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14,272 |
瑜伽師地論
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『瑜伽師地論』(ゆがしじろん、梵: Yogācārabhūmi-śāstra, ヨーガーチャーラ・ブーミ・シャーストラ)は、大乗仏教唯識派の重要な文献。
表題は「ヨーガ行者の階梯についての論」の意。100巻、弥勒菩薩説、唐・玄奘訳(大正蔵・30)。ただし、チベット訳では無着所説という。
世親の兄である無著(asaṅga, असङ्ग)が、兜率天に住む弥勒菩薩(maitreya मैत्रेय)の説を聞いて著したといわれている。瑜伽行(yogācāra)の観法を詳説したものである。
本書は、瑜伽行者が認識する対象(境)、修行、果を明らかにしたもので、阿頼耶識説、三性三無性説、唯識説、その他のさまざまな問題が詳しく説かれている。 組織は5つからなり、第1本地分では、三乗の思想を、
の17地に分けて説き、第2の摂決択分では本地の中の要義を説明し、第3の摂釈分では諸経の儀則を解釈し、第4の摂異門分では経典中の諸法の名義を解釈し、第5の摂事分では三蔵の要義を解釈している。
なお、これらの部分訳がある。
本書に影響をうけた論書に、次のようなものがある。
なお、下記は菩薩地と同じ名前であり、菩薩地に基づいて内容を発展したものである。
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『瑜伽師地論』は、大乗仏教唯識派の重要な文献。
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『'''瑜伽師地論'''』(ゆがしじろん、{{lang-sa-short|Yogācārabhūmi-śāstra}}, '''ヨーガーチャーラ・ブーミ・シャーストラ''')は、[[大乗仏教]][[唯識派]]の重要な文献。
==概要==
表題は「ヨーガ行者の階梯についての論」の意。100巻、[[弥勒]]菩薩説、[[唐]]・[[玄奘三蔵|玄奘]]訳(大正蔵・30)。ただし、チベット訳では無着所説という。
[[世親]]の兄である[[無著]]({{lang|sa|asaṅga}}, असङ्ग)が、[[兜率天]]に住む[[弥勒菩薩]]({{lang|sa|maitreya}} मैत्रेय)の説を聞いて著したといわれている。瑜伽行({{lang|sa|yogācāra}})の観法を詳説したものである。
==内容==
本書は、[[瑜伽]][[行者]]が認識する対象([[境]])、修行、果を明らかにしたもので、[[阿頼耶識]]説、[[三性]]三無性説、[[唯識]]説、その他のさまざまな問題が詳しく説かれている。<br>
組織は5つからなり、第1[[本地]]分では、三乗の思想を、
# 五識身相応地
# 意地
# 有尋無伺地
# 無尋唯伺地
# 無尋無伺地
# 三摩哂多地
# 非三摩哂多地
# 有心地
# 無心地
# 聞所成地
# 思所成地
# 修所成地
# 声聞地
# 独覚地
# 菩薩地
# 有余依地
# 無余依地
の17地に分けて説き、第2の摂決択分では本地の中の要義を説明し、第3の摂釈分では諸経の儀則を解釈し、第4の摂異門分では経典中の諸法の名義を解釈し、第5の摂事分では三蔵の要義を解釈している。
なお、これらの部分訳がある。
* 『菩薩地持経』10巻 [[北涼]] [[曇無讖]]訳 菩薩地
* 『菩薩善戒経』9巻 [[劉宋|宋]] [[求那跋摩]]訳 菩薩地
* 『十七地論』5巻(散佚) [[梁 (南朝)|梁]] [[真諦]]訳 本地分の初め
* 『決定蔵経』3巻 梁 真諦訳 摂決釈分の初め
本書に影響をうけた論書に、次のようなものがある。
* 『顕揚聖教論』20巻
* 『大乗阿毘達磨集論』7巻
* 『摂大乗論』[[無著]]著
* 『摂大乗論釈』[[世親]]著
* 『仏性論』世親著
* 『成唯識論』護法著
なお、下記は菩薩地と同じ名前であり、菩薩地に基づいて内容を発展したものである。
* 『大乗荘厳経論』13巻({{lang|sa|mahāyānasūtrālaṅkāra}})
==註釈書==
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1829_ 『瑜伽師地論略纂』]16巻 [[基 (僧)|基]]
* [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1828_ 『瑜伽論記』]48巻 遁倫
==関連項目==
{{wikisourcelang|zh|瑜伽師地論}}
*[[唯識派]]
*[[瑜伽部 (大正蔵)]]
{{唯識}}
{{仏教典籍}}
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[[category:論 (仏教)]]
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大江戸ファイト
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『大江戸ファイト』(おおえどファイト、海外名:Blood Warrior)は、1994年7月下旬にカネコより発売された業務用対戦型格闘ゲームである。 本作は『富士山バスター』の続編にあたり、前作の江戸時代風の世界観と怪しいキャラクターを前面に押し出しながらも、実写取り込みや残虐な演出といった『モータルコンバット』に似た要素が導入されており、瀕死の敵にとどめを刺すこともできる。設定切り替えによって残虐表現をモザイクで隠すこともできる。
本作に登場する9人のうち、霞(くノ一)と一休(地蔵)以外はすべて前作『富士山バスター』から引き続き登場しており、前作では職業名や種族名で呼ばれていたキャラクターは、本作では個人名で呼ばれている。
また、前作でボスキャラクターを務めた弁慶と五右衛門は、本作ではプレイヤーキャラクターに昇格した。4人のボスがいた前作とは違い、ボスキャラクターは存在せず、全キャラクターに勝った時点でエンディングとなる。キャラクターカラーは2種類のみで、同キャラクターを選ばない限り2Pカラーは見られない。また、登場人物のモデルはJAC所属のタレントで、ゲームステージは日光江戸村で収録された。
開発スタッフの中には『ゲーム批評』でコラムを執筆していたがっぷ獅子丸がいた。
パソコンゲーム雑誌の編集者である前田尋之の公式サイト「電脳世界のひみつ基地」においてライターの稲波は、独特の味付けに加え、日本の2D対戦型格闘ゲームのような操作感覚と、『モータルコンバット』のような残虐性や実写取り込みが合わさったことによって、異色の格闘ゲームとなったと述べている。 また、稲波は、本作が店頭で稼働していた時期は短かったものの瞬間的な人気があり、プレイヤーに大きな印象を残したと振り返っている。
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『大江戸ファイト』は、1994年7月下旬にカネコより発売された業務用対戦型格闘ゲームである。
本作は『富士山バスター』の続編にあたり、前作の江戸時代風の世界観と怪しいキャラクターを前面に押し出しながらも、実写取り込みや残虐な演出といった『モータルコンバット』に似た要素が導入されており、瀕死の敵にとどめを刺すこともできる。設定切り替えによって残虐表現をモザイクで隠すこともできる。 本作に登場する9人のうち、霞(くノ一)と一休(地蔵)以外はすべて前作『富士山バスター』から引き続き登場しており、前作では職業名や種族名で呼ばれていたキャラクターは、本作では個人名で呼ばれている。 また、前作でボスキャラクターを務めた弁慶と五右衛門は、本作ではプレイヤーキャラクターに昇格した。4人のボスがいた前作とは違い、ボスキャラクターは存在せず、全キャラクターに勝った時点でエンディングとなる。キャラクターカラーは2種類のみで、同キャラクターを選ばない限り2Pカラーは見られない。また、登場人物のモデルはJAC所属のタレントで、ゲームステージは日光江戸村で収録された。 開発スタッフの中には『ゲーム批評』でコラムを執筆していたがっぷ獅子丸がいた。
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『'''大江戸ファイト'''』(おおえどファイト、海外名:''Blood Warrior'')は、[[1994年]]7月下旬に[[カネコ]]より発売された[[アーケードゲーム|業務用]][[対戦型格闘ゲーム]]である<ref name="Gamemachine19940815">{{Cite news|title=システム基板「AX」第一弾 3本勝負で格闘 金子製作所「大江戸ファイト」|date=1994-08-15|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19940815p.pdf|newspaper=[[ゲームマシン]]|publisher=[[アミューズメント通信社]]|accessdate=2020-03-30|issue=478|page=21}}</ref>。
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また、前作でボスキャラクターを務めた[[武蔵坊弁慶|弁慶]]と[[石川五右衛門|五右衛門]]は、本作では[[プレイヤーキャラクター]]に昇格した。4人のボスがいた前作とは違い、[[ボスキャラクター]]は存在せず、全キャラクターに勝った時点でエンディングとなる。キャラクターカラーは2種類のみで、同キャラクターを選ばない限り2Pカラーは見られない。また、登場人物の[[題材|モデル]]は[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]]所属のタレントで、ゲームステージは[[日光江戸村]]で収録された。
開発スタッフの中には『[[ゲーム批評]]』でコラムを執筆していた[[がっぷ獅子丸]]がいた。
== 登場キャラクター ==
; 金四郎
: 前作の[[侍]]。
; 嵐
: 前作の[[忍者]]。
; 獅子丸
: 前作の[[歌舞伎]]。
; 三平
: 前作の[[河童]]。
; 秀月
: 前作の[[将軍]]。
; 五右衛門
; 弁慶
; 一休
: 新規追加されたキャラクターの[[地蔵]]。
; 霞
: 新規追加されたキャラクターの[[くノ一]]。
== 評価 ==
パソコンゲーム雑誌の編集者である前田尋之の公式サイト「電脳世界のひみつ基地」においてライターの稲波は、独特の味付けに加え、日本の2D対戦型格闘ゲームのような操作感覚と、『モータルコンバット』のような残虐性や実写取り込みが合わさったことによって、異色の格闘ゲームとなったと述べている{{R|maeda20190204}}。
また、稲波は、本作が店頭で稼働していた時期は短かったものの瞬間的な人気があり、プレイヤーに大きな印象を残したと振り返っている{{R|maeda20190204}}。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[バカゲー]]
* [[残酷ゲーム]]
== 外部リンク ==
*{{KLOV game|id=7164}}
{{video-game-stub}}
{{デフォルトソート:おおえとふあいと}}
[[Category:カネコのゲームソフト]]
[[Category:対戦型格闘ゲーム]]
[[Category:1994年のアーケードゲーム]]
[[Category:江戸時代を舞台としたコンピュータゲーム]]
[[Category:実写取り込みを用いたコンピュータゲーム]]
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モルモン書
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『モルモン書』 (モルモンしょ、英: The Book of Mormon)は、キリスト教系の新宗教である末日聖徒イエス・キリスト教会およびコミュニティ・オブ・クライストの聖典のひとつ。
表題は大正時代に『モルモン経』 (ーけい)と訳され、近年まで続いていた。教団外の文献では『モルモン経典』などと訳されている場合もある。
モルモン (Mormon) とは、最後の預言者モロナイの父の名前である。末日聖徒イエス・キリスト教会で使用している聖典のひとつが、モルモン書と呼ばれ、教会が俗称モルモン教と呼ばれるのは、この人物に由来する。
1823年9月21日、ジョセフ・スミス・ジュニアはモロナイと名乗る神の使者に黄金の板の聖なる文書の存在を告げられ、4年後18歳になった時に掘るようにいわれた。
黄金の板は最初の預言者の家族の一人から預言者モルモンまで書き継がれ、死ぬ前にその子最後の預言者モロナイが西暦421年にクモラの丘にそれを隠してから、1827年にジョセフ・スミス・ジュニアが掘り起こすまで、ずっとその丘に埋められていた。
1827年9月22日にジョセフ・スミス・ジュニアが古代の変体エジプト語で黄金の板に書かれたイエス・キリストについての聖書とは別の「もうひとつの証(Another Testament)」をニューヨーク州ウエイン郡にある丘に埋められたセメントの箱の中から入手した。なお、箱の中にはほかにウリムとトンミムという道具が入っていた。
ジョセフ・スミス・ジュニアがウリムとトリムを使ってこの文書を翻訳口述しオリバー・カウドリ(英語版)とマーティン・ハリス (1783年生)(英語版)が英語で筆記した。原典である黄金の板は翻訳の後、天使へ返還したとされている。
翻訳された内容は、1830年に出版された。現在は英語だけでなく、色々な言語に翻訳・出版されている。現在までの頒布部数は全世界で1億部を超えている。
ジョセフ・スミス・ジュニアによるとその金板の大きさは幅15センチメートル、長さ20センチメートル、厚15センチメートルのルーズリーフのような構造で一方を3つの輪でとじてあった。1ページの厚みはブリキ板よりやや薄い金製の板だった。材質は「ブリキ板よりやや薄い」という証言から強度的に考えて18金程度の合金だった可能性が高いと言われている。(純金という記述もあるが分析した結果ではない) 重量については記録はないが運搬には馬が必要だったといわれている。天使から封をしてある部分(全体の約3分の2)は読むことを禁じられ、封のない3分の1の翻訳を命じられていた。そのため封じられた部分と翻訳を命じられた部分に一時的に分解された可能性がある(翻訳中の過失により原稿が紛失したことがきっかけで一部の封を切ることが許され、その部分の翻訳を命じられている)。翻訳は封じられていない部分の70~100ページ分と考えられている。使用されている文字は変形エジプト文字であり、本書の翻訳は普通の対訳ではなく、ウリムとトンミムの助けを借りて、古代文字を鍵として心に浮かんだイメージや文章を口述させたものであり、翻訳書というよりも解説書に近い。
黄金の板についてはジョセフ・スミス・ジュニア以外に11人の人物が、実際に手で触れたという宣誓供述書に署名し、残している。
ジョセフの言及によると、1823年9月、17歳になった彼はモロナイという天の使者の訪れを受けた。そしてモロナイはジョセフに、アメリカ大陸の古代の住民の記録が近くの丘に埋められていることを伝えた。また、その記録にはイエス・キリストの完全な福音が載っていることも告げた。
1827年9月、21歳になったジョセフは金版の書を現在のクモラの丘(現在のニューヨーク)から掘り出し、神の霊感によってその書物を英語に翻訳し,この記録を編纂した古代の預言者モルモンの名にちなんでモルモン書と名づけたとされる。この書物はキリストについての(聖書と並ぶ)もう一つの証として,イエス・キリストの神性を証明すると主張している。
モルモン書の最後の預言者モロナイは、モルモン書が真実かどうか知りたいと願うすべての人に、次のような約束を残した。「また,この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」(モロナイ10:4)
2010年現在、モルモン書は106以上の言語に翻訳され、教会員は聖書と共に使用している。
モルモン書全般にわたって記述されている内容は、大きく分けて歴史的な記録と神の教えである。
内容は紀元前600年頃(預言者エレミヤの時代)、エルサレムからアメリカ大陸へ渡ったリーハイとその家族から始まり、その地において、神に従順なニーファイ人の子孫と神に背くレーマン人の子孫が対立、抗争しながら大陸全土に増え、最終的には慢心したニーファイ人がレーマン人に滅ぼされるまでの「歴史」である。 またそれに加えて、バベルの塔の時代に同様にアメリカ大陸に移動してきた2つの民族の興亡の記述もある。
モルモン書の記述の中には、復活したイエス・キリストが古代アメリカ大陸に訪れたという記述が見られる。
モルモン書については当初から批判を浴びてきた。以下にスミソニアン協会からの指摘を記す。
DNAの研究の結果、ネイティブ・アメリカンの祖先はモンゴロイドであることが明らかとなった。したがって現在のネイティブ・アメリカンの先祖がヘブル人である(若しくはヘブル人と原住民との混血)とするジョセフ・スミスの当時の発言は科学的・人類学的に否定されている。
スミソニアン協会は「現存する証拠によると、東方からアメリカ大陸に到達した最初の人々は、紀元1000年頃に北アメリカの北部を短期的に訪れていたスカンジナビア民族である」「古代において、アメリカ大陸の住民と中東の住民との接触がなかったことは確かである」という見解を示している。
また、当時のアメリカ大陸になかったと考えられる食用イチジク(アラビア原産)、オリーブ(地中海原産)、真鍮(16世紀に発明された合金)、亜麻布、バターなどが記述されている。これらは当時のアメリカ大陸に存在したと考え難いと言及している。
金板については見つかっていないし、他に見た者もいない また、翻訳に使われたとされるウリムとトンミムも見つかっていない。
外部からの批判や真偽性についての議論はあるものの、モルモン書はそれを信じる末日聖徒にとっては、彼らの「宗教の要石(かなめいし)」として信仰上の大きな意義をもっている。
末日聖徒によれば、モルモン書は原典から直接、正確に翻訳された書物であり、そのため、キリストの福音や教義を正確に伝えるものだと言われているがその根拠はない。
末日聖徒は、モルモン書を頻繁に読むように勧められており、モルモン書から受けた霊感を毎日の生活の中で活かすよう勧められている。
また、古代の預言者たちによって記録されたと信じられているイエス・キリストの教義や、古代のアメリカ大陸でイエス・キリストが先住民たちを親しく教え導いたとされる様子なども描かれており、その書物を信じる者にとっては、イエス・キリストへの信仰を育むためになくてはならない大切な書物となっている。
末日聖徒は、原始のキリスト教会にあったキリストの純粋かつ完全な福音が、迫害や背教により人類の歴史の中で失われてしまったと信じている。末日聖徒にとって、モルモン書は、失われてしまった純粋かつ完全な福音を神が回復してくださった(もう一度人類に与えてくださった)ことを示す重要な証拠であると信じられている。
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"text": "ジョセフ・スミス・ジュニアによるとその金板の大きさは幅15センチメートル、長さ20センチメートル、厚15センチメートルのルーズリーフのような構造で一方を3つの輪でとじてあった。1ページの厚みはブリキ板よりやや薄い金製の板だった。材質は「ブリキ板よりやや薄い」という証言から強度的に考えて18金程度の合金だった可能性が高いと言われている。(純金という記述もあるが分析した結果ではない) 重量については記録はないが運搬には馬が必要だったといわれている。天使から封をしてある部分(全体の約3分の2)は読むことを禁じられ、封のない3分の1の翻訳を命じられていた。そのため封じられた部分と翻訳を命じられた部分に一時的に分解された可能性がある(翻訳中の過失により原稿が紛失したことがきっかけで一部の封を切ることが許され、その部分の翻訳を命じられている)。翻訳は封じられていない部分の70~100ページ分と考えられている。使用されている文字は変形エジプト文字であり、本書の翻訳は普通の対訳ではなく、ウリムとトンミムの助けを借りて、古代文字を鍵として心に浮かんだイメージや文章を口述させたものであり、翻訳書というよりも解説書に近い。",
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"text": "ジョセフの言及によると、1823年9月、17歳になった彼はモロナイという天の使者の訪れを受けた。そしてモロナイはジョセフに、アメリカ大陸の古代の住民の記録が近くの丘に埋められていることを伝えた。また、その記録にはイエス・キリストの完全な福音が載っていることも告げた。",
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"text": "1827年9月、21歳になったジョセフは金版の書を現在のクモラの丘(現在のニューヨーク)から掘り出し、神の霊感によってその書物を英語に翻訳し,この記録を編纂した古代の預言者モルモンの名にちなんでモルモン書と名づけたとされる。この書物はキリストについての(聖書と並ぶ)もう一つの証として,イエス・キリストの神性を証明すると主張している。",
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"text": "モルモン書の最後の預言者モロナイは、モルモン書が真実かどうか知りたいと願うすべての人に、次のような約束を残した。「また,この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」(モロナイ10:4)",
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"text": "スミソニアン協会は「現存する証拠によると、東方からアメリカ大陸に到達した最初の人々は、紀元1000年頃に北アメリカの北部を短期的に訪れていたスカンジナビア民族である」「古代において、アメリカ大陸の住民と中東の住民との接触がなかったことは確かである」という見解を示している。",
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"text": "また、当時のアメリカ大陸になかったと考えられる食用イチジク(アラビア原産)、オリーブ(地中海原産)、真鍮(16世紀に発明された合金)、亜麻布、バターなどが記述されている。これらは当時のアメリカ大陸に存在したと考え難いと言及している。",
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『モルモン書』 は、キリスト教系の新宗教である末日聖徒イエス・キリスト教会およびコミュニティ・オブ・クライストの聖典のひとつ。 表題は大正時代に『モルモン経』 (ーけい)と訳され、近年まで続いていた。教団外の文献では『モルモン経典』などと訳されている場合もある。
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{{正確性|date=2007年4月}}
[[ファイル:Mormon Kei.JPG|160px|thumb|日本語のモルモン書]]
『'''モルモン書'''』 (モルモンしょ、{{lang-en-short|The Book of Mormon}})は、[[キリスト教系の新宗教]]である[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]および[[コミュニティ・オブ・クライスト]]の聖典のひとつ。
表題は[[大正|大正時代]]に『'''モルモン経'''』 (ーけい)と訳され、近年まで続いていた。教団外の文献では『'''モルモン経典'''』などと訳されている場合もある。
== モルモン書の起源 ==
{{Ambox|type=content|text=この小項目の内容の殆どは、末日聖徒イエス・キリスト教会による情報だけで成り立っています。原典の存在は科学的に確認されておらず、内容について一般的に考古学者は支持していません。}}
モルモン (Mormon) とは、最後の預言者モロナイの父の名前である。末日聖徒イエス・キリスト教会で使用している聖典のひとつが、モルモン書と呼ばれ、教会が俗称モルモン教と呼ばれるのは、この人物に由来する。
=== 入手および翻訳の経緯 ===
[[1823年]][[9月21日]]、[[ジョセフ・スミス・ジュニア]]は[[モロナイ]]と名乗る神の使者に黄金の板の聖なる文書の存在を告げられ、4年後18歳になった時に掘るようにいわれた。
黄金の板は最初の預言者の家族の一人から預言者モルモンまで書き継がれ、死ぬ前にその子最後の預言者モロナイが西暦[[421年]]にクモラの丘にそれを隠してから、[[1827年]]にジョセフ・スミス・ジュニアが掘り起こすまで、ずっとその丘に埋められていた。
[[image:GrandinPrintingShop.jpg|200px|right|thumb|初版が印刷された印刷所]]
[[ファイル:Book of Mormon Lands and Sites2.jpg|300px|thumb|]]
[[1827年]][[9月22日]]にジョセフ・スミス・ジュニアが古代の変体[[エジプト語]]で黄金の板に書かれた[[イエス・キリスト]]についての[[聖書]]とは別の「もうひとつの証(Another Testament)」を[[ニューヨーク州]][[ウェイン郡 (ニューヨーク州)|ウエイン郡]]にある丘に埋められたセメントの箱の中から入手した。なお、箱の中にはほかにウリムとトンミムという道具が入っていた<ref>[http://lds.org/study/topics/urim-and-thummim?lang=jpn ウリムとトンミム]{{リンク切れ|date=2021年12月}}</ref>。
ジョセフ・スミス・ジュニアがウリムとトリムを使ってこの文書を翻訳口述し{{仮リンク|オリバー・カウドリ|en|Oliver Cowdery}}と{{仮リンク|マーティン・ハリス (1783年生)|en|Martin Harris (Latter Day Saints)}}が[[英語]]で筆記した。原典である黄金の板は翻訳の後、天使へ返還したとされている。
翻訳された内容は、[[1830年]]に出版された。現在は英語だけでなく、色々な言語に翻訳・出版されている。現在までの頒布部数は全世界で1億部を超えている。
=== 形態 ===
[[画像:GOLDEN PLATES.jpg|right|200px|]]
[[画像:Caractors large.jpg|thumb|200px|原典から写されたとされる古代文字]]
ジョセフ・スミス・ジュニアによるとその金板の大きさは幅15センチメートル、長さ20センチメートル、厚15センチメートルのルーズリーフのような構造で一方を3つの輪でとじてあった。1ページの厚みはブリキ板よりやや薄い金製の板だった。材質は「ブリキ板よりやや薄い」という証言から強度的に考えて18金程度の合金だった可能性が高いと言われている。(純金という記述もあるが分析した結果ではない) 重量については記録はないが運搬には馬が必要だったといわれている。天使から封をしてある部分(全体の約3分の2)は読むことを禁じられ、封のない3分の1の翻訳を命じられていた。そのため封じられた部分と翻訳を命じられた部分に一時的に分解された可能性がある(翻訳中の過失により原稿が紛失したことがきっかけで一部の封を切ることが許され、その部分の翻訳を命じられている)。翻訳は封じられていない部分の70~100ページ分と考えられている。使用されている文字は変形エジプト文字であり、本書の翻訳は普通の対訳ではなく、ウリムとトンミムの助けを借りて、古代文字を鍵として心に浮かんだイメージや文章を口述させたものであり、翻訳書というよりも解説書に近い。
黄金の板についてはジョセフ・スミス・ジュニア以外に11人の人物が、実際に手で触れたという宣誓供述書に署名し、残している。
== ジョセフ・スミスの主張 ==
ジョセフの言及によると、1823年9月、17歳になった彼はモロナイという天の使者の訪れを受けた。そしてモロナイはジョセフに、アメリカ大陸の古代の住民の記録が近くの丘に埋められていることを伝えた。また、その記録にはイエス・キリストの完全な福音が載っていることも告げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/pgp/js-h/1.27-34?lang=jpn|title=『ジョセフ・スミス―歴史』1:27-34)|accessdate=2016-11-4|publisher=}}</ref>。
1827年9月、21歳になったジョセフは金版の書を現在のクモラの丘(現在のニューヨーク)から掘り出し、神の霊感によってその書物を英語に翻訳し,この記録を編纂した古代の預言者モルモンの名にちなんでモルモン書と名づけたとされる。この書物はキリストについての(聖書と並ぶ)もう一つの証として,イエス・キリストの神性を証明すると主張している。
モルモン書の最後の預言者モロナイは、モルモン書が真実かどうか知りたいと願うすべての人に、次のような約束を残した。「また,この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」(モロナイ10:4)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/bofm/moro/10.4?lang=jpn|title=モロナイ10:4|accessdate=2016-11-4|publisher=}}</ref>
2010年現在、モルモン書は106以上の言語に翻訳され、教会員は聖書と共に使用している<ref> [http://ja.mormonwiki.com/%E8%81%96%E6%9B%B8 聖書]</ref>。
== 公開された英文の内容 ==
[[画像:Mormon1830signature.jpg|thumb|200px|モルモン書の初版本(1830年)]]
モルモン書全般にわたって記述されている内容は、大きく分けて歴史的な記録と[[神]]の教えである。
内容は[[紀元前600年]]頃(預言者[[エレミヤ]]の時代)、[[エルサレム]]から[[アメリカ大陸]]へ渡ったリーハイとその家族から始まり、その地において、神に従順なニーファイ人の子孫と神に背くレーマン人の子孫が対立、抗争しながら大陸全土に増え、最終的には慢心したニーファイ人がレーマン人に滅ぼされるまでの「歴史」である。
またそれに加えて、[[バベルの塔]]の時代に同様にアメリカ大陸に移動してきた2つの民族の興亡の記述もある。
モルモン書の記述の中には、復活した[[イエス・キリスト]]が古代アメリカ大陸に訪れたという記述が見られる。
== 歴史的信憑性 ==
モルモン書については当初から批判を浴びてきた。以下にスミソニアン協会からの指摘を記す<ref>{{Cite web|和書|url=http://garyo.or.tv/michi/sinjitu/bomormon/smithon.htm|title=「モルモン書」についてのスミソニアン協会の見解|work=モルモン教会の真実|accessdate=2014-04-23}}</ref>。
DNAの研究の結果、ネイティブ・アメリカンの祖先は'''[[モンゴロイド]]'''であることが明らかとなった。したがって現在のネイティブ・アメリカンの先祖がヘブル人である(若しくはヘブル人と原住民との混血)とするジョセフ・スミスの当時の発言は科学的・人類学的に否定されている<ref>ヘブル人(ヘブライ人)とは、聖書に登場する古代[[イスラエル人]]・[[ユダヤ人]]等の民族的ユダヤ人とその系統であり、人種としては[[アラブ人]]らと同じアジア系'''[[コーカソイド]]'''である([[ヨーロッパ人]]は北方コーカソイドであり、人種的には非常に近縁である)</ref>。
[[スミソニアン協会]]は「現存する証拠によると、東方からアメリカ大陸に到達した最初の人々は、紀元1000年頃に[[北アメリカ]]の北部を短期的に訪れていた[[ノルマン人|スカンジナビア民族]]である」「古代において、アメリカ大陸の住民と中東の住民との接触がなかったことは確かである」という見解を示している。
また、当時のアメリカ大陸になかったと考えられる食用[[イチジク]](アラビア原産)、[[オリーブ]](地中海原産)、[[真鍮]](16世紀に発明された合金)、[[亜麻]]布、[[バター]]などが記述されている。これらは当時のアメリカ大陸に存在したと考え難いと言及している。
=== 物証 ===
金板については見つかっていないし、他に見た者もいない
また、翻訳に使われたとされるウリムとトンミムも見つかっていない。
===末日聖徒における信仰上の意義===
外部からの批判や真偽性についての議論はあるものの、モルモン書はそれを信じる末日聖徒にとっては、彼らの「宗教の要石(かなめいし)」として信仰上の大きな意義をもっている。
===「正確な書物」としての聖典===
末日聖徒によれば、モルモン書は原典から直接、正確に翻訳<ref>ここでの翻訳とは、原典から英語版への翻訳を意味する。</ref>された書物であり、そのため、キリストの福音や教義を正確に伝えるものだと言われているがその根拠はない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/bofm/introduction?lang=jpn|title=『モルモン書』序文 第6段落|accessdate=2016-11-4|publisher=}}</ref>。
===信仰の拠り所としての聖典===
末日聖徒は、モルモン書を頻繁に読むように勧められており、モルモン書から受けた霊感を毎日の生活の中で活かすよう勧められている<ref>例えば、{{Cite web|和書|url=http://media.ldscdn.org/pdf/magazines/liahona-JPN-2000-2009/2005-08-00-liahona-jpn.pdf#page=8|title=末日聖徒イエス・キリスト教会 機関紙『リアホナ』2005年8月号(日本語) p.6|accessdate=2016-4|publisher=}}</ref>。
また、古代の預言者たちによって記録されたと信じられているイエス・キリストの教義や、古代のアメリカ大陸でイエス・キリストが先住民たちを親しく教え導いたとされる様子なども描かれており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/bofm/introduction?lang=jpn|title=『モルモン書』序文 第3段落|accessdate=2016-11-4|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/bofm/3-ne/11?lang=jpn|title=『モルモン書』第3ニーファイ11章~28章|accessdate=2016-11-4|publisher=}}</ref>、その書物を信じる者にとっては、イエス・キリストへの信仰を育むためになくてはならない大切な書物となっている。
===福音の「回復」を証する書物===
末日聖徒は、原始のキリスト教会にあったキリストの純粋かつ完全な福音が、迫害や背教により人類の歴史の中で失われてしまったと信じている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/manual/gospel-principles/chapter-16-the-church-of-jesus-christ-in-former-times?lang=jpn|title=『福音の原則』(末日聖徒イエス・キリスト教会 2009年) 第16章内 の「まことの教会からの背教」の節|accessdate=2016-11-4|publisher=}}</ref>。末日聖徒にとって、モルモン書は、失われてしまった純粋かつ完全な福音を神が回復してくださった(もう一度人類に与えてくださった)ことを示す重要な証拠であると信じられている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
{{wikisourcelang|en|Book of Mormon|モルモン書}}
{{Commons category|Book of Mormon}}
* [https://www.lds.org/bc/content/shared/content/japanese/pdf/language-materials/34406_jpn.pdf モルモン書] {{ja icon}}
* [https://www.lds.org/scriptures/bofm?lang=jpn モルモン書 | LDS.org]
* [https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/bofm/title-page?lang=eng モルモン書 全編] {{en icon}}
* [http://www.inephi.com/Search.htm モルモン書 初版本] {{en icon}}
* [http://scriptures.lds.org/jpn/bm/contents モルモン書 全編] {{ja icon}}
* [[:en:Aztec_codices|Aztec Codices]]
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{{DEFAULTSORT:もるもんしよ}}
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ユダヤ
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ユダヤ(ギリシア語: Ἰουδαία (Ioudaía), 漢字:猶太)は、パレスチナ南部の地域。族長ヤコブの子ユダに由来する。古代イスラエル統一王国の分裂後にユダ王国があった。
アブラハムは、ユダヤ人たちの父(先祖)である。今から約5000年前、紀元前3000年前にアブラハムが「カルデヤのウル(en:Ur Kaśdim)」から出発して、父親の定住したカラン(英: Carrhae)を経てカナン(現在のイスラエル)に移住した。
アブラハムは、イシュマエルとイサクを生み、イサクはヤコブを生んだ。このヤコブ(別名:イスラエル)に12人の息子が生まれ、モーセによるエジプト脱出の後、この12部族にそれぞれ土地が与えられた。ユダに与えられた土地がのちにユダヤと呼ばれるようになった。
厳密には、ベニヤミン族はユダ族に吸収されたため、このふたつの部族が支配していた土地がユダヤと呼ばれ、レビ部族は祭司職に就き、各部族の中に町を与えられていた。ソロモン王の死後、統一王国は北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分裂する。北のイスラエル王国は、サマリヤを首都に、南のユダ王国はエルサレムを首都にした。
紀元前721年に、北のイスラエル王国(10部族)がアッシリアに滅ぼされ(イスラエルの失われた10支族)、紀元前586年には南のユダ王国も新バビロニアによって滅ぼされ、支配者階級は捕囚として連行された(バビロン捕囚)。紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって滅亡すると、ユダヤ人は解放されたため帰還して再び定住した。紀元前515年にゼルバベルの指揮でエルサレム神殿に代わる第二神殿の再建を行った。
紀元前166年にユダ・マカバイ(マカベウス)がセレウコス朝シリアに以後26年に渡る独立戦争を始め、紀元前140年にハスモン朝が成立。
紀元前37年にはローマ帝国の支援を受けたヘロデ大王のもとヘロデ朝が成立。
イエス・キリストの時代には、エルサレム地方とサマリア地方のあるユダヤ属州や、別の属州に含まれたガリラヤ地方が、全てローマ帝国の支配下であった。また、ガリラヤは異邦人のガリラヤと呼ばれ、ユダヤからは低く見られていたようである。サマリア人は、イスラエルと他民族との混血であり、ユダヤ人から軽蔑されていた。
紀元70年のエルサレム攻囲戦でローマ帝国軍に滅ぼされ、ユダヤ人は中東世界に離散(ディアスポラ)した、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵ペリシテ人にちなんでパレスチナという名前をつけたため、ユダヤという地名は消滅した。
1948年に建国した新国家は、イスラエル国と命名された。
聖書の創世記には、ユダヤ人の先祖アブラハムのモリヤ山での試練などが、記載されている。
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{{混同|ユダヤ自治州|x1=ロシアの}}
[[画像:Judea.jpg|right|300px|thumb|ユダヤ。[[アラド (イスラエル)|アラド]]が望める]]
'''ユダヤ'''({{lang-el|Ἰουδαία}} (Ioudaía), 漢字:猶太)は、[[パレスチナ]]南部の地域<ref name=nkd>[https://kotobank.jp/word/ユダヤ-2090483 ユダヤ] - 精選版 [[日本国語大辞典]]、[[コトバンク]]、[[小学館]]、[[朝日新聞社]]、2020年4月7日閲覧。</ref>。族長[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]の子[[ユダ (ヤコブの子)|ユダ]]に由来する<ref name=nkd />。古代[[イスラエル王国|イスラエル統一王国]]の分裂後に[[ユダ王国]]があった。
==紀元前==
[[アブラハム]]は、[[ユダヤ人]]たちの[[父]](先祖)である。今から約5000年前、[[紀元前]]3000年前にアブラハムが「[[カルデア|カルデヤ]]の[[ウル]]([[:en:Ur Kaśdim]])」<ref group="注">この地名が何処を示すのかには論争があり、確定していない。[[ウル]]であればイラク南部であり、ベイツェルらの説によると[[ハッラーン]]近郊にあったウルであればイラク北部である。</ref>から出発して、父親の定住した[[ハッラーン|カラン]]({{lang-en-short|Carrhae}})を経て[[カナン]](現在の[[イスラエル]])に移住した。
アブラハムは、[[イシュマエル]]と[[イサク]]を生み、イサクはヤコブを生んだ。このヤコブ(別名:イスラエル)に12人の息子が生まれ、[[モーセ]]によるエジプト脱出の後、この12部族にそれぞれ土地が与えられた。ユダに与えられた土地がのちにユダヤと呼ばれるようになった。
厳密には、[[ベニヤミン]]族はユダ族に吸収されたため、このふたつの部族が支配していた土地がユダヤと呼ばれ、レビ部族は祭司職に就き、各部族の中に町を与えられていた。ソロモン王の死後、統一王国は北の[[イスラエル王国]]と、南の[[ユダ王国]]に分裂する。北のイスラエル王国は、[[サマリヤ]]を首都に、南のユダ王国は[[エルサレム]]を首都にした。
[[紀元前721年]]に、北のイスラエル王国(10部族)が[[アッシリア]]に滅ぼされ([[イスラエルの失われた10支族]])<ref>北イスラエル王国の十部族は帰還せず、現在に至るまで行方不明である([[イスラエルの失われた10支族]])。その一部が、日本にまで来たという説もある([[日ユ同祖論]])。</ref>、[[紀元前586年]]には南のユダ王国も[[新バビロニア]]によって滅ぼされ、支配者階級は捕囚として連行された([[バビロン捕囚]])。[[紀元前539年]]に[[新バビロニア]]が[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]の[[キュロス2世]]によって滅亡すると、ユダヤ人は解放されたため帰還して再び定住した。[[紀元前515年]]に[[ゼルバベル]]の指揮で[[エルサレム神殿]]に代わる[[第二神殿]]の再建を行った。
[[紀元前166年]]に[[ユダ・マカバイ]](マカベウス)が[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]に以後26年に渡る独立戦争を始め、[[紀元前140年]]に[[ハスモン朝]]が成立。
[[紀元前37年]]には[[ローマ帝国]]の支援を受けた[[ヘロデ大王]]のもと[[ヘロデ朝]]が成立。
==紀元後==
[[イエス・キリスト]]の時代には、エルサレム地方と[[サマリア]]地方のある[[ユダヤ属州]]や、別の属州に含まれた[[ガリラヤ]]地方が、全て[[ローマ帝国]]の支配下であった。また、ガリラヤは[[異邦人]]のガリラヤと呼ばれ、ユダヤからは低く見られていたようである。[[サマリア人]]は、イスラエルと他民族との[[混血]]であり、ユダヤ人から軽蔑されていた。
紀元[[70年]]の[[エルサレム攻囲戦 (70年)|エルサレム攻囲戦]]でローマ帝国軍に滅ぼされ、ユダヤ人は中東世界に離散([[ディアスポラ]])した、ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダの地(ユダヤ)ではなく、ユダヤ人の宿敵[[ペリシテ人]]にちなんでパレスチナという名前をつけたため、ユダヤという地名は消滅した。
1948年に建国した新国家は、[[イスラエル国]]と命名された。
[[聖書]]の[[創世記]]には、ユダヤ人の先祖[[アブラハム]]の[[モリヤ (聖書)|モリヤ山]]での試練などが、記載されている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
Barry J. Beitzel, ''The Moody Atlas of Bible Lands'',(1985), ISBN 0-802404-38-3
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Judean Desert}}
* [[ユダ (ヤコブの子)|ユダ]]
* [[ユダ族]]
* [[ユダ王国]]
* [[ユダヤ暦]]
* [[ユダヤ教]]
* [[ユダヤ人]]
* [[ユダヤ属州]]
* [[ユダヤ戦争]]
* [[ガリラヤ]]
* [[サマリア]]
{{キリストに関係する新約聖書の地名}}
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論理学の哲学
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論理学の哲学(ろんりがくのてつがく、英語:philosophy of logic)は、哲学の一領域である。それは論理学の地位や方法論についてのメタ学問である。論理哲学とも。
論理学の哲学は、哲学的問題に形式的論理的技術を応用する哲学的論理学 (philosophical logic, philosophical logics) と混同される。
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{{出典の明記|date=2011年12月}}
'''論理学の哲学'''(ろんりがくのてつがく、[[英語]]:philosophy of logic)は、[[哲学]]の一領域である。それは[[論理学]]の地位や方法論についての[[メタ理論|メタ学問]]である。'''論理哲学'''とも。
論理学の哲学は、哲学的問題に形式的論理的技術を応用する[[哲学的論理学]] (philosophical logic, philosophical logics) と混同される。
== 論理学の哲学に関わる基本問題 ==
* 唯一の正しい論理があるのか、あるいは複数の論理が同じように正しいのか
* ([[排中律]]のような)論理的原理が正しいかどうかについて真正な不一致は可能なのか
* 何がある表現を[[論理定項]]にさせているのか
* [[論理的帰結]]・[[量化]]・その他の論理的概念の本来の記述とは何か
* 論理学の範囲はどのくらいか(数学を包含するのか)
* 論理は[[規約]]の問題か
* 論理は[[アプリオリ|経験的]]か
* 論理的必然性の本性とは何か
== 関連人物 ==
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*[[アリストテレス]]
*[[ジョージ・ブール]]
*[[ジョージ・ブーロス]]
*[[ルドルフ・カルナップ]]
*[[アロンゾ・チャーチ]]
*[[オーガスタス・ド・モルガン]]
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*[[マイケル・ダメット]]
*[[ゴットロープ・フレーゲ]]
*[[クルト・ゲーデル]]
*[[チャールズ・サンダース・パース]]
*[[アーサー・プライアー]]
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*[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]]
*[[バートランド・ラッセル]]
*[[アルフレト・タルスキ]]
*[[ソール・クリプキ]]
*[[ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン]]
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== 関連項目 ==
*[[数学の哲学]]
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ヨハン・クライフ
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ヨハン・クライフ(Johan Cruijff)ことヘンドリック・ヨハネス・クライフ(Hendrik Johannes Cruijff OON(英語版), 1947年4月25日 - 2016年3月24日)は、オランダ出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレ(ブラジル)やディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)と並ぶ史上最高の選手と評されており、サッカー界に最も影響を与えた人物の1人である。
引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスやFCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収め、史上最高の監督の1人とみなされた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」 など、様々なニックネームを持つ。
1947年4月25日、アムステルダムの東部にあるベトンドルプ(オランダ語版)という労働者の住む街で、青果店を営む家庭の次男として生まれた。家庭は貧しく、日頃の生活に窮していたが、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられ、マスコットのような存在になった。
少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した。当時のアヤックスには第二次世界大戦後に駐屯していたアメリカ軍の影響もあって野球部門があり、野球は主にサッカーのオフシーズンにプレーしていた。打順は1番、ポジションはキャッチャーを務め、有望なキャッチャーであったクライフは15歳まではオランダ代表にも選ばれていた。メジャーリーグでスター選手になるという夢も持ち合わせていたが、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった。
1959年7月8日、12歳の時に45歳の父が心臓発作により死去。クライフは精神的なショックを受け、後にクライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としたものの、周囲の人々によるとこの時のクライフは立ち直るまでに時間を有したという。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した。クライフは幼少のころから男性と交流があり、クライフの情緒に安定と安心感をもたらすことになった。この時期にプロテスタント系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが、勉学には不熱心であり、2年時に中退し、スポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた。
15歳でユースチームに昇格したが、当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた。一方、持ち前の突破力を生かしてセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした。こうした経緯から、トップチームの監督を務めていたヴィク・バッキンガムはクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した。
16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められ、クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある。
同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たし、試合は1-3で敗れたものの初得点を挙げ、11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された。これはミケルスがクライフを「ダイヤモンドの原石」と称してその素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり、精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している。クライフは1軍の試合ではフィールドプレーヤーとして出場していたが、3軍の試合に出場する際はゴールキーパーとして出場し、アヤックスでヨーロッパカップに参加していた際は第二ゴールキーパーであった。
ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ。1965年10月24日に行われたAFC DWS(英語版)戦でクラース・ヌニンハ(英語版)との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かせない選手となっていた。
国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回(1965-66、1966-67、1967-68、1969-70、1971-72、1972-73)、KNVBカップ優勝4回(1966-67、1969-70、1970-71、1971-72)。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。
UEFAチャンピオンズカップには1966-67シーズンに初出場を果たし、2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが、濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した。敵地での第2戦を前に相手のビル・シャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた。アヤックスはリヴァプールを相手に勝利したことで「ヨーロッパカップを優勝する可能性がある」と騒ぎ立てられたが、続くデュクラ・プラハ戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃した。しかし、「霧の試合(オランダ語: De Mistwedstrijd)」 と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった。
1967-68シーズンには1回戦でスペインのレアル・マドリードに敗退。1968-69シーズンには準々決勝でポルトガルのSLベンフィカ、準決勝でチェコスロバキアのスパルタク・トルナヴァを下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアのACミランに1-4で敗れた。1970-71シーズンには決勝でギリシャのパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)を抑えて初受賞を果たした。
1971-72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人のシュテファン・コヴァチが監督に就任した。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し、「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している。
準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した。この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し、2試合合計4-1のスコアで初優勝した。
1972-73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーを擁する西ドイツのFCバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、を抑えて2回目の受賞を果たした。
一方で元モデルの妻、ダニー・コスターや、宝飾商を営んでいた妻の父コー・コスター(オランダ語版)(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督であるヴィク・バッキンガムを招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た。当時のスペインサッカー連盟の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった。
バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され、両クラブ間で合意に達したが、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られたことで移籍は消滅し、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった。
アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化。この移籍を巡ってヤープ・ファン・プラーフ(オランダ語版)会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し、サポーターからも批判を受けるようになったが、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった。しかし、バルセロナへの移籍が決まったクライフは、家に様々な毒虫が送られてくるなどといった嫌がらせの被害を受けた。
1973年夏、600万ギルダーという金額でスペインのFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった。
移籍成立後は手続きが遅れたため、リーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した。同年12月22日に行われたアトレティコ・マドリード戦ではアクロバティックな得点を決める活躍を見せたが、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた。1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5-0と歴史的勝利に貢献し、同年4月17日、敵地でのスポルティング・デ・ヒホン戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した。
当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあり、バルセロナへの移籍が決まった際には「独裁者のためにサッカーをする」という批判を受けたが、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「救世主」(El Salvador、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた。
1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙したこともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーとパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された。
1975-76シーズンには西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが監督に就任したが、クライフとの確執が続き、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した。
翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した。また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974-75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975-76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976-77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている。またクライフ自身は強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた。バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3-1で下し優勝を果たしたものの、国際大会ではUEFAカップ1977-78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した。
1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した。同年8月30日にアメリカ合衆国のニューヨーク・コスモスに招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか、イングランドのチェルシーFCからオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた。
同年11月7日、アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで、クライフの引退試合が開催された。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、パウル・ブライトナーとカール=ハインツ・ルンメニゲが揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した。
クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、空港や宿泊したホテルでは敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している。クライフはこの試合で得た収益のうち30万ギルダーを子供病院へ寄付した。
引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる。
一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定したが、引退から数か月後には現役復帰を決意した。
クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった。 同クラブのオーナーを務めるスティーヴ・ロス(英語版)は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し、恩師のミケルスが監督を務めるロサンゼルス・アズテックス(英語版)と契約した。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った。
1979年5月19日、ロチェスター・ランチャーズ(英語版)戦でデビューすると、前半10分のうちに2得点をあげ、後半には3点目の得点をアシストし、3-0と勝利した。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・シュルビア、レオ・ファン・フェーン、フープ・スメーツ(オランダ語版)らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でバンクーバー・ホワイトキャップス(英語版)に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた。
1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするワシントン・ディプロマッツ(英語版)に移籍した。ディプロマッツは1979年秋にマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが、当初獲得を目指したイングランド代表のケビン・キーガンとの交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった。
同年3月29日、タンパベイ・ロウディーズ(英語版)戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対し、ディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督のゴードン・ブラッドリー(英語版)をはじめ何人かの選手から反発を招いた。また、人工芝の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた。
同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し日本、香港、インドネシアを転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた。
クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた。これに対しオランダサッカー協会 (KNVB) は、NASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われたFCトゥウェンテ戦をスタンドで観戦した。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督のレオ・ベーンハッカーの隣で直接指揮を執った。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した。
1981年、クライフはオランダのDS'79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加。イングランドのチェルシーFC、ベルギーのシャルルロワSC、オランダのMVVマーストリヒトの3つの親善試合に出場した。当時のクライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、アーセナルFC、レスター・シティFCが獲得に乗り出した。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった。
同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたものの、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになったが、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた。
3月2日に行われたCFパレンシア戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した。
同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「ムンディアリート・ペル・クラブ(イタリア語版)」に参加した。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場した が、鼠蹊部の負傷のためにコンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた。
同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ。7月1日に行われたサンディエゴ・ソッカーズ(英語版)戦でデビューしたが、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、モントリオール・マニック(英語版)戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった。
レバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた。しかし同年12月6日に行われたHFCハールレム戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた。
当時のアヤックスはマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトやジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの、多くの結果を残すことが出来ずにいた。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールやPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした。
2年目の1982-83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場し、1回戦でスコットランドのセルティックFCと対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった。
1982年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦では印象的なトリックプレーを見せた。試合中にペナルティーキックを獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできたイェスパー・オルセンへと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった。
リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持。5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった。
一方、1983年に入るとクラブ会長のトン・ハルムセン(オランダ語版)がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦のNECナイメヘン戦の終了後に退団を表明し、5月14日に行われたリーグ戦最終節のフォルトゥナ・シッタート戦がアヤックスでの最後の試合出場となった。
1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの、試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した。フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなったが、監督のテイス・リブレフツ(英語版)を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った。またフェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した。
同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫したが、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復。カップ戦決勝でフォルトゥナ・シッタートを下すと、リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5-0と勝利し、1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたPECズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた。
クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった。クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として、後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または選手兼任監督としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した。
オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選のハンガリー戦で代表デビューを飾った。同年7月に行われた1966 FIFAワールドカップでブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた。しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、クライフはチェコの選手に絶えずに蹴られていたが、主審を務めたルーディー・グロックナーはこの状態を放置し続け、クライフは一時間以上も経った後で彼に抗議を行ったがグロックナーは取り合わず、さらに抗議をした直後にクライフはグロックナーが見ている前で再びチェコの選手に蹴られたたもののファールすら取られず、再び抗議を行ったがここで退場処分を受けた。グロックナーはクライフを退場させた理由について、「生意気なクライフにお灸をすえるためだった」と説明しており、「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下し、クライフは公式の国際試合出場停止の処分を受けた最初のオランダ人選手となった。
1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアやポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。
1974 FIFAワールドカップ・予選(英語版)では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった。
翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツ(英語版)を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた。
1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた。
2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0、東ドイツを2-0で下し、第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートによるゴールを決めて1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした。このゴールが「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」という異名で呼ばれるきっかけとなった。
決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。西ドイツは開幕前にイギリスのブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていたが、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった。
試合は開始早々にクライフがドリブルで相手エリアに踏み込んだところ、ウリ・ヘーネスの足が絡んでクライフが倒され、開始から1分も経たないうちにオランダがPKを獲得。これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。
この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられるが、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け、国王への謁見を許されたが、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという。
その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ」と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム」「我々に未来のサッカーを啓示した」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。
1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きジョージ・クノベル(英語版)が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加。予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。
1976年にユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した。
チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のクライヴ・トーマス(英語版)に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった。
同年9月から始まった1978 FIFAワールドカップ・予選(英語版)にも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年にアルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった。クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった。
ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため」など様々な憶測が囁かれた。
クライフはこれまで
と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた が、2008年4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした。
オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点。
引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという。
クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプやアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツの1.FCロコモティヴ・ライプツィヒをファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。
1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、トン・ハルムセン(オランダ語版)会長との確執もありクラブを退団した。
1988年5月4日、FCバルセロナの監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長のホセ・ルイス・ヌニェスの存在があった。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体はルイス・アラゴネス監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた。ヌニェスには、自らの政権維持のためにソシオと呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった。
クライフはバルセロナに着いて間もない時に「私は意欲のあるチャンピオン精神を備えた素晴らしいチームを作ります。そして、ここ数年落ち込んでいるクラブを再起させるのです」と目標を掲げた。しかし、前述の「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが、自らのスタイルを押し通すとUEFAカップウィナーズカップ 1988-89でイタリアのUCサンプドリアを下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた。
1989-90シーズン、デンマークのミカエル・ラウドルップ、オランダのロナルド・クーマンといったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦ではウーゴ・サンチェスやエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードが5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した。
1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションのフェレール、ユーティリティープレイヤーのゴイコエチェア、ブルガリア出身のフリスト・ストイチコフらを獲得する一方で下部組織からジョゼップ・グアルディオラを昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ。シーズン最中の1991年2月26日に心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため、復帰するまでの間は代理としてカルロス・レシャックが指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。
1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、UEFAチャンピオンズカップ 1991-92では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。ウェンブリー・スタジアムで行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まってバルセロナが1-0で勝利し、クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした。
クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた。在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-91、1991-92、1992-93、1993-94)、コパ・デル・レイ優勝1回(1989-90)、スーペルコパ優勝3回(1991、1992、1994)、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回(1991-92)、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回(1988-89)、UEFAスーパーカップ優勝1回(1992)を成し遂げた。
1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、1992年バルセロナオリンピックのバスケットボール競技において、マイケル・ジョーダンらを擁して金メダルを獲得したアメリカ合衆国代表の通称であるドリームチームになぞらえて「エル・ドリーム・チーム」と称された。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した。
1993-94シーズンに新たにブラジルのロマーリオが入団。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコにおいて2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した。リーグ戦の優勝争いは首位に立つデポルティーボ・ラ・コルーニャをバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した。
一方、国内リーグでの優勝から4日後にギリシャのアテネでUEFAチャンピオンズリーグ 1993-94決勝が行われ、ファビオ・カペッロの率いるイタリアのACミランと対戦し0-4で大敗を喫した。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている。
1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKのアンドニ・スビサレッタがクライフから戦力外と見做され退団。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオがホームシックにかかりシーズン途中に退団し、故国のCRフラメンゴに移籍した。この一連の問題が発端となり、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり、シーズン終了後にはストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した。
1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団しホセ・マリア・バケーロとグアルディオラ、フェレールの3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し、監督解任を発表した。
FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスがレオ・ベーンハッカーを指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった。また、1994年の1994 FIFAワールドカップの大会直前には監督のディック・アドフォカートと選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが、クライフとオランダサッカー協会 (KNVB) との間で合意に達することはなかった。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている。
バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的としたヨハン・クライフ大学(オランダ語版)を設立し社会貢献に努めた。
各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもあるジョアン・ラポルタが2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子であるフランク・ライカールトを監督に推薦。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかったマルコ・ファン・バステンをオランダ代表監督に推薦するなど影響力を行使し続けていた。
1996年5月18日、クライフはホセ・ルイス・ヌニェス会長との確執が原因となり、バルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブのソシオ達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した。
1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したルイ・ファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した。
2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長のジョアン・ガスパールを擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立。バサットは「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」という公約を掲げるも、僅差でガスパールが当選した。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘したセラ・フェレール監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた。
2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した。
2010年4月にバルセロナの名誉会長に就任したが、同年7月に会長となったサンドロ・ロセイがクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した。
2008年2月19日、アヤックスは新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した。
2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した。
アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に南アフリカ共和国で開催されたFIFAワールドカップの舞台にヴェスレイ・スナイデルをはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え、育成部門の再建は急務であると主張した。
同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、フランク・デ・ブール監督の下でアシスタントコーチを務めていたダニー・ブリントをはじめコーチ陣を解雇し、デニス・ベルカンプやヴィム・ヨンクらを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった。
同年11月16日、エドガー・ダーヴィッツを含むアヤックスの理事4人が2012年7月からルイ・ファン・ハールをゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された。
2009年11月9日、カタルーニャ選抜の監督に就任した。なおカタルーニャ選抜は国際サッカー連盟 (FIFA) や欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである。同年12月22日に行なわれた初采配のアルゼンチンとの親善試合に4-2で勝利、2010年12月28日にはホンジュラスと対戦し4-0で勝利、2011年12月30日にはチュニジアと対戦し0-0で引き分けた。
2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日にナイジェリアとの親善試合が最後の采配となった。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した。
2012年2月25日、メキシコのCDグアダラハラのアドバイザーに就任したことが発表された。契約期間は3年 で、オーナーであり実業家のホルヘ・ベルガラ(英語版)は「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された。
2014年、FCバルセロナではサンドロ・ロセイの後任として副会長のジョゼップ・マリア・バルトメウが会長に就任。任期を1年残して2015年7月18日に行われた会長選挙においてバルトメウは54.63%の支持率を得てクライフ派のジョアン・ラポルタを退け勝利した。また、テクニカルアドバイザーを務めるアヤックスでは国内リーグ4連覇を成し遂げる一方で、「国際舞台で再び結果を残せるクラブとなる」という目標を果たせずにいた。そのため、両クラブに対する影響力の低下や、アヤックスについてはクライフの主導の下で行われてきたユース選手育成を柱としたクラブ再建計画に対する問題点が指摘された。
2015年10月22日、スペイン・バルセロナの病院で検査を受けた際に肺がんが発見されたことを発表した。クライフの公式ウェブサイトは「ヨハンと彼の家族のプライバシーおよび検査結果が確定していない点を尊重するため、現時点において詳細を発表することはできない」としていた。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナ対SDエイバル戦や、10月23日から10月25日にかけて行われたエールディヴィジの全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客によるスタンディングオベーションが行われた。
同年11月16日、クライフの示す展望がクラブ側に受け入れられていないことを理由にアヤックスのテクニカルアドバイザーを退任した。翌2016年2月13日に公式ウェブサイト上において診断結果は極めて良好であることを公表し、「現時点では前半を2-0でリードしているといった感じだ。試合はまだ終わっていないがね。だが、私は勝利を確信している」と病状をサッカーに例えた。
その後、同年3月中旬まで『デ・テレフラーフ(オランダ語版)』紙上の週刊コラムの連載を続けていたが、闘病生活の末に3月24日にバルセロナで死去した。68歳没。翌3月25日、遺体はバルセロナ市内で近親者によって火葬された。彼の死に際してオランダ国王のウィレム=アレクサンダー、現役時代にライバル関係にあったフランツ・ベッケンバウアー、教え子のジョゼップ・グアルディオラをはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた。
同年3月25日、アムステルダム・アレナで開催された国際親善試合のオランダ代表対フランス代表戦では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷が捧げられた。また、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた。終了間際の86分にはオランダ代表のイブラヒム・アフェレイが得点を決めると背番号14を指で示すゴールパフォーマンスを見せ、クライフの生前の功績を称えた。同年3月30日、ウェンブリー・スタジアムで開催された国際親善試合のイングランド代表戦では、オランダ代表の選手が胸に14の数字が入ったユニホームを着用したが、フランス戦と同様に前半14分に合わせて観客から拍手が送られた。
長年にわたって関わりのあったFCバルセロナの本拠地・カンプ・ノウには追悼スペースが設けられ、3月末の時点で約6万人のファンが追悼に訪れた。また、4月2日にホームで行われたレアル・マドリード戦ではスタンドに「GRÀCIES JOHAN(ありがとう、ヨハン)」のメッセージや背番号14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられた。クライフが選手として最初に所属したアヤックスでは4月2日にアムステルダム市内で約3,000人のファンによる行進が行われ、4月3日に開催されたPECズヴォレ戦では試合前に背番号14のユニフォームをかたどった横断幕がピッチやスタンドに掲げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客から拍手が送られた。
死後、クライフの功績を讃える目的でアムステルダム・アレナをヨハン・クライフ・アレナへ改名を検討していることが2017年8月9日に発表され、2018年4月5日には名称変更が正式決定したとアヤックスは公式HPで発表した。
身長178cm、体重67kgという細身の体躯をしていたが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した。細身の外見であるにも関わらずマークすることが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「ウナギ」とも呼ばれていた。
利き足の右だけでなく、左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた。一方で、現役時代を通じてペナルティーキックを滅多に蹴ることがなかったことでも知られている。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としており、「極度の緊張下で行われるペナルティキックは私にとっても不安にかられる一瞬だった」と語っている。
ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力に長け、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという。試合時にはオーケストラの指揮者の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えた。ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した。
名義上はセンターフォワードというポジションだが、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「渦巻」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した。
この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「クライフターン」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている。
クライフの代名詞である背番号「14」はアヤックス時代から好んで着用していた。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ。この理由について役員が尋ねると、クライフは
と答えた。1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていたため、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだったが、特例として「14」を着用することが認められた。
なお、アヤックスでは背番号「14」を着用していたが、FCバルセロナでは当時のリーガ・エスパニョーラは固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため背番号「9」を着用し、フェイエノールトでは引退したヴィレム・ファン・ハネヘムの背番号だった「10」を着用してプレーした。
2007年4月25日、クライフの代名詞となった背番号「14」はアヤックスの永久欠番となった。
選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。
アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置するゴールキーパー、センターバック、リベロ、攻撃的ミッドフィールダー、センターフォワードの縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した。
GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した。
中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた。
前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った。
ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた。
バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作るなどのコンセプトは変わりなかったものの、DFを3人にして3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と、1980年代後半にACミランを率いたアリゴ・サッキが主唱したプレッシングスタイルの戦術に対抗するための意図があった。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある。
アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく、戦術的な欠点を露呈することもあった。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった。
自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている。インタビューにおいて世界最高の選手と言われることについて問われた際に「私もそう思う」と答えたことがあるだけでなく、
と公言してはばからない自信家であり我が強く、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせていた。監督になったばかりのころにオランダサッカー協会から監督講習を受けるように通達された際には、「いったい誰がオレにサッカーを教えられるんだ?」と反論したこともあった。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わりやすく、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている。
一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいわれていた。
会話好きな性格で、一旦話し出すと止まらない側面があった。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『わんぱくフリッパー』の主人公のイルカになぞらえて「フリッパー」とも呼ばれた。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された。また、オランダ国民には兵役が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや、1971年にオランダ君主のユリアナ女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある。クライフ自身はこの癖に気づいており、「私の悪い癖は、すべてを把握しすぎてしまい、そのため常にしゃべらなくては気が済まなかったことだ。そしてどんな状況でも、すぐ誰かのミスを指摘していた。文句を言っていたのだ。それが私の中で、一番悪かった特徴だ」と反省しつつも、「しゃべる」ことこそサッカーの基本と考えていたという。
さまざまな渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、「エル・サルバドール」(El Salvador、救世主の意)の他に「エル・フラコ」という渾名でも呼ばれていたが、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「神」と呼んでいた。また、イニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、1970年代に流行したロック・ミュージカルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』に準え「スーパースター」とも呼ばれた。
独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している。クライフの発言で本が一冊まとめられたこともあり、「"Typisch Cruiffiaans:Uitspraken"(典型的クライフ語・発言集 クライフライブラリー出版)」という語録集も出版されている。 還暦を迎えた2007年にAFP通信が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた。
なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している。母国語のオランダ語の他に、英語、スペイン語を話すことが出来る ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある。
妻であるダニー・コスターとは1967年に行われたピート・カイザーの結婚式を通じて知り合い、1968年12月に結婚すると3人の子供をもうけた。長女シャンタル(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだったヘスス・マリアノ・アンゴイ(英語版)と結婚。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退するとアメリカンフットボール選手となり、NFLヨーロッパのバルセロナ・ドラゴンズ(英語版) などでプレースキッカーを務めたが後に離婚した。
次女スシラ(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に馬術の障害飛越競技の選手を志したが膝の故障により断念した。
末っ子のジョルディ(1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、キリスト教の守護聖人・聖ゲオルギオスのカタルーニャ語読みである「サン・ジョルディ」に因んで「ジョルディ」 (Jordi) と命名した。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナやマンチェスター・ユナイテッド、デポルティーボ・アラベスなどに在籍した。また、オランダとスペインの二重国籍を有することから、いずれかの代表チームを選択する権利があり一時はU-21オランダ代表の招集を辞退していた。最終的に1996年4月にオランダ代表を選択し、同年にイングランドで開催されたUEFA欧州選手権1996に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した。
実兄のヘニーもサッカー選手でありポジションはディフェンダーを務めていた。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退し、その後はスポーツ用品店を経営した。ヘニーの娘でクライフの姪にあたるエステル・クライフ(オランダ語版)はタレントとなり、2000年にルート・フリットと結婚したが2013年に離婚が成立した。
好きな選手は1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノと、「ロッテルダムのモナ・リザ」と呼ばれドリブルの名手だったファース・ヴィルケス、好きな監督はリヌス・ミケルス、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けたベルティ・フォクツ の名を挙げている。特にディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた。なお、若い頃のクライフは自身より1歳年上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが、前述のようにディ・ステファノのファンであったクライフは、才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したという過去を持つベストに例えられることを嫌っていた。
選手時代はプーマ社とスポンサー契約を結んでいた。1974 FIFAワールドカップのオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していたアディダス社のサッカーシューズの使用及びユニフォームを着用することを拒否し、オランダ代表での試合が近づくとオランダサッカー協会のスタッフとアディダスの代表担当がカミソリでユニフォームに施されたアディダスのシンボルである3本線の内一本を削ぎ落とし、2本線となったユニフォームをクライフは着用して試合に出場していた。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否し、バルセロナの監督に就任した際には契約書に「自分が着る服は自分で決められる」という条項を盛り込んでいた。
趣味のゴルフは選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた。その際にプロゴルファーのセベ・バレステロスを紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという。引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載したオランダゴルフ協会(オランダ語版)のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった。
15歳の頃からヘビースモーカーであり、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった。引退し監督になった後も喫煙は続けられ、ベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、バイパス手術により一命は取り留めた。手術後は医師から禁煙が言い渡され、タバコの代わりにチュッパチャプスを舐めるようになった。監督時代には毎日80本のタバコを吸っていたとされている。
カタルーニャ州政府の依頼により、若者の喫煙防止のためのコマーシャルに出演した。このコマーシャルは背広姿のクライフがボールの代わりにタバコの箱をリフティングし、「サッカーはつねに私の人生だった」と言ったわずかな沈黙の後に箱を蹴り飛ばすと箱は破裂し、最後に若者に向けて「喫煙は危うく私の人生を奪うところだった...」「喫煙はバカなことである。悪習にならないように気を付けよう」というメッセージが添えられるという内容だった。このCMはスペイン語、カタルーニャ語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語で放送された。
