当初は毎週放送されていたが、2006年に入ってからは休止されることがほとんどで、一時はコーナー自然消滅とも言われた(2006年8月9日放送分から復活)。
最初は通常の「トリビアの泉」と同様に投稿者名を公表していたが、第2回目以降は投稿者名部分にモザイクをかけ、下段に「ガセビア投稿者の気持ちを考慮し 氏名は伏せさせていただきます」と注釈を入れている(「へぇの本」掲載時は第1回の投稿者名も「三重県・××さん」と伏せられた)。
このコーナーでは、「トリビアの泉」「トリビアの種」とは対照的に、画面左上には紫字の明朝体で「{{Color|purple|''明日使えないウソ知識に注意''}}」とテロップが表記されている。
当コーナーは番組後半もしくは番組終盤で行われていた。
1回の放送で、1本紹介されていた。
=== おさらいトリビア ===
番組の最後(エンディング/ 当番組のスタッフエンドロール部分)に、各放送回に紹介した「トリビア」の概要を得点の低いものから順に放送する。また、確認VTRに登場した声優やナレーターがナレーションを務め、「トリビア」の内容を読み上げるといった「お遊び」の要素も。ゴールデン移行当初から放送し、2004年以降は不定期での放送となる。
BGMは通常 [[フレッド・ジョリオ]]の『Romance』だが、一時期[[DJ Gert & M. Woods]]の『Once Upon A Time In The West (DJ Gert vs DJ Conka Opera Mix)』が使用されていたこともあるほか、『[[まんが水戸黄門]]』のオープニング曲『ザ・チャンバラ』、『[[子連れ狼 (曲)|子連れ狼]]』(3番のみ)、[[反町隆史]]の『POISON』など、紹介したトリビアにちなんだ曲に変更されることもある<ref group="注">『ザ・チャンバラ』と『子連れ狼』は、いずれも高橋の提案で変更された。</ref>。2005年頃は『[[ニャホ・ニャホ=タマクロー|ニャホニャホタマクロー]](かつて『[[みんなのうた]]』([[日本放送協会|NHK]]) で放送された『[[ラジャ・マハラジャー]]』の替え歌)』が{{要出典範囲|ほぼ毎週|date=2023年4月}}使われていた。
2006年7月5日と7月26日には[[Class (音楽グループ)|Class]]の『[[夏の日の1993]]』がBGMにフルコーラス使われたが、放送回のおさらいトリビアの後、長いのでスタッフロールの上に前回のおさらいトリビアも流れた。その際はClassの2人が砂浜で歌い、小窓でおさらいトリビアが流れた。
'''予告トリビア'''
おさらいトリビアの後、次週放送されるトリビアの中から選ばれた一つを途中まで読み上げる。その後すぐ、提供表示に移り、そのサイドテロップではそのトリビアに関係する一言が書かれている。
=== はぁ〜のコーナー ===
「トリビアの泉」に投稿された情報のうち、「へぇ」とすら言えない通常の「トリビアの泉」で扱うに至らないものをピックアップして紹介する。タイトルの「はぁ〜」はため息を表す。深夜番組時代に番組の最後にほぼ毎回行われていた。「一番むかつく「はぁ〜」は……」と言うトリビアも放送されたことがある。
主に投稿者の個人的なこと、検証が不可能なもの、バラエティ番組のネタとして適切でないものなど「こんなことをわざわざ送ってこなくっても……」と感じ取れるものを紹介した。
流れとして、タイトルコール後に高橋と八嶋が「はぁ〜」な投稿内容が書かれたハガキもしくはメールを見て「はぁ〜」とため息をつき、それをテーブルに置いて内容に文句を言いながらスタジオを去り、最後にその文面をカメラで映してどんな内容だったかが分かる。
=== 影のナレーション ===
2006年3月15日放送分より、メインのナレーションとは別に[[副音声付放送]]で並行して別の声優やタレントがナレーションを担当する『トリビアの影のナレーション(影ナレ)』が行われた。[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]では[[モノラル放送|モノステレオ放送]]で実施されていた。
“影ナレ”はメインのナレーションをベースに、その担当者が過去に演じた有名なキャラクターなどを暗示させる演技や語尾などのアレンジを加える。完全に副音声のみではなく、そのキャラクターの関連BGMと共にシルエット(実在する人物についてはシルエットではない)を出す紹介コーナーが番組中に何度か挿入される。また、番組中に別の“影ナレ”と交代する場合があり、その際はキャラクター同士で何かしらのやり取りをする。
エンドロールには「影のナレーション:???」としかクレジットされず、キャラクター名や著作権者の明記や(C)のマークの表記はない。しかし、「トリビアの種」内では影ナレを担当した声優本人および実名が出たことがあった。
地上アナログ放送の[[音声多重放送]]や[[デジタルチューナー]]が二重音声に対応していないといった受信環境や、一部のネット局設備で副音声に対応していないといった送信側の事情がある場合、紹介コーナー以外聞くことができない。[[北海道文化放送]]では札幌地区以外は番組が放送終了するまでは音声多重放送を実施していなかった。また、[[テレビ山口]]では当初“影ナレ”に対応していなかったが、2006年4月放送分から対応した。特番時代からは不定期で音声多重放送に対応する形になった。
===レインボ・一発、あのトリビアは今===
2005年11月16日、同局の[[報道番組]]『[[FNNレインボー発]]』をもじった「レインボ・一発」(れいんぼ・いっぱつ)を放送した。
過去の「トリビアの泉」で紹介されたトリビアのその後の展開を紹介するコーナー。
===Stardust Memory 〜言葉では伝えきれない映像〜===
正式コーナータイトル名は「高橋克実のスペシャルコーナー Stardust Memory 〜言葉では伝えきれない映像〜」。
トリビアプレゼンター(司会)である高橋克実の持ち込み企画であり『[[土曜プレミアム]]』枠のスペシャル放送から登場。高橋が日常であまり見ることのない「言葉にできない」映像、また誰かに伝えたいけれども、上手く伝えられない「トリビア」を[[小田和正]]の「言葉にできない」に合わせて紹介(ことわざ「ヘビににらまれたカエル」を実際に行う、[[ガチャピン]]がアルバイトや地味な仕事をするなど)。コーナーの背景は銀河系をモチーフとしたCGを[[ブルーバック]]で合成している。VTR後は高橋が[[ブラックホール]]に吸い込まれ、タモリと八嶋は呆れながら去って行く。VTRのナレーションは通常ナレーションを行う中江ではなく、[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]が担当している。
行われたのは2007年1月27日・5月12日のスペシャルのみ。
=== 小さい“へぇ”見つけた ===
2007年11月28日の特別番組時に放送。
コーナー名の元ネタは唱歌「[[ちいさい秋みつけた]]」。少しなら、確実に「へぇ」と言える小さな雑学を紹介するコーナー。「トリビア」紹介は通常形式だが小さい「へぇ」であるので、品評は品評会会長のタモリだけが行い、「へぇ」数はボタンに付いた小さなパネルで表示された。
=== お年玉トリビア ===
2012年1月1日の特別番組時に放送。テレビで見せる程の「トリビア」では無いため、一部だけを紹介し、後は当番組専用ホームページにて24時間限定で紹介された。
=== 禁断のトリビア ===
番組放送開始10周年目でテレビで言えなかった「禁断のトリビア」を2012年1月1日の特別番組時の放送内にて分けて紹介。全てのキーワードをつなげると「禁断のトリビア」が完成する仕組みとなっていたが、番組内では最後まで放送されず、最後の部分は当番組専用ホームページにて24時間限定で紹介された。
== 投稿者特典 ==
投稿採用者には獲得した「へぇ」の数に応じた賞金が贈られる。通常は1へぇにつき100円(例として70へぇの場合、賞金は70へぇ×100円=7,000円)で、「満へぇ」(100へぇ)の場合は10万円となる。ただし、今までの最高は「99へぇ」で、「満へぇ」の出た「トリビア」は放送終了まで1つもなかった(10人の時は「198へぇ」)。ちなみに今までの最低は「12へぇ」である(ただし、「小さい"へぇ"見つけた」のコーナーを除く)。深夜時代のある「トリビア」で「99へぇ」まで行った時、最後の「1へぇ」を残した[[はしのえみ|パネラー]]<!--へぇの本にも投稿者へのアドバイスを記したページに記載されている-->が「そこ(司会者が読んでいる紙)にない情報を教えてくれたら押す」などと言い結局押さなかったことがある。スペシャル放送(一部を除く)および『[[土曜プレミアム]]』枠での放送では審査員が10人に増やされ、最高は200へぇとなり、賞金は20万円である。
;各放送回で最も多くの「へぇ」を獲得したトリビア(今週のベストオブトリビア)
:脳をかたどった金色の「'''金の脳'''」が贈られる。「金の脳」は脳の部分が開閉できるようになっており、その中に[[メロンパン]]を収納できるメロンパン入れにもなっている。メロンパンである理由は単に「脳みそがメロンパンにも見える」からというだけのもので、深い意味はないと八嶋がコメント。2005年に「金の脳2005年モデル」にリニューアルされ、開き方が観音開きタイプから[[ガルウィングドア]](ランボドアともいう)タイプになった(開く際に効果音がなる仕組みになっている)。2006年には「金の脳2006年モデル」にリニューアルされ、台座に[[アナログ]][[時計]]が付いたものになる。2007年には金の脳の蓋がついた茶碗になった([[白子]]入れになっている)。2010年2月放送の特番では再び2006年モデルに戻された。2012年1月放送の特番では2006年モデルの時計の横に10周年を意味する「10th」の文字が飾られている。ただし、「おさらいトリビア」内の「本日の金の脳」紹介時にテロップの背景に映される「金の脳」は、初代タイプのまま。
:例外として、最も高いへぇを獲得したトリビアであるにもかかわらず金の脳ではなく銀の脳が贈られたことがある。
;高橋が個人的に最も気に入ったトリビア(マイフェイバリットトリビア、通称MFT)
:脳をかたどった銀色のオブジェ「'''銀の脳'''」が贈られる。サイズは「金の脳」よりも小さい。高橋が個人の独断で選んだ「トリビア」に採用されるため、「銀の脳」とはいうものの、2番目に「へぇ」を多く獲得した「トリビア」が選ばれるとは限らない(放送回で一番低いへぇだった「トリビア」が選ばれたこともある<ref group="注">No.476 「『役不足』は誉め言葉」(20へぇ)がその例。</ref>。5個集めると金の脳と交換できるという、[[チョコボール]]のおもちゃの缶詰プレゼントに似たシステムになっている。2005年に「銀の脳2005年モデル」にリニューアルされ、ネックストラップがついたものになる。[[ストラップ]]にはフジテレビのコールサイン「JOCX」の文字が書かれており、本来はフジテレビ関係者が使用する入構証ケースに付属して配布されるもの。また、2006年には「銀の脳2006年モデル」にリニューアルされ、台座にアナログ時計が付いたものになる。2007年には銀の脳の指輪(シルバーアクセサリー)になった(2010年以降は前モデルに戻されている)。
;80へぇ以上を獲得したトリビア
:タモリが選ぶ「'''粗品'''」が贈られる。「トリビア」にちなんだものやその「トリビア」から思いついた駄洒落から選ばれる<ref group="注">[[仮面ライダー]]に関する「トリビア」での[[お面]]と[[ライター]]、[[アンコウ]]に関する「トリビア」での[[軟膏]]など。なお、[[コレラ菌]]に関する「トリビア」では[[ハサミ]]、[[味噌]]、[[座布団]]を提示し「'''これら'''を差し上げます」とした。</ref>。ゴールデン移行と同時に導入され、初回では全ての「トリビア」に対して贈られていたが、2回目からは80へぇ以上で贈られるようになった。粗品は比較的安価なものが多く見受けられるが、[[カーナビゲーション|カーナビ]]や[[フカヒレ]]、[[自転車]]、[[万年筆]]といった豪華な粗品が贈られたこともある。
;トリビアの種採用者
:純金製の小さな「'''金の種'''」が送られる。換金はできない。
== ネット局と放送時間 ==
=== 月深時代 ===
<!--不定期放送局や非ネット局はこの表に加えないでください。また、遅れ日数は記載しないでください。-->
{|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
|+『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』ネット局と放送時間
|-
!放送対象地域!!放送局!!系列!!放送曜日・時間!!備考
|-
|[[関東地方|関東]][[広域放送|広域圏]]
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]](CX)
|rowspan="13"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]
|[[火曜日]]<br />1:40 - 2:10<br />([[月曜日|月曜]][[深夜]])
|'''制作局'''
|-
|[[北海道]]||[[北海道文化放送]](UHB)||[[土曜日]]<br />13:30 - 14:00||rowspan="2"|
|-
|[[広島県]]||[[テレビ新広島]](TSS)||月曜日<br />15:30 - 16:00
|-
|[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]](NST)||火曜日<br />1:40 - 2:10<br />(月曜深夜)<br />(2002年12月まで)<br />↓<br />遅れネット<br />(2003年1月以降)||2002年12月までは同時ネット。<br />2003年1月から遅れネット。
|-
|[[中京地方|中京広域圏]]||[[東海テレビ放送|東海テレビ]](THK)||不明||rowspan="9"|
|-
|[[近畿地方|近畿広域圏]]||[[関西テレビ放送|関西テレビ]](KTV)||<ref group="注">関西テレビでは月深時代、2003年1 - 3月は[[日曜日]]の朝9:00から放送されていた。2003年4月に[[土曜日]]の朝10:00から放送(日曜枠が『[[アストロボーイ・鉄腕アトム|ASTRO BOY 鉄腕アトム]]』の先行ネットに充てられたため)。関西テレビの場合は丁度月深時代の放送ストックを使い切ると同時にゴールデン版が始まった形になる。</ref>
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県<br/>香川県]]||[[岡山放送]](OHK)||rowspan="7"|不明
|-
|[[高知県]]||[[高知さんさんテレビ]](KSS)
|-
|[[福岡県]]||[[テレビ西日本]](TNC)
|-
|[[長崎県]]||[[テレビ長崎]](KTN)
|-
|[[熊本県]]||[[テレビ熊本]](TKU)
|-
|[[鹿児島県]]||[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)
|-
|[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]](OTV)
|-
|}
==== 補足 ====
*<sup>1</sup> 2002年10月7日 - 2003年3月17日 毎週[[月曜日]] 25:40 - 26:10([[日本標準時|JST]])放送。
*<sup>2</sup> [[フジテレビジョン|フジテレビ]]での視聴率が高かったことから、初めは放送を検討していなかった[[関西テレビ放送|関西テレビ]]などでも遅れて放送されるようになった。
*<sup>3</sup> 以上、フジテレビおよび遅れが6カ月以内(フジで放送があった期間内)の局のみ記載(単発放送局を除く)。
*<sup>4</sup> 2003年1月4日 15:15 - には初のスペシャルを放送した。このスペシャルは[[高知さんさんテレビ]]および当時ネットしていなかった[[長野放送]]で放送され、当時ネットしていた各局でも遅れて放送された。
*<sup>5</sup> また、当番組が後にゴールデンに進出し人気が上昇していくのを見て、[[テレビ静岡]]でもゴールデンの放送と並んで深夜に過去の深夜放送分を放送していた時期がある。
*<sup>6</sup> これ以外にも一時期フジテレビの[[チャンネルα]]枠にて月深時代の『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』を[[再放送]]していた。
=== ゴールデンタイム・全国ネット時代 ===
<!--不定期放送局や未ネット局はこの表に加えないでください。-->
{|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
|+『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』ネット局と放送時間
|-
!放送対象地域!!放送局!!系列!!放送曜日・時間!!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]](CX)<br />('''制作局''')
|rowspan="24"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]
|rowspan="27"|[[水曜日]]<br />21:00 - 21:54
|rowspan="27"|同時ネット
|-
|[[北海道]]||[[北海道文化放送]](UHB)
|-
|[[岩手県]]||[[岩手めんこいテレビ]](MIT)
|-
|[[宮城県]]||[[仙台放送]](OX)
|-
|[[秋田県]]||[[秋田テレビ]](AKT)
|-
|[[山形県]]||[[さくらんぼテレビジョン|さくらんぼテレビ]](SAY)
|-
|[[福島県]]||[[福島テレビ]](FTV)
|-
|[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]](NST)
|-
|[[長野県]]||[[長野放送]](NBS)
|-
|[[静岡県]]||[[テレビ静岡]](SUT)
|-
|[[富山県]]||[[富山テレビ放送|富山テレビ]](BBT)
|-
|[[石川県]]||[[石川テレビ放送|石川テレビ]](ITC)
|-
|[[福井県]]||[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]](FTB)
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]||[[東海テレビ放送|東海テレビ]](THK)
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]||[[関西テレビ放送|関西テレビ]](KTV)
|-
|[[鳥取県]]<br/>[[島根県]]||[[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]](TSK)
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県<br/>香川県]]||[[岡山放送]](OHK)
|-
|[[広島県]]||[[テレビ新広島]](TSS)
|-
|[[愛媛県]]||[[テレビ愛媛]]<ref group="注">2004年9月までの社名は愛媛放送。</ref>(EBC)
|-
|[[高知県]]||[[高知さんさんテレビ]](KSS)
|-
|[[福岡県]]||[[テレビ西日本]](TNC)
|-
|[[佐賀県]]||[[サガテレビ]](STS)
|-
|[[長崎県]]||[[テレビ長崎]](KTN)
|-
|[[熊本県]]||[[テレビ熊本]](TKU)
|-
|[[宮崎県]]||[[テレビ宮崎]](UMK)
|フジテレビ系列<br />[[日本ニュースネットワーク|日本テレビ系列]]<br />[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|-
|[[鹿児島県]]||[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)
|rowspan="2"|フジテレビ系列
|-
|[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]](OTV)
|-
|[[大分県]]||[[テレビ大分]](TOS)
|[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]<br />フジテレビ系列
|rowspan="5"|
|rowspan="5"|時差ネット
|-
|[[青森県]]||[[青森放送]](RAB)
|rowspan="3"|日本テレビ系列
|-
|[[山梨県]]||[[山梨放送]](YBS)
|-
|[[徳島県]]||[[四国放送]](JRT)
|-
|[[山口県]]||[[テレビ山口]](tys)
|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
|-
|}
==== 補足 ====
*<sup>1</sup> 2003年7月2日 - 2006年9月27日 毎週[[水曜日]] 21:00 - 21:54([[日本標準時|JST]])放送。
*<sup>2</sup> [[テレビ大分]]を除く[[フジネットワーク|FNS]]系列全局で同時ネットされた。
*<sup>3</sup> [[大分県]]では番組開始当初から2005年3月まで、フジテレビ系列(ただし[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列とのクロスネットである)の[[テレビ大分]]ではなく[[TBSテレビ|TBS]]系列の[[大分放送]]で放送されていた<ref group="注">2004年5月時点では土曜13:00 - 14:00に放送。([[大分合同新聞]] 2004年5月22日・29日付朝刊テレビ欄より)</ref>。ただし、2004年・2005年の[[元日]]特別放送回については、テレビ大分で同時ネット放送している(この特別番組がテレビ大分のフジテレビ同時ネット時間帯で組まれた関係)。その後、2005年3月26日を以って大分放送は本番組の放送を終了、同年4月からは本来の系列局であるテレビ大分で遅れて放送していた。
*<sup>4</sup> [[宮崎県]]ではゴールデンタイム移行後、フジテレビ系列の[[テレビ宮崎]]でクロスネット局では唯一、他のフジ系列局と同時刻に放送している。これは水曜21時枠で「トリビアの泉」を放送する以前の[[水曜劇場 (フジテレビ)|水曜劇場]]を放送していた頃からの流れ。また、レギュラー放送が終了して、特番でも土曜プレミアム枠で同時ネットした。なお、第3回目の放送では、本来の放送日である水曜日にあたったため、この場合も同時ネットした。
*<sup>5</sup> 山口県では、以前に数回[[山口放送]]で放送されていた事がある。
==== 上記系列外局でスペシャルを放送した系列局 ====
*[[青森放送]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系列]])
*:[[フジネットワーク|FNS]]で2007年1月27日放送分が7週遅れの3月17日に、同年5月12日放送分は5週遅れの6月16日に放送された。さらに11月28日放送分が約3カ月半遅れの2008年3月15日14時から放送された。<!---RAB公式ホームページから--->また、2009年7月18日の映画『[[アマルフィ 女神の報酬]]』の公開記念特別編は、2週遅れの8月1日16時から放送された。
=== スペシャル放送日(拡大版) ===
==== レギュラー放送時代 ====
放送日時は[[日本標準時|日本標準時(JST)]]。
レギュラー放送時代には、毎年[[正月]]にスペシャルが放送されていた。
{|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
!放送回!!放送日!!放送時間!!備考!!視聴率
|-
!colspan="5"|深夜時代
|-
|1||[[2003年]][[1月4日]]<br />([[土曜日]])||15:15 - 16:15(60分)||
*当番組初の[[土曜日]]の放送。
*当番組初の[[昼]]の時間帯に放送。
||13.3%
|-
!colspan="5"|ゴールデンタイム時代
|-
|2||2003年[[7月2日]]<br />([[水曜日]])||21:30 - 22:39(69分)||
*ゴールデンタイム時代の初回放送。
*通常枠より30分遅れで放送。
||20.5%
|-
|3||2003年[[9月24日]]<br />(水曜日)||21:00 - 22:15(75分)||
||26.1%
|-
|4||[[2004年]][[1月1日]]<br />([[木曜日]])||21:15 - 22:45(90分)||
*当番組初の[[木曜日]]の放送。
||20.7%
|-
|5||[[2005年]]1月1日<br />(土曜日)||21:15 - 22:30(75分)||
||19.8%
|-
|6||[[2006年]][[1月11日]]<br />(水曜日)||19:00 - 22:48(228分)||
*当番組過去最長の放送時間。
||17.0%
|-
|7||2006年[[9月27日]]<br />(水曜日)||21:00 - 23:18(138分)||
*レギュラー放送の最終回。
||12.0%
|}
==== 不定期放送時代(復活スペシャル) ====
放送日時は[[日本標準時|日本標準時(JST)]]。番組タイトル名はそれぞれ、『[[踊る大捜査線]]』、『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の[[ディオ・ブランドー]]のセリフ、『[[世界で一番君が好き!]]』、『[[家政婦のミタ]]』の三田灯のセリフが元ネタ。
{|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
!放送回!!番組タイトル!!放送日!!放送時間!!備考!!視聴率
|-
|1||'''トリビアの泉 復活SP<br />踊る大へぇへぇ祭り'''||[[2007年]][[1月27日]]<br />(土曜日)||[[土曜プレミアム|21:00 - 22:54(114分)]]||
*レギュラー放送終了以来の約4ヶ月ぶりの放送。
||17.7%
|-
|2||'''トリビアの泉<br />〜無駄無駄無駄無駄ァ! ムダ知識大放出SP〜'''||2007年[[5月12日]]<br />(土曜日)||[[タモリの雑学の祭典!|21:00 - 23:10(130分)]]||
*約4ヶ月ぶりの放送。
||15.4%
|-
|3||'''トリビアの泉<br />世界で一番“へぇ”が好きSP'''||2007年[[11月28日]]<br />(水曜日)||21:00 - 22:48(108分)||
*約半年ぶりの放送。
||17.1%
|-
|4||'''トリビアの泉 へぇへぇの種で大満開<br />久しぶりにやったらギネスまでとっちゃったよSP'''||[[2010年]][[2月27日]]<br />(土曜日)||[[土曜プレミアム|21:00 - 23:10(130分)]]||
*約2年3ヶ月ぶりの放送。
||20.1%
|-
|5||'''トリビアの泉 10周年「へぇ」祭りは<br />ベストオブベストで! 承知しましたSP'''||[[2011年]][[12月21日]]<br />(水曜日)||21:00 - 23:13(133分)||
*約1年10ヶ月ぶりの放送。
*2012年の『トリビアの泉』生誕10周年を前に深夜時代も含めた総集編。
*毎回、『トリビア』の合間に八嶋と高橋のショートドラマがあった。
||8.0%<ref group="注" name="mita">裏番組には[[テレビドラマ]]『[[家政婦のミタ]]』最終回(日本テレビ系列、視聴率40.0%)があった。ちなみに、サブタイトルに使われた「承知しました」は『家政婦のミタ』の主人公・三田灯([[松嶋菜々子]])が劇中で使用する台詞である。</ref>
|-
|6||'''トリビアの泉 祝10周年!<br />あけましてムダ知識SP'''||[[2012年]]1月1日<br />([[日曜日]])||21:00 - 23:30(150分)||
*番組生誕10周年記念のスペシャルで新作を放送。
*スペシャルでは放送時間が最長の放送。
*当番組初の[[日曜日]]の放送。
*[[元日]]放送は2005年以来の7年ぶり。
||10.3%
|}
=== ミニスペシャル ===
放送日時は[[日本標準時|日本標準時(JST)]]。2012年1月1日 21:00 - 23:30(JST)(番組生誕10周年)の『トリビアの泉 10周年! あけましてムダ知識SP』の放送前に4夜連続で「深夜にニヤっとできるトリビア」を各10分間放送した。
{|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
!放送回!!番組名!!放送日!!放送時間
|-
|1||'''もう5日寝るとお正月&トリビアの泉10周年SP'''||2011年12月28日||0:45 - 0:55
|-
|2||'''もう4日寝るとお正月&トリビアの泉10周年SP'''||2011年12月29日||0:10 - 0:20
|-
|3||'''もう3日寝るとお正月&トリビアの泉10周年SP'''||2011年12月30日||0:40 - 0:50
|-
|4||'''もう2日寝るとお正月&トリビアの泉10周年SP'''||2011年12月31日||0:10 - 0:20
|}
== 視聴率 ==
深夜時代から高視聴率を獲得し続けた結果、2003年7月2日に水曜日21時台の[[ゴールデンタイム]]に昇格。ゴールデンタイムの第1回の放送で'''20.5%'''の高視聴率を記録する好スタートを切った。その後も'''25%'''前後の高視聴率を獲得し続けて、時間帯のトップに躍り出た。
番組自体も社会現象になるほどのブームとなり、2004年に突入しても衰えることなく視聴率ランキングの常連に入っていたが、2005年になってしばらくした頃から視聴率は徐々に下がっていった。それでも2006年9月時点で平均2桁は維持していたもののレギュラー番組でやっていく上での改善が困難となりレギュラー放送を終了、その後は不定期の特番として放送されている。ゴールデンタイムでのレギュラー放送の平均視聴率17.8%は2003年以降に放送を開始したバラエティ番組では1位であり、2001年以降に放送を開始したバラエティ番組のレギュラー放送で最高視聴率が25%を超えたのはこの番組と『[[行列のできる法律相談所]]』(日本テレビ系列)のみである。
以下のデータはいずれも[[ビデオリサーチ]]調べ。
=== 深夜時代 ===
{{Empty section}}
=== ゴールデンタイム ===
*初回視聴率:'''20.5%'''(2003年7月2日放送)
*{{Color|red|最高視聴率:'''27.7%'''(2003年8月20日放送)}}
*{{Color|blue|最低視聴率:'''10.1%'''(2006年8月9日放送)}}
**特別編を含むと2006年8月2日放送の'''6.4%'''が最低視聴率
*最終回視聴率:'''12.0%'''(2006年9月27日放送)
*平均視聴率:'''17.8%'''
**2003年:'''23.5%'''
**2004年:'''19.6%'''
**2005年:'''15.7%'''
**2006年:'''14.0%'''
=== 特別放送枠 ===
*2007年1月27日放送回 視聴率:'''17.7%'''
*2007年5月12日放送回 視聴率:'''15.4%'''
*2007年11月28日放送回 視聴率:'''17.1%'''
*2010年2月27日放送回 視聴率:'''20.1%'''
*2011年12月21日放送回 視聴率:'''8.0%'''
*2012年1月1日放送回 視聴率:'''10.3%'''
== パロディ番組・企画 ==
人気番組だったため、本番組を様々な放送番組が[[パロディ]]にしたことがあった。
*『[[FNS27時間テレビ (2004年)|FNS27時間テレビ めちゃ<sup>2</sup>オキてるッ! 楽しくなければテレビじゃないじゃ〜ん!!]]』(フジテレビ系列)
**番組内で行われた「[[抜き打ちテスト (めちゃ×2イケてるッ!)#FNS全国一斉期末テスト(第5回)|FNS全国一斉期末テスト]]」の各局代表者発表において、本番組のへぇボタンのシステムが使われた。この27時間テレビで使われたボタンは押すと「べぇ」と鳴るため、通称は「べぇボタン」。これはこのコーナーに出演していた[[笑福亭鶴瓶]]に因んでいる。
**2局ずつ代表者を発表していき、その代表者についてのムダ知識を発表する。その2局のうち、べぇの数が多い局のテストの点数にそのべぇの数が点数として加算される。
*『[[FNS25時間テレビ|FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビ やっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!]]』(フジテレビ系列)
**『[[FNSの日]]』内で放送された「'''テレビヤの種'''」、「'''トリビアの温泉'''」(2005年7月23日 - 24日放送)。どららも、この年の『FNSの日』の通しコーナーとして行われた。なお、どちらのコーナーも本番組の司会の高橋と八嶋も出演していた。
**「テレビヤの種」はフジテレビスタッフの様々な企画を実現するコーナー。「トリビアの種」同様、タモリが5段階で評価し、「〜分咲き」および「満開」は通常の花に代わってフジテレビのマークで表された。大半の出演はタモリと八嶋だけで、高橋はコーナーの最後にのみ出演した。
**「トリビアの温泉」は[[フジニュースネットワーク|FNS]]全28局がそれぞれの地方の話題を「あっついご当地トリビア」として紹介するコーナー。感銘度を表す単位は「へぇ」に代わり「あっつい」が使われ、ボタン(ボタンは丸形のピンク色)を押した際の声も「あっつい」に。この声とVTRのナレーションは[[藤岡弘、]]が担当。司会は[[西山喜久恵]](フジテレビアナウンサー)と八嶋の2人で、高橋は23日のみ出演。品評会は「トリビアの泉」では見られない豪華出演者10名で構成された。(実質)品評会会長として[[島田紳助]]が特別参加した。「トリビアの温泉」では視聴者投票も実施する等とこの年のFNS局対抗戦の名に相応しい激闘が展開された。
*** なお、本番組では満へぇは一切出なかったが、当パロディでは満あっつい(200あっつい)を獲得したネタが登場した。
*『[[ズームイン!!サタデー]]』(日本テレビ系列)
**「サタビアの温泉」ボタンを押すと「ふぅ〜」
*『[[ハロー!モーニング。]]』 (テレビ東京)
**「'''トリビアの河童'''」コント「ミニモニ河童の花道」より。ボタンを押すと「河童」と声が出る。
*『[[ワンナイR&R]]』(フジテレビ系列)
**沖縄TV<ref group="注">実在する[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]とは無関係</ref>「'''シュリビアの泉'''」 - ボタンを押すと「あげぇ(沖縄の方言で驚いたときに使われる言葉)」と声が出る。
**ナレーションは当番組と同じ[[中江真司]]が担当した。
*『[[リンカーン (テレビ番組)|リンカーン]]』(TBS系列)
**「'''[[リンカーンの企画・コーナー#短期の企画|どんだけぇ〜の泉]]'''」「'''[[リンカーンの企画・コーナー#短期の企画|どんだけぇ〜の雫]]'''」- 前者は番組メンバーの、後者は若手芸人の知られざる特技やエピソードを紹介する。ボタンを押すと「[[どんだけ〜]]」という声が出る。
**司会は[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]がそれぞれ[[浜田雅功]]が八嶋智人、[[松本人志]]が高橋克実に扮した。
*『[[HAMASHO]]』(日本テレビ系列)
**「'''トレビア〜ンの泉'''」
*『[[ロンブー龍]]』(日本テレビ系列)
**「'''トレビアンの泉'''」
*『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』(フジテレビ系列)
**「'''ノリビアの泉'''」- ボタンを押すと「まじぃ」
**[[とんねるず]]が司会者二人に扮するパロディコーナー。[[木梨憲武]]が八嶋智人似のキャラクター、[[石橋貴明]]が高橋克実似のキャラクターに、それぞれ扮していた。
*『[[リチャードホール]]』(フジテレビ系列)
**「'''ゲスビアの泉'''」・「'''ゲスビアの種'''」 ともに本家で出演のビビる大木がリチャードホールレギュラー出演。
*『[[めちゃ×2イケてるッ!|めちゃ<sup>2</sup>イケてるッ!]]』 (フジテレビ系列)
**人気コーナーだった『[[単位上等!爆走数取団]]』
**「'''数取ビアの泉'''」2003年8月30日に八嶋がゲスト(兄貴)として登場。それに伴い数取団メンバー達のムダ知識として一人ずつ披露した。
*『[[FNN踊る大選挙戦]]』(フジテレビ系列)(2003年11月9日、[[第43回衆議院議員総選挙]])
**『FNN踊る大選挙戦』(2004年7月11日、[[第20回参議院議員通常選挙]])、『[[FNNスーパー選挙王]]』(2007年7月29日、[[第21回参議院議員通常選挙]]) - 「'''選挙トリビア'''」
**[[国政選挙]]の開票日に組まれる[[選挙特別番組]]では息抜き企画としてCM前に放送している。
**ナレーターは[[中江真司]]ではなく[[伊武雅刀]]。この企画は番組の性格上、ローカル開票速報に突然移ったりするので飛ばしになる局もある。そのため[[福島テレビ]]では2004年7月11日の[[第20回参議院議員通常選挙]]の開票特別番組『[[FNN踊る大選挙戦]]』で放送できなかった部分を再編集して翌日の「[[Lばんスーパーニュース]]」の一企画として放送。
**内容は議員の趣味や特技、政治のこぼれ話などが主体。
*[[大韓民国|韓国]]の[[韓国放送公社|KBS]]第2テレビで放映されている『[[スポンジ (テレビ番組)|スポンジ]]』は、内容が全て「トリビアの泉」の盗作であるとの批判を受けた。
*『[[伊集院光深夜の馬鹿力]]』([[TBSラジオ]])
**「[[伊集院光 深夜の馬鹿力のコーナー#2006年|ウソチクの泉]]」もっともらしい'''ウソのトリビア'''を紹介するコーナー。
*『[[タモリ倶楽部]]』(テレビ朝日系列)
**「'''エロビアの泉'''」ボタンを押すと「あへぇ〜」と声が出る。
**本家の品評会会長であるタモリが出演した異例のパロディである。
*『[[熱闘甲子園]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]])
**「'''熱トリビアの泉'''」高校野球にまつわるトリビアが日替わりで放送された。
*『[[アサデス。|アサデス。KBC]]』([[九州朝日放送]])
**「'''福岡トリビア'''」
*『トリビアの泉 映画「アマルフィ 女神の報酬」で久しぶりに「へぇ」SP』
**映画『[[アマルフィ 女神の報酬]]』のPR番組として2009年夏にフジテレビで放送。映画ロケでのこぼれ話をもとに構成。司会は高橋と八嶋が担当したが、パネラーはビビる大木のみであったため最大は20へぇであった。
*『[[SUPER SURPRISE]]』(日本テレビ系列)
**金曜日のコーナー「'''爆笑ルポルタージュー!'''」
**「へぇ」の代わりに「びっくりポイント」を採点、ボタンを押すと「びっくり」と言う。
*『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン(リメイク版)]]』(日本テレビ系列)
**第1話 - 第35話に、トリビアを紹介するコーナー「ドクちゃんの豆知識」があった。また、回によっては本家によく似たセットで、[[三悪 (タイムボカンシリーズ)|ドロンジョ・ボヤッキー・トンズラー]]が「へぇボタン」の代わりにボヤッキーの声が入った「[[ポチッとな]]ボタン」を押して品評することがあった。
*『[[田村ゆかりのいたずら黒うさぎ]]』([[文化放送]])
**トリビアのゆかり。
*『エゾビアの泉』([[北海道文化放送]])
**同局の2003年秋改編特番として『[[YASUのえき☆スタ@noon|えき☆スタLIVE@noon]]』の放送枠で放送され、北海道にまつわるトリビアが紹介された。
**本家で出演のビビる大木がゲスト出演した。
* 『[[爆買い☆スター恩返し]]』(フジテレビ)
**3月25日放送分で、ロケゲストに本番組司会者の高橋克実が、出演しており、それをオマージュした企画『バクビアの泉』が放送された。本家同様、「へぇボタン」等が再現された。
**本家で出演していたビビる大木もゲストとして参加している。
*『エモイナの泉』
**アニメ『[[バンドリ! ガールズバンドパーティ!|バンドリ!ガールズバンドパーティ! BanGDream! ガルパ☆ピコふぃーばー!]]』 4話にて、[[Afterglow]](アフターグロウ)がエモい話しを紹介するコーナーではあるが、主に美竹蘭(声・[[佐倉綾音]])の小ネタであった。 司会はタモリの格好をした青葉モカ(声・[[三澤紗千香]])。
* 『かねビアの泉』
** 『 [[有吉のお金発見 突撃!カネオくん]]』([[日本放送協会|NHK]])2021年6月12日放送分で放送され、番組のキャラクターのカネオくん(声 ・[[ノブ (お笑い芸人)|ノブ(千鳥)]])。がさけるチーズの誕生秘話を話し、「ヘぇボタン」の代わりに出演者が「へぇ」を口で言うシステムだが、誰も言わなかった。
* 『バコビアの泉 ~素晴らしきエロ知識〜』
** 『[[ケンコバのバコバコテレビ|ケンコバのバコバコナイト]]』([[サンテレビジョン|サンテレビ]])2021年8月28日 (27日深夜)放送分で放送され、レギュラー出演者の[[AV女優]]3人がエロにまつわる雑学(バコビア)を披露した。
*「トリビアの湖」
**『[[佐藤健&千鳥ノブよ!この謎を解いてみろ!]]』(TBS系列)にて、[[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]と[[千鳥 (お笑いコンビ)|千鳥]]のノブがメインを務める謎解きバラエティ特番。2022年8月8日放送の第4弾に行われた団体戦問題の1つとして登場。モニターに映った進行役の高橋([[ずん]]・やす)に謎解き参加の芸能人達がトリビアを披露、それを審査員のタモリ([[コージー冨田]])がぼたんを押し「100ほぉ」を集めたらノルマクリア。ただし、タモリがボタンを押しても90ほぉまでためれないので、うまく100ほぉを集めるため謎を解く。
*『[[ラヴィット!]]』(TBS系列)
** 2023年9月27日放送当日が、本番組司会者の八嶋の誕生日であることに因み、オープニングを「きっとみんながへぇ〜と思うもの」として放送<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20230927-GBDEFMBX7VLI3OKLSFCNX3CB4A/|title=TBS田村真子アナ、体を張って23回 「ラヴィット!」でトリビアなこと紹介〝ビリビリ椅子〟回数でまさかの3位に|date=2023-09-27|accessdate=2023-09-27|website=ZakZakpublisher=夕刊フジ}}</ref>。当日の生放送出演者が、本家同様の概要紹介VTRを用意してトリビアを披露し、こちらも本家同様の「へぇボタン」で他の出演者が評価した。ただし、司会の[[川島明]]曰く「何度もへぇボタンを押すと、生放送ではうるさいのでは」ということで、1回だけ押せるシステムとなり、ボタンを押すとラッピー(声:[[田中沙耶]])の声で「へぇ」と流れ、出演者の前方にあるモニターがラッピーだけのものから、「へぇ」の文字が追加されたものに切り替わる<ref group="注">1回だけ押す、押すと前方のモニターが切り替わる形式は『[[ナニコレ珍百景]]』(テレビ朝日系列)と同様。</ref>。
== 備考 ==
=== エピソード ===
*番組では放送されたにもかかわらず、番組で紹介した「トリビア」をまとめた『トリビアの泉 へぇの本』には掲載されなかった「トリビアの泉」・「トリビアの種」・「ガセビアの沼」がいくつか存在する。これは、「事実と違っていた(放送後にお詫びなどを放送した)」、「[[営業妨害]]につながる」、「みんな知っている」、「極度な[[下ネタ]]である」、「残酷な内容が含まれていて不快」、「青少年の[[家出]]を助長している」、「[[個人情報漏洩]]([[個人情報保護法]]違反の抵触)につながる」、「他人への[[嫌がらせ]]につながる」、「[[動画]]や[[音声]]でないと分かりづらい」などの理由や被伝者・版権などによる複雑な権利絡み(特に映画)などのため、掲載が難しいためである。
*番組の公式番組サイトの[[Uniform Resource Locator|アドレス]]は'''www.fujitv.co.jp/trivia/'''だったが、現在(2012年1月時点)は'''www.fujitv.co.jp/b_hp/trivia/'''へのリダイレクトとなっている。2003年8月 - 9月の間は、'''www.trivianoizumi.com''' だった。公式サイトの更新は2007年1月の「復活スペシャル」より行われていなかったが、2011年10月の時点でも「トリビア」の募集ページなどサイトの内容は残されていた。
*2004年9月15日の放送では、No.552「天然の[[ウナギ]]の[[卵]]は[[人類]]史上未だ発見されたことがない」という「トリビア」は放送当時は確かに発見されていないものであったが、その5年後2009年5月に[[日本]]の調査隊が実際に人類史上初めて発見に成功した。なお、場所は[[マリアナ諸島]]近辺の水深約160メートル付近であった。
*2012年1月1日の放送では、特番の番組予告宣伝CMで「もし、お父さんが犬になったら」という「トリビアの種」の予告が放送されたが、番組内では放送されなかった。フジテレビはこれについて、ホームページ上で「内容が盛り沢山すぎて入り切らなかった」と発表しており「次回をご期待ください」と記載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fujitv.co.jp/b_hp/trivia/index.html|title=トリビアの泉|work=フジテレビ|accessdate=2022-10-02}}</ref>が前述にあるようにこの回を最後に放映はされていない。
=== 番組の評価 ===
*[[アジア太平洋放送連合]](ABU)・第41回総会でABU賞([[テレビ]]・[[エンターテインメント]]部門)を受賞した。番組では「ムダ知識」とは言いながらもこれまで一般に知られていなかったことや意外に役に立つ雑学が紹介されたこともあり(後になるとネタ切れのためそのような「トリビア」は減った)、[[日本PTA全国協議会]]の「[[子供]]に見せたい番組」の調査でランクインしたこともある。トリビアプレゼンター(司会)の八嶋の説明する「補足トリビア」がためになると評価されたこともある。
=== 流行語大賞 ===
*「へぇ」の言葉は放送を重ねるごとに世間に広まり、2003年には「[[新語・流行語大賞|ユーキャン流行語大賞]]」のトップテンに選出された(登録上は「へぇ〜」)。
=== ギネス記録 ===
*2010年2月27日スペシャルにおいて、トリビアプレゼンター(司会)の高橋が自らトリビアを投稿し、自身が[[ピタゴラスイッチ]]のような[[装置]]([[ルーブ・ゴールドバーグ・マシン]])を作る[[ギネス世界記録|ギネス]]記録に認定されていたことを明かした。しかし、実際はフジテレビ本社で行われたギネス挑戦中に、たまたま現場に居合わせた高橋がギネス賞を授かった物であることが明らかとなった。
=== 番組の影響 ===
*番組が[[ゴールデンタイム]]に放送され始めた2003年からおよそ2年後の2005年から2006年にかけて、この番組を模した「'''トリビアの泉の実験'''」という[[チェーンメール]]が流行した。内容は「一人から複数の知り合いへ[[メール]]を送り、それを繰り返してどこまでメールが広がるか」という物であった。番組とは一切関係は無く、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]は番組内や公式[[ホームページ]]のトップで注意を促した<ref name="trivia030808"/><ref name="trivia060813"/><ref group="注">ちなみに『[[ザ!鉄腕!DASH!!]]』([[日本テレビ]]系)でも同じようなことが起きている</ref>。
== 関連商品 ==
=== 文献(書籍) ===
*『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本』 第1巻から第19巻 - [[講談社]] / フジテレビ 〜トリビア普及委員会〜
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 1』({{ISBN2|4-06-352702-6}}) 2003年6月25日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 2』({{ISBN2|4-06-352703-4}}) 2003年6月25日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 3』({{ISBN2|4-06-352704-2}}) 2003年9月3日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 4』({{ISBN2|4-06-352706-9}}) 2003年11月発行<!--。2003年8月13日 - 2003年10月15日放送分-->
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 5』({{ISBN2|4-06-352710-7}}) 2004年3月発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 6』({{ISBN2|4-06-352711-5}}) 2004年3月発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 7』({{ISBN2|4-06-352717-4}}) 2004年7月発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 8』({{ISBN2|4-06-352718-2}}) 2004年8月8日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 9』({{ISBN2|4-06-352728-X}}) 2004年12月15日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 10』({{ISBN2|4-06-352729-8}}) 2004年12月15日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 11』({{ISBN2|4-06-352733-6}}) 2005年4月27日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 12』({{ISBN2|4-06-352734-4}}) 2005年4月27日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 13』({{ISBN2|4-06-352738-7}}) 2005年11月9日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 14』({{ISBN2|4-06-352739-5}}) 2005年11月9日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 15』({{ISBN2|4-06-352743-3}}) 2006年4月19日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 16』({{ISBN2|4-06-352744-1}}) 2006年4月19日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 17』({{ISBN2|4-06-352745-X}}) 2006年9月27日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 18』({{ISBN2|4-06-352746-8}}) 2006年9月27日発行
**『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 へぇの本 19』({{ISBN2|978-4-06-352747-6}}) 2007年1月25日発行
*『金のへぇトリビアの泉 金の脳だけセレクション〜』 - 講談社 ({{ISBN2|9784063527483}})
*『トンデモ一行知識の世界』 - [[唐沢俊一]] ({{ISBN2| 4479390634}}/{{ISBN2|4480037241}})
*『トンデモ一行知識の逆襲』 - 唐沢俊一 ({{ISBN2|4479390804}}/{{ISBN2|4480039171}})
=== 関連商品 ===
*『1/1へぇボタン』 - [[バンダイ]]が「へぇボタン」の形状、効果音を再現した
== 関連番組 ==
*[[FNS25時間テレビ|FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビ やっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!]](フジテレビ系列)
*:2005年7月23日・7月24日放送の2005年の『[[FNSの日|FNS27時間テレビ]]』。同番組内で「トリビアの温泉」「テレビヤの種」といった当番組のコーナーが行われた。
*[[警護官 内田晋三]](フジテレビ系列)
*:2007年1月27日放送の『トリビアの泉 今夜復活踊る大へぇへぇ祭り!!』([[土曜プレミアム]]) 内にて放送されたミニ[[テレビドラマ]]。
*[[芸能人格付けチェック]]([[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]制作・[[テレビ朝日]]系列)
*:高橋と八嶋が当番組のチーム名で3回出演。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[トリヴィア]]
*[[チコちゃんに叱られる!]] - 同番組制作会社のスタッフが多く関わり、トリビア系の番組をまた作りたいとフジテレビに提案したが断られ、NHKに持ち込まれたという経緯がある。
== 外部リンク ==
*[https://www.fujitv.co.jp/b_hp/trivia/index.html トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜] - フジテレビによる公式サイト
*[https://web.archive.org/web/20051004075921/http://trivia.mansion.s3p.net/ トリビアの泉~素晴らしきボツ知識~] - ファンサイト
{{前後番組
|放送局 = [[フジテレビジョン|フジテレビ]]
|放送枠 = [[月深|火曜1:40 - 2:10(月曜深夜)枠]]
|番組名 = トリビアの泉<br />〜素晴らしきムダ知識〜<br />(2002年10月 - 2003年3月)
|前番組 = [[NEW GENERATION]]<br />※0:58 - 1:58
|次番組 = SDM発!<br />※ 1:28 -
|2放送局 = [[フジネットワーク|フジテレビ系列]]
|2放送枠 = [[水曜日|水曜]]21:00 - 21:54枠
|2番組名 = トリビアの泉<br />〜素晴らしきムダ知識〜<br />(2003年7月 - 2006年9月)<br />【ここからバラエティ枠】
|2前番組 = [[ダイヤモンドガール]]<br />【ここまで[[水曜劇場 (フジテレビ)|ドラマ]]枠】
|2次番組 = [[ザ・ベストハウス123]]
}}
{{Navboxes|
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{{タモリ}}
{{ビビる大木}}
{{山中秀樹}}
{{牧原俊幸}}
{{内田恭子}}
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{{FNSの日}}
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{{デフォルトソート:とりひあのいすみ すはらしきむたちしき}}
[[Category:フジテレビのバラエティ番組の歴史]]
[[Category:フジテレビの情報・ワイドショー番組]]
[[Category:フジテレビの教養番組]]
[[Category:2002年のテレビ番組 (日本)]]
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14,185 |
14
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14(十四、じゅうし、じゅうよん、とおよん、とおあまりよつ)は自然数、また整数において、13の次で15の前の数である。ラテン語では quattuordecim(クァットゥオルデキム)。
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14(十四、じゅうし、じゅうよん、とおよん、とおあまりよつ)は自然数、また整数において、13の次で15の前の数である。ラテン語では quattuordecim(クァットゥオルデキム)。
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'''14'''('''十四'''、じゅうし、じゅうよん、とおよん、とおあまりよつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[13]]の次で[[15]]の前の数である。[[ラテン語]]では quattuordecim(クァットゥオルデキム)。
== 性質 ==
*14は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[7]], 14 である。
**[[約数の和]]は[[24]]。
***約数の和が3の倍数になる7番目の数である。1つ前は[[11]]、次は[[15]]。
***約数の和が4の倍数になる5番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[15]]。
***自身の数14を除く約数の和は[[10]]より[[不足数]]である。
**約数を4個もつ4番目の数である。1つ前は[[10]]、次は[[15]]。
***約数を ''n'' 個もつ ''n'' 番目の数である。1つ前は[[25]]。次は[[14641]]。({{OEIS|A073916}})
*14 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}}
**3番目の[[四角錐数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[30]]。
***初めの3つの[[平方数|四角数]]の和 (14 = 1 + 4 + 9) である。
**3連続整数の平方和で表せる自然数の範囲では最小の数である。ただし整数の範囲だと1つ前は[[5]]、次は[[29]]。
**自然数の平方和とみたとき1つ前は[[5]]、次は[[30]]。
**''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[36]]。
***14 = 0{{sup|2}} + 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}}
**** 4連続整数の平方和とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[30]]。ただし負の数を含まないときは最小。
** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる6番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[17]]。({{OEIS|A025321}})
** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる最小の自然数である。次は[[21]]。({{OEIS|A025339}})
** 異なる3つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる自然数のうち最小のものである。次の2通りは[[62]]。({{OEIS|A025415}})
*4番目の[[カタラン数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[42]]。
:<math>14 = \frac{8!}{5!\times 4!} = \frac{6\times 7\times 8}{1\times 2\times 3\times 4}</math>
* 14 = 2 × 7
** 5番目の[[半素数]]である。1つ前は[[10]]、次は[[15]]。
** ''n'' = 1 のときの 2 × 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[98]]。({{OEIS|A109808}})
** ''n'' = 1 のときの 7 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は[[28]]。({{OEIS|A005009}})
** 2番目の[[メルセンヌ素数]][[7]]の2倍の数である。これは2番目の完全数[[28]]の[[素因数]]の積が14になることを示している。1つ前は[[6]]、次は[[62]]。
*** [[完全数]][[28]]を2で割った商である。
****完全数を2で割った商を表す数とみたとき2番目の数である。1つ前は[[3]]、次は[[248]]。({{OEIS|A133028}})
****完全数の約数とみたとき8番目の数である。1つ前は[[8]]、次は[[16]]。({{OEIS|A096360}})
*[[偶数]]の[[ノントーシェント]]のうち最小の数である。次は[[26]]。
*[[ハーシャッド数]]でない最小の合成数である。
**各位の和が14になる[[ハーシャッド数]]の最小は[[266]]、1000までに5個、10000までに41個ある。
*14{{sup|2}} + 1 = [[197]] であり ''n''{{sup|2}} + 1 の形で[[素数]]を生む6番目の数である。1つ前は[[10]]、次は[[16]]。
*14[[階乗|!]] = 87178291200
** ''n'' = 14 のときの ''n''! − 1 で表せる 14[[階乗|!]] − 1 は6番目の[[階乗素数]]である。1つ前は[[12]]、次は[[30]]。({{OEIS|A002982}})
*:14! − 1 = 87178291199
*{{sfrac|1|14}} = 0.0{{underline|714285}}… (下線部は循環節で長さは6)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる3番目の数である。1つ前は[[13]]、次は[[21]]。
*[[九九]]では 2 の段で 2 × 7 = 14 (にしちじゅうし)、7 の段で 7 × 2 = 14 (しちにじゅうし)と2通りの表し方がある。
*''d''(''n'') = ''d''(''n'' + 1) を満たす2番目の数である。1つ前は 2、次は [[21]]。(ただし''d''(''n'') は[[約数関数]])
*''σ''(''n'') = ''σ''(''n'' + 1) を満たす最小の数である。次は[[206]]。(ただし''σ''(''n'') は約数関数)
**(14, 15) の組には、14の約数 → 1, 2, 7, 14 、15の約数 → 1, [[3]], 5, 15 となり 1 + 2 + 7 + 14 = 1 + 3 + 5 + 15 = 24 が成り立つ。
*14 = 2{{sup|1}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|3}}
** [[2]]の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[30]]。
**''a'' = 2 のときの ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[3]]、次は[[39]]。
*[[約数]]の和が14になる数は1個ある。([[13]]) 約数の和1個で表せる8番目の数である。1つ前は[[13]]、次は[[15]]。
*[[各位の和]]が5になる2番目の数である。1つ前は[[5]]、次は[[23]]。
** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が5になる最小の数である。
*各位の[[平方和]]が17になる最小の数である。次は[[41]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の16は[[4]]、次の18は[[33]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が65になる最小の数である。次は[[41]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の64は[[4]]、次の66は[[114]]。({{OEIS|A165370}})
* 各位の積が4になる2番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[22]]。({{OEIS|A199987}})
* 14番目の[[三角数]]は[[105]]で初めて3桁の数になる。いいかえると1から[[自然数]]を加えていくと14で初めて3桁になる。1つ前は[[4]]、次は[[45]]。({{OEIS|A068092}})
* ''n''{{sup|2}} の数を昇順に並べた数とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[149]]。({{OEIS|A019521}})
== その他 14 に関連すること ==
*14の[[接頭辞]]:quattuordec([[ラテン語|拉]])、tetrakaideca([[ギリシャ語|希]])
*14[[倍]]を'''クヮトゥオーデキュプル''' (quattuordecuple) という。
*[[英語]]では、14日間(2週間)を '''fortnight''' という。
*[[第14族元素]]を炭素族元素という。
*[[原子番号]]14の[[元素]]は[[ケイ素|硅素]] (Si)。
*[[水]]の[[イオン積]]は 25°C で 1 × 10{{sup|−14}} (mol/L)²。
**このことから [[水素イオン指数|pH]] の最大値は14であると誤解されることが多い。
*第14代[[天皇]]は、[[仲哀天皇]]。
*第14代[[内閣総理大臣]]は、[[西園寺公望]]。
*通算して第14代の[[征夷大将軍]]は、[[守邦親王]](鎌倉幕府第9代将軍)。
*[[鎌倉幕府]]第14代[[執権]]は、[[北条高時]]。
*[[室町幕府]]第14代将軍は、[[足利義栄]]。
*[[江戸幕府]]第14代将軍は、[[徳川家茂]]。
*[[大相撲]]第14代[[横綱]]は、[[境川浪右エ門]]。
*[[アメリカ合衆国]]第14代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、[[フランクリン・ピアース]]。
*アメリカ合衆国の14番目の[[州]]は、[[バーモント州]]。
*[[殷|殷朝]]第14代帝は、[[祖辛]]。
*[[周|周朝]]第14代王は、[[桓王]]。
*第14代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ウィクトル1世 (ローマ教皇)|ウィクトル1世]](在位:[[189年]]~[[199年]])である。
*[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は、 [[ブルボン朝]]第3代[[フランス王]]。
*[[ダライ・ラマ14世]]は、第14代の[[ダライ・ラマ]]。
*[[タロット]]の[[大アルカナ]]で XIV は、[[節制]]。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第14番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#大有|火天大有]]。
*[[クルアーン]]における第14番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[イブラーヒーム (クルアーン)|イブラーヒーム]]である。
*[[月#月齢と呼び名|十四日月]]を小望月(こもちづき)、幾望(きぼう)という。
*結婚14周年記念日は、[[結婚記念日|象牙婚式]]。
*年始から数えて14日目は[[1月14日]]。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「14」は[[神奈川県]]。
*[[北海道]]の[[支庁]]は14庁ある。
*[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]([[全国独立UHF放送協議会|独立UHF局]])の[[地上アナログテレビジョン放送|アナログ放送]]は 14ch。1971年から1975年までは、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]が [[NHK UHFテレビ実験局|UHF実験放送]]をしていた。
*日本では14歳になると[[刑法 (日本)|刑法]]上の[[刑事責任]]を問うことが出来る様になる。
*[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[読売新聞]]、[[日本経済新聞]]の[[朝刊]]最終版は14版。
*[[伊号第十四潜水艦]]は、[[大日本帝国海軍]]の[[潜水艦]]。
*[[ブレゲー 14]]は、[[フランス]]の[[爆撃機|爆撃]]・[[偵察機]]。
*各種の[[C14]]
*[[F-14 (戦闘機)|F-14]] トムキャットは、アメリカ合衆国の[[戦闘機]]。
*[[ロッキード L-14 スーパーエレクトラ|L-14]] スーパーエレクトラは、アメリカ合衆国の[[ロッキード]]の[[旅客機]]。
*[[スプリングフィールドM14|M14]] は、アメリカ合衆国の[[自動小銃]]。
*[[Mi-14 (航空機)|Mi-14]] は、[[ソビエト連邦]]の[[ヘリコプター]]。
*[[X-14 (航空機)|X-14]] は、アメリカ合衆国の[[実験機]]。
*[[麻雀]]の上がり形は、14牌からなる。
*[[読売ジャイアンツ]]の背番号14は、[[沢村栄治]]の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]。
*[[ヨハン・クライフ]]が14番を好んで付けていたことから、[[サッカー]]選手に好まれる背番号となっている。
*[[交響曲第14番]]
*[[弦楽四重奏曲第14番]]
*[[ピアノソナタ第14番]]
*[[14 Words]]は、[[白人至上主義]]運動でスローガンとして用いられる隠語。
*『[[14才の母]]』は、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]製作の2006年の[[テレビドラマ]]。
*『[[14_(漫画)|14(ジューシー)]]』は、[[亜桜まる]]の[[漫画]]。
*『[[14ひきのシリーズ]]』は、[[いわむらかずお]]の[[絵本]]。
*『[[14番目の月]]』は、[[荒井由実]]の[[アルバム]]。
*『[[名探偵コナン 14番目の標的|14番目の標的(ターゲット)]]』は、劇場版『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』の第2作目。
*作家[[J・H・ブレナン]]によるゲームブックのシリーズ『[[グレイルクエスト]]』(邦訳名ドラゴン・ファンタジー)において、パラグラフ14へ行く=死ぬ、ゲームオーバーを意味する。
*[[大日本帝国陸軍]][[第14方面軍 (日本軍)|第14方面軍]]
*各国の[[第14軍]]
*各国の[[第14師団]]
*各国の[[第14旅団]]
*第14連隊
**大日本帝国陸軍[[歩兵第14連隊]]
**[[陸上自衛隊]]
***[[第14普通科連隊]]
***[[第14特科隊]]
***[[第14後方支援隊]]
*[[東洋哲学|東洋思想]]では[[月見|十五夜]]([[満月]])に当たる15という数字を「完全な物」として捉える思想がある。一方で14を「完全に一歩及ばない不完全な物」として、珍重されることもある。
**[[龍安寺]](りょうあんじ。[[京都府]][[京都市]][[右京区]]にある[[臨済宗]]妙心寺派の寺院)の石庭には15個の石が並べてある。15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されていると云われ、15に1つ足りない14を「不完全さ」を表す物とされている
*妊娠14週目で[[胎盤]]が完成し、ウエストラインが崩れる。
* [[錯視]]図形の[[ペンローズの階段]]は14段である。
* [[高木酒造]]が生産している[[日本酒]](十四代)
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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|}
== 関連項目 ==
*[[数に関する記事の一覧]]
**[[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]]
**[[10]] [[11]] [[12]] [[13]] '''14''' [[15]] [[16]] [[17]] [[18]] [[19]]
**'''14''' [[28]] [[42]] [[56]] [[70]] [[84]] [[98]] [[112]] [[126]] [[140]] [[154]]
*[[西暦]][[14年]] [[紀元前14年]] [[1914年]] [[2014年]] [[14世紀]] - [[平成14年]] [[昭和14年]] [[大正14年]] [[明治14年]] - [[1月4日]]
*[[名数一覧]]
*[[14歳|14歳(才)、十四歳(才)]]
*[[フォーティーン]]
{{自然数}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/14
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14,186 |
15
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15(十五、じゅうご、とおあまりいつつ)は、自然数、また整数において、14の次で16の前の数である。ラテン語では quindecim(クィーンデキム)。
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15(十五、じゅうご、とおあまりいつつ)は、自然数、また整数において、14の次で16の前の数である。ラテン語では quindecim(クィーンデキム)。
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'''15'''('''十五'''、じゅうご、とおあまりいつつ)は、[[自然数]]、また[[整数]]において、[[14]]の次で[[16]]の前の数である。[[ラテン語]]では quindecim(クィーンデキム)。
== 性質 ==
* 15 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[3]], [[5]], 15 である。
**[[約数]]の和は[[24]]。
***約数の和が3の倍数になる8番目の数である。1つ前は[[14]]、次は [[17]]。
**7番目の奇数である。
**2番目の[[奇数]]の[[合成数]]である。1つ前は[[9]]、次は[[21]]。({{OEIS|A071904}})
** [[素数]]を除いて σ(''n'') − ''n'' が[[平方数]]になる4番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[24]]。ただしσは[[約数関数]]。({{OEIS|A048699}})
*15 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5
**5番目の[[三角数]]である。1つ前は[[10]]、次は[[21]]。
***3番目の[[素数]]番目の三角数である。1つ前は[[6]]、次は[[28]]。({{OEIS|A034953}})
**3番目の[[六角数]]である。1つ前は[[6]]、次は[[28]]。
**:15 = 3 × (2 × 3 − 1)
*15 = [[3]] × [[5]]
**6番目の[[半素数]]である。1つ前は[[14]]、次は[[21]]。
*** [[素因数分解]]したとき ''p'' × ''q'' の形で表せる奇数の異なる素数 ''p'' , ''q'' からできる数とみたとき最小の数である。次は[[21]]。({{OEIS|A046388}})
** 15 ={{sfrac|2 × 3 × 5|2}}
*** 3番目の最初の連続素数の積を半分にした数である。1つ前は[[3]]、次は[[105]]。({{OEIS|A070826}})
**最小の[[双子素数]]の積で表せる数である。次は[[35]]。({{OEIS|A037074}})
***15は双子素数唯一積が3の倍数となる数である。
** 2つの連続する[[素数]]の積で表せる2番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[35]]。({{OEIS|A006094}})
** ''n'' = 1 のときの 5 × 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[5]]、次は[[45]]。({{OEIS|A005030}})
**15 = 1 × 3 × 5
***3連続の奇数の積で表せる最小の数である。次は[[105]]。(負の数を含めると1つ前は[[−3]])
*3番目の[[五胞体数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[35]]。
**15 = {{sfrac|3 × 4 × 5 × 6|1 × 2 × 3 × 4}}
*{{sfrac|1|15}} = 0.0{{underline|6}}66… (下線部は[[循環節]]で長さは1)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が1になる5番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[18]]。({{OEIS|A070021}})
*5番目の[[階乗|二重階乗数]]であり、5!! = 1 × 3 × 5 = 15 。1つ前は[[8]]、次は[[48]]。
*6番目の[[フィボナッチ数#テトラナッチ数|テトラナッチ数]]である。1つ前は8、次は[[29]]。
*4番目の[[ベル数]]である。1つ前は5、次は[[52]]。
*3番目の[[完全トーシェント数]]である。1つ前は[[9]]、次は[[27]]。
*(15, 16) は3番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は(8, 9)、次は([[77]], [[78]])。
* 15 = {{sfrac|3 × (3{{sup|2}} + 1)|2}}
** ''n'' = 3 のときの {{sfrac|''n''(''n''{{sup|2}} + 1)|2}} の値とみたとき1つ前は[[5]]、次は[[34]]。
** 3 × 3 の[[魔方陣]]の一列の和は 15 である。
::{|class="wikitable" style="text-align:center"
|style="width:25px;height:25px"|8
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|-style="height:25px"
|3||5||7
|-style="height:25px"
|4||9||2
|}
*[[十五角形|正十五角形]]は、[[定規とコンパスによる作図|定規とコンパスのみで作図]]できる8番目の[[正多角形]]である。1つ前は正[[十二角形]]、次は正[[十六角形]]。({{OEIS|A003401}})
*[[二十進法]]では、[[F]] (十五)の倍数は、一の位が F → [[A]] ([[10|十]]) → [[5]] → 0 → F で循環する。例:[[135]]{{sub|10}} = 6'''F''', [[450]]{{sub|10}} = 12'''A'''。
*[[九九]]では 3 の段で 3 × 5 = 15(さんごじゅうご)、5 の段で 5 × 3 = 15(ごさんじゅうご)と2通りの表し方がある。
*15[[階乗|!]] = 1307674368000 である(十三桁)。
*[[コンピュータ]]や[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]あるいは[[情報工学]]関連で多用される[[二進法|二進表記]]の場合は4[[ビット]](1[[ニブル]])の[[レピュニット]]、[[十六進法|十六進表記]]の場合は最後の一桁数値(F)となる。
*15 = 2{{sup|4}} − 1
**4番目の[[メルセンヌ数]]である。1つ前は[[7]]、次は[[31]]。
***2番目の[[メルセンヌ素数]]でないメルセンヌ数である。1つ前は[[1]]、次は[[63]]。({{OEIS|A135972}})
**15 = 2{{sup|0}} + 2{{sup|1}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|3}}
*** ''a'' = 2 のときの ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} の値とみたとき、1つ前は[[4]]、次は[[40]]。
** 15 = 4{{sup|2}} − 1
*** ''n''{{sup|2}} − 1 で表せる2番目の三角数である。1つ前は[[3]]、次は[[120]]。({{OEIS|A006454}})
** 15 = 16 × 1{{sup|2}} − 1
*** n = 1 のときの 16''n''{{sup|''2''}} − 1 の値とみたとき1つ前は[[-1|−1]]、ただし自然数では最小、次は[[63]]。({{OEIS|A141759}})
*各位の和が15になる[[ハーシャッド数]]の最小は[[195]]、1000までに13個、10000までに136個ある。
* 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で8番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[18]]。
* [[約数]]の和が15になる数は1個ある。([[8]]) 約数の和1個で表せる9番目の数である。1つ前は[[14]]、次は[[20]]。
**[[約数]]の和が奇数になる5番目の奇数である。1つ前は[[13]]、次は[[31]]。({{OEIS|A060657}})
** 連続してある数に対して[[約数の和]]を求めていった場合5個の数が15になる。15より小さい数で5個ある数はない。1つ前は[[8]](4個)、次は[[24]](10個)。いいかえると <math>\sigma^m(n)=15~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が5個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]])(参照{{OEIS|A241954}})
* [[1]]~[[4]]までの[[約数]]の和である。1つ前は[[8]]、次は[[21]]。
* [[各位の和]]が6になる2番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[24]]。
** [[奇数]]という条件をつけると各位の和が6になる最小の数である。
*各位の[[平方和]]が26になる最小の数である。次は[[51]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の25は[[5]]、次の27は[[115]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が126になる最小の数である。次は[[51]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の125は[[5]]、次の127は[[115]]。({{OEIS|A165370}})
* 各位の積が5になる2番目の数である。1つ前は[[5]]、次は[[51]]。({{OEIS|A199985}})
* 1~15までの約数の個数を加えると[[45]]個になり15の3倍になる。1~''n'' までの約数の個数が ''n'' の整数倍になる4番目の数である。1つ前は[[5]] (2倍)、次は[[42]] (4倍)。({{OEIS|A050226}}参照)
* 15の[[倍数]]をもつ角度の[[三角比]]は[[三角関数#加法定理|三角関数の加法定理]]を用いて求めることができる。
:例. sin 15° = sin (45° − 30°)
* 15 = 8{{sup|2}} − 7{{sup|2}} = (8 + 7) × (8 − 7)
** ''n'' = 8 のときの (''n'' + 7)(''n'' − 7) の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[32]]。({{OEIS|A098848}})
* 6番目の[[幸運数]]である。1つ前は13、次は[[21]]。
** [[累乗数]]はもちろん1にもなり得ない4番目の幸運数である。1つ前は13、次は21。
* 15 = 3{{sup|3}} − 3{{sup|2}} − 3
** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|3}} − ''n''{{sup|2}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[44]]。({{OEIS|A152015}})
*1~15の[[最小公倍数]]は360360。
== その他15に関連すること ==
* 15の[[接頭辞]]:quinquadec, quindec([[ラテン語|拉]])、pentakaideca([[ギリシャ語|希]])
* 15[[倍]]を'''クィンデキュプル''' (quindecuple) という。
* [[原子番号]]15の[[元素]]は、[[リン|燐]] (P)。
* 15は、E6系列の[[標準数]]。
* 第15代[[天皇]]は、[[応神天皇]]。
* 第15代[[内閣総理大臣]]は、[[桂太郎]]。
* [[鎌倉幕府]]第15代[[執権]]は、[[北条貞顕]]。
* 通算して第15代の[[征夷大将軍]]は、[[建武の新政]]期の[[護良親王]]。
* [[室町幕府]]第15代将軍は、[[足利義昭]]。
* [[江戸幕府]]第15代将軍は、[[徳川慶喜]]。
* 第15代[[自由民主党総裁]]は、[[宮澤喜一]]。15代[[徳川慶喜]]が江戸幕府の最後の将軍であったことが、15代宮澤総裁の時の総選挙敗北で[[保守合同]]以後初めて自民党が[[野党]]に転落した際によく引き合いに出された。また、足利義昭も室町幕府最後の将軍である。
* [[大相撲]]第15代[[横綱]]は、[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)|梅ヶ谷藤太郎]]。
* [[アメリカ合衆国]]第15代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、[[ジェームズ・ブキャナン]]。
* アメリカ合衆国の15番目の[[州]]は、[[ケンタッキー州]]。
* [[殷|殷朝]]第15代帝は、[[沃甲]]。
* [[周|周朝]]第15代王は、[[荘王 (周)|荘王]]。
* 第15代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ゼフィリヌス (ローマ教皇)|ゼフィリヌス]](在位:[[199年]]~[[217年]][[12月20日]])である。
* [[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]は、 [[ブルボン朝]]第4代[[フランス王]]。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「15」は[[新潟県]]。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]で XV は、[[悪魔 (タロット)|悪魔]]。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第15番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#謙|地山謙]]。
* [[クルアーン]]における第15番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[アル・ヒジュル (クルアーン)|アル・ヒジュル]]である。
* [[十五夜]]は、[[満月]]の夜。[[新月]]から約15日後に現れるのでこの名がある。また旧暦8月15日の[[月見]]も'''十五夜'''といい、この夜の月は'''中秋の名月'''(ちゅうしゅうのめいげつ)という。
* 結婚15周年記念日は、[[結婚記念日|水晶婚式]]。
* 年始から数えて15日目は[[1月15日]]である。
* [[経度]]15[[度 (角度)|°]]毎に、[[時差]]は 1[[時間 (単位)|時間]]となる。([[360]] ÷ [[24]] = 15)
* [[論語]]に由来する言葉で、15歳を「志学」という。
* [[青年]]は、一般的に15歳から[[24|24歳]]までを指す。
* 日本の [[義務教育]]期間は、15歳で終了する。
* 旧[[ソビエト連邦]]15か国。[[アゼルバイジャン]]・[[アルメニア]]・[[ウクライナ]]・[[ウズベキスタン]]・[[エストニア]]・[[カザフスタン]]・[[キルギス]]・[[グルジア]]・[[タジキスタン]]・[[トルクメニスタン]]・[[ベラルーシ]]・[[モルドバ]]・[[ラトビア]]・[[リトアニア]]・[[ロシア連邦]]。
* [[日本]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]大法廷の[[裁判官]]は、15人。
* [[F-15 (戦闘機)|F-15]] イーグルは、アメリカの[[戦闘機]]。
* [[MiG-15 (航空機)|MiG-15]] は、[[ソ連]]の戦闘機。
* [[P-15 (ミサイル)|P-15]] は、ソ連の[[ミサイル]]。
* [[Su-15 (航空機)|Su-15]] は、ソ連の戦闘機。
*各種の [[U-15]]
*[[連珠]]では、原則として十五路盤が用いられる。
* [[ラグビーユニオン|ラグビー]]の1チームは15人であり、選手たちを'''フィフティーン'''という。
* [[テニス]]の1回での得点は15点であり、1 vs 0 を「フィフティーン・ラブ」(15点 vs 0点)という。
* [[サッカー]]の[[ハーフタイム]]は15分。及び、延長戦の時間が15分ハーフ。
* [[高校野球]]の最大延長は15回までで、[[トーナメント方式|トーナメント]]戦での引き分けの場合は再試合となる。
* [[日本プロ野球]]・[[中日ドラゴンズ]]の背番号15は[[西沢道夫]]選手(投手→内野手)の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]である。[[2016年]]には[[広島東洋カープ]]の[[黒田博樹]]投手の背番号として同球団三人目の永久欠番となった。また、[[福岡ソフトバンクホークス]]でも[[藤井将雄]]投手がダイエー時代の[[2000年]]に急逝して以来、事実上の欠番状態となっている。
* [[1939年|昭和14年]]夏場所から[[大相撲]]は、1場所15日制。
* [[交響曲第15番]]
* [[弦楽四重奏曲第15番]]
* [[ピアノソナタ第15番]]
* 『[[U-15.F スキにさせて!]]』は、[[テレビ東京]]系列で放送されていた[[バラエティ番組]] 。
* 『[[Sh15uya]]』は、[[テレビ朝日]]系列で放送された[[特撮]][[テレビドラマ]] 。
* 『[[15 明刹工業高校ラグビー部]]』は、[[成瀬芳貴]]の漫画。
* 『[[ロンリーガールフィフティーン]]』は、[[ウェブ]]上の連続番組。
* 『[[Sweet 15th Diamond]]』は、[[渡辺美里]]の[[アルバム]]。
* 『[[15 (SOPHIAのアルバム)|15]]』は、[[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]] のアルバム。
* 『[[15 (PUFFYのアルバム)|15]]』は、[[PUFFY]]の[[ベスト・アルバム]]。
* 『[[フィフティーン (曲)]]』は、[[西田ひかる]]のデビューシングル曲。
* 『{{仮リンク|フィフティーン (テイラー・スウィフトの曲)|en|Fifteen (song)|label=フィフティーン}}』は、[[テイラー・スウィフト]]の曲、アルバム『[[フィアレス (テイラー・スウィフトのアルバム)|フィアレス]]』に収録(2008年)。
* 『[[15 (映像作品)|15]]』は、[[aiko]] のライブビデオ。
* 『[[HAPPY 15]]』は、[[THE ポッシボー]]の7枚目の[[シングル]]。
* 『[[15 1/2 フィフティーンハーフ]]』は、[[TETSU69]] のシングル。
* 『[[15の夜]]』は、[[尾崎豊]]のデビューシングル。
* 『[[夢見る 15歳]](フィフティーン)』は、[[スマイレージ]]のメジャーデビューシングル。
* 『[[フィフティーン・ラブ]]』は、[[塀内夏子]]の[[漫画]]。
* 『[[十五少年漂流記]]』は、[[ジュール・ヴェルヌ]]の[[小説]]。
*「[[サクセス15]]」は、[[社会評論社]]の高校進学[[情報誌]]。
* [[15パズル]]は、[[1878年]]にアメリカの[[サム・ロイド]]が考案した[[パズル]]。
* [[大日本帝国陸軍]][[第15方面軍 (日本軍)|第15方面軍]]
* 各国の[[第15軍]]
* 各国の[[第15師団]]
* 各国の[[第15旅団]]
* 第15連隊
** 大日本帝国陸軍[[歩兵第15連隊]]
** [[陸上自衛隊]]
*** [[第15即応機動連隊]]
*** [[第15後方支援隊]]
* アメリカの[[スペイン語]]地域社会では、[[女性]]の15歳([[キンセアニェーラ]])を殊に盛大に祝う風習がある。
* かつて、プロ[[ボクシング]]の世界タイトル戦は15回戦(最大15ラウンド)で行われていた([[リング禍]]を機に、[[1980年代]]から12回戦に短縮された)。
* [[東洋哲学|東洋思想]]では[[月見|十五夜]]([[満月]])に当たる15という数字を「完全な物」として捉える思想がある。
** [[龍安寺]](りょうあんじ。[[京都府]][[京都市]][[右京区]]にある[[臨済宗]]妙心寺派の寺院)の石庭には15個の石が並べてある。15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されていると云われ、15に1つ足りない14を「不完全さ」を表す物とされている。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|9326|246E|1-13-15|CIRCLED DIGIT FIFTEEN|font=JIS2004フォント}}
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|}
== 関連項目 ==
*[[数に関する記事の一覧]]
**[[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]]
**[[10]] [[11]] [[12]] [[13]] [[14]] '''15''' [[16]] [[17]] [[18]] [[19]]
**'''15''' [[30]] [[45]] [[60]] [[75]] [[90]] [[105]] [[120]] [[135]] [[150]] [[165]] [[180]] [[195]] [[210]]
*[[西暦]][[15年]] [[紀元前15年]] [[1915年]] [[15世紀]] - [[平成15年]] [[昭和15年]] [[大正15年]] [[明治15年]] - [[1月5日]]
*[[名数一覧]]
*[[15歳|15歳(才)、十五歳(才)]]
{{自然数}}
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2003-08-27T09:42:09Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/15
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北柏駅
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北柏駅(きたかしわえき)は、千葉県柏市根戸字中馬場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。運転系統としては常磐緩行線の列車が停車する。駅番号はJL 29。
当駅は駅名の通り柏市の北部に位置し、我孫子市との境界付近に位置する。東海寺(布施弁天)、あけぼの山公園の最寄り駅である。
常磐線複々線工事により、柏駅と我孫子駅の貨物取扱いを集約するため用地を買収して貨物駅(年間20万t)として設置された。
貨物駅の工事は1969年3月より行われたが、柏市、我孫子市にまたがる当地は1,300年前の宿場遺跡とされる中馬場遺跡があるため、同年2月26日から6月30日まで文化財発掘調査が行われた。遺跡が120箇所も発掘されこの間工事が中断したが、貨物駅の開業が遅延すると柏駅と我孫子駅構内の複々線化工事に着手できなくなるため、突貫工事を行い1970年4月、計画通り貨物駅を開業した。
貨物駅構内となる区間には3つの踏切が存在していたが、1969年11月30日に根戸新田踏切および手賀沼踏切を廃止し、1970年2月28日に船戸踏切を廃止した。それぞれ根戸新田こ線橋、手賀沼架道橋、船戸こ線人道橋として立体交差化された。
貨物駅の建設にともない柏市では、1968年12月旅客駅を併設されるよう国鉄に請願書を提出し、1970年2月9日には地元関係者による北柏旅客駅設置期成同盟を設立し自治体と一体となって促進が行われ、同年3月設置が承認された。起工式が1970年8月6日に行われ貨物駅に隣接して建設が始まった。駅の工事費およそ2億3千万円と駅設置に必要な用地などは、請願駅として地元負担で建設され、1971年4月、常磐線複々線使用開始に合せ旅客の営業を開始した。
島式ホーム1面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有する。南側2線の緩行線にホーム(幅員8 m、長さ220 m)があり、各駅停車専用となっている。カーブ上にホームがあるため、注意喚起がなされることがある。北側の2線は快速線で、南側2線より少々高い位置にある。快速線にはホームはないため、快速線を通る列車は旅客の乗降ができない。その為、当駅から上野方面へ行く場合は、柏駅で、取手・土浦方面へ行く場合は、我孫子駅での乗り換えが必要となる。朝夕は手前の柏駅で折り返す列車があるため、当駅の停車間隔は、所々で日中よりも開く部分がある。
快速線は我孫子方にある列車待避線が2線ある部分が北柏駅と定められている。一見すると複線待避型信号場のようであるが、貨物列車・臨時列車の待避や水戸方面から成田線へ向かう臨時列車(初詣客を乗せた成田山新勝寺へ向かう列車など)の折り返しに使われる。
かつて、当駅は貨物駅として開業した。元々、当駅は複々線化における柏駅と我孫子駅の貨物取り扱いを集約するための貨物駅として設置されたが、貨物駅としての役割は1984年1月31日をもって終了した。跡地はマンションや駐車場になっているが、貨車入れ替え用の引き上げ線などが残っている。
我孫子駅が管理し、JR東日本ステーションサービスが受託する業務委託駅である。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。自動券売機、多機能券売機、指定席券売機が設置されている。
北口側は幅4 m、長さ104.5 mの歩道橋状になっており、出入口は国道6号上り車線側の歩道と国道6号を跨いだ先(旧水戸街道沿い)の2ヶ所にある。なお、終電直後から始発までは連絡通路が閉鎖され、通り抜けはできない。2017年9月に旧水戸街道沿いの階段に併設するエスカレーターが整備された。
当駅の発車メロディは、2019年(平成31年)3月16日のダイヤ改正後からはJR東日本東京支社の取り組みにより、駆け込み乗車の減少に効果があることから電車備え付けの発車メロディを使用している。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は16,560人である。首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの開業以前より減少傾向であったが、開業年度の2005年度はさらに3千人程乗降客が減った。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。
柏市と我孫子市にまたがる根戸地区の南に位置しているが、当駅は柏市側にある。
停留所の名称は、南口が「北柏駅」、北口が「北柏駅入口」である。南口にはロータリーがあり、松葉町方面などへの路線バスが発着する。北口は旧水戸街道上に乗り場があり、主に柏駅を発着する系統が経由する。一部系統は南口と北口の両方を経由する。また、北口側の坂の下付近に「ぢがね橋」停留所もある(東武バス、北柏駅入口経由便のみ)。
我孫子市コミュニティバス「あびバス」は、北口側歩道橋東側のロータリー内の「北柏駅北口」停留所に乗り入れる。
1984年に廃止された貨物駅の敷地面積は69,000平方メートルあり、敷設線路の総延長は17線、約8kmにおよび我孫子駅近くまで伸びていた。 駅施設は低床ホームが3面、小口扱いホームが1面の5番線までの貨物積卸線があり、当時の新しい輸送方式に適合した低床ホームが採用された。荷役設備は近代化に対応した15トンクレーンも装備していた。
年間取扱規模は20万トンあり、開業当初は柏駅の年間31,000トンと我孫子駅の15,000トンの貨物取扱いを引き継ぎ、常磐線の上り6本下り8本、成田線の上下5本が発着し、貨物500両分の取扱いをしていた。
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"text": "貨物駅構内となる区間には3つの踏切が存在していたが、1969年11月30日に根戸新田踏切および手賀沼踏切を廃止し、1970年2月28日に船戸踏切を廃止した。それぞれ根戸新田こ線橋、手賀沼架道橋、船戸こ線人道橋として立体交差化された。",
"title": "歴史"
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"text": "貨物駅の建設にともない柏市では、1968年12月旅客駅を併設されるよう国鉄に請願書を提出し、1970年2月9日には地元関係者による北柏旅客駅設置期成同盟を設立し自治体と一体となって促進が行われ、同年3月設置が承認された。起工式が1970年8月6日に行われ貨物駅に隣接して建設が始まった。駅の工事費およそ2億3千万円と駅設置に必要な用地などは、請願駅として地元負担で建設され、1971年4月、常磐線複々線使用開始に合せ旅客の営業を開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "島式ホーム1面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有する。南側2線の緩行線にホーム(幅員8 m、長さ220 m)があり、各駅停車専用となっている。カーブ上にホームがあるため、注意喚起がなされることがある。北側の2線は快速線で、南側2線より少々高い位置にある。快速線にはホームはないため、快速線を通る列車は旅客の乗降ができない。その為、当駅から上野方面へ行く場合は、柏駅で、取手・土浦方面へ行く場合は、我孫子駅での乗り換えが必要となる。朝夕は手前の柏駅で折り返す列車があるため、当駅の停車間隔は、所々で日中よりも開く部分がある。",
"title": "駅構造"
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"tag": "p",
"text": "快速線は我孫子方にある列車待避線が2線ある部分が北柏駅と定められている。一見すると複線待避型信号場のようであるが、貨物列車・臨時列車の待避や水戸方面から成田線へ向かう臨時列車(初詣客を乗せた成田山新勝寺へ向かう列車など)の折り返しに使われる。",
"title": "駅構造"
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"text": "かつて、当駅は貨物駅として開業した。元々、当駅は複々線化における柏駅と我孫子駅の貨物取り扱いを集約するための貨物駅として設置されたが、貨物駅としての役割は1984年1月31日をもって終了した。跡地はマンションや駐車場になっているが、貨車入れ替え用の引き上げ線などが残っている。",
"title": "駅構造"
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"text": "我孫子駅が管理し、JR東日本ステーションサービスが受託する業務委託駅である。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。自動券売機、多機能券売機、指定席券売機が設置されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "北口側は幅4 m、長さ104.5 mの歩道橋状になっており、出入口は国道6号上り車線側の歩道と国道6号を跨いだ先(旧水戸街道沿い)の2ヶ所にある。なお、終電直後から始発までは連絡通路が閉鎖され、通り抜けはできない。2017年9月に旧水戸街道沿いの階段に併設するエスカレーターが整備された。",
"title": "駅構造"
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"text": "当駅の発車メロディは、2019年(平成31年)3月16日のダイヤ改正後からはJR東日本東京支社の取り組みにより、駆け込み乗車の減少に効果があることから電車備え付けの発車メロディを使用している。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は16,560人である。首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの開業以前より減少傾向であったが、開業年度の2005年度はさらに3千人程乗降客が減った。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "柏市と我孫子市にまたがる根戸地区の南に位置しているが、当駅は柏市側にある。",
"title": "駅周辺"
},
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"text": "停留所の名称は、南口が「北柏駅」、北口が「北柏駅入口」である。南口にはロータリーがあり、松葉町方面などへの路線バスが発着する。北口は旧水戸街道上に乗り場があり、主に柏駅を発着する系統が経由する。一部系統は南口と北口の両方を経由する。また、北口側の坂の下付近に「ぢがね橋」停留所もある(東武バス、北柏駅入口経由便のみ)。",
"title": "バス路線"
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"text": "我孫子市コミュニティバス「あびバス」は、北口側歩道橋東側のロータリー内の「北柏駅北口」停留所に乗り入れる。",
"title": "バス路線"
},
{
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"text": "1984年に廃止された貨物駅の敷地面積は69,000平方メートルあり、敷設線路の総延長は17線、約8kmにおよび我孫子駅近くまで伸びていた。 駅施設は低床ホームが3面、小口扱いホームが1面の5番線までの貨物積卸線があり、当時の新しい輸送方式に適合した低床ホームが採用された。荷役設備は近代化に対応した15トンクレーンも装備していた。",
"title": "旧貨物駅"
},
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"text": "年間取扱規模は20万トンあり、開業当初は柏駅の年間31,000トンと我孫子駅の15,000トンの貨物取扱いを引き継ぎ、常磐線の上り6本下り8本、成田線の上下5本が発着し、貨物500両分の取扱いをしていた。",
"title": "旧貨物駅"
}
] |
北柏駅(きたかしわえき)は、千葉県柏市根戸字中馬場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。運転系統としては常磐緩行線の列車が停車する。駅番号はJL 29。
|
{{Otheruses|[[常磐緩行線]]の駅|かつて[[東武野田線]]に存在した同名の[[廃駅]]|北柏駅 (東武)}}
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 北柏駅
|画像 = JR Joban-Line Kita-Kashiwa Station South Exit.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 南口(2021年5月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|52|32.2|N|139|59|17|E}}}}
|よみがな = きたかしわ
|ローマ字 = Kita-Kashiwa
|副駅名 =
|前の駅 = JL 28 [[柏駅#JR東日本|柏]]
|駅間A = 2.3
|駅間B = 2.1
|次の駅 = [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]] JL 30
|電報略号 = キワ
|駅番号 = {{駅番号r|JL|29|#808080|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#339999|■}}[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[常磐線]])
|キロ程 = 29.2 km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[綾瀬駅|綾瀬]]から21.5
|起点駅 =
|所在地 = [[千葉県]][[柏市]]根戸字中馬場1901
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|52|32.2|N|139|59|17|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 1面2線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =27 }}</ref>
|開業年月日 = [[1970年]]([[昭和]]45年)[[4月10日]]{{Refnest|group="*"|[[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:貨物駅→一般駅<br />[[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:一般駅→旅客駅}}<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=426}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 16,560
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=559_230917" />}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
[[File:JR Joban-Line Kita-Kashiwa Station North Exit.jpg|thumb|北口(2021年5月)]]
'''北柏駅'''(きたかしわえき)は、[[千葉県]][[柏市]]根戸字中馬場にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[運行系統|運転系統]]としては[[常磐緩行線]]の列車が停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JL 29'''。
== 概要 ==
[[File:あけぼの山農業公園のチューリップ02.jpg|thumb|[[あけぼの山公園]]]]
当駅は駅名の通り柏市の北部に位置し、[[我孫子市]]との境界付近に位置する。[[東海寺 (柏市)|東海寺(布施弁天)]]、[[あけぼの山公園]]の最寄り駅である。
== 歴史 ==
常磐線[[複々線]]工事により、柏駅と我孫子駅の貨物取扱いを集約するため用地を買収して貨物駅(年間20万t)として設置された。
貨物駅の工事は[[1969年]]3月より行われたが、柏市、[[我孫子市]]にまたがる当地は1,300年前の[[宿場]][[遺跡]]とされる[[中馬場遺跡]]があるため、同年2月26日から6月30日まで文化財[[発掘調査]]が行われた<ref>下津谷達男・古宮隆信他、『中馬場遺跡・妻子原遺跡』、日本国有鉄道常磐線複々線工事関係遺跡調査団、1972年3月30日</ref>。遺跡が120箇所も発掘されこの間工事が中断したが、貨物駅の開業が遅延すると柏駅と我孫子駅構内の複々線化工事に着手できなくなるため、突貫工事を行い[[1970年]]4月、計画通り貨物駅を開業した<ref>開発行政懇話会編「常磐線複々線増工事について」、『開発往来』開発行政懇話会、1970年8月号</ref>。
貨物駅構内となる区間には3つの[[踏切]]が存在していたが、1969年11月30日に根戸新田踏切および手賀沼踏切を廃止し、1970年2月28日に船戸踏切を廃止した<ref>広報あびこ、昭和44年10月16日号</ref>。それぞれ根戸新田こ線橋、手賀沼架道橋、船戸こ線人道橋として立体交差化された。
貨物駅の建設にともない柏市では、1968年12月旅客駅を併設されるよう[[日本国有鉄道|国鉄]]に請願書を提出し、1970年2月9日には地元関係者による北柏旅客駅設置期成同盟を設立し自治体と一体となって促進が行われ、同年3月設置が承認された<ref name="kouhou_S450301">広報かしわ、昭和45年3月1日号</ref><ref name="kouhou_S450815" />。起工式が1970年8月6日に行われ貨物駅に隣接して建設が始まった<ref name="kouhou_S450815" />。駅の工事費およそ2億3千万円と駅設置に必要な用地などは、請願駅として地元負担で建設され<ref name="kouhou_S450815" />、1971年4月、常磐線複々線使用開始に合せ旅客の営業を開始した。
=== 年表 ===
* [[1969年]]([[昭和]]44年)3月:貨物駅の着工開始。
* [[1970年]](昭和45年)
** 3月:旅客駅の設置が承認。
** [[4月10日]]:[[日本国有鉄道]]の貨物駅として開業{{R|停車場}}。
** 8月6日:旅客駅の起工式が行われた。
* [[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:旅客営業開始{{R|停車場}}。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:貨物営業廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[4月27日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)8月23日:改札内のエスカレーター供用開始。<ref>「JR北柏駅 エスカレータ運転開始」、千葉日報、1994年8月24日県西版</ref>
* [[1995年]](平成7年)3月:南口エスカレーター設置。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[5月27日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了し、[[指定席券売機]]を設置<ref>“みどりの窓口リストラ” [[朝日新聞]] ([[朝日新聞社]]): p23. (2006年7月11日 夕刊)</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[10月25日]]:改札内のエレベータ供用開始。
* [[2013年]](平成25年)[[4月1日]]:南口のエレベーター供用開始<ref>[http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/140700/p12894.html 北柏駅南口のエレベーター設置について] - 柏市ホームページ、2013年7月1日閲覧</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月1日]]:早朝無人化。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[1月31日]]:[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20211116_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211116111624/https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20211116_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京支社管内のホームドア使用開始駅について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2021-11-16|accessdate=2021-11-16|archivedate=2021-11-16}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20201117_to03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201117063610/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20201117_to03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線に初めてホームドアを導入します 〜2021年度にホームドアを使用開始する常磐(各駅停車)線の駅について〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-11-17|accessdate=2020-11-17|archivedate=2020-11-17}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する{{R|zeneki05}}[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する。南側2線の緩行線にホーム(幅員8 m、長さ220 m<ref name="kouhou_S450815">広報かしわ、昭和45年8月15日号</ref>)があり、各駅停車専用となっている。カーブ上にホームがあるため、注意喚起がなされることがある。北側の2線は快速線で、南側2線より少々高い位置にある。快速線にはホームはないため、快速線を通る列車は旅客の乗降ができない。その為、当駅から[[上野駅|上野]]方面へ行く場合は、[[柏駅]]で、[[取手駅|取手]]・[[土浦駅|土浦]]方面へ行く場合は、[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]での乗り換えが必要となる。朝夕は手前の柏駅で折り返す列車があるため、当駅の停車間隔は、所々で日中よりも開く部分がある。
快速線は[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]方にある列車待避線が2線ある部分が北柏駅と定められている。一見すると[[複線]]待避型[[信号場]]のようであるが、[[貨物列車]]・[[臨時列車]]の待避や[[水戸駅|水戸]]方面から[[成田線]]へ向かう臨時列車(初詣客を乗せた成田山新勝寺へ向かう列車など)の折り返しに使われる。
かつて、当駅は[[貨物駅]]として開業した。元々、当駅は複々線化における柏駅と我孫子駅の貨物取り扱いを集約するための貨物駅として設置されたが、貨物駅としての役割は[[1984年]][[1月31日]]をもって終了した。跡地は[[マンション]]や[[駐車場]]になっているが、貨車入れ替え用の[[引き上げ線]]などが残っている。
我孫子駅が管理し、[[JR東日本ステーションサービス]]が受託する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=559_230917">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=559|title=駅の情報(北柏駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230917044006/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=559|archivedate=2023-09-17}}</ref>。[[自動券売機]]、多機能券売機<ref name="StationCd=559_230917" />、[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=559_230917" />が設置されている。
北口側は幅4 m、長さ104.5 mの歩道橋状になっており、出入口は[[国道6号]]上り車線側の歩道と国道6号を跨いだ先(旧水戸街道沿い)の2ヶ所にある。なお、終電直後から始発までは連絡通路が閉鎖され、通り抜けはできない<ref>広報かしわ、昭和46年5月1日号</ref>。2017年9月に旧水戸街道沿いの階段に併設するエスカレーターが整備された<ref>[http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/120200/p043154.html 北柏駅北口自由通路エスカレーター(昇り専用)の運転開始について(お知らせ)] - 2017年9月15日 柏市</ref>。
当駅の[[発車メロディ]]は、[[2019年]](平成31年)[[3月16日]]の[[ダイヤ改正]]後からは[[東日本旅客鉄道東京支社|JR東日本東京支社]]の取り組みにより、[[駆け込み乗車]]の減少に効果があることから電車備え付けの発車メロディを使用している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190401134340/https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線 車外スピーカーを使用して発車メロディを流す取り組みについて|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-03-12|accessdate=2020-03-27|archivedate=2019-04-11}}</ref>。
=== のりば ===
<!-- 方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠 -->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先
|-
! 1
|rowspan=2|[[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)
| style="text-align:center" | 下り
|[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[取手駅|取手]]方面
|-
! 2
| style="text-align:center" | 上り
|[[松戸駅|松戸]]・[[代々木上原駅|代々木上原]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/559.html JR東日本:駅構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
JR Jōban Line Kita-Kashiwa Station Gate.jpg|改札口(2022年7月)
JR Jōban Line Kita-Kashiwa Station Vending Machine.jpg|自動券売機(2022年7月)
JR Jōban Line Kita-Kashiwa Station Platform.jpg|ホーム(2022年7月)
</gallery>
=== 駅舎内の施設(駅ナカ) ===
* [[NewDays]]
* [[ハイデイ日高|日高屋]]
* [[ビューアルッテ|VIEW ALTTE]]
* [[指定席券売機]]
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''16,560人'''である。[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]の開業以前より減少傾向であったが、開業年度の[[2005年]]度はさらに3千人程乗降客が減った。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020800/p008433.html 柏市統計書] - 柏市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|24,127
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|25,309
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|26,116
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|26,985
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|27,180
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|27,437
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|28,050
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|27,616
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|27,312
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|26,844
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>26,810
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>26,442
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>26,020
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|
|}
== 駅周辺 ==
柏市と[[我孫子市]]にまたがる根戸地区の南に位置しているが、当駅は柏市側にある。
=== 北口 ===
[[File:Kashiwa-Tokaiji_20081203.JPG|thumb|[[東海寺 (柏市)|東海寺(布施弁天)]]]]
{{columns-list|2|
* [[国道6号]]
* [[千葉県道268号北柏停車場線]]
* 柏[[全国商工団体連合会|民主商工会]]
* [[千葉県立柏高等学校]]
* 柏市総合運動場
* 柏市立柏病院
* [[あけぼの山公園|あけぼの山公園・あけぼの山農業公園]]
* [[東海寺 (柏市)|東海寺(布施弁天)]]
* [[伊藤ハム]]東京工場
|}}
=== 南口 ===
[[File:The Jikei University Kashiwa Hospital.JPG|thumb|[[東京慈恵会医科大学附属柏病院]]]]
{{columns-list|2|
* 千葉県道268号北柏停車場線
* 北柏駅前郵便局
* [[東京慈恵会医科大学附属柏病院]]
* 北柏リハビリ総合病院
* [[柏市中央体育館]]
* 柏市文化会館
* 千葉[[キリスト教青年会|YMCA]]柏センター
* [[柏警察署]]北柏駅前交番
* ウェルネス柏(柏市保健所)
* 北千葉導水ビジターセンター([[手賀沼]]沿い)
* 柏ふるさと公園
* 北柏ふるさと公園(柏ふるさと公園とは手賀沼を挟んで隣接)
|}}
== バス路線 ==
停留所の名称は、南口が「北柏駅」、北口が「北柏駅入口」である。南口にはロータリーがあり、松葉町方面などへの路線バスが発着する。北口は旧[[水戸街道]]上に乗り場があり、主に柏駅を発着する系統が経由する。一部系統は南口と北口の両方を経由する。また、北口側の坂の下付近に「ぢがね橋」停留所もある(東武バス、北柏駅入口経由便のみ)。
我孫子市コミュニティバス「あびバス」は、北口側歩道橋東側のロータリー内の「北柏駅北口」停留所に乗り入れる。
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="3"|北柏駅(南口)
|-
|style="text-align:center;"|[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]
|{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル沼南営業所#北柏駅発着|'''北柏01''']]:北柏ライフタウン循環|[[東武バスセントラル西柏営業事務所#東急柏ビレジ線|'''柏14''']]:東急柏ビレジ}}
|
|-
|style="text-align:center;"|[[阪東自動車]]
|{{Unbulleted list|[[阪東自動車#北柏慈恵線、車庫慈恵線|'''北柏81''']]:慈恵医大柏病院|'''北柏82''':東我孫子車庫 / 慈恵医大柏病院}}
|
|-
!colspan="3"|北柏駅入口(北口)
|-
|style="text-align:center;"|東武バスセントラル
|{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル西柏営業事務所#市立柏高校線|'''柏03''']]:[[柏たなか駅]]東口・[[柏市立柏高等学校|市立柏高校]]|[[東武バスセントラル西柏営業事務所#柏駅西口 - 富勢方面|'''柏04''']]:布施弁天|'''柏11''':三井団地|'''柏14''':東急柏ビレジ / 北柏駅|'''柏03'''・'''柏04'''・'''柏11'''・'''柏14''':[[柏駅]]西口|深夜急行「'''ミッドナイトアロー柏・我孫子号'''」:我孫子駅}}
|「ミッドナイトアロー柏・我孫子号行きは降車扱い(乗車は不可)
|-
|style="text-align:center;"|阪急自動車
|'''北柏82''':東我孫子車庫 / 慈恵医大柏病院
|
|-
!colspan="3"|北柏駅北口
|-
|style="text-align:center;"|[[あびバス]]
|'''市-2 船戸・台田ルート''':船戸・台田・我孫子駅方面
|
|}
== 旧貨物駅 ==
1984年に廃止された貨物駅の敷地面積は69,000平方メートルあり、敷設線路の総延長は17線、約8kmにおよび我孫子駅近くまで伸びていた。
駅施設は低床ホームが3面、小口扱いホームが1面の5番線までの貨物積卸線があり、当時の新しい輸送方式に適合した低床ホームが採用された<ref>「最近の停車場設備」、鉄道土木、1971年11月号</ref>。荷役設備は近代化に対応した15トンクレーンも装備していた。
年間取扱規模は20万トンあり、開業当初は柏駅の年間31,000トンと我孫子駅の15,000トンの貨物取扱いを引き継ぎ、常磐線の上り6本下り8本、成田線の上下5本が発着し、貨物500両分の取扱いをしていた。<ref name="kouhou_S450301" /><ref>広報かしわ、昭和45年5月1日号</ref>
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車)
:: [[柏駅]] (JL 28) - '''北柏駅 (JL 29)''' - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] (JL 30)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist|3}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Kita-Kashiwa Station}}
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=559|name=北柏}}
{{常磐緩行線}}
{{DEFAULTSORT:きたかしわ}}
[[Category:柏市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 き|たかしわ]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:常磐緩行線|きたかしわえき]]
[[Category:1970年開業の鉄道駅]]
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常磐緩行線
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常磐緩行線(じょうばんかんこうせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線のうち、東京都足立区の綾瀬駅から茨城県取手市の取手駅までの複々線区間において、各駅停車の電車が運行される線路(緩行線)である。 駅ナンバリングで使われる路線記号はJLで、直通運転を行っている東京地下鉄(東京メトロ)千代田線と番号部分が連番(代々木上原駅を01とみなす)となっている。
東京地区の電車特定区間(E電)の運転系統の一つである。東京メトロ千代田線と直通運転を行い、東京都心と千葉県北西部(東葛地域)の松戸・柏・我孫子地区および茨城県南部の取手の各都市を各駅停車で結んでいる。また、一部の電車は千代田線を経由して小田急小田原線伊勢原駅まで直通している。
JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代、通勤客の増大に伴い、列車およびターミナルである上野駅・日暮里駅の混雑緩和を目的として、通勤五方面作戦の一環として北千住駅 - 我孫子駅間の複々線化が1971年(昭和46年)に行われ、同時にそれまで各駅停車として上野駅 - 取手駅間を運転していた電車の緩急分離が行われた。以降、線路の通称として各駅停車が走行する線路が「常磐緩行線」、新設された快速電車と取手以北直通の列車が走行する線路が「常磐快速線」と呼ばれるようになった。この緩急分離により、各駅停車は帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄)千代田線と直通運転を行う現在の形態となった(後述)。その後1982年(昭和57年)に緩行線が取手駅まで延伸され、現在の形態となっている。
一部の駅にのみホームがある快速線に対して、緩行線は全駅にホームがあり、運転される電車もすべて各駅停車である。
ダイヤグラム・運行システム・車両は直通する千代田線と一体化したものである。常磐快速線との渡り線は松戸駅・我孫子駅付近に設置されているが、保安システムが異なるため緩行線と快速線の直通運転を行う定期列車は設定されていない。
東京のJRの放射路線としては唯一都心(山手線)に至らない系統であるため、千代田線の北千住駅 - 西日暮里駅間を経由しJR線に乗り継ぐ場合に通過連絡運輸の特例も設定されている(後述)。
2004年以前は、小田急電鉄がJRの一斉改正日でない日にダイヤ改正を行っていたため、これに伴ってJR東日本のダイヤ改正時以外にも運行時刻の変更が行われることがままあった。ただ、運用や行先の変更が主で、線内での時刻変更は基本的にない。なお、2006年以降はJRと同日に改正を実施するようになっている。
複々線区間は全線に亘って踏切がなく、直通線区以外から乗り入れてくる車両もないため、将来導入を予定している技術の実験場として使われることも多い。
旅客案内上は、東京メトロ千代田線の北千住駅 - 綾瀬駅間を含んだ北千住駅 - 取手駅間の運転系統名として「常磐線各駅停車」「常磐線(各駅停車)」と呼称されている。
北千住駅 - 綾瀬駅間は実務上JR線として運賃計算する場合と東京メトロ線として運賃計算する場合の2つに分かれる特殊な区間となっている。このような特例は他でも見受けられるものであるが、北千住駅 - 綾瀬駅間に関してはJR東日本は第二種鉄道事業者ではないため、厳密には東京メトロの単独区間である(北千住駅 - 綾瀬駅間の運賃の取り扱いについては「運賃計算の特例」の節を参照)。
各駅停車は地下鉄千代田線との直通運転により一体的に運用されているため、各駅停車は地下鉄区間とあわせて「千代田線」と呼ばれる場合がある。市販されている地図にも千代田線と表記したものがあるほか、不動産物件にも「千代田線北松戸駅」「地下鉄千代田線北柏駅」等の案内がある。不動産ポータルサイトなどでは「(JR)千代田・常磐緩行線」などの表記も散見される。
元々常磐線は上野 - 取手間の各駅に停車する「国電」(近距離電車)と主要駅のみ停車の中距離列車や急行・特急などが同じ線路を走行していた。当時は中・長距離輸送を担う列車に対して地域輸送を担う電車(国電)は停車駅も異なり棲み分けが明確であった。過去には、一部の「国電」が上野・東京経由で有楽町まで乗り入れていたこともあった(山手線・京浜東北線分離工事時の暫定措置)。なお、常磐線の線路にホームのない鶯谷駅は通過していた。
一方、高度成長期を迎えると共に沿線のベッドタウン化が進んで人口が急増し、常磐線の混雑率も非常に高くなったものの、各種列車が同一線路上を走行していることによってさらなる増発が困難になったため、いわゆる「通勤五方面作戦」の一環として複々線化を実施することになった。
1962年に発表された運輸大臣の諮問機関「都市交通審議会」の答申では、北千住 - 松戸間について東京8号線(のちの9号線)が計画されていた。このため国鉄は、このルートの終点を取手まで延長する形で国鉄線を線増し、緩行線を地下鉄千代田線と直通運転させる形で複々線化を実施することとした。また当時、北千住 - 綾瀬間は国鉄の路線であったが、複々線化・千代田線との乗り入れに際して建設費用を抑えたい国鉄と、足立区内に設置する車庫(現:綾瀬検車区)への回送ルートを確保したい営団の思惑が一致し、北千住 - 綾瀬間の緩行線を営団保有にして、複々線化と千代田線との直通運転が同時に行われることとなった。ただし、運賃計算上は北千住駅 - 綾瀬駅間は従来どおり国鉄線運賃として計算される特例が設けられた。また複々線化に際し、従来の「国電」(近距離電車)を「各駅停車」と「快速」の2種別に編成し、各駅停車を緩行線に、「快速」を日暮里・上野方面へと向かう快速線に振り分けることとした。
また複々線化区間から外れた中距離列車通過駅の三河島駅・南千住駅・天王台駅(複々線化と同時に開業)には東京近郊輸送を担う快速のみが停車し、快速線のホームは複々線区間の両端の北千住駅・我孫子駅と車両基地のある松戸駅にのみ設けられることになった。この結果快速通過駅の利用客は乗り換えなしで日暮里駅や上野駅まで行けなくなるため、不便を解消するために営団・国鉄の双方に乗換駅として西日暮里駅を新設するとともに、同駅を経由する通過連絡運輸の特例が設けられることとなった。
工事予算と地下鉄千代田線への旅客の転嫁見込み、ならびに貨物列車の運行や当時建設中であった国鉄武蔵野線との接続方法等について検討された結果、緩急乗り換え利便性の高い方向別複々線での建設が見送られ、他の首都圏国鉄主要路線と同様の線路別複々線となった。このため我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅等での各駅停車と快速等の乗り換えでは階段を使用してホーム間を移動することになった。
複々線化の前後では、運転種別や停車駅が以下の表のように変遷している。
1965年(昭和40年)2月、綾瀬 - 我孫子間 (23.6km) の複々線増線の工事が第1期工事として開始された。
北千住 - 綾瀬間の増線は営団が千代田線の新設工事として若干先行して行ったが、その完成後に東武線との交差部から営団が1968年(昭和43年)2月1日に完成させた綾瀬駅間の線路および駅設備を借受け、複々線開通まで常磐線全列車が暫定的に使用した。これは常磐線の高架化に際し工事用地の取得が困難なための処置であった。
工事は主に東京側から順次進められ、1971年(昭和46年)3月1日、綾瀬 - 金町間の複々線が暫定で開通し国電と優等列車・貨物列車の分離が行われた。続いて同年3月10日には金町 - 北柏間が暫定で開通、4月1日に北柏 - 我孫子間が開通し複々線の工事は完了した。
4月19日に、我孫子駅で常磐線複々線完成祝賀式が行われ、我孫子 - 綾瀬間で「複々線工事完成祝賀電車」が乗客を乗せ運行された。
1971年(昭和46年)4月20日に複々線化と緩行線の千代田線乗り入れが開始された。国鉄は、当時まだ旧形電車が多く運行されていた京浜東北線向けに103系を捻出する必要性から、10両編成で運行されていた青緑1号に塗られた103系電車を快速電車に転用する際、2両減車して8両編成とした。これは、複々線化により輸送力が上がっていることと、快速通過駅利用客が地下鉄への直通運転によりそのまま都心へ向かうことを念頭に置いたものであったが、当時は国鉄の運賃の方が安く、北千住 - 西日暮里間を千代田線経由で乗車して山手線や京浜東北線に乗り換える場合や、地下鉄経由で都心へ向かう場合の合算運賃が割高となる例が多く、地下鉄路線網も整備途上であったため、利用者の多くは松戸駅や北千住駅での乗換を選んだことで快速電車は大混雑した。このため、この直通運転・複々線化は新聞などで「迷惑乗り入れ」と糾弾される事態に発展した。これに対し国鉄は、千代田線乗り入れ開始とともに常磐線での営業運転を終了するはずであった旧形の72系電車を使用して臨時の快速電車を設定して輸送力を増強し、その置換用の103系が増備されるまでの約1年間をしのいだ。また、1972年10月に快速用103系が再び10両編成に増結され、松戸駅乗り換えによる混雑の要因の一つでもあった、快速通過駅とされた柏駅にも快速線にホームが新設された。
複々線化開業直前、綾瀬駅など都内の快速通過駅では上野駅へ行く際に乗り換えを強いられることや運賃が割高になることを理由に複々線化に不満を抱く利用者がいた。そのため、開業後には千代田線と常磐線のどちらを経由しても運賃を同じにし、綾瀬駅への快速停車または上野行き電車の復活を求める抗議集会が開かれた。だが運賃問題は半世紀たっても解消されず、2022年10月には亀有駅・金町駅周辺の一部住民16人がJR東日本・東京地下鉄・国に対して不当な運賃設定だとして損害賠償請求を起こしている。
1970年代後半に入ると、藤代 - 土浦間の交流電化区間までベッドタウン化が進行したことから、輸送力増強のため近郊形電車としては初のオールロングシート車となる415系500番台が投入された。当時の中距離列車はデータイムで1時間に1本、夕方のラッシュ時でも2本程度だったのが国際科学技術博覧会(つくば科学万博)開催直前の1985年(昭和60年)3月の改正で大増発され、編成も最長15両となった。1987年12月には、103系の快速電車も通勤形電車としては初めて15両編成化された。
一方、複々線化と相互乗り入れによる影響は営団の労働組合(日本私鉄労働組合総連合会)によるストライキ時にも顕著にあらわれた。ストライキが発生すると、北千住 - 綾瀬間は営団の路線であることから電車の運行ができなくなるため、やむを得ず綾瀬 - 金町間各駅の乗客は松戸駅まで一旦戻って上野方面へ向かえるように定期乗車券利用者には特例を設けて対処した。しかし、前述のように松戸駅自体が元々混雑していたため、同駅はパニック状態に陥り、長蛇の列が駅の外にまでできる事態に発展した。
また、相互乗り入れに使用されている車両も運行に影響を与えていた。営団地下鉄は、千代田線用開業当初は抵抗制御の5000系を投入したものの、1971年(昭和46年)4月20日に国鉄との相互乗り入れ開始から世界初の電力回生ブレーキ付電機子チョッパ制御車となる6000系を投入し、トンネル内の発熱抑制と省電力化を図っていた。しかし国鉄は、既存の通勤路線向けに大量増備していた103系の仕様を一部変えた1000番台を投入し、抵抗制御の国鉄車は抵抗器から大量の熱をトンネルや駅の中に排出することになった。駅間距離が比較的長く地下区間で高速走行する千代田線では、特に単線シールドトンネル内での空気流動が少なく抵抗器の冷却が充分にできなかったため、103系は故障が多発し一時は運行ダイヤにまで影響を及ぼすことがあった。省電力の観点でも、相互乗り入れの車両使用料の精算は通常乗り入れ距離で相殺するのが慣例であったが、営団車と国鉄車とでは電力消費量が異なるとの会計検査院からの指摘を受け、営団は国鉄に対して電気代の分を加算して請求することになった。1981年、営団は千代田線用5000系を北綾瀬支線を除く地下線から一掃し、6000系に統一した。国鉄は営団からの要望もあって、翌1982年(昭和57年)から電機子チョッパ制御の203系を投入開始し、1986年までに置き換えが完了し、国鉄車に関しては問題が解決することになった。
1982年に我孫子 -取手間の複々線化が完成した。完成に伴い当初は暫定で快速を停車させていた天王台駅は通過に変更する予定であった。しかし、これまで上野駅まで乗り換えなしで行けたものが乗り換えが発生するようになるうえ、各駅停車だけになると都心に乗り換えなしで行くには地下鉄に乗り入れることで運賃が高くなるのを目の当たりにし、不便な状況になり困ると判断した地元の住民や市などから反対運動が起き、国鉄へ引き続き停車するよう要望が出された。また同じ年に大手電機メーカーのNEC我孫子事業場が開設されることになったことなどもあり、国鉄と協議した結果、地元の負担があればホームを設置して良いと決まったため、最終的に同駅は引き続き快速停車駅として残ることになり、緩行線電車は朝夕の混雑時間帯のみ運行することに決まった。
以上のように、常磐線関係の輸送改善計画はスムーズに進まないことが多く、常磐線は「鬼門」と揶揄されることがあった。
常磐線の運転系統が複雑になっている一因に茨城県石岡市柿岡の気象庁地磁気観測所の存在がある。取手駅以北の直流電化は現時点では課題が多く、中距離列車と通勤電車(快速電車)の車両統合ができていない。このため民営化後になって、快速線に交直両用の通勤形であるE501系電車を1995年に、2005年にはE531系電車を投入するなどの施策を打った。なお、西日暮里経由の割高運賃問題だが、SuicaとPASMOの相互利用開始に伴い、IC乗車券を利用した際に、従前の連絡乗車券を購入した場合よりも安くなるケースが発生する一方、逆に高くなるケースも発生している(詳細は千代田線北千住 - 西日暮里間を経由する場合の特例を参照のこと)。
近年まで指摘されてきた問題点は改善の傾向にあり、例えば運転本数が十分とはいえない状況から亀有駅・金町駅が所在する葛飾区議会では列車の増発要求がしばしば議題に上っていた点については、2014年3月のダイヤ改正で日中の増発が実施された。また、かつて金町 - 松戸間の江戸川橋梁が台風や爆弾低気圧などによる強風の影響でしばしば規制を受けることがあったが、これについても防風柵の設置工事が2015年3月に完成し、以降規制を受けることが大幅に減った。
早朝から朝方と深夜の主に出入庫に伴う一部の線内運転電車を除き、ほぼすべての電車が東京メトロ千代田線に、さらに一部の電車は小田急小田原線伊勢原駅まで直通運転する。実態としては千代田線とほぼ一体化した運転系統を形成している。
常磐快速線(上野東京ライン)の南千住駅 - 上野駅 - 品川駅方面へは乗り入れないので、途中の快速停車駅もしくは東京メトロ千代田線北千住駅・西日暮里駅での乗り換えが必要となる(北千住駅・西日暮里駅での乗り換えは特例が設定されている。詳しくは後述)。
我孫子駅 - 取手駅間は平日の朝夕の時間帯のみ運行されている。朝夕にはこのほかに、松戸駅・柏駅発着の電車もある。これ以外は、ほとんどが我孫子駅 - 綾瀬駅( - 千代田線代々木上原駅)間で運転されている。日中の運行がない我孫子駅 - 取手駅間は、新製車両の試運転や訓練などに供されることがあり、過去には901系や松戸車両センター所属のE231系・E233系2000番台の試運転が実施されている。2013年12月7日・8日、2014年11月8日・9日には、快速線の利根川橋梁改良工事に伴い我孫子駅 - 取手駅間で緩行線の増発・延長運転が行われた。
信号システムはATC-10(東京メトロでの呼称:新CS-ATC)で、東京メトロ千代田線と同一のシステムを用いている(車内信号式。快速線はATS-P)。2000年8月16日より、従来のATC-4(営団地下鉄(当時)での呼称:CS-ATC)から切り替えられた。
なお、JR東日本保有車両は、小田急小田原線・多摩線と直通運転ができなかった。これはJR車は小田急のATS (D-ATS-P) と列車無線を搭載していなかったためである。小田急保有車両も同様に綾瀬以遠JR線と直通運転ができないため、3線にまたがっての直通運転ができるのは東京地下鉄保有車両のみであった。2013年4月からJR・小田急とも車両工事を実施し、2016年3月26日のダイヤ改正から相互に3社直通を開始した。
小田急線直通電車は小田急線内では各駅停車、準急、通勤準急(平日朝の小田急線発のみ)、急行の4種類があり、常磐線上り→千代田線A線は綾瀬から小田急線内での種別を表示するが、常磐線内では「各駅停車」(E233系2000番台、小田急4000形はエメラルドグリーン、東京メトロ16000系は白)表示となる。また、A線の千代田線内終着の電車及びB線の電車は千代田線内ではフルカラーLEDの方向幕を備えた車両では青地の「各駅停車」の種別表示を行う。小田急線から千代田線・常磐緩行線へ直通する電車は、千代田線・常磐線内は各駅停車のため、東北沢駅を発車または通過後に種別を青地の「各駅停車」に変えて(各駅停車からの直通の場合は変更せず)運転する。常磐線下り電車は綾瀬駅から線内用の「各駅停車」の表示に変更し終点まで運転する。
小田急線との直通電車は、2002年3月23日のダイヤ改正以前は小田原線内発着の準急のみ、同改正以降は2016年3月26日のダイヤ改正まで多摩線発着の多摩急行が主体であった。2016年3月26日のダイヤ改正では日中の多摩急行が急行に置き換わったほか、朝夕に準急が再設定されていた。
平日は朝夕ラッシュ時が約2 - 4分間隔、日中時間帯が1時間に6本(10分間隔、代々木上原駅発着と小田急直通急行が交互に3本ずつ)で運行されている。土曜・休日は朝夕が5 - 10分間隔、日中時間帯が平日同様1時間に6本(10分間隔、代々木上原駅発着と小田急直通急行が交互に3本ずつ)で運行されている。区間列車の影響などにより、それを含まない区間での間隔は多少前後がある。特に我孫子駅 - 北柏駅 - 柏駅間では朝や夕方の時間帯でも昼間以上に間隔が開く部分がある。
時間帯によっては、平日と土休日では形態が大きく異なる。平日朝は9時台には本数が落ち着くのに対し土休日は10時台まで6分間隔での運転がある。また、夕方以降のピークは平日が18 - 19時台であるのに対し、土休日は16 - 17時台である。夜間に至っては土休日の本数は平日の半分程度である。
上りは千代田線直通終了後の線内完結電車は、我孫子発松戸行きが2本しかなく、2021年3月13日のダイヤ改正までは松戸行きの1本目と2本目の間は40分以上開いていた。この1本前に我孫子発北千住行きが1本運行されるが、運賃計算上JR線として扱われうる綾瀬駅 - 北千住駅間は厳密には常磐緩行線ではないため、列車運行上は千代田線直通電車として扱われる。なお、この北千住行き最終電車は快速上野行きの最終電車に接続していたが、2021年3月13日のダイヤ改正で接続しなくなった。
日中は長らく12分間隔での運転が続いてきたが、2014年3月15日のダイヤ改正で、10分間隔に増発された。
所要時間は、取手駅 - 柏駅間が約12分、柏駅 - 松戸駅間が約14分、松戸駅 - 北千住駅間が約12分(松戸駅 - 綾瀬駅間は約8分)であり、快速と比較して柏駅 - 松戸駅間で約6分、松戸駅 - 北千住駅間で約4分ほど時間を要する。取手駅 - 柏駅間は快速を利用した場合でも大差はない。
以下に示す車両は全て片側4扉10両編成の電車である。
すべて松戸車両センター所属。車体にエメラルドグリーン(青緑1号 ■)一色の帯が巻かれている。
なお、2016年3月26日のダイヤ改正まで、JRと小田急の車両は、他方の列車無線に対応していなかった(ただし、小田急については地下鉄直通対応車両にJR無線の準備工事がなされていた)ため、常磐線 - 千代田線 - 小田急線の3社直通電車は東京地下鉄の車両が限定使用されており、小田急の車両はJR線には直通運転を行わず、また、JRの車両は小田急線には直通しなかった。JRと小田急の車両に対して、3社間直通運転を可能にするための対応工事を2013年から実施し、2016年3月26日のダイヤ改正で直通運転を開始した。詳しくは「東京メトロ千代田線#常磐線と小田急線との相互乗り入れ」を参照。
これらの車両のドア上に掲出していた路線駅案内は、長らく快速電車( - 成田線我孫子支線)のものと全く同じものが使用されており、千代田線内については駅名のみが列挙されているだけで接続路線が全く記載されていなかった。2004年秋頃より独自のものになり、千代田線内の接続路線や駅番号まで記載されたものに変更された。さらに2006年には、簡素ながら運賃計算に関する注記も加えられている。なお、行先表示器には各系列とも運用開始時点で既に終着運用のなかった「代々木公園」「上野」などの表示もあった。
「MY LINE 東京時刻表」「小田急時刻表」(共に交通新聞社)の常磐線各駅停車・千代田線の時刻表における列車番号欄で、末尾の「K」はJR車、「S」はメトロ車、「E」は小田急車を表している(小田急線内は直通列車でも小田急独自の列車番号が割り当てられている)。3社間の走行距離調整の関係上、JR車は千代田線内および千代田線 - 小田急線で、また小田急車は常磐線 - 千代田線でそれぞれ完結する運用も組まれている。なお2016年3月26日改正ダイヤでは、JR車の1本が綾瀬車両基地・1本が唐木田でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれ、逆にメトロ車の1本が松戸車両センター(本所)で、小田急車の1本が松戸車両センター我孫子派出所でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。
2006年(平成18年)5月15日より女性専用車が導入された。平日7時10分から9時30分までに綾瀬駅を発車する千代田線・代々木上原方面行きの電車で、代々木上原寄りの先頭1号車に設定されている。千代田線内代々木上原駅まで実施、9時30分をもって一斉に終了となる。
JR東日本では埼京線・中央線快速に次ぐ3例目の導入であった。また、1号車に設定されているのは、前年5月より導入していた小田急線に合わせたものと見られる(千代田線内では両方向で導入している)。ただ、千代田線内の19駅中13駅が、この1号車付近に出入り口や乗換口への通路がある。
北千住駅 - 綾瀬駅間は東京地下鉄の管轄区間であるが、前後のJR線区間と跨って利用する場合はJRの利用区間とみなす運賃計算の特例がある。また、JRでは、常磐線北千住 - 綾瀬間相互発着の乗車券類は発売しない。
亀有駅 - 取手駅間の各駅と、山手線内各駅および近傍の駅との間を、千代田線の北千住 - 西日暮里間を経由して乗車する場合には、運賃計算の特例(通過連絡運輸)が適用される。
連絡乗車券を購入する場合とIC乗車券を使用する場合では、計算方法や適用範囲が異なる上、どちらの方法が安いかについても駅によって異なるという二重運賃状態となっている。2007年のサービス開始以来、連絡乗車券の発売範囲内の駅では、IC乗車券を利用した方が安くなる駅にマークを入れた路線図式運賃表を別に掲載していた(券売機の横に小さく掲出されている)。これについて、2013年4月の衆議院消費者問題特別委員会で「周知が不十分である」との指摘がなされ、国土交通省は改善を指示した。2014年4月以降は、券売機の横に連絡乗車券を購入する場合の運賃とIC運賃が併記されたものを掲出している。
連絡乗車券の場合は、東京メトロ千代田線をはさんだ前後のJR線区間の営業キロを通算する通過連絡運輸の特例が適用される。券売機でICカードを使用して連絡乗車券を購入した場合も、この特例が適用される。
【例】南柏から池袋まで(経由:北千住・東京メトロ千代田線・西日暮里・巣鴨)
乗車券の発売範囲
2007年3月18日の首都圏ICカード相互利用サービス開始に伴い、PASMO・Suicaで利用の際は、北千住までのJR運賃と西日暮里以遠のJR運賃の個別の合算額から100円を差引く方式を採用している。運賃は西日暮里の改札を通った時点で西日暮里までの運賃が差し引かれ、乗り継いだJR線の特例適用範囲内で下車した場合に西日暮里から下車駅までの運賃から100円引いた額を差し引く。この特例が適用される場合は、金町駅・亀有駅 - 西日暮里間相互発着に適用される乗り継ぎ割引が適用されない。
上記連絡乗車券の場合と同様の経路で考えると、
となり、合計額663円から100円を引いた563円がIC乗車券使用時の運賃となる。
特例の適用範囲
ICカードを利用して、南千住以遠(三河島方面)・亀有以遠(金町方面)から東中野以遠(大久保方面)・高円寺以遠(阿佐ケ谷方面)あるいは船橋以遠(東船橋方面)・下総中山以遠(本八幡方面)・船橋法典以遠(市川大野方面)・南船橋以遠(二俣新町方面、新習志野方面)・市川塩浜以遠(新浦安方面、二俣新町方面)など、他社線を経由してJR線(共用駅を除く)の駅間を途中改札を通らずに乗車する場合、千代田線・東西線経由の方が低廉である場合であっても全線JR線乗車と扱われる。
なお、西船橋駅にはJR線と東京地下鉄・東葉高速鉄道の連絡通路に乗り換え改札機が設置されたものの、経路の判別方法についてはほとんど変更されていない。したがって、西船橋経由の方が安い経路を乗車する場合には、同駅の改札通過に関わらず西船橋駅経由の運賃が適用される。
旅客案内で使用される本系統のラインカラーは、基本的にはエメラルドグリーン(緑 ■)であるが、快速電車と同一であるため区別のために異なる色を使うことがある。
東京近郊路線図(現在の路線ネットワーク)では快速電車が緑(■)、各駅停車がグレー(■)であり、これは快速線のE231系電車に掲出されている停車駅案内と同じであり(E531系電車に掲出されているものはこの配色ではない)、駅ナンバリングのラインカラーにもこれを採用している。なお、緩行線の車両(203系・207系900番台・209系1000番台)の停車駅案内では逆に快速をグレー、各駅停車を緑としていた。
他に、快速線に青(■)を用いて緩行線に緑を採用する例のほか、快速電車のカラーとして黄緑(■)を使用し、各駅停車のカラーに緑(■)を使用しているものもある(E233系2000番台や小田急4000形のLCD上の路線図などで採用されている)。
車両の塗装は、金属色の車体にエメラルドグリーン(青緑1号 ■)のラインとなっているが、快速線向けのE231系電車や他のE233系等とは違い、緩行線向けのE233系電車については、幕板部にはこの色のラインは入っていない。
綾瀬駅 - 取手駅間の緩行線のもの。
全線が首都圏本部の管轄である。ただし、綾瀬駅構内は東京地下鉄が管理を行っている。
2019年度の朝ラッシュ時最混雑区間は亀有 → 綾瀬間であり、ピーク時の混雑率は149%である。
常磐線が複々線化された1970年代は輸送人員が増加傾向にあり、1980年度から約30年ほどはラッシュ時の混雑率が230%を越えていた。1992年度をピークに輸送人員が減少し、2004年度に混雑率が200%を下回った。2005年度に当路線と並行する形で首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが開業すると輸送人員はさらに減少した。2006年度に混雑率が180%を下回った。その後も輸送人員は減少傾向が続き、2015年度に160%を下回った。
2015年度以降は、並行するつくばエクスプレスよりも混雑率が低くなっているが、輸送量は依然として多い。
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"text": "常磐緩行線(じょうばんかんこうせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線のうち、東京都足立区の綾瀬駅から茨城県取手市の取手駅までの複々線区間において、各駅停車の電車が運行される線路(緩行線)である。 駅ナンバリングで使われる路線記号はJLで、直通運転を行っている東京地下鉄(東京メトロ)千代田線と番号部分が連番(代々木上原駅を01とみなす)となっている。",
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"text": "東京地区の電車特定区間(E電)の運転系統の一つである。東京メトロ千代田線と直通運転を行い、東京都心と千葉県北西部(東葛地域)の松戸・柏・我孫子地区および茨城県南部の取手の各都市を各駅停車で結んでいる。また、一部の電車は千代田線を経由して小田急小田原線伊勢原駅まで直通している。",
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"text": "JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代、通勤客の増大に伴い、列車およびターミナルである上野駅・日暮里駅の混雑緩和を目的として、通勤五方面作戦の一環として北千住駅 - 我孫子駅間の複々線化が1971年(昭和46年)に行われ、同時にそれまで各駅停車として上野駅 - 取手駅間を運転していた電車の緩急分離が行われた。以降、線路の通称として各駅停車が走行する線路が「常磐緩行線」、新設された快速電車と取手以北直通の列車が走行する線路が「常磐快速線」と呼ばれるようになった。この緩急分離により、各駅停車は帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄)千代田線と直通運転を行う現在の形態となった(後述)。その後1982年(昭和57年)に緩行線が取手駅まで延伸され、現在の形態となっている。",
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"text": "一部の駅にのみホームがある快速線に対して、緩行線は全駅にホームがあり、運転される電車もすべて各駅停車である。",
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"text": "ダイヤグラム・運行システム・車両は直通する千代田線と一体化したものである。常磐快速線との渡り線は松戸駅・我孫子駅付近に設置されているが、保安システムが異なるため緩行線と快速線の直通運転を行う定期列車は設定されていない。",
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"text": "東京のJRの放射路線としては唯一都心(山手線)に至らない系統であるため、千代田線の北千住駅 - 西日暮里駅間を経由しJR線に乗り継ぐ場合に通過連絡運輸の特例も設定されている(後述)。",
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"text": "2004年以前は、小田急電鉄がJRの一斉改正日でない日にダイヤ改正を行っていたため、これに伴ってJR東日本のダイヤ改正時以外にも運行時刻の変更が行われることがままあった。ただ、運用や行先の変更が主で、線内での時刻変更は基本的にない。なお、2006年以降はJRと同日に改正を実施するようになっている。",
"title": "概要"
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"text": "複々線区間は全線に亘って踏切がなく、直通線区以外から乗り入れてくる車両もないため、将来導入を予定している技術の実験場として使われることも多い。",
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"text": "旅客案内上は、東京メトロ千代田線の北千住駅 - 綾瀬駅間を含んだ北千住駅 - 取手駅間の運転系統名として「常磐線各駅停車」「常磐線(各駅停車)」と呼称されている。",
"title": "呼称について"
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"text": "北千住駅 - 綾瀬駅間は実務上JR線として運賃計算する場合と東京メトロ線として運賃計算する場合の2つに分かれる特殊な区間となっている。このような特例は他でも見受けられるものであるが、北千住駅 - 綾瀬駅間に関してはJR東日本は第二種鉄道事業者ではないため、厳密には東京メトロの単独区間である(北千住駅 - 綾瀬駅間の運賃の取り扱いについては「運賃計算の特例」の節を参照)。",
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"text": "各駅停車は地下鉄千代田線との直通運転により一体的に運用されているため、各駅停車は地下鉄区間とあわせて「千代田線」と呼ばれる場合がある。市販されている地図にも千代田線と表記したものがあるほか、不動産物件にも「千代田線北松戸駅」「地下鉄千代田線北柏駅」等の案内がある。不動産ポータルサイトなどでは「(JR)千代田・常磐緩行線」などの表記も散見される。",
"title": "呼称について"
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"text": "元々常磐線は上野 - 取手間の各駅に停車する「国電」(近距離電車)と主要駅のみ停車の中距離列車や急行・特急などが同じ線路を走行していた。当時は中・長距離輸送を担う列車に対して地域輸送を担う電車(国電)は停車駅も異なり棲み分けが明確であった。過去には、一部の「国電」が上野・東京経由で有楽町まで乗り入れていたこともあった(山手線・京浜東北線分離工事時の暫定措置)。なお、常磐線の線路にホームのない鶯谷駅は通過していた。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
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"text": "一方、高度成長期を迎えると共に沿線のベッドタウン化が進んで人口が急増し、常磐線の混雑率も非常に高くなったものの、各種列車が同一線路上を走行していることによってさらなる増発が困難になったため、いわゆる「通勤五方面作戦」の一環として複々線化を実施することになった。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "1962年に発表された運輸大臣の諮問機関「都市交通審議会」の答申では、北千住 - 松戸間について東京8号線(のちの9号線)が計画されていた。このため国鉄は、このルートの終点を取手まで延長する形で国鉄線を線増し、緩行線を地下鉄千代田線と直通運転させる形で複々線化を実施することとした。また当時、北千住 - 綾瀬間は国鉄の路線であったが、複々線化・千代田線との乗り入れに際して建設費用を抑えたい国鉄と、足立区内に設置する車庫(現:綾瀬検車区)への回送ルートを確保したい営団の思惑が一致し、北千住 - 綾瀬間の緩行線を営団保有にして、複々線化と千代田線との直通運転が同時に行われることとなった。ただし、運賃計算上は北千住駅 - 綾瀬駅間は従来どおり国鉄線運賃として計算される特例が設けられた。また複々線化に際し、従来の「国電」(近距離電車)を「各駅停車」と「快速」の2種別に編成し、各駅停車を緩行線に、「快速」を日暮里・上野方面へと向かう快速線に振り分けることとした。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
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"text": "また複々線化区間から外れた中距離列車通過駅の三河島駅・南千住駅・天王台駅(複々線化と同時に開業)には東京近郊輸送を担う快速のみが停車し、快速線のホームは複々線区間の両端の北千住駅・我孫子駅と車両基地のある松戸駅にのみ設けられることになった。この結果快速通過駅の利用客は乗り換えなしで日暮里駅や上野駅まで行けなくなるため、不便を解消するために営団・国鉄の双方に乗換駅として西日暮里駅を新設するとともに、同駅を経由する通過連絡運輸の特例が設けられることとなった。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
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"text": "工事予算と地下鉄千代田線への旅客の転嫁見込み、ならびに貨物列車の運行や当時建設中であった国鉄武蔵野線との接続方法等について検討された結果、緩急乗り換え利便性の高い方向別複々線での建設が見送られ、他の首都圏国鉄主要路線と同様の線路別複々線となった。このため我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅等での各駅停車と快速等の乗り換えでは階段を使用してホーム間を移動することになった。",
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"text": "複々線化の前後では、運転種別や停車駅が以下の表のように変遷している。",
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"text": "1965年(昭和40年)2月、綾瀬 - 我孫子間 (23.6km) の複々線増線の工事が第1期工事として開始された。",
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"text": "北千住 - 綾瀬間の増線は営団が千代田線の新設工事として若干先行して行ったが、その完成後に東武線との交差部から営団が1968年(昭和43年)2月1日に完成させた綾瀬駅間の線路および駅設備を借受け、複々線開通まで常磐線全列車が暫定的に使用した。これは常磐線の高架化に際し工事用地の取得が困難なための処置であった。",
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"text": "工事は主に東京側から順次進められ、1971年(昭和46年)3月1日、綾瀬 - 金町間の複々線が暫定で開通し国電と優等列車・貨物列車の分離が行われた。続いて同年3月10日には金町 - 北柏間が暫定で開通、4月1日に北柏 - 我孫子間が開通し複々線の工事は完了した。",
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"text": "4月19日に、我孫子駅で常磐線複々線完成祝賀式が行われ、我孫子 - 綾瀬間で「複々線工事完成祝賀電車」が乗客を乗せ運行された。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1971年(昭和46年)4月20日に複々線化と緩行線の千代田線乗り入れが開始された。国鉄は、当時まだ旧形電車が多く運行されていた京浜東北線向けに103系を捻出する必要性から、10両編成で運行されていた青緑1号に塗られた103系電車を快速電車に転用する際、2両減車して8両編成とした。これは、複々線化により輸送力が上がっていることと、快速通過駅利用客が地下鉄への直通運転によりそのまま都心へ向かうことを念頭に置いたものであったが、当時は国鉄の運賃の方が安く、北千住 - 西日暮里間を千代田線経由で乗車して山手線や京浜東北線に乗り換える場合や、地下鉄経由で都心へ向かう場合の合算運賃が割高となる例が多く、地下鉄路線網も整備途上であったため、利用者の多くは松戸駅や北千住駅での乗換を選んだことで快速電車は大混雑した。このため、この直通運転・複々線化は新聞などで「迷惑乗り入れ」と糾弾される事態に発展した。これに対し国鉄は、千代田線乗り入れ開始とともに常磐線での営業運転を終了するはずであった旧形の72系電車を使用して臨時の快速電車を設定して輸送力を増強し、その置換用の103系が増備されるまでの約1年間をしのいだ。また、1972年10月に快速用103系が再び10両編成に増結され、松戸駅乗り換えによる混雑の要因の一つでもあった、快速通過駅とされた柏駅にも快速線にホームが新設された。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "複々線化開業直前、綾瀬駅など都内の快速通過駅では上野駅へ行く際に乗り換えを強いられることや運賃が割高になることを理由に複々線化に不満を抱く利用者がいた。そのため、開業後には千代田線と常磐線のどちらを経由しても運賃を同じにし、綾瀬駅への快速停車または上野行き電車の復活を求める抗議集会が開かれた。だが運賃問題は半世紀たっても解消されず、2022年10月には亀有駅・金町駅周辺の一部住民16人がJR東日本・東京地下鉄・国に対して不当な運賃設定だとして損害賠償請求を起こしている。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半に入ると、藤代 - 土浦間の交流電化区間までベッドタウン化が進行したことから、輸送力増強のため近郊形電車としては初のオールロングシート車となる415系500番台が投入された。当時の中距離列車はデータイムで1時間に1本、夕方のラッシュ時でも2本程度だったのが国際科学技術博覧会(つくば科学万博)開催直前の1985年(昭和60年)3月の改正で大増発され、編成も最長15両となった。1987年12月には、103系の快速電車も通勤形電車としては初めて15両編成化された。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一方、複々線化と相互乗り入れによる影響は営団の労働組合(日本私鉄労働組合総連合会)によるストライキ時にも顕著にあらわれた。ストライキが発生すると、北千住 - 綾瀬間は営団の路線であることから電車の運行ができなくなるため、やむを得ず綾瀬 - 金町間各駅の乗客は松戸駅まで一旦戻って上野方面へ向かえるように定期乗車券利用者には特例を設けて対処した。しかし、前述のように松戸駅自体が元々混雑していたため、同駅はパニック状態に陥り、長蛇の列が駅の外にまでできる事態に発展した。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、相互乗り入れに使用されている車両も運行に影響を与えていた。営団地下鉄は、千代田線用開業当初は抵抗制御の5000系を投入したものの、1971年(昭和46年)4月20日に国鉄との相互乗り入れ開始から世界初の電力回生ブレーキ付電機子チョッパ制御車となる6000系を投入し、トンネル内の発熱抑制と省電力化を図っていた。しかし国鉄は、既存の通勤路線向けに大量増備していた103系の仕様を一部変えた1000番台を投入し、抵抗制御の国鉄車は抵抗器から大量の熱をトンネルや駅の中に排出することになった。駅間距離が比較的長く地下区間で高速走行する千代田線では、特に単線シールドトンネル内での空気流動が少なく抵抗器の冷却が充分にできなかったため、103系は故障が多発し一時は運行ダイヤにまで影響を及ぼすことがあった。省電力の観点でも、相互乗り入れの車両使用料の精算は通常乗り入れ距離で相殺するのが慣例であったが、営団車と国鉄車とでは電力消費量が異なるとの会計検査院からの指摘を受け、営団は国鉄に対して電気代の分を加算して請求することになった。1981年、営団は千代田線用5000系を北綾瀬支線を除く地下線から一掃し、6000系に統一した。国鉄は営団からの要望もあって、翌1982年(昭和57年)から電機子チョッパ制御の203系を投入開始し、1986年までに置き換えが完了し、国鉄車に関しては問題が解決することになった。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1982年に我孫子 -取手間の複々線化が完成した。完成に伴い当初は暫定で快速を停車させていた天王台駅は通過に変更する予定であった。しかし、これまで上野駅まで乗り換えなしで行けたものが乗り換えが発生するようになるうえ、各駅停車だけになると都心に乗り換えなしで行くには地下鉄に乗り入れることで運賃が高くなるのを目の当たりにし、不便な状況になり困ると判断した地元の住民や市などから反対運動が起き、国鉄へ引き続き停車するよう要望が出された。また同じ年に大手電機メーカーのNEC我孫子事業場が開設されることになったことなどもあり、国鉄と協議した結果、地元の負担があればホームを設置して良いと決まったため、最終的に同駅は引き続き快速停車駅として残ることになり、緩行線電車は朝夕の混雑時間帯のみ運行することに決まった。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以上のように、常磐線関係の輸送改善計画はスムーズに進まないことが多く、常磐線は「鬼門」と揶揄されることがあった。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "常磐線の運転系統が複雑になっている一因に茨城県石岡市柿岡の気象庁地磁気観測所の存在がある。取手駅以北の直流電化は現時点では課題が多く、中距離列車と通勤電車(快速電車)の車両統合ができていない。このため民営化後になって、快速線に交直両用の通勤形であるE501系電車を1995年に、2005年にはE531系電車を投入するなどの施策を打った。なお、西日暮里経由の割高運賃問題だが、SuicaとPASMOの相互利用開始に伴い、IC乗車券を利用した際に、従前の連絡乗車券を購入した場合よりも安くなるケースが発生する一方、逆に高くなるケースも発生している(詳細は千代田線北千住 - 西日暮里間を経由する場合の特例を参照のこと)。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "近年まで指摘されてきた問題点は改善の傾向にあり、例えば運転本数が十分とはいえない状況から亀有駅・金町駅が所在する葛飾区議会では列車の増発要求がしばしば議題に上っていた点については、2014年3月のダイヤ改正で日中の増発が実施された。また、かつて金町 - 松戸間の江戸川橋梁が台風や爆弾低気圧などによる強風の影響でしばしば規制を受けることがあったが、これについても防風柵の設置工事が2015年3月に完成し、以降規制を受けることが大幅に減った。",
"title": "複々線化の沿革と問題"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "早朝から朝方と深夜の主に出入庫に伴う一部の線内運転電車を除き、ほぼすべての電車が東京メトロ千代田線に、さらに一部の電車は小田急小田原線伊勢原駅まで直通運転する。実態としては千代田線とほぼ一体化した運転系統を形成している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "常磐快速線(上野東京ライン)の南千住駅 - 上野駅 - 品川駅方面へは乗り入れないので、途中の快速停車駅もしくは東京メトロ千代田線北千住駅・西日暮里駅での乗り換えが必要となる(北千住駅・西日暮里駅での乗り換えは特例が設定されている。詳しくは後述)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "我孫子駅 - 取手駅間は平日の朝夕の時間帯のみ運行されている。朝夕にはこのほかに、松戸駅・柏駅発着の電車もある。これ以外は、ほとんどが我孫子駅 - 綾瀬駅( - 千代田線代々木上原駅)間で運転されている。日中の運行がない我孫子駅 - 取手駅間は、新製車両の試運転や訓練などに供されることがあり、過去には901系や松戸車両センター所属のE231系・E233系2000番台の試運転が実施されている。2013年12月7日・8日、2014年11月8日・9日には、快速線の利根川橋梁改良工事に伴い我孫子駅 - 取手駅間で緩行線の増発・延長運転が行われた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "信号システムはATC-10(東京メトロでの呼称:新CS-ATC)で、東京メトロ千代田線と同一のシステムを用いている(車内信号式。快速線はATS-P)。2000年8月16日より、従来のATC-4(営団地下鉄(当時)での呼称:CS-ATC)から切り替えられた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、JR東日本保有車両は、小田急小田原線・多摩線と直通運転ができなかった。これはJR車は小田急のATS (D-ATS-P) と列車無線を搭載していなかったためである。小田急保有車両も同様に綾瀬以遠JR線と直通運転ができないため、3線にまたがっての直通運転ができるのは東京地下鉄保有車両のみであった。2013年4月からJR・小田急とも車両工事を実施し、2016年3月26日のダイヤ改正から相互に3社直通を開始した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "小田急線直通電車は小田急線内では各駅停車、準急、通勤準急(平日朝の小田急線発のみ)、急行の4種類があり、常磐線上り→千代田線A線は綾瀬から小田急線内での種別を表示するが、常磐線内では「各駅停車」(E233系2000番台、小田急4000形はエメラルドグリーン、東京メトロ16000系は白)表示となる。また、A線の千代田線内終着の電車及びB線の電車は千代田線内ではフルカラーLEDの方向幕を備えた車両では青地の「各駅停車」の種別表示を行う。小田急線から千代田線・常磐緩行線へ直通する電車は、千代田線・常磐線内は各駅停車のため、東北沢駅を発車または通過後に種別を青地の「各駅停車」に変えて(各駅停車からの直通の場合は変更せず)運転する。常磐線下り電車は綾瀬駅から線内用の「各駅停車」の表示に変更し終点まで運転する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "小田急線との直通電車は、2002年3月23日のダイヤ改正以前は小田原線内発着の準急のみ、同改正以降は2016年3月26日のダイヤ改正まで多摩線発着の多摩急行が主体であった。2016年3月26日のダイヤ改正では日中の多摩急行が急行に置き換わったほか、朝夕に準急が再設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "平日は朝夕ラッシュ時が約2 - 4分間隔、日中時間帯が1時間に6本(10分間隔、代々木上原駅発着と小田急直通急行が交互に3本ずつ)で運行されている。土曜・休日は朝夕が5 - 10分間隔、日中時間帯が平日同様1時間に6本(10分間隔、代々木上原駅発着と小田急直通急行が交互に3本ずつ)で運行されている。区間列車の影響などにより、それを含まない区間での間隔は多少前後がある。特に我孫子駅 - 北柏駅 - 柏駅間では朝や夕方の時間帯でも昼間以上に間隔が開く部分がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "時間帯によっては、平日と土休日では形態が大きく異なる。平日朝は9時台には本数が落ち着くのに対し土休日は10時台まで6分間隔での運転がある。また、夕方以降のピークは平日が18 - 19時台であるのに対し、土休日は16 - 17時台である。夜間に至っては土休日の本数は平日の半分程度である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "上りは千代田線直通終了後の線内完結電車は、我孫子発松戸行きが2本しかなく、2021年3月13日のダイヤ改正までは松戸行きの1本目と2本目の間は40分以上開いていた。この1本前に我孫子発北千住行きが1本運行されるが、運賃計算上JR線として扱われうる綾瀬駅 - 北千住駅間は厳密には常磐緩行線ではないため、列車運行上は千代田線直通電車として扱われる。なお、この北千住行き最終電車は快速上野行きの最終電車に接続していたが、2021年3月13日のダイヤ改正で接続しなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日中は長らく12分間隔での運転が続いてきたが、2014年3月15日のダイヤ改正で、10分間隔に増発された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "所要時間は、取手駅 - 柏駅間が約12分、柏駅 - 松戸駅間が約14分、松戸駅 - 北千住駅間が約12分(松戸駅 - 綾瀬駅間は約8分)であり、快速と比較して柏駅 - 松戸駅間で約6分、松戸駅 - 北千住駅間で約4分ほど時間を要する。取手駅 - 柏駅間は快速を利用した場合でも大差はない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "以下に示す車両は全て片側4扉10両編成の電車である。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "すべて松戸車両センター所属。車体にエメラルドグリーン(青緑1号 ■)一色の帯が巻かれている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、2016年3月26日のダイヤ改正まで、JRと小田急の車両は、他方の列車無線に対応していなかった(ただし、小田急については地下鉄直通対応車両にJR無線の準備工事がなされていた)ため、常磐線 - 千代田線 - 小田急線の3社直通電車は東京地下鉄の車両が限定使用されており、小田急の車両はJR線には直通運転を行わず、また、JRの車両は小田急線には直通しなかった。JRと小田急の車両に対して、3社間直通運転を可能にするための対応工事を2013年から実施し、2016年3月26日のダイヤ改正で直通運転を開始した。詳しくは「東京メトロ千代田線#常磐線と小田急線との相互乗り入れ」を参照。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "これらの車両のドア上に掲出していた路線駅案内は、長らく快速電車( - 成田線我孫子支線)のものと全く同じものが使用されており、千代田線内については駅名のみが列挙されているだけで接続路線が全く記載されていなかった。2004年秋頃より独自のものになり、千代田線内の接続路線や駅番号まで記載されたものに変更された。さらに2006年には、簡素ながら運賃計算に関する注記も加えられている。なお、行先表示器には各系列とも運用開始時点で既に終着運用のなかった「代々木公園」「上野」などの表示もあった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "「MY LINE 東京時刻表」「小田急時刻表」(共に交通新聞社)の常磐線各駅停車・千代田線の時刻表における列車番号欄で、末尾の「K」はJR車、「S」はメトロ車、「E」は小田急車を表している(小田急線内は直通列車でも小田急独自の列車番号が割り当てられている)。3社間の走行距離調整の関係上、JR車は千代田線内および千代田線 - 小田急線で、また小田急車は常磐線 - 千代田線でそれぞれ完結する運用も組まれている。なお2016年3月26日改正ダイヤでは、JR車の1本が綾瀬車両基地・1本が唐木田でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれ、逆にメトロ車の1本が松戸車両センター(本所)で、小田急車の1本が松戸車両センター我孫子派出所でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)5月15日より女性専用車が導入された。平日7時10分から9時30分までに綾瀬駅を発車する千代田線・代々木上原方面行きの電車で、代々木上原寄りの先頭1号車に設定されている。千代田線内代々木上原駅まで実施、9時30分をもって一斉に終了となる。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "JR東日本では埼京線・中央線快速に次ぐ3例目の導入であった。また、1号車に設定されているのは、前年5月より導入していた小田急線に合わせたものと見られる(千代田線内では両方向で導入している)。ただ、千代田線内の19駅中13駅が、この1号車付近に出入り口や乗換口への通路がある。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "北千住駅 - 綾瀬駅間は東京地下鉄の管轄区間であるが、前後のJR線区間と跨って利用する場合はJRの利用区間とみなす運賃計算の特例がある。また、JRでは、常磐線北千住 - 綾瀬間相互発着の乗車券類は発売しない。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "亀有駅 - 取手駅間の各駅と、山手線内各駅および近傍の駅との間を、千代田線の北千住 - 西日暮里間を経由して乗車する場合には、運賃計算の特例(通過連絡運輸)が適用される。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "連絡乗車券を購入する場合とIC乗車券を使用する場合では、計算方法や適用範囲が異なる上、どちらの方法が安いかについても駅によって異なるという二重運賃状態となっている。2007年のサービス開始以来、連絡乗車券の発売範囲内の駅では、IC乗車券を利用した方が安くなる駅にマークを入れた路線図式運賃表を別に掲載していた(券売機の横に小さく掲出されている)。これについて、2013年4月の衆議院消費者問題特別委員会で「周知が不十分である」との指摘がなされ、国土交通省は改善を指示した。2014年4月以降は、券売機の横に連絡乗車券を購入する場合の運賃とIC運賃が併記されたものを掲出している。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "連絡乗車券の場合は、東京メトロ千代田線をはさんだ前後のJR線区間の営業キロを通算する通過連絡運輸の特例が適用される。券売機でICカードを使用して連絡乗車券を購入した場合も、この特例が適用される。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "【例】南柏から池袋まで(経由:北千住・東京メトロ千代田線・西日暮里・巣鴨)",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "乗車券の発売範囲",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2007年3月18日の首都圏ICカード相互利用サービス開始に伴い、PASMO・Suicaで利用の際は、北千住までのJR運賃と西日暮里以遠のJR運賃の個別の合算額から100円を差引く方式を採用している。運賃は西日暮里の改札を通った時点で西日暮里までの運賃が差し引かれ、乗り継いだJR線の特例適用範囲内で下車した場合に西日暮里から下車駅までの運賃から100円引いた額を差し引く。この特例が適用される場合は、金町駅・亀有駅 - 西日暮里間相互発着に適用される乗り継ぎ割引が適用されない。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "上記連絡乗車券の場合と同様の経路で考えると、",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "となり、合計額663円から100円を引いた563円がIC乗車券使用時の運賃となる。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "特例の適用範囲",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ICカードを利用して、南千住以遠(三河島方面)・亀有以遠(金町方面)から東中野以遠(大久保方面)・高円寺以遠(阿佐ケ谷方面)あるいは船橋以遠(東船橋方面)・下総中山以遠(本八幡方面)・船橋法典以遠(市川大野方面)・南船橋以遠(二俣新町方面、新習志野方面)・市川塩浜以遠(新浦安方面、二俣新町方面)など、他社線を経由してJR線(共用駅を除く)の駅間を途中改札を通らずに乗車する場合、千代田線・東西線経由の方が低廉である場合であっても全線JR線乗車と扱われる。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "なお、西船橋駅にはJR線と東京地下鉄・東葉高速鉄道の連絡通路に乗り換え改札機が設置されたものの、経路の判別方法についてはほとんど変更されていない。したがって、西船橋経由の方が安い経路を乗車する場合には、同駅の改札通過に関わらず西船橋駅経由の運賃が適用される。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "旅客案内で使用される本系統のラインカラーは、基本的にはエメラルドグリーン(緑 ■)であるが、快速電車と同一であるため区別のために異なる色を使うことがある。",
"title": "ラインカラー"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "東京近郊路線図(現在の路線ネットワーク)では快速電車が緑(■)、各駅停車がグレー(■)であり、これは快速線のE231系電車に掲出されている停車駅案内と同じであり(E531系電車に掲出されているものはこの配色ではない)、駅ナンバリングのラインカラーにもこれを採用している。なお、緩行線の車両(203系・207系900番台・209系1000番台)の停車駅案内では逆に快速をグレー、各駅停車を緑としていた。",
"title": "ラインカラー"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "他に、快速線に青(■)を用いて緩行線に緑を採用する例のほか、快速電車のカラーとして黄緑(■)を使用し、各駅停車のカラーに緑(■)を使用しているものもある(E233系2000番台や小田急4000形のLCD上の路線図などで採用されている)。",
"title": "ラインカラー"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "車両の塗装は、金属色の車体にエメラルドグリーン(青緑1号 ■)のラインとなっているが、快速線向けのE231系電車や他のE233系等とは違い、緩行線向けのE233系電車については、幕板部にはこの色のラインは入っていない。",
"title": "ラインカラー"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "綾瀬駅 - 取手駅間の緩行線のもの。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "全線が首都圏本部の管轄である。ただし、綾瀬駅構内は東京地下鉄が管理を行っている。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2019年度の朝ラッシュ時最混雑区間は亀有 → 綾瀬間であり、ピーク時の混雑率は149%である。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "常磐線が複々線化された1970年代は輸送人員が増加傾向にあり、1980年度から約30年ほどはラッシュ時の混雑率が230%を越えていた。1992年度をピークに輸送人員が減少し、2004年度に混雑率が200%を下回った。2005年度に当路線と並行する形で首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが開業すると輸送人員はさらに減少した。2006年度に混雑率が180%を下回った。その後も輸送人員は減少傾向が続き、2015年度に160%を下回った。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2015年度以降は、並行するつくばエクスプレスよりも混雑率が低くなっているが、輸送量は依然として多い。",
"title": "データ"
}
] |
常磐緩行線(じょうばんかんこうせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線のうち、東京都足立区の綾瀬駅から茨城県取手市の取手駅までの複々線区間において、各駅停車の電車が運行される線路(緩行線)である。
駅ナンバリングで使われる路線記号はJLで、直通運転を行っている東京地下鉄(東京メトロ)千代田線と番号部分が連番(代々木上原駅を01とみなす)となっている。
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{{pp-vd|small=y}}
{{Redirect|常磐線各駅停車|[[取手駅]]以北で各駅に停車する[[中距離電車|中距離]][[普通列車]]([[上野駅]] - [[取手駅]]間で[[常磐快速線|快速線]]を走行)|常磐線}}
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 常磐緩行線
|路線色=#808080
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|ロゴサイズ=40px
|画像=E233系2000番台マト10編成.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=常磐線各駅停車で運用される[[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]](2019年4月)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[千葉県]]、[[茨城県]]
|起点=[[綾瀬駅]]
|終点=[[取手駅]]
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|経由路線=[[常磐線]]
|開業=[[1971年]][[4月20日]](運行開始)
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|車両基地=[[松戸車両センター]]、[[松戸車両センター#松戸車両センター我孫子派出所|松戸車両センター我孫子派出所]]、[[綾瀬車両基地#綾瀬検車区|綾瀬検車区]](東京メトロ車)、[[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|海老名検車区]](小田急車)
|使用車両=[[#車両|車両]]を参照
|路線距離=29.7 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=[[閉塞 (鉄道)#車内信号閉塞式|車内信号閉塞式]]
|保安装置=[[自動列車制御装置#ATC-10型|ATC-10]]、[[自動列車運転装置|ATO]]
|最高速度=90 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=
}}
'''常磐緩行線'''(じょうばんかんこうせん)は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]のうち、[[東京都]][[足立区]]の[[綾瀬駅]]から[[茨城県]][[取手市]]の[[取手駅]]までの[[複々線]]区間において、[[各駅停車]]の電車が運行される線路([[急行線|緩行線]])である。
[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''JL'''<ref group="注">'''J'''R jōban-'''L'''ocal。JJは[[常磐快速線|快速線]]。</ref>で、[[直通運転]]を行っている[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ千代田線|千代田線]]と番号部分が連番([[代々木上原駅]]を01とみなす)となっている。
== 概要 ==
[[東京都区部|東京]]地区の[[電車特定区間]]([[E電]])の運転系統の一つである。東京メトロ千代田線と直通運転を行い、東京都心と[[千葉県]]北西部([[東葛地域]])の[[松戸市|松戸]]・[[柏市|柏]]・[[我孫子市|我孫子]]地区および[[茨城県]]南部の[[取手市|取手]]の各都市を各駅停車で結んでいる。また、一部の電車は千代田線を経由して[[小田急小田原線]][[伊勢原駅]]まで直通している。
JRの前身である[[日本国有鉄道]](国鉄)の時代、通勤客の増大に伴い、列車およびターミナルである[[上野駅]]・[[日暮里駅]]の混雑緩和を目的として、[[通勤五方面作戦]]の一環として[[北千住駅]] - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間の複々線化が[[1971年]](昭和46年)に行われ、同時にそれまで各駅停車として[[上野駅]] - 取手駅間を運転していた電車の緩急分離が行われた<ref name="rf201005-025">{{Cite journal|和書|title=特集・短絡線ミステリー10 都心を貫く直通運転をさぐる|author=祖田圭介|date=2010-05|publisher=交友社|journal=鉄道ファン|volume=50|number=5|pages=25-27|asin=B003A0665K}}</ref>。以降、線路の通称として各駅停車が走行する線路が「常磐緩行線」、新設された快速電車と取手以北直通の列車が走行する線路が「[[常磐快速線]]」と呼ばれるようになった。この緩急分離により、各駅停車は[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄、現・東京地下鉄)千代田線と直通運転を行う現在の形態となった([[#複々線化の沿革と問題|後述]])。その後[[1982年]](昭和57年)に緩行線が取手駅まで延伸され、現在の形態となっている<ref name="rf201005-025" />。
一部の駅にのみホームがある快速線に対して、緩行線は全駅にホームがあり、運転される電車もすべて各駅停車である。
[[ダイヤグラム]]・運行システム・車両は直通する千代田線と一体化したものである。常磐快速線との渡り線は松戸駅・我孫子駅付近に設置されているが、保安システムが異なるため緩行線と快速線の直通運転を行う定期列車は設定されていない。
東京のJRの放射路線としては唯一都心([[山手線]])に至らない系統であるため、千代田線の北千住駅 - [[西日暮里駅]]間を経由しJR線に乗り継ぐ場合に[[連絡運輸|通過連絡運輸]]の特例も設定されている([[#千代田線北千住 - 西日暮里間を経由する場合の特例|後述]])。
2004年以前は、小田急電鉄がJRの一斉改正日でない日に[[小田急電鉄のダイヤ改正|ダイヤ改正]]を行っていたため、これに伴ってJR東日本の[[ダイヤ改正]]時以外にも運行時刻の変更が行われることがままあった。ただ、運用や行先の変更が主で、線内での時刻変更は基本的にない。なお、2006年以降はJRと同日に改正を実施するようになっている。
複々線区間は全線に亘って[[踏切]]がなく、直通線区以外から乗り入れてくる車両もないため、将来導入を予定している技術の実験場として使われることも多い。
== 呼称について ==
旅客案内上は、東京メトロ千代田線の北千住駅 - 綾瀬駅間を含んだ'''北千住駅 - 取手駅'''間の運転系統名として「'''常磐線各駅停車'''」「'''常磐線(各駅停車)'''」と呼称されている<ref name="rosennetwork">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/map/pdf/map_tokyo.pdf|title=路線ネットワーク|accessdate=2020-05-30|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|format=PDF}}</ref>。
北千住駅 - 綾瀬駅間は実務上JR線として運賃計算する場合と東京メトロ線として運賃計算する場合の2つに分かれる特殊な区間となっている<ref>{{Cite web|和書|title=千代田線 綾瀬・北千住間の運賃 |url=https://www.tokyometro.jp/ticket/particularcase/ayase_kitasenju/index.html|website=東京メトロ|accessdate=2020-05-30}}</ref>。このような特例は他<ref group="注">[[目黒駅]] - [[白金高輪駅]]間([[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]の共用区間)や[[京成高砂駅]] - [[印旛日本医大駅]]間([[北総鉄道北総線|北総線]]・[[京成成田空港線]]の共用区間)。</ref>でも見受けられるものであるが、北千住駅 - 綾瀬駅間に関してはJR東日本は[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]ではないため、厳密には東京メトロの単独区間である{{Refnest|group="注"|北千住駅 - 綾瀬駅間のみを利用する場合は、東京メトロの特定運賃区間(片道大人運賃150円・片道大人IC運賃146円。鉄道駅バリアフリー料金制度による加算料金(10円)含む)として扱われる<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道トリビア(77) JR東日本は、常磐線の北千住駅 - 綾瀬駅間の乗車券を販売しない|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-77/|website=マイナビニュース|date=2010-12-11|accessdate=2020-05-30|language=ja}}</ref>。}}(北千住駅 - 綾瀬駅間の運賃の取り扱いについては「[[#運賃計算の特例|運賃計算の特例]]」の節を参照)。
各駅停車は地下鉄千代田線との直通運転により一体的に運用されているため、各駅停車は地下鉄区間とあわせて「千代田線」と呼ばれる場合がある。市販されている地図にも千代田線と表記したものがある<ref>{{Cite book|和書|title=松戸市|series=都市地図 千葉県|edition=6|volume=7|publisher=昭文社|date=2019-08-07|isbn=978-4398962355}}</ref>ほか、不動産物件にも「千代田線北松戸駅」「地下鉄千代田線北柏駅」等の案内がある。不動産ポータルサイトなどでは「(JR)千代田・常磐緩行線」などの表記も散見される。
== 複々線化の沿革と問題 ==
=== 複々線化以前 ===
元々常磐線は上野 - 取手間の各駅に停車する「[[国電]]」(近距離電車)と主要駅のみ停車の[[中距離電車|中距離列車]]や[[急行列車|急行]]・特急などが同じ線路を走行していた。当時は中・長距離輸送を担う列車に対して地域輸送を担う電車(国電)は停車駅も異なり棲み分けが明確であった。過去には、一部の「国電」が上野・[[東京駅|東京]]経由で[[有楽町駅|有楽町]]まで乗り入れていたこともあった([[山手線]]・[[京浜東北線]]分離工事時の暫定措置)。なお、常磐線の線路にホームのない[[鶯谷駅]]は通過していた。
一方、[[高度経済成長|高度成長期]]を迎えると共に沿線の[[ベッドタウン]]化が進んで人口が急増し、常磐線の混雑率も非常に高くなったものの、各種列車が同一線路上を走行していることによってさらなる増発が困難になったため、いわゆる「[[通勤五方面作戦]]」の一環として複々線化を実施することになった。
1962年に発表された運輸大臣の諮問機関「都市交通審議会」の答申では、北千住 - 松戸間について[[東京メトロ千代田線|東京8号線(のちの9号線)]]が計画されていた。このため国鉄は、このルートの終点を取手まで延長する形で国鉄線を線増し、緩行線を地下鉄千代田線と直通運転させる形で複々線化を実施することとした<ref group="注">1964年の答申改訂で、「日暮里を経由し松戸方面に向かう経過地については、西日暮里、町屋、北千住を経て常磐線に接続し、綾瀬以遠は常磐線を線増すること」が示された。詳細は[[東京メトロ千代田線]]を参照。</ref>。また当時、北千住 - 綾瀬間は国鉄の路線であったが、複々線化・千代田線との乗り入れに際して建設費用を抑えたい国鉄と、足立区内に設置する車庫(現:[[綾瀬検車区]])への回送ルートを確保したい営団の思惑が一致し、北千住 - 綾瀬間の緩行線を営団保有にして、複々線化と千代田線との直通運転が同時に行われることとなった。ただし、[[運賃]]計算上は北千住駅 - 綾瀬駅間は従来どおり国鉄線運賃として計算される特例が設けられた<ref group="注">なお、この工事完成時は綾瀬駅は国鉄・営団の共同管理駅であったが、[[北綾瀬駅]]開業に際して営団へ管理を移管している。</ref>。また複々線化に際し、従来の「国電」(近距離電車)を「各駅停車」と「快速」の2[[列車種別|種別]]に編成し、各駅停車を[[緩行線]]に、「快速」を[[日暮里駅|日暮里]]・上野方面へと向かう[[急行線|快速線]]に振り分けることとした。
また複々線化区間から外れた中距離列車通過駅の[[三河島駅]]・[[南千住駅]]・[[天王台駅]](複々線化と同時に開業)には東京近郊輸送を担う快速のみが停車し、快速線のホームは複々線区間の両端の北千住駅・我孫子駅と車両基地のある[[松戸駅]]にのみ設けられることになった。この結果快速通過駅の利用客は乗り換えなしで日暮里駅や上野駅まで行けなくなるため、不便を解消するために営団・国鉄の双方に乗換駅として[[西日暮里駅]]を新設するとともに、同駅を経由する通過[[連絡運輸]]の特例が設けられることとなった。
工事予算と地下鉄千代田線への旅客の転嫁見込み、ならびに[[貨物列車]]の運行や当時建設中であった国鉄武蔵野線との接続方法等について検討された結果、緩急乗り換え利便性の高い[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]]での建設が見送られ、他の首都圏国鉄主要路線と同様の[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]となった<ref>{{cite journal|和書|journal=鉄道土木|publsher=日本鉄道施設協会|volume=6|year=1964}}</ref>。このため我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅等での各駅停車と快速等の乗り換えでは階段を使用してホーム間を移動することになった。
複々線化の前後では、運転種別や停車駅が以下の表のように変遷している。
{| style="margin:1em 0em; text-align:center; border:solid 1px #999; float:none;"
|-
|style="background-color:#f3f3f3; border-bottom:solid 5px #399; font-size:90%;"|第一期複々線化完成(1971年4月20日)前後の<br />停車駅の変遷
|-
|
{| class="wikitable" style="margin:auto; font-size:80%;"
|-style="background-color:#6fc;"
!rowspan="2"|複々線化以前
!colspan="2" style="text-align:right; border-right:solid 4px #399;"|各駅停車(国電)
|●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||×||●||●||●||×||●||×||●
|-style="background-color:#eab;"
!colspan="2" style="text-align:right; border-right:solid 4px #88474b;"|普通列車
|●||●||―||―||▲||―||―||―||●||―||―||×||―||―||▲||×||●||×||●
|-style="border-top:solid 3px #666; border-bottom:solid 3px #666;"
!colspan="3" style="background-color:#ddd;"|駅名
!style="width:1em;"|上野
!style="width:1em;"|日暮里
!style="width:1em;"|三河島
!style="width:1em;"|南千住
!style="width:1em;"|北千住
!style="width:1em;"|綾瀬
!style="width:1em;"|亀有
!style="width:1em;"|金町
!style="width:1em;"|松戸
!style="width:1em;"|北松戸
!style="width:1em;"|馬橋
!style="width:1em;"|新松戸
!style="width:1em;"|北小金
!style="width:1em;"|南柏
!style="width:1em;"|柏
!style="width:1em;"|北柏
!style="width:1em;"|我孫子
!style="width:1em;"|天王台
!style="width:1em;"|取手
|-style="background-color:#eab;"
!rowspan="3"|第一期複々線化直後
!colspan="2" style="text-align:right; border-right:solid 4px #88474b;"|普通列車
|●||●||―||―||▲||―||―||―||●||―||―||―||―||―||※||―||●||―||●
|-style="background-color:#6fc;"
!rowspan="2" style="text-align:center;"|国電
!style="text-align:right; border-right:solid 4px #399;"|快速電車
|●||●||●||●||●||―||―||―||●||―||―||―||―||―||※||―||●||●||●
|-style="background-color:#ddd;"
!style="text-align:right; border-right:solid 4px #999;"|各駅停車
|style="background-color:#fafafa;"|=
|style="background-color:#fafafa;"|=
|style="background-color:#fafafa;"|=
|style="background-color:#fafafa;"|=
|○||●||●||●||●||●||●||*||●||●||●||●||●
|style="background-color:#fafafa;"|=
|style="background-color:#fafafa;"|=
|}
|-
|style="text-align:left; font-size:80%;"|
●○:停車(○は厳密には千代田線) ▲:一部停車 ―:通過 ×:駅開業前 =:経由せず
※:柏駅の快速停車は[[1972年]](昭和47年)10月から。当初の停車は快速電車のみで、普通列車は一部停車であった。
*:新松戸駅は[[1973年]](昭和48年)開業。
|}
=== 複々線工事期間 ===
[[1965年]](昭和40年)2月、綾瀬 - 我孫子間 (23.6km) の複々線増線の工事が第1期工事として開始された。
北千住 - 綾瀬間の増線は営団が千代田線の新設工事として若干先行して行ったが、その完成後に東武線との交差部から営団が[[1968年]](昭和43年)2月1日に完成させた綾瀬駅間の線路および駅設備を借受け、複々線開通まで常磐線全列車が暫定的に使用した。これは常磐線の高架化に際し工事用地の取得が困難なための処置であった。
[[File:綾瀬駅付近 国鉄常磐線線路切替図.gif|800px|thumb|none|国鉄常磐線の複々線増線時、綾瀬駅付近の線路切替の様子]]
工事は主に東京側から順次進められ、[[1971年]](昭和46年)3月1日、綾瀬 - 金町間の複々線が暫定で開通し国電と優等列車・貨物列車の分離が行われた。続いて同年3月10日には金町 - 北柏間が暫定で開通、4月1日に北柏 - 我孫子間が開通し複々線の工事は完了した。
4月19日に、我孫子駅で常磐線複々線完成祝賀式が行われ、我孫子 - 綾瀬間で「複々線工事完成祝賀電車」が乗客を乗せ運行された。
=== 複々線化後 ===
[[File:L25 103-1000 380.jpg|thumb|270px|常磐線複々線化当初の各停用車両[[国鉄103系電車|103系1000番台]]]]
[[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]に複々線化と緩行線の千代田線乗り入れが開始された。国鉄は、当時まだ旧形電車が多く運行されていた京浜東北線向けに103系を捻出する必要性から、10両編成で運行されていた[[青緑1号]]に塗られた[[国鉄103系電車|103系電車]]を快速電車に転用する際、2両減車して8両編成とした<ref>{{Cite journal|和書|journal=鉄道ファン|volume=2006年6月号|publisher=交友社|asin=B000F8KHZA}}</ref>。これは、複々線化により輸送力が上がっていることと、快速通過駅利用客が地下鉄への直通運転によりそのまま都心へ向かうことを念頭に置いたものであったが、当時は国鉄の運賃の方が安く、北千住 - 西日暮里間を千代田線経由で乗車して山手線や京浜東北線に乗り換える場合や、地下鉄経由で都心へ向かう場合の合算運賃が割高となる例が多く、地下鉄路線網も整備途上であったため、利用者の多くは松戸駅や北千住駅での乗換を選んだことで快速電車は大混雑した。このため、この直通運転・複々線化は新聞などで「'''迷惑乗り入れ'''」と糾弾される事態に発展した。これに対し国鉄は、千代田線乗り入れ開始とともに常磐線での営業運転を終了するはずであった旧形の[[国鉄72系電車|72系電車]]を使用して臨時の快速電車を設定して輸送力を増強し、その置換用の103系が増備されるまでの約1年間をしのいだ。また、[[1972年]]10月に快速用103系が再び10両編成に増結され、松戸駅乗り換えによる混雑の要因の一つでもあった、快速通過駅とされた柏駅にも快速線にホームが新設された。
複々線化開業直前、綾瀬駅など都内の快速通過駅では上野駅へ行く際に乗り換えを強いられることや運賃が割高になることを理由に複々線化に不満を抱く利用者がいた。そのため、開業後には千代田線と常磐線のどちらを経由しても運賃を同じにし、綾瀬駅への快速停車または上野行き電車の復活を求める抗議集会が開かれた<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[鉄道ジャーナル]]|publisher=[[鉄道ジャーナル社]]|volume=1996年4月号}}</ref>。だが運賃問題は半世紀たっても解消されず、2022年10月には亀有駅・金町駅周辺の一部住民16人がJR東日本・東京地下鉄・国に対して不当な運賃設定だとして損害賠償請求を起こしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bengo4.com/c_18/n_15136/|title=千代田線直通のJR常磐線各駅停車は「不当な割高運賃だ」、沿線住民が提訴|date=2022年10月19日|website=弁護士ドットコムニュース|accessdate=2023-12-12}}</ref>。
1970年代後半に入ると、[[藤代駅|藤代]] - [[土浦駅|土浦]]間の[[交流電化]]区間までベッドタウン化が進行したことから、輸送力増強のため近郊形電車としては初のオール[[鉄道車両の座席|ロングシート]]車となる[[国鉄415系電車|415系]]500番台が投入された。当時の中距離列車はデータイムで1時間に1本、夕方の[[ラッシュ時]]でも2本程度だったのが[[国際科学技術博覧会]](つくば科学万博)開催直前の[[1985年]](昭和60年)3月の改正で大増発され、編成も最長15両となった。1987年12月には、103系の快速電車も通勤形電車としては初めて15両編成化された。
一方、複々線化と相互乗り入れによる影響は営団の[[労働組合]]([[日本私鉄労働組合総連合会]])による[[ストライキ]]時にも顕著にあらわれた。ストライキが発生すると、北千住 - 綾瀬間は営団の路線であることから電車の運行ができなくなるため、やむを得ず綾瀬 - 金町間各駅の乗客は松戸駅まで一旦戻って上野方面へ向かえるように定期乗車券利用者には特例を設けて対処した<ref group="注">この特例は、その後も千代田線区間が運転見合わせになった時にも準用されている。</ref>。しかし、{{要出典|date=2023年12月|前述のように松戸駅自体が元々混雑していたため、同駅はパニック状態に陥り、長蛇の列が駅の外にまでできる事態に発展した。}}
また、相互乗り入れに使用されている車両も運行に影響を与えていた。営団地下鉄は、千代田線用開業当初は抵抗制御の[[営団5000系電車|5000系]]を投入したものの、1971年(昭和46年)4月20日に国鉄との相互乗り入れ開始から世界初の[[電力回生ブレーキ]]付[[電機子チョッパ制御]]車となる[[営団6000系電車|6000系]]を投入し、[[トンネル]]内の発熱抑制と省電力化を図っていた。しかし国鉄は、既存の通勤路線向けに大量増備していた103系の仕様を一部変えた[[国鉄103系電車#1000番台|1000番台]]を投入し、[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]の国鉄車は抵抗器から大量の熱をトンネルや駅の中に排出することになった。駅間距離が比較的長く地下区間で高速走行する千代田線では、特に単線シールドトンネル内での空気流動が少なく[[抵抗器]]の冷却が充分にできなかったため、103系は故障が多発し一時は運行ダイヤにまで影響を及ぼすことがあった<ref group="注">国鉄も原因究明に乗り出し、主制御器の改良によって、1970年代後半には故障件数は地上車並に減少したことが報告されている。</ref>。省電力の観点でも、相互乗り入れの[[車両使用料]]の精算は通常乗り入れ距離で相殺するのが慣例であったが、営団車と国鉄車とでは電力消費量が異なるとの[[会計検査院]]からの指摘を受け、営団は国鉄に対して電気代の分を加算して請求することになった<ref group="注">[[1978年]](昭和53年)の千代田線代々木上原全通時には、反対側から小田急車([[界磁チョッパ制御]]の[[小田急9000形電車|9000形]])も乗り入れることになったが、同様に小田急に対しても電気代分を加算して請求していた。{{cite journal|和書|journal=鉄道ピクトリアル|year=2008|month=07|publisher=電気車研究会}}</ref>。1981年、営団は千代田線用5000系を北綾瀬支線を除く地下線から一掃し、6000系に統一した。国鉄は営団からの要望もあって<ref>{{cite journal|和書|journal=鉄道ファン|volume=1982年11月号|publisher=交友社}}</ref>、翌[[1982年]](昭和57年)から電機子チョッパ制御の[[国鉄203系電車|203系]]を投入開始し、1986年までに置き換えが完了し、国鉄車に関しては問題が解決することになった。
1982年に我孫子 -取手間の複々線化が完成した。完成に伴い当初は暫定で快速を停車させていた[[天王台駅]]は通過に変更する予定であった。しかし、これまで上野駅まで乗り換えなしで行けたものが乗り換えが発生するようになるうえ、各駅停車だけになると都心に乗り換えなしで行くには地下鉄に乗り入れることで運賃が高くなるのを目の当たりにし、不便な状況になり困ると判断した地元の住民や市などから反対運動が起き、国鉄へ引き続き停車するよう要望が出された<ref>{{Cite news|和書|newspaper=広報あびこ|date=昭和57年11月1日号|title=快速線停車「ねばり強い運動 実をむすぶ」|url=https://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/kouhou/abiko/backnumber/showa_backnumber/s57hakkoubun.files/19821101.pdf|format=PDF|publisher=我孫子市役所企画部企画課}}</ref>。また同じ年に大手電機メーカーの[[日本電気|NEC]]我孫子事業場が開設されることになったことなどもあり、国鉄と協議した結果、地元の負担があればホームを設置して良いと決まったため、最終的に同駅は引き続き快速停車駅として残ることになり、緩行線電車は朝夕の混雑時間帯のみ運行することに決まった。
以上のように、常磐線関係の輸送改善計画はスムーズに進まないことが多く、常磐線は「[[鬼門]]」と揶揄されることがあった<ref>{{Cite_journal|和書|date=1984-03|journal=鉄道ジャーナル|issue=205|publisher=鉄道ジャーナル社|page=21|title=東京・大阪 国鉄電車 運転の現状}}</ref>。
常磐線の運転系統が複雑になっている一因に[[茨城県]][[石岡市]]柿岡の[[気象庁地磁気観測所]]の存在がある。取手駅以北の[[直流電化]]は現時点では課題が多く<!--ノート参照-->、中距離列車と通勤電車(快速電車)の車両統合ができていない。このため民営化後になって、快速線に交直両用の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]]である[[JR東日本E501系電車|E501系電車]]を1995年に<ref group="注">2007年に上野口での運用終了。</ref>、2005年には[[JR東日本E531系電車|E531系電車]]を投入するなどの施策を打った。なお、西日暮里経由の割高運賃問題だが、[[Suica]]と[[PASMO]]の相互利用開始に伴い、IC乗車券を利用した際に、従前の連絡乗車券を購入した場合よりも安くなるケースが発生する一方、逆に高くなるケースも発生している(詳細は[[#千代田線北千住 - 西日暮里間を経由する場合の特例|千代田線北千住 - 西日暮里間を経由する場合の特例]]を参照のこと)。
近年まで指摘されてきた問題点は改善の傾向にあり、例えば運転本数が十分とはいえない状況から亀有駅・金町駅が所在する葛飾区議会では列車の増発要求がしばしば議題に上っていた点については、2014年3月のダイヤ改正で日中の増発が実施された。また、かつて金町 - 松戸間の[[江戸川]]橋梁が[[台風]]や[[低気圧#爆弾低気圧(猛烈低気圧)|爆弾低気圧]]などによる強風の影響でしばしば規制を受けることがあったが、これについても防風柵の設置工事が2015年3月に完成し<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2013/20130908.pdf|title=防風柵の設置について|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|date=2013年9月12日}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrmito.com/press/160513/press_02.pdf|title=常磐線の強風対策について|publisher=東日本旅客鉄道水戸支社|format=PDF|date=2016年5月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200706075648/https://www.jrmito.com/press/160513/press_02.pdf|archivedate=2020-07-06}}</ref>、以降規制を受けることが大幅に減った。
== 歴史 ==
{{Main2|複々線化の経緯は「[[#複々線化の沿革と問題]]」の節を}}
* 1971年4月20日:綾瀬駅 - 我孫子駅間の複々線化完成に伴い、同区間の緩行線で地下鉄千代田線と相互直通運転を行う各駅停車の電車を運行開始。[[国鉄103系電車#1000番台|103系1000番台]]営業運転開始。
* 1982年11月15日:我孫子駅 - 取手駅間複々線化。運行区間を取手駅まで延長。[[国鉄203系電車|203系]]電車営業運転開始<ref>{{Cite book|和書|author=池田光雅|title=鉄道総合年表1972-93|publisher=中央書院|date=1993-08-01|page=84|isbn=978-4924420823}}</ref>。
* 1986年12月29日:[[国鉄207系電車|207系900番台]]電車営業運転開始<ref>{{Cite book|和書|author=池田光雅|title=鉄道総合年表1972-93|publisher=中央書院|date=1993-08-01|page=123|isbn=978-4924420823}}</ref>。
* 1994年5月9日:弱冷房車を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。
* 1999年12月4日:[[JR東日本209系電車#1000番台|209系1000番台]]電車営業運転開始。
* 2009年9月9日:[[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]]電車が営業運転開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2009/09/10/142700.html|title=E233系2000番台が営業運転を開始|website=鉄道ファン・railf.jp|work=鉄道ニュース|publisher=交友社|date=2009-09-10|accessdate=2021-03-21}}</ref>。
* 2018年8月1日:亀有駅 - 取手駅間で[[駆け込み乗車]]を減らす有効性を確認するため、同区間各駅の[[発車メロディ|発車メロディー]]を使用せず、車両[[乗車促進音|発車促進メロディー]]を使用する実験を実施<ref>{{Cite news|url=https://this.kiji.is/395667287140893793|title=「発車ベル」やめます JR東、駆け込み防止で実験へ|newspaper=共同通信|date=2018-07-28|accessdate=2018-07-28|archiveurl=https://archive.fo/jX8L1|archivedate=2018-07-28}}</ref>。検証の結果、一定の効果がみられたとして2019年3月16日より本格実施に至る<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線 車外スピーカーを使用して発車メロディを流す取り組みについて|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-03-12|accessdate=2020-11-26<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190401134340/https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|archivedate=2019-04-11 -->}}</ref>。
* 2021年3月13日:JR東日本初の[[自動列車運転装置]] (ATO) が導入<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2019/20191008_ho03.pdf|title=常磐線(各駅停車)に自動列車運転装置(ATO)を導入します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-10-08|accessdate=2019-10-09<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191009064028/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191008_ho03.pdf|archivedate=2019-10-09 -->}}</ref>。
== 運行形態 ==
早朝から朝方と深夜の主に出入庫に伴う一部の線内運転電車を除き、ほぼすべての電車が東京メトロ千代田線に、さらに一部の電車は小田急小田原線[[伊勢原駅]]<!--、[[小田急多摩線]][[唐木田駅]]-->まで直通運転する<ref group="注">ただし、成城学園前駅・向ヶ丘遊園駅発着が主体で、[[相模大野駅]]・[[本厚木駅]]・伊勢原駅発着列車は少数である。このほか、常磐線駅着(下り)列車の一部に[[海老名駅]]・[[町田駅]]・[[新百合ヶ丘駅]]発列車も少数ながら設定されている。多摩線直通は平日か土休日のいずれかに1日1本だけ設定されていたが、2022年3月12日のダイヤ改正では設定がなくなった<!--なお、多摩線直通は土休日の我孫子駅発唐木田行き1本のみである(2021年3月13日のダイヤ改正から)--></ref>。実態としては千代田線とほぼ一体化した運転系統を形成している。
[[常磐快速線]]([[上野東京ライン]])の[[南千住駅]] - [[上野駅]] - [[品川駅]]方面へは乗り入れないので、途中の快速停車駅もしくは東京メトロ千代田線[[北千住駅]]・[[西日暮里駅]]での乗り換えが必要となる(北千住駅・西日暮里駅での乗り換えは特例が設定されている。詳しくは後述)。
我孫子駅 - 取手駅間は平日の朝夕の時間帯<ref group="注">2021年3月13日のダイヤ改正までは土休日の朝夕(7・8時台、15 - 19時台)も運転があった。</ref>のみ運行されている。朝夕にはこのほかに、[[松戸駅]]・[[柏駅]]発着の電車もある。これ以外は、ほとんどが我孫子駅 - 綾瀬駅( - 千代田線[[代々木上原駅]])間で運転されている。日中の運行がない我孫子駅 - 取手駅間は、新製車両の試運転や訓練などに供されることがあり、過去には[[JR東日本209系電車|901系]]や[[松戸車両センター]]所属の[[JR東日本E231系電車|E231系]]・[[JR東日本E233系電車|E233系2000番台]]の試運転が実施されている{{要出典|date=2011年7月}}。2013年12月7日・8日<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrmito.com/press/131030/20131030_press01.pdf|title=常磐線・利根川橋りょう改良工事に伴う運転変更のお知らせ|date=2013-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141112212955/https://www.jrmito.com/press/131030/20131030_press01.pdf|archivedate=2014-11-12|publisher=東日本旅客鉄道水戸支社|format=PDF}}</ref>、2014年11月8日・9日<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suspend/pdf/jouban_information141001.pdf|title=常磐線運休のお知らせ|date=2014-10-01|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF}}</ref>には、快速線の[[利根川橋梁 (常磐線)|利根川橋梁]]改良工事に伴い我孫子駅 - 取手駅間で緩行線の増発・延長運転が行われた。
信号システムは[[自動列車制御装置#ATC-10型|ATC-10]](東京メトロでの呼称:新CS-ATC)で、東京メトロ千代田線と同一のシステムを用いている(車内信号式。快速線は[[自動列車停止装置|ATS-P]])。2000年8月16日<ref name="PIC2000-11">{{Cite journal|和書|publisher=鉄道図書刊行会|journal=鉄道ピクトリアル|volume=2000年11月号|page=117}}</ref>より、従来のATC-4(営団地下鉄(当時)での呼称:CS-ATC)から切り替えられた<ref name="PIC2000-11"/>。
なお、JR東日本保有車両は、小田急小田原線・多摩線と直通運転ができなかった。これはJR車は小田急のATS (D-ATS-P) と[[列車無線]]を搭載していなかったためである。小田急保有車両も同様に綾瀬以遠JR線と直通運転ができないため、3線にまたがっての直通運転ができるのは東京地下鉄保有車両のみであった。2013年4月からJR・小田急とも車両工事を実施し<ref name="jreast20130327" />、2016年3月26日のダイヤ改正から相互に3社直通を開始した。
小田急線直通電車は小田急線内では各駅停車、[[準急列車|準急]]、通勤準急(平日朝の小田急線発のみ)、[[急行列車|急行]]の4種類があり、常磐線上り→千代田線A線は綾瀬から小田急線内での種別を表示するが、常磐線内では「各駅停車」(E233系2000番台、小田急4000形はエメラルドグリーン、東京メトロ16000系は白)表示となる<ref group="注">ただし、E233系2000番台は小田急線内の停車駅を、東京メトロ16000系・小田急4000形は「各駅停車」と共に小田急線内での種別をLCDで表示するほか、E233系2000番台では始発駅で小田急線内の種別もLCDに表示される。また、どの車両も停車駅一覧の小田急線内の色は種別に連動している(各駅停車=青、準急=緑、急行=赤。多摩急行はピンク)。</ref>。また、A線の千代田線内終着の電車及びB線の電車は千代田線内ではフルカラーLEDの方向幕を備えた車両では青地の「各駅停車」の種別表示を行う。小田急線から千代田線・常磐緩行線へ直通する電車は、千代田線・常磐線内は各駅停車のため、[[東北沢駅]]を発車または通過後に種別を青地の「各駅停車」に変えて(各駅停車からの直通の場合は変更せず)運転する。常磐線下り電車は綾瀬駅から線内用の「各駅停車」の表示に変更し終点まで運転する。
小田急線との直通電車は、2002年3月23日のダイヤ改正以前は小田原線内発着の準急のみ、同改正以降は2016年3月26日のダイヤ改正まで多摩線発着の[[多摩急行]]が主体であった。2016年3月26日のダイヤ改正では日中の多摩急行が急行に置き換わったほか、朝夕に準急が再設定されていた。
=== 運行本数・状況 ===
平日は朝夕ラッシュ時が約2 - 4分間隔、日中時間帯が1時間に6本(10分間隔、代々木上原駅発着と小田急直通急行が交互に3本ずつ)で運行されている。土曜・休日は朝夕が5 - 10分間隔、日中時間帯が平日同様1時間に6本(10分間隔、代々木上原駅発着と小田急直通急行が交互に3本ずつ)で運行されている。区間列車の影響などにより、それを含まない区間での間隔は多少前後がある。特に我孫子駅 - [[北柏駅]] - 柏駅間では朝や夕方の時間帯でも昼間以上に間隔が開く部分がある。
時間帯によっては、平日と土休日では形態が大きく異なる。平日朝は9時台には本数が落ち着くのに対し土休日は10時台まで6分間隔での運転がある。また、夕方以降のピークは平日が18 - 19時台であるのに対し、土休日は16 - 17時台である。夜間に至っては土休日の本数は平日の半分程度である。
上りは千代田線直通終了後の線内完結電車は、我孫子発松戸行きが2本しかなく、2021年3月13日のダイヤ改正までは松戸行きの1本目と2本目の間は40分以上開いていた。この1本前に我孫子発北千住行きが1本運行されるが、運賃計算上JR線として扱われうる綾瀬駅 - 北千住駅間は厳密には常磐緩行線ではないため、列車運行上は千代田線直通電車として扱われる。なお、この北千住行き最終電車は快速上野行きの最終電車に接続していたが、2021年3月13日のダイヤ改正で接続しなくなった。
日中は長らく12分間隔での運転が続いてきたが、[[2014年]]3月15日のダイヤ改正で、10分間隔に増発された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131217.pdf#page=5|format=PDF|title=2014年3月ダイヤ改正について|date=2013年12月20日|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2013年12月21日}}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center;"
|+日中の運行パターンと運転本数<br />(2022年3月改正時点)
|-style="line-height:1.1;"
!種別\駅名
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|我孫子}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|綾瀬}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|代々木上原}}
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|向ヶ丘遊園}}
!colspan="1"|平日本数
|-
|rowspan="1"|急 行<br/>(小田急線内)||colspan="11" style="background:#fed0e0;"| ||colspan="1"| 3本
|-
|各駅停車||colspan="7" style="background:#bdf;"| ||colspan="4"| ||colspan="1"| 3本
|}
所要時間は、取手駅 - 柏駅間が約12分、柏駅 - 松戸駅間が約14分、松戸駅 - 北千住駅間が約12分(松戸駅 - 綾瀬駅間は約8分)であり、快速と比較して柏駅 - 松戸駅間で約6分、松戸駅 - 北千住駅間で約4分ほど時間を要する。取手駅 - 柏駅間は快速を利用した場合でも大差はない。
== 車両 ==
以下に示す車両は全て片側4扉10両編成の[[電車]]である。
=== 現在の使用車両 ===
==== 自社車両 ====
すべて[[松戸車両センター]]所属。車体にエメラルドグリーン([[青緑1号]] {{Color|#399|■}})一色の帯が巻かれている。
* [[JR東日本E233系電車#2000番台|E233系2000番台]]
*: 千代田線内では本系列で綾瀬駅 - [[北綾瀬駅]]間を運転する列車もあるが、常磐線と北綾瀬駅を直通する列車は設定されていない。
<gallery widths="200px">
Series-E233-2000-14F.jpg|E233系2000番台
</gallery>
==== 乗り入れ車両 ====
; [[東京地下鉄]]([[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]所属)
:* [[東京メトロ16000系電車|16000系]]<ref name="tokyometronews200970">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-70.html |title=環境配慮型の新型車両16000系・千代田線に導入決定!|publisher=東京地下鉄|date=2009年12月21日}}</ref>
<gallery widths="200px">
Tokyo-Mokoto-Series16000-16130F.jpg|東京メトロ16000系
</gallery>
; [[小田急電鉄]]([[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|海老名検車区]]所属)
:* [[小田急4000形電車_(2代)|4000形]]<ref name="odakyu20161218">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8360_8351253_.pdf|title=小田急線ダイヤ改正を実施します|publisher=小田急電鉄|date=2015年12月18日|format=PDF}}</ref>
<gallery widths="200px">
Odakyu-Type4000-4058F.jpg|小田急4000形
</gallery>
なお、2016年3月26日のダイヤ改正まで、JRと小田急の車両は、他方の列車無線に対応していなかった(ただし、小田急については地下鉄直通対応車両にJR無線の準備工事がなされていた)ため、常磐線 - 千代田線 - 小田急線の3社直通電車は東京地下鉄の車両が限定使用されており、小田急の車両はJR線には直通運転を行わず、また、JRの車両は小田急線には直通しなかった。JRと小田急の車両に対して、3社間直通運転を可能にするための対応工事を2013年から実施し<ref name="jreast20130327">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2012/20130311.pdf|title=小田急線 千代田線 JR常磐線(各駅停車) の相互直通運転に向けた準備を開始します 〜小田急・JR東日本車両も3線直通可能な車両にしていきます〜|date=2013年3月27日|publisher=小田急電鉄・東日本旅客鉄道|format=PDF}}</ref>、2016年3月26日のダイヤ改正で直通運転を開始した。詳しくは「[[東京メトロ千代田線#常磐線と小田急線との相互乗り入れ]]」を参照。
=== 過去の使用車両 ===
; 日本国有鉄道・東日本旅客鉄道
:* [[国鉄103系電車#1000番台|103系1000番台]] - 順次203系に置き換えられ、1986年4月20日で常磐緩行線での営業運転を終了した<ref name="Fan1986-8">{{Cite journal|和書|publisher=交友社|journal=鉄道ファン|volume=1986年8月号|title=POST「103系1000番台車地下鉄運用を終える」|page=118}}</ref>。
:* [[国鉄203系電車|203系]] - 順次E233系2000番台に置き換えられ、2011年9月26日で営業運転を終了した。
:* [[国鉄207系電車|207系900番台]] - [[2009年]][[12月5日]]に実施された[[さよなら運転]]をもって営業運用から離脱。
:* [[JR東日本209系電車#1000番台|209系1000番台]] - 小田急線乗り入れ非対応。2018年10月13日に実施されたさよなら運転をもって運用離脱<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/10/14/191500.html|title=209系1000番台による団臨運転|date=2018年10月14日|website=鉄道ファン 鉄道ニュース|accessdate=2023-12-12}}</ref>。
これらの車両のドア上に掲出していた路線駅案内は、長らく快速電車( - [[成田線]]我孫子支線)のものと全く同じものが使用されており、千代田線内については駅名のみが列挙されているだけで接続路線が全く記載されていなかった。2004年秋頃より独自のものになり、千代田線内の接続路線や[[駅ナンバリング|駅番号]]まで記載されたものに変更された。さらに2006年には、簡素ながら運賃計算に関する注記も加えられている。なお、[[方向幕|行先表示器]]には各系列とも運用開始時点で既に終着運用のなかった「代々木公園」「上野」などの表示もあった。
<gallery widths="200px">
L25 103-1000 380.jpg|103系1000番台
JRE 203.JPG|203系
JNR-207-EMU.jpg|207系900番台
Series209-1000 Kanamachi.jpg|209系1000番台
</gallery>
; 帝都高速度交通営団・東京地下鉄
:* [[営団5000系電車|5000系]]
:* [[営団07系電車|07系]] - 2008年9月11日より同年12月頃まで、東西線色のままで主に平日朝夕ラッシュ時のみの運用に入っており、常磐線にも一部乗り入れていた<ref>{{Cite journal|和書|journal=鉄道ダイヤ情報|date=2011年9月号|title=東京メトロ東西線と千代田線|publisher=交通新聞社}}</ref>。
:* [[営団06系電車|06系]] - 2015年1月28日から運用を離脱し、東京メトロ16000系に置き換えられた。
:* [[営団6000系電車|6000系]] - 2次試作車の6101編成(運用終了)は当初より小田急線乗り入れ非対応。2018年10月5日で定期運用終了。末期は小田急線非対応であった。
<gallery widths="200px">
Eidan-5000 chiyoda.jpg|5000系(スキンステンレス車)
Model 5000-Chiyoda of Teito Rapid Transit Authority.JPG|5000系(アルミ試作車)
Series 07 of Tokyo Metro Chiyoda Line.jpg|07系
Model_06_of_Teito_Rapid_Transit_Authority.JPG|06系
Tokyo-Mokoto-Series6000-6130F.jpg|東京メトロ6000系
</gallery>
=== 車両運用について ===
「MY LINE 東京時刻表」「小田急時刻表」(共に交通新聞社)の常磐線各駅停車・千代田線の時刻表における列車番号欄で、末尾の「'''K'''」はJR車、「'''S'''」はメトロ車、「'''E'''」は小田急車を表している(小田急線内は直通列車でも小田急独自の列車番号が割り当てられている)。3社間の走行距離調整の関係上、JR車は千代田線内および千代田線 - 小田急線で、また小田急車は常磐線 - 千代田線でそれぞれ完結する運用も組まれている。なお2016年3月26日改正ダイヤでは、JR車の1本が綾瀬車両基地・1本が唐木田でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれ、逆にメトロ車の1本が松戸車両センター(本所)で、小田急車の1本が松戸車両センター我孫子派出所でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。
== 女性専用車 ==
{{出典の明記|date=2023-05-11|section=1}}
{| style="float:right; text-align:center; border:solid 1px gray; margin:0em 0em 0em 2em;"
|-
|style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #00bb85;"|女性専用車
|-
|style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|綾瀬・{{smaller|北千住}}|<br>我孫子・{{smaller|取手}}}}
|-
|
{| class="wikitable" style="border:1px; font-size:80%; text-align:center; margin:auto;"
|-
|style="background:#fdf"|1||2||3||4||5||6||7||8||9||10
|}
|}
[[2006年]](平成18年)[[5月15日]]より[[女性専用車両|女性専用車]]が導入された。平日7時10分から9時30分までに[[綾瀬駅]]を発車する千代田線・代々木上原方面行きの電車で、代々木上原寄りの先頭1号車に設定されている。千代田線内代々木上原駅まで実施、9時30分をもって一斉に終了となる。
JR東日本では[[埼京線]]・[[中央線快速]]に次ぐ3例目の導入であった。また、1号車に設定されているのは、前年5月より導入していた小田急線に合わせたものと見られる(千代田線内では両方向で導入している)。ただ、千代田線内の19駅中13駅が、この1号車付近に出入り口や乗換口への通路がある。
== 運賃計算の特例 ==
=== 北千住 - 綾瀬間の特例 ===
[[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間は東京地下鉄の管轄区間であるが、前後のJR線区間と跨って利用する場合はJRの利用区間とみなす運賃計算の特例がある。また、JRでは、常磐線北千住 - 綾瀬間相互発着の乗車券類は発売しない。
=== 千代田線北千住 - 西日暮里間を経由する場合の特例 ===
[[亀有駅]] - [[取手駅]]間の各駅と、[[山手線]]内各駅および近傍の駅との間を、千代田線の北千住 - [[西日暮里駅|西日暮里]]間を経由して乗車する場合には、運賃計算の特例([[通過連絡運輸]])が適用される。
連絡乗車券を購入する場合とIC乗車券を使用する場合では、計算方法や適用範囲が異なる上、どちらの方法が安いかについても駅によって異なるという二重運賃状態となっている。2007年のサービス開始以来、連絡乗車券の発売範囲内の駅では、IC乗車券を利用した方が安くなる駅にマークを入れた路線図式運賃表を別に掲載していた(券売機の横に小さく掲出されている)。これについて、2013年4月の衆議院消費者問題特別委員会で「周知が不十分である」との指摘がなされ、国土交通省は改善を指示した<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013050202000110.html|title=IC乗車券使うと損? 亀有-横浜 130円割高|newspaper=TOKYO Web|publisher=東京新聞|date=2013-05-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130503181733/https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013050202000110.html|archivedate=2013-05-03}}</ref>。2014年4月以降は、券売機の横に連絡乗車券を購入する場合の運賃とIC運賃が併記されたものを掲出している。
==== 連絡乗車券 ====
連絡乗車券の場合は、東京メトロ千代田線をはさんだ前後のJR線区間の営業キロを通算する通過連絡運輸の特例が適用される。券売機でICカードを使用して連絡乗車券を購入した場合も、この特例が適用される。
【例】南柏から池袋まで(経由:北千住・東京メトロ千代田線・西日暮里・巣鴨)
* JR線運賃:南柏 - 北千住の営業キロ '''19.3 km''' と、西日暮里 - 池袋 の営業キロ '''6.0 km''' を通算。
*: →合計キロ数 '''25.3 km''' を運賃表に当てはめ、490円。
* 東京地下鉄線運賃:北千住 - 西日暮里の営業キロ '''4.3 km''' 180円。
*: 両者を合計して、乗車券(普通旅客運賃)は'''670円'''となる。
乗車券の発売範囲
* 北千住口
*: 常磐線(亀有 - 取手)、武蔵野線([[吉川駅|吉川]] - [[新八柱駅|新八柱]])
* 西日暮里口
*: [[東北本線]]([[東京駅|東京]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]、[[日暮里駅|日暮里]] - [[尾久駅|尾久]] - [[赤羽駅|赤羽]]、[[埼京線]]・赤羽 - [[武蔵浦和駅|武蔵浦和]] - 大宮)、[[東海道本線]](東京 - [[横浜駅|横浜]]/[[横須賀線]]の[[西大井駅|西大井]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]・[[新川崎駅|新川崎]]は取り扱いなし)、[[山手線]]([[品川駅|品川]] - [[田端駅|田端]]/全線全駅)、[[赤羽線]]([[埼京線]]・[[池袋駅|池袋]] - [[十条駅 (東京都)|十条]] - 赤羽/赤羽線全駅)、[[中央本線]]([[神田駅 (東京都)|神田]] - [[代々木駅|代々木]]、[[新宿駅|新宿]] - [[三鷹駅|三鷹]])、[[総武本線]]([[中央・総武緩行線]]・[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]] - [[秋葉原駅|秋葉原]])、[[根岸線]](横浜 - [[関内駅|関内]])
==== IC乗車券 ====
2007年3月18日の[[首都圏ICカード相互利用サービス]]開始に伴い、[[PASMO]]・[[Suica]]で利用の際は、北千住までのJR運賃と西日暮里以遠のJR運賃の個別の合算額から100円を差引く方式を採用している。運賃は西日暮里の改札を通った時点で西日暮里までの運賃が差し引かれ、乗り継いだJR線の特例適用範囲内で下車した場合に西日暮里から下車駅までの運賃から100円引いた額を差し引く。この特例が適用される場合は、金町駅・亀有駅 - 西日暮里間相互発着に適用される乗り継ぎ割引が適用されない<ref group="注">割引の重複は原則行われない。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/use/auto_pay/others/sf.html#anchor-5 |title=ルール5 東京メトロ千代田線「西日暮里~北千住」間を経由して前後でJR東日本線をご利用の場合|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-12}}</ref>。
上記連絡乗車券の場合と同様の経路で考えると、
* 南柏 - 北千住(19.3 km、318円)
* 北千住 - 西日暮里(4.3 km、178円)
* 西日暮里 - 池袋(6.0 km、167円)
となり、合計額663円から100円を引いた'''563円'''がIC乗車券使用時の運賃となる。
特例の適用範囲
* 北千住口 常磐線(亀有 - 取手)
* 西日暮里口 東北本線(東京 - [[蕨駅|蕨]]・日暮里 - 尾久 - 赤羽)、東海道本線(東京 - 品川)、山手線(品川 - 田端間/全線全駅)、赤羽線(池袋 - 赤羽/全線全駅)、中央本線(神田 - 代々木)、総武本線(御茶ノ水 - 秋葉原)
=== その他 ===
ICカードを利用して、南千住以遠(三河島方面)・亀有以遠(金町方面)から[[東中野駅|東中野]]以遠([[大久保駅 (東京都)|大久保]]方面)・[[高円寺駅|高円寺]]以遠([[阿佐ケ谷駅|阿佐ケ谷]]方面)あるいは[[船橋駅|船橋]]以遠([[東船橋駅|東船橋]]方面)・[[下総中山駅|下総中山]]以遠([[本八幡駅|本八幡]]方面)・[[船橋法典駅|船橋法典]]以遠([[市川大野駅|市川大野]]方面)・[[南船橋駅|南船橋]]以遠([[二俣新町駅|二俣新町]]方面、[[新習志野駅|新習志野]]方面)・[[市川塩浜駅|市川塩浜]]以遠([[新浦安駅|新浦安]]方面、二俣新町方面)など、他社線を経由してJR線(共用駅を除く)の駅間を途中改札を通らずに乗車する場合、千代田線・東西線経由の方が低廉である場合であっても全線JR線乗車と扱われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/use/auto_pay/others/sf.html#anchor-6|title=ルール6 直通列車のご利用等により、改札機を通過することなく「JR東日本線~東京メトロ線~JR東日本線」と乗り継ぐ場合|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-12}}</ref>。
なお、[[西船橋駅]]にはJR線と東京地下鉄・[[東葉高速鉄道]]の連絡通路に乗り換え改札機が設置されたものの、経路の判別方法についてはほとんど変更されていない。したがって、西船橋経由の方が安い経路を乗車する場合には、同駅の改札通過に関わらず西船橋駅経由の運賃が適用される。
== ラインカラー ==
旅客案内で使用される本系統の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は、基本的には'''エメラルドグリーン'''(緑 {{Color|#00b261|■}})であるが、快速電車と同一であるため区別のために異なる色を使うことがある。
東京近郊路線図(現在の路線ネットワーク)では快速電車が緑({{Color|#00b261|■}})、各駅停車がグレー({{Color|gray|■}})であり<ref name="rosennetwork" />、これは快速線のE231系電車に掲出されている停車駅案内と同じであり(E531系電車に掲出されているものはこの配色ではない)、駅ナンバリングのラインカラーにもこれを採用している。なお、緩行線の車両(203系・207系900番台・209系1000番台)の停車駅案内では逆に快速をグレー、各駅停車を緑としていた。
他に、快速線に青({{color|#0000ff|■}})を用いて緩行線に緑を採用する例のほか、快速電車のカラーとして黄緑({{Color|#33dd22|■}})を使用し、各駅停車のカラーに緑({{Color|#00b261|■}})を使用しているものもある(E233系2000番台や小田急4000形のLCD上の路線図などで採用されている)。
車両の塗装は、金属色の車体にエメラルドグリーン([[青緑1号]] {{Color|#399|■}})のラインとなっているが、快速線向けのE231系電車や他のE233系等とは違い、緩行線向けのE233系電車については、幕板部にはこの色のラインは入っていない。
== データ ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#808080}}
|-
|colspan="2" style="font-size:85%;"|<!-- 固定幅は無改行の保証がないのでやめます -->
* メトロ=東京地下鉄(東京メトロ)
{{BS-table}}
{{BS2||tSTR||[[東京地下鉄|メトロ]]{{rint|tokyo|c}}[[東京メトロ千代田線|千代田線]]||}}
{{BS2|STR+r|tSTR|||[[常磐快速線]]|}}
{{BS4|STR+r|STR|tSTR||||[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]|}}
{{BS6|STR+r|STR|STR|tSTR|||||メトロ{{rint|tokyo|h}}[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]|}}
{{BS6|ABZg+r|STR|STR|tSTR|||||[[東武鉄道|東武]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]|}}
{{BS6|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|tBHF|O4=HUBeq||||C-18 [[北千住駅]]||}}
{{BS6|STR|STR|STR|tSTRe||||||}}
{{BS6|hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae|||||[[荒川 (関東)|荒川]]|}}
{{BS6|HST|tSTRa|STR|STR|||||[[小菅駅]]|}}
{{BS6|STRl|tKRZ|KRZu|KRZu|||||東武伊勢崎線|}}
{{BS4|tSTRl|KRZt|KRZt||||つくばエクスプレス|}}
{{BS2|STR|STR|O2=POINTERg@fq||↑メトロ{{rint|tokyo|c}}千代田線||}}
{{BS2|STR|BHF+GRZq|0.0|C-19 / JL 19 [[綾瀬駅]]||}}
{{BS2|STR|ABZgl|||メトロ{{rint|tokyo|c}}千代田線支線|}}
{{BS2|STR|STR|O2=POINTERg@fq||↓'''常磐緩行線'''||}}
{{BS2|STR|O1=POINTERg@fq|STR|||常磐快速線|}}
{{BS2|STR|BHF|2.2|JL 20 [[亀有駅]]||}}
{{BS2|hKRZWae|hKRZWae|||[[中川]]|}}
{{BS2|ABZg+r|STR|||[[総武本線|新金線]](貨物線)|}}
{{BS6|STRq|KBHFeq|O2=HUBaq|BST|O3=HUBq|BHF|O4=HUBeq|||4.1|JL 21 [[金町駅]]||}}
{{BS2|STR|STR|||京成[[京成金町線|金町線]]|}}
{{BS2|hKRZWae+GRZq|hKRZWae+GRZq|||[[江戸川]]|}}
{{BS4|STR+l|KRZu|STRr||||[[東京都]]/[[千葉県]]|}}
{{BS6|KDSTaq|ABZg+r|STR|||||[[松戸車両センター]]||}}
{{BS4|KRWgl|KRWg+r||||||}}
{{BS6|KBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||||8.0|JL 22 [[松戸駅]]||}}
{{BS6|STRr|STR|STR||||||[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]|}}
{{BS4|BHF|STR|||10.1|JL 23 [[北松戸駅]]||}}
{{BS4|BHF|O1=HUBaq|BST|O2=HUBq|KBHFa|O3=HUBeq||11.4|JL 24 [[馬橋駅]]||}}
{{BS4|STR|ABZgl|KRZu|STR+r||||}}
{{BS6||O1=HUBrg|BHF|O2=HUBeq|STR|STR|STR||13.0|JL 25 [[新松戸駅]]||}}
{{BS6|BHFq|O1=HUBe|KRZu|KRZu|KRZu|KRZu|ABZq+l|||[[武蔵野線]]|}}
{{BS6||STR|STR|HST|ABZl+l|STRr|||[[幸谷駅]]|}}
{{BS4|STR|ABZg+l|KRZu|STRr|||[[流鉄]][[流鉄流山線|流山線]]|}}
{{BS4|BHF|STR|||14.3|JL 26 [[北小金駅]]||}}
{{BS4|BHF|STR|||16.8|JL 27 [[南柏駅]]||}}
{{BS4|KRZu|KRZu|ABZ+lr||||東武[[東武野田線|野田線]]|}}
{{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFe|O3=HUBeq||19.2|JL 28 [[柏駅]]||}}
{{BS4|BHF|BST|||21.5|JL 29 [[北柏駅]]||}}
{{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||23.6|JL 30 [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]||}}
{{BS4|KRZu|ABZgr|||||[[成田線]]|}}
{{BS5|BS2+l|BS2+lr|BS2+r||||[[松戸車両センター]]||}}
{{BS5|BS2l|KDSTe|O2=BS2c23|BS2r|||| 我孫子派出所||}}
{{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|||26.3|JL 31 [[天王台駅]]||}}
{{BS4|hKRZWae+GRZq|hKRZWae+GRZq|||||[[利根川]]|}}
{{BS4|STR|STR|||||千葉県/[[茨城県]]|}}
{{BS4|KBHFe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFa|O3=HUBeq||29.7|JL 32 [[取手駅]]||}}
{{BS2|STR|STRl|||[[関東鉄道]][[関東鉄道常総線|常総線]]|}}
{{BS2|STR||||[[常磐線]]|}}
|}
|}
=== 路線データ ===
綾瀬駅 - 取手駅間の緩行線のもの。
* 管轄(事業種別):[[東日本旅客鉄道]]([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):29.7km(北千住駅 - 取手駅間は32.2km)
* [[軌間]]:1,067mm
* 駅数:14(綾瀬駅を含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500V)
* 閉塞方式:[[自動列車制御装置|ATC]]方式
* 保安装置:[[自動列車制御装置#ATC-10型|ATC-10]]
* 最高速度:90km/h
* [[運転指令所]]:東京総合指令室
** 準運転取扱駅(異常時、入換時は駅が信号を制御):松戸駅・柏駅・我孫子駅
* [[列車運行管理システム]]:[[東京圏輸送管理システム]](ATOS)
* [[車両基地]]:[[松戸車両センター]]([[松戸駅]])、[[松戸車両センター#松戸車両センター我孫子派出所|松戸車両センター我孫子派出所]]([[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]])
* 担当乗務員区:[[綾瀬運輸区]]
全線が[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]の管轄である。ただし、綾瀬駅構内は[[東京地下鉄]]が管理を行っている。
{{-}}
=== 混雑率 ===
2019年度の朝ラッシュ時最混雑区間は[[亀有駅|亀有]] → 綾瀬間であり、ピーク時の[[乗車率|混雑率]]は'''149%'''である<ref name="milt-r1">{{Cite report|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001365148.pdf |title=混雑率データ(令和元年度) |publisher=国土交通省 |page=1 |format=PDF |date=2020-11-01|accessdate=2020-11-01}}</ref>。
常磐線が複々線化された1970年代は輸送人員が増加傾向にあり、1980年度から約30年ほどはラッシュ時の混雑率が230%を越えていた。1992年度をピークに輸送人員が減少し、2004年度に混雑率が200%を下回った。2005年度に当路線と並行する形で[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]が開業すると輸送人員はさらに減少した。2006年度に混雑率が180%を下回った。その後も輸送人員は減少傾向が続き、2015年度に160%を下回った。
2015年度以降は、並行するつくばエクスプレスよりも混雑率が低くなっているが、輸送量は依然として多い。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(亀有 → 綾瀬間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>{{Cite report|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/koukei/tetsudou/konzatsu.html|title=路線別のラッシュ時における混雑率の推移|publisher=千葉県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/https://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref><ref name="milt-r1" /><ref>{{Cite report|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-24|publisher=国土交通省|page=1|format=PDF}}</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1955年(昭和30年)
| 10 || 10,360 || 28,520 || '''275'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間は三河島→日暮里間
|-
|1965年(昭和40年)
| 15 || 18,900 || 53,650 || style="background-color: #ffcccc;"|'''284'''
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 17 || 23,800 || 60,120 || '''253'''
|
|-
|1971年(昭和46年)
| 18 || 25,200 || 40,185 || '''159'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間を亀有→綾瀬間に変更
|-
|1972年(昭和47年)
| 18 || 25,200 || 49,300 || '''196'''
|
|-
|1973年(昭和48年)
| 18 || 25,200 || 49,500 || '''196'''
|
|-
|1974年(昭和49年)
| 18 || 25,200 || 50,300 || '''200'''
|
|-
|1975年(昭和50年)
| 18 || 25,200 || 51,800 || '''206'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 18 || 25,200 || 60,340 || '''239'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 19 || 26,600 || 66,480 || '''250'''
|
|-
|1983年(昭和58年)
| 19 || 26,600 || 68,470 || '''257'''
|
|-
|1984年(昭和59年)
| 19 || 26,600 || 70,530 || '''265'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 20 || 28,000 || 72,650 || '''259'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 22 || 30,800 || 74,840 || '''243'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 22 || 30,800 || 73,200 || '''238'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 22 || 30,800 || 73,900 || '''240'''
|
|-
|1989年(平成元年)
| 22 || 30,800 || 74,640 || '''242'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 22 || 30,800 || 75,760 || '''246'''
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 22 || 30,800 || 76,500 || '''248'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 22 || 30,800 || style="background-color: #ffcccc;"|76,700 || '''249'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 22 || 30,800 || 76,350 || '''248'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 22 || 30,800 || 76,000 || '''247'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 22 || 30,800 || 76,100 || '''247'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 22 || 30,800 || 74,990 || '''243'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 23 || 32,200 || 73,750 || '''229'''
|
|-
|1998年(平成10年)
| 23 || 32,200 || 72,760 || '''226'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 23 || 32,200 || 71,480 || '''222'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 24 || 33,600 || 70,080 || '''209'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 24 || 33,600 || 69,500 || '''207'''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 24 || 33,600 || 68,060 || '''203'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| 24 || 33,600 || 67,310 || '''200'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 24 || 33,600 || 66,300 || '''197'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 24 || 33,600 || 61,300 || '''182'''
|style="text-align:left;"|2005年8月24日、つくばエクスプレス開業
|-
|2006年(平成18年)
| 24 || 33,600 || 60,000 || '''179'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 24 || 33,600 || 58,980 || '''176'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 24 || 33,600 || 57,970 || '''173'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 24 || 33,600 || 57,290 || '''171'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 24 || 33,600 || 56,620 || '''169'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 24 || 33,600 || 56,040 || '''167'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 24 || 33,600 || 55,430 || '''165'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 24 || 33,600 || 55,140 || '''164'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 24 || 33,600 || 53,710 || '''160'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 24 || 33,600 || 52,070 || '''155'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 24 || 33,600 || 52,450 || '''156'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 24 || 33,600 || 51,660 || '''154'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 24 || 33,600 || 51,150 || '''152'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 24 || 33,600 || 50,060 || '''149'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 23 || 32,200 || style="background-color: #ccffff;"|30,080 || style="background-color: #ccffff;"|'''93'''
|
|}
=== 駅一覧 ===
* 駅ナンバリングの番号は東京メトロ千代田線(代々木上原 - 綾瀬)からの通しとなっている。
* {{JR特定都区市内|区}}:[[特定都区市内]]制度における「東京都区内」の駅
* [[日暮里駅]] - [[上野駅]]間の営業キロは2.2 km、日暮里駅 - [[東京駅]]間の営業キロは5.8 km、日暮里駅 - [[品川駅]]間の営業キロは12.6 km、[[北千住駅]] - 綾瀬駅間の営業キロは2.5 km
* 停車駅
** 常磐緩行線の電車(各駅停車)は小田急直通急行・準急も含め全電車とも下表のすべての駅に停車
** 常磐快速線との停車駅対応表は「[[常磐線#駅一覧|常磐線]]」の駅一覧も参照
** 我孫子駅 - 取手駅間は平日の朝夕のみ運行。
* 接続路線 : 駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。
* 境界駅となる綾瀬駅は東京地下鉄が管理を行っている。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:95%;"
|-
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #808080;"|駅番号
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #808080;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #808080;"|駅間営業キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #808080;"|接続路線
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #808080;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #808080;"|綾瀬から
!style="width:3.2em; border-bottom:3px solid #808080;"|{{smaller|[[日暮里駅|日暮里]]<br />から}}
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="3"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線]]経由 [[ファイル:Odakyu odawara logo.svg|18px|OH]] [[小田急小田原線]] [[伊勢原駅]]まで
|-
!JL 19
|[[綾瀬駅]] {{JR特定都区市内|区}}<ref group="*">北千住駅の駅施設および北千住駅 - 綾瀬駅間の線路はJRの管理対象ではないが、北千住駅は緩行線・快速線相互の連絡駅であり、JR(亀有駅以東)・東京地下鉄(千代田線[[町屋駅]]・日比谷線南千住駅方面)の運賃計算上の境界駅である(運賃計算については「[[#運賃計算の特例]]」を参照)。</ref>
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|7.7
|[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] 千代田線 (C-19)
|rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=4em}}
|[[足立区]]
|-
!JL 20
|[[亀有駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|9.9
|
|rowspan="2"|[[葛飾区]]
|-
!JL 21
|[[金町駅]] {{JR特定都区市内|区}}
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|11.8
|[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成金町線|金町線]] ⇒[[京成金町駅]] (KS51)
|-
!JL 22
|[[松戸駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|8.0
|style="text-align:right;"|15.7
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐快速線|常磐線(快速)]](JJ 06)<br />[[新京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|18px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]] (SL01)
|rowspan="10" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[千葉県]]|height=4em}}
|rowspan="5"|[[松戸市]]
|-
!JL 23
|[[北松戸駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|10.1
|style="text-align:right;"|17.8
|
|-
!JL 24
|[[馬橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|11.4
|style="text-align:right;"|19.1
|[[流鉄]]:[[ファイル:流鉄流山線ナンバリング.png|18px|RN]] [[流鉄流山線|流山線]] (RN1)
|-
!JL 25
|[[新松戸駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|13.0
|style="text-align:right;"|20.7
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JM line symbol.svg|18px|JM]] [[武蔵野線]] (JM 15)
|-
!JL 26
|[[北小金駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|14.3
|style="text-align:right;"|22.0
|
|-
!JL 27
|[[南柏駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|16.8
|style="text-align:right;"|24.5
|
|rowspan="3"|[[柏市]]
|-
!JL 28
|[[柏駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|19.2
|style="text-align:right;"|26.9
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 07)<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-24)
|-
!JL 29
|[[北柏駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|21.5
|style="text-align:right;"|29.2
|
|-
!JL 30
|[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|23.6
|style="text-align:right;"|31.3
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 08)・{{Color|#00b261|■}}[[成田線]]
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[我孫子市]]
|-
!JL 31
|[[天王台駅]]
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|style="text-align:right;"|34.0
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 09)
|-
!JL 32
|[[取手駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|29.7
|style="text-align:right;"|37.4
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 10)・{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]〈[[土浦駅|土浦]]方面〉<br />[[関東鉄道]]:[[関東鉄道常総線|常総線]]
|colspan="2"|[[茨城県]]<br>[[取手市]]
|}
* 2019年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/|title=各駅の乗車人員|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-12-15}}</ref>の対象となっている。
* 北小金駅 - 南柏駅間で[[流山市]]を通るが、同市内に駅はない。
{{Reflist|group="*"}}
== 今後の予定 ==
* JR東日本が仙石線で実用化した移動閉塞型の保安装置である[[ATACS]]ではなく、日本国外で導入が進む[[CBTC]] (Communication Based Train Control、無線式列車制御システム)を2020年頃を目途に導入することを検討し、協力メーカーの募集を始めた。2013年2月には依頼する会社をメーカーを[[アルストム]]と[[タレス・グループ|タレス]](ともに[[フランス]])に絞り込み、同年12月末を目途に1社に選定するとしていた<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.nikkan.co.jp/news/nkx1120120710cean.html?news-t0710|title=JR東、常磐緩行線にCBTCの導入検討|newspaper=[[日刊工業新聞]]|publisher=[[日刊工業新聞社]]|date=2012-07-10|accessdate=2023-12-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120721121919/https://www.nikkan.co.jp/news/nkx1120120710cean.html?news-t0710|archivedate=2012-07-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/order/pdf/introductionCBTC.pdf|format=PDF|title=CBTC導入に対する関心調査及び資料提供招請について|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120819190702/https://www.jreast.co.jp/order/pdf/introductionCBTC.pdf|archivedate=2012-08-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.signal.co.jp/products/railway/productsinfo/2010/03/cbtc-sl.php|title=CBTC-SLシステム|publisher=日本信号株式会社|accessdate=2023-12-12|archivedate=2012-12-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120127145615/http://www.signal.co.jp/products/railway/productsinfo/2010/03/cbtc-sl.php}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2012/20130214.pdf|format=PDF|title=CBTC導入に関するメーカー選定の結果|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013年2月21日|accessdate=2023-12-12}}</ref>。2014年4月に、タレス社へ設計作業を委託する契約が締結された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20140511.pdf|format=PDF|title=常磐緩行線へのCBTC導入検討の設計契約をタレスと締結しました|publisher=東日本旅客鉄道|date=2014年5月22日|accessdate=2023-12-12}}</ref>。しかし、2017年10月に、CBTC導入をいったん断念することが公表された<ref>{{Cite news|和書|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=[[交通新聞社]]|date=2017年10月5日}}</ref><ref>{{Cite news|和書|url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/446042|title=首都圏のICT列車制御、JR東が海外方式導入を断念-国産「ATACS」推進|newspaper=日刊工業新聞|publisher=日刊工業新聞社|date=2017年10月11日|accessdate=2023-12-12}}</ref>。代替としてATACSの導入を検討している。<!--たが、ATACSについても白紙撤回となり、 →ATO導入発表時のプレスでは言及なし。-->
* 2021年度に北松戸駅 - 北柏駅間に、2022年度以降に残りの亀有駅 - 松戸駅間、我孫子駅 - 取手駅間にホームドアを導入する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20201117_to03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線に初めてホームドアを導入します 〜2021年度にホームドアを使用開始する常磐(各駅停車)線の駅について〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-11-17|accessdate=2020-11-26<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201117063610/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20201117_to03.pdf|archivedate=2020-11-17 -->}}</ref>(綾瀬駅は2020年に東京メトロにより導入済)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[常磐線]]
* [[常磐快速線]]
* [[東京メトロ千代田線]]
* [[多摩急行]]
* [[通勤五方面作戦]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=83=1= 検索結果(常磐線各駅停車の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* [https://jobansenknow.jp/ 常磐線の___! 知らない、だからおもしろい:JR東日本]
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道東京支社}}
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[[Category:常磐緩行線|*]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:千葉県の交通]]
[[Category:茨城県の交通]]
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2003-08-27T10:45:05Z
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14,191 |
東武宇都宮線
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宇都宮線(うつのみやせん)は、栃木県栃木市の新栃木駅と同県宇都宮市の東武宇都宮駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングの路線記号はTN。2023年6月10日から2024年5月末までの約1年間限定の予定で、「いちご王国」ラインの愛称が付けられる。
栃木県の県庁所在地である宇都宮市中心部と同市南部、壬生町および栃木市を結ぶ路線である。東日本旅客鉄道(JR東日本)の「宇都宮線」が東北本線の愛称であるのに対し、本路線は正式な線路名称である上、先に名付けられている。ラインカラーは東武日光線と同様にオレンジと赤紫(■■)を用いている。
東武鉄道の路線網の中では支線的存在にありながら、幹線(伊勢崎線〈東武スカイツリーライン〉・日光線)との往来よりも末端である東武宇都宮駅を中心とした利用が多く、1日約24000人の利用があり(2016年度)、「日光線の支線」というより「宇都宮南西部における都市鉄道」または「県央地域における都市近郊路線」としての性格が強い。朝通勤時の下り列車(東武宇都宮行き)は東武宇都宮駅の改札口の位置関係上、先頭車両が激しく混雑しやすい。
全線が単線であるものの全駅が交換設備を持ち、また複線化用地が全線にわたって確保されていた形跡が見られる。東武宇都宮駅はJR宇都宮駅より市の中心部に近い場所に位置しており、さらに併設されている東武宇都宮百貨店は、日光線の一部にまで商圏が及び、鉄道の集客に効果を発揮している。沿線には駅を中心に百貨店のほか住宅地や医療施設、競技場などが整備されている。
一方で対東京輸送面では所要時間・利用客の面でJRに大きく差を付けられており、東京の浅草駅方面に直通する特急や急行列車、準急列車などは廃止され、日光線南栗橋駅・新栃木駅と東武宇都宮駅間で運転される普通列車が主体となっている。少ないながらも存在する東京方面の中距離需要は栃木駅で特急列車に接続する形で対応しているが、それでも東武宇都宮駅・浅草駅間は1時間50分も要し、JR快速列車の所要時間(1時間30分)にさえ及ばない(宇都宮駅 - 上野駅間で比較した場合)。
東武では唯一、定期列車が全てVVVFインバータ制御の車両で運転される路線である。
伊勢崎・日光線の支線としては運行本数、両数ともに充実しており、全列車が普通列車であるが、ワンマン運転の4両編成が1時間あたり昼間2本、ラッシュ時は2 - 4本の頻度で運行され、概ね半数程度が日光線南栗橋駅まで直通する。ほとんどの列車が栃木駅で「けごん」などの特急列車や日光線急行・普通列車と相互接続し、浅草・日光方面を結んでいる。なお、南栗橋駅まで直通しない列車は、新栃木駅または栃木駅で折り返す。日中の新栃木駅折り返し列車は、同駅で東武日光方面からの普通列車に接続する。
各駅のホームにはホーム監視モニターが設置され、普通列車のドア開閉は運転士が行っている。車内では自線の他、日光線・鬼怒川線の主要列車が記載された時刻表が掲出されている。
以前は伊勢崎線浅草駅 - 東武宇都宮駅間直通の準急(あるいは料金不要の急行・快速・準快速など、所要時間は約2時間30分 - 3時間、宇都宮線内は各駅に停車)が運行され、長らくおおむね1時間あたり1本の割合で設定されていたが、1994年には下り東武宇都宮行きは夕方・上り浅草行きは朝と夜運転で6往復、2001年時点では下り東武宇都宮行きが夕方に1本・上りは朝に業平橋(現・とうきょうスカイツリー)行きが1本・浅草行きが1本となり、2006年3月18日のダイヤ改正で廃止された。
また、350型4両編成を使用した特急「しもつけ」が朝の東武宇都宮発浅草行き1本と夕方の浅草発東武宇都宮行き1本で毎日運行されていたが、2020年4月24日で運行を終了した。この列車は宇都宮線内で唯一通過運転を行っており、またワンマン運転の対象外となっていた。
なお、350型が乗り入れなくなったことで(後述)、東武鉄道の路線では初めて全ての定期運用車両がVVVFインバータ制御になった。
当区間の優等列車の歴史については「しもつけ (列車)」も参照のこと。
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"title": "運行形態"
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"text": "また、350型4両編成を使用した特急「しもつけ」が朝の東武宇都宮発浅草行き1本と夕方の浅草発東武宇都宮行き1本で毎日運行されていたが、2020年4月24日で運行を終了した。この列車は宇都宮線内で唯一通過運転を行っており、またワンマン運転の対象外となっていた。",
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"text": "なお、350型が乗り入れなくなったことで(後述)、東武鉄道の路線では初めて全ての定期運用車両がVVVFインバータ制御になった。",
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{
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"text": "当区間の優等列車の歴史については「しもつけ (列車)」も参照のこと。",
"title": "歴史"
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宇都宮線(うつのみやせん)は、栃木県栃木市の新栃木駅と同県宇都宮市の東武宇都宮駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングの路線記号はTN。2023年6月10日から2024年5月末までの約1年間限定の予定で、「いちご王国」ラインの愛称が付けられる。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tōbu Tetsudō Logo.svg|50px|東武鉄道|link=東武鉄道]] 宇都宮線
|路線色=orange
|ロゴ=File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=東武宇都宮線で使用される東武20400型(国谷駅撮影).jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[国谷駅]] 停車中の東武20400型電車
|通称=「いちご王国」ライン<br />(2023年6月10日-2024年5月)
|現況=
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|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
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|諸元備考=
|諸元備考内容=
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{| {{Railway line header}}
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|}
[[ファイル:TOBU Utsunomiya Line Train in Utsunomiya.jpg|thumb|right|[[宇都宮市]]市街地を走る宇都宮線電車]]
[[ファイル:Tobu Utsunomiya ticket gate Dec., 2021.jpg|thumb|right|[[東武宇都宮駅]]の改札口]]
'''宇都宮線'''(うつのみやせん)は、[[栃木県]][[栃木市]]の[[新栃木駅]]と同県[[宇都宮市]]の[[東武宇都宮駅]]を結ぶ[[東武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]の路線記号は'''TN'''。2023年6月10日から2024年5月末までの約1年間限定の予定で、'''「いちご王国」ライン'''の愛称が付けられる<ref name="tobu20230523">{{Cite press release|title=東武宇都宮線の愛称が1年間限定で「いちご王国」ラインとなります!|publisher=東武鉄道|date=2023-05-23|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20230523135206z1sPcV-mQatiN4uaDK1DdA.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-05-29}}</ref>。