選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないという思想を持っていた。そのためカウンターアタックに代表される守備的な戦術、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的だった。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけでサッカーの為にならないと主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。
この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している。
なお、2002 FIFAワールドカップでブラジルが優勝した際には個々の能力は評価しつつルイス・フェリペ・スコラーリの採用したカウンター戦術について「アンチフットボール」「ボールの出所にプレッシャーを掛け3-5-2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している。
UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10でインテルナツィオナーレ・ミラノが優勝した際には、決勝戦のバイエルン・ミュンヘン戦でのインテルの選手について「インテルの守備陣形や、選手たちのポジショニングは素晴らしかったと思う」としつつも、「しかし守った後は、見るに堪えないサッカーだった。8割以上は、まるで目をつむって適当に蹴っているかの様なクリアボールだった。あのようなやり方で勝つことは、一時の快楽としては最高だろう。しかしこの勝利がイタリアリーグの未来に、何かをもたらすとは思えない」と批判的な意見を述べて「私は少しも興奮しなかった」と評し、またインテル監督のジョゼ・モウリーニョを指して「モウリーニョは素晴らしい監督だが、私のチームを任せたいとは思わない」と切り捨てている。
クライフには、以下のような5つの思考法があった。
また、クライフは自著の『Ik hound van voetbal』(私はサッカーを愛している)の巻末において、選手たちへのメッセージとして以下の「10の心得」を記している。
クライフの影響を受けていると公言している選手としては、オランダのマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールト、フランスのミシェル・プラティニやダヴィド・ジノラ、ドイツのピエール・リトバルスキー、ルーマニアのゲオルゲ・ハジ、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、イングランドのポール・ガスコイン、日本の西野朗らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だったヨハン・ニースケンスは豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた。
1980年代から1990年代にはファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり、しばしば比較の対象となっていた。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り指揮者の様に振舞ったのに対し、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど、両者のスタイルは明確に異なっていた。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年のバロンドール授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した。
ブラジルのサッカー指導者のレヴィー・クルピはセレッソ大阪時代に指導した日本の香川真司のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している。
バルセロナの監督時代に志向した、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織(カンテラ)を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した。監督時代の教え子であるジョゼップ・グアルディオラは2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した。
このことから、ドリームチーム時代の主力選手であるロナルド・クーマンは「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した。
またシャビ・エルナンデスやアンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスといったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降のスペイン代表はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ、同代表チームが2006 FIFAワールドカップに出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「ティキ・タカ」 (tiqui-taca) として紹介されると、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった。ティキ・タカとは玩具のアメリカンクラッカーを鳴らす時に発生する音を字句で表した擬声語である。同代表チームはUEFA欧州選手権2008ではルイス・アラゴネス、2010 FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権2012ではビセンテ・デル・ボスケに率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている。
ルイ・ファン・ハールは1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においてもUEFAカップ1991-92優勝やUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ」と否定的な立場を採っている。
フース・ヒディンクはオランダ代表監督として1998 FIFAワールドカップで指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した。
2007年にはU-21オランダ代表監督を務めていたフォッペ・デ・ハーン(英語版)が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張し、クライフとの間で論争が行われた。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用してUEFA U-21欧州選手権において優勝に導いたことで世論の支持を集め、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA欧州選手権2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家のヘンク・スパーン(オランダ語版)やサイモン・クーパーらもクライフの思想を批判した。
ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任したベルト・ファン・マルワイクも同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた。2010 FIFAワールドカップ・決勝ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した。
アルゼンチンのホルヘ・バルダーノはクライフに追随し1990年代にCDテネリフェやレアル・マドリードを率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した。
バレエダンサーのルドルフ・ヌレエフはクライフの移動の素早く、頭の回転も速く、プレーのスピードもあって早口だった彼のプレースタイルに魅了されていたといい、クライフを「チェスプレイヤーの頭脳を持ったダンサー」と称している。
2000年代以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが、アルゼンチンのマルセロ・ビエルサやイタリアのアルベルト・ザッケローニのように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めた。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した。
選手としてはアルフレッド・ディ・ステファノ、ペレ、ディエゴ・マラドーナ、フランツ・ベッケンバウアーらと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。オランダ国内では芸術家のレンブラント・ファン・レインにたとえ「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり、イギリスのサッカー専門家のエリック・バッティは「1972年のチャンピオンズカップ決勝がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代にヘネス・バイスバイラー監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している。
監督としてもアヤックスでUEFAカップ優勝、バルセロナではドリームチームと呼ばれるタレント集団を指揮し国内リーグ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残した。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物はミゲル・ムニョス、ジョバンニ・トラパットーニ、クライフ、カルロ・アンチェロッティ、フランク・ライカールト、ジョゼップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンの7人のみである。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」エンターテインメント性のあるサッカーを実践したと評されている。かつてのドリームチームの一員であるルイス・ミジャやジョゼップ・グアルディオラは次のように評している。
一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している。
1983-84シーズン終了時の成績
オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数
オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数
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"text": "ヨハン・クライフ(Johan Cruijff)ことヘンドリック・ヨハネス・クライフ(Hendrik Johannes Cruijff OON(英語版), 1947年4月25日 - 2016年3月24日)は、オランダ出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。",
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"text": "リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレ(ブラジル)やディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)と並ぶ史上最高の選手と評されており、サッカー界に最も影響を与えた人物の1人である。",
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"text": "引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスやFCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収め、史上最高の監督の1人とみなされた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」 など、様々なニックネームを持つ。",
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"paragraph_id": 3,
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"text": "1947年4月25日、アムステルダムの東部にあるベトンドルプ(オランダ語版)という労働者の住む街で、青果店を営む家庭の次男として生まれた。家庭は貧しく、日頃の生活に窮していたが、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられ、マスコットのような存在になった。",
"title": "生い立ち"
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"text": "少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した。当時のアヤックスには第二次世界大戦後に駐屯していたアメリカ軍の影響もあって野球部門があり、野球は主にサッカーのオフシーズンにプレーしていた。打順は1番、ポジションはキャッチャーを務め、有望なキャッチャーであったクライフは15歳まではオランダ代表にも選ばれていた。メジャーリーグでスター選手になるという夢も持ち合わせていたが、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった。",
"title": "生い立ち"
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"text": "1959年7月8日、12歳の時に45歳の父が心臓発作により死去。クライフは精神的なショックを受け、後にクライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としたものの、周囲の人々によるとこの時のクライフは立ち直るまでに時間を有したという。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した。クライフは幼少のころから男性と交流があり、クライフの情緒に安定と安心感をもたらすことになった。この時期にプロテスタント系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが、勉学には不熱心であり、2年時に中退し、スポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた。",
"title": "生い立ち"
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"text": "15歳でユースチームに昇格したが、当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた。一方、持ち前の突破力を生かしてセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした。こうした経緯から、トップチームの監督を務めていたヴィク・バッキンガムはクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した。",
"title": "生い立ち"
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"text": "16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められ、クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たし、試合は1-3で敗れたものの初得点を挙げ、11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された。これはミケルスがクライフを「ダイヤモンドの原石」と称してその素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり、精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している。クライフは1軍の試合ではフィールドプレーヤーとして出場していたが、3軍の試合に出場する際はゴールキーパーとして出場し、アヤックスでヨーロッパカップに参加していた際は第二ゴールキーパーであった。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ。1965年10月24日に行われたAFC DWS(英語版)戦でクラース・ヌニンハ(英語版)との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かせない選手となっていた。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回(1965-66、1966-67、1967-68、1969-70、1971-72、1972-73)、KNVBカップ優勝4回(1966-67、1969-70、1970-71、1971-72)。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "UEFAチャンピオンズカップには1966-67シーズンに初出場を果たし、2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが、濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した。敵地での第2戦を前に相手のビル・シャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた。アヤックスはリヴァプールを相手に勝利したことで「ヨーロッパカップを優勝する可能性がある」と騒ぎ立てられたが、続くデュクラ・プラハ戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃した。しかし、「霧の試合(オランダ語: De Mistwedstrijd)」 と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "1967-68シーズンには1回戦でスペインのレアル・マドリードに敗退。1968-69シーズンには準々決勝でポルトガルのSLベンフィカ、準決勝でチェコスロバキアのスパルタク・トルナヴァを下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアのACミランに1-4で敗れた。1970-71シーズンには決勝でギリシャのパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)を抑えて初受賞を果たした。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
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"text": "1971-72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人のシュテファン・コヴァチが監督に就任した。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し、「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
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"text": "準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した。この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し、2試合合計4-1のスコアで初優勝した。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "1972-73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーを擁する西ドイツのFCバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、を抑えて2回目の受賞を果たした。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "一方で元モデルの妻、ダニー・コスターや、宝飾商を営んでいた妻の父コー・コスター(オランダ語版)(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督であるヴィク・バッキンガムを招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た。当時のスペインサッカー連盟の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され、両クラブ間で合意に達したが、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られたことで移籍は消滅し、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化。この移籍を巡ってヤープ・ファン・プラーフ(オランダ語版)会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し、サポーターからも批判を受けるようになったが、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった。しかし、バルセロナへの移籍が決まったクライフは、家に様々な毒虫が送られてくるなどといった嫌がらせの被害を受けた。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "1973年夏、600万ギルダーという金額でスペインのFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "移籍成立後は手続きが遅れたため、リーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した。同年12月22日に行われたアトレティコ・マドリード戦ではアクロバティックな得点を決める活躍を見せたが、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた。1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5-0と歴史的勝利に貢献し、同年4月17日、敵地でのスポルティング・デ・ヒホン戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあり、バルセロナへの移籍が決まった際には「独裁者のためにサッカーをする」という批判を受けたが、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「救世主」(El Salvador、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙したこともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーとパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1975-76シーズンには西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが監督に就任したが、クライフとの確執が続き、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した。また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974-75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975-76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976-77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている。またクライフ自身は強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた。バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3-1で下し優勝を果たしたものの、国際大会ではUEFAカップ1977-78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した。",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した。同年8月30日にアメリカ合衆国のニューヨーク・コスモスに招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか、イングランドのチェルシーFCからオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた。",
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"text": "同年11月7日、アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで、クライフの引退試合が開催された。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、パウル・ブライトナーとカール=ハインツ・ルンメニゲが揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した。",
"title": "クラブ経歴"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、空港や宿泊したホテルでは敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している。クライフはこの試合で得た収益のうち30万ギルダーを子供病院へ寄付した。",
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定したが、引退から数か月後には現役復帰を決意した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった。 同クラブのオーナーを務めるスティーヴ・ロス(英語版)は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し、恩師のミケルスが監督を務めるロサンゼルス・アズテックス(英語版)と契約した。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1979年5月19日、ロチェスター・ランチャーズ(英語版)戦でデビューすると、前半10分のうちに2得点をあげ、後半には3点目の得点をアシストし、3-0と勝利した。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・シュルビア、レオ・ファン・フェーン、フープ・スメーツ(オランダ語版)らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でバンクーバー・ホワイトキャップス(英語版)に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするワシントン・ディプロマッツ(英語版)に移籍した。ディプロマッツは1979年秋にマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが、当初獲得を目指したイングランド代表のケビン・キーガンとの交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "同年3月29日、タンパベイ・ロウディーズ(英語版)戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対し、ディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督のゴードン・ブラッドリー(英語版)をはじめ何人かの選手から反発を招いた。また、人工芝の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し日本、香港、インドネシアを転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた。これに対しオランダサッカー協会 (KNVB) は、NASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われたFCトゥウェンテ戦をスタンドで観戦した。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督のレオ・ベーンハッカーの隣で直接指揮を執った。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1981年、クライフはオランダのDS'79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加。イングランドのチェルシーFC、ベルギーのシャルルロワSC、オランダのMVVマーストリヒトの3つの親善試合に出場した。当時のクライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、アーセナルFC、レスター・シティFCが獲得に乗り出した。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたものの、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになったが、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "3月2日に行われたCFパレンシア戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「ムンディアリート・ペル・クラブ(イタリア語版)」に参加した。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場した が、鼠蹊部の負傷のためにコンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ。7月1日に行われたサンディエゴ・ソッカーズ(英語版)戦でデビューしたが、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、モントリオール・マニック(英語版)戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "レバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた。しかし同年12月6日に行われたHFCハールレム戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "当時のアヤックスはマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトやジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの、多くの結果を残すことが出来ずにいた。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールやPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2年目の1982-83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場し、1回戦でスコットランドのセルティックFCと対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1982年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦では印象的なトリックプレーを見せた。試合中にペナルティーキックを獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできたイェスパー・オルセンへと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持。5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一方、1983年に入るとクラブ会長のトン・ハルムセン(オランダ語版)がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦のNECナイメヘン戦の終了後に退団を表明し、5月14日に行われたリーグ戦最終節のフォルトゥナ・シッタート戦がアヤックスでの最後の試合出場となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの、試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した。フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなったが、監督のテイス・リブレフツ(英語版)を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った。またフェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫したが、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復。カップ戦決勝でフォルトゥナ・シッタートを下すと、リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5-0と勝利し、1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたPECズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった。クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として、後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または選手兼任監督としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選のハンガリー戦で代表デビューを飾った。同年7月に行われた1966 FIFAワールドカップでブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた。しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、クライフはチェコの選手に絶えずに蹴られていたが、主審を務めたルーディー・グロックナーはこの状態を放置し続け、クライフは一時間以上も経った後で彼に抗議を行ったがグロックナーは取り合わず、さらに抗議をした直後にクライフはグロックナーが見ている前で再びチェコの選手に蹴られたたもののファールすら取られず、再び抗議を行ったがここで退場処分を受けた。グロックナーはクライフを退場させた理由について、「生意気なクライフにお灸をすえるためだった」と説明しており、「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下し、クライフは公式の国際試合出場停止の処分を受けた最初のオランダ人選手となった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアやポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1974 FIFAワールドカップ・予選(英語版)では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツ(英語版)を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0、東ドイツを2-0で下し、第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートによるゴールを決めて1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした。このゴールが「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」という異名で呼ばれるきっかけとなった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。西ドイツは開幕前にイギリスのブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていたが、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "試合は開始早々にクライフがドリブルで相手エリアに踏み込んだところ、ウリ・ヘーネスの足が絡んでクライフが倒され、開始から1分も経たないうちにオランダがPKを獲得。これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられるが、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け、国王への謁見を許されたが、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ」と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム」「我々に未来のサッカーを啓示した」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きジョージ・クノベル(英語版)が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加。予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1976年にユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のクライヴ・トーマス(英語版)に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "同年9月から始まった1978 FIFAワールドカップ・予選(英語版)にも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年にアルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった。クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった。",
"title": "代表経歴"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため」など様々な憶測が囁かれた。",
"title": "代表経歴"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "クライフはこれまで",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた が、2008年4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプやアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツの1.FCロコモティヴ・ライプツィヒをファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、トン・ハルムセン(オランダ語版)会長との確執もありクラブを退団した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1988年5月4日、FCバルセロナの監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長のホセ・ルイス・ヌニェスの存在があった。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体はルイス・アラゴネス監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた。ヌニェスには、自らの政権維持のためにソシオと呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "クライフはバルセロナに着いて間もない時に「私は意欲のあるチャンピオン精神を備えた素晴らしいチームを作ります。そして、ここ数年落ち込んでいるクラブを再起させるのです」と目標を掲げた。しかし、前述の「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが、自らのスタイルを押し通すとUEFAカップウィナーズカップ 1988-89でイタリアのUCサンプドリアを下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1989-90シーズン、デンマークのミカエル・ラウドルップ、オランダのロナルド・クーマンといったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦ではウーゴ・サンチェスやエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードが5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションのフェレール、ユーティリティープレイヤーのゴイコエチェア、ブルガリア出身のフリスト・ストイチコフらを獲得する一方で下部組織からジョゼップ・グアルディオラを昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ。シーズン最中の1991年2月26日に心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため、復帰するまでの間は代理としてカルロス・レシャックが指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、UEFAチャンピオンズカップ 1991-92では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。ウェンブリー・スタジアムで行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まってバルセロナが1-0で勝利し、クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた。在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-91、1991-92、1992-93、1993-94)、コパ・デル・レイ優勝1回(1989-90)、スーペルコパ優勝3回(1991、1992、1994)、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回(1991-92)、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回(1988-89)、UEFAスーパーカップ優勝1回(1992)を成し遂げた。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、1992年バルセロナオリンピックのバスケットボール競技において、マイケル・ジョーダンらを擁して金メダルを獲得したアメリカ合衆国代表の通称であるドリームチームになぞらえて「エル・ドリーム・チーム」と称された。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1993-94シーズンに新たにブラジルのロマーリオが入団。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコにおいて2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した。リーグ戦の優勝争いは首位に立つデポルティーボ・ラ・コルーニャをバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "一方、国内リーグでの優勝から4日後にギリシャのアテネでUEFAチャンピオンズリーグ 1993-94決勝が行われ、ファビオ・カペッロの率いるイタリアのACミランと対戦し0-4で大敗を喫した。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKのアンドニ・スビサレッタがクライフから戦力外と見做され退団。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオがホームシックにかかりシーズン途中に退団し、故国のCRフラメンゴに移籍した。この一連の問題が発端となり、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり、シーズン終了後にはストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団しホセ・マリア・バケーロとグアルディオラ、フェレールの3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し、監督解任を発表した。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスがレオ・ベーンハッカーを指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった。また、1994年の1994 FIFAワールドカップの大会直前には監督のディック・アドフォカートと選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが、クライフとオランダサッカー協会 (KNVB) との間で合意に達することはなかった。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている。",
"title": "指導者経歴"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的としたヨハン・クライフ大学(オランダ語版)を設立し社会貢献に努めた。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもあるジョアン・ラポルタが2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子であるフランク・ライカールトを監督に推薦。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかったマルコ・ファン・バステンをオランダ代表監督に推薦するなど影響力を行使し続けていた。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1996年5月18日、クライフはホセ・ルイス・ヌニェス会長との確執が原因となり、バルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブのソシオ達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したルイ・ファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長のジョアン・ガスパールを擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立。バサットは「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」という公約を掲げるも、僅差でガスパールが当選した。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘したセラ・フェレール監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2010年4月にバルセロナの名誉会長に就任したが、同年7月に会長となったサンドロ・ロセイがクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "2008年2月19日、アヤックスは新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に南アフリカ共和国で開催されたFIFAワールドカップの舞台にヴェスレイ・スナイデルをはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え、育成部門の再建は急務であると主張した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、フランク・デ・ブール監督の下でアシスタントコーチを務めていたダニー・ブリントをはじめコーチ陣を解雇し、デニス・ベルカンプやヴィム・ヨンクらを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "同年11月16日、エドガー・ダーヴィッツを含むアヤックスの理事4人が2012年7月からルイ・ファン・ハールをゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2009年11月9日、カタルーニャ選抜の監督に就任した。なおカタルーニャ選抜は国際サッカー連盟 (FIFA) や欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである。同年12月22日に行なわれた初采配のアルゼンチンとの親善試合に4-2で勝利、2010年12月28日にはホンジュラスと対戦し4-0で勝利、2011年12月30日にはチュニジアと対戦し0-0で引き分けた。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日にナイジェリアとの親善試合が最後の采配となった。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2012年2月25日、メキシコのCDグアダラハラのアドバイザーに就任したことが発表された。契約期間は3年 で、オーナーであり実業家のホルヘ・ベルガラ(英語版)は「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された。",
"title": "その後の経歴"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2014年、FCバルセロナではサンドロ・ロセイの後任として副会長のジョゼップ・マリア・バルトメウが会長に就任。任期を1年残して2015年7月18日に行われた会長選挙においてバルトメウは54.63%の支持率を得てクライフ派のジョアン・ラポルタを退け勝利した。また、テクニカルアドバイザーを務めるアヤックスでは国内リーグ4連覇を成し遂げる一方で、「国際舞台で再び結果を残せるクラブとなる」という目標を果たせずにいた。そのため、両クラブに対する影響力の低下や、アヤックスについてはクライフの主導の下で行われてきたユース選手育成を柱としたクラブ再建計画に対する問題点が指摘された。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2015年10月22日、スペイン・バルセロナの病院で検査を受けた際に肺がんが発見されたことを発表した。クライフの公式ウェブサイトは「ヨハンと彼の家族のプライバシーおよび検査結果が確定していない点を尊重するため、現時点において詳細を発表することはできない」としていた。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナ対SDエイバル戦や、10月23日から10月25日にかけて行われたエールディヴィジの全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客によるスタンディングオベーションが行われた。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "同年11月16日、クライフの示す展望がクラブ側に受け入れられていないことを理由にアヤックスのテクニカルアドバイザーを退任した。翌2016年2月13日に公式ウェブサイト上において診断結果は極めて良好であることを公表し、「現時点では前半を2-0でリードしているといった感じだ。試合はまだ終わっていないがね。だが、私は勝利を確信している」と病状をサッカーに例えた。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "その後、同年3月中旬まで『デ・テレフラーフ(オランダ語版)』紙上の週刊コラムの連載を続けていたが、闘病生活の末に3月24日にバルセロナで死去した。68歳没。翌3月25日、遺体はバルセロナ市内で近親者によって火葬された。彼の死に際してオランダ国王のウィレム=アレクサンダー、現役時代にライバル関係にあったフランツ・ベッケンバウアー、教え子のジョゼップ・グアルディオラをはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "同年3月25日、アムステルダム・アレナで開催された国際親善試合のオランダ代表対フランス代表戦では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷が捧げられた。また、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた。終了間際の86分にはオランダ代表のイブラヒム・アフェレイが得点を決めると背番号14を指で示すゴールパフォーマンスを見せ、クライフの生前の功績を称えた。同年3月30日、ウェンブリー・スタジアムで開催された国際親善試合のイングランド代表戦では、オランダ代表の選手が胸に14の数字が入ったユニホームを着用したが、フランス戦と同様に前半14分に合わせて観客から拍手が送られた。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "長年にわたって関わりのあったFCバルセロナの本拠地・カンプ・ノウには追悼スペースが設けられ、3月末の時点で約6万人のファンが追悼に訪れた。また、4月2日にホームで行われたレアル・マドリード戦ではスタンドに「GRÀCIES JOHAN(ありがとう、ヨハン)」のメッセージや背番号14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられた。クライフが選手として最初に所属したアヤックスでは4月2日にアムステルダム市内で約3,000人のファンによる行進が行われ、4月3日に開催されたPECズヴォレ戦では試合前に背番号14のユニフォームをかたどった横断幕がピッチやスタンドに掲げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客から拍手が送られた。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "死後、クライフの功績を讃える目的でアムステルダム・アレナをヨハン・クライフ・アレナへ改名を検討していることが2017年8月9日に発表され、2018年4月5日には名称変更が正式決定したとアヤックスは公式HPで発表した。",
"title": "晩年と死"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "身長178cm、体重67kgという細身の体躯をしていたが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した。細身の外見であるにも関わらずマークすることが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「ウナギ」とも呼ばれていた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "利き足の右だけでなく、左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた。一方で、現役時代を通じてペナルティーキックを滅多に蹴ることがなかったことでも知られている。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としており、「極度の緊張下で行われるペナルティキックは私にとっても不安にかられる一瞬だった」と語っている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力に長け、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという。試合時にはオーケストラの指揮者の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えた。ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "名義上はセンターフォワードというポジションだが、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「渦巻」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「クライフターン」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "クライフの代名詞である背番号「14」はアヤックス時代から好んで着用していた。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ。この理由について役員が尋ねると、クライフは",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "と答えた。1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていたため、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだったが、特例として「14」を着用することが認められた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "なお、アヤックスでは背番号「14」を着用していたが、FCバルセロナでは当時のリーガ・エスパニョーラは固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため背番号「9」を着用し、フェイエノールトでは引退したヴィレム・ファン・ハネヘムの背番号だった「10」を着用してプレーした。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2007年4月25日、クライフの代名詞となった背番号「14」はアヤックスの永久欠番となった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置するゴールキーパー、センターバック、リベロ、攻撃的ミッドフィールダー、センターフォワードの縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作るなどのコンセプトは変わりなかったものの、DFを3人にして3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と、1980年代後半にACミランを率いたアリゴ・サッキが主唱したプレッシングスタイルの戦術に対抗するための意図があった。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく、戦術的な欠点を露呈することもあった。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている。インタビューにおいて世界最高の選手と言われることについて問われた際に「私もそう思う」と答えたことがあるだけでなく、",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "と公言してはばからない自信家であり我が強く、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせていた。監督になったばかりのころにオランダサッカー協会から監督講習を受けるように通達された際には、「いったい誰がオレにサッカーを教えられるんだ?」と反論したこともあった。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わりやすく、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 124,
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"text": "一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいわれていた。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 125,
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"text": "会話好きな性格で、一旦話し出すと止まらない側面があった。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『わんぱくフリッパー』の主人公のイルカになぞらえて「フリッパー」とも呼ばれた。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された。また、オランダ国民には兵役が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや、1971年にオランダ君主のユリアナ女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある。クライフ自身はこの癖に気づいており、「私の悪い癖は、すべてを把握しすぎてしまい、そのため常にしゃべらなくては気が済まなかったことだ。そしてどんな状況でも、すぐ誰かのミスを指摘していた。文句を言っていたのだ。それが私の中で、一番悪かった特徴だ」と反省しつつも、「しゃべる」ことこそサッカーの基本と考えていたという。",
"title": "人物"
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"text": "さまざまな渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、「エル・サルバドール」(El Salvador、救世主の意)の他に「エル・フラコ」という渾名でも呼ばれていたが、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「神」と呼んでいた。また、イニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、1970年代に流行したロック・ミュージカルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』に準え「スーパースター」とも呼ばれた。",
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"text": "独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している。クライフの発言で本が一冊まとめられたこともあり、「\"Typisch Cruiffiaans:Uitspraken\"(典型的クライフ語・発言集 クライフライブラリー出版)」という語録集も出版されている。 還暦を迎えた2007年にAFP通信が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた。",
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"text": "なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している。母国語のオランダ語の他に、英語、スペイン語を話すことが出来る ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある。",
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"paragraph_id": 129,
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"text": "妻であるダニー・コスターとは1967年に行われたピート・カイザーの結婚式を通じて知り合い、1968年12月に結婚すると3人の子供をもうけた。長女シャンタル(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだったヘスス・マリアノ・アンゴイ(英語版)と結婚。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退するとアメリカンフットボール選手となり、NFLヨーロッパのバルセロナ・ドラゴンズ(英語版) などでプレースキッカーを務めたが後に離婚した。",
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"text": "次女スシラ(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に馬術の障害飛越競技の選手を志したが膝の故障により断念した。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 131,
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"text": "末っ子のジョルディ(1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、キリスト教の守護聖人・聖ゲオルギオスのカタルーニャ語読みである「サン・ジョルディ」に因んで「ジョルディ」 (Jordi) と命名した。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナやマンチェスター・ユナイテッド、デポルティーボ・アラベスなどに在籍した。また、オランダとスペインの二重国籍を有することから、いずれかの代表チームを選択する権利があり一時はU-21オランダ代表の招集を辞退していた。最終的に1996年4月にオランダ代表を選択し、同年にイングランドで開催されたUEFA欧州選手権1996に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 132,
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"text": "実兄のヘニーもサッカー選手でありポジションはディフェンダーを務めていた。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退し、その後はスポーツ用品店を経営した。ヘニーの娘でクライフの姪にあたるエステル・クライフ(オランダ語版)はタレントとなり、2000年にルート・フリットと結婚したが2013年に離婚が成立した。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 133,
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"text": "好きな選手は1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノと、「ロッテルダムのモナ・リザ」と呼ばれドリブルの名手だったファース・ヴィルケス、好きな監督はリヌス・ミケルス、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けたベルティ・フォクツ の名を挙げている。特にディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた。なお、若い頃のクライフは自身より1歳年上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが、前述のようにディ・ステファノのファンであったクライフは、才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したという過去を持つベストに例えられることを嫌っていた。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 134,
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"text": "選手時代はプーマ社とスポンサー契約を結んでいた。1974 FIFAワールドカップのオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していたアディダス社のサッカーシューズの使用及びユニフォームを着用することを拒否し、オランダ代表での試合が近づくとオランダサッカー協会のスタッフとアディダスの代表担当がカミソリでユニフォームに施されたアディダスのシンボルである3本線の内一本を削ぎ落とし、2本線となったユニフォームをクライフは着用して試合に出場していた。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否し、バルセロナの監督に就任した際には契約書に「自分が着る服は自分で決められる」という条項を盛り込んでいた。",
"title": "人物"
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"text": "趣味のゴルフは選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた。その際にプロゴルファーのセベ・バレステロスを紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという。引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載したオランダゴルフ協会(オランダ語版)のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 136,
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"text": "15歳の頃からヘビースモーカーであり、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった。引退し監督になった後も喫煙は続けられ、ベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、バイパス手術により一命は取り留めた。手術後は医師から禁煙が言い渡され、タバコの代わりにチュッパチャプスを舐めるようになった。監督時代には毎日80本のタバコを吸っていたとされている。",
"title": "人物"
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"text": "カタルーニャ州政府の依頼により、若者の喫煙防止のためのコマーシャルに出演した。このコマーシャルは背広姿のクライフがボールの代わりにタバコの箱をリフティングし、「サッカーはつねに私の人生だった」と言ったわずかな沈黙の後に箱を蹴り飛ばすと箱は破裂し、最後に若者に向けて「喫煙は危うく私の人生を奪うところだった...」「喫煙はバカなことである。悪習にならないように気を付けよう」というメッセージが添えられるという内容だった。このCMはスペイン語、カタルーニャ語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語で放送された。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 138,
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"text": "選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないという思想を持っていた。そのためカウンターアタックに代表される守備的な戦術、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的だった。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけでサッカーの為にならないと主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 139,
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"text": "この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 140,
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"text": "なお、2002 FIFAワールドカップでブラジルが優勝した際には個々の能力は評価しつつルイス・フェリペ・スコラーリの採用したカウンター戦術について「アンチフットボール」「ボールの出所にプレッシャーを掛け3-5-2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 141,
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"text": "UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10でインテルナツィオナーレ・ミラノが優勝した際には、決勝戦のバイエルン・ミュンヘン戦でのインテルの選手について「インテルの守備陣形や、選手たちのポジショニングは素晴らしかったと思う」としつつも、「しかし守った後は、見るに堪えないサッカーだった。8割以上は、まるで目をつむって適当に蹴っているかの様なクリアボールだった。あのようなやり方で勝つことは、一時の快楽としては最高だろう。しかしこの勝利がイタリアリーグの未来に、何かをもたらすとは思えない」と批判的な意見を述べて「私は少しも興奮しなかった」と評し、またインテル監督のジョゼ・モウリーニョを指して「モウリーニョは素晴らしい監督だが、私のチームを任せたいとは思わない」と切り捨てている。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 142,
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"text": "クライフには、以下のような5つの思考法があった。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 143,
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"text": "また、クライフは自著の『Ik hound van voetbal』(私はサッカーを愛している)の巻末において、選手たちへのメッセージとして以下の「10の心得」を記している。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 144,
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"text": "クライフの影響を受けていると公言している選手としては、オランダのマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールト、フランスのミシェル・プラティニやダヴィド・ジノラ、ドイツのピエール・リトバルスキー、ルーマニアのゲオルゲ・ハジ、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、イングランドのポール・ガスコイン、日本の西野朗らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だったヨハン・ニースケンスは豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 145,
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"text": "1980年代から1990年代にはファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり、しばしば比較の対象となっていた。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り指揮者の様に振舞ったのに対し、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど、両者のスタイルは明確に異なっていた。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年のバロンドール授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 146,
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"text": "ブラジルのサッカー指導者のレヴィー・クルピはセレッソ大阪時代に指導した日本の香川真司のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している。",
"title": "影響"
},
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"paragraph_id": 147,
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"text": "バルセロナの監督時代に志向した、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織(カンテラ)を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した。監督時代の教え子であるジョゼップ・グアルディオラは2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した。",
"title": "影響"
},
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"paragraph_id": 148,
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"text": "このことから、ドリームチーム時代の主力選手であるロナルド・クーマンは「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した。",
"title": "影響"
},
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"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "またシャビ・エルナンデスやアンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスといったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降のスペイン代表はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ、同代表チームが2006 FIFAワールドカップに出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「ティキ・タカ」 (tiqui-taca) として紹介されると、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった。ティキ・タカとは玩具のアメリカンクラッカーを鳴らす時に発生する音を字句で表した擬声語である。同代表チームはUEFA欧州選手権2008ではルイス・アラゴネス、2010 FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権2012ではビセンテ・デル・ボスケに率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 150,
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"text": "ルイ・ファン・ハールは1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においてもUEFAカップ1991-92優勝やUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ」と否定的な立場を採っている。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "フース・ヒディンクはオランダ代表監督として1998 FIFAワールドカップで指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した。",
"title": "影響"
},
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"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "2007年にはU-21オランダ代表監督を務めていたフォッペ・デ・ハーン(英語版)が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張し、クライフとの間で論争が行われた。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用してUEFA U-21欧州選手権において優勝に導いたことで世論の支持を集め、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA欧州選手権2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家のヘンク・スパーン(オランダ語版)やサイモン・クーパーらもクライフの思想を批判した。",
"title": "影響"
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{
"paragraph_id": 153,
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"text": "ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任したベルト・ファン・マルワイクも同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた。2010 FIFAワールドカップ・決勝ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した。",
"title": "影響"
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"text": "アルゼンチンのホルヘ・バルダーノはクライフに追随し1990年代にCDテネリフェやレアル・マドリードを率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "バレエダンサーのルドルフ・ヌレエフはクライフの移動の素早く、頭の回転も速く、プレーのスピードもあって早口だった彼のプレースタイルに魅了されていたといい、クライフを「チェスプレイヤーの頭脳を持ったダンサー」と称している。",
"title": "影響"
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{
"paragraph_id": 156,
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"text": "2000年代以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが、アルゼンチンのマルセロ・ビエルサやイタリアのアルベルト・ザッケローニのように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めた。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した。",
"title": "影響"
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"paragraph_id": 157,
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"text": "選手としてはアルフレッド・ディ・ステファノ、ペレ、ディエゴ・マラドーナ、フランツ・ベッケンバウアーらと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。オランダ国内では芸術家のレンブラント・ファン・レインにたとえ「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり、イギリスのサッカー専門家のエリック・バッティは「1972年のチャンピオンズカップ決勝がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代にヘネス・バイスバイラー監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "監督としてもアヤックスでUEFAカップ優勝、バルセロナではドリームチームと呼ばれるタレント集団を指揮し国内リーグ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残した。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物はミゲル・ムニョス、ジョバンニ・トラパットーニ、クライフ、カルロ・アンチェロッティ、フランク・ライカールト、ジョゼップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンの7人のみである。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」エンターテインメント性のあるサッカーを実践したと評されている。かつてのドリームチームの一員であるルイス・ミジャやジョゼップ・グアルディオラは次のように評している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している。",
"title": "評価"
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"text": "1983-84シーズン終了時の成績",
"title": "個人成績"
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"paragraph_id": 161,
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"text": "オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数",
"title": "個人成績"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数",
"title": "個人成績"
}
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ヨハン・クライフことヘンドリック・ヨハネス・クライフは、オランダ出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレ(ブラジル)やディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)と並ぶ史上最高の選手と評されており、サッカー界に最も影響を与えた人物の1人である。 引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスやFCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収め、史上最高の監督の1人とみなされた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」 など、様々なニックネームを持つ。
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{{Otheruses|[[オランダ]]の[[プロサッカー選手]]|[[イギリス]]で生産された[[競走馬]]|ヨハンクライフ (競走馬)|[[オランダ]]にあるスタジアム|ヨハン・クライフ・アレナ|[[スペイン]]にあるスタジアム|エスタディ・ヨハン・クライフ}}
{{サッカー選手
|名前=ヨハン・クライフ
|画像=Johan Cruyff 1974c.jpg
|画像サイズ=220px
|画像の説明=[[1974年]]のヨハン・クライフ
|本名=ヘンドリック・ヨハネス・クライフ<br />{{lang|nl|Hendrik Johannes Cruijff}}
|愛称=フライング・ダッチマン<ref name="学研">[[#日本スポーツプレス協会編集 2000|日本スポーツプレス協会編集 2000]]、64-65頁</ref><ref name="number901-52-57">{{Cite book|和書|chapter=ヨハン・クライフ完全年表 1947-2016|title=[[Sports Graphic Number]]|volume=901号|publisher=[[文藝春秋]]|year=2016|page=52-57}}</ref><br />エル・サルバドール<ref name="number901-52-57"/><ref name="story149">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=149|title=ヨハン・クライフ|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2012-07-07}}</ref><br />エル・フラコ<ref name="サントス181">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、181頁</ref><br />スーパースター<ref name="number901-52-57"/><ref name="encyclopedia665">[[#国吉 2006|国吉 2006]]、665頁</ref>
|カタカナ表記=
|アルファベット表記={{lang|nl|Johan Cruijff}}
|原語名=
|原語表記=
|国={{NLD}}
|誕生日={{生年月日と年齢|1947|4|25|no}}
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1947|4|25|2016|3|24|}}
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|所属チーム名=
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] / [[ミッドフィールダー|MF]]
|背番号=
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|ユース年1=1957-1964 |ユースクラブ1={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|年1=1964-1973|クラブ1={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]|出場1=240|得点1=190
|年2=1973-1978|クラブ2={{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]|出場2=143|得点2=48
|年3=1979|クラブ3={{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ロサンゼルス・アズテックス|en|Los Angeles Aztecs}}|出場3=27|得点3=14
|年4=1980|クラブ4={{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}|出場4=27|得点4=10
|年5=1981|クラブ5={{Flagicon|ESP}} [[レバンテUD|レバンテ]]|出場5=10|得点5=2
|年6=1981|クラブ6={{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}|出場6=5|得点6=2
|年7=1981-1983|クラブ7={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]|出場7=36|得点7=14
|年8=1983-1984|クラブ8={{Flagicon|NED}} [[フェイエノールト]]|出場8=33|得点8=11
|クラブ成績更新日=
|代表年1=1966-1977|代表1={{NEDf}} <ref name="rsssf">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/cruijff-intlg.html|title=Johan Cruijff - Goals in InternationalMatches|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>|代表出場1=48|代表得点1=33
|代表成績更新日=
|監督年1=1985-1988|監督チーム1={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|監督年2=1988-1996|監督チーム2={{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|監督年3=2009-2013|監督チーム3={{CTLf}}選抜
}}
'''ヨハン・クライフ'''({{lang|nl|Johan Cruijff}}{{#tag:ref|{{IPA-nl|ˈjoːɦɑn ˈkrœyf|-|JohanCruiff.ogg}}。[[英語]]表記では「Cruyff」と綴られることもある<ref name="number901-52-57"/>。|group=注}})こと'''ヘンドリック・ヨハネス・クライフ'''({{lang|nl|Hendrik Johannes Cruijff}} {{仮リンク|オラニエ=ナッサウ勲章|label=OON|en|Order of Orange-Nassau}}, [[1947年]][[4月25日]] - [[2016年]][[3月24日]])は、[[オランダ]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]、サッカー指導者。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]、[[ミッドフィールダー]]。
[[リヌス・ミケルス]]監督の志向した組織戦術「[[トータルフットボール]]」をピッチ上で体現した選手であり<ref name="学研"/><ref name="encyclopedia">[[#国吉 2006|国吉 2006]]、165頁</ref>、選手時代に在籍した[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]3連覇、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]では[[FIFAワールドカップ]]準優勝に導いた実績などから[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。[[フランツ・ベッケンバウアー]]([[ドイツ]])と並ぶ1970年代を代表する選手<ref name="学研"/><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、232頁</ref><ref>[[#大住 1998|大住 1998]]、56頁</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、12頁</ref>であり、[[ペレ]]([[ブラジル]])や[[ディエゴ・マラドーナ]]([[アルゼンチン]])と並ぶ史上最高の選手と評されており<ref name="encyclopedia"/>、サッカー界に最も影響を与えた人物の1人である。
引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスや[[FCバルセロナ]]の監督を務めると、バルセロナでは[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収め<ref name="学研"/>、史上最高の監督の1人とみなされた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年まで[[サッカーカタルーニャ代表|カタルーニャ選抜]]の監督を務めた。<!--[[リヒャルト・ワーグナー]]の[[楽劇]]「[[さまよえるオランダ人]]」-->相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「'''空飛ぶオランダ人'''([[フライング・ダッチマン]])」<ref name="学研"/><ref name="asahi">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/sports/fb/world/TKY201007090212.html|title=「スペイン流」先生はオランダ クライフの攻撃サッカーを継承|publisher=[[朝日新聞]]|date=2010-07-09|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref name="クライフ2014-232"/>、[[スペイン語]]で[[救世主]]を意味する「エル・サルバドール」<ref name="story149"/> など、様々な[[愛称|ニックネーム]]を持つ。
== 生い立ち ==
[[ファイル:Oogststraat Betondorp Amsterdam NL 1.jpg|left|thumb|250px|クライフが育ったベトンドルプの街並み]]
1947年4月25日、[[アムステルダム]]の東部にある{{仮リンク|ベトンドルプ|nl|Betondorp}}という労働者の住む街で、青果店を営む家庭<ref name="サントス70-71">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、70-71頁</ref><ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、125頁</ref>の次男として生まれた<ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、74頁</ref>。家庭は貧しく、日頃の生活に窮していたが<ref name="サントス70-71"/>、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた<ref name="サントス70-71"/>。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられ、マスコットのような存在になった<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、75頁</ref>。
少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、77-78頁</ref><ref name="賀川20050329">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=870|title=第12回 ヨハン・クライフ(1)スリムで、鋼のように強く、チームを意のままに動かし、観客をしびれさせた|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>{{#tag:ref|アヤックスの攻撃的なサッカースタイルは[[イングランド]]出身の{{仮リンク|ジャック・レイノルズ (1881年生のサッカー選手)|label=ジャック・レイノルズ|en|Jack Reynolds (footballer born 1881)}}によって初めて導入された<ref name="ウィルソン277-278">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、277-278頁</ref>。レイノルズは選手としての成功とは無縁だったが、[[1915年]]にアヤックスの監督に就任すると、役員との対立や[[第二次世界大戦]]の影響による退団を挟んで25年間にわたり同クラブを指導し、オランダ国内の強豪チームへと育て上げた<ref name="ウィルソン277-278"/>。彼は「攻撃とは最高の形の守備である」との信条に基いた指導を行うと共に、下部組織の基礎を作り各年代ごとのチームが一貫したスタイルでプレー出来るように配慮した<ref name="ウィルソン277-278"/>。|group=注}}。当時のアヤックスには[[第二次世界大戦]]後に駐屯していた[[アメリカ軍]]の影響もあって[[野球]]部門があり、野球は主にサッカーのオフシーズンにプレーしていた<ref>[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、11頁</ref>。打順は1番<ref name="クライフ2017-20">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、20頁</ref>、ポジションは[[捕手|キャッチャー]]を務め<ref name="大住74-75">[[#大住 2004|大住 2004]]、74-75頁</ref><ref name="story872">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=872|title=第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>、有望なキャッチャーであったクライフは<ref name="サカマガ秋季52-53">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、52-53頁</ref>15歳までは[[野球オランダ代表|オランダ代表]]にも選ばれていた<ref name="クライフ2017-20"/>。[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]でスター選手になるという夢も持ち合わせていたが<ref name="大住74-75"/>、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった<ref name="大住74-75"/><ref name="サカマガ秋季52-53"/>{{#tag:ref|クライフは野球を経験したことが「私にとっては非常に有効な手段だったと確信している」と述べている<ref name="クライフ2017-21">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、21頁</ref>。またフィールド全体を見渡せるキャッチャーを経験したことによって、自然とサッカー選手として必要な能力である全体を把握する力が強化され、また常に次のプレーを考えるように教えられたため、先の展開を考えることも学んだと述べており<ref name="クライフ2017-21"/>、サッカーに専念するようになった後も野球を学び続けた結果、監督になってからは一歩先の動きを読む、瞬間的に戦術的な判断を下し、さらに技術的に正確な行動をとるなどといった、「野球の視点から行えるアドバイスをサッカーにうまく適応できた」と述べている<ref name="クライフ2017-21"/>。|group="注"}}。
1959年7月8日、12歳の時に45歳の父が心臓発作により死去<ref name="マルメリンク2017-79">[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、79頁</ref><ref name="クライフ2017-1819">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、18-19頁</ref>。クライフは精神的なショックを受け<ref name="サントス72-73">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、72-73頁</ref>、後にクライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としたものの、周囲の人々によるとこの時のクライフは立ち直るまでに時間を有したという<ref name="サントス72-73"/>。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという<ref name="サントス72-73"/>。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが<ref name="大住75">[[#大住 2004|大住 2004]]、75頁</ref>、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した<ref name="サントス79">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、79頁</ref>。クライフは幼少のころから男性と交流があり、クライフの情緒に安定と安心感をもたらすことになった<ref name="サントス79"/>。この時期に[[プロテスタント]]系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが、勉学には不熱心であり<ref name="サカマガ秋季68-69">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、68-69頁</ref>、2年時に中退し、スポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた<ref name="サカマガ秋季52-53"/>。
15歳でユースチームに昇格したが、当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた<ref name="サントス78">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、78頁</ref>。一方、持ち前の突破力を生かしてセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し<ref name="サントス78"/>、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした<ref name="Biografie">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/ned/flashcontent.asp?page=7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104205301/http://www.cruyff.com/asp/ned/flashcontent.asp?page=7|title=Biografie Johan Cruijff|publisher=Cruijff.com|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。こうした経緯から、トップチームの監督を務めていた[[ヴィク・バッキンガム]]はクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり<ref name="サントス79"/>、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した<ref name="サントス79"/>。
== クラブ経歴 ==
=== アヤックス ===
==== 選手としての成功 ====
[[ファイル:Johan Cruijff (1965).jpg|thumb|240px|1965年のクライフ]]
16歳の時に1964年にトップチームへの昇格と[[プロサッカー選手|プロ契約]]を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500[[ギルダー]](約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ<ref name="サントス80">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、80頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、122頁</ref>。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められ{{#tag:ref|オランダでプロが認められたのは1954年のことで<ref name="ウィナー24-25">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、24-25頁</ref><ref name="サカマガ197108">{{Cite book|和書|author=エリック・バッティ|chapter=躍進オランダの新星 ヨハン・クライフ|title=[[サッカーマガジン]]|volume=1971年8月号|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|year=1971|page=106-108}}</ref><ref name="ウィルソン 276">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、276頁</ref>、前年にオランダ西部の[[ゼーラント州]]が洪水に見舞われた際に同国のスター選手達が災害支援のために、[[サッカーフランス代表|フランス代表]]と慈善試合を行ったことがきっかけだった<ref name="ウィナー24-25"/>。しかしプロが認められた後も、多くの選手がアマチュアやセミプロの選手としてピッチに立っており<ref name="ウィナー24-25"/>、待遇面だけでなく戦術レベルにおいても欧州の先進国と比べ大きく立ち遅れていた<ref name="ウィルソン 276"/><ref name="ウィナー26-27">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、26-27頁</ref>。個々の選手に才能はあってもそれを試合で発揮する術のない状況は1960年代初頭まで続いたという<ref name="ウィナー26-27"/>。また、1954年にオランダで認められたのは「[[セミプロフェッショナル|セミプロ契約]]」であったとする指摘もある<ref>[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、232頁</ref>。|group=注}}、クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが<ref name="クーパー233-234">[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、233-234頁</ref>、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であった[[ピート・カイザー]]とする指摘がある<ref name="クーパー233-234"/><ref name="サントス86">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、86頁</ref>{{#tag:ref|クライフは自身のプロ契約について以下のように発言している。{{Quotation|記憶が正しければ、私はオランダで2人目の「フルタイム」のプロサッカー選手だった。1964年のことだ。考えてもみてくれ、つい最近のことだよ。1人目はピート・カイザーであり、私は2人目だ<ref name="クーパー233-234"/>。|ヨハン・クライフ}}|group=注}}。
同年11月15日にアウェーで行われた[[FCフローニンゲン|GVAV]]戦でデビューを果たし、試合は1-3で敗れたものの初得点を挙げ<ref name="サントス81"/>、11月22日にホームで行われた[[PSVアイントホーフェン]]戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した<ref name="サントス81">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、81頁</ref>。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任した[[リヌス・ミケルス]]の下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された<ref name="サカマガ秋季55">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、55頁</ref>。これはミケルスがクライフを「ダイヤモンドの原石」と称して<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、27頁</ref>その素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり<ref name="サカマガ秋季55"/>、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり、精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している<ref name="大住77">[[#大住 2004|大住 2004]]、77頁</ref>。クライフは1軍の試合ではフィールドプレーヤーとして出場していたが、3軍の試合に出場する際は[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]として出場し<ref name="クライフ2017-22">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、22頁</ref>、アヤックスで[[UEFAチャンピオンズリーグ|ヨーロッパカップ]]に参加していた際は第二ゴールキーパーであった<ref name="クライフ2017-22"/>。
[[ファイル:Persconferentie ivm vertrek van bondscoach Kees Rijvers en de opvolging van hem , Bestanddeelnr 933-1360.jpg|thumb|250px|選手時代にクライフを指導した[[リヌス・ミケルス]]。彼の志向した組織戦術「[[トータル・フットボール]]」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。]]
ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ<ref name="大住80">[[#大住 2004|大住 2004]]、80頁</ref>。1965年[[10月24日]]に行われた{{仮リンク|AFCドール・ウィルスクラフト・ステルク|label=AFC DWS|en|AFC DWS}}戦で{{仮リンク|クラース・ヌニンハ|en|Klaas Nuninga}}との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献<ref name="Biografie" />。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげ[[エールディヴィジ]]優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かせない選手となっていた<ref name="大住77" />。
国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回(1965-66、1966-67、1967-68、1969-70、1971-72、1972-73)、KNVBカップ優勝4回(1966-67、1969-70、1970-71、1971-72)<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、121頁</ref><ref name="クライフ2017-312-314">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、312-314頁</ref>。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した<ref name="クライフ2017-312-314"/>。
==== 国際タイトルの獲得 ====
[[ファイル:Johan Cruijff krijgt in Amstelveen Ballon dor (onderscheiding voor Europees vo, Bestanddeelnr 925-5239.jpg|thumb|270px|left|1971年の[[バロンドール]]授賞式でのクライフ]]
[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]には[[UEFAチャンピオンズカップ 1966-67|1966-67]]シーズンに初出場を果たし、2回戦で[[ビル・シャンクリー]]監督が率いるイングランドの[[リヴァプールFC]]と対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが<ref name="クーパー242-243">[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、242-243頁</ref>、[[霧|濃霧]]の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した<ref name="クーパー242-243"/><ref name="クライフ2017-29">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、29頁</ref>。敵地での第2戦を前に相手のビル・シャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが<ref name="クーパー242-243"/><ref name="クライフ2017-29"/>、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた<ref name="サカマガ197108"/><ref name="クーパー242-243"/>。アヤックスはリヴァプールを相手に勝利したことで「ヨーロッパカップを優勝する可能性がある」と騒ぎ立てられたが<ref name="クライフ2017-29"/>、続く[[FKデュクラ・プラハ|デュクラ・プラハ]]戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃した<ref name="NRC20061207">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.nrc.nl/next/2006/12/07/faam-ajax-begon-in-de-mist-11240622|title=Faam Ajax begon in de mist|publisher=NRC|date=2006-12-07|accessdate=2016-03-26}}</ref>。しかし、「霧の試合({{lang-nl|De Mistwedstrijd}})」<ref name="NRC20061207"/><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.olympischstadion.nl/page/80|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406125032/http://www.olympischstadion.nl/page/80|title=1966: De Mistwedstrijd|publisher=Olympisch Stadion|archivedate=2016-04-06|accessdate=2016-03-26}}</ref> と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった<ref name="NRC20061207"/>。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった<ref name="サカマガ197108"/>。
[[UEFAチャンピオンズカップ 1967-68|1967-68]]シーズンには1回戦でスペインの[[レアル・マドリード]]に敗退<ref name="サントス44">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、44頁</ref>。[[UEFAチャンピオンズカップ 1968-69|1968-69]]シーズンには準々決勝でポルトガルの[[SLベンフィカ]]、準決勝でチェコスロバキアの[[FCスパルタク・トルナヴァ|スパルタク・トルナヴァ]]を下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアの[[ACミラン]]に1-4で敗れた<ref name="サントス44"/>。[[UEFAチャンピオンズカップ 1970-71|1970-71]]シーズンには決勝で[[ギリシャ]]の[[パナシナイコスFC]]を下し初優勝に貢献すると、1971年の[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位の[[サンドロ・マッツォーラ]](57ポイント)を抑えて初受賞を果たした<ref name="バーランド、ファンドープ227-228">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、227-228頁</ref>。
[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1971-72]]シーズンにはミケルスが退任し[[ルーマニア人]]の[[シュテファン・コヴァチ]]が監督に就任した<ref name="スホッツ、ラウツェン52">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、52頁</ref>。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、38頁</ref><ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、86頁</ref><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、122頁</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、38頁</ref>、「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた<ref name="スホッツ、ラウツェン52"/>。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している<ref name="スホッツ、ラウツェン52"/>。
準決勝でポルトガルの[[SLベンフィカ]]を下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの<ref name="ウィルソン277-278">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、277-278頁</ref>、決勝でイタリアの[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]と対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した<ref name="ウィルソン277-278"/>。この大会の勝者として挑んだ[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]ではアルゼンチンの[[CAインデペンディエンテ]]と対戦し、2試合合計4-1のスコアで初優勝した<ref name="サントス51">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、51頁</ref>。
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
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|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.10|y=0.40|scale=225|text=[[ピート・カイザー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''カイザー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.43|y=0.40|scale=225|text=<span style="font-size: 90%; color: white">クライフ</span>}}
{{Image label|x=0.75|y=0.40|scale=225|text=[[ヨニー・レップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[ヘリー・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
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{{Image label|x=0.43|y=0.78|scale=225|text=[[アリー・ハーン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ハーン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[ルート・クロル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クロル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=225|text=[[ヴィム・シュルビア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シュルビア'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.10|y=1.03|scale=225|text=[[ホルスト・ブランケンブルク|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブランケンブルク'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.65|y=1.03|scale=225|text=[[バリー・フルスホフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フルスホフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=225|text=[[ハインツ・ストイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1973年5月30日、[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73]]決勝、[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]戦のメンバー<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/ec/ec197273det.html#cc | title=European Champions' Cup 1972-73 - Details|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
|}
[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73|1972-73]]シーズンには準々決勝で[[フランツ・ベッケンバウアー]]、[[ゲルト・ミュラー]]、[[ゼップ・マイヤー]]を擁する[[西ドイツ]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン]]と対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、88-89頁</ref>。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアの[[ユヴェントスFC]]を下し3連覇を達成した<ref name="サントス51"/>。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位の[[ディノ・ゾフ]](47ポイント)、を抑えて2回目の受賞を果たした<ref name="バーランド、ファンドープ227-228" />。
==== 国外からのオファー ====
一方で元モデルの妻、ダニー・コスターや、宝飾商を営んでいた妻の父{{仮リンク|コー・コスター|nl|Cor Coster}}(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった<ref name="サントス92">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、92頁</ref>。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督である[[ヴィク・バッキンガム]]を招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た<ref name="大住85-86">[[#大住 2004|大住 2004]]、85-86頁</ref><ref name="トーラス154">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、154頁</ref>。当時の[[スペインサッカー連盟]]の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった<ref name="大住85-86"/><ref name="トーラス154"/>。
バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され<ref name="大住85-86"/>、両クラブ間で合意に達した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、94頁</ref>が、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られた<ref name="トーラス155">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、155頁</ref>ことで移籍は消滅し<ref name="サントス92"/><ref name="大住85-86"/><ref name="トーラス155"/>、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった<ref name="大住85-86"/>。
アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正<ref name="トーラス156">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、156頁</ref>されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、91頁</ref>。この移籍を巡って{{仮リンク|ヤープ・ファン・プラーフ (サッカー組織の幹部)|label=ヤープ・ファン・プラーフ|nl|Jaap van Praag (sportbestuurder)}}会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した<ref name="サントス87">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、87頁</ref><ref name="サントス96">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、96頁</ref>。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し<ref name="サントス96"/>、サポーターからも批判を受けるようになったが<ref name="サントス96"/>、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった<ref name="サントス87"/>。しかし、バルセロナへの移籍が決まったクライフは、家に様々な毒虫が送られてくるなどといった嫌がらせの被害を受けた<ref name="クライフ2017-44"/>。
=== バルセロナ ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.08|y=0.40|scale=225|text=[[ウーゴ・ソティル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ソティル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.40|scale=225|text=<span style="font-size: 90%; color: white">クライフ</span>}}
{{Image label|x=0.68|y=0.40|scale=225|text=[[カルロス・レシャック|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レシャック'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[フアン・マヌエル・アセンシ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アセンシ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[マルシアル・ピナ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''マルシアル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.78|scale=225|text=[[フアン・カルロス・ペレス・ロペス (1945年生のサッカー選手)|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フアン・カルロス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.77|y=0.90|scale=225|text=[[ジョアキン・リフェ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''リフェ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[アントニオ・デラ・クルス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''デ・ラ・クルス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.21|y=1.03|scale=225|text=[[エンリケ・アルバレス・コスタス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''コスタス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.55|y=1.03|scale=225|text=[[アントニ・トーレス・ガルシア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''トーレス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.46|y=1.18|scale=225|text=[[ペドロ・バレンティン・モラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''モラ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1974年2月17日、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]22節、[[レアル・マドリード]]戦のメンバー<ref name="トーラス174">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、174頁</ref>
|}
1973年夏、600万ギルダー<ref name="サカマガ197310">{{Cite book|和書|chapter=至宝クライフ バルセロナ入り 57000万円の超特大トレード|title=サッカーマガジン|volume=1973年10月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1973|page=127}}</ref>{{#tag:ref|当時の金額で約200万ドル<ref name="ピ75">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、75頁</ref>、[[円 (通貨)|日本円]]で約5億7000万円<ref name="サカマガ197310"/>。|group="注"}}という金額で[[プリメーラ・ディビシオン|スペイン]]のFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアの[[ピエリーノ・プラティ]]がACミランから[[ASローマ]]へ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった<ref name="サカマガ197310"/>。
移籍成立後は手続きが遅れたため、リーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり<ref name="ピ76">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、76頁</ref>、同年10月28日に行われた[[グラナダCF]]戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した<ref name="ピ76"/>。同年12月22日に行われた[[アトレティコ・マドリード]]戦ではアクロバティックな得点を決める活躍を見せたが<ref name="サントス100"/><ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.marca.com/2015/10/22/futbol/equipos/barcelona/1445529409.html|title=Los 14 goles inolvidables del gran '14' de la historia del fútbol|publisher=[[マルカ (新聞)|Marca]]|date=2015-10-22|accessdate=2016-03-27}}</ref>、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた<ref name="サントス100"/>。1974年2月17日、敵地の[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われた[[レアル・マドリード]]戦([[エル・クラシコ]])では5-0と歴史的勝利に貢献し<ref name="ピ76" /><ref name="サントス100">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、100頁</ref>、同年4月17日、敵地での[[スポルティング・デ・ヒホン]]戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた<ref name="ピ76" />。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した<ref name="バーランド、ファンドープ227-228" />。
当時のスペインは[[フランシスコ・フランコ]]の独裁政治の時代にあり<ref name="トーラス190">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、190頁</ref>、バルセロナへの移籍が決まった際には「独裁者のためにサッカーをする」という批判を受けた<ref name="クライフ2017-44">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、44頁</ref>が、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた<ref>[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、186頁</ref>。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ<ref name="トーラス190"/>、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが<ref name="トーラス190"/>、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「[[救世主]]」(''El Salvador''、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた<ref name="story149"/>。
1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚である[[ヨハン・ニースケンス]]の獲得をクラブ首脳陣に推挙した<ref name="サントス111">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、111頁</ref>こともありチームに加わったが、[[ギュンター・ネッツァー]]と[[パウル・ブライトナー]]を擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された<ref name="サントス111"/>。
[[ファイル:Cruijff met de beker van de derde prijs, Bestanddeelnr 928-0928.jpg|thumb|200px|[[FCバルセロナ]]在籍時のクライフ]]
1975-76シーズンには西ドイツの[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]を指揮して実績のある[[ヘネス・バイスバイラー]]が監督に就任したが、クライフとの確執が続き<ref name="サントス111"/><ref name="サカマガ19760525">{{Cite book|和書|chapter=海外だより バイスバイラー監督辞任、クライフ残留|title=サッカーマガジン|volume=1976年5月25日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1976|page=88}}</ref>、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した<ref name="サカマガ19760525"/>。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが<ref name="サカマガ19760525"/>、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ<ref>{{Cite book|和書|chapter=海外だより クライフ、バルセロナにとどまる|title=サッカーマガジン|volume=1976年6月10日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1976|page=98}}</ref>。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した<ref name="サントス111"/>。
翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され<ref name="サントス111"/>、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した<ref name="サントス111"/>。また国際大会においては[[UEFAチャンピオンズカップ 1974-75]]では準決勝進出を果たすもイングランドの[[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ・ユナイテッド]]に敗退、[[UEFAカップ1975-76]]では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、[[UEFAカップ1976-77]]では準々決勝で[[アスレティック・ビルバオ]]に敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった<ref name="サントス109">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、109頁</ref>。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている<ref name="サントス109"/><ref name="ストライカー19930717">{{Cite book|和書|author=エリック・バッティ|chapter=エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(前)|title=[[ストライカー (雑誌)|ストライカー]]|volume=1993年7月17日号|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|year=1993|page=64-65}}</ref>。またクライフ自身は強気な性格が災いし判定を巡って[[審判員 (サッカー)|審判]]とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた<ref name="サントス110">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、110頁</ref>。バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンは[[コパ・デル・レイ]]決勝で[[UDラス・パルマス]]を3-1で下し優勝を果たしたものの<ref name="Biografie" />、国際大会では[[UEFAカップ1977-78]]では準決勝でオランダの[[PSVアイントホーフェン]]と対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた<ref name="Biografie" />。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した<ref name="Biografie" />。
=== 引退試合と実業家への転身 ===
[[ファイル:Cruijff afscheidswedstrijd bij Ajax.jpg|200px|thumb|left|1978年11月7日に行われた引退試合でのクライフ。]]
1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した<ref name="サカマガ19781225">{{Cite book|和書|chapter=さよならナンバー14 ヨハン・クライフ引退記念試合|title=サッカーマガジン|volume=1978年12月25日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1978|page=86-87}}</ref>。同年8月30日に[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク・コスモス]]に招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか<ref name="サカマガ19781225"/>、イングランドの[[チェルシーFC]]からオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた<ref name="サカマガ19781225"/>。
同年11月7日、アムステルダムの[[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ・スタディオン]]で、クライフの引退試合が開催された<ref name="サカマガ19781225"/>。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた<ref name="サカマガ19781225"/>。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された<ref name="サカマガ19781225"/>。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった<ref name="サカマガ19781225"/>。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、[[パウル・ブライトナー]]と[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]が揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した<ref name="サカマガ19781225"/>。
クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた<ref name="サカマガ19781225"/>。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った<ref name="サカマガ19781225"/>。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、[[空港]]や宿泊した[[ホテル]]では敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している<ref name="ESPN FC20070620">{{en icon}} {{Cite web|url=http://espnfc.com/columns/story?id=440207&root=global&cc=4716|title=Beckham's a path once trodden by Cruyff|publisher=ESPN FC|date=2007-06-20|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフはこの試合で得た収益のうち30万ギルダーを子供病院へ寄付した<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、125頁</ref>。
引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した<ref name="Volkskrant19970425">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.volkskrant.nl/vk/nl/2698/Sport/archief/article/detail/507972/1997/04/25/Geweldige-voetballer-fantastisch-mens-rampzalig-seizoen.dhtml|title=Geweldige voetballer, fantastisch mens, rampzalig seizoen|publisher=Volkskrant|date=1997-04-25|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが<ref name="サントス108-109"/>、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、[[不動産]]取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した<ref name="Volkskrant19970425"/>。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった<ref name="Volkskrant19970425"/><ref name="スホッツ、ラウツェン137-138">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、139-140頁</ref>。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも<ref name="Volkskrant19970425"/>、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。
一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている<ref name="サントス108-109">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、108-109頁</ref>。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定した<ref name="サントス108-109"/>が、引退から数か月後には現役復帰を決意した<ref name="ESPN FC20070620"/>。
=== ロサンゼルス・アズテックス ===
クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、[[北米サッカーリーグ]] (NASL) のニューヨーク・コスモスだった<ref name="サカマガ19790725">{{Cite book|和書|chapter=スーパースターはなぜ米国へ渡ったか|title=サッカーマガジン|volume=1979年7月25日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1979|page=76-79}}</ref>。 同クラブのオーナーを務める{{仮リンク|スティーヴ・ロス|en|Steve Ross (Time Warner CEO)}}は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した<ref name="ESPN FC20070620"/>。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し<ref name="サカマガ19790725"/>、恩師のミケルスが監督を務める{{仮リンク|ロサンゼルス・アズテックス|en|Los Angeles Aztecs}}と契約した<ref name="サカマガ19790725"/>。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とする[[ローズボウル (競技場)|ローズボウル]]で観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された<ref name="サカマガ19790725"/>。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った<ref name="サカマガ19790725"/>。
1979年5月19日、{{仮リンク|ロチェスター・ランチャーズ|en|Rochester Lancers (1967–1980)}}戦でデビューすると、前半10分のうちに2得点をあげ、後半には3点目の得点をアシストし、3-0と勝利した<ref name="ESPN FC20070620"/>。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだった[[ヴィム・シュルビア]]、[[レオ・ファン・フェーン]]、{{仮リンク|フープ・スメーツ|nl|Huub Smeets}}らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった<ref name="ESPN FC20070620"/>。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝で{{仮リンク|バンクーバー・ホワイトキャップス (1974年-1984年)|label=バンクーバー・ホワイトキャップス|en|Vancouver Whitecaps (1974–84)}}に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた<ref name="サカマガ198401">{{Cite book|和書|chapter=アウトロー・ストーリー ヨハン・クライフ(下)女王をわずらわせた空飛ぶ救世主|title=サッカーマガジン|volume=1984年1月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1983|page=156-158}}</ref>。
=== ワシントン・ディプロマッツ ===
[[ファイル:Ajax tegen FC Twente 5-3, Johan Cruijff nam in tweede helft plaats naast Leo Bee, Bestanddeelnr 931-1799.jpg|thumb|250px|1980年、古巣のアヤックスにテクニカルアドバイザーとして復帰すると[[FCトゥウェンテ]]戦の試合途中から指揮を執った。]]
1980年2月、首都[[ワシントンD.C.]]を本拠地とする{{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}に移籍した<ref name="サカマガ秋季78-79">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、78-79頁</ref>。ディプロマッツは1979年秋に[[マディソン・スクエア・ガーデン]]・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが<ref name="サカマガ秋季78-79"/>、当初獲得を目指したイングランド代表の[[ケビン・キーガン]]との交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ<ref name="ESPN FC20070620"/>。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった<ref name="ESPN FC20070620"/>。
同年3月29日、{{仮リンク|タンパベイ・ロウディーズ (1975年-1993年)|label=タンパベイ・ロウディーズ|en|Tampa Bay Rowdies (1975–1993)}}戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた<ref name="サカマガ秋季78-79"/>。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだった[[ビム・ヤンセン]]が在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた<ref name="ESPN FC20070620"/>。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対し、ディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督の{{仮リンク|ゴードン・ブラッドリー|en|Gordon Bradley}}をはじめ何人かの選手から反発を招いた<ref name="ESPN FC20070620"/>。また、[[人工芝]]の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった<ref name="ESPN FC20070620"/>。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた<ref name="ESPN FC20070620"/>。
同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し[[日本]]、[[香港]]、[[インドネシア]]を転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、55-56頁</ref>。
クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた<ref name="Biografie"/>。これに対し[[オランダサッカー協会]] (KNVB) は、NASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した<ref name="Biografie"/>。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われた[[FCトゥウェンテ]]戦をスタンドで観戦した<ref name="バーランド、ファンドープ40-41">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、40-41頁</ref>。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督の[[レオ・ベーンハッカー]]の隣で直接指揮を執った<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/>。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/>。
=== レバンテ ===
[[ファイル:Johan Cruijff en voetbalmakelaar Cor Coster (r) op de tribune, Bestanddeelnr 930-4447.jpg|250px|thumb|left|クライフと義父の{{仮リンク|コー・コスター|nl|Cor Coster}}(右側)。]]
1981年、クライフはオランダの[[FCドルトレヒト|DS'79]]の会長の依頼を受けて[[ロブ・レンセンブリンク]]と共に招待選手として同クラブに参加<ref name="Biografie"/>。イングランドのチェルシーFC、[[ベルギー]]の[[シャルルロワSC]]、オランダの[[MVVマーストリヒト]]の3つの親善試合に出場した<ref name="Biografie"/>。当時のクライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、[[アーセナルFC]]、[[レスター・シティFC]]が獲得に乗り出した<ref name="サカダイ198105">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 クライフ、レスター移籍はお流れ|title=[[サッカーダイジェスト]]|volume=1981年5月号|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|year=1981|page=108}}</ref>。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった<ref name="サカダイ198105"/>。
同年2月26日、スペイン・[[セグンダ・ディビシオン]](2部リーグ)の[[レバンテUD]]へ移籍することに合意した<ref>{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 結局クライフは二部入り|title=サッカーダイジェスト|volume=1981年5月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1981|page=111}}</ref>。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたものの<ref name="Volkskrant19970425"/>、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った<ref name="Volkskrant19970425"/>。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになった<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>が、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。
3月2日に行われた[[CFパレンシア]]戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり<ref name="Levante">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-levante|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602054413/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-levante|title=Short period with Levante|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-06-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した<ref name="Volkskrant19970425"/>。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている<ref name="Volkskrant19970425"/>。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/><ref name="Levante"/>。
同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56"/><ref name="サントス119"/>、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「{{仮リンク|ムンディアリート・ペル・クラブ|it|Mundialito per club}}」に参加した<ref name="サカマガ198109">{{Cite book|和書|chapter=ヨハン・クライフ ACミランへのゲスト参加で衰えぬ力を証明|title=サッカーマガジン|volume=1981年9月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1981|page=126-127}}</ref>。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場した<ref name="サカマガ198109" /> が、[[鼠蹊部]]の負傷のために<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56" />コンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった<ref name="サントス119">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119頁</ref><ref name="Sport120111123">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.sport1.nl/nieuws/26911-johan-cruijffs-mislukte-duel-met-ac-milan.html|title=Johan Cruijffs mislukte duel met AC Milan|publisher= Sport1.nl|date=2011-11-23|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった<ref name="Sport120111123" />。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた<ref name="サントス119" />。
同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ<ref name="Biografie"/>。7月1日に行われた{{仮リンク|サンディエゴ・ソッカーズ (1978年-1996年)|label=サンディエゴ・ソッカーズ|en|San Diego Sockers (1978–96)}}戦でデビューしたが<ref name="Biografie" />、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、{{仮リンク|モントリオール・マニック|en|Montreal Manic}}戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった<ref name="Biografie" />。
=== アヤックスへの復帰 ===
[[ファイル:Van links naar rechts voorzitter Harmsen, Johan Cruijff en secretaris Bartels, Bestanddeelnr 931-8431.jpg|thumb|255px|アヤックスへの復帰直後のクライフ。左隣は会長の{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}。]]
レバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた<ref name="サントス119"/>。しかし同年12月6日に行われた[[HFCハールレム]]戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた<ref name="ajax">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ajax|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406214600/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ajax|title=Playing for Ajax|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-04-06|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
当時のアヤックスは[[マルコ・ファン・バステン]]や[[フランク・ライカールト]]や[[ジェラルド・ファネンブルグ]]といったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの、多くの結果を残すことが出来ずにいた<ref name="サントス119"/>。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦で[[AZアルクマール]]や[[PSVアイントホーフェン]]に敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした<ref>{{nl icon}} {{Cite news|url=http://www.eredivisiestats.nl/wedstrijden.php|title=Wedstrijden|publisher=EredivisieStats|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
2年目の1982-83シーズンには[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83]]に出場し、1回戦で[[スコットランド]]の[[セルティックFC]]と対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/season=1982/matches/round=1034/match=63820/postmatch/lineups/index.html|title=UEFA Champions League 1982/83 - History - Ajax-Celtic Lineups|publisher=UEFA.com|accessdate=2013-08-07}}</ref>。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった<ref name="Biografie"/>。
1982年12月5日に行われた[[ヘルモント・スポルト]]戦では印象的なトリックプレーを見せた<ref name="ajax20071206">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ajax.nl/Ajax-nieuws/Ajax-nieuws-archief/Ajax-nieuwsartikel/De-extras-van-Cruijff.htm?channel=print|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104213636/http://www.ajax.nl/Ajax-Nieuws/Ajax-nieuwsarchief/Ajax-nieuwsartikel/64914/De-extras-van-Cruijff.htm?channel=print|title=De‘extra’s’van Cruijff|publisher= Ajax.nl|archivedate=2014-01-04|accessdate=2015-10-29}}</ref>。試合中に[[ペナルティーキック]]を獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできた[[イェスパー・オルセン]]へと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった<ref name="ajax20071206"/>。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので<ref name="ajax20071206"/>、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった<ref name="ajax20071206"/>。
リーグ戦では[[フェイエノールト]]との間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持<ref name="サカマガ198307">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL オランダ・フランス|title=サッカーダイジェスト|volume=1983年7月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1983|page=80}}</ref>。[[5月1日]]に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した<ref name="サカマガ198307"/>。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの<ref name="サントス119-120">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119-120頁</ref>、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった<ref name="サカマガ198309">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他|title=サッカーダイジェスト|volume=1983年9月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1983|page=78}}</ref>。
一方、1983年に入るとクラブ会長の{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや<ref name="サントス119-120"/>、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた<ref name="スホッツ、ラウツェン57">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、57頁</ref>。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦の[[NECナイメヘン]]戦の終了後に退団を表明し<ref name="Biografie"/>、5月14日に行われたリーグ戦最終節の[[フォルトゥナ・シッタート]]戦がアヤックスでの最後の試合出場となった<ref name="バーランド、ファンドープ224-225">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、224-225頁</ref>。
=== フェイエノールトへの移籍と引退 ===
[[ファイル:Feyenoord tegen PEC, met afscheid Johan Cruijff Johan Cruijff zwaaiend met blo, Bestanddeelnr 932-9659.jpg|thumb|200px|left|公式戦最後の試合となった[[フェイエノールト]]対[[PECズヴォレ]]戦でのクライフ。]]
1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブの[[フェイエノールト]]へ移籍し1年契約を結んだ<ref name="サカマガ198309"/>。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり<ref name="サントス119-120"/>、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦の[[FCフォレンダム]]戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの、試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した<ref name="スホッツ、ラウツェン57"/>。フェイエノールトでは当時21歳の[[ルート・フリット]]らとチームメイトとなったが、監督の{{仮リンク|テイス・リブレフツ|en|Thijs Libregts}}を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った<ref name="スホッツ、ラウツェン58-59">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、58-59頁</ref>。またフェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した<ref name="スホッツ、ラウツェン58-59"/>。
同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫したが<ref name="マルメリンク313">[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、313頁</ref>、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復<ref name="マルメリンク313"/>。カップ戦決勝で[[フォルトゥナ・シッタート]]を下すと<ref name="Feyenoord">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-fey|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160410004543/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-fey|title=Playing for Feyenoord|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-04-10|accessdate=2012-07-07}}</ref>、リーグ戦でも[[PSVアイントホーフェン]]やアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われた[[ヴィレムII]]戦で5-0と勝利し、1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた<ref name="サカマガ198407">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他|title=サッカーダイジェスト|volume=1984年7月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1984|page=78}}</ref>。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった<ref name="サカマガ198407"/>。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われた[[PECズヴォレ]]戦が最後の公式戦出場となり<ref name="バーランド、ファンドープ224-225"/><ref name="マルメリンク313"/>、この試合の79分に[[マリオ・ベーン]]との交代でピッチを退いた<ref name="Biografie"/>。
クライフの現役選手として最後の試合は[[サウジアラビア]]で行われた<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、62-63頁</ref>。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。クライフは前半を[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア代表]]の選手として、後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後には[[ファイサル・ビン=ファハド]]王子から記念品として24金製の食器が贈呈された<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または[[選手兼任監督]]としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。
{{-}}
== 代表経歴 ==
=== 初期の経歴 ===
[[ファイル:Johan Cruijff tijdens zijn debuut bij het Nederlands elftal in 1966.jpg|thumb|250px|left|オランダ代表として初出場を果たした[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦でのクライフ(前列中央)]]
[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]としては1966年9月7日に行われた[[UEFA欧州選手権1968予選]]の[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦で代表デビューを飾った<ref name="バーランド、ファンドープ224-225"/>。同年7月に行われた[[1966 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]を下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた<ref name="大住77">[[#大住 2004|大住 2004]]、77頁</ref>。しかし同年11月6日に行われた[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]との親善試合において、クライフはチェコの選手に絶えずに蹴られていたが、主審を務めたルーディー・グロックナー<ref name="バーランド、ファンドープ1999-148">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、148頁</ref><ref name="クライフ2014-185-186">[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、185-186頁</ref><ref name="クライフ2017-27">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、27頁</ref>はこの状態を放置し続け、クライフは一時間以上も経った後で彼に抗議を行ったがグロックナーは取り合わず<ref name="クライフ2017-27"/>、さらに抗議をした直後にクライフはグロックナーが見ている前で再びチェコの選手に蹴られたたもののファールすら取られず<ref name="クライフ2017-27"/>、再び抗議を行ったがここで退場処分を受けた<ref name="大住78">[[#大住 2004|大住 2004]]、78頁</ref>{{#tag:ref|クライフは「文化の違い(グロックナーは[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]出身<ref name="クライフ2014-185-186"/><ref name="クライフ2017-27"/>)から衝突することになってしまった。(中略)私が彼(グロックナー)に歩み寄った行為がすでに許せなかったらしく、(グロックナーは)私に退場処分を下した」と述べている<ref name="クライフ2014-185-186"/>。|group="注"}}。グロックナーはクライフを退場させた理由について、「生意気なクライフにお灸をすえるためだった」と説明しており<ref name="クライフ2014-185-186"/>{{#tag:ref|クライフはこの説明に対して「私はグロックナーが全く試合の流れを感じ取っていなかったという意見をくつがえす気はない」と述べており、またグロックナーを「すべての面で失敗していた」と批判している<ref name="クライフ2014-185-186"/>。また、クライフはこの件を念頭に置いて「私は[[イギリス人]]審判のほうがやりやすい。彼らの前では激しいバトルも許されていたが、問題を起こした場合は即座に処された。さらに彼らは試合の流れを読みながら笛を吹いていたので、時には選手を援護する精神を見せた」と述べている<ref name="クライフ2014-185-186"/>。|group="注"}}、「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、140頁</ref>、[[オランダサッカー協会]] (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下し<ref name="バーランド、ファンドープ1999-148"/><ref name="大住78"/>、クライフは公式の国際試合出場停止の処分を受けた最初のオランダ人選手となった<ref name="バーランド、ファンドープ1999-148"/>。
[[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]では[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]や[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]に敗れ、[[UEFA欧州選手権1972予選]]では[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]に敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。
{{仮リンク|1974 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|label=1974 FIFAワールドカップ・予選|en|1974 FIFA World Cup qualification (UEFA)}}では隣国の[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]と同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた<ref name="グランヴィル119">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、119頁</ref>。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、92頁</ref><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、141頁</ref>。
=== 1974 FIFAワールドカップ ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.38|y=0.35|scale=225|text=<span style="font-size: 90%; color: white">クライフ</span>}}
{{Image label|x=0.07|y=0.45|scale=225|text=[[ロブ・レンセンブリンク|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レンセンブリンク'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.45|scale=225|text=[[ヨニー・レップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.61|scale=225|text=[[ヴィレム・ファン・ハネヘム|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・ハネヘム'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[ヨハン・ニースケンス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ニースケンス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.78|scale=225|text=[[ビム・ヤンセン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヤンセン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=225|text=[[ヴィム・シュルビア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シュルビア'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.11|y=0.90|scale=225|text=[[ルート・クロル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クロル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=1.03|scale=225|text=[[ウィム・レイスベルヘン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レイスベルヘン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.71|y=1.03|scale=225|text=[[アリー・ハーン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ハーン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.31|y=1.18|scale=225|text=[[ヤン・ヨングブルート|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヨングブルート'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1974 FIFAワールドカップ]]での[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]の基本布陣<ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tables/74full.html#final|title=World Cup 1974 finals|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、105頁</ref>
|}
[[File:Johan Cruyff in trainingspak Nederlands Elftal , kop.jpg|180px|thumb|left|オランダ代表でのクライフ(1973年)]]
翌1974年に西ドイツで開催される[[1974 FIFAワールドカップ|本大会]]に向けチームの立て直しが求められると、KNVBは[[チェコスロバキア]]出身の{{仮リンク|フランティシェク・ファドルホンツ|en|František Fadrhonc}}を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していた[[リヌス・ミケルス]]を監督に迎えた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、93頁</ref>。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから<ref name="大住94-95">[[#大住 2004|大住 2004]]、94-95頁</ref>、かつて自身が率いていた[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]のメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した<ref name="大住94-95"/>。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた<ref name="大住94-95"/>。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた<ref name="武智19">[[#武智 2010|武智 2010]]、19頁</ref>。
1次リーグ初戦の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦を2-0で勝利を収め、第2戦の[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]戦を0-0で引き分けたが、第3戦の[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた<ref name="武智19"/><ref name="グランヴィル228">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、228頁</ref>。
2次リーグにおいても[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を4-0<ref name="サントス57">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、57頁</ref>、[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]を2-0で下し<ref name="サントス57"/>、第3戦を迎えた。試合相手は[[1970 FIFAワールドカップ|前回大会]]の優勝国である[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]だったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破した[[ルート・クロル]]のクロスをジャンピングボレーシュートによるゴールを決めて1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、231頁</ref>。このゴールが「空飛ぶオランダ人([[フライング・ダッチマン]])」という異名で呼ばれるきっかけとなった<ref name="クライフ2014-232">[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、232頁</ref>。
決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルである[[フランツ・ベッケンバウアー]]らを擁する[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]となった<ref name="サントス58-59">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、58-59頁</ref>。西ドイツは開幕前に[[イギリス]]の[[ブックメーカー]]が発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、102頁</ref>が、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった<ref name="グランヴィル227-228">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、227-228頁</ref>。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ<ref>{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=325|title=オランダ 力強さと、速さと、柔らかさ|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった<ref name="グランヴィル232-233">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、232-233頁</ref>。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-N0716-0314, Fußball-WM, BRD - Niederlande 2-1a.jpg|200px|thumb|right|1974 FIFAワールドカップ決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦でドリブルを仕掛けるクライフ(中央の人物)。後方は[[ベルティ・フォクツ]]。]]
試合は開始早々にクライフがドリブルで相手エリアに踏み込んだところ、[[ウリ・ヘーネス]]の足が絡んでクライフが倒され、開始から1分も経たないうちにオランダがPKを獲得<ref name="サントス58-59"/>。これをニースケンスが決めて先制した<ref name="サントス58-59"/>。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までに[[パウル・ブライトナー]]と[[ゲルト・ミュラー]]の得点により2-1と逆転した<ref name="サントス58-59"/>。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツの[[ベルティ・フォクツ]]の徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず<ref name="グランヴィル233-234">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、233-234頁</ref>、1-2で敗れ準優勝に終わった<ref name="サントス58-59"/>。
この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられる<ref name="グランヴィル233-234"/><ref name="武智20">[[#武智 2010|武智 2010]]、20頁</ref>が、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。[[オランダ人]]に([[ドイツ人]]のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた<ref name="武智20"/><ref name="サントス60-61">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、60-61頁</ref>。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け<ref name="サントス62">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、62頁</ref><ref name="ウィナー289-292">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、160頁</ref>、国王への謁見を許されたが<ref name="サントス62"/><ref name="ウィナー289-292"/>、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという<ref name="サントス62"/>。
その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームは[[スタンリー・キューブリック]]により映画化された同名小説に準え「[[時計じかけのオレンジ]]」<ref name="武智20"/><ref name="サントス60-61"/>と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム<ref name="story149"/>」「我々に未来のサッカーを啓示した<ref name="大住1998・60">[[#大住 1998|大住 1998]]、60頁</ref><ref name="武智21">[[#武智 2010|武智 2010]]、21頁</ref>」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する<ref name="武智21"/>」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。
{{Quotation|私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1-2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている<ref>[[#FIFA 2004|FIFA 2004]]</ref>。|ヨハン・クライフ}}
=== UEFA欧州選手権1976 ===
1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退き{{仮リンク|ジョージ・クノベル|en|George Knobel}}が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まった[[UEFA欧州選手権1976予選]]に参加<ref name="サカマガ19760810">{{Cite book|和書|chapter=全4試合が延長戦!チェコが大激戦を制す!|title=サッカーマガジン|volume=1976年8月10日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1976|page=74-76}}</ref>。予選1次グループでは[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]やイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。
1976年に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]で行われた[[UEFA欧州選手権1976|本大会]]では、準決勝で[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]と対戦することになったが、地元の[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]やワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた<ref name="サカマガ19760810"/>。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが<ref name="ウィナー286-289">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、286-289頁</ref>、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し<ref name="サカマガ19760810"/><ref name="ウィナー286-289"/>、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した<ref name="サカマガ19760810"/>。
チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審の{{仮リンク|クライヴ・トーマス|en|Clive Thomas}}に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが<ref name="ウィナー289-292"/><ref name="サカマガ19760810"/>、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた<ref name="ウィナー289-292"/>。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した<ref name="サカマガ19760810"/>。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり<ref name="サカマガ19760810"/>、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった<ref name="ウィナー289-292"/>。
=== 代表からの引退 ===
[[ファイル:Nederland tegen Belgie 1-0, na afloop vlnr Neeskens, Suurbier, Hovenkamp, Kr, Bestanddeelnr 929-4096.jpg|thumb|250px|left|1977年10月26日に行われた[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦でのクライフ(右から2人目)。この試合が最後の代表出場となった。]]
同年9月から始まった{{仮リンク|1978 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|label=1978 FIFAワールドカップ・予選|en|1978 FIFA World Cup qualification (UEFA)}}にも引き続き参加し、隣国のベルギーや[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランド]]を退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年に[[アルゼンチン]]で開催される[[1978 FIFAワールドカップ|本大会]]への出場は辞退することになった<ref name="グランヴィル250">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、250頁</ref><ref>[[#大住 1998|大住 1998]]、64頁</ref>。クライフに続いてストライカーの[[ルート・ヘールス]]やキーパーの[[ヤン・ファン・ベベレン|ヤン・ファン・ベフェレン]]、前回準優勝メンバーの[[ヴィレム・ファン・ハネヘム]]らも大会への参加を辞退することになった<ref name="グランヴィル250"/>。
ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンは[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため<ref name="サントス114-115">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、114-115頁</ref><ref name="ウィナー162-163">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、162-163頁</ref>」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため<ref name="サントス114-115"/>」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため<ref name="サントス114-115"/><ref name="ウィナー162-163"/><ref name="バーランド、ファンドープ118-119">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、118-119頁</ref>」など様々な憶測が囁かれた<ref name="サントス114-115"/>。
クライフはこれまで
{{Quotation|ワールドカップに出場するには100%の体調では駄目だ。200%でなければ駄目だ。私は1974年大会を経験しているが、あれだけのプレーを再現できるとは思えないから辞退するのだ。今シーズン限りでバルセロナを含め、あらゆるサッカー活動から引退し家族と共に過ごす時間を増やすことにする。私は大衆の前から姿を消す。|ヨハン・クライフ<ref>{{Cite book|和書|author=エディ・プールマン|chapter=オランダ、ベルギーを蹴落してアルゼンチンへ …しかしクライフはチームを去る|title=サッカーマガジン|volume=1977年12月10日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1977|page=80}}</ref>}}と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた<ref name="バーランド、ファンドープ118-119"/><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、112-113頁</ref> が、[[2008年]]4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした<ref name="ウィナー162-163"/><ref name="guardian20080416">{{en icon}}{{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/apr/16/newsstory.sport15|title=Kidnappers made Cruyff miss World Cup|publisher=guardian.co.uk|date=2008-04-16日|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
{{Quotation|大会の前年に子供の誘拐事件が発生した。私は犯人からライフル銃を突きつけられ妻と共に拘束されたが、子供に危害は与えられなかった。その後、4か月間は自宅周辺や子供の通学路では警察の警護を受ける状況となった。家族のことが心配となりオランダ代表としてワールドカップの舞台でプレーする気にはなれなかった。人生には何より代え難い物がある。|ヨハン・クライフ<ref name="guardian20080416"/>}}
オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点<ref name="rsssf"/>。
== 指導者経歴 ==
=== アヤックス ===
[[ファイル:Vertrek Ajax van Schiphol voor Europa Cup II wedstrijd tegen Olympiakos Piraeus, Bestanddeelnr 933-8034.jpg|thumb|250px|right|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]の監督時代のクライフ(中央の人物)。右隣は[[フランク・ライカールト]]、左隣は[[マルコ・ファン・バステン]]。]]
引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず<ref name="サントス126-127">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、126-127頁</ref>、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/><ref name="サントス126-127"/>。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが<ref name="サントス126-127"/>、これはクライフが前述の北米リーグ時代に[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり<ref name="サントス126-127"/>、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという<ref name="サントス128">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、128頁</ref>。
クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランの[[アーノルド・ミューレン]]、中堅の[[マルコ・ファン・バステン]]や[[フランク・ライカールト]]らを軸に、[[デニス・ベルカンプ]]や[[アーロン・ヴィンター]]といった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制して[[UEFAカップウィナーズカップ 1986-87]]への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[1.FCロコモティヴ・ライプツィヒ]]をファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。
1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}会長との確執もありクラブを退団した<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、165-166頁</ref>。
=== バルセロナ ===
{{main|エル・ドリーム・チーム}}
==== 監督就任の経緯 ====
1988年5月4日、[[FCバルセロナ]]の監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長の[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]の存在があった<ref name="サントス134">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、134頁</ref>。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体は[[ルイス・アラゴネス]]監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し<ref name="バルセロナ">[[#岡部 2010|岡部 2010]]、177頁</ref>、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた<ref name="サントス135">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、135頁</ref>。ヌニェスには、自らの政権維持のために[[ソシオ]]と呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、136-137頁</ref>。
クライフはバルセロナに着いて間もない時に「私は意欲のあるチャンピオン精神を備えた素晴らしいチームを作ります。そして、ここ数年落ち込んでいるクラブを再起させるのです」と目標を掲げた<ref name="サントス148-149">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、148-149頁</ref>。しかし、前述の「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため<ref name="サントス148-149"/>、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり<ref name="サントス148-149"/>、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった<ref name="サントス148-149"/>。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが<ref name="バルセロナ"/>、自らのスタイルを押し通すと[[UEFAカップウィナーズカップ 1988-89]]でイタリアの[[UCサンプドリア]]を下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた<ref name="サントス151">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、151頁</ref>。
==== ドリーム・チームの完成 ====
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.08|y=0.35|scale=225|text=[[フリスト・ストイチコフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイチコフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.68|y=0.35|scale=225|text=[[フリオ・サリナス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''サリナス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=0.45|scale=225|text=[[ホセ・マリア・バケーロ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バケーロ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.12|y=0.61|scale=225|text=[[ミカエル・ラウドルップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ラウドルップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[エウセビオ・サクリスタン・メナ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''エウセビオ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.78|scale=225|text=[[ジョゼップ・グアルディオラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''グアルディオラ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.67|y=0.90|scale=225|text=[[アルベルト・フェレール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フェレール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[フアン・カルロス・ロドリゲス・モレノ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フアン・カルロス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.25|y=1.03|scale=225|text=[[ロナルド・クーマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クーマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.60|y=1.03|scale=225|text=[[フェルナンド・ムニョス・ガルシア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ナンド'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.36|y=1.18|scale=225|text=[[アンドニ・スビサレッタ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スビサレッタ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1992年5月20日、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92]]決勝、[[UCサンプドリア]]戦のメンバー<ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/ec/ec199192det.html#cc|title=European Champions' Cup 1991-92 - Details|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
|}
1989-90シーズン、デンマークの[[ミカエル・ラウドルップ]]、オランダの[[ロナルド・クーマン]]といったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦では[[ウーゴ・サンチェス]]や[[エミリオ・ブトラゲーニョ]]を擁する[[レアル・マドリード]]が5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが<ref name="サントス153">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、153頁</ref>、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した<ref name="サントス153"/>。
1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションの[[アルベルト・フェレール|フェレール]]、[[ユーティリティープレイヤー]]の[[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア|ゴイコエチェア]]、ブルガリア出身の[[フリスト・ストイチコフ]]らを獲得する一方で下部組織から[[ジョゼップ・グアルディオラ]]を昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、154頁</ref>。シーズン最中の1991年2月26日に[[心筋梗塞]]により倒れ[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]を受けたため<ref name="ピ79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、9頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、147頁</ref>、復帰するまでの間は代理として[[カルロス・レシャック]]が指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。
1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92]]では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まってバルセロナが1-0で勝利し、クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした<ref name="サントス162">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、162頁</ref>。
クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し<ref name="number767">{{Cite book|和書|author=横井伸幸|chapter=クライフを神にした伝説のクラシコ|title=[[Sports Graphic Number]]|volume=767号|publisher=[[文藝春秋]]|year=2010|page=174}}</ref>、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた<ref name="ピ78-79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、78-79頁</ref>。在任した8シーズンの間に国内では[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]4連覇(1990-91、1991-92、1992-93、1993-94)、コパ・デル・レイ優勝1回(1989-90)、[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スーペルコパ]]優勝3回(1991、1992、1994)、国際大会では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝1回(1991-92)、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回(1988-89)、[[UEFAスーパーカップ]]優勝1回(1992)を成し遂げた<ref name="クライフ2017-312-314"/>。
1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、[[1992年バルセロナオリンピック]]の[[1992年バルセロナオリンピックのバスケットボール競技|バスケットボール競技]]において、[[マイケル・ジョーダン]]らを擁して[[金メダル]]を獲得した[[バスケットボール男子アメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国代表]]の通称である[[ドリームチーム]]になぞらえて「'''[[エル・ドリーム・チーム]]'''」と称された<ref name="サントス145">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、145頁</ref>。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した<ref name="バルセロナ"/>。
==== ドリーム・チームの終焉 ====
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.35|y=0.40|scale=200|text=[[ロマーリオ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ロマーリオ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.72|y=0.40|scale=200|text=[[フリスト・ストイチコフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイチコフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.09|y=0.40|scale=200|text=[[セルジ・バルフアン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''セルジ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.42|y=0.55|scale=200|text=[[ホセ・マリア・バケーロ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バケーロ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.70|scale=200|text=[[ギジェルモ・アモール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アモール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.16|y=0.70|scale=200|text=[[ミゲル・アンヘル・ナダル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ナダル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=0.85|scale=200|text=[[ジョゼップ・グアルディオラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''グアルディオラ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.74|y=1.00|scale=200|text=[[アルベルト・フェレール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フェレール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=1.00|scale=200|text=[[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ゴイコエチェア'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.45|y=1.15|scale=200|text=[[ロナルド・クーマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クーマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=1.30|scale=200|text=[[アンドニ・スビサレッタ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スビサレッタ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1994年1月8日、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]18節、[[レアル・マドリード]]戦のメンバー<ref name="number767"/>。
|}
1993-94シーズンに新たに[[ブラジル]]の[[ロマーリオ]]が入団<ref name="サントス204-205"/>。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとの[[エル・クラシコ]]において2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した<ref name="サントス204-205"/>。リーグ戦の優勝争いは首位に立つ[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]をバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、170頁</ref>。
一方、国内リーグでの優勝から4日後に[[ギリシャ]]の[[アテネ]]で[[UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94]]決勝が行われ、[[ファビオ・カペッロ]]の率いるイタリアのACミランと対戦し0-4で大敗を喫した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、169頁</ref>。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている<ref name="number767"/><ref name="サントス202-203">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、202-203頁</ref>。
1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKの[[アンドニ・スビサレッタ]]がクライフから戦力外と見做され退団<ref name="サントス202-203"/>。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオが[[ノスタルジア|ホームシック]]にかかりシーズン途中に退団し<ref name="サントス204-205">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、204-205頁</ref>、故国の[[CRフラメンゴ]]に移籍した。この一連の問題が発端となり<ref name="サントス204-205"/>、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、206-207頁</ref>、シーズン終了後にはストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、209頁</ref>。
1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団し[[ホセ・マリア・バケーロ]]とグアルディオラ、[[アルベルト・フェレール|フェレール]]の3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、213-220頁</ref>。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、221頁</ref>、監督解任を発表した<ref>{{Cite book|和書|chapter=ワールドワイドインフォメーション スペイン|title=サッカーマガジン|volume=1996年6月12日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1996|page=91}}</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、222頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、148頁</ref>。
=== オランダ代表監督問題 ===
FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された<ref name="グランヴィル401">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、401頁</ref><ref name="バーランド、ファンドープ135-136">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、135-136頁</ref>。1990年にイタリアで開催された[[1990 FIFAワールドカップ]]の大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスが[[レオ・ベーンハッカー]]を指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった<ref name="バーランド、ファンドープ135-136"/><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、111頁</ref>。また、1994年の[[1994 FIFAワールドカップ]]の大会直前には監督の[[ディック・アドフォカート]]と選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが<ref name="グランヴィル401"/>、クライフと[[オランダサッカー協会]] (KNVB) との間で合意に達することはなかった<ref name="グランヴィル401"/>。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが<ref name="スホッツ、ラウツェン112">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、112頁</ref>、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている<ref name="スホッツ、ラウツェン112"/>。
== その後の経歴 ==
[[ファイル:Johan Cruijff golfer cropped.jpg|thumb|right|200px|2009年のクライフ]]
バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援する[[ヨハン・クライフ財団]]や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的とした{{仮リンク|ヨハン・クライフ大学|nl|Johan Cruyff University}}を設立し社会貢献に努めた<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/ned/cruijfffoundation.asp?page=6|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104205332/http://www.cruyff.com/asp/ned/cruijfffoundation.asp?page=6|title=Johan Cruyff Foundation|publisher=cruyff.com|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもある[[ジョアン・ラポルタ]]が2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子である[[フランク・ライカールト]]を監督に推薦<ref name="ウィナー371">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、371頁</ref>。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかった[[マルコ・ファン・バステン]]をオランダ代表監督に推薦<ref name="ウィナー371"/>するなど影響力を行使し続けていた。
=== バルセロナを巡る論争 ===
1996年5月18日、クライフは[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]会長との確執が原因となり<ref name="木村72">[[#木村 2003|木村 2003]]、72頁</ref>、バルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに[[名誉毀損]]訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった<ref name="木村72"/>。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブの[[ソシオ]]達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し<ref name="木村72"/>、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した<ref name="木村72"/>。
1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した<ref name="木村72"/>。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された<ref name="木村72"/>。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘した[[ルイ・ファン・ハール]]のスタイルを「退屈」として批判<ref name="木村72"/>、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた<ref name="ボール146">[[#ボール 2002|ボール 2002]]、146頁</ref>。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した<ref name="ボール142">[[#ボール 2002|ボール 2002]]、142頁</ref>。
2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長の[[ジョアン・ガスパール]]を擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立<ref name="木村72"/>。バサットは「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」という公約を掲げるも、僅差でガスパールが当選した<ref name="木村72"/>。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘した[[ロレンソ・セラ・フェレール|セラ・フェレール]]監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し<ref name="木村72"/>、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した<ref name="木村72"/>。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた<ref name="木村73">[[#木村 2003|木村 2003]]、73頁</ref>。
2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった<ref name="木村73"/>。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが<ref name="木村73"/>、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/200306/CN2003061601000057.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104212831/http://www.47news.jp/CN/200306/CN2003061601000057.html|title=ベッカム獲得に前進か バルサ会長にラポルタ氏|publisher=[[47NEWS]]|date=2003-06-15|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
2010年4月にバルセロナの[[名誉会長]]に就任したが<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、191頁</ref>、同年7月に会長となった[[サンドロ・ロセイ]]がクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100705-649681.html|title=クライフ氏、バルサ名誉会長職を返上|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2010-07-05|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2010/jul/02/johan-cruyff-barcelona-president|title=Johan Cruyff stripped of Barcelona honorary president title|publisher=[[The Guardian]]|date=2010-07-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
=== アヤックスを巡る論争 ===
2008年2月19日、[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]は新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した<ref name="AFPBB20080221">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2353715?pid=2663295|title=クライフ氏がアヤックスに復帰|publisher=AFPBB News|date=2008-02-21|accessdate=2014-01-04}}</ref>。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した<ref name="WSD2008417">{{Cite book|和書|author=エルンスト・ブーベス|chapter=The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 夢と消えたアヤックスの二頭体制|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2008年4月17日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=102-103}}</ref>。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので<ref name="WSD2008417"/>、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した<ref name="WSD2008417"/>。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立<ref name="WSD2008417"/>。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した<ref name="WSD2008417"/>。
2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、207頁</ref><ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、449-452頁</ref>。
アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に[[南アフリカ共和国]]で開催されたFIFAワールドカップの舞台に[[ヴェスレイ・スナイデル]]をはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した<ref name="WSD20110502">{{Cite book|和書|chapter=ニュースの裏側 News number 08 クライフのアドバイザー就任に伴うアヤックスの内紛|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2011年5月2日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=102}}</ref>。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが<ref name="WSD20110502"/>、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え<ref name="WSD20110502"/>、育成部門の再建は急務であると主張した<ref name="WSD20110502"/>。
同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、[[フランク・デ・ブール]]監督の下でアシスタントコーチを務めていた[[ダニー・ブリント]]をはじめコーチ陣を解雇し<ref name="WSD20110502"/>、デニス・ベルカンプや[[ヴィム・ヨンク]]らを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ<ref name="WSD20110502"/>。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった<ref name="WSD20110502"/>。
同年11月16日、[[エドガー・ダーヴィッツ]]を含むアヤックスの理事4人が2012年7月から[[ルイ・ファン・ハール]]をゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、211頁</ref>。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/11/29/kiji/K20111129002133030.html|title=「ファンハールGM」に反発!アヤックス内紛が裁判沙汰に|publisher=スポニチ Sponichi Annex|date=2011-11-29|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/idJPTYE81K32T20120210|title=サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ|publisher=デイリースポーツonline|date=2012-02-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、213頁</ref>。
=== カタルーニャ選抜 ===
[[ファイル:Homenatge a Johan Cruijff.jpg|thumb|250px|最後の采配となった[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦で表彰を受けるクライフ。]]
2009年11月9日、[[サッカーカタルーニャ代表|カタルーニャ選抜]]の監督に就任した<ref name="AFPBB20091110">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2661941?pid=4875891|title=クライフ新監督 カタルーニャ選抜で「魅惑的な」サッカーを約束|publisher=[[フランス通信|AFPBB News]]|date=2009-11-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。なおカタルーニャ選抜は[[国際サッカー連盟]] (FIFA) や[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである<ref name="AFPBB20091110"/>。同年12月22日に行なわれた初采配の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]との親善試合に4-2で勝利<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2677678?pid=5078271|title=カタルーニャ州選抜 アルゼンチンとの親善試合に勝利|publisher=AFPBB News|date=2009年12月23日|accessdate=2014年1月4日}}</ref>、2010年12月28日には[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス]]と対戦し4-0で勝利<ref name="Goal20121111">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/73/リーガエスパニョーラ/2012/11/11/3517639/クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ|title=クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ|publisher=Goal.com|date=2012-11-11|accessdate=2014-01-04}}</ref>、2011年12月30日には[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]と対戦し0-0で引き分けた<ref name="Goal20121111"/>。
2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日に[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]との親善試合が最後の采配となった<ref name="ElPeriodico20130102">{{Cite web|url=http://www.elperiodico.com/es/noticias/deportes/catalunya-empata-nigeria-despedida-cruyff-2285524|title=Catalunya empata con Nigeria en la despedida de Cruyff |publisher=ElPeriodico.com|date=2013-01-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した<ref name="ElPeriodico20130102"/>。
=== CDグアダラハラ ===
2012年2月25日、[[メキシコ]]の[[CDグアダラハラ]]のアドバイザーに就任したことが発表された<ref name="AFPBB20120226">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2861073?pid=8542031|title=クライフ氏がグアダラハラと3年のアドバイザー契約を結ぶ|publisher=AFPBB News|date=2012-02-26|accessdate=2014-01-04}}</ref>。契約期間は3年<ref name="AFPBB20120226"/><ref name="NYT20120228">{{Cite web|url=http://goal.blogs.nytimes.com/2012/02/28/chivas-goes-dutch-with-cruyff/|title=Chivas Goes Dutch With Cruyff|work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|date=2012-02-28|accessdate=2014-01-04}}</ref> で、オーナーであり実業家の{{仮リンク|ホルヘ・ベルガラ|en|Jorge Vergara}}は「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った<ref name="NYT20120228"/>。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが<ref name="FOX20121202">{{Cite web|url=http://msn.foxsports.com/foxsoccer/latinamerica/story/chivas-guadalajara-fires-cruyff-as-adviser-120212|title=Guadalajara Chivas fires Cruyff as adviser|publisher=FOX Sports on MSN|date=2012-12-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された<ref name="FOX20121202"/>。
== 晩年と死 ==
[[File:Johan Cruijff 2013 Catalonia.jpg|thumb|200px|right|晩年期 (2013年)]]
2014年、[[FCバルセロナ]]では[[サンドロ・ロセイ]]の後任として副会長の[[ジョゼップ・マリア・バルトメウ]]が会長に就任。任期を1年残して2015年7月18日に行われた会長選挙においてバルトメウは54.63%の支持率を得てクライフ派の[[ジョアン・ラポルタ]]を退け勝利した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2015/07/19/13703402/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A1%E3%82%A6%E6%B0%8F%E3%81%8C%E5%86%8D%E3%81%B3%E4%BC%9A%E9%95%B7%E3%81%AB-%E5%BE%97%E7%A5%A8%E7%8E%87%EF%BC%95%EF%BC%94%E5%BC%B7%E3%81%A7%E3%83%A9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E6%B0%8F%E3%82%92%E5%88%B6%E3%81%99|title=バルセロナ、バルトメウ氏が再び会長に 得票率54%強でラポルタ氏を制す|publisher=GOAL.com|date=2015-07-19|accessdate=2016-03-26}}</ref><ref name="Sportiva20150722">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/wfootball/2015/07/22/post_818/|title=【サイモン・クーパーのフットボールオンライン】ヨハン・クライフの落日(前編)|publisher=web Sportiva|date=2015-07-22|accessdate=2016-03-25}}</ref>。また、テクニカルアドバイザーを務める[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]では国内リーグ4連覇を成し遂げる一方で、「国際舞台で再び結果を残せるクラブとなる」という目標を果たせずにいた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/wfootball/2015/07/23/post_819/index2.php|title=【サイモン・クーパーのフットボールオンライン】ヨハン・クライフの落日(後編)|publisher=web Sportiva|date=2015-07-23|accessdate=2016-03-25}}</ref><ref name="wsd20151119">{{Cite book|和書|author=ハンス・フォス|chapter=The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 自らの信念に従ったマルコの勇気|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2015年11月19日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=96}}</ref>。そのため、両クラブに対する影響力の低下や<ref name="Sportiva20150722"/>、アヤックスについてはクライフの主導の下で行われてきたユース選手育成を柱としたクラブ再建計画に対する問題点が指摘された<ref name="wsd20151119"/>。
2015年10月22日、[[スペイン]]・[[バルセロナ]]の病院で検査を受けた際に[[肺癌|肺がん]]が発見されたことを発表した<ref name="Press Announcement">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruijff.com/asp/eng/newsarticle.asp?refId=649104|title=Press Announcement from the Management of Johan Cruyff|publisher=Cruijff.com|date=2015-10-22|accessdate=2015-10-29}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.bbc.com/sport/0/football/34602348|title=Johan Cruyff: Netherlands great thanks fans for support|publisher=BBC Sport|date=2015-10-23|accessdate=2015-10-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3063981|title=クライフ氏が肺がんに―元オランダ代表のレジェンド|publisher=AFPBB News|date=2015-10-23|accessdate=2015-10-29}}</ref>。クライフの公式ウェブサイトは「ヨハンと彼の家族のプライバシーおよび検査結果が確定していない点を尊重するため、現時点において詳細を発表することはできない」としていた<ref name="Press Announcement"/>。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナ対[[SDエイバル]]戦や、10月23日から10月25日にかけて行われた[[エールディヴィジ]]の全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客による[[スタンディングオベーション]]が行われた<ref>{{Cite book|和書|chapter=TOPICS FILE クライフが肺ガンを告白|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2015年11月19日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=78}}</ref>。
同年11月16日、クライフの示す展望がクラブ側に受け入れられていないことを理由にアヤックスのテクニカルアドバイザーを退任した<ref name="マルメリンク465">[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、465頁</ref>。翌2016年2月13日に公式ウェブサイト上において診断結果は極めて良好であることを公表し、「現時点では前半を2-0でリードしているといった感じだ。試合はまだ終わっていないがね。だが、私は勝利を確信している」と病状をサッカーに例えた<ref name="number901-52-57"/><ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、466頁</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3076837|title=肺がん闘病中のクライフ氏「極めて良好」 現在は「前半を2-0でリード」|publisher=AFPBB News|date=2016-02-14|accessdate=2016-03-25}}</ref>。
その後、同年3月中旬まで『{{仮リンク|デ・テレフラーフ|nl|De Telegraaf}}』紙上の週刊コラムの連載を続けていたが<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruijff.com/asp/eng/newsarticle.asp?refId=656370|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160404043707/http://www.cruijff.com/asp/eng/newsarticle.asp?refId=656370|title=Compliments for PSV and Ajax|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-04-04|accessdate=2016-03-25}}</ref>、闘病生活の末に3月24日にバルセロナで死去した<ref name="AFPBB20160325">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3081611|title=元オランダ代表の名選手クライフ氏、肺がんのため68歳で死去|publisher=AFPBB News|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-25}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.theguardian.com/football/2016/mar/24/johan-cruyff-dies-aged-68-holland-football-legend|title=Johan Cruyff, Total Football pioneer, dies at the age of 68|publisher=The Guardian|date=2016-03-25|accessdate=2017-06-24}}</ref>。{{没年齢|1947|4|25|2016|3|24}}<ref name="BBC20160324">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.bbc.com/sport/football/35892775|title=Netherlands great Johan Cruyff dies of cancer aged 68|publisher=BBC SPORT|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.nrc.nl/nieuws/2016/03/24/johan-cruyff-is-overleden|title=Johan Cruijff is overleden (68)|publisher=NRC|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/647970/tragisch-nieuws-johan-cruijff-op-68-jarige-leeftijd-overleden.html|title=Tragisch nieuws: Johan Cruijff op 68-jarige leeftijd overleden|publisher=Voetbalprimeur|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref>。翌3月25日、遺体はバルセロナ市内で近親者によって火葬された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3081774|title=クライフ氏はバルセロナで火葬に、葬儀は近親者のみで予定|publisher=AFPBB News|date=2016-03-26|accessdate=2016-03-30}}</ref>。彼の死に際してオランダ国王の[[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー]]、現役時代にライバル関係にあった[[フランツ・ベッケンバウアー]]、教え子の[[ジョゼップ・グアルディオラ]]をはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた<ref name="AFPBB20160325"/><ref name="BBC20160324"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2016/03/25/21674972/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E6%B0%8F%E3%81%AE%E8%A8%83%E5%A0%B1%E3%81%AB%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%82%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF-%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F|title=クライフ氏の訃報に皇帝ベッケンバウアーもショック「兄弟のような存在だった」|publisher=Goal.com|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2016/03/25/21683912/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E6%B0%8F%E3%82%92%E6%83%9C%E3%81%97%E3%82%80%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%A9%E5%BD%BC%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%A8%E4%BD%95%E5%BA%A6%E3%82%82%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F|title=クライフ氏を惜しむグアルディオラ「彼ならどうするかと何度も考えた」|publisher=Goal.com|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-26}}</ref>。
同年3月25日、[[ヨハン・クライフ・アレナ|アムステルダム・アレナ]]で開催された国際親善試合の[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]対[[サッカーフランス代表|フランス代表]]戦では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷が捧げられた<ref name="Soccer King20160326">{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/euro/20160326/414722.html|title=ユーロ開催国フランス、敵地でオランダに勝利…試合前にはクライフ氏へ黙祷|publisher=Soccer King|date=2016-03-26|accessdate=2016-03-26}}</ref><ref name="AFPBB20160326">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3081757|title=オランダ対フランスの親善試合が前半14分に一時中断、クライフ氏を追悼|publisher=AFPBB News|date=2016-03-26|accessdate=2016-03-27}}</ref>。また、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた<ref name="AFPBB20160326"/><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、208頁</ref>。終了間際の86分にはオランダ代表の[[イブラヒム・アフェレイ]]が得点を決めると背番号14を指で示す[[ゴールパフォーマンス]]を見せ、クライフの生前の功績を称えた<ref name="Soccer King20160326"/>。同年3月30日、[[ウェンブリー・スタジアム]]で開催された国際親善試合の[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]戦では、オランダ代表の選手が胸に14の数字が入ったユニホームを着用したが、フランス戦と同様に前半14分に合わせて観客から拍手が送られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3082182?pid=17672512|title=イングランドが現実に引き戻される、オランダに逆転負け|publisher=AFPBB News|date=2016-03-30|accessdate=2016-03-31}}</ref>。
長年にわたって関わりのあったFCバルセロナの本拠地・[[カンプ・ノウ]]には追悼スペースが設けられ、3月末の時点で約6万人のファンが追悼に訪れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3082182?pid=17672512|title=故クライフ氏のために勝利を、意欲高まるバルセロナ|publisher=AFPBB News|date=2016-03-31|accessdate=2016-03-31}}</ref>。また、4月2日にホームで行われた[[レアル・マドリード]]戦ではスタンドに「GRÀCIES JOHAN(ありがとう、ヨハン)」のメッセージや背番号14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3082743|title=9万人のバルサファン、クラシコ前に故クライフ氏を追悼|publisher=AFPBB News|date=2016-04-03|accessdate=2016-04-03}}</ref>。クライフが選手として最初に所属したアヤックスでは4月2日に[[アムステルダム]]市内で約3,000人のファンによる行進が行われ、4月3日に開催された[[PECズヴォレ]]戦では試合前に背番号14のユニフォームをかたどった横断幕がピッチやスタンドに掲げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客から拍手が送られた<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.nu.nl/overlijden-cruijff/4240879/indrukwekkend-eerbetoon-ajax-icoon-cruijff-in-arena.html|title=Indrukwekkend eerbetoon aan Ajax-icoon Cruijff in Arena|publisher=NU.nl|date=2016-04-05|accessdate=2016-04-05}}</ref>。
死後、クライフの功績を讃える目的でアムステルダム・アレナを'''ヨハン・クライフ・アレナ'''へ改名を検討していることが2017年8月9日に発表され、2018年4月5日には名称変更が正式決定したとアヤックスは公式HPで発表した<ref name=web>{{Cite news|title=アヤックスが本拠地の名称変更を正式発表…「ヨハン・クライフ・アレナ」に|newspaper=SOCCER KING|date=2018-04-06|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ned/20180406/738843.html|accessdate=2018-04-30|publisher=[[フロムワン]]}}</ref>。
== 人物 ==
=== プレースタイル ===
[[ファイル:Johan Cruijff (Ajax) scoort.jpg|250px|thumb|right|[[1971年]]のクライフ。]]
身長178cm、体重67kgという細身の体躯をしていたが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし<ref name="ピ76">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、76頁</ref><ref name="武智18">[[#武智 2010|武智 2010]]、18頁</ref><ref name="西部111">[[#西部 2010|西部 2010]]、111頁</ref>、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した<ref name="ピ76"/><ref name="大住64">[[#大住 2004|大住 2004]]、64頁</ref>。細身の外見であるにも関わらず[[ディフェンス (サッカー)#マーク|マーク]]することが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「[[ウナギ]]」とも呼ばれていた<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、101頁</ref>。
利き足の右だけでなく、左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた<ref name="story872"/><ref name="ピ76"/><ref name="武智18"/><ref name="西部111"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=648|title=ヨハン・クライフ 「右足のインとアウト、左足のインとアウト、これで4種類のパスが出せる」|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>。一方で、現役時代を通じて[[ペナルティーキック]]を滅多に蹴ることがなかったことでも知られている<ref name="サカマガ秋季63">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、63頁</ref>。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としており<ref name="サカマガ秋季63"/>、「極度の緊張下で行われるペナルティキックは私にとっても不安にかられる一瞬だった」と語っている<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、94頁</ref>。
ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力に長け<ref name="ウィナー94">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、94頁</ref>、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという<ref name="ウィナー101-102">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、84頁</ref>。試合時には[[オーケストラ]]の[[指揮者]]の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えた<ref name="ウィナー101-102"/>。ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した<ref name="ウィナー101-102"/>。
名義上はセンターフォワードというポジションだが<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212">{{Cite book|和書|author=ベースボール・マガジン社編|title=別冊サッカーマガジン秋季号 '74西ドイツ・ワールドカップ|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1974|page=211-212}}</ref>、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212"/>、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/>。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた<ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212"/>。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「[[渦巻]]」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した<ref name="ベースボールマガジン211-212"/>。
この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「[[クライフターン]]」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sportacademy/hi/sa/football/skills/newsid_2071000/2071794.stm|title=Learn the Johan Cruyff turn|publisher=BBC Sport Academy|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
=== 背番号14 ===
[[ファイル:Finale wereldkampioenschap voetbal 1974 in Munchen, West Duitsland tegen Nederland 2-1; Cruyff verlaat het veld.jpg|200px|thumb|right|1974年のワールドカップ決勝で敗れ、ピッチを後にするクライフ。]]
クライフの代名詞である[[サッカーの背番号|背番号]]「'''14'''」はアヤックス時代から好んで着用していた<ref name="大住100-101">[[#大住 2004|大住 2004]]、100-101頁</ref>。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ<ref name="大住1998・60"/><ref name="大住100-101"/>。この理由について役員が尋ねると、クライフは
{{Quotation|9番は[[アルフレッド・ディ・ステファノ|ディ・ステファノ]]、10番は[[ペレ]]の背番号だ。私は誰も身につけていない14番を「クライフの背番号」にする。|ヨハン・クライフ}}
と答えた<ref name="大住1998・60"/><ref name="大住100-101"/><ref>[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、234頁</ref>。1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていたため<ref name="大住100-101"/>、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだったが<ref name="大住100-101"/>、特例として「14」を着用することが認められた<ref name="大住100-101"/>。
なお、アヤックスでは背番号「14」を着用していたが、[[FCバルセロナ]]では当時の[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]は固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため背番号「9」を着用し<ref>[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、65頁</ref>、[[フェイエノールト]]では引退した[[ヴィレム・ファン・ハネヘム]]の背番号だった「10」を着用してプレーした<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://nos.nl/artikel/2038685-cruijff-gaat-vreemd-in-1983-1984.html|title=Cruijff gaat vreemd in 1983/1984|publisher=NOS|date=2015-05-31|accessdate=2016-03-25}}</ref>。
2007年4月25日、クライフの代名詞となった背番号「14」はアヤックスの[[永久欠番]]となった<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://english.ajax.nl/web/show/id=154814/contentid=62523|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141216032633/http://english.ajax.nl/web/show/id=154814/contentid=62523|title=Ajax retire number 14|publisher=english.ajax.nl|archivedate=2014-12-16|accessdate=2016-03-25}}</ref>。
=== 監督としての戦術 ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.28|y=0.30|scale=225|text=[[マルコ・ファン・バステン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・バステン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.43|scale=225|text=[[ロブ・ウィツヘ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウィツヘ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.43|scale=225|text=[[ヨン・ファント・シップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファントシップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.53|scale=225|text=[[ジョン・ボスマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボスマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=0.73|scale=225|text=[[アーノルド・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.56|y=0.73|scale=225|text=[[ヤン・ボウタース|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボウタース'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.90|scale=225|text=[[フランク・ライカールト|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライカールト'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=1.03|scale=225|text=[[ダニー・ブリント|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブリント'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=1.03|scale=225|text=[[ロナルト・スペルボス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スペルボス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=1.03|scale=225|text=[[ソニー・シローイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シローイ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=225|text=[[スタンリー・メンゾ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''メンゾ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|クライフがアヤックスの監督時代に採用していた4-3-3の布陣<ref name="バーランド、ファンドープ75-78"/>。中央に位置するDFのうちの1人をディフェンスラインより前方に配して攻守の舵取り役を担い、3人のFWのうち左右のウイングをタッチライン際まで開かせサイド攻撃を仕掛けることが特徴<ref name="長坂161">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、161頁</ref>。
|}
選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが<ref name="Number797">{{Cite book|和書|author=田邊雅之|chapter=歴代名将を徹底比較 最新のバルサは最高のバルサなのか|title=Sports Graphic Number|volume=797号|publisher=文藝春秋|year=2012|page=50-53}}</ref>、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した<ref name="Number797"/>。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。
* 「試合を進行する際に、ピッチ上に数多くのトライアングルを形成することが出来る<ref name="Number797"/><ref name="長坂162">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、162頁</ref>」
* 「パスコースが常に二方向以上存在する<ref name="Number797"/><ref name="長坂162"/>」
* 「ピッチ全体を幅広くカバーすることが可能となる<ref name="長坂162"/>」
* 「守備に回った際に前線の選手が即座に相手のチェックに移ることが出来る<ref name="長坂162"/>」
アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置する[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]、[[ディフェンダー (サッカー)#センターバック|センターバック]]、[[ディフェンダー (サッカー)#リベロ|リベロ]]、[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的ミッドフィールダー]]、[[フォワード (サッカー)#センターフォワード|センターフォワード]]の縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、74頁</ref>。
GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした<ref name="バーランド、ファンドープ75-78">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、75-78頁</ref>。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築<ref name="バーランド、ファンドープ75-78"/>。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず<ref name="バーランド、ファンドープ81-82">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、79頁</ref>、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>。
中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った<ref name="バーランド、ファンドープ75-78"/><ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>。
前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>{{#tag:ref|2000年代以降は同じ3トップを採用する場合においても「ストライカー2人にドリブラー1人<ref name="戸塚">[[#戸塚 2010|戸塚 2010]]、133-136頁</ref>」「ストライカー、ドリブラー、攻撃的MFをそれぞれ1人<ref name="戸塚"/>」といった具合に、選手の組み合わせを自由に入れ替える傾向があり、クライフが好んだ左右の両サイドに典型的な[[フォワード (サッカー)#ウイング|ウインガー]]を配置するスタイルは希少となっている<ref name="長坂161"/><ref name="戸塚"/>。|group=注}}。
ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている<ref name="木崎、若水21-27">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、21-27頁</ref>。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが<ref name="木崎、若水21-27"/>、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた<ref name="木崎、若水21-27"/>。
バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作るなどのコンセプトは変わりなかったものの<ref name="木崎、若水21-27"/>、DFを3人にして3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった<ref name="Number797"/><ref name="木崎、若水21-27"/>。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と<ref name="Number797"/><ref name="木崎、若水21-27"/>、1980年代後半にACミランを率いた[[アリゴ・サッキ]]が主唱した[[プレスディフェンス|プレッシング]]スタイルの戦術に対抗するための意図があった<ref name="Number797"/>。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある<ref name="Number797"/>。
アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが<ref name="サカマガ20111227">{{Cite book|和書|author=横井伸幸|chapter=バルセロナを史上最高に導いた男を知る グアルディオラの、何がそんなにスゴイのか?|title=週刊サッカーマガジン|volume=2011年12月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2011|page=16}}</ref>、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく<ref name="ボール146"/><ref name="長坂164">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、164頁</ref>、戦術的な欠点を露呈することもあった<ref name="サカマガ20111227"/>。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり<ref name="長坂164"/>、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった<ref name="長坂164"/>。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった<ref name="サカマガ20111227"/><ref name="長坂164"/>。
=== 人となり ===
[[ファイル:Fred Emmer, Sjaak Swart en Johan Cruijff.png|250px|thumb|left|1972年に[[オランダ放送協会]]の番組に出演した際のクライフ。右から一人をおいてクライフ、[[シャーク・スワルト]]。司会者の{{仮リンク|フレット・エメル|nl|Fred Emmer}}。]]
自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている<ref name="サントス339-340">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、339-340頁</ref>。インタビューにおいて世界最高の選手と言われることについて問われた際に「私もそう思う」と答えたことがあるだけでなく<ref>[[#岩永 2005|岩永 2005]]、111頁</ref>、
{{Quotation|私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、178頁</ref>}}
{{Quotation|多くの人々から『最高の選手』と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、50頁</ref>}}
と公言してはばからない自信家であり我が強く<ref name="ピ78-79"/>、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせていた<ref name="ピ78-79"/><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、130-131頁</ref><ref name="木崎、若水2013-48-49">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、48-49頁</ref>。監督になったばかりのころにオランダサッカー協会から監督講習を受けるように通達された際には、「いったい誰がオレにサッカーを教えられるんだ?」と反論したこともあった<ref name="木崎、若水2013-48-49"/>。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わりやすく、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている<ref name="サカマガ秋季68-69"/>。
一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり<ref name="スホッツ、ラウツェン170-171">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、170-171頁</ref>、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいわれていた<ref name="スホッツ、ラウツェン170-171"/>。
会話好きな性格で、一旦話し出すと止まらない側面があった<ref name="スホッツ、ラウツェン193">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、193頁</ref><ref name="木崎、若水114-115">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、114-115頁</ref>。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『[[わんぱくフリッパー]]』の主人公の[[イルカ]]になぞらえて「フリッパー」とも呼ばれた<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、44頁</ref>。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された<ref name="スホッツ、ラウツェン193"/>。また、オランダ国民には[[徴兵制度|兵役]]が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや<ref name="サントス81-82">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、81-82頁</ref>、1971年にオランダ君主の[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、121頁</ref>。クライフ自身はこの癖に気づいており、「私の悪い癖は、すべてを把握しすぎてしまい、そのため常にしゃべらなくては気が済まなかったことだ。そしてどんな状況でも、すぐ誰かのミスを指摘していた。文句を言っていたのだ。それが私の中で、一番悪かった特徴だ」と反省しつつも<ref name="木崎、若水114-115"/>、「しゃべる」ことこそサッカーの基本と考えていたという<ref name="木崎、若水114-115"/>。
さまざまな渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人([[フライング・ダッチマン]])<ref name="学研"/><ref name="number901-52-57"/><ref name="asahi"/><ref name="クライフ2014-232"/>」、「エル・サルバドール<ref name="number901-52-57"/><ref name="story149"/>」(''El Salvador''、[[救世主]]の意)の他に「エル・フラコ」という渾名でも呼ばれていたが<ref name="サントス181"/>、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している<ref name="サントス181"/>。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「[[神]]」と呼んでいた<ref name="サントス181"/>。また、イニシャルの「J.C.」が[[イエス・キリスト]]と同じであることから、1970年代に流行した[[ロック・ミュージカル]]の『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』に準え「スーパースター」とも呼ばれた<ref name="number901-52-57"/><ref name="story149"/><ref name="encyclopedia665"/>。
=== 言語感覚 ===
{{main|nl:Cruijffiaans}}
独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ<ref name="ピ78-79"/><ref name="AFP20070425">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2216299?pid=1538745|title=クライフ氏が還暦を迎える|publisher=AFPBB News|date=2007-04-25|accessdate=2014-01-04}}</ref>、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している<ref name="AFP20070425"/><ref name="クライフ2014-236">[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、236頁</ref>。クライフの発言で本が一冊まとめられたこともあり、「"Typisch Cruiffiaans:Uitspraken"(典型的クライフ語・発言集 クライフライブラリー出版)」という語録集も出版されている<ref name="クライフ2014-236"/>。 還暦を迎えた2007年に[[フランス通信|AFP通信]]が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた<ref name="AFP20070425"/>。
{{Quotation|あらゆる欠点には長所がある}}
{{Quotation|我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない}}
{{Quotation|相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない}}
なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した<ref name="AFP20070425"/> のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している<ref name="AFP20070425"/>。母国語の[[オランダ語]]の他に、[[英語]]、[[スペイン語]]を話すことが出来る<ref name="story872"/><ref name="ピ78-79"/> ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった<ref name="story872"/>。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある<ref name="ピ78-79"/>。
=== 家族 ===
[[file:Johan Cruijff getrouwd met Danny Coster het bruidspaar bij het stadhuis, Bestanddeelnr 921-9071.jpg|250px|thumb|right|結婚式でのクライフ夫妻]]
[[ファイル:Scotland-holland euro 96.jpg|250px|thumb|right|オランダ代表としてプレーする[[ジョルディ・クライフ|ジョルディ]](右から3人目、背番号17の選手)]]
妻であるダニー・コスターとは1967年に行われた[[ピート・カイザー]]の結婚式を通じて知り合い<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、74頁</ref>、1968年12月に結婚すると3人の子供をもうけた<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、78-85頁</ref>。長女シャンタル(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだった{{仮リンク|ヘスス・マリアノ・アンゴイ|en|Jesús Angoy}}と結婚<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.dailymail.co.uk/sport/football/article-1218303/Barcelona-hanging-hopes-new-Cruyff-grandson-legend-Johan-makes-debut-youth-team.html|title =Barcelona hanging their hopes on the new Cruyff as the grandson of legend Johan makes his debut for youth team|publisher=Mail Online|date=2009-10-15|accessdate=2014-01-04}}</ref>。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退すると[[アメリカンフットボール]]選手となり、[[NFLヨーロッパ]]の{{仮リンク|バルセロナ・ドラゴンズ|en|Barcelona Dragons}}<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/scotland/1929750.stm|title =Claymores make ideal start language|publisher=BBC SPORT|date=2002-04-14|accessdate=2014-01-04}}</ref> などで[[プレースキッカー]]を務めたが後に離婚した<ref name="スホッツ、ラウツェン70-71">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、70-71頁</ref>。
次女スシラ(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に[[馬術]]の[[障害飛越競技]]の選手を志したが膝の故障により断念した<ref name="スホッツ、ラウツェン70-71"/>。
末っ子の[[ジョルディ・クライフ|ジョルディ]](1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、[[キリスト教]]の守護聖人・[[ゲオルギオス (聖人)|聖ゲオルギオス]]の[[カタルーニャ語]]読みである「サン・ジョルディ」に因んで<ref name="サカマガ1996522">{{Cite book|和書|chapter=ワールドワイドインフォメーション スペイン|title=サッカーマガジン|volume=1996年5月22日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1996|page=103}}</ref>「ジョルディ」 (Jordi) と命名した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、248頁</ref>。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナや[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]、[[デポルティーボ・アラベス]]などに在籍した<ref name="Jordi">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fourfourtwo.com/features/name-father-how-cruyff-legacy-hampered-jordis-career#:OKFmLUeyF7p39A|title=In the name of the father: How the Cruyff legacy hampered Jordi's career|publisher=FourFourTwo|date=2014-03-21|accessdate=2016-03-27}}</ref>。また、オランダとスペインの二重国籍を有することから<ref name="サカマガ1996522"/>、いずれかの代表チームを選択する権利があり一時はU-21オランダ代表の招集を辞退していた<ref name="サカマガ1996522"/>。最終的に1996年4月にオランダ代表を選択し<ref name="サカマガ1996522"/>、同年に[[イングランド]]で開催された[[UEFA EURO '96|UEFA欧州選手権1996]]に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した<ref name="Jordi"/>。
実兄のヘニーもサッカー選手でありポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]を務めていた<ref name="サントス82">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、82頁</ref>。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退し、その後はスポーツ用品店を経営した<ref name="サントス82"/>。ヘニーの娘でクライフの姪にあたる{{仮リンク|エステル・クライフ|nl|Estelle Cruijff}}はタレントとなり、2000年に[[ルート・フリット]]と結婚したが2013年に離婚が成立した<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/1002/Showbizz/article/detail/3450611/2013/06/01/Ruud-Gullit-en-Estelle-Cruijff-officieel-gescheiden.dhtml|title='Ruud Gullit en Estelle Cruijff officieel gescheiden'|publisher=AD.nl|date=2013-06-01|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
=== 嗜好 ===
好きな選手は1950年代のスター選手である[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]<ref name="大住80">[[#大住 2004|大住 2004]]、80頁</ref><ref name="Persoonlijk">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=fenomeen-persoonlijk|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602054406/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=fenomeen-persoonlijk|title=Persoonlijk|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-06-02|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、43頁</ref>と、「ロッテルダムの[[モナ・リザ]]」と呼ばれドリブルの名手だった[[ファース・ヴィルケス]]<ref name="Persoonlijk"/>{{#tag:ref|ヴィルケスはドリブルを得意とするフォワードであり<ref name="ウィナー25">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、25頁</ref>、[[アベ・レンストラ]]や{{仮リンク|ケース・ライフェルス|en|Kees Rijvers}}と並ぶ[[第二次世界大戦]]後のオランダサッカー界のスター選手だった。しかしプロサッカー選手としてプレーすることを希望して[[1949年]]にイタリアのインテル・ミラノへ移籍しオランダ初のプロサッカー選手となった<ref name="ウィナー25"/>ことでオランダサッカー協会から制裁措置として代表チームから数年間の追放処分を受けた<ref name="ウィナー25"/>。|group=注}}、好きな監督は[[リヌス・ミケルス]]<ref name="Persoonlijk"/>、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けた[[ベルティ・フォクツ]]<ref name="Persoonlijk"/> の名を挙げている。特にディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた<ref name="大住80"/>。なお、若い頃のクライフは自身より1歳年上で[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]に所属していた[[ジョージ・ベスト]]に例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが<ref name="大住78">[[#大住 2004|大住 2004]]、78頁</ref>、前述のようにディ・ステファノのファンであったクライフは、才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したという過去を持つ<ref name="大住78"/>ベストに例えられることを嫌っていた<ref name="大住80"/>。
選手時代は[[プーマ]]社とスポンサー契約を結んでいた<ref name="ウィナー52">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、52頁</ref><ref name="木崎、若水153-155">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、153-155頁</ref>。[[1974 FIFAワールドカップ]]のオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していた[[アディダス]]社のサッカーシューズの使用及びユニフォームを着用することを拒否し<ref name="ウィナー52"/><ref name="木崎、若水153-155"/>、オランダ代表での試合が近づくとオランダサッカー協会のスタッフとアディダスの代表担当がカミソリでユニフォームに施されたアディダスのシンボルである3本線の内一本を削ぎ落とし<ref name="木崎、若水153-155"/>、2本線となったユニフォームをクライフは着用して試合に出場していた<ref name="ウィナー52"/><ref name="木崎、若水153-155"/><ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、7頁</ref>。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否し<ref name="木崎、若水153-155"/>、バルセロナの監督に就任した際には契約書に「自分が着る服は自分で決められる」という条項を盛り込んでいた<ref name="木崎、若水153-155"/>。
趣味の[[ゴルフ]]は選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた<ref name="Telegraaf20110509">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.telegraaf.nl/telesport/columnist/johancruijff/article20276855.ece|title=Cruijff: Ballesteros fenomeen|work=Telegraaf.nl|date=2011-05-09|accessdate=2015-10-29}}</ref>。その際にプロゴルファーの[[セベ・バレステロス]]を紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという<ref name="Telegraaf20110509"/>。引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが<ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.realclubdegolfelprat.com/es/noticia-detalle/match-golf-in-barcelona-open-de-espana-2015-rafa-nadal-sergio-garcia-johan-cruyff-220-es|title=MATCH GOLF IN BARCELONA - OPEN DE ESPAÑA 2015 (RAFA NADAL, SERGIO GARCÍA, JOHAN CRUYFF)|publisher=Real Club de Golf El Prat
|date=2015-05-04|accessdate=2015-10-29}}</ref>、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載した{{仮リンク|オランダゴルフ協会|nl|Koninklijke Nederlandse Golf Federatie}}のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.golfersvannederland.nl/?p=3032|title=Golf en WK voetbal (deel IV)|publisher=Golfers Van Nederland|date=2006-06-13|accessdate=2015-10-29}}</ref>。