== 概要 ==
[[栃木県]]の県庁所在地である[[宇都宮市]]中心部と同市南部、[[壬生町]]および[[栃木市]]を結ぶ路線である。[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の「[[宇都宮線]]」が[[東北本線]]の愛称であるのに対し、本路線は正式な線路名称である上、先に名付けられている。ラインカラーは[[東武日光線]]と同様にオレンジと赤紫({{Color|orange|■}}{{Color|#990033|■}})を用いている。
東武鉄道の路線網の中では支線的存在にありながら、幹線([[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]〈東武スカイツリーライン〉・[[東武日光線|日光線]])との往来よりも末端である東武宇都宮駅を中心とした利用が多く、1日約24000人の利用があり(2016年度)、「日光線の支線」というより「宇都宮南西部における都市鉄道」または「県央地域における都市近郊路線」としての性格が強い<ref name="tobu20180510" />{{Rp|page=3}}。朝通勤時の下り列車(東武宇都宮行き)は東武宇都宮駅の改札口の位置関係上、先頭車両が激しく混雑しやすい。
全線が[[単線]]であるものの全駅が[[列車交換|交換]]設備を持ち、また[[複線]]化用地が全線にわたって確保されていた形跡が見られる。[[東武宇都宮駅]]はJR[[宇都宮駅]]より市の中心部に近い場所に位置しており、さらに併設されている[[東武宇都宮百貨店]]は、日光線の一部にまで商圏が及び、鉄道の集客に効果を発揮している。沿線には駅を中心に百貨店のほか住宅地や医療施設、競技場<ref group="注釈">[[カンセキスタジアムとちぎ]]。2020年7月23日開場。</ref>などが整備されている。
一方で対[[東京都区部|東京]]輸送面では所要時間・利用客の面でJRに大きく差を付けられており、東京の[[浅草駅]]方面に直通する[[特別急行列車|特急]]や[[急行列車]]、準急列車などは廃止され、日光線[[南栗橋駅]]・新栃木駅と東武宇都宮駅間で運転される普通列車が主体となっている<ref>{{Cite web|和書|title=東武宇都宮 東武宇都宮線 新栃木方面 時刻表|url=https://www.navitime.co.jp/diagram/timetable?node=00006832&lineId=00000799&updown=0|website=NAVITIME|accessdate=2022-07-27}}</ref>。少ないながらも存在する東京方面の中距離需要は栃木駅で特急列車に接続する形で対応しているが、それでも東武宇都宮駅・浅草駅間は1時間50分も要し、JR快速列車の所要時間(1時間30分)にさえ及ばない(宇都宮駅 - 上野駅間で比較した場合)。
東武では唯一、定期列車が全て[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]の車両で運転される路線である。
=== 路線データ ===
* 路線距離:24.3km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:11駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:90km/h<ref name="himitu" />
* 最長編成:4両編成
* 保安装置:[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武形ATS]]
== 運行形態 ==
伊勢崎・日光線の支線としては運行本数、両数ともに充実しており<ref group="注釈">[[東武桐生線|桐生線]]や[[東武小泉線|小泉線]]は沿線が都市化されているものの、昼間は2両編成の普通列車が1時間あたり1本程度。</ref>、全列車が普通列車であるが、[[ワンマン運転]]の4両編成が1時間あたり昼間2本、ラッシュ時は2 - 4本<ref group="注釈">朝ラッシュ時下りの7 - 8時台は4本。</ref>の頻度で運行され、概ね半数程度が[[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]まで直通する。ほとんどの列車が栃木駅で「[[けごん]]」などの特急列車や日光線急行・普通列車と相互接続し、浅草・日光方面を結んでいる。なお、南栗橋駅まで直通しない列車は、[[新栃木駅]]または[[栃木駅]]で折り返す。日中の新栃木駅折り返し列車は、同駅で東武日光方面からの普通列車に接続する。
各駅のホームにはホーム監視モニターが設置され、普通列車のドア開閉は運転士が行っている。車内では自線の他、日光線・鬼怒川線の主要列車が記載された時刻表が掲出されている。
以前は伊勢崎線[[浅草駅]] - 東武宇都宮駅間直通の準急(あるいは料金不要の急行・快速・準快速など、所要時間は約2時間30分 - 3時間、宇都宮線内は各駅に停車)が運行され、長らくおおむね1時間あたり1本の割合で設定されていたが<ref>『JTB時刻表』1989年3月号、日本交通公社、p.698 によると日中はおおむね1時間に1本で下り東武宇都宮行き11本・上り浅草行き10本の準急あり。</ref>、1994年には下り東武宇都宮行きは夕方・上り浅草行きは朝と夜運転で6往復<ref>『JTB時刻表』1994年9月号、日本交通公社、p.774</ref>、2001年時点では下り東武宇都宮行きが夕方に1本・上りは朝に業平橋(現・とうきょうスカイツリー)行きが1本・浅草行きが1本となり<ref>『JTB時刻表』2001年4月号、JTB、p.790</ref>、[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正で廃止された。
また、[[東武300系電車#350系|350型]]4両編成を使用した特急「[[しもつけ (列車)|しもつけ]]」が朝の東武宇都宮発浅草行き1本と夕方の浅草発東武宇都宮行き1本で毎日運行されていたが、2020年4月24日で運行を終了した<ref group="注釈" name="shimotsuke" />。この列車は宇都宮線内で唯一通過運転を行っており、またワンマン運転の対象外となっていた。
== 使用車両 ==
=== 現在の車両 ===
* [[東武20000系電車#20400型|20400型]]
** 日比谷線直通車両の[[東武70000系電車|70000系]]への置き換えで、余剰となった[[東武20000系電車|20000系]]の内外装をリニューアルした上で<ref>{{Cite press release |和書 |title=2018年度の設備投資計画について |publisher=東武鉄道 |date=2018年4月27日 |format=PDF |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/66e1f6bb5a290cd25df639f76cc41d82/180427_2.pdf?date=20180509103433 |accessdate=2018-05-10}}</ref>、2018年9月3日より営業運転を開始<ref name="raifjp20180904" />。
なお、[[東武300系電車|350型]]が乗り入れなくなったことで(後述)、東武鉄道の路線では初めて全ての定期運用車両が[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]になった。
=== 過去の車両 ===
* [[東武3000系電車|3070系]]
** 栃木県の内陸部での高温多湿(猛暑)が問題となった時期{{いつ|date=2009年9月|title=具体的に何年ごろですか?}}に、伊勢崎線で朝ラッシュ時の増結運用を終えた春日部検修区の8000系や[[東武10000系電車|10000系]]を南栗橋から回送し、非冷房の3070系の運用を置き換えることで、午後のみではあるものの冷房化が図られたことがある。宇都宮線の4運用のうち3運用がこの方法で午後のみ置き換えられ、5050系の転入まで継続された。
* [[東武5000系電車#5050系|5050系]]
** [[2006年]][[12月31日]]をもって運用終了した。当時は5155F - 5157F・5160F - 5162Fの4両編成6本が運用されていたが、全車が廃車解体された。当線は5000系列が最後まで運行された線区であった。
* [[東武6050系電車|6050系]]
** ワンマン運転を開始するため、8000系ワンマン対応車に置き換えられた。
* [[東武8000系電車|8000系]]
** [[2019年]]5月をもって運用終了した。当時は8189F・8190F・81105F・81106F・81108F・81115F・81116F・81118Fの4両編成8本が運用されていたが、いずれも[[東武20000系電車#20400型|20400型]]に置き換えられ全車が廃車解体された。
* [[東武10000系電車|10000型・10030型]]
** ワンマン運転を開始するため、8000系ワンマン対応車に置き換えられた。
* [[東武30000系電車|30000系]]
** ワンマン運転を開始するため、2007年5月上旬に8000系ワンマン対応車に置き換えられ、[[南栗橋車両管区]]春日部支所に戻された。
* [[東武300系電車#350系|350型]]
** 特急「しもつけ」用。普通列車のワンマン運転開始後も[[車掌]]が乗務していた。2020年4月24日で運行を終了<ref group="注釈" name="shimotsuke">特急「しもつけ」が2020年4月25日から[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]拡大防止のため運休し、同年6月6日のダイヤ改正で廃止となったため。</ref>。
== 歴史 ==
当区間の優等列車の歴史については「[[しもつけ (列車)#東武宇都宮線優等列車沿革|しもつけ (列車)]]」も参照のこと。
* [[1928年]](昭和3年)[[12月7日]]:鉄道免許状下付(下都賀郡大宮村-宇都宮市)<ref>[{{NDLDC|2957052/20}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年12月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="tobu20110721">[http://www.tobu.co.jp/file/pdf/93793c70cc9ea0fbd1e7d21f337105fe/110721.pdf?date=20120313092901 東武宇都宮線開通80周年記念イベントを実施!] - 東武鉄道、2011年7月21日、2011年7月21日閲覧。</ref>。
* [[1930年]](昭和5年)3月:複線化に計画を変更<ref name="tobu20110721"/>。
* [[1931年]](昭和6年)
** 7月:[[昭和恐慌]]により、単線化に計画を変更<ref name="tobu20110721"/>。
** [[8月11日]]:新栃木 - 東武宇都宮(24.4km)間全線開業<ref>[{{NDLDC|2957859/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年8月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[11月1日]]:野州大塚駅開業。
* [[1932年]](昭和7年)
** [[4月1日]]:花房町駅開業。
** [[4月17日]]:(臨)野球場前駅開業。[[宇都宮常設球場]]の最寄。
* [[1933年]](昭和8年)
** [[4月6日]]:急行電車の設定が認可される<ref name="tobu20110721"/>。
** [[12月15日]]:野球場前駅を常設駅とし南宇都宮駅に改称。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[6月30日]]:花房町駅休止。
** [[7月1日]]:江曽島駅開業。
** [[10月1日]]:野州平川駅開業。
* [[1953年]](昭和28年):浅草 - 東武宇都宮間の料金不要の急行・準急(毎時1-2本運行)に加え、愛称無しの有料急行1往復運行開始。現在の特急「しもつけ」とほぼ同じダイヤ設定。当時の日光線準急は浅草 - 東武日光間と浅草 - 東武宇都宮間に運転されていた。
* [[1954年]](昭和29年)[[9月24日]]:花房町駅廃止。
* [[1956年]](昭和31年):浅草 - 東武宇都宮間の有料急行に「しもつけ」の愛称が与えられる。
* [[1959年]](昭和34年)
** 11月:浅草 - 東武宇都宮間の急行「しもつけ」廃止<ref name="tobu20110721"/>。浅草 - 東武宇都宮間直通列車は再び準急・快速(毎時1-2本)のみとなる。
** [[11月28日]]:東武宇都宮駅移転に伴い0.1km短縮(24.3km)<ref name="tobu20110721"/>。
* [[1965年]](昭和40年)[[6月7日]]:おもちゃのまち駅開業<ref name="tobu20110721"/>。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[2月5日]]:柳原信号所開設。
** [[4月1日]]:[[自動列車停止装置]]使用開始<ref name="tobu20110721"/>。
** [[8月26日]]:小倉川橋梁の[[橋脚]]が沈下。470本の列車が運休し、バス1日延べ41台で新栃木 - 壬生間を代行輸送(同年8月30日復旧)<ref name="tobu20110721"/>。
* [[1988年]](昭和63年)[[8月9日]]:浅草 - 東武宇都宮間に快速急行「しもつけ」([[東武6050系電車|6050系]]を使用)運転開始<ref name="tobu20110721"/>。
* [[1989年]](平成元年)[[11月28日]]:柳原信号所廃止。
* [[1991年]](平成3年)[[7月21日]]:ダイヤ改正により、快速急行「しもつけ」を急行に格上げ<ref name="tobu20110721"/>、使用車両を[[東武300系電車|350系]]に切り替える<ref name="tobu20110721"/>。
* [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:ダイヤ改正に伴う種別名変更により、急行「しもつけ」を特急に格上げ<ref name="tobu20110721"/>。同時に特急以外の浅草直通列車が廃止された。
* [[2007年]](平成19年)
** 8月:一部の時間帯で普通列車ワンマン運転開始。
** [[10月31日]]:全普通列車でワンマン運転開始<ref name="tobu20110721"/>。
*[[2015年]](平成27年)
**[[9月9日]]<ref name="sankei20150911" />:[[平成27年9月関東・東北豪雨|関東・東北豪雨]]の影響により西川田 - 安塚間の[[姿川]]第二避溢橋梁の橋台と橋桁が流失<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/1c354c7c160021eb4cd6e4d05cb9ca98/150911%20%E5%BE%A9%E6%97%A7%E4%BD%9C%E6%A5%AD%E3%81%AE%E9%80%B2%E6%8D%97%E7%8A%B6%E6%B3%81%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%EF%BC%88%EF%BC%B0%EF%BC%A4%EF%BC%A6%EF%BC%89.pdf?date=20150911211741|title=大雨の影響による復旧作業の進捗状況について|publisher=東武鉄道|date=2015-09-11|accessdate=2015-09-12}}</ref>、全線が不通となる<ref name="sankei20150911">[https://www.sankei.com/article/20150911-PMPLSUZUYJJJ5KS7EIE5DECLBI/ 【栃木、茨城大雨】線路が宙づり 東武宇都宮線で橋の土台流される 全線で運転見合わせ] - 産経ニュース、2015年9月11日</ref><ref name="milt20150911">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001103735.pdf#page=26|title=台風第18号及び第17号による大雨等に係る被害状況等について(第8報) (2015/09/11 12:00現在)|publisher=国土交通省|date=2015-09-11|accessdate=2015-09-13}}</ref>。
**[[9月11日]]:新栃木 - 安塚間、西川田 - 東武宇都宮間で運転再開<ref>[http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20150911/2079382 【台風18号・ライフライン情報】東武宇都宮線、一部区間除き運転再開 安塚-西川田駅間で橋が流失] - 下野新聞、2015年9月11日</ref>。
**[[10月7日]]:西川田 - 安塚間が復旧、全線で運転再開<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20151005-a593/ 東武宇都宮線安塚〜西川田間、10/7運転再開 - 橋りょう流出から1カ月で復旧] - マイナビニュース、2015年10月5日</ref><ref>[http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20151007/2105663 安塚-西川田駅間の運転を再開 東武宇都宮線] - 下野新聞、2015年10月7日</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[6月16日]]:栃木県[[都道府県民の日|県民の日]]記念イベントにあわせ、「東武宇都宮線フリー乗車DAY」を初実施。栃木 - 東武宇都宮間が無料で乗車出来る「東武宇都宮線フリー乗車券」を宇都宮線各駅で配布<ref name="tobu20180510">{{Cite press release |和書 |title=6月16日(土)栃木県県民の日記念イベントにあわせ、「東武宇都宮線フリー乗車DAY」を実施します! |publisher=東武鉄道 |date=2018-05-10 |url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/5f1d09795e654f3a60d56dc5eb09c20a_180510_1.pdf |format=PDF |accessdate=2023-05-29 }}</ref>。
** [[9月3日]]:20400型電車営業運転開始<ref name="raifjp20180904">[https://railf.jp/news/2018/09/04/180000.html 東武20400形が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年9月4日</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[6月15日]]:「東武宇都宮線無料乗車DAY」を前年に引き続き開催。いちごの形をした無料乗車券を宇都宮線各駅及び栃木駅にて配布。栃木 - 東武宇都宮間で臨時特急[[スカイツリートレイン]]が3往復運転された<ref>{{Cite press release |和書 |title=6月15日(土)に「東武宇都宮線フリー乗車DAY」を実施します! |publisher=東武鉄道 |date=2019-05-22 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/316b23fc44658a92a4ce455e40081c96/190522.pdf |format=PDF |accessdate=2019-06-20 }}</ref><ref>[https://railf.jp/news/2019/06/16/200500.html 東武宇都宮線で“臨時特急スカイツリートレイン”運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年6月16日</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[4月25日]] - [[6月5日]]:特急「しもつけ」が[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]拡大防止のため運休<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://railway.tobu.co.jp/file/pdf/1ea646b4197ecbb74fff1e23c2076835/0528%E7%89%B9%E6%80%A5%E4%B8%80%E9%83%A8%E9%81%8B%E4%BC%91SL%E9%81%8B%E4%BC%91%E9%87%8D%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B%20%EF%BC%88%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%89ver1.pdf|title=特急列車の一部運休(6/5まで)ならびに「SL大樹」の運休について|publisher=東武鉄道|date=2020-05-28|accessdate=2020-05-28}}</ref>(4月24日が実質的な最終運行日)。
** [[6月6日]]:ダイヤ改正で特急「しもつけ」廃止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/555685de09870d4935783c8360e9aa1d/200225_2%20.pdf|title=2020年6月6日(土)ダイヤ改正を実施!【特急列車・THライナー・SL大樹概要が決定】|format=PDF |date=2020-02-25|accessdate=2020-05-01|publisher=東武鉄道}}</ref>、東武日光線南栗橋駅まで直通運転開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/9c74c89717ec9b6e8fbba78fd2fdbf04/200511_2.pdf|title=2020年6月6日(土) ダイヤ改正を実施!東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【一般列車に関するお知らせ】|format=PDF |date=2020-05-11|accessdate=2020-05-20|publisher=東武鉄道}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[6月10日]]:2024年5月までの期間限定で路線愛称を'''「いちご王国」ライン'''とする<ref name="tobu20230523" />。あわせてこの日限定で「東武宇都宮線フリー乗車DAY」を実施<ref name="tobu20230523" />。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[栃木県]]内に所在。
* 全列車各駅に停車する。
* 新栃木駅を除いて駅業務を[[東武ステーションサービス]]に委託している。
; 凡例
: 線路 … ∥:複線区間、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、∨:これより下は単線、∧:終点(列車交換可能)
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em;"|駅番号
!style="width:9em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!接続路線
!style="width:1em;"|{{縦書き|線路}}
!所在地
|-
|colspan="7" style="border-top:3px solid orange; border-bottom:3px solid #990033; padding:0; line-height:1px;"|
|-
!TN-12
|[[新栃木駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|東武鉄道:[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|18px|TN]] [[東武日光線|日光線]]([[南栗橋駅]]まで直通運転)
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="3" |[[栃木市]]
|-
!TN-31
|[[野州平川駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|2.0
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-32
|[[野州大塚駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|3.9
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-33
|[[壬生駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|7.3
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[下都賀郡]]<br />[[壬生町]]
|-
!TN-34
|[[国谷駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|10.8
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-35
|[[おもちゃのまち駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|12.6
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-36
|[[安塚駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|14.8
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-37
|[[西川田駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|18.3
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="4"|[[宇都宮市]]
|-
!TN-38
|[[江曽島駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|20.3
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-39
|[[南宇都宮駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|22.1
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!TN-40
|[[東武宇都宮駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|24.3
|
|style="text-align:center;"|∧
|}
=== 過去の接続路線 ===
<!-- 起点からの分岐順 -->
* 栃木駅:[[鍋山人車鉄道]] - 1956年11月廃止
* 柳原信号所:柳原線 - 1989年11月28日廃止(貨物線)
* 壬生駅:小倉川砂利線 - 1984年2月1日廃止(貨物線)
* 西川田駅:[[東武大谷線|大谷線]] - 1964年6月16日廃止
=== 廃駅・廃止信号所 ===
* 柳原信号所(野州大塚 - 壬生間)
* [[花房町駅]](南宇都宮 - 東武宇都宮間)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 脚注 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tōbu Utsunomiya Line}}
* [https://www.tobu.co.jp/railway/guide/line/utsunomiya_line.html 東武宇都宮線] - 東武鉄道
{{東武鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:とうふうつのみやせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|うつのみやせん]]
[[Category:東武鉄道の鉄道路線|うつのみや]]
[[Category:栃木県の交通]]
|
2003-08-27T12:33:58Z
|
2023-12-02T17:22:21Z
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|
14,192 |
江曽島駅
|
江曽島駅(えそじまえき)は、栃木県宇都宮市大和二丁目にある東武鉄道宇都宮線の駅である。駅番号はTN 38。
島式ホーム1面2線を持つ地上駅で橋上駅舎を有する。PASMO対応簡易ICカード改札機設置駅。
2022年度の1日平均乗降人員は1,683人である。
近年の1日平均乗降人員の推移は下表のとおりである。
駅名の「江曽島」はもとは旧横川村西部にあった地名で、この一帯は1954年(昭和29年)の横川村本体の宇都宮市編入に先立って1952年(昭和27年)に部分的に宇都宮市へ編入された区域である。現在の江曽島周辺は陽南通りや江曽島本通りなどを中心に住宅街として発展している。
|
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}
] |
江曽島駅(えそじまえき)は、栃木県宇都宮市大和二丁目にある東武鉄道宇都宮線の駅である。駅番号はTN 38。
|
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 江曽島駅
|画像 = Tobu Esojima station east side.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 東口(2020年11月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = えそじま
|ローマ字 = Esojima
|電報略号 = エソ
|所属事業者 = [[東武鉄道]]
|所在地幅 =
|所在地 = [[栃木県]][[宇都宮市]][[大和 (宇都宮市)|大和]]二丁目12-31
|緯度度 = 36|緯度分 = 31|緯度秒 = 51.95
|経度度 = 139|経度分 = 51|経度秒 = 39.05
|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|開業年月日 = [[1944年]]([[昭和]]19年)[[7月1日]]
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 1面2線
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 1,683<ref group="*" name="tobu2021" />
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{color|orange|■}}[[東武宇都宮線|宇都宮線]]
|前の駅 = TN 37 [[西川田駅|西川田]]
|駅間A = 2.0
|駅間B = 1.8
|次の駅 = [[南宇都宮駅|南宇都宮]] TN 39
|駅番号 = {{駅番号r|TN|38|orange|1}}
|キロ程 = 20.3
|起点駅 = [[新栃木駅|新栃木]]
|乗換 =
|備考 =
}}
[[ファイル:Esojima Station west entrance 2017-11-08.jpg|thumb|西口(2017年11月)]]
'''江曽島駅'''(えそじまえき)は、[[栃木県]][[宇都宮市]][[大和 (宇都宮市)|大和]]二丁目にある[[東武鉄道]][[東武宇都宮線|宇都宮線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''TN 38'''。
== 歴史 ==
* [[1944年]]([[昭和]]19年)[[7月1日]] - 開業<ref name="tobu65-1">{{Cite book|和書|author=東武鉄道株式会社|authorlink=東武鉄道|year=1964|title=東武鉄道六十五年史|publisher=|page=207|doi=10.11501/2504143}}</ref>。
* [[1982年]](昭和57年)[[6月1日]] - 橋上駅舎化。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を持つ[[地上駅]]で[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する<ref name="tobu">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/4109/ |title=江曽島駅|東武鉄道公式サイト |accessdate=2022-09-10 |language=日本語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210819122855/https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/4109/ |archivedate=2021-08-19 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。[[PASMO]]対応簡易ICカード改札機設置駅。
=== のりば ===
<!-- 方面表記は、東武鉄道公式サイト内の「構内マップ」の記載に基づく -->
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan=2| [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 宇都宮線
| style="text-align:center" | 下り
|[[東武宇都宮駅|東武宇都宮]]方面
|-
!2
| style="text-align:center" | 上り
|[[新栃木駅|新栃木]]方面
|}
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''1,683人'''<ref group="*" name="tobu2021" />である。
近年の1日平均乗降人員の推移は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均利用客数<ref>[http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/tochigikentoukeinenkan.html 栃木県統計年鑑] 〔10〕運輸・通信(私鉄線別旅客乗車人員) 2021年3月26日閲覧</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!1日平均<br />乗降人員
|-
|2001年(平成13年)
|
|<ref group="*" name="tobu2001">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030820164913/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2003-08-20|deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,915
|-
|2002年(平成14年)
|
|<ref group="*" name="tobu2002">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040312094245/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2004-03-12|deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,698
|-
|2003年(平成15年)
|
|<ref group="*" name="tobu2003">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050406224236/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2005-04-06|deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,627
|-
|2004年(平成16年)
|
|<ref group="*" name="tobu2004">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051029085353/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2007-01-25 |deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,638
|-
|2005年(平成17年)
|
|<ref group="*" name="tobu2005">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 3.駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070125225459/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2007-01-25 |deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,581
|-
|2006年(平成18年)
|
|<ref group="*" name="tobu2006">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080417183548/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2008-04-17 |deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,576
|-
|2007年(平成19年)
|
|<ref group="*" name="tobu2007">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090316072623/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2009-03-16 |deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,606
|-
|2008年(平成20年)
|1,260
|<ref group="*" name="tobu2008">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100209034919/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2010-02-09 |deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,524
|-
|2009年(平成21年)
|1,212
|<ref group="*" name="tobu2009">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道 |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110108064329/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html |archivedate=2011-01-08 |deadlinkdate=2022-09-10}}</ref>2,420
|-
|2010年(平成22年)
|1,142
|<ref group="*" name="tobu2010">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130120201855/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |archivedate=2013-01-20 |deadlinkdate=}}</ref>2,283
|-
|2011年(平成23年)
|1,107
|<ref group="*" name="tobu2011">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130823044332/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |archivedate=2013-08-23 |deadlinkdate=}}</ref>2,261
|-
|2012年(平成24年)
|1,145
|<ref group="*" name="tobu2012">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140425063103/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |archivedate=2014-04-25 |deadlinkdate=}}</ref>2,339
|-
|2013年(平成25年)
|1,146
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|-
|2014年(平成26年)
|1,134
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|-
|2015年(平成27年)
|1,124
|<ref group="*" name="tobu2015">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170121085633/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |archivedate=2017-01-21 |deadlinkdate=}}</ref>2,285
|-
|2016年(平成28年)
|1,112
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|-
|2017年(平成29年)
|1,116
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|-
|2018年(平成30年)
|1,089
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|-
|2019年(令和元年)
|
|<ref group="*" name="tobu2019">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126130651/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |archivedate=2021-01-26 |deadlinkdate=}}</ref>2,102
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|<ref group="*" name="tobu2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210814014805/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |archivedate=2021-08-14 |deadlinkdate=}}</ref>1,534
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|<ref group="*" name="tobu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ |title=駅情報(乗降人員) |website=東武鉄道株式会社 公式サイト |publisher=東武鉄道株式会社 |accessdate=2022-09-10 |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate=}}</ref>1,659
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|1,683
|}
== 駅周辺 ==
駅名の「江曽島」はもとは旧[[横川村]]西部にあった地名で、この一帯は[[1954年]](昭和29年)の横川村本体の宇都宮市編入に先立って[[1952年]](昭和27年)に部分的に宇都宮市へ編入された区域である。現在の江曽島周辺は陽南通りや江曽島本通りなどを中心に住宅街として発展している。
=== 西口 ===
* [[栃木運輸支局]]
* [[宇都宮市消防本部#消防署|宇都宮市南消防署]]陽南分署
* 宇都宮市立姿川中学校
* 陽南第1公園
* 宇都宮南病院
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[日光線]] [[鶴田駅]]
* [[足利銀行]]江曽島支店
===東口===
* [[宇都宮南警察署]]宮本町交番
* 宇都宮市役所陽南出張所
* [[宇都宮市立陽南小学校]]
** 宇都宮市陽南地域コミュニティセンター
* 陽南第2公園
* [[宮原運動公園]]
** [[宇都宮市宮原運動公園野球場]](宮原球場)
* 宇都宮市陽南プール
* 栃木県自動車学校
* [[栃木県立がんセンター]]
* 栃木県立衛生福祉大学校
* [[報徳会宇都宮病院]]
* 宇都宮双葉郵便局
* 宇都宮江曽島郵便局
* [[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]「江曽島駅」停留所
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]] [[アピタ]]宇都宮店
== 隣の駅 ==
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 宇都宮線
:: [[西川田駅]](TN 37) - '''江曽島駅(TN 38)''' - [[南宇都宮駅]](TN 39)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;栃木県統計年鑑
{{Reflist|group="県統計"|30em}}
;東武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="*"|2}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Esojima Station}}
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=4109}}
{{東武宇都宮線}}
{{デフォルトソート:えそしま}}
[[Category:宇都宮市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 え|そしま]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1944年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-27T12:40:33Z
|
2023-12-23T18:58:02Z
| false | false | false |
[
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:外部リンク/東武鉄道駅",
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"Template:Cite book",
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"Template:0",
"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9B%BD%E5%B3%B6%E9%A7%85
|
14,193 |
直積集合
|
数学において、集合のデカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)または直積(ちょくせき、英: direct product)、直積集合、または単に積(せき、英: product)、積集合は、集合の集まり(集合族)に対して各集合から一つずつ元をとりだして組にしたもの(元の族)を元として持つ新たな集合である。
具体的に二つの集合 A, B に対し、それらの直積とはそれらの任意の元 a ∈ A, b ∈ B の順序対 (a, b) 全てからなる集合をいう。集合の組立記法(英語版) では
と書くことができる。有限個の集合の直積 A1×⋯×An も同様の n-組からなる集合として定義されるが、二つの集合の直積を入れ子 (nested) にして、(A1 × ⋯ × An−1)× An と帰納的に定めることもできる。
順序対 (a, b) は、たとえ a, b (a ≠ b) がともに A にも B にも属していたとしても、一般には (a, b) ≠ (b, a) である。ゆえに、集合としても、A = B または少なくともいずれか一方が空集合でない限り
である。すなわち、直積は二項演算として可換でない。
また厳密に言えば、直積は結合的でもない。すなわち、A, B, C を集合とするとき、
はすべて集合として異なる。しかし誤解の虞が無いならば、しばしばこれらの間の自然 (canonical) な全単射
によって全て同一視(成分の並びを変えずに括弧だけを外)される。この同一視のもとで、直積は結合的二項演算を定める。その意味で n-項直積 A1 × ⋯ × An は二つの集合の直積をとることの繰り返し
と定義することは可能である。
直積は添字集合 I を伴う集合族 {Ai : i ∈ I} に対して定められるから、∏ni=1 Ai や ∏i∈I Ai あるいは A1 × ⋯ × An のように添字の動く範囲を明示するのが正確であるが、添字集合が明らかで誤解の虞のない場合にはしばしば省略した記法が用いられ、例えば ∏ Ai, ∏i Ai あるいは ⨉ Ai のように書かれる。特に A×⋯×A(同じ A の n 個のコピーの直積)は A, A, n⨉A などと書かれる。
直積集合の視覚的にわかりやすい例としては、標準的な52枚一組のトランプのデッキがある。トランプのランクは {A, K, Q, J, 10, 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2} という 13 の元からなる集合である。スーツは {♠, ♥, ♦, ♣} という 4 の元からなる集合である。この2つの集合の直積集合は、52 の組の元からなる集合であり、それぞれの元は、52枚のトランプのカードと1対1に対応している。
たとえば、ランク × スーツ という直積集合は、
{(A, ♠), (A, ♥), (A, ♦), (A, ♣), (K, ♠), ..., (3, ♣), (2, ♠), (2, ♥), (2, ♦), (2, ♣)}
という集合であり、スーツ × ランク という直積集合は、
{(♠, A), (♠, K), (♠, Q), (♠, J), (♠, 10), ..., (♣, 6), (♣, 5), (♣, 4), (♣, 3), (♣, 2)}
という集合である。
直積集合の元は順序対なので、同じ元はひとつも含まれていない。
有名な歴史的な例としては、解析幾何学における直交座標系がある。ルネ・デカルトは、数を用いて幾何学的な図形を表現したり、図形から数の情報を得たりするために、平面のそれぞれの点に実数の組を対応させ、その点の座標と名付けた。ふつう、このような組の1番目および2番目の要素は、それぞれ x および y 座標と呼ばれる。したがって、実数の組のすべての集合、すなわち R×R(R は実数)という直積集合は、平面上のすべての点の集合に対応する。
集合 A に対し、それ自身の(任意個の)直積として得られる集合
を得る演算を A のデカルト冪 (Cartesian exponentation) と呼ぶ。非負整数 n に対して n-乗デカルト冪 (n Cartesian power) は
で与えられる。一般の添字集合 Λ に対して
は Λ から A への写像全体の成す集合に他ならない。
集合 R を実数全体の作る実数直線とすれば、デカルト冪の例としてデカルト座標平面(ドイツ語版) R = R×R, 三次元デカルト座標空間 R = R × R × R, 一般に n-次元実座標空間 R を挙げることができる。あるいは実数列の全体も自然数の全体 N(最小の超限順序数 ω)で添字付けられた無限デカルト冪 R = R × R × ⋯ である。
Aλ = ∅ であるような λ ∈ Λ が少なくとも一つ存在すれば、∏λ∈Λ Aλ = ∅ であることは、直ちに示される一方、その逆にあたる命題は選択公理 (と同値)である。
集合のデカルト積は交叉に関してよく振る舞う。すなわち
が成り立つが、この式の交叉を合併に置き換えた式は一般には正しくない:
実は右辺は
と書くことができる。差に関しては等式
が成り立つ。直積はいくつかの集合算に対して分配的であることが示せる:
ここで ∁A は A の補集合である。
一般に
などが成り立つ。
ほかに、部分集合に関しては以下の性質がある:
有限集合 A, B の直積 A × B の濃度は、|A × B| = |A| ⋅ |B| で与えられる。これは、数え上げに関する積の原理から導くことができる。
一例として、
このとき、|A| = 4, |B| = 2, A × B = {(0,1), (0,3), (1,1), (1,3), (2,1), (2,3), (3,1), (3,3)} であって、実際に |A × B| = 8 = 4 × 2 = |A|⋅|B| であることが確認できる。
同様にして
が成り立つ。特にデカルト冪について、
が言え、あるいは一般に
が濃度の冪の意味で成り立つ。
直積は次のような普遍性を持つものとして特徴付けることができる:
圏論の言葉で言えば、集合の直積は集合の圏における積である。
ふたつの写像 f: A → X, g: B → Y が与えられたとき、直積集合 A × B から直積集合 X × Y への写像を
で定義することができる。この f × g を写像 f, g の直積と呼ぶ。任意の有限あるいは無限個の写像の直積も同様に定義できる。
f × g が全射 (resp. 単射) であるための必要十分条件は f, g がともに全射 (resp. 単射) となることである。一般に、写像の族 (fλ: Aλ → Xλ) の直積 f = ∏fλ が全射 (resp. 単射) であるための必要十分条件は、任意の (fλ が全射 (resp. 単射) となることである。
集合の圏 Set における圏論的積の例として、固定された添字集合 I で添字付けられる任意の集合の族 Xi に対してそれらの直積 ∏ Xi を対応させ、さらにそのような集合の族の間の写像の族 fi: Xi → Yi に対してそれらの直積 ∏ fi を対応させるならば、そのような対応は Set → Set なる形の函手(I-型の直積函手)を定める。
多変数の写像 f(x1, ..., xn) は直積集合上の写像 f((xi)i∈I) として理解できる。
二項演算あるいは一般に多項演算は多変数の写像として定式化できる。
二変数の写像 f: A × B → X の一変数化 gb(a) ≔ f(a, b) (a ∈ A, b ∈ B) は集合の圏における等式 X = (X) を与える。これにより、集合の直積は配置集合をとる操作の左随伴となる。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "数学において、集合のデカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)または直積(ちょくせき、英: direct product)、直積集合、または単に積(せき、英: product)、積集合は、集合の集まり(集合族)に対して各集合から一つずつ元をとりだして組にしたもの(元の族)を元として持つ新たな集合である。",
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},
{
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"text": "具体的に二つの集合 A, B に対し、それらの直積とはそれらの任意の元 a ∈ A, b ∈ B の順序対 (a, b) 全てからなる集合をいう。集合の組立記法(英語版) では",
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},
{
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"text": "と書くことができる。有限個の集合の直積 A1×⋯×An も同様の n-組からなる集合として定義されるが、二つの集合の直積を入れ子 (nested) にして、(A1 × ⋯ × An−1)× An と帰納的に定めることもできる。",
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},
{
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"text": "順序対 (a, b) は、たとえ a, b (a ≠ b) がともに A にも B にも属していたとしても、一般には (a, b) ≠ (b, a) である。ゆえに、集合としても、A = B または少なくともいずれか一方が空集合でない限り",
"title": "注意"
},
{
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"text": "である。すなわち、直積は二項演算として可換でない。",
"title": "注意"
},
{
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"text": "また厳密に言えば、直積は結合的でもない。すなわち、A, B, C を集合とするとき、",
"title": "注意"
},
{
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"text": "はすべて集合として異なる。しかし誤解の虞が無いならば、しばしばこれらの間の自然 (canonical) な全単射",
"title": "注意"
},
{
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"text": "によって全て同一視(成分の並びを変えずに括弧だけを外)される。この同一視のもとで、直積は結合的二項演算を定める。その意味で n-項直積 A1 × ⋯ × An は二つの集合の直積をとることの繰り返し",
"title": "注意"
},
{
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"text": "と定義することは可能である。",
"title": "注意"
},
{
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"tag": "p",
"text": "直積は添字集合 I を伴う集合族 {Ai : i ∈ I} に対して定められるから、∏ni=1 Ai や ∏i∈I Ai あるいは A1 × ⋯ × An のように添字の動く範囲を明示するのが正確であるが、添字集合が明らかで誤解の虞のない場合にはしばしば省略した記法が用いられ、例えば ∏ Ai, ∏i Ai あるいは ⨉ Ai のように書かれる。特に A×⋯×A(同じ A の n 個のコピーの直積)は A, A, n⨉A などと書かれる。",
"title": "注意"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "直積集合の視覚的にわかりやすい例としては、標準的な52枚一組のトランプのデッキがある。トランプのランクは {A, K, Q, J, 10, 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2} という 13 の元からなる集合である。スーツは {♠, ♥, ♦, ♣} という 4 の元からなる集合である。この2つの集合の直積集合は、52 の組の元からなる集合であり、それぞれの元は、52枚のトランプのカードと1対1に対応している。",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"text": "たとえば、ランク × スーツ という直積集合は、",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "{(A, ♠), (A, ♥), (A, ♦), (A, ♣), (K, ♠), ..., (3, ♣), (2, ♠), (2, ♥), (2, ♦), (2, ♣)}",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"text": "という集合であり、スーツ × ランク という直積集合は、",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "{(♠, A), (♠, K), (♠, Q), (♠, J), (♠, 10), ..., (♣, 6), (♣, 5), (♣, 4), (♣, 3), (♣, 2)}",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "という集合である。",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "直積集合の元は順序対なので、同じ元はひとつも含まれていない。",
"title": "直積集合の例"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "有名な歴史的な例としては、解析幾何学における直交座標系がある。ルネ・デカルトは、数を用いて幾何学的な図形を表現したり、図形から数の情報を得たりするために、平面のそれぞれの点に実数の組を対応させ、その点の座標と名付けた。ふつう、このような組の1番目および2番目の要素は、それぞれ x および y 座標と呼ばれる。したがって、実数の組のすべての集合、すなわち R×R(R は実数)という直積集合は、平面上のすべての点の集合に対応する。",
"title": "直積集合の例"
},
{
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"text": "集合 A に対し、それ自身の(任意個の)直積として得られる集合",
"title": "デカルト冪"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "を得る演算を A のデカルト冪 (Cartesian exponentation) と呼ぶ。非負整数 n に対して n-乗デカルト冪 (n Cartesian power) は",
"title": "デカルト冪"
},
{
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"tag": "p",
"text": "で与えられる。一般の添字集合 Λ に対して",
"title": "デカルト冪"
},
{
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"tag": "p",
"text": "は Λ から A への写像全体の成す集合に他ならない。",
"title": "デカルト冪"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "集合 R を実数全体の作る実数直線とすれば、デカルト冪の例としてデカルト座標平面(ドイツ語版) R = R×R, 三次元デカルト座標空間 R = R × R × R, 一般に n-次元実座標空間 R を挙げることができる。あるいは実数列の全体も自然数の全体 N(最小の超限順序数 ω)で添字付けられた無限デカルト冪 R = R × R × ⋯ である。",
"title": "デカルト冪"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "Aλ = ∅ であるような λ ∈ Λ が少なくとも一つ存在すれば、∏λ∈Λ Aλ = ∅ であることは、直ちに示される一方、その逆にあたる命題は選択公理 (と同値)である。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "集合のデカルト積は交叉に関してよく振る舞う。すなわち",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "が成り立つが、この式の交叉を合併に置き換えた式は一般には正しくない:",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "実は右辺は",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "と書くことができる。差に関しては等式",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。直積はいくつかの集合算に対して分配的であることが示せる:",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ここで ∁A は A の補集合である。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一般に",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "などが成り立つ。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ほかに、部分集合に関しては以下の性質がある:",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "有限集合 A, B の直積 A × B の濃度は、|A × B| = |A| ⋅ |B| で与えられる。これは、数え上げに関する積の原理から導くことができる。",
"title": "性質"
},
{
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"text": "一例として、",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このとき、|A| = 4, |B| = 2, A × B = {(0,1), (0,3), (1,1), (1,3), (2,1), (2,3), (3,1), (3,3)} であって、実際に |A × B| = 8 = 4 × 2 = |A|⋅|B| であることが確認できる。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "同様にして",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。特にデカルト冪について、",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "が言え、あるいは一般に",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "が濃度の冪の意味で成り立つ。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "直積は次のような普遍性を持つものとして特徴付けることができる:",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "圏論の言葉で言えば、集合の直積は集合の圏における積である。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ふたつの写像 f: A → X, g: B → Y が与えられたとき、直積集合 A × B から直積集合 X × Y への写像を",
"title": "写像の直積"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "で定義することができる。この f × g を写像 f, g の直積と呼ぶ。任意の有限あるいは無限個の写像の直積も同様に定義できる。",
"title": "写像の直積"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "f × g が全射 (resp. 単射) であるための必要十分条件は f, g がともに全射 (resp. 単射) となることである。一般に、写像の族 (fλ: Aλ → Xλ) の直積 f = ∏fλ が全射 (resp. 単射) であるための必要十分条件は、任意の (fλ が全射 (resp. 単射) となることである。",
"title": "写像の直積"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "集合の圏 Set における圏論的積の例として、固定された添字集合 I で添字付けられる任意の集合の族 Xi に対してそれらの直積 ∏ Xi を対応させ、さらにそのような集合の族の間の写像の族 fi: Xi → Yi に対してそれらの直積 ∏ fi を対応させるならば、そのような対応は Set → Set なる形の函手(I-型の直積函手)を定める。",
"title": "写像の直積"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "多変数の写像 f(x1, ..., xn) は直積集合上の写像 f((xi)i∈I) として理解できる。",
"title": "多変数の写像"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "二項演算あるいは一般に多項演算は多変数の写像として定式化できる。",
"title": "多変数の写像"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "二変数の写像 f: A × B → X の一変数化 gb(a) ≔ f(a, b) (a ∈ A, b ∈ B) は集合の圏における等式 X = (X) を与える。これにより、集合の直積は配置集合をとる操作の左随伴となる。",
"title": "多変数の写像"
}
] |
数学において、集合のデカルト積または直積、直積集合、または単に積、積集合は、集合の集まり(集合族)に対して各集合から一つずつ元をとりだして組にしたもの(元の族)を元として持つ新たな集合である。 具体的に二つの集合 A, B に対し、それらの直積とはそれらの任意の元 a ∈ A, b ∈ B の順序対 全てからなる集合をいう。集合の組立記法 では と書くことができる。有限個の集合の直積 A1×⋯×An も同様の n-組からなる集合として定義されるが、二つの集合の直積を入れ子 (nested) にして、(A1 × ⋯ × An−1)× An と帰納的に定めることもできる。
|
{{出典の明記|date=2016年11月}}
{{otheruses|集合の直積|その他|直積}}
{{redirect2|積集合|デカルト積|共通部分 (数学)|デカルトモノイド圏}}
[[File:Cartesian Product qtl1.svg|thumb|''A'' = {''x'', ''y'', ''z''} と ''B'' = {1, 2, 3} との直積の図示]]
[[数学]]において、[[集合]]の'''デカルト積'''(デカルト­せき、{{lang-en-short|''Cartesian product''}})または'''直積'''(ちょくせき、{{lang-en-short|''direct product''}})、'''直積集合'''、または単に'''積'''(せき、{{lang-en-short|''product''}})、'''積集合'''は、[[集合]]の[[族 (数学)|集まり]]([[集合族]])に対して各集合から一つずつ[[元 (数学)|元]]をとりだして[[タプル|組]]にしたもの(元の族)を元として持つ新たな集合である。
具体的に二つの集合 {{mvar|A, B}} に対し、それらの直積とはそれらの任意の元 {{math|''a'' ∈ ''A'', ''b'' ∈ ''B''}} の[[順序対]] {{math|(''a'', ''b'')}} 全てからなる集合をいう{{sfn|松坂|1968|p=22}}。{{仮リンク|集合の組立記法|en|set-builder notation}} では
: <math>A \times B = \{(a,b) \mid a \in A \land b \in B \}</math>
と書くことができる。有限個の集合の直積 {{math|{{gaps|''A''{{ind|1}}|×|⋯|×|''A''{{ind|''n''}}}}}} も同様の[[タプル| {{mvar|n}}-組]]からなる集合として定義されるが、二つの集合の直積を入れ子 (nested) にして、{{math|(''A''{{ind|1}} × ⋯ × ''A''{{ind|''n''−1}})× ''A''{{ind|''n''}}}} と帰納的に定めることもできる。
== 注意 ==
=== 交換法則と結合法則 ===
順序対 {{math|(''a'', ''b'')}} は、たとえ {{math|''a'', ''b'' (''a'' ≠ ''b'')}} がともに {{mvar|A}} にも {{mvar|B}} にも属していたとしても、一般には {{math|(''a'', ''b'') ≠ (''b'', ''a'')}} である{{sfn|松坂|1968|p=22}}。ゆえに、集合としても、{{math|1=''A'' = ''B''}} または少なくともいずれか一方が[[空集合]]でない限り
: <math>A\times B \ne B\times A</math>
である。すなわち、直積は[[二項演算]]として[[交換法則|可換]]でない。
また厳密に言えば、直積は[[結合法則|結合的]]でもない。すなわち、{{math|''A'', ''B'', ''C''}} を集合とするとき、
: <math>(A\times B)\times C,\quad A\times(B\times C),\quad A\times B\times C</math>
はすべて集合として異なる。しかし誤解の虞が無いならば、しばしばこれらの間の自然 (canonical) な[[全単射]]
: <math>((a,b),c) \gets\!\mapsto (a,(b,c)) \gets\!\mapsto (a,b,c)</math>
によって全て同一視(成分の並びを変えずに括弧だけを外)される。この同一視のもとで、直積は結合的二項演算を定める。その意味で {{mvar|n}}-項直積 {{math|''A''{{ind|1}} × ⋯ × ''A''{{ind|''n''}}}} は二つの集合の直積をとることの繰り返し
: <math>A_1\times\cdots\times A_n := (A_1\times\cdots\times A_{n-1})\times A_n</math>
と定義することは可能である。
=== 記法について ===
直積は[[添字集合]] {{mvar|I}} を伴う集合族 {{math|{{mset|''A''{{sub|''i''}} : ''i'' ∈ ''I''}}}} に対して定められるから、{{math|∏{{su|b=''i''=1|p=''n''}} ''A''{{sub|''i''}}}} や {{math|∏{{su|b=''i''∈''I''}} ''A''{{sub|''i''}}}} あるいは {{math|''A''{{ind|1}} × ⋯ × ''A''{{ind|''n''}}}} のように添字の動く範囲を明示するのが正確であるが、添字集合が明らかで誤解の虞のない場合にはしばしば省略した記法が用いられ、例えば {{math|∏ ''A''{{sub|''i''}}}}, {{math|∏{{sub|''i''}} ''A''{{sub|''i''}}}} あるいは {{math|⨉ ''A''{{sub|''i''}}}} のように書かれる。特に {{math|{{gaps|''A''|×|⋯|×|''A''}}}}(同じ {{mvar|A}} の {{mvar|n}} 個のコピーの直積)は {{math|''A''{{exp|''n''}}}}, {{mvar|''A''{{exp|×''n''}}}}, {{math|1={{overset|''n''|⨉}}''A''}} などと書かれる。
== 直積集合の例 ==
=== トランプのカード ===
[[File:Piatnikcards.jpg|thumb|標準的なトランプの52枚のデッキ]]
直積集合の視覚的にわかりやすい例としては、標準的な52枚一組のトランプのデッキがある。トランプのランクは {A, K, Q, J, 10, 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2} という 13 の元からなる集合である。スーツは {{nowrap|{♠, {{color|#c00000|♥}}, {{color|#c00000|♦}}, ♣} }} という 4 の元からなる集合である。この2つの集合の直積集合は、52 の組の元からなる集合であり、それぞれの元は、52枚のトランプのカードと1対1に対応している。
たとえば、{{nowrap|''ランク'' × ''スーツ''}} という直積集合は、
{(A, ♠), (A, {{color|#c00000|♥}}), (A, {{color|#c00000|♦}}), (A, ♣), (K, ♠), ..., (3, ♣), (2, ♠), (2, {{color|#c00000|♥}}), (2, {{color|#c00000|♦}}), (2, ♣)}
という集合であり、{{nowrap|''スーツ'' × ''ランク''}} という直積集合は、
{(♠, A), (♠, K), (♠, Q), (♠, J), (♠, 10), ..., (♣, 6), (♣, 5), (♣, 4), (♣, 3), (♣, 2)}
という集合である。
直積集合の元は順序対なので、同じ元はひとつも含まれていない。
=== 2次元直交座標系 ===
[[File:Cartesian-coordinate-system.svg|thumb|点の直交座標の例]]
有名な歴史的な例としては、[[解析幾何学]]における[[直交座標系]]がある。[[ルネ・デカルト]]は、数を用いて幾何学的な図形を表現したり、図形から数の情報を得たりするために、平面のそれぞれの点に実数の組を対応させ、その点の座標と名付けた。ふつう、このような組の1番目および2番目の要素は、それぞれ ''x'' および ''y'' 座標と呼ばれる。したがって、[[実数]]の組のすべての集合、すなわち {{math|ℝ×ℝ}}(ℝ は実数)という直積集合は、平面上のすべての点の集合に対応する。
{{-}}
== 定義 ==
; 有限直積
: {{mvar|n}} 個の集合 {{math|''A''{{sub|1}}, …, ''A''{{sub|''n''}}}} に対する直積集合を、<math display="block">\prod^{n}_{i=1} A_i = A_1\times A_2\times\dotsb\times A_n := \{(a_1,\dots,a_n) \mid a_1 \in A_1 \wedge \ldots \wedge a_n \in A_n \}</math> と定義する{{sfn|松坂|1968|p=46}}。ここで {{math|(''a''{{sub|1}}, …, ''a''{{sub|''n''}})}} は {{math|''a''{{sub|1}}, …, ''a''{{sub|''n''}}}} の順序付けられた ''n''-組である。
; 任意濃度の直積
: 必ずしも有限でない集合 {{math|Λ}} で[[族 (数学)|添字付けられる集合の族]] {{math|{{mset|''A''{{ind|''λ''}}}}{{sub|''λ''∈Λ}}}} それらの直積は、写像の集合 <math display="block"> \{a\colon\Lambda \to \mathbf{A} \mid a(\lambda) \in A_\lambda,\,\forall\lambda\in\Lambda\} \subset \operatorname{Map}(\Lambda,\mathbf{A})\quad(\mathbf{A} := \bigcup_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda)</math> と定義される{{sfn|松坂|1968|p=46}}。これはまた {{math|''a''{{sub|''λ''}} {{coloneqq}} ''a''(''λ'')}} と置けば、元の族の集合として <math display="block">\prod_{\lambda \in \Lambda} A_\lambda = \{(a_\lambda)_{\lambda \in \Lambda} \mid a_\lambda \in A_\lambda,\, \forall\lambda \in \Lambda \}</math> と書くこともできる。{{math|Λ}} が[[有限集合|有限]]ならばこれは先に述べた有限直積と一致する{{efn|name=empty|添字集合 {{math|Λ}} が[[空集合]]の場合、圏論においては任意の[[一元集合]] {{mathbf|1}} が[[集合の圏]]の[[零対象]]として(同型を除いて)唯一存在するから、{{math|1=∏{{sub|∅}}''X'' = '''1'''}} ({{mvar|X}} は任意) とすることで[[空積]]に意味を持たせることができる([[点付き集合]]の圏で基点 {{math|∗}} を固定するならば、{{仮リンク|ア・フォルティオリ|label=より強く|en|a fortiori}} {{math|1='''1''' = {{mset|∗}}}} ととれる)。また、集合論においては標準的に {{math|1=0 = ∅, 1 = {{mset|∅}}}} ととれるから、その意味において {{math|1=''X''{{exp|0}} = 1}} と置くことは {{math|1=Map(∅, ''X'') = {{mset|∅}}}}(右辺はすなわち[[空写像]])と考えることにより、ここでの定義と矛盾しない(集合をその冪集合によって同定し部分集合の意味で基点 {{math|∅}} が付随すると考えるならば、点付き集合としての話とみることもできる)。}}。
; 標準射影
: 直積 {{math|∏ ''A''{{sub|''λ''}}}} に対し、各 {{mvar|A{{sub|''λ''}}}} をこの直積の'''直積因子'''と呼ぶ。各直積因子 {{math|''A''{{sub|''μ''}} (''μ'' ∈ Λ)}} に対し、標準的に定まる[[全射]] <math display="block"> \pi_\mu\colon \prod_{\lambda\in\Lambda} A_\lambda \to A_\mu;\;(a_\lambda)_{\lambda\in\Lambda} \mapsto a_\mu</math> を第 {{mvar|μ}}-成分への[[射影 (集合論)|射影]]あるいは簡単に第 {{mvar|μ}}-射影などと呼ぶ。
== デカルト冪 ==
集合 {{mvar|A}} に対し、それ自身の(任意個の)直積として得られる集合
:<math>A\times A,\,A^2:= A\times A,\,\ldots</math>
を得る演算を {{mvar|A}} の'''デカルト冪''' {{lang|en|(Cartesian exponentation)}} と呼ぶ。非負整数 {{mvar|n}} に対して {{mvar|n}}-乗デカルト冪 ({{mvar|n}}{{sup|th}} Cartesian power) は
: <math>A^n := \prod_{i=1}^n A = \overbrace{A\times A\times\cdots\times A}^{n} = \{(a_1,a_2,\ldots,a_n) \mid a_i \in A,\,\forall i=1,\ldots,n\}</math>
で与えられる。一般の添字集合 {{math|Λ}} に対して
: <math>A^\Lambda := \prod_{\lambda\in\Lambda}A = \{(a_\lambda)_{\lambda\in\Lambda}\mid a_\lambda\in A\} = \operatorname{Map}(\Lambda,A)</math>
は {{math|Λ}} から {{mvar|A}} への[[配置集合|写像全体の成す集合]]に他ならない{{efn|name=empty}}。
集合 {{mathbf|ℝ}} を実数全体の作る[[実数直線]]とすれば、デカルト冪の例として{{仮リンク|デカルト座標平面|de|Koordinatenebene}} {{math|1='''ℝ'''{{sup|2}} = {{gaps|'''ℝ'''|×|'''ℝ'''}}}}, 三次元[[デカルト座標空間]] {{math|1='''ℝ'''{{sup|3}} = '''ℝ''' × '''ℝ''' × '''ℝ'''}}, 一般に {{mvar|n}}-次元[[実数空間|実座標空間]] {{math|'''ℝ'''{{sup|''n''}}}} を挙げることができる。あるいは[[数列空間|実数列の全体]]も[[自然数]]の全体 {{math|'''ℕ'''}}([[可算集合|最小の超限順序数]] {{mvar|ω}})で添字付けられた無限デカルト冪 {{math|1='''ℝ'''{{exp|''ω''}} = '''ℝ''' × '''ℝ''' × ⋯}} である。
[[File:CartDistr_svg.svg|thumb|right|例として {{math|1={{color|#0000c0|''A''}} = {{mset|''y'' ∈ [[実数直線|ℝ]] : 1 ≤ ''y'' ≤ 4}}}}, {{math|1={{color|#c00000|''B''}} = {{mset|''x'' ∈ ℝ : 2 ≤ ''x'' ≤ 5}}}}, {{math|1={{color|#00c000|''C''}} = {{mset|''x'' ∈ ℝ : 4≤''x''≤7}}}}} のとき、{{math|1=''A'' ×(''B'' ∩ ''C'') = (''A'' × ''B'')∩(''A'' × ''C'')}}, {{math|1=''A'' ×(''B'' ∪ ''C'') = (''A'' × ''B'')∪(''A'' × ''C'')}}, {{math|1=''A'' ×(''B'' {{setminus}} ''C'') = (''A'' × ''B''){{setminus}}(''A'' × ''C'')}} などが読み取れる。]]
[[File:CartUnion_svg.svg|thumb|right|上と同じ例で {{math|(''A'' ∪ ''B'')×(''C'' ∪ ''D'') ≠ (''A'' × ''C'')∪(''B'' × ''D'')}} もわかる。]]
[[File:CartInts_svg.svg|thumb|集合 {{math|1={{color|#c00000|''A''}} = {{mset|''x'' ∈ ℝ : 2 ≤ ''x'' ≤ 5}}}}, {{math|1={{color|#00c000|''B''}} = {{mset|''x'' ∈ ℝ : 3 ≤ ''x'' ≤ 7}}}}, {{math|1={{color|#c00000|''C''}} = {{mset|''y'' ∈ ℝ : 1 ≤ ''y'' ≤ 3}}}}, {{math|1={{color|#00c000|''D''}} = {{mset|''y'' ∈ ℝ : 2 ≤ ''y'' ≤ 4}}}} に対して {{math|1=(''A'' ∩ ''B'')×(''C'' ∩ ''D'') = (''A'' × ''C'')∩(''B'' × ''D'')}} が成り立つ。]]
== 性質 ==
{{math|1=''A''{{sub|''λ''}} = ∅}} であるような {{math|''λ'' ∈ Λ}} が少なくとも一つ存在すれば、{{math|1=∏{{su|b=''λ''∈Λ}} ''A''{{sub|''λ''}} = ∅}} であることは、直ちに示される一方、その逆にあたる命題は[[選択公理]] (と同値)である。{{sfn|松坂|1968|p=47}}
=== 集合算 ===
集合のデカルト積は[[交叉 (集合論)|交叉]]に関してよく振る舞う。すなわち
: <math>(A \cap B) \times (C \cap D) = (A \times C) \cap (B \times D)</math><ref name="planetmath">[[#Reference-Planetmath-Cartesian product|PlanetMath]], Cartesian product</ref>
が成り立つが、この式の交叉を[[合併 (集合論)|合併]]に置き換えた式は一般には正しくない:
: <math>(A \cup B) \times (C \cup D) \neq (A \times C) \cup (B \times D).</math>
実は右辺は
: <math>(A \times C) \cup (B \times D) = [(A \setminus B) \times C] \cup [(A \cap B) \times (C \cup D)] \cup [(B \setminus A) \times D]</math>
と書くことができる。[[差集合|差]]に関しては等式
: <math>(A \times C) \smallsetminus (B \times D) = [A \times (C \smallsetminus D)] \cup [(A \smallsetminus B) \times C] </math>
が成り立つ。直積はいくつかの集合算に対して[[分配法則|分配的]]であることが示せる<ref name="cnx">{{citeweb|last=Singh|first=S.|accessdate=2009, August 27|title=Cartesian product|url= http://cnx.org/content/m15207/1.5/}}</ref>:
* <math>A \times (B \cap C) = (A \times B) \cap (A \times C),</math>
* <math>A \times (B \cup C) = (A \times B) \cup (A \times C),</math>
* <math>A \times (B \setminus C) = (A \times B) \setminus (A \times C),</math>
* <math>\complement(A \times B) = (\complement A \times \complement B) \cup (\complement A \times B) \cup (A \times \complement B),</math><ref name="planetmath"/>
ここで {{math|∁''A''}} は {{mvar|A}} の[[補集合]]である。
一般に
* <math>(\prod_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda)\cap(\prod_{\mu\in\Lambda}B_\mu) = \prod_{\lambda\in\Lambda}(A_\lambda\cap B_\lambda)</math>
* <math>(\bigcup_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda)\times(\bigcup_{\mu\in\Mu}B_\mu) = \bigcup_{(\lambda,\mu)\in\Lambda\times\Mu}(A_\lambda\times B_\mu)</math>
* <math>(\bigcap_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda)\times(\bigcap_{\mu\in\Mu}B_\mu) = \bigcap_{(\lambda,\mu)\in\Lambda\times\Mu}(A_\lambda\times B_\mu)</math>
* <math>(\bigcup_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda)\cap(\bigcup_{\mu\in\Mu}B_\mu) = \bigcup_{(\lambda,\mu)\in\Lambda\times\Mu}(A_\lambda\cap B_\mu)</math>
* <math>(\bigcap_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda)\cup(\bigcap_{\mu\in\Mu}B_\mu) = \bigcap_{(\lambda,\mu)\in\Lambda\times\Mu}(A_\lambda\cup B_\mu)</math>
などが成り立つ{{sfn|松坂|1968|pp=50–51}}。
ほかに、[[部分集合]]に関しては以下の性質がある:
: <math>A \subseteq B \implies A \times C \subseteq B \times C,</math>
: <math>A\ne\emptyset \land B \neq \emptyset \implies [A \times B \subseteq C \times D \iff A \subseteq C \land B \subseteq D].</math><ref>{{ProofWiki|id=Cartesian_Product_of_Subsets|title=Cartesian Product of Subsets}}</ref>
=== 濃度 ===
有限集合 {{mvar|A, B}} の直積 {{math|''A'' × ''B''}} の[[濃度 (数学)|濃度]]は、{{math|1={{abs|''A'' × ''B''}} = {{abs|''A''}} ⋅ {{abs|''B''}}}} で与えられる。これは、[[数え上げに関する積の原理]]から導くことができる。
{| class="wikitable" style="float: right; margin: 1ex auto 1ex 1em;"
|+ A × B
|-
|A\B
!1!!3
|-
!0
|(0,1)||(0,3)
|-
!1
|(1,1)||(1,3)
|-
!2
|(2,1)||(2,3)
|-
!3
|(3,1)||(3,3)
|}
一例として、
: {{math|1=''A'' = {{mset|0, 1, 2, 3}}}} (3以下の自然数の集合)
: {{math|1=''B'' = {{mset|1, 3}}}} (3以下の奇数の集合)
このとき、{{math|1={{abs|''A''}} = 4, {{abs|''B''}} = 2}}, {{math|1=''A'' × ''B'' = {{mset|(0,1), (0,3), (1,1), (1,3), (2,1), (2,3), (3,1), (3,3)}}}} であって、実際に {{math|1={{abs|''A'' × ''B''}} = 8 = 4 × 2 = {{abs|''A''}}⋅{{abs|''B''}}}} であることが確認できる。
同様にして
* {{math|1={{abs|{{gaps|''A''|×|''B''|×|''C''}}}} = {{gaps|{{abs|''A''}}|⋅|{{abs|''B''}}|⋅|{{abs|''C''}}}}, {{abs|{{gaps|''A''|×|''B''|×|''C''|×|''D''}}}} = {{gaps|{{abs|''A''}}|⋅|{{abs|''B''}}|⋅|{{abs|''C''}}|⋅|{{abs|''D''}}}}, …}}
* 濃度の積の意味で {{math|1={{abs|1=∏''A''{{sub|''λ''}}}} = ∏{{abs|''A''{{sub|''λ''}}}}}}
が成り立つ。特にデカルト冪について、
* 任意の自然数 {{mvar|n}} に対して {{math|1={{abs|''A''{{exp|''n''}}}} = {{abs|''A''}}{{exp|''n''}}}}
が言え、あるいは一般に
: {{math|1={{abs|∏{{su|b=''λ''∈Λ}} ''A''}} = {{abs|''A''{{sup|Λ}}}} = {{abs|''A''}}{{exp|{{abs|Λ}}}}}}
が濃度の冪の意味で成り立つ。
[[file:Cat product.svg|thumb|150px|right|直積の普遍性: この図式は可換である]]
=== 普遍性 ===
直積は次のような[[普遍性]]を持つものとして特徴付けることができる:
; 直積の普遍性
: 任意の集合 {{mvar|Y}} と任意の写像の族 {{math|(''f''{{sub|''i''}}: ''Y'' → ''X''{{sub|''i''}}){{sub|''i''∈''I''}}}} が与えられたとき、写像 {{math|''f'': ''Y'' → ''X'' {{coloneqq}} '''∏'''{{su|b=''i''∈''I''}} ''X''{{sub|''i''}}}} で {{math|1=''f''{{sub|''i''}} = {{pi}}{{sub|''i''}} ∘ ''f''}} を満たすものがただ一つ存在する。
圏論の言葉で言えば、集合の直積は[[集合の圏]]における[[積 (圏論)|積]]である。
== 写像の直積 ==
ふたつの写像 {{math|''f'': ''A'' → ''X'', ''g'': ''B'' → ''Y''}} が与えられたとき、直積集合 {{math|''A'' × ''B''}} から直積集合 {{math|''X'' × ''Y''}} への写像を
: <math>(f\times g)(a,b) := (f(a),\,g(b))\quad (a\in A,\,b\in B)</math>
で定義することができる。この {{math|''f'' × ''g''}} を写像 {{math|''f'', ''g''}} の直積と呼ぶ。任意の有限あるいは無限個の写像の直積も同様に定義できる。
{{math|''f'' × ''g''}} が[[全射]] (resp. [[単射]]) であるための必要十分条件は {{mvar|f, g}} がともに全射 (resp. 単射) となることである。一般に、写像の族 {{math|(''f''{{sub|''λ''}}: ''A''{{sub|''λ''}} → ''X''{{sub|''λ''}})}} の直積 {{math|1=''f'' = ∏''f''{{sub|''λ''}}}} が全射 (resp. 単射) であるための必要十分条件は、任意の {{math|(''f''{{sub|''λ''}}}} が全射 (resp. 単射) となることである。{{sfn|松坂|1968|p=51}}
[[集合の圏]] {{mathbf|Set}} における[[積 (圏論)|圏論的積]]の例として、固定された添字集合 {{mvar|I}} で添字付けられる任意の集合の族 {{math|''X{{sub|i}}''}} に対してそれらの直積 {{math|∏ ''X{{sub|i}}''}} を対応させ、さらにそのような集合の族の間の写像の族 {{math|''f{{sub|i}}'': ''X{{sub|i}}'' → ''Y{{sub|i}}''}} に対してそれらの直積 {{math|∏ ''f{{sub|i}}''}} を対応させるならば、そのような対応は {{math|'''Set'''{{sup|''I''}} → '''Set'''}} なる形の[[函手]]({{mvar|I}}-型の直積函手)を定める。
== 多変数の写像 ==
多変数の写像 {{math|''f''(''x''{{sub|1}}, …, ''x''{{sub|''n''}})}} は直積集合上の写像 {{math|''f''((''x''{{sub|''i''}}){{sub|''i''∈''I''}})}} として理解できる。
[[二項演算]]あるいは一般に[[算法|多項演算]]は多変数の写像として定式化できる。
二変数の写像 {{math|''f'': ''A'' × ''B'' → ''X''}} の[[カリー化|一変数化]] {{math|''g''{{sub|''b''}}(''a'') {{coloneqq}} ''f''(''a'', ''b'') (''a'' ∈ ''A'', ''b'' ∈ ''B'')}} は集合の圏における等式 {{math|1=''X''{{sup|''A''×''B''}} = (''X''{{sup|''A''}}){{sup|''B''}}}} を与える。これにより、集合の直積は[[冪対象|配置集合]]をとる操作の[[左随伴]]となる。
== 関連項目 ==
* [[数学的構造]]
* [[直和]]
* [[選択公理]]
* [[テンソル積]]
* [[ルネ・デカルト]]
* [[空積]]
* [[超積]]
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{citation|和書|first=和夫|last=松坂|title=集合・位相入門|publisher=岩波書店|year=1968|isbn=4-00-005424-4}}
== 外部リンク ==
* {{wikicite|reference={{PlanetMath|title=Cartesian product|urlname=CartesianProduct}}|ref=Reference-Planetmath-Cartesian product}}
* {{MathWorld|title=Cartesian Product|urlname=CartesianProduct}}
* {{SpringerEOM|urlname=Direct_product|title=Direct product|author=Tsalenko, M.Sh.}}
* {{nlab|id=cartesian+product|title=cartesian producr}}
{{集合論}}
{{DEFAULTSORT:ちよくせきしゆうこう}}
[[Category:集合論]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2022-07-29T18:27:32Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E7%A9%8D%E9%9B%86%E5%90%88
|
14,194 |
直積
|
数学において、直積を考えられる対象は以下に挙げるように様々あり、それらの共通する本質は圏論的積によって捉えられる。
|
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数学において、直積を考えられる対象は以下に挙げるように様々あり、それらの共通する本質は圏論的積によって捉えられる。 集合の直積
群の直積
加群の直積
環の直積
位相空間の直積
ベクトルの直積
|
数学において、'''直積'''を考えられる対象は以下に挙げるように様々あり、それらの共通する本質は[[圏論的積]]によって捉えられる。
* [[直積集合|集合の直積]]
* [[群の直積]]
* {{仮リンク|加群の直積|de|Produkt von Moduln|en|Direct product of modules}}
* [[環の直積]]
* [[位相空間の直積]]
* [[直積 (ベクトル)|ベクトルの直積]]
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14,195 |
おもちゃのまち駅
|
おもちゃのまち駅(おもちゃのまちえき)は、栃木県下都賀郡壬生町にある、東武鉄道宇都宮線の駅である。駅番号はTN 35。
玩具メーカー、トミー工業(現:タカラトミー)の働きかけで、駅の近くに玩具製造関連会社が集積する工業団地「おもちゃ団地」が形成されたことによる。トミーによれば、駅名を命名したのはトミー創業者・富山栄市郎である。
駅開業後の1977年(昭和52年)に周辺で住居表示が実施され、「おもちゃのまち」の町名が誕生した。
島式ホーム1面2線を有する地上駅。駅の東西を連絡する地下自由通路の中間から階段を上ったところに駅舎があり、ホームへはさらに階段を上る形態となっている。エレベーター・エスカレーターは設置されていないが、2022年度末より、バリアフリー化を目的にエレベーターを設置することが決定している。そのため、2015年12月10日から改札前に設置されている「シルバニアファミリー」のキャラクター立像が、エレベーター設置工事期間中、一時的に壬生町おもちゃ博物館に移設され、同館のフォトスポットとして活用された。
PASMO対応簡易ICカード改札機設置駅。
2022年度の1日平均乗降人員は2,193人であり、宇都宮線の途中駅では最も多い。
近年の1日平均乗降人員の推移は下表のとおりである。
西口から関東自動車の路線が発着する。
2019年10月1日から、当駅を基点に下野市・上三川町・壬生町広域連携バス「ゆうがおバス」の実証運行が開始された。運行受託は関東自動車。 その他、壬生町のデマンドタクシー「みぶまる」 も運行されている。町内の任意の地点同士を運行する。1時間間隔の運行。土休運休。利用は事前登録要。
|
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おもちゃのまち駅(おもちゃのまちえき)は、栃木県下都賀郡壬生町にある、東武鉄道宇都宮線の駅である。駅番号はTN 35。
|
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = おもちゃのまち駅
|画像 = Omochanomachi Station West Exit(2021-03-28).jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 西口(2021年3月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = おもちゃのまち
|ローマ字 = Omochanomachi
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|所属事業者= [[東武鉄道]]
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|所在地 = [[栃木県]][[下都賀郡]][[壬生町]][[おもちゃのまち|幸町]]一丁目22-1
|緯度度=36|緯度分=27|緯度秒=58.11
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|地図国コード = JP
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|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="利用客数" name="tobu2021">{{Cite web|和書|author=東武鉄道株式会社|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=駅情報(乗降人員)|publisher=|date= |accessdate=2022-9-10}}</ref>2,193
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|駅番号 = {{駅番号r|TN|35|orange|1}}
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|乗換 =
|備考 =
}}
[[ファイル:Omochanomachi Station East Exit(2021-03-28).jpg |thumb|250px|東口(2021年3月)]]
[[ファイル:Omochanomachi Station East Entrance 1.JPG |thumb|250px|東口(2012年5月)]]
[[ファイル:Omochanomachi-station-west.jpg|thumb|250px|西口(2010年2月)]]
[[ファイル:Ryugasakiline SL-5.jpg|thumb|250px|東口付近に保存されている[[国鉄1225形蒸気機関車#宇都宮石材軌道|5号蒸気機関車]]]]
'''おもちゃのまち駅'''(おもちゃのまちえき)は、[[栃木県]][[下都賀郡]][[壬生町]]にある、[[東武鉄道]][[東武宇都宮線|宇都宮線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TN 35'''。
== 歴史 ==
* [[1965年]]([[昭和]]40年)
** [[4月1日]] - 仮営業を開始。朝夕に上下2本ずつの列車が停車した。
** [[6月7日]] - 開業<ref>{{Cite web|和書|author=東武鉄道株式会社|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/4106/|title=おもちゃのまち駅|東武鉄道公式サイト|publisher=|date= |accessdate=2022-9-10}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
{{main|おもちゃのまち}}
[[玩具]]メーカー、[[トミー (企業)|トミー工業]](現:[[タカラトミー]])の働きかけで、駅の近くに玩具製造関連会社が集積する工業団地「おもちゃ団地」が形成されたことによる。トミーによれば、駅名を[[命名]]したのはトミー創業者・[[富山栄市郎]]である<ref>{{Cite web|和書|author=株式会社タカラトミー|url=https://www.takaratomy.co.jp/company/csr/history4.html|title=第4話 荒野に光射す~おもちゃのまち、誕生|社史「軌跡~夢をカタチに~」|CSR|タカラトミー|publisher=|date= |accessdate=2022-9-10}}</ref>。
駅開業後の[[1977年]](昭和52年)に周辺で[[住居表示]]が実施され、「おもちゃのまち」の町名が誕生した<ref>{{Cite web|和書|author=壬生町|url=https://www.town.mibu.tochigi.jp/docs/2014112000108/|title=住居表示について|壬生町公式WEBサイト|publisher=|date= |accessdate=2022-9-10}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。駅の東西を連絡する[[地下道|地下自由通路]]の中間から[[階段]]を上ったところに[[駅舎]]があり、[[プラットホーム|ホーム]]へはさらに階段を上る形態となっている。[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]は設置されていないが、2022年度末より、バリアフリー化を目的にエレベーターを設置することが決定している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcpress.co.jp/wp01/?p=28955|title=壬生町 おもちゃのまち駅でバリアフリー 東西EVに来年度着工|publisher=日刊建設新聞(栃木版)|date=2021-11-18|accessdate=2023-03-02}}</ref>。そのため、2015年12月10日から改札前に設置されている「[[シルバニアファミリー]]」のキャラクター立像<ref>{{Cite web|和書|url=https://kitakan-navi.jp/archives/5188|title=おもちゃのまち駅にシルバニアモニュメント|publisher=きたかんナビ|date=2015-12-11|accessdate=2023-03-02}}</ref>が、エレベーター設置工事期間中、一時的に[[壬生町おもちゃ博物館]]に移設され、同館のフォトスポットとして活用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mibutoymuseum.com/news221220/|title=おもちゃのまち駅のシルバニアファミリー立像がおもはくへ!?|publisher=壬生町おもちゃ博物館|date=2022-12-20|accessdate=2023-03-02}}</ref>。<!-- 要出典タグを付ける代わりに、参考画像が載るまでコメントに移設します。「駅名が全てひらがなであることから、ホームの駅名標では、漢字・ローマ字併記部分にローマ字しか書かれていない。」 -->
[[PASMO]]対応簡易ICカード改札機設置駅。
=== のりば ===
<!-- 2012年9月時点の東武の支線区の案内傾向(館林駅の「葛生方面」など)に則して、終点駅のみ記載。宇都宮線の駅では「新栃木」ではなく「栃木」を表記することが多いのでそれに従う --->
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan=2| [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 宇都宮線
| style="text-align:center" | 上り
|[[栃木駅|栃木]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面
|-
!2
| style="text-align:center" | 下り
|[[東武宇都宮駅|東武宇都宮]]方面
|}
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''2,193人'''であり<ref group="利用客数" name="tobu2021" />、宇都宮線の途中駅では最も多い。
近年の1日平均乗降人員の推移は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align: right;"
|-
|+年度別1日平均利用客数
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!1日平均<br />乗降人員
|-
|1998年(平成10年)
|
|3,376
|-
|1999年(平成11年)
|
|2,969
|-
|2000年(平成12年)
|
|2,931
|-
|2001年(平成13年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2001">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧|date=20030820164913}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,744
|-
|2002年(平成14年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2002">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧|date=20040312094245}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,646
|-
|2003年(平成15年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2003">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧|date=20050406224236}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,543
|-
|2004年(平成16年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2004">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 2.駅一覧|date=20051029085353}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,523
|-
|2005年(平成17年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2005">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=TOBU GROUP:鉄道事業の概要 3.駅情報(乗降人員)|date=20070125225459}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,427
|-
|2006年(平成18年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2006">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道|date=20080417183548}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,386
|-
|2007年(平成19年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2007">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道|date=20090316072623}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,368
|-
|2008年(平成20年)
|1,229
|<ref group="利用客数" name="tobu2008">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道|date=20100209034919}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,443
|-
|2009年(平成21年)
|1,232
|<ref group="利用客数" name="tobu2009">{{Wayback|url=http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|title=駅情報(乗降人員)|鉄道事業|東武鉄道|date=20110108064329}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,439
|-
|2010年(平成22年)
|1,213
|<ref group="利用客数" name="tobu2010">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20130120201855}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,409
|-
|2011年(平成23年)
|1,181
|<ref group="利用客数" name="tobu2011">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20130823044332}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,325
|-
|2012年(平成24年)
|1,276
|<ref group="利用客数" name="tobu2012">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20140425063103}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,519
|-
|2013年(平成25年)
|1,318
|<ref group="利用客数" name="tobu2013">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20150213155812}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,606
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="栃木県統計" name="tokei2014">{{Cite web|和書|url= http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/documents/h27_10unyutsuushin.pdf |page=133 |title=栃木県統計年鑑(平成26年版)10 運輸・通信 |format=PDF |publisher=栃木県 |date= |accessdate=2021-08-10}}</ref>1,283
|<ref group="利用客数" name="tobu2014">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20160327031057}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,532
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="栃木県統計" name="tokei2015">{{Cite web|和書|url= http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/documents/h28-10.pdf |page=133 |title=栃木県統計年鑑(平成27年版)10 運輸・通信 |format=PDF |publisher=栃木県 |date= |accessdate=2021-08-10}}</ref>1,269
|<ref group="利用客数" name="tobu2015">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20170121085633}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,504
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="栃木県統計" name="tokei2016">{{Cite web|和書|url= http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/documents/h29-10.pdf |page=127 |title=栃木県統計年鑑(平成28年版)10 運輸・通信 |format=PDF |publisher=栃木県 |date= |accessdate=2021-08-10}}</ref>1,258
|<ref group="利用客数" name="tobu2016">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20180414024346}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,486
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="栃木県統計" name="tokei2017">{{Cite web|和書|url= http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/documents/h30-10.pdf |page=125 |title=栃木県統計年鑑(平成29年版)10 運輸・通信 |format=PDF |publisher=栃木県 |date= |accessdate=2021-08-10}}</ref>1,268
|<ref group="利用客数" name="tobu2017">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20180819105052}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,506
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="栃木県統計" name="tokei2018">{{Cite web|和書|url= http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/documents/r1-10.pdf |page=125 |title=栃木県統計年鑑(令和元年版)10 運輸・通信 |format=PDF |publisher=栃木県 |date= |accessdate=2021-08-10}}</ref>1,320
|<ref group="利用客数" name="tobu2018">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20200303020739}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,614
|-
|2019年(令和元年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2019">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20210126130651}}、2021年8月10日閲覧</ref>2,621
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2020">{{Wayback|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=東武鉄道 駅情報(乗降人員)|date=20211103120923}}、2022年9月10日閲覧</ref>1,846
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|<ref group="利用客数" name="tobu2021" />2,039
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|2,193
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Mibu Omochanomachi Station Floral Clock 1.JPG|thumb|駅西口ロータリーにある花時計]]
{{main|おもちゃのまち}}
* おもちゃのまち(おもちゃ団地)
* [[おもちゃのまちバンダイミュージアム]]
* 壬生町総合公園
** [[壬生町おもちゃ博物館]]
** [[とちぎわんぱく公園]]<!--国谷の方が至近-->
* [[獨協医科大学]]
** [[獨協医科大学病院]]
* [[東横INN]]ホスピタルイン獨協医科大学
* おもちゃのまち[[郵便局]]
* 獨協医科大学前[[簡易郵便局]]
* [[フレスポ]]おもちゃのまち
* [[北関東自動車道]] [[壬生インターチェンジ]]
* [[栃木県道302号おもちゃのまち停車場線]] - [[栃木県道2号宇都宮栃木線]]
* [[イオン (店舗ブランド)|イオン]]みぶ店
=== 玩具製造メーカー ===
* [[トミーテック]]([[鉄道模型]]/生活用品[[OEM|OEM製造]]、[[タカラトミー]]子会社)
* [[ロジパルエクスプレス]]
* [[エポック社]]
== バス路線 ==
西口から[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]の路線が発着する<ref group="バス" name="lbus1">{{Cite web|和書|url= https://kantobus.info/timetable/result/?no=1522&de=1&f_from_type=1&f_from_genre=&f_from=%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1 |page= |title=おもちゃのまち駅 行先選択 時刻表検索-関東自動車株式会社|format= |publisher=関東自動車 |date= |accessdate=2021-08-10}}</ref><ref group="バス" name="lbus2">{{Cite web|和書|title=令和3年6月一部改正 ゆうがおバスマップ.|url=https://www.town.mibu.tochigi.jp/docs/2019092000049/files/busroute20210313.pdf|work=壬生町|type=pdf |accessdate=2021-08-10}}</ref>。
2019年10月1日から、当駅を基点に下野市・[[上三川町]]・[[壬生町]]広域連携バス「[[ゆうがおバス]]」の実証運行が開始された<ref group="バス" name="lbus3">{{Cite web|和書|title=1市2町広域連携「ゆうがおバス」の実証運行を開始します|url=https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0924/info-0000005809-5.html|work=下野市|date=2019-09-27|accessdate=2019-10-06}}</ref>。運行受託は関東自動車<ref group="バス" name="lbus4">{{Citenews|title=愛称は「ゆうがおバス」 下野・上三川・壬生、10月から運行の広域連携バス|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/207718|newspaper=下野新聞 SOON|date=2019-08-16|accessdate=2019-10-06}}</ref><ref group="バス" name="lbus5">{{PDFlink|[https://www.kantobus.co.jp/common/sysfile/topics/ID00000524binary1.pdf 1市2町 広域連携バス]}} - 関東自動車、2019年10月6日閲覧</ref>。
その他、壬生町のデマンドタクシー「みぶまる」 も運行されている。町内の任意の地点同士を運行する。1時間間隔の運行。土休運休。利用は事前登録要。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!乗り場!!運行事業者!!主要経由地!!行先!!備考
|-
|rowspan="3"|おもちゃのまち駅||関東自動車||||[[獨協医科大学病院|獨協医大病院]]||
|-
|rowspan="2"|下野市・上三川町・壬生町<br />[[ゆうがおバス]]||||獨協医大病院||rowspan="2"|関東自動車に委託
|-
||[[グリムの森]]入口||[[石橋駅 (栃木県)|石橋駅]]
|}
== 隣の駅 ==
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 宇都宮線
:: [[国谷駅]](TN 34) - '''おもちゃのまち駅(TN 35)''' - [[安塚駅]](TN 36)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;栃木県統計年鑑
{{Reflist|group="栃木県統計"|30em}}
;東武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"|30em}}
;バス関係
{{Reflist|group="バス"}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Omocha-no-Machi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=4106}}
{{東武宇都宮線}}
{{デフォルトソート:おもちやのまち}}
[[Category:栃木県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 お|もちやのまち]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1965年開業の鉄道駅]]
[[Category:壬生町の建築物|おもちやのまちえき]]
|
2003-08-27T12:52:00Z
|
2023-12-23T19:58:19Z
| false | false | false |
[
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:外部リンク/東武鉄道駅",
"Template:東武宇都宮線",
"Template:駅情報",
"Template:0",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1%E9%A7%85
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14,196 |
三国志
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三国志(さんごくし、三國志)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の約100年に亘る興亡史であり、蜀・魏・呉の三国が争覇した三国時代の歴史を述べた歴史書でもある。著者は西晋の陳寿(233年 - 297年)(詳しくは『三国志 (歴史書)』を参照)。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。
単に『三国志』と言う場合、本来は陳寿が記した史書のことを指す。対して『三国志演義』とは、明代のにまとめられた歴史小説である。歴史書『三国志』は 魏を正統としているのに対し、『演義』では蜀漢を正統としており、それぞれの正統観に最も大きな違いが見られる。
『演義』の序文には「歴史における「義」の重要性にも拘らず、それが通俗性に欠けるために、分かりにくい」という問題の指摘から始まり、その上で『三国志平話』などの「評話」は誤りが多く君子が嫌ったため、陳寿の『三国志』を中心に事実を描くが、難しくないものを目指し、読者への普及を願ったと記述している。すなわち、『三国志』そのものは難しいので、通俗性を高めて「義」を「演」繹する、すなわち押し広めることを目的としたのである。
清代中期の史家、章学誠は『演義』を「七割の実事に三分の虚構」と評し、多くの史実に基づいてる事を表現した。『演義』と合わせて「四大奇書」に括られる『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』がほとんど白話(口語)で書かれているのに対して、『演義』は文語で書かれている部分も多い。これは『三国志』や『資治通鑑』などの史書からの引用が多いためである。それでも『演義』が小説である以上、虚構により創作した物語の面白さや表現の巧みさは『演義』の文学性の中心におかれ、三割といわれる虚構は、多くは蜀漢のため、なかでも「智絶」諸葛亮の知恵と「義絶」関羽の義を表現するために用いられる。
『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范頵の上表)「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」)などの高い評価を受けた。しかし南朝宋の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した諸種の文献を引用し注釈を作成した。『三国志』とこの裴注、また『後漢書』、『晋書』、『華陽国志』、『世説新語』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成している。
『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に唐宋の文人の詩想を大いに刺激した。『三国志』をモチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧「赤壁」、蘇軾「赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に名高い。また、西晋の左思(252~307)の『三都賦』が魏・呉・蜀それぞれの都の繁栄のさまを活写したと評価が高く人々が争って書き写そうとしたため(当時、印刷はまだなく手で書き写すしかなかった)紙が高騰し「洛陽の紙価を高からしむ」の故事が生まれた。
三国はそれぞれ正統性を主張したが、魏が蜀を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で司馬炎が建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされたが、南北朝時代に入り、晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。宋代には「三国のうちどの国が正統であるか」という、いわゆる「正閏論」が盛んになり、司馬光(『資治通鑑』)・欧陽脩(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた朱子の蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観は朱子学の流布と共に知識人階層に広まり、劉備を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えた。
清代に考証学が盛んになると、王鳴盛『十七史商榷』・趙翼『二十二史箚記』・銭大昕『二十二史考異』・楊晨『三国会要』など多くの研究が著された。これら考証学の成果は民国に入って盧弼『三国志集解』によって集大成された。また、三国志時代の社会経済等については、同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)がある。
『三国志演義』は通俗歴史小説の先駆となり、これ以後に成立する『東周列国志』『隋唐演義』『楊家将演義』などに大きな影響を与えている。『三国志演義』自体の続編としては晋代を舞台にした酉陽野史『続編三国志』がある。また民国に入って、周大荒が蜀漢が天下を統一するように改作した『反三国志』(卿雲書局 1930年)というパロディ小説がある。
『三国志演義』は、手軽に手に入り読むことができ、また戦略の成功・失敗例が明解に描かれているため、いわば「素人向け兵法書」としても重宝された。張献忠・李自成・洪秀全らが農民反乱を起こした際、軍事の素人である彼らは『三国志演義』を「唯一の秘書」としたと言われる(黄人『小説小話』)。毛沢東も『三国志演義』や『水滸伝』を子供時代から愛読しており、そこから兵法を学んだとされる。また初期清朝は、満洲旗人達の教育に有用な漢籍を「官書」として満洲語訳したが、『三国志演義』も順治7年にダハイによって訳されて読まれていた。ヨーロッパに渡った三国志も満洲語訳をフランス語に翻訳したものであった。近年の奇書として成君億『水煮三国』(中信 2003年)がある。これは三国志の人物を現代世界に登場させ、ビジネス戦争を勝ち抜いていくというパロディ小説であり、未曾有の経済発展を続ける現代中国において『三国志演義』はビジネスという群雄割拠の戦乱を勝ち抜く兵法書とみなされた。
三国志の物語の母体となったのは説話や雑劇、すなわち講唱文芸や演劇などの民間芸能であるが、これらは『三国志演義』という完成品を生み出した後も引き続き発展し続ける。演劇では京劇・川劇・越劇など、講唱文芸では子弟書・鼓詞・弾詞などで今も三国志は主要ジャンルの一つであり、また三国志の登場人物に関する民間伝説も多く生まれ、近年民俗資料として収集が進んでいる。これらの中には『三国志演義』とは違ったエピソードが語られているものも多くある。
現代の大衆文化としては、児童向けの『連環図画三国志』(上海世界書局 1927年)があり、実写ドラマとして『三国志 諸葛孔明』(湖北電視台 1985年)『三国志』(中国中央電視台 1990年)などがある。また近年は日本のゲーム・漫画市場における三国志ブームが逆輸入されて、日本の作品を模倣して三国志の漫画・ゲームなどが制作されている。
その他、中国国内での経済的意欲の高まりと共に三国志をテーマにした観光ビジネスの展開が各地で進み、ゆかりの地は『三国史跡』として巨大な石像や、有名な場面を再現した記念施設が整備され、観光名所となっている。
日本に正史『三国志』が伝来した正確な時期は判明していない。
養老4年(720年)に成立した『日本書紀』神功皇后紀には、自注として『魏志』東夷伝の卑弥呼・台与の記述が引用されている。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていたことが窺われる。天平宝字4年、淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして、吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている。
『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769年)10月10日の条に称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。
藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には、当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢記』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている。
鎌倉時代には、『太平記』や『義経記』などの中に「水魚の交わり」を踏まえた記述が見られるなど、武家政権を背景に本格的に受容される。たとえば『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は、曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、正史や『演義』と異同がある上に、孔明の出廬の場面も潤色されている。
中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は、主に朱子学に基づき『三国志』の人物を論評した。たとえば諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて、鵜飼石斎は肯定しているが、伊藤仁斎は否定した。伊藤東涯は仁斎の論を踏襲しながらも、仁斎のような否定論は少ない。また、林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が「至忠の烈臣」として讃えられた。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)も、この伝統を踏まえたものであるが、他の「忠義」に凝り固まった諸葛亮像とは一線を画すものであった。
明治以降の正史に基づいた史伝で、内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂、1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房、1962年)がある。陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋、1974年。中公文庫ほかで再刊)などの小説の一部には、正史『三国志』の記述が取り入れられている。また高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、「競争を生き抜く知恵」や「企業のリーダー像の見本」として、しばしば『孫子』などと共に引き合いに出され、「正史『三国志』に学べ」としたビジネス書が数多く刊行された。しかし、後述する吉川英治『三国志』などの急速な普及により、『三国志』といえば『演義』の物語を指すのが通常であった。
そうした状況は、井波律子・今鷹真・小南一郎による完訳版『世界古典文学全集24 三国志』(全3巻、筑摩書房 1977年 - 1989年/改訂版 ちくま学芸文庫、全8巻、1993年)の普及により一変した。幅広い世代の三国志愛好家が正史『三国志』を読めるようになったことで、多くの読者が「『演義』による固定化されたイメージ」に疑問を持つようになったのである。これ以降、正史『三国志』を基礎とした解説書が多数出版され、漫画やゲームなどにも正史『三国志』を基にした作品が現れるようになった。
『呉下の阿蒙』『三顧の礼』など、三国志の有名なエピソードが故事成語となっている。
日本に『三国志演義』が伝来した時期も確定していないが、少なくとも中世期において『演義』が披見された可能性は低いとされる。その理由として、江戸時代の詩文などに『演義』の影響を受けたものが散見されるなど、『演義』受容の記録が近世初期から増加していることが挙げられる。たとえば林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了した。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があった。貝原益軒の兵法書『武訓』の中では、曹操を「足利高氏と並ぶ極悪人」とする一方で、諸葛亮を「楠木正成と並ぶ忠臣」としていることから、曹操・諸葛亮の位置づけが『演義』の歴史観に基づいて定められていることが分かる。
『演義』の日本語訳は、元禄2年(1689年) - 5年(1692年)に刊行された湖南文山(『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』を嚆矢とする。外国小説では日本語版初の完訳で、満州語版に次ぎ2番目の外国語訳『演義』でもあった。なお、同書は現在知られている『演義』ではなく、それよりも古い形態とされる李卓吾評本系を底本にしたと考えられている。訳文については評価が分かれるが、同書は長年にわたり再刊を重ねるなど、通俗小説受容が本格化する契機となった。中でも葛飾戴斗(葛飾北斎の弟子)の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』(天保7年(1836年) - 天明12年(1841年)刊)が人気を博した。明治期には幸田露伴『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)久保天随『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高く、その後も諸種の訳が出版された。なお、昭和後期から平成にかけ出版された主な訳本には、小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 (改版全8巻、1988年)、立間祥介『三国志演義』(平凡社、初版1958年/角川ソフィア文庫全4巻、2019年)、井波律子『三国志演義』(ちくま文庫全7巻、2002-2003年/講談社学術文庫全4巻、2014年)、渡辺精一『新訳三国志』(全3巻:天・地・人の巻、講談社、2000年)がある。
演劇においても、江戸前期より三国志が題材として取り上げられた。寛文・延宝年間(1670年 - 1681年)には浄瑠璃『通俗傾城三国志』が上演され、宝永6年(1709年)には歌舞伎で『三国志』が上演されている。『通俗三国志』の刊行以降は一層普及し、文化8年(1811年)初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また元文2年初演の作品に「関羽」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志』がある。また、弘前ねぷたや青森ねぶたに代表される青森県内一円で行われるねぶた祭りでは、『水滸伝』や『漢楚軍談』と共に『三国志演義』の登場人物を題材にした山車が出されるなど、日本国内での祭にも取り入れられている。
洒落本は、夢中楽介の『通人三国師』(天明元年(1781年)刊がある。劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは、文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある。
曲亭馬琴は羅貫中らを崇敬、自身を彼らになぞらえ、読本の表現手法において『演義』に負うところが大きい。その一方で、随筆においては関羽に対する辛辣なコメントを残している。
戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された。また、琉球王国の三山時代も三国志に例えられ「琉球三国志」と呼ばれることもある。
明治以降は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社、1940年)などがある。また、劉備に忠義を尽くす諸葛亮の姿が教科書に登場した。
戦後の三国志ブームの礎となったのは、新聞小説として『台湾日日新報』などに連載された吉川英治『三国志』である。吉川は現行の『演義』のみならず、湖南文山の『通俗三国志』を参照したとされ、戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた。たとえば、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソードに作者のコメントを寄せるなどの改変を行っているほか、それまで単なる悪役扱いだった曹操を「人間味あふれる乱世の風雲児」として鮮やかに描いている。いわば吉川三国志は、『演義』受容の歴史と高水準の研究とを土台としているところに特徴がある。こうして吉川三国志は「格調高い歴史文学」として評価され、日本での事実上の底本(定番本)となっている。単行本の初版は、1948年に大日本雄弁会講談社で刊行され、1956年に六興出版で刊行された。近年は講談社文庫・新潮文庫ほかで新版再刊されている。
吉川作品以後は、柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)、『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)、『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年/中公文庫、2009年)、『諸葛孔明』『曹操』『曹操残夢 魏の曹一族』(各 中央公論社、1991年・1998年・2005年、のち中公文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所、1996年-1998年、のちハルキ文庫)、安能務『三国演義』(講談社 全6巻、1999年、のち講談社文庫)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 全12巻、2004年-2013年、のち文春文庫)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。ただしこれらの作品のうち、陳・北方・宮城谷らの小説は『演義』ではなく正史『三国志』を基にしている。
昭和後期以降でのメディア展開作品は、吉川三国志を基調に、大河漫画化した横山光輝『三国志』、NHKで放送された『人形劇 三国志』などが高い評価を受けた。また、コーエー(当時光栄)のシミュレーションゲームソフト『三國志シリーズ』がヒット作品となっている。
高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、「競争を生き抜く知恵」や「企業のリーダー像の見本」として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、「『演義』に学べ」としたビジネス書が多数刊行された。
以降も、ゲーム・漫画(アニメ化も)において、コーエーのタクティカルアクションゲームソフト『真・三國無双シリーズ』、原作・原案李學仁、漫画王欣太による漫画『蒼天航路』などの作品が生まれ、爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも正史『三国志』あるいは『演義』に忠実な作品ではなく、大きく改変が加えられているものも多い。また、架空の設定で作られているものや、あるいは基になっている人物設定を大きく換えているものなど、多種多様な作品が存在している。
Category:三国志を題材とした作品を参照。
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"text": "三国志(さんごくし、三國志)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の約100年に亘る興亡史であり、蜀・魏・呉の三国が争覇した三国時代の歴史を述べた歴史書でもある。著者は西晋の陳寿(233年 - 297年)(詳しくは『三国志 (歴史書)』を参照)。",
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"text": "後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。",
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"text": "「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。",
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"text": "単に『三国志』と言う場合、本来は陳寿が記した史書のことを指す。対して『三国志演義』とは、明代のにまとめられた歴史小説である。歴史書『三国志』は 魏を正統としているのに対し、『演義』では蜀漢を正統としており、それぞれの正統観に最も大きな違いが見られる。",
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"text": "『演義』の序文には「歴史における「義」の重要性にも拘らず、それが通俗性に欠けるために、分かりにくい」という問題の指摘から始まり、その上で『三国志平話』などの「評話」は誤りが多く君子が嫌ったため、陳寿の『三国志』を中心に事実を描くが、難しくないものを目指し、読者への普及を願ったと記述している。すなわち、『三国志』そのものは難しいので、通俗性を高めて「義」を「演」繹する、すなわち押し広めることを目的としたのである。",
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"text": "清代中期の史家、章学誠は『演義』を「七割の実事に三分の虚構」と評し、多くの史実に基づいてる事を表現した。『演義』と合わせて「四大奇書」に括られる『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』がほとんど白話(口語)で書かれているのに対して、『演義』は文語で書かれている部分も多い。これは『三国志』や『資治通鑑』などの史書からの引用が多いためである。それでも『演義』が小説である以上、虚構により創作した物語の面白さや表現の巧みさは『演義』の文学性の中心におかれ、三割といわれる虚構は、多くは蜀漢のため、なかでも「智絶」諸葛亮の知恵と「義絶」関羽の義を表現するために用いられる。",
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"text": "『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范頵の上表)「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」)などの高い評価を受けた。しかし南朝宋の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した諸種の文献を引用し注釈を作成した。『三国志』とこの裴注、また『後漢書』、『晋書』、『華陽国志』、『世説新語』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成している。",
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"text": "『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に唐宋の文人の詩想を大いに刺激した。『三国志』をモチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧「赤壁」、蘇軾「赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に名高い。また、西晋の左思(252~307)の『三都賦』が魏・呉・蜀それぞれの都の繁栄のさまを活写したと評価が高く人々が争って書き写そうとしたため(当時、印刷はまだなく手で書き写すしかなかった)紙が高騰し「洛陽の紙価を高からしむ」の故事が生まれた。",
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"text": "三国はそれぞれ正統性を主張したが、魏が蜀を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で司馬炎が建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされたが、南北朝時代に入り、晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。宋代には「三国のうちどの国が正統であるか」という、いわゆる「正閏論」が盛んになり、司馬光(『資治通鑑』)・欧陽脩(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた朱子の蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観は朱子学の流布と共に知識人階層に広まり、劉備を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えた。",
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"text": "清代に考証学が盛んになると、王鳴盛『十七史商榷』・趙翼『二十二史箚記』・銭大昕『二十二史考異』・楊晨『三国会要』など多くの研究が著された。これら考証学の成果は民国に入って盧弼『三国志集解』によって集大成された。また、三国志時代の社会経済等については、同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)がある。",
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"text": "『三国志演義』は通俗歴史小説の先駆となり、これ以後に成立する『東周列国志』『隋唐演義』『楊家将演義』などに大きな影響を与えている。『三国志演義』自体の続編としては晋代を舞台にした酉陽野史『続編三国志』がある。また民国に入って、周大荒が蜀漢が天下を統一するように改作した『反三国志』(卿雲書局 1930年)というパロディ小説がある。",
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"text": "『三国志演義』は、手軽に手に入り読むことができ、また戦略の成功・失敗例が明解に描かれているため、いわば「素人向け兵法書」としても重宝された。張献忠・李自成・洪秀全らが農民反乱を起こした際、軍事の素人である彼らは『三国志演義』を「唯一の秘書」としたと言われる(黄人『小説小話』)。毛沢東も『三国志演義』や『水滸伝』を子供時代から愛読しており、そこから兵法を学んだとされる。また初期清朝は、満洲旗人達の教育に有用な漢籍を「官書」として満洲語訳したが、『三国志演義』も順治7年にダハイによって訳されて読まれていた。ヨーロッパに渡った三国志も満洲語訳をフランス語に翻訳したものであった。近年の奇書として成君億『水煮三国』(中信 2003年)がある。これは三国志の人物を現代世界に登場させ、ビジネス戦争を勝ち抜いていくというパロディ小説であり、未曾有の経済発展を続ける現代中国において『三国志演義』はビジネスという群雄割拠の戦乱を勝ち抜く兵法書とみなされた。",
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"text": "三国志の物語の母体となったのは説話や雑劇、すなわち講唱文芸や演劇などの民間芸能であるが、これらは『三国志演義』という完成品を生み出した後も引き続き発展し続ける。演劇では京劇・川劇・越劇など、講唱文芸では子弟書・鼓詞・弾詞などで今も三国志は主要ジャンルの一つであり、また三国志の登場人物に関する民間伝説も多く生まれ、近年民俗資料として収集が進んでいる。これらの中には『三国志演義』とは違ったエピソードが語られているものも多くある。",
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"text": "現代の大衆文化としては、児童向けの『連環図画三国志』(上海世界書局 1927年)があり、実写ドラマとして『三国志 諸葛孔明』(湖北電視台 1985年)『三国志』(中国中央電視台 1990年)などがある。また近年は日本のゲーム・漫画市場における三国志ブームが逆輸入されて、日本の作品を模倣して三国志の漫画・ゲームなどが制作されている。",
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"text": "その他、中国国内での経済的意欲の高まりと共に三国志をテーマにした観光ビジネスの展開が各地で進み、ゆかりの地は『三国史跡』として巨大な石像や、有名な場面を再現した記念施設が整備され、観光名所となっている。",
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"text": "日本に正史『三国志』が伝来した正確な時期は判明していない。",
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"text": "養老4年(720年)に成立した『日本書紀』神功皇后紀には、自注として『魏志』東夷伝の卑弥呼・台与の記述が引用されている。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていたことが窺われる。天平宝字4年、淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして、吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている。",
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"text": "『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769年)10月10日の条に称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。",
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"text": "藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には、当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢記』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている。",
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"text": "鎌倉時代には、『太平記』や『義経記』などの中に「水魚の交わり」を踏まえた記述が見られるなど、武家政権を背景に本格的に受容される。たとえば『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は、曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、正史や『演義』と異同がある上に、孔明の出廬の場面も潤色されている。",
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"text": "曲亭馬琴は羅貫中らを崇敬、自身を彼らになぞらえ、読本の表現手法において『演義』に負うところが大きい。その一方で、随筆においては関羽に対する辛辣なコメントを残している。",
"title": "受容と流行"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された。また、琉球王国の三山時代も三国志に例えられ「琉球三国志」と呼ばれることもある。",
"title": "受容と流行"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "明治以降は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社、1940年)などがある。また、劉備に忠義を尽くす諸葛亮の姿が教科書に登場した。",
"title": "受容と流行"
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"text": "戦後の三国志ブームの礎となったのは、新聞小説として『台湾日日新報』などに連載された吉川英治『三国志』である。吉川は現行の『演義』のみならず、湖南文山の『通俗三国志』を参照したとされ、戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた。たとえば、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソードに作者のコメントを寄せるなどの改変を行っているほか、それまで単なる悪役扱いだった曹操を「人間味あふれる乱世の風雲児」として鮮やかに描いている。いわば吉川三国志は、『演義』受容の歴史と高水準の研究とを土台としているところに特徴がある。こうして吉川三国志は「格調高い歴史文学」として評価され、日本での事実上の底本(定番本)となっている。単行本の初版は、1948年に大日本雄弁会講談社で刊行され、1956年に六興出版で刊行された。近年は講談社文庫・新潮文庫ほかで新版再刊されている。",
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"text": "吉川作品以後は、柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)、『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)、『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年/中公文庫、2009年)、『諸葛孔明』『曹操』『曹操残夢 魏の曹一族』(各 中央公論社、1991年・1998年・2005年、のち中公文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所、1996年-1998年、のちハルキ文庫)、安能務『三国演義』(講談社 全6巻、1999年、のち講談社文庫)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 全12巻、2004年-2013年、のち文春文庫)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。ただしこれらの作品のうち、陳・北方・宮城谷らの小説は『演義』ではなく正史『三国志』を基にしている。",
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"text": "昭和後期以降でのメディア展開作品は、吉川三国志を基調に、大河漫画化した横山光輝『三国志』、NHKで放送された『人形劇 三国志』などが高い評価を受けた。また、コーエー(当時光栄)のシミュレーションゲームソフト『三國志シリーズ』がヒット作品となっている。",
"title": "受容と流行"
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"text": "高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、「競争を生き抜く知恵」や「企業のリーダー像の見本」として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、「『演義』に学べ」としたビジネス書が多数刊行された。",
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"text": "以降も、ゲーム・漫画(アニメ化も)において、コーエーのタクティカルアクションゲームソフト『真・三國無双シリーズ』、原作・原案李學仁、漫画王欣太による漫画『蒼天航路』などの作品が生まれ、爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも正史『三国志』あるいは『演義』に忠実な作品ではなく、大きく改変が加えられているものも多い。また、架空の設定で作られているものや、あるいは基になっている人物設定を大きく換えているものなど、多種多様な作品が存在している。",
"title": "受容と流行"
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"text": "Category:三国志を題材とした作品を参照。",
"title": "派生した作品"
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] |
三国志(さんごくし、三國志)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代の約100年に亘る興亡史であり、蜀・魏・呉の三国が争覇した三国時代の歴史を述べた歴史書でもある。著者は西晋の陳寿。
|
{{Redirect|三國志|個別の派生作品など|三国志 (曖昧さ回避)}}
{{独自研究|date=2022年8月26日 (金) 01:12 (UTC)}}
{{Chinese
|title=三国志
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'''三国志'''(さんごくし、三國志)は、[[中国]]の[[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけて群雄割拠していた時代([[180年]]頃 - [[280年]]頃)の約100年に亘る興亡史であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110409-758709.html|title=衛星劇場で18日から「三国志」完全版放送|publisher=日刊スポーツ|date=2011-04-09|accessdate=2023-06-26}}</ref>、[[蜀]]・[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]の三国が争覇した[[三国時代 (中国)|三国時代]]の歴史を述べた[[歴史書]]でもある。著者は[[西晋]]の[[陳寿]]([[233年]] - [[297年]])(詳しくは『'''[[三国志 (歴史書)]]'''』を参照)。
== 概要 ==
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした[[説話 (中国)|説話]]が好まれ、その説話を基として[[明]]の初期に[[羅貫中]]らの手により、『'''[[三国志演義]]'''』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。
===「三国志」と「三国志演義」の違い ===
{{main|三国志演義の成立史}}
単に『三国志』と言う場合、本来は[[陳寿]]が記した史書のことを指す。対して『三国志演義』とは、[[明]]代のにまとめられた[[歴史小説]]である。歴史書『三国志』は[[魏 (三国)| 魏]]を正統としているのに対し、『演義』では[[蜀漢]]を正統としており、それぞれの正統観に最も大きな違いが見られる{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=10}}。
『演義』の序文には「歴史における「義」の重要性にも拘らず、それが通俗性に欠けるために、分かりにくい」という問題の指摘から始まり、その上で『三国志平話』などの「評話」は誤りが多く君子が嫌ったため、陳寿の『三国志』を中心に事実を描くが、難しくないものを目指し、[[読者]]への普及を願ったと記述している。すなわち、『三国志』そのものは難しいので、通俗性を高めて「義」を「演」繹する、すなわち押し広めることを目的としたのである{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=13}}。
清代中期の史家、章学誠は『演義』を「七割の実事に三分の虚構」と評し、多くの史実に基づいてる事を表現した。『演義』と合わせて「[[四大奇書]]」に括られる『[[西遊記]]』『[[水滸伝]]』『[[金瓶梅]]』がほとんど白話([[口語]])で書かれているのに対して、『演義』は[[文語]]で書かれている部分も多い。これは『三国志』や『[[資治通鑑]]』などの史書からの引用が多いためである。それでも『演義』が小説である以上、虚構により創作した物語の面白さや表現の巧みさは『演義』の文学性の中心におかれ、三割といわれる虚構は、多くは[[蜀漢]]のため、なかでも「智絶」[[諸葛亮]]の知恵と「義絶」[[関羽]]の義を表現するために用いられる{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=14}}。
== 受容と流行 ==
=== 中国における「三国志」観 ===
{{出典の明記|date=2023年5月|section=1}}
==== 歴史書『三国志』の受容 ====
『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范頵の上表)「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」([[裴松之]]「上三国志注表」)などの高い評価を受けた。しかし[[宋 (南朝)|南朝宋]]の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した諸種の文献を引用し注釈を作成した。『三国志』とこの裴注、また『[[後漢書]]』、『[[晋書]]』、『[[華陽国志]]』、『[[世説新語]]』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成している。
『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に[[唐]][[宋 (王朝)|宋]]の[[文人]]の詩想を大いに刺激した。『三国志』を[[モチーフ (物語)|モチーフ]]にした詩詞としては[[杜甫]]「蜀相」、[[杜牧]]「赤壁」、[[蘇軾]]「赤壁賦」、[[陸游]]「書憤」などが特に名高い。また、[[西晋]]の[[左思]](252~307)の『三都賦』が魏・呉・蜀それぞれの都の繁栄のさまを活写したと評価が高く人々が争って書き写そうとしたため(当時、[[印刷]]はまだなく手で書き写すしかなかった)紙が高騰し「洛陽の紙価を高からしむ」の[[故事]]が生まれた<ref>『三都賦』は『[[新釈漢文大系]]』79、80巻に収録。詳しくと研究書は次を参照。 [https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000229493 左思の漢詩「三都賦」と解説・研究書を見たい。 | レファレンス協同データベース] 2019年12月20日閲覧。</ref>。
三国はそれぞれ正統性を主張したが、[[魏 (三国)|魏]]が[[蜀]]を滅ぼした後、魏から[[禅譲]]を受けるという形で[[司馬炎]]が建てた晋([[西晋]])によって、魏が正統であるとされたが、[[南北朝時代_(中国)|南北朝時代]]に入り、晋が全国政権ではなくなると([[東晋]])、[[習鑿歯]]が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。宋代には「三国のうちどの国が正統であるか」という、いわゆる「[[正閏論]]」が盛んになり、[[司馬光]](『資治通鑑』)・[[欧陽脩]](『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた[[朱子]]の蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観は[[朱子学]]の流布と共に知識人階層に広まり、[[劉備]]を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えた。
清代に[[考証学]]が盛んになると、[[王鳴盛]]『[[十七史商榷]]』・[[趙翼]]『[[二十二史箚記]]』・[[銭大昕]]『[[二十二史考異]]』・楊晨『三国会要』など多くの研究が著された。これら考証学の成果は民国に入って盧弼『'''三国志集解'''』によって集大成された。また、三国志時代の社会経済等については、同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)がある。
==== 『三国志演義』・大衆文化の受容 ====
『三国志演義』は通俗歴史小説の先駆となり、これ以後に成立する『[[東周列国志]]』『[[隋唐演義]]』『[[楊家将演義]]』などに大きな影響を与えている。『三国志演義』自体の続編としては晋代を舞台にした酉陽野史『続編三国志』がある。また民国に入って、[[周大荒]]が蜀漢が天下を統一するように改作した『[[反三国志]]』(卿雲書局 1930年)という[[パロディ]]小説がある。
『三国志演義』は、手軽に手に入り読むことができ、また戦略の成功・失敗例が明解に描かれているため、いわば「素人向け[[兵法書]]」としても重宝された。[[張献忠]]・[[李自成]]・[[洪秀全]]らが農民反乱を起こした際、軍事の素人である彼らは『三国志演義』を「唯一の秘書」としたと言われる(黄人『小説小話』)。[[毛沢東]]も『三国志演義』や『[[水滸伝]]』を子供時代から愛読しており、そこから兵法を学んだとされる。また初期[[清]]朝は、[[八旗|満洲旗人]]達の教育に有用な漢籍を「官書」として[[満洲語]]訳したが、『三国志演義』も順治7年にダハイによって訳されて読まれていた。ヨーロッパに渡った三国志も満洲語訳を[[フランス語]]に翻訳したものであった。近年の奇書として成君億『水煮三国』(中信 2003年)がある。これは三国志の人物を現代世界に登場させ、ビジネス戦争を勝ち抜いていくというパロディ小説であり、未曾有の経済発展を続ける現代中国において『三国志演義』は[[ビジネス]]という群雄割拠の戦乱を勝ち抜く兵法書とみなされた。
三国志の物語の母体となったのは[[説話]]や[[雑劇]]、すなわち講唱文芸や演劇などの民間芸能であるが、これらは『三国志演義』という完成品を生み出した後も引き続き発展し続ける。演劇では[[京劇]]・[[川劇]]・[[越劇]]など、講唱文芸では子弟書・鼓詞・弾詞などで今も三国志は主要ジャンルの一つであり、また三国志の登場人物に関する民間[[伝説]]も多く生まれ、近年民俗資料として収集が進んでいる。これらの中には『三国志演義』とは違ったエピソードが語られているものも多くある{{Efn2|例えば京劇の「三国戯」において[[貂蝉]]は「任紅昌」という本名を持っているが、これは雑劇に由来する設定で『三国志演義』に取り入れられなかったものである{{要出典|date=2023年4月}}。}}。
現代の大衆文化としては、児童向けの『連環図画三国志』{{Efn2|日本語訳として陳舜臣監訳『画本三国志』(中央公論社 1982年)}}(上海世界書局 1927年)があり、実写ドラマとして『[[三国志 諸葛孔明]]』([[湖北電視台]] 1985年)『[[三国志演義 (テレビドラマ)|三国志]]』([[中国中央電視台]] 1990年)などがある。また近年は日本のゲーム・漫画市場における三国志ブームが逆輸入されて、日本の作品を模倣して三国志の漫画・ゲームなどが制作されている。
その他、中国国内での経済的意欲の高まりと共に三国志をテーマにした観光ビジネスの展開が各地で進み、ゆかりの地は『三国史跡』として巨大な[[石像]]や、有名な場面を再現した記念施設が整備され、観光名所となっている<ref>{{Cite web |title=富楽山公園 |url=https://www.chongqing.cn.emb-japan.go.jp/itpr_ja/kankoujouhou_shisen_fuleshangongyuan.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-05-01 |language=ja}}</ref>。
=== 日本における「三国志」観 ===
==== 正史『三国志』の受容 ====
日本に正史『三国志』が伝来した正確な時期は判明していない。
[[養老]]4年([[720年]])に成立した『[[日本書紀]]』[[神功皇后]]紀には、自注として『魏志』東夷伝の[[卑弥呼]]・[[台与]]の記述が引用されている。[[天平宝字]]4年([[760年]])に成立した『[[藤氏家伝]]』大織冠伝には、[[蘇我入鹿]]の政を「[[董卓]]の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていたことが窺われる。天平宝字4年、[[淳仁天皇]]は舎人6人を[[大宰府]]に遣わして、吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている<ref>『[[続日本紀]]』巻23</ref>。
『続日本紀』巻30の[[神護景雲]]3年([[769年]])10月10日の条に[[孝謙天皇|称徳天皇]]が「府庫は但だ[[五経]]を蓄えるのみ、未だ[[三史]](『[[史記]]』・『[[漢書]]』・『[[後漢書]]』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。
[[藤原佐世]]が撰述した平安初期の漢籍目録『[[日本国見在書目録]]』には{{Efn2|『日本国見在書目録』の撰述時期は確定されていないが、[[大庭脩]]は[[寛平]]年間([[889年]] - [[897年]])としている{{Sfnp|大庭脩|1996|p=299}}。}}、当時の日本に存在した後漢時代の史料として『[[東観漢記]]』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『[[帝王世紀]]』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲([[信西]])の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、[[藤原頼長]]は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている<ref>『[[台記]]』巻3・[[康治]]2年([[1143年]])9月29日条</ref>。
[[鎌倉時代]]には、『[[太平記]]』や『[[義経記]]』などの中に「[[水魚の交わり]]」を踏まえた記述が見られるなど、[[武家政権]]を背景に本格的に受容される{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=162}}。たとえば『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た[[新田義貞]]が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」[[諸葛亮|諸葛孔明]]の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある{{Sfnp|田中尚子|2007|pp=18-41|ps=(初出は{{Harvnb|田中尚子|1999}})}}。この物語は、[[曹操]]・劉備存命中に[[五丈原の戦い|五丈原の役]]が起こるなど、正史や『演義』と異同がある上に、孔明の出廬の場面も潤色されている{{Sfnp|田中尚子|2007|pp=42-57|ps=(本書の書き下ろし)}}。
中世以降、[[五山]]の学僧や江戸の漢学者は、主に[[朱子学]]に基づき『三国志』の人物を論評した。たとえば諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて、[[鵜飼石斎]]は肯定しているが<ref>鵜飼石斎『古文真宝後集諺解大成』巻17・「後出師表」([[寛文]]3年([[1663年]]))</ref>、[[伊藤仁斎]]は否定した<ref>伊藤仁斎『古学先生文集』巻2・「論諸葛孔明非王佐之才」([[享保]]2年([[1717年]]))</ref>。[[伊藤東涯]]は仁斎の論を踏襲しながらも、仁斎のような否定論は少ない{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=413-450|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2000}})}}。また、[[林鵞峰]]以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ{{Sfnp|田中尚子|2007|pp=155-172|ps=(初出は{{Harvnb|田中尚子|2003b}})}}、特に関羽と諸葛亮が「至忠の烈臣」として讃えられた{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=323-350|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|1999a}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=389-411|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2004}})}}。明治期の[[土井晩翠]]の新体詩「星落秋風五丈原」([[明治]]32年([[1899年]])『天地有情』所収)も、この伝統を踏まえたものであるが、他の「忠義」に凝り固まった諸葛亮像とは一線を画すものであった{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=162}}。
明治以降の正史に基づいた史伝で、[[内藤湖南]]『諸葛武侯』(東華堂、1897年)、[[吉川幸次郎]]『三国志実録』(筑摩書房、1962年)がある。[[陳舜臣]]『[[秘本三国志]]』(文藝春秋、1974年。中公文庫ほかで再刊)などの小説の一部には、正史『三国志』の記述が取り入れられている。また[[高度経済成長|高度成長期]]のビジネス競争の過熱の中で、「競争を生き抜く知恵」や「企業のリーダー像の見本」として、しばしば『[[孫子 (書物)|孫子]]』などと共に引き合いに出され、「正史『三国志』に学べ」としたビジネス書が数多く刊行された{{要出典|date=2023年4月}}。しかし、後述する[[吉川英治]]『[[三国志 (吉川英治)|三国志]]』などの急速な普及により、『三国志』といえば『演義』の物語を指すのが通常であった。
そうした状況は、[[井波律子]]・[[今鷹真]]・[[小南一郎]]による完訳版『[[世界古典文学全集]]24 三国志』(全3巻、筑摩書房 1977年 - 1989年/改訂版 [[ちくま学芸文庫]]、全8巻、1993年)の普及により一変した。幅広い世代の三国志愛好家が正史『三国志』を読めるようになったことで、多くの読者が「『演義』による固定化されたイメージ」に疑問を持つようになったのである。これ以降、正史『三国志』を基礎とした解説書が多数出版され、漫画やゲームなどにも正史『三国志』を基にした作品が現れるようになった{{Efn2|『[[三國志シリーズ]]』では、正史『三国志』にのみ言及のある人物が登場したり、正史『三国志』に基づいた能力値設定が行われたりしている。また『[[蒼天航路]]』のように、「演義の固定観念を排する」ことを喧伝している漫画もある。}}。
『[[呉下の阿蒙]]』『[[三顧の礼]]』など、三国志の有名なエピソードが[[故事成語]]となっている{{要出典|date=2023年4月}}。
==== 白話小説『三国志演義』・大衆文化の受容 ====
日本に『三国志演義』が伝来した時期も確定していないが、少なくとも中世期において『演義』が披見された可能性は低いとされる{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=69-110|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2002}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=111-148|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2003}})}}。その理由として、[[江戸時代]]の詩文などに『演義』の影響を受けたものが散見されるなど{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=413-450|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2000}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=323-350|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|1999a}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=389-411|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2004}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=351-388|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|1999b}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=473-496|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2001}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=451-472|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2005}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=497-520|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2014}})}}、『演義』受容の記録が近世初期から増加していることが挙げられる<ref>『中村幸彦著述集 第7集』(中央公論社、1984年)- 1章「唐話の流行と白話文学書の輸入」p26以降。</ref>。たとえば[[林羅山]]は[[慶長]]9年([[1604年]])までに『通俗演義三国志』を読了した<ref>『羅山林先生集』附録巻1・慶長9年の条。</ref>。また、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に徳川家康の遺志により[[駿府]]の文庫から[[水戸藩]]・[[尾張藩]]へ移された書籍の内に『演義』があった{{Efn2|水戸藩蔵書については{{Harvp|川瀬一馬|1934}}、尾張藩蔵書については{{Harvp|福井保|1934}}を参照。}}。[[貝原益軒]]の兵法書『武訓』の中では、曹操を「[[足利尊氏|足利高氏]]と並ぶ極悪人」とする一方で、諸葛亮を「[[楠木正成]]と並ぶ忠臣」としていることから{{Efn2|益軒は『自娯集』においても、「楠公墓記」(巻之三)や「諸葛武候像賛」(巻之七)で諸葛亮を高く評価している{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=497-520|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|2014}})}}}}、曹操・諸葛亮の位置づけが『演義』の歴史観に基づいて定められていることが分かる{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=162}}。
『演義』の日本語訳は、[[元禄]]2年([[1689年]]) - 5年([[1692年]])に刊行された[[湖南文山]](『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』を嚆矢とする{{Sfnp|田中尚子|2007|pp=173-194|ps=(本書の書き下ろし)}}{{Sfnp|田中尚子|2007|pp=195-213|ps=(初出は{{Harvnb|田中尚子|2003a}})}}{{Sfnp|渡邉義浩|2015|pp=153-154}}。外国小説では日本語版初の完訳で、満州語版に次ぎ2番目の外国語訳『演義』でもあった{{Sfnp|金文京|2005|p=13}}。なお、同書は現在知られている『演義』ではなく、それよりも古い形態とされる李卓吾評本系を底本にしたと考えられている<ref>{{Harvp|小川環樹|1968|pp=169-171}}。なお[[武部利男]]共訳で『三国志 通俗演義』(岩波書店、1968年)がある。</ref>。訳文については評価が分かれるが{{Sfnp|渡邉義浩|2015|pp=154-155}}、同書は長年にわたり再刊を重ねるなど、通俗小説受容が本格化する契機となった{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=297-319|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|1995}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=229-260|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|1997}})}}{{Sfnp|長尾直茂|2019|pp=261-295|ps=(初出は{{Harvnb|長尾直茂|1998}})}}。中でも[[葛飾戴斗]]([[葛飾北斎]]の弟子)の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』<ref>[[落合清彦]]校訂『絵本通俗三国志』 [[第三文明社]](全12巻)、1982-83年。ダイジェスト版で『絵本三国志』([[高橋康雄]]編、徳間文庫、1988年)。</ref>([[天保]]7年(1836年) - 天明12年(1841年)刊)が人気を博した{{Sfnp|上田望|2006|pp=20-21}}{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=154}}。明治期には[[幸田露伴]]『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)[[久保天随]]『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高く、その後も諸種の訳が出版された。なお、[[昭和]]後期から[[平成]]にかけ出版された主な訳本には、[[小川環樹]]・金田純一郎『三国志』([[岩波文庫]] (改版全8巻、1988年{{Efn2|ワイド版岩波文庫でも刊行。旧版は全10巻、1973年に完結。}})、[[立間祥介]]『三国志演義』([[平凡社]]、初版1958年{{Efn2|平凡社は、様々な版で刊行し重版、他に徳間文庫全8巻、1983年。改訳・改版全4巻、2006年で新版}}/角川ソフィア文庫全4巻、2019年)、[[井波律子]]『三国志演義』([[ちくま文庫]]全7巻、2002-2003年/講談社学術文庫全4巻、2014年)、渡辺精一『新訳三国志』(全3巻:天・地・人の巻、[[講談社]]、2000年)がある。
[[演劇]]においても、江戸前期より三国志が題材として取り上げられた。[[寛文]]・[[延宝]]年間([[1670年]] - [[1681年]])には[[浄瑠璃]]『通俗傾城三国志』が上演され、[[宝永]]6年([[1709年]])には[[歌舞伎]]で『三国志』が上演されている。『通俗三国志』の刊行以降は一層普及し、[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また[[万延]]元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また[[元文]]2年初演の作品に「[[関羽 (歌舞伎)|関羽]]」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助の[[スーパー歌舞伎]]『新・三国志』がある。また、[[弘前ねぷた]]や[[青森ねぶた]]に代表される[[青森県]]内一円で行われる[[ねぶた|ねぶた祭り]]では、『[[水滸伝]]』や『[[楚漢戦争|漢楚軍談]]』と共に『三国志演義』の登場人物を題材にした[[山車]]が出されるなど、日本国内での[[祭]]にも取り入れられている。
[[洒落本]]は、夢中楽介の『通人三国師』([[天明]]元年([[1781年]])刊がある。劉備が[[吉原 (東京都)|吉原]]で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは、文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある{{Sfnp|徳田武|1987|p=400}}。
<!--また、[[文政]]・[[天保]]年間に刊行された草双紙『[[傾城三国志]]』は、登場人物を女性化した[[パロディ]]で、三国志の女性化創作ものの先駆とされている<ref>[[国立国会図書館]] [http://www.ndl.go.jp/jp/event/exhibitions/1195909_1376.html 関西館小展示 「時空をかける三国志」]</ref>。 リンク先には浄瑠璃とあるが年代が食い違うため保留-->
[[曲亭馬琴]]は羅貫中らを崇敬、自身を彼らになぞらえ、[[読本]]の表現手法において『演義』に負うところが大きい{{Sfnp|中西進・厳紹璗|1995|p=349|ps=以降}}。その一方で、随筆においては関羽に対する辛辣なコメントを残している。
戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、[[竹中重治|竹中半兵衛]]は諸葛亮に擬せられ<ref>『豊鑑』巻1「高松」、『絵本太閤記』初篇巻6「信長発向美濃国」。</ref>、[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された<ref>『[[三河後風土記|三河後風土記正説大全]]』巻19「神君越前表御退口御難儀」。原文は「徳川勢<small>并</small>に木下の両将は太公諸葛が知謀{{Lang|zh|樊噲}}関羽が勇を兼備し給ひ前代未聞離倫絶類の神武英知なれば、…」。</ref>。また、[[琉球王国]]の三山時代も三国志に例えられ「琉球三国志」と呼ばれることもある。
明治以降は『三国志演義』をもとにした[[時代小説]]も多く現れるようになり、児童向けの[[野村愛正]]『三国志物語』([[講談社|大日本雄弁会講談社]]、1940年)などがある。また、劉備に忠義を尽くす諸葛亮の姿が教科書に登場した{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=162}}。
戦後の三国志ブームの礎となったのは、[[新聞小説]]として『[[台湾日日新報]]』などに連載された[[吉川英治]]『[[三国志 (吉川英治)|三国志]]』である。吉川は現行の『演義』のみならず、湖南文山の『通俗三国志』を参照したとされ<ref>[https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/ueno/tuzoku.htm 立命館大学中国文学専攻HP内三国志の世界『通俗三国志』]</ref>、戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の[[解釈]]を取り入れた。たとえば、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソード{{Efn2|劉備をもてなすのに[[劉安 (三国志演義)|劉安]]が妻を殺してその人肉を提供するなど([[鉢の木]]のエピソードの原型版)。}}に作者のコメントを寄せるなどの改変を行っているほか、それまで単なる悪役扱いだった曹操を「人間味あふれる乱世の風雲児」として鮮やかに描いている。いわば吉川三国志は、『演義』受容の歴史と高水準の研究とを土台としているところに特徴がある{{Sfnp|渡邉義浩|2015|p=155}}。こうして吉川三国志は「格調高い歴史文学」として評価され、日本での事実上の底本(定番本)となっている。単行本の初版は、[[1948年]]に大日本雄弁会講談社で刊行され、[[1956年]]に[[六興出版]]で刊行された。近年は[[講談社文庫]]・[[新潮文庫]]ほかで新版再刊されている。
吉川作品以後は、[[柴田錬三郎]]『三国志』([[インテルフィン|鱒書房]] 1955年)、『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)、『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年){{Efn2|「柴錬三国志」は合本し『英雄三国志』に改題、講談社文庫(全5巻、1996年)、集英社文庫(全6巻、2004年)で再刊。なお『柴錬痛快文庫 三国志』(講談社文庫、2002年)は、少年少女向けに書かれた作品(少年少女世界の名作、偕成社)の再刊版。}}、[[陳舜臣]]『[[秘本三国志]]』(文藝春秋 1974年/[[中公文庫]]、2009年)、『諸葛孔明』『曹操』『曹操残夢 魏の曹一族』(各 中央公論社、1991年・1998年・2005年、のち中公文庫)、[[北方謙三]]『[[三国志 (北方謙三)|三国志]]』([[角川春樹事務所]]、1996年-1998年、のちハルキ文庫)、[[安能務]]『三国演義』(講談社 全6巻、1999年、のち講談社文庫)、[[宮城谷昌光]]『三国志』(文藝春秋 全12巻、2004年-2013年{{Efn2|「文藝春秋」誌に長期連載。他に『外伝』(全1巻)、編著『三国志読本』を刊。各・文藝春秋、のち文春文庫。}}、のち文春文庫)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。ただしこれらの作品のうち、陳・北方・宮城谷らの小説は『演義』ではなく正史『三国志』を基にしている。
昭和後期以降でのメディア展開作品は、吉川三国志を基調に、大河漫画化した[[横山光輝]]『[[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]]』、[[日本放送協会|NHK]]で放送された『[[人形劇 三国志]]』などが高い評価を受けた。また、[[コーエー]](当時光栄)のシミュレーションゲームソフト『[[三國志シリーズ]]』がヒット作品となっている。
高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、「競争を生き抜く知恵」や「企業のリーダー像の見本」として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、「『演義』に学べ」としたビジネス書が多数刊行された{{要出典|date=2023年4月}}。
以降も、ゲーム・漫画(アニメ化も)において、コーエーのタクティカルアクションゲームソフト『[[真・三國無双シリーズ]]』、原作・原案[[李學仁]]、漫画[[王欣太]]による漫画『[[蒼天航路]]』などの作品が生まれ、爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも正史『三国志』あるいは『演義』に忠実な作品ではなく、大きく改変が加えられているものも多い。また、架空の設定で作られているものや、あるいは基になっている人物設定を大きく換えているものなど、多種多様な作品が存在している。
== 派生した作品 ==
[[:Category:三国志を題材とした作品]]を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
;図書
*{{Cite book|和書|author=[[小川環樹]]|title=中国小説史の研究|publisher=[[岩波書店]]|date=1968-11|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=徳田武|title=日本近世小説と中国小説|publisher=[[青裳堂書店]]|series=日本書誌学大系51|date=1987-5|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|editor=[[中西進]]・[[厳紹璗]]|title=日中文化交流史叢書6:文学|date=1995-12|publisher=[[大修館書店]]|isbn=446913046X|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[大庭脩]]|title=古代中世における日中関係史の研究|publisher=[[図書印刷同朋舎|同朋舎出版]]|date=1996-2|isbn=4810422690|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[金文京]]|title=三国志の世界:後漢三国時代|publisher=[[講談社]]|series=中国の歴史4|date=2005-1|isbn=9784062740548|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=田中尚子|title=三国志享受史論考|publisher=[[汲古書院]]|date=2007-1|isbn=9784762935497|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=田中尚子|title=『太平記』における〈三国志〉の享受|journal=和漢比較文学|issue=23|publisher=和漢比較文学会|date=1999-8|pages=13-29|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=田中尚子|title=『通俗三国志』試論:軍記の表現の援用とその指向性|url=http://hdl.handle.net/2065/43860|journal=国文学研究|issue=140|publisher=早稲田大学|date=2003-6|pages=22-32|ref={{SfnRef|田中尚子|2003a}}}}
**{{Cite journal|和書|author=田中尚子|title=近世前期における〈三国志〉享受の一齣:『国史館日録を中心として』|journal=説話文学研究|issue=38|publisher=説話文学会|date=2003-6|pages=176-186|ref={{SfnRef|田中尚子|2003b}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[渡邉義浩]]|title=英雄たちの「志」:三国志の魅力|publisher=汲古書院|date=2015-4|isbn=9784762965418|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=長尾直茂|title=本邦における三国志演義受容の諸相|publisher=[[勉誠出版]]|date=2019-2|isbn=9784585291794|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=山東京伝の中国通俗小説受容:「通俗物」の介在を論ず|journal=国語国文|volume=64|issue=12|date=1995-12|pages=38-54|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代元禄期における『三国志演義』翻訳の一様相:『通俗三国志』の俗語翻訳を中心として|journal=国語国文|volume=66|issue=8|date=1997-8|pages=38-56|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代元禄期における『三国志演義』翻訳の一様相・続稿|journal=国語国文|volume=67|issue=10|date=1998-10|pages=1-23|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る関羽像:『三国志演義』との関連に於いて|url=http://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2019/09/51-16.pdf|journal=日本中国学会報|issue=51集|publisher=日本中国学会|date=1999-10|pages=223-239|ref={{SfnRef|長尾直茂|1999a}}}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の絵画における関羽像の確立|journal=漢文學 解釋與研究|issue=2輯|publisher=漢文学研究会|date=1999-11|pages=101-136|ref={{SfnRef|長尾直茂|1999b}}}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=伊藤仁斎、東涯父子の諸葛孔明観|journal=漢文學 解釋與研究|issue=3輯|publisher=漢文学研究会|date=2000-12|pages=31-60|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=近世における『三国志演義』:その翻訳と本邦への伝播をめぐって|journal=國文學・解釈と教材の研究|volume=46|issue=7|publisher=[[学燈社]]|date=2001-6|pages=65-73|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=中世禅林における関羽故事の受容:「百万軍中取顔良」故事と関羽所用の大刀をめぐる一考察|journal=漢文學 解釋與研究|issue=5輯|publisher=漢文学研究会|date=2002-12|pages=29-64|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=中世禅林における諸葛孔明像|journal=漢文學 解釋與研究|issue=6輯|publisher=漢文学研究会|date=2003-12|pages=41-74|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像:『三国志演義』との関連において|journal=漢文學 解釋與研究|issue=7輯|publisher=漢文学研究会|date=2004-12|pages=73-103|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=諸葛孔明批判論とその本邦における受容をめぐる一考察|journal=斯文|issue=113|publisher=斯文会|date=2005-3|pages=1-16|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|author=長尾直茂|title=日本漢詩文に見る楠正成像:諸葛孔明との関連において|journal=アジア遊学|issue=173|publisher=勉誠出版|date=2014-3|pages=84-98|ref=harv}}
;論文
*{{Cite journal|和書|author=[[川瀬一馬]]|title=駿河御譲本の研究|journal=書誌學|volume=3|issue=4|publisher=日本書誌學会|date=1934|pages=|ref=harv}}
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*{{Cite journal|和書|author=上田望|title=日本における『三国演義』の受容 (前篇):翻訳と挿図を中心に|url=http://hdl.handle.net/2297/1837|journal=金沢大学中国語学中国文学教室紀要|issue=9輯|date=2006-03|pages=1-40|ref=harv}}
=== 関連文献 ===
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*[[二階堂善弘]]・中川諭『三国志平話』[[コーエー]](現・[[コーエーテクモゲームス]])、1999年3月、{{ISBN|9784877196783}}
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*満田剛『三国志:正史と小説の狭間』[[白帝社]]、2006年2月。{{ISBN|9784891747862}}
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*山口久和『「三国志」の迷宮:儒教への反抗有徳の仮面』文藝春秋〈文春新書〉、1999年6月。{{ISBN|416660046X}}
*渡邉義浩・仙石知子『「三国志」の女性たち』[[山川出版社]]、2010年6月。{{ISBN|9784634640511}}
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*渡邉義浩『関羽:神になった「三国志」の英雄』筑摩書房〈[[筑摩選書]]〉、2011年10月。{{ISBN|9784480015280}}
*渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く:三国志から見る邪馬台国』中央公論新社〈中公新書〉、2012年5月。{{ISBN|9784121021649}}
*渡邉義浩『「三国志」の政治と思想:史実の英雄たち』講談社選書メチエ、2012年6月。{{ISBN|9784062585323}}
*渡邉義浩『人事の三国志:変革期の人脈・人材登用・立身出世』朝日新聞出版〈朝日選書〉2019年6月。{{ISBN|9784022630841}}
*渡邉義浩『教養として学んでおきたい三国志』マイナビ出版〈マイナビ新書〉、2021年11月。{{ISBN|9784839977252}}
;辞書類
*立間祥介・丹羽隼兵『三国志事典』岩波書店〈[[岩波ジュニア新書]]〉、1994年6月。{{ISBN|4005002404}}
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== 関連項目 ==
*[[三国志祭]]
{{DEFAULTSORT:さんこくし}}
[[Category:三国志|!]]
[[Category:中国の名数3|こくし]]
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子役
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子役(こやく)は、演劇や演劇的映像作品(ドラマ性のある映画・テレビ番組・テレビCMなど)における、子供の役(配役)のこと。また、それを演じる子供をも指す。子供のイメージモデル全般も含むとする捉え方もある。
英語では、男女を区別して "child actor"、"child actress" といい、日本語でもこれらを音写した外来語「チャイルドアクター」「チャイルドアクトレス」が通用する。また、ティーンエイジ(13歳から19歳まで)の子役に対して英語では "teen actor"、"teen actress" も用いられる(※外来語としては確認できない)。フランス語では英単語との混種語で "enfant star(アンファン スター)" という。中国語では「童星(拼音:tóngxīng〈トォンシィン〉)」という。
ここでは、日本伝統芸能において、「子役」に相当する配役とその演者について解説する。
能では、少年が扮する役、および、それを演じる少年を、「子方(こかた)」というが、これとは大きく意味の異なるもう一つの語義として、本来は大人が演じるべき大人の役をあえて少年に務めさせるその役、および、それを演じる少年をも、同じく「子方」という。演劇や映画などの分野における「子役」と同じと言えるのは前者のみであり、後者は能に固有の演出法である。子方はシテ方から出るものと決まっており、後者はシテ方を際立たせるための演出法として始まったとも、室町時代の稚児愛好趣味(cf. 少年愛)に由来するとも考えられている。
前者の例としては、『望月』の花若(はなわか)、『善知鳥』の千代童、『烏帽子折(えぼしおり)』や『鞍馬天狗』の牛若丸、『関寺小町』の稚児などがある。後者の例としては、『安宅』と『船弁慶』の源義経、『花筐』の男大迹皇子(皇太子時代の継体天皇)と『草子洗小町』の天皇(継体天皇)、『大仏供養』の源頼朝、『正尊(しょうぞん)』の静御前などがある。
狂言では、少年が扮する役、および、それを演じる少年を、子方(こかた)といい、子方の出るものが少数ながらある。
歌舞伎では、大抵の場合、役者の子が「子役(こやく)」として初舞台を踏む。子役が成長してもっぱら子役を務めている間は「若衆方(わかしゅがた)」と呼ばれ、これは配役上結果的の「美少年役」を意味する。子役は、長じては「立役(たちやく)」と「敵役(かたきやく)」、もしくは「娘方(むすめがた)」の、いずれかを務めることになる。なお、娘方は「若女方(わかおんながた)」へと変わってゆき、娘方は若女方の役柄の一つという位置づけになる。歌舞伎の子役には地位による差別は無く、出勤は演目の都合によって決められ、給金は演じるごとに包み金という形で渡される。歌舞伎の場合、「寺子屋」こと『菅原伝授手習鑑』の小太郎、『伽羅先代萩』の千松、『重の井子別れ(しげのい こわかれ)』の三吉など、舞台の出来を左右する大役に子役を配した演目もある。
1939年(昭和14年)、映画法が施行。施行令において未成年の役者は親権者の承諾書を要すること、加えて14歳未満の子役は健康証明書、学校長の意見書を要することとされた。労働時間は16歳未満の子役および子女については深夜撮影(22時-5時)が原則禁止された。
2001年(平成13年)に文化芸術振興基本法が制定されたことに伴い、演劇界はこの規制緩和に積極的に働きかけている。各演劇興行会社が文化庁長官に要望書を提出したり、2003年(平成15年)6月3日には、神奈川県横浜市と日本演劇興行協会が構造改革特別区域の一つとして22時まで延長する「子役特区」を提案した。鴻池祥肇特命担当大臣が「モーニング娘特区」と名付けて実施を目指していたが、坂口力厚生労働大臣は「義務教育を受けるためにも限界がある」と慎重な姿勢を示していた。内閣府で行われた同年9月3日の会談で坂口厚労相が「21時まで認める」と述べ、2004年(平成16年)11月16日の労働政策審議会に対する答申にて、2005年(平成17年)1月1日より全国的に演劇などへの「13歳未満の子役の出演が従来の20時までから21時まで」に延長されることになった。この議論においても、テレビの収録などはこの範囲ではないとの発言もあり、子役や演劇という言葉の示す範囲の曖昧さが指摘されている。
21時までの出演が可能となってからも、世界各国の子役事情と比較し緩和が十分とはいえず、2007年(平成19年)12月4日、日本演劇興行協会より子役出演時間延長の要望書が首相官邸に提出されている。
2008年(平成20年)4月7日、日本外国特派員協会において「児童俳優の舞台時間延長問題を考えるパネル」が開かれ、子供の教育を受ける権利や児童の福祉を考慮した上での舞台子役の育成と保護について論じられた。
2017年(平成29年)には、WOWOWのテレビドラマにおいて、WOWOWの意向でハードワークを課せられた製作陣が、深夜3時から始まる撮影に当時6歳の子役・稲垣来泉を駆り出したうえ、リテイクなどによる徹夜を含む14時間もの撮影を強要した。この案件は、『週刊文春』が3月1日にウェブサイト版「文春オンライン」で、明くる2日に本誌で取り上げ、関係者もその事実を認めたと報じられた。
少女向け雑誌の表紙は1960年代の半ばまでは少女子役の写真であり、それ以後は少女モデルの写真になり、漫画雑誌の表紙が定番になるのはさらにのちのことである。
人気を得た子役は幼少時代にサラリーマンを大きく上回る収入を得るため、一般的な金銭感覚を身につけることが出来ず、社会生活に苦労することも多く、家族と金銭関係のトラブル問題に発展する事もある。
子役の進路はそのまま芸能活動を続ける者、学業に専念するために一時的に休業後芸能界に復帰した者、完全に芸能界から引退した者と様々であるが、成功経験を忘れられず身を持ち崩してしまい、西川和孝やリヴァー・フェニックスのように悲惨な末路を辿った人物も存在する。前述の過重労働問題も含め、子役に対しても適切なポジションや作品の配分が必要とされている。
編集者の方へ:この項目での人名は誕生日順で並んでいます。議論はノートで。
編集者の方へ:リストに追加する際は記事が存在する人物のみにしてください。また、記事が削除となって赤リンクになった際には名前を除去してください。説明はノートに記してあります。
アメリカの大手のタレントエージェンシーには専門の子役部門が設置されている場合がある。 アメリカでは18歳未満の役者を起用する場合は各州で定められた労働局規定に従う必要がある。1日当たりの就労時間、食事時間や勉強時間、休み時間などは、年齢に応じて定められている。撮影現場では州から認定を受けたスタジオティーチャーを雇い、その教師が子どもに対する待遇、勉強時間や休憩時間の順守について監視する役目を担う。 18歳未満の役者を起用する場合、未成年の役者は、学校からの最新の成績表や学校からの許可を証明する書類を州の労働局に提出し、仕事に就く日までにエンタテインメント用労働許可書を取得しなければならない。 未成年者を雇う製作会社側も、労働局の未成年者雇用の許可を取得し雇用保険も用意しなければならない。 アメリカ合衆国では、州によって差はあるものの、映画産業の盛んな州でも撮影現場にいることのできる時間に制限が設けられているケースが多い。そのことへの対応策として、一つの役に双子を交代で起用するなどの方法も用いられている。 なお、カリフォルニア州など多くの州では、18歳未満の子役は「クーガンアカウント」という銀行口座を持っていなればならず、報酬総額の15%がその口座に直接送金され成人するまで保護されるシステムになっている。
編集者の方へ:この項目での人名は誕生日順で並んでいます。議論はノートで。 編集者の方へ:リストに追加する際は記事が存在する人物のみにしてください。また、記事が削除となって赤リンクになった際には名前を除去してください。説明はノートに記してあります。
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子役(こやく)は、演劇や演劇的映像作品(ドラマ性のある映画・テレビ番組・テレビCMなど)における、子供の役(配役)のこと。また、それを演じる子供をも指す。子供のイメージモデル全般も含むとする捉え方もある。 英語では、男女を区別して "child actor"、"child actress" といい、日本語でもこれらを音写した外来語「チャイルドアクター」「チャイルドアクトレス」が通用する。また、ティーンエイジ(13歳から19歳まで)の子役に対して英語では "teen actor"、"teen actress" も用いられる(※外来語としては確認できない)。フランス語では英単語との混種語で "enfant star" という。中国語では「童星」という。
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{{複数の問題|出典の明記=2010年1月| 独自研究 = 2019年4月 | 内容過剰 = 2019年4月 }}
{{Anchors|子役達1909}}[[ファイル:Intimate recollections of Joseph Jefferson (1909) (14779386784).jpg|thumb|280px|『[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]』を舞台で演じる[[アメリカ人]]俳優[[リップ・ヴァン・ウィンクル#ジョゼフ・ジェファーソン|ジョゼフ・ジェファーソン]]と子役達。これは1909年という極めて古い時代のポートレートである。|alt=『[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]』を舞台で演じる俳優ジョゼフ・ジェファーソンと6人の子役達。これは1909年という極めて古い時代のポートレートである。]]
[[ファイル:Chaplin The Kid edit.jpg|thumb|210px|{{Anchors|クーガン1921}}[[サイレント映画]]『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年公開)における[[チャールズ・チャップリン]]と子役[[ジャッキー・クーガン]]<hr />クーガンはこの作品で子役の黎明期を代表するスターとなった。撮影時は5~6歳。子役としての活動期間は1917年から1933年まで(映画は1931年製まで、少なくとも22作品。[[:en:Jackie Coogan filmography|''cf.'']] )。|alt=サイレント映画『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年公開)における[[チャールズ・チャップリン]]と子役[[ジャッキー・クーガン]]の有名なポートレート。チャップリンは放浪者をクーガンは孤児を演じており、この写真では他人の家の出入り口に二人して腰を下ろしている。クーガンはこの作品で子役の黎明期を代表するスターとなった。撮影時は5~6歳。子役としての活動期間は1917年から1933年まで。映画は1931年製まで、少なくとも22作品に出演した。]]
[[ファイル:Glad Rags to Riches Temple.jpg|thumb|210px|{{Anchors|テンプル1933}}[[ハリウッド]]女優[[シャーリー・テンプル]]の子役時代<hr />幼児だけが登場するアメリカ製白黒短編映画「[[シャーリー・テンプルの出演作品#作品一覧|ベビー・バーレスク]]({{small|原題:}}[[:en:Baby Burlesks|''Baby Burlesks'']])」シリーズの一作『グラッド・ラグズ・トゥ・リッチズ({{small|原題:}}''Glad Rags to Riches'')』(1933年公開)の一場面で、撮影時は4~5歳であった。子役としての活動期間は1931年から1947年まで(映画は56作品。[[シャーリー・テンプルの出演作品|''cf.'']] )。|alt=ハリウッド女優[[シャーリー・テンプル]]の子役時代の写真。幼児だけが登場するアメリカ製白黒短編映画「ベビー・バーレスク」シリーズの一作『グラッド・ラグズ・トゥ・リッチズ』(1933年公開)の一場面で、撮影時は4~5歳であった。子役としての活動期間は1931年から1947年まで(映画は56作品に出演)。]]
[[ファイル:Mauch Twins.jpg|thumb|210px|{{Anchors|モーフ1937-39}}[[双生児|双子]]の子役 "モーフ・ツインズ"<hr />{{仮リンク|ビリー・アンド・ボビー・モーフ|en|Billy and Bobby Mauch}}(ウィリアム・ジョン・モーフとロバート・ジョセフ・モーフ)。撮影は1930年代後期後半。主な活動期間は1937年から1943年まで。|alt=双子の子役 "モーフ・ツインズ"(ビリー・アンド・ボビー・モーフ)の宣材写真。撮影は1930年代後期後半。主な活動期間は1937年から1943年まで。]]
[[ファイル:Akihiko Katayama Scan10010.jpg|thumb|210px|{{Anchors|片山明彦}}[[日本人]]俳優・[[片山明彦]]の子役時代/1941年 / 昭和16年以前({{年数|1926|11|11|1941|12|31}}歳以前)の撮影。|alt=日本人俳優・[[片山明彦]]の子役時代のポートレート。]]
[[ファイル:Старшова Екатерина.jpg|thumb|210px|{{Anchors|スターズホーワ}}[[ロシア人]]女優エカテリーナ・スターズホーワ ([[:en:Ekaterina Starshova|en]]) の子役時代({{年数|2001|10|28|2009|12|25}}歳時)の報道写真|alt=ロシア人女優エカテリーナ・スターズホーワの子役時代の報道写真。]]
'''子役'''(こやく)は、[[演劇]]や演劇的映像作品([[wikt:ドラマチック|ドラマ]]性のある[[映画]]・[[テレビドラマ|テレビ番組]]・テレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]など)における、[[子供]]の[[役]](配役){{r|kb}}のこと。また、それを演じる子供をも指す{{r|kb}}。子供のイメージ[[モデル (職業)|モデル]]全般も含むとする捉え方もある<ref>{{Cite web|和書|author=研究調整部 研究調整課 |date=2006-06-14 |title={{small|労働政策研究報告書No.62}} 諸外国における年少労働者の深夜業の実態についての研究 ―演劇子役等に従事する児童の労働の実態― |url=https://www.jil.go.jp/institute/reports/2006/062.html |publisher=独立行政法人 [[労働政策研究・研修機構]] (JILPT) |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-09-12 |quote=(...略...)特に演劇、オペラ、ミュージカル、テレビ番組製作、映画製作、'''モデル撮影'''などメディア・文化の領域で子役として就労している児童の労働保護規制のあり方、法規の運用、就労実態及び健康、教育、財産管理などへの影響を調査しています。 }}</ref>。
[[英語]]では、男女を区別して "'''child actor'''"、"'''child actress'''" といい、[[日本語]]でもこれらを[[wikt:音写|音写]]した[[外来語]]「'''チャイルドアクター'''」「'''チャイルドアクトレス'''」が通用する。また、[[ティーンエイジャー#英語での Teen-ager|ティーンエイジ]](13歳から19歳まで)の子役に対して英語では "'''teen actor'''"、"'''teen actress'''" も用いられる(※外来語としては確認できない)。[[フランス語]]では英単語との[[混種語]]で "'''enfant star'''({{small|アンファン スター}})" という。[[中国語]]では「'''[[wikt:zh:童星|童星]]'''({{small|[[拼音]]:}}[[wikt:en:tóng|tóng]][[wikt:en:xīng|xīng]]〈{{small|トォンシィン}}〉)」という。
== 日本伝統芸能における子役 ==
ここでは、[[日本伝統芸能]]において、「子役」に相当する配役とその演者について解説する。
=== 能の子方 ===
[[能]]では、[[少年]]が扮する役、および、それを演じる少年を、「'''子方'''(こかた)」という{{r|"kb_平百"}}が、これとは大きく意味の異なるもう一つの語義として、本来は大人が演じるべき大人の役をあえて少年に務めさせるその役、および、それを演じる少年をも、同じく「子方」という{{r|"kb_子方_日国辞"}}。演劇や映画などの分野における「子役」と同じと言えるのは前者のみであり{{r|"kb_子方_平百"}}、後者は能に固有の演出法である{{r|kb_子方_平百}}。子方は[[能楽#シテ方|シテ方]]から出るものと決まっており{{r|"kb_子方_MyPedia"}}、後者はシテ方を際立たせるための演出法として始まったとも{{r|kb_子方_MyPedia}}、[[室町時代]]の[[稚児]]愛好趣味(''cf.'' [[少年愛]])に由来するとも考えられている{{r|kb_子方_MyPedia}}。
前者の例としては、『[[望月 (能)|望月]]』の花若{{small|(はなわか)}}{{r|kb_子方_日国辞}}、『[[善知鳥]]』の千代童{{r|kb_子方_平百}}、『[[烏帽子折]]{{small|(えぼしおり)}}<ref group="字引">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/烏帽子折-446385 |title=烏帽子折 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2019-09-14 }}</ref>』や『[[鞍馬天狗 (能)|鞍馬天狗]]』の[[源義経|牛若丸]]{{r|kb_子方_平百}}、『[[小野小町#能|関寺小町]]』の稚児{{r|kb_子方_平百}}などがある。後者の例としては、『[[安宅 (能)|安宅]]』{{r|kb_子方_平百}}と『[[船弁慶]]』の[[源義経]]{{r|kb_子方_日国辞|"kb_子方_林"}}、『[[花筐]]』の男大迹皇子<ref group="注">[[諱]]「おおど(ヲホド)」から来ている[[皇子]]名で、「男大迹皇子」の読みは「おおどのみこ」「おおあとべのみこ」など異説多数あり。また、「男大迹邉皇子」「大迹部皇子」などの異表記もある。</ref>([[皇太子]]時代の[[継体天皇]]){{r|kb_子方_平百}}と『[[草子洗小町]]』の天皇(継体天皇){{r|kb_子方_平百}}、『[[大仏供養]]<ref group="字引">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/大仏供養-2058592 |title=大仏供養 |publisher=コトバンク |author= |accessdate=2019-09-14 }}</ref>』の[[源頼朝]]{{r|kb_子方_平百}}、『[[正尊]]{{small|(しょうぞん)}}<ref group="字引">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/正尊-532427 |title=正尊 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-09-14 }}</ref>』の[[静御前]]{{r|kb_子方_平百}}などがある。
=== 狂言の子方 ===
[[狂言]]では、少年が扮する役、および、それを演じる少年を、'''子方'''(こかた)といい、子方の出るものが少数ながらある{{r|kb_子方_MyPedia}}。
=== 歌舞伎の子役 ===
[[歌舞伎]]では、大抵の場合、役者の子が「'''子役'''(こやく)」として初舞台を踏む{{r|kb_平百}}。子役が成長してもっぱら子役を務めている間は「'''若衆方'''(わかしゅがた)」と呼ばれ{{r|kb_平百}}{{r|"kb_若衆方"}}、これは配役上結果的の「[[美少年]]役」を意味する{{r|kb_若衆方}}。子役は、長じては「'''[[立役]]'''(たちやく)」と「'''[[敵役]]'''(かたきやく)」、もしくは「'''[[娘方]]'''(むすめがた)」の、いずれかを務めることになる{{r|kb_平百}}。なお、娘方は「'''若女方'''(わかおんながた)」へと変わってゆき{{r|kb_平百}}、娘方は若女方の役柄の一つという位置づけになる<ref name="歌舞伎用語案内_娘方">{{Cite web|和書|editor=浅原恒男(文責) |title=娘方 |url=http://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/2850 |publisher=歌舞伎用語案内 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-09-14 }}</ref><ref group="注">娘方は、[[武家]]の娘、[[商家]]の娘、ただの[[町娘]]などの役がこれにあたり、やんごとなき[[姫|姫君]]の役をも含む捉え方もある。</ref>{{r|歌舞伎用語案内_娘方}}。歌舞伎の子役には地位による差別は無く{{r|kb_平百}}、出勤は演目の都合によって決められ{{r|kb_平百}}、給金は演じるごとに包み金という形で渡される{{r|kb_平百}}。歌舞伎の場合、「寺子屋」こと『[[菅原伝授手習鑑]]』の小太郎、『[[伽羅先代萩]]』の千松、『[[重の井子別れ]]{{small|(しげのい こわかれ)}}<ref group="字引">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/重の井子別れ-72941 |title=重の井子別れ |publisher=コトバンク |accessdate=2019-09-14 }}</ref>』の三吉など、舞台の出来を左右する大役に子役を配した演目もある{{r|kb_平百}}。
== 舞台子役と深夜労働 ==
{{複数の問題| section = 1| 出典の明記 = 2019年4月| 独自研究 = 2019年4月}}
: ※本節において肩書きはすべて当時。
[[1939年]](昭和14年)、[[映画法]]が施行。施行令において未成年の役者は親権者の承諾書を要すること、加えて14歳未満の子役は健康証明書、学校長の意見書を要することとされた。労働時間は16歳未満の子役および子女については深夜撮影(22時-5時)が原則禁止された<ref>施行令決まる、外国映画の上映数を制限(昭和14年9月23日 東京日日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p32 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
2001年(平成13年)に[[文化芸術振興基本法]]が制定されたことに伴い、演劇界はこの[[規制緩和]]に積極的に働きかけている。各演劇興行会社が[[文化庁]]長官に要望書を提出したり、2003年(平成15年)6月3日には、神奈川県[[横浜市]]と[[日本演劇興行協会]]が[[構造改革特別区域]]の一つとして22時まで延長する「子役特区」を提案した。[[鴻池祥肇]][[内閣府特命担当大臣|特命担当大臣]]が「[[モーニング娘。|モーニング娘]]特区」と名付けて実施を目指していたが、[[坂口力]][[厚生労働大臣]]は「義務教育を受けるためにも限界がある」と慎重な姿勢を示していた。[[内閣府]]で行われた同年9月3日の会談で坂口厚労相が「21時まで認める」と述べ、2004年(平成16年)11月16日の[[労働政策審議会]]に対する答申にて、2005年(平成17年)1月1日より全国的に演劇などへの「13歳未満の子役の出演が従来の20時までから21時まで」に延長されることになった。この議論においても、テレビの収録などはこの範囲ではないとの発言もあり、子役や演劇という言葉の示す範囲の曖昧さが指摘されている<ref name=MHLW_200411>{{Cite web|和書|author=[[労働基準局]] 勤労者生活部 企画課 |date=2004-11 |title=04/11/16 労働政策審議会労働条件分科会第37回議事録 |url=https://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/11/txt/s1116-4.txt |publisher=[[厚生労働省]] |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-09-13 }}</ref>。
21時までの出演が可能となってからも、世界各国の子役事情と比較し緩和が十分とはいえず、2007年(平成19年)12月4日、日本演劇興行協会より子役出演時間延長の要望書が[[総理大臣官邸|首相官邸]]に提出されている<ref name=JAMT_20071204>{{Cite web|和書|author= |date=2007-12-04 |title=演劇子役の出演可能時間の延長について(要望) |url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/contents_brand/wg/kikaku/dai3/pdf/sankou.pdf |publisher=日本演劇興行協会 (JAMT) |website=公式ウェブサイト |format=PDF |accessdate=2019-09-13 }}</ref>。
2008年(平成20年)4月7日、[[日本外国特派員協会]]において「児童俳優の舞台時間延長問題を考えるパネル」が開かれ、子供の教育を受ける権利や児童の福祉を考慮した上での舞台子役の育成と保護について論じられた<ref name="渡辺 (2008)">{{Cite web|和書|author=渡辺晴子([[日本外国特派員協会]] 特別企画委員長)|date=2008 |title=児童俳優の舞台時間延長問題を考える |url=http://www.enkokyo.or.jp/info/pannel2008.html |publisher=日本演劇興行協会 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-09-13 }}</ref>。
2017年(平成29年)には、[[WOWOW]]の[[テレビドラマ]]において、WOWOWの意向でハードワークを課せられた製作陣が、深夜3時から始まる撮影に当時6歳の子役・[[稲垣来泉]]を駆り出したうえ、[[リテイク]]などによる[[徹夜]]を含む14時間もの撮影を強要した<ref name="文春_20170301">{{Cite news |date=2017-03-01 |title=WOWOWドラマで天才子役が号泣した徹夜の“違法撮影” |url=http://bunshun.jp/articles/-/1567 |publisher=[[文藝春秋]] |newspaper=週刊文春 |accessdate=2017-03-05 }}{{リンク切れ|date=2019年9月10日}}</ref><ref name="サイゾー_20170302">{{Cite news |和書 |date=2017-03-02 |title=WOWOWが6歳女児の「違法撮影」を謝罪! 監督も不安吐露の“鬼スケジュール”が原因か |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201703_wowow6/ |publisher=[[サイゾー]] |newspaper=日刊サイゾー |accessdate=2019-09-13 }}</ref>。この案件は、『[[週刊文春]]』が3月1日にウェブサイト版「文春オンライン」で、明くる2日に本誌で取り上げ、関係者もその事実を認めたと報じられた{{r|文春_20170301|サイゾー_20170302}}。
== 子役を取り巻く環境と問題点 ==
少女向け雑誌の表紙は[[1960年代]]の半ばまでは少女子役の写真であり、それ以後は少女[[モデル (職業)|モデル]]の写真になり、漫画雑誌の表紙が定番になるのはさらにのちのことである<ref>{{Cite journal |和書 |date=2000-05-01 |title=プ~タオ 2000年春の号 アニメ&ゲーム300 |publisher=[[白泉社]] |journal=プ~タオ |volume=2000年春の号 |issue={{space}}5(2) 通巻第38号 |id={{国立国会図書館書誌ID|000000099432}} |page=86 |accessdate=2019-09-13 }}</ref>。
人気を得た子役は幼少時代にサラリーマンを大きく上回る収入を得るため、一般的な金銭感覚を身につけることが出来ず、社会生活に苦労することも多く<ref>[https://www.daiwa.jp/sodatte/career/s0238/ 「夢を育てよ」#2 最高月収3000万円から仕事ゼロ、そして再ブレイク。内山信二さんに聞く、逆境からの立ち直り方と、これからの夢と家族] 大和証券 SODATTE 2019年12月27日</ref>、家族と金銭関係のトラブル問題に発展する事もある。
子役の進路はそのまま芸能活動を続ける者、学業に専念するために一時的に休業後芸能界に復帰した者、完全に芸能界から引退した者と様々であるが、成功経験を忘れられず身を持ち崩してしまい、[[西川和孝]]や[[リヴァー・フェニックス]]のように悲惨な末路を辿った人物も存在する。前述の過重労働問題も含め、子役に対しても適切なポジションや作品の配分が必要とされている<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/48295/ サイクル早く消費される子役たち] ORICON NEWS 2015年9月28日</ref>。
== 日本の子役・子役出身者 ==
<div style="font-size:80%;border:1px solid #ddd;padding:0.5em" class="metadata">
'''編集者の方へ:'''この項目での人名は'''誕生日順'''で並んでいます。議論は[[ノート:子役|ノート]]で。
'''編集者の方へ:'''リストに追加する際は記事が存在する人物のみにしてください。また、記事が削除となって赤リンクになった際には名前を除去してください。説明は[[ノート:子役#赤リンク人名|ノート]]に記してあります。
</div>
;[[1900年代]]・[[1920年代]]・[[1930年代]]・[[1940年代]]生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1909年]]||[[久保田久雄 (俳優)|久保田久雄]](7月7日)
|-
|[[1913年]]||[[玉川みちみ]](8月1日)
|-
|[[1915年]]||[[高尾光子]](7月22日)
|-
|[[1916年]]||[[松尾文人]](8月6日)・[[小藤田正一]](12月2日)
|-
|[[1918年]]||[[小桜葉子]](3月4日)
|-
|[[1919年]]||[[藤田陽子 (子役)|藤田陽子]](7月25日)
|-
|[[1923年]]||[[青木富夫]](10月7日)
|-
|[[1924年]]||[[菅原秀雄 (俳優)|菅原秀雄]](1月3日)・[[高峰秀子]](3月27日)
|-
|[[1925年]]||[[葉山正雄]](8月1日)
|-
|[[1926年]]||[[市村美津子]](5月5日)・[[悦ちゃん (子役)|悦ちゃん]](6月21日)・[[片山明彦]](11月11日)
|-
|[[1928年]]||[[横山準]](1月15日)・[[小高まさる]](11月3日)
|-
|[[1934年]]||[[長門裕之]](1月10日)[[中村メイコ]](5月13日)
|-
|[[1935年]]||[[小原乃梨子]](10月2日)
|-
|[[1936年]]||[[野沢雅子]](10月25日)
|-
|[[1937年]]||[[美空ひばり]](5月29日)
|-
|[[1940年]]||[[津川雅彦]](1月2日)
|-
|[[1944年]]||[[原國雄]](9月18日)
|-
|[[1945年]]||[[鰐淵晴子]](4月22日)・[[松島トモ子]](7月10日)
|-
|[[1946年]]||[[堺正章]](6月6日)・[[頭師孝雄]](6月25日)・[[古川登志夫]](7月16日)・[[西岡徳馬]](10月5日)
|-
|[[1947年]]||[[根岸一正]](1月1日)・[[和泉雅子]](7月31日)・[[目黒祐樹]](8月15日)・[[シリア・ポール]](10月23日)・[[太田博之]](11月25日)・[[渡辺篤史]](11月28日)
|-
|[[1948年]]||[[鷲津名都江]](1月20日)・[[中山千夏]](7月13日)・[[中川梨絵]](8月13日)
|-
|[[1949年]]||[[酒井和歌子]](4月15日)・[[風間杜夫]](4月26日)・[[二木てるみ]](5月11日)・[[火野正平]](5月30日)・[[池田秀一]](12月2日)
|}
;[[1950年代]]生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1950年]]||[[ジュディ・オング]](1月24日)・[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](11月12日)・[[光川環世]](12月20日)
|-
|[[1951年]]||[[中尾隆聖]](2月5日)・[[あべ静江]](11月28日)
|-
|[[1952年]]||[[江木俊夫]](6月4日)・[[島津雅彦]](10月1日)
|-
|[[1953年]]||[[岡崎友紀]](7月31日)・[[古谷徹]](7月31日)・[[小林幸子]](12月5日)
|-
|[[1955年]]||[[二宮秀樹]](3月15日)・[[頭師佳孝]](3月19日)・[[内藤剛志]](5月27日)・[[金子吉延]](6月28日)・[[麻丘めぐみ]](10月11日)・[[蔵忠芳]](11月28日)
|-
|[[1956年]]||[[千葉裕]](9月19日)・[[雷門ケン坊]](12月6日)
|-
|[[1957年]]||[[四方晴美]](5月19日)・[[金子光伸]](9月25日)
|-
|[[1958年]]||[[堀川りょう]] (2月1日) ・[[保積ぺぺ]](4月21日)・[[加川明]](5月20日)
|-
| [[1959年]]||[[林寛子 (タレント)|林寛子]](10月16日)
|}
;[[1960年代]]生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1960年]]||[[鶴ひろみ]](3月29日)・[[西崎緑]](4月9日)・[[斉藤浩子]](6月15日)・[[黒沢浩]](7月18日)・[[真田広之]](10月12日)・[[春風ひとみ]](12月9日)
|-
|[[1961年]]||[[高野浩幸]](1月1日)・[[宮脇健]](6月13日)・[[梅地徳彦]](6月19日)・[[佐藤宏之 (俳優)|佐藤宏之]](10月23日)
|-
|[[1962年]]||[[玉川砂記子]](1月20日)・[[日髙のり子]](5月31日)・[[キャロライン洋子]](8月10日)・[[和栗正明]](8月21日)
|-
|[[1963年]]||[[曾我泰久]](1月7日)・[[皆川おさむ]](1月22日)・[[藤田恵美]](5月15日)・[[島田歌穂]](9月19日)
|-
|[[1964年]]||[[川瀬裕之]](7月20日)・[[戸川京子]](8月13日)・[[三原じゅん子]](9月13日)・[[増田康好]](10月6日)・[[杉田かおる]](11月27日)・[[佐久間真由美]](12月21日)
|-
|[[1965年]]||[[金月真美]](4月2日)・[[佐野伸寿 ]] (4月22日)
|-
|[[1966年]]||[[蝦名由紀子]](3月16日)・[[冨永みーな]](4月3日)・[[吉田友紀]](8月4日)・[[葺本光秀]](9月17日)・[[見栄晴]](11月13日)・[[伊藤かずえ]](12月7日)
|-
|[[1967年]]||[[生田智子]](2月13日)・[[内海和子]](2月16日)・[[伊藤つかさ]](2月21日)・[[岡浩也]](3月21日)・[[坂上忍]](6月1日)・[[岩田光央]](7月31日)・[[早瀬優香子]](9月2日)・[[西川和孝]](9月29日)・[[斎藤こず恵]](9月30日)・[[愛河里花子]](10月7日)・[[松田洋治]](10月19日)・[[河合亞美]](12月15日)
|-
|[[1968年]]||[[神奈延年]](6月10日)・[[岩井小百合]](8月10日)・[[宍戸マサル]](8月15日)・[[渕崎ゆり子]](12月5日)・[[有馬加奈子]](12月19日)
|-
|[[1969年]]||[[原田潤]](4月18日)・[[池田速人]](9月10日)・[[仙道敦子]](9月28日)・[[栗又厚]](12月12日)・[[古本新乃輔]](12月13日)
|}
;[[1970年代]]生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1970年]]||[[鈴木輝江]](1月10日)・[[新垣嘉啓]](1月23日)・[[笠原弘子]](2月19日)・ [[長田恒義]](6月19日)・[[吉岡秀隆]](8月12日)・[[長谷川真弓 (女優)|長谷川真弓]](8月19日)・ [[岡本舞子]](9月3日)
|-
|[[1971年]]||[[竹林潤一]](4月30日)・[[中嶋朋子]](6月5日)・[[加戸谷隆斗]](6月29日)・[[六浦誠]](9月14日)・[[山内圭哉]](10月31日)・[[林泰文]](12月7日)
|-
|[[1972年]]||[[大塚ちか]](4月2日)・[[片岡身江]](4月14日)・[[小磯勝弥]](5月27日)・[[小林綾子]](8月11日)・[[大嵩昇]](8月16日)・[[高橋良明]](9月2日)・[[坂詰貴之]](9月3日)・[[内田さゆり]](10月25日)・ [[田付貴彦]](11月6日)・[[嶋英二]](12月19日)
|-
|[[1973年]]||[[宮沢りえ]](4月6日)・[[大原和彦]](4月21日)・[[川口智子]](5月3日)・[[小川範子]](7月20日)・[[安孫子里香]](9月8日)・[[市丸和代]](9月17日)・[[磯崎亜紀子]](11月8日)・[[石堂穣]](12月2日)
|-
|[[1974年]]||[[鈴木美恵]](2月6日)・[[倉木凌]](3月16日)・[[西尾まり]](4月2日)・[[金杉太朗]](8月17日)・[[磯崎洋介]](12月17日)
|-
|[[1975年]]||[[草野康太]](2月26日)・[[石和摂]](3月4日)・[[藤枝成子]](6月27日)・[[岩瀬威司]](7月26日)・[[高橋かおり]](8月29日)・[[酒井一圭]](6月20日)
|-
|[[1976年]]||[[浪川大輔]](4月2日)・[[雨笠利幸]](8月25日)・[[山本耕史]](10月31日)・[[橋本巧]](11月22日)・[[岩崎ひろみ]](11月26日)・[[岩淵健]](12月3日)・[[観月ありさ]](12月5日)
|-
|[[1977年]]||[[飯塚雅弓]](1月3日)・[[林美穂]](1月19日)・[[多賀基史]](2月10日)・[[伊崎充則]](3月17日)・[[カケフくん]](4月11日)・[[井上豪]](6月14日)
|-
|[[1978年]]||[[小谷豪純]](1月3日)・[[高山良]](1月5日)・[[高野八誠]](1月9日)・[[宮原永海]](1月24日)・[[持田香織]](3月24日)・[[間下このみ]](4月27日)・[[吉村涼]](7月18日)・[[長谷川歩]](10月3日)・[[佐藤広純]](11月26日)
|-
|[[1979年]]||[[本名陽子]](1月7日)・[[小島幸子]](1月18日)・[[阪本浩之]](5月11日)・[[尾羽智加子]](6月6日)・[[住吉ちほ]](6月24日)・[[下島裕司]](7月7日)・[[小橋賢児]](8月19日)・[[ともさかりえ]](10月12日)・[[遠野なぎこ]](11月22日)・[[小野智子]](11月27日)・[[村上綾歌]](12月1日)
|}
;[[1980年代]]生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1980年]]||[[山口紗弥加]](2月14日)・[[坂本真綾]](3月31日)・[[久我未来]](4月10日)・[[伊藤歩]](4月14日)・[[秋山純]](6月4日)・[[榎本加奈子]](9月29日)・[[高橋一生]](12月9日)・[[橋本麗香]](12月25日)・[[田畑智子]](12月26日)
|-
|[[1981年]]||[[前田利恵]](3月2日)・[[山崎裕太]](3月8日)・[[酒井寿]](4月5日)・[[星野真里]](7月27日)・[[反田孝幸]](8月22日)・[[安間千紘]](9月7日)・[[安達祐実]](9月14日)・[[中村友里子]](9月14日)・[[内山信二]](9月25日)・[[河野由佳]](9月30日)・[[今井翼]](10月17日)・[[井村翔子]](10月28日)・[[仙台エリ]](10月30日)
|-
|[[1982年]]||[[後藤はるか]](1月31日)・[[坂田めぐみ]](3月18日)・[[滝沢秀明]](3月29日)・[[中崎達也]](4月21日)・[[黒田勇樹]](4月23日)・[[吉野紗香]](5月14日)・[[鈴木夕佳]](6月2日)・[[藁科みき]](6月20日)・[[岩田有以]](6月8日)・[[安藤希]](8月3日)・[[麻生真友子]](9月26日)・[[吹石一恵]](9月28日)・[[鹿島かんな]](10月1日)・[[今井ちひろ]](10月22日)・[[深田恭子]](11月2日)・[[渡辺明乃]](11月18日)・[[岡本綾]](12月9日)・[[西田彩香]](12月12日)・[[須山彩]](12月14日)・[[倉貫匡弘]](12月20日)・[[小栗旬]](12月26日)
|-
|[[1983年]]||[[濱松恵]](1月23日)・[[林勇 (声優)|林勇]](4月2日)・[[有田気恵]](4月4日)・[[栗山祐哉]](5月7日)・[[浜丘麻矢]](5月16日)・[[清水香里]](5月21日)・[[平田実音]](6月1日)・[[宮野真守]](6月8日)・[[佐々木恵理 (女優)|佐々木恵理]](7月19日)・ [[水川あさみ]](7月24日)・[[木村高人]](8月12日)・[[鈴木愛可]](8月20日)・[[松本潤]](8月30日)・[[前田愛 (女優)|前田愛]](10月4日)・[[伊藤淳史]](11月25日)・[[金沢明蘭]](12月14日)・[[安藤聖]](12月25日)
|-
|[[1984年]]||[[三星マナミ]](1月16日)・[[五十畑迅人]](2月18日)・[[南里侑香]](3月13日)・[[田口寛子]](3月18日)・[[野村佑香]](3月20日)・[[島袋寛子]](4月7日)・[[ジェニファー・ペリマン]](4月19日)・[[豊永利行]](4月28日)・[[清野優美]](5月23日)・[[愛里 (1984年生のモデル)|愛里]](6月5日)・[[藤間宇宙]](6月18日)・[[峰由樹]](6月23日)・[[田宮賢太朗]](7月11日)・[[吉田仁美]](7月13日)・[[佐野泰臣]](7月20日)・[[山口美沙]](9月27日)・[[生田斗真]](10月7日)・[[栗山千明]](10月10日)・[[田嶋秀任]](12月10日)・[[大村彩子]](12月19日)
|-
|[[1985年]]||[[小出由華]](1月5日)・[[篠原麻里]](1月7日)・[[和田理沙]](1月18日)・[[山下智久]](4月9日)・[[牟田将士]](4月19日)・[[久保山知洋]](4月23日)・[[名塚佳織]](4月24日)・[[矢嶋里紗]](5月1日)・[[細山田隆人]](5月1日)・[[中川翔子]](5月5日)・[[宮崎真汐]](5月8日)・[[酒井彩名]](5月16日)・[[前田亜季]](7月11日)・[[尾上寛之]](7月16日)・[[蒼井優]](8月17日)・[[吉澤拓真]](8月19日)・[[白井珠希]](9月10日)・[[米澤史織]](9月12日)・[[後藤真希]](9月23日)・[[秋山莉奈]](9月26日)・[[ウエンツ瑛士]](10月8日)・[[冨田真之介]](10月15日)・[[住吉怜奈]](10月22日)・[[山田一統]](11月7日)・[[宮崎あおい]](11月30日)・[[坂田慎一郎]](12月2日)
|-
|[[1986年]]||[[牧野由依]](1月19日)・[[善家尚史]](1月20日)・[[入沢大聖]](1月27日)・[[田原加奈子]](2月1日)・[[マナカナ|三倉茉奈・佳奈]](2月23日)・[[亀梨和也]](2月23日)・[[流石組レイナ]](3月13日)・[[内山眞人]](5月2日)・[[谷口紗耶香]](5月9日)・[[高松いく]](5月16日)・[[歌原奈緒]](5月23日)・[[棚橋由希]](5月27日)・[[盛内愛子]](5月27日)・[[浦えりか]](6月2日)・[[大塚露那]](6月21日)・[[末永遥]](7月22日)・[[邑野みあ]](7月22日)・[[島田正直]](8月13日)・[[宮川愛]](8月14日)・[[小此木まり]](8月18日)・[[崎本大海]](8月23日)・[[佐々木和徳]](9月11日)・[[伊藤俊輔 (ライフセーバー)|伊藤俊輔]](9月24日)・[[東新良和]](11月2日)・[[いしいすぐる]](11月9日)・[[川崎真央]](11月13日)・[[若山愛美]](12月11日)
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|[[1987年]]||[[水谷妃里]](1月2日)・[[井上真央]](1月9日)・[[藤山扇治郎]](1月21日)・[[市原隼人]](2月6日)・[[越智千恵子]](2月24日)・[[渋谷桃子]](3月15日)・[[松川佳以]](3月16日)・[[遠藤雄弥]](3月20日)・[[山岸里紗]](4月10日)・[[山内秀一]](4月11日)・[[鈴木杏]](4月27日)・[[紺野あさ美]](5月7日)・[[黒川芽以]](5月13日)・[[宇野あゆみ]](5月18日)・[[富田麻帆]](6月1日)・[[長澤まさみ]](6月3日)・[[伊藤隆大]](6月25日)・[[相ヶ瀬龍史]](7月2日)・[[松田彩香]](7月2日)・[[恭平]](7月16日)・[[柊瑠美]](8月1日)・[[石田比奈子]](8月11日)・ [[浅利陽介]](8月14日)・[[喜多村英梨]](8月16日)・[[森廉]](8月18日)・[[ジミーMackey]](8月20日)・[[本仮屋ユイカ]](9月8日)・[[井端珠里]](9月9日)・[[田中樹里]](9月26日)・[[榎園実穂]](10月4日)・[[平野綾]](10月8日)・[[麻衣阿]](10月13日)・[[小川麻琴]](10月29日)・[[立澤真明]](10月31日)・[[福田亮太]](11月4日)・[[糸山雄大]](11月18日)
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|[[1988年]]||[[早川翔吾]](2月1日)・[[須藤祐実]](2月3日)・[[入野自由]](2月19日)・[[木村茜 (1988年生)|木村茜]](2月24日)・[[楯真由子]](3月1日)・[[伊澤麻璃也]](3月2日)・[[尾崎光洋]](3月9日)・[[鈴木麻由 (子役)|鈴木麻由]](3月17日)・[[鈴木藤丸]](3月28日)・[[中田あすみ]](4月5日)・[[ダーブロウ有紗]](4月16日)・[[進藤一宏]](4月21日)・[[渋谷謙人]](4月23日)・[[渡部みずき]](4月30日)・[[郡司あやの]](5月24日)・[[齋藤彩夏]](6月2日)・[[石田未来]](6月15日)・[[杉本友莉亜]](6月25日)・[[濱田岳]](6月28日)・[[中尾明慶]](6月30日)・[[海宝直人]](7月4日)・[[東海孝之助]](7月7日)・[[佐久間信子]](7月16日)・[[松崎夏希]](8月16日)・[[戸田恵梨香]](8月17日)・[[さな (お笑い芸人)|さな]](9月14日)・[[長谷川静香]](9月16日)・[[石丸奈菜美]](9月21日)・[[黒木マリナ]](9月26日)・[[小口ひとみ]](9月27日)・[[まつながひろこ]](10月12日)・[[大島優子]](10月17日)・[[足助美岐子]](10月20日)・[[新垣里沙]](10月20日)・[[田島穂奈美]](11月8日)・[[久野雅弘]](12月7日)・[[森田彩華]](12月26日)
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|[[1989年]]||[[江成正元]](1月1日)・[[寺門仁美]](1月24日)・[[内田莉紗]](2月12日)・[[花澤香菜]](2月25日)・[[熊木翔]](3月2日)・[[村上東奈]](4月4日)・[[岩井七世]](4月23日)・[[三觜要介]](5月19日)・[[三枝享祐]](5月29日)・[[石川由依]](5月30日)・[[潘めぐみ]](6月3日)・[[鉢嶺杏奈]](7月19日)・[[宇野なおみ]](8月26日)・[[熊本野映]](9月11日)・[[岡本奈月]](9月13日)・[[小野賢章]](10月5日)・[[末広ゆい]](10月5日)・[[村野友希]](10月13日)・[[栩原楽人]](10月19日)・[[宮本佳那子]](11月4日)・[[泉綾香]](11月5日)・[[上脇結友]](11月15日)・[[秋山依里]](12月26日)
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;[[1990年代]]生まれ
{| class="wikitable"
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|[[1990年]]||[[窪田翔太]](1月11日)・[[米田良]](1月28日)・[[俵有希子]](2月4日)・[[秋場まなと]](2月20日)・[[蓮沼藍]](3月4日)・[[秋山拓也]](3月13日)・[[石田法嗣]](4月2日)・[[三浦春馬]](4月5日)・[[須田泰大]](4月12日)・[[本間理紗]](4月16日)・[[竪山隼太]](5月7日)・[[上森寛元]](5月10日)・[[紺野紘矢]](5月16日)・[[吉田紗也加]](5月20日)・[[保里小百合]] (5月28日)・[[谷村美月]](6月18日)・[[白木杏奈]](6月19日)・[[鈴木かすみ]](6月21日)・[[尾高杏奈]](6月28日)・[[木村昴]](6月29日)・[[優希まこと]](7月7日)・[[池松壮亮]](7月9日)・[[落合モトキ]](7月11日)・[[ブライアン・ウォルターズ]](7月30日)・[[山口このみ]](8月7日)・[[田辺季正]](8月15日)・[[花原あんり]](8月15日)・[[内山昂輝]](8月16日)・[[安齊舞]](8月21日)・[[村田あつき]](10月4日)・[[安谷屋なぎさ]](10月11日)・[[佐藤亜美菜]](10月16日)・[[高畠華澄]](10月16日)・[[OKAMOTO'S#メンバー|オカモトショウ]](10月19日)・[[柳生みゆ]](10月20日)・[[斎藤千晃]](10月22日)・[[村上雄太]](11月2日)・[[本郷奏多]](11月15日)・[[松崎駿司]](12月17日)
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|[[1991年]]||[[OKAMOTO'S#メンバー|オカモトレイジ]](1月9日)・[[黒川ティム]](1月9日)・[[大河 (俳優)|大河]](1月21日)・[[遠谷比芽子]](2月11日)・[[鈴木祐真]](3月8日)・[[井出卓也]](3月12日)・[[俵小百合]](3月27日)・[[栗原卓也]](3月31日)・[[前田公輝]](4月3日)・[[伊倉慎之介]](4月5日)・[[伊藤瞭]](4月14日)・[[林美沙里]](4月23日)・[[山田健太]](4月28日)・[[綾野幹]](6月7日)・[[夏帆]](6月30日)・[[森田直幸]](7月19日)・[[金澤翔太]](7月23日)・[[峯崎雄太]](7月24日)・[[斉藤みやび]](8月7日)・[[香川拓海]](8月11日)・[[大高力也]](8月27日)・[[ド・ランクザン望]](9月4日)・[[亀井拓]](9月9日)・[[寿美菜子]](9月17日)・[[ささの翔太]](9月17日)・[[松川尚瑠輝]](9月20日)・[[早乙女太一]](9月24日)・[[吉谷彩子]](9月26日)・[[新穂えりか]](10月9日)・[[渡辺彼野人]](10月23日)・[[荒井千歩]](10月24日)・[[金井史更]](10月25日)・[[飯田里穂]](10月26日)・[[碇由貴子]](11月1日)・[[中野勇士]](11月8日)・[[田本清嵐|タモト清嵐(田本清嵐)]](11月12日)・[[大平奈津美]](11月21日)・[[鈴木湧太]](11月28日)・[[吉武怜朗]](12月3日)・[[秋田きよ美]](12月8日)・[[村田ちひろ]](12月9日)・[[高畑充希]](12月14日)・[[上坂すみれ]](12月19日)・[[マイケル (ファッションモデル)|マイケル・メンツァー]](12月21日)
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|[[1992年]]||[[渡辺海渡]](1月23日)・[[宮田雄史]](2月13日)・[[佐藤慶季]](2月21日)・ [[武田梓]](2月21日)・[[笠原織人]](2月29日)・[[飯島康太郎]](3月5日)・[[菅原隆一]](3月11日)・[[榎田貴斗]](3月21日)・[[小池城太朗]](3月23日)・[[悠木碧]](3月27日)・[[近内里緒]](5月4日)・[[野村エリヤ]](5月20日)・[[高橋香波]](5月30日)・[[高橋伯明]](6月1日)・[[永嶋柊吾]](6月12日)・[[谷野欧太]](6月23日)・[[真山れみ]](6月24日)・[[成田真央]](6月24日)・[[内藤惟人]](6月26日)・[[砂川政人]](6月27日)・[[石原英秀]](7月7日)・[[岡田慶太]](7月15日)・[[ジョアン (タレント)|ジョアン]](7月16日)・[[山下夏生]](7月19日)・[[土屋シオン]](8月7日)・[[成海璃子]](8月18日)・[[エインジェル]](8月24日)・[[剛力彩芽]](8月27日)・[[染谷将太]](9月3日)・[[渡辺はるか]](9月9日)・[[高田彩香]](9月11日)・[[池ノ谷桃太]](9月14日)・[[永井杏]](9月19日)・[[池田仁]](9月21日)・[[千葉皓敬]](10月5日)・[[加地千尋]](10月13日)・[[柳田衣里佳]](10月15日)・[[志保]](10月19日)・[[米光隆翔]](10月28日)・[[廣瀬真平]](11月13日)・[[大津綾香]](11月18日)・[[北浦愛]](11月26日)・[[久保海晴]](12月1日)・[[廠のえる]](12月1日)・[[春山幹介]](12月8日)・[[梶原ひかり]](12月21日)・[[バーンズ勇気]](12月27日)
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|[[1993年]]||[[谷村聡美]](1月1日)・[[佐々木ひかり]](1月13日)・[[森部万友佳]](1月18日)・[[久野美咲]](1月19日)・[[中村有沙]](1月27日)・[[池田晃信]](2月3日)・[[斉藤奈々]](2月8日)・[[森本更紗]](2月28日)・[[篠原愛実]](3月10日)・[[篠田拓馬]](3月24日)・[[石崎直]](4月30日)・[[志田未来]](5月10日)・[[神木隆之介]](5月19日)・[[伊藤大翔]](5月21日)・[[坂口あずさ]](5月22日)・[[荒瀬眞依]](6月9日)・[[高宗歩未]](6月10日)・[[泉澤祐希]](6月11日)・[[栗林里奈]](6月13日)・[[小川真奈]](7月2日)・[[八木俊彦]](7月10日)・[[桜井ひかり]](7月17日)・[[春名美咲]](7月18日)・[[片岡沙耶]](7月18日)・[[立原勇武]](8月4日)・[[大後寿々花]](8月5日)・[[高畑岬|髙畑岬]](8月7日)・[[安達直人]](8月21日)・[[木内江莉]](9月2日)・[[栩原笑生]](9月3日)・[[小池里奈]](9月3日)・[[青木柊太]](9月3日)・[[佐藤和也]](9月15日)・[[富岡涼]](9月21日)・[[後藤果萌]](9月22日)・[[永島謙二郎]](9月23日)・[[菅野莉央]](9月25日)・[[鈴木駿]](9月28日)・[[桑名里瑛]](10月2日)・[[桑原成吾]](10月4日)・[[伴美幸]](10月14日)・[[塩顕治]](10月17日)・[[片岡涼]](10月19日)・[[大木梓彩]](11月7日)・[[伊藤麻衣 (女優)|伊藤麻衣]](11月16日)・[[橋本甜歌]](11月19日)・[[佐藤すみれ]](11月20日)・[[伊東舞]](12月1日)・[[髙橋郁哉]](12月3日)・[[西村優奈]](12月20日)・[[羽田千尋]](12月31日)
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|[[1994年]]||[[増田怜奈]](1月14日)・[[金子尚太郎]](1月20日)・[[塩野魁土]](1月20日)・[[野村涼乃]](1月27日)・[[伊倉愛美]](2月4日)・[[市川美織]](2月12日)・[[大野真緒]](3月1日)・[[川島海荷]](3月3日)・[[海老名航一]](3月7日)・[[川口翔平]](3月23日)・[[根岸紗里]](4月6日)[[小越勇輝]](4月8日)・[[エリー (ファッションモデル)|エリー]](4月13日)・[[堀本昂弥]](4月16日)・[[森下翔梧]](4月24日)・[[小野明日香]](4月26日)・[[大久保真美]](4月27日)・[[伊藤沙莉]](5月4日)・[[チアキ・レイシー]](5月10日)・[[一木有海]](5月25日)・[[島田智之介]](6月7日)・[[大崎望絵]](6月7日)・[[片岡涼乃]](6月11日)・[[加藤将太]](6月12日)・[[日高里菜]](6月15日)・[[渡辺悠]](7月3日)・[[石丸椎菜]](7月4日)・[[馬宮輝]](7月8日)・[[上仲百波]](7月8日)・[[山田エリヤス]](7月13日)・[[日向滉一]](7月18日)・[[矢嶋源]](7月25日)・[[木内梨生奈]](7月26日)・[[村瀬継太]](7月28日)・[[志村勇人]](8月2日)・[[福田麻由子]](8月4日)・[[菅大輝 (俳優)|菅大輝]](8月6日)・[[柏幸奈]](8月12日)・[[川村愛美]](9月3日)・[[福地亜紗美]](9月6日)・[[奈木野美樹]](9月7日)・[[岡田尚太郎]](9月11日)・[[大橋彩香]](9月13日)・[[萩野伶菜]](9月24日)・[[山口隼人 (キャロット)|山口隼人]](10月1日)・[[大窪汐里]](10月3日)・[[大窪凪沙]](10月3日)・[[山崎奈々]](10月13日)・[[須賀健太]](10月19日)・[[尾崎碧里]](10月31日)・[[川島如恵留]](11月22日)・[[鈴木愛里]](12月15日)・[[村崎真彩]](12月20日)・[[細山貴嶺]](12月22日)・[[志村玲那]](12月28日)
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|[[1995年]]||[[松原味椰緋]](1月16日)・[[星奈々 (女優)|星奈々]](1月19日)・[[木村遼希]](2月1日)・[[守山玲愛]](2月9日)・[[彩夢]](2月13日)・[[松岡茉優]](2月16日)・[[鈴木瑠華]](2月24日)・[[藤本七海]](2月27日)・[[荒井萌]](3月3日)・[[細川藍]](3月5日)・[[有安杏果]](3月15日)・[[瑛茉ジャスミン]](3月16日)・[[高木優希]](3月21日)・[[森本龍太郎]](4月6日)・[[櫻木麻衣羅]](4月6日)・[[木村飛影]](4月12日)・[[斉藤晶]](4月19日)・[[浅黄理紗]](4月24日)・[[榊原美紅]](4月26日)・[[木咲樹音]](4月28日)・[[ローズむさし]](5月7日)・[[溝口琢矢]](5月9日)・[[鈴木達也 (俳優)|鈴木達也]](5月21日)・[[守屋亨香]](5月22日)・[[小関裕太]](6月8日)・[[玉井詩織]](6月8日)・[[影山樹生弥]](6月14日)・[[平岡大樹 (俳優)|平岡大樹]](6月15日)・[[川原彩]](6月19日)・[[永嶌花音]](6月21日)・[[上田ナナ]](6月29日)・[[松尾薫 (女優)|松尾薫]](7月8日)・[[林愛夏]](7月14日)・[[笠原拓巳]](7月25日)・[[角池恵里菜]](7月31日)・[[八木アリサ]](7月31日)・[[槇岡瞭介]](8月1日)・[[瑠璃奈]](8月6日)・[[加藤優磨]](8月8日)・[[成田翔吾]](8月8日)・[[小倉唯]](8月15日)・[[竹村翔]](8月26日)・[[神元結莉]](8月28日)・[[千葉翔也]](8月29日)・[[鈴木理子 (ホリプロ)|鈴木理子]](9月1日)・[[細田羅夢]](9月5日)・[[藤原薫 (俳優)|藤原薫]](9月6日)・[[渡辺友裕]](9月8日)・[[小代優華]](9月10日)・[[笘篠和馬]](9月10日)・[[小清水一揮]](9月13日)・[[大倉裕真]](9月18日)・[[高畑翼|髙畑翼]](9月30日)・[[奥ノ矢佳奈]](10月13日)・[[村山栞妃]](10月19日)・[[鈴木翔吾]](10月22日)・[[久保結季]](10月31日)・[[夏居瑠奈]](11月7日)・[[吉岡茉祐]](11月7日)・[[米本来輝]](11月16日)・[[藤井千帆]](11月8日)・[[工藤亜友]](11月24日)・[[鎗田晟裕]](11月27日)・[[水瀬いのり]](12月2日)・[[土屋匠]](12月6日)・[[郷田由芽]](12月13日)・[[斉藤光香]](12月18日)
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|[[1996年]]||[[佐藤彩香]](1月1日)・[[田島健吾]](1月16日)・[[湊谷愛優・真優]](1月24日)・[[熊谷知博]](2月3日)・[[千葉一磨]](2月12日)・[[高木李湖]](2月22日)・[[原風佳]](2月22日)・[[幸元しせら]](2月27日)・[[川口翔子]](3月11日)・[[菅光輝]](3月19日)[[松原菜野花]](4月2日)・[[石堂天山]](4月6日)・[[黒沢ともよ]](4月10日)・[[下山葵]](4月16日)・[[大谷玲凪]](4月20日)・[[武藤彩未]](4月29日)・[[宮武美桜]](5月11日)・[[山辺悠太]] (5月13日)・[[冨澤風斗]](5月17日)・[[島田翼]](5月18日)・[[齊藤稜駿]](5月19日)・[[佐々木彩夏]](6月11日)・[[小島あやめ]](6月16日)・[[上野一舞]](6月17日)・[[三吉彩花]](6月18日)・[[矢口蒼依]](6月27日)・[[本城雄太郎]](6月27日)・[[森永悠希]](6月29日)・[[鎌田拓充]](7月8日)・[[加藤ジーナ]](7月18日)・[[伊藤涼太 (俳優)|伊藤涼太]](8月2日)・[[深澤嵐]](8月3日)・[[遼花]](8月8日)・[[石田佳蓮]](8月10日)・ [[吉野翔太]](8月10日)・[[脇菜々香]](8月10日)・[[小杉茂一郎]](8月15日)・[[坂野真弥]](8月22日)・[[松田昂大]](8月23日)・[[工藤万実]](8月28日)・[[植田大輝]](9月4日)・[[荒井健太郎]](9月9日)・[[金井美樹 (1996年生)|金井美樹]](9月10日)・[[金子雄]](9月14日)・[[鍋本帆乃香]](9月15日)・[[島ゆいか]](9月20日)・[[兼尾瑞穂]](9月28日)・[[綾野堯]](9月29日)・[[重本ことり]](10月5日)・[[田中ひかり]](10月6日)・[[野村純花]](10月14日)・[[野村飛鳥]](10月14日)・[[小林廉]](10月22日)・[[朝日梨帆]](10月25日)・[[兵頭拓海]](11月5日)・[[馬場有加]](11月8日)・[[長島弘宜]](11月9日)・[[橋口恵莉奈]](11月18日)・[[上原陸]](11月23日)・[[安田美香 (子役)|安田美香]](12月1日)・[[広田亮平]](12月4日)・[[美山加恋]](12月12日)・[[岩本海]](12月13日)・[[齋藤隆成]](12月18日)・[[松原恋]](12月18日)・[[荒木次元]](12月26日)
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|[[1997年]]||[[澤畠流星]](1月3日)・[[田中明 (女優)|田中明]](1月12日)・[[黒岩伶奈]](1月19日)・[[生田絵梨花]](1月22日)・[[鵜澤正太郎]](1月22日)・[[夏目卓実]](1月22日)・[[畠山真莉愛]](1月22日)・[[宮本侑芽]](1月22日)・[[南川ある]](1月27日)・[[メロディー・チューバック]](1月29日)・[[斎藤ちはる]](2月17日)・[[新見紗央]](2月21日)・[[市川苑実]](2月22日)・[[藤津摩衣]](2月22日)・[[渡部駿太]](3月6日)・[[矢作穂香]](3月7日)・[[荒原美咲]](4月5日)・[[後藤翼ジェニー]](4月9日)・[[田口司]](4月9日)・[[川村広輝]](4月10日)・[[日下翔平 (子役)|日下翔平]](4月12日)・[[土橋晶]](4月17日)・[[望月菜美子]](4月18日)・[[今田萌]] (5月8日)・[[神林秀太]](5月9日)・[[平本亜夢]](5月9日)・[[矢野太一]](5月17日)・[[ささの貴斗]](5月20日)・[[瀬上祐輝]](5月23日)・[[リンカ・オーエン]](5月25日)・[[小川八起]](6月5日)・[[小倉史也]](6月10日)・[[村山彩希]](6月15日)・[[小杉彩人]](6月27日)・[[桑代貴明]](7月13日)・[[橋本来留美]](7月14日)・[[田中碧海]](7月19日)・[[アリエル (タレント)|アリエル]](7月27日)・[[奈良瞳]](7月29日)・[[アヤカ・ウィルソン]](8月3日)・[[松浦愛紗]](8月6日)・[[藤井結夏]](8月7日)・[[我妻泰熙]](8月9日)・[[高月彩良]](8月10日)・[[江原省吾]](8月22日)・[[中村あやの]](8月25日)・[[巨勢晴香]](9月4日)・[[日向ななみ]](9月9日)・[[森迫永依]](9月11日)・[[井家良輔]](9月12日)・[[千葉里奈]](9月12日)・[[岡田佑太]](9月17日)・[[木村優斗]](9月22日)・[[武井証]](9月23日)・[[渡辺崇人]](9月28日)・[[杉咲花]](10月2日)・[[菅龍生]](10月5日)・[[清水萌々子]](10月9日)・[[清水爽香]](10月15日)・[[吉川史樹]](10月18日)・[[北村匠海]](11月3日)・[[神谷涼太]](11月6日)・[[佐々木李子]](11月10日)・[[平田真優香]](11月19日)・[[植田佑紀]](11月21日)・[[沢木ルカ]](11月23日)・[[竹内朱莉]](11月23日)・[[森下瑠子]](11月27日)・[[中元すず香]](12月20日)
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|[[1998年]]||[[佐藤未来]](1月1日)・[[矢部昌暉]](1月9日)・[[風戸蘭七]](1月11日)・[[水本凜]](1月11日)・[[杉本佳宣]](1月16日)・[[松本花奈]](1月24日)・[[木島杏奈]](1月29日)・[[眞木めい]](1月29日)・[[向井地美音]](1月29日)・[[高橋斗亜]](2月2日)・[[古田大虎]](2月2日)・[[今泉野乃香]](2月6日)・[[椿泰我]](2月10日)・[[若山詩音]](2月10日)・[[平岡拓真]](2月19日)・[[松尾瑠璃]](3月6日)・[[吉田翔 (俳優)|吉田翔]](3月9日)・[[宮脇咲良]](3月19日)・[[田中龍]](4月3日)・[[土肥徹平]](4月4日)・[[鈴木宗太郎]](4月5日)・[[松本梨菜]](4月7日)・[[星ひなの]](4月7日)・[[柴井伶太]](4月15日)・[[中村咲哉]](4月19日)・[[木村遼]](4月28日)・[[堀内まり菜]](4月29日)・[[伊藤綺夏]](5月1日)・[[上妻成吾]](5月10日)・[[岩田華怜]](5月13日)・[[小川光樹]](5月21日)・[[與那覇結衣]](5月21日)・[[空閑琴美]](6月1日)・[[佐藤涼平]](6月5日)・[[飯塚萌木]](6月11日)・[[新志穂]](6月12日)・[[中川大志 (俳優)|中川大志]](6月14日)・[[中上海輔]](6月26日)・[[葵わかな]](6月30日)・[[石原涼太郎]](7月1日)・[[本間友紀乃]](7月4日)・[[小野花梨]](7月6日)・[[西山潤]](7月12日)・[[松野莉奈]](7月16日)・[[堀江晶太 (子役)|堀江晶太]](7月22日)・[[高坂真琴 (子役)|高坂真琴]](7月24日)・[[渡邊亮仁]](7月31日)・[[齋藤飛鳥]](8月10日)・[[あかり (タレント)|あかり]](8月14日)・[[大朏岳優]](8月18日)・[[福原遥]](8月28日)・[[芳野英一]](9月17日)・[[仲條友彪]](9月18日)・[[根岸結衣 (子役)|根岸結衣]](9月18日)・[[河口瑛将]](10月6日)・[[恒松祐里]](10月9日)・[[林凌雅]](10月12日)・[[綾部守人]](10月19日)・[[照井宙斗]](10月25日)・[[小野ひまわり]](10月27日)・[[工藤あかり]](11月1日)・[[岩崎響]](11月2日)・[[鈴木理子 (キリンプロ)|鈴木理子]](11月9日)・[[嘉数一星]] (11月12日)・[[畠山紫音]](11月14日)・[[私市夢太]](12月6日)・[[稲田賢人]](12月19日)・[[梅澤太一]](12月21日)・[[小林翼]](12月24日)・[[今井悠貴]](12月30日)・[[平野道彦]](12月31日)
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|[[1999年]]||[[菊池和澄]](1月10日)・[[梅原真子]](1月11日)・[[松岡日菜]](1月11日)・[[安彦統賀]](1月16日)・[[市川理矩]](1月24日)・[[内田流果]](1月27日)・[[橋本環奈]](2月3日)・[[松元環季]](2月7日)・[[小室優太]](2月13日)・[[朝倉ふゆな]](2月19日)・[[西嶋一八]](2月24日)・[[萩原利久]](2月28日)・[[粟生睦未]](3月13日)・[[西本利久]](3月16日)・[[清水イブキ]](3月20日)・[[松浦寿來]](4月11日)・[[吉井一肇]](4月13日)・[[北村一葉]](4月15日)・[[栃尾悠介]](4月16日)・[[中嶋春陽]](4月17日)・[[谷山毅]](4月18日)・[[郷田芽瑠]](4月20日)・[[諸星すみれ]](4月23日)・[[宮城孔明]](5月6日)・[[大橋のぞみ]](5月9日)・[[高橋奈々]](5月9日)・[[白坂奈々]](5月14日)・[[中野澪]](5月15日)・[[片貝健志]](5月21日)・[[飯野茉優]](5月23日)・[[彩田真鈴]](5月23日)・[[柳下花恋]](5月23日)・[[流川ゆうり]](5月29日)・[[小倉優佳]](5月31日)・[[佐々木麻緒]](6月1日)・[[宮武祭]](6月1日)・[[北山伊万里]](6月13日)・[[北山向日葵]](6月13日)・[[田中冴樹]](6月16日)・[[高柳樹莉亜]](6月17日)・[[渡邉甚平]](6月19日)・[[水野由結]](6月20日)・[[青木珠菜]](6月25日)・[[室井響]](6月30日)・[[芳之内優花]](7月2日)・[[阿部考将]](7月3日)・[[大森絢音]](7月3日)・[[菊地最愛]](7月4日)・[[山之井歩]](7月5日)・[[野沢芽生]](7月22日)・[[遠藤由実]](7月26日)・[[荒川ちか]](7月29日)・[[甲地夏波]](7月29日)・[[宇佐美魁人]](8月2日)・[[嶋田龍]](8月2日)・[[永山菜々]](8月2日)・[[岩本千波]](8月3日)・[[土井洋輝]](8月10日)・[[奈木野聖也]](8月10日)・[[渡辺魁士]](8月19日)・[[平野孝世]](8月20日)・[[田辺桃子]](8月21日)・[[柴田杏花]](8月30日)・[[笠菜月]](8月31日)・[[高橋晃]](9月9日)・[[内田伽羅]](9月16日)・[[飛田光里]](9月19日)・[[永野芽郁]](9月24日)・[[浅見姫香]](9月26日)・[[吉川愛]](10月28日)・[[海宝真珠]](10月29日)・[[浦上晟周]](11月23日)・[[澤田真里愛]](12月2日)・[[茅建厚]](12月4日)・[[武田璃斗]](12月12日)・[[野津友那乃]](12月14日)・[[ならゆりあ]](12月21日)・[[紅甘]](12月29日)
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;[[2000年代]]生まれ
{| class="wikitable"
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|[[2000年]]||[[荒木博斗]](1月10日)・[[阿部紗英]](1月11日)・[[久保田紗友]](1月18日)・[[児玉萌々]](1月24日)・[[田中偉登]](1月24日)・[[星野亜門]](2月1日)・[[斎藤アリーナ]](2月3日)・[[杉浦花菜]](2月3日)・[[森田想]](2月11日)・[[大出菜々子]](2月13日)・[[太田力斗]](2月15日)・[[羽鳥世那]](2月15日)・[[鷲田詩音]](2月21日)・[[上白石萌歌]](2月28日)・[[片岡千之助]](3月1日)・[[藤崎直]](3月2日)・[[松田亜美 (子役)|松田亜美]](3月2日)・[[田口華]](3月4日)・[[武田航介]](3月8日)・[[渡邊璃生]](3月8日)・[[川嶋紗南]](3月10日)・[[松浦未唯]](3月14日)・[[小田切美織]](3月18日)・[[朝田帆香]](3月23日)・[[松島海斗]](3月29日)・[[長谷川ニイナ]](3月31日)・[[武藤愛莉]](4月3日)・[[石井蒼月]](4月7日)・[[山田海遊]](4月7日)・[[岡田結実]](4月15日)・[[嶋村るい]](4月18日)・[[樋渡結依]](4月30日)・[[大前喬一]](5月4日)・[[三好杏依]](5月8日)・[[湯山敦紀]](5月11日)・[[谷藤力紀]](5月15日)・[[勝隆一]](5月19日)・[[澁谷武尊]](5月20日)・[[玉水友哉]](5月22日)・[[工藤優]](6月2日)・[[渡邉奏人]](6月16日)・[[熊谷瑠衣]](6月24日)・[[飯塚百花]](6月29日)・[[小俣絵里佳]](7月5日)・[[佐藤佳奈子]](7月8日)・[[樽本真生夏]](8月2日)・[[濱田龍臣]](8月27日)・[[浜辺美波]](8月29日)・[[大八木凱斗]](8月31日)・[[小西結子]](8月31日)・[[飯野芹菜]](9月17日)・[[川口和宥]](9月21日)・[[大江駿輔]](9月27日)・[[吉岡竜輝]](10月15日)・[[八木優希]](10月16日)・[[明野響香]](10月18日)・[[鏑木海智]](10月18日)・[[上田瑠星]](10月23日)・[[高須瑠香]](10月24日)・[[くしなあゆ]](兼崎杏優)(11月5日)・[[中島凱斗]](11月9日)・[[岡亮]](11月15日)・[[高村竜馬]](11月15日)・[[大谷優希]](11月18日)・[[永峯海大]](11月21日)・[[小宮明日翔]](11月24日)・[[鍋本凪々美]](12月3日)・[[前田旺志郎]](12月7日)・[[當銘竜基]](12月9日)・[[坂田惟仁]](12月12日)・[[清水優哉]](12月18日)・[[須賀さくら]](12月18日)・[[小島涼]](12月19日)・[[渋谷龍生]](12月21日)・[[渋谷樹生]](12月21日)・[[仲川みきえ]](12月28日)
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|[[2001年]]||[[若林瑠星]](1月6日)・[[植田紗帆]](1月7日)・[[山田杏奈]](1月8日)・[[古和咲紀]](1月9日)・[[清水錬]](1月15日)・[[細田龍之介]](1月16日)・[[鎗田千裕]](1月19日)・[[小林正宗]](1月21日)・[[木村真那月]](1月25日)・[[永井穂花]](1月29日)・[[春名風花]](2月4日)・[[野田琴乃]](2月22日)・[[久間田琳加]](2月23日)・[[伊澤柾樹]](3月6日)・[[林遼威]](3月8日)・[[小宮りりか]](3月22日)・[[岡田衣桜]](3月30日)・[[新倉滉祐]](4月11日)・[[原瑞起]](4月17日)・[[香音]](4月20日)・[[橋本仰未]](4月25日)・[[平野心暖]](4月30日)・[[浅水咲良]](5月1日)・[[野間斗晴]](5月18日)・[[黒澤美澪奈]](5月22日)・[[松浦愛弓]](6月3日)・[[宇都秀星]](6月17日)・[[矢吹奈子]](6月18日)・[[松田七星]](6月19日)・[[生月歩花]](7月2日)・[[五十嵐彩伽]](7月9日)・[[藤田悠希]](7月15日)・[[齋藤茉日]](7月17日)・[[熊田聖亜]](7月18日)・[[本田海青]](7月19日)・[[中尾美晴]](7月24日)・[[池田沙弥花]](7月31日)・[[岡花音]](8月1日)・[[加藤清史郎]](8月4日)・[[小林里乃]](8月4日)・[[佐藤詩音]](8月15日)・[[大沼柚希]](8月16日)・[[大野百花]](8月19日)・[[稲垣鈴夏]](8月23日)・[[関根航]](8月26日)・[[小島一華]](8月29日)・[[赤崎月香]](9月19)・[[大島璃生]](9月21日)・[[鯨井友羽]](10月16日)・[[秋元晏斗玲]](10月17日)・[[下江梨菜]](10月25日)・[[加藤翼 (子役)|加藤翼]](10月28日)・[[丸山歩夢]](11月2日)・[[福崎那由他]](11月5日)・[[坂口湧久]](11月7日)・[[岡部怜南]](11月22日)・[[藤井ゆりあ]](12月10日)・[[小林海人]](12月11日)・[[山下哲平]](12月18日)・[[後藤花怜]](12月29日)
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|[[2002年]]||[[池戸優音]](1月2日)・[[木内舞留]](1月3日)・[[竜跳]](1月5日)・[[渡辺優奈]](1月6日)・[[平松來馬]](1月12日)・[[山崎竜太郎]](1月21日)・[[谷端奏人]](1月27日)・[[風優]](1月30日)・[[井東紗椰]](2月2日)・[[荒井暖菜]](2月15日)・[[高橋美来]](2月27日)・[[辻村晃佑]](3月7日)・[[川島鈴遥]](3月17日)・[[佐々木りお]](3月25日)・[[渡辺哲史]](4月1日)・[[内田偉月]](4月5日)・[[清水らら]](4月6日)・[[畑芽育]](4月10日)・[[柴田花恋]](4月23日)・[[内村つぐみ]](4月25日)・[[山田萌々香]](5月2日)・[[須藤菜々子]](5月3日)・[[白本彩奈]](5月14日)・[[田口乙葉]](5月15日)・[[林鼓子]](5月15日)・[[二宮星]](5月19日)・[[村山蒼也]](6月7日)・[[畠山彩奈]](6月20日)・[[大和田萌]](6月27日)・[[南叫]](6月30日)・[[北村燦來]](7月2日)・[[大村らら]](7月3日)・[[伊藤星]](7月8日)・[[下田翔大]](7月9日)・[[池間夏海]](7月10日)・[[菊池銀河]](7月15日)・[[豊田留妃]](7月17日)・[[須田理夏子]](7月20日)・[[大平ひかる]](7月23日)・[[阿部夢梨]](7月29日)・[[石黒未奈]](7月31日)・[[蒔田彩珠]](8月7日)・[[玉山詩]](9月1日)・[[佐藤光将]](9月18日)・[[三木理紗子]](9月26日)・[[志田弦音]](10月11日)・[[竹山ひすい]](10月17日)・[[熊田胡々]](11月8日)・[[椙杜翔馬]](11月16日)・[[山田瑛瑠]](11月18日)・[[相澤侑我]](12月2日)・[[春名柊夜]](12月6日)・[[中村柊芽]](12月11日)・[[石井萌々果]](12月19日)・[[桜田ひより]](12月19日)・[[杉山優奈]](12月20日)・[[石倉未悠]](12月26日)・[[守殿愛生]](12月28日)・[[知念輝]](12月30日)
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|[[2003年]]||[[山口康智]](1月15日)・[[吉澤太陽]](1月19日)・[[巨勢竜也]](2月6日)・[[瀧澤翼]](3月2日)・[[松本春姫]](3月11日)・[[小松穂葉]](3月12日)・[[森くれあ]](3月12日)・[[吉井乃歌]](3月19日)・[[石田竜輝]](4月11日)・[[澤田萌音]](4月12日)・[[土師野隆之介]](4月19日)・[[山岡愛姫]](4月19日)・[[清水詩音]](4月21日)・[[里村洋]](4月22日)・[[岩崎春果]](4月26日)・[[原田史葉]](4月27日)・[[内田愛]](5月4日)・[[磯野光沙]](5月8日)・[[矢部光祐]](5月13日)・[[込江海翔]](6月9日)・[[加部亜門]](6月11日)・[[高橋萌衣]](6月18日)・[[浅水楓]](6月20日)・[[藤本哉汰]](7月14日)・[[庵原涼香]](7月25日)・[[松本来夢]](7月31日)・[[藤野大輝]](8月7日)・[[長島暉実]](8月8日)・[[若山耀人]](8月13日)・[[上垣ひなた]](8月23日)・[[原菜乃華]](8月26日)・[[柳町夏花]](9月18日)・[[新名星花]](9月21日)・[[伊東心愛]](10月1日)・[[毛利恋子]](10月20日)・[[小泉諒河]](10月21日)・[[春日香音]](11月1日)・[[市川優月]](11月2日)・[[畠山紬]](11月12日)・[[延命杏咲実]](11月15日)・[[篠田涼也]](12月4日)・[[奥田こころ]](12月5日)・[[山﨑光]](12月10日)・[[鈴木太陽]](12月19日)・[[寺西美柚]](12月22日)・[[荒井佑奈]](12月25日)
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|[[2004年]]||[[笹岡ひなり]](1月25日)・[[辺土名茶三海]](1月30日)・[[行木瀬声]](2月7日)・[[藤原フミヤ]](2月12日)・[[佳音]](2月16日)・[[飯島緋梨]](2月20日)・[[松浦妃杏]](2月23日)・[[久家心]](3月11日)・[[黒田博之]](3月18日)・[[濱田ここね]](3月31日)・[[吉岡千波]](4月2日)・ [[錦辺莉沙]](4月9日)・[[最上友太朗]](4月10日)・[[橋本智哉]](4月15日)・[[柿原りんか]](5月1日)・[[荒田悠良]](5月4日)・[[谷花音]](5月4日)・[[名波海紅]](5月8日)・[[奥森皐月]](5月9日)・[[本田望結]](6月1日)・[[杉浦碧]](6月4日)・[[丹野莉恩]](6月5日)・[[鈴木福]](6月17日)・[[有永雅久]](6月19日)・[[内川蓮生]](6月22日)・[[田中理勇]](6月22日)・[[芦田愛菜]](6月23日)・[[石井心愛]](7月6日)・[[近貞月乃]](7月11日)・[[高木星来]](7月13日)・[[西條妃華]](7月20日)・[[久保井七豊]](7月23日)・[[笹原尚季]](7月25日)・[[三澤瑠斗]](7月26日)・[[山田望叶]](8月11日)・[[佐藤瑠生亮]](8月12日)・[[原見朋花]](8月25日)・[[彩島りあな]](8月30日)・[[木村聖哉]](9月10日)・[[森太陽]](9月11日)・[[市村涼風]](9月25日)・[[小林星蘭]](9月25日)・[[福嶌紗英]](9月29日)・[[高澤父母道]](10月21日)・[[中尾壮位]](11月8日)・[[馬渕誉]](11月20日)・[[森萌々穂]](12月8日)・[[小澤竜心]](12月13日)・[[杉本瑛]](12月20日)・[[山田日向]](12月20日)
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|[[2005年]]||[[鈴木梨央]](2月10日)・[[大西統眞]](2月21日)・[[中村世渚]](3月4日)・[[信太真妃]](3月7日)・[[藤澤遥]](3月20日)・[[辻口由奈]](4月7日)・[[原涼子]](4月27日)・[[阪本光希]](5月6日)・[[阪本颯希]](5月6日)・[[庄司龍成]](5月10日)・[[秋元黎]](5月14日)・[[井上華月]](5月19日)・[[橋爪龍]](5月23日)・[[山時聡真]](6月6日)・[[福田美姫]](6月30日)・[[舞優]](7月6日)・[[南出凌嘉]](8月10日)・[[奥田いろは]](8月20日)・[[一誠]](9月24日)・[[牧野羽咲]](9月26日)・[[遠藤璃菜]](10月4日)・[[宮坂美里]](10月11日)・[[田辺まり]](10月19日)・[[小林花音]](10月20日)・[[森川こころ]](11月2日)・[[小林颯]](11月12日)・[[山田美紅羽]](11月14日)・[[溝口怜冴]](11月23日)・[[須田琉雅]](12月5日)・[[水野哲志]](12月6日)
|-
|[[2006年]]||[[甲斐恵美利]](1月6日)・[[田中奏生]](1月25日)・[[幸田雛子]](3月24日)・[[黒澤宏貴]](4月15日)・[[篠川桃音]](4月15日)・[[大西利空]](5月16日)・[[佐々木ゆら]](6月3日)・[[大庭愛未]](6月6日)・[[君野夢真]](6月15日)・[[酒井彩音]](7月18日)・[[渡邉このみ]](7月25日)・[[トンプソン・アイミ]](8月1日)・[[田牧そら]](8月2日)・[[野原璃乙]](8月2日)・[[松田知己 (子役)|松田知己]](8月2日)・[[二宮慶多]](8月13日)・[[小美野来希]](9月10日)・[[新井美羽]](9月17日)・[[鈴木夢]](9月30日)・[[佐藤芽]](10月24日)・[[栗本有規]](12月25日)
|-
|[[2007年]]||[[榎本泰貴]](2月4日)・[[若林瑠海]](2月10日)・[[志村美空]](2月16日)・[[堰沢結衣]](2月17日)・[[安藤美優]](2月28日)・[[柿澤仁誠]](3月9日)・[[稲垣芽生]](3月19日)・[[豊嶋花]](3月27日)・[[本田紗来]](4月4日)・[[森﨑美月]](4月9日)・[[須田瑛斗]](4月26日)・[[井上琳水]](6月16日)・[[中藪昭成]](6月22日)・[[羽村仁成]](7月15日)・[[安生悠璃菜]](7月19日)・[[加藤憲史郎]](7月19日)・[[高嶋琴羽]](8月26日)・[[熊谷俊輝]](9月18日)・[[平澤宏々路]](9月21日)・[[大山蓮斗]](12月21日)
|-
|[[2008年]]||[[菊地慶]](3月6日)・[[横溝菜帆]](3月27日)・[[住田萌乃]](3月29日)・[[柴崎楓雅]](4月22日)・[[今井暖大]](5月9日)・[[櫻井佑音]](5月9日)・[[寺田心]](6月10日)・[[川島夕空]](6月20日)・[[横山歩]](7月31日)・[[石井心咲]](8月20日)・[[土屋希乃]](8月25日)・[[矢村央希]](8月31日)・[[土方エミリ]](9月9日)・[[伊藤栞穂]](10月5日)・[[清水香帆]](10月12日)・[[元倉あかり]](10月18日)・[[アイラ・サマーヘイズ]](11月24日)・[[小菅汐梨]](12月15日)・[[垂水文音]](12月31日)
|-
|[[2009年]]||[[込江大牙]](1月5日)・[[西澤愛菜]](1月8日)・[[大角ゆき]](1月10日)・[[五十嵐陽向]](1月30日)・[[髙橋來]](2月4日)・[[外川燎]](2月13日)・[[川北のん]](3月3日)・[[石田星空]](5月8日)・[[矢崎由紗]](5月20日)・[[中野遥斗]](6月4日)・[[ギラルド沙羅]](7月21日)・[[須田理央]](7月29日)・[[渡邊杏奈]](7月29日)・[[鎌田英怜奈]](9月1日)・[[山口太幹]](9月2日)・[[筧礼]](9月7日)・[[黒川想矢]](12月5日)・[[国本姫万里]](12月30日)
|}
;[[2010年代]]生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[2010年]]||[[永山椿]](1月12日)・[[中島琴音]](1月13日)・[[白鳥玉季]](1月20日)・[[田村優祈]](2月11日)・[[斎藤汰鷹]](2月13日)・[[飯尾夢奏]](3月2日)・[[村山輝星]](4月8日)・[[市川右近 (2代目)|市川右近]](4月18日)・[[新津ちせ]](5月23日)・[[松尾そのま]](5月26日)・[[松浦理仁]](6月13日)・[[粟野咲莉]](6月24日)・[[新井琉月]](6月28日)・[[岩田琉聖]](9月7日)・[[高松咲希]](9月23日)・[[伊藤駿太 (俳優)|伊藤駿太]](10月25日)・[[小畑乃々]](10月26日)・[[青山らら]](11月3日)・[[高木美嘉]](11月23日)・[[阿久津慶人]](12月24日)・[[古川凛]](12月24日)
|-
|[[2011年]]||[[稲垣来泉]](1月5日)・[[志水透哉]](1月18日)・[[松田芹香]](2月9日)・[[倉持春希]](2月28日)・[[清水美怜]](3月18日)・[[盛永晶月]](4月8日)・[[小林優仁]](4月25日)・[[野澤しおり]](5月9日)・[[佐々木みゆ]](6月21日)・[[藤原聖]](7月16日)・[[川北れん]](8月3日)・[[柊木陽太]](9月10日)・[[竹野谷咲]](9月15日)・[[毎田暖乃]](9月25日)・[[庄野凛]](9月27日)・[[早坂ひらら]](10月8日)・[[嶺岸煌桜]](10月8日)・[[岡本望来]](10月13日)・[[今野斗葵]](11月3日)・[[青木遥]](12月3日)・[[井川梨愛]](12月8日)