=== 喫煙と健康問題 ===
15歳の頃から[[喫煙|ヘビースモーカー]]であり<ref name="サントス335-336">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、335-336頁</ref>、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった<ref name="サントス335-336"/>。引退し監督になった後も喫煙は続けられ、ベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]により一命は取り留めた<ref name="サントス335-336"/>。手術後は医師から[[禁煙]]が言い渡され、タバコの代わりに[[チュッパチャプス]]を舐めるようになった<ref name="number901-52-57"/><ref name="サントス335-336"/><ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、217頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、110頁</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、206頁</ref>。監督時代には毎日80本のタバコを吸っていたとされている<ref name="マルメリンク465"/>。
[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|カタルーニャ州政府]]の依頼により、若者の喫煙防止のための[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演した<ref name="サントス335-336"/><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、92頁</ref>。このコマーシャルは背広姿のクライフがボールの代わりにタバコの箱をリフティングし、「サッカーはつねに私の人生だった」と言ったわずかな沈黙の後に箱を蹴り飛ばすと箱は破裂し<ref name="cruyff2017139">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、139頁</ref>、最後に若者に向けて「喫煙は危うく私の人生を奪うところだった…<ref name="cruyff2017139"/>」「喫煙はバカなことである。悪習にならないように気を付けよう<ref name="サントス335-336"/>」というメッセージが添えられるという内容だった。このCMは[[スペイン語]]、[[カタルーニャ語]]、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[オランダ語]]で放送された<ref name="cruyff2017139"/>。
=== その他 ===
[[ファイル:Johan Cruijff maakt grammofoonplaat in G.T.B. studio in Den Haag Johan Cruijff m, Bestanddeelnr 922-2604.jpg|thumb|200px|1969年、音楽スタジオでレコーディング中のクライフ。]]
* 1969年に歌手の{{仮リンク|ペーター・クールワイン|nl|Peter Koelewijn}}との共演で''Oei oei oei (dat was me weer een loei)''というシングルを発表した。レコーディングの際にクライフはリズム感を保って歌うことが出来ず[[ブランデー]]入りの[[コーラ (飲料)|コーラ]]を飲んだ上で再びレコーディングを行った<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、51頁</ref><ref name="Koelewijn">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.peterkoelewijn.nl/discografie/produkties/cruyff_johan.html|title=Produkties en/of songs voor Johan Cruyff|publisher= Peter Koelewijn|accessdate=2014-01-04}}</ref>。このシングルはオランダ国内では目立った売り上げを残せなかったが、後にクライフが移籍したスペイン国内で人気を獲得したことから1974年にスペイン語に翻訳されて発売された<ref name="Koelewijn"/>。
* [[ルイ・ファン・ハール]]とは犬猿の仲として知られる<ref name="Goal20111121">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/3637/オランダ/2011/11/21/2766967/クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ|title=サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ|publisher=Reuters|date=2012-02-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフは機会がある度にファン・ハールの指導方針を批判していたが<ref name="goal20101110">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/73/オランダ/2010/11/10/2206365/ファン・ハール:「クライフを一生許さない」|title=ファン・ハール:「クライフを一生許さない」|publisher=Goal.com|date=2010-11-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>、クライフの姿勢をファン・ハールも快く考えておらず2010年に「クライフは毎週のように私を無責任に批判し続けバルセロナでの仕事を挫折させようとした」と批判した<ref name="goal20101110"/>。ファン・ハールは仲違いのきっかけについて2009年に出版した自伝の中で「1989年にクライフの家族から[[クリスマス]]のパーティーに招待されたが私の姉妹の容態が急変したため誘いを断った。そのため気まずい関係となった」と告白した<ref name="AD20091011">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/1053/Primera-Division/article/detail/2070608/2009/10/11/Cruijff-Van-Gaal-heeft-Alzheimer.dhtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406002909/http://www.ad.nl/ad/nl/1053/Primera-Division/article/detail/2070608/2009/10/11/Cruijff-Van-Gaal-heeft-Alzheimer.dhtml|title=Cruijff: Van Gaal heeft Alzheimer|publisher=AD.nl|archivedate=2016-04-06|accessdate=2014-01-04}}</ref>。これに対してクライフはオランダのテレビ局「RTVノールト」の取材に応じ「私は覚えていないが、ファン・ハールは[[アルツハイマー病]]なのだろう。私が解決すべきことは何もない」と発言した<ref name="AD20091011"/>。また『{{仮リンク|デ・テレフラーフ|nl|De Telegraaf}}』紙で連載している自身のコラムの中では「通常であればコメントしたくもないが、家族を守ってきた私の限度や価値観を超えている<ref name="AD20091011"/><ref name="MARCA20091013">{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.marca.com/2009/10/13/futbol/futbol_internacional/1255437269.html|title=Cruyff cree que a Van Gaal "le falta un tornillo"|publisher=MARCA.com|date=2009-10-13|accessdate=2014-01-04}}</ref>」と発言した。
== 思想 ==
{{Main|ポゼッションフットボール}}
選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり<ref name="バーランド、ファンドープ72-73">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、72-73頁</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、31-32頁</ref>、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないという思想を持っていた<ref name="バーランド、ファンドープ72-73"/>。そのため[[カウンターアタック]]に代表される守備的な戦術<ref name="Number plus">[[#ブーベス 2010|ブーベス 2010]]、16-21頁</ref>、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術<ref name="朝日20020701">{{Cite book|和書|author=ヨハン・クライフ|chapter=ブラジルVに思う 目 クライフ 中盤なき攻撃 魅力薄い|title=[[朝日新聞]]|volume=2002年7月1日 15版|year=2002|page=4面}}</ref>、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術<ref name="朝日20020701"/>、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的だった<ref>{{Cite book|和書|author=潮智史|chapter=クライフさん美しさ追求 概念崩したトータルフットボール|title=朝日新聞|volume=2016年3月25日 13版|year=2016|page=24面}}</ref>。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけで<ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、373頁</ref>サッカーの為にならない<ref>[[#グランヴィル 2002|グランヴィル 2002]]、579頁</ref>と主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。
{{Quotation|試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ<ref name="Number plus112-113">[[#クーパー 2010|クーパー 2010]]、112-113頁</ref>。}}
{{Quotation|[[UEFA EURO 2008|ユーロ2008]]の頃から、試合中に一番多く走ったFWやMFが賞賛されるようになったが、こういうトレンドは、私のサッカー観とは完全に相反している。私に言わせれば、1試合で10kmも攻撃陣が走るのは、間違ったポジショニングをしているからだ。無駄に体力を消費してしまうと、判断が鈍り、プレーの切れが悪くなり、結果的にチームにとってもマイナスになってしまう<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、50-51頁</ref>。}}
この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、22頁</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、160-161頁</ref><ref name="安藤">[[#安藤 2008|安藤 2008]]、76-79頁</ref>、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している<ref name="安藤"/>。
{{Quotation|現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供のころから、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている<ref name="number901-52-57"/><ref name="安藤"/>。}}
{{Quotation|私が現役のころはプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは[[陸上競技|陸上選手]]である。私は理想主義者だから、サッカー選手がいい<ref>{{Cite book|和書|author=ヨハン・クライフ著、坂路淳子訳|chapter=フットボーラーよ聞け! TEXT13|title=週刊サッカーダイジェスト|volume=1995年1月25日号|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|year=1995|page=110-111}}</ref>。}}
{{Quotation|頑張って走ればいいのではない。それを見たければ、陸上競技のフィールドに行きたまえ。走ることは楽しいけれど、フットボールの基本はどんな時代でもテクニックなのだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、20頁</ref>。}}
なお、[[2002 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が優勝した際には個々の能力は評価しつつ[[ルイス・フェリペ・スコラーリ]]の採用したカウンター戦術について「[[アンチフットボール]]<ref>{{Cite web|url=http://dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_2-7-2002_pg2_18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120207144927/http://dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_2-7-2002_pg2_18|title=Cruyff slams World Cup, accuses Brazil of wrecking football|work=Daily Times|archivedate=2012-07-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>」「ボールの出所に[[プレスディフェンス|プレッシャー]]を掛け3-5-2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム<ref name="朝日20020701"/>」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している<ref name="朝日20020701"/>。
[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10]]で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]が優勝した際には、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10 決勝|決勝戦]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦でのインテルの選手について「インテルの守備陣形や、選手たちのポジショニングは素晴らしかったと思う」としつつも<ref name="木崎、若水2013-61-63">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、61-63頁</ref>、「しかし守った後は、見るに堪えないサッカーだった。8割以上は、まるで目をつむって適当に蹴っているかの様なクリアボールだった。あのようなやり方で勝つことは、一時の快楽としては最高だろう。しかしこの勝利がイタリアリーグの未来に、何かをもたらすとは思えない」と批判的な意見を述べて「私は少しも興奮しなかった」と評し<ref name="木崎、若水2013-61-63"/>、またインテル監督の[[ジョゼ・モウリーニョ]]を指して「モウリーニョは素晴らしい監督だが、私のチームを任せたいとは思わない」と切り捨てている<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、35頁</ref>。
クライフには、以下のような5つの思考法があった<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、163-164頁</ref>。
*「『ひらめき』常に常識を疑い、新しいことに挑戦する。」
*「『度胸』誰を敵に回そうと、まったく引かない。」
*「『はったり』権威を認めず、自分が一番だと言い続ける。」
*「『イタズラ心』ピッチの中でも外でも、人を驚かすことに楽しみを見出す。」
*「『相手の限界点を試す遊び心』ルールは素直に受け入れず、どこまで脱線が許されるかを、駆け引きしながら探り出す。」
また、クライフは自著の『Ik hound van voetbal』(私はサッカーを愛している)の巻末において、選手たちへのメッセージとして以下の「10の心得」を記している<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、100-101頁</ref>。
*「1.サッカーはショーだ。でなければサッカーではない」
*「2.選手は常に技術の追求を考えなければならない」
*「3.他の人から学ぶ姿勢を持たなくてはいけない」
*「4.楽しむことが、サッカーでは特に重要」
*「5.チームメイト、サポーター、審判を尊敬することは、スポーツの基本であり、人生の基本だ」
*「6.チームメイトと、いい同僚でいるべき。他の選手が犯した間違いも受け止め、お互いを助け合うべき」
*「7.サッカーでも、人生でも、チームで機能しなくてはいけない。1人では試合に勝利することはできない」
*「8.100%の労力をささげることは、サッカーでは当然のこと」
*「9.サッカー選手は社会への責任がある。クラブやサポーターの代表だからだ」
*「10.サッカーは個人の成長を助ける。人間としても成長させてくれる」
== 影響 ==
=== 選手 ===
[[ファイル:Van Basten (r) juicht na zijn treffer (2-0), midden Feyenoorddoelman Hiele, Bestanddeelnr 932-7028.jpg|thumb|left|250px|1980年代から1990年代に活躍した[[マルコ・ファン・バステン]]はクライフと比較の対象となっていた。]]
クライフの影響を受けていると公言している選手としては、オランダの[[マルコ・ファン・バステン]]<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/37061/Johan-Cruijff/article/detail/4269961/2016/03/25/Van-Basten-Johan-altijd-mijn-idool-geweest.dhtml|title=Van Basten: Johan altijd mijn idool geweest|publisher=AD.nl|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-27}}</ref><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://nos.nl/artikel/2095149-column-van-basten-cruijff-was-mijn-idool.html|title=Column Van Basten: Cruijff was mijn idool|publisher=NOS|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-27}}</ref>や[[フランク・ライカールト]]<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、128-129頁</ref>、フランスの[[ミシェル・プラティニ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://fourfourtwo.com/interviews/one-on-one/147/article.aspx|title=Michel Platini - One-On-One - Interviews|publisher=FourFourTwo|date=2008-05-01|accessdate=2016-04-03}}</ref>や[[ダヴィド・ジノラ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fourfourtwo.com/features/david-ginola-i-got-call-david-dein-about-midnight-he-wanted-me-arsenal#:HfLs6cBOhPp39A|title=David Ginola: 'I got a call from David Dein at about midnight - he wanted me at Arsenal'|publisher=FourFourTwo|date=2015-01-16|accessdate=2016-04-03}}</ref>、ドイツの[[ピエール・リトバルスキー]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fifa.com/classicfootball/players/do-you-remember/newsid=950285/index.html|title=Littbarski, dribble ace turned coach|publisher= FIFA.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>、ルーマニアの[[ゲオルゲ・ハジ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/memberassociations/association=rou/news/newsid=228135.html|title= Hagi at the heart of golden era|publisher=UEFA.com|date=2011-01-19|accessdate=2014-01-04}}</ref>、ブルガリアの[[フリスト・ストイチコフ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/blogs/jonathanstevenson/2010/09/bulgaria_in_shadow_of_class_of.html|title= Bulgarians remain in shadow of class of '94|publisher=BBC SPORT|date=2010-09-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>、イングランドの[[ポール・ガスコイン]]<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、48頁</ref>、[[日本]]の[[西野朗]]<ref>{{Cite book|和書|chapter=攻めの美学 西野朗・ガンバ大阪前監督 3 クライフを追い続けてきた|title=[[朝日新聞]]|volume=2012年2月14日 13版|year=2012|page=16面}}</ref>らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だった[[ヨハン・ニースケンス]]は豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた<ref>[[#週刊サッカーマガジン編集 2006|週刊サッカーマガジン編集 2006]]、333頁</ref>。
1980年代から1990年代にはファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり<ref>{{Cite book|和書|chapter="キング"の座を狙え! 世界に君臨するマラドーナに挑む3人の刺客たち|title=サッカーマガジン|volume=1990年6月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1990|page=106-107}}</ref>、しばしば比較の対象となっていた<ref name="サカマガ199006">{{Cite book|和書|chapter=1992年欧州年間最優秀選手決定 ファンバステン3度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ|title=サッカーマガジン|volume=1992年2月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社||year=1992|page=174-175}}</ref>。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが<ref name="サカマガ199006"/>、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り[[指揮者]]の様に振舞ったのに対し<ref name="サカマガ199006"/>、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど<ref name="サカマガ199006"/>、両者のスタイルは明確に異なっていた<ref name="サカマガ199006"/>。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年の[[バロンドール]]授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した<ref>{{Cite book|和書|chapter=ファンバステン三度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ|title=サッカーマガジン|volume=1993年2月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1993|page=174-175}}</ref>。
[[ブラジル]]のサッカー指導者の[[レヴィー・クルピ]]は[[セレッソ大阪]]時代に指導した日本の[[香川真司]]のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している<ref name="サッカーキング20120828">{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20120828/68253.html|title= 香川の恩師クルピ監督「シンジは1974年のヨハン・クライフのようだ」|publisher=サッカーキング|date=2012-08-28|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
=== 指導者 ===
==== スペイン ====
{{main|ラ・マシア|ティキ・タカ}}
[[ファイル:Manager Josep Guardiola.jpg|thumb|upright|200px|[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は「クライフが現代サッカーの基礎を作った」と評している。]]
バルセロナの監督時代に志向した<ref name="Telegraph">{{en icon}} {{Cite web|authorlink=Roberto Martinez|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/spain/7883131/World-Cup-final-Johan-Cruyff-sowed-seeds-for-revolution-in-Spains-fortunes.html|title=World Cup final: Johan Cruyff sowed seeds for revolution in Spain's fortunes|work=Telegraph.co.uk|date=2010-07-11|accessdate=2014-01-04}}</ref>、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織([[カンテラ]])を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した<ref name="asahi"/><ref name="Telegraph"/><ref name="サカマガ20100727">{{Cite book|和書|author=北條聡|chapter=クライフ主義か反クライフ主義か 遺伝子を巡る『兄弟対決』|title=週刊サッカーマガジン|volume=2010年7月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2010|page=10-11}}</ref><ref name="スポーツナビ20110711">{{Cite web|和書|author=セルヒオ・レビンスキー|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/wcup/10southafrica/columndtl/201007100004-spnavi|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104204425/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/wcup/10southafrica/columndtl/201007100004-spnavi|title=W杯の勝者はオランダサッカー 決勝プレビュー|publisher= スポーツナビ|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。監督時代の教え子である[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し<ref name="バルサ観戦術">{{Cite book|和書|chapter=バルサ観戦術 最強集団の取説123|title=週刊サッカーマガジン|volume=2011年12月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2011|page=23}}</ref>、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し<ref name="バルサ観戦術"/>、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで<ref name="サカマガ20111227"/><ref name="バルサ観戦術"/>、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した<ref name="サカマガ20111227"/>。
このことから、ドリームチーム時代の主力選手である[[ロナルド・クーマン]]は「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/5538832/|title=クーマン絶賛「グアルディオラ監督のバルサは“ドリーム・チーム”より上」|work=ライブドアニュース|date=2011年5月6日|accessdate=2021年9月18日}}</ref>、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した<ref name="Goal.com">{{Cite web|和書|title=クライフ氏:「バルサの哲学の成功」バルサのサイクルは20年前から始まったとの見解|url=http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/16/2489233/クライフ氏:「バルサの哲学の成功」|work=Goal.com|date=2011-05-16|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
また[[シャビ・エルナンデス]]や[[アンドレス・イニエスタ]]、[[セスク・ファブレガス]]といったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降の[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ<ref name="サカマガ20100727"/><ref name="スポーツナビ20110711"/><ref>{{Cite web|first=Rob|last=Hughes|url=http://www.nytimes.com/2010/07/10/sports/soccer/10iht-WCSOCCER.html|title=Talent to Spare, but There’s Only One Trophy|work=[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]]|date=2010-07-09|accessdate=2014-01-04}}</ref>、同代表チームが[[2006 FIFAワールドカップ]]に出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「[[ティキ・タカ]]」 (tiqui-taca) として紹介されると<ref name="Lavric, Pisek">{{Cite book|author=Eva Lavric, Gerhard Pisek|title=The linguistics of football|publisher=Gunter Narr Verlag|year=2008|isbn=978-3-8233-6398-9|page=354}}</ref>、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった<ref name="Lavric, Pisek"/>。ティキ・タカとは[[玩具]]の[[アメリカンクラッカー]]を鳴らす時に発生する音を字句で表した[[擬声語]]である<ref name="Lavric, Pisek"/>。同代表チームは[[UEFA EURO 2008|UEFA欧州選手権2008]]では[[ルイス・アラゴネス]]、[[2010 FIFAワールドカップ]]や[[UEFA EURO 2012|UEFA欧州選手権2012]]では[[ビセンテ・デル・ボスケ]]に率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている<ref name="Telegraph"/>。
==== オランダ ====
[[ルイ・ファン・ハール]]は1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用<ref name="長坂162"/>。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ<ref name="長坂162"/>、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においても[[UEFAカップ1991-92]]優勝や[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95]]優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり<ref name="Number797"/>、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した<ref name="Number797"/>。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、230頁</ref>」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ<ref name="サントス231-232">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、231-232頁</ref>」と否定的な立場を採っている。
[[フース・ヒディンク]]はオランダ代表監督として[[1998 FIFAワールドカップ]]で指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した<ref>[[#グランヴィル 2002|グランヴィル 2002]]、576-577頁</ref>。
2007年にはU-21オランダ代表監督を務めていた{{仮リンク|フォッペ・デ・ハーン|en|Foppe de Haan}}が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張し、クライフとの間で論争が行われた<ref name="ウィナー372-373">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、372-373頁</ref>。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用して[[UEFA U-21欧州選手権]]において優勝に導いたことで世論の支持を集め<ref name="ウィナー374-376">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、374-376頁</ref>、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった<ref name="ウィナー374-376"/>。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA欧州選手権2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家の{{仮リンク|ヘンク・スパーン|nl|Henk Spaan}}や[[サイモン・クーパー]]らもクライフの思想を批判した<ref name="ウィナー372-373"/><ref name="ウィナー374-376"/>。
ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任した[[ベルト・ファン・マルワイク]]も同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが<ref name="Number plus"/>、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた<ref name="Number plus"/><ref name="サカマガ20100727"/>。[[2010 FIFAワールドカップ・決勝]]ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した<ref name="サカマガ20100727"/>。
==== その他 ====
[[アルゼンチン]]の[[ホルヘ・バルダーノ]]はクライフに追随し1990年代に[[CDテネリフェ]]や[[レアル・マドリード]]を率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した<ref name="サントス144">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、144頁</ref>。
[[バレエダンサー]]の[[ルドルフ・ヌレエフ]]はクライフの移動の素早く、頭の回転も速く、プレーのスピードもあって早口だった彼のプレースタイルに魅了されていたといい、クライフを「[[チェスプレイヤー]]の頭脳を持ったダンサー」と称している<ref>{{Cite book|和書|author=レミー・ラコンブ著、安藤正純訳|chapter=革命に生きたカリスマ68年の偉大なる生涯|title=[[サッカー批評]]|volume=issue 80|publisher=双葉社|year=2016|page=12-13}}</ref>。
2000年代以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが<ref name="サッカー批評52">{{Cite book|和書|author=河治良幸|chapter=検証3-4-3 ザッケローニの3-4-3は日本の武器になり得るのか? 前篇|title=サッカー批評|volume=issue 52|publisher=[[双葉社]]|year=2010|page=49-50}}</ref>、アルゼンチンの[[マルセロ・ビエルサ]]や[[イタリア]]の[[アルベルト・ザッケローニ]]のように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる<ref name="サッカー批評52"/>。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めた<ref name="サッカー批評52"/>。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが<ref>{{Cite book|和書|author=北條聡|chapter=戦術解説 ザック流フットボールとは何か?|title=サッカーマガジン|volume=2010年9月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2010|page=14-15}}</ref>、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した<ref name="サッカー批評52"/>。
== 評価 ==
=== 選手 ===
選手としては[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[ペレ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[ディエゴ・マラドーナ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[フランツ・ベッケンバウアー]]<ref>[[#ピ 2000|ピ 2000]]、72頁</ref>らと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。[[オランダ]]国内では芸術家の[[レンブラント・ファン・レイン]]にたとえ「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる<ref name="ウィナー52"/>。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり<ref name="ストライカー19930717"/>、[[イギリス]]のサッカー専門家のエリック・バッティは「[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1972年のチャンピオンズカップ決勝]]がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代に[[ヘネス・バイスバイラー]]監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している<ref name="ストライカー19930717"/>。
=== 指導者 ===
監督としても[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]で[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝、[[FCバルセロナ|バルセロナ]]では[[エル・ドリーム・チーム|ドリームチーム]]と呼ばれるタレント集団を指揮し[[プリメーラ・ディビシオン|国内リーグ]]4連覇や[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝などの実績を残した<ref name="encyclopedia"/>。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物は[[ミゲル・ムニョス]]、[[ジョバンニ・トラパットーニ]]、クライフ、[[カルロ・アンチェロッティ]]、[[フランク・ライカールト]]、[[ジョゼップ・グアルディオラ]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]の7人のみである<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=https://www.vi.nl/nieuws/bara-evenaart-ajax-en-psv-guardiola-kopieert-cruijff|title=Barca evenaart Ajax en PSV, Guardiola 'kopieert' Cruijff|publisher=Voetbal International|date=2009-05-21|accessdate=2014-01-04}}</ref>。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」[[エンターテインメント]]性のあるサッカーを実践したと評されている<ref name="サントス144"/>。かつてのドリームチームの一員である[[ルイス・ミジャ]]や[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は次のように評している。
{{Quotation|あの当時は慎重に試合を進めるサッカーが全盛の時代だったが、クライフに率いられたドリームチームが攻撃的なスタイルで勝利しタイトルを獲得できることを証明した。結果を残したことでサッカーファンが求める「サッカーとは、いかなるスポーツか」との質問への回答を一変させたのだ<ref name="number767"/>。|ルイス・ミジャ}}
{{Quotation|クライフが現代サッカーの基礎を作り、バルセロナの基礎を作った。それを引き継いで発展させることは、彼に続く指導者達の役割である<ref>[[#クベイロ、ガジャルド 2011|クベイロ、ガジャルド 2011]]、65頁</ref>。|ジョゼップ・グアルディオラ}}
一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=エリック・バッティ|chapter=エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(後)|title=ストライカー|volume=1993年8月1日号|publisher=学習研究社|year=1993|page=66-67}}</ref>。
== 個人成績 ==
=== クラブでの成績 ===
1983-84シーズン終了時の成績<ref name="Levante"/><ref name="ajax"/><ref name="Feyenoord"/><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-barca |title=Playing for FC Barcelona|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306115835/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-barca|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-03-06|accessdate=2017-06-24}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ameri|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602054421/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ameri|title=Playing for United States|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-06-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>
{{Football player statistics 1|NY}}
|-
|1964-65||rowspan="10"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="10"|[[エールディヴィジ]]||10||4||0||0||0||0||10||4
|-
|1965-66||19||16||4||6||0||0||23||22
|-
|1966-67||30||33||5||5||6||3||41||41
|-
|1967-68||33||25||5||6||2||1||40||32
|-
|1968-69||29||24||3||3||10||6||42||33
|-
|1969-70||33||23||5||6||8||4||46||33
|-
|1970-71||25||21||6||5||6||1||37||27
|-
|1971-72||32||25||4||3||9||5||45||33
|-
|1972-73||26||16||0||0||6||3||32||19
|-
|1973-74||2||3||0||0||0||0||2||3
|-
!colspan="3"|小計
!239!!190!!32!!34!!47!!23!!318!!247
|-
|1973-74||rowspan="5"|[[FCバルセロナ]]||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||26||16||12||8||0||0||38||24
|-
|1974-75||30||7||12||7||8||0||50||14
|-
|1975-76||29||6||10||3||9||2||48||11
|-
|1976-77||30||14||9||6||7||5||46||25
|-
|1977-78||28||5||7||1||10||5||45||11
|-
!colspan="3"|小計
!143!!48!!50!!25!!34!!12!!227!!85
|-
|1979||[[ロサンゼルス・アズテックス|ロサンゼルス]]||[[北米サッカーリーグ|NASL]]||27||14||colspan="2"|-||colspan="2"|-||27||14
|-
!colspan="3"|小計
!27!!14!!0!!0!!0!!0!!27!!14
|-
|1980||[[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||NASL||27||10||colspan="2"|-||colspan="2"|-||27||10
|-
!colspan="3"|小計
!27!!10!!0!!0!!0!!0!!27!!10
|-
|1980-81||[[レバンテUD|レバンテ]]||[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||10||2||0||0||0||0||10||2
|-
!colspan="3"|小計
!10!!2!!0!!0!!0!!0!!10!!2
|-
|1981||[[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||NASL||5||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||5||2
|-
!colspan="3"|小計
!5!!2!!0!!0!!0!!0!!5!!2
|-
|1981-82||rowspan="2"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="2"|エールディヴィジ||15||7||1||0||0||0||16||7
|-
|1982-83||21||7||7||2||2||0||30||9
|-
!colspan="3"|小計
!36!!14!!8!!2!!2!!0!!46!!16
|-
|1983-84||[[フェイエノールト]]||エールディヴィジ||33||11||7||1||4||1||44||13
|-
!colspan="3"|小計
!33!!11!!7!!1!!4!!1!!44!!13
|-
{{Football player statistics 3|3|NED}} 308 || 215 || 47 || 37 || 53 || 24 || 408 || 276
{{Football player statistics 4|ESP}} 153 || 50 || 50 || 25 || 34 || 12 || 237 || 87
{{Football player statistics 4|USA}} 59 || 26 ||colspan="2"|-||colspan="2"|-|| 59 || 26
{{Football player statistics 5}}520|| 291 || 97 || 62 || 87 || 36 || 704 || 389
{{Football player statistics end}}
=== 代表での成績 ===
オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!colspan="7"|[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]
|-
!rowspan="2"|年
!colspan="2"|国際大会
!colspan="2"|親善試合
!colspan="2"|合計
|- style="background:beige"
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
|-
|1966
| 1 || 1 || 1 || 0 || 2 || 1
|-
|1967
| 2 || 1 || 1 || 0 || 3 || 1
|-
|1968
| 0 || 0 || 1 || 0 || 1 || 0
|-
|1969
| 2 || 1 || 1 || 0 || 3 || 1
|-
|1970
| 0 || 0 || 2 || 2 || 2 || 2
|-
|1971
| 3 || 5 || 1 || 1 || 4 || 6
|-
|1972
| 2 || 2 || 3 || 3 || 5 || 5
|-
|1973
| 4 || 5 || 2 || 1 || 6 || 6
|-
|1974
| 9 || 7 || 3 || 1 || 12 || 8
|-
|1975
| 2 || 0 || 0 || 0 || 2 || 0
|-
|1976
| 4 || 2 || 0 || 0 || 4 || 2
|-
|1977
| 3 || 1 || 1 || 0 || 4 || 1
|- style="background:beige"
! 通算 || 32 || 25 || 16 || 8 || 48 || 33
|-
|}
オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
! # !! 開催日 !! 開催地 !! 対戦チーム !! スコア !! 結果 !! 試合概要
|-
| 1. || 1966年9月7日 || [[オランダ]]、[[ロッテルダム]] || {{HUN1957f}} || 2-0 || 2-2 ||rowspan="2"| [[UEFA欧州選手権1968予選]]
|-
| 2. || 1967年9月13日 || オランダ、[[アムステルダム]] || {{fb|DDR}} || 1-0 || 1-0
|-
| 3. || 1969年3月26日 || オランダ、ロッテルダム || {{fb|LUX}} || 1-0 || 4-0 || [[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 4. ||rowspan="2"| 1970年12月2日 ||rowspan="2"| オランダ、アムステルダム ||rowspan="2"| {{ROM1965f}} || 1-0 ||rowspan="2"| 2-0 ||rowspan="2"| 親善試合
|-
| 5. || 2-0
|-
| 6. ||rowspan="2"| 1971年2月24日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|LUX}} || 3-0 ||rowspan="2"| 6-0 ||rowspan="5"| [[UEFA欧州選手権1972予選]]
|-
| 7. || 4-0
|-
| 8. ||rowspan="3"| 1971年11月17日 ||rowspan="3"| オランダ、[[アイントホーフェン]] ||rowspan="3"| {{fb|LUX}} || 1-0 ||rowspan="3"| 8-0
|-
| 9. || 8-0
|-
| 10. || 7-0
|-
| 11. || 1971年12月1日 || オランダ、アムステルダム || {{fb|SCO}} || 1-0 || 2-1 ||rowspan="4"| 親善試合
|-
| 12. ||rowspan="2"| 1972年2月16日 ||rowspan="2"| [[ギリシャ]]、[[アテネ]] ||rowspan="2"| {{GRE1928f}} || 3-0 ||rowspan="2"| 5-0
|-
| 13. || 5-0
|-
| 14. || 1972年8月30日 || [[チェコスロバキア]]、[[プラハ]] || {{fb|TCH}} || 1-0 || 2-1
|-
| 15. ||rowspan="2"| 1972年11月1日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|NOR}} || 4-0 ||rowspan="2"| 9-0 ||rowspan="2"| [[1974 FIFAワールドカップ・予選|1974 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 16. || 8-0
|-
| 17. || 1973年5月2日 ||rowspan="3"| オランダ、アムステルダム || {{ESP1945f}} || 3-2 || 3-2 || 親善試合
|-
| 18. ||rowspan="2"| 1973年8月22日 ||rowspan="4"| {{fb|ISL}} || 2-0 ||rowspan="2"| 5-0 ||rowspan="5"| 1974 FIFAワールドカップ予選
|-
| 19. || 5-0
|-
| 20. ||rowspan="2"| 1973年8月29日 ||rowspan="2"| オランダ、[[デーフェンテル]] || 2-0 ||rowspan="2"| 8-1
|-
| 21. || 4-0
|-
| 22. || 1973年9月12日 || [[ノルウェー]]、[[オスロ]] || {{fb|NOR}} || 1-0 || 2-1
|-
| 23. ||rowspan="2"| 1974年6月26日 ||rowspan="2"| [[西ドイツ]]、[[ゲルゼンキルヒェン]] ||rowspan="2"| {{fb|ARG}} || 1-0 ||rowspan="2"| 4-0 ||rowspan="3"| [[1974 FIFAワールドカップ]]
|-
| 24. || 4-0
|-
| 25. || 1974年7月3日 || 西ドイツ、[[ドルトムント]] || {{fb|BRA}} || 2-0 || 2-0
|-
| 26. || 1974年9月4日 || [[スウェーデン]]、[[ストックホルム]] || {{fb|SWE}} || 1-0 || 5-1 || 親善試合
|-
| 27. ||rowspan="2"| 1974年9月25日 ||rowspan="2"| [[フィンランド]]、[[ヘルシンキ]] ||rowspan="2"| {{fb|FIN}} || 1-1 ||rowspan="2"| 3-1 ||rowspan="5"| [[UEFA欧州選手権1976予選]]
|-
| 28. || 2-1
|-
| 29. ||rowspan="2"| 1974年11月20日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|ITA}} || 2-1 ||rowspan="2"| 3-1
|-
| 30. || 3-1
|-
| 31. || 1976年5月22日 || [[ベルギー]]、[[ブリュッセル]] || {{fb|BEL}} || 2-1 || 2-1
|-
| 32. || 1976年10月13日 || オランダ、ロッテルダム || {{fb|NIR}} || 2-1 || 2-2 ||rowspan="2"| [[1978 FIFAワールドカップ・予選|1978 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 33. || 1977年3月26日 || ベルギー、[[アントウェルペン]] || {{fb|BEL}} || 2-0 || 2-0
|}
=== 監督成績 ===
{{updated|2013-01-02}}<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://leden.ajax.nl/web/show/id=65486|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120406203110/http://leden.ajax.nl/web/show/id%3D65486|title=Johan Cruijff|publisher=ajax.nl|archivedate=2012-04-06|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://arxiu.fcbarcelona.cat/web/downloads/diari/pdf/2009-2010/DIARI_BCN_97_FCB-RACING_BAIXA.pdf|title=Tècnics que han superat els 100 partits|publisher=Barça Camp Nou|format=PDF|page=9|accessdate=2014-01-04}}</ref>
{| class="wikitable" style="text-align: center"
! rowspan="2!" style="width:150px;"|チーム
! rowspan="2!" style="width:95px;"|就任
! rowspan="2!" style="width:95px;"|退任
!colspan="5"|記録
|-
!width=40|試合
!width=40|勝利
!width=40|引分
!width=40|敗戦
!width=50|勝率
|-
|align="left"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|align="left"|1985年6月
|align="left"|1988年1月
{{WDL|117|86|10|21}}
|-
|align="left"|[[FCバルセロナ]]
|align="left"|1988年5月
|align="left"|1996年5月
{{WDL|430|250|97|83}}
|-
|align="left"|[[サッカーカタルーニャ代表|カタルーニャ選抜]]
|align="left"|2009年11月
|align="left"|2013年1月
{{WDL|4|2|2|0}}
|-
!colspan="3"|合計
{{WDLtot|551|338|109|104}}
|}
== タイトル ==
=== 選手 ===
; アヤックス
* [[エールディヴィジ]] (8) : 1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73, 1981-82, 1982-83<ref name="number901-52-57"/>
* [[KNVBカップ]] (5) : 1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72, 1982-83<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (3) : 1970-71, 1971-72, 1972-73<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAスーパーカップ]] (2) : 1972, 1973<ref name="number901-52-57"/>
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] (1) : 1972<ref name="number901-52-57"/>
; バルセロナ
* [[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]] (1) : 1973-74<ref name="number901-52-57"/>
* [[コパ・デル・レイ]] (1) : 1977-78<ref name="number901-52-57"/>
; フェイエノールト
* エールディヴィジ (1) : 1983-84<ref name="number901-52-57"/>
* KNVBカップ (1) : 1983-84<ref name="number901-52-57"/>
=== 監督 ===
; アヤックス
* [[KNVBカップ]] (2) : 1985-86, 1986-87<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] (1) : 1987<ref name="number901-52-57"/>
; バルセロナ
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (1) : 1991-92<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] (1) : 1989<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAスーパーカップ]] (1) : 1992<ref name="number901-52-57"/>
* [[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]] (4) : 1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94<ref name="number901-52-57"/>
* [[コパ・デル・レイ]] (1) : 1989-90<ref name="number901-52-57"/>
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]] (3) : 1991, 1992, 1994<ref name="AD20160324"/>
== 個人タイトル ==
=== 選手 ===
* [[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)(3){{#tag:ref|同賞を3度受賞した経験のある選手はクライフの他に[[ミシェル・プラティニ]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[リオネル・メッシ]]の4名がいる。|group=注}}: 1971, 1973, 1974<ref name="バーランド、ファンドープ227-228"/>
* [[オランダ年間最優秀選手賞]] (3) : 1968, 1972, 1984<ref name="AD20160324">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/37061/Johan-Cruijff/article/detail/4269357/2016/03/24/Johan-Cruijff-op-68-jarige-leeftijd-overleden.dhtml|title=Johan Cruijff op 68-jarige leeftijd overleden|publisher=AD.nl|date=2016-03-24|accessdate=2016-04-05}}</ref>
* [[エールディヴィジ]]得点王 (2) : 1967, 1972<ref name="number901-52-57"/>
* [[オランダ スポーツマンオブザイヤー|オランダ年間最優秀スポーツ選手賞]] (2) : 1973, 1974<ref name="number901-52-57"/>
* [[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀外国人選手 (2) : 1977, 1978<ref name="don balon">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/spanpoy.html|title=Spain - Footballer of the Year|publisher=rsssf.com|accessdate=2016-04-05}}</ref>
* [[北米サッカーリーグ]]年間最優秀選手 (1) : 1979<ref name="number901-52-57"/>
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|ワールドサッカー選定 20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位 : 1999
* [[20世紀ワールドチーム]] : 1998<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.nytimes.com/1998/06/10/sports/10iht-soccer.t_2.html|title=A Wave of Enthusiasm for the Lingua Franca of Kicking a Ball : From Pele and the Streets, Hope|work=[[ニューヨーク・タイムス|NYTimes.com]]|date=1998-06-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選定20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位 : 1999
* [[国際サッカー歴史統計連盟]] (IFFHS) 20世紀最優秀選手 2位 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#worldpoc|title=World - Player of the Century|work=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀欧州最優秀選手 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#eupoy|title=Europe - Player of the Century|work=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀オランダ最優秀選手 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#nedpoy|title=Netherlands - Player of the Century|work = rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* [[フランス・フットボール]]選定20世紀最優秀選手 3位 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/best-x-players-of-y.html#ff-poc|title=France Football's Football Player of the Century|work=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* [[UEFAジュビリーアウォーズ]]オランダ最優秀選手 : 2003<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/news/newsid=130150.html|title=Golden Players take centre stage|publisher=UEFA.com|date=2003-11-29|accessdate=2016-04-08}}</ref>
* [[FIFA 100]] : 2004<ref>{{en icon}} {{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/3533891.stm|title=Pele's list of the greatest list|publisher=BBC SPORT|date=2004-03-04|accessdate=2014-01-04}}
</ref>
=== 監督 ===
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選定世界最優秀監督賞]] (1) : 1987<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/wsoc-awards.html|title="World Soccer" Awards|work=rsssf.com|accessdate=2017-06-24}}</ref>
* [[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀監督 (2) : 1991, 1992<ref name="don balon"/>
* [[オンズドール]]年間最優秀監督 (2) : 1992, 1994<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/onze-awards.html|title="Onze Mondial" Awards|work=rsssf.com|accessdate=2017-06-24}}</ref>
* UEFA歴代最高監督 : 2017<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=2435568.html|title=Coaching greats in profile|publisher=uefa.com|date=2017-01-13|accessdate=2017-06-24}}</ref>
=== その他 ===
* {{仮リンク|フランシナ・ブランカース=クン キャリア賞|nl|Fanny Blankers-Koen Carrièreprijs}} : 2005<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.olympischsporterfgoed.nl/cms/showpage.aspx?id=9837|title=Fanny Blankers-Koen Carrièreprijs|publisher=NOC*NSF|accessdate=2016-04-08}}</ref>
* [[ローレウス世界スポーツ賞]]生涯功労賞 : 2006<ref name="AD20160324"/>
* [[FIFA功労賞]] : 2010<ref name="AD20160324"/>
* UEFA会長賞 : 2013<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.uefa.com/news/newsid=2056492.html?cid=PULSE_TW|title=クライフ氏、会長賞受賞に「誇り」|publisher=uefa.com|date=2014-02-16|accessdate=2014-02-22}}</ref>
== 栄典 ==
* {{仮リンク|オラニエ=ナッサウ勲章|en|Order of Orange-Nassau}}騎士位 : 1974<ref name="De Standaard">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.standaard.be/artikel/detail.aspx?artikelid=NFLD10042002_008|title=Johan Cruijff Officier in de Orde van Oranje Nassau VOETBAL|work=De Standaard|date=2002-04-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* オラニエ=ナッサウ勲章士官位 : 2002<ref name="De Standaard"/>
* [[サン・ジョルディ十字勲章]] : 2006<ref>{{ca icon}} {{Cite web|url=http://www.enciclopedia.cat/enciclopèdies/gran-enciclopèdia-catalana/EC-GEC-0020640.xml#.UsdzIbuIrfM|title=Creu de Sant Jordi|work=enciclopedia.cat|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* {{仮リンク|レアル・オルデン・デル・メリト・デポルティーボ|es|Real Orden del Mérito Deportivo}} : 2016<ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.lavanguardia.com/deportes/futbol/20160329/40732189628/johan-cruyff-mariano-rajoy-medalla-de-oro-al-merito-deportivo.html|title=El Gobierno concede a Cruyff la medalla de Oro al Mérito Deportivo|publisher=La Vanguardia|date=2016-03-29|accessdate=2016-04-05}}</ref>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author= 安藤正純
|title= サッカーについて僕たちが本音で語った本
|publisher= [[東邦出版]]
|year= 2008
|isbn=4809406733
|ref= 安藤 2008
}}
* {{Cite book|和書
|author= 岩永修幸
|title= 蹴球神髄―サッカーの名言集
|publisher= [[出版芸術社]]
|year= 2005
|isbn= 4882932695
|ref= 岩永 2005
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[岡部明子]]
|title= バルセロナ--地中海都市の歴史と文化
|publisher= [[中央公論新社]]
|series = [[中公新書]]
|year= 2010
|isbn= 4121020715
|ref= 岡部 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[大住良之]]
|title= 新・サッカーへの招待
|publisher = [[岩波書店]]
|series = [[岩波新書]]
|year= 1998
|isbn= 400430556X
|ref= 大住 1998
}}
* {{Cite book|和書
|author= 大住良之
|title= 理想のフットボール 敗北する現実
|publisher= [[双葉社]]
|series = サッカー批評叢書
|year= 2004
|isbn= 4575296597
|ref= 大住 2004
}}
* {{Cite book|和書
|author= 木崎伸也、若水大樹
|title= 増補改訂版 クライフ哲学ノススメ-試合の流れを読む14の鉄則
|publisher= [[ガイドワークス]]
|series = サッカー小僧新書EX005
|year= 2013
|isbn= 4865350241
|ref= 木崎、若水 2013
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[木村浩嗣]]
|chapter= 混迷する名門クラブ FCバルセロナ ヨハン・クライフの遺した功罪
|title= Spain 情熱の国の血と誇り。Wild Fanatics of Football
|publisher = [[文藝春秋]]
|series= [[Sports Graphic Number]] PLUS
|year = 2003
|isbn = 4160081290
|ref= 木村 2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 国吉好弘
|others = [[サッカーマガジン|週刊サッカーマガジン]]責任編集
|title = サッカーマルチ大事典 改訂版
|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]
|year = 2006
|isbn = 4583038801
|ref = 国吉 2006
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[武智幸徳]]
|chapter = サッカーの未来を変えた革命家 ヨハン・クライフ
|title = ワールドカップ伝説 vol.4(’70年代編)―永久保存版 偉大なる開拓者たちの時代
|publisher = ベースボール・マガジン社
|series = B・B MOOK 666 スポーツシリーズ NO. 538
|year = 2010
|isbn = 4583616791
|ref = 武智 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[戸塚啓]]
|title= 新・サッカー戦術論
|publisher = [[成美堂出版]]
|year = 2010
|isbn = 4415308422
|ref = 戸塚 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[長坂寿久]]
|title = オランダを知るための60章
|series = エリア・スタディーズ
|publisher = [[明石書店]]
|year = 2007
|isbn = 475032518X
|ref = 長坂 2007
}}
* {{Cite book|和書
|author = 西部謙司
|title = 神の足 サッカースーパースター技術録
|publisher = [[コスミック出版]]
|series = COSMO BOOKS
|year = 2010
|isbn = 4774790397
|ref = 西部 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = カルラス・サンタカナ・イ・トーラス
|translator = [[山道佳子]]
|title = バルサ、バルサ、バルサ! スペイン現代史とフットボール 1968-78
|publisher = [[彩流社]]
|year = 2007
|isbn = 4779112656
|ref = トーラス 2007
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[サイモン・クーパー]]
|translator = 柳下穀一郎
|title = アヤックスの戦争-第二次世界大戦と欧州サッカー
|publisher = [[白水社]]
|year = 2005
|isbn = 456004970X
|ref = クーパー 2005
}}
* {{Cite book|和書
|author = ジョン・ピ
|translator = ノバジカ
|chapter = ヨハン・クライフ 勝者の魂
|title = スポーツ20世紀Vol.1 サッカー 英雄たちの世紀
|publisher = ベースボール・マガジン社
|series = B.B.mook (125)
|year = 2000
|isbn = 458361084X
|ref = ピ 2000
}}
* {{Cite book|和書
|author = ジョナサン・ウィルソン
|translator = 野間けい子
|title = サッカー戦術の歴史 2-3-5から4-6-0へ
|publisher = [[筑摩書房]]
|year = 2010
|isbn = 448087822X
|ref = ウィルソン 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = デイヴィッド・ウィナー
|others = 忠鉢信一監修
|translator = 西竹徹
|title = オレンジの呪縛-オランダ代表はなぜ勝てないか?
|publisher = [[講談社]]
|year = 2008
|isbn = 4062146010
|ref = ウィナー 2008
}}
* {{Cite book|和書
|author = ディートリッヒ・シュルツェ=マルメリンク
|translator = 円賀貴子
|title = ゲームの支配者 ヨハン・クライフ
|publisher = [[洋泉社]]
|year = 2017
|isbn = 4800312426
|ref = マルメリンク 2017
}}
* {{Cite book|和書
|author = トニー・フリエロス
|others = サッカー・プラネット監修
|translator = 山名洋子
|title = フランク・ライカールト--狂気を秘めた人格者
|publisher = 東邦出版
|year = 2008
|isbn = 4809407284
|ref = フリエロス 2008
}}
* {{Cite book|和書
|author = フアン・カルロス・クベイロ、レオノール・ガジャルド
|translator = 今井健策
|title = グアルディオラのサッカー哲学
|publisher = [[実業之日本社]]
|year = 2011
|isbn = 4408453242
|ref = クベイロ、ガジャルド 2011
}}
* {{Cite book|和書
|author = フィル・ボール
|translator = 近藤隆文
|title = バルサとレアル -スペイン・サッカー物語
|publisher = [[NHK出版|日本放送出版協会]]
|year = 2002
|isbn = 4140806737
|ref = ボール 2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = ブライアン・グランヴィル
|others = [[賀川浩]]監修
|translator = 田村修一、土屋晃、田邊雅之
|year = 1998
|title = 決定版ワールドカップ全史
|publisher = [[草思社]]
|isbn = 4794208189
|ref = グランヴィル 1998
}}
* {{Cite book|和書
|author = ブライアン・グランヴィル
|others = [[賀川浩]]監修
|translator = 田村修一、土屋晃、田邊雅之
|title = ブライアン・グランヴィルのワールドカップ・ストーリー
|publisher = [[新紀元社]]
|year = 2002
|isbn = 4775300849
|ref = グランヴィル 2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = フリーツ・バーランド、ヘンク・ファンドープ
|translator = [[金子達仁]]
|title = ヨハン・クライフ「美しく勝利せよ」
|publisher = [[二見書房]]
|year = 1999
|isbn = 457699199X
|ref = バーランド、ファンドープ 1999
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[ポール・ガスコイン]]
|translator = [[東本貢司]]
|title = ガッザの涙-フットボーラーポール・ガスコイン自伝
|publisher = [[カンゼン]]
|year = 2006
|isbn = 4901782738
|ref = ガスコイン 2006
}}
* {{Cite book|和書
|author = ミゲルアンヘル・サントス
|translator = 松岡義行
|title = ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える
|publisher = 中央公論新社
|series = [[中公文庫]]
|year = 2002
|isbn = 4122040272
|ref = サントス 2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = ミック・スホッツ、ヤン・ラウツェン
|translator = 戸谷美保子
|title = クライフ公認「トータル」フットボーラーの全貌
|publisher = 東邦出版
|year = 2009
|isbn = 4809408396
|ref = スホッツ、ラウツェン 2009
}}
* {{Cite book|和書
|author = ヨハン・クライフ
|translator = 木崎伸也、若水大樹
|title = ヨハン・クライフ サッカー論
|publisher = 二見書房
|year = 2014
|isbn = 4576140558
|ref = クライフ 2014
}}
* {{Cite book|和書
|author = ヨハン・クライフ
|translator = 若水大樹
|title = ヨハン・クライフ自伝 サッカーの未来を継ぐ者たちへ
|publisher = 二見書房
|year = 2017
|isbn = 4576170120
|ref = クライフ 2017
}}
* {{Cite book|和書
|editor = サッカーマガジン編集部
|title = サッカーマガジン別冊秋季号 ヨハン・クライフ・スーパースター
|publisher = ベースボール・マガジン社
|year = 1980
|ref = サッカーマガジン編集部 1980
}}
* {{Cite book|和書
|editor = 日本スポーツプレス協会編集
|chapter = フランツ・ベッケンバウアーとヨハン・クライフ
|title = 20世紀スポーツの肖像-心に残るアスリートたち
|publisher = [[学研ホールディングス|学習研究社]]
|year = 2000
|isbn = 4054012671
|ref = 日本スポーツプレス協会編集 2000
}}
* {{Cite book|和書
|editor = [[国際サッカー連盟|FIFA]]
|chapter = Players Portraits
|title = フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版
|publisher = 講談社
|year = 2004
|isbn = 4062125609
|ref = FIFA 2004
}}
* {{Cite book|和書
|title = 完全保存版 南アフリカW杯総集編
|publisher = 文藝春秋
|series = Sports Graphic Number PLUS
|year = 2010
|isbn = 458361084X
}}
:*{{Cite book|和書|author=エルンスト・ブーベス|title=理想から現実へ オランダ躍進、7つの秘密|ref=ブーベス 2010}}
:*{{Cite book|和書|author=サイモン・クーパー|translator=田邊雅之|title=大会総括 最先端のサッカーに、天才は必要ない。|ref=クーパー 2010}}
== 関連項目 ==
* [[ヨハン・クライフ財団]]
* [[ヨハン・クライフ賞]]
* [[ヨハン・クライフ・スハール]]
* [[夕空のクライフイズム]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Johan Cruijff|ヨハン・クライフ}}
*{{Sports links}}
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|title=タイトル・受賞歴
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{{FIFA 100}}
{{バロンドール受賞者}}
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|title=オランダ代表 - 出場大会
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{{1974 FIFAワールドカップオランダ代表}}
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|title=監督歴
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{{FCバルセロナ歴代監督}}
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{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:くらいふ よはん}}
[[Category:ヨハン・クライフ|*]]
[[Category:オランダのサッカー選手]]
[[Category:サッカーオランダ代表選手]]
[[Category:オランダのサッカー指導者]]
[[Category:アヤックス・アムステルダムの選手]]
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[[Category:在スペイン・オランダ人]]
[[Category:在アメリカ合衆国オランダ人のサッカー選手]]
[[Category:オランダ・スペイン関係]]
[[Category:アムステルダム出身の人物]]
[[Category:肺癌で亡くなった人物]]
[[Category:1947年生]]
[[Category:2016年没]]
|
2003-08-28T12:13:12Z
|
2023-11-16T12:46:50Z
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[
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|
14,280 |
1640年
|
1640年(1640 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
|
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"title": "死去"
}
] |
1640年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
|
{{年代ナビ|1640}}
{{year-definition|1640}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛永]]17年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2300年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[崇禎]]13年
** [[清]]{{Sup|*}} : [[崇徳]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]18年
** [[檀君紀元|檀紀]]3973年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽和]]6年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2182年 - 2183年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1049年 - 1050年
* [[ユダヤ暦]] : 5400年 - 5401年
* [[ユリウス暦]] : 1639年12月22日 - 1640年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1640}}
== できごと ==
* [[4月13日]] - [[チャールズ1世 (イングランド王)]]が[[スコットランド]]との戦費調達のため[[短期議会]]招集{{要出典|date=2021-03}}。( - [[5月5日]])
* 5月 - [[収穫人戦争|収穫人戦争(カタルーニャ反乱)]]が勃発。( - [[1652年]])
* [[8月28日]] - [[ニューバーンの戦い]]でスコットランド軍が勝利。
* 11月 - チャールズ1世がスコットランドへの戦争賠償金を得るため[[長期議会]]( - [[1653年]])招集。[[ピューリタン革命]]( - [[1660年]])の主な闘争舞台となった。
* [[ポルトガル]]、[[スペイン]]から独立([[ポルトガル王政復古戦争]]-[[1668年]]、[[ブラガンサ王朝]])。
* [[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]が[[ブランデンブルク選帝侯]]となる。
=== 日本 ===
* 1月 - [[生駒氏#讃岐生駒氏(矢島生駒氏)|讃岐生駒氏]]が[[改易]]され、[[讃岐国]]を去る([[生駒騒動]])。
* [[7月31日]]([[寛永]]17年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[噴火湾]]で[[北海道駒ヶ岳]]の[[山体崩壊]]による[[津波]]が発生([[駒ヶ岳噴火津波]])。
* この頃、[[屋久杉]]の伐採が始まる。
* 西日本で牛が大量死([[寛永の大飢饉]]の端緒)。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1640年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月5日]](崇禎13年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]) - [[蒲松齢]]、[[清]]初の[[小説家]](+ [[1715年]])
* [[6月9日]] - [[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1705年]])
* [[稲葉正休]]、[[若年寄]](+ [[1684年]])
* [[契沖]]、[[僧]]、[[国学者|和学者]](+ [[1701年]])
* [[アフラ・ベーン]]、[[イギリス]]の女性[[作家]](+ [[1689年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1640年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月12日]] - [[ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1595年]])
* [[2月9日]] - [[ムラト4世]]、[[オスマン帝国]]第17代[[スルタン]](* [[1612年]])
* 4月 - [[ウリエル・アコスタ]]、作家(* [[1585年]]頃)
* [[5月30日]] - [[ピーテル・パウル・ルーベンス]]、[[フランドル]]の[[画家]](* [[1577年]])
* [[10月6日]](寛永17年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[小瀬甫庵]]、[[医師]]、作家(* [[1564年]])
* [[尚豊王|尚豊]]、[[琉球王国]][[国王]](* [[1590年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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季語一覧
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季語一覧(きご いちらん)では、季語を分類し、列挙する。
- 春 -
- 初春 - 二月 - 睦月 - 旧正月 - 寒明け - 立春 - 早春 - 春浅し - 冴返る - 余寒 - 春寒 - 遅春 - 春めく - 魚氷に上る - 雨水 - 獺魚を祭る - 二月尽 - うりずはん(「潤い初め」の琉球方言)- - 仲春 - 三月 - 如月 - 啓蟄 - 鷹化して鳩となる - 龍天に登る - 初朔日 - 春分 - 彼岸 - 春社 - 三月尽 - 晩春 - 四月 - 弥生 - 清明 - 花冷え - 蛙の目借時 - 田鼠化して鶉となる - 穀雨 - 春深し - 八十八夜 - 春暑し - 暮の春 - 行く春 - 春惜しむ - 夏近し - 弥生尽 - 四月尽 - - 春の日 - 春暁 - 春の朝 - 春昼 - 春の夕 - 春の暮 - 春の宵 - 春の夜 - 朧月夜 - 暖か - 麗か - 長閑 - 日永 - 遅日 - 木のかきごうり 芽時 - 花時 - 寒さ - 鶯
- 春の山 - 山笑う - 春の野 - 焼け野原
- 春の水 - 水温む - 春の川 - 春の海 - 春の波 - 春潮 - 彼岸潮 - 潮干潟 -
- 春田 - 苗代 - 春の園 -
- 春の土 - 春泥 - 逃げ水 -
- 堅雪 - 残雪 - 雪間 - 雪崩 - 雪解け - 雪しろ - 春出水 - 凍解け - 薄氷 - 氷解く - 流氷 -清水
- 春衣 - 花衣 - 柳衣 - 躑躅の衣 - 桜衣 - 山吹衣 - 捨頭巾 - 外套脱ぐ - 胴着脱ぐ - 春袷 - 春服 - 春外套 - 春ショール - 春セーター - 春手袋 - 春帽子 - 春日傘 -
- 山葵漬 - 木の芽漬 - 花菜漬 - 桜漬 - 蕗みそ - 木の芽みそ - 木の芽和え - 田楽 - 若布和え - 独活和え - 青ぬた - 浅葱なます - 鮒なます - 田螺和え - 蜆汁 - 蒸し鰈 - 干し鰈 - 白子干 - 目刺 - 干鱈 - 壷焼 - 山椒の皮 - 鶯餅 - わらびもち - 草餅 - 桜餅 - 椿餅 - 菱餅 - 雛あられ - 白酒 - うこぎ飯 - 菜飯 - 嫁菜飯 - 枸杞飯 - 白魚飯 - 治聾酒 - 味噌豆煮る - 数の子作る - 春窮 -
- 春燈 - 春障子 - 春の炉 - 春炬燵 - 春暖炉 - 春火鉢 - 炬燵塞ぐ - 暖炉納む - 炉塞ぎ - 釣釜 - 厩出し - 北窓開く - 目貼剥ぐ - 雪割り - 雪囲とる - 霜除とる - 風除解く - そり蔵う - 車組む - 屋根替え - 垣繕う - 松の緑摘む - 蛇籠編む -
- 野焼き - 山焼き - 畑焼く - 芝焼く - 麦踏み - 農具市 - 耕し - 田打ち - 畑打ち - 畦塗り - 種物 - 種選び - 種井 - 種浸し - 種池浚い - 種蒔き - 物種蒔く - 種案山子 - 苗床 - 苗札 - 苗木市 - 植木市 - 牛蒡蒔く - へちま蒔く - カボチャ蒔く - 藍蒔く - 麻蒔く - 蓮植う - 睡蓮植う - 蒟蒻植う - 芋植う - ジャガイモ植う - 木の実植う - 果樹植う - 苗木植う - 桑植う - 剪定 - 接ぎ木 - 挿し木 - 根分け - 菊根分け - 菊植う - 萩根分け - 菖蒲根分け - 野老掘る - 慈姑掘る - わかめ刈る - 海苔掻き - 牧開き - 羊の毛刈る - 鳥持網代 - 鳴鳥狩り - 桑解く - 霜くすべ - 桑摘み - 蚕飼い - 蚕卵紙 - 春挽糸 - 茶摘み - 製茶 - 聞き茶 - 鮎汲み - えり挿す - 上り梁 - 鯛網 - 磯竈 - 磯開き - 磯菜摘み - 海女 - 木流し - 初筏 - 団扇作る -
- 小弓引 - 磯遊び - 潮干狩り - 遠足 - 観潮 - 踏青 - 野遊び - 摘み草 - 蕨狩り - 梅見 - 花見 - 桜狩り - 花筵 - 夜桜
- 春の風邪 - 雁瘡癒ゆ - 種痘 - 麻疹 -
- 朝寝 - 春眠 - 春の夢 - 春興 - 春意 - 春愁 -
- 入学試験 - 大試験 - 落第 - 卒業 - 春休み - 進級 - 入学 - 新入社員 - 春闘 -
- 卒業式 - 入学式 - 入社式 -お花見
- 梅 - 紅梅 - 椿 - 初花 - 彼岸桜 - 枝垂桜 - 桜 - 花 - 山桜 - 八重桜 - 遅桜 - 落花 - 残花 - 桜蕊降る - 牡丹の芽 - 薔薇の芽 - 山茱萸の花 - 黄梅 - 花蘇枋 - 辛夷 - 花水木 - ミモザ - 三椏の花 - 沈丁花 - 連翹 - 土佐水木 - 海棠 - ライラック - 長春花 - 山桜桃の花 - 庭梅の花 - 桜桃の花 - 青木の花 - 馬酔木の花 - 満天星の花 - 躑躅 - 霧島躑躅 - アザレア - 山楂子 - 小手毬の花 - 雪柳 - 木蓮 - 藤 - 山吹 - 桃の花 - 李の花 - 巴旦杏の花 - 梨の花 - 杏の花 - 林檎の花 - 榠樝の花 - 榲桲の花 -
- 伊予柑 - ネーブル - 八朔 - 三宝柑 -
- 木の芽 - 春林 - 蘖 - 若緑 - 柳の芽 - 山椒の芽 - 楓の芽 - 楤の芽 - 枸杞 - 五加木 - 令法 - 桑 - 柳 - 菫 - 蓬 - パンジー - 土筆 - チューリップ - 蕗のとう - 若草 - 菜の花 -
リラ冷え - 葉桜 - 向日葵 - 蓮花(華)
- 秋 - 初秋 - 八月 - 文月 -長月-霜月- 立秋 - 残暑 - 秋めく - 新涼 - 処暑 - 八月尽 - 二百十日 - 仲秋 - 九月 - 葉月 - 八朔 - 白露 - 秋分 - 秋彼岸 - 秋の社日 - 龍淵に潜む - 水始めて涸る - 晩秋 - 十月 - 長月 - 律の調べ - 寒露 - 雀蛤となる - 秋の日 - 秋の朝 - 秋の昼 - 秋の暮 - 秋の宵 - 秋の夜 - 夜長 - 秋麗 - 秋澄む - 秋気 - 爽やか - 冷やか - 身に入む - 秋寒 - そぞろ寒 - やや寒 - うそ寒 - 肌寒 - 朝寒 - 夜寒 - かりがね寒し - 霜降 - 豺獣を祭る - 冷まじ - 秋寂ぶ - 秋深し - 暮の秋 - 行く秋 - 秋惜む - 冬隣 - 九月尽 -天高し
秋色 - 秋晴 - 菊日和 - 秋旱 - 秋の声 - 秋の空 - 天高し - 秋の雲 - 鰯雲 - 鯖雲 - 月 - 待宵 - 名月 - 十六夜(いざよい) - 後の月 - 星月夜 - 秋の星 - 天の川 - 流星 - 碇星 - 秋の初風 - 秋風 - 初嵐 - 秋の嵐 - 野分 - 颱風 - 秋曇 - 秋湿り - 秋雨 - 秋時雨 - 富士の初雪 - 秋の初雪 - 秋の雷 - 稲妻 - 秋の虹 - 霧 - 露 - 露寒 - 露霜 - 秋の初霜 - 秋の夕焼 - 釣瓶落し - 龍田姫 -
秋の山 - 山粧う - 秋の野 - 枯野の色 - 野山の色 - 野山の錦 - 秋の園 - 花園 - 花畑〔「秋の草花が咲いた畑」のこと〕 - 花野 - 秋の狩場 - 秋の田 - 刈田 - 穭田(ひつじた) - 落し水 - 秋の水 - 水澄む - 秋の川 - 秋出水 - 秋の湖 - 秋の海 - 秋の潮 - 初潮(はつしお) - 高潮 - 盆波 - 秋の浜 - 不知火
秋の服 - 秋袷 - 菊の襲 - 紅葉の襲 - 秋の燈 - 燈火親しむ - 秋の宿 - 秋の蚊帳 - 秋扇 - 秋団扇 - 秋簾 - 菊枕 - 燈籠 - 行水名残 - 障子洗う - 障子貼る - 障子襖を入れる - 葭戸蔵う - 簟名残 - 火恋し - 秋の炉 - 風炉の名残 - 冬仕度 - 松手入れ - 秋耕 - 八月大名 - 添水 - 案山子 - 鳴子 - 鳥威し - 田守 - 鹿火屋 - 鹿垣 - 稲刈 - 籾 - 豊年 - 凶作 - 新藁 - 藁塚 - 夜なべ - 俵編 - 砧 - 相撲 - 月見 - べい独楽 - 菊花展 - 菊人形 - 虫売 - 虫籠 - 秋の野遊 - 茸狩り - 紅葉狩 - 芋煮会 - 秋意 - 秋思 - 秋興 - 休暇明け - 運動会 - 夜学
いとど
- 紅葉 - 落葉 - 彼岸花 - 藤袴 - 桔梗 - ダリア - 萩 - 女郎花 - 芒 - コスモス - 鶏頭 - 金木犀 - 菊 - 竜胆 - 背高泡立草 - 芋 - 瓜 - 糸瓜 - 撫子 - 葛の花 - 朝顔
年の瀬 - 小春 - 大晦日 - 年越し - 短日 - 節分 - 除夜 - 小寒 - 大寒 - 師走 - 霜月 - 立冬 - 神無月
雪 - 初雪 - 小春日和 - 厳冬 - 氷・氷柱 - 霜・霜柱 - 樹氷 - 吹雪 - 空風 - 寒波 - 北風 - 時雨 - 冬霧 - 雁渡 - 寒昴 - 冬北斗
山眠る
スキー - スケート - 毛皮 - こたつ - 暖房 - ストーブ - 炭 - 火鉢 - 布団 - 湯たんぽ - 餅つき - 風邪 - 門松立つ - 着膨れ - 煤払い - 焚火 - 落葉焚 - 懐炉 - 火事 - 竹馬 - 息白し - 湯冷め - 咳 - 鼻水
クリスマス - 有馬記念 - 節分 - 降誕祭 - 御用納め - 七五三 - 除夜・除夜の鐘 - 年越 - 酉の市 - 羽子板市 - 針供養 - ラグビー - 柚子湯 - 年末賞与 - 社会鍋
冬菊 - 寒椿 - 山茶花 - 帰り花 - 落葉 - 木の葉 - 枯葉 - 枯木 - 枯れる - 水仙 - 麦の根 - 冬木 - 葉牡丹 - 柊 - シクラメン
新年 - 旧年 - 今年 - 去年 - 元旦 - 松の内 - 正月
初空 - 初日 - 初東風 - 初凪
初景色 - 初富士 - 初若菜野
年賀状・賀状・年賀 - お年玉 - 門松 - 注連飾 - 初夢 - 福笑い - 書初 - 門松 - 歌留多 - 羽子板 - 双六 - 宝船 - 独楽 - 初湯
初詣 - 初荷 - 仕事始 - 項初市 - 初売・初商 - 初場所 - 鷽替え(天神様) - 歌会始 - 恵方詣 - 傀儡師 - かまくら - なまはげ
嫁が君 - 初声 - 初鶏 - 初鴬 - 初烏 - 初鳩 - 伊勢海老
若菜 - 楪 - 橙 - 歯朶 - 福寿草
数の子 - 伊勢海老(イセエビ) - 寒芹 - 黒豆 - 橙(ダイダイ) - 七種 - 蓬莢(ヨモギ) - 若菜(ワカナ) - 薺(ナズナ) - 小豆粥 - 鏡餅 - 粥柱 - 切山椒(きりザンショウ) - おせち料理(食積) - ごまめ(田作り) - 雑煮 - 年の餅 - 七種粥 - 結び昆布 - 餅 - 寒の水 - 屠蘇 - 年酒 - 福茶(大服) - 若水 - 歯固 - 太箸 - 餅花
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"text": "冬菊 - 寒椿 - 山茶花 - 帰り花 - 落葉 - 木の葉 - 枯葉 - 枯木 - 枯れる - 水仙 - 麦の根 - 冬木 - 葉牡丹 - 柊 - シクラメン",
"title": "冬の季語"
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"text": "新年 - 旧年 - 今年 - 去年 - 元旦 - 松の内 - 正月",
"title": "新年の季語"
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"text": "初空 - 初日 - 初東風 - 初凪",
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"text": "初景色 - 初富士 - 初若菜野",
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"text": "年賀状・賀状・年賀 - お年玉 - 門松 - 注連飾 - 初夢 - 福笑い - 書初 - 門松 - 歌留多 - 羽子板 - 双六 - 宝船 - 独楽 - 初湯",
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"text": "初詣 - 初荷 - 仕事始 - 項初市 - 初売・初商 - 初場所 - 鷽替え(天神様) - 歌会始 - 恵方詣 - 傀儡師 - かまくら - なまはげ",
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"text": "嫁が君 - 初声 - 初鶏 - 初鴬 - 初烏 - 初鳩 - 伊勢海老",
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"text": "若菜 - 楪 - 橙 - 歯朶 - 福寿草",
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"text": "数の子 - 伊勢海老(イセエビ) - 寒芹 - 黒豆 - 橙(ダイダイ) - 七種 - 蓬莢(ヨモギ) - 若菜(ワカナ) - 薺(ナズナ) - 小豆粥 - 鏡餅 - 粥柱 - 切山椒(きりザンショウ) - おせち料理(食積) - ごまめ(田作り) - 雑煮 - 年の餅 - 七種粥 - 結び昆布 - 餅 - 寒の水 - 屠蘇 - 年酒 - 福茶(大服) - 若水 - 歯固 - 太箸 - 餅花",
"title": "新年の季語"
}
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季語一覧では、季語を分類し、列挙する。 本項における季節の分類は、二十四節気に基づく節切りとする。「新年」は1月1日から1月15日ごろまでの期間を指す。
本項における季語の分類は、以下に示す9項目とする。
時候 :季節・月の名称など。
天文 :天文と気象に関すること。
地理 :山・川・海・陸地など色々な地理に関すること。
人事 :人の暮らしに関すること。
行事 :年中行事を始めとする行事全般。
忌日 :著名人の忌日(命日)。
動物 :動物一般。ただし、その語のままで食べ物にもなるもの(食べ物としての印象が強いもの)は食物にも分類する。
植物 :植物一般、および、旧来の日本の本草学で植物に分類されていた生物全般(主に真菌類)。ただし、その語のままで食べ物にもなるもの(食べ物としての印象が強いもの)は食物にも分類する。
食物 :食物全般。
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{{TOCright}}
'''季語一覧'''(きご いちらん)では、'''[[季語]]'''を分類し、列挙する。
* 本項における[[季節]]の分類は、[[二十四節気]]に基づく[[節切り]]とする。「[[新年]]」は[[1月1日]]から[[1月15日]]ごろまでの期間を指す。
* 本項における季語の分類は、以下に示す9項目とする。
*# 時候 :[[季節]]・[[月 (暦)|月]]の名称など。
*# 天文 :[[天文学#用語捕足|天文]]と[[気象]]に関すること。
*# [[地理]] :山・川・海・陸地など色々な地理に関すること。
*# [[人事]] :[[人間|人]]の[[生活|暮らし]]に関すること。
*# 行事 :[[年中行事]]を始めとする[[行事]]全般。
*# 忌日 :著名人の[[命日|忌日(命日)]]{{要出典|date=2019年7月}}。
*# 動物 :[[動物]]一般。ただし、その語のままで食べ物にもなるもの(食べ物としての印象が強いもの)は食物にも分類する。
*# 植物 :[[植物]]一般、および、旧来の[[日本]]の[[博物学#本草学|本草学]]で植物に分類されていた[[生物]]全般(主に[[菌類|真菌類]])。ただし、その語のままで食べ物にもなるもの(食べ物としての印象が強いもの)は食物にも分類する。
*# 食物 :[[食物]]全般{{要出典|date=2019年7月}}。
==春の季語==
===時候===
- [[春]] -
- [[初春]] - [[2月|二月]] - [[睦月]] - [[旧正月]] - [[寒明け]] - [[立春]] - [[早春]] - 春浅し - 冴返る - 余寒 - 春寒 - 遅春 - 春めく - 魚氷に上る - [[雨水]] - 獺魚を祭る - 二月尽 - [[2月_(旧暦)|うりずはん]](「潤い初め」の琉球方言)-
- [[仲春]] - [[3月|三月]] - [[如月]] - [[啓蟄]] - 鷹化して鳩となる - 龍天に登る - 初朔日 - [[春分]] - [[彼岸]] - 春社 - 三月尽 - [[晩春]] - [[4月|四月]] - [[弥生]] - [[清明]] - 花冷え - 蛙の目借時 - 田鼠化して鶉となる - [[穀雨]] - 春深し - [[八十八夜]] - 春暑し - 暮の春 - 行く春 - 春惜しむ - 夏近し - 弥生尽 - 四月尽 -
- [[春の日]] - [[春暁]] - 春の朝 - 春昼 - 春の夕 - 春の暮 - 春の宵 - 春の夜 - [[朧月夜]] - 暖か - 麗か - 長閑 - 日永 - 遅日 - 木のかきごうり
芽時 - 花時 - 寒さ - 鶯
===地理===
- [[春の山]] - [[山笑う]] - 春の野 - 焼け野原
- 春の水 - 水温む - 春の川 - [[春の海]] - 春の波 - 春潮 - 彼岸潮 - 潮干潟 -
- [[春田]] - [[苗代]] - 春の園 -
- 春の土 - 春泥 - [[逃げ水]] -
- 堅雪 - [[残雪]] - 雪間 - [[雪崩]] - [[雪解け]] - 雪しろ - 春出水 - 凍解け - [[薄氷]] - 氷解く - [[流氷]] -清水
#
- 春衣 - 花衣 - 柳衣 - 躑躅の衣 - 桜衣 - 山吹衣 - 捨頭巾 - 外套脱ぐ - 胴着脱ぐ - 春袷 - 春服 - 春外套 - 春ショール - 春セーター - 春手袋 - 春帽子 - 春日傘 -
- [[山葵漬]] - 木の芽漬 - 花菜漬 - 桜漬 - 蕗みそ - 木の芽みそ - 木の芽和え - [[田楽]] - 若布和え - 独活和え - 青ぬた - 浅葱なます - 鮒なます - 田螺和え - 蜆汁 - 蒸し鰈 - 干し鰈 - 白子干 - [[目刺]] - [[干鱈]] - 壷焼 - 山椒の皮 - [[鶯餅]] - [[わらびもち]] - [[草餅]] - [[桜餅]] - [[椿餅]] - [[菱餅]] - [[雛あられ]] - [[白酒 (日本酒)|白酒]] - うこぎ飯 - [[菜飯]] - 嫁菜飯 - 枸杞飯 - 白魚飯 - 治聾酒 - 味噌豆煮る - 数の子作る - 春窮 -
- 春燈 - 春障子 - 春の炉 - 春炬燵 - 春暖炉 - 春火鉢 - 炬燵塞ぐ - 暖炉納む - 炉塞ぎ - 釣釜 - 厩出し - 北窓開く - 目貼剥ぐ - 雪割り - 雪囲とる - 霜除とる - 風除解く - そり蔵う - 車組む - 屋根替え - 垣繕う - 松の緑摘む - 蛇籠編む -
- [[野焼き]] - [[山焼き]] - 畑焼く - 芝焼く - 麦踏み - 農具市 - 耕し - [[田打ち]] - 畑打ち - 畦塗り - 種物 - 種選び - 種井 - 種浸し - 種池浚い - [[種蒔き]] - 物種蒔く - 種案山子 - 苗床 - 苗札 - 苗木市 - 植木市 - 牛蒡蒔く - へちま蒔く - カボチャ蒔く - 藍蒔く - 麻蒔く - 蓮植う - 睡蓮植う - 蒟蒻植う - 芋植う - ジャガイモ植う - 木の実植う - 果樹植う - 苗木植う - 桑植う - [[剪定]] - [[接ぎ木]] - [[挿し木]] - 根分け - 菊根分け - 菊植う - 萩根分け - 菖蒲根分け - 野老掘る - 慈姑掘る - わかめ刈る - 海苔掻き - 牧開き - 羊の毛刈る - 鳥持網代 - 鳴鳥狩り - 桑解く - 霜くすべ - 桑摘み - 蚕飼い - [[蚕卵紙]] - 春挽糸 - [[茶摘み]] - [[製茶]] - 聞き茶 - 鮎汲み - えり挿す - 上り梁 - 鯛網 - 磯竈 - 磯開き - 磯菜摘み - [[海女]] - 木流し - 初筏 - 団扇作る -
- 小弓引 - 磯遊び - [[潮干狩り]] - [[遠足]] - [[観潮]] - 踏青 - 野遊び - 摘み草 - 蕨狩り - 梅見 - [[花見]] - 桜狩り - 花筵 - 夜桜
- 春の風邪 - 雁瘡癒ゆ - [[種痘]] - [[麻疹]] -
- 朝寝 - 春眠 - 春の夢 - 春興 - 春意 - 春愁 -
- [[入学試験]] - 大試験 - [[落第]] - [[卒業]] - [[春休み]] - [[進級]] - [[入学]] - [[新入社員]] - [[春闘]] -
===行事===
- [[卒業式]] - [[入学式]] - [[入社式]] -お花見
===忌日===
;2月:8日:[[長塚節|節忌]] / 15日:[[木下利玄|利玄忌]] / 25日:[[齋藤茂吉|茂吉忌]]
;旧暦1月:25日:[[法然|法然忌]]
;3月:11日:[[東日本大震災|原発忌]] / 26日:[[室生犀星|犀星忌]] / 27日:[[島木赤彦|赤彦忌]]
;旧暦2月:15日:[[吉田兼好|兼好忌]] / 16日:[[西行|西行忌]] / 28日:[[千利休|利休忌]]
;4月:1日:[[西東三鬼|三鬼忌]] / 2日:[[高村光太郎|光太郎忌]] / 13日:[[石川啄木|啄木忌]] / 30日:[[永井荷風|荷風忌]]
;旧暦3月:18日:[[柿本人麻呂|人麻呂忌]] / 21日:[[空海|空海忌]]
===動物===
;初春(太陽暦2月、旧暦1月):[[アザラシ]] - 猫の恋 / [[ウグイス|鶯(ウグイス)]] - 鶴帰る - 白鳥帰る
:;仲春(太陽暦3月、旧暦2月):[[ウソ|鷽(ウソ)]] - 帰る雁 - [[キジ|雉(キジ)]] - [[コマドリ|駒鳥(コマドリ)]] - [[ツバメ|燕(ツバメ)]] - [[鳥帰る]] - 引鴨 - 引鶴 - [[ヒバリ|雲雀(ヒバリ)]] / 蜷(ニナ)
:;晩春(太陽暦4月、旧暦3月):落し角 - [[仔馬]] - [[子猫]] - 孕鹿 / 鵲の巣 - 烏の巣 - 雉の巣 - [[囀]] - 鷺の巣 - 雀の子 - 雀の巣 - 巣立 - 鷹の巣 - 千鳥の巣 - [[燕の巣]] - 鶴の巣 - [[鳥の巣]] - 鳥交る - 鳩の巣 - 孕雀 - 雲雀の巣 - 古巣 - [[キクイタダキ|松毟鳥(マツムシリ)]] - 麦鶉 - 百千鳥(モモチドリ) - 鷲の巣 / [[カジカガエル|蛙(カワズ)]] / [[魚島]] / [[アブ|虻(アブ)]] - [[カイコ|蚕(カイコ)]] - [[チョウ|蝶(チョウ)]] - 蠅生る - [[ハチ|蜂(ハチ)]] - [[蜂の巣]] - 花見虱(ハナミジラミ) - 春の蚊 - 春の蠅 - [[ヤママユ|山繭(ヤママユ)]] / [[イソギンチャク]] - 桜貝(サクラガイ) - [[シオマネキ|汐まねき(シオマネキ)]] - [[ヤドカリ|奇居虫(ヤドカリ)]]
===植物===
- [[ウメ|梅]] - [[紅梅]] - [[ツバキ|椿]] - [[初花]] - [[エドヒガン|彼岸桜]] - [[シダレザクラ|枝垂桜]] - [[サクラ|桜]] - [[花]] - [[ヤマザクラ|山桜]] - [[八重桜]] - 遅桜 - 落花 - 残花 - 桜蕊降る - [[ボタン (植物)|牡丹の芽]] - [[バラ|薔薇の芽]] - [[サンシュユ|山茱萸の花]] - [[オウバイ|黄梅]] - [[花蘇枋]] - [[コブシ|辛夷]] - [[ハナミズキ|花水木]] - [[ギンヨウアカシア|ミモザ]]<ref>{{Cite book |和書 |year=2006 |title=角川俳句大歳時記 |publisher=角川書店 |page=500 |isbn=4-04-621031-1 }}</ref> - [[ミツマタ|三椏の花]] - [[ジンチョウゲ|沈丁花]] - [[レンギョウ|連翹]] - 土佐水木 - [[ハナカイドウ|海棠]] - [[ライラック]] - [[コウシンバラ|長春花]] - [[ユスラウメ|山桜桃の花]] - 庭梅の花 - [[サクランボ|桜桃の花]] - [[アオキ (植物)|青木の花]] - [[アシビ|馬酔木の花]] - [[ドウダンツツジ|満天星の花]] - [[ツツジ|躑躅]] - [[キリシマツツジ|霧島躑躅]] - [[アザレア]] - [[サンザシ|山楂子]] - [[コデマリ|小手毬の花]] - [[ユキヤナギ|雪柳]] - [[モクレン|木蓮]] - [[藤]] - [[ヤマブキ|山吹]] - [[モモ|桃の花]] - [[スモモ|李の花]] - [[ハタンキョウ|巴旦杏の花]] - [[ナシ|梨の花]] - [[アンズ|杏の花]] - [[リンゴ|林檎の花]] - [[カリン (バラ科)|榠樝の花]] - [[マルメロ|榲桲の花]] -
- [[イヨカン|伊予柑]] - [[ネーブル]] - [[ハッサク|八朔]] - [[サンボウカン|三宝柑]] -
- [[木の芽]] - [[春林]] - [[蘖]] - 若緑 - [[ヤナギ|柳の芽]] - [[サンショウ|山椒の芽]] - [[カエデ|楓の芽]] - [[タラノキ|楤の芽]] - [[クコ|枸杞]] - [[ウコギ|五加木]] - [[リョウブ|令法]] - [[クワ|桑]] - [[ヤナギ|柳]] - [[スミレ|菫]] - [[ヨモギ|蓬]] - [[パンジー]] - [[スギナ|土筆]] - [[チューリップ]] - [[フキ|蕗のとう]] - [[若草]] - [[菜の花]] -
===食物===
;初春(太陽暦2月、旧暦1月):[[サヨリ|鰔(サヨリ)]] - [[シラウオ|白魚(シラウオ)]] - [[ワカサギ|公魚(ワカサギ)]] / [[キョウナ|京菜(キョウナ)]] - [[シュンギク|春菊(シュンギク)]] - [[セリ|芹(セリ)]] - [[ハッサクカン|八朔柑(ハッサクカン)]] - [[フキノトウ|蕗の薹(フキノトウ)]] - [[ホウレンソウ|菠薐草(ホウレンソウ)]] - [[ミズナ|水菜(ミズナ)]] - [[ミツバ|三葉(ミツバ)]]([[三葉芹]]) - [[ヨメナ|嫁菜(ヨメナ)]] - [[海苔|海苔(ノリ)]] / [[鶯餅]] - 白魚鍋 - [[椿餅]] - 蒸し寿司 - 蒸し飯 - 嫁菜飯 - 梅見酒 - 菜種御供
:;仲春(太陽暦3月、旧暦2月): 子持鯊 - [[サワラ|鰆(サワラ)]] - [[ニシン|鰊(ニシン)]]([[身欠鰊]]) - 春鰯 - 春鮒 - [[メザシ|目刺(メザシ)]] - [[メバル|眼張(メバル)]] - [[モロコ|諸子(モロコ)]] - 雪代岩魚 - 雪代山女 - 若鮎 - [[アサリ|浅蜊(アサリ)]] - [[イイダコ|飯蛸(イイダコ)]] - [[サザエ|栄螺(サザエ)]] - 花烏賊(ハナイカ) - [[ハマグリ|蛤(ハマグリ)]] - [[ホタルイカ|蛍烏賊(ホタルイカ)]] / 青饅(アオヌタ) - [[アサツキ|胡葱(アサツキ)]] - [[ウコギ|五加木(ウコギ)]] - [[カラシナ|芥子菜(カラシナ)]] - [[クコ|枸杞(クコ)]] - [[クワイ|慈姑(クワイ)]] - [[タラの芽]] - [[ネーブル]] - [[ノビル|野蒜(ノビル)]] - 茗荷竹(ミョウガタケ) - [[レタス]]([[萵苣]]) - [[ツクシ|土筆(ツクシ)]](磯菜摘) - [[ヒジキ|鹿尾菜(ヒジキ)]] - [[ワカメ|若布(ワカメ)]] - 春椎茸(春子) / 枸杞飯 - [[草餅]]([[蓬餅]]) - [[桜餅]] - 白子干 - 壷焼 - [[菱餅]] - [[干鱈]] - [[雛あられ]](雛菓子) - 鮒膾 - 干鰈 - 蒸鰈 - [[わらびもち]] / [[白酒 (日本酒)|白酒]] / 曲水 - 河豚供養
:;晩春(太陽暦4月、旧暦3月): [[イカナゴ|玉筋魚(イカナゴ)]] - 桜鰄(サクラウグイ)(柳鮠) - [[マダイ|桜鯛(マダイ)]] - 菜種河豚(ナタネフグ) - [[マス|鱒(マス)]] - [[アカガイ|赤貝(アカガイ)]] - [[アワビ|鮑(アワビ)]] - [[イガイ|貽貝(イガイ)]] - [[ウニ|海胆(ウニ)]] - 烏貝(カラスガイ) - 細螺(キサゴ) - [[シジミ|蜆(シジミ)]] - [[タニシ|田螺(タニシ)]] - [[トコブシ|常節(トコブシ)]] - [[マテ|馬刀(マテ)]] / [[アスパラガス]] - [[アマチャ|甘茶(アマチャ)]] - [[イタドリ|虎杖(イタドリ)]] - [[ウグイスナ|鶯菜(ウグイスナ)]] - [[ウド|独活(ウド)]] - 三月菜(サンガツナ) - [[スイバ|酸葉(スイバ)]] - [[スギナ|杉菜(スギナ)]] -[[こごみ]] - [[ナツミカン|夏蜜柑(ナツミカン)]] - [[ニラ|韮(ニラ)]] - 春大根 - 春野菜 - [[ワサビ|山葵(ワサビ)]] - [[ゼンマイ|薇(ゼンマイ)]] - [[ワラビ|蕨(ワラビ)]] - [[カジメ|搗布(カジメ)]] - [[モズク|海雲(モズク)]] - [[ショウロ|松露(ショウロ)]] / 桜漬 - [[菜飯]] - 花菜漬 - [[山葵漬]] / [[花見酒]]
==夏の季語==
===時候===
;[[初夏]](新暦[[5月]]、旧暦4月([[卯月]]・[[清和]])):[[立夏]]([[5月6日]]ごろ) - 夏浅し - 夏めく - 薄暑 - [[麦秋|麦の秋]] / [[小満]]([[5月21日]]ごろ) - 五月尽く
:;[[仲夏]](新暦[[6月]]、旧暦5月([[皐月]])):[[芒種]]([[6月6日]]ごろ) / [[入梅]]([[6月11日]]ごろ) - 梅雨寒し / [[夏至]]([[6月21日]]ごろ) - [[白夜]] - 短夜(明け易し) / [[半夏生]]([[7月2日]]ごろ)
:;[[晩夏]](太陽暦7月、旧暦6月([[水無月]])):[[小暑]]([[7月7日]]ごろ) / 炎昼 - 夏の暁 - 夏の夕(夏夕べ) - [[夏の夜]]([[夜半の夏]]) - [[梅雨明]] - [[冷夏]] / [[土用入]]([[7月21日]]ごろ) - [[土用]] - [[三伏]] - [[盛夏]]([[炎帝]]) - [[暑さ]] / [[大暑]]([[7月23日]]ごろ) - 極暑 - 溽暑 - [[熱帯夜]] - 灼く / 秋近し - 涼し - [[土用明]] - 夏の果 - 夜の秋
===天文===
;三夏:[[夏の月]](月涼し) - 夏の星 / [[夏の日]] / 夏の雨 / 夏の風
:;仲夏(太陽暦6月、旧暦5月):[[五月晴]] - [[五月闇]] / [[五月雨]] - [[梅雨]] / 青嵐 - 大南風(おほみなみ) - 風薫([[薫風]]) - 黒南風(くろはえ) - 南吹く(はえふく) - [[南風|南風(みなみ)]] - 黄雀風(くわうじやくふう)
:;晩夏(太陽暦7月、旧暦6月):[[炎天]] - 西日 - [[旱]] - 夕立晴 - [[夕焼け]] / 浅曇 - [[雲海]] - 雲の峰 - [[入道雲]] - 夕立雲 / 喜雨 - [[スコール]] - [[雹]] - [[夕立]]([[白雨]]) / 白南風(しらはえ) - 夕立風 - [[夕凪]] / 夏の霧(夏霧) - [[逃げ水]] - [[虹]] / [[雷]] - [[遠雷]] - 日雷 - [[はたたがみ]] - [[日盛]] - [[雷雨]] - [[雷神]] - [[雷鳴]] - [[落雷]]
===地理===
;三夏:[[夏景色]] - 夏の山 - 山滴る / 夏野 / [[夏の湖]] / 夏の海 - 夏の潮
:;初夏(太陽暦5月、旧暦4月):[[お花畑]](高山植物が咲いた状態を指す) / 卯波(卯浪)
:;仲夏(太陽暦6月、旧暦5月):皐月富士 / [[出水]] - 夏の川 - [[氷河]] - 噴井 / [[植田]] - [[代田]] - 田水沸く / [[夏空]]
:;晩夏(太陽暦7月、旧暦6月):[[赤富士]] - [[御来迎]] - [[雪渓]] - 宵山 / [[泉]] - 苔清水 - 滴り - [[清水]](山清水・岩清水) - [[滝]]([[瀧]]) / 青田 / [[土用波]] - 苦潮([[赤潮]])
===人事===
;初夏(太陽暦5月、旧暦4月):[[袷]] - [[衣替え|更衣]] - セル / 夏炉 - [[風呂]] / 糸取 - 苗植う - 苗売 - 苗物 - 茄子植う - 菜種刈 - 袋掛 - 麦打 - 麦藁籠 - 麦刈 - 麦扱 - 麦笛 - [[藁|麦藁]] - 綿蒔
:;仲夏(太陽暦6月、旧暦5月):[[半ズボン|短ズボン]] - 夏襟 - 夏帯 - 夏衣 - 夏羽織 - 夏袴 - [[夏服]] - 夏帽子 - [[単衣]] / 青簾(葭簾) - [[網戸]] - 伊予簾 - 絵簾 - [[蚊帳]] - 葭戸 - [[蚊遣火]](蚊遣・[[蚊火]]・[[蚊取線香]]) - [[簾]] - [[玉簾]] - 籐椅子 - 夏暖簾 - [[蠅叩き|蠅叩]] - [[蠅帳|蝿帳]] - 蠅除 - [[すだれ|葦簀]] / [[草刈り|草刈]] - [[草刈り|草取]] - [[田の神#早乙女|早乙女]] - 代掻く - [[田植]] - 田草取 / 鮎掛 - 鮎狩 - 鮎の宿 - [[鵜飼い|鵜飼]](鵜舟・鵜匠) - 鵜飼火 - 鵜篝 - 鰹釣 - 鰹舟 - 川狩(網打) - 藻刈 - 魚梁 - 夜焚釣堀 - 夜釣 / 螢籠 - 蛍狩 - 螢舟 / [[夏時間|サマータイム]]
:;晩夏(太陽暦7月、旧暦6月):[[うちわ|団扇]] - 絵扇 - [[扇子|扇]] - [[水着|海水着]] - [[サングラス]] - [[サンダル]] - 白扇 - 白靴 - 白絣 - [[甚平]] - [[扇子]] - ハンカチーフ([[ハンカチ]]) - [[傘#日傘|日傘]](パラソル) - 古扇 - [[麦わら帽子|麦藁帽子]] - 虫干 - [[浴衣]] - 夜濯 / [[醤油]]作る / [[打ち水|打水]] - 籠枕 - [[金魚鉢]] - [[散水車]] - 水中花 - [[扇風機]] - 燈涼し - 夏座敷 - 夏館 - [[箱庭]] - 端居 - 花氷([[氷柱]]) - [[バンガロー]] - [[ハンモック]] - 日向水 - 日除 - [[風鈴]] - [[噴水]] - [[冷蔵庫]] - [[冷房]](クーラー) - 露台 / [[汗]](玉の汗) - [[汗疹]] - 汗拭い - 汗の香 - 汗の玉 - 汗ばむ - 汗ふき - 汗水 - 汗みどろ - 髪洗ふ - [[行水]] - [[香水]] - [[午睡]] - 外寝 - [[納涼]](涼み) - 晩涼 - [[避暑]] - [[日焼け|日焼]] - [[昼寝]] - 夕涼 - 夜涼 - [[ラジオ体操]] / [[コレラ]] - [[暑気あたり]] - [[赤痢]] - [[夏風邪]] - 夏痩 - [[日射病]] - 寝冷 - [[マラリア]] - 水あたり - [[水虫]] / [[雨乞い|雨乞]] - 水喧嘩 - 水番 / [[海人|海女]] - [[金魚売]] - 天草採る / [[浮人形]] - [[海の家]] - [[水泳|泳ぎ]] - [[海水浴]] - [[肝試し]] - [[キャンプ]] - [[登山]] - 登山小屋 - 登山宿 - 夏芝居 - 袴能 - 箱釣り - [[花火]] - [[プール]] - 船遊 - [[ボート]] - [[水遊び]] - [[水芸|水からくり]] - 水狂言 - [[水鉄砲]] - [[水風船]] - [[幽霊]] - [[納涼床|川床(ゆか)]] - [[ヨット]] - [[夜店]] / [[帰省]] - [[暑中見舞い|暑中見舞]] / [[夏休み]] - [[臨海学校]] - [[林間学校]]
===行事===
;旧暦4月:8日:[[開山祭|山開(信仰の山)]] - [[卯月八日]](天頭花) - 峰入【[[三重県]]・[[大峰山]]】 / 16日 - 7月15日:[[安居]]
:;5月:[[夏場所]] - 聖母月 / 3日:筑摩祭【[[滋賀県]]・[[筑摩神社 (米原市)|筑摩神社]]】/5日:[[こどもの日|子供の日]] -[[賀茂競馬]]【[[京都府]]・[[賀茂神社]]】/ 10日:[[愛鳥週間]] / 初旬:[[御柱祭]]【[[長野県]]・[[諏訪大社]]】/ 14日:[[聖衆来迎練供養会式|練供養]] / 15日:[[祭]] - [[葵祭]]【[[京都府]]・[[上賀茂神社]]・[[下鴨神社]]】 - [[神田祭]]【[[東京都]]・[[神田明神]]】/ 19日:団扇撒き【[[奈良県]]・[[唐招提寺]]】/ 中旬:[[御田植祭]]【[[三重県]]・[[楠部神宮]]】/ 第2日曜日:[[母の日]] / 第3日曜日:[[三船祭]]([[西祭]])【[[京都府]]・[[車折神社]]】 / 第3金・土・日:[[三社祭]]【[[東京都]]・[[浅草神社]]】
:;旧暦5月:4日:菖蒲葺く - [[菖蒲湯]] / 5日:[[端午]]([[騎射]]([[流鏑馬]]) - [[薬玉]] - [[こいのぼり]] - [[幟]] - [[吹流し]] - [[武者人形]] - 薬狩)
:;6月:[[東京優駿|ダービー]] : 1日:[[電波の日]] / 4日-8日:[[伝教会]]【[[京都府]]・[[比叡山延暦寺]]】/ 10日:[[時の記念日]] / 10日-16日:[[日枝祭]]([[山王祭 (千代田区)|山王祭]])【[[東京都]]・[[日枝神社_(千代田区)|日枝神社]]】/ 上旬:[[品川祭]]【[[東京都]]・[[荏原神社]]・[[品川神社]]】/ 20日:[[鞍馬の竹伐]]【[[京都府]]・[[鞍馬寺]]】/ 24日:[[磯部の御神田|御田植祭]]【[[三重県]]・[[伊雑宮]]】/第2日曜日:[[花の日]] / 第3日曜日:[[父の日]]
:;旧暦6月:17日:[[巌島管絃祭]]【[[広島県]]・[[巌島神社]]】/ 晦日:[[名越の祓]]
:;7月:[[氷室]] - [[七月場所|名古屋場所]]([[名古屋場所]]) - [[祇園祭]]([[祇園会]] - [[二階囃]] - [[祇園囃]] - [[御輿洗]] - [[鉾立]] - [[宵飾]] - [[鉾町]] - [[宵宮詣]] - [[鉾の稚児]])【[[京都府]]・[[八坂神社]]】 / 1日:[[富士詣]] / 1日 - 15日:[[博多祇園山笠|博多山笠]]([[山笠]] - 飾山笠 - 追山笠)【[[福岡県]]・[[櫛田神社 (福岡市)|櫛田神社]]】 / 7日・8日:[[朝顔市]]【[[東京都]]・[[入谷鬼子母神]]】 / 9日・10日:[[鬼灯市]]【[[東京都]]・[[浅草寺]]】 / 上旬:[[山開]] - [[海開]] /14日:[[パリ祭]] - 那智火祭([[扇祭]])【[[和歌山県]]・[[熊野那智大社]]】/ 16日:[[閻魔参]] / 20日:[[海の日]] / 21日ごろ:[[土用灸]] / 23日・24日・25日:[[野間追祭]]【[[福岡県 ]]・[[中村神社]]・[[太田神社]]・[[小高神社]]】/ 24日・25日:[[天神祭]]【[[大阪市]]・[[天満宮]]】/下旬:[[川開]] / 最終土曜日:[[競渡]]([[ペーロン]])【[[長崎県]]】
:;8月:6日・7日:[[佃祭]]【[[東京都]]・[[住吉神社]]】/ 上旬:[[高校野球]]
===忌日===
;5月:6日:[[久保田万太郎|万太郎忌]] - [[佐藤春夫|春夫忌]] / 7日:[[山本健吉|健吉忌]] / 10日:[[二葉亭四迷|四迷忌]] / 11日:[[松本たかし|牡丹忌]] - [[萩原朔太郎|朔太郎忌]] / 16日:[[北村透谷|透谷忌]] / 28日:[[堀辰雄|辰雄忌]] / 29日:[[橋本多佳子|多佳子忌]] - [[与謝野晶子|晶子忌]] / 31日:[[嶋田青峰|青峰忌]]
;旧暦5月:6日:[[鑑真|鑑真忌]] / 22日:[[河合曽良|曽良忌]] / 23日:[[石川丈山|丈山忌]] / 24日:[[蝉丸|蝉丸忌]] / 28日:[[在原業平|在五忌]]
;6月:19日:[[太宰治|桜桃忌]] / 23日:[[国木田独歩|独歩忌]] / 28日:[[林芙美子|芙美子忌]]
;旧暦6月:2日:[[尾形光琳|光琳忌]] / 13日:[[杉山杉風|杉風忌]] / 15日:[[北村季吟|季吟忌]] / 20日:[[織田信長|信長忌]]
;7月:3日:[[加藤楸邨|達谷忌]] / 9日:[[森鷗外|鴎外忌]] / 15日:[[アントン・チェーホフ|チェーホフ忌]] / 17日:[[川端茅舎|茅舎忌]] - [[水原秋桜子|秋桜子忌]] / 24日:[[芥川龍之介|河童忌]] / 25日:[[秋元不死男|甘露忌]] / 30日:[[幸田露伴|蝸牛忌]] - [[谷崎潤一郎|谷崎忌]]
;8月:4日:[[木下夕爾|夕爾忌]] / 5日:[[中村草田男|草田男忌]] / 6日・9日:[[広島市への原子爆弾投下|原爆忌]] /
===動物===
;初夏(太陽暦5月、旧暦4月):[[カイコガ|蚕蛾(カイコガ)]] - [[コクゾウムシ|穀象(コクゾウ)]] - [[ネキリムシ|根切虫(ネキリムシ)]] - [[袋角]] - [[ハルゼミ|松蝉(マツゼミ)]] - [[繭]] / [[ウミホオズキ|海酸漿(ウミホオズキ)]] - [[ナメクジ|蝦蛄(ナメクジ)]]
;仲夏(太陽暦6月、旧暦5月):[[コウモリ|蝙蝠(コウモリ)]] - [[鹿の子]](子鹿親鹿) / [[アオサギ|青鷺(アオサギ)]] - 老鶯 - [[カッコウ|閑古鳥(カンコドリ)]] - [[クイナ|水鶏(クイナ)]] - [[コマドリ|駒鳥(コマドリ)]] - [[ツツドリ|筒鳥(ツツドリ)]] - [[コノハズク|仏法僧(ブッポウソウ)]] - [[ホトトギス|時鳥(ホトトギス)]] - [[ルリチョウ|瑠璃鳥(ルリチョウ)]] / [[ニホンアマガエル|雨蛙(アマガエル)]] - [[カジカガエル|河鹿(カジカ)]] - [[ニホンヒキガエル|蝦蟇(ガマ)]] - [[ヘビ|蛇(ヘビ)]] - [[ニホンマムシ|蝮(マムシ)]] - [[ニホンヤモリ|守宮(ヤモリ)]] - [[トカゲ|蜥蜴(トカゲ)]] / [[濁り鮒]] - [[メダカ|目高(メダカ)]] / [[アゲハチョウ科|アゲハ]] - [[アブラムシ|油虫(アブラムシ)]] - [[アメンボ|アメンボウ]] - [[アリ|蟻(アリ)]] - [[ウスバカゲロウ|蟻地獄(アリジゴク)]] - [[イトトンボ|糸蜻蛉(イトトンボ)]] - [[ウジ|蛆(ウジ)]] - [[カ|蚊(カ)]] - [[カイコ|蚤(カイコ)]] - 蚊の声 - 蚊柱泣く - [[クモ|蜘蛛(クモ)]] - 蜘蛛の囲([[蜘蛛の巣]]) - [[ゲジ|ゲジゲジ]] - [[ゲンゴロウ|源五郎(ゲンゴロウ)]] - [[ゲンジボタル|源氏蛍(ゲンジボタル)]] - [[ゴキブリ]] - [[タガメ|田亀(タガメ)]] - 夏の蝶 - 羽蟻(ハアリ) - [[ハエ|蠅(ハエ)]] - 初蛍 - [[火取虫]] - [[ヘイケボタル|平家蛍(ヘイケボタル)]] - [[ボウフラ]] - [[ホタル|蛍(ホタル)]] - [[蛍火]] - 蛍合戦 - [[ムカデ|百足虫(ムカデ)]] / [[カタツムリ|蝸牛(カタツムリ)]] - [[ナメクジ|蛞蝓(ナメクジ)]] - [[ヒル (動物)|蛭(ヒル)]] - [[ミミズ|蚯蚓(ミミズ)]] - 残鶯
;晩夏(太陽暦7月、旧暦6月):[[ライチョウ|雷鳥(ライチョウ)]] / [[キンギョ|金魚(キンギョ)]]/ [[アブラゼミ|油蝉(アブラゼミ)]] - [[空蝉]](蝉の殻) - [[カブトムシ|カブトムシ(カブトムシ)]] - [[カミキリムシ|髪切虫(カミキリムシ)]] - [[ケムシ|毛虫(ケムシ)]] - 甲虫(コウチュウ) - [[コガネムシ|黄金虫(コガネムシ)]]([[金亀子]]) - [[シミ|紙魚(シミ)]] - [[セミ|蝉(セミ)]] - [[蝉時雨]] - [[タマムシ|玉虫(タマムシ)]] - [[テントウムシ|天道虫(テントウムシ)]] - 初蝉 - [[ミンミンゼミ]] / [[クラゲ|海月(クラゲ)]] - [[フナムシ|船虫(フナムシ)]] - [[ヤコウチュウ|夜光虫(ヤコウチュウ)]]
===植物===
リラ冷え - [[葉桜]] - [[ヒマワリ|向日葵]] - [[蓮]]花(華)
=== 食物 ===
;初夏(太陽暦5月、旧暦4月):[[アジ|鯵(アジ)]] - [[アナゴ|穴子(アナゴ)]] - [[サバ|鯖(サバ)]] - [[初鰹]] - [[イカ|烏賊(イカ)]] / [[アシタバ|明日葉(アシタバ)]] - [[イチゴ|苺(イチゴ)]] - [[エンドウ|豌豆(エンドウ)]] - [[キャベツ]] - [[ギョウジャニンニク|行者大蒜(ギョウジャニンニク)]] - [[サヤエンドウ|莢豌豆(サヤエンドウ)]] - [[ジュンサイ|蓴采(ジュンサイ)]] - [[新じゃが]] - [[新玉葱]] - [[ソラマメ|蚕豆(ソラマメ)]] - [[筍]] - [[ハマエンドウ|浜豌豆(ハマエンドウ)]] - [[フキ|蕗(フキ)]] - [[ムギ|麦(ムギ)]] - 夏蕨 / 淡雪羹 - [[柏餅]] - 伽羅蕗 - 金玉糖 - 葛桜([[葛饅頭]]) - [[葛餅]] - [[筍飯]](篠の子) - [[ちまき]] - 古茶 - 豆飯 - [[水羊羹]] / 葛水 - [[新茶]]
;仲夏(太陽暦6月、旧暦5月):[[アユ|鮎(アユ)]] - [[オコゼ|虎魚(オコゼ)]] - [[カツオ|鰹(カツオ)]] - [[キス (魚)]] - [[クロダイ|黒鯛(クロダイ)]]([[チヌ]]) - [[コチ|鯒(コチ)]] - [[ゴリゴリ]] - [[トビウオ|飛魚(タビウオ)]] - [[ベラ]] - [[カニ|蟹(カニ)]] / [[青梅]] - [[アンズ|杏(アンズ)]] - [[インゲンマメ|隠元豆(インゲンマメ)]]([[泥鰌隠元]]) - [[クレソン]] - [[桑の実]] - [[サクランボ|さくらんぼ]] - [[シソ|紫蘇(シソ)]] - 新生姜 - [[スモモ|李(スモモ)]] - [[タマネギ|玉葱(タマネギ)]] - [[ナツグミ|夏茱萸(ナツグミ)]] - 夏大根 - 夏葱 - [[ニンニク|葫(ニンニク)]]([[大蒜]]) - [[パイナップル]] - [[バナナ]] - [[ビワ|枇杷(ビワ)]] - 実梅 - [[ユスラウメ|山桜梅(ユスラウメ)]] - [[ラッキョウ|辣韮(ラッキョウ)]] / [[梅干]] - [[白玉]] - [[水飯]]([[干飯]]) - 饐飯 - [[鮨]] - [[ゼリー]] - [[心太]] - [[生節]] - [[蜜豆]] - [[麦飯]] - 茹小豆 / [[梅酒]] - 早稲饗
;晩夏(太陽暦7月、旧暦6月):洗鯉 - [[イシモチ|石首魚(イシモチ)]] - [[ウナギ|鰻(ウナギ)]] - [[カマス]] - [[カンパチ]] - [[シタビラメ|舌鮃(シタビラメ)]] - [[ドジョウ|泥鰌(ドジョウ)]] - 土用鰻 - [[ナマズ|鯰(ナマズ)]] - [[ハモ|鱧(ハモ)]] - [[ヤマメ|山女魚(ヤマメ)]] - 土用蜆 / [[ウリ|瓜(ウリ)]] - [[キイチゴ|木苺(キイチゴ)]] - [[キュウリ|胡瓜(キュウリ)]] - [[シロウリ|越瓜(シロウリ)(浅瓜)]] - [藷(新走り) - 新蓮 - スグリの実 - [[スベリヒユ]] - [[セロリ]] - [[トマト]] - [[ナス|茄子(ナス)]] - [[パセリ]] - [[ハタンキョウ]] - [[早桃]] - [[ピーマン]] - [[マクワウリ|まくわ瓜]] - [[マンゴー]] - [[メロン]] - [[ヤマモモ|楊梅(ヤマモモ)]]([[山桃]]) - 若牛蒡(ワカゴボウ) - [[アラメ|荒布(アラメ)]] - [[コンブ|昆布(コンブ)]] - [[フノリ|布海苔(フノリ)]] / [[アイスクリーム]] - 沖膾 - [[かき氷]] - [[干飯]] - 胡瓜もみ - 氷餅 - 鴫焼 - [[素麺]] - 泥鰌鍋 - 茄子漬 - 夏料理 - [[はったい粉]] - [[冷やし中華]] - [[冷汁]] - [[冷素麺]] - [[ひやむぎ|冷麦]] - [[冷奴]] - [[氷菓]]([[氷菓子]]) - 船料理 - [[水貝]] - 飯饐る / [[アイスコーヒー]] - [[泡盛]] - 氷水 - [[サイダー]] - [[砂糖水]] - [[焼酎]] - [[ソーダ水]] - [[ビアガーデン]] - [[ビール]] - 冷酒 - 冷し汁 - 蝮酒 - [[麦茶]] - [[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]] - レモン水
==秋の季語==
===時候===
- [[秋]] - [[秋|初秋]] - [[8月|八月]] - [[文月]] -長月-霜月- [[立秋]] - [[残暑]] - 秋めく - 新涼 - [[処暑]] - [[8月|八月尽]] - [[二百十日]] - [[秋|仲秋]] - [[9月|九月]] - [[葉月]] - [[八朔]] - [[白露]] - [[秋分]] - [[彼岸|秋彼岸]] - [[社日|秋の社日]] - 龍淵に潜む - 水始めて涸る - [[秋|晩秋]] - [[10月|十月]] - [[長月]] - 律の調べ - [[寒露]] - 雀蛤となる - 秋の日 - 秋の朝 - 秋の昼 - 秋の暮 - 秋の宵 - 秋の夜 - 夜長 - 秋麗 - 秋澄む - 秋気 - 爽やか - 冷やか - 身に入む - 秋寒 - そぞろ寒 - やや寒 - うそ寒 - 肌寒 - 朝寒 - 夜寒 - かりがね寒し - [[霜降]] - 豺獣を祭る - 冷まじ - 秋寂ぶ - 秋深し - 暮の秋 - 行く秋 - 秋惜む - 冬隣 - 九月尽 -天高し
===天文===
秋色 - 秋晴 - 菊日和 - 秋旱 - 秋の声 - 秋の空 - 天高し - 秋の雲 - [[鰯雲]] - 鯖雲 - [[月]] - 待宵 - 名月 - [[十六夜]](いざよい) - 後の月 - [[星月夜]] - 秋の星 - [[天の川]] - [[流星]] - [[カシオペヤ座|碇星]] - [[秋の初風]] - [[秋風]] - [[嵐|初嵐]] - [[秋の嵐]] - [[台風|野分]] - [[台風|颱風]] - 秋曇 - 秋湿り - [[秋雨]] - [[時雨|秋時雨]] - 富士の初雪 - 秋の初雪 - 秋の雷 - [[稲妻]] - [[虹|秋の虹]] - [[霧]] - [[露]] - 露寒 - 露霜 - [[霜|秋の初霜]] - [[夕焼け|秋の夕焼]] - 釣瓶落し - [[竜田山|龍田姫]] -
===地理===
秋の山 - 山粧う - 秋の野 - 枯野の色 - 野山の色 - 野山の錦 - [[秋の園]] - [[花園]] - 花畑〔「秋の草花が咲いた畑」のこと〕 - 花野 - 秋の狩場 - 秋の田 - [[刈田狼藉|刈田]] - 穭田(ひつじた) - 落し水 - 秋の水 - 水澄む - 秋の川 - 秋出水 - [[秋の湖]] - 秋の海 - 秋の潮 - [[潮汐|初潮(はつしお)]] - [[高潮]] - 盆波 - 秋の浜 - [[不知火]]
===人事===
秋の服 - 秋袷 - [[襲|菊の襲]] - [[襲|紅葉の襲]] - 秋の燈 - 燈火親しむ - 秋の宿 - 秋の蚊帳 - 秋扇 - 秋団扇 - 秋簾 - [[菊枕]] - [[燈籠]] - 行水名残 - [[障子洗う]] - [[障子貼る]] - 障子襖を入れる - 葭戸蔵う - 簟名残 - 火恋し - 秋の炉 - 風炉の名残 - 冬仕度 - 松手入れ - 秋耕 - 八月大名 - [[添水]] - [[案山子]] - [[鳴子]] - [[鳥威し]] - [[田守]] - 鹿火屋 - 鹿垣 - 稲刈 - [[籾]] - [[豊年]] - [[凶作]] - 新藁 - 藁塚 - [[夜なべ]] - 俵編 - [[砧]] - [[相撲]] - [[月見]] - べい独楽 - 菊花展 - [[菊人形]] - 虫売 - [[虫籠]] - 秋の野遊 - 茸狩り - [[紅葉狩]] - [[芋煮会]] - 秋意 - 秋思 - 秋興 - 休暇明け - [[運動会]] - [[夜学]]
===行事===
;旧暦7月:6日:[[硯洗い]] / 7日:[[七夕]] / 13日〜15日(16日):[[お盆|盆]]・[[盆踊り|踊り]]・墓参り・茄子の馬・[[迎え火]] ・[[送り火]](*盆行事は陽暦、または月遅れで行うことが多い) / 15日:[[中元]](*陽暦で行われるのが普通) - [[解夏]]
;8月:15日:[[終戦の日]] - [[被昇天祭]]
;旧暦8月:1日:[[八朔|八朔の祝]]
;9月:1日:[[関東大震災|震災記念日]] / 1日〜3日:[[おわら風の盆|風の盆]]【[[富山県]][[富山市]]】 / 第3月曜日(そもそもは15日):[[敬老の日]] / 19日:[[生子神社の泣き相撲|泣角力]]【[[栃木県]][[鹿沼市]][[生子神社 (鹿沼市)|生子神社]]】 / 秋分日(23日ごろ):[[秋分の日]] - [[秋季皇霊祭]] / 日曜日から2週間:[[秋場所]]
;旧暦9月:9日:[[重陽]]・[[菊の着綿]] - [[おくんち]]
;10月:1日〜31日:[[赤い羽根]] / 第2月曜日(そもそもは10日):[[体育の日]] / 17日:[[神嘗祭]] / 18日:菊供養【[[浅草寺]]】 / 22日:[[時代祭]]【[[平安神宮]]】
;11月:1日:[[万聖節]] / 3日:[[文化の日]]
===忌日===
;8月:8日:[[柳田国男|国男忌]] / 13日:[[渡辺水巴|水巴忌]] / 15日:[[終戦の日|敗戦忌]] / 19日:[[中山義秀|義秀忌]]
;旧暦7月:1日:[[支倉常長|支倉忌]] / 12日:[[角倉了以|了以忌]] / 17日:[[円山応挙|応挙忌]] / 20日:[[文覚|文覚忌]] / 26日:[[太田道灌|道灌忌]] / 30日:[[宗祇|宗祇忌]]
;9月:1日:[[富田木歩|木歩忌]]、[[関東大震災|震災忌]] / 3日:[[折口信夫|迢空忌]] / 13日:[[乃木希典|乃木祭]] / 17日:[[篠原鳳作|鳳作忌]] - [[村上鬼城|鬼城忌]] / 18日:[[石井露月|露月忌]] / 19日:[[正岡子規|糸瓜忌]] / 24日:[[西郷隆盛|南洲忌]] / 26日:[[石橋秀野|秀野忌]]
;旧暦8月:2日:[[上島鬼貫|鬼貫忌]] / 8日:[[世阿弥|世阿弥忌]] - [[荒木田守武|守武忌]] / 9日:[[呑竜|呑竜忌]] - [[炭太祇|太祇忌]] / 10日:[[井原西鶴|西鶴忌]] / 15日:[[山口素堂|素堂忌]] / 18日:[[豊臣秀吉|太閤忌]] / 20日:[[藤原定家|定家忌]] / 23日:[[一遍|遊行忌]] / 25日:[[道元|道元忌]] - [[吉野太夫|吉野忌]] / 26日:[[森川許六|許六忌]]
;10月:3日:[[飯田蛇笏|蛇笏忌]] / 4日:[[高野素十|素十忌]] / 10日:[[長谷川素逝|素逝忌]] / 13日:[[お会式]] /22日:[[中原中也|中也忌]] 27日:[[角川源義|源義忌]] / 30日:[[尾崎紅葉|紅葉忌]]
;旧暦9月:6日:[[歌川広重|広重忌]] / 7日:[[大島蓼太|蓼太忌]] / 8日:[[千代女|千代尼忌]] / 10日:[[向井去来|去来忌]] / 12日:[[塙保己一|保己一忌]] / 13日:[[加舎白雄|白雄忌]] / 15日:[[覚猷|鳥羽僧正忌]] / 24日:[[池西言水|言水忌]] / 29日:[[本居宣長|宣長忌]] / 30日:[[夢窓疎石|夢窓忌]]
;11月:6日:[[石川桂郎|桂郎忌]]
;旧暦10月:12日:[[松尾芭蕉|芭蕉忌]]
=== 動物 ===
[[カマドウマ|いとど]]
; 初秋(太陽暦8月、旧暦7月):[[秋の蝉]] - [[カナカナ]] - [[コオロギ|蟋蟀(コオロギ)]] - [[スズムシ|鈴虫(スズムシ)]] - [[ツクツクボウシ|法師蝉(ツクツクボウシ)]] - [[ヒグラシ|蜩(ヒグラシ)]] - [[虫の声]]
; 仲秋(太陽暦9月、旧暦8月):[[雁|雁(カリ)]] / 蛇穴に入る / 秋の蚊 - 秋の蝶 - [[イモムシ|芋虫]] - [[ウスバカゲロウ]] - [[クツワムシ]] - 螻蛄鳴く - 地虫鳴く - [[トンボ|蜻蛉(トンボ)]] - [[二十三夜]] - [[マツムシ|松虫(マツムシ)]] - [[ミノムシ|蓑虫(ミノムシ)]] / 蚯蚓鳴く
; 晩秋(太陽暦10月、旧暦9月):[[イノシシ|猪(イノシシ)]] - [[シカ|鹿(シカ)]] / 稲雀 - [[カケス|懸巣(カケス)]] - [[キツツキ|啄木鳥(キツツキ)]] - [[小鳥]] - [[シジュウカラ|四十雀(シジュウカラ)]] - [[セキレイ|鶺鴒(セキレイ)]] - 鶴渡る - 白鳥渡る - [[ヒヨドリ|鵯(ヒヨドリ)]] - [[ホオジロ|眼白(ホオジロ)]] - [[ホオジロ|頬白(ホオジロ)]] - [[ムクドリ|椋鳥(ムクドリ)]] - [[モズ|百舌(モズ)]] - [[ヤマガラ|山雀 (ヤマガラ)]] - [[渡り鳥]]
===植物===
- [[紅葉]] - [[落葉]] - [[ヒガンバナ|彼岸花]] - [[フジバカマ|藤袴]] - [[キキョウ|桔梗]] - [[ダリア]] - [[ハギ|萩]] - [[オミナエシ|女郎花]] - [[ススキ|芒]] - [[コスモス]] - [[ケイトウ|鶏頭]] - [[キンモクセイ|金木犀]] - [[キク|菊]] - [[リンドウ|竜胆]] - [[セイタカアワダチソウ|背高泡立草]] - [[芋]] - [[瓜]] - [[糸瓜]] - [[撫子]] - [[葛の花]] - [[アサガオ|朝顔]]
=== 食物 ===
;初秋(太陽暦8月、旧暦7月):[[暑気払い]] - [[イワシ|鰯(イワシ)]] - [[サンマ|秋刀魚(サンマ)]] - [[タチウオ|太刀魚(タチウオ)]] - [[蜂の子]] - [[アズキ|小豆(アズキ)]] - [[枝豆]] - [[オクラ]] - 貝割菜 - [[カボチャ|南瓜(カボチャ)]] - [[スイカ|西瓜(スイカ)]] - [[ダイズ|大豆(ダイズ)]] - [[トウモロコシ|玉蜀黍(トウモロコシ)]] - [[ナタマメ|刀豆(ナタマメ)]] - [[フジマメ|藤豆(フジマメ)]] - 間引菜(つまみ菜) - [[モモ|桃(モモ)]] / 蜂の子飯 - 盆料理 / [[甘酒]] - [[飴湯]] - [[清水]] - 振舞水
;仲秋(太陽暦9月、旧暦8月) : 秋鯵 - 秋鰹 - 秋鯖 - 秋の魚 - [[カジカ (魚)|鰍(カジカ)]]([[杜父魚]]) - [[からすみ]] - [[スズキ (魚)|鱸(スズキ)]] - [[ハゼ|鯊(ハゼ)]] - [[ボラ|鰡(ボラ)]] - [[タチウオ|太刀魚(タチウオ)]] / 青蜜柑 - [[秋茄子]] - [[アワ|粟(アワ)]] - [[イチイ|一位の実(イチイ)]]([[あららぎ]]) - [[イチジク|無花果(イチジク)]] - [[キビ|黍(キビ)]] - [[クルミ|胡桃(クルミ)]] - [[ゴマ|胡麻(ゴマ)]] - [[サトイモ|里芋(サトイモ)]](衣被) - 紫蘇の実 - 新小豆 - 新胡麻 - 新大豆 - [[新米]] - [[ズイキ|芋茎(ズイキ)]] - [[トウガラシ|唐辛子(トウガラシ)]] - [[零余子]] - [[ヒエ|稗(ヒエ)]] - [[ブドウ|葡萄(ブドウ)]] - [[ヤマブドウ|山葡萄(ヤマブドウ)]] / 新豆腐 - [[月見団子]] - 零余子飯 - 月見酒 - [[芋煮会]] / [[夜食]]
;晩秋(太陽暦10月、旧暦9月): [[イクラ]](はららご) - 落鮎- 落鰻 - [[コノシロ|鮗(コノシロ)]]([[小鰭]]) - [[サケ|鮭(サケ)]] - 氷頭鱠(ヒズナマス) - [[ムベ|郁子(ムベ)]] - [[イナゴ|蝗(イナゴ)]] / 秋グミ - [[アケビ|通草(アケビ)]] - 柿([[カキノキ|カキ]]) - [[カリン (バラ科)|カリン]] - [[ギンナン|銀杏(ギンナン)]] - [[クリ|栗(クリ)]] - [[ザクロ|石榴(ザクロ)]] - [[サツマイモ|薩摩芋(サツマイモ)]]([[甘藷]]) - [[新蕎麦]] - [[スダチ|酢橘(スダチ)]] - [[ソバ|蕎麦(ソバ)]] - [[トウガン|冬瓜(トウガン)]] - 橡の実 - [[とんぶり]] - [[ナシ|梨(ナシ)]] - 棗(ナツメ)([[棗の実]]) - [[マルメロ]] - [[ヤツガシラ|八つ頭(ヤツガシラ)]] - [[ヤマイモ|山芋(ヤマイモ)]](自然藷) - [[ユズ|柚子(ユズ)]] - [[ラッカセイ|落花生(ラッカセイ)]]([[ピーナッツ]]) - [[リンゴ|林檎(リンゴ)]] - [[レモン|檸檬(レモン)]] - [[キノコ|茸(キノコ)]] - [[シイタケ|椎茸(シイタケ)]] - [[シメジ|占地(シメジ)]] - [[マツタケ|松茸(マツタケ)]] / [[石狩鍋]] - 菊鱠 - 茸汁 - 茸飯 - [[きりたんぽ]] - [[栗飯]] - [[蕎麦掻]](蕎麦湯) - [[吊し柿]] - [[とろろ汁]] - [[べったら漬]](浅漬大根) - 松茸飯 - 柚子味噌 / 温め酒 - [[葛湯]] - [[猿酒]] - [[生姜湯]] - [[新酒]] - [[どぶろく]](濁り酒) / 紅葉酒 - 月見酒
== 冬の季語 ==
=== 時候 ===
[[年の瀬]] - [[小春]] - [[大晦日]] - [[年越し]] - 短日 - [[節分]] - [[除夜]] - [[小寒]] - [[大寒]] - [[師走]] - [[霜月]] - [[立冬]] - [[神無月]]
=== 天文 ===
[[雪]] - [[初雪]] - [[小春日和]] - [[厳冬]] - [[氷]]・[[氷柱]] - [[霜]]・[[霜柱]] - [[樹氷]] - [[吹雪]] - [[空風]] - [[寒波]] - [[北風]] - [[時雨]] - [[冬霧]] - [[雁渡]] - [[プレアデス星団|寒昴]] - [[北斗七星|冬北斗]]
=== 地理 ===
山眠る
=== 人事 ===
[[スキー]] - [[スケート]] - [[毛皮]] - [[こたつ]] - [[暖房]] - [[ストーブ]] - [[炭]] - [[火鉢]] - [[布団]] - [[湯たんぽ]] - [[餅つき]] - [[風邪]] - [[門松]]立つ - 着膨れ - 煤払い - [[焚き火|焚火]] - [[焚き火|落葉焚]] - [[懐炉]] - [[火災|火事]] - [[竹馬]] - [[息白し]] - 湯冷め - [[咳]] - [[鼻水]]
=== 行事 ===
[[クリスマス]] - [[有馬記念]] - [[節分]] - [[降誕祭]] - [[御用納め]] - [[七五三]] - [[除夜]]・[[除夜の鐘]] - 年越 - [[酉の市]] - [[羽子板市]] - [[針供養]] - [[ラグビー]] - [[柚子湯]] - 年末[[賞与]] - [[社会鍋]]
=== 忌日 ===
; 11月:11日:[[臼田亜浪|亜浪忌]] / 21日:[[石田波郷|波郷忌]] / 23日:[[樋口一葉|一葉忌]] / 24日:[[岸田稚魚|稚魚忌]]
; 旧暦10月:13日:[[服部嵐雪|嵐雪忌]]
; 12月:9日:[[夏目漱石|漱石忌]] / 30日:[[横光利一|横光忌]]
; 旧暦11月:13日:[[空也|空也忌]] / 15日:[[松永貞徳|貞徳忌]] / 19日:[[小林一茶|一茶忌]] / 22日:[[近松門左衛門|近松忌]] / 28日:[[親鸞|親鸞忌]]
; 1月:17日:[[阪神・淡路大震災|阪神忌]]
; 旧暦12月:24日:[[与謝蕪村|蕪村忌]]
=== 動物 ===
; 三冬: [[ツル|鶴(ツル)]] - [[ハクチョウ|白鳥(ハクチョウ)]]
; 初冬(太陽暦11月、旧暦10月):[[タカ|鷹(タカ)]] - [[ハヤブサ|隼(ハヤブサ)]] - [[ワシ|鷲(ワシ)]] / 冬蜂
; 仲冬(太陽暦12月、旧暦11月):[[イルカ|海豚(イルカ)]] - [[ウサギ|兎(ウサギ)]] - [[オオカミ|狼(オオカミ)]] - [[キツネ|狐(キツネ)]] - [[タヌキ|狸(タヌキ)]] - 山鯨 / 浮寝鳥(ウキネドリ) - [[オシドリ|鴛鴦(オシドリ)]] - [[カイツブリ|鳰(カイツブリ)]] - [[カモ|鴨(カモ)]] - 寒烏 - 寒雀 - [[ササナキ|笹鳴(ササナキ)]] - [[チドリ|千鳥(チドリ)]] - [[ヒタキ|鶲(ヒタキ)]] - [[フクロウ|梟(フクロウ)]] - 冬の雁 - [冬の鳥 - [[水鳥]] - [[ミソサザイ|鷦鷯(ミソサザイ)]] - [[ミミズク|木兎(ミミズク)]] - [[ミヤコドリ|都鳥(ミヤコドリ)]] / [[冬眠]] / [[サメ|鮫(サメ)]] / 冬の蝶
=== 植物 ===
冬菊 - [[寒椿]] - [[山茶花]] - [[帰り花]] - [[葉#落葉|落葉]] - [[木の葉]] - [[枯葉]] - 枯木 - 枯れる - [[水仙]] - 麦の根 - [[冬木]] - [[ハボタン|葉牡丹]] - [[ヒイラギ|柊]] - [[シクラメン]]
=== 食物 ===
; 初冬(太陽暦11月、旧暦10月): [[ウズラ|鶉(ウズラ)]] - [[スズメ|雀(スズメ)]] - [[ツグミ|鶫(ツグミ)]] - [[アンコウ|鮟鱇(アンコウ)]] - [[シシャモ|柳葉魚(シシャモ)]] - [[ハタハタ|鰰(ハタハタ)]] - [[フグ|河豚(フグ)]] - [[カキ (貝)|牡蠣(カキ)]] / [[カブ|蕪(カブ)]] - [[キウイフルーツ|キウイ]] - [[ゴボウ|牛蒡(ゴボウ)]] - [[新海苔]] - [[ダイコン|大根(ダイコン)]] - [[ニンジン|人参(ニンジン)]]([[胡蘿蔔]]) - [[葱]] - [[ハクサイ|白菜]] - [[レンコン|蓮根(レンコン)]] - [[ナメコ|滑子(ナメコ)]] / 浅漬 - 鮟鱇鍋 - [[亥の子餅]] - 兎汁 - [[牡蠣飯]] - 蕪鮨 - 蕪蒸 - 切干 - 茎漬 - 薬喰(紅葉鍋) - [[巻繊汁]] - [[桜鍋]](蹴とばし) - [[鴨鍋]] - [[猪鍋]]([[ぼたん鍋|牡丹鍋]]) - [[柴漬]] - 十夜粥 - 塩汁鍋 - [[すき焼き|鋤焼]]([[牛鍋]]) - 酢茎漬 - [[千枚漬]] - [[鯛焼]] - [[狸汁]] - [[千歳飴]] - [[根深汁]] - 風呂吹(大根焚) - [[干柿]] - 焼藷([[焼芋]]) - [[湯豆腐]] - [[寄鍋]] - 夜鷹蕎 / 鰭酒
; 仲冬(太陽暦12月、旧暦11月):[[クジラ|鯨(クジラ)]] - [[ウルメイワシ|潤目鰯(ウルメイワシ)]] - [[タラ|鱈(タラ)]] - [[キンメダイ|金目鯛(キンメダイ)]] - 氷魚(ヒオ) - [[マグロ|鮪(マグロ)]] - [[ムツ|睦(ムツ)]] - [[このわた|海鼠腸]] - [[ズワイガニ]] - [[タラバガニ|鱈場蟹(タラバガニ)]] - [[ナマコ|海鼠(ナマコ)]] / [[キンカン|金柑(キンカン)]] - [[ザボン|朱欒(ザボン)]] - [[チンゲンサイ|青硬采(チンゲンサイ)]] - 冬至南瓜 - 冬苺 - 冬菜 - 冬野菜 - 冬林檎 - [[ミカン|蜜柑(ミカン)]] / [[おでん]] - [[粕汁]] - 蕪汁 - [[鯨汁]] - [[薩摩汁]] - [[三平汁]] - 塩鮭 - [[じぶ煮]] - 聖菓([[クリスマスケーキ]]) - [[雑炊]] - [[沢庵漬]] - [[ちり鍋]] - 冬至粥 - 年越蕎麦(晦日蕎麦) - [[納豆汁]] - 鍋焼 - [[葱鮪]] - 濃餅汁 - 乾鮭 - 干菜 - 干菜汁 - 干菜湯 - 闇汁 / [[熱燗]] - 姜酒 - [[卵酒]] / [[寝酒]]
; 晩冬(太陽暦1月、旧暦12月):寒卵 - 寒鰈 - 寒鯉 - 寒鮒 - 寒鰤 - [[コマイ|氷下魚(コマイ)]] - [[ブリ|鰤(ブリ)]] - 寒蜆 / [[コマツナ|小松菜(コマツナ)]] / 寒餅 - 煮凝 - 水餅 / 雪見酒
==新年の季語==
===時候===
[[新年]] - [[旧年]] - [[今年]] - [[去年]] - [[元旦]] - [[松の内]] - [[正月]]
===天文===
初空 - [[初日]] - 初東風 - 初凪
===地理===
初景色 - 初富士 - 初若菜野
===人事===
[[年賀状]]・賀状・年賀 - [[お年玉]] - [[門松]] - [[注連飾り|注連飾]] - [[初夢]] - [[福笑い]] - [[書初]] - [[門松]] - [[かるた|歌留多]] - [[羽子板]] - [[双六]] - [[宝船]] - [[独楽]] - 初湯
===行事===
[[初詣]] - [[初荷]] - [[仕事始め|仕事始]] - 項初市 - [[初売]]・初商 - [[大相撲|初場所]] - [[鷽替え]]([[天満宮|天神]]様) - [[歌会始]] - [[恵方詣]] - [[傀儡師]] - [[かまくら]] - [[なまはげ]]
===動物===
嫁が君 - 初声 - 初鶏 - 初鴬 - 初烏 - 初鳩 - [[伊勢海老]]
===植物===
[[若菜]] - [[楪]] - [[橙]] - [[歯朶]] - [[福寿草]]
===食物===
[[数の子]] - [[イセエビ|伊勢海老(イセエビ)]] - 寒芹 - [[黒豆]] - [[ダイダイ|橙(ダイダイ)]] - [[七種]] - [[ヨモギ|蓬莢(ヨモギ)]] - 若菜(ワカナ) - [[ナズナ|薺(ナズナ)]] - [[小豆粥]] - [[鏡餅]] - 粥柱 - [[サンショウ|切山椒(きりザンショウ)]] - [[おせち料理]](食積) - [[ごまめ]]([[田作り]]) - [[雑煮]] - 年の餅 - [[七種粥]] - 結び昆布 - [[餅]] - 寒の水 - [[屠蘇]] - 年酒 - 福茶(大服) - 若水 - 歯固 - 太箸 - [[餅花]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<!--※情報のあるべき節-->
<!--
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
* [[挨拶]]
* [[時候の挨拶一覧]]
* [[歳時記]]
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ジョセフ・スミス・ジュニア
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ジョセフ・スミス・ジュニア(英: Joseph Smith, Jr.、1805年12月23日 - 1844年6月27日)は、アメリカ合衆国の宗教指導者。末日聖徒イエス・キリスト教会 の設立者である。
ジョセフ・スミス・ジュニアは、1805年にバーモント州ウィンザー郡シャロンで、ジョセフ・スミスとルーシー・マック・スミスの間に生まれた。彼には10人の兄弟姉妹がいた。両親は信仰深く、ジョセフはキリスト教的な環境で育てられた。
当時、ニューヨーク州では、キリスト教の各宗派が対立し、会員獲得のための争いが起こっていた。14歳だった少年ジョセフはどの教会に加入するべきか迷い、正しい教会がどれであるか知りたいと願った。
ジョセフは聖書に答えを求めて、「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)という一節を見つけ、神に尋ねる決心をした。
ジョセフは、1820年の春、近くの森に行き、ひざまずいて祈ったところ、神より示現を受けたと主張している。
ジョセフの主張によると、示現の中で、父なる神とイエス・キリストがジョセフ・スミスに現れ、イエスはジョセフに「すべて間違っている」ため、どの教会にも加わらないように告げられ、イエスと使徒の死後、長い間失われていた「神権」(儀式を行うための神の権威)と「教義」を回復するためにジョセフが神から選ばれたとされている。
教会の信条によると、1829年、23歳になったジョセフ・スミスの元にバプテスマのヨハネが現れ、ジョセフ・スミスと同僚のオリバー・カウドリにアロン神権(洗礼を行う権威)を授けたとされている。またペテロ、ヤコブ、ヨハネが現れ、ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにメルキゼデク神権を授け、初期のキリスト教会と同じ権威を回復したと言われている。そして1830年、同じ神権の権能により、初期のキリスト教会と同じ組織が回復されたとされている。
ジョセフは、天使(モロナイ(英語))より授かったとされる金板の書を元に、教典である『モルモン書』として翻訳している。。
ジョセフの先祖は1600年代にイングランドから移住してきた移民であり、米国東部ニューイングランド地方で五世代続いた家系であった。1638年に父方のロバート・スミスが最初に植民地に移住。サミュエル、サミュエルII、アサエル、ジョセフ(Sr)と世代が続く。スミス家にとってバーモント州ウインザー郡での生活は苦労が多かったといわれている。スミス家は勤勉で信仰深く道徳心に満ち、ジョセフもその影響を受けていた。ジョセフの生まれる9年前に、祖父に当たるアサエル・スミスは孫たちに「神が人類にとって最益となる者を自分の子孫から起こされるということを知っていた(George A Smith "Memories"から)」ことを告げている。
家族は13人家族(父ジョセフ・スミス、母ルーシー・スミス。兄弟はアルビン、ハイラム、サミュエル・ハリソン、エフライム、ウィリアム、ドン・カーロス、姉妹はソフロニア、キャサリン、ルーシー、他に出生後間もなく死亡した子が一人)。ジョセフが10歳のとき、家族はバーモント州を去りニューヨーク州オンタリオ郡(現在のウェイン郡)パルマイラに移り住み、さらに約4年後に同じオンタリオ郡内のマンチェスターに移り住んだ。
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ジョセフ・スミス・ジュニアは、アメリカ合衆国の宗教指導者。末日聖徒イエス・キリスト教会 の設立者である。
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[[File:Joseph Smith, Jr. portrait owned by Joseph Smith III.jpg|thumb|right|200px|ジョセフ・スミス・ジュニア]]
'''ジョセフ・スミス・ジュニア'''({{Lang-en-short|Joseph Smith, Jr.}}、[[1805年]][[12月23日]] - [[1844年]][[6月27日]])は、[[アメリカ合衆国]]の宗教指導者。[[末日聖徒イエス・キリスト教会]] の設立者である。
== 生涯 ==
ジョセフ・スミス・ジュニアは、[[1805年]]に[[バーモント州]][[ウィンザー郡 (バーモント州)|ウィンザー郡]]シャロンで、ジョセフ・スミスとルーシー・マック・スミスの間に生まれた。彼には10人の兄弟姉妹がいた。両親は信仰深く、ジョセフはキリスト教的な環境で育てられた。
当時、[[ニューヨーク州]]では、キリスト教の各宗派が対立し、会員獲得のための争いが起こっていた。14歳だった少年ジョセフはどの教会に加入するべきか迷い、正しい教会がどれであるか知りたいと願った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/pgp/js-h/1.18?lang=jpn|title=ジョセフ・スミス―歴史1章18節|accessdate=2016-12-25|publisher=}}</ref>。
ジョセフは聖書に答えを求めて、「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)という一節を見つけ、神に尋ねる決心をした。
[[image:Joseph Smith first vision stained glass.jpg|thumb|「最初の示現」を描写した[[ステンドグラス]]]]
ジョセフは、[[1820年]]の春、近くの森に行き、ひざまずいて祈ったところ、神より示現を受けたと主張している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/pgp/js-h/1.16-17?lang=jpn|title=ジョセフ・スミス―歴史1章16-17節|accessdate=2016-12-25|publisher=}}</ref>。
ジョセフの主張によると、示現の中で、父なる神とイエス・キリストがジョセフ・スミスに現れ、イエスはジョセフに「すべて間違っている」ため、どの教会にも加わらないように告げられ、イエスと使徒の死後、長い間失われていた「神権」(儀式を行うための神の権威)と「教義」を回復するためにジョセフが神から選ばれたとされている。
教会の信条によると、[[1829年]]、23歳になったジョセフ・スミスの元に[[バプテスマのヨハネ]]が現れ、ジョセフ・スミスと同僚のオリバー・カウドリにアロン神権(洗礼を行う権威)を授けたとされている。また[[ペテロ]]、[[ヤコブ (ゼベダイの子)|ヤコブ]]、[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]が現れ、ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにメルキゼデク神権を授け、初期のキリスト教会と同じ権威を回復したと言われている。そして[[1830年]]、同じ神権の権能により、初期のキリスト教会と同じ組織が回復されたとされている。
ジョセフは、天使([[:en:Angel_Moroni|モロナイ(英語)]])より授かったとされる金板の書を元に、教典である『[[モルモン書]]』として翻訳している。<ref>{{Cite web|和書|url=http://ja.mormonwiki.com/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9B%B8|title=「モルモン書」:イエスキリストについてもう一つの証|accessdate=2016-12-25|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131113140917/http://ja.mormonwiki.com/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9B%B8|archivedate=2013-11-13|deadlinkdate=2016-12-25}}</ref>。{{main|モルモン書}}
== ジョセフの先祖・家族系統について ==
ジョセフの先祖は1600年代にイングランドから移住してきた移民であり、米国東部ニューイングランド地方で五世代続いた家系であった。[[1638年]]に父方のロバート・スミスが最初に植民地に移住。サミュエル、サミュエルII、アサエル、ジョセフ(Sr)と世代が続く。スミス家にとってバーモント州ウインザー郡での生活は苦労が多かったといわれている。スミス家は勤勉で信仰深く道徳心に満ち、ジョセフもその影響を受けていた<ref>高橋弘『素顔のモルモン教』[[新教出版社]]</ref>。ジョセフの生まれる9年前に、祖父に当たるアサエル・スミスは孫たちに「神が人類にとって最益となる者を自分の子孫から起こされるということを知っていた(George A Smith "Memories"から)」ことを告げている。
家族は13人家族(父ジョセフ・スミス、母ルーシー・スミス。兄弟はアルビン、ハイラム、サミュエル・ハリソン、エフライム、ウィリアム、ドン・カーロス、姉妹はソフロニア、キャサリン、ルーシー、他に出生後間もなく死亡した子が一人)。ジョセフが10歳のとき、家族はバーモント州を去り[[ニューヨーク州]][[オンタリオ郡 (ニューヨーク州)|オンタリオ郡]](現在の[[ウェイン郡 (ニューヨーク州)|ウェイン郡]])パルマイラに移り住み、さらに約4年後に同じオンタリオ郡内のマンチェスターに移り住んだ。
== 年表 ==
[[File:Joseph Smith daguerreotype.jpg|thumb|right|220px|1844年に撮影された[[ダゲレオタイプ]]による写真]]
[[File:G._W._Fasel_-_Charles_G._Crehen_-_Nagel_&_Weingaertner_-_Martyrdom_of_Joseph_and_Hiram_Smith_in_Carthage_jail,_June_27th,_1844.jpg|thumb|right|220px|殺害されるジョセフとハイラム]]
* [[1823年]][[9月21日]]から[[モルモン書]]の執筆を始める。
* [[1826年]][[3月20日]]、占いで埋蔵宝物を探すためにペンシルバニアの農場に雇われたが、詐欺罪で有罪判決を受ける<ref>{{Cite web|和書|url=http://garyo.or.tv/michi/sinjitu/jsmith/saiban.htm|title=1826年ベインブリッジ裁判記録|accessdate=2016-12-25|publisher=}}</ref>。
* [[1827年]][[1月18日]]、エマ・ヘイルと結婚。
* [[1830年]][[4月6日]]、末日聖徒イエス・キリスト教会設立。
* [[1844年]][[6月27日]]、アメリカ合衆国[[イリノイ州]][[カーセッジ (イリノイ州)|カーセージ]]で兄ハイラム・スミスとともに、暴徒との銃撃戦の末に死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lds.org/scriptures/dc-testament/dc/135.1?lang=jpn|title=教義と聖約第135章1節|accessdate=2016-12-25|publisher=}}</ref>。(詳細は[[:en:Death of Joseph Smith]]を参照)。
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://jp.churchofjesuschrist.org/?lang=jpn 末日聖徒イエス・キリスト教会 日本語公式サイト]
*[http://www.mormon.jp/ 末日聖徒イエス・キリスト教会 「基本的な信条」(新)]
{{Normdaten}}
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[[Category:ジョセフ・スミス・ジュニア|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の末日聖徒イエス・キリスト教会指導者]]
[[Category:新宗教の開祖]]
[[Category:モルモン教]]
[[Category:19世紀アメリカ合衆国の著作家]]
[[Category:都市の建設者]]
[[Category:イングランド系アメリカ人]]
[[Category:殺人被害者]]
[[Category:バーモント州の人物]]
[[Category:ニューヨーク州ウェイン郡出身の人物]]
[[Category:1805年生]]
[[Category:1844年没]]
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連続体仮説
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連続体仮説(れんぞくたいかせつ、Continuum hypothesis, CH)とは、可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しないとする仮説。19世紀にゲオルク・カントールによって提唱された。現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。
1個よりも多い最小の個数は2個である。2個よりも大きい最小の個数は3個である。このように、有限の個数に対しては1を足すことでそれ自身よりも大きい最小の個数を得ることができる。では無限の個数に対してはどうであろうか。自然数や実数は無限個存在する。これらの個数は異なるはずであるが、個数という呼び方をする限りいずれも「無限」である。これに対して、有限集合の場合の要素数の概念を無限集合にまで拡張した「集合の濃度」(二つの集合間に一対一対応が存在するとき二つの集合の濃度は等しいとする)を考えることにより2つの無限は区別される(詳細は濃度を参照)。無限集合の濃度(無限の個数)で最も小さいものは可算濃度(自然数全体の集合の濃度)である。しかし、可算濃度の無限集合に要素を1つ追加した集合もやはり可算濃度であり、有限集合の場合のように新しい濃度にはならない。可算濃度の無限集合同士の合併集合も可算濃度である。しかし、実数全体の集合は可算濃度ではないことが示された。そこで次に、可算濃度よりも大きい最小の濃度は連続体濃度(実数の集合の濃度)であろうと考えられた、これが連続体仮説である。
自然数より真に大きく、実数より真に小さいサイズの集合がない、ということを連続体仮説は述べている。もう少し正確には連続体仮説は「自然数を含むような任意の実数の部分集合は、実数との間に全単射が存在するか、自然数との間に全単射が存在するかのいずれかである」とも言い表せる。
自然数の全体を N と書き、そこにふくまれる自然数の個数(濃度)を可算濃度 א 0 {\displaystyle \aleph _{0}} (アレフ・ヌル)と呼ぶ(「可算」とは「数えられる」の意。可付番濃度とも言う)。また、実数の全体を R と書き、そこに含まれる実数の個数を連続体濃度 א {\displaystyle \aleph } と書く。さらに集合 M の濃度を card M で表すことにすれば、連続体仮説は
א 0 < card Ω < א {\displaystyle \aleph _{0}<{\mbox{card}}\,\Omega <\aleph }
なる集合 Ω が存在しないという主張であると言い表される。また N の冪集合の濃度
P ( א 0 ) {\displaystyle {\mathfrak {P}}(\aleph _{0})}
については、これが連続体濃度に等しいということが証明されているから、アレフ数の概念を用いると連続体仮説は、公理系 ZFC (詳細は公理的集合論を参照)のもとで
P ( א 0 ) = א 1 = א {\displaystyle {\mathfrak {P}}(\aleph _{0})=\aleph _{1}=\aleph }
が成立すること、と言い表すこともできる。
現代数学では標準的な枠組みとして ツェルメロ-フレンケルの公理系 ZF や ZF に選択公理を加えた公理系である ZFC を基礎に理論構築がなされているが、ZF や ZFC と連続体仮説は独立である。つまり ZF や ZFC に連続体仮説を付け加えた公理系も、連続体仮説の否定を付け加えた公理系も、無矛盾である。連続体仮説は ZF や ZFC においては真としても偽としてもよいともいえる。
ゲーデルは、連続体仮説は偽であると強く主張したことで知られている。彼の見方では、連続体仮説の独立性の証明は ZFC に欠点があることを示しており、もっとよい公理系を選べば連続体仮説が偽であることが証明できると考えたのである。その立場を強固に推し進めた最後の論文は、学会誌には掲載されずに返還されてしまった。多くの集合論の専門家は、連続体仮説は偽であると考えているか、または真偽に対して中立的な立場を取っている。
ヒュー・ウッディンのように連続体仮説が偽であるとする専門家のうちには、「自然な仮定」を加えて構築される数学モデルでは連続体濃度が א 2 {\displaystyle \aleph _{2}} に一致するといった形で定式化を試みる動きもある。
この仮説は 19 世紀に集合論の創始者、ゲオルク・カントールによって提出された。彼自身この解決に熱心に取り組んだことが知られている。可算濃度より連続体濃度の方が大きいことは、カントールの対角線論法によって証明されている。カントールは当初、連続体仮説も証明することはそれほど難しくないと考えていたが、遂に証明することはできなかった。
1900年、パリで開かれた国際数学者会議においてヒルベルトは彼の有名な 23 の問題の第一番にこの連続体仮説を取り上げた。その後、1940年にゲーデルは任意の ZF のモデルにおいて構成可能集合全体のクラス L が連続体仮説をみたすことを証明し、「ZFC からは連続体仮説の否定は証明できない」ことを示した。さらに1963年、ポール・コーエンは強制法と呼ばれる新しい手法を用いて「ZFC から連続体仮説を証明することは出来ない」ことを示した。これらの結果から ZFC に連続体仮説を加えても、またはその否定を加えても矛盾は発生しないこと、つまり連続体仮説の ZFC からの独立性が示され、連続体仮説は解決を見た(これらの結果は全て ZF の無矛盾性を仮定している)。コーエンはこの業績により、1966 年にフィールズ賞を受賞している。
連続体仮説を、可算濃度と連続体濃度だけではなく、ある集合の濃度と、その冪集合の濃度に対して拡張したものを、一般連続体仮説 (GCH) と呼ぶ。即ち、無限集合 X に対し、
card X < card Ω < card P ( X ) {\displaystyle {\mbox{card}}\,X<{\mbox{card}}\,\Omega <{\mbox{card}}\,{\mathfrak {P}}(X)}
を満たすような Ω が存在しないという仮説のことである。冪集合の方が必ず大きくなることも、カントールの対角線論法によって証明できる。一般連続体仮説も、その名の通り、仮説として認識され、ZFC からの独立性が証明されている。
一般連続体仮説を肯定したとして、Ωに対し、連続体の中で最大元を持つ半順序集合をとる。
その集合とある冪集合の濃度の間には、他の濃度は存在しないことがいえるから、アレフ数の定義より、
card X = א α ⟹ card P ( X ) = א α + 1 {\displaystyle {\mbox{card}}\,X=\aleph _{\alpha }\ \Longrightarrow \ {\mbox{card}}\,{\mathfrak {P}}(X)=\aleph _{\alpha +1}}
が言える。ここで、 card P ( X ) = 2 c a r d X {\displaystyle {\mbox{card}}\,{\mathfrak {P}}(X)=2^{{\rm {card}}\,X}} であるから、
א α + 1 = 2 א α {\displaystyle \aleph _{\alpha +1}=2^{\aleph _{\alpha }}}
が成り立つ。
選択公理を仮定している場合、濃度は基数、すなわちその濃度を持つ最小の順序数で記述されることが多い。これ以降、この慣習を採用することにする。
一般連続体仮説が ZF から独立しているのはすでに述べた通りであるが、イーストンはその事実を拡張し、ZFC のモデルにおける正則基数の冪集合の濃度は以下の2つの条件以外の制限を受けないことを証明した。
ここで、 κ {\displaystyle \kappa } および λ {\displaystyle \lambda } は任意の正則基数、 2 κ {\displaystyle 2^{\kappa }} は κ {\displaystyle \kappa } の冪集合の基数、 cf ( κ ) {\displaystyle {\mbox{cf}}(\kappa )} は κ {\displaystyle \kappa } の共終数とする。
彼の証明は、無限にたくさんの強制法を同時に行うものであり、その手法は現在でも盛んに応用されている。
正則基数の冪集合の基数に関してはイーストンの定理によって整合性が証明されたわけであるが、特異基数の冪集合の基数は未だにはっきりとわかっていない。 その原因の1つは、シルバーの定理が示している通り、特異基数の冪集合の濃度がそれより小さい正則基数の濃度に大きく影響されるからである。
この分野で重要な結果としてはマギドーの定理が挙げられる。
正則基数の冪集合の濃度が強制法で非常に自由に動かせることから、特異基数の冪集合の濃度に関しても同様なことが言えるのではないかと予想されていた。
それを覆したのがシェラーのpcf理論である。例えば、次の定理は pcf 理論の成果である:
|
[
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"text": "連続体仮説(れんぞくたいかせつ、Continuum hypothesis, CH)とは、可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しないとする仮説。19世紀にゲオルク・カントールによって提唱された。現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。",
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"text": "1個よりも多い最小の個数は2個である。2個よりも大きい最小の個数は3個である。このように、有限の個数に対しては1を足すことでそれ自身よりも大きい最小の個数を得ることができる。では無限の個数に対してはどうであろうか。自然数や実数は無限個存在する。これらの個数は異なるはずであるが、個数という呼び方をする限りいずれも「無限」である。これに対して、有限集合の場合の要素数の概念を無限集合にまで拡張した「集合の濃度」(二つの集合間に一対一対応が存在するとき二つの集合の濃度は等しいとする)を考えることにより2つの無限は区別される(詳細は濃度を参照)。無限集合の濃度(無限の個数)で最も小さいものは可算濃度(自然数全体の集合の濃度)である。しかし、可算濃度の無限集合に要素を1つ追加した集合もやはり可算濃度であり、有限集合の場合のように新しい濃度にはならない。可算濃度の無限集合同士の合併集合も可算濃度である。しかし、実数全体の集合は可算濃度ではないことが示された。そこで次に、可算濃度よりも大きい最小の濃度は連続体濃度(実数の集合の濃度)であろうと考えられた、これが連続体仮説である。",
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"text": "自然数より真に大きく、実数より真に小さいサイズの集合がない、ということを連続体仮説は述べている。もう少し正確には連続体仮説は「自然数を含むような任意の実数の部分集合は、実数との間に全単射が存在するか、自然数との間に全単射が存在するかのいずれかである」とも言い表せる。",
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"text": "自然数の全体を N と書き、そこにふくまれる自然数の個数(濃度)を可算濃度 א 0 {\\displaystyle \\aleph _{0}} (アレフ・ヌル)と呼ぶ(「可算」とは「数えられる」の意。可付番濃度とも言う)。また、実数の全体を R と書き、そこに含まれる実数の個数を連続体濃度 א {\\displaystyle \\aleph } と書く。さらに集合 M の濃度を card M で表すことにすれば、連続体仮説は",
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"text": "ゲーデルは、連続体仮説は偽であると強く主張したことで知られている。彼の見方では、連続体仮説の独立性の証明は ZFC に欠点があることを示しており、もっとよい公理系を選べば連続体仮説が偽であることが証明できると考えたのである。その立場を強固に推し進めた最後の論文は、学会誌には掲載されずに返還されてしまった。多くの集合論の専門家は、連続体仮説は偽であると考えているか、または真偽に対して中立的な立場を取っている。",
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"text": "ヒュー・ウッディンのように連続体仮説が偽であるとする専門家のうちには、「自然な仮定」を加えて構築される数学モデルでは連続体濃度が א 2 {\\displaystyle \\aleph _{2}} に一致するといった形で定式化を試みる動きもある。",
"title": "連続体仮説の公理性"
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"text": "この仮説は 19 世紀に集合論の創始者、ゲオルク・カントールによって提出された。彼自身この解決に熱心に取り組んだことが知られている。可算濃度より連続体濃度の方が大きいことは、カントールの対角線論法によって証明されている。カントールは当初、連続体仮説も証明することはそれほど難しくないと考えていたが、遂に証明することはできなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1900年、パリで開かれた国際数学者会議においてヒルベルトは彼の有名な 23 の問題の第一番にこの連続体仮説を取り上げた。その後、1940年にゲーデルは任意の ZF のモデルにおいて構成可能集合全体のクラス L が連続体仮説をみたすことを証明し、「ZFC からは連続体仮説の否定は証明できない」ことを示した。さらに1963年、ポール・コーエンは強制法と呼ばれる新しい手法を用いて「ZFC から連続体仮説を証明することは出来ない」ことを示した。これらの結果から ZFC に連続体仮説を加えても、またはその否定を加えても矛盾は発生しないこと、つまり連続体仮説の ZFC からの独立性が示され、連続体仮説は解決を見た(これらの結果は全て ZF の無矛盾性を仮定している)。コーエンはこの業績により、1966 年にフィールズ賞を受賞している。",
"title": "歴史"
},
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"text": "連続体仮説を、可算濃度と連続体濃度だけではなく、ある集合の濃度と、その冪集合の濃度に対して拡張したものを、一般連続体仮説 (GCH) と呼ぶ。即ち、無限集合 X に対し、",
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"text": "を満たすような Ω が存在しないという仮説のことである。冪集合の方が必ず大きくなることも、カントールの対角線論法によって証明できる。一般連続体仮説も、その名の通り、仮説として認識され、ZFC からの独立性が証明されている。",
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},
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"text": "その集合とある冪集合の濃度の間には、他の濃度は存在しないことがいえるから、アレフ数の定義より、",
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"text": "一般連続体仮説が ZF から独立しているのはすでに述べた通りであるが、イーストンはその事実を拡張し、ZFC のモデルにおける正則基数の冪集合の濃度は以下の2つの条件以外の制限を受けないことを証明した。",
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"text": "ここで、 κ {\\displaystyle \\kappa } および λ {\\displaystyle \\lambda } は任意の正則基数、 2 κ {\\displaystyle 2^{\\kappa }} は κ {\\displaystyle \\kappa } の冪集合の基数、 cf ( κ ) {\\displaystyle {\\mbox{cf}}(\\kappa )} は κ {\\displaystyle \\kappa } の共終数とする。",
"title": "イーストンの定理"
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"title": "イーストンの定理"
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"text": "正則基数の冪集合の基数に関してはイーストンの定理によって整合性が証明されたわけであるが、特異基数の冪集合の基数は未だにはっきりとわかっていない。 その原因の1つは、シルバーの定理が示している通り、特異基数の冪集合の濃度がそれより小さい正則基数の濃度に大きく影響されるからである。",
"title": "特異基数問題"
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"text": "この分野で重要な結果としてはマギドーの定理が挙げられる。",
"title": "特異基数問題"
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"text": "正則基数の冪集合の濃度が強制法で非常に自由に動かせることから、特異基数の冪集合の濃度に関しても同様なことが言えるのではないかと予想されていた。",
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"text": "それを覆したのがシェラーのpcf理論である。例えば、次の定理は pcf 理論の成果である:",
"title": "pcf 理論"
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連続体仮説とは、可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しないとする仮説。19世紀にゲオルク・カントールによって提唱された。現在の数学で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。
|
{{No footnotes|date=2023年9月}}
'''連続体仮説'''(れんぞくたいかせつ、Continuum hypothesis, CH)とは、可算濃度と[[連続体 (集合論)|連続体]]濃度の間には他の[[濃度 (数学)|濃度]]が存在しないとする仮説。[[19世紀]]に[[ゲオルク・カントール]]によって提唱された。現在の[[数学]]で用いられる標準的な枠組みのもとでは「連続体仮説は証明も反証もできない命題である」ということが明確に証明されている。
== 発想 ==
1個よりも多い最小の個数は2個である。2個よりも大きい最小の個数は3個である。このように、有限の個数に対しては1を足すことでそれ自身よりも大きい最小の個数を得ることができる。では無限の個数に対してはどうであろうか。[[自然数]]や[[実数]]は無限個存在する。これらの個数は異なるはずであるが、個数という呼び方をする限りいずれも「無限」である。これに対して、有限集合の場合の要素数の概念を無限集合にまで拡張した「集合の濃度」(二つの集合間に一対一対応が存在するとき二つの集合の濃度は等しいとする)を考えることにより2つの無限は区別される(詳細は[[濃度 (数学)|濃度]]を参照)。無限集合の濃度(無限の個数)で最も小さいものは可算濃度(自然数全体の集合の濃度)である。しかし、可算濃度の無限集合に要素を1つ追加した集合もやはり可算濃度であり、有限集合の場合のように新しい濃度にはならない。可算濃度の無限集合同士の合併集合も可算濃度である。しかし、実数全体の集合は可算濃度ではないことが示された。そこで次に、可算濃度よりも大きい最小の濃度は[[連続体濃度]](実数の集合の濃度)であろうと考えられた、これが連続体仮説である。
== 連続体仮説の表現 ==
自然数より真に大きく、実数より真に小さいサイズの集合がない、ということを連続体仮説は述べている。もう少し正確には連続体仮説は「自然数を含むような任意の実数の部分集合は、実数との間に[[全単射]]が存在するか、自然数との間に全単射が存在するかのいずれかである」とも言い表せる。
自然数の全体を '''N''' と書き、そこにふくまれる自然数の個数(濃度)を'''可算濃度''' <math>\aleph_0</math>(アレフ・ヌル)と呼ぶ(「[[可算]]」とは「数えられる」の意。可付番濃度とも言う)。また、実数の全体を '''R''' と書き、そこに含まれる実数の個数を[[連続体濃度]] <math>\aleph</math> と書く。さらに集合 ''M'' の濃度を card ''M'' で表すことにすれば、連続体仮説は
{{Indent|<math>\aleph_0 < \mbox{card}\,\Omega < \aleph</math>}}
なる[[集合]] Ω が存在しないという主張であると言い表される。また '''N''' の[[冪集合]]の濃度
{{Indent|<math>\mathfrak{P}(\aleph_0)</math>}}
については、これが[[連続体濃度]]に等しいということが証明されているから、[[アレフ数]]の概念を用いると連続体仮説は、[[公理|公理系]] ZFC (詳細は[[公理的集合論]]を参照)のもとで
{{Indent|<math>\mathfrak{P}(\aleph_0)=\aleph_1=\aleph</math>}}
が成立すること、と言い表すこともできる。
== 連続体仮説の公理性 ==
現代数学では標準的な枠組みとして [[公理的集合論|ツェルメロ-フレンケルの公理系]] ZF や ZF に[[選択公理]]を加えた公理系である ZFC を基礎に理論構築がなされているが、ZF や ZFC と連続体仮説は独立である。つまり ZF や ZFC に連続体仮説を付け加えた公理系も、連続体仮説の否定を付け加えた公理系も、無矛盾である。連続体仮説は ZF や ZFC においては[[真]]としても[[偽]]としてもよいともいえる。
[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]は、連続体仮説は偽であると強く主張したことで知られている。彼の見方では、連続体仮説の独立性の証明は ZFC に欠点があることを示しており、もっとよい公理系を選べば連続体仮説が偽であることが証明できると考えたのである。その立場を強固に推し進めた最後の論文は、学会誌には掲載されずに返還されてしまった。多くの集合論の専門家は、連続体仮説は偽であると考えているか、または真偽に対して中立的な立場を取っている。
[[ヒュー・ウッディン]]のように連続体仮説が偽であるとする専門家のうちには、「自然な仮定」を加えて構築される数学モデルでは[[連続体濃度]]が <math>\aleph_2</math> に一致するといった形で定式化を試みる動きもある。
== 歴史 ==
この仮説は 19 世紀に集合論の創始者、[[ゲオルク・カントール]]によって提出された。彼自身この解決に熱心に取り組んだことが知られている。可算濃度より[[連続体濃度]]の方が大きいことは、[[カントールの対角線論法]]によって証明されている。カントールは当初、連続体仮説も証明することはそれほど難しくないと考えていたが、遂に証明することはできなかった。
[[1900年]]、パリで開かれた国際数学者会議において[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]は彼の有名な[[ヒルベルトの23の問題| 23 の問題]]の第一番にこの連続体仮説を取り上げた。その後、[[1940年]]に[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]は任意の ZF のモデルにおいて[[構成可能集合]]全体のクラス ''L'' が連続体仮説をみたすことを証明し、「ZFC からは連続体仮説の否定は証明できない」ことを示した。さらに[[1963年]]、[[ポール・コーエン (数学者)|ポール・コーエン]]は[[強制法]]と呼ばれる新しい手法を用いて「ZFC から連続体仮説を証明することは出来ない」ことを示した。これらの結果から ZFC に連続体仮説を加えても、またはその否定を加えても矛盾は発生しないこと、つまり連続体仮説の ZFC からの独立性が示され、連続体仮説は解決を見た(これらの結果は全て ZF の無矛盾性を仮定している)。コーエンはこの業績により、1966 年に[[フィールズ賞]]を受賞している。
== 一般連続体仮説 ==
連続体仮説を、可算濃度と[[連続体濃度]]だけではなく、ある集合の濃度と、その[[冪集合]]の濃度に対して拡張したものを、'''一般連続体仮説''' (GCH) と呼ぶ。即ち、無限集合 ''X'' に対し、
{{Indent|<math>\mbox{card}\,X < \mbox{card}\,\Omega < \mbox{card}\,\mathfrak{P}(X)</math>}}
を満たすような Ω が存在しないという仮説のことである。冪集合の方が必ず大きくなることも、カントールの対角線論法によって証明できる。一般連続体仮説も、その名の通り、仮説として認識され、ZFC からの独立性が証明されている。
一般連続体仮説を肯定したとして、Ωに対し、連続体の中で最大元を持つ半順序集合をとる。
その集合とある冪集合の濃度の間には、他の濃度は存在しないことがいえるから、アレフ数の定義より、
{{Indent|<math>\mbox{card}\,X = \aleph_{\alpha} \ \Longrightarrow \ \mbox{card}\,\mathfrak{P}(X) = \aleph_{\alpha+1}</math>}}
が言える。ここで、<math>\mbox{card}\,\mathfrak{P}(X) = 2^{{\rm card}\,X}</math> であるから、
{{Indent|<math>\aleph_{\alpha+1} = 2^{\aleph_{\alpha}}</math>}}
が成り立つ。
== イーストンの定理 ==
選択公理を仮定している場合、濃度は'''基数'''、すなわちその濃度を持つ最小の[[順序数]]で記述されることが多い。これ以降、この慣習を採用することにする。
一般連続体仮説が ZF から独立しているのはすでに述べた通りであるが、イーストンはその事実を拡張し、ZFC のモデルにおける[[共終数#正則基数|正則基数]]の冪集合の濃度は以下の2つの条件以外の制限を受けないことを証明した。
* <math>\kappa\leq\lambda</math> ならば <math>2^\kappa\leq 2^\lambda</math>
* (König の補題) <math>\mbox{cf}(2^\kappa)>\kappa</math>
ここで、<math>\kappa</math> および <math>\lambda</math> は任意の正則基数、<math>2^\kappa</math> は <math>\kappa</math> の冪集合の基数、<math>\mbox{cf}(\kappa)</math> は <math>\kappa</math> の[[共終数]]とする。
彼の証明は、無限にたくさんの強制法を同時に行うものであり、その手法は現在でも盛んに応用されている。
== 特異基数問題 ==
正則基数の冪集合の基数に関してはイーストンの定理によって整合性が証明されたわけであるが、[[共終数#特異基数|特異基数]]の冪集合の基数は未だにはっきりとわかっていない。
その原因の1つは、シルバーの定理が示している通り、特異基数の冪集合の濃度がそれより小さい正則基数の濃度に大きく影響されるからである。
この分野で重要な結果としてはマギドーの定理が挙げられる。
== pcf 理論 ==
正則基数の冪集合の濃度が強制法で非常に自由に動かせることから、特異基数の冪集合の濃度に関しても同様なことが言えるのではないかと予想されていた。
それを覆したのが[[サハロン・シェラハ|シェラー]]の[[pcf理論]]である。例えば、次の定理は pcf 理論の成果である:
* 全ての自然数 ''n'' に対して、<math>2^{\aleph_n}<\aleph_\omega</math> が成り立っているとき、<math>2^{\aleph_\omega}\leq\aleph_{\omega_4}</math> 。
== 参考文献 ==
*{{Cite book|last=Gödel|first=Kurt|authorlink=クルト・ゲーデル|date=1940-9-1|title=The Consistency of the Continuum Hypothesis|series=Annals of Mathematics Sutdies|volume=3|publisher=Princeton University Press|isbn=0-691-07927-7 |url=http://press.princeton.edu/titles/1034.html}}
**{{Cite book|和書|author=クルト・ゲーデル|authorlink=クルト・ゲーデル|others=[[近藤洋逸]]訳|year=1946|month=4|title=数学基礎論 撰出公理及び一般連続仮説の集合論公理との無矛盾性|publisher=伊藤書店}}
*{{Cite book|和書|author=P・J・コーヘン|authorlink=ポール・コーエン (数学者)|others=[[近藤基吉]]・[[坂井秀寿]]・[[沢口昭聿]]訳|year=1990|month=10|title=連続体仮説|publisher=[[東京図書]]|isbn=4-489-00339-0|ref=コーヘン1990}}
== 関連項目 ==
* [[ヒルベルトの23の問題]]
* [[数学上の未解決問題]] - 近年“解かれた”問題として。
* [[ルーディ・ラッカー]] - 数学者、SF作家。連続体仮説をテーマとして『ホワイト・ライト』というSF小説を書いた。
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|連続体問題}}
*{{Kotobank|連続体仮説}}
*{{MathWorld|title=Continuum Hypothesis|urlname=ContinuumHypothesis|author=Matthew Szudzik}}
*{{SEP|continuum-hypothesis|The Continuum Hypothesis}}
{{集合論}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れんそくたいかせつ}}
[[Category:集合論]]
[[Category:無限]]
[[Category:ヒルベルトの23の問題]]
[[Category:ゲオルク・カントール]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-08-28T13:07:39Z
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2023-09-17T05:57:42Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E7%B6%9A%E4%BD%93%E4%BB%AE%E8%AA%AC
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14,284 |
東武宇都宮駅
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東武宇都宮駅(とうぶうつのみやえき)は、栃木県宇都宮市宮園町にある東武鉄道宇都宮線の駅である。同線の終点。駅番号はTN 40。
都市計画に基づく市街化が郊外へ進展する過程にあった1931年、市内西原(現・明保野町)へ移転した宇都宮刑務所(黒羽刑務所の前身)の跡地の払い下げを受けて開業した。
頭端式ホーム1面2線を有する高架駅。側線が1線あり、この線路が欠番となっている旧1番線であり、深夜の車両留置に使われる。自動改札機設置。
改札口西側に東武トップツアーズ宇都宮支店があった。出入口はオリオン通りに面した東口、バスターミナルに直結する西口と東武宇都宮百貨店3階フロアに直結する駅連絡口の3ヶ所ある。西口にはエレベーターが設置されている。東口通路部にはコインロッカーが設置されている。
発車メロディーとして「カリフォルニア・シャワー」が使用されている他、運転士に出発信号機が開通したことを知らせるメロディとして「草競馬」が流れる。後者は列車発車後も信号の現示が赤に変わるまで流れる。「カリフォルニア・シャワー」に変更される以前は「Passenger」が使用されていた。
2021年度の一日平均乗降人員は7,770人である。
中心街に立地する当駅であるが、近距離輸送が主体のため、近・中・長距離全ての機能をもつJR宇都宮駅に利用客数で大きく水を空けられている。
近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表のとおりである。栃木県統計年鑑を出典にしている数値については、年間日数の365(年によっては366)で除した。
当駅は宇都宮の中心市街地・繁華街に位置し、栃木県庁、宇都宮市役所、宇都宮中央郵便局などは、市中心部を避けて設置されたJR宇都宮駅よりも当駅の方が近い。当駅と東武宇都宮百貨店が直結しており、ターミナルデパートになっている。県下最大の繁華街で全天候型アーケード商店街の「オリオン通り」が、バンバ通りから東武宇都宮百貨店(当駅東口)まで続いている。
駅東口は旧宇都宮城の大手門から宇都宮二荒山神社および八幡山南麓(旧粉河寺跡)の間に形成された宇都宮の中心市街地の西縁に位置し、県下最大の繁華街となっている。周辺には雑居ビルや飲食店が密集するほか、銀行支店、ホテル、映画館なども立地する。
当駅や当駅界隈を地元では「東武」と呼ぶことが多いが、この言葉には同じ場所にある「東武宇都宮百貨店」の意味合いが強く含まれるものである。都市の規模に比べれば小振りの駅ではあるが、地元では東武宇都宮百貨店と一体でランドマーク的に認識されており、付近にある店の支店名は「東武店」、バス停名は「東武駅前」「東武西口」、交差点名は「東武西口」などとされている。
なお、宇都宮駅東口停留場から発着する宇都宮ライトレールの将来的な西側延伸時には、当駅付近(大通り上)に停留場の設置が予定されている。
宇都宮中心市街地の西部に立地する当駅と、市街地の東部・田川の対岸に建設された東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮駅とは東に約1.5 km離れており、徒歩の場合、オリオン通りや大通りなどを通って約20分を要する。
一方、当駅西口もしくは東口から路線バスを利用した場合、JR宇都宮駅までの所要時間は5 - 10分である。JR宇都宮駅へは駅(西口)バスターミナルを発着する路線バスが利用可能だが、東口を出て徒歩約3分にある大通り上の「東武駅前」バス停を発着する路線バスの方が便数が多い(約1 - 5分間隔運転、日中でも毎時30便程度ある)。
当駅のバス停留所は構内外に4停留所ある。
構内バスターミナル。鉄道・デパート・バスの三者を合わせた東武グループの施設であり、現在も関東自動車 (栃木県)の旧東野交通系路線がメインのターミナルである。