|-
|[[2012年]]||[[保榮茂愛]](1月25日)・[[山崎莉里那]](2月7日)・[[湯川颯]](2月12日)・[[鳥越壮真]](2月18日)・[[香月萌衣]](2月26日)・[[増田光桜]](3月8日)・[[川瀬翠子]](3月26日)・[[田中レイ]](5月12日)・[[正垣湊都]](5月15日)・[[白山乃愛]](7月11日)・[[中村優月]](8月22日)・[[尾上眞秀]](9月11日)・[[宮島さゆき]](11月17日)・[[大野さき]](12月9日)
|-
|[[2013年]]||[[アナスタシア・シガ]](1月10日)・[[渡邊詩]](1月31日)・[[小松ハンナ]](5月4日)・[[諏訪結衣]](5月31日)・[[鈴木楽]](6月28日)・[[田中乃愛]](7月9日)・[[川原瑛都]](8月2日)・[[大熊大貴]](8月10日)・[[阿部久令亜]](9月26日)・[[増田梨沙]](10月22日)・[[鈴木かつき]](12月16日)
|-
|[[2014年]]||[[落井実結子]](3月14日)・[[高木波瑠]](4月1日)・[[マイカ・ピュ]](6月20日)・[[野田あかり]](11月22日)
|-
|[[2015年]]||[[武石桜華]](4月8日)・[[アレン明亜莉クレア]](6月2日)・[[加藤柚凪]](6月13日)・[[鈴木誉]](12月17日)
|}
== アメリカ合衆国の子役・子役出身者 ==
{{Anchors|テンプル1939}}[[ファイル:Little Princess 4.JPG|thumb|280px|[[ハリウッド]]女優[[シャーリー・テンプル]]の子役時代(中央)/1939年製アメリカ映画『[[テンプルちゃんの小公女]]』の一場面で、撮影時は10~11歳であった。|alt=ハリウッド女優シャーリー・テンプルの子役時代の写真。1939年製アメリカ映画『[[テンプルちゃんの小公女]]』の一場面(テンプルの演じる少女サラが誕生日を皆に囲まれて楽しんでいる場面)で、撮影時は10~11歳であった。]]
=== 起用 ===
アメリカの大手のタレントエージェンシーには専門の子役部門が設置されている場合がある<ref name="unijapan">{{Cite web|和書|author=高田ゆみ|url=https://www.unijapan.org/producer/pdf/producer_308.pdf|title=平成22年度コンテンツ産業人材発掘・育成事業(有望若手映像等人材海外研修事業)プロデューサーカリキュラム|publisher=公益財団法人 ユニジャパン|accessdate=2020-06-30}}</ref>。
アメリカでは18歳未満の役者を起用する場合は各州で定められた労働局規定に従う必要がある<ref name="unijapan" />。1日当たりの就労時間、食事時間や勉強時間、休み時間などは、年齢に応じて定められている<ref name="unijapan" />。撮影現場では州から認定を受けたスタジオティーチャーを雇い、その教師が子どもに対する待遇、勉強時間や休憩時間の順守について監視する役目を担う<ref name="unijapan" />。
18歳未満の役者を起用する場合、未成年の役者は、学校からの最新の成績表や学校からの許可を証明する書類を州の労働局に提出し、仕事に就く日までにエンタテインメント用労働許可書を取得しなければならない<ref name="unijapan" />。
未成年者を雇う製作会社側も、労働局の未成年者雇用の許可を取得し雇用保険も用意しなければならない<ref name="unijapan" />。
[[アメリカ合衆国]]では、州によって差はあるものの、[[映画産業]]の盛んな州でも撮影現場にいることのできる時間に制限が設けられているケースが多い<ref name=Yahoo_20170305>{{Cite news |和書 |author=猿渡由紀 |date=2017-03-05 |title=「東京すみっこごはん」騒動:ハリウッドで子役はどのように扱われているのか |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20170305-00068370 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] |newspaper=[[Yahoo!ニュース]] |accessdate=2017-03-05 }}</ref>。そのことへの対応策として、一つの役に[[双生児|双子]]を交代で起用するなどの方法も用いられている{{r|Yahoo_20170305}}。
なお、カリフォルニア州など多くの州では、18歳未満の子役は「クーガンアカウント」という銀行口座を持っていなればならず、報酬総額の15%がその口座に直接送金され成人するまで保護されるシステムになっている<ref name="unijapan" />。
=== 一覧 ===
<div style="font-size:80%;border:1px solid #ddd;padding:0.5em" class="metadata">
'''編集者の方へ:'''この項目での人名は'''誕生日順'''で並んでいます。議論は[[ノート:子役|ノート]]で。
'''編集者の方へ:'''リストに追加する際は記事が存在する人物のみにしてください。また、記事が削除となって赤リンクになった際には名前を除去してください。説明は[[ノート:子役#赤リンク人名|ノート]]に記してあります。
</div>
{{節スタブ}}<!--「〇〇年代生まれ」の続く年代も含めて。-->
* 子役の一覧(英語版)[[:en:List of child actors]]
;1940年以前生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1905年]]||{{仮リンク|マグダ・フォイ|en|Magda Foy}}(7月13日)<ref group="注">[[サイレント映画]]時代を代表する子役で、「ザ・ソラックス・キッド (The Solax Kid)」の二つ名でも知られる。活動期間は1910年から1913年まで。</ref><!--※赤インクですが、記載されるべき重要人物です。-->
|-
|[[1908年]]|| [[リタ・グレイ]](4月15日)<ref group="注">[[チャールズ・チャップリン]]のサイレント映画『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年公開)で、黎明期における子役スターの一人となった。</ref>
|-
| [[1914年]]|| [[ジャッキー・クーガン]](10月26日)<ref group="注">チャールズ・チャップリンのサイレント映画『キッド』(1921年公開)で、黎明期における子役スターの一人となった。[[クーガン法]]の成立でも後世に大きな影響を与えている。■右列上段に[[#クーガン1921|画像]]あり。</ref>
|-
|[[1922年]]||[[ジュディ・ガーランド]](6月10日)
|-
|[[1923年]]||[[ローズ・マリー]](8月15日)
|-
|[[1925年]]||[[ドナルド・オコーナー]](8月28日)
|-
|[[1928年]]||[[シャーリー・テンプル]](4月23日)
|-
|[[1932年]]||[[ペギー・アン・ガーナー]](2月3日)・[[エリザベス・テイラー]](2月27日)
|-
| [[1937年]]||[[マーガレット・オブライエン]](1月15日)
|}
;1940年-1960年代生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1962年]]||[[ジョディ・フォスター]](11月19日)
|-
|[[1965年]]||[[ロバート・ダウニー・Jr]](4月4日)
|}
;1970年代生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1971年]]||[[コリー・フェルドマン]](7月16日)
|-
|[[1973年]]||[[ヘザー・オルーク]](12月27日)
|-
| [[1974年]]||[[クリスチャン・ベール]](1月30日)・ [[ホアキン・フェニックス]](10月28日)
|-
|[[1975年]]||[[ドリュー・バリモア]](2月22日)・[[トビー・マグワイア]](6月27日)・ [[ヘザー・オルーク]](12月27日)
|-
|[[1978年]]||[[ジュディス・バーシ]](6月6日)
|}
;1980年代以降生まれ
{| class="wikitable"
|-
|[[1980年]]||[[クリスティーナ・リッチ]](2月12日)・[[マコーレー・カルキン]](8月26日)・ [[アンナ・クラムスキー]](12月3日)
|-
|[[1981年]]||[[イライジャ・ウッド]](1月28日)・[[ジョセフ・ゴードン=レヴィット]](2月17日)・[[ナタリー・ポートマン]](6月9日)
|-
|[[1982年]]||[[キルスティン・ダンスト]](4月30日)・ [[ルーカス・ブラック]](11月29日)
|-
|[[1984年]]||[[スカーレット・ヨハンソン]](11月22日)
|-
|[[1986年]]||[[オルセン姉妹]] (6月13日)
|-
|[[1988年]]||[[ハーレイ・ジョエル・オスメント]](4月10日)
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Quotation|{{small|【閲覧者へ】「1900 - 1940年代生まれ」などと表示されている帯([[HyperText Markup Language|HTML]] div style のバー<!--※これって「バナー」でしょうかね? 違うと思うので「バー」と記しています。-->)の内部にある文に注釈が掛かっている場合、帯を開いておかないと「注釈」節からリンクされた所定に位置へ飛ぼうとしても飛べません。閉じたままではリンクが機能しません。2020年現在の状況としましては、「1900 - 1940年代生まれ」のみがその問題を抱えており、注釈の3・4・5が機能しません。}}}}
{{Reflist|group="注"}}
; 字引
{{Reflist|2|group="字引"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name=kb>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/子役-504967 |title=子役 |publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』、小学館『精選版 [[日本国語大辞典]]』、[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版、[[平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第2版 |accessdate=2019-09-10 }}</ref>
<ref name="kb_平百">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/子役-504967#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 |title=子役 |publisher=コトバンク |author=平凡社『世界大百科事典』第2版 |accessdate=2019-09-14 }}</ref>
<ref name="kb_子方_日国辞">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/子方-63557#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 |title=子方 |publisher=コトバンク |author=小学館『精選版 [[日本国語大辞典]]』 |accessdate=2019-09-14 }}</ref>
<ref name="kb_子方_平百">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/子方-63557#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 |title=子方 |publisher=コトバンク |author=平凡社『世界大百科事典』第2版 |accessdate=2019-09-14 }}</ref>
<ref name="kb_子方_MyPedia">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/子方-63557#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |title=子方 |publisher=コトバンク |author=平凡社『百科事典 [[マイペディア]]』 |accessdate=2019-09-14 }}</ref>
<ref name="kb_子方_林">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/子方-63557#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 |title=子方 |publisher=コトバンク |author=三省堂『[[大辞林]]』第3版 |accessdate=2019-09-14 }}</ref>
<ref name="kb_若衆方">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/若衆方-153884 |title=若衆方 |publisher=コトバンク |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』 |accessdate=2019-09-14 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[クーガン法]]
== 外部リンク ==
{{Wiktionary|子役}}
{{Commonscat|Child actors}}
* {{Cite web|和書|author=研究調整部 研究調整課 |date=2006-06-14 |title={{small|労働政策研究報告書No.62}} 諸外国における年少労働者の深夜業の実態についての研究 ―演劇子役等に従事する児童の労働の実態― |url=https://www.jil.go.jp/institute/reports/2006/062.html |publisher=独立行政法人 [[労働政策研究・研修機構]] (JILPT) |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-09-13 |ref=JILPT_20060614 }}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こやく}}
[[Category:子役|*]]
[[Category:子供]]
[[Category:俳優]]
[[Category:役]]
[[Category:児童福祉]]
|
2003-08-27T13:33:11Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%BD%B9
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14,198 |
少年向けアニメ
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少年向けアニメ(しょうねんむけアニメ)は、主に小学生~高校生が見ることを想定し、製作されたアニメのこと。お色気漫画や美少女ゲームを原作とした作品も多く、男性向けアニメと兼ねている作品も多い。
ギャグ漫画(ギャグアニメ)・スポーツ漫画・推理漫画・格闘漫画(バトル漫画・能力バトル漫画)・学園漫画・ラブコメディ(ハーレムアニメ)・ロボットアニメ、萌えアニメなどが少年向けアニメの大部分を占める。
おもに小学生向けの格闘・ロボットアニメなどは勧善懲悪の構図を継承する形で10代前後の主人公が正義の味方となり、悪の陣営の野望を打ち砕くための闘いを描く単純明快な構造を持っており、善悪の概念を明確に示すと共に少年の英雄願望を満足させるようになっている。また、闘いの中での仲間との友情や助け合いといった概念が盛り込まれることも多い。
少年向けのギャグアニメについては『うる星やつら』などの様にお色気描写などを含んだ作品を多く放送していた時期があったが、現在は規制の強化ゆえ、深夜帯への移行が進んでいる。
『週刊少年ジャンプ』(集英社)『週刊少年マガジン』(講談社)『週刊少年サンデー』(小学館)などに代表される少年漫画雑誌などを原作とするものが多いが、1990年代から『電撃文庫』(メディアワークス)・『富士見ファンタジア文庫』(富士見書房)・『角川スニーカー文庫』(角川書店)などに代表されるライトノベル作品を原作とするものも増えてきている。さらに、2000年代以降は、『D.C. 〜ダ・カーポ〜』シリーズや『うたわれるもの』、『リトルバスターズ!』などの美少女ゲームを原作とするものも増えており、少年向けのコミカライズや原作ソフトのクロスプラットフォーム化と連動した企画が行われている。
放送時間帯は民放の場合、かつては平日(または週末)の夕方・ゴールデンタイム、週末の午前中などの全日帯(参考:全日帯アニメ)が基本的であったが、2000年代以降は視聴者数減少に伴う制作会社の減収減益に加え、自主規制強化によって多くの作品が全日帯の放送基準に抵触するようになったことから、深夜に放送される作品(参考:深夜アニメ)や独立UHF放送局(参考:UHFアニメ)の深夜帯で放送される作品がほとんどを占めるようになった。その為、民放で全日帯に放送されるアニメはテレビ東京系列を除いて減少傾向である。そのテレビ東京が製作した作品は、地上波系列では全日でも、BSテレ東では深夜枠に編成されている作品が幾つかある。
一般的に男児向けアニメが児童向け漫画雑誌が原作になる事が多く、玩具や商品の宣伝が目的でタイアップする事が多いが、少年向けアニメは週刊少年漫画雑誌やライトノベル、コンピュータゲームが原作になる事が多い。
男児向けアニメ同様、かつては玩具や商品の宣伝が目的が大半を占めていたが、2000年代になってからは玩具の販促を目的とするアニメは減少傾向であり、代わって男性向けアニメ同様にDVDなどのビデオソフトや書籍、ゲームソフトの販売を主眼に置いたアニメが増加傾向にある。
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"text": "おもに小学生向けの格闘・ロボットアニメなどは勧善懲悪の構図を継承する形で10代前後の主人公が正義の味方となり、悪の陣営の野望を打ち砕くための闘いを描く単純明快な構造を持っており、善悪の概念を明確に示すと共に少年の英雄願望を満足させるようになっている。また、闘いの中での仲間との友情や助け合いといった概念が盛り込まれることも多い。",
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"text": "少年向けのギャグアニメについては『うる星やつら』などの様にお色気描写などを含んだ作品を多く放送していた時期があったが、現在は規制の強化ゆえ、深夜帯への移行が進んでいる。",
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"text": "『週刊少年ジャンプ』(集英社)『週刊少年マガジン』(講談社)『週刊少年サンデー』(小学館)などに代表される少年漫画雑誌などを原作とするものが多いが、1990年代から『電撃文庫』(メディアワークス)・『富士見ファンタジア文庫』(富士見書房)・『角川スニーカー文庫』(角川書店)などに代表されるライトノベル作品を原作とするものも増えてきている。さらに、2000年代以降は、『D.C. 〜ダ・カーポ〜』シリーズや『うたわれるもの』、『リトルバスターズ!』などの美少女ゲームを原作とするものも増えており、少年向けのコミカライズや原作ソフトのクロスプラットフォーム化と連動した企画が行われている。",
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"text": "放送時間帯は民放の場合、かつては平日(または週末)の夕方・ゴールデンタイム、週末の午前中などの全日帯(参考:全日帯アニメ)が基本的であったが、2000年代以降は視聴者数減少に伴う制作会社の減収減益に加え、自主規制強化によって多くの作品が全日帯の放送基準に抵触するようになったことから、深夜に放送される作品(参考:深夜アニメ)や独立UHF放送局(参考:UHFアニメ)の深夜帯で放送される作品がほとんどを占めるようになった。その為、民放で全日帯に放送されるアニメはテレビ東京系列を除いて減少傾向である。そのテレビ東京が製作した作品は、地上波系列では全日でも、BSテレ東では深夜枠に編成されている作品が幾つかある。",
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少年向けアニメ(しょうねんむけアニメ)は、主に小学生~高校生が見ることを想定し、製作されたアニメのこと。お色気漫画や美少女ゲームを原作とした作品も多く、男性向けアニメと兼ねている作品も多い。
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{{出典の明記|date=2007年8月12日 (火) 07:44 (UTC)}}
'''少年向けアニメ'''(しょうねんむけアニメ)は、主に小学生~高校生が見ることを想定し、[[製作]]された[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]のこと。[[お色気漫画]]や[[美少女ゲーム]]を原作とした作品も多く、[[男性向けアニメ]]と兼ねている作品も多い。
== テレビアニメとしての特徴 ==
=== アニメジャンル ===
[[ギャグ漫画]]([[ギャグアニメ]])・[[スポーツ漫画]]・[[推理漫画]]・[[格闘漫画]](バトル漫画・能力バトル漫画)・[[学園漫画]]・[[ラブコメディ]]([[ハーレムアニメ]])・[[ロボットアニメ]]、[[萌えアニメ]]などが少年向けアニメの大部分を占める。
おもに小学生向けの格闘・ロボットアニメなどは[[勧善懲悪]]の構図を継承する形で10代前後の主人公が正義の味方となり、悪の陣営の野望を打ち砕くための闘いを描く単純明快な構造を持っており、善悪の概念を明確に示すと共に少年の英雄願望を満足させるようになっている。また、闘いの中での仲間との友情や助け合いといった概念が盛り込まれることも多い。
少年向けのギャグアニメについては『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』などの様に[[色気|お色気]]描写などを含んだ作品を多く放送していた時期があったが、現在は[[表現の自主規制|規制の強化]]ゆえ、深夜帯への移行が進んでいる。
=== メディアミックス ===
『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])『[[週刊少年マガジン]]』([[講談社]])『[[週刊少年サンデー]]』(小学館)などに代表される[[少年漫画]][[雑誌]]などを原作とするものが多いが、[[1990年代]]から『[[電撃文庫]]』([[メディアワークス]])・『[[富士見ファンタジア文庫]]』([[富士見書房]])・『[[角川スニーカー文庫]]』([[角川書店]])などに代表される[[ライトノベル]]作品を原作とするものも増えてきている。さらに、[[2000年代]]以降は、『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』シリーズや『[[うたわれるもの]]』、『[[リトルバスターズ!]]』などの[[美少女ゲーム]]を原作とするものも増えており、少年向けのコミカライズや原作ソフトの[[クロスプラットフォーム]]化と連動した企画が行われている。
=== 放送時間帯 ===
放送時間帯は[[民間放送|民放]]の場合、かつては[[平日]](または[[週末]])の夕方・[[ゴールデンタイム]]、週末の午前中などの[[全日|全日帯]](参考:全日帯アニメ)が基本的であったが、[[2000年代]]以降は視聴者数減少に伴う制作会社の減収減益に加え、自主規制強化によって多くの作品が全日帯の放送基準に抵触するようになったことから、[[深夜]]に放送される作品(参考:[[深夜アニメ]])や[[全国独立UHF放送協議会|独立UHF放送局]](参考:[[UHFアニメ]])の深夜帯で放送される作品がほとんどを占めるようになった。その為、民放で全日帯に放送されるアニメは[[テレビ東京]][[TXNネットワーク|系列]]を除いて減少傾向である。そのテレビ東京が製作した作品は、地上波系列では全日でも、[[BSテレビ東京|BSテレ東]]では深夜枠に編成されている作品が幾つかある。
== 少年向けアニメと男児向けアニメの相違点 ==
=== アニメ作品の源 ===
一般的に男児向けアニメが児童向け漫画雑誌が原作になる事が多く、[[玩具]]や商品の宣伝が目的でタイアップする事が多いが、少年向けアニメは[[少年雑誌|週刊少年漫画雑誌]]や[[ライトノベル]]、[[コンピュータゲーム]]が原作になる事が多い。
=== アニメ化の目的 ===
男児向けアニメ同様、かつては玩具や商品の宣伝が目的が大半を占めていたが、2000年代になってからは玩具の販促を目的とするアニメは減少傾向であり、代わって[[男性向けアニメ]]同様に[[DVD]]などのビデオソフトや書籍、ゲームソフトの販売を主眼に置いたアニメが増加傾向にある。
== 関連項目 ==
*[[ファミリー・一般向けアニメ]]
*[[男性向けアニメ]]
*[[少女向けアニメ]]
*[[女性向けアニメ]]
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少女向けアニメ
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少女向けアニメ(しょうじょむけアニメ)は、少女が見ることを想定して製作されたアニメの総称。
少女漫画原作の作品が多く、次項で挙げる「幼児 - 小中学生向け作品」は、小学生以下を対象としたいわゆる「女児向けアニメ」の一部、「10代以上向け作品」は狭義の「女性向けアニメ(女子アニメ)」の一部とされている作品が多い。 少女漫画を原作としてアニメ化された作品については、少女漫画関連アニメ作品の年代別一覧も参照のこと。
※作品名が太字のものは漫画か小説を原作とするか原案を引用してアニメ化を含む何らかの映像化が行われた作品を指し、細字のものは漫画や小説を由来としない「アニメオリジナル作品」を指す。
本ジャンルの発祥は『りぼん』及び『なかよし』の小中学生向け少女漫画雑誌に連載された少女漫画を原作とした『魔法使いサリー』(第1作・1966年)・『リボンの騎士』(1967年)・『ひみつのアッコちゃん』(第1作・1968年)の3作である。東映・東映動画製作の『魔法使いサリー』及び『ひみつのアッコちゃん』は東映魔女っ子アニメシリーズの端緒となる作品であった。
1970年代になると低年齢層と高年齢層向けに作品の傾向が分かれ始めるようになり、低年齢層向けにおいては東映魔女っ子アニメシリーズの続編となる『魔法のマコちゃん』で原作が存在しない「アニメオリジナル作品」が登場し台頭していったが、後半時期には男児層の「変身ブーム」の衰退を端緒にキャラクター物の人気に陰りが見えていた。そんな中で1976年に現在に通ずる「少女漫画原作アニメ」の原点となった『キャンディ・キャンディ』が誕生、女児向け玩具のビジネスモデルを築き上げ、以後の本ジャンルの商品展開に大きな影響を与えた。
1980年前半は『おはよう!スパンク』(1981年)が『キャンディ・キャンディ』に続き原作物で商品展開を成功させヒットした。また、折からのアニメブームの勢いで『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982年)、『魔法の天使クリィミーマミ』(1983年)、『とんがり帽子のメモル』(1984年)など「アニメオリジナル作品」が再び台頭し、立て続けにヒットした。
1980年代後半になると、『とんがり帽子のメモル』は時間帯移動の憂き目にあい、同枠の数年後の『新メイプルタウン物語 パームタウン編』は放映途中から少年向けアニメの『ビックリマン』と抱き合わせたコンプレックス枠になって『ビックリマン』に主力を譲り、また、ぴえろ魔法少女シリーズは『魔法の天使クリィミーマミ』の成功によってシリーズ化されたものの、最終作の『魔法のアイドルパステルユーミ』では放映期間の打ち切りが生じ、1980年代前半からのアニメブームはこの時期より衰退して 冬の時代に入った。1980年代末期にはアニメブームと正反対の流れとして赤塚不二夫・藤子不二雄原作アニメなど1960年代にヒットした作品のリメイクが多くなり、女児向けでも『ひみつのアッコちゃん』(第2作・1988年 - 1989年)『魔法使いサリー』(第2作・1989 - 1991年)が復活するが、どちらも原作および1960年代に放映されたアニメ版第1作から大幅にリニューアルされ、「アニメオリジナル作品」と同然であった。
1990年代に入るとアニメブームが再燃し、本ジャンルでも『ちびまる子ちゃん』(1990年 - 1992年、1995年 - )、『きんぎょ注意報!』(1991年 - 1992年)、『美少女戦士セーラームーン』シリーズ(1992年 - 1997年・以下『セーラームーン』)の大ヒットで10年ぶりに「少女漫画原作アニメ」が息を吹き返した。特に『ちびまる子ちゃん』は国民的アニメとなり、東映が得意とする「魔法少女」、「変身ヒロイン」、「戦隊」の3要素をミックスさせた『セーラームーン』は国内外を問わず幅広い年齢層に支持され、玩具も爆発的にヒットした。そして、この3作品の成功を元に1993年頃から『姫ちゃんのリボン』(1992 - 1993年)、『赤ずきんチャチャ』(1994 - 1995年)、『ママレード・ボーイ』(1994 - 1995年)などを筆頭に多様な作品が続々とアニメ化され、本数が激増した。このうち『ママレード・ボーイ』は高校生以上の女性にも人気が高く、今までアニメ化が行われることが少なかった後述の10代以上向けの作品のアニメ化を促すきっかけを作り、少女向けアニメの様相が一変した。
1990年代中盤になると作品の総数が増えたことにより競争が激化し、特にバトルヒロイン系は元祖格の『セーラームーン』が大ヒットとなった影響で『赤ずきんチャチャ』もバトルヒロイン物に一部手直しされたり、さらには『愛と勇気のピッグガール とんでぶーりん』(1994年 - 1995年)、『魔法騎士レイアース』(1994 - 1995年)、『愛天使伝説ウェディングピーチ』(1995 - 1996年)、『ナースエンジェルりりかSOS』(1995 - 1996年)、『怪盗セイントテール』(1995 - 1996年)といった類似した作品がほぼ同時期にアニメ化されて乱立状態に至り、商業的に不振に陥った作品も多くなった。1996年には元祖格『セーラームーン』ブームが去って、新たに玩具商品がヒットした作品がラブコメディ物の『こどものおもちゃ』(1996 - 1998年)のみとなり、バトルヒロインブームは衰退し始めた。またこの時期には『あずきちゃん』(1995年 - 1998年)や『水色時代』(1996年 - 1997年)のように小中学生向けの作品でありながら、玩具商品の展開をほとんど行わなかった作品が増加した(詳細は下記参照)。1995年から第2期の放映が始まった『ちびまる子ちゃん』も「ファミリー向けアニメ」として定着し玩具商品がほとんど発売されなくなった。
1990年代後期の1997年には『セーラームーン』の満5年間続いた放映が終了し、後継はアニメオリジナルの『キューティーハニーF』(1997 - 1998年)及び、児童小説が原作で未就学児童・小学校低・中学年を主な対象とした『夢のクレヨン王国』(1997 - 1999年)となった。1998年には『こどものおもちゃ』も終了し、『姫ちゃんのリボン』から5年半続いた『りぼん』原作アニメの流れが終息した。『セーラームーン』の後継としてヒットが期待されていた『キューティーハニーF』や『神風怪盗ジャンヌ』(1999 - 2000年)は視聴率や商業面で不振に終わり、『カードキャプターさくら』(パイロット版:1997年、放送:1998年 - 2000年)は原作やアニメが少女のみならず若年層のアニメファンにも大ヒットし2度も映画化されものの、未就学女児など低年齢層への訴求はいまひとつで、玩具はヒットに至らず、そして『夢のクレヨン王国』の低年齢向け路線を継ぎ「アニメオリジナル作品」として登場した『おジャ魔女どれみ』シリーズ(1999 - 2004年)はバトル要素のない純然たる「魔法少女」アニメとなり、バトルヒロイン系はニッチなジャンルとなり、かつての勢いは鳴りを潜めた。一方でこの時期には「女児向けアニメ」として作られていない作品の女児層へのヒットも目立ち、幼年漫画が原作の『とっとこハム太郎』(2000年 - 2008年・2011年 - 2013年)、もともと男児向けアニメながら『ちゃお』掲載のタイアップ漫画の影響もあって、女児層にも人気が拡大していた『ポケットモンスター』(1997年・1998年 - )、そして中高生向け少女漫画原作アニメの年齢層の拡大も起きていた。その一方で『セーラームーン』や『ママレード・ボーイ』などが人気を牽引していた1990年代前半と打って変わって『なかよし』・『りぼん』原作アニメの話題性や影響力が小さくなっていき、1995年度から微減傾向にあった2誌の部数の著しい減少が始まった。
2002年には公立の小中学校が完全週休2日制になったことを睨み、テレビ東京系において『満月をさがして』(2002 - 2003年)、『東京ミュウミュウ』(2002 - 2003年)、『わがまま☆フェアリー ミルモでポン!』シリーズ(2002 - 2005年・以下『ミルモでポン!』)と、広告代理店・出版社・スポンサー企業において競合関係となる3作を土曜朝に並べて放映するという試みが行われ、最も後座の『ミルモでポン!』が高視聴率となって放送期間が延長され、2003年秋から2005年秋のシリーズ終了まではゴールデンタイムに昇格して放映された。この結果、この時期の『なかよし』・『りぼん』の部数低下が止まらない中で『ちゃお』の部数は『ミルモでポン!』効果で伸び、2002年に両誌を抜いて少女漫画誌で首位となった。
2004年には「アニメオリジナル作品」の『ふたりはプリキュア・ふたりはプリキュア Max Heart』(2004年 - 2006年)が視聴率面・商業面とも大ヒットし、1990年代後半に一度低迷していたバトルヒロイン系の人気が復活する。さらに第4・5作目(3代目)の『Yes!プリキュア5・Yes!プリキュア5GoGo!』(2007年 - 2009年)及び第7作目(5代目)の『ハートキャッチプリキュア!』(2010年 - 2011年)の大成功によって『プリキュアシリーズ』(2004年 - )へと昇華し、「女児向けアニメ」全体を見ても2023年4月現在も続く史上最長のシリーズ作品となり、「アニメオリジナル作品」が少女漫画原作アニメに代わって「女児向けアニメ」の主役に取って代わられるきっかけとなった。 一方で『ちゃお』原作の『きらりん☆レボリューション』シリーズ(2006 - 2009年)も当時モーニング娘。に所属していた久住小春とタイアップした音楽CDやカードゲームなどが大ヒットし一大ブームとなり、従来のヒット作よりも若干低年齢層となる小学校低学年を中心に売れた。また、『しゅごキャラ!』シリーズ(2007 - 2010年)は初期に展開されていた玩具商品こそ不振で1年目限りで姿を消したものの、Buono!を起用した主題歌CDの売上が堅調で長期にわたってアニメ化された。また、これらの作品に交じる形で2000年から2003年にかけて『セーラームーン』シリーズ、2004年と2006年に『カードキャプターさくら』が共に全国ネットで再放映され、玩具商品が再発売された。2000年代の幼児・小中学生向け作品群の特徴として、『キャンディ・キャンディ』や『セーラームーン』といった大ヒット作を除いて1-2年ごとに新作に入れ替えていた1990年代までと打って変わって、アニメ化する本数を絞る代わりに作品の人気が低迷するまで原作をアニメに合わせて継続する商業展開が多く見られ、中には3年以上続く作品も見られた。また、『ちびまる子ちゃん』を除き、後述の10代以上向け作品と年齡層及び方向性が分かれ、幼児から小学中学年までの低年齢層が主な対象となり、『おジャ魔女どれみシリーズ』や『プリキュアシリーズ』などの「アニメオリジナル作品」と同じく「女児向けアニメ」として括られることが多くなった。
2010年代は『しゅごキャラ!』シリーズ及び、2009年4月に登場した『極上!!めちゃモテ委員長』(2009年 - 2011年)や同年10月に登場した『夢色パティシエール』シリーズ(2009年 - 2010年)など当時の『なかよし』『りぼん』『ちゃお』を代表するアニメが、商業面で『プリキュアシリーズ』や『サンリオキャラクターテレビシリーズ』などの「アニメオリジナル作品」に敗退したことが鮮明となり、2011年以降はそれらに加えて『プリティーシリーズ』(2011年 - 2022年)や『アイカツ!シリーズ』(2012年 - 2020年・2021年)のヒットにより「アニメオリジナル作品」が完全に主流となった。その結果、2000年代以前と比べて少女漫画を原作とした作品がアニメ化される機会が大幅に少なくなり、2011年3月の『極上!!めちゃモテ委員長』の終了から『12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜』(2016年)開始の同年4月までの約5年間と、2018年10月の『若おかみは小学生!』(2018年)の終了から2023年4月現在に至るまでは小中学生向け少女漫画を原作としたアニメのうち、地上波にて全日帯の単独枠で本放送された作品が1990年代から続く『ちびまる子ちゃん』のみとなり、単独枠での新作アニメが放映されない状況に陥っている。その煽りを受けた『なかよし』・『りぼん』・『ちゃお』の各誌も、本誌やコミックスの売上部数や発行部数が激減している。
2020年に入り、新型コロナウイルス(COVID-19)の影響による消費落ち込みの影響や他ジャンルのアニメコンテンツとの競合の激化および流出もあって、「少女漫画原作アニメ」に数年遅れる形で「アニメオリジナル作品」も冬の時代を迎えている。2021年6月には『アイカツ!シリーズ』の最新シリーズである『アイカツプラネット!』が放送開始後半年で放送終了、2022年は『サンリオキャラクターテレビシリーズ』の最新シリーズである『ミュークルドリーミー みっくす!』が3月に、『プリティーシリーズ』の最新シリーズである『ワッチャプリマジ!』も10月に相次いで放送終了し、同年秋から「女児向けアニメ」の主力作品は『プリキュアシリーズ』のみ、ショートアニメを合わせても同年10月から放送開始したテレビ東京系日曜9時30分枠(後半15分)の『ぷにるんず』の2作のみとなった。
2023年には同年3月の『ぷにるんず』の終了により、同年4月現在放送中の「女児向けアニメ」作品は『プリキュアシリーズ』第20作目(18代目)の『ひろがるスカイ!プリキュア』のみとなっている。
1970年の『おくさまは18歳』などスポ根衰退の影響で小学校高学年~高校生に相当する10代少女向けのドラマが製作される中、アニメにおいても1971年に『さすらいの太陽』、翌1972年には『モンシェリCoCo』が製作され、特に前者は日本初の芸能界を舞台にしたアニメとされ、後に頻出する歌手が主人公を演じるタイアップの嚆矢となっている。その後、1979年の『ベルサイユのばら』、『はいからさんが通る』(1978年)、『パタリロ!』(1982年)などの様に後世に名作と伝えられる作品をいくらか輩出している。ただ、これらの作品は玩具などの商業展開が確立されているとは言えず、辛うじて人形が販売されたり、音楽商品の商業展開に留まっていた。アニメブームの追い風の中、1983年には小学生以上の視聴層をメインターゲットとした作品としては初の映画化となる『パタリロ!』の劇場版が東映系で上映された。『ベルサイユのばら』も1987年に製作された総集編を元に音声を再録し、1990年に劇場公開されている。1985年頃までこの路線の作品のアニメ化が続いたが、それ以降の10年間はまばらな状態となる。
だが、1992年の『セーラームーン』及び1994年の『ママレード・ボーイ』の大ヒットに触発され、テレビ東京系において『ふしぎ遊戯』(1995年 - 1996年)がアニメ化されてヒット、続編がOVA化されるなどの長期シリーズとなった。翌年以降も『赤ちゃんと僕』(1996年 - 1997年)、『花より男子』(1996年 - 1997年)、『CLAMP学園探偵団』(1997年)など小学中、高学年以上の年齢層を中心とした作品や、『少女革命ウテナ』(1997年)など女性に加え青年男性もメインターゲットにした作品が続々登場し、10代をターゲットにしたアニメが復権、1996年頃から小学校中学年以下の幼年層を対象に含めた作品群の多くが不振となり縮小し始める一方で、10代以上向けの作品の本数は拡大し続け、少女漫画原作アニメの年齢層が大きく広がった。
1998年春には『LEGEND OF BASARA』が独立局ながらも少女漫画原作アニメでは初めて深夜帯に放映された。同年秋の『彼氏彼女の事情』(1998 - 1999年)でもテレビ東京や同系列の5局では全日帯で放送されつつも系列外の多くの地方局では深夜に放映され、翌1999年の『KAIKANフレーズ』(1999 - 2000年)の後半に制作された分はキー局のテレビ東京系6局でも深夜に放映された。しかし、2000年から2004年頃までは中高生以上向け漫画を原作にした作品でも『フルーツバスケット』(初代:2001年)や『学園アリス』(2004 - 2005年)など低年齢層も狙って全日帯に放映されるケースが多く、さらに『しあわせソウのオコジョさん』(2001 - 2002年)のように小学生以下の女児やファミリーでの需要を意識し内容面や絵柄など低年齢層向けに支持されやすいよう演出・改変された作品もあった。その中で2004年に『マリア様がみてる』シリーズ(2004年・2006 - 2007年・2009年) が久々に深夜帯に放映された。
2005年より、フジテレビにおいて主にF1層を意識した展開を図るアニメ枠「ノイタミナ」(2005年 - 放送中)が新設されると、ターゲットも今まで中学生前後の少女が主体だったのが、従来はアニメを見る機会が少ないとされていた高校生・大学生・成人の女性が中心となり、内容も深夜帯ということで描写の制限が緩くなるためか、原作に忠実な作品が多くなり始める。また、2006年には日本テレビの『animo』枠及び、AT-Xの「アニメ女子部」といった「ノイタミナ」と同様の層を意識したアニメ放映枠が設けられた(ただし、「animo」は『NANA』(2006年)一作限りで消滅した)。こういった情勢から『ハチミツとクローバー』シリーズ(2005・2006年)、『NANA』、『ラブ★コン』(2007年)、『のだめカンタービレ』シリーズ(2007・2008・2010年)、『夏目友人帳』シリーズ(2008・2009・2011・2012年)、『君に届け』(2009 - 2010年)、『ちはやふる』(2011年 - 2012年)といったヒット作が次々と生まれ、特に『のだめカンタービレ』に至ってはファン層を小学校低中学年の女子にまで広めた商品展開が行われ、『夏目友人帳』シリーズも元々深夜アニメながら再放送では全日帯に移るほどの人気となった。
2010年代前半は前述の幼児・小中学生向け作品が減少しても、これらの主に10代以上の女性をターゲットとした作品群は比較的好調であり、2013年度を除いて新作アニメがリリースされており、2015年は『俺物語!!』が深夜帯としては高い視聴率(3.4%)を記録していた。しかし2010年代の後半にあたる2016年以降は10代以上向けの作品群でも少女漫画原作アニメに関しては新規にアニメ化される作品数が減少する傾向にある。
一方で2010年代から、『美少女戦士セーラームーンCrystal』(2代目:2014・2015・2016・2021年)や、『フルーツバスケット』(2代目:2019・2020・2021年)がいずれも初代アニメよりも原作者の意向に沿い、かつての初代アニメの視聴者や原作の読者であった主に1980年代から1990年代生まれの層に向けたリメイクという形態で再アニメ化されている。2022年にはもともとアニメ化前提のメディアミックス作品だった『東京ミュウミュウ』も深夜アニメの『東京ミュウミュウ にゅ〜♡』(2022年・2023年)としてリメイクされた。また『おジャ魔女どれみ』の20周年を記念したスピンオフの『魔女見習いをさがして』が当時の視聴者であった1990年代生まれの層に向けて2020年に映画化されている。2023年には『プリキュアシリーズ』においても『Yes!プリキュア5GoGo!』の続編『キボウノチカラ~オトナプリキュア ‘23~』が当時の視聴者であった主に2000年代前半生まれの層に向けて2023年10月にNHKEテレにてアニメ化、『魔法つかいプリキュア!』(2016年 - 2017年)の続編が2024年に「ANiMAZiNG!!!」枠にて深夜アニメ化されることがアナウンスされた。
小中学生向け少女漫画雑誌『なかよし』や『りぼん』で掲載された一部作品でも10代以上もターゲットと見据えて深夜帯やインターネット上でアニメ化され放送されたものもある。『なかよし』掲載の作品にはそれが多く、原作をアニメ化した作品では『さばげぶっ!』(2014年)・『美少女戦士セーラームーンCrystal』・『カードキャプターさくら クリアカード編』、アニメを漫画化した作品では『地獄少女』(2005 - 2006・2006 - 2007・2008 - 2009年)がある。また原作小説を漫画化した後にアニメ化され、一部がアニメと並行して「なかよしKC」でコミックス化された作品では『ゴーストハント』(2006 - 2008年)が該当する。『りぼん』では原作漫画が深夜帯にアニメ化されたケースはないが、『あにゃまる探偵キルミンずぅ』(2009年 - 2010年) が漫画化されている。なお『ちゃお』では原作漫画が深夜帯にアニメ化されたり、深夜アニメを漫画化したケースのいずれもない。
1960年代から1996年頃までの長い間、このジャンルのアニメにおけるマーチャンダイジングは、玩具(電子ゲーム・プライズ商品を除く)、キャラクターの絵が入った文房具、食品などの関連商品の販促が主体であった。『セーラームーン』などの幼児から小学高学年を対象とした作品はもちろん、小学校中~高学年以上をメインターゲットとし年齢層が比較的高めであった『ママレード・ボーイ』、『ふしぎ遊戯』(1995 - 1996年に放映されたTVアニメ版)、『花より男子』(アニメ版)などの作品でも、そのほとんどが玩具会社・文具メーカーなどとタイアップをしていた。
これらの玩具展開は『きんぎょ注意報!』と『セーラームーン』で定着したと言われているが、早くも1995年頃から視聴率の低迷や売上不振に陥る作品が出始め、特に1997年3月に『セーラームーン』の本放送が終了した時にはこのジャンルのアニメにおいて、玩具の販促を目的とする作品群が完全に衰退したことが明確となった。当の1997年は『セーラームーン』の後番組としてリメイク作品の『キューティーハニーF』が、同年9月には『花より男子』の後番組として原作は少女漫画ではなく児童向け小説とし、それまでの小学高学年をターゲットとした路線から幼稚園児・小学校低学年がメインの低年齢層向けにシフトした『夢のクレヨン王国』(1997 - 1999年)が登場し、翌1998年にかけてこの2作の関連商品が多数発売されたが、その一方で、少女漫画原作アニメの『ケロケロちゃいむ』(1997年)には玩具および文具商品を発売するスポンサーが付かず、関連商品がほとんど発売されない状態であった。 1997年以降、『夢のクレヨン王国』や、その後番組のアニメオリジナル作品である『おジャ魔女どれみ』が成功し、また『少女革命ウテナ』など映像商品や音楽CDなどに頼り、玩具・文房具の販促を全く行わない後述の高年齢層向けの作品も成功し始めるようになると、本ジャンルのアニメにおける市場構造と、アニメ製作会社・スポンサー企業におけるマーケティング戦略が大きく変化 し、このジャンルのアニメからは、低年齢層向けの作品を除き玩具・文房具といった商品の販促が絡む作品が大幅に減少した。
それでも2000年代は『わがまま☆フェアリーミルモでポン!』シリーズ、『きらりん☆レボリューション』のヒットで一時期は盛り返していたものの、2008年になると『きらりん☆レボリューション』のブームが終息し、やがて低年齢層向け少女漫画がアニメ化される本数も激減した。そして2010年代以降で電子ゲーム・プライズ商品を除く玩具の販促が絡む作品は2010年から2019年までの10年間で『極上!!めちゃモテ委員長』、『夢色パティシエール』、『12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜』、『プリプリちぃちゃん!!』(2017年)、『カードキャプターさくら クリアカード編』のみと僅かとなった。
また、1980年代前半及び、1990年代後半以降は小中学生向けの作品でも、後述の10代以上向け作品と同様に、玩具主体ではなく原作が掲載された雑誌やコミックス、音楽CD、映像商品(DVDビデオ等)などの販売促進にマーチャンダイジングの主軸をおいた作品も登場する。更に1990年代後半からは玩具の販売が全く行われなかった作品も生じ始めた。
先述の『ふしぎ遊戯』(TVアニメ版)、『花より男子』と『みかん絵日記』(1992年)、『赤ちゃんと僕』、『夏目友人帳』などにおいて玩具化されている。それ以外の作品でもゲームセンター用のプライズ商品や電子ゲームが展開されているものもある。
玩具以外では音楽商品として1980年代『花とゆめ』や『りぼん』などの少女漫画においては漫画作品のイメージソングや短編のドラマを収録したイメージアルバムの展開が積極的に行われており、その流れから『ベルサイユのばら』や『パタリロ!』などのアニメ化作品においても声優を主体にした音楽商品が展開されていた。1980年代後半にはアニメ作品そのものが途絶え息を潜めたが、漫画作品のイメージアルバムの音楽商品自体は好調であり。その流れで1987年頃『闇のパープル・アイ』のイメージアルバムの音楽に映像をつけたミュージックビデオが発売され、当ジャンル初のOVAとなる。その後1988年の『妖精王』を筆頭に1993年まで『花とゆめ』原作の作品が連作され、後の花とゆめ原作のテレビアニメの礎になる。その後、1995年の『ふしぎ遊戯』シリーズと1997年の『少女革命ウテナ』を皮切りに一部の男性向けアニメやOVA作品と同じくDVDやCD、有料放送、ネット配信など映像・音楽商品の売上での制作費の確保を企図する作品が増え、「ノイタミナ」など女性をターゲットとしたアニメ枠が登場した2000年代中盤以降はアニメファンを意識せず、高校生以上の女性のみをメインターゲットとする作品が増加した。
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"text": "少女向けアニメ(しょうじょむけアニメ)は、少女が見ることを想定して製作されたアニメの総称。",
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"text": "少女漫画原作の作品が多く、次項で挙げる「幼児 - 小中学生向け作品」は、小学生以下を対象としたいわゆる「女児向けアニメ」の一部、「10代以上向け作品」は狭義の「女性向けアニメ(女子アニメ)」の一部とされている作品が多い。 少女漫画を原作としてアニメ化された作品については、少女漫画関連アニメ作品の年代別一覧も参照のこと。",
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"text": "※作品名が太字のものは漫画か小説を原作とするか原案を引用してアニメ化を含む何らかの映像化が行われた作品を指し、細字のものは漫画や小説を由来としない「アニメオリジナル作品」を指す。",
"title": "概要"
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"text": "本ジャンルの発祥は『りぼん』及び『なかよし』の小中学生向け少女漫画雑誌に連載された少女漫画を原作とした『魔法使いサリー』(第1作・1966年)・『リボンの騎士』(1967年)・『ひみつのアッコちゃん』(第1作・1968年)の3作である。東映・東映動画製作の『魔法使いサリー』及び『ひみつのアッコちゃん』は東映魔女っ子アニメシリーズの端緒となる作品であった。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1970年代になると低年齢層と高年齢層向けに作品の傾向が分かれ始めるようになり、低年齢層向けにおいては東映魔女っ子アニメシリーズの続編となる『魔法のマコちゃん』で原作が存在しない「アニメオリジナル作品」が登場し台頭していったが、後半時期には男児層の「変身ブーム」の衰退を端緒にキャラクター物の人気に陰りが見えていた。そんな中で1976年に現在に通ずる「少女漫画原作アニメ」の原点となった『キャンディ・キャンディ』が誕生、女児向け玩具のビジネスモデルを築き上げ、以後の本ジャンルの商品展開に大きな影響を与えた。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1980年前半は『おはよう!スパンク』(1981年)が『キャンディ・キャンディ』に続き原作物で商品展開を成功させヒットした。また、折からのアニメブームの勢いで『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982年)、『魔法の天使クリィミーマミ』(1983年)、『とんがり帽子のメモル』(1984年)など「アニメオリジナル作品」が再び台頭し、立て続けにヒットした。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1980年代後半になると、『とんがり帽子のメモル』は時間帯移動の憂き目にあい、同枠の数年後の『新メイプルタウン物語 パームタウン編』は放映途中から少年向けアニメの『ビックリマン』と抱き合わせたコンプレックス枠になって『ビックリマン』に主力を譲り、また、ぴえろ魔法少女シリーズは『魔法の天使クリィミーマミ』の成功によってシリーズ化されたものの、最終作の『魔法のアイドルパステルユーミ』では放映期間の打ち切りが生じ、1980年代前半からのアニメブームはこの時期より衰退して 冬の時代に入った。1980年代末期にはアニメブームと正反対の流れとして赤塚不二夫・藤子不二雄原作アニメなど1960年代にヒットした作品のリメイクが多くなり、女児向けでも『ひみつのアッコちゃん』(第2作・1988年 - 1989年)『魔法使いサリー』(第2作・1989 - 1991年)が復活するが、どちらも原作および1960年代に放映されたアニメ版第1作から大幅にリニューアルされ、「アニメオリジナル作品」と同然であった。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1990年代に入るとアニメブームが再燃し、本ジャンルでも『ちびまる子ちゃん』(1990年 - 1992年、1995年 - )、『きんぎょ注意報!』(1991年 - 1992年)、『美少女戦士セーラームーン』シリーズ(1992年 - 1997年・以下『セーラームーン』)の大ヒットで10年ぶりに「少女漫画原作アニメ」が息を吹き返した。特に『ちびまる子ちゃん』は国民的アニメとなり、東映が得意とする「魔法少女」、「変身ヒロイン」、「戦隊」の3要素をミックスさせた『セーラームーン』は国内外を問わず幅広い年齢層に支持され、玩具も爆発的にヒットした。そして、この3作品の成功を元に1993年頃から『姫ちゃんのリボン』(1992 - 1993年)、『赤ずきんチャチャ』(1994 - 1995年)、『ママレード・ボーイ』(1994 - 1995年)などを筆頭に多様な作品が続々とアニメ化され、本数が激増した。このうち『ママレード・ボーイ』は高校生以上の女性にも人気が高く、今までアニメ化が行われることが少なかった後述の10代以上向けの作品のアニメ化を促すきっかけを作り、少女向けアニメの様相が一変した。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1990年代中盤になると作品の総数が増えたことにより競争が激化し、特にバトルヒロイン系は元祖格の『セーラームーン』が大ヒットとなった影響で『赤ずきんチャチャ』もバトルヒロイン物に一部手直しされたり、さらには『愛と勇気のピッグガール とんでぶーりん』(1994年 - 1995年)、『魔法騎士レイアース』(1994 - 1995年)、『愛天使伝説ウェディングピーチ』(1995 - 1996年)、『ナースエンジェルりりかSOS』(1995 - 1996年)、『怪盗セイントテール』(1995 - 1996年)といった類似した作品がほぼ同時期にアニメ化されて乱立状態に至り、商業的に不振に陥った作品も多くなった。1996年には元祖格『セーラームーン』ブームが去って、新たに玩具商品がヒットした作品がラブコメディ物の『こどものおもちゃ』(1996 - 1998年)のみとなり、バトルヒロインブームは衰退し始めた。またこの時期には『あずきちゃん』(1995年 - 1998年)や『水色時代』(1996年 - 1997年)のように小中学生向けの作品でありながら、玩具商品の展開をほとんど行わなかった作品が増加した(詳細は下記参照)。1995年から第2期の放映が始まった『ちびまる子ちゃん』も「ファミリー向けアニメ」として定着し玩具商品がほとんど発売されなくなった。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1990年代後期の1997年には『セーラームーン』の満5年間続いた放映が終了し、後継はアニメオリジナルの『キューティーハニーF』(1997 - 1998年)及び、児童小説が原作で未就学児童・小学校低・中学年を主な対象とした『夢のクレヨン王国』(1997 - 1999年)となった。1998年には『こどものおもちゃ』も終了し、『姫ちゃんのリボン』から5年半続いた『りぼん』原作アニメの流れが終息した。『セーラームーン』の後継としてヒットが期待されていた『キューティーハニーF』や『神風怪盗ジャンヌ』(1999 - 2000年)は視聴率や商業面で不振に終わり、『カードキャプターさくら』(パイロット版:1997年、放送:1998年 - 2000年)は原作やアニメが少女のみならず若年層のアニメファンにも大ヒットし2度も映画化されものの、未就学女児など低年齢層への訴求はいまひとつで、玩具はヒットに至らず、そして『夢のクレヨン王国』の低年齢向け路線を継ぎ「アニメオリジナル作品」として登場した『おジャ魔女どれみ』シリーズ(1999 - 2004年)はバトル要素のない純然たる「魔法少女」アニメとなり、バトルヒロイン系はニッチなジャンルとなり、かつての勢いは鳴りを潜めた。一方でこの時期には「女児向けアニメ」として作られていない作品の女児層へのヒットも目立ち、幼年漫画が原作の『とっとこハム太郎』(2000年 - 2008年・2011年 - 2013年)、もともと男児向けアニメながら『ちゃお』掲載のタイアップ漫画の影響もあって、女児層にも人気が拡大していた『ポケットモンスター』(1997年・1998年 - )、そして中高生向け少女漫画原作アニメの年齢層の拡大も起きていた。その一方で『セーラームーン』や『ママレード・ボーイ』などが人気を牽引していた1990年代前半と打って変わって『なかよし』・『りぼん』原作アニメの話題性や影響力が小さくなっていき、1995年度から微減傾向にあった2誌の部数の著しい減少が始まった。",
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"text": "2002年には公立の小中学校が完全週休2日制になったことを睨み、テレビ東京系において『満月をさがして』(2002 - 2003年)、『東京ミュウミュウ』(2002 - 2003年)、『わがまま☆フェアリー ミルモでポン!』シリーズ(2002 - 2005年・以下『ミルモでポン!』)と、広告代理店・出版社・スポンサー企業において競合関係となる3作を土曜朝に並べて放映するという試みが行われ、最も後座の『ミルモでポン!』が高視聴率となって放送期間が延長され、2003年秋から2005年秋のシリーズ終了まではゴールデンタイムに昇格して放映された。この結果、この時期の『なかよし』・『りぼん』の部数低下が止まらない中で『ちゃお』の部数は『ミルモでポン!』効果で伸び、2002年に両誌を抜いて少女漫画誌で首位となった。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "2004年には「アニメオリジナル作品」の『ふたりはプリキュア・ふたりはプリキュア Max Heart』(2004年 - 2006年)が視聴率面・商業面とも大ヒットし、1990年代後半に一度低迷していたバトルヒロイン系の人気が復活する。さらに第4・5作目(3代目)の『Yes!プリキュア5・Yes!プリキュア5GoGo!』(2007年 - 2009年)及び第7作目(5代目)の『ハートキャッチプリキュア!』(2010年 - 2011年)の大成功によって『プリキュアシリーズ』(2004年 - )へと昇華し、「女児向けアニメ」全体を見ても2023年4月現在も続く史上最長のシリーズ作品となり、「アニメオリジナル作品」が少女漫画原作アニメに代わって「女児向けアニメ」の主役に取って代わられるきっかけとなった。 一方で『ちゃお』原作の『きらりん☆レボリューション』シリーズ(2006 - 2009年)も当時モーニング娘。に所属していた久住小春とタイアップした音楽CDやカードゲームなどが大ヒットし一大ブームとなり、従来のヒット作よりも若干低年齢層となる小学校低学年を中心に売れた。また、『しゅごキャラ!』シリーズ(2007 - 2010年)は初期に展開されていた玩具商品こそ不振で1年目限りで姿を消したものの、Buono!を起用した主題歌CDの売上が堅調で長期にわたってアニメ化された。また、これらの作品に交じる形で2000年から2003年にかけて『セーラームーン』シリーズ、2004年と2006年に『カードキャプターさくら』が共に全国ネットで再放映され、玩具商品が再発売された。2000年代の幼児・小中学生向け作品群の特徴として、『キャンディ・キャンディ』や『セーラームーン』といった大ヒット作を除いて1-2年ごとに新作に入れ替えていた1990年代までと打って変わって、アニメ化する本数を絞る代わりに作品の人気が低迷するまで原作をアニメに合わせて継続する商業展開が多く見られ、中には3年以上続く作品も見られた。また、『ちびまる子ちゃん』を除き、後述の10代以上向け作品と年齡層及び方向性が分かれ、幼児から小学中学年までの低年齢層が主な対象となり、『おジャ魔女どれみシリーズ』や『プリキュアシリーズ』などの「アニメオリジナル作品」と同じく「女児向けアニメ」として括られることが多くなった。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "2010年代は『しゅごキャラ!』シリーズ及び、2009年4月に登場した『極上!!めちゃモテ委員長』(2009年 - 2011年)や同年10月に登場した『夢色パティシエール』シリーズ(2009年 - 2010年)など当時の『なかよし』『りぼん』『ちゃお』を代表するアニメが、商業面で『プリキュアシリーズ』や『サンリオキャラクターテレビシリーズ』などの「アニメオリジナル作品」に敗退したことが鮮明となり、2011年以降はそれらに加えて『プリティーシリーズ』(2011年 - 2022年)や『アイカツ!シリーズ』(2012年 - 2020年・2021年)のヒットにより「アニメオリジナル作品」が完全に主流となった。その結果、2000年代以前と比べて少女漫画を原作とした作品がアニメ化される機会が大幅に少なくなり、2011年3月の『極上!!めちゃモテ委員長』の終了から『12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜』(2016年)開始の同年4月までの約5年間と、2018年10月の『若おかみは小学生!』(2018年)の終了から2023年4月現在に至るまでは小中学生向け少女漫画を原作としたアニメのうち、地上波にて全日帯の単独枠で本放送された作品が1990年代から続く『ちびまる子ちゃん』のみとなり、単独枠での新作アニメが放映されない状況に陥っている。その煽りを受けた『なかよし』・『りぼん』・『ちゃお』の各誌も、本誌やコミックスの売上部数や発行部数が激減している。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "2020年に入り、新型コロナウイルス(COVID-19)の影響による消費落ち込みの影響や他ジャンルのアニメコンテンツとの競合の激化および流出もあって、「少女漫画原作アニメ」に数年遅れる形で「アニメオリジナル作品」も冬の時代を迎えている。2021年6月には『アイカツ!シリーズ』の最新シリーズである『アイカツプラネット!』が放送開始後半年で放送終了、2022年は『サンリオキャラクターテレビシリーズ』の最新シリーズである『ミュークルドリーミー みっくす!』が3月に、『プリティーシリーズ』の最新シリーズである『ワッチャプリマジ!』も10月に相次いで放送終了し、同年秋から「女児向けアニメ」の主力作品は『プリキュアシリーズ』のみ、ショートアニメを合わせても同年10月から放送開始したテレビ東京系日曜9時30分枠(後半15分)の『ぷにるんず』の2作のみとなった。",
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"text": "2023年には同年3月の『ぷにるんず』の終了により、同年4月現在放送中の「女児向けアニメ」作品は『プリキュアシリーズ』第20作目(18代目)の『ひろがるスカイ!プリキュア』のみとなっている。",
"title": "幼児 - 小中学生向け作品"
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"text": "1970年の『おくさまは18歳』などスポ根衰退の影響で小学校高学年~高校生に相当する10代少女向けのドラマが製作される中、アニメにおいても1971年に『さすらいの太陽』、翌1972年には『モンシェリCoCo』が製作され、特に前者は日本初の芸能界を舞台にしたアニメとされ、後に頻出する歌手が主人公を演じるタイアップの嚆矢となっている。その後、1979年の『ベルサイユのばら』、『はいからさんが通る』(1978年)、『パタリロ!』(1982年)などの様に後世に名作と伝えられる作品をいくらか輩出している。ただ、これらの作品は玩具などの商業展開が確立されているとは言えず、辛うじて人形が販売されたり、音楽商品の商業展開に留まっていた。アニメブームの追い風の中、1983年には小学生以上の視聴層をメインターゲットとした作品としては初の映画化となる『パタリロ!』の劇場版が東映系で上映された。『ベルサイユのばら』も1987年に製作された総集編を元に音声を再録し、1990年に劇場公開されている。1985年頃までこの路線の作品のアニメ化が続いたが、それ以降の10年間はまばらな状態となる。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "だが、1992年の『セーラームーン』及び1994年の『ママレード・ボーイ』の大ヒットに触発され、テレビ東京系において『ふしぎ遊戯』(1995年 - 1996年)がアニメ化されてヒット、続編がOVA化されるなどの長期シリーズとなった。翌年以降も『赤ちゃんと僕』(1996年 - 1997年)、『花より男子』(1996年 - 1997年)、『CLAMP学園探偵団』(1997年)など小学中、高学年以上の年齢層を中心とした作品や、『少女革命ウテナ』(1997年)など女性に加え青年男性もメインターゲットにした作品が続々登場し、10代をターゲットにしたアニメが復権、1996年頃から小学校中学年以下の幼年層を対象に含めた作品群の多くが不振となり縮小し始める一方で、10代以上向けの作品の本数は拡大し続け、少女漫画原作アニメの年齢層が大きく広がった。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "1998年春には『LEGEND OF BASARA』が独立局ながらも少女漫画原作アニメでは初めて深夜帯に放映された。同年秋の『彼氏彼女の事情』(1998 - 1999年)でもテレビ東京や同系列の5局では全日帯で放送されつつも系列外の多くの地方局では深夜に放映され、翌1999年の『KAIKANフレーズ』(1999 - 2000年)の後半に制作された分はキー局のテレビ東京系6局でも深夜に放映された。しかし、2000年から2004年頃までは中高生以上向け漫画を原作にした作品でも『フルーツバスケット』(初代:2001年)や『学園アリス』(2004 - 2005年)など低年齢層も狙って全日帯に放映されるケースが多く、さらに『しあわせソウのオコジョさん』(2001 - 2002年)のように小学生以下の女児やファミリーでの需要を意識し内容面や絵柄など低年齢層向けに支持されやすいよう演出・改変された作品もあった。その中で2004年に『マリア様がみてる』シリーズ(2004年・2006 - 2007年・2009年) が久々に深夜帯に放映された。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "2005年より、フジテレビにおいて主にF1層を意識した展開を図るアニメ枠「ノイタミナ」(2005年 - 放送中)が新設されると、ターゲットも今まで中学生前後の少女が主体だったのが、従来はアニメを見る機会が少ないとされていた高校生・大学生・成人の女性が中心となり、内容も深夜帯ということで描写の制限が緩くなるためか、原作に忠実な作品が多くなり始める。また、2006年には日本テレビの『animo』枠及び、AT-Xの「アニメ女子部」といった「ノイタミナ」と同様の層を意識したアニメ放映枠が設けられた(ただし、「animo」は『NANA』(2006年)一作限りで消滅した)。こういった情勢から『ハチミツとクローバー』シリーズ(2005・2006年)、『NANA』、『ラブ★コン』(2007年)、『のだめカンタービレ』シリーズ(2007・2008・2010年)、『夏目友人帳』シリーズ(2008・2009・2011・2012年)、『君に届け』(2009 - 2010年)、『ちはやふる』(2011年 - 2012年)といったヒット作が次々と生まれ、特に『のだめカンタービレ』に至ってはファン層を小学校低中学年の女子にまで広めた商品展開が行われ、『夏目友人帳』シリーズも元々深夜アニメながら再放送では全日帯に移るほどの人気となった。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "2010年代前半は前述の幼児・小中学生向け作品が減少しても、これらの主に10代以上の女性をターゲットとした作品群は比較的好調であり、2013年度を除いて新作アニメがリリースされており、2015年は『俺物語!!』が深夜帯としては高い視聴率(3.4%)を記録していた。しかし2010年代の後半にあたる2016年以降は10代以上向けの作品群でも少女漫画原作アニメに関しては新規にアニメ化される作品数が減少する傾向にある。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "一方で2010年代から、『美少女戦士セーラームーンCrystal』(2代目:2014・2015・2016・2021年)や、『フルーツバスケット』(2代目:2019・2020・2021年)がいずれも初代アニメよりも原作者の意向に沿い、かつての初代アニメの視聴者や原作の読者であった主に1980年代から1990年代生まれの層に向けたリメイクという形態で再アニメ化されている。2022年にはもともとアニメ化前提のメディアミックス作品だった『東京ミュウミュウ』も深夜アニメの『東京ミュウミュウ にゅ〜♡』(2022年・2023年)としてリメイクされた。また『おジャ魔女どれみ』の20周年を記念したスピンオフの『魔女見習いをさがして』が当時の視聴者であった1990年代生まれの層に向けて2020年に映画化されている。2023年には『プリキュアシリーズ』においても『Yes!プリキュア5GoGo!』の続編『キボウノチカラ~オトナプリキュア ‘23~』が当時の視聴者であった主に2000年代前半生まれの層に向けて2023年10月にNHKEテレにてアニメ化、『魔法つかいプリキュア!』(2016年 - 2017年)の続編が2024年に「ANiMAZiNG!!!」枠にて深夜アニメ化されることがアナウンスされた。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "小中学生向け少女漫画雑誌『なかよし』や『りぼん』で掲載された一部作品でも10代以上もターゲットと見据えて深夜帯やインターネット上でアニメ化され放送されたものもある。『なかよし』掲載の作品にはそれが多く、原作をアニメ化した作品では『さばげぶっ!』(2014年)・『美少女戦士セーラームーンCrystal』・『カードキャプターさくら クリアカード編』、アニメを漫画化した作品では『地獄少女』(2005 - 2006・2006 - 2007・2008 - 2009年)がある。また原作小説を漫画化した後にアニメ化され、一部がアニメと並行して「なかよしKC」でコミックス化された作品では『ゴーストハント』(2006 - 2008年)が該当する。『りぼん』では原作漫画が深夜帯にアニメ化されたケースはないが、『あにゃまる探偵キルミンずぅ』(2009年 - 2010年) が漫画化されている。なお『ちゃお』では原作漫画が深夜帯にアニメ化されたり、深夜アニメを漫画化したケースのいずれもない。",
"title": "10代以上向け作品"
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"text": "1960年代から1996年頃までの長い間、このジャンルのアニメにおけるマーチャンダイジングは、玩具(電子ゲーム・プライズ商品を除く)、キャラクターの絵が入った文房具、食品などの関連商品の販促が主体であった。『セーラームーン』などの幼児から小学高学年を対象とした作品はもちろん、小学校中~高学年以上をメインターゲットとし年齢層が比較的高めであった『ママレード・ボーイ』、『ふしぎ遊戯』(1995 - 1996年に放映されたTVアニメ版)、『花より男子』(アニメ版)などの作品でも、そのほとんどが玩具会社・文具メーカーなどとタイアップをしていた。",
"title": "販促方法や販促商品の変化"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "これらの玩具展開は『きんぎょ注意報!』と『セーラームーン』で定着したと言われているが、早くも1995年頃から視聴率の低迷や売上不振に陥る作品が出始め、特に1997年3月に『セーラームーン』の本放送が終了した時にはこのジャンルのアニメにおいて、玩具の販促を目的とする作品群が完全に衰退したことが明確となった。当の1997年は『セーラームーン』の後番組としてリメイク作品の『キューティーハニーF』が、同年9月には『花より男子』の後番組として原作は少女漫画ではなく児童向け小説とし、それまでの小学高学年をターゲットとした路線から幼稚園児・小学校低学年がメインの低年齢層向けにシフトした『夢のクレヨン王国』(1997 - 1999年)が登場し、翌1998年にかけてこの2作の関連商品が多数発売されたが、その一方で、少女漫画原作アニメの『ケロケロちゃいむ』(1997年)には玩具および文具商品を発売するスポンサーが付かず、関連商品がほとんど発売されない状態であった。 1997年以降、『夢のクレヨン王国』や、その後番組のアニメオリジナル作品である『おジャ魔女どれみ』が成功し、また『少女革命ウテナ』など映像商品や音楽CDなどに頼り、玩具・文房具の販促を全く行わない後述の高年齢層向けの作品も成功し始めるようになると、本ジャンルのアニメにおける市場構造と、アニメ製作会社・スポンサー企業におけるマーケティング戦略が大きく変化 し、このジャンルのアニメからは、低年齢層向けの作品を除き玩具・文房具といった商品の販促が絡む作品が大幅に減少した。",
"title": "販促方法や販促商品の変化"
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"text": "それでも2000年代は『わがまま☆フェアリーミルモでポン!』シリーズ、『きらりん☆レボリューション』のヒットで一時期は盛り返していたものの、2008年になると『きらりん☆レボリューション』のブームが終息し、やがて低年齢層向け少女漫画がアニメ化される本数も激減した。そして2010年代以降で電子ゲーム・プライズ商品を除く玩具の販促が絡む作品は2010年から2019年までの10年間で『極上!!めちゃモテ委員長』、『夢色パティシエール』、『12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜』、『プリプリちぃちゃん!!』(2017年)、『カードキャプターさくら クリアカード編』のみと僅かとなった。",
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"text": "また、1980年代前半及び、1990年代後半以降は小中学生向けの作品でも、後述の10代以上向け作品と同様に、玩具主体ではなく原作が掲載された雑誌やコミックス、音楽CD、映像商品(DVDビデオ等)などの販売促進にマーチャンダイジングの主軸をおいた作品も登場する。更に1990年代後半からは玩具の販売が全く行われなかった作品も生じ始めた。",
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"text": "先述の『ふしぎ遊戯』(TVアニメ版)、『花より男子』と『みかん絵日記』(1992年)、『赤ちゃんと僕』、『夏目友人帳』などにおいて玩具化されている。それ以外の作品でもゲームセンター用のプライズ商品や電子ゲームが展開されているものもある。",
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"text": "玩具以外では音楽商品として1980年代『花とゆめ』や『りぼん』などの少女漫画においては漫画作品のイメージソングや短編のドラマを収録したイメージアルバムの展開が積極的に行われており、その流れから『ベルサイユのばら』や『パタリロ!』などのアニメ化作品においても声優を主体にした音楽商品が展開されていた。1980年代後半にはアニメ作品そのものが途絶え息を潜めたが、漫画作品のイメージアルバムの音楽商品自体は好調であり。その流れで1987年頃『闇のパープル・アイ』のイメージアルバムの音楽に映像をつけたミュージックビデオが発売され、当ジャンル初のOVAとなる。その後1988年の『妖精王』を筆頭に1993年まで『花とゆめ』原作の作品が連作され、後の花とゆめ原作のテレビアニメの礎になる。その後、1995年の『ふしぎ遊戯』シリーズと1997年の『少女革命ウテナ』を皮切りに一部の男性向けアニメやOVA作品と同じくDVDやCD、有料放送、ネット配信など映像・音楽商品の売上での制作費の確保を企図する作品が増え、「ノイタミナ」など女性をターゲットとしたアニメ枠が登場した2000年代中盤以降はアニメファンを意識せず、高校生以上の女性のみをメインターゲットとする作品が増加した。",
"title": "販促方法や販促商品の変化"
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少女向けアニメ(しょうじょむけアニメ)は、少女が見ることを想定して製作されたアニメの総称。
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{{複数の問題|出典の明記= 2007-8|独自研究= 2007-8}}
{{告知|提案|「10代以上向け作品」の節にスマートフォン向けクロスメディア型乙女ゲーム原作アニメについての動向を記載してはどうか}}
'''少女向けアニメ'''(しょうじょむけアニメ)は、[[少女]]が見ることを想定して製作された[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の総称。
== 概要 ==
[[少女漫画]]原作の作品が多く、次項で挙げる「幼児 - 小中学生向け作品」は、小学生以下を対象としたいわゆる「[[子供向けアニメ#性別にみる作品の特徴|女児向けアニメ]]」の一部、「10代以上向け作品」は狭義の「[[女性向けアニメ]](女子アニメ)」の一部とされている作品が多い。
少女漫画を原作としてアニメ化された作品については、'''[[少女漫画関連アニメ作品の年代別一覧]]'''も参照のこと。
※作品名が'''太字'''のものは漫画か小説を原作とするか原案を引用してアニメ化を含む何らかの映像化が行われた作品を指し、細字のものは漫画や小説を由来としない「アニメオリジナル作品」を指す。
== 幼児 - 小中学生向け作品 ==
本ジャンルの発祥は『りぼん』及び『なかよし』の小中学生向け少女漫画雑誌に連載された少女漫画を原作とした『'''[[魔法使いサリー]]'''』(第1作・[[1966年]])・『'''[[リボンの騎士]]'''』([[1967年]])・『'''[[ひみつのアッコちゃん]]'''』(第1作・[[1968年]])の3作である。[[東映]]・[[東映動画]]製作の『'''魔法使いサリー'''』及び『'''ひみつのアッコちゃん'''』は東映魔女っ子アニメシリーズの端緒となる作品であった。
1970年代になると低年齢層と高年齢層向けに作品の傾向が分かれ始めるようになり、低年齢層向けにおいては東映魔女っ子アニメシリーズの続編となる『[[魔法のマコちゃん]]』で原作が存在しない「アニメオリジナル作品」が登場し台頭していったが、後半時期には男児層の「変身ブーム」の衰退を端緒にキャラクター物の人気に陰りが見えていた。そんな中で[[1976年]]に現在に通ずる「少女漫画原作アニメ」の原点となった『'''[[キャンディ・キャンディ]]'''』が誕生、女児向け玩具のビジネスモデルを築き上げ、以後の本ジャンルの商品展開に大きな影響を与えた<ref>[[赤星政尚]]、高橋和光、早川優「第8章 ボクらの欲望に火をつけたキャラクターグッズ大行進 89|『キャンディ』の大ヒットが玩具メーカー・ポピーを変えた!?」『懐かしのTVアニメ99の謎〈東映動画 編〉』[[二見書房]]、1995年1月25日、ISBN 4-576-94199-2、222-224頁。</ref>。
1980年前半は『'''[[おはよう!スパンク]]'''』([[1981年]])が『'''キャンディ・キャンディ'''』に続き原作物で商品展開を成功させヒットした。また、折からのアニメブームの勢いで『[[魔法のプリンセス ミンキーモモ]]』([[1982年]])、『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』([[1983年]])、『[[とんがり帽子のメモル]]』([[1984年]])など「アニメオリジナル作品」が再び台頭し、立て続けにヒットした。
1980年代後半になると、『とんがり帽子のメモル』は時間帯移動の憂き目にあい、同枠の数年後の『[[新メイプルタウン物語 パームタウン編]]』は放映途中から少年向けアニメの『[[ビックリマン (アニメ)|ビックリマン]]』と抱き合わせたコンプレックス枠になって『ビックリマン』に主力を譲り{{efn|少女向けアニメ枠を奪った『ビックリマン』であるが、女児人気も高く、20代、30代女性を対象にした『[http://career.cobs.jp/level1/yoko/2010/07/post_656.html 子供のころにひそかに集めていたものは?女性編]』においても、[[ビックリマン]]シールがセーラームーングッズを上回り、さらには『[[愛の戦士ヘッドロココ]]』がビックリマンシリーズの少女漫画として扱われ、[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]]には男児向けのビックリマンのまんがが既に掲載された関係で一切掲載されず、当初連載されていた児童向け少女漫画雑誌の『[[ぴょんぴょん]]』が同誌の[[休刊]]に伴い、『[[ちゃお]]』の移籍ラインナップの一つになる程の人気作になっているように、『ビックリマン』が当時の女児人気をも掴んでいた事実が伺える。}}、また、[[ぴえろ魔法少女シリーズ]]は『魔法の天使クリィミーマミ』の成功によってシリーズ化されたものの、最終作の『[[魔法のアイドルパステルユーミ]]』では放映期間の打ち切りが生じ、1980年代前半からのアニメブームはこの時期より衰退して<ref>[http://www.style.fm/as/05_column/365/365_305.shtml WEBアニメスタイル アニメ様365日 小黒祐一郎 『第305回 1986年はTVアニメ冬の時代』]</ref> 冬の時代に入った{{efn|1980年代は地方民放テレビ局の数が少なく、遅れネットや番組販売等で全国放送される作品も少年向けアニメや藤子不二雄作品が多く、女児向けアニメの知名度は全国的には低かった。}}。1980年代末期にはアニメブームと正反対の流れとして[[赤塚不二夫]]・[[藤子不二雄]]原作アニメなど1960年代にヒットした作品のリメイクが多くなり、女児向けでも『'''ひみつのアッコちゃん'''』(第2作・[[1988年]] - [[1989年]]){{efn|『'''ひみつのアッコちゃん'''』は第1作から30年後、第2作から10年後の1998年 - 1999年に第3作が製作された。}}『'''魔法使いサリー'''』(第2作・1989 - [[1991年]])が復活するが、どちらも原作および1960年代に放映されたアニメ版第1作から大幅にリニューアルされ、「アニメオリジナル作品」と同然であった。
1990年代に入るとアニメブームが再燃し、本ジャンルでも『'''[[ちびまる子ちゃん]]'''』<ref>[http://animestyle.jp/2013/01/21/3575/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第28回 1990年(平成2年) 90年代の『サザエさん』こと『ちびまる子ちゃん』の登場(2013年1月21日)]</ref>([[1990年]] - 1992年、1995年 - )、『'''[[きんぎょ注意報!]]'''』<ref>[http://animestyle.jp/2013/01/28/3715/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第29回 1991年(平成3年) 『きんぎょ注意報!』と名作もので輝くヒロインたち (2013年1月28日)]</ref>([[1991年]] - 1992年)、『'''[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]'''』シリーズ(1992年 - [[1997年]]・以下『'''セーラームーン'''』)の大ヒットで10年ぶりに「少女漫画原作アニメ」が息を吹き返した。特に『'''ちびまる子ちゃん'''』は国民的アニメとなり、東映が得意とする「魔法少女」、「変身ヒロイン」、「戦隊」の3要素をミックスさせた『'''セーラームーン'''』は国内外を問わず幅広い年齢層に支持され、玩具も爆発的にヒットした<ref>[http://animestyle.jp/2013/02/04/3833/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第30回 1992年(平成4年) 『クレヨンしんちゃん』と『美少女戦士セーラームーン』(2013年2月4日)]</ref>。そして、この3作品の成功を元に1993年頃から『'''[[姫ちゃんのリボン]]'''』(1992 - 1993年)、『'''[[赤ずきんチャチャ]]'''』(1994 - 1995年)、『'''[[ママレード・ボーイ]]'''』(1994 - 1995年)などを筆頭に多様な作品が続々とアニメ化され、本数が激増した<ref>[http://animestyle.jp/2013/02/26/4072/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第32回 1994年(平成6年) 2大「りぼん」アニメの登場と『ガンダム』シリーズの転機(2013年2月26日)]</ref>。このうち『'''ママレード・ボーイ'''』は高校生以上の女性にも人気が高く、今までアニメ化が行われることが少なかった[[少女向けアニメ#10代以上向け作品|後述の10代以上向けの作品]]のアニメ化を促すきっかけを作り、少女向けアニメの様相が一変した。
1990年代中盤になると作品の総数が増えたことにより競争が激化し、特にバトルヒロイン系は元祖格の『'''セーラームーン'''』が大ヒットとなった影響で『'''赤ずきんチャチャ'''』もバトルヒロイン物に一部手直しされたり、さらには『'''[[とんでぶーりん|愛と勇気のピッグガール とんでぶーりん]]'''』(1994年 - 1995年)、『'''[[魔法騎士レイアース]]'''』(1994 - 1995年)、『'''[[愛天使伝説ウェディングピーチ]]'''』(1995 - 1996年)、『'''[[ナースエンジェルりりかSOS]]'''』(1995 - 1996年)、『'''[[怪盗セイントテール]]'''』(1995 - 1996年)といった類似した作品がほぼ同時期にアニメ化されて乱立状態に至り、商業的に不振に陥った作品も多くなった<ref>[http://animestyle.jp/2013/03/04/4142/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第33回 1995年(平成7年) 90年代アニメの分岐点とふたつのロボットアニメ(2013年3月4日)]</ref>。1996年には元祖格『'''セーラームーン'''』{{efn|アニメ版第1作の最終シリーズに当たる『'''美少女戦士セーラームーン セーラースターズ'''』(1996年 - 1997年)。}}ブームが去って、新たに玩具商品がヒットした作品がラブコメディ物の『'''[[こどものおもちゃ]]'''』(1996 - 1998年)のみとなり、バトルヒロインブームは衰退し始めた。またこの時期には『'''[[あずきちゃん]]'''』(1995年 - 1998年)や『'''[[水色時代]]'''』(1996年 - 1997年)のように小中学生向けの作品でありながら、玩具商品の展開をほとんど行わなかった作品が増加した(詳細は[[少女向けアニメ#販促方法や販促商品の変化|下記参照]])。1995年から第2期の放映が始まった『'''ちびまる子ちゃん'''』も「[[ファミリー・一般向けアニメ|ファミリー向けアニメ]]」として定着し玩具商品がほとんど発売されなくなった。
1990年代後期の1997年には『'''セーラームーン'''』の満5年間続いた放映が終了し、後継はアニメオリジナルの『[[キューティーハニーF]]』{{efn|『キューティーハニー』自体は少年漫画原作であるが、元々アニメ企画であり、本来少女向けアニメとして進んでいた企画が少年向けに変更された経緯を持つ作品であり、『キューティーハニーF』は先祖帰りする形で少女向けに手直しした作品である。}}(1997 - 1998年)及び、児童小説が原作で未就学児童・小学校低・中学年を主な対象とした『'''[[夢のクレヨン王国]]'''』(1997 - 1999年)となった。1998年には『'''こどものおもちゃ'''』も終了し、『'''姫ちゃんのリボン'''』から5年半続いた『りぼん』原作アニメの流れが終息した{{efn|『こどものおもちゃ』の後番組は男性向けアニメの『[[カウボーイビバップ]]』。}}。『'''セーラームーン'''』の後継としてヒットが期待されていた『キューティーハニーF』や『'''[[神風怪盗ジャンヌ]]'''』(1999 - 2000年)は視聴率や商業面で不振に終わり、『'''[[カードキャプターさくら]]'''』(パイロット版:1997年、放送:1998年 - 2000年)は原作やアニメが少女のみならず若年層のアニメファンにも大ヒットし2度も映画化されものの、未就学女児など低年齢層への訴求はいまひとつで、玩具はヒットに至らず{{efn|『'''カードキャプターさくら'''』はもともと民放で放送することを前提に1997年に[[パイロット版]]が制作されたアニメであるが、民放各局への営業が不調に終わり、『'''あずきちゃん'''』の後番組として[[日本放送協会|NHK]]各局で放送となった経緯がある。NHKは受信料収入を財源とする[[公共放送]]の性質上、[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[スポンサー]]といった広告活動が禁止されている影響もあり、[[コンピューターゲーム|ゲーム]]版の発売元も一定していなかった。雑誌媒体での宣伝に限られていたものの、玩具と異なってこちらは人気があり、[[ゲームボーイ]]版が最も売れていた。}}<ref>[http://style.fm/as/05_column/katabuchi/katabuchi_096.shtml WEBアニメスタイル 片渕須直 β運動の岸辺で 第96回 ストレスなく高野豆腐になる(2011年9月20日)]</ref>、そして『'''夢のクレヨン王国'''』の低年齢向け路線を継ぎ「アニメオリジナル作品」として登場した『[[おジャ魔女どれみ]]』シリーズ(1999 - 2004年)<ref>[http://animestyle.jp/2013/04/01/4373/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第37回 1999年 (平成11年) 『ONE PIECE』--原点回帰と子ども向けアニメの復権(2013年4月1日)]</ref>はバトル要素のない純然たる「[[魔法少女]]」アニメとなり、バトルヒロイン系はニッチなジャンルとなり、かつての勢いは鳴りを潜めた。一方でこの時期には「女児向けアニメ」として作られていない作品の女児層へのヒットも目立ち、[[幼年漫画]]が原作の『'''[[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]]'''』(2000年 - 2008年・2011年 - 2013年)<ref>[http://animestyle.jp/2013/04/08/4431/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第38回 2000年(平成12年) 多チャンネル化と作品激増時代の始まり(2013年4月8日)]</ref>、もともと男児向けアニメながら[[ポケットモンスター PiPiPi★アドベンチャー|『ちゃお』掲載のタイアップ漫画]]の影響もあって、女児層にも人気が拡大していた『[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]』(1997年・1998年 - )、そして[[少女向けアニメ#10代以上向け作品|中高生向け少女漫画原作アニメ]]の年齢層の拡大{{efn|1995年の『'''ふしぎ遊戯'''』、翌年の『'''花より男子'''』のアニメ化で起こっていたが、1998年には本来はその受け皿となるはずのテレビ東京系『りぼん』枠のアニメが『'''こどものおもちゃ'''』の終了で一度消滅したことで小学校高学年の『りぼん』離れと中高生向け少女漫画へのシフトが加速する。同年10月に白泉社の少女漫画誌を原作とする『'''彼氏彼女の事情'''』が同局でアニメ化された際にはコミックスが1000万部超のヒットとなる。2001年も『'''フルーツバスケット'''』(第1作)が同局でアニメ化された際もコミックスの発行部数が2015年の段階で1850万部の大ヒットとなり、2019年には再アニメ化が行われた。}}も起きていた。その一方で『'''セーラームーン'''』や『'''ママレード・ボーイ'''』などが人気を牽引していた1990年代前半と打って変わって『なかよし』・『りぼん』原作アニメの話題性や影響力が小さくなっていき、1995年度から微減傾向にあった2誌の部数の著しい減少が始まった。
2002年には公立の小中学校が[[休日#週休二日制|完全週休2日制]]になったことを睨み、テレビ東京系において『'''[[満月をさがして]]'''』(2002 - 2003年)、『'''[[東京ミュウミュウ]]'''』(2002 - 2003年)、『'''[[わがまま☆フェアリー ミルモでポン!]]'''』シリーズ(2002 - 2005年・以下『'''ミルモでポン!'''』)と、広告代理店・出版社・スポンサー企業において競合関係となる3作を土曜朝に並べて放映するという試みが行われ<ref>[http://animestyle.jp/2013/04/23/4609/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第40回 2002年(平成14年) 土曜午前アニメの開拓と土曜18時『ガンダムSEED』の大ヒット(2013年4月23日)]</ref>、最も後座の『'''ミルモでポン!'''』が高視聴率となって放送期間が延長され、2003年秋から2005年秋のシリーズ終了までは[[ゴールデンタイム]]に昇格して放映された{{efn|2023年4月現在、[[全国独立放送協議会|独立U局]]を除く地上波テレビ局で放送される少女漫画原作アニメではゴールデンタイムに本放送が行われた直近の作品である(ちなみにゴールデンタイムは一般的に19時から22時までの時間帯を指し、『'''ちびまる子ちゃん'''』が放送される18時台は一般的にゴールデンタイムには該当しない)。}}。この結果、この時期の『なかよし』・『りぼん』の部数低下が止まらない中で『ちゃお』の部数は『'''ミルモでポン!'''』効果で伸び、2002年に両誌を抜いて少女漫画誌で首位となった。
2004年には「アニメオリジナル作品」の『[[ふたりはプリキュア|ふたりはプリキュア・ふたりはプリキュア Max Heart]]』(2004年 - 2006年)が視聴率面・商業面とも大ヒットし<ref>[http://animestyle.jp/2013/05/22/4925/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第42回 2004年(平成16年) 男児向け、女児向けそれぞれの長寿シリーズ『ケロロ軍曹』と『プリキュア』(2013年5月22日)]</ref>、1990年代後半に一度低迷していたバトルヒロイン系の人気が復活する。さらに第4・5作目(3代目)の『[[Yes!プリキュア5|Yes!プリキュア5・Yes!プリキュア5GoGo!]]』(2007年 - 2009年)及び第7作目(5代目)の『[[ハートキャッチプリキュア!]]』(2010年 - 2011年)の大成功<ref>[http://animestyle.jp/2013/07/12/5517/ WEBアニメスタイル SPECIAL TVアニメ50周年史のための情報整理 第48回 2010年(平成22年) 『ハートキャッチプリキュア!』のヒットとグループ・タックの倒産(2013年7月12日)]</ref>によって『[[プリキュアシリーズ]]』(2004年 - )へと昇華し、「[[女児向けアニメ]]」全体を見ても2023年4月現在も続く史上最長のシリーズ作品となり、「アニメオリジナル作品」が少女漫画原作アニメに代わって「女児向けアニメ」の主役に取って代わられるきっかけとなった。
一方で『ちゃお』原作の『'''[[きらりん☆レボリューション]]'''』シリーズ(2006 - 2009年)も当時[[モーニング娘。]]に所属していた[[久住小春]]とタイアップした音楽CDやカードゲームなどが大ヒットし一大ブームとなり、従来のヒット作よりも若干低年齢層となる小学校低学年を中心に売れた。また、『'''[[しゅごキャラ!]]'''』シリーズ(2007 - 2010年)は初期に展開されていた玩具商品こそ不振で1年目限りで姿を消したものの、[[Buono!]]を起用した主題歌CDの売上が堅調で長期にわたってアニメ化された。また、これらの作品に交じる形で2000年から2003年にかけて『'''セーラームーン'''』シリーズ、2004年と2006年に『'''カードキャプターさくら'''』が共に全国ネットで再放映され、玩具商品が再発売された。2000年代の幼児・小中学生向け作品群の特徴として、『'''キャンディ・キャンディ'''』や『'''セーラームーン'''』といった大ヒット作を除いて1-2年ごとに新作に入れ替えていた1990年代までと打って変わって、アニメ化する本数を絞る代わりに作品の人気が低迷するまで原作をアニメに合わせて継続する商業展開が多く見られ、中には3年以上続く作品も見られた。また、『'''ちびまる子ちゃん'''』を除き、[[少女向けアニメ#10代以上向け作品|後述の10代以上向け作品]]と年齡層及び方向性が分かれ、幼児から小学中学年までの低年齢層が主な対象となり、『おジャ魔女どれみシリーズ』や『プリキュアシリーズ』などの「アニメオリジナル作品」と同じく「女児向けアニメ」として括られることが多くなった。
2010年代は『'''しゅごキャラ!'''』シリーズ及び、2009年4月に登場した『'''[[極上!!めちゃモテ委員長]]'''』(2009年 - 2011年){{efn|2011年春の終了と共に『'''[[Dr.リンにきいてみて!]]'''』(2001年 - 2002年)から約10年近く続いた『ちゃお』原作アニメの流れが途絶えた。ただし『'''ミルモでポン!'''』と『'''きらりん☆レボリューション'''』の間に半年間のブランクがあった。}}や同年10月に登場した『'''[[夢色パティシエール]]'''』シリーズ(2009年 - 2010年){{efn|男児向けの『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]]』から女児向けへ変更する形で枠を新設されたものの、視聴率面・商業面双方で伸び悩み、本作品の後番組は再び少年漫画原作の『'''[[べるぜバブ]]'''』となり、主に男児をターゲットとする路線に戻された。}}など当時の『なかよし』『りぼん』『ちゃお』を代表するアニメが、商業面で『プリキュアシリーズ』や『[[サンリオキャラクター]]テレビシリーズ』{{efn|『[[おねがいマイメロディ]][[マイメロディ#アニメ化作品|シリーズ]]』(2005年 - 2009年)、『[[ジュエルペット#映像作品|ジュエルペットシリーズ]]』(2009年 - 2016年)、『[[リルリルフェアリル]]シリーズ』(2016年 - 2019年)、『[[ミュークルドリーミー]]シリーズ』(2020年 - 2022年)。}}などの「アニメオリジナル作品」に敗退したことが鮮明となり、2011年以降はそれらに加えて『[[プリティーシリーズ#メディアミックス|プリティーシリーズ]]』(2011年 - 2022年)や『[[アイカツ!#テレビアニメ・劇場版|アイカツ!シリーズ]]』(2012年 - 2020年・2021年)のヒットにより「アニメオリジナル作品」が完全に主流となった。その結果、2000年代以前と比べて少女漫画を原作とした作品がアニメ化される機会が大幅に少なくなり{{efn|現状を踏まえて『ちゃお』はテレビアニメ作品・OVA作品に関わらず、アニメ作品を収録したDVDを付録にすることが一時期行われ、同時に『プリティーシリーズ』及び『アイカツシリーズ』といった「アニメオリジナル作品」の漫画化や関連情報の掲載も積極的に行った。その後は同社の少年誌で漫画原作が掲載され、アニメも含めて児童層に根強い人気を誇る『'''[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]'''』(1979年 - )や『'''[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]'''』(1996年 - )とのコラボレーション企画を頻繁に行っている。『なかよし』では2016年7月号から『'''カードキャプターさくら'''』の続編にあたる『'''カードキャプターさくら クリアカード編'''』をアニメ化を前提として連載し、2018年1月から6月まで前作と同じくNHKにてアニメの放映が行われた。一方で『りぼん』では『'''ちびまる子ちゃん'''』を除いてアニメ化に依存しない戦略を採り、『'''[[ハニーレモンソーダ]]'''』(漫画連載:2015年 - )のコミックス累計売上が750万部と近年の少女漫画では大ヒットとなり、2021年7月には実写映画として映像化がされたが、アニメ化はなされていない。}}、2011年3月の『'''極上!!めちゃモテ委員長'''』の終了から『'''[[12歳。|12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜]]'''』(2016年)開始の同年4月までの約5年間と、2018年10月の『'''[[若おかみは小学生!]]'''』(2018年){{efn|児童文学([[青い鳥文庫]])を原作とし、2003年に第1シリーズの新書が発売され、2006年から2012年まで『なかよし』に漫画版が掲載された。}}の終了から2023年4月現在に至るまでは小中学生向け少女漫画を原作としたアニメのうち、地上波にて全日帯の単独枠で本放送された作品が1990年代から続く『'''ちびまる子ちゃん'''』のみとなり、単独枠での新作アニメが放映されない状況に陥っている{{efn|子供向け[[バラエティー番組]]内のショートアニメも含めると2011年10月から2014年2月まで『[[大!天才てれびくん]]』内で放送された『'''[[ちび☆デビ!]]'''』(2011年 - 2014年)、2020年4月から2021年3月まで『おはスタ』内で放送された『[[ガル学。#アニメ|ガル学。〜聖ガールズスクエア学院〜]]』(2020年 - 2021年)も該当する。}}。その煽りを受けた『なかよし』・『りぼん』・『ちゃお』の各誌も、本誌やコミックスの売上部数や発行部数が激減している{{efn|もともと雑誌主導でアニメ化された作品が多い『なかよし』と『りぼん』は2000年代から売上不振に陥り、どちらも最盛期の1994年と比べて1/10以下、2005年と比べても半分以下に落ちている。また、他媒体とのタイアップでアニメ化された作品が多く、2000年代は売上が好調で最盛期の2005年には発行部数が120万部を超えていた『[[ちゃお]]』でも、2000年代末から部数が落ち始め、最盛期から20年近く経過した2022年度の発行部数が最盛期の1/6以下となる約17万部にまで落ち込んでいる。なお、雑誌の部数は一般社団法人日本雑誌協会調べ。}}{{efn|1999年以前に連載を開始した作品のコミックスの国内売上は『'''キャンディ・キャンディ'''』、『'''ときめきトゥナイト'''』、『'''[[あさりちゃん]]'''』(1982 - 1983年にアニメ化)、『'''ちびまる子ちゃん'''』、『'''美少女戦士セーラームーン'''』、『'''ママレードボーイ'''』、『'''カードキャプターさくら'''』など累計1,000万部を超える作品が多数存在するが、2000年以降に連載を開始した作品には1作も存在しない。2000年代以降に登場した『ちゃお』と『なかよし』の作品で最も売れた『'''きらりん☆レボリューション'''』と『'''しゅごキャラ!'''』の原作コミックスの国内売上はそれぞれ300万部台に留まる。}}。
2020年に入り、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の影響による消費落ち込みの影響や他ジャンルのアニメコンテンツとの競合の激化および流出{{efn|特に「[[少年向けアニメ]]」かつ[[深夜アニメ]]の『'''[[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]]'''』(2019年・2021年 - 2022年)は女児・少女層にも大ヒットを記録し、[https://p-bandai.jp/item/item-1000172466/ 同作品の女性キャラクターが印刷された女児用下着]など女児層をターゲットにした商品が多数発売された。また「[[男性向けアニメ]]」として展開され、第3作までは深夜アニメとして放送された『[[ラブライブ!シリーズ]]』も第4作の『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』(2021年・2022年)では女児層の人気を反映し、シリーズとしては初めてNHK[[Eテレ]]のゴールデンタイムで初回放送され、同じく初めての試みとして[https://p-bandai.jp/item/item-1000179987/ 女児向けアパレル商品]が2022年に発売された。}}もあって、「少女漫画原作アニメ」に数年遅れる形で「アニメオリジナル作品」も冬の時代を迎えている。2021年6月には『アイカツ!シリーズ』の最新シリーズである『[[アイカツプラネット!]]』が放送開始後半年で放送終了{{efn|ただしこれは実写撮影の関係上、最初から半年間の放映と決まっていた。}}、2022年は『サンリオキャラクターテレビシリーズ』の最新シリーズである『[[ミュークルドリーミー みっくす!]]』が3月に、『プリティーシリーズ』の最新シリーズである『[[ワッチャプリマジ!]]』も10月に相次いで放送終了{{efn|ただし4クールのみ放送と企画段階から決まっており、その後の展開については『プリティーシリーズ』は小休止扱いとなっている。}}し、同年秋から「女児向けアニメ」の主力作品は『プリキュアシリーズ』のみ{{efn|女児向け特撮ドラマの『[[ガールズ×戦士シリーズ]]』の最新シリーズである『[[ビッ友×戦士 キラメキパワーズ!]]』も同年6月で放送終了。}}、ショートアニメを合わせても同年10月から放送開始した[[テレビ大阪制作日曜朝9時30分枠のアニメ|テレビ東京系日曜9時30分枠(後半15分)]]の『[[ぷにるんず]]』の2作のみとなった。
2023年には同年3月の『ぷにるんず』の終了により、同年4月現在放送中の「女児向けアニメ」作品は『プリキュアシリーズ』第20作目(18代目)の『[[ひろがるスカイ!プリキュア]]』のみとなっている。
== 10代以上向け作品 ==
1970年の『[[おくさまは18歳]]』などスポ根衰退の影響で小学校高学年~高校生に相当する10代少女向けのドラマが製作される中、アニメにおいても1971年に『'''[[さすらいの太陽]]'''』、翌1972年には『'''[[モンシェリCoCo]]'''』が製作され、特に前者は日本初の芸能界を舞台にしたアニメとされ、後に頻出する歌手が主人公を演じるタイアップの嚆矢となっている。その後、[[1979年]]の『'''[[ベルサイユのばら]]'''』、『'''[[はいからさんが通る]]'''』([[1978年]])、『'''[[パタリロ!]]'''』([[1982年]])などの様に後世に名作と伝えられる作品をいくらか輩出している。ただ、これらの作品は玩具などの商業展開が確立されているとは言えず、辛うじて人形が販売されたり、音楽商品の商業展開に留まっていた{{efn|[[ピンクレディ]]人形をヒットさせた[[アサヒ玩具]]から『'''ベルサイユのばら'''』のオスカルの人形が商品化されていた。他にバンダイ系列のあんそにいからは『'''[[ラ・セーヌの星]]'''』や『'''[[銀河鉄道999]]'''』のメーテルの人形も商品化されていた。音源の商品展開は『'''[[宇宙戦艦ヤマト]]'''』ブーム以降、サウンドトラックの商品化が行われるようになった、詳しくは後述、またビデオソフトの商品化自体は『'''パタリロ!'''』放映後の80年代初旬以降であり、放映後にソフト化が本格的に行われている。}}。アニメブームの追い風の中、1983年には小学生以上の視聴層をメインターゲットとした作品としては初の映画化となる『'''パタリロ!'''』の劇場版が[[東映]]系で上映された。『'''ベルサイユのばら'''』も1987年に製作された総集編を元に音声を再録し、1990年に劇場公開されている。1985年頃までこの路線の作品のアニメ化が続いたが、それ以降の10年間はまばらな状態となる。
だが、1992年の『'''セーラームーン'''』及び1994年の『'''ママレード・ボーイ'''』の大ヒットに触発され、テレビ東京系において『'''[[ふしぎ遊戯]]'''』(1995年 - 1996年)がアニメ化されてヒット、続編がOVA化されるなどの長期シリーズとなった<ref>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/tsujimoto/tsujimoto_39.asp 私の少女漫画史 辻本吉昭 第39回 小学館・少女漫画部門のアニメ]</ref>。翌年以降も『'''[[赤ちゃんと僕]]'''』(1996年 - 1997年)、『'''[[花より男子]]'''』(1996年 - 1997年)、『'''[[CLAMP学園探偵団]]'''』(1997年)など小学中、高学年以上の年齢層を中心とした作品や、『'''[[少女革命ウテナ]]'''』(1997年){{efn|構想当初は『'''セーラームーン'''』のように幼年層向けの作品を企画していたため『ちゃお』で連載が行われた。しかし企画当初と内容が大幅に変わり、作風や漫画を担当した[[さいとうちほ]]の画風やアニメの年齢層と『ちゃお』読者の年齢層が合わず、続編『'''少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録'''』の漫画版の連載は『[[別冊少女コミック|別冊少女コミックSpecial]]』へ移籍、2017年7月にアニメの放送から20年を記念した新作は『[[月刊フラワーズ|flowers]]』で掲載された。}}など女性に加え青年男性もメインターゲットにした作品が続々登場し、10代をターゲットにしたアニメが復権、1996年頃から[[少女向けアニメ#幼児 - 小中学生向け作品|小学校中学年以下の幼年層を対象に含めた作品群]]の多くが不振となり縮小し始める一方で、10代以上向けの作品の本数は拡大し続け、少女漫画原作アニメの年齢層が大きく広がった。
1998年春には『'''[[BASARA|LEGEND OF BASARA]]'''』が[[全国独立放送協議会|独立局]]ながらも少女漫画原作アニメでは初めて深夜帯に放映された。同年秋の『'''[[彼氏彼女の事情]]'''』(1998 - 1999年)でも[[テレビ東京]]や同系列の5局では全日帯で放送されつつも系列外の多くの地方局では深夜に放映され、翌1999年の『'''[[快感・フレーズ|KAIKANフレーズ]]'''』(1999 - 2000年)の後半に制作された分はキー局のテレビ東京系6局でも深夜に放映された{{efn|『'''KAIKANフレーズ'''』のアニメ版前半は全日帯でしかもゴールデンタイムで放映されており、深夜に枠移動した原因は全日帯で放送されていた時の視聴率が不振だったことによるネガティブなものであった。}}。しかし、2000年から2004年頃までは中高生以上向け漫画を原作にした作品でも『'''[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]'''』(初代:2001年)や『'''[[学園アリス]]'''』(2004 - 2005年)など低年齢層も狙って全日帯に放映されるケースが多く、さらに『'''[[しあわせソウのオコジョさん]]'''』(2001 - 2002年)のように小学生以下の女児やファミリーでの需要を意識し内容面や絵柄など低年齢層向けに支持されやすいよう演出・改変された作品もあった。その中で2004年に『'''[[マリア様がみてる (アニメ)|マリア様がみてる]]'''』シリーズ(2004年・2006 - 2007年・2009年){{efn|しかし第2期にあたる『'''マリア様がみてる~春~'''』は全日帯に当たる朝枠での放映となった。OVAを経て再びTVアニメ化された『'''マリア様がみてる~4thシーズン'''』は再び深夜枠で放映された。}} が久々に深夜帯に放映された。
[[2005年]]より、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]において主に[[F1層]]を意識した展開を図るアニメ枠「[[ノイタミナ]]」(2005年 - 放送中)が新設されると、ターゲットも今まで中学生前後の少女が主体だったのが、従来はアニメを見る機会が少ないとされていた高校生・大学生・成人の女性が中心となり、内容も深夜帯ということで描写の制限が緩くなるためか、原作に忠実な作品が多くなり始める。また、2006年には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『animo』枠及び、[[アニメシアターX|AT-X]]の「[[アニメ女子部]]」といった「ノイタミナ」と同様の層を意識したアニメ放映枠が設けられた(ただし、「animo」は『'''[[NANA]]'''』(2006年)一作限りで消滅した)。こういった情勢から『'''[[ハチミツとクローバー]]'''』シリーズ(2005・2006年)、『'''NANA'''』、『'''[[ラブ★コン]]'''』(2007年)、『'''[[のだめカンタービレ]]'''』シリーズ(2007・2008・2010年)、『'''[[夏目友人帳 (アニメ)|夏目友人帳]]'''』シリーズ(2008・2009・2011・2012年)、『'''[[君に届け]]'''』(2009 - 2010年)、『'''[[ちはやふる]]'''』(2011年 - 2012年)といったヒット作が次々と生まれ、特に『'''のだめカンタービレ'''』に至ってはファン層を小学校低中学年の女子にまで広めた商品展開が行われ{{efn|バンダイによるカードダス「のだめも」の対象年齢は4歳から20歳までの全年齢層を、「のだめカンタービレスナック」は8歳以上とローティーン層も意識した設定になっている。[http://catalog.bandai.co.jp/item/4543112588432000.html バンダイ のだめカンタービレスナック] ちなみにゲーム関係は全年齢対象である。}}、『'''夏目友人帳'''』シリーズも元々深夜アニメながら再放送では全日帯に移るほどの人気となった。
2010年代前半は前述の幼児・小中学生向け作品が減少しても、これらの主に10代以上の女性をターゲットとした作品群は比較的好調であり、2013年度を除いて新作アニメがリリースされており、2015年は『'''[[俺物語!!]]'''』が深夜帯としては高い視聴率(3.4%)を記録していた<ref>[https://mantan-web.jp/article/20150820dog00m200055000c.html 俺物語:深夜にもかかわらず3.4%の高視聴率] まんたんウェブ 2015年08月20日</ref>。しかし2010年代の後半にあたる2016年以降は10代以上向けの作品群でも少女漫画原作アニメに関しては新規にアニメ化される作品数が減少する傾向にある。
一方で2010年代から、『'''[[美少女戦士セーラームーンCrystal]]'''』(2代目{{efn|1992年から1997年にかけて「女児向けアニメ」の形態で放送された『美少女戦士セーラームーン』から『美少女戦士セーラームーン セーラースターズ』までの5作を初代とした場合。}}:2014・2015・2016・2021年)や、『'''フルーツバスケット'''』(2代目:2019・2020・2021年)がいずれも初代アニメよりも原作者の意向に沿い、かつての初代アニメの視聴者や原作の読者であった主に1980年代から1990年代生まれ{{efn|初代アニメ放送時に『'''セーラームーン'''』は主に幼児・小学生から中学生、『'''フルーツバスケット'''』(第1作)は主に小学生から10代後半、リメイク放送時はどちらも主に20代から30代となる。}}の層に向けたリメイクという形態で再アニメ化されている。2022年にはもともとアニメ化前提のメディアミックス作品だった『'''東京ミュウミュウ'''』も深夜アニメの『'''[[東京ミュウミュウ にゅ〜♡]]'''』(2022年・2023年)としてリメイクされた。また『おジャ魔女どれみ』の20周年を記念したスピンオフの『[[魔女見習いをさがして]]』が当時の視聴者であった1990年代生まれの層{{efn|『[[魔女見習いをさがして]]』上映時には主に20代となる。}}に向けて2020年に映画化されている。2023年には『プリキュアシリーズ』においても『Yes!プリキュア5GoGo!』の続編『キボウノチカラ~オトナプリキュア ‘23~』が当時の視聴者であった主に2000年代前半生まれの層{{efn|『キボウノチカラ〜オトナプリキュア ‘23〜』放送時には主に10代後半から20代前半となる。}}に向けて2023年10月にNHK[[Eテレ]]にてアニメ化、『[[魔法つかいプリキュア!]]』(2016年 - 2017年)の続編が2024年に「[[ANiMAZiNG!!!]]」枠にて深夜アニメ化されることがアナウンスされた<ref>[https://www.famitsu.com/news/202303/14295882.html ファミ通.com 『Yes!プリキュア5GoGo!』『魔法つかいプリキュア!』続編TVアニメの制作が進行中。“おとなになった当時のファン”が楽しめる作品に(2023年03月14日)]</ref>。
小中学生向け少女漫画雑誌『なかよし』や『りぼん』で掲載された一部作品でも10代以上もターゲットと見据えて深夜帯やインターネット上でアニメ化され放送されたものもある。『なかよし』掲載の作品にはそれが多く、原作をアニメ化した作品では『'''[[さばげぶっ!]]'''』(2014年)・『'''美少女戦士セーラームーンCrystal'''』・『'''カードキャプターさくら クリアカード編'''』{{efn|『'''さばげぶっ!'''』は中高生以上のアニメファン、『'''セーラームーン'''』や『'''カードキャプターさくら'''』の本放送や再放送をリアルタイムで見ていた世代だった1980年代から1990年代生まれをメインターゲットにしている。『'''カードキャプターさくら クリアカード編'''』は本放送が全日枠、再放送が深夜枠で放送され、放送時現在の小中学生もターゲットとしている。『'''美少女戦士セーラームーンCrystal'''』は放送局によっては全日帯で放送されている。}}、アニメを漫画化した作品では『[[地獄少女]]』(2005 - 2006・2006 - 2007・2008 - 2009年)がある。また原作小説を漫画化した後にアニメ化され、一部がアニメと並行して「[[なかよしKC]]」でコミックス化された作品では『[[ゴーストハント]]』(2006 - 2008年)が該当する。『りぼん』では原作漫画が深夜帯にアニメ化されたケースはないが、『[[あにゃまる探偵キルミンずぅ]]』(2009年 - 2010年){{efn|テレビ東京・[[テレビ愛知]]・[[テレビ大阪]]のみ深夜帯に『あにゃまる探偵キルミンずぅ+』のタイトルでリピート放映された。本放送は全日帯。}} が漫画化されている。なお『ちゃお』では原作漫画が深夜帯にアニメ化されたり、深夜アニメを漫画化したケースのいずれもない。
== 販促方法や販促商品の変化 ==
;幼児 - 小中学生向け作品
1960年代から1996年頃までの長い間、このジャンルのアニメにおける[[マーチャンダイジング]]は、玩具([[電子ゲーム]]・[[プライズゲーム|プライズ]]商品{{efn|ゲームセンターで用いられる景品。一般の玩具とは流通が分けられ、玩具化とは無縁な高年齢層向けの作品も商品化されやすい。}}を除く)、キャラクターの絵が入った[[文房具]]、食品などの関連商品の販促が主体であった{{efn|ただし、1980年代にはアニメファンの台頭により、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』や『魔法の天使 クリィミーマミ』などにおいてアニメ作品のサウンドトラック及び、漫画のイメージアルバムといった音楽商品の商品展開は積極的に行われた。}}。『'''セーラームーン'''』などの幼児から小学高学年を対象とした作品はもちろん、小学校中~高学年以上をメインターゲットとし年齢層が比較的高めであった『'''ママレード・ボーイ'''』、『'''ふしぎ遊戯'''』(1995 - 1996年に放映されたTVアニメ版)、『'''花より男子'''』(アニメ版)などの作品でも、そのほとんどが玩具会社・文具メーカーなどとタイアップをしていた。
これらの玩具展開は『'''きんぎょ注意報!'''』と『'''セーラームーン'''』で定着したと言われているが、早くも1995年頃から視聴率の低迷や売上不振に陥る作品が出始め、特に1997年3月に『'''セーラームーン'''』の本放送が終了した時にはこのジャンルのアニメにおいて、玩具の販促を目的とする作品群が完全に衰退したことが明確となった{{efn|ちょうどこの頃に[[日本放送協会|NHK]]及び[[民放]][[キー局]]([[TXNネットワーク|テレビ東京系]]を除く)にて全日帯アニメ枠自体の縮小が始まった点も、本ジャンルを含めた子供向けアニメの衰退に拍車をかけた。特に本ジャンルにとっては、『'''セーラームーン'''』などを全国放映していた[[テレビ朝日系]]の土曜19:00枠(末期は18:00に変更)が消滅した影響は大きかった。}}。当の1997年は『'''セーラームーン'''』の後番組としてリメイク作品の『キューティーハニーF』が、同年9月には『'''花より男子'''』の後番組として原作は少女漫画ではなく児童向け小説とし、それまでの小学高学年をターゲットとした路線から幼稚園児・小学校低学年がメインの低年齢層向けにシフトした『'''夢のクレヨン王国'''』(1997 - 1999年)が登場し、翌1998年にかけてこの2作の関連商品が多数発売されたが、その一方で、少女漫画原作アニメの『'''[[ケロケロちゃいむ]]'''』(1997年)には玩具および文具商品を発売するスポンサーが付かず、関連商品がほとんど発売されない状態であった。
1997年以降、『夢のクレヨン王国』や、その後番組のアニメオリジナル作品である『おジャ魔女どれみ』が成功し、また『少女革命ウテナ』など映像商品や音楽CDなどに頼り、玩具・文房具の販促を全く行わない後述の高年齢層向けの作品も成功し始めるようになると、本ジャンルのアニメにおける市場構造と、アニメ製作会社・スポンサー企業における[[マーケティング]]戦略が大きく変化{{efn|低年齢向け作品の原作として用いられる小中学生向け少女誌は全て月刊のため、ストックの問題からも完全オリジナルの方がアニメスタッフにとっては製作するときの自由度が高く、著作権使用料のうち原作者に支払う分が必要なくなるため、『おジャ魔女どれみ』のヒット以降は完全オリジナル作品が中心になっていった。}} し、このジャンルのアニメからは、低年齢層向けの作品を除き玩具・文房具といった商品の販促が絡む作品が大幅に減少した。
それでも2000年代は『'''わがまま☆フェアリーミルモでポン!'''』シリーズ、『'''きらりん☆レボリューション'''』のヒットで一時期は盛り返していたものの、2008年になると『'''きらりん☆レボリューション'''』のブームが終息し、やがて低年齢層向け少女漫画がアニメ化される本数も激減した。そして2010年代以降で電子ゲーム・プライズ商品を除く玩具の販促が絡む作品は2010年から2019年までの10年間で『'''極上!!めちゃモテ委員長'''』、『'''夢色パティシエール'''』、『'''12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜'''』、『'''[[プリプリちぃちゃん!!]]'''』(2017年)、『'''カードキャプターさくら クリアカード編'''』のみと僅かとなった。
また、1980年代前半及び、1990年代後半以降は小中学生向けの作品でも、後述の10代以上向け作品と同様に、玩具主体ではなく原作が掲載された雑誌やコミックス、音楽CD、映像商品(DVDビデオ等)などの販売促進にマーチャンダイジングの主軸をおいた作品も登場する{{efn|1980年代前半の作品ではアニメオリジナル作品の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』や『魔法の天使 クリィミーマミ』が該当し、『クリィミーマミ』はアイドル歌手を声優に招き、後年の嚆矢となる展開も行われた。1990年代後半以降の作品は『'''水色時代'''』、『'''満月をさがして'''』、『'''12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜'''』などが該当し『'''満月をさがして'''』は本放映時の視聴率では振るわなかったものの、CS放送での再放送後の視聴者からの反響が大きく放映終了から2年半も経ってから新作音楽CDがリリースとされるという異例の展開が行われた。また、玩具の販促を主体とする作品であった『'''カードキャプターさくら'''』、『[[マーメイドメロディー ぴちぴちピッチ]]』(2003 - 2004年)、『'''きらりん☆レボリューション'''』、『'''極上!!めちゃモテ委員長'''』や1年目では玩具スポンサーが付いていた『'''しゅごキャラ!'''』シリーズにおいても同様に音楽CDの販促にも力を入れた。}}。更に1990年代後半からは玩具の販売が全く行われなかった作品も生じ始めた{{efn|例えば『'''あずきちゃん'''』、『'''だぁ!だぁ!だぁ!'''』(2000 - 2002年)、『'''ちび☆デビ!'''』などはスポンサーの出資ではなく視聴者からの[[受信料]]による番組制作を前提とするNHK主導の企画でアニメ化されたためであり(一方で『'''カードキャプターさくら'''』は出版社と玩具会社主導の企画であり事情が異なる。)、民放で放送された『'''ケロケロちゃいむ'''』と『'''[[ウルトラマニアック]]'''』(2003年)は玩具商品を展開する予定でアニメ化企画が立ち上げられたものの、玩具会社のスポンサーを確保できなかったためとされる。さらに『'''ウルトラマニアック'''』は地上波テレビ局ではなく、[[衛星放送|CS]]のアニメ専門放送局の「[[アニマックス]]」のみで放送された。}}。
;10代以上向け作品
先述の『'''ふしぎ遊戯'''』(TVアニメ版)、『'''花より男子'''』と『'''[[みかん絵日記]]'''』(1992年)、『'''赤ちゃんと僕'''』、『'''夏目友人帳'''』などにおいて玩具化されている。それ以外の作品でもゲームセンター用のプライズ商品や電子ゲームが展開されているものもある。
玩具以外では音楽商品として1980年代『[[花とゆめ]]』や『りぼん』などの少女漫画においては漫画作品のイメージソングや短編のドラマを収録したイメージアルバムの展開が積極的に行われており、その流れから『'''ベルサイユのばら'''』や『'''パタリロ!'''』などのアニメ化作品においても声優を主体にした音楽商品が展開されていた。1980年代後半にはアニメ作品そのものが途絶え息を潜めたが、漫画作品のイメージアルバムの音楽商品自体は好調であり。その流れで[[1987年]]頃『'''[[闇のパープル・アイ]]'''』のイメージアルバムの音楽に映像をつけた[[ミュージックビデオ]]が発売され、当ジャンル初のOVAとなる。その後[[1988年]]の『[[妖精王]]』を筆頭に[[1993年]]まで『[[花とゆめ]]』原作の作品が連作され、後の花とゆめ原作のテレビアニメの礎になる。その後、1995年の『'''ふしぎ遊戯'''』シリーズと1997年の『'''少女革命ウテナ'''』を皮切りに一部の[[男性向けアニメ]]やOVA作品と同じく[[DVD]]{{efn|2000年頃にDVDが普及するまでは[[VHS]]や[[レーザーディスク|LD]]、2008年頃に[[ブルーレイディスク|BD]]が普及してからはBDとDVDの併売が主流である。}}や[[コンパクトディスク|CD]]、有料放送、ネット配信など映像・音楽商品の売上での制作費の確保を企図する作品が増え、「ノイタミナ」など女性をターゲットとしたアニメ枠が登場した2000年代中盤以降はアニメファンを意識せず、高校生以上の女性のみをメインターゲットとする作品が増加した。
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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=== 注釈 ===
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== 関連項目 ==
* [[少女漫画]]
** [[少女漫画関連アニメ作品の年代別一覧]]
* [[子供向けアニメ#性別にみる作品の特徴|女児向けアニメ]]
* [[女性向けアニメ]]
* [[魔法少女アニメ]]
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[[Category:アニメのジャンル]]
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[[Category:子供向けテレビ番組|*しようしよむけあにめ]]
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三国志演義
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『三国志演義』(さんごくしえんぎ、繁体字: 三國演義; 簡体字: 三国演义)は、中国の明代に書かれた長編白話小説である。後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説で、四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。
著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。
後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり、すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を善玉、曹操と魏を悪役とするイメージが定着していたという記録がある。この講談は「説三分」とよばれた。元代には『全相三国志平話』(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、『三国志演義』の原型の一つと目されている。
『三国志演義』は元末・明初に成立したと考えられる。上述のような蜀漢を正統・善玉とする潮流を維持しながらも、それまでの説話や講談にあった極端な荒唐無稽さや歴史年代を無視した展開・要素を排し、黄巾の乱から呉の滅亡までの後漢末の重要事件と陳寿の『三国志』の扱う範囲を収めている。「漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備」と「王朝を支配し専横を振るう曹操」という対立軸を中心とした高い物語性、史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と継起、白話(口語)とは言いながらも洗練された文章で人気を博した。
『百川書志』文中の評にはいわく、「正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、低俗とならず虚構とならず、それでいて読みやすく入りやすく、史家の伝統的古文によるものではないが、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、百年間を叙述して、おおむね全ての出来事を包括している。」とある。
本書は中国の小説では珍しく、知識人の読み物としても認められた存在であり、しばしば蔵書目録に『水滸伝』とならんで掲載されていることが指摘されている。吉川幸次郎は「『三国志演義』は明・清の中国において、もっとも広く読まれた書物だろう」と推測している。
本書の書名は清代より『三国志演義』『三国演義』などと呼ばれ、一致を見なかった。民国期の小説研究では、魯迅『中国小説史略』、胡適『白話文学史』が全て『三国志演義』という名称を用いたが、新中国成立後は『三国演義』に統一された。現在の中国では全て『三国演義』と呼称されている。また、嘉靖本の版本名から『三国志通俗演義』という名称が用いられることもある。
また、本書の成立当初から『三国志』と呼称されることも極めて多かった。これは歴史小説としての箔をつけるために、歴史書である『三国志』の書名を借りたものと思われ、李卓吾本系の版本を中心に『三国志』『三国志伝』といった名称が盛んに用いられた。しかし、通俗小説と歴史書が同じ名称で呼ばれたことで小説と歴史を混同する人々がいることは、清代から批判されてきた。現代中国においては、『三国演義』の呼称が徹底されており、日本からの輸入メディアを除いて三国志演義を元に作られた小説や映画等が『三国志』と呼ばれることはまずない。例えば民国期に作られた連環画『三国志』は、現代中国では『三国演義』という書名に改められて再版されている。
日本ではこのあたりの区別については鷹揚であった。戦前から幸田露伴・久保天随などが『三国志演義』あるいは『演義三国志』という呼称を用いており、戦後も立間祥介の訳本は『三国志演義』であり、研究者の呼称も同様であった。また岩波文庫の訳本、吉川英治の小説、横山光輝の漫画等が全て『三国志』という名称で刊行されている。日本国内における各種解説本などでこれらを区別する場合、『三国志演義』の記述を「演義」、『三国志』の記述を「正史」と呼び分けるのが通例となっている。
元々の三国志講談を記録した『全相三国志平話』には至る所に史実の誤りが見られ、更に冒頭では史実にない冥土裁判の因縁話(この話は宋代からある古い講談ダネだと推測されている)、末尾では史実をねじ曲げて劉備の敵を孫の劉淵が討つ話が付け加えられていた。羅貫中はこれを正史によって正し、正史『三国志』のみならず『後漢書』『晋書』を駆使して、「晋平陽侯陳寿史伝、後学羅本貫中編次」と署名を付け、正史の体裁に近づけるように原型を留めない書き直しをしている。平話に対する演義の分量はおよそ十倍である。
『三国志演義』の前半は「仁徳の人」劉備と「奸雄」曹操の対比を軸に展開する。そして、後半の主人公格である諸葛亮が登場すると、物語は彼の超絶的な知謀を中心に展開し、五丈原に最高潮を迎え、一気に収束する。作中のエピソードは史実に多くの脚色が施されて作られているが、重要な戦いの勝敗や重要な事件の結果はほぼ史実通りである。劉備が劉璋を騙して益州を攻め取る話など、劉備の善良なイメージを損なう話も書かれており、『三国志演義』は単純な勧善懲悪譚ではない。
曹操陣営の人物は天子を擁し専横を振るう悪役であり、しばしば姦計を巡らすが、作中の曹操陣営の姦計・悪事の多くは魏晋南北朝時代に書かれた『三国志』(陳寿著)・『後漢書』・『曹瞞伝』・『異同雑語』(孫盛著)等に出典があり、羅貫中の独創ではない。ただ、同じ事柄について諸説ある場合は、曹操について悪く書かれている説が採用される傾向が強いようである。ただし、曹操の没(七十八回)については長文の漢詩を詠んでこの功績を称えるなど、これまた必ずしも曹操を骨の髄からの悪党として描いているわけではなく、勧善懲悪譚の域を超えていることが指摘されている。
『三国志演義』の戦争は華々しい猛将同士の一騎討ちが多く、呂布・関羽・張飛・趙雲らが卓越した武勇を発揮している。史書に一騎討ちの記録はほとんど無く、名勝負とされる一騎討ちのほとんどは後世作られたものである。
清の毛宗崗は三絶(三人の傑出した人物)が登場すると述べ、智絶(知者のきわみ)の諸葛亮、義絶(義人のきわみ)の関羽、奸絶(悪人のきわみ)の曹操の三名の傑物を挙げる。とりわけ、義理と人情の化身として『演義』成立期以前より畏敬されていた関羽は、生涯に亘って焦点が当てられ他の武将とは別格の活躍をしている。また作中の諸葛亮は卓越した智謀の持ち主であるだけでなく、占いにより人の寿命を知ることができるなど呪術的な能力を持った人物として描写されている。
全体として主人公格である劉備・諸葛亮ら蜀漢陣営と、悪役である曹操ら魏陣営との対立を主に扱っているため、孫権ら呉陣営の取り上げられ方は相対的に善悪好悪の位置づけが曖昧であるが、蜀漢陣営との対立の物語の中には、呉陣営は弱体化された。諸葛亮の手ごわい敵として扱われる周瑜を除いて呉の人物像がぼやけている。また、主役である蜀漢陣営とは関係がないから、呉と魏の間の戦争はほとんど省略され、呉に「割拠」の印象を与える。
『三国志演義』の登場人物の褒貶については、元明の民俗文化や朱子学の影響を強く受けており、したがって、歴史的評価を正確に反映するとは限らない。
上記の通り『三国志演義』は士大夫の鑑賞に堪える水準に達しており、その用法は通俗小説の域を越えていた。明・清代には兵法書としても読まれており、実際に李自成・洪秀全は兵法の参考にしていたという(黄人『小説小話』)。
清代の順治7年(1650年)に刊行された満州語版『三国志演義』の巻頭には、大略「作中の善行を鑑とし、悪政を戒とし、国人に興亡の理を学ばせよ」という摂政睿親王(ドルゴン)の諭旨が収められた。また順治帝も桃園結義にならって蒙古諸汗と兄弟の盟約を結び、満州を劉備、蒙古を関羽になぞらえた上で、蒙古との関係を保つべく関帝信仰を公認した。『三国志演義』が単に兵書として用いられるに留まらず、王朝の対内・対外政策の根幹に影響を与えていたことがわかる。
毛沢東は『三国志演義』を子供の頃から愛読し、「人民は阿斗になってはいけない」と発言するなど、『三国志演義』の登場人物を引き合いに出していたという。
国家的事業として中国中央電視台が1991年より製作した『三国志演義』は、制作費100億円・エキストラ10万人・製作年数4年・全84話にも渡る大作で、黄巾の乱から晋の成立まで描かれている。
中国本土では三国志ゆかりの場所が『三国史跡』として観光名所となっているが、『五虎大将軍の像』など『三国志演義』由来の要素も含まれている。
三国志演義は、日本も含めアジア諸国でも広く受容されている。朝鮮語訳は1703年に現れた。金万重『西浦漫筆』には「今のいわゆる『三国演義』なる書物は、元人の羅貫中から出たものである。壬申倭乱(文禄・慶長の役)の後、朝鮮でも盛んに流行し、女子供に至るまでみな口に出して読んでいる。」との記述があり、倭乱による戦乱を機に戦記物である『三国志演義』が朝鮮に広まったことが伝えられている。また、壬申倭乱に取材した歴史小説『壬申録』では、敵の倭将キヨマサ(清正)が攻めてきた際、赤兎馬に乗った関公の幻影が現れたため、清正軍が驚いて潰走するくだりがある。
東南アジアでは、タイ王国では、1802年にチャオプラヤー・プラクランによるタイ語訳の『サームコック』が人気を博し、後のタイ語文学やタイの文章語の成立に影響を与えた。その後華僑が東南アジアを横行し中国文化が伝播すると、1883年にインドネシア語訳が現れ、1889年にマレー語訳が現れ、1907年にベトナム語訳が現れている。
1845年-1851年には、フランス語訳が現れている。英語訳についても、既に1925年の上海で訳本が現れている。英米での現行版は1976年にモース・ロバーツ(Moss Roberts)が、英訳した"Romance of the Three Kingdoms"である。1940年にはドイツ語訳が現れ、1954年にはロシア語訳が現れた。
日本における影響については「日本における三国志の受容と流行」を参照。
現存する最古の版本は明の嘉靖元年(「嘉靖本」。1522年)のものである。これ以後多くの版本が現れ、明末に広く通行した「李卓吾本」と呼ばれる系列の諸本は日本にも流入し、元禄年間に和訳が行われた際の底本となっている。現在、定本とされているのは清の康煕年間に刊行された毛綸・毛宗崗父子によって校訂・加筆を行って纏められた「毛本」であり、邦訳や出典も多くがこの版に拠っている。
Category:三国志演義を題材とした作品を参照。
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"title": "羅貫中と正史三国志"
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"text": "『三国志演義』の前半は「仁徳の人」劉備と「奸雄」曹操の対比を軸に展開する。そして、後半の主人公格である諸葛亮が登場すると、物語は彼の超絶的な知謀を中心に展開し、五丈原に最高潮を迎え、一気に収束する。作中のエピソードは史実に多くの脚色が施されて作られているが、重要な戦いの勝敗や重要な事件の結果はほぼ史実通りである。劉備が劉璋を騙して益州を攻め取る話など、劉備の善良なイメージを損なう話も書かれており、『三国志演義』は単純な勧善懲悪譚ではない。",
"title": "作品内の人物像"
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"text": "1845年-1851年には、フランス語訳が現れている。英語訳についても、既に1925年の上海で訳本が現れている。英米での現行版は1976年にモース・ロバーツ(Moss Roberts)が、英訳した\"Romance of the Three Kingdoms\"である。1940年にはドイツ語訳が現れ、1954年にはロシア語訳が現れた。",
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"text": "Category:三国志演義を題材とした作品を参照。",
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『三国志演義』は、中国の明代に書かれた長編白話小説である。後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説で、四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。
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{{Redirect|三国演義|個別の派生作品など|三国志 (曖昧さ回避)}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年7月21日 (水) 21:30 (UTC)
| 独自研究 = 2021年7月21日 (水) 21:30 (UTC)
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[[画像:Three Brothers (Bei, Yu, Fei).jpg|thumb|劉備・関羽・張飛([[桃園の誓い]])]]
{{Chinese|pic=Oath_of_the_Peach_Garden_at_Long_Corridor.JPG|piccap=桃園の誓いを描いた磁器([[頤和園]])|t=三國演義|s=三国演义|p=Sān Guó Yǎn Yì|w=San<sup>1</sup>-kuo<sup>2</sup> yen<sup>3</sup>-i<sup>4</sup>|mi={{IPAc-cmn|s|an|1|.|g|uo|2|-|yan|3|.|yi|4}}|j=Saam1 Gwok3 Jin2 Ji6|y=Sāam-gwok yín-yih|tl=Sam-kok ián-gī|wuu=Se-kueh ì-nyî|bpmf=ㄙㄢㄍㄨㄛˊㄧㄢˇㄧˋ}}
『'''三国志演義'''』(さんごくしえんぎ、{{Lang-zh|t=三國演義|s=三国演义|first=t}})は、[[中国]]の[[明]]代に書かれた[[長編小説|長編]][[白話小説]]である。[[後漢]]末と[[蜀漢|蜀]]・[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]による[[三国時代 (中国)|三国時代]]を舞台とする[[時代小説]]・通俗[[歴史小説]]で、[[四大奇書]]の一つに数えられる。書名については[[#名称|下記]]。
著者は定説をみず、[[施耐庵]]あるいは[[羅貫中]]の手によるものと伝えられている。
==概要==
後漢末と[[蜀漢|蜀]]・[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]による三国時代を舞台とする[[説話 (中国)|説話]]や[[講談]]は古くからあり、すでに[[北宋]]の時代には[[劉備]]と[[蜀|蜀漢]]を善玉、[[曹操]]と[[魏 (三国)|魏]]を悪役とするイメージが定着していたという記録がある<ref>[[蘇軾]]『東坡志林』</ref>。この講談は「説三分」とよばれた。元代には『[[三国志平話|全相三国志平話]]』(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、『三国志演義』の原型の一つと目されている。
『三国志演義』は元末・明初に成立したと考えられる。上述のような蜀漢を正統・善玉とする潮流を維持しながらも、それまでの説話や講談にあった極端な荒唐無稽さや歴史年代を無視した展開・要素を排し、[[黄巾の乱]]から[[呉 (三国)|呉]]の滅亡までの後漢末の重要事件と[[陳寿]]の『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』の扱う範囲を収めている。「漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備」と「王朝を支配し専横を振るう曹操」という対立軸を中心とした高い物語性、史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と継起、白話(口語)とは言いながらも洗練された文章で人気を博した。
『百川書志』文中の評にはいわく、「正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、低俗とならず虚構とならず、それでいて読みやすく入りやすく、史家の伝統的古文によるものではないが、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、百年間を叙述して、おおむね全ての出来事を包括している。」とある。
本書は中国の小説では珍しく、知識人の読み物としても認められた存在であり、しばしば蔵書目録に『[[水滸伝]]』とならんで掲載されていることが指摘されている{{要出典|date=2023年1月}}。[[吉川幸次郎]]は「『三国志演義』は[[明]]・[[清]]の中国において、もっとも広く読まれた書物だろう」と推測している{{要出典|date=2023年1月}}。
==回目==
{|
|- valign=top
|
*;巻之一
**祭天地桃園結義
**劉玄徳斬寇立功
**安喜張飛鞭督郵
**何進謀殺十常侍
**董卓議立陳留王
**呂布刺殺丁建陽
**廃漢君董卓弄権
**曹孟徳謀殺董卓
**曹操起兵伐董卓
**虎牢関三戦呂布
*;巻之二
**董卓火焼長楽宮
**袁紹孫堅奪玉璽
**趙子龍磐河大戦
**孫堅跨江戦劉表
**司徒王允説貂蝉
**鳳儀亭布戯貂蝉
**王允授計誅董卓
**李傕郭汜寇長安
**李傕郭汜殺樊稠
**曹操興兵報父仇
*;巻之三
**劉玄徳北海解囲
**呂温侯濮陽大戦
**陶恭祖三譲徐州
**曹操定陶破呂布
**李傕郭汜乱長安
**楊奉董承双救駕
**遷鑾輿曹操秉政
**呂布夜月奪徐州
**孫策大戦太史慈
**孫策大戦厳白虎
*;巻之四
**呂奉先轅門射戟
**曹操興兵撃張繍
**袁術七路下徐州
**曹操会兵撃袁術
**決勝負賈詡談兵
**夏侯惇抜矢啖睛
**呂布敗走下邳城
**白門曹操斬呂布
**曹孟徳許田射鹿
**董承密受衣帯詔
|
*;巻之五
**青梅煮酒論英雄
**関雲長襲斬車冑
**曹公分兵拒袁紹
**関張擒劉岱王忠
**禰衡裸体罵曹操
**曹孟徳三勘吉平
**曹操勒死董貴妃
**玄徳匹馬奔冀州
**張遼義説関雲長
**雲長策馬刺顔良
*;巻之六
**雲長延津誅文醜
**関雲長封金掛印
**関雲長千里独行
**関雲長五関斬将
**雲長擂鼓斬蔡陽
**劉玄徳古城聚義
**孫策怒斬于神仙
**孫権領衆據江東
**曹操官渡戦袁紹
**曹操烏巣焼糧草
*;巻之七
**曹操倉亭破袁紹
**劉玄徳敗走荊州
**袁譚袁尚争冀州
**曹操決水淹冀州
**曹操引兵取壷関
**郭嘉遺計定遼東
**劉玄徳襄陽赴会
**玄徳躍馬跳檀渓
**劉玄徳遇司馬徽
**玄徳新野遇徐庶
*;巻之八
**徐庶定計取樊城
**徐庶走薦諸葛亮
**劉玄徳三顧茅廬
**玄徳風雪訪孔明
**定三分亮出茅廬
**孫権跨江破黄祖
**孔明遺計救劉琦
**諸葛亮博望焼屯
**献荊州粲説劉琮
**諸葛亮火焼新野
|
*;巻之九
**劉玄徳敗走江陵
**長坂坡趙雲救主
**張益徳據水断橋
**劉玄徳敗走夏口
**諸葛亮舌戦群儒
**諸葛亮智激孫権
**諸葛亮智説周瑜
**周瑜定計破曹操
**周瑜三江戦曹操
**群英会瑜智蒋幹
*;巻之十
**諸葛亮計伏周瑜
**黄蓋献計破曹操
**闞沢密献詐降書
**龐統進献連環計
**曹孟徳横槊賦詩
**曹操三江調水軍
**七星壇諸葛祭風
**周公瑾赤壁鏖兵
**曹操敗走華容道
**関雲長義釈曹操
*;巻之十一
**周瑜南郡戦曹仁
**諸葛亮一気周瑜
**諸葛亮傍略四郡
**趙子龍智取桂陽
**黄忠魏延献長沙
**孫仲謀合淝大戦
**周瑜定計取荊州
**劉玄徳娶孫夫人
**錦嚢計趙雲救主
**諸葛亮二気周瑜
*;巻之十二
**曹操大宴銅雀台
**諸葛亮三気周瑜
**諸葛亮大哭周瑜
**耒陽張飛薦鳳雛
**馬超興兵取潼関
**馬孟起渭橋六戦
**許褚大戦馬孟起
**馬孟起歩戦五将
**張永年反難楊修
**龐統献策取西川
|
*;巻之十三
**趙雲截江奪幼主
**曹操興兵下江南
**玄徳斬楊懐高沛
**黄忠魏延大争功
**落鳳坡箭射龐統
**張益徳義釈厳顔
**孔明定計捉張任
**楊阜借兵破馬超
**葭萌張飛戦馬超
**劉玄徳平定益州
*;巻之十四
**関雲長単刀赴会
**曹操杖殺伏皇后
**曹操漢中破張魯
**張遼大戦逍遥津
**甘寧百騎劫曹営
**魏王宮左慈擲杯
**曹操試神卜管輅
**耿紀韋晃討曹操
**瓦口張飛戦張郃
**黄忠厳顔双建功
*;巻之十五
**黄忠馘斬夏侯淵
**趙子龍漢水大戦
**劉玄徳智取漢中
**曹孟徳忌殺楊修
**劉備進位漢中王
**関雲長威震華夏
**龐徳擡櫬戦関公
**関雲長水淹七軍
**関雲長刮骨療毒
**呂子明智取荊州
*;巻之十六
**関雲長大戦徐晃
**関雲長夜走麦城
**玉泉山関公顕聖
**漢中王痛哭関公
**曹操殺神医華佗
**魏太子曹丕秉政
**曹子建七歩成章
**漢中王怒殺劉封
**廃献帝曹丕簒漢
**漢中王成都称帝
|
*;巻之十七
**范彊張達刺張飛
**劉先主興兵伐呉
**呉臣趙咨説曹丕
**関興斬将救張苞
**劉先主猇亭大戦
**陸遜定計破蜀兵
**先主夜走白帝城
**八陣図石伏陸遜
**白帝城先主托孤
**曹丕五路下西川
*;巻之十八
**難張温秦宓論天
**泛龍舟魏主伐呉
**孔明興兵征孟獲
**諸葛亮一擒孟獲
**諸葛亮二擒孟獲
**諸葛亮三擒孟獲
**諸葛亮四擒孟獲
**諸葛亮五擒孟獲
**諸葛亮六擒孟獲
**諸葛亮七擒孟獲
*;巻之十九
**孔明秋夜祭瀘水
**孔明初上出師表
**趙子龍大破魏兵
**諸葛亮智取三郡
**孔明以智伏姜維
**孔明祁山破曹真
**孔明大破鉄車兵
**司馬懿智擒孟達
**司馬懿智取街亭
**孔明智退司馬懿
*;巻之二十
**孔明揮涙斬馬謖
**陸遜石亭破曹休
**孔明再上出師表
**諸葛亮二出祁山
**孔明遺計斬王双
**諸葛亮三出祁山
**孔明智敗司馬懿
**仲達興兵寇漢中
**諸葛亮四出祁山
**孔明祁山布八陣
|
*;巻之二十一
**諸葛亮五出祁山
**木門道弩射張郃
**諸葛亮六出祁山
**孔明造木牛流馬
**孔明火焼木柵寨
**孔明秋夜祭北斗
**孔明秋風五丈原
**死諸葛走活仲達
**武侯遺計斬魏延
**魏折長安承露盤
*;巻之二十二
**司馬懿退公孫淵
**司馬懿謀殺曹爽
**司馬懿父子秉政
**姜維大戦牛頭山
**戦徐塘呉魏交兵
**孫峻謀殺諸葛恪
**姜維計困司馬昭
**司馬師廃主立君
**文鴦単騎退雄兵
**姜維洮西敗魏兵
*;巻之二十三
**鄧艾段谷破姜維
**司馬昭破諸葛誕
**忠義士于詮死節
**姜維長城戦鄧艾
**孫綝廃呉主孫休
**姜維祁山戦鄧艾
**司馬昭弑殺曹髦
**姜伯約棄車大戦
**姜伯約洮陽大戦
**姜維避禍屯田計
*;巻之二十四
**鍾会鄧艾取漢中
**姜維大戦剣門関
**鑿山嶺鄧艾襲川
**諸葛瞻大戦鄧艾
**蜀後主輿櫬出降
**鄧艾鍾会大争功
**姜維一計害三賢
**司馬復奪受禅台
**羊祜病中薦杜預
**王濬計取石頭城
|}
===毛倫毛宗崗本===
{|
|- valign=top
|
*第一回 宴桃園豪傑三結義 斬黄巾英雄首立功
*第二回 張翼徳怒鞭督郵 何国舅謀誅宦官
*第三回 議温明董卓叱丁原 贈金珠李粛説呂布
*第四回 廃漢帝陳留践位 謀董賊孟徳献刀
*第五回 発矯詔諸鎮応曹公 破関兵三英戦呂布
*第六回 焚金闕董卓行兇 匿玉璽孫堅背約
*第七回 袁紹磐河戦公孫 孫堅越江撃劉表
*第八回 王司徒巧使連環計 董太師大鬧鳳儀亭
*第九回 除暴兇呂布助司徒 犯長安李傕聴賈詡
*第十回 勤王室馬騰挙義 報父讐曹操興師
*第十一回 劉皇叔北海救孔融 呂温侯濮陽破曹操
*第十二回 陶恭祖三譲徐州 曹孟徳大戦呂布
*第十三回 李傕郭汜大交兵 楊奉董承双救駕
*第十四回 曹孟徳移駕幸許都 呂奉先乗夜襲徐郡
*第十五回 太史慈酣闘小覇王 孫伯符大戦厳白虎
*第十六回 呂奉先射戟轅門 曹孟徳敗師淯水
*第十七回 袁公路大起七軍 曹孟徳会合三将
*第十八回 賈文和料敵決勝 夏侯惇抜矢啖睛
*第十九回 下邳城曹操鏖兵 白門楼呂布殞命
*第二十回 曹阿瞞許田打囲 董国舅内閣受詔
*第二十一回 曹操煮酒論英雄 関公賺城斬車冑
*第二十二回 袁曹各起馬歩三軍 関張共擒王劉二将
*第二十三回 禰正平裸衣罵賊 吉太医下毒遭刑
*第二十四回 国賊行兇殺貴妃 皇叔敗走投袁紹
*第二十五回 屯土山関公約三事 救白馬曹操解重囲
*第二十六回 袁本初敗兵折将 関雲長掛印封金
*第二十七回 美髯公千里走単騎 漢寿侯五関斬六将
*第二十八回 斬蔡陽兄弟釈疑 会古城主臣聚義
*第二十九回 小覇王怒斬于吉 碧眼児坐領江東
*第三十回 戦官渡本初敗績 劫烏巣孟徳焼糧
*第三十一回 曹操倉亭破本初 玄徳荊州依劉表
*第三十二回 奪冀州袁尚争鋒 決漳河許攸献計
*第三十三回 曹丕乗乱納甄氏 郭嘉遺計定遼東
*第三十四回 蔡夫人隔屏聴密語 劉皇叔躍馬過檀渓
*第三十五回 玄徳南漳逢隠淪 単福新野遇英主
*第三十六回 玄徳用計襲樊城 元直走馬薦諸葛
*第三十七回 司馬徽再薦名士 劉玄徳三顧草廬
*第三十八回 定三分隆中決策 戦長江孫氏報仇
*第三十九回 荊州城公子三求計 博望坡軍師初用兵
*第四十回 蔡夫人議献荊州 諸葛亮火焼新野
*第四十一回 劉玄徳携民渡江 趙子龍単騎救主
*第四十二回 張翼徳大鬧長坂橋 劉豫州敗走漢津口
*第四十三回 諸葛亮舌戦群儒 魯子敬力排衆議
*第四十四回 孔明用智激周瑜 孫権決計破曹操
*第四十五回 三江口曹操折兵 群英会蒋幹中計
*第四十六回 用奇謀孔明借箭 献密計黄蓋受刑
*第四十七回 闞沢密献詐降書 龐統巧授連環計
*第四十八回 宴長江曹操賦詩 鎖戦船北軍用武
*第四十九回 七星壇諸葛祭風 三江口周瑜縱火
*第五十回 諸葛亮智算華容 関雲長義釈曹操
*第五十一回 曹仁大戦東呉兵 孔明一気周公瑾
*第五十二回 諸葛亮智辞魯粛 趙子龍計取桂陽
*第五十三回 関雲長義釈黄漢升 孫仲謀大戦張文遠
*第五十四回 呉国太仏寺看新郎 劉皇叔洞房続佳偶
*第五十五回 玄徳智激孫夫人 孔明二気周公瑾
*第五十六回 曹操大宴銅雀台 孔明三気周公瑾
*第五十七回 柴桑口臥龍弔喪 耒陽県鳳雛理事
*第五十八回 馬孟起興兵雪恨 曹阿瞞割鬚棄袍
*第五十九回 許褚裸衣闘馬超 曹操抹書間韓遂
*第六十回 張永年反難楊修 龐士元議取西蜀
|
*第六十一回 趙雲截江奪阿斗 孫権遺書退老瞞
*第六十二回 取涪関楊高授首 攻雒城黄魏争功
*第六十三回 諸葛亮痛哭龐統 張翼徳義釈厳顔
*第六十四回 孔明定計捉張任 楊阜借兵破馬超
*第六十五回 馬超大戦葭萌関 劉備自領益州牧
*第六十六回 関雲長単刀赴会 伏皇后為国捐生
*第六十七回 曹操平定漢中地 張遼威震逍遙津
*第六十八回 甘寧百騎劫魏営 左慈擲杯戯曹操
*第六十九回 卜周易管輅知機 討漢賊五臣死節
*第七十回 猛張飛智取瓦口隘 老黄忠計奪天蕩山
*第七十一回 占対山黄忠逸待労 拠漢水趙雲寡勝衆
*第七十二回 諸葛亮智取漢中 曹阿瞞兵退斜谷
*第七十三回 玄徳進位漢中王 雲長攻抜襄陽郡
*第七十四回 龐令明擡櫬決死戦 関雲長放水淹七軍
*第七十五回 関雲長刮骨療毒 呂子明白衣渡江
*第七十六回 徐公明大戦沔水 関雲長敗走麦城
*第七十七回 玉泉山関公顕聖 洛陽城曹操感神
*第七十八回 治風疾神医身死 伝遺命奸雄数終
*第七十九回 兄逼弟曹植賦詩 姪陥叔劉封伏法
*第八十回 曹丕廃帝簒炎劉 漢王正位続大統
*第八十一回 急兄讐張飛遇害 雪弟恨先主興兵
*第八十二回 孫権降魏受九錫 先主征呉賞六軍
*第八十三回 戦猇亭先主得讐人 守江口書生拝大将
*第八十四回 陸遜営焼七百里 孔明巧布八陣図
*第八十五回 劉先主遺詔託孤児 諸葛亮安居平五路
*第八十六回 難張温秦宓逞天弁 破曹丕徐盛用火攻
*第八十七回 征南寇丞相大興師 抗天兵蛮王初受執
*第八十八回 渡瀘水再縛番王 識詐降三擒孟獲
*第八十九回 武郷侯四番用計 南蛮王五次遭擒
*第九十回 駆巨獣六破蛮兵 焼藤甲七擒孟獲
*第九十一回 祭瀘水漢相班師 伐中原武侯上表
*第九十二回 趙子龍力斬五将 諸葛亮智取三城
*第九十三回 姜伯約帰降孔明 武郷侯罵死王朗
*第九十四回 諸葛亮乗雪破羌兵 司馬懿剋日擒孟達
*第九十五回 馬謖拒諫失街亭 武侯弾琴退仲達
*第九十六回 孔明揮涙斬馬謖 周魴断髪賺曹休
*第九十七回 討魏国武侯再上表 破曹兵姜維詐献書
*第九十八回 追漢軍王双受誅 襲陳倉武侯取勝
*第九十九回 諸葛亮大破魏兵 司馬懿入寇西蜀
*第一百回 漢兵劫寨破曹真 武侯闘陣辱仲達
*第一百一回 出隴上諸葛妝神 奔剣閣張郃中計
*第一百二回 司馬懿占北原渭橋 諸葛亮造木牛流馬
*第一百三回 上方谷司馬受困 五丈原諸葛禳星
*第一百四回 隕大星漢丞相帰天 見木像魏都督喪膽
*第一百五回 武侯預伏錦嚢計 魏主拆取承露盤
*第一百六回 公孫淵兵敗死襄平 司馬懿詐病賺曹爽
*第一百七回 魏主政帰司馬氏 姜維兵敗牛頭山
*第一百八回 丁奉雪中奮短兵 孫峻席間施密計
*第一百九回 困司馬漢将奇謀 廃曹芳魏家果報
*第一百十回 文鴦単騎退雄兵 姜維背水破大敵
*第一百十一回 鄧士載智敗姜伯約 諸葛誕義討司馬昭
*第一百十二回 救寿春于詮死節 取長城伯約鏖兵
*第一百十三回 丁奉定計斬孫綝 姜維闘陣破鄧艾
*第一百十四回 曹髦駆車死南闕 姜維棄糧勝魏兵
*第一百十五回 詔班師後主信讒 託屯田姜維避禍
*第一百十六回 鍾会分兵漢中道 武侯顕聖定軍山
*第一百十七回 鄧士載偸度陰平 諸葛瞻戦死綿竹
*第一百十八回 哭祖廟一王死孝 入西川二士争功
*第一百十九回 假投降巧計成虚話 再受禅依様畫葫蘆
*第一百二十回 薦杜預老将献新謀 降孫皓三分帰一統
|}
===年表と回目の対応===
{| class="wikitable"
! 年 !! 事項 !! 回目
|-
|184 || [[黄巾の乱]] || 1
|-
|189 || [[董卓]]入京。[[献帝 (漢)|献帝]]即位。|| 3-4
|-
|192 || 董卓暗殺される。[[曹操]]挙兵。|| 9-10
|-
| style="vertical-align:top" |196 || 曹操、献帝を保護下におく。[[劉備]]も曹操の部下となる。|| 14-16
|-
|199 || 劉備は曹操と離れ、[[袁紹]]と結ぶ。|| 21-22
|-
| style="vertical-align:top" |200 || 江東の[[孫策]]死、[[孫権]]が後継。[[官渡の戦い]]で袁紹が敗北。|| 29-30
|-
|201 || 劉備は[[荊州]]の[[劉表]]のもとへ逃亡。|| 31
|-
|207 || [[三顧の礼]]で劉備が[[孔明]]を迎える。|| 37-38
|-
|208 || [[赤壁の戦い]]|| 48-50
|-
|214 || 劉備が[[蜀]]を占領。|| 63-65
|-
|220 || 曹操病死。[[曹丕]]が[[魏 (三国)|魏]]帝となり、[[漢]]滅亡。|| 78-80
|-
|221 || 劉備は蜀帝となる。|| 80
|-
| style="vertical-align:top" |222 || 孫権は[[呉 (三国)|呉]]王となる(229年呉帝となる)。三国が鼎立。|| 82
|-
|223 || 劉備が病死。|| 85
|-
|227 || 孔明が[[出師の表]]を提出。北伐開始。|| 91
|-
|234 || 孔明、[[五丈原]]に病死。|| 104
|-
|252 || 孫権病死。|| 108
|-
|263 || [[司馬昭]]の部下が、蜀を攻撃。蜀滅亡。|| 116-118
|-
|265 || 司馬昭の子、[[司馬炎]]が即位、[[晋 (王朝)|晋]]を建国。|| 119
|-
|280 || 呉滅亡。三国統一。|| 120
|}
==名称==
本書の書名は清代より『'''三国志演義'''』『'''三国演義'''』などと呼ばれ、一致を見なかった。民国期の小説研究では、[[魯迅]]『中国小説史略』、[[胡適]]『白話文学史』が全て『三国志演義』という名称を用いたが、{{要出典|新中国成立後|date=2023年8月21日}}は『三国演義』に統一された。現在の中国では全て『三国演義』と呼称されている。また、嘉靖本の版本名から『'''三国志通俗演義'''』という名称が用いられることもある。
また、本書の成立当初から『三国志』と呼称されることも極めて多かった。これは歴史小説としての箔をつけるために、歴史書である『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の書名を借りたものと思われ、[[李卓吾]]本系の版本を中心に『'''三国志'''』『'''三国志伝'''』といった名称が盛んに用いられた。しかし、通俗小説と歴史書が同じ名称で呼ばれたことで小説と歴史を混同する人々がいることは、清代から批判されてきた。現代中国においては、『三国演義』の呼称が徹底されており、日本からの輸入メディアを除いて三国志演義を元に作られた小説や映画等が『三国志』と呼ばれることはまずない。例えば民国期に作られた連環画『三国志』は、現代中国では『三国演義』という書名に改められて再版されている。
日本ではこのあたりの区別については鷹揚であった。戦前から[[幸田露伴]]・[[久保天随]]などが『三国志演義』あるいは『'''演義三国志'''』という呼称を用いており、戦後も[[立間祥介]]の訳本は『三国志演義』であり、研究者の呼称も同様であった。また岩波文庫の訳本、[[吉川英治]]の小説、[[横山光輝]]の漫画等が全て『三国志』という名称で刊行されている。日本国内における各種解説本などでこれらを区別する場合、『三国志演義』の記述を「演義」、『三国志』の記述を「正史」と呼び分けるのが通例となっている。
==羅貫中と正史三国志==
元々の三国志講談を記録した『[[三国志平話|全相三国志平話]]』には至る所に史実の誤りが見られ、更に冒頭では史実にない冥土裁判の因縁話(この話は宋代からある古い講談ダネだと推測されている)、末尾では史実をねじ曲げて劉備の敵を孫の[[劉淵]]が討つ話が付け加えられていた<ref group="注釈">劉淵が晋書で同族の劉備・劉禅の後を継ぐと宣言していることは事実だが、史実では劉備・劉禅と劉淵の直属の関係はない。ところが平話は「外孫劉淵」として劉備・劉禅との血縁関係を創造している。</ref>。羅貫中はこれを正史によって正し、正史『三国志』のみならず『後漢書』『晋書』を駆使して、「晋平陽侯陳寿史伝、後学羅本貫中編次」と署名を付け、正史の体裁に近づけるように原型を留めない書き直しをしている。平話に対する演義の分量はおよそ十倍である<ref group="注釈">立間祥介『三国志演義』解説、徳間文庫より。なお、田舎学者だった羅貫中が膨大な正史をセットで持っていることは考えにくく、宋の呂祖謙が正史をダイジェストした『十七史詳節』や、司馬光の『資治通鑑』などが羅貫中のタネ本だったのではないかという推測もある。『十七史詳節』は歴代正史の面白いところを抜き出したもので、正史三国志六十五巻を二十巻にダイジェストするなど、現在日本で出版されている正史のダイジェスト版の先駆とも言えるもので、当時広く普及していた。</ref>。
==作品内の人物像==
[[File:Zhuge Liang.jpg|thumb|200px|[[諸葛亮]]の挿絵]]
{{main|三国志演義の成立史}}
『三国志演義』の前半は「仁徳の人」劉備と「奸雄」曹操の対比を軸に展開する。そして、後半の主人公格である[[諸葛亮]]が登場すると、物語は彼の超絶的な知謀を中心に展開し、五丈原に最高潮を迎え、一気に収束する。作中のエピソードは史実に多くの脚色が施されて作られているが、重要な戦いの勝敗や重要な事件の結果はほぼ史実通りである。劉備が[[劉璋]]を騙して[[益州]]を攻め取る話{{efn|朱子学では、正義の味方である劉備が親族を騙して領地を奪うのは、侵略戦争に当たり、自衛戦争を超えていて問題ではないかという視点から、この出来事が問題にされることが多く、劉備や諸葛亮を批判する意見が多い<ref>『近思録』巻十四「聖賢気象」等</ref>。羅貫中は「紫陽(朱熹)の筆法」を用いると作中で述べている。}}など、劉備の善良なイメージを損なう話も書かれており、『三国志演義』は単純な勧善懲悪譚ではない。
曹操陣営の人物は天子を擁し専横を振るう悪役であり、しばしば姦計を巡らすが、作中の曹操陣営の姦計・悪事の多くは[[魏晋南北朝時代]]に書かれた『三国志』(陳寿著)・『[[後漢書]]』・『曹瞞伝』・『異同雑語』([[孫盛]]著)等に出典があり、羅貫中の独創ではない。ただ、同じ事柄について諸説ある場合は、曹操について悪く書かれている説が採用される傾向が強いようである。ただし、曹操の没(七十八回)については長文の漢詩を詠んでこの功績を称えるなど、これまた必ずしも曹操を骨の髄からの悪党として描いているわけではなく、勧善懲悪譚の域を超えていることが指摘されている{{efn|詩の中で羅貫中は曹操を英雄と褒め、「書生、軽しく塚中の人を議せば、塚中、爾が書生の気を笑わん」と述べる。歴史小説家の田中芳樹はこの詩を論じて、「三国志演義」は、かなり辛辣な罠が読者に対してしかけられている、そういう作品であるかもしれない。」と多面性について述べている<ref>田中『書生論ー三国志雑感』、『長江落日賦』所収</ref>。}}。
『三国志演義』の戦争は華々しい猛将同士の[[一騎討ち]]が多く、[[呂布]]・[[関羽]]・[[張飛]]・[[趙雲]]らが卓越した武勇を発揮している。史書に一騎討ちの記録はほとんど無く<ref group="注釈">史書に「AがBを斬った」とある場合でも、直接斬り合ったわけではなく、実際にBを斬ったのはA配下の一兵卒であるケースが一般的である。{{独自研究?|date=2021年7月}}}直接斬り合ったと言及されているのは、[[孫策]]と[[太史慈]]、関羽と[[顔良]]などごく限られる。</ref>、名勝負とされる一騎討ちのほとんどは後世作られたものである。
[[清]]の毛宗崗は三絶(三人の傑出した人物)が登場すると述べ、智絶(知者のきわみ)の諸葛亮、義絶(義人のきわみ)の関羽、奸絶(悪人のきわみ)の曹操の三名の傑物を挙げる。とりわけ、義理と人情の化身として『演義』成立期以前より畏敬されていた関羽は、生涯に亘って焦点が当てられ他の武将とは別格の活躍をしている。また作中の諸葛亮は卓越した智謀の持ち主であるだけでなく、占いにより人の寿命を知ることができるなど呪術的な能力を持った人物として描写されている。
全体として主人公格である劉備・諸葛亮ら蜀漢陣営と、悪役である曹操ら魏陣営との対立を主に扱っているため、孫権ら呉陣営の取り上げられ方は相対的に善悪好悪の位置づけが曖昧であるが、蜀漢陣営との対立の物語の中には、呉陣営は弱体化された。諸葛亮の手ごわい敵として扱われる周瑜を除いて呉の人物像がぼやけている。また、主役である蜀漢陣営とは関係がないから<ref group="注釈">『三国志演義』に、孟獲の反乱は4回目を使って記述し、孔明の北伐は15回目を使って記述した。正史『魏書』第十三卷、魏も「蜀はただの小さな国です」と記述されている。</ref>、呉と魏の間の戦争はほとんど省略され<ref group="注釈">正史では、呉の北伐は20回目以上、巣湖・濡須・江夏北・六安・柤中・襄陽・芍陂・西陵などの戦いはほとんど言及されていない。</ref>、呉に「割拠」の印象を与える<ref group="注釈">正史『呉書』『呉録』では、孫権は明確に天下統一を目指している</ref>。
『三国志演義』の登場人物の褒貶については、元明の民俗文化や[[朱子学]]の影響を強く受けており、したがって、歴史的評価を正確に反映するとは限らない<ref group="注釈">『[[隋唐演義]]』の[[李玄霸|李元霸]]は猛将として描かれる一方で、原型の人物は早死した。このような場合に創作部分が多い。{{独自研究?|date=2021年7月}}}</ref>。
==影響==
上記の通り『三国志演義』は[[士大夫]]の鑑賞に堪える水準に達しており、その用法は通俗小説の域を越えていた。[[明]]・[[清]]代には兵法書としても読まれており、実際に[[李自成]]・[[洪秀全]]は兵法の参考にしていたという(黄人『小説小話』)。
清代の[[順治]]7年([[1650年]])に刊行された満州語版『三国志演義』の巻頭には、大略「作中の善行を鑑とし、悪政を戒とし、国人に興亡の理を学ばせよ」という[[摂政]]睿親王([[ドルゴン]])の諭旨が収められた。また[[順治帝]]も桃園結義にならって蒙古[[ハーン|諸汗]]と兄弟の盟約を結び、満州を劉備、蒙古を関羽になぞらえた上で、蒙古との関係を保つべく関帝信仰を公認した<ref>[[徐珂]]『清稗類鈔』喪祭類「以祀関羽愚蒙」</ref>。『三国志演義』が単に兵書として用いられるに留まらず、王朝の対内・対外政策の根幹に影響を与えていたことがわかる。
[[毛沢東]]は『三国志演義』を子供の頃から愛読し、「人民は[[劉禅|阿斗]]になってはいけない」と発言するなど、『三国志演義』の登場人物を引き合いに出していたという。
国家的事業として[[中国中央電視台]]が1991年より製作した『[[三国志演義 (テレビドラマ)|三国志演義]]』は、制作費100億円・エキストラ10万人・製作年数4年・全84話にも渡る大作で、[[黄巾の乱]]から[[晋 (王朝)|晋]]の成立まで描かれている。
中国本土では三国志ゆかりの場所が『三国史跡』として観光名所となっているが、『[[五虎大将軍]]の像』など『三国志演義』由来の要素も含まれている<ref>{{Cite web |title=富楽山公園 |url=https://www.chongqing.cn.emb-japan.go.jp/itpr_ja/kankoujouhou_shisen_fuleshangongyuan.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-05-01 |language=ja}}</ref>。
三国志演義は、日本も含めアジア諸国でも広く受容されている。[[ハングル|朝鮮語]]訳は1703年に現れた。金万重『西浦漫筆』には「今のいわゆる『三国演義』なる書物は、元人の羅貫中から出たものである。壬申倭乱([[文禄・慶長の役]])の後、朝鮮でも盛んに流行し、女子供に至るまでみな口に出して読んでいる。」との記述があり、倭乱による戦乱を機に戦記物である『三国志演義』が朝鮮に広まったことが伝えられている。また、[[壬辰倭乱|壬申倭乱]]に取材した歴史小説『壬申録』では、敵の倭将キヨマサ(清正)が攻めてきた際、赤兎馬に乗った関公の幻影が現れたため、清正軍が驚いて潰走するくだりがある。
東南アジアでは、[[タイ王国]]では、[[1802年]]にチャオプラヤー・プラクランによる[[タイ語]]訳の『[[サームコック]]』が人気を博し、後のタイ語文学やタイの文章語の成立に影響を与えた。その後華僑が東南アジアを横行し中国文化が伝播すると、[[1883年]]にインドネシア語訳が現れ、[[1889年]]にマレー語訳が現れ、[[1907年]]にベトナム語訳が現れている。
[[1845年]]-[[1851年]]には、フランス語訳が現れている。英語訳についても、既に[[1925年]]の上海で訳本が現れている。英米での現行版は1976年にモース・ロバーツ(Moss Roberts)が、英訳した"Romance of the Three Kingdoms"である。[[1940年]]にはドイツ語訳が現れ、[[1954年]]にはロシア語訳が現れた。
日本における影響については「[[三国志#白話小説『三国志演義』・大衆文化の受容|日本における三国志の受容と流行]]」を参照。
==版本==
現存する最古の版本は[[明]]の[[嘉靖]]元年(「嘉靖本」。1522年)のものである。これ以後多くの版本が現れ、明末に広く通行した「[[李卓吾]]本」と呼ばれる系列の諸本は日本にも流入し、元禄年間に和訳が行われた際の底本となっている。現在、定本とされているのは清の康煕年間に刊行された毛綸・毛宗崗父子によって校訂・加筆を行って纏められた「毛本」であり、邦訳や出典も多くがこの版に拠っている。
==日本語訳==
; ※完訳版での刊行
* [[井波律子]]訳 『三国志演義』 [[講談社学術文庫]] 全4巻、2014年<ref group="注釈">旧版は、[[ちくま文庫]] 全7巻 2002-2003年</ref>。
*#{{ISBN|978-4062922579}}
*#{{ISBN|978-4062922586}}
*#{{ISBN|978-4062922593}}
*#{{ISBN|978-4062922609}}
* [[立間祥介]]訳 『三国志演義』 [[角川ソフィア文庫]] 全4巻、2019年<ref group="注釈">元版は[[徳間文庫]] 改訂版全4巻 2006年(旧版 全8巻 1983年)。初訳は[[平凡社]]〈中国古典文学全集 8・9〉1958-1959年。改訂版〈[[中国古典文学大系]] 26・27〉1968年。奇書シリーズ(普及版 全2巻)1972年。コンパクト版(選書判 全7巻)1989年。</ref>。
*#{{ISBN|978-4044005092}}
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*#{{ISBN|978-4044005115}}
*#{{ISBN|978-4044005122}}
* [[小川環樹]]・金田純一郎訳 『完訳 三国志』 [[岩波文庫]] 全8巻、改版1988年<ref group="注釈">元版は単行版([[岩波書店]] 1983年)。他にワイド版岩波文庫 2011年</ref>。
*#{{ISBN|978-4003201213}}
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* 渡辺精一訳<ref group="注釈">訳者渡辺精一は、[[周大荒]]「[[反三国志]]」講談社 も訳、三国志関連を多数刊行。</ref> 『〈新訳〉三国志』 [[講談社]] 全3巻「天・地・人の巻」、2000-2001年。
** 天) {{ISBN|978-4062048002}}
** 地) {{ISBN|978-4062048019}}
** 人) {{ISBN|978-4062048026}}
* [[村上知行]]訳 『完訳 三国志』 [[光文社文庫]] 全5巻<ref group="注釈">初刊は[[河出書房新社]] 全3巻 1968年で、ほか多数再刊</ref>、2004年。
*#{{ISBN|978-4334736675}}
*#{{ISBN|978-4334736880}}
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*#{{ISBN|978-4334737351}}
== 派生した作品 ==
[[:Category:三国志演義を題材とした作品]]を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{ページ番号|date=2021年7月|section=1}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*沈伯俊・譚良嘯編著『三国志演義大事典』[[立間祥介]]・[[岡崎由美]]・土屋文子編訳、[[潮出版社]]、1996年。{{ISBN|4267012385}}
*[[渡邉義浩]]・仙石知子『三国志演義事典』[[大修館書店]]、2019年。{{ISBN|9784469032154}}
=== 関連文献 ===
*[[金文京]]『三国志演義の世界』東方書店〈東方選書〉、1993年。{{ISBN|4497934039}}(増補版、2010年。{{ISBN|9784497210098}})
*[[井波律子]]『三国志演義』[[岩波書店]]〈[[岩波新書]]〉、1994年。{{ISBN|9784004303480}}
*中川諭『「三国志演義」版本の研究』[[汲古書院]]、1998年。{{ISBN|9784762926242}}
*丸山浩明『明清章回小説研究』汲古書院、2003年。{{ISBN|9784762926808}}
*井上泰山『中国近世小説戯曲論集』関西大学出版部、2004年。{{ISBN|9784873544069}}
*満田剛『三国志:正史と小説の狭間』[[白帝社]]、2006年。{{ISBN|9784891747862}}
*田中尚子『三国志享受史論考』汲古書院、2007年。{{ISBN|9784762935497}}
*小松謙『「四大奇書」の研究』汲古書院、2010年。{{ISBN|9784762928857}}
*小松建男『中国近世小説の伝承と形成』[[研文出版]]、2010年。{{ISBN|9784876363070}}
*渡邉義浩・仙石知子『「三国志」の女性たち』[[山川出版社]]、2010年。{{ISBN|9784634640511}}
*渡邉義浩『三国志:演義から正史、そして史実へ』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2011年。{{ISBN|9784121020994}}
*渡邉義浩『関羽 神になった「三国志」の英雄』[[筑摩書房]]〈[[筑摩選書]]〉、2011年。{{ISBN|9784480015280}}
*渡邉義浩『「三国志」の政治と思想:史実の英雄たち』[[講談社]]〈講談社選書メチエ〉、2012年。{{ISBN|9784062585323}}
*渡邉義浩『英雄たちの「志」:三国志の魅力』汲古書院、2015年。{{ISBN|9784762965418}}。
*井口千雪『三國志演義成立史の研究』汲古書院、2016年。{{ISBN|9784762965678}}
*仙石知子『毛宗崗批評「三國志演義」の研究』汲古書院、2017年。{{ISBN|9784762966057}}
*長尾直茂『本邦における三国志演義受容の諸相』[[勉誠出版]]、2019年。{{ISBN|9784585291794}}
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|zh|三國演義}}
{{Commonscat}}
* [[三国志平話]]
* [[花関索伝]]
* [[三国志演義の人物の一覧]]
* [[サームコック]]
* [[三国志後伝]]
* [[後三国石珠演義]]
* [[反三国志演義]]
== 外部リンク ==
*[http://www.sal.tohoku.ac.jp/zhongwen/journal/02/02nakagawa.html 『鍾伯敬先生批評三国志』について 中川諭]
*[http://www.sal.tohoku.ac.jp/zhongwen/journal/01/01nakagawa.html 『李笠翁批閲三国志』について 中川諭]
*[http://www.fujibi.or.jp/assets/files/exhi/3594blog/home.html 大三国志展ブログ 東京富士美術館]
*[https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/382.html 三国志演義(三國演義)原文・訓読文・書き下し文・訳文]
*[https://m.youtube.com/watch?v=AmuXjUcEPQ4&list=PL68inlzuZ3Yq2gZDKeIq6UaHA3pLVhKPp&index=1 2009年に中国と日本が共同で撮影した三国演義アニメ]
* {{Kotobank}}
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[[Category:三国志演義|*]]
[[Category:三国志を題材とした小説]]
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押井守
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押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )は、日本の映画監督、アニメーション演出家、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイター。東京大学大学院特任教授、東京経済大学客員教授などとしても活動している。2021年時点は静岡県熱海市在住。
東京都大田区大森出身。東京都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。静岡県熱海市在住。2008年度から2009年度まで東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授を務めた。日本SF作家クラブ会員。日本のアニメーション監督で、世界三大映画祭すべてに出品したことがある唯一の監督である(2018年現在)。
1977年、竜の子プロダクションに入社し、アニメーション業界へ。『一発貫太くん』や、『ヤッターマン』で演出デビュー。1979年、スタジオぴえろに移籍。1980年、NHK総合テレビで『ニルスのふしぎな旅』を放送。演出を担当し、同作の劇場版で初監督(2015年に劇場初公開)。
『うる星やつら』のテレビシリーズのチーフディレクターなどを担当し「視聴率男」の異名をとった。1983年『うる星やつら オンリー・ユー』で劇場映画監督デビュー。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のあとフリーに。『天使のたまご』を制作した後、『機動警察パトレイバー』シリーズにアニメ監督として参加。『機動警察パトレイバー the Movie』、『MAROKO 麿子』、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』などの劇場作品を手がける。
1995年に発表した『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』 は日本の映像作品史上初の米ビルボード誌のビデオ週間売り上げで1位を獲得。2004年に発表した『イノセンス』はアニメ映画作品史上初の日本SF大賞を受賞し、日本のアニメーション映画としては初のカンヌ国際映画祭オフィシャル・コンペティション部門出品作品となった。『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』はヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。アニメ制作では他に『ダロス』で世界初のOVA、『Kick-Heart』で日本アニメ初のクラウドファンディングに挑戦している。
実写映画制作にも積極的で、1987年『紅い眼鏡/The Red Spectacles』で実写初監督。『Avalon』はカンヌ国際映画祭、『立喰師列伝』はヴェネチア国際映画祭、『真・女立喰師列伝』はベルリン国際映画祭にそれぞれ正式出品されている。
ジェームズ・キャメロン、ウォシャウスキー姉妹、クエンティン・タランティーノ、ギレルモ・デル・トロなど世界的クリエイターに影響を与えた(詳細は#人間関係を参照)。ハリウッドからの企画で『Halo Legends』や『Sand Whale and Me』の監督を務めている。2016年度米アニー賞において、生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞が授与された。
個人事務所は有限会社八八粍。事務所所在地は東京都港区虎ノ門。押井自身の全額出資によって設立された。プロデューサーには石川光久、鈴木敏夫、石井朋彦と組むことが多い。若手育成のためProduction I.G社内で「押井塾」を主宰するなどしている。
姉は舞踏家の最上和子。映画ライターの押井友絵は前妻との間にもうけた長女。押井友絵は2006年に小説家の乙一と結婚している。
東京都大田区大森出身。母親が後妻だったため、年の離れた腹違いの兄と、下の兄、姉の四人兄弟の末っ子として生まれる。父親は山形出身で、興信所を開き、私立探偵として浮気調査などをしていた。飲んだくれだったが、映画好きで、幼い押井を毎日のように映画館に連れていった。母親は洋装店を経営しており、収入はもっぱら母によるものだった。小学校の高学年の頃から父から英才教育を施されたため、体育以外の学科の成績は全て5であったが、中学受験には失敗し、その後父親の教育熱は冷めたという。中学時代にはSF小説に熱中し、SF小説家を志すようになる。
東京都立小山台高等学校入学後、不登校がちになる代わりに学生運動に熱中。私服警官が家を訪れる事態にまで至り、危機感を持った父親によって高校最後の夏に大菩薩峠の山小屋に軟禁されることになる。そのうちに学生運動のピークは過ぎ、運動に対しても醒めるようになる。学生運動は後に押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。
1970年、東京学芸大学入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになる。既存のサークルである映画研究会と袂を分かち、新たに「映像芸術研究会」を設立、自ら実写映画を撮り始める。後に『平成ガメラシリーズ』を監督する金子修介はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。金子のほかに当時一橋大学の学生で後に防衛大学校教授となる荒川憲一が所属していた。後年『機動警察パトレイバー2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなった人物が荒川である。
大学に入学してからの2年間は、ほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しか取っていなかった。押井は留年することになったが、その後もさらに2年間ほとんど大学に通わなかった(合計4年間)。当時の押井にとって大学は、留年はするけども、1単位も取らなくても4年間は放り出されないことに意義があり、無条件に自分の時間と場所を確保できたこと、それが唯一の成果だったと回想している。
学生時代に小学校に教育実習に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べており、この時の体験が映画監督としても役立っているという。就職活動では映像関係の仕事を志望し、テレビマンユニオン、ぴあ、国立フィルムセンターを受けるが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得る。卒業とほぼ同時に大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚。
1976年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料の不払いが続いたため10ヶ月で退社し、広告代理店の下請けであるCMモニター会社に転職する。この時に後の師匠となる鳥海永行が演出した『科学忍者隊ガッチャマン』を観て感銘を受ける。この仕事にも見切りをつけ、教員採用試験を受けることにするが、願書を預けていた知人が提出し忘れたため採用試験を受けることはなかった。
1977年、一橋学園駅付近の電柱に貼ってあった求人広告を見て竜の子プロダクションに応募し合格。当初は事務雑用を担当していたが、演出の人手不足からすぐにアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂、真下耕一、うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井は最初から演出を任されていた。独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。
1979年、私淑する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍。テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。
1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。1983年、劇場版第1作『うる星やつら オンリー・ユー』で監督としてデビューする。同時期に離婚している。劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では1984年キネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位(邦画)を記録し、アニメ監督として頭角を現す。
1984年、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社。以後フリーランスの演出家となる。同時期に再婚。1985年、徳間書店・徳間康快のバックアップにより、スタジオディーンの制作でOVA『天使のたまご』を完成させるが、興行的に失敗。この頃、宮﨑駿の事務所に居候しており、宮崎の推薦で劇場版『ルパン三世』の監督を引き受けるが、「ルパンという人物自身が虚構であった」というアイデアの賛同を得ることができず、監督を降板する。
『天使のたまご』によって「難解でわけのわからない作品を作る監督」との評判が立ち、アニメの仕事依頼が無くなってしまい、数年間ゲームをして過ごしていたという。この間、TVアニメ「赤い光弾ジリオン」に匿名で絵コンテを担当したほか、OVA『トワイライトQ』にも参加した。
1987年、声優・千葉繁のプロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社オムニバスプロモーションの製作による実写作品『紅い眼鏡/The Red Spectacles』を監督。これ以後、アニメのみならず、実写にも活動の場を広げる。
1988年、OVA『機動警察パトレイバー』の企画に原作者集団”ヘッドギア”の一員として参加。監督として第一線に復帰する。続けて1989年に公開された劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』で第7回日本アニメ大賞を受賞。活動の拠点をProduction I.Gへと移した。以後、Production I.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押井塾」を主宰するなど、中心的役割を担っている。IGポートの大株主の1人でもある。
1991年には『ケルベロス・サーガ』の第2作として『ケルベロス-地獄の番犬』を公開。本作のロケハンで移動中、台北へ向けて搭乗するはずだった飛行機が墜落、乗員・乗客全員死亡という惨事が起こるが、予算の都合で飛行機を諦めてクルマで移動することに変更したことで難を逃れている。
1993年、静岡県熱海市に転居。『機動警察パトレイバー 2 the Movie』が公開。
1995年、映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』が公開。米『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録。スティーヴン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンなどに絶賛され、海外での評価が高まる。
1997年、バンダイビジュアルのデジタルエンジン構想で、製作費24億円の大作映画『G.R.M.』(ガルム戦記)の制作を発表するが、1999年に企画凍結となる。
2004年に発表した『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。カンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本のアニメーション作品が出品されるのはこの作品が初めてであった。
2005年の愛知万博にて、中日新聞プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。
2008年、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』がヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門ノミネート。フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞。第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭で批評家連盟賞とヤング審査員賞を受賞。
2009年は、6月公開の『宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-』で、原案・脚本を手がけた。12月には単独作品としては8年ぶりの実写映画となる『ASSAULT GIRLS』が公開された。
2015年、1982年に製作されながら未公開となっていた『劇場版 ニルスのふしぎな旅』が初の劇場公開。『ガルム・ウォーズ』公開。
2018年4月、国際リニアコライダー(ILC)の日本誘致を目指すプロジェクト「ILC Supporters」の発起人を務めることを発表。
2019年6月、久しぶりのTVアニメ監督作となる『ぶらどらぶ』の制作を発表。新たに設立された製作会社いちごアニメーションが単独出資する。最終的に発表はネット配信となり、2020年12月の「第1話特別編」の発表を経て、2021年2月から公開された。2021年7月から地上波、BSで放送開始。
脚本家で映画監督の山賀博之は、人生観が甘い人と評し、自身を「恰好悪い」と自虐しつつも、そんな自分は「格好いい」と自惚れているとして、「真摯な態度を感じない。逃げている」と一刀両断している。また、押井が自身の作品を自画自賛していることにも触れ、仕事に対するプロ意識が見られず、8ミリ映画の自主制作やコミケでの同人販売と同じようなことをしていて、中途半端で美しくないという感想を述べた上で、人生の最期まで作品を作り続けられるのは宮崎駿や富野由悠季の世代であり、彼らより下の世代である押井は難しいだろうと推察している。
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"text": "押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )は、日本の映画監督、アニメーション演出家、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイター。東京大学大学院特任教授、東京経済大学客員教授などとしても活動している。2021年時点は静岡県熱海市在住。",
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"text": "東京都大田区大森出身。東京都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。静岡県熱海市在住。2008年度から2009年度まで東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授を務めた。日本SF作家クラブ会員。日本のアニメーション監督で、世界三大映画祭すべてに出品したことがある唯一の監督である(2018年現在)。",
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"text": "1977年、竜の子プロダクションに入社し、アニメーション業界へ。『一発貫太くん』や、『ヤッターマン』で演出デビュー。1979年、スタジオぴえろに移籍。1980年、NHK総合テレビで『ニルスのふしぎな旅』を放送。演出を担当し、同作の劇場版で初監督(2015年に劇場初公開)。",
"title": "概要"
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"text": "『うる星やつら』のテレビシリーズのチーフディレクターなどを担当し「視聴率男」の異名をとった。1983年『うる星やつら オンリー・ユー』で劇場映画監督デビュー。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のあとフリーに。『天使のたまご』を制作した後、『機動警察パトレイバー』シリーズにアニメ監督として参加。『機動警察パトレイバー the Movie』、『MAROKO 麿子』、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』などの劇場作品を手がける。",
"title": "概要"
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"text": "1995年に発表した『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』 は日本の映像作品史上初の米ビルボード誌のビデオ週間売り上げで1位を獲得。2004年に発表した『イノセンス』はアニメ映画作品史上初の日本SF大賞を受賞し、日本のアニメーション映画としては初のカンヌ国際映画祭オフィシャル・コンペティション部門出品作品となった。『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』はヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。アニメ制作では他に『ダロス』で世界初のOVA、『Kick-Heart』で日本アニメ初のクラウドファンディングに挑戦している。",
"title": "概要"
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"text": "実写映画制作にも積極的で、1987年『紅い眼鏡/The Red Spectacles』で実写初監督。『Avalon』はカンヌ国際映画祭、『立喰師列伝』はヴェネチア国際映画祭、『真・女立喰師列伝』はベルリン国際映画祭にそれぞれ正式出品されている。",
"title": "概要"
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"text": "ジェームズ・キャメロン、ウォシャウスキー姉妹、クエンティン・タランティーノ、ギレルモ・デル・トロなど世界的クリエイターに影響を与えた(詳細は#人間関係を参照)。ハリウッドからの企画で『Halo Legends』や『Sand Whale and Me』の監督を務めている。2016年度米アニー賞において、生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞が授与された。",
"title": "概要"
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"text": "個人事務所は有限会社八八粍。事務所所在地は東京都港区虎ノ門。押井自身の全額出資によって設立された。プロデューサーには石川光久、鈴木敏夫、石井朋彦と組むことが多い。若手育成のためProduction I.G社内で「押井塾」を主宰するなどしている。",
"title": "概要"
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"text": "姉は舞踏家の最上和子。映画ライターの押井友絵は前妻との間にもうけた長女。押井友絵は2006年に小説家の乙一と結婚している。",
"title": "概要"
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"text": "東京都大田区大森出身。母親が後妻だったため、年の離れた腹違いの兄と、下の兄、姉の四人兄弟の末っ子として生まれる。父親は山形出身で、興信所を開き、私立探偵として浮気調査などをしていた。飲んだくれだったが、映画好きで、幼い押井を毎日のように映画館に連れていった。母親は洋装店を経営しており、収入はもっぱら母によるものだった。小学校の高学年の頃から父から英才教育を施されたため、体育以外の学科の成績は全て5であったが、中学受験には失敗し、その後父親の教育熱は冷めたという。中学時代にはSF小説に熱中し、SF小説家を志すようになる。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "東京都立小山台高等学校入学後、不登校がちになる代わりに学生運動に熱中。私服警官が家を訪れる事態にまで至り、危機感を持った父親によって高校最後の夏に大菩薩峠の山小屋に軟禁されることになる。そのうちに学生運動のピークは過ぎ、運動に対しても醒めるようになる。学生運動は後に押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1970年、東京学芸大学入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになる。既存のサークルである映画研究会と袂を分かち、新たに「映像芸術研究会」を設立、自ら実写映画を撮り始める。後に『平成ガメラシリーズ』を監督する金子修介はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。金子のほかに当時一橋大学の学生で後に防衛大学校教授となる荒川憲一が所属していた。後年『機動警察パトレイバー2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなった人物が荒川である。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "大学に入学してからの2年間は、ほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しか取っていなかった。押井は留年することになったが、その後もさらに2年間ほとんど大学に通わなかった(合計4年間)。当時の押井にとって大学は、留年はするけども、1単位も取らなくても4年間は放り出されないことに意義があり、無条件に自分の時間と場所を確保できたこと、それが唯一の成果だったと回想している。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "学生時代に小学校に教育実習に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べており、この時の体験が映画監督としても役立っているという。就職活動では映像関係の仕事を志望し、テレビマンユニオン、ぴあ、国立フィルムセンターを受けるが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得る。卒業とほぼ同時に大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1976年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料の不払いが続いたため10ヶ月で退社し、広告代理店の下請けであるCMモニター会社に転職する。この時に後の師匠となる鳥海永行が演出した『科学忍者隊ガッチャマン』を観て感銘を受ける。この仕事にも見切りをつけ、教員採用試験を受けることにするが、願書を預けていた知人が提出し忘れたため採用試験を受けることはなかった。",
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"text": "1977年、一橋学園駅付近の電柱に貼ってあった求人広告を見て竜の子プロダクションに応募し合格。当初は事務雑用を担当していたが、演出の人手不足からすぐにアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂、真下耕一、うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井は最初から演出を任されていた。独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1979年、私淑する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍。テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。1983年、劇場版第1作『うる星やつら オンリー・ユー』で監督としてデビューする。同時期に離婚している。劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では1984年キネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位(邦画)を記録し、アニメ監督として頭角を現す。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1984年、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社。以後フリーランスの演出家となる。同時期に再婚。1985年、徳間書店・徳間康快のバックアップにより、スタジオディーンの制作でOVA『天使のたまご』を完成させるが、興行的に失敗。この頃、宮﨑駿の事務所に居候しており、宮崎の推薦で劇場版『ルパン三世』の監督を引き受けるが、「ルパンという人物自身が虚構であった」というアイデアの賛同を得ることができず、監督を降板する。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "『天使のたまご』によって「難解でわけのわからない作品を作る監督」との評判が立ち、アニメの仕事依頼が無くなってしまい、数年間ゲームをして過ごしていたという。この間、TVアニメ「赤い光弾ジリオン」に匿名で絵コンテを担当したほか、OVA『トワイライトQ』にも参加した。",
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"text": "1987年、声優・千葉繁のプロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社オムニバスプロモーションの製作による実写作品『紅い眼鏡/The Red Spectacles』を監督。これ以後、アニメのみならず、実写にも活動の場を広げる。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1988年、OVA『機動警察パトレイバー』の企画に原作者集団”ヘッドギア”の一員として参加。監督として第一線に復帰する。続けて1989年に公開された劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』で第7回日本アニメ大賞を受賞。活動の拠点をProduction I.Gへと移した。以後、Production I.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押井塾」を主宰するなど、中心的役割を担っている。IGポートの大株主の1人でもある。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1991年には『ケルベロス・サーガ』の第2作として『ケルベロス-地獄の番犬』を公開。本作のロケハンで移動中、台北へ向けて搭乗するはずだった飛行機が墜落、乗員・乗客全員死亡という惨事が起こるが、予算の都合で飛行機を諦めてクルマで移動することに変更したことで難を逃れている。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1993年、静岡県熱海市に転居。『機動警察パトレイバー 2 the Movie』が公開。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1995年、映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』が公開。米『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録。スティーヴン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンなどに絶賛され、海外での評価が高まる。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "1997年、バンダイビジュアルのデジタルエンジン構想で、製作費24億円の大作映画『G.R.M.』(ガルム戦記)の制作を発表するが、1999年に企画凍結となる。",
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"text": "2004年に発表した『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。カンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本のアニメーション作品が出品されるのはこの作品が初めてであった。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "2005年の愛知万博にて、中日新聞プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。",
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"text": "2008年、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』がヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門ノミネート。フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞。第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭で批評家連盟賞とヤング審査員賞を受賞。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "2009年は、6月公開の『宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-』で、原案・脚本を手がけた。12月には単独作品としては8年ぶりの実写映画となる『ASSAULT GIRLS』が公開された。",
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"text": "2015年、1982年に製作されながら未公開となっていた『劇場版 ニルスのふしぎな旅』が初の劇場公開。『ガルム・ウォーズ』公開。",
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"text": "2018年4月、国際リニアコライダー(ILC)の日本誘致を目指すプロジェクト「ILC Supporters」の発起人を務めることを発表。",
"title": "来歴・人物"
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"text": "2019年6月、久しぶりのTVアニメ監督作となる『ぶらどらぶ』の制作を発表。新たに設立された製作会社いちごアニメーションが単独出資する。最終的に発表はネット配信となり、2020年12月の「第1話特別編」の発表を経て、2021年2月から公開された。2021年7月から地上波、BSで放送開始。",
"title": "来歴・人物"
},
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"paragraph_id": 33,
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"text": "脚本家で映画監督の山賀博之は、人生観が甘い人と評し、自身を「恰好悪い」と自虐しつつも、そんな自分は「格好いい」と自惚れているとして、「真摯な態度を感じない。逃げている」と一刀両断している。また、押井が自身の作品を自画自賛していることにも触れ、仕事に対するプロ意識が見られず、8ミリ映画の自主制作やコミケでの同人販売と同じようなことをしていて、中途半端で美しくないという感想を述べた上で、人生の最期まで作品を作り続けられるのは宮崎駿や富野由悠季の世代であり、彼らより下の世代である押井は難しいだろうと推察している。",
"title": "評価"
}
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押井 守は、日本の映画監督、アニメーション演出家、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイター。東京大学大学院特任教授、東京経済大学客員教授などとしても活動している。2021年時点は静岡県熱海市在住。
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{{ActorActress
| 芸名 = 押井 守
| ふりがな = おしい まもる
| 画像ファイル = Mamoru Oshii - Lucca Comics & Games 2015.JPG
| 画像サイズ = 250px
| 画像コメント = [[2015年]][[10月]]、[[イタリア]]・Lucca Comics & Gamesにて
| 本名 = 押井守
| 別名義 = [[丸輪零]]<br />名輪丈<br />小川守弘<br />岩崎宏
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[大田区]]
| 死没地 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 民族 =
| 身長 =
| 血液型 = O型
| 生年 = 1951
| 生月 = 8
| 生日 = 8
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[映画監督]]<br />[[ゲームクリエイター]]<br />[[小説家]]<br />[[脚本家]]<br />[[漫画原作者]]<br />[[劇作家]]<br />[[大学教授]]
| ジャンル = [[アニメーション映画]]<br />[[実写映画]]<br />[[テレビアニメ]]
| 活動期間 = [[1977年]] -
| 活動内容 =
| 配偶者 = あり
| 著名な家族 = [[最上和子]](姉)<br />押井友絵(娘)<br />[[乙一]](娘婿)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''テレビアニメ'''
* 『[[ニルスのふしぎな旅#日本|ニルスのふしぎな旅]]』(演出・絵コンテ)
* 『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』(監督・脚本・演出・絵コンテ)
* 『[[火狩りの王]]』(シリーズ構成・脚本)
----
'''アニメーション映画'''
* 『[[ニルスのふしぎな旅#劇場版|ニルスのふしぎな旅]]』(監督)
* 『[[うる星やつら オンリー・ユー]]』(監督・脚色・絵コンテ)
* 『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』(監督・脚本・絵コンテ)
* 『[[機動警察パトレイバー the Movie]]』(監督・絵コンテ・原作)
* 『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]』(監督・絵コンテ・原作)
* 『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』(監督・絵コンテ)
* 『[[人狼 JIN-ROH]]』(原作・脚本)
* 『[[イノセンス]]』(監督・絵コンテ・脚本)
* 『[[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』(監督・絵コンテ)
* 『[[宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-]]』(原案・脚本)
----
'''OVA'''
* 『[[ダロス]]』(監督・脚本・演出・絵コンテ)
* 『[[天使のたまご]]』(監督・原案・脚本)
* 『[[機動警察パトレイバー#アニメ版|機動警察パトレイバー アーリーデイズ]]』(監督・絵コンテ・原作)
* 『[[御先祖様万々歳!]]』(原作・監督・脚本・絵コンテ)
* 『[[Halo Legends]]』(クリエイティブディレクター)
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'''短編アニメ'''
* 『りゅうの目のなみだ』(演出・絵コンテ)
* 『[[ミニパト]]』(原作・脚本・音響プロデュース・演出コンセプト)
* 『[[サイボーグ009 (アニメ)#『009』|009]]』(監督)
* 『[[GLAY (アルバム)#初回限定盤DVD|Je t'aime]]』(監督)
* 『[[キックハート|Kick-Heart]]』(監修)
----
'''Webアニメ'''
* 『[[ぶらどらぶ]]』(原作・総監督・シリーズ構成・脚本・絵コンテ)
----
'''実写映画'''
* 『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles]]』(監督・原作・脚本・絵コンテ)
* 『[[ケルベロス-地獄の番犬]]』(原作・監督・脚本)
* 『[[トーキング・ヘッド]]』(監督・脚本・絵コンテ)
* 『[[アヴァロン (映画)|アヴァロン]]』(監督)
* 『[[立喰師列伝#映画|立喰師列伝]]』(原作・監督・脚本)
* 『[[真・女立喰師列伝]]』(原作・総監修)
* 『[[ASSAULT GIRLS]]』(監督・脚本)
* 『[[28 1/2 妄想の巨人]]』(監督・脚本)
* 『[[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-]]』(総監督・監督・脚本・原作)
* 『[[東京無国籍少女]]』(監督)
* 『[[ガルム・ウォーズ]]』(監督・原作・脚本)
* 『[[血ぃともだち]]』(監督・脚本)
----
'''ゲーム'''
* 『[[サンサーラ・ナーガ]]』(監督・原作)
* 『[[サンサーラ・ナーガ2]]』(監督・原作)
* 『[[サンサーラナーガ1×2]]』(監督・原作)
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'''ラジオドラマ'''
* 『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles#ラジオドラマ(『紅い眼鏡を待ちつつ』)|紅い眼鏡を待ちつつ]]』(原作・脚本)
* 『[[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬|ケルベロス鋼鉄の猟犬]]』(原作・脚本・監督)
----
'''舞台'''
* 『[[28 1/2 妄想の巨人#舞台『鉄人28号』|鉄人28号]]』(演出・脚本)
----
'''小説'''
* 『[[獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE]]』
* 『[[アヴァロン (映画)#小説|Avalon 灰色の貴婦人]]』
* 『[[立喰師列伝]]』
* 『[[雷轟 rolling thunder PAX JAPONICA]]』
----
'''漫画'''
* 『[[犬狼伝説|犬狼伝説 Kerberos Panzer Cop]]』(原作)
* 『[[西武新宿戦線異状なし DRAGON RETRIEVER]]』(原作)
* 『[[セラフィム 2億6661万3336の翼]]』(原作・原案)
* 『[[KERBEROS SAGA RAINY DOGS / 犬狼伝説 紅い足痕]]』(原作)
* 『[[ケルベロス×立喰師 腹腹時計の少女]]』(原作)
----
'''絵物語'''
* 『[[天使のたまご#関連書籍|天使のたまご]]』(文)
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''[[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|優秀アニメーション作品賞]]'''<br>[[2008年]]『[[スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』
| その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]<br>[[毎日映画コンクールアニメーション映画賞|アニメーション映画賞]]'''<br />[[1993年]]『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]』<br>[[2008年]]『[[スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』<hr>'''[[高崎映画祭]]'''<br/>'''最優秀監督賞'''<br/>[[1995年]]『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』<hr>'''[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]<br>最優秀撮影賞'''<br>[[2001年]]『[[アヴァロン (映画)|アヴァロン]]』<br>'''国際映画批評家連盟賞'''<br>[[2008年]]『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』<hr>'''[[アニー賞]]'''<br />'''[[ウィンザー・マッケイ賞]]'''<br>[[2016年]]<hr />[[#受賞歴|受賞歴]]参照
| 備考 =
}}
'''押井 守'''(おしい まもる、[[1951年]][[8月8日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[アニメーション]][[演出家]]、[[小説家]]、[[脚本家]]、[[漫画原作者]]、[[劇作家]]、[[ゲームクリエイター]]。[[東京大学]][[大学院]][[特任教授]]、[[東京経済大学]][[客員教授]]などとしても活動している。2021年時点は静岡県熱海市在住<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202107030000558.html|title=大規模土石流発生の熱海市在住 押井守監督「無事です」公式ツイッター報告|publisher=日刊スポーツ|date=2021-07-03|accessdate=2021-07-03}}</ref>。
== 概要 ==
[[東京都]][[大田区]][[大森 (大田区)|大森]]出身{{sfn|押井守|2008|p=176}}。[[東京都立小山台高等学校]]、[[東京学芸大学]][[教育学部]]美術教育学科卒。[[静岡県]][[熱海市]]在住。[[2008年]]度から[[2009年]]度まで[[東京経済大学]]コミュニケーション学部の[[客員教授]]を務めた<ref>{{Cite web|和書|url= https://animeanime.jp/article/2008/01/11/2649.html|title=押井守監督 東京経済大客員教授に メディア制作を担当 アニメ!アニメ!|accessdate=2017-02-07}}</ref>。[[日本SF作家クラブ]]会員<ref>{{Cite web|和書|url= http://sfwj.jp/members/|title=会員名簿 - SFWJ|accessdate=2017-02-07}}</ref>。日本のアニメーション監督で、[[世界三大映画祭]]すべてに出品したことがある唯一の監督である(2018年現在)。
[[1977年]]、[[タツノコプロ|竜の子プロダクション]]に入社し、アニメーション業界へ。『[[一発貫太くん]]』や、『[[ヤッターマン]]』で演出デビュー<ref>[http://animejapan.cplaza.ne.jp/b-ch/m_oshii_sp/list.html 押井守 作品年表]</ref>。[[1979年]]、[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]に移籍。[[1980年]]、NHK総合テレビで『[[ニルスのふしぎな旅]]』を放送。演出を担当し、同作の劇場版で初監督(2015年に劇場初公開)。
『[[うる星やつら]]』のテレビシリーズのチーフディレクターなどを担当し「視聴率男」の異名をとった。[[1983年]]『[[うる星やつら オンリー・ユー]]』で劇場映画監督デビュー。『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』のあとフリーに。『[[天使のたまご]]』を制作した後、『[[機動警察パトレイバー]]』シリーズにアニメ監督として参加。『[[機動警察パトレイバー the Movie]]』、『[[御先祖様万々歳!|MAROKO 麿子]]』、『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]』などの劇場作品を手がける。
[[1995年]]に発表した『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』 は日本の映像作品史上初の米[[ビルボード]]誌のビデオ週間売り上げで1位を獲得<ref>{{cite web|title= Ghost in the Shell Anime Special Edition|url= http://www.icv2.com/articles/news/5674.html |publisher= ICv2|accessdate=2017-02-07}}</ref>。[[2004年]]に発表した『[[イノセンス]]』はアニメ映画作品史上初の日本SF大賞を受賞し、日本のアニメーション映画としては初の[[カンヌ国際映画祭]]オフィシャル・コンペティション部門出品作品となった<ref>{{cite web|title=Festival de Cannes - From 16 to 27 may 2012 |url=http://www.festival-cannes.com/en/archives/ficheFilm/id/4200520/year/2004.html |work=Festival de Cannes |publisher=Festival de Cannes |accessdate=28 May 2012 |author=Festival de Cannes |year=2003 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120119212923/http://www.festival-cannes.com/en/archives/ficheFilm/id/4200520/year/2004.html |archivedate=19 January 2012 |df= }}</ref>。『[[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』は[[ヴェネツィア国際映画祭]]のコンペティション部門に正式出品された。アニメ制作では他に『[[ダロス]]』で世界初の[[OVA]]、『[[キックハート|Kick-Heart]]』で日本アニメ初のクラウドファンディングに挑戦している。
実写映画制作にも積極的で、1987年『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles]]』で実写初監督。『[[アヴァロン (映画)|Avalon]]』はカンヌ国際映画祭、『[[立喰師列伝#映画|立喰師列伝]]』はヴェネチア国際映画祭、『[[真・女立喰師列伝]]』はベルリン国際映画祭にそれぞれ正式出品されている。
[[ジェームズ・キャメロン]]、[[ウォシャウスキー姉妹]]、[[クエンティン・タランティーノ]]、[[ギレルモ・デル・トロ]]など世界的クリエイターに影響を与えた<ref>[https://times.abema.tv/articles/-/822386 『マトリックス』のウォシャウスキー姉妹をはじめ、クエンティン・タランティーノ、ジェームズ・キャメロン、ギレルモ・デル・トロなど世界的クリエイターも影響を与えた。]</ref>(詳細は[[#人間関係]]を参照)。ハリウッドからの企画で『[[Halo Legends]]』や『Sand Whale and Me』の監督を務めている。[[2016年]]度米[[アニー賞]]において、生涯功労賞にあたる[[ウィンザー・マッケイ賞]]が授与された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-11-29 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0087901 |title=押井守にアニー賞の生涯功労賞!日本人6人目の快挙 |publisher=[[シネマトゥデイ]] |accessdate=2017-04-22}}</ref>。
個人事務所は[[有限会社]]八八粍。事務所所在地は東京都[[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]。押井自身の全額出資によって設立された。プロデューサーには[[石川光久]]、[[鈴木敏夫]]、[[石井朋彦]]と組むことが多い。若手育成のため[[Production I.G]]社内で「押井塾」を主宰するなどしている。
姉は[[舞踏家]]の[[最上和子]]。映画ライターの押井友絵は前妻との間にもうけた長女。押井友絵は[[2006年]]に[[小説家]]の[[乙一]]と結婚している<ref>{{cite journal|和書|author=[[速水由紀子]]|year=2015|title=現代の肖像 作家 乙一 すべては行間にある|journal=[[AERA]]|publisher=朝日新聞出版|volume=28|issue=50|pages=48-52|ref=harv}}</ref>。
== 来歴・人物 ==
=== 生い立ち ===
[[東京都]][[大田区]][[大森 (大田区)|大森]]出身{{sfn|押井守|2008|p=176}}。母親が後妻だったため、年の離れた腹違いの兄と、下の兄、姉の四人兄弟の末っ子として生まれる{{sfn|押井守|2008|p=176}}。父親は[[山形県|山形]]出身で、興信所を開き、[[私立探偵]]として浮気調査などをしていた<ref name=kajiyama>『家の履歴書』梶山寿子、光文社、2012年、p37-38</ref>。飲んだくれだったが、映画好きで、幼い押井を毎日のように映画館に連れていった<ref name=kajiyama/>。母親は洋装店を経営しており<ref name=kajiyama/>、収入はもっぱら母によるものだった{{sfn|押井守|2008|p=178}}。[[小学校]]の高学年の頃から父から[[英才教育]]を施されたため、[[体育]]以外の学科の成績は全て5であったが{{sfn|押井守|2008|p=186}}、[[中学受験]]には失敗し、その後父親の教育熱は冷めたという{{sfn|押井守|2008|p=187}}。中学時代には[[サイエンス・フィクション|SF]]小説に熱中し、SF小説家を志すようになる{{sfn|押井守|2008|p=188}}。
[[東京都立小山台高等学校]]入学後、[[不登校]]がちになる代わりに[[学生運動]]に熱中{{sfn|押井守|2008|p=189}}。[[刑事|私服警官]]が家を訪れる事態にまで至り、危機感を持った父親によって高校最後の夏に[[大菩薩峠]]の山小屋に軟禁されることになる{{sfn|押井守|2008|p=193-194}}。そのうちに学生運動のピークは過ぎ、運動に対しても醒めるようになる。学生運動は後に押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。
[[1970年]]、[[東京学芸大学]]入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになる{{sfn|押井守|2008|p=200}}。既存のサークルである映画研究会と袂を分かち、新たに「映像芸術研究会」を設立、自ら実写映画を撮り始める{{sfn|押井守|2008|p=204}}。後に『平成[[ガメラ]]シリーズ』を監督する[[金子修介]]はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。金子のほかに当時[[一橋大学]]の学生で後に[[防衛大学校]]教授となる[[荒川憲一 (戦史学者)|荒川憲一]]が所属していた<ref group="注釈">『機動警察パトレイバー2 the Movie』公開直前の『アニメージュ』1993年8月号に荒川へのインタビューとプロフィールの紹介記事(「PKOと押井さんのこと」)が掲載された。</ref>。後年『機動警察パトレイバー2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなった人物が荒川である。
大学に入学してからの2年間は、ほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しか取っていなかった<ref>『押井守特別講演録』 押井監督を招く会 p.9</ref>。押井は[[原級留置|留年]]することになったが、その後もさらに2年間ほとんど大学に通わなかった(合計4年間)。当時の押井にとって大学は、留年はするけども、1単位も取らなくても4年間は放り出されないことに意義があり、無条件に自分の時間と場所を確保できたこと、それが唯一の成果だったと回想している<ref>『押井守特別講演録』 押井監督を招く会 p.10</ref>。
学生時代に小学校に[[教育実習]]に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べており<ref>[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]『[[課外授業 ようこそ先輩]]』2008年7月20日放映回での発言。</ref>、この時の体験が映画監督としても役立っているという{{sfn|押井守|2008|p=202}}。就職活動では映像関係の仕事を志望し、[[テレビマンユニオン]]、[[ぴあ]]、[[東京国立近代美術館#フィルムセンター|国立フィルムセンター]]を受けるが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得る{{sfn|押井守|2008|p=208-210}}。卒業とほぼ同時に大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚{{sfn|押井守|2008|p=205}}{{sfn|押井守|2008|p=211}}。
=== アニメ業界入りから独立まで ===
[[1976年]]、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料の不払いが続いたため10ヶ月で退社し{{sfn|押井守|2008|p=213}}、広告代理店の下請けであるCMモニター会社に転職する{{sfn|押井守|2008|p=214}}。この時に後の師匠となる[[鳥海永行]]が演出した『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』を観て感銘を受ける{{sfn|押井守|2008|p=215}}。この仕事にも見切りをつけ、[[教員採用試験]]を受けることにするが、願書を預けていた知人が提出し忘れたため採用試験を受けることはなかった{{sfn|押井守|2008|p=217}}。
[[1977年]]、[[一橋学園駅]]付近の電柱に貼ってあった求人広告を見て[[タツノコプロ|竜の子プロダクション]]に応募し合格{{sfn|押井守|2008|p=218}}。当初は事務雑用を担当していたが、[[演出]]の人手不足からすぐにアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した[[西久保瑞穂]]、[[真下耕一]]、[[うえだひでひと]]と共に「'''タツノコ四天王'''」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井は最初から演出を任されていた。独特の[[ギャグ]]の才能をタツノコプロ演出部長の[[笹川ひろし]]に買われて、『[[タイムボカンシリーズ]]』を長く担当。
[[1979年]]、私淑する[[鳥海永行]]に続く形で[[スタジオぴえろ]]に移籍{{sfn|押井守|2008|p=228}}。テレビアニメ『[[ニルスのふしぎな旅#日本|ニルスのふしぎな旅]]』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。
[[1981年]]、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。[[1983年]]、劇場版第1作『[[うる星やつら オンリー・ユー]]』で監督としてデビューする{{sfn|押井守|2008|p=231}}。同時期に離婚している{{sfn|押井守|2008|p=236-237}}。劇場版第2作『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』では[[1984年]][[キネマ旬報]]読者選出ベスト・テン第7位(邦画)を記録し、アニメ監督として頭角を現す。
[[1984年]]、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社。以後フリーランスの演出家となる。同時期に再婚{{sfn|押井守|2008|p=239}}。[[1985年]]、[[徳間書店]]・[[徳間康快]]のバックアップにより、[[スタジオディーン]]の制作で[[OVA]]『[[天使のたまご]]』を完成させるが、興行的に失敗{{sfn|押井守|2008|p=240}}。この頃、[[宮﨑駿]]の事務所に居候しており、宮崎の推薦で[[押井版ルパン三世|劇場版『ルパン三世』]]の監督を引き受けるが、「ルパンという人物自身が虚構であった」というアイデアの賛同を得ることができず、監督を降板する{{sfn|押井守|2008|p=241}}。
=== Production I.G以後 ===
『[[天使のたまご]]』によって「難解でわけのわからない作品を作る監督」との評判が立ち、アニメの仕事依頼が無くなってしまい、数年間ゲームをして過ごしていた{{sfn|押井守|2008|p=242}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=sKk7JUQJ_40|title=押井守の原点【うのちゃんねる-vol.5】ゲスト:押井守|accessdate=2020-09-04}}</ref>という。この間、TVアニメ「赤い光弾ジリオン」に匿名で絵コンテを担当したほか、OVA『トワイライトQ』にも参加した。
[[1987年]]、声優・[[千葉繁]]のプロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社[[オムニバスプロモーション]]の製作による実写作品『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles]]』を監督。これ以後、アニメのみならず、実写にも活動の場を広げる。
[[1988年]]、OVA『[[機動警察パトレイバー]]』の企画に原作者集団”ヘッドギア”の一員として参加。監督として第一線に復帰する。続けて[[1989年]]に公開された劇場アニメ『[[機動警察パトレイバー the Movie]]』で第7回[[日本アニメ大賞]]を受賞。活動の拠点を[[プロダクション・アイジー|Production I.G]]へと移した。以後、Production I.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押井塾」を主宰するなど、中心的役割を担っている。[[IGポート]]の大株主の1人でもある。
[[1991年]]には『[[ケルベロス・サーガ]]』の第2作として『[[ケルベロス-地獄の番犬]]』を公開。本作のロケハンで移動中、[[台北]]へ向けて搭乗するはずだった飛行機が墜落、乗員・乗客全員死亡という惨事が起こるが、予算の都合で飛行機を諦めてクルマで移動することに変更したことで難を逃れている<ref>参考文献 DVD-BOX『押井守シネマ・トリロジー初期実写作品集』解説書「押井守の《映画》をめぐる冒険」間宮庸介インタビュー</ref>。
[[1993年]]、[[静岡県]][[熱海市]]に転居<ref>押井守『すべての映画はアニメになる』徳間書店、2004年、pp.393</ref>。『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie]]』が公開。
[[1995年]]、映画『[[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]]』が公開。米『[[ビルボード]]』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録。[[スティーヴン・スピルバーグ]]や[[ジェームズ・キャメロン]]などに絶賛され、海外での評価が高まる。
[[1997年]]、[[バンダイビジュアル]]の[[デジタルエンジン]]構想で、製作費24億円の大作映画『G.R.M.』(ガルム戦記)の制作を発表するが、[[1999年]]に企画凍結となる。
[[2004年]]に発表した『[[イノセンス]]』が第57回[[カンヌ国際映画祭]]のコンペティション部門にノミネートされた。カンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本の[[アニメーション]]作品が出品されるのはこの作品が初めてであった。
[[2005年]]の[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]にて、[[中日新聞]]プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。
[[2008年]]、『[[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭]]コンペティション部門ノミネート。フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞<ref group="注釈">ヴェネツィア国際映画祭の協賛団体フューチャー・フィルム・フェスティバルが優れたデジタル技術を使った作品に贈る賞。</ref>。第41回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]で批評家連盟賞とヤング審査員賞を受賞。
[[2009年]]は、6月公開の『[[宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-]]』で、原案・脚本を手がけた<ref>{{Cite news|date=2009|url=http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20081014mog00m200038000c.html|title=押井守:劇場版最新作は「宮本武蔵」|newspaper=[[毎日新聞]]|author=|publisher=毎日新聞社|accessdate=2013-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151105230021/http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20081014mog00m200038000c.html|archivedate=2015年11月5日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。12月には単独作品としては8年ぶりの実写映画となる『[[ASSAULT GIRLS]]』が公開された。
[[2015年]]、1982年に製作されながら未公開となっていた『[[ニルスのふしぎな旅#劇場版|劇場版 ニルスのふしぎな旅]]』が初の劇場公開<ref>[http://www.uplink.co.jp/movie/2015/35246 NHKで放映された同名TVアニメの劇場版を国内初の劇場公開]</ref>。『[[ガルム・ウォーズ]]』公開。
[[2018年]]4月、[[国際リニアコライダー]](ILC)の日本誘致を目指すプロジェクト「ILC Supporters」の発起人を務めることを発表<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-17 |url=https://www.watch.impress.co.jp/headline/docs/series/free-labo/1117563.html |title= 押井守が挑む最初で最後の社会運動「ILC Supporters」が発足。人類史上最大の加速器を日本へ|publisher=[[Impress Watch]] |accessdate=2018-04-22}}</ref>。
2019年6月、久しぶりのTVアニメ監督作となる『[[ぶらどらぶ]]』の制作を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20190626/14/|title=押井守の新作はアニメシリーズ「ぶらどらぶ」 吸血鬼&女子高生による「女の子の物語」|accessdate=2020年10月23日|publisher=}}</ref>。新たに設立された製作会社いちごアニメーションが単独出資する。最終的に発表はネット配信となり、2020年12月の「第1話特別編」の発表を経て、2021年2月から公開された<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20201220-1602131/|title=押井守最新作『ぶらどらぶ』第1話公開&映画祭開催が決定!|newspaper=マイナビニュース|date=2020-12-20|accessdate=2021-01-22}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20210106/2/#:~:text=%E6%8A%BC%E4%BA%95%E5%AE%88%E3%81%8C%E5%8E%9F%E4%BD%9C%E3%83%BB%E8%84%9A%E6%9C%AC,12%E8%A9%B1%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%9C%92%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%80%82|title=押井守総監督「ぶらどらぶ」2月14日から配信開始|newspaper=映画.com|date=2021-01-06|accessdate=2021-01-22}}</ref>。2021年7月から地上波、BSで放送開始。
== 作風 ==
* 押井守が多く用いる映像表現として、アニメに[[レンズ]]の概念など[[実写]]的要素を取り入れた[[レイアウトシステム]]の導入、2Dの手描きの[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]と3Dの[[Computer Generated Imagery|CGI]]の融合、更にそれら素材にデジタル加工を施し、手描きの絵やCGIでは得られない質感を加えたり、画面全体に統一感を持たせるエフェクト処理(ビジュアルエフェクツ)などがある。
* 「'''映画の半分は音である'''」と語るほど音響と音楽を非常に重視する。『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles]]』以降の音楽はほとんどを[[川井憲次]]に任せている。近年の作品では音響作業を米国の[[スカイウォーカー・サウンド]]で行うことが多い。
* 虚構と現実をテーマとして用いることが多い。これに付加して、同じ状況を何度も繰り返すなど「永遠性」を意識した演出も多用される。
* 映画は単に映像の快感原則の連続によってのみ成立するのではなく、あえて流れに逆らう部分が必要という考えから、多くの割合でストーリーの進行とは直接関係ない'''ダレ場'''が挿入される。
* 職業監督として、決められた予算で納期までに仕上げることをポリシーとしており、ほとんどの作品で予算と納期を守っている。
* 現場監督として、絵コンテ作業を除いては、一番大切なのは「どの様に各スタッフの力を引き出すか」「スタッフが読んだ世界が、予想もしなかった新しい表現・世界観が生まれる」と考え、敢えて止めないで専門のスタッフに一任することもある。ただしこれは飽くまで、制作現場・映画そのものの生命線をまもるために「信頼できるスタッフと相棒関係を結んだ」場合に留めている<ref>[[徳間書店]]「空気を描く美術 小林七郎画集」[[小林七郎]]著p.77より。</ref>。
* 脚本家として、まず大まかな粗筋・構成を作り、縦筋を全部書き出して、無駄なエピソードがないかどうかをチェックし直して、固まった縦筋を元にキャラクター同士の対話を書き込んでいく様にしている。特に「このキャラクターはどういう役割なのか?本当に必要なのか?どこで登場して、どこで退場するのか?」を脚本執筆の時点で固めていく。一番重視しているのは「対話」であり、「一つか二ついい掛け合いがあれば、それを目指して絵コンテを切れる」と話している。原作付きの作品を手掛ける場合には、原作を何度も読んで、使える台詞を全部拾い出して、書き直す様にしている<ref>勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉、p.350</ref>。
* デジタル技術の登場により、[[実写]]と[[アニメーション]]は融合して区別できなくなる、というのが年来の押井の持論である。『[[G.R.M. THE RECORD OF GARM WAR(ガルム戦記)|ガルム戦記]]』において、その自身の理論を現実に展開するはずであったが、[[パイロット版]]を作ったあと、制作は途中で凍結された。このパイロット版の制作で得たノウハウは後に『[[アヴァロン (映画)|アヴァロン]]』に活かされている。
* アニメにおける[[レイアウトシステム]]の重要性を訴え、自らの作品における大量のレイアウトを解説した『METHODS 機動警察パトレイバー2 演出ノート』を上梓している。
* 遠浅の[[東京湾]]が埋め立てられる過程を見て育ったためか、作品には[[埋立地]]が多く登場する。
== 人物像 ==
* 影響を受けた映画監督は、[[ジャン=リュック・ゴダール]]を筆頭に、[[ヴィム・ヴェンダース]]、[[アンドレイ・タルコフスキー]]、[[フェデリコ・フェリーニ]]、[[ルイス・ブニュエル]]、[[鈴木清順]]、[[大和屋竺]]、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[イングマール・ベルイマン]]、[[アラン・レネ]]など。好きな監督に[[リドリー・スコット]]、[[デヴィッド・リンチ]]、[[ドン・シーゲル]]、[[サム・ペキンパー]]、[[ジョン・カーペンター]]を挙げている<ref>勝つために戦え!<監督絶ゼッキョー篇>、監督仕分け 海外編</ref>。
* 嫌いな映画監督には、[[ウッディ・アレン]]、[[マイケル・ムーア]]、[[ティム・バートン]]を挙げている<ref>勝つために戦え!<監督絶ゼッキョー篇>、p.10、p.118</ref>。
* 55歳を過ぎてから[[空手]]を習い始めた<ref name="budop119">『武道のリアル』p119</ref>。その理由については「いまから自分の身体を鋼のように鍛えるということではなくて「どううまく使おうかな」というふうなことなんですよ」と[[今野敏]]との対談で述べている<ref name="budop119"/>。
* 無類の[[イヌ|犬]]好きで、犬を飼うためだけに[[熱海市|熱海]]へ引っ越したと公言している。魚、鳥とともに犬を作品のモチーフとし、自らの愛犬を作品によく登場させる。愛犬雑誌の『WAN』(ペットライフ社)に連載「熱海バセット通信」を執筆した。かつては犬([[バセットハウンド]])の絵柄がデザインされた[[Tシャツ]]やトレーナーを好んで着用していた。
* 高度化したネット社会を扱った作品を複数手がけているため、ネットの達人と誤解されることが多くあるが、実際はまったくと言っていいほどインターネットを利用せず、時々調べものに使う程度だという<ref name="bonjinp121">『凡人として生きるということ』pp.121 - 123</ref>。2008年当時は携帯電話も持たず(それ以前に電話が嫌いと述べている)、「電話をかけるとき時は相変わらずテレフォンカードを手に公衆電話を探しているような有様」と記していた<ref name="bonjinp121"/>。2012年の著書では、[[東日本大震災]]の折に携帯電話をかけようとしたがつながらず、ちょうど治療を受けていた歯科医から「ありったけの硬貨を借り受けて」公衆電話をしたと記しており<ref>『コミュニケーションは、要らない』p4</ref>、2011年時点では携帯電話を所持していたとみられる。ネットの掲示板などで自身の作品についての議論が行われていることについて2008年の著書で「筆者が正体を現わさない批評に耳を傾けるつもりはない」と匿名での発言に興味のないことを示した上で、「もしも僕に何か言いたいことがあれば、いっそ手紙でもくれたほうがいい。しかし、実際はそんな手紙が来たためしはほとんどない」「ドイツの女子中学生が定期的に手紙をくれるが、ほんとうにそれくらいだ」と語っている<ref name="bonjinp121"/>。
* コンピューターゲームの原作者であると同時に、自らもゲーマーである。ゲーム雑誌『[[コンプティーク]]』および『[[電撃王]]』に[[随筆|エッセイ]]『注文の多い傭兵たち』を連載。製作に関わったゲームには、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ゲーム『[[サンサーラ・ナーガ]]』、[[スーパーファミコン]]『[[サンサーラ・ナーガ2]]』、[[メガドライブ]]『機動警察パトレイバー 〜98式起動せよ〜』、そして昨今では[[PlayStation Portable|PSP]]『機動警察パトレイバー かむばっく ミニパト』がある。また[[コンピュータRPG]]『[[ウィザードリィ]]』の影響を強く受けており、『機動警察パトレイバー2 the Movie』には「トレボー」「ワイバーン」など『ウィザードリィ』にちなんだ名前が劇中に登場する。『アヴァロン』に至っては、『ウィザードリィ』を押井が独自の解釈で映像化したものであり、押井が脚本を担当した『パトレイバー』TV版の『地下迷宮物件』および『ダンジョン再び』は、エピソードそのものが『ウィザードリィ』の[[パロディ]]となっている。
* 戦車や銃、戦闘機を愛好するミリタリー好きである。アルバイトで加わったアニメ『[[名犬ジョリィ]]』では、必要以上に[[Kar98k|ガン]]の描写にこだわった絵コンテを切った。下でも触れているが、人手が足りない『うる星やつら』初期に、戦車の原画を描いたことがあった。『うる星やつら』の演出を担当した最後の話では、[[第二次世界大戦]]時代の戦車や航空機を用いて攻防戦を描いた。特に好きな航空機は、旧日本陸軍の戦闘機「[[三式戦闘機|飛燕]]」<ref>『笑っていいとも』(フジテレビ)2008年7月3日、テレフォンショッキングのコーナーにて本人が発言。</ref>。映画『[[ミニパト]]』でも銃について薀蓄を披露している。初の[[OVA]]『[[ダロス]]』製作時には、作画スタッフをビルの屋上に集めて目の前でモデルガンを撃ち、薬莢は均一に飛ばないことを力説した。
* 夫人の影響で、2000年代頃からは[[サッカー]]観戦も趣味となった。贔屓のクラブチームは[[ジュビロ磐田]]。[[チェルシーFC]]とその元監督[[ジョゼ・モウリーニョ]]のファンであり、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]も非常に楽しみにしている。[[サッカードイツ代表|ドイツ]]も好きらしく[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]では[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]を応援し、[[2002 FIFAワールドカップ|日韓大会]]の際にドイツ対[[サッカーイングランド代表|イングランド]]をスタジアムで観戦した。その影響は作品にも現れ『[[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬|ケルベロス 鋼鉄の猟犬]]』作中の実在していない人物の名前は、サッカー選手から採られていたり、『[[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』では戦争請負会社の社名『ロストック』『ラウテルン』は[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]のクラブ名から採られている。押井の小説『[[機動警察パトレイバー#小説版|番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課]]』は、全編にわたってサッカーの蘊蓄が披露された作品であり、特車二課の警備対象も試合中のサッカースタジアムである。
* アニメの[[キャラクターデザイン]]のモデルになったことがある。スタジオぴえろ時代にアルバイトで参加した『[[逆転イッパツマン]]』では「若作りの丸輪さん」。アニメ『うる星やつら』の脚本の[[伊藤和典]]とキャラクターデザイナーの[[高田明美]]<ref group="注釈">伊藤と高田は後に、押井と共に[[機動警察パトレイバー#ヘッドギア|ヘッドギア]]に参加した。</ref>が参加した『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』では「星井守[[ディレクター]]」、「日高守少年」。伊藤と高田は[[アニメ雑誌]]『[[アニメージュ]]』で押井を主人公にした4コマ漫画を連載したこともある。『[[ゼンダマン]]』や『[[タイムパトロール隊オタスケマン]]』、『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン(第2作)]]』に登場する「惜しい」を連呼するマスコット「'''オシイ星人'''」も押井から取られたもの<ref>[http://www.ytv.co.jp/yatterman/blog/2008/03/23_0000.html オシイ星人]</ref>。『ミニパト』の中でも押井をモデルにした犬「'''オシイヌ'''」が登場する。オシイヌをデザインしたのは『ミニパト』のキャラクターデザイン・作画を担当した[[西尾鉄也]]であり、押井は「ある種の悪意の産物」とコメントしている<ref>ニコニコ動画内のメールマガジン「ブロマガ」『押井守の「世界の半分を怒らせる」。』第6回、2012年。</ref>。宮崎駿監督とは旧知の仲から、スタジオジブリ製作『[[ハウルの動く城]]』の犬のヒンのモデルにもなった。
* [[川井憲次]]や[[伊藤和典]]など、同じスタッフや声優を使う傾向があるが、押井曰く「思想的な部分を分担してくれる相棒のようなもの」と表現した上で、著名な映画監督が気の合うスタッフや役者を「○○組」として囲うように、自身の本音を預けたり理解してくれるスタッフや役者がいないと、ハイリスクでローリターンなアニメ制作は、辛くてやっていけないと語っている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P67</ref>。
* アニメーションは、人間ドラマが無くても映画として成立しやすいコンテンツであると考えており、綿密なデザインワークや作画の質を上げることで造形される異世界を構築することに価値あると主張している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P68</ref>。
== 人間関係 ==
=== 監督・演出家 ===
; [[鳥海永行]]
: 押井が'''生涯の師匠'''と呼ぶ人物{{sfn|押井守|2008|p=215}}。押井は[[タツノコプロ|竜の子プロダクション]]入社以前に鳥海が演出した『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』を観ており、その本格的なつくりに当時から魅了されていた{{sfn|押井守|2008|p=215}}。アニメーション業界入りした押井は鳥海を追うように[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]に移籍し、[[動画 (アニメーション)|動画]]、[[レイアウトシステム|画面設計]]、[[キャラクターデザイン]]等の指導を受けた{{sfn|押井守|2008|p=229}}。鳥海とは世界初の[[OVA]]作品『[[ダロス]]』で監督を共同で手掛けている。
; [[宮崎駿]]
: 親交があり、「宮さん」と呼んでいる。押井は宮崎駿がかねてよりその才能を認めていた数少ない同業者の一人であり、『ルパン』製作に押井を推薦するなどしている。宮崎は自分と対等に理論的に話せる相手を欲している、と最初に二人を引き合わせた[[鈴木敏夫]]は語っており、押井はその数少ない一人だったといえる。
: 宮崎は[[東京ムービー]]からの『[[ルパン三世]]』監督の依頼に対して、自分の代わりに押井を紹介{{sfn|押井守|2008|p=240}}。「[[押井版ルパン三世|押井版『ルパン三世』]]」頓挫後には[[スタジオジブリ]]で宮崎プロデュースによる押井監督作品を準備するなど、才能を認め合う仲である。
: 宮崎は押井の特徴を、何かありげに語らせるのなら彼に敵うものはいないと発言している一方で、実写を撮る才能ならば[[庵野秀明]]のほうが上とも発言している<ref>{{Cite book|和書|title=風の帰る場所|author=宮崎駿|year=2002|isbn=4-86052-007-6}}</ref>。
: 最も好きな宮崎作品は『[[天空の城ラピュタ]]』と『[[ハウルの動く城]]』だという<ref>勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉、p.52</ref>。
: 過去に「犬は残飯で十分だ」と主張する宮﨑駿と、激しい口論になっている<ref>押井守全仕事リミックス(キネマ旬報社、p.64)</ref>。
: 宮﨑と出会う前、当時のアニメ業界の常識だった「人の作品を批判してはいけない(アニメは玩具会社の宣伝であり、真剣に制作したり、批評し合うものではないという思考)」に欲求不満を抱えていたが、日頃から他人の作品を徹底的に酷評ばかりしている宮﨑と出会い、交流を続ける中で、「互いの作品を貶し合いながらも、ちゃんと付き合えるじゃないか」と安堵したという<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P61</ref>。
; [[高畑勲]]
: その作品に「ちょっと血が通っていないという部分を感じる」「描写にこだわるが、それが全部理屈に見える」と述べている<ref>参考文献 キネマ旬報(第1166号) 臨時増刊 1995年7月16日号『宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』 押井守インタビューより p26-p31</ref>。
; [[宮崎吾朗]]
: 彼が高校生の頃から面識があり、当時の吾朗には父の作品『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』より押井の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の方が面白かったという<ref name="goro">{{Cite web|和書|url= http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000252.html|title=第二十二回 押井守監督の最新作を観た - 映画『ゲド戦記』監督日誌|accessdate=2017-02-07}}</ref>。ボツになった企画『アンカー』の会議にも顔を出しており、押井が参考に持っていったTVドラマ『安寿子の靴』に感動していたという。月刊誌『[[サイゾー]]』での対談では「宮さんに引導を渡せ」「それは僕らの役目ではなく、やっぱり息子である吾朗くんの役目であり、義務なんだよ」と迫っている<ref>{{Cite journal|和書|author = |authorlink = |date = 2006-07|title = |journal = [[サイゾー]] |issue = |volume = |publisher = 株式会社サイゾー|naid = |ref = harv }}</ref>。宮崎吾朗は[[スタジオジブリ]]公式サイトの『[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]』監督日誌で押井について「私に対して一方的な親近感をもってくれているらしく」「もうひと花咲かせてほしいと思っています」とコメントしている<ref name="goro"/>。『スカイ・クロラ』公開時には、庵野秀明や[[京極夏彦]]等と共に、公式パンフレットにコメントを寄稿した。
; [[ジェームズ・キャメロン]]
: 押井とは友達でもある。作品としては『劇場版パトレイバー』や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を高く評価しており、特に『機動警察パトレイバー 2 the Movie』は『[[トゥルーライズ]]』に多大な影響を与えた。『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』を製作中、CG制作要員としてアニメ製作会社プロダクションIGのスタッフの引き抜きを検討している<ref>押井守全仕事リミックス(キネマ旬報社、p.67)</ref><ref>[https://ddnavi.com/interview/172692/a/ 『攻殻機動隊 ARISE border:2 Ghost Wispers』先行上映会レポート!]</ref>。
: 攻殻機動隊 大原画展の開催時には、「『攻殻機動隊』の映像表現は文学的ともいえる最高レベルに達した、真の意味での初めての大人向けアニメーション」との賛辞の言葉を送っている<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Fashion_headline_7226/ 『攻殻機動隊』の映像表現は文学的ともいえる最高レベルに達した、真の意味での初めての大人向けアニメーション]</ref>。
; [[ウォシャウスキー姉妹]](当時・兄弟)
: 製作の[[ジョエル・シルバー]]が「監督のウォシャウスキー兄弟は私に『[[マトリックス (映画)|マトリックス]]』のアイデアを売り込むために『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を見せて、俳優による実写で映像化したいと言った」と明言している。この作品からインスパイアされたオープニングの黒い画面にグリーンの文字が流れる通称「マトリックスコード」、後頭部にプラグを挿す、ビルの屋上に着地した際に地面のコンクリートがめくれ上がる、ロビーでの銃撃戦で柱が粉砕される、などが共通している。監督は押井と直接会ってもいる<ref>「アニマトリックス」特典映像</ref><ref>『勝つために戦え! 〈監督ゼッキョー篇〉』 徳間書店、2010年</ref><ref>
[https://www.excite.co.jp/news/article/Otapol_201705_post_6767/ 『マトリックス』も『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』のオマージュ作品だと製作者自ら話している]</ref>。
; [[クエンティン・タランティーノ]]
: 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』や『BLOOD THE LAST VAMPIRE』の大ファンで『[[キル・ビル]]』では[[プロダクション・アイジー]]に直談判のため、自らアポなしで訪れてアニメパート制作を依頼している。[[栗山千明]]が演じたGOGO夕張というキャラクターは、『BLOOD THE LAST VAMPIRE』の主人公・小夜にインスパイアされて作られている<ref>[http://www.style.fm/log/02_topics/top050513e.html 御存知のとおり、そのキャラクターは監督のクエンティン・タランティーノが『BLOOD THE LAST VAMPIRE』の主人公小夜にインスパイアされて作った]</ref>。
: 『イノセンス』に声優として参加したいと希望していたが実現はしなかった<ref>日経キャラクターズ! 第3号(日経BP社)</ref>。
; [[ギレルモ・デル・トロ]]
: 『うる星やつら オンリー・ユー』『天使のたまご』から全映画を観ている。2002年に初来日した際は[[プロダクション・アイジー|押井のスタジオ]]を訪問し作画風景を見学、直接会っている。CGへの転換期にもかかわらず一生懸命手書きで作画する姿にギレルモは影響を受けたと言う。ジェームズ・キャメロンの勧めで観た『機動警察パトレイバー』が『[[パシフィック・リム (映画)|パシフィック・リム]]』に多大な影響を与えたと公言。『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』公開に対して「彼は素晴らしいフィルムメーカー、押井守は私の偉大なるお手本です」とコメントを寄せている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20150428-a350/ ギレルモ監督が押井愛とパトレイバーを語る「J・キャメロン監督に勧められた」]</ref>。
: 直接会ったとき、ギレルモからは何度も「アンタの映画はアニメも実写も大好きなんだ。どこがいいかって言うとアニメをやっても実写もやってもメンタリティが変わらないところがいい」と言われた<ref>押井守著『勝つために戦え!監督篇』(徳間書店)</ref>。
; [[ルパート・サンダース]]
: 『攻殻機動隊』は、初めてみた大人向けのアニメーションだった。実写化するにあたり、押井守からは「好きなものを取り入れればいい。好きなことをすればいい。でもオリジナルな作品をつくれ」と言われた。ハリウッド実写版を作る上では、まず押井版の映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と『イノセンス』から、自分がいちファンとして観たいシーンを組み合わせて『[[ゴースト・イン・ザ・シェル (映画)|ゴースト・イン・ザ・シェル]]』の骨格をつくった。と語る<ref>[https://wired.jp/special/2017/ghost-in-the-shell/05/ 「攻殻機動隊」をめぐる5つの考察]</ref>。
; [[スティーヴン・スピルバーグ]]
: 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』をかねてより「私のお気に入りの作品」だと公言し、2008年にスティーヴン・スピルバーグ監督と米ドリームワークスが『攻殻機動隊』の実写化権を獲得、ハリウッド実写版が実現した<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXMZO14159520W7A310C1000000 「ゴースト・イン・ザ・シェル」監督ら来日記者会見]</ref>。
: 『[[レディ・プレイヤー1]]』原作・脚本のアーネスト・クラインは『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』、『アヴァロン』にインスピレーションを受けていると公言している。
; [[ジョージ・ルーカス]]
: 『イノセンス』の時にルーカス側からあなたに会いたいと言われて会ったが、「全然ハッピーそうじゃない。外から見たらまぎれもない成功者だけど本当に幸せなんだろうか」と思ったという<ref>押井守著「仕事に必要なことはすべて映画で学べる」日経BP社</ref>。
; [[本広克行]]
: 世界で一番好きな監督に押井守を挙げる<ref>世界が注目する映像クリエイター 押井守の世界</ref>。初めての押井作品との出逢いは高校一年のとき映画館で観た『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で、初監督映画『[[7月7日、晴れ]]』は同作からインスピレーションを受けている。
:「[[踊る大捜査線]]は完全にパトレイバーを模写」したと明言<ref>{{Cite web|和書|title=本広克行監督が明言「踊る大捜査線は完全にパトレイバーを模写」 (2015年5月14日掲載)|url=https://news.livedoor.com/article/detail/10110879/|website=ライブドアニュース|accessdate=2019-09-22|language=ja}}</ref>し、代表作である『[[踊る大捜査線]]』シリーズから、総監督を務める放送中の深夜アニメ『[[PSYCHO-PASS サイコパス]]』にも、パトレイバーが強い影響を与えていると明している。また「2001年頃の話」として、「パトレイバー実写化の話が僕に来たんですよ。特撮は樋口真嗣で、音楽はもちろん川井憲次さん。パイロットフィルムも作った」という。当の押井は『[[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-|THE NEXT GENERATION パトレイバー 第3章]]』の公開に際して「本広監督がやるっていうのは意外性がないし、(パトレイバーを)好きな人だとつまらないから。でも、もしもシーズン2があるなら、監督は総入れ替えするつもり」と思わせぶりな発言をしている。<ref>{{Cite web|和書|title=「踊る」本広克行監督に影響与えた“押井イズム” 「押井さんの手法、実写で試した」 : 映画ニュース|url=https://eiga.com/news/20140725/14/|website=映画.com|accessdate=2019-09-22|language=ja}}</ref>
; [[望月智充]]
: 業界に入って最初に目撃した有名人が押井守。押井の作品で一番好きな作品は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で、『[[ぼくのマリー#OVA版|ぼくのマリー]]』第3巻「夢みるアンドロイド」は実は私なりに『ビューティフルドリーマー』の内容に対する一種の反論として作った作品、と発言している<ref>「押井守全仕事」キネマ旬報社</ref>。
; [[大塚康生]]
: 宮崎駿が縁となり知り合う。実写映画『紅い眼鏡』では「対話タクシーの運転手」役としての出演、撮影用に[[ジープ]]を貸してもらうなどの親交がある。押井は大塚から「理屈が自転車に乗っているような人間」と例えられている<ref>参考文献 キネマ旬報(第1166号) 臨時増刊 1995年7月16日号『宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』 押井守インタビューより</ref>。
; [[出崎統]]
: 出崎の監督作品『劇場版[[エースをねらえ!#エースをねらえ! (劇場版)|エースをねらえ!]]』のビデオを何度も繰り返し見て「アニメを映画にする方法を学んだ」と発言している<ref group="注釈">「でかいTVと映画の違いは何なんだ」って、ずっと考えてたんです。「どうやったらアニメーションは映画になるんだろうか」って。自分がやった最初の映画はね、どう見ても映画に見えなかった。ところが、大して動いていない{{倍角ダッシュ}}3コマで時々動いているだけ、カメラだけはよく動いてる{{倍角ダッシュ}}そんな、出崎さんの『エースをねらえ!』は、映画の迫力に満ちててね、映画を観たという実感が感じられた。感動したと言ってもいい。それで何か秘密があるはずだと思って何度も観たんです。『オンリー・ユー』から『ビューティフル・ドリーマー』に至る間の話ですよ。([[アニメスタイル]] 2000 第(2)号 [[美術出版社]] 『ロングインタビュー 押井守のアニメスタイル』 66頁より引用)</ref>。『うる星やつら』では「ニャオンの恐怖」で止め絵演出など出崎統調の演出スタイルで絵コンテを描き、結果的に出崎統演出の『[[あしたのジョー]]』のパロディーとなった<ref>『アニメージュ』1982年12月号、徳間書店、pp.70-71。</ref>。なお彼の実兄である[[出崎哲]]は、後に押井降板後の「うる星やつら」のova、劇場版の監督を務めた。
; [[安彦良和]]
: かつて押井を非常に高く評価し、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を見たときには「引退を考えるほどの衝撃を受けた」と語っている<ref>『機動戦士ガンダム20周年トリビュートマガジン-G20』☆Vol.4 特集:安彦良和 - アニメの終わりと物語の始まり(エンターブレイン、2005年)</ref>。ただし、2007年には雑誌のインタビュー記事で『機動警察パトレイバー2 the Movie』以降の作品については違和を感じていることを表明しており、「今度会ったら『俺、あんたの作品嫌いだよ』と言ってやるつもりだった」とも述べている<ref>「歴史の忘却と捏造に抗して 『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』 という挑戦」(更科修一郎によるインタビュー)『ユリイカ』2007年9月号(青土社)</ref>。
; [[庵野秀明]]
: 押井のスタジオぴえろ退社とほぼ同時期にやはり宮崎駿の元に身を寄せていた時期があり、『天使のたまご』制作にいったんは参加したものの、想像を絶する仕事量による「修行僧の世界」に耐えかねて二週間で逃げ出したという<ref>「現代の肖像(押井守)」『[[AERA]]』2001年4月30日号</ref>。しかし、上記の通り『逆襲のシャア』の同人誌で庵野が押井にインタビューを行ったり、『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』制作前に押井に[[聖書]]関連の参考文献についてアドバイスを求めに来たことがあったり、親しい関係である。『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』ではエンドテロップの「special thanks」の中に名前が挙げられている。2012年11月に公開された『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』について、押井は[[ニコニコ動画]]の有料メールマガジンで、庵野の演出能力や制作意欲の高さは評価しながらも、作品としてはテーマや固有のモチーフがなく視聴者の感情移入でそれらが補完されてヒットを生んでいると述べ、そうした構造を持つことで制作者とファンが望む限り『エヴァンゲリオン』は永遠に終わらないと指摘した<ref>[http://www.j-cast.com/2012/12/05156943.html?p=1 大ヒットのヱヴァンゲリヲン「テーマもモチーフもなく、観る価値なし!」 押井守氏が庵野秀明監督をこき下ろす] JCASTニュース2012年12月5日</ref>。
=== 俳優・声優・タレント ===
; [[榊原良子]]
: 『機動警察パトレイバー2 the Movie』における南雲しのぶの描写について、従来のシリーズでの印象との違いに戸惑い、葛藤しながら演じたと述べている<ref name="spice">{{Cite news|url=https://spice.eplus.jp/articles/285200|title=榊原良子「押井さんについては分かりたくないし、分からなくていい」『機動警察パトレイバー2 the Movie4DX』 公開記念トークショーで押井守に物申す|newspaper=SPICE|date=2021-04-01|accessdate=2021-04-11}}</ref>。キャラクターの表現方法の意見の食い違いで一時期絶縁したが、後に和解する{{要出典|date=2021-04}}。{{要出典範囲|押井は映画を支えてくれる守護神のような存在と評し、彼女無しでは映画を作る気がしないとまで語る|date=2021-04}}一方、榊原は2021年のトークショーで「押井さんを知ろうとしないし、アプローチしないし、俯瞰で見ていたい。分かりたくないし、分からなくていい。何が出てくるのかを見ていたいと思っています。」とコメントした<ref name="spice"/>。
; [[竹中直人]]
: 『パトレイバー2』の荒川役で仕事をした後、対談し「また一緒にやりましょう!」と意気投合。『ミニパト』を製作する際、再び荒川を登場させるべく押井は竹中に連絡を取ろうとしたが、知らない間に携帯の電話番号が変わっており、その時は実現しなかった。だが、のちに『イノセンス』では連絡が取れ、出演が実現している。その後も『スカイ・クロラ』や『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』などに出演。
; [[兵藤まこ]]
: 声優デビュー作となった『[[天使のたまご]]』以来、大半の押井作品にアニメ・実写問わず出演している。『アヴァロン』制作時に、「ゴースト役が決まらなかったら彼女を起用する」と言うほど押井に惚れ込まれている。『ミニパト』の企画に関しても、彼女に主題歌を歌わせてそれをCD化できることが引き受けた大きな目的だったと語っている。
; [[ひし美ゆり子]]
:高校時代、『[[ウルトラセブン]]』でアンヌ隊員を演じた[[ひし美ゆり子]]に憧れを抱く。『真・女立喰師列伝』では「鼈甲飴の有理」役、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』では「ユリ」役にひし美を起用、演出している。
; [[飯島愛]]
:[[2006年]]に[[雑誌]]の企画で[[対談]]した後、飯島から「[[性的少数者]]のことを[[アニメーション]]で訴えたい」として弟子入りを申し込まれた<ref name=asahi20230201>{{Cite news |title=(時代の栞)「PLATONIC SEX」 2000年刊・飯島愛 壮絶な半生とバブルの狂騒 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2023-02-01 |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15544158.html |accessdate=2023-04-15}}</ref>。年齢的に難しいと断ったが、飯島の熱意に押される形で企画や[[脚本]]のやりとりを始め、[[ジェンダー]]を巡る[[ファンタジー]]作品の執筆のアドバイスを続けていた<ref name=asahi20230201/>。押井は、飯島には「才能があった」と語っており、アニメ化が実現すればジェンダーの問題を正面から扱った野心的な企画になると感じていたという<ref name=asahi20230201/>。やりとりの最中に飯島が急逝したため企画は宙に浮く形となったが、その一部は『Ball Boy & Bad Girl』という書籍として出版された<ref name=asahi20230201/>。
=== 作家 ===
; [[光瀬龍]]
: 少年時代からのファンであり、所属していた図書委員会の図書新聞の取材のためと題し光瀬をインタビューしている。ファンレターを書いていたこともきっかけとなり、それ以降自宅に何度も訪問するまでになった。しかし、当時押井もかかわっていた[[学生運動]]について意見が対立し、それ以降は長く接することがなかったという。『[[天使のたまご]]』を制作した際に押井の希望で対談により約20年ぶりの再会を果たし、確執は解けた<ref>押井守『すべての映画はアニメになる』徳間書店、2004年、pp.117-118。</ref><ref>『キネ旬ムック 押井守全仕事 増補改訂版 「うる星やつら」から「アヴァロン」まで』キネマ旬報、2001年、p.39。</ref>。光瀬が亡くなった時に押井は『アヴァロン』の撮影で海外へ渡航中であり葬儀に出席できなかった。このことを押井は大変悔いていた。光瀬が亡くなった翌年([[2000年]])の[[日本SF大会]](ZERO-CON)で押井が光瀬との思い出を語る企画が設けられた。その際、「今でも『[[百億の昼と千億の夜]]』は映画化したいと思っている」と発言している(企画書を書いたこともあったという)。この後[[2005年]]の日本SF大会(HAMA-CON2)においても企画に参加している。押井は[[2008年]]より『[[月刊COMICリュウ]]』で連載の始まった『[[夕ばえ作戦]]』の漫画版で脚色を担当し、初めて光瀬の作品を手がけることになった。新装版『百億の昼と千億の夜』では解説を書いている。
; [[山田正紀]]
: 学生時代はSF[[小説家]]も志望していたが、ほぼ同い年である山田のデビュー作『[[神狩り]]』を読んで才能の差にうちのめされたという<ref>押井守『すべての映画はアニメになる』徳間書店、2004年、pp.362。</ref>。後に、山田は『イノセンス』の前日譚にあたる小説『[[イノセンス#小説|イノセンス After The Long Goodbye]]』の執筆も手がけており、同作品内で押井は寄稿文を寄せている。
; [[桜坂洋]]
: ハリウッド実写化もされた『[[All You Need Is Kill]]』執筆にあたり、はじめに頭に浮かんだのは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』とインタビューで公言している<ref>[http://dash.shueisha.co.jp/feature/allyou/0412.html はじめに頭に浮かんだのは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』]</ref>。
; [[谷川流]]
: [[涼宮ハルヒシリーズ|『涼宮ハルヒ』シリーズ]]は、「『うる星やつら』、高橋留美子さんというよりむしろ無意識に出てしまっているのは押井守さんのほう。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が好きだった」と語っている<ref>「クイック・ジャパン vol.66」太田出版</ref>。
; [[川原礫]]
: 『アヴァロン』を最高のVR作品だと語っており『アヴァロン』の影響を受けて『[[ソードアート・オンライン]]』の銃で戦うチャプターを書いたと公言している<ref>[https://natalie.mu/eiga/pp/readyplayerone01 「アヴァロン」あれは僕最高のVR作品だと思ってます]</ref>。
== 評価 ==
=== 山賀博之 ===
脚本家で映画監督の[[山賀博之]]は、人生観が甘い人と評し、自身を「恰好悪い」と自虐しつつも、そんな自分は「格好いい」と自惚れているとして、「真摯な態度を感じない。逃げている」と一刀両断している。また、押井が自身の作品を[[自画自賛]]していることにも触れ、仕事に対するプロ意識が見られず、8ミリ映画の自主制作やコミケでの同人販売と同じようなことをしていて、中途半端で美しくないという感想を述べた上で、人生の最期まで作品を作り続けられるのは[[宮崎駿]]や[[富野由悠季]]の世代であり、彼らより下の世代である押井は難しいだろうと推察している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P21~23</ref>。
== 作品 ==
=== 長編アニメ(監督作品) ===
* [[うる星やつら オンリー・ユー]](1983年2月11日公開)[[監督]]・脚色・絵コンテ<ref group="注釈">監督デビュー作</ref>
* [[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]](1984年2月11日公開)監督・[[脚本]]・絵コンテ
* [[機動警察パトレイバー the Movie]](1989年7月15日公開)監督・絵コンテ・原作<ref group="注釈">制作者集団ヘッドギア共同名義</ref>
* [[御先祖様万々歳!|MAROKO 麿子]](1990年3月19日公開)監督・脚本・[[原作]]<ref group="注釈">OVA『ご先祖様万々歳』の再編集版</ref>
* [[機動警察パトレイバー 2 the Movie]](1993年8月7日公開)監督・絵コンテ・原作
* [[GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊]](1995年9月23日公開)監督・絵コンテ<ref group="注釈">
第46回 ベルリン国際映画祭のフォーラム部門に出品</ref>
** GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 インターナショナル・ヴァージョン(1997年公開)監督
** GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0(2008年7月12日公開)監督
* [[イノセンス]](2004年3月6日公開)監督・絵コンテ・脚本<ref group="注釈">第57回 カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品。ドリームワークスにより世界配給。</ref>
* [[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]](2008年8月2日公開)監督・絵コンテ<ref group="注釈">第65回 ヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品。</ref>
* [[ニルスのふしぎな旅#劇場版|劇場版 ニルスのふしぎな旅]](2015年1月31日公開)監督(鳥海永行、案納正美と共同)<ref group="注釈">1982年に完成していたがスポンサー都合で[[ビデオスルー]]となっていた作品の初の劇場公開。文部省選定</ref>
* [[キマイラ・吼|キマイラ]](公開日未定)監督
=== 長編アニメ(参加作品) ===
* [[人狼 JIN-ROH]](2000年2月19日公開)原作・脚本、監督:[[沖浦啓之]]<ref group="注釈">ベルリン国際映画祭パノラマ部門正式出品</ref>
* [[BLOOD THE LAST VAMPIRE]](2000年11月18日公開)企画協力、監督:[[北久保弘之]]
* [[宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-]](2009年6月13日公開)原案・脚本、監督:[[西久保瑞穂]]
=== OVA ===
* [[ダロス]](1983年12月21日-1984年6月28日発売)監督([[鳥海永行]]と共同)・脚本・演出・絵コンテ
* [[天使のたまご]](1985年12月15日発売・同年12月22日公開)監督・原案([[天野喜孝]]と共同)・脚本
* [[トワイライトQ 迷宮物件 FILE538]](1987年8月28日発売)原案・監督・脚本
* [[機動警察パトレイバー#初期OVAシリーズ(アーリーデイズ)|機動警察パトレイバー アーリーデイズ]](旧OVA・前期OVA)(1988年4月25日 - 12月10日)監督・絵コンテ・原作
* [[御先祖様万々歳!]](1989年5月-1990年1月25日発売)原作・監督・脚本・絵コンテ<ref group="注釈">スタジオぴえろ10周年記念作品</ref>
* 機動警察パトレイバー NEW OVAシリーズ(新OVA・後期OVA)(1990年11月22日 - 1992年4月23日発売)原作・7・8・10・13話脚本
* [[Halo Legends]](2010年2月16日発売)クリエイティブディレクター
=== 短編アニメ ===
* [[浜田広介|りゅうの目のなみだ]](1981年)演出・絵コンテ<ref group="注釈">初の映画演出作。文部省選定</ref>
* [[サンサーラ・ナーガ2#ゲーム内容|サンサーラ・ナーガ2]] プロモーションビデオ(1994年)監督・原作
* [[ミニパト]](2002年3月30日公開)原作・脚本・音響プロデュース・演出コンセプト、監督:[[神山健治]]
* PROJECT_MERMAID(2007年)監督、「[[アニ*クリ15|アニ*クリ15]]」提供作品、出演:[[兵藤まこ]]
* [[サイボーグ009 (アニメ)#2010年 - 2016年|009]](2010年10月5日公開)監督<ref group="注釈">短編3Dアニメ、「[[CEATEC JAPAN]] 2010」での上映</ref>
* [[GLAY (アルバム)|Je t'aime]](2010年10月13日発売)監督<ref group="注釈"> 押井と[[GLAY]]のメンバー双方がアイデアを持ち寄ったコラボレーション企画</ref>
* [[キックハート|Kick-Heart]](2013年)監修、監督:[[湯浅政明]]<ref group="注釈">日本アニメとして初の本格的なクラウドファンディング</ref>
=== 実写 ===
* [[紅い眼鏡/The Red Spectacles]](1987年2月7日公開)監督・原作・共同脚本・絵コンテ
* [[ケルベロス-地獄の番犬]](1991年3月23日公開)原作・監督・脚本
* [[トーキング・ヘッド]](1992年9月28日公開)監督・脚本・絵コンテ
* [[アヴァロン (映画)|アヴァロン]](2001年1月20日公開)監督<ref group="注釈">カンヌ国際映画祭特別招待作品</ref>
* [[KILLERS キラーズ (2003年の映画)|KILLERS キラーズ]](2003年6月14日公開)「.50 Woman」監督・脚本
* [[立喰師列伝]](2006年公開)原作・監督・脚本<ref group="注釈">第63回 ヴェネチア国際映画祭 オリゾンティ部門に出品、[[スタジオジブリ]]短編映画『ジュディ・ジェディ』と同時上映</ref>
* [[女立喰師列伝 ケツネコロッケのお銀 -パレスチナ死闘編-]](2006年公開)原作・脚本・監督
* [[真・女立喰師列伝]](2007年10月21日公開)原作・総監修・OP、『金魚姫 鼈甲飴の有理』、中CM、『ASSAULT GIRL ケンタッキーの日菜子』監督・脚本<ref>ベルリン国際映画祭招待上映作品</ref>
* 斬〜KILL〜(2008年12月6日公開)総監修・『ASSAULT GIRL 2』監督
* [[ケータイ捜査官7]](2008年・[[テレビ東京]])19・20話監督・19・20・35話脚本<ref group="注釈">
テレビドラマ初監督</ref>
* [[ASSAULT GIRLS]](2009年12月19日公開)監督・脚本
* [[28 1/2 妄想の巨人]](2010年7月31日公開)監督・脚本
* [[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-]](2014年4月5日 - 2015年1月10日公開)シリーズ総監督、各話監督・脚本(1話、5話、6話、12話)・原作
** THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦(2015年5月1日公開)監督・脚本・原作
* [[東京無国籍少女]](2015年7月25日公開)監督
* [[ガルム・ウォーズ]](2015年10月2日北米公開・2016年5月20日日本公開)監督・原作・脚本
* Sand Whale and Me(2017年)監督<ref group="注釈">米Toonami20周年記念作品</ref>
* 血ぃともだち(2019年製作、2022年2月5日公開{{Refnest|group="注釈"|当初は2020年4月に公開予定だったが、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]感染拡大などの影響で4度にわたり公開が延期された末、2022年2月5日に一夜限りの上映が行われた<ref>{{Cite news|url= https://mantan-web.jp/article/20220205dog00m200041000c.html |title= 押井守監督:「こんなにたたられた映画は初めて」 お蔵入り寸前「血ぃともだち」語る |newspaper= まんたんウェブ |publisher= 株式会社MANTAN |date= 2022-02-05 |accessdate= 2022-02-05 }}</ref>。}})監督・脚本
=== テレビアニメ ===
* [[ヤッターマン]](1977年)55・59話[[演出]]、後半以降総助監督
* [[一発貫太くん]](1977年)13・28話[[画コンテ|絵コンテ]]、28話・29・41話演出
* [[科学忍者隊ガッチャマンII]](1978年)6・10・17話演出、6話絵コンテ
* [[魔女っ子チックル]](1979年)43話絵コンテ、名輪丈名義
* [[ゼンダマン]](1979年)3・7・10・16・18・24・25・28・32話演出、3・10・18・24・25・28・32・34・38・50話絵コンテ、30話修正絵コンテ
* [[ニルスのふしぎな旅]](1980年)6・9・10・13・17・18・23・27・32・34・36・40・41・43・46・49・51話演出、9・17・18・19・23・27・32・36・40・41・46・49話絵コンテ
* [[オタスケマン]](1980年)14・31・37・41・44・48話絵コンテ、[[丸輪零]]名義
* [[ヤットデタマン]](1981年)3話演出、丸輪零名義
* [[名犬ジョリィ]](1981年)21・23話演出・16・23話絵コンテ・21・23話演出助手、小川守弘名義
* [[ゴールドライタン]](1981年)27・33話絵コンテ
* [[世界名作ものがたり]](1981年)オープニング演出・絵コンテ
* [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](1981年)チーフディレクター(1-106話)・43・49・64・78・79・83・104話脚本、1・2・5・9・15・19・20・27・34・35・39・43・44・49・56・59・62・66・72・75・84・86・87・91・99・100・116・126・127・129話演出、1・2・5・9・15・19・20・27・34・35・43・44・45・46・59・66・84・87・94・99・102・104・106・113・116・127話絵コンテ
* [[ダッシュ勝平]](1982年)21話絵コンテ、丸輪零名義
* [[逆転イッパツマン]](1982年)10・14・17・21・27・33・39話絵コンテ、丸輪零名義
* [[スプーンおばさん (アニメ)|スプーンおばさん]](1983年)54話脚本・絵コンテ
* [[子鹿物語 (アニメ)|子鹿物語 THE YEARLING]](1983年)7・12話絵コンテ
* [[赤い光弾ジリオン]](1987年)2・15話絵コンテ、丸輪零名義
* [[機動警察パトレイバー#テレビシリーズ(ON TELEVISION)|機動警察パトレイバー]](1989年)原作・3・9・14・29・38話脚本
* [[攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG]](2004年)ストーリーコンセプト
* [[風人物語]](2004年)監修
* [[BLOOD+]](2005年)企画協力
* [[ルパン三世 PART6]](2021年)4<ref>{{Cite web|和書|url=https://animageplus.jp/articles/detail/40263|archive-url=https://web.archive.org/web/20211102160128/https://animageplus.jp/articles/detail/40263|title=『ルパン三世 PART6』第4話 “押井ルパン” ついに実現!|website=アニメージュ|date=2021-11-02|archive-date=2021-11-02|url-status=live|accessdate=2021-12-19}}</ref>・10<ref>{{Cite web|和書|url=https://animageplus.jp/articles/detail/41050|archive-url=https://web.archive.org/web/20211214090922/https://animageplus.jp/articles/detail/41050|title=『ルパン三世 PART6』第10話 押井ルパン再び!川柳コンテストも!|website=アニメージュ|date=2021-12-14|archive-date=2021-12-14|url-status=live|accessdate=2021-12-19}}</ref>話脚本
* [[火狩りの王]](2023年)構成・脚本<ref>{{Cite news|url=https://animageplus.jp/articles/detail/46824|title=西村純二×押井守が贈るアニメ『火狩りの王』2023年1月放送・配信!|website=アニメージュ|date=2022-09-21|accessdate=2022-09-21}}</ref>
=== Webアニメ ===
* [[ぶらどらぶ]](2020年)原作・総監督・シリーズ構成・脚本・絵コンテ
=== ラジオ ===
* [[紅い眼鏡/The Red Spectacles#ラジオドラマ(『紅い眼鏡を待ちつつ』)|紅い眼鏡を待ちつつ]](1987年)原作・脚本
* [[紅い眼鏡/The Red Spectacles#ラジオドラマ(『紅い眼鏡を待ちつつ』)|紅い眼鏡を持ちつつ 2000年版]] 原作・脚本・監督<ref>推敲・加筆修正して再録音</ref>
* [[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬|ケルベロス 鋼鉄の猟犬 / Kerberos Panzer Jäger]](2006年)原作・脚本・監督
* acht acht / アハト・アハト(2007年)脚本
* 押井守の世界 シネマシネマ(2007年)出演
=== CDドラマ ===
* [[トーキング・ヘッド#その他|ゲーデルを夢見て〜録音監督1993年]](1992年)
* [[しあわせのかたち#ドラマCD|しあわせのかたち 水晶の滑鼠]](1992年)
* 不帰の迷宮‐THE GREAT MAZE OF OVERKILL(1996年)<ref group="注釈">[[伊藤和典]]・[[千葉繁]]との3人によるリレー脚本
</ref>
=== ゲーム ===
* [[サンサーラ・ナーガ]](1990年)監督・原作
* 機動警察パトレイバー 〜98式起動せよ〜(1992年)監督
* [[サンサーラ・ナーガ2]](1994年)監督・原作
* [[BLOOD THE LAST VAMPIRE#コンピュータゲーム|BLOOD THE LAST VAMPIRE]](2000年)原案協力
* [[サンサーラナーガ1×2]](2001年)監督・原作
* [[ミニパト#機動警察パトレイバーかむばっく ミニパト|機動警察パトレイバー かむばっくミニパト]](2005年)総監修
* [[スカイ・クロラシリーズ#ゲーム|スカイ・クロラ イノセン・テイセス]](2008年)特別監修
* [[重鉄騎#関連項目|重鉄騎 STEEL BATTALION]](2012年)コラボレーショントレーラー監督
* [[ファントム オブ キル]](2014年)オープニングムービー監修
=== 舞台 ===
* [[28 1/2 妄想の巨人#舞台『鉄人28号』|舞台『鉄人28号』]](2009年)演出・脚本
=== その他の作品 ===
* うる星やつら [[関西電力]]CM(1982年)絵コンテ2本
* [[八岐之大蛇の逆襲]](1984年)機材協力
* DOG DAYS(1991年)監督<ref group="注釈">『[[ケルベロス-地獄の番犬]]』アップグレード版特別付録[[レーザーディスク|LD]]に収録</ref>
* [[宇宙貨物船レムナント6]](1996年)総合監修、監督:[[万田邦敏]]
* [[バトルトライスト]](1998年)アーケードゲーム、エンディング絵コンテ
* gate to Avalon(2000年)監督<ref group="注釈">『Avalon』のメイキングDVD</ref>
* DOG DAYS AFTER(2003年)監修<ref group="注釈">『Mamoru Oshii Cinema Trilogy / 押井守シネマトリロジー』特別付録DVD</ref>
* [[東京スキャナー]](2003年)監修・CGパート絵コンテ、監督:[[松宏彰]]
* [[東京静脈]](2003年)監修、監督:[[野田真外]]
* [[球体関節人形]]展 - DOLLS of INNOCENCE - (2004年)監修
* イノセンスの情景 Animated Clips(2004年)企画・監修、演出:西久保瑞穂
* [[ローレライ (映画)|ローレライ]](2005年)「B-29〈ドッグ・スレー〉号機体マーク」デザイン
* {{日本語版にない記事リンク|めざめの方舟|en|Mezame No Hakobune}}(2005年)総合演出([[愛知万博]])