東京街道上のバス停留所
東武馬車道通りの当駅に近接するバス停留所。
かつて、付近には国鉄自動車局の宇都宮一条町駅があり、宇都宮市東部、芳賀郡、茨城県東茨城郡や西茨城郡、さらに水戸方面への長距離路線バスが発着していた。駅廃止後は市内循環バスが通るのみとなっている。
大通り上。東口から北へ200メートルの大通りにある関東バスとJRバス関東のバス停留所。大通りを通る高速バスを除く全路線が停車する。宇都宮市内の路線バスが集中するメインルート上に位置し、周辺各地に向かうほぼすべてのバスに乗車可能である。
|
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"text": "東武宇都宮駅(とうぶうつのみやえき)は、栃木県宇都宮市宮園町にある東武鉄道宇都宮線の駅である。同線の終点。駅番号はTN 40。",
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"text": "都市計画に基づく市街化が郊外へ進展する過程にあった1931年、市内西原(現・明保野町)へ移転した宇都宮刑務所(黒羽刑務所の前身)の跡地の払い下げを受けて開業した。",
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"text": "頭端式ホーム1面2線を有する高架駅。側線が1線あり、この線路が欠番となっている旧1番線であり、深夜の車両留置に使われる。自動改札機設置。",
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"text": "改札口西側に東武トップツアーズ宇都宮支店があった。出入口はオリオン通りに面した東口、バスターミナルに直結する西口と東武宇都宮百貨店3階フロアに直結する駅連絡口の3ヶ所ある。西口にはエレベーターが設置されている。東口通路部にはコインロッカーが設置されている。",
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"text": "発車メロディーとして「カリフォルニア・シャワー」が使用されている他、運転士に出発信号機が開通したことを知らせるメロディとして「草競馬」が流れる。後者は列車発車後も信号の現示が赤に変わるまで流れる。「カリフォルニア・シャワー」に変更される以前は「Passenger」が使用されていた。",
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"text": "近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表のとおりである。栃木県統計年鑑を出典にしている数値については、年間日数の365(年によっては366)で除した。",
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"text": "当駅や当駅界隈を地元では「東武」と呼ぶことが多いが、この言葉には同じ場所にある「東武宇都宮百貨店」の意味合いが強く含まれるものである。都市の規模に比べれば小振りの駅ではあるが、地元では東武宇都宮百貨店と一体でランドマーク的に認識されており、付近にある店の支店名は「東武店」、バス停名は「東武駅前」「東武西口」、交差点名は「東武西口」などとされている。",
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"text": "宇都宮中心市街地の西部に立地する当駅と、市街地の東部・田川の対岸に建設された東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮駅とは東に約1.5 km離れており、徒歩の場合、オリオン通りや大通りなどを通って約20分を要する。",
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"text": "東京街道上のバス停留所",
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東武宇都宮駅(とうぶうつのみやえき)は、栃木県宇都宮市宮園町にある東武鉄道宇都宮線の駅である。同線の終点。駅番号はTN 40。
|
{{駅情報
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|文字色 =
|駅名 = 東武宇都宮駅
|画像 = Tobu Utsunomiya Department Store & Station.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎・東武宇都宮百貨店・宇都宮東武バス停(2020年4月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = とうぶうつのみや
|ローマ字 = Tobu-utsunomiya
|電報略号 = ウツ
|所属事業者= [[東武鉄道]]
|所在地 = [[栃木県]][[宇都宮市]]宮園町5-4
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|開業年月日= [[1931年]]([[昭和]]6年)[[8月11日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
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|乗降人員 = 8,261
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|駅番号 = {{駅番号r|TN|40|orange|1}}
|キロ程 = 24.3
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|乗換 =
|備考 =
}}
'''東武宇都宮駅'''(とうぶうつのみやえき)は、[[栃木県]][[宇都宮市]]宮園町にある[[東武鉄道]][[東武宇都宮線|宇都宮線]]の[[鉄道駅|駅]]である。同線の終点。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TN 40'''。
== 歴史 ==
都市計画に基づく市街化が郊外へ進展する過程にあった1931年、市内西原(現・明保野町)へ移転した宇都宮刑務所([[黒羽刑務所]]の前身)の跡地の払い下げを受けて開業した。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)
** [[8月11日]] - 開業<ref name = hyakunen1931>東武鉄道百年史[資料編] P.348 東武鉄道株式会社 1998年刊</ref>。
** [[8月18日]] - 駅広場で宇都宮線開通式を挙行<ref name = hyakunen1931/>。
* [[1945年]](昭和20年)[[7月12日]] - [[宇都宮空襲]]により駅舎全焼<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.358</ref>。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[11月10日]] - 駅ビル「宇都宮東武ビル」完成<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.373</ref>。
** [[11月28日]] - 東武宇都宮駅大改良工事完成、東武宇都宮百貨店開店<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.372・373</ref>。東武宇都宮 - 南宇都宮間の営業キロが0.1km短縮<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.117・213</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)[[12月31日]] - 貨物取扱廃止<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.374</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)[[3月1日]] - 宇都宮東武ビル新館完成<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.397</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月20日]] - 東武宇都宮百貨店リフレッシュと同時に、駅構内を南へ10m移動し駅構内を拡大<ref name="30年の記録">「東武宇都宮百貨店30年の記録」(1991.6.30東武宇都宮百貨店発行)</ref>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[8月21日]] - 東武鉄道の駅として初めて[[発車メロディ]]を導入<ref>東武鉄道百年史[資料編] P.432</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[9月28日]] - 宇都宮東武ビル西館完成<ref name = hyakunen1995>東武鉄道百年史[資料編] P.445</ref>。
** [[10月1日]] - 東武宇都宮百貨店新装グランドオープン<ref name = hyakunen1995/>。
* [[2006年]](平成18年)3月1日 - 西口と改札階を連絡するエレベーターが供用開始。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]] - [[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる。
** [[10月15日]] - [[ワンマン運転]]に備えてホームセンサーを設置。
** [[10月31日]] - ワンマン運転に伴い運転士発車案内メロディを導入。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]] - 東武鉄道の駅ナンバリング導入に伴い、'''TN 40'''を当駅に付番。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[6月15日]] - 発車メロディを1年間の期間限定で「カリフォルニア・シャワー」に変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/316b23fc44658a92a4ce455e40081c96/190522.pdf?date=20190522125621|title=6月15日(土)に「東武宇都宮線フリー乗車DAY」を実施します!|format=PDF|date=2019-05-22|accessdate=2022-04-06|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525192344/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/316b23fc44658a92a4ce455e40081c96/190522.pdf?date=20190522125621|archivedate=2019-05-25}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)[[6月15日]] - 期間限定で発車メロディに使用されている「カリフォルニア・シャワー」が継続使用となる。
== 駅構造 ==
[[頭端式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]<!--百貨店の3階部分に立地しているのに「地上駅」はあり得ない-->。[[停車場#側線|側線]]が1線あり、この線路が欠番となっている旧1番線であり、深夜の車両留置に使われる。[[自動改札機]]設置。
改札口西側に[[東武トップツアーズ]]宇都宮支店があった。出入口はオリオン通りに面した東口、[[バスターミナル]]に直結する西口と[[東武宇都宮百貨店]]3階フロアに直結する駅連絡口の3ヶ所ある。西口にはエレベーターが設置されている。東口通路部には[[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]が設置されている。
<gallery>
ファイル:TOBU-Utsunomiya Station exit2009-1-27.JPG|駅入口(2009年1月)
ファイル:Tobu Utsunomiya ticket gate Dec., 2021.jpg|改札口(2021年12月)
ファイル:Tobu-Utsunomiya Station platforms Nov 03 2020 01-16PM.jpeg|ホーム(2020年11月)
ファイル:Running in board of Tobu-utsunomiya sta. ("Strawberry Kingdom").jpg|駅名標(2023年6月)
</gallery>
=== のりば ===
<!-- 2012年9月時点の東武の支線区の案内傾向(館林駅の「葛生方面」など)に則して、終点駅のみ記載。宇都宮線の駅ではこの駅も含めて「新栃木」ではなく「栃木」を表記することが多いのでそれに従う --->
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!行先
|-
!2・3
| [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 宇都宮線
|[[栃木駅|栃木]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面
|}
===付記===
発車メロディーとして「カリフォルニア・シャワー」が使用されている他、運転士に出発信号機が開通したことを知らせるメロディとして「[[草競馬 (歌)|草競馬]]」が流れる。後者は列車発車後も信号の現示が赤に変わるまで流れる。「カリフォルニア・シャワー」に変更される以前は「Passenger」が使用されていた。
== 利用状況 ==
2022年度の一日平均[[乗降人員]]は'''8,261人'''である<ref>[http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。
中心街に立地する当駅であるが、近距離輸送が主体のため、近・中・長距離全ての機能をもつJR[[宇都宮駅]]に利用客数で大きく水を空けられている。
近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表のとおりである。栃木県統計年鑑を出典にしている数値については、年間日数の365(年によっては366)で除した。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均利用客数<ref>[http://www.pref.tochigi.lg.jp/c04/pref/toukei/toukei/tochigikentoukeinenkan.html 栃木県統計年鑑(乗車人員)] 2021年3月23日閲覧</ref><ref>[http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員) | 企業情報 | 東武鉄道ポータルサイト] 2021年8月28日閲覧</ref>
!年度
!1日平均<br>乗車人員
!1日平均<br>乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|15,715
|-
|1998年(平成10年)
|
|14,995
|-
|1999年(平成11年)
|
|14,006
|-
|2000年(平成12年)
|
|13,449
|-
|2001年(平成13年)
|
|12,852
|-
|2002年(平成14年)
|
|12,300
|-
|2003年(平成15年)
|
|11,785
|-
|2004年(平成16年)
|
|11,671
|-
|2005年(平成17年)
|
|11,522
|-
|2006年(平成18年)
|5,682
|11,287
|-
|2007年(平成19年)
|5,577
|11,078
|-
|2008年(平成20年)
|5,447
|10,919
|-
|2009年(平成21年)
|5,222
|10,408
|-
|2010年(平成22年)
|5,011
|9,982
|-
|2011年(平成23年)
|4,855
|9,861
|-
|2012年(平成24年)
|5,016
|10,106
|-
|2013年(平成25年)
|5,119
|10,285
|-
|2014年(平成26年)
|5,061
|10,194
|-
|2015年(平成27年)
|4,957
|9,995
|-
|2016年(平成28年)
|4,997
|9,961
|-
|2017年(平成29年)
|4,950
|9,894
|-
|2018年(平成30年)
|4,935
|9,863
|-
|2019年(令和元年)
|
|9,604
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
|7,325
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|
|7,770
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|
|8,261
|}
== 駅周辺 ==
=== 概説 ===
当駅は宇都宮の中心市街地・[[繁華街]]に位置し、[[栃木県庁]]、[[宇都宮市役所]]、[[宇都宮中央郵便局]]などは、市中心部を避けて設置されたJR[[宇都宮駅]]よりも当駅の方が近い。当駅と[[東武宇都宮百貨店]]が直結しており、ターミナルデパートになっている。県下最大の繁華街で全天候型[[アーケード (建築物)|アーケード]]商店街の「[[オリオン通り]]」が、[[バンバ通り]]から東武宇都宮百貨店(当駅東口)まで続いている<ref name="utsunomiya-map">県別マップル9 栃木県 道路地図(昭文社刊、2011年発行)</ref>。
駅東口は旧[[宇都宮城]]の[[大手門]]から[[宇都宮二荒山神社]]および[[八幡山 (宇都宮市)|八幡山]]南麓([[粉河寺 (宇都宮市)|旧粉河寺跡]])の間に形成された宇都宮の中心市街地の西縁に位置し、県下最大の繁華街となっている。周辺には[[雑居ビル]]や[[飲食店]]が密集するほか、[[銀行]]支店、[[ホテル]]、[[映画館]]なども立地する<ref name = utsunomiya-map/>。
当駅や当駅界隈を地元では「東武」と呼ぶことが多いが、この言葉には同じ場所にある「東武宇都宮百貨店」の意味合いが強く含まれるものである。都市の規模に比べれば小振りの駅ではあるが、地元では東武宇都宮百貨店と一体で[[ランドマーク]]的に認識されており、付近にある店の支店名は「東武店」、バス停名は「東武駅前」「東武西口」、交差点名は「東武西口」などとされている<ref name = utsunomiya-map/><ref>Yahoo!Japan地図 日本 > 栃木県 > 宇都宮市 > 宮園町 元気寿司東武店、ミキハウスマム&ベイビー宇都宮東武店(2014年5月版)</ref><ref>クイーン洋菓子店 東武店Webページ</ref>。
なお、[[宇都宮駅|宇都宮駅東口停留場]]から発着する[[宇都宮ライトレール]]の将来的な西側延伸時には、当駅付近([[大通り (宇都宮市)|大通り]]上)に停留場の設置が予定されている。
{{Main|宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線#宇都宮駅西側の延伸区間}}
=== 商業施設 ===
* [[東武宇都宮百貨店]]宇都宮店
*[[ドン・キホーテ (企業) |MEGAドン・キホーテ]]ラパーク宇都宮店
*[[うつのみや表参道スクエア]]
=== 金融機関 ===
* [[商工組合中央金庫|商工組合中央金庫宇都宮支店]]
* [[栃木銀行]] 本店営業部
* [[常陽銀行]] 宇都宮支店
* [[JAうつのみや]]中央支所
* 信金中央金庫栃木県分室
=== 公的施設 ===
* 栃木県庁
** 栃木県庁内郵便局
*[[栃木県警察|栃木県警察本部]]
*[[栃木県立図書館]]
*[[栃木県総合文化センター]]
*[[栃木会館]]
* [[宇都宮市役所]]
*[[宇都宮城址公園]]
*[[うつのみや妖精ミュージアム]]
* 宇都宮市中央生涯学習センター
* 宇都宮市総合福祉センター
*[[東京出入国在留管理局]]宇都宮出張所
* 宇都宮地方法務合同庁舎
**宇都宮地方法務局
**[[宇都宮地方検察庁]]
*[[宇都宮地方裁判所]]
*[[宇都宮家庭裁判所]]
*[[NHK宇都宮放送局]]
=== 学校 ===
* [[宇都宮共和大学]]
* [[宇都宮ビジネス電子専門学校]]
* [[宇都宮アート&スポーツ専門学校]]
* [[栃木県立宇都宮女子高等学校]]
* [[栃木県立宇都宮中央女子高等学校]]
* [[宇都宮短期大学附属中学校・高等学校]]
* [[クラーク記念国際高等学校|宇都宮クラーク高等学院]]
* [[宇都宮メディア・アーツ専門学校]]
=== 郵便局 ===
* [[宇都宮中央郵便局]]
**[[ゆうちょ銀行]]宇都宮店
**[[かんぽ生命保険|かんぽ生命]]宇都宮支店
* 東武宇都宮駅前郵便局
* 宇都宮千手町郵便局
* 宇都宮[[塙田]]郵便局
* 宇都宮小幡郵便局
* 宇都宮西一郵便局
* 宇都宮一条郵便局
=== その他 ===
* ライザップ([[RIZAPグループ|RIZAP]])宇都宮店
* [[カーブス]] 東武宇都宮
=== JR宇都宮駅との位置関係 ===
{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|zoom=13|frame-width=200|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|36|33|32.64|N|139|52|49.44|E}}|title=東武宇都宮駅|coord2={{coord|36|33|32.02|N|139|53|54.05|E}}|title2=宇都宮駅|marker-color=0f6cc3|marker-color2=008000|frame-latitude=36.55936|frame-longitude=139.889005|text=当駅(左)とJR宇都宮駅(右)との位置関係}}
宇都宮中心市街地の西部に立地する当駅と、市街地の東部・[[田川 (利根川水系)|田川]]の対岸に建設された[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)宇都宮駅とは東に約1.5 [[キロメートル|km]]離れており、徒歩の場合、オリオン通りや[[大通り (宇都宮市)|大通り]]などを通って約20分を要する。
一方、当駅[[#西口|西口]]もしくは[[#東口|東口]]から[[路線バス]]を利用した場合、JR宇都宮駅までの所要時間は5 - 10分である。JR宇都宮駅へは駅(西口)[[バスターミナル]]を発着する路線バスが利用可能だが、東口を出て徒歩約3分にある大通り上の「東武駅前」バス停を発着する路線バスの方が便数が多い(約1 - 5分間隔運転、日中でも毎時30便程度ある)。
== バス路線 ==
当駅のバス停留所は構内外に4停留所ある。
#宇都宮東武バス停(西口)
#*旧東野交通。構内ターミナル。真岡・益子・氏家方面。
#東武西口バス停(西口)
#*関東自動車。東京街道。石橋・江曽島方面と高速バス。
#オリオン通り入口バス停(東口)
#*市内循環きぶな号。
#東武駅前バス停(東口)
#*徒歩3分。大通り。JR駅方面頻発。各方面発着。
=== 宇都宮東武バス停 ===
構内バスターミナル。鉄道・デパート・バスの三者を合わせた東武グループの施設であり、現在も[[関東自動車 (栃木県)]]の旧東野交通系路線がメインのターミナルである。
* 1番のりば '''JR[[宇都宮駅]]・[[宇都宮大学]]・[[真岡市|真岡]]・[[益子町|益子]]方面'''
** [[宇都宮二荒山神社|二荒山神社]]前 - [[宇都宮駅のバス乗り場|JR宇都宮駅]] - [[宇都宮大学|宇大]]前 - 石法寺 - '''[[東野交通真岡営業所|真岡営業所]]'''
** 二荒山神社前 - 宇都宮駅 - 宇大前 - 橋場 - [[真岡駅]] - '''真岡営業所'''
** 二荒山神社前 - 宇都宮駅 - 宇大前 - [[ベルモール]]前 - '''[[益子駅]]'''
** 二荒山神社前 - 宇都宮駅 - 宇大前 - '''益子駅'''
** 二荒山神社前 - 宇都宮駅 - 宇大前 - '''[[星の杜中学校・高等学校]]'''
* 3番のりば '''平出工業団地・柳田車庫方面'''
** [ 12 ] 二荒山神社前 - 宇都宮駅 - 越戸 - '''[[平出工業団地]](宇都宮営業所)'''
** [ 12 ] 二荒山神社前 - 宇都宮駅 - 越戸 - '''柳田車庫'''
* 4番のりば '''西原車庫方面'''
** '''西原車庫'''
=== 東武西口バス停 ===
[[国道119号|東京街道]]上のバス停留所
* '''JR[[宇都宮駅]]方面'''
** 関東バス([[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]])
*** [ 01 ] 馬場町 - '''JR宇都宮駅'''
* '''[[国道4号|東京街道]]・陽南方面'''
** 関東バス
*** [ 25 ] 一条 - SUBARU前 - 雀宮駅入口 - '''[[宇都宮駐屯地|雀宮陸上自衛隊]]''' - '''[[石橋駅 (栃木県)|石橋駅]]'''
*** [ 31 ] 一条 - SUBARU前 - 県立がんセンター前 - [[江曽島駅]] - '''江曽島'''(西川田東)
* '''高速バス'''
** 関東バス・[[東京空港交通]]
*** 高速バス:'''[[東京国際空港|羽田空港]]'''([[マロニエ号]])
=== オリオン通り入口バス停 ===
東武馬車道通りの当駅に近接するバス停留所。
かつて、付近には国鉄自動車局の'''宇都宮一条町駅'''があり、宇都宮市東部、[[芳賀郡]]、[[茨城県]][[東茨城郡]]や[[西茨城郡]]、さらに[[水戸市|水戸]]方面への長距離路線バスが発着していた。駅廃止後は市内循環バスが通るのみとなっている。
* '''JR宇都宮駅方面 '''
** 関東バス 市内循環「'''[[きぶな号]]'''」
*** [ 34 ] [[宇都宮市役所]] - 日野町通り - '''JR宇都宮駅
=== 東武駅前バス停 ===
大通り上。東口から北へ200メートルの大通りにある関東バスとJRバス関東のバス停留所。大通りを通る高速バスを除く全路線が停車する。宇都宮市内の路線バスが集中するメインルート上に位置し、周辺各地に向かうほぼすべてのバスに乗車可能である。
* '''JR宇都宮駅・駅東方面'''
** 関東バス
*** [ 01・50・53 ] 馬場町 - JR宇都宮駅
*** [ 12 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - [[栃木県立宇都宮白楊高等学校|白楊高校]] - 越戸 - '''柳田車庫'''・'''[[平出工業団地]]'''
* '''JR宇都宮駅・宇大・芳賀・茂木方面'''
** JRバス関東
*** [ 11 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 宇大前 - 鐺山十字路 - 道場宿 - '''[[芳賀町工業団地管理センター前停留場|芳賀町工業団地管理センター前]]''' - 芳賀温泉ロマンの湯 - 祖母井 - [[芳賀町]]役場東 - 祖陽が丘団地 - [[市塙駅]]入口 - 天矢場 - [[道の駅もてぎ]]北 - '''[[茂木駅]]'''
* '''JR宇都宮駅・[[栃木県道63号藤原宇都宮線|田原街道]]・大曽・豊郷方面'''
** 関東バス
*** [ 16 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 竹林十文字 - 上大曽 - '''富士見ヶ丘団地'''
*** [ 16 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - [[栃木県立宇都宮商業高等学校|宇商高]] - 上大曽 - '''富士見ヶ丘団地'''
*** [ 18 ] 馬場町 - 宇商高 - '''[[栃木県済生会宇都宮病院|済生会病院]](JR宇都宮駅は経由しない)'''
*** [ 61 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 宇商高 - 上大曽 - 宝井(一部岩本経由) - '''宇都宮グリーンタウン'''
*** [ 62 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 宇商高 - 上大曽 - 岩本 - 田原 - '''今里''' - 大宮 - '''玉生車庫'''
* '''JR宇都宮駅 ・[[栃木県道125号氏家宇都宮線|白沢街道]]・堀切方面'''
** 関東バス
*** [ 70 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 竹林十文字 - 堀切 - '''釜井台団地'''
*** [ 71 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 竹林十文字 - 堀切 - '''白沢河原'''
*** [ 73 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 竹林十文字 - 堀切 - 御幸が原 - '''奈坪台'''
* '''JR宇都宮駅・簗瀬・屋板・[[上三川町|上三川]]方面'''
** 関東バス
*** [ 80 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 簗瀬金堀 - [[ミツトヨ]]前 - [[栃木県立宇都宮東高等学校|東高校]]前 - '''瑞穂野団地'''
*** [ 84 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 簗瀬金堀 - ミツトヨ前 - 東高校前 - 瑞穂野団地 - '''本郷台・西汗'''
*** [ 81 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 簗瀬金堀 - ミツトヨ前 - 東高校前 - '''[[東汗]]'''
*** [ 85 ] 馬場町 - JR宇都宮駅 - 簗瀬金堀 - 屋板 - [[栃木県立宇都宮南高等学校|南高校]]前 - ([[インターパーク宇都宮南]]) - '''上三川車庫'''
* '''[[栃木県道2号宇都宮栃木線|栃木街道]]・鶴田方面'''
** 関東バス
*** [ 34 ] 陽西通り - [[宇都宮市文化会館|文化会館]]前 - [[南宇都宮駅]] - [[栃木県立宇都宮高等学校|宇高前]] - '''[[鶴田駅]]'''
*** [ 36 ] [[六道辻|六道]] - 文化会館前 - 宇高前 - '''鶴田駅''' - [[江曽島駅]]入口 - '''西川田東'''
*** [ 37 ] 桜通十文字 - 文化会館西口 - 宇高前 - '''鶴田駅''' - 江曽島駅入口 - '''[[西川田駅]]'''
* '''[[国道119号|日光街道]]・戸祭方面'''
** 関東バス
*** [ 50 ] 清住町 - 松原町 - [[国立病院機構栃木医療センター|栃木医療センター]]前 - 戸祭 - 宝木 - '''細谷車庫'''
*** [ 51 ] 桜通十文字 - 戸祭一丁目 - 栃木医療センター正門前 - 戸祭 - 仁良塚 - '''[[道の駅うつのみや ろまんちっく村|ろまんちっく村]]'''
*** [ 52 ] 桜通十文字 - 戸祭一丁目 - 栃木医療センター前 - '''山王団地''' - 徳次郎 - '''石那田''' - '''篠井ニュータウン'''
*** [ 53 ] 桜通十文字 - [[和尚塚 (宇都宮市)|和尚塚]] - 戸祭四丁目 - 宝木 - '''細谷車庫'''
*** [ 56 ] 桜通十文字 - 戸祭一丁目 - 栃木医療センター前 - 徳次郎 - 石那田 - (一部篠井ニュータウン経由) - 大沢 - '''今市車庫''' - '''[[日光駅|JR日光駅]]''' - '''[[日光東照宮]]'''
*** [ 58 ] 桜通十文字 - 戸祭一丁目 - 栃木医療センター前 - 徳次郎 - 石那田 - 塩野室 - '''船生'''
* '''[[作新学院高等学校|作新学院]]・宝木方面'''
** 関東バス
*** [ 55 ] 桜通十文字 - 作新学院前 - 宝木 - '''細谷車庫''' - '''宝木団地'''
* '''作新学院・[[栃木県道70号宇都宮今市線|大谷街道]]方面'''
** 関東バス
*** [ 10 ] 桜通十文字 - 作新学院前 - 中丸 - '''[[関東自動車駒生営業所|駒生営業所]]'''
*** [ 45 ] 桜通十文字 - 作新学院前 - 荒針 - [[大谷磨崖仏|大谷観音]] - '''立岩'''
*** [ 47 ] 桜通十文字 - 作新学院前 - 荒針 - ニューサンピア栃木 - [[鹿沼駅|JR鹿沼駅]]前 - '''[[関東自動車鹿沼営業所|鹿沼営業所]]'''
** JRバス関東
*** [ 11 ] 桜通十文字 - '''作新学院前'''
* '''[[鹿沼市|鹿沼]]方面'''
** 関東バス
*** [ 41 ] 六道 - 上欠下 - 上石川 - '''[[栃木県運転免許センター|運転免許センター]]'''(一部非経由) - '''楡木車庫'''
*** [ 43 ] 桜通十文字 - 三の沢 -(一部 [[宇都宮短期大学|共和大学・宇都宮短期大学]]経由) - 長坂坂上 - 千渡 - JR鹿沼駅前 - 鳥居跡町([[新鹿沼駅]]) - '''鹿沼営業所'''
== 登場する作品 ==
* [[惡の華]] - 押見修造の漫画作品。第8巻(2013年)の付録に登場する。
== 隣の駅 ==
<!-- 有料列車の停車駅は記載しない --->
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 宇都宮線
:: [[南宇都宮駅]](TN 39) - '''東武宇都宮駅(TN 40)'''
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
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{{東武宇都宮線}}
{{DEFAULTSORT:とうふうつのみや}}
[[Category:宇都宮市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 と|うふうつのみや]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1931年開業の鉄道駅]]
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二十四節気
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二十四節気(にじゅうしせっき)とは、中国の戦国時代の頃(紀元前4世紀)に発明され、四季・気候などの視点で地球上の一年を仕分ける方法。
太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。
二十四気(にじゅうしき)ともいう。
重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。太陰太陽暦では、暦と季節のずれを正すために用いられる。
例えば夏至はまだ梅雨の真っ只中にあり、蝉はまだ鳴き始めていない。小暑では蒸し暑さは増すものの七夕を眺めるような晴れの空は期待できず、暑中ではあるのに地域によって梅雨寒となることもある。大暑は「最も暑い時候」と説明されるが、盛夏のピークは立秋の前後となる。
現代の中華人民共和国における「二十四節気」は、2016年10月31日、ユネスコが無形文化遺産への登録されたほか、2022年2月4日(立春)におこなわれた北京オリンピックの開会式では、カウントダウンに用いられた。
本来「二十四節気」というものは、中国の中原の気候をもとに名付けられており、日本で体感する気候とは季節感が合わない名称や時期がある。違いを大きくするものとして、日本では梅雨や台風がある。
日本人はこのような事情を補足するため、二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。なお、二十四節気や雑節は、旧暦に追記されて発行されていた。
旧暦の日付は、年ごとに月がおよそ1朔日間(およそ29.5日)の範囲で誤差が生じるため、二十四節気の日付は毎年異なる。それでも四立や八節に加えて一年の中の季節を分ける目安としては十分であった。さらに各気各候に応じた自然の特徴が記述されるものとして、二十四節気をさらに約5日ずつに分けた七十二候という区分けもあり、二十四節気と併せて暦注などに記された(この七十二候も日本の風土に合わず、江戸時代に渋川春海によって「本朝七十二候」に改訂されている)。これらは現在でも農事暦や旬を楽しむ生活暦として使われ、新暦における日付とは異なるわずかな季節の変化、すなわち微妙な季節感を感じ取ることが出来る。
日本は明治6年1月1日(1873年1月1日)以降、太陽暦をもとにしたグレゴリオ暦(いわゆる新暦)を採用したため、二十四節気の日付は毎年ほぼ一定となった。
江戸時代の中期から後期の常陸国宍戸藩5代藩主である松平頼救が、著者となっている暦の解説書。
月の運行のみに基づく太陰暦では、月と日付が太陽の位置とは無関係に定まり、暦と四季の周期との間にずれが生じるので、農林水産等々の季節に左右される事象を扱うのに不便である。
閏月の挿入による調整を行う太陰太陽暦でも、閏月の前後で1か月の半分の15日程度のずれがある。そこで古代中国では、太陰暦とは無関係に季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に徐々に導入された(後述)。なお現代中国では、旧暦の太陰暦のことを「農暦」と呼ぶことがあるが、前述のように太陰暦は季節からずれることから、農業のための暦ではない。
二十四節気はある時期に突然発明されたのではなく、段階的に整備されてきたものである。二至二分はノーモン(日時計の一種)によって観察しやすいので、古くから認識されていたと考えられ、殷周時代には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。甲骨文字において月名は1、2、3といった序数で表されていたが、時折「十三月」(閏月)が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。よって殷の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然を観察しつつ適宜ずれを修正するような素朴な暦法であった。なお二至二分の名称は、『尚書』堯典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、戦国時代末期の『呂氏春秋』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。
二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。
なお、古代中国人は、一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とした。周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。
その他の二十四節気の名称は、前漢の『淮南子』において出揃っており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。戦国時代には19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとするメトン周期を導入した四分暦が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られた。なお当時の天球分割法の一つに十二次があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた(『漢書』律暦志)。
二十四節気は1太陽年を24分割し、節気(清明・立夏など)と中気(春分・穀雨など)を配置するが、その方法には平気法と定気法の2種類がある。
地球の軌道は円ではなく楕円であることから、太陽の黄道上での運行速度は一定ではない。このため、平気法に基づいた場合の二十四節気の日と、定気法に基づいた場合とでは最大で2日内の差が生じる。当初は平気法により二十四節気を定めていたが、中国では清朝の時憲暦から、日本では天保暦から定気法により定めるようになった。
平気法は冬至は暦と観測で一致するが、夏至・春分・秋分は定気法を採用している現行の暦と一致しない。なお暦の上での春分・秋分は昼夜の長さが同じになるとの説が流布しているが、日の出・日の入りの時刻は地球の大きさの影響があり、春分・秋分で昼夜は均等にならない。
太陰太陽暦や節切りにおいては月名を決定し、季節とのずれを調整するための指標として使われる。12の節気と12の中気が交互に配された二十四節気に対し、各月の朔日(1日)前後に対応する節気が来るよう、以下のように月名を定めている。周代等の王朝では、冬至のある子月を1月とし、子月後半の最初である冬至を1年の始まりとし、冬至前日を大晦日としていた(子後半で始まり、子前半で終わる)。天文・平気法・周正などの節切りでは冬至が暦法上として第1となり、夏正などでは立春が第1となる。
実際には中気を暦の基準とし、月の内に含まれる中気が何かによって月名を決めるので、例えば雨水を含む月が「正月」(一月)となる。しかし月の満ち欠けによる12か月の日数(太陰暦の一年)は、二十四節気が一巡する日数(太陽暦の一年)よりも約11日短いので、そのまま暦を使えば日付にずれを生じ続ける。このずれが重なると中気を含まない月が現れ、その月を閏月とする事になる。ただし定気法においてはこのルールだけでは足りず、更に閏月の入れ方にルールの追加が必要となる(太陰太陽暦#定気法の採用の項参照)。
太陰太陽暦における1か月は、月の運行に基づき朔日から晦日までとしており、この区切り方を月切り、暦月という。暦注における月の区切り方でもある。各暦月の名称は二十四節気を基準に定められる。暦月では正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とする。
これに対し、節気から次の節気の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、節月という。日本において占いや年中行事を記す暦注の中で節切りによるものがよく使われ、また季語の分類も主として節切りで行われている。節月では、正月節(立春)から二月節(啓蟄)までが正月、二月節(啓蟄)から三月節(清明)までが二月、三月節(清明)から四月節(立夏)までが三月というように定められ、立春から立夏までが春、立夏から立秋までが夏、立秋から立冬までが秋、立冬から立春までが冬とされる。
太陰太陽暦では、暦月よりも節月のほうが先に進むことがある。たとえば雨水が正月(一月)15日より前の日付にくることがあるが、このとき立春は雨水の約15日前なので、前の年の十二月のうちに入る。これを「年内立春」という。『古今和歌集』の、
とは、この年内立春のことを詠んだものである。
赤道を境に正反対になる(例えば北半球が大暑のとき南半球は大寒である。)。
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "二十四節気は1太陽年を24分割し、節気(清明・立夏など)と中気(春分・穀雨など)を配置するが、その方法には平気法と定気法の2種類がある。",
"title": "二十四節気の置き方"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "地球の軌道は円ではなく楕円であることから、太陽の黄道上での運行速度は一定ではない。このため、平気法に基づいた場合の二十四節気の日と、定気法に基づいた場合とでは最大で2日内の差が生じる。当初は平気法により二十四節気を定めていたが、中国では清朝の時憲暦から、日本では天保暦から定気法により定めるようになった。",
"title": "二十四節気の置き方"
},
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"text": "平気法は冬至は暦と観測で一致するが、夏至・春分・秋分は定気法を採用している現行の暦と一致しない。なお暦の上での春分・秋分は昼夜の長さが同じになるとの説が流布しているが、日の出・日の入りの時刻は地球の大きさの影響があり、春分・秋分で昼夜は均等にならない。",
"title": "二十四節気の置き方"
},
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"text": "太陰太陽暦や節切りにおいては月名を決定し、季節とのずれを調整するための指標として使われる。12の節気と12の中気が交互に配された二十四節気に対し、各月の朔日(1日)前後に対応する節気が来るよう、以下のように月名を定めている。周代等の王朝では、冬至のある子月を1月とし、子月後半の最初である冬至を1年の始まりとし、冬至前日を大晦日としていた(子後半で始まり、子前半で終わる)。天文・平気法・周正などの節切りでは冬至が暦法上として第1となり、夏正などでは立春が第1となる。",
"title": "暦の指標"
},
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"text": "実際には中気を暦の基準とし、月の内に含まれる中気が何かによって月名を決めるので、例えば雨水を含む月が「正月」(一月)となる。しかし月の満ち欠けによる12か月の日数(太陰暦の一年)は、二十四節気が一巡する日数(太陽暦の一年)よりも約11日短いので、そのまま暦を使えば日付にずれを生じ続ける。このずれが重なると中気を含まない月が現れ、その月を閏月とする事になる。ただし定気法においてはこのルールだけでは足りず、更に閏月の入れ方にルールの追加が必要となる(太陰太陽暦#定気法の採用の項参照)。",
"title": "暦の指標"
},
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"text": "太陰太陽暦における1か月は、月の運行に基づき朔日から晦日までとしており、この区切り方を月切り、暦月という。暦注における月の区切り方でもある。各暦月の名称は二十四節気を基準に定められる。暦月では正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とする。",
"title": "暦月と節月"
},
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"text": "これに対し、節気から次の節気の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、節月という。日本において占いや年中行事を記す暦注の中で節切りによるものがよく使われ、また季語の分類も主として節切りで行われている。節月では、正月節(立春)から二月節(啓蟄)までが正月、二月節(啓蟄)から三月節(清明)までが二月、三月節(清明)から四月節(立夏)までが三月というように定められ、立春から立夏までが春、立夏から立秋までが夏、立秋から立冬までが秋、立冬から立春までが冬とされる。",
"title": "暦月と節月"
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"text": "太陰太陽暦では、暦月よりも節月のほうが先に進むことがある。たとえば雨水が正月(一月)15日より前の日付にくることがあるが、このとき立春は雨水の約15日前なので、前の年の十二月のうちに入る。これを「年内立春」という。『古今和歌集』の、",
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"text": "とは、この年内立春のことを詠んだものである。",
"title": "暦月と節月"
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"text": "赤道を境に正反対になる(例えば北半球が大暑のとき南半球は大寒である。)。",
"title": "一覧"
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] |
二十四節気(にじゅうしせっき)とは、中国の戦国時代の頃(紀元前4世紀)に発明され、四季・気候などの視点で地球上の一年を仕分ける方法。 太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。 二十四気(にじゅうしき)ともいう。
|
{{出典の明記|date=2018年7月}}
{{節気}}
'''二十四節気'''(にじゅうしせっき)とは、[[中国]]の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の頃(紀元前4世紀)に発明され、[[四季]]・[[気候]]などの視点で地球上の一年を仕分ける方法。
[[太陰暦]]の[[季節]]からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「[[節気]]」(正節とも)と12の「[[中気]]」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。1[[太陽年]]を日数([[平気法]])あるいは[[太陽]]の[[黄道]]上の視位置([[定気法]])によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。
'''二十四気'''(にじゅうしき)ともいう。
== 概説 ==
=== 中国 ===
重要な中気である[[夏至]]・[[冬至]]の'''二至'''、[[春分]]・[[秋分]]の'''二分'''は併せて'''二至二分'''(にしにぶん)と言い、重要な節気である[[立春]]・[[立夏]]・[[立秋]]・[[立冬]]を'''四立'''(しりゅう)、二至二分と四立を併せて'''八節'''(はっせつ)という。[[太陰太陽暦]]では、暦と季節のずれを正すために用いられる。
例えば[[夏至]]はまだ[[梅雨]]の真っ只中にあり、[[蝉]]はまだ鳴き始めていない。[[小暑]]では蒸し暑さは増すものの[[七夕]]を眺めるような晴れの空は期待できず、[[暑中]]ではあるのに地域によって[[梅雨#梅雨の気象の特徴|梅雨寒]]となることもある。[[大暑]]は「最も暑い時候」と説明されるが、盛夏のピークは[[立秋]]の前後となる。
現代の[[中華人民共和国]]における「二十四節気」は、[[2016年]][[10月31日]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が[[無形文化遺産]]への登録されたほか<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/the-twenty-four-solar-terms-knowledge-of-time-and-practices-developed-in-china-through-observation-of-the-suns-annual-motion-00647 The Twenty-Four Solar Terms, knowledge of time and practices developed in China through observation of the sun’s annual motion] {{Wayback|url=http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/the-twenty-four-solar-terms-knowledge-of-time-and-practices-developed-in-china-through-observation-of-the-suns-annual-motion-00647 |date=20161203175418 }} Intangible Heritage UNESCO</ref>、[[2022年]][[2月4日]](立春)におこなわれた[[2022年北京オリンピックの開会式|北京オリンピックの開会式]]では、[[カウントダウン]]に用いられた。
=== 日本 ===
本来「二十四節気」というものは、中国の[[中原]]の気候をもとに名付けられており、日本で体感する気候とは季節感が合わない名称や時期がある。違いを大きくするものとして、日本では[[梅雨]]や[[台風]]がある。
日本人はこのような事情を補足するため、二十四節気のほかに、[[土用]]、[[八十八夜]]、[[入梅]]、[[半夏生]]、[[二百十日]]などの「[[雑節]]」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。なお、二十四節気や雑節は、[[旧暦]]に追記されて発行されていた。
旧暦の日付は、年ごとに月がおよそ1[[朔望月#平均朔望月|朔日間]](およそ29.5日)の範囲で誤差が生じるため、二十四節気の日付は毎年異なる。それでも[[四立]]や[[八節]]に加えて一年の中の[[季節]]を分ける目安としては十分であった。さらに各気各候に応じた自然の特徴が記述されるものとして、二十四節気をさらに約5日ずつに分けた[[七十二候]]という区分けもあり、二十四節気と併せて[[暦注]]などに記された(この七十二候も日本の風土に合わず、[[江戸時代]]に[[渋川春海]]によって「本朝七十二候」に改訂されている)。これらは現在でも[[農事暦]]や[[旬]]を楽しむ[[生活暦]]として使われ、{{要出典|範囲=新暦における日付とは異なるわずかな季節の変化、すなわち微妙な季節感を感じ取ることが出来る|date=2023年10月}}。
日本は[[明治6年]]1月1日(1873年1月1日)以降、[[太陽暦]]をもとにした[[グレゴリオ暦]](いわゆる[[新暦]])を採用したため、二十四節気の日付は毎年ほぼ一定となった。
==== 暦便覧 ====
[[江戸時代]]の中期から後期の常陸国宍戸藩5代藩主である[[松平頼救]]が、著者となっている暦の解説書<ref>{{Cite web|和書|url=https://aprilaloisio.com/archives/1890|title=暦便覧の意味や由来、読み方は?|accessdate=2023-04-14|publisher=日本文化と季節ラボ}}</ref>。
== 成立の背景 ==
月の運行のみに基づく[[太陰暦]]では、月と日付が[[太陽]]の位置とは無関係に定まり、暦と四季の周期との間にずれが生じるので、農林水産等々の季節に左右される事象を扱うのに不便である。
閏月の挿入による調整を行う太陰太陽暦でも、閏月の前後で1か月の半分の15日程度のずれがある。そこで古代中国では、太陰暦とは無関係に季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に徐々に導入された(後述)。なお現代中国では、旧暦の太陰暦のことを「農暦」と呼ぶことがあるが、前述のように太陰暦は季節からずれることから、農業のための暦ではない。
二十四節気はある時期に突然発明されたのではなく、段階的に整備されてきたものである。二至二分は[[グノモン|ノーモン]]([[日時計]]の一種)によって観察しやすいので、古くから認識されていたと考えられ、[[殷]][[周]]時代には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。[[甲骨文字]]において月名は1、2、3といった[[序数]]で表されていたが、時折「十三月」(閏月)が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。よって殷の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然を観察しつつ適宜ずれを修正するような素朴な暦法であった。なお二至二分の名称は、『[[書経|尚書]]』堯典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、戦国時代末期の『[[呂氏春秋]]』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。
二至二分の中間点に位置する四立に関しては『[[春秋左氏伝]]』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。
なお、古代中国人は、一年12か月を[[春]]・[[夏]]・[[秋]]・[[冬]]の四時に分け、[[1月 (旧暦)|正月]](一月)・[[2月 (旧暦)|二月]]・[[3月 (旧暦)|三月]]を春、[[4月 (旧暦)|四月]]・[[5月 (旧暦)|五月]]・[[6月 (旧暦)|六月]]を夏、[[7月 (旧暦)|七月]]・[[8月 (旧暦)|八月]]・[[9月 (旧暦)|九月]]を秋、[[10月 (旧暦)|十月]]・[[11月 (旧暦)|十一月]]・[[12月 (旧暦)|十二月]]を冬とした。周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする[[夏正]]([[夏暦]])が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。
その他の二十四節気の名称は、[[前漢]]の『[[淮南子]]』において出揃っており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。戦国時代には19[[太陽年]]が235[[朔望月]]にほぼ等しいとする[[メトン周期]]を導入した[[四分暦]]が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、[[漢]]の[[太初暦]]以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られた。なお当時の[[天球]]分割法の一つに[[十二次]]があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた(『[[漢書]]』律暦志)。
== 二十四節気の置き方 ==
二十四節気は1太陽年を24分割し、節気([[清明]]・立夏など)と中気(春分・[[穀雨]]など)を配置するが、その方法には平気法と定気法の2種類がある。
* '''[[平気法]]'''
:または'''恒気法'''、'''時間分割法'''という。1太陽年を24等分した約15日ごとに設けられ、冬至を起点として約15日ごとに節気と中気を交互に配置する。
* '''[[定気法]]'''
:または'''空間分割法'''という。黄道を[[春分点]]を起点とする15度ずつの24分点に分け、太陽がこの点を通過する時を二十四節気とし、[[太陽黄経]]が30の倍数であるものを中気、それに15度を足したものを節気とする。
地球の軌道は円ではなく楕円であることから、太陽の黄道上での[[ケプラーの法則|運行速度は一定ではない]]。このため、平気法に基づいた場合の二十四節気の日と、定気法に基づいた場合とでは最大で2日内の差が生じる。当初は平気法により二十四節気を定めていたが、中国では[[清]]朝の[[時憲暦]]から、日本では[[天保暦]]から定気法により定めるようになった。
平気法は冬至は暦と観測で一致するが、夏至・春分・秋分は定気法を採用している現行の暦と一致しない。なお暦の上での春分・秋分は昼夜の長さが同じになるとの説が流布しているが、日の出・日の入りの時刻は地球の大きさの影響があり、春分・秋分で昼夜は均等にならない。
== 暦の指標 ==
太陰太陽暦や[[節切り]]においては[[月 (暦)|月]]名を決定し、季節とのずれを調整するための指標として使われる。12の節気と12の中気が交互に配された二十四節気に対し、各月の[[朔日]](1日)前後に対応する節気が来るよう、以下のように月名を定めている。[[周|周代]]等の王朝では、冬至のある[[子 (十二支)|子月]]を1月とし、子月後半の最初である冬至を1年の始まりとし、冬至前日を大晦日としていた(子後半で始まり、子前半で終わる)。[[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}・[[平気法]]・[[周正]]などの[[節切り]]では[[冬至]]が暦法上として第1となり、[[夏正]]などでは立春が第1となる。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 月名 !! 子月 !! 丑月!! 寅月 !! 卯月 !! 辰月 !! 巳月 !! 午月 !! 未月 !! 申月 !! 酉月 !! 戌月 !! 亥月
|-
! 節気
| style="background:#eee"| 大雪 || style="background:#eee"| 小寒 || style="background:#efe"| 立春 || style="background:#efe"| 啓蟄 || style="background:#efe"| 清明 || style="background:#feffcc"| 立夏 || style="background:#feffcc"| 芒種 || style="background:#feffcc"| 小暑 || style="background:#fec"| 立秋 || style="background:#fec"| 白露 || style="background:#fec"| 寒露 || style="background:#eee"| 立冬
|-
! 中気
| style="background:#eee"| 冬至 || style="background:#eee"| 大寒 || style="background:#efe"| 雨水 || style="background:#efe"| 春分 || style="background:#efe"| 穀雨 || style="background:#feffcc"| 小満 || style="background:#feffcc"| 夏至 || style="background:#feffcc"| 大暑 || style="background:#fec"| 処暑 || style="background:#fec"| 秋分 || style="background:#fec"| 霜降 || style="background:#eee"| 小雪
|}
実際には中気を暦の基準とし、月の内に含まれる中気が何かによって月名を決めるので、例えば[[雨水]]を含む月が「正月」(一月)となる。しかし月の満ち欠けによる12か月の日数(太陰暦の一年)は、二十四節気が一巡する日数([[太陽暦]]の一年)よりも約11日短いので、そのまま暦を使えば日付にずれを生じ続ける。このずれが重なると中気を含まない月が現れ、その月を[[閏月]]とする事になる。ただし定気法においてはこのルールだけでは足りず、更に閏月の入れ方にルールの追加が必要となる([[太陰太陽暦#定気法の採用]]の項参照)。
== 暦月と節月 ==
太陰太陽暦における1か月は、[[月]]の運行に基づき[[朔日]]から[[晦日]]までとしており、この区切り方を'''月切り'''、'''暦月'''という。[[暦注]]における月の区切り方でもある。各暦月の名称は二十四節気を基準に定められる。暦月では正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とする。
これに対し、節気から次の節気の前日までの間を1か月とする月の区切り方を'''節切り'''、'''節月'''という。日本において占いや年中行事を記す[[暦注]]の中で節切りによるものがよく使われ、また[[季語]]の分類も主として節切りで行われている。節月では、正月節(立春)から二月節([[啓蟄]])までが正月、二月節(啓蟄)から三月節([[清明]])までが二月、三月節(清明)から四月節(立夏)までが三月というように定められ、立春から立夏までが春、立夏から立秋までが夏、立秋から立冬までが秋、立冬から立春までが冬とされる。
太陰太陽暦では、暦月よりも節月のほうが先に進むことがある。たとえば雨水が正月(一月)15日より前の日付にくることがあるが、このとき立春は雨水の約15日前なので、前の年の十二月のうちに入る。これを「[[立春#新年立春と年内立春|年内立春]]」という。『[[古今和歌集]]』の、
:としのうちに はるはきにけり ひととせを こぞとやいはむ ことしとやいはむ<small>(『古今和歌集』春歌上・[[在原元方]])</small>
とは、この年内立春のことを詠んだものである。
== 一覧 ==
[[赤道]]を境に正反対になる(例えば[[北半球]]が大暑のとき[[南半球]]は大寒である。)。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!季節
!月名!![[#暦月と節月|節月]]
![[黄道座標|太陽黄経]]!![[日本語]]!![[簡体字]][[中国語]]!![[グレゴリオ暦]]!!日本 [[{{CURRENTYEAR-JST}}年]]<ref group="注釈" name="eqdate">[[日本標準時]](UTC+9)または [[中国標準時]](UTC+8)で節気の瞬間を含む日(いずれも定気法)</ref>!!中国 [[{{CURRENTYEAR}}年]]<ref group="注釈" name="eqdate" />
!備考
|- style="background:#efe"
! rowspan="6" |春
| rowspan="2" |寅月
|一月節
|315°||[[立春]]||{{Interlang|zh|立春}}||2月4 - 5日||[[{{EqJSTDateCurrent|立春}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|立春}}]]
|この日の前日を
特に[[節分]]という
|- style="background:#efe"
|一月中
|330°||[[雨水]]||{{Interlang|zh|雨水}}||2月18 - 19日||[[{{EqJSTDateCurrent|雨水}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|雨水}}]]
|
|- style="background:#efe"
| rowspan="2" |卯月
|二月節
|345°||[[啓蟄]]||{{Interlang|zh|惊蛰}}||3月5 - 6日||[[{{EqJSTDateCurrent|啓蟄}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|惊蛰}}]]
|
|- style="background:#efe"
|二月中
|0°||[[春分]]||{{Interlang|zh|春分}}||3月20 - 21日||[[{{EqJSTDateCurrent|春分}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|春分}}]]
|前後3日
春の[[彼岸]]
|- style="background:#efe"
| rowspan="2" |辰月
|三月節
|15°||[[清明]]||{{Interlang|zh|清明}}||4月4 - 5日||[[{{EqJSTDateCurrent|清明}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|清明}}]]
| rowspan="2" |立夏の18日前-
春の[[土用]]
|- style="background:#efe"
|三月中
|30°||[[穀雨]]||{{Interlang|zh|谷雨}}||4月20 - 21日||[[{{EqJSTDateCurrent|穀雨}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|谷雨}}]]
|- style="background:#feffcc"
! rowspan="6" |夏
| rowspan="2" |巳月
|四月節
|45°||[[立夏]]||{{Interlang|zh|立夏}}||5月5 - 6日||[[{{EqJSTDateCurrent|立夏}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|立夏}}]]
|
|- style="background:#feffcc"
|四月中
|60°||[[小満]]||{{Interlang|zh|小满}}||5月21 - 22日||[[{{EqJSTDateCurrent|小満}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|小满}}]]
|
|- style="background:#feffcc"
| rowspan="2" |午月
|五月節
|75°||[[芒種]]||{{Interlang|zh|芒种}}||6月5 - 6日||[[{{EqJSTDateCurrent|芒種}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|芒种}}]]
|
|- style="background:#feffcc"
|五月中
|90°||[[夏至]]||{{Interlang|zh|夏至}}||6月21 - 22日||[[{{EqJSTDateCurrent|夏至}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|夏至}}]]
|
|- style="background:#feffcc"
| rowspan="2" |未月
|六月節
|105°||[[小暑]]||{{Interlang|zh|小暑}}||7月7 - 8日||[[{{EqJSTDateCurrent|小暑}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|小暑}}]]
| rowspan="2" |立秋の18日前-
夏の[[土用]]
|- style="background:#feffcc"
|六月中
|120°||[[大暑]]||{{Interlang|zh|大暑}}||7月22 - 23日||[[{{EqJSTDateCurrent|大暑}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|大暑}}]]
|- style="background:#fec"
! rowspan="6" |秋
| rowspan="2" |申月
|七月節
|135°||[[立秋]]||{{Interlang|zh|立秋}}||8月7 - 8日||[[{{EqJSTDateCurrent|立秋}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|立秋}}]]
|
|- style="background:#fec"
|七月中
|150°||[[処暑]]||{{Interlang|zh|处暑}}||8月23 - 24日||[[{{EqJSTDateCurrent|処暑}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|处暑}}]]
|
|- style="background:#fec"
| rowspan="2" |酉月
|八月節
|165°||[[白露]]||{{Interlang|zh|白露}}||9月7 - 8日||[[{{EqJSTDateCurrent|白露}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|白露}}]]
|
|- style="background:#fec"
|八月中
|180°||[[秋分]]||{{Interlang|zh|秋分}}||9月23 - 24日||[[{{EqJSTDateCurrent|秋分}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|秋分}}]]
|前後3日
秋の[[彼岸]]
|- style="background:#fec"
| rowspan="2" |戌月
|九月節
|195°||[[寒露]]||{{Interlang|zh|寒露}}||10月8 - 9日||[[{{EqJSTDateCurrent|寒露}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|寒露}}]]
| rowspan="2" |立冬の18日前-
秋の[[土用]]
|- style="background:#fec"
|九月中
|210°||[[霜降]]||{{Interlang|zh|霜降}}||10月23 - 24日||[[{{EqJSTDateCurrent|霜降}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|霜降}}]]
|- style="background:#eee"
! rowspan="6" |冬
| rowspan="2" |亥月
|十月節
|225°||[[立冬]]||{{Interlang|zh|立冬}}||11月7 - 8日||[[{{EqJSTDateCurrent|立冬}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|立冬}}]]
|
|- style="background:#eee"
|十月中
|240°||[[小雪]]||{{Interlang|zh|小雪}}||11月22 - 23日||[[{{EqJSTDateCurrent|小雪}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|小雪}}]]
|
|- style="background:#eee"
| rowspan="2" |子月
|十一月節
|255°||[[大雪]]||{{Interlang|zh|大雪}}||12月7 - 8日||[[{{EqJSTDateCurrent|大雪}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|大雪}}]]
|
|- style="background:#eee"
|十一月中
|270°||[[冬至]]||{{Interlang|zh|冬至}}||12月21 - 22日||[[{{EqJSTDateCurrent|冬至}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|冬至}}]]
|
|- style="background:#eee"
| rowspan="2" |丑月
|十二月節
|285°||[[小寒]]||{{Interlang|zh|小寒}}||1月5 - 6日||[[{{EqJSTDateCurrent|小寒}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|小寒}}]]
| rowspan="2" |立春の18日前-
冬の[[土用]]
|- style="background:#eee"
|十二月中
|300°||[[大寒]]||{{Interlang|zh|大寒}}||1月20 - 21日||[[{{EqJSTDateCurrent|大寒}}]]||[[{{EqCSTDateCurrent|大寒}}]]
|}
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 内田正男 『暦と時の事典 日本の暦法と時法』 雄山閣、1986年
* 薮内清 『増補改訂 中国の天文暦法』 平凡社、1990年
* [https://korechi1.blogspot.com/2019/01/4.html 古代中国での気象学(4)二十四節気] ブログ 気象学と気象予報の発達史
== 関連項目 ==
* [[平気法]]
* [[定気法]]
* [[太陰太陽暦]]
* [[閏月]]
* [[七十二候]]
* [[日本の暦]]
* [[中国暦]]
* [[節分]]
* [[選日]]
**[[三隣亡]]
* [[雑節]]
== 外部リンク ==
* [https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/24sekki.html 国立天文台暦計算室こよみ用語解説 二十四節気]
* [https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter3/s7.html 二十四節気(にじゅうしせっき) | 日本の暦]
* [https://ameblo.jp/inarizus1-gomadang0/entry-12654030500.html 二十四節気と雑節について]
* [https://ameblo.jp/inarizus1-gomadang0/entry-12658545125.html 二十四節気に関する詳細]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にしゆうしせつき}}
[[Category:名数24|せつき]]
[[Category:天文学]]
[[Category:天文学史]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:中国天文学]]
[[Category:月]]
[[Category:太陽]]
[[Category:暦法]]
[[Category:太陰暦]]
[[Category:太陰太陽暦]]
[[Category:太陽暦]]
[[Category:農事暦]]
[[Category:節気]]
[[Category:周期現象]]
[[Category:中国の無形文化遺産]]
[[Category:占星術]]
[[Category:占い]]
[[Category:術数学]]
[[Category:陰陽道]]
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人文科学
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人文科学(じんぶんかがく、英語: cultural science〔文化科学〕, humanities, リベラルアーツ)は、正式には人文学(じんぶんがく、英語: humanities, arts 中国語: 人文学科)であり、自然科学・社会科学という分類が先に確たる学問分野となったことで新たに作り出された、どちらにも属さない学問分野の総称。
多数ある学問の分類法のひとつで、以下の場合に人文科学(人文学)という分類名が使われる。
もともと humanities(ヒューマニティーズ)は、ルネサンス期に栄えた人文主義に由来し、リベラル・アーツとも重なる。 明治期以降の日本語では人文学と呼ばれていたが、人文科学はそれに新たにあたえられた訳語である。
なお、 humanities という用語は、 science という意味は含まない。本来的には人文学と呼ばれるべきであるが、「人文科学」は自然科学・社会科学と語調を合わせるために作られた言葉である。人文学とは、そもそも分析的な学問である科学であることを拒否するものであり、性質上総合的に研究される学問である。ただ、近年は学問境界が曖昧になっており、総合的な研究をするための手段として、科学的手法が用いられることも多々ある。
人文学における、研究方法は多岐にわたる。たとえば考古学や民族学や文化人類学などでは発掘調査、現地調査、フィールドワークなどが主となる。現在は話されていない言語について研究するような分野では、主に文献学的方法を採用する。
人間の研究のうちでも特に人間行動にかかわる分野を行動科学と称し、別個に学問の分類に加える場合がある。この場合、教育学、心理学、社会学、宗教学などは人文学でなく、実験・実証が可能であるために行動科学として別個に分類される。これは学問手法による分類でなく、学問の目的・対象による分類である。
なお心理学の分類については議論が多く、自然科学としての性質を持つように変化してきた歴史があり、分類が一定しない。現在では心理学のほとんどの部門で実験、観察、統計などの手法が重視される。だが、心理学内の細かい分野ごとに事情は異なり、自然科学あるいは人文学どちらに分類したほうが良いのかはっきりしないこともある。統計や実験など自然科学的手法をもちいた学問分野はすべて自然科学である、という考え方もあるわけで、人間を対象物として扱う大学の実験心理学は自然科学に分類される。だが心の問題を抱えた他者を、対話を基盤として理解し、実践的な援助を志向するカウンセリングの形態を持つ臨床心理学は、人間を必ずしも対象化しておらず、自然科学的傾向が小さい。
日本の大学では、たいていは、これらの学問分野の教育・研究を主に文学部などがおこなうが、大学によっては「人文科学部」という学部を設置しているところもある。
日本では、人文学系の学部を卒業しても、就職先希望と現実がずれた場合が特に多い。実際に習った人文学知識は就職先の専門と一致しないため、何のために勉強したのかという疑問を抱く者も多かった。人文学系は同大学卒業者との比較でも自然科学系だけでなく、社会科学系学部卒業者よりも就職率や就職先レベルが低くなる就職不利が知られ、人文学系の不人気に拍車をかけた。
アメリカでも人文系学部の就職率低下と縮小傾向がある。アメリカでは、日本よりも「大学の専攻分野」と「就職内容」の一致率が高く、工学系や自然科学系学部出身者の就職率が高くなってきているのに対して、人文科学・社会科学系の学部は就職率が悪化し、それに気付いた若者の間で人文系志望者・人文系専攻学生の減少が起きており、その結果、一部有名大学でも縮小や閉鎖が進んでいる。
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人文科学は、正式には人文学であり、自然科学・社会科学という分類が先に確たる学問分野となったことで新たに作り出された、どちらにも属さない学問分野の総称。 多数ある学問の分類法のひとつで、以下の場合に人文科学(人文学)という分類名が使われる。 かつて主流であった学問を二分する分類法が採用されていた時代に、片方は自然科学、残りは現在社会科学に分類される学問も、「文化科学」と纏められていた。しかし、18世紀から19世紀にかけて、政治学・経済学・法学などがいずれも固有の領域を確定したことで、これらは、「社会科学」と呼ばれて分けられるようになった。「人文学」を「人文科学」と「科学(science)」がつける場合もあるが、他の2つが「科学」が必ずつくから語調合わせのためである。20世紀の半ば以降から、人文学と社会科学を区別する三区分が主流なため、現代では学問は人文学・社会科学・自然科学と分けられる。
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{{出典の明記|date=2011年11月}}
'''人文科学'''(じんぶんかがく、{{Lang-en|cultural science〔[[文化]][[科学]]〕<ref name="JST">{{Cite web |url=https://ejje.weblio.jp/content/%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A7%91%E5%AD%A6#hideDictPrsJSTKG |title=「人文科学」の英語・英語例文・英語表現 - Weblio和英辞書 |access-date=2022年12月22日 |author=JST科学技術用語日英対訳辞書 |website=ejje.weblio.jp |work=Weblio英和辞書 |publisher=GRASグループ株式会社 |quote=cultural science; humanities}}</ref>, [[人間性|humanities]]<ref name="JST" />, [[リベラルアーツ]]<ref>{{Cite web |url=https://ejje.weblio.jp/content/%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A7%91%E5%AD%A6#hideDictPrsNWNEJ |title=「人文科学」の英語・英語例文・英語表現 |access-date=2022年12月22日 |author=日本語WordNet(英和) |website=ejje.weblio.jp |work=Weblio英和辞書 |publisher=GRASグループ株式会社 |quote=the humanities}}</ref>}})は、正式には'''人文学'''(じんぶんがく、{{Lang-en|humanities<ref name="JMdict">{{Cite web |url=https://ejje.weblio.jp/content/%E4%BA%BA%E6%96%87%E5%AD%A6#hideDictPrsJMDCT |title=「人文学」の英語・英語例文・英語表現 |access-date=2022年12月22日 |author=JMdict |website=ejje.weblio.jp |work=Weblio和英辞書 |publisher=GRASグループ株式会社 |quote=humanities; arts}}</ref>, [[アーツ|arts]]<ref name="JMdict" />}} {{Lang-zh|人文学科}})であり、[[自然科学]]・[[社会科学]]という分類が先に確たる学問分野となったことで新たに作り出された、'''どちらにも属さない学問分野の総称'''<ref name="『宗教と学問』〈歴史学事典〉 p382">{{Cite book |和書 |editor=岸本 美緖 |title=宗教と学問 |series=歴史学事典 |date=2004.2 |publisher=弘文堂 |isbn=4-335-21041-8 |page=382 |volume=11 |oclc=959681322}}</ref>。
多数ある[[学問]]の[[分類]]法のひとつで、以下の場合に人文科学(人文学)という分類名が使われる。
* かつて主流であった学問を二分する分類法が採用されていた時代に、片方は自然科学、残りは現在[[社会科学]]に分類される学問も、「[[文化科学]]」と纏められていた<ref name="『宗教と学問』〈歴史学事典〉 p382" /><ref>{{Cite Kotobank |word=文化科学 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |hash=#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |accessdate=2023年1月24日}}</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=文化科学 |encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |hash=#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 |accessdate=2023年1月24日}}</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=文化科学 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |hash=#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |accessdate=2023年1月24日}}</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=文化科学 |encyclopedia=デジタル大辞泉 |hash=#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |accessdate=2023年1月24日}}</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=文化科学 |encyclopedia=世界大百科事典 第2版 |hash=#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 |accessdate=2023年1月24日}}</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=文化科学 |encyclopedia=世界大百科事典 第2版 |hash=#sekai_refs |accessdate=2023年1月24日 |title=世界大百科事典内の文化科学の言及}}</ref>。しかし、[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけて、[[政治学]]・[[経済学]]・[[法学]]などがいずれも固有の領域を確定したことで、これらは、「社会科学」と呼ばれて分けられるようになった。「人文学」を「人文科学」と「科学(science)」がつける場合もあるが、他の2つが「科学」が必ずつくから[[語呂合わせ|語調合わせ]]のためである。20世紀の半ば以降から、人文学と社会科学を区別する三区分が主流なため、現代では学問は[[人文学]]・[[社会科学]]・[[自然科学]]と分けられる<ref name="『宗教と学問』〈歴史学事典〉 p382" />。
== 概要 ==
もともと humanities(ヒューマニティーズ)は、[[ルネサンス]]期に栄えた[[人文主義]]に由来し、[[リベラル・アーツ]]とも重なる。
明治期以降の日本語では人文学と呼ばれていたが、人文科学はそれに新たにあたえられた[[訳語]]である。
なお、 [[wiktionary:humanities|humanities]] という用語は、 [[wikt:science|science]] という意味は含まない。本来的には人文学と呼ばれるべきであるが、「人文科学」は自然科学・社会科学と語調を合わせるために作られた言葉である。人文学とは、そもそも分析的な学問である科学であることを拒否するものであり、性質上総合的に研究される学問である。ただ、近年は学問境界が曖昧になっており、総合的な研究をするための手段として、科学的手法が用いられることも多々ある。
人文学における、研究方法は多岐にわたる。たとえば[[考古学]]や[[民族学]]や[[文化人類学]]などでは[[発掘調査]]、[[現地調査]]、[[フィールドワーク]]などが主となる。現在は話されていない言語について研究するような分野では、主に[[文献学]]的方法を採用する。
人間の研究のうちでも特に人間行動にかかわる分野を[[行動科学]]と称し、別個に学問の分類に加える場合がある。この場合、[[教育学]]、[[心理学]]、[[社会学]]、[[宗教学]]などは人文学でなく、実験・実証が可能であるために行動科学として別個に分類される。これは学問手法による分類でなく、学問の目的・対象による分類である。
なお[[心理学]]の分類については議論が多く、自然科学としての性質を持つように変化してきた歴史があり、分類が一定しない。現在では心理学のほとんどの部門で[[実験]]、[[観察]]、[[統計]]などの手法が重視される。だが、心理学内の細かい分野ごとに事情は異なり、自然科学あるいは人文学どちらに分類したほうが良いのかはっきりしないこともある。統計や実験など自然科学的手法をもちいた学問分野はすべて自然科学である、という考え方もあるわけで、人間を対象物として扱う大学の実験心理学は自然科学に分類される。だが心の問題を抱えた他者を、対話を基盤として理解し、実践的な援助を志向する[[カウンセリング]]の形態を持つ[[臨床心理学]]は、人間を必ずしも対象化しておらず、自然科学的傾向が小さい。
== 一般的な分野 ==
{{Main|学問の一覧#人文学}}
日本の大学では、たいていは、これらの学問分野の[[教育]]・[[研究]]を主に[[文学部]]などがおこなうが、大学によっては「人文科学部」という学部を設置しているところもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shujitsu.ac.jp/department/jinbunkagaku/ |title=人文科学部 |access-date=2023-01-25 |website=就実大学・就実短期大学 |work=学部学科の紹介 |publisher=就実大学・就実短期大学}}</ref>。
<!--この記事は「小学校の教科」という記事ではないので「国語」などと書かないほうがよい。「国語」は小学生の教科を指す用語。おなじく、小学校の教科名ではないのだから、人文科学の記事で「道徳」などと書いてはいけない。 -->
* [[語学]]-該当教育機関が設置されている国の[[標準語]]([[英語圏]]なら[[英語]]、[[ドイツ語圏]]なら[[ドイツ語]]、[[フランス語圏]]なら[[フランス語]]、日本なら[[現代日本語]]など[[母語]])や[[外国語]]。
* [[言語学]]-[[音声学]]<ref>{{Cite web|和書|title=【言語学】音声学と音韻論【日本語を基礎から、もう1度】 |url=https://japanese-language-education.com/kisokara1/ |website=日本語教育ナビ |date=2022-06-30 |access-date=2023-09-21 |language=ja |last=日本語教育ナビ}}</ref>
* [[文学]]
* [[論理学]]
* [[倫理学]]
* [[哲学]]- [[美学]]
* [[芸術学]]-[[音楽学]]
* [[宗教学]]
* [[民俗学]]
* [[人文地理学]]
* [[文化人類学]]
===人文学要素がある社会科学===
* [[教育学]]
* [[心理学]]
* [[社会学]]
* [[人間科学]]
== 就職不利・縮小傾向 ==
===日本===
日本では、人文学系の学部を卒業しても、就職先希望と現実がずれた場合が特に多い。実際に習った人文学知識は就職先の専門と一致しないため、何のために勉強したのかという疑問を抱く者も多かった。人文学系は同大学卒業者との比較でも自然科学系だけでなく、社会科学系学部卒業者よりも就職率や就職先レベルが低くなる就職不利が知られ、人文学系の不人気に拍車をかけた<ref>人文学報第247~251号 p157,1994年</ref>。
===アメリカ合衆国===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも人文系学部の就職率低下と縮小傾向がある。アメリカでは、日本よりも「大学の専攻分野」と「就職内容」の一致率が高く、[[工学]]系や[[自然科学]]系学部出身者の就職率が高くなってきているのに対して、人文科学・[[社会科学]]系の学部は就職率が悪化し、それに気付いた若者の間で人文系志望者・人文系専攻学生の減少が起きており、その結果、一部有名大学でも縮小や閉鎖が進んでいる{{Refnest|group="注"|2013年11月号の情報によると、「アメリカの[[ハーバード大学]]で人文科学専攻の学生が急激に減っている。また、クーリエ・ジャポンの調査でどの学科専攻ならば大学4年間の学費と卒業後のリターンが得られるのか15位まで調査した。その1位が医学部卒業、2位がコンピュータシステム工学部卒、3位が薬学部卒。15位までをリストアップしたが、文系科学・社会科学系は13位の経済学のみである。この順位外の「就職には役に立たない」という枠外扱いが[[リベラルアーツ]](学)だった。例えばアメリカの[[スタンフォード大学]]では、人文科学系の教員は全体の45%いるが、学生はわずか15%にまで下がっている。同国のハーバード大学でも[[1954年]]の36%から、2012年には20%まで人文科学系の学生割合が落ち込んだ。2010年には全米で人文科学系を卒業した人はわずか7%で、1966年から半減している。また、アメリカでは大学を卒業した学生の失業率は人文科学系の学生は自然科学系の2倍だった。志願者数の減少傾向から人文科学系学部の閉鎖や縮小が進んでいる。」<ref>{{Cite book |和書 |title=クーリエジャポン |date=2013/9/25 |publisher=講談社 |page=43 |chapter=ハーバードの学生たちに広がる急激な文系離れの波紋 |issue=2013年11月号 |ASIN=B00F496G64}}</ref>}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks}}
{{wikiversity|Portal:人文科学|人文科学}}
* [[人文主義者]]
* [[神学]]
* [[科学]]
** [[社会科学]]
** [[自然科学]]
** [[精神科学]]
** [[文化科学]]
* [[文系と理系]]
** [[文科]] - [[理科]]
* [[リベラル・アーツ]]
* [[デジタル・ヒューマニティーズ]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{人文科学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんふんかかく}}
[[Category:人文科学|*しんふんかかく]]
[[Category:学問の分野]]
[[Category:人文教育]]
[[Category:リベラルアーツ教育]]
[[Category:文化]]
[[Category:ヒューマニズム]]
[[Category:哲学]]
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社会科学
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社会科学(しゃかいかがく、英: social science)とは、自然と対比された社会についての科学的な認識活動およびその活動によって生み出された知識の体系である。人間の社会の様々な面を科学的に探求する学術分野の総体である。社会科学における「社会」という概念は、自然と対比されているものであるが、この「自然 / 社会」という対比は、遡れば古代ギリシャの「フュシス / ノモス」という対比的概念にまでさかのぼることができる。経済学、法学、政治学などの総称。日本語だと呼称が似ているが社会学はSociology。自然科学と比較すると用語の定義が曖昧で、研究の再現性も高くない問題を抱える。
「社会科学」に分類される、個別科学としての経済学、法学、政治学などの総称。社会学については、単に人文社会科学に分類されたり、社会科学に分類されたり、個別科学として社会諸科学の一分野又は社会科学そのものであるのかの議論がある。
そして、ある文脈上では心理学も社会科学に該当する。
社会学、心理学、経済学等の社会科学研究は、自然科学との比較で用語の定義が曖昧かつ研究の再現性も低い問題が指摘されている。そのため、2016年11月にアメリカ合衆国国立衛生研究所(NIH)は社会科学分野の現状の是正の方向性を示す戦略や指針を発表した
以下に挙げる学問分野が明確に社会科学とされる代表的なものである。
なお人文科学と区分されたり、人文社会科学として曖昧にしている学問分野もある。以下、そうした学問分野を列挙する。
自然科学との隣接分野としては以下が代表例である。
社会科学の諸分野を包括的に学習することができる「社会科学部」が早稲田大学など一部の大学に存在するが、その数は非常に少ない。
アメリカでは人文系卒業者と共に、社会科学系学部卒業者の就職率が低下していることによる不人気から、学部の縮小傾向にある。アメリカでは、日本よりも「大学の専攻分野」と「就職内容」の一致率が高く、工学系や自然科学系学部出身者の就職率が高くなってきているのに対して、人文科学・社会科学系の学部は就職率が悪化し、それに気付いた若者の間で人文系志望者・人文系専攻学生の減少が起きている。その結果、一部有名大学でも縮小や閉鎖が進んでいる。クーリエ・ジャポンは、「どの学科専攻ならば大学4年間の学費と卒業後のリターンが得られるのか」。15位まで調査した。結果として、1位は医学部卒業、2位がコンピュータシステム工学部卒、3位が薬学部卒となった。15位までをリストアップされたが、人文系科学・社会科学系の中でランクイン出来たのは、13位の経済学卒のみであった。更には、順位外の「就職には役に立たない」という枠外扱いが「リベラルアーツ(学)卒業」だった。
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"title": "アメリカ合衆国における就職不利・縮小傾向"
}
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社会科学とは、自然と対比された社会についての科学的な認識活動およびその活動によって生み出された知識の体系である。人間の社会の様々な面を科学的に探求する学術分野の総体である。社会科学における「社会」という概念は、自然と対比されているものであるが、この「自然 / 社会」という対比は、遡れば古代ギリシャの「フュシス / ノモス」という対比的概念にまでさかのぼることができる。経済学、法学、政治学などの総称。日本語だと呼称が似ているが社会学はSociology。自然科学と比較すると用語の定義が曖昧で、研究の再現性も高くない問題を抱える。
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{{混同|社会学}}
{{出典の明記|date=2015年1月}}
'''社会科学'''(しゃかいかがく、{{lang-en-short|social science}})とは、自然と対比された[[社会]]についての[[科学]]的な認識活動およびその活動によって生み出された知識の体系である<ref name="sek">世界大百科事典 第二版</ref>。人間の[[社会]]の様々な面を科学的に探求する[[wikt:学術|学術]]分野の総体である。社会科学における「社会」という概念は、自然と対比されているものであるが、この「自然 / 社会」という対比は、遡れば[[古代ギリシャ]]の「フュシス / [[ノモス]]」という対比的概念にまでさかのぼることができる<ref name="sek" />。[[経済学]]、[[法学]]、[[政治学]]などの総称<ref name="sek" />。日本語だと呼称が似ているが[[社会学]]は'''Sociology'''<ref>{{Cite web|和書|title=社会学コース |url=https://www.waseda.jp/flas/hss/about/course/sociology |website=早稲田大学 文学部 |access-date=2023-09-03 |language=ja}}</ref><ref>https://eow.alc.co.jp/search?q=sociology</ref><ref name=":0">バウマン社会理論の射程 ポストモダニティと倫理 - p268 中島道男 ,2009</ref>。自然科学と比較すると用語の定義が曖昧で、研究の再現性も高くない問題を抱える<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=「社会科学」は崩壊した。米国の新たな指針は救いとなるか? |url=https://wired.jp/2017/02/20/nih-plan-social-science/ |website=WIRED.jp |date=2017-02-20 |access-date=2023-09-02 |language=ja-JP |first=Condé |last=Nast}}</ref>。
== 概要 ==
「社会科学」に分類される、個別科学としての[[経済学]]、[[法学]]、[[政治学]]などの総称<ref>{{Cite web|和書|title=社会科学(しゃかいかがく)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6-75556 |website=コトバンク |access-date=2023-09-02 |language=ja |first=小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) |last= |publisher=小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。社会学については、単に[[人文社会科学研究科|人文社会科学]]に分類されたり<ref>https://www.hss.shizuoka.ac.jp/soci/study/</ref>、社会科学に分類されたり<ref name=":1" />、個別科学として社会諸科学の一分野又は社会科学そのものであるのかの議論がある<ref>{{Cite web|和書|title=社会科学(しゃかいかがく)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6-75556 |website=コトバンク |access-date=2023-09-02 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。
そして、ある文脈上では心理学も社会科学に該当する<ref>Verheggen et al. 1999. "From shared representations to consensually coordinated actions", in "Theoretical Issues in Psychology", John Morrs et al., ed., International Society for Theoretical Psychology</ref><ref>[http://www.staff.u-szeged.hu/~garai/Vygotskyboom.htm L. Garai and M. Kocski: Another crisis in the psychology:] A possible motive for the Vygotsky-boom. Journal of Russian and East-European Psychology. 1995. 33:1. 82-94. </ref><ref name=":1" />。
==甘い「用語」の定義付け・低い研究の再現性問題==
社会学、[[心理学]]、[[経済学]]等の社会科学研究は、[[自然科学]]との比較で用語の定義が曖昧かつ[[研究の再現性]]も低い問題が指摘されている。そのため、2016年11月に[[米国立衛生研究所|アメリカ合衆国国立衛生研究所]](NIH)は社会科学分野の現状の是正の方向性を示す戦略や指針を発表した<ref name=":1" />
== 学問分野の分類 ==
{{Main|学問の一覧#社会科学}}
=== 社会科学へ分類される学問===
以下に挙げる学問分野が明確に社会科学とされる代表的なものである。
* [[法学]]<ref name=":0" />
* [[政治学]]<ref name=":0" />
* [[政策科学]]<ref name=":0" />
* [[経済学]]<ref name=":0" />
* [[経営学]]<ref name=":0" />
* [[社会学]]<ref name=":0" />
* [[心理学]]([[社会心理学]])
===人文科学へ分類される学問===
なお[[人文科学]]と区分されたり、人文社会科学として曖昧にしている学問分野もある。以下、そうした学問分野を列挙する。
* [[哲学]]
* [[倫理学]]
* [[社会福祉学]]
* [[社会人類学|文化人類学]]
* [[教育学]]
* [[歴史学]]
* [[地理学]]・[[地政学]]
* [[地域研究]]
* [[言語学]]([[社会言語学]])
=== 社会科学要素がある自然科学===
[[自然科学]]との隣接分野としては以下が代表例である。
* [[社会工学]]
* [[統計学]]
* [[情報学]]([[情報化社会|情報社会学]]、[[メディア研究|メディア・スタディーズ]]など)
* [[都市工学]]
* [[数理経済学]]・[[経済物理学]]
* [[経営工学]]
* [[データサイエンス]]
社会科学の諸分野を包括的に学習することができる「[[社会科学部]]」が[[早稲田大学社会科学部|早稲田大学]]など一部の大学に存在するが、その数は非常に少ない。
==アメリカ合衆国における就職不利・縮小傾向==
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では人文系卒業者と共に、社会科学系学部卒業者の就職率が低下していることによる不人気から、学部の縮小傾向にある。アメリカでは、日本よりも「大学の専攻分野」と「就職内容」の一致率が高く、[[工学]]系や[[自然科学]]系学部出身者の就職率が高くなってきているのに対して、人文科学・社会科学系の学部は就職率が悪化し、それに気付いた若者の間で人文系志望者・人文系専攻学生の減少が起きている。その結果、一部有名大学でも縮小や閉鎖が進んでいる。クーリエ・ジャポンは、「どの学科専攻ならば大学4年間の学費と卒業後のリターンが得られるのか」。15位まで調査した。結果として、1位は医学部卒業、2位がコンピュータシステム工学部卒、3位が薬学部卒となった。15位までをリストアップされたが、人文系科学・社会科学系の中でランクイン出来たのは、13位の経済学卒のみであった。更には、順位外の「就職には役に立たない」という枠外扱いが「[[リベラルアーツ]](学)卒業」だった{{Refnest|group="注"|そして、アメリカの[[スタンフォード大学]]では、人文科学系の教員は全体の45%いるが、学生はわずか15%にまで下がっている。同国のハーバード大学でも[[1954年]]の36%から、2012年には20%まで人文科学系の学生割合が落ち込んだ。2010年には全米で人文科学系を卒業した人はわずか7%で、1966年から半減している。また、アメリカでは大学を卒業した学生の失業率は人文科学系の学生は自然科学系の2倍だった。志願者数の減少傾向から人文科学系学部の閉鎖や縮小が進んでいる。」<ref>{{Cite book |和書 |title=クーリエジャポン |date=2013/9/25 |publisher=講談社 |page=43 |chapter=ハーバードの学生たちに広がる急激な文系離れの波紋 |issue=2013年11月号 |ASIN=B00F496G64}}</ref>}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|社会科学}}