* アイオーン(2005年)演出<ref group="注釈">愛知万博公開、舞踏・[[最上和子]]、音楽・[[川井憲次]]</ref>
* 二子玉川いぬねこ里親会Tシャツ(2005年)オリジナルイラスト
* [[ズームイン!!SUPER]]CM(2006年)演出
* 夢のロボット舞踏会(2007年)総合演出<ref>[[国立科学博物館]]『大ロボット博プレミアムナイト』で公開、舞踏・[[最上和子]]、太鼓演奏・茂戸藤浩司</ref>
* [[NHKスペシャル]]『[[沸騰都市]]』OP・ED(2008年)監修
* スッキリ!!・クロラ The Sukkiri Crawlers(2008年)監修<ref group="注釈">[[スッキリ!!]]内での放送</ref>
* [[meet-me]] 仮想都市『TOYOTA METAPOLIS』(現・[[GAZOO METAPOLIS]])(2008年)監修
* [[KILL (MELLの曲)]](2008年)[[ミュージック・ビデオ]]監督
* ちまみれマイ・らぶ(2013年)原作・監督、コミックアニメーション作品
* [[VHSテープを巻き戻せ!]](2013年)出演(ドキュメンタリー)、監督:[[ジョシュ・ジョンソン]]
* 1984~不朽のSF小説から生まれる過去・現在・未来~(2014年)出演(ドキュメンタリー)、国際共同制作プロジェクト
* [[チャッピー (映画)|チャッピー]](原題: CHAPPiE)(2015年)ポストカード、監督:[[ニール・ブロムカンプ]]<ref>[https://thetv.jp/news/detail/62430/ 押井守らが描く「チャッピー」オマージュカード付き!]</ref>
=== 俳優としての出演作 ===
* [[花束みたいな恋をした]](2021年)本人役、監督:[[土井裕泰]]
== 著書 ==
=== 小説 ===
* 『TOKYO WAR』
** 『[[機動警察パトレイバー 2 the Movie|TOKYO WAR - 機動警察パトレイバー]](前・後)』 [[富士見書房]]〈[[富士見ファンタジア文庫]]〉、[[1994年]]
**『TOKYO WAR MOBILE POLICE PATLABOR<ref group="注釈">『TOKYO WAR - 機動警察パトレイバー』を加筆・修正。</ref>』 [[エンターブレイン]]、[[2005年]] {{ISBN2|4-7577-2366-0}}
* 『[[獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE]]』
**[[角川書店]]、[[2000年]] {{ISBN2|4-04-366601-2}}
**[[角川文庫|角川ホラー文庫]]、2002年 {{ISBN2|4-04-366601-2}}
* 『[[アヴァロン (映画)#小説|Avalon 灰色の貴婦人]]』
** [[メディアファクトリー]]、2000年 {{ISBN2|4-8401-0157-4}}
** メディアファクトリー〈[[MF文庫J]]〉、2003年 {{ISBN2|4-8401-0742-4}}
** エンターブレイン、2008年 {{ISBN2|4-7577-4068-9}}
* 『[[立喰師列伝]]』 角川書店、[[2004年]] {{ISBN2|4-04-873516-0}}
* 『[[雷轟 rolling thunder PAX JAPONICA]]』 エンターブレイン、[[2006年]] {{ISBN2|4-7577-2669-4}}
* 『[[ASSAULT GIRLS|ASSAULT GIRLS AVALON(f)]]』 徳間書店、2009年 {{ISBN2|4-19-862876-9}}
* 『[[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬|ケルベロス 鋼鉄の猟犬]]』
** [[幻冬舎]]、2010年 {{ISBN2|978-4-344-01787-0}}
** [[幻冬舎文庫]]、2012年 {{ISBN2|978-4-344-41923-0}}
* 『[[機動警察パトレイバー#小説版|番狂わせ 警視庁警備部特殊車輛二課]]』 [[角川春樹事務所]]、2011年 {{ISBN2|978-4-7584-1170-7}}
* 『ゾンビ日記』 角川春樹事務所、2012年 {{ISBN2|978-4-7584-1198-1}}。ハルキ文庫、2015年
* 『[[GARM WARS The Last Druid|GARM WARS 白銀の審問艦]]』 エンターブレイン(現:[[KADOKAWA]])、2015年 {{ISBN2|978-4-04-730419-2}}
* 『[[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-|THE NEXT GENERATION パトレイバー TOKYO WAR 2 灰色の幽霊]]』(山邑圭 共著) 角川書店、2015年 {{ISBN2|978-4-04-103218-3}}
* 『[[東京無国籍少女]]』(山邑圭 共著) [[エンターブレイン|KADOKAWAエンターブレイン]]、2015年 {{ISBN2|978-4-04-730822-0}}
* 『ゾンビ日記② 死の舞踏』角川春樹事務所、2015年
* 『[[機動警察パトレイバー#小説版|後席の男]]』 角川春樹事務所、2015年 {{ISBN2|978-4-7584-1260-5}}、[[日本推理作家協会]]編『タッグ 私の相棒』
=== 漫画 ===
* 『うる星やつら〜番外編〜父たち』(1982年)原作、作画:[[高田明美]]、『[[少年サンデー]]グラフィック [[うる星やつら]]3』に収録
* 『とどのつまり…』([[徳間書店]]、1984年、新装版2004年)原作・絵コンテ、作画:[[森山ゆうじ]]
* 『西武新宿戦線異状なし<ref group="注釈">『[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]』誌16〜21号に掲載されるが、序盤途中で頓挫。</ref>』(1987年)原作、作画:[[近藤和久]]
* 『[[犬狼伝説|犬狼伝説 Kerberos Panzer Cop]]』(1988年)原作、作画:[[藤原カムイ]]
* 『[[西武新宿戦線異状なし DRAGON RETRIEVER]]』(1992年、完全版2002年)原作、作画:[[大野安之]]
* 『[[セラフィム 2億6661万3336の翼]]』(1994年)原作・序章〜第12回、原案・第13回〜第16回、作画:[[今敏]]
* 『[[犬狼伝説|犬狼伝説 Kerberos Panzer Cop 完結篇]]』(1999年)原作、作画:藤原カムイ
* 『殺人者たち The Killers』(2002年)原作、読切短編。
*:最初は[[神崎将臣]]作画で掲載され、後に[[杉浦守]]作画で再掲載。前者は単行本未収録であり、後者は「RAINY DOGS 紅い足痕 / 犬狼伝説 紅い足痕」の単行本巻末に収録。
* 『[[西武新宿戦線異状なし DRAGON RETRIEVER|西武新宿戦線異状なし 番外編]]』(2002年)原作
* 『[[RAINY DOGS 紅い足痕 / 犬狼伝説 紅い足痕]]』(2003年)原作、作画:[[杉浦守]]
* 『[[ケルベロス×立喰師 腹腹時計の少女]]』(徳間書店、2006年)原作、作画:杉浦守
* 『[[夕ばえ作戦]]』(徳間書店、2008年)脚色、原作:[[光瀬龍]]、作画:[[大野ツトム]]
* 『わんわん明治維新』(徳間書店、2011年)原作、作画:[[西尾鉄也]]
=== 映像作品関連 ===
* 『天使のたまご』 ([[天野喜孝]] 共著) 徳間書店〈アニメージュ文庫〉、[[1985年]] {{ISBN2|4-19-669549-3}}
* 『天使のたまご 少女季』 (あらきりつこ・天野喜孝 共著)、徳間書店、1985年、新版2004年/復刊ドットコム、2017年 {{ISBN2|4-8354-5471-5}}
* 『天使のたまご 絵コンテ集』 [[徳間書店]]、[[1986年]]/復刊ドットコム、2013年
* 『Methods 押井守「パトレイバー2」演出ノート』 [[角川書店]]、[[1994年]] {{ISBN2|4-04-852498-4}}
* 『攻殻機動隊絵コンテ集』 ([[士郎正宗]] 共著) キネマ旬報社、1995年 {{ISBN2|4-87376-147-6}}
* 『イノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談』 徳間書店、2004年 {{ISBN2|4-19-861830-5}}
* 『「イノセンス」 METHODS 押井守演出ノート』 角川書店、[[2005年]] {{ISBN2|4-04-853765-2}}
* 『アニメはいかに夢を見るか 「スカイ・クロラ」制作現場から』 [[岩波書店]]、2008年 {{ISBN2|4-00-022046-2}}
* 『スカイ・クロラ-The Sky Crawlers- 絵コンテ』 ([[竹内敦志]] 共著) 飛鳥新社、2008年 {{ISBN2|978-4-87031-866-3}}
=== エッセイ・評論 ===
* 『注文の多い傭兵たち』 (イラスト:[[桜玉吉]])[[メディアワークス]]、1995年/徳間書店、2004年。ゲームエッセイ
* 『犬の気持ちは、わからない 〜熱海バセット通信〜』(イラスト:桜玉吉) [[エンターブレイン]]、2000年
* 『TVをつけたらやっていた 押井守の映像日記』 徳間書店、2004年 {{ISBN2|4-19-861808-9}}
* 『これが僕の回答である。1995-2004』 インフォバーン、2004年 {{ISBN2|4-901873-11-3}}
* 『すべての映画はアニメになる』 徳間書店、2004年 {{ISBN2|4-19-861828-3}}。[[アニメージュ]]誌での対談&インタビュー
* 『立喰師、かく語りき。』 徳間書店、2006年 {{ISBN2|4-19-862160-8}}
* 『他力本願-仕事で負けない7つの力』 [[幻冬舎]]、2008年 {{ISBN2|4-344-01538-X}}
* 『凡人として生きるということ』 幻冬舎新書、2008年 {{ISBN2|4-344-98089-1}}
* 『勝つために戦え! 〈監督篇〉』(イラスト:西尾鉄也) 徳間書店、2010年 {{ISBN2|4-19-862916-1}}
** 増補版『監督稼業めった斬り―勝つために戦え!』[[徳間文庫]]カレッジ、2015年4月 {{ISBN2|978-4-19-907029-7}}
* 『実写映画 オトナの事情 押井守の映像日記』 徳間書店、2010年 {{ISBN2|4-19-862979-X}}
* 『勝つために戦え! 〈監督ゼッキョー篇〉』(イラスト:西尾鉄也) 徳間書店、2010年 {{ISBN2|4-19-863007-0}}
* 『コミュニケーションは、要らない』 [[幻冬舎新書]]、2012年 {{ISBN2|978-4-344-98255-0}}
* 『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』 [[日経BP]]、2013年 {{ISBN2|978-4-8222-7427-6}}
* 『世界の半分を怒らせる』(イラスト:[[寺田克也]])幻冬舎、2015年4月 {{ISBN2|978-4-344-02757-2}}
**『世界の半分を怒らせる』[[幻冬舎文庫]]、2017年12月 {{ISBN2|978-4-344-42674-0}}
* 『友だちはいらない。』 [[東京ニュース通信社]]〈TV Bros.新書〉、2015年4月
**『やっぱり友だちはいらない。』<ref group="注釈">新たな2章を加えた増補版、他も含め編集制作は徳間書店が多い。なお評論も共著と同じく、語り下ろしでの著作が大半である(主に渡辺麻紀が担当構成)。</ref>(イラスト:高橋将貴)東京ニュース通信社、2017年12月 {{ISBN2|978-4-19-864538-0}}
* 『誰も語らなかったジブリを語ろう』(イラスト:[[湯浅政明]]) 東京ニュース通信社、2017年10月。増補版2021年8月 {{ISBN2|978-4-06-524941-3}}
* 『ひとまず、信じない 情報氾濫時代の生き方』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]]ラクレ〉、2017年11月 {{ISBN2|978-4-12-150601-6}}
* 『シネマの神は細部に宿る』 東京ニュース通信社、2018年8月 {{ISBN2|978-4-19-864677-6}}
* 『押井守の映画 50年50本』 [[立東舎]]、2020年8月 {{ISBN2|978-4-8456-3444-6}}
* 『ネットしてたらやっていた 押井守の映像日記』(イラスト:黄瀬和哉)徳間書店、2021年9月 {{ISBN2|4-19-865359-3}}
* 『押井守のサブぃカルチャー70年』(カバー・挿絵:[[梅津泰臣]])東京ニュース通信社、2022年4月 {{ISBN2|978-4-06-527947-2}}
* 『映画の正体 [[リブート (作品展開)|続編の法則]]』 立東舎、2022年7月 {{ISBN2|978-4-8456-3783-6}}
=== 共著 ===
* 『押井守・映像機械論 【メカフィリア】』 ([[竹内敦志]] 共著) 大日本絵画、2004年 {{ISBN2|978-4-499-22754-4}}
* 『勝つために戦え!』(聞き手:[[野田真外]]/イラスト:[[西尾鉄也]]) エンターブレイン、2006年 {{ISBN2|4-7577-2668-6}}
* 『戦争のリアル』 ([[岡部いさく]] 共著) [[エンターブレイン]]、2008年 {{ISBN2|4-7577-4144-8}}
* 『Ball Boy & Bad Girl』 (監修、著:[[飯島愛]]/画:[[小倉陳利]]) [[幻冬舎]]、2010年 {{ISBN2|978-4344018372}}
* 『武道のリアル』 ([[今野敏]] 共著) エンターブレイン、2011年 {{ISBN2|4-04-726717-1}}
* 『押井言論 2012-2015<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/173909|title=押井守が宮崎駿や高畑勲らについて歯に衣着せず語る書籍、神山健治との対談も|publisher=映画ナタリー|date=2016-02-01|accessdate=2016-02-01}}</ref>』(聞き手・構成、山下卓/大塚ギチ)、サイゾー、2016年2月 {{ISBN2|978-4-904209-93-6}}
* 『創造元年 1968』([[笠井潔]]対談)、[[作品社]]、2016年10月
* 『身体のリアル』([[最上和子]] 共著)、[[KADOKAWA]]([[角川書店]])、2017年10月 {{ISBN2|4-04-734565-2}}
* 『押井守の人生のツボ』東京ニュース通信社、2019年8月(渡辺麻紀:構成) {{ISBN2|978-4-19-864926-5}}
**『押井守の人生のツボ 2.0』東京ニュース通信社(講談社販売)、2023年4月(渡辺麻紀:構成) {{ISBN2|978-4-06-531425-8}}
* 『押井守のニッポン人って誰だ!?』東京ニュース通信社([[講談社]]販売)、2020年10月(渡辺麻紀:構成) {{ISBN2|978-4-06-521470-1}}
* 『押井守監督が語る 映画で学ぶ現代史』([[野田真外]]共著)、[[日経BP]]、2020年11月 {{ISBN2|978-4-296-10770-4}}
== 没となった企画 ==
; シャーロック・ホームズ
: 登場人物が犬という設定だが、宮崎駿の『[[名探偵ホームズ]]』より前に企画されていた。ただ、ここでの本筋はギャグの度合いが大きいという。押井は絵コンテ担当でパイロットフィルムも制作された。
; フルムーン伝説 インドラ
: 英名「THE FULLMOON TRADITION INDRA」。キャラクターデザイン・[[高田明美]]、美術監督・[[中村光毅]]、小説版執筆・鳥海永行。押井は企画・原案・絵コンテ・演出としての参加だった。世界展開を予定していたがイタリアとの制作方針が合わずやむなく中止に。その後、鳥海が小説としてまとめた。
; アンカー
: 企画、監修、脚本・[[宮崎駿]]、平凡な浪人生が謎の少女を守って東京を冒険するというストーリー。「アニメージュ」誌上の対談で宮崎が[[夢枕獏]]に企画を持ちかけている。その後[[1987年]]頃、押井はジブリからの誘いに乗り、東京を謎に溢れた暗号化した街として再構成するアイデアを考え、プロットまで作ったが、宮崎所有の山荘で行われた高畑勲、鈴木敏夫(当時高校生だった宮崎吾郎も同席)も交えた企画会議の席上、高畑、宮崎と物語の展開の仕方で大口論になってしまい、結局その段階でお流れになったと押井は回想している。映画『紅い眼鏡』が公開された際、宮崎が劇場用パンフレットに寄稿したエッセイでも、この顛末に触れている。
; [[墨攻]]
: 酒見健一の歴史小説のアニメ映画化。スタジオジブリからの誘いだが、話が食い違い流れる。のちに中国で実写化されている。
; 突撃!アイアンポーク
: 原作・企画・監修・宮崎駿。『[[宮崎駿の雑想ノート]]』6「多砲塔の出番」を原作とし、押井は監督として参加して[[OVA]]化する予定だったが、諸事情により中止に。
; 押井版ルパン三世
{{main|押井版ルパン三世}}
: 居候先であった事務所の[[宮崎駿]]から『[[押井版ルパン三世|ルパン三世 完結篇]]』の監督を推薦され引き受けるも諸事情により制作中止<ref>[http://www.style.fm/as/05_column/365/365_234.shtml 宮崎駿が押井守を監督として推薦した。]</ref>。
; 押井版[[銀河英雄伝説]]
: キャラクターから艦までデザインを変更してもよいという条件で2〜3ヶ月付き合ったが結局断っている。
; 押井版[[鉄人28号]]
: 劇場アニメ化として企画。「戦争の兵器として作られた28号が、平和の祭典である[[1964年東京オリンピック]]の開会式で上空を飛ぶ」というエンディングを予定していたという。また原作のメカ造形が気に入ったこともあり、白紙になっても企画再開の機会を窺っていた。後に舞台化として結実。
; 最後の立喰い -LAST TACHIGUI HERO-
: TV番組『[[ソリトン (テレビ番組)|ソリトン]]』にゲスト出演した際に公表。当初は『トワイライトQ』の一作品になるはずであった。
; スクランブル1987
: これも『トワイライトQ』の一作品として企画した。
; [[連続ドラマ]]版『御先祖様万々歳』
: 脚本・じんのひろあき
; 押井版[[強殖装甲ガイバー]](実写映画)
: 台湾にあるオープンセットを使用して撮影する計画だったが、結局流れてしまい落とし前として『[[ケルベロス-地獄の番犬]]』が制作されることになる<ref name="eureka044">[[青土社]]刊「[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]」2004年4月号238P-241Pより。</ref>。後に別スタッフにより実現。
; D
: 共同脚本・[[伊藤和典]]、造形・[[品田冬樹]]<ref name="kaizyu"/>。
: コンセプトは「第二次[[東京大空襲]]」だった<ref name="kaizyu"/>。
: [[樋口真嗣]]曰く「巨大怪獣もの」だという。大筋は「『地球の抗がん剤』たる翼竜の大群が人間を『がん細胞』と見なして襲ってきて、自衛隊の新兵器がそれを撃墜する」というもの<ref name="kaizyu">[[岩波書店]]刊「ずっと怪獣が好きだった」[[品田冬樹]]著pp.172-180より。</ref>。樋口によると「[[ガメラ 大怪獣空中決戦|とある怪獣映画]]の因縁を感じる」とのこと。この企画が流れたことで落とし前として「5千万円の予算を出すから好きな映画を撮ってもいい」という条件で『[[トーキング・ヘッド]]』が制作されることになる<ref name="eureka044"/>。
; OVA版『犬狼伝説』
: 押井は脚本・絵コンテまで手掛け、別の若手スタッフが演出を手掛ける全6巻のOVAシリーズの予定だった。後に『人狼 JIN-ROH』の原型となった<ref name="eureka044"/>。
; [[ガメラ2 レギオン襲来]]
: 「自衛隊のシーンを監督してほしい」と[[金子修介]]からオファーがあり押井も乗り気だったものの、スケジュールが合わず断念。
; NEXT〜未来は誰のために
: 樋口曰く「巨大スーパーヒーロー物」。バンダイビジュアルの渡辺繁が企画立案し、成田亨がヒーローの初期デザインを担当した<ref>{{Cite book|title=成田亨作品集|date=|year=2014年|publisher=羽鳥書店}}</ref>。企画は『攻殻機動隊』の制作が大詰めを迎える頃から存在しており、「[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]」を引用したパイロットフィルムが制作されるもほどなく白紙になった。この時培った草案の大半は『ガルム戦記』〜『[[GARM WARS The Last Druid]]』に活かされる。音楽・川井憲次、脚本・伊藤和典、特撮監督・樋口真嗣、メカニックデザイン・[[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]<ref name="kaizyu"/><ref>押井守 (著) 竹内敦志 (著) 『押井守・映像機械論[メカフィリア]』 大日本絵画 pp.124,130-131</ref>。
; 押井版[[南総里見八犬伝]]
: 『[[イノセンス]]』企画立案時、同時に候補として挙がっていた。
; [[パリ、ジュテーム]]
: 監督の一人として参加する予定であったが流れてしまい、後にその時に設定された舞台・プロットを一部変更して、『Je t'aime』が制作された。
; エルの乱 鏖殺の島
: 監督・[[深作健太]]、西成暴動をモデルとした内容で、押井は原作・脚本を担当。構想が膨らみ予算が超過したため、企画が凍結状態に。
; [[009 RE:CYBORG]]
:[[神山健治]]が、押井が監督することを想定して脚本を執筆したが、押井自身はその内容に消極的であり、独自の企画として「サイボーグ9人のうち、何人かを選抜してあとは全部死んでるところから始める」<ref>{{Cite web|和書|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00088/030200010/?P=5|title=007、009、そしてガッチャマンに通じるもの|accessdate=2020年10月23日|publisher=日経ビジネス}}</ref>原案を用意したが、原作者サイドからの理解が得られず、結局、神山が自身の脚本を監督する形で収まった。2012年公開。
; 押井版[[オクジャ/okja]]
: キャラクターデザイン・[[西尾鉄也]]。実写版を監督した[[ポン・ジュノ]]から直々にアニメ版のオファーがあり、「人間は動物とどう関わればいいのか、関わるとはどういうことなのか」というテーマに共感し、オファーを快諾した。全編作画のみで制作し、[[Netflix]]で配信される予定だったが、流れてしまった<ref>[[東京ニュース通信社]]刊「押井守の人生のツボ」pp.222-223より。</ref>。
; 押井版[[Fallout シリーズ|Fallout]]
: 全12話のアニメ化企画を押井自ら提出していた<ref>双葉社刊「[[映画秘宝]]」2020年9月号「押井守Interview 2020年の東京破壊計画」28Pより。</ref>。
== 受賞歴 ==
; [[東京アニメアワード]]
:*[[2005年]]個人部門・脚本賞:押井守『イノセンス』
; [[日本アニメ大賞]]
:* 第1回 作品賞・アトム賞『うる星やつら』
:* 第2回 個人賞・演出部門『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
:* 第6回 企画賞『機動警察パトレイバー』
:* 第7回 作品賞・日本アニメ大賞『機動警察パトレイバー the Movie』
:* 第7回 企画賞『御先祖様万々歳!』
:
; おおさか映画祭
:* 第10回 脚本賞『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
:
; [[毎日映画コンクールアニメーション映画賞]]
:* 第48回(1993年度)『機動警察パトレイバー2 the Movie』
:* 第63回(2008年度)『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』
:
; [[アニメーション神戸]]
:* 第1回 作品賞・劇場部門 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』
:* 第9回 作品賞・劇場部門 『イノセンス』
:
; [[東京スポーツ映画大賞]]
:* 第5回 作品賞 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』
:
; DEGジャパン・アワード/ブルーレイ大賞
:* 第1回 ベスト高音質賞 『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 2.0』
:* 第8回 ベスト高画質賞 『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 ディレクターズカット特別版』
:
; [[文化庁メディア芸術祭]]
:* 第4回 優秀賞・デジタルアート(ノンインタラクティブ)部門『アヴァロン』
:
; [[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]
:* 第34回 最優秀撮影賞『アヴァロン』
:* 第37回 Orient Express Casa Asia部門作品賞『イノセンス』
:* 第41回 批評家連盟賞『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』
:* 第41回 ヤング審査員賞『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』
:
; [[日本SF大賞]]
:* 第25回(2004年)『イノセンス』
:
; デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー/AMDアワード大賞/総務大臣賞
:* 第10回 『イノセンス』
:
; マルチメディアグランプリ
:* 1996年 MMCA会長賞
:
; [[デジタルコンテンツグランプリ]]
:* 第23回 優秀賞 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』
:
; オリベイズム産業文化振興連合会
:* 第1回 織部賞
:
; eAT金沢
:* 2005年 名人賞
:
; ASIAGRAPH
:* 第1回 創賞
:
; [[アニー賞]]
:* 第44回 [[ウィンザー・マッケイ賞]]<ref>{{Cite web |url=http://annieawards.org/nominees/#32 |title= 44th Annual Annie Awards Nominees|accessdate=2016-11-29}}</ref><ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/211283|title=「君の名は。」「百日紅」「レッドタートル」がアニー賞ノミネート、押井守に功労賞|newspaper=映画ナタリー|date=2016-11-30|accessdate=2016-11-30}}</ref>
:
; [[ファンタジア国際映画祭]]
:* 2014年 生涯功労賞
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite |和書|author =押井守|title = 他力本願―仕事で負けない7つの力|date = 2008|publisher =[[幻冬舎]]|isbn = 978-4-344-01538-8|ref=harv}}
* {{Cite |和書|title = 押井守全仕事リミックス(キネ旬ムック)|date = 2009|publisher =[[キネマ旬報社]]|isbn = 978-4-87376-687-4}}
== 関連項目 ==
* [[タツノコプロ]]
* [[ぴえろ|スタジオぴえろ]]
* [[プロダクション・アイジー|Production I.G]]
* [[ケルベロス・サーガ]]
* [[金子修介]]
* [[伊藤和典]]
* [[高田明美]]
* [[樋上晴彦]]
* [[出渕裕]]
* [[ゆうきまさみ]]
* [[渡部隆]]
* [[黄瀬和哉]]
* [[沖浦啓之]]
* [[佐藤敦紀]]
* [[本広克行]]
* [[野田真外]]
* [[神山健治]]
* [[納富貴久男]]
* [[藤木義勝]]
== 外部リンク ==
* {{Twitter|oshii_mamoru|押井守 公式アカウント}}
* {{Wayback|url=https://ch.nicovideo.jp/oshimag |title=押井守の「世界の半分を怒らせる」。 |date=20130314153525}} -ニコニコ公式ブロマガ
** {{Twitter|oshimaga|押井守メールマガジン}}
* [https://web.archive.org/web/19990220044323/http://d-engine.com/S-J/index.html 押井守公式サイト ou(インターネットアーカイブ)]
* [https://web.archive.org/web/20151215211330/http://www.oshiimamoru.com/ ガブリエルの憂鬱 〜押井守公式サイト〜(インターネットアーカイブ)]
* {{allcinema name |117925}}
* {{kinejun name |89705}}
* {{Movie Walker name|id=84678|name=押井守}}
* {{imdb name |id=0651900|name=Mamoru Oshii}}
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14,202 |
三国時代
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三国時代(さんごくじだい)
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三国時代(さんごくじだい)
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'''三国時代'''(さんごくじだい)
==一覧==
*[[三国時代 (中国)]] - [[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]・蜀([[蜀漢]])が鼎立した中国での時代区分。
*[[三国時代 (朝鮮半島)]] - [[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]が鼎立した朝鮮での時代区分。
*[[後三国時代]] - 新羅・[[後高句麗]]・[[後百済]]が鼎立した朝鮮での時代区分。
*[[グレートブリテン王国]]が成立するまでの、[[イングランド王国]]・[[スコットランド王国]]・[[アイルランド王国]]が鼎立した[[ブリテン諸島]]での時代状況。
*[[琉球王国]]で[[北山王国|北山]]・[[中山王国|中山]]・[[南山王国|南山]]の各王国が鼎立していた時代は'''[[三山時代]]'''と呼ばれる。
==関連項目==
*{{prefix|三国}}
*{{intitle|三国}}
*[[戦国時代]]・[[南北朝時代]] - 複数の国・地域に存在する分裂抗争時代の曖昧さ回避ページ。
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14,203 |
宮本常一
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宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。
山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。
学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになった。
1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。
宮本の民俗学は、非常に幅が広く後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。
宮本が所属したアチックミューゼアムは、後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となった。
宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇された。
20世紀末になって再評価の機運が高まった。益田勝実は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている。
宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない。
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宮本 常一は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。
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{{出典の明記|date=2018年12月11日 (火) 02:26 (UTC)}}
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|influenced = [[網野善彦]]<br/>[[司馬遼太郎]]<br/>[[姫田忠義]]<br/>[[香月洋一郎]]<br/>[[エバレット・ケネディ・ブラウン]]<!--影響を与えた人物-->
|institution = 日本民俗学会<!--学会-->
|awards = 第9回[[日本エッセイスト・クラブ賞]]<br/>[[勲三等]][[瑞宝章]]<!--主な受賞歴-->
}}
'''宮本 常一'''(みやもと つねいち、[[1907年]][[8月1日]] - [[1981年]][[1月30日]])は、[[日本]]の[[民俗学者]]・農村指導者・[[社会教育家]]。
== 経歴 ==
[[山口県]][[屋代島]](周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現[[大阪教育大学]])専攻科卒業。
学生時代に[[柳田國男]]の研究に関心を示し、その後[[渋沢敬三]]に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになった。
[[1930年代]]から[[1981年]]に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地を[[フィールドワーク]]し続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。
宮本の民俗学は、非常に幅が広く後年は[[観光学]]研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、[[民具]]学という新たな領域を築いた。
宮本が所属したアチックミューゼアムは、後に[[日本常民文化研究所]]となり、[[神奈川大学]]に吸収され[[網野善彦]]らの活動の場となった。
== 学風 ==
宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、[[柳田國男]]の学閥からは無視・冷遇された。
20世紀末になって再評価の機運が高まった。[[益田勝実]]<ref>論考「宮本常一論の瀬ぶみ」、新版は『説話文学と絵巻ほか 益田勝実の仕事1』(ちくま学芸文庫、2006年)に収録。</ref>は宮本を評し、柳田民俗学が個や物や地域性を出発点にしつつもそれらを捨象して日本全体に普遍化しようとする傾向が強かったのに対し、宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を乗り越えようとしたと位置づけている。
宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』([[未來社]])で把握できるが、未収録の記録も少なくない。
== 年譜 ==
* [[1907年]](明治40年) - 山口県周防大島東和町の農家に生まれる<ref name="nempu_195">宮本常一年譜 2006:195</ref>。生家は[[善根]]宿でもあった。
* [[1922年]](大正11年) - 地元の小学校を卒業後、家を継いで農家となる<ref name="nempu_195">宮本常一年譜 2006:195</ref>。
* [[1923年]](大正12年) - 父の勧めで大阪の叔父の世話になり大阪逓信講習所に入所<ref name="nempu_195">宮本常一年譜 2006:195</ref>。
* [[1924年]](大正13年) - 大阪逓信講習所卒業、4月[[高麗橋]]郵便局に勤務<ref name="nempu_196">宮本常一年譜 2006:196</ref>。
* [[1926年]](大正15年) - 大阪府立天王寺師範学校第二部入学<ref name="nempu_196">宮本常一年譜 2006:196</ref>。
* [[1927年]](昭和2年) - 大阪府立天王寺師範学校卒業、[[泉南郡]][[有真香村]]修斉尋常小学校(現・[[岸和田市立修斉小学校]])に赴任する<ref name="nempu_197">宮本常一年譜 2006:197</ref>。
* [[1928年]](昭和3年) - 大阪府立天王寺師範学校専攻科入学<ref name="nempu_197">宮本常一年譜 2006:197</ref>。
* [[1929年]](昭和4年) - 大阪府立天王寺師範学校専攻科卒業、泉南郡田尻尋常小学校(現・[[田尻町立小学校]])に赴任<ref name="nempu_198">宮本常一年譜 2006:198</ref>。
* [[1930年]](昭和5年) - 肺結核により休職、周防大島で療養<ref name="nempu_198">宮本常一年譜 2006:198</ref>。療養中に『旅と伝説』に論文などを投稿するようになり、それらが柳田國男の目にとまり書翰を送られる<ref name="nempu_198">宮本常一年譜 2006:198</ref>。
* [[1932年]](昭和7年) - [[泉北郡]]北池田尋常高等小学校 (現・[[和泉市立北池田小学校]])に復職<ref name="nempu_199">宮本常一年譜 2006:199</ref>。
* [[1933年]](昭和8年) - 小谷方明らとガリ版雑誌「口承文学」を出版<ref name="nempu_199">宮本常一年譜 2006:199</ref>。1936年まで12号を出す<ref>宮本常一年譜 2006:200</ref>。また私家版の歌集『歌集 樹蔭』を出す<ref name="nempu_200">宮本常一年譜 2006:200</ref>。
* [[1934年]](昭和9年) - 泉北郡養徳小学校尋常小学校に転任<ref name="nempu_200">宮本常一年譜 2006:200</ref>。この年、柳田國男と会う。小谷方明の世話で大阪民俗談話会(のちの近畿民俗学会)を開く。
* [[1935年]](昭和10年) - 室戸台風のため養徳小学校が廃校となり、泉北郡取石尋常小学校(現・[[高石市立取石小学校]])に転任<ref name="nempu_201">宮本常一年譜 2006:201</ref>。この年、大阪民俗談話会で渋沢敬三と出会う<ref name="nempu_201">宮本常一年譜 2006:201</ref>。柳田國男還暦記念講習会に出席<ref name="nempu_201">宮本常一年譜 2006:201</ref>。講習会中、渋沢のアチック・ミューゼアムを見学<ref name="nempu_201">宮本常一年譜 2006:201</ref>。
* 1936年(昭和11年) - 國學院大学院友会館での民俗学講習会に参加<ref name="nempu_202">宮本常一年譜 2006:202</ref>。民間伝承の会の山村生活の研究で奈良県吉野郡天川村の山村調査をおこなう<ref name="nempu_202">宮本常一年譜 2006:202</ref>。
* [[1937年]](昭和12年) - 福井県石徹白村の調査をおこなう<ref name="nempu_202">宮本常一年譜 2006:202</ref>。「アチック・ミューゼアム」の瀬戸内海巡航に参加し東瀬戸内海の島々を周る<ref name="nempu_202">宮本常一年譜 2006:202</ref>。
* [[1939年]](昭和14年) - 教員を退職し、渋沢の勧めで「アチック・ミューゼアム」に入る<ref name="nempu_203">宮本常一年譜 2006:203</ref>。以後本格的な民俗調査に没頭。'''中国山地'''民俗調査<ref name="nempu_203">宮本常一年譜 2006:203</ref>。
* [[1940年]](昭和15年) - '''南九州'''民俗調査<ref name="nempu_204">宮本常一年譜 2006:204</ref>。'''東北[[おしら様|オシラサマ]]([[イタコ]])'''調査<ref name="nempu_204">宮本常一年譜 2006:204</ref>。
* [[1941年]](昭和16年) - '''[[土佐源氏]]'''調査。'''[[淡路島|淡路]][[沼島]]'''調査<ref name="nempu_204">宮本常一年譜 2006:204</ref>。'''[[津軽]]川倉・小泊オシラサマ'''調査<ref name="nempu_204">宮本常一年譜 2006:204</ref>。
* [[1942年]](昭和17年) - [[釣針]]調査(兵庫県)<ref name="nempu_205">宮本常一年譜 2006:205</ref>。
* [[1943年]](昭和18年) - 戦争の激化のため調査旅行は控えるようになる。
* [[1944年]](昭和19年) - [[奈良県立郡山中学校]]教諭嘱託となる<ref name="nempu_206">宮本常一年譜 2006:206</ref>。
* [[1945年]](昭和20年) - 大阪府嘱託農業技術指導員に就任。[[大阪大空襲|堺市への空襲]]で戦前からの取材ノート、写真など膨大な資料を失う<ref name="nempu_207">宮本常一年譜 2006:207</ref>。
* [[1946年]](昭和21年) - [[社団法人]]新自治協会中央理事に就任。
* [[1948年]](昭和23年) - 大阪府農地部農業組合課嘱託となり、[[農地解放]]、開拓地の農業指導、[[農業協同組合]]の育成にあたる<ref name="nempu_208">宮本常一年譜 2006:208</ref>。
* [[1949年]](昭和24年) - 徳島県でリンパ腺化膿のため危篤となるがペニシリンを投与され一命をとりとめる<ref name="nempu_209">宮本常一年譜 2006:209</ref>。農林省水産資料保存委員会調査員を嘱託せられ、主として'''瀬戸内海漁村'''の調査にあたる<ref name="nempu_209">宮本常一年譜 2006:209</ref>。民俗学会評議員になる<ref name="nempu_209">宮本常一年譜 2006:209</ref>。
* [[1950年]](昭和25年) - 民族学会評議員になる<ref name="nempu_209">宮本常一年譜 2006:209</ref>。[[九学会連合|八学会連合]]の'''[[対馬]]'''調査に参加し、主として漁業調査を行う。'''[[壱岐]]'''も調査する<ref name="nempu_210">宮本常一年譜 2006:210</ref>。
* [[1951年]](昭和26年) - [[九学会連合]]対馬調査<ref name="nempu_210">宮本常一年譜 2006:210</ref>。'''[[能登]]・時国家'''調査<ref name="nempu_210">宮本常一年譜 2006:210</ref>。[[山階芳正]]らと島嶼社会研究会に入る<ref name="nempu_210">宮本常一年譜 2006:210</ref>。
* [[1952年]](昭和27年) - '''[[五島列島]]'''調査<ref name="nempu_210">宮本常一年譜 2006:210</ref>。[[九学会連合]]能登調査に参加<ref name="nempu_211">宮本常一年譜 2006:211</ref>。離島振興法の制定に尽力する。
* [[1953年]](昭和28年) - 肺結核が再発し入院する<ref name="nempu_211">宮本常一年譜 2006:211</ref>。[[離島振興法]]成立<ref name="nempu_211">宮本常一年譜 2006:211</ref>。
* [[1954年]](昭和29年) - 全国離島振興協議会の初代事務局長に就任<ref name="nempu_211">宮本常一年譜 2006:211</ref>。林業金融調査会設立<ref name="nempu_211">宮本常一年譜 2006:211</ref>。
* [[1956年]](昭和31年) - [[名古屋大学]]人間関係綜合研究団の[[文化人類学]]・民族学班に特別協力者として参加し、'''愛知県名倉村・[[佐久島]]'''調査<ref name="nempu_213">宮本常一年譜 2006:213</ref>。
* [[1957年]](昭和32年) - 『風土記日本』(平凡社)刊行開始<ref name="nempu_213">宮本常一年譜 2006:213</ref>。文化庁文化財保護委員会調査委員を1958年3月までつとめる<ref name="nempu_213">宮本常一年譜 2006:213</ref>。
* [[1958年]](昭和33年) - 広島県文化財保護委員会専門委員となる<ref name="nempu_324">宮本常一年譜 2006:214</ref>。[[木下順二]]らと雑誌『民話』を創刊<ref name="nempu_214">宮本常一年譜 2006:214</ref>。
* [[1959年]](昭和34年) - '''佐渡'''調査<ref name="nempu_214">宮本常一年譜 2006:214</ref>。佐渡の歴史的遺産による村おこしを提唱、その後の古民具博物館立ち上げを支援。平凡社から『日本残酷物語』刊行開始(~61年完結)。編集及び執筆において、メイン・メンバーとして参加<ref name="nempu_214">宮本常一年譜 2006:214</ref>。
* [[1960年]](昭和35年) - 山口県'''[[見島]]'''調査。『'''[[忘れられた日本人]]'''』を刊行し<ref>宮本常一年譜 2006:215</ref>一躍脚光を浴びる。
* [[1961年]](昭和36年) - 論文「瀬戸内海の研究―島嶼の開発とその社会形成‐海人の定住を中心に」の研究と、長年のフィールドワークの業績により、[[東洋大学]]より文学博士号を授与<ref>{{Cite web|和書|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000007846824-00|title=博士論文『瀬戸内海島嶼の開発とその社会形成』|author=国立国会図書館|accessdate=2023-5-9}}</ref>。『'''日本の離島'''』で第9回[[日本エッセイスト・クラブ賞]]<ref name="nempu_215">宮本常一年譜 2006:215</ref>。
* [[1962年]](昭和37年) - [[東京水産大学]]水産学部講師就任。
* [[1963年]](昭和38年) - 九学会連合'''[[下北半島]]'''調査に参加<ref name="nempu_216">宮本常一年譜 2006:216</ref>。長谷川龍生らと日本発見の会をつくり雑誌『日本発見』を創刊<ref name="nempu_217">宮本常一年譜 2006:217</ref>。
* [[1964年]](昭和39年) - [[武蔵野美術大学]]非常勤教授就任<ref name="nempu_217">宮本常一年譜 2006:217</ref>。日本塩業研究会会長となる<ref name="nempu_217">宮本常一年譜 2006:217</ref>。
* [[1965年]](昭和40年) - 武蔵野美術大学教授就任<ref name="nempu_218">宮本常一年譜 2006:218</ref>。近畿日本ツーリスト副社長の[[馬場勇]]の要請で日本観光文化研究所をつくることになり近畿日本ツーリスト提供の「日本の詩情」の企画・監修にあたる<ref name="nempu_218">宮本常一年譜 2006:218</ref>。長野県'''[[奈川村|奈川]]・[[安曇村|安曇]]'''調査。『にっぽんのやど』発行。この頃から宮本企画・監修のテレビドキュメント『日本の詩情』(日経映画社)の制作が始まる。
* [[1966年]](昭和41年) - [[近畿日本ツーリスト]]の出資により、日本観光文化研究所(現・旅の文化研究所)を開設<ref name="nempu_219">宮本常一年譜 2006:219</ref>。初代所長に就任し、後進の育成にあたる。武蔵野美術大学に生活文化研究会をつくり、学生と共に共同調査をおこなう<ref name="nempu_219">宮本常一年譜 2006:219</ref>。
* [[1967年]](昭和42年) - 東京都府中市文化財専門委員会議長を1979年3月までつとめる<ref name="nempu_219">宮本常一年譜 2006:219</ref>。雑誌「あるくみるきく」創刊<ref name="nempu_220">宮本常一年譜 2006:220</ref>。早稲田大学理工学部講師就任<ref name="nempu_220">宮本常一年譜 2006:220</ref>。結核が再発し入院<ref name="nempu_220">宮本常一年譜 2006:220</ref>。
* [[1968年]](昭和43年) - 広島県家船調査<ref name="nempu_220">宮本常一年譜 2006:220</ref>。
* [[1969年]](昭和44年) - 「佐渡の國[[鬼太鼓座]]」結成に関わる<ref name="nempu_221">宮本常一年譜 2006:221</ref>。
* [[1970年]](昭和45年) - 武蔵野美術大学調査団団長として横浜市緑区霧ヶ丘遺跡の発掘<ref name="nempu_222">宮本常一年譜 2006:222</ref>。新潟県'''[[山古志村]]'''調査。
* [[1971年]](昭和46年) - 山口県文化財保護委員会専門委員就任<ref name="nempu_223">宮本常一年譜 2006:223</ref>。
* [[1972年]](昭和47年) - 『広島県史民俗篇』のための調査<ref name="nempu_223">宮本常一年譜 2006:223</ref>。岡山大学法文学部講師<ref name="nempu_224">宮本常一年譜 2006:224</ref>。日本生活学会理事<ref name="nempu_224">宮本常一年譜 2006:224</ref>。
* [[1973年]](昭和48年) - 農林省生活改善資料収集委員会委員、NHK放送文化財ライブラリー諮問委員会委員、日本文化研究所理事<ref name="nempu_224">宮本常一年譜 2006:224</ref>。
* [[1974年]](昭和49年) - 『三原市史民俗篇』の調査<ref name="nempu_225">宮本常一年譜 2006:225</ref>。南佐渡調査<ref name="nempu_225">宮本常一年譜 2006:225</ref>。
* [[1975年]](昭和50年) - '''[[東アフリカ]]'''調査<ref name="nempu_226">宮本常一年譜 2006:226</ref>。初の国外調査となった<ref name="nempu_226">宮本常一年譜 2006:226</ref>。日本民具学会を設立し幹事となる<ref name="nempu_226">宮本常一年譜 2006:226</ref>。
* [[1977年]](昭和52年) - 武蔵野美大定年退職<ref name="nempu_227">宮本常一年譜 2006:227</ref>。武蔵野美大より名誉教授の称号を授与<ref name="nempu_227">宮本常一年譜 2006:227</ref>。「[[周防猿まわしの会]]」設立。[[今和次郎]]賞受賞<ref name="nempu_227">宮本常一年譜 2006:227</ref>。日本の[[海女]]の系譜調査のため'''[[済州島]]'''を調査<ref name="nempu_227">宮本常一年譜 2006:227</ref>。
* [[1978年]](昭和53年) - [[今西錦司]]、[[四手井綱英]]、[[河合雅雄]]、[[広瀬鎮]]、[[江原昭善]]、[[岩本光雄]]、[[村﨑修二]]、[[姫田忠義]]らと猿の教育研究グループを結成<ref name="nempu_228">宮本常一年譜 2006:228</ref>。
* [[1979年]](昭和54年) - 国土審議会離島振興対策特別委員会委員、委員長代理<ref name="nempu_229">宮本常一年譜 2006:229</ref>。'''[[台湾]]'''調査。
* [[1980年]](昭和55年) - 故郷の周防大島に「周防大島郷土大学」を設立<ref name="nempu_229">宮本常一年譜 2006:229</ref>。志摩阿児町に志摩民俗資料館を設立<ref name="nempu_229">宮本常一年譜 2006:229</ref>。都立府中病院に入院、大晦日に退院<ref name="nempu_230">宮本常一年譜 2006:230</ref>。
* [[1981年]](昭和56年) - 再度入院し、1月30日[[胃癌]]のため東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]にて死去、73歳<ref name="nempu_230">宮本常一年譜 2006:230</ref>。[[勲三等]][[瑞宝章]]受章。
* [[1986年]](昭和61年) - 最初の山口県[[東和町 (山口県)|東和町]]名誉町民の称号を追贈<ref>{{Cite web|和書|title=周防大島町名誉町民一覧|website=[[周防大島町]]|url=http://www.town.suo-oshima.lg.jp/data/open/cnt/3/391/1/meiyo.pdf|accessdate=2022-07-22}}</ref>。
== 著書 ==
=== 著作集 ===
*『'''宮本常一著作集'''』(全50巻<ref>生前の刊行は第25巻(1977年)まで。50巻目は師・渋沢敬三の評伝。</ref>、[[田村善次郎]]ほか編・解説、[[未來社]]、1967年 - 2008年)
**『宮本常一著作集 51 私の学んだ人』(未來社、2012年)。以後は第2期
**『著作集 52 周防大島民俗誌 続篇』(2021年)。続刊予定(巻数未定)
*『私の日本地図:宮本常一著作集別集』(全15巻、[[香月洋一郎]]編、未來社、2008年3月 - 2016年10月)
**元版『私の日本地図』(全15巻、[[同友館]]、1967年 - 1976年)。写真解説
*『農漁村採訪録』(14巻まで刊、[[田村善次郎]]ほか監修・校閲、周防大島文化交流センター、のち宮本常一記念館、2005年3月 - 2019年3月)
*『宮本常一離島論集』(全5巻+別巻、森本孝編、全国離島振興協議会・日本離島センター・周防大島文化交流センター監修、みずのわ出版、2009年10月 - 2013年6月)
*『宮本常一講演選集』(全8巻、田村善次郎編、[[農山漁村文化協会]]、2013年9月 - 2014年11月)
=== 単著 ===
*『歌集 樹蔭』(私家版、1933年11月)
*『周防大島を中心としたる海の生活誌』([[神奈川大学|アチック・ミューゼアム]]、1936年2月)
*『民間暦』(六人社「民俗選書」、1942年/[[講談社学術文庫]]、1985年)
*『村里を行く』(三国書房「女性叢書」、1943年/未來社、1961年)
*『家郷の訓』(三国書房「女性叢書」、1943年/岩波文庫、1984年)
*『萩の花』(私家版、1946年10月)
*『愛情は子供と共に』(馬場書店、1948年)
*『丸木先生の多収穫育苗法』(新自治協会、1948年)
*『村の社会科』(昭和書院、1948年)
*『越前石徹白民俗誌』([[三省堂]]出版「全国民俗誌叢書」、1949年)
*『ふるさとの生活』([[朝日新聞社]]、1950年/[[講談社学術文庫]]、1986年)
*『村の生活とコンミュニティスクール』(長吉小中学校PTA、1950年)
*『日本の村:中学生全集』([[筑摩書房]]、1953年)
*『海をひらいた人びと:小学生全集』(筑摩書房、1955年)
**『日本の村・海をひらいた人びと』([[ちくま文庫]]、1995年)
*『緒方青木一族・安下浦夜話』(大島民報社、1955年)
*『民俗学への道』([[岩崎書店]]「民俗民芸双書」、1955年)
*『中国風土記』(広島農村人文協会、1958年)
*『[[忘れられた日本人]]』(未來社、1960年/[[岩波文庫]]、1984年、ワイド版1995年)
*『日本の離島:第1・2集』(未來社、1960年 - 1966年)
*『庶民の発見』(未來社、1961年/[[講談社]]学術文庫、1987年)
*『都市の祭と民俗』(慶友社、1961年)
*『母の記』(私家版、1962年3月)
*『甘藷の歴史』(未來社(日本民衆史 7)、1962年)
*『松浦文化経済史』([[長崎県]]、1962年)
*『開拓の歴史』(未來社(日本民衆史 1)、1963年)
*『民衆の知恵を訪ねて』(未來社、1963年)
*『村の若者たち』(家の光協会「レインボウブックス」、1963年)
*『山に生きる人びと』(未來社(日本民衆史 2)、1964年/[[河出文庫]]、2011年11月)
*『海に生きる人びと』(未來社(日本民衆史 3)、1964年/河出文庫、2015年7月)
*『離島の旅』([[新人物往来社|人物往来社]]、1964年)
*『民俗のふるさと』(河出書房新社(日本の民俗 1)、1964年/河出文庫、2012年3月)
*『瀬戸内海の研究:第1』(未來社、1965年)
**『瀬戸内海の研究:島嶼の開発とその社会形成、海人の定住を中心に』(未來社、1992年)
*『生業の推移』(河出書房新社(日本の民俗 3)、1965年)
**『生きていく民俗:生業の推移』(河出文庫、2012年)
*『辺境を歩いた人々』([[さ・え・ら書房]]:伝記ライブラリー、1966年/[[河出書房新社]]、2005年12月/河出文庫、2018年6月)
*『村のなりたち』(未來社(日本民衆史 4)、1966年)
*『南の島を開拓した人々』(さ・え・ら書房:伝記ライブラリー、1968年/河出書房新社、2006年1月)
*『町のなりたち』(未來社(日本民衆史 5)、1968年)
*『[[大隅半島]]民俗採訪録』(慶友社「常民文化叢書」、1968年)- ※以降は主に「著作集」で刊
*『民俗学の旅』([[文藝春秋]]、1978年12月/講談社学術文庫、1993年/「人間の記録」日本図書センター、2000年)。回想記
*『民具学の提唱』(未來社〈民族文化双書 1〉、1979年9月)
*『[[野田泉光院]]』(未來社〈旅人たちの歴史 1〉、1980年3月、新版2009年)
*『菅江真澄』(未來社〈旅人たちの歴史 2〉、1980年10月、新版1996年)
*『生命のゆらめき 歌集』(現代創造社、1981年1月)
*『絵巻物に見る日本庶民生活誌』(中央公論社〈[[中公新書]]〉、1981年3月)- ※遺著、図版解説
*『日本文化の形成』(そしえて、1981年12月/[[ちくま学芸文庫]] 全3巻、1994年4月/[[講談社学術文庫]]、2005年7月)
*『[[古川古松軒]]/イザベラ・バード』(未來社〈旅人たちの歴史 3〉、1984年10月、新版2008年)
**『[[イザベラ・バード]]の『[[日本奥地紀行]]』を読む』([[平凡社ライブラリー]]、2002年)
**『イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む』([[講談社学術文庫]]、2014年)
*『塩の道』(講談社学術文庫、1985年3月)- 元版は下記『日本の海洋民』の第2章より
*『宮本常一 [[ちくま日本文学全集]]053』(筑摩書房、1993年/[[ちくま文庫]]〈[[ちくま日本文学]]022〉、2008年)
*『空からの民俗学』([[岩波現代文庫]]、2001年)
*『女の民俗誌』(岩波現代文庫、2001年)
*『宮本常一、アフリカとアジアを歩く』(岩波現代文庫、2001年)
*『炉辺夜話:日本人のくらしと文化』([[河出書房新社]]、2005年5月/河出文庫、2013年8月)
*『日本人の住まい:生きる場のかたちとその変遷』(田村善次郎編、[[農山漁村文化協会]]〈百の知恵双書〉、2007年3月)
*『宮本常一 伝書鳩のように』(平凡社、2019年6月)。選書での入門書
;各・[[八坂書房]](田村善次郎編・解説)
*『和泉の国の青春』(2010年5月)
*『宮本常一旅の手帖:村里の風物』(2010年10月)
*『宮本常一旅の手帖:ふるさとの栞』(2011年1月)
*『宮本常一旅の手帖:庶民の世界』(2011年2月)
*『歳時習俗事典』(2011年8月)
*『宮本常一旅の手帖:愛しき島々』(2011年10月)
*『聞書 忘れえぬ歳月 東日本編』(2012年1月)
*『聞書 忘れえぬ歳月 西日本編』(2012年1月)
*『飢餓からの脱出:生業の発展と分化』(2012年8月)
*『日本の年中行事』(2012年12月)
*『山と日本人』(2013年5月)
*『宮本常一短編集:見聞巷談』(2013年11月)
*『宮本常一の本棚』(2014年3月)
*『口承文学論集』(2014年11月)
*『宮本常一座談録:生活と文化』(2015年3月)
*『忘れられた子どもたち』(2015年11月)
*『日本の人生行事 人の一生と通過儀礼』(2016年7月)
*『日本の葬儀と墓 最期の人生行事』(2017年3月)
*『瀬戸内文化誌』(2018年1月)
;みずのわ出版「宮本常一ふるさと選書」宮本常一記念館編
*『古老の人生を聞く』(2021年4月)。青少年向け
*『ふるさとを憶う』(2022年5月)
=== 共編著 ===
*([[内田武志 (民俗学者)|内田武志]] 共編訳)『[[菅江真澄]]遊覧記(全5巻)』([[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1965‐1968年、ワイド版2004年/平凡社ライブラリー、2000年)
*(財前司一)『日本の民俗 35 山口』([[第一法規出版]]、1974年)
*([[川添登]])『日本の海洋民』(未來社、1974年、新版2008年)
*『広島県史 民俗編』(広島県、1978年)。編者代表
*([[大野晋]]ほか)『東日本と西日本』(日本エディタースクール出版、1981年/[[洋泉社]]MC新書、2006年)
*(岡本定)『東和町誌』([[東和町 (山口県)|東和町]]、1982年)
*『宮本常一著作集 別集1 とろし 大阪府泉北郡取石村生活誌』(未來社、1982年)。戦前刊の郷土誌
*『宮本常一著作集 別集2 民話とことわざ』(未來社、1983年)。座談討論での民話論
*対談集『日本人を考える:歴史・民俗・文化』(河出書房新社、2006年3月)
*対談集『旅の民俗学』(河出書房新社、2006年8月)
*対談集『なつかしい話:歴史と風土の民俗学』(河出書房新社、2007年9月)
*(安渓遊地解説)『調査されるという迷惑-フィールドに出る前に読んでおく本』(みずのわ出版、2008年3月)
*(田村善次郎・香月節子共編)『ダムに沈んだ村の民具と生活:広島県[[高田郡]]八千代町土師』(八坂書房、2011年7月)
=== 編著 ===
*『河内国滝畑左近熊太翁旧事談』(アチック・ミューゼアム、1937年)
*『出雲八束郡片句浦民俗聞事』(アチック・ミューゼアム、1942年)
*『吉野西奥民俗採訪録』(アチック・ミューゼアム、1942年)
*『屋久島民族誌』([[日本常民文化研究所]]、1943年)
*『周防大島昔話集』(山口大島文化研究連盟、1956年/瀬戸内物産出版部、1985年/河出文庫、2012年)
*『日本人の子供達 写真でみる日本人の生活全集』(岩崎書店、1957年)
*『僻地の旅』(修道社、1961年)
*『秘境』(有紀書房、1961年)
*『島』(有紀書房、1961年)
*『日本の海女』([[東京新聞|東京中日新聞社]]、1962年)。解説、中村由信写真
*『日本の宿』([[社会思想社]]〈現代教養文庫〉、1965年/八坂書房(旅の民俗と歴史 1)、1987年、新編2006年)
*『大名の旅 本陣を訪ねて』(社会思想社〈現代教養文庫〉、1968年/八坂書房(旅の民俗と歴史 2)、1987年)
*『旅の発見 日本文化を考える』(社会思想社〈現代教養文庫〉、1969年/八坂書房(旅の民俗と歴史 3)、1987年)
*『庶民の旅』(社会思想社〈現代教養文庫〉、1970年/八坂書房(旅の民俗と歴史 4)、1987年、新編2006年)
*『伊勢参宮』(社会思想社〈現代教養文庫〉、1971年/八坂書房(旅の民俗と歴史 5)、1987年、増訂版2013年3月)
*『旅の民俗:のりものとはきもの』(社会思想社〈現代教養文庫〉、1972年/八坂書房(旅の民俗と歴史 6)、1987年)
*『海と日本人』([[八坂書房]]、1973年/八坂書房(旅の民俗と歴史 7)、1987年)
*『山の道』(八坂書房、1974年/八坂書房(旅の民俗と歴史 8)、1987年、新編2006年)
*『川の道』(八坂書房、1975年/八坂書房(旅の民俗と歴史 9)、1987年、新編2009年)
*『海の道』(八坂書房、1977年/八坂書房(旅の民俗と歴史 10)、1987年)
*『[[渋沢敬三]]:民俗学の組織者』(講談社〈日本民俗文化大系 3〉、1978年6月)。責任編集
=== 主な調査報告 ===
*『泉佐野に於ける産業の発展過程の概要』([[泉佐野市]]、1951年)
*『岡山県円城村:国有林地元利用状況実態調査報告』(林野庁調査課、1953年)
*『島根県日原村:林業金融調査報告』(林業金融調査会、1955年)
*『宮城県栗駒村:山村経済実態調査報告』(林野庁調査課、1956年)
*『秋田県上小阿仁村:山村経済実態調査報告』(林野庁調査課、1956年)
*『広島県大朝町:林業金融木曽調査報告』(林業金融調査会、1956年)
*『林道:林業金融基礎調査報告』(林業金融調査会、1957年)
*『愛知県名倉村:林業金融基礎調査報告』(林業金融調査会、1957年)
*『離島振興実態調査報告書 愛媛・広島・山口』(全国離島振興協議会、1960年)、編者
*『山村の地域文化保存について』(山村振興調査会、1970年)、編者
*『宮本常一林道行政論集:民俗学の巨人 林道への遺産』(日本林道協会、2002年)、復刻・解説
=== 監修ほか ===
*『日本残酷物語〈全5巻〉』(平凡社、1959年/平凡社ライブラリー、1995年)。監修
*『日本の名産事典』([[東洋経済新報社]]、1977年)。[[遠藤元男]]・[[児玉幸多]]と編者代表
**復刻版『全国名産大事典』([[日本図書センター]]、2010年)
*『探訪日本の古寺〈全15巻〉』(小学館、1981年)。監修
*『[[早川孝太郎]]全集〈全12巻〉』(未來社、1973年 - 2003年)。没後は[[宮田登]]・須藤功が編集
*『日本庶民生活史料集成』(三一書房)。編集委員
*『[[菅江真澄]]全集〈全12巻・別巻〉』(未來社、1971年 - 1981年)。内田武志と編集、別巻は『菅江真澄研究』
=== 写真集ほか ===
*『宮本常一 写真・日記集成』(上・下+別巻、[[毎日新聞社]]、2005年)
*『宮本常一日記 青春編』(田村善次郎編、[[毎日新聞]]社、2012年6月)。CD‐ROM付き
*『宮本常一写真図録』(全3巻、周防大島文化交流センターほか編著、森本孝ほか監修、みずのわ出版、2007年 - 2011年)
*『宮本常一が撮った昭和の情景』(上・下、毎日新聞社、2009年6月)
*『宮本常一とあるいた昭和の日本』(全25巻、田村善次郎・宮本千晴監修、須藤功・森本孝ほか編、[[農山漁村文化協会]]、2010年 - 2012年)
*『景観写真論ノート:宮本常一のアルバムから』([[香月洋一郎]]編著、[[筑摩書房]]、2013年)
*『宮本常一文庫目録・書籍Ⅰ』(周防大島文化交流センター・高永茂編、[[広島大学]]地域連携センター、2009年)
== DVD・ビデオ ==
*『学問と情熱 第15巻 宮本常一 民衆の知恵を訪ねて』 [[紀伊國屋書店]]評伝シリーズ(47分)
*:田村善次郎・宮本千晴監修、ナレーター[[木内みどり]]。DVD:2008年8月
== 関連文献 ==
*『宮本常一『忘れられた日本人』を訪ねて』([[平凡社]]<別冊太陽 日本のこころ>、2007年)。図版書
*『宮本常一と写真』(平凡社コロナ・ブックス、2014年)。図版書の小著、[[石川直樹 (探検家・写真家)|石川直樹]]・須藤功・畑中章宏・赤城耕一が寄稿
* [[網野善彦]]『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』([[岩波書店]]〈岩波セミナーブックス〉、2003年/[[岩波現代文庫]]、2013年)
* [[佐野眞一]]『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』([[文藝春秋]]、1996年/[[文春文庫]]、2009年)。第28回[[大宅壮一ノンフィクション賞]]
** 佐野眞一『宮本常一が見た日本』([[NHK出版|日本放送出版協会]]、2001年/[[ちくま文庫]]、2010年)。続編で放送番組「[[人間講座]]」が元
** 佐野眞一『宮本常一の写真に読む失われた昭和』(平凡社、2004年/平凡社ライブラリー、2013年)。宮本が撮った写真約200枚を読み解く
*『宮本常一のメッセージ:周防大島郷土大学講義録』(みずのわ出版、2007年)
::佐野眞一・[[藤本淨彦]]・碓井巧・[[小泉凡]]・[[立松和平]]
*『宮本常一 旅する民俗学者』(佐野眞一責任編集、[[河出書房新社]]〈[[KAWADE道の手帖]]〉、2005年、増補版2013年)
* [[須藤功 (写真家)|須藤功]]『宮本常一:人間の生涯は発見の歴史であるべし』([[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選]]〉、2022年)
* [[畑中章宏]]『宮本常一:歴史は庶民がつくる』([[講談社現代新書]]「現代新書100:今を生きる思想」、2023年)
;※以下は入門書以外
* 宮本常一追悼文集編集委員会編『宮本常一 同時代の証言(正・続)』(日本観光文化研究所、1981年/復刻版:[[マツノ書店]]、2004年)
*『写真でつづる宮本常一』(須藤功編、未來社、2005年)
*『宮本常一コレクションガイド』(宮本常一記念館編、森本孝監修、みずのわ出版、2017年)
* 佐野眞一『宮本常一のまなざし』(みずのわ出版、2003年)。主に講演録
* 佐田尾信作『宮本常一という世界』(みずのわ出版、2004年)
* 佐田尾信作『風の人:宮本常一』(みずのわ出版、2008年)
* 田中慎二・荒木肇=写真、佐田尾信作=文『宮本常一 旅の原景』(みずのわ出版、2005年)
*『旅する巨人宮本常一:にっぽんの記憶』(みずのわ出版、2006年)
::[[読売新聞]]西部本社編、全国離島振興協議会・日本離島センター・[[屋代島]](周防大島)文化交流センター監修
* [[長浜功]]『彷徨のまなざし:宮本常一の旅と学問』([[明石書店]]、1995年)
* 長浜功『日本民衆の文化と実像:宮本常一の世界』(明石書店、1995年)
* [[毛利甚八]]『宮本常一を歩く:日本の辺境を旅する(上・下)』([[小学館]]、1998年)
* さなだゆきたか『宮本常一の伝説』(阿吽社、2002年)
* [[岩田重則]]『宮本常一:逸脱の民俗学者』(河出書房新社、2013年)
* 岩田重則『日本人のわすれもの:宮本常一『忘れられた日本人』を読み直す』([[現代書館]]「いま読む!名著」、2014年)
* [[木村哲也 (民俗学者)|木村哲也]]『『忘れられた日本人』の舞台を旅する』(河出書房新社、2006年)
**『宮本常一を旅する』(河出書房新社、2018年)、改訂新版
* 斎藤卓志『世間師・宮本常一の仕事』([[春風社]]、2008年)
* 中澤さかな『宮本常一が見た萩:旅する民俗学者』(萩ものがたり、2008年)
* [[小松正之]]『宮本常一とクジラ』([[雄山閣]]、2009年)
* 長岡秀世『知行合一の旅人:宮本常一 その済民思想の伏流水』(梓書院、2011年)
* 坂野徹『フィールドワークの戦後史:宮本常一と九学会連合』([[吉川弘文館]]、2012年)
* 福田晴子『宮本常一の旅学 観文研の旅人たち』(宮本千晴監修、[[八坂書房]]、2022年)
* 山古志村写真製作委員会編著『ふるさと山古志に生きる:村の財産を生かす宮本常一の提案』([[農山漁村文化協会]]、2007年)
**須藤功解説『写真集 [[山古志村]]:宮本常一と見た昭和46(1971)年の暮らし』(同上、2005年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*「宮本常一年譜」‐『日本文化の形成』[[講談社学術文庫]]、2005年
== 外部リンク ==
<!-- * {{ウェブアーカイブ |url=http://www.h3.dion.ne.jp/~kamuro/miyamoto.htm{{リンク切れ|date=2018-12-11}} |title=宮本常一情報サイト 周防大島郷土大学 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170707000505/http://www.h3.dion.ne.jp:80/~kamuro/miyamoto.htm |archivedate=2017-07-07 |deadlink=yes}} -->
* {{Cite web|和書|url=http://www.h3.dion.ne.jp/~kamuro/miyamoto.htm |title=宮本常一情報サイト 周防大島郷土大学 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170707000505/http://www.h3.dion.ne.jp:80/~kamuro/miyamoto.htm |archivedate=2017-07-07|deadlinkdate=2018年12月11日}}
* [http://www.towatown.jp/database/ 宮本常一データベース](周防大島町HPより)
* [http://www.towatown.jp/koryu-center/koryu.html 宮本常一記念館](周防大島文化交流センター内)
* {{NHK人物録|D0009072250_00000}}
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[[Category:20世紀日本の民俗学者]]
[[Category:戦前日本の学者]]
[[Category:武蔵野美術大学の教員]]
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[[Category:社会教育者]]
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[[Category:大阪教育大学出身の人物]]
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歌
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歌、唄(うた)とは、声によって音楽的な音を生み出す行為のことであり、リズムや節(旋律)をつけて歌詞などを連続発声する音楽、娯楽・芸術のひとつである。歌謡(かよう)、歌唱(かしょう)とも言う。その起源は旧石器時代にまで遡るとする見解もある。
また歌・歌謡は、文学における用語でもあり、詩の一形式または韻律文芸の総称で、和歌などを指す。これについても本項で述べる。
「歌う」ことは、感情を表現とすることを最大の目的としており、その点で、事件や事象を聴く人にわかりやすく伝達することを目的とした「語る」こととは大きく異なる。そのことより、場合によってはもとの歌詞が判然としなくなる歌唱もある。これらとは別に、全く意味を持たない声を用いた歌唱も存在する。
声を発生させるという意味において、話す時と歌唱する時は同じである。にもかかわらず、ヒトが話す時と歌唱する時とでは、脳の使い方が異なっていることが示唆されている。また、ヒトの歌唱は右半球の機能だけで行っているわけでも、左半球の機能だけで行っているわけでもないことが示唆されている 。 例えば、ほとんど話すことのできない重度の発話障害を持った失語症の患者であったとしても、歌唱であれば可能な場合もあることが知られている。実際に、たとえ脳の左半球に大きな損傷があるために失語症となってしまったとしても、歌唱ならば可能であった症例も見られた 。 無論、歌詞は上手く発声できない場合(鼻歌などのみの場合)もあるものの、旋律は正しい症例も見られた 。 ここまで見てくると、ヒトの歌唱は一見、右半球の機能であるかのように思える。しかし、中にはほとんど話すことのできない重度の発話障害を持った失語症の患者であるのにもかかわらず、歌唱を行った時に、歌詞の一部は正しく発声できた症例も見られた 。
「うた・歌う」の語源は、折口信夫によれば「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることもまた確かである。徳江元正は、「うた」の語源として、言霊(言葉そのものがもつ霊力)によって相手の魂に対し激しく強い揺さぶりを与えるという意味の「打つ」からきたものとする見解を唱えている。
日本の伝統的なものとして民謡、童歌(わらべうた)などがある。
特定集団に属するものとしては、国家の歌としての国歌や、都道府県歌、市町村歌など自治体に関するものがある。また、学校の歌として校歌・寮歌、教育用の歌として唱歌、会社・企業の歌として社歌、軍隊の歌として軍歌(自衛隊では隊歌)などがある。スポーツ応援などのための応援歌もある。政治集団に関わるものとしては革命歌、労働歌などがある。
ほか、宗教音楽における宗教歌(賛美歌など)がある。クラシック音楽においては歌曲、オペラ、声楽がある。
イタリアにはカンツォーネ、フランスにはシャンソンがあり、いずれも語源は「うた、歌う」を意味する。ポルトガルにはファドがある。またキューバにはソンがあり、歌曲の一種であるが、語源はスペイン語で音を意味する。アメリカ合衆国にはカントリー・ミュージックがある。
歌謡は、広義には和歌などの韻文詩、民謡、小唄などの俗謡、童謡、国民歌謡、戦時歌謡、ムード歌謡、リズム歌謡、テクノ歌謡など、きわめて広範に及んでいる。しかし、昭和以降の日本で誕生した「歌謡」ジャンルのほとんどは歌謡曲または流行歌の範疇に入るため、現代の日常的な場面で「歌謡」といえば、通常は歌謡曲や流行歌、それに類する歌詞のある曲を指す。
神道の神楽において神楽歌がある。ほか、古代日本の歌謡には大歌などがある。また倭歌(やまとうた)、のち和歌の成立以前にも祭りや労働歌などもあったとされるが、記録が残っていない。
奈良時代から平安時代初期にかけて民謡を外来楽器で伴奏しながら歌う催馬楽(さいばら)が成立した。のちに雅楽にとりこまれた。また、漢詩をうたった朗詠も同じ頃に成立した。
仏教音楽において節をつけて仏典をうたった声明(しょうみょう)が大原魚山、最澄や空海などによって伝えられ、天台声明や真言声明などがつくられた。
日本中世において語りものと歌いものと呼ばれる様式が誕生した。歌いものは音楽・歌唱的な要素を重視したもので、語りものは物語を重視したもの。琵琶法師による平家物語は平曲とよばれる独自のメロディで「語られた」。平曲は声明の講式の影響を受けている。
能・能楽における声楽部門を謡(うたい)または謡曲(ようきょく)という。
近世には隆達節(りゅうたつぶし)が高三隆達によって作られた。また上方で地歌が成立し、義太夫節、浄瑠璃、長唄などの母体となった。
ポピュラー音楽には以下のような多様な歌のジャンルがある。
「歌謡」は広義には、曲または節(リズム)を伴う詩歌を総称する語または声楽曲の総称であり、必ずしも文字や言語にとらわれるものではないが、声楽曲の歌詞や詞章を文芸とみなしてこれを歌謡文学として把握した場合には、言葉を仲立ちとするものであり、口承性とともに音楽性をも有し、未だ文学とは意識されない、文学以前の領域にまで踏み込むものである。
このような文学ジャンルとしての歌謡は、音楽性をともなう韻文形式の作品のことをいい、韻律文芸の総称である。歌詞をその音楽と分けずに言及する言葉であり、「朗読する詩歌」に対して「歌う詩歌」を指す言葉である。なお民間の歌謡は多くの場合、文字として記録されない口承文学として存在した。
中国において歌謡という言葉は、史記、漢書、阮籍の音楽論などで使われている。しかし、このような文学概念のひとつとしての歌謡という言葉の使い方は、明治以降の日本文学や国文学研究者によるもので、読まれる詩歌に対して、歌われる詩歌を歌謡と呼んだ。今日では、歌詞と音楽は分けられるが、時代によっては、両者が未分化であり、文学研究においては意味を拡大して使うこともある。歌物(うたいもの)、語り物、また古代の記紀歌謡や万葉集のようなかつて歌唱された歌も含める。
愛する妻のエウリュディケーをしのんで冥界に下り、冥界で彼の奏でた音楽はそこの住人すべてを魅了したため妻を引き連れての現世帰還を勝ち取りながらも、誘惑のため、あと一歩で果たせなかったというギリシア神話に登場する楽人オルペウスは、西洋における歌謡楽人の祖と評されることがある。
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"text": "声を発生させるという意味において、話す時と歌唱する時は同じである。にもかかわらず、ヒトが話す時と歌唱する時とでは、脳の使い方が異なっていることが示唆されている。また、ヒトの歌唱は右半球の機能だけで行っているわけでも、左半球の機能だけで行っているわけでもないことが示唆されている 。 例えば、ほとんど話すことのできない重度の発話障害を持った失語症の患者であったとしても、歌唱であれば可能な場合もあることが知られている。実際に、たとえ脳の左半球に大きな損傷があるために失語症となってしまったとしても、歌唱ならば可能であった症例も見られた 。 無論、歌詞は上手く発声できない場合(鼻歌などのみの場合)もあるものの、旋律は正しい症例も見られた 。 ここまで見てくると、ヒトの歌唱は一見、右半球の機能であるかのように思える。しかし、中にはほとんど話すことのできない重度の発話障害を持った失語症の患者であるのにもかかわらず、歌唱を行った時に、歌詞の一部は正しく発声できた症例も見られた 。",
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"text": "イタリアにはカンツォーネ、フランスにはシャンソンがあり、いずれも語源は「うた、歌う」を意味する。ポルトガルにはファドがある。またキューバにはソンがあり、歌曲の一種であるが、語源はスペイン語で音を意味する。アメリカ合衆国にはカントリー・ミュージックがある。",
"title": "歌の種類・ジャンル"
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"text": "歌謡は、広義には和歌などの韻文詩、民謡、小唄などの俗謡、童謡、国民歌謡、戦時歌謡、ムード歌謡、リズム歌謡、テクノ歌謡など、きわめて広範に及んでいる。しかし、昭和以降の日本で誕生した「歌謡」ジャンルのほとんどは歌謡曲または流行歌の範疇に入るため、現代の日常的な場面で「歌謡」といえば、通常は歌謡曲や流行歌、それに類する歌詞のある曲を指す。",
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"text": "神道の神楽において神楽歌がある。ほか、古代日本の歌謡には大歌などがある。また倭歌(やまとうた)、のち和歌の成立以前にも祭りや労働歌などもあったとされるが、記録が残っていない。",
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"text": "奈良時代から平安時代初期にかけて民謡を外来楽器で伴奏しながら歌う催馬楽(さいばら)が成立した。のちに雅楽にとりこまれた。また、漢詩をうたった朗詠も同じ頃に成立した。",
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"text": "仏教音楽において節をつけて仏典をうたった声明(しょうみょう)が大原魚山、最澄や空海などによって伝えられ、天台声明や真言声明などがつくられた。",
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"text": "日本中世において語りものと歌いものと呼ばれる様式が誕生した。歌いものは音楽・歌唱的な要素を重視したもので、語りものは物語を重視したもの。琵琶法師による平家物語は平曲とよばれる独自のメロディで「語られた」。平曲は声明の講式の影響を受けている。",
"title": "歌の種類・ジャンル"
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"text": "能・能楽における声楽部門を謡(うたい)または謡曲(ようきょく)という。",
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"text": "近世には隆達節(りゅうたつぶし)が高三隆達によって作られた。また上方で地歌が成立し、義太夫節、浄瑠璃、長唄などの母体となった。",
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"text": "ポピュラー音楽には以下のような多様な歌のジャンルがある。",
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"text": "「歌謡」は広義には、曲または節(リズム)を伴う詩歌を総称する語または声楽曲の総称であり、必ずしも文字や言語にとらわれるものではないが、声楽曲の歌詞や詞章を文芸とみなしてこれを歌謡文学として把握した場合には、言葉を仲立ちとするものであり、口承性とともに音楽性をも有し、未だ文学とは意識されない、文学以前の領域にまで踏み込むものである。",
"title": "文学としての歌謡"
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"text": "このような文学ジャンルとしての歌謡は、音楽性をともなう韻文形式の作品のことをいい、韻律文芸の総称である。歌詞をその音楽と分けずに言及する言葉であり、「朗読する詩歌」に対して「歌う詩歌」を指す言葉である。なお民間の歌謡は多くの場合、文字として記録されない口承文学として存在した。",
"title": "文学としての歌謡"
},
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"text": "中国において歌謡という言葉は、史記、漢書、阮籍の音楽論などで使われている。しかし、このような文学概念のひとつとしての歌謡という言葉の使い方は、明治以降の日本文学や国文学研究者によるもので、読まれる詩歌に対して、歌われる詩歌を歌謡と呼んだ。今日では、歌詞と音楽は分けられるが、時代によっては、両者が未分化であり、文学研究においては意味を拡大して使うこともある。歌物(うたいもの)、語り物、また古代の記紀歌謡や万葉集のようなかつて歌唱された歌も含める。",
"title": "文学としての歌謡"
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"text": "愛する妻のエウリュディケーをしのんで冥界に下り、冥界で彼の奏でた音楽はそこの住人すべてを魅了したため妻を引き連れての現世帰還を勝ち取りながらも、誘惑のため、あと一歩で果たせなかったというギリシア神話に登場する楽人オルペウスは、西洋における歌謡楽人の祖と評されることがある。",
"title": "歌の神話"
}
] |
歌、唄(うた)とは、声によって音楽的な音を生み出す行為のことであり、リズムや節(旋律)をつけて歌詞などを連続発声する音楽、娯楽・芸術のひとつである。歌謡(かよう)、歌唱(かしょう)とも言う。その起源は旧石器時代にまで遡るとする見解もある。 また歌・歌謡は、文学における用語でもあり、詩の一形式または韻律文芸の総称で、和歌などを指す。これについても本項で述べる。
|
{{Otheruses}}
{{Redirect|唄|[[BUCK-TICK]]の曲|唄 (BUCK-TICKの曲)}}
{{Redirect|唱|[[Ado]]の曲|唱 (Adoの曲)}}
[[File:Billie Holiday, Downbeat, New York, N.Y., ca. Feb. 1947 (William P. Gottlieb 04251).jpg|thumb|アメリカのジャズシンガー・ソングライター、[[ビリー・ホリデイ]]]]
'''歌'''、'''唄'''('''うた''')とは、[[声]]によって[[音楽|音楽的]]な[[音]]を生み出す行為<ref>吉川(1990)p.38-40</ref>のことであり、[[リズム]]や[[メロディ|節]]([[旋律]])<ref name="daij"/>をつけて[[歌詞]]などを連続発声する[[音楽]]、[[娯楽]]・[[芸術]]のひとつである。'''歌謡'''(かよう)<ref name="sekai">[[世界大百科事典]],平凡社「歌謡」</ref>、'''[[歌唱]]'''(かしょう)<ref name="daij">[[大辞林]]「歌唱」「歌謡」</ref>とも言う。その起源は[[旧石器時代]]にまで遡るとする見解もある<ref>武田梵声『フースラーメソード入門』[[日本実業出版社]]、2017年、4頁。ISBN 9784534054746</ref>。
また歌・歌謡は、[[文学]]における用語でもあり、[[詩]]の一形式または[[韻律]][[文芸]]の総称<ref name="daij"/>で、[[和歌]]などを指す。これについても本項で述べる。
== 概念 ==
「歌う」ことは、[[感情]]を表現とすることを最大の目的としており、その点で、[[事件]]や事象を聴く人にわかりやすく伝達することを目的とした「語る」こととは大きく異なる<ref name="kikkawa38">吉川(1990)p.38-40</ref>。そのことより、場合によってはもとの歌詞が判然としなくなる歌唱もある<ref name="kikkawa38"/>。これらとは別に、全く意味を持たない声を用いた歌唱も存在する。
[[File:藤山一郎.jpg|thumb|歌声を「楷書の歌」と評された、[[藤山一郎]]]]
;歌手
: 歌を歌う人は、歌い手また[[歌手]]と呼ばれ、[[アカペラ]]もしくは[[音楽家]]や[[演奏家]]による[[伴奏]]を入れた形態で歌う。また、歌唱は[[合唱]]などのように、しばしばグループで行われる。[[カラオケ]]などで行われる単なる娯楽のための歌唱や、専門家によるレコーディングスタジオでの正式な歌唱など、歌唱の形態は幅広い。高いレベルの歌唱を実現するには、才能のほか、多くの練習や指導が必要とされる。プロの歌手は一般に特定の音楽ジャンルでキャリアを積み、[[発声]]の指導を受けて[[ボイストレーニング]]を行う。
;歌詞
: 歌は「[[鳥]]がうたう」などのように、必ずしも歌詞を必要としないこともある。また、[[ハミング]](鼻音唱法)や[[母音唱法]]など歌詞をともなわない歌唱方法もないわけではない<ref name="kikkawa75">吉川「歌いもの」(1990)p.75</ref>。
;歌うことと語ること
: 感情表現である歌とは対照的に、同じ発声行為である「語る」ことは、[[事件]]や事象を聴く人にわかるように[[伝達]]することを目的とし、そこに正確性や説得力が必要である<ref name="kikkawa38"/>。また「話す」ことは日常の[[言語]]表現の行為であるのに対し、「語る」はまとまった事柄や物語を改めて伝える行為であり、さらに、「読む」が[[文字]]を媒介とし聞き手の存在を前提にしないのに対し、「語る」は必ずしも文字を前提とせず、逆に[[聴衆]]を前提としている<ref name="kikkawa38"/>。
== 脳との関連 ==
声を発生させるという意味において、話す時と歌唱する時は同じである。にもかかわらず、ヒトが話す時と歌唱する時とでは、脳の使い方が異なっていることが示唆されている。また、ヒトの歌唱は右半球の機能だけで行っているわけでも、左半球の機能だけで行っているわけでもないことが示唆されている
<ref name="Hata_JSS_p158">
波多野 和夫 『重症失語の症状学 ~ ジャルゴンとその周辺 ~』 p.158 金芳堂 1991年1月20日発行 ISBN 4-7653-0592-9
</ref>
。
例えば、ほとんど話すことのできない重度の発話障害を持った[[失語症]]の患者であったとしても、歌唱であれば可能な場合もあることが知られている。実際に、たとえ脳の左半球に大きな損傷があるために失語症となってしまったとしても、歌唱ならば可能であった症例も見られた
<ref>
波多野 和夫 『重症失語の症状学 ~ ジャルゴンとその周辺 ~』 p.157 金芳堂 1991年1月20日発行 ISBN 4-7653-0592-9
</ref>
。
無論、歌詞は上手く発声できない場合(鼻歌などのみの場合)もあるものの、旋律は正しい症例も見られた
<ref name="Hata_JSS_p158">
波多野 和夫 『重症失語の症状学 ~ ジャルゴンとその周辺 ~』 p.158 金芳堂 1991年1月20日発行 ISBN 4-7653-0592-9
</ref>
。
ここまで見てくると、ヒトの歌唱は一見、右半球の機能であるかのように思える。しかし、中にはほとんど話すことのできない重度の発話障害を持った失語症の患者であるのにもかかわらず、歌唱を行った時に、歌詞の一部は正しく発声できた症例も見られた
<ref name="Hata_JSS_p158">
波多野 和夫 『重症失語の症状学 ~ ジャルゴンとその周辺 ~』 p.158 金芳堂 1991年1月20日発行 ISBN 4-7653-0592-9
</ref>
。
== 語源 ==
「うた・歌う」の語源は、[[折口信夫]]によれば「'''うった(訴)ふ'''」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることもまた確かである<ref name="kikkawa75"/>。徳江元正は、「うた」の語源として、[[言霊]]([[言葉]]そのものがもつ[[霊力]])によって相手の[[魂]]に対し激しく強い揺さぶりを与えるという意味の「'''打つ'''」からきたものとする見解を唱えている<ref name="tokue">徳江「歌謡」(2004)</ref>。
== 歌の種類・ジャンル ==
日本の伝統的なものとして[[民謡]]、[[童歌]](わらべうた)などがある。
特定集団に属するものとしては、国家の歌としての[[国歌]]や、[[都道府県歌]]、[[市町村歌]]など[[地方公共団体|自治体]]に関するものがある。また、学校の歌として[[校歌]]・[[寮歌]]、教育用の歌として[[唱歌]]、会社・企業の歌として[[社歌]]、軍隊の歌として[[軍歌]](自衛隊では[[隊歌]])などがある。スポーツ応援などのための[[応援歌]]もある。政治集団に関わるものとしては[[革命歌]]、[[労働歌]]などがある。
ほか、[[宗教音楽]]における[[宗教歌]]([[賛美歌]]など)がある。[[クラシック音楽]]においては[[歌曲]]、[[オペラ]]、[[声楽]]がある。
[[イタリア]]には[[カンツォーネ]]、[[フランス]]には[[シャンソン]]があり、いずれも語源は「うた、歌う」を意味する。[[ポルトガル]]には[[ファド]]がある。また[[キューバ]]には[[ソン]]があり、[[歌曲]]の一種であるが、語源はスペイン語で[[音]]を意味する。[[アメリカ合衆国]]には[[カントリー・ミュージック]]がある。
=== 歌謡・歌謡曲 ===
歌謡は、広義には[[和歌]]などの[[韻文]]詩、[[民謡]]、[[小唄]]などの俗謡、[[童謡]]、[[国民歌謡]]、[[戦時歌謡]]、[[ムード歌謡]]、[[リズム歌謡]]、[[テクノ歌謡]]など<ref name="daijisen"/>、きわめて広範に及んでいる。しかし、[[昭和]]以降の[[日本]]で誕生した「歌謡」ジャンルのほとんどは[[歌謡曲]]または[[流行歌]]の範疇に入るため、現代の日常的な場面で「歌謡」といえば、通常は歌謡曲や流行歌、それに類する歌詞のある曲を指す<ref name="sanseidou">[[市川孝]]・[[遠藤織枝]]・[[進藤咲子]]・[[見坊豪紀]]・[[西尾寅弥]]編集『三省堂現代新国語辞典(第3版)』[[三省堂]]、2007年10月。ISBN 438514060X</ref>。
=== 日本における歌 ===
{{See|邦楽|歌いもの}}
[[神道]]の[[神楽]]において[[神楽歌]]がある。ほか、古代日本の歌謡には[[大歌]]などがある。また[[倭歌]](やまとうた)、のち[[和歌]]の成立以前にも[[祭り]]や[[労働歌]]などもあったとされるが、記録が残っていない<ref>[[和歌#歴史]]参照</ref>。
[[奈良時代]]から[[平安時代]]初期にかけて[[民謡]]を外来楽器で伴奏しながら歌う[[催馬楽]](さいばら)が成立した。のちに[[雅楽]]にとりこまれた。また、[[漢詩]]をうたった[[朗詠]]も同じ頃に成立した。
[[仏教]]音楽において[[メロディ|節]]をつけて[[仏典]]をうたった[[声明]](しょうみょう)が大原魚山、[[最澄]]や[[空海]]などによって伝えられ、天台声明や真言声明などがつくられた。
日本中世において[[語りもの]]と[[歌いもの]]と呼ばれる様式が誕生した。[[歌いもの]]は音楽・歌唱的な要素を重視したもので、[[語りもの]]は物語を重視したもの。[[琵琶法師]]による[[平家物語]]は[[平曲]]とよばれる独自のメロディで「語られた」。[[平曲]]は声明の[[講式]]の影響を受けている。
[[能]]・[[能楽]]における[[声楽]]部門を[[謡]](うたい)または[[謡曲]](ようきょく)という。
近世には[[隆達節]](りゅうたつぶし)が[[隆達|高三隆達]]によって作られた。また[[上方]]で[[地歌]]が成立し、[[義太夫節]]、[[浄瑠璃]]、[[長唄]]などの母体となった。
* [[荻江節]]
* [[端唄]]
* [[小唄]]
* [[うた沢]]
* [[薩摩琵琶]]
* [[筑前琵琶]]
* [[詩吟]]
* [[琉球民謡]]
<!---あいまいな記述--[[近世邦楽]]には歌の他、肉声による「[[語りもの]]」というジャンルがあり、[[義太夫節]]、[[清元節]]などの[[浄瑠璃]]各派がそれに属するが、[[江戸時代]]における音楽の飛躍的な発展と共に、次第に両者の要素が入り交じり、区別を付けることが難しくなった。なお近世邦楽では、[[尺八]]楽や[[胡弓]]楽など一部を除き、圧倒的多数のジャンルが「うた」の音楽である。ただし[[地歌]]などの[[三味線]]音楽には器楽的発展の著しいものもあり、ジャンル名に「歌」の語が付いても、必ずしも実態を反映しているとは限らないので注意が必要である。--->
=== ポピュラー音楽 ===
[[ポピュラー音楽]]には以下のような多様な歌のジャンルがある。
* [[歌謡曲]]
* [[浪曲]]
* [[演歌]]
* [[フォークソング]]
* [[リズム・アンド・ブルース]]
* [[ジャズ]]
* [[ロック (音楽)|ロック]]
* [[ラップ]]
* [[ワルツ]] - ダンス用。
== 文学としての歌謡 ==
「歌謡」は広義には、[[音楽|曲]]または[[リズム|節(リズム)]]を伴う[[詩|詩歌]]を総称する語<ref name="daijisen">[[松村明]]監修、「大辞泉」編集部編集『大辞泉(第1版増補)』[[小学館]]、1998年10月。ISBN 4095012129 </ref><ref name="gakken">[[金田一春彦]]・[[金田一秀穂]]編集『学研現代新国語辞典(改訂第4版)』[[学習研究社]]、2008年12月。ISBN 4053028248</ref>または[[声楽曲]]の総称であり<ref name="sekai"/>、必ずしも[[文字]]や[[言語]]にとらわれるものではないが、声楽曲の歌詞や詞章を文芸とみなして<ref name="daij"/>これを'''歌謡文学'''として把握した場合には、言葉を仲立ちとするものであり、[[口承|口承性]]とともに[[音楽|音楽性]]をも有し、未だ[[文学]]とは意識されない、文学以前の領域にまで踏み込むものである<ref name="tokue" />。
このような文学ジャンルとしての歌謡は、[[音楽]]性をともなう[[韻文]]形式の作品のことをいい、[[韻律]][[文芸]]の総称である<ref name="daij"/>。歌詞をその音楽と分けずに言及する言葉であり、「朗読する詩歌」に対して「歌う詩歌」を指す言葉である。なお民間の歌謡は多くの場合、文字として記録されない[[口承文学]]として存在した。
中国において歌謡という言葉は、[[史記]]、[[漢書]]、[[阮籍]]の音楽論などで使われている<ref name="sekai"/>。しかし、このような文学概念のひとつとしての歌謡という言葉の使い方は、[[明治]]以降の[[日本文学]]や[[国文学]]<ref name="daij"/>研究者によるもので、読まれる詩歌に対して、歌われる詩歌を歌謡と呼んだ<ref name="sekai"/>。今日では、歌詞と音楽は分けられるが、時代によっては、両者が未分化であり、文学研究においては意味を拡大して使うこともある<ref name="sekai"/>。歌物(うたいもの)、[[語り物]]、また古代の[[記紀]]歌謡や万葉集のようなかつて歌唱された歌も含める<ref name="daij"/>。
=== 日本 ===
: 日本では[[神楽歌]]・[[催馬楽]]・[[今様]]・[[早歌]](宴曲)・[[小歌]]などがある<ref name="daijisen"/>。日本の古代歌謡は、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』『[[風土記]]』や『[[万葉集]]』に収載されたものから確認することができる。『古事記』『日本書紀』の2書に記載された歌謡はとくに「記紀歌謡」と呼ばれる。数は、数え方にもよるが、だいたい『古事記』が110余首、『日本書紀』に120余首あり、両書に共通するものが50首ある。年代的な期間は、記述のままに従えば、[[スサノオ]]の「八雲たつ」の歌から、[[天智天皇]]の歌ならびに同時代の童謡にいたる。ただし、[[仁徳天皇]]以前の歌謡は、年代的にそのまま決定しがたいものが多い。形式的には、歌体のうえからは、長形式のものと短形式のものとに分けることができる。長形式のものは、反歌を含んだ長歌があり、短形式のものは、短歌を主な形式として、六句形式、四句形式、三句形式などがある。句の音数は、短長連続が多く、五七音が次第に優勢になってきている。技巧的には、意識的な修辞は多くなく、生活に即したものをとって比喩的に歌うことによって効果をあげようとしている。対句、枕詞、重ね詞などの技巧も認められる。題材内容的には、生活を反映して、恋愛と戦闘を扱かったものが多く、ついで酒宴、狩猟、農耕などが多い。のちのような自然を観照した歌は少なく、仁徳天皇時代以降、自然観照の歌が生じてくる。表現的には、叙情的、叙事的、叙景的に分けることができ、詠嘆から、しだいに歌材を深く観照して表現するにいたっており、全体として表現は素朴で力強い感情が中心を占める。
: [[和歌]]、[[短歌]]、[[長歌]]、[[連歌]]、[[狂歌]]なども参照。
: 和歌と古代歌謡に基いて新たに創られた新形式の[[五行歌]]も参照。
=== 中国 ===
: 中国最古の詩集である『[[詩経]]』はもともと歌謡であり、音楽・舞踊をともなっていたことが知られている。[[前漢]]の時、民間歌謡を収集する楽府という役所が作られた。以後、ここで集められた作品、あるいはそれ以後の民間歌謡を「[[楽府]]」(がふ)と呼ぶようになった。なお[[漢詩]]は歌謡から独立して朗読する文芸となった。歌と詩の分離は、[[後漢]]末、[[建安 (漢)|建安]]頃であったと考えられている([[建安文学]])。
;詞
: [[唐]]中葉頃から「[[詞]]」と呼ばれる新しい歌謡文芸が生まれた。詞は宋代に盛行し、宋詞の名がある。詞は後には詩と同様、音楽性から独立して朗読されるようになった。
;曲
: [[宋代]]から「[[曲]]」と言われる歌謡文芸が興り、[[元代]]になって隆盛した([[元曲]])。曲は[[戯曲 (中国)|戯曲]]といわれる劇中で使われるものと歌謡だけの[[散曲]]があり、形式的には小令と套数という2つのものがある。
== 歌の神話 ==
=== ギリシア神話 ===
愛する[[妻]]の[[エウリュディケー]]をしのんで[[冥界]]に下り、冥界で彼の奏でた音楽はそこの住人すべてを魅了したため妻を引き連れての現世帰還を勝ち取りながらも、誘惑のため、あと一歩で果たせなかったという[[ギリシア神話]]に登場する楽人[[オルペウス]]は、西洋における歌謡楽人の祖と評されることがある<ref group="注釈">冥界の神[[ハーデース]]とその妻[[ペルセポネー]]は、地上に出るまで決してオルペウスの妻([[ニンフ]]の[[エウリュディケー]])の顔を見ないという約束でオルペウスに彼女を連れ戻すことを許した。しかし、地上へ急いだオルペウスは、あと一歩のところで誘惑に負けて後ろを振り返り、エウリュディケーを見てしまったため、再び冥界へ降ろされた。</ref><ref>佐藤(2004)</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[吉川英史]]「歌いもの」「語りもの」[[山川直治]]編集『日本音楽の流れ』[[音楽之友社]]、1990年7月。ISBN 4-276-13439-0
* [[山折哲雄]]『「歌」の精神史』中公叢書 中央公論新社 ISBN 4120037606
* [[徳江元正]]・[[菊田正信]]・[[佐藤輝夫]]「歌謡」[[小学館]]編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|歌}}
* [[うたごえ運動]]
* [[カラオケ]]
* [[歌いもの]]
* [[合唱]]
*[[鼻歌]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{音楽}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うた}}
[[Category:歌|*]]
[[Category:娯楽]]
[[Category:音楽のジャンル]]
[[Category:民謡]]
[[Category:歌謡]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C
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14,207 |
西郷星
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西郷星(さいごうぼし)とは、明治10年(1877年)頃、西南戦争による世の混乱の中、西郷隆盛の死を悼む人々の間で流布した噂である。
この年、火星の大接近があり、最接近時の9月3日には距離5,630万km、光度-2.5等あまりにまで輝いていた。当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、西郷星と呼ばれて大騒ぎになった。
やがてこれに便乗し、西郷星を描いた錦絵が何種類も売り出されて人気を博した、とエドワード・モースの1877年9月8日の日記にも記されている。
また、土星もこの時に火星の近くに位置していており、11月には火星と0度11分のところまで近づいたことから、桐野利秋に因んで桐野星(きりのぼし)と呼ばれた。
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西郷星(さいごうぼし)とは、明治10年(1877年)頃、西南戦争による世の混乱の中、西郷隆盛の死を悼む人々の間で流布した噂である。
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[[画像:Saigo star.jpg|thumb|220px|「西南珍聞 俗称西郷星之図」(画・[[歌川国貞 (3代目)|梅堂国政]]、明治10年)]]
'''西郷星'''(さいごうぼし)とは、[[明治]]10年([[1877年]])頃、[[西南戦争]]による世の混乱の中、[[西郷隆盛]]の死を悼む人々の間で流布した噂である。
== 概要 ==
この年、[[火星]]の大接近があり、最接近時の[[9月3日]]には距離5,630万km、[[実視等級|光度]]-2.5等あまりにまで輝いていた。当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、[[陸軍大将]]の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、西郷星と呼ばれて大騒ぎになった<ref name="Nojiri"/>。
やがてこれに便乗し、西郷星を描いた錦絵が何種類も売り出されて人気を博した、と[[エドワード・モース]]の1877年[[9月8日]]の日記にも記されている<ref name="Nojiri"/>。
また、[[土星]]もこの時に火星の近くに位置していており、11月には火星と0度11分のところまで近づいたことから、[[桐野利秋]]に因んで'''桐野星'''(きりのぼし)と呼ばれた<ref name="Nojiri"/>。
== 脚注 ==
<references>
<ref name="Nojiri">{{Cite book
|title=日本星名辞典
|author=野尻抱影
|publisher=東京堂出版
|date=1973
|pages=207-208
|isbn=978-4490100785}}
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</references>
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%98%9F
|
14,208 |
シャーマニズム
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シャーマニズムあるいはシャマニズム(英: Shamanism)とは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり、宗教学、民俗学、人類学(宗教人類学、文化人類学)等々で用いられている用語・概念である。巫術(ふじゅつ)などと表記されることもある。
シャーマニズムとはシャーマンを中心とする宗教形態で、精霊や冥界の存在が信じられている。シャーマニズムの考えでは、霊の世界は物質界よりも上位にあり、物質界に影響を与えているとされる。
シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。 「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「šaman, シャマン」に由来し、19世紀以降に民俗学者や旅行家、探検家たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったものである。
シャーマニズムという用語で、上記の現象自体に加えて、その現象に基づく思想を呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデなど)。広義には地域を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。
日本語における「シャーマニズム」「シャマニズム」の区別(母音の長短)は、研究者の学問分野と密接な関係がある。北海道・樺太・シベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏の研究者の多くは「シャマン」「シャマニズム」という表記を用いてきた。ツングース語の発音は「シャマン」に近いとされる。一方、沖縄(琉球)・台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏の研究者の多くは「シャーマン」「シャーマニズム」の表記を用いてきた。また欧米の民族学・人類学・宗教学の研究を紹介する際の翻訳語としては、「シャーマニズム」「シャマニズム」が任意に用いられている。堀一郎の場合、「シャーマニズム」という表記にはこの対象を世界的視野で捉えようという意図が込められているという指摘がある。
シャーマニズムの定義は学者によって様々である。 まず地域であるが、北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。
また超自然的存在と交信する際、脱魂と憑依(憑霊)のどちらを基本と捉えるかについても意見が分かれている。エリアーデは脱魂(ecstasy)のほうを本質的だとするが、マッカロック(J. A. MacCullock)は憑依(possession)を重視し、I. M. ルイスは一方を強調することを批判する。例えばシベリアなど北東アジア研究者は脱魂を重視し、東南アジアや南米の研究者は憑霊を重視し、日本や朝鮮半島の研究者は憑霊ないし折衷説をとる傾向がある。多くの学者は地域・民族・文化などの相違によってそのいずれかが積極的な意味をもつものと考えている。パウルゾン(I. Paulson)は、脱魂と憑依を区別しつつ、脱魂ではシャーマンはトランスの中でみずから行動するのでトランスが解けた後で体験内容を説明することができるのに対して、憑依ではシャーマンに憑依した精霊や死霊が活躍するのでトランスから覚めても本人は何事が生じたのか説明できないとした。
佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとする。
トランスは、ある種の異常心理状態ではあるが、平常の社会人と半ば交流できる状態でもある。また演技的なものもあると考えられている。「脱魂」とは、ある人物の霊魂が身体を離脱することであり、「憑依(憑霊)」とは、神霊・精霊がある人物の身体に憑くことである。脱魂したシャーマンは、その間、超自然的存在と交流していて、その事情を報告する場合もあるが、憑依されたシャーマンは、その間のことを正気に返った時にまるで覚えていない場合が少なくない。また「憑霊(憑依)」はトランス状態になくても起こっていると考えられる場合がある。 (トランスパーソナル心理学と変性意識状態も参照。)
なお上記の定義からも分かるように、シャーマニズムという概念は、別の学術的概念「アニミズム」にも分類可能な要素を含んでいるので、一般に、実際の宗教はただシャーマニズムである、ということにはならない。
ジェームズ・フレイザーは、霊媒(medium)、予言者(prophet)、見者(seer)、呪師(sorcerer)としていたがその多くはシャーマンに分類される。佐々木宏幹は少なくとも5つに分ける必要性を主張している。
日本の場合、これらのうち複数の役割を1人で兼ねている場合が多いとされる。また若い頃は「霊媒」であったが、年を重ねるにつれて「予言者」→「見者」へと変わっていったと述懐する例が多い。
人がシャーマンと認められる過程にはいくつかの種類がある。社会によっても異なる。
憑依する主体にもいくつかの種類があるとされている。
アブラハムの宗教における預言者も、神や天使などが憑依すると考えれば一種のシャーマン(予言者型)と見ることもできる。だが強い倫理観に基づき、神の意思として当時の社会を批判している点で特異である。
日本、韓国、台湾、中国大陸、東南アジアなどにおいては、脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多い。
古来「巫女」と呼ばれる職能者が政治や軍事などの諸領域で活躍したことはよく知られている。『三国志』魏書東夷伝の倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国女王の卑弥呼が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われている。また『日本書紀』の、神代巻の天照大神、崇神紀の倭迹迹日百襲姫、垂仁紀の倭姫、仲哀紀の神功皇后(気長足姫)などもシャーマンの例として挙げられる。いずれも卑弥呼に比定する有力説のある人物である。
山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏や多氏といった巫を司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している。その後も壬申の乱に至るまで、常世神など縁起不詳の神が顕現し世を騒がす事件が起きている。『日本書紀』には壬申の乱の際に、生霊神という神が顕現し大海人皇子(天武天皇)を守護すると神語したという記述がある。
現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の恐山におけるイタコ、沖縄県周辺のユタ(ユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる)など、各地域にシャーマンに当てはまる事例がある。また都市においてもみられる。また小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャマニズム的傾向があるとし、新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした。新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に属すると思われるような人がいるのである。
近年、旧来とは違った型のシャーマンが多数出現している。依頼者の心身異常の原因について、動物霊の障りであるという説明を避け、意識・無意識・潜在意識といった心理学用語を使って説明する者たちで、チャネラー、スピリチュアル・カウンセラーなどと呼ばれるが、これらも新しい装いをしたシャーマンに属すると言えよう。
中国大陸の東北部で流行っているシャーマンは、出馬仙と呼ばれている。その出馬仙は、原始宗教のシャーマニズムの伝統を受け継いでおり、主に四つの動物たち(胡黄嫦蟒)とグループを形成し、一緒に占い・除霊・儀式活動していくこと。キツネ、ヘビ、イタチ、など修行した動物霊が、人間の体に憑依することで、人に癒しの能力を与えるという。
近年、中国の東北部では、占いの能力もなくシャーマンを偽装して詐欺する人が多く、本当の出馬仙が探せないぐらい少なくなっていると言われる。
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シャーマニズムあるいはシャマニズムとは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり、宗教学、民俗学、人類学(宗教人類学、文化人類学)等々で用いられている用語・概念である。巫術(ふじゅつ)などと表記されることもある。 シャーマニズムとはシャーマンを中心とする宗教形態で、精霊や冥界の存在が信じられている。シャーマニズムの考えでは、霊の世界は物質界よりも上位にあり、物質界に影響を与えているとされる。 シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。
「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「šaman, シャマン」に由来し、19世紀以降に民俗学者や旅行家、探検家たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったものである。 シャーマニズムという用語で、上記の現象自体に加えて、その現象に基づく思想を呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデなど)。広義には地域を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。
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{{脚注の不足|date=2019年7月4日 (木) 08:01 (UTC)}}
{{宗教人類学|image=[[ファイル:Chuonnasuan, the last shaman of the Oroqen, in July 1994 (Photo by Richard Noll).jpg|180px]] |caption=シャーマンの一例。[[オロチョン族]]のシャーマン}}
'''シャーマニズム'''あるいはシャマニズム({{lang-en-short|Shamanism}})とは、'''シャーマン'''('''[[巫|巫師]]'''・'''[[祈祷師]]''')の能力により成立している[[宗教]]や宗教現象の総称であり<ref name='shukyougaku-jiten'>[[#佐々木 (1973)|佐々木 (1973)]], pp. 249-253.</ref>、[[宗教学]]、[[民俗学]]、[[人類学]]([[宗教人類学]]、[[文化人類学]])等々で用いられている用語・概念である<ref name='shukyougaku-jiten' />。'''巫術'''(ふじゅつ)などと表記されることもある<ref name='shukyougaku-jiten' />。
シャーマニズムとはシャーマンを中心とする宗教形態で、[[精霊]]や[[冥界]]の存在が信じられている。シャーマニズムの考えでは、[[霊]]の世界は物質界よりも上位にあり、物質界に影響を与えているとされる<ref name="X-ZONE 36"> {{Cite journal|和書|journal=週刊X-ZONE|publisher= [[デアゴスティーニ・ジャパン]]|date=1998年2月3日|number=36}}{{要ページ番号|date=2016-01-16}}</ref>{{要ページ番号|date=2016-01-16 }}。
シャーマンとは[[トランス (意識)|トランス状態]]に入って超自然的存在([[霊]]、神霊、[[精霊]]、[[死霊]]など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである<ref name='shukyougaku-jiten' />。
「シャーマン」という用語・概念は、[[ツングース語]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://acrobat.adobe.com/link/review?uri=urn:aaid:scds:US:c5b225c9-5a29-36a2-82a1-f118d4b2b6c1 |title=「シャマニズム」から「シャーマニズム」へ─北方ユーラシアの狩猟・牧畜文化における信仰の過去と現代を接合する試み |format=PDF |publisher =島村一平(滋賀県立大学 人間文化学部 国際コミュニケーション学科准教授) |date=2017-01-01 |accessdate=2023-05-13}}</ref>で呪術師の一種を指す「šaman, '''シャマン'''」に由来し<ref name='shukyougaku-jiten' />{{refnest|group="注釈"|「'''シャーマン'''」は、[[パーリ語]]「Samaṇa, サマナ」、[[サンスクリット]]「Śramaṇa, シュラマナ」すなわち「'''[[沙門]]'''」に由来するという説もある<ref name='shukyougaku-jiten' />。}}、19世紀以降に[[民俗学者]]や旅行家、[[探検家]]たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語([[学術用語]])として用いられるようになったものである<ref name='shukyougaku-jiten' />。
{{要検証|=シャーマニズムという用語で、上記の現象自体に加えて、その現象に基づく[[思想]]を呼ぶこともある([[ミルチャ・エリアーデ]]など)。|date=2015年11月}}広義には[[地域]]を問わず同様の宗教、現象、思想を総合して'''シャーマニズム'''と呼ぶ。
== 用語 ==
日本語における「シャーマニズム」「シャマニズム」の区別(母音の長短)は、研究者の学問分野と密接な関係がある。[[北海道]]・[[樺太]]・[[シベリア]]・[[満州]]・[[モンゴル]]・[[朝鮮半島]]を中心とした北方文化圏の研究者の多くは「シャマン」「シャマニズム」という表記を用いてきた。ツングース語の発音は「シャマン」に近いとされる。一方、[[沖縄]]([[琉球王国]])・[[台湾]]・[[中国]]南部・[[東南アジア]]・[[インド]]を中心とした南方文化圏の研究者の多くは「シャーマン」「シャーマニズム」の表記を用いてきた。また欧米の民族学・人類学・宗教学の研究を紹介する際の翻訳語としては、「シャーマニズム」「シャマニズム」が任意に用いられている。[[堀一郎]]の場合、「シャーマニズム」という表記にはこの対象を世界的視野で捉えようという意図が込められていると指摘する<ref>{{Cite book|和書|author=楠正弘|chapter=シャマニズム論の展開|title=堀一郎著作集 第八巻 シャマニズムその他|publisher=未來社|isbn=9784624990084|year=1982}}</ref>。{{仮リンク|ウノ・ハルヴァ|en|Uno Harva|fi|Uno Harva}}の『シャマニズム』を1971年に翻訳した[[田中克彦]]は、2013年に再刊された[[東洋文庫]]版の後書きで、「語源とされるツングース語によれば、シャマンあるいはシャマーンとするのが至当であると思われる」と述べ、英語の発音を由来とするシャーマンという言葉の使用を批判している{{Sfn|ハルヴァ|2013b|p=316}}。
== シャーマニズムの定義 ==
シャーマニズムの定義は学者によって様々である。
まず地域であるが、北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。
また超自然的存在と交信する際、[[脱魂]]と[[憑依]](憑霊)のどちらを基本と捉えるかについても意見が分かれている。[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]は[[脱魂]](ecstasy)のほうを本質的だとするが、[[マッカロック]](J. A. [[:en:MacCullock|MacCullock]])は[[憑依]](possession)を重視し、I. M. [[ルイス]]は一方を強調することを批判する。例えば[[シベリア]]など北東アジア研究者は脱魂を重視し、東南アジアや南米の研究者は憑霊を重視し、日本や[[朝鮮半島]]の研究者は憑霊ないし折衷説をとる傾向がある<ref>[[#櫻井 (1988)|櫻井 (1988)]] {{要ページ番号|date=2016-01-16}}</ref>。多くの学者は地域・民族・文化などの相違によってそのいずれかが積極的な意味をもつものと考えている<ref name='shukyougaku-jiten' />。[[パウルゾン]](I. Paulson)は、脱魂と憑依を区別しつつ、脱魂ではシャーマンはトランスの中でみずから行動するのでトランスが解けた後で体験内容を説明することができるのに対して、憑依ではシャーマンに憑依した精霊や死霊が活躍するのでトランスから覚めても本人は何事が生じたのか説明できないとした<ref name='shukyougaku-jiten' />。
[[佐々木宏幹]]は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとする<ref>[[#佐々木 (1984)|佐々木 (1984)]]、4-11頁。</ref>。
*'''[[トランス (意識)|トランス]]'''という特別の精神状態において[[脱魂]](ecstasy)または[[憑依]](憑霊)(possession)が行われる
*[[神]][[仏]]・精霊などの超自然的存在と直接接触・交流・交信
*社会的に一定の役割を持つ[[信仰]]と行動の体系
[[トランス (意識)|トランス]]は、ある種の異常心理状態ではあるが、平常の社会人と半ば交流できる状態でもある。また演技的なものもあると考えられている。「'''[[脱魂]]'''」とは、ある人物の霊魂が身体を離脱することであり、「'''[[憑依]](憑霊)'''」とは、神霊・[[精霊]]がある人物の身体に憑くことである。脱魂したシャーマンは、その間、超自然的存在と交流していて、その事情を報告する場合もあるが、憑依されたシャーマンは、その間のことを正気に返った時にまるで覚えていない場合が少なくない<ref>[[#佐々木 (1984)|佐々木 (1984)]]、48頁ほか。</ref>。また「憑霊(憑依)」はトランス状態になくても起こっていると考えられる場合がある<ref>[[#佐々木 (1984)|佐々木 (1984)]]、60頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|[[小松和彦]](1982年)によると、日本で「つき(憑き)」と呼ばれるものは「憑霊」よりもかなり広い概念である<ref>[[#小松 (1982)|小松 (1982)]] {{要ページ番号|date=2016-01-16 }}</ref>。}}。
([[トランスパーソナル心理学]]と[[変性意識状態]]も参照。)
なお上記の定義からも分かるように、シャーマニズムという概念は、別の学術的概念「[[アニミズム]]」にも分類可能な要素を含んでいるので、一般に、実際の宗教はただシャーマニズムである、ということにはならない。
== シャーマンの種類 ==
[[ジェームズ・フレイザー]]は、[[霊媒]](medium)、[[予言者]](prophet)、[[見者]](seer)、[[呪師]](sorcerer)としていたがその多くはシャーマンに分類される。佐々木宏幹は少なくとも5つに分ける必要性を主張している<ref>[[#佐々木 (1984)|佐々木 (1984)]]、109-111頁。</ref>。
*[[脱魂]]型 - シャーマンの[[霊魂]]が身体を離脱して[[霊界]]に赴き、諸精霊を使役してもろもろの役割を果たす。広義の精霊統御者型の一種。
*精霊統御者型 - [[補助霊]]を駆使してもろもろの役割を果たす。
*霊媒型・憑霊型 - シャーマンが神霊・精霊を自らの身体に憑依させ、人格変換が行われ、シャーマンは神霊自身として一人称で語る。
*[[予言者]]型・霊感型 - シャーマンは神霊・精霊と直接交信し、その意思を三人称で語る。シャーマン自身の個人的意志がある。
*見者型 - 神霊の姿が見え、或いは声が聞こえる。神霊の意思を三人称で語る。
日本の場合、これらのうち複数の役割を1人で兼ねている場合が多いとされる。また若い頃は「霊媒」であったが、年を重ねるにつれて「予言者」→「見者」へと変わっていったと述懐する例が多い。
人がシャーマンと認められる過程にはいくつかの種類がある。社会によっても異なる。
*召命型 - ある日突然心身の異状([[巫病]])として現れ、神霊によって選ばれたものと見なされる。選ばれようと願っていてもなれるものではないが、選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することも困難。[[沖縄県]]周辺の「ウマレ[[ユタ]]」など。
*世襲型 - 血統により選ばれる。霊的資質、人格が継承されると考えられる。沖縄県周辺の[[ノロ]]など。
*修行型 - 身体的理由(特に盲目)や経済的事情等からシャーマンになるための修行・学習を積む。沖縄県周辺の「ナライ[[ユタ]]」、日本の[[東北地方|東北]]の「[[イタコ]]」など。
憑依する主体にもいくつかの種類があるとされている。
*死口(しにくち)、仏口(ほとけくち)
**新口(しんくち)、新ホトケ
**古口(ふるくち)、古ボトケ
*生口(いきくち)
*神口(かみくち)
[[アブラハムの宗教]]における[[預言者]]も、神や[[天使]]などが[[憑依]]すると考えれば一種のシャーマン(予言者型)と見ることもできる。{{独自研究範囲|だが強い倫理観に基づき、神の意思として当時の社会を批判している点で特異である。|date=2016-01-16}}
==日本のシャーマン==
日本、韓国、台湾、中国大陸、東南アジアなどにおいては、脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多い<ref>{{Cite book|和書|title=宗教学事典|year=2010|publisher=丸善出版|page=311}}</ref>。
古来「巫女」と呼ばれる職能者が政治や軍事などの諸領域で活躍したことはよく知られている<ref name='shukyougaku-jiten' />。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書東夷伝の[[倭人]]条、いわゆる『[[魏志倭人伝]]』に記述された[[邪馬台国]]女王の'''[[卑弥呼]]'''が用いたという「'''[[鬼道]]'''」も'''シャーマニズム'''と言われている<ref name='shukyougaku-jiten' />。また『[[日本書紀]]』の、神代巻の[[天照大神]]、[[崇神天皇|崇神]]紀の[[倭迹迹日百襲姫命|倭迹迹日百襲姫]]、[[垂仁天皇|垂仁]]紀の[[倭姫命|倭姫]]、[[仲哀天皇|仲哀]]紀の[[神功皇后]](気長足姫)などもシャーマンの例として挙げられる<ref name='shukyougaku-jiten' />。いずれも卑弥呼に比定する有力説のある人物である。
[[山上伊豆母]]は、4世紀の[[三輪王朝]]、5世紀の[[河内王朝]]、そして崇仏派の[[蘇我氏]]による大化の改新によって[[律令制]]国家となる以前の[[大和朝廷]]は、[[三輪氏]]や[[多氏]]といった巫を司る一族と政を司る[[治天下大王|大王]]の共同統治が行われてきたと主張している{{sfn|山上|1989|pages=84-100}}。その後も[[壬申の乱]]に至るまで、[[常世神]]など縁起不詳の神が顕現し世を騒がす事件が起きている。『日本書紀』には壬申の乱の際に、[[天活玉命|生霊神]]という神が顕現し大海人皇子([[天武天皇]])を守護すると神語したという記述がある。
現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の[[恐山]]における[[イタコ]]、沖縄県周辺の[[ユタ]](ユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる)など、各地域にシャーマンに当てはまる事例がある{{sfn|佐々木伸一|1988|pages=1-46}}。また都市においてもみられる{{sfn|佐藤|1987|pages=209-241}}。また[[小口偉一]]は、日本の宗教信仰の基底にシャマニズム的傾向があるとし、新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした<ref name='shukyougaku-jiten' />。[[新宗教]]の[[教祖]]らの中には召命型シャーマンの系統に属すると思われるような人がいるのである<ref name='shukyougaku-jiten' />。
近年、旧来とは違った型のシャーマンが多数出現している。依頼者の心身異常の原因について、動物霊の障りであるという説明を避け、意識・無意識・潜在意識といった心理学用語を使って説明する者たちで、チャネラー、スピリチュアル・カウンセラーなどと呼ばれるが、これらも新しい装いをしたシャーマンに属すると言えよう<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=宗教学事典|year=2010|publisher=丸善出版|page=313}}</ref>。
==中国のシャーマン==
中国大陸の東北部で流行っているシャーマンは、出馬仙と呼ばれている。その出馬仙は、原始宗教のシャーマニズムの伝統を受け継いでおり、主に四つの動物たち(胡黄嫦蟒)とグループを形成し、一緒に占い・除霊・儀式活動していくこと。キツネ、ヘビ、イタチ、など修行した動物霊が、人間の体に憑依することで、人に癒しの能力を与えるという。<ref>{{Cite web |title=百度百科-验证 |url=https://baike.baidu.com/anticrawl/captchaview?captchaSourceUrl=https%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fitem%2F%25E5%2587%25BA%25E9%25A9%25AC%25E4%25BB%2599%2F3532334%3Ffr%3Daladdin&captchaSourceFrom=baike_pc_lemmapage_riskscore |website=baike.baidu.com |access-date=2023-04-13}}</ref>
近年、中国の東北部では、占いの能力もなくシャーマンを偽装して詐欺する人が多く、本当の出馬仙が探せないぐらい少なくなっていると言われる。
== 関連文献 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい。発行年順。
書籍等の宣伝はご遠慮下さい-->
*{{Cite book|和書|author=フィンダイゼン|translator=和田完|title=霊媒とシャマン|publisher=冬樹社|year=1977|}}<!--2011年9月9日 (金) 17:55 (UTC)-->
*I・M・ルイス『エクスタシーの人類学 憑依とシャーマニズム』平沼孝之訳、法政大学出版局、1985年。ISBN 9784588001536。
*ピアーズ・ヴィテブスキー『シャーマンの世界』岩坂彰訳、創元社、1996年。ISBN 9784422215013。
*{{Cite book|和書|author=ミハーイ・ホッパール|authorlink=:de:Mihály Hoppál|translator=村井翔|title=図説 シャーマニズムの世界|publisher=[[青土社]]|isbn=978-4-7917-5616-2|date=1998-04|}}<!--2011年9月9日 (金) 17:55 (UTC)-->
*{{Cite book|和書|author=グローリア・フラハティ|translator=[[野村美紀子]]|title=シャーマニズムと想像力|publisher=工作舎|isbn=9784875023876|year=2005||date=}}<!--2010年11月5日 (金) 10:00 (UTC)-->
*{{Cite book|和書|author=オーケ・フルトクランツ|chapter=シャマニズムの研究史|translator=山田仁史|editor=岩田美喜・竹内拓史 |title=ポストコロニアル批評の諸相|publisher=東北大学出版会|isbn=9784875023876|year=2008-03||date=}}<ref>{{Cite book|和書|title=ポストコロニアル批評の諸相|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA85774860|publisher=東北大学出版会|date=2008|language=ja|first=|last=|first2=|last2=|first3=|last3=|first4=|last4=|first5=|last5=|first6=|last6=|first7=|last7=|first8=|last8=|first9=|last9=|year=|chapter=『シャマニズムの研究史』 / [[:de:Åke Hultkrantz|オーケ・フルトクランツ]] [執筆] ; 山田仁史訳・解説|Author-link6=|Author-link5=:de:Åke Hultkrantz|author=岩田美喜|author5=Hultkrantz, Åke|author2=竹内拓史|author3=福士航|author4=平良妙子|author6=山田仁史|author7=翠川博之|author8=廣松勲|author9=Vlitos, Paul}}</ref><!--2012年9月12日 (水) 16:48 (UTC)-->
*{{Cite book|和書|author=山田仁史|chapter=シャマニズムをめぐる神話と世界観|editor=[[高倉浩樹]]|title=極寒のシベリアに生きる-トナカイと氷と先住民|publisher=新泉社|isbn=9784875023876|year=2012-04||date=}}
<!--~~~-->
*{{Cite book|和書|author=オーケ・フルトクランツ|chapter=シャマニズムの研究史|translator=山田仁史|editor=岩田美喜・竹内拓史 |title=ポストコロニアル批評の諸相|publisher=東北大学出版会|isbn=9784875023876|year=2008-03||date=}}
== 関連作品 ==
=== 映画 ===
*''Quantum Men'' (カルロス・セラーノ・アスコーナ [[:es:Carlos Serrano Azcona|Carlos Serrano Azcona]]{{Es icon}})、スペイン、メキシコ、2011年<ref>{{Cite web|title=Quantum Men|url=https://mubi.com/films/quantum-men|accessdate=2019-10-26|language=en|year=2011|last= Azcona |first=Carlos Serrano|publisher=mubi.com|subscription=yes}}</ref>。
*''D'autres mondes'' ([[ヤン・クーネン]])、フランス、2004年<ref>{{Citation|和書|title=D'autres mondes (Other Worlds)|url=https://www.imdb.com/title/tt0347718/|accessdate=2019-10-26|language=en|year=2004|last=|first=|publisher=IMDb|isbn=}}</ref>。
*''Bells From the Deep'' ([[ヴェルナー・ヘルツォーク]])、ドイツ、1993年<ref>{{Citation|和書|title=Glocken aus der Tiefe - Glaube und Aberglaube in Rußland|url=https://www.imdb.com/title/tt0106384/|accessdate=2019-10-26|language=en|year=1993|last=|first=|publisher=IMDb|isbn=}}</ref>。
* ''Les maîtres fous'' ([[ジャン・ルーシュ]])、フランス、1955年<ref>{{Citation|和書|title=Les maîtres fous|url=https://www.imdb.com/title/tt0048363/|accessdate=2019-10-26|language=en|year=1957|last=|first=|publisher=IMDb|isbn=}}</ref>。
*''Au pays des mages noirs'' (ジャン・ルーシュ)、フランス、1947年。([[:en:Cinema of Niger#Colonial_beginnings|ナイジェリア]]が舞台{{en icon}})
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== <span id="参考文献"></span>参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
{{参照方法|date=2016年1月17日 (日) 10:52 (UTC) |section=1}}
代表執筆者の50音順
*{{Cite book|和書|author-link=ミルチア・エリアーデ|first= ミルチア|last=エリアーデ |translator=堀一郎|title=シャーマニズム 上|publisher=筑摩書房|isbn=9784480088376|year=2004|}}<!--2005年5月7日 (土) 04:10 (UTC)-->
*{{Cite book|和書|first= ミルチア|last=エリアーデ|<!-- author=ミルチア・エリアーデ -->|translator=堀一郎|title=シャーマニズム 下|publisher=筑摩書房|isbn=9784480088383|year=2004|}}<!--2005年5月7日 (土) 04:10 (UTC)-->
* 小松 (1982):{{Cite book|和書|author=小松和彦|title=憑霊信仰論|publisher=伝統と現代社、現代ジャーナリズム出版会(発売)|date=1982-09|id={{全国書誌番号|82053262}}|NCID=BN00333133|ref=小松 (1982) }}
** のち文庫化。小松和彦 『憑霊信仰論-妖怪研究への試み』 [[講談社]]〈[[講談社学術文庫]] 1115〉、1994年3月。ISBN 978-4-06-159115-8。
* 櫻井 (1988):{{Cite book|和書|author=櫻井徳太郎||title=日本シャマニズムの研究 上 5-伝承と生態|publisher=吉川弘文館|series=櫻井徳太郎著作集|origyear=1974|date=1988-01|isbn=978-4-642-07339-4|ref=櫻井 (1988)}}<!--2009年7月6日 (月) 23:07 (UTC)-->
* 佐々木 (1973):{{Cite book|和書|editor=小口偉一・堀一郎|title = 宗教学辞典|year =1973|publisher =東京大学出版会|chapter = シャマニズム|author=佐々木宏幹|authorlink=佐々木宏幹|pages = 249-253|isbn=9784130100274 |ref=佐々木 (1973) }}<!--2008年1月23日 (水) 03:11 (UTC)-->
*{{Cite book|和書|author=佐々木宏幹|title=シャーマニズム-エクスタシーと憑霊の文化|publisher=中央公論新社|isbn=9784121005878|year=1980|}}<!--2007年10月6日 (土) 06:36 (UTC)-->
* 佐々木 (1984):{{Cite book|和書|author=佐々木宏幹|title=シャーマニズムの人類学|publisher=弘文堂|isbn=9784335570315|year=1984|ref=佐々木 (1984) }}
*{{Cite book|和書|author=佐々木宏幹|chapter=祭司の誕生-神道の成立をめぐって|title=よみがえる神道の謎|edition=歴史読本臨時増刊|publisher=新人物往来社|year=1989|}}<!--2006年4月19日 (水) 12:42 (UTC)-->
*{{Cite book|和書|author=佐々木宏幹|title=シャーマニズムの世界|publisher=講談社||series=講談社学術文庫|isbn=9784061590557|year=1992|}}<!--2007年10月6日 (土) 06:36 (UTC)-->
*{{Cite journal|和書|author=佐々木伸一|title=シャーマンの類型 : 日本および周辺の地域に関して |date=1988-07|publisher=筑波大学歴史人類学系民族学研究室|journal=族 : ヤカラ |number=7|url=https://hdl.handle.net/2241/14484|ref={{sfnref|佐々木伸一|1988}}|pages=1-46}}
*{{Cite journal|和書|author=佐藤憲昭|title=新潟市のシャーマン|date=1987-03|publisher=駒澤大学|journal=駒沢大学文化|volume=10|naid=110007003984|ref={{sfnref|佐藤|1987}}|pages=209-241}}
*ウノ・ハルヴァ (底本は1971年・三省堂刊{{NCID|BN01935641}})
** {{Cite book|和書 | last =ハルヴァ|first=ウノ| title = シャマニズム1 -アルタイ系諸民族の世界像| translator= 田中克彦|series = 東洋文庫 | date = 2013a| origyear= |edition = | publisher = 平凡社 | isbn =978-4-582-80830-8| <!--1巻は参照していないため、以下コメントアウト。この出典を用いるときにコメントアウト部分を削除してください ref= {{Sfnref|ハルヴァ|2013a}}-->}}
** {{Cite book|和書 | last =ハルヴァ|first=ウノ| title = シャマニズム2 -アルタイ系諸民族の世界像| translator= 田中克彦|series = 東洋文庫 | date = 2013b| origyear= |edition = | publisher = 平凡社 | isbn =978-4-582-80835-3| ref= {{Sfnref|ハルヴァ|2013b}}}}
*{{Cite book|和書|author=山上伊豆母|authorlink=山上伊豆母|title=古代神道の本質|publisher=法政大学出版局|year=1989|ISBN=4588306014|ref={{sfnref|山上|1989}} |pages=84-100}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shamanism}}
{{Div col|cols=2}}
* [[呪術医]]
* [[タンキー]]({{lang|zh|童乩}}。中国のシャーマニズム)
* [[巫俗]](朝鮮のシャーマニズム)
* [[アニミズム]]
* [[悪魔憑き]] - [[狸憑き]]
* [[悪魔払い]] - [[エクソシスト]] - [[悪霊ばらい]]
* [[幽体離脱]] - [[体外離脱]]
* [[原始宗教]]
* [[チャネリング]]
* [[オートマティスム]] - [[ダウジング]] - [[こっくりさん]] - [[ウィジャボード]]
* [[天までとどく木#シャーマニズムでの天までとどく木]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
* 岩井大慧、「[https://doi.org/10.14890/minkennewseries.14.1_51 「わがシャマニズム研究の回顧(〈特集〉シャマニズム研究)]」」『季刊民族學研究』 日本文化人類学会、 1949年 14巻 1号 p.51-57, {{naid|110001837880}}, {{doi|10.14890/minkennewseries.14.1_51}}
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14,209 |
642年
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642年(642 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[壬寅]]
* [[日本]]
** [[斉明天皇|皇極天皇]]元年
** [[皇紀]]1302年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]16年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[栄留王]]25年、[[宝蔵王]]元年
** [[百済]]:[[義慈王]]2年
** [[新羅]]:(王)[[善徳女王]]11年、(元号)[[仁平 (新羅)|仁平]]9年
** [[檀紀]]2975年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=642|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 2月19日 ([[斉明天皇|皇極天皇]]元年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - 宝皇后が[[即位]]し、第35代[[天皇]]・皇極天皇となる。[[蘇我入鹿]]、自ら国政を執る。
* 6 - 8月、大干魃となり、[[蘇我蝦夷]]、降雨祈願するが効あらわれず、天皇の祈雨で降雨する、という。
* 9月 - [[百済大寺]]と[[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]の造営のために[[百姓]]を徴発する。
* 12月 - [[小墾田宮]]に移る。
* [[ニハーヴァンドの戦い]] - [[サーサーン朝]][[ペルシア]]が[[イスラム帝国]]軍に敗れ、国体が事実上崩壊する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:642年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:642年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[キュネイルス]]、[[七王国時代]][[ブリタンニア]]の[[ウェセックス]]の王
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|642}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:642年|*]]
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14,210 |
慈悲
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仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。
慈悲は元来、4つある四無量心(四梵住)の徳目「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である。
これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。
漢訳大乗経典を用いる仏教では、慈と悲を含む四無量心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁である。いわば慈悲心の生起する理由とその在り方をいう。
この三縁の慈悲とは、第一は一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、第二は聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、第三は仏の哀愍の心であると言える。
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] |
仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。 慈悲は元来、4つある四無量心(四梵住)の徳目「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である。 慈はサンスクリット語の「マイトリー (maitrī)」に由来し、「ミトラ (mitra)」から造られた抽象名詞で、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である。
悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」(mahā-karunā)と称する。 これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。
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[[仏教]]において'''慈悲'''(じひ)とは、他の[[生命]]に対して[[楽 (仏教)|楽]]を与え、[[苦_(仏教)|苦]]を取り除くこと([[抜苦与楽]])を望む心の働きをいう<ref name=uokawa/>。一般的な[[日本語]]としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、'''慈しみ'''」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。
慈悲は元来、4つある[[四無量心]]([[四梵住]])の'''徳目'''「'''[[慈 (仏教)|慈]]・[[悲 (仏教)|悲]]・[[喜 (仏教)|喜]]・[[捨 (仏教)|捨]]'''」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である<ref name=uokawa>{{Cite|和書 |author=[[魚川祐司]] |date=2015-05 |title=仏教思想のゼロポイント |isbn=978-4103391715 |publisher=新潮社 |pages=165-167}}</ref>。
* 慈は[[サンスクリット語]]の「[[慈 (仏教)|マイトリー]] ({{lang|sa|maitrī}})」に由来し、「ミトラ ({{lang|sa|mitra}})」から造られた抽象名詞で{{efn2|[[パーリ語]]ではメッター ({{lang|pi|mettā}}) とミッタ ({{lang|pi|mitta}}) である。}}、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である<ref name=uokawa/>。
* 悲はサンスクリット語の「[[悲 (仏教)|カルナー]]」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である<ref name=uokawa/>。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「'''大悲'''」({{lang|sa|mahā-karunā}})と称する。
これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない<ref name=uokawa/>。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は[[縁起]]の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである<ref name=uokawa/>。
== 漢訳仏教圏における慈悲の思想的発展 ==
漢訳大乗経典を用いる仏教では、慈と悲を含む[[四無量心]]を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁である。いわば慈悲心の生起する理由とその在り方をいう。
# '''衆生縁'''とは、[[衆生]](しゅじょう、jantu,sattva)を対象とする慈悲心である{{refnest|name=ニッポニカ_慈悲|[[藤田宏達]]、[https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E6%82%B2-74800#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「慈悲」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。'''有情縁'''とも言う{{efn2|「論曰。慈有三種。一有情縁。二者法縁。三者無縁。」(『仏地経論』、大正新脩大蔵経、釈経論部(下)第26巻、p.314)}}。
# '''法縁'''とは、すべてのものごと([[法 (仏教)|法]])は実体がなく[[空 (仏教)|空]]であると知って、執著を断じてから起こす慈悲心{{refnest|name=ニッポニカ_慈悲}}。
# '''無縁'''とは、何者をも対象とせずに起こす慈悲心{{refnest|name=ニッポニカ_慈悲}}。それは仏にしかない心であるという{{refnest|name=ニッポニカ_慈悲}}。
この三縁の慈悲とは、第一は一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、第二は聖人、つまり[[阿羅漢]]や[[菩薩]]の位にあるものの起こす心、第三は[[仏]]の哀愍の心であると言える。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
<!-- {{Commonscat|Karuṇā}} -->
* [[四無量心]]
* [[観音]]
* [[愛#仏教での愛と慈悲]]
* [[慈悲の瞑想]]
* [[楽 (仏教)]]
== 外部リンク ==
* [https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E6%85%88%E6%82%B2 CiNii>慈悲]
* [http://tripitaka.l.u-tokyo.ac.jp//INBUDS/search.php?m=sch&a=&uekey=慈悲&ekey1=title INBUDS>慈悲]
*{{TED talk|id=matthieu_ricard_how_to_let_altruism_be_your_guide|title=マチウ・リカール:愛他性に導かれる生き方|詳細=元フランスの[[パスツール研究所]]の研究員で、仏教徒の{{仮リンク|マチウ・リカール|en|Matthieu Ricard}}による|date=2014年|time=16分7秒 }}
* {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
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[[Category:仏教用語]]
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14,211 |
鮫島事件
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鮫島事件(さめじまじけん)は、匿名掲示板2ちゃんねるなど主に日本のインターネット上で時折言及される事件。「何らかの理由で真実が日本国政府と公安調査庁に隠蔽されており絶対に語ってはならない内容である」という文脈で語られる項目である。
鮫島事件が知られるようになったのは、2001年5月24日に匿名掲示板2ちゃんねるのラウンジ@2ch掲示板(以下ラウンジ板)に立てられた「伝説の「鮫島スレ」について語ろう」というスレッドである。その最初の内容は
スレッドです。知らない方も多いと思いますが、2ちゃんねる歴が 長い方は覚えてる人も多いと思います。 かくいう俺も「鮫島スレ」を見てから2ちゃんねるにはまった ひとりでして、あれを見たときのショックは今でも覚えています。
というもので、好奇心を誘う書き方であり、追随した人々が各々、事件の内容やネット上の反応について断片的な書き込みを始めた。その後、このスレッドを発端として鮫島事件に関するスレッドが幾つも立てられ、その流れの中で、「鮫島=タブー」という暗黙のルールが出来上がり、人が死んだ、公安が絡んでいるなどの情報が追加されていった。
その後も、ふとしたきっかけから鮫島事件という名前を耳にした人の「鮫島事件とは何か」という書き込みに対して、片や「ネタ(真実を装った悪ふざけの意味)だからやめろ」という否定的な書き込みや、一方「あれは2ちゃんの影の部分だ」「あの事件のことを思い出させるな」などの書き込みがあり、本筋を伴わないまま断片的な情報だけがたくさん追加されていくことで、「本当のところは教えてもらえないけれど何かあるらしい」というイメージが形成され、事件の名称と共に流布されていくことになった、とされている。
基本的に「鮫島事件は架空の事件であり、その存在自体が、新参者や本気にした者を釣るためのジョークであった」と解釈される。この事件をジョークと定義する観点からは、鮫島事件とは「ウェブ上のハイパーリアリティの自走に自覚的な人たちが共犯となって、ハイパーリアリティを自分たちで構築していくゲーム」、「リテラシーを共有するためのネタ」、「互いのリテラシーを確認し合い、高め合うゲーム」であると定義される。鮫島事件というジョークが定着した理由に、掲示板という顔の見えない文字だけのコミュニケーションであること、当時の2ちゃんねるは現在よりもアングラ色が強く、更に当時の2ちゃんねるは洒落や酔狂を好む気風が強かったことや、テレホーダイを利用する深夜の利用者が多かったことも、怖い作り話を歓迎する背景に繋がったという意見もある。
関連して、2ちゃんねるの初代管理人である西村博之の言葉として、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」というものが知られている。「鮫島事件」は実態不明・実在不明の事件であるにもかかわらず、その後も時折思い出したように言及され、「それだけはやばい」という反応が書き込まれる。このことは、2ちゃんねるに書き込まれた情報は、とりあえずは「嘘ではないか?」として疑いの思考を捨ててはならないことと、ことの真偽を読み手自身が検証しなければならないこと、そして、それが不可能な場合は、真偽の判断は保留したままで、ネタをネタとして楽しむこと、これらのいわゆる作法・ネチケットが求められているということを端的に示している。なお虚偽の情報が書き込まれることは2ちゃんねるに限らず、不特定多数が書き込むことができるウェブサイトにおいては(サイトの主旨にもよるが)普通に存在する、と、鮫島事件を虚であると定義した論説で引用されることがある。
なお発端となるスレッドが立ち、数千もの発言が交わされてから数日後、ラウンジ板にはそのスレッドを立てた張本人を名乗る者が現れ、鮫島事件について知っている口ぶりで、発端となるスレッドを立てた人物>>1と、同スレッドで鮫島事件について執拗に質問を繰り返すレス番号>>16が同一のID(識別子)であることを指摘し、これは自分が発想したジョークであり、序盤の>>1番から>>30番までの書き込みの多くは自分の自作自演であると説明している。
発端となるスレッドを立てた張本人を名乗る者により、事件がジョークであると宣言された。しかしその後もこの事件の話は収束せず、鮫島事件は語り継がれ、虚偽の情報が追加され続けている。
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鮫島事件(さめじまじけん)は、匿名掲示板2ちゃんねるなど主に日本のインターネット上で時折言及される事件。「何らかの理由で真実が日本国政府と公安調査庁に隠蔽されており絶対に語ってはならない内容である」という文脈で語られる項目である。
|
'''鮫島事件'''(さめじまじけん)は、[[匿名掲示板]][[2ちゃんねる]]など主に[[日本]]の[[インターネット]]上で時折言及される[[事件]]<ref name="荻上2007_pp208">{{Harvnb|荻上|2007|Ref=CITEREF_荻上2007|pp=208-209}}</ref><ref name="並木2009_p107">{{Harvnb|並木|2009|Ref=CITEREF_並木2009|p=107}}</ref>。「何らかの理由で真実が[[日本国政府]]と[[公安調査庁]]に隠蔽されており絶対に語ってはならない内容である」という文脈で語られる項目である。
== 概要 ==
鮫島事件が知られるようになったのは、[[2001年]][[5月24日]]に匿名掲示板2ちゃんねるの[[ラウンジ板|ラウンジ@2ch掲示板]](以下ラウンジ板)に立てられた「伝説の「鮫島スレ」について語ろう」という[[スレッドフロート型掲示板|スレッド]]<ref name="2ch990712570">{{Cite web|和書
|author=22世紀を目指す名無しさん(ID:yWtu.nZk)
|date=2001-05-24
|url=http://corn.2ch.net/entrance/kako/990/990712570.html
|title=伝説の「鮫島スレ」について語ろう
|work=[[ラウンジ板]]
|publisher=[[2ちゃんねる]]
|accessdate=2009-06-18
}}</ref>である。その最初の内容は
{{Quotation|ここはラウンジでは半ば伝説となった「鮫島スレ」について語る<br />
スレッドです。知らない方も多いと思いますが、2ちゃんねる歴が<br />
長い方は覚えてる人も多いと思います。<br />
かくいう俺も「鮫島スレ」を見てから2ちゃんねるにはまった<br />
ひとりでして、あれを見たときのショックは今でも覚えています。<br />
誰かあのスレ保存してる人いますか?|22世紀を目指す名無しさん(ID:yWtu.nZk)}}
というもので<ref name="2ch990712570" />、好奇心を誘う書き方であり、追随した人々が各々、事件の内容やネット上の反応について断片的な書き込みを始めた。その後、このスレッドを発端として鮫島事件に関するスレッドが幾つも立てられ、その流れの中で、「鮫島=[[タブー]]」という暗黙のルールが出来上がり、人が死んだ、[[公安警察|公安]]が絡んでいるなどの情報が追加されていった<ref name="jcast20110628">{{Cite news
|date=2011-06-28
|url=https://www.j-cast.com/2011/06/28099759.html?p=all
|title=「せっかく忘れてたのに」 2ちゃんねる「鮫島事件」が映画化
|work=J-CASTニュース
|publisher=[[ジェイ・キャスト]]
|accessdate=2011-06-29
}}</ref>。
その後も、ふとしたきっかけから鮫島事件という名前を耳にした人の「鮫島事件とは何か」という書き込みに対して、片や「[[ガセネタ|ネタ]](真実を装った悪ふざけの意味)だからやめろ」という否定的な書き込みや、一方「あれは2ちゃんの影の部分だ」「あの事件のことを思い出させるな」などの書き込みがあり、本筋を伴わないまま断片的な情報だけがたくさん追加されていくことで、「本当のところは教えてもらえないけれど何かあるらしい」というイメージが形成され、事件の名称と共に流布されていくことになった、とされている<ref name="並木2009_p107" /><ref name="金田一2009_p27">{{Harvnb|金田一|2009|Ref=CITEREF_金田一2009|p=27}}</ref>。
== ジョーク説の展開 ==
{{独自研究|section=1|date=2019年8月}}
基本的に「鮫島事件は架空の事件であり、その存在自体が、新参者や本気にした者を[[釣り#比喩・派生語|釣る]]ためのジョークであった」と解釈される。この事件をジョークと定義する観点からは、鮫島事件とは「ウェブ上のハイパーリアリティ{{#tag:ref|現実の事件とは関係なく、あるいはオリジナルとなる事件そのものが存在していないにも関わらず、メディア上で実体に基づかないイメージが語られ暴走した結果、構築された現実感(リアリティ)。[[ジャン・ボードリヤール]]が[[湾岸戦争]]の報道過熱を論じた際に用いた概念<ref>{{Harvnb|荻上|2007|Ref=CITEREF_荻上2007|p=118}}</ref>。|group="注"}}の自走に自覚的な人たちが共犯となって、ハイパーリアリティを自分たちで構築していくゲーム」、「[[リテラシー]]を共有するためのネタ」、「互いのリテラシーを確認し合い、高め合うゲーム」であると定義される<ref name="荻上2007_pp208" />。鮫島事件というジョークが定着した理由に、掲示板という顔の見えない文字だけのコミュニケーションであること、当時の2ちゃんねるは現在よりも[[アンダーグラウンド (文化)#インターネット|アングラ]]色が強く<ref name="並木2009_p107" />、更に当時の2ちゃんねるは洒落や酔狂を好む気風が強かったことや、[[テレホーダイ]]を利用する深夜の利用者が多かったことも、怖い作り話を歓迎する背景に繋がったという意見もある<ref name="jcast20110628" />。
関連して、[[2ちゃんねる]]の初代管理人である[[西村博之]]の言葉として、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」というものが知られている<ref>{{Cite web|和書
|author=熊山准
|coauthors=四家正紀; 山崎一幸
|date=2008-11-19
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|title=ネットの常識・非常識 第1回 ネットのクチコミって信じていいの? 後編
|work=[[R25 (雑誌)|R25.jp]]
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|author=熊山准
|coauthors=四家正紀; 山崎一幸
|date=2008-11-19
|url=http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000005601
|title=ネットの常識・非常識 第1回 ネットのクチコミって信じていいの? 前編
|work=[[R25 (雑誌)|R25.jp]]
|publisher=[[リクルートホールディングス|リクルート]]
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なお発端となるスレッドが立ち<ref name="2ch990712570" />、数千もの発言が交わされてから数日後、ラウンジ板にはそのスレッドを立てた張本人を名乗る者が現れ<ref name="2ch991066912">{{Cite web|和書
|author=ドリー(ID:U8rBM4nk)
|date=2001-05-29
|url=http://corn.2ch.net/entrance/kako/991/991066912.html
|title=「鮫島スレ」の真相
|work=[[ラウンジ板]]
|publisher=[[2ちゃんねる]]
|accessdate=2009-08-26
}}</ref>、鮫島事件について知っている口ぶりで、発端となるスレッドを立てた人物>>1と、同スレッドで鮫島事件について執拗に質問を繰り返すレス番号>>16が同一のID([[識別子]])であることを指摘し、これは自分が発想したジョークであり、序盤の>>1番から>>30番までの書き込みの多くは自分の[[自作自演 (インターネット)|自作自演]]であると説明している<ref name="2ch991066912" />。
== 実在説の展開 ==
{{独自研究|section=1|date=2019年8月}}
発端となるスレッドを立てた張本人を名乗る者により、事件がジョークであると宣言された。しかしその後もこの事件の話は収束せず、鮫島事件は語り継がれ<ref name="並木2009_p108">{{Harvnb|並木|2009|Ref=CITEREF_並木2009|p=108}}</ref>、虚偽の情報が追加され続けている。
== 小説化 ==
* 第6回メフィスト賞を受賞したミステリー作家の[[積木鏡介]]が、作家の英語圏進出プロジェクト「[[The BBB]]」で都市伝説刑事シリーズを刊行。2016年8月に発売された『都市伝説刑事 事件4: 鮫島事件』<ref>[https://thebbb.net/jp/ebooks/urban-legend-detectives-4.html 『都市伝説刑事 事件4: 鮫島事件』]</ref>では、鮫島事件が扱われている。なお、本作は日本語版・英語版の電子書籍が発売されている。
== 映画化 ==
* 映画制作会社[[ジョリー・ロジャー (企業)|ジョリー・ロジャー]]は「鮫島事件」にまつわる恐怖を題材とした映画『2ちゃんねるの呪い 劇場版』を制作<ref>[http://eiga.com/news/20110627/1/ 「アイドリング!!!」尾島知佳、映画初主演で「鮫島事件」真相に迫る : 映画ニュース - 映画.com] 2011年6月27日 06:09</ref><ref name="jcast20110628" />、[[2011年]][[8月6日]]に公開した<ref>{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/mv48588/|title=2ちゃんねるの呪い 劇場版|publisher=KADOKAWA|accessdate=2014-05-25}}</ref>。主演は「[[アイドリング!!!]]」の[[尾島知佳]]、監督は[[永江二朗]]。ジョリー・ロジャーはDVDで2ちゃんねるの怖いスレッドを題材にした『[[2ちゃんねるの呪い]]』シリーズをリリースしており、この中でも鮫島事件を題材にしている。
* 2011年、[[エミューエンタテイメント]]は鮫島事件を題材にした映画『鮫島事件』の制作を予定しており<ref>{{Wayback |url=http://www.tokyo-inter.net/emu/|title=エミューエンタテイメント 公式サイト|date=20110423054928}}</ref>出演者も募集していたが<ref>{{Cite web|和書|url= https://deview.co.jp/TiupInfo?am_audition_id=8597&set_cookie=2 |title=【デジタル応募】映画『鮫島事件』出演者募集 - エントリー詳細 - Deview-デビュー |publisher=株式会社oricon ME |date= |accessdate=2019-08-18}}</ref>、その後の動きはない。
* [[2020年]]、『[[真・鮫島事件]]』のタイトルで映画化され[[11月27日]]に公開<ref>{{Cite news
| author =
| title = 2ちゃんねるの都市伝説「鮫島事件」がホラー映画化、主演は武田玲奈(動画あり / コメントあり)
| newspaper = [[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]]
| publisher = [[ナタリー (ニュースサイト)|ナターシャ]]
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| author =
| title = 最恐のネット都市伝説を題材に映画化『真・鮫島事件』公開決定 主演は武田玲奈
| newspaper = クランクイン!
| publisher = [[ブロードメディア]]
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| author =
| title = 武田玲奈主演映画『真・鮫島事件』11月27日公開へ 悲鳴と怒号が飛び交う特報映像も
| newspaper = [[リアルサウンド]]
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| date = 2020-10-07
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== 備考 ==
* [[1968年]]6月に[[日本経済新聞]]記者の[[鮫島敬治]]が[[中華人民共和国|中国]]当局によってスパイ容疑で逮捕され、1年半に渡って拘留された事件は鮫島事件と呼称されている。[[日中記者交換協定]]参照。
* 「週刊将棋」([[日本将棋連盟]]発行の週刊紙)連載の[[漫画]]『輪廻の香車(ヤリ)』([[おのまこと|むらまつり誠]]画、[[亜木冬彦]]原作)中での[[棋士 (将棋)|棋士]][[殺人事件]]の一つが「鮫島事件」と呼称されている。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{Cite book|和書
|author=[[荻上チキ]]
|year=2007
|month=7
|title=ウェブ炎上 - ネット群衆の暴走と可能性
|series=ちくま新書
|publisher=[[筑摩書房]]
|isbn=978-4-480-06391-5
|ref=CITEREF_荻上2007
}}
* {{Cite book|和書
|editor=金田一「乙」彦(編)
|year=2009
|month=5
|title=オタク語事典
|edition=第1版
|publisher=[[美術出版社]]
|isbn=978-4-568-22132-9
|ref=CITEREF_金田一2009
|pages=27頁
}}
* {{Cite book|和書
|author=[[並木伸一郎]]
|year=2009
|month=6
|title=最強の都市伝説
|volume=3
|edition=初版
|publisher=[[経済界 (出版社)|経済界]]
|isbn=978-4-7667-8450-3
|ref=CITEREF_並木2009
|pages=106-108頁
}}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
* [[牛の首]]
* [[杉沢村伝説]]
* [[マルコポーロ事件]]
* [[南極のニンゲン]]
* [[ビーレフェルトの陰謀]] - 陰謀論を装った、ドイツのネット界での定番ジョーク
{{DEFAULTSORT:さめしましけん}}
[[Category:インターネットの文化]]
[[Category:日本の都市伝説]]
[[Category:架空の事件・事故]]
[[Category:2ちゃんねる]]
[[Category:ジョーク]]
[[Category:インターネット・ミーム]]
|
2003-08-27T15:46:45Z
|
2023-12-05T14:17:05Z
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[
"Template:Quotation",
"Template:独自研究",
"Template:Reflist",
"Template:Harvnb",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
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"Template:Cite book",
"Template:Wayback",
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14,212 |
2003年火星大接近
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2003年火星大接近(にせんさんねんかせいだいせっきん)は、2003年8月27日18時51分(日本時間)に、火星が地球へ大接近したものである。
21世紀で、最大の火星大接近である。
惑星同士は、公転軌道の半径によって公転角速度が異なり、外側の惑星よりも内側の惑星の方が公転にかかる時間が短い。そのため、ある期間を経て内側の惑星が外側の惑星の公転を追い抜く事態が生じる。追い抜く際、惑星同士が一時的に最接近する現象を接近と言い、そのうち、近日点付近でのひときわ近い接近を、大接近という。
地球と火星(公転周期は687日)の接近は、約2年2ヶ月ごと、大接近でも15~17年ごとに起こるが、互いの軌道の遠日点・近日点との位置関係などで、必ずしも、毎回同じ距離にまで近付くことは、まずありえない。
ところが、2003年8月27日の大接近では、火星は地球と約5575万0006kmの距離にまで最接近した。これより近い大接近は、現在をさかのぼること約6万年前、あるいは、未来に時代を下ること266年(2021年現在)経つまで訪れない。
今回の大接近では、火星はみずがめ座の中に -2.9等級もの明るさで観測された。
6月頃から10月頃にかけて、次第に東の空に上る時間を早めていき、秋になると、夕方から宵の口には十分な高さまで上り、観測しやすい。
これまで・これからの火星大接近
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2003年火星大接近(にせんさんねんかせいだいせっきん)は、2003年8月27日18時51分(日本時間)に、火星が地球へ大接近したものである。 21世紀で、最大の火星大接近である。 惑星同士は、公転軌道の半径によって公転角速度が異なり、外側の惑星よりも内側の惑星の方が公転にかかる時間が短い。そのため、ある期間を経て内側の惑星が外側の惑星の公転を追い抜く事態が生じる。追い抜く際、惑星同士が一時的に最接近する現象を接近と言い、そのうち、近日点付近でのひときわ近い接近を、大接近という。 地球と火星(公転周期は687日)の接近は、約2年2ヶ月ごと、大接近でも15~17年ごとに起こるが、互いの軌道の遠日点・近日点との位置関係などで、必ずしも、毎回同じ距離にまで近付くことは、まずありえない。 ところが、2003年8月27日の大接近では、火星は地球と約5575万0006kmの距離にまで最接近した。これより近い大接近は、現在をさかのぼること約6万年前、あるいは、未来に時代を下ること266年(2021年現在)経つまで訪れない。 今回の大接近では、火星はみずがめ座の中に -2.9等級もの明るさで観測された。 6月頃から10月頃にかけて、次第に東の空に上る時間を早めていき、秋になると、夕方から宵の口には十分な高さまで上り、観測しやすい。 これまで・これからの火星大接近 紀元前5万7617年(同5万7538年説もある) : 今回の大接近に匹敵する、最近の大接近 : 1766年8月13日 : 約5600万kmまで接近した大接近
1845年8月23日 : 約5600万kmまで接近した大接近
1924年8月22日 : 約5600万kmまで接近した大接近 : 2287年8月29日 (現在から264年後) :今回よりも近い大接近
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{{出典の明記| date = 2023年10月}}
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[[ファイル:Apparent retrograde motion of Mars in 2003.gif|サムネイル|2003年の火星の動き]]
'''2003年火星大接近'''(にせんさんねんかせいだいせっきん)は、[[2003年]][[8月27日]]18時51分(日本時間)に、[[火星]]が[[地球]]へ大接近したものである。
[[21世紀]]で、最大の火星大接近である。
[[惑星]]同士は、[[公転]][[軌道 (力学)|軌道]]の半径によって公転角速度が異なり、外側の惑星よりも内側の惑星の方が公転にかかる時間が短い。そのため、ある期間を経て内側の惑星が外側の惑星の公転を追い抜く事態が生じる。追い抜く際、惑星同士が一時的に最接近する現象を接近と言い、そのうち、[[近日点]]付近でのひときわ近い接近を、'''大接近'''という。
地球と火星(公転周期は687日)の接近は、約2年2ヶ月ごと、大接近でも15~17年ごとに起こるが、互いの軌道の[[遠日点]]・近日点との位置関係などで、必ずしも、毎回同じ距離にまで近付くことは、まずありえない。
ところが、2003年8月27日の大接近では、火星は地球と約5575万0006kmの距離にまで最接近した。これより近い大接近は、現在をさかのぼること約6万年前、あるいは、未来に時代を下ること266年(2021年現在)経つまで訪れない。
今回の大接近では、火星は[[みずがめ座]]の中に -2.9等級もの明るさで観測された。
6月頃から10月頃にかけて、次第に東の空に上る時間を早めていき、秋になると、夕方から宵の口には十分な高さまで上り、観測しやすい。
'''これまで・これからの火星大接近'''
* 紀元前5万7617年(同5万7538年説もある) : 今回の大接近に匹敵する、最近の大接近
:
* [[1766年]][[8月13日]] : 約5600万kmまで接近した大接近
* [[1845年]][[8月23日]] : 約5600万kmまで接近した大接近
* [[1924年]][[8月22日]] : 約5600万kmまで接近した大接近
:
* [[2287年|2287年8月29日]] (現在から{{#expr:2287-{{#time:Y|+9hours}}}}年後) :今回よりも近い大接近
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14,215 |
スパルトイ
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スパルトイ(古希: Σπαρτοί, Spartoi)は、ギリシア神話にあらわれる戦士である。「蒔かれた者」を意味する。カドモスの竜退治の伝説によると、テーバイ人達の祖先は大地に蒔かれた竜の歯から誕生した。この歯から生まれた男達、もしくはその子孫であるテーバイ人達をスパルトイと呼ぶ。スパルトイの子孫にはリュコス、ゼートスなど数人のテーバイ王がいる。
フィクション作品に登場する際にはスケルトンのような骸骨戦士として表現されることがあるが、これは特撮映画『アルゴ探検隊の大冒険』(ギリシア神話を題材としており、竜の歯から生まれた骸骨戦士が登場する)の影響であり、竜牙兵(ドラゴン・トゥース・ウォリアー)と呼ばれる。
テーバイ人の始祖カドモスが牡牛をアテーナー女神に捧げる為、家来数名をアレースの泉に水をくませに行った。しかし竜(一説にはこの竜はアレースの子であると言われている)が泉を守っていた為派遣された家来たちの大部分がこの竜に殺された。これに怒ったカドモスはこの竜を退治する。
後にアテーナー女神に、退治した竜の歯を大地に蒔く事を勧められる。勧めに従い歯を大地に蒔いたところ、地中から武装した男達が現われた。彼らはふとした拍子(カドモスが中央に石を投げ入れたとする説がある)に殺し合いを始め、5人だけが生き残った。5人の名はエキーオーン、ウーダイオス、クトニオス、ヒュペレーノール、ペローロスであり、カドモスはこの生き残った者達を従者に加えた。
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スパルトイは、ギリシア神話にあらわれる戦士である。「蒔かれた者」を意味する。カドモスの竜退治の伝説によると、テーバイ人達の祖先は大地に蒔かれた竜の歯から誕生した。この歯から生まれた男達、もしくはその子孫であるテーバイ人達をスパルトイと呼ぶ。スパルトイの子孫にはリュコス、ゼートスなど数人のテーバイ王がいる。 フィクション作品に登場する際にはスケルトンのような骸骨戦士として表現されることがあるが、これは特撮映画『アルゴ探検隊の大冒険』(ギリシア神話を題材としており、竜の歯から生まれた骸骨戦士が登場する)の影響であり、竜牙兵(ドラゴン・トゥース・ウォリアー)と呼ばれる。
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{{出典の明記|date=2018-04-27}}
'''スパルトイ'''({{lang-grc-short|'''Σπαρτοί'''}}, {{ラテン翻字|el|Spartoi}})は、[[ギリシア神話]]にあらわれる戦士である。「蒔かれた者」を意味する。[[カドモス]]の竜退治の伝説によると、[[テーバイ]]人達の祖先は大地に蒔かれた竜の歯から誕生した。この歯から生まれた男達、もしくはその子孫であるテーバイ人達を'''スパルトイ'''と呼ぶ。スパルトイの子孫には[[リュコス]]、[[ゼートス]]など数人のテーバイ王がいる。
フィクション作品に登場する際には[[スケルトン (怪物)|スケルトン]]のような骸骨戦士として表現されることがあるが、これは特撮映画『[[アルゴ探検隊の大冒険]]』(ギリシア神話を題材としており、竜の歯から生まれた骸骨戦士が登場する)の影響であり、'''竜牙兵'''(ドラゴン・トゥース・ウォリアー)と呼ばれる。
==カドモスの竜退治==
テーバイ人の始祖カドモスが牡牛を[[アテーナー]]女神に捧げる為、家来数名を[[アレース]]の泉に水をくませに行った。しかし竜(一説にはこの竜はアレースの子であると言われている)が泉を守っていた為派遣された家来たちの大部分がこの竜に殺された。これに怒ったカドモスはこの竜を退治する。
後にアテーナー女神に、退治した竜の歯を大地に蒔く事を勧められる。勧めに従い歯を大地に蒔いたところ、地中から武装した男達が現われた。彼らはふとした拍子(カドモスが中央に石を投げ入れたとする説がある)に殺し合いを始め、5人だけが生き残った。5人の名は[[エキーオーン]]、ウーダイオス、[[クトニオス]]、[[ヒュペレーノール]]、ペローロスであり、カドモスはこの生き残った者達を従者に加えた。
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磁場
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磁場(じば、英語: Magnetic field)は、電気的現象・磁気的現象を記述するための物理的概念であり、電流が作り出す場として定義される。工学分野では、磁界(じかい)ということもある。
単に磁場と言った場合は磁束密度Bもしくは、「磁場」Hのどちらかを指すものとして用いられるが、どちらを指しているのかは文脈により、また、どちらの解釈としても問題ない場合も多い。後述のとおりBとHは一定の関係にあるが、BとHの単位は国際単位系(SI)でそれぞれWb/m, A/m であり、次元も異なる独立した二つの物理量である。Hの単位はN/Wbで表すこともある。なお、CGS単位系における、磁場 Hの単位は、Oeである。 この項では一般的な磁場の性質を扱うこととする。
磁場は、空間の各点で向きと大きさを持つ物理量(ベクトル場)であり、電流によって形成される。磁場の大きさは、+1のN極が受ける力の大きさで表される。磁場を図示する場合、N極からS極向きに磁力線の矢印を描く。
小学校などの理科の授業では、砂鉄が磁石の周りを囲むように引きつけられる現象をもって、磁場の存在を教える。このことから、磁場の影響を受けるのは鉄だけであると思われがちだが、強力な磁場の中では、様々な物質が影響を受けることが分かっている。最近では、磁場や電場(電磁場、電磁波)が生物に与える影響について関心が寄せられている。
磁場 H の定義にはいくつかの流儀がある。E-B対応とE-H対応
現在の最も広く用いられている定義は、アンペールの法則或いはビオ・サバールの法則による定義である。
微小な長さの電流要素 I dl によって r 離れた位置に作られる微小な磁場 dH は
最も簡単な定義は無限に長い棒磁石に作用する力によって定義される。
E-H対応では、qmの磁荷に大きさ F の力を及ぼす磁場 H は次式で表される。
棒磁石はS極の影響を無視できるほど長く、さらに棒磁石内のミクロな磁気双極子が無視できるほどの太さを持つとする。 この定義は具体的な測定法に基づいているため分かりやすいが、S極を無視できる条件が自明でないため理論的には扱いにくい。
磁場 H はマクスウェルの方程式中では、
として現れる。ここで D は電束密度、j は電流密度である。
右辺第二項の D の時間微分の項は変位電流あるいは電束電流と呼ばれ、マクスウェルによって電荷の保存則(連続の方程式)を満たすように付け加えられた。この項から電磁波の放射などが導かれる。
導体中で電磁場の時間変動が激しくない場合はこの項を無視できるので、
の形となる。
積分形で書くと、
これはアンペールの法則と呼ばれるものであり、磁場 H はこの方程式を満たす量として定義される。
磁場 H は電流によって生み出される場であり、磁束密度 B は電流に力を及ぼす場である。H と B の関係は媒質の構成方程式により次のようになる。
ここで、
である。
電子はじめとする点電荷が運動するときに周り生じる磁場はリエナール・ヴィーヘルト・ポテンシャルから導かれる。※ただし量子論の対象となる領域を除く。
これは電場の伝播が光速度とする特殊相対論に則り、電荷の移動による電場の歪みを表す。電荷が加速する際の電磁波の放出も含まれている。
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"text": "電子はじめとする点電荷が運動するときに周り生じる磁場はリエナール・ヴィーヘルト・ポテンシャルから導かれる。※ただし量子論の対象となる領域を除く。",
"title": "運動する電子/点電荷の周りの磁場"
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"text": "これは電場の伝播が光速度とする特殊相対論に則り、電荷の移動による電場の歪みを表す。電荷が加速する際の電磁波の放出も含まれている。",
"title": "運動する電子/点電荷の周りの磁場"
}
] |
磁場は、電気的現象・磁気的現象を記述するための物理的概念であり、電流が作り出す場として定義される。工学分野では、磁界(じかい)ということもある。 単に磁場と言った場合は磁束密度Bもしくは、「磁場」Hのどちらかを指すものとして用いられるが、どちらを指しているのかは文脈により、また、どちらの解釈としても問題ない場合も多い。後述のとおりBとHは一定の関係にあるが、BとHの単位は国際単位系(SI)でそれぞれWb/m2, A/m であり、次元も異なる独立した二つの物理量である。Hの単位はN/Wbで表すこともある。なお、CGS単位系における、磁場 Hの単位は、Oeである。
この項では一般的な磁場の性質を扱うこととする。 磁場は、空間の各点で向きと大きさを持つ物理量(ベクトル場)であり、電流によって形成される。磁場の大きさは、+1のN極が受ける力の大きさで表される。磁場を図示する場合、N極からS極向きに磁力線の矢印を描く。 小学校などの理科の授業では、砂鉄が磁石の周りを囲むように引きつけられる現象をもって、磁場の存在を教える。このことから、磁場の影響を受けるのは鉄だけであると思われがちだが、強力な磁場の中では、様々な物質が影響を受けることが分かっている。最近では、磁場や電場(電磁場、電磁波)が生物に与える影響について関心が寄せられている。
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{{出典の明記|date=2015年7月}}
'''磁場'''(じば、{{lang-en|Magnetic field}})は、[[電気]]的現象・[[磁性|磁気]]的現象を記述するための物理的概念であり、電流が作り出す[[場]]として定義される。[[工学]]分野では、'''磁界'''(じかい)ということもある。
単に磁場と言った場合は[[磁束密度]]'''''B'''''もしくは、「磁場」'''''H'''''のどちらかを指すものとして用いられるが、どちらを指しているのかは文脈により、また、どちらの解釈としても問題ない場合も多い。後述のとおり'''''B'''''と'''''H'''''は一定の関係にあるが、'''''B'''''と'''''H'''''の単位は[[国際単位系|国際単位系(SI)]]でそれぞれ[[ウェーバ|Wb]]/[[平方メートル|m<sup>2</sup>]], [[アンペア|A]]/[[メートル|m]] であり、次元も異なる独立した二つの物理量である。''H''の単位は[[ニュートン (単位)|N]]/[[ウェーバ|Wb]]で表すこともある。なお、[[CGS単位系]]における、磁場 '''''H'''''の単位は、[[エルステッド|Oe]]である。
この項では一般的な磁場の性質を扱うこととする。
磁場は、空間の各点で向きと大きさを持つ[[物理量]]([[ベクトル場]])であり、[[電流]]によって形成される。磁場の大きさは、+1のN極が受ける力の大きさで表される。磁場を図示する場合、N極からS極向きに[[磁力線]]の矢印を描く。
[[小学校]]などの[[理科]]の授業では、[[砂鉄]]が[[磁石]]の周りを囲むように引きつけられる[[現象]]をもって、磁場の存在を教える。このことから、磁場の影響を受けるのは[[鉄]]だけであると思われがちだが、強力な磁場の中では、様々な物質が影響を受けることが分かっている。最近では、磁場や電場([[電磁場]]、[[電磁波]])が生物に与える影響について関心が寄せられている。
== 定義 ==
{{物理量
| 名称 = 磁界の強さ([[計量法]]の[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]の名称)、磁界強度<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 産業技術総合研究所、計量標準総合センター、p.108 表5、2020年4月</ref>
| 英語 =magnetic field strength<ref>[https://www.bipm.org/documents/20126/41483022/SI-Brochure-9.pdf/fcf090b2-04e6-88cc-1149-c3e029ad8232 The International System of Units] [[BIPM]], p.139, Table 5</ref>
| 画像 =
| 記号 =''H''
| 次元 =[[長さ|L]]{{sup-|1}} [[電流|I]]
| 階 =ベクトル
| SI =[[アンペア毎メートル|A/m]] 、[[SI組立単位]]
| CGS =
| MTS =
| FPS =
| MKSG =
| CGSG =
| FPSG =
| プランク =
| 原子 =
}}
磁場 '''''H''''' の定義にはいくつかの流儀がある。([[E-B対応とE-H対応]]を参照)
=== 電流から与える定義 ===
現在は、磁場の源は電流のみとし磁荷を考えないことが通常である。したがって[[アンペールの法則|アンペール則]]や[[ビオ・サバールの法則|ビオ・サバール則]]に基づく定義が広く用いられる。
微小な長さの'''電流要素''' ''I'' d'''''l''''' によって '''''r''''' 離れた位置に作られる微小な磁場 d'''''H''''' は
:<math>\mathrm{d}\boldsymbol{H} = \frac{I \mathrm{d}\boldsymbol{l} \times \boldsymbol{r}}{4 \pi r^3}</math>
=== 磁荷に則る定義 ===
最も簡単な定義は無限に長い棒磁石に作用する力から導かれる。(E-H対応)
''q''<sub>m</sub>の[[磁荷]]に大きさ ''F'' の力を及ぼす磁場 ''H'' は次式で表される。
:<math>\boldsymbol{F} = q_m\boldsymbol{H}</math>
棒磁石は[[S極]]の影響を無視できるほど長く、さらに棒磁石内のミクロな磁気双極子が無視できるほどの太さを持つとする。この定義は具体的な測定法に基づいているため利用しやすいが、S極を無視できる条件が自明でないため理論的には扱いにくい。
=== ベクトルポテンシャル ===
任意の磁場'''B'''について、それを導く[[ベクトルポテンシャル]]'''A'''を定義できる。
{{Indent|<math>\boldsymbol{B} = \nabla\times \boldsymbol{A}</math>}}
分野領域によってはこういった[[電磁ポテンシャル]]がもっぱら用いられる。
== 磁場の満たす関係式 ==
=== 電流と磁場の関係 ===
磁場 '''''H''''' は[[マクスウェルの方程式|マクスウェル方程式]]中で、
:<math>\operatorname{rot}\boldsymbol{H} = \boldsymbol{j} + \frac{\partial \boldsymbol{D}}{\partial t}</math>
とされる。ここで '''''D''''' は[[電束密度]]、'''''j''''' は[[電流密度]]である。
右辺第2項の電流の時間変動は、[[変位電流]]あるいは電束電流と呼ばれ、マクスウェルによって[[電荷の保存則]]([[連続の方程式]])を満たすように付け加えられた。この項から[[電磁波]]の放射などが導かれる。
導体中で電磁場の時間変動が激しくない場合にはこの項を無視して
:<math>\operatorname{rot}\boldsymbol{H} = \boldsymbol{j}</math>
とする場合がある。
積分形で書くと、
:<math>\oint_C\boldsymbol{H}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{l}=\int_S\boldsymbol{j}+\frac{\partial\boldsymbol{D}}{\partial t}\cdot\mathrm{d}\boldsymbol{S}</math>
これは[[アンペールの法則]]と呼ばれる。
閉じた曲線の上に分布する磁場が、その曲線の内側を通過する電流の総量と対応することを意味する。
<!--Bは面積分される量。BがHより基本的な量というのも間違い。
[[磁束密度]] '''''B''''' は磁場 '''''H''''' よりもより基本的な量である(と一般に考えられている)ので
真空中における '''''B''''' = ''μ''<sub>0</sub>'''''H''''' の関係式により、
(''μ''<sub>0</sub>は[[真空の透磁率]])
:<math>
\oint_{\partial S} \boldsymbol{B} \cdot d\boldsymbol{l} = \mu_0 I
</math>
と書き換えられることが多い。
但し、近似的に '''''B''''' = ''μ'''H''''' の関係が成り立つときを除きこの書き換えはできない。
-->
== 磁束密度と磁場の関係 ==
磁場 '''''H''''' は電流によって生み出される場であり、磁束密度 '''''B''''' は電流に力を及ぼす場である。'''''H''''' と '''''B''''' の関係は媒質の構成方程式により次のようになる。
:<math>\boldsymbol{H} = \mu_0^{-1}\boldsymbol{B}-\boldsymbol{M}</math>
ここで、
{|
|<math>\mu_0</math> ||: [[真空の透磁率]]
|-
|<math>\boldsymbol{M}</math> ||: [[磁化]]
|}
である。{{main|磁化}}
== 運動する電子/点電荷の周りの磁場 ==
電子はじめとする点状の電荷が運動するときに周りに磁場が生じる。
速度'''v'''で移動する電荷によって'''r'''の位置に生じる磁場'''B'''は、その電荷によって生じる電界を'''E'''とすると、近似的に
{{Indent|<math> \boldsymbol{B}(\boldsymbol{r})
= \frac{1}{c^2}\boldsymbol{v}\times\boldsymbol{E}(\boldsymbol{r})
</math>}}
で表される。この式はv/cがゼロに近いときに有効である。
厳密には[[リエナール・ヴィーヘルト・ポテンシャル]]から導かれる。'''<small>※ただし量子論の対象となる領域を除く。</small>'''同ポテンシャルは電場の伝播が光速度とする特殊相対論に則るもので、電荷の移動による静電場からのずれや、電荷が加速する際の電磁波の放出を包含する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アンペールの法則]]
* [[ビオ・サバールの法則]]
* [[クーロンの法則]]
* [[電場|電場の強さ]]('''''E''''')、[[磁束密度]]('''''B''''')、[[電束密度]]('''''D''''')
* [[E-B対応とE-H対応]]
* [[地磁気]]
* [[ホール素子]]
* [[SQUID]]
* [[ファラデー効果]]
* [[磁気光学カー効果]]
* [[マクスウェルの方程式]]
* [[ローレンツ力]]
* [[フレミングの法則]]
* [[静磁場]]
* [[核磁気共鳴画像法]](MRI)
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{電磁気学}}
{{Normdaten}}
[[Category:電磁気学|しは]]
[[Category:物理量|しは]]
[[Category:磁気|しは]]
|
2003-08-27T17:04:37Z
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2023-11-06T05:18:55Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%81%E5%A0%B4
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14,217 |
16
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16(十六、じゅうろく、とおあまりむっつ)は、自然数または整数において、15の次で17の前の数である。ラテン語では sedecim(セーデキム)。
16番目の人
16番目ではないが、「16」とつく人
16番目のもの
機械の名称、形式
16個あるもの
企業・組織名、商標
作品名
16歳からできること
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16(十六、じゅうろく、とおあまりむっつ)は、自然数または整数において、15の次で17の前の数である。ラテン語では sedecim(セーデキム)。
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{{Otheruses|整数|その他の用法|シックスティーン}}
{{整数|Decomposition=2{{sup|4}}}}
'''16'''('''十六'''、じゅうろく、とおあまりむっつ)は、[[自然数]]または[[整数]]において、[[15]]の次で[[17]]の前の数である。[[ラテン語]]では sedecim(セーデキム)。
== 性質 ==
* 16 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[8]] と 16 である。
**約数を5個もつ最小の数である。次は[[81]]。
***[[約数]]を ''n'' 個もつ最小の数とみたとき。1つ前の4個は[[6]]、次の6個は[[12]]。({{OEIS|A005179}})
**[[約数の和]]は[[31]]。
***約数の和が奇数になる6番目の数である。1つ前は[[9]]、次は[[18]]。
***約数の和が[[素数]]になる4番目の数である。1つ前は[[9]]、次は[[25]]。
*** [[約数関数]]から導き出される数列 <math>a_n=\sigma(a_{n-1})</math> はその初期値によって異なる数列になる。異なる数列になる3番目の初期値(最小の値)を表す数である。1つ前は[[5]]、次は[[19]]。(ただし1を除く)({{OEIS|A257348}})
**約数の和と元の数との積が[[完全数]]になる3番目の[[超完全数]]である。1つ前は[[4]]、次は[[64]]。({{OEIS|A019279}})<br>16 × σ(16) = [[496]] (ただし σ は[[約数関数]])
*{{sfrac|1|16}} = 0.0[[625]]
**[[逆数]]が有限小数になる6番目の数である。1つ前は[[10]]、次は[[20]]。
**[[2の冪|2の累乗数]] 2{{sup|''n''}} の逆数は、小数点以下 ''n'' 桁の[[有限小数]]になる。
** 六進法では 0.0[[81|213]]{{sub|(6)}} 、[[十二進法]]では 0.0[[9]]{{sub|(12)}} 、[[二十進法]]では 0.[[25|15]]{{sub|(20)}} になる。
*16 = 4{{sup|2}}
**4番目の[[平方数]]である。1つ前は[[9]]、次は[[25]]。
** ''n'' = 2 のときの 4{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[64]]。
** ''n'' = 2 のときの 4{{sup|''n''!}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[4096]]。({{OEIS|A101407}})
**[[ハーシャッド数]]にならない最小の平方数である。次は[[25]]。
*16 = [[2]]{{sup|4}}
**4番目の[[2の冪|2の累乗数]]である。1つ前は[[8]]、次は[[32]]。
** 16 = 2{{sup|2{{sup|2}}}}
***2番目の[[二重平方数]]である。1つ前は[[1]]、次は[[81]]。
***''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|''n''{{sup|''n''}}}} の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は7625597484987。({{OEIS|A002488}})
*** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''{{sup|2}}}} の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[512]]。({{OEIS|A002416}})
** 16 = <sup>3</sup>2([[テトレーション]]) = 2↑↑3(↑は[[クヌースの矢印表記]])
*** ''n'' = 3 のときの <sup>''n''</sup>2 の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[65536]]。
*特に[[コンピュータ]]関連で使用される[[十六進法]]の[[位取り記数法|基数]]である。
*(15, 16) は3番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は ([[8]], [[9]])、次は ([[77]], [[78]])。
*16{{sup|2}} + 1 = [[257]] であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む7番目の数である。1つ前は[[14]]、次は[[20]]。
*2{{sup|4}} = 4{{sup|2}} = 16であり、''a'', ''b'' が自然数で ''a'' ≠ ''b'' のとき ''a{{sup|b}}'' = ''b{{sup|a}}'' の両辺を満たす唯一の数である。
*16個の立体を持つ[[正多胞体]]は[[正十六胞体]]である。次に立体の数が少ない正多胞体は[[正二十四胞体]]である。
*[[九九]]では2の段で 2 × 8 = 16 (にはちじゅうろく)、4の段で 4 × 4 = 16 (ししじゅうろく)、 8の段で 8 × 2 = 16 (はちにじゅうろく) と3通りの表し方がある。九九で 3 通りの表し方がある数は4, 9, 16, [[36]]の4つのみ。また、これらはすべて平方数。
*16[[階乗|!]] = 20,922,789,888,000 である(14桁)。
*2個の素数と13個の2の冪乗の和で表せないことが知られている最大の偶数である。この性質を持つ偶数は、高々有限個しかない。
*各位の和が16になる[[ハーシャッド数]]の最小は[[448]]、1000までに4個、[[10000]]までに41個ある。
**ハーシャッド数でない4の倍数のうち最小の数である。次は[[28]]。
**ハーシャッド数でない8の倍数のうち最小の数である。次は[[32]]。
*[[各位の和]]が7になる2番目の数である。1つ前は[[7]]、次は[[25]]。
** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が7になる最小の数である。
*各位の[[平方和]]が37になる最小の数である。次は[[61]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の36は[[6]]、次の38は[[116]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が217になる最小の数である。次は[[61]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の216は[[6]]、次の218は[[116]]。({{OEIS|A165370}})
*各位の積が6になる2番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[23]]。({{OEIS|A199988}})
*[[約数]]の和が[[完全数]][[28]]になる唯一の数 [[12]] と [[28]] との差が16である。
*異なる2つの[[素数]]の和2通りで表せる最小の数である。次は[[18]]。({{OEIS|A077914}})<br>16 = [[3]] + [[13]] = [[5]] + [[11]]
**異なる2つの素数の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の1通りは[[5]]、次の3通りは[[24]]。({{OEIS|A087747}})
* 円周上に異なる5つの点をとってそれぞれを結んだとき16個の領域に分けることができる。1つ前の4点は[[8]]、次の6点は[[31]]。({{OEIS|A000127}})
**この数は ''n'' = 5 のときの {{sfrac|''n''{{sup|4}} − 6''n''{{sup|3}} + 23''n''{{sup|2}} − 18''n'' + 24|24}} の値である。
*1~16の[[最小公倍数]]は720720。
== その他16に関連すること ==
{{See also|シックスティーン}}
*16 の[[接頭辞]]:sedec, sexdec([[ラテン語|拉]]), hexakaideca, hexadeca([[ギリシャ語|希]])
*16[[倍]]を'''セクスデキュブル''' (sexdecuple) という。
*16 は、E24系列の[[標準数#JIS C 60063の標準数列|標準数]]。
*[[第16族元素]]を酸素族元素、カルコゲンともいう。
*[[酸素]]の[[原子量]]は、およそ16。以前は酸素を使って[[原子質量単位]]や[[モル]]を定義していたが、[[1960年]]以降は[[炭素12]]によって定義されている。
*[[はくちょう座16番星]]は、[[はくちょう座]]の方向に70光年離れた場所にある3[[連星]]。
*[[16mmフィルム]]は、[[映画用カメラ]]の[[フィルム]]の規格。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「16」は[[富山県]]。
*'''[[十六進数]]''':16個の数字を使い、16倍毎に桁を繰り上げる[[位取り記数法|記数法]]。[[コンピュータ]]の世界で使われる。
**[[ヤード・ポンド法]]において、[[質量]]には'''[[十六進法]]'''が使われる。1[[ポンド (質量)|ポンド]] = 16[[オンス]]。1オンス = 16[[ドラム (質量)|ドラム]]。
16番目の人
*第16代[[天皇]]は、[[仁徳天皇|仁德天皇]]。
*第16代[[内閣総理大臣]]は、[[山本権兵衛]]。
*[[鎌倉幕府]]第16代[[執権]]は、[[北条守時]](最後の執権)。
*通算して第16代の[[征夷大将軍]]は、[[建武の新政]]期の[[成良親王]]。
*[[大相撲]]第16代[[横綱]]は、[[西ノ海嘉治郎 (初代)|西ノ海嘉治郎]]。
*[[アメリカ合衆国]]第16代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、[[エイブラハム・リンカーン]]。
*[[殷|殷朝]]第16代帝は、[[祖丁]]。
*[[周|周朝]]第16代王は、[[釐王 (周)|釐王]]。
*第16代[[教皇|ローマ教皇]]は[[カリストゥス1世 (ローマ教皇)|カリストゥス1世]](在位:[[217年]]~[[222年]])である。
16番目ではないが、「16」とつく人
*[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は、[[ブルボン朝]]第5代[[フランス王]]。
*[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]は、[[2005年]][[4月]]より第265代[[教皇|ローマ教皇]]、[[バチカン|バチカン市国]][[元首]]。
*[[日本プロ野球]]・[[読売ジャイアンツ]]の[[野球の背番号|背番号]]16は[[川上哲治]]内野手の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]である。
*[[ジャイアント馬場]]の[[十六文キック]]は馬場の必殺技として有名。馬場[[靴]]のサイズ表記が16だったのを足のサイズの16文と誤解されて命名されたものである。
16番目のもの
*アメリカ合衆国の16番目の[[州]]は、[[テネシー州]]。
*[[放送大学]]テレビのアナログ親局は、16ch。
*[[大日本帝国陸軍]][[第16方面軍 (日本軍)|第16方面軍]]
*第16軍
**大日本帝国陸軍[[第16軍 (日本軍)|第16軍]]
**[[第二次世界大戦]]時の[[第16軍 (ドイツ軍)|ドイツ陸軍第16軍]]
*各国の[[第16師団]]
*各国の[[第16旅団]]
*第16連隊
**大日本帝国陸軍[[歩兵第16連隊]]
**[[陸上自衛隊]][[第16普通科連隊]]
*[[タロット]]の[[大アルカナ]]で XVI は、[[塔 (タロット)|塔]]。
*[[易占]]の[[六十四卦]]で第16番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#豫|雷地豫]]。
*[[クルアーン]]における第16番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[蜜蜂 (クルアーン)|蜜蜂]]である。
*16日の夜を'''[[月#月齢と呼び名|十六夜]]'''(いざよい)という。
*[[原子番号]]16の[[元素]]は、[[硫黄]] (S)。
機械の名称、形式
*[[F-16 (戦闘機)|F-16]] ファイティング・ファルコンは、アメリカの[[戦闘機]]。
*[[FFA P-16]] は、[[スイス]]の試作[[攻撃機]]。
*[[HU-16 (航空機)|HU-16]] アルバトロスは、アメリカの[[飛行艇]]。
*[[I-16 (航空機)|I-16]] は、[[ソ連]]の戦闘機。
*[[M16自動小銃|M16]] は、アメリカの[[自動小銃]]。
*[[P-16 (航空機)|P-16]] は、アメリカの戦闘機。
*[[Tu-16 (航空機)|Tu-16]] は、ソ連の戦略爆撃機。
*[[16式機動戦闘車]]は、日本の装輪装甲車。
16個あるもの
*[[皇室]]の[[菊花紋章]]、十六弁八重表菊紋の[[花弁]]は、16枚。
*[[スポーツ]]の試合の組み合わせにおいて、八半決勝を、「ラウンド16」(round sixteen) や「ベスト16」ということがある。これは、[[8]]試合 × 2チーム=16チームが出るのでこういわれる。
*'''十六方位''':四方を4倍に除った[[方位]]で、八方に北北東・東北東・東南東・南南東・南南西・西南西・西北西・北北西を加えた総称。方位の間隔は 22°30′。
*'''[[十六国]]''':[[中国史]]で、西暦304年から439年までの136年間に現れた、16の小国家。
*'''[[燕雲十六州]]''':中国史で、[[後晋]]が[[遼]]に譲渡した地域。朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州・嬀州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州の16州。
企業・組織名、商標
*[[十六銀行]]は、[[岐阜市]]に本店を置く[[地方銀行]]。
*[[十六茶]]は、[[アサヒ飲料]]発売の[[飲料]]。
*[[愛媛県]]の菓子製造・販売業者[[一六本舗]]、およびその傘下のレストラン[[一六]]。
作品名
*[[ピアノソナタ第16番]]
*『[[16 - sixteen -]]』は、[[推定少女]]のアルバム。
*『16』は、[[中島美嘉]]のアルバム『[[STAR (中島美嘉のアルバム)|STAR]]』の収録曲。
*『16』は、[[BOØWY]]のシングル『[[ホンキー・トンキー・クレイジー]]』の[[A面/B面|B面]]に収録されている曲。
*『[[悲しき16才]]』は、[[ケーシー・リンデン]](Kathy Linden) が歌った『Heartaches at sweet sixteen』の[[カバー|カバー曲]]。
*16連射は、毎秒16回の速さでボタンなどを押すこと。[[高橋名人]]の特技とされた。
*『[[スミレ16歳!!]]』は[[永吉たける]]原作による日本の[[漫画]]作品。
*『[[1980アイコ十六歳]]』は[[堀田あけみ]]による日本の小説。また、『[[アイコ十六歳]]』はこれを原作とする映画・[[テレビドラマ]]作品。
*『[[花よめは16歳]]』は[[テレビ朝日]]系列で[[1979年]][[11月19日]] - [[1980年]][[7月14日]]に放送された[[テレビドラマ]]。
*『[[花嫁は16才!]]』はテレビ朝日系列で[[1995年]][[10月16日]] - [[12月18日]]に[[月曜ドラマイン]]枠で放送されたテレビドラマ。
*『[[ルート16]]』は、[[1981年]]に[[サン電子]]より発売された[[アーケードゲーム]]。
*「十六夜」がつく作品
**'''[[十六夜日記]]'''は、[[鎌倉時代]]の[[紀行]][[日記]]。
**『[[十六夜物語]]』は、[[河合奈保子]]の[[シングル]]。
**『[[十六夜の月]]』は、[[w-inds.]] のシングル。
**『[[十六夜の月、カナリアの恋。]]』は、[[田村ゆかり]]の[[アルバム]]。
16歳からできること
*[[道路交通法]]では、[[原動機付自転車]](原付)・[[普通自動二輪車]]・[[小型特殊自動車]]の[[運転免許]]を16歳から取得できる。
*[[船舶職員及び小型船舶操縦者法]]では、[[特殊小型船舶]]、2級[[小型船舶]]の操縦免許を16歳から取得できる。(受験は15歳9ヶ月から)
*[[航空法]]では、自家用[[グライダー|滑空機]]の操縦免許を16歳から取得できる。
*満16歳から[[献血#種類と基準|200ml献血]]をすることができる。
== 符号位置 ==
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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|}
== 関連項目 ==
*[[数に関する記事の一覧]]
**[[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]]
**[[10]] [[11]] [[12]] [[13]] [[14]] [[15]] '''16''' [[17]] [[18]] [[19]]
**'''16''' [[32]] [[48]] [[64]] [[80]] [[96]] [[112]] [[128]] [[144]] [[160]] [[176]]
**[[西暦]][[16年]] [[紀元前16年]] [[1916年]] [[16世紀]] - [[平成16年]] [[昭和16年]] [[明治16年]] - [[1月6日]]
*[[名数一覧]]
*[[16歳|16歳(才)、十六歳(才)]]
{{自然数}}
{{2^n}}
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2023-03-28T12:52:23Z
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[
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"Template:自然数",
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"Template:Sfrac",
"Template:CharCode",
"Template:整数",
"Template:Sup",
"Template:See also"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/16
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14,218 |
オイディプース
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オイディプース(古希: Οἰδίπους, Oidipūs, ラテン語: Oedipus)は、ギリシア神話の登場人物である。長母音を省略してオイディプス、あるいはエディプスとも表記される。テーバイの王ラーイオスとその妻イオカステーの間の子。名前は「膨れ上がった足」の意味。実の父を殺し、実の母と親子婚を行ったため、オイディプースの名は「エディプスコンプレックス」の語源になった。
ラーイオスは、子供を作るべきではないとの神託を受けた。もし子供を作れば、その子供がラーイオスを殺すというのである。しかしラーイオスは酔ったおりに妻イオカステーと交わり、男児をもうけた。神託を恐れたラーイオスは男児を殺そうと考えたが、殺すには忍びなく、男児の踵をブローチで刺し、従者に男児を渡してキタイローンの山中に置き去りにするよう命じた。
しかし従者もまた殺すには忍びないと考えたため、男児をキタイローンの山中にいた羊飼いに渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。
コリントス王ポリュボスとその妻メロペー(異説ではペリボイア、メドゥーサとも)には、子供が生まれなくて困っていたため、羊飼いは男児を2人に渡した。ブローチで刺された男児の踵が腫れていた為、ポリュボスとメロペーは男児をオイディプース(腫れた足)と名づけた。
成長したオイディプースは他の者よりも能力が勝っていたため、これを嫉んだ者たちが酒席で、オイディプースはポリュボスとメロペーの実子ではないと中傷した。疑いながらも不安に思ったオイディプースは、ポリュボスとメロペーを詰問したが、満足のいく回答が得られなかった。そこで神々に真実を聞こうと、デルポイでアポローンの神託を受けたが、アポローンは彼の問いに答えず、「故郷に近寄るな、両親を殺すであろうから」と教えた。
ポリュボスとメロペーとを実の両親と信じるオイディプースは、コリントスを離れて旅に出た。
戦車に乗って旅をしている最中、ポーキスの三叉路に差しかかったところで、戦車に乗った実の父ラーイオスが前方から現れた。ラーイオスの従者ポリュポンテースが、オイディプースに道を譲るよう命令し、これに従わぬのをみるや、彼の馬を殺した。これに怒ったオイディプースは、ポリュポンテースとラーイオスを殺した(殺害方法には、打ち殺したという説と谷底に突き落としたという説がある)。ラーイオスが名乗らなかったため、オイディプースは自分が殺した相手が誰であるかを知らなかった。
プライタイアイ王ダマシストラトスがラーイオスを埋葬し、彼亡き後のテーバイは、メノイケオスの子クレオーンが摂政として治めた。
オイディプースはポーキスの三叉路から逃げてテーバイへと向かった。この頃テーバイは、ヘーラーにより送られたスピンクス(スフィンクス)という怪物に悩まされていた。
スピンクスはオルトロスを父とし、エキドナを母とする怪物で、女面にして胸と脚と尾は獅子、鳥の羽を持っていた。スピンクスはムーサより謎を教わって、ピーキオン山頂に座し、そこを通るものに謎を出して、謎が解けぬ者を喰らっていた。この謎は「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というものであった。
テーバイ人たちは、「この謎が解かれた時スピンクスの災いから解放されるであろう」という神託を得ていたため、謎を解くべく知恵を絞ったが、誰も解くことは出来ず、多くの者がスピンクスに殺された(一説によるとクレオーンの子ハイモーンもまたスピンクスに殺された)。このためクレオーンは、「この謎を解いた者にテーバイの街とイオカステーを与える」という布告を出した。
テーバイに来たオイディプースはこの謎を解き、スピンクスに言った。
謎を解かれて面目を失ったスピンクスは、自ら城山より身を投じて死んだ(謎が解かれた場合は死ぬであろうという予言があったためとする話もある)。また、このスピンクスの問いの答えは「オイディプース」であるという穿った異説もある(後述)。
スピンクスを倒したオイディプースはテーバイの王となった。そして実の母であるイオカステーを、そうとは知らずに娶り、2人の男児と2人の女児をもうけた。男児はそれぞれエテオクレースとポリュネイケースといい、女児はアンティゴネーとイスメーネー(英語版)という。
オイディプースがテーバイの王になって以来、不作と疫病が続いた。クレオーンがデルポイに神託を求めたところ、「不作と疫病はラーイオス殺害の穢れのためであるので、殺害者を捕らえテーバイから追放せよ」という神託を得た。
オイディプースはそこで過去に遡って調べを進めるが、次第にそのあらましが、自分がこの地に来たときのポーキスの三叉路でのいざこざに似ていることに気が付く。さらに調べを進めるうち、やはりそれが自分であること、しかも自分がラーイオス王の子であったこと、母との間に子をもうけたこと、つまりは以前の神託を実現してしまったことを知る。それを知るやイオカステーは自殺し、オイディプースは絶望して自らの目をえぐり、追放された(娘と共に放浪の旅に出て行ったという説もある)。
古い形の伝説では、オイディプースは自分の母を妻にしていることを知った後でも、そのまま王であり続けている。
『イーリアス』には、オイディプースが戦場で死んだと記されている。
また一つの解釈として、スピンクスの謎かけの答えは「オイディプース」であるとも言われる。それは、初めは立派な人間(=二つ足)であったが、母と交わるという獣の行いを犯し(=四つ足)、最後は盲目となって杖をついて(=三つ足)国を出て行く、というオイディプースの数奇な運命を表すものである(この解釈では朝・昼・夜という時系列は、青年期・壮年期・老年期となる)。この解釈は蜷川幸雄演出の『オイディプス王』(2002年、野村萬斎主演)でも演じられた。
娘と共に諸国をさすらったオイディプースは、その後アテーナイに辿り着いた。アテーナイ王テーセウスはオイディプースを手厚く庇護し、コローノスの森でオイディプースが最期を迎えることを認める。テーセウスに見守られ、ようやく安息の地を得たオイディプースは、地中へ姿を消した(『コロノスのオイディプス』)。
オイディプースとイオカステは2人の息子(エテオクレース、ポリュネイケース)と2人の娘(アンティゴネー、イスメーネー)を残した。2人の男児は長じてから、テーバイの王位継承をめぐって争いを起こす。その結果、テーバイを追放されたポリュネイケースは、7人の将でテーバイを攻めるが(『テーバイ攻めの七将』)、失敗に終わる。戦争中にオイディプースの息子たちは相打ちになって死亡する。
一方、オイディプースの2人の娘はオイディプースとともに諸国を放浪した(『コロノスのオイディプス』)が、オイディプースが死ぬとテーバイへと帰る。その後、2人の息子による前述の戦争が起こり、テーバイを裏切った兄ポリュネイケースの遺体は埋葬を許されず、野ざらしになっていたため。しかしアンティゴネーは兄の骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。このことで彼女は死刑を宣告され、牢で自害した(『アンティゴネー』)。
戦争から10年後、七将の息子たち(エピゴノイ)は父親の志を継ぐべくテーバイへの再攻撃を企て、テーバイを陥落させた。途中、エテオクレースの子ラーオダマースは戦死する。
一方、ポリュネイケースの子テルサンドロスは、テーバイでの戦争に勝利した後、トロイア戦争に参加したが、ギリシア軍は間違ってミューシアに上陸し、テーレポス王と戦争になった。ギリシア軍はテーレポスによって敗走させられ、テルサンドロスは最後まで戦ったが、テーレポスに討たれた。
この伝説は、ギリシア悲劇に再三取り上げられ、以下のものが現存している。
また、ラテン語の悲劇としても下記の作品が知られている。
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オイディプースは、ギリシア神話の登場人物である。長母音を省略してオイディプス、あるいはエディプスとも表記される。テーバイの王ラーイオスとその妻イオカステーの間の子。名前は「膨れ上がった足」の意味。実の父を殺し、実の母と親子婚を行ったため、オイディプースの名は「エディプスコンプレックス」の語源になった。
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{{Otheruses|ギリシャ神話の登場人物オイディプース|この人物を主人公とした[[ソポクレス]]の戯曲|オイディプス王}}
[[File:Oidipous_sphinx_MGEt_16541_reconstitution.svg|thumb|300px|オイディプスとスフィンクス]]
'''オイディプース'''({{lang-grc-short|'''Οἰδίπους'''}}, {{ラテン翻字|el|Oidipūs}}, {{lang-la|Oedipus}})は、[[ギリシア神話]]の登場人物である。[[長母音]]を省略して'''オイディプス'''、あるいは'''エディプス'''とも表記される。[[テーバイ]]の王[[ラーイオス]]とその妻[[イオカステー]]の間の子。名前は「膨れ上がった足」の意味。実の父を殺し、実の母と[[親子婚]]を行ったため、オイディプースの名は「[[エディプスコンプレックス]]」の語源になった。
== 神話 ==
=== 誕生 ===
ラーイオスは、子供を作るべきではないとの[[神託]]を受けた。もし子供を作れば、その子供がラーイオスを殺すというのである。しかしラーイオスは酔ったおりに妻イオカステーと交わり、男児をもうけた。神託を恐れたラーイオスは男児を殺そうと考えたが、殺すには忍びなく、男児の踵を[[ブローチ (装身具)|ブローチ]]で刺し、従者に男児を渡して[[キタイローン]]の山中に置き去りにするよう命じた。
しかし従者もまた殺すには忍びないと考えたため、男児をキタイローンの山中にいた羊飼いに渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。
[[コリントス]]王[[ポリュボス]]とその妻[[メロペー]](異説では[[ペリボイア]]、メドゥーサとも)には、子供が生まれなくて困っていたため、羊飼いは男児を2人に渡した。ブローチで刺された男児の踵が腫れていた為、ポリュボスとメロペーは男児をオイディプース(腫れた足)と名づけた。
=== 旅立ち ===
成長したオイディプースは他の者よりも能力が勝っていたため、これを嫉んだ者たちが酒席で、オイディプースはポリュボスとメロペーの実子ではないと中傷した。疑いながらも不安に思ったオイディプースは、ポリュボスとメロペーを詰問したが、満足のいく回答が得られなかった。そこで神々に真実を聞こうと、[[デルポイ]]で[[アポローン]]の神託を受けたが、アポローンは彼の問いに答えず、「故郷に近寄るな、両親を殺すであろうから」と教えた。
ポリュボスとメロペーとを実の両親と信じるオイディプースは、コリントスを離れて旅に出た。
=== 父殺し ===
戦車に乗って旅をしている最中、[[ポーキス]]の三叉路に差しかかったところで、戦車に乗った実の父ラーイオスが前方から現れた。ラーイオスの従者[[ポリュポンテース]]が、オイディプースに道を譲るよう命令し、これに従わぬのをみるや、彼の馬を殺した。これに怒ったオイディプースは、ポリュポンテースとラーイオスを殺した(殺害方法には、打ち殺したという説と谷底に突き落としたという説がある)。ラーイオスが名乗らなかったため、オイディプースは自分が殺した相手が誰であるかを知らなかった。
プライタイアイ王ダマシストラトスがラーイオスを埋葬し、彼亡き後のテーバイは、メノイケオスの子クレオーンが摂政として治めた。
=== スピンクス退治 ===
[[File:Oedipus sphinx Louvre G417 n2.jpg|thumb|300px|オイディプスとスフィンクス]]
オイディプースはポーキスの三叉路から逃げてテーバイへと向かった。この頃テーバイは、[[ヘーラー]]により送られた[[スピンクス]](スフィンクス)という怪物に悩まされていた。
スピンクスは[[オルトロス]]を父とし、[[エキドナ]]を母とする怪物で、女面にして胸と脚と尾は獅子、鳥の羽を持っていた。スピンクスは[[ムーサ]]より謎を教わって、ピーキオン山頂に座し、そこを通るものに謎を出して、謎が解けぬ者を喰らっていた。この謎は「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というものであった。
テーバイ人たちは、「この謎が解かれた時スピンクスの災いから解放されるであろう」という神託を得ていたため、謎を解くべく知恵を絞ったが、誰も解くことは出来ず、多くの者がスピンクスに殺された(一説によるとクレオーンの子[[ハイモーン]]もまたスピンクスに殺された<ref>アポロドーロス、3.5.8。</ref>)。このためクレオーンは、「この謎を解いた者にテーバイの街とイオカステーを与える」という布告を出した。
テーバイに来たオイディプースはこの謎を解き、スピンクスに言った。
:「答えは人間である。何となれば人間は幼年期には四つ足で歩き、青年期には二本足で歩き、老いては杖をついて三つ足で歩くからである」
謎を解かれて面目を失ったスピンクスは、自ら城山より身を投じて死んだ(謎が解かれた場合は死ぬであろうという予言があったためとする話もある)。また、このスピンクスの問いの答えは「オイディプース」であるという穿った異説もある(後述)。
=== テーバイ王となり、母と交わる ===
スピンクスを倒したオイディプースはテーバイの王となった。そして実の母であるイオカステーを、そうとは知らずに娶り、2人の男児と2人の女児をもうけた。男児はそれぞれ[[エテオクレース]]と[[ポリュネイケース]]といい、女児は[[アンティゴネー]]と{{仮リンク|イスメーネー|en|Ismene}}という。
=== 真実を知る ===
オイディプースがテーバイの王になって以来、不作と疫病が続いた。クレオーンがデルポイに神託を求めたところ、「不作と疫病はラーイオス殺害の穢れのためであるので、殺害者を捕らえテーバイから追放せよ」という神託を得た。
オイディプースはそこで過去に遡って調べを進めるが、次第にそのあらましが、自分がこの地に来たときのポーキスの三叉路でのいざこざに似ていることに気が付く。さらに調べを進めるうち、やはりそれが自分であること、しかも自分がラーイオス王の子であったこと、母との間に子をもうけたこと、つまりは以前の神託を実現してしまったことを知る。それを知るやイオカステーは自殺し、オイディプースは絶望して自らの目をえぐり、追放された(娘と共に放浪の旅に出て行ったという説もある)。
== 異伝 ==
古い形の伝説では、オイディプースは自分の母を妻にしていることを知った後でも、そのまま王であり続けている。
『[[イーリアス]]』には、オイディプースが戦場で死んだと記されている。
また一つの解釈として、スピンクスの謎かけの答えは「オイディプース」であるとも言われる。それは、初めは立派な人間(=二つ足)であったが、母と交わるという獣の行いを犯し(=四つ足)、最後は盲目となって杖をついて(=三つ足)国を出て行く、というオイディプースの数奇な運命を表すものである(この解釈では朝・昼・夜という時系列は、青年期・壮年期・老年期となる)。この解釈は[[蜷川幸雄]]演出の『オイディプス王』(2002年、[[野村萬斎]]主演)でも演じられた。
=== 最期(異伝) ===
娘と共に諸国をさすらったオイディプースは、その後[[アテーナイ]]に辿り着いた。アテーナイ王[[テーセウス]]はオイディプースを手厚く庇護し、コローノスの森でオイディプースが最期を迎えることを認める<ref>{{Cite book|和書 |author= 井出洋一郎|authorlink=井出洋一郎 |year = 2010 |title = ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか |publisher = [[中経出版]] |page = 155 |isbn = 978-4-8061-3750-4}}</ref>。テーセウスに見守られ、ようやく安息の地を得たオイディプースは、地中へ姿を消した(『[[コロノスのオイディプス]]』)。
== 子孫 ==
オイディプースとイオカステは2人の息子([[エテオクレース]]、[[ポリュネイケース]])と2人の娘([[アンティゴネー]]、イスメーネー)を残した。2人の男児は長じてから、テーバイの王位継承をめぐって争いを起こす。その結果、テーバイを追放されたポリュネイケースは、7人の将でテーバイを攻めるが(『[[テーバイ攻めの七将]]』)、失敗に終わる。戦争中にオイディプースの息子たちは相打ちになって死亡する。
一方、オイディプースの2人の娘はオイディプースとともに諸国を放浪した(『[[コロノスのオイディプス]]』)が、オイディプースが死ぬとテーバイへと帰る。その後、2人の息子による前述の戦争が起こり、テーバイを裏切った兄ポリュネイケースの遺体は埋葬を許されず、野ざらしになっていた。しかしアンティゴネーは兄の骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。このことで彼女は死刑を宣告され、牢で自害した(『[[アンティゴネー]]』)。また、アンティゴネーの婚約者であったハイモーンも彼女のあとを追い自害したとされている。
戦争から10年後、七将の息子たち([[エピゴノイ]])は父親の志を継ぐべくテーバイへの再攻撃を企て、テーバイを陥落させた。途中、エテオクレースの子[[ラーオダマース]]は戦死する。
一方、ポリュネイケースの子[[テルサンドロス]]は、テーバイでの戦争に勝利した後、[[トロイア戦争]]に参加したが、ギリシア軍は間違って[[ミューシア]]に上陸し、[[テーレポス]]王と戦争になった。ギリシア軍はテーレポスによって敗走させられ、テルサンドロスは最後まで戦ったが、テーレポスに討たれた。
== 系図 ==
{{カドモスの系図}}
== 古典悲劇への影響 ==
この伝説は、[[ギリシア悲劇]]に再三取り上げられ、以下のものが現存している。
* [[アイスキュロス]]:『[[テーバイ攻めの七将]]』
* [[ソポクレース]]:『[[オイディプス王]]』、『[[アンティゴネー]]』、『[[コロノスのオイディプス]]』
また、ラテン語の悲劇としても下記の作品が知られている。
* [[セネカ]]:『{{仮リンク|オエディプス_(セネカ)|en|Oedipus_(Seneca)|label=オエディプス|preserve=1}}』
== ギャラリー ==
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IngresOdipusAndSphinx.jpg|{{small|[[ドミニク・アングル]]による『スフィンクスの謎を解くオイディプス』1808年 [[ルーヴル美術館]]所蔵}}
Oedipus and the Sphinx MET DP-14201-023.jpg|{{small|[[ギュスターヴ・モロー]]による『[[オイディプスとスフィンクス]]』1864年 [[メトロポリタン美術館]]所蔵}}
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』[[高津春繁]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1953年、改版1978年。ISBN 4-00-321101-4。
* [[アイスキュロス]]『[[テーバイ攻めの七将]]』[[高津春繁]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1973年。ISBN 978-4003210420。
* [[ソポクレス]]『[[オイディプス王]]』[[藤沢令夫]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1967年、改版2004年、ワイド版2009年。ISBN 4003210522。
* ソポクレス『[[コロノスのオイディプス]]』高津春繁訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1973年。ISBN 978-4003210536。
* ソポクレース『[[アンティゴネ (ソポクレス)|アンティゴネー]]』[[中務哲郎]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。ISBN 978-4003570043。
* セネカ『悲劇集 2』大西英文ほか訳、[[京都大学学術出版会]]〈[[西洋古典叢書]]〉、1997年。ISBN 9784876981045。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Oedipus}}
* [[イオカステー]]
* [[スフィンクス]]
{{先代次代|テーバイ王(神話時代)||[[ラーイオス]]|[[クレオーン]]}}
{{ギリシア神話}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おいていふうす}}
[[Category:オイディプース|*]]
[[Category:ギリシア神話の人物]]
[[Category:テーバイ]]
[[Category:テーバイ王]]
[[Category:近親相姦]]
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神社一覧
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神社一覧(じんじゃいちらん)では、日本で全国的に著名な神社、および日本以外の神社を掲載している。
アメリカ合衆国の神社一覧を参照。
ブラジルの神社一覧を参照。
Category:台湾の神社を参照。
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'''神社一覧'''(じんじゃいちらん)では、日本で全国的に著名な[[神社]]、および日本以外の神社を掲載している。
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{{main2|[[都道府県]]別の神社については[[日本の神社一覧]]も}}
== あ ==
*[[敢國神社]]([[三重県]][[伊賀市]])(あえくに)
*〈[[赤城神社]]〉
**元宮:[[赤城神社 (前橋市富士見町赤城山)]]([[群馬県]][[前橋市]])
**里宮:[[二宮赤城神社]](群馬県前橋市)
**論社:[[赤城神社 (前橋市三夜沢町)]](群馬県前橋市)
***[[赤城神社 (新宿区)]]([[東京都]][[新宿区]])
***[[元赤城神社 (新宿区)]](東京都新宿区)
***[[赤城神社 (足立区)]](東京都[[足立区]])
*[[赤間神宮]]([[山口県]][[下関市]])
*[[秋田諏訪宮]]([[秋田県]][[美郷町 (秋田県)|美郷町]])
*〈[[秋葉神社]]〉
**本社:[[秋葉山本宮秋葉神社]]([[静岡県]][[浜松市]])
*[[開口神社]]([[大阪府]][[堺市]][[堺区]])(あぐち)
*[[旦椋神社 (宇治市)|旦椋神社]]([[京都府]])
*[[安積国造神社]]([[福島県]][[郡山市]])
*[[浅草神社]](東京都[[台東区]])
*[[安里八幡宮]]([[沖縄県]][[那覇市]][[安里]])
*〈[[浅間神社]]〉(あさまじんじゃ)
**本社:浅間大社([[静岡県]][[富士宮市]]):⇒[[富士山本宮浅間大社]](せんげん)
**浅間神社([[山梨県]][[南都留郡]][[富士河口湖町]]):⇒[[河口浅間神社]](あさま)
**[[浅間神社 (笛吹市)|浅間神社]](山梨県[[笛吹市]]) (あさま)
*[[阿志都弥神社・行過天満宮]]([[滋賀県]][[高島市]])
*[[蘆別神社]]([[北海道]])
*[[飛鳥坐神社]]([[奈良県]][[明日香村]])
*[[飛鳥戸神社]]([[大阪府]][[羽曳野市]])
*[[足助八幡宮]]([[愛知県]][[豊田市]])
*[[阿蘇神社]]([[熊本県]][[阿蘇市]])
*〈[[愛宕神社]]〉
**本社:[[愛宕神社]]([[京都市]][[右京区]])
*[[安達太良神社]]([[福島県]][[本宮市]])
*[[熱田神宮]]([[名古屋市]][[熱田区]])
*[[穴師坐兵主神社]](奈良県[[桜井市]])
*[[穴守稲荷神社]](東京都[[大田区]])
*[[安仁神社]]([[岡山県]])
*[[油日神社]](滋賀県[[甲賀市]])
*[[阿部野神社]]([[大阪市]][[阿倍野区]])
*[[天手長男神社]]([[長崎県]][[壱岐市]])(壱岐一宮)
*[[天石立神社]](奈良県[[奈良市]])
*[[有鹿神社]]([[神奈川県]][[海老名市]])
*[[天久宮]](沖縄県那覇市)
*[[天穂日命神社]]([[鳥取県]][[鳥取市]])
*[[荒島神社]](和歌山県[[田辺市]]龍神村)
*[[有明山神社]]([[長野県]][[安曇野市]])
*[[阿禮神社]](長野県[[塩尻市]])
*[[安房神社]](千葉県[[館山市]])
*[[安閑神社 (高島市)|安閑神社]](滋賀県高島市)
*[[淡海國玉神社]](磐田市馬場町)
== い ==
* [[飯生神社]]([[北海道]][[長万部町]])
* [[井伊谷宮]]([[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]])
* [[粒坐天照神社]]([[兵庫県]][[たつの市]])
* [[伊香具神社]]([[滋賀県]][[長浜市]])
* [[坐摩神社]]([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]])
* [[一宮神社 (福知山市)|一宮神社]] ([[京都府]][[福知山市]])
* [[生国魂神社]](大阪市[[天王寺区]])
* [[生島足島神社]](長野県[[上田市]])
* [[生田神社]]([[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]])
* [[往馬坐伊古麻都比古神社]]([[奈良県]][[生駒市]])
* [[率川神社]](奈良県[[奈良市]])([[大神神社]]摂社)
* [[伊佐須美神社]]([[福島県]][[会津美里町]])
* [[伊弉諾神宮]](兵庫県[[淡路市]])
*[[石嘉波神社]]([[沖縄県]][[国頭郡]][[本部町]][[瀬底島]])
* [[石切剣箭神社]](大阪府[[東大阪市]])
* [[石津神社]]([[堺市]][[堺区]])
* [[石作神社・玉作神社]](滋賀県長浜市)
* [[石鎚神社]]([[愛媛県]][[西条市]])
* [[出石神社]](兵庫県[[豊岡市]])
* [[泉穴師神社]](大阪府[[泉大津市]])
* [[泉井上神社]](大阪府[[和泉市]])
* [[出雲大社]]([[島根県]][[出雲市]])
** [[出雲大社東京分祠]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])
** [[出雲大社大阪分祠]](堺市[[東区 (堺市)|東区]])
** [[出雲大社松山分祠]]([[愛媛県]][[松山市]])
* [[出雲大神宮]](京都府[[亀岡市]])
* [[伊豆山神社]]([[静岡県]][[熱海市]])
* 〈伊勢信仰〉
** 正宮:[[伊勢神宮]]([[三重県]][[伊勢市]])
** 内宮別宮:[[荒祭宮]](内宮域内)・[[月讀宮]](三重県伊勢市)・月讀荒御魂宮(月讀宮域内)・伊佐奈岐宮(月讀宮域内)・伊佐奈弥宮(月讀宮域内)・[[瀧原宮]](三重県[[大紀町]])・瀧原竝宮(瀧原宮域内)・[[伊雑宮]](三重県[[志摩市]])・[[風日祈宮]](内宮域内)・[[倭姫宮]](三重県伊勢市)
** 外宮別宮:[[多賀宮]](外宮域内)・[[土宮]](外宮域内)・[[月夜見宮]](三重県[[伊勢市]])・[[風宮]](外宮域内)
* [[石上神宮]](奈良県[[天理市]])
* [[伊曽乃神社]](愛媛県西条市)
* [[糸碕神社]]([[広島県]][[三原市]])
* [[伊太祁曽神社|伊太祁󠄀曽神社]]([[和歌山県]][[和歌山市]])
* [[射楯兵主神社]](兵庫県[[姫路市]])([[播磨国]]総社)
* [[一宮浅間神社]](いちのみやせんげん 山梨県[[市川三郷町]])
* [[一之宮貫前神社]]([[群馬県]][[富岡市]])
* [[厳島神社]](広島県[[廿日市市]][[厳島|宮島町]])
** [[厳島神社 (釧路市)|釧路厳島神社]](北海道[[釧路市]])
* [[猪名野神社]](兵庫県[[伊丹市]])
* [[伊奈波神社]]([[岐阜県]][[岐阜市]])
* [[稲八金天神社]]:明治末年の[[神社合祀|神社合祀政策]]によって誕生した神社。
* 〈[[稲荷神]]信仰・稲荷神社〉
** 本社:[[伏見稲荷大社]](京都市[[伏見区]])
** [[笠間稲荷神社]]([[茨城県]][[笠間市]])
** [[祐徳稲荷神社]]([[佐賀県]][[鹿島市]])
** [[竹駒神社]] ([[宮城県]][[岩沼市]])
** [[太皷谷稲成神社]] ([[島根県]][[津和野町]])
** [[瓢箪山稲荷神社]](大阪府東大阪市)
** 寺院:[[豊川稲荷]](豊川閣妙厳寺)(愛知県[[豊川市]])
** 寺院:[[最上稲荷]](稲荷山妙教寺)([[岡山県]])
* [[今戸神社]]([[東京都]][[台東区]][[今戸]])
* [[今宮戎神社]]([[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]])
* [[忌宮神社]](いみのみやじんじゃ・[[山口県]][[下関市]])
* [[射水神社]]([[富山県]][[高岡市]])
* [[芋川神社]]([[長野県]][[飯綱町]])
* [[岩木山神社]]([[青森県]][[弘前市]][[百沢]])
* [[石津太神社]](いわつたじんじゃ)(堺市[[西区 (堺市)|西区]])
* [[石清水八幡宮]](京都府[[八幡市]])
* [[伊和神社]](兵庫県[[宍粟市]])
* [[石床神社]](奈良県)
* [[忌部神社]]([[徳島県]][[徳島市]][[二軒屋町]])
* [[伊和都比売神社]](兵庫県[[赤穂市]])
* [[岩山神社 (新見市上熊谷寺元)|岩山神社]](岡山県[[新見市]])
* [[印鑰神社 (八代市)|印鑰神社]](熊本県[[八代市]])
== う ==
*[[上杉神社]](山形県)
*[[宇佐神宮]]([[大分県]][[宇佐市]])
*[[鵜坂神社]](富山県)
*[[牛窓神社]](岡山県)
*[[魚吹八幡神社]]([[津の宮]])(兵庫県姫路市)
*[[宇都宮二荒山神社]]([[栃木県]][[宇都宮市]])
*[[鵜戸神宮]](宮崎県)
*[[畝尾都多本神社]](奈良県[[橿原市]])
*[[畝尾坐健土安神社]](奈良県橿原市)
*[[采女神社]](奈良市)(うねめ)
*[[宇倍神社]](鳥取市)
*[[馬路石邊神社]](滋賀県[[守山市]])
*[[馬見岡綿向神社]](滋賀県[[蒲生郡]][[日野町 (滋賀県)|日野町]])
*[[梅宮大社]](京都市)
== え ==
*[[永尾神社]](熊本県[[宇城市]])(えいのお)
*[[衣羽神社]]([[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]);(えば)
*[[江端神社]] ([[新潟県]][[上越市]])
*[[埃宮神社]](広島県[[安芸高田市]])
*[[鉛練比古神社]](滋賀県長浜市)
== お ==
*[[意富比神社]](千葉県船橋市)
* [[小国神社]](静岡県[[周智郡]][[森町 (静岡県)|森町]])
* [[老尾神社]](千葉県[[匝瑳市]]);(おいお)
* [[王子稲荷神社]](東京都北区)
* [[生石神社]](石の宝殿、兵庫県[[高砂市]]);(おうしこ)
* [[樗谿神社]](鳥取市)
* [[大石神社]](兵庫県赤穂市、京都市)
* [[大津神社 (泉大津市)|大津神社]](大阪府[[泉大津市]])
* [[小槻大社]] (滋賀県栗東市)
* [[近江神宮]](滋賀県大津市)
* [[大縣神社]](愛知県)
* [[大麻比古神社]](徳島県)
* [[大荒比古神社]](滋賀県[[高島市]])
* [[大洗磯前神社]](茨城県)
* 大神山神社(鳥取県)
* [[大皇器地祖神社]](滋賀県[[東近江市]])
* [[大國魂神社 (いわき市)|大國魂神社]](福島県[[いわき市]])
* [[大國魂神社]](東京都[[府中市 (東京都)|府中市]])
* [[大國主神社 (高島市)|大國主神社]](滋賀県高島市)
* [[大阪天満宮]](大阪市)
* [[大崎八幡宮]](宮城県[[仙台市]])
* [[大笹原神社]](滋賀県[[野洲市]])
* [[大避神社]](兵庫県[[赤穂市]])
* 〈大杉神社〉
* 総本社 : [[大杉神社]]([[茨城県]][[稲敷市]])
** [[大杉神社 (ふじみ野市)]]([[埼玉県]][[ふじみ野市]])
* [[大鳥大社]](堺市西区)
* [[大原野神社]](京都府)
* [[大神神社]](奈良県[[桜井市]])
* [[大館八幡神社]](秋田県[[大館市]])
* 大物忌神社(山形県):⇒[[鳥海山大物忌神社]]
* [[大地主神社]](石川県[[七尾市]]):(おおとこぬし)
* [[大山祇神社]](愛媛県)
* [[大和神社]](奈良県):(おおやまと・大倭とも)
* [[隠津島神社 (郡山市湖南町福良)]]
* [[隠津島神社 (二本松市)]]
* [[沖宮]](沖縄県)
* 〈[[雄琴神社]]〉
** [[雄琴神社 (大津市)|雄琴神社]]([[滋賀県]][[大津市]])
** [[雄琴神社 (壬生町)|雄琴神社]]([[栃木県]][[壬生町]])
* [[帯廣神社]](北海道)
* [[雄山神社]](富山県[[立山町]])
* [[尾山神社]](石川県)
* [[尾張大国霊神社]](愛知県)
* [[扇森稲荷神社]](大分県[[竹田市]])
* [[尾崎神社]](埼玉県[[川越市]])
* [[大前神社]](栃木県[[真岡市]])
* [[大嵐天神社]](山梨県[[富士河口湖町]])
== か ==
*[[海神神社]](長崎県)
*[[開成山大神宮]](福島県[[郡山市]])
*[[鏡作神社]](奈良県)
*[[高津柿本神社|柿本神社]](島根県[[益田市]])
*[[鹿児島神宮]]([[鹿児島県]])
*[[笠間稲荷神社]](茨城県)
*[[風間神社]](長野県長野市)
*[[香椎宮]]([[福岡県]])
*[[橿原神宮]](奈良県[[橿原市]])
*[[鹿島神宮]](茨城県[[鹿嶋市]])
*[[鹿島神社 (横須賀市)]]([[神奈川県]][[横須賀市]])
*〈[[春日神社]]〉
**本源
***元春日・[[枚岡神社]](大阪府)
***[[鹿島神宮]](茨城県)
***[[香取神宮]](千葉県)
**本社:[[春日大社]](奈良市)
**[[大原野神社]](京都府)
**[[吉田神社]](京都府)
**[[春日神社 (掛川市)|春日神社]](静岡県[[掛川市]])
**[[春日神社 (豊中市宮山町)|春日神社]](大阪府[[豊中市]])
**[[桑名宗社|春日神社]](三重県[[桑名市]])
**[[春日神社 (春日市)|春日神社]](福岡県[[春日市]])
**[[方違神社]](かたたがえじんじゃ・ほうちがいじんじゃ)(大阪府堺市)
*月山神社(山形県):⇒[[出羽三山]]
*[[勝手神社]](奈良県[[吉野町]])
*[[葛城神社妙見宮]](福岡県[[築上郡]])
*[[加藤神社]]([[熊本県]][[熊本市]])
*[[香取神宮]](千葉県[[香取市]])
*[[金鑚神社]](埼玉県[[神川町]])
*[[金崎宮]]([[福井県]][[敦賀市]])
*[[金澤八幡宮]](秋田県[[横手市]])
*[[金子神社]](埼玉県[[入間市]])
*[[釜加神社]](北海道[[千歳市]])
*[[鎌倉宮]](神奈川県[[鎌倉市]])
*[[竈門神社]](福岡県[[太宰府市]])
*[[竈山神社]](和歌山県和歌山市)
*上賀茂神社:⇒[[賀茂別雷神社]]
*[[上川神社]](北海道)
*[[上許曾神社]](滋賀県[[長浜市]])
*〈[[賀茂神社]]〉(京都府京都市)
**本社:[[賀茂別雷神社]]
**本社:[[賀茂御祖神社]]
***[[加茂神社 (射水市)|加茂神社]](富山県[[射水市]])
*[[神魂神社]](島根県[[松江市]])
*[[金持神社]](鳥取県[[日野町 (鳥取県)|日野町]]);(かもち)
*[[辛国神社]](大阪府[[藤井寺市]])
*[[唐崎神社]](滋賀県大津市)
*[[唐沢山神社]](栃木県)
*[[香良洲神社]](三重県[[津市]])
*[[漢国神社]](奈良市)
*[[樺太神社]]([[樺太庁|樺太]][[豊原市]])
*[[川勾神社]](神奈川県[[中郡]][[二宮町]])
*[[神田神社]](東京都)
*[[菅大臣神社]](京都府京都市)
*[[神谷神社]](香川県[[坂出市]]) ; (かんだにじんじゃ)
== き ==
*祇園社(京都府):⇒[[八坂神社]]
*[[菊池神社 (菊池市)|菊池神社]](熊本県[[菊池市]])
*[[岸城神社]](大阪府[[岸和田市]])(きしきじんじゃ)
*[[北野天満宮]](京都市)
*[[北畠神社]](三重県津市)
*[[吉備津神社]](岡山市)
*[[吉備津神社 (福山市)|吉備津神社]](広島県福山市)
*[[吉備津彦神社]](岡山市)
*〈貴船神社〉
**本社:[[貴船神社]](京都市)
**[[貴船神社 (曖昧さ回避)]]
*[[宮中三殿]](賢所、皇霊殿、神殿)(東京都千代田区[[皇居]]内)
*[[京都霊山護国神社]](京都市)
*[[霧島神宮]](鹿児島県[[霧島市]])
*[[桐生天満宮]](群馬県[[桐生市]])
*[[桐生西宮神社]](群馬県桐生市)
*[[金峯神社 (吉野町)|金峯神社]](奈良県吉野町)
*[[金武宮]](沖縄県[[金武町]])
== く ==
*[[草戸稲荷神社]](福山市)
*[[菌神社]]([[栗東市]])
*[[日部神社]](堺市西区)
*[[櫛田神社 (福岡市)|櫛田神社]]([[福岡市]][[博多区]])
*[[百済王神社]]([[大阪府]][[枚方市]])
*[[日前神宮・國懸神宮|國懸神宮]](和歌山県)
*[[久能山東照宮]](静岡市駿河区)
*〈[[熊野神社]]〉
**主系統本社:[[熊野三山]]([[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]])(和歌山県)
**[[遠州]]の熊野三山 ([[三熊野神社 (掛川市)|三熊野神社]]、[[小笠神社]]、[[高松神社]])(静岡県)
**[[波上宮]](沖縄県)
**[[沖宮]](沖縄県)
**[[普天満宮]](沖縄県)
**[[末吉宮]](沖縄県)
**[[天久宮]](沖縄県)
**[[金武宮]](沖縄県)
**別系統:[[熊野大社]](島根県)
*[[杭全神社]](大阪市[[平野区]])
*[[水天宮 (久留米市)|久留米水天宮]](福岡県)
*[[呉服神社]](大阪府[[池田市]]);(くれは)
== け ==
*[[気多大社]](石川県[[羽咋市]])
*[[気多神社]](富山県[[高岡市]])
*[[気多若宮神社]](岐阜県[[飛騨市]])
*[[氣比神宮]](福井県敦賀市)
*[[源九郎稲荷神社]](奈良県)
*[[健軍神社]](熊本県[[熊本市]])
== こ ==
*[[興神社]](長崎県[[壱岐市]])
*[[河内神社 (広島市)|河内神社]](広島県広島市佐伯区)
*[[高徳神社]](埼玉県[[鶴ヶ島市]])
*[[高良大社]](福岡県)
*[[護王神社]](京都府)
*[[御香宮神社]](京都市伏見区)
*[[護国神社]](日本全国各地)
*〈[[御霊神社]]〉
**[[上御霊神社]](京都府京都市上京区)
**[[下御霊神社]](京都府京都市中京区)
**[[御霊神社 (大阪市)|御霊神社]](大阪府大阪市中央区)
**[[御霊神社 (福知山市)|御霊神社]](京都府福知山市)
*[[黄金山神社 (石巻市)|黄金山神社]]([[宮城県]][[石巻市]])
*[[黄金山神社 (涌谷町)|黄金山神社]](宮城県[[遠田郡]][[涌谷町]])
*[[心清水八幡神社]](福島県[[河沼郡]][[会津坂下町]])
*[[子鍬倉神社]](いわき市)
*[[古四王神社]](秋田県)
*[[児玉神社 (周南市)]](山口県[[周南市]])
*[[児玉神社 (藤沢市)]](神奈川県[[藤沢市]])
*[[琴弾八幡宮]](香川県[[観音寺市]])
*〈[[金比羅神社]]〉
**本社:[[金刀比羅宮]](香川県[[琴平町]])
**[[金刀比羅神社 (根室市)|金刀比羅神社]](北海道[[根室市]])
*[[籠神社]](京都府)
*[[小平潟天満宮]](福島県)
*[[高麗神社]](埼玉県)
*[[駒形神社]]([[岩手県]][[奥州市]])
*[[小御門神社]](千葉県)
*[[薦神社]](大分県[[中津市]])
*[[五所神社 (長井市)|五所神社]]([[山形県]][[長井市]])
*[[甲佐神社]](熊本県[[甲佐町]])
*[[郡浦神社]](熊本県[[宇城市]])
*[[小松神社 (交野市)|小松神社]](大阪府交野市)
== さ ==
*[[狭井神社]](奈良県)([[大神神社]]摂社)
*[[佐嘉神社]]([[佐賀県]][[佐賀市]])
*[[坂田神明宮]](滋賀県[[米原市]])
*[[酒列磯前神社]](茨城県[[ひたちなか市]])
*[[佐川龍馬神社]](高知県[[佐川町]])
*[[前鳥神社]](神奈川県[[平塚市]])
*[[佐久奈度神社]](滋賀県大津市)
*[[沙沙貴神社]](滋賀県[[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]]常楽寺)
*[[西寒田神社]](大分県):(ささむた)
*[[細石神社]](福岡県糸島市)
*[[佐太神社]](島根県松江市)
*[[寒川神社]](神奈川県[[寒川町]])
*[[猿賀神社]](青森県[[平川市]])
*〈[[猿田彦神社 (曖昧さ回避)|猿田彦神社]]〉
**本社:[[猿田彦大本宮]] ([[椿大神社]] [[三重県]][[鈴鹿市]])
**[[猿田彦神社 (掛川市高瀬)|猿田彦神社]](静岡県掛川市)
**[[猿田彦神社]](三重県[[伊勢市]])
**[[猿田彦神社 (福岡市)|猿田彦神社]]([[福岡県]][[福岡市]][[早良区]])
*[[澤田八幡神社]](大阪府[[藤井寺市]])
*〈[[山王神社]]〉
**[[山王神社 (長崎市)|山王神社]](長崎県[[長崎市]])
*[[狭野神社 (能美市)]](石川県[[能美市]])
*[[狭山神社]](大阪府[[大阪狭山市]])
== し ==
*〈[[塩竈神社 (曖昧さ回避)|塩竈神社]]〉
**本社:[[鹽竈神社]](宮城県[[塩竈市]])
**[[御釜神社]](宮城県塩竈市)
**[[鹽竈神社 (仙台市宮城野区)|鹽竈神社]](宮城県[[仙台市]][[宮城野区]])
**[[塩釜神社 (松本市)|塩釜神社]](長野県[[松本市]])
**[[塩竈神社 (名古屋市)|塩竈神社]](名古屋市[[天白区]])
**[[塩竈神社 (和歌山市)|塩竈神社]](和歌山県[[和歌山市]])
*[[鹽津神社]](滋賀県長浜市)
*[[塩屋八幡宮]](熊本県[[八代市]])
*[[志賀海神社]](福岡県)
*[[思子淵神社 (高島市安曇川町中野)|思子淵神社]](滋賀県高島市安曇川町中野)
*[[思子淵神社 (高島市朽木小川)|思子淵神社]](滋賀県高島市朽木小川)
*[[思子淵神社 (高島市朽木平良)|思子淵神社]](滋賀県高島市朽木平良)
*[[地御前神社]](広島県廿日市市):(厳島神社外宮)
*[[識名宮]](沖縄県那覇市)
*[[四條畷神社]](大阪府[[四條畷市]])
*[[静岡浅間神社]](静岡市葵区):(せんげん)
*〈[[倭文神社]]〉
**本源 : [[葛木倭文座天羽雷命神社]](奈良県[[葛城市]])
**[[倭文神社 (湯梨浜町)|倭文神社]](鳥取県[[湯梨浜町]]):(しずり)
**[[静神社]](茨城県[[那珂市]])
*[[信太森葛葉稲荷神社]](大阪府和泉市)
*[[志磨神社]](和歌山県和歌山市)
*[[清水神社 (明石市)|清水神社]](兵庫県[[明石市]])
*下鴨神社:⇒[[賀茂御祖神社]]
*[[社宮神社]](静岡県浜松市)
*〈[[神明神社#全国の主な神明社・神明神社・大神宮|神明神社]]〉
**神明神社 [[愛知県]][[知多郡]][[南知多町]]
**[[神明神社 (福井市)]]
*[[松陰神社]](東京都[[世田谷区]]、山口県[[萩市]])
*[[城南宮]](京都市)
*[[聖母宮]](長崎県壱岐市)
*[[白峰神宮]](京都府)
*[[白鳥神社 (富山市)|白鳥神社]](富山県[[富山市]])
*[[白鬚神社 (曖昧さ回避)|白髭神社]]
*[[白羽神社]](香川県[[高松市]])
*[[志和稲荷神社]] (岩手県[[紫波町]])
*[[新宮熊野神社]](福島県[[喜多方市]])
*[[新開大神宮]](熊本県[[熊本市]])
== す ==
*〈[[水天宮]]〉
**本社:[[水天宮 (久留米市)|久留米水天宮]](福岡県)
**[[水天宮 (東京都中央区)|水天宮]](東京都[[中央区 (東京都)|中央区]])
*[[水無神社 (関市)|水無神社]](岐阜県[[関市]]富之保)
*[[末吉宮]](沖縄県)
*[[菅生石部神社]](石川県)
*[[杉原神社]](富山県)
*[[柞原八幡宮]](大分県)
*[[助松神社]](大阪府泉大津市)
*[[洲崎神社]](千葉県[[館山市]])
*[[須我神社]](島根県[[雲南市]])
*[[須賀神社 (長浜市)|須賀神社]](滋賀県長浜市)
*[[須佐神社 (出雲市)|須佐神社]](島根県出雲市)
*[[須倍神社]](静岡県浜松市)
*〈[[住吉三神]]信仰・住吉神社〉
**本社:[[住吉大社]] (大阪市住吉区)
**[[住吉神社 (東京都中央区)|住吉神社]](東京都中央区)
**[[住吉神社 (安曇野市)|住吉神社]](長野県安曇野市)
**[[本住吉神社]](神戸市)
**[[住吉神社 (明石市)|住吉神社]](明石市)
**[[住吉神社 (加西市)|住吉神社]](加西市)
**[[住吉神社 (広島市中区)|住吉神社]](広島市中区)
**[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]](山口県[[下関市]])
**[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]](福岡市博多区)
**[[住吉神社 (壱岐市)|住吉神社]](長崎県壱岐市)
**[[住吉神社 (宇土市)|住吉神社]](熊本県宇土市)
*〈[[諏訪神社]]〉
**本社:[[諏訪大社]](長野県)
**[[鎮西大社諏訪神社|諏訪神社]](長崎県長崎市)
**[[諏訪神社 (南部町)|諏訪神社]](青森県[[南部町 (青森県)|南部町]])
**[[秋田諏訪宮]](秋田県美郷町)
== せ ==
*[[晴明神社]](京都府)
*[[世良田東照宮]](群馬県[[太田市]][[世良田町]])
*〈[[浅間神社]]〉(せんげんじんじゃ)
**本社:浅間大社([[静岡県]][[富士宮市]]):⇒[[富士山本宮浅間大社]](せんげん)
**[[北口本宮冨士浅間神社]]([[山梨県]][[富士吉田市]])
**[[東口本宮冨士浅間神社]](静岡県[[小山町]])
**浅間神社([[静岡市]][[葵区]]):⇒[[静岡浅間神社]]
**浅間神社(山梨県[[富士河口湖町]]):⇒[[冨士御室浅間神社]]
**[[稲毛浅間神社]]([[千葉県]][[千葉市]][[稲毛区]])
*[[仙台東照宮]](宮城県仙台市)
== そ ==
*[[宗佐厄神八幡神社]](兵庫県[[加古川市]])
== た ==
*[[田縣神社]](愛知県[[小牧市]])
*[[高砂神社]](兵庫県[[高砂市]])
*〈[[多賀神社]]〉
**本社:[[多賀大社]](滋賀県[[多賀町]])
**[[多賀神社 (松本市)|多賀神社]](長野県松本市)
*[[高石神社]](大阪府[[高石市]])
*[[高忍日賣神社]](愛媛県[[松前町 (愛媛県)|松前町]])
*[[高鴨神社]](奈良県[[御所市]])
*[[高倉神社]](三重県)
*[[高座結御子神社]](愛知県名古屋市)
*[[高須神社]](大阪府堺市堺区)
*[[高瀬神社]](富山県南砺市)
*[[高天彦神社]](奈良県御所市)
*[[多久比禮志神社]](富山県富山市)
*[[武井神社]](長野県長野市)
*[[竹駒神社]]([[宮城県]][[岩沼市]])
*[[建勲神社]](京都府京都市北区)
*[[建部大社]](滋賀県大津市)
*[[建水分神社]](大阪府[[千早赤阪村]])
*[[武水別神社]](長野県千曲市)
*[[太宰府天満宮]](福岡県太宰府市)
*[[多治速比売神社]](堺市[[南区 (堺市)|南区]])
*[[田島神社]](佐賀県唐津市)
*[[多田神社]](兵庫県[[川西市]])
*[[橘樹神社 (茂原市)|橘樹神社]](千葉県[[茂原市]])
*[[龍田大社]](奈良県[[三郷町]])
*立石海神社(奈良県下市町)
*[[多度大社]](三重県[[桑名市]])
*[[玉前神社]](千葉県[[一宮町]]):(たまさき)
*[[玉崎神社]](千葉県[[旭市]]):(たまさき)
*[[玉津島神社]](和歌山県[[和歌山市]])
*〈[[玉祖神社]]〉
**本社:[[玉祖神社]](たまのおやじんじゃ・山口県[[防府市]])
**[[玉祖神社 (八尾市)|玉祖神社]](たまおやじんじゃ・大阪府[[八尾市]])
*[[玉作湯神社]](島根県[[松江市]])
*[[手向山八幡宮]](奈良県奈良市)
*[[玉若酢命神社]](島根県[[隠岐の島町]])
*[[田村神社 (郡山市)|田村神社]](福島県郡山市)
*[[田村神社 (甲賀市)|田村神社]](滋賀県[[甲賀市]])
*[[田村神社 (高松市)|田村神社]](香川県高松市)
*[[樽前山神社]](北海道苫小牧市)
*[[談山神社]](奈良県桜井市)
*[[龍尾神社]](静岡県掛川市)
*[[高天神社]](静岡県掛川市)
== ち ==
*[[千葉神社]](千葉県千葉市)
*[[都久夫須麻神社]]([[竹生島神社]])(滋賀県長浜市)
*[[千栗八幡宮]](佐賀県)
*[[秩父神社]](埼玉県)
*[[千歳神社]](北海道)
*[[鳥海山大物忌神社]](山形県)
== つ ==
*[[積川神社]](大阪府岸和田市)
*[[槻神社]](愛知県[[北設楽郡]][[東栄町]])
*[[調神社]](埼玉県):(つき、つきのみや)
*[[月讀神社 (壱岐市)|月讀神社]](長崎県壱岐市)
*[[月読神社 (京都市)|月読神社]](京都市)
*[[筑波山神社]](茨城県つくば市)
*[[津島神社]](愛知県[[津島市]])
*[[壺井八幡宮]](大阪府羽曳野市)
*[[都都古別神社]](福島県)
*[[都農神社]](宮崎県):(つの)
*[[椿大神社]](三重県[[鈴鹿市]])
*[[妻恋神社]](東京都[[文京区]])
*[[露天神社]](お初天神、大阪市)
*[[鶴尾神社]](香川県高松市)
*[[鶴見神社 (横浜市)]](神奈川県)
*[[劔神社|剣神社]](福井県)
*[[鶴嶺八幡宮]](神奈川県[[茅ヶ崎市]])
== て ==
*[[照国神社]](鹿児島市)
*[[光雲神社]](福岡市)
*出羽神社(山形県):⇒[[出羽三山]]
*[[出羽三山]](出羽神社、湯殿山神社、月山神社)
*[[天河大弁財天社]] (天河神社・奈良県[[天川村]])
*〈[[天満宮]]、天神社〉
**本社:[[北野天満宮]](京都市)
**本社:[[太宰府天満宮]]
**[[湯島天満宮]](東京都文京区)
**[[上野天神]](菅原神社)
**[[荏柄天神社]](鎌倉市)
**[[大阪天満宮]](大阪市)
**[[桐生天満宮]](群馬県桐生市)
**[[綱敷天神社]](大阪市)
**[[道明寺天満宮]](大阪府[[藤井寺市]])
**[[廿日市天満宮]](広島県廿日市市)
**[[防府天満宮]](山口県防府市)
== と ==
*[[戸明神社]]([[北九州市]][[若松区]])
*[[東京大神宮]](東京都)
*[[東郷神社]](福岡県、東京都ほか)
*〈[[東照宮]]〉
**本社:[[日光東照宮]](栃木県[[日光市]])
**[[上野東照宮]](東京都台東区)
**[[久能山東照宮]]([[静岡市]][[駿河区]])
**[[仙台東照宮]]([[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]])
**[[船橋東照宮]](千葉県船橋市)
*[[戸隠神社]](長野県)
*[[砥鹿神社]](愛知県):(とか)
*[[常磐神社]](茨城県[[水戸市]])
*[[所澤神明社]](埼玉県所沢市)
*[[土佐神社]](高知県)
*[[等乃伎神社]](大阪府高石市)
*[[鳥取神社 (釧路市)|鳥取神社]](北海道[[釧路市]])
*[[鞆結神社・大荒比古神社]](滋賀県高島市)
*〈[[豊国神社]](とよくに)〉
**[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]](京都市[[東山区]])
**[[豊国神社 (名古屋市)|豊国神社]](名古屋市[[中村区]])
*[[豊榮神社・野田神社|豊榮神社]](山口県[[山口市]]):(とよさか)
*[[豊玉姫神社]](佐賀県):(とよたまひめ)
*[[豊福阿蘇神社]](熊本県[[宇城市]])
*[[鳥越神社]](東京都台東区)
*[[鳥出神社]](三重県四日市市)
== な ==
*[[苗村神社]](滋賀県蒲生郡[[竜王町]])
*[[長岡天満宮]](京都府[[長岡京市]])
*[[長草天神社]](愛知県[[大府市]])
*[[中標津神社]] (北海道[[中標津町]])
*[[長田神社]](兵庫県神戸市)
*[[中山神社]](岡山県[[津山市]])
*[[長等神社]](滋賀県大津市)
*[[那古野神社]](愛知県名古屋市)
*[[梨木神社]](京都府京都市上京区)
*[[波上宮]](沖縄県[[那覇市]])
*[[成海神社]](愛知県名古屋市[[緑区 (名古屋市)|緑区]])
*[[名和神社]](鳥取県[[西伯郡]][[大山町]])
*[[南宮大社]](岐阜県[[垂井町]])
*[[中津神社 (中津市)|中津神社]](大分県中津市)
*[[若一王子神社]](長野県[[大町市]])
== に ==
*[[西岡神宮]](熊本県[[宇土市]])
*[[西久保神社]](樺太豊原市)
*[[西天神社]](兵庫県[[伊丹市]])
*〈西宮神社〉
**本社:[[西宮神社]](兵庫県[[西宮市]])
**[[桐生西宮神社]](群馬県桐生市)
**[[西宮神社 (足利市)|西宮神社]](栃木県[[足利市]])
*[[日前神宮・國懸神宮|日前宮]](和歌山県和歌山市)
*[[日光東照宮]](栃木県日光市)
*[[日光二荒山神社]](栃木県日光市)
*[[新田神社 (薩摩川内市)|新田神社]](鹿児島県)
*[[丹生川上神社]](奈良県)
*[[丹生都比売神社]](和歌山県)
*[[二宮神社 (あきる野市)|二宮神社]]([[東京都]][[あきる野市]])
*[[二宮神社 (船橋市)|二宮神社]](千葉県船橋市)
*[[二宮神社 (掛川市)|二宮神社]](静岡県掛川市)
*二宮神社(湖西市中之郷)
*[[楡山神社]](埼玉県)
*[[西久保八幡神社]](東京都)
*[[錦織神社]](大阪府[[富田林市]])
*[[二本松神社]]([[福島県]][[二本松市]])
== ぬ ==
*貫前神社(群馬県富岡市):⇒[[一之宮貫前神社]]
*[[沼名前神社]](広島県福山市)
== ね ==
== の ==
*[[脳天大神]](奈良県)
*[[野木神社]](栃木県[[野木町]])
*[[乃木神社]](京都市、山口県下関市、東京都など)
*[[豊榮神社・野田神社|野田神社]](山口県山口市)
*[[野宮神社]](京都市右京区)
== は ==
*〈[[白山神社]]〉
**本社:[[白山比咩神社]](石川県):(「咩」=「口羊」)
*[[八王子神社 (船橋市)|八王子神社]](千葉県船橋市)
*〈[[八幡神]]信仰・[[八幡宮]]〉
**本社:[[宇佐神宮]](大分県[[宇佐市]])
**[[日牟禮八幡宮]] (滋賀県[[近江八幡市]])
**[[石清水八幡宮]](京都府八幡市)
**[[飯香岡八幡宮]](千葉県市原市)
**[[事任八幡宮]](静岡県[[掛川市]])
**[[大崎八幡宮]](宮城県[[仙台市]])
**[[柏原八幡神社]](兵庫県[[丹波市]])
**[[葛飾八幡宮]](千葉県市川市)
**[[行田八幡神社]](埼玉県行田市)
**[[府八幡宮]](静岡県磐田市)
**[[千栗八幡宮]](佐賀県)
**[[薦神社]](大分県[[中津市]]):宇佐神宮の祖宮といわれる
**[[壺井八幡宮]](大阪府羽曳野市)
**[[鶴岡八幡宮]]([[神奈川県]][[鎌倉市]])
**[[鶴谷八幡宮]](千葉県館山市)
**[[百舌鳥八幡宮]](堺市[[北区 (堺市)|北区]])
**[[櫛引八幡宮]]([[青森県]][[八戸市]])
**[[遠石八幡宮]](山口県[[周南市]])
**[[鰐鳴八幡宮]](山口県[[山口市]])
**[[筥崎宮]](福岡市)
**[[弘前八幡宮]]([[青森県]][[弘前市]])
**[[柞原八幡宮]](大分県)
**[[八幡古表神社]](福岡県)
**[[函館八幡宮]](北海道[[函館市]])
**[[藤崎八旛宮]](熊本県)
**[[足助八幡宮]](愛知県豊田市)
**[[鳴海八幡宮]](愛知県名古屋市緑区)
**[[日牟禮八幡宮]](滋賀県[[近江八幡市]])
**[[離宮八幡宮]](京都府[[大山崎町]])
**[[御調八幡宮]](広島県[[三原市]])
**[[草津八幡宮]](広島市西区)
**[[平濱八幡宮]](島根県松江市)
**別系統:[[安里八幡宮]](沖縄県):もと別の神だが、現在は八幡神を祭る。
**別系統:[[鹿児島神宮]](大隅八幡宮)
**[[大原八幡宮]](大波羅八幡宮)(大分県[[日田市]])
**[[若宮八幡宮 (常陸太田市)|若宮八幡宮]](茨城県[[常陸太田市]])
**[[馬場八幡宮]](茨城県常陸太田市)
**[[水戸八幡宮]](茨城県水戸市)
**[[筑摩神社 (松本市)|筑摩神社]](長野県松本市)
**[[武田八幡宮]](山梨県[[韮崎市]])
**[[盛岡八幡宮]](岩手県[[盛岡市]])
**[[金澤八幡宮]](秋田県横手市)
**[[隅田八幡神社]](和歌山県[[橋本市]])
*[[波久奴神社]](滋賀県長浜市)
*[[波爾布神社]](滋賀県高島市)
*[[服部天神宮]](大阪府[[豊中市]])
*[[速谷神社]](広島県[[廿日市市]])
*[[速星神社]](富山県富山市)
*[[早馬神社]](宮城県[[気仙沼市]])
*[[土津神社]](福島県[[猪苗代町]])
*[[ハワイ石鎚神社]](ハワイ州[[ホノルル市]])
== ひ ==
*一言主神社(奈良県御所市)⇒[[葛城一言主神社]]
*[[東天神社]](兵庫県伊丹市)
*[[氷上姉子神社]]([[愛知県]][[名古屋市]])
*〈[[氷川神社 (曖昧さ回避)|氷川神社]]〉
**本社:[[氷川神社]]([[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]])
**[[中氷川神社 (所沢市)]]
**[[奥氷川神社]] ([[東京都]][[西多摩郡]][[奥多摩町]])
**[[氷川神社 (川越市)]]
**[[氷川女体神社]]([[埼玉県]][[さいたま市]]緑区)
**[[氷川神社 (東京都港区赤坂)]]
**[[氷川神社 (東京都港区元麻布)]]
**[[氷川神社 (東京都港区白金)]]
*[[日雲神社]](滋賀県[[甲賀市]])
*[[英彦山神宮]](福岡県):(ひこさん)
*[[久伊豆神社]](埼玉県さいたま市[[岩槻区]]、[[越谷市]]、[[蓮田市]])
*[[聖神社 (和泉市)|聖神社]](大阪府和泉市)
*[[聖神社 (秩父市)|聖神社]](埼玉県[[秩父市]])
*[[日高神社]]([[岩手県]][[奥州市]])
*[[比奈多乃神社]](静岡県掛川市)
*[[檜尾神社]]([[滋賀県]][[甲賀市]])
*[[日前神宮・國懸神宮]](和歌山市)
*[[日御碕神社]](島根県)
*[[檜原神社]](奈良県桜井市)([[大神神社]]摂社)
*[[氷室神社]](奈良県奈良市)
*[[日牟禮八幡宮]](滋賀県近江八幡市)
*[[日根神社]](大阪府泉佐野市)
*[[枚聞神社]](鹿児島県)
*[[兵主神社 (丹波市)|兵主神社]](兵庫県[[丹波市]])
*[[兵主大社]](滋賀県野洲市)
*〈[[日吉神社]]、[[日枝神社]]〉
**本社:[[日吉大社]](滋賀県大津市)(ひえ→ひよし)
**[[日枝神社 (千代田区)|日枝神社]](東京都[[千代田区]])(ひえ)
**[[日枝神社 (富山市)|日枝神社]](富山県富山市)
**[[日吉二宮神社]](滋賀県高島市)
*[[日枝神社 (富山市)|日枝神社]](富山県富山市)
*[[枚岡神社]](大阪府東大阪市)(河内一宮)
*[[平野神社]](京都市北区)
*[[廣瀬大社]](奈良県)
*[[廣田神社]](兵庫県西宮市)
*[[広峯神社]](兵庫県姫路市)
*[[日田神社]](大分県[[日田市]])
== ふ ==
*[[風浪宮]](福岡県[[大川市]])
*[[深志神社]](長野県松本市)
*[[福王子神社]](京都府京都市右京区)
*[[福山八幡宮]](広島県[[福山市]])
*[[藤崎八旛宮]](熊本県熊本市)
*[[藤島神社]](福井県福井市)
*[[富士山本宮浅間大社]](静岡県):(せんげん)
*[[伏見稲荷大社]](京都市伏見区)
*[[布多天神社]](東京都[[調布市]])
*二荒山神社(栃木県日光市):⇒[[日光二荒山神社]]
*二荒山神社(栃木県宇都宮市):⇒[[宇都宮二荒山神社]]
*[[船待神社]](堺市堺区)
*[[船橋大神宮]](千葉県船橋市)
*[[普天満宮]](沖縄県)
*[[舊府神社]](ふるふじんじゃ)(大阪府和泉市)
*[[藤白神社]](和歌山県[[海南市]])
== へ ==
*[[平安神宮]](京都市左京区)
*[[ペリリュー神社]](南興神社・[[パラオ共和国]])
*〈[[弁才天]]信仰、宗像三神〉
**本社:[[宗像大社]](福岡県[[宗像市]])
**[[厳島神社]](広島県廿日市市宮島町)
**[[江島神社]](神奈川県)
**竹生島神社([[都久夫須麻神社]])(滋賀県長浜市)
**天河神社([[天河大弁財天社]])(奈良県[[天川村]])
== ほ ==
*[[方違神社]](ほうちがいじんじゃ・かたたがえじんじゃ)(堺市堺区)
*〈[[豊国神社]](ほうこく)〉
**[[豊国神社 (長浜市)|豊国神社]](滋賀県[[長浜市]])
**[[豊國神社 (大阪市)|豊國神社]](大阪市中央区)
*[[報徳二宮神社 (小田原市)|報徳二宮神社]]([[小田原市]])
*[[宝来宝来神社]](熊本県[[南阿蘇村]])
*[[星田神社]](大阪府[[交野市]])
*[[星宮社]](名古屋市南区)
*[[穂高神社]](長野県[[安曇野市]])
*[[北海道神宮]](札幌市)
*[[堀出神社]](新潟県[[新潟市]][[秋葉区]])
*[[堀出神社 (ひたちなか市)|堀出神社]](茨城県ひたちなか市)
== ま ==
*[[舞子六神社]](兵庫県神戸市)
*[[真清田神社]](愛知県)
*〈[[松尾神社]]〉
**本社:[[松尾大社]](京都市西京区)
*[[松井神社]](熊本県[[八代市]])
*[[松阪神社]](三重県松阪市)
*[[松橋神社]](熊本県[[宇城市]])
*[[松原八幡神社]](兵庫県[[姫路市]])
== み ==
*[[御形神社]](兵庫県[[宍粟市]])
*[[御上神社]](滋賀県[[野洲市]])
*[[三重県護国神社|三重縣護國神社]](三重県津市)
*[[美具久留御魂神社]](大阪府[[富田林市]])
*[[御厨神社]](兵庫県[[明石市]])
*〈[[三島神社|三嶋神社、三島神社]]〉
**本社:[[三嶋大社]](静岡県[[三島市]])(大山祇神及び事代主神)
**本社:[[大山祇神社]](愛媛県)(大山祇神)
*[[水若酢神社]](島根県[[隠岐の島町]]):(みずわかす)
*[[三峯神社]](埼玉県[[秩父市]])
*[[水無神社]]{{要曖昧さ回避|date=2014年10月}}([[岐阜県]])
*[[水無瀬神宮]](大阪府[[島本町]])
*[[水屋神社]](三重県)
*[[水尾神社]](滋賀県[[高島市]])
*[[湊川神社]](兵庫県[[神戸市]])
*[[美保神社]]([[島根県]])
*[[宮浦宮]]([[鹿児島県]])
*[[三宅八幡宮]]([[京都市]][[左京区]])
*[[宮崎神宮]]([[宮崎県]])
*[[宮地嶽神社]]([[福岡県]][[福津市]])
*[[宮原三神宮]]([[熊本県]][[氷川町]])
*[[三吉神社 (札幌市)|三吉神社]]([[北海道]][[札幌市]])
== む ==
*[[陸奥総社宮]](宮城県[[多賀城市]])
*[[向日神社]](京都府[[向日市]])
*[[宗像大社]]([[福岡県]][[宗像市]])
*[[六県神社]](奈良県)(むつがた)
*[[村松大神宮]](茨城県[[東海村]])
== め ==
*[[明治神宮]](東京都)
*[[売布神社 (宝塚市)|賣布神社]](兵庫県宝塚市)
== も ==
*[[茂宇気神社]](鳥取県鳥取市);(もうけ)
*[[百舌鳥八幡宮]](大阪府堺市)
*元伊勢籠神社(京都府):⇒[[籠神社]]
*[[元郷氷川神社]](埼玉県[[川口市]])
*[[還来神社]](滋賀県大津市)
*[[物部神社]](島根県ほか)
*[[盛岡八幡宮]](岩手県盛岡市)
*[[桃太郎神社 (犬山市)|桃太郎神社]](愛知県[[犬山市]])
*[[守山八幡宮]](熊本県[[宇城市]])
== や ==
*[[八咫烏神社]](奈良県[[宇陀市]])
*[[八重垣神社]](島根県松江市)
*[[夜支布山口神社]](奈良県)(やぎうやまぐち)
*[[八重山神社]](島根県雲南市)
*[[箭弓稲荷神社 (東松山市)|箭弓稲荷神社]](埼玉県東松山市)
*八槻都々古別神社(福島県):⇒[[都々古別神社]]
*[[八心大市比古神社]](富山県[[黒部市]])
*[[八坂神社]](京都市東山区)
*[[八坂神社 (甲賀市)|八坂神社]]([[滋賀県]][[甲賀市]])
* [[八坂神社 (堺市北区南花田町)|八坂神社]]([[大阪府]][[堺市]][[北区 (堺市)|北区]][[南花田町]])
* [[八坂神社 (堺市北区中村町)|八坂神社]]([[大阪府]][[堺市]][[北区 (堺市)|北区]]中村町)
* [[八坂神社 (堺市北区野遠町)|八坂神社]]([[大阪府]][[堺市]][[北区 (堺市)|北区]]野遠町)
* [[八坂神社 (堺市東区)|八坂神社]]([[大阪府]][[堺市]][[東区 (堺市)|東区]]石原町)
* [[八坂神社 (堺市美原区)|八坂神社]]([[大阪府]][[堺市]][[美原区]]大饗)
*[[屋島神社]](高松市屋島東町)
*[[靖国神社]](東京都千代田区)
*[[八代宮]](熊本県[[八代市]])
*[[八代神社]](熊本県八代市)
*[[梁川八幡宮|梁川八幡神社]](福島県[[伊達市 (福島県)|伊達市]])
*[[矢作神社 (岡崎市)|矢作神社]](愛知県[[岡崎市]])
*[[彌彦神社]](新潟県)
*[[山内神社]](高知県)
*[[山国神社]](京都市右京区)
*[[山津照神社]](滋賀県米原市)
*[[山住神社]](静岡県浜松市)
== ゆ ==
*[[結城神社]](三重県津市)
*[[祐徳稲荷神社]](佐賀県鹿島市)
*[[弓弦羽神社]](神戸市東灘区)
*湯殿山神社(山形県):⇒[[出羽三山]]
*[[由良比女神社]](島根県[[西ノ島町]])
== よ ==
*[[養老神社]](岐阜県[[養老町]])
*[[吉田神社]](京都府)
*[[吉野神宮]](奈良県吉野町)
*[[吉野水分神社]](奈良県吉野町)
*[[吉姫神社]](滋賀県[[湖南市]])
*[[吉御子神社]](滋賀県湖南市)
*[[吉水神社]](奈良県吉野町)
*[[榎原神社]](宮崎県[[日南市]])
*吉川神社 (埼玉県吉川市)
== ら ==
*雷神社(千葉県[[旭市]])
== り ==
*[[離宮八幡宮]](京都府大山崎町)
*[[竜穴神社]](奈良県宇陀市)
*[[霊山神社]](福島県)
*[[龍神社]](滋賀県湖南市)
== る ==
== れ ==
== ろ ==
*[[鹿苑神社]](磐田市)
*[[六所神社 (市川市)]]
== わ ==
*[[若泉稲荷神社]](埼玉県)
*[[若狭彦神社]](福井県)
*[[若松恵比須神社]](福岡県)
*[[若宮八幡社 (名古屋市中区)|若宮八幡社]](愛知県名古屋市)
*[[和気神社]](岡山県)
*[[亘理神社]](宮城県[[亘理町]])
*[[度津神社]](新潟県[[佐渡市]]):(わたつ)
*[[海神社 (神戸市)|海神社]](兵庫県):(わたつみ)
== 日本以外 ==
=== アメリカ合衆国 ===
[[アメリカ合衆国の神社一覧]]を参照。
=== パラオ ===
*[[南洋神社]]
*[[ペリリュー神社]]
=== ブラジル ===
[[ブラジルの神社一覧]]を参照。
=== 台湾の神社 ===
*[[高士神社]]
=== サンマリノ共和国 ===
*[[サンマリノ神社]]
=== 満洲国の神社 ===
*[[斉斉哈爾神社]]
=== 現存しない神社 ===
==== 樺太 ====
*[[樺太神社]](からふとじんじゃ)
*[[西久保神社]](にしくぼじんじゃ)
==== 関東州 ====
*[[関東神宮]](かんとうじんぐう)
*[[沙河口神社]](さがこうじんじゃ)
*[[大連神社]](だいれんじんじゃ)
==== 台湾 ====
[[:Category:台湾の神社]]を参照。
==== 朝鮮 ====
*[[咸興神社]](かんこうじんじゃ)
*[[京城神社]](けいじょうじんじゃ)
*[[江原神社]](こうげんじんじゃ)
*[[光州神社]](こうしゅうじんじゃ)
*[[全州神社]](ぜんしゅうじんじゃ)
*[[大邱神社]](たいきゅうじんじゃ)
*[[朝鮮神宮]](ちょうせんじんぐう)
*[[扶余神宮]](ふよじんぐう)
*[[平壌神社]](へいじょうじんじゃ)
*[[龍頭山神社]](りゅうとうさんじんじゃ)
== 関連項目 ==
*[[:Category:神社の画像|神社の画像一覧]]
*[[神宮]]
*[[社格]]
*[[別表神社]]
*[[日本の寺院一覧]]
*[[台湾の神社]]
{{神道 横}}
{{DEFAULTSORT:しんしやいちらん}}
[[category:神社|*]]
[[category:神社の一覧|*]]
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道教用語一覧
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道教用語一覧(どうきょうようごいちらん)
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道教用語一覧(どうきょうようごいちらん)
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'''[[道教]]用語一覧'''(どうきょうようごいちらん)
== あ ==
=== い ===
* [[尹愔]]
* [[尹派八卦掌]]
* [[陰陽]]
* [[陰陽五行思想]]
=== う ===
* [[雲笈七籤]]
=== え ===
* [[易]]
** [[易経]]
** [[周易]]
** [[周易上経三十卦の一覧]]
** [[周易下経三十四卦の一覧]]
** [[尹派八卦掌]]
** [[陰陽]]
** [[羽妙]]
** [[易経記号]]
** [[革命勘文]]
** [[加藤大岳]]
** [[河図洛書]]
** [[坎]]
** [[乾]]
** [[爻]]
** [[江夏友賢]]
** [[小林三剛]]
** [[坤]]
** [[艮]]
** [[鮫島礼子]]
** [[三易]]
** [[算置]]
** [[算木]]
** [[三才]]
** [[蓍亀]]
** [[四象 (易)]]
** [[十二消息卦]]
** [[震]]
** [[筮竹]]
** [[先天図]]
** [[巽]]
** [[兌]]
** [[太極]]
** [[太極図]]
** [[太玄経]]
** [[大将軍神社]]
** [[高島嘉右衛門]]
** [[天円地方]]
** [[天人相関説]]
** [[納甲]]
** [[八卦]]
** [[御金神社]]
** [[柳下尚範]]
** [[離]]
** [[龍羽]]
** [[両儀]]
** [[六十四卦]]
* [[淮南子]]
=== お ===
* [[王羲之]]
* [[王重陽]]
* [[小柳司気太]]
* [[陰陽道]]
{{Go to top}}
== か ==
* {{仮リンク|外丹|zh|外丹术}}
* [[加島祥造]]
* [[華山]]
* [[華山派]]
* [[葛洪]]
* [[伽藍神]]
=== き ===
* [[気]]
* [[魏書釈老志]]
* [[徽宗]]
* [[帰田賦]]
* [[丘長春]]
* [[禁葷食]]
=== く ===
* [[楠山春樹]]
* [[窪徳忠]]
* [[九字]]
* [[九天玄女]]
=== け ===
* [[邢和璞]]
* [[景山公園]]
* [[鶏足山]]
* [[玄学]]
* [[玄宗 (唐)]]
=== こ ===
* [[黄巾の乱]]
* [[寇謙之]]
* [[恒山]]
* [[衡山]]
* [[庚申信仰]]
* [[庚申塔]]
* [[庚申堂 (奈良市)]]
* [[庚申待]]
* [[黄帝陰符経]]
* [[顧歓]]
* [[絳老]]
* [[五岳]]
* [[五行思想]]
* [[五術]]
* [[五大元素]]
* [[胡蝶の夢]]
* [[五斗米道]]
* [[魂魄]]
* [[崑崙]]
{{Go to top}}
== さ ==
* [[賽銭]]
* [[三界]]
* [[三元]]
* [[三尸]]
* [[三清]]
* [[三清山]]
* [[三洞四輔]]
* [[三宝太監西洋記]]
=== し ===
* [[地獄]]
* [[四神相応]]
* [[七星剣]]
* [[七福神]]
* [[司馬承禎]]
* [[祠]]・[[廟]]
* [[周易参同契]]
* [[終南山]]
* [[縮地]]
* [[呪禁]]
* [[呪符]]
* [[醮]]
* [[正一教]]
* [[鐘馗寺]]
* [[城隍廟]]
* [[招魂祭]]
* [[精進料理]]
* [[邵元節]]
* [[鍾離嘉]]
* [[徐福]]
* [[縉雲山]]
* [[真誥]]
* [[真人]]
* [[真宗 (宋)]]
* [[神仙]]
* [[神仙伝]]
* [[真大道教]]
=== す ===
* [[嵩山]]
=== せ ===
* [[青城山]]
* [[聖天宮]]
* [[善書]]
* [[仙術|仙学]]
* [[全真教]]
* [[千里眼]]
=== そ ===
* [[荘子]]
* [[存思]]
{{Go to top}}
== た ==
* [[大将軍 (曖昧さ回避)|大将軍]]
* [[大将軍 (方位神)]]
* [[太一]]
* [[太一教]]
* [[太極]]
* [[太極図]]([[太極圖]])
* [[泰山]]
* [[太上感応篇]]
* [[太上老君]]
* [[太白]]
* [[太武帝]]
* [[太平道]]
* [[道 (哲学)]]
* [[田無神社]]
* [[タンキー]]
* [[譚峭]]
=== ち ===
* [[張衛]]
* [[張果]]
* [[張角]]
* [[趙帰真]]
* [[張衡 (道教)]]
* [[張三丰]]
* [[張伯端]]
* [[張陵]]
* [[張魯]]
* [[中元]]
* [[中国道教協会]]
* [[陳摶]]
* [[鎮宅霊符]](鎭宅靈符)
=== つ ===
* [[土屋昌明]]
=== て ===
* [[鄭鑑録]]
* [[天円地方]]
* [[天界]]
* {{仮リンク|天大将軍|en|Teen_Ta_Tseang_Keun}}
* [[天皇大帝]]
* [[天目山 (浙江省)]]
* [[田誠陽]]
=== と ===
* [[杜光庭]]
* [[陶弘景]]
* [[鄧豊洲]]
* [[道 (哲学)|道]]
* [[道家]]
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==== [[道観]] ====
* タイの道観
** [[七聖媽廟]]
* 台湾の道観
** [[楊厝永安宮]]
** [[延平郡王祠]]
** [[旗津天后宮]]
** [[行天宮]]
** [[三鳳宮]]
** [[艋舺清水巌]]
** [[北港朝天宮]]
** [[南鯤シン代天府|南鯤鯓代天府]]
** [[飛虎将軍廟]]
** [[大龍峒保安宮]]
** [[鳳山紅毛港保安堂]]
* 中国の道観
** [[雲麓宮]]
** [[黄大仙祠 (広州)]]
** [[黄大仙祠 (香港)]]
** [[広仁王廟]]
** [[上海城隍廟]]
** [[真慶観]]
** [[成都武侯祠]]
** [[岱廟]]
** [[朝天宮]]
** [[陶公廟]]
** [[南陽武侯祠]]
** [[白雲観]]
** [[北岳廟]]
** [[薬王昇沖観|薬王昇冲観]]
* 日本の道観
** [[関帝廟 (神戸市)]]
** [[聖天宮]]
** [[函館中華会館]]
** [[横浜媽祖廟]]
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==== 道教の神 ====
* [[織姫]]
* [[河伯]]
* {{仮リンク|厠神|zh|廁神}}
* [[関帝]]
* [[九天応元雷声普化天尊]]
* [[九天玄女]]
* [[玉皇大帝]]
* [[元始天尊]]
* [[顕聖二郎真君]]
* [[玄武]]
* [[広成子]]
* [[黄帝]]
* [[后土]]
* [[五瘟使者]]
* [[五毒将軍]]
* [[三清]]
* [[三聖母]]
* [[時遷]]
* [[四海竜王]]
* [[四御]]
* [[七仙女]]
* [[七天女]]
* [[寿老人]]
* [[嫦娥]]
* [[鍾馗]]
* [[城隍神]]
* [[青面金剛]]
* [[鍾離嘉]]
* [[人皇]]
* [[神農]]
* [[杉浦茂峰]]
* [[西王母]]
* [[赤精子]]
* [[素娥]]
* [[素女]]
* [[孫悟空]]
* [[太歳星君]]
* [[太山府君]]
* [[太上道君]]
* [[太上老君]]
* [[第三十八号哨戒艇]]
* [[地皇 (三皇)]]
* [[趙公明]]
* [[天皇 (三皇)]]
* [[天帝]]
* [[天之四霊]]
* [[天白神]]
* [[電母]]
* [[東王父]]
* [[歳徳神]]
* [[土地神]]
* [[斗母元君]]
* [[哪吒]]
* [[南極老人]]
* [[南斗星君]]
* [[二十八天]]
* [[二十四諸天]]
* [[白龍]]
* [[盤古]]
* [[飛天大聖]]
* [[百花仙子]]
* [[福禄寿]]
* [[碧霞元君]]
* [[北斗星君]]
* [[保生大帝]]
* [[北極紫微大帝]]
* [[麻姑]]
* [[媽祖]]
* [[無極五母]]
* [[無生老母]]
* [[森川清治郎]]
* [[門神]]
* [[瑤姫]]
* [[洛嬪]]
* [[六毒大神]]
* [[劉猛将軍]]
* [[竜王]]
* [[呂尚]]
* [[驪山老母]]
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==== 道教を題材とした作品 ====
* [[グレイトフルデッド (漫画)]]
* [[後三国石珠演義]]
* [[西遊記]]
* [[蜀山奇傅 天空の剣]]
* [[枕中記]]
* [[ネクログ]]
* [[好好!キョンシーガール〜東京電視台戦記〜]]
* [[一人之下]]
* [[封仙娘娘追宝録]]
* [[封神演義]]
* [[幽幻道士]]
* [[霊幻道士]]
* [[霊幻道士2 キョンシーの息子たち!]]
* [[霊幻道士3 キョンシーの七不思議]]
* [[霊幻道士・キョンシーマスター]]
* [[霊幻道士完結篇 最後の霊戦]]
* [[道君皇帝]]
* [[桃源郷]]
* [[道士]]
* [[道蔵]]
* [[道僧格]]
* [[トゥ族]]
* [[洞天福地]]
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== な ==
* [[内丹術]]
* [[南七真]]
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== は ==
* [[長谷川延年]]
* [[八卦鏡]]
=== ふ ===
* [[風水]]
* [[風水羅盤]]
* [[傅奕]]
* [[福井康順]]
* [[福井文雅]]
* [[福永光司]]
* [[伏魔殿]]
* [[武宗 (唐)]]
* [[武帝 (北周)]]
* [[武当山]]
* [[武当派]]
* [[不老不死]]
* {{仮リンク|符籙|zh|符籙}}
=== ほ ===
* [[彭鶴林]]
* [[方士]]
* [[封神演義]]
* [[方徳殿]]
* [[抱朴子]]
* [[法輪]]
* [[ポエ]]
* [[ポエ占い]]
* [[北岳廟]]
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== ま ==
=== み ===
* [[妙見菩薩]]
=== む ===
* [[無極]]
=== め ===
* [[冥界]]
* [[冥福]]
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== や ==
* [[厄年]]
* [[薬祖神]]
=== よ ===
* [[横浜媽祖廟]]
== ら ==
* [[羅公遠]]
* [[羅汝芳]]
=== り ===
* [[劉安]]
* [[龍穴]]
* [[龍虎山]]
* [[劉珍 (隋)]]
* [[林霊素]]
=== れ ===
* [[列仙伝]]
* [[錬丹術]]
** [[葛洪]]
** [[気]]
** [[周易参同契]]
** [[小周天]]
** [[人体科学会]]
** [[仙人]]
** [[内経図]]
** [[大周天]]
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** [[丹田]]
** [[内丹術]]
** [[房中術]]
** [[抱朴子]]
=== ろ ===
* [[老子]]
* [[老子道徳経]]
* [[老荘]]
* [[魯班尺]]
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[[Category:道教|**とうきようようこいちらん]]
[[Category:宗教用語一覧|とうきよう]]
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14,224 |
三洞四輔
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三洞四輔(さんどうしほ)は道教経典の分類規定。『道蔵』内の七分類のこと。
三洞は天上の三清に対応するものとされている。
南北朝時代、南朝宋の陸修静(中国語版)は明帝から尊ばれ、帝は首都建康の北に崇虚館を建てて陸修静を住ませた。そこで陸修静はさまざまな経典を収集した。さらに仏教徒による経録の作成に影響されて、道教経典の目録である『三洞経書目録』(現存せず)を作り、帝に献上した。これが現在知られる最初の三洞による分類である。
三洞のうち洞神部は『三皇文』(天皇・地皇・人皇の三皇から伝授されたといい、これらの神格を呼び出すものという。現存せず)を中心とする鬼神を呼び出す経典である。
洞玄部は『霊宝経』(古い方術の文献をもとに、東晋末の葛巣甫によって大量に偽造された経典群。大乗仏教の思想を取り入れる)を中心とする。
洞真部は『上清経』(東晋の許謐(きょひつ)・許翽(きょかい)親子が茅山(中国語版)で霊媒の楊羲を媒介として収集した神仙の言葉を集めた経典群が原形となる)を中心とする。
その後、南朝宋の末ごろには三洞に加えて四輔が設けられた。四輔は分類としては三洞に遅れるが、経典そのものの成立時期は三洞より古い。うち、太玄部は老子関係、太平部は『太平経』(太平道の系統とされるが、どの程度当初の内容を伝えているかは不明)、太清部は金丹術関係、正一部は天師道関係の経典を含む。
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三洞四輔(さんどうしほ)は道教経典の分類規定。『道蔵』内の七分類のこと。 三洞 - 洞真部、洞玄部、洞神部
四輔 - 太玄部、太平部、太清部、正一部 三洞は天上の三清に対応するものとされている。
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'''三洞四輔'''(さんどうしほ)は[[道教]]経典の分類規定。『[[道蔵]]』内の七分類のこと。
*三洞 - 洞真部、洞玄部、洞神部
*四輔 - 太玄部、太平部、太清部、正一部
三洞は天上の[[三清]]に対応するものとされている。
== 歴史 ==
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の{{仮リンク|陸修静|zh|陆修静}}は[[明帝 (南朝宋)|明帝]]から尊ばれ、帝は首都[[建康 (都城)|建康]]の北に崇虚館を建てて陸修静を住ませた。そこで陸修静はさまざまな経典を収集した<ref>横手(2015) p.76</ref>。さらに仏教徒による[[経録]]の作成に影響されて、道教経典の目録である『三洞経書目録』(現存せず)を作り、帝に献上した。これが現在知られる最初の三洞による分類である<ref name="y1">横手(2015) p.114</ref><ref>丸山(2001) p.21</ref>。
三洞のうち洞神部は『三皇文』([[天皇 (三皇)|天皇]]・[[地皇 (三皇)|地皇]]・[[人皇]]の[[三皇]]から伝授されたといい、これらの神格を呼び出すものという。現存せず<ref>横手(2015) pp.90-92</ref>)を中心とする鬼神を呼び出す経典である。
洞玄部は『霊宝経』(古い方術の文献をもとに、[[東晋]]末の葛巣甫によって大量に偽造された経典群。[[大乗仏教]]の思想を取り入れる<ref>横手(2015) pp.92-98</ref>)を中心とする。
洞真部は『上清経』(東晋の許謐(きょひつ)・許翽(きょかい)親子が{{仮リンク|茅山|zh|茅山}}で霊媒の楊羲を媒介として収集した神仙の言葉を集めた経典群が原形となる<ref>横手(2015) pp.98-104</ref><ref>丸山(2001) pp.19-20</ref>)を中心とする。
その後、南朝宋の末ごろには三洞に加えて四輔が設けられた<ref name="y1"/>。四輔は分類としては三洞に遅れるが、経典そのものの成立時期は三洞より古い<ref>大淵(1967) pp.59-60</ref>。うち、太玄部は[[老子道徳経|老子]]関係、太平部は『太平経』([[太平道]]の系統とされるが、どの程度当初の内容を伝えているかは不明<ref>横手(2015) p.69</ref>)、太清部は[[錬丹術|金丹術]]関係、正一部は[[五斗米道|天師道]]関係の経典を含む<ref>横手(2015) pp.114-115</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=大淵忍爾|chapter=教団宗教の形成|title=宗教|series=中国文化叢書 6|editor=窪徳忠・大淵忍爾編|publisher=[[大修館書店]]|year=1967|pages=31-60}}
* {{cite book|和書|author=丸山宏|chapter=はじめに|title=道教の経典を読む|editor=[[増尾伸一郎]]・丸山宏編|publisher=[[大修館書店]]|year=2001|isbn=446923169X|pages=1-33}}
* {{cite book|和書|author=横手裕|title=道教の歴史|publisher=[[山川出版社]]|year=2015|isbn=9784634431362}}
==関連項目==
*[[道教用語一覧]]
*[[雲笈七籤]]
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[[Category:道教]]
[[Category:名数3|とう]]
[[Category:名数4|ほ]]
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14,225 |
存思
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存思(そんし)は、道教の瞑想法のこと。仏教の座禅のような悟りを得るための無念観想の法ではなく、体内に観想を集中させることによって修法者の身体の一部に宿る気や「神(しん・人間の根本的な生命心)」を活性化させたり、身体から離れないよう体内に留めさせるための法である。大地や天の星、自分の身体だけでなく、神々も気でできていると考え、思い念じることで自分の身体に宿っている神を現出させようとした。存思することを説く経典の一つに『老子中経』がある。そこでは身体の各部分に神が住んでいるとされ、衣服や冠の色など細かい身体的特徴で区別されている。また、胃管中で養われている神は修行者自身の姿で現れることもある。修行者は存思によって定期的に神々を呼び出すことにより、それぞれの持ち場を離れないように監視する。一人でもいなくなると、病気や精神異常が起こるとされているからである。最悪の場合、体内から出ていった神を呼び戻す必要がある。そのときに関係するのが三魂七魄の考え方である。神や魂魄といった要素がバラバラになってしまわないよう、維持することで心身の健康を守っていたのである。
存思の「思」という字の字源は、会意形声文字であり、もとの字は「恖」で、「囟(シン)」は、幼児の泉門の閉じていない頭を表し、「思」という字はその心を表している。そのような状態は、内丹術における、人間以前の先天と人間としての後天の融合点を示している。内丹術においてはそれを還虚の状態であるとし、内丹術の最終目標としている。その「思」の状態に存在することを存思という。武当山で行われていた古式太極拳などでは、存思の状態で行う存思套路と呼ばれる一連の導引術があり、日本では瞑想太極拳と呼ぶこともある。
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存思(そんし)は、道教の瞑想法のこと。仏教の座禅のような悟りを得るための無念観想の法ではなく、体内に観想を集中させることによって修法者の身体の一部に宿る気や「神(しん・人間の根本的な生命心)」を活性化させたり、身体から離れないよう体内に留めさせるための法である。大地や天の星、自分の身体だけでなく、神々も気でできていると考え、思い念じることで自分の身体に宿っている神を現出させようとした。存思することを説く経典の一つに『老子中経』がある。そこでは身体の各部分に神が住んでいるとされ、衣服や冠の色など細かい身体的特徴で区別されている。また、胃管中で養われている神は修行者自身の姿で現れることもある。修行者は存思によって定期的に神々を呼び出すことにより、それぞれの持ち場を離れないように監視する。一人でもいなくなると、病気や精神異常が起こるとされているからである。最悪の場合、体内から出ていった神を呼び戻す必要がある。そのときに関係するのが三魂七魄の考え方である。神や魂魄といった要素がバラバラになってしまわないよう、維持することで心身の健康を守っていたのである。 存思の「思」という字の字源は、会意形声文字であり、もとの字は「恖」で、「囟(シン)」は、幼児の泉門の閉じていない頭を表し、「思」という字はその心を表している。そのような状態は、内丹術における、人間以前の先天と人間としての後天の融合点を示している。内丹術においてはそれを還虚の状態であるとし、内丹術の最終目標としている。その「思」の状態に存在することを存思という。武当山で行われていた古式太極拳などでは、存思の状態で行う存思套路と呼ばれる一連の導引術があり、日本では瞑想太極拳と呼ぶこともある。
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{{出典の明記|date=2011年3月}}
'''存思'''(そんし)は、[[道教]]の[[瞑想]]法のこと。[[仏教]]の[[座禅]]のような悟りを得るための無念観想の法ではなく、体内に観想を集中させることによって修法者の身体の一部に宿る[[気]]や「神(しん・人間の根本的な生命心)」を活性化させたり、身体から離れないよう体内に留めさせるための法である。大地や天の星、自分の身体だけでなく、神々も[[気]]でできていると考え、思い念じることで自分の身体に宿っている神を現出させようとした。存思することを説く経典の一つに『老子中経』がある<ref>{{Cite book|和書|author=秋岡英行|author2=垣内智之|author3=加藤千恵|title=煉丹術の世界:不老不死への道|date=2018-10-01|publisher=大修館書店|series=あじあブックス|volume=080|isbn=9784469233209|page=104}}</ref>。そこでは身体の各部分に神が住んでいるとされ、衣服や冠の色など細かい身体的特徴で区別されている。また、胃管中で養われている神は修行者自身の姿で現れることもある。修行者は存思によって定期的に神々を呼び出すことにより、それぞれの持ち場を離れないように監視する。一人でもいなくなると、病気や精神異常が起こるとされているからである。最悪の場合、体内から出ていった神を呼び戻す必要がある。そのときに関係するのが[[魂魄|三魂七魄]]の考え方である。神や魂魄といった要素がバラバラになってしまわないよう、維持することで心身の健康を守っていたのである<ref>{{Cite book|和書|author=ヴァンサン・ゴーセール|author2=カロリーヌ・ジス|editor=松本浩一|translator=遠藤ゆかり|title=道教の世界-宇宙の仕組みと不老不死|date=2011-01-20|publisher=創元社|series=「知の再発見」双書|volume=150|isbn=9784422212104|ncid=BB04431901|pages=62-64}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=田中文雄|editor2=テリー・クーマン|title=道教と共生思想|date=2009-10-30|publisher=大河書房|isbn=9784902417210|NCID=BB00156452|page=208}}</ref>。
存思の「思」という字の字源は、会意形声文字であり、もとの字は「恖」で、「囟(シン)」は、幼児の泉門の閉じていない頭を表し、「思」という字はその心を表している<ref>[[wiktionary:ja:思#字源|ウィクショナリー・日本語版・思-字源]]</ref>。そのような状態は、[[内丹術]]における、人間以前の先天と人間としての後天の融合点を示している。[[内丹術]]においてはそれを還虚の状態であるとし、[[内丹術]]の最終目標としている。その「思」の状態に存在することを存思という。武当山で行われていた古式太極拳などでは、存思の状態で行う'''存思套路'''と呼ばれる一連の[[仙人#修行法|導引術]]があり、日本では瞑想太極拳と呼ぶこともある<ref>{{cite book|和書|title=簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法|author=王政樹|publisher=エムジーエフ出版|year=2014|chapter=瞑想太極拳(存思套路)|ISBN=978-4990761004|ncid=BB24286077|page=89}}</ref>。
== 出典・脚注 ==
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==関連項目==
*[[内丹術]]
*[[道教用語一覧]]
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洞天福地
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洞天福地(どうてんふくち)とは、道教において神仙が住む洞窟の地「洞天」と仙人が修行した地「福地」の総称。名山勝境の奥深くにあって、永生を得た仙人たちが安楽に棲んでいると信じられていた、中国的ユートピアの一形態。洞天と福地は本来別系統の場所だったとされていたが、唐代になって道教的聖地として統合され、十大洞天、三十六洞天(三十六小洞天)、七十二洞天から構成される洞天福地説が成立し、洞天と福地はほぼ同義に使われるようになった。
道教の「洞天」信仰は、中国全土に散在する聖地としての山岳洞窟が気脈を通じて全体的ネットワークを形成しているとされた。山岳洞窟である理由は、仙人が修業をするために犬や鳥などの鳴き声さえも聞こえない場所で行う必要があったからである。現実的に、山脈・水脈の連なり、洞窟の広がりなどの地形的条件と神秘的景観などの自然地理的な環境に基づく山岳信仰と、政治的・軍事的情勢や人や物資や情報の移動を反映した文学的・宗教的な想像力が合わさり、中国全土規模にまで拡大した「洞天」信仰を形成・機能させたと考えられる。ひとたび成立した洞天の体系は、実体視・伝統化され、「洞天」がある山岳には、道観や寺院が建設され、宗教者の修行場、国家的儀礼や祭祀の場、文学的資源、巡礼と現在に続く観光の名所となっていった。また司馬承禎の洞天説における成立順序では、三十六洞天が成立し、その中から十大洞天が独立し、残り二十六洞天に新たに十洞天を加えたものが三十六小洞天となったと『天地宮府図(てんちきゅうふず)』にある。
このように、洞天福地は種別され、順序をつけられた。これら各洞天福地の数をあらわす数字は、象徴的な意味をもつ聖なる数の「数合わせ」であしているとされる。つまり、一連の聖地があり、それを集めたら十や三十六、七十二という数になったのではなく、まず聖地がいくつかあり、それに合わせて各聖地を数に当てはめたのである。
10、36、72が選ばれた理由として、十は、東・西・南・北の四方と、東北・東南・西南・西北の四維と、上・下の方位をさし、完全なる世界をあらわす数であるため。三十六は、多い数の象徴であるとともに、道教の天界(三十六天)の数に対応するため。三十六の倍数である七十二は、『易』の思想に基づくとされているためである。
洞天を治める者は上位の神仙であるが、住人は必ずしも高い位の仙人ではない。洞天の中で暮らすことのできる人物は、かつて道徳的に優れたことをした人々であるという。
洞天内には男女に分かれた宮殿があり、女子は易遷宮と含真台、男子は童初府と蕭閑堂があり、それぞれに住む人の区別があった。易遷宮は女の「地下主者」の最も高位の者の住所であり、含真台は得道した女真(女の仙人)が館として住んでいた。男子の童初府は易遷宮に、蕭閑堂は含真台に相当するものである。『真誥』に、易遷宮や童初府に入るには陰徳、つまり現世での功徳を積むことが必要である、とある。その功徳もさまざまであるが、自己や係累の生前の善行により入ることができる。
地下主者とは、尸解と同じように、死後に仙界に入る人をさす。完全な神仙になる前の修業中の人といえる。地下主者には三階級があり、百四十年が一単位として進むという。どの地下主者の位に振り分けられるかは現世においてどれだけ功徳を積んだかによる。
一等地下主者はもっとも下の者で、百四十年して一進してはじめて仙階(仙人の世界)に進むことができる。
二等地下主者は、中間のくらいで、ただちに仙人階級になれる人で、百四十年して進んで管禁の位(世間の役人のようなもの)に補任される。
三等地下主者は、一番上の者で、仙人の住まいに出入でき、神の世界にも遊ぶことができる。この最上の三等地下主者が、女は易遷館を、男は童初府を住所とするのである。三等地下主者の場合は「十二年で気は神魂に摂し、十五年で蔵魄を束ね、三十年で棺中の骨は神気をもつ。四十年すると生きている人のようになり、人間世界に還り遊ぶことができ、五十年で仙官に補せられ、六十年で広寒に遊び、百年で昆盈の宮に入ることができる」とある。普通の死体が腐敗して、無に帰していく過程と、まったく逆のプロセスをたどる再生といえる。
十大洞天とは、「大地名山の中にあり、上天が郡仙を遣わして統治せしむるところ」と書かれる。大きな有名な山の中にあり、天上の神々が多くの仙人を派遣して、そこを治めさせているという。偏りなく中国の全土に分布しており。道教以前の山岳信仰に源流を持つものと、道教史上の事跡に関係するものとが同じように集まっている。
第1 王屋山洞 周回・万里 小有清虚之洞天 洛陽と河陽の両界にまたがる王屋県から六十里 西城王君
第2 委羽山洞 周回・万里 大有空明之洞天 台州黄巌県から三十里 青童君
第3 西城山洞 周回・三千里 太玄総真之洞天 未詳 上宰王君
第4 西玄山洞 周回・三千里 三元極真之洞天 不明
第5 青城山洞 周回・二千里 宝仙九室之洞天 蜀州青城県 青城丈人
第6 赤城山洞 周回・三百里 上清玉平之洞天 台州唐興県 玄洲仙伯
第7 羅浮山洞 周回・五百里 朱明輝真之洞天 循州博羅県 青精先生
第8 句曲山洞 周回・百五十里 金壇華陽之洞天 潤州句容県 紫陽真人
第9 林屋山洞 周回・四百里 左神幽虚之洞天 洞底湖の湖口 北嶽真人
第10 括蒼山洞 周回・三百里 成徳隠玄之洞天 処州楽安県 北海公涓子
三十六洞天(三十六小洞天)は、「諸名山の中にあり、上仙が統治するところ」と説明される。上位の仙人が治めるところで、十大洞天の次にランクとしては位置付けられる。また、道教で重視される五つの聖山である「五岳」もこの中に含まれる。
第1 霍桐山洞 周回・三千里 霍林洞天 福州長渓県 仙人の王緯玄
第2 東嶽太山洞 周回・千里 蓬玄洞天 兗州乾封県 山図公子
第3 南嶽衡山洞 周回・七百里 朱陵洞天 衡州衡山県 仙人の石長生
第4 西嶽華山洞 周回・三百里 総仙洞天 華州華陰県 真人の恵車子
第5 北嶽常山洞 周回・三千里 総玄洞天 恒州曲陽県 真人の鄭子真
第6 中嶽嵩山洞 周回・三千里 司馬洞天 洛州登封県 仙人の鄧雲山
第7 峨嵋山洞 周回・三百里 虚陵洞天 嘉州峨眉県 真人の唐覧
第8 廬山洞 周回・百八十里 洞霊真天 江州徳安県 真人の周正時
第9 四明山洞 周回・百八十里 丹山赤水天 越州上虞県 真人の刁道林
第10 会稽山洞 周回・三百五十里 極玄大元天 越州山陰県鏡湖の中 仙人の郭華
第11 太白山洞 周回・五百里 玄徳洞天 京兆府長安県・終南山に連なる 仙人の張季連
第12 西山洞 周回・三百里 天柱宝極玄天 洪州南昌県 真人の唐公成
第13 小潙山洞 周回・三百里 好生玄上天 潭州醴陵県 仙人の花丘林
第14 灊山洞 周回・八十里 天柱司玄天 舒州懐寧県 仙人の稷丘子
第15 鬼谷山洞 周回・七十里 貴玄司真天 信州貴渓県 真人の崔文子
第16 武夷山洞 周回・百二十里 真昇化玄天 建州建陽県 真人の劉少公
第17 玉笥山洞 周回・百二十里 太玄法楽天 吉州永新県 真人の梁伯鸞
第18 華蓋山洞 周回・四十里 容成大玉天 温州永嘉県 仙人の羊公修
第19 蓋竹山洞 周回・八十里 長耀宝光天 台州黄巌県 仙人の商丘子
第20 都嶠山洞 周回・百八十里 宝玄洞天 容州普寧県 仙人の劉根
第21 白石山洞 周回・七十里 秀楽長真天 鬱林州南海の南、または和州含山県 白真人
第22 岣漏山洞 周回・四十里 玉闕宝圭天 容州北流県 銭真人
第23 九疑山洞 周回・三千里 朝真太虚天 道州延唐県 厳真人
第24 洞陽山洞 周回・百五十里 洞陽隠観天 潭州長沙県 劉真人
第25 幕阜山洞 周回・百八十里 玄真太元天 鄂州唐年県 陳真人
第26 大酉山洞 周回・百里 大酉華妙天 辰州を去ること七十里 尹真人
第27 金庭山洞 周回・三百里 金庭崇妙天 越州剡県 趙仙伯
第28 麻姑山洞 周回・百五十里 丹霞天 撫州南城県 王真人
第29 仙都山洞 周回・三百里 仙都祈仙天 処州縉雲県 趙真人
第30 青田山洞 周回・四十五里 青田大鶴天 処州青田県 傅真人
第31 鐘山洞 周回・百里 朱日太生天 潤州上元県 龔真人
第32 良常山洞 周回・三十里 良常放命洞天 潤州句容県 李真人
第33 紫蓋山洞 周回・八十里 紫玄洞照天 荊州当陽県 公羽真人
第34 天目山洞 周回・百里 天蓋滌玄天 杭州余杭県 姜真人
第35 桃源山洞 周回・七十里 白馬玄光天 朗州武陵県 謝真人
第36 金華山洞 周回・五十里 金華洞元天 婺州金華県 戴真人
選ばれた72ヶ所の祥福の土地。七十二福地は、「大地名山の間にあり、上帝が真人に命じて治めさせており、得道が多いところ」と説明される。統治者の位は、十大洞天や三十六洞天より低くなるが、かなり具体え的な修業の地であったために、道を得た者が多いとされている。場所は、山や洞窟、渓、泉、井戸、壇など非常に多岐にわたっている。
第1 地肺山 潤州句容県 真人の謝允
第2 蓋竹山 処州括蒼県仙渡 真人の施存
第3 仙磑山 温州楽成県の東五十里 真人の張重華
第4 東仙源 台州黄巌県 地仙の劉奉林
第5 西仙源 台州黄巌県 地仙の張兆期
第6 南田山 東海の東 劉真人
第7 玉溜山 東海の蓬萊島の上 地仙の許邁
第8 清嶼山 東海の西 真人の劉子光
第9 鬱木洞 玉笥山の南 地仙の魯班
第10 丹霞洞 麻姑山の西 蔡真人
第11 君山 洞庭青草湖の中 地仙の侯生
第12 大若巌 温州永嘉県の東百二十里 地仙の李方回
第13 焦源 建州建陽県の北 尹真人
第14 霊墟 台州唐興県の北 白雲先生
第15 沃洲 越州剡県の南東 真人の方明
第16 天姥岑 越州剡県の南 真人の魏顕仁
第17 若耶渓 越州会稽県の南 真人の山世遠
第18 金庭山 廬州巣県 馬仙人
第19 清遠山 広州清遠県 陰真人
第20 安山 交州の北 安期先生
第21 馬嶺山 郴州郭内水の東 真人の力牧
第22 鵝羊山 潭州長沙県
第23 洞真墟 潭州長沙県の西嶽 真人の韓終
第24 青玉壇 南嶽祝融峰の西 青鳥公
第25 光天壇 南嶽の西源頭 鳳真人
第26 洞霊源 南嶽の招仙観の西
第27 洞宮山 建州関隷鎮五嶺 黄山公
第28 陶山 温州安固県
第29 三皇井 温州横陽県 真人の鮑察
第30 爛柯山 衢州信安県 王質先生
第31 勒渓 建州建陽県の東
第32 龍虎山 信州貴渓県 仙人の張巨君
第33 霊山 信州上饒県の北 墨真人
第34 泉源 羅浮山の中 華子期
第35 金精山 虔州虔化県 仇季子
第36 閣皁山 吉州新淦県 郭真人
第37 始豊山 洪州豊城県 尹真人
第38 逍遥山 洪州南昌県 徐真人
第39 東白源 洪州新呉県の東 劉仙人
第40 鉢池山 楚州
第41 論山 潤州丹徒県 終真人
第42 毛公壇 蘇州長洲県
第43 鶏籠山 和州歴陽県 郭真人
第44 桐柏山 唐州桐柏県 李仙君
第45 平都山 忠州酆都県
第46 緑蘿山 朗州武陵県
第47 虎渓山 江州彭沢県の南
第48 彰龍山 潭州醴陵県の北 臧先生
第49 静福山 連州連山県 真人の廖冲
第50 大面山 益州成都県 仙人の柏成子
第51 元晨山 江州都昌県 孫真人・安期生
第52 馬蹄山 饒州鄱陽県 真人の子州
第53 徳山 朗州武陵県 仙人の張巨君
第54 高渓藍水山 雍州藍田県
第55 藍水 西都藍田県 地仙の張兆期
第56 玉峰 西都京兆県 仙人の柏戸
第57 天柱山 杭州於潜県 地仙の王伯元
第58 商谷山 商州
第59 張公洞 常州宜興県 真人の康桑
第60 司馬悔山 台州天台山の北 仙人の李明
第61 長在山 斉州長山県 毛真人
第62 中條山 河中府虞郷県 趙仙人
第63 茭湖魚澄洞 西古姚州
第64 綿竹山 漢州綿竹県 瓊華夫人
第65 瀘水 梁州 仙人の安公
第66 甘山 黔南 寧真人
第67 王晃山 漢州 赤須先生
第68 金城山 限戍または石戍 石真人
第69 雲山 邵州武岡県 仙人の盧生
第70 北邙山 東都洛陽県 魏真人
第71 盧山 福州連江県 謝真人
第72 東海山 海州の東二十五里 王真人
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"text": "第10 会稽山洞 周回・三百五十里 極玄大元天 越州山陰県鏡湖の中 仙人の郭華",
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"text": "第11 太白山洞 周回・五百里 玄徳洞天 京兆府長安県・終南山に連なる 仙人の張季連",
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"text": "第12 西山洞 周回・三百里 天柱宝極玄天 洪州南昌県 真人の唐公成",
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"text": "第13 小潙山洞 周回・三百里 好生玄上天 潭州醴陵県 仙人の花丘林",
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"text": "第14 灊山洞 周回・八十里 天柱司玄天 舒州懐寧県 仙人の稷丘子",
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"text": "第15 鬼谷山洞 周回・七十里 貴玄司真天 信州貴渓県 真人の崔文子",
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"text": "第16 武夷山洞 周回・百二十里 真昇化玄天 建州建陽県 真人の劉少公",
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"text": "第17 玉笥山洞 周回・百二十里 太玄法楽天 吉州永新県 真人の梁伯鸞",
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"text": "第18 華蓋山洞 周回・四十里 容成大玉天 温州永嘉県 仙人の羊公修",
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"text": "第19 蓋竹山洞 周回・八十里 長耀宝光天 台州黄巌県 仙人の商丘子",
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"text": "第20 都嶠山洞 周回・百八十里 宝玄洞天 容州普寧県 仙人の劉根",
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"text": "第21 白石山洞 周回・七十里 秀楽長真天 鬱林州南海の南、または和州含山県 白真人",
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"text": "第22 岣漏山洞 周回・四十里 玉闕宝圭天 容州北流県 銭真人",
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"text": "第23 九疑山洞 周回・三千里 朝真太虚天 道州延唐県 厳真人",
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"text": "第24 洞陽山洞 周回・百五十里 洞陽隠観天 潭州長沙県 劉真人",
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"text": "第25 幕阜山洞 周回・百八十里 玄真太元天 鄂州唐年県 陳真人",
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"text": "第26 大酉山洞 周回・百里 大酉華妙天 辰州を去ること七十里 尹真人",
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"text": "第27 金庭山洞 周回・三百里 金庭崇妙天 越州剡県 趙仙伯",
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"text": "第28 麻姑山洞 周回・百五十里 丹霞天 撫州南城県 王真人",
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"text": "第29 仙都山洞 周回・三百里 仙都祈仙天 処州縉雲県 趙真人",
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"text": "第30 青田山洞 周回・四十五里 青田大鶴天 処州青田県 傅真人",
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"text": "第31 鐘山洞 周回・百里 朱日太生天 潤州上元県 龔真人",
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"text": "第32 良常山洞 周回・三十里 良常放命洞天 潤州句容県 李真人",
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"text": "第33 紫蓋山洞 周回・八十里 紫玄洞照天 荊州当陽県 公羽真人",
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"text": "第34 天目山洞 周回・百里 天蓋滌玄天 杭州余杭県 姜真人",
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"text": "第35 桃源山洞 周回・七十里 白馬玄光天 朗州武陵県 謝真人",
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"text": "第36 金華山洞 周回・五十里 金華洞元天 婺州金華県 戴真人",
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"text": "選ばれた72ヶ所の祥福の土地。七十二福地は、「大地名山の間にあり、上帝が真人に命じて治めさせており、得道が多いところ」と説明される。統治者の位は、十大洞天や三十六洞天より低くなるが、かなり具体え的な修業の地であったために、道を得た者が多いとされている。場所は、山や洞窟、渓、泉、井戸、壇など非常に多岐にわたっている。",
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"text": "第1 地肺山 潤州句容県 真人の謝允",
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"text": "第2 蓋竹山 処州括蒼県仙渡 真人の施存",
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"text": "第3 仙磑山 温州楽成県の東五十里 真人の張重華",
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"text": "第4 東仙源 台州黄巌県 地仙の劉奉林",
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"text": "第5 西仙源 台州黄巌県 地仙の張兆期",
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"text": "第6 南田山 東海の東 劉真人",
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"text": "第8 清嶼山 東海の西 真人の劉子光",
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"text": "第9 鬱木洞 玉笥山の南 地仙の魯班",
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"text": "第10 丹霞洞 麻姑山の西 蔡真人",
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"text": "第11 君山 洞庭青草湖の中 地仙の侯生",
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"text": "第12 大若巌 温州永嘉県の東百二十里 地仙の李方回",
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"text": "第13 焦源 建州建陽県の北 尹真人",
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"text": "第14 霊墟 台州唐興県の北 白雲先生",
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"text": "第15 沃洲 越州剡県の南東 真人の方明",
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"text": "第16 天姥岑 越州剡県の南 真人の魏顕仁",
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"text": "第17 若耶渓 越州会稽県の南 真人の山世遠",
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"text": "第18 金庭山 廬州巣県 馬仙人",
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"text": "第19 清遠山 広州清遠県 陰真人",
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"text": "第20 安山 交州の北 安期先生",
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"text": "第21 馬嶺山 郴州郭内水の東 真人の力牧",
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"text": "第22 鵝羊山 潭州長沙県",
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"text": "第23 洞真墟 潭州長沙県の西嶽 真人の韓終",
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"text": "第24 青玉壇 南嶽祝融峰の西 青鳥公",
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"text": "第25 光天壇 南嶽の西源頭 鳳真人",
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"text": "第26 洞霊源 南嶽の招仙観の西",
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"text": "第27 洞宮山 建州関隷鎮五嶺 黄山公",
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"text": "第28 陶山 温州安固県",
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"text": "第29 三皇井 温州横陽県 真人の鮑察",
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"text": "第30 爛柯山 衢州信安県 王質先生",
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"text": "第31 勒渓 建州建陽県の東",
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"text": "第32 龍虎山 信州貴渓県 仙人の張巨君",
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"text": "第33 霊山 信州上饒県の北 墨真人",
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"text": "第34 泉源 羅浮山の中 華子期",
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"text": "第35 金精山 虔州虔化県 仇季子",
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"text": "第36 閣皁山 吉州新淦県 郭真人",
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"text": "第37 始豊山 洪州豊城県 尹真人",
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"text": "第38 逍遥山 洪州南昌県 徐真人",
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"text": "第39 東白源 洪州新呉県の東 劉仙人",
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"text": "第40 鉢池山 楚州",
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"text": "第43 鶏籠山 和州歴陽県 郭真人",
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"text": "第44 桐柏山 唐州桐柏県 李仙君",
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"text": "第47 虎渓山 江州彭沢県の南",
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"text": "第49 静福山 連州連山県 真人の廖冲",
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"text": "第50 大面山 益州成都県 仙人の柏成子",
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"text": "第51 元晨山 江州都昌県 孫真人・安期生",
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"text": "第52 馬蹄山 饒州鄱陽県 真人の子州",
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"text": "第53 徳山 朗州武陵県 仙人の張巨君",
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"text": "第62 中條山 河中府虞郷県 趙仙人",
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"text": "第65 瀘水 梁州 仙人の安公",
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] |
洞天福地(どうてんふくち)とは、道教において神仙が住む洞窟の地「洞天」と仙人が修行した地「福地」の総称。名山勝境の奥深くにあって、永生を得た仙人たちが安楽に棲んでいると信じられていた、中国的ユートピアの一形態。洞天と福地は本来別系統の場所だったとされていたが、唐代になって道教的聖地として統合され、十大洞天、三十六洞天(三十六小洞天)、七十二洞天から構成される洞天福地説が成立し、洞天と福地はほぼ同義に使われるようになった。 道教の「洞天」信仰は、中国全土に散在する聖地としての山岳洞窟が気脈を通じて全体的ネットワークを形成しているとされた。山岳洞窟である理由は、仙人が修業をするために犬や鳥などの鳴き声さえも聞こえない場所で行う必要があったからである。現実的に、山脈・水脈の連なり、洞窟の広がりなどの地形的条件と神秘的景観などの自然地理的な環境に基づく山岳信仰と、政治的・軍事的情勢や人や物資や情報の移動を反映した文学的・宗教的な想像力が合わさり、中国全土規模にまで拡大した「洞天」信仰を形成・機能させたと考えられる。ひとたび成立した洞天の体系は、実体視・伝統化され、「洞天」がある山岳には、道観や寺院が建設され、宗教者の修行場、国家的儀礼や祭祀の場、文学的資源、巡礼と現在に続く観光の名所となっていった。また司馬承禎の洞天説における成立順序では、三十六洞天が成立し、その中から十大洞天が独立し、残り二十六洞天に新たに十洞天を加えたものが三十六小洞天となったと『天地宮府図(てんちきゅうふず)』にある。
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{{道教}}
'''洞天福地'''(どうてんふくち)とは、道教において[[仙人|神仙]]が住む洞窟の地「洞天」と仙人が修行した地「福地」の総称。名山勝境の奥深くにあって、永生を得た仙人たちが安楽に棲んでいると信じられていた、[[中国]]的[[ユートピア]]の一形態。洞天と福地は本来別系統の場所だったとされていたが、唐代になって道教的聖地として統合され、十大洞天、三十六洞天(三十六小洞天)、七十二洞天から構成される洞天福地説が成立し、洞天と福地はほぼ同義に使われるようになった<ref>{{Cite book|和書|title=道教事典|date=1994年3月15日|year=1994|publisher=平河出版社|author=野口鐵郎|isbn=4892032352|author2=坂出祥伸|author3=福井文雅|author4=山田利明}}</ref><ref>{{Cite book|title=中国の道教|date=1998年7月20日|publisher=株式会社創文社|author=小林 正美|isbn=4423194090}}</ref>。
道教の「洞天」信仰は、中国全土に散在する[[聖地]]としての山岳洞窟が気脈を通じて全体的ネットワークを形成しているとされた。山岳洞窟である理由は、仙人が修業をするために犬や鳥などの鳴き声さえも聞こえない場所で行う必要があったからである。現実的に、山脈・水脈の連なり、洞窟の広がりなどの地形的条件と神秘的景観などの自然地理的な環境に基づく山岳信仰と、政治的・軍事的情勢や人や物資や情報の移動を反映した文学的・宗教的な想像力が合わさり、中国全土規模にまで拡大した「洞天」信仰を形成・機能させたと考えられる。ひとたび成立した洞天の体系は、実体視・伝統化され、「洞天」がある山岳には、[[道観]]や寺院が建設され、宗教者の修行場、国家的儀礼や祭祀の場、文学的資源、巡礼と現在に続く観光の名所となっていった。また[[司馬承禎]]の洞天説における成立順序では、三十六洞天が成立し、その中から十大洞天が独立し、残り二十六洞天に新たに十洞天を加えたものが三十六小洞天となったと『天地宮府図(てんちきゅうふず)』にある<ref>{{Cite book|和書|title=道教と共生思想|date=2009年10月30日|publisher=大河書房|edition=初版|isbn=9784902417210|author=田中文雄|author2=クリ―マンテリー|year=}}</ref><ref>{{Cite book|title=道教の世界|date=1987年7月25日|publisher=株式会社学生社|author=窪徳忠|isbn=9784311200656}}</ref>。
== 成立 ==
#福地説の成立は、洞天説より早いとされている。福地は、人や自然の災害に及ばない、修業に恵まれた土地をいう。本来福地は洞窟、洞天のもともとのイメージを含めた幅広い概念であった。[[葛洪]]の『[[抱朴子]]』に仙薬を作るのに最適な山では「山神は必ずこれを助けて福をなす」とあり、福をなす場所、つまり福地が想定されていたことが分かる。「福地」という熟語が出てくるのは、[[陶弘景]]が、句曲山の由来を説く箇所である。それは、「金陵(南京付近)というところは、兵害や水害も及ぶことはできないし、災いや病にも冒されることはない。『河図中要元篇』の第四十四巻には、十大洞天の第八の句曲山洞・金壇陽洞天のことを指して、「句金の壇は、その間に陵あり、兵害も病気もなく、洪水の波も登ってこない、と書かれる。ここはまさに福地である」(『[[真誥]]』稽神枢)と書かれる。幸福に恵まれて、神仙がいるにふさわしい場所という意味の「福地」という言い方をしていた。この福地は、洞天の下位にランク付けされた聖地ではなかった。つまり、洞天までをも含めた聖地として、福地であったといえよう。
#『真誥』では先述に続十大く文で、「大天の内、地中の三十六洞天あり、その第八は句曲山である。周回は百五十里、金壇華陽天と名づける」とある。十大洞天の一つである句曲山が、三十六洞天の第八と書かれる。これは、当初の三十六洞天の中には、後に十大洞天として独立する洞天が含まれていたということである。
#三十六洞天から、何らかの理由で十大洞天が別に扱われるようになり、他の二十六洞天はほとんど伝承を絶った。
#唐代に入り、十洞天が「十大洞天」として別出されて、伝承の絶えた先に二十六洞天に新たな十洞天を加えて「三十六小洞天」とした。また、一般な聖地の呼称であった福地も、体裁を整え「七十二福地」とした。
このように、洞天福地は種別され、順序をつけられた。これら各洞天福地の数をあらわす数字は、象徴的な意味をもつ聖なる数の「数合わせ」であしているとされる。つまり、一連の聖地があり、それを集めたら十や三十六、七十二という数になったのではなく、まず聖地がいくつかあり、それに合わせて各聖地を数に当てはめたのである。
10、36、72が選ばれた理由として、十は、東・西・南・北の四方と、東北・東南・西南・西北の四維と、上・下の方位をさし、完全なる世界をあらわす数であるため。三十六は、多い数の象徴であるとともに、道教の天界(三十六天)の数に対応するため。三十六の倍数である七十二は、『易』の思想に基づくとされているためである<ref name=":0" />。
== 住人 ==
洞天を治める者は上位の神仙であるが、住人は必ずしも高い位の仙人ではない。洞天の中で暮らすことのできる人物は、かつて道徳的に優れたことをした人々であるという。
洞天内には男女に分かれた宮殿があり、女子は易遷宮と含真台、男子は童初府と蕭閑堂があり、それぞれに住む人の区別があった。易遷宮は女の「地下主者」の最も高位の者の住所であり、含真台は得道した女真(女の仙人)が館として住んでいた。男子の童初府は易遷宮に、蕭閑堂は含真台に相当するものである。『[[真誥]]』に、易遷宮や童初府に入るには陰徳、つまり現世での功徳を積むことが必要である、とある。その功徳もさまざまであるが、自己や係累の生前の善行により入ることができる。
地下主者とは、[[尸解仙|尸解]]と同じように、死後に仙界に入る人をさす。完全な神仙になる前の修業中の人といえる。地下主者には三階級があり、百四十年が一単位として進むという。どの地下主者の位に振り分けられるかは現世においてどれだけ功徳を積んだかによる。
一等地下主者はもっとも下の者で、百四十年して一進してはじめて仙階(仙人の世界)に進むことができる。
二等地下主者は、中間のくらいで、ただちに仙人階級になれる人で、百四十年して進んで管禁の位(世間の役人のようなもの)に補任される。
三等地下主者は、一番上の者で、仙人の住まいに出入でき、神の世界にも遊ぶことができる。この最上の三等地下主者が、女は易遷館を、男は童初府を住所とするのである。三等地下主者の場合は「十二年で気は神魂に摂し、十五年で蔵魄を束ね、三十年で棺中の骨は神気をもつ。四十年すると生きている人のようになり、人間世界に還り遊ぶことができ、五十年で仙官に補せられ、六十年で広寒に遊び、百年で昆盈の宮に入ることができる」とある。普通の死体が腐敗して、無に帰していく過程と、まったく逆のプロセスをたどる再生といえる<ref name=":0" />。
== 十大洞天 ==
十大洞天とは、「大地名山の中にあり、上天が郡仙を遣わして統治せしむるところ」と書かれる。大きな有名な山の中にあり、天上の神々が多くの仙人を派遣して、そこを治めさせているという。偏りなく中国の全土に分布しており。道教以前の山岳信仰に源流を持つものと、道教史上の事跡に関係するものとが同じように集まっている<ref name=":0">{{Cite book|title=仙境往来 神界と聖地 シリーズ道教の世界1|date=2002年12月25日|publisher=春秋社|author=田中文雄|isbn=4393312716}}</ref>。
第1 王屋山洞 周回・万里 小有清虚之洞天 洛陽と河陽の両界にまたがる王屋県から六十里 西城王君
第2 委羽山洞 周回・万里 大有空明之洞天 台州黄巌県から三十里 青童君
第3 西城山洞 周回・三千里 太玄総真之洞天 未詳 上宰王君
第4 西玄山洞 周回・三千里 三元極真之洞天 不明
第5 青城山洞 周回・二千里 宝仙九室之洞天 蜀州青城県 青城丈人
第6 赤城山洞 周回・三百里 上清玉平之洞天 台州唐興県 玄洲仙伯
第7 羅浮山洞 周回・五百里 朱明輝真之洞天 循州博羅県 青精先生
第8 句曲山洞 周回・百五十里 金壇華陽之洞天 潤州句容県 紫陽真人
第9 林屋山洞 周回・四百里 左神幽虚之洞天 洞底湖の湖口 北嶽真人
第10 括蒼山洞 周回・三百里 成徳隠玄之洞天 処州楽安県 北海公涓子
== 三十六洞天 ==
三十六洞天(三十六小洞天)は、「諸名山の中にあり、上仙が統治するところ」と説明される。上位の仙人が治めるところで、十大洞天の次にランクとしては位置付けられる。また、道教で重視される五つの聖山である「五岳」もこの中に含まれる<ref name=":0" />。
第1 霍桐山洞 周回・三千里 霍林洞天 福州長渓県 仙人の王緯玄
第2 東嶽太山洞 周回・千里 蓬玄洞天 兗州乾封県 山図公子
第3 南嶽衡山洞 周回・七百里 朱陵洞天 衡州衡山県 仙人の石長生
第4 西嶽華山洞 周回・三百里 総仙洞天 華州華陰県 真人の恵車子
第5 北嶽常山洞 周回・三千里 総玄洞天 恒州曲陽県 真人の鄭子真
第6 中嶽嵩山洞 周回・三千里 司馬洞天 洛州登封県 仙人の鄧雲山
第7 峨嵋山洞 周回・三百里 虚陵洞天 嘉州峨眉県 真人の唐覧
第8 廬山洞 周回・百八十里 洞霊真天 江州徳安県 真人の周正時
第9 四明山洞 周回・百八十里 丹山赤水天 越州上虞県 真人の刁道林
第10 会稽山洞 周回・三百五十里 極玄大元天 越州山陰県鏡湖の中 仙人の郭華
第11 太白山洞 周回・五百里 玄徳洞天 京兆府長安県・終南山に連なる 仙人の張季連
第12 西山洞 周回・三百里 天柱宝極玄天 洪州南昌県 真人の唐公成
第13 小潙山洞 周回・三百里 好生玄上天 潭州醴陵県 仙人の花丘林
第14 灊山洞 周回・八十里 天柱司玄天 舒州懐寧県 仙人の稷丘子
第15 鬼谷山洞 周回・七十里 貴玄司真天 信州貴渓県 真人の崔文子
第16 武夷山洞 周回・百二十里 真昇化玄天 建州建陽県 真人の劉少公
第17 玉笥山洞 周回・百二十里 太玄法楽天 吉州永新県 真人の梁伯鸞
第18 華蓋山洞 周回・四十里 容成大玉天 温州永嘉県 仙人の羊公修
第19 蓋竹山洞 周回・八十里 長耀宝光天 台州黄巌県 仙人の商丘子
第20 都嶠山洞 周回・百八十里 宝玄洞天 容州普寧県 仙人の劉根
第21 白石山洞 周回・七十里 秀楽長真天 鬱林州南海の南、または和州含山県 白真人
第22 岣漏山洞 周回・四十里 玉闕宝圭天 容州北流県 銭真人
第23 九疑山洞 周回・三千里 朝真太虚天 道州延唐県 厳真人
第24 洞陽山洞 周回・百五十里 洞陽隠観天 潭州長沙県 劉真人
第25 幕阜山洞 周回・百八十里 玄真太元天 鄂州唐年県 陳真人
第26 大酉山洞 周回・百里 大酉華妙天 辰州を去ること七十里 尹真人
第27 金庭山洞 周回・三百里 金庭崇妙天 越州剡県 趙仙伯
第28 麻姑山洞 周回・百五十里 丹霞天 撫州南城県 王真人
第29 仙都山洞 周回・三百里 仙都祈仙天 処州縉雲県 趙真人
第30 青田山洞 周回・四十五里 青田大鶴天 処州青田県 傅真人
第31 鐘山洞 周回・百里 朱日太生天 潤州上元県 龔真人
第32 良常山洞 周回・三十里 良常放命洞天 潤州句容県 李真人
第33 紫蓋山洞 周回・八十里 紫玄洞照天 荊州当陽県 公羽真人
第34 天目山洞 周回・百里 天蓋滌玄天 杭州余杭県 姜真人
第35 桃源山洞 周回・七十里 白馬玄光天 朗州武陵県 謝真人
第36 金華山洞 周回・五十里 金華洞元天 婺州金華県 戴真人
== 七十二福地 ==
選ばれた72ヶ所の祥福の土地。七十二福地は、「大地名山の間にあり、上帝が真人に命じて治めさせており、得道が多いところ」と説明される。統治者の位は、十大洞天や三十六洞天より低くなるが、かなり具体的な修業の地であったために、道を得た者が多いとされている。場所は、山や洞窟、渓、泉、井戸、壇など非常に多岐にわたっている<ref name=":0" />。
第1 地肺山 潤州句容県 真人の謝允
第2 蓋竹山 処州括蒼県仙渡 真人の施存
第3 仙磑山 温州楽成県の東五十里 真人の張重華
第4 東仙源 台州黄巌県 地仙の劉奉林
第5 西仙源 台州黄巌県 地仙の張兆期
第6 南田山 東海の東 劉真人
第7 玉溜山 東海の蓬萊島の上 地仙の許邁
第8 清嶼山 東海の西 真人の劉子光
第9 鬱木洞 玉笥山の南 地仙の魯班
第10 丹霞洞 麻姑山の西 蔡真人
第11 君山 洞庭青草湖の中 地仙の侯生
第12 大若巌 温州永嘉県の東百二十里 地仙の李方回
第13 焦源 建州建陽県の北 尹真人
第14 霊墟 台州唐興県の北 白雲先生
第15 沃洲 越州剡県の南東 真人の方明
第16 天姥岑 越州剡県の南 真人の魏顕仁
第17 若耶渓 越州会稽県の南 真人の山世遠
第18 金庭山 廬州巣県 馬仙人
第19 清遠山 広州清遠県 陰真人
第20 安山 交州の北 安期先生
第21 馬嶺山 郴州郭内水の東 真人の力牧
第22 鵝羊山 潭州長沙県
第23 洞真墟 潭州長沙県の西嶽 真人の韓終
第24 青玉壇 南嶽祝融峰の西 青鳥公
第25 光天壇 南嶽の西源頭 鳳真人
第26 洞霊源 南嶽の招仙観の西
第27 洞宮山 建州関隷鎮五嶺 黄山公
第28 陶山 温州安固県
第29 三皇井 温州横陽県 真人の鮑察
第30 爛柯山 衢州信安県 王質先生
第31 勒渓 建州建陽県の東
第32 龍虎山 信州貴渓県 仙人の張巨君
第33 霊山 信州上饒県の北 墨真人
第34 泉源 羅浮山の中 華子期
第35 金精山 虔州虔化県 仇季子
第36 閣皁山 吉州新淦県 郭真人
第37 始豊山 洪州豊城県 尹真人
第38 逍遥山 洪州南昌県 徐真人
第39 東白源 洪州新呉県の東 劉仙人
第40 鉢池山 楚州
第41 論山 潤州丹徒県 終真人
第42 毛公壇 蘇州長洲県
第43 鶏籠山 和州歴陽県 郭真人
第44 桐柏山 唐州桐柏県 李仙君
第45 平都山 忠州酆都県
第46 緑蘿山 朗州武陵県
第47 虎渓山 江州彭沢県の南
第48 彰龍山 潭州醴陵県の北 臧先生
第49 静福山 連州連山県 真人の廖冲
第50 大面山 益州成都県 仙人の柏成子
第51 元晨山 江州都昌県 孫真人・安期生
第52 馬蹄山 饒州鄱陽県 真人の子州
第53 徳山 朗州武陵県 仙人の張巨君
第54 高渓藍水山 雍州藍田県
第55 藍水 西都藍田県 地仙の張兆期
第56 玉峰 西都京兆県 仙人の柏戸
第57 天柱山 杭州於潜県 地仙の王伯元
第58 商谷山 商州
第59 張公洞 常州宜興県 真人の康桑
第60 司馬悔山 台州天台山の北 仙人の李明
第61 長在山 斉州長山県 毛真人
第62 中條山 河中府虞郷県 趙仙人
第63 茭湖魚澄洞 西古姚州
第64 綿竹山 漢州綿竹県 瓊華夫人
第65 瀘水 梁州 仙人の安公
第66 甘山 黔南 寧真人
第67 王晃山 漢州 赤須先生
第68 金城山 限戍または石戍 石真人
第69 雲山 邵州武岡県 仙人の盧生
第70 北邙山 東都洛陽県 魏真人
第71 盧山 福州連江県 謝真人
第72 東海山 海州の東二十五里 王真人
== 脚注 ==
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三清
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三清(さんせい)は、道教の最高神格のこと。「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱。
それぞれ道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ。道観(道教寺院)にはしばしば「三清殿」と称する三清を祀る建物がある。
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==関連項目==
* [[道教用語一覧]]
* [[四御]]
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14,228 |
太上老君
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太上老君(たいじょうろうくん、だじょうろうくん)は、道教の神の一人。別名道徳天尊(どうとくてんそん)、混元老君(こんげんろうくん)、降生天尊(ごうせいてんそん、こうせいてんそん)、太清大帝(たいせいたいてい)とも言う。道教の始祖とみなされる老子が神格化されたもので、道教の最高神格である三清の一柱。元始天尊の応身の神格とされ、あるいは、その十号の一つに数えられる。
地上では崑崙山、天上では道教における天上界の最高天のひとつ、太清境(たいせいきょう)に住するとされる。『抱朴子』の記述によれば、その姿は、口がカラスに類し、耳の長さは7寸あり、額には縦筋が3本あったとされ、神仙の風貌で描かれている。『雲笈七籤』に収録された「道蔵三洞経」では、老君の妻は素女で、黄衣を着る。
道家の祖として老荘思想を説いた老子が、道教の神となったのは、五斗米道の開祖である張陵の時であるとされる。また、後漢の于吉のもとに現れて啓示を与えたのに始まり、六朝から唐代にかけては、盛んに顕現するようになった。
梁の陶弘景が著した『真霊位業図』では、その第四級の中心に表されている。また、太上老君説とされる道経が盛んに作られたのも、この時代であり、それは、唐室が同姓の老子を宗室の祖として尊崇したことから、ピークを迎えたが、以後は、次第に衰えていく。
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太上老君(たいじょうろうくん、だじょうろうくん)は、道教の神の一人。別名道徳天尊(どうとくてんそん)、混元老君(こんげんろうくん)、降生天尊(ごうせいてんそん、こうせいてんそん)、太清大帝(たいせいたいてい)とも言う。道教の始祖とみなされる老子が神格化されたもので、道教の最高神格である三清の一柱。元始天尊の応身の神格とされ、あるいは、その十号の一つに数えられる。 地上では崑崙山、天上では道教における天上界の最高天のひとつ、太清境(たいせいきょう)に住するとされる。『抱朴子』の記述によれば、その姿は、口がカラスに類し、耳の長さは7寸あり、額には縦筋が3本あったとされ、神仙の風貌で描かれている。『雲笈七籤』に収録された「道蔵三洞経」では、老君の妻は素女で、黄衣を着る。 道家の祖として老荘思想を説いた老子が、道教の神となったのは、五斗米道の開祖である張陵の時であるとされる。また、後漢の于吉のもとに現れて啓示を与えたのに始まり、六朝から唐代にかけては、盛んに顕現するようになった。 梁の陶弘景が著した『真霊位業図』では、その第四級の中心に表されている。また、太上老君説とされる道経が盛んに作られたのも、この時代であり、それは、唐室が同姓の老子を宗室の祖として尊崇したことから、ピークを迎えたが、以後は、次第に衰えていく。
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'''太上老君'''(たいじょうろうくん、だじょうろうくん)は、[[道教]]の[[神]]の一人。別名'''道徳天尊'''(どうとくてんそん)、'''混元老君'''(こんげんろうくん)、'''降生天尊'''(ごうせいてんそん、こうせいてんそん)、'''太清大帝'''(たいせいたいてい)とも言う。道教の始祖とみなされる[[老子]]が神格化されたもので、道教の最高神格である[[三清]]の一柱。[[元始天尊]]の[[応身]]の神格とされ、あるいは、その十号の一つに数えられる。
地上では[[崑崙山]]、天上では道教における天上界の最高天のひとつ、'''太清境'''(たいせいきょう)に住するとされる。『[[抱朴子]]』の記述によれば、その姿は、口が[[カラス]]に類し、耳の長さは7寸あり、額には縦筋が3本あったとされ、[[仙人|神仙]]の風貌で描かれている。『[[雲笈七籤]]』に収録された「道蔵三洞経」では、老君の妻は[[素女]]で、黄衣を着る<ref>{{Cite web|和書|title=『雲笈七籤』巻十八 |accessdate=2021/09/11 |url=https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%9B%B2%E7%AC%88%E4%B8%83%E7%B1%A4/18#第六神仙 |publisher=[[ウィキソース]]}}</ref>。
[[道家]]の祖として[[老荘思想]]を説いた老子が、道教の神となったのは、[[五斗米道]]の開祖である[[張陵]]の時であるとされる。また、[[後漢]]の[[于吉]]のもとに現れて啓示を与えたのに始まり、[[六朝]]から[[唐]]代にかけては、盛んに顕現するようになった。
[[梁 (南朝)|梁]]の[[陶弘景]]が著した『真霊位業図』では、その第四級の中心に表されている。また、太上老君説とされる道経が盛んに作られたのも、この時代であり、それは、唐室が同姓の老子を宗室の祖として尊崇したことから、ピークを迎えたが、以後は、次第に衰えていく。
== 太上老君を主題とする文芸作品 ==
*[[西遊記]]
*:[[兜率天]]宮で[[霊薬]]作りをしている[[錬丹術]]の大家。[[孫悟空]]からは「おやじどん」と呼ばれる。老君は悟空を「サル君」と呼ぶ([[伊藤貴麿]]・訳、岩波少年文庫版)。悟空の得物・[[如意金箍棒]]、[[猪八戒]]の得物・釘鈀の製作者。
*[[封神演義]]
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[道教用語一覧]]
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[[Category:封神演義]]
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14,231 |
ガルリ・カスパロフ
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ガルリ・キーモヴィチ・カスパロフ(露: Га́рри Ки́мович Каспа́ров、英:Garry Kimovich Kasparov、1963年4月13日 - )は、アゼルバイジャンのバクー出身の元チェス選手。15年もの間チェスの世界チャンピオンのタイトルを保持し続けた人物。1948年にFIDEによる選手権制度が始まってからでは最長記録である。現在は政治家。2011年より、人権財団(Human Rights Foundation)(英語版)の会長である。
ユダヤ人の父とアルメニア人の母との間に生まれ、幼時はガルリ・ヴァインシュテインといった。幼い頃の父の死に伴い母方に引き取られ、後に母の姓「カスパリアン」をロシア風に改めた「カスパロフ」を名字として名乗るようになった。
2005年3月にチェストーナメントから引退し、現在はロシアで民主化運動を行っている政治家である。
現在は企業など相手に講演活動を行う傍ら、ロシアの民主化運動に尽力しており、2007年9月には、野党連合組織「もう一つのロシア」から、2008年ロシア大統領選挙の候補に選ばれた。
西欧ではチェスは理知的なゲームの代表、「人間の知性の極み」と見なされており、チェス人口が多いので、カスパロフは頭の良い人物の代表として、しばしば言及される人物でもある。
2014年にクロアチア国籍を取得した。家族は妻のダーシャと息子のヴァディム。
史上最年少の22歳で世界チャンピオンの座を奪取したことに始まり、15年もの間世界チャンピオンのタイトルを保持しつづけた(FIDE:1985 - 1993, PCA:1993 - 2000)。FIDE世界ランキング最高位は1位(1984年1月)で、通算255カ月の世界ランキング1位は史上最長である。FIDE発表のレーティングの最高値は2851(1999年7月、2000年1月)で、これはマグヌス・カールセンが2013年1月に更新するまで、13年間にわたってFIDEレーティングの最高値であった。また22歳6ヶ月での王者も2013年現在更新されていない。
カスパロフは1973年、10歳の時にミハイル・ボトヴィニクが主宰するチェスの学校に入り、チェスプレーヤーとしての英才教育を受けた。カスパロフから見て恩師・校長にあたるボトヴィニクは、ソ連出身のチェス世界チャンピオンの第1号で、複数回のチャンピオンになった経歴だけでなく、工学者でもあったため、プロの世界を離れた後は後進の指導やコンピュータチェスに専念していたのである(このチェスの学校は1980年代後半には、ボトヴィニクとカスパロフが共同で運営する学校になった。ボトヴィニクのチェス学校は、カスパロフ以外にもアナトリー・カルポフやウラジーミル・クラムニクなどの世界チャンピオンが輩出することになった)。
1978年にはソコルスキー記念トーナメントで1位となり、グランドマスターとなった。1980年には世界ジュニアチェス選手権で優勝し、第19回ジュニア世界チャンピオンとなるなど、10代からすでに将来有望な若手として有名であった。
1984年には21歳で初めてチェス世界選手権に出場、初出場にして勝ち進み、10年ほど世界チャンピオンのタイトルを保持するアナトリー・カルポフに挑戦することになった。
この試合は(も)チェス史に残るものであり、その激闘ぶりと異例の展開はしばしばチェス界では語られている。記録としては48局で5勝3敗40引き分けのまま、当時の世界チェス連盟会長カンポマネスの判断により中止とされ、無勝負となったのであり、その経過は次のようなものである。もともと「6局先勝、局数無制限」という条件での試合であった。最初はカルポフが4局連勝した。そこでカスパロフは反省し、戦略を改めた。同時に相手のチャンピオンのカルポフにも様々な思惑が生まれておりプレーのしかたに変化が生じた。その次は驚くことに17局連続で引き分けとなった。第27局でカスパロフが落とし5-0、22引き分けとなった。やがて試合は3か月目に突入した。若きカスパロフは第32局で初勝利し攻勢に転じた。その後5週間にわたり引き分けが続いたが、カスパロフ側のほうが攻め調子であった。世界中のチェスファンはこの試合に終わりがあるのか?と疑問を感じ始めていた。大会運営側はさすがにプレーヤーに休息が必要だと判断し、試合中でありながらゲームが数日間休みになった。これは異例の決定であった。休み明けの第48局にカスパロフは勝利し5-3と迫り、明らかに勢いはカスパロフ側にあった。この時国際チェス連盟(FIDE)のフロレンシオ・カンポマネス会長に対してソ連スポーツ省から圧力がかかり、1985年2月15日、同会長は記者会見を開き、対戦を中止すると発表した。試合は5か月に及んでいたにもかかわらず、結局勝者が無いままに終わりを迎えたのである。6か月後に再戦と決められた。
1985年の再戦では、第一局からカスパロフが勝利。カスパロフはアナトリー・カルポフを破り(当時の)史上最年少世界チャンピオンとなった。その後15年間チャンピオンのタイトルを守り続けたのである。
カスパロフは史上最強の人間チェスプレーヤー、いわば「人類の代表」として選ばれ、IBMが開発したチェス専用コンピュータディープ・ブルーと対戦した人物の代表としても知られている。1989年にはディープ・ブルーの前身でカーネギーメロン大学が開発したディープ・ソートに2勝していた。
1996年に対戦した際は、カスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利した。「人類の頭脳は最強のコンピュータに勝利した」と報道された。
翌1997年にも対戦が行われた。結果は1勝2敗3引き分け。僅差であったが「コンピュータが世界王者のカスパロフに勝利した」と報道された。
カスパロフは再戦を望んだが、IBM側はプロジェクトを終了させてしまい、結局再戦は行われることはなかった。1996年と1997年を通しての戦績はほぼ互角であり、どちらが強いのかはっきりと判断できるものではなかった。だが「コンピュータがチェスの世界王者に勝利した」とニュースは流れ、大きな話題となった。
そもそも、カスパロフの師匠にあたる、チェス世界チャンピオンにして工学者のミハイル・ボトヴィニクがコンピュータチェスの推進者である。カスパロフ自身もコンピュータチェスの黎明期から、局面分析にデータベースを利用していた。
2003年に行なわれた、ディープ・ジュニアとのマッチは1勝1敗4引き分け、X3D Fritz(英語版)とのマッチでは1勝1敗2引き分けと、現役中はその時最強のチェスソフトとの公開対局を続けていた。
カスパロフは人間とコンピュータがペアを組み、そのペア同士が対局するアドバンスト・チェスという変則チェスも考案した。
上記のごとく、もともとコンピュータと縁があり、現役中はアタリ社がスポンサーに付いたこともある。さらに近年ではウォークラフトをプレイしていると著書で明かしている。偶然だが、自分の弟子であるウラジーミル・クラムニクに勝利したディープ・フリッツの開発会社の立ち上げにも係わっていた。
2014年11月26日、ドワンゴはニコニコ動画で、カスパロフが将棋電王戦FINALの振り駒を行うと発表した。カスパロフは電王戦の企画が初来日となった。振り駒の結果、五番勝負で人間(斎藤慎太郎五段)が第一局の先手に決まった。また、11月28日に将棋の羽生善治棋士・四冠とチェス対局を行うことも発表された。先手、後手を入れ替える二番勝負で、結果はカスパロフが2連勝した。
ダイナミックな展開を好み、終盤については序盤や中盤ほど得意ではないと、自らを分析している。また攻撃的ではあるが、セコンドと協議するだけでなく、データベースソフトで相手の棋風をチェックするなど、準備に余念がなかった。体調面に関しても、運動選手のように食事管理なども受けるなど、当時としては先進的なトレーニング方法を実行していた。
カスパロフは1984年からソ連共産党党員でもあり、1987年にコムソモールの中央委員に選ばれたが、1990年に党を抜けた。チェス選手引退後は、政治活動の世界に身を投じ、ロシアの民主化を推進する政治家として活躍。反プーチン陣営の政治家として活動している。
2004年1月に「2008年委員会 - 自由選択」を共同で設立し、その委員会の議長になった。この委員会は自由主義のメディアの人々によるもので(政治家によるものではなく)、2008年に公正な大統領選挙を実現することを目的としていた。
2004年12月に全ロシア市民会議が発足し、カスパロフはその共同議長に選ばれた。プーチンに対抗するための団結の基盤として構想されたこの市民会議は、期待通りにはいかなかったとカスパロフは語る。各勢力は以前からの内戦意識を捨てきれず、かつての敵と手を組むことができず溝が埋まらなかったという。
振り返ってみれば2004年、クレムリンの圧制に対抗していた勢力は悲惨な状況にあったという。このゲーム(政治)では、対戦相手がルールを頻繁に、自分の有利になるように勝手に変更するという。そのような予測不能で不公平な戦いでも、優れた戦略があれば努力しだいで望みは出てくるはずと考え、戦略を練ったという。そうこうしているうちに、ふたつのことが明らかになったという。ひとつは、プーチンの弾圧に反対する組織は存続を許されないこと、だという。ふたつめは、プーチン政権に対抗する勢力の連合を築く必要性だったという。プーチンに反対する運動は小さなグループが乱立状態で統一的ではなかったという。共通の目的を見つける必要があり、共通点は、民主主義こそがロシア人を救う唯一の手段という認識だという。もし、公正な選挙で大統領を選ぶことができるならば、警察国家へ逆行させるようなプーチンの試みは却下されるだろう、とカスパロフは著書で述べた。
2005年3月チェスのプロの世界から引退し、政治の最前線で活動できるようになった。この段階で最大の障壁は、政府の許可が無ければテレビという媒体が利用できないことだったという。そこで新たに設立されたのがОбъединённый гражданский фронт(統一市民戦線(英語版))という組織であるとカスパロフは言う。「統一市民戦線」の旗をかかげてカスパロフは、東はウラジオストクから西はカリーニングラードまでロシアを旅し、統一市民戦線のメッセージを広め、なぜロシアでは地方が貧しく、中央のエリートが裕福なのかを演説してまわったという。次のように語ることが大切だったという。「まだ手遅れではないから、団結して市民としての権利と民主主義のために闘おう。それらだけが、低下した生活水準を向上させるのだから。」と。
2006年夏には、サンクトペテルブルクでサミットが開かれ、自由主義世界の指導者やメディアがロシアに集結することになっていたので、民主化を求める人々にとっては、団結し世界に向けてメッセージを発信する絶好の機会であった。そこでカスパロフらはモスクワにおいて、ある国際会議を組織することにした。そして国際的なメディア、およびクレムリンのすぐそばで民主主義を強くとなえることを恐れない講演者も世界中から招待したという。全ロシア市民会議の共同議長たちとカスパロフは、数え切れないほどの招待状を書き、支持を呼びかけたという。多くの著名人が支持を表明してくれたという。だが、G8各国の政権の反応は無かったという。カスパロフらは、この国際会議を「もうひとつのロシア会議」と名づけ、プーチンが見せようとしている “安定した民主主義国ロシア” というのは現実のものではなく、にせものだと世界に訴えたという。
2006年にはロシアでは政治の混乱が続き、ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤがプーチンの誕生日に射殺され、クレムリンを批判していたアレクサンドル・リトヴィネンコが、まもなく放射性物質で毒殺されるという事件が起きた。これに伴い、独裁政治に反対する運動の中でのカスパロフの役割も注目を集めた。
このような状況で、自分の新たかつ重要な政治上の課題は、反プーチン勢力に活気を与える戦略を開発することだったという。この政治的状況は、チェスの試合に喩えれば、自分の陣営がどの手順においてもチェックメイト(詰み)の危機に瀕しているのを目の当たりにしているようなものだ、という。
カスパロフがこの活動において大きな進歩を遂げたと感じ始めたのは、事あるごとにプーチン政権からいやがらせを受けるようになってからだという(相手がこちらを無視できない存在だと認めたことになるためである。独裁政権がいやがらせをする、ということは、民主化運動の成功のひとつの尺度ともなりうる。)。その意味で「2006年12月16日に行われたモスクワでのデモ行進の数日前に、統一市民戦線の事務局が治安部隊に襲撃されたことは誇りにしていい。」と述べた。
2007年4月には、モスクワの反政府デモに参加して、当局に逮捕された。これは全世界で報道された。
2007年9月には、カスパロフは改革派野党「もう一つのロシア」の党内予備選で、2008年のロシア大統領選の候補者に選ばれた。
ウォールストリート・ジャーナル紙に世界情勢に関するコラムを寄稿している。
2008年、「連帯」の創設者のひとりとなった。
2010年3月10日、「プーチンは去れ」に署名。
2012年8月17日、教会でプーチン大統領に対する抗議活動を行ったプッシー・ライオットのメンバーに判決が出た裁判所近くで逮捕され、裁判所に拘留された。モスクワの警察はカスパロフが警察官を噛んだと主張していたが、カスパロフは否定。警察は逮捕中にカスパロフを殴打しており、警察犬が噛んだ可能性を示唆した。警察は「カスパロフの歯と警察犬の歯を比較検討する」構えを見せていたが、同月24日、判事はカスパロフの行動に行政違反がなかったことを理由に「警察官への不服従」についての刑事訴訟を終結させた。
2013年、人権団体UN Watch(英語版)より、モリス・B・アブラム人権賞を受賞した。同年6月の記者会見で、ロシアに帰国したら再び出国できるか深刻な疑いがあるため、当面は帰国を控えると発言した。巨額横領事件を告発したロシアの弁護士セルゲイ・マグニツキーが2009年に獄中死した件について、ロシア政府関係者の処罰(アメリカへの渡航・アメリカの銀行システムの利用を禁止)するマグニツキー法が成立したことに対するプーチン大統領の怒りに言及し、ロシア国内の反体制派への報復の可能性があるためであるとしている。
カスパロフは、2015年の著書「Winter Is Coming」でロシアのウクライナ侵攻を予測し、警告していた。
「ウクライナ戦争は遠い国の出来事であり、世界の不安定化を引き起こすことはないと言う人々は、プーチンの明確な警告を無視している。彼が発表した『ルースキー・ミール』の構想が、ウクライナ東部への侵攻で終わるとは思えないが、これが始まりに過ぎないと確信する理由は十分にある。もしプーチンが勝利から勝利へと進み、国内で反対勢力を排除し、国外で領土と影響力を握ることができれば、全面戦争のリスクは劇的に高まる。アドルフ・ヒトラーが1939年にポーランドを攻撃したのは、連合国がチェコスロバキアの防衛に立ち上がったからではなく、まさにそうしなかったからだ」
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻するとこのようにコメントした。
「2014年にプーチンがクリミア併合をした後、西側諸国はロシアと貿易を行ってきた。腐敗した取引でプーチンやその友人が儲けた金が、今日、民間人を虐殺するための軍隊となったのだ。今度はあなたがウクライナを助け、あなたが作ったモンスターに反撃してください」「プーチンは、自由世界から餌を与えられた蛇だ。今また、彼は悪と戦争から手を引くことはないと証明している。経済制裁で止めるしかないでしょう。ウクライナの勝利」
同年5月5日、イベントで訪れたブカレストでルーマニア・テレビのインタビューに答えた。ウクライナ情勢に責任がある世界の指導者としてバラク・オバマ元米大統領とアンゲラ・メルケル元ドイツ首相の名を挙げた。オバマ元大統領については、2012年の大統領選挙討論会でミット・ロムニーが「ロシアは地政学的な敵である」と言ったのを「これは過去に任せなさい、もう冷戦ではない、カレンダーもチェックしなさい、我々は『80年代』にはいない」と笑い、以来、多くの元首相・外相・ビジネスリーダー・個人が、プーチンが戦争犯罪者であった事実を無視してビジネスをしたとしている。メルケル元首相については、ヨーロッパをロシアのガスに依存させることを助けるためにあらゆることを行い、ヨーロッパが他の供給源を見つけることを妨げた責任であるという。
同年8月31日、EUのボレル上級代表はプラハでの外相会議の後の記者会見で「ロシアとのビザ発給円滑化協定の完全停止で合意した」と述べた。7月中旬以降、ロシアから近隣諸国との国境通過が大幅に増加しており「近隣諸国にとって安全保障上のリスク」となっているほか、ロシアと国境を接する5ヶ国は全面禁止を求めていたという。しかし、フランス・ドイツなどの反対により全面禁止には至らなかった。
これに対して、カスパロフはヴィリニュスが主催した自由ロシア会議の終了後にミハイル・ホドルコフスキーと記者会見し、「ロシア人がヨーロッパ人に倣うには、ヨーロッパでの生活がどのようになっているのかを知る必要がある」と話した。対案として、「ロシアによる戦争犯罪およびプーチン政権の違法性、およびウクライナの主権と領土保全を認める宣言」に「公の場で署名する」ことを条件に、EUへの入国を認めることを提案している。
将棋世界の1999年8月号の企画で将棋を指したこともあり、一部の写真が公開されている。
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"text": "ガルリ・キーモヴィチ・カスパロフ(露: Га́рри Ки́мович Каспа́ров、英:Garry Kimovich Kasparov、1963年4月13日 - )は、アゼルバイジャンのバクー出身の元チェス選手。15年もの間チェスの世界チャンピオンのタイトルを保持し続けた人物。1948年にFIDEによる選手権制度が始まってからでは最長記録である。現在は政治家。2011年より、人権財団(Human Rights Foundation)(英語版)の会長である。",
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"text": "西欧ではチェスは理知的なゲームの代表、「人間の知性の極み」と見なされており、チェス人口が多いので、カスパロフは頭の良い人物の代表として、しばしば言及される人物でもある。",
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"text": "史上最年少の22歳で世界チャンピオンの座を奪取したことに始まり、15年もの間世界チャンピオンのタイトルを保持しつづけた(FIDE:1985 - 1993, PCA:1993 - 2000)。FIDE世界ランキング最高位は1位(1984年1月)で、通算255カ月の世界ランキング1位は史上最長である。FIDE発表のレーティングの最高値は2851(1999年7月、2000年1月)で、これはマグヌス・カールセンが2013年1月に更新するまで、13年間にわたってFIDEレーティングの最高値であった。また22歳6ヶ月での王者も2013年現在更新されていない。",
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"text": "カスパロフは1973年、10歳の時にミハイル・ボトヴィニクが主宰するチェスの学校に入り、チェスプレーヤーとしての英才教育を受けた。カスパロフから見て恩師・校長にあたるボトヴィニクは、ソ連出身のチェス世界チャンピオンの第1号で、複数回のチャンピオンになった経歴だけでなく、工学者でもあったため、プロの世界を離れた後は後進の指導やコンピュータチェスに専念していたのである(このチェスの学校は1980年代後半には、ボトヴィニクとカスパロフが共同で運営する学校になった。ボトヴィニクのチェス学校は、カスパロフ以外にもアナトリー・カルポフやウラジーミル・クラムニクなどの世界チャンピオンが輩出することになった)。",
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"text": "カスパロフがこの活動において大きな進歩を遂げたと感じ始めたのは、事あるごとにプーチン政権からいやがらせを受けるようになってからだという(相手がこちらを無視できない存在だと認めたことになるためである。独裁政権がいやがらせをする、ということは、民主化運動の成功のひとつの尺度ともなりうる。)。その意味で「2006年12月16日に行われたモスクワでのデモ行進の数日前に、統一市民戦線の事務局が治安部隊に襲撃されたことは誇りにしていい。」と述べた。",
"title": "政治活動"
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"text": "2007年4月には、モスクワの反政府デモに参加して、当局に逮捕された。これは全世界で報道された。",
"title": "政治活動"
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"text": "2007年9月には、カスパロフは改革派野党「もう一つのロシア」の党内予備選で、2008年のロシア大統領選の候補者に選ばれた。",
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"text": "ウォールストリート・ジャーナル紙に世界情勢に関するコラムを寄稿している。",
"title": "政治活動"
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"text": "2008年、「連帯」の創設者のひとりとなった。",
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"text": "2010年3月10日、「プーチンは去れ」に署名。",
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"text": "2012年8月17日、教会でプーチン大統領に対する抗議活動を行ったプッシー・ライオットのメンバーに判決が出た裁判所近くで逮捕され、裁判所に拘留された。モスクワの警察はカスパロフが警察官を噛んだと主張していたが、カスパロフは否定。警察は逮捕中にカスパロフを殴打しており、警察犬が噛んだ可能性を示唆した。警察は「カスパロフの歯と警察犬の歯を比較検討する」構えを見せていたが、同月24日、判事はカスパロフの行動に行政違反がなかったことを理由に「警察官への不服従」についての刑事訴訟を終結させた。",
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"text": "2013年、人権団体UN Watch(英語版)より、モリス・B・アブラム人権賞を受賞した。同年6月の記者会見で、ロシアに帰国したら再び出国できるか深刻な疑いがあるため、当面は帰国を控えると発言した。巨額横領事件を告発したロシアの弁護士セルゲイ・マグニツキーが2009年に獄中死した件について、ロシア政府関係者の処罰(アメリカへの渡航・アメリカの銀行システムの利用を禁止)するマグニツキー法が成立したことに対するプーチン大統領の怒りに言及し、ロシア国内の反体制派への報復の可能性があるためであるとしている。",
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"text": "カスパロフは、2015年の著書「Winter Is Coming」でロシアのウクライナ侵攻を予測し、警告していた。",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "「ウクライナ戦争は遠い国の出来事であり、世界の不安定化を引き起こすことはないと言う人々は、プーチンの明確な警告を無視している。彼が発表した『ルースキー・ミール』の構想が、ウクライナ東部への侵攻で終わるとは思えないが、これが始まりに過ぎないと確信する理由は十分にある。もしプーチンが勝利から勝利へと進み、国内で反対勢力を排除し、国外で領土と影響力を握ることができれば、全面戦争のリスクは劇的に高まる。アドルフ・ヒトラーが1939年にポーランドを攻撃したのは、連合国がチェコスロバキアの防衛に立ち上がったからではなく、まさにそうしなかったからだ」",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻するとこのようにコメントした。",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "「2014年にプーチンがクリミア併合をした後、西側諸国はロシアと貿易を行ってきた。腐敗した取引でプーチンやその友人が儲けた金が、今日、民間人を虐殺するための軍隊となったのだ。今度はあなたがウクライナを助け、あなたが作ったモンスターに反撃してください」「プーチンは、自由世界から餌を与えられた蛇だ。今また、彼は悪と戦争から手を引くことはないと証明している。経済制裁で止めるしかないでしょう。ウクライナの勝利」",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "同年5月5日、イベントで訪れたブカレストでルーマニア・テレビのインタビューに答えた。ウクライナ情勢に責任がある世界の指導者としてバラク・オバマ元米大統領とアンゲラ・メルケル元ドイツ首相の名を挙げた。オバマ元大統領については、2012年の大統領選挙討論会でミット・ロムニーが「ロシアは地政学的な敵である」と言ったのを「これは過去に任せなさい、もう冷戦ではない、カレンダーもチェックしなさい、我々は『80年代』にはいない」と笑い、以来、多くの元首相・外相・ビジネスリーダー・個人が、プーチンが戦争犯罪者であった事実を無視してビジネスをしたとしている。メルケル元首相については、ヨーロッパをロシアのガスに依存させることを助けるためにあらゆることを行い、ヨーロッパが他の供給源を見つけることを妨げた責任であるという。",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "同年8月31日、EUのボレル上級代表はプラハでの外相会議の後の記者会見で「ロシアとのビザ発給円滑化協定の完全停止で合意した」と述べた。7月中旬以降、ロシアから近隣諸国との国境通過が大幅に増加しており「近隣諸国にとって安全保障上のリスク」となっているほか、ロシアと国境を接する5ヶ国は全面禁止を求めていたという。しかし、フランス・ドイツなどの反対により全面禁止には至らなかった。",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "これに対して、カスパロフはヴィリニュスが主催した自由ロシア会議の終了後にミハイル・ホドルコフスキーと記者会見し、「ロシア人がヨーロッパ人に倣うには、ヨーロッパでの生活がどのようになっているのかを知る必要がある」と話した。対案として、「ロシアによる戦争犯罪およびプーチン政権の違法性、およびウクライナの主権と領土保全を認める宣言」に「公の場で署名する」ことを条件に、EUへの入国を認めることを提案している。",
"title": "2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言"
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"text": "将棋世界の1999年8月号の企画で将棋を指したこともあり、一部の写真が公開されている。",
"title": "その他"
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] |
ガルリ・キーモヴィチ・カスパロフは、アゼルバイジャンのバクー出身の元チェス選手。15年もの間チェスの世界チャンピオンのタイトルを保持し続けた人物。1948年にFIDEによる選手権制度が始まってからでは最長記録である。現在は政治家。2011年より、人権財団の会長である。 ユダヤ人の父とアルメニア人の母との間に生まれ、幼時はガルリ・ヴァインシュテインといった。幼い頃の父の死に伴い母方に引き取られ、後に母の姓「カスパリアン」をロシア風に改めた「カスパロフ」を名字として名乗るようになった。 2005年3月にチェストーナメントから引退し、現在はロシアで民主化運動を行っている政治家である。 現在は企業など相手に講演活動を行う傍ら、ロシアの民主化運動に尽力しており、2007年9月には、野党連合組織「もう一つのロシア」から、2008年ロシア大統領選挙の候補に選ばれた。 西欧ではチェスは理知的なゲームの代表、「人間の知性の極み」と見なされており、チェス人口が多いので、カスパロフは頭の良い人物の代表として、しばしば言及される人物でもある。 2014年にクロアチア国籍を取得した。家族は妻のダーシャと息子のヴァディム。
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{{Expand Russian|Каспаров, Гарри Кимович|date=2020年9月}}
{{Infobox Chess player
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|title = [[チェスの世界チャンピオン一覧|第16代公式世界チャンピオン]]<br />初代クラシカル世界チャンピオン
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'''ガルリ・キーモヴィチ・カスパロフ'''({{lang-ru-short|Га́рри Ки́мович Каспа́ров}}<ref>{{lang-*-Latn|ru|Garry Kimovich Kasparov}}</ref>、[[英語|英]]:Garry Kimovich Kasparov、[[1963年]][[4月13日]] - )は、[[アゼルバイジャン]]の[[バクー]]出身の元[[チェスプレーヤーの一覧|チェス選手]]。15年もの間[[チェス]]の世界チャンピオンのタイトルを保持し続けた人物。1948年にFIDEによる選手権制度が始まってからでは最長記録である。現在は[[政治家]]。2011年より、{{仮リンク|人権財団(Human Rights Foundation)|en|Human Rights Foundation}}の会長である<ref>{{Cite web |title=HRF Elects Garry Kasparov as New Chairman {{!}} News {{!}} The Human Rights Foundation |url=https://web.archive.org/web/20150502164312/http://humanrightsfoundation.org/news/hrf-elects-garry-kasparov-as-new-chairman-0067 |website=web.archive.org |date=2012年5月4日 |access-date=2022-09-05}}</ref>。
[[ユダヤ人]]の父と[[アルメニア人]]の母との間に生まれ、幼時はガルリ・ヴァインシュテインといった。幼い頃の父の死に伴い母方に引き取られ、後に母の姓「カスパリアン」をロシア風に改めた「カスパロフ」を名字として名乗るようになった。
2005年3月にチェストーナメントから引退し<ref name="kettei">{{Cite book|和書|author=ガルリ・カスパロフ|year=2007|title=決定力を鍛える|publisher=NHK出版}}</ref>、現在は[[ロシア]]で[[民主化]]運動を行っている政治家である。
現在は企業など相手に講演活動を行う傍ら、ロシアの民主化運動に尽力しており、2007年9月には、野党連合組織「[[もう一つのロシア]]」から、[[2008年ロシア大統領選挙]]の候補に選ばれた。
[[西ヨーロッパ|西欧]]では[[チェス]]は理知的なゲームの代表、「人間の知性の極み」と見なされており<ref name="kettei" />、チェス人口が多いので、カスパロフは頭の良い人物の代表として、しばしば言及される人物でもある。
2014年にクロアチア国籍を取得した<ref>{{Cite news |title=Vladimir Putin’s Chess-Master Nemesis |url=https://www.nytimes.com/2014/08/10/magazine/garry-kasparov.html |work=The New York Times |date=2014-08-06 |access-date=2022-12-27 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Steven Lee |last=Myers}}</ref>。家族は妻のダーシャと息子のヴァディム<ref name="kettei" />。
[[File:Kasparov-2.jpg|thumb|right|140px|11歳のカスパロフ。1974年]]
[[File:Garry Kasparov 1980 Malta.jpg|thumb|right|140px|1980年]]
[[File:Garry Kasparov 1980 Dortmund.jpg|thumb|right|140px|1980年、ジュニア世界チャンピオンになった。]]
[[File:Kasparov-12.jpg|thumb|right|140px|1985年。世界チャンピオン決定戦。相手は[[アナトリー・カルポフ]]。]]
[[File:Kasparov-1.jpg|thumb|right|140px|1985年、カルポフを制しFIDE世界チャンピオンになった。]]
== チェス界での来歴 ==
史上最年少の22歳で世界チャンピオンの座を奪取したことに始まり、15年もの間世界チャンピオンのタイトルを保持しつづけた(FIDE:[[1985年|1985]] - [[1993年|1993]], PCA:1993 - [[2000年|2000]])。[[FIDE世界ランキング]]最高位は1位(1984年1月)で、通算255カ月の世界ランキング1位は史上最長である。FIDE発表のレーティングの最高値は2851(1999年7月、2000年1月)で、これは[[マグヌス・カールセン]]が2013年1月に更新するまで、13年間にわたってFIDEレーティングの最高値であった。また22歳6ヶ月での王者も2013年現在更新されていない。
カスパロフは1973年、10歳の時に[[ミハイル・ボトヴィニク]]が主宰するチェスの学校に入り<ref name="kettei" />、チェスプレーヤーとしての英才教育を受けた。カスパロフから見て恩師・校長にあたるボトヴィニクは、ソ連出身のチェス世界チャンピオンの第1号で、複数回のチャンピオンになった経歴だけでなく、[[工学者]]でもあったため、プロの世界を離れた後は後進の指導やコンピュータチェスに専念していたのである<ref name="kettei" />(このチェスの学校は1980年代後半には、ボトヴィニクとカスパロフが共同で運営する学校になった<ref name="kettei" />。ボトヴィニクのチェス学校は、カスパロフ以外にも[[アナトリー・カルポフ]]や[[ウラジーミル・クラムニク]]などの世界チャンピオンが輩出することになった<ref name="kettei" />)。
[[1978年]]にはソコルスキー記念トーナメントで1位となり、[[グランドマスター]]となった。[[1980年]]には[[世界ジュニアチェス選手権]]で優勝し、第19回ジュニア世界チャンピオンとなるなど、10代からすでに将来有望な若手として有名であった<ref name="kettei" />。
[[1984年]]には21歳で初めてチェス世界選手権に出場、初出場にして勝ち進み、10年ほど世界チャンピオンのタイトルを保持するアナトリー・カルポフに挑戦することになった<ref name="kettei" />。
この試合は(も)チェス史に残るものであり、その激闘ぶりと異例の展開はしばしばチェス界では語られている。記録としては48局で5勝3敗40引き分けのまま、当時の[[世界チェス連盟]]会長カンポマネスの判断により中止とされ、無勝負となったのであり、その経過は次のようなものである。もともと「6局先勝、局数無制限」という条件での試合であった。最初はカルポフが4局連勝した<ref name="kettei" />。そこでカスパロフは反省し、戦略を改めた<ref name="kettei" />。同時に相手のチャンピオンのカルポフにも様々な思惑が生まれておりプレーのしかたに変化が生じた<ref name="kettei" />。その次は驚くことに17局連続で引き分けとなった<ref name="kettei" />。第27局でカスパロフが落とし5-0、22引き分けとなった<ref name="kettei" />。やがて試合は3か月目に突入した<ref name="kettei" />。若きカスパロフは第32局で初勝利し攻勢に転じた<ref name="kettei" />。その後5週間にわたり引き分けが続いたが、カスパロフ側のほうが攻め調子であった<ref name="kettei" />。世界中のチェスファンはこの試合に終わりがあるのか?と疑問を感じ始めていた<ref name="kettei" />。大会運営側はさすがにプレーヤーに休息が必要だと判断し、試合中でありながらゲームが数日間休みになった<ref name="kettei" />。これは異例の決定であった<ref name="kettei" />。休み明けの第48局にカスパロフは勝利し5-3と迫り、明らかに勢いはカスパロフ側にあった<ref name="kettei" />。この時[[国際チェス連盟]](FIDE)の[[フロレンシオ・カンポマネス]]会長に対してソ連スポーツ省から圧力がかかり<ref name="kettei" />、1985年2月15日、同会長は記者会見を開き、対戦を中止すると発表した<ref name="kettei" />。試合は5か月に及んでいたにもかかわらず、結局勝者が無いままに終わりを迎えたのである<ref name="kettei" />。6か月後に再戦と決められた<ref name="kettei" />。
[[1985年]]の再戦では、第一局からカスパロフが勝利<ref name="kettei" />。カスパロフはアナトリー・カルポフを破り(当時の)史上最年少世界チャンピオンとなった<ref name="kettei" />。その後15年間チャンピオンのタイトルを守り続けたのである<ref name="kettei" />。
== ディープ・ブルーとの対局 ==
{{Main|ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ}}
カスパロフは史上最強の人間チェスプレーヤー、いわば「人類の代表」として選ばれ、[[IBM]]が開発したチェス専用コンピュータ[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]と対戦した人物の代表としても知られている。1989年にはディープ・ブルーの前身で[[カーネギーメロン大学]]が開発した[[ディープ・ソート]]に2勝していた<ref>The Center's Role in National Security Policy". Archived from the original on 7 August 2007.</ref>。
[[1996年]]に対戦した際は、カスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利した。「人類の頭脳は最強のコンピュータに勝利した」と報道された。
翌[[1997年]]にも対戦が行われた。結果は1勝2敗3引き分け。僅差であったが「コンピュータが世界王者のカスパロフに勝利した」と報道された。
カスパロフは再戦を望んだが、IBM側はプロジェクトを終了させてしまい、結局再戦は行われることはなかった。1996年と1997年を通しての戦績はほぼ互角であり、どちらが強いのかはっきりと判断できるものではなかった。だが「コンピュータがチェスの世界王者に勝利した」とニュースは流れ、大きな話題となった。
== カスパロフとコンピュータ ==
そもそも、カスパロフの師匠にあたる、チェス世界チャンピオンにして工学者の[[ミハイル・ボトヴィニク]]がコンピュータチェスの推進者である<ref name="kettei" />。カスパロフ自身も[[コンピュータチェス]]の黎明期から、局面分析にデータベースを利用していた。
2003年に行なわれた、ディープ・ジュニアとのマッチは1勝1敗4引き分け、{{仮リンク|X3D Fritz|en|X3D Fritz|label={{lang|en|X3D Fritz}}}}とのマッチでは1勝1敗2引き分けと、現役中はその時最強のチェスソフトとの公開対局を続けていた。
カスパロフは人間とコンピュータがペアを組み、そのペア同士が対局する[[アドバンスト・チェス]]という[[変則チェス]]も考案した。
上記のごとく、もともとコンピュータと縁があり、現役中は[[アタリ (企業)|アタリ]]社がスポンサーに付いたこともある。さらに近年では[[ウォークラフト]]をプレイしていると著書で明かしている<ref name="kettei" />。偶然だが、自分の弟子である[[ウラジーミル・クラムニク]]に勝利した[[フリッツ (チェス)|ディープ・フリッツ]]の開発会社の立ち上げにも係わっていた。
[[2014年]][[11月26日]]、[[ドワンゴ]]は[[ニコニコ動画]]で、カスパロフが[[将棋]][[将棋電王戦|電王戦FINAL]]の[[振り駒]]を行うと発表した<ref>[https://www.nicovideo.jp/watch/1416964812 「将棋電王戦FINAL」振り駒(ガルリ・カスパロフ)] - ニコニコ動画</ref>。カスパロフは電王戦の企画が初来日となった。振り駒の結果、五番勝負で人間([[斎藤慎太郎]]五段)が第一局の先手に決まった<ref>[[歩兵_(将棋)|歩兵]]が多ければ人間、と金が多ければコンピュータの先手(振り歩先。つまりカスパロフは人間側として振り駒をした)で、以降先後入れ替えで対局。歩兵3、と金2だった。</ref>。また、[[11月28日]]に将棋の[[羽生善治]]<ref>羽生は日本有数のチェス選手でもある。[http://ratings.fide.com/card.phtml?event=7000537 Habu, Yoshiharu FIDE Chess Profile - Players Arbiters Trainers] - [[国際チェス連盟]]{{en icon}}</ref>[[棋士 (将棋)|棋士]]・四冠とチェス対局を行うことも発表された<ref>[http://ex.nicovideo.jp/denou/chess/ 電王戦スペシャルチェスマッチ ガルリ・カスパロフ vs 羽生善治 | ニコニコ動画] - ニコニコ動画</ref>。先手、後手を入れ替える二番勝負で、結果はカスパロフが2連勝した<ref>[https://megalodon.jp/2014-1128-1730-29/www3.nhk.or.jp/news/html/20141128/k10013563481000.html 羽生四冠 チェス元世界王者に敗れる 11月28日 14時44分] - [[日本放送協会]]([[ウェブ魚拓]]による保存)</ref><ref>[http://ex.nicovideo.jp/denou/chess/ 電王戦スペシャルチェス対局]</ref>。
== プレースタイル、トレーニング方法 ==
ダイナミックな展開を好み、終盤については序盤や中盤ほど得意ではないと、自らを分析している<ref name="kettei" />。また攻撃的ではあるが、セコンドと協議するだけでなく、データベースソフトで相手の棋風をチェックするなど、準備に余念がなかった。体調面に関しても、運動選手のように食事管理なども受けるなど、当時としては先進的なトレーニング方法を実行していた。
== 政治活動 ==
カスパロフは[[1984年]]から[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]党員でもあり、[[1987年]]に[[コムソモール]]の中央委員に選ばれたが、[[1990年]]に党を抜けた。チェス選手引退後は、政治活動の世界に身を投じ、[[ロシア]]の[[民主化]]を推進する政治家として活躍。反[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]陣営の政治家として活動している。
2004年1月に「2008年委員会 - 自由選択」を共同で設立し、その委員会の議長になった。この委員会は[[自由主義]]のメディアの人々によるもので(政治家によるものではなく)、2008年に公正な大統領選挙を実現することを目的としていた<ref name="kettei" />。
2004年12月に[[全ロシア市民会議]]が発足し、カスパロフはその共同議長に選ばれた<ref name="kettei" />。プーチンに対抗するための団結の基盤として構想されたこの市民会議は、期待通りにはいかなかった<ref name="kettei" />とカスパロフは語る。各勢力は以前からの内戦意識を捨てきれず、かつての敵と手を組むことができず溝が埋まらなかったという<ref name="kettei" />。
振り返ってみれば2004年、[[クレムリン]]の圧制に対抗していた勢力は悲惨な状況にあった<ref name="kettei" />という。このゲーム(政治)では、対戦相手がルールを頻繁に、自分の有利になるように勝手に変更する<ref name="kettei" />という。そのような予測不能で不公平な戦いでも、優れた戦略があれば努力しだいで望みは出てくるはず<ref name="kettei" />と考え、戦略を練ったという。そうこうしているうちに、ふたつのことが明らかになったという<ref name="kettei" />。ひとつは、プーチンの[[弾圧]]に反対する組織は存続を許されないこと、だという。ふたつめは、プーチン政権に対抗する勢力の連合を築く必要性だったという<ref name="kettei" />。プーチンに反対する運動は小さなグループが乱立状態で統一的ではなかったという。共通の目的を見つける必要があり、共通点は、[[民主主義]]こそがロシア人を救う唯一の手段という認識だという<ref name="kettei" />。もし、公正な[[選挙]]で[[ロシア連邦大統領|大統領]]を選ぶことができるならば、[[警察国家]]へ逆行させるようなプーチンの試みは却下されるだろう<ref name="kettei" />、とカスパロフは著書で述べた。
2005年3月チェスのプロの世界から引退し、政治の最前線で活動できるようになった<ref name="kettei" />。この段階で最大の障壁は、[[ロシア連邦政府|政府]]の許可が無ければ[[テレビ]]という媒体が利用できないことだったという<ref name="kettei" />。そこで新たに設立されたのが{{lang|ru|Объединённый гражданский фронт}}({{仮リンク|統一市民戦線|en|United Civil Front}})という組織である<ref name="kettei" />とカスパロフは言う。「統一市民戦線」の旗をかかげてカスパロフは、東は[[ウラジオストク]]から西は[[カリーニングラード]]までロシアを旅し、統一市民戦線のメッセージを広め、なぜロシアでは地方が[[貧困|貧しく]]、中央のエリートが裕福なのかを演説してまわった<ref name="kettei" />という。次のように語ることが大切だったという。「まだ手遅れではないから、団結して[[市民]]としての[[権利]]と[[民主主義]]のために闘おう。それらだけが、低下した生活水準を向上させるのだから<ref name="kettei" />。」と。
2006年夏には、[[サンクトペテルブルク]]で[[サミット]]が開かれ、自由主義世界の指導者やメディアがロシアに集結することになっていたので、民主化を求める人々にとっては、団結し世界に向けてメッセージを発信する絶好の機会であった<ref name="kettei" />。そこでカスパロフらはモスクワにおいて、ある国際会議を組織することにした<ref name="kettei" />。そして国際的なメディア、およびクレムリンのすぐそばで民主主義を強くとなえることを恐れない講演者も世界中から招待したという<ref name="kettei" />。[[全ロシア市民会議]]の共同議長たちとカスパロフは、数え切れないほどの招待状を書き、支持を呼びかけたという<ref name="kettei" />。多くの著名人が支持を表明してくれたという<ref name="kettei" />。だが、[[G8]]各国の政権の反応は無かったという。カスパロフらは、この国際会議を「もうひとつのロシア会議」と名づけ、プーチンが見せようとしている “安定した民主主義国ロシア” というのは現実のものではなく、にせものだと世界に訴えたという<ref name="kettei" />。
[[ファイル:Garri kasparow 20070318.jpg|thumb|right|200px|2007年3月18日]]
[[2006年]]にはロシアでは政治の混乱が続き、[[ジャーナリスト]]の[[アンナ・ポリトコフスカヤ]]がプーチンの[[誕生日]]に射殺され<ref name="kettei" />、クレムリンを批判していた[[アレクサンドル・リトヴィネンコ]]が、まもなく[[放射性物質]]で毒殺されるという事件が起きた<ref name="kettei" />。これに伴い、[[独裁政治]]に反対する運動の中でのカスパロフの役割も注目を集めた<ref name="kettei" />。
このような状況で、自分の新たかつ重要な政治上の課題は、反プーチン勢力に活気を与える戦略を開発することだったという<ref name="kettei" />。この政治的状況は、チェスの試合に喩えれば、自分の陣営がどの手順においても[[詰み|チェックメイト(詰み)]]の危機に瀕しているのを目の当たりにしているようなものだ<ref name="kettei" />、という。
カスパロフがこの活動において大きな進歩を遂げたと感じ始めたのは、事あるごとにプーチン政権からいやがらせを受けるようになってからだという(相手がこちらを無視できない存在だと認めたことになるためである。独裁政権がいやがらせをする、ということは、民主化運動の成功のひとつの尺度ともなりうる<ref name="kettei" />。)。その意味で「2006年12月16日に行われた[[モスクワ]]での[[デモ活動|デモ行進]]の数日前に、統一市民戦線の事務局が治安部隊に襲撃されたことは誇りにしていい。」と述べた<ref name="kettei" />。
[[File:MarchNesoglas09juneSpB1.jpg|thumb|right|200px|2007年6月9日、サンクトペテルブルクにて]]
[[File:Первый первомайский митинг Солидарности (38).JPG|thumb|right|160px|2010年7月15日]]
2007年4月には、モスクワの反政府デモに参加して、当局に[[逮捕]]された<ref name="kettei" />。これは全世界で報道された<ref name="kettei" />。
2007年9月には、カスパロフは改革派野党「[[もう一つのロシア]]」の党内予備選で、2008年のロシア大統領選の候補者に選ばれた<ref name="kettei" /><ref>{{Cite web|和書|title=元チェス世界王者のカスパロフ氏、ロシア大統領選候補に |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2291500 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-09-06 |language=ja |date=2007年10月1日}}</ref>。
[[ウォールストリート・ジャーナル]]紙に世界情勢に関するコラムを寄稿している<ref name="kettei" />。
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「{{要出典範囲|[[国家ボリシェヴィキ党]]など、一般的に[[過激派]]と呼ばれることのある勢力とも「共闘」を行っている、とか、意図的に無許可デモ等の軽微な違法行為を行い逮捕されることで「当局に弾圧される活動家」を演出している|date=2011年3月}}」と言われることがあったと言い{{いつ|date=2011年3月}}、批判をする人がいる{{誰|date=2011年3月}}。-->
2008年、「[[連帯 (ロシア)|連帯]]」の創設者のひとりとなった。
2010年3月10日、「プーチンは去れ」に署名。
2012年8月17日、教会でプーチン大統領に対する抗議活動を行った[[プッシー・ライオット#判決|プッシー・ライオット]]のメンバーに判決が出た裁判所近くで逮捕され、裁判所に拘留された。モスクワの警察はカスパロフが警察官を噛んだと主張していた<ref>{{Cite web |title=Гарри Каспаров даст показания по факту укуса полицейского |url=https://www.kommersant.ru/doc/2005013 |website=www.kommersant.ru |date=2012-08-18 |access-date=2022-09-05 |language=ru}}</ref>が、カスパロフは否定。警察は逮捕中にカスパロフを殴打しており、警察犬が噛んだ可能性を示唆した。警察は「カスパロフの歯と警察犬の歯を比較検討する」構えを見せていたが、同月24日、判事はカスパロフの行動に行政違反がなかったことを理由に「警察官への不服従」についての刑事訴訟を終結させた<ref>{{Cite web |title=Суд оправдал Гарри Каспарова, обвиняемого в нарушении порядка собраний |url=https://ria.ru/20120824/730068234.html |website=РИА Новости |date=2012-08-24 |access-date=2022-09-05 |language=ru |first=Р. И. А. |last=Новости}}</ref>。
2013年、人権団体{{仮リンク|UN Watch|en|UN Watch}}より、モリス・B・アブラム人権賞を受賞した<ref>{{Cite web |title=Press Release |url=https://web.archive.org/web/20131216090902/http://www.unwatch.org/cms.asp?id=3936405&campaign_id=65378 |website=web.archive.org |access-date=2022-09-05}}</ref>。同年6月の記者会見で、ロシアに帰国したら再び出国できるか深刻な疑いがあるため、当面は帰国を控えると発言した<ref>{{Cite news|title=My Fight for Russia Goes On: Garry Kasparov Declares|url=https://www.thedailybeast.com/articles/2013/06/20/my-fight-for-russia-goes-on-garry-kasparov-declares|work=The Daily Beast|date=2013-06-20|access-date=2022-09-05|language=en|first=Garry|last=Kasparov}}</ref>。巨額横領事件を告発したロシアの弁護士[[セルゲイ・マグニツキー]]が2009年に[[獄死|獄中死]]した件について、ロシア政府関係者の処罰(アメリカへの渡航・アメリカの銀行システムの利用を禁止)する[[マグニツキー法]]が成立したことに対するプーチン大統領の怒りに言及し、ロシア国内の反体制派への報復の可能性があるためであるとしている。
== 2022年ロシアのウクライナ侵攻に関する発言 ==
カスパロフは、2015年の著書「Winter Is Coming」でロシアのウクライナ侵攻を予測し、警告していた。
「ウクライナ戦争は遠い国の出来事であり、世界の不安定化を引き起こすことはないと言う人々は、プーチンの明確な警告を無視している。彼が発表した『[[ルースキー・ミール]]』の構想が、ウクライナ東部への侵攻で終わるとは思えないが、これが始まりに過ぎないと確信する理由は十分にある。もしプーチンが勝利から勝利へと進み、国内で反対勢力を排除し、国外で領土と影響力を握ることができれば、全面戦争のリスクは劇的に高まる。[[アドルフ・ヒトラー]]が1939年にポーランドを攻撃したのは、連合国がチェコスロバキアの防衛に立ち上がったからではなく、まさにそうしなかったからだ」<ref>{{Cite web |title=Cutremurător! Ce spunea marele șahist Garry Kasparov despre Vladimir Putin în 2015 |url=https://www.sport.ro/sporturi/cutremurator-ce-spunea-marele-sahist-garry-kasparov-despre-vladimir-putin-in-2015.html |website=Sport.ro |access-date=2022-06-28 |language=ro |date=2022年5月4日}}</ref>
2022年2月24日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアがウクライナに侵攻]]するとこのようにコメントした。
「2014年にプーチンが[[ロシアによるクリミアの併合|クリミア併合]]をした後、西側諸国はロシアと貿易を行ってきた。腐敗した取引でプーチンやその友人が儲けた金が、今日、民間人を虐殺するための軍隊となったのだ。今度はあなたがウクライナを助け、あなたが作ったモンスターに反撃してください」「プーチンは、自由世界から餌を与えられた蛇だ。今また、彼は悪と戦争から手を引くことはないと証明している。[[経済制裁]]で止めるしかないでしょう。ウクライナの勝利」<ref>{{Cite web |title=Garry Kasparov: Putin dünyanın beslediği yılandır |url=https://www.aksam.com.tr/spor/garry-kasparov-putin-dunyanin-besledigi-yilandir/haber-1246241 |website=aksam.com.tr |access-date=2022-06-28 |date=2022年2月25日}}</ref>
同年5月5日、イベントで訪れた[[ブカレスト]]で[[ルーマニア・テレビ]]のインタビューに答えた。ウクライナ情勢に責任がある世界の指導者として[[バラク・オバマ]]元米大統領と[[アンゲラ・メルケル]]元ドイツ首相の名を挙げた。オバマ元大統領については、2012年の大統領選挙討論会で[[ミット・ロムニー]]が「ロシアは[[地政学]]的な敵である」と言ったのを「これは過去に任せなさい、もう冷戦ではない、カレンダーもチェックしなさい、我々は『80年代』にはいない」と笑い、以来、多くの元首相・外相・ビジネスリーダー・個人が、プーチンが戦争犯罪者であった事実を無視してビジネスをしたとしている。メルケル元首相については、ヨーロッパをロシアのガスに依存させることを助けるためにあらゆることを行い、ヨーロッパが他の供給源を見つけることを妨げた責任であるという<ref>{{Cite web |title=Cei doi foști mari lideri pe care Garry Kasparov îi consideră ”responsabili” pentru acțiunile lui Vladimir Putin |url=https://www.digisport.ro/special/cei-doi-fosti-mari-lideri-pe-care-garry-kasparov-ii-considera-responsabili-pentru-actiunile-lui-vladimir-putin-1667009 |website=www.digisport.ro |access-date=2022-06-28 |language=ro |date=2022-05-05}}</ref>。
同年8月31日、EUのボレル上級代表はプラハでの外相会議の後の記者会見で「ロシアとのビザ発給円滑化協定の完全停止で合意した」と述べた。7月中旬以降、ロシアから近隣諸国との国境通過が大幅に増加しており「近隣諸国にとって安全保障上のリスク」となっているほか、ロシアと国境を接する5ヶ国は全面禁止を求めていたという。しかし、フランス・ドイツなどの反対により全面禁止には至らなかった<ref>{{Cite news|title=EU、ロシアとのビザ発給円滑化を完全停止 全面禁止は合意できず|url=https://jp.reuters.com/article/uraine-crisis-borrell-idJPKBN2Q11LC|work=Reuters|date=2022-08-31|access-date=2022-09-06|language=ja}}</ref>。
これに対して、カスパロフは[[ヴィリニュス]]が主催した自由ロシア会議の終了後に[[ミハイル・ホドルコフスキー]]と記者会見し、「ロシア人がヨーロッパ人に倣うには、ヨーロッパでの生活がどのようになっているのかを知る必要がある」と話した。対案として、「ロシアによる戦争犯罪およびプーチン政権の違法性、およびウクライナの主権と領土保全を認める宣言」に「公の場で署名する」ことを条件に、EUへの入国を認めることを提案している<ref>{{Cite web |title=Șahistul Garry Kasparov contestă ultima decizie a UE! Europenii ar putea face jocurile lui Putin fără voie: „Avem nevoie de ei!” |url=https://www.sport.ro/stiri/sahistul-garry-kasparov-critica-ultima-decizie-a-ue-europenii-ar-putea-face-jocurile-rusie-fara-voie-zavem.html |website=Sport.ro |access-date=2022-09-06 |language=ro |date=2022-09-01}}</ref><ref>{{Cite web |title=Kasparov calls on EU to allow entry for Russians condemning regime, but not tourists |url=https://www.baltictimes.com/kasparov_calls_on_eu_to_allow_entry_for_russians_condemning_regime__but_not_tourists/ |website=www.baltictimes.com |access-date=2022-09-06 |date=2022-09-02}}</ref>。
== その他 ==
[[将棋世界]]の1999年8月号の企画で[[将棋]]を指したこともあり、一部の写真が公開されている<ref>[http://www.chessbase.de/nachrichten.asp?newsid=7305 Drittkarriere im Shogi für Garri Kasparow nach dem 2. März 2008?]</ref>。
== 年譜 ==
* [[1978年]] - ソコルスキー記念トーナメントで1位となり、[[グランドマスター]]となる。
* [[1980年]] - [[世界ジュニアチェス選手権]]で優勝し、第19回ジュニア世界チャンピオンとなる。
* [[1984年]] - 世界チャンピオン、[[アナトリー・カルポフ]]に挑戦。「6局先勝、局数無制限」という条件であったが、最初カルポフが勝っていたが徐々にカスパロフが攻勢に転じ、48局でカルポフの5勝40引き分け3敗となった時点で、[[世界チェス連盟]]会長カンポマネスが、当初の条件を変更し、中止と判断。無勝負となった。
* [[1985年]] - アナトリー・カルポフを破り史上最年少(当時)の世界チャンピオンとなる。翌年のリターンマッチでもカルポフを退けた。
* [[1993年]] - [[プロチェス協会]] (PCA) を設立、挑戦者ショートとともにPCAの下で選手権マッチを行なう。このため2人は[[国際チェス連盟]] (FIDE) のレイティングリストから削除され、FIDEは別のチャンピオンを選ぶマッチを行なった。
* [[1997年]] - [[IBM]]の[[スーパーコンピュータ]]「ディープ・ブルー」と対戦して敗れる。
* [[2000年]] - 弟子で新鋭のウラジーミル・クラムニクに敗れて、世界チャンピオンから転落。
* [[2003年]] - 通常のコンピュータで動作するチェスソフト「DEEP JUNIOR」と対戦し引き分ける。
* [[2005年]] - 「チェスの世界で現実的な目標が見えなくなった」という理由で引退。今後は公式試合には出場せず、エキシビションマッチなどの非公式な対局と執筆活動を行う予定。
* [[2007年]] - [[4月15日]]、反[[プーチン]]大統領デモに参加、身柄を拘束される。公共秩序を乱したとして罰金1000ルーブルを科せられて釈放された。
* 2007年 - [[10月1日]]、2008年の[[ロシア]]大統領選挙に出馬することを発表。
* 2007年 - [[11月24日]]、反プーチン大統領デモに参加。身柄を拘束される。拘禁5日が言い渡された。
* 2007年 - [[12月13日]]、ロシア大統領選挙出馬を断念。
* [[2009年]] - 9月、1984年に無勝負となったカルポフとの対戦を、12局限定のイベントとして行った<ref>[http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20090922023701a]</ref>。
[[File:Kasparov-42.jpg|thumb|right|200px|ガルリとクララ(Klara)。[[チューリッヒ]]にて。]]
[[File:Kasparov-35.jpg|thumb|right|160px|]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* ガルリ・カスパロフ『決定力を鍛える』NHK出版、2007年、[http://www.amazon.co.jp/dp/B009QW63CM/ ASIN:B009QW63CM]
== 関連文献 ==
* ブルース・パンドルフィーニ、鈴木知道 訳 『ディープブルー vs. カスパロフ』([[河出書房新社]]、1998年10月)ISBN 4309263534 -- 1996年の 6 ゲームマッチを一手一手解説
* ミハイル・コダルコフスキー、レオニド・シャンコヴィチ、高橋啓 訳 『人間対機械 - チェス世界チャンピオンとスーパーコンピューターの闘いの記録』([[毎日コミュニケーションズ]]、1998年4月)ISBN 4839900264 --- カスパロフのセコンドによる 1997年の対局の記録。
== 関連項目 ==
* [[もう一つのロシア]]
== 外部リンク ==
{{Wikiquotelang|en|Garry Kasparov}}
{{Commonscat|Garry Kasparov}}
* {{Chessgames player|15940}}
* Garry Kasparov, [http://www.opinionjournal.com/editorial/feature.html?id=110011031 "Man of the Year?"], ''[[OpinionJournal.com|OpinionJournal]]'', 23 December 2007
* [[Edward Winter (chess historian)|Edward Winter]], [http://www.chesshistory.com/winter/extra/fischerkasparov.html List of Books About Fischer and Kasparov]
* {{Twitter|Kasparov63}}
* {{facebook|KasparovHome|Garry Kasparov}}
* {{TED speaker}}
** {{TED talk|id=garry_kasparov_don_t_fear_intelligent_machines_work_with_them|title=ガルリ・カスパロフ「知性を持つ機械を恐れるな、協働せよ」|date=2017年4月|time=15分20秒}}
{{チェス世界チャンピオン|1985 - 1993年(公式世界チャンピオン), 1993年 - 2000年(クラシカル世界チャンピオン)}}
{{チェス世界ランキング1位}}
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[[Category:ガルリ・カスパロフ|*]]
[[Category:スポーツ選手出身の政治家]]
[[Category:ロシアのチェス選手]]
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お年玉
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お年玉(おとしだま、御年玉)は、新年を祝うために贈られる金品のこと。単に年玉(としだま)ともいう。現在では特に子供に金銭を与える習慣及びその金銭の意で用いられている。歳暮と異なり、目上の者が目下の者に贈るのが特徴。反対に、目下の者が目上の者に贈る場合はお年賀(御年賀)という。
お年玉の語源は、正月に歳神(年神)を迎えるために供えられた、丸い鏡餅(=歳神(年神)の霊魂が宿った依り代、歳神(年神)の象徴)が、家長によって子供に分け与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことから、とする説がある。つまり、その年を、1年間を、生きるために必要な、歳神(年神)の霊魂=生命を、子供に分け与えることで、(強い生命力には、魔=災厄を退ける力がある)、子供の無事な成長を願う、宗教的な意味がある。また、これを年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたことから、とする説もある。なお、「トシ」は「稲や稲の実り」を意味する語でもあり、歳神(年神)は豊穣神でもある。
お年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。
現代のように現金を渡すのが一般的になったのは、昭和30年代(1955年 - )以降だとされている。
これは、経済成長とともに農村社会が解体され都市生活者となり、稲(米)や餅を作らなくなった代わりだともされている。
また、昔は正月に子供に玩具を与えており、お金は玩具の代わり=玩具代だとする説もある。
または、この場合、お金が鏡餅と同じ意味・機能を果たしているとも考えられる。
例えるなら、稲(餅米)が昨年の収入、鏡餅が家産の集合体、お年玉(=砕いた鏡餅の断片)が家産からの財産分与、ということになる。
正月(旧正月)に子供に金銭などを与える風習はアジア諸国でも見られる。中国では貨幣に呪術的な力があると信じられていた。漢代以降には一種のお守りとして、子供に「圧勝銭(厭勝銭)」と呼ばれる貨幣を持たせる風習があった。また、清代に著された『燕京歳時記』には、北京に見られる風俗としてお年玉に関する記述がある。現代のお年玉は、この風習の延長線上にあるものと考えられている。
現代のお年玉は「圧歳銭」と呼ばれるが、これは中国語で「歳」と「祟」が同じ発音であり、年始に大人が子供に金銭などを与えることで子供を襲う祟りが抑えられ、その一年を平穏無事に過ごすことができるという民間信仰から来ている。また、中国や華僑の間では、大人が大人にお金を送る利是(励事、広東語:ライシー lai6si6)という風習がある。
韓国では歳拝金(朝鮮語 : 세뱃돈)と言うお年玉があるが年が上の者に拝む(土下座)(朝鮮語:세배)服従行為をする事を前提にお金が付与されるのである。
お年玉に類似のものとして、現代において帰省を行うお盆の時期に孫を持つ高齢者が孫に対する贈り物として普及している。初出は2010年とされ関東・甲信越地方を中心にお盆玉袋が販売された。2013年より郵便局が取扱を開始したことを期に全国の子供がもらえるようになった。
ある芸能事務所は、会社の社長が所属するタレントに配る、お年玉の経費を交際費として計上していたが、2022年、東京国税局は社長が会社の報酬から個人的に支出したもので経費には当たらないと判断して認めず、追徴課税を行った例がある。
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お年玉(おとしだま、御年玉)は、新年を祝うために贈られる金品のこと。単に年玉(としだま)ともいう。現在では特に子供に金銭を与える習慣及びその金銭の意で用いられている。歳暮と異なり、目上の者が目下の者に贈るのが特徴。反対に、目下の者が目上の者に贈る場合はお年賀(御年賀)という。
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[[File:New Year's money envelopes in Japan (1).jpg|thumb|日本のお年玉袋]]
'''お年玉'''(おとしだま、御年玉)は、[[新年]]を祝うために贈られる金品のこと。単に'''年玉'''(としだま)ともいう。現在では特に子供に[[金銭]]を与える習慣及びその金銭の意で用いられている。[[歳暮]]と異なり、目上の者が目下の者に贈るのが特徴<ref> 「年中行事事典」p538 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>。反対に、目下の者が目上の者に贈る場合は[[年賀|お年賀]](御年賀)という。
== 概要 ==
お年玉の語源は、[[正月]]に[[歳神]](年神)を迎えるために供えられた、丸い[[鏡餅]](=歳神(年神)の霊魂が宿った依り代、歳神(年神)の象徴)が、家長によって子供に分け与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことから、とする説がある。つまり、その年を、1年間を、生きるために必要な、歳神(年神)の霊魂=生命を、子供に分け与えることで、(強い生命力には、魔=災厄を退ける力がある)、子供の無事な成長を願う、宗教的な意味がある。また、これを年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたことから、とする説もある。なお、「トシ」は「稲や稲の実り」を意味する語でもあり、歳神(年神)は豊穣神でもある。
お年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は[[丸薬]]を贈った。
現代のように現金を渡すのが一般的になったのは、[[昭和]]30年代([[1955年]] - )以降だとされている。
これは、経済成長とともに農村社会が解体され都市生活者となり、稲(米)や餅を作らなくなった代わりだともされている。
また、昔は正月に子供に玩具を与えており、お金は玩具の代わり=玩具代だとする説もある。
または、この場合、お金が鏡餅と同じ意味・機能を果たしているとも考えられる。
例えるなら、稲(餅米)が昨年の収入、鏡餅が家産の集合体、お年玉(=砕いた鏡餅の断片)が家産からの財産分与、ということになる。
== 日本国以外のお年玉 ==
[[画像:New Year's money 20140130.jpg|right|140px|thumb|「[[:zh:壓歲錢|圧歳銭]]」:中国のお年玉]]
正月([[旧正月]])に子供に金銭などを与える[[風習]]は[[アジア]]諸国でも見られる。中国では貨幣に呪術的な力があると信じられていた<ref name="Yamamoto">高橋登・山本登志也(編)「おこづかい研究と差の文化心理学」『子どもとお金:おこづかいの文化発達心理学』 東京大学出版会 2016年、ISBN 978-4-13-051334-0 pp.247-250.</ref>。[[漢代]]以降には一種の[[お守り]]として、子供に「圧勝銭([[厭勝銭]])」と呼ばれる貨幣を持たせる風習があった。また、[[清代]]に著された『燕京歳時記』には、北京に見られる風俗としてお年玉に関する記述がある。現代のお年玉は、この風習の延長線上にあるものと考えられている<ref name="Yamamoto"/>。
現代のお年玉は「[[:zh:壓歲錢|圧歳銭]]」と呼ばれるが、これは中国語で「歳」と「祟」が同じ発音であり、年始に大人が子供に金銭などを与えることで子供を襲う祟りが抑えられ、その一年を平穏無事に過ごすことができるという[[民間信仰]]から来ている。また、[[中国]]や[[華僑]]の間では、大人が大人にお金を送る[[:zh:利是|利是]](励事、広東語:ライシー lai6si6)という風習がある。
韓国では歳拝金(朝鮮語 : 세뱃돈)と言うお年玉があるが年が上の者に拝む(土下座)(朝鮮語:세배)服従行為をする事を前提にお金が付与されるのである。
== お盆玉 ==
お年玉に類似のものとして、現代において帰省を行う[[お盆]]の時期に孫を持つ高齢者が孫に対する贈り物として普及している。初出は[[2010年]]とされ関東・甲信越地方を中心にお盆玉袋が販売された。[[2013年]]より郵便局が取扱を開始したことを期に全国の子供がもらえるようになった。
== 税制 ==
ある[[芸能事務所]]は、会社の社長が所属する[[タレント]]に配る、お年玉の経費を[[交際費]]として計上していたが、[[2022年]]、[[東京国税局]]は社長が会社の報酬から個人的に支出したもので経費には当たらないと判断して認めず、[[追徴課税]]を行った例がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221227/k10013936141000.html |title=事務所「お年玉」を経費に計上 4000万円追徴課税 |publisher=NHK |date=2022-12-27 |accessdate=2022-12-28}}</ref>。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[お年玉袋]]
* [[お年玉付郵便はがき]]
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14,233 |
常識
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常識(じょうしき、英語: common sense)は、社会的に当たり前と思われる行為、その他物事のこと。社会通念ともいう。対義語は非常識(ひじょうしき)。
いったん物事が常識として受け入れられれば、その物事は異議を差し挟まれにくくなる。そのため、常識の内実はしばしば大きな政治的価値を持つ。常識は、メディアを通じて変じることがある。常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは文化摩擦などとして表面化することもある。アルベルト・アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。」と、常識は真理とは違うと指摘している。
常識の概念はアリストテレスの『霊魂論』に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησις コイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communis センスス・コムニス)の概念に由来する。
アリストテレスは五感に共通して付帯する感覚があり、それぞれの感覚を同一の対象の感覚として統合するものとして共通感覚と呼んだ。具体的には、感覚の間の比較、関係付け、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがこの共通感覚に由来すると考えられた。
ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。特に、それを受けて、キケロに代表される修辞学の伝統においては、この意味における Sensus Communis が重視された。
13世紀のトマス・アクィナスはアリストテレスの意味での共通感覚の規定を受け継いで、彼自身の認識論をより詳細に展開させ、スコラ哲学はそれを受け継いだ。
17世紀のヴィーコやシャフツベリ伯によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。
イギリス経験論、及びスコットランド常識学派において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。トマス・リードはその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロの Sensus Communis を引用している。彼らはデイヴィッド・ヒュームのように疑わなくても、「2+2は4だろ、だれも証明したわけではないが、みなそれが正しいと思う。それがコモン・センス。美しいものを見て美しいと思うのも、善悪を判断できるのもコモン・センス・それで判断すればいい」と主張した。
カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚 ( Gemeinsinn )」という意味合いで規定され、感性的(美的)なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
歴史的には、トマス・ペインのパンフレットコモン・センスが共和主義的アジテーションにおいて常識の概念を中核に据えたことが有名である。
「コモン・センス」の訳に「識」を使ったことなどから、なだいなだは井上円了あたりの仏教徒だろうと考えられている。
小林秀雄は『常識について』を書いているが、前田陽一が戒めていた「ボン・サンス」(Bon sens「良識」で「賢い判断」位の意味)と「コモン・センス」(小林がフランス語で「サン・コマン」としているのは「サンス・コマン」(Sens commun)の間違い)を混同している。
系統的な文献レビューは、こうした常識を打ち破ることができる。
常識は特定の社会の成員が共有し、前提として疑わない認識のことであるから、特定の社会に限定されない普遍性を条件とする真理とは時として相違する。哲学者の三木清によれば、常識の上位概念として良識(りょうしき)があるという。彼によれば常識人が常識を無謬のものとして受容し、常識を盾にして非常識を断罪するのに対し、常識に疑問を持てる知恵が良識なのである。
三木清と同じく京都学派の西田左派として知られる戸坂潤は次のように述べ、常識は社会の平均的認識のことではなく、標準的認識という意味での規範的性格を持つと主張した。
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'''常識'''(じょうしき、{{Lang-en|common sense}})は、社会的に当たり前と思われる行為、その他物事のこと。[[社会通念]]ともいう<ref>{{Cite web|和書|title=社会通念とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%80%9A%E5%BF%B5-524598|website=コトバンク|accessdate=2020-12-20|language=ja|first=デジタル大辞泉,精選版|last=日本国語大辞典}}</ref>。[[対義語]]は'''非常識'''(ひじょうしき)。
いったん物事が常識として受け入れられれば、その物事は異議を差し挟まれにくくなる。そのため、常識の内実はしばしば大きな政治的価値を持つ。常識は、[[メディア (媒体)|メディア]]を通じて変じることがある。常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは[[文化摩擦]]などとして表面化することもある。[[アルベルト・アインシュタイン]]は、「常識とは、18歳までに身に付けた[[偏見]]のコレクションである。」と、常識は真理とは違うと指摘している。
== 概念史 ==
常識の概念は[[アリストテレス]]の『[[霊魂論]]』に見える[[共通感覚]]([[ギリシャ語|希]]:{{lang|el|κοινή αἴσθησις}} {{small|コイネー・アイステーシス}}、[[ラテン語|羅]]:Sensus Communis {{small|センスス・コムニス}})の概念に由来する。
アリストテレスは五感に共通して付帯する感覚があり、それぞれの感覚を同一の対象の感覚として統合するものとして共通感覚と呼んだ。具体的には、感覚の間の比較、関係付け、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがこの共通感覚に由来すると考えられた。
ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いた[[ストア派]]から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。特に、それを受けて、[[キケロ]]に代表される修辞学の伝統においては、この意味における Sensus Communis が重視された。
13世紀の[[トマス・アクィナス]]はアリストテレスの意味での共通感覚の規定を受け継いで、彼自身の認識論をより詳細に展開させ、スコラ哲学はそれを受け継いだ。
17世紀の[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ|ヴィーコ]]や[[アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯]]によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。
イギリス経験論、及び[[スコットランド常識学派]]において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。[[トマス・リード]]はその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロの Sensus Communis を引用している。彼らは[[デイヴィッド・ヒューム]]のように疑わなくても、「2+2は4だろ、だれも証明したわけではないが、みなそれが正しいと思う。それがコモン・センス。美しいものを見て美しいと思うのも、善悪を判断できるのもコモン・センス・それで判断すればいい」と主張した<ref name="nada">[[なだいなだ]]『常識哲学』([[筑摩書房]] [[2014年]])。</ref>。
[[カント]]においては Sensus Communis は「共同体感覚 ( Gemeinsinn )」という意味合いで規定され、感性的(美的)なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
歴史的には、[[トマス・ペイン]]のパンフレット[[コモン・センス]]が[[共和主義]]的アジテーションにおいて常識の概念を中核に据えたことが有名である。
「コモン・センス」の訳に「識」を使ったことなどから、[[なだいなだ]]は[[井上円了]]あたりの仏教徒だろうと考えられている。
[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]は『常識について』を書いているが、[[前田陽一]]が戒めていた「[[ボン・サンス]]」(Bon sens「良識」で「賢い判断」位の意味)と「コモン・センス」(小林がフランス語で「サン・コマン」としているのは「サンス・コマン」(Sens commun)の間違い)を混同している<ref name="nada">[[なだいなだ]]『常識哲学』([[筑摩書房]] [[2014年]])。</ref>。
系統的な文献レビューは、こうした常識を打ち破ることができる<ref>{{Cite journal|last=Kitchenham|first=Barbara|last2=Pearl Brereton|first2=O.|last3=Budgen|first3=David|last4=Turner|first4=Mark|last5=Bailey|first5=John|last6=Linkman|first6=Stephen|date=2009-01-01|title=Systematic literature reviews in software engineering – A systematic literature review|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0950584908001390|journal=Information and Software Technology|volume=51|issue=1|pages=7–15|language=en|doi=10.1016/j.infsof.2008.09.009|issn=0950-5849}}</ref>。
== 常識と真理 ==
常識は特定の社会の成員が共有し、前提として疑わない認識のことであるから、特定の社会に限定されない普遍性を条件とする真理とは時として相違する。[[哲学]]者の[[三木清]]によれば、常識の上位概念として'''良識'''(りょうしき)があるという。彼によれば常識人が常識を無謬のものとして受容し、常識を盾にして非常識を断罪するのに対し、常識に疑問を持てる知恵が良識なのである。{{quotation|かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの社会にそれぞれの常識がある。しかし他方、あらゆる人間に共通な、人類的な常識というものが考えられる。それは前の意味における常識と区別して特に「良識」と称することができる。例えば、「全体は部分よりも大きい」というのは常識である。それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもっている。それは知性の自然的な感覚に属している。|三木清『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/43023_26592.html 哲学入門]』}}
== 常識の規範的性格 ==
三木清と同じく京都学派の西田左派として知られる[[戸坂潤]]は次のように述べ、常識は社会の平均的認識のことではなく、標準的認識という意味での規範的性格を持つと主張した。
{{quotation|今この矛盾を解くためには、この平均値という観念の謎を解く必要がある。と云うのは、この平均値を正直に単純に社会に於ける各個人の量質的な総和平均のことだと考えていては之は解けない。それが平均値であるが故に(どういう根拠だか判らないが)おのずから標準的なものであり、又理想的なものだというのでなくてはならない。リード的常識の常識的態度は恰も、之を健全という標準又は理想で以て云い表わしたのであった(bon sens という常識概念も亦、こうした標準又は理想をひそかに想定している)。健全とは無論、病気と健康との総平均などではなくて、各人の健康状態の標準であり又理想のことなのである。それにも拘らず健全さは人間健康のノルマルな常態だと考えられる。この間の消息は、健康の保持(不健康疲労物質の新陳代謝と健康恢復)というものが伝えている。即ちたえず健康を引き上げ健康さを発達させることが、人間の平均的な従ってノルマルで通常の健康状態と考えられるわけである。|戸坂潤「[https://web.archive.org/web/20100630195520/http://www.geocities.jp/pfeiles/B2/B2_3A.HTML#D1S3 三 「常識」の分析]」『日本イデオロギー論』}}
== 参考文献 ==
* [[アリストテレス]]『魂について』(霊魂論とも訳される)
* [[イマヌエル・カント]]『判断力批判』
* {{Cite book|和書
|author = [[中村雄二郎]]
|title = [[共通感覚論]] : 知の組みかえのために
|year = 1979
|publisher = [[岩波書店]]
|series = 岩波現代選書
|id = {{全国書誌番号|79022894}}
|isbn =
|oclc = 21570716
|page =
}} - 中村のアリストテレス理解、および後年の常識概念との断絶を強調したことには批判もある{{誰|date=2014年7月24日 (木) 03:55 (UTC)}}。
* 橋本摂子「ハンナ・アーレントにおける共通感覚論をめぐって」 [http://www14.ocn.ne.jp/~sthsmt66/papers.html 一覧] {{Wayback|url=http://www14.ocn.ne.jp/~sthsmt66/zpdf/2007_kantou_rejume.pdf |title=PDF |date=20120121161506}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
<!-- {{Commonscat|Common sense}} -->
* [[不文律]]
* [[場の空気]]
* [[共同幻想]]
* [[構成主義]]
* [[知識社会学]]
* [[スコットランド常識学派]]
* [[プラグマティズム]]
* [[アストロターフィング]]
* [[同調圧力]]
* [[習慣]]
* [[規範]]
* [[規範意識]]
* [[社会通念]]
* [[衆人に訴える論証]]、[[伝統に訴える論証]]
* [[深瀬基寛]] - 常識を「共通感覚」と訳すことを1940年代に主張した哲学者(中村雄二郎『術後集』(岩波書店)「コモン・センス」の項)。
<!-- == 外部リンク == -->
== 脚注 ==
<references/>
{{DEFAULTSORT:しようしき}}
[[Category:知識]]
[[Category:信念]]
[[Category:コモンセンス]]
[[Category:欺瞞]]
[[Category:認識論の概念]]
[[Category:情報社会]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]]
[[Category:ドイツ哲学]]
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異化
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異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie)は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。
これまでに「異常化」や「脱自動化」などの訳語が考えられてきた。
異化とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。つまり、しばしば例に引かれるように「石ころを石ころらしくする」ためである。いわば思考の節約を旨とする、理解のしやすさ、平易さが前提となった日常的言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的 」であるからである。またそれによって「手法」(形式)を前景化させることが可能になる。
シクロフスキーが「異化」概念を成立させるべく著した2つの小論、「言葉の復活」(1914年)と「手法としての芸術」(1917年)は、内容ではなく形式(フォルム)を問うべきだとした文学運動、ロシア・フォルマリズムの嚆矢と一般には考えられている。フォルム、つまり形式を問うということは文学の自律性を求めることであった。この流れそのものは、フェルディナン・ド・ソシュールの言語学の影響を受けたものとされている。しかし「異化」という概念そのものは、未来派のザーウミ(意味の理解を前提としない超意味言語)を理論づけるために提起されたもので、ソシュールの影響は受けていないと考えられている。
異化とは「文学を文学たらしめているもの」をこそ問う新たな潮流のもと生み出された概念であるが、たとえば演劇における「驚き」の意味を論じたアリストテレスにまで遡ることができるように、この「新しさ」を目指すことそのものはシクロフスキー、あるいは異化に特有なものではない。佐藤千登勢の言葉を借りれば、それ自体はごく「シンプルな思考」である。しかしまた同時にそれに「異化」という用語をつくり、その非常な重要性を説いた人間はシクロフスキー以前にはいなかった。
「言葉の復活」ではまだ異化(ロシア語: Остранение)という言葉は使われていない。が、そこには明確な「異化」の概念化と「形式」の意識化への意思がみてとれる。それによれば、言葉とは本来「生気に溢れ」、「イメージ」に満ちて」いた。
しかし、見慣れてしまった言葉は、もはや日常では「目で見て」知覚されることはない。それは「再認」されるのである。それを打破するために形容辞が用いられることがある。しかしそれもすぐに慣用的に用いられ、「脂のろうそく」といったナンセンスな表現へと堕してしまう。いわば「化石化」してしまうのである。またここで彼は、詩的言語に求められるのは半ば理解可能な言葉であるということをはっきりと述べている。
上述のように、この小論には「異化」という言葉、および日常的言語と詩的言語の対比という特徴は見出せない。3年後のシクロフスキーがそれを自身の理論に導入し、「手法としての芸術」を著したのは、同時代の言語学者レフ・ヤクビンスキーとの出会い(あるいは相互交流)が大きな影響を与えたことによるものだ。ヤクビンスキーは音声学の見地から、「日常的言語と詩的言語」・「異化と自動化」を対立させていたのである。
たとえば「言葉の復活」のなかで、シクロフスキーは造語や不正確なアクセントづけなどを「異化」の一例として挙げているが、佐藤がいうように、けっきょく厳密な定義はなしえなかった。とはいえ、たとえば彼自身が「手法としての芸術」のなかで引く、トルストイ「戦争と平和」の一場面が異化の典型としてあげられる。
この文章に始まる劇場の描写では、その美的側面が捨象され、「初めてみたもののように描かれている」。シクロフスキーによれば、これはトルストイが常用する異化の手法である。また大石雅彦は異化の手法として、ザーウミ、逸脱、撞着語法、イメージなどを挙げている。
シクロフスキー研究者の佐藤も認めるように、異化の理論はそのプリミティヴさのゆえにしばしば批判を浴びてきた。いわゆるフォルマリズム論争のなかで異化を徹底的に批判した人物の一人がミハイル・バフチンである。
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異化は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。 これまでに「異常化」や「脱自動化」などの訳語が考えられてきた。
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{{Otheruses}}
'''異化'''(いか、 {{翻字併記|ru|остранение|ostranenie|n}}<ref>提唱者のシクロフスキーは後に{{lang|ru|странный}}(奇妙な)という言葉にすべきだったと述懐している。佐藤千登勢は、ロシア語に{{lang|ru|остранить}}(脇によける)という動詞があることを挙げ、異化には「奇妙なものにし、位置をずらす」という意味を読み込んでいる (佐藤 2006年) p.22</ref>)は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家である[[ヴィクトル・シクロフスキー]]によって概念化された。
これまでに「異常化」や「脱自動化」などの訳語が考えられてきた<ref>(佐藤 2006年) p.23</ref>。
==概要==
異化とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。つまり、しばしば例に引かれるように「石ころを石ころらしくする」ためである。いわば思考の節約を旨とする、理解のしやすさ、平易さが前提となった日常的言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。「''芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的'' 」であるからである<ref>松原明訳「手法としての芸術」『フォルマリズム : 詩的言語論』p.25</ref>。またそれによって「手法」(形式)を前景化させることが可能になる。
===歴史===
シクロフスキーが「異化」概念を成立させるべく著した2つの小論、「言葉の復活」(1914年)と「手法としての芸術」(1917年)は、内容ではなく形式(フォルム)を問うべきだとした文学運動、[[ロシア・フォルマリズム]]の嚆矢と一般には考えられている<ref>(桑野 1979年) p.426</ref>。フォルム、つまり形式を問うということは文学の自律性を求めることであった。この流れそのものは、[[フェルディナン・ド・ソシュール]]の言語学の影響を受けたものとされている<ref>ソシュールは実際に話されている言葉([[パロール]])でなくその体系([[ラング]])こそが言語学の扱う対象だとした</ref>。しかし「異化」という概念そのものは、未来派のザーウミ(意味の理解を前提としない超意味言語)を理論づけるために提起されたもので、ソシュールの影響は受けていないと考えられている<ref>(佐藤 2006年) p.27</ref>。
異化とは「文学を文学たらしめているもの」をこそ問う新たな潮流のもと生み出された概念であるが、たとえば演劇における「驚き」の意味を論じたアリストテレスにまで遡ることができるように、この「新しさ」を目指すことそのものはシクロフスキー、あるいは異化に特有なものではない<ref>(大石 1988年) p.433</ref>。佐藤千登勢の言葉を借りれば、それ自体はごく「シンプルな思考」である<ref name="satou 8">(佐藤 2006年) p.8</ref>。しかしまた同時にそれに「異化」という用語をつくり、その非常な重要性を説いた人間はシクロフスキー以前にはいなかった<ref name="satou 8"/>。
[[ファイル:Viktor Shklovsky.jpg|thumb|ヴィクトル・シクロフスキー]]
「言葉の復活」ではまだ'''異化'''({{lang-ru|Остранение}})という言葉は使われていない。が、そこには明確な「異化」の概念化と「形式」の意識化への意思がみてとれる。それによれば、言葉とは本来「生気に溢れ」、「イメージ」に満ちて」いた。
{{Cquote|たとえば、「月」({{lang|ru|месяц}} メーシャツ)、この語の原義は「計測器」({{lang|ru|меритель}} メリーチェリ)であった。「悲哀」({{lang|ru|горе}} ゴーレ)、「悲しみ」({{lang|ru|печаль}} ペチャーリ)の原義は、「じりじり燃えて({{lang|ru|жжет}} ジジョート)、ひりひり焼ける痛み({{lang|ru|парит}} パーリト)」。(…)<br />
かつて語幹に宿っていながら現在では失われ擦り切れてしまったイメージにたどりつくとき、その美しさに僕らはしばしば驚嘆させられる。かつて在った、だがもはや失われてしまったその美しさに。|「フォルマリズム : 詩的言語論」p.13|}}
しかし、見慣れてしまった言葉は、もはや日常では「目で見て」知覚されることはない。それは「'''再認'''」されるのである。それを打破するために形容辞が用いられることがある。しかしそれもすぐに慣用的に用いられ、「脂のろうそく」といったナンセンスな表現へと堕してしまう。いわば「化石化」してしまうのである。またここで彼は、詩的言語に求められるのは半ば理解可能な言葉であるということをはっきりと述べている<ref>坂倉千鶴訳「言葉の復活」『フォルマリズム : 詩的言語論』1988年、pp.13-19</ref>。
上述のように、この小論には「異化」という言葉、および日常的言語と詩的言語の対比という特徴は見出せない。3年後のシクロフスキーがそれを自身の理論に導入し、「手法としての芸術」を著したのは、同時代の言語学者レフ・ヤクビンスキーとの出会い(あるいは相互交流)が大きな影響を与えたことによるものだ。ヤクビンスキーは音声学の見地から、「日常的言語と詩的言語」・「異化と自動化」を対立させていたのである<ref>(桑野 1979年) pp.97-100</ref><ref>(佐藤 2006年) pp.27-28</ref>。
たとえば「言葉の復活」のなかで、シクロフスキーは造語や不正確なアクセントづけなどを「異化」の一例として挙げているが、佐藤がいうように、けっきょく厳密な定義はなしえなかった<ref>一方で佐藤は、厳密な定義そのものが自動化をもたらすものであり、それは異化の思想と反するものだとも述べている (佐藤 2006年) p.33</ref>。とはいえ、たとえば彼自身が「手法としての芸術」のなかで引く、トルストイ「戦争と平和」の一場面が異化の典型としてあげられる。
{{Cquote|舞台の中央には平らな板が張られ、その両脇には樹を描いた色塗りの背景が立てられており、奥手にはあま布が床板まで張られていた(…)|松原明訳「手法としての芸術」『フォルマリズム : 詩的言語論』1988年、p.28}}
この文章に始まる劇場の描写では、その美的側面が捨象され、「初めてみたもののように描かれている」。シクロフスキーによれば、これはトルストイが常用する異化の手法である<ref>松原明訳「手法としての芸術」『フォルマリズム : 詩的言語論』1988年、p.26</ref>。また大石雅彦は異化の手法として、ザーウミ、逸脱、撞着語法、イメージなどを挙げている<ref>(大石 1988年) p.432</ref>。
==ブレヒトと異化==
{{節スタブ}}<!-- 演劇 -->
==批判==
シクロフスキー研究者の佐藤も認めるように、異化の理論はそのプリミティヴさのゆえにしばしば批判を浴びてきた。いわゆるフォルマリズム論争のなかで異化を徹底的に批判した人物の一人が[[ミハイル・バフチン]]である。
==脚注==
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*桑野隆「ソ連言語理論小史 : ボードアン・ド・クルトネからロシア・フォルマリズムへ」三一書房、1979年
*佐藤千登勢「シクロフスキイ規範の破壊者」南雲堂フェニックス、2006年
*桑野隆、大石雅彦編「フォルマリズム : 詩的言語論」国書刊行会、1988年
*水野忠夫編「ロシア・フォルマリズム文学論集. 1」せりか書房、1971年
*水野忠夫編「ロシア・フォルマリズム文学論集. 2」せりか書房、1982年
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ヤザタ
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ヤザタ (Yazata) とは、ゾロアスター教において崇拝される中級の善神の総称。
その名はアヴェスター語で「崇められるに値する者」を意味する。パフラヴィー語ではヤズド (Yazd) と呼ばれる。
その多くはインド・イラン共通時代の多神教に由来する自然神で、ゾロアスター教神学においては、アムシャ・スプンタより低位であるとされる。
ヤザタは人間に祀られる事を常に欲しており、また、祀られる事によって人間に恩恵を与えると言う。こうした性格はインドのデーヴァと共通しており、ゾロアスター教に取り入れられてなお古い多神教時代の性格を色濃く残していると言える。
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ヤザタ (Yazata) とは、ゾロアスター教において崇拝される中級の善神の総称。 その名はアヴェスター語で「崇められるに値する者」を意味する。パフラヴィー語ではヤズド (Yazd) と呼ばれる。 その多くはインド・イラン共通時代の多神教に由来する自然神で、ゾロアスター教神学においては、アムシャ・スプンタより低位であるとされる。 ヤザタは人間に祀られる事を常に欲しており、また、祀られる事によって人間に恩恵を与えると言う。こうした性格はインドのデーヴァと共通しており、ゾロアスター教に取り入れられてなお古い多神教時代の性格を色濃く残していると言える。
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{{出典の明記|date=2015年11月8日 (日) 14:24 (UTC)}}
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'''ヤザタ''' ('''Yazata''') とは、[[ゾロアスター教]]において崇拝される中級の[[神|善神]]の総称。
その名は[[アヴェスター語]]で「崇められるに値する者」を意味する。[[パフラヴィー語]]では'''ヤズド''' ('''Yazd''') と呼ばれる。
その多くはインド・イラン共通時代の多神教に由来する自然神で、ゾロアスター教神学においては、[[アムシャ・スプンタ]]より低位であるとされる。
ヤザタは人間に祀られる事を常に欲しており、また、祀られる事によって人間に恩恵を与えると言う。こうした性格は[[インド]]の[[デーヴァ]]と共通しており、ゾロアスター教に取り入れられてなお古い多神教時代の性格を色濃く残していると言える。
== 主なヤザタ ==
* [[アータル]]
* [[アープ (水神)|アープ]]
* [[ウルスラグナ]]
* [[スラオシャ]]
* [[ティシュトリヤ]]
* [[ハオマ]]
* [[フワル・フシャエータ]]
* [[ミスラ]]
* [[ラシュヌ]]
* [[アナーヒター]]
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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金太郎
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金太郎(きんたろう)は、坂田金時(坂田公時)(さかたのきんとき)の幼名。または、金太郎を主人公とする昔話、童話の題名である。
金太郎にはいくつも伝説が存在する。幼児向けの絵本などで流布しているものに近い、静岡県駿東郡小山町の金時神社の伝説は以下のとおりである。
金太郎は天暦10年(956年)5月に誕生した。彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供であった。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となった。名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となった(四天王には他に渡辺綱、卜部季武、碓井貞光がいる)。 当時、丹波の国の大江山(現在の京都府福知山市)に住む鬼の頭目、酒呑童子が都に来ては若い男女を誘拐するなどの悪事をなしていた。 永祚2年3月26日(990年4月28日)、源頼光と四天王たちは山伏に身をかえて大江山に行き、 神変奇特酒(神便鬼毒酒、眠り薬入りの酒)を使って酒呑童子を退治した。
坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため筑紫(つくし・現在福岡県)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田壮(現在の岡山県勝央町)で重い熱病にかかり享年55で死去した。
勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬った。その神社は現在、栗柄神社と称する。
足柄峠をはさんで小山町と隣り合う神奈川県南足柄市にも金太郎の伝説は多く、その内容は小山町との相違点が多く見られる。 他にも兵庫県川西市の満願寺の墓、滋賀県長浜市など、各地に伝説がある。
小山町の金時神社には金太郎の伝説のあるちょろり七滝や第六天社がある。 ちょろり七滝の水は金太郎が産まれたとき、産湯として使ったといわれており、住まいである金時屋敷(現在の金時神社)の裏にある。金太郎が丈夫に育ち立派な武将となったことから、周辺の人々は子供が産まれると、この滝の水を産湯にしたといわれている。しかし、南足柄市には夕日の滝という場所があり、金太郎は四万長者の屋敷で産まれ、この滝の水を産湯にしたという伝説もある。 第六天社は金太郎親子が深く信仰しており、母の八重桐が赤いごはんや魚を捧げたりするのを真似て、金太郎はメダカを捕らえてきては生きたまま器に入れ、社前に捧げたといわれている。
滋賀県長浜市と米原市は、昔は坂田郡であり、坂田金時は坂田郡の人であると伝えている。今も長浜市には足柄神社や芦柄神社が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われている。なお、この地域は古代豪族息長氏の本拠地であり、金時はその一族であるという。王の文字はマサカリの象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族と考えられている。
金太郎(坂田金時)という人物の実在は疑わしいとされている。 「金太郎」は坂田金時の幼名とされているが、「○太郎」という名前はむしろ成人の通称によく使われる(八幡太郎(源義家)など)。
藤原道長の日記『御堂関白記』など当時の史料や『小山町史』によると、下毛野公時という優秀な随身(近衛兵)が道長に仕えていた。 坂田金時はこの公時が脚色されていったものらしく、頼光・道長の時代から100年ほど後に成立した『今昔物語集』では公時という名の郎党が頼光の家来として登場している。
文芸・芸能の題材として金太郎伝説は世に広まったが、まず『古今著聞集』(1254年成立)などの説話や御伽草子、古浄瑠璃によって、頼光四天王のひとりとしての坂田金時が知れ渡り、江戸時代初期にその幼少期が語られるようになった。特に元禄期に広く読まれた通俗史書『前太平記』で語られた金時の出生の非凡さと、山姥が金時を頼光に託す場面は名場面としてジャンルを超えて多くの作品に影響を与えた。
金時の幼少期を語った文芸作品のなかで最古のものが、古浄瑠璃『源氏のゆらひ』(江戸近江太夫作 1659年刊)である。この作品での金時は多田満仲に仕える武士「さかたの源太きんすへ」の嫡男「ちよ若」として登場し、親の仇討ちを果たした後「さかたのみんぶきん時」と改めている。
1670年代に江戸で金平浄瑠璃が流行し、金時の幼少期の物語が今日の金太郎伝説に近い筋立てとなっていく。金太郎伝説には母親として山姥が登場する作品が多く、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けた子というものなど出生譚は様々である。金平浄瑠璃最古の金太郎作品『清原のう大将』(1677年刊)では金太郎は金時の幼名である快童丸に通じる「くわいど」と呼ばれ、山姥は鬼女とされている。
金時の幼少期の物語は「山姥物(やまんばもの)」として能、浄瑠璃、常磐津、長唄、富本、清元など、演芸の枠を越えた一大ジャンルを形成した。なお、歌舞伎においては顔見世狂言で前太平記がかけられた際の大切での舞踏劇として演じられる。
幼少期の金時を「金太郎」と呼んだ初出文献は、『改訂日本小説書目年表』によれば1765年(明和2年)刊の『金時稚立 剛士雑』の「坂田金太郎」である。また、1778年刊の『誹風柳多留』には「金太郎わるく育つと鬼になり」という川柳が採られており、18世紀後半には世間一般に「金太郎」の呼称が定着していたと考えられる。
江戸時代には浮世絵で金太郎図が数多く描かれ、新年には干支に添えた形で出版された。美人画・役者絵を得意とする鳥居清長(1752年(宝暦2年) - 1815年(文化12年))は天明・文化年間に数多くの金太郎図を描き、美人画で知られる喜多川歌麿(? - 1806年(文化3年))も山姥と組み合わせた金太郎図を描いている。また、歌川国芳(1797年(寛政9年) - 1861年(文久元年))も多くの金太郎図を描いている。
「マサカリカツイデ~」で始まる童謡「金太郎」は、1900年(明治33年)に発表された「幼年唱歌」に掲載された。作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵。
まさかり(大斧)を担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルとなった。この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶ。 また、金太郎飴、「金時豆(きんときまめ)」の名前の由来でもあり、更に息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名の由来で知られる。
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"text": "金時の幼少期を語った文芸作品のなかで最古のものが、古浄瑠璃『源氏のゆらひ』(江戸近江太夫作 1659年刊)である。この作品での金時は多田満仲に仕える武士「さかたの源太きんすへ」の嫡男「ちよ若」として登場し、親の仇討ちを果たした後「さかたのみんぶきん時」と改めている。",
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"text": "江戸時代には浮世絵で金太郎図が数多く描かれ、新年には干支に添えた形で出版された。美人画・役者絵を得意とする鳥居清長(1752年(宝暦2年) - 1815年(文化12年))は天明・文化年間に数多くの金太郎図を描き、美人画で知られる喜多川歌麿(? - 1806年(文化3年))も山姥と組み合わせた金太郎図を描いている。また、歌川国芳(1797年(寛政9年) - 1861年(文久元年))も多くの金太郎図を描いている。",
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"text": "「マサカリカツイデ~」で始まる童謡「金太郎」は、1900年(明治33年)に発表された「幼年唱歌」に掲載された。作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵。",
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"text": "まさかり(大斧)を担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルとなった。この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶ。 また、金太郎飴、「金時豆(きんときまめ)」の名前の由来でもあり、更に息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名の由来で知られる。",
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金太郎(きんたろう)は、坂田金時(坂田公時)(さかたのきんとき)の幼名。または、金太郎を主人公とする昔話、童話の題名である。
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{{Otheruses|日本の[[民話]]およびその主人公}}
{{出典の明記|date=2016年5月}}
[[画像:Sakata Kaidomaru struggling with a huge carp under a waterfall.jpg|thumb|[[歌川国芳]]画:『坂田怪童丸』 天保7年([[1836年]])頃]]
[[File:Minamotono Yorimitsu & Sakata Kintoki.jpg|thumb|頼光と出会った場面を描いた[[月岡芳年]]の作]]
[[画像:KunimaruKintaroTengu.jpg|right|thumb|[[歌川国丸]]画:『金太郎と烏天狗』 文化年間後期(1811-17年)]]
[[画像:Yama-uba and Kintaro by Kitagawa Utamaro 1796.jpg|thumb|right|[[喜多川歌麿]]画:『山姥と金太郎 頰ずり』 寛政8年([[1796年]]) 同じ画題を描いた歌麿作品は50点ほど確認されている。]]
[[File:Yoshitoshi The Giant Carp.jpg|thumb|right|[[月岡芳年]]画:『金太郎捕鯉魚図』明治18年([[1885年]])]]
[[File:Yoshitoshi - 100 Aspects of the Moon - 87.jpg|thumb|right|月岡芳年画:『金時山の月』(『月百姿』より)]]
'''金太郎'''(きんたろう)は、'''坂田金時(坂田公時)'''<ref>[https://kotobank.jp/word/坂田公時-68508 坂田公時とは] - [[コトバンク]]</ref>(さかたのきんとき)の幼名。または、金太郎を主人公とする[[説話|昔話]]、[[童話]]の題名である。
== 歴史・伝説 ==
{{複数の問題||section=1
|出典の明記=2021年1月
|観点=2021年1月|title=}}
=== 典型的な伝説 ===
[[File:Yama Uba and Kintaro and Minamoto Samurai in Mt Ashiga by Utagawa Kunisada 1811.png|thumb|400px|左から右へ:山姥と金太郎と源氏の武士]]
金太郎にはいくつも伝説が存在する。幼児向けの絵本などで流布しているものに近い、[[静岡県]][[駿東郡]][[小山町]]の[[金時神社]]の伝説は以下のとおりである。
金太郎は[[天暦]]10年([[956年]])5月に誕生した。彫物師[[十兵衛]]の娘、[[八重桐]](やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた[[坂田蔵人]](くらんど)と結ばれ懐妊した子供であった。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。成長した金太郎は[[金時山#足柄峠ルート|足柄山]]で[[クマ|熊]]{{Efn2|金太郎と相撲を取ったクマの種類について、[[河合雅雄]] (1996) は[[ツキノワグマ]]と<ref>{{Cite book|和書|title=少年動物誌|publisher=[[小学館]]|date=1996-11-20|page=312|author=河合雅雄|authorlink=河合雅雄|edition=初版第一刷発行|series=河合雅雄著作集|isbn=978-4096770085|chapter=麻酔された下手人|volume=8}}</ref>、[[戸川幸夫]] (1978) は[[ニホンツキノワグマ]](ツキノワグマの[[日本]]産亜種)としている<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[歴史と人物 (雑誌)#中央公論歴史と人物|中央公論 歴史と人物]]|author=[[戸川幸夫]]|title=動物巷譚 (11) 熊鹿猪馬牛犬狼|volume=8|date=1978-11-01|issue=11|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]}} - 通号第87号・1978年11月号。</ref>。}}と[[相撲]]をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
[[天延]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[976年]][[4月28日]])、[[足柄峠]]にさしかかった[[源頼光]]と出会い、その力量を認められて家来となった。名前も'''坂田金時'''(きんとき)と改名し、京にのぼって[[頼光四天王]]の一人となった(四天王には他に[[渡辺綱]]、[[卜部季武]]、[[碓井貞光]]がいる)。
当時、[[丹波国|丹波]]の国の[[大江山]](現在の[[京都府]][[福知山市]])に住む[[鬼]]の頭目、[[酒呑童子]]が都に来ては若い男女を誘拐するなどの悪事をなしていた。
[[永祚 (日本)|永祚]]2年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[990年]]4月28日)、源頼光と四天王たちは[[山伏]]に身をかえて大江山に行き、
神変奇特酒(神便鬼毒酒、眠り薬入りの酒)を使って酒呑童子を退治した。
坂田金時は[[寛弘]]8年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1012年]][[1月11日]])、九州の賊を征伐するため筑紫(つくし・現在[[福岡県]])へ向かう途中、[[作州路]][[美作国|美作]](みまさか)勝田壮(現在の[[岡山県]][[勝央町]])で重い熱病にかかり享年55で死去した。
勝田の人々は金時を慕い、[[倶利加羅]](くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬った。その神社は現在、[[栗柄神社]]と称する。
=== 異説 ===
[[足柄峠]]をはさんで小山町と隣り合う[[神奈川県]][[南足柄市]]にも金太郎の伝説は多く、その内容は小山町との相違点が多く見られる。
他にも[[兵庫県]][[川西市]]の[[満願寺 (川西市)|満願寺]]の墓、[[滋賀県]][[長浜市]]など、各地に伝説がある。
小山町の金時神社には金太郎の伝説のある[[ちょろり七滝]]や[[第六天社]]がある。
ちょろり七滝の水は金太郎が産まれたとき、[[産湯]]として使ったといわれており、住まいである[[金時屋敷]](現在の金時神社)の裏にある。金太郎が丈夫に育ち立派な[[武将]]となったことから、周辺の人々は子供が産まれると、この滝の水を産湯にしたといわれている。しかし、[[南足柄市]]には[[夕日の滝]]という場所があり、金太郎は四万長者の屋敷で産まれ、この滝の水を産湯にしたという伝説もある。
[[第六天社]]は金太郎親子が深く信仰しており、母の八重桐が赤いごはんや魚を捧げたりするのを真似て、金太郎は[[メダカ]]を捕らえてきては生きたまま器に入れ、社前に捧げたといわれている。
滋賀県長浜市と[[米原市]]は、昔は[[坂田郡]]であり、坂田金時は坂田郡の人であると伝えている。今も長浜市には足柄神社や[[芦柄神社]]が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われている。なお、この地域は古代豪族[[息長氏]]の本拠地であり、金時はその一族であるという。王の文字は[[マサカリ]]の象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族と考えられている。
=== 伝説の歴史的検証 ===
金太郎(坂田金時)という人物の実在は疑わしいとされている。
「金太郎」は坂田金時の幼名とされているが、「○太郎」という名前はむしろ成人の通称によく使われる('''八幡太郎'''([[源義家]])など)。
[[藤原道長]]の日記『[[御堂関白記]]』など当時の史料や『小山町史』によると、[[下毛野公時]]という優秀な[[随身]](近衛兵)が道長に仕えていた。
坂田金時はこの公時が脚色されていったものらしく、頼光・道長の時代から100年ほど後に成立した『[[今昔物語集]]』では公時という名の郎党が頼光の家来として登場している。
=== 出生地とされる場所 ===
*神奈川県南足柄市 金太郎の生家跡(長者屋敷跡)<ref>{{Cite book |和書 |author=笠間吉高 |title=新・足柄山の金太郎 |year=2003 |publisher=夢工房 |pages=11-41 |isbn=4-946513-89-2 }}</ref>
*静岡県小山町 金時神社
*静岡県小山町竹之下の坂田明神と中島の生地
*新潟県青海町上路(あげろ)の山姥の里
*長野県南木曽町読書の酒屋と蘭の足跡石
*長野県八坂村の上篭(あげろ)金時山付近
== 文芸・芸能の中の金太郎 ==
文芸・芸能の題材として金太郎伝説は世に広まったが、まず『[[古今著聞集]]』(1254年成立)などの説話や[[御伽草子]]、[[古浄瑠璃]]によって、頼光四天王のひとりとしての坂田金時が知れ渡り、江戸時代初期にその幼少期が語られるようになった。特に[[元禄]]期に広く読まれた通俗史書『前太平記』で語られた金時の出生の非凡さと、[[山姥]]が金時を頼光に託す場面は名場面としてジャンルを超えて多くの作品に影響を与えた<ref name="Torii">[[鳥居フミ子]]『金太郎の謎』 みやび出版 2016 ISBN 978-4-434-17185-7 pp.6-20,82-98.</ref>。
金時の幼少期を語った文芸作品のなかで最古のものが、古浄瑠璃『源氏のゆらひ』(江戸近江太夫作 1659年刊)である<ref name="Torii"/>。この作品での金時は[[多田満仲]]に仕える武士「さかたの源太きんすへ」の嫡男「ちよ若」として登場し、親の仇討ちを果たした後「さかたのみんぶきん時」と改めている。
1670年代に江戸で[[金平浄瑠璃]]が流行し、金時の幼少期の物語が今日の金太郎伝説に近い筋立てとなっていく<ref name="Torii"/>。金太郎伝説には母親として山姥が登場する作品が多く、[[雷神]]の子供を孕んで産まれてきたとするものや、[[金時山]]の頂上で赤い龍が八重桐に授けた子というものなど出生譚は様々である。金平浄瑠璃最古の金太郎作品『清原のう大将』(1677年刊)では金太郎は金時の幼名である快童丸に通じる「くわいど」と呼ばれ、山姥は鬼女とされている。
金時の幼少期の物語は「[[山姥]]物(やまんばもの)」として能<ref>『山姥』(作者不詳)。</ref>、浄瑠璃<ref>『嫗山姥(こもちやまんば)』(近松門左衛門作)。</ref>、常磐津<ref>『四天王大江山入』(通称『古山姥』。[[瀬川如皐|初代瀬川如皐]]作詞,[[鳥羽山里長]]作曲)。</ref><ref>『薪荷雪間(たきぎおうゆきま)の市川』(通称『新山姥』。三升屋二三治作詞,[[岸澤式佐#5代目|5代目岸沢式佐]]作曲)。</ref>、[[長唄]]<ref>『四季の山姥』([[杵屋六左衛門#11代目|11代目杵屋六左衛門]]作曲、作詞不詳)。</ref>、[[富本節|富本]]<ref>『母育雪間鶯(ははそだちゆきまのうぐいす)』。</ref>、[[清元]]<ref>『月花茲友鳥(つきとはなここにともどり)』。</ref>など、演芸の枠を越えた一大ジャンルを形成した。なお、歌舞伎においては[[顔見世|顔見世狂言]]で前太平記<ref>「世界」のひとつで、平安時代中期から後期にかけてを描く。</ref>がかけられた際の[[大切]]での舞踏劇として演じられる。
幼少期の金時を「金太郎」と呼んだ初出文献は、『改訂日本小説書目年表』によれば[[1765年]]([[明和]]2年)刊の『金時稚立 剛士雑』の「坂田金太郎」である<ref name="Torii"/>。また、[[1778年]]刊の『[[誹風柳多留]]』には「金太郎わるく育つと鬼になり」という川柳が採られており、18世紀後半には世間一般に「金太郎」の呼称が定着していたと考えられる。
== 画題 ==
江戸時代には[[浮世絵]]で金太郎図が数多く描かれ、新年には[[干支]]に添えた形で出版された。[[美人画]]・[[役者絵]]を得意とする[[鳥居清長]]([[1752年]](宝暦2年) - [[1815年]](文化12年))は天明・文化年間に数多くの金太郎図を描き、美人画で知られる[[喜多川歌麿]](? - [[1806年]](文化3年))も[[山姥]]と組み合わせた金太郎図を描いている。また、[[歌川国芳]]([[1797年]](寛政9年) - [[1861年]](文久元年))も多くの金太郎図を描いている。
== 唱歌 ==
{{Anchors|唱歌}}
「マサカリカツイデ~」で始まる[[童謡]]「金太郎」は、[[1900年]](明治33年)に発表された「[[幼年唱歌]]」に掲載された。作詞・[[石原和三郎]]、作曲・[[田村虎蔵]]。
== 文化 ==
[[wikt:まさかり|まさかり]](大[[斧]])を担いで[[クマ|熊]]の背に乗り、[[菱形]]の[[腹掛け]]を着けた元気な少年像として、[[五月人形]]のモデルとなった。この姿から、かつて[[日本]]各地で[[乳幼児]]に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶ。
また、[[金太郎飴]]、「[[金時豆|金時豆(きんときまめ)]]」の名前の由来でもあり、更に息子の[[坂田金平]]は「[[金平|きんぴらゴボウ]]」の名の由来で知られる。
== 派生用語 ==
=== キャラクター ===
* 『[[うる星やつら]]』‐ 地球で迷子になった宇宙の幼稚園児の一人として、日本の昔話と同じ名前・姿で登場する。
* 『[[ミラクル少女リミットちゃん]]』 - 主人公・西山理美(リミットちゃん)が通っている小学校の体育教師の名前が坂田金時(通称・金時先生)。
*『[[ウルトラマン80]]』 - [[足柄山]]出身で、怪獣[[ジヒビキラン]]に変身する姿・性質が金太郎に似た相撲の神様であるすもう小僧が登場する。
* [[にわのまこと]]の漫画『[[THE MOMOTAROH]]』 - 金太郎の子孫という設定の「サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウ」という[[リングネーム]]のキャラクターが登場する。作中には[[酒呑童子]]の正体という設定の「イワン・シュテンドルフ」なるキャラクターも登場し、頼光四天王の鬼退治についても言及された。
*『[[怪童丸]]』 - 2001年に発売されたOVA。少女の主人公として坂田金時が登場する。
*『[[仮面ライダー電王]]』- 「キンタロス」という名前のキャラクターが登場する。『金太郎』から熊をイメージした怪人である。派生作品『イマジンあにめ』では「金太郎」の物語を解説する話がある(第25話)。
*『[[伊東家の食卓]]』 - 旗を使った「きんたろうゲーム」というのがあった。
*『[[ONE PIECE]]』-シャボンディ諸島にて、「戦桃丸」という金太郎をモチーフとしたキャラクターが登場する。
*『[[銀魂]]』 - 主人公「[[坂田銀時]]」の名前は、金太郎の本名「[[坂田金時]]」がモデルである。他に同作には「[[坂田銀時]]」本人をモチーフにしたからくり代理人(アンドロイド)「坂田金時(さかた きんとき)」が登場する。
* 『[[お伽草子 (アニメ)|お伽草子]]』 - 怪力を持つ少年。野性的な性格。全国の強い熊を倒す為に諸国を放浪している。
*『[[桃太郎伝説シリーズ|桃太郎伝説]]』シリーズ - [[桃太郎]]の仲間として金太郎が登場。派生作品の『[[桃太郎電鉄シリーズ|桃太郎電鉄]]』シリーズではアイテムの一つ「金太郎カード」を使用することで金太郎が登場する。
*『[[ペルソナ4]]』 - 主人公の仲間であるクマの[[ペルソナシリーズ|ペルソナ]]としてキントキドウジが登場する。
*『[[風が如く]]』 - パンダに股がり坂田金時の末裔の「田中金太郎」として登場。
*『[[豪血寺一族]]』 - 金太郎をモチーフにした「孤空院金田朗」というプレイヤーキャラクターが登場する。技もキャラの見た目も金太郎そのもの。
*『[[鬼灯の冷徹]]』 - 死後、衆合地獄で用心棒として働いている。
*『Fate』シリーズ - 『[[Fate/Apocrypha]]』企画時の設定をもとに『[[Fate/Grand Order]]』より登場。詳細は[[Fate/Apocrypha#本編未登場キャラクター]]にて。
*『[[戦国パズル!!あにまる大合戦]]』 - クマに擬獣化された金太郎〜坂田金時が登場。バリエーションとして「番長・坂田金時」も。
*『[[ワンダーランドウォーズ]]』 - プレイアブルキャラとして幼名の「怪童丸」の名で登場。
*『よいしょの金太郎』 - [[南足柄市]]の[[ゆるキャラ]]。南足柄市は、後述の川西市と、「災害時における相互応援に関する協定」を結んでいる。
*『[[かながわキンタロウ]]』 - [[神奈川県]]の公式PRキャラクター
*『きんたくん』 - [[兵庫県]][[川西市]]のゆるキャラ、市のイメージキャラクター。[[清和源氏]]発祥の地、[[多田院]]を築いた[[源満仲]]の子、[[源頼光|頼光]]の家来に坂田金時がおり、墓が[[満願寺 (川西市)|満願寺]]にある縁にて、よいしょの金太郎、かながわキンタロウとよく似ている。
*『[[終末のワルキューレ]]』 - 13人の人類代表の中に「坂田金時」として名を連ねている。16巻の65話にて登場した。
=== 交通 ===
* 『金太郎ふじみライン』 - [[静岡県道365号足柄峠線]]の愛称。
* 『はこね金太郎ライン』 - [[神奈川県道731号矢倉沢仙石原線]](新道、別称:南箱道路)の愛称。
* 『ECO-POWER金太郎』 - [[JR貨物EH500形電気機関車]]の愛称。
* 『金太郎塗り』 - 主に鉄道車両の車体正面に施されるカーブの付いたV字型の塗り分けラインを、金太郎の腹掛けに似ている事から俗にこう称している。[[国鉄80系電車#影響]]も参照。
* 『金太郎(車止め)』 - 昭和50年頃から杉並区内の歩道に設置された車止め。金太郎のイラストが描かれている。設置された歩道の工事などを契機に撤去され、年々数は減っている<ref>[https://www.suginamigaku.org/2020/03/kintaro.html 金太郎(車止め)]|すぎなみ学倶楽部</ref>。
=== 施設 ===
* 『金太郎郵便局』 - [[静岡県]][[駿東郡]][[小山町]]にある郵便局(小山駅前郵便局)。
* 『[[金太郎温泉]]』 - [[富山県]][[魚津市]]にある温泉宿(株式会社金太郎温泉)。
* 『[[道の駅足柄・金太郎のふるさと]]』 - 神奈川県南足柄市にある[[道の駅]]。
=== 生物 ===
* 『金太郎』 - [[ヒメジ]](海水魚)の地域名([[山口県]][[下関市]]北部、[[萩市]]、[[島根県]]西部[[県境]])。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[鬼子]]
* [[悪太郎]]
* [[金時山|足柄山]] - [[神奈川県]]と静岡県にまたがる山。金太郎の生地とされる。
* [[岡山県]][[勝田郡]][[勝央町]] - 金太郎終焉の地として知られる町である。
* [[南足柄市]] - [[神奈川県]]にある市。金太郎にまつわる祭りがある。
* [[満願寺 (川西市)|満願寺]] - [[兵庫県]][[川西市]]にある寺院。[[宝塚市]]内の[[飛地]]にあり、金太郎の墓がある。
* [[陸奥圓明流外伝 修羅の刻]] - '''酒呑童子編'''に於いて陸奥庚が源頼光より'''坂田金時(さかたのきんとき)'''の名を賜るが、これを固辞、配下にも加わらず、「困った時には合力してやる」と約を交わす。
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card18337.html 金太郎] - [[青空文庫]]
* [https://ci.nii.ac.jp/naid/110007184865/ 金太郎の誕生 鳥居フミ子 東京女子大学]
* {{kotobank}}
* [https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=512 金太郎]|[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|[[ジャパンナレッジ]]
*[http://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_kintarou.html 金太郎] 小川町観光情報
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半魚人
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半魚人(はんぎょじん)は、ヒトと魚類の中間的な身体をもつ、伝説の生物。
半魚人は、体の一部が魚で残りの部分が人間という特徴を持つ半獣人の一種である。英語ではマーフォーク(merfolk)といい、男性の場合マーマン(merman)、女性の場合はマーメイド(mermaid)と称される。マーとはラテン語のmare(=海)を指す。半魚人の図像や伝承は古代から世界各地に見られるが、体を構成する人と魚の比率は様々である(上半身が人、下半身が魚の姿(=人の脚がない)のものは人魚と呼ぶのが普通である)。
近年の創作作品の中では、「手足に鰭や水かきがあり、全身が鱗で覆われ、頭部が魚で、言葉を話す人間のような生物」といった描写が、ステレオ的に用いられている(一例として)。二腕二脚だが、鱗や鰓を持つなどの特徴があるものは水棲人(すいせいじん)とも呼ばれる。
アプカルルは、大洪水より前に、賢神エアより遣わされた古の七賢聖であり、人類に知恵を授けたとされている。その筆頭がアダパである。アプカルルは、人間の頭や手足が生えた全身が魚の姿、あるいは、上半身は人間、下半身が魚の姿をしており、その彫像は守護精霊として7体セットで用いられた。オアンネスの基になったとされる。
そこから派生して、他の、「人間と(魚以外の)動物のハイブリッド」もアプカルルと呼ばれることがある。
また、「賢者」を意味する接頭辞や形容詞として、エア、マルドゥク、エンリル、ニヌルタ、アダド、などにも適用される。
ユーフラテス河中流域に起源をもつ神。魚の頭部と人の体(あるいは魚の尾と人の体)を持つ。ただし、神話のうちダゴンに関する部分は失われているため、詳しいことはわからない。 詳細はダゴンの項目参照。 旧約聖書でイスラエルと敵対するペリシテ人の信仰する神として語られていることから、キリスト教圏では海の怪物としてイメージされる事が多い。
バビロニアのオアンネスに関して、現存する最古の文献は、BC3世紀の『バビロニア誌』(ベロッソス著)である。たったの7日で全ての文化を人間に授けたという。
「第1の年、バビロニア辺境のエリュトゥラーの海に、オアンネスという名の、知性を持つ怪物が現れた。その全身は魚の身体であった。魚の頭の下にもうひとつの頭があり、また下には人間に似た足が、魚の尾鰭の部分に付いていた。その声と言葉は明瞭で、人間のものであった。この怪物は人間たちの間で一日を過すが、その間、何も食べない。そして彼は、あらゆる文学、科学、技芸を教えた。都市の造り方、神殿の築き方、法律の編み方を教え、幾何学の原理を説いた。大地の種子を見分け、果物の集め方を教えた。簡単にいえば、野蛮な風習を和らげ、生活を人間的なものにするすべてを教えた。そのとき以来、彼の指導によってもたらされた進歩に付け加えるものは何もない。太陽が沈むと、このオアンネスなる存在は海に戻り、海中で夜を過した。彼は水陸両生だったのである。」
シュメールのエンキ、アッカドのエアと同一視される。文献によっては別名としてダゴンを挙げる。
西ヨーロッパの伝説。画像にあるとおり「鱗の生えた人間」の姿をしている。 普段は海中に棲んでいるが、時折、人間たちに捕らえられることがあるという。捕らえられた「海の司教」は、「言葉を理解する事はできないが、地上で暮らすことはできる」とされる。詳細は 海の司教の項目参照。
人魚=リュウグウノツカイ説を唱えた内田恵太郎が紹介した話。彼らの祖先がアジアから北米に移動してきたとき、半人半魚の男が先導した。腰から上は人、足の替わりに二股の魚の尾があった。顔は人だが、どことなくイルカに似ていた。長い髪と髭は緑色。彼らを新天地北米に導くと、魚人は歌いながら海に消えた。
グリーンランドとカナダ北部のイヌイットの民間伝承には、「アウヴェコエヤク」と呼ばれる毛に覆われた半魚人の話が伝わっている。
グアラニー族の民間伝承に登場する妖怪。獰猛で、むさぼり喰うために人を殺す男性型の水の精(オーメン・ダグア)。半魚人説と人魚説がある。詳細はイプピアーラの項目参照。
中国の古典博物誌『山海経』には、複数の人面魚体の半魚人が記録されている。たとえば「海内北経」の姑射(こや)国の条に「陵魚は人面で手足あり。魚の身。海中にあり」と記述がある。4本の足を持つ人面魚である。
また、東晋時代に書かれた『捜神記』には、南方の海に棲む「鮫人」の記録がある。鮫人は機を織って暮らし、泣くと涙が珠になったという。同時代に書かれた『博物志(中国語版)』には、鮫人と人間との間の報恩譚が記されている。
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"text": "ユーフラテス河中流域に起源をもつ神。魚の頭部と人の体(あるいは魚の尾と人の体)を持つ。ただし、神話のうちダゴンに関する部分は失われているため、詳しいことはわからない。 詳細はダゴンの項目参照。 旧約聖書でイスラエルと敵対するペリシテ人の信仰する神として語られていることから、キリスト教圏では海の怪物としてイメージされる事が多い。",
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"text": "バビロニアのオアンネスに関して、現存する最古の文献は、BC3世紀の『バビロニア誌』(ベロッソス著)である。たったの7日で全ての文化を人間に授けたという。",
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"text": "「第1の年、バビロニア辺境のエリュトゥラーの海に、オアンネスという名の、知性を持つ怪物が現れた。その全身は魚の身体であった。魚の頭の下にもうひとつの頭があり、また下には人間に似た足が、魚の尾鰭の部分に付いていた。その声と言葉は明瞭で、人間のものであった。この怪物は人間たちの間で一日を過すが、その間、何も食べない。そして彼は、あらゆる文学、科学、技芸を教えた。都市の造り方、神殿の築き方、法律の編み方を教え、幾何学の原理を説いた。大地の種子を見分け、果物の集め方を教えた。簡単にいえば、野蛮な風習を和らげ、生活を人間的なものにするすべてを教えた。そのとき以来、彼の指導によってもたらされた進歩に付け加えるものは何もない。太陽が沈むと、このオアンネスなる存在は海に戻り、海中で夜を過した。彼は水陸両生だったのである。」",
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"text": "シュメールのエンキ、アッカドのエアと同一視される。文献によっては別名としてダゴンを挙げる。",
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"text": "人魚=リュウグウノツカイ説を唱えた内田恵太郎が紹介した話。彼らの祖先がアジアから北米に移動してきたとき、半人半魚の男が先導した。腰から上は人、足の替わりに二股の魚の尾があった。顔は人だが、どことなくイルカに似ていた。長い髪と髭は緑色。彼らを新天地北米に導くと、魚人は歌いながら海に消えた。",
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"text": "グリーンランドとカナダ北部のイヌイットの民間伝承には、「アウヴェコエヤク」と呼ばれる毛に覆われた半魚人の話が伝わっている。",
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"text": "中国の古典博物誌『山海経』には、複数の人面魚体の半魚人が記録されている。たとえば「海内北経」の姑射(こや)国の条に「陵魚は人面で手足あり。魚の身。海中にあり」と記述がある。4本の足を持つ人面魚である。",
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"text": "また、東晋時代に書かれた『捜神記』には、南方の海に棲む「鮫人」の記録がある。鮫人は機を織って暮らし、泣くと涙が珠になったという。同時代に書かれた『博物志(中国語版)』には、鮫人と人間との間の報恩譚が記されている。",
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半魚人(はんぎょじん)は、ヒトと魚類の中間的な身体をもつ、伝説の生物。
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{{redirect|マーマン|アメリカ合衆国の歌手・女優|エセル・マーマン}}
[[Image:Merman.jpg|250px|thumb|right|海の司教。1531年に[[バルト海]]にて捕獲とある。]]
<!--伝説の類は、書物ごとに微妙に表現や描写がことなったりするから、和訳本でかまわないのでともかく出典を添えるほうがよい-->
'''半魚人'''(はんぎょじん)は、ヒトと魚類の中間的な身体をもつ、[[伝説の生物一覧|伝説の生物]]。
== 概要 ==
半魚人は、体の一部が魚で残りの部分が人間という特徴を持つ[[獣人|半獣人]]の一種である。英語ではマーフォーク(merfolk)といい、男性の場合マーマン(merman)、女性の場合はマーメイド(mermaid)と称される。マーとは[[ラテン語]]のmare(=海)を指す。半魚人の図像や伝承は古代から世界各地に見られるが、体を構成する人と魚の比率は様々である(上半身が人、下半身が魚の姿(=人の脚がない)のものは[[人魚]]と呼ぶのが普通である){{Sfn|秋道|2017|p=206}}。
近年の創作作品の中では、「手足に鰭や水かきがあり、全身が鱗で覆われ、頭部が魚で、言葉を話す人間のような生物」といった描写が、ステレオ的に用いられている(一例として{{Sfn|トロ|2018}})。二腕二脚だが、鱗や鰓を持つなどの特徴があるものは'''水棲人'''(すいせいじん)とも呼ばれる。
== バリエーション ==
=== アプカルル ===
[[:en:Apkallu|アプカルル]]は、[[大洪水]]より前に、賢神[[エンキ|エア]]より遣わされた古の七賢聖であり、人類に知恵を授けたとされている。その筆頭が[[アダパ]]である。アプカルルは、人間の頭や手足が生えた全身が魚の姿、あるいは、上半身は人間、下半身が魚の姿をしており、その彫像は守護精霊として7体セットで用いられた。オアンネスの基になったとされる{{Sfn|秋道|2017|p=207-208}}。
そこから派生して、他の、「人間と(魚以外の)動物のハイブリッド」もアプカルルと呼ばれることがある。
また、「賢者」を意味する接頭辞や形容詞として、エア、[[マルドゥク]]、[[エンリル]]、[[ニヌルタ]]、[[アダド]]、などにも適用される。
{|class="wikitable"
!七賢聖の名!!称号
|-
|アダパあるいはウアンナ||天と地の計画を成し遂げる(た)者
|-
|ウアンドゥガ(ウアンネドゥガ)||包括的な知性に恵まれた人
|-
|エンメドゥガ||良い運命が定められた人
|-
|エンメガラマ(エンメガランマ)||家の中で生まれた人
|-
|エンメルブルガ||牧草地で育った
|-
|アネンリルダ(アン・エンリルダ)||エリドゥ市のコンジュラー(魔術師)、天の街の征服者
|-
|ウトゥアブズ||天に昇った
|}
=== ダゴン(ダガン) ===
ユーフラテス河中流域に起源をもつ神。魚の頭部と人の体(あるいは魚の尾と人の体)を持つ。ただし、神話のうち[[ダゴン]]に関する部分は失われているため、詳しいことはわからない。 詳細は[[ダゴン]]の項目参照<ref>{{Cite book|和書|author=池上正太|title=オリエントの神々|year=2006|publisher=新紀元社|isbn=4-7753-0408-9|page=140}}</ref>{{Sfn|朱鷺田|2006|p=122-124}}。
[[旧約聖書]]で[[イスラエル]]と敵対する[[ペリシテ人]]の信仰する神として語られている<ref>{{Cite book|和書|chapter=士師記|title=聖書 新改訳|translator=新改訳聖書刊行会|publisher=いのちのことば社|page=408|isbn=4-264-01118-3}}</ref>ことから、[[キリスト教]]圏では海の怪物としてイメージされる事が多い{{Sfn|秋道|2017|p=211}}。
=== オアンネス ===
[[バビロニア]]のオアンネスに関して、現存する最古の文献は、BC3世紀の『バビロニア誌』([[ベロッソス]]著)である。たったの7日で全ての文化を人間に授けたという<ref>{{cite video|和書|people=渋澤龍彦(著者)|date=1990-09-01|title=幻想博物誌|medium=電子書籍|language=日本語|publisher=河出書房新社|series=河出文庫|asin=B00BHAJS4Q}}</ref>。
「第1の年、バビロニア辺境のエリュトゥラーの海に、オアンネスという名の、知性を持つ怪物が現れた。その全身は魚の身体であった。魚の頭の下にもうひとつの頭があり、また下には人間に似た足が、魚の尾鰭の部分に付いていた。その声と言葉は明瞭で、人間のものであった。この怪物は人間たちの間で一日を過すが、その間、何も食べない。そして彼は、あらゆる文学、科学、技芸を教えた。都市の造り方、神殿の築き方、法律の編み方を教え、幾何学の原理を説いた。大地の種子を見分け、果物の集め方を教えた。簡単にいえば、野蛮な風習を和らげ、生活を人間的なものにするすべてを教えた。そのとき以来、彼の指導によってもたらされた進歩に付け加えるものは何もない。太陽が沈むと、このオアンネスなる存在は海に戻り、海中で夜を過した。彼は水陸両生だったのである。」
[[シュメール]]の[[エンキ]]、[[アッカド]]の[[エア (メソポタミア神話)|エア]]と同一視される{{Sfn|朱鷺田|2006|p=122-124}}。文献によっては別名として[[ダゴン]]を挙げる<ref>{{Cite book|和書|title=世界の妖怪大百科:本当にいる妖怪が大集合|year=2014|publisher=学研教育出版|isbn=|page=133}}</ref>。
=== 海の司教(Sea bishop)===
西ヨーロッパの伝説。画像にあるとおり「鱗の生えた人間」の姿をしている。 普段は海中に棲んでいるが、時折、人間たちに捕らえられることがあるという。捕らえられた「[[ビショップ・フィッシュ|海の司教]]」は、「言葉を理解する事はできないが、地上で暮らすことはできる」とされる。詳細は [[ビショップ・フィッシュ|海の司教]]の項目参照。
=== 北米ネイティブアメリカンの伝承 ===
人魚=[[リュウグウノツカイ]]説を唱えた[[内田恵太郎]]が紹介した話。彼らの祖先がアジアから北米に移動してきたとき、半人半魚の男が先導した。腰から上は人、足の替わりに二股の魚の尾があった。顔は人だが、どことなくイルカに似ていた。長い髪と髭は緑色。彼らを新天地北米に導くと、魚人は歌いながら海に消えた<ref>{{Cite book|和書|author=篠田知和基|date=2019-06-25|title=世界魚類神話|publisher=八坂書房|page=127|isbn=978-4-89694-262-0}}</ref>。
[[グリーンランド]]と[[カナダ]]北部の[[イヌイット]]の民間伝承には、「アウヴェコエヤク」と呼ばれる毛に覆われた半魚人の話が伝わっている。
=== イプピアーラ(Ipupiara)===
[[グアラニー族]]の民間伝承に登場する妖怪。獰猛で、むさぼり喰うために人を殺す男性型の水の精(オーメン・ダグア)<ref>{{Cite book|和書|author=福嶋伸洋|year=2012|chapter=熱帯雨林の人魚イアーラの図像学──『オデュッセイア』、『ウズ・ルジアダス』から『マクナイーマ』へ|title=和田忠彦還暦記念論集|pages=171|publisher=双文社印刷}}</ref>。'''半魚人'''説と'''人魚'''説がある<ref> サンパウロの[[:pt:Parque Ipupiara|イプピアーラ公園]]に設置されているイプピアーラの像は下半身が魚である </ref>。詳細は[[イプピアーラ]]の項目参照。
=== 中国の半魚人 ===
[[中国]]の古典博物誌『[[山海経]]』には、複数の人面魚体の半魚人が記録されている。たとえば「海内北経」の姑射(こや)国の条に「陵魚は人面で手足あり。魚の身。海中にあり」と記述がある。4本の足を持つ人面魚である{{Sfn|高馬|1994|p=143}}。
また、[[東晋]]時代に書かれた『[[捜神記]]』には、南方の海に棲む「鮫人」の記録がある。鮫人は機を織って暮らし、泣くと涙が珠になったという{{Sfn|松岡|1982|p=59}}。同時代に書かれた『{{仮リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』には、鮫人と人間との間の報恩譚が記されている{{Sfn|秋道|2017|p=217}}。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=秋道智彌|date=2017-12-31|title=魚と人の文明論|publisher=臨川書店|ref={{SfnRef|秋道|2017}}|isbn=978-4-653-04118-4}}
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|大林|1979}}|author=大林太良|year=1979|title=神話の話|series=講談社学術文庫346|publisher=講談社|pages=67-73|asin=B000J8HXQW}}
* {{citation|和書|ref={{SfnRef|内田|1960}}|author=内田恵太郎|title=人魚考|journal=自然|volume=15|issue=8|publisher=中央公論社|year=1960|pages=42–47|doi=10.11501/2359570}}
* {{citation|和書|author=九頭見和夫|title=江戸時代以前の「人魚」像 : 日本における「人魚」像の原点へのアプローチ|trans-title= Das Bild der 〟Seejungfrau” vor der Edo-Zeit: Das Herantreten an den Ausgangspunkt des Bildes der 〟Seejungfrau” in Japan|url=https://hdl.handle.net/10270/500|ref={{SfnRef|九頭見|2006}}|journal=人聞発達文化学類論集|publisher=福島大学人間発達文化学類|issue=4|year=2006|pages=51–61|issn=1880-3903|hdl=10270/500|CRID=1050845762681353344}}
*{{Cite book|和書|ref={{SfnRef|高馬|1994}}|author=高馬三良|date=1994-01-14|title=山海経 中国古代の神話世界|publisher=平凡社|series=平凡社ライブラリー34|isbn=4-582-76034-1}}
* {{citation|和書|ref={{SfnRef|中野|1983}}|author=中野美代子|title=中国の妖怪|publisher=岩波書店|series=岩波新書|year=1983|pages=140–143}}
*{{citation|和書|author=増子和男|ref={{SfnRef|増子|1999}}|title=唐代伝奇「陸顕伝」に関する一考察(中)|url=https://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/1133|journal=日本文学研究|volume=34|publisher=梅光女学院大学日本文学会|date=1999-01|pages=113–124|issn=0286-2948|CRID=1050845762372526720
}}
* {{citation|和書|author=松岡正子|ref={{SfnRef|松岡|1982}}|title=「人魚傳説」―『山海經』を軸として―|trans-title=Mermaid Legends Told Mainly in Shan-hai jing|journal=中國文學研究<!--Journal of Waseda University Society of Chinese Literature-->|url=https://hdl.handle.net/2065/35194|volume=8<!--第8期-->|publisher=早稻田大學中國文學會|date=1982-12-01|issn=0385-0919|pages=49–66|hdl=2065/35194|CRID=1050001202507336704}}
*{{citation|和書|ref={{SfnRef|南方|1951}}|author=南方熊楠|editor=渋沢敬三|chapter=猴(申年)|title=南方熊楠全集. 第2巻 (十二支考 第2)|publisher=乾元社|year=1951|doi=10.11501/2941217}}
*{{citation|和書|author=藪田嘉一郎|ref={{SfnRef|藪田|1976}}|chapter=白水郎考|title=日本古代文化と宗敎|publisher=平凡社|year=1976|<!---pages=135– --->}}
* {{citation|和書|author=吉岡郁夫|ref={{SfnRef|吉岡|1993}} |title=<論文>人魚の進化 |url=https://hdl.handle.net/2241/14286 |journal=比較民俗研究 |ISSN=0915-7468 |publisher=比較民俗研究会 |date=1993-09 |volume=8 |pages=35-47 |hdl=2241/14286 |CRID=1050282677529294080}}<!--論文公開にはつくばリポジトリを使用しているが、研究会は神奈川大学大学院にある http://hikakuminzok.html.xdomain.jp/about.html -->
*{{cite book|和書|author=朱鷺田祐介|date=2006-12-04|title=海の神話|publisher=新紀元社|series=Truth In Fantasy 73|ref={{SfnRef|朱鷺田|2006}}|isbn=978-4-7753-0494-5}}
*{{cite video|和書|people=サリー・ホーキンス(出演), マイケル・シャノン(出演), ギレルモ・デル・トロ(監督)|ref={{SfnRef|トロ|2018}}|date=2018-12-05
|title=シェイプ・オブ・ウォーター オリジナル無修正版|medium=DVD|language=英語, 日本語|publisher=20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン|asin= B07HCV78Z9|jan=4988142420312}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mermen}}
* [[人魚]]
* [[サハギン]]
* [[ハンギョドン]] - [[サンリオ]]のキャラクター。
* [[ギルマン]] - 『[[大アマゾンの半魚人]]』と、その続編に登場する水棲のモンスター。
* [[深きものども]] - 『[[クトゥルフ神話]]』作品に登場する半魚人。
* [[シェイプ・オブ・ウォーター]] - 捕らわれたアマゾンの半魚人と清掃係の女性のラブストーリー映画。
* [[ラゴン (ウルトラ怪獣)]] - 『[[ウルトラQ]]』などに登場した海底原人。
* [[フィッシュマン]] - 半魚人のリングネームを持つプロレスラー。
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんきよしん}}
[[Category:神話・伝説の合成獣]]
[[Category:神話・伝説の人型生物]]
[[Category:神話・伝説の水生生物]]
[[Category:人魚]]
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理性
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理性(りせい、希: λόγος、羅: ratio、仏: raison、英: reason、独: Vernunft)とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。知識・認識や判断の源泉として、この理性に依拠する態度を理性主義と言う。
知性と理性の区別はギリシア哲学におけるヌース(知・叡智)とディアノイア(dia 経由して + noia 知: 間接知・推論知)の区別に基本的には由来する。また、古典ギリシア語では論理と理性を表す語はともにロゴスであったが、このロゴスという語は古典ギリシア語で元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ日常語であったratioがロゴスの訳語とされ、ロマンス語や英語で理性を意味する語もその流れを引き継いだ。セネカによればこれはキケロによる訳語であるという。
こうした語の由来は、西欧の伝統において、理性や論理を類比的な方法・秩序として考える傾向をもたらした。こうした、理性的推論を比例モデルで理解する時一番典型的なのが、三角測量や、特定の時刻での影の長さと棒との比例関係から、直接計れないピラミッドの高さを、その影の長さを基にして推論するような場合である。
現代の英米圏の哲学(分析哲学)にしばしば見られるように、理性は日常的に悟性(狭義の知性)と混同した用法で(広義の知性として)使われるが、スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。
ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。
理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。
一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は知覚に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。刑法など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。
そして、カントが主張するような道徳法則を指定する実践理性については全く否定している。経験的に見ても人間がそのような高尚な能力をもっていないのは明らかであるし、一見「道徳性」のように見える行動も、大抵は他者から報復を受けることへの恐怖や、刑罰による恐れなど、いわば渋々自らの欲求を抑えているにすぎないのが実際であるから。このような未来への憂慮といった抽象的認識も理性によるもので、そうであれば理性は直接的に本来の道徳性に寄与するものではない。むしろ理性(つまり抽象的認識)の使い方如何によっては、例えば大量虐殺など、計画的活動による極めて大きな悪を実行することが可能であり、歴史においてしばしばこの例が実証されている。「世界理性」などは論外であり、彼によると最も野蛮な宗教の一つであるユダヤ教の教義に基づく妄想である。
理性(あるいは高次の認知能力)は伝統的に、感覚(senses)、感情・情動(feelings、emotions)、情念(passions)等と対比的に用いられてきた。理性は純粋に精神的能力であり、情動は肉体的な作用であると考えられることもあった。例えば、非常に騒がしい場所にいる時やひどく悲しんでいる時には理性的な判断を下すのが困難になる。
近年、行動経済学と実験心理学は理性的な熟慮がかならずしも合理的な判断を引き起こさないことを示した(認知バイアス)。心理学の機能主義学派は情動をヒトの生存と結びついていると考えていたが、同様に進化心理学は認知バイアスや情動的直観が必ずしも不合理ではなく、特に我々の祖先の時代の環境では合理的な判断に結びついていた可能性を示した。これは理性と情動・感情が相互作用的または並列的に判断や意思決定に関わっていることを示唆する。これは二重過程理論あるいは二重プロセスモデルと呼ばれている。スタノヴィッチはこれまでに提案された二重プロセスモデルに類似したモデルを列挙している。それらは詳細は異なるが、次のような共通点を持つ。
二つのシステムがどのように相互作用するかには、これらのモデルの提唱者の間でも合意がない。状況や判断の内容によってもことなる可能性がある。
理性には限界があるのではないかという議論がある。 その例として、哲学者のカントは二律背反を指摘している。アローの不可能性定理、囚人のジレンマ(選択の限界)、ハイゼンベルクの不確定性原理(科学の限界)、ゲーデルの不完全性定理(知識の限界)などもその例として挙げられる。ただし実際の不完全性定理が示したものは、数学用語の意味での「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である。
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"text": "理性(りせい、希: λόγος、羅: ratio、仏: raison、英: reason、独: Vernunft)とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。知識・認識や判断の源泉として、この理性に依拠する態度を理性主義と言う。",
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] |
理性とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。知識・認識や判断の源泉として、この理性に依拠する態度を理性主義と言う。
|
{{複数の問題
|出典の明記=2016年7月2日 (土) 10:06 (UTC)
|独自研究=2016年7月2日 (土) 10:06 (UTC)}}
'''理性'''(りせい、{{lang-el-short|λόγος}}、{{lang-la-short|ratio}}、{{lang-fr-short|raison}}、{{lang-en-short|reason}}、{{lang-de-short|Vernunft}})とは、[[人間]]に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば[[推論]](reasoning)能力である。[[知識]]・[[認識]]や[[判断]]の源泉として、この理性に依拠する態度を[[理性主義]]と言う。
== 哲学における理性 ==
{{詳細記事|理性主義}}
知性と理性の区別はギリシア哲学における[[ヌース]](知・叡智)とディアノイア(dia 経由して + noia 知: 間接知・推論知)の区別に基本的には由来する。また、古典ギリシア語では論理と理性を表す語はともに[[ロゴス]]であったが、このロゴスという語は古典ギリシア語で元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ日常語であったratioがロゴスの訳語とされ、[[ロマンス語]]や英語で理性を意味する語もその流れを引き継いだ。[[セネカ]]によればこれは[[キケロ]]による訳語であるという。
こうした語の由来は、西欧の伝統において、理性や論理を類比的な方法・秩序として考える傾向をもたらした。こうした、理性的推論を比例モデルで理解する時一番典型的なのが、三角測量や、特定の時刻での影の長さと棒との比例関係から、直接計れないピラミッドの高さを、その影の長さを基にして推論するような場合である。
現代の英米圏の哲学([[分析哲学]])にしばしば見られるように、理性は日常的に[[悟性]](狭義の知性)と混同した用法で(広義の知性として)使われるが、[[スコラ学|スコラ哲学]]以来の[[西洋哲学]]の伝統では「推論・[[論証]]的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての[[悟性]]」とを区別するのが普通である(明晰性、[[妥当性]]は前者に、直観は後者に属する)。
===ショーペンハウアーによる定義===
ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である[[概念]]を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、[[知覚]]、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を[[脳]]が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた[[客観]]世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。
理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識([[悟性]]・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。[[ツバメ]]の営巣や[[クモ]]の巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、[[本能]]によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。
一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は[[知覚]]に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。[[刑法]]など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。
そして、[[カント]]が主張するような道徳法則を指定する実践理性については全く否定している。経験的に見ても人間がそのような高尚な能力をもっていないのは明らかであるし、一見「道徳性」のように見える行動も、大抵は他者から報復を受けることへの恐怖や、刑罰による恐れなど、いわば渋々自らの欲求を抑えているにすぎないのが実際であるから。このような未来への憂慮といった抽象的認識も理性によるもので、そうであれば理性は直接的に本来の道徳性に寄与するものではない。むしろ理性(つまり抽象的認識)の使い方如何によっては、例えば大量虐殺など、計画的活動による極めて大きな悪を実行することが可能であり、歴史においてしばしばこの例が実証されている。「世界理性」などは論外であり、彼によると最も野蛮な宗教の一つである[[ユダヤ教]]の教義に基づく妄想である。
==理性と情動==
理性(あるいは高次の認知能力)は伝統的に、[[感覚]](senses)、[[感情]]・情動(feelings、emotions)、[[情念]](passions)等と対比的に用いられてきた。理性は純粋に精神的能力であり、情動は肉体的な作用であると考えられることもあった。例えば、非常に騒がしい場所にいる時やひどく悲しんでいる時には理性的な判断を下すのが困難になる。
近年、[[行動経済学]]と[[実験心理学]]は理性的な熟慮がかならずしも合理的な判断を引き起こさないことを示した([[認知バイアス]])。心理学の[[機能主義 (心理学)|機能主義学派]]は情動をヒトの生存と結びついていると考えていたが、同様に[[進化心理学]]は認知バイアスや情動的直観が必ずしも不合理ではなく、特に我々の祖先の時代の環境では合理的な判断に結びついていた可能性を示した。これは理性と情動・感情が相互作用的または並列的に判断や[[意思決定]]に関わっていることを示唆する。これは[[二重過程理論]]あるいは二重プロセスモデルと呼ばれている<ref>キース・スタノヴィッチ『心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性』椋田直子訳、[[みすず書房]]、2008年。ISBN 9784622074212。</ref>。スタノヴィッチはこれまでに提案された二重プロセスモデルに類似したモデルを列挙している。それらは詳細は異なるが、次のような共通点を持つ。
*情動システム(システム1)-即座に働き、短期的な利益(主に生存・繁殖)に関わり、主に[[大脳辺縁系]]に司られている。進化的な起源は古い。
*理性的システム(システム2)-ゆっくりと働き、長期的な利益を勘案することができ、主に[[大脳新皮質]]に司られている。[[進化|進化的な起源]]は比較的新しい。
二つのシステムがどのように相互作用するかには、これらのモデルの提唱者の間でも合意がない。状況や判断の内容によってもことなる可能性がある。
==理性の限界==
理性には限界があるのではないかという議論がある。
その例として、哲学者の[[カント]]は[[二律背反]]を指摘している。[[ケネス・アロー|アロー]]の[[アローの不可能性定理|不可能性定理]]、[[囚人のジレンマ]](選択の限界)、[[ハイゼンベルク]]の[[不確定性原理]](科学の限界)、[[ゲーデルの不完全性定理]](知識の限界)などもその例として挙げられる<ref>[[高橋昌一郎]]『理性の限界-不可能性・不確定性・不完全性』講談社、2008年。ISBN 9784062879484。</ref>。ただし実際の不完全性定理が示したものは、数学用語の意味での「特定の[[形式体系]]Pにおいて決定不能な[[命題]]の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である{{sfn|フランセーン|2011|p=230}}。
{{See also|[[ゲーデルの不完全性定理#不完全性定理が成立しない体系|不完全性定理が成立しない体系]]|ゲーデルの完全性定理}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参照文献 ==
*{{Cite book
|和書
|last=フランセーン
|first=トルケル
|translator=田中一之
|date=2011-03-25
|title=ゲーデルの定理:利用と誤用の不完全ガイド
|publisher=みすず書房
|isbn=978-4-622-07569-1
|ref=harv}}
==関連項目==
*[[理性主義]]
**[[合理主義哲学]]
**[[ドイツ観念論]]
*[[技術知]]
*[[感情]]
*[[認知科学]]
*[[暗黙知]]
{{自然法論のテンプレート}}
{{DEFAULTSORT:りせい}}
[[Category:理性|*]]
[[Category:古代ギリシア形而上学の概念]]
[[Category:古代ギリシアにおける心の哲学の概念]]
[[Category:認知科学]]
[[Category:認識論]]
[[Category:論理学の概念]]
[[Category:メタ哲学の概念]]
[[Category:信念]]
[[Category:思考]]
[[Category:哲学の和製漢語]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%80%A7
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14,240 |
北京語
|
北京語(ペキンご、中: 北京话、英: Beijing dialect, Pekingese)は、中国の北京で話される中国語の方言。中華民国では北平語などと呼ばれたこともある。北方方言に属する。
普通話、国語、華語などと呼ばれる現代標準中国語は北京の発音を基本としており、これを俗に北京語と呼ぶ場合もあるが、方言としての北京語とは完全に同じではない。普通話は文言(漢文)の語彙語法を取り込んだ教養ある知識人の北京語(官話)を基準にしており、北京の街角で話される日常語とは違いがある。
北京語は北京市の市街地で話されるものを指し、北京市郊外のものは含まれない。北方方言の下位方言である華北方言(北京官話)に属する。中国では俗に北京語あるいは北京語なまりの普通話のことを「京片子(拼音: Jīng piànzi)」と呼んでいる。
北京は、春秋戦国時代には小国燕の首都薊(けい)であった。秦・漢時代に北平(ほくへい)と呼ばれるようになり、隋代には大運河の起点となるなど、要所となった。五代十国時代に、内モンゴルから南下してきた遼帝国は燕雲十六州の割譲を受け、副都の一つ南京とした。金が遼を滅ぼすと、ここに遷都して中都とした。元も金を滅ぼして大都と改称して、都とした。明が元を追い出した後、都はいったん南京に移され、北平の名に戻されたが、朱棣(後の永楽帝)によって都を戻し北京が復活した。中華民国も北京を首都としたが、蔣介石の中国国民党政権は、南京を首都として、北京を北平と改称した。中華人民共和国成立後、再び首都北京となり、今に至っている。このように、北京は金以来の首都として、全国から人が集まる場所であったが、北方民族の支配を長く受けたために、文法や語彙に北方諸語の影響が見られる。一方、全国から官吏を集めるための科挙制度も、都北京の言葉によって行われていたため、全国の為政者や知識人に影響を与える言葉となっていた。
このため、北京語は民国期に公用語として創られた国語の基となっており、その国語を基に中華人民共和国の標準語である普通話が創られた。ただし語彙語法に文言の要素が少なからず加えられている。現在の中華民国(台湾)で使用されている国語は普通話と基本的に同一言語であるが、両国の言語政策・文化的差異によって語彙などに差異が見られ、発音にも多少の違いがある。華人社会では華語とも呼ばれる。
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北京語は、中国の北京で話される中国語の方言。中華民国では北平語などと呼ばれたこともある。北方方言に属する。 普通話、国語、華語などと呼ばれる現代標準中国語は北京の発音を基本としており、これを俗に北京語と呼ぶ場合もあるが、方言としての北京語とは完全に同じではない。普通話は文言(漢文)の語彙語法を取り込んだ教養ある知識人の北京語(官話)を基準にしており、北京の街角で話される日常語とは違いがある。 北京語は北京市の市街地で話されるものを指し、北京市郊外のものは含まれない。北方方言の下位方言である華北方言(北京官話)に属する。中国では俗に北京語あるいは北京語なまりの普通話のことを「京片子」と呼んでいる。
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'''北京語'''(ペキンご、{{lang-zh-short|北京话}}、{{lang-en-short|Beijing dialect, Pekingese}})は、[[中華人民共和国|中国]]の[[北京市|北京]]で話される[[中国語]]の[[方言]]。[[中華民国]]では'''北平語'''などと呼ばれたこともある。[[官話|北方方言]]に属する。
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北京語は[[北京市]]の市街地で話されるものを指し、北京市郊外のものは含まれない。北方方言の下位方言である[[華北方言]](北京官話)に属する。中国では俗に北京語あるいは北京語なまりの[[普通話]]のことを「{{lang|zh|京片子}}({{ピン音|Jīng piànzi}})」と呼んでいる。
== 歴史 ==
北京は、[[春秋戦国時代]]には小国[[燕 (春秋)|燕]]の首都'''薊'''(けい)であった。[[秦]]・[[漢]]時代に'''北平'''(ほくへい)と呼ばれるようになり、[[隋]]代には[[大運河]]の起点となるなど、要所となった。[[五代十国時代]]に、[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]から南下してきた[[遼]]帝国は[[燕雲十六州]]の割譲を受け、副都の一つ'''南京'''とした。[[金 (王朝)|金]]が遼を滅ぼすと、ここに遷都して'''中都'''とした。[[元 (王朝)|元]]も金を滅ぼして'''大都'''と改称して、都とした。[[明]]が元を追い出した後、都はいったん[[南京市|南京]]に移され、北平の名に戻されたが、朱棣(後の[[永楽帝]])によって都を戻し'''北京'''が復活した。[[中華民国の歴史|中華民国]]も北京を首都としたが、[[蔣介石]]の[[中国国民党]]政権は、[[南京市|南京]]を首都として、北京を'''北平'''と改称した。[[中華人民共和国]]成立後、再び首都北京となり、今に至っている。このように、北京は金以来の首都として、全国から人が集まる場所であったが、北方民族の支配を長く受けたために、[[文法]]や[[語彙]]に北方諸語の影響が見られる。一方、全国から官吏を集めるための[[科挙]]制度も、都北京の言葉によって行われていたため、全国の為政者や知識人に影響を与える言葉となっていた。
このため、北京語は[[中華民国の歴史|民国期]]に公用語として創られた'''国語'''の基となっており、その国語を基に[[中華人民共和国]]の標準語である'''[[普通話]]'''が創られた。ただし語彙語法に文言の要素が少なからず加えられている。現在の[[中華民国]]([[台湾]])で使用されている国語は普通話と基本的に同一言語であるが、両国の言語政策・文化的差異によって語彙などに差異が見られ、発音にも多少の違いがある。[[華人]]社会では'''華語'''とも呼ばれる。
== 特徴 ==
* [[児化]]:北京語は他の中国語方言に比べ[[母音]]をそり舌で調音する[[r化音]]が多用される。例えば、普通話で「今日」を意味する「{{lang|zh-cn|今天}} ( {{unicode|jīntiān}})」は、「{{lang|zh-cn|今儿}} ({{unicode|jīnr}}) 」と発音される。
* 音節末の[[歯茎鼻音]] {{IPA|n}} の代わりに[[鼻母音]] {{IPA|ɨ̃}} が使われる。
* 発音の簡略化([[声調]]が四声しかない・[[入声]]の消滅)
* 独特な語彙{{要出典|({{lang|zh|馬上}} 「すぐに」、{{lang|zh|去}} 「行く」、{{lang|zh|喫}} 「食べる」、{{lang|zh|站}} 「駅」 など)。 これらの要素の一部は、中国北方民族諸語([[アルタイ諸語]])|date=2021年2月20日}}の影響と考えられる。
* 漢字に当てはめられないスラングなどもあり、現代においては[[アルファベット]]で表記されるのが普通である。
== 関連項目 ==
* [[北京市|北京]]
* [[中国語]]
* [[普通話]]
* [[国語 (中国語)]]
* [[官話]]
** [[膠遼官話]]
** [[東北官話]]
** [[冀魯官話]]
** [[西南官話]]
* [[上海語]]
* [[広東語]]
{{中国語}}
{{DEFAULTSORT:へきんこ}}
[[Category:中国語]]
[[Category:中国語の方言]]
[[Category:中国の言語]]
[[Category:北京市の文化]]
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2003-08-28T03:19:19Z
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2023-10-25T00:01:32Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AA%9E
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14,241 |
華僑
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華僑(かきょう)とは、かつて中国に生まれて後に外国に移住していた人々やその子孫のこと。「華僑」の元の意味は、本籍地を離れて異国を流浪する華人の意である。殆どは19世紀以後西洋の植民地において奴隷として移住された人の子孫である。
※国際連合の定義の中国とは、中国本土を実質支配する政府であることを指す。すなわち、初期は中華民国(1949年まで)、現在は中華人民共和国(1949年以降)と認めている。
中華人民共和国の中国共産党政府からの解釈では、「中国大陸本土・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称とされている。外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある。なお、前政党である中華民国が支配している台湾島も”固有領土”として含まれるが、実質的な行政管理権もなく、国際間の外交関係もそれぞれ異なる。
日本国内においては基本的に国籍で見るのが一般であるため、華僑と華人という言い方はあまり馴染んていない。そのため、中華人民共和国政府から発行したパスポートを持つ人々は中国人、中華民国(台湾)政府から発行したパスポートを持つ人々は台湾人とそれぞれ認識されている。
※現在では、お互いのパスポートでそのまま入国することはできず、改めて入国専用の身分証を作る必要がある。
華人と混同される場合があるが、それぞれに異なる概念である。華僑とは台湾、中国、東南アジアの中国移住者が海外に長期滞在の者であり、華人とは他国に帰化した者を指す。また、ハングリー精神を持つ華僑は、商売経営に成功した者が多く、第二次世界大戦までその経済基盤からの本国への送金によって、中華民国の国際収支の重要な要素となっている。その華僑・華人の子孫は「華裔」と呼ばれる。
華僑はマイノリティながら、同郷者で形成されるコミュニティーと、これをもとにした同業者の集団ができあがり、現地の経済・政治に大きな影響力を持つことが多い。同業者の集団ができあがるのは、先行して商売を始めた経営者が、同郷の人を雇い、やがては独立して同業を行うことが繰り返されやすいことによる。経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになり、政治面での例としてタイの王室・タクシン元首相及びその妹のインラック元首相、リー・クアンユー元シンガポール首相、コラソン・アキノ元フィリピン大統領、ミャンマーのネ・ウィン元首相、テイン・セイン元大統領は華僑の血を引いている。
華僑は容易に相手を信頼しないかわり、一旦信頼したらとことん信頼するといわれ、それが彼らの団結力の背景にもなっている。彼らは友人を大切にする。
広義的に、数千年の歴史と文字がある中国語は公式言語だが、日本と同じく地域によってそれぞれの方言が存在している。例えば、
などが別々に同郷人のコミュニティーを形成してきた。出身地の方言の他、海外居住地域の言語を用いるのが普通であるが、近年には北京語や英語も広く用いられるようになっている。
華僑の概念をひろくとれば、歴史的に多くの華僑が日本にもわたってきている。元寇で捕虜となったが、日本側から許された南宋人らは博多の唐人町などに居住した。また、明・清における海禁のもとで密貿易を行い財をなした後期倭寇の中国人も華僑の多くと同様に浙江・福建・広東出身者が多く(後期倭寇は華僑の走りとも解釈できる)、中には王直のように日本に渡ってくるものもいた。
江戸時代の鎖国政策により、長崎には中国人住居地区である唐人屋敷が作られた。1635年、江戸幕府は中国商船の入港を長崎一港に制限する措置を取ったが、中国人は長崎市内雑居を許されていた。しかし、密貿易が増加したため、長崎奉行所では中国人の居住地区も制限することになり、1688年長崎郊外にある十善寺郷に幕府が所有する御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年完成した。広さは約9,400坪に及び、2,000人程度の収容能力をもった。周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りが監視されたが、出島のオランダ人が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許された。
以下の関連記事も参照。
第二次世界大戦直前の時期においても日本には相当数の華僑が在住していた。1941年(昭和16年)5月19日に長崎市で開催された全日本華僑総会常年大会では「在日華僑十万」という表現が用いられていた。
現在、日本においても多くの華僑が存在し、主に経済や文化芸能の方面で活躍が見られる。女優の鳳蘭、野球の王貞治、経済評論家の邱永漢、インスタントラーメンの発明者である安藤百福(呉百福、戦後の一時期)、囲碁の呉清源(戦後の一時期)、小説家の陳舜臣、料理家の周富徳・富輝兄弟、歌手のジュディ・オング(翁倩玉)、アグネス・チャン(陳美齢)、画家の王少飛などが有名である。
横浜、神戸、長崎には中華街が形成されている(中華街#日本の中華街)ほか、横浜、神戸、東京、大阪などに中華学校が存在する。ほか、神戸華僑歴史博物館や横浜華僑青年会龍獅團、日本華僑華人学会などもある。
日本の外国人政策や中国の政治事情の変化から、日本に移住する中国人は、1970年代後半から急増し、20年で4倍以上に増えた。 以前から日本に長らく在住する中国人やその子孫を老華僑、改革開放以後に日本に移住した中国人を新華僑とも呼ぶ。
中国明代には、海禁策を発布し民衆による事実上の海上利用制限政策をとったが、大航海時代到来によりヨーロッパ諸国への植民地からのヘイトを緩和するために、華僑に特権を与えて植民地の管理をまかされ、アジア地域の変動や明代末の混乱等から、明の移民船と記録に残るほど東南アジア各地への移民が全盛を極めたとされる。
乾隆5年(1740年)10月、中華人移民に友好政策をとっていたオランダ統治下のジャワ(現インドネシア)において、明末混乱期から続々と流入し増加した華僑と現地住民及び政府との摩擦が発生、華僑による暴動が発生し、動乱鎮圧のための華僑虐殺などが発生、友好政策下のオランダ総督府との間に遺恨を残すなどの象徴的な事件があった。
明は海外の華僑暴動等を静観したが、清の時代になると「人民にして海外に在るものは、盗に通じ敵に通じる罪、斬首に処す」と通商上の理由から海外華僑にも厳重に刑し、事実上の移民抑圧政策に移行、それによって渡航する華僑の数が減少した。
政情が不安定になった20世紀初頭の清末には海外に逃れる中華人も増加、フランス領インドシナを中心に主に英領インド及び英領マレイ、フィリピンなどの主に植民地地域において農業、漁業、貿易、建築等に従事した。中でもフランス領インドシナにおける華僑は、国民党を支持し、政治的影響力もあるほどになったとされている。
移民先では同郷意識が堅固で一定の地域に集団で居住する場合が多く、福建省から移住した中華人はベトナムの西貢やチョロン地区で農産物加工工場などの経営、広東出身の中華人は同地域で米、材木、石炭、ジャンク製造、獣骨、雌黄など主に農産物の輸出に従事するなど、商業においても出身地域による相互協力を構築していった。
東南アジアにおいても、歴史的経緯から日本の中華街と同様に華僑は華南地方出身が多いとされる。もともとは、海南島(現海南省)を含む広東省や福建省の出身者が多いが、最近は上海や北京周辺や、中華民国(台湾)の出身者も増加している。
全般的に東南アジアの華僑人口は増加しているが、ベトナムとインドネシアの二国は戦乱や現地民との軋轢により、華僑が一時に比べ減少している。インドネシアでは1965年の9月30日事件で、特にベトナムからは1975年の中越戦争以降、110万人もの華僑がベトナム国外に脱出した。
マレーシアには華僑系住民が多数いる。
タイにも華僑は存在している。
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"text": "華僑(かきょう)とは、かつて中国に生まれて後に外国に移住していた人々やその子孫のこと。「華僑」の元の意味は、本籍地を離れて異国を流浪する華人の意である。殆どは19世紀以後西洋の植民地において奴隷として移住された人の子孫である。",
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"text": "※国際連合の定義の中国とは、中国本土を実質支配する政府であることを指す。すなわち、初期は中華民国(1949年まで)、現在は中華人民共和国(1949年以降)と認めている。",
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"text": "中華人民共和国の中国共産党政府からの解釈では、「中国大陸本土・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称とされている。外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある。なお、前政党である中華民国が支配している台湾島も”固有領土”として含まれるが、実質的な行政管理権もなく、国際間の外交関係もそれぞれ異なる。",
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"text": "日本国内においては基本的に国籍で見るのが一般であるため、華僑と華人という言い方はあまり馴染んていない。そのため、中華人民共和国政府から発行したパスポートを持つ人々は中国人、中華民国(台湾)政府から発行したパスポートを持つ人々は台湾人とそれぞれ認識されている。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "※現在では、お互いのパスポートでそのまま入国することはできず、改めて入国専用の身分証を作る必要がある。",
"title": "定義"
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"text": "華人と混同される場合があるが、それぞれに異なる概念である。華僑とは台湾、中国、東南アジアの中国移住者が海外に長期滞在の者であり、華人とは他国に帰化した者を指す。また、ハングリー精神を持つ華僑は、商売経営に成功した者が多く、第二次世界大戦までその経済基盤からの本国への送金によって、中華民国の国際収支の重要な要素となっている。その華僑・華人の子孫は「華裔」と呼ばれる。",
"title": "華僑と華人"
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"text": "華僑はマイノリティながら、同郷者で形成されるコミュニティーと、これをもとにした同業者の集団ができあがり、現地の経済・政治に大きな影響力を持つことが多い。同業者の集団ができあがるのは、先行して商売を始めた経営者が、同郷の人を雇い、やがては独立して同業を行うことが繰り返されやすいことによる。経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになり、政治面での例としてタイの王室・タクシン元首相及びその妹のインラック元首相、リー・クアンユー元シンガポール首相、コラソン・アキノ元フィリピン大統領、ミャンマーのネ・ウィン元首相、テイン・セイン元大統領は華僑の血を引いている。",
"title": "コミュニティの形成と現地社会への進出"
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"text": "華僑は容易に相手を信頼しないかわり、一旦信頼したらとことん信頼するといわれ、それが彼らの団結力の背景にもなっている。彼らは友人を大切にする。",
"title": "コミュニティの形成と現地社会への進出"
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"text": "広義的に、数千年の歴史と文字がある中国語は公式言語だが、日本と同じく地域によってそれぞれの方言が存在している。例えば、",
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"text": "などが別々に同郷人のコミュニティーを形成してきた。出身地の方言の他、海外居住地域の言語を用いるのが普通であるが、近年には北京語や英語も広く用いられるようになっている。",
"title": "言語"
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"text": "華僑の概念をひろくとれば、歴史的に多くの華僑が日本にもわたってきている。元寇で捕虜となったが、日本側から許された南宋人らは博多の唐人町などに居住した。また、明・清における海禁のもとで密貿易を行い財をなした後期倭寇の中国人も華僑の多くと同様に浙江・福建・広東出身者が多く(後期倭寇は華僑の走りとも解釈できる)、中には王直のように日本に渡ってくるものもいた。",
"title": "日本の華僑"
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"text": "江戸時代の鎖国政策により、長崎には中国人住居地区である唐人屋敷が作られた。1635年、江戸幕府は中国商船の入港を長崎一港に制限する措置を取ったが、中国人は長崎市内雑居を許されていた。しかし、密貿易が増加したため、長崎奉行所では中国人の居住地区も制限することになり、1688年長崎郊外にある十善寺郷に幕府が所有する御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年完成した。広さは約9,400坪に及び、2,000人程度の収容能力をもった。周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りが監視されたが、出島のオランダ人が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許された。",
"title": "日本の華僑"
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"text": "以下の関連記事も参照。",
"title": "日本の華僑"
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"text": "第二次世界大戦直前の時期においても日本には相当数の華僑が在住していた。1941年(昭和16年)5月19日に長崎市で開催された全日本華僑総会常年大会では「在日華僑十万」という表現が用いられていた。",
"title": "日本の華僑"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "現在、日本においても多くの華僑が存在し、主に経済や文化芸能の方面で活躍が見られる。女優の鳳蘭、野球の王貞治、経済評論家の邱永漢、インスタントラーメンの発明者である安藤百福(呉百福、戦後の一時期)、囲碁の呉清源(戦後の一時期)、小説家の陳舜臣、料理家の周富徳・富輝兄弟、歌手のジュディ・オング(翁倩玉)、アグネス・チャン(陳美齢)、画家の王少飛などが有名である。",
"title": "日本の華僑"
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"text": "横浜、神戸、長崎には中華街が形成されている(中華街#日本の中華街)ほか、横浜、神戸、東京、大阪などに中華学校が存在する。ほか、神戸華僑歴史博物館や横浜華僑青年会龍獅團、日本華僑華人学会などもある。",
"title": "日本の華僑"
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"text": "日本の外国人政策や中国の政治事情の変化から、日本に移住する中国人は、1970年代後半から急増し、20年で4倍以上に増えた。 以前から日本に長らく在住する中国人やその子孫を老華僑、改革開放以後に日本に移住した中国人を新華僑とも呼ぶ。",
"title": "日本の華僑"
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"text": "中国明代には、海禁策を発布し民衆による事実上の海上利用制限政策をとったが、大航海時代到来によりヨーロッパ諸国への植民地からのヘイトを緩和するために、華僑に特権を与えて植民地の管理をまかされ、アジア地域の変動や明代末の混乱等から、明の移民船と記録に残るほど東南アジア各地への移民が全盛を極めたとされる。",
"title": "東南アジアの華僑"
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"text": "乾隆5年(1740年)10月、中華人移民に友好政策をとっていたオランダ統治下のジャワ(現インドネシア)において、明末混乱期から続々と流入し増加した華僑と現地住民及び政府との摩擦が発生、華僑による暴動が発生し、動乱鎮圧のための華僑虐殺などが発生、友好政策下のオランダ総督府との間に遺恨を残すなどの象徴的な事件があった。",
"title": "東南アジアの華僑"
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"text": "明は海外の華僑暴動等を静観したが、清の時代になると「人民にして海外に在るものは、盗に通じ敵に通じる罪、斬首に処す」と通商上の理由から海外華僑にも厳重に刑し、事実上の移民抑圧政策に移行、それによって渡航する華僑の数が減少した。",
"title": "東南アジアの華僑"
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"text": "政情が不安定になった20世紀初頭の清末には海外に逃れる中華人も増加、フランス領インドシナを中心に主に英領インド及び英領マレイ、フィリピンなどの主に植民地地域において農業、漁業、貿易、建築等に従事した。中でもフランス領インドシナにおける華僑は、国民党を支持し、政治的影響力もあるほどになったとされている。",
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"text": "移民先では同郷意識が堅固で一定の地域に集団で居住する場合が多く、福建省から移住した中華人はベトナムの西貢やチョロン地区で農産物加工工場などの経営、広東出身の中華人は同地域で米、材木、石炭、ジャンク製造、獣骨、雌黄など主に農産物の輸出に従事するなど、商業においても出身地域による相互協力を構築していった。",
"title": "東南アジアの華僑"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "東南アジアにおいても、歴史的経緯から日本の中華街と同様に華僑は華南地方出身が多いとされる。もともとは、海南島(現海南省)を含む広東省や福建省の出身者が多いが、最近は上海や北京周辺や、中華民国(台湾)の出身者も増加している。",
"title": "東南アジアの華僑"
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"text": "全般的に東南アジアの華僑人口は増加しているが、ベトナムとインドネシアの二国は戦乱や現地民との軋轢により、華僑が一時に比べ減少している。インドネシアでは1965年の9月30日事件で、特にベトナムからは1975年の中越戦争以降、110万人もの華僑がベトナム国外に脱出した。",
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"text": "マレーシアには華僑系住民が多数いる。",
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"text": "タイにも華僑は存在している。",
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華僑(かきょう)とは、かつて中国に生まれて後に外国に移住していた人々やその子孫のこと。「華僑」の元の意味は、本籍地を離れて異国を流浪する華人の意である。殆どは19世紀以後西洋の植民地において奴隷として移住された人の子孫である。 ※国際連合の定義の中国とは、中国本土を実質支配する政府であることを指す。すなわち、初期は中華民国(1949年まで)、現在は中華人民共和国(1949年以降)と認めている。
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分布図。凡例はファイルの説明ページ参照。
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| ref22 = <ref>{{Cite web |url=https://www.stats.govt.nz/information-releases/2018-census-totals-by-topic-national-highlights |title=Archived copy |accessdate=25 September 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190923102431/https://www.stats.govt.nz/information-releases/2018-census-totals-by-topic-national-highlights |archive-date=23 September 2019 |url-status=dead}}</ref>
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| languages = 主に[[中国語]]([[北京語]]「[[簡体字]]」・[[広東語]]「[[繁体字]]」・[[客家語]])などの諸方言<br />[[英語]]、[[ベトナム語]]、[[タイ語]]、[[マレー語]]、[[ミャンマー語]]、[[インドネシア語]]などの現地の言語
| religions = 主に[[仏教]]、[[道教]]、[[儒教]]<br />その他の宗教(多数の[[キリスト教]]、少数の[[イスラム教]]極めて少数の[[ユダヤ教]])
| related_groups =
| related-c = [[漢民族]]、[[客家]]人、[[中国人]]
}}
[[File:Brooklyn Chinatown.png|thumb|300px|チャイナタウン([[ニューヨーク市]]、[[ブルックリン区]])]]
[[File:East Timor hakka wedding.jpg|thumb|300px|漢民族の一支流である[[客家]]の結婚式([[東ティモール]])]]
[[File:Overseas Chinese Museum, Xiamen, China.JPG|thumb|300px|華僑博物館(厦門市)]]
'''華僑''' (かきょう) とは、かつて[[中華人民共和国|中国]]に生まれて後に[[外国]]に[[移住]]していた人々やその子孫のこと<ref name="koto">[https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%83%91-43500]</ref>。「華僑」の元の意味は、本籍地を離れて異国を流浪する華人の意である<ref name="koto"/>。殆どは19世紀以後西洋の植民地において奴隷として移住された人の子孫である。
※国際連合の定義の中国とは、中国本土を実質支配する政府であることを指す。すなわち、初期は[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国(1949年まで)]]、現在は中華人民共和国(1949年以降)と認めている。
== 定義 ==
[[中華人民共和国]]の[[中国共産党]]政府からの解釈では、「[[中国大陸|中国大陸本土]]・[[台湾]]・[[香港]]・[[マカオ]]以外の[[国家]]・[[地域]]に[[移住]]しながらも、[[中国]]の[[国籍]]を持つ[[漢民族]]」を指す呼称とされている。外国籍取得者の[[華人]]に対しても使用されることがある<ref>[https://web.archive.org/web/20100918094121/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0915&f=politics_0915_012.shtml 華僑議員が尖閣諸島は日本領土と発言=香港メディア] [[サーチナ (ポータルサイト)|サーチナ]] 2010/09/15</ref>。なお、前政党である[[中華民国]]が支配している[[台湾島]]も”固有領土”として含まれるが、実質的な行政管理権もなく、国際間の外交関係もそれぞれ異なる。
[[日本]]国内においては基本的に国籍で見るのが一般であるため、華僑と華人という言い方はあまり馴染んていない。そのため、[[中華人民共和国政府]]から発行した[[パスポート]]を持つ人々は[[中国人]]、中華民国(台湾)政府から発行したパスポートを持つ人々は[[台湾人]]とそれぞれ認識されている。
※現在では、お互いのパスポートでそのまま[[入国]]することはできず、改めて入国専用の[[身分証]]を作る必要がある。
== 華僑と華人 ==
'''[[華人]]'''と混同される場合があるが、それぞれに異なる概念である。華僑とは台湾、中国、東南アジアの中国移住者が海外に長期滞在の者であり<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%83%91-43500|title=華僑(読み)かきょう(英語表記)hua-qiao; Overseas Chinese|accessdate=2021年1月3日|publisher=朝日新聞社}}</ref>、華人とは他国に帰化した者を指す<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E4%BA%BA-462468|title=華人|accessdate=2021年1月3日|publisher=朝日新聞社}}</ref>。また、ハングリー精神を持つ華僑は、商売経営に成功した者が多く、[[第二次世界大戦]]までその経済基盤からの本国への送金によって、中華民国の[[国際収支]]の重要な要素となっている。その華僑・華人の子孫は「華裔」と呼ばれる。{{See|在日中国人|華人}}
==コミュニティの形成と現地社会への進出==
華僑は[[マイノリティ]]ながら、同郷者で形成される[[共同体|コミュニティー]]と、これをもとにした同業者の集団ができあがり、現地の経済・政治に大きな影響力を持つことが多い。同業者の集団ができあがるのは、先行して商売を始めた経営者が、同郷の人を雇い、やがては独立して同業を行うことが繰り返されやすいことによる。経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになり、政治面での例として[[タイ王国|タイ]]の[[チャックリー王朝|王室]]・[[タクシン・チナワット|タクシン]]元首相及びその妹の[[インラック・シナワトラ|インラック]]元首相、[[リー・クアンユー]]元[[シンガポール]]首相、[[コラソン・アキノ]]元[[フィリピン]]大統領、ミャンマーの[[ネ・ウィン]]元首相、[[テイン・セイン]]元大統領は華僑の血を引いている。
華僑は容易に相手を信頼しないかわり、一旦信頼したらとことん信頼するといわれ、それが彼らの団結力の背景にもなっている。彼らは友人を大切にする<ref>[[太田尚樹]] 『日本人と中国人はなぜ水と油なのか』 [[KKベストセラーズ]] 2011年</ref>。
==言語==
広義的に、数千年の歴史と文字がある[[中国語]]は公式言語だが、日本と同じく地域によってそれぞれの[[方言]]が存在している。例えば、
{| class="wikitable" style="background-color:white;"
|-
|広東人||[[広東省]][[広州市|広州]]周辺出身で[[広東語]]を話す
|-
|福建人/閩南人||[[福建省]]南部の[[泉州市|泉州]]、[[廈門市|廈門]]、[[漳州市|漳州]]周辺や[[台湾]]出身で福建語([[閩南語]])を話す
|-
|潮州人||[[潮州市|潮州]]や[[汕頭市|汕頭]]周辺の出身で[[潮州語]]を話す
|-
|[[客家|客家人]]||[[広東省]]東部の[[梅州市|梅州]]、[[陸豊市|陸豊]]、[[海豊県|海豊]]、[[福建省]]西部周辺や[[台湾]]出身で[[客家語]]を話す
|-
|海南人||現[[海南省]]出身
|-
|台山人/四邑人||[[台山市|台山]]や[[江門市|江門]]出身で[[台山語]]を話す
|-
|福州人||[[福州市|福州]]、[[福清市|福清]]周辺出身で[[福州語]]を話す
|-
|興化人||[[莆田市|莆田]]周辺出身で[[莆仙語|興化語]]を話す
|-
|寧波人||[[浙江省]][[寧波市|寧波]]周辺出身で[[寧波語]]を話す
|-
|温州人||[[温州市|温州]]周辺出身で[[温州語]]を話す
|}
などが別々に同郷人のコミュニティーを形成してきた。出身地の方言の他、海外居住地域の言語を用いるのが普通であるが、近年には[[北京語]]や[[英語]]も広く用いられるようになっている。
==日本の華僑==
===歴史===
華僑の概念をひろくとれば、歴史的に多くの華僑が日本にもわたってきている。[[元寇]]で[[捕虜]]となったが、日本側から許された[[南宋]]人らは[[博多]]の[[唐人町]]などに居住した。また、[[明]]・[[清]]における[[海禁]]のもとで密貿易を行い財をなした[[倭寇|後期倭寇]]の中国人も華僑の多くと同様に浙江・福建・広東出身者が多く(後期倭寇は華僑の走りとも解釈できる)、中には[[王直]]のように日本に渡ってくるものもいた。
{{See|日宋貿易|倭寇|海禁}}
[[江戸時代]]の[[鎖国]]政策により、[[長崎市|長崎]]には中国人住居地区である[[唐人屋敷]]が作られた。1635年、[[江戸幕府]]は中国商船の入港を長崎一港に制限する措置を取ったが、中国人は長崎市内雑居を許されていた。しかし、[[密貿易]]が増加したため、[[長崎奉行所]]では中国人の居住地区も制限することになり、[[1688年]]長崎郊外にある十善寺郷に幕府が所有する御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年完成した。広さは約9,400坪に及び、2,000人程度の収容能力をもった。周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りが監視されたが、[[出島]]の[[オランダ人]]が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許された。
以下の関連記事も参照。
*[[外国人居留地#居留地と華僑|居留地と華僑]]
*[[函館中華会館]](1910年に建設)
[[第二次世界大戦]]直前の時期においても日本には相当数の華僑が在住していた。[[1941年]](昭和16年)[[5月19日]]に[[長崎市]]で開催された全日本華僑総会常年大会では「在日華僑十万」という表現が用いられていた<ref>日中協力の近い、長崎で全日本華僑大会『福岡日日新聞』(昭和16年5月20日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p557 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
===現在===
{{See also|在日中国人|在日台湾人}}
[[画像:141114_Ran_Ohtori_at_Osaka_Japan02bs.jpg|thumb|280px|女優[[鳳蘭]]]]
[[ファイル:WBC2006 Sadaharu Oh.jpg|サムネイル|295x295ピクセル|王貞治]]
現在、日本においても多くの華僑が存在し、主に[[経済]]や[[文化_(代表的なトピック)|文化]][[芸能]]の方面で活躍が見られる。女優の[[鳳蘭]]、野球の[[王貞治]]、経済評論家の[[邱永漢]]、[[インスタントラーメン]]の発明者である[[安藤百福]](呉百福、戦後の一時期)、[[囲碁]]の[[呉清源]](戦後の一時期)、小説家の[[陳舜臣]]、料理家の[[周富徳]]・[[周富輝|富輝]]兄弟、歌手の[[ジュディ・オング]](翁倩玉)、[[アグネス・チャン]](陳美齢)、画家の[[王少飛]]などが有名である。
[[横浜市|横浜]]、[[神戸市|神戸]]、長崎には[[中華街]]が形成されている([[中華街#日本の中華街]])ほか、横浜、神戸、[[東京]]、[[大阪]]などに[[中華学校]]が存在する。ほか、[[神戸華僑歴史博物館]]や[[横浜華僑青年会龍獅團]]、[[日本華僑華人学会]]などもある。
日本の外国人政策や中国の政治事情の変化から、日本に[[移住]]する中国人は、[[1970年代]]後半から急増し、20年で4倍以上に増えた。 以前から日本に長らく在住する中国人やその子孫を'''老華僑'''、[[改革開放]]以後に日本に移住した中国人を'''新華僑'''とも呼ぶ。
==東南アジアの華僑==
===歴史===
中国[[明]]代には、[[海禁策]]を発布し民衆による事実上の海上利用制限政策をとったが、[[大航海時代]]到来によりヨーロッパ諸国への植民地からのヘイトを緩和するために、華僑に特権を与えて植民地の管理をまかされ、アジア地域の変動や明代末の混乱等から、明の移民船と記録に残るほど[[東南アジア]]各地への[[移民]]が全盛を極めたとされる。
乾隆5年([[1740年]])10月、中華人移民に友好政策をとっていた[[オランダ海上帝国|オランダ]]統治下の[[ジャワ]](現[[インドネシア]])において、明末混乱期から続々と流入し増加した華僑と現地住民及び政府との摩擦が発生、華僑による[[暴動]]が発生し、動乱鎮圧のための華僑虐殺などが発生、友好政策下の[[オランダ総督]]府との間に遺恨を残すなどの象徴的な事件があった。
明は海外の華僑暴動等を静観したが、[[清]]の時代になると「人民にして海外に在るものは、盗に通じ敵に通じる罪、斬首に処す」と通商上の理由から海外華僑にも厳重に[[刑]]し、事実上の[[移民政策|移民抑圧]]政策に移行、それによって渡航する華僑の数が減少した。
政情が不安定になった[[20世紀]]初頭の清末には海外に逃れる中華人も増加、[[フランス領インドシナ]]を中心に主に[[イギリス領インド帝国|英領インド]]及び[[イギリス領マラヤ|英領マレイ]]、[[フィリピン]]などの主に[[植民地]]地域において[[農業]]、[[漁業]]、[[貿易]]、[[建築]]等に従事した。中でも[[フランス領インドシナ]]における華僑は、国民党を支持し、政治的影響力もあるほどになったとされている。
移民先では同郷意識が堅固で一定の地域に集団で居住する場合が多く、[[福建省]]から移住した中華人は[[ベトナム]]の[[ホーチミン市|西貢]]や[[チョロン地区]]で農産物加工工場などの経営、[[広東]]出身の中華人は同地域で米、材木、石炭、[[ジャンク (船)|ジャンク]]製造、獣骨、雌黄など主に[[農産物]]の[[輸出]]に従事するなど、商業においても出身地域による相互協力を構築していった。
===現在===
[[画像:Wat_mangkon_kamalawat.jpg|thumb|280px|中国式の寺院、龍蓮寺<br />(タイ・バンコク)]]
東南アジアにおいても、歴史的経緯から日本の[[中華街]]と同様に華僑は[[華南]]地方出身が多いとされる。もともとは、[[海南島]](現[[海南省]])を含む[[広東省]]や[[福建省]]の出身者が多いが、最近は[[上海市|上海]]や[[北京市|北京]]周辺や、[[中華民国]](台湾)の出身者も増加している。
全般的に東南アジアの華僑人口は増加しているが、[[ベトナム]]と[[インドネシア]]の二国は戦乱や現地民との軋轢により、華僑が一時に比べ減少している。インドネシアでは[[1965年]]の[[9月30日事件]]で、特にベトナムからは[[1975年]]の[[中越戦争]]以降、110万人もの華僑がベトナム国外に脱出した。
[[マレーシア]]には華僑系住民が多数いる。{{Main|マレーシア#多民族国家・民族構成}}
[[タイ王国|タイ]]にも華僑は存在している。{{Main|タイの華人}}
== 関連項目 ==
*[[中華圏]]
*[[客家]]
**[[客家人の一覧]]
*[[印僑]]
*[[和僑会]]
*[[三把刀]]
*[[神戸華僑歴史博物館]]
*[[華僑総会]]
*[[世界華僑華人社団聯誼大会]]
*[[在日中国人]]
*[[中国系アメリカ人]]
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
*顔尚強「五つの誤解-日本社会の華人観」、『週刊東洋経済』第5282号、1995年5月
*若林敬子『中国 人口超大国のゆくえ』([[岩波書店]]、1994年6月、ISBN 4-00-430341-9)
*可児弘明・斯波義信・游仲勲編『華僑・華人事典』([[弘文堂]]、2002年6月、ISBN 4-335-55080-4)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Chinese_diaspora}}
*[http://www.tokyo-chinese.com 東京華僑総会]
*[http://www.huaren.org/ 華僑基金サイト] (英語)
{{華僑}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かきよう}}
[[Category:華僑|*かきよう]]
[[Category:民族集団]]
[[Category:漢民族]]
[[Category:外国人]]
[[Category:中国の人口移動]]
[[Category:交易の歴史]]
[[Category:南海貿易]]
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青梅線
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青梅線(おうめせん)は、東京都立川市の立川駅から東京都西多摩郡奥多摩町の奥多摩駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJC。
青梅駅 - 奥多摩駅間には「東京アドベンチャーライン」という愛称が付けられている。
東京都下多摩地域の北西部を走る。青梅駅以東では中央線電車の乗り入れが多く、東京都区部への通勤輸送の一角を担っている。一方、奥多摩地区への観光路線としての性格も併せ持つ。全線で多摩川左岸に沿って走り、多摩川本流を横断することはない。
全区間が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」「電車特定区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。ラインカラーは中央線と共通のオレンジバーミリオン(■)が使用されている。
全線がJR東日本八王子支社の管轄である。
立川駅 - 御嶽駅間は青梅電気鉄道が敷設した私鉄だったが、戦時買収により国有化された。また、御嶽駅 - 氷川駅(現:奥多摩駅)間は奥多摩電気鉄道が建設中の未成線が同時に買収され、国有鉄道として開業した区間である。奥多摩電気鉄道は奥多摩工業と社名を変更し、石灰石の採掘・運送会社として現存している。
青梅電気鉄道は国有化後にいったん解散を決議したが、実際は解散しなかった。そして買収路線復帰運動の際に受け皿会社として活動を再開した。しかし路線が再び同社の手に戻ることはなく、清算会社としてしばらく存続した後に1995年に解散した。
青梅電気鉄道が第二次世界大戦前に兼営していた路線バス事業は、子会社であった奥多摩振興(現:西東京バス)に移管された。奥多摩振興は西東京バス青梅営業所の母体となった会社であり、西東京バスが成立する際は奥多摩振興が存続会社となって3社(奥多摩振興のほか、高尾自動車、五王自動車)が合併した。青梅線沿線では、現在も西東京バスの路線が運行されている。また青梅市内の青梅駅 - 御嶽駅間では、青梅線にほぼ並行する形で都営バス青梅支所の路線が運行されている。
国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となってからは、イギリスから輸入したクリップ式枕木(レールをボルトではなくクリップで留める)や、利用客が遠隔センターと通信回線を通じて会話する方式の無人式指定券自動券売機「もしもし券売機Kaeruくん」など、新システムの先行導入テストが行われることが多い。
五日市鉄道の拝島駅 - 立川駅間の旅客線の一部と、ともに浅野財閥系列であった青梅電気鉄道と南武鉄道を立川駅において国鉄を介さずに貨物列車を直通させるために敷設したものである。連絡線自体は、当初五日市鉄道が建設しようとしたが、申請した敷設免許がなかなか交付されず、結局は南武鉄道が完成させた。
立川駅 - 青梅駅間は日中時間帯で1時間に5本程度運行されており、五日市線武蔵五日市からの列車が乗り入れてくる拝島駅 → 立川駅間の朝ラッシュ時の最短運転間隔は約2分である。立川駅 - 青梅駅間では中央線用のE233系10両固定編成および6+4両分割編成(一部は青梅・五日市線用「青」編成)による10両編成が基本となっている。このうち一部の下り列車に、河辺駅・拝島駅で折り返し上りとなるものや留置線に出入りする列車がある。
2015年3月14日のダイヤ改正では、平日ダイヤの朝夕1 - 2本が立川駅発着から東京駅発着へ延長運転され、五日市線とともに1日の運転本数が見直された(青梅線は朝夕。五日市線は日中)。
青梅駅 - 奥多摩駅間は日中約45分間隔(土曜・休日は30分間隔)で運行されており、こちらも「青」編成の4両編成を基本に、H編成の4両編成(ホリデー快速はH編成の6両編成)も使用されている。一部は御嶽駅折り返しの列車も設定されている(4両編成の号車番号は、7 - 10号車のみ)。
103系が運転されていた2002年頃までは全線を直通する4両編成も多かったが、現在は朝晩の各駅停車と土休日のホリデー快速を除いては青梅駅で運転系統が分離されており、立川駅 - 青梅駅間では10両編成が基本となった。この編成増に伴い、この区間の日中の運転本数が見直された。立川駅 - 奥多摩駅間の直通列車については10両のうち6両を青梅駅で連結または切り離すのが基本であるが、朝と深夜の一部列車は4両のまま立川駅 - 奥多摩駅間を直通するものがある。また、立川駅 - 青梅駅間でも、早朝・深夜を中心に6両または4両編成で運転されている列車が設定されている。
青梅線はかつてより青梅駅を境に輸送量に大きな差があり、運行形態も青梅駅でほぼ分離されるようになったが、奥多摩町と青梅市の強い要望により、朝方には平日・土休日ともに、上りは奥多摩駅ないし御嶽駅から、立川駅・東京駅まで直通運転する列車がある。ただし奥多摩駅発の東京行きは平日が5・6時台に2本、土休日は6時台に1本のみの運行となっている。輸送量の多い東側の区間のうち、立川駅 - 東青梅駅間は複線だが、東青梅駅 - 青梅駅間は単線のままである。また、青梅駅も留置線を除くと1面2線と、運転系統を分離している駅としては小規模であり、運転本数やダイヤの設定における制約となっていて、一部下り列車には一駅先の宮ノ平駅で折り返すものもある(青梅駅 - 宮ノ平駅間は上下とも回送)。東青梅駅 - 青梅駅間の複線化は青梅市がJRに要望しているものの、実現のめどは立っていない。
青梅駅以西は2016年3月のダイヤ改正で平日昼間の運転本数が削減された。それによる観光・生活への悪影響を懸念する青梅市などが便数維持を求める要望書を提出したが、2018年3月のダイヤ改正でも減便された。2018年3月の減便計画について、JR東日本八王子支社は「極めて低調な利用状況に合わせて決めた」とコメントしている。
一方で、JR東日本八王子支社は2018年7月から、沿線の豊かな自然を象徴するイラスト(ムササビ、鳥、昆虫等)を描いたラッピング列車を運行するなど、観光・行楽需要の開拓を含めた利用促進に努めている。また、その取り組みの一環として青梅駅 - 奥多摩駅間に2018年9月14日、「東京アドベンチャーライン」の愛称が付けられた。
立川駅 - 青梅駅間では中央線直通列車が多く運行されており、終日にわたって設定されている。正式な列車種別は上下線とも中央線と共通で、上り列車は青梅線内でも中央線内の列車種別で案内がなされる。
直通する列車は快速のほか、日中の青梅特快・朝ラッシュ時の上り通勤特快・夕ラッシュ時の下り通勤快速がある。日中の1時間に5本のうち、青梅特快1本・快速2本の3本が中央線へ直通する。2015年3月14日のダイヤ改正で、平日の朝に新たに2本と夕方に1本が東京駅発着となった。奥多摩駅と中央線を直通する列車は季節運行の臨時特急「おうめ」のみである。2023年3月18日のダイヤ改正以前は、定期列車で朝に奥多摩発東京行きの快速が平日に2本、土休日に1本設定されていたほか、特別快速「ホリデー快速おくたま」が土休日に3往復、武蔵五日市駅発着の特別快速「ホリデー快速あきがわ」を東京駅 - 拝島駅間で併結して運転されていた。
このほか平日には、2019年3月16日のダイヤ改正で新設された特急「おうめ」が、それまで運転されていた「青梅ライナー」に代わって、朝に上り青梅駅発東京駅行き、夜に下り東京駅発青梅駅行きが1本ずつ運転されている。
かつては、平日に2往復、土休日に1往復、当路線を経由して中央線と五日市線・八高線を直通する列車が設定されており、拝島駅で五日市線直通の東京寄りの6両(1 - 6号車)と、八高線直通の青梅寄りの4両(7 - 10号車)の連結・切り離しを行っていた。また、土休日下りには青梅駅行きと武蔵五日市駅行きの併結直通列車が設定されており、この列車については東京方6両が青梅行き、青梅方4両が五日市線直通武蔵五日市駅行きとなっていた。しかし、2022年3月12日のダイヤ改正により、当路線を経由して中央線と五日市線・八高線を直通する列車は全て廃止された。
乗客は中央線直通列車(特に青梅特快)に集中する傾向がみられる。また、当路線や中央線で人身事故や設備トラブルが生じた場合は直通運転を打ち切る場合が多い。ただし、中央線と青梅線の運行ダイヤは最初から分離運転を念頭において作成されており、相手方ダイヤへの影響は比較的少ない。立川駅では上りは中央線と青梅線からの直通列車の同時到着が可能だが、下りはポイントの関係上、中央線と青梅短絡線を経由する青梅線直通列車の同時発車ができないなどの制約がある。
2023年3月のダイヤ改正により、中央快速線のグリーン車導入に伴い、青梅駅 - 奥多摩駅間はワンマン運転4両編成のみとして、中央線東京・新宿方面からの直通運転(「ホリデー快速おくたま」を含む)も青梅駅までに短縮。また青梅駅 - 奥多摩駅間の「ホリデー快速おくたま」も、この区間運転のみの臨時列車に格下げされる。また青梅駅と河辺駅の両駅では、ホームを新設して中央線東京・新宿方面との直通列車は青梅駅までに短縮の上で、平日は上り18本・下り17本、休日(土曜・日曜・祝日)はそれぞれ21本・19本に増発される。
平日朝7時30分 - 9時30分に新宿駅を発着する上り中央線直通の通勤特快・快速の進行方向先頭車両(1号車)で女性専用車が実施される。青梅線内の実施区間は立川駅 - 青梅駅間。かつては全線で行われていたが、2007年3月18日改正から6両編成と4両編成の位置が入れ替わったことにより、7 - 10号車のみが運転される青梅駅 - 奥多摩駅間では廃止された。なお青梅・五日市線専用の「青」編成は、通常中央線内で営業運転することはないが、仕様は中央線のH編成とほぼ同一なため、立川方1両(1号車)は女性専用車仕様になっていて、「この車両は、平日/上り新宿駅に7:30 - 9:30に発着する東京駅行きの電車で、女性専用となります」のステッカーがあり、網棚の位置も低いなどの特徴がある。ただし青梅線・五日市線内でのみ運転を完結する列車は、編成種別にかかわらず、女性専用車としては運転しない。
中央線・青梅線立川駅 - 青梅駅間では2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどにグリーン車導入が予告されているが、女性専用車の取り扱いについては未定。
青梅線は、青梅鉄道・青梅電気鉄道として開業当初はナローゲージを採用した関係で中央本線との列車・車両の直通ができなかったが、改軌・電化された昭和10年代には観光用の臨時列車として直通列車が運行されたとされ、この列車は現在のホリデー快速「おくたま」「あきがわ」に通ずるものとされている。なお、「おくたま」「あきがわ」とともに運転されていた御嶽駅発着のホリデー快速「みたけ」は2001年を最後に運転されていないが、冬季減便はなくなり、ホリデー快速は年間を通じ土休日に3往復が走っている。
国鉄分割民営化後は東京都内・首都圏で、JR東日本は管内にある観光地の一つとして積極的なPRや列車運行を行っており、特に観光客の減少する毎年秋から春にかけて、八王子支社では「東京のふるさと 青梅・五日市線の旅」と称するキャンペーンを重点的に繰り広げている。とりわけ観光色の濃い青梅駅以西では、2001年から201系展望型電車「四季彩」がこの区間を基本に運行されていたが、201系の全廃とともに2009年7月20日をもって運行を終了した。
毎年1月1日未明には武蔵御嶽神社初詣のために、立川駅 - 御嶽駅間で約50分間隔の終夜運転が行われる。この列車は青梅駅 - 御嶽駅間で途中無停車の快速運転を行う。
日本貨物鉄道(JR貨物)が第二種鉄道事業者となっている立川駅 - 拝島駅間で、臨時貨物列車が運行されている。
拝島駅最寄りの在日米軍横田基地向けの石油(ジェット燃料)輸送が行われており、安善駅と拝島駅の間を、南武線と青梅短絡線経由で結ぶ専用貨物列車が基本的には1週間に2日程度、EF65形やEF210形などの電気機関車牽引で運行されている(火曜日と木曜日の運行が多い)。なお、在日米軍所有の横田基地線は非電化単線のため、同線牽引のためのDD200形ディーゼル機関車も、単機で立川駅 - 拝島駅間を貨物列車の入線日に合わせて走行する。2014年3月ダイヤ改正で武蔵野貨物線へ一部経路変更後、運転頻度が多くなり、特に7月以降は月曜から金曜の平日(休日含む)のうち、3日以上、週によっては毎平日運転されるようになっている。
奥多摩地区で採掘される石灰石輸送も全線で長らく行われていたが、1998年(平成10年)8月までに全て廃止され、トラック輸送に切り替えられた。
立川駅以西の中央線と平面交差せずに同線下り線および南武線が青梅線と連絡するために立川駅から西立川駅まで連絡線が設置されている。営業キロは設定されておらず、時刻表にも載っていない。青梅線の渡り線の扱いで、「青梅連絡線」や、JRでは「青梅第三線」と呼称されていたが、現在では「青梅短絡線」が正式名称である。「短絡線」と呼ばれているが、本線より約200m遠回りである。
青梅短絡線を運行する列車は主に、中央線と青梅線を直通運転する下り列車、および南武線と青梅線の直通列車(「ホリデー快速湘南号」等の臨時列車や貨物列車)である。青梅線の線内列車は基本的にこの線路を運行しないが、早朝の一部列車に豊田車両センターからの送り込みの関係で立川駅の4・5番線から発車するものがあり、その列車についてはこの線路を運行する。
貨物列車としては、在日米軍横田基地への航空機燃料輸送のための専用貨物列車(輸送区間は安善駅 - 拝島駅間で鶴見線・南武線浜川崎支線・尻手短絡線・武蔵野貨物線・南武線・青梅線経由)が週に数回運行されている。また、かつて浜川崎駅 - 奥多摩駅間で運行されていた石灰石輸送の専用貨物列車もこの短絡線を利用していた。
E233系青編成(青梅・五日市線専用編成)を除き、中央線(T編成、H編成)と共通の運用となっている。なお、青編成も代走として中央線との運用に就く場合もある。E233系東京アドベンチャーラインラッピング車両は通常、青梅線立川駅 - 奥多摩駅間(および豊田車両センターからの送り込みで中央本線立川駅 - 豊田駅間)のみの運転だが、2020年10月 - 11月の2か月間のみ、中央線快速、五日市線等でも運転され、2021年も同期間に実施されている。
立川市から、昭島市 - 福生市に向かい住宅地の中を走る。駅間が非常に短く、西立川駅 - 東中神駅間は800 m(0.8 km)という短さで、隣の駅のホームが肉眼で視認できるほどである。このような事情もあり、列車はあまり加速をしない。
中央本線(中央線)からの下りおよび南武線からの直通列車と一部列車は、立川駅から西立川駅まで中央線を立体交差で越える「青梅短絡線」と呼ばれる単線の線路を通る。
青梅短絡線を経由する列車は立川駅を出ると、まもなく中央線の線路から分かれ、南武線方面から延びてくる線路と合流し、土手を登り始める。登ると、まもなく右へカーブ、中央線の上を跨ぐ。その先を数百メートル進み、踏切を越えるところに左手に草が生えた空き地のような場所がある。ここは元々、武蔵上ノ原駅があった場所である。現在は廃駅で、プラットホームも撤去されている。その先は完全に住宅地の中に入り、家々のすぐ横を走っていく。さらに行くと、残堀川を渡り、右手に見えてきた青梅線の本線と合流し、西立川駅となる。
西立川駅は国営昭和記念公園の最寄り駅。東中神駅と中神駅の周辺は主に住宅地で、駅前は商店も混在する。昭島駅は昭島市の中心駅であり、郊外型の大型店舗や映画館などが隣接し、買い物客が多い。拝島駅では五日市線、八高線、西武拝島線への乗り換えで多くの乗り降りがある。福生市から羽村市、青梅市にかけて住宅地の中を走るため、特にこの近辺は青梅線内において利用者数の多い駅が集まっている。
2018年3月6日、東京圏主要路線全330駅にホームドアを整備すると発表された。その中には青梅線の立川駅 - 拝島駅間も含まれている。
福生駅は福生市の商業の中心地であり、大型店舗も隣接する。同様に、羽村市の中心駅である羽村駅や、青梅市の中心駅である河辺駅などにも、大型店舗が隣接している。小作駅は工業団地も近いため、利用者数が多い。沿線を通して基本的に住宅地だが、羽村駅から小作駅にかけては畑なども散見される。東青梅駅の手前からは単線となり、青梅駅まで住宅密集地の中をゆっくりと通り抜けて行く。この辺りから、遠くに聳える奥多摩の山並みが進行方向に確認できる。
青梅駅から「東京アドベンチャーライン」の愛称が付けられた区間に入る。次の宮ノ平駅を出ると、トンネルとしては青梅線で最も東側にある日向和田トンネルに入る。御嶽駅を過ぎ奥多摩町に入ると、山並みの中に入り、半径200 m級の急カーブ(制限速度 45 - 50 km/h程度)も非常に多くなる。ローカル色が強くなり、山並みが一望でき、多摩川の渓谷風景も望める。駅周辺の宅地の規模は小さく、各駅の乗車人員は数百人程度である。
E233系の導入を機に、青梅駅 - 奥多摩駅間ではドア扱いは通年で押しボタンによる半自動扱いとなっており、立川駅 - 青梅駅間でも、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所などの停止による電力不足を受け、節電対策及び乗客への配慮として2011年7月下旬より通年半自動扱いとなっている。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、宮ノ平駅 - 白丸駅間の各駅である。また、立川駅、拝島駅、青梅駅が直営駅で、その他は業務委託駅である。
数字のみの( ) 内は起点からの営業キロ
( ) 内は立川駅起点の営業キロ
|
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"text": "青梅線(おうめせん)は、東京都立川市の立川駅から東京都西多摩郡奥多摩町の奥多摩駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJC。",
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"text": "青梅駅 - 奥多摩駅間には「東京アドベンチャーライン」という愛称が付けられている。",
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"text": "東京都下多摩地域の北西部を走る。青梅駅以東では中央線電車の乗り入れが多く、東京都区部への通勤輸送の一角を担っている。一方、奥多摩地区への観光路線としての性格も併せ持つ。全線で多摩川左岸に沿って走り、多摩川本流を横断することはない。",
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"text": "全区間が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」「電車特定区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。ラインカラーは中央線と共通のオレンジバーミリオン(■)が使用されている。",
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"text": "全線がJR東日本八王子支社の管轄である。",
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"text": "立川駅 - 御嶽駅間は青梅電気鉄道が敷設した私鉄だったが、戦時買収により国有化された。また、御嶽駅 - 氷川駅(現:奥多摩駅)間は奥多摩電気鉄道が建設中の未成線が同時に買収され、国有鉄道として開業した区間である。奥多摩電気鉄道は奥多摩工業と社名を変更し、石灰石の採掘・運送会社として現存している。",
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"text": "青梅電気鉄道は国有化後にいったん解散を決議したが、実際は解散しなかった。そして買収路線復帰運動の際に受け皿会社として活動を再開した。しかし路線が再び同社の手に戻ることはなく、清算会社としてしばらく存続した後に1995年に解散した。",
"title": "歴史"
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"text": "青梅電気鉄道が第二次世界大戦前に兼営していた路線バス事業は、子会社であった奥多摩振興(現:西東京バス)に移管された。奥多摩振興は西東京バス青梅営業所の母体となった会社であり、西東京バスが成立する際は奥多摩振興が存続会社となって3社(奥多摩振興のほか、高尾自動車、五王自動車)が合併した。青梅線沿線では、現在も西東京バスの路線が運行されている。また青梅市内の青梅駅 - 御嶽駅間では、青梅線にほぼ並行する形で都営バス青梅支所の路線が運行されている。",
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"text": "国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となってからは、イギリスから輸入したクリップ式枕木(レールをボルトではなくクリップで留める)や、利用客が遠隔センターと通信回線を通じて会話する方式の無人式指定券自動券売機「もしもし券売機Kaeruくん」など、新システムの先行導入テストが行われることが多い。",
"title": "歴史"
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"text": "五日市鉄道の拝島駅 - 立川駅間の旅客線の一部と、ともに浅野財閥系列であった青梅電気鉄道と南武鉄道を立川駅において国鉄を介さずに貨物列車を直通させるために敷設したものである。連絡線自体は、当初五日市鉄道が建設しようとしたが、申請した敷設免許がなかなか交付されず、結局は南武鉄道が完成させた。",
"title": "歴史"
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"text": "立川駅 - 青梅駅間は日中時間帯で1時間に5本程度運行されており、五日市線武蔵五日市からの列車が乗り入れてくる拝島駅 → 立川駅間の朝ラッシュ時の最短運転間隔は約2分である。立川駅 - 青梅駅間では中央線用のE233系10両固定編成および6+4両分割編成(一部は青梅・五日市線用「青」編成)による10両編成が基本となっている。このうち一部の下り列車に、河辺駅・拝島駅で折り返し上りとなるものや留置線に出入りする列車がある。",
"title": "運行形態"
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"text": "2015年3月14日のダイヤ改正では、平日ダイヤの朝夕1 - 2本が立川駅発着から東京駅発着へ延長運転され、五日市線とともに1日の運転本数が見直された(青梅線は朝夕。五日市線は日中)。",
"title": "運行形態"
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"text": "青梅駅 - 奥多摩駅間は日中約45分間隔(土曜・休日は30分間隔)で運行されており、こちらも「青」編成の4両編成を基本に、H編成の4両編成(ホリデー快速はH編成の6両編成)も使用されている。一部は御嶽駅折り返しの列車も設定されている(4両編成の号車番号は、7 - 10号車のみ)。",
"title": "運行形態"
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"text": "103系が運転されていた2002年頃までは全線を直通する4両編成も多かったが、現在は朝晩の各駅停車と土休日のホリデー快速を除いては青梅駅で運転系統が分離されており、立川駅 - 青梅駅間では10両編成が基本となった。この編成増に伴い、この区間の日中の運転本数が見直された。立川駅 - 奥多摩駅間の直通列車については10両のうち6両を青梅駅で連結または切り離すのが基本であるが、朝と深夜の一部列車は4両のまま立川駅 - 奥多摩駅間を直通するものがある。また、立川駅 - 青梅駅間でも、早朝・深夜を中心に6両または4両編成で運転されている列車が設定されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "青梅線はかつてより青梅駅を境に輸送量に大きな差があり、運行形態も青梅駅でほぼ分離されるようになったが、奥多摩町と青梅市の強い要望により、朝方には平日・土休日ともに、上りは奥多摩駅ないし御嶽駅から、立川駅・東京駅まで直通運転する列車がある。ただし奥多摩駅発の東京行きは平日が5・6時台に2本、土休日は6時台に1本のみの運行となっている。輸送量の多い東側の区間のうち、立川駅 - 東青梅駅間は複線だが、東青梅駅 - 青梅駅間は単線のままである。また、青梅駅も留置線を除くと1面2線と、運転系統を分離している駅としては小規模であり、運転本数やダイヤの設定における制約となっていて、一部下り列車には一駅先の宮ノ平駅で折り返すものもある(青梅駅 - 宮ノ平駅間は上下とも回送)。東青梅駅 - 青梅駅間の複線化は青梅市がJRに要望しているものの、実現のめどは立っていない。",
"title": "運行形態"
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"text": "青梅駅以西は2016年3月のダイヤ改正で平日昼間の運転本数が削減された。それによる観光・生活への悪影響を懸念する青梅市などが便数維持を求める要望書を提出したが、2018年3月のダイヤ改正でも減便された。2018年3月の減便計画について、JR東日本八王子支社は「極めて低調な利用状況に合わせて決めた」とコメントしている。",
"title": "運行形態"
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"text": "一方で、JR東日本八王子支社は2018年7月から、沿線の豊かな自然を象徴するイラスト(ムササビ、鳥、昆虫等)を描いたラッピング列車を運行するなど、観光・行楽需要の開拓を含めた利用促進に努めている。また、その取り組みの一環として青梅駅 - 奥多摩駅間に2018年9月14日、「東京アドベンチャーライン」の愛称が付けられた。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 17,
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"text": "立川駅 - 青梅駅間では中央線直通列車が多く運行されており、終日にわたって設定されている。正式な列車種別は上下線とも中央線と共通で、上り列車は青梅線内でも中央線内の列車種別で案内がなされる。",
"title": "運行形態"
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"text": "直通する列車は快速のほか、日中の青梅特快・朝ラッシュ時の上り通勤特快・夕ラッシュ時の下り通勤快速がある。日中の1時間に5本のうち、青梅特快1本・快速2本の3本が中央線へ直通する。2015年3月14日のダイヤ改正で、平日の朝に新たに2本と夕方に1本が東京駅発着となった。奥多摩駅と中央線を直通する列車は季節運行の臨時特急「おうめ」のみである。2023年3月18日のダイヤ改正以前は、定期列車で朝に奥多摩発東京行きの快速が平日に2本、土休日に1本設定されていたほか、特別快速「ホリデー快速おくたま」が土休日に3往復、武蔵五日市駅発着の特別快速「ホリデー快速あきがわ」を東京駅 - 拝島駅間で併結して運転されていた。",
"title": "運行形態"
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"text": "このほか平日には、2019年3月16日のダイヤ改正で新設された特急「おうめ」が、それまで運転されていた「青梅ライナー」に代わって、朝に上り青梅駅発東京駅行き、夜に下り東京駅発青梅駅行きが1本ずつ運転されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "かつては、平日に2往復、土休日に1往復、当路線を経由して中央線と五日市線・八高線を直通する列車が設定されており、拝島駅で五日市線直通の東京寄りの6両(1 - 6号車)と、八高線直通の青梅寄りの4両(7 - 10号車)の連結・切り離しを行っていた。また、土休日下りには青梅駅行きと武蔵五日市駅行きの併結直通列車が設定されており、この列車については東京方6両が青梅行き、青梅方4両が五日市線直通武蔵五日市駅行きとなっていた。しかし、2022年3月12日のダイヤ改正により、当路線を経由して中央線と五日市線・八高線を直通する列車は全て廃止された。",
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"text": "乗客は中央線直通列車(特に青梅特快)に集中する傾向がみられる。また、当路線や中央線で人身事故や設備トラブルが生じた場合は直通運転を打ち切る場合が多い。ただし、中央線と青梅線の運行ダイヤは最初から分離運転を念頭において作成されており、相手方ダイヤへの影響は比較的少ない。立川駅では上りは中央線と青梅線からの直通列車の同時到着が可能だが、下りはポイントの関係上、中央線と青梅短絡線を経由する青梅線直通列車の同時発車ができないなどの制約がある。",
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"text": "2023年3月のダイヤ改正により、中央快速線のグリーン車導入に伴い、青梅駅 - 奥多摩駅間はワンマン運転4両編成のみとして、中央線東京・新宿方面からの直通運転(「ホリデー快速おくたま」を含む)も青梅駅までに短縮。また青梅駅 - 奥多摩駅間の「ホリデー快速おくたま」も、この区間運転のみの臨時列車に格下げされる。また青梅駅と河辺駅の両駅では、ホームを新設して中央線東京・新宿方面との直通列車は青梅駅までに短縮の上で、平日は上り18本・下り17本、休日(土曜・日曜・祝日)はそれぞれ21本・19本に増発される。",
"title": "運行形態"
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"text": "平日朝7時30分 - 9時30分に新宿駅を発着する上り中央線直通の通勤特快・快速の進行方向先頭車両(1号車)で女性専用車が実施される。青梅線内の実施区間は立川駅 - 青梅駅間。かつては全線で行われていたが、2007年3月18日改正から6両編成と4両編成の位置が入れ替わったことにより、7 - 10号車のみが運転される青梅駅 - 奥多摩駅間では廃止された。なお青梅・五日市線専用の「青」編成は、通常中央線内で営業運転することはないが、仕様は中央線のH編成とほぼ同一なため、立川方1両(1号車)は女性専用車仕様になっていて、「この車両は、平日/上り新宿駅に7:30 - 9:30に発着する東京駅行きの電車で、女性専用となります」のステッカーがあり、網棚の位置も低いなどの特徴がある。ただし青梅線・五日市線内でのみ運転を完結する列車は、編成種別にかかわらず、女性専用車としては運転しない。",
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"text": "中央線・青梅線立川駅 - 青梅駅間では2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどにグリーン車導入が予告されているが、女性専用車の取り扱いについては未定。",
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"text": "青梅線は、青梅鉄道・青梅電気鉄道として開業当初はナローゲージを採用した関係で中央本線との列車・車両の直通ができなかったが、改軌・電化された昭和10年代には観光用の臨時列車として直通列車が運行されたとされ、この列車は現在のホリデー快速「おくたま」「あきがわ」に通ずるものとされている。なお、「おくたま」「あきがわ」とともに運転されていた御嶽駅発着のホリデー快速「みたけ」は2001年を最後に運転されていないが、冬季減便はなくなり、ホリデー快速は年間を通じ土休日に3往復が走っている。",
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"text": "貨物列車としては、在日米軍横田基地への航空機燃料輸送のための専用貨物列車(輸送区間は安善駅 - 拝島駅間で鶴見線・南武線浜川崎支線・尻手短絡線・武蔵野貨物線・南武線・青梅線経由)が週に数回運行されている。また、かつて浜川崎駅 - 奥多摩駅間で運行されていた石灰石輸送の専用貨物列車もこの短絡線を利用していた。",
"title": "青梅短絡線"
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"text": "E233系青編成(青梅・五日市線専用編成)を除き、中央線(T編成、H編成)と共通の運用となっている。なお、青編成も代走として中央線との運用に就く場合もある。E233系東京アドベンチャーラインラッピング車両は通常、青梅線立川駅 - 奥多摩駅間(および豊田車両センターからの送り込みで中央本線立川駅 - 豊田駅間)のみの運転だが、2020年10月 - 11月の2か月間のみ、中央線快速、五日市線等でも運転され、2021年も同期間に実施されている。",
"title": "使用車両"
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"tag": "p",
"text": "立川市から、昭島市 - 福生市に向かい住宅地の中を走る。駅間が非常に短く、西立川駅 - 東中神駅間は800 m(0.8 km)という短さで、隣の駅のホームが肉眼で視認できるほどである。このような事情もあり、列車はあまり加速をしない。",
"title": "沿線概況"
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"text": "中央本線(中央線)からの下りおよび南武線からの直通列車と一部列車は、立川駅から西立川駅まで中央線を立体交差で越える「青梅短絡線」と呼ばれる単線の線路を通る。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "青梅短絡線を経由する列車は立川駅を出ると、まもなく中央線の線路から分かれ、南武線方面から延びてくる線路と合流し、土手を登り始める。登ると、まもなく右へカーブ、中央線の上を跨ぐ。その先を数百メートル進み、踏切を越えるところに左手に草が生えた空き地のような場所がある。ここは元々、武蔵上ノ原駅があった場所である。現在は廃駅で、プラットホームも撤去されている。その先は完全に住宅地の中に入り、家々のすぐ横を走っていく。さらに行くと、残堀川を渡り、右手に見えてきた青梅線の本線と合流し、西立川駅となる。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "西立川駅は国営昭和記念公園の最寄り駅。東中神駅と中神駅の周辺は主に住宅地で、駅前は商店も混在する。昭島駅は昭島市の中心駅であり、郊外型の大型店舗や映画館などが隣接し、買い物客が多い。拝島駅では五日市線、八高線、西武拝島線への乗り換えで多くの乗り降りがある。福生市から羽村市、青梅市にかけて住宅地の中を走るため、特にこの近辺は青梅線内において利用者数の多い駅が集まっている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "2018年3月6日、東京圏主要路線全330駅にホームドアを整備すると発表された。その中には青梅線の立川駅 - 拝島駅間も含まれている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "福生駅は福生市の商業の中心地であり、大型店舗も隣接する。同様に、羽村市の中心駅である羽村駅や、青梅市の中心駅である河辺駅などにも、大型店舗が隣接している。小作駅は工業団地も近いため、利用者数が多い。沿線を通して基本的に住宅地だが、羽村駅から小作駅にかけては畑なども散見される。東青梅駅の手前からは単線となり、青梅駅まで住宅密集地の中をゆっくりと通り抜けて行く。この辺りから、遠くに聳える奥多摩の山並みが進行方向に確認できる。",
"title": "沿線概況"
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"text": "青梅駅から「東京アドベンチャーライン」の愛称が付けられた区間に入る。次の宮ノ平駅を出ると、トンネルとしては青梅線で最も東側にある日向和田トンネルに入る。御嶽駅を過ぎ奥多摩町に入ると、山並みの中に入り、半径200 m級の急カーブ(制限速度 45 - 50 km/h程度)も非常に多くなる。ローカル色が強くなり、山並みが一望でき、多摩川の渓谷風景も望める。駅周辺の宅地の規模は小さく、各駅の乗車人員は数百人程度である。",
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"text": "E233系の導入を機に、青梅駅 - 奥多摩駅間ではドア扱いは通年で押しボタンによる半自動扱いとなっており、立川駅 - 青梅駅間でも、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所などの停止による電力不足を受け、節電対策及び乗客への配慮として2011年7月下旬より通年半自動扱いとなっている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、宮ノ平駅 - 白丸駅間の各駅である。また、立川駅、拝島駅、青梅駅が直営駅で、その他は業務委託駅である。",
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"text": "数字のみの( ) 内は起点からの営業キロ",
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},
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"text": "( ) 内は立川駅起点の営業キロ",
"title": "駅一覧"
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] |
青梅線(おうめせん)は、東京都立川市の立川駅から東京都西多摩郡奥多摩町の奥多摩駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJC。 青梅駅 - 奥多摩駅間には「東京アドベンチャーライン」という愛称が付けられている。
|
{{複数の問題|ソートキー=鉄
|独自研究=2012年3月
|出典の明記=2012年9月
|更新=2023年3月
}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 青梅線
|路線色=#f15a22
|ロゴ=File:JR JC line symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Ome Line E233 Futamatao-Ikusabata.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=青梅線を走行する[[JR東日本E233系電車|E233系電車]]<br/>(2011年7月 [[二俣尾駅]] - [[軍畑駅]]間)
|通称=東京アドベンチャーライン([[青梅駅]] - [[奥多摩駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[立川駅]]
|終点=奥多摩駅
|駅数=25駅
|電報略号 = オメセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p21">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=21}}</ref>
|路線記号=JC
|開業=[[1894年]][[11月19日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)<br />(全線)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(立川駅 - [[拝島駅]]間)
|車両基地=[[豊田車両センター]]
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線距離=37.2 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複々線#三線|三線]](立川駅 - [[西立川駅]]間、うち1線は青梅短絡線)、[[複線]](西立川駅 - [[東青梅駅]]手前間)、[[単線]](東青梅駅 - 奥多摩駅間)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=複線自動閉塞式(下記以外)<br>単線自動閉塞式(東青梅駅以西および青梅短絡線)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
|最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=File:JR Ome Line linemap.svg
}}
'''青梅線'''(おうめせん)は、[[東京都]][[立川市]]の[[立川駅]]から東京都[[西多摩郡]][[奥多摩町]]の[[奥多摩駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''JC'''<ref group="注釈">直通先の[[中央線快速]]('''C'''hūō)、および[[五日市線]]と同じ。</ref>。
[[青梅駅]] - 奥多摩駅間には「'''東京アドベンチャーライン'''」という愛称が付けられている<ref group="報道" name="jreast20180914">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20180914/20180914_info03.pdf 青梅線が変わります~東京アドベンチャーライン始動!~]}} - 東日本旅客鉄道八王子支社(2018年9月14日)2023年1月28日閲覧</ref>。
== 概要 ==
東京都下[[多摩地域]]の北西部を走る。青梅駅以東では[[中央線快速|中央線]]電車の乗り入れが多く、[[東京都区部]]への[[通勤]]輸送の一角を担っている。一方、[[奥多摩]]地区への[[観光]]路線としての性格も併せ持つ。全線で[[多摩川]][[左岸]]に沿って走り、多摩川[[本流]]を横断することはない。
全区間が[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|東京近郊区間]]」「[[電車特定区間]]」および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の[[首都圏 (日本)|首都圏]]エリアに含まれている。ラインカラーは中央線と共通の'''オレンジバーミリオン'''({{Color|#f15a22|■}})が使用されている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):
** 東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]): 立川駅 - 奥多摩駅間 37.2 [[キロメートル|km]]<ref name="sone 5">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻38号「青梅線・鶴見線・南武線・五日市線」5頁]]</ref>
** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]): 立川駅 - [[拝島駅]]間 6.9 km
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]
* 駅数:25(起点駅含む)<ref name="sone 5"/>
** 青梅線所属駅に限定する場合、中央本線所属の立川駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 {{ISBN2|978-4533029806}}</ref>が除外された24駅となる。なお、[[八高線]]・[[五日市線]]と接続する拝島駅は青梅線所属駅である。
* 三線区間:立川駅 - [[西立川駅]]間 1.9 km(うち1線は[[#青梅短絡線_2|青梅短絡線]])
* [[複線]]区間:西立川駅 - [[東青梅駅]]手前間 17.2 km
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:複線自動閉塞式(右記以外)、単線自動閉塞式(東青梅駅以西および青梅短絡線)
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
* [[運転指令所]]:
** 立川駅 - 青梅駅間 東京総合指令室 ([[東京圏輸送管理システム|ATOS]])
** 青梅駅 - 奥多摩駅間 八王子指令室
* {{要出典範囲|最高速度:85 [[キロメートル毎時|km/h]]|date=2012年2月}}
全線がJR東日本[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]の管轄である。
== 歴史 ==
{{基礎情報 会社
|社名 = 青梅電気鉄道
|ロゴ = [[File:Oume Railway logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]]西多摩郡[[青梅町]]青梅192<ref name="NDLDC1139323"/>
|設立 =[[1893年]](明治26年)[[12月18日]]<ref name="NDLDC1139323"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|事業内容 = 旅客鉄道事業、バス事業<ref name="NDLDC1139323"/>
|代表者 = 社長 [[小澤太平]]<ref name="NDLDC1139323"/>
|資本金 = 5,800,000円<ref name="NDLDC1139323"/>
|発行済株式総数 = 116,000株(内新株86,000)<ref name="NDLDC1139323"/>
|主要株主=
*[[浅野財閥|浅野証券保有]] 8,663株<ref name="NDLDC1139323"/>
*[[田村和一]] 6,310株<ref name="NDLDC1139323"/>
*[[山崎文五郎]] 4,311株<ref name="NDLDC1139323"/>
*[[小澤重徳]] 4,302株<ref name="NDLDC1139323"/>
|特記事項 = 上記データは1943年([[昭和]]18年)時点<ref name="NDLDC1139323">[{{NDLDC|1139323/135}} 『株式会社年鑑. 昭和18年版』]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>。}}
立川駅 - [[御嶽駅]]間は'''青梅電気鉄道'''が敷設した[[私鉄]]だったが、[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により[[国有化]]された。また、御嶽駅 - 氷川駅(現:[[奥多摩駅]])間は'''奥多摩電気鉄道'''が建設中の[[未成線]]が同時に買収され、国有鉄道として開業した区間である<ref>[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻38号「青梅線・鶴見線・南武線・五日市線」10-11頁]]</ref>。奥多摩電気鉄道は[[奥多摩工業]]と社名を変更し、[[石灰石]]の採掘・運送会社として現存している<ref name="sone 11">[[青梅線#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻38号「青梅線・鶴見線・南武線・五日市線」11頁]]</ref>。
青梅電気鉄道は国有化後にいったん解散を決議したが、実際は解散しなかった。そして買収路線復帰運動の際に受け皿会社として活動を再開した。しかし路線が再び同社の手に戻ることはなく、[[清算]]会社としてしばらく存続した後に[[1995年]]に解散した。
青梅電気鉄道が[[第二次世界大戦]]前に兼営していた[[路線バス]]事業は、[[子会社]]であった'''[[西東京バス#奥多摩振興|奥多摩振興]]'''(現:[[西東京バス]])に移管された<ref name="N272">{{Cite book|和書|author=|year=1999-04-01|title=[[バスジャパン]] ニューハンドブックシリーズ 27 京王電鉄 京王バス 西東京バス|publisher=[[バス・ジャパン|BJエディターズ]]/[[星雲社]]|pages=|isbn=4-7952-7783-4|date=}}</ref>。奥多摩振興は[[西東京バス青梅営業所]]の母体となった会社であり<ref name="N272" />、西東京バスが成立する際は奥多摩振興が存続会社となって3社(奥多摩振興のほか、高尾自動車、五王自動車)が[[合併 (企業)|合併]]した<ref name="N272" />。<!--川井駅 - 奥多摩駅間にあたる奥多摩町内では同社の路線が残っている。-->青梅線沿線では、現在も西東京バスの路線が運行されている。また[[青梅市]]内の青梅駅 - 御嶽駅間では、青梅線にほぼ並行する形で[[都営バス]][[都営バス青梅支所|青梅支所]]の路線が運行されている。
[[国鉄分割民営化]]によりJR東日本の路線となってからは、[[イギリス]]から輸入したクリップ式[[枕木]]([[軌条|レール]]を[[ボルト (部品)|ボルト]]ではなくクリップで留める)や、利用客が遠隔センターと通信回線を通じて会話する方式の無人式指定券自動券売機「[[もしもし券売機Kaeruくん]]」など、新システムの先行導入テストが行われることが多い。
=== 青梅鉄道・青梅電気鉄道 ===
* [[1892年]]([[明治]]25年)6月21日:青梅鉄道に対し鉄道敷設免許状下付([[北多摩郡]]立川村-[[西多摩郡]]青梅町間)<ref>[{{NDLDC|2945965/5}} 「鉄道布設免許状下付」『官報』1892年6月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1894年]](明治27年)[[11月19日]]:'''青梅鉄道''' [[立川駅]] - [[青梅駅]]間(11[[マイル|M]]40[[チェーン (単位)|C]]≒18.51km)が開業<ref>[{{NDLDC|2946690/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1894年11月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。全線軌間762mm。[[拝島駅]]、[[福生駅]]、[[羽村駅]]、[[小作駅]]、青梅駅が開業。
* [[1895年]](明治28年)[[12月28日]]:青梅駅 - [[日向和田駅]]間(1M40C≒2.41km)が貨物線として延伸開業。貨物駅として日向和田駅が開業<ref>[{{NDLDC|2947045/9}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1896年1月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1898年]](明治31年)[[3月10日]]:青梅駅 - 日向和田駅間の旅客営業開始<ref name="sone 10">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻38号「青梅線・鶴見線・南武線・五日市線」10頁]]</ref>。
* [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:営業距離をマイル・チェーン表記からマイル表記のみに簡略化(13M0C→13.0M)。
* [[1908年]](明治41年)
** [[2月18日]]:全線の軌間を762mmから1067mmに改軌<ref name="sone 10"/>。
** [[5月16日]]:[[中神駅]]の営業開始<ref>『青梅鉄道三十年誌』「四、開業」22ページ、靑梅鐵道株式會社、1924年(大正13年)11月30日発行</ref>。
** [[7月19日]]:中神駅が営業開始と届出<ref>{{Cite journal |和書 |title = 停車場設置 |journal =官報 |date =1908年7月27日 |publisher =大蔵省印刷局 |issue =7525 |id ={{NDLJP|2950872}} |url={{NDLDC|2950872/10}} |quote = …中神停車場ハ本月十九日ヨリ営業開始ノ旨同会社ヨリ届出テタリ}}</ref>。
* [[1911年]](明治44年)2月16日:[[軽便鉄道]]指定<ref name="kap110221">[{{NDLDC|2951652/10}} 「軽便鉄道指定」『官報』1911年2月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1914年]]([[大正]]3年)
** [[4月1日]]:日向和田駅が移転、改マイル(+0.2M≒0.32km)。貨物駅として[[宮ノ平駅]]が開業<ref>[{{NDLDC|2952607/16}} 「軽便鉄道停車場位置変更並停車場設置」『官報』1914年4月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 11月6日:鉄道免許状下付(西多摩郡青梅町-同郡[[三田村 (東京都)|三田村]]間)<ref>[{{NDLDC|2952789/5}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1914年11月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1917年]](大正6年)10月5日:小作駅 - 青梅駅間に[[浅野財閥|浅野セメント]][[専用鉄道]]と接続する師岡聯絡所が開業<ref name="sone 10"/>。
* [[1920年]](大正9年)
** [[1月1日]]:日向和田駅 - [[二俣尾駅]]間(1.4M≒2.25km)が延伸開業。二俣尾駅が開業<ref>[{{NDLDC|2954342/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1920年1月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[9月23日]]:貨物支線 立川駅 - 上古新田駅間が開業。上古新田荷扱所が開業。
* [[1922年]](大正11年)[[6月23日]]:浅野セメントの採掘が終了し、専用鉄道が廃止されたため、師岡聯絡所が廃止<ref name="sone 10"/>。
* [[1923年]](大正12年)
** 4月1日:宮ノ平駅の旅客営業開始<ref>[{{NDLDC|2955329/10}} 「地方鉄道停車場旅客取扱開始」『官報』1923年4月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[4月25日]]:立川駅 - 二俣尾駅間が電化(直流1200V)<ref name="sone 10"/>。
*1926年(大正15年)5月1日:鉄道免許状下付(西多摩郡福生村-同郡西多摩村間)<ref>[{{NDLDC|2956258/10}} 「鉄道免許状下付」『官報』1926年5月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[2月9日]]:貨物支線 福生駅 - 河岸積込所間(1.2M≒1.93km)が開業。貨物取り扱いの河岸積込所が開業<ref>[{{NDLDC|2956499/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年2月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[2月20日]]:[[河辺駅]]が開業。
** 6月15日:鉄道免許状下付(西多摩郡三田村二俣尾-同郡同村横尾間)<ref>[{{NDLDC|2956606/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年6月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1928年]](昭和3年)[[10月13日]]:楽々園停留場(現在の[[石神前駅]])が開業。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[5月3日]]:'''青梅電気鉄道'''に社名変更<ref name="kid10"/><ref>[{{NDLDC|1022014/10}} 『鉄道統計資料. 昭和4年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 5月20日:鉄道免許状下付(貨物線 北多摩郡立川町[[大字]]上古新田-同郡同町大字中古新田間)<ref>[{{NDLDC|2957182/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1929年5月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[9月1日]]:二俣尾駅 - [[御嶽駅]]間(2.2M≒3.54km)が延伸開業(当初から電化)。軍畑停留場(現在の[[軍畑駅]])、[[沢井駅]]、御嶽駅が開業<ref>[{{NDLDC|2957275/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年9月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1930年]](昭和5年)
** 月日不明:全線の電圧を1200Vから1500Vに昇圧<ref name="sone 10"/>。
** 4月1日:営業距離をマイル表記からメートル表記に変更(立川駅 - 御嶽駅間 16.8M→27.2km、福生駅 - 河岸積込所間 1.2M→1.8km)。
** [[7月16日]]:西立川停留場が開業。
* [[1931年]](昭和6年)[[11月15日]]:貨物駅として[[西立川駅]]が開業。'''南武鉄道'''立川駅 - 西立川駅間の貨物連絡線(2.1km)が開業<ref name="sone 10"/>。
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]]:東青梅停留場(現在の[[東青梅駅]])が開業。
* [[1933年]](昭和8年)11月21日:全線蒸気動力廃止認可<ref name="kid10">[{{NDLDC|1190630/32}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)
** [[6月14日]]:立川駅 - 上古新田駅間(1.7km)および上古新田荷扱所が廃止。
** [[6月19日]]:西立川駅が西立川停留場と統合され、旅客営業を開始。
* [[1938年]](昭和13年)
** [[1月25日]]:昭和前仮停留場(現在の[[昭島駅]])が開業。
** [[12月25日]]:昭和前仮停留場が昭和前駅に変更。
* [[1940年]](昭和15年)
** [[8月17日]]:南武鉄道の連絡線休止<ref name="sone 10"/>。
** 9月1日:休止中の南武鉄道連絡線の起点が立川駅から[[五日市線#廃駅|武蔵上ノ原駅]]に変更(-0.9km)。
* [[1942年]](昭和17年)[[7月1日]]:東中神停留場(現在の[[東中神駅]])が開業。
* [[1943年]](昭和18年)3月1日:牛浜仮停留場(現在の[[牛浜駅]])が開業。
=== 国有化後 ===
* [[1944年]](昭和19年)
** [[4月1日]]:青梅電気鉄道・奥多摩電気鉄道(未成)の鉄道線が国有化され'''青梅線'''になる<ref>[{{NDLDC|2961666/18}} 「運輸通信省告示第117号」『官報』1944年3月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。停留場・仮停留場が駅に変更。楽々園停留場が三田村駅に、河岸積込所が福生河原駅に改称。立川駅 - 中神駅間が複線化。旧・南武鉄道の連絡線 武蔵上ノ原駅 - 西立川駅間(1.2km)が青梅線に編入され営業廃止(同年10月11日営業廃止の五日市線立川駅 - 武蔵上ノ原駅間とともに廃止後も渡り線として存置され青梅短絡線を形成)<ref name="sone 10"/>。
** [[7月1日]]:御嶽駅 - 氷川駅(現在の[[奥多摩駅]])間(10.0km)が延伸開業し全通。[[川井駅]]、[[古里駅 (東京都)|古里駅]]、[[鳩ノ巣駅]]、[[白丸駅 (東京都)|白丸駅]]、氷川駅が新設<ref>[{{NDLDC|2961738/5}} 「運輸通信省告示第321号」『官報』1944年6月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1946年]](昭和21年)[[5月15日]]:中神駅 - 拝島駅間が複線化<ref name="sone 10"/>。
* [[1947年]](昭和22年)[[3月1日]]:三田村駅が石神前駅に改称。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月27日]]:朝に青梅駅→[[東京駅]]間(上りのみ)で直通列車運転開始<ref name="sone 11"/>。
* [[1950年]](昭和25年)[[10月1日]]:夕方に東京駅→青梅駅間(下り)で直通列車運転開始。
* [[1952年]](昭和27年)[[2月19日]]:早朝、小作駅構内から流出した[[貨車]]4両が下り勾配を福生駅まで暴走し、引き込み線に停車中の貨車に激突、大破する事故が発生([[青梅事件]])<ref name="sone 11"/>。
* [[1959年]](昭和34年)
** 10月1日:昭和前駅が昭島駅に改称。
** [[12月10日]]:貨物支線 福生駅 - 福生河原駅間(1.8km)が廃止<ref name="sone 11"/>。福生河原駅が廃止。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[3月28日]]:拝島駅 - 福生駅間が複線化。
** [[12月12日]]:福生駅 - 小作駅間が複線化。
* [[1962年]](昭和37年)[[5月7日]]:小作駅 - 東青梅駅間が複線化。
* [[1967年]](昭和42年)10月1日:東川井[[信号場]]が開業。
* [[1971年]](昭和46年)[[2月1日]]:氷川駅が奥多摩駅に改称<ref name="sone 11"/>。全線に[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入。
* [[1976年]](昭和51年)[[11月25日]]:[[国鉄103系電車|103系]]運行開始<ref name="sone 11"/>。
* [[1978年]](昭和53年)[[3月29日]]:[[国鉄40系電車|クモハ40]]・[[国鉄72系電車|72系]]の[[さよなら運転]]が実施される<ref name="sone 11"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:中央線直通列車で[[国鉄201系電車|201系]]が運行開始<ref name="sone 11"/>。
=== 民営化以降 ===
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道(JR東日本)が継承<ref name="sone 11"/>。日本貨物鉄道(JR貨物)が全線の第二種鉄道事業者となる<ref name="sone 11"/>。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[8月24日]]:八王子駅 - 奥多摩駅間で[[トロッコ列車]]「冒険王」を運転<ref name="sone 11"/>。
** [[12月1日]]:東京駅 - 青梅駅間で「[[特別快速#中央特快・青梅特快|青梅特快]]」を運転開始<ref name="sone 11"/>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月16日]]:新宿駅 - 青梅駅間で[[はちおうじ・おうめ|「おはようライナー青梅」「ホームライナー青梅」]]が運転開始<ref name="sone 11"/>(車両は当初[[国鉄183系電車|183系]]6両[[編成 (鉄道)|編成]]で、後に9両編成に変更)。
* [[1995年]](平成7年)10月:初めての[[特別急行列車|特急列車]]「[[ホリデー快速#ホリデー特急|ホリデー特急奥多摩・鎌倉号]]」が[[国鉄185系電車|185系]]で運転<ref name="sone 11"/>。
* [[1996年]](平成8年)3月16日:[[八高線]]八王子駅 - 高麗川駅間の電化に伴い、立川駅まで[[JR東日本209系電車|209系]]3000番台や103系3000番台が乗り入れ(1999年11月に廃止<ref name="sone 11"/>)。
* [[1998年]](平成10年)
** 4月1日:[[東日本旅客鉄道八王子支社|JR東日本八王子支社]]の発足により、全線の管轄がこれまでの同社東京地域本社(現在の同社[[東日本旅客鉄道東京支社|東京支社]])から八王子支社に変更される。
** [[5月4日]]:八王子支社設立を記念して、八王子駅 - 青梅駅間で[[国鉄40系電車|クモハ40形]]が運転<ref name="sone 11"/>。
** [[8月13日]]<ref>[http://www.jreast.co.jp/hachioji/chuousen/history_oume/h_08.html 青梅・五日市線の歴史]{{リンク切れ|date=2023年1月}} - JR東日本八王子支社</ref>:石灰石輸送[[貨物列車]]がこの日限りで運転終了<ref name="sone 11"/>。
* [[1999年]](平成11年)[[3月25日]]:JR貨物の第二種鉄道事業(拝島駅 - 奥多摩駅間 30.3km)が廃止<ref name="sone 11"/>。
* [[2000年]](平成12年)[[5月27日]]:[[南武線]][[川崎駅]] - 奥多摩駅間で南武線と青梅線を直通運転をする快速「[[ホリデー快速おくたま#川崎-奥多摩ハイキング号|川崎-奥多摩ハイキング号]]」が運転<ref name="sone 11"/>。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月20日]]:東川井信号場が廃止。
** [[8月4日]]:[[国鉄201系電車#展望型電車「四季彩」|201系改造の展望型電車]]が営業運転開始<ref name="sone 11"/>。11月に「四季彩」の愛称が付く<ref name="sone 11"/>。
** [[8月22日]] - [[8月26日]]:[[国鉄165系電車|165系]][[パノラマエクスプレスアルプス]]の[[さよなら運転|さよなら列車]]が立川駅 - 奥多摩駅間で運転。
** 12月1日:「おはようライナー青梅」と「ホームライナー青梅」が「[[はちおうじ・おうめ|青梅ライナー]]」に改称。6両編成の一部を残し103系を一斉に201系(専用編成・[[中央・総武線各停|総武線]]からの転入車)に置き換え<ref name="sone 11"/>。
* [[2002年]](平成14年)
** [[4月13日]]:[[国鉄103系電車|103系]]が、さよなら運転をもって運用終了<ref name="sone 11"/>。
** [[7月1日]]:青梅ライナーが[[JR東日本E257系電車|E257系]]に置き換え。183系は[[6月29日]]の上りにて運用終了。
* [[2004年]](平成16年)
** [[7月4日]]:御嶽駅 - 奥多摩駅間の開業60周年を記念して、立川駅 - 奥多摩駅間で快速「奥多摩-御嶽60周年号」が[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51 842]]+[[国鉄12系客車|12系客車]]+[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10 1705]]を使用して1往復運転<ref name="sone 11"/>。
** [[11月21日]]:立川駅 - 青梅駅間の開業110周年を記念して、同区間で快速「立川 - 青梅110周年号」がDD51 842+旧形客車+DE10 1705を使用して1往復運転(本節末に写真)。
* [[2005年]](平成17年)
** [[5月8日]]:展望型電車「四季彩」外装リニューアルのため、一時運行中断。同年[[7月2日]]に新しいデザインで運行再開。
** [[9月5日]]:朝通勤時間帯の[[中央線快速]]直通上り列車([[新宿駅]]着7:30 - 9:30)の先頭車両に[[女性専用車両]]が設定。
** [[11月12日]] - [[11月20日]]{{Anchors|風っこ}}:トロッコ列車「[[びゅうコースター風っこ]]」2両を使用した臨時快速「風っこ奥多摩号」が青梅駅 - 奥多摩駅間で土曜・休日に2往復、全車[[座席指定席|指定席]]で運行される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2005_1/20050806.pdf|title=秋の増発列車のお知らせ|format=PDF |publisher=JR東日本|date=2005-08-24|accessdate=2022-06-14}}</ref>(途中停車駅は御嶽駅のみ。本節末に写真)。
* [[2006年]](平成18年)
** 11月25日:立川駅 - 奥多摩駅間で快速「青梅・奥多摩レトロ」号がDD51 842+旧形客車+DD51 895を使用して1往復運転(本節末に写真)。
** [[12月26日]]:中央線直通運用でE233系が立川駅 - 青梅駅間で営業運転開始。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]]:全線で中央線編成のE233系運用開始。
*** 201系H編成の一部がT編成となり、H編成として残ったグループは「東京方から4両+6両」が「東京方から6両+4両」に組成を変更し、E233系と共通運用になる。
** 11月:青梅線専用編成のE233系の使用開始<ref name="sone 11"/>(ただし、当面は分割のない6両編成のみ単独運用での運行<ref name="sone 11"/>)。
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月19日]]:201系青梅線専用編成を一斉にE233系に置き換え<ref name="sone 11"/>。同日より4両編成も営業開始<ref name="sone 11"/>。201系は3月まで6両編成3本が単独運用に残る。
** [[3月9日]]:青梅駅 - 奥多摩駅間 [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]使用開始。
** [[3月15日]]:青梅駅 - 奥多摩駅間のE233系でドアの[[自動ドア#交通機関での運用|半自動扱い]]開始(通年)。
* [[2009年]](平成21年)[[7月20日]]:展望型電車「四季彩」運転終了<ref name="sone 11"/>。
* [[2010年]](平成22年)[[10月14日]]:201系の運用終了。
* [[2011年]](平成23年)[[7月23日]]:節電・空調効率向上のため、全駅でドアの半自動扱いを開始(ただし、立川駅では中央線との直通電車は自動、始発電車のみ半自動扱い)<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20110721/20110721_info.pdf 中央線 高尾〜小淵沢間および青梅線 立川〜青梅間におけるドアの半自動扱いの拡大について]}} - 東日本旅客鉄道八王子支社プレスリリース(2011年7月23日)2023年1月28日閲覧</ref>。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:この日のダイヤ改正により、平日9時頃から14時頃にかけて、青梅駅 - 奥多摩駅間の運転間隔を改正前の30分間隔から45分間隔に変更<ref group="報道" name="jrhachioji20151218" />。青梅線 西立川駅 - 青梅駅間、[[五日市線]] 拝島駅 - [[武蔵五日市駅]]間が列車運行情報サービス「どこトレ」の案内路線に追加。
* [[2017年]](平成29年)
** [[2月14日]]:[[東京圏輸送管理システム]](ATOS)を導入。
** [[3月31日]]:[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリ]]「JR東日本アプリ」での在線位置を提供開始<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20170318.pdf 「JR東日本アプリ」での情報提供がさらに充実します]}} - 東日本旅客鉄道(2017年3月30日)2023年1月28日閲覧</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[9月14日]]:青梅駅 - 奥多摩駅間に「東京アドベンチャーライン」という愛称を付ける<ref group="報道" name="jreast20180914" />。
* [[2019年]](平成31年)3月16日:「青梅ライナー」を廃止、特急「[[はちおうじ・おうめ|おうめ]]」(1日1往復)を新設<ref group="報道" name="jreast20181214">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20181213.pdf|title=2019年3月ダイヤ改正について|format=PDF|date=2018-12-14|accessdate=2019年4月2日|publisher=東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=JR青梅線で初の特急運行 19年3月改正で|url=https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=46513453|website=MX NEWS|accessdate=2019-04-02|language=ja}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[4月9日]]:[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策のため、車内換気向上のため、12年ぶりに全線でドアの自動扱いを開始<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/hachioji/aas/20200408_01.pdf 車内換気のためのドア自動開閉について]}} - 東日本旅客鉄道八王子支社お知らせ(2020年4月8日)2023年1月28日閲覧</ref>。
** [[11月28日]] - [[11月29日]]:牛浜駅ホーム延伸に向けた線路切替工事実施に伴い、夜間および早朝の全列車が拝島駅 - 青梅駅間で運休<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20200826/20200826_info01.pdf|title=青梅線 牛浜駅線路切換工事に伴う列車の運休等について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2020-08-26|accessdate=2020-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200827050317/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20200826/20200826_info01.pdf|archivedate=2020-08-27}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 3月12日:八高線・川越線のワンマン運転化に伴い、朝夕に2往復が設定されていた八高線との直通運転を廃止。
** 10月15日:[[グリーン車]]導入に伴う青梅駅ホーム延伸のための線路切替工事の実施に伴い、河辺駅 - 日向和田駅間で終日運休とし、運休区間は[[バス代行|バスによる代行輸送]]を実施<ref group="注釈">運行は[[西東京バス]]、[[京王電鉄バス#京王バス|京王バス]]、[[西武バス]]、[[国際興業バス]]が担当。</ref><ref group="報道">{{Cite web|和書|title=中央快速線等グリーン車導入に伴う青梅線 青梅駅線路切換工事 列車の運休等について|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/hachioji/220722_hc004.pdf |publisher=JR東日本八王子支社 |date=2022-07-22 |access-date=2022-10-09 |language=ja}}</ref>。[[中央線快速|青梅特快]]・[[ホリデー快速おくたま]]は東京駅・新宿駅 - 河辺駅間のみ(ホリデー快速は河辺駅に臨時停車)の運転となった。
* [[2023年]](令和5年)
** 1月28日:東京アドベンチャーライン区間(青梅駅 - 奥多摩駅間)で、四季ごとに絵柄を変えるラッピング列車の運行を開始(3月18日ダイヤ改正以降は同区間の全列車をラッピング列車化)<ref group="新聞">「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/227441 沿線の四季を描いた列車でPR JR青梅線青梅−奥多摩間 28日から順次お目見え]」[[東京新聞]] TOKYO Web(2023年1月26日)2023年1月28日閲覧</ref>。
** 3月18日:青梅駅 - 奥多摩駅間でワンマン運転を開始<ref group="報道" name="jreast20221216" />。ダイヤ改正により青梅駅を跨いで運転する定期列車が消滅。
** [[5月13日]]:東青梅駅線路切替工事に伴い、同日夜より終電まで河辺駅 - 青梅駅間で運休<ref group="報道" name="press20230222">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/hachioji/20230222_hc009.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230222080948/https://www.jreast.co.jp/press/2023/hachioji/20230222_hc009.pdf|format=PDF|language=日本語|title=青梅線 東青梅駅 線路切換工事に伴う列車の運休等について|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社・電気システムインテグレーションオフィス|date=2023-02-22|accessdate=2023-02-22|archivedate=2023-02-22}}</ref>。
<gallery>
ファイル:DE101705ome110.JPG|快速「立川 - 青梅110周年号」
ファイル:Kazekko007.JPG|臨時快速「風っこ奥多摩号」
ファイル:DD51-842.JPG|快速「青梅・奥多摩レトロ号」
</gallery>
=== 青梅短絡線 ===
[[五日市鉄道]]の拝島駅 - 立川駅間の旅客線の一部と、ともに[[浅野財閥]]系列であった[[青梅線#歴史|青梅電気鉄道]]と[[南武線#歴史|南武鉄道]]を立川駅において[[日本国有鉄道|国鉄]]を介さずに貨物列車を直通させるために敷設したものである。連絡線自体は、当初五日市鉄道が建設しようとしたが、申請した敷設免許がなかなか交付されず、結局は南武鉄道が完成させた。
* [[1930年]](昭和5年)[[7月13日]]:五日市鉄道が、立川駅 - 武蔵上ノ原駅間(0.8km)を立川駅 - 拝島駅間の旅客線の一部として開業。
* [[1931年]](昭和6年)[[11月15日]]:南武鉄道貨物支線 立川駅 - 武蔵上ノ原駅 - 西立川駅間(2.1km)が開業<ref name="sone 10"/>(立川駅 - 武蔵上ノ原駅間(0.9km)は五日市鉄道との二重線籍)。
* [[1940年]](昭和15年)
** [[8月17日]]:南武鉄道貨物支線休止<ref name="sone 10"/>。
** [[9月1日]]:休止中の南武鉄道貨物支線の起点を立川駅から武蔵上ノ原駅に変更(-0.9km)。
** [[10月3日]]:五日市鉄道は南武鉄道に合併し、同社の五日市線となる。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[4月1日]]:国により[[戦時買収私鉄|買収]]・国有化され立川駅 - 武蔵上ノ原駅間(0.8km)は五日市線となる。休止中の貨物支線、武蔵上ノ原 - 西立川間(1.2km)は青梅線に編入されたうえで、(営業)廃止。
** [[10月11日]]:五日市線の立川駅 - 武蔵上ノ原駅 - 拝島駅間を[[不要不急路線]]として休止(実質廃止)。ただし、立川駅 - 武蔵上ノ原駅間は青梅線の渡り線として存続され、立川駅 - 武蔵上ノ原駅(廃止) - 西立川駅間という現在の「'''青梅短絡線'''」の形ができ上がる。
* [[1950年]](昭和25年)[[10月1日]]:夕方に東京駅→青梅駅間(下り)で直通電車運転開始。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR東日本が継承。JR貨物が第2種鉄道事業者となる<ref name="sone 11"/>。
* [[1998年]]([[平成]]10年)[[8月13日]]:石灰石輸送貨物列車がこの日限りで運転終了<ref name="sone 11"/>。
== 運行形態 ==
{{更新|section=1|date=2023年5月}}
立川駅 - 青梅駅間は日中時間帯で1時間に5本程度運行されており、五日市線武蔵五日市からの列車が乗り入れてくる拝島駅 → 立川駅間の朝[[ラッシュ時]]の最短運転間隔は約2分である。立川駅 - 青梅駅間では中央線用のE233系10両固定[[編成 (鉄道)|編成]]および6+4両分割編成(一部は青梅・五日市線用「青」編成)による10両編成が基本となっている。このうち一部の下り列車に、河辺駅・拝島駅で折り返し上りとなるものや留置線に出入りする列車がある。
2015年3月14日のダイヤ改正では、平日ダイヤの朝夕1 - 2本が立川駅発着から東京駅発着へ延長運転され、五日市線とともに1日の運転本数が見直された(青梅線は朝夕。五日市線は日中)。
青梅駅 - 奥多摩駅間は日中約45分間隔(土曜・休日は30分間隔)<ref group="報道" name="jrhachioji20151218">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20151218/20151218_info02.pdf 2016年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道八王子支社(2015年12月18日)2023年1月28日閲覧</ref>で運行されており、こちらも「青」編成の4両編成を基本に、H編成の4両編成(ホリデー快速はH編成の6両編成)も使用されている。一部は御嶽駅折り返しの列車も設定されている(4両編成の号車番号は、7 - 10号車のみ)。
[[国鉄103系電車|103系]]が運転されていた[[2002年]]頃までは全線を直通する4両編成も多かったが、現在は朝晩の[[各駅停車]]と土休日のホリデー快速を除いては青梅駅で運転系統が分離されており、立川駅 - 青梅駅間では10両編成が基本となった。この編成増に伴い、この区間の日中の運転本数が見直された。立川駅 - 奥多摩駅間の直通列車については10両のうち6両を青梅駅で連結または切り離すのが基本であるが、朝と深夜の一部列車は4両のまま立川駅 - 奥多摩駅間を直通するものがある。また、立川駅 - 青梅駅間でも、早朝・深夜を中心に6両または4両編成で運転されている列車が設定されている。
青梅線はかつてより青梅駅を境に輸送量に大きな差があり、運行形態も青梅駅でほぼ分離されるようになったが、{{要出典範囲|[[奥多摩町]]と青梅市の強い要望|date=2015年3月}}により、朝方には平日・土休日ともに、上りは奥多摩駅ないし御嶽駅から、立川駅・東京駅まで直通運転する列車がある。ただし奥多摩駅発の東京行きは平日が5・6時台に2本、土休日は6時台に1本のみの運行となっている。輸送量の多い東側の区間のうち、立川駅 - 東青梅駅間は[[複線]]だが、東青梅駅 - 青梅駅間は[[単線]]のままである。また、青梅駅も[[留置線]]を除くと1面2線と、[[運行系統|運転系統]]を分離している駅としては小規模であり、運転本数やダイヤの設定における制約となっていて、一部下り列車には一駅先の[[宮ノ平駅]]で折り返すものもある(青梅駅 - 宮ノ平駅間は上下とも[[回送]])。東青梅駅 - 青梅駅間の複線化は青梅市がJRに要望している<ref>{{PDFlink|[http://www.city.ome.tokyo.jp/kikaku/documents/ome_plan_f_dai2_4.pdf 第5次青梅市総合長期計画(基本構想・前期基本計画)(インターネット版)]}}{{リンク切れ|date=2023年1月}} p.124 - 青梅市 2008年10月29日</ref>ものの、実現のめどは立っていない。
青梅駅以西は2016年3月のダイヤ改正で平日昼間の運転本数が削減された。それによる観光・生活への悪影響を懸念する青梅市などが便数維持を求める要望書を提出した<ref group="新聞">「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO98515760W6A310C1L83000/ JR青梅線 青梅―奥多摩で減便/観光・住民の足細る/自治体、維持求め要望書]」『[[日本経済新聞]]』朝刊2016年3月17日(東京・首都圏経済面)2018年4月20日閲覧</ref>が、2018年3月のダイヤ改正でも減便された。2018年3月の減便計画について、[[東日本旅客鉄道八王子支社|JR東日本八王子支社]]は「極めて低調な利用状況に合わせて決めた」とコメントしている<ref group="新聞">「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO24709140V11C17A2L83000/ JR青梅線 来春から減便]」『日本経済新聞』朝刊2017年12月16日(東京・首都圏経済面)2018年4月20日閲覧</ref>。
一方で、JR東日本八王子支社は2018年7月から、沿線の豊かな自然を象徴するイラスト([[ムササビ]]、[[鳥]]、[[昆虫]]等)を描いた[[ラッピング列車]]を運行するなど、観光・行楽需要の開拓を含めた利用促進に努めている<ref group="新聞">「[https://www.asahi.com/articles/ASL74412XL74UTIL00V.html 東京)自然イメージのラッピング電車が運行開始 青梅線]」[[朝日新聞デジタル|朝日新聞DIGITAL]](2018年7月5日)2018年7月25日閲覧</ref>。また、その取り組みの一環として青梅駅 - 奥多摩駅間に2018年9月14日、「東京アドベンチャーライン」の愛称が付けられた<ref group="報道" name="jreast20180914" />。
=== 中央線直通 ===
立川駅 - 青梅駅間では[[中央線快速|中央線]]直通列車が多く運行されており、終日にわたって設定されている。正式な列車種別は上下線とも中央線と共通<ref group="注釈">早朝に運転される中央線[[武蔵小金井駅]]発の列車は、青梅線内運転と同じく通過駅はないが、青梅線内での正式種別は中央線内同様「快速」となる。</ref>で、上り列車は青梅線内でも中央線内の列車種別で案内がなされる。
直通する列車は快速のほか、日中の[[特別快速#中央特快・青梅特快|青梅特快]]・朝ラッシュ時の上り[[特別快速#通勤特快|通勤特快]]・夕ラッシュ時の下り[[中央線快速#通勤快速|通勤快速]]がある。日中の1時間に5本のうち、青梅特快1本・快速2本の3本が中央線へ直通する<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20121221/20121221_info02.pdf 2013年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道八王子支社(2012年12月21日)2023年1月28日閲覧</ref>。2015年3月14日のダイヤ改正で、平日の朝に新たに2本と夕方に1本が東京駅発着となった。奥多摩駅と中央線を直通する列車は季節運行の臨時特急「[[はちおうじ・おうめ|おうめ]]」のみである。2023年3月18日のダイヤ改正以前は、定期列車で朝に奥多摩発東京行きの快速が平日に2本、土休日に1本設定されていたほか、特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」が土休日に3往復、武蔵五日市駅発着の特別快速「[[ホリデー快速おくたま|ホリデー快速あきがわ]]」を東京駅 - 拝島駅間で併結して運転されていた。
このほか平日には、2019年3月16日のダイヤ改正で新設された特急「[[はちおうじ・おうめ|おうめ]]」が、それまで運転されていた「青梅ライナー」に代わって、朝に上り青梅駅発東京駅行き、夜に下り東京駅発青梅駅行きが1本ずつ運転されている<ref group="報道" name="jreast20181214" />。
かつては、平日に2往復、土休日に1往復、当路線を経由して中央線と五日市線・八高線を直通する列車が設定されており、拝島駅で五日市線直通の東京寄りの6両(1 - 6号車)と、八高線直通の青梅寄りの4両(7 - 10号車)の連結・切り離しを行っていた。また、土休日下りには青梅駅行きと武蔵五日市駅行きの併結直通列車が設定されており、この列車については東京方6両が青梅行き、青梅方4両が五日市線直通武蔵五日市駅行きとなっていた。しかし、2022年3月12日のダイヤ改正により、当路線を経由して中央線と五日市線・八高線を直通する列車は全て廃止された<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211217_hc01.pdf 2022年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道八王子支社(2021年12月17日)2023年1月28日閲覧</ref>。
乗客は中央線直通列車(特に青梅特快)に集中する傾向がみられる。また、当路線や中央線で人身事故や設備トラブルが生じた場合は直通運転を打ち切る場合が多い。ただし、{{要出典範囲|中央線と青梅線の運行[[ダイヤグラム|ダイヤ]]は最初から分離運転を念頭において作成されており、相手方ダイヤへの影響は比較的少ない|date=2012年2月}}。立川駅では上りは中央線と青梅線からの直通列車の同時到着が可能だが、下りはポイントの関係上、中央線と[[#青梅短絡線_2|青梅短絡線]]を経由する青梅線直通列車の同時発車ができないなどの制約がある。
2023年3月のダイヤ改正により、中央快速線のグリーン車導入に伴い、青梅駅 - 奥多摩駅間はワンマン運転4両編成のみとして、中央線東京・新宿方面からの直通運転(「ホリデー快速おくたま」を含む)も青梅駅までに短縮。また青梅駅 - 奥多摩駅間の「ホリデー快速おくたま」も、この区間運転のみの臨時列車に格下げされる。また青梅駅と河辺駅の両駅では、ホームを新設して中央線東京・新宿方面との直通列車は青梅駅までに短縮の上で、平日は上り18本・下り17本、休日(土曜・日曜・祝日)はそれぞれ21本・19本に増発される<ref group="報道" name="jreast20221216">[https://www.jreast.co.jp/press/2022/hachioji/20221216_hc01.pdf 2023年3月ダイヤ改正について] JR東日本八王子支社(2022年12月16日)2023年1月28日閲覧</ref><ref>「[https://trafficnews.jp/post/123365 青梅~奥多摩“完全分離”ホリデー快速も 中央線系統ダイヤ改正 かいじ・あずさは延長も]」乗りものニュース(2022年12月17日)2023年1月28日閲覧</ref>。
==== 女性専用車 ====
平日朝7時30分 - 9時30分に新宿駅を発着する上り中央線直通の通勤特快・快速の進行方向先頭車両(1号車)で[[女性専用車両|女性専用車]]が実施される。青梅線内の実施区間は立川駅 - 青梅駅間。かつては全線で行われていたが、2007年3月18日改正から6両編成と4両編成の位置が入れ替わったことにより、7 - 10号車のみが運転される青梅駅 - 奥多摩駅間では廃止された。なお青梅・五日市線専用の「青」編成は、通常中央線内で営業運転することはないが、仕様は中央線のH編成とほぼ同一なため、立川方1両(1号車)は女性専用車仕様になっていて、「この車両は、平日/上り新宿駅に7:30 - 9:30に発着する東京駅行きの電車で、女性専用となります」のステッカーがあり、網棚の位置も低いなどの特徴がある。ただし青梅線・五日市線内でのみ運転を完結する列車は、編成種別にかかわらず、女性専用車としては運転しない。
中央線・青梅線立川駅 - 青梅駅間では[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに[[グリーン車]]導入が予告されているが、女性専用車の取り扱いについては未定<ref group="注釈">なお、2階建てグリーン車を連結している[[東海道線 (JR東日本)|東海道線(JR東日本運行区間)]]および[[高崎線]]、[[宇都宮線]]、[[横須賀線]]・[[総武快速線]]、[[常磐線]]では、女性専用車が導入されていない。</ref><ref group="新聞">「[https://www.sankei.com/article/20170324-C3OP6JLBL5PSTKKNJZCIXXWEOY/ JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期]」[[産経新聞]](2017年3月24日)2023年1月28日閲覧</ref>。
=== 臨時列車 ===
青梅線は、[[#青梅鉄道・青梅電気鉄道|青梅鉄道・青梅電気鉄道]]として開業当初は[[狭軌|ナローゲージ]]を採用した関係で[[中央本線]]との列車・車両の直通ができなかったが、[[改軌]]・[[鉄道の電化|電化]]された昭和10年代には観光用の[[臨時列車]]として直通列車が運行されたとされ、この列車は現在の[[ホリデー快速おくたま|ホリデー快速「おくたま」「あきがわ」]]に通ずるものとされている。なお、「おくたま」「あきがわ」とともに運転されていた[[御嶽駅]]発着のホリデー快速「[[ホリデー快速おくたま|みたけ]]」は2001年を最後に運転されていないが、冬季減便はなくなり、ホリデー快速は年間を通じ土休日に3往復が走っている。
[[国鉄分割民営化]]後は東京都内・[[首都圏 (日本)|首都圏]]で、JR東日本は管内にある観光地の一つとして積極的なPRや列車運行を行っており、特に観光客の減少する毎年秋から春にかけて、[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]では「東京のふるさと 青梅・五日市線の旅」と称する[[キャンペーン]]を重点的に繰り広げている。とりわけ観光色の濃い青梅駅以西では、[[2001年]]から[[国鉄201系電車#展望型電車「四季彩」|201系展望型電車「四季彩」]]がこの区間を基本に運行されていたが、[[国鉄201系電車|201系]]の全廃とともに[[2009年]]7月20日をもって運行を終了した。
毎年[[1月1日]][[未明]]には[[武蔵御嶽神社]][[初詣]]のために、立川駅 - 御嶽駅間で約50分間隔の[[終夜運転]]が行われる。この列車は青梅駅 - 御嶽駅間で途中無停車の快速運転を行う。
=== 貨物輸送 ===
[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が第二種鉄道事業者となっている立川駅 - [[拝島駅]]間で、臨時[[貨物列車]]が運行されている。
拝島駅最寄りの[[在日米軍]][[横田飛行場|横田基地]]向けの[[石油]]([[ケロシン|ジェット燃料]])輸送が行われており、[[安善駅]]と拝島駅の間を、[[南武線]]と青梅短絡線経由で結ぶ[[専用貨物列車]]が基本的には1週間に2日程度、[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]や[[JR貨物EF210形電気機関車|EF210形]]などの[[電気機関車]]牽引で運行されている(火曜日と木曜日の運行が多い)。なお、在日米軍所有の[[拝島駅#JR貨物管理・米軍横田基地線|横田基地線]]は[[非電化]]単線のため、同線牽引のための[[JR貨物DD200形ディーゼル機関車|DD200形ディーゼル機関車]]も、単機で立川駅 - 拝島駅間を貨物列車の入線日に合わせて走行する。2014年3月ダイヤ改正で武蔵野貨物線へ一部経路変更後、運転頻度が多くなり、特に7月以降は月曜から金曜の平日(休日含む)のうち、3日以上、週によっては毎平日運転されるようになっている。
[[奥多摩]]地区で採掘される[[石灰石]]輸送も全線で長らく行われていたが、[[1998年]](平成10年)8月までに全て廃止され、[[貨物自動車|トラック]]輸送に切り替えられた。
== 青梅短絡線 ==
[[ファイル:Ome Shortcut Line.jpg|thumb|立川市富士見町、水道前踏切付近。下が中央線。(2009年6月)]]
立川駅以西の[[中央線快速|中央線]]と[[平面交差]]せずに同線下り線および[[南武線]]が青梅線と連絡するために立川駅から[[西立川駅]]まで[[連絡線]]が設置されている。[[営業キロ]]は設定されておらず、[[時刻表]]にも載っていない。青梅線の渡り線の扱いで、「青梅連絡線」や、JRでは「青梅第三線」と呼称されていたが、現在では「青梅短絡線」が正式名称である。「短絡線」と呼ばれているが、本線より約200m遠回りである。
=== 走行列車 ===
青梅短絡線を運行する列車は主に、中央線と青梅線を直通運転する下り列車、および南武線と青梅線の直通列車(「ホリデー快速湘南号」等の臨時列車や貨物列車)である。青梅線の線内列車は基本的にこの線路を運行しないが、早朝の一部列車に[[豊田車両センター]]からの送り込みの関係で立川駅の4・5番線から発車するものがあり、その列車についてはこの線路を運行する。
貨物列車としては、在日米軍横田基地への航空機燃料輸送のための専用貨物列車(輸送区間は安善駅 - 拝島駅間で[[鶴見線]]・[[南武線|南武線浜川崎支線・尻手短絡線]]・[[武蔵野線|武蔵野貨物線]]・[[南武線]]・青梅線経由)が週に数回運行されている。また、かつて[[浜川崎駅]] - 奥多摩駅間で運行されていた石灰石輸送の専用貨物列車もこの短絡線を利用していた。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
E233系青編成(青梅・五日市線専用編成)を除き、中央線(T編成、H編成)と共通の運用となっている。なお、青編成も代走として中央線との運用に就く場合もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://imatama.jp/jreast-special/2016-autumn06/ |title=青梅・五日市線の豆知識 〜車両・技術センター編〜|website=青梅・五日市線の旅 |quote=ごく稀に「T・H編成」が不具合などで走行できなくなった場合は、「青編成」が中央線を代走することがあります。 |accessdate=2018-10-14}}</ref>。E233系東京アドベンチャーラインラッピング車両は通常、青梅線立川駅 - 奥多摩駅間(および豊田車両センターからの送り込みで中央本線立川駅 - 豊田駅間)のみの運転だが、2020年10月 - 11月の2か月間のみ、中央線快速、五日市線等でも運転され<ref>{{Cite press release|和書|title=秋の「青梅線・五日市線」観光キャンペーンを開催します!~東京アドベンチャーラインで行く、秋の感動体験~ |publisher=東日本旅客鉄道八王子支社 |date=2020-09-18 |url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20200918/20200918_info002.pdf |format=PDF |accessdate=2020-09-21}}</ref>、2021年も同期間に実施されている。
*[[JR東日本E353系電車|E353系]]([[松本車両センター]]所属):特急「[[はちおうじ・おうめ|おうめ]]」で使用。
*[[JR東日本E233系電車|E233系0番台]]([[豊田車両センター]]所属)青梅特快や各駅停車に使用される。
*[[JR東日本209系電車#1000番台|209系1000番台]](豊田車両センター所属) - 通常運用では青梅線に乗り入れないが、代走などで立川駅 - 青梅駅間に入線する場合がある。ドアボタンが未設置のため、線内での半自動扱いは行われず、自動でドアが開く。
<gallery widths="240">
ファイル:E233系青編成による東京アドベンチャーのラッピング電車.jpg|E233系 東京アドベンチャーライン ラッピング電車(拝島駅)
ファイル:代走で青梅線に入線した209系1000番台トタ82編成.jpg|代走で青梅線に入線した209系1000番台(小作駅)
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
* [[JR東日本E257系電車|E257系電車]]:2002年7月1日 - 2019年3月15日
** 「[[はちおうじ・おうめ|青梅ライナー]]」で使用。
* [[国鉄201系電車|201系電車]]:1982年11月15日 - 2010年10月14日
** 中央線からの直通列車としての運用が主体であったが、線内運用についても、2001年以降に[[中央・総武緩行線]]で使用された201系が青梅線や[[五日市線]]、[[京葉線]]に転属し、103系を置き換えた。中央線の編成と違って、先頭に種別表示器を掲出していない。そのため、中央線の201系と青梅線・五日市線内専用の201系の双方が走る光景が見られたが、2007年3月17日からE233系の青梅線・五日市線内専用編成の運用が始まると青梅線・五日市線内専用の201系は順次置き換えられて、[[2008年]][[3月26日]]に青梅線と五日市線での運用を終了した。その後は中央線直通電車のみの運用となっていたが、[[2010年]][[10月14日]]で定期運用を終了し、青梅線での営業運転を終えた。なお、五日市線への乗り入れは2008年3月以降はなかった。
* [[国鉄103系電車|103系電車]]:1976年11月25日 - 2002年4月13日
** 中央・総武緩行線で走っていた201系が導入されたため、2002年3月7日で運用を終了し、4月13日に「さよなら運転」が行われた。オレンジバーミリオン以外にも、[[青22号|スカイブルー]]・[[黄緑6号|ウグイス]]・[[黄5号|イエロー]]・[[青緑1号|エメラルドグリーン]]の車体色の車両も走っていた。
* [[JR東日本209系電車|209系3000番台電車]]: 1996年3月16日 - 1999年12月3日
** 過去に2往復設定されていた八高線からの直通列車で使用されていた。
* [[国鉄101系電車|101系電車]]: 1959年11月9日<ref>青梅市郷土博物館『開館40周年特別展 青梅線開通120周年』図録 青梅線年表 106頁</ref> - 1986年9月19日
* [[国鉄40系電車|クモハ40形]]・[[国鉄72系電車|72系電車]]: - 1978年3月29日
* [[国鉄50系電車|50系電車]]・[[国鉄31系電車|31系電車]]・[[国鉄30系電車|30系電車]]
* [[青梅電気鉄道の電車|青梅電気鉄道の社形電車]]
* [[国鉄183系電車#国鉄189系電車|189系電車]]:- 2017年
** 臨時快速「ホリデー快速あたみ号」「鎌倉紅葉号」「鎌倉あじさい号」などで使用。
* [[国鉄183系電車|183系電車]]:1991年3月16日 - 2002年6月29日
** 「青梅ライナー」「おはようライナー青梅」「ホームライナー青梅」やホリデー快速などで使用。
* [[青梅鉄道1号形電気機関車]]
* [[国鉄ED16形電気機関車|ED16形電気機関車]]: - 1984年6月19日
* [[国鉄EF64形電気機関車|EF64形電気機関車]]: - 1998年8月22日
{{節スタブ}}
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ファイル:JRE-201EMU-Ome-Itsukaichi.JPG|かつて青梅・五日市線で使われた201系(青梅駅)
ファイル:Shikisai, 2009.jpg|かつて土・休日に、主に青梅駅 - 奥多摩駅間を走った201系展望型電車「四季彩」(青梅駅)
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== 沿線概況 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#f15a22}}
{{BS-table}}
{{BS5|||STR|||||[[中央線快速|中央線]]|}}
{{BS5|||STR|STR+l|STRq|||[[南武線]]|}}
{{BS5||KRW+l|KRWgr+l|KRWgr||||}}
{{BS5||O1=HUBrg|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBq|HUBlg|0.0|JC 19 [[立川駅]]||}}
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{{BS5||xSTR+c1|STR+4|eHST||||''武蔵上ノ原駅'' -1944}}
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{{BS5|STR+l|STRq|KRZu|STRq||||[[八高線]]|}}
{{BS5|STR|KDSTa|STR||||[[立川運転区]]拝島電留線||}}
{{BS5|STR2|STR2+c3|STR+c3||exLSTR||||}}
{{BS5|STR+r|O1=STRc1|STR+4+c1|exSTR+l|O3=ABZg+4|exSTRq|exSTRr|||[[西武鉄道|西武]]:[[西武拝島線|拝島線]]|}}
{{BS5|KBHFe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||6.9|JC 55 [[拝島駅]]||}}
{{BS5||KRWg+l|KRWgr|||||←八高線|}}
{{BS5||STRr|ABZgl|STRq||||[[五日市線]]→|}}
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{{BS5|||BHF|||8.6|JC 56 [[牛浜駅]]||}}
{{BS5|||BHF|||{{BSkm|9.6|0.0*}}|JC 57 [[福生駅]]||}}
{{BS5|||eABZgl|exSTR+r|||||}}
{{BS5|||STR|exKDSTe||1.8*|''福生河原駅''|-1959|}}
{{BS5|||BHF|||11.7|JC 58 [[羽村駅]]||}}
{{BS5|||BHF|||14.1|JC 59 [[小作駅]]||}}
{{BS5|||tRAq|O3=STR|||||[[首都圏中央連絡自動車道]]|}}
{{BS5|||BHF|||15.9|JC 60 [[河辺駅]]||}}
{{BS5|||eDST|||16.7|''師岡聯絡所''|-1922|}}
{{BS5|||BHF|||17.2|JC 61 [[東青梅駅]]||}}
{{BS5||STR+l|ABZgr||||||}}
{{BS5||DST|BHF|||18.5|JC 62 [[青梅駅]]||}}
{{BS5||STRl|ABZg+r||||立川運転区青梅派出所||}}
{{BS5|exKBSTaq|exSTRq|eABZgr|||||''浅野セメント専用線''|}}
{{BS5|||BHF|||20.6|JC 63 [[宮ノ平駅]]||}}
{{BS5|||eABZgl|exKBHFeq|||''日向和田駅''| -1914|}}
{{BS5|||TUNNEL1|||||}}
{{BS5|||BHF|||21.4|JC 64 [[日向和田駅]]|1914-|}}
{{BS5|||BHF|||22.4|JC 65 [[石神前駅]]||}}
{{BS5|||BHF|||23.6|JC 66 [[二俣尾駅]]||}}
{{BS5|||hKRZWae|||||平溝川|}}
{{BS5|||BHF|||24.5|JC 67 [[軍畑駅]]||}}
{{BS5|||BHF|||25.9|JC 68 [[沢井駅]]||}}
{{BS5|||BHF|||27.2|JC 69 [[御嶽駅]]||}}
{{BS5|||TUNNEL2||||||}}
{{BS5|||eDST|||29.6|''[[東川井信号場]]''|-2001|}}
{{BS5|||BHF|||30.0|JC 70 [[川井駅]]||}}
{{BS5|||hKRZWae|||||大丹波川|}}
{{BS5|||TUNNEL2||||||}}
{{BS5|||BHF|||31.6|JC 71 [[古里駅 (東京都)|古里駅]]||}}
{{BS5|||TUNNEL2||||||}}
{{BS5|||hKRZWae|||||入川谷|}}
{{BS5|||TUNNEL2||||||}}
{{BS5|||BHF|||33.8|JC 72 [[鳩ノ巣駅]]||}}
{{BS5|||hKRZWae|||||西川|}}
{{BS5|||TUNNEL2||||||}}
{{BS5|||BHF|||35.2|JC 73 [[白丸駅 (東京都)|白丸駅]]||}}
{{BS5|||TUNNEL2||||[[氷川トンネル]]||}}
{{BS5|||KBHFxe|||37.2|JC 74 [[奥多摩駅]]||}}
{{BS5||KBSTa|exSTR|||||''[[奥多摩工業]]専用線''|O3=POINTERg@fq}}
{{BS5||CONTf|exKBSTe|||||''[[東京都水道局小河内線]]''|}}
|}
|}
[[立川市]]から、[[昭島市]] - [[福生市]]に向かい住宅地の中を走る。駅間が非常に短く、[[西立川駅]] - [[東中神駅]]間は800 m(0.8 km)という短さで、隣の駅のホームが[[肉眼]]で視認できるほどである。このような事情もあり、列車はあまり加速をしない。
[[中央本線]](中央線)からの下りおよび[[南武線]]からの直通列車と一部列車は、[[立川駅]]から西立川駅まで中央線を[[立体交差]]で越える「[[#青梅短絡線_2|青梅短絡線]]」と呼ばれる単線の線路を通る。
青梅短絡線を経由する列車は立川駅を出ると、まもなく中央線の線路から分かれ、南武線方面から延びてくる線路と合流し、土手を登り始める。登ると、まもなく右へカーブ、中央線の上を跨ぐ。その先を数百メートル進み、[[踏切]]を越えるところに左手に草が生えた[[空き地]]のような場所がある。ここは元々、武蔵上ノ原駅があった場所である。現在は[[廃駅]]で、[[プラットホーム]]も撤去されている。その先は完全に[[住宅地]]の中に入り、家々のすぐ横を走っていく。さらに行くと、[[残堀川]]を渡り、右手に見えてきた青梅線の本線と合流し、西立川駅となる。
西立川駅は[[国営昭和記念公園]]の最寄り駅。東中神駅と[[中神駅]]の周辺は主に住宅地で、駅前は商店も混在する。[[昭島駅]]は昭島市の中心駅であり、郊外型の大型店舗や映画館などが隣接し、買い物客が多い。[[拝島駅]]では[[五日市線]]、[[八高線]]、[[西武拝島線]]への乗り換えで多くの乗り降りがある。福生市から[[羽村市]]、[[青梅市]]にかけて住宅地の中を走るため、特にこの近辺は青梅線内において利用者数の多い駅が集まっている。
2018年3月6日、東京圏主要路線全330駅に[[ホームドア]]を整備すると発表された。その中には青梅線の立川駅 - 拝島駅間も含まれている<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/20180305.pdf 東京圏におけるホームドアの整備促進について]}} - 東日本旅客鉄道(2018年3月6日)2023年1月28日閲覧</ref>。
[[福生駅]]は福生市の商業の中心地であり、大型店舗も隣接する。同様に、羽村市の中心駅である[[羽村駅]]や、青梅市の中心駅である[[河辺駅]]などにも、大型店舗が隣接している。[[小作駅]]は[[工業団地]]も近いため、利用者数が多い。沿線を通して基本的に住宅地だが、羽村駅から小作駅にかけては[[畑]]なども散見される。[[東青梅駅]]の手前からは単線となり、[[青梅駅]]まで住宅密集地の中をゆっくりと通り抜けて行く。この辺りから、遠くに聳える奥多摩の山並みが進行方向に確認できる。
青梅駅から「東京アドベンチャーライン」の愛称が付けられた区間に入る。次の[[宮ノ平駅]]を出ると、[[トンネル]]としては青梅線で最も東側にある日向和田トンネルに入る<ref>[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻38号「青梅線・鶴見線・南武線・五日市線」7頁]]</ref>。[[御嶽駅]]を過ぎ[[奥多摩町]]に入ると、山並みの中に入り、半径200 m級の急カーブ(制限速度 45 - 50 km/h程度)も非常に多くなる<ref name="sone 8">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』通巻38号「青梅線・鶴見線・南武線・五日市線」8頁]]</ref>。[[ローカル]]色が強くなり、山並みが一望でき、多摩川の[[渓谷]]風景も望める<ref name="sone 8"/>。駅周辺の宅地の規模は小さく、各駅の乗車人員は数百人程度である。
[[JR東日本E233系電車|E233系]]の導入を機に、青梅駅 - 奥多摩駅間ではドア扱いは通年で押しボタンによる[[自動ドア#交通機関での運用|半自動扱い]]となっており、立川駅 - 青梅駅間でも、[[東日本大震災]]に伴う[[福島第一原子力発電所]]などの停止による[[東日本大震災による電力危機|電力不足]]を受け、[[節電]]対策及び乗客への配慮として[[2011年]]7月下旬より通年半自動扱いとなっている。<!-- 2020年6月頃からCOVID19の影響で半自動扱いは休止 (WP:V不足)-->
{{-}}
== 駅一覧 ==
* ◆:貨物取扱駅(臨時貨物列車発着あり)
* 停車駅
** 各駅停車・快速・青梅特快…全ての駅に停車
** 特急「[[はちおうじ・おうめ|おうめ]]」…●印の駅は停車、|印の駅は通過
** ホリデー快速…●印の駅は停車、|印の駅は通過 詳細は「[[ホリデー快速おくたま]]」参照(青梅駅 - 奥多摩駅間は多客期のみに別の列車として運転)
* 線路…∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:これより下は単線、∧:終点(交換可能)
* 全駅が[[東京都]]内に所在
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #f15a22;"|{{縦書き|愛称}}
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #f15a22;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:3px solid #f15a22;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #f15a22;"|駅間<br>営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #f15a22;"|累計<br>営業キロ
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #f15a22; background-color:#ec6; line-height:1.1em;"|{{縦書き|ホリデー快速}}
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #f15a22; background-color:#fd8; line-height:1.1em;"|{{縦書き|特急おうめ}}
!style="border-bottom:3px solid #f15a22;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #f15a22;"|{{縦書き|線路}}
!style="border-bottom:3px solid #f15a22; white-space:nowrap;"|所在地
|-
|rowspan="13" style="text-align:center; width:1em;"|
!JC 19
|[[立川駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background-color:#ec6;"|●
|style="background-color:#fd8;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JC_line_symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線]]([[東京駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JR_JN_line_symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]] (JN 26)<br />[[多摩都市モノレール]]:[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|18px|TT]] [[多摩都市モノレール線]]([[立川北駅]]:TT12・[[立川南駅]]:TT11)
|∥
|rowspan="2"|[[立川市]]
|-
!JC 51
|[[西立川駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|1.9
|style="background-color:#ec6;"|●
|style="background-color:#fd8;"||
|
|∥
|-
!JC 52
|[[東中神駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|2.7
|style="background-color:#ec6;"||
|style="background-color:#fd8;"||
|
|∥
|rowspan="4"|[[昭島市]]
|-
!JC 53
|[[中神駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|3.6
|style="background-color:#ec6;"||
|style="background-color:#fd8;"||
|
|∥
|-
!JC 54
|[[昭島駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|5.0
|style="background-color:#ec6;"||
|style="background-color:#fd8;"||
|
|∥
|-
!JC 55
|[[拝島駅]]◆
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|6.9
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|style="background-color:#fd8;"|●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JC_line_symbol.svg|18px|JC]] [[五日市線]](立川方面から[[武蔵五日市駅]]まで直通運転)・{{Color|#a8a39d|■}}[[八高線]]<br />[[西武鉄道]]:[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武拝島線|拝島線]] (SS36)
|∥
|-
!JC 56
|[[牛浜駅]]
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|
|∥
|rowspan="2"|[[福生市]]
|-
!JC 57
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|∥
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!JC 58
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|∥
|rowspan="2"|[[羽村市]]
|-
!JC 59
|[[小作駅]]
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|style="background-color:#fd8;"||
|
|∥
|-
!JC 60
|[[河辺駅]]
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|style="background-color:#fd8;"|●
|
|∨
|rowspan="11"|[[青梅市]]
|-
!JC 61
|[[東青梅駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
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|style="background-color:#ec6;"||
|style="background-color:#fd8;"||
|
||
|-style="height:1em;"
!rowspan="2"|JC 62
|rowspan="2"|[[青梅駅]]
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|rowspan="2" style="background-color:#fd8;"|●
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|◇
|-
|rowspan="13" style="text-align:center; width:1em;"|'''{{縦書き|東京アドベンチャーライン|height=13em}}'''
|-
!JC 63
|[[宮ノ平駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|20.6
|style="background-color:#ec6;"||
|
|
|◇
|-
!JC 64
|[[日向和田駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|21.4
|style="background-color:#ec6;"||
|
|
||
|-
!JC 65
|[[石神前駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|22.4
|style="background-color:#ec6;"||
|
|
||
|-
!JC 66
|[[二俣尾駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|23.6
|style="background-color:#ec6;"||
|
|
|◇
|-
!JC 67
|[[軍畑駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|24.5
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|
|
||
|-
!JC 68
|[[沢井駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
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|
|
||
|-
!JC 69
|[[御嶽駅]]
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|
|
|◇
|-
!JC 70
|[[川井駅]]
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|
|
||
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[西多摩郡]]<br />[[奥多摩町]]
|-
!JC 71
|[[古里駅 (東京都)|古里駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|31.6
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|
|
|◇
|-
!JC 72
|[[鳩ノ巣駅]]
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|style="background-color:#ec6;"||
|
|
|◇
|-
!JC 73
|[[白丸駅 (東京都)|白丸駅]]
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|
|
||
|-
!JC 74
|[[奥多摩駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|37.2
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|
|
|∧
|}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の除外対象となる駅(完全な[[無人駅]])は、宮ノ平駅 - 白丸駅間の各駅である。また、立川駅、拝島駅、青梅駅が直営駅で、その他は業務委託駅である。
=== 廃止区間 ===
数字のみの( ) 内は起点からの営業キロ
; 貨物支線(1935年廃止)
: 立川駅 (0.0) - 上古新田荷扱所 (1.7)
; 貨物支線(1944年廃止)
: 立川駅 - 武蔵上ノ原駅 (0.0) - 西立川駅 (1.2)
:* 1940年以降の起点は武蔵上ノ原駅。線路自体は五日市線立川駅 - 武蔵上ノ原駅間とともに渡り線([[#青梅短絡線_2|青梅短絡線]])として現存
; 貨物支線(1959年廃止)
: 福生駅 (0.0) - 福生河原駅 (1.8)
=== 廃止信号場 ===
( ) 内は立川駅起点の営業キロ
* 師岡聯絡所:河辺駅 - 東青梅駅間(約16.7)
* [[東川井信号場]]:御嶽駅 - 川井駅間 (29.6)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"}}
=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"}}
== 参考文献 ==
=== 雑誌 ===
* 「特集 南武・青梅・五日市線」『[[鉄道ピクトリアル]]』第42巻第12号通巻568号(鉄道図書刊行会、1992年12月1日発行)掲載
* 「特集 JR南武線・青梅線」『鉄道ピクトリアル』第64巻第4号通巻888号(鉄道図書刊行会、2014年4月1日発行)掲載
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線|date=2010-04-11|ref=sone38}}
=== 郷土史料 ===
* 青木栄一・青梅市郷土資料館ほか「特集 青梅鉄道百年」『多摩のあゆみ』第76号(財団法人[[たましん地域文化財団]]、1994年8月発行)掲載
* 青梅線開通100年を祝う実行委員会編『青梅線百年誌』(青梅線開通100年を祝う実行委員会、1994年11月3日)
* 羽村市郷土博物館編『青梅鉄道関係史料』(羽村市[[教育委員会]]、1995年3月)
* 青梅鉄道資料調査会『青梅線玉手箱 眠りからさめた鉄道資料』([[青梅市郷土博物館]]、2005年10月発行)
* 青梅鉄道資料調査会編集『青梅市史史料集第53号 青梅鉄道資料目録』(青梅市教育委員会、2006年発行)
* 福生市郷土資料室「青梅鉄道株式会社福生支線」『文化財総合調査報告書第34集 福生の砂利線・渡船』(福生市教育委員会、2013年3月発行)掲載
* 『昭島近代史調査報告書II 青梅鉄道昭島関係史料集』(昭島市教育委員会、2014年10月1日)
* 青梅市郷土博物館編『青梅線開通120周年』(青梅市郷土博物館、2014年10月31日)
=== 社誌 ===
* 『青梅鉄道三十年誌』靑梅鐵道株式會社、1924年(大正13年)11月30日発行
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Ōme Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[ホリデー快速おくたま]]
* [[西武E41形電気機関車]](旧青梅電気鉄道1010形)
* [[国鉄ED37形電気機関車]](旧奥多摩電気鉄道1020形)
* [[青梅電気鉄道の電車]]
* [[パチンコガンダム駅]]
== 外部リンク ==
*[https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=13&token=&50on= 時刻表 検索結果:JR東日本]
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
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[[Category:青梅線|*]]
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[[Category:東京都の交通]]
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説話
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説話(せつわ)は、広義には、古くより伝承されて来た話・物語一般を意味する。狭義には、民話(昔話)、伝説を指す。また、民話と同義の意味で使用されることもある。日本の文学史上では「今昔物語集」など表題に「~物語」とつくものが説話に相当するが、説話のうち長編を「物語」と呼び分け、短編を「説話」と呼ぶのが普通である。
本項では狭義の説話を説明する。
ドイツ語のメルヘン/メルヒェン(Märchen)、英語のフェアリーテイル(fairy tale)を含んでいる。メルヘンは、スティス・トンプソン以降、英語圏でもよく使われるようになった。
説話という単語は、近代に造語された言葉である。明瞭な概念規定なしに国文学・民俗学・民族学・神話学などの領域で使用される。
説話の多くは、元々口承文芸である。地域・言語によっては、ある時代から書き言葉で残されるようになったものもある。現代では出版されて活字で残されるようになったものも多い。西洋の『ペンタメローネ(五日物語)』や『グリム童話』なども、口伝に取材して後年本にまとめられたものの一例である。
また、口承の場合は、地域や時代によって細部に異同が多い。語られるたびに内容が僅かに異なっていても、聞き手はそれを同一の物語として受け取っている点にも特徴がある。
口承文芸は無文字時代から存在し、一般に、昔話・伝説・世間話などの民話、新語作成、新文句(新句法)、諺、謎、唱え言、童言葉、民謡、語り物などに分類される。
このうち、昔話には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句がある。また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。『桃太郎』は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。
伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクション(創作)として語られている。しかし一部の土地では『炭焼き長者』や『子育て幽霊』などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。
世間話は体験談や実話として語られる民話である。
昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。
狭義のおとぎ話(御伽話)は、太閤秀吉が抱えた御伽衆の語った面白話に起源があるとされる。御伽という風習そのものは別名・夜伽(=通夜)にもあるように、古くからある徹夜で語り明かす伝統に基づいている(庚申待)。その晩に話される話を夜伽話、転じて御伽話とされるに至った。
大正時代に入ってきた「メルヘン(厳密にはメルヒェン)」というドイツ語は「童話、またはおとぎ話」と訳されたので、昔話(おとぎ話)と童話が混同して使われた事もあった。
昔話や伝説などの民話、おとぎ話、広くは神話や仏教説話を含む。モチーフによって起源説話、神婚説話などと分類される。仏教説話のように啓蒙的な要素を持ったものもある。
また民俗学者の柳田國男によって完形昔話、派生昔話に分ける分類法も提唱された。
世界の多くの地域に特有の民話・昔話が残されている。お伽話とも言う。
説話を集めた作品のことを「説話集」と言う。一種のアンソロジーである。文学性の備わったものを「説話文学」と呼ぶ。民間に伝わる話を知識層が文章に記述することによって生まれた。民俗学・文学などの研究対象になる。日本文学では主に中古文学、中世文学の頃栄えた。『日本現報善悪霊異記(日本霊異記)』のように仏教説話の性格が強いものもあるが、特に12世紀には幅広い題材に取材した『今昔物語集』のような説話集も生まれた。また、芥川龍之介が『今昔物語集』を題材にして『羅生門』『芋粥』『鼻』などの小説を書くなど、近代以降の文学活動にも影響を与えた。日本の有名な昔話には例えば次のようなものがある。
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説話(せつわ)は、広義には、古くより伝承されて来た話・物語一般を意味する。狭義には、民話(昔話)、伝説を指す。また、民話と同義の意味で使用されることもある。日本の文学史上では「今昔物語集」など表題に「~物語」とつくものが説話に相当するが、説話のうち長編を「物語」と呼び分け、短編を「説話」と呼ぶのが普通である。 本項では狭義の説話を説明する。 ドイツ語のメルヘン/メルヒェン(Märchen)、英語のフェアリーテイルを含んでいる。メルヘンは、スティス・トンプソン以降、英語圏でもよく使われるようになった。 説話という単語は、近代に造語された言葉である。明瞭な概念規定なしに国文学・民俗学・民族学・神話学などの領域で使用される。
|
{{Otheruseslist|民話、おとぎ話の類の説話|[[中国]]の[[宋代]]に隆盛した話芸|説話 (中国)}}
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{{出典の明記|date=2008年11月20日 (木) 13:26 (UTC)}}
'''説話'''(せつわ)は、広義には、古くより[[伝承]]されて来た[[話]]・[[物語]]一般を意味する。狭義には、[[民話]]([[昔話]])、[[伝説]]を指す。また、民話と同義の意味で使用されることもある。日本の文学史上では「[[今昔物語集]]」など表題に「~物語」とつくものが説話に相当するが、説話のうち長編を「物語」と呼び分け、短編を「説話」と呼ぶのが普通である<ref>{{Cite Kotobank|word=説話|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典(小学館)|accessdate=2022-01-01}}</ref>。
本項では狭義の説話を説明する。
[[ドイツ語]]の'''[[メルヘン]]'''/'''メルヒェン'''(Märchen)、[[英語]]の'''フェアリーテイル'''(fairy tale)を含んでいる。メルヘンは、[[スティス・トンプソン]]以降、英語圏でもよく使われるようになった。
説話という単語は、近代に造語された言葉である。明瞭な概念規定なしに[[国文学]]・[[民俗学]]・[[民族学]]・[[神話学]]などの領域で使用される。
== 特徴 ==
説話の多くは、元々[[口承文芸]]である。地域・言語によっては、ある時代から書き言葉で残されるようになったものもある。現代では[[出版]]されて活字で残されるようになったものも多い。西洋の『[[ペンタメローネ]](五日物語)』や『[[グリム童話]]』なども、口伝に取材して後年[[本]]にまとめられたものの一例である。
また、口承の場合は、地域や時代によって細部に異同が多い。語られるたびに内容が僅かに異なっていても、聞き手はそれを同一の物語として受け取っている点にも特徴がある。
=== 昔話・伝説・世間話の違い ===
[[口承文学|口承文芸]]は無文字時代から存在し、一般に、[[昔話]]・[[伝説]]・[[世間話]]などの民話、新語作成、新文句(新句法)、諺、謎、唱え言、童言葉、[[民謡]]、語り物などに分類される。
このうち、'''昔話'''には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句がある。また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「[[おじいさん|爺]]」「[[おばあさん|婆]]」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。『[[桃太郎]]』は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。
'''伝説'''は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。これらの事から、伝説には[[伝記]]風の態度と要素があるが、昔話はフィクション(創作)として語られている。しかし一部の土地では『[[炭焼き長者]]』や『[[子育て幽霊]]』などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。
'''世間話'''は体験談や実話として語られる民話である。
昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。
{{要出典|date=2008年11月}}
{| class="wikitable"
!種類!!語られる人物・時・場所!!語られ方!!語り・話のかたち
|-
!昔話
|不特定||事実かどうかわからない(おそらく事実ではない)||あり
|-
!伝説
|rowspan="2"|特定||少しは事実かもしれない(少しは信じてほしい)||rowspan="2"|なし
|-
!世間話
|事実である(信じてほしい)
|}
== 歴史 ==
=== おとぎ話の起源 ===
狭義のおとぎ話(御伽話)は、[[豊臣秀吉|太閤秀吉]]が抱えた[[御伽衆]]の語った面白話に起源があるとされる。御伽という風習そのものは別名・夜伽(=通夜)にもあるように、古くからある徹夜で語り明かす伝統に基づいている([[庚申待]])。その晩に話される話を夜伽話、転じて御伽話とされるに至った。
=== 童話とメルヘン ===
[[大正]]時代に入ってきた「メルヘン(厳密にはメルヒェン)」というドイツ語は「[[童話]]、またはおとぎ話」と訳されたので、昔話(おとぎ話)と童話が混同して使われた事もあった。
== 説話の種類 ==
{{See also|物語の類型#類型|アールネ・トンプソンのタイプ・インデックス|昔話#昔話の型}}
昔話や伝説などの民話、おとぎ話、広くは[[神話]]や仏教説話を含む。モチーフによって起源説話、[[異類婚姻譚|神婚説話]]などと分類される。仏教説話のように啓蒙的な要素を持ったものもある。
また[[民俗学者]]の[[柳田國男]]によって完形昔話、派生昔話に分ける分類法も提唱された。
* 完形昔話
** 誕生の奇譚:[[桃太郎]]、[[力太郎]]、[[一寸法師]]、[[瓜子姫]]など。
** 主人公の異例な成長ぶり:[[田螺長者]]、[[蛇息子]]など。
** 財宝の発見:[[八石村]]、[[取付く引付く]]、[[わらしべ長者]]、[[笠地蔵]]など。
** 危機の打開:[[鬼の子小綱]]、[[食わず女房]]、[[宝化け物]]など。
** 動物の援助:[[舌切り雀]]、[[分福茶釜|文福茶釜]]、[[花咲爺]]、[[こぶとりじいさん|瘤取り爺]]など。
** 主人公の知恵:[[姥捨山]]、[[金の茄子]]、[[田能久]]、[[俵薬師]]など。
** 言葉の力:[[蟹問答]]、[[大工と鬼六]]、[[化け物問答]]など。
* 派生昔話
** 因縁話:[[皿皿山]]、[[灰坊太郎]]、[[手なしむすめ]]など。
** 鳥獣草木譚:[[雀孝行]]、[[かちかち山]]、[[海月骨無し]]など。
** 化け物話:[[蜘蛛の糸]]、[[狐狸の仇討]]、[[猫の浄瑠璃]]など。
=== 民話・昔話 ===
世界の多くの地域に特有の民話・昔話が残されている。お伽話とも言う。
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* [[桃太郎]]
* [[金太郎]]
* [[浦島太郎]]
* [[花咲か爺]]
* [[さるかに合戦]]
* [[一寸法師]]
* [[舌切り雀]]
* [[鶴の恩返し]]
* [[笠地蔵]]
* [[おむすびころりん]]
* [[うりこひめとあまのじゃく]]
* [[かちかち山]]
* [[白雪姫]]
* [[石のスープ]]
* [[赤ずきん]]
* [[シンデレラ]]
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=== 説話文学 ===
説話を集めた作品のことを「説話集」と言う。一種の[[アンソロジー]]である。文学性の備わったものを「説話文学」と呼ぶ。民間に伝わる話を知識層が文章に記述することによって生まれた。[[民俗学]]・[[文学]]などの研究対象になる。[[日本文学]]では主に[[中古文学]]、[[中世文学]]の頃栄えた。『[[日本現報善悪霊異記]](日本霊異記)』のように仏教説話の性格が強いものもあるが、特に[[12世紀]]には幅広い題材に取材した『[[今昔物語集]]』のような説話集も生まれた。また、[[芥川龍之介]]が『今昔物語集』を題材にして『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』『芋粥』『[[鼻 (芥川龍之介)|鼻]]』などの[[小説]]を書くなど、近代以降の文学活動にも影響を与えた。日本の有名な昔話には例えば次のようなものがある。
* 758 - 822年頃『日本現報善悪霊異記(日本霊異記)』[[景戒]] - 日本最古の説話集。
* 984年『[[三宝絵]]』[[源為憲]]
* 1107年頃『[[江談抄]]』[[藤原実兼 (蔵人)|藤原実兼]]
* 1120年頃『[[今昔物語集]]』
* 1154年以後『[[中外抄]]』[[中原師元]]
* 1161年以後『[[富家語]]』[[高階仲行]]
* 1179年頃『[[宝物集]]』[[平康頼]]
* 12世紀中期『[[古本説話集]]』
* 1215年以前『[[古事談]]』[[源顕兼]]
* 1216年以前『[[発心集]]』[[鴨長明]]
* 1219年頃『[[宇治拾遺物語]]』
* 1219年『[[続古事談]]』
* 1222年『[[閑居友]]』[[慶政]]
* 1239年以後『[[今物語]]』[[藤原信実]]
* 1250年頃『[[撰集抄]]』
* 1252年『[[十訓抄]]』
* 1254年『[[古今著聞集]]』[[橘成季]]
* 1257年『[[私聚百因縁集]]』愚勧住信
* 1283年『[[沙石集]]』[[無住道暁]]
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book |和書 |others=[[小口偉一]]・[[堀一郎]]監修 |title=宗教学辞典 |publisher=[[東京大学出版会]] |date=1973年、1996年(16刷) |isbn=978-4-13-010027-4 |ref=宗教学辞典}}<!--2008年11月20日 (木) 13:26 (UTC)-->
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=== 書籍 ===
* [[五味文彦]] 『書物の中世史』 [[みすず書房]]、2003年12月。ISBN 978-4-622-07077-1。<!--2009年1月24日 (土) 19:36 (UTC)-->
* [[小峯和明]] 『説話の森 - 中世の天狗からイソップまで』 [[岩波書店]]〈[[岩波現代文庫]] 文芸 41〉、2001年9月。ISBN 978-4-00-602041-5。<!--2009年5月30日 (土) 15:34 (UTC)-->
* [[竹原威滋]] 『グリム童話と近代メルヘン』 三弥井書店、2006年7月。ISBN 978-4-8382-3145-4。<!--2008年8月11日 (月) 13:11 (UTC)-->
* [[松原秀一]] 『中世ヨーロッパの説話』 [[中央公論新社|中央公論社]]〈[[中公文庫]]〉、1992年3月。ISBN 978-4-12-201890-7。<!--2009年1月24日 (土) 19:36 (UTC)-->
=== 論文 ===
* [[井出至]] 「[https://doi.org/10.24544/ocu.20180417-324 風土記地名説話と地名]」、『人文研究』、1963年、第14巻第4号、331-344頁。{{NAID|120005266324}}。
* [[沖田瑞穂]] 「[http://id.nii.ac.jp/1648/00005982/ 連続変身の説話の系譜 -花咲爺を中心として-]」、『人文研紀要』 2013年10月10日、第75号、285-308頁。{{NAID|120005394382}}, {{ISSN|0287-3877}}, 中央大学人文科学研究所。
* [[瀬古康雄]] 「{[http://id.nii.ac.jp/1377/00000434/ 起源説話の構造とその発生 : 口承の論理(その二)]」、『島根女子短期大学紀要』 [[島根県立大学]]短期大学部、1975年3月28日、第13巻、83-89頁。{{NAID|110004781979}}, {{ISSN|0288-9226}}。
* [[竹村信治]] 「[https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00029645 説話研究の現在]」、『國文學 : 解釈と教材の研究』 學燈社、1995年10月10日、第40巻第12号、134-137頁。{{NCID|AN00089872}}。
* [[馬場喜敬]]・[[中地万里子]]・[[川合貞子]]・加藤優子 「[http://id.nii.ac.jp/1653/00009785/ 日本の寓話, 童話, 民話, 伝説, 説話等の系譜的綜合的研究 : 諸外国のそれら (すなわち Fabel, Märchen, Volkssage u.s.w.) との比較において <nowiki>[第三報]</nowiki>]」、『東京家政大学生活科学研究所研究報告』、[[東京家政大学]]、1989年3月、第12巻、27-68頁。{{NAID|110000227149}}。
== 関連項目 ==
{{Div col}}
* [[口承文学]]
* [[伝奇]]
* [[民間伝承]]
* [[怪談]]
* [[御伽草子]]
* [[唐鏡]]
* [[手孕説話]]
* [[ジャータカ]]
* [[民俗学]] - [[遠野物語]]
* [[都市伝説]]
* [[説話・伝承学会]]
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== 外部リンク ==
{{wiktionary}}
* [[田中牧郎]] 「{{PDFlink|[https://www.ninjal.ac.jp/event/specialists/project-meeting/files/JCLWorkshop_no3_papers/JCLWorkshop_No3_32.pdf 説話のパラレルコーパスの設計 -平安・鎌倉時代の文体変異の研究に向けて-]}}」 - 第3回コーパス日本語学ワークショップ、2013年3月1日<!--2015-11-18閲覧-->
* [[蘆谷重常]] 『[{{NDLDC|1462184}} 国定教科書に現れたる国民説話の研究]』、教材社、1936年。
* {{kotobank}}
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ブレーズ・パスカル
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ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家である。
神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、三十代で逝去している。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。
「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。
かつてフランスで発行されていた500フラン紙幣に肖像が使用されていた。
1623年、フランス中部のクレルモンにおいて、徴税の仕事をする行政官を父として生まれた。二人の姉妹がおり、その内の一人のジャクリーヌとは非常に仲が良く、この世で一番愛していたともいわれる。
パスカルは幼少の頃から天才ぶりを発揮していた。例外の多い語学への影響を懸念した父親によって数学から遠ざけられていたが、まだ10歳にもならない頃に、三角形の内角の和が二直角である事や、1からnまでの和が(1+n)n/2である事を自力で証明して見せたと言われている。
パスカルが少年の時に、教育熱心な父親は一家を引き連れパリに移住する。パスカルは学校ではなく、家庭で英才教育を受けた。父親は自然哲学やアマチュア科学をたしなんでおり、その知識をパスカルに授けた。しかも、自宅には当時の一流の数学者や科学者が頻繁に出入りし、自宅は一種の「サロン」や「サークル」の状態になっており、彼はそうした大人たちの集いにも顔を出し、様々な知識を吸収することも出来、大人たちと討論したり思索を深めたりすることで、その才能が本格的に開花した。
1640年、16歳の時に、『円錐曲線試論』を発表。
17歳の時には、機械式計算機の構想・設計・製作に着手し、それを見事に2年後に完成させた。これによって、父親の徴税官の(計算の)仕事を楽にしようとしたのだ、とも言われている。またこの計算機の設計・製作に過度に没頭したことが、パスカルの肉体を傷め、病弱となり、寿命を縮める原因のひとつとなった、とも言われている。
等々。
1646年、パスカル一家はサン・シランの弟子らと出会い、信仰に目覚め、ジャンセニスムに近づいてゆく。
1651年、父が死去。妹ジャクリーヌがポール・ロワヤル修道院に入る。
パスカルは一時期、社交界に出入りするようになり、人間についての考察に興味を示す。オネットムhonnête homme(紳士,教養人)という表現を用いる。
1654年、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。
1656年 - 1657年、『プロヴァンシアル』の発表。神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、キリスト教を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。
ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『パンセ』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に大きな影響を与え続けることになった。神の存在について確率論を応用しながら論理学的に思考実験を行った「パスカルの賭け」など、現代においてもよく知られているパスカル思想の多くが記述されている。
『パスカルの賭け』において、パスカルは、多くの哲学者や神学者が行ったような神の存在証明を行ったわけではない。パスカルは、そもそも異なる秩序に属するものであることから、神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考え、同時代のルネ・デカルトが行った証明などを含め、哲学的な神の存在証明の方法論を否定していた。パスカルは、確率論を応用した懸けの論理において、神の存在は証明できなくとも、神を信仰することが神を信仰しないことより優位である、ということを示したのである。
1662年、「5ソルの馬車」と呼ばれる乗合馬車( = 馬車の共有)というシステムを着想・発明。パリで実際に創業した。これまで、馬車と言えば、富裕な貴族が個人的に所有する形態しか存在しておらず(今日のタクシーにあたる辻馬車は1625年、ロンドンに登場、ほどなく、パリにも登場している)、パスカルの実現したこのシステムは今日のバスに当るものである。
パスカル自身は乗合馬車の創業6ヶ月後に、体調がいよいよ悪化し、死去。39年の生涯を閉じた。
死後、パスカルが病床で着ていた着物(肌着)の襟の中に、短い文書が縫い込められ、隠されているのが発見された。そこに書かれていたのは、彼自身が以前に体験した、回心と呼ばれる宗教的な出来事だった。
ルネ・デカルト流の哲学については、理性に関係する特定の分野でのそれなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。また、「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」とする有名な記述も残している。それはパンセの断章番号4の部分である。それは以下に引用する。
パスカルが懐疑論を重要視しているという後述の「懐疑論・確率論」の節の内容と関連することであるが、上述のようなパスカルの態度は、後19世紀に登場する哲学者フリードリヒ・ニーチェ以後の哲学史において現代哲学の流れにある「反基礎付け主義」を基調とするいわゆる「反哲学の哲学」に共鳴し、またはそれに先駆的であると言われることがある。また、ニーチェ自身の思索においても、パスカル思想への関心は強く、パスカルからの影響が見られる。
有名な「人間は考える葦である」とは、人間は自然の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって宇宙を超える、というパスカルの哲学者としての宣言を表している。それは人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性をも受け入れている。パスカルが人間をひとくきの葦に例えて記述した文章は、哲学的な倫理、道徳について示した次の二つの断章である。そこでは、時間や空間における人間《私》の劣勢に対し、思惟(そして精神)における人間《私》の優勢が強調されている。
先述した「考える葦」は物体に対する精神の偉大さを説いたものであり、その上、パスカルはそれよりもさらに小さな愛のほうが偉大であると説く。いわゆる物体・精神・愛という秩序の三段階であり、これは最も著名なパスカル思想の側面である。『パンセ』には、例えば次のような文章がある。
『パンセ』においては、主に懐疑論や確率論を重要視した思索、人間考察の断章が目立つ。また、「懐疑論は宗教に役立つ」としている特徴もある。確率論について言えば、いわゆる「パスカルの賭け」の断章などを含むいくつかの神学的な思弁において「賭けの必要性」を重要視していることは特筆すべき点である。また、懐疑論においては、その他、確実性や不確実性についての論理的な思弁がいくつも見られる。パスカルの懐疑論がどのようなものであったかについては、パスカルの論理における懐疑論の意味を示している文章からさしあたり以下の四つを参照する。
パスカルは、自身が実験物理学者としての側面を持っているからということもあるが、個別の事物事象、個別的な事例への観察から帰納的な思弁を行う哲学者であり、その結果、「パスカルの賭け」などを含めて実存主義的な思索を残した。そして、完全に明晰な真理とされるものをも懐疑し続けた。これは、同時代(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者ルネ・デカルトが、「明晰判断」を重視する演繹的な証明によって普遍的な概念を確立しようとしていたことと比較して対極的である。
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ブレーズ・パスカルは、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家である。
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| main_interests = [[哲学]]、[[神学]]、[[数学]]、[[幾何学]]、[[論理学]]、[[確率論]]、[[自然哲学]]、[[物理学]]
| notable_ideas = [[パスカルの賭け]]、[[パスカルの三角形]]、[[パスカルの原理]]、[[パスカルの定理]]、幾何学的精神、秩序の三段階([[物体]]・[[精神]]・[[愛]])、[[なぜ私は私なのか]]、[[5ソルの馬車]]
| influences = [[アウグスティヌス]]、[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]、[[ルネ・デカルト]]、[[ジル・ド・ロベルヴァル]]、[[コルネリウス・ヤンセン]]、[[エピクテトス]]、[[ジェロラモ・カルダーノ]]など
| influenced = [[アントワーヌ・アルノー]]、[[ピエール・デュエム]]、[[ウィリアム・ジェームズ]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[レオン・ブランシュヴィック]]、[[アレクシ・ド・トクヴィル]]、[[アンリ・ベルクソン]]など
| signature =
| signature_alt =
| website = <!-- {{URL|example.com}} -->
}}
'''ブレーズ・パスカル'''(Blaise Pascal、[[1623年]][[6月19日]] - [[1662年]][[8月19日]])は、[[フランス]]の[[哲学者]]、[[自然哲学|自然哲学者]]、[[物理学者]]、[[思想家]]、[[数学者]]、[[キリスト教神学|キリスト教神学者]]、[[発明家]]、[[実業家]]である。
==人物==
神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、三十代で逝去している。死後『[[パンセ]]』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。
「'''人間は考える葦である'''」などの多数の名文句や[[パスカルの賭け]]などの多数の有名な思弁がある遺稿集『[[パンセ]]』は有名である。その他、[[パスカルの三角形]]、[[パスカルの原理]]、[[パスカルの定理]]などの発見で知られる。[[ポール・ロワヤル学派]]に属し、[[ジャンセニスム]]を代表する著作家の一人でもある。
かつてフランスで発行されていた500[[フランス・フラン|フラン]]紙幣に肖像が使用されていた。
==生涯==
{{独自研究|date=2020年10月}}
[[1623年]]、フランス中部の[[クレルモン=フェラン|クレルモン]]において、徴税の仕事をする行政官を父として生まれた。二人の姉妹がおり、その内の一人の[[ジャクリーヌ・パスカル|ジャクリーヌ]]とは非常に仲が良く、この世で一番愛していたともいわれる<ref>[[フランソワ・モーリアック]]『パスカルとその妹』([[理想社]]、1963年)7ページ</ref>。
===数学、自然哲学への才能の早熟===
パスカルは幼少の頃から[[天才]]ぶりを発揮していた。例外の多い語学への影響を懸念した父親によって数学から遠ざけられていたが、まだ10歳にもならない頃に、[[三角形]]の[[内角]]の和が二[[直角]]である事や、1からnまでの和が(1+n)n/2である事を自力で証明して見せたと言われている。
[[Image:Arts et Metiers Pascaline dsc03869.jpg|thumb|300px|'''[[歯車式計算機]]「パスカリーヌ」''']]
パスカルが少年の時に、教育熱心な父親は一家を引き連れパリに移住する。パスカルは学校ではなく、家庭で英才教育を受けた。父親は[[自然哲学]]やアマチュア科学をたしなんでおり、その知識をパスカルに授けた。しかも、自宅には当時の一流の[[数学者]]や科学者が頻繁に出入りし、自宅は一種の「サロン」や「サークル」の状態になっており、彼はそうした大人たちの集いにも顔を出し、様々な知識を吸収することも出来、大人たちと討論したり思索を深めたりすることで、その才能が本格的に開花した。
[[1640年]]、16歳の時に、『円錐曲線試論』を発表。
17歳の時には、[[歯車式計算機|機械式計算機]]の構想・設計・製作に着手し、それを見事に2年後に完成させた。これによって、父親の徴税官の(計算の)仕事を楽にしようとしたのだ、とも言われている。またこの計算機の設計・製作に過度に没頭したことが、パスカルの肉体を傷め、病弱となり、寿命を縮める原因のひとつとなった、とも言われている。
===その他の数学、自然哲学の業績===
[[Image:Pascal triangle small.png|300px|thumb| ''[[パスカルの三角形]]'']]
* 「[[パスカルの定理]]」
* 「[[パスカルの三角形]]」''Traité du triangle arithmétique''(1655年発表)
* 「[[確率論]]」の創始 (賭け・賭博についての考察より)
* [[サイクロイド]]の求積問題。
* 「[[パスカルの原理]]」(流体の平衡についての理論)の提唱([[力学]]、[[物理学]]における[[圧力]]の単位、[[パスカル (単位)|パスカル]]に名を残している)
等々。
===神学者、キリスト教弁証家として活動===
[[1646年]]、パスカル一家は[[サン・シラン]]の弟子らと出会い、信仰に目覚め、[[ジャンセニスム]]に近づいてゆく。
[[1651年]]、父が死去。妹ジャクリーヌが[[ポール・ロワヤル修道院]]に入る。
パスカルは一時期、[[社交界]]に出入りするようになり、人間についての考察に興味を示す。オネットムhonnête homme(紳士,教養人)という表現を用いる。
[[1654年]]、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。
[[1656年]] - [[1657年]]、『プロヴァンシアル』の発表。神の「[[恩寵]]」について弁護する論を展開しつつ、[[イエズス会]]の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、[[キリスト教]]を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。
ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『'''[[パンセ]]'''』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に大きな影響を与え続けることになった。[[神]]の[[存在]]について確率論を応用しながら[[論理学]]的に[[思考実験]]を行った「パスカルの賭け」など、現代においてもよく知られているパスカル思想の多くが記述されている。
『パスカルの賭け』において、パスカルは、多くの哲学者や神学者が行ったような[[神の存在証明]]を行ったわけではない。パスカルは、そもそも異なる秩序に属するものであることから、神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考え、同時代のルネ・デカルトが行った証明などを含め、哲学的な神の存在証明の方法論を否定していた。パスカルは、確率論を応用した懸けの論理において、神の存在は証明できなくとも、神を信仰することが神を信仰しないことより優位である、ということを示したのである{{要出典|date=2021年1月}}。
===5ソルの馬車===
[[1662年]]、「[[5ソルの馬車]]」と呼ばれる[[乗合馬車]]( = [[馬車]]の共有)というシステムを着想・発明。[[パリ]]で実際に創業した。これまで、馬車と言えば、富裕な貴族が個人的に所有する形態しか存在しておらず(今日の[[タクシー]]にあたる[[辻馬車]]は[[1625年]]、[[ロンドン]]に登場、ほどなく、パリにも登場している)、パスカルの実現したこのシステムは今日の[[バス (交通機関)|バス]]に当るものである。
===最晩年===
パスカル自身は乗合馬車の創業6ヶ月後に、体調がいよいよ悪化し、死去。39年の生涯を閉じた。
<!--下記は誤情報では? " パスカル " はフランス人にはよくある苗字や個人名なので、どこかに "パスカルが~"と書いてあっても、本当にブレーズ・パスカルのことなのか、別人についての記述なのか、よくよく確認する必要がある。それと、パスカルの時代に"死後解剖"などということをしていたか、総合的な常識も働かせて原文をチェックするべき。{{要出典}}死後の解剖の結果、脳に挫傷があったという{{要出典}}。-->
死後、パスカルが病床で着ていた着物(肌着)の襟の中に、短い文書が縫い込められ、隠されているのが発見された。そこに書かれていたのは、彼自身が以前に体験した、回心と呼ばれる宗教的な出来事だった。
== 哲学 ==
[[ルネ・デカルト]]流の哲学については、[[理性]]に関係する特定の分野でのそれなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。<!--「哲学者・数学者の神」を認めなかった。-->また、「'''哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである'''」とする有名な記述も残している。それはパンセの断章番号4の部分である。それは以下に引用する。
{{Quotation| 幾何学。繊細。<br /> 真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。言いかえれば、規則などない判断の道徳は、精神の道徳をばかにする。<br /> なぜなら、学問が精神に属しているように、判断こそ、それが直感に属しているからである。繊細は判断の分け前であり、幾何学は精神の分け前である。<br /> 哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、11頁。}}
パスカルが懐疑論を重要視しているという後述の「懐疑論・確率論」の節の内容と関連することであるが、上述のようなパスカルの態度は、後[[19世紀]]に登場する哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]以後の哲学史において[[現代思想|現代哲学]]の流れにある「[[反基礎付け主義]]」を基調とするいわゆる「反哲学の哲学」に共鳴し、またはそれに先駆的であると言われることがある<ref>例えば、[[白水社]]イデー選書版の邦訳『パンセ』(由木康訳)に載せられている解説において、その旨が書かれている。</ref>。また、ニーチェ自身の思索においても、パスカル思想への関心は強く、パスカルからの影響が見られる<ref>ニーチェは時代を問わず様々な哲学者を引用して検証するが、中でもパスカルからの引用は数が多く、パスカルの文言が多用されている。そのことは、[[國分功一郎]]の『暇と退屈の倫理学』([[朝日出版社]]、2011年)などにおいて言及されている。</ref>。
=== 考える葦 ===
有名な「'''人間は考える葦である'''」とは、[[人間]]は[[自然]]の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって[[宇宙]]を超える、というパスカルの哲学者としての宣言を表している。それは人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性をも受け入れている。パスカルが人間をひとくきの葦に例えて記述した文章は、哲学的な倫理、道徳について示した次の二つの断章である。そこでは、時間や空間における人間《[[私]]》の劣勢に対し、思惟(そして精神)における人間《[[私]]》の優勢が強調されている。
{{Quotation| 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。<br /> だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、225頁。}}
{{Quotation| 考える葦。<br /> 私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、226頁。}}
=== 秩序の三段階 ===
先述した「考える葦」は物体に対する精神の偉大さを説いたものであり、その上、パスカルはそれよりもさらに小さな愛のほうが偉大であると説く。いわゆる[[物体]]・[[精神]]・[[愛]]という秩序の三段階であり、これは最も著名なパスカル思想の側面である。『パンセ』には、例えば次のような文章がある。
{{Quotation| 身体から精神への無限の距離は、精神から愛への無限大に無限な距離を表徴する。なぜなら、愛は超自然であるから。<br /> この世の偉大のあらゆる光輝は、精神の探究にたずさわる人々には光彩を失う。<br /> 精神的な人々の偉大は、王や富者や将軍やすべての肉において偉大な人々には見えない。<br /> 神から来るのでなければ無に等しい知恵の偉大は、肉的な人々にも精神的な人々にも見えない。これらは類を異にする三つの秩序である。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、524頁。}}
{{Quotation| あらゆる物体、すなわち大空、星、大地、その王国などは、精神の最も小さいものにもおよばない。なぜなら、精神はそれらのすべてと自身とを[[認識]]するが、物体は何も認識しないからである。<br /> あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。これは無限に高い秩序に属するものである。<br /> あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属するものである。あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、526頁~527頁。}}
=== 懐疑論、確率論、「パスカルの賭け」 ===
『パンセ』においては、主に[[懐疑主義|懐疑論]]や[[確率論]]を重要視した思索、人間考察の断章が目立つ。また、「懐疑論は宗教に役立つ<ref>パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、246頁。</ref>」としている特徴もある。確率論について言えば、いわゆる「[[パスカルの賭け]]」の断章などを含むいくつかの神学的な思弁において「'''賭けの必要性'''<ref>パスカル、『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、184~241頁。</ref>」を重要視していることは特筆すべき点である。また、懐疑論においては、その他、確実性や不確実性についての論理的な思弁がいくつも見られる。パスカルの懐疑論がどのようなものであったかについては、パスカルの論理における懐疑論の意味を示している文章からさしあたり以下の四つを参照する。
{{Quotation| 懐疑論。<br /> この世では、一つ一つのものが、部分的に真であり、部分的に偽である。本質的真理はそうではない。それは全く純粋で、全く真である。この混合は真理を破壊し、絶滅する。何ものも純粋に真ではない。したがって、何ものも純粋な真理の意味においては、真ではない。人は殺人が悪いということは真であると言うだろう。それはそうである。なぜなら、われわれは悪と偽とはよく知っているからである。だが、人は何が善いものであると言うだろう。貞潔だろうか。私は、いなと言う。なぜなら、世が終わってしまうだろうからである。結婚だろうか。いな。禁欲のほうが優っている。殺さないことだろうか。いな。なぜなら、無秩序は恐るべきものとなり、悪人はすべての善人を殺してしまうだろうからである。殺すことだろうか。いな。なぜなら、それは自然を破壊するからである。われわれは、真も善も部分的に、そして悪と偽と混じったものとしてしか持っていないのである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、242~243頁。}}
{{Quotation|真の証明が存在するということはありうる。だが、それは確実ではない。<br />だから、これは、すべて不確実であるというのは確実ではないということを示すものに他ならない。懐疑論の栄光のために|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、244頁。}}
{{Quotation| 懐疑論反駁<br />〔これらのものを定義しようとすれば、どうしてもかえって不明瞭になってしまうというのは奇妙なことである。われわれは、これらのものについて、いつも話している〕われわれは、皆がこれらのものを、同じように考えているものであると仮定している。しかしわれわれは、何の根拠もなしにそう仮定しているのである。なぜなら、われわれは、その証拠を何も持っていないからである。なるほど私は、これらのことばが同じ機会に適用され、二人の人間が一つの物体が位置を変えるのを見るたびに、この同じ対象の観察を二人とも「それが動いた」と言って、同じことばで表現するということをよく知っている。そして、この適用の一致から、人は観念の一致に対する強力な推定を引き出す。しかし、これは肯定に賭けるだけのことは十分あるとはいえ、究極的な確信により絶対的に確信させるものではない。なぜなら、異なった仮定から、しばしば同じ結果を引き出すということをわれわれは知っているからである。<br /> これは、われわれにこれらのものを確認させる自然的な光を全く消し去ってしまうというわけではないが、すくなくとも問題を混乱させるには十分である。[[アカデメイア]]の徒なら賭けたであろう。だが、これは自然的な光を曇らせて独断論者たちを困惑させ、懐疑論の徒党に栄光を帰させてしまう。その徒党は、この曖昧な曖昧さと、ある種の疑わしい暗さとのうちに、存するのである。そこでは、われわれの疑いもすべての光を除くことができず、われわれの自然的な光もすべての暗黒を追いはらうことができない。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、246頁。}}
{{Quotation| 懐疑論者、[[ストア派|ストア哲学者]]、[[無神論|無神論者]]たちなどのすべての原理は真である。だが彼らの結論は誤っている。なぜなら、反対の原理もまた真であるからである。|パスカル|『パンセ』、前田陽一、由木康訳、中公文庫、1973年、247頁。}}
パスカルは、自身が[[実験物理学|実験物理学者]]としての側面を持っているからということもあるが、個別の事物事象、個別的な事例への観察から[[帰納]]的な思弁を行う哲学者であり、その結果、「パスカルの賭け」などを含めて[[実存主義]]的な思索を残した。そして、完全に明晰な真理とされるものをも懐疑し続けた。これは、同時代(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者[[ルネ・デカルト]]が、「'''明晰判断'''」を重視する[[演繹]]的な[[証明 (数学)|証明]]によって普遍的な概念を確立しようとしていたことと比較して対極的である。
『パンセ』の中のいわゆる「パスカルの賭け」については、肯定的なもの否定的なもの含めて様々な評価と解釈が存在し、現代も研究が続いている<ref>{{Cite journal|和書|author=赤木昭三 |date=2015-03 |title=パスカルの『パンセ』とリベルタン |url=https://hdl.handle.net/11094/61943 |journal=Gallia |ISSN=03874486 |publisher=大阪大学フランス語フランス文学会 |volume=54 |pages=11-28}}<br />{{Cite journal|和書|author=湟野正満 |date=1982-01 |title=「パスカルの賭」における<<trois>>の意味 |url=https://doi.org/10.14989/137652 |journal=仏文研究 |ISSN=0385-1869 |publisher=京都大学フランス語学フランス文学研究室 |volume=11 |pages=280-293 |doi=10.14989/137652}}<br />{{Cite journal|和書|author=川口茂雄 |date=2021-03 |title=ラシュリエ『パスカルの賭けについての覚書き』再読 ―神の存在証明から“私”の賭けへ,あるいはフランスにおける超越論的哲学の誕生― |url=https://doi.org/10.14990/00003775 |journal=甲南大學紀要.文学編 |ISSN=0454-2878 |publisher=甲南大学文学部 |volume=171 |pages=205-220 |doi=10.14990/00003775}}</ref>。
== 著書 ==
*『[[円錐曲線論試論]]』Essai pour les coniques、[[1640年]]。
*Expériences nouvelles touchant le vide、1647年。
*Récit de la grande expérience de l’équilibre des liqueurs、1648年。
*Traité du triangle arithmétique、1654年。
*『プロヴァンシアル』Les Provinciales、1656 - 1657年。
*:[[ジャンセニスム]]が[[イエズス会]]から批判されたとき、匿名でジャンセニスムを擁護した。
*Élément de géométrie、1657年。
*De l’Esprit géométrique et de l’Art de persuader、1657年。
*Histoire de la roulette、1658年。
*L’Art de persuader、1660年。
*『[[パンセ]]』Pensées、1669年。
*:「パンセ」(仏:pensée)は日本語で「思考」の意味。パスカルが生前に構想していた書物のための原稿やメモ書きの断片が、死後に整理されて出版されたものである。様々なテーマについての文章が含まれており、フランスでは、哲学書([[形而上学]]、[[自然哲学]]、世界論、[[宇宙論]]、[[人間学]]、[[倫理学]]、人生論)、[[モラリスト]]文学、信仰のための書・神学書などとして読まれてきている。印象的で含蓄のある表現も多数含まれており、それらは現在でもしばしば引用句として使われ続けている。また、『パンセ』のなかに含まれている章節の一つである「パスカルの賭け」は、哲学書としては、世界初の[[実存主義]]的書物でもあると言われる。
==主な日本語訳==
* 『[[パンセ]]』、[[前田陽一]]・[[由木康]]共訳。[[中公文庫]]、改版2018年
** 別版『パンセ』、同上、[[中公クラシックス]](全2巻)
** 別版『パンセ』(白水社)、由木康による単独訳、多数重版
* 『パンセ』、[[塩川徹也]]訳・注解、[[岩波文庫]](全3巻)、2015-2016年 - 詳細な訳注
* 『パスカル 小品と手紙』、塩川徹也・望月ゆか訳、岩波文庫、2023年
* 『パスカル 数学論文集』 [[原亨吉]]訳、[[ちくま学芸文庫]]、2014年
* 『パスカル 科学論文集』 [[松浪信三郎]]訳、岩波文庫 - 人文書院版に改訳を収録
* 『メナール版 パスカル全集』 [[赤木昭三]]・塩川徹也ほか訳、[[白水社]]、1993-1994年
**全4巻予定だったが『生涯の軌跡 1・2』のみ刊行
* 『パスカル科学論集 計算機と物理学』 永瀬春男・赤木昭三編訳、白水社、2023年
* 『パスカル全集』全3巻、松浪信三郎ほか訳、[[人文書院]]
* 『パスカル著作集』全7巻・別巻2、[[田辺保]]ほか訳、[[教文館]] - 別巻は研究論集と伝記
** 『パンセ』 教文館キリスト教古典叢書、田辺保訳、新版2013年
== 脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commons|Blaise Pascal}}
{{Wikiquote|ブレーズ・パスカル}}
* [[パスカル (単位)]]
* [[Pascal|Pascal (プログラミング言語)]]
* [[二項定理]]
* [[パスカルの賭け]]
* [[パスカル|パスカル (曖昧さ回避)]]
== 外部リンク ==
* {{青空文庫著作者|2128|パスカル ブレーズ}}
* [http://kakugen.aikotoba.jp/Pascal.htm パスカル名言集] ([http://kakugen.aikotoba.jp/ 世界傑作格言集])
*{{Kotobank|パスカル(Blaise Pascal)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はすかる ふれえす}}
[[Category:ブレーズ・パスカル|*]]
[[Category:17世紀フランスの哲学者]]
[[Category:17世紀の数学者|230619]]
[[Category:17世紀の論理学者]]
[[Category:17世紀の学者]]
[[Category:フランスの神学者]]
[[Category:フランスの数学者]]
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[[Category:フランスの著作家]]
[[Category:キリスト教弁証家]]
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[[Category:自然哲学者]]
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[[Category:1662年没]]
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テレタイプ端末
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テレタイプ(端末)(テレタイプ(たんまつ)、英語: teletype、あるいはteletypewriter)は、回線で信号を送/受信するための、タイプライター的な装置。テレプリンタ(英語: teleprinter)、TTYとも。漢字表記では印刷電信機。通信用だけでなく、コンピュータの入出力装置としても使われた。今日ではほとんど使われなくなった。
もともと通信のために使う電動機械式タイプライターであり、いわば遠く離れて動かせるタイプライターやプリンタなのでteletypeやteleprinterと命名された。(tele-はギリシア語由来の接頭辞であり、「遠く離れて」という意味である。)
もともと有線式の電信に使われ、2台を単純に電線(導線)で直結するだけでも作動する。その後様々な有線通信・無線通信で使われるようになった装置であり、専用線、交換網、無線回線、マイクロ波リンクなどでも動く。
通信用だけでなく、メインフレームやミニコンピュータの入出力用の端末(ユーザインタフェース)として、コンピューター・ルーム(計算機室)内に設置されて使われた。
特に1960年代初頭あたりからタイムシェアリングシステムが広まると、使われる台数が増え、モデムを介して電話回線で遠隔のコンピュータに接続しても使われた。
テレタイプはそもそも普通の用紙に印字する装置であるが、それに加えて 紙テープでもキーボードからの入力や受信したメッセージを記録できる機種もあり、紙テープに記録したメッセージを印刷したり再送したりといったことが可能である。また、この紙テープはコンピュータの入出力に使われるものと互換性があった。
物理的な装置としてのテレタイプは使われなくなったものの、そのプロトコルは現在でも使われることがある。 いわゆるパソコン通信も、TTYの通信プロトコルを応用したものだった。 UNIXシステムなどでは今も「TTY」という用語が使われている。
航空管制業務では今も広く使われており(AFTN(英語版)など)、またろう者が電話回線経由で通信するための装置「聴覚障害者用文字電話」(Telecommunications Devices for the Deaf、TDD)でも使われている。
テレタイプはロイヤル・E・ハウス、デイビッド・エドワード・ヒューズ、チャールズ・クラム、エミール・ボドーなど多数の技術者の一連の発明によって進化した。
1846年、ワシントンD.C.とニューヨーク間でモールス式電信システムが開通した。同年、ロイヤル・E・ハウスが電信印刷機の特許を取得している。28キーのピアノ状のキーボード2台を相互接続したもので、各キーがアルファベットに対応していて、一方のキーボードのキーを押下すると相手側でその文字が印字される仕組みになっていた。「シフト」キーがあるので、各キーは2種類の値を発生できる。そのため合計56種類の活字で構成されるタイプホイールが双方にあり、同期して回転する仕組みになっている。送信側でキーを押下すると、受信側のタイプホイールが回転して対応する活字が印字される位置に移動する。したがってこれは同期式データ転送システムの一種である。ハウスの装置は1分間に約40語を伝送できたが、大量生産は難しかった。印字機構は1時間に2,000語まで印字可能だった。この発明は1844年、ニューヨークの Mechanics Institute で完成し展示された。
テレタイプの運用は1849年、フィラデルフィアとニューヨーク間で始まった。
1855年、デイビッド・エドワード・ヒューズがロイヤル・E・ハウスの作ったマシンを改良した。それから2年以内にいくつかの電信会社が合併してウエスタンユニオンが結成され、ヒューズのシステムを商用電報に適用しはじめた。
1874年、エミール・ボドーが5単位(5ビット)符号体系(Baudot Code)を使ったシステムを設計。このシステムは1877年にフランスで採用された。1897年、パリとロンドン間の単方向通信システムにボドーのシステムが採用され、その後イギリス国内の電信サービスでも双方向のボドーシステムが採用された。
1901年、Donald Murray(ドナルド・マレーもしくはドナルド・ミュレー)がタイプライター状のキーボードの開発過程でボドーの符号体系に改良を加えた。ミュレーのシステムはキーボードからの入力をいったん紙テープに鑽孔可能で、紙テープからメッセージを送信できる装置も備えていた。受信側では、メッセージを紙テープに印字することもできるし、鑽孔することもできる。このようにすることでオペレータの手の動きと転送されるビット列は直接の関係がなくなったため、オペレータの疲労を最小化する必要がなくなり、むしろよく使われる文字のコードが紙テープ上で穴が少なくなるように修正を加えた。ミュレーはまた「制御文字」と呼ばれるコードとしてキャリッジ・リターン (CR) や改行コード (LF) を符号体系に加えた。NULL、BLANK、DELといったコードはボドーの符号体系から移動させられ、その値が長らく使われることになった。NULLやBLANKは送信中に何も送信していない状態を表すのに使われた。
1902年、電気技師 Frank Pearne は電信印刷機の実用化の研究スポンサーを求め、Morton Salt の Joy Morton に接触した。Joy Morton はそれが出資に値するか否かを判断するため、Western Cold Storage Company の副社長で技師のチャールズ・クラム(英語版)に意見を求めた。クラムはPearneの研究に関心を寄せ、Western Cold Storage の研究室にそのためのスペースを設けた。Frank Pearne は1年ほどでプロジェクトに興味を失い、教職に就いた。クラムは研究を続け、1903年8月に ‘typebar page printer’ と題した特許を取得。1904年には ‘type wheel printing telegraph machine’ と題した特許を出願し、1907年8月に発効した。1906年には息子のハワード・クラムも父の研究に参加している。符号電信システムの通信開始・終了時の同期方法を考案し特許をとったのはハワードであり、それによってテレタイプ端末の実用化が可能となった。
1908年、(Joy Morton と Charles Krum の名を組み合わせた)モルクラム社がテレタイプ端末 Morkrum Printing Telegraph を開発し、Alton Railroad と共同で実地試験を行った。1910年、モルクラム社の初の商用テレタイプ端末がボストン-ニューヨーク間の電信線で導入された。
1916年、エドワード・クラインシュミット(英語版)がタイプバー式ページプリンターについての特許を出願。1919年、モルクラム社が先述の開始・終了時の同期技法についての特許を取得すると、間もなくクラインシュミットが "Method of and Apparatus for Operating Printing Telegraphs" と題した特許を出願。この特許にはモルクラム社の開始・終了技法の改良版が含まれていた。
開始・終了技法について特許紛争で時間と金を無駄にする代わりに、クラインシュミットとモルクラムは合併することを選び、1924年にモルクラム・クラインシュミットとなった。この新会社は両社の機種の長所を生かした新機種を開発した。
1924年、Frederick G. Creed が創業した Creed & Company がテレタイプ端末市場に参入。1925年、Creed は Baudot Code を合理化したミュレーの符号体系についての特許を獲得し、1927年の新機種にそれを採用した。この機種は受信したメッセージをゴムを塗布した紙テープに毎分65語の速度で印字でき、Creedとしては初の送受信機能を一体化した大量生産機だった。
テレタイプ端末の文字セットはごく限られ、印字部は活字式プリンターであり印字品質は貧弱だった。また、多くは紙テープ鑽孔機と紙テープ読取機に接続され、オフラインで電文を作成して保管(紙テープを箱などに収納)しておくことができた。この機能は通信回線やコンピュータの記憶装置などの利用が非常に高額なものであった場合には有用なものだった。
多くのテレタイプ端末は5ビットの Baudot Code(ITA2としても知られる)を採用していた。この文字セットは32種類のコードから成る(2 = 32)。数字や記号をタイプするには "FIGS" シフトキーを使う。中にはFIGSで気象シンボルなどの特殊な文字と解釈するテレタイプ端末もあった。印字品質は現代から見れば貧弱なものだった。Baudot Code はスタートビットとストップビットを使ったいわゆる調歩同期式であり、この設計はテレタイプ端末の電気機械の開始・終了と密接に関連していた。初期のシステムは同期式コード設計だったが、機械の同期が難しかった。他にもASCII、Fieldata、Flexowriterといったコードが登場したが、Baudotほど普及することはなかった。
テレタイプの回路の論理レベルを「マーク」と「スペース」という用語で表す。テレタイプ端末の通信は単純な直流電流のオンとオフでなされる。回路が閉じて電流が流れる状態を「マーク」、回路が開いて電流が流れない状態を「スペース」と呼んだ。マーク状態が継続していることを「アイドル」状態と呼び、ある文字のコードを送信する際にはスペースで表される「スタートビット」がまず送られる。スタートビットに続いて文字を表す固定個のビット列(マークとスペースの列)が送られる。Baudot Code の場合はそれが5ビットである。その後、1個かそれ以上のストップビットを送る。ストップビットはマークであり、後続のスタートビットと識別できるようになっている。送信側にそれ以上送信すべきものがなければ、新たな文字のスタートビットを送るまでマーク状態が継続する。文字と文字の間の時間は任意だが、少なくとも受信側が必要とする最小ストップビット数のぶんだけ間隔を空ける必要がある。
断線すると受信側は連続なスペース状態となり、ヌル文字を連続で受信しているような動作をする(ただしヌル文字なので何も印字しない)。
初期の製品は、リレー・カム・クランクを動作させる為、本来の長距離通信の電信回線を流れる20mAカレントループを使用するものが多かった。後に、ソリッドステート化が図られるとRS-232を備える製品も現れ、カレントループに代わり主流となった。
テレタイプの回線は通信事業者からリースするのが普通で、電話回線と同じ銅線のツイストペアで顧客の所在地から通信事業者の局までを結んでいた。そして局内でテレックスまたはTWXサービス向けの交換機に接続されていた。専用線の場合は交換機を介さず、ハブや中継器に接続され、1対1や1対多の接続を構成していた。カレントループ(英語版)を使い、2台より多くのテレタイプ端末を同じ回線に接続することもできた。
初期のテレタイプ端末のキーボードは3列で、大文字だけをサポートしていた。5ビットの Baudot Code を使い、毎分60語ほどの速度で通信した。コンピュータの普及と共にASCIIコードを採用したテレタイプ端末が登場し、広く使われるようになっていった。
1940年代、5ビットの Baudot Code が普及するとウエスタンユニオンが転送速度を比較する指標として words per minute を採用し、その後数十年に渡って使われた。通常、スタートビットを1ビット、データビットを5ビット、ストップビットを1.42ビットの長さで送る。ストップビットがこのような長さになっているのは、機械式印字機構を同期させるためである。コンピュータは1.42などという時間を容易には生成できないので、1.5で代替するか2.0ビットぶん送信して1.0ビットぶんだけ受信するなどの工夫をした。
例えば、"60 speed" の端末は45.5ボー(ビットあたり22.0ミリ秒)、"66 speed" の端末は50.0ボー(ビットあたり20.0ミリ秒)、"75 speed" の端末は56.9ボー(ビットあたり17.5ミリ秒)、"100 speed" の端末は74.2ボー(ビットあたり13.5ミリ秒)、"133 speed" の端末は100.0ボー(ビットあたり10.0ミリ秒)である。アマチュア無線のRTTYでは、60 speed がデファクトスタンダードとなった。これは、その速度の端末が容易に入手可能だったことと、アメリカ連邦通信委員会 (FCC) が1953年から1972年まで 60 speed のみに制限していたためである。テレックスや通信社のニュース配信サービスなどは 66 speed を使っていた。機器の信頼性向上に伴って 75 speed や 100 speed に移行した例もある。しかし電波では転送レートを上げると誤り率が高くなるため、60 または 66 speed が主に使われ続けた。
もう1つのテレタイプ端末の速度指標として "operations per minute (OPM)" がある。例えば、60 speed は一般に 368 OPM、66 speed は 404 OPM、75 speed は 460 OPM、100 speed は 600 OPM である。ウエスタンユニオンのテレックスは通常 390 OPM に設定されており、1文字を7.42ビットではなく7ビットで表すものとする。
ニュース配信サービスや個別のテレタイプ端末では、重要なメッセージを受信した際にベルを鳴らす機能があった。例えば、UPI通信社のサービスでは、ベルを4回鳴らす "Urgent" メッセージ、5回鳴らす "Bulletin"、10回鳴らす FLASH などがあった。
テレタイプ回線には5ビット紙テープパンチ機やリーダーが接続されることが多く、それによって受信したメッセージを別の回線で再送することができる。複雑な軍や商用のネットワークはこの方式で構築されていた。メッセージセンターには何台もテレタイプ端末が並び、大量の送信を待つ紙テープが置かれていた。熟練したオペレータは紙テープの穴のパターンから優先コードを読み取ることができ、パンチ機から出てくる高優先度の紙テープをそのままリーダーに供給することもあった。通常のトラフィックは中継されるのに数時間待たされることが多かった。多くのテレタイプ端末には紙テープリーダーとパンチが備わっており、受信したメッセージを機械に読み取れる形でセーブし、オフラインで編集可能にしていた。
無線ではRTTYがよく使われた。アマチュア無線では今もこれが使われている。
タイプライターや電気機械式プリンターは紙上に文字を印字でき、キャリッジを行の左端に戻す動作(キャリッジ・リターン)や次の行に印字位置を進める動作(ラインフィード)などの操作を実行する。印字以外の操作コマンドは印字される文字と同様に転送され、それらを制御文字と呼ぶ。キャリッジ・リターンやラインフィードといった一部の制御文字は本来の機能を保持しているが、他の制御文字の多くは異なる用途で使われている。
一部のテレタイプ端末には "Here is" キー(「こちらは 〜 です」キー)があり、プログラム可能な20文字または22文字を送信する。これは一般に局の識別に使われ、オペレータがこのキーを押下すると局識別子が相手に送られる。つまり、相手が「あなたは誰?」を意味するENQキーを押してENQ文字(問い合わせ文字)を送信してきたら、こちらはこの「Here is」キーを押せばその問いに対する返答となる。
ENQ(コントロール+E)信号を受信した際に自動的に応答としてこの文字列を送信するようにも設定できる。
一体型の機種が開発される前にも、シーメンスの高速電信機、ウェスタン・エレクトリックの高速電信機などがあったが、紙テープ鑽孔用タイプライター・テープ送信機・テープ鑽孔受信機・印刷機などが別々であり非常に広い設置場所が必要なものであった。
Creed & Company はイギリスのテレタイプ端末製造企業である。
1931年、エドワード・クラインシュミットは新たな種類のテレタイプ端末を開発する会社 Kleinschmidt Labs を創業した。1944年、軽量な機種を開発し、1949年には陸軍の携帯用テレタイプ端末に採用された。1956年、スミス・コロナと合併し、さらにマーチャント計算機(英語版)とも合併して SCM Corporation となった。1979年、クラインシュミット部門がスピンオフして Electronic Data Interchange となった。
モルクラム(英語版)の最初の電信印刷機は1910年、ボストンとニューヨークの Postal Telegraph Company に納入された。鉄道と共に発展していき、1914年にはAP通信が採用した。1930年にクラインシュミット・エレクトリックと合併してモルクラム・クラインシュミットとなり、直後にテレタイプ・コーポレーションに改称している。
イタリアの事務機器メーカーであるオリベッティは、イタリアの郵便局向けにテレタイプ端末を製造していた。初期の機種は紙のリボンに印字し、それを切り取って電報用紙に貼り付けて使っていた。
ジーメンス・ウント・ハルスケ(後のシーメンス)は1897年創業のドイツのメーカーである。
1906年に創業したモルクラム社が起源で、1925年にクラインシュミット・エレクトリックと合併しモルクラム・クラインシュミットとなり、1928年12月にテレタイプ・コーポレーションに改称。1930年にAT&Tが買収し、ウェスタン・エレクトリックの子会社とした。初めて一体型の機種を開発した、テレタイプ社の製品が極めて大衆的になったため、この種の端末をテレタイプ端末あるいはTTY端末と呼ぶことが多い。ブランド名は存続していたが、1984年のAT&T解体の際にAT&Tの名称とロゴを使用するようになった。1990年にはテレタイプ端末の製造が終了となった。
テレタイプ社の機種は大型で重く、非常に頑丈で、潤滑油を適切にさせば何カ月も連続で動作できた。モデル15は長期に渡って生産された数少ない機種で、1930年から1963年まで33年間生産されている。テレタイプ社は1940年代中ごろにモデル15の後継としてモデル28を投入しようとしたが、第二次世界大戦中にモデル15を大量生産したためにモデル15を生産し続けたほうが経済的であるという状態になっていた。
端末のタイプとして以下のものがあった。
主な端末として以下のものがあった。
黒田精工・日本無線などがテレタイプ社の互換機を製造していた。
カタカナ送受信に対応したもの。電報の送信などにも使用された。
漢字を符号化して送信するものである。紙テープに鑽孔して受信しテープ読取式漢字印刷機で印字するものは、新聞製作の機械化に用いられた。
テレタイプ端末を使用した主なネットワークは以下の5つである。
国際的テレタイプネットワークを「テレックス」と呼び、1920年代後半に発展し、20世紀末ごろまでビジネス通信に使われ続けた。テレックスは交換網であり、電話のようにダイヤルで相手を指定でき、アメリカではウエスタンユニオンがネットワークを提供した。AT&Tはこれに対抗する「TWX」を開発。こちらも当初はダイヤルで相手を指定し、Baudot Code を使用。後に ASCII をベースにしたサービスも提供した。テレックスはいくつかの国では使われ続けているが、多くの用途はインターネットに移行している。
5ビットの Baudot Code と7ビットのASCIIコードに加え、6ビットのTTS(テレタイプセッター)コードもニュース配信などに使われていた。「シフトイン」コードと「シフトアウト」コードを使うことで、アルファベットの全ての大文字と小文字、数字、新聞で使われる記号、「左寄せ」や「中央にそろえる」といった植字指示などを扱える。本来このコードは紙テープを鑽孔し、その紙テープをライノタイプ付属の紙テープリーダーに読み込ませ、新聞や雑誌の印刷にそのまま使用することを意図したものだった。後には、カレントループ信号をそのままミニコンピュータやメインフレームに記録させ、コンピュータ上で編集して写真製版機に入力するようになった。
テレタイプは初期のコンピュータの入出力装置(端末)としても用いられ、1970年代後半ころまで使われた。1960年代初頭ころから対話型タイムシェアリングが広まってゆくと、計算機室内だけでなく遠隔でも使われた。だがラインプリンターやVDT(ブラウン管表示方式の入出力装置)のほうが使われることが増えていった。
デジタルの父と呼ばれることもあるジョージ・スティビッツは1940年1月8日にComplex Number Calculatorという複素数の四則演算が可能な装置を完成させ、1940年9月11日にダートマス大学でのアメリカ数学会の会議でその装置のデモンストレーションをやってみせた。スティビッツはニューヨークに設置してあるComplex Number Calculatorに電話回線を通してテレタイプでアクセスし、コマンドを打ち込み操作した。これは電話回線経由で遠隔からコンピュータを使った世界初の事例である。
コマンドプロンプトが印字された後にユーザーがコマンドを打ち込む。印字は後戻りできない。ユーザーが間違って打ち込んだ文字を消したい場合、前の文字をキャンセルすることを示す制御文字を入力する。ビデオディスプレイが登場したとき、そのユーザインタフェースは電気機械式プリンターのそれと全く同じだった。ビデオ端末はテレタイプ端末と同じように使うことができた。これがテキスト端末とキャラクタユーザインタフェースの起源である。
紙テープはコンピュータとのやりとりをオフラインで準備したり、コンピュータの出力を記録するのに使われた。ASR-33はBaudotではなく7ビットASCIIコード(8ビットめはパリティビット)を採用している。
DECのRT-11などの初期のOSでは、シリアル通信ラインにはテレタイプ端末がよく接続され、デバイス名は tt で始まることになっていた。他の多くのOSでも同様の命名法が採用されている。UNIXとUnix系オペレーティングシステムは接頭辞として tty を採用し、例えば /dev/tty13 などと命名している。また「擬似端末」には pty (pseudo-tty) を接頭辞とし、例えば /dev/ptya0 などとしている。多くの場合、"TTY" は任意のテキスト端末を意味する略称であり、外部コンソールデバイス、モデムを介してダイヤルアップ接続するポート、シリアルポートやRS-232ポートを介して接続する各種端末、ウィンドウシステムでの擬似端末デバイスを介した端末エミュレータなどを指す。
最初期のマイクロコンピュータ評価用ボードである、インテルSDK-80(i8080ベース)には、テレタイプ端末を想定したデバッグモニタがROMで提供されていた。また、初期のマイクロコンピュータ用プログラム開発環境、例えばインテルMDSやデジタルリサーチCP/Mなどはテレタイプ端末も使用できるように作られていた。
大量の入力や大量の出力という目的では、パンチカードリーダーや高速ラインプリンターのほうが使われるようになった。
1960年代から1970年代にかけてVDT(ブラウン管表示の入出力装置)のほうが普及してゆき、ただのファイル操作などの対話をわざわざ紙に印字しなくて済むので、そちらが使われることが増えた。
また1970年代後半や1980年代に個人で占有して使えるパーソナルコンピュータが登場して、そもそもメインフレームを使う頻度も減ってゆき、また処理能力の高いメインフレームを使う場合でもそのパーソナルコンピュータで端末エミュレータを動かしテレタイプの実機代わりに入出力装置として使う方法が生まれ、テレタイプの実機の需要がますます減っていった。(また、あえて印字したい場合でもPCに接続したプリンタを使えばよかった。)
|
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"text": "テレタイプ(端末)(テレタイプ(たんまつ)、英語: teletype、あるいはteletypewriter)は、回線で信号を送/受信するための、タイプライター的な装置。テレプリンタ(英語: teleprinter)、TTYとも。漢字表記では印刷電信機。通信用だけでなく、コンピュータの入出力装置としても使われた。今日ではほとんど使われなくなった。",
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},
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"text": "もともと通信のために使う電動機械式タイプライターであり、いわば遠く離れて動かせるタイプライターやプリンタなのでteletypeやteleprinterと命名された。(tele-はギリシア語由来の接頭辞であり、「遠く離れて」という意味である。)",
"title": "概要"
},
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"text": "もともと有線式の電信に使われ、2台を単純に電線(導線)で直結するだけでも作動する。その後様々な有線通信・無線通信で使われるようになった装置であり、専用線、交換網、無線回線、マイクロ波リンクなどでも動く。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "通信用だけでなく、メインフレームやミニコンピュータの入出力用の端末(ユーザインタフェース)として、コンピューター・ルーム(計算機室)内に設置されて使われた。",
"title": "概要"
},
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"text": "特に1960年代初頭あたりからタイムシェアリングシステムが広まると、使われる台数が増え、モデムを介して電話回線で遠隔のコンピュータに接続しても使われた。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "テレタイプはそもそも普通の用紙に印字する装置であるが、それに加えて 紙テープでもキーボードからの入力や受信したメッセージを記録できる機種もあり、紙テープに記録したメッセージを印刷したり再送したりといったことが可能である。また、この紙テープはコンピュータの入出力に使われるものと互換性があった。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "物理的な装置としてのテレタイプは使われなくなったものの、そのプロトコルは現在でも使われることがある。 いわゆるパソコン通信も、TTYの通信プロトコルを応用したものだった。 UNIXシステムなどでは今も「TTY」という用語が使われている。",
"title": "概要"
},
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"text": "航空管制業務では今も広く使われており(AFTN(英語版)など)、またろう者が電話回線経由で通信するための装置「聴覚障害者用文字電話」(Telecommunications Devices for the Deaf、TDD)でも使われている。",
"title": "概要"
},
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"text": "テレタイプはロイヤル・E・ハウス、デイビッド・エドワード・ヒューズ、チャールズ・クラム、エミール・ボドーなど多数の技術者の一連の発明によって進化した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1846年、ワシントンD.C.とニューヨーク間でモールス式電信システムが開通した。同年、ロイヤル・E・ハウスが電信印刷機の特許を取得している。28キーのピアノ状のキーボード2台を相互接続したもので、各キーがアルファベットに対応していて、一方のキーボードのキーを押下すると相手側でその文字が印字される仕組みになっていた。「シフト」キーがあるので、各キーは2種類の値を発生できる。そのため合計56種類の活字で構成されるタイプホイールが双方にあり、同期して回転する仕組みになっている。送信側でキーを押下すると、受信側のタイプホイールが回転して対応する活字が印字される位置に移動する。したがってこれは同期式データ転送システムの一種である。ハウスの装置は1分間に約40語を伝送できたが、大量生産は難しかった。印字機構は1時間に2,000語まで印字可能だった。この発明は1844年、ニューヨークの Mechanics Institute で完成し展示された。",
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"text": "テレタイプの運用は1849年、フィラデルフィアとニューヨーク間で始まった。",
"title": "歴史"
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"text": "1855年、デイビッド・エドワード・ヒューズがロイヤル・E・ハウスの作ったマシンを改良した。それから2年以内にいくつかの電信会社が合併してウエスタンユニオンが結成され、ヒューズのシステムを商用電報に適用しはじめた。",
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"text": "1874年、エミール・ボドーが5単位(5ビット)符号体系(Baudot Code)を使ったシステムを設計。このシステムは1877年にフランスで採用された。1897年、パリとロンドン間の単方向通信システムにボドーのシステムが採用され、その後イギリス国内の電信サービスでも双方向のボドーシステムが採用された。",
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"text": "1901年、Donald Murray(ドナルド・マレーもしくはドナルド・ミュレー)がタイプライター状のキーボードの開発過程でボドーの符号体系に改良を加えた。ミュレーのシステムはキーボードからの入力をいったん紙テープに鑽孔可能で、紙テープからメッセージを送信できる装置も備えていた。受信側では、メッセージを紙テープに印字することもできるし、鑽孔することもできる。このようにすることでオペレータの手の動きと転送されるビット列は直接の関係がなくなったため、オペレータの疲労を最小化する必要がなくなり、むしろよく使われる文字のコードが紙テープ上で穴が少なくなるように修正を加えた。ミュレーはまた「制御文字」と呼ばれるコードとしてキャリッジ・リターン (CR) や改行コード (LF) を符号体系に加えた。NULL、BLANK、DELといったコードはボドーの符号体系から移動させられ、その値が長らく使われることになった。NULLやBLANKは送信中に何も送信していない状態を表すのに使われた。",
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"text": "1916年、エドワード・クラインシュミット(英語版)がタイプバー式ページプリンターについての特許を出願。1919年、モルクラム社が先述の開始・終了時の同期技法についての特許を取得すると、間もなくクラインシュミットが \"Method of and Apparatus for Operating Printing Telegraphs\" と題した特許を出願。この特許にはモルクラム社の開始・終了技法の改良版が含まれていた。",
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"text": "テレタイプの回路の論理レベルを「マーク」と「スペース」という用語で表す。テレタイプ端末の通信は単純な直流電流のオンとオフでなされる。回路が閉じて電流が流れる状態を「マーク」、回路が開いて電流が流れない状態を「スペース」と呼んだ。マーク状態が継続していることを「アイドル」状態と呼び、ある文字のコードを送信する際にはスペースで表される「スタートビット」がまず送られる。スタートビットに続いて文字を表す固定個のビット列(マークとスペースの列)が送られる。Baudot Code の場合はそれが5ビットである。その後、1個かそれ以上のストップビットを送る。ストップビットはマークであり、後続のスタートビットと識別できるようになっている。送信側にそれ以上送信すべきものがなければ、新たな文字のスタートビットを送るまでマーク状態が継続する。文字と文字の間の時間は任意だが、少なくとも受信側が必要とする最小ストップビット数のぶんだけ間隔を空ける必要がある。",
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"text": "断線すると受信側は連続なスペース状態となり、ヌル文字を連続で受信しているような動作をする(ただしヌル文字なので何も印字しない)。",
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"text": "テレタイプの回線は通信事業者からリースするのが普通で、電話回線と同じ銅線のツイストペアで顧客の所在地から通信事業者の局までを結んでいた。そして局内でテレックスまたはTWXサービス向けの交換機に接続されていた。専用線の場合は交換機を介さず、ハブや中継器に接続され、1対1や1対多の接続を構成していた。カレントループ(英語版)を使い、2台より多くのテレタイプ端末を同じ回線に接続することもできた。",
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"text": "1940年代、5ビットの Baudot Code が普及するとウエスタンユニオンが転送速度を比較する指標として words per minute を採用し、その後数十年に渡って使われた。通常、スタートビットを1ビット、データビットを5ビット、ストップビットを1.42ビットの長さで送る。ストップビットがこのような長さになっているのは、機械式印字機構を同期させるためである。コンピュータは1.42などという時間を容易には生成できないので、1.5で代替するか2.0ビットぶん送信して1.0ビットぶんだけ受信するなどの工夫をした。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "例えば、\"60 speed\" の端末は45.5ボー(ビットあたり22.0ミリ秒)、\"66 speed\" の端末は50.0ボー(ビットあたり20.0ミリ秒)、\"75 speed\" の端末は56.9ボー(ビットあたり17.5ミリ秒)、\"100 speed\" の端末は74.2ボー(ビットあたり13.5ミリ秒)、\"133 speed\" の端末は100.0ボー(ビットあたり10.0ミリ秒)である。アマチュア無線のRTTYでは、60 speed がデファクトスタンダードとなった。これは、その速度の端末が容易に入手可能だったことと、アメリカ連邦通信委員会 (FCC) が1953年から1972年まで 60 speed のみに制限していたためである。テレックスや通信社のニュース配信サービスなどは 66 speed を使っていた。機器の信頼性向上に伴って 75 speed や 100 speed に移行した例もある。しかし電波では転送レートを上げると誤り率が高くなるため、60 または 66 speed が主に使われ続けた。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "もう1つのテレタイプ端末の速度指標として \"operations per minute (OPM)\" がある。例えば、60 speed は一般に 368 OPM、66 speed は 404 OPM、75 speed は 460 OPM、100 speed は 600 OPM である。ウエスタンユニオンのテレックスは通常 390 OPM に設定されており、1文字を7.42ビットではなく7ビットで表すものとする。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ニュース配信サービスや個別のテレタイプ端末では、重要なメッセージを受信した際にベルを鳴らす機能があった。例えば、UPI通信社のサービスでは、ベルを4回鳴らす \"Urgent\" メッセージ、5回鳴らす \"Bulletin\"、10回鳴らす FLASH などがあった。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "テレタイプ回線には5ビット紙テープパンチ機やリーダーが接続されることが多く、それによって受信したメッセージを別の回線で再送することができる。複雑な軍や商用のネットワークはこの方式で構築されていた。メッセージセンターには何台もテレタイプ端末が並び、大量の送信を待つ紙テープが置かれていた。熟練したオペレータは紙テープの穴のパターンから優先コードを読み取ることができ、パンチ機から出てくる高優先度の紙テープをそのままリーダーに供給することもあった。通常のトラフィックは中継されるのに数時間待たされることが多かった。多くのテレタイプ端末には紙テープリーダーとパンチが備わっており、受信したメッセージを機械に読み取れる形でセーブし、オフラインで編集可能にしていた。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "無線ではRTTYがよく使われた。アマチュア無線では今もこれが使われている。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "タイプライターや電気機械式プリンターは紙上に文字を印字でき、キャリッジを行の左端に戻す動作(キャリッジ・リターン)や次の行に印字位置を進める動作(ラインフィード)などの操作を実行する。印字以外の操作コマンドは印字される文字と同様に転送され、それらを制御文字と呼ぶ。キャリッジ・リターンやラインフィードといった一部の制御文字は本来の機能を保持しているが、他の制御文字の多くは異なる用途で使われている。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一部のテレタイプ端末には \"Here is\" キー(「こちらは 〜 です」キー)があり、プログラム可能な20文字または22文字を送信する。これは一般に局の識別に使われ、オペレータがこのキーを押下すると局識別子が相手に送られる。つまり、相手が「あなたは誰?」を意味するENQキーを押してENQ文字(問い合わせ文字)を送信してきたら、こちらはこの「Here is」キーを押せばその問いに対する返答となる。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ENQ(コントロール+E)信号を受信した際に自動的に応答としてこの文字列を送信するようにも設定できる。",
"title": "仕様と使用法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "一体型の機種が開発される前にも、シーメンスの高速電信機、ウェスタン・エレクトリックの高速電信機などがあったが、紙テープ鑽孔用タイプライター・テープ送信機・テープ鑽孔受信機・印刷機などが別々であり非常に広い設置場所が必要なものであった。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "Creed & Company はイギリスのテレタイプ端末製造企業である。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1931年、エドワード・クラインシュミットは新たな種類のテレタイプ端末を開発する会社 Kleinschmidt Labs を創業した。1944年、軽量な機種を開発し、1949年には陸軍の携帯用テレタイプ端末に採用された。1956年、スミス・コロナと合併し、さらにマーチャント計算機(英語版)とも合併して SCM Corporation となった。1979年、クラインシュミット部門がスピンオフして Electronic Data Interchange となった。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "モルクラム(英語版)の最初の電信印刷機は1910年、ボストンとニューヨークの Postal Telegraph Company に納入された。鉄道と共に発展していき、1914年にはAP通信が採用した。1930年にクラインシュミット・エレクトリックと合併してモルクラム・クラインシュミットとなり、直後にテレタイプ・コーポレーションに改称している。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "イタリアの事務機器メーカーであるオリベッティは、イタリアの郵便局向けにテレタイプ端末を製造していた。初期の機種は紙のリボンに印字し、それを切り取って電報用紙に貼り付けて使っていた。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ジーメンス・ウント・ハルスケ(後のシーメンス)は1897年創業のドイツのメーカーである。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1906年に創業したモルクラム社が起源で、1925年にクラインシュミット・エレクトリックと合併しモルクラム・クラインシュミットとなり、1928年12月にテレタイプ・コーポレーションに改称。1930年にAT&Tが買収し、ウェスタン・エレクトリックの子会社とした。初めて一体型の機種を開発した、テレタイプ社の製品が極めて大衆的になったため、この種の端末をテレタイプ端末あるいはTTY端末と呼ぶことが多い。ブランド名は存続していたが、1984年のAT&T解体の際にAT&Tの名称とロゴを使用するようになった。1990年にはテレタイプ端末の製造が終了となった。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "テレタイプ社の機種は大型で重く、非常に頑丈で、潤滑油を適切にさせば何カ月も連続で動作できた。モデル15は長期に渡って生産された数少ない機種で、1930年から1963年まで33年間生産されている。テレタイプ社は1940年代中ごろにモデル15の後継としてモデル28を投入しようとしたが、第二次世界大戦中にモデル15を大量生産したためにモデル15を生産し続けたほうが経済的であるという状態になっていた。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "端末のタイプとして以下のものがあった。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "主な端末として以下のものがあった。",
"title": "主な端末機"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "黒田精工・日本無線などがテレタイプ社の互換機を製造していた。",
"title": "日本製の機種"
},
{
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"tag": "p",
"text": "カタカナ送受信に対応したもの。電報の送信などにも使用された。",
"title": "日本製の機種"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "漢字を符号化して送信するものである。紙テープに鑽孔して受信しテープ読取式漢字印刷機で印字するものは、新聞製作の機械化に用いられた。",
"title": "日本製の機種"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "テレタイプ端末を使用した主なネットワークは以下の5つである。",
"title": "テレタイプ端末を使用したネットワーク"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "国際的テレタイプネットワークを「テレックス」と呼び、1920年代後半に発展し、20世紀末ごろまでビジネス通信に使われ続けた。テレックスは交換網であり、電話のようにダイヤルで相手を指定でき、アメリカではウエスタンユニオンがネットワークを提供した。AT&Tはこれに対抗する「TWX」を開発。こちらも当初はダイヤルで相手を指定し、Baudot Code を使用。後に ASCII をベースにしたサービスも提供した。テレックスはいくつかの国では使われ続けているが、多くの用途はインターネットに移行している。",
"title": "テレックス"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "5ビットの Baudot Code と7ビットのASCIIコードに加え、6ビットのTTS(テレタイプセッター)コードもニュース配信などに使われていた。「シフトイン」コードと「シフトアウト」コードを使うことで、アルファベットの全ての大文字と小文字、数字、新聞で使われる記号、「左寄せ」や「中央にそろえる」といった植字指示などを扱える。本来このコードは紙テープを鑽孔し、その紙テープをライノタイプ付属の紙テープリーダーに読み込ませ、新聞や雑誌の印刷にそのまま使用することを意図したものだった。後には、カレントループ信号をそのままミニコンピュータやメインフレームに記録させ、コンピュータ上で編集して写真製版機に入力するようになった。",
"title": "テレタイプセッター"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "テレタイプは初期のコンピュータの入出力装置(端末)としても用いられ、1970年代後半ころまで使われた。1960年代初頭ころから対話型タイムシェアリングが広まってゆくと、計算機室内だけでなく遠隔でも使われた。だがラインプリンターやVDT(ブラウン管表示方式の入出力装置)のほうが使われることが増えていった。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "デジタルの父と呼ばれることもあるジョージ・スティビッツは1940年1月8日にComplex Number Calculatorという複素数の四則演算が可能な装置を完成させ、1940年9月11日にダートマス大学でのアメリカ数学会の会議でその装置のデモンストレーションをやってみせた。スティビッツはニューヨークに設置してあるComplex Number Calculatorに電話回線を通してテレタイプでアクセスし、コマンドを打ち込み操作した。これは電話回線経由で遠隔からコンピュータを使った世界初の事例である。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "コマンドプロンプトが印字された後にユーザーがコマンドを打ち込む。印字は後戻りできない。ユーザーが間違って打ち込んだ文字を消したい場合、前の文字をキャンセルすることを示す制御文字を入力する。ビデオディスプレイが登場したとき、そのユーザインタフェースは電気機械式プリンターのそれと全く同じだった。ビデオ端末はテレタイプ端末と同じように使うことができた。これがテキスト端末とキャラクタユーザインタフェースの起源である。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "紙テープはコンピュータとのやりとりをオフラインで準備したり、コンピュータの出力を記録するのに使われた。ASR-33はBaudotではなく7ビットASCIIコード(8ビットめはパリティビット)を採用している。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "DECのRT-11などの初期のOSでは、シリアル通信ラインにはテレタイプ端末がよく接続され、デバイス名は tt で始まることになっていた。他の多くのOSでも同様の命名法が採用されている。UNIXとUnix系オペレーティングシステムは接頭辞として tty を採用し、例えば /dev/tty13 などと命名している。また「擬似端末」には pty (pseudo-tty) を接頭辞とし、例えば /dev/ptya0 などとしている。多くの場合、\"TTY\" は任意のテキスト端末を意味する略称であり、外部コンソールデバイス、モデムを介してダイヤルアップ接続するポート、シリアルポートやRS-232ポートを介して接続する各種端末、ウィンドウシステムでの擬似端末デバイスを介した端末エミュレータなどを指す。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "最初期のマイクロコンピュータ評価用ボードである、インテルSDK-80(i8080ベース)には、テレタイプ端末を想定したデバッグモニタがROMで提供されていた。また、初期のマイクロコンピュータ用プログラム開発環境、例えばインテルMDSやデジタルリサーチCP/Mなどはテレタイプ端末も使用できるように作られていた。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "大量の入力や大量の出力という目的では、パンチカードリーダーや高速ラインプリンターのほうが使われるようになった。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1960年代から1970年代にかけてVDT(ブラウン管表示の入出力装置)のほうが普及してゆき、ただのファイル操作などの対話をわざわざ紙に印字しなくて済むので、そちらが使われることが増えた。",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また1970年代後半や1980年代に個人で占有して使えるパーソナルコンピュータが登場して、そもそもメインフレームを使う頻度も減ってゆき、また処理能力の高いメインフレームを使う場合でもそのパーソナルコンピュータで端末エミュレータを動かしテレタイプの実機代わりに入出力装置として使う方法が生まれ、テレタイプの実機の需要がますます減っていった。(また、あえて印字したい場合でもPCに接続したプリンタを使えばよかった。)",
"title": "コンピュータ端末としての利用"
}
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テレタイプ(端末)は、回線で信号を送/受信するための、タイプライター的な装置。テレプリンタ、TTYとも。漢字表記では印刷電信機。通信用だけでなく、コンピュータの入出力装置としても使われた。今日ではほとんど使われなくなった。
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[[File:Telex machine ASR-32.jpg|thumb|right|260px|ASR-32。[[テレックス]]で使われたテレタイプ]]
[[File:Teletype, Intrepid Museum (7558594418).jpg|thumb|right|260px|アメリカ軍の[[イントレピッド (空母)|空母イントレピッド]]で通信に使用されたテレタイプ(現・[[イントレピッド海上航空宇宙博物館]]展示品)]]
[[ファイル:Teletype automated office in Nippon Kangyo Bank.jpg|thumb|right|260px|[[日本勧業銀行]]で本・支店間の通信に使用されたテレタイプ(1967年)]]
[[ファイル:ASR-33 at CHM.agr.jpg|thumb|right|260px|[[紙テープ]]リーダーとパンチを備えた ASR [[ASR-33|Teletype Model 33]] は、[[端末#コンピュータ用語|コンピュータ用端末]]として使用可能]]
'''テレタイプ'''<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典【テレタイプ】。ブリタニカではあくまで【テレタイプ】で項目を立てている。「テレタイプ端末」ではない。 [https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97-101971]</ref><small>(端末)</small>(テレタイプ<small>(たんまつ)</small>、{{lang-en|teletype、あるいはteletypewriter}})は、回線で[[信号 (電気工学)|信号]]を送/[[受信]]するための、[[タイプライター]]的な装置<ref>Merriam Webster, teletype. [https://www.merriam-webster.com/dictionary/teletype]</ref>。'''テレプリンタ'''({{lang-en|teleprinter}})、'''TTY'''とも。漢字表記では'''印刷電信機'''。通信用だけでなく、コンピュータの入出力装置としても使われた。今日ではほとんど使われなくなった。
== 概要 ==
もともと通信のために使う電動機械式[[タイプライター]]であり、いわば遠く離れて動かせるタイプライターやプリンタなのでteletypeやteleprinterと命名された。(tele-はギリシア語由来の接頭辞であり、「遠く離れて」という意味である。)
;通信用
もともと有線式の[[電信]]に使われ、2台を単純に[[電線]](導線)で直結するだけでも作動する{{Efn|「電話回線網」などという大袈裟なものが無くても、単純に電線を、送信用2本、受信用2本用意して、2台のテレタイプを繋げば動く}}。その後様々な[[有線通信]]・[[無線通信]]で使われるようになった装置であり、[[専用線]]、交換網、無線回線、[[マイクロ波]]リンクなどでも動く。
;コンピュータの入出力用
通信用だけでなく、[[メインフレーム]]や[[ミニコンピュータ]]の[[端末#コンピュータ用語|入出力用の端末]]([[ユーザインタフェース]])として、コンピューター・ルーム(計算機室)内に設置されて使われた。
特に1960年代初頭あたりから[[タイムシェアリングシステム]]が広まると、使われる台数が増え、[[モデム]]を介して電話回線で遠隔のコンピュータに接続しても使われた。
;紙テープつき
テレタイプはそもそも普通の用紙に印字する装置であるが、それに加えて
[[紙テープ]]でもキーボードからの入力や受信したメッセージを記録できる機種もあり、紙テープに記録したメッセージを印刷したり再送したりといったことが可能である。また、この紙テープはコンピュータの入出力に使われるものと互換性があった。
;プロトコル
物理的な装置としてのテレタイプは使われなくなったものの、その[[プロトコル]]は現在でも使われることがある。
いわゆる[[パソコン通信]]も、TTYの通信プロトコルを応用したものだった。
[[UNIX]]システムなどでは今も「TTY」という用語が使われている。
航空管制業務では今も広く使われており({{仮リンク|国際航空固定通信網|en|Aeronautical Fixed Telecommunication Network|label=AFTN}}など)、また[[ろう者]]が電話回線経由で通信するための装置「聴覚障害者用文字電話」([[:en:telecommunications devices for the deaf|Telecommunications Devices for the Deaf]]、TDD)でも使われている。
== 歴史 ==
テレタイプは[[ロイヤル・E・ハウス]]、[[デイビッド・エドワード・ヒューズ]]、[[チャールズ・クラム]]、[[エミール・ボドー]]など多数の技術者の一連の発明によって進化した。
1846年、ワシントンD.C.とニューヨーク間で[[サミュエル・モールス|モールス]]式電信システムが開通した。同年、ロイヤル・E・ハウスが電信印刷機の特許を取得している。28キーのピアノ状のキーボード2台を相互接続したもので、各キーがアルファベットに対応していて、一方のキーボードのキーを押下すると相手側でその文字が印字される仕組みになっていた。「シフト」キーがあるので、各キーは2種類の値を発生できる。そのため合計56種類の活字で構成されるタイプホイールが双方にあり、同期して回転する仕組みになっている。送信側でキーを押下すると、受信側のタイプホイールが回転して対応する活字が印字される位置に移動する。したがってこれは同期式データ転送システムの一種である。ハウスの装置は1分間に約40語を伝送できたが、大量生産は難しかった。印字機構は1時間に2,000語まで印字可能だった。この発明は1844年、ニューヨークの [[:en:Mechanics Institute|Mechanics Institute]] で完成し展示された。
テレタイプの運用は1849年、フィラデルフィアとニューヨーク間で始まった<ref>''RTTY Journal'' Vol. 25 No. 9, October 1977: 2.</ref>。
1855年、[[デイビッド・エドワード・ヒューズ]]がロイヤル・E・ハウスの作ったマシンを改良した。それから2年以内にいくつかの電信会社が合併して[[ウエスタンユニオン]]が結成され、ヒューズのシステムを商用電報に適用しはじめた<ref name="Clarkson">{{Cite web | url = http://people.clarkson.edu/~ekatz/scientists/hughes.html | title = David Edward Hughes | accessdate = September 29, 2010 | date = April 14, 2007 | publisher = Clarkson University | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080422072443/http://people.clarkson.edu/~ekatz/scientists/hughes.html | archivedate = 2008年4月22日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。
[[File:Clavier Baudot.jpg|thumb|180px|ボドーの電信装置]]
1874年、[[エミール・ボドー]]が5単位(5ビット)符号体系([[Baudot Code]])を使ったシステムを設計。このシステムは1877年にフランスで採用された。1897年、パリとロンドン間の単方向通信システムにボドーのシステムが採用され、その後イギリス国内の電信サービスでも双方向のボドーシステムが採用された<ref>{{Cite web |last=Hobbs |first=Alan G. |title=Five-unit codes|url= http://www.nadcomm.com/fiveunit/fiveunits.htm| accessdate =May 1, 2012 }}</ref>。
[[File:DonaldMurray with Telegraphic Typewriter.jpg|thumb|180px|Donald Murrayと電信用タイプライタ]]
1901年、Donald Murray(ドナルド・マレーもしくはドナルド・ミュレー)がタイプライター状のキーボードの開発過程でボドーの符号体系に改良を加えた。ミュレーのシステムはキーボードからの入力をいったん[[紙テープ]]に鑽孔可能で、紙テープからメッセージを送信できる装置も備えていた。受信側では、メッセージを紙テープに印字することもできるし、鑽孔することもできる<ref>{{Cite journal |last=Foster |first=Maximilian |year=1901 |month=August |title=A Successful Printing Telegraph |journal=The World's Work: A History of Our Time |volume=II |pages=1195–1199 |id= |url= https://books.google.co.jp/books?id=IF6tNZnhO7wC&pg=PA1195&redir_esc=y&hl=ja |accessdate=July 9, 2009 |quote= }}</ref>。このようにすることでオペレータの手の動きと転送されるビット列は直接の関係がなくなったため、オペレータの疲労を最小化する必要がなくなり、むしろよく使われる文字のコードが紙テープ上で穴が少なくなるように修正を加えた。ミュレーはまた「[[制御文字]]」と呼ばれるコードとして[[キャリッジ・リターン]] (CR) や[[改行コード]] (LF) を符号体系に加えた。NULL、BLANK、DELといったコードはボドーの符号体系から移動させられ、その値が長らく使われることになった。NULLやBLANKは送信中に何も送信していない状態を表すのに使われた<ref>{{Citation| title = Typewriter May Soon Be Transmitter of Telegrams| newspaper = [[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] | date = January 25, 1914| url = http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=F70D12FF355D13738DDDAC0A94D9405B848DF1D3}}</ref>。
1902年、電気技師 Frank Pearne は電信印刷機の実用化の研究スポンサーを求め、[[:en:Morton Salt|Morton Salt]] の [[:en:Joy Morton|Joy Morton]] に接触した。Joy Morton はそれが出資に値するか否かを判断するため、Western Cold Storage Company の副社長で技師の{{仮リンク|チャールズ・クラム|en|Charles Krum}}に意見を求めた。クラムはPearneの研究に関心を寄せ、Western Cold Storage の研究室にそのためのスペースを設けた。Frank Pearne は1年ほどでプロジェクトに興味を失い、教職に就いた。クラムは研究を続け、1903年8月に ‘typebar page printer’ と題した特許を取得<ref>{{Cite web | url= http://patimg1.uspto.gov/.piw?Docid=00888335&homeurl=http%3A%2F%2Fpatft.uspto.gov%2Fnetacgi%2Fnph-Parser%3FSect1%3DPTO1%2526Sect2%3DHITOFF%2526d%3DPALL%2526p%3D1%2526u%3D%25252Fnetahtml%25252FPTO%25252Fsrchnum.htm%2526r%3D1%2526f%3DG%2526l%3D50%2526s1%3D0888335.PN.%2526OS%3DPN%2F0888335%2526RS%3DPN%2F0888335&PageNum=&Rtype=&SectionNum=&idkey=NONE&Input=View+first+page | title=U.S. Patent 888,335 issued in May, 1908| accessdate=August 13, 2011}}</ref>。1904年には ‘type wheel printing telegraph machine’ と題した特許を出願し<ref>{{Cite web | url= http://patimg1.uspto.gov/.piw?Docid=00862402&homeurl=http%3A%2F%2Fpatft.uspto.gov%2Fnetacgi%2Fnph-Parser%3FSect1%3DPTO1%2526Sect2%3DHITOFF%2526d%3DPALL%2526p%3D1%2526u%3D%25252Fnetahtml%25252FPTO%25252Fsrchnum.htm%2526r%3D1%2526f%3DG%2526l%3D50%2526s1%3D0862402.PN.%2526OS%3DPN%2F0862402%2526RS%3DPN%2F0862402&PageNum=&Rtype=&SectionNum=&idkey=NONE&Input=View+first+page | title=U.S. Patent 862,402| accessdate=August 13, 2011}}</ref>、1907年8月に発効した。1906年には息子のハワード・クラムも父の研究に参加している。符号電信システムの通信開始・終了時の同期方法を考案し特許をとったのはハワードであり、それによってテレタイプ端末の実用化が可能となった<ref>{{Cite web | url= http://patimg2.uspto.gov/.piw?Docid=01286351&homeurl=http%3A%2F%2Fpatft.uspto.gov%2Fnetacgi%2Fnph-Parser%3FSect1%3DPTO1%2526Sect2%3DHITOFF%2526d%3DPALL%2526p%3D1%2526u%3D%25252Fnetahtml%25252FPTO%25252Fsrchnum.htm%2526r%3D1%2526f%3DG%2526l%3D50%2526s1%3D1286351.PN.%2526OS%3DPN%2F1286351%2526RS%3DPN%2F1286351&PageNum=&Rtype=&SectionNum=&idkey=NONE&Input=View+first+page | title=U.S. Patent 1,286,351 filed in May, 1910, and issued in December, 1918| accessdate=August 13, 2011}}</ref>。
1908年、(Joy Morton と Charles Krum の名を組み合わせた)モルクラム社がテレタイプ端末 Morkrum Printing Telegraph を開発し、Alton Railroad と共同で実地試験を行った。1910年、モルクラム社の初の商用テレタイプ端末がボストン-ニューヨーク間の電信線で導入された<ref name="Colin Hempstead, William E. Worthington 2005 605">{{Cite book |author=Colin Hempstead, William E. Worthington |url= https://books.google.co.jp/books?id=0wkIlnNjDWcC&pg=PA605&redir_esc=y&hl=ja |title= Encyclopedia of 20th Century Technology |year=2005 |page=605}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.baudot.net/teletype/MPT.htm |title=Morkum Printing Telegraph Page Printer |accessdate=2011-08-15}}</ref>。
1916年、{{仮リンク|エドワード・クラインシュミット|en|Edward Kleinschmidt}}がタイプバー式ページプリンターについての特許を出願<ref>{{Cite web | last = KLEINSCHMIDT | first = E. | title = TELEGRAPH PRINTER | publisher = USPO | date = Apr 14, 1916 | url = https://www.google.com/patents?id=QDRVAAAAEBAJ&dq=1448750 | accessdate = 2008-07-11}}</ref>。1919年、モルクラム社が先述の開始・終了時の同期技法についての特許を取得すると、間もなくクラインシュミットが "Method of and Apparatus for Operating Printing Telegraphs" と題した特許を出願<ref>{{Cite web | last = KLEINSCHMIDT | first = E. | title = METHOD OF AND APPARATUS EOR OPERATING PRINTING TELEGRAPHS | publisher = USPO | date = May 1, 1919 | url = https://www.google.com/patents?id=lzlKAAAAEBAJ&dq=1463136 | accessdate = 2008-07-11}}</ref>。この特許にはモルクラム社の開始・終了技法の改良版が含まれていた<ref name=historytelcom>{{Cite book | last = Huurdeman | first = Anton A. | title = The Worldwide History of Telecommunications | publisher = Wiley-IEEE | year = 2003 | pages = 302 | url = | id = | isbn = 0-471-20505-2}}</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 183-2008-0516-500, Fernschreibmaschine mit Telefonanschluss.jpg|thumb|right|180px|Creed社のModel 7(1930年)]]
開始・終了技法について特許紛争で時間と金を無駄にする代わりに、クラインシュミットとモルクラムは合併することを選び、1924年にモルクラム・クラインシュミットとなった。この新会社は両社の機種の長所を生かした新機種を開発した<ref name=historytelcom/>。
1924年、[[:en:Frederick G. Creed|Frederick G. Creed]] が創業した Creed & Company がテレタイプ端末市場に参入。1925年、Creed は Baudot Code を合理化したミュレーの符号体系についての特許を獲得し、1927年の新機種にそれを採用した。この機種は受信したメッセージをゴムを塗布した紙テープに毎分65語の速度で印字でき、Creedとしては初の送受信機能を一体化した大量生産機だった。
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File:The Women's Auxiliary Air Force, 1939-1945. CH214.jpg|イギリス空軍(1939年-1945年ころ)
WACsOperateTeletype.jpg|空軍。[[第二次世界大戦]]ころ。
File:Yoseph Burg teleprinter 1956.jpg|(1956年)
File:Service de prêts entre bibliothèques 337-3-002.jpg|図書館間の相互貸出システム(1972年)
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== 仕様と使用法 ==
テレタイプ端末の文字セットはごく限られ、印字部は活字式[[プリンター]]であり印字品質は貧弱だった。また、多くは紙テープ鑽孔機と紙テープ読取機に接続され、オフラインで電文を作成して保管([[紙テープ]]を箱などに収納)しておくことができた。この機能は通信回線やコンピュータの記憶装置などの利用が非常に高額なものであった場合には有用なものだった。
[[ファイル:Baudotkeyboard.png|thumb|right|422px|[[Baudot Code]] を生成するテレタイプ端末の[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]。32個のキーがあり、スペースバーもある。]]
多くのテレタイプ端末は5[[ビット]]の [[Baudot Code]](ITA2としても知られる)を採用していた。この文字セットは32種類のコードから成る(2<sup>5</sup> = 32)。数字や記号をタイプするには "FIGS" [[シフトキー]]を使う。中にはFIGSで気象シンボルなどの特殊な文字と解釈するテレタイプ端末もあった。印字品質は現代から見れば貧弱なものだった。Baudot Code はスタートビットとストップビットを使ったいわゆる[[同期方式|調歩同期式]]であり、この設計はテレタイプ端末の電気機械の開始・終了と密接に関連していた。初期のシステムは同期式コード設計だったが、機械の同期が難しかった。他にも[[ASCII]]、[[:en:Fieldata|Fieldata]]、[[:en:Friden Flexowriter|Flexowriter]]といったコードが登場したが、Baudotほど普及することはなかった。
テレタイプの回路の[[負論理|論理レベル]]を「マーク」と「スペース」という用語で表す。テレタイプ端末の通信は単純な[[直流]]電流のオンとオフでなされる。回路が閉じて電流が流れる状態を「マーク」、回路が開いて電流が流れない状態を「スペース」と呼んだ。マーク状態が継続していることを「アイドル」状態と呼び、ある文字のコードを送信する際にはスペースで表される「スタートビット」がまず送られる。スタートビットに続いて文字を表す固定個のビット列(マークとスペースの列)が送られる。Baudot Code の場合はそれが5ビットである。その後、1個かそれ以上のストップビットを送る。ストップビットはマークであり、後続のスタートビットと識別できるようになっている。送信側にそれ以上送信すべきものがなければ、新たな文字のスタートビットを送るまでマーク状態が継続する。文字と文字の間の時間は任意だが、少なくとも受信側が必要とする最小ストップビット数のぶんだけ間隔を空ける必要がある。
断線すると受信側は連続なスペース状態となり、[[ヌル文字]]を連続で受信しているような動作をする(ただしヌル文字なので何も印字しない)。
初期の製品は、リレー・カム・クランクを動作させる為、本来の長距離通信の電信回線を流れる20mAカレントループを使用するものが多かった。後に、ソリッドステート化が図られると[[RS-232]]を備える製品も現れ、カレントループに代わり主流となった。
テレタイプの回線は通信事業者からリースするのが普通で、電話回線と同じ銅線の[[ツイストペアケーブル|ツイストペア]]で顧客の所在地から通信事業者の局までを結んでいた。そして局内で[[テレックス]]またはTWXサービス向けの交換機に接続されていた。専用線の場合は交換機を介さず、[[ハブ (ネットワーク機器)|ハブ]]や中継器に接続され、1対1や1対多の接続を構成していた。{{仮リンク|カレントループ|en|current loop}}を使い、2台より多くのテレタイプ端末を同じ回線に接続することもできた。
初期のテレタイプ端末のキーボードは3列で、大文字だけをサポートしていた。5ビットの [[Baudot Code]] を使い、毎分60語ほどの速度で通信した。コンピュータの普及と共にASCIIコードを採用したテレタイプ端末が登場し、広く使われるようになっていった。
1940年代、5ビットの [[Baudot Code]] が普及すると[[ウエスタンユニオン]]が転送速度を比較する指標として [[:en:words per minute|words per minute]] を採用し、その後数十年に渡って使われた。通常、スタートビットを1ビット、データビットを5ビット、ストップビットを1.42ビットの長さで送る。ストップビットがこのような長さになっているのは、機械式印字機構を同期させるためである。コンピュータは1.42などという時間を容易には生成できないので、1.5で代替するか2.0ビットぶん送信して1.0ビットぶんだけ受信するなどの工夫をした。
例えば、"60 speed" の端末は45.5[[ボー]](ビットあたり22.0[[1 E-3 s|ミリ秒]])、"66 speed" の端末は50.0[[ボー]](ビットあたり20.0ミリ秒)、"75 speed" の端末は56.9ボー(ビットあたり17.5ミリ秒)、"100 speed" の端末は74.2ボー(ビットあたり13.5ミリ秒)、"133 speed" の端末は100.0ボー(ビットあたり10.0ミリ秒)である。[[アマチュア無線]]の[[ラジオテレタイプ|RTTY]]では、60 speed がデファクトスタンダードとなった。これは、その速度の端末が容易に入手可能だったことと、アメリカ[[連邦通信委員会]] (FCC) が1953年から1972年まで 60 speed のみに制限していたためである。テレックスや[[通信社]]のニュース配信サービスなどは 66 speed を使っていた。機器の信頼性向上に伴って 75 speed や 100 speed に移行した例もある。しかし電波では転送レートを上げると誤り率が高くなるため、60 または 66 speed が主に使われ続けた。
もう1つのテレタイプ端末の速度指標として "operations per minute (OPM)" がある。例えば、60 speed は一般に 368 OPM、66 speed は 404 OPM、75 speed は 460 OPM、100 speed は 600 OPM である。ウエスタンユニオンのテレックスは通常 390 OPM に設定されており、1文字を7.42ビットではなく7ビットで表すものとする。
ニュース配信サービスや個別のテレタイプ端末では、重要なメッセージを受信した際にベルを鳴らす機能があった。例えば、[[UPI通信社]]のサービスでは、ベルを4回鳴らす "Urgent" メッセージ、5回鳴らす "Bulletin"、10回鳴らす FLASH などがあった。
テレタイプ回線には5ビット[[紙テープ]]パンチ機やリーダーが接続されることが多く、それによって受信したメッセージを別の回線で再送することができる。複雑な軍や商用のネットワークはこの方式で構築されていた。メッセージセンターには何台もテレタイプ端末が並び、大量の送信を待つ紙テープが置かれていた。熟練したオペレータは紙テープの穴のパターンから優先コードを読み取ることができ、パンチ機から出てくる高優先度の紙テープをそのままリーダーに供給することもあった。通常のトラフィックは中継されるのに数時間待たされることが多かった。多くのテレタイプ端末には紙テープリーダーとパンチが備わっており、受信したメッセージを機械に読み取れる形でセーブし、オフラインで編集可能にしていた。
無線では[[ラジオテレタイプ|RTTY]]がよく使われた。[[アマチュア無線]]では今もこれが使われている。
=== 制御文字 ===
{{Main|制御文字}}
タイプライターや電気機械式プリンターは紙上に文字を印字でき、キャリッジを行の左端に戻す動作([[キャリッジ・リターン]])や次の行に印字位置を進める動作([[改行コード|ラインフィード]])などの操作を実行する。印字以外の操作コマンドは印字される文字と同様に転送され、それらを制御文字と呼ぶ。キャリッジ・リターンやラインフィードといった一部の制御文字は本来の機能を保持しているが、他の制御文字の多くは異なる用途で使われている。
=== "Here is" キー ===
一部のテレタイプ端末には "Here is" キー(「こちらは 〜 です」キー)があり、プログラム可能な20文字または22文字を送信する。これは一般に局の識別に使われ、オペレータがこのキーを押下すると局識別子が相手に送られる。つまり、相手が「あなたは誰?」を意味するENQキーを押して[[問い合わせ文字|ENQ文字(問い合わせ文字)]]を送信してきたら、こちらはこの「Here is」キーを押せばその問いに対する返答となる。
ENQ(コントロール+E)信号を受信した際に自動的に応答としてこの文字列を送信するようにも設定できる<ref name="Hereis">{{Cite web |url= http://www.pdp8.net/asr33/pics/main_back.shtml |title=ASR 33 Teletype Rear View of Main Assembly|accessdate=2013-06-01}}</ref><ref name="AnotherHereis">{{Cite web |url= http://www.k7tty.com/development/teletype/model-32/index.html |title=Teletype Model 32ASR |accessdate=2013-06-01}}</ref>。
== 主な端末機 ==
一体型の機種が開発される前にも、[[シーメンス]]の高速電信機、[[ウェスタン・エレクトリック]]の高速電信機などがあったが、紙テープ鑽孔用タイプライター・テープ送信機・テープ鑽孔受信機・印刷機などが別々であり非常に広い設置場所が必要なものであった。
=== Creed & Company ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-2008-0516-500, Fernschreibmaschine mit Telefonanschluss.jpg|thumb|イギリスの Creed & Company Teleprinter No. 7 (1930)]]
Creed & Company はイギリスのテレタイプ端末製造企業である。
* Creed model 7E (with overlap cam and range finder)
* Creed model 7B
* Creed model 7
* Creed model 7/RP (teleprinter reperforator)
* Creed model 54
* Creed model 75
* Creed model 85 (reperforator)
* Creed model 86 (reperforator)
* Creed model 444 (GPO type 15)
=== クラインシュミット ===
1931年、エドワード・クラインシュミットは新たな種類のテレタイプ端末を開発する会社 [[:en:Kleinschmidt Inc|Kleinschmidt Labs]] を創業した。1944年、軽量な機種を開発し、1949年には陸軍の携帯用テレタイプ端末に採用された。1956年、[[スミス・コロナ]]と合併し、さらに{{仮リンク|マーチャント計算機|en|Marchant Calculator}}とも合併して SCM Corporation となった。1979年、クラインシュミット部門がスピンオフして Electronic Data Interchange となった。
=== モルクラム ===
{{仮リンク|モルクラム|en|Morkrum}}の最初の電信印刷機は1910年、ボストンとニューヨークの Postal Telegraph Company に納入された<ref>{{Cite book |author=Colin Hempstead, William E. Worthington |url= https://books.google.co.jp/books?id=0wkIlnNjDWcC&pg=PA605&redir_esc=y&hl=ja |title=Encyclopedia of 20th-century technology |year=2005 |page=605}}</ref>。鉄道と共に発展していき、1914年には[[AP通信]]が採用した<ref name="Colin Hempstead, William E. Worthington 2005 605"/><ref>{{Cite web |url= http://www.baudot.net/teletype/MPT.htm |title=Morkum Printing Telegraph Page Printer |accessdate= 2011-08-22}}</ref>。1930年にクラインシュミット・エレクトリックと合併してモルクラム・クラインシュミットとなり、直後にテレタイプ・コーポレーションに改称している<ref name="Queensland">{{Cite web | url= http://www.telemuseum.org/teleprinters.html | title=Queensland Telecommunications Museum – Teleprinters | publisher=Queensland Telecommunications Museum|accessdate=2013-06-01}}</ref><ref>{{Cite book | url= https://archive.org/details/morkrumsystemofp00earl | title=The Morkrum System of Printing Telegraphy | author=Earle, Ralph H. |year=1917 | location=Chicago | publisher=Armour Institute of Technology (thesis)}}</ref>。
=== オリベッティ ===
イタリアの事務機器メーカーである[[オリベッティ]]は、イタリアの郵便局向けにテレタイプ端末を製造していた。初期の機種は紙のリボンに印字し、それを切り取って電報用紙に貼り付けて使っていた。
* Olivetti T1 (1938–1948)
* Olivetti T2 (1948–1968)
* Olivetti Te300 (1968–1975)
* Olivetti Te400 (1975–1991)
=== ジーメンス・ウント・ハルスケ ===
[[ファイル:Fernscheiber 01.jpg|thumb|right|[[シーメンス|Siemens]] ''Fernschreiber 100'' テレプリンタ]]
[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]](後の[[シーメンス]])は1897年創業のドイツのメーカーである。
* Teleprinter Model 100 Ser 1 (end of 1950s) – テレックス向け<ref name="Queensland"/>
* Teleprinter Model 100 Ser. 11 – 若干の改良を加えた後期バージョン
* Teleprinter T 1000 electronic teleprinter (processor based) 50-75-100 Bd.
* Teleprinter T 1200 electronic teleprinter (processor based) 50-75-100-200 Bd.
=== テレタイプ社 ===
{{See also|テレタイプ (企業)}}
[[ファイル:ASR-33 2.jpg|thumb|200px|テレタイプ社 [[ASR-33]]]]
1906年に創業したモルクラム社が起源で、1925年にクラインシュミット・エレクトリックと合併しモルクラム・クラインシュミットとなり、1928年12月にテレタイプ・コーポレーションに改称。1930年に[[AT&T]]が買収し、[[ウェスタン・エレクトリック]]の子会社とした。初めて一体型の機種を開発した、[[テレタイプ (企業)|テレタイプ社]]の製品が極めて大衆的になったため、この種の端末をテレタイプ端末あるいはTTY端末と呼ぶことが多い。ブランド名は存続していたが、1984年のAT&T解体の際にAT&Tの名称とロゴを使用するようになった<ref>{{Cite web|url=http://www.kekatos.com/teletype/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080603235022/http://www.kekatos.com/teletype/|title=History of The Teletype Corporation|accessdate=March 3, 2010|archivedate=2008年6月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。1990年にはテレタイプ端末の製造が終了となった。
テレタイプ社の機種は大型で重く、非常に頑丈で、潤滑油を適切にさせば何カ月も連続で動作できた<ref>{{Cite book |url= http://www.bitsavers.org/pdf/teletype/138_Model15_Adj_Oct41.pdf |archiveurl= https://webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.bitsavers.org%2Fpdf%2Fteletype%2F138_Model15_Adj_Oct41.pdf&date=2010-12-05 | archivedate=December 5, 2010 | title=Adjustments, Type Bar Page Printer, (Model 15) |year=1941 |publisher=Teletype Corporation | location=Chicago }}</ref>。モデル15は長期に渡って生産された数少ない機種で、1930年から1963年まで33年間生産されている。テレタイプ社は1940年代中ごろにモデル15の後継としてモデル28を投入しようとしたが、第二次世界大戦中にモデル15を大量生産したためにモデル15を生産し続けたほうが経済的であるという状態になっていた。
端末のタイプとして以下のものがあった。
; ASR (Automatic Send-Receive)
: 紙テープ鑽孔装置および紙テープ読取装置を備え、オフラインで紙テープに鑽孔した電文を紙テープ読取装置で読ませることにより、オンライン時に自動的に通信回線やホストコンピュータに送出することができる端末。
; KSR (Keyboard Send-Receive)
: キーボードからの入力と紙への記録ができるだけの端末。
; RO (Receive Only)
: 紙への記録ができるだけの受信専用端末。テレプリンター。
; SO (Send Only)
: キーボードからの入力での送信のみの送信専用端末。
; BSR (Buffered Send Receive)
: 電子的な記憶装置をもった端末。
主な端末として以下のものがあった。
* 11 [[1921年]] : 初めて一体型の機種として発表された。
* 12 [[1922年]] : 一体型の機種として本格的に製造
* 14 [[1925年]] : 約60,000台製造された。
* 15 [[1930年]] : [[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍の通信網構築用として[[第二次世界大戦]]の期間に約200,000台製造された。
* 28 [[1950年代]] : 製造された中で最もうるさい機械式タイプライターであった。
* [[ASR-33|33]]/32 [[1963年]] : 低コスト化された全機械式の代表的な機種。33は大文字のみの[[ASCII]]コード仕様(現在のものと異なる)でありその頃のコンピュータ端末の標準となった。32は[[Baudot Code]]。
* 35 1963年 : モデル28のASCII版。
* 37 [[1967年]] : 現在と同じ英小文字入りASCIIを初めて使用。
* 40 [[1974年]] : ブラウン管画面の接続が可能。
* 43 [[1979年]] : インパクトドットマトリックス方式印刷機で300bps対応の電子化されたもの。
== 日本製の機種 ==
[[黒田精工]]・[[日本無線]]などがテレタイプ社の互換機を製造していた。
=== 機種 ===
* [[沖電気]]
** ET‐4500 : (50,75,100bps)
** OKITYPER‐8000 : インパクトドットマトリックス方式印刷機
* [[カシオ計算機]]
** タイピュータ502 ASR : (300bps)インクジェット式印刷機
* [[三洋電機]]
** STT-601A (600bps) : 感熱式印刷機
=== カナテレタイプ ===
カタカナ送受信に対応したもの。電報の送信などにも使用された。
=== 漢字テレタイプ ===
漢字を符号化して送信するものである。紙テープに鑽孔して受信しテープ読取式漢字印刷機で印字するものは、新聞製作の機械化に用いられた。
== テレタイプ端末を使用したネットワーク ==
テレタイプ端末を使用した主なネットワークは以下の5つである。
* [[テレックス]]などの交換網。2つの端末間にリアルタイムの回線を形成し、一方でタイプした内容が即座に他方に現れる。アメリカとイギリスのシステムは電話機のダイヤルが備わっていたが、ドイツのシステムはキーボードから相手の番号を入力する方式だった。タイピングによる会話も可能だが、接続時間によって課金されるため、予め[[紙テープ]]に送信メッセージを鑽孔しておき、通信中はタイプしないのが一般的だった。
* [[専用線]]と[[ラジオテレタイプ]]網。政府機関や企業が情報通信に使用した。利用頻度が高くて広域にネットワークを構築する場合には、公衆の交換網を使用するよりも専用線による電話網を設けた方が料金を抑えることができた。
* {{仮リンク|メッセージ交換|en|Message switching}}システム。電子メールのようなもの。軍隊も同様のシステムを使っていた。
* 放送システム。気象情報やニュースを配信。[[AP通信]]、[[アメリカ国立気象局]]、[[ロイター]]、[[UPI通信社]]などを参照。
* 「ループ」システム。ループに属する任意のマシンでタイプすると、ループ内の全マシンで印字される。例えば、警察が各署をこのようなシステムで相互接続していた。
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Fuji Bank private telephone exchange network.png|富士銀行の専用線ネットワーク(1960年)
OKI Teletype Automatic Switching System.jpg|[[富士銀行]]でテレタイプ回線の中継に使われた電信自動交換機
</gallery>
== テレックス ==
{{Main|テレックス}}
国際的テレタイプネットワークを「[[テレックス]]」と呼び、1920年代後半に発展し、20世紀末ごろまでビジネス通信に使われ続けた。テレックスは交換網であり、電話のようにダイヤルで相手を指定でき、アメリカではウエスタンユニオンがネットワークを提供した。[[AT&T]]はこれに対抗する「TWX」を開発。こちらも当初はダイヤルで相手を指定し、Baudot Code を使用。後に ASCII をベースにしたサービスも提供した。テレックスはいくつかの国では使われ続けているが、多くの用途はインターネットに移行している。
== テレタイプセッター ==
5ビットの Baudot Code と7ビットのASCIIコードに加え、6ビットのTTS(テレタイプセッター)コードもニュース配信などに使われていた<ref>[http://inventors.about.com/od/pstartinventions/a/printing.htm The History of Printing and Printing Processes], retrieved 2008 July 15</ref>。[[シフトアウト・シフトイン|「シフトイン」コードと「シフトアウト」コード]]を使うことで、アルファベットの全ての大文字と小文字、数字、新聞で使われる記号、「左寄せ」や「中央にそろえる」といった植字指示などを扱える。本来このコードは紙テープを鑽孔し、その紙テープを[[ライノタイプ]]付属の紙テープリーダーに読み込ませ、新聞や雑誌の印刷にそのまま使用することを意図したものだった。後には、カレントループ信号をそのままミニコンピュータやメインフレームに記録させ、コンピュータ上で編集して写真製版機に入力するようになった。
== コンピュータ端末としての利用 ==
:{{Seealso|端末#コンピュータ用語}}
テレタイプは初期のコンピュータの入出力装置([[端末#コンピュータ用語|端末]])としても用いられ、1970年代後半ころまで使われた。1960年代初頭ころから対話型[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]が広まってゆくと、計算機室内だけでなく遠隔でも使われた。だが[[ラインプリンター]]や[[VDT]](ブラウン管表示方式の入出力装置)のほうが使われることが増えていった。
;初の遠隔使用
デジタルの父と呼ばれることもある[[ジョージ・スティビッツ]]は1940年1月8日にComplex Number Calculatorという複素数の四則演算が可能な装置を完成させ、1940年9月11日にダートマス大学でのアメリカ数学会の会議でその装置のデモンストレーションをやってみせた。スティビッツはニューヨークに設置してあるComplex Number Calculatorに電話回線を通してテレタイプでアクセスし、コマンドを打ち込み操作した。これは電話回線経由で遠隔からコンピュータを使った世界初の事例である。<ref>History of computer, Geroge Stibits. [https://history-computer.com/george-stibitz/]</ref>
;使用法
[[コマンドプロンプト]]が印字された後にユーザーがコマンドを打ち込む。印字は後戻りできない。ユーザーが間違って打ち込んだ文字を消したい場合、前の文字をキャンセルすることを示す制御文字を入力する。ビデオディスプレイが登場したとき、そのユーザインタフェースは電気機械式プリンターのそれと全く同じだった。ビデオ端末はテレタイプ端末と同じように使うことができた。これがテキスト[[端末]]と[[キャラクタユーザインタフェース]]の起源である。
[[ファイル:ASR-33 Teletype terminal IMG 1658.jpg|thumb|[[ASR-33]]。テレタイプ社の Model 33 ASR は紙テープリーダーとパンチを備え、コンピュータに[[モデム]]経由で接続して使用できる。]]
紙テープはコンピュータとのやりとりをオフラインで準備したり、コンピュータの出力を記録するのに使われた。[[ASR-33]]はBaudotではなく7ビット[[ASCII]]コード(8ビットめは[[パリティビット]])を採用している。
[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[RT-11]]などの初期のOSでは、シリアル通信ラインにはテレタイプ端末がよく接続され、デバイス名は {{Mono|tt}} で始まることになっていた。他の多くのOSでも同様の命名法が採用されている。[[UNIX]]と[[Unix系]][[オペレーティングシステム]]は[[接頭辞]]として {{Mono|tty}} を採用し、例えば {{Mono|/dev/tty13}} などと命名している。また「擬似端末」には {{Mono|pty}} (pseudo-tty) を接頭辞とし、例えば {{Mono|/dev/ptya0}} などとしている。多くの場合、"TTY" は任意のテキスト端末を意味する略称であり、外部[[コンソール]]デバイス、[[モデム]]を介してダイヤルアップ接続するポート、[[シリアルポート]]や[[RS-232]]ポートを介して接続する各種[[端末]]、ウィンドウシステムでの[[擬似端末]]デバイスを介した[[端末エミュレータ]]などを指す。
最初期の[[マイクロコンピュータ]]評価用ボードである、[[インテル]]SDK-80([[Intel 8080|i8080]]ベース)には、テレタイプ端末を想定したデバッグ[[モニター|モニタ]]が[[Read Only Memory|ROM]]で提供されていた。また、初期のマイクロコンピュータ用プログラム開発環境、例えばインテルMDSやデジタルリサーチ[[CP/M]]などはテレタイプ端末も使用できるように作られていた。
<gallery>
File:Living Computer Museum IMG 9970 (9636187383).jpg|コンピュータの入出力装置として使われたテレタイプ([[:en:Living Computers: Museum + Labs|:en:Living Computer Museum]] 展示品)
File:IBM 1620 and Teletype (2585381309).jpg|[[IBM 1620]](1959年- )とテレタイプ
File:LCM - 1960s Teletype computer printer 01.jpg|ASR-35(1960年代)。Living Computer Museum展示品。
File:IBM System360 Mainframe teletype.jpg|IBM [[System/360]](1964年 - )のテレタイプ
File:Altair 8800 and Model 33 ASR Teletype .jpg|[[Altair 8800]](1974年 - )とテレタイプ
</gallery>
;衰退
大量の入力や大量の出力という目的では、[[パンチカード]]リーダーや高速[[ラインプリンター]]のほうが使われるようになった。
1960年代から1970年代にかけて[[VDT]]([[ブラウン管]]表示の入出力装置)のほうが普及してゆき、ただのファイル操作などの対話をわざわざ紙に印字しなくて済むので、そちらが使われることが増えた。
また[[1970年代]]後半や1980年代に個人で占有して使える[[パーソナルコンピュータ]]が登場して、そもそもメインフレームを使う頻度も減ってゆき、また処理能力の高いメインフレームを使う場合でもそのパーソナルコンピュータで[[端末エミュレータ]]を動かしテレタイプの実機代わりに入出力装置として使う方法が生まれ、テレタイプの実機の需要がますます減っていった。(また、あえて印字したい場合でもPCに接続したプリンタを使えばよかった。)
<!--
[[ブラウン管]]画面を利用して文章をコピー・カットアンドペーストなどの編集したり、紙テープにかわり磁気テープ記憶装置が使用でき、オペレータの負担が軽減された。-->
== 脚注 ==
{{Reflist|30em}}
<references group="注釈"/>
== 参考文献 ==
* [https://books.google.co.jp/books?id=g_EDAAAAMBAJ&pg=PA577&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=true "Teletype Messages Sent Through Switch Board"], ''Popular Mechanics'', April 1932. AT&T offering two way service through switchboards
* {{Cite book | author= A.G. Hobbs, G8GOJ | coauthors=E.W. Yeomanson, G3IIR, A.C. Gee, G2UK | title=Teleprinter handbook | edition=2nd edition| publisher=RSGB| isbn=0-900612-59-2 |year=1983 }}
* {{Cite journal | last = Foster | first = Maximilian | title = A Successful Printing Telegraph | journal = The World's Work | volume = II | issue = 5 | pages = 1195–1200 | publisher = Doubleday, Page & Co. | location = New York, NY | year = 1901 | month = September | url = https://books.google.co.jp/books?id=IF6tNZnhO7wC&pg=PA1195&redir_esc=y&hl=ja | accessdate =April 29, 2012}}
* P Gannon, Colossus: Bletchley Park's Greatest Secret, London 2006, ISBN 978-1843543312 on the role of the teleprinter code in WWII
== 関連項目 ==
* [[テレックス]] : テレタイプ端末を[[交換機]]で接続したテレックス網
* [[ラジオテレタイプ|RTTY]] : テレタイプ端末を[[無線通信]]で接続したテレックス網
* [[電信]] : 含む電信技術の発達について
* [[ASR-33]] : 名称のもとになったテレタイプ社の代表的な機種
* [[プリンター]] : 印刷機としての進化
* [[:en:Telecommunications device for the deaf|英語版:Telecommunications device for the deaf]] : [[聴覚障害者]]向け電話連絡装置
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Teleprinters}}
* [http://www.oki.com/jp/130column/08.html 第8回 「周辺機器のOKI」へ、テレタイプの開発] - [[沖電気]] 時代とOKI
* [http://www.kogures.com/hitoshi/history/teletype/index.html テレタイプの歴史] - 木暮仁
* [http://www.baudot.net/ Teletype Machines - 100 years of Paper Tape and Teleprinters](英文サイト)
* [http://www.circuitousroot.com/artifice/telegraphy/tty/gallery/index.html A Gallery of Teletype Images]
* [http://www.rtty.com/history/nelson.htm History of Teletypewriter Development] by R.A. Nelson
* [http://www.baudot.net/docs/haynes--notes.pdf "Some Notes on Teletype Corporation"]
=== 特許 ===
* {{US patent|1665594}} "Telegraph printer" (Type 12 Teletype), filed June 1924, issued April 1928
* {{US patent|1745633}} "Telegraph receiver" (Type 14 Teletype), filed December 1924, issued February 1930
* {{US patent|1904164}} "Signalling system and apparatus therefor" (Type 15 Teletype) – filed July 1930, issued April 1933
* {{US patent|3507997}} "Frequency-Shift Teletypewriter" – filed August 1966, issued April 1970
{{Telecommunications}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てれたいふたんまつ}}
[[Category:タイプライター]]
[[Category:通信機器]]
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[[Category:歴史上の電気機器]]
[[Category:デイビッド・エドワード・ヒューズ]]
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土木工学
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土木工学(どぼくこうがく、英語: civil engineering)とは、自然災害等の社会課題の解決および環境の創造・維持発展を目的として、社会基盤を整備する工学である。主な対象として、鉄道、道路、橋梁、トンネル、港湾、空港、海岸、河川、ダム、廃棄物処理、水道(上水道、工業用水道、下水道)、砂防、土木景観などがある。また、土木工学部分の発電施設、通信施設、環境保全、造成、交通、国土計画なども含まれ、対象は多岐にわたる。これらを取り巻く人工物は総称して「土木構造物」と呼ばれる。一般的に土木構造物は、公共事業として建設され、長期間に亘って社会・経済活動を支えている。
研究分野は以下に示すように、多様な課題に対して更に細分化されている。したがって、その分野を専門とする技術者に分かれて実務を担う。各分野内でもさらに、計画や調査、測量、解析、設計、施工、維持管理、積算、防災、環境などの各テーマごとに従事する者に分かれる。
道路や鉄道、空港など人や物が移動に関する構造物の設計や計画方法についての学問である。
土木工学から見て抱合した学術分野には以下のようなものがある。 その学際性を尊重しつつ、諸学諸説の完全説明学となっていないのも事実である。
土木工学とともに派生した学術分野には以下のようなものがある。
土木工学は中等教育では工業高校の土木科が担っている。土木工学の基礎課程では、測量学と、水理学、土質力学、構造力学の「3力学」および土木施工(土工・コンクリート工・基礎工・舗装工)、都市計画他を習う。
大学では工学部や理工学部で、大半は旧来の土木工学科から名称変更し、カタカナ用語や二字熟語を組み合わせた名称の学科が高等教育を担っている。 高専では、環境都市工学科という名称の学科が担っている。短期大学や専修学校(専門学校)では土木工学科や建設学科、社会環境工学科という名称の学科が担っている。 また大学院では工学研究科や理工学研究科などに土木工学専攻(学科と同じように名称が異なる場合が多い)を設置している。
上記土木工学の基礎課程に加え、各々の専門領域に応じてさらに専門科目を習う場合が多い。
分野が多岐にわたるため、関連資格も多い。そのため、技術士試験においても土木技術分野にあたる技術士 (建設部門)で選択科目が多い。また、技術士 (衛生工学部門)と技術士 (上下水道部門)といった建設部門から独立した部門も設置されている。
名前の由来は中国の前漢時代の古典「淮南子(えなんじ)」にでてくる築土構木という言葉から来ているといわれているが、実際のところははっきりしない。
古代では漢詩や漢文等で使用された「土木」であったが、明治新政府で官職として初めてその名称が使われるようになる。1869年(明治2年)5月に民部官のもとに「土木司」が置かれ、事務分掌は「道路橋梁堤防等営作ノ事ヲ専管スルヲ掌ル」とされた。一方で公共建築物は「営繕司」が担当することになり、ここで土木と建築の事務は分離されたのである。1877年(明治10年)に土木局が置かれ、これは現在における国土交通省の源流にもあたる。すなわち、明治以降の政治体制から日本語の「土木」として用語が定着したのである。
2019年(令和元年)9月に刊行された大辞林第四版では、「あらゆる産業・経済・社会等人間生活の基盤となるインフラを造り、維持・整備してゆく活動」とされた。建設工事の総称に留まらず、社会資本整備そのものを意味する言葉であることを表している。
日本で取り扱っている建築の技術部門や環境に関する部門も外国では土木として扱われることがあり、日本の土木工学/建築学とは対象分野の境界が少し異なっている。外国では橋などの土木構造物のデザインもarchitectureが担うことがある。 これに対し、日本では構造物の種類や目的によって土木工学/建築学が分かれているため、建築家も構造計算を行い、生活環境に関する研究を建築学者も行う一方、構造を扱う土木技術者もデザインを学習し行うこともある。
今日の英語圏においてはフレーズ civil engineering が日本語圏における土木工学にほぼ相当するが、由来(歴史)的には単純にそのように対応しているわけではない。「engineer」という語は、今日では軍民の区別に関係なくニュートラルに使われているが、古くは「工兵」の意があり、その派生語として軍と関係ないが同様の土木工学を指す句として、1771年にイギリスの機械技術者ジョン・スミートンが、軍事以外の部門を意味する civil を付けたのが由来とされる。 なお現代ではそのような由来にもとづく意識はほぼ残っておらず、"mechanical engineering"(機械工学)や "electrical engineering"(電気工学)といった句と同様に使われており「非軍事の」という特段の意味はない。非軍事の技術的問題のすべてが対象となる分野とされていて、軍事で建設される公共施設に土木技術は適用されるので軍事or非軍事と言う区分、つまり厳密には民間技術ということでCivil engineeringである、とはいわない。
こうした区分は『古市公威とその時代』(土木学会土木図書館委員会, 土木学会土木史研究委員会編)にも指摘あるとおり、フランスの場合でグランド・ゼコール「エコール・デ・ポリテクニーク」を出て、さらに土木最高の学校「ポン・ゼ・ショッセー」を出た技術者が過去官庁や軍工兵部隊へ奉職し、「エコール・デ・サントラル」出身者がおもに民間企業へという流れから来ていることがあげられ、明治時代には諸芸学と称されていた。
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"text": "2019年(令和元年)9月に刊行された大辞林第四版では、「あらゆる産業・経済・社会等人間生活の基盤となるインフラを造り、維持・整備してゆく活動」とされた。建設工事の総称に留まらず、社会資本整備そのものを意味する言葉であることを表している。",
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"text": "日本で取り扱っている建築の技術部門や環境に関する部門も外国では土木として扱われることがあり、日本の土木工学/建築学とは対象分野の境界が少し異なっている。外国では橋などの土木構造物のデザインもarchitectureが担うことがある。 これに対し、日本では構造物の種類や目的によって土木工学/建築学が分かれているため、建築家も構造計算を行い、生活環境に関する研究を建築学者も行う一方、構造を扱う土木技術者もデザインを学習し行うこともある。",
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"text": "こうした区分は『古市公威とその時代』(土木学会土木図書館委員会, 土木学会土木史研究委員会編)にも指摘あるとおり、フランスの場合でグランド・ゼコール「エコール・デ・ポリテクニーク」を出て、さらに土木最高の学校「ポン・ゼ・ショッセー」を出た技術者が過去官庁や軍工兵部隊へ奉職し、「エコール・デ・サントラル」出身者がおもに民間企業へという流れから来ていることがあげられ、明治時代には諸芸学と称されていた。",
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土木工学とは、自然災害等の社会課題の解決および環境の創造・維持発展を目的として、社会基盤を整備する工学である。主な対象として、鉄道、道路、橋梁、トンネル、港湾、空港、海岸、河川、ダム、廃棄物処理、水道(上水道、工業用水道、下水道)、砂防、土木景観などがある。また、土木工学部分の発電施設、通信施設、環境保全、造成、交通、国土計画なども含まれ、対象は多岐にわたる。これらを取り巻く人工物は総称して「土木構造物」と呼ばれる。一般的に土木構造物は、公共事業として建設され、長期間に亘って社会・経済活動を支えている。
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{{Redirect|土木|その他の「土木」}}
{{Redirect|土木技術|土木技術社発行の雑誌|土木技術 (雑誌)}}
{{出典の明記|date=2011年6月}}
[[File:Maikokoen86.JPG|thumb|right|250px|[[兵庫県]]にある[[明石海峡大橋]]]]
'''土木工学'''(どぼくこうがく、{{lang-en|civil engineering}})とは、[[自然災害]]等の社会課題の解決および環境の創造・維持発展を目的として、[[社会基盤]]を整備する[[工学]]である<ref>[[土木学会]].“[http://www.jsce.or.jp/outline/index.shtml 土木学会とは]”. 土木学会概要. 2008年3月19日閲覧。</ref>。主な対象として、[[鉄道]]、[[道路]]、[[橋|橋梁]]、[[トンネル|トンネル、]][[港湾]]、[[空港]]、[[海岸]]、[[川|河川、]][[ダム|ダム、]][[廃棄物]]処理、[[水道]](上水道、工業用水道、下水道)、[[砂防]]、[[土木景観]]などがある。また、土木工学部分の[[発電|発電施設]]、[[通信|通信施設]]、[[環境]]保全、[[造成]]、[[交通]]、[[国土計画]]なども含まれ、対象は多岐にわたる。これらを取り巻く人工物は総称して「土木構造物」と呼ばれる。一般的に土木構造物は、公共事業として建設され、長期間に亘って社会・経済活動を支えている。
== 研究対象と分野 ==
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
|枠幅= 250px
| 1=Island-kitaguchi st02s3200.jpg
| 2=[[六甲ライナー]]の高架橋
| 3=kasukabe2006_06_07.JPG
| 4=[[首都圏外郭放水路]]の調圧水槽
| 5=1948 San Francisco trafficways plan.jpg
| 6=[[サンフランシスコ]]の道路計画
}}
研究分野は以下に示すように、多様な課題に対して更に細分化されている。したがって、その分野を専門とする技術者に分かれて実務を担う。各分野内でもさらに、[[計画]]や[[調査]]、[[測量]]、[[解析]]、[[設計]]、[[施工]]、[[維持管理]]、[[積算]]、[[防災]]、[[環境]]などの各テーマごとに従事する者に分かれる。
=== 地盤系 ===
* [[土質力学]]([[土構造物]]、[[斜面崩壊]])
* [[基礎工学]]
* [[振動工学]]([[土動力学]]、[[地震工学]])
* [[地質学]] [[岩盤工学]]([[岩|岩盤]]、[[トンネル]])
* [[土壌汚染]]学、[[地下水#地盤の沈下と地下水位の回復|地下水汚染]]
=== 構造・材料系 ===
* [[構造力学]](構造設計) - [[建設工学]]
* [[材料工学]]
* [[橋梁工学]]
* [[舗装]]工学
=== 水工系 ===
* [[水理学]]
* [[河川工学]](河川)・[[水資源工学]](ダム)
* [[海岸工学]]([[防波堤]]、防潮堤)
=== 測量系 ===
* [[測量|測量学]]
* [[リモートセンシング]]([[地理情報システム|GIS]]、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]])
=== 計画系 ===
* [[土木計画学]]・[[国土計画]]学
=== 交通系 ===
{{Main|交通工学|交通計画|鉄道工学}}
道路や鉄道、空港など人や物が移動に関する構造物の設計や計画方法についての学問である。
=== 衛生系 ===
* [[上水道]](供給システム)
* [[下水道]]([[中水道]]、[[工業用水道]])
== 他分野との関わり ==
=== 抱合した他分野 ===
土木工学から見て抱合した学術分野には以下のようなものがある。
その学際性を尊重しつつ、諸学諸説の完全説明学となっていないのも事実である。
* [[防災工学]]
:防災に関する幅広い工学分野を有するが、学術的に土木工学が抱合される。
* [[金属工学]]
* [[応用力学]]
* [[空港工学]]
* [[応用物理学]]
* [[環境工学]]
:この分野も幅広い工学分野を有するが、土木工学も一部抱合される。
* [[港湾工学]]
* [[砂防学]]
* [[地盤工学]]
* [[環境都市工学]]
* [[海洋工学]]
* [[通信工学]]
* [[津波工学]]
* [[火災安全工学]]
* [[電力工学]]
=== 派生した他分野 ===
土木工学とともに派生した学術分野には以下のようなものがある。
* 機械工学
:工部大学校の当初から、同一の学科としてコース制で教育している。
* [[衛生工学]]
=== 近接した他分野 ===
* 資源工学
* [[地球工学]]
* [[地球情報学]]
* [[水文学]] [[気象学]]
* [[エネルギー工学]]
* [[発電工学]]
=== 隣接した分野 ===
* [[都市地理学]]
* [[市民工学]]
* [[社会工学]]
* [[管理工学]] [[経営工学]] [[数理工学]] [[工業地理学]]
* [[経済学]] [[経済工学]](主に[[都市経済学]])- 交通量推計の方法でもある非集計モデルの推定では、[[ノーベル経済学賞]]を受賞した[[ダニエル・マクファデン]]も研究に携わっている。
=== 類似した他分野 ===
* [[都市工学]] [[都市交通工学]] [[都市計画学]]
* [[建築学]] - 高等教育機関では同一学科としている場合もあり、基礎部分には共通点が多い。
* [[農業工学]](農業土木学)
* [[森林利用学]]
* [[水産工学]]
== 土木工学の教育 ==
=== 中等教育 ===
土木工学は[[中等教育]]では[[工業高校]]の[[土木科]]が担っている。土木工学の基礎課程では、測量学と、水理学、土質力学、構造力学の「[[三力|3力学]]」および[[土木施工]]([[土工]]・[[コンクリート工]]・基礎工・舗装工)、都市計画他を習う。
=== 高等教育 ===
[[大学]]では[[工学部]]や[[理工学部]]で、大半は[[土木工学科#学科名の改称と研究範囲の変化|旧来の土木工学科から名称変更]]し、[[土木工学科#土木のつく学科をもつ学校|カタカナ用語や二字熟語を組み合わせた名称の学科]]が[[高等教育]]を担っている。
[[高等専門学校|高専]]では、[[環境都市工学|環境都市工学科]]という名称の[[学科 (学校)|学科]]が担っている。[[短期大学]]や[[専修学校]](専門学校)では[[土木工学科]]や[[建設学科]]、[[社会環境工学科]]という名称の学科が担っている。
また[[大学院]]では[[工学研究科]]や[[理工学研究科]]などに土木工学[[専攻]](学科と同じように名称が異なる場合が多い)を設置している。
上記土木工学の基礎課程に加え、各々の専門領域に応じてさらに専門科目を習う場合が多い。
== 資格 ==
{{Main|日本の建設に関する資格一覧}}
分野が多岐にわたるため、関連資格も多い。そのため、[[技術士]]試験においても土木技術分野にあたる[[技術士 (建設部門)]]で選択科目が多い。また、[[技術士 (衛生工学部門)]]と[[技術士 (上下水道部門)]]といった建設部門から独立した部門も設置されている。
== 土木の語源 ==
=== 日本語 ===
名前の由来は中国の前漢時代の古典「[[淮南子]](えなんじ)」にでてくる築土構木という言葉から来ているといわれているが、実際のところははっきりしない。<!--土を築き・木を組んで構造物を造ることなどといわれているが、その後の研究で淮南子のこの言葉はネガティブな言い回しらしい。築土と構木という熟語は熟語としてほとんど使用されていない言葉である。--><!--同じ春秋時代の古典書物で「今土木勝」という一説がある-->
古代では漢詩や漢文等で使用された「土木」であったが、明治新政府で官職として初めてその名称が使われるようになる。1869年(明治2年)5月に民部官のもとに「[[土木局|土木司]]」が置かれ、事務分掌は「道路橋梁堤防等営作ノ事ヲ専管スルヲ掌ル」とされた<ref>https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/40/3/40_1/_pdf/-char/ja</ref><ref>https://committees.jsce.or.jp/publicity/system/files/03-20140910-JSCE-PR-Komatsu.pdf</ref>。一方で公共建築物は「[[営繕]]司」が担当することになり、ここで土木と建築の事務は分離されたのである。1877年(明治10年)に[[土木局]]が置かれ、これは現在における[[国土交通省]]の源流にもあたる。すなわち、明治以降の[[政治体制]]から日本語の「土木」として用語が定着したのである。
2019年(令和元年)9月に刊行された[[大辞林]]第四版では、「あらゆる産業・経済・社会等人間生活の基盤となる[[インフラ]]を造り、維持・整備してゆく活動」とされた。[[建設工事]]の総称に留まらず、[[社会資本#社会資本整備|社会資本整備そのもの]]を意味する言葉であることを表している。
=== 英語 ===
日本で取り扱っている建築の技術部門や環境に関する部門も外国では土木として扱われることがあり、日本の土木工学/建築学とは対象分野の境界が少し異なっている。外国では橋などの土木構造物のデザインもarchitectureが担うことがある。
これに対し、日本では構造物の種類や目的によって土木工学/建築学が分かれているため<!--なお行政手続の世界になると2項道路など道路は種類によってそれぞれで扱われるものもある-->、建築家も[[構造計算]]を行い、[[生活環境]]に関する研究を建築学者も行う一方、構造を扱う土木技術者もデザインを学習し行うこともある。
<!--明治6年発行の「百科全書土木術」(訳者は大島貞益)ではCivil engineeringを建築学の義とされていた。-->
今日の英語圏においてはフレーズ civil engineering が日本語圏における土木工学にほぼ相当するが、由来(歴史)的には単純にそのように対応しているわけではない。「[[wikt:engineer|engineer]]」という語は、今日では軍民の区別に関係なくニュートラルに使われているが、古くは「[[工兵]]」の意があり、その派生語として軍と関係ないが同様の土木工学を指す句として、1771年にイギリスの機械技術者[[ジョン・スミートン]]が、軍事以外の部門を意味する [[wikt:civil|civil]] を付けたのが由来とされる。
<!--たしかに17世紀頃のフランスで軍事に関連する土木の技術者の集団を「軍事土木技術者集団」と名付け、それ以外の土木の技術者にはCivilという単語を冠した「(市民)土木技術者集団」としたとされていたことがあるし、フランスとの関係も大きいコア・オブ・エンジニアたる[[アメリカ]][[工兵隊]]は現在でも直轄で河川管理を行う-->
なお現代ではそのような由来にもとづく意識はほぼ残っておらず、"mechanical engineering"(機械工学)や "electrical engineering"(電気工学)といった句と同様に使われており「非軍事の」という特段の意味はない。非軍事の技術的問題のすべてが対象となる分野とされていて、軍事で建設される公共施設に土木技術は適用されるので軍事or非軍事と言う区分、つまり厳密には民間技術ということでCivil engineeringである、とはいわない。
こうした区分は『古市公威とその時代』(土木学会土木図書館委員会, 土木学会土木史研究委員会編)にも指摘あるとおり、フランスの場合で[[グランド・ゼコール]]「[[エコール・ポリテクニーク|エコール・デ・ポリテクニーク]]」を出て、さらに土木最高の学校「[[国立土木学校|ポン・ゼ・ショッセー]]」を出た技術者が過去官庁や軍工兵部隊へ奉職し、「[[エコール・サントラル|エコール・デ・サントラル]]」出身者がおもに民間企業へという流れから来ていることがあげられ、明治時代には諸芸学と称されていた。
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/058.htm 土木デジタルアーカイブス 土木工学ポケットブック編集会編 『土木工学ポケットブック 上・下巻』 山海堂 昭和11年発行]
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|土木工学}}
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{{Wikiquotelang|en|Civil engineering}}
* [[土木学会]]
* [[土木事業]]
* [[土木工事]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jsce.or.jp/ 社団法人 土木学会]
* [https://www.mlit.go.jp/ 国土交通省]
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カスパロフ
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カスパロフ(ロシア語: Каспа́ров, ラテン文字転写: Kasparov)は、ロシア語の姓。
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カスパロフは、ロシア語の姓。 ユーリ・カスパロフ - ロシアの作曲家。
ガルリ・カスパロフ - ソビエト連邦・ロシアのチェスプレイヤー、政治家。
セルゲイ・カスパロフ - ベラルーシのチェスプレイヤー。
ゲヴォルグ・カスパロフ - アルメニアのサッカー選手。サッカーアルメニア代表。
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'''カスパロフ'''({{翻字併記|ru|Каспа́ров|Kasparov}})は、ロシア語の姓。
* [[ユーリ・カスパロフ]] - ロシアの作曲家。
* [[ガルリ・カスパロフ]] - ソビエト連邦・ロシアのチェスプレイヤー、政治家。
* {{仮リンク|セルゲイ・カスパロフ|ru|Каспаров, Сергей Владимирович}} (1968年 - ) - ベラルーシのチェスプレイヤー。
* {{仮リンク|ゲヴォルグ・カスパロフ|en|Gevorg Kasparov}} (1980年 - ) - アルメニアのサッカー選手。[[サッカーアルメニア代表]]。
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TCO
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TCO (total cost of ownership) とは「総保有コスト」のことで、ある設備などの資産に関する、購入から廃棄までに必要な時間と支出の総計。
予算を作成し要求する際、ランニングコスト(保守・運用・維持等のための費用、例として設備・システムなどのメンテナンス、有償の更新、管理のための人件費、光熱費など)として必要になる経費を考慮に入れず、初期投資額(イニシャルコスト)だけに注目しがちである。 TCOはそれらをトータルに含めた経費で、実際に支出すべき金銭の全額にあたる。 また顧客に対して、一部の製品・サービスのコストアップがあったとしても、全体の生産活動ではコストダウンになるという事を指す。
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TCOはそれらをトータルに含めた経費で、実際に支出すべき金銭の全額にあたる。
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== 関連項目 ==
* [[活動基準原価計算]]
* [[ライフサイクルコスト]]
* [[ベンダーロックイン]]
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イチョウ
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イチョウ(銀杏、公孫樹、鴨脚樹、学名:Ginkgo biloba)は、裸子植物で落葉性の高木である。日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用 としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)、ギンナン(銀杏) やギンナンノキ と呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指す ことが多い。
街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり、特徴的な広葉を持っているが広葉樹ではなく、裸子植物ではあるが針葉樹ではない。
世界で最古の現生樹種の一つである。イチョウ類は地史的にはペルム紀に出現し、中生代(特にジュラ紀)まで全世界的に繁茂した。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世の 山口県の大嶺炭田からバイエラ属 Baiera、北海道からイチョウ属の Ginkgo adiantoides Heer. などの化石が発見されている。しかし新生代に入ると各地で姿を消し日本でも約100万年前に絶滅したため、本種 Ginkgo biloba L. が唯一現存する種である。現在イチョウは、「生きている化石」として国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種 (Endangered)に指定されている。
種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは後述)。
中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて鴨脚と呼ぶので、そこから転じたとする説がある。加納 (2008)では、「鴨脚」の中世漢語 ia-kiauの訛りであるとされる。しかし、室町時代の国語辞典『下学集』では、「銀杏」の文字に「イチヤウ」および「ギンキヤウ」と振り、その異名に挙げる「鴨脚」には「アフキヤク」と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていない。なお、鴨脚の名は中国では11世紀の梅堯臣(1002年–1060年)や欧陽脩(1007年–1072年)の詩に見られ、その種子は「鴨脚子」と呼ばれていた。
それに対し、「イチョウ」の語は「銀杏」の明代の近古音(唐音)が転じたものとする説もある。1481年頃に成立した一条兼良の『尺素往来』や1486年の『類集文字抄』、1492年頃の『新撰類聚往来』にも「鴨脚」はなく、「銀杏」に「イチヤウ」とのみ振られており、これを支持する。「いちょう」の歴史的仮名遣は「いちやう」であるが、もとは「いてふ」とする例が多かった。この「いてふ」という仮名は「一葉」に当てたからだとされる。1450年頃に成立した『長倉追罰記』には幔幕に描かれた家紋について「大石の源左衛門はいてうの木」と表記される。
種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが、11世紀前半に上記「鴨脚子」から入貢のため改称され、用いられるようになったと考えられる。明代李時珍著『本草綱目』に記載されている「銀杏」は、銀杏の初出が呉端の『日用本草』(1329年)であるとする。漢名の「銀杏」は種子が白いためである。「銀杏」の中世漢語はiən-hiəngであり、銀杏の唐音である『ギンアン』が転訛し(連声)、ギンナンと呼ばれるようになったものと考えられる。
イチョウ属の学名 Ginkgo は、日本語「銀杏」に由来している。英語にも ginkgo /ˈgɪŋkoʊ/ として取り入れられている。ほかにも男性名詞として、ドイツ語 Ginkgo, Ginko /ˈgɪŋko/ や フランス語 ginkgo /ʒɛ̃ŋko/ 、イタリア語 ginkgo など諸言語に取り入れられている。
イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、本種イチョウは、オランダ商館付の医師で『日本誌』の著者であるドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルによる『廻国奇観 (諸国奇談、Amoenitatum exoticarum)』(1712年)の「日本の植物相(Flora Japonica)」 において初めて紹介されたが、そこで初めて“Ginkgo”という綴りが用いられた。
ケンペルは1689年から1691年の間、長崎の出島にいたが、その間に中村惕斎『訓蒙図彙』(1666年)の写本を2冊入手した。ケンペルが得たイチョウに関する情報は『訓蒙図彙』2版 (1686)の「巻十八 果蓏」で書かれている。ケンペルは日本語が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に2つ目の番号が振られていた。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に269、漢字の見出しには34と番号が振られている。多くの日本の文献は、助手の今村源右衛門から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった馬田市郎兵衛、名村権八と楢林新右衛門もケンペルの植物学の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であったハンス・スローンが保管していたケンペルの備忘録により分かっている。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる。Collectanea Japonica と題された手稿 には、『訓蒙図彙』の漢字の見出しがリスト化されているページがあり、34番目の見出しで “Ginkjo” もしくは “Ginkio” と書くべきところを、誤って“Ginkgo”と表記されている。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “Ginkgo” という綴りは、ケンペルの郷里レムゴーでの誤植や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる。
なお、Webster (1958)では ginkgo は、日本語の ginko, gingkoに由来するとしている が、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない。小西・南出 (2006)では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしている が、この読みは日本語であり正しくない。
このケンペルの綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは1771年、著書 Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II でイチョウの属名をGinkgo として記載した。Moule や Thommen は、Ginkyo bilobaに修正すべきだと主張し、牧野(1988) では、ケンペルの著書中ではkjoをkgoに書き誤ったのであり、直すならGinkjoであるというが、植物命名規則においては恣意的に学名を変更することはできないとされている。1712年のケンペルのGinkgoという誤った綴りは命名規約上有効ではなく、それを引用した1771年のリンネの命名Ginkgo bilobaが命名上有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる。
ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的にk と g を入れ替えてしばしば gingko と記される。このほか、ゲーテは『西東詩集 (West-östlicher Diwan)』「ズライカの書」(1819年)で、「銀杏の葉」Ginkgo bilobaという詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では "Gingo biloba"と表記されている。これはUnseld (1999) によれば、ゲーテは科学者として学名 Ginkgo biloba を正しく認識していたが、詩人として Gingo という語を創作して付けたという。
種小名の biloba はラテン語による造語で、「2つの裂片 (two lobes)」の意味であり、葉が大きく2浅裂することに由っている。
英語では "maidenhair tree" ともいう。"maidenhair" は通常はホウライシダ属 Adiantumのシダ(= maidenhair fern)を指し、英語の"maiden" には「処女(名詞)」または「処女の(形容詞)」の意味がある。maidenhair tree という語は maidenhair fern によく似ているためであるとされる。語源はよく議論されてこなかったが、葉がよく似たホウライシダを表す maidenhairとともに、陰毛が形作る三角形から名付けられたと考えられている。「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる。
ほかにも fossil tree、Japanese silver apricot、baiguo、yinhsingなどと呼ばれる。
漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、祖父(公)が植えると孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている。漢方(中国医学)では『日用本草』にみられるように、「白果(びゃっか、はっか)」と呼ばれることが多い。
本種は現生では少なくとも 綱レベル以下全てで単型の種であるとされ、イチョウ綱 Ginkgoopsida・イチョウ目 Ginkgoales・イチョウ科 Ginkgoaceae・イチョウ属 Ginkgo に属する唯一の現生種である。門は維管束植物門 Tracheophytaとされるが、独立したイチョウ植物門 Ginkgophyta(あるいは裸子植物門 Gymnospermae)に置かれることもある。
イチョウ綱に置かれる。イチョウは雄性配偶子として自由運動可能な精子を作るが、これはソテツと共通である。そのためソテツ類とイチョウ類を合わせてソテツ類(ソテツ綱)とすることもあった。また1896年の「精子の発見」以前は球果植物(マツ綱)のイチイ科に置かれていた。
元来裸子植物は(化石種を含め)種子植物から被子植物を除いた側系統群と定義された為、側系統群を認めない立場から裸子植物門は解体されてソテツ植物門 Cycadophyta、イチョウ植物門 Ginkgophyta、グネツム植物門 Gnetophyta、球果植物門 Pinophyta の4植物門に分類され、イチョウ植物門は現生種としてはイチョウのみの単型の門となった。
裸子植物の4分類群は形態的には大きくかけ離れ、被子植物の側系統群と定義された為、単系統性は明らかでなかったが、Hasebe et al. (1992) による分子系統解析の結果、現生裸子植物と現生被子植物はそれぞれ単系統群であることが分かり、現在これはChaw et al. (2000)などほとんどの研究で支持されている。そこで単系統群としての裸子植物が再び置かれる事になる。これまで裸子植物を分類群として建てる場合は門の階級に置かれ裸子植物門 Gymnospermae とされてきた が、近年では門としてより上位の分類群である維管束植物門 Tracheophyta を立て、その下に小葉植物亜門 Lycophytina と大葉植物亜門(真葉植物亜門)Euphyllophytina を置くことがあり、裸子植物はその下位分類となる。この場合イチョウ類は大葉植物亜門の中の(裸子植物の一綱)イチョウ綱 Ginkgopsida とされる。イチョウ綱はソテツ綱と姉妹群をなし、ペルム紀に分岐したと考えられている。
イチョウ綱にはイチョウ目 Ginkgoales 1目、イチョウ科 Ginkgoaceae 1科のみが属しているが、これはペルム紀から中生代に繁栄した植物群である。いずれも現生では本種のみが属する。
以下に、長谷部 (2020)によるイチョウ類より上位の系統樹を示す。これはPuttick et al. (2018)による分子系統樹にKenrick & Crane (1997)の化石植物を含む系統樹を組み入れたものである。
現生はGinkgo biloba 1種のみしか知られていないが、変異が見られ、下位分類群として94品種が知られている。代表的な変種または品種は以下のものである。食用の銀杏の品種は種子の節を参照。
本格的な木本性の植物であり、樹高20–30 m、幹直径2 mの落葉高木となる。大きいものは樹高40–45 m、直径4–5 mに達する。茎は真正中心柱をもち、形成層の活動は活発で、発達した二次木部を形成する。多数の太い枝を箒状に出し、長大な卵形の樹冠を形成する。樹皮はコルク質がやや発達して柔らかく、淡黄褐色で粗面。若い樹皮は褐色から灰褐色で、縦に長い網目状であるが、成長とともに縦方向に裂けてコルク層が厚く発達する。枝には長枝と短枝があり、どちらも無毛である。長枝は節や葉の間隔が離れているのに対し、短枝では節間が短く込み入っており、1年に数枚しか葉を付けない。樹形は単幹だけでなく株立ちのこともある。冬芽は円錐形で、多数の芽鱗に覆われる。
葉身は扇形で長い葉柄を持つ(長柄)。葉柄は3–8 cm、葉身長4–8 cm、葉幅は5–7 cm。葉脈は原始的な平行脈を持ち、二又分枝して付け根から先端まで伸びる。中央脈はなく、多数の脈が基部から開出し葉縁に達する。このように葉脈が二又に分かれ、網目を作らない脈系を二又脈系(ふたまたみゃくけい、dichotomous system)と呼ぶ。葉の上端は不規則の波状縁となり、基本的に葉の中央部は浅裂となるが、深裂となるものもあり、栽培品種では差異が大きい。若いものや徒長枝ほど切れ込みがよく入り、複数の切れ込みがあるものもある。切れ込みのほとんどないものもあり、剪定されていない老木では切れ込みのない葉が多い。葉脚は楔形。雌雄異株であり、葉の輪郭で雌雄を判別できるという俗説があるが、実際には生殖器の観察が必要である。葉は表裏ともに無毛。葉の付き方は長枝上では螺旋状に互生し、短枝上では束生である。また、落葉前の葉は鮮やかな黄色に黄葉する。落葉した後、翌春には古い枝から再び葉が芽吹くように見えるが、実際は葉柄が付くのに必要な長さ1 mm程度の短い枝が新しくでき、そこに新葉が付く。
ラッパのような筒状の葉を付けるラッパイチョウなどの変異も見られる。また、葉の縁に不完全に発達した雄性胞子嚢(葯)または襟付きの胚珠(および種子)が生じる変種をオハツキイチョウ G. biloba var. epiphylla Makino と呼び、本種の系統を示す重要な形質だと考えられている。天然記念物に指定されているものもあるが、あまり珍しくない。矢頭 (1964)では変種として区別する必要がないとしている。また、オハツキイチョウでは雌性胞子嚢穂に2つ以上の胚珠が形成され、イチョウの化石種に似ているがその理由も不明である。
樹木としては長寿で、各地に幹周が10 mを超えるような巨木が点在している。老木になると幹や大枝から円錐形の気根状突起を生じることがあり、これをイチョウの乳と呼ぶ。これは「乳根」や「乳頭」、「乳柱」ともよばれる。若木のうちから乳を作る個体は、チチイチョウ(乳銀杏)と呼ばれ、古来、日本各地で安産や子育ての信仰対象とされてきた。造園ではチチノキ とも呼ばれる。この乳は不定芽や発育を妨げられた短枝、あるいはそれから発育した潜伏芽に由来し、内部の構造は材とは違って柔らかい細胞からなり、多量の澱粉を貯蔵している。イチョウの乳は解剖学的研究から維管束形成層が過剰成長することで形成されることが分かってきたが、その機能と相同性は分かっていない。
雌雄異株で、生殖器は短枝上につく。
日本の関東地方など、北半球の温帯では 4–5月に新芽が伸び開花する。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。風媒花であり、雄性胞子嚢穂の花粉は風により遠方まで飛散し、かなりの遠距離でも受粉可能である。まず開花後4月に受粉 した花粉は、雌性胞子嚢穂の胚珠端部の花粉室に数ヶ月保持され、その間に胚珠は直径約2 cm程度に肥大し、花粉内では数個の精子が作られる。9–10月頃、精子は放出され、花粉室から1個の精子のみが造卵器に泳いで入り、ここで受精が完了する。受精によって胚珠は成熟を開始し、10–11月頃に種子は成熟して落果する。
種子は、球形から広楕円形で、長さ 1–2 cmの石果様を呈する。種皮の外表皮は橙黄色で、軟化し臭気を発する。内表皮は堅く、紡錘形で、長さ約 1 cmで黄白色である。普通は2稜あるが、3稜のものも少なくなく、子葉は2または3個。1 kg当りの種子数は約900個である。実生の発芽率は高い。
本種の雌性生殖器官である雌性胞子嚢穂は、短枝の葉腋に形成され、二又に分かれ両先端に1個ずつ雌性胞子嚢(珠心)が形成されることで、胚珠柄 (peduncle)の先端に通常2個の胚珠が付く構造をしている。
胚珠は柄の先端の「襟」と呼ばれる構造(退化した心皮?)に囲まれているが、ほぼむき出しの状態である。襟と呼ばれる隆起は葉の名残ではないかと考えられたこともあったが、葉の上に胚珠ができる突然変異体(オハツキイチョウ)では、葉の上にできた胚珠にも襟ができることから、葉の変形ではないのかもしれず、襟の相同性は謎である。
胚珠は1枚の肉厚で円筒状の珠皮が珠心を包み込んでいて、珠皮は外から外表皮(銀杏の一番外側の皮になる)、肉質部(銀杏の臭い肉質部となる)、石層部構造(銀杏の堅い殻となる)、内表皮(銀杏の薄皮のうち外側の皮となる)からなる。珠皮は種子の形成に伴い種皮となる。被子植物は内珠皮と外珠皮の2枚があるので、種皮も内種皮と外種皮の2枚あるのに対し、イチョウを含む裸子植物は珠皮が1枚なので、種皮も1枚である。銀杏は臭い肉質の部分と内側の硬い殻が印象的であるため、外種皮と内種皮と呼ぶ記述も見られるがこれは誤りである。
本種の雌性配偶体や造卵器の形成過程はソテツに類似している。遊離核分裂による多核性段階を経て、細胞壁の発達した多細胞段階になる。胚珠の発生初期において、珠皮と雌性胞子嚢の間に隙間があるが、発生が進むにつれ両者は融合する。この間に、珠皮と雌性胞子嚢ともに細胞分裂と伸長を行い大きくなるが、雌性胞子嚢の先端部分が伸び出ししばらくすると先端部内側の細胞が崩壊し、花粉室と呼ばれるクレーター上の構造ができる。雌性胞子嚢の外側にある珠皮は先端部分が伸びて珠孔となる。雌性胞子嚢の中の雌性胞子は4月の受粉後、遊離核分裂を行い、その後細胞質分裂によって数百細胞からなる雌性配偶体が形成される。雌性配偶体の細胞は分裂と伸長を繰り返し、雌性胞子嚢の花粉室側にまで拡がる一方、雌性胞子嚢は退縮して薄くなる。雌性配偶体上に通常2個の造卵器(1個から5個までの変異がある)が形成される。始原細胞は珠孔側の表皮細胞であり、並層分裂により中央細胞と第一次頸細胞(第一次首細胞)ができ、それがすぐに垂直分裂をして2個の頸細胞(首細胞)となる。造卵器は頸細胞、腹溝細胞、卵細胞からなり、頸細胞が花粉室にむき出しとなる。
雄性器官も短枝の葉腋上に雄性胞子嚢穂として形成される。雄性胞子葉は軸のみに退縮していて先端に2つの雄性胞子嚢を形成する。雄性胞子嚢穂は尾状花序様で、軸上に多数の付属体(雄蕊)が付き、各付属体は通常2個の雄性胞子嚢(小胞子嚢、葯)を先端につける。雌性胞子嚢の中には1つの雌性胞子しか形成されなかったが、雄性胞子嚢の中では減数分裂によって数1000個の雄性胞子が形成される。雄性胞子(小胞子母細胞)は雄性胞子嚢の中で分裂して、1つの雄原細胞(受精後分裂して2つの精子になる細胞)、1つの花粉管細胞、2つの配偶体細胞の合計4細胞からなる雄性配偶体となり、これが花粉である。小胞子嚢の中のが分裂し、4分子の小胞子(核相: n)をつくる。
雄性配偶体はソテツに似ており、花粉散布時には生殖細胞、花粉管細胞、2個の前葉体細胞の4細胞性の構造をとる。花粉が風で胚珠まで運ばれると、珠孔にできた受粉滴に付着して胚珠の内部に運ばれる。生殖細胞は不稔細胞と精原細胞に分裂し、精原細胞はもう一度分裂し2個の精子となる。花粉は分枝する花粉管を伸ばし、吸器として働く。
裸子植物の雄性配偶子は花粉によって運ばれ、うちグネツム類や球果植物では花粉粒から花粉管を伸ばして胚嚢まで有性配偶子が運ばれるが、本種及びソテツは花粉管から自由運動可能な精子が放出されて受精が行われる。
1895年、帝国大学(現、東京大学)理科大学植物学教室の助手平瀬作五郎が、種子植物として初めて鞭毛をもって遊泳するイチョウの精子を発見した。平瀬は当時、ギンナンの内部にあった生物らしきものを寄生虫と考えたが、当時助教授であった池野成一郎に見せたところ、池野は精子であると直感したという。その後の観察で、精子が花粉管を出て動き回ることを確認し、平勢は1896年(明治29年)10月20日に発行された『植物学雑誌』第10巻第116号に「いてふノ精虫ニ就テ」 という論文を発表した。裸子植物であるイチョウが被子植物と同じように胚珠(種子)を進化させながら、同時に雄性生殖細胞として原始的な精子を持つということは、進化的に見てシダ植物と種子植物の中間的な位置にあるということを示している。この業績は1868年の明治維新以降、欧米に学んで近代科学を発展させようとした黎明期において、世界に誇る研究として国際的にも高く評価された。後年、平瀬はこの功績によって学士院恩賜賞を授与されている。加藤 (1999) は、当時植物園教室は小石川植物園内にあり、身近にイチョウが植えられて研究材料として簡単に利用できる状態であったということが、この研究の一助となったとしている。精子の発見された樹は樹高25 m、直径約1.5 m の雌木であり、今日も小石川植物園に現存している。
耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が0–20°Cの降水量500–2000 mmの地域に分布している。IUCNレッドリスト1997年版で希少種 (Rare) に、1998年版で絶滅危惧(絶滅危惧II類)に評価された。
自生地は確認されていないが中国原産とされる。中国でも10世紀以前に記録はなく、古い記録としては、欧陽脩が『欧陽文忠公集』(1054年)に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが、11世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている。
その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、憶測や風説でしかないものも混じっている。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため、1200年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている。行誉により1445年頃に書かれた問答式の辞書『壒嚢鈔』には深根輔仁『本草和名』(914年)にも記述がないとある。
1323年(至治3年)に当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船の海底遺物のなかからイチョウが発見されている。1370年頃に成立したとみられる『異制庭訓往来』が文字資料としては最古と考えられる。そのため、1300年代に貿易船により輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる。南北朝時代の近衛道嗣の日記『愚管記』(1381年)には銀杏の木について、室町時代の国語辞書『下学集』(1444年)にも樹木として記載がある。また、15世紀の『新撰類聚往来』 には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し、1500年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる。
幹周 8 m 以上の巨樹イチョウの日本列島における分布は、東日本89本(雄株81・雌株8)、中部日本21本(雄株15・雌株6)、西日本50本(雄株24・雌株26)となっている。
ヨーロッパには1692年、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から始まり、オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園で栽培され、開花したという。1730年ごろには生樹がヨーロッパに導入され、18世紀にはドイツをはじめヨーロッパ各地での植栽が進み、1815年にはゲーテが『銀杏の葉 (Gingo biloba)』と名付けた恋愛詩を記している。
木材としての知名度は低い。組織は針葉樹のものと似ている。材は黄白色で、心材と辺材の色の差はほとんどない。早材と晩材の差が少ないため、年輪ははっきりとせず広葉樹材のようであり、材は緻密で均一、柔らかいため加工性に優れる。肌目は精で、木理は通直で、反曲折裂および収縮が少なく、歪みが出にくい良材である。木材の中に異形細胞をもち、その中に金平糖型のシュウ酸カルシウムを含む。気乾比重は0.55で、やや軽軟で、耐久性は低い。器具・建具・家具・彫刻、カウンターの天板・構造材・造作材・水廻りなど広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされる。ただし、カヤに比べ音が良くないため評価は低い。その他、古くは鶏屋のまな板に好まれた。用材はほかに和服の裁ち板としても使われる。
土地を選ばず生育し、萌芽力がさかんで、病虫害が少なく、強い剪定にも耐えるため、庭園樹、公園樹、街路樹、防風樹、防火樹などとして植栽される。日本では庭園や公園に植栽されたり、寺社の境内にも多く植えられる が、大規模な造林地になっているものはない。古い社寺の境内には樹齢数百年を経たと称される「大銀杏」が多くみられる。外国の植物園でもよく見られる。盆栽にも利用される。盆栽は実生または挿し木によって作られる。チチイチョウはよく盆栽につくられる。高木になるため庭木としての利用は少ないが、成長が遅いチチイチョウは庭木としても用いられる。
また、樹皮が厚く、コルク質で気泡があるため、耐火力に優れているとみなされ、防火植林に用いられる。江戸時代の火除け地に多く植えられた。大正時代の関東大震災の際には延焼を防いだ例もあったため、防災を兼ねて次項で記載する街路樹にイチョウが多く植えられるようになったという。これを提案したのは造園家の長岡安平であったことが、2019年12月27日放送の『チコちゃんに叱られる!』で取り上げられた。
病害や虫害がほとんどなく、黄葉時の美しさ と、大気汚染や剪定、火災に強いという特性 から、街路樹としても利用される。黄葉したイチョウはいちょうもみじ(銀杏黄葉)と呼ばれ、並木道などは秋の風物詩となる。2007年の国土交通省の調査によれば、街路樹として57万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京都の明治神宮外苑や、大阪市御堂筋の街路樹 などが、銀杏並木として知られている。大阪を代表する御堂筋のイチョウ並木は、1966年時点で樹齢約50年、867本(うち雌株111本)あった。雌株では秋期に落下した種子(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある。移植は容易で、大木であっても移植することができる。
日本には樹齢1,000年以上と称されるイチョウの巨樹が各地にある。そのため、ソテツと同様に天然記念物に指定され保護されているものも多い。社会や文化とのかかわりの項も参照。
イチョウの葉や種子は古くから薬用に利用され、中国の『神農本草経』や『本草綱目』に遡る。健康な一般成人では、イチョウは適切な量(1、2粒程度)であれば食用として安全である。しかし生もしくは加熱したイチョウ種子は、有毒であり深刻な副作用を起こす可能性がある。
イチョウの種子は、銀杏(ぎんなん)といい、硬い種皮の内表皮(殻)の中に含まれる胚乳(さね、核、仁)が食用となる。実と説明されることもある が、果実ではない。これを食用とするのは日本や中国など、東アジアにおける習慣である。これは中国の本草学図書である『紹興本草』(1159年)にも記載される。薬用(漢方)として利用されていたことが、明代の龔廷賢が1581年に著した『萬病回春』に記されている。鎮咳作用があるとされる。
仁は直径1 cm程度の紡錘形 で、新鮮な状態では光合成色素のクロロフィルの存在により緑色を呈するが、収穫後は殻付きで保存しても常温に置くと短期間のうちに黄色に褪色化する。加熱により半透明の鮮やかな緑色になるが、加熱を続けると微酸性である死んだ細胞の内容物との作用でクロロフィルのマグネシウムがはずれ、黄褐色のフェオフィチンとなる。
食材としての旬の時期は秋(9–11月)で、雌株の下に落ちているイチョウの実(正確には種子)を拾ったら、周囲の外種皮部分を取り除き、よく洗って乾燥させる。旬に先走って収穫される「走り」のぎんなんは、翡翠に似た鮮やかな緑色を呈し、やわらかく匂いも少ないことから通常の時期に収穫されるものより高級とされる。茶碗蒸しやおこわなどの具に使われたり、煮物や鍋物、揚げ物、炒め物など広汎な料理に用いられ、酒の肴としても用いられる。和食料理のあしらいとして欠かせない食材で、殻は割り、渋皮は弱火で炒るか、ゆでるときれいにむける。韓国では、露店でも炒った銀杏を販売している。加工品としては砂糖漬やオリーブ油漬、水煮などの瓶詰や缶詰が売られている。ただし、独特の苦味 および種皮の外表皮には悪臭 がある。秋の食材だが、加熱して真空パック詰めにした商品は年中手に入る。銀杏を保存するときは殻付きのままビンや袋に入れて、冷蔵しておけば数か月は保存できる。
栄養素としてデンプンが豊富に含まれ、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。ほかにもレシチンやエルゴステリン、パントテン酸、カリウム、カロテン、ビタミンC、ビタミンB1も含有している。銀杏の食用部分にはメチルピリドキシンという成分が含まれていて、大量に食べると、まれに食中毒による痙攣を引き起こすこともある。このため、銀杏を食べ過ぎないことと、5歳以下の幼児には食べさせないように注意喚起されている。
銀杏は古くは米の凶作時の備蓄食糧に使われたといわれており、今日では日本全土で生産されているが、特に愛知県稲沢市(旧:中島郡祖父江町)は銀杏の生産量日本一である。ぎんなん採取を目的としたイチョウの栽培は1841年(天保11年)、祖父江町に富田栄左衛門がのちの「久寿(久治)」となるイチョウ苗を植えたことに始まるとされる。愛知県ではぎんなん収穫用に畑で低く仕立てられ、栽培される。佐賀県でも嬉野市の塩田町でウンシュウミカンからの転作としてよく栽培される。ぎんなんの収穫・流通を目的とした栽培品種があり、大粒晩生の「藤九郎」、大粒中生の「久寿(久治)」(くじゅ)、大粒早生の「喜平」、中粒早生の「金兵衛」(きんべえ)、中粒中生の「栄神」などが主なものとして挙げられる。「藤九郎」は岐阜県瑞穂市(旧穂積町)、「久寿(久治)」「金兵衛」「栄神(栄信)」は愛知県稲沢市(旧祖父江町)、「長瀬」は愛知県海部郡発祥の品種である。
イチョウの種子が熟すと肉質化した種皮の外表皮が異臭を放ち、素手で直接触れるとかぶれやすい。異臭の主成分は下記の皮膚炎の原因となるギンコール酸である。異臭によりニホンザル、ネズミなどの動物は食べようとしないが、アライグマは食べると言われている。この外表皮を塗ると黒子が取れるとする薬効が『昭興本草』(1159年)にある。また銀杏にはアナカルド酸が含まれ、Nostoc 属シアノバクテリアの糸状体に対して強力な殺菌活性を有しながらも、毒性を示さない極低濃度では明瞭なホルモゴニア分化誘導活性を示す。
イチョウの種子は皮膚炎及び食中毒を起こすことが知られている。1379年の『種樹書』にはすでに銀杏に毒性のあることが記載されている。銀杏中毒になる危険性があるため、日本では「歳の数以上は食べてはいけない」という言い伝えがある。
種皮の外表皮には乳白色の乳液があり、それにはアレルギー性皮膚炎を誘発するギンコールやビロボールといったギンコール酸(ギンゴール酸)と呼ばれるアルキルフェノール類の脱炭酸化合物を含んでいる。これはウルシのウルシオールと類似し、かぶれなどの皮膚炎を引き起こす。イチョウの乾葉は、シミなどに対する防虫剤として用いられる。これは、ギンコール・ギンコール酸が葉にも含まれているからである。
食用とする種子にはビタミンB6の類縁体4'-O-メチルピリドキシン (4'-O-methylpyridoxine, MPN) が含まれている が、これはビタミンB6に拮抗して(抗ビタミンB6作用)ビタミンB6欠乏となりGABAの生合成を阻害し、まれに痙攣などを引き起こす。銀杏の大量摂取により中毒を発症するのは小児に多く、成人では少ない。大人の場合かなりの数を摂取しなければ問題はないが、1日5–6粒程度でも中毒になることがあり、特に報告数の70%程度が5歳未満の小児である。小児では7個以上、大人では40個以上の摂取で発症するとされる。
太平洋戦争前後などの食糧難の時代に中毒報告が多く、大量に摂取したために死に至った例もある。1960年代以降銀杏中毒は減少に転じ、1970年代以降死亡例はない。上記の通りビタミンB6欠乏により中毒が起こるため、食糧事情の改善に伴う栄養状態の改善により減少したと考えられている。
症状は主に下痢、嘔気、嘔吐等の消化器症状および縮瞳、眩暈、痙攣や振戦等の中枢神経症状で、加えて不整脈や発熱、呼吸促拍等の症状も報告されている。
イチョウ葉にはフラボノイド、テルペノイド、アルキルフェノール類が含まれる。
主要なフラボノイド成分はビフラボン、フラボノール、フラボンであり、このうちイチョウ葉エキスのビフラボン含有量は僅かである。ビフラボンはアメントフラボン、アメントフラボンの誘導体であるビロベチン、ギンクゲチン、イソギンクゲチン、シアドビチシン、5'-メトキシビロベチンが含まれている。フラボノール及びフラボノール配糖体は約20種が含まれており、主要なアグリコンはケンフェロール、ケルセチン、イソラムネチン、ミリセチンなどで、配糖体の糖部に多いのはグルコース、ラムノース、ルチノースなどである。また、2種類のプロアントシアニジンも報告されており、イチョウ葉エキスには約7%含まれている。
テルペノイドにはともにイチョウに特有な物質であるギンコライドおよびビロバライドがあり、イチョウ葉エキス中には前者2.9%、後者3.1%が含まれている。ギンコライドはtert-ブチル基を持ち、6個の5員環からなる「籠型構造」を有するジテルペンである。これまでにギンコライドA、ギンコライドB、ギンコライドC、ギンコライドJ、ギンコライドMの5種類が見つかっている。ただしこのうちギンコライドMは根皮のみから見つかっている。ビロバライドもtert-ブチル基を持つが、4個の5員環を持つセスキテルペンである。
アルキルフェノール類であるギンコール酸は葉にも含まれる。ギンコール酸はヒトの癌細胞に対する増殖抑制作用が知られている。
イチョウ葉エキスの生理作用は主に抗酸化作用と血液凝固抑制作用、神経保護作用、抗炎症作用であり、その他、血液循環改善作用、血圧上昇抑制作用、血糖上昇抑制作用の報告もある。
イチョウ葉エキス中のフラボノイド類には、脂質過酸化、血小板凝集、炎症反応などに関係する活性酸素やフリーラジカルの消去作用、血小板凝集の阻害効果、炎症細胞からの活性酸素産生の抑制作用が認められる。イチョウ葉エキスEGb761はヒドロキシラジカル、ペルオキシラジカル、スーパーオキシドラジカルに対して消去作用を示すことが知られている。
また、イチョウ葉エキスの中のギンコライドBは特異的な血小板活性化因子の阻害物質ということが確認され、脳梗塞や動脈硬化の予防の効果が期待されている。
中国では古くから薬用に用いられていたが、イチョウ葉エキスが現代医学において効果があると示されたのは1960年代、ドイツの製薬会社で開発されたイチョウ葉エキスが脳や末梢の血流改善に使用されたことに端を発する。ただし中国でもイチョウ葉を薬用とするようになったのはおそらく清朝以降であると考えられている。『本草品彙精要』には胸悶心痛や激しい動悸、痰喘咳嗽、水様の下痢、白帯を治すとある。
EGb761というイチョウ葉エキスを用いた臨床試験において、記憶力衰退の改善、認知症の改善、眩暈や耳鳴り、頭痛など脳機能障害の改善、不安感の解消などの有効性が報告されている。
しかし、イチョウ葉エキスの効果に関する信頼性の高い研究はほとんどない。アメリカ国立補完統合衛生センター(NCCIH)はイチョウ葉エキスの効果に対して否定的な態度を示しており、「イチョウがさまざまな健康上の問題に関して、有用であるという決定的な科学的証拠は存在しない」「認知症もしくは認知機能低下の予防や緩和、高血圧、耳鳴り、多発性硬化症、季節性情動障害、および心臓発作や脳卒中のリスクに対しては、イチョウは有用ではないことが、示唆されている」と述べている。これは、NCCIHによって行われた大規模なRCT実験(被験者3000人)を含む研究に基づいている。
日本と欧米では製造方法が異なり、日本では健康食品として使用されるため食品衛生法の規制により、エタノール抽出が行われるが、欧米ではアセトン抽出が行われている。欧米のアセトン抽出によるイチョウ葉エキスはEGb761というコードネームがつけられ、この薬理学研究は多数行われている。イチョウ葉エキスで特定されている成分は、含量がエキス全体の半分にも満たないフラボノイドやテルペノイドなどであるため、フラボノイドやテルペノイドなどの含有量が同じであってもアセトン抽出品とエタノール抽出品が同等かどうかの判断はできない。
雑誌などでイチョウ葉茶の作り方が掲載されることがあるが、イチョウ葉を集めてきて、自分で調製したお茶にはかなり多量のギンコール酸が含まれると予想され、推奨されない。
ドイツでは、フラボノイド22–27%、テルペノイド5–7%(ビロバライド2.6–3.2%、ギンコライドA, B, C 2.8–3.4%)、ギンコール酸5 ppm以下の規格を満たすイチョウ葉エキスが医薬品として認証されており、日本においても公益財団法人 日本健康・栄養食品協会がイチョウ葉エキス食品に対し、イチョウ葉エキスを20 mg以上含有し、ギンコール酸を5 ppm以下とするよう基準を設けている。しかし、同協会の認証を受けていない商品についてはそういった基準はない。なお、イチョウ葉は日本からドイツやフランスへ輸出されている。
日本では、イチョウ葉を素材とした健康食品は食品として流通している が、医薬品として認可されておらず、食品であるため効能を謳うことはできない。しかし、消費者に対し過大な期待を抱かせたり、医薬品医療機器等法で問題となるような広告も散見される。
国民生活センターのレポートによると、アレルギー物質であるギンコール酸、有効物質であるテルペノイド、フラボノイドの含有量には製法と原料由来の大きな差がみられる。また、「お茶として長時間煮詰めると、ドイツの医薬品規格以上のギンコール酸を摂取してしまう場合がある」とし、異常などが表れた場合は、すぐに利用を中止し医師へ相談するよう呼び掛けている。
医薬品規格を満たすイチョウ葉エキスについては、適切に用いれば経口摂取でおそらく安全と評価されている。240 mg以上のイチョウ葉エキスの摂取や医薬品規格を満たさないものについては、安全性は明確になっていない。副作用として、胃腸障害、頭痛やめまい、動機、皮膚のアレルギー症状、血液凝固抑制薬(ワルファリンやアスピリン)との併用による出血の恐れが高まることなどが知られている。まれな副作用としては、スティーブンス・ジョンソン症候群、下痢、吐き気、筋弛緩、発疹、口内炎などが報告されている。
イチョウ葉エキスには血液の抗凝固促進作用があり、アスピリンなど抗凝固作用を持つ薬との併用には注意を要する。インスリン分泌にも影響を及ぼすため、糖尿病患者が摂取する場合は医師と相談した方がよい。また、抗うつ剤や肝臓で代謝されやすい薬(CYP2C9、CYP1A2、CYP2D6、CYP3A4の基質となる医薬品)も相互作用が生じる可能性がある。原因は明らかでないものの、トラゾドンとイチョウ葉エキスを摂取した高齢のアルツハイマー病患者が、昏睡状態に陥った例も報告されている。利尿剤との併用により、高血圧を起こしたとの報告も1例ある。
イチョウは日本では神社や寺院などに多く植栽され、全国的に、民家に植えるのはどちらかといえば忌み嫌われる傾向にある。
イチョウに関しては多くの伝承が伝わっている。「杖銀杏」とは、空海や親鸞、日蓮といった高僧・名僧が携えた杖を地面に刺したものが成長し、根を張り、枝葉を生じたというもので、東京都港区麻布善福寺の「善福寺のイチョウ」(国の天然記念物)、山梨県南巨摩郡身延町の「上沢寺のオハツキイチョウ」(国の天然記念物)などはその一例である。また、しばしば見かける「逆さ銀杏」とは枝葉が下を向いて生えることを称しており、「善福寺のイチョウ」「上沢寺のイチョウ」のほか、京都市下京区の「西本願寺の逆さイチョウ」(京都市天然記念物)などが有名であるが、それ以外にも全国各地に点在している。
古いイチョウの樹に生じる気根にふれたり、気根を削って煎じたものを飲んだりすると乳の出がよくなるという「乳イチョウ」の古木も全国各地にみられる。川崎市の影向寺のイチョウや仙台市宮城野区の「苦竹のイチョウ(姥銀杏)」(宮城県天然記念物)、富山県氷見市の「上日寺のイチョウ」(国の天然記念物)、千葉県勝浦市の「高照寺の乳イチョウ」(千葉県天然記念物)が特に知られている。青森県西津軽郡深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」(国の天然記念物)は「垂乳根(たらちね)の公孫樹」とも呼ばれて崇敬されてきた樹で、母乳の不足する女性が青森県内はもとより秋田県や北海道からも願掛けに訪れ、気根にお神酒と米を供えて祈る風習が1980年代半ばまで続いていたといわれる。徳島県板野郡上板町の乳保神社のイチョウ(国の天然記念物)も「乳イチョウ」で、これは神社名の由来になった樹木であり、神木である。ここでは気根の先を白紙で結んでおくと病気平癒や乳の出がよくなるといった御利益があると信じられてきた。
「子授け銀杏」には、東京都豊島区法明寺鬼子母神堂境内のイチョウが知られ、その木を女性が抱き、その葉や樹皮を肌につけると子宝が授かるという伝承がある。
「泣き銀杏」には、千葉県市川市の弘法寺のイチョウが有名で、弘法寺1世日頂が養父富木常忍の勘当を受けて、この木の周りを泣きながら読経したという伝承に由来する。各地の「泣き銀杏」の伝承には、さまざまなタイプがある。
明治年間、日比谷通りの拡幅工事が実施されてイチョウの木が伐採されようとしたとき、造園家の本多静六が「私の首をかける」として伐採に反対したのが、東京都千代田区の日比谷公園内にある「首かけイチョウ」である。日比谷公園は、1903年に本多によって造園され、イチョウは25日かけてレールを用いて同地に移植された。
小説家の橋本治は、東大紛争のさなかの1968年(昭和43年)、東京大学在学中に、東京大学駒場祭のポスターに「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打っている。それは、背中に銀杏のバッジを刺青風に描いたヤクザ風の男のセリフであり、勘亭流で書かれたものであった。
イチョウは火災に強く、生命力が旺盛なところから「復興のシンボル」とされることがある。千代田区大手町の「震災イチョウ」は1923年の関東大震災にともなう周囲の火災から唯一焼失を免れた個体であり、栃木県宇都宮市の旭町の大いちょうも1945年の宇都宮空襲で被災し、いったんは焼け焦げたものの、翌春に芽吹いたものである。
世界的には上述したように、ドイツのヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの恋愛詩「銀杏の葉」 Gingo biloba(1815) (『西東詩集』「ズライカの書」所収)が知られるが、宮沢賢治の童話に『いてふの実』という作品がある。
短歌としては、次の歌が有名である。
山川登美子・増田雅子との合著詩歌集『恋衣』に収載されている短歌である。何百、何千というイチョウの葉が夕日のなかを舞い散るさまは、まるで、おびただしい数の鳥が飛び交うようだという、きわめて鮮やかな視覚的イメージを読者にあたえ、上句よりどこか童画のような印象も呼び起こされる秀歌である。
俳句においては、「銀杏(ぎんなん)」の季語は秋である。また、「銀杏散る(いちょうちる、いてふちる)」「銀杏黄葉(いちょうもみじ、いてふもみぢ )」はともに晩秋の季語、「銀杏落葉(いちょうおちば、いてふおちば)」は初冬の、「銀杏の花」は晩春のそれぞれ季語となっている。晩秋に黄葉して、それが散って路面に敷かれると、あたりがたいへん明るくなり、それを詠んだ句もある。
日本三名城の一つ熊本城は、別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」と呼ばれている。これは加藤清正が熊本城を築城した際、天守の傍にイチョウが植えられたためとされる。現在生えているイチョウは二代目である。
これが機縁となって熊本市の木は銀杏となっており、熊本市は「銀杏の都」と呼ばれることがある。熊本大学の校章にもイチョウが用いられており、熊本市にはかつて銀杏学園短期大学という私立短期大学もあった。
かつて鹿児島本線で運行していた急行列車「ぎんなん」(475系急行)、2018年11月30日まで北九州-熊本間を運行していた高速バス「ぎんなん号」 などは、それに由来する。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の祝として知られる日本の姓氏に鴨脚(いちょう)氏がある。幕末期に孝明天皇に仕えた鴨脚克子などが知られる。また銀杏(いちょう、ぎんなん、ぎんな)氏という姓氏もある。
イチョウの葉を象った紋所は「銀杏(いちょう)」として古くから用いられた。公家では、藤原北家花山院流の飛鳥井家のみが用いており、当主が十六葉、嗣子が十二葉、庶子が六葉、一門が八葉の銀杏を図案化した紋を用い、家臣に賜与するものには三葉を用いるなどの規則があった。武家では、越前国鯖江藩の藩主であった間部氏が「丸に三つ引両」とともに「三つ銀杏」を使用した。また、源義仲の末裔を称し、関東管領上杉氏に仕えた大石氏が「銀杏の二葉」だったとの記録がある。江戸幕府の旗本では、間部・大石氏のほか、岸・土方・林・町田・大柴・渋江・水島・森・平田・藤野・竹村・坪内・大岡・青木・大熊・長谷部の諸氏が銀杏紋を用いた。なお、沼田頼輔『日本紋章学』には、徳川氏が葵紋を家紋とする以前は銀杏紋を家紋としていたのではないかという見解が記されている。
ユニークなものでは、銀杏の葉を飛んでいる鶴の形に図案化した銀杏鶴(いちょうづる)という紋所が知られ、江戸の歌舞伎小屋中村座の定紋となっている。
女性の髪の結い方で、髻(もとどり)を二分し、左右に曲げてそれぞれ輪を作り毛先を元結で根に結んだ髪型を銀杏返し(いちょうがえし)と呼ぶ。この髪型は江戸中期から少女の髪形として行われ、明治以降は中年向きの髪形となった。また、島田髷の髷の先を銀杏の葉の形に広げたものを銀杏髷(いちょうまげ、いちょうわげ)と呼び、この髷の中に浅葱色または紫の無地の縮緬を巻き込んだものを銀杏崩し(いちょうくずし)と呼ぶ。ただし、銀杏髷は江戸時代の男性の髷である銀杏頭(いちょうがしら)のことを指すこともある。これは二つ折りにした髻の刷毛先を銀杏の葉のように広げたものである。武家の結い方で、髷の刷毛先を銀杏葉形に大きく広げた結い方を大銀杏(おおいちょう)と呼び、現在では相撲で十両以上の力士が行う。
イチョウの特徴的な葉の形を銀杏形(いちょうがた)といい、上記の紋所や髪型の呼称として親しまれてきた。ほかにも特徴的な葉の形になぞらえ、様々なものの命名に用いられてきた。たとえば、野菜を縦十文字に四つ割りにすることを銀杏切り(いちょうぎり)という。また、末広の膳の足を銀杏脚(いちょうあし)、末広の下駄の歯を銀杏歯(いちょうば)という。 雄のオシドリ Aix galericulata (Linnaeus, 1758)の両脇の羽はイチョウの葉に似るため「銀杏羽(いちょうば)」と呼ばれる。
遊助(上地雄輔)の楽曲に「いちょう」がある。演芸番組『笑点』の大喜利では、レギュラー出演者の三遊亭小遊三が、解答の際に銀杏拾いのネタをよく用いる。
日本においては、本種は馴染み深い木である。そのため、各自治体のシンボルマークや市町村の木、校章などに採用されてきた。
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"text": "イチョウ(銀杏、公孫樹、鴨脚樹、学名:Ginkgo biloba)は、裸子植物で落葉性の高木である。日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用 としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)、ギンナン(銀杏) やギンナンノキ と呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指す ことが多い。",
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"text": "街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり、特徴的な広葉を持っているが広葉樹ではなく、裸子植物ではあるが針葉樹ではない。",
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"text": "世界で最古の現生樹種の一つである。イチョウ類は地史的にはペルム紀に出現し、中生代(特にジュラ紀)まで全世界的に繁茂した。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世の 山口県の大嶺炭田からバイエラ属 Baiera、北海道からイチョウ属の Ginkgo adiantoides Heer. などの化石が発見されている。しかし新生代に入ると各地で姿を消し日本でも約100万年前に絶滅したため、本種 Ginkgo biloba L. が唯一現存する種である。現在イチョウは、「生きている化石」として国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種 (Endangered)に指定されている。",
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"text": "種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは後述)。",
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"text": "中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて鴨脚と呼ぶので、そこから転じたとする説がある。加納 (2008)では、「鴨脚」の中世漢語 ia-kiauの訛りであるとされる。しかし、室町時代の国語辞典『下学集』では、「銀杏」の文字に「イチヤウ」および「ギンキヤウ」と振り、その異名に挙げる「鴨脚」には「アフキヤク」と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていない。なお、鴨脚の名は中国では11世紀の梅堯臣(1002年–1060年)や欧陽脩(1007年–1072年)の詩に見られ、その種子は「鴨脚子」と呼ばれていた。",
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"text": "それに対し、「イチョウ」の語は「銀杏」の明代の近古音(唐音)が転じたものとする説もある。1481年頃に成立した一条兼良の『尺素往来』や1486年の『類集文字抄』、1492年頃の『新撰類聚往来』にも「鴨脚」はなく、「銀杏」に「イチヤウ」とのみ振られており、これを支持する。「いちょう」の歴史的仮名遣は「いちやう」であるが、もとは「いてふ」とする例が多かった。この「いてふ」という仮名は「一葉」に当てたからだとされる。1450年頃に成立した『長倉追罰記』には幔幕に描かれた家紋について「大石の源左衛門はいてうの木」と表記される。",
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"text": "種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが、11世紀前半に上記「鴨脚子」から入貢のため改称され、用いられるようになったと考えられる。明代李時珍著『本草綱目』に記載されている「銀杏」は、銀杏の初出が呉端の『日用本草』(1329年)であるとする。漢名の「銀杏」は種子が白いためである。「銀杏」の中世漢語はiən-hiəngであり、銀杏の唐音である『ギンアン』が転訛し(連声)、ギンナンと呼ばれるようになったものと考えられる。",
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"text": "イチョウ属の学名 Ginkgo は、日本語「銀杏」に由来している。英語にも ginkgo /ˈgɪŋkoʊ/ として取り入れられている。ほかにも男性名詞として、ドイツ語 Ginkgo, Ginko /ˈgɪŋko/ や フランス語 ginkgo /ʒɛ̃ŋko/ 、イタリア語 ginkgo など諸言語に取り入れられている。",
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"text": "イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、本種イチョウは、オランダ商館付の医師で『日本誌』の著者であるドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルによる『廻国奇観 (諸国奇談、Amoenitatum exoticarum)』(1712年)の「日本の植物相(Flora Japonica)」 において初めて紹介されたが、そこで初めて“Ginkgo”という綴りが用いられた。",
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"text": "ケンペルは1689年から1691年の間、長崎の出島にいたが、その間に中村惕斎『訓蒙図彙』(1666年)の写本を2冊入手した。ケンペルが得たイチョウに関する情報は『訓蒙図彙』2版 (1686)の「巻十八 果蓏」で書かれている。ケンペルは日本語が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に2つ目の番号が振られていた。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に269、漢字の見出しには34と番号が振られている。多くの日本の文献は、助手の今村源右衛門から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった馬田市郎兵衛、名村権八と楢林新右衛門もケンペルの植物学の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であったハンス・スローンが保管していたケンペルの備忘録により分かっている。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる。Collectanea Japonica と題された手稿 には、『訓蒙図彙』の漢字の見出しがリスト化されているページがあり、34番目の見出しで “Ginkjo” もしくは “Ginkio” と書くべきところを、誤って“Ginkgo”と表記されている。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “Ginkgo” という綴りは、ケンペルの郷里レムゴーでの誤植や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる。",
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"text": "なお、Webster (1958)では ginkgo は、日本語の ginko, gingkoに由来するとしている が、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない。小西・南出 (2006)では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしている が、この読みは日本語であり正しくない。",
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"text": "このケンペルの綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは1771年、著書 Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II でイチョウの属名をGinkgo として記載した。Moule や Thommen は、Ginkyo bilobaに修正すべきだと主張し、牧野(1988) では、ケンペルの著書中ではkjoをkgoに書き誤ったのであり、直すならGinkjoであるというが、植物命名規則においては恣意的に学名を変更することはできないとされている。1712年のケンペルのGinkgoという誤った綴りは命名規約上有効ではなく、それを引用した1771年のリンネの命名Ginkgo bilobaが命名上有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる。",
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"text": "ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的にk と g を入れ替えてしばしば gingko と記される。このほか、ゲーテは『西東詩集 (West-östlicher Diwan)』「ズライカの書」(1819年)で、「銀杏の葉」Ginkgo bilobaという詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では \"Gingo biloba\"と表記されている。これはUnseld (1999) によれば、ゲーテは科学者として学名 Ginkgo biloba を正しく認識していたが、詩人として Gingo という語を創作して付けたという。",
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"text": "種小名の biloba はラテン語による造語で、「2つの裂片 (two lobes)」の意味であり、葉が大きく2浅裂することに由っている。",
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"text": "英語では \"maidenhair tree\" ともいう。\"maidenhair\" は通常はホウライシダ属 Adiantumのシダ(= maidenhair fern)を指し、英語の\"maiden\" には「処女(名詞)」または「処女の(形容詞)」の意味がある。maidenhair tree という語は maidenhair fern によく似ているためであるとされる。語源はよく議論されてこなかったが、葉がよく似たホウライシダを表す maidenhairとともに、陰毛が形作る三角形から名付けられたと考えられている。「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる。",
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"text": "ほかにも fossil tree、Japanese silver apricot、baiguo、yinhsingなどと呼ばれる。",
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"text": "漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、祖父(公)が植えると孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている。漢方(中国医学)では『日用本草』にみられるように、「白果(びゃっか、はっか)」と呼ばれることが多い。",
"title": "名称・呼称"
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"text": "本種は現生では少なくとも 綱レベル以下全てで単型の種であるとされ、イチョウ綱 Ginkgoopsida・イチョウ目 Ginkgoales・イチョウ科 Ginkgoaceae・イチョウ属 Ginkgo に属する唯一の現生種である。門は維管束植物門 Tracheophytaとされるが、独立したイチョウ植物門 Ginkgophyta(あるいは裸子植物門 Gymnospermae)に置かれることもある。",
"title": "分類と系統"
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"text": "イチョウ綱に置かれる。イチョウは雄性配偶子として自由運動可能な精子を作るが、これはソテツと共通である。そのためソテツ類とイチョウ類を合わせてソテツ類(ソテツ綱)とすることもあった。また1896年の「精子の発見」以前は球果植物(マツ綱)のイチイ科に置かれていた。",
"title": "分類と系統"
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"text": "元来裸子植物は(化石種を含め)種子植物から被子植物を除いた側系統群と定義された為、側系統群を認めない立場から裸子植物門は解体されてソテツ植物門 Cycadophyta、イチョウ植物門 Ginkgophyta、グネツム植物門 Gnetophyta、球果植物門 Pinophyta の4植物門に分類され、イチョウ植物門は現生種としてはイチョウのみの単型の門となった。",
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"text": "裸子植物の4分類群は形態的には大きくかけ離れ、被子植物の側系統群と定義された為、単系統性は明らかでなかったが、Hasebe et al. (1992) による分子系統解析の結果、現生裸子植物と現生被子植物はそれぞれ単系統群であることが分かり、現在これはChaw et al. (2000)などほとんどの研究で支持されている。そこで単系統群としての裸子植物が再び置かれる事になる。これまで裸子植物を分類群として建てる場合は門の階級に置かれ裸子植物門 Gymnospermae とされてきた が、近年では門としてより上位の分類群である維管束植物門 Tracheophyta を立て、その下に小葉植物亜門 Lycophytina と大葉植物亜門(真葉植物亜門)Euphyllophytina を置くことがあり、裸子植物はその下位分類となる。この場合イチョウ類は大葉植物亜門の中の(裸子植物の一綱)イチョウ綱 Ginkgopsida とされる。イチョウ綱はソテツ綱と姉妹群をなし、ペルム紀に分岐したと考えられている。",
"title": "分類と系統"
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"text": "イチョウ綱にはイチョウ目 Ginkgoales 1目、イチョウ科 Ginkgoaceae 1科のみが属しているが、これはペルム紀から中生代に繁栄した植物群である。いずれも現生では本種のみが属する。",
"title": "分類と系統"
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"text": "以下に、長谷部 (2020)によるイチョウ類より上位の系統樹を示す。これはPuttick et al. (2018)による分子系統樹にKenrick & Crane (1997)の化石植物を含む系統樹を組み入れたものである。",
"title": "分類と系統"
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"text": "現生はGinkgo biloba 1種のみしか知られていないが、変異が見られ、下位分類群として94品種が知られている。代表的な変種または品種は以下のものである。食用の銀杏の品種は種子の節を参照。",
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"text": "本格的な木本性の植物であり、樹高20–30 m、幹直径2 mの落葉高木となる。大きいものは樹高40–45 m、直径4–5 mに達する。茎は真正中心柱をもち、形成層の活動は活発で、発達した二次木部を形成する。多数の太い枝を箒状に出し、長大な卵形の樹冠を形成する。樹皮はコルク質がやや発達して柔らかく、淡黄褐色で粗面。若い樹皮は褐色から灰褐色で、縦に長い網目状であるが、成長とともに縦方向に裂けてコルク層が厚く発達する。枝には長枝と短枝があり、どちらも無毛である。長枝は節や葉の間隔が離れているのに対し、短枝では節間が短く込み入っており、1年に数枚しか葉を付けない。樹形は単幹だけでなく株立ちのこともある。冬芽は円錐形で、多数の芽鱗に覆われる。",
"title": "形態"
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"text": "葉身は扇形で長い葉柄を持つ(長柄)。葉柄は3–8 cm、葉身長4–8 cm、葉幅は5–7 cm。葉脈は原始的な平行脈を持ち、二又分枝して付け根から先端まで伸びる。中央脈はなく、多数の脈が基部から開出し葉縁に達する。このように葉脈が二又に分かれ、網目を作らない脈系を二又脈系(ふたまたみゃくけい、dichotomous system)と呼ぶ。葉の上端は不規則の波状縁となり、基本的に葉の中央部は浅裂となるが、深裂となるものもあり、栽培品種では差異が大きい。若いものや徒長枝ほど切れ込みがよく入り、複数の切れ込みがあるものもある。切れ込みのほとんどないものもあり、剪定されていない老木では切れ込みのない葉が多い。葉脚は楔形。雌雄異株であり、葉の輪郭で雌雄を判別できるという俗説があるが、実際には生殖器の観察が必要である。葉は表裏ともに無毛。葉の付き方は長枝上では螺旋状に互生し、短枝上では束生である。また、落葉前の葉は鮮やかな黄色に黄葉する。落葉した後、翌春には古い枝から再び葉が芽吹くように見えるが、実際は葉柄が付くのに必要な長さ1 mm程度の短い枝が新しくでき、そこに新葉が付く。",
"title": "形態"
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"text": "ラッパのような筒状の葉を付けるラッパイチョウなどの変異も見られる。また、葉の縁に不完全に発達した雄性胞子嚢(葯)または襟付きの胚珠(および種子)が生じる変種をオハツキイチョウ G. biloba var. epiphylla Makino と呼び、本種の系統を示す重要な形質だと考えられている。天然記念物に指定されているものもあるが、あまり珍しくない。矢頭 (1964)では変種として区別する必要がないとしている。また、オハツキイチョウでは雌性胞子嚢穂に2つ以上の胚珠が形成され、イチョウの化石種に似ているがその理由も不明である。",
"title": "形態"
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"text": "樹木としては長寿で、各地に幹周が10 mを超えるような巨木が点在している。老木になると幹や大枝から円錐形の気根状突起を生じることがあり、これをイチョウの乳と呼ぶ。これは「乳根」や「乳頭」、「乳柱」ともよばれる。若木のうちから乳を作る個体は、チチイチョウ(乳銀杏)と呼ばれ、古来、日本各地で安産や子育ての信仰対象とされてきた。造園ではチチノキ とも呼ばれる。この乳は不定芽や発育を妨げられた短枝、あるいはそれから発育した潜伏芽に由来し、内部の構造は材とは違って柔らかい細胞からなり、多量の澱粉を貯蔵している。イチョウの乳は解剖学的研究から維管束形成層が過剰成長することで形成されることが分かってきたが、その機能と相同性は分かっていない。",
"title": "形態"
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"text": "雌雄異株で、生殖器は短枝上につく。",
"title": "生殖"
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"text": "日本の関東地方など、北半球の温帯では 4–5月に新芽が伸び開花する。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。風媒花であり、雄性胞子嚢穂の花粉は風により遠方まで飛散し、かなりの遠距離でも受粉可能である。まず開花後4月に受粉 した花粉は、雌性胞子嚢穂の胚珠端部の花粉室に数ヶ月保持され、その間に胚珠は直径約2 cm程度に肥大し、花粉内では数個の精子が作られる。9–10月頃、精子は放出され、花粉室から1個の精子のみが造卵器に泳いで入り、ここで受精が完了する。受精によって胚珠は成熟を開始し、10–11月頃に種子は成熟して落果する。",
"title": "生殖"
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"text": "種子は、球形から広楕円形で、長さ 1–2 cmの石果様を呈する。種皮の外表皮は橙黄色で、軟化し臭気を発する。内表皮は堅く、紡錘形で、長さ約 1 cmで黄白色である。普通は2稜あるが、3稜のものも少なくなく、子葉は2または3個。1 kg当りの種子数は約900個である。実生の発芽率は高い。",
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"text": "本種の雌性生殖器官である雌性胞子嚢穂は、短枝の葉腋に形成され、二又に分かれ両先端に1個ずつ雌性胞子嚢(珠心)が形成されることで、胚珠柄 (peduncle)の先端に通常2個の胚珠が付く構造をしている。",
"title": "生殖"
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"text": "胚珠は柄の先端の「襟」と呼ばれる構造(退化した心皮?)に囲まれているが、ほぼむき出しの状態である。襟と呼ばれる隆起は葉の名残ではないかと考えられたこともあったが、葉の上に胚珠ができる突然変異体(オハツキイチョウ)では、葉の上にできた胚珠にも襟ができることから、葉の変形ではないのかもしれず、襟の相同性は謎である。",
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"text": "胚珠は1枚の肉厚で円筒状の珠皮が珠心を包み込んでいて、珠皮は外から外表皮(銀杏の一番外側の皮になる)、肉質部(銀杏の臭い肉質部となる)、石層部構造(銀杏の堅い殻となる)、内表皮(銀杏の薄皮のうち外側の皮となる)からなる。珠皮は種子の形成に伴い種皮となる。被子植物は内珠皮と外珠皮の2枚があるので、種皮も内種皮と外種皮の2枚あるのに対し、イチョウを含む裸子植物は珠皮が1枚なので、種皮も1枚である。銀杏は臭い肉質の部分と内側の硬い殻が印象的であるため、外種皮と内種皮と呼ぶ記述も見られるがこれは誤りである。",
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"paragraph_id": 34,
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"text": "本種の雌性配偶体や造卵器の形成過程はソテツに類似している。遊離核分裂による多核性段階を経て、細胞壁の発達した多細胞段階になる。胚珠の発生初期において、珠皮と雌性胞子嚢の間に隙間があるが、発生が進むにつれ両者は融合する。この間に、珠皮と雌性胞子嚢ともに細胞分裂と伸長を行い大きくなるが、雌性胞子嚢の先端部分が伸び出ししばらくすると先端部内側の細胞が崩壊し、花粉室と呼ばれるクレーター上の構造ができる。雌性胞子嚢の外側にある珠皮は先端部分が伸びて珠孔となる。雌性胞子嚢の中の雌性胞子は4月の受粉後、遊離核分裂を行い、その後細胞質分裂によって数百細胞からなる雌性配偶体が形成される。雌性配偶体の細胞は分裂と伸長を繰り返し、雌性胞子嚢の花粉室側にまで拡がる一方、雌性胞子嚢は退縮して薄くなる。雌性配偶体上に通常2個の造卵器(1個から5個までの変異がある)が形成される。始原細胞は珠孔側の表皮細胞であり、並層分裂により中央細胞と第一次頸細胞(第一次首細胞)ができ、それがすぐに垂直分裂をして2個の頸細胞(首細胞)となる。造卵器は頸細胞、腹溝細胞、卵細胞からなり、頸細胞が花粉室にむき出しとなる。",
"title": "生殖"
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"text": "雄性器官も短枝の葉腋上に雄性胞子嚢穂として形成される。雄性胞子葉は軸のみに退縮していて先端に2つの雄性胞子嚢を形成する。雄性胞子嚢穂は尾状花序様で、軸上に多数の付属体(雄蕊)が付き、各付属体は通常2個の雄性胞子嚢(小胞子嚢、葯)を先端につける。雌性胞子嚢の中には1つの雌性胞子しか形成されなかったが、雄性胞子嚢の中では減数分裂によって数1000個の雄性胞子が形成される。雄性胞子(小胞子母細胞)は雄性胞子嚢の中で分裂して、1つの雄原細胞(受精後分裂して2つの精子になる細胞)、1つの花粉管細胞、2つの配偶体細胞の合計4細胞からなる雄性配偶体となり、これが花粉である。小胞子嚢の中のが分裂し、4分子の小胞子(核相: n)をつくる。",
"title": "生殖"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "雄性配偶体はソテツに似ており、花粉散布時には生殖細胞、花粉管細胞、2個の前葉体細胞の4細胞性の構造をとる。花粉が風で胚珠まで運ばれると、珠孔にできた受粉滴に付着して胚珠の内部に運ばれる。生殖細胞は不稔細胞と精原細胞に分裂し、精原細胞はもう一度分裂し2個の精子となる。花粉は分枝する花粉管を伸ばし、吸器として働く。",
"title": "生殖"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "裸子植物の雄性配偶子は花粉によって運ばれ、うちグネツム類や球果植物では花粉粒から花粉管を伸ばして胚嚢まで有性配偶子が運ばれるが、本種及びソテツは花粉管から自由運動可能な精子が放出されて受精が行われる。",
"title": "生殖"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "1895年、帝国大学(現、東京大学)理科大学植物学教室の助手平瀬作五郎が、種子植物として初めて鞭毛をもって遊泳するイチョウの精子を発見した。平瀬は当時、ギンナンの内部にあった生物らしきものを寄生虫と考えたが、当時助教授であった池野成一郎に見せたところ、池野は精子であると直感したという。その後の観察で、精子が花粉管を出て動き回ることを確認し、平勢は1896年(明治29年)10月20日に発行された『植物学雑誌』第10巻第116号に「いてふノ精虫ニ就テ」 という論文を発表した。裸子植物であるイチョウが被子植物と同じように胚珠(種子)を進化させながら、同時に雄性生殖細胞として原始的な精子を持つということは、進化的に見てシダ植物と種子植物の中間的な位置にあるということを示している。この業績は1868年の明治維新以降、欧米に学んで近代科学を発展させようとした黎明期において、世界に誇る研究として国際的にも高く評価された。後年、平瀬はこの功績によって学士院恩賜賞を授与されている。加藤 (1999) は、当時植物園教室は小石川植物園内にあり、身近にイチョウが植えられて研究材料として簡単に利用できる状態であったということが、この研究の一助となったとしている。精子の発見された樹は樹高25 m、直径約1.5 m の雌木であり、今日も小石川植物園に現存している。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では北海道から沖縄県まで広く植栽されている。北半球ではメキシコシティからアンカレッジ、南半球ではプレトリアからダニーデンの中・高緯度地方に分布し、極地方や赤道地帯には栽植されない。年平均気温が0–20°Cの降水量500–2000 mmの地域に分布している。IUCNレッドリスト1997年版で希少種 (Rare) に、1998年版で絶滅危惧(絶滅危惧II類)に評価された。",
"title": "分布と伝播"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "自生地は確認されていないが中国原産とされる。中国でも10世紀以前に記録はなく、古い記録としては、欧陽脩が『欧陽文忠公集』(1054年)に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる。それに先立ち、現在の中国安徽省宣城市付近に自生していたものが、11世紀初めに当時の北宋王朝の都があった開封に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である。中国の安徽省および浙江省には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている。",
"title": "分布と伝播"
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"text": "その後、仏教寺院などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には古墳・飛鳥時代説、奈良・平安時代説、鎌倉時代説、室町時代説など諸説あるものの、憶測や風説でしかないものも混じっている。六国史や平安時代の王朝文学にも記載がなく、鶴岡八幡宮の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため、1200年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている。行誉により1445年頃に書かれた問答式の辞書『壒嚢鈔』には深根輔仁『本草和名』(914年)にも記述がないとある。",
"title": "分布と伝播"
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"text": "1323年(至治3年)に当時の元の寧波から日本の博多への航行中に沈没した貿易船の海底遺物のなかからイチョウが発見されている。1370年頃に成立したとみられる『異制庭訓往来』が文字資料としては最古と考えられる。そのため、1300年代に貿易船により輸入品としてギンナンが伝来したと考えられる。南北朝時代の近衛道嗣の日記『愚管記』(1381年)には銀杏の木について、室町時代の国語辞書『下学集』(1444年)にも樹木として記載がある。また、15世紀の『新撰類聚往来』 には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し、1500年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる。",
"title": "分布と伝播"
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"text": "幹周 8 m 以上の巨樹イチョウの日本列島における分布は、東日本89本(雄株81・雌株8)、中部日本21本(雄株15・雌株6)、西日本50本(雄株24・雌株26)となっている。",
"title": "分布と伝播"
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"text": "ヨーロッパには1692年、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から始まり、オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園で栽培され、開花したという。1730年ごろには生樹がヨーロッパに導入され、18世紀にはドイツをはじめヨーロッパ各地での植栽が進み、1815年にはゲーテが『銀杏の葉 (Gingo biloba)』と名付けた恋愛詩を記している。",
"title": "分布と伝播"
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"text": "木材としての知名度は低い。組織は針葉樹のものと似ている。材は黄白色で、心材と辺材の色の差はほとんどない。早材と晩材の差が少ないため、年輪ははっきりとせず広葉樹材のようであり、材は緻密で均一、柔らかいため加工性に優れる。肌目は精で、木理は通直で、反曲折裂および収縮が少なく、歪みが出にくい良材である。木材の中に異形細胞をもち、その中に金平糖型のシュウ酸カルシウムを含む。気乾比重は0.55で、やや軽軟で、耐久性は低い。器具・建具・家具・彫刻、カウンターの天板・構造材・造作材・水廻りなど広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされる。ただし、カヤに比べ音が良くないため評価は低い。その他、古くは鶏屋のまな板に好まれた。用材はほかに和服の裁ち板としても使われる。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "土地を選ばず生育し、萌芽力がさかんで、病虫害が少なく、強い剪定にも耐えるため、庭園樹、公園樹、街路樹、防風樹、防火樹などとして植栽される。日本では庭園や公園に植栽されたり、寺社の境内にも多く植えられる が、大規模な造林地になっているものはない。古い社寺の境内には樹齢数百年を経たと称される「大銀杏」が多くみられる。外国の植物園でもよく見られる。盆栽にも利用される。盆栽は実生または挿し木によって作られる。チチイチョウはよく盆栽につくられる。高木になるため庭木としての利用は少ないが、成長が遅いチチイチョウは庭木としても用いられる。",
"title": "利用"
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"text": "また、樹皮が厚く、コルク質で気泡があるため、耐火力に優れているとみなされ、防火植林に用いられる。江戸時代の火除け地に多く植えられた。大正時代の関東大震災の際には延焼を防いだ例もあったため、防災を兼ねて次項で記載する街路樹にイチョウが多く植えられるようになったという。これを提案したのは造園家の長岡安平であったことが、2019年12月27日放送の『チコちゃんに叱られる!』で取り上げられた。",
"title": "利用"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "病害や虫害がほとんどなく、黄葉時の美しさ と、大気汚染や剪定、火災に強いという特性 から、街路樹としても利用される。黄葉したイチョウはいちょうもみじ(銀杏黄葉)と呼ばれ、並木道などは秋の風物詩となる。2007年の国土交通省の調査によれば、街路樹として57万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京都の明治神宮外苑や、大阪市御堂筋の街路樹 などが、銀杏並木として知られている。大阪を代表する御堂筋のイチョウ並木は、1966年時点で樹齢約50年、867本(うち雌株111本)あった。雌株では秋期に落下した種子(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある。移植は容易で、大木であっても移植することができる。",
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{
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"text": "日本には樹齢1,000年以上と称されるイチョウの巨樹が各地にある。そのため、ソテツと同様に天然記念物に指定され保護されているものも多い。社会や文化とのかかわりの項も参照。",
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "イチョウの葉や種子は古くから薬用に利用され、中国の『神農本草経』や『本草綱目』に遡る。健康な一般成人では、イチョウは適切な量(1、2粒程度)であれば食用として安全である。しかし生もしくは加熱したイチョウ種子は、有毒であり深刻な副作用を起こす可能性がある。",
"title": "利用"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "イチョウの種子は、銀杏(ぎんなん)といい、硬い種皮の内表皮(殻)の中に含まれる胚乳(さね、核、仁)が食用となる。実と説明されることもある が、果実ではない。これを食用とするのは日本や中国など、東アジアにおける習慣である。これは中国の本草学図書である『紹興本草』(1159年)にも記載される。薬用(漢方)として利用されていたことが、明代の龔廷賢が1581年に著した『萬病回春』に記されている。鎮咳作用があるとされる。",
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "仁は直径1 cm程度の紡錘形 で、新鮮な状態では光合成色素のクロロフィルの存在により緑色を呈するが、収穫後は殻付きで保存しても常温に置くと短期間のうちに黄色に褪色化する。加熱により半透明の鮮やかな緑色になるが、加熱を続けると微酸性である死んだ細胞の内容物との作用でクロロフィルのマグネシウムがはずれ、黄褐色のフェオフィチンとなる。",
"title": "利用"
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"text": "食材としての旬の時期は秋(9–11月)で、雌株の下に落ちているイチョウの実(正確には種子)を拾ったら、周囲の外種皮部分を取り除き、よく洗って乾燥させる。旬に先走って収穫される「走り」のぎんなんは、翡翠に似た鮮やかな緑色を呈し、やわらかく匂いも少ないことから通常の時期に収穫されるものより高級とされる。茶碗蒸しやおこわなどの具に使われたり、煮物や鍋物、揚げ物、炒め物など広汎な料理に用いられ、酒の肴としても用いられる。和食料理のあしらいとして欠かせない食材で、殻は割り、渋皮は弱火で炒るか、ゆでるときれいにむける。韓国では、露店でも炒った銀杏を販売している。加工品としては砂糖漬やオリーブ油漬、水煮などの瓶詰や缶詰が売られている。ただし、独特の苦味 および種皮の外表皮には悪臭 がある。秋の食材だが、加熱して真空パック詰めにした商品は年中手に入る。銀杏を保存するときは殻付きのままビンや袋に入れて、冷蔵しておけば数か月は保存できる。",
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{
"paragraph_id": 54,
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"text": "栄養素としてデンプンが豊富に含まれ、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。ほかにもレシチンやエルゴステリン、パントテン酸、カリウム、カロテン、ビタミンC、ビタミンB1も含有している。銀杏の食用部分にはメチルピリドキシンという成分が含まれていて、大量に食べると、まれに食中毒による痙攣を引き起こすこともある。このため、銀杏を食べ過ぎないことと、5歳以下の幼児には食べさせないように注意喚起されている。",
"title": "利用"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "銀杏は古くは米の凶作時の備蓄食糧に使われたといわれており、今日では日本全土で生産されているが、特に愛知県稲沢市(旧:中島郡祖父江町)は銀杏の生産量日本一である。ぎんなん採取を目的としたイチョウの栽培は1841年(天保11年)、祖父江町に富田栄左衛門がのちの「久寿(久治)」となるイチョウ苗を植えたことに始まるとされる。愛知県ではぎんなん収穫用に畑で低く仕立てられ、栽培される。佐賀県でも嬉野市の塩田町でウンシュウミカンからの転作としてよく栽培される。ぎんなんの収穫・流通を目的とした栽培品種があり、大粒晩生の「藤九郎」、大粒中生の「久寿(久治)」(くじゅ)、大粒早生の「喜平」、中粒早生の「金兵衛」(きんべえ)、中粒中生の「栄神」などが主なものとして挙げられる。「藤九郎」は岐阜県瑞穂市(旧穂積町)、「久寿(久治)」「金兵衛」「栄神(栄信)」は愛知県稲沢市(旧祖父江町)、「長瀬」は愛知県海部郡発祥の品種である。",
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{
"paragraph_id": 56,
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"text": "イチョウの種子が熟すと肉質化した種皮の外表皮が異臭を放ち、素手で直接触れるとかぶれやすい。異臭の主成分は下記の皮膚炎の原因となるギンコール酸である。異臭によりニホンザル、ネズミなどの動物は食べようとしないが、アライグマは食べると言われている。この外表皮を塗ると黒子が取れるとする薬効が『昭興本草』(1159年)にある。また銀杏にはアナカルド酸が含まれ、Nostoc 属シアノバクテリアの糸状体に対して強力な殺菌活性を有しながらも、毒性を示さない極低濃度では明瞭なホルモゴニア分化誘導活性を示す。",
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "イチョウの種子は皮膚炎及び食中毒を起こすことが知られている。1379年の『種樹書』にはすでに銀杏に毒性のあることが記載されている。銀杏中毒になる危険性があるため、日本では「歳の数以上は食べてはいけない」という言い伝えがある。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 58,
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"text": "種皮の外表皮には乳白色の乳液があり、それにはアレルギー性皮膚炎を誘発するギンコールやビロボールといったギンコール酸(ギンゴール酸)と呼ばれるアルキルフェノール類の脱炭酸化合物を含んでいる。これはウルシのウルシオールと類似し、かぶれなどの皮膚炎を引き起こす。イチョウの乾葉は、シミなどに対する防虫剤として用いられる。これは、ギンコール・ギンコール酸が葉にも含まれているからである。",
"title": "利用"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "食用とする種子にはビタミンB6の類縁体4'-O-メチルピリドキシン (4'-O-methylpyridoxine, MPN) が含まれている が、これはビタミンB6に拮抗して(抗ビタミンB6作用)ビタミンB6欠乏となりGABAの生合成を阻害し、まれに痙攣などを引き起こす。銀杏の大量摂取により中毒を発症するのは小児に多く、成人では少ない。大人の場合かなりの数を摂取しなければ問題はないが、1日5–6粒程度でも中毒になることがあり、特に報告数の70%程度が5歳未満の小児である。小児では7個以上、大人では40個以上の摂取で発症するとされる。",
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"paragraph_id": 60,
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"text": "太平洋戦争前後などの食糧難の時代に中毒報告が多く、大量に摂取したために死に至った例もある。1960年代以降銀杏中毒は減少に転じ、1970年代以降死亡例はない。上記の通りビタミンB6欠乏により中毒が起こるため、食糧事情の改善に伴う栄養状態の改善により減少したと考えられている。",
"title": "利用"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "症状は主に下痢、嘔気、嘔吐等の消化器症状および縮瞳、眩暈、痙攣や振戦等の中枢神経症状で、加えて不整脈や発熱、呼吸促拍等の症状も報告されている。",
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"paragraph_id": 62,
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"text": "イチョウ葉にはフラボノイド、テルペノイド、アルキルフェノール類が含まれる。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "主要なフラボノイド成分はビフラボン、フラボノール、フラボンであり、このうちイチョウ葉エキスのビフラボン含有量は僅かである。ビフラボンはアメントフラボン、アメントフラボンの誘導体であるビロベチン、ギンクゲチン、イソギンクゲチン、シアドビチシン、5'-メトキシビロベチンが含まれている。フラボノール及びフラボノール配糖体は約20種が含まれており、主要なアグリコンはケンフェロール、ケルセチン、イソラムネチン、ミリセチンなどで、配糖体の糖部に多いのはグルコース、ラムノース、ルチノースなどである。また、2種類のプロアントシアニジンも報告されており、イチョウ葉エキスには約7%含まれている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "テルペノイドにはともにイチョウに特有な物質であるギンコライドおよびビロバライドがあり、イチョウ葉エキス中には前者2.9%、後者3.1%が含まれている。ギンコライドはtert-ブチル基を持ち、6個の5員環からなる「籠型構造」を有するジテルペンである。これまでにギンコライドA、ギンコライドB、ギンコライドC、ギンコライドJ、ギンコライドMの5種類が見つかっている。ただしこのうちギンコライドMは根皮のみから見つかっている。ビロバライドもtert-ブチル基を持つが、4個の5員環を持つセスキテルペンである。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アルキルフェノール類であるギンコール酸は葉にも含まれる。ギンコール酸はヒトの癌細胞に対する増殖抑制作用が知られている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "イチョウ葉エキスの生理作用は主に抗酸化作用と血液凝固抑制作用、神経保護作用、抗炎症作用であり、その他、血液循環改善作用、血圧上昇抑制作用、血糖上昇抑制作用の報告もある。",
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},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "イチョウ葉エキス中のフラボノイド類には、脂質過酸化、血小板凝集、炎症反応などに関係する活性酸素やフリーラジカルの消去作用、血小板凝集の阻害効果、炎症細胞からの活性酸素産生の抑制作用が認められる。イチョウ葉エキスEGb761はヒドロキシラジカル、ペルオキシラジカル、スーパーオキシドラジカルに対して消去作用を示すことが知られている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、イチョウ葉エキスの中のギンコライドBは特異的な血小板活性化因子の阻害物質ということが確認され、脳梗塞や動脈硬化の予防の効果が期待されている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "中国では古くから薬用に用いられていたが、イチョウ葉エキスが現代医学において効果があると示されたのは1960年代、ドイツの製薬会社で開発されたイチョウ葉エキスが脳や末梢の血流改善に使用されたことに端を発する。ただし中国でもイチョウ葉を薬用とするようになったのはおそらく清朝以降であると考えられている。『本草品彙精要』には胸悶心痛や激しい動悸、痰喘咳嗽、水様の下痢、白帯を治すとある。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "EGb761というイチョウ葉エキスを用いた臨床試験において、記憶力衰退の改善、認知症の改善、眩暈や耳鳴り、頭痛など脳機能障害の改善、不安感の解消などの有効性が報告されている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "しかし、イチョウ葉エキスの効果に関する信頼性の高い研究はほとんどない。アメリカ国立補完統合衛生センター(NCCIH)はイチョウ葉エキスの効果に対して否定的な態度を示しており、「イチョウがさまざまな健康上の問題に関して、有用であるという決定的な科学的証拠は存在しない」「認知症もしくは認知機能低下の予防や緩和、高血圧、耳鳴り、多発性硬化症、季節性情動障害、および心臓発作や脳卒中のリスクに対しては、イチョウは有用ではないことが、示唆されている」と述べている。これは、NCCIHによって行われた大規模なRCT実験(被験者3000人)を含む研究に基づいている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "日本と欧米では製造方法が異なり、日本では健康食品として使用されるため食品衛生法の規制により、エタノール抽出が行われるが、欧米ではアセトン抽出が行われている。欧米のアセトン抽出によるイチョウ葉エキスはEGb761というコードネームがつけられ、この薬理学研究は多数行われている。イチョウ葉エキスで特定されている成分は、含量がエキス全体の半分にも満たないフラボノイドやテルペノイドなどであるため、フラボノイドやテルペノイドなどの含有量が同じであってもアセトン抽出品とエタノール抽出品が同等かどうかの判断はできない。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "雑誌などでイチョウ葉茶の作り方が掲載されることがあるが、イチョウ葉を集めてきて、自分で調製したお茶にはかなり多量のギンコール酸が含まれると予想され、推奨されない。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ドイツでは、フラボノイド22–27%、テルペノイド5–7%(ビロバライド2.6–3.2%、ギンコライドA, B, C 2.8–3.4%)、ギンコール酸5 ppm以下の規格を満たすイチョウ葉エキスが医薬品として認証されており、日本においても公益財団法人 日本健康・栄養食品協会がイチョウ葉エキス食品に対し、イチョウ葉エキスを20 mg以上含有し、ギンコール酸を5 ppm以下とするよう基準を設けている。しかし、同協会の認証を受けていない商品についてはそういった基準はない。なお、イチョウ葉は日本からドイツやフランスへ輸出されている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "日本では、イチョウ葉を素材とした健康食品は食品として流通している が、医薬品として認可されておらず、食品であるため効能を謳うことはできない。しかし、消費者に対し過大な期待を抱かせたり、医薬品医療機器等法で問題となるような広告も散見される。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "国民生活センターのレポートによると、アレルギー物質であるギンコール酸、有効物質であるテルペノイド、フラボノイドの含有量には製法と原料由来の大きな差がみられる。また、「お茶として長時間煮詰めると、ドイツの医薬品規格以上のギンコール酸を摂取してしまう場合がある」とし、異常などが表れた場合は、すぐに利用を中止し医師へ相談するよう呼び掛けている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "医薬品規格を満たすイチョウ葉エキスについては、適切に用いれば経口摂取でおそらく安全と評価されている。240 mg以上のイチョウ葉エキスの摂取や医薬品規格を満たさないものについては、安全性は明確になっていない。副作用として、胃腸障害、頭痛やめまい、動機、皮膚のアレルギー症状、血液凝固抑制薬(ワルファリンやアスピリン)との併用による出血の恐れが高まることなどが知られている。まれな副作用としては、スティーブンス・ジョンソン症候群、下痢、吐き気、筋弛緩、発疹、口内炎などが報告されている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "イチョウ葉エキスには血液の抗凝固促進作用があり、アスピリンなど抗凝固作用を持つ薬との併用には注意を要する。インスリン分泌にも影響を及ぼすため、糖尿病患者が摂取する場合は医師と相談した方がよい。また、抗うつ剤や肝臓で代謝されやすい薬(CYP2C9、CYP1A2、CYP2D6、CYP3A4の基質となる医薬品)も相互作用が生じる可能性がある。原因は明らかでないものの、トラゾドンとイチョウ葉エキスを摂取した高齢のアルツハイマー病患者が、昏睡状態に陥った例も報告されている。利尿剤との併用により、高血圧を起こしたとの報告も1例ある。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "イチョウは日本では神社や寺院などに多く植栽され、全国的に、民家に植えるのはどちらかといえば忌み嫌われる傾向にある。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "イチョウに関しては多くの伝承が伝わっている。「杖銀杏」とは、空海や親鸞、日蓮といった高僧・名僧が携えた杖を地面に刺したものが成長し、根を張り、枝葉を生じたというもので、東京都港区麻布善福寺の「善福寺のイチョウ」(国の天然記念物)、山梨県南巨摩郡身延町の「上沢寺のオハツキイチョウ」(国の天然記念物)などはその一例である。また、しばしば見かける「逆さ銀杏」とは枝葉が下を向いて生えることを称しており、「善福寺のイチョウ」「上沢寺のイチョウ」のほか、京都市下京区の「西本願寺の逆さイチョウ」(京都市天然記念物)などが有名であるが、それ以外にも全国各地に点在している。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "古いイチョウの樹に生じる気根にふれたり、気根を削って煎じたものを飲んだりすると乳の出がよくなるという「乳イチョウ」の古木も全国各地にみられる。川崎市の影向寺のイチョウや仙台市宮城野区の「苦竹のイチョウ(姥銀杏)」(宮城県天然記念物)、富山県氷見市の「上日寺のイチョウ」(国の天然記念物)、千葉県勝浦市の「高照寺の乳イチョウ」(千葉県天然記念物)が特に知られている。青森県西津軽郡深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」(国の天然記念物)は「垂乳根(たらちね)の公孫樹」とも呼ばれて崇敬されてきた樹で、母乳の不足する女性が青森県内はもとより秋田県や北海道からも願掛けに訪れ、気根にお神酒と米を供えて祈る風習が1980年代半ばまで続いていたといわれる。徳島県板野郡上板町の乳保神社のイチョウ(国の天然記念物)も「乳イチョウ」で、これは神社名の由来になった樹木であり、神木である。ここでは気根の先を白紙で結んでおくと病気平癒や乳の出がよくなるといった御利益があると信じられてきた。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "「子授け銀杏」には、東京都豊島区法明寺鬼子母神堂境内のイチョウが知られ、その木を女性が抱き、その葉や樹皮を肌につけると子宝が授かるという伝承がある。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "「泣き銀杏」には、千葉県市川市の弘法寺のイチョウが有名で、弘法寺1世日頂が養父富木常忍の勘当を受けて、この木の周りを泣きながら読経したという伝承に由来する。各地の「泣き銀杏」の伝承には、さまざまなタイプがある。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "明治年間、日比谷通りの拡幅工事が実施されてイチョウの木が伐採されようとしたとき、造園家の本多静六が「私の首をかける」として伐採に反対したのが、東京都千代田区の日比谷公園内にある「首かけイチョウ」である。日比谷公園は、1903年に本多によって造園され、イチョウは25日かけてレールを用いて同地に移植された。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "小説家の橋本治は、東大紛争のさなかの1968年(昭和43年)、東京大学在学中に、東京大学駒場祭のポスターに「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打っている。それは、背中に銀杏のバッジを刺青風に描いたヤクザ風の男のセリフであり、勘亭流で書かれたものであった。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "イチョウは火災に強く、生命力が旺盛なところから「復興のシンボル」とされることがある。千代田区大手町の「震災イチョウ」は1923年の関東大震災にともなう周囲の火災から唯一焼失を免れた個体であり、栃木県宇都宮市の旭町の大いちょうも1945年の宇都宮空襲で被災し、いったんは焼け焦げたものの、翌春に芽吹いたものである。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "世界的には上述したように、ドイツのヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの恋愛詩「銀杏の葉」 Gingo biloba(1815) (『西東詩集』「ズライカの書」所収)が知られるが、宮沢賢治の童話に『いてふの実』という作品がある。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "短歌としては、次の歌が有名である。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "山川登美子・増田雅子との合著詩歌集『恋衣』に収載されている短歌である。何百、何千というイチョウの葉が夕日のなかを舞い散るさまは、まるで、おびただしい数の鳥が飛び交うようだという、きわめて鮮やかな視覚的イメージを読者にあたえ、上句よりどこか童画のような印象も呼び起こされる秀歌である。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "俳句においては、「銀杏(ぎんなん)」の季語は秋である。また、「銀杏散る(いちょうちる、いてふちる)」「銀杏黄葉(いちょうもみじ、いてふもみぢ )」はともに晩秋の季語、「銀杏落葉(いちょうおちば、いてふおちば)」は初冬の、「銀杏の花」は晩春のそれぞれ季語となっている。晩秋に黄葉して、それが散って路面に敷かれると、あたりがたいへん明るくなり、それを詠んだ句もある。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "日本三名城の一つ熊本城は、別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」と呼ばれている。これは加藤清正が熊本城を築城した際、天守の傍にイチョウが植えられたためとされる。現在生えているイチョウは二代目である。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "これが機縁となって熊本市の木は銀杏となっており、熊本市は「銀杏の都」と呼ばれることがある。熊本大学の校章にもイチョウが用いられており、熊本市にはかつて銀杏学園短期大学という私立短期大学もあった。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 93,
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"text": "かつて鹿児島本線で運行していた急行列車「ぎんなん」(475系急行)、2018年11月30日まで北九州-熊本間を運行していた高速バス「ぎんなん号」 などは、それに由来する。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
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{
"paragraph_id": 94,
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"text": "賀茂御祖神社(下鴨神社)の祝として知られる日本の姓氏に鴨脚(いちょう)氏がある。幕末期に孝明天皇に仕えた鴨脚克子などが知られる。また銀杏(いちょう、ぎんなん、ぎんな)氏という姓氏もある。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
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"text": "イチョウの葉を象った紋所は「銀杏(いちょう)」として古くから用いられた。公家では、藤原北家花山院流の飛鳥井家のみが用いており、当主が十六葉、嗣子が十二葉、庶子が六葉、一門が八葉の銀杏を図案化した紋を用い、家臣に賜与するものには三葉を用いるなどの規則があった。武家では、越前国鯖江藩の藩主であった間部氏が「丸に三つ引両」とともに「三つ銀杏」を使用した。また、源義仲の末裔を称し、関東管領上杉氏に仕えた大石氏が「銀杏の二葉」だったとの記録がある。江戸幕府の旗本では、間部・大石氏のほか、岸・土方・林・町田・大柴・渋江・水島・森・平田・藤野・竹村・坪内・大岡・青木・大熊・長谷部の諸氏が銀杏紋を用いた。なお、沼田頼輔『日本紋章学』には、徳川氏が葵紋を家紋とする以前は銀杏紋を家紋としていたのではないかという見解が記されている。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 96,
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"text": "ユニークなものでは、銀杏の葉を飛んでいる鶴の形に図案化した銀杏鶴(いちょうづる)という紋所が知られ、江戸の歌舞伎小屋中村座の定紋となっている。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
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"text": "女性の髪の結い方で、髻(もとどり)を二分し、左右に曲げてそれぞれ輪を作り毛先を元結で根に結んだ髪型を銀杏返し(いちょうがえし)と呼ぶ。この髪型は江戸中期から少女の髪形として行われ、明治以降は中年向きの髪形となった。また、島田髷の髷の先を銀杏の葉の形に広げたものを銀杏髷(いちょうまげ、いちょうわげ)と呼び、この髷の中に浅葱色または紫の無地の縮緬を巻き込んだものを銀杏崩し(いちょうくずし)と呼ぶ。ただし、銀杏髷は江戸時代の男性の髷である銀杏頭(いちょうがしら)のことを指すこともある。これは二つ折りにした髻の刷毛先を銀杏の葉のように広げたものである。武家の結い方で、髷の刷毛先を銀杏葉形に大きく広げた結い方を大銀杏(おおいちょう)と呼び、現在では相撲で十両以上の力士が行う。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
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{
"paragraph_id": 98,
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"text": "イチョウの特徴的な葉の形を銀杏形(いちょうがた)といい、上記の紋所や髪型の呼称として親しまれてきた。ほかにも特徴的な葉の形になぞらえ、様々なものの命名に用いられてきた。たとえば、野菜を縦十文字に四つ割りにすることを銀杏切り(いちょうぎり)という。また、末広の膳の足を銀杏脚(いちょうあし)、末広の下駄の歯を銀杏歯(いちょうば)という。 雄のオシドリ Aix galericulata (Linnaeus, 1758)の両脇の羽はイチョウの葉に似るため「銀杏羽(いちょうば)」と呼ばれる。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
{
"paragraph_id": 99,
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"text": "遊助(上地雄輔)の楽曲に「いちょう」がある。演芸番組『笑点』の大喜利では、レギュラー出演者の三遊亭小遊三が、解答の際に銀杏拾いのネタをよく用いる。",
"title": "社会や文化とのかかわり"
},
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"paragraph_id": 100,
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"text": "日本においては、本種は馴染み深い木である。そのため、各自治体のシンボルマークや市町村の木、校章などに採用されてきた。",
"title": "自治体等の木"
}
] |
イチョウは、裸子植物で落葉性の高木である。日本では街路樹や公園樹として観賞用に、また寺院や神社の境内に多く植えられ、食用、漢方、材用 としても栽培される。樹木の名としてはほかにギンキョウ(銀杏)、ギンナン(銀杏) やギンナンノキ と呼ばれる。ふつう「ギンナン」は後述する種子を指す ことが多い。 街路樹など日本では全国的によく見かける樹木であり、特徴的な広葉を持っているが広葉樹ではなく、裸子植物ではあるが針葉樹ではない。 世界で最古の現生樹種の一つである。イチョウ類は地史的にはペルム紀に出現し、中生代(特にジュラ紀)まで全世界的に繁茂した。世界各地で葉の化石が発見され、日本では新第三紀漸新世の 山口県の大嶺炭田からバイエラ属 Baiera、北海道からイチョウ属の Ginkgo adiantoides Heer. などの化石が発見されている。しかし新生代に入ると各地で姿を消し日本でも約100万年前に絶滅したため、本種 Ginkgo biloba L. が唯一現存する種である。現在イチョウは、「生きている化石」として国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストの絶滅危惧種 (Endangered)に指定されている。 種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を銀杏(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは後述)。
|
{{Otheruseslist|'''樹木'''|[[江戸時代]]の[[男性]]の[[髷]]|銀杏髷|[[紋章]]([[家紋]])|銀杏 (家紋)}}
{{生物分類表
|色 = lightgreen
|名称 = イチョウ
|画像 = [[File:Ginkgo Biloba Leaves - Black Background.jpg|280px]]
|画像キャプション = イチョウの葉
|status_ref = <ref name="IUCN">{{cite web|last=Sun|first=W.|date=1998|url=https://doi.org/10.2305/IUCN.UK.1998.RLTS.T32353A9700472.en|title= ''Ginkgo biloba''|website=The IUCN Red List of Threatened Species 1998|accessdate=2018-07-29}}{{doi|10.2305/IUCN.UK.1998.RLTS.T32353A9700472.en}}.</ref>
|status = EN2.3
|status_system = iucn2.3
|界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}}
|門 = [[維管束植物門]] {{sname||Tracheophyta}}
|亜門 = [[大葉植物]]亜門 {{sname||Euphyllophytina}}<ref group="註">[[#上位分類]]も参照</ref>
|亜門階級なし = {{生物分類表/階級なし複数
|[[種子植物]] {{sname||Spermatophyta}}
|[[裸子植物]] {{Sname||Gymnospermae}} }}
|綱 = [[イチョウ類|イチョウ綱]] {{Sname||Ginkgoopsida}}
|目 = [[イチョウ目]] {{Sname||Ginkgoales}}
|科 = [[イチョウ科]] {{Sname||Ginkgoaceae}}
|属 = [[イチョウ属]] {{Snamei||Ginkgo}}
|種 = '''イチョウ''' {{Snamei|G. biloba}}
|学名 = '''''Ginkgo biloba''''' {{small|{{AUY|L.|1771|bio=bot}}}}<ref name="IUCN"/><ref>{{cite web|url=http://www.tropicos.org/Name/14100001|title=Ginkgo biloba L.|website=Tropicos|accessdate=2013-11-01}}</ref>
|和名 = イチョウ
|英名 = {{lang|en|[[:en:Ginkgo|Ginkgo]], Maidenhair Tree}}
|下位分類名 = [[変種]]、[[栽培品種]]
|下位分類 = {{Center|[[#分類学上の位置|本文参照]]}}
}}
[[画像:Ginkgo Tree 08-11-04a.jpg|thumb|right|黄葉した秋のイチョウ]]
'''イチョウ'''('''銀杏'''<ref name="Kojien">[[#Kojien|新村 2008]], p.170</ref><ref name="Shincho">[[#Shincho|新潮社 2007]], p.2298</ref>、'''公孫樹'''<ref name="Kojien"/><ref name="Shincho"/>、'''鴨脚樹'''<ref name="Kojien"/><ref name="Shincho"/><ref name="Shincho-kamo">[[#Shincho|新潮社 2007]], p.2518</ref>、[[学名]]:{{Snamei||Ginkgo biloba}})は、[[裸子植物]]で[[落葉]]性の[[高木]]である<ref name="scan" />。日本では[[街路樹]]や公園樹として観賞用に<ref name="scan" /><ref name="conifer"/><ref name="trees">[[#trees|鈴木 2005]], p.114</ref><ref name="yamakei"/>、また寺院や神社の境内に多く植えられ<ref name="scan" /><ref name="conifer"/><ref name="trees"/>、食用<ref name="conifer"/>、漢方<ref name="NCCIH" /><ref name="Kinoshita1"/>、材用<ref name="woods"/> としても栽培される。樹木の名としてはほかに'''ギンキョウ(銀杏)'''<ref name="kanjigen">[[#Kanjigen|藤堂ほか 2007]], p.1636</ref>、'''ギンナン(銀杏)'''<ref name="Shincho"/> や'''ギンナンノキ'''<ref name="homegarden">[[#homegarden|船越・小林 1994]], pp.14–15</ref> と呼ばれる。ふつう「ギンナン」は[[#種子|後述]]する種子を指す<ref name="yamakei"/><ref name="hori"/> ことが多い。
[[街路樹]]など日本では全国的によく見かける樹木であり<ref name="yamakei"/>、特徴的な広葉を持っているが[[広葉樹]]{{refnest|group=註|形態的には幅広い葉を持つ木を指し、具体的には被子植物の双子葉類の樹木を意味する<ref name="hardwood"/>。}}ではなく<ref name="hardwood">[[#glossary|清水 2001]], p.23</ref>、裸子植物ではあるが[[針葉樹]]ではない<ref name="hardwood"/>。
世界で最古の現生樹種の一つである<ref name="NCCIH" />。イチョウ類は地史的には[[ペルム紀]]に出現し<ref name="Suzuki">[[#Suzuki|鈴木 2002]], pp.203–204</ref><ref name="iwanami">[[#iwanami|巌佐ほか 2013]], p.74</ref>、[[中生代]](特に[[ジュラ紀]]<ref name="garden"/>)まで全世界的に繁茂した<ref name="conifer"/><ref name="iwanami"/><ref name="genshoku"/>。世界各地で葉の[[化石]]が発見され、日本では[[新第三紀]][[漸新世]]の<ref name="iwanami"/> 山口県の[[大嶺炭田]]から[[バイエラ属]] {{snamei||Baiera}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/db/tigaku/t_1-2_01.html|publisher=[[山口県立山口博物館]]|title=山口県の化石|accessdate=2020-04-19}}</ref>、北海道からイチョウ属の {{snamei||Ginkgo adiantoides}} {{AU|Heer.}} などの化石が発見されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jpaleodb.org/hierarchy/index.php?Kingdom=Plantae&Phylum=Ginkgophyta&Class=Ginkgoopsida&Order=Ginkgoales&Family=Ginkgoaceae&Genus=Ginkgo|title=Ginkgo 属|publisher=日本古生物標本横断データベース|accessdate=2020-04-19}}</ref>。しかし[[新生代]]に入ると各地で姿を消し日本でも約100万年前に絶滅したため<ref name="Suzuki"/>、本種 {{Snamei||Ginkgo biloba}} [[:en:Carl Linnaeus|L.]] が唯一現存する種である<ref name="iwanami"/>。現在イチョウは、「[[生きている化石]]」<ref name="sogame"/>{{Sfn|西田|2017|pp=198–199}}として[[国際自然保護連合]] (IUCN)の[[レッドリスト]]の[[絶滅危惧種]] ({{lang|en|Endangered}})に指定されている<ref name="IUCN"/>。
種子(あるいはそのうち種皮の内表皮および胚珠)を'''銀杏'''(ぎんなん)というが、しばしばこれは「イチョウの“実”」と呼ばれ、食用として流通している<ref name="Kojien"/><ref name="yamakei"/><ref name="kanji-etym2007"/>。銀杏は、中毒を起こし得るもので死亡例も報告されており、摂取にあたっては一定の配慮を要する(詳しくは[[#食用|後述]])。
{{TOC limit|3}}
== 名称・呼称 ==
=== 「イチョウ」 ===
[[中国語]]で、葉の形を[[アヒル]]の足に見立てて鴨脚と呼ぶので、そこから[[転訛|転じた]]とする説がある<ref name="Kojien"/><ref name="homegarden"/><ref name="genshoku"/>。加納 (2008)では、「{{lang|zh|鴨脚}}」の[[中古音|中世漢語]] {{IPA2|ia-kiau}} の訛りであるとされる<ref name="kanji-etym2007">[[#kanji-etym2007|加納 2007]], pp.119–120</ref><ref name="kanji-etym2008">[[#kanji-etym2008|加納 2008]], pp.18–19</ref>。亀田 (2014) では、「鴨脚」の中国語読みイーチャオとして日本に伝わったとしている{{sfn|亀田|2014|p=68}}。しかし、[[室町時代]]の国語辞典『[[下学集]]』では、「銀杏」の文字に「イチヤウ」および「ギンキヤウ」と振り、その異名に挙げる「鴨脚」には「アフキヤク」と振られており、イチヤウはあくまでも銀杏の音としてギンキヤウと併記され、鴨脚の音とはされていない<ref name="mayanagi"/>。なお、{{lang|zh|鴨脚}}の名は中国では11世紀の[[梅堯臣]]([[1002年]]–[[1060年]])や[[欧陽脩]]([[1007年]]–[[1072年]])の詩に見られ、その種子は「{{lang|zh|'''鴨脚子'''}}」と呼ばれていた<ref name="historical"/>。
それに対し、「イチョウ」の語は「銀杏」の[[明]]代の[[近古音]]([[唐音]])が転じたものとする説もある<ref name="Kojien"/><ref name="kanjigen"/>。[[1481年]]頃に成立した[[一条兼良]]の『[[尺素往来]]』や[[1486年]]の『[[類集文字抄]]』、[[1492年]]頃の『[[新撰類聚往来]]』にも「鴨脚」はなく、「銀杏」に「イチヤウ」とのみ振られており、これを支持する<ref name="mayanagi"/><ref name="historical"/>。「いちょう」の[[歴史的仮名遣]]は「いちやう」であるが、もとは「いてふ」とする例が多かった<ref name="Shincho"/>。この「いてふ」という仮名は「一葉」に当てたからだとされる<ref name="Kojien"/>。1450年頃に成立した『[[長倉追罰記]]』には[[幕|幔幕]]に描かれた家紋について「[[大石氏|大石]]の源左衛門はいてうの木」と表記される<ref name="historical"/>。
=== 「ギンナン」 ===
[[種子]]は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが、11世紀前半に上記「{{lang|zh|鴨脚子}}」から[[入貢]]のため改称され、用いられるようになったと考えられる<ref name="historical"/>。明代[[李時珍]]著『[[本草綱目]]』に記載されている「銀杏」は、銀杏の初出が[[呉端]]の『[[日用本草]]』([[1329年]])であるとする<ref name="Ryukoku">{{Cite web|和書|url=http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/shiryoukan/me112.html|author=真柳誠|title=目で見る漢方史料館(112) 現存唯一の元『[家伝]日用本草』八巻本-龍谷大学所蔵の貴重本より|work=漢方の臨床 44巻9号|pages=1058–1060|date=1997-09|accessdate=2020-05-26}}</ref>。漢名の「銀杏」は種子が白いためである<ref name="kanji-etym2007"/>。「銀杏」の[[中古音|中世漢語]]は{{IPA2|iən-hiəng}}であり<ref name="kanji-etym2008"/>、銀杏の唐音である『ギンアン』が転訛し([[連声]])、ギンナンと呼ばれるようになったものと考えられる<ref name="kanjigen"/><ref name="kanji-etym2007"/>。
=== 学名 ===
{{Wtp|:en:ginkgo|ginkgo}}
==== 属名 ''Ginkgo'' ====
[[ファイル:Kinmo-zui Ginkyo.jpg|thumb|300px|[[中村惕斎]]の『[[訓蒙図彙]]』に描かれる銀杏。]]
[[ファイル:Goethe Ginkgo Biloba.jpg|thumb|220px|ゲーテ直筆の詩''{{lang|de|Ginkgo biloba}}''(1815年)デュッセルドルフ・ゲーテ博物館所蔵。]]
イチョウ属の学名 {{snamei|Ginkgo}} は、日本語「銀杏」に由来している<ref name="iwanami"/><ref name="Webster">[[#Webster|Webster 1958]], p.772</ref><ref name="NewCollege">[[#NewCollege|竹林ほか 2010]], p.759</ref>。[[英語]]にも {{lang|en|ginkgo}} {{ipa|ˈgɪŋkoʊ}} として取り入れられている{{refnest|group=註|一部では{{ipa|ˈgɪŋg''k''oʊ}}、{{ipa|ˈʤɪŋkoʊ}}とも<ref name="Genius"/>。}}<ref name="Webster"/><ref name="NewCollege"/><ref name="Genius">[[#Genius|小西・南出 2006]], p.834</ref>。ほかにも男性名詞として、[[ドイツ語]] {{lang|de|Ginkgo, Ginko}} {{ipa|ˈgɪŋko}} <ref>{{Cite book|和書|author1=濱川祥枝|authorlink1=濱川祥枝|author2=信岡資生監修|authorlink2=信岡資生|author3=新田春夫編集主幹|authorlink3=新田春夫|title=クラウン独和辞典 第5版|publisher=[[三省堂]]|date=2014-01-01|origdate=1991-03-01|isbn=978-4-385-12011-9|page=585}}</ref><ref name="Variant">[[#Variant|柴田 2001]], pp.35–42</ref> や [[フランス語]] {{lang|fr|ginkgo}} {{ipa|ʒɛ̃ŋko}} <ref>{{Cite book|和書|author1=山田𣝣|authorlink1=山田爵|author2=宮原信 監修|authorlink2=宮原信|editor1-first=進|editor1-last=中條屋|editor1-link=中條屋進|editor2-first=義博|editor2-last=丸山|editor2-link=丸山義博|editor3-first=|editor3-last=ガブリエル・メランベルジェ|editor3-link=ガブリエル・メランベルジェ|editor4-first=一義|editor4-last=吉川|editor4-link=吉川一義|title=ディコ仏和辞典|publisher=[[白水社]]|page=736|date=2003-03-10|isbn=978-4-560-00038-0}}</ref>、[[イタリア語]] {{lang|it|ginkgo}} <ref>{{Cite book|和書|author=藤村昌昭監修|authorlink=藤村昌昭|editor1=杉本裕之|editor1-link=杉本裕之|editor2=谷口真生子|editor2-link=谷口真生子|title=デイリーコンサイズ伊和・和伊辞典|publisher=[[三省堂]]|page=432|isbn=978-4-385-12265-6|date=2013-04-01}}</ref> など諸言語に取り入れられている。
イチョウ綱が既に絶滅していた[[ヨーロッパ]]では、本種イチョウは、[[オランダ商館]]付の医師で『[[日本誌]]』の著者である[[ドイツ人]]の[[エンゲルベルト・ケンペル]]による『[[廻国奇観]] (諸国奇談、''{{lang|la|Amoenitatum exoticarum}}'')』([[1712年]])の「日本の植物相({{lang|la|Flora Japonica}})」<ref>{{cite|first=Engelbert|last=Kaempfer|author-link=エンゲルベルト・ケンペル|chapter=Flora Japonica|title=Amoenitates Exoticae|volume=Fasc. V|date=1712}}</ref> において初めて紹介されたが、そこで初めて“{{lang|ja-Latn|Ginkgo}}”という綴りが用いられた<ref name="iwanami"/><ref name="Michel">[[#Michel|Michel 2011]], pp.1–5</ref>。
ケンペルは[[1689年]]から[[1691年]]の間、[[長崎市|長崎]]の[[出島]]にいたが、その間に[[中村惕斎]]『[[訓蒙図彙]]』([[1666年]])の写本を2冊入手した{{refnest|group=註|現在はどちらも[[大英図書館]]の東洋収蔵品 ({{lang|en|the Oriental Collections}})に所管されている<ref name="Michel"/>。}}<ref name="Michel"/>。ケンペルが得たイチョウに関する情報は『訓蒙図彙』2版 (1686)の「巻十八 果蓏」で書かれている<ref name="Michel"/>。ケンペルは[[日本語]]が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った<ref name="Michel"/>。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に2つ目の番号が振られていた<ref name="Michel"/>。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に269、漢字の見出しには34と番号が振られている<ref name="Michel"/>。多くの日本の文献は、助手の[[今村英生|今村源右衛門]]から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった[[馬田市郎兵衛]]、[[名村権八]]と[[楢林鎮山|楢林新右衛門]]もケンペルの[[植物学]]の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であった[[ハンス・スローン]]が保管していたケンペルの備忘録により分かっている<ref name="Michel"/>。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる<ref name="Michel"/>。''{{lang|la|Collectanea Japonica}}'' と題された手稿<ref>British Library, Sloane Collection 3062</ref> には、『訓蒙図彙』の漢字の見出しがリスト化されているページがあり、34番目の見出しで “{{lang|ja-Latn|Ginkjo}}” もしくは “{{lang|ja-Latn|Ginkio}}” と書くべきところを、誤って“{{lang|ja-Latn|Ginkgo}}”と表記されている<ref name="Michel"/>。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “{{lang|ja-Latn|Ginkgo}}” という綴りは、ケンペルの郷里[[レムゴー]]での[[誤植]]や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる<ref name="Michel"/>{{Refnest|group="註"|
ケンペルの''{{lang|la|Collectanea Japonica}}'' における“{{lang|la|g}}”は実際は“{{lang|la|y}}”を意図しているとよく論じられる<ref name="Michel"/>。例えば、[[#NewCollege|竹林ほか (2010)]]などでは“{{lang|en|Ginkgo}}”は''{{lang|ja-Latn|Ginkyo}}''の“{{lang|la|y}}”を“{{lang|la|g}}”と誤記したことに基づくとされている<ref name="NewCollege"/><ref name="etymonline"/>。しかしケンペルの筆記体の両文字ははっきり異なっており、ラテン語や諸外国語を書くとき、この時代の習慣通りに“{{lang|la|y}}”には“{{lang|la|ÿ}}”のように2点上に付けて用いるため、“{{lang|la|g}}”とはっきり区別される<ref name="Michel"/>。ケンペルの日本語の他の語彙の綴りには他にも「きょう」を含むものもあり、これによっても示される<ref name="Michel"/>。ケンペルの日本語の語彙の表現は、ある音素では表記揺れが激しく、短母音と長母音の大きな違いを明らかに見落としていた。例えば、ケンペルがドイツ語の発音になかった 「じ」や「じゃ」という日本語の発音を区別するのは難しく、出島にいたほかの西洋人と同じようにある音素を無視するか、不正確だが母国語と似ていると思った音を当てる傾向があった<ref name="Michel"/>。しかしこれは「きょ」や「ぎょ」の場合は異なり、一貫して“{{lang|ja-Latn|kio/gio}}”または“{{lang|ja-Latn|kjo/gjo}}”を用いている<ref name="Michel"/>。ときにケンペルは西洋人の高度な外国語学習者でも難しかった「きょ」と「きよ」という発音の区別ができていた<ref name="Michel"/>。『廻国奇観』に書かれた日本の植物名の調査からも同様に“Ginkgo”の綴りだけが奇異な例外であると結論づけられる<ref name="Michel"/>。}}。
なお、[[ノア・ウェブスター|Webster]] (1958)では {{lang|en|ginkgo}} は、日本語の {{lang|ja-Latn|ginko, gingko}}に由来するとしている<ref name="Webster"/> が、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない<ref group="註">[[#Kanjigen|藤堂ほか (2007)]]では「銀杏」の読みとして「ギンキョウ」「イチョウ」「ギンナン」が挙げられているが、その他の読みはない。また、[[#Shincho|新潮社 (2008)]]では「いちょう」「ぎんなん」のほかに[[姓氏]]として「ぎんな」の読みを挙げているが、その他の読みはない。</ref>{{refnest|group=註|「[[:wikt:杏|杏]]」には[[慣用音]]として「キョウ」、[[漢音]]として「コウ」、[[呉音]]として「ギョウ」、[[唐音]]として「アン」の読みがある<ref>[[#Kanjigen|藤堂ほか 2007]], p.771</ref>。}}。[[#Genius|小西・南出 (2006)]]では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしている<ref name="Genius"/> が、この読みは日本語であり正しくない。
このケンペルの綴りが引き継がれて、[[カール・フォン・リンネ]]は[[1771年]]、著書 ''{{lang|la|[[:en:Mantissa Plantarum Altera|Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II]]}}'' でイチョウの[[属 (分類学)|属名]]を'''{{Snamei|Ginkgo}}''' として記載した<ref name="iwanami"/><ref>{{cite book|last=Linné|first=Carl von|date=1767–1771|title=Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II|url=https://bibdigital.rjb.csic.es/records/item/10315-mantissa-plantarum|publisher=Holmiae : Impensis Direct. Laurentii Salvii|location=[[ストックホルム|Holmia]]|page=313|accessdate=2020-04-19}}</ref>。[[:en:Arthur Christopher Moule|Moule]] や [[:d:Q13415846|Thommen]] は、{{snamei|Ginkyo biloba}}に修正すべきだと主張し<ref name="Watanabe">[[イチョウ#Watanabe|渡辺 1976]], pp.7–8</ref>、牧野(1988)<ref>{{Cite book|和書|author=牧野富太郎|authorlink=牧野富太郎|editor=前川文夫・原寛・津山尚|title=改訂牧野新日本植物図鑑 42版|publisher=[[北隆館]]|page=77|date=1988}}</ref> では、ケンペルの著書中では{{lang|de|kjo}}を{{lang|de|kgo}}に書き誤ったのであり、直すなら{{snamei|Ginkjo}}であるというが、[[国際藻類・菌類・植物命名規約|植物命名規則]]においては恣意的に学名を変更することはできないとされている<ref name="Variant"/>。1712年のケンペルの{{snamei|Ginkgo}}という誤った綴りは命名規約上有効ではなく、それを引用した1771年のリンネの命名{{snamei|Ginkgo biloba}}が命名上有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる<ref name="Variant"/>。
{{lang|en|ginkgo}} は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的に{{lang|en|k}} と {{lang|en|g}} を入れ替えてしばしば '''{{lang|en|gingko}}''' と記される<ref name="Webster"/><ref name="Genius"/><ref name="Variant"/>。このほか、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]は『[[西東詩集]] ''({{lang|de|West-östlicher Diwan}}'')』「ズライカの書」([[1819年]])で、「{{Vanchor|銀杏の葉}}」{{snamei|Ginkgo biloba}}という詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では {{lang|de|[[:en:Gingo biloba|"Gingo biloba"]]}}と表記されている<ref name="Variant"/>。これはUnseld (1999)<ref>{{cite journal|last=Unseld|first=Siegfried|date=1999|title=Goethe und der Ginkgo|journal=Insel-Buechrei Nr.|volume=1188|location=[[ライプツィヒ|Leipzig]]|pages=105}}</ref> によれば、ゲーテは科学者として学名 {{snamei|Ginkgo biloba}} を正しく認識していたが、詩人として {{lang|de|Gingo}} という語を創作して付けたという<ref name="Variant"/>。
==== 種小名 ''biloba'' ====
[[学名|種小名]]の '''{{Snamei|biloba}}''' は[[ラテン語]]による造語で、「2つの裂片 ({{lang|en|two lobes}})」の意味であり、葉が大きく2浅裂することに由っている<ref name="conifer">[[#conifer|矢頭 1964]], pp.7-11</ref>。
=== 英名 ===
英語では "{{lang|en|[[:wikt:en:maidenhair tree|maidenhair tree]]}}" ともいう<ref name="NCCIH" /><ref name="Webster-maiden">[[#Webster|Webster 1958]], p.1086</ref><ref name="NewCollege-maiden">[[#NewCollege|竹林ほか 2010]], p.1094</ref><ref name="Genius-maiden">[[#Genius|小西・南出 2006]], p.1182</ref>。"{{lang|en|[[:wikt:en:maidenhair|maidenhair]]}}" は通常は[[ホウライシダ属]] {{snamei||Adiantum}}の[[シダ]](= {{lang|en|maidenhair fern}})を指し、英語の"{{lang|en|maiden}}" には「[[処女]]([[名詞]])」または「処女の([[形容詞]])」の意味がある<ref name="Webster-maiden"/><ref name="NewCollege-maiden"/><ref name="Genius-maiden"/>。{{lang|en|maidenhair tree}} という語は {{lang|en|maidenhair fern}} によく似ているためであるとされる<ref name="etymonline">{{cite web|url=https://www.etymonline.com/word/ginkgo|title=ginkgo (n.)|author=Douglas Harper|website=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|Online Etymology Dictionary]]|accessdate=2020-04-19}}</ref>。語源はよく議論されてこなかったが、葉がよく似たホウライシダを表す {{lang|en|maidenhair}}とともに、[[陰毛]]が形作る[[三角形]]から名付けられたと考えられている<ref>{{cite web|url=https://www.theguardian.com/science/blog/2015/dec/14/climate-change-plants-key-to-ancient-modern-fossil|author=Susannah Lydon|title=Living fossils: the plants holding the key to ancient and modern climate change|date=2015-12-14|publisher=[[ガーディアン|The Guardian]]|accessdate=2020-04-19}}。</ref>。「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる<ref>『カラー・アンカー英語大事典』学研</ref>。
ほかにも {{lang|en|fossil tree}}<ref name="NCCIH" />、{{lang|en|Japanese silver apricot}}<ref name="NCCIH" />、{{lang|en|baiguo}}<ref name="NCCIH" />、{{lang|en|yinhsing}}<ref name="NCCIH" />などと呼ばれる。
=== その他漢名 ===
漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、[[祖父母|祖父]](公)が植えると孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている<ref name="trees"/><ref name="kanji-etym2007"/>。[[漢方医学|漢方]]([[中国医学]])では『日用本草』{{refnest|group=註|[[1329年]]、呉瑞。原版は現存せず、1525年の重刊八巻本が[[大谷大学]]に所蔵されている<ref name="Ryukoku"/>。}}にみられるように<ref name="historical"/>、「{{lang|zh|白果}}{{small|(びゃっか}}<ref name="herbs">[[#herbs|難波・御影 1982]], p.60</ref>、{{small|はっか}}<ref name="kanji-etym2007"/>{{small|)}}」と呼ばれることが多い<ref name="Kinoshita1"/><ref name="kanji-etym2007"/>。
== 分類と系統 ==
=== 分類学上の位置 ===
本種は現生では少なくとも [[綱 (分類学)|綱]]レベル以下全てで[[単型 (分類学)|単型]]の種であるとされ、イチョウ綱 {{Sname||Ginkgoopsida}}・イチョウ目 {{Sname||Ginkgoales}}・イチョウ科 {{Sname||Ginkgoaceae}}・イチョウ属 {{Snamei||Ginkgo}} に属する'''唯一の現生種'''である<ref name="conifer"/><ref name="iwanami"/>。[[門 (分類学)|門]]は[[維管束植物|維管束植物門]] {{sname||Tracheophyta}}<ref name="iwanami"/>とされるが、独立した[[イチョウ類|イチョウ植物門]] {{sname||Ginkgophyta}}(あるいは[[裸子植物|裸子植物門]] {{sname||Gymnospermae}}<ref name="Taxa-I"/>)に置かれることもある。
=== 上位分類 ===
{{multiple image
| total_width = 500
| caption1 = イギリスで産出した[[ジュラ紀]]のイチョウ属、{{snamei||Ginkgo huttonii}}の葉の化石
| image1 = Fossil Plant Ginkgo.jpg
| caption2 = アメリカの[[始新世]][[ヤプレシアン]]の地層で産出した本種 {{snamei|Ginkgo biloba}}の葉の化石。
| image2 = Ginkgo biloba leaf 01.jpg
}}
{{see also|イチョウ類}}
イチョウ綱に置かれる。イチョウは[[雄性配偶子]]として自由運動可能な精子を作るが、これは[[ソテツ]]と共通である<ref name="Phylogeny"/>。そのためソテツ類とイチョウ類を合わせてソテツ類(ソテツ綱)とすることもあった<ref>[[イチョウ#conifer|矢頭 1964]], p.1</ref><ref name="yamakei-gymnosperm">[[イチョウ#yamakei|林 1985]], p.5</ref>。また1896年の「[[#精子|精子の発見]]」以前は球果植物([[マツ綱]])の[[イチイ科]]に置かれていた<ref name="Watanabe" />{{Sfn|ギフォード|フォスター|2002|pp=389–404}}。
元来[[裸子植物]]は(化石種を含め)[[種子植物]]から[[被子植物]]を除いた[[側系統群]]と定義された為、側系統群を認めない立場から裸子植物門は解体されて[[ソテツ類|ソテツ植物門]] {{sname||Cycadophyta}}、'''イチョウ植物門 {{sname||Ginkgophyta}}'''、[[グネツム綱|グネツム植物門]] {{sname||Gnetophyta}}、[[球果植物門]] {{sname||Pinophyta}} の4植物門に分類され<ref name="Phylogeny">[[#Phylogeny|伊藤 2012]], pp.129–134</ref>、イチョウ植物門は現生種としてはイチョウのみの単型の門となった。
裸子植物の4分類群は形態的には大きくかけ離れ、被子植物の側系統群と定義された為、単系統性は明らかでなかったが、Hasebe ''et al.'' (1992) による分子系統解析の結果、現生裸子植物と現生被子植物はそれぞれ単系統群であることが分かり<ref>{{cite journal|last1=Hasebe|first1=M|last2=Kofuji|author1-link=長谷部光泰|first2=R|last3=Ito|first3=M|last4=Kato|first4=M|last5=Iwatsuki|first5=K|last6=Ueda|first6=K|date=1992|title=Phylogeny of gymnosperms inferred from ''rbc''L gene sequences|url=https://doi.org/10.1007/BF02489441|journal=Bot. Mag. Tokyo|volume=105|pages=673–679|doi=10.1007/BF02489441}}。</ref>、現在これはChaw ''et al.'' (2000)<ref>{{cite journal|first1=Shu-Miaw|last1=Chaw|first2=Christopher L.|last2=Parkinson|first3=Yuchang|last3=Cheng|first4=Thomas M.|last4=Vincent|first5=Jeffrey D.|last5=Palmer|title=Seed plant phylogeny inferred from all three plant genomes: Monophyly of extant gymnosperms and origin of Gnetales from conifers|journal=Proc. Natl. Acad. Sci.|date=2000-04-11|volume=97|issue=8|pages=4086–4091|doi=10.1073/pnas.97.8.4086}}。</ref>などほとんどの研究で支持されている<ref>[[#Phylogeny|伊藤 2012]], pp.144–145</ref><ref>[[#Taxa|邑田・米倉 2010]], p.18</ref>。そこで単系統群としての裸子植物が再び置かれる事になる。これまで裸子植物を分類群として建てる場合は門の[[階級 (生物学)|階級]]に置かれ裸子植物門 {{sname||Gymnospermae}} とされてきた<ref name="Taxa-I">[[#Taxa|邑田・米倉 2010]], p.104</ref> が、近年では[[門 (分類学)|門]]としてより上位の[[タクソン|分類群]]である[[維管束植物]]門 {{sname||Tracheophyta}} を立て、その下に[[小葉植物]]亜門 {{sname||Lycophytina}} と[[大葉植物|大葉植物亜門]](真葉植物亜門){{sname||Euphyllophytina}} を置くことがあり<ref name="iwanami-taxa">[[#iwanami|巌佐ほか 2013]], p.1644</ref>、裸子植物はその下位分類となる。この場合イチョウ類は大葉植物亜門の中の(裸子植物の一綱)'''イチョウ綱 {{sname||Ginkgopsida}}''' とされる<ref name="iwanami-taxa" />。イチョウ綱は[[ソテツ綱]]と姉妹群をなし、[[ペルム紀]]に分岐したと考えられている<ref name="口絵" />。
イチョウ綱には'''イチョウ目 {{Sname||Ginkgoales}}''' 1[[目 (分類学)|目]]、'''イチョウ科 {{Sname||Ginkgoaceae}}''' 1[[科 (分類学)|科]]のみが属しているが、これは[[ペルム紀]]から[[中生代]]に繁栄した植物群である<ref name="conifer"/><ref name="Suzuki"/><ref name="iwanami"/><ref name="garden"/>。いずれも現生では本種のみが属する<ref name="conifer"/>。
以下に、[[#hasebe|長谷部 (2020)]]によるイチョウ類より上位の系統樹を示す<ref name="口絵">[[#hasebe|長谷部 2020]], 口絵1, 5.</ref>。これは{{Harvtxt|Puttick ''et al.''|2018}}による分子系統樹に{{Harvtxt|Kenrick|Crane|1997}}の化石植物を含む系統樹を組み入れたものである<ref name="口絵"/>。
{{clade
|style=width:85em;font-size:100%;line-height:100%
|label1=[[維管束植物]]
|sublabel1={{sname||Tracheophyta}}
|1={{clade
|1=[[小葉植物]] {{sname||Lycophytina}}
|label2=[[大葉植物]]
|sublabel2={{sname||Euphyllophytina}}
|2={{clade
|state1=double
|1=†[[トリメロフィトン類]] {{sname||Trimerophytopsida}}
|2={{clade
|1=[[大葉シダ植物]] {{sname||Polypodiopsida}}
|label2=[[木質植物]]
|sublabel2={{sname||Lignophyta}}
|2={{clade
|state1=double
|1=†[[アネウロフィトン類]] {{sname||Aneurophytales}}
|2={{clade
|1=[[アルカエオプテリス類]] {{sname||Archaeopteridales}}
|label2=[[種子植物]]
|sublabel2={{sname||Spermatophyta}}
|2={{clade
|1=†[[リギノプテリス類]] {{sname||Lyginopteridales}}
|2={{clade
|1=†[[メズロサ類]] {{sname||Medulossales}}
|2={{clade
|barbegin1=black
|barlabel1=[[裸子植物]] {{sname||Gymnospermae}}
|label1=現生裸子植物
|1={{clade
|1={{clade
|label1=[[ソテツ綱]]
|sublabel1={{sname||Cycadopsida}}
|1={{clade
|1=[[ザミア科]] {{sname|Zamiaceae|}}
|2=[[ソテツ科]] {{sname||Cycadaceae}}
}}
|label2='''イチョウ綱'''
|sublabel2={{sname||Ginkgopsida}}
|2='''イチョウ''' {{snamei||Ginkgo biloba}}
}}
|label2=[[球果植物|針葉樹類]]
|sublabel2={{sname||Coniferopsida}}
|2={{clade
|1=†[[コルダイテス目]] {{sname||Cordaitales}}
|2={{clade
|1=†[[ヴォルツィア目]] {{sname||Voltziales}}
|2={{clade
|1=[[ヒノキ目]] {{sname||Cuppressales}}
|2={{clade
|1=[[マツ目]] {{Sname||Pinales}}
|2=[[グネツム目]] {{sname||Gnetales}}
}}
}}
}}
}}
}}
|2={{clade
|1=†[[グロッソプテリス類]] {{sname||Glossopteridopsida}}
|bar1=black
|2={{clade
|1=†[[カイトニア類]] {{sname||Caytoniopsida}}
|barend1=black
|2=[[被子植物]] {{sname||Angiospermae}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
=== 下位分類 ===
[[File:Seeds of Ohatsuki Icho of Ryotokuji.jpg|thumb|250px|オハツキイチョウの種子]]
現生は{{snamei|Ginkgo biloba}} 1種のみしか知られていないが、変異が見られ、下位分類群として94[[品種]]が知られている<ref name="garden"/>。代表的な[[変種]]または品種は以下のものである。食用の銀杏の品種は[[#種子|種子の節]]を参照。
* {{lang|en|var.}} {{Snamei|aciniata}} {{AU|Hort.}} キレハイチョウ<ref name="TSUYUZAKI">[[#TSUYUZAKI|露崎 2017]]</ref> - 「切れ葉」の意。
* {{lang|en|var.}} {{Snamei|variegata}} {{AU|Henry}} フイリイチョウ<ref name="TSUYUZAKI"/> - 「斑入り」の意。葉に黄白色の斑が入るもの<ref name="homegarden"/>。
* {{lang|en|var.}} {{Snamei|epiphylla}} {{AU|Makino}} オハツキイチョウ<ref name="conifer"/><ref name="TSUYUZAKI"/> - 「お葉付き」の意。葉に種子が付くもの<ref name="genshoku">[[#genshoku|北村・岡本 1959]], pp.1–2</ref>。{{snamei|epiphylla}} は葉上生の意である<ref name="conifer"/>。
* {{lang|en|var.}} {{Snamei|pendula}} {{AU|Hort.}} シダレイチョウ<ref name="TSUYUZAKI"/> - 「枝垂れ」の意。
* {{lang|en|cv.}} {{Snamei||tubifolia}} ラッパイチョウ<ref name="TSUYUZAKI"/> - ラッパのような筒状の葉を付けるもの<ref name="scan"/>。
== 形態 ==
[[ファイル:Поперечный срез стебля Ginkgo biloba.jpg|250px|right|thumb|イチョウの[[シュート (植物)|シュート]]の横断面。[[ポリクローム染色]]で呈色されたもので、直径4 mm。]]
本格的な[[木|木本]]性の植物であり<ref name="Phylogeny"/>、樹高20–30 m、幹直径2 mの[[落葉性|落葉]]高木となる<ref name="conifer"/>。大きいものは樹高40–45 m、直径4–5 mに達する<ref name="conifer"/><ref name="leaf">[[#leaf|馬場 1999]], p.96</ref>。茎は真正[[中心柱]]をもち、[[維管束形成層|形成層]]の活動は活発で、発達した[[木部#二次木部|二次木部]]を形成する<ref name="Phylogeny"/>。多数の太い枝を箒状に出し、長大な卵形の[[樹冠]]を形成する<ref name="conifer"/>。樹皮は[[コルク質]]がやや発達して柔らかく、淡黄褐色で粗面<ref name="conifer"/>。若い樹皮は褐色から灰褐色で、縦に長い網目状であるが、成長とともに縦方向に裂けてコルク層が厚く発達する<ref name="bark"/>。枝には長枝と短枝があり、どちらも無毛である<ref name="conifer"/>。長枝は節や葉の間隔が離れているのに対し、短枝では節間が短く込み入っており、1年に数枚しか葉を付けない{{Sfn|ギフォード|フォスター|2002|pp=389–404}}。樹形は単幹だけでなく株立ちのこともある<ref name="bark"/>。[[冬芽]]は円錐形で、多数の芽鱗に覆われる<ref name="conifer"/>。
[[ファイル:Kitakanegasawa no Ooichou Big Yellow2019 Aerial root.jpg|300px|右|thumb|色づいた「[[北金ヶ沢のイチョウ]]」(青森県)
----
いくつもの乳根(乳柱)が発達している。
]]
[[葉|葉身]]は扇形で長い[[葉柄]]を持つ([[葉柄#長さ|長柄]])<ref name="conifer"/>。葉柄は3–8 cm、葉身長4–8 cm、葉幅は5–7 cm<ref name="scan">[[#scan|林 2020]], p.45</ref><ref name="yamakei">[[#yamakei|林 1985]], p.7</ref>。[[葉脈]]は原始的な[[葉脈#葉脈の型|平行脈]]を持ち、二又[[分枝 (生物学)|分枝]]して付け根から先端まで伸びる<ref name="Phylogeny"/><ref name="leaf"/>。中央脈はなく、多数の脈が基部から開出し葉縁に達する<ref name="conifer"/>。このように葉脈が二又に分かれ、網目を作らない脈系を'''二又脈系'''(ふたまたみゃくけい、{{lang|en|dichotomous system}})と呼ぶ<ref>[[#glossary|清水 2001]], p.138</ref>。葉の上端は不規則の波状縁となり、基本的に葉の中央部は[[浅裂]]となるが、[[深裂]]となるものもあり<ref name="scan"/><ref name="conifer"/><ref name="leaf"/>、栽培品種では差異が大きい。葉の形が同じように見えるものでも、葉の幅、広がり角度、切れ込みの数や深さ、葉柄の長さなど、同じものは二つとないといわれる{{sfn|亀田|2014|p=68}}。若いものや徒長枝ほど切れ込みがよく入り、複数の切れ込みがあるものもある<ref name="scan"/>。切れ込みのほとんどないものもあり<ref name="yamakei"/>、剪定されていない老木では切れ込みのない葉が多い<ref name="scan"/>。[[葉脚]]は[[楔形]]<ref name="leaf"/>。[[雌雄異株]]であり、葉の輪郭で雌雄を判別できるという俗説があるが、実際には[[生殖器]]の観察が必要である<ref>{{Cite journal|和書 |title=核型解析によるイチョウ雌雄間の染色体の違いとfluorescence in situ hybridization (FISH)による染色体上のrDNAマッピング |publisher=園芸学会 |journal=園芸学会雑誌 |volume=74 |issue=4 |pages=275–280 |date=2005-07-15 |author=中尾義則 |author2=平 知明 |author3=堀内昭作 |author4=河瀬憲次 |author5=向井康比己 |naid=110001815992}}</ref>。葉は表裏ともに無毛<ref name="leaf"/>。葉の付き方は[[長枝]]上では螺旋状に[[葉#葉序|互生]]し、[[短枝]]上では束生である<ref name="scan"/><ref name="conifer"/><ref name="leaf"/>。また、秋になると比較的温度に関係なく、暖地でも落葉前の葉は鮮やかな[[黄色]]に[[紅葉|黄葉]]する<ref name="conifer"/>{{sfn|亀田|2014|p=68}}。地上に落ちてからも、落ち葉はしばらくのあいだ色を失わないため、黄色の絨毯を敷いたような情景を見ることができる{{sfn|亀田|2014|p=68}}。落葉した後、翌春には古い枝から再び葉が芽吹くように見えるが、実際は葉柄が付くのに必要な長さ1 mm程度の短い枝が新しくでき、そこに新葉が付く<ref>[[#Suzuki|鈴木 2002]], p.85</ref>。
ラッパのような筒状の葉を付ける'''ラッパイチョウ'''などの変異も見られる<ref name="scan"/>。また、葉の縁に不完全に発達した雄性胞子嚢(葯)または襟付きの胚珠(および種子)が生じる[[変種]]を'''オハツキイチョウ''' {{sname|''G. biloba'' var. ''epiphylla''}} {{AU|Makino}} と呼び、本種の系統を示す重要な形質だと考えられている<ref name="conifer"/><ref name="hasebe14">[[#hasebe|長谷部 2020]], pp. 199–212</ref>。天然記念物に指定されているものもあるが、あまり珍しくない<ref name="conifer"/>。[[#conifer|矢頭 (1964)]]では変種として区別する必要がないとしている<ref name="conifer"/>。また、オハツキイチョウでは雌性胞子嚢穂に2つ以上の胚珠が形成され、イチョウの化石種に似ているがその理由も不明である<ref name="hasebe14"/>。
樹木としては長寿で、各地に幹周が10 mを超えるような[[巨樹|巨木]]が点在している<ref group="註">[[環境省]]によれば、[[北金ヶ沢のイチョウ]](青森県深浦町)が日本有数の巨木で、地上約1.3 mの位置での幹周が22 mを超えている。</ref>。老木になると幹や大枝から円錐形の[[根|気根]]状突起を生じることがあり、これを'''イチョウの乳'''と呼ぶ<ref name="yamakei"/><ref name="homegarden"/><ref name="Osaka"/>{{Sfn|西田|2017|pp=198–199}}。これは「乳根」や「乳頭」、「乳柱」ともよばれる<ref name="bark">[[#bark|梅本 2010]], p.90</ref>。若木のうちから乳を作る個体は、'''{{Vanchor|チチイチョウ}}(乳銀杏)'''と呼ばれ<ref name="homegarden"/><ref name="bonsai">[[#bonsai|群 2010]], pp.90–91</ref>、古来、日本各地で安産や子育ての信仰対象とされてきた。造園では'''チチノキ'''<ref name="woods">[[#woods|須藤 1997]], p.37</ref> とも呼ばれる。この乳は[[不定芽]]や発育を妨げられた[[短枝]]、あるいはそれから発育した潜伏芽に由来し、内部の構造は材とは違って柔らかい細胞からなり、多量の[[澱粉]]を貯蔵している<ref name="genshoku"/>。イチョウの乳は解剖学的研究から維管束形成層が過剰成長することで形成されることが分かってきたが、その機能と相同性は分かっていない<ref name="hasebe14"/><ref>BNarlow & Kurczyńska 2007</ref>。
<gallery>
Ginkgo biloba textura del tronco.jpg|樹皮
Gingko-Blaetter.jpg|葉の形状
Ginkgo braquiblasto.jpg|芽吹き
Ginkgo Tree Ginkgo biloba Leaves Rock 3008px.jpg|黄葉した葉
Gingko biloba4.jpg|落葉した葉と実
Ginkgoseedling02a.jpg|発芽して間もない株
Aerial Roots of a Ginkgo Tree.jpg|気根
File:Ginkgo biloba 2017-05-16 0366.jpg|冬芽
</gallery>
<!-- このギャラリーには植物学的な写真を載せます -->
== 生殖 ==
{{multiple image
| total_width = 480
| caption1 = 黄葉前の葉と種子
| image1 = Ginkgo biloba1.jpg
| caption2 = 黄葉した葉と種子
| image2 = Ginkgo.jpg
}}
[[雌雄異株]]で、[[生殖器]]は[[短枝]]上につく<ref name="conifer"/><ref name="Phylogeny"/><ref name="hasebe13">[[#hasebe|長谷部 2020]], pp. 185–188</ref>。
[[ファイル:Ginkgo biloba 006.JPG|右|thumb|190px|雌性生殖器官(俗に“雌花”)]]
[[ファイル:Ginkgo biloba - male flower.JPG|右|thumb|260px|雄性生殖器官(俗に“雄花”)]]
日本の[[関東地方]]など、[[北半球]]の[[温帯]]では 4–5月に新芽が伸び開花<ref group="註" name="花"/>する<ref name="leaf"/>。裸子植物なので、受粉様式は被子植物と異なる。[[風媒花]]{{refn|name="花"|group="註"|ただし、「[[花]]」の定義は被子植物の生殖器官であるため、裸子植物の生殖器官として適切な語ではない<ref name="hasebe14"/>。}}であり、[[雄性胞子嚢穂]]の[[花粉]]は風により遠方まで飛散し、かなりの遠距離でも[[受粉]]可能である<ref name="nipponika">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/イチョウ-761754|author=林弥栄|title=イチョウ|work=日本大百科全書(ニッポニカ)|website=コトバンク|accessdate=2020-05-26}}</ref>。まず開花後4月に受粉<ref name="Phylogeny"/> した花粉は、雌性胞子嚢穂の[[胚珠]]端部の花粉室に数ヶ月保持され、その間に胚珠は直径約2 cm程度に肥大し、花粉内では数個の[[精子]]が作られる。9–10月頃、精子は放出され、花粉室から1個の精子のみが造卵器に泳いで入り、ここで[[受精]]が完了する<ref name="Phylogeny"/>。受精によって胚珠は成熟を開始し、10–11月頃に種子は成熟して落果する<ref name="conifer"/>。
種子は、球形から広楕円形で、長さ 1–2 cmの[[核果|石果]]様を呈する<ref name="conifer"/><ref name="leaf"/>。種皮の外表皮{{Refnest|group="註"|肉質部は外種皮とされることがあるが、イチョウは裸子植物なので外種皮はなく、これは誤りである<ref name="hasebe0">[[#hasebe|長谷部 2020]], p. 40</ref>}}は橙黄色で、軟化し臭気を発する<ref name="conifer"/>。内表皮は堅く、[[紡錘|紡錘形]]で、長さ約 1 cmで黄白色である<ref name="conifer"/>。普通は2稜あるが、3稜のものも少なくなく、子葉は2または3個<ref name="conifer"/>。1 kg当りの種子数は約900個である<ref name="conifer"/>。実生の発芽率は高い<ref name="bonsai"/>。
=== 雌性生殖器官 ===
本種の雌性生殖器官である雌性胞子嚢穂{{refn|name="雌花"|group="註"|雌花と呼ばれることもある<ref name="conifer"/> が、「[[花]]」の定義は被子植物の生殖器官であるため、雌性胞子嚢穂と呼び変えられる<ref name="hasebe14"/>}}は、短枝の葉腋に形成され、二又に分かれ両先端に1個ずつ雌性胞子嚢(珠心)が形成されることで<ref name="hasebe13"/>、胚珠柄 ({{lang|en|peduncle}}){{refn|name="花柄"|group="註"|[[花柄]]とも呼ばれる<ref name="Phylogeny"/>。}}の先端に通常2個の胚珠が付く構造をしている{{Sfn|ギフォード|フォスター|2002|pp=389–404}}<ref name="Phylogeny"/>。
胚珠は柄の先端の「襟」と呼ばれる構造(退化した[[雌蕊|心皮]]<ref name="conifer"/>?)に囲まれているが、ほぼむき出しの状態である<ref name="Phylogeny"/>。襟と呼ばれる隆起は葉の名残ではないかと考えられたこともあったが、葉の上に胚珠ができる突然変異体(オハツキイチョウ)では、葉の上にできた胚珠にも襟ができることから、葉の変形ではないのかもしれず、襟の相同性は謎である<ref name="hasebe14"/>。
胚珠は1枚の肉厚で円筒状の[[珠皮]]が[[珠心]]を包み込んでいて、珠皮は外から外表皮(銀杏の一番外側の皮になる)、肉質部(銀杏の臭い肉質部となる)、石層部構造(銀杏の堅い殻となる)、内表皮(銀杏の薄皮のうち外側の皮となる)からなる<ref name="hasebe13"/>。珠皮は種子の形成に伴い種皮となる<ref name="hasebe13"/>。被子植物は内珠皮と外珠皮の2枚があるので、種皮も内種皮と外種皮の2枚あるのに対し、イチョウを含む裸子植物は珠皮が1枚なので、種皮も1枚である<ref name="hasebe13"/>。銀杏は臭い肉質の部分と内側の硬い殻が印象的であるため、外種皮と内種皮と呼ぶ記述も見られるがこれは誤りである<ref name="hasebe13"/>。
本種の雌性配偶体や[[造卵器]]の形成過程は[[ソテツ]]に類似している<ref name="Phylogeny"/>。遊離[[核分裂]]による多核性段階を経て、[[細胞壁]]の発達した多細胞段階になる<ref name="Phylogeny"/>。胚珠の発生初期において、珠皮と雌性胞子嚢の間に隙間があるが、発生が進むにつれ両者は融合する<ref name="hasebe13"/>。この間に、珠皮と雌性胞子嚢ともに細胞分裂と伸長を行い大きくなるが、雌性胞子嚢の先端部分が伸び出ししばらくすると先端部内側の細胞が崩壊し、花粉室と呼ばれるクレーター上の構造ができる<ref name="hasebe13"/>。雌性胞子嚢の外側にある珠皮は先端部分が伸びて珠孔となる<ref name="hasebe13"/>。雌性胞子嚢の中の雌性胞子は4月の受粉後、遊離核分裂を行い、その後細胞質分裂によって数百細胞からなる雌性配偶体が形成される<ref name="hasebe13"/>。雌性配偶体の細胞は分裂と伸長を繰り返し、雌性胞子嚢の花粉室側にまで拡がる一方、雌性胞子嚢は退縮して薄くなる<ref name="hasebe13"/>。雌性配偶体上に通常2個の造卵器(1個から5個までの変異がある)が形成される<ref name="Phylogeny"/>。始原細胞は珠孔側の表皮細胞であり、並層分裂により中央細胞と第一次頸細胞(第一次首細胞)ができ、それがすぐに垂直分裂をして2個の頸細胞(首細胞)となる<ref name="Phylogeny"/>。造卵器は頸細胞、腹溝細胞、卵細胞からなり、頸細胞が花粉室にむき出しとなる<ref name="hasebe13"/>。
=== 雄性生殖器官 ===
雄性器官も[[短枝]]の[[葉腋]]上に[[雄性胞子嚢穂]]{{refn|name="雄花"|group="註"|雄花と呼ばれることもある<ref name="conifer"/> が、「[[花]]」の定義は被子植物の生殖器官であるため、雄性胞子嚢穂(または小胞子嚢穂)と呼び変えられる<ref name="hasebe14"/>}}として形成される<ref name="Phylogeny"/><ref name="hasebe13"/>。雄性胞子葉は軸のみに退縮していて先端に2つの雄性胞子嚢を形成する<ref name="hasebe13"/>。雄性胞子嚢穂は[[尾状花序]]様で<ref name="conifer"/>、軸上に多数の付属体([[雄蕊]]<ref name="conifer"/>)が付き、各付属体は通常2個の[[雄性胞子嚢]](小胞子嚢、葯<ref name="conifer"/>)を先端につける<ref name="Phylogeny"/>。雌性胞子嚢の中には1つの雌性胞子しか形成されなかったが、雄性胞子嚢の中では減数分裂によって数1000個の雄性胞子が形成される<ref name="hasebe13"/>。雄性胞子(小胞子母細胞)は雄性胞子嚢の中で分裂して、1つの雄原細胞(受精後分裂して2つの精子になる細胞)、1つの花粉管細胞、2つの配偶体細胞の合計4細胞からなる雄性配偶体となり、これが花粉である。小胞子嚢の中のが分裂し、4分子の小胞子(核相: n)をつくる<ref name="Phylogeny"/>。
雄性配偶体はソテツに似ており、花粉散布時には生殖細胞、花粉管細胞、2個の[[配偶体|前葉体]]細胞の4細胞性の構造をとる<ref name="Phylogeny"/>。花粉が風で胚珠まで運ばれると、珠孔にできた受粉滴に付着して胚珠の内部に運ばれる<ref name="Phylogeny"/>。生殖細胞は不稔細胞と[[精原細胞]]に分裂し、精原細胞はもう一度分裂し2個の[[精子]]となる<ref name="Phylogeny"/>。花粉は分枝する花粉管を伸ばし、吸器として働く<ref name="Phylogeny"/>。
=== 精子 ===
裸子植物の[[雄性配偶子]]は花粉によって運ばれ、うち[[グネツム]]類や[[球果植物]]では花粉粒から[[花粉管]]を伸ばして[[胚嚢]]まで有性配偶子が運ばれるが、本種及びソテツは花粉管から自由運動可能な精子が放出されて受精が行われる<ref name="Phylogeny"/>。
1895年、[[帝国大学]](現、[[東京大学]])理科大学植物学教室の助手[[平瀬作五郎]]が、種子植物として初めて[[鞭毛]]をもって遊泳するイチョウの精子を発見した<ref name="Phylogeny"/><ref name="Morphology">[[#Morphology|加藤 1999]], p.65</ref><ref name="nishida22">[[#西田|西田 1972]], pp.22–29</ref>。平瀬は当時、ギンナンの内部にあった生物らしきものを[[寄生虫]]と考えたが、当時助教授であった[[池野成一郎]]に見せたところ、池野は精子であると直感したという<ref name="Phylogeny"/>。その後の観察で、精子が花粉管を出て動き回ることを確認し、平勢は[[1896年]](明治29年)[[10月20日]]に発行された『[[植物学雑誌]]』第10巻第116号に「いてふノ精虫ニ就テ」<ref>{{cite journal|author=平瀬作五郎|title=いてふノ精虫ニ就テ|url=https://doi.org/10.15281/jplantres1887.10.116_325|journal=植物学雑誌|volume=10|issue=116|pages=325–328|date=1896|doi=10.15281/jplantres1887.10.116_325}}。</ref> という論文を発表した<ref name="conifer"/><ref name="Phylogeny"/>{{Refnest|group="註"|池野成一郎自身は、1896年<ref>{{cite journal|author=池野成一郎|date=1896|title=そてつノ精虫|journal=植物学雑誌|volume=10|issue=117|pages=367–368}}</ref>、ソテツの精子を発見している<ref name="nishida22" /><ref>[[#conifer|矢頭 1964]], p.6</ref>。}}。裸子植物であるイチョウが被子植物と同じように胚珠(種子)を進化させながら、同時に雄性生殖細胞として原始的な精子を持つということは、進化的に見て[[シダ植物]]と[[種子植物]]の中間的な位置にあるということを示している<ref name="Morphology"/>。この業績は[[1868年]]の[[明治維新]]以降、欧米に学んで近代科学を発展させようとした黎明期において、世界に誇る研究として国際的にも高く評価された<ref name="Morphology"/><ref name="nishida22" />。後年、平瀬はこの功績によって[[恩賜賞 (日本学士院)|学士院恩賜賞]]を授与されている<ref name="Morphology"/>。[[#Morphology|加藤 (1999)]] は、当時植物園教室は[[東京大学大学院理学系研究科附属植物園|小石川植物園]]内にあり、身近にイチョウが植えられて研究材料として簡単に利用できる状態であったということが、この研究の一助となったとしている<ref name="Morphology"/>。精子の発見された樹は樹高25 m、直径約1.5 m の雌木であり、今日も小石川植物園に現存している<ref name="conifer"/>。
== 分布と伝播 ==
耐寒耐暑性があり、強健で抵抗力も強いので、日本では[[北海道]]から[[沖縄県]]まで広く植栽されている<ref name="nipponika" />。[[北半球]]では[[メキシコシティ]]から[[アンカレッジ]]、[[南半球]]では[[プレトリア]]から[[ダニーデン]]の中・高緯度地方に分布し、極地方や[[赤道|赤道地帯]]には栽植されない。年平均気温が0–20℃の降水量500–2000 mmの地域に分布している<ref name="sogame">{{Cite journal|和書 |naid=110000978787 |title=世界におけるイチョウの分布 |author=十亀好雄 |journal=甲子園短期大学紀要 |volume=4 |date=1984-10-10 |pages=1–14}}</ref><ref name="TSUYUZAKI"/>。[[国際自然保護連合|IUCN]][[レッドリスト]][[1997年]]版で希少種 (Rare) に、[[1998年]]版で[[絶滅危惧種|絶滅危惧]](絶滅危惧II類)に評価された<ref name="IUCN"/>。
自生地は確認されていないが中国原産とされる<ref name="Kojien"/><ref name="nipponika" />。中国でも10世紀以前に記録はなく<ref name="historical"/>、古い記録としては、[[欧陽脩]]が『欧陽文忠公集』([[1054年]])に書き記した珍しい果実のエピソードが確実性の高いものとして知られる<ref name="hori">[[#hori|堀 2004]]</ref><ref name="historical"/><ref name="hyou1">[[#hyou1|堀 2004]], 表1</ref>。それに先立ち、現在の中国[[安徽省]][[宣城市]]付近に自生していたものが、[[11世紀]]初めに当時の[[北宋]]王朝の都があった[[開封市|開封]]に植栽されたという李和文による記録があり、中国でイチョウが広くみられるようになったのは、それ以降であるという説が有力である<ref name="hyou1" />。中国の安徽省および[[浙江省]]には野生状のものがあり、他の針葉樹・広葉樹と混生して森林を作っている<ref name="conifer"/>。
その後、[[仏教]][[寺院]]などに盛んに植えられ、日本にも薬種などとして伝来したとみられるが、年代には[[古墳時代|古墳]]・[[飛鳥時代]]説、[[奈良時代|奈良]]・[[平安時代]]説、[[鎌倉時代]]説、[[室町時代]]説など諸説あるものの、憶測や風説でしかないものも混じっている<ref name="hori" /><ref name="mayanagi">[[#mayanagi|真柳 1997]]</ref>。[[六国史]]や[[平安時代]]の王朝文学にも記載がなく、[[鶴岡八幡宮]]の大銀杏(「隠れイチョウ」)を根拠とする説も根拠性には乏しいため、1200年代までにはイチョウは日本に伝来していなかったと考えられている<ref name="mayanagi" /><ref name="historical">[[#historical|堀 2001]], pp.31–40</ref>。[[行誉]]により[[1445年]]頃に書かれた問答式の辞書『[[壒嚢鈔]]』には[[深根輔仁]]『[[本草和名]]』([[914年]])にも記述がないとある<ref name="historical"/>。
[[1323年]]([[至治 (元)|至治]]3年)に当時の[[元 (王朝)|元]]の[[寧波市|寧波]]から日本の[[博多]]への航行中に[[新安沈船|沈没した貿易船]]{{refnest|group=註|1975年に[[新安]]沖で発見された<ref>{{Cite web|和書|title=新安沈没船|url=https://www.nishinippon.co.jp/wordbox/4443/|publisher=[[西日本新聞]]|date=2003-04-16|accessdate=2020-05-26}}</ref>。}}の海底遺物のなかからイチョウが発見されている<ref name="hori" /><ref name="historical"/><ref name="hyou1" />。[[1370年]]頃に成立したとみられる『[[庭訓往来|異制庭訓往来]]』が文字資料としては最古と考えられる<ref name="historical"/><ref name="hyou1" />。そのため、1300年代に[[貿易船]]により[[輸入]]品としてギンナンが伝来したと考えられる<ref name="historical"/>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[近衛道嗣]]の日記『[[愚管記]]』([[1381年]])には銀杏の木について<ref name="hyou1" />、室町時代の国語辞書『[[下学集]]』([[1444年]])にも樹木として記載がある<ref name="historical"/>。また、15世紀の『新撰類聚往来』<ref>{{Cite web|和書|author=木村晟|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110007002512|title=慶安元年板『新撰類聚往来』の本文|work=駒澤國文 21|pages=97–154|date=1984-02|accessdate=2020-05-26}}, {{naid|110007002512}}。</ref> には、果実・種子としての銀杏(イチャウ)が記載されている。室町中期にはイチョウの木はかなり一般化し、1500年代には種子としても樹木としても人々の日常生活に深く入り込んでいったと考えられる<ref name="historical"/>。
幹周 8 m 以上の巨樹イチョウの日本列島における分布は、東日本89本(雄株81・雌株8)、中部日本21本(雄株15・雌株6)、西日本50本(雄株24・雌株26)となっている<ref>[[#fig1|堀 2004]], 図1</ref>。
[[ヨーロッパ]]には[[1692年]]、ケンペルが長崎から持ち帰った種子から始まり、オランダの[[ユトレヒト]]やイギリスの[[キューガーデン|キュー植物園]]で栽培され、開花したという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koishikawa.gr.jp/NLHP/NL28/NL28_2.html|title=ウィーンにイチョウを探索する |author=長田敏行|website=小石川植物園後援会 ニュースレター 第28号|accessdate=2020-05-26}}</ref>。[[1730年]]ごろには生樹がヨーロッパに導入され<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/イチョウ-761754|work=世界大百科事典 第2版|title=イチョウ|website=コトバンク|accessdate=2020-05-26}}</ref>、[[18世紀]]にはドイツをはじめヨーロッパ各地での植栽が進み、[[1815年]]には[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]が『銀杏の葉 (''[[:en:Gigo biloba|Gingo biloba]]'')』と名付けた恋愛詩を記している<ref name="Variant"/>。
== 利用 ==
=== 木材 ===
[[ファイル:Ginkgo biloba MHNT.BOT.2010.13.1.jpg|thumb|250px|イチョウの年輪]]
木材としての知名度は低い<ref name="woods"/>。組織は[[針葉樹]]のものと似ている<ref name="woods"/>。材は黄白色で、心材と辺材の色の差はほとんどない<ref name="conifer"/><ref name="woods"/>。早材と晩材の差が少ないため、年輪ははっきりとせず[[広葉樹]]材のようであり、材は緻密で均一、柔らかいため加工性に優れる<ref name="woods"/><ref name="nipponika" />。肌目は精で、木理は通直で、反曲折裂および収縮が少なく、歪みが出にくい良材である<ref name="conifer"/><ref name="woods"/><ref name="nipponika" />。木材の中に異形細胞をもち、その中に金平糖型の[[シュウ酸カルシウム]]を含む<ref name="woods"/>。気乾比重は0.55で、やや軽軟で、耐久性は低い<ref name="woods"/>。器具・建具・家具・彫刻<ref name="conifer"/><ref name="woods"/><ref name="nipponika" />、カウンターの天板・構造材・造作材・水廻りなど広範に利用されており、[[碁盤]]や[[将棋盤]]にも適材とされる<ref name="yamakei"/><ref name="woods"/>。ただし、[[カヤ]]に比べ音が良くないため評価は低い<ref name="woods"/>。その他、古くは鶏屋の[[まな板]]に好まれた<ref name="woods"/>。用材はほかに[[和服]]の裁ち板としても使われる<ref name="homegarden"/>。
=== 植栽 ===
[[File:Ginko (Ginko biloba) (3505588883).jpg|thumb|150px|イチョウの盆栽]]
土地を選ばず生育し、萌芽力がさかんで、病虫害が少なく、強い[[剪定]]にも耐えるため、庭園樹、公園樹、街路樹、防風樹、防火樹などとして植栽される<ref name="nipponika" />。日本では庭園や公園に植栽されたり<ref name="leaf"/>、寺社の[[境内]]にも多く植えられる<ref name="conifer"/><ref name="yamakei"/> が、大規模な造林地になっているものはない<ref name="woods"/>。古い社寺の境内には樹齢数百年を経たと称される「大銀杏」が多くみられる<ref name="bark"/>。外国の植物園でもよく見られる<ref name="conifer"/>。[[盆栽]]にも利用される<ref name="yamakei"/><ref name="bonsai"/><ref name="nipponika" />。盆栽は実生または挿し木によって作られる<ref name="bonsai"/>。[[#チチイチョウ|チチイチョウ]]はよく盆栽につくられる<ref name="bonsai"/>。高木になるため庭木としての利用は少ないが、成長が遅いチチイチョウは庭木としても用いられる<ref name="homegarden"/>。
また、樹皮が厚く、コルク質で気泡<!--出典には気胞分とありますが恐らく誤記です-->があるため、耐火力に優れているとみなされ、防火植林に用いられる<ref name="conifer"/><ref name="nipponika" />。[[江戸時代]]の[[火除地|火除け地]]に多く植えられた。[[大正時代]]の[[関東大震災]]の際には延焼を防いだ例もあったため、防災を兼ねて次項で記載する街路樹にイチョウが多く植えられるようになったという。これを提案したのは造園家の[[長岡安平]]であったことが、2019年12月27日放送の『[[チコちゃんに叱られる!]]』で取り上げられた<ref name="detazou191227">{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/チコちゃんに叱られる!/1325657 |title=チコちゃんに叱られる!「拡大版SP!イチョウ並木・氷の謎・イラスト一挙公開!」 |website=TVでた蔵 |publisher= |date=2019-12-27 |accessdate=2019-12-29}}</ref>。
==== 街路樹 ====
病害や虫害がほとんどなく<ref name="conifer"/><ref name="homegarden"/>、黄葉時の美しさ<ref name="garden"/> と、[[大気汚染]]や[[剪定]]、火災に強いという特性<ref name="homegarden"/> から、街路樹としても利用される<ref name="scan" /><ref name="conifer"/><ref name="trees"/><ref name="yamakei"/>。黄葉したイチョウは'''いちょうもみじ(銀杏黄葉)'''と呼ばれ<ref name="Kojien"/>、並木道などは秋の風物詩となる。2007年の[[国土交通省]]の調査によれば、[[街路樹]]として57万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京都の[[明治神宮外苑]]や、大阪市[[御堂筋]]の街路樹<ref name="herbs"/> などが、銀杏並木として知られている。大阪を代表する御堂筋のイチョウ並木は、1966年時点で樹齢約50年、867本(うち雌株111本)あった<ref name="Osaka">[[#Osaka|赤松 1966]], p.41</ref>{{Refnest|group="註"|それに加え、大阪市公園部で街路樹として管理しているイチョウは、1964年5月時点で847本であった<ref name="Osaka"/>。}}。雌株では秋期に落下した種子(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので<ref name="conifer"/>、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある<ref>{{cite journal|author=佐橋紀男|title=生物性微粒子としての空中花粉と花粉症|date=1987|journal=粉体光学会誌|volume=24|issue=3|pages=154–161}}</ref>。移植は容易で、大木であっても移植することができる<ref name="homegarden"/>。
<gallery>
Jingu Gaien Ginkgo Street Tokyo.jpg|東京[[明治神宮外苑]]([[港区 (東京都)|港区]][[北青山]])
Midosuji-autumn01.jpg|[[大阪市|大阪]][[御堂筋]]
Ginkgo Avenue of Keio.png|[[慶應義塾大学]]日吉キャンパス([[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]前)
SendagayaGinkgo.jpg|[[東京都|東京]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]付近
The Koshu Highway in Hachioji.jpg|東京[[八王子市]]追分町付近
</gallery>
==== 著名なイチョウの木 ====
[[画像:Fukaura town kitakanegasawa ichou.jpg|thumb|250px|[[北金ヶ沢のイチョウ]] - 樹齢1,000年以上とされる。]]
[[File:Big Ginkgo Tree in Kin, Tsushima.jpg|thumb|250px|対馬にある琴の大イチョウ]]
日本には樹齢1,000年以上と称されるイチョウの巨樹が各地にある<ref name="Kinoshita1"/>{{refnest|group="註"|ただし、多くの植物が詠まれている[[古今和歌集]]などの古典にはイチョウに相当する植物の記述はなく、また成長が著しく速いため、その多くは古くても、樹齢 600–700年 程度だと考えられている<ref name="Kinoshita1"/>。}}。そのため、[[ソテツ]]と同様に天然記念物に指定され保護されているものも多い<ref name="genshoku"/>。[[#社会や文化とのかかわり|社会や文化とのかかわり]]の項も参照。
* [[北海道大学|北海道大学札幌キャンパス]]のイチョウ並木 - 東西約380 mに亘り植えられている70本のイチョウ並木<ref>{{Cite web|和書|title=令和元年イチョウ並木黄葉状況|url=https://www.hokudai.ac.jp/news/2019/10/108.html|website=北海道大学|date=2019-10-30|accessdate=2020-05-25}}</ref>
* [[札幌市北3条広場|北海道庁前イチョウ並木]] - [[北海道庁旧本庁舎|旧道庁赤れんが]]前にあるイチョウ並木。北海道最古の街路樹で、1925年に東京から運ばれた樹齢19年のイチョウ32本が植樹され、29本が現存している<ref>{{Cite web|和書|title=広場のコンセプト&北3条通りの歴史|url=https://www.kita3jo-plaza.jp/concept/|website=札幌市北3条広場|publisher=札幌駅前通まちづくり株式会社|accessdate=2020-05-25}}</ref>。
* 日本一の[[北金ヶ沢のイチョウ]](青森県[[深浦町]]) - 高さ約31 m、幹回り22 m、樹齢1000年以上<ref name="Kinoshita1"/>(環境省の公表は300年以上)。国の[[天然記念物]]。
* [[法量のイチョウ]](青森県十和田市)
* [[長泉寺の大イチョウ]](岩手県久慈市)
* 今宮神社の大銀杏(栃木県さくら市氏家) - 推定樹齢700年<ref>{{Cite web|和書|author=さくら市 総合政策部 総合政策課|title=今宮神社の大銀杏|url=http://sakura-ijyu.jp/今宮神社の大銀杏/|website=栃木県さくら市 暮らしガイド さくら市でくらそう|publisher=さくら市|date=2017-01-23|accessdate=2020-05-25}}</ref>。
* [[旭町の大いちょう]](宇都宮市)<ref>{{Cite web|和書|url=https://utsunomiya-8story.jp/search_post/%e6%97%ad%e7%94%ba%e3%81%ae%e5%a4%a7%e3%81%84%e3%81%a1%e3%82%87%e3%81%86/|title=旭町の大いちょう|work=宇都宮の歴史と文化財|publisher=宇都宮市歴史文化資源活用推進協議会|accessdate=2020-05-20}}</ref>
* [[茨城県立歴史館]](水戸市) - 11月に「いちょうまつり」が開かれる<ref>{{Cite web|和書|title=歴史館いちょうまつり(11月1日~15日)|url=https://rekishikan-ibk.jp/event/tofollow/post-22264/|website=茨城県立歴史館|accessdate=2020-05-25}}</ref>。
* 東京・[[明治神宮外苑]][[聖徳記念絵画館]]前のイチョウ並木 - 11月–12月初旬に「神宮外苑いちょう祭り」が開かれる<ref>{{Cite web|和書|title=イベント情報|url=http://www.meijijingugaien.jp/event/|website=明治神宮外苑|accessdate=2020-05-25}}</ref>。
* [[東京大学本郷地区キャンパス|東京大学本郷キャンパス]]のイチョウ並木<ref name="Tokyo-Univ">{{Cite web|和書|author=宮下 精二|title=銀杏並木|url=https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/essay/12.html|website=東京大学 大学院理学系研究科|accessdate=2020-05-25}}</ref>
* [[慶應義塾大学]]三田キャンパスの公孫樹<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/91.html <nowiki>[慶應義塾豆百科]</nowiki> No.91 公孫樹]</ref>
* [[震災イチョウ]]([[大手町 (千代田区)|東京都千代田区大手町]])<ref name="Shinsai"/>
* 東京都[[八王子市]]の[[甲州街道]]イチョウ並木([[国道20号]]) - 追分交差点付近から高尾駅前にかけ763本のイチョウが植えられている<ref name="Hachioji">{{Cite web|和書|author=八王子市 産業振興部観光課|title=甲州街道イチョウ並木|url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003400.html|website=八王子市|date=2016-06-29|accessdate=2020-05-25}}</ref>。1979年以降、11月に「八王子いちょう祭り」が開催されている<ref name="Hachioji"/>。
* [[日本大通]](神奈川県横浜市)のイチョウ並木<ref>{{Cite web|和書|author=横浜市中区総務部区政推進課|title=2019年日本大通りイチョウ通信|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kusei/koho/ichotsushin/2019ginkgo.html|website=横浜市|date=2019-12-11|accessdate=2020-05-25}}</ref>
* [[鶴岡八幡宮]](神奈川県鎌倉市)の大銀杏 - [[建保]]7年([[1219年]])の[[源実朝]]暗殺の際、[[公暁]]が大銀杏に隠れていたという伝承(「隠れイチョウ」)がある<ref name="historical"/>。この伝承は[[中川喜雲]]([[1659年]]頃)の『[[鎌倉物語 (仮名草子)|鎌倉物語]]』での創作であると考えられている<ref name="historical"/>。[[2010年]]に強風で倒伏し<ref>{{Cite web|和書|title=施設案内|url=http://www.hachimangu.or.jp/about/guidance/cont06.html|website=鶴岡八幡宮|accessdate=2020-05-25}}</ref>、境内に移植・保管された。この銀杏の樹齢は1990年に500年あまりと測定された。<ref>堀 2001, p.36</ref>
* [[荏柄天神社]](鎌倉市)の大銀杏 - 高さが25 m、胴回りが10 mの大木で、樹齢は900年と伝わる<ref>{{Cite web|和書|title=境内のご案内|url=http://www.tenjinsha.com/annai.html|website=荏柄天神社|accessdate=2020-05-25}}</ref>。
* [[上日寺のイチョウ]](富山県氷見市)
* [[大和の大イチョウ]]([[愛知県]][[豊川市]]) - 高さ、幅がともに約25 m。1923年植樹<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/374673|title=「大和の大いちょう」が見頃 豊川、12月5日まで夜間ライトアップ |publisher=中日新聞|date=2021-11-30|accessdate=2023-04-11}}</ref>
* [[飛騨国分寺の大イチョウ]](岐阜県高山市)
* [[御堂筋]]のイチョウ並木(大阪市)- 大阪市指定文化財、2014年現在で972本のイチョウが植えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000242811.html|title=御堂筋のイチョウ|accessdate=2020-05-17|publisher=大阪市|date=2019-11-21|author=大阪市建設局公園緑化部緑化課}}</ref>。
* 金言寺(島根県[[奥出雲町]])の逆さイチョウ - 近くの水田に樹影が映ることから、こう呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=金言寺 大イチョウ ライトアップ2019|url=https://okuizumo.org/jp/guide/detail/1006/|website=奥出雲町公式観光ガイド|publisher=一般社団法人奥出雲町観光協会|accessdate=2020-05-25}}</ref>。
* [[乳保神社のイチョウ]](徳島県上坂町) - 国の[[天然記念物]]に指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2485|title=乳保神社のイチョウ|accessdate=2020-05-21|publisher=[[文化庁]]|website=国指定文化財等データベース}}</ref>。葉が黄に色づく秋には[[ライトアップ]]されるイチョウも多い。
* [[対馬琴のイチョウ]](長崎県対馬) - 1500年前に百済から伝えられたと称される樹高23 m、幹周13 mもある巨樹<ref name="Kinoshita1"/>。
*去川のイチョウ (宮崎県宮崎市) - 高さ41.0 m、胴回りが10.0 m。[[島津忠久]]が[[源頼朝]]に[[島津荘]]を与えられた時に下向し手づから植えたという伝説があり、樹齢は800年と伝わる。
=== 食用 ===
イチョウの葉や種子は古くから薬用に利用され、中国の『[[神農本草経]]』や『[[本草綱目]]』に遡る<ref name="Pharmacological"/>。健康な一般成人では、イチョウは適切な量(1、2粒程度)であれば食用として安全である<ref name="NCCIH" />{{出典無効|date=2020年12月5日 (土) 15:51 (UTC)|title=該当する記述は葉の抽出物に関するもので、具体的な量の記述はない。}}。しかし生もしくは加熱したイチョウ種子は、有毒であり深刻な副作用を起こす可能性がある<ref name="NCCIH" />。
==== 種子 ====
{{栄養価
|name = ぎんなん(生)<ref name=mext7>{{Cite web|和書|author=[[文部科学省]]|url=https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm|title=日本食品標準成分表2015年版(七訂)|accessdate=2020-05-26}}</ref>
|kJ = 717
|water = 57.4 g
|protein = 4.7 g
|fat = 1.6 g
|satfat = 0.16 g
|monofat = 0.48 g
|polyfat = 0.60 g
|carbs = 34.8 g
|opt1n = [[食物繊維|水溶性食物繊維]]
|opt1v = 0.2 g
|opt2n = [[食物繊維|不溶性食物繊維]]
|opt2v = 1.4 g
|fiber = 1.6 g
|potassium_mg = 710
|calcium_mg = 5
|magnesium_mg = 48
|phosphorus_mg = 120
|iron_mg = 1.0
|zinc_mg = 0.4
|copper_mg = 0.25
|Manganese_mg = 0.26
|vitA_ug = 24
|vitE_mg = 2.5
|vitK_ug = 3
|thiamin_mg = 0.28
|riboflavin_mg = 0.08
|niacin_mg = 1.2
|vitB6_mg = 0.07
|folate_ug = 45
|pantothenic_mg = 1.27
|opt3n = [[ビオチン]] (B{{sub|7}})
|opt3v = 6.2 µg
|vitC_mg = 23
|note = ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>{{Cite web|和書|author=[[厚生労働省]]|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf|title=日本人の食事摂取基準(2015年版)|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
|right = 1
}}
イチョウの[[種子]]は、'''銀杏'''{{small|(ぎんなん)}}といい、硬い種皮の内表皮(殻)の中に含まれる[[胚乳]](さね、核、仁)が食用となる<ref name="Shincho-kamo"/><ref name="conifer"/><ref name="genshoku"/>。実と説明されることもある<ref name="scan"/> が、'''[[果実]]ではない'''<ref>[[#handbook|岩瀬・大野 2004]], p.81</ref>。これを食用とするのは日本や中国など、[[東アジア]]における習慣である<ref name="JJAAM"/>。これは中国の[[本草学]]図書である『紹興本草』([[1159年]])にも記載される<ref name="Kinoshita1">{{Cite web|和書|author=[[帝京大学]][[薬用植物園]]管理室 木下武司|title=薬用植物イチョウGinkgo bilobaについて|url=http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/about_Ginkgo_biloba.htm|accessdate=2020-05-22}}</ref>。薬用(漢方)として利用されていたことが、[[明]]代の[[龔廷賢]]が[[1581年]]に著した『[[萬病回春]]』に記されている<ref name="Kinoshita1"/>。鎮咳作用があるとされる<ref name="herbs"/><ref name="Saga">{{Cite web|和書|title=佐賀の農畜産物 銀杏(ぎんなん)|url=https://jasaga.or.jp/agriculture/nousanbutsu/ginnan|website=JAさが|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
仁は直径1 cm程度の紡錘形<ref name="yamakei"/> で、新鮮な状態では[[光合成色素]]の[[クロロフィル]]の存在により緑色を呈するが、収穫後は殻付きで保存しても常温に置くと短期間のうちに黄色に褪色化する<ref name="Physiology">{{Cite web|和書|author=今関英雅|title=銀杏の色について|url=https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=4258&key=&target=|publisher=一般社団法人日本植物生理学会|website=一般社団法人日本植物生理学会|date=2018-10-23|accessdate=2020-05-26}}</ref>。加熱により半透明の鮮やかな緑色になるが<ref name="koyomi170">[[#生活ごよみ|『生活ごよみ 秋の巻』(1986)p.170]]</ref>、加熱を続けると微酸性である死んだ細胞の内容物との作用でクロロフィルの[[マグネシウム]]がはずれ、黄褐色の[[フェオフィチン]]となる<ref name="Physiology"/>。
食材としての[[旬]]の時期は秋(9–11月)で、雌株の下に落ちているイチョウの実(正確には種子)を拾ったら、周囲の外種皮部分を取り除き、よく洗って乾燥させる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。旬に先走って収穫される「[[旬|走り]]」のぎんなんは、[[翡翠]]に似た鮮やかな緑色を呈し、やわらかく匂いも少ないことから通常の時期に収穫されるものより高級とされる<ref>{{Cite web|和書|title=翡翠色の銀杏|url=http://www.alteliebe.co.jp/blog/2010/08/21/翡翠色の銀杏/|website=CAHIER D' ALTE LIEBE|date=2010-08-21|accessdate=2020-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=樂菜わさびや|title=旬の走り 新銀杏|url=https://ameblo.jp/igatake0849/entry-11002987233.html|websiet=侘寂伝文(わさびやブログ)|date=2011-08-28|accessdate=2020-05-26}}</ref>。[[茶碗蒸し]]や[[おこわ]]などの具に使われたり<ref name="Kinoshita1"/>、煮物や鍋物、[[揚げ物]]、[[炒め物]]など広汎な料理に用いられ<ref name="Starch"/>、[[酒]]の[[肴]]としても用いられる<ref name="koyomi170" /><ref name="fruit">{{Cite web|和書|author=果樹研究所|title=ぎんなんとアケビ|url=http://www.naro.affrc.go.jp/archive/fruit/itiosi/2013/048547.html|publisher=農研機構|date=2013-09-15|accessdate=2020-05-22}}</ref>。和食料理のあしらいとして欠かせない食材で、殻は割り、渋皮は弱火で炒るか、ゆでるときれいにむける<ref name="koyomi170" />。韓国では、[[屋台|露店]]でも炒った銀杏を販売している。加工品としては[[砂糖漬]]やオリーブ油漬、水煮などの瓶詰や缶詰が売られている<ref name="Starch"/>。ただし、独特の苦味<ref name="Starch"/> および種皮の外表皮には悪臭<ref name="yamakei"/><ref name="homegarden"/> がある。秋の食材だが、加熱して[[真空包装|真空パック]]詰めにした商品は年中手に入る。銀杏を保存するときは殻付きのままビンや袋に入れて、冷蔵しておけば数か月は保存できる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。
栄養素として[[デンプン]]が豊富に含まれ<ref name="Starch">{{cite journal|author=福場博保・島田保子・鵜飼光子|title=ギンナンデンプンの二,三の性質|journal=家政学雑誌|volume=31|issue=6|date=1980|pages=417–420}}</ref>、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。ほかにも[[レシチン]]や[[エルゴステリン]]、[[パントテン酸]]、[[カリウム]]、[[カロテン]]、[[ビタミンC]]、[[ビタミンB1]]も含有している<ref name="Starch"/><ref name="sobue">{{Cite web|和書|title=祖父江ぎんなんとは|url=http://www.ja-aichinishi.or.jp/ginnan/about/|publisher=祖父江ぎんなんブランド推進協議会|accessdate=2020-05-22}}</ref>{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。銀杏の食用部分には[[ギンコトキシン|メチルピリドキシン]]という成分が含まれていて、大量に食べると、まれに食中毒による[[痙攣]]を引き起こすこともある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。このため、銀杏を食べ過ぎないことと、5歳以下の幼児には食べさせないように注意喚起されている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。
銀杏は古くは[[米]]の凶作時の備蓄食糧に使われたといわれており、今日では日本全土で生産されているが、特に愛知県[[稲沢市]](旧:[[中島郡 (愛知県)|中島郡]][[祖父江町]])は銀杏の生産量日本一である<ref name="sobue" /><ref>{{Cite web|和書|title=主な観光と特産品|url=http://www.city.inazawa.aichi.jp/miryoku/inazawa/1002836.html|website=[[稲沢市]]役所|accessdate=2020-05-22}}</ref>。ぎんなん採取を目的としたイチョウの栽培は[[1841年]]([[天保]]11年)、祖父江町に[[富田栄左衛門]]がのちの「久寿(久治)」となるイチョウ苗を植えたことに始まるとされる<ref name="sobue" /><ref name="Inazawa"/>。愛知県ではぎんなん収穫用に畑で低く仕立てられ、栽培される<ref name="homegarden"/>。佐賀県でも[[嬉野市]]の[[塩田町 (佐賀県)|塩田町]]で[[ウンシュウミカン]]からの転作としてよく栽培される<ref name="Saga"/>。ぎんなんの収穫・流通を目的とした栽培品種があり、大粒晩生の「[[藤九郎ぎんなん|藤九郎]]」、大粒中生の「久寿(久治)」(くじゅ)、大粒早生の「喜平」、中粒早生の「金兵衛」(きんべえ)、中粒中生の「栄神」などが主なものとして挙げられる<ref name="Inazawa">{{Cite web|和書|author=経済環境部 農務課 農業振興グループ|title=祖父江のぎんなん|url=http://www.city.inazawa.aichi.jp/miryoku/1003181.html|website=[[稲沢市]]役所|accessdate=2020-05-22}}</ref>{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。「藤九郎」は[[岐阜県]][[瑞穂市]](旧[[穂積町]])、「久寿(久治)」「金兵衛」「栄神(栄信)」は愛知県稲沢市(旧祖父江町)、「長瀬」は愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]発祥の品種である<ref>{{Cite web|和書|title=祖父江ぎんなんQ&A|url=http://www.city.inazawa.aichi.jp/miryoku/1003181.html|publisher=祖父江ぎんなんブランド推進協議会|accessdate=2020-05-22}}</ref>。
イチョウの種子が熟すと肉質化した種皮の外表皮が異臭を放ち<ref name="Noken"/>、素手で直接触れるとかぶれやすい{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=142}}。異臭の主成分は下記の皮膚炎の原因となる[[ギンコール酸]]である<ref name="Noken"/>。異臭により[[ニホンザル]]、[[ネズミ]]などの動物は食べようとしないが、[[アライグマ]]は食べると言われている<ref>{{Cite web|和書|title=生産から出荷まで|url=http://www.ja-aichinishi.or.jp/ginnan/about/produce.php|publisher=祖父江ぎんなんブランド推進協議会|accessdate=2020-05-22}}</ref>。この外表皮を塗ると[[ほくろ|黒子]]が取れるとする薬効が『[[昭興本草]]』([[1159年]])にある<ref name="historical"/>。また銀杏には[[アナカルド酸]]が含まれ、{{snamei||Nostoc}} 属[[シアノバクテリア]]の糸状体に対して強力な殺菌活性を有しながらも、毒性を示さない極低濃度では明瞭な[[ホルモゴニア]]分化誘導活性を示す<ref>{{cite journal|author=西塚紘明・橋床泰之|title=イチョウ偽果に含まれるアナカルド酸類とそれらのエステル誘導体が示す対Nostoc属シアノバクテリア・ホルモゴニア分化誘導活性|journal=植物の生長調節 (植物化学調節学会研究発表記録集)|volume=51|page=94|issn=1346-5406|date=2016-10-07}}</ref>。
<gallery>
Ginkgo Seed.JPG|仁を銀杏として食すイチョウの種子
銀杏 gin'nan (gingko nut) (21359350261).jpg|素揚げされた銀杏
Matsutake gohan (2016-11-29) 01.jpg|[[マツタケ|松茸]]ご飯に入った銀杏
Ginkgo and coconut dessert.jpg|銀杏とココナッツを甘く煮た中国のデザート
</gallery>
==== 毒性 ====
イチョウの種子は皮膚炎及び食中毒を起こすことが知られている。[[1379年]]の『[[種樹書]]』にはすでに銀杏に毒性のあることが記載されている<ref name="Kinoshita1"/>。銀杏中毒になる危険性があるため、日本では「歳の数以上は食べてはいけない」という言い伝えがある<ref name="JJAAM"/>。
; 皮膚炎
種皮の外表皮には乳白色の乳液があり、それには[[アレルギー性皮膚炎]]を誘発する[[ギンコール]]や[[ビロボール]]といった[[ギンコール酸]](ギンゴール酸)と呼ばれるアルキルフェノール類の脱炭酸化合物を含んでいる<ref name="Watanabe"/><ref name="Pharmacological">[[#Pharmacological|佐々木・松岡 2012]], pp.61–67</ref>。これは[[ウルシ]]の[[ウルシオール]]と類似し、[[かぶれ]]などの[[皮膚炎]]を引き起こす<ref name="Noken"/>。イチョウの乾葉は、[[シミ目|シミ]]などに対する[[防虫剤]]として用いられる<ref name="nipponika" />。これは、ギンコール・ギンコール酸が葉にも含まれているからである<ref name="Pharmacological"/>。
; 食中毒(銀杏中毒<ref name="JJAAM">[[#JJAAM|宮崎ほか 2010]], pp.956–960</ref>)
食用とする種子には[[ビタミンB6|ビタミンB<sub>6</sub>]]の類縁体[[ギンコトキシン|4'-O-メチルピリドキシン]] (4'-O-methylpyridoxine, MPN) が含まれている<ref name="Noken">{{Cite web|和書|title=イチョウ|url=https://www.naro.affrc.go.jp/org/niah/disease_poisoning/plants/ginkgo.html|publisher=農研機構|accessdate=2020-04-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ギンナン|url=http://www.naoru.com/ginnan.htm|publisher=丸美屋和漢薬研究所|accessdate=2020-05-21}}</ref><ref>{{cite journal|last=Wada|first=Keiji|first2=Seikou|last2=Ishigaki|first3=Kaori|last3=Ueda|first4=Masakatsu|last4=Sakata|first5=Masanobu|last5=Haga|date=1985|title=An antivitamin B6, 4'-methoxypyridoxine from the seed of ''Ginkgo biloba'' L.|journal=Chem. Pharm. Bull.|volume=33|doi=10.1248/cpb.33.3555|pages=3555–3557}}</ref> が、これはビタミンB<sub>6</sub>に拮抗して(抗ビタミンB<sub>6</sub>作用)ビタミンB<sub>6</sub>欠乏となり[[Γ-アミノ酪酸|GABA]]の生合成を阻害し、まれに[[痙攣]]などを引き起こす<ref name="Noken"/>。銀杏の大量摂取により中毒を発症するのは小児に多く、成人では少ない<ref name="JJAAM"/>。大人の場合かなりの数を摂取しなければ問題はないが、1日5–6粒程度でも中毒になることがあり、特に報告数の70%程度が5歳未満の小児である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hoku-iryo-u.ac.jp/~wadakg/keyword/ginkgofoodp.html|title=銀杏食中毒とは|publisher=北海道医療大学薬学部|accessdate=2020-05-26}}</ref>。小児では7個以上、大人では40個以上の摂取で発症するとされる<ref name="JJAAM"/>。
[[太平洋戦争]]前後などの食糧難の時代に中毒報告が多く、大量に摂取したために死に至った例もある<ref name="JJAAM"/>。1960年代以降銀杏中毒は減少に転じ、1970年代以降死亡例はない<ref name="JJAAM"/>。上記の通りビタミンB<sub>6</sub>欠乏により中毒が起こるため、食糧事情の改善に伴う栄養状態の改善により減少したと考えられている<ref name="JJAAM"/>。
症状は主に[[下痢]]、[[嘔気]]、[[嘔吐]]等の[[消化器]]症状および[[縮瞳]]、[[眩暈]]、[[痙攣]]や[[振戦]]等の[[中枢神経]]症状で、加えて[[不整脈]]や[[発熱]]、呼吸促拍等の症状も報告されている<ref name="JJAAM"/>。
=== イチョウ葉の薬理効果 ===
[[画像:Ginkgo biloba-Leaves and Seeds-1.jpg|thumb|200px|ドイツではイチョウの成分が医薬品と認められている]]
[[File:Ginkgolides structure.png|thumb|200px|ギンコライドの構造式]]
イチョウ葉には[[フラボノイド]]、[[テルペノイド]]、[[アルキルフェノール]]類が含まれる<ref name="Pharmacological"/>。
主要なフラボノイド成分は[[ビフラボン]]、[[フラボノール]]、[[フラボン]]であり、このうちイチョウ葉エキスのビフラボン含有量は僅かである<ref name="Pharmacological"/>。ビフラボンは[[アメントフラボン]]、アメントフラボンの誘導体である[[ビロベチン]]、[[ギンクゲチン]]、[[イソギンクゲチン]]、[[シアドビチシン]]、[[5'-メトキシビロベチン]]が含まれている<ref name="Pharmacological"/>。フラボノール及びフラボノール[[配糖体]]は約20種が含まれており、主要な[[アグリコン]]は[[ケンフェロール]]、[[ケルセチン]]、[[イソラムネチン]]、[[ミリセチン]]などで、配糖体の糖部に多いのは[[グルコース]]、[[ラムノース]]、[[ルチノース]]などである<ref name="Pharmacological"/>。また、2種類の[[プロアントシアニジン]]も報告されており、イチョウ葉エキスには約7%含まれている<ref name="Pharmacological"/>。
テルペノイドにはともにイチョウに特有な物質である[[ギンコライド]]および[[ビロバライド]]があり、イチョウ葉エキス中には前者2.9%、後者3.1%が含まれている<ref name="Pharmacological"/>。ギンコライドは[[tert-ブチル基|''tert''-ブチル基]]を持ち、6個の[[環式化合物|5員環]]からなる「籠型構造」を有する[[ジテルペン]]である<ref name="Pharmacological"/>。これまでにギンコライドA、ギンコライドB、ギンコライドC、ギンコライドJ、ギンコライドMの5種類が見つかっている<ref name="Pharmacological"/>。ただしこのうちギンコライドMは根皮のみから見つかっている<ref name="Pharmacological"/>。ビロバライドも''tert''-ブチル基を持つが、4個の5員環を持つ[[セスキテルペン]]である<ref name="Pharmacological"/>。
アルキルフェノール類であるギンコール酸は葉にも含まれる<ref name="Pharmacological"/>。ギンコール酸はヒトの[[癌細胞]]に対する増殖抑制作用が知られている<ref name="Pharmacological"/>。
==== 生理作用 ====
イチョウ葉エキスの生理作用は主に抗酸化作用と[[血液凝固]]抑制作用、神経保護作用、抗炎症作用であり、その他、[[血液循環]]改善作用、血圧上昇抑制作用、血糖上昇抑制作用の報告もある<ref name="Pharmacological"/><ref name="NIHN">{{Cite web|和書|author=杉山朋美・梅垣敬三|url=https://www.nibiohn.go.jp/eiken/hn/modules/pico/index.phpcontent_id=306&page=print.html|date=2003|title=イチョウ葉エキスの有効性および安全性|publisher=国立健康・栄養研究所|accessdate=2020-05-22}}</ref>。
イチョウ葉エキス中のフラボノイド類には、[[脂質]]過酸化、[[血小板]]凝集、炎症反応などに関係する[[活性酸素]]や[[ラジカル (化学)|フリーラジカル]]の消去作用、血小板凝集の阻害効果、炎症細胞からの活性酸素産生の抑制作用が認められる<ref name="NIHN"/>。イチョウ葉エキスEGb761は[[ヒドロキシラジカル]]、[[ペルオキシド|ペルオキシラジカル]]、[[超酸化物|スーパーオキシドラジカル]]に対して消去作用を示すことが知られている<ref name="Pharmacological"/>。
また、イチョウ葉エキスの中の[[ギンコライド]]Bは特異的な[[血小板活性化因子]]の阻害物質ということが確認され、[[脳梗塞]]や[[動脈硬化]]の予防の効果が期待されている<ref name="NIHN"/>。
==== 有効性 ====
中国では古くから薬用に用いられていたが、イチョウ葉エキスが現代医学において効果があると示されたのは1960年代、[[ドイツ]]の製薬会社で開発されたイチョウ葉エキスが脳や末梢の血流改善に使用されたことに端を発する<ref name="Pharmacological"/>。ただし中国でもイチョウ葉を薬用とするようになったのはおそらく[[清]]朝以降であると考えられている<ref name="Kinoshita1"/>。『[[本草品彙精要]]』には胸悶心痛や激しい動悸、痰喘咳嗽、水様の[[下痢]]、[[白帯]]を治すとある<ref name="Kinoshita1"/>。
EGb761というイチョウ葉エキスを用いた[[疫学#臨床試験|臨床試験]]において、[[記憶障害|記憶力衰退]]の改善、[[認知症]]の改善、眩暈や[[耳鳴り]]、頭痛など脳機能障害の改善、[[不安感]]の解消などの有効性が報告されている<ref name="Pharmacological"/><ref name="NIHN"/>。
しかし、イチョウ葉エキスの効果に関する信頼性の高い研究はほとんどない<ref name="NCCIH">{{Cite web |url=https://www.nccih.nih.gov/health/ginkgo |title=Ginkgo(2020年8月) |publisher =[[アメリカ国立補完統合衛生センター]] |accessdate=2023-11-26}}</ref><ref name="ejim" />。[[アメリカ国立補完統合衛生センター]](NCCIH)はイチョウ葉エキスの効果に対して否定的な態度を示しており、「イチョウがさまざまな健康上の問題に関して、有用であるという決定的な[[科学的証拠]]は存在しない」「[[認知症]]もしくは認知機能低下の予防や緩和、高血圧、耳鳴り、多発性硬化症、季節性情動障害、および心臓発作や脳卒中のリスクに対しては、イチョウは有用ではないことが、示唆されている」と述べている<ref name="NCCIH" /><ref name="ejim">{{Cite web |url=https://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/overseas/c04/25.html |title= イチョウ |publisher =[[厚生労働省]]eJIM |accessdate=2023-11-26}}</ref><ref name="gijika">{{Cite web |url=https://gijika.com/rate/hf_ginkgo_biloba_extract.html |title=イチョウ葉エキス |publisher =疑似科学とされるものを科学的に考える|Gijika.com |accessdate=2023-11-26}}</ref>。これは、NCCIHによって行われた大規模なRCT実験(被験者3000人)を含む研究に基づいている<ref name="ejim" /><ref name="gijika" />。
==== 抽出 ====
日本と欧米では製造方法が異なり<ref name="NIHN"/>、日本では健康食品として使用されるため[[食品衛生法]]の規制により、[[エタノール]]抽出が行われるが、欧米では[[アセトン]]抽出が行われている<ref name="Pharmacological"/>。欧米のアセトン抽出によるイチョウ葉エキスはEGb761というコードネームがつけられ、この薬理学研究は多数行われている<ref name="Pharmacological"/>。イチョウ葉エキスで特定されている成分は、含量がエキス全体の半分にも満たないフラボノイドやテルペノイドなどであるため、フラボノイドやテルペノイドなどの含有量が同じであってもアセトン抽出品とエタノール抽出品が同等かどうかの判断はできない<ref name="NIHN"/>。
雑誌などでイチョウ葉茶の作り方が掲載されることがあるが、イチョウ葉を集めてきて、自分で調製したお茶にはかなり多量のギンコール酸が含まれると予想され、推奨されない<ref name="NIHN"/>。
==== 規格 ====
ドイツでは、[[フラボノイド]]22–27%、[[テルペノイド]]5–7%([[ビロバリド|ビロバライド]]2.6–3.2%、[[ギンコライド]]A, B, C 2.8–3.4%)、[[ギンコール酸]]5 ppm以下の規格を満たすイチョウ葉[[エキス]]が[[医薬品]]として認証されており<ref name="kokusen01">{{PDFlink|[http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20021125.pdf イチョウ葉食品の安全性]}} 2002年11月25日(国民生活センター)</ref>、日本においても公益財団法人 [[日本健康・栄養食品協会]]がイチョウ葉エキス食品に対し、イチョウ葉エキスを20 mg以上含有し、ギンコール酸を5 ppm以下とするよう基準を設けている<ref name="NIHN"/><ref>{{Cite web|和書|title=イチョウ葉エキス食品|url=http://www.jhnfa.org/health-02.html|publisher=日本健康・栄養食品協会|date=2010|accessdate=2020-05-22}}</ref>。しかし、同協会の認証を受けていない商品についてはそういった基準はない。なお、イチョウ葉は日本から[[ドイツ]]や[[フランス]]へ輸出されている<ref>{{PDFlink|[http://soni.niye.go.jp/kotomono/pdf/17.pdf 曽爾の天然記念物]}}(国立曽爾青少年自然の家){{リンク切れ|date=2020-05-22}}</ref>。
日本では、イチョウ葉を素材とした健康食品は食品として流通している<ref name="ginkgolicacid">{{cite journal|author1=中嶋順一|author2=安田一郎|author3=浜野朋子|author4=塩田寛子|author5=重岡捨身|author6=蓑輪佳子|author7=岸本清子|author8=守安貴子|author9=高橋美佐子|title=健康食品に含まれるginkgolic acidの分析|journal=Ann. Rep. Tokyo Metr. Inst. P.H.|volume=54|pages=109-114|date=2003}}</ref> が、医薬品として認可されておらず、[[食品]]であるため効能を謳うことはできない。しかし、消費者に対し過大な期待を抱かせたり、[[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律|医薬品医療機器等法]]で問題となるような広告も散見される<ref name="kokusen01"/>。
[[国民生活センター]]のレポートによると、[[アレルギー]]物質であるギンコール酸、有効物質であるテルペノイド、フラボノイドの含有量には製法と原料由来の大きな差がみられる。また、「お茶として長時間煮詰めると、ドイツの医薬品規格以上のギンコール酸を摂取してしまう場合がある」とし、異常などが表れた場合は、すぐに利用を中止し医師へ相談するよう呼び掛けている<ref name="kokusen01"/>。
==== 副作用 ====
医薬品規格を満たすイチョウ葉エキスについては、適切に用いれば経口摂取でおそらく安全と評価されている<ref name="yomi2016">{{Cite web |url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160809-OYTEW170921/ |title=[イチョウ葉エキス]薬との併用、高齢者は慎重に |publisher =読売新聞 |date=2016-08-09 |accessdate=2023-11-26}}</ref>。240 mg以上のイチョウ葉エキスの摂取や医薬品規格を満たさないものについては、安全性は明確になっていない<ref name="NIHN"/>。副作用として、胃腸障害、頭痛やめまい、動機、皮膚のアレルギー症状、血液凝固抑制薬([[ワルファリン]]や[[アスピリン]])との併用による出血の恐れが高まること<ref name="kokusen01"/><ref name="NCCIH" />などが知られている<ref name="yomi2016" /><ref name="NIHN"/>。まれな副作用としては、[[スティーブンス・ジョンソン症候群]]、[[下痢]]、吐き気、[[筋弛緩]]、[[皮疹|発疹]]、[[口内炎]]などが報告されている。
==== 相互作用 ====
イチョウ葉エキスには血液の抗凝固促進作用があり、[[アセチルサリチル酸|アスピリン]]など抗凝固作用を持つ薬との併用には注意を要する<ref name="NIHN"/>。[[インスリン]]分泌にも影響を及ぼすため、[[糖尿病]]患者が摂取する場合は医師と相談した方がよい。また、抗うつ剤や[[肝臓]]で代謝されやすい薬(CYP2C9、CYP1A2、CYP2D6、CYP3A4の基質となる医薬品<ref group="註">たとえば、[[ジアゼパム]]、[[ワルファリン]]、[[トリアゾラム]]、[[ハロペリドール]]など。</ref>)も相互作用が生じる可能性がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dobun.co.jp/nmdb/iyakusample/samplelist.html#ginkgo|title=健康食品 有効性 安全性 医薬品との相互作用|publisher=同文書院|deadlinkdate=2020-05-26}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2007/200709kougi.PDF 講義「食品・サプリメントと医薬品との相互作用」]}} - 機関誌『ぶんせき』 2007年9月号 社団法人日本分析化学会</ref>。原因は明らかでないものの、[[トラゾドン]]とイチョウ葉エキスを摂取した高齢の[[アルツハイマー病]]患者が、昏睡状態に陥った例も報告されている<ref name="NIHN"/>。利尿剤との併用により、高血圧を起こしたとの報告も1例ある<ref name="NCCIH" />。
== 社会や文化とのかかわり ==
=== 伝承・民俗 ===
イチョウは日本では[[神社]]や[[寺院]]などに多く植栽され、全国的に、[[住宅|民家]]に植えるのはどちらかといえば忌み嫌われる傾向にある<ref name="oofuji">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/イチョウ-761754|author=大藤時彦|title=イチョウ【民俗】|work=日本大百科全書([[ニッポニカ]])|website=コトバンク|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
[[ファイル:Jotakuji no Ohatsuki Icho July 2019 E.jpg|300px|右|thumb|[[上沢寺のオハツキイチョウ]](山梨県身延町)]]
イチョウに関しては多くの伝承が伝わっている<ref name="oofuji" />。「杖銀杏」とは、[[空海]]や[[親鸞]]、[[日蓮]]といった高僧・名僧が携えた杖を地面に刺したものが成長し、根を張り、枝葉を生じたというもので、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布]][[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]の「[[善福寺のイチョウ]]」(国の[[天然記念物]])、[[山梨県]][[南巨摩郡]][[身延町]]の「[[上沢寺のオハツキイチョウ]]」(国の天然記念物)などはその一例である<ref name="oofuji" /><ref name="ohatsuki">{{Cite web|和書|title=0386│逆さ銀杏|url=https://design-archive.pref.yamanashi.jp/oldtale/3628.html|website=山梨デザインアーカイブ|accessdate=2020-05-26}}</ref>。また、しばしば見かける「逆さ銀杏」とは枝葉が下を向いて生えることを称しており、「善福寺のイチョウ」「上沢寺のイチョウ」のほか、[[京都市]][[下京区]]の「[[西本願寺]]の逆さイチョウ」(京都市天然記念物)などが有名であるが、それ以外にも全国各地に点在している<ref name="oofuji" /><ref name="ohatsuki" /><ref>{{Cite web|和書|title=見どころ 天然記念物 大銀杏|url=http://www.hongwanji.or.jp/hongwanji/guide03.html|website=浄土真宗本願寺派(西本願寺)|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
古いイチョウの樹に生じる気根にふれたり、気根を削って煎じたものを飲んだりすると乳の出がよくなるという「[[#チチイチョウ|乳イチョウ]]」の古木も全国各地にみられる<ref name="oofuji" />。[[川崎市]]の[[影向寺]]のイチョウや[[仙台市]][[宮城野区]]の「苦竹のイチョウ(姥銀杏)」(宮城県天然記念物)、[[富山県]][[氷見市]]の「上日寺のイチョウ」(国の天然記念物)、[[千葉県]][[勝浦市]]の「高照寺の乳イチョウ」(千葉県天然記念物)が特に知られている<ref name="oofuji" /><ref>{{Cite web|和書|author=宮城県 文化財課 保存活用班|title=指定文化財〈天然記念物〉苦竹のイチョウ|url=https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/bunkazai/08nigatake-ityou.html|website=宮城県公式Webサイト|publisher=宮城県|date=2019-02-04|accessdate=2020-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=氷見市博物館|title=上日寺のイチョウ|url=https://www.city.himi.toyama.jp/gyosei/shisei/himi/2/2809.html|website=氷見市公式Webサイト|publisher=氷見市役所|date=2020-03-27|accessdate=2020-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=千葉県 教育庁 教育振興部文化財課指定文化財班|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p431-002.html|website=千葉県|publisher=千葉県庁|title=高照寺ノ乳公孫樹|accessdate=2020-12-02}}</ref><ref>[[#hyoujungenshoku|岡本 1966]], p.1</ref>。青森県[[西津軽郡]][[深浦町]]の「[[北金ヶ沢のイチョウ]]」(国の天然記念物)は「垂乳根(たらちね)の公孫樹」とも呼ばれて崇敬されてきた樹で、母乳の不足する女性が青森県内はもとより[[秋田県]]や[[北海道]]からも願掛けに訪れ、気根にお神酒と米を供えて祈る風習が[[1980年代]]半ばまで続いていたといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/04090301/002.htm|title=史跡等の指定等について|website=[[文部科学省]]|accessdate=2020-05-26}}</ref>。[[徳島県]][[板野郡]][[上板町]]の[[乳保神社のイチョウ]](国の天然記念物)も「乳イチョウ」で、これは神社名の由来になった樹木であり、[[神木]]である<ref name="awa">{{Cite web|和書|url=https://www.awanavi.jp/spot/20281.html|title=乳保神社のイチョウ|website=徳島県観光情報サイト阿波ナビ|accessdate=2020-05-26}}</ref>。ここでは気根の先を白紙で結んでおくと病気平癒や乳の出がよくなるといった御利益があると信じられてきた<ref name="awa" />。
「子授け銀杏」には、東京都[[豊島区]][[法明寺 (豊島区)|法明寺]][[法明寺 (豊島区)#鬼子母神堂|鬼子母神堂]]境内のイチョウが知られ、その木を女性が抱き、その葉や樹皮を肌につけると子宝が授かるという伝承がある<ref name="oofuji" />。
「泣き銀杏」には、[[千葉県]][[市川市]]の[[弘法寺 (市川市)|弘法寺]]のイチョウが有名で、弘法寺1世[[日頂]]が養父[[富木常忍]]の勘当を受けて、この木の周りを泣きながら[[読経]]したという伝承に由来する<ref name="oofuji" />。各地の「泣き銀杏」の伝承には、さまざまなタイプがある<ref name="oofuji" />。
=== 世相・社会 ===
[[明治]]年間、[[日比谷通り]]の拡幅工事が実施されてイチョウの木が伐採されようとしたとき、造園家の[[本多静六]]が「私の首をかける」として伐採に反対したのが、[[東京都]][[千代田区]]の[[日比谷公園]]内にある「[[首かけイチョウ]]」である<ref>{{Cite web|和書|author=福祉新聞編集部|url=https://www.fukushishimbun.co.jp/topics/5642|title=日比谷公園・松本楼と首掛け銀杏|work=福祉新聞|date=2014-09-15|accessdate=2020-05-26}}</ref>。日比谷公園は、[[1903年]]に本多によって造園され、イチョウは25日かけてレールを用いて同地に移植された。
[[小説家]]の[[橋本治]]は、[[東大紛争]]のさなかの[[1968年]](昭和43年)、[[東京大学]]在学中に、[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部#駒場祭|東京大学駒場祭]]のポスターに「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打っている。それは、背中に銀杏の[[バッジ]]を[[刺青]]風に描いた[[ヤクザ]]風の男のセリフであり、[[勘亭流]]で書かれたものであった<ref name="mwatanabe448" />。
イチョウは火災に強く、生命力が旺盛なところから「復興のシンボル」とされることがある。千代田区[[大手町 (千代田区)|大手町]]の「[[震災イチョウ]]」は[[1923年]]の[[関東大震災]]にともなう周囲の火災から唯一焼失を免れた個体であり<ref name="Shinsai">{{Cite web|和書|url=http://www.bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki1.html|author=山村武彦|title=関東大震災のちょっといい話 /被災者に生きる希望と勇気を与えた「震災いちょう」|publisher=防災システム研究所|accessdate=2020-05-26}}</ref>、[[栃木県]][[宇都宮市]]の[[旭町の大いちょう]]も[[1945年]]の[[宇都宮空襲]]で被災し、いったんは焼け焦げたものの、翌春に芽吹いたものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tochinavi.net/spot/home/?id=9738|title=旭町の大いちょう|website=栃ナビ!|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
=== 文学・詩歌 ===
世界的には[[#銀杏の葉|上述]]したように、ドイツの[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]の恋愛詩「銀杏の葉」 ''{{lang|de|Gingo biloba}}''(1815) (『[[西東詩集]]』「ズライカの書」所収)が知られるが、[[宮沢賢治]]の[[童話]]に『いてふの実』という作品がある<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4423_7299.html 宮沢賢治『いてふの実』(青空文庫)]</ref>。
[[短歌]]としては、次の歌が有名である<ref name="nagata178">[[#永田|永田 2013, p.178]]</ref>。
{{quotation|
* 金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に [[与謝野晶子]]
}}
[[山川登美子]]・[[増田雅子]]との合著詩歌集『[[恋衣]]』に収載されている短歌である<ref name="nagata178" />。何百、何千というイチョウの葉が夕日のなかを舞い散るさまは、まるで、おびただしい数の鳥が飛び交うようだという、きわめて鮮やかな視覚的イメージを読者にあたえ、上句よりどこか童画のような印象も呼び起こされる秀歌である<ref name="nagata178" />。
[[俳句]]においては、「銀杏(ぎんなん)」の[[季語]]は秋である<ref name="saijiki155">[[#歳時記|『味覚歳時記』(1997)p.155]]</ref>。また、「銀杏散る(いちょうちる、いてふちる)」「銀杏黄葉(いちょうもみじ、いてふもみぢ )」はともに晩秋の季語<ref>[https://www.kigosai.sub.jp/archives/4707 きごさい歳時記「銀杏散る」]</ref><ref>[https://kigosai.sub.jp/001/archives/11606 きごさい歳時記「銀杏黄葉」]</ref>、「銀杏落葉(いちょうおちば、いてふおちば)」は初冬の<ref>[https://kigosai.sub.jp/001/archives/5293 きごさい歳時記「銀杏落葉」]</ref>、「銀杏の花」は晩春のそれぞれ季語となっている<ref>[https://kigosai.sub.jp/001/archives/11469 きごさい歳時記「銀杏の花」]</ref>。晩秋に黄葉して、それが散って路面に敷かれると、あたりがたいへん明るくなり、それを詠んだ句もある<ref name="koyomi202">[[#生活ごよみ|『生活ごよみ 秋の巻』(1986)p.202]]</ref>。
{{quotation|
* いてふ葉や止まる水も黄に照す [[三宅嘯山]]
* 北は黄にいてふぞ見ゆる大徳寺 [[黒柳召波]]
* 銀杏の花や鎌倉右大臣 [[内藤鳴雪]]
* 青々と池持つ寺や銀杏の実 [[原石鼎]]
* 寺の井に竹簀の蓋や銀杏の実 原石鼎
* 子等に落ちて黄なる歓喜や銀杏の実 原石鼎
* とある日の銀杏もみぢの遠眺め [[久保田万太郎]]
* ごみ箱のどれにも銀杏黄葉溢る [[右城暮石]]
* 暮れてなほ公孫樹もみぢの明るけれ [[辻本草坡]]
* 銀杏が落ちたる後の風の音 [[中村汀女]]
* 銀杏を焼きてもてなすまだぬくし [[星野立子]]
* ぎんなん拾ふ外科医にて今日若き母 [[加藤楸邨]]
}}
=== 「銀杏城」「銀杏の都」 ===
[[ファイル:Kumamoto Kumamotozyo Ooityou 1.jpg|右|thumb|160px|[[熊本城]]の大銀杏]]
[[三名城|日本三名城]]の一つ[[熊本城]]は、別名「'''銀杏城'''{{small|(ぎんなんじょう)}}」と呼ばれている<ref name="fruit"/><ref name="Kojo">{{Cite book |和書|author=井上宗和|title=日本古城物語|publisher=グラフィック社|date=1987-09-25|isbn=4766104323|pages=10-11}}</ref>。これは[[加藤清正]]が熊本城を築城した際、[[天守]]の傍にイチョウが植えられたためとされる<ref name="Kojo"/>{{refnest|group="註"|清正は、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]での[[蔚山城籠城戦]]で食料不足に苦しんだ経験にもとづき、籠城の際の食料確保のために銀杏を植えたといわれることもあるが、俗説である可能性も高い<ref name="Kojo" />。}}。現在生えているイチョウは二代目である<ref name="Kojo"/>。
これが機縁となって[[熊本市]]の木は銀杏となっており、熊本市は「銀杏の都」と呼ばれることがある<ref name="hirodai">{{Cite web|和書|title=第2話 「『銀杏(いちょう)』と大学はベストマッチ」|url=https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/center-data/school-badge/%E2%80%95%E3%80%80%E7%AC%AC2%E8%A9%B1%E3%80%8C%E3%80%8E%E9%8A%80%E6%9D%8F%EF%BC%88%E3%81%84%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89%E3%80%8F%E3%81%A8%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AF%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88/|website=広島大学高等教育研究開発センター|date=2009-05|accessdate=2020-05-26}}</ref>。[[熊本大学]]の[[校章]]にもイチョウが用いられており<ref name="hirodai" />、熊本市にはかつて[[銀杏学園短期大学]]という私立短期大学もあった。
かつて[[鹿児島本線]]で運行していた[[急行列車]]「[[有明 (列車)|ぎんなん]]」(475系急行)<ref>{{Cite book|和書|author=南正時|title=鉄道「大百科」の時代|publisher=実業之日本社|date=2017-01-28|isbn=978-4-408-11212-1}}</ref>、2018年11月30日まで[[北九州市|北九州]]-熊本間を運行していた[[高速バス]]「[[ぎんなん号]]」<ref>{{Cite web|和書|author=柴田勇吾|title=産交バス、熊本~北九州線「ぎんなん号」を休止へ 11月30日まで運行|url=https://www.traicy.com/posts/2018100592514/|publisher=TRAICY|date=2018-10-05|accessdate=2020-05-25}}</ref> などは、それに由来する。
=== 姓氏 ===
[[賀茂御祖神社]](下鴨神社)の[[祝 (神職)|祝]]として知られる日本の姓氏に'''鴨脚'''{{small|(いちょう)}}氏がある<ref name="Shincho-kamo"/><ref name="info">{{Cite web|和書|title=新指定・登録文化財 第24回京都市文化財|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005529.html|website=京都市情報館|date=2020-04-06|accessdate=2020-05-20}}</ref><ref name="bunkazai">{{Cite web|和書|title=京都市指定・登録文化財-名勝|url=http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/bunkazai/siteisyasinn/meisyousetumei.htm|publisher=京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課|accessdate=2020-05-20}}</ref>{{refnest|group="註"|[[京都市]][[左京区]][[下鴨]]宮河町にある'''鴨脚家庭園'''{{small|(いちょうけていえん)}}は[[2006年]](平成18年)[[3月31日]]に第24回京都市[[文化財]]に指定された、賀茂御祖神社の祝の現存する唯一の屋敷に設けられた庭園である<ref name="info"/><ref name="bunkazai"/>。}}。[[幕末]]期に[[孝明天皇]]に仕えた[[鴨脚克子]]などが知られる。また'''銀杏'''{{small|(いちょう、ぎんなん、ぎんな)}}氏という姓氏もある<ref name="Shincho"/>。
=== 家紋 ===
{{multiple images
|width=160
|image1=Mitsu Ichō inverted.png
|caption1=三つ銀杏
|image2=Ichō-zuru inverted.svg
|caption2=銀杏鶴}}
イチョウの葉を象った紋所は「'''銀杏'''{{small|(いちょう)}}」として古くから用いられた<ref name="Kojien"/>。[[公家]]では、[[藤原北家]][[花山院流]]の[[飛鳥井家]]のみが用いており、当主が十六葉、嗣子が十二葉、庶子が六葉、一門が八葉の銀杏を図案化した紋を用い、家臣に賜与するものには三葉を用いるなどの規則があった<ref name="mwatanabe448">[[#渡辺三男|渡辺三男 1992]], pp.448–449</ref><ref name="kamon">{{Cite web|和書|url=http://www.harimaya.com/kamon/column/ityou.html|website=名字と家紋|title=銀杏紋|author=HARIMAYA|accessdate=2020-05-26}}</ref>。[[武家]]では、[[越前国]][[鯖江藩]]の[[藩主]]であった[[間部氏]]が「丸に三つ引両」とともに「三つ銀杏」を使用した<ref name="mwatanabe448" />。また、[[源義仲]]の末裔を称し、[[関東管領]][[上杉氏]]に仕えた[[大石氏]]が「銀杏の二葉」だったとの記録がある<ref name="kamon" />。[[江戸幕府]]の[[旗本]]では、間部・大石氏のほか、岸・土方・林・町田・大柴・渋江・水島・森・平田・藤野・竹村・坪内・大岡・青木・大熊・長谷部の諸氏が銀杏紋を用いた<ref name="mwatanabe448" />。なお、[[沼田頼輔]]『日本紋章学』には、[[徳川氏]]が[[葵紋]]を家紋とする以前は銀杏紋を家紋としていたのではないかという見解が記されている<ref name="mwatanabe448" />{{refnest|group="註"|沼田が根拠としたのは、[[三河国|三河]][[岡崎市|岡崎]]の[[松応寺]]にある[[松平広忠]]([[徳川家康|家康]]の父)の墓所の玉垣の内外に「剣銀杏紋」が付されていること、[[芝]]の[[増上寺]]安国殿(家康廟所)に家康遺愛の神木として銀杏が植えられていることなどである<ref name="mwatanabe448" />。}}。
ユニークなものでは、銀杏の葉を飛んでいる[[鶴]]の形に図案化した'''銀杏鶴'''{{small|(いちょうづる)}}という紋所が知られ、[[江戸]]の[[歌舞伎]]小屋[[中村座]]の定紋となっている<ref>{{cite web|和書|title=日本国語大辞典|publisher=[[小学館]]|website=コトバンク|url=https://kotobank.jp/word/銀杏鶴-2007034|accessdate=2020-05-22}}</ref>。
=== 髪型 ===
[[ファイル:Nihongami 7.jpg|右|thumb|160px|[[銀杏返し]]]]
女性の髪の結い方で、[[髻]]{{small|(もとどり)}}を二分し、左右に曲げてそれぞれ輪を作り毛先を元結で根に結んだ髪型を[[銀杏返し]]{{small|(いちょうがえし)}}と呼ぶ<ref name="Kojien"/>。この髪型は江戸中期から少女の髪形として行われ、明治以降は中年向きの髪形となった<ref name="Kojien"/>。また、[[島田髷]]の[[髷]]の先を銀杏の葉の形に広げたものを[[銀杏髷]]{{small|(いちょうまげ、いちょうわげ)}}と呼び、この髷の中に[[浅葱色]]または紫の無地の[[ちりめん|縮緬]]を巻き込んだものを[[銀杏崩し]]{{small|(いちょうくずし)}}と呼ぶ<ref name="Kojien"/>。ただし、銀杏髷は江戸時代の男性の髷である銀杏頭{{small|(いちょうがしら)}}のことを指すこともある<ref name="Kojien"/>。これは二つ折りにした髻の[[刷毛先]]を銀杏の葉のように広げたものである<ref name="Kojien"/>。[[武家]]の結い方で、髷の刷毛先を銀杏葉形に大きく広げた結い方を[[大銀杏]]{{small|(おおいちょう)}}と呼び、現在では[[相撲]]で十両以上の力士が行う<ref>[[#Kojien|新村 2008]], p.357</ref>。
=== 銀杏形 ===
イチョウの特徴的な葉の形を'''銀杏形'''{{small|(いちょうがた)}}といい、上記の紋所や髪型の呼称として親しまれてきた<ref name="Kojien"/>。ほかにも特徴的な葉の形になぞらえ、様々なものの命名に用いられてきた。たとえば、野菜を縦十文字に四つ割りにすることを[[銀杏切り]]{{small|(いちょうぎり)}}という<ref name="Kojien"/>。また、末広の[[膳]]の足を'''銀杏脚'''{{small|(いちょうあし)}}、末広の[[下駄]]の歯を'''銀杏歯'''{{small|(いちょうば)}}という<ref name="Kojien"/>。 雄の[[オシドリ]] {{snamei||Aix galericulata}} ({{AUY|Linnaeus|1758}})の両脇の羽はイチョウの葉に似るため「'''銀杏羽'''{{small|(いちょうば)}}」と呼ばれる<ref name="Kojien"/>。
=== イチョウの名を冠した生物 ===
[[File:Mesoplodon ginkgodens.jpg|thumb|250px|イチョウハクジラ {{snamei|Mesoplodon ginkgodens}}の頭骨。下顎の一対の歯が銀杏形をしている。]]
* [[イチョウハクジラ]] {{snamei||Mesoplodon ginkgodens}} {{AUY|Nishiwaki and Kamiya|1958}} は[[下顎]]の一対の[[歯]]がイチョウの葉に似ている点から命名された[[ハクジラ]]<ref>{{Cite book|和書|author=小宮輝之|title=日本の哺乳類|series=フィールドベスト図鑑 vol.12|publisher=[[学研ホールディングス|Gakken]]|date=2002-03-29|page=215|isbn=4054013740}}</ref>。学名にもイチョウを指す{{lang|la|ginkgo}}が含まれている。
* [[ヤマノイモ|イチョウイモ]] は[[ナガイモ]] {{snamei||Dioscorea polystachya}} {{AU|Turcz.}} の一品種で、塊根がイチョウの葉形で扁平であることから名づけられた<ref name="Kojien"/>。
* [[イチョウウキゴケ]](イチョウゴケ) {{snamei||Ricciocarpos natans}} ({{AU|L.}}) {{AU|Corda}}は、[[ウキゴケ科]]に属する[[苔類]]で、葉状体がイチョウの葉に似る<ref name="Kojien"/>。
=== アートのなかの銀杏 ===
<gallery>
ファイル:Collier Art Nouveau Ginkgo MAKK 30122014.jpg|イチョウの葉をあしらった[[ペンダント]]。 フランス([[アール・ヌーヴォー]])、1900年頃
ファイル:Rhamphorhynchus.jpg|[[ハインリヒ・ハルダー]]による絵画「[[ランフォリンクス]]と[[プテロダクティルス]]」。1920年前後
ファイル:1170 Andergasse 10-12 - Ernest Bevin-Hof Stg 16 - Hauszeichen Gingkoblätter von Herbert T. Schimek 1958 IMG 4788.jpg|[[ウィーン]]・ヘルナルス地区の[[パブリックアート]]([[モザイク]]画)。作者ヘルベルト・トニ・シュメク、1958年。
</gallery>
=== その他 ===
[[上地雄輔|遊助]](上地雄輔)の楽曲に「[[いちょう (遊助の曲)|いちょう]]」がある。演芸番組『[[笑点]]』の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]では、レギュラー出演者の[[三遊亭小遊三]]が、解答の際に銀杏拾いのネタをよく用いる。
== 自治体等の木 ==
日本においては、本種は馴染み深い木である<ref name="OMNH">[[#OMNH|大阪市立自然史博物館 2014]], pp.25-26</ref>。そのため、各自治体のシンボルマークや市町村の木、校章などに採用されてきた{{Refnest|group="註"|かつてイチョウを「市町村の木」指定していた自治体は以下の通りである。現在は合併などにより、消滅している。<br>
北海道檜山支庁爾志郡[[熊石町]]、青森県上北郡[[百石町]]・[[上北町]]、 宮城県[[古川市]]・栗原郡[[築館町]]・登米郡[[迫町]]・[[豊里町 (宮城県)|豊里町]]、秋田県仙北郡[[六郷町 (秋田県)|六郷町]]・[[仙北町]]・[[仙南村]]、山形県東田川郡[[立川町]]、福島県南会津郡[[伊南村 (福島県)|伊南村]]、茨城県行方郡[[麻生町]]、埼玉県:北埼玉郡[[騎西町]]、新潟県東頸城郡[[浦川原村]]・西頸城郡[[能生町]]、岐阜県土岐郡[[笠原町]]、愛知県中島郡[[祖父江町]]、 滋賀県坂田郡[[米原町]]、岡山県真庭郡[[八束村 (岡山県)|八束村]]<ref>{{Cite web|和書|title=各町村の紹介 八束村|url=https://www.gappei-archive.soumu.go.jp/db/33okayama/3313maniwa/chouson/161.html|website=真庭地域合併協議会|accessdate=2020-05-21}}</ref>、広島県比婆郡[[高野町 (広島県)|高野町]]、高知県香美郡[[香北町]]、福岡県鞍手郡[[若宮町 (代表的なトピック)|若宮町]]・朝倉郡[[杷木町]]、大分県大野郡[[緒方町]]・[[犬飼町]]・日田郡[[大山町 (大分県)|大山町]]・下毛郡[[本耶馬渓町]]・宇佐郡[[院内町 (大分県)|院内町]]、宮崎県東諸県郡[[高岡町 (宮崎県)|高岡町]]。}}。
=== 都道府県の木 ===
[[File:Symbol of Tokyo Metropolis.svg|thumb|100px|東京都シンボルマーク]]
* [[東京都]]<ref name="woods"/><ref name="fruit"/> - 東京の木選定委員会で選定された3つの候補([[ケヤキ]]・イチョウ・[[ソメイヨシノ]])の中から住民の一般投票により決定し、1966年[[11月14日]]に発表された<ref>{{Cite web|和書|title=都の紋章・花・木・鳥|website=東京都|url=http://www.metro.tokyo.jp/PROFILE/mon.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070216123234/http://www.metro.tokyo.jp/PROFILE/mon.htm|archivedate=2007-02-16|accessdate=2022-08-17}}</ref>。[[東京都シンボルマーク|都のシンボルマーク]]はその形状から都の木であるイチョウの葉をデザインしたものと説明される<ref name="garden">[[#garden|川原田 2006]], p.35</ref> 場合があるが、都では[[アルファベット]]の「T」が由来としておりイチョウの葉を由来とする説を明確に否定している<ref name="excite">{{Cite web|和書|url=http://www.excite.co.jp/News/bit/00091164589710.html|title=東京都のシンボルマークはイチョウではなかった|work=[[エキサイト|excite]]コネタ・2006年11月27日|accessdate=2008年9月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070219043111/http://www.excite.co.jp/News/bit/00091164589710.html|archivedate=2007年2月19日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
* [[神奈川県]]<ref name="woods"/><ref name="fruit"/> - [[1966年]]11月にイチョウ・[[ヤマザクラ]]・ケヤキ・[[シラカシ]]の4種の中から県民投票により選ばれた<ref>{{Cite web|和書|title=神奈川県のシンボル / 県民歌「光あらたに」|website=神奈川県|url=https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ie2/cnt/f530001/p780105.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626184821/https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ie2/cnt/f530001/p780105.html|archivedate=2022-06-26|accessdate=2022-08-17}}</ref>。
* [[大阪府]]<ref name="woods"/><ref name="fruit"/> - [[大阪市]]中心地を通る[[御堂筋]]のイチョウ並木が大阪を代表する景観であることから選定された<ref>{{Cite web|和書|title=大阪府のシンボル|website=[[全国知事会]]|url=https://www.nga.gr.jp/pref_info/symbol/osaka.html|accessdate=2022-08-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211021152540/https://www.nga.gr.jp/pref_info/symbol/osaka.html|archivedate=2021-10-21}}</ref>。本種は2014年現在、大阪府の管理する街路樹で最も本数が多く、大阪市でも[[シラカシ]]および[[トウカエデ]]に次いで第3位となっている<ref name="OMNH"/>。なお1985年時点では、大阪市の街路樹としてトウカエデに次いで2位であった<ref name="OMNH"/>。
=== 市の木 ===
[[File:Manhole cover Tokorozawa Farman3.jpg|thumb|200px|所沢市のマンホールに描かれたイチョウの葉]]
* 茨城県:[[ひたちなか市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hitachinaka.lg.jp/shisei/10/2/3397.html|title=ひたちなか市の市章・花・木・鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=ひたちなか市}}</ref>
* 栃木県:[[宇都宮市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/shisei/gaiyo/symbol/1007488.html|title=市章・市の花・市の木|accessdate=2020-05-18|publisher=宇都宮市}}</ref>、[[大田原市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082769275/|title=大田原市の花・木・魚・鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=大田原市}}</ref>
* 群馬県:[[前橋市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.maebashi.gunma.jp/gyosei/8/2/13383.html|title=市の木・市の花・市章・市民憲章・都市宣言|accessdate=2020-05-18|publisher=前橋市}}</ref>、[[太田市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0020-001kikaku-kikaku/uta.html|title=市の歌、マスコットキャラクター、市の木・花|accessdate=2020-05-18|publisher=太田市}}</ref>
* 埼玉県:[[行田市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.gyoda.lg.jp/11/02/10/0002.html|title=市の紹介|accessdate=2020-05-18|publisher=行田市}}</ref>、[[所沢市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/smph/iitokoro/enjoy/kids/shokai/shinokihanatori.html|title=市の木、市の花、市の鳥について|accessdate=2020-05-18|publisher=所沢市}}</ref>、[[和光市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.wako.lg.jp/home/miryoku/profile/you_2_14.html|title=市章、市の木、市の花|accessdate=2020-05-18|publisher=和光市}}</ref>、[[久喜市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kuki.lg.jp/shisei/gaiyo/hanakiuta/hanaki.html|title=市の花・木|accessdate=2020-05-18|publisher=久喜市}}</ref>、[[八潮市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yashio.lg.jp/shisei/shokai/profile/ki_hana_tori.html|title=市の木、花、鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=八潮市}}</ref>
* 千葉県:[[市原市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ichihara.chiba.jp/faq/faq_koho/faq_2079.html|title=市原市の木・花・鳥を教えてください。|accessdate=2020-05-18|publisher=市原市}}</ref>、[[浦安市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.urayasu.lg.jp/shisei/profile/profile/1000019.html|title=市の木、花|accessdate=2020-05-18|publisher=浦安市}}</ref>
* 東京都:[[八王子市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/002/002/p006163.html|title=八王子市の概要|accessdate=20020-05-18|publisher=八王子市}}</ref>、[[三鷹市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/002/002066.html|title=三鷹市の木・市の花|accessdate=2020-05-18|publisher=三鷹市}}</ref>、[[国立市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/about/about1/shoukai/1465447620094.html|title=国立市の木・花・色・鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=国立市}}</ref>、[[狛江市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/46,3907,353,3043,html|title=市章・市の木・市の花|accessdate=2020-05-18|publisher=狛江市}}</ref>、[[東久留米市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.higashikurume.lg.jp/shisei/profile/youkoso/1000072.html|title=市の木・市の花・市の鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=東久留米市}}</ref>、[[多摩市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.tama.lg.jp/0000002632.html|title=市章・シンボルマークと市の花・木・鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=多摩市}}</ref>、[[稲城市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.inagi.tokyo.jp/smph/kanko/gaiyo/symbol.html|title=市章・市の花・市の木・市の鳥・市のロゴタイプ|accessdate=2020-05-18|publisher=稲城市}}</ref>、[[羽村市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hamura.tokyo.jp/0000001762.html|title=市章、市の木・花・鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=羽村市}}</ref>
* 神奈川県:[[横浜市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shiminnoki.html|title=市民の木|accessdate=2020-05-18|publisher=横浜市}}</ref>
* 静岡県:[[三島市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn001135.html|title=市の木|accessdate=2020-05-18|publisher=三島市}}</ref>
* 大阪府:[[八尾市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yao.osaka.jp/0000002302.html|title=八尾市の概要|accessdate=2020-05-18|publisher=八尾市}}</ref>、[[泉佐野市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.izumisano.lg.jp/city_profile/gaiyou.html|title=市の概要|accessdate=2020-05-18|publisher=泉佐野市}}</ref>
* 奈良県:[[天理市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.tenri.nara.jp/shisei/shinogaiyou/1409727248564.html|title=市章・市の木・市の花|accessdate=2020-05-18|publisher=天理市}}</ref>
* 岡山県:[[笠岡市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasaoka.okayama.jp/soshiki/6/1179.html|title=市の木・花・さかな|accessdate=2020-05-18|publisher=笠岡市}}</ref>
* 山口県:[[山口市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yamaguchi.lg.jp/soshiki/3/5634.html|title=山口市の「花」・「木」・「花木」|accessdate=2020-05-18|publisher=山口市}}</ref>
* 高知県:[[土佐市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.tosa.lg.jp/prof/tisei.php|title=地勢・概要|accessdate=2020-05-18|publisher=土佐市}}</ref>
* 福岡県:[[田川市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji00388/index.html|title=市章、市花、市木|accessdate=2020-05-18|publisher=田川市}}</ref>
* 佐賀県:[[佐賀市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.saga.lg.jp/main/2358.html|title=市の木・市の花|accessdate=2020-05-18|publisher=佐賀市}}</ref>
* 熊本県:[[熊本市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kumamoto.jp/html/aramashi/toukei/top/yoran2012/sika.html|title=市歌・市木・市花・市鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=熊本市}}</ref>
=== 特別区の木 ===
* 東京都:[[文京区]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.bunkyo.lg.jp/kusejoho/profile/three-minutes/emblem.html|title=文京区の紋章、木、花|accessdate=2020-05-18|publisher=文京区}}</ref>
=== 町の木 ===
* 青森県:上北郡[[七戸町]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.shichinohe.lg.jp/gyosei/syoukai/gaiyou/symbol.html|title=町のシンボル|accessdate=2020-05-18|publisher=七戸町}}</ref> - 七戸町には'''銀南木'''{{small|(いちょうのき)}}という地名がある<ref>[[#Shincho|新潮社 2007]], p.2299</ref>。同名の推定樹齢700年のイチョウが県天然記念物に指定されている<ref>{{Cite web|和書|author=文化財保護課|date=2010-07-15|title=銀南木|url=https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kentennen_05.html|publisher=[[青森県]]庁|accessdate=2020-05-22}}</ref>。
* 山形県:東村山郡[[中山町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.nakayama.yamagata.jp/reiki/reiki_honbun/c416RG00000005.html|title=中山町の花、木|accessdate=2020-05-18|publisher=中山町}}</ref>
* 栃木県:河内郡[[上三川町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kaminokawa.lg.jp/0163/info-0000000667-0.html|title=町のプロフィール/紹介|accessdate=2020-05-18|publisher=上三川町}}</ref>、塩谷郡[[高根沢町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.takanezawa.tochigi.jp/town/overview/symbol.html|title=町のシンボル|accessdate=2020-05-18|publisher=高根沢町}}</ref>
* 群馬県:北群馬郡[[吉岡町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.yoshioka.gunma.jp/chousei/gaiyo/gaiyo.html|title=吉岡町の概要|accessdate=2020-05-18|publisher=吉岡町}}</ref>
* 埼玉県:秩父郡[[皆野町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.minano.saitama.jp/shoukai/tyousyou/|title=町章、町の花・木・鳥|accessdate=2020-05-18|publisher=皆野町}}</ref>
* 愛知県:稲沢市[[祖父江町]]
* 兵庫県:佐用郡[[佐用町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=542|title=佐用町「町花・町木」|accessdate=2020-05-18|publisher=佐用町}}</ref>
* 岡山県:久米郡[[久米南町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kumenan.lg.jp/administration/profile/profile/tyousyou.html|title=町章・シンボル・マスコット|accessdate=2020-05-18|publisher=久米南町}}</ref>
* 徳島県:板野郡[[上板町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townkamiita.jp/docs/2011020200019/|title=町の概要|accessdate=2020-05-18|publisher=上板町}}</ref>、名西郡[[石井町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.ishii.lg.jp/docs/2018110800036/|title=町のプロフィール|accessdate=2020-05-18|publisher=石井町}}</ref>
* 福岡県:遠賀郡[[水巻町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.mizumaki.lg.jp/town/intro/abt_03.html|title=町章・シンボルマーク・町花・町木・町民のことば|accessdate=2020-05-18|publisher=水巻町}}</ref>、三潴郡[[大木町]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.ooki.lg.jp/gyosei/1/1424236832766.html|title=町の町章・花・木|accessdate=2020-05-18|publisher=大木町}}</ref>、八女郡[[広川町 (福岡県)|広川町]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.hirokawa.fukuoka.jp/node_120/node_154/node_302/node_7894|title=町章・町の木・町の花・シンボルマーク|accessdate=2020-05-18|publisher=広川町}}</ref>、田川郡[[香春町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kawara.fukuoka.jp/s008/kanko/080/050/20171025165502.html|title=香春町のシンボル|accessdate=2020-05-18|publisher=香春町}}</ref>、[[糸田町]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.itoda.lg.jp/administration/profile/history.html|title=町の歴史|accessdate=2020-05-18|publisher=糸田町}}</ref>、[[川崎町 (福岡県)|川崎町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town-kawasaki.com/kanko/shokai/799|title=川崎町のシンボル|accessdate=2020-05-18|publisher=川崎町}}</ref>
* 宮崎県:北諸県郡[[三股町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.mimata.lg.jp/reiki/act/frame/frame110000010.htm|title=町の花、町の鳥及び町の木の制定|accessdate=2020-05-18|publisher=三股町}}</ref>、児湯郡[[都農町]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.tsuno.lg.jp/display.php?cont=150619183228|title=都農町の紹介|accessdate=2020-05-18|publisher=都農町}}</ref>
=== 村の木 ===
* 福島県:西白河郡[[泉崎村]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vill.izumizaki.fukushima.jp/page/page000265.html|title=村の旗・花・木|accessdate=2020-05-18|publisher=泉崎村}}</ref>
* 長野県:下伊那郡[[喬木村]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.takagi.nagano.jp/aboutus/|title=喬木村のご紹介|accessdate=2020-05-18|publisher=喬木村}}</ref>
* 熊本県:球磨郡[[五木村]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vill.itsuki.lg.jp/kiji00321/index.html|title=五木村の概要|accessdate=2020-05-18|publisher=五木村}}</ref>
* 福島県:河沼郡[[湯川村]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.yugawa.fukushima.jp/soumu/introduction.html|title=湯川村の紹介|accessdate=2020-05-18|publisher=湯川村}}</ref>
=== 行政区の木 ===
* 愛知県:[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/naka/page/0000001935.html|title=区章 区の花 区の木|accessdate=2020-05-18|publisher=中区}}</ref>
=== 大学の木 ===
{{multiple image
|width=100
|image1=University of Tokyo mark.svg
|caption1=東京大学のロゴマーク
|image2=Universität Ōsaka Logo.svg
|caption2=大阪大学のロゴマーク
}}
* [[東京大学]] - 銀杏の葉をモチーフにしたものが大学のシンボルマークになっている<ref name="symbol">{{Cite web|和書|title=阪大マスコット、東大をライバル視? 「イチョウ2枚」で落ち着きなくす|url=https://www.j-cast.com/2018/11/30344886.html?p=all|website=J cast ニュース|date=2018-11-30|accessdate=2020-05-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東大マーク|url=https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/public-relations/b01_05_01.html|website=東京大学|accessdate=2020-05-25}}</ref>。銀杏並木でも知られる<ref name="Tokyo-Univ"/>。
* [[大阪大学]] - 銀杏の葉をモチーフにしたものが大学のシンボルマークになっている<ref name="symbol"/>。1963年以降「[[いちょう祭]]」と呼ばれる学祭が開かれている<ref>{{Cite web|和書|title=いちょう祭とは|url=https://ichosai.com|publisher=大阪大学大学祭中央実行委員会|date=2020|accessdate=2020-05-12}}</ref>。
* [[大阪公立大学]] - 「銀杏・[[桜]]・[[ヤシ]]」を融合し、[[大阪市立大学]]と[[大阪府立大学]]、[[大阪府]]と[[大阪市]]を象徴する3つの伝統的なシンボルを示すロゴマークである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.upc-osaka.ac.jp/new-univ/news/1503/|title=大阪公立大学(仮称)のロゴマークが決定しました!|website=大阪公立大学|date=2021-01-29|accessdate=2021-04-29}}</ref>。
* [[熊本大学]] - 校章が銀杏をモチーフにしたものである<ref>{{Cite book|和書|title=熊本大学概要2016|date=|year=2016|publisher=熊本大学|month=7|url=https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/gaiyo/gaiyou/2016gaiyou-file/16-all.pdf|format=PDF|page=2}}</ref>。
=== 日本国外 ===
[[ファイル:DUS Logo web.jpg|200px|右|thumb|ドイツ環境財団(DUS)のロゴマーク]]
* [[ドイツ]] {{Flagicon|DEU}}
** {{仮リンク|ドイツ環境財団|de|Deutsche Umweltstiftung}} - [[1982年]]に設立された環境と自然保護を目的とするコミュニティ財団で同趣旨のものとしては最大最古。本部は[[ベルリン]](設立当時は[[ゲルマースハイム]])。イチョウ葉をロゴマークとしている。
==== 日本国外の自治体 ====
{{multiple image
| footer = ソウルの[[成均館]]明倫堂前に立つイチョウの大樹。1519年に植えられたとされ、[[成均館大学校]]のシンボルマークもイチョウの葉になっている。
| direction = vertical
| width1 = 200
| image1 = Old Sungkyunkwan.JPG
| alt1 = イチョウの木
| width2 = 200
| image2 =
| alt2 = 大学の校章
}}
* [[大韓民国]] {{Flagicon|KOR}}
** 道: [[京畿道]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.gg.go.kr/symbols/|title=シンボル|accessdate=2020-05-21|publisher=京畿道|website=Gyeonggi Global Japanese}}</ref>、[[全羅南道]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jeonnam.go.kr/contentsView.do?menuId=japanese0104000000|title=シンボル|accessdate=2020-05-21|publisher=全羅南道}}</ref>、[[全羅北道]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jeonbuk.go.kr/jpn/index.jeonbuk?menuCd=DOM_000001201001005000|title=主なシンボル|accessdate=2020-05-21|publisher=全羅北道}}</ref>
** 区: [[鍾路区]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jongno.go.kr/Japanese.do?menuId=6109&menuNo=6109|title=シンボル|accessdate=2020-05-21|publisher=鐘路区}}</ref>、[[永登浦区]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ydp.go.kr/japanese/contents.do?key=4196&|title=シンボル|accessdate=2020-05-21|publisher=永登浦区}}</ref>、[[江南区 (ソウル特別市)]]<ref>{{Cite web|url=http://www.gangnam.go.kr/contents/hello/3/view.do?mid=FM040401#con_link_tab02|title=일반현황|accessdate=2020-05-21|publisher=江南区|language=ko}}</ref>、[[江西区 (ソウル特別市)]]<ref>{{Cite web|url=http://www.gangseo.seoul.kr/new_portal/introduc/main2.jsp?show=2|title=강서상징|accessdate=2020-05-21|publisher=江西区|language=ko}}</ref>、[[寿城区]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suseong.kr/jpn/index.do?menu_id=00021173|title=シンボル|accessdate=2020-05-21|publisher=寿城区}}</ref>、[[北区 (大邱広域市)]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buk.daegu.kr/jan/index.do?menu_id=00001379|title=北區の象徵物|accessdate=2020-05-21|publisher=北区}}</ref>、[[富平区]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.icbp.go.kr/foreign/jpn/sub/symbol.jsp|title=シンボル&キャラクター|accessdate=2020-05-21|publisher=富平区}}</ref>
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== 脚注 ==
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=== 註釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
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=== 植物分類・形態学の教科書 ===
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=== その他植物に関する文献 ===
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* {{Cite book |和書|editor1-first=滋|editor1-last=竹林|editor1-link=竹林滋|editor2-first=信行|editor2-last=東|editor2-link=東信行|editor3-first=仁|editor3-last=諏訪部|editor4-first=泰男|editor4-last=市川|title=新英和中辞典|publisher=[[研究社]]|edition=第7版|date=2010-12|origdate=1967|pages=759,1094|ISBN=9784767410784|ref=NewCollege}}
* {{Cite book |和書|author=永田和宏|authorlink=永田和宏|title=近代秀歌|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|edition=|date=2013-01-22|page=178|isbn=978-4-00-431407-3|ref=永田}}
* {{Cite book |和書|author1=藤堂明保|authorlink1=藤堂明保|author2=松本昭|author3=竹田晃|authorlink3=竹田晃|author4=加納喜光|authorlink4=加納喜光|title=漢字源|date=2007-01-10|origdate=1988-11-10|publisher=[[学研ホールディングス|GAKKEN]]|edition=改訂第5版|page=1636|isbn=9784053031013|ref=Kanjigen}}
* {{Cite book |和書|author=新村出|authorlink=新村出|title=[[広辞苑]] 第六版|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784000801218|date=2008-01-11|page=15|ref=Kojien}}
* {{Cite book |和書|editor=渡辺三男(監修・編著)|title=苗字・名前・家紋の基礎知識|publisher=[[新人物往来社]]|date=1992-10-8|pages=448–449|ref=渡辺三男}}
=== 外部リンク ===
* {{Cite web|和書|author=露崎史朗|title=''Ginkgo biloba'' L.|url=https://hosho.ees.hokudai.ac.jp/tsuyu/top/plt/maidenhair_tree/ginkgo/bil.html|date=2017-04-05|publisher=[[北海道大学]] 大学院地球環境科学研究院 / 大学院環境科学院|accessdate=2020-05-22|ref=TSUYUZAKI}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.biol.tsukuba.ac.jp/tjb/Vol3No10/TJB200410TH.html|author=堀輝三|title=イチョウの渡海の歴史|website=つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2004) 3: TJB200410TH. |work=特集:植物の世界(平成16年度筑波大学公開講座)|publisher=筑波大学生物学類|date=2004-10-08|accessdate=2020-05-26|ref=hori}}
** {{Cite web|和書|url=http://www.biol.tsukuba.ac.jp/tjb/Vol3No10/TJB200410THfig1.htm|author=堀輝三|title=イチョウの渡海の歴史 表1|publisher=筑波大学生物学類|date=2004-10-08|accessdate=2020-05-26|ref=hyou1}}
** {{Cite web|和書|url=http://www.biol.tsukuba.ac.jp/tjb/Vol3No10/TJB200410THfig2.htm|author=堀輝三|title=イチョウの渡海の歴史 図1|publisher=筑波大学生物学類|date=2004-10-08|accessdate=2020-05-26|ref=fig1}}
* {{Cite web|和書|url=http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper02/ityo.htm|title=イチョウの出現と日本への伝来|author=[[真柳誠]]|work=真柳誠[著述等目録]|date=1997-09-10|accessdate=2020-05-26|ref=mayanagi}}
== 関連項目 ==
* [[銀杏祭]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|銀杏
| wikt = いちょう
| v = no
| species = Ginkgo biloba
}}
* [https://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/overseas/c04/25.html イチョウ] [[厚生労働省]]<nowiki/>eJIM
* [https://www.nibiohn.go.jp/eiken/info/pdf/k157.pdf イチョウ] [[国立健康・栄養研究所]]
* [https://www.nibiohn.go.jp/eiken/info/pdf/k010.pdf イチョウ葉エキス] [[国立健康・栄養研究所]]
* [https://gijika.com/rate/hf_ginkgo_biloba_extract.html イチョウ葉エキス] 疑似科学とされるものを科学的に考える([[石川幹人#疑似科学評定サイト|明治大学科学コミュニケーション研究所]])
* {{PDFlink|[http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2007/200709kougi.PDF 食品・サプリメントと医薬品の相互作用]}} [[日本分析化学会]]
* [https://www.j-poison-ic.jp/report/ginkgo202010/ ギンナンの食べ過ぎに注意しましょう] - [[日本中毒情報センター]]
* [http://www.harimaya.com/kamon/column/ityou.html 銀杏紋] - 名字と家紋
* [https://medicalnote.jp/diseases/%E9%8A%80%E6%9D%8F%E4%B8%AD%E6%AF%92 銀杏中毒] - メディカルノート
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14,254 |
十二直
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十二直(じゅうにちょく)は、暦注の一つで、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉のことである。暦の中段に記載されているため、「中段」「中段十二直」とも呼ばれる。二十七宿・二十八宿などと共に使用されることが多い。
北斗七星は古代から畏敬の念を持って見られた星座の一つであるが、この星の動きを十二支に一致させて吉凶判断に用いたのが十二直である。昭和初期までは十二直が暦注中で最重視されていたが、最近では六曜や九星を重視する人が多くなり、以前ほどは使われなくなっている。
柄杓の形をした北斗七星の柄に当たる部分(斗柄)が北極星を中心にして天球上を回転することから、これに十二支による方位と組み合せて十二直を配当する。十二直に用いる月は節月である。節月毎にその月の夕刻に斗柄が向いている方位の十二支と、日の十二支とが同じになる日が「建」になるように配当する。実際には節月の最初の日にその前の日の十二直を繰り返す。冬至の頃には斗柄が北(子)を指す(健す)ことから、冬至を含む月を「建子の月」という。
ただし四柱推命などの判断と相反・矛盾する内容が所々で見受けられ、四柱推命では完全な凶相となっている十二支の組み合わせが、十二直では吉凶半々となっていたりしており、不可解な点が多い。例えば四柱推命では「辰・辰」「午・午」「酉・酉」「亥・亥」の組み合わせは「自刑」となり凶相となるが、十二直ではこれら4個の組み合わせは「建」となり、吉相を含んだ判断となる。
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十二直(じゅうにちょく)は、暦注の一つで、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉のことである。暦の中段に記載されているため、「中段」「中段十二直」とも呼ばれる。二十七宿・二十八宿などと共に使用されることが多い。
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'''十二直'''(じゅうにちょく)は、[[暦注]]の一つで、'''建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉'''のことである。暦の中段に記載されているため、「中段」「中段十二直」とも呼ばれる。[[二十七宿]]・[[二十八宿]]などと共に使用されることが多い。
== 概要 ==
[[北斗七星]]は古代から畏敬の念を持って見られた星座の一つであるが、この星の動きを十二支に一致させて吉凶判断に用いたのが十二直である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=暦Wiki/十二直 - 国立天文台暦計算室 |url=https://web.archive.org/web/20220827083341/https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BDBDC6F3C4BE.html |website=web.archive.org |date=2022-08-27 |access-date=2023-01-14}}</ref>。昭和初期までは十二直が暦注中で最重視されていたが、最近では[[六曜]]や[[九星]]を重視する人が多くなり、以前ほどは使われなくなっている<ref>[http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/12tyoku.htm 十二直について]</ref>。
柄杓の形をした北斗七星の柄に当たる部分(斗柄)が[[北極星]]を中心にして天球上を回転することから、これに[[十二支]]による方位と組み合せて十二直を配当する。十二直に用いる月は[[節月]]である。節月毎にその月の夕刻に斗柄が向いている方位の十二支と、日の十二支とが同じになる日が「建」になるように配当する。実際には節月の最初の日にその前の日の十二直を繰り返す。冬至の頃には斗柄が北(子)を指す(健す)ことから、冬至を含む月を「建子の月」という。
'''ただし[[四柱推命]]などの判断と相反・矛盾する内容が所々で見受けられ'''、四柱推命では完全な凶相となっている十二支の組み合わせが、十二直では吉凶半々となっていたりしており、不可解な点が多い。例えば四柱推命では「辰・辰」「午・午」「酉・酉」「亥・亥」の組み合わせは「自刑」となり凶相となるが、十二直ではこれら4個の組み合わせは「建」となり、吉相を含んだ判断となる。
{| class="wikitable"
! colspan="4" |十二直一覧<ref>{{Cite web|和書|title=暦の吉凶 十二直 {{!}} 歳事暦 |url=https://web.archive.org/web/20220925225350/https://saijigoyomi.com/12choku/ |website=web.archive.org |date=2022-09-25 |access-date=2023-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=十二直(建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉)の由来や意味、読み方とは? - 日本文化研究ブログ - Japan Culture Lab |url=https://web.archive.org/web/20220625022436/https://jpnculture.net/juunichoku/ |website=web.archive.org |date=2022-06-25 |access-date=2023-01-14}}</ref>
|-
! colspan="2" | 十二直
! 意味
! 詳細
|-
| 建
| たつ
| 万物を建て生じる日。
| 吉:大半。
凶:蔵開き、動土。
|-
| 除
| のぞく
| 障害を取り除く日。
| 吉:井戸掘り、祭祀、治療開始。
凶:結婚、動土。
|-
| 満
| みつ
| 全てが満たされる日。
| 吉:移転、結婚、新規事。
凶:動土、服薬。
|-
| 平
| たいら
| 物事が平らになる日。
| 吉:結婚、道路修理、旅行。
凶:穴掘り、種蒔き。
|-
| 定
| さだん
| 善悪が定まる日。
| 吉:移転、開店、結婚、種蒔き。
凶:訴訟、旅行。
|-
| 執
| とる
| 執り行う日。
| 吉:祭祀、祝事、造作、種蒔き。
凶:金銭出納。
|-
| 破
| やぶる
| 物事を突破する日。
| 吉:出陣、訴訟、服薬、漁猟。
凶:契約、祝事。
|-
| 危
| あやぶ
| 物事を危惧する日。
| 吉:自粛。
凶:全て。
|-
| 成
| なる
| 物事が成就する日。
| 吉:開店、建築、新規事。
凶:訴訟。
|-
| 納
| おさん
| 物事を納め入れる日。
| 吉:購入、収穫。
凶:結婚。
|-
| 開
| ひらく
| 開き通じる日。
| 吉:移転、結婚、建築。
凶:葬式。
|-
| 閉
| とづ
| 閉じ込める日。
| 吉:金銭収納、建墓。
凶:開店、結婚、棟上げ。
|}
{| class="wikitable"
! colspan="13" |十二支の組み合わせ一覧<ref name=":0" />
|-
!
! 建
!除
!満
!平
!定
!執
!破
!危
!成
!納
!開
!閉
|-
!子月
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|-
!丑月
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|-
! 寅月
| 寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|-
!卯月
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|-
!辰月
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|-
!巳月
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|-
!午月
|午
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|-
!未月
|未
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|-
!申月
|申
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|-
!酉月
|酉
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|-
!戌月
|戌
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|-
!亥月
|亥
|子
|丑
|寅
|卯
|辰
|巳
|午
|未
|申
|酉
|戌
|}
== 脚注 ==
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[[Category:名数12|ちよく]]
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14,255 |
森林公園駅 (埼玉県)
|
森林公園駅(しんりんこうえんえき)は、埼玉県比企郡滑川町大字羽尾にある、東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 30。
1971年(昭和46年)3月1日に森林公園検修区の使用開始に合わせて開業した。
島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。北口・南口・ホームと改札階を連絡するエスカレーターが設置されている。トイレは各ホーム上にある。2009年3月31日にエレベーターとユニバーサルデザインの一環としての多機能トイレの供用を開始した。
当駅が開設される前は1駅池袋寄りの東松山駅を始発・終着として折り返す列車が設定されていたが、当駅開設と同時に駅の下り方に森林公園検修区(東上本線と越生線の全車両が配置されている車両基地)が新たに設置されたことから、1977年10月21日ダイヤ改正から東松山駅で折り返していた列車は延長運転する形で当駅を始発・終着とするようにされ、運用後は基本的に森林公園検修区に入庫する形となった。
当駅で時間調整をする列車があり、下りはふじみ野で追い抜いた列車を待つ急行、上りは小川町始発の急行が快速急行や川越特急の発車待ちを行う列車がある。上りの急行・快速急行は基本的に当駅を先発した電車が池袋(副都心線直通列車は和光市)まで先着する。
坂戸駅管区傘下の駅長配置駅で、つきのわ駅・武蔵嵐山駅を管理する。
2021年度の1日平均乗降人員は10,979人である。東上線の東松山以西の駅では最も多い。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。
当駅始発・終着列車が多く設定されていることから、周辺地域からのパーク&ライド利用者の駐車場も多く存在する。南口は区画整理が行われ、「東武CITY森林公園」をはじめとした住宅街となっており、その先には東松山工業団地が広がっている。駅の東側には住宅が少なく、森林と畑が広がっている。
また、東武レンタサイクルが北口に設置されていたが、平成27年12月20日をもって営業を終了した。これにより、「東上線サイクリングクーポン」の発売は12月20日の利用分をもって終了となった。
※滑川町役場へは立正大学・熊谷駅南口(熊谷市)行きバスに乗車し森林公園南口入口下車、徒歩約10分。
下記一覧の発着地は全て北口ロータリー。
※ 新型コロナウイルスの感染拡大の影響による運行状況は各社ホームページを参照。
|
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森林公園駅(しんりんこうえんえき)は、埼玉県比企郡滑川町大字羽尾にある、東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 30。 1971年(昭和46年)3月1日に森林公園検修区の使用開始に合わせて開業した。
|
{{出典の明記|date=2017年8月}}
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 森林公園駅
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|画像説明 = 北口([[2012年]]8月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
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|駅間A = 2.7
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|所属路線 = {{color|#004098|■}}[[東武東上本線|東上本線]]
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|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1971年]]([[昭和]]46年)[[3月1日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 11,719
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
{{Vertical_images_list
|幅= 230px
| 1=Shinrinkoen Station South Entrance 20120803.jpg
| 2=南口(2012年8月)
| 3=ShinrinKoen-Tobu-st-gate.JPG
| 4=改札口(2008年11月)
| 5=Shinrinkoen Station platforms - Saitama - Sep 6 2020.jpeg
| 6=ホーム(2020年9月)
}}
'''森林公園駅'''(しんりんこうえんえき)は、[[埼玉県]][[比企郡]][[滑川町]]大字羽尾にある、[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TJ 30'''。
[[1971年]]([[昭和]]46年)[[3月1日]]に[[森林公園検修区]]の使用開始に合わせて開業した<ref name="toyokeizai">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/686200|title=東武東上線「森林公園から武蔵嵐山」に何がある? 構内にツバメの巣、駅名どおり自然豊かな沿線|トラベル最前線|page=1|date=2022-07-16|accessdate=2023-11-22|website=東洋経済オンライン}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。北口・南口・ホームと[[改札]]階を連絡する[[エスカレーター]]が設置されている。[[便所|トイレ]]は各ホーム上にある。2009年3月31日に[[エレベーター]]と[[ユニバーサルデザイン]]の一環としての多機能トイレの供用を開始した。
当駅が開設される前は1駅池袋寄りの[[東松山駅]]を始発・終着として折り返す列車が設定されていたが、当駅開設と同時に駅の下り方に[[森林公園検修区]](東上本線と[[東武越生線|越生線]]の全車両が配置されている[[車両基地]])が新たに設置されたことから、[[1977年]][[10月21日]]ダイヤ改正から東松山駅で折り返していた列車は延長運転する形で当駅を始発・終着とするようにされ、運用後は基本的に森林公園検修区に入庫する形となった<ref name="toyokeizai" />。
当駅で時間調整をする列車があり、下りは[[ふじみ野駅|ふじみ野]]で追い抜いた列車を待つ[[東武東上本線#急行|急行]]、上りは小川町始発の急行が快速急行や川越特急の発車待ちを行う列車がある。上りの急行・快速急行は基本的に当駅を先発した電車が池袋(副都心線直通列車は和光市)まで先着する。
坂戸駅管区傘下の駅長配置駅で<ref name="toyokeizai" />、[[つきのわ駅]]・[[武蔵嵐山駅]]を管理する<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/686200?page=2|title=東武東上線「森林公園から武蔵嵐山」に何がある? 構内にツバメの巣、駅名どおり自然豊かな沿線|トラベル最前線|page=2|date=2022-07-16|accessdate=2023-08-08|website=東洋経済オンライン}}</ref>。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7409/ |title=森林公園駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref>!!備考
|-
!1・2
|rowspan="2"|[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線
| style="text-align:center" | 下り
|[[小川町駅 (埼玉県)|小川町]]方面
| 1番線は主に当駅止
|-
!3・4
| style="text-align:center" | 上り
|[[池袋駅|池袋]]方面
| 朝の一部は1番線から
|}
* 長らく1・2番線から寄居駅まで直通する列車は設定されておらず、[[東武竹沢駅]]から先の寄居方面は小川町駅で乗り換えとなっていたが、2023年3月18日ダイヤ改正以降、一部列車の当駅から寄居駅までの直通が復活した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221216095003CgiPlyiMuAYy0ETMej1V2g.pdf|title=東上線・越生線・東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線において2023年3月18日(土)ダイヤ改正を実施します|format=PDF|publisher=東武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2023-08-08}}</ref>。
=== 備考 ===
* 2006年頃に[[発車標]]が更新された際に小川町で[[寄居駅|寄居]]行きに接続する列車に「寄居接続」と表示されるようになった。
* [[回送]]電車が発車する時に限り、発車放送が流れる。
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''11,719人'''である<ref>[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。東上線の[[東松山]]以西の駅では最も多い。
近年の1日平均'''乗降'''人員および[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通り。
<!--埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均乗降・乗車人員
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|12,971
|6,682<!--2,438,843÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 153ページ</ref>-->
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|13,277
|6,792<!--2,485,946÷366-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 153ページ</ref>-->
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|13,577
|6,943<!--2,534,287÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 163ページ</ref>-->
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|14,109
|7,208<!--2,629,016÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 167ページ</ref>-->
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|14,588
|7,465<!--2,724,809÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 167ページ</ref>-->
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|14,919
|7,599<!--2,781,212÷366-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 173ページ</ref>-->
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|15,410
|7,884<!--2,877,580÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 173ページ</ref>-->
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|15,296
|7,805<!--2,848,951÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 179ページ</ref>-->
|-
|1998年(平成10年)
|15,517
|7,889<!--2,879,527÷365-->
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 187ページ</ref>-->
|-
|1999年(平成11年)
|15,082
|7,680<!--2,810,805÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|15,122
|7,672<!--2,800,407÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|15,186
|7,612<!--2,778,325÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|14,266
|7,180<!--2,620,592÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|13,960
|7,038<!--2,575,893÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|14,100
|7,126<!--2,600,947÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|13,873
|7,020<!--2,562,170÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|13,880
|7,052<!--2,574,083÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|13,855
|7,037<!--2,575,565÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|14,101
|7,147<!--2,608,722÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|13,882
|7,012<!--2,559,322÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|13,891
|7,014<!--2,560,034÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|13,971
|6,965<!--2,549,045÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|14,332
|7,150<!--2,609,800÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|14,445
|7,204<!--2,629,343÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|14,123
|7,053<!--2,574,449÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|14,416
|7,208<!--2,638,072÷366-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|14,436
|7,252<!--2,647,025÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|14,499
|7,290<!--2,661,001÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|14,541
|7,311<!--2,668,682÷365-->
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|14,284
|7,167<!--2,623,118÷366-->
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|9,681
|4,856<!--1,772,367÷365-->
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|10,979
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|11,719
|
|
|}
== 駅周辺 ==
当駅始発・終着列車が多く設定されていることから、周辺地域からの[[パークアンドライド|パーク&ライド]]利用者の[[駐車場]]も多く存在する。南口は[[土地区画整理事業|区画整理]]が行われ、「東武CITY森林公園」をはじめとした住宅街となっており、その先には[[東松山工業団地]]が広がっている。駅の東側には住宅が少なく、森林と畑が広がっている。
=== 北口 ===
* [[国営武蔵丘陵森林公園]] - 駅から公園の一番近い南口までは北へ2.8kmあり、遊歩道と[[自転車道]]が整備されている。駅からバス([[#路線バス|後述]])でもアクセス出来る。
* [[川越観光自動車森林公園営業所]]
また、東武[[レンタサイクル]]が北口に設置されていたが、平成27年12月20日をもって営業を終了した。これにより、「[[東上線サイクリングクーポン]]」の発売は12月20日の利用分をもって終了となった。
* [[熊谷東松山道路]](県道47号線)のガード下に無料駐輪場がある。
* なめがわベイシアモール(2km前後)
※滑川町役場へは[[立正大学]]・熊谷駅南口([[熊谷市]])行きバスに乗車し森林公園南口入口下車、徒歩約10分。
=== 南口 ===
<!--コンビニなどは記載しない-->
* 東松山工業団地
* [[国道254号]]
* 森林ホテル
== 路線バス ==
下記一覧の発着地は全て北口ロータリー。
※ [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの感染拡大]]の影響による運行状況は各社ホームページを参照。
{| class="wikitable"
!乗り場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!備考
|-
|rowspan="2"|1||[[国際十王交通熊谷営業所#RU系統|RU01]]||[[国営武蔵丘陵森林公園|森林公園南口入口]]・森林公園西口・[[立正大学]]||[[熊谷駅]]南口||rowspan="2"|[[国際十王交通]]||
|-
|RU02
|森林公園南口入口・森林公園西口||立正大学||<!--森林公園駅口は普通の平日-土日ダイヤ-->
|-
|rowspan="4"|2||[[川越観光自動車森林公園営業所#森林公園駅 - 森林公園南口方面|SN01]]||(直行)||森林公園南口||rowspan="2"|[[川越観光自動車]]||土休日のみの運行
|-
|臨時||(直行)||森林公園中央口||臨時バス<br />(夜間イベント等)
|-
| colspan="2" |[[熊谷 - 羽田空港線|高速羽田空港線]]||[[東京国際空港|羽田空港]]||国際十王交通<br />[[東京空港交通]]||空港発は降車専用<br />この先熊谷駅・[[籠原駅]]
|-
| colspan="2"|[[坂戸・川越 - 成田空港線|高速成田空港線]]||[[成田国際空港|成田空港]]||川越観光自動車<br />[[東武バスウエスト]]<br />[[千葉交通]]||空港発は降車専用<br />当地終着
|-
|rowspan="3"|(無番)||1||滑川町役場・[[四季の湯温泉]]ホテルヘリテイジ・[[埼玉県農林公園]]前||rowspan="3"|[[ふかや花園プレミアム・アウトレット]]||rowspan="3"|[[花園観光バス]]||平日のみ
|-
|2||四季の湯温泉ホテルヘリテイジ・埼玉県農林公園前||平日夜間と土休日
|-
|3||(直行)||夜間のみ
|}
* その他、[[スクールバス]]・企業送迎バス・施設送迎バス等も発着。
* 1・2番のりばは西側(ロータリー出口付近)、花園観光のりばは東側(ロータリー入口付近)
* かつては3番のりばがあった(1番より手前の駅入口近く。森林公園内ウォーターランド行き臨時バスのりば→[[イーグルバス]]の花見台工業団地行きのりばとして使用)。
* 東武バスウエストによって毎週金曜日深夜運行されていた川越駅東口(25時15分)・[[本川越駅]]発[[東武バスウエスト川越営業事務所|ミッドナイトアロー東松山・森林公園駅]](東武バスウエスト)は北口2番のりばを降車地としていた。なお、新型コロナウイルス感染症の影響による休止を経て、2020年11月20日を以て廃止<ref>[http://www.tobu-bus.com/pc/topics/detail.php?key=01517 【運行情報】深夜急行バス(ミッドナイトアロー)の運休および一部系統廃止について]</ref>。
* コミュニティバス[[滑川町ふれあいバス]]が水曜日と金曜日のみに運行されていたが、2016年8月31日を以て廃止、「デマンド交通ターナちゃん」に移行した。
* [[吉見町町内巡回バス|吉見町巡回バス]]が乗り入れていたが、2019年3月31日を以て廃止された。
== 隣の駅 ==
<!-- 種別色は公式サイトに準拠(「普通」は方向幕に合わせて色を反転している)-->
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線
:: {{Color|#ff6600|■}}TJライナー・{{Color|#990066|■}}川越特急・{{Color|#006699|■}}快速急行・{{Color|#ff3333|■}}急行・{{Color|#009966|■}}準急・{{Color|black|□}}普通
::: [[東松山駅]] (TJ 29) - '''森林公園駅 (TJ 30)''' - [[つきのわ駅]] (TJ 31)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 出典 ==
; 埼玉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Shinrin-Kōen Station (Saitama)}}
* [[森林公園駅 (北海道)]] - 同名駅
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=7409}}
{{東武東上線}}
{{DEFAULTSORT:しんりんこうえん}}
[[Category:埼玉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|んりんこうえん]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:滑川町の建築物]]
[[Category:1971年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-28T07:07:53Z
|
2023-12-12T10:52:00Z
| false | false | false |
[
"Template:出典の明記",
"Template:Vertical images list",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Commonscat",
"Template:Cite web",
"Template:外部リンク/東武鉄道駅",
"Template:東武東上線",
"Template:駅情報",
"Template:0",
"Template:Color",
"Template:Reflist"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9E%97%E5%85%AC%E5%9C%92%E9%A7%85_(%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C)
|
14,256 |
1560年
|
1560年(1560 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "1560年(1560 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。",
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},
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"tag": "p",
"text": "",
"title": "死去"
}
] |
1560年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
{{年代ナビ|1560}}
{{year-definition|1560}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永禄]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2220年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]39年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]15年
** [[檀君紀元|檀紀]]3893年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[光宝]]7年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2102年 - 2103年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 967年 - 968年
* [[ユダヤ暦]] : 5320年 - 5321年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1560|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[6月12日]](永禄3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[桶狭間の戦い]]([[織田信長]]が[[今川義元]]を破る)。
* [[6月21日]](永禄3年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[長浜の戦い]]([[長宗我部元親]]の[[初陣]])。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1560年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月17日]] - [[ギャスパール・ボアン]]、[[植物学者]](+ [[1624年]])
* [[5月5日]] - [[後藤基次]]、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の[[武将]](+ [[1615年]])
* [[6月25日]] - [[フアン・サンチェス・コターン]]、[[画家]](+ [[1627年]])
* [[11月3日]] - [[アンニーバレ・カラッチ]]、画家(+ [[1609年]])
* [[石田三成]]、安土桃山時代の武将・[[大名]](+ [[1600年]])
* [[直江兼続]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から江戸時代前期にかけての武将、[[上杉氏]]の[[家老]](+ [[1620年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1560年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月9日]] (永禄2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[尼子晴久]]、[[出雲国|出雲]]の[[戦国大名]]・[[守護大名]](* [[1514年]])
* [[2月13日]](永禄3年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[大田原資清]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将(* [[1486年]])
* [[3月29日]](永禄3年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[山名豊定]]、[[但馬国|但馬]]の守護大名・戦国大名(* [[1512年]])
* [[6月12日]](永禄3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[今川義元]]、[[駿河国|駿河]]の守護大名・戦国大名(* [[1519年]])
* [[6月20日]](永禄3年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[足利晴氏]]、戦国時代の第4代[[古河公方]](* [[1504年]])
* [[7月8日]](永禄3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[長宗我部国親]]、[[土佐国|土佐]]の戦国大名(* [[1504年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1560}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,257 |
1562年
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1562年(1562 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永禄]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2222年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]41年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]17年
** [[檀君紀元|檀紀]]3895年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[淳福]]元年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]5年
* [[仏滅紀元]] : 2104年 - 2105年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 969年 - 970年
* [[ユダヤ暦]] : 5322年 - 5323年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1562|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[3月1日]] - ヴァシーでプロテスタントたちが虐殺される(ヴァシーの虐殺)。ユグノー戦争のはじまり。
=== 日本 ===
* [[2月18日]]([[永禄]]5年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[織田信長]]と[[徳川家康]]の[[清洲同盟]]が締結される。
* [[1月 (旧暦)|旧暦1月]] - [[大坂]]の[[石山本願寺]]で寺中の2000軒が焼失する。
* [[7月 (旧暦)|旧暦7月]] - [[大村純忠]]が[[肥前国]]に[[キリスト教会]]堂を建立する。[[毛利元就]]が[[尼子義久]]の[[出雲国|出雲]]に侵攻する。
* [[11月 (旧暦)|旧暦11月]] - [[武田信玄|武田晴信]]と[[北条氏康]]が[[上杉謙信|上杉輝虎]]の関東における属城を落とし、輝虎も関東に出陣する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1562年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月25日]](永禄5年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[加藤清正]]、[[武将]]、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]初代藩主(+ [[1611年]])
* [[11月25日]] - [[ロペ・デ・ベガ]]、[[劇作家]]・[[詩人]](+ [[1635年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1562年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[12月6日]] - [[ヤン・ファン・スコーレル]]、[[画家]](* [[1495年]])
== フィクションのできごと ==
* [[ザイゴン (ドクター・フー)|ザイゴン]]による地球征服活動が開始。ウォードクター、10代目ドクター、11代目ドクターの3人が揃って解決に動く。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1562}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,258 |
1563年
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1563年(1563 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1563年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永禄]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2223年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]42年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]18年
** [[檀君紀元|檀紀]]3896年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[淳福]]2年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]6年
* [[仏滅紀元]] : 2105年 - 2106年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 970年 - 971年
* [[ユダヤ暦]] : 5323年 - 5324年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1563|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[12月4日]] - [[トリエント公会議]]が閉会。
* [[ペルー]]の[[都市]]・[[イカ (ペルー)|イカ]](イーカ)が建設される<ref>田嶋久"[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%AB-1145247 イーカ とは - コトバンク]"[[コトバンク]](2012年4月9日閲覧。)</ref>。
* {{仮リンク|ギーズ公フランソワ暗殺事件|en|Assassination of Francis, Duke of Guise}}
=== 日本 ===
* [[1月 (旧暦)|旧暦1月]] - [[毛利元就]]が[[石見銀山]]を2分して[[禁裏]]御料所と幕府料所として寄進する。
* [[4月 (旧暦)|旧暦4月]] - [[東寺]]の塔が落雷で焼失する。
* [[11月 (旧暦)|旧暦11月]] - [[近江国]]の土民が徳政を唱えて[[琵琶湖]]湖畔の在家を焼く。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1563年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[蕭姫]]、[[中川光重]]室、[[前田利家]]の次女(+ [[1603年]])
* [[細川ガラシャ]]、[[細川忠興]]室、[[明智光秀]]の娘(+ [[1600年]])
* [[万暦帝]]、[[明]] の第14代皇帝(+ [[1620年]])
* [[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Robert-Cecil-1st-earl-of-Salisbury Robert Cecil, 1st earl of Salisbury English statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[イングランド王国|イングランド]]の政治家(+ [[1612年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1563年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月1日]] – [[エチオピアのメナス]]皇帝 (熱) (* [[1559年]])
* [[3月28日]] – [[ハインリヒ・グラレアン]], スイスの音楽理論家 (* [[1488年]])
* [[6月6日]] – [[池田長正]], 武将 (* [[1519年]])
* [[8月18日]] – [[エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ]], フランスの裁判官、思想家 (* [[1530年]])
* [[12月29日]] – [[セバスチャン・カステロ]], フランスの神学者 (* [[1515年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1563}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,260 |
花の魔法使いマリーベル
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『花の魔法使いマリーベル』(はなのまほうつかいマリーベル)は、1992年2月3日から1993年1月18日にかけて、テレビせとうちを制作局としてテレビ東京系列局などで放映された魔法少女アニメ。全50話。葦プロダクション制作。
本作は、葦プロダクション制作の魔法少女アニメ第3弾。監督の遠藤徹哉(後に「えんどうてつや」に改名)にとっては2作目の監督作品である。花の魔法使いマリーベルと、相棒の妖精タンバリンが、南欧風の架空の港町サニーベルを舞台に活躍する物語である。「人間と自然との共生に大切なものは、夢を信じ大切にする純粋な心」というのが本作の語るテーマである。
アニメーション製作は葦プロの外注班である、スタジオジャイアンツが担当している。企画スタート当初、既に『花の魔法使い』とのタイトルや、キャラクター原案の大貫健一が描く「帽子に花がついた少女のイラスト」の提示案があり、これを元に、遠藤の第1作目監督作品『ジャンケンマン』のような子供向け作品として制作が進められた。スポンサーであるバンダイからは、「内容は任せるが、玩具としてステッキとタンバリンを販売したい」との意向を受けており、ここから逆算して各キャラクターを創出・配置していく方法がとられた。また、遠藤監督が嗜好する『メリー・ポピンズ』のモチーフを本作に取り入れることにより「子供たちの夢をかなえつつ、大人もかつて抱いていた大切な何かを思い出す」という基本のコンセプトが出来上がり、それは本作のラストまで貫かれている。セリフでは説明的で長くなってしまう要素を明確に伝えるためBGMに歌詞をつけミュージカル仕立ての展開を取る手法も本作の特徴で、主要キャラの声優は歌唱経験のある役者から選ばれている。
一回目の全話DVD化の際に添付された作品解説書では「本作のテーマを視聴対象である幼児・児童向けにわかりやすく丁寧に描いており、本格的子供向けアニメとして作られていることが理解できる」旨の解説が述べられている。その意図通り、本作は魔法少女アニメの本来のターゲット層である子供たちからの大きな支持を獲得し、後に劇場版や、本作のキャラクターを用いた児童向けの交通・防災関連の教育アニメが作られている。
本作は『魔法使いサリー』に代表される「異世界の魔法少女が人間界に訪れる」という旧来的なパターンを踏襲した作りになっているが、従来の作品群に比べて大きく異なる趣を持っている。その大きな要因は、魔法少女アニメ本来の訴求対象である年少者層の中でも、幼稚園児から小学校低学年辺りの低年齢層に向けた作品として作られており、ストーリーのプロットや主要キャラクターの配置が、魔法少女アニメとしては珍しく特異な位置づけで描かれているところにある。具体的には、魔法少女が主役でありながらも主人公自身がエピソード展開の中心に立たず、主人公の周囲を取り巻く年少の子供たちもしくは大人たちを物語の中心に据え、彼らが直面する問題や事件、舞台となる町にまつわる事件に主人公が介入して解決に導いていくというプロットとなっている点である。 また、同プロダクション制作の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』『魔法のエンジェルスイートミント』と同様、主人公マリーベルにも人間界にやってきた動機は存在しているが、前述の2作と異なり「主人公が果たすべき使命・目的を持つ」という旧来型の魔法少女アニメの定番の要素が物語全体の根幹的な部分に根ざしていない。それと同時に、劇中で主人公の使命や目的達成を掲示する状況設定や演出が存在しておらず、主人公の持つ目的や行動の動機が前面に押し出される形で描写されていない。これにより、個々のエピソードの積み重ねによって作品全体のテーマをさりげなく掲示すると共に、マリーベルの存在を子供の視聴者にとって身近で親しみやすいキャラクターとして印象付けている。
つまり、本作は「魔法少女=視聴者である子供の願望の体現者(感情移入の対象)」「何らかの果たすべき使命を持つ」という王道的な要素を取り入れておらず、主人公マリーベルが特別な力を持ちつつも周囲に取り巻く子供たちと同等の存在として扱われ、本来の視聴者層である子供たちにとっての「等身大のお友だち」「困った時の良き相談相手」といった位置づけで描かれているのである(なお、主人公の友人ないし周囲のごく少数の大人が主人公の正体を認知しつつ受け入れているという図式は前作『スイートミント』から取り入れられている)。
各エピソードの枠組みに関しては、魔法や妖精の存在といった幻想的な要素を扱いつつも日常離れしたスケールの大きな事件は基本的に起こることはない。あくまで主人公と子供たちの周囲で起きる身近な出来事を物語の主体としており、日常のすぐ傍に存在する不思議な世界との交流を通じて「自然と人との共存」というテーマを描くという姿勢で一貫している。
サニーベルの街に住む幼い姉弟ユーリとケンは、お隣のローズおばあちゃんから借りた、魔法使いが活躍する童話絵本「マリーベルの絵本」が大好き。町外れの丘の上で仲良く絵本を読み終えた後、両親の営む花屋に客が来ないことに心を痛めていた二人は「マリーベルがいてくれたらなあ...」とつぶやいた。そんな時、まばゆい光と共に2人の足元に咲いた一輪の花の中から、マリーベルという名の不思議な少女が相棒の妖精タンバリンと共に現れる。彼女は自らを「花魔法界からやってきた花の魔法使い」だと名乗り、たちまち二人の願いを魔法で叶えてしまう。その後、マリーベルはサニーベルに住み着いてユーリたちや他の子供たち、町の住人らと徐々に仲良くなり、一人前の魔法使いになるべく花魔法の力で人々に様々な夢や希望を与えながら楽しく過ごしていく。
やがて、妖精ハンター、ジートの恩師であるシェルボー教授が妖精の捕獲を目論んで強引に実行した都市開発計画により、花魔法界の守護神的存在である「聖なる樹」との争いが起こり、地球上からありとあらゆる植物が消えうせるという一大事に発展、地球が滅亡の危機に立たされてしまう。聖なる樹の暴走を阻止すべく立ち向かうも、争いの末に魔力を使い果たし花魔法界で眠りについたマリーベルは、ユーリ、ケン、そして彼女の復活を願う人々の思いと夢見る心の力により魔法の力を取り戻して目覚める。そして、聖なる木と争うのではなく対話することを選び、人々との交流と触れ合いによって聖なる木の怒りを鎮めようと試みる。その中で、己の野望を果たさんがために草花や木を邪魔者とみなしていたシェルボー教授は、忘れ去っていた自然との触れ合いの過去を思い出し、改心する。人間を憎んでいた聖なる木も、人と自然はお互いにかけがえの無い存在同士であることを忘れ去っていた自分に気づき、人間たちと和解して花魔法界へと帰って行った。
こうしてサニーベルの町と世界の危機を救ったマリーベルは、フラワーハウスの庭いっぱいに人々の心の花を咲かせることに成功し、花魔法界の女神フローリアから一人前の魔法使いと認められる。そして人と自然がいつまでも共存できるよう見守り続けるため人間界に残り、人間たちと共に仲良く暮らしていくのだった。
マリーベルの故郷。自然豊かで花が咲き乱れる世界。悪意ある人間の侵入を防ぐため人間の来訪は許されていないが、花魔法界の住人の手引きがあれば行くことができる。花魔法使い、妖精、シーリーコート、そしてフェニックス等の幻獣といった空想世界の存在と言われる者達が平和に暮らしている。人間の世界に見られる国の仕組みは描かれていないが、花や木を守る神のような存在である「聖なる樹」や、花魔法界の心と言われる「フローリア」といった、神秘的な存在は描写されている。人間界と花魔法界での時間の流れの違いなどについての言及は特に無い。
マリーベルたち花の魔法使いは、花魔法界上空に多数滞空している浮遊大陸に自宅を構えている。
花魔法界の住人 で、花魔法を操る力を持つ種族。魔法の力で人間界の人々に夢や希望を与えることを使命としており、マリーベルや彼女の両親のように素性を隠して人間界で活動している魔法使いたちもいる。 人間界のあらゆる生き物の夢見る力から生まれた存在であり、夢の力を自身の魔力の源としている。また、花の魔法使いにとって夢の力は生きる糧でもあり、魔法力を使い果たすと人間界に留まることができなくなってしまい休息のため花魔法界で長い眠りに着くことになる。
花の魔法使い達が使う魔法。魔法の花びらの力に働きかけて発動するもので、花の魔法使いとパートナーの妖精が互いに協力しあって行使する。しかし、互いの心が離れていると魔法が発動せず変身することもできなくなったり、魔法の効果が切れてしまったりする。劇中では、マリーベルが魔法に失敗した際、手に負えないと見てタンバリンが逃げ出すことで変身が切れる描写がある。その他にも、仲違いしたことにより魔法が使えなくなったり(第6話)、ジートにタンバリンをさらわれた際も同様の状況となった。(38話)また、マリーベル・タンバリンを手元から失った場合にも花魔法を使えなくなり、花の魔法使い以外にも魔法を使える者(劇中では魔女)の手に渡ると花魔法を悪用される恐れが生じる(45話)。
マリーベルを象徴するピンク色の小さな花。「マリーベルに助けて欲しい」と心から願った人の足元に一輪だけ咲き、花を介してマリーベルが召喚される(「マリーベルの絵本」の中でも、花の中からマリーベルが現れる描写がある)。この花を通じて助けを求めている人の思いがマリーベルに届くらしく、本人は「花に呼ばれた」と発言している。
第1話冒頭では「マリーベルの力で花屋を繁盛させて欲しい」というユーリたちの願いによってこの花が咲きマリーベルが現れた。第30話では、森に迷い込んだビビアンがデビルフラワーに襲われた妖精モーリィを助けて欲しいと強く願いながらマリーベルに呼びかけたことで花が咲き、モーリィのいたずらで森の中に入れなくなっていたマリーベルを呼び寄せた(この際は咲いた花がビビアンに授けたマリーベル・コンパクトを介した瞬間移動によって召喚された)。
マリーベルが花魔法使いに変身する際もマリーベルの頭にこの花が咲き、衣装チェンジ後に頭についたリボンのワンポイントとなるが、変身が解けるとつぼみとなって消えてしまう。また、聖なる樹との争いで力尽き花魔法界に戻ったマリーベルは、夢の力を使い果たして花の姿に還ってしまった。
マリーベルの絵本の表紙にはこの花を模った紋章が描かれている他、マリーベル・タンバリンの円状のプレートの中央やマリーベル・コンパクトの蓋にもこの花のレリーフが設えられている。
ローズが子供時代から大切にしていた絵本。「森で迷子になった幼い姉弟ジェーンとマイケルが、花の魔法使いマリーベルに助けられ、無事両親の家に帰る」というお話。本の表紙にはマリーベルの花の紋章が描かれているだけで、正式な題名や著者名は不明。このため劇中では一貫して「マリーベルの絵本」と呼ばれている。
絵本の持ち主であるローズ、そしてユーリ、ケン、リボンもこの絵本が大好きで、マリーベルはこの絵本を通してユーリたちの前に現れた。また、フラワーショップの店名の由来もこの本で、「マリーベルが来てくれるかもしれない」という希望をこめてユーリとケンが命名している。
第27話の騒動で焼却炉に落ち損傷してしまうが、マリーベルによって修理され2冊に分けられた後、1冊がユーリたちの手元に残された。その際、ユーリたちの手に渡った方は登場人物がケンとユーリに書き換えられており、リボンも付け加えられていた。
誰がどういった経緯でこの絵本を書いたのか、どういう経緯を経てローズの手に渡ったのかや、マリーベル本人とこの絵本の関係についても作中では明らかにされていない。
本作には、花魔法界以外にもさまざまな空想上の世界が登場し、それにまつわる事件を、マリーベルらは解決していった。
マリーベルの魔法は大きく分けて、マリーベルタンバリンから取り出す魔法道具と、魔法道具よりも効力が大きい代わりにタンバリンの協力による変身が必須の花魔法の2つに分かれる。魔法自体は万能型であるが、マリーベル自身に効果をもたらす魔法(大人や他人への変身など)は存在しない。また嫌がる人や心を閉ざしている相手に対して魔法は効力を発揮しない。
劇中では様々な魔法道具が登場するが、その中でも特に使用頻度の高いものを記す。
ポニーキャニオンより発売。
ポニーキャニオンより発売。
ぬりえやスケッチブックなどが、セイカノートから発売された。
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"text": "やがて、妖精ハンター、ジートの恩師であるシェルボー教授が妖精の捕獲を目論んで強引に実行した都市開発計画により、花魔法界の守護神的存在である「聖なる樹」との争いが起こり、地球上からありとあらゆる植物が消えうせるという一大事に発展、地球が滅亡の危機に立たされてしまう。聖なる樹の暴走を阻止すべく立ち向かうも、争いの末に魔力を使い果たし花魔法界で眠りについたマリーベルは、ユーリ、ケン、そして彼女の復活を願う人々の思いと夢見る心の力により魔法の力を取り戻して目覚める。そして、聖なる木と争うのではなく対話することを選び、人々との交流と触れ合いによって聖なる木の怒りを鎮めようと試みる。その中で、己の野望を果たさんがために草花や木を邪魔者とみなしていたシェルボー教授は、忘れ去っていた自然との触れ合いの過去を思い出し、改心する。人間を憎んでいた聖なる木も、人と自然はお互いにかけがえの無い存在同士であることを忘れ去っていた自分に気づき、人間たちと和解して花魔法界へと帰って行った。",
"title": "ストーリー"
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{
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"text": "こうしてサニーベルの町と世界の危機を救ったマリーベルは、フラワーハウスの庭いっぱいに人々の心の花を咲かせることに成功し、花魔法界の女神フローリアから一人前の魔法使いと認められる。そして人と自然がいつまでも共存できるよう見守り続けるため人間界に残り、人間たちと共に仲良く暮らしていくのだった。",
"title": "ストーリー"
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{
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"text": "マリーベルの故郷。自然豊かで花が咲き乱れる世界。悪意ある人間の侵入を防ぐため人間の来訪は許されていないが、花魔法界の住人の手引きがあれば行くことができる。花魔法使い、妖精、シーリーコート、そしてフェニックス等の幻獣といった空想世界の存在と言われる者達が平和に暮らしている。人間の世界に見られる国の仕組みは描かれていないが、花や木を守る神のような存在である「聖なる樹」や、花魔法界の心と言われる「フローリア」といった、神秘的な存在は描写されている。人間界と花魔法界での時間の流れの違いなどについての言及は特に無い。",
"title": "用語解説"
},
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"text": "マリーベルたち花の魔法使いは、花魔法界上空に多数滞空している浮遊大陸に自宅を構えている。",
"title": "用語解説"
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"text": "花魔法界の住人 で、花魔法を操る力を持つ種族。魔法の力で人間界の人々に夢や希望を与えることを使命としており、マリーベルや彼女の両親のように素性を隠して人間界で活動している魔法使いたちもいる。 人間界のあらゆる生き物の夢見る力から生まれた存在であり、夢の力を自身の魔力の源としている。また、花の魔法使いにとって夢の力は生きる糧でもあり、魔法力を使い果たすと人間界に留まることができなくなってしまい休息のため花魔法界で長い眠りに着くことになる。",
"title": "用語解説"
},
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"paragraph_id": 14,
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"text": "花の魔法使い達が使う魔法。魔法の花びらの力に働きかけて発動するもので、花の魔法使いとパートナーの妖精が互いに協力しあって行使する。しかし、互いの心が離れていると魔法が発動せず変身することもできなくなったり、魔法の効果が切れてしまったりする。劇中では、マリーベルが魔法に失敗した際、手に負えないと見てタンバリンが逃げ出すことで変身が切れる描写がある。その他にも、仲違いしたことにより魔法が使えなくなったり(第6話)、ジートにタンバリンをさらわれた際も同様の状況となった。(38話)また、マリーベル・タンバリンを手元から失った場合にも花魔法を使えなくなり、花の魔法使い以外にも魔法を使える者(劇中では魔女)の手に渡ると花魔法を悪用される恐れが生じる(45話)。",
"title": "用語解説"
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{
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"text": "マリーベルを象徴するピンク色の小さな花。「マリーベルに助けて欲しい」と心から願った人の足元に一輪だけ咲き、花を介してマリーベルが召喚される(「マリーベルの絵本」の中でも、花の中からマリーベルが現れる描写がある)。この花を通じて助けを求めている人の思いがマリーベルに届くらしく、本人は「花に呼ばれた」と発言している。",
"title": "用語解説"
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"text": "第1話冒頭では「マリーベルの力で花屋を繁盛させて欲しい」というユーリたちの願いによってこの花が咲きマリーベルが現れた。第30話では、森に迷い込んだビビアンがデビルフラワーに襲われた妖精モーリィを助けて欲しいと強く願いながらマリーベルに呼びかけたことで花が咲き、モーリィのいたずらで森の中に入れなくなっていたマリーベルを呼び寄せた(この際は咲いた花がビビアンに授けたマリーベル・コンパクトを介した瞬間移動によって召喚された)。",
"title": "用語解説"
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"text": "マリーベルが花魔法使いに変身する際もマリーベルの頭にこの花が咲き、衣装チェンジ後に頭についたリボンのワンポイントとなるが、変身が解けるとつぼみとなって消えてしまう。また、聖なる樹との争いで力尽き花魔法界に戻ったマリーベルは、夢の力を使い果たして花の姿に還ってしまった。",
"title": "用語解説"
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"text": "マリーベルの絵本の表紙にはこの花を模った紋章が描かれている他、マリーベル・タンバリンの円状のプレートの中央やマリーベル・コンパクトの蓋にもこの花のレリーフが設えられている。",
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"text": "ローズが子供時代から大切にしていた絵本。「森で迷子になった幼い姉弟ジェーンとマイケルが、花の魔法使いマリーベルに助けられ、無事両親の家に帰る」というお話。本の表紙にはマリーベルの花の紋章が描かれているだけで、正式な題名や著者名は不明。このため劇中では一貫して「マリーベルの絵本」と呼ばれている。",
"title": "用語解説"
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"text": "絵本の持ち主であるローズ、そしてユーリ、ケン、リボンもこの絵本が大好きで、マリーベルはこの絵本を通してユーリたちの前に現れた。また、フラワーショップの店名の由来もこの本で、「マリーベルが来てくれるかもしれない」という希望をこめてユーリとケンが命名している。",
"title": "用語解説"
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"text": "第27話の騒動で焼却炉に落ち損傷してしまうが、マリーベルによって修理され2冊に分けられた後、1冊がユーリたちの手元に残された。その際、ユーリたちの手に渡った方は登場人物がケンとユーリに書き換えられており、リボンも付け加えられていた。",
"title": "用語解説"
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"text": "誰がどういった経緯でこの絵本を書いたのか、どういう経緯を経てローズの手に渡ったのかや、マリーベル本人とこの絵本の関係についても作中では明らかにされていない。",
"title": "用語解説"
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"text": "本作には、花魔法界以外にもさまざまな空想上の世界が登場し、それにまつわる事件を、マリーベルらは解決していった。",
"title": "用語解説"
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"text": "マリーベルの魔法は大きく分けて、マリーベルタンバリンから取り出す魔法道具と、魔法道具よりも効力が大きい代わりにタンバリンの協力による変身が必須の花魔法の2つに分かれる。魔法自体は万能型であるが、マリーベル自身に効果をもたらす魔法(大人や他人への変身など)は存在しない。また嫌がる人や心を閉ざしている相手に対して魔法は効力を発揮しない。",
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},
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"text": "劇中では様々な魔法道具が登場するが、その中でも特に使用頻度の高いものを記す。",
"title": "マリーベルの魔法の使い方"
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"text": "ポニーキャニオンより発売。",
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"text": "ポニーキャニオンより発売。",
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"text": "ぬりえやスケッチブックなどが、セイカノートから発売された。",
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『花の魔法使いマリーベル』(はなのまほうつかいマリーベル)は、1992年2月3日から1993年1月18日にかけて、テレビせとうちを制作局としてテレビ東京系列局などで放映された魔法少女アニメ。全50話。葦プロダクション制作。
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{{Infobox animanga/Header|title_name=花の魔法使いマリーベル}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|監督=[[えんどうてつや|遠藤徹哉]]
|シリーズ構成=[[小山高生]]、[[三井秀樹 (脚本家)|三井秀樹]]
|キャラクターデザイン=[[大貫健一]](原案)<br/>金津賀哲
|音楽=石黒孝子
|アニメーション制作=[[葦プロダクション]]
|製作=[[テレビせとうち]]、[[ビックウエスト]]<br/>葦プロダクション
|放送局=テレビせとうち・テレビ東京系列ほか
|放送開始=1992年2月3日
|放送終了=1993年1月18日
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{{Infobox animanga/OVA
| タイトル = 花の魔法使いマリーベル フェニックスのかぎ
| 監督 = 遠藤徹哉
| 脚本 = 遠藤徹哉
| キャラクターデザイン = 大貫健一(設定)<br/>金津賀哲
| 音楽 = 石黒孝子
| アニメーション制作 = 葦プロダクション、ビックウエスト
| 製作 = ヒーロー・コミュニケーションズ
| 発売日 = 1992年8月8日
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{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:アニメ|アニメ]]
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『'''花の魔法使いマリーベル'''』(はなのまほうつかいマリーベル)は、[[1992年]][[2月3日]]から[[1993年]][[1月18日]]にかけて、[[テレビせとうち]]を制作局として[[テレビ東京]]系列局などで放映された[[魔法少女アニメ]]。全50話。[[葦プロダクション]]制作。
== 概要 ==
本作は、[[葦プロダクション]]制作の[[魔法少女アニメ]]第3弾。監督の遠藤徹哉(後に「[[えんどうてつや]]」に改名)にとっては2作目の監督作品である。花の魔法使いマリーベルと、相棒の妖精タンバリンが、南欧風の架空の港町サニーベルを舞台に活躍する物語である。「人間と自然との共生に大切なものは、夢を信じ大切にする純粋な心」というのが本作の語るテーマである<ref>DVD-BOX 2回目 作品解説書より。</ref>。
アニメーション製作は葦プロの外注班である、スタジオジャイアンツが担当している。企画スタート当初、既に『花の魔法使い』とのタイトルや、キャラクター原案の大貫健一が描く「帽子に花がついた少女のイラスト」の提示案があり、これを元に、遠藤の第1作目監督作品『[[ジャンケンマン]]』のような子供向け作品として制作が進められた。スポンサーである[[バンダイ]]からは、「内容は任せるが、玩具としてステッキとタンバリンを販売したい」との意向を受けており、ここから逆算して各キャラクターを創出・配置していく方法がとられた。<br />また、遠藤監督が嗜好する『[[メリー・ポピンズ]]』のモチーフを本作に取り入れることにより「子供たちの夢をかなえつつ、大人もかつて抱いていた大切な何かを思い出す」という基本のコンセプトが出来上がり、それは本作のラストまで貫かれている。セリフでは説明的で長くなってしまう要素を明確に伝えるためBGMに歌詞をつけミュージカル仕立ての展開を取る手法も本作の特徴で、主要キャラの声優は歌唱経験のある役者から選ばれている。
一回目の全話DVD化の際に添付された作品解説書では「本作のテーマを視聴対象である幼児・児童向けにわかりやすく丁寧に描いており、本格的子供向けアニメとして作られていることが理解できる」旨の解説が述べられている。その意図通り、本作は魔法少女アニメの本来のターゲット層である子供たちからの大きな支持を獲得し、後に劇場版や、本作のキャラクターを用いた児童向けの交通・防災関連の教育アニメが作られている。
== 本作の特色 ==
本作は『魔法使いサリー』に代表される「異世界の魔法少女が人間界に訪れる」という旧来的なパターンを踏襲した作りになっているが、従来の作品群に比べて大きく異なる趣を持っている。その大きな要因は、魔法少女アニメ本来の訴求対象である年少者層の中でも、幼稚園児から小学校低学年辺りの低年齢層に向けた作品として作られており、ストーリーのプロットや主要キャラクターの配置が、魔法少女アニメとしては珍しく特異な位置づけで描かれているところにある。具体的には、魔法少女が主役でありながらも主人公自身がエピソード展開の中心に立たず、主人公の周囲を取り巻く年少の子供たちもしくは大人たちを物語の中心に据え、彼らが直面する問題や事件、舞台となる町にまつわる事件に主人公が介入して解決に導いていくというプロットとなっている点である。
また、同プロダクション制作の『[[魔法のプリンセス ミンキーモモ]]』『[[魔法のエンジェルスイートミント]]』と同様、主人公マリーベルにも人間界にやってきた動機は存在しているが、前述の2作と異なり「主人公が果たすべき使命・目的を持つ」という旧来型の魔法少女アニメの定番の要素が物語全体の根幹的な部分に根ざしていない<ref>旧葦プロダクションによる作品解説では「人が夢見る心を失ったことに伴って妖精たちが人間の前から姿を消し花魔法界に隠れてしまったため、妖精と人が共存する世界を取り戻すためマリーベルが人に夢を与える」という旨の記述があるが、劇中での設定とは異なるものである。</ref>。それと同時に、劇中で主人公の使命や目的達成を掲示する状況設定や演出が存在しておらず、主人公の持つ目的や行動の動機が前面に押し出される形で描写されていない<ref>『ミンキーモモ』では『夢の国を人間界に呼び戻す』、『スイートミント』では『魔法の国の女王となるべく試験を受ける』という目的が人間界来訪の動機であり、主人公の行動理念や作劇はその目的に基づいている。<br />一方の本作では、「一人前の魔法使いになる条件」が劇中で掲示されてはいるものの、『ミンキーモモ』のように、目的遂行を明確に示す演出が存在しないため、毎回のストーリーごとにそれらが意識させられることもない。</ref>。これにより、個々のエピソードの積み重ねによって作品全体のテーマをさりげなく掲示すると共に、マリーベルの存在を子供の視聴者にとって身近で親しみやすいキャラクターとして印象付けている。
つまり、本作は「魔法少女=視聴者である子供の願望の体現者(感情移入の対象)」「何らかの果たすべき使命を持つ」という王道的な要素を取り入れておらず、主人公マリーベルが特別な力を持ちつつも周囲に取り巻く子供たちと同等の存在として扱われ、本来の視聴者層である子供たちにとっての「'''等身大のお友だち」「困った時の良き相談相手」'''といった位置づけで描かれているのである(なお、主人公の友人ないし周囲のごく少数の大人が主人公の正体を認知しつつ受け入れているという図式は前作『スイートミント』から取り入れられている)。
各エピソードの枠組みに関しては、魔法や妖精の存在といった幻想的な要素を扱いつつも日常離れしたスケールの大きな事件は基本的に起こることはない。あくまで主人公と子供たちの周囲で起きる身近な出来事を物語の主体としており、'''日常のすぐ傍に存在する不思議な世界との交流を通じて「自然と人との共存」というテーマを描く'''という姿勢で一貫している。
==ストーリー==
サニーベルの街に住む幼い姉弟ユーリとケンは、お隣のローズおばあちゃんから借りた、魔法使いが活躍する童話絵本「マリーベルの絵本」が大好き。町外れの丘の上で仲良く絵本を読み終えた後、両親の営む花屋に客が来ないことに心を痛めていた二人は「マリーベルがいてくれたらなあ…」とつぶやいた。そんな時、まばゆい光と共に2人の足元に咲いた一輪の花の中から、マリーベルという名の不思議な少女が相棒の妖精タンバリンと共に現れる。彼女は自らを「花魔法界からやってきた花の魔法使い」だと名乗り、たちまち二人の願いを魔法で叶えてしまう。その後、マリーベルはサニーベルに住み着いてユーリたちや他の子供たち、町の住人らと徐々に仲良くなり、一人前の魔法使いになるべく花魔法の力で人々に様々な夢や希望を与えながら楽しく過ごしていく。
やがて、妖精ハンター、ジートの恩師であるシェルボー教授が妖精の捕獲を目論んで強引に実行した都市開発計画により、花魔法界の守護神的存在である「聖なる樹」との争いが起こり、地球上からありとあらゆる植物が消えうせるという一大事に発展、地球が滅亡の危機に立たされてしまう。聖なる樹の暴走を阻止すべく立ち向かうも、争いの末に魔力を使い果たし花魔法界で眠りについたマリーベルは、ユーリ、ケン、そして彼女の復活を願う人々の思いと夢見る心の力により魔法の力を取り戻して目覚める。そして、聖なる木と争うのではなく対話することを選び、人々との交流と触れ合いによって聖なる木の怒りを鎮めようと試みる。その中で、己の野望を果たさんがために草花や木を邪魔者とみなしていたシェルボー教授は、忘れ去っていた自然との触れ合いの過去を思い出し、改心する。人間を憎んでいた聖なる木も、人と自然はお互いにかけがえの無い存在同士であることを忘れ去っていた自分に気づき、人間たちと和解して花魔法界へと帰って行った。
こうしてサニーベルの町と世界の危機を救ったマリーベルは、フラワーハウスの庭いっぱいに人々の心の花を咲かせることに成功し、花魔法界の女神フローリアから一人前の魔法使いと認められる。そして人と自然がいつまでも共存できるよう見守り続けるため人間界に残り、人間たちと共に仲良く暮らしていくのだった。
== 登場人物 ==
=== 花の魔法使い ===
;マリーベル・フォン・デカッセ
:[[声優|声]] - [[本多知恵子]]
:ユーリとケンの願いを聞き届け、花魔法界から人間界へやってきた魔法使いの女の子。本作の主人公。<br />魔法の花びらに働きかけて発動する花魔法の使い手で、肩書きは「花の魔法使い」。実年齢50万5歳。人間年齢換算5歳<ref>ケイブンシャの大百科521 『魔法のヒロインひみつ大百科』 ケイブンシャ刊 117頁。</ref>。口癖は「マリーベルにお任せよ!」。
:人間界への来訪は一人前の魔法使いになるための修行も兼ねており<ref>第33話「マリーベルのパパとママ」より。花魔法使いによって幸せや夢を与えられた人の数だけ、花魔法界にあるフラワーハウスの敷地の花壇に花が咲き、花壇を花で満たすことができれば一人前の魔法使いと認められる。</ref>、ユーリたちの願いを叶えた後、町外れの丘の上にフラワーハウスを建ててサニーベルの町に定住し、人々の夢や幸せ、そして人と自然との良い関係を守るべく花魔法の力を駆使して活躍する。
:性格は明るく朗らかで社交的。特に、人間の目に見えない不思議な存在を信じ夢見る心を持つ人や自然を愛する人には大人子供問わず極めて友好的で、他者を深く思いやる優しさを持つ。反面、ジートやシェルボー教授のように悪意を持って自然を脅かそうとする人間に対しては嫌悪と怒りを隠さないが、過ちを認め素直に心を入れ替えれば快く許し、自分を疎んじる人であっても分け隔てなく受け入れる心の広さも併せ持っている。また、ユーリたちの父親の知り合いのゲームデザイナーが抱える悩みを察したり<ref>第16話『うちのパパはゲーム作家』</ref>、多忙な親に滅多に合えない寂しさを抱えるビビアンの心情を察し無理解なバートの横暴な態度に怒りをぶつけた<ref>第42話『誘拐されたビビアン?!』より</ref> りと、幼い身ながら人の心の機微に敏感である。
:大好きな草花や木、そこに住む生き物たちをとても大切にしており、植物や動物と会話をすることができる。人間よりはるかに長命だけあって花魔法界で顔が広く、地上に住む植物たちや妖精や幻獣たちにも多くの知り合いがおり、自然の営みと妖精との関わりや植物についての知識が豊富。
:その一方、人間でいえば5歳児と同等であるため、年相応の子供らしく精神的にはまだまだ幼い。相当に不器用らしく、50万年も生きているにも拘らず家事全般が不得手で全て相棒のタンバリン任せにしている。寝坊癖が抜けなかったり、タンバリンがいない時には部屋がぐちゃぐちゃに散らかっていたりと、プライベートはかなりだらしない。おてんばかつおっちょこちょいな一面もあり、ドジを踏んだり魔法を失敗することもある。
:彼女が生まれた時期は人類が誕生した頃に相当するため、地球上のあらゆる生き物の夢見る力を糧とする花の魔法使いの中では、人間の夢を一番多く受け取っている。ユーリとケンの前に姿を現したのも、マリーベルの絵本を通じて2人から誰よりもたくさんの夢をもらったからである。
<!--:名前の由来は、[[フランス]]の[[俳優|女優]]、[[マリー・ベル]]から。-->
;タンバリン
:声 - [[坂本千夏]]
:シーリーコート(良い妖精の総称)に属するパンジーの妖精で、マリーベルの相棒。色は空色。外見からよくナスのお化け呼ばわりされる。普段はマリーベルが持つ「マリーベル・タンバリン」の中を住処としているが、日中はマリーベルの髪の中に隠れていることのほうが多い。口やかましく負けん気の強い性格で少々口が悪く、やや配慮に欠ける部分もある。
:かつて、赤ん坊だったマリーベルがその手で摘んだパンジーの花から生まれ、花魔法界の掟に従って共生の契約を結んで以来、50万年間マリーベルと寝食を共にしてきた。家事一切が不得手なマリーベルに代わって家の仕事の一切を任されている。常日頃だらしない彼女に辟易しつつお互いに固い友情で結ばれており、赤ん坊の頃から共に育ってきた彼女の身を常に案じている。責任感も強く、いざという時には身を挺してみんなを助け、事件を解決すべく単身動くこともある。
:花魔法は彼の協力なしでは使うことができず、お互いの心が離れてしまうと魔法を使用できなくなってしまう。マリーベル曰く「私たちは2人そろって1人前なの」。
:伸縮自在の体を持ち、膨らませたり伸ばしたりして自由に体形を変えることができる。理由は不明だが猫が大の苦手。綺麗好きで、日に3度はお風呂に入らないと気が済まない性質。
=== マリーベルのお友達 ===
;ユーリ
:声 - [[こおろぎさとみ]]
:ケンの姉。8歳。しっかり者で面倒見のよい優しい女の子。妖精や魔法使いなどの空想の存在を信じる純粋な心の持ち主。読書や絵を描くことが大好きで、素敵な王子様との出会いを夢見るロマンチストでもある。母性的な一面も持ち、植物や動物たち、幻想世界の生き物たちに深い愛情を注ぐ。
:弟ケンと共にマリーベルと出会ってからというもの大の仲良しになり、以来、本当の兄弟のように連れ立って遊ぶようになる。
;ケン
:声 - [[折笠愛]]
:ユーリの弟。5歳。元気で好奇心旺盛な男の子。年齢上はマリーベルと同い年に当たるが、背丈は彼女より低い。運動は苦手ですこし甘えん坊。臆病なところもあるが、いざという時には勇気を振り絞って目の前の出来事にぶつかっていく根性も持ち併せている。リボンと仲良し。
;リボン
:声 - [[三石琴乃]]
:ローズが飼っている子犬。性別はオスだが、名前のとおり赤いリボンを付けているため、よくメスと間違えられる。
:ユーリ姉弟と仲が良くいつも一緒に遊んでおり、マリーベルにも懐いている。
;ボンゴ
:声 - [[佐藤智恵]]
:サニーベルに住む男の子。大柄な体格。パン屋の息子。惚れっぽい性格で、ユーリやマリーベルに気があるほか、かわいい女の子を見るとすぐ反応する。
:ガキ大将的な見た目だが性格は乱暴ではなく、どちらかというと気の強いビビアンに押されている。母親思いの一面も持つ。
;タップ
:声 - 三石琴乃
:サニーベルに住む男の子。そばかす顔で帽子をかぶり、いつもボンゴと一緒に行動している。冷静な性格で、ボンゴのツッコミ役。
:子供たちの中では唯一、家族構成や家庭環境が明らかになっていない。
;ビビアン
:声 - [[矢島晶子]]
:バートの孫娘。甘やかされて育ったため、我がままかつ意地っ張りで意地悪な性格。
:ボンゴとタップを率いて悪戯ばかりしているトラブルメーカーだが、それは仕事で忙しい両親とめったに顔を合わせることが出来ない寂しさの裏返しでもあり、根は純粋で優しく、子供らしい夢見る心も持っている。
:当初はマリーベルによい感情を持たず、現実主義者で怒りっぽい祖父バートの影響もあって魔法や妖精の存在を頑なに否定し続けていたが、不思議な出来事の実体験を通じて徐々にマリーベルに心を開き、憎まれ口を叩きつつ行動を共にするようになる。
=== サニーベルの大人たち ===
;タクロー
:声 - [[小野健一 (声優)|小野健一]]
:ユーリとケンの父。以前はゲームデザイナーとしてゲーム会社に勤めていたが、脱サラしてサニーベルへ移り住み『フラワーショップ・マリーベル』を開いた。のんびり屋で少々気弱だが子供達をしっかり見守っており、魔法使いであるマリーベルのことも、正体を知った当初は驚いたものの、子供たちの良き遊び相手として穏やかに受け入れている。
:また、いざという時には子供たちの直面した問題の解決のため、保護者として知恵を貸すこともある。
;レミ
:声 - [[玉川砂記子|玉川紗己子]]
:ユーリとケンの母。夫のタクローと共にフラワーショップを切り盛りしている。優しく聡明な母親であり、てきぱきと仕事をこなすしっかり者。タクローと同じく、マリーベルのことを受け入れている。
;ローズ
:声 - [[京田尚子]](幼少時 - [[横山智佐]] → [[西原久美子]])
:ユーリとケンの家の隣に住んでいる、一人暮らしのおばあさん。穏やかで優しく、お菓子作りが得意。老いてなお、魔法使いや妖精の存在を夢見る純真な心を失わず、幼少時から大切にしていた「マリーベルの絵本」の主役であるマリーベルに会いたいと思い焦がれてきた。ユーリとケンに絵本を貸したことで遅まきながら夢が叶い、憧れのマリーベルと親交を結ぶことになった。また、草花や木々を深く愛しており、自宅の見事なバラの庭園で子供たちを招いてよくお茶会を開いている。
:良き理解者として常に暖かな眼差しで子供たちを見守っており、子供の心を理解しようとしないバートに嘆息している。
;バート
:声 - [[西村知道]](幼少時 - [[山口勝平]])
:ビビアンの祖父で、ローズの幼馴染。頑固で短気な人間嫌いで、かなりの意地っ張り。町中の子供たちに対して怒鳴り散らしているため快く思われておらず、孫のビビアンにも恐れられている。幼少時のトラウマから花が大嫌いな他、妖精といった不可思議な存在や世の中に起きる不思議な現象を一切信用しない現実主義者でもあり、いい年をして妖精を追い続ける甥のジートに憤慨している。
:マリーベルの活躍で花嫌いが治った以後も彼女のことを快く思わず草花に対する邪険な態度も相変わらずであったが、聖なる樹を阻止すべく立ち向かったマリーベルの言葉を聞いて考えを改めるようになり、大切な友達を失って悲しむユーリたちに心境の変化を吐露して慰めた。
:最終回エンディングではローズの自宅の庭で一緒にお茶をしており、道行く子供たちに穏やかな笑顔で手を振っている。
;ジート
:声 - [[松本保典]] → [[辻谷耕史]]
:バートの甥。妖精ハンター。28歳独身。口癖は「うんうん」。
:幼い頃に迷い込んだとうもろこし畑で妖精に助けられた経験を持つが、嘘つき呼ばわりされたため妖精を捕まえてその存在を証明しようとしている。根底には「目に見えない不思議なものの存在をみんなに理解してもらいたい」という純粋な思いがあり根っからの悪人ではない。しかし、目的に固執するあまり「妖精を金で売る」「妖精を捕まえて有名になる」といった俗悪な発想に至ってしまい、犯罪行為もいとわぬ強引なやり口ゆえにマリーベルたちの反感を買う。
:タンバリンをさらおうとして懲らしめられた後も、妖精やマリーベルの正体を巡って懲りずに騒動を巻き起こすが、後に恩師シェルボー教授の企みを知ってショックを受け、再会したとうもろこし畑の妖精に過ちを諭されて改心し、妖精の存在を純粋に信じる大人の1人として子供たちの良き友となった。
:後にキューピッドの導きによって女子アナウンサーのマギーと相思相愛の仲となり、最終回のEDでめでたく結ばれた。
;ブラ
:声 - [[塩屋浩三]]
:サニーベルの警察官。小太り、ビン底メガネ。マリーベルの魔法を幾度も目撃している。その度に相棒のノッポに訴えるが信じてもらえないというやり取りがほぼ毎回のお約束となっている。
;ノッポ
:声 - [[チョー (俳優)|長島雄一]]
:サニーベルの警察官。名前通り背が高く、のんびり者。常にブラと行動を共にしているが、マリーベルの魔法をいつも見逃してしまい、ブラに対して呆れ顔でツッコミを入れるのを繰り返している。
;マギー・エーデルワイス
:声 - [[池本小百合]]
:サニーベルテレビの女子アナウンサー。サニーベルで起こるニュースをさわやかな笑顔で届け、時には自ら現場レポートを行ったり、番組やイベントの司会でも活躍している。何かとマリーベルらと現場で顔を合わせることも多く、顔見知りになっている。
;シェルボー教授
:声 - [[神山卓三]]
:サニーベル大学の教授。ジートの恩師でもある。表向きは[[生物学者]]であり妖精学の権威。人格者としても有名であるが、実は妖精を捕まえて解剖しようと企む妖精ハンター。妖精の瞬間移動を阻止する網や虫かごを製作するなど、[[マッドサイエンティスト]]な面も併せ持つ。
:最終3話では、妖精たちをおびき出すべく都市計画開発によって草花や木の迫害を始め、地球を未曾有の危機に晒してしまう。
:そんな彼も、子供の頃は自然を愛する純粋な少年であり、マリーベルの手引きによってその過去を思い出した後、己の過ちに気づいて改心し聖なる樹と和解した。
:最終回エンディングでは、大学の講義室に草花を生けた花瓶を置いており、再び自然と親しむようになった姿が描かれている。
=== マリーベルの家族 ===
;パパベル・フォン・デカッセ
:声 - [[速水奨]]
:マリーベルの父。人間界では天才マジシャンとして名を馳せている。常に穏やかで紳士的な性格。
:魔法の呪文は「パパリン、ベルルン、ランランラン」。
;ママベル・フォン・デカッセ
:声 - [[島本須美]]
:マリーベルの母。人間界では「お菓子作りの妖精」と呼ばれる天才料理家として名を馳せており、ローズやレミも彼女のファン。夫婦で世界中を旅行しながら、人々に夢を与えている。
:魔法の呪文は「ママリン、ベルルン、ルンルンルン」。
;ジジベル
:声 - [[緒方賢一]]
:マリーベルの祖父。普段は北極に住んでおり、実はサンタクロース。高齢なため身体能力の低下が著しく、それが原因でマリーベルと会う度に騒動を起こしている。アイドル・ミッチーの大ファン。
:魔法の呪文は「ジジリン、ベルルン、ジンジンジン」。
;ババベル
:声 - [[丸山裕子]]
:マリーベルの祖母。口癖は「ほんにほんに」。高齢で身体能力の低下が著しいジジベルを支えるしっかり者。
=== 花魔法界 ===
<!--;トートー
:声 - [[鈴置洋孝]]
:500年ごとに炎の中から生まれ変わるフェニックス。作品に登場した際は、その直前のため老いた姿をしている。劇場版でも登場。-->
;聖なる樹
:声 - [[富田耕生]]
:全ての花や木を見守る守り神で、花魔法界中心部の浮遊島にはるか大昔から立ち続け花魔法界の住人達の憩いの場ともなっていた巨木。シェルボー教授の都市開発計画によって迫害された自然の声を聞きつけ、地上の全ての緑を花魔法界に退避させるべくサニーベルの町に姿を現した。
:花魔法界と人間界双方の自然を長きに渡って見守り続けてきたが、いつしか自然を脅かそうとするようになった人間に強い憎しみを抱くようになり、人間が地球ごと滅びてしまえばいいとすら思うようになってしまった。怒りに我を忘れ、人間界への出現を止めようとした花の魔法使いたちを独り残らず吸収し、花魔法界をも荒廃に追い込んでしまうほどに見境がなくなっている。シェルボー教授の行動と傲慢な態度に怒りを膨らませた末に暴走を加速させ、世界中のあらゆる緑を奪って肥大化していく。
:人と自然の共存を訴えるマリーベルと対立し、一度は彼女の魔法を打ち破って敗北に追い込むが、眠りから目覚めたマリーベルの手引きで人々と対話した末に己の過ちに気づき、人間たちと和解した。
;フローリア
:声 - [[玉川紗己子]](ノンクレジット)
:自らを花魔法界の心と名乗る、薄い絹衣をまとい花の冠をかぶった女神。聖なる樹の説得に力尽き、吸収されそうになったマリーベルを花魔法界へ退避させ、ユーリとケンを花魔法界に導いてマリーベル出生の秘密と復活の方法を伝える。その後、事件を無事解決に導き世界を救ったマリーベルを一人前の魔法使いと認めた。
<!--=== その他の登場人物 ===
;ディレクター - [[飛田展男]]
;ニュースキャスター/女性レポーター - [[池本小百合]]
;マーズ - [[松岡文雄]]
;ジュリア - [[玉川紗己子]]
;クレア - [[松井菜桜子]]
;ピッチー/ミリィ/妖精A - [[西原久美子]]
;ホッグ - [[古田信幸]]
;ケリー - [[伊倉一恵]]
;ポーラ - [[水谷優子]]
;ミッチー - 水谷優子
;モーリィ - [[林原めぐみ]]
;ボビー - [[田野恵]]
;ボビーの父 - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]
;クリス - [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]]
;ムーニー - [[大滝進矢]]
;ルーシー - [[島津冴子]]
;リトル - [[かないみか]]
;チャチャ - [[渡辺久美子]]
;アデリー - 渡辺久美子
;スイート・ルックフォードジュニア - [[富山敬]]
;ビット - [[小桜エツコ|小桜エツ子]]
;モール - [[中原茂]]
;ウォッチ - [[神代知衣]]
;ストーン/園長 - [[増岡弘]]
;スノーン - [[川村万梨阿]]
;ヘビー - [[福田信昭]]
;ライト - [[辻親八]]
;複葉機/カラス/警備員A - [[高木渉]]
;めぐりあいの木 - [[神山卓三]]
;花/雪ダルマ/インストラクター/係員 - [[小野健一]]
;トゲトゲ草/花の妖精/女の子A - [[南央美]]
;リンゴの妖精 - [[街田淳子]]
;コスモスの妖精/女の子B/客 - [[佐久間純子]]
;長老 - [[西川幾雄]]
;お妃様 - [[はやみけい|速見圭]]
;イルカ/男B/オス犬 - [[森川智之]]
;王子様/オス犬 - [[菊池正美]]
;サニーベル市長 - [[藤本譲]]
;漁師A - [[中嶋聡彦]]
;漁師B - [[松尾貴司]]
;警備員B - [[中博史]]
;男A - [[カシワクラツトム|柏倉つとむ]]-->
<!--さすがにサブキャラまで列挙する必要は無いのでは?ミンキーモモのページでも主要キャラの見出し-->
<!-- 端役とされたいくつかのキャラクターは戻しました。
;ジュリア - [[玉川紗己子]]
:リボンの恋の相手。他の犬たちのマドンナ的存在。
;クレア - [[松井菜桜子]]
:ジュリアの飼い主。
;母グマ - [[玉川紗己子]]
;ピッチー/ミリィ/妖精A - [[西原久美子]]
;ニュースキャスター/女性レポーター - [[池本小百合]]
;ホッグ - [[古田信幸]]
;ケリー - [[伊倉一恵]]
;ポーラ - [[水谷優子]]
:星の妖精の少女で、星や星座を掃除する星空の管理人。星の世界への扉を開く能力を持つ。[[セーラー服]]を着て裸足で靴を履いている。非常に活発できれい好きな性格で、子ども扱いされるのを嫌う。鼻を擦る癖がある。
;ミッチー - [[水谷優子]]
;モーリィ - [[林原めぐみ]]
:子どもを森に迷い込ませて楽しむいたずら妖精。
;ボビー - [[田野恵]]
:船乗りの息子。自分の誕生日に父が帰ってくることを願っており、そのためにサニーベルの言い伝えの妖精のいるテーブルランプを欲している。
;ボビーの父 - [[佐藤正治]]
;クリス - [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]]
;ムーニー - [[大滝進矢]]
;ルーシー - [[島津冴子]]
;リトル - [[かないみか]]
;チャチャ - [[渡辺久美子]]
:マリーベルたちが公園の廃ワゴン車で世話をしている子猫。
;ブル;アデリー - [[渡辺久美子]]
;スイート・ルックフォードジュニア - [[富山敬]]
:ルックフォード製菓の社長。マリーベルを会社のイメージキャラクターコンテストにスカウトする。バートとは旧友。よいものを見ると指で作った窓で何度も覗き込む。
;ビット - [[小桜エツコ|小桜エツ子]]
:月世界の妖精のウサギ。マリーベルに月世界の危機を救うように頼みにやってくる。
;モール - [[中原茂]]
:ユニコーン。旅人に騙された事がきっかけで心を閉ざし、2本の角を持つ石像となってしまっている。
;ウォッチ - [[神代知衣]]
;ストーン/園長 - [[増岡弘]]
;スノーン - [[川村万梨阿]]
;ヘビー - [[福田信昭]]
;ライト - [[辻親八]]
;マーズ - [[松岡文雄]]
:古道具屋の主人。
;複葉機/カラス/警備員A - [[高木渉]]
;めぐりあいの木 - [[神山卓三]]
:恋人同士が願いを掛けると必ず結ばれるという伝説のある大銀杏。
;花/雪ダルマ/インストラクター/係員 - [[小野健一]]
;トゲトゲ草/花の妖精/女の子A - [[南央美]]
;リンゴの妖精 - [[街田淳子]]
;コスモスの妖精/女の子B/客 - [[佐久間純子]]
;長老 - [[西川幾雄]]
;お妃様 - [[はやみけい|速見圭]]
;イルカ/男B/オス犬 - [[森川智之]]
;王子様/オス犬 - [[菊池正美]]
;サニーベル市長 - [[藤本譲]]
;ディレクター - [[飛田展男]]
;漁師A - [[中嶋聡彦]]
;漁師B - [[松尾貴司]]
;警備員B - [[中博史]]
;男A - [[カシワクラツトム|柏倉つとむ]]-->
== 用語解説 ==
=== 花魔法界 ===
マリーベルの故郷。自然豊かで花が咲き乱れる世界。悪意ある人間の侵入を防ぐため人間の来訪は許されていないが、花魔法界の住人の手引きがあれば行くことができる。花魔法使い、妖精、シーリーコート、そしてフェニックス等の幻獣といった空想世界の存在と言われる者達が平和に暮らしている。人間の世界に見られる国の仕組みは描かれていないが、花や木を守る神のような存在である「聖なる樹」や、花魔法界の心と言われる「フローリア」といった、神秘的な存在は描写されている。人間界と花魔法界での時間の流れの違いなどについての言及は特に無い<ref>マリーベルの実年齢が50万歳で、「ちょうど人類の誕生した時代に生まれ、人の夢を最も多く受け取ってきた」と語られていることや不死鳥トートーとの会話における「会うのが100年ぶり」という発言、10万年に1度パートナーとの妖精との友情記念日があるという設定から、花魔法界の時間の流れは人間界と同一で、花魔法界の住人の成長スピードが人間のそれよりも遅いだけとも考えられる(つまり成長速度が人間の10万分の1=10万年に1歳年を取る)が、このあたりは作品中では全く触れられていない。</ref>。
マリーベルたち花の魔法使いは、花魔法界上空に多数滞空している浮遊大陸に自宅を構えている。
=== 花の魔法使い ===
花魔法界の住人<ref>容姿そのものは人間と変わりない。1話における花魔法界についての説明の中では羽をもった等身大の妖精として描かれているが、第11話終盤でのタンバリンのセリフや第49話のフローリアのセリフに妖精と花の魔法使いが別種族であることを示唆するセリフがある。</ref> で、花魔法を操る力を持つ種族。魔法の力で人間界の人々に夢や希望を与えることを使命としており、マリーベルや彼女の両親のように素性を隠して人間界で活動している魔法使いたちもいる。<br />
人間界のあらゆる生き物の夢見る力から生まれた存在であり、夢の力を自身の魔力の源としている。また、花の魔法使いにとって夢の力は生きる糧でもあり、魔法力を使い果たすと人間界に留まることができなくなってしまい休息のため花魔法界で長い眠りに着くことになる。
=== 花魔法 ===
花の魔法使い達が使う魔法。魔法の花びらの力に働きかけて発動するもので、花の魔法使いとパートナーの妖精が互いに協力しあって行使する。しかし、互いの心が離れていると魔法が発動せず変身することもできなくなったり、魔法の効果が切れてしまったりする。<br />劇中では、マリーベルが魔法に失敗した際、手に負えないと見てタンバリンが逃げ出すことで変身が切れる描写がある。その他にも、仲違いしたことにより魔法が使えなくなったり(第6話)、ジートにタンバリンをさらわれた際も同様の状況となった。(38話)また、マリーベル・タンバリンを手元から失った場合にも花魔法を使えなくなり、花の魔法使い以外にも魔法を使える者(劇中では魔女)の手に渡ると花魔法を悪用される恐れが生じる(45話)。
=== マリーベルの花 ===
マリーベルを象徴するピンク色の小さな花。「マリーベルに助けて欲しい」と心から願った人の足元に一輪だけ咲き、花を介してマリーベルが召喚される(「マリーベルの絵本」の中でも、花の中からマリーベルが現れる描写がある)。この花を通じて助けを求めている人の思いがマリーベルに届くらしく、本人は「花に呼ばれた」と発言している。
第1話冒頭では「マリーベルの力で花屋を繁盛させて欲しい」というユーリたちの願いによってこの花が咲きマリーベルが現れた。<br/>第30話では、森に迷い込んだビビアンがデビルフラワーに襲われた妖精モーリィを助けて欲しいと強く願いながらマリーベルに呼びかけたことで花が咲き、モーリィのいたずらで森の中に入れなくなっていたマリーベルを呼び寄せた(この際は咲いた花がビビアンに授けたマリーベル・コンパクトを介した瞬間移動によって召喚された)。
マリーベルが花魔法使いに変身する際もマリーベルの頭にこの花が咲き、衣装チェンジ後に頭についたリボンのワンポイントとなるが、変身が解けるとつぼみとなって消えてしまう。<br />また、聖なる樹との争いで力尽き花魔法界に戻ったマリーベルは、夢の力を使い果たして花の姿に還ってしまった。
マリーベルの絵本の表紙にはこの花を模った紋章が描かれている他、マリーベル・タンバリンの円状のプレートの中央やマリーベル・コンパクトの蓋にもこの花のレリーフが設えられている。
=== マリーベルの絵本 ===
ローズが子供時代から大切にしていた絵本。「森で迷子になった幼い姉弟ジェーンとマイケルが、花の魔法使いマリーベルに助けられ、無事両親の家に帰る」というお話。本の表紙にはマリーベルの花の紋章が描かれているだけで、正式な題名や著者名は不明。このため劇中では一貫して「マリーベルの絵本」と呼ばれている。
絵本の持ち主であるローズ、そしてユーリ、ケン、リボンもこの絵本が大好きで、マリーベルはこの絵本を通してユーリたちの前に現れた。<br />また、フラワーショップの店名の由来もこの本で、「マリーベルが来てくれるかもしれない」という希望をこめてユーリとケンが命名している。
第27話の騒動で焼却炉に落ち損傷してしまうが、マリーベルによって修理され2冊に分けられた後、1冊がユーリたちの手元に残された。その際、ユーリたちの手に渡った方は登場人物がケンとユーリに書き換えられており、リボンも付け加えられていた。
誰がどういった経緯でこの絵本を書いたのか、どういう経緯を経てローズの手に渡ったのかや、マリーベル本人とこの絵本の関係についても作中では明らかにされていない。
=== その他の世界 ===
本作には、花魔法界以外にもさまざまな空想上の世界が登場し、それにまつわる事件を、マリーベルらは解決していった。
*'''妖精界'''
:妖精たちが自然の営みを守るための仕事をこなし、桜祭りや秋の収穫祭を力を合わせて行う姿が描かれた。
*'''星の世界'''
:星座達が生き生きと生活している世界。星空の管理人で星の妖精の少女、ポーラがやってきた事がある。
*'''人魚の世界'''
:南の海と、北の海にそれぞれ人魚の国があり、人魚の赤ちゃんが、サニーベルの海岸に流されてきた事がある。
*'''月の世界'''
:ウサギの妖精が王国を築いている。地上の全ての男女に愛の力を与える役目を持つ王様とお妃様の喧嘩の影響が地球に波及し、人間界の全ての夫婦の間にいさかいを起こしてしまった。
*'''雪の世界'''
:はるか上空にある雪原の広がる世界。雪の精霊スノーンが住む。ケンと仲違いしたユーリのつぶやきを真に受けたスノーンにより、ケンがさらわれる事件が起きた。
*'''宝石の世界'''
:自然界の全ての物質が宝石で出来た世界。青い宝石の中に存在し、アライグマの住む村、地下に住むモグラの女の子モリリンの掘り進めた地下洞窟、魔女クリスの住む宮殿がある。クリスにマリーベル・タンバリンを奪われる騒ぎが起きた。
*'''ユニコーンの国'''
:はるか上空の雲の上にあるユニコーンたちが棲む浮遊島。人間に裏切られた怒りと絶望から二本角と化し、心を閉ざして石化したユニコーン、モールが眠っている。
== マリーベルの魔法の使い方 ==
マリーベルの魔法は大きく分けて、マリーベルタンバリンから取り出す'''魔法道具'''と、魔法道具よりも効力が大きい代わりにタンバリンの協力による変身が必須の'''花魔法'''の2つに分かれる。魔法自体は万能型であるが、マリーベル自身に効果をもたらす魔法(大人や他人への変身など)は存在しない。また嫌がる人や心を閉ざしている相手に対して魔法は効力を発揮しない。
;1.魔法道具
:「マリーベル・タンバリン!」の掛け声とともにマリーベル・タンバリンを両の手のひらに出現させ裏側を叩きながら舞った後、取り出したい道具の名前を呼ぶと円状のプレートが回転し、中央の赤いプレートの部分から魔法の道具が出てくる<ref>魔法道具以外の物品も取り出せるようで、第1話ではリボンにあげるミルクをここから取り出している。</ref>。魔法の道具は基本的にこの形で使用するが、花魔法で出現させる道具も多い。
:人混みなどの目立つ場所で道具を取り出す場合はプレートの中央を軽く叩きながら道具の名前を呼ぶことで取り出す。
;2.花魔法
:「マリーベルの花魔法!」の掛け声と共に魔法道具を出す時の要領で舞い、マリーベル・タンバリンから妖精のタンバリンを呼び出す。「はなまほー!」の掛け声と共にタンバリンが魔法力をマリーベルの全身に振りまき、マリーベルの頭にマリーベルの花を咲かせる。その後、全身が光に包まれると共にピンク色の花のドレスに身を包み変身が完了する。
:このスタイルでは、フラワーステッキを用いて魔法の花びらに働きかけて花魔法を発動することにより、魔法をかける対象に直接的に何かしらの効果を及ぼすことがメインとなるが、前述のようにステッキ以外の魔法道具を取り出して使用する場合も多い。
=== 主な魔法の道具 ===
劇中では様々な魔法道具が登場するが、その中でも特に使用頻度の高いものを記す。
;マリーベル・タンバリン
:花の形を模したタンバリン型の魔法道具。マリーベルの持つ魔法道具の中でも特に重要な主要アイテムで、中に数多くの魔法道具がしまわれている他このアイテムがないと花魔法が使えない。表側の円状のプレートの中央は花魔法界に通じておりタンバリンの住処にもなっている。本体についている取っ手を持つことで引っ張られるようにして空を飛ぶことができる他、取っ手をひも状に伸ばし肩にかけてショルダーバッグ状にして持ち運べる。
;フラワー・ステッキ(マリーベル・ステッキ)
:花魔法を使う際に使用する魔法のステッキ。「マリリン・ベルルン・リンリンリン!」と呪文を唱えて魔法の内容を指定することにより、魔法の効果が表れる。この際、ステッキの先端が花のように開き、魔力のこもった魔法の花びらが放出される。<br />一旦魔法を発動した後に追加で魔法を使う際などには、呪文を唱えながら、もしくは直前の呪文を省略しかける魔法の内容を直接言ってから「はーい!」の掛け声と共に上空にステッキを掲げて発動する。
;フラワー・ハウス
:マリーベルの自宅。花の魔法使いが一人一軒持つ花でできた魔法の家で、マリーベルの花にフラワーハウスの元を一滴垂らすと、小さな一軒家に変化する。建物自体が飛行能力を持ち、花魔法界と人間界を自由に行き来できる。フラワーステッキの力で離れた場所からフラワーハウスの飛行機能を作動させ、遠隔操作で家ごと呼び寄せることも可能。
:見た目に比べて中は大変広く、中央にはフラワー・ドアという花の文様が描かれた複数のドアが存在する。家の周りにある庭は花びらが変形したもので、台風避けモードの発動により悪天候の際に閉じてつぼみになり家を守る。また、この他にも防犯機能が完備されており、寝室の真上にある展望台の花のコントローラーで操作する。
:元々は花魔法界の自宅の敷地内に存在する建物で、マリーベルの魔法によって人間界に転移してきたもの。そのため、花魔法界側での自宅の敷地は空き地になっている。庭には花魔法使いに夢や希望を与えられた人の数だけ花が咲くようになっており、自宅の庭を花一杯で満たすべく人間界で修行をすることが、マリーベルが人間界にやってきた動機のひとつとなっている。
;フラワー・ドア
:前出フラワー・ハウスの一機能。家の中央に位置する広い部屋の中に複数存在する様々な種類の花が描かれたドア。ドアに描かれた花と同じ花が存在する場所へいける。(自生かどうかは問わない)更に頭の中で強く思い浮かべながらドアを開くことで、移動先、移動先で会いたい人を指定することが可能。ただし、基本的に花の存在する所にしか移動できない。
:この部屋に行くドア及び中のフラワー・ドアに入るには、フラワー・オルゴールの中にしまったドアの鍵が必要。鍵の指輪を使ってオルゴールから取りだす。
;花馬車
:花のつぼみが車体となっている馬車。馬車と言っても馬はなく自走する。地上のみならず、空中、水中、宇宙、さらには異空間や異世界、人の心の中など、どこにでも行ける万能車。
;魔法の香水
:香水を振り掛けると、身体のどこかにプロペラ状の花が咲き、楽しい事を思い浮かべることで自由に空を飛べるようになる。
;マリーベル・コンパクト
:魔法の力でテレビ電話のように通話が出来る、チューリップを模った手のひら大のコンパクト。普段はペンダントヘッド大の大きさで鎖がついたネックレスの状態になっており、使いたい時に胸元に手をかざすとペンダントが首にかけた状態で出現し、ペンダントヘッドが大きくなってコンパクトになる。コンパクト以外の通信手段を持つ相手とも連絡を取り合える。<br />マリーベルのみ別のコンパクトを介して離れた場所へ瞬間移動することが可能。また、別の魔法道具と組み合わせて使うことで、相手の考えていることを鏡の部分に映し出すこともできる。連絡用にユーリに手渡され、ビビアンはマリーベルに助けを求めた際に咲いたマリーベルの花から授かった。
== 主題歌 ==
;オープニング
:'''『きっと出来るね!』'''<ref>初期には『きっとできるね!』とクレジットされていた。曲名としては『きっと出来るね!』が正しく、後に修正された。DVD-BOX収録版のオープニングでは、すべて訂正済みに差し替えられている。</ref>
:作詞 - 並河翔太、作曲・編曲 - [[岩田雅之]]、歌 - [[中嶋美智代]]
;エンディング
:'''『思い出にもなれない』 (前期)(第1話~第29話)'''
:作詞 - [[小倉めぐみ]]、作曲 - [[都志見隆]]、編曲 - [[渡辺格 (ミュージシャン)|渡辺格]]、歌 - 中嶋美智代
:'''『思われている』 (後期)(第30話~第50話)'''
:作詞 - 小倉めぐみ、作曲 - 都志見隆、編曲 - [[新川博]]、歌 - 中嶋美智代
== OVA主題歌 ==
;OP『私! マリーベル』
;ED『とっても素敵 マリーベル』
:作詞 - [[遠藤徹哉]]、作曲・編曲 - 石黒孝子、歌 - 本多知恵子
== スタッフ ==
*企画:大西良昌([[ビックウエスト]])、佐藤俊彦(葦プロダクション)
*制作:土田民也(ビックウエスト)、加藤博(葦プロダクション)
*シリーズ構成:[[小山高生]]、[[三井秀樹 (脚本家)|三井秀樹]]
*企画協力:ぶらざあのっぽ
*キャラクター原案:[[大貫健一]]
*キャラクターデザイン:金津賀哲
*美術監督:地蔵本拓嗣
*音響監督:[[田中英行]]
*撮影監督:菅谷信行
*音楽:石黒孝子
*音楽プロデューサー:沼田講治(フリースタッフ)
*マニピュレーター:矢田部正
*主題歌制作:渡辺有三、羽鳥享
*音楽宣伝:佐々木幸弘
*文芸担当:赤堀義浩
*制作担当:安部吉晴
*メイン色彩設定:甲斐けいこ
*色彩設定:中野倫明
*プロデューサー:岡崎千代(テレビせとうち)、田口智幸(ビックウエスト)、梅原勝(葦プロダクション)
*監督:遠藤徹哉([[えんどうてつや]])
*動画チェック:中尾友治、真鍋誠、宮地誠、高橋和彦、浅沼昭弘、雷音頭、サムタック
*色指定:中野倫明、樽川浩子
*仕上検査:国分優美子、小作由美子、長谷川孝志
*仕上:GPE、新友動画、銀河プロ、映進動画、[[スタジオジュニオ]]
*イラスト協力:服部圭一郎
*特殊効果:マリックス、菅原利香
*美術助手:鈴木慶太
*背景:宇利プロダクション、催スタジオ
*撮影:[[ACCプロダクション]]、スタジオパートナー、天平フィルム
*編集:辺見俊夫、山森重之([[ジェイ・フィルム|JAY FILM]])
*効果:野口透、甲斐雅人([[アニメサウンドプロダクション]])
*ミキサー:小原吉男
*録音:整音スタジオ
*タイトル:[[マキ・プロ]]
*現像:[[東京現像所]]
*協力:[[スタジオジャイアンツ]]
*音楽協力:[[サンミュージック出版]]、[[ポニーキャニオン]]
*コーディネーター:角谷哲生
*サブキャラクター設定:金津賀哲、新羽高一浪、千羽由利子、広田正志、深沢幸司、長森佳容、安東信悦、福田皓
*制作進行:福島健人、小澤一由、関本美津子、乙須克寛、三多正泰、岡田章、安部吉晴
*製作:[[テレビせとうち]]、ビックウエスト、[[葦プロダクション]]
== 放映リスト ==
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!話!!放映日!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督
|-
|1||'''1992年'''<br />2月3日||こんにちは! 私マリーベル||colspan="3" align="center"|[[えんどうてつや|遠藤徹哉]]||広田正志
|-
|2||2月10日||お隣さんは花嫌い||[[三井秀樹 (脚本家)|三井秀樹]]||土蛇我現||日下直義||新羽高一浪
|-
|3||2月17日||らく書き天国こんにちは||[[山田靖智|やまだやすのり]]||colspan="2" align="center"|吉田浩||[[千羽由利子]]
|-
|4||2月24日||やっぱりケンはパパの子だ||立川元教||広田正志||勝亦祥視||広田正志
|-
|5||3月2日||サニーベルの思い出の木||町田知之||土蛇我現||日下直義||[[深沢幸司]]
|-
|6||3月9日||50万年目のケンカ||三井秀樹||colspan="2" align="center"|吉田浩||[[長森佳容]]
|-
|7||3月16日||大好き! ジュリア!||やまだやすのり||広田正志||勝亦祥視||広田正志
|-
|8||3月23日||はばたけピッチー大空へ||町田知之||[[高橋ナオヒト]]||安東信悦||新羽高一浪
|-
|9||3月30日||妖精たちの桜祭り||三井秀樹||土蛇我現||日下直義||千羽由利子
|-
|10||4月6日||妖精ハンター・ジート登場!||[[小山高生]]||colspan="2" align="center"|吉田浩||長森佳容
|-
|11||4月13日||マリーベルのCMコンテスト||三井秀樹||広田正志||勝亦祥視||広田正志
|-
|12||4月20日||フラワーハウスの大事件||町田知之||colspan="2" align="center"|高橋ナオヒト||深沢幸司
|-
|13||4月27日||想い出のオモチャはど〜こ?||やまだやすのり||土蛇我現||日下直義||新羽高一浪
|-
|14||5月4日||ボンゴの母の日プレゼント||高橋義昌||colspan="2" align="center"|吉田浩||長森佳容
|-
|15||5月11日||ユーリに恋した王子さま||三井秀樹||広田正志||勝亦祥視||千羽由利子
|-
|16||5月18日||うちのパパはゲーム作家||町田知之||colspan="2" align="center"|安東信悦||深沢幸司
|-
|17||5月25日||ジートのわるだくみ||小山高生||土蛇我現||日下直義||新羽高一浪
|-
|18||6月1日||ボンゴとタップの大航海!?||高橋義昌||colspan="2" align="center"|吉田浩||長森佳容
|-
|19||6月8日||キャンプは楽し!||やまだやすのり||colspan="2" align="center"|高橋ナオヒト||千羽由利子
|-
|20||6月15日||友情の一輪車レース||三井秀樹||広田正志||勝亦祥視||広田正志
|-
|21||6月22日||星の国から来たポーラ||やまだやすのり||土蛇我現||日下直義||深沢幸司
|-
|22||6月29日||ケンの初めてのお使い||清水定彦<br />小山高生||安東信悦||勝亦祥視||安東信悦
|-
|23||7月6日||迷子の迷子の人魚姫||町田知之||colspan="2" align="center"|吉田浩||長森佳容
|-
|24||7月13日||またまたジートがやってきた||三井秀樹||広田正志||日下直義||広田正志
|-
|25||7月20日||ユーリといたずらイルカ||高橋義昌||高橋ナオヒト||勝亦祥視||新羽高一浪
|-
|26||7月27日||いるかいないかフェニックス||colspan="3" align="center"|遠藤徹哉||新井豊<br />広田正志
|-
|27||8月3日||マリーベルの絵本||町田知之||土蛇我現||日下直義||千羽由利子
|-
|28||8月10日||ビビアンと子猫のチャチャ||やまだやすのり||colspan="2" align="center"|吉田浩||長森佳容
|-
|29||8月17日||ゆうれい屋敷の古時計||小山高生||rowspan="2"|広田正志||勝亦祥視||広田正志
|-
|30||8月24日||迷いの森のビビアン||高橋義昌||日下直義||深沢幸司
|-
|31||8月31日||フラワードアで大混乱||町田知之||colspan="2" align="center"|高橋ナオヒト||新羽高一浪
|-
|32||9月7日||テーブルランプを取り返せ||やまだやすのり||colspan="2" align="center"|吉田浩||千羽由利子
|-
|33||9月14日||マリーベルのパパとママ||三井秀樹||高橋ナオヒト||勝亦祥視||深沢幸司
|-
|34||9月21日||お菓子の家とおかしな二人||小山高生||広田正志||日下直義||広田正志
|-
|35||9月28日||子供になったローズさん||高橋義昌||colspan="2" align="center"|安東信悦||長森佳容
|-
|36||10月5日||マリーベルの月世界旅行||[[荒木憲一]]||土蛇我現||日下直義||新羽高一浪
|-
|37||10月12日||ケンと2本角のユニコーン||町田知之||colspan="2" align="center"|吉田浩||千羽由利子
|-
|38||10月19日||タンバリンがつかまった!||小山高生||吉田浩||勝亦祥視||広田正志
|-
|39||10月26日||タンバリン救出大作戦!||小山高生||colspan="2" align="center"|安東信悦||深沢幸司
|-
|40||11月2日||コスモスの妖精を捜して||高橋義昌||colspan="2" align="center"|高橋ナオヒト||長森佳容
|-
|41||11月9日||がんばれ! 愛のキューピット||やまだやすのり||colspan="2" align="center"|吉田浩||新羽高一浪
|-
|42||11月16日||誘拐されたビビアン!?||荒木憲一||colspan="2" align="center"|勝亦祥視||広田正志
|-
|43||11月23日||雪の降る日の願いごと||高橋義昌||広田正志||日下直義||千羽由利子
|-
|44||11月30日||トゲトゲ草パニック||町田知之||colspan="2" align="center"|安東信悦||広田正志
|-
|45||12月7日||不思議の国のマリーベル||やまだやすのり||colspan="2" align="center"|吉田浩||新羽高一浪
|-
|46||12月14日||ジジベルサンタの大騒動||荒木憲一||広田正志||日下直義||広田正志
|-
|47||12月21日||がんばれ! タンバリン||遠藤徹哉||colspan="2" align="center"|高橋ナオヒト||千羽由利子
|-
|48||'''1993年'''<br />1月4日||サニーベルの一大事||rowspan="3"|三井秀樹||colspan="2" align="center"|勝亦祥視||藍田草介
|-
|49||1月11日||マリーベルと聖なる樹||安東信悦||日下直義||新羽高一浪
|-
|50||1月18日||夢をあなたに||colspan="2" align="center"|吉田浩||広田正志
|}
== 放送局 ==
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!放送地域!!放送局!!放送期間!!放送時間!!放送系列!!備考
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]]||[[テレビせとうち]]||rowspan="6"|[[1992年]][[2月3日]] - [[1993年]][[1月18日]] ||rowspan="6"|月曜 16:00 - 16:30||rowspan="6"|[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]||rowspan="1"|制作局
|-
|[[北海道]]||[[テレビ北海道]]||rowspan="4"|
|-
|[[愛知県]]||[[テレビ愛知]]
|-
|[[大阪府]]||[[テレビ大阪]]
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ東京]]
|-
|[[福岡県]]||TXN九州||現:[[TVQ九州放送]]
|-
|[[広島県]]||[[テレビ新広島]]||||||rowspan="3"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||
|-
|[[石川県]]||[[石川テレビ放送|石川テレビ]]||1992年2月11日 - 1993年1月26日<ref>『[[北國新聞]]』1992年2月11日付朝刊16面テレビ欄および1993年1月26日付朝刊16面より。</ref>||火曜 16:00 - 16:30<ref name="amd">{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1993年3月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=111 - 113}}</ref>||
|-
|[[熊本県]]||[[テレビ熊本]]|| - 1993年2月22日<ref name="amd" />||月曜 16:30 - 17:00||
|-
|[[山口県]]||[[テレビ山口]]||||||rowspan="4"|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||
|-
|[[富山県]]||[[チューリップテレビ]]||1992年2月27日 - 1993年2月18日<ref>『[[富山新聞]]』1992年2月27日および1993年2月18日付各朝刊テレビ欄より。</ref>||木曜 16:00 - 16:30||当番組放送の為『[[ジャンケンマン]]』の放送が中断していた。
|-
|[[山形県]]||[[テレビユー山形]]||||||
|-
|[[静岡県]]||[[静岡放送]]||||||
|-
|[[青森県]]||[[青森放送]]||||日曜 6:00 - 6:30<ref name="amd" />||rowspan="2"|[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||
|-
|[[福島県]]||[[福島中央テレビ]]||||木曜 17:00 - 17:30<ref name="amd" />||
|-
|[[京都府]]||[[京都放送|KBS京都]]||||金曜 17:55 - 18:25<ref name="amd" />||[[全国独立放送協議会|独立放送局]]||
|-
|[[宮城県]]||[[東日本放送]]||||水曜 17:00 - 17:30<ref name="amd" />||[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||
|}
== 逸話 ==
* 「[[月刊OUT]]」に初期設定が掲載された事がある。それによると、企画段階のマリーベルは花の上に乗れるほど体が小さく、逆にタンバリンは人間大で少年の姿をしていた。これら設定はDVD-BOXの解説書でみることができる。
* 2回目のDVD-BOX化において、マリーベル役の本多知恵子は解説書のインタビューの中で当時の思い出を語っているが、「呪文は自分の中で一番かわいい声で演じるよう努めていた。あの時期に主役で関われた事はとてもありがたく、自分にとってとても大事な作品である。」と言う趣旨の談話を残している。
== OVA ==
*;『花の魔法使いマリーベル フェニックスのかぎ』
:[[1992年]][[8月8日]]公開<ref>一般社団法人日本OVA製作社連盟 映連データベース 「[http://db.eiren.org/cgi-bin/keywords.cgi?select=5_0&search_key=%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA ヒーロー・コミュニケーションズ]」、及び同データベース [http://db.eiren.org/contents/01050501201.html 『花の魔法使いマリーベル・フェニックスのかぎ』] 検索結果。</ref>。
:テレビ版第26話に追加カットを加えて再編集し、ストーリーを劇場用に再構成したもの。配給は[[松竹映画|松竹]]。
:同時上映は『[[楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星]](映画)』、『[[リトルツインズ ぼくらの夏が飛んでいく]]』
== 教育用フィルム ==
*『マリーベルの交通安全』[[1993年]]
*『マリーベルの火の用心 〜グラッときたらどうする〜』1993年
:制作は[[東映]]・教育事業部。東映サイドより葦プロに話が持ちこまれ、葦プロ内部スタッフが東映の教育アニメの担当と共同で製作された<ref>DVD-BOX 2回目 作品解説書 25頁</ref>。よってエンドクレジットには「製作協力 ビックウエスト、葦プロダクション」と表示されている。
:[[VHS]]版、[[ベータマックス]]版、[[Uマチック]]版、公共施設向けの16ミリフィルム版も発売された。(※4方式共通で「上映権」が付属していた)
== 8cmシングルCD ==
[[ポニーキャニオン]]より発売。
:歌:[[中嶋美智代]]。中嶋のシングルリリースとして発売。シングルジャケットサイズ12p小冊子歌詞 / 写真集添付。
*PCDA-00275:1992年1月29日発売 本作の図版はジャケット裏に印刷。
:「思い出にもなれない」 作詞:小倉めぐみ 作曲:[[都志見隆]] 編曲:[[渡辺格 (ミュージシャン)|渡辺格]]
:「きっと出来るね!」(C/W) 作詞:並河祥太 作曲・編曲:岩田雅之
*PCDA-00356:1992年9月18日発売 本作の図版は使用せず。
:「思われている」 作詞:小倉めぐみ 作曲:都志見隆 編曲:[[新川博]]
:「きらわれないように」(C/W) 作詞:小倉めぐみ 作曲:都志見隆 編曲:新川博
== サウンドトラックCD ==
[[ポニーキャニオン]]より発売。
*PCCG-00180:1992年7月17日発売
:『花の魔法使いマリーベル マリーベルと歌おう!』
:*主要BGM25曲(作・編曲 石黒孝子)のほか、主題歌含むボーカル曲4曲を収録。トラック2「魔法のテーマ」には、マリーベルのセリフ入り。
::ボーカル曲は、『きっと出来るね!』、『私! マリーベル』、『とっても素敵 マリーベル』、『思い出にもなれない』を収録。<br />『思われている』が未収録である。
:*主要声優陣のサイン(印刷、縮小版)が、CDサイズ色紙にて同梱されている。
:*ライナーノートには遠藤監督の本作解説「マリーベル誕生物語」を収録。
== 出版物 ==
*ケイブンシャの大百科521 『魔法のヒロインひみつ大百科』、1993年2月17日 雑誌コード 63551-53
:グラビア、キャラクター・舞台設定、各話紹介・放送リスト、主題歌歌詞、グッズ(CD ビデオ)紹介など。
:<small>[[魔法のプリンセス ミンキーモモ|ミンキーモモ]](二期)も同様にページが割かれている。[[美少女戦士セーラームーン|セーラームーン]](一期、グラビアのみ)、[[うたう!大龍宮城]](グラビア、人物紹介レベル)も掲載。</small>
<!-- ひみつコラム2「マリーベルはどうして、一人で暮らせるの?」は、同書編者の優しさが感じられる。-->
== 文具類 ==
ぬりえやスケッチブックなどが、[[セイカノート]]から発売された。
== ビデオ/DVD-BOX ==
;ビデオ(VHS)
;『花の魔法使いマリーベル』
:第1巻から第6巻まで発売。第1話、第3話、第7話、第9話、第11話、第18話が各巻1話ずつ収録されている。各巻の収録時間は約25分。
:発売日:1992年
:発売元:ヒーローコミュニケーションズ(バンダイビジュアル)
:※カラー16ミリフィルム、光学音声、モノラル、1吋CタイプVTR(アナログ)。
:※このVHSビデオソフトは本放送時の放送マザー(1吋CタイプVTR)を共用して製品マザーとしている。
;劇場版『花の魔法使いマリーベル フェニックスのかぎ』
:発売日:1992年11月
:発売元:バンダイビジュアル/ヒーローコミュニケーションズ(品番:BVLL-512)
:※レーザーディスク製品仕様:CLV片面ディスク、収録時間40分、カラー、NTSC、デジタルステレオ音声、CX方式アナログステレオ音声。
:※カラー35ミリフィルム(ニュープリント)、磁気音声、ステレオ、デジタルD-2マザー。
;DVD-BOX
;『花の魔法使いマリーベル DVD-BOX1』
;『花の魔法使いマリーベル DVD-BOX2』
:発売日:[BOX-1]2004年3月 GNBA-1022・1話から25話、教育用フィルム2作品 収録 / [BOX2] 2004年6月 GNBA-1023・26話から50話、劇場版 収録 解説書(24p)同梱
:発売元:[[ジェネオンエンタテインメント]]
:外装BOXイラスト:[[中嶋敦子]]
:※カラー16ミリフィルム(ニュープリント)、磁気音声、モノラル、デジタルコンポーネントニューマザー。
:※このDVD化に関し、[[たのみこむ]]において、ファンによる熱心な全話DVD化 実現化活動がなされている<ref>[http://www.tanomi.com/metoo/r/?kid=3069 終了リクエスト:花の魔法使いマリーベル全話DVD集]</ref>。いずれも廃盤。
;『花の魔法使いマリーベル DVD-BOX(初回生産限定)』
:1BOX化は初。マリーベルの絵本に装丁を似せた解説書(32p)添付。初版限定で本多知恵子の直筆サイン色紙が同梱。
:内容はほぼジェネオン版と同等。教育用フィルム2作品、劇場版も収録されている。ただし本編にはアイキャッチがない。
:外装BOXイラスト:千羽由利子、中ジャケットイラスト:大貫健一
:発売日:2009年12月 KIBA-91688-91696
:発売元:[[スターチャイルド]]
:※カラー16ミリフィルム(ニュープリント)、磁気音声、モノラル、デジタルコンポーネントニューマザー。
== 関連項目 ==
* [[魔法少女]]
* [[魔法少女アニメ]]
* [[エブリデイ・マジック]]
* [[フェアリー|妖精]]
* [[魔法のエンジェルスイートミント]] 前作の葦プロダクション制作の魔法少女アニメ(第2弾)
* [[魔法のプリンセス ミンキーモモ#第2作]] 前作の葦プロダクション制作の魔法少女アニメ(第1弾の続編)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://ashipro.jp/works/tv_series/w024.html 葦プロダクションによる作品紹介]
* [http://ashipro.jp/works/theatrical/w011.html 同社による劇場版作品紹介]
* [http://king-cr.jp/m-bell/ starchildスペシャル マリーベル]
{{前後番組
|放送局=[[テレビせとうち]]製作・[[テレビ東京]][[TXNネットワーク|系列]]
|放送枠=[[テレビ東京平日夕方6時枠のアニメ|月曜18:00 - 18:30枠]]
|番組名=花の魔法使いマリーベル
|前番組=[[ゲッターロボ號]]
|次番組=[[無責任艦長タイラー (アニメ)|無責任艦長タイラー]]
}}
{{葦プロダクション}}
{{えんどうてつや監督作品}}
{{デフォルトソート:はなのまほうつかいまりいへる}}
[[Category:アニメ作品 は|なのまほうつかいまりいへる]]
[[Category:1992年のテレビアニメ]]
[[Category:日本のオリジナルテレビアニメ]]
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[[Category:葦プロダクション]]
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[[Category:幼稚園 (雑誌)]]
[[Category:いたずら・ぶっく]]
|
2003-08-28T07:28:30Z
|
2023-12-16T16:33:23Z
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|
14,263 |
伊賀国
|
伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
国府は阿拝郡に所在した。現在の伊賀市坂之下字国町にあたる(北緯34度48分9.05秒 東経136度9分28.46秒 / 北緯34.8025139度 東経136.1579056度 / 34.8025139; 136.1579056 (伊賀国庁跡))。1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけての発掘調査により、I-IV期に分類される8世紀末から11世紀半ばにかけての遺構とともに、「国厨」の墨書を有する土器が検出された。政庁域は40メートル強四方で、主要建物群として正殿・前殿・左右脇殿の「品」字状の配置が認められている。これらの遺構は、2009年(平成21年)7月23日に「伊賀国庁跡」として国の史跡に指定された。
延喜式内社
守護所は、「府中」「こふ」と呼ばれた現在の伊賀市の東条・西条あたりと想定されている。
伊賀国には有力な戦国大名は誕生しなかった。当時伊賀は群雄割拠の状態で、守護として入国した仁木兵部少輔も柘植氏に討たれた。のち仁木氏が国人達によって追放された後、阿加、山田、阿拝の3郡は六角氏、名張郡は北畠氏によって間接的な支配が行われた。 天正9年(1581年)、直接的な支配を目指した北畠信意(織田信雄)により平定されている(天正伊賀の乱)。
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伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 伊賀国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|伊賀国}}
|別称 = 伊州(いしゅう)<ref group="注釈">一文字目が「伊」の国は他に[[伊豆国]](豆州)・[[伊勢国]](勢州)・[[伊予国]](予州)があり、また二文字目が「賀」の国は[[加賀国]](加州)が存在する。</ref>
|所属 = [[東海道]]
|領域 = [[三重県]]西部([[伊賀市]]・[[名張市]])
|国力 = [[下国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 4郡18郷
|国府 = 三重県伊賀市([[伊賀国庁跡]])
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|国分尼寺 = 三重県伊賀市([[長楽山廃寺跡]])
|一宮 = [[敢国神社]](三重県伊賀市)
}}
'''伊賀国'''(いがのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。
== 歴史 ==
; [[律令制]]以前
: 律令制以前は[[伊賀国造]]の領域であったとされる。
; [[飛鳥時代]]
: 令制国設置に伴い当国域をも含む[[伊勢国]]が成立し、その後[[680年]]([[天武天皇]]9年)に伊勢国から分立した。当初は2郡だったが、後に[[阿拝郡]]、[[山田郡 (三重県)|山田郡]]、[[伊賀郡]]、[[名張郡]]の4郡になった。
; [[室町時代]]・[[安土桃山時代]]
: おおむね[[仁木氏]]が伊賀守護をつとめたが、支配力は緩く、[[地侍]]による自治が進むが、[[織田氏]]により制圧された([[天正伊賀の乱]])。
: 第二次天正伊賀の乱ののち、伊賀3郡を[[織田信雄]]が、残りの1郡を[[織田信包]]が領することになった<ref>『織田信長家臣人名辞典 第2版』114頁</ref>。
: この頃に600を越える土塁付の屋敷が作られ、[[忍者]]の発生へとつながった。[[徳川家康]]が「[[伊賀越え#神君伊賀越え|神君伊賀越え]]」を実行したことでも知られる。
; [[江戸時代]]
: 江戸時代には[[藤堂氏|藤堂家]]の領国の一部となり、伊賀国一帯は[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]の領土となった。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が[[伊勢国|伊勢]]'''[[津藩]]'''領であった。(197村・110,843石余)
** [[阿拝郡]](69村・45,229石余)、[[山田郡 (三重県)|山田郡]](26村・17,775石余)、[[名張郡]](41村・17,539石余)、[[伊賀郡]](61村・30,298石余)
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[津県]]'''の管轄となる。
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により'''[[安濃津県]]'''の管轄となる。
* 明治5年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]](1872年[[4月24日]]) - 安濃津県が改称して'''[[三重県]]'''となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
{{main|伊賀国庁跡}}
[[File:Iga-kokucho-ato zenkei.JPG|thumb|200px|right|伊賀国庁跡([[伊賀市]]坂之下)]]
[[国府]]は[[阿拝郡]]に所在した。現在の[[伊賀市]]坂之下字国町にあたる({{Coord|34|48|9.05|N|136|9|28.46|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=伊賀国庁跡}})。[[1989年]]([[平成]]元年)から[[1994年]](平成6年)にかけての発掘調査により、I-IV期に分類される[[8世紀]]末から[[11世紀]]半ばにかけての遺構とともに、「国厨」の墨書を有する土器が検出された<ref name="国庁跡説明板"/>。政庁域は40メートル強四方で、主要建物群として正殿・前殿・左右脇殿の「品」字状の配置が認められている<ref name="国庁跡説明板">伊賀国庁跡現地説明板。</ref>。これらの遺構は、[[2009年]](平成21年)7月23日に「伊賀国庁跡」として国の史跡に指定された<ref>{{国指定文化財等データベース|401|00003643|伊賀国庁跡}}</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[File:Iga-kokubunji zenkei.JPG|thumb|210px|right|[[伊賀国分寺跡]](伊賀市西明寺)]]
* [[伊賀国分寺跡]] (伊賀市西明寺字長者屋敷、{{Coord|34|45|31.41|N|136|9|13.02|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=伊賀国分寺跡}})
*: 国の史跡。[[東大寺|東大寺式]]伽藍配置で、推定寺域は東西約220メートル・南北約240メートル。上寺山国分寺(伊賀市坂之下)が後継を称する。
* 伊賀国分尼寺跡
*: 国の史跡「[[長楽山廃寺跡]]」(伊賀市西明寺字長楽寺、{{Coord|34|45|27.60|N|136|9|27.19|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=長楽山廃寺跡(伊賀国分尼寺跡に比定)}})に比定される。伽藍のうち金堂・講堂のみが検出されている。龍王山菊昌院法華寺が後継を称する。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小社24座24社の計25座25社が記載されている(「[[伊賀国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]ではない。
* [[阿拝郡]] 敢国神社
** 比定社:[[敢國神社]](伊賀市一之宮)
; [[総社]]・[[一宮]]以下
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 76-78。</ref>。
* 総社:不詳
*: 伊賀市府中に府中神社があるが、若宮八幡宮が明治以後に他神社と合祀されて改称したもので、総社ではないとされる。
* 一宮:[[敢國神社]](伊賀市一之宮、{{Coord|34|47|14.52|N|136|9|50.18|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=伊賀国一宮、式内大社:敢國神社}})
*: 史料初見は『[[源平盛衰記]]』で、[[源範頼]]・[[源義経]]入京の際に伊賀国の「一宮南宮大菩薩」を拝したという。それより以前の[[1165年]]の史料には伊賀国の神社の筆頭として南宮社の記載が見え、これらが敢國神社に比定される。
* 二宮:[[小宮神社]] (伊賀市服部町、{{Coord|34|46|46.78|N|136|8|31.08|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=伊賀国二宮:小宮神社}})
*: [[中世]]に小宮神社が二宮を称した記録はなく、[[近世]]以後の比定。伊賀国に二宮があったことは確かと見られる。
* 三宮:[[波多岐神社]] (伊賀市土橋、{{Coord|34|47|55.93|N|136|8|49.02|E|region:JP-22_type:landmark|display=inline|name=伊賀国三宮:波多岐神社}})
*: 『伊賀記』(伝・[[北畠親房]]著)に「里人称之三宮。又号波太伎社之宇都可明神説見于上」とあるのが初見。
=== 守護所 ===
[[守護所]]は、「府中」「こふ」と呼ばれた現在の[[伊賀市]]の東条・西条あたりと想定されている。
=== 安国寺・利生塔 ===
* [[安国寺利生塔|安国寺]] - [[正平 (日本)|正平]]元年([[1346年]])、平等寺を安国寺に改めた(「三国地誌」){{Sfn|伊賀町役場|1979|p=1310}}{{Sfn|上野市史編さん委員会|1961|p=358}}<!--三重県伊賀市三田沢に所在した。-->
* [[安国寺利生塔|利生塔]] - 楽音廃寺(三重県伊賀市佐那具町)に所在した。
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[阿拝郡]]
* [[山田郡 (三重県)|山田郡]]
* [[伊賀郡]]
* [[名張郡]]
=== 江戸時代の藩 ===
{| class="wikitable"
|+ 伊賀国の藩の一覧
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
|-
! [[伊賀上野藩]]
| [[伊賀上野城]]||[[筒井定次]](20万石、1600年~1608年)。改易により廃藩
|-
! [[津藩]]
| 伊賀上野城(城代) ||[[藤堂氏|藤堂家]](22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石、1608年~1871年)<br>藤堂氏は、伊賀・伊勢2国を領有し、本城は伊勢[[津城]]であったが、伊賀上野城にも城代をおいていた。
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== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 伊賀守 ====
*[[阿直敬]]
*[[葛井人根]]
*[[池田足床]]
*[[六人部佐婆麻呂]]
*[[陽侯令珍]]
*[[久米子虫]]
*[[葛井河守]]
*[[伊勢子老]]
*[[長尾金村]]
*[[広田王]]
*[[礪波志留志]]
*[[尾張弓張]]
*[[甘南備継成]]
*[[賀茂大川]]
*[[伊賀朝光]]
*[[島田清田]]
*[[平経盛]]
*[[平知忠]]
*[[橘成季]]
*[[二条定高]]
*[[源光清]]従五位上
==== 伊賀目 ====
*佐婆安麻呂
*山部馬養
*高屋某
*都努長濱
*平経盛
==== 伊賀史生 ====
*韓国佐美
*大石大鯖
*針間斐太麻呂
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* 1184年~1186年 - [[大内惟義]]
* ?~1204年 - [[山内首藤経俊]]
* 1204年~1205年 - [[平賀朝雅]]
* 1247年~1275年 - [[千葉頼胤]]
* 1275年~1312年 - [[千葉胤宗]]
* 1312年~1333年 - [[千葉貞胤]]
==== 室町幕府 ====
* 1337年~1339年 - [[仁木義直]]
* 1339年~? - 千葉貞胤
* 1340年 - [[桃井直常]]
* 1342年~1343年 - 千葉貞胤
* 1346年~1347年 - [[仁木義長]]
* 1347年~1350年 - [[高師冬]]
* 1351年 - [[千葉氏胤]]
* 1351年~? - 仁木義長
* 1352年~1353年 - [[細川清氏]]
* 1353年~1360年 - 仁木義長
* 1365年~1380年 - [[中条元威]]
* ?~1433年 - [[仁木国行]]
* 1433年~? - [[山名時熙]]
* 1470年~1477年 - 仁木氏
* ?~1487年 - [[仁木貞長]]
* 1491年 - 仁木氏
=== 戦国大名 ===
伊賀国には有力な戦国大名は誕生しなかった。当時伊賀は群雄割拠の状態で、守護として入国した[[仁木兵部少輔]]も[[柘植氏]]に討たれた。のち仁木氏が国人達によって追放された後、阿加、山田、阿拝の3郡は[[六角氏]]、名張郡は[[北畠氏]]によって間接的な支配が行われた。
天正9年(1581年)、直接的な支配を目指した北畠信意([[織田信雄]])により平定されている([[天正伊賀の乱]])。
*織豊政権の大名
**[[織田信雄]](居城は伊勢国[[松ヶ島城]]→尾張国[[清洲城]]):阿加、名張、阿拝の3郡。実際の支配は家老の[[滝川雄利]](伊賀守護)が行った([[丸山城 (伊賀国)|丸山城]])。[[天正]]12年([[1584年]])、伊賀の領地を[[豊臣秀吉]]に割譲。
**[[織田信包]](居城は伊勢国[[津城]]):山田郡。
**[[筒井定次]](伊賀上野城):伊賀一国。天正13年(1585年)[[大和郡山]]より移封
=== 武家官位としての伊賀守 ===
*江戸時代以前
**[[篠塚重広]]:新田義貞四天王
**[[仁木頼章]]:鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。[[足利尊氏]]の執事
**[[畠山義隆]]:[[能登国|能登]]の戦国大名。畠山氏第11代当主
**[[鳥居忠吉]]:戦国時代の武将。[[松平氏]]の家臣・[[鳥居元忠]]の父
**[[和田惟政]];戦国時代の武将
**[[筒井定次]](従五位下、後に従四位下・侍従):安土桃山時代の武将・大名。後に[[伊賀上野藩]]初代藩主
**[[長束直吉]](従五位下):安土桃山時代の武将、大名。[[長束正家]]の弟。
*江戸時代[[下野国|下野]][[壬生藩]]鳥居家
**[[鳥居忠恒]](従四位下):壬生藩鳥居家2代。[[出羽国|出羽]][[山形藩]]第2代藩主
**[[鳥居忠英]](従五位下):壬生藩鳥居家5代。能登[[下村藩]]主、[[近江国|近江]][[水口藩]]主、下野壬生藩初代藩主。
**[[鳥居忠意]](従五位下、後に従四位下・侍従):壬生藩鳥居家7代。壬生藩第3代藩主
*江戸時代[[信濃国|信濃]][[高遠藩]]内藤家
**[[内藤重頼]](従四位下):高遠藩内藤家5代。
**[[内藤頼卿]](従五位下):高遠藩内藤家7代。信濃高遠藩の第2代藩主
**[[内藤頼尚]](従五位下):高遠藩内藤家9代。高遠藩の第4代藩主
*江戸時代尚庸系永井家
**[[永井尚庸]](従四位下): 尚庸系永井家初代。
**[[永井直敬]](従五位下): 尚庸系2代。下野[[烏山藩]]主、[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]主、信濃[[飯山藩]]主、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]初代藩主
**[[永井尚平]](従五位下): 尚庸系3代。岩槻藩第2代藩主。
**[[永井直陳]](従五位下): 尚庸系4代。岩槻藩第3代藩主、[[美濃国|美濃]][[加納藩]]初代藩主。
**[[永井尚備]](従五位下): 尚庸系5代。加納藩第2代藩主
**[[永井直旧]](従五位下): 尚庸系6代。加納藩第3代藩主
*江戸時代伊賀守流藤井松平家
**[[松平忠晴]](従五位下):伊賀守流初代。[[駿河国|駿河]][[田中藩]]主、[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]主、[[丹波国|丹波]][[丹波亀山藩|亀山藩]]初代藩主。
**[[松平忠昭 (藤井松平家)|松平忠昭]](従五位下):伊賀守流2代。亀山藩第2代藩主
**[[松平忠周]](従四位下):伊賀守流3代。亀山藩第3代藩主、武蔵岩槻藩主、[[但馬国|但馬]][[出石藩]]主、信濃[[上田藩]]初代藩主・老中
**[[松平忠愛 (上田藩主)|松平忠愛]](従五位下):伊賀守流4代。上田藩第2代藩主
**[[松平忠順]](従五位下):伊賀守流5代。上田藩第3代藩主
**[[松平忠済]](従五位下):伊賀守流6代。上田藩第4代藩主
**[[松平忠学]](従五位下):伊賀守流7代。上田藩第5代藩主
**[[松平忠固]](従四位下):伊賀守流8代。上田藩第6代藩主・老中
**[[松平忠礼]](従五位下):伊賀守流9代。上田藩第7代藩主
*江戸時代[[越後国|越後]][[黒川藩]]柳沢家
**[[柳沢保卓]](従五位下):第4代藩主
**[[柳沢信有]](従五位下):第5代藩主
**[[柳沢光被]](従五位下):第6代藩主
**[[柳沢光昭]](従五位下):第7代藩主
*江戸時代出羽[[本荘藩]]六郷家
**[[六郷政勝]](従五位下):第2代藩主
**[[六郷政晴]](従五位下):第4代藩主
**[[六郷政長]](従五位下):第5代藩主
*江戸時代その他
**[[秋元喬房]](従五位下):武蔵[[川越藩]]第2代藩主
**[[井伊直存]](従五位下):越後[[与板藩]]第4代藩主
**[[板倉勝重]](従五位下):[[板倉氏|板倉家]]宗家初代。江戸町奉行、京都所司代
**[[板倉勝静]](従五位下):板倉家宗家13代。[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]第7代藩主。老中首座
**[[木下俊治]](従五位下):[[豊後国|豊後]][[日出藩]]第2代藩主
**[[木下俊在]](従五位下):豊後日出藩第5代藩主
**[[桑山元晴]](従五位下):[[大和国|大和]][[御所藩]]初代藩主
**[[真田信利]](従五位下):[[上野国|上野]][[沼田藩]]初代藩主
**[[土井利寛]](従五位下):[[越前国|越前]][[大野藩]]第3代藩主
**[[戸田氏長]](従四位下):美濃[[大垣藩]]第5代藩主
**[[戸田忠盈]](従五位下):下野[[宇都宮藩]]第3代藩主、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]初代藩主
**[[内藤忠重]](従五位下):[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]初代藩主
**[[土方雄隆]](従五位下):[[陸奥国|陸奥]][[窪田藩]]第3代藩主
**[[森川重政]](従五位下):[[下総国|下総]][[生実藩]]第2代藩主
**[[分部嘉治]](従五位下):近江[[大溝藩]]第2代藩主
== 伊賀国の合戦 ==
*[[1184年]]:[[三日平氏の乱 (平安時代)]]、[[源頼朝|源氏]]([[大内惟義]]) x [[平家]]([[平家継]])
*[[1204年]]:[[三日平氏の乱 (鎌倉時代)]]、[[鎌倉幕府]]軍([[平賀朝雅]]) x 平家(若菜五郎)
*[[1579年]]:[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]、伊賀衆([[藤林長門守]]、[[百地丹波]]、[[滝野吉政]]等) x [[織田信雄]]
*[[1581年]]:[[伊賀流#天正伊賀の乱|第二次天正伊賀の乱]]、[[織田信長]]軍(織田信雄、[[丹羽長秀]]、[[滝川一益]]、[[蒲生氏郷]]、[[筒井順慶]]、[[浅野長政]]、[[堀秀政]]等) x 伊賀衆
**[[比自山城の戦い]]
*[[1600年]]:[[上野城の戦い]]、西軍([[毛利秀元]]、[[新庄直頼]]他) x 東軍([[筒井定次]])
*[[1876年]]:[[伊勢暴動]]、[[一揆]]軍 x [[官軍]]
== 地理 ==
* [[川]]:[[柘植川]]、[[服部川 (三重県)|服部川]]、[[木津川 (京都府)|木津川]]、[[名張川]]
* [[盆地]]:[[上野盆地]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=上野市史|publisher=[[上野市]]|editor=上野市史編さん委員会|date=1961-10-10|id={{NDLJP|2988948}}|ref={{SfnRef|上野市史編さん委員会|1961}}}}{{要登録}}
* {{Citation|和書|title=伊賀町史|publisher=伊賀町役場|editor=伊賀町役場|date=1979-02-22|id={{NDLJP|9569972}}|ref={{SfnRef|伊賀町役場|1979}}}}{{要登録}}
* [[角川日本地名大辞典]] 24 三重県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
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* [[伊賀焼]]
* [[伊賀上野藩]]
* [[伊賀流#天正伊賀の乱|天正伊賀の乱]]
|
* [[松尾芭蕉]]
* [[忍者]]
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ボビー・フィッシャー
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ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer、1943年3月9日 - 2008年1月17日)は、アメリカ合衆国のチェスプレーヤー。チェスの世界チャンピオン(1972年 - 1975年)。本名ロバート・ジェームズ・フィッシャー(Robert James Fischer)。
冷戦下に、チェスにおいてもアメリカ合衆国のライバルであったソビエト連邦の選手を下し、アメリカ合衆国史上初となる公式世界チャンピオンになったことで、英雄としてもてはやされた。しかし、その後は度重なる奇行や反米・反ユダヤ的発言により反発を買い、「幻の英雄」とも呼ばれている。対ユーゴスラビア経済制裁時に当地で試合をしたことでアメリカ政府に起訴され、滞在中の日本で拘留されたが、以降はアイスランドの市民権を得て余生を送った。
あえてタイトルを放棄したり、試合を拒否したり、あるいは長年に亘って失踪したりするなど、ミステリアスで数奇な人生もよく知られる。チェス960の考案も行った。
1943年3月9日、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにおいて誕生。母親のレジーナ・ウェンダー・フィッシャーは当初ハーマン・J・マラーに秘書として雇われたが、マラーに才能を見い出されて、医学を学ぶように薦められた。父親のハンス・ゲルハルト・フィッシャーは、ハーマン・J・マラーと共にモスクワの大学へ招聘された生物物理学者である。2人はモスクワで結婚し、娘のジョーンが生まれた。しかし、ソ連で反ユダヤ主義が広がり出すと、ユダヤ人の2人はパリへ移住した。後にレジーナは離婚し、国籍を持っていたアメリカへ子供を連れて移住するが生活は苦しく、ジョーンを父親に預けていた。また、シカゴの病院でロバートを出産した時には、ホームレス同然だった。出生証明書にある父親の記入欄にはハンスの名が記載されているが、彼は生涯アメリカに入国したことはなかった。
1949年(6歳)、ボビーの姉は、落ち着きのない弟を静かにさせるため、1ドルのチェス・セットを与えて、チェス・ゲームの簡単なルールを教えた。そこでボビーは、すぐにチェス・ゲームの虜となった。
1957年(14歳)、インターナショナル・マスターとなる。 翌年(1958年、15歳)、グランドマスターとなる。15歳でのグランドマスターは、世界最年少記録だった。だが、1962年(19歳)、国際舞台から引退した(但しアメリカ国内の大会には出場した)。
プレー・スタイルにはボビー・フィッシャーならではのものがある。例えば、1956年の対ドナルド・バーン戦において、クイーンをわざと捨てることで、勝利した。また、1963年の対ロバート・バーン戦においても、ナイトを捨てて勝利した。しばしば、「天才」と称えられるようになっていた。
1966年(23歳)に復帰したが、1968年(25歳)に再度引退した。
1970年のソ連対世界戦で再びチェス界に復帰した。1971年の挑戦者決定戦ではソ連のマルク・タイマノフに6対0で完勝し、さらにデンマークのベント・ラーセンにも6対0で完勝した。前世界チャンピオンのチグラン・ペトロシアンに5勝1敗3引き分けで勝ち、当時の世界チャンピオンボリス・スパスキーへの挑戦者となった。また、同年7月に初めて公開された国際チェス連盟(FIDE)のレーティングリストで世界1位となった。
1972年、アイスランドのレイキャヴィークで行なわれた世界選手権で、スパスキーを破り世界チャンピオンとなった。当時、世界は冷戦のさなかであり、ソ連は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、西側から見てこれは歴史的な勝利となり、「アメリカの英雄」として扱われた。
その後、反ユダヤ的な発言が目立つようになった。ただし、フィッシャーの両親はユダヤ系なので、自身もユダヤ系である。
1975年、防衛戦の運営をめぐりFIDEに多数の条件を提示、そのうちのひとつが否決されたため挑戦者アナトリー・カルポフとのマッチを戦わず王座を返上した。
それ以来フィッシャーは試合を拒否し、引退状態となった。表舞台から姿を消し隠遁生活を送った彼は、「天才」であるのと同時に「変わり者」として語られるようになっていった。1970年代のフィッシャーは、信仰し支援していたアメリカの福音系新宗教団体「ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド」の施設で暮らしていた(同教団の創設者ハーバート・アームストロングのラジオ伝道を聞いて傾倒し、献金していたが、アームストロングが唱えていた終末予言が外れたことから次第に距離を置いていった)。
ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。ハンガリーの17歳の女性チェスプレーヤーから「なぜプレイしないのか」という手紙を受け取ったことをきっかけに、その少女と交流が生まれ、彼女の根回しによって1992年にユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行なった。フィッシャーは試合前に、アメリカの当局から「試合に参加するな」という警告の手紙を受け取ったと公表し(アメリカ政府はボスニア問題に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとっており、アメリカ国民が同国において経済活動をすることを禁止していた)、記者会見でその手紙に唾を吐いて挑発的な態度を見せた。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。アメリカ政府は「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。彼は後に「この起訴は反ユダヤ的発言と反米発言に対する政治的迫害である」と語った。これ以降彼は再び表舞台から姿を消した。
公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリー、スイス、香港、マカオ、韓国など世界の様々な場所を転々としており、2000年ごろまでにはフィリピンと日本が主たる拠点になっていたという。2000年から日本では元日本女子チェスチャンピオンで日本チェス協会事務局長の渡井美代子と、フィリピンでは元フィリピンチェス協会会長らの支援でマリリン・ヤングという若い女性と暮らしていた。
2004年7月14日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したニュースが世界中を駆け巡った。同年8月、かねてより同棲していた渡井との結婚を宣言した(2000年来彼女の家で同居し事実婚とされた。法律婚はしなかった)。『タイムズ』の記者に対して、渡井は「ふたりは普通に生活している」と言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも温泉で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという。
その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、フィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、彼にどのような状況打開策が残されているのか非常に不透明な状況になった。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えば、ボビーの父親の故郷で、フィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われたドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、元外務政務次官でチェス愛好家の石井一二、ジョン・ボスニッチ(John Bosnitch、東京在住のセルビア系カナダ人のジャーナリストでチェスの元ジュニアチャンピオン)、羽生善治、民主党の榛葉賀津也や社民党の福島瑞穂といった人々が支援した。こうした運動が功を奏し、2004年12月、アイスランド政府が人道的見地からフィッシャーに対して市民権を与える措置をとり、拘束から約8ヵ月後の2005年3月24日、日本政府はアイスランドへの出国を認め釈放し、アメリカ政府もこれを認めた。以後はアイスランドに滞在し、静かな余生を送った。ごく親しいわずかな人以外とは交流せず、一般には理解しがたい特異な考え方や過激な発言から、地元民からは「助けが必要な精神的な病を抱えた人」と見られていたが、チェスの天才としてあたたかい目で見守られてもいた。肝臓病により2008年1月17日に死去。64歳没。
フィッシャーの死後、マリリン・ヤングが「2001年に生まれた自分の子供(女子、フィリピン国籍)の父親はフィッシャーだ」と主張したが、墓を掘り起こしてのDNA鑑定の結果、その子の父親はフィッシャーでないことが判明した。アイスランドの裁判所は渡井がフィッシャーの遺産(遺品)を相続することを認めた。
フィッシャーの経歴のほとんどで、オープニング(定跡)とそのバリエーション(変化)を指しているときの彼の手は予測可能だった。この見かけ上の欠点にもかかわらず、彼は使用したオープニングとバリエーションについての知識が豊富だったので、対戦相手がこの点を利用するのは非常に困難だった。
黒番では、フィッシャーは通常、1. e4 に対してシシリアン・ディフェンスのナイドルフ・ヴァリエーションを指した。1. d4 に対してはキングズ・インディアン・ディフェンス、まれにニムゾ・インディアン・ディフェンス (1. d4 Nf6 2. c4 e6 3. Nc3 Bb4)、ベノニ・ディフェンス、グリュエンフェルド・ディフェンスまたはネオ・グリュエンフェルド・ディフェンス(英語版)を指した。白番では、フィッシャーは彼の経歴を通してほとんど 1. e4 だけを指した。
フィッシャーは、シシリアン・ディフェンスの黒番・白番 の両方とも勝率が良かった。フィッシャーの 1. e4 に対して次に最も一般的な黒の手はカロ・カン・ディフェンス (1. e4 c6) であり、それに対してもフィッシャーの勝率は良かった。フィッシャーの最悪の記録は、フレンチ・ディフェンス (1. e4 e6)、特にワイナウアー・ヴァリエーション (1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4) に対してだった。 フィッシャーは、ワイナウアー・ヴァリエーションは 3. ... Bb4 と ... Bxc3 の2手をかけたビショップと引換えに黒のキングサイドを露わにするので良くないと主張した。後にフィッシャーは、「私はやがてワイナウアー・ヴァリエーションが良い変化だと認めざるをえなくなるかもしれない。しかし、それは疑わしい! ポジションは悪く、キングサイドが弱い。」と言った。
フィッシャーは、優れた終盤(エンドゲーム)の技術をもっていた。国際マスターの Jeremy Silman は終盤のベスト5の1人(他の4人は、エマーヌエール・ラスカー、アキバ・ルービンシュタイン、ホセ・ラウル・カパブランカ、ワシリー・スミスロフ)として彼を挙げ、フィッシャーを「ビショップ・エンディングのマスター」と呼んでいる。ルーク、ナイト、ポーンに対するルーク、ビショップ、ポーンの終盤は、1970年と1971年のマルク・タイマノフに対するフィッシャー(ビショップ側)の3勝を含むいくつか啓蒙的な勝利によって、しばしば「フィッシャー・エンドゲーム」と呼ばれている。
フィッシャーは、新しいタイプのチェスクロック(対局時計)を開発して、1988年に米国特許4,884,255を申請した。ゲーム開始時に各プレヤーに一定時間を与え、その後、各指し手の終了後に少しの時間を追加するという方式である。1992年のフィッシャーとスパスキーとの再戦でのフィッシャークロックの使用 によって、すぐにほとんどの主要なチェスのトーナメントで標準となった。
1996年6月19日にアルゼンチンのブエノスアイレスで、「フィッシャー・ランダム・チェス」と呼ばれる変則チェスをフィッシャーが提唱した。これは、後に「チェス960」と呼ばれることになった。
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"text": "1972年、アイスランドのレイキャヴィークで行なわれた世界選手権で、スパスキーを破り世界チャンピオンとなった。当時、世界は冷戦のさなかであり、ソ連は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、西側から見てこれは歴史的な勝利となり、「アメリカの英雄」として扱われた。",
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"text": "その後、反ユダヤ的な発言が目立つようになった。ただし、フィッシャーの両親はユダヤ系なので、自身もユダヤ系である。",
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"text": "1975年、防衛戦の運営をめぐりFIDEに多数の条件を提示、そのうちのひとつが否決されたため挑戦者アナトリー・カルポフとのマッチを戦わず王座を返上した。",
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"text": "それ以来フィッシャーは試合を拒否し、引退状態となった。表舞台から姿を消し隠遁生活を送った彼は、「天才」であるのと同時に「変わり者」として語られるようになっていった。1970年代のフィッシャーは、信仰し支援していたアメリカの福音系新宗教団体「ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド」の施設で暮らしていた(同教団の創設者ハーバート・アームストロングのラジオ伝道を聞いて傾倒し、献金していたが、アームストロングが唱えていた終末予言が外れたことから次第に距離を置いていった)。",
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"text": "ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。ハンガリーの17歳の女性チェスプレーヤーから「なぜプレイしないのか」という手紙を受け取ったことをきっかけに、その少女と交流が生まれ、彼女の根回しによって1992年にユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行なった。フィッシャーは試合前に、アメリカの当局から「試合に参加するな」という警告の手紙を受け取ったと公表し(アメリカ政府はボスニア問題に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとっており、アメリカ国民が同国において経済活動をすることを禁止していた)、記者会見でその手紙に唾を吐いて挑発的な態度を見せた。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。アメリカ政府は「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。彼は後に「この起訴は反ユダヤ的発言と反米発言に対する政治的迫害である」と語った。これ以降彼は再び表舞台から姿を消した。",
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"text": "公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリー、スイス、香港、マカオ、韓国など世界の様々な場所を転々としており、2000年ごろまでにはフィリピンと日本が主たる拠点になっていたという。2000年から日本では元日本女子チェスチャンピオンで日本チェス協会事務局長の渡井美代子と、フィリピンでは元フィリピンチェス協会会長らの支援でマリリン・ヤングという若い女性と暮らしていた。",
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"text": "2004年7月14日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したニュースが世界中を駆け巡った。同年8月、かねてより同棲していた渡井との結婚を宣言した(2000年来彼女の家で同居し事実婚とされた。法律婚はしなかった)。『タイムズ』の記者に対して、渡井は「ふたりは普通に生活している」と言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも温泉で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという。",
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"text": "その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、フィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、彼にどのような状況打開策が残されているのか非常に不透明な状況になった。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えば、ボビーの父親の故郷で、フィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われたドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、元外務政務次官でチェス愛好家の石井一二、ジョン・ボスニッチ(John Bosnitch、東京在住のセルビア系カナダ人のジャーナリストでチェスの元ジュニアチャンピオン)、羽生善治、民主党の榛葉賀津也や社民党の福島瑞穂といった人々が支援した。こうした運動が功を奏し、2004年12月、アイスランド政府が人道的見地からフィッシャーに対して市民権を与える措置をとり、拘束から約8ヵ月後の2005年3月24日、日本政府はアイスランドへの出国を認め釈放し、アメリカ政府もこれを認めた。以後はアイスランドに滞在し、静かな余生を送った。ごく親しいわずかな人以外とは交流せず、一般には理解しがたい特異な考え方や過激な発言から、地元民からは「助けが必要な精神的な病を抱えた人」と見られていたが、チェスの天才としてあたたかい目で見守られてもいた。肝臓病により2008年1月17日に死去。64歳没。",
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"text": "フィッシャーの死後、マリリン・ヤングが「2001年に生まれた自分の子供(女子、フィリピン国籍)の父親はフィッシャーだ」と主張したが、墓を掘り起こしてのDNA鑑定の結果、その子の父親はフィッシャーでないことが判明した。アイスランドの裁判所は渡井がフィッシャーの遺産(遺品)を相続することを認めた。",
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"text": "フィッシャーの経歴のほとんどで、オープニング(定跡)とそのバリエーション(変化)を指しているときの彼の手は予測可能だった。この見かけ上の欠点にもかかわらず、彼は使用したオープニングとバリエーションについての知識が豊富だったので、対戦相手がこの点を利用するのは非常に困難だった。",
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"text": "黒番では、フィッシャーは通常、1. e4 に対してシシリアン・ディフェンスのナイドルフ・ヴァリエーションを指した。1. d4 に対してはキングズ・インディアン・ディフェンス、まれにニムゾ・インディアン・ディフェンス (1. d4 Nf6 2. c4 e6 3. Nc3 Bb4)、ベノニ・ディフェンス、グリュエンフェルド・ディフェンスまたはネオ・グリュエンフェルド・ディフェンス(英語版)を指した。白番では、フィッシャーは彼の経歴を通してほとんど 1. e4 だけを指した。",
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"text": "フィッシャーは、シシリアン・ディフェンスの黒番・白番 の両方とも勝率が良かった。フィッシャーの 1. e4 に対して次に最も一般的な黒の手はカロ・カン・ディフェンス (1. e4 c6) であり、それに対してもフィッシャーの勝率は良かった。フィッシャーの最悪の記録は、フレンチ・ディフェンス (1. e4 e6)、特にワイナウアー・ヴァリエーション (1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4) に対してだった。 フィッシャーは、ワイナウアー・ヴァリエーションは 3. ... Bb4 と ... Bxc3 の2手をかけたビショップと引換えに黒のキングサイドを露わにするので良くないと主張した。後にフィッシャーは、「私はやがてワイナウアー・ヴァリエーションが良い変化だと認めざるをえなくなるかもしれない。しかし、それは疑わしい! ポジションは悪く、キングサイドが弱い。」と言った。",
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"text": "フィッシャーは、優れた終盤(エンドゲーム)の技術をもっていた。国際マスターの Jeremy Silman は終盤のベスト5の1人(他の4人は、エマーヌエール・ラスカー、アキバ・ルービンシュタイン、ホセ・ラウル・カパブランカ、ワシリー・スミスロフ)として彼を挙げ、フィッシャーを「ビショップ・エンディングのマスター」と呼んでいる。ルーク、ナイト、ポーンに対するルーク、ビショップ、ポーンの終盤は、1970年と1971年のマルク・タイマノフに対するフィッシャー(ビショップ側)の3勝を含むいくつか啓蒙的な勝利によって、しばしば「フィッシャー・エンドゲーム」と呼ばれている。",
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"text": "フィッシャーは、新しいタイプのチェスクロック(対局時計)を開発して、1988年に米国特許4,884,255を申請した。ゲーム開始時に各プレヤーに一定時間を与え、その後、各指し手の終了後に少しの時間を追加するという方式である。1992年のフィッシャーとスパスキーとの再戦でのフィッシャークロックの使用 によって、すぐにほとんどの主要なチェスのトーナメントで標準となった。",
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"text": "1996年6月19日にアルゼンチンのブエノスアイレスで、「フィッシャー・ランダム・チェス」と呼ばれる変則チェスをフィッシャーが提唱した。これは、後に「チェス960」と呼ばれることになった。",
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] |
ボビー・フィッシャーは、アメリカ合衆国のチェスプレーヤー。チェスの世界チャンピオン。本名ロバート・ジェームズ・フィッシャー。 冷戦下に、チェスにおいてもアメリカ合衆国のライバルであったソビエト連邦の選手を下し、アメリカ合衆国史上初となる公式世界チャンピオンになったことで、英雄としてもてはやされた。しかし、その後は度重なる奇行や反米・反ユダヤ的発言により反発を買い、「幻の英雄」とも呼ばれている。対ユーゴスラビア経済制裁時に当地で試合をしたことでアメリカ政府に起訴され、滞在中の日本で拘留されたが、以降はアイスランドの市民権を得て余生を送った。 あえてタイトルを放棄したり、試合を拒否したり、あるいは長年に亘って失踪したりするなど、ミステリアスで数奇な人生もよく知られる。チェス960の考案も行った。
|
{{Infobox Chess player
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|caption =試合中のフィッシャー(1960年)
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'''ボビー・フィッシャー'''(Bobby Fischer、[[1943年]][[3月9日]] - [[2008年]][[1月17日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[チェスプレーヤーの一覧|チェスプレーヤー]]。[[チェス]]の[[チェスの世界チャンピオン一覧|世界チャンピオン]]<ref name=KingsGambit>{{cite news| url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,686101,00.html | work=Time | title=King's Gambit | date=August 23, 2004 | accessdate=April 26, 2010 | first=Jim | last=Frederick}}</ref>([[1972年]] - [[1975年]])。本名'''ロバート・ジェームズ・フィッシャー'''(Robert James Fischer)。
[[冷戦]]下に、チェスにおいてもアメリカ合衆国のライバルであった[[ソビエト連邦]]の選手を下し、アメリカ合衆国史上初となる公式世界チャンピオンになったことで、英雄としてもてはやされた。しかし、その後は度重なる奇行や[[反米]]・[[反ユダヤ主義|反ユダヤ]]的発言により反発を買い、「幻の英雄」とも呼ばれている。対[[ユーゴスラビア]][[経済制裁]]時に当地で試合をしたことでアメリカ政府に起訴され、滞在中の[[日本]]で拘留されたが、以降は[[アイスランド]]の市民権を得て余生を送った。
あえてタイトルを放棄したり、試合を拒否したり、あるいは長年に亘って失踪したりするなど、ミステリアスで数奇な人生もよく知られる。[[チェス960]]の考案も行った。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-76052-0335, Schacholympiade, Tal (UdSSR) gegen Fischer (USA).jpg|thumb|right|230px|1960年ライプツィヒ。[[ミハイル・タリ]]との対戦。]]
[[1943年]]3月9日、アメリカ合衆国[[イリノイ州]][[シカゴ]]において誕生。母親のレジーナ・ウェンダー・フィッシャーは当初[[ハーマン・J・マラー]]に秘書として雇われたが、マラーに才能を見い出されて、医学を学ぶように薦められた。父親のハンス・ゲルハルト・フィッシャーは、ハーマン・J・マラーと共にモスクワの大学へ招聘された[[生物物理学]]者である。2人はモスクワで結婚し、娘のジョーンが生まれた。しかし、ソ連で[[反ユダヤ主義]]が広がり出すと、ユダヤ人の2人は[[パリ]]へ移住した。後にレジーナは離婚し、国籍を持っていたアメリカへ子供を連れて移住するが生活は苦しく、ジョーンを父親に預けていた。また、シカゴの病院でロバートを出産した時には、[[ホームレス]]同然だった。出生証明書にある父親の記入欄にはハンスの名が記載されているが、彼は生涯アメリカに入国したことはなかった<ref name=brady/>。
[[1949年]](6歳)、ボビーの姉は、落ち着きのない弟を静かにさせるため、1ドルのチェス・セットを与えて、チェス・ゲームの簡単なルールを教えた。そこでボビーは、すぐにチェス・ゲームの虜となった<ref name=brady/>。
[[1957年]](14歳)、インターナショナル・マスターとなる。
翌年([[1958年]]、15歳)、[[グランドマスター]]となる。15歳でのグランドマスターは、世界最年少記録だった<ref name=ice/>。だが、[[1962年]](19歳)、国際舞台から引退した(但しアメリカ国内の大会には出場した)。
プレー・スタイルにはボビー・フィッシャーならではのものがある。例えば、[[1956年]]の対[[ドナルド・バーン]]戦において、[[クイーン (チェス)|クイーン]]をわざと捨てることで、勝利した。また、[[1963年]]の対[[ロバート・バーン]]戦においても、[[ナイト (チェス)|ナイト]]を捨てて勝利した。しばしば、「天才」と称えられるようになっていた。
[[1966年]](23歳)に復帰したが、[[1968年]](25歳)に再度引退した。
=== 世界チャンピオン時代 ===
[[ファイル:FischerEuweAmsterdam1972.jpg|代替文=ボビー・フィッシャー(左)とマックス・エーワ|サムネイル|チェス世界選手権でボリス・スパスキーに勝利した時の会見。左がボビー・フィッシャー、右がマックス・エーワ。]]
[[1970年]]のソ連対世界戦で再びチェス界に復帰した。[[1971年]]の挑戦者決定戦ではソ連の[[マルク・タイマノフ]]に6対0で完勝し、さらに[[デンマーク]]の[[ベント・ラーセン]]にも6対0で完勝した。前世界チャンピオンの[[チグラン・ペトロシアン]]に5勝1敗3引き分けで勝ち、当時の世界チャンピオン[[ボリス・スパスキー]]への挑戦者となった。また、同年7月に初めて公開された[[国際チェス連盟]](FIDE)のレーティングリストで世界1位となった<ref>[https://www.olimpbase.org/Elo/Elo197107e.html FIDE rating list, July 1971], olimpbase.org</ref>。
[[1972年]]、アイスランドの[[レイキャヴィーク]]で行なわれた世界選手権で、スパスキーを破り世界チャンピオンとなった。当時、世界は[[冷戦]]のさなかであり、ソ連は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、西側から見てこれは歴史的な勝利となり、「アメリカの英雄」として扱われた。
その後、反ユダヤ的な発言が目立つようになった<ref name=brady/>。ただし、フィッシャーの両親はユダヤ系なので、自身もユダヤ系である。
[[1975年]]、防衛戦の運営をめぐりFIDEに多数の条件を提示、そのうちのひとつが否決されたため挑戦者[[アナトリー・カルポフ]]とのマッチを戦わず王座を返上した。
=== 隠遁生活時代 ===
それ以来フィッシャーは試合を拒否し、引退状態となった。表舞台から姿を消し[[隠遁]]生活を送った彼は、「天才」であるのと同時に「変わり者」として語られるようになっていった。1970年代のフィッシャーは、信仰し支援していたアメリカの福音系[[新宗教]]団体「ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド<ref>[http://www.christiantoday.co.jp/articles/3535/20090428/news.htm 「ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド」が改名] クリスチャントゥデイ、2009年4月28日</ref>」の施設で暮らしていた<ref name=watai/>(同教団の創設者ハーバート・アームストロングのラジオ伝道を聞いて傾倒し、献金していたが、アームストロングが唱えていた[[終末]]予言が外れたことから次第に距離を置いていった<ref name=brady/>)。
ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。[[ハンガリー]]の17歳の女性チェスプレーヤーから「なぜプレイしないのか」という手紙を受け取ったことをきっかけに、その少女と交流が生まれ、彼女の根回しによって[[1992年]]に[[ユーゴスラビア]]でスパスキーと再現試合を行なった。フィッシャーは試合前に、アメリカの当局から「試合に参加するな」という警告の手紙を受け取ったと公表し<ref name=KingsGambit />(アメリカ政府は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争|ボスニア問題]]に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとっており、アメリカ国民が同国において経済活動をすることを禁止していた)、記者会見でその手紙に唾を吐いて挑発的な態度を見せた。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。アメリカ政府は「ユーゴスラビアに対する[[経済制裁]]措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ[[国籍]]を剥奪した。彼は後に「この起訴は[[反ユダヤ主義|反ユダヤ]]的発言と[[反米]]発言に対する政治的迫害である」と語った。これ以降彼は再び表舞台から姿を消した。
公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリー、[[スイス]]、[[香港]]、[[マカオ]]、[[大韓民国|韓国]]など世界の様々な場所を転々としており<ref name=KingsGambit />、[[2000年]]ごろまでには[[フィリピン]]と[[日本]]が主たる拠点になっていたという<ref name=KingsGambit />。[[2000年]]から日本では元日本女子チェスチャンピオンで日本チェス協会事務局長の[[渡井美代子]]と<ref name=watai>[https://en.chessbase.com/post/-we-want-to-live-together-forever- We want to live together forever] Chess News, 9/1/2004</ref>、フィリピンでは元フィリピンチェス協会会長らの支援でマリリン・ヤングという若い女性と暮らしていた<ref>[https://en.chessbase.com/post/fischer-s-dna-still-no-final-closure Fischer's DNA – still no final closure ] Business World, August 31, 2010</ref>。
[[File:Laugardælakirkja.JPG|thumb|right|200px|フィッシャーが滞在したロイガルダイリル教会(2007年12月)]]
[[File:Bobby Fischer grave.JPG|thumb|right|200px|フィッシャーの墓(アイスランド南部、[[セールフォス]]のロイガルダイリル教会、2009年7月)]]
=== 晩年 ===
[[2004年]]7月14日、[[成田国際空港|成田空港]]からフィリピンへ出国しようとしたところを[[出入国管理及び難民認定法|入国管理法]]違反の疑いで[[東京入国管理局成田空港支局]]に収容された。フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したニュースが世界中を駆け巡った。同年8月、かねてより同棲していた渡井との結婚を宣言した(2000年来彼女の家で同居し[[事実婚]]とされた<ref name=KingsGambit />。法律婚はしなかった)。『[[タイムズ]]』の記者に対して、渡井は「ふたりは普通に生活している」と言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという<ref name=KingsGambit />。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも[[温泉]]で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという<ref name=KingsGambit />。
その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、フィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、彼にどのような状況打開策が残されているのか非常に不透明な状況になった<ref name=KingsGambit />。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えば、ボビーの父親の故郷で、フィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われたドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた<ref name=KingsGambit />。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、元外務政務次官でチェス愛好家の[[石井一二]]、ジョン・ボスニッチ(John Bosnitch、東京在住の[[セルビア]]系[[カナダ人]]のジャーナリストでチェスの元ジュニアチャンピオン)<ref>[https://en.chessbase.com/post/fischer-renounces-us-citizenship Fischer renounces US citizenship ] Chess News, 8/15/2004</ref>、[[羽生善治]]、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[榛葉賀津也]]や[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]の[[福島瑞穂]]といった人々が支援した。こうした運動が功を奏し、[[2004年]]12月、[[アイスランド]]政府が人道的見地からフィッシャーに対して[[市民|市民権]]を与える措置をとり<ref name=ice>[http://www.icelandreview.com/news/2008/01/18/bobby-fischer-passes-away Bobby Fischer Passes Away] Iceland Review, January 18, 2008</ref>、拘束から約8ヵ月後の[[2005年]]3月24日、日本政府はアイスランドへの出国を認め釈放し、アメリカ政府もこれを認めた。以後はアイスランドに滞在し、静かな余生を送った。ごく親しいわずかな人以外とは交流せず、一般には理解しがたい特異な考え方や過激な発言から、地元民からは「助けが必要な精神的な病を抱えた人」と見られていたが、チェスの天才としてあたたかい目で見守られてもいた<ref name=ice/>。肝臓病により[[2008年]][[1月17日]]に死去。64歳没<ref name=ice/>。
フィッシャーの死後、マリリン・ヤングが「2001年に生まれた自分の子供(女子、フィリピン国籍)の父親はフィッシャーだ」と主張したが、墓を掘り起こしての[[DNA鑑定]]の結果、その子の父親はフィッシャーでないことが判明した。アイスランドの裁判所は渡井がフィッシャーの遺産(遺品)を[[相続]]することを認めた<ref>[http://www.icelandreview.com/news/2011/03/03/miyoko-watai-ruled-bobby-fischers-legal-heir Miyoko Watai Ruled Bobby Fischer’s Legal Heir ] Iceland Review, March 03, 2011</ref>。
== 家族 ==
;父
* ハンス・ゲルハルト・フィッシャー (Hans-Gerhardt Fischer, 1908-1993) - [[ベルリン]]生まれのユダヤ系[[ドイツ人]]の生物物理学者<ref name=chess/>。1932年に、アメリカ人科学者[[ハーマン・J・マラー]]を通じてレジーナと知り合い、翌年マラーに同行した[[モスクワ]]で結婚。FBIの調査では、[[スペイン]]のパスポートを持っていたが、アメリカに入国した記録はなく、1940年から[[チリ]]で蛍光灯の販売とカメラマンをしていた(FBIは彼を[[南米]]での[[ナチ]]の動向を探る[[ソビエト連邦|ソビエト]]の[[スパイ]]と目していた)<ref name=chess/>。1945年にレジーナと離婚。ボビーとは生涯一度も会うことなく85歳で死亡した。
* ポール・フェリックス・ネメンニ (Paul Felix Nemenyi, 1895–1952) - [[クロアチア]]生まれのユダヤ系[[ハンガリー人]]科学者ネメンニがボビー・フィッシャーの血縁上の父親でないかという説もある<ref name=chess>[http://www.chess.com/article/view/who-was-fischers-father Who Was Fischer's Father?] Chess.com, Mar 19, 2008</ref>。ネメンニは[[ブダペスト]]で[[流体力学]]を学んでいたが、[[ナチ]]のユダヤ人迫害が強まったことから渡米し、のちに[[原爆]]を開発した[[マンハッタン計画]]に参加した科学者<ref name=chess/>。身なりに無頓着で偏屈、常に石鹸を持ち歩く強迫神経症的なところがあり、変人としても知られていた<ref name=ps>[http://www.psmag.com/navigation/books-and-culture/a-psychological-autopsy-of-bobby-fischer-25959/ A Psychological Autopsy of Bobby Fischer] Pacific Standard, 4 Apr 2013</ref>。[[FBI]]の調査では、ボビーが生まれる前年の1942年にネメンニがコロラド大学デンバー校で教鞭を取っていたとき、生徒の中にレジーナがおり、親しくしていた<ref name=chess/>。ボビーが生まれたあとも経済的な支援をしており、ソーシャルワーカーに「レジーナは精神的に不安定であり、子供の養育に悪い」と訴えていたという<ref name=chess/>。
:レジーナ自身はネメンニ父親説を否定し、1942年にメキシコ旅行をした際にハンスに会ったと主張しているが、ボビーを父なし子にしないための方便だろうと親戚は見ている<ref name=brady/>。
;母
:レジーナ・フィッシャー (1913-1997) - [[スイス]]の[[チューリッヒ]]で、[[ポーランド人]]の裁断師の娘として生まれる。幼少期にアメリカに移民し、[[ミズーリ州]][[セントルイス]]の高校を卒業後、[[ワシントン大学]]{{要曖昧さ回避|date=2023年4月}}、[[アリゾナ大学]]、[[コロラド大学]]デンバー校で学ぶ<ref name=chess/>。米兵としてドイツに駐留していた兄を頼って1932年に渡独、[[ベルリン大学]]で学生をしているときに科学者ハーマン・J・マラーの秘書に雇われ、彼の子供の住み込み家庭教師となる<ref name=brady>[https://books.google.co.jp/books?id=Jb-eBAAAQBAJ&pg=PT14 Endgame] Frank Brady、Hachette UK, May 26, 2011</ref>。[[ドイツ語]]、速記、タイプができ、マラーの複雑な理系の話も難なく解すことから、薬学を学ぶことをマラーに勧められ、1933年にマラーのソビエト行きに同行し、モスクワで薬学を専攻<ref name=brady/>。マラーを通じて夫ハンスと知り合い、モスクワで結婚し、娘ジョアンをもうける。薬学を学んだのち軍事工場でも働いた<ref name=chess/>。ソビエトでも反ユダヤが強くなってきたため、1938年に娘を連れて[[フランス]]に渡り、[[パリ]]で英語教師として働く<ref name=brady/>。翌年娘と2人でアメリカに帰国(ドイツ人の夫は入国許可が下りなかった)。1943年にボビー出産後、シングルマザーの支援施設に入居、父親に預けていた娘のジョアンを引き取ろうとしたところ施設側に拒否されて悶着を起こし、逮捕される<ref name=brady/>。裁判所から精神鑑定を命じられ、偏執的人格だが病気ではない、と診断される<ref name=brady/>。この騒ぎの際、荷物の中に数式の書かれた書類と高性能カメラがあったことを通報され<ref name=ps/>、インテリで6か国語を話し、ソビエト滞在の経歴もあることなどからスパイを疑われ、以降数十年に渡ってFBIの監視対象者となった<ref name=brady/>。2児を抱え、働き口を求めてアメリカ各地を転々としたのち、1950年に[[ブルックリン区|ブルックリン]]に落ち着き、タイピストをしながら看護学校に通って看護婦になった<ref name=brady/>。
:ボビーの幼少時には、チェスにしか興味を示さず非社交的であるのを心配して精神科などに連れていったりもしたが<ref name=ps/>、チェス本を買い与え、クラブに付き添い、ソビエト政府にボビーの招待を依頼する手紙を書き送るなどして大いに支援もした。1960年代には東ドイツで医学修士を取得<ref name=brady/>。生涯を通じて社会運動家でもあり、84歳でガンで死亡<ref name=brady/><ref name=ps/>。
;姉
:ジョアン・ターグ (1937-1998) - モスクワ生まれ。[[超心理学]]者で、[[コンピュータ・リテラシー]]に関する教育者。母レジーナが亡くなった翌年[[脳出血]]により60歳で死亡<ref name=ps/>。夫ラッセルも娘エリザベスも超心理学者。他に息子のアレキサンダーとニコラス。
;妻
:[[渡井美代子]] (1945-) - 2000年より[[大田区]][[蒲田]]でフィッシャーと暮らしていたとされる。2004年にフィッシャー拘留後、結婚手続きを取る。偽装結婚でないとしているが、フィッシャーの身分保全のためであることも認めている。
;愛人
:マリリン・ヤング (1978-) - フィリピン[[ダバオ]]出身<ref name=inquirer>[http://sports.inquirer.net/inquirersports/inquirersports/view/20080120-113523/Why-Bobby-Fischer-loved-RP-Filipinos Why Bobby Fischer loved RP, Filipinos] Inquirer Sports, 01/20/2008</ref>。2000年から一時期、フィッシャーと[[バギオ]]で暮らしていた。フィッシャーはこのころ自分の子供を生んでくれる人を探していたと言われ、フィリピンチェス協会の知人らが紹介したとされる。2002年に女児を出産<ref name=inquirer/>。フィッシャーは出生証明書に署名するのを拒んだが、女児との交流はあった。2008年に女児がフィッシャーの子であるとして遺産相続を主張したが、DNA検査により血縁はないとされた。判決後もマリリン側の弁護士はDNA検査の正当性に疑義を訴えている。
==チェスへの貢献==
{{algebraic notation|pos=section}}
<!-- 英語版 [[:en:Bobby Fischer]](17:36, December 26, 2015 の版)から転載 -->
===オープニング理論===
フィッシャーの経歴のほとんどで、[[オープニング (チェス)|オープニング]]([[定石|定跡]])とそのバリエーション(変化)を指しているときの彼の手は予測可能だった。この見かけ上の欠点にもかかわらず、彼は使用したオープニングとバリエーションについての知識が豊富だったので、対戦相手がこの点を利用するのは非常に困難だった<ref>「彼はオープニングの限られた範囲を使っている。もちろん、これはフィッシャーに創造性がないからというわけではない。彼は好むバリエーションへの非常に深く完全な知識によってそれを補っている。」 Plisetsky and Voronkov 2005, p. 270.</ref>。
黒番では、フィッシャーは通常、1. e4 に対して[[シシリアン・ディフェンス]]の[[ナイドルフ・ヴァリエーション]]を指した。1. d4 に対しては[[キングズ・インディアン・ディフェンス]]、まれに[[ニムゾ・インディアン・ディフェンス]] (1. d4 Nf6 2. c4 e6 3. Nc3 Bb4)、[[ベノニ・ディフェンス]]、[[グリュエンフェルド・ディフェンス]]または[[:en:Grünfeld Defence#Neo-Gr.C3.BCnfeld Defence|ネオ・グリュエンフェルド・ディフェンス]](英語版)を指した<ref>Plisetsky and Voronkov 2005.</ref>。白番では、フィッシャーは彼の経歴を通してほとんど 1. e4 だけを指した<ref>「フィッシャーの白番での主な戦法は 1. e4 だ。1. e4 の後に彼が採用する変化の範囲は極めて広い。」 Plisetsky and Voronkov 2005, p. 251.</ref>。
フィッシャーは、[[シシリアン・ディフェンス]]の黒番<ref>90½/118 (+72−9=37): 76.69% {{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?pid=19233&playercomp=black&opening=B20-B99&title=Robert%20James%20Fischer%20playing%20the%20Sicilian%20as%20Black |title=Robert James Fischer playing the Sicilian as Black (B20-B99) |publisher=chessgames.com |accessdate=2015年12月29日}}</ref>・白番<ref>135/182 (+111−23=48): 74.17% {{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?pid=19233&playercomp=white&opening=B20-B99&title=Robert%20James%20Fischer%20playing%20the%20Sicilian%20as%20White |title=Robert James Fischer playing the Sicilian as White (B20-B99) |publisher=chessgames.com |accessdate=2015年12月29日}}</ref> の両方とも勝率が良かった。フィッシャーの 1. e4 に対して次に最も一般的な黒の手は[[カロ・カン・ディフェンス]] (1. e4 c6) であり、それに対してもフィッシャーの勝率は良かった<ref>38/52 (+31−7=14): 73.07% {{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?pid=19233&playercomp=white&opening=B10-B19&title=Robert%20James%20Fischer%20playing%20the%20Caro-Kann%20as%20White |title=Robert James Fischer playing the Caro-Kann as White (B10-B19) |publisher=chessgames.com |accessdate=2015年12月29日}}</ref>。フィッシャーの最悪の記録は、[[フレンチ・ディフェンス]] (1. e4 e6)<ref>42/68 (+34−18=16): 61.76% {{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?pid=19233&playercomp=white&opening=C00-C19&title=Robert%20James%20Fischer%20playing%20the%20French%20Defense%20as%20White |title=Robert James Fischer playing the French Defense as White (C00-C19) |publisher=chessgames.com |accessdate=2015年12月29日}}</ref>、特にワイナウアー・ヴァリエーション (1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4)<ref>22/40 (+17−13=10): 55% {{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?pid=19233&playercomp=white&opening=C15-C19&title=Robert%20James%20Fischer%20playing%20the%20French%20Winawer%20as%20White |title=Robert James Fischer playing the French Winawer as White (C15-C19) |publisher=chessgames.com |accessdate=2015年12月29日}}</ref> に対してだった。
フィッシャーは、ワイナウアー・ヴァリエーションは 3. ... Bb4 と ... Bxc3 の2手をかけた<!--good-->ビショップと引換えに黒のキングサイドを露わにするので良くない<!--unsound-->と主張した<ref>Müller 2009, p. 31.</ref>。後にフィッシャーは、「私はやがてワイナウアー・ヴァリエーションが良い変化<!--sound-->だと認めざるをえなくなるかもしれない。しかし、それは疑わしい! ポジションは悪く、キングサイドが弱い。」と言った<ref>Fischer 1969, p. 151.</ref>。
<!--
Fischer was renowned for his opening preparation and made numerous contributions to chess opening theory.<ref name="Bisguier & Soltis 1974, p. 208">Bisguier & Soltis 1974, p. 208.</ref> He was one of the foremost experts on the [[Ruy Lopez]].<ref>Plisetsky & Voronkov 2005, p. 322 (quoting March 20, 1972 letter from Paul Keres to the USSR Chess Federation).</ref> A line of the Exchange Variation (1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 a6 4.Bxc6 dxc6 5.0-0) is sometimes called the "Fischer Variation" after he successfully resurrected it at the [[17th Chess Olympiad|1966 Havana Olympiad]].<ref>"The Exchange Variation was a feared weapon in the hands of Bobby Fischer." Kasparov & Keene 1989, p. 382.</ref><ref>"The modern version of the Spanish Exchange variation, in which [[White and Black in chess|White]] moves 5.0-0 after the exchange on move 4, should be named after former World Champion Bobby Fischer." Fischer, after finding an improvement on a 1965 game Barengdt-Teschner, which Black won, "started to play the Exchange with the move 5.0-0, winning game after game with it, and continued to play it with success even in his 1992 rematch with Boris Spassky, his final formal chess event." Kaufman 2004, pp. 4–5.</ref> Fischer's lifetime score with the move 5.0-0 in tournament and match games was eight wins, three draws, and no losses: (86.36%).<ref>{{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?yearcomp=exactly&year=&playercomp=white&pid=19233&player=&pid2=&player2=&movescomp=exactly&moves=&opening=&eco=C68-69&result= |title=Robert James Fischer, Ruy Lopez, Exchange (C68-69) |publisher=chessgames.com |accessdate=January 29, 2014}}</ref>
Fischer was a recognized expert in the black side of the Najdorf Sicilian and the King's Indian Defense.<ref>Andrew Soltis, in Müller 2009, pp. 29, 32–33.</ref> He used the [[Grünfeld Defence]] and [[Neo-Grünfeld Defence]] to win his celebrated games against Donald and Robert Byrne, and played a [[theoretical novelty]] in the Grünfeld against reigning World Champion Mikhail Botvinnik, refuting Botvinnik's prepared analysis over-the-board.<ref>L.S. Blackstock, in Wade & O'Connell 1973, p. 36.</ref><ref>Andrew Soltis, in Müller 2009, p. 25.</ref> In the Nimzo-Indian Defense, the line beginning with 1.d4 Nf6 2.c4 e6 3.Nc3 Bb4 4.e3 b6 5.Ne2 Ba6 was named after him.<ref>Hansen 2002, p. 132.</ref><ref>Pliester 1995, p. 272.</ref><ref>Gligorić 1985, p. 65.</ref>
Fischer established the viability of the so-called [[Poisoned Pawn Variation]] of the Najdorf Sicilian (1.e4 c5 2.Nf3 d6 3.d4 cxd4 4.Nxd4 Nf6 5.Nc3 a6 6.Bg5 e6 7.f4 Qb6). This bold queen sortie, to snatch a pawn at the expense of development, had been considered dubious,<ref>Watson observed that 7...Qb6 "is an astonishing move that those raised with classical chess principles would simply reject as a typical beginner's mistake. Black goes running after a pawn when he is undeveloped and already under attack." Watson 2006, p. 199.</ref><ref>"Referring to the Poisoned Pawn Variation ... the brilliant, classically oriented grandmaster [[Salo Flohr]] commented, even as late as 1972: 'In chess, there is an old rule: in the opening, one must make haste to develop the pieces, and must not move the same piece several times, particularly the queen. This ancient law holds good even for Bobby Fischer.{{'"}} Watson 1998, p. 18.</ref><ref>The Poisoned Pawn Variation "was considered dubious by certain GMs and crazy by Bent Larsen". Polugaevsky, Piket & Guéneau 1995, p. 83.</ref> but Fischer succeeded in proving its soundness.<ref name="Soltis, in Müller 2009, p. 30">Andrew Soltis, in Müller 2009, p. 30.</ref> Out of ten tournament and match games as Black in the Poisoned Pawn, Fischer scored 70%, winning five, drawing four, and losing only one: the 11th game of his 1972 match against Spassky.<ref>{{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chess.pl?yearcomp=exactly&year=&playercomp=black&pid=&player=Fischer&pid2=&player2=&movescomp=exactly&moves=&opening=&eco=B97&result= |title=Robert James Fischer, Sicilian, Najdorf (B97) |publisher=chessgames.com |accessdate=January 29, 2014}}</ref> Following Fischer's use, the Poisoned Pawn Variation became a respected line, utilized by many of the world's leading players.<ref>Georgiev & Kolev 2007, p. 6.</ref>
On the white side of the [[Sicilian Defence|Sicilian]], Fischer made advances to the theory of the line beginning 1.e4 c5 2.Nf3 d6 3.d4 cxd4 4.Nxd4 Nf6 5.Nc3 a6 (or e6) 6.Bc4,<ref name="Soltis, in Müller 2009, p. 30"/><ref>Mednis 1997, pp. 56, 146.</ref> which has sometimes been named after him.<ref>Mednis calls 6.Bc4 against the Najdorf Variation "Fischer's 6 B-QB4". Mednis 1997, pp. 56, 74, 80, 88.</ref> In 1961, prompted by a loss the year before to Spassky,<ref>{{cite web |url=http://www.chessgames.com/perl/chessgame?gid=1080046 |title=Boris Spassky vs Robert James Fischer, Mar del Plata (1960), King's Gambit: Accepted. Kieseritsky Gambit Rubinstein Variation (C39) |publisher=chessgames.com |accessdate=January 29, 2014}}</ref> Fischer wrote an article entitled "A [[Glossary of chess#Bust|Bust]] to the [[King's Gambit]]" for the first issue of the ''[[American Chess Quarterly]]'', in which he stated, "In my opinion, the King's Gambit is busted. It loses by force."<ref>Fischer 1961, p. 4.</ref> Fischer recommended 1.e4 e5 2.f4 exf4 3.Nf3 d6,<ref>Fischer 1961, pp. 4–9.</ref> which has since become known as the [[Fischer Defense]], as a refutation to the King's Gambit.<ref>Estrin & Glaskov 1982, p. 115.</ref><ref>Korchnoi & Zak 1975, p. 39.</ref><ref>Andrew Soltis, in Müller 2009, p. 29.</ref> Fischer later played the King's Gambit as White in three tournament games, winning them all.<ref>Wade & O'Connell 1973, pp. 27, 76–77, 253, 256.</ref>
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===終盤===
フィッシャーは、優れた終盤(エンドゲーム)の技術をもっていた<ref>Bisguier and Soltis 1974, p. 214.</ref>。国際マスターの Jeremy Silman は終盤のベスト5の1人(他の4人は、[[エマーヌエール・ラスカー]]、[[アキバ・ルービンシュタイン]]、[[ホセ・ラウル・カパブランカ]]、[[ワシリー・スミスロフ]])として彼を挙げ、フィッシャーを「[[ビショップ]]・エンディングのマスター」と呼んでいる<ref>Silman 2007, pp. 510–523.</ref>。[[ルーク]]、[[ナイト (チェス)|ナイト]]、[[ポーン]]に対するルーク、ビショップ、ポーンの終盤は、1970年と1971年のマルク・タイマノフに対するフィッシャー(ビショップ側)の3勝を含むいくつか啓蒙的な勝利によって、しばしば「フィッシャー・エンドゲーム」と呼ばれている<ref>Müller and Lamprecht 2001, p. 304.</ref><ref>Mayer 1997, p. 201.</ref><ref>Steve Giddins, 2012, ''The Greatest Ever chess endgames'', p. 68.</ref>。
===フィッシャークロック===
{{Further|持ち時間#フィッシャーモード}}
フィッシャーは、新しいタイプのチェスクロック([[対局時計]])を開発して、1988年に米国特許4,884,255を申請した。ゲーム開始時に各プレヤーに一定時間を与え、その後、各指し手の終了後に少しの時間を追加するという方式である<ref>「電子時計の出現によって新しい可能性が生まれた1990年に、世捨て人フィッシャーは取得していたチェスクロックの特許を公表するために現れた。その新規性の根拠は、プレイヤーが手を指すごとに利用可能な時間を追加する機能である。彼は、各プレイヤーの持ち時間を1時間で開始し、クロックが押されるたびに2分を追加することによって、時間争いの最悪の状態を回避することを提案した。」Hooper and Whyld 1992, p. 422.</ref>。1992年のフィッシャーとスパスキーとの再戦でのフィッシャークロックの使用<ref>「トーナメントで伝統的に使用されているものとは異なる新しい動作のチェスクロックを、特に試合のために製造しなければならず、それは [[:en:Jezdimir Vasiljević|Jezdimir Vasiljević]] が造った。ボビーは、試合でそれを使用することを主張した。ゲームは各プレイヤーの持ち時間を90分で開始し、各指し手ごとに2分を各プレイヤーの持ち時間に加える。ボビーの理論は、この新しいシステムでは、各プレイヤーがわずか数秒の残り時間で動きを考えるために時間を奪い合わなくても済むだろうということだった。これによって、時間のプレッシャーの下でする失策の回数を減らすことができる。「ゲームの誇りは、その概念の深さだ。機械的な手段による勝利ではない。」とフィッシャーは主張した。」Brady 2011, p. 246.</ref><ref>「1992年の試合では、両方のプレイヤーが1時間51分で開始する。手を指すと、各手が1分のボーナスを稼ぐ。40手が経過したとき、両プレイヤーは40分を得て、60手では30分、80手とその後の各20手で20分を得る。これらの時間は、1手1分の通常のボーナスに加える。この時間制限は、2時間半で40手の古いルールに対応する。」Müller 2009, p. 382.</ref> によって、すぐにほとんどの主要なチェスのトーナメントで標準となった。
===フィッシャー・ランダム・チェス===
{{Main|チェス960}}
[[1996年]][[6月19日]]に[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス]]で、「フィッシャー・ランダム・チェス」と呼ばれる[[変則チェス]]をフィッシャーが提唱した。これは、後に「チェス960」と呼ばれることになった。
<!--
Fischer heavily disparaged chess as it was currently being played (at the highest levels).<ref>{{cite web |url=http://chess960.net/files/audio/fischer_20022701_iceland.mp3 |title=Audio clip of Bobby Fischer |publisher=chess960.net |accessdate=January 29, 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071129072620/http://chess960.net/files/audio/fischer_20022701_iceland.mp3 |archivedate=November 29, 2007}}</ref> As a result, on June 19, 1996, in Buenos Aires, Argentina, Fischer announced and advocated a variant of chess called Fischerandom Chess (later known as Chess960). The goal of Fischerandom Chess was to ensure that a game between two players is a contest between their understandings of chess, rather than their abilities to memorize opening lines or prepare opening strategies.<ref>Brady 2011, p. 260.</ref>
In a 2006 Icelandic Radio interview, Fischer explained his reasons for advocating Fischerandom Chess:<ref>{{cite web |url=http://www.chessbase.com/newsdetail.asp?newsid=3468 |title=Speaking about Fischer... |date=November 4, 2006 |accessdate=February 6, 2014}}</ref><blockquote>In chess so much depends on opening theory, so the champions before the last century did not know as much as I do and other players do about opening theory. So if you just brought them back from the dead they wouldn’t do well. They’d get bad openings. You cannot compare the playing strength, you can only talk about natural ability. Memorisation is enormously powerful. Some kid of fourteen today, or even younger, could get an opening advantage against Capablanca, and especially against the players of the previous century, like Morphy and Steinitz. Maybe they would still be able to outplay the young kid of today. Or maybe not, because nowadays when you get the opening advantage not only do you get the opening advantage, you know how to play, they have so many examples of what to do from this position... and that is why I don’t like chess any more... It is all just memorization and prearrangement...</blockquote>
===Legacy===
Kasparov calls Fischer "perhaps the most mythologically shrouded figure in chess".<ref name="Kasparov 2004, p. 207">Kasparov 2004, p. 207.</ref> Some leading players and some of Fischer's biographers have ranked him as the greatest player who ever lived.<ref>Greatest player ever:
* Böhm & Jongkind 2003, pp. 47 ([[Hans Ree|Ree]] interview), 91 ([[Jan Timman|Timman]] interview), 113 ([[Nigel Short|Short]] interview).
* Hartston 1985, p. 157.
* Levy 1975, p. 9.
* Lombardy 2011, p. 220.
* Müller 2009, p. 23.
* Schonberg 1973, pp. 271, 302.
* Waitzkin 1993, p. 275 (quoting Kasparov).
* Wilson 1981, p. 171.
</ref> Other writers have said that he was arguably the greatest player ever, without reaching a definitive conclusion.<ref>Arguably greatest player ever:
* Böhm & Jongkind 2003, pp. 133–34.
* Divinsky 1990. p. 67.
* Eade 2011, p. 308.
* Euwe 1979, p. ix.
* Golombek 1977. p. 117.
* Kasparov 2004, p. 490.
* Mednis 1997, p. xiii.
* Soltis 2003, p. 9.
* Wolff 2001, p. 273.
</ref> [[Leonard Barden]] wrote, "Most experts place him the second or third best ever, behind Kasparov but probably ahead of Karpov."<ref name=lbobt/>
Some grandmasters compared Fischer's play to that of a computer;<ref>"William Lombardy characterized Fischer's game as machinelike, with 'terrifically accurate positional play but never boring... His opening repertory is encompassing... His end game is practically flawless. Bobby is the most complete player I've ever seen.{{'"}} Schonberg 1972, p. 270.</ref><ref>"Referring to the future chess computer, Jim Sherwin [aka: [[James Sherwin]]<nowiki>]</nowiki>, an American [chess] player who knew Fischer well, described him as 'a prototype [[Deep Blue (chess computer)|Deep Blue]].' The Soviet analysis showed that even when faced with an unexpected position, Fischer took not longer than fifteen or twenty minutes to make his move; other grandmasters might take twice as long. Nor did Fischer appear to be governed by any psychologically predetermined system or technique". Edmonds & Eidinow 2004, p. 22.</ref> a player without noticeable weaknesses.<ref>"[Fischer's] play approached so close to perfection that it seemed to transcend style". Winter 1981, p. 118.</ref>
Although international ratings were just introduced in 1970, [[Chessmetrics]] (a website that uses algorithms to rank performances retrospectively and uniformly throughout chess history) determined that Fischer's peak rating was 2895 in October 1971—the highest in history. His one-year peak (1971) average was 2881, the highest of all time. His three-year peak average was 2867, from January 1971 to December 1973—the second highest ever, just behind Garry Kasparov. Fischer was ranked as the number one player in the world for a total of 109 different months, running (not consecutively) from February 1964 until July 1974.<ref>{{cite web|url=http://www.chessmetrics.com/cm/CM2/PlayerProfile.asp?Params=199510SSSSS1S038178000000111000000000000010100 |title=Player Profile: Bobby Fischer |publisher=chessmetrics.com |date=March 26, 2005 |accessdate=January 29, 2014}}</ref>
Fischer's great rival [[Mikhail Tal]] praised him as "the greatest genius to have descended from the chess heavens".<ref>Saidy & Lessing 1974, p. 226.</ref> American grandmaster Arthur Bisguier wrote "Robert James Fischer is one of the few people in any sphere of endeavour who has been accorded the accolade of being called a legend in his own time."<ref>Wade & O'Connell 1972, p. 43.</ref> Former World Champion Tigran Petrosian stated that Fischer put more time into chess than the entire Soviet team.<ref>"'''Petrosian:''' 'Fischer is exceptionally hard-working. Without fear of over-exaggerating, I am prepared to compare the amount of time spent by him at the board between competitions with the hours devoted to chess by all the members of the Soviet national team taken together.{{'"}} Plisetsky & Voronkov 2005, p. 143.</ref>
Biographers David Edmonds and John Eidinow wrote:<ref>Edmonds & Eidinow 2004, p. 23.</ref><blockquote>Faced with Fischer's extraordinary coolness, his opponents [sic] assurance would begin to disintegrate. A Fischer move, which at first glances looked weak, would be reassessed. It must have a deep master plan behind it, undetectable by mere mortals (more often than not they were right, it did). The U.S. grandmaster Robert Byrne labeled the phenomenon "Fischer-fear". Grandmasters would wilt, their suits would crumple, sweat would glisten on their brows, panic would overwhelm their nervous systems. Errors would creep in. Calculations would go awry. There was talk among grandmasters that Fischer hypnotized his opponents, that he undermined their intellectual powers with a dark, mystic, insidious force.</blockquote>
Kasparov wrote that Fischer "became the detonator of an avalanche of new chess ideas, a revolutionary whose revolution is still in progress".<ref name=kasp>{{Cite news |last=Kasparov|first=Garry |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1707222,00.html |title=The Chessman |publisher=''TIME'' |date=January 26, 2008 |accessdate=January 29, 2014}}</ref> In January 2009, reigning World Champion [[Viswanathan Anand]] described him as "the greatest chess player who ever lived".<ref>{{cite news |url=http://www.telegraphindia.com/1090116/jsp/sports/story_10397969.jsp |title=The Telegraph – Calcutta (Kolkata) | Sports | Fischer is greatest ever, says Anand |publisher=Telegraphindia.com |date=January 16, 2009 |accessdate=January 29, 2014 |location=Calcutta, India}}</ref> Serbian grandmaster [[Ljubomir Ljubojević]] called Fischer, "A man without frontiers. He didn't divide the East and the West, he brought them together in their admiration of him."<ref name="Bobby Fischer dies in Iceland"/>
German grandmaster [[Karsten Müller]] wrote:<ref name="Müller 2009, p. 23"/><blockquote>Fischer, who had taken the highest crown almost singlehandedly from the mighty, almost invincible Soviet chess empire, shook the whole world, not only the chess world, to its core. He started a chess boom not only in the United States and in the Western hemisphere, but worldwide. Teaching chess or playing chess as a career had truly become a respectable profession. After Bobby, the game was simply not the same.</blockquote>
Fischer was a charter inductee into the U.S. Chess Hall of Fame in Washington, D.C. in 1985. After routing Taimanov, Larsen, and Petrosian in 1971, Fischer achieved a then-record [[Elo rating]] of 2785.<ref name="Informant14ratinglist"/><ref name="AllTimeRankings"/> After beating Spassky by the score 12½–8½ in their 1972 match, his rating dropped to 2780.<ref name="AllTimeRankings"/>
St. Louis philanthropist [[Rex Sinquefield]] offered a $64,000 ''Fischer Memorial Prize'' for any player who could win all nine of their games at the 2009 [[U.S. Chess Championship]]. By the fifth day of the championship, all 24 participants became ineligible for the prize, having drawn or lost at least one game.<ref>{{cite web |url=http://www.saintlouischessclub.org/ALL-PARTICIPANTS-AT-US-CHESS-CHAMPIONSHIP-NOW-OFFICIALLY-INELIGIBLE-FOR-FISCHER-PRIZE.html |title=All participants at U.S. Chess Championship now officially ineligible for $64,000 Fischer memorial prize for a 'sweep' |publisher=saintlouischessclub.org |accessdate=January 29, 2014}}</ref>
===Head-to-head record versus selected grandmasters===
(Rapid, blitz and blindfold games not included; listed as +wins −losses =draws.)<ref>{{cite web |url=http://www.chessgames.com |title=chess games |work=chessgames.com |date=22 September 2015 |accessdate=22 September 2015}}</ref><br>
<small>''Players who have been World Champions in boldface''</small>
{{div col|cols=3}}
* [[Pal Benko]] (USA) +8−3=7
* '''[[Mikhail Botvinnik]]''' (USSR) +0−0=1
* [[David Bronstein]] (USSR) +0−0=2
* '''[[Max Euwe]]''' (Netherlands) +1−1=1
* [[Efim Geller]] (USSR) +3−5=2
* [[Svetozar Gligoric]] (Yugoslavia) +7−4=8
* [[Paul Keres]] (USSR) +4−3=3
* [[Victor Korchnoi]] (USSR) +2−2=4
* [[Bent Larsen]] (Denmark) +9−2=1
* [[Miguel Najdorf]] (Argentina) +4−1=4
* '''[[Tigran Petrosian]]''' (USSR) +8−4=15
* [[Lev Polugaevsky]] (USSR) +0−0=1
* [[Samuel Reshevsky]] (USA) +9−4=13
* '''[[Vasily Smyslov]]''' (USSR) +3−1=5
* '''[[Boris Spassky]]''' (USSR) +17−11=28
* [[Mark Taimanov]] (USSR) +7−0=1
* '''[[Mikhail Tal]]''' (USSR) +2-4=5
{{div col end}}
===Internet Bobby Fischer theory===
There were rumors that Fischer was playing on the online chess platform [[Internet Chess Club]].<ref>"There were rumors that Bobby Fischer had often played online chess at I.C.C. to get in a few games, but it was never proven who he was, his games being kept anonymous with a fake handle". Sloan & Aravena 2012, p. 6.</ref> In 2001, [[Nigel Short]] wrote in ''[[The Sunday Telegraph]]'' chess column that he believed he had been secretly playing Fischer on ICC in speed chess matches.<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1533946.stm |title=Chess legend 'plays the web' |publisher=''BBC News'' |date=September 9, 2001 |accessdate=January 29, 2014}}</ref><ref>{{cite news |last=Allerson|first=Andrew |url=http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1339982/Bobby-Fischer-takes-on-all-comers-in-cyberspace.html |title=Bobby Fischer takes on all comers – in cyberspace |publisher=''The Telegraph'' |date=September 9, 2001 |accessdate=January 29, 2014 |location=London}}</ref>
National Masters R.O. Mitchell<ref>{{cite web |url=http://main.uschess.org/msa/MbrDtlMain.php?12468945 |title=12468945: R O MITCHELL (Deceased) |publisher=uscf.com |accessdate=January 29, 2014}}</ref> and Lionel Davis<ref>{{cite web |url=http://main.uschess.org/msa/MbrDtlMilestones.php?12438121 |title=12438121: LIONEL L DAVIS |publisher=uscf.com |accessdate=January 29, 2014}}</ref> both claimed to have played Fischer on ICC,<ref>{{cite web |last=Shabazz|first=Daaim |url=http://www.thechessdrum.net/blog/2008/02/24/did-ro-mitchell-meet-bobby-fischer/ |title=Did R.O. Mitchell meet Bobby Fischer? |publisher=thechessdrum.net |date=February 24, 2008 |accessdate=January 29, 2014}}</ref> with Mitchell providing his alleged conversation with the supposed Fischer.<ref>{{cite web |url=http://www.memphischess.com/ROBobbyConversation.html |title=Conversation with Bobby Fischer? |date=July 15, 2001 |accessdate=January 29, 2014}}</ref> Chessbase.com did a study where they concluded that the user was more likely a hoax, and not the real Bobby Fischer.<ref>"So what do we conclude? It could be that Bobby Fischer hath {{sic|decended}} unto us to play miraculous games of chess. But Occams Razor forces at least the author of this piece to believe that ICC Fischer is a prankster using a fast computer and one or more of the top programs available today to create an urban legend that will stay alive in chess circles for a long time to come." {{Cite news |url=https://en.chessbase.com/post/the-third-coming-of-bobby-fischer- |title=The third coming of Bobby Fischer? |publisher=chessbase.com |date=September 18, 2001 |accessdate=January 29, 2014}}</ref>
-->
== 著書 ==
* [[My 60 Memorable Games]](Simon and Schuster, 1969年、Batsford, 2008年) ISBN 978-1-906388-30-0
** 邦訳:[[水野優 (翻訳家)|水野優]]訳『ボビー・フィッシャー魂の60局』(評言社、2011年5月) ISBN 9784828205540
* Bobby Fischer Teaches Chess
** 邦訳:[[東公平]]訳『ボビー・フィッシャーのチェス入門』([[河出書房新社]]、1974年12月)ISBN 4309260349
== 参考文献 ==
* {{cite book
|last=Bisguier|first=Arthur
|last2=Soltis|first2=Andrew
|title=American Chess Masters from Morphy to Fischer
|year=1974
|publisher=Macmillan
|isbn=0-02-511050-0
}}
* [[フランク・ブレイディー]]著、[[佐藤耕士]]訳『完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯』([[文藝春秋]]、2013年2月)ISBN 9784163760407 - 親交のあった友人による評伝
** 原書: {{cite book
|last=Brady
|first=Frank
|title=Endgame: Bobby Fischer's Remarkable Rise and Fall – from America's Brightest Prodigy to the Edge of Madness
|publisher=[[:en:Crown Publishing Group|Crown]]
|year=2011
|edition=1st
|isbn=0-307-46390-7
}}
* {{cite book
|last=Giddins|first=Steve
|title=Greatest Ever Chess Endgames
|publisher=Everyman Chess
|date=2012
|isbn=978-1857446944
}}
* [[羽生善治]]「『伝説のチェス王者』フィッシャーを救え」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2004年11月号 82(15)、218~225頁
* {{cite book
|last=Hooper|first=David
|last2=Whyld|first2=Kenneth
|title=[[:en:The Oxford Companion to Chess|The Oxford Companion to Chess]]
|publisher=Oxford University Press
|year=1984
|date=1992
|pages=483
|isbn=978-0198661641
}}
* {{cite book
|last=Mayer|first=Steve
|title=Bishop versus Knight: The Verdict
|year=1997
|publisher=Batsford
|isbn=1-879479-73-7
}}
* {{cite book
|last=Müller|first=Karsten
|title=Bobby Fischer: The Career and Complete Games of the American World Chess Champion
|year=2009
|publisher=Russell Enterprises, Inc.
|isbn=978-1-888690-68-2
}}
* {{cite book
|last=Müller|first=Karsten
|last2=Lamprecht|first2=Frank
|title=Fundamental Chess Endings
|year=2001
|publisher=[[:en:Gambit Publications|Gambit Publications]]
|isbn=1-901983-53-6
}}
* [[ブルース・パンドルフィーニ]]著、[[東公平]]訳『ボビー・フィッシャーの究極のチェス - 創造的で、大胆で、驚くべき革命的な珠玉の戦術 101』(河出書房新社、1995年10月)ISBN 4309262570
*Plisetsky, Dmitry; Voronkov, Sergey (2005). ''Russians versus Fischer (2nd ed.)''. Everyman Chess. ISBN 978-1-85744-380-6.
* {{cite book
|last=Silman|first=Jeremy
|title=Silman's Complete Endgame Course: From Beginner to Master
|year=2007
|publisher=Siles Press
|isbn=1-890085-10-3
}}
* [[ジョージ・スタイナー]]著、[[諸岡敏行]]訳『白夜のチェス戦争』([[晶文社]]、1978年11月)ISBN 4794955758、ISBN 9784794955753 - ボリス・スパスキー戦のレポート
* ――「チェス名人『日本で拘束』の謎 - 逃亡者 伝説の男ボビー・フィッシャーが日本で送った奇妙な4年間」『[[ニューズウィーク]]日本語版』2004年8月11・18日号 [[阪急コミュニケーションズ]] 19(31) (通号 918)、18~19頁
==ドキュメンタリー==
*Me and Bobby Fischer(アイスランド、2009) - 日本を出てアイスランド到着までの様子
* Opelo za Bobija Fisera (セルビア、2010) - John Bosnitch(東京在住ジャーナリスト)らセルビア人の目を通してみたフィッシャーの一生
* Bobby Fischer Against the World (アメリカ、2011)
* 「天才 ボビー・フィッシャーの闘い~チェス盤上の米ソ冷戦~」NHK BS, 2014年5月15日
==出典==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ボビー・フィッシャーを探して]]
* [[チェス (ミュージカル)]] - モデルの一人とされている
* [[完全なるチェックメイト]] - 1972年のスパスキーとのマッチを冷戦の枠組みの中で描いた映画
* [[キング&クイーン]] 柳広司著、講談社、2010年刊。フィッシャーをモデルとした小説。
== 外部リンク ==
* [http://bobbyfischerpage.tripod.com/ Bobby Fischer Live Radio Interviews]
* [http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~ms808/bfpage.htm ボビー・フィッシャーの日本潜伏入門] 神戸チェスクラブ
* [https://www.youtube.com/watch?v=_tvYmAUnM9Q Me & Bobby Fischer予告編]
* [https://www.youtube.com/watch?v=qsVVbdf8zzo Opelo za Bobija Fisera予告編]
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アナトリー・カルポフ
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アナトリー・エフゲーニエヴィチ・カルポフ(アナトーリー・イェフゲーニエヴィチ・カールポフ、ロシア語: Анато́лий Евге́ньевич Ка́рпов、ラテン文字表記の例:Anatoly Yevgenyevich Karpov、1951年5月23日 - )は、ソビエト連邦生まれのチェスの世界チャンピオン(1975年 - 1985年、1993年 - 1999年)。
ズラトウースト出身。18歳のときにストックホルムで開催された世界ジュニアチェス選手権で優勝し、10人目のジュニア世界チャンピオンとなる。1970年グランドマスターの称号を得る。
1975年、当時の世界チャンピオン、ボビー・フィッシャーへの挑戦権を得るが、フィッシャーの棄権により不戦勝でタイトル獲得。1978年、ヴィクトール・コルチノイの挑戦を受ける。コルチノイはその2年前にソ連から西側へ亡命しており、このマッチは「ソ連の体制対裏切り者」という構図でとらえられた。マッチは「先に6勝、局数無制限」という条件で行なわれ、カルポフは第27局を勝って5勝2敗と大きくリードする。しかしコルチノイは続く4局を3勝1分と急追し、両者後のない5勝5敗のタイで第32局を迎えた。極度の緊張下で行なわれたこのゲームにカルポフは快勝、きわどく初防衛を果たした。続く1981年にもコルチノイの連続挑戦を受けたが、今度は6勝2敗(10引き分け)と危なげなく防衛に成功した。
1984年にはガルリ・カスパロフの挑戦を受け、途中まで5勝0敗と圧倒したが、やはり局数無制限の条件であったためにマッチが非常に長期化し、48局(カルポフの5勝3敗)の時点で中断、無勝負となる。翌1985年の再戦は伝統的な24局マッチで行なわれ、逆にカスパロフが5勝3敗15分で勝利した。カルポフはさらに1986年のリターンマッチ、1987年、1990年の挑戦マッチをカスパロフと戦った。勝利こそできなかったがいずれのマッチも1点差以内の僅差であり、内容から見ても棋史に残る名勝負である。特に1987年のマッチは24局すべてが同点か1点差で戦われたという競り合いで、カルポフが第23局を勝って1点リードしたが、最終第24局を敗れてカスパロフに引き分け防衛を許した。
1993年、カスパロフは挑戦者ナイジェル・ショートとともにプロチェス協会を設立し、独自に防衛マッチを行なったため、国際チェス連盟(FIDE)からタイトルを剥奪された。そしてカルポフがヤン・ティマンとのマッチを経てFIDEチャンピオンに復位した。カルポフはその後、1996年にはゲイタ・カムスキー、1998年にはヴィスワナータン・アーナンドを相手にタイトルを防衛したが、翌1999年の世界選手権制度変更に抗議して王座を返上した。
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アナトリー・エフゲーニエヴィチ・カルポフは、ソビエト連邦生まれのチェスの世界チャンピオン。 ズラトウースト出身。18歳のときにストックホルムで開催された世界ジュニアチェス選手権で優勝し、10人目のジュニア世界チャンピオンとなる。1970年グランドマスターの称号を得る。 1975年、当時の世界チャンピオン、ボビー・フィッシャーへの挑戦権を得るが、フィッシャーの棄権により不戦勝でタイトル獲得。1978年、ヴィクトール・コルチノイの挑戦を受ける。コルチノイはその2年前にソ連から西側へ亡命しており、このマッチは「ソ連の体制対裏切り者」という構図でとらえられた。マッチは「先に6勝、局数無制限」という条件で行なわれ、カルポフは第27局を勝って5勝2敗と大きくリードする。しかしコルチノイは続く4局を3勝1分と急追し、両者後のない5勝5敗のタイで第32局を迎えた。極度の緊張下で行なわれたこのゲームにカルポフは快勝、きわどく初防衛を果たした。続く1981年にもコルチノイの連続挑戦を受けたが、今度は6勝2敗(10引き分け)と危なげなく防衛に成功した。 1984年にはガルリ・カスパロフの挑戦を受け、途中まで5勝0敗と圧倒したが、やはり局数無制限の条件であったためにマッチが非常に長期化し、48局(カルポフの5勝3敗)の時点で中断、無勝負となる。翌1985年の再戦は伝統的な24局マッチで行なわれ、逆にカスパロフが5勝3敗15分で勝利した。カルポフはさらに1986年のリターンマッチ、1987年、1990年の挑戦マッチをカスパロフと戦った。勝利こそできなかったがいずれのマッチも1点差以内の僅差であり、内容から見ても棋史に残る名勝負である。特に1987年のマッチは24局すべてが同点か1点差で戦われたという競り合いで、カルポフが第23局を勝って1点リードしたが、最終第24局を敗れてカスパロフに引き分け防衛を許した。 1993年、カスパロフは挑戦者ナイジェル・ショートとともにプロチェス協会を設立し、独自に防衛マッチを行なったため、国際チェス連盟(FIDE)からタイトルを剥奪された。そしてカルポフがヤン・ティマンとのマッチを経てFIDEチャンピオンに復位した。カルポフはその後、1996年にはゲイタ・カムスキー、1998年にはヴィスワナータン・アーナンドを相手にタイトルを防衛したが、翌1999年の世界選手権制度変更に抗議して王座を返上した。
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{{Infobox Chess player
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'''アナトリー・エフゲーニエヴィチ・カルポフ'''(アナトーリー・イェフゲーニエヴィチ・カールポフ、{{Lang-ru|'''Анато́лий Евге́ньевич Ка́рпов'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:{{lang|ru-Lat|'''Anatoly Yevgenyevich Karpov'''}}、[[1951年]][[5月23日]] - )は、[[ソビエト連邦]]生まれの[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの世界チャンピオン]](1975年 - 1985年、1993年 - 1999年)。
[[ズラトウースト]]出身。18歳のときに[[ストックホルム]]で開催された[[世界ジュニアチェス選手権]]で優勝し、10人目のジュニア世界チャンピオンとなる。1970年[[グランドマスター]]の称号を得る。
1975年、当時の世界チャンピオン、[[ボビー・フィッシャー]]への挑戦権を得るが、フィッシャーの棄権により不戦勝でタイトル獲得。1978年、[[ヴィクトール・コルチノイ]]の挑戦を受ける。コルチノイはその2年前にソ連から西側へ亡命しており、このマッチは「ソ連の体制対裏切り者」という構図でとらえられた。マッチは「先に6勝、局数無制限」という条件で行なわれ、カルポフは第27局を勝って5勝2敗と大きくリードする。しかしコルチノイは続く4局を3勝1分と急追し、両者後のない5勝5敗のタイで第32局を迎えた。極度の緊張下で行なわれたこのゲームにカルポフは快勝、きわどく初防衛を果たした。続く1981年にもコルチノイの連続挑戦を受けたが、今度は6勝2敗(10引き分け)と危なげなく防衛に成功した。
1984年には[[ガルリ・カスパロフ]]の挑戦を受け、途中まで5勝0敗と圧倒したが、やはり局数無制限の条件であったためにマッチが非常に長期化し、48局(カルポフの5勝3敗)の時点で中断、無勝負となる。翌1985年の再戦は伝統的な24局マッチで行なわれ、逆にカスパロフが5勝3敗15分で勝利した。カルポフはさらに1986年のリターンマッチ、1987年、1990年の挑戦マッチをカスパロフと戦った。勝利こそできなかったがいずれのマッチも1点差以内の僅差であり、内容から見ても棋史に残る名勝負である。特に1987年のマッチは24局すべてが同点か1点差で戦われたという競り合いで、カルポフが第23局を勝って1点リードしたが、最終第24局を敗れてカスパロフに引き分け防衛を許した。
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== 外部リンク ==
* [http://foto.mail.ru/mail/dalm2000/139/ カルポフ 2006]
{{チェス世界チャンピオン}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かるほふ あなとりい}}
[[Category:レーニン勲章受章者]]
[[Category:労働赤旗勲章受章者]]
[[Category:ソビエト連邦人民代議員]]
[[Category:ソビエト連邦のチェス選手]]
[[Category:ロシアのチェス選手]]
[[Category:チェスのグランドマスター]]
[[Category:チェス・オリンピアード出場選手]]
[[Category:スポーツ選手出身の政治家]]
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正史
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正史(せいし、特に後述する「断代史」の形式をとる正史)とは、
以下では主に1.について述べる。対義語は野史(民間で編まれた史書)。
その名から「正しい歴史」の略語と勘違いされることもあるが、中国文学者の高島俊男が「正史の正は正しいの意味ではなく、正式の正である」と述べたようにあくまでその時代の政府によって作られた歴史書であり、野史よりは正確であるとされ、歴史著述の基礎史料とされる。しかしながら、政府に都合の悪いことは記さなかったり、或いは抜け落ちた史実もあるため、歴史学的には正史だからといって正確性が保証されたものではないとされる。
正史は果たして信じるべきか否かも古くから議論されていた。清の歴史学者の趙翼は二十二史箚記に於いて正史どうしが撞着していることがあること、こういう場合は史料を検討して史実を判断すべきだと説いた。趙翼は正史は野史から作られたもので、「正史に採用されず、野史にのみ残ったものは史料価値が低い、だから正史を基礎として判断すべきだが、正史同士で食い違いが生ずる場合は検討して判断するしか無い」と述べている。 更に時代が進んで現代の歴史学になると、正史そのものも疑わしいとか、特に古代史においては考古学の成果も見るべきだということになった。以下、その例を挙げる。
なお、正史に相対するものは一般的には偽史ではなく野史(民間で編まれた史書)である。いずれにせよ、歴史の事実を引き出すには歴史学の手法に則った厳密な史料批判、科学的な測定による精査が必要である。
中国では、当初は『春秋』のように編年体の史書が一般的であったが、司馬遷の著した『史記』以来、紀伝体が盛んに行われるようになった。史記を継いで前漢王朝一代の歴史書とした班固の『漢書』からは王朝ごとに時代を区切った紀伝体の史書(いわゆる「断代史」)の体裁が流行した。しかし、「史記」「漢書」をはじめ、西晋の陳寿が書いた『三国志』、宋の范曄が書いた『後漢書』、梁の沈約が書いた『宋書』など、当初の紀伝体史書はみな個人の撰であった。
『四庫全書総目提要』史部総叙では、「唐までは史通を見ると紀伝体と編年体を両方正史として扱っていたようだ。しかし、紀伝体の史書が相次いで現れたために、正史といえば紀伝体の史書ということになってしまった」と述べている。
唐に至って、歴史書を編纂する事業は国家の事業となり、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』などが次々と編纂され、これまでの紀伝体の史書のうち史記や漢書、三国志などとあわせて「正史」とした。これらの正史はそれぞれの国に都合良く書かれており、例えば唐が隋に反乱を起こしたことも自己正当化され、隋の煬帝も元々明帝という諡だったのを消してしまい、煬帝が古今未曾有の悪人に仕立てられてしまっていると布目潮渢は批判している。宋の歴史家鄭樵は「『隋書』では後に唐を建国した李淵が反乱を起こしたのを義軍だと言っているが、(そもそも隋の家臣だった)李淵が反乱を起こして主君を打倒することを正義とする根拠がどこにあるのか?」と批判している。
こうして唐以降、正史は王朝の支配の正統性を明らかにする宣伝文書の色彩が色濃くなり、歴史書としては堕落したとされる。
後世では唐にならい、王朝が成立すると、滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての価値は大きく損なわれる事になった。歴史学者の岡田英弘は、「科挙に合格した高級文官の官僚が儒教に基づいて書くようになったため、軍事面がほとんど軽視されるようになり、政治を動かす軍人の言い分がほとんど正史に残らなくなった。また頭の中が儒教経典で凝り固まった官僚が中華思想に基づいて書くために、唐の皇帝が中央アジアを支配してもそのことを軽視するなど、記載が非現実的になってしまった」と嘆いている。実際、後世の歴史小説楊家将演義・水滸伝・説岳全伝(岳飛伝)の元ネタになった宋代の武将たちの伝記も、『宋史』ではほとんど簡単にしか記されず、楊業・呼延賛・岳飛の列伝はひどく短く、ほとんど内容がない。またチンギス・カンの伝記である『元史』太祖本紀に至っては「チンギス・カンは大変優秀な人物だったが、史料がなくこの程度しか書けないのは本当に惜しいことだ」と編者宋濂が悲しんでいるほど内容が乏しい。映画や小説などになっているチンギス・カンが騎馬民族と戦って妻のボルテを取り返すような話や、中央アジア遠征をするなどの英雄譚は正史由来ではなく、ほとんど野史・実録の『元朝秘史』(もしくは異本ではないかとされる『聖武親征録』)に依拠している。小林高四郎の研究によると、元史太祖本紀は『聖武親征録』をかなり省略していることがわかっている。
唐代以前の中国の正史は歴史文学としての側面もあり、文学性も高かったが、「唐代以降は官位の等級が一定のランクを超えると、機械的に正史の列伝に記載されるようになったので、平凡で退屈な記載がなされるようになった。このため、歴史文学・伝記文学を志向する文学者は『碑誌行状』(ひしぎょうじょう)といわれる個人の伝記を私小説的に書くようになった」(要約)と中国文学者の吉川幸次郎は述べている。
唐代以降は、正史が編纂される手法も確立される。朝廷内で皇帝に侍る史官が、皇帝および国家の重大事を記録する「起居注」を蓄積し、皇帝が崩御すると、代ごとに起居注をまとめた「実録」が編纂される。王朝が滅んだ際には次に正統を継いだ王朝が国家事業として、前王朝の皇帝ごとの実録を元に正史を編纂する、というのが大まかな手順である。このため、たとえば正史の「明史」よりも「明実録」の方が記録は詳細に残されている。史料としては、実録が1次史料、正史が2次史料ということになるが、どちらがより真実に近いかはそれぞれの史料によって異なるが、いずれにせよ皇帝と側近の少数の官僚だけで政策の意思決定をしており、その決定過程はほとんど正史にも実録にも残らなくなっていった。
清のとき、二十四書が正史として再度選ばれ、「二十四史」と呼ばれるようになったので、中国の正史といえば普通二十四史を指す。二十四史に、中華民国期に編纂された『新元史』や『清史稿』を含めて「二十五史」あるいは「二十六史」という呼び方も見られる。また、中華民国政府によって、正史としての『清史』(実際は『清史稿』の改訂)が編纂されたが、中華人民共和国政府はこれを認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期すため、完成は何度か先送りされている。2023年現在、原稿は完成したが、「中国政府から『清王朝が中華民族ではなかったことを書いてはいけない』と物言いが付き、未だ公開されていない」とシンガポール紙星島日報は伝えている。
日本では7世紀前半にまとめられた「帝紀」「旧辞」が国家による歴史書編纂の始まりである。その後、漢文による正史の体裁で8世紀前半に編年体で『日本書紀』が成立した。それ以後続けて編年体の正史が作られたが、続日本紀以後は、編年体を基本としながらも人物の薨去記事に簡単な伝記を付載する「国史体」とよばれる独自のスタイルが確立した。これらは六国史と呼ばれているが、901年に撰された『日本三代実録』(858年から887年までの30年間の歴史書)を最後に、朝廷による正史編纂事業は行われても完成をみることはなくなった。未完で終わったものとして「新国史」があり、その草稿の逸文が残っている。明治維新後にも正史編纂事業が進められ、漢文体の大日本編年史が企画されたものの、その編纂方針をめぐる対立や、編纂の中心となっていた久米邦武の筆禍事件により中止され、代わりに大日本史料が編纂されることとなった。
その他、江戸時代の諸藩では伊達藩の伊達治家記録、貝原益軒の黒田家譜のような藩ごとの歴史書が編まれた。これを「藩の正史」ということがある。
朝鮮では、高麗の金富軾が作った高句麗・百済・新羅三国の紀伝体正史『三国史記』 (1145年) が最初の正史であり、現存する最古の歴史書である。高麗が李成桂の朝鮮にとってかわられると、中国の正史編纂にならって紀伝体の『高麗史』が作られた。『高麗史』の最大の特徴は、歴代の高麗王の記述が天子を意味する「本紀」ではなく、諸侯の歴史をさす「世家」となっていることである。これは中国の天子の歴史だけが「本紀」といわれるべきであり、高麗王は中華皇帝の諸侯である、という趣旨からである。またそれとは別に編年体の『高麗史節要』も作られた。20世紀初頭まで続いた李氏朝鮮では、各国王一代の編年記録(実録)が編纂されつづけ、『朝鮮王朝実録』と呼ばれているが、紀伝体による李氏朝鮮王朝の正史は作られていない。
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"text": "その名から「正しい歴史」の略語と勘違いされることもあるが、中国文学者の高島俊男が「正史の正は正しいの意味ではなく、正式の正である」と述べたようにあくまでその時代の政府によって作られた歴史書であり、野史よりは正確であるとされ、歴史著述の基礎史料とされる。しかしながら、政府に都合の悪いことは記さなかったり、或いは抜け落ちた史実もあるため、歴史学的には正史だからといって正確性が保証されたものではないとされる。",
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"text": "正史は果たして信じるべきか否かも古くから議論されていた。清の歴史学者の趙翼は二十二史箚記に於いて正史どうしが撞着していることがあること、こういう場合は史料を検討して史実を判断すべきだと説いた。趙翼は正史は野史から作られたもので、「正史に採用されず、野史にのみ残ったものは史料価値が低い、だから正史を基礎として判断すべきだが、正史同士で食い違いが生ずる場合は検討して判断するしか無い」と述べている。 更に時代が進んで現代の歴史学になると、正史そのものも疑わしいとか、特に古代史においては考古学の成果も見るべきだということになった。以下、その例を挙げる。",
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"text": "なお、正史に相対するものは一般的には偽史ではなく野史(民間で編まれた史書)である。いずれにせよ、歴史の事実を引き出すには歴史学の手法に則った厳密な史料批判、科学的な測定による精査が必要である。",
"title": "正史の信憑性について"
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"text": "中国では、当初は『春秋』のように編年体の史書が一般的であったが、司馬遷の著した『史記』以来、紀伝体が盛んに行われるようになった。史記を継いで前漢王朝一代の歴史書とした班固の『漢書』からは王朝ごとに時代を区切った紀伝体の史書(いわゆる「断代史」)の体裁が流行した。しかし、「史記」「漢書」をはじめ、西晋の陳寿が書いた『三国志』、宋の范曄が書いた『後漢書』、梁の沈約が書いた『宋書』など、当初の紀伝体史書はみな個人の撰であった。",
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"text": "『四庫全書総目提要』史部総叙では、「唐までは史通を見ると紀伝体と編年体を両方正史として扱っていたようだ。しかし、紀伝体の史書が相次いで現れたために、正史といえば紀伝体の史書ということになってしまった」と述べている。",
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"text": "唐に至って、歴史書を編纂する事業は国家の事業となり、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』などが次々と編纂され、これまでの紀伝体の史書のうち史記や漢書、三国志などとあわせて「正史」とした。これらの正史はそれぞれの国に都合良く書かれており、例えば唐が隋に反乱を起こしたことも自己正当化され、隋の煬帝も元々明帝という諡だったのを消してしまい、煬帝が古今未曾有の悪人に仕立てられてしまっていると布目潮渢は批判している。宋の歴史家鄭樵は「『隋書』では後に唐を建国した李淵が反乱を起こしたのを義軍だと言っているが、(そもそも隋の家臣だった)李淵が反乱を起こして主君を打倒することを正義とする根拠がどこにあるのか?」と批判している。",
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"text": "後世では唐にならい、王朝が成立すると、滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての価値は大きく損なわれる事になった。歴史学者の岡田英弘は、「科挙に合格した高級文官の官僚が儒教に基づいて書くようになったため、軍事面がほとんど軽視されるようになり、政治を動かす軍人の言い分がほとんど正史に残らなくなった。また頭の中が儒教経典で凝り固まった官僚が中華思想に基づいて書くために、唐の皇帝が中央アジアを支配してもそのことを軽視するなど、記載が非現実的になってしまった」と嘆いている。実際、後世の歴史小説楊家将演義・水滸伝・説岳全伝(岳飛伝)の元ネタになった宋代の武将たちの伝記も、『宋史』ではほとんど簡単にしか記されず、楊業・呼延賛・岳飛の列伝はひどく短く、ほとんど内容がない。またチンギス・カンの伝記である『元史』太祖本紀に至っては「チンギス・カンは大変優秀な人物だったが、史料がなくこの程度しか書けないのは本当に惜しいことだ」と編者宋濂が悲しんでいるほど内容が乏しい。映画や小説などになっているチンギス・カンが騎馬民族と戦って妻のボルテを取り返すような話や、中央アジア遠征をするなどの英雄譚は正史由来ではなく、ほとんど野史・実録の『元朝秘史』(もしくは異本ではないかとされる『聖武親征録』)に依拠している。小林高四郎の研究によると、元史太祖本紀は『聖武親征録』をかなり省略していることがわかっている。",
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"text": "唐代以前の中国の正史は歴史文学としての側面もあり、文学性も高かったが、「唐代以降は官位の等級が一定のランクを超えると、機械的に正史の列伝に記載されるようになったので、平凡で退屈な記載がなされるようになった。このため、歴史文学・伝記文学を志向する文学者は『碑誌行状』(ひしぎょうじょう)といわれる個人の伝記を私小説的に書くようになった」(要約)と中国文学者の吉川幸次郎は述べている。",
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"text": "唐代以降は、正史が編纂される手法も確立される。朝廷内で皇帝に侍る史官が、皇帝および国家の重大事を記録する「起居注」を蓄積し、皇帝が崩御すると、代ごとに起居注をまとめた「実録」が編纂される。王朝が滅んだ際には次に正統を継いだ王朝が国家事業として、前王朝の皇帝ごとの実録を元に正史を編纂する、というのが大まかな手順である。このため、たとえば正史の「明史」よりも「明実録」の方が記録は詳細に残されている。史料としては、実録が1次史料、正史が2次史料ということになるが、どちらがより真実に近いかはそれぞれの史料によって異なるが、いずれにせよ皇帝と側近の少数の官僚だけで政策の意思決定をしており、その決定過程はほとんど正史にも実録にも残らなくなっていった。",
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"text": "清のとき、二十四書が正史として再度選ばれ、「二十四史」と呼ばれるようになったので、中国の正史といえば普通二十四史を指す。二十四史に、中華民国期に編纂された『新元史』や『清史稿』を含めて「二十五史」あるいは「二十六史」という呼び方も見られる。また、中華民国政府によって、正史としての『清史』(実際は『清史稿』の改訂)が編纂されたが、中華人民共和国政府はこれを認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期すため、完成は何度か先送りされている。2023年現在、原稿は完成したが、「中国政府から『清王朝が中華民族ではなかったことを書いてはいけない』と物言いが付き、未だ公開されていない」とシンガポール紙星島日報は伝えている。",
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"text": "日本では7世紀前半にまとめられた「帝紀」「旧辞」が国家による歴史書編纂の始まりである。その後、漢文による正史の体裁で8世紀前半に編年体で『日本書紀』が成立した。それ以後続けて編年体の正史が作られたが、続日本紀以後は、編年体を基本としながらも人物の薨去記事に簡単な伝記を付載する「国史体」とよばれる独自のスタイルが確立した。これらは六国史と呼ばれているが、901年に撰された『日本三代実録』(858年から887年までの30年間の歴史書)を最後に、朝廷による正史編纂事業は行われても完成をみることはなくなった。未完で終わったものとして「新国史」があり、その草稿の逸文が残っている。明治維新後にも正史編纂事業が進められ、漢文体の大日本編年史が企画されたものの、その編纂方針をめぐる対立や、編纂の中心となっていた久米邦武の筆禍事件により中止され、代わりに大日本史料が編纂されることとなった。",
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"text": "朝鮮では、高麗の金富軾が作った高句麗・百済・新羅三国の紀伝体正史『三国史記』 (1145年) が最初の正史であり、現存する最古の歴史書である。高麗が李成桂の朝鮮にとってかわられると、中国の正史編纂にならって紀伝体の『高麗史』が作られた。『高麗史』の最大の特徴は、歴代の高麗王の記述が天子を意味する「本紀」ではなく、諸侯の歴史をさす「世家」となっていることである。これは中国の天子の歴史だけが「本紀」といわれるべきであり、高麗王は中華皇帝の諸侯である、という趣旨からである。またそれとは別に編年体の『高麗史節要』も作られた。20世紀初頭まで続いた李氏朝鮮では、各国王一代の編年記録(実録)が編纂されつづけ、『朝鮮王朝実録』と呼ばれているが、紀伝体による李氏朝鮮王朝の正史は作られていない。",
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正史(せいし、特に後述する「断代史」の形式をとる正史)とは、 東アジア諸国において、主に国家によって公式に編纂された自王朝以前の歴史書のことである。中国の二十四史が代表的なものとしてあげられる。漢籍の四部分類では「史部正史類」に分類される。
その国の政府が正統と認め、対外的に主張し、また教育する自国の政治の流れ。 以下では主に1.について述べる。対義語は野史(民間で編まれた史書)。
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{{出典の明記|date=2019年8月}}
'''正史'''(せいし、特に後述する「断代史」の形式をとる正史)とは、
#[[東アジア]]諸国において、主に国家によって公式に[[編纂]]された自[[王朝]]以前の[[歴史書]]のことである。[[中国]]の[[二十四史]]が代表的なものとしてあげられる。漢籍の[[四部分類]]では「史部正史類」に分類される。<ref>乾隆帝勅撰『四庫全書総目提要』史部正史類叙。活字本は張舜徽『四庫提要叙講疏』雲南人民出版社、2005</ref>
#その国の政府が正統と認め、対外的に主張し、また教育する自国の政治の流れ。
以下では主に1.について述べる。対義語は'''野史'''(民間で編まれた史書)。
== 概要 ==
その名から「正しい歴史」の略語と勘違いされることもあるが、中国文学者の[[高島俊男]]が「正史の正は正しいの意味ではなく、正式の正である」と述べた<ref>高島『三国志 きらめく群像』ちくま文庫、2001</ref>ように'''あくまでその時代の政府によって作られた歴史書'''であり、野史よりは正確であるとされ、歴史著述の基礎史料とされる。しかしながら、政府に都合の悪いことは記さなかったり、或いは抜け落ちた史実もあるため、歴史学的には正史だからといって正確性が保証されたものではないとされる。
== 正史の信憑性について ==
正史は果たして信じるべきか否かも古くから議論されていた。清の歴史学者の[[趙翼]]は[[二十二史箚記]]に於いて正史どうしが撞着していることがあること、こういう場合は史料を検討して史実を判断すべきだと説いた。趙翼は正史は野史から作られたもので、「正史に採用されず、野史にのみ残ったものは史料価値が低い、だから正史を基礎として判断すべきだが、正史同士で食い違いが生ずる場合は検討して判断するしか無い」と述べている。<ref>『二十二史箚記』廿二史箚記小引より。原文は「間有稗乘脞説,與正史岐互者,又不敢遽詫爲得閒之奇。蓋一代修史時,此等記載,無不蒐入史局,其所棄而不取者,必有難以徴信之處。今或反據以駁正史之訛,不免貽譏有識。是以此編多就正史紀傳表志中,參互勘校,其有牴牾處,自見輒摘出以俟博雅居子訂正焉。」</ref>
更に時代が進んで現代の歴史学になると、正史そのものも疑わしいとか、特に古代史においては[[考古学]]の成果も見るべきだということになった。以下、その例を挙げる。
*日本最古の正史は『[[日本書紀]]』であるが、文献史学的にも[[津田左右吉]]や[[岡田英弘]]によって架空の天皇の事績が書かれていると疑われており、<ref>詳しくは[[欠史八代]]参照。津田『古事記及び日本書紀の新硏究』 (洛陽堂、1919年、復刊は2018年毎日ワンズ)・岡田『日本史の誕生』ちくま文庫2008</ref>20世紀以降の[[天文物理学]]的な見地や[[放射性炭素年代測定]]を用いた科学的な測定により、相当量の虚構が含まれていることが明らかになっている。
*正史[[史記]]の「夏本紀」「殷本紀」「周本紀」は[[中華思想]]の正統概念によって書かれている為、秦漢以降の統一王朝のような書かれ方をしているが、実態は都市国家だったはずで、甚だ疑わしい。特に「夏本紀」は洪水制圧の神話が主となっており、夏王朝の遺跡はまだ発見されておらず歴代夏王の実在性すら疑わしいと岡田英弘は指摘している。<ref>岡田『世界史の誕生』ちくま文庫2001、原本は1992年、筑摩書房</ref>
*正史[[明史]]の「日本伝」は戦国時代の日本について書かれたものであるが、「[[豊臣秀吉]]は薩摩の人で、木の上に住んでいたので木から降りてきて木下人を名乗った」「[[織田信長]]は山城を本拠地としていた」など、日本史に関する基礎的な誤りが非常に多い。現代の歴史学者[[鄭樑生]]の研究によれば、四十六箇所も誤りがあるという。<ref>山根幸夫「批評と紹介 鄭樑生『明史日本伝正補』」東洋学報、1983</ref>
なお、正史に相対するものは一般的には偽史ではなく'''[[野史]]'''(民間で編まれた史書)である。いずれにせよ、歴史の事実を引き出すには[[歴史学]]の手法に則った厳密な史料批判、科学的な測定による精査が必要である。
== 中国の正史 ==
中国では、当初は『[[春秋]]』のように[[編年体]]の史書が一般的であったが、[[司馬遷]]の著した『'''[[史記]]'''』以来、[[紀伝体]]が盛んに行われるようになった。史記を継いで[[前漢]]王朝一代の歴史書とした[[班固]]の『[[漢書]]』からは王朝ごとに時代を区切った紀伝体の史書(いわゆる「断代史」)の体裁が流行した。しかし、「史記」「漢書」をはじめ、[[西晋]]の[[陳寿]]が書いた『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』、[[宋 (南朝)|宋]]の[[范曄]]が書いた『[[後漢書]]』、[[梁 (南朝)|梁]]の[[沈約]]が書いた『[[宋書]]』など、当初の紀伝体史書はみな個人の撰であった。
『四庫全書総目提要』史部総叙では、「唐までは[[史通]]を見ると紀伝体と編年体を両方正史として扱っていたようだ。しかし、紀伝体の史書が相次いで現れたために、正史といえば紀伝体の史書ということになってしまった」と述べている。<ref>乾隆帝勅撰『四庫全書総目提要』編年類叙。活字本は張舜徽『四庫提要叙講疏』雲南人民出版社、2005、P50-51</ref>
[[唐]]に至って、歴史書を編纂する事業は国家の事業となり、『[[晋書]]』『[[梁書]]』『[[陳書]]』『[[周書]]』『[[隋書]]』などが次々と編纂され、これまでの紀伝体の史書のうち史記や漢書、三国志などとあわせて「正史」とした。これらの正史はそれぞれの国に都合良く書かれており、例えば唐が隋に反乱を起こしたことも自己正当化され、隋の[[煬帝]]も元々明帝という諡だったのを消してしまい、煬帝が古今未曾有の悪人に仕立てられてしまっていると[[布目潮渢]]は批判している。<ref>布目『つくられた暴君と明君・隋の煬帝と唐の太宗』清水書院、1994</ref>宋の歴史家[[鄭樵]]は「『隋書』では後に唐を建国した[[李淵]]が反乱を起こしたのを義軍だと言っているが、(そもそも隋の家臣だった)李淵が反乱を起こして主君を打倒することを正義とする根拠がどこにあるのか?」と批判している。<ref>鄭樵『通志 二十略』中華書局1995、P4</ref>
こうして唐以降、正史は王朝の支配の正統性を明らかにする宣伝文書の色彩が色濃くなり、歴史書としては堕落したとされる。
後世では唐にならい、王朝が成立すると、滅亡した前王朝の正史を編纂させるようになった。このため、正確さよりも政治的思惑が最優先されて歴史書としての価値は大きく損なわれる事になった。歴史学者の岡田英弘は、「[[科挙]]に合格した高級文官の官僚が儒教に基づいて書くようになったため、軍事面がほとんど軽視されるようになり、政治を動かす軍人の言い分がほとんど正史に残らなくなった。また頭の中が儒教経典で凝り固まった官僚が[[中華思想]]に基づいて書くために、唐の皇帝が中央アジアを支配してもそのことを軽視するなど、記載が非現実的になってしまった」と嘆いている。<ref>岡田『世界史の誕生』ちくま文庫2001、原本は1992年、筑摩書房、P115-117</ref>実際、後世の歴史小説[[楊家将演義]]・[[水滸伝]]・[[説岳全伝]](岳飛伝)の元ネタになった宋代の武将たちの伝記も、『[[宋史]]』ではほとんど簡単にしか記されず、[[楊業]]・[[呼延賛]]・[[岳飛]]の列伝はひどく短く、ほとんど内容がない。また[[チンギス・カン]]の伝記である『[[元史]]』太祖本紀に至っては「チンギス・カンは大変優秀な人物だったが、史料がなくこの程度しか書けないのは本当に惜しいことだ」と編者[[宋濂]]が悲しんでいるほど内容が乏しい。映画や小説などになっているチンギス・カンが騎馬民族と戦って妻の[[ボルテ]]を取り返すような話や、中央アジア遠征をするなどの英雄譚は正史由来ではなく、ほとんど野史・実録の『[[元朝秘史]]』(もしくは異本ではないかとされる『[[聖武親征録]]』)に依拠している。[[小林高四郎]]の研究によると、元史太祖本紀は『聖武親征録』をかなり省略していることがわかっている。<ref>杉山正明『世界の歴史 (9) 大モンゴルの時代』中公文庫、小林高四郎『元史』明徳出版社。</ref>
唐代以前の中国の正史は歴史文学としての側面もあり、文学性も高かったが、「唐代以降は官位の等級が一定のランクを超えると、機械的に正史の列伝に記載されるようになったので、平凡で退屈な記載がなされるようになった。このため、歴史文学・伝記文学を志向する文学者は『碑誌行状』(ひしぎょうじょう)といわれる個人の伝記を私小説的に書くようになった」(要約)と中国文学者の吉川幸次郎は述べている。<ref>吉川編『中国散文選』筑摩書房・筑摩書房世界文学大系72の「解説」P370より。執筆は吉川幸次郎。</ref>
唐代以降は、正史が編纂される手法も確立される。朝廷内で皇帝に侍る史官が、皇帝および国家の重大事を記録する「起居注」を蓄積し、皇帝が崩御すると、代ごとに起居注をまとめた「[[実録]]」が編纂される。王朝が滅んだ際には次に正統を継いだ王朝が国家事業として、前王朝の皇帝ごとの実録を元に正史を編纂する、というのが大まかな手順である。このため、たとえば正史の「明史」よりも「明実録」の方が記録は詳細に残されている。史料としては、実録が1次史料、正史が2次史料ということになるが、どちらがより真実に近いかはそれぞれの史料によって異なるが、いずれにせよ皇帝と側近の少数の官僚だけで政策の意思決定をしており、その決定過程はほとんど正史にも実録にも残らなくなっていった。<ref>岡田『世界史の誕生』ちくま文庫2001、原本は1992年、筑摩書房、P114-115</ref>
清のとき、二十四書が正史として再度選ばれ、「[[二十四史]]」と呼ばれるようになったので、中国の正史といえば普通二十四史を指す。二十四史に、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]期に編纂された『[[新元史]]』や『[[清史稿]]』を含めて「二十五史」あるいは「二十六史」という呼び方も見られる。また、[[中華民国]]政府によって、正史としての『[[清史]]』(実際は『清史稿』の改訂)が編纂されたが、[[中華人民共和国]]政府はこれを認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を[[2002年]]より編纂中。当初は[[2013年]]の完成を予定していたが、内容に万全を期すため、完成は何度か先送りされている。[[2023年]]現在、原稿は完成したが、「中国政府から『清王朝が中華民族ではなかったことを書いてはいけない』と物言いが付き、未だ公開されていない」とシンガポール紙[[星島日報]]は伝えている。<ref>[https://www.singtaousa.com/2023-11-07/%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E8%A7%80%E5%AF%9F%EF%BC%9A%E6%9C%AA%E9%80%9A%E9%81%8E%E6%94%BF%E5%AF%A9-%E3%80%8A%E6%B8%85%E5%8F%B2%E3%80%8B%E8%A7%B8%E7%A4%81/4660464 中國觀察:未通過政審 《清史》觸礁]2023-11-07
18:37:00 公開</ref>
=== 中国の正史以外の重要な歴史書 ===
*[[資治通鑑]] - [[北宋]]の[[司馬光]]の編。[[五代十国時代|五代]]までの歴史を編年体に編集した歴史書。好評だった為に続編が次々に作られ、南宋の[[李燾]]の[[続資治通鑑長編]]、清の[[畢沅]]の[[続資治通鑑]]などがある。更に、これら続編もまとめてダイジェストした[[乾隆帝]]勅撰の[[御批通鑑輯覧]]のような本まで出た。
*[[書経]]([[尚書]]) - 編纂者は不明。伝説上の [[堯]]、[[舜]]の時代から[[周]]王の事績等が記されている。[[中国の歴史|中国史]]のおける最古の[[歴史書一覧|歴史書]]である。
== 日本の正史 ==
[[日本]]では[[7世紀]]前半にまとめられた「'''[[帝紀]]'''」「'''[[旧辞]]'''」が国家による歴史書編纂の始まりである。その後、[[漢文]]による正史の体裁で[[8世紀]]前半に編年体で『'''日本書紀'''』が成立した。それ以後続けて編年体の正史が作られたが、続日本紀以後は、編年体を基本としながらも人物の薨去記事に簡単な伝記を付載する「国史体」とよばれる独自のスタイルが確立した。これらは'''[[六国史]]'''と呼ばれているが、[[901年]]に撰された『日本三代実録』([[858年]]から[[887年]]までの30年間の歴史書)を最後に、朝廷による正史編纂事業は行われても完成をみることはなくなった。未完で終わったものとして「[[新国史]]」があり、その草稿の逸文が残っている。[[明治維新]]後にも[[明治政府の修史事業|正史編纂事業]]が進められ、漢文体の[[大日本編年史]]が企画されたものの、その編纂方針をめぐる対立や、編纂の中心となっていた[[久米邦武]]の[[久米邦武筆禍事件|筆禍事件]]により中止され、代わりに[[大日本史料]]が編纂されることとなった。
=== 六国史 ===
*[[日本書紀]]
*[[続日本紀]]
*[[日本後紀]]
*[[続日本後紀]]
*[[日本文徳天皇実録]]
*[[日本三代実録]]
=== 未完 ===
*[[新国史]](続三代実録)
*[[本朝世紀]] - [[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]が六国史を継ぐ国史として作らせた史書。未完。
=== 武家政権による史書 ===
*[[吾妻鏡]] - [[鎌倉幕府]]の編年体・日記体裁の史書。
*[[本朝通鑑]] (1670) - 林家が編纂した[[江戸幕府]]による編年体の通史。神代から[[後陽成天皇]]の代までを扱う。
*[[後鑑]] (1853) - 江戸幕府による[[室町幕府]]の史書。
*[[朝野旧聞裒藁]] (1842) - 江戸幕府による徳川氏創業史。
*[[徳川実紀]] (1844) - 江戸幕府による初代[[徳川家康]]から第10代[[徳川家治]]までの時代を扱った実録集。正式名は『御実紀』。
その他、江戸時代の諸藩では伊達藩の[[伊達治家記録]]、[[貝原益軒]]の[[黒田家譜]]のような藩ごとの歴史書が編まれた。これを「藩の正史」ということがある。
=== 大日本帝国による史書 ===
*[[大日本史料]] - 明治天皇の御沙汰書を端として、[[東京帝国大学|帝国大学]]文科大学史料編纂掛([[東京大学史料編纂所]])により編纂開始。戦後も編纂が続けられており、六国史以降の史料をまとめている。
=== 明治維新後宮内庁内部の事業 ===
*[[孝明天皇紀]]
*[[明治天皇紀]]
*[[大正天皇実録]]
*[[昭和天皇実録]]
=== 日本の正史以外の重要な歴史書 ===
*[[古事記]] - 『日本書紀』に先んじると序文に謳われている史書。ただし正史ではない。岡田英弘は後世の偽作ではないかとしている。
*[[上宮聖徳法王帝説]] - 『日本書紀』の同時代について違う記述を含む。
*[[類聚国史]] - 菅原道真撰、六国史の類書。
*[[日本紀略]] - 六国史の抜粋だが、散逸した巻の概要や政治的に改竄された箇所の原文を含み貴重。
*[[大日本史]] - [[水戸藩]]で編纂された紀伝体史書。
*[[大日本野史]] - 大日本史の続編として[[飯田忠彦]]が編んだ紀伝体史書。
*[[読史余論]] - [[新井白石]]が日本史の大勢について論じたもの。
*[[異称日本伝]] - 日本古代史において、中国の正史を参考にすべきとした先駆的な業績。[[松下見林]]著。
== 琉球の正史 ==
* [[中山世鑑]]
* [[中山世譜]]
* [[球陽]]
== ベトナムの正史 ==
* {{仮リンク|大越史記|vi|Đại Việt sử ký|zh|大越史記|en|Đại Việt sử ký}}({{lang-vi-short|Đại Việt sử ký}})
* [[大越史記全書]]({{lang-vi-short|Đại Việt sử ký toàn thư}})
* {{仮リンク|欽定越史通鑑綱目|vi|Khâm định Việt sử Thông giám cương mục|zh|欽定越史通鑑綱目|en|Khâm định Việt sử Thông giám cương mục}}({{lang-vi-short|Khâm định Việt sử Thông giám cương mục}})
* [[大南寔録]]({{lang-vi-short|Đại Nam thực lục}})
== 朝鮮の正史 ==
[[朝鮮]]では、[[高麗]]の[[金富軾]]が作った[[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]三国の紀伝体正史『[[三国史記]]』 ([[1145年]]) が最初の正史であり、現存する最古の歴史書である。高麗が[[李成桂]]の[[李氏朝鮮|朝鮮]]にとってかわられると、中国の正史編纂にならって紀伝体の『[[高麗史]]』が作られた。『[[高麗史]]』の最大の特徴は、歴代の高麗王の記述が天子を意味する「本紀」ではなく、諸侯の歴史をさす「世家」となっていることである。これは中国の天子の歴史だけが「本紀」といわれるべきであり、高麗王は中華皇帝の諸侯である、という趣旨からである。またそれとは別に編年体の『[[高麗史節要]]』も作られた。[[20世紀]]初頭まで続いた李氏朝鮮では、各国王一代の編年記録(実録)が編纂されつづけ、『[[朝鮮王朝実録]]』と呼ばれているが、紀伝体による李氏朝鮮王朝の正史は作られていない。
=== 朝鮮の正史以外の重要な歴史書 ===
*[[三国遺事]] - 高麗の僧、一然 ([[1209年|1206]] - [[1289年|89]]) の編。三国史記と並ぶ[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]の歴史を記述した歴史書。
== 注釈 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
*[[偽史]]
*[[野史]]
== 外部リンク ==
*[https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-85837#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 正史(セイシ)とは] - [[コトバンク]]
*[https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/theme-asia-159.html 中国の「正史」の原文] - 調べ方案内([[国立国会図書館]])
{{DEFAULTSORT:せいし}}
[[Category:二十四史|*せいし]]
[[Category:歴史書の形式]]
[[Category:東アジア史]]
[[Category:中国の歴史資料]]
[[Category:日本の歴史資料]]
[[Category:中国の史学史]]
[[Category:日本の史学史]]
[[Category:朝鮮の史学史]]
[[Category:ベトナムの歴史]]
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14,270 |
二十四史
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二十四史(にじゅうしし)とは、清代に標準として制定された『史記』から『明史』までの24部の正史をいう。
司馬遷『史記』によって紀伝体の史書という形式が生まれ、続編として班固『漢書』が書かれることによって断代史という概念が生まれた。南北朝時代にはこれに『東観漢記』を加えたものを三史と呼ぶようになった。『東観漢記』を書き改めて成立した後漢書と三国志までは、歴史家の個人的な著作物(私撰)だったものを歴史家の没後に歴代王朝が公認して正史としたものである。唐代になると、皇帝が官吏に命じて正史を編纂するようになり、それまでの各王朝の正史が補われ、三史より後の三国から隋にいたる史書をあわせて「十史」と呼んだ。ただ、このことによって歴史記録は手厚く保存されるようになったものの、多数の官吏が別々に書くために著述に一貫性を欠き、編者の思想が弱くなったために史書としての完成度は低くなったとされる。 宋書などの南北朝時代の正史は北宋時代以前に一度散逸しており、北宋時代に保存状況の良かった北史・南史から材料を拾って復元している。その後も新しい王朝が成立するたびに国家事業として前王朝の歴史書を編纂するようになったが、厳密にはタイムラグが有り、例えば遼史はその後の金朝滅亡までに完成せず、次の次の元朝に於いて金史・宋史と一緒に編纂されている。
清の乾隆4年(1739年)、明代の標準であった二十一史に『明史』、『旧唐書』、および『永楽大典』から集逸した『旧五代史』を加えて欽定二十四史とした。二十四史は乾隆4年から乾隆49年(1784年)までかけて武英殿で刊行された。
1930年代に上海商務印書館は、張元済の「これまでの正史は誤謬が多く読めるような状態ではないから、良い版本(善本)を日本などに求めて刊行すべきだ」という主張により善本を集めて影印した百衲本二十四史を出版した。この当時、既に三国志の善本は中国大陸になく、日本の帝室が蔵していた宋本を影写して刊行している。
中華人民共和国では1959年から1965年までかけて前四史(史記・漢書・後漢書・三国志)の校点本が中華書局から出版された。その後文化大革命のために二十四史の出版事業はいったん停止するが、1977年までかけて二十四史と『清史稿』校点本の出版が完了した。2007年から修訂事業が開始されている。
中華民国期に至って、元史を改めた『新元史』が編纂され、政府によって正史に加えられて二十五史となった。しかし、『新元史』のかわりに、同じく民国期の編纂による『清史稿』を数えて「二十五史」とする場合もあり、一定しない。『新元史』『清史稿』をともに含めた「二十六史」という呼び方もされている。
また、第二次世界大戦後の1961年に台湾国民政府の手によって『清史稿』を改訂して正史としての『清史』が編纂されたが、北京の中華人民共和国政府は、同書が中国国民党の史観によって『清史稿』を改悪したものであるとしてその存在価値を認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『清史』を2002年より編纂中。当初は2013年の完成を予定していたが、内容に万全を期するため、何度か先送りされている。
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二十四史(にじゅうしし)とは、清代に標準として制定された『史記』から『明史』までの24部の正史をいう。
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'''二十四史'''(にじゅうしし)とは、[[清]]代に標準として制定された『[[史記]]』から『[[明史]]』までの24部の[[正史]]をいう。
== 概要 ==
[[司馬遷]]『[[史記]]』によって[[紀伝体]]の史書という形式が生まれ、続編として[[班固]]『[[漢書]]』が書かれることによって[[断代史]]という概念が生まれた。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]にはこれに『[[東観漢記]]』を加えたものを三史と呼ぶようになった。『東観漢記』を書き改めて成立した[[後漢書]]と[[三国志 (歴史書)|三国志]]までは、歴史家の個人的な著作物(私撰)だったものを歴史家の没後に歴代王朝が公認して正史としたものである。[[唐]]代になると、皇帝が官吏に命じて正史を編纂するようになり、それまでの各王朝の正史が補われ、三史より後の三国から隋にいたる史書をあわせて「十史」と呼んだ。ただ、このことによって歴史記録は手厚く保存されるようになったものの、多数の官吏が別々に書くために著述に一貫性を欠き、編者の思想が弱くなったために史書としての完成度は低くなったとされる。<ref>この項、内藤湖南『支那史学史〈2〉』平凡社「東洋文庫」1992による。</ref>
<br />
[[宋書]]などの南北朝時代の正史は[[北宋]]時代以前に一度散逸しており、北宋時代に保存状況の良かった[[北史]]・[[南史]]から材料を拾って復元している。その後も新しい王朝が成立するたびに国家事業として前王朝の歴史書を編纂するようになったが、厳密にはタイムラグが有り、例えば[[遼史]]はその後の[[金]]朝滅亡までに完成せず、次の次の[[元]]朝に於いて[[金史]]・[[宋史]]と一緒に編纂されている。
[[清]]の[[乾隆]]4年(1739年)、明代の標準であった二十一史に『[[明史]]』、『[[旧唐書]]』、および『[[永楽大典]]』から集逸した『[[旧五代史]]』を加えて欽定二十四史とした。二十四史は乾隆4年から乾隆49年(1784年)までかけて[[武英殿]]で刊行された。
1930年代に[[上海]][[商務印書館]]は、[[張元済]]の「これまでの正史は誤謬が多く読めるような状態ではないから、良い版本(善本)を[[日本]]などに求めて刊行すべきだ」という主張により善本を集めて[[影印本|影印]]した[[百衲本]]二十四史を出版した。この当時、既に[[三国志 (歴史書)|三国志]]の善本は中国大陸になく、日本の帝室が蔵していた宋本を影写して刊行している。<ref>張元済『百衲本二十四史校勘記』後漢書の巻によった。</ref>
[[中華人民共和国]]では1959年から1965年までかけて前四史(史記・漢書・後漢書・三国志)の校点本が[[中華書局]]から出版された<ref>{{citation|和書|url=http://www.cnpubg.com/news/2017/0321/33689.shtml|title=“二十四史”校点缘起存件|author=蔡美彪|date=2017-03-21|publisher=中国出版集团}}</ref>。その後[[文化大革命]]のために二十四史の出版事業はいったん停止するが、1977年までかけて二十四史と『清史稿』校点本の出版が完了した。2007年から修訂事業が開始されている<ref>{{citation|和書|url=http://news.sina.com.cn/c/2007-05-17/074611836063s.shtml|title=点校本“二十四史”迎来大修|date=2007-05-17|publisher=新浪网}}</ref>。
== 一覧 ==
{| class="wikitable"
! !! 書名 !! 著者 !! 成立 !! 巻数 !! 構成
|-
|style="text-align:right"|1
|[[史記]]
|[[前漢]]・[[司馬遷]]
|紀元前91年
|style="text-align:right"|130巻
|本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻
|-
|style="text-align:right"|2
|[[漢書]]
|[[後漢]]・[[班固]]
|82年
|style="text-align:right"|100巻
|本紀12巻、列伝70巻、表8巻、志10巻
|-
|style="text-align:right"|3
|[[後漢書]]
|[[宋 (南朝)|南朝宋]]・[[范曄]]
|432年
|style="text-align:right"|120巻
|本紀10巻、列伝80巻、志30巻<ref>志は[[司馬彪]]の撰である。</ref>
|-
|style="text-align:right"|4
|[[三国志 (歴史書)|三国志]]
|[[西晋|晋]]・[[陳寿]]
|3世紀末
|style="text-align:right"|65巻
|魏国志30巻(本紀4巻、列伝26巻)、蜀国志15巻、呉国志20巻<ref>別に陳寿の自序一巻があったが失われたという説と、魏国志の一番最後にある文章(いわゆる[[魏志倭人伝]])が自序に当たるという[[古田武彦]]の説がある。古田の説は『ミネルヴァ日本評伝選 俾弥呼』ミネルヴァ書房2011に見える。</ref>
|-
|style="text-align:right"|5
|[[晋書]]
|[[唐]]・[[房玄齢]]他
|648年
|style="text-align:right"|130巻
|帝紀10巻・載記<ref>[[五胡]]の[[単于]]・[[天王]]・皇帝に関する記述</ref>30巻、列伝70巻、志20巻
|-
|style="text-align:right"|6
|[[宋書]]
|[[斉 (南朝)|南朝斉]]・[[沈約]]
|488年
|style="text-align:right"|100巻
|本紀10巻、列伝60巻、志30巻<ref>北宋時代に散逸して復元されたことが[[四庫全書総目提要]]に明記されている。詳細は[[宋書]]参照。</ref>
|-
|style="text-align:right"|7
|[[南斉書]]
|[[梁 (南朝)|南朝梁]]・[[蕭子顕]]
|6世紀前半
|style="text-align:right"|59巻<ref>もともと著者である蕭子顕の自叙1巻があったものの紛失して59巻になったとする説がある。</ref>
|本紀8巻、志11巻、列伝40巻
|-
|style="text-align:right"|8
|[[梁書]]
|[[唐]]・[[姚思廉]]
|636年
|style="text-align:right"|56巻
|本紀6巻、列伝50巻
|-
|style="text-align:right"|9
|[[陳書]]
|唐・姚思廉
|636年
|style="text-align:right"|36巻
|本紀6巻、列伝30巻
|-
|10
|[[魏書]]
|[[北斉]]・[[魏収]]
|554年
|style="text-align:right"|114巻
|本紀14巻、列伝96巻、志20巻
|-
|11
|[[北斉書]]
|唐・[[李百薬]]
|636年
|style="text-align:right"|50巻
|本紀8巻、列伝42巻
|-
|12
|[[周書]]
|唐・[[令狐徳棻]]他
|636年
|style="text-align:right"|50巻
|帝紀8巻、列伝42巻
|-
|13
|[[隋書]]
|唐・[[魏徴]]、[[長孫無忌]]
|656年
|style="text-align:right"|85巻
|本紀5巻、志30巻、列伝50巻
|-
|14
|[[南史]]
|唐・[[李延寿]]
|659年
|style="text-align:right"|80巻
|本紀10巻、列伝70巻
|-
|15
|[[北史]]
|唐・李延寿
|659年
|style="text-align:right"|100巻
|本紀12巻、列伝88巻
|-
|16
|[[旧唐書]]
|[[後晋]]・[[劉昫]]他
|945年
|style="text-align:right"|200巻
|本紀20巻、列伝150巻、志30巻
|-
|17
|[[新唐書]]
|[[北宋]]・[[欧陽脩]]、[[宋祁]]
|1060年
|style="text-align:right"|225巻
|本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻
|-
|18
|[[旧五代史]]
|北宋・[[薛居正]]他
|974年
|style="text-align:right"|150巻
|梁書24巻、唐書50巻、晉書24巻、漢書11巻、周書22巻、志12巻
|-
|19
|[[新五代史]]
|北宋・[[欧陽脩]]
|1053年
|style="text-align:right"|74巻
|本紀12巻、列伝45巻、考3巻、世家及年譜11巻、四夷附録3巻
|-
|20
|[[宋史]]
|[[元 (王朝)|元]]・[[トクト|脱脱]]他
|1345年
|style="text-align:right"|496巻
|本紀47巻、志162巻、表32巻、列伝255巻
|-
|21
|[[遼史]]
|元・脱脱他
|1345年
|style="text-align:right"|116巻
|本紀30巻、志32巻、表8巻、列伝45巻、国語解1巻
|-
|22
|[[金史]]
|元・脱脱他
|1345年
|style="text-align:right"|135巻
|本紀19巻、志39巻、表4巻、列伝71巻
|-
|23
|[[元史]]
|[[明]]・[[宋濂]]、[[高啓]]他
|1370年
|style="text-align:right"|210巻
|本紀47巻、表8巻、志58巻、列伝97巻
|-
|24
|[[明史]]
|[[清]]・[[張廷玉]]等
|1739年
|style="text-align:right"|332巻
|本紀24巻、列伝220巻、表13巻、志75巻、目録4巻
|}
== 続編 ==
* [[新元史]] - 1919年に[[柯劭忞]]が中心となって編纂された。本紀26巻、表7巻、志70巻、列伝154巻から構成される。
* [[清史稿]] - 1927年に[[趙爾巽]]が中心となって編纂された。本紀25巻、志142巻、表53巻、列伝316巻の536巻から構成される<ref>一部の巻の削除・追加が行われて529巻に再編されているものもある。</ref>。
[[中華民国]]期に至って、元史を改めた『[[新元史]]』が編纂され、政府によって正史に加えられて'''二十五史'''となった。しかし、『新元史』のかわりに、同じく民国期の編纂による『[[清史稿]]』を数えて「二十五史」とする場合もあり、一定しない。『新元史』『清史稿』をともに含めた「二十六史」という呼び方もされている。
また、[[戦後|第二次世界大戦後]]の[[1961年]]に[[中華民国]]政府の手によって『清史稿』を改訂して正史としての『[[清史稿#清史(中華民国)|清史]]』が編纂されたが、[[北京市|北京]]の[[中華人民共和国]]政府は、同書が中国国民党の史観によって『清史稿』を改悪したものであるとしてその存在価値を認めていない。中華人民共和国は国家清史編纂委員会を立ち上げ、独自の『[[清史稿#清史(中華人民共和国)|清史]]』を[[2002年]]より編纂中。当初は[[2013年]]の完成を予定していたが、内容に万全を期するため、何度か先送りされている。
== 二十四史の部分集合 ==
*三史 - 現在三史とは通常は『史記』・『漢書』・『後漢書』のことであるが、[[六朝時代]]ころまでは『史記』・『漢書』・『[[東観漢記]]』の3つを三史と呼んでいた。その他に『[[戦国策]]』・『史記』・『漢書』の3つや『[[書経]]』・『[[詩経]]』・『[[春秋]]』の3つを三史と呼ぶ例もある<ref>「三史」[[川越泰博]]編『中国名数辞典』[[国書刊行会]]、1980年、p. 19。</ref>。
*四史 - 『史記』・『漢書』・『後漢書』・『三国志』。正史の最初の4種であるため「前四史」ともいう。
*十史 - 唐代に補われた、三史より後の『三国志』から『隋書』までをいう。
*十三史 - 三史と十史をあわせた、『史記』から『隋書』までの正史をいう。唐代の標準。
*十七史 - 十三史に『南史』・『北史』・『唐書』・『五代史』を加えたもの。宋代の標準であり、『[[三字経]]』にも「十七史、全在茲」という。宋以降にも十七史の名は使われ、[[毛晋]]は汲古閣本十七史を出版した。[[王鳴盛]]の『[[十七史商榷]]』が有名だが、この著書は『旧唐書』と『旧五代史』を含んでいるために実際には十九史になっている。なお宋の目録類で『南史』・『北史』は別史・雑史扱いであり、十三史に新旧の『唐書』・『五代史』を加えたものが本来の十七史であったが、『旧唐書』・『旧五代史』が廃れたためにかわりに『南史』・『北史』を加えて十七史としたともいう<ref>{{cite journal|和書|author=梁紹傑|title=説“別史”|journal=東方文化|publisher=香港大学中文学院|volume=39|issue=2|year=2005|pages=216-217|jstor=23500576}}</ref>。
*十八史 - 十七史に『宋史』を加えたものをいう。ただし曾先之『[[十八史略]]』においてはまだ『宋史』が未完成であったため、その代わりに『続宋編年資治通鑑』(李熹)と『続宋中興編年資治通鑑』(劉時挙)の二書を『宋鑑』としてひとつと数え、十八史とする。
*二十一史 - 十七史に『宋史』・『遼史』・『金史』・『元史』を加えたもの。明代の標準。
*二十二史 - 二十一史に『明史』を加えたものをいう。ただし、[[銭大昕]]の『[[二十二史考異]]』においては二十四史から『旧五代史』および『明史』を抜いたものであり、[[趙翼]]の『[[二十二史箚記]]』においては二十四史から『新唐書』および『新五代史』を抜いたものである。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! !! 書名 !! 前三史 !! 後三史 !! 四史 !! 十三史 !! 十七史 !! 十八史 !! 二十一史 !! 二十二史 !! 二十四史 !! 二十五史 !! 二十六史
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|1
|史記
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|2
|漢書
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|3
|後漢書
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|4
|三国志 (歴史書)|三国志
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|5
|晋書
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|6
|宋書
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|7
|南斉書
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|8
|梁書
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|9
|陳書
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|10
|魏書
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|11
|北斉書
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|12
|周書
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|13
|隋書
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|14
|南史
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|15
|北史
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|16
|旧唐書
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|17
|新唐書
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|18
|旧五代史
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|19
|新五代史
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|20
|宋史
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|21
|遼史
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|22
|金史
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|23
|元史
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|24
|明史
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|25
|新元史
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|△
|○
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|26
|清史稿
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|△
|○
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|27
|東観漢記
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|}
==脚注==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[正史]]
*[[中国史]]
*[[十八史略]]
*[[資治通鑑]]
== 外部リンク ==
*[http://hanji.sinica.edu.tw/ 漢籍電子文獻] - 二十五史を含めた漢籍を参照することができる。(中文)
{{DEFAULTSORT:にしゆうしし}}
[[Category:清朝]]
[[Category:二十四史|*]]
[[Category:中国の名数24|し]]
|
2003-08-28T11:01:53Z
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2023-11-03T10:53:05Z
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Subsets and Splits
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