{{Commonscat|Social sciences}}
{{Wikibooks}}
* [[科学]] - 自然科学と社会科学の二分類であったが、現代ではどちらにも属さない学問分野の分類である[[人文科学]]も含み3分類される
* [[社会理論]]
* [[功利主義]]
* [[文科]]
* [[計算社会科学]]
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[[Category:社会科学|*]]
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行動科学
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行動科学(こうどうかがく、英語: behavioural science)は、人間の行動を科学的に研究し、その法則性を解明しようとする学問。心理学、社会学、人類学、精神医学などがこれに含まれる。包含する学問分野は社会科学と重なる部分が大きいが、社会科学が社会システムの構造レベルの分析が中心であるのに対し、行動科学では社会内の個体間コミュニケーションや意思決定メカニズムなどに焦点を当てる(例:心理学、社会神経科学)。
犬田によって紹介された執筆時点(1970年)当時の行動科学に関する科学者の見解を以下に引用する。
ミラーによると、行動科学は、個人として、あるいは社会における人間の理解に寄与する諸分野の結合された努力であり、したがって、そこには次のものが含まれる。
人類学(anthropology)、生化学(bio-chemistry)、生態学(ecology)、経済学(economics)、遺伝学(genetics)、地質学(geography)、歴史学(history)、言語学(linguistics)、数学(mathematics)、神経医学(neurology)、薬学(pharmacology)、生理学(physiology)、政治学(political science)、精神医学(psychiatry)、心理学(psychology)、社会学(sociology)、統計学(statistics)、動物学(zoology)
一方でベレルソンは、もう少し領域をしぼって、行動科学を、人類学、心理学、社会学の三本の柱で考え、これに社会地理学(social geography)、精神医学の一部、それに経済学と政治学、法学(law)の行動をとりあつかう側面を加える。またこれらを、生理心理学(physiological psychology)、考古学(archaeology)、言語学の一部、形質人類学(physical anthropology)を除く分類であるとしている。
「行動科学の一部として考えられるためには、その領域はつぎの二つの基本的な基準をみたさなければならない。第一に、それは人間行動を取りあつかうものでなければならない。しかし、動物の行動を研究する心理学や、動物学のいくらかの部分は、それが間接的あるいは基礎的なところで、人間行動を目ざしているということで、含まれる。第二にそれは、主題となる事柄を"科学的"に研究しなければならない」
ここで科学的というのは、ベレルソンによれば、次のような条件をみたしていることである。
手続きが公開されている
定義が精密である
データの収集方法が客観的である
諸事実は再現可能でなくてはならない
接近法は組織的で集積的である
ライト・ミルズは「社会的想像力」において、社会科学という用語よりも社会研究(Social Studies)の方が好ましいと思う、とのべたあと、こう言っている。
「"行動科学"の語を用いるのは、まったく不可能である。私は思うのだが、それは"社会科学"と"社会主義"を混同する財団や代議士から、社会調査の資金を獲得してくるための宣伝用の策略のようなものとみられている。......われわれは用語をめぐって闘争するのではなく、用語をつかって議論するのであるから、それはできるだけ議論の余地のないものでなければならない。おそらく"人間科学"human disciplinesという語がよいであろう」
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行動科学は、人間の行動を科学的に研究し、その法則性を解明しようとする学問。心理学、社会学、人類学、精神医学などがこれに含まれる。包含する学問分野は社会科学と重なる部分が大きいが、社会科学が社会システムの構造レベルの分析が中心であるのに対し、行動科学では社会内の個体間コミュニケーションや意思決定メカニズムなどに焦点を当てる。
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{{Otheruses|人間の行動に関する学問|動物全般の行動に関する学問|動物行動学}}
'''行動科学'''(こうどうかがく、{{lang-en|behavioural science}})は、[[人間]]の[[行動]]を[[科学的方法|科学的]]に研究し、その法則性を解明しようとする[[学問]]。[[心理学]]、[[社会学]]、[[文化人類学|人類学]]、[[精神医学]]などがこれに含まれる<ref>[[デジタル大辞泉]] 「[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/74484/m0u/%E8%A1%8C%E5%8B%95%E7%A7%91%E5%AD%A6/ 行動科学]」『[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/ goo国語辞書]』[[NTTレゾナント]]株式会社、2013年11月7日閲覧。</ref>。{{要出典範囲|包含する学問分野は[[社会科学]]と重なる部分が大きいが、社会科学が社会システムの構造レベルの分析が中心であるのに対し、行動科学では社会内の個体間[[コミュニケーション]]や[[意思決定]]メカニズムなどに焦点を当てる(例:心理学、[[社会神経科学]])。|date=2015年2月}}
== 行動科学に対する諸見解 ==
犬田によって紹介された執筆時点(1970年)当時の行動科学に関する科学者の見解を以下に引用する<ref>{{Cite book|和書|title=行動の科学|date=1970.09.30|year=1970|publisher=至文堂|pages=14,15,28|series=現代のエスプリ}}</ref>。
=== J.G.Miller ===
ミラーによると、行動科学は、個人として、あるいは社会における人間の理解に寄与する諸分野の結合された努力であり、したがって、そこには次のものが含まれる。
人類学(anthropology)、生化学(bio-chemistry)、生態学(ecology)、経済学(economics)、遺伝学(genetics)、地質学(geography)、歴史学(history)、言語学(linguistics)、数学(mathematics)、神経医学(neurology)、薬学(pharmacology)、生理学(physiology)、政治学(political science)、精神医学(psychiatry)、心理学(psychology)、社会学(sociology)、統計学(statistics)、動物学(zoology)
=== B.Berelson ===
一方でベレルソンは、もう少し領域をしぼって、行動科学を、人類学、心理学、社会学の三本の柱で考え、これに社会地理学(social geography)、精神医学の一部、それに経済学と政治学、法学(law)の行動をとりあつかう側面を加える。またこれらを、生理心理学(physiological psychology)、考古学(archaeology)、言語学の一部、形質人類学(physical anthropology)を除く分類であるとしている。
「行動科学の一部として考えられるためには、その領域はつぎの二つの基本的な基準をみたさなければならない。第一に、それは人間行動を取りあつかうものでなければならない。しかし、動物の行動を研究する心理学や、動物学のいくらかの部分は、それが間接的あるいは基礎的なところで、人間行動を目ざしているということで、含まれる。第二にそれは、主題となる事柄を"科学的"に研究しなければならない」
ここで科学的というのは、ベレルソンによれば、次のような条件をみたしていることである。<blockquote>手続きが公開されている
定義が精密である
データの収集方法が客観的である
諸事実は再現可能でなくてはならない
接近法は組織的で集積的である</blockquote>
=== C.Wright Mills ===
[[ライト・ミルズ]]は「社会的想像力」において、社会科学という用語よりも社会研究(Social Studies)の方が好ましいと思う、とのべたあと、こう言っている。
「"行動科学"の語を用いるのは、まったく不可能である。私は思うのだが、それは"社会科学"と"社会主義"を混同する財団や代議士から、社会調査の資金を獲得してくるための宣伝用の策略のようなものとみられている。……われわれは用語をめぐって闘争するのではなく、用語をつかって議論するのであるから、それはできるだけ議論の余地のないものでなければならない。おそらく"人間科学"human disciplinesという語がよいであろう」
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[行動]]
* [[行動地理学]]
* [[行動主義心理学]]
{{Normdaten}}
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17(十七、じゅうしち、じゅうなな)は自然数、また整数において、16の次で18の前の数である。ラテン語では septendecim(セプテンデキム)。
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17(十七、じゅうしち、じゅうなな)は自然数、また整数において、16の次で18の前の数である。ラテン語では septendecim(セプテンデキム)。
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{{整数|Decomposition=([[素数]])}}
'''17'''('''十七'''、じゅうしち、じゅうなな)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[16]]の次で[[18]]の前の数である。[[ラテン語]]では septendecim(セプテンデキム)。
== 性質 ==
*17は7番目の[[素数]]である。1つ前は[[13]]、次は[[19]]。
**[[約数の和]]は[[18]]。
***約数の和が3の倍数になる9番目の数である。1つ前は[[15]]、次は18。
* 17 = 17 + 0 × ''ω'' (''ω''は1の虚立方根)
** a + 0 × ''ω'' (a>0) で表される4番目の[[アイゼンシュタイン整数#アイゼンシュタイン素数|アイゼンシュタイン素数]]である。1つ前は11、次は23。
*17 = 2{{sup|4}} + 1
** ''n'' = 4 のときの 2{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[33]]。({{OEIS|A000051}})
** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|4}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[82]]。
*** ''n''{{sup|4}} + 1 で表される2番目の[[素数]]である。1つ前は[[2]]、次は[[257]]。
** 17 = 2{{sup|2{{sup|2}}}} + 1
*** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|2{{sup|''n''}}}} + 1 で表せる3番目の[[フェルマー数|フェルマー素数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[257]]。
** 17 = 1 × 2{{sup|4}} + 1
***5番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[13]]、次は[[25]]。
****4番目の[[プロス数#プロス素数|プロス素数]]である。1つ前は[[13]]、次は[[41]]。
** 17 = 2{{sup|4}} × 3{{sup|0}} + 1
*** 6番目の[[ピアポント素数]]である。1つ前は[[13]]、次は[[19]]。({{OEIS|A005109}})
**17 = 1{{sup|4}} + 2{{sup|4}}
***連続自然数の4乗和で表される最小の数である、次は[[97]]
***17 = 0{{sup|4}} + 1{{sup|4}} + 2{{sup|4}}
****3連続整数の4乗和で表せる数である。負の数を除いたときには最小の数である、次は[[98]]。
***''n''{{sup|4}} + (''n'' + 1){{sup|4}} で表せる最小の素数である、次は[[97]]。
*17 = 4{{sup|2}} + 1
** ''n'' = 2 のときの 4{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[5]]、次は[[65]]。
** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[26]]。
*** ''n''{{sup|2}} + 1 で表される3番目の[[素数]]である。1つ前は[[5]]、次は[[37]]。
** 17 = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}}
*** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる4番目の数である。1つ前は[[13]]、次は[[20]]。({{OEIS|A004431}})
*4番目の[[スーパー素数]]である。1つ前は11、次は[[31]]。
*8番目の[[ジェノッキ数]]であり、唯一のジェノッキ素数である。
*(17, [[19]]) は4番目の[[双子素数]]である。1つ前は([[11]], [[13]]) 、次は([[29]], [[31]]) 。
*([[11]], [[13]], 17, [[19]]) は[[四つ子素数]]である。1つ前は([[5]], [[7]], 11, [[13]]) 、次は([[101]], [[103]], [[107]], [[109]]) 。
*''p'' = 17 のときの 2{{sup|''p''}} − 1 で表される 2{{sup|17}} − 1 = 131071 は6番目の[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]である。1つ前は[[13]]、次は[[19]]。
*[[正十七角形]]は[[定規とコンパスによる作図|定規とコンパスのみで作図]]できる10番目の[[正多角形]]である。1つ前は正[[16]]角形、次は正[[20]]角形。({{OEIS|A003401}})
**[[正十七角形]]が[[定規とコンパスによる作図|定規とコンパスのみで作図]]できることを[[カール・フリードリヒ・ガウス]]が[[1796年]]に19歳の時に証明した。
*3乗した数の各桁の数の和が元の数になる数である。つまり、17{{sup|3}} = [[4913]] , [[4]] + [[9]] + [[1]] + [[3]] = 17
**このような数は6個あり、[[1]], [[8]], 17, [[18]], [[26]], [[27]]。
*''n''{{sup|2}} + ''n'' + 17 の値は 0 ≤ ''n'' ≤ 15 を満たす整数 ''n'' に対し全て素数となる。([[41]] を参照のこと)
*{{sfrac|1|17}} = 0.{{underline|0588235294117647}}… (下線部は循環節で長さは16)
**循環節が ''n'' − 1(全ての余りを巡回する)である2番目の素数である。1つ前は[[7]]、次は[[19]]。
**次の素数19もこの仲間であり、双子素数のうち最初の組み合わせとなる。次は([[59]], [[61]])。
***[[1000]] 以下でこのような双子素数は ([[59]], [[61]]) 、([[179]], [[181]]) 、([[821]], [[823]]) である。
***(17, [[19]]) の次の ([[23]], [[29]]) も該当するため、連続する4つ以上の素数が循環節 ''n'' − 1 となる最初の組み合わせとなる。次は ([[487]], [[491]], [[499]], [[503]], [[509]])(5つ連続)である。
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が16になる最小の数である。次は[[34]]。
**循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の15は[[31]]、次の17は2071723。({{OEIS|A003060}})
*17 = 2 + 3 + 5 + 7
**[[素数#連続素数和|最初の4つの素数の和]]である。1つ前は[[10]]、次は[[28]]。
**最初からの素数の和が素数となる3番目の素数である。1つ前は[[5]]、次は[[41]]。
**17 = 2{{sup|1}} + 3{{sup|1}} + 5{{sup|1}} + 7{{sup|1}}
*** ''n'' = 1 のときの 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[87]]。({{OEIS|A135168}})
*10進数表記において桁を入れ替えても素数となる2番目の[[エマープ]]である。(17 ←→ [[71]]) 1つ前は[[13]]、次は[[31]]。
* 1 と 7 を使った最小の素数である。次は[[71]]。ただし単独使用を可とするなら1つ前は[[11]]。({{OEIS|A020455}})
** 17…7 の形の最小の素数である。次は1777。({{OEIS|A088465}})
** 1…17 の形の最小の素数である。次は1117。({{OEIS|A093139}})
* 17 = 2{{sup|3}} + 9
** ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''}} + 9 の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[25]]。({{OEIS|A188165}})
*** 2{{sup|''n''}} + 9 の形の3番目の素数である。1つ前は[[13]]、次は[[41]]。({{OEIS|A104070}})
*17[[階乗|!]] = 355687428096000 である(15桁)。
*17{{sup|7}} + 76271{{sup|3}} = 21063928{{sup|2}}
*17 = 2{{sup|3}} + 3{{sup|2}}
** 2番目の[[レイランド数]]である。1つ前は8、次は32。({{OEIS|A076980}})
*** 最小のレイランド素数である。次は593。({{OEIS|A094133}})
** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|''n''+1}} + (''n'' + 1){{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[3]]、次は[[145]]。({{OEIS|A051442}})
** ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[32]]。({{OEIS|A001580}})
*** 2{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|2}} で表せる2番目の素数である。1つ前は[[3]]、次は[[593]]。({{OEIS|A061119}})
** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[54]]。({{OEIS|A001585}})
*** 3{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|3}} で表せる最小の素数である。次は ''n'' = 56 のときの523347633027360537213687137。({{OEIS|A253471}})
*各位の和が17になる[[ハーシャッド数]]の最小は[[476]]、1000までに4個、10000までに41個ある。
*[[各位の和]]が8になる2番目の数である。1つ前は[[8]]、次は[[26]]。
**各位の和が8になる数で[[素数]]になる最小の数である。次は[[53]]。({{OEIS|A062343}})
** [[奇数]]という条件をつけると各位の和が8になる最小の数である。
*各位の[[平方和]]が50になる最小の数である。次は[[55]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の49は[[7]]、次の51は[[117]]。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が344になる最小の数である。次は[[71]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の343は[[7]]、次の345は[[117]]。({{OEIS|A165370}})
* 各位の積が7になる2番目の数である。1つ前は[[7]]、次は[[71]]。({{OEIS|A034054}})
**各位の積が7になる数で[[素数]]になる2番目の数である。1つ前は[[7]]、次は[[71]]。({{OEIS|A107693}})
* 17 = 2{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}}
** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる7番目の数である。1つ前は[[14]]、次は[[18]]。({{OEIS|A025321}})
* 17 = 1{{sup|3}} + 2{{sup|3}} + 2{{sup|3}}
** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる3番目の数である。1つ前は[[10]]、次は[[24]]。({{OEIS|A025395}})
** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和で表せる2番目の[[素数]]である。1つ前は[[3]]、次は[[29]]。({{OEIS|A007490}})
* 17 = 9{{sup|2}} − 8{{sup|2}} = (9 + 8) × (9 − 8)
** ''n'' = 9 のときの (''n'' + 8)(''n'' − 8) の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[36]]。({{OEIS|A098849}})
* 17 = 3{{sup|4}} - 4{{sup|3}}
** 4番目の第2種レイランド数である。1つ前は7、次は28。({{OEIS|A045575}})
*** 2番目の第2種レイランド素数である。1つ前は7、次は79。({{OEIS|A123206}})
<!--*** レイランド数かつ第2種レイランド数である最小の数である。1000000以下に他の数はない。(OEISの双方の数列を比較すれば確認できるが独自研究なので記載しないで置く)-->
== その他 17 に関連すること ==
{{See also|セブンティーン}}
* [[英語]]読みは'''セブンティーン'''。
* [[年始]]から数えて17日目は[[1月17日]]。
* 17の[[接頭辞]]:septendec([[ラテン語|拉]])、heptakaideca([[ギリシャ語|希]])
* 17[[倍]]を'''セプテンデキュプル''' (septendecuple) という。
* [[第17族元素]]をハロゲンという。
* [[原子番号]]17の[[元素]]は、[[塩素]] (Cl)。
* 第17代[[天皇]]は、[[履中天皇]]。
* 第17代[[内閣総理大臣]]は、[[大隈重信]]。
* 通算して第17代の[[征夷大将軍]]は、[[足利尊氏]]([[室町幕府]]第1代将軍)。
* [[大相撲]]第17代[[横綱]]は、[[小錦八十吉 (初代)|小錦八十吉]]。
* [[アメリカ合衆国]]第17代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、[[アンドリュー・ジョンソン]]。
* アメリカ合衆国の17番目の[[州]]は、[[オハイオ州]]。
* [[殷|殷朝]]第17代帝は、[[南庚]]。
* [[周|周朝]]第17代王は、[[恵王 (周)|恵王]]。
* 第17代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ウルバヌス1世 (ローマ教皇)|ウルバヌス1世]](在位:[[222年]] - [[230年]][[5月25日]])である。
* [[マレーシア航空17便撃墜事件|マレーシア航空17便]]は、2014年7月17日にウクライナで何者かによって地対空ミサイルで撃墜された事件。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]でXVIIは、[[星 (タロット)|星]]。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第17番目の卦は、[[周易上経三十卦の一覧#随|沢雷随]]。
* ラテン文化圏では17日は忌みの日である。「XVII」を[[アナグラム]]にすると「VIXI」(意味は「(私は)生きた」つまり「(私は)死んでいる」と言うこと)になるからである。同様に17は[[忌み数]]とされ、例えば[[アリタリア-イタリア航空]]には客席に「17列」が存在せず、[[ルノー]]の「R17」もイタリア向けは「R177」に改番されている。{{ill2|17恐怖症|en|Heptadecaphobia}}も参照。
* [[クルアーン]]における第17番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅]]である。
* [[俳句]]の文字数(音数)は五・七・五の17文字。
* [[月#月齢と呼び名|十七日月]]を立待月(たちまちづき)という。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「17」は[[石川県]]。
* [[グロック17]]は、[[オーストリア]]の[[グロック]]の[[拳銃]]。
* [[サーブ 17]]は、[[スウェーデン]]の偵察爆撃機。
* ノースロップ [[A-17]]は、アメリカの[[攻撃機]]。
* [[AGS-17]]は、[[ソ連]]の[[自動擲弾銃]]。
* [[B-17 (航空機)|B-17]] フライングフォートレスは、アメリカの[[爆撃機]]。
* [[C-17 (航空機)|C-17]] グローブマスターIIIは、アメリカの[[輸送機]]。
* [[YF-17 (戦闘機)|YF-17]] コブラは、アメリカの[[戦闘機]]。
* [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[サガン鳥栖]]の唯一の[[永久欠番]]([[2006年]][[10月]]現在)。[[坂田道孝]]教授の命日[[1月7日]]による。
* [[ピアノソナタ第17番]]
* 『[[Ever17 -the out of infinity-]]』は、[[KID (ゲームブランド)|KID]]の[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛アドベンチャーゲーム]]。
* 『[[大鉄人17]]』は、[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送された[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビ番組]]。
* 『バベル-17』は、[[サミュエル・R・ディレイニー]]の[[サイエンス・フィクション|SF小説]]。
* 『[[エルフ・17]]』は、[[山本貴嗣]]の[[漫画]]。
* 『[[フィギュア17 つばさ&ヒカル]]』は、[[アニメ番組]]およびこれを原作とした漫画・[[小説]]。
* 『[[はるか17]]』は、[[山崎紗也夏|山崎さやか]]の漫画およびこれを原作とした[[テレビドラマ]]。
* 『[[17 (漫画)|17 【じゅうなな】]]』は、 [[桜井まちこ]]の漫画。
* 『[[17歳。]]』は、[[鎌田洋次]]の漫画。
* 『[[17 Live]]』は、台湾発のライブストリーミングサービス。
* [[ブラックジャック]]においては、ディーラーは手札の合計が17に達するまで必ずカードを引かなければならない。
* [[南沙織]]のデビュー曲「[[17才 (南沙織の曲)|17才]]」。
* [[河合奈保子]]の楽曲「[[17才 (河合奈保子の曲)|17才]]」。
* [[桜田淳子]]の楽曲「[[十七の夏]]」。
* [[TOKIO]]のアルバム「[[17 (TOKIOのアルバム)|17]]」。
* [[鈴木このみ]]のアルバム「[[17 (鈴木このみのアルバム)|17]]」。
* [[尾崎豊]]のデビューアルバム『[[十七歳の地図 (アルバム)|十七歳の地図]]』とシングル「[[十七歳の地図 (曲)|十七歳の地図]]」。
* [[南沢十七]]は、日本の探偵小説家。
* 17年ゼミは、アメリカ合衆国東部に生息する[[周期ゼミ]]で17年周期で発生し3種存在する。
* "LION"(ライオン)の文字を上下逆さにすると「NO17」に見えることから、日本の生活用品メーカー・[[ライオン (企業)|ライオン]]はこの「NO17」を商標登録している。
* [[大日本帝国陸軍]][[第17方面軍 (日本軍)|第17方面軍]]
* 第17軍
** 大日本帝国陸軍[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]
** [[第二次世界大戦]]時の[[第17軍 (ドイツ軍)|ドイツ陸軍第17軍]]
** [[アメリカ空軍]][[第17空軍 (アメリカ軍)|第17空軍]]
* 各国の[[第17師団]]
* 各国の[[第17旅団]]
* 第17連隊
** 大日本帝国陸軍[[歩兵第17連隊]]
** [[陸上自衛隊]][[第17普通科連隊]]
** [[フランス陸軍]][[第17工兵落下傘連隊]]
* [[井上喜久子]]は、実年齢に関わらず常に「17歳」を自称している。
* [[ジュール・ビアンキ]]がF1で使用していた固定カーナンバーが「17」で永久欠番。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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|}
==関連項目==
*[[数に関する記事の一覧]]
**[[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]]
**[[10]] [[11]] [[12]] [[13]] [[14]] [[15]] [[16]] '''17''' [[18]] [[19]]
**'''17''' [[34]] [[51]] [[68]] [[85]] [[102]] [[119]] [[136]] [[153]] [[170]] [[187]] [[204]]
*[[西暦]][[17年]] [[紀元前17年]] [[1917年]] [[17世紀]] - [[平成17年]] [[昭和17年]] [[明治17年]] - [[1月7日]]
*[[名数一覧]]
*[[17歳 (曖昧さ回避)|17歳(才)、十七歳(才)]]
{{自然数}}
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2003-08-28T14:48:36Z
|
2023-12-07T14:07:55Z
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"Template:Underline"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/17
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14,291 |
総合科学
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総合科学(そうごうかがく、英語:synthetic science)とは、多数の学問分野により、総合的な視野で、学際的・包括的に構成される学問・教育研究のことである。
総合科学の語が使われる場としては、主に次の2つの類型がある。
「総合科学」は、研究領域において一般性を有する語としては認知されておらず、学校における進路指導や一部の大学内などで使用されることが比較的多い。ただし、大学共同利用機関法人情報・システム研究機構の国立情報学研究所の学術用語検索 の分類に総合科学の語があり、また、初等中等教育を担当する教員を中心に総合科学の語が使われるなど、徐々にこの呼称は広まりつつある。
総合科学の英語訳は各大学によって異なり、大阪府立大学、広島大学、徳島大学では「Integrated Arts and Sciences」(統合教養学)を使用し、長崎総合科学大学では「Applied Sciences」(応用科学)、人間総合科学大学では「Human Arts & Sciences」(人間教養学)、静岡大学教育学部の専攻名では「Integrated Sciences」(統合科学)を使用している。また、日本大学大学院総合科学研究科(2014年度で廃止)は「Sciences and Humanities」としている。
日本においては、情報学・環境学などの学際的な学問を「体系性を持つ学問」と捉えて「科学」の語を使用するときに、既存の基礎科学・人文科学・社会科学・自然科学・応用科学などと区別して、総合科学の語が用いられることがある。
国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) 勧告による科学技術統計を作成する際の分類では、学際分野は「学際」という名称でかつ「人文社会科学」「工学と技術」に含めるとされ、かつ図書分類の学問分類にも存在しないことを考慮すると、第三者への説明や文献調査などでは「総合科学」よりも「学際分野」などの学際(interdisciplin)の意味を含めた語を用いた方が無難でもあるといわれている。実際、1988年4月に設置された、いわゆるゼロ免課程である鳥取大学教育学部総合科学課程は、英訳としてInterdisciplinary Studies Courseという訳語が充てられていた。
総合科学には、次にあげるような分野がある(各大学によって学際領域への捉え方に相違があり、一例である)。次の分野は、人文科学、社会科学、自然科学のいずれかの分野に含めることもできるが、その際にその分野の一部分が切り離される場合も多い。なお、括弧内には、関連が強い個別の学問分野を示した。
日本において、各大学内で多種多様な教員の教育研究分野を包括しようとして「総合科学」の語が用いられることがある。
大学の教養部を学部に改組したときに新設学部において総合科学の語が使用されたのが始まりである(広島大学、大阪府立大学など)。多岐の学問に渡る教員の教育研究の範囲をすべて包括するものと捉えられているものの、総合科学を学問分野と捉えて、厳格に用語の定義を行うことは難しいといわれている。( 広島大学総合科学部学部報)。
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総合科学とは、多数の学問分野により、総合的な視野で、学際的・包括的に構成される学問・教育研究のことである。
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{{Otheruses||架空の学問分野|宇宙船ビーグル号の冒険#用語}}
{{出典の明記|date=2011年11月}}
'''総合科学'''(そうごうかがく、[[英語]]:synthetic science)とは、多数の[[学問]]分野により、[[総合]]的な視野で、[[学際]]的・包括的に構成される学問・[[教育研究]]のことである。
== 概要 ==
総合科学の語が使われる場としては、主に次の2つの類型がある。
# 学際的な学問分野において、幅広くかつ体系性を有している学問(総合的な[[科学]])であることを指向して使用される[[語]]。([[#学際的な総合科学]]で詳述。)
# 旧・[[教養部]]を母体とする[[大学]]組織などにおいて、多種多様な教員の教育研究分野を包括することを指向して使用される語。([[#包括的な総合科学]]で詳述。)
「総合科学」は、研究領域において一般性を有する語としては認知されておらず、学校における[[進路指導]]や一部の大学内などで使用されることが比較的多い。ただし、[[大学共同利用機関法人]][[情報・システム研究機構]]の[[国立情報学研究所]]の学術用語検索 [http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi] の分類に総合科学の語があり、また、[[初等中等教育]]を担当する[[教員]]を中心に総合科学の語が使われるなど、徐々にこの呼称は広まりつつある。
総合科学の英語訳は各大学によって異なり、大阪府立大学、広島大学、[[徳島大学]]では「Integrated Arts and Sciences」(統合教養学)を使用し、[[長崎総合科学大学]]では「Applied Sciences」(応用科学)、人間総合科学大学では「Human Arts & Sciences」(人間教養学)、[[静岡大学]]教育学部の専攻名では「Integrated Sciences」(統合科学)を使用している。また、[[日本大学大学院総合科学研究科]](2014年度で廃止)は「Sciences and Humanities」としている。
== 学際的な総合科学 ==
日本においては、[[情報学]]・[[環境学]]などの学際的な学問を「体系性を持つ学問」と捉えて「科学」の語を使用するときに、既存の[[基礎科学]]・[[人文科学]]・[[社会科学]]・[[自然科学]]・[[応用科学]]などと区別して、総合科学の語が用いられることがある。<!-- いつごろから使い始めたのか分かっていないので、詳しい方お願いします。-->
[[国際連合教育科学文化機関]] (UNESCO) 勧告[http://www.mext.go.jp/unesco/horei/pdf/k023.pdf]による科学技術統計を作成する際の分類では、学際分野は「学際」という名称でかつ「人文社会科学」「工学と技術」に含めるとされ、かつ[[本|図書]]分類の学問分類にも存在しないことを考慮すると、第三者への説明や文献調査などでは「総合科学」よりも「学際分野」などの学際(interdisciplin)の意味を含めた語を用いた方が無難でもあるといわれている。実際、[[1988年]]4月に設置された、いわゆる[[ゼロ免課程]]である[[鳥取大学]]教育学部総合科学課程は、英訳としてInterdisciplinary Studies Courseという訳語が充てられていた。
=== 学際的な総合科学の一覧 ===
総合科学には、次にあげるような分野がある(各大学によって学際領域への捉え方に相違があり、一例である)。次の分野は、人文科学、社会科学、自然科学のいずれかの分野に含めることもできるが、その際にその分野の一部分が切り離される場合も多い。なお、括弧内には、関連が強い個別の学問分野を示した。
* [[情報学]] ([[工学]]、[[数学]]、[[社会学]]、[[言語学]])
* [[環境学]] ([[法学]]、[[経済学]]、[[化学]]、[[生物学]]、[[地学]]、[[地理学]])
* [[家政学]] ([[政治学]]、[[社会学]]、[[教育学]]、[[心理学]]、[[理学]]、[[統計学]])
* [[博物学]] ([[理学]]、[[考古学]]、[[歴史学]]、[[文学]])
* [[社会福祉学]] ([[法学]]、[[社会学]]、[[心理学]]、[[看護学]])
<!-- * [[性科学]] ([[医学]]、[[心理学]]、[[社会学]]、[[生物学]]、[[文学]]、[[民俗学]]) 性科学は学際科学(interdiscipliscience)・総合科学としてまだ存在していない。-->
== 包括的な総合科学 ==
日本において、各大学内で多種多様な教員の教育研究分野を包括しようとして「総合科学」の語が用いられることがある。
大学の教養部を[[学部]]に改組したときに新設学部において総合科学の語が使用されたのが始まりである([[広島大学]]、[[大阪府立大学]]など)。多岐の学問に渡る教員の教育研究の範囲をすべて包括するものと捉えられているものの、総合科学を学問分野と捉えて、厳格に用語の定義を行うことは難しいといわれている。([http://home.hiroshima-u.ac.jp/souka/h_database/h-2hishou/45/index45b.html] 広島大学総合科学部学部報)。
== 用例 ==
* 日本の[[内閣府]]に設置されている[[社会科学]]、[[人文科学]]、[[自然科学]]の総合的な[[科学技術]][[行政]]のための[[会議]]の[[名前|名称]]の一部([[総合科学技術・イノベーション会議]] Council for Science, Technology and Innovation)
* 大学組織(大学全体、学部、研究科、センター)や[[高等学校]]の名称([[長崎総合科学大学]]、[[人間総合科学大学]]、[[川崎総合科学高等学校]]、[[広島大学]]の[[総合科学研究科]]など)
* [[学会]]、[[博物館]]、民間[[企業]]などの名称([[人間総合科学会]]、[[愛媛総合科学博物館]]など)
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|}} -->
* [[学問]] - [[学際]]
* [[基礎科学]] - [[人文科学]] - [[社会科学]] - [[自然科学]] - [[応用科学]]
== 外部リンク ==
* [https://www8.cao.go.jp/cstp/ 内閣府総合科学会議]
{{Academia-stub}}
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[[Category:学問の分野]]
[[Category:学際領域]]
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災害
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災害(さいがい、英語: Disaster)とは、自然現象や人為的な原因によって、人命や社会生活に被害が生じる事態を指す。
「災害」と呼ばれるのは、人間に影響を及ぼす事態に限られる。例えば、洪水や土砂崩れが発生しても、そこにだれも住んでいなければ被害や損失を受ける者は出ないため、それは災害とは呼ばない。また「災害」という用語は多くの場合、自然現象に起因する自然災害(天災)を指すが、人為的な原因による事故や事件(人災)も災害に含むことがある。通常は、人間生活が破壊されて何らかの援助を必要とする程の規模のものを指し、それに満たない規模の人災は除かれる。
自然災害の性質として、災害の元となる事象を制御することができないことが挙げられる。地震や大雨という現象自体は止めることができない。人工降雨も研究されているが、干ばつを防ぐほどの技術力には未だ達していない。一方、火事や交通事故はそれ自体人間によるものであり、人間による制御がある程度利く事象である。これが、自然災害と人為的災害の相違点である。
ただし、事件・事故と災害の使い分けは必ずしも明確ではない。政治や行政、社会学的観点からは、自然災害および社会的影響が大きな人的災害を災害と考える。一方、労働安全の場面や安全工学の観点においては、その大小や原因に関わらず人的被害をもたらす事態を災害(労働安全においては労働災害)と考える。
災害の要因は大きく2つある。災害をもたらすきっかけとなる現象、例えば地震や洪水のような外力 (hazard) を誘因と言う。これに対して、社会が持つ災害への脆弱性、例えば都市の人口集積、あるいは、裏を返せば社会の防災力、例えば建物の耐震性や救助能力を素因と言う。災害は、誘因が素因に作用して起こるものであり、防災力(素因)を超える外力(誘因)に見舞われた時に災害が生じる、と考えることができる。この外力は確率的な現象であり、規模の大きなものほど頻度が低くなる。そのため、「絶対安全」は有り得ないことが分かる。そして、誘因をよく理解するとともに、素因である脆弱性を低減させること(防災力を向上させること)ことが被害を低減させる。
例えば、1995年に発生したマグニチュード(M) 7.3の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では6千人以上の死者が出たが、5年後の2000年に発生したM7.3の鳥取県西部地震では死者が出なかった。これは、阪神間という都市への人口集中が社会の混乱の規模、つまり脆弱性を増大させていたことを示している。単に「外力が大きければ大きな災害になる」と思われがちであるが、実は、外力が同じ規模でも、社会の脆弱性や防災力の高さが災害の様相を大きく変えるのである。またこのことから、「自然災害」に分類される災害においても人為的な要因が大なり小なり存在することが分かる。
災害により被害を受けた地域を被災地(ひさいち)、被害を受けたものを被災者(ひさいしゃ)という。1993年に採択された「ウィーン宣言及び行動計画」では、自然災害と人的災害について言及し、国際連合憲章と国際人道法の原則に従って、被災者に人道支援を行うことの重要性を強調している。
なお、災害の程度に応じて「非常事態」「緊急事態」 (emergency) と言う場合もある。これは、政府や行政が通常時とは異なる特別な法制度に基づいた行動に切り替える非常事態宣言のように、通常時とは異なる社会システムへの切り替えを必要とするような激しい災害を指す。
災害を防ぐということを考えてみる。災害を起こす外力を完全に制御できれば災害がなくなるが、それは現在の科学技術では不可能であるし、経済性をとっても現実的ではない。他方、災害は確率的であり、社会が経験していないあるいは忘れているような大きな災害が、いつかはやってくる。そして、経済性などの限界により、災害を抑止する施設を無限に強化することはできない。そのため、災害に関して絶対安全というのは存在しない。
一方で、治水技術の向上により一定レベルの水害の抑止が可能となったことで、水害については「制御可能感」が生じている。また、地球上の地形はいわば災害の繰り返しによってできており、地形や地層などを手がかりにして長期的にその土地が受けやすい災害の種類を推測することは可能である。
災害は、社会、あるいは個人の生命や財産に対するリスクである。災害のリスクに対する価値観は、身近な例として住居を考えると、回避型(めったにない災害に備えて労力や出費を厭わず安全な暮らしを求める)、志向型(頻度の低い災害に備えるより、当面のメリットである費用の低さや快適性を求める)、その中間の3タイプに分類できる。リスクマネジメントの観点で見れば、志向型は、防災の手間や費用を省くことで他の面で得をするという、ある種の「賭け」に出ているとみなすことができる。そもそも、防災は、災害に直面したその時には自らの生死を分ける厳しいものであるにもかかわらず、普段の生活の中ではどこか縁遠いものと感じてしまう傾向がある。これを防ぐためには、身近な地域の災害のリスクについて具体的に理解を深めたりすることが必要とされる。
災害に直面した人の心理を説明するプロセスの1つとして、不安喚起モデルがある。人は不安が喚起された時、以下の3パターンによって不安を解消しようとする、というものである。
災害時に避難を判断する場面において、生存のために望まれるのは1.自主解決により自分の命を守る最善の努力をしようとすることであり、2.他者依存や3.思考停止はそういった努力を妨げる方向に働く。しかし、例えば水害への制御可能感への裏返しとして行政への責任を求める傾向は2.他者依存を助長し、生命の限界を直視せず楽観視するという誰もが持つ心理特性は3.思考停止を助長するため、人間の心理特性として1.自主解決を行うのは容易ではない。そのため、防災教育を通して1.自主解決へ導き災害時の柔軟な判断を可能にすることが必要と考えられる。
また、「災害は忘れたころにやってくる」という言葉があるように、大きな災害を経験したとしても、経験を伝承する先人の言葉や教訓は次第に忘れ去られ、風化していくのが常である。近代に津波被害を受けて高台に移転しても、より便利な海辺へと次第に回帰し、再び住居が建てられるようになった地域が存在している。高台移転については、当初は津波への恐怖が「職住分離」の不便さを上回っていても、やがて時間とともに変わっていくため、これを維持するための配慮が必要となる。また、堤防によって守られていても、それに依存せず教訓を伝えていく努力が必要となる。
災害は法律で定義される場合もあるがその対象や規模は一律ではない。
主な災害をその分類とともに示す。
なお、他の災害に比べて被害の程度やその広がりが著しい災害を「大規模災害」と呼ぶことがあるが、具体的な定義はない。被害の広がりに着目した場合、「広域災害」と呼ぶこともある。これらは甚大な被害によって外部からの救援を必要とする場合が多い。また、都道府県を跨ぐ規模の災害を「スーパー広域災害」と呼ぶこともあるが、これは日本の災害対策が市町村や都道府県ごとの縦割りとなっていて、都道府県を跨いだ大規模避難や救援などの災害対策の連携に難点が見られることから作られた用語である。
このほか、いわゆる災害の「ダブルパンチ」とよばれるような、複数の誘因が重なった災害を「複合災害」という。例えば、2011年の東日本大震災は地震と津波の被災地で福島第一原発事故が発生した。2004年10月の新潟県中越地震の被災地は、同年7月に豪雨に見舞われており、翌年1 - 2月にはさらに豪雪に見舞われた。
突発的事象により引き起こされるものを非常災害、日常的な生活の中で引き起こされるいわゆる"事故"を日常災害と呼ぶ。安全工学では、日常災害、労働災害を含めた広範な事象を災害として扱う。一時に3人以上の労働者が業務上死傷又はり病した災害事故を「重大災害」と称する。
災害を未然に防止する対応は、被害が生じないようにする被害抑止と、被害が生じてもそれを少なくし、立ち直りがスムーズになるようにする被害軽減に大別される。一方、災害発生後の対応は、救助や避難所の運営などの応急対応と復旧・復興に大別される。これらが防災を構成する。これらに加えて、自然災害のメカニズムやそれを抑止する技術の研究、災害の予測(ハザードアナリシス)、それらの知識の普及(防災教育)なども重要な要素である。
自然災害は、規模に頻度が反比例する確率的な現象である。つまり、自然災害を起こす外力が大きくなるほど頻度が小さくなるうえ、その上限を理論的に特定することができないという特徴を持っている。歴史記録の中から得られる自然災害の情報で信頼のおけるものは数百年程度であり、それを超える「1,000年に一度」というような低頻度の大きな災害については分からない部分が出てきてしまう。そのため、ハード対策では「設計基準外力」(計画外力)を設定してそれ以下の外力では被害が一切出ないように堤防などの構造物を設計し、ソフト対策では既往最大あるいは予想される一定レベルの外力を設定してハザードマップを作成しその場合における被害想定を行う。ただし、設計基準外力を設定するにあたっては、設定を高くすればするほど費用がかさむため、経済性との兼ね合いや住民の合意などの調整が必要となる。なお、これらの外力の再来間隔を確率年という。
一方で、被害想定はあくまで現段階で考えられうるものに過ぎず、想定を上回る「想定外」の事態が発生する可能性は常に存在する。東日本大震災が従前の被害想定を上回る規模であったように、である。そのため、「想定外」に対応できるようにしておくことも求められる。
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"text": "災害を防ぐということを考えてみる。災害を起こす外力を完全に制御できれば災害がなくなるが、それは現在の科学技術では不可能であるし、経済性をとっても現実的ではない。他方、災害は確率的であり、社会が経験していないあるいは忘れているような大きな災害が、いつかはやってくる。そして、経済性などの限界により、災害を抑止する施設を無限に強化することはできない。そのため、災害に関して絶対安全というのは存在しない。",
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"text": "災害に直面した人の心理を説明するプロセスの1つとして、不安喚起モデルがある。人は不安が喚起された時、以下の3パターンによって不安を解消しようとする、というものである。",
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"text": "災害時に避難を判断する場面において、生存のために望まれるのは1.自主解決により自分の命を守る最善の努力をしようとすることであり、2.他者依存や3.思考停止はそういった努力を妨げる方向に働く。しかし、例えば水害への制御可能感への裏返しとして行政への責任を求める傾向は2.他者依存を助長し、生命の限界を直視せず楽観視するという誰もが持つ心理特性は3.思考停止を助長するため、人間の心理特性として1.自主解決を行うのは容易ではない。そのため、防災教育を通して1.自主解決へ導き災害時の柔軟な判断を可能にすることが必要と考えられる。",
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"text": "また、「災害は忘れたころにやってくる」という言葉があるように、大きな災害を経験したとしても、経験を伝承する先人の言葉や教訓は次第に忘れ去られ、風化していくのが常である。近代に津波被害を受けて高台に移転しても、より便利な海辺へと次第に回帰し、再び住居が建てられるようになった地域が存在している。高台移転については、当初は津波への恐怖が「職住分離」の不便さを上回っていても、やがて時間とともに変わっていくため、これを維持するための配慮が必要となる。また、堤防によって守られていても、それに依存せず教訓を伝えていく努力が必要となる。",
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"text": "主な災害をその分類とともに示す。",
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"text": "なお、他の災害に比べて被害の程度やその広がりが著しい災害を「大規模災害」と呼ぶことがあるが、具体的な定義はない。被害の広がりに着目した場合、「広域災害」と呼ぶこともある。これらは甚大な被害によって外部からの救援を必要とする場合が多い。また、都道府県を跨ぐ規模の災害を「スーパー広域災害」と呼ぶこともあるが、これは日本の災害対策が市町村や都道府県ごとの縦割りとなっていて、都道府県を跨いだ大規模避難や救援などの災害対策の連携に難点が見られることから作られた用語である。",
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"text": "このほか、いわゆる災害の「ダブルパンチ」とよばれるような、複数の誘因が重なった災害を「複合災害」という。例えば、2011年の東日本大震災は地震と津波の被災地で福島第一原発事故が発生した。2004年10月の新潟県中越地震の被災地は、同年7月に豪雨に見舞われており、翌年1 - 2月にはさらに豪雪に見舞われた。",
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"text": "突発的事象により引き起こされるものを非常災害、日常的な生活の中で引き起こされるいわゆる\"事故\"を日常災害と呼ぶ。安全工学では、日常災害、労働災害を含めた広範な事象を災害として扱う。一時に3人以上の労働者が業務上死傷又はり病した災害事故を「重大災害」と称する。",
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"text": "災害を未然に防止する対応は、被害が生じないようにする被害抑止と、被害が生じてもそれを少なくし、立ち直りがスムーズになるようにする被害軽減に大別される。一方、災害発生後の対応は、救助や避難所の運営などの応急対応と復旧・復興に大別される。これらが防災を構成する。これらに加えて、自然災害のメカニズムやそれを抑止する技術の研究、災害の予測(ハザードアナリシス)、それらの知識の普及(防災教育)なども重要な要素である。",
"title": "災害の防止と対応"
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"text": "自然災害は、規模に頻度が反比例する確率的な現象である。つまり、自然災害を起こす外力が大きくなるほど頻度が小さくなるうえ、その上限を理論的に特定することができないという特徴を持っている。歴史記録の中から得られる自然災害の情報で信頼のおけるものは数百年程度であり、それを超える「1,000年に一度」というような低頻度の大きな災害については分からない部分が出てきてしまう。そのため、ハード対策では「設計基準外力」(計画外力)を設定してそれ以下の外力では被害が一切出ないように堤防などの構造物を設計し、ソフト対策では既往最大あるいは予想される一定レベルの外力を設定してハザードマップを作成しその場合における被害想定を行う。ただし、設計基準外力を設定するにあたっては、設定を高くすればするほど費用がかさむため、経済性との兼ね合いや住民の合意などの調整が必要となる。なお、これらの外力の再来間隔を確率年という。",
"title": "災害の予測"
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"text": "一方で、被害想定はあくまで現段階で考えられうるものに過ぎず、想定を上回る「想定外」の事態が発生する可能性は常に存在する。東日本大震災が従前の被害想定を上回る規模であったように、である。そのため、「想定外」に対応できるようにしておくことも求められる。",
"title": "災害の予測"
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災害とは、自然現象や人為的な原因によって、人命や社会生活に被害が生じる事態を指す。
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[[ファイル:Ashfall from Pinatubo, 1991.jpg|サムネイル|自然的な要因による災害の例(1991年、[[フィリピン]]・[[ピナトゥボ山|ピナツボ山]]の噴火による[[火山灰]]での被害)]]
[[ファイル:Nelson's Column during the Great Smog of 1952.jpg|サムネイル|人為的な原因による災害の例(1952年、[[ロンドンスモッグ]]による[[大気汚染]]の被害)]]
[[ファイル:Estonia ferry2.jpg|サムネイル|1994年に[[バルト海]]に沈んだ[[エストニア (クルーズフェリー)|エストニア]]のライフクラフト]]
'''災害'''(さいがい、{{Lang-en|Disaster}})とは、自然現象や人為的な原因によって、[[人命]]や社会生活に被害が生じる事態を指す<ref name="dprik4-134">林春夫「災害をうまくのりきるために -クライシスマネジメント入門-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、134頁。</ref><ref name="Goto-19">[[#Goto|後藤・高橋、2014年]]、19頁。</ref>。
== 定義と概要 ==
「災害」と呼ばれるのは、人間に影響を及ぼす事態に限られる。例えば、洪水や土砂崩れが発生しても、そこにだれも住んでいなければ被害や損失を受ける者は出ないため、それは災害とは呼ばない。また「災害」という用語は多くの場合、自然現象に起因する[[自然災害]](天災)を指すが、人為的な原因による[[事故]]や[[事件]](人災)も災害に含むことがある。通常は、人間生活が破壊されて何らかの援助を必要とする程の規模のものを指し、それに満たない規模の人災は除かれる<ref name="dprik4-134"/><ref name="Goto-19"/>。
自然災害の性質として、災害の元となる事象を制御することができないことが挙げられる。地震や大雨という現象自体は止めることができない。[[人工降雨]]も研究されているが、[[干ばつ]]を防ぐほどの技術力には未だ達していない。一方、火事や交通事故はそれ自体人間によるものであり、人間による制御がある程度利く事象である。これが、自然災害と人為的災害の相違点である<ref>岡田憲夫「住民自らが行う防災 -リスクマネジメント事始め-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、101-102頁。</ref><ref>[[#Mizutani|水谷、2002年]]、2 - 3頁。</ref>。
ただし、事件・事故と災害の使い分けは必ずしも明確ではない。政治や行政、社会学的観点からは、自然災害および社会的影響が大きな人的災害を災害と考える。一方、[[労働安全]]の場面や[[安全工学]]の観点においては、その大小や原因に関わらず人的被害をもたらす事態を災害(労働安全においては[[労働災害]])と考える。
災害の要因は大きく2つある。災害をもたらすきっかけとなる現象、例えば地震や洪水のような外力 (''hazard'') を誘因と言う。これに対して、社会が持つ災害への脆弱性、例えば都市の人口集積、あるいは、裏を返せば社会の防災力、例えば建物の耐震性や救助能力を素因と言う。災害は、誘因が素因に作用して起こるものであり、防災力(素因)を超える外力(誘因)に見舞われた時に災害が生じる、と考えることができる。この外力は確率的な現象であり、規模の大きなものほど頻度が低くなる。そのため、「絶対安全」は有り得ないことが分かる。そして、誘因をよく理解するとともに、素因である脆弱性を低減させること(防災力を向上させること)ことが被害を低減させる<ref name="dprik4-134136">林春夫「災害をうまくのりきるために -クライシスマネジメント入門-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、134-136頁。</ref><ref>[[#Mizutani|水谷、2002年]]、1 - 2頁。</ref><ref name="Gensai-77"> 『[[#Gensai|豪雨・洪水災害の減災に向けて]]』、77 - 79頁、92頁。</ref>。
例えば、1995年に発生した[[マグニチュード]](M) 7.3の[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])では6千人以上の死者が出たが、5年後の2000年に発生したM7.3の[[鳥取県西部地震]]では死者が出なかった。これは、[[阪神間]]という都市への人口集中が社会の混乱の規模、つまり脆弱性を増大させていたことを示している。単に「外力が大きければ大きな災害になる」と思われがちであるが、実は、外力が同じ規模でも、社会の脆弱性や防災力の高さが災害の様相を大きく変えるのである。またこのことから、「自然災害」に分類される災害においても人為的な要因が大なり小なり存在することが分かる<ref name="dprik4-134136"/>。
災害により被害を受けた地域を'''被災地'''(ひさいち)、被害を受けたものを'''[[被災者]]'''(ひさいしゃ)という。1993年に採択された「[[ウィーン宣言及び行動計画]]」では、自然災害と人的災害について言及し、[[国際連合憲章]]と[[国際人道法]]の原則に従って、被災者に[[人道支援]]を行うことの重要性を強調している。
なお、災害の程度に応じて「非常事態」「緊急事態」 (''emergency'') と言う場合もある。これは、政府や行政が通常時とは異なる特別な法制度に基づいた行動に切り替える[[非常事態宣言]]のように、通常時とは異なる社会システムへの切り替えを必要とするような激しい災害を指す。
=== 災害観 ===
[[File:Disaster frequency and scale diagram ja.svg|thumb|400px|災害における外力の大きさと発生頻度の関係(河田・2003年の図<ref name="dprik4-41"/>を改変)。災害が確率的であることを示している。異常な外力による巨大災害も、確率は低いが発生しうる。]]
災害を防ぐということを考えてみる。災害を起こす外力を完全に制御できれば災害がなくなるが、それは現在の科学技術では不可能であるし、経済性をとっても現実的ではない。他方、災害は確率的であり、社会が経験していないあるいは忘れているような大きな災害が、いつかはやってくる。そして、経済性などの限界により、災害を抑止する施設を無限に強化することはできない。そのため、災害に関して絶対安全というのは存在しない<ref>林春夫「災害をうまくのりきるために -クライシスマネジメント入門-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、135 - 137頁。</ref><ref name="Horii-102">堀井秀之・片田敏孝「自主解決の支援」、『[[#Horii|安心・安全と地域マネジメント]]』、102 - 104頁。</ref>。
一方で、治水技術の向上により一定レベルの水害の抑止が可能となったことで、水害については「制御可能感」が生じている<ref name="Horii-102"/>。また、地球上の地形はいわば災害の繰り返しによってできており、地形や地層などを手がかりにして長期的にその土地が受けやすい災害の種類を推測することは可能である<ref>[[#Mizutani|水谷、2002年]]、10頁。</ref>。
災害は、社会、あるいは個人の生命や財産に対するリスクである。災害のリスクに対する価値観は、身近な例として住居を考えると、回避型(めったにない災害に備えて労力や出費を厭わず安全な暮らしを求める)、志向型(頻度の低い災害に備えるより、当面のメリットである費用の低さや快適性を求める)、その中間の3タイプに分類できる。リスクマネジメントの観点で見れば、志向型は、防災の手間や費用を省くことで他の面で得をするという、ある種の「賭け」に出ているとみなすことができる。そもそも、防災は、災害に直面したその時には自らの生死を分ける厳しいものであるにもかかわらず、普段の生活の中ではどこか縁遠いものと感じてしまう傾向がある。これを防ぐためには、身近な地域の災害のリスクについて具体的に理解を深めたりすることが必要とされる<ref>岡田憲夫「住民自らが行う防災 -リスクマネジメント事始め-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、103-105頁、124 - 130頁。</ref>。
災害に直面した人の心理を説明するプロセスの1つとして、不安喚起モデルがある。人は不安が喚起された時、以下の3パターンによって不安を解消しようとする、というものである<ref name="Horii-94">堀井秀之・片田敏孝「自主解決の支援」、『[[#Horii|安心・安全と地域マネジメント]]』、94 - 108頁。</ref>。
* 1.自主解決 - 自ら、情報を入手し、危害が自分に及ぶかどうか、また危害を避けるにはどうすればよいか判断する<ref name="Horii-94"/>。
* 2.他者依存 - 信頼できる他者に判断を任せる<ref name="Horii-94"/>。
* 3.思考停止 - 考えるのをやめる。安全と思い込む。拒否する<ref name="Horii-94"/>。
災害時に避難を判断する場面において、生存のために望まれるのは1.自主解決により自分の命を守る最善の努力をしようとすることであり、2.他者依存や3.思考停止はそういった努力を妨げる方向に働く。しかし、例えば水害への制御可能感への裏返しとして行政への責任を求める傾向は2.他者依存を助長し、生命の限界を直視せず楽観視するという誰もが持つ心理特性は3.思考停止を助長するため、人間の心理特性として1.自主解決を行うのは容易ではない。そのため、防災教育を通して1.自主解決へ導き災害時の柔軟な判断を可能にすることが必要と考えられる<ref name="Horii-94"/>。
また、「災害は忘れたころにやってくる」という言葉があるように、大きな災害を経験したとしても、経験を伝承する先人の言葉や教訓は次第に忘れ去られ、風化していくのが常である。近代に津波被害を受けて高台に移転しても、より便利な海辺へと次第に回帰し、再び住居が建てられるようになった地域が存在している。高台移転については、当初は津波への恐怖が「職住分離」の不便さを上回っていても、やがて時間とともに変わっていくため、これを維持するための配慮が必要となる。また、堤防によって守られていても、それに依存せず教訓を伝えていく努力が必要となる<ref>岡田憲夫「住民自らが行う防災 -リスクマネジメント事始め-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、99 - 101頁。</ref><ref>片田敏孝「これからの津波防災のあり方 -自然と共存する地域社会の構築-」、『[[#Horii|安心・安全と地域マネジメント]]』、50 - 56頁。</ref>。
=== 災害と法律 ===
災害は法律で定義される場合もあるがその対象や規模は一律ではない。
; 災害の種類
: 例えば日本の[[災害対策基本法]]では、災害を「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害」と定義している(第2条第1項、2015年7月時点)<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=336AC0000000223 |title=災害対策基本法 |work=e-Gov法令検索 |publisher=[[総務省]][[行政管理局]] |accessdate=2015-09-22}}</ref>。ここで、これらに類する政令で定める原因としては「放射性物質の大量の放出、多数の者の遭難を伴う船舶の沈没その他の大規模な事故」が定められている(同法施行令第1条)<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=337CO0000000288 |title=災害対策基本法施行令 |work=e-Gov法令検索 |publisher=[[総務省]][[行政管理局]] |accessdate=2015-09-22}}</ref>。従って、災害対策基本法上の災害には自然災害以外の原因による災害も含まれる。
: また、[[公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法]]は自然災害のみを対象としているが、公立学校施設災害復旧費国庫負担法は火災などの人為的災害も対象にしている<ref name="kagiya">{{Cite book |和書 |author=鍵屋一|title=図解よくわかる自治体の地域防災・危機管理のしくみ|year=2019|page=11|publisher=学陽書房}}</ref>。
; 災害の規模
: 日本の災害対策基本法における災害には定量的な基準があるわけではなく、国民の生命、身体、財産に相当程度の被害を生じるような場合が想定されている<ref name="kagiya" />。一方、[[災害救助法]]では、対象とする災害について市区町村の人口に応じ滅失した住家の数によって基準が設けられている<ref name="kagiya" />。
== 災害の種類 ==
主な災害をその分類とともに示す。
{{Main2|自然災害の詳細な分類については「[[自然災害]]」を、事件・事故(人為的災害)の詳細な分類については「[[事件]]」「[[事故]]」を}}
=== 社会学的定義 ===
;自然災害
:;気象災害
::[[雨]](大雨・[[集中豪雨]])に起因するもの - [[洪水]](河川の氾濫、[[内水氾濫]])、[[土砂災害]] ([[斜面崩壊]]、[[がけ崩れ]]、[[土石流]]、[[地すべり]])など
::[[風]]に起因するもの - 強風・暴風、[[竜巻]]、[[高潮]]、[[波浪]]
::[[雪]]に起因するもの - [[雪崩]]、[[積雪]]、[[吹雪]]
::[[雷]]に起因するもの - [[落雷]]
::中長期の天候に起因するもの - 干害<ref name="kagiya" />([[干ばつ]])、冷害<ref name="kagiya" />([[冷夏]])、[[熱波]]、[[寒波]]
::その他 - [[霜]]害<ref name="kagiya" />、[[雹]]害<ref name="kagiya" />、土地の隆起や沈降<ref name="kagiya" />、[[蝗害]]
:;[[地震]]
::地震に起因するもの - [[液状化]]、[[津波]]、[[岩屑なだれ]]、がけ崩れ、(地震)火災
;;[[噴火]]
::噴火に起因するもの - [[降灰]]、[[噴石]]、[[溶岩流]]、[[火砕流]]、[[泥流]]、山体崩壊、津波
;人為的災害
::[[鉄道事故|列車事故]]、[[航空事故]]、[[海難事故]]、[[交通事故]]、[[火災]](いずれも大規模なものに限る)
::[[爆発]]事故、[[炭鉱事故]]、[[石油流出]]、[[化学物質]]汚染、[[原子力事故]](原子力災害{{refnest|group=注|[[原子力緊急事態]]により国民の生命、身体又は財産に生ずる被害を指す([[原子力災害対策特別措置法]]第2条)。}})
::[[テロ]](テロ災害)、[[戦争]]([[戦災]]、武力攻撃災害{{refnest|group=注|法令用語。武力攻撃により直接又は間接に生ずる人の死亡又は負傷、火事、爆発、放射性物質の放出その他の人的又は物的災害を指す([[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律|国民保護法]]第2条第4号)。[[災害対策基本法]]における災害の概念には、いわゆる武力攻撃や[[テロリズム|テロ]]による被害は概念の中に含まれないことから、[[有事法制]]の整備に際して設けられた定義(日本は[[日本国憲法第9条]]により、政府が[[戦争]]をする事、及び[[交戦権]]を認めないので、「戦争に備える」とは定義出来ない)。}})
:::[[規制が議論されている兵器|NBC]]災害{{refnest|group=注|[[核兵器]]、[[生物兵器]]、[[化学兵器]]による災害。}}、[[CBRNE]]災害{{refnest|group=注|NBC災害に[[放射性物質]]と[[爆発物]]による災害を加え、不慮の事故までを含めたもの。}}、武力攻撃原子力災害{{refnest|group=注|法令用語。[[原子力発電所]]や原子力施設への攻撃により起きる災害。武力攻撃に伴って原子力事業所外へ放出される放射性物質又は放射線による被害(国民保護法第105条第7号の一)。}}
<ref>[[#Goto|後藤・高橋、2014年]]、20頁。</ref><ref>[[#Mizutani|水谷、2002年]]、5 - 6頁。</ref>
なお、他の災害に比べて被害の程度やその広がりが著しい災害を「'''大規模災害'''」と呼ぶことがあるが、具体的な定義はない。被害の広がりに着目した場合、「'''広域災害'''」と呼ぶこともある。これらは甚大な被害によって外部からの救援を必要とする場合が多い。また、都道府県を跨ぐ規模の災害を「'''スーパー広域災害'''」と呼ぶこともあるが、これは日本の災害対策が市町村や都道府県ごとの縦割りとなっていて、都道府県を跨いだ大規模避難や救援などの災害対策の連携に難点が見られることから作られた用語である<ref>[[#Goto|後藤・高橋、2014年]]、20 - 21頁。</ref>。
このほか、いわゆる災害の「ダブルパンチ」とよばれるような、複数の誘因が重なった災害を「'''複合災害'''」という。例えば、2011年の[[東日本大震災]]は地震と津波の被災地で[[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]が発生した。2004年10月の[[新潟県中越地震]]の被災地は、同年7月に[[平成16年7月新潟・福島豪雨|豪雨]]に見舞われており、翌年1 - 2月にはさらに[[新潟県中越地震#被災地の二次自然災害|豪雪]]に見舞われた<ref>[[#Goto|後藤・高橋、2014年]]、21頁。</ref>。
=== 安全工学的定義 ===
突発的事象により引き起こされるものを非常災害、日常的な生活の中で引き起こされるいわゆる"事故"を日常災害と呼ぶ。安全工学では、日常災害、[[労働災害]]を含めた広範な事象を災害として扱う。一時に3人以上の労働者が業務上死傷又はり病した災害事故を「'''重大災害'''」と称する。
;人為的災害
:;日常災害(事故)または労働災害
::[[転落]]、[[転倒]]、落下物による受傷、[[中毒]]、[[溺水]]、[[火傷]]、[[感電]]
:;その他
::[[製品]]欠陥に伴う[[製品事故]]、[[食品事故]]、[[医療事故]]
::[[暴動]]、[[犯罪]]
== 災害の防止と対応 ==
{{main|防災}}
災害を未然に防止する対応は、被害が生じないようにする'''被害抑止'''と、被害が生じてもそれを少なくし、立ち直りがスムーズになるようにする'''被害軽減'''に大別される。一方、災害発生後の対応は、救助や避難所の運営などの'''応急対応'''と'''[[災害復旧|復旧]]・[[復興]]'''に大別される。これらが'''[[防災]]'''を構成する<ref name="dprik4-41">河田惠昭「危機管理論 -安心/安全な社会を目指して-」、『[[#dprik4|防災学講座 第4巻 防災計画論]]』、41 - 42頁。</ref>。これらに加えて、自然災害のメカニズムやそれを抑止する技術の研究、災害の予測(ハザードアナリシス)、それらの知識の普及(防災教育)なども重要な要素である<ref name="dprik4-134136"/>。
* [[災害派遣]] - 大規模な災害が発生した場合、主に[[都道府県知事]]が[[自衛隊]]に対して捜索や救助活動などの支援のために要請する。
* [[公衆電話]] ‐ 災害時優先電話である公衆電話は停電時でも使える<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bosai.yomiuri.co.jp/article/1883 |title=意外と知らない!公衆電話の探し方・災害時の使い方|記事一覧|くらし×防災メディア「防災ニッポン」読売新聞 |access-date=2023-08-11 |website=くらし×防災メディア「防災ニッポン」読売新聞 |language=ja}}</ref>。
* [[00000JAPAN]] ‐ 災害時や通信障害時に開放される公衆無線LAN・Wifi。
* 自動販売機 ‐ 一部の自動販売機は、被災時に被災者に飲み物などを提供する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/kobe/20230328/2020021434.html |title=災害時 飲み物や備蓄の災害対策用品を提供する自販機 赤穂市|NHK 兵庫県のニュース |access-date=2023-08-11 |last=日本放送協会 |website=NHK NEWS WEB}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.higashiyamato.lg.jp/kurashi/anzen/1001506/1001523/1001525.html |title=災害対応型自動販売機の設置|東大和市公式ホームページ |access-date=2023-08-11 |website=東大和市公式ホームページ |language=ja}}</ref>。
* {{ill2|移動郵便局|en|Mobile post office}} ‐ 被災地でATM機能などを設けた移動車両に郵便局の機能を持たせ、ゆうパックなども扱える<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000136526.html |title=ATMやゆうパック受け付けも 避難所に移動郵便局 |access-date=2023-08-11 |website=テレ朝news |language=ja}}</ref>。。
== 災害の予測 ==
自然災害は、規模に頻度が反比例する[[確率]]的な現象である。つまり、自然災害を起こす外力が大きくなるほど頻度が小さくなるうえ、その上限を理論的に特定することができないという特徴を持っている。[[歴史]]記録の中から得られる自然災害の情報で信頼のおけるものは数百年程度であり、それを超える「1,000年に一度」というような低頻度の大きな災害については分からない部分が出てきてしまう。そのため、ハード対策では「設計基準外力」(計画外力)を設定してそれ以下の外力では被害が一切出ないように堤防などの構造物を設計し、ソフト対策では既往最大あるいは予想される一定レベルの外力を設定してハザードマップを作成しその場合における被害想定を行う。ただし、設計基準外力を設定するにあたっては、設定を高くすればするほど費用がかさむため、経済性との兼ね合いや住民の合意などの調整が必要となる<ref>堀井秀之「地域社会の安全・安心を実現するための社会技術」、『[[#Horii|安心・安全と地域マネジメント]]』、214 - 216頁。</ref>。なお、これらの外力の再来間隔を[[確率年]]という。
一方で、被害想定はあくまで現段階で考えられうるものに過ぎず、想定を上回る「想定外」の事態が発生する可能性は常に存在する。東日本大震災が従前の被害想定を上回る規模であったように、である。そのため、「想定外」に対応できるようにしておくことも求められる<ref>多々納裕一「大規模災害と防災計画 -総合防災学の挑戦-」、『[[#Horii|安心・安全と地域マネジメント]]』、169 - 182頁。</ref>。
== 災害史 ==
{{節スタブ}}
=== 最も被害の大きな自然災害 ===
*[[1931年中国大洪水|中国大洪水]]([[1931年]]7月-11月) : 死者14万5,000人–400万人、20世紀以降の[[洪水]]災害として最大
*[[1970年のボーラ・サイクロン|ボーラ・サイクロン]]([[1970年]][[11月7日]] - [[11月13日]]) : 死者30万–50万人、[[サイクロン]]災害として史上最悪
*[[唐山地震]]([[1976年]][[7月28日]]) : 死者242,000–655,000人、20世紀以降の[[地震]]災害として最大
*[[スマトラ島沖地震 (2004年)]]([[2004年]][[12月26日]]) : 死者226,566人、[[津波]]災害として観測史上最悪
*[[プレー山]]噴火([[1902年]][[5月8日]]) : 死者約30,000人、20世紀以降の火山災害として最大
*[[バルガス州|バルガス]]災害([[1999年]][[12月15日]]) - 死者10,000 - 50,000人、地滑り災害として史上最大
*イラン吹雪災害([[1972年]]2月) : 死者4,000人、[[吹雪]]災害として観測史上最悪([[:en:1972 Iran blizzard]])
*Daulatpur–Saturia竜巻([[1989年]]) : 死者約1,300人、[[竜巻]]災害として観測史上最大([[:en:Daulatpur–Saturia tornado]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Anchors|dprik4}}[[京都大学防災研究所]]編 『防災学講座 第4巻 防災計画論』、[[山海堂 (出版社)|山海堂]]、2003年。ISBN 4-381-01441-3
* {{Anchors|Mizutani}}水谷武司 『自然災害と防災の科学』、[[東京大学出版会]]、2002年。ISBN 4-13-062708-2
* {{Anchors|Goto}}後藤真澄・高橋美岐子編 『災害時の要介護者へのケア いのちとくらしの尊厳を守るために』、[[中央法規出版]]、2014年。ISBN 978-4-8058-3964-5
* {{Anchors|Horii}}堀井秀之・奈良由美子編 『安心・安全と地域マネジメント』、放送大学教育振興会、NHK出版、2014年。ISBN 978-4-595-31478-0
* {{Anchors|Gensai}}辻本哲郎『豪雨・洪水災害の減災に向けて』、技報堂出版、2006年。ISBN 4-7655-1702-0
* {{Anchors|Tsukui}}津久井進『大災害と法』、岩波書店、2012年。ISBN 978-4-00-431375-5
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|災害}}
{{ウィキポータルリンク|災害}}
{{wikiquote|災害}}
{{Commonscat|Disasters}}
* [[安全工学]]
* [[二次災害]]
* [[防災]]
* [[災害弱者]]
* [[災害心理学]]
* [[災害ボランティア]]、[[災害ボランティアセンター]]、[[恩送り]]
* {{ill2|災害ツーリズム|en|Disaster tourism}}
* [[事業継続計画]]
* [[マルチハザード]]
* [[天譴論]]、[[易占革命]]、[[立正安国論]] - 天災を人災にすり替える口実として悪用され続けた。
== 外部リンク ==
* [http://www.emdat.be/ EM-DAT International Disaster Database]{{en icon}} - [[ルーヴァン・カトリック大学]]の災害疫学研究センター(CRED)による世界の災害のデータベース
* [http://www.gdacs.org Global Disaster Alert and Coordination System]{{en icon}} - [[国際連合人道問題調整事務所]](OCHA)と[[欧州委員会]](EC)の共同事業による世界の災害把握システム
* [http://www.un-spider.org/ UN-SPIDER]{{en icon}} - 国連防災緊急対応衛星情報プラットフォーム。[[国際連合宇宙局]](UNOOSA)による人工衛星を利用した世界の災害把握システム
* [https://www.bousai.go.jp/ 内閣府 防災情報] - 日本の防災情報
* [http://www.bosaijoho.go.jp/ 国土交通省防災情報提供センター] - 日本の防災情報
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サンマリノ
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サンマリノ共和国(サンマリノきょうわこく、伊: Repubblica di San Marino)、通称サンマリノは、イタリア半島の中東部に位置する共和制国家。首都はサンマリノ市。国土の周囲は全てイタリアで囲まれた内陸国で、国土の面積は61.2平方キロメートル(日本の東京都世田谷区や十和田湖(青森県・秋田県)とほぼ同じ)で、世界で5番目に小さなミニ国家である。また、現存する世界最古の共和国と考えられており、同国もそれを誇りとしている。1700年間、一度も戦争をしたことがない。
欧州連合(EU)には加盟していない。
サンマリノの正式名称はイタリア語で Serenissima Repubblica di San Marino(セレニッスィマ・レプッブリカ・ディ・サン・マリーノ)。通称 San Marino(サンマリーノ)。英語表記は Most Serene Republic of San Marino(モウスト・セリーン・リパブリック・オヴ・サン・マリーノ)。「Serenissima」とは「最も清らかな」の意であり直訳すれば「最も清らかなる聖マリヌスの共和国」となるが、外国語における公式国名の表記ではほとんどの場合これを訳さず単に「サンマリノ共和国(Repubblica di San Marino、Republic of San Marino)」とし、日本国外務省もこれに倣っている。漢字表記は聖馬力諾(聖は意訳)。
建国伝説によると、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害を避けたダルマチアの石工マリーノが301年、ティターノ山に逃れて山頂に三つの砦を築き、同志とつくったキリスト教徒の共同体に始まる。国名は「聖(サン)マリーノ」を意味する。「聖マリヌス」も参照。
サンマリノの国旗は1862年4月6日に制定され、白色が平和、青色が自由を表現している。サンマリノの紋章(国章)の中央にはティターノ山の3つの峰に建つ塔が描かれ、"LIBERTAS"(「自由」)の文字が書かれている。
紋章を取り囲んでいるオークの枝は「安定」、月桂樹の枝は「自由」、王冠は「主権」をそれぞれ象徴している。
サンマリノは、共和政体を採用する現存国家としては世界でも最も長い歴史を持つ。1631年、ローマ教皇が独立を承認して世界最古の独立共和国となった。サンマリノも侵略や短期間の占領を受けたことはあるが、ローマ教皇の助力を得るなど外交的立ち回りや、敵将の急死といった幸運や、山中にあって地政学的重要性が低く資源が乏しかったことなどの理由で、現代に至るまで独立を保ち続けた。イタリア戦役に勝利して北イタリアを制圧したナポレオン・ボナパルトから、約20キロメートル東のアドリア海沿岸のリミニまで領土を広げることを提案されたが、紛争に巻き込まれる危険性を避けるため断った。その後、1815年には、ナポレオン戦争後のウィーン会議でサンマリノの独立が再確認されている。
19世紀半ばのイタリア統一運動(リソルジメント)でも立役者であるジュゼッペ・ガリバルディをオーストリア帝国から匿ったり、義勇軍を派遣したりして独立国として残った。1862年、統一されたイタリア王国と関税同盟を結ぶ一方、友好善隣条約を結んで近代国家としての主権と独立を獲得し、それ以来イタリアとは密接な関係を維持している。イタリアとの間では1897年に友好条約を締結、1953年にはこれを更新した。
冷戦終結後の1992年には国際連合と国際通貨基金(IMF)に加盟した。
なお、2008年には「サンマリノの歴史地区とティターノ山」として、サンマリノ市、ボルゴ・マッジョーレ市などの一部がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
イタリア半島北東部、周囲をイタリア共和国に囲まれた面積61.2平方キロメートルの小規模な内陸国であり、海には面していない。地中海の海岸からは23キロメートル程度の距離でしかない。国土は標高749 メートルの岩山ティターノ山を中心に広がる山地および丘陵地で、アドリア海を眺望することができる。西・北・東側でイタリアのエミリア=ロマーニャ州のリミニ県と、南側でマルケ州のペーザロ・エ・ウルビーノ県に接し、これらのイタリアの2つの県に挟まれるかたちで立地し、東西およそ8キロ、南北およそ13キロメートル。面積はニューヨーク市(アメリカ合衆国)のマンハッタン島や日本の八丈島の大きさにほぼ等しい。
首都サンマリノ市はティターノ山の頂上にある。緯度は北緯43度9.53分と比較的高緯度である。ただし、アドリア海に近いため冬季も温暖な地中海性気候(Cs)である。夏は乾燥し雨量は少ないが、乾燥の度合いはイタリア半島西海岸ほどではない。冬にはまとまった降雨がある。
サンマリノ市以外では、ボルゴ・マッジョーレやセラヴァッレなどの町があり、人口はセラヴァッレが最も多い。
サンマリノには専業の政治家はおらず、元々は家長の集まりであったアレンゴを物事を決め、13世紀には執政を2人体制として権力の集中を防ぐようになっていた。
立法機関として、国民の比例代表選挙によって選出される定員60名の大評議会(Consiglio Grande e Generale)がある。議員の任期は5年である。
行政の長である執政(Capitani Reggenti)は、大評議会議員の中から互選によって選出される。特定の執政による独裁化を防ぐため、執政は常に2名と決められており、しかも執政の任期は6か月のみで再選は3年間認められない。執政の就任式は毎年4月1日と10月1日に行われる。また就任の際は、アレンゴが開かれる。なお、2名の執政は一方が国家元首、他方が政府代表とされている。
サンマリノでは、1945年以来、連立政権が続いている。2006年6月、キリスト教民主党が第一党となったが、7月、社会主義者・民主主義者党、人民同盟、統一左翼による中道左派政権が発足した。2007年11月、従来の連立に、キリスト教民主党から分裂した中道民主主義者党を加えた4党連立政権が発足した。2008年11月の総選挙で中道右派の「サンマリノのための協定」連合が勝利して12月に政権が発足した。2012年11月に行われた総選挙では中道・中道左派の「サンマリノ公益」連合が勝利し、12月に新政権を発足させた。2016年11月の総選挙では、いずれの政党連合も過半数を得られなかったため、翌月に決選投票が行われた。その結果、野党連合の Adesso.sm が勝利を収め、政権交代が実現した。2019年には早期解散によって12月に総選挙が行われたが、過半数又は議席数の半数以上の得票数を得た政党や政党連合がおらず、野党で第一党のサンマリノ・キリスト教民主党、政党連合「動く明日」と「共和国のための我ら」が連立を組み、翌年2020年1月に政権交代となるベッカーリ内閣が発足した。
人口がわずか3万人ほどのサンマリノでは、国民全員が「顔見知り」に近い状態であり、自国民では中立公平な審議や判決が困難であるという理由から、サンマリノでの裁判はほとんどが外国人の裁判官によって行われる。サンマリノの国土はイタリアに囲まれており公用語もイタリア語であるため、裁判官も基本的にはイタリアから赴任する形をとっている。
サンマリノの領土は以下の9つのカステッロ(Castello、「城」の意)からなる。
大きな町の1つにドガーナ(英語版)があるがセラヴァッレのカステッロの管轄下にある。イタリアのコムーネと同様に役所所在地(capoluogo)の周囲にいくつかの分離集落(Frazione, pl. Frazioni)を有する。
サンマリノは1943年以来紙幣の発行を行っておらず、イタリアの通貨が自由に流通した。1972年以降は独自のコイン(サンマリノ・リラ)を発行してコイン・コレクターの人気を集めた。2014年現在、サンマリノは欧州連合の正式な一員ではないものの、欧州議会における取り決めによりユーロの流通が認められている。ユーロコインの片側に独自のデザインを使用する権利を持っており、ユーロ流通以前のサンマリノ・リラはイタリア・リラと交換できた。なお、流通量が少ないサンマリノ・ユーロはそれ以前のサンマリノ・リラと同様、収集家たちからの人気が高い。サンマリノはまた、おもに切手収集家向けの切手を発行しており、一定の財源となっている。他に重要な収入としては、イタリアからの援助と移民からの送金がある。
サンマリノのGDPの50%以上は観光客(281万人、2004年)によるものであり、1997年の段階では330万人以上が訪問している。1985年には小規模な空港が完成した。観光以外の基幹産業としては銀行業、電子産業、窯業があり、主な農産品はワインとチーズである。
1人あたりの支出レベルや生活水準はイタリアとほぼ同様である。国内に金融機関が11あり、国内で過去に倒産したことが一度もない。
2017年、サンマリノは海外との経済ネットワークづくりを国家をあげて力を入れている。日本との経済交流や情報交換も盛んで、サンマリノ企業の日本への進出にも力を入れている。日本企業のサンマリノ共和国進出も歓迎されており、両国の提携にも熱心である。サンマリノ共和国と日本との橋渡しは「日本サンマリノ通商協力機構」が担っている。
サンマリノの法人税は17%と低率であり、それ以外の税金はない。特に付加価値税が一切ないため、諸外国から買い物目的の観光客が年間300万人前後訪れる。また、税率が低いため、諸外国からの企業進出も増加傾向にある。1862年成立のイタリアと関税同盟以降、現在も入国に際する税関の検査はない。
経済成長率は2.4%(2005年)、失業率は1.4%(2007年)、物価上昇率は2.0%(2007年)である。
なお、経済の中心は首都サンマリノ市ではなく、山麓の町ボルゴ・マッジョーレである。
サンマリノでの第一次産業の比率は0.4%と低い。農業従事者は約1,000人程度(2003年)であり、国土の約20%が農地、さらに20%が牧畜に利用されている。主な栽培作物はブドウ、コムギ、オリーブ、野菜類、葉たばこである。林業はほとんど見られない。貿易統計が公開されていないため、輸出入に占める農業生産物の割合、品目は不明である。
サンマリノでは石材の切り出しや加工が盛んであるが、それ以外の鉱物資源は特に確認されていない。
サンマリノの工業は軽工業が主で、食品工業では、デザートワインとして用いられる甘口のモスカートワイン、オリーブ油、チーズなどが対象となる。繊維工業では、綿織物、染色業がみられる。窯業では、陶器、タイル、レンガなどが生産されている。
観光業はコインや切手の発行とともに重要な基幹産業であり、そのユニークな歴史や景観、また買い物を目的として多くの観光客が集まる。
毎年9月3日は、町の創立者である聖マリーノを記念する祭典(Festa di San Marino)があり、中世の時代衣装を身に着けたパレードや石弓競技が行われている。また、ティターノ山の山頂にはロープウェイで登るルートがあり、アドリア海の眺望を楽しむことができる。
首都サンマリノ市には、大聖堂、ゴシック様式のサン・フランチェスコ教会、1894年に建てられた政庁、ロッカ・グアーイタ、ロッカ・デッラ・フラッタ、ロッカ・モンターレと呼ばれる3つの岩峰・城塞があり、中世の面影を残している。
24キロメートル離れたイタリアのリミニとは定期バスで結ばれている。ボルゴ・マッジョーレからサンマリノ市(旧市街)へのサン・マリノ・ロープウェイがある。エレベーターも公共交通機関として利用されている。軽飛行機向けの650メートルの滑走路とヘリポート(英語版)がある(北緯43度56分58秒 東経12度30分40秒)。過去には1932年から1944年の間、アドリア海沿岸のリミニからサンマリノを結ぶリミニ=サンマリノ鉄道が運行されていたが、2012年に800メートルの区間を復活させた。
サンマリノにはサンマリノ軍及びその指揮下の国家憲兵が存在する。ただし、儀仗兵などの儀礼的な部隊のみで、軍隊を保有していない国家と言われている。一方で、政府は国防のために16歳から60歳までの全国民を動員できる権限を有する。
公用語はイタリア語で、日常語としてはサンマリノ語(ガロ・イタリア語のロマーニャ語に含まれる)も話される。
住民は北東部イタリア住民と同様の文化を持ち、宗教はキリスト教が92.2パーセント(カトリック教会88.7パーセント)で、ローマ・カトリックが支配的である。
出生率は1,000人に対し9.7人(2009年)、死亡率は同じく7.4人(2009年)、乳児死亡率は1.0人(2009年)、合計特殊出生率は1.5(2008年)である。
サンマリノ在留日本人は2021年時点で7人。また日本在留サンマリノ人は1人、日本訪問サンマリノ人は年間2人(いずれも2020年)。
2014年5月15日に世界保健機関(WHO)が発表した『世界保健報告(2014年版)』によると、2011年のサンマリノの平均寿命は男性が82歳で世界一、女性は84歳で世界2位の長寿国である。
2008年にサンマリノ旧市街に位置するティターノ山が、ユネスコの世界遺産リストに文化遺産として登録されている。詳細はサンマリノの世界遺産 サンマリノの歴史地区とティターノ山を参照。
2008年以降、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加している。
サンマリノの宗教ではキリスト教が92.2パーセント(カトリック教会88.7パーセント)である。 2014年にヨーロッパで初めての日本の最古の宗教である神道の神社である「サンマリノ神社」が建立された。また日本は在サンマリノ日本大使館を開設している(在イタリア日本国大使館が兼轄)。
サンマリノ共和国大学
サンマリノ国内に本拠を置く唯一のプロサッカークラブとして、1960年にサンマリノ・カルチョが創設された。イタリア・セリエCに籍を置きセラヴァッレを本拠地としている。しかし2019年7月にクラブは解散した。
1985年にはサッカーリーグの「カンピオナート・サンマリネーゼ」が創設された。SPトレ・フィオリが、2度の3連覇を含むリーグ最多8度の優勝を達成している。
かつてF1・サンマリノGPが行われていた。実際にレースが行われていたのはサンマリノ国内ではなく、麓の町イタリア・イーモラである。2007年以降はF1の開催が完全に「1ヶ国1開催遵守」となったため、以降はサンマリノGPは開催されていない。
二輪のロードレース世界選手権ではサンマリノGPが開催されている。これもサンマリノ国内ではなくイタリアのミサノ・サーキットで行われている。
イタリアンベースボールリーグおよびセリエAで3連覇を含む6度の優勝、更に3度のヨーロッパ王者に輝いた強豪サンマリノ・ベースボールが本拠地(スタジオ・ディ・ベースボール・ディ・セッラヴァッレ)を置いている。
野球専用スタジアムを有する世界で最も小さな国でもある。
サンマリノRTV
2014年にヨーロッパで初めての「サンマリノ神社」が建立された。また日本は在サンマリノ日本大使館を開設している(在イタリア日本国大使館が兼轄)。
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[
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"text": "サンマリノ共和国(サンマリノきょうわこく、伊: Repubblica di San Marino)、通称サンマリノは、イタリア半島の中東部に位置する共和制国家。首都はサンマリノ市。国土の周囲は全てイタリアで囲まれた内陸国で、国土の面積は61.2平方キロメートル(日本の東京都世田谷区や十和田湖(青森県・秋田県)とほぼ同じ)で、世界で5番目に小さなミニ国家である。また、現存する世界最古の共和国と考えられており、同国もそれを誇りとしている。1700年間、一度も戦争をしたことがない。",
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"text": "欧州連合(EU)には加盟していない。",
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"text": "サンマリノの正式名称はイタリア語で Serenissima Repubblica di San Marino(セレニッスィマ・レプッブリカ・ディ・サン・マリーノ)。通称 San Marino(サンマリーノ)。英語表記は Most Serene Republic of San Marino(モウスト・セリーン・リパブリック・オヴ・サン・マリーノ)。「Serenissima」とは「最も清らかな」の意であり直訳すれば「最も清らかなる聖マリヌスの共和国」となるが、外国語における公式国名の表記ではほとんどの場合これを訳さず単に「サンマリノ共和国(Repubblica di San Marino、Republic of San Marino)」とし、日本国外務省もこれに倣っている。漢字表記は聖馬力諾(聖は意訳)。",
"title": "国名・国旗・国章・国歌"
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"text": "建国伝説によると、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害を避けたダルマチアの石工マリーノが301年、ティターノ山に逃れて山頂に三つの砦を築き、同志とつくったキリスト教徒の共同体に始まる。国名は「聖(サン)マリーノ」を意味する。「聖マリヌス」も参照。",
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"text": "サンマリノの国旗は1862年4月6日に制定され、白色が平和、青色が自由を表現している。サンマリノの紋章(国章)の中央にはティターノ山の3つの峰に建つ塔が描かれ、\"LIBERTAS\"(「自由」)の文字が書かれている。",
"title": "国名・国旗・国章・国歌"
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"text": "紋章を取り囲んでいるオークの枝は「安定」、月桂樹の枝は「自由」、王冠は「主権」をそれぞれ象徴している。",
"title": "国名・国旗・国章・国歌"
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"text": "サンマリノは、共和政体を採用する現存国家としては世界でも最も長い歴史を持つ。1631年、ローマ教皇が独立を承認して世界最古の独立共和国となった。サンマリノも侵略や短期間の占領を受けたことはあるが、ローマ教皇の助力を得るなど外交的立ち回りや、敵将の急死といった幸運や、山中にあって地政学的重要性が低く資源が乏しかったことなどの理由で、現代に至るまで独立を保ち続けた。イタリア戦役に勝利して北イタリアを制圧したナポレオン・ボナパルトから、約20キロメートル東のアドリア海沿岸のリミニまで領土を広げることを提案されたが、紛争に巻き込まれる危険性を避けるため断った。その後、1815年には、ナポレオン戦争後のウィーン会議でサンマリノの独立が再確認されている。",
"title": "歴史"
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"text": "19世紀半ばのイタリア統一運動(リソルジメント)でも立役者であるジュゼッペ・ガリバルディをオーストリア帝国から匿ったり、義勇軍を派遣したりして独立国として残った。1862年、統一されたイタリア王国と関税同盟を結ぶ一方、友好善隣条約を結んで近代国家としての主権と独立を獲得し、それ以来イタリアとは密接な関係を維持している。イタリアとの間では1897年に友好条約を締結、1953年にはこれを更新した。",
"title": "歴史"
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"text": "冷戦終結後の1992年には国際連合と国際通貨基金(IMF)に加盟した。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、2008年には「サンマリノの歴史地区とティターノ山」として、サンマリノ市、ボルゴ・マッジョーレ市などの一部がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。",
"title": "歴史"
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"text": "イタリア半島北東部、周囲をイタリア共和国に囲まれた面積61.2平方キロメートルの小規模な内陸国であり、海には面していない。地中海の海岸からは23キロメートル程度の距離でしかない。国土は標高749 メートルの岩山ティターノ山を中心に広がる山地および丘陵地で、アドリア海を眺望することができる。西・北・東側でイタリアのエミリア=ロマーニャ州のリミニ県と、南側でマルケ州のペーザロ・エ・ウルビーノ県に接し、これらのイタリアの2つの県に挟まれるかたちで立地し、東西およそ8キロ、南北およそ13キロメートル。面積はニューヨーク市(アメリカ合衆国)のマンハッタン島や日本の八丈島の大きさにほぼ等しい。",
"title": "地理・地誌"
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"text": "首都サンマリノ市はティターノ山の頂上にある。緯度は北緯43度9.53分と比較的高緯度である。ただし、アドリア海に近いため冬季も温暖な地中海性気候(Cs)である。夏は乾燥し雨量は少ないが、乾燥の度合いはイタリア半島西海岸ほどではない。冬にはまとまった降雨がある。",
"title": "地理・地誌"
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"text": "サンマリノ市以外では、ボルゴ・マッジョーレやセラヴァッレなどの町があり、人口はセラヴァッレが最も多い。",
"title": "地理・地誌"
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"text": "サンマリノには専業の政治家はおらず、元々は家長の集まりであったアレンゴを物事を決め、13世紀には執政を2人体制として権力の集中を防ぐようになっていた。",
"title": "政治"
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"text": "立法機関として、国民の比例代表選挙によって選出される定員60名の大評議会(Consiglio Grande e Generale)がある。議員の任期は5年である。",
"title": "政治"
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"text": "行政の長である執政(Capitani Reggenti)は、大評議会議員の中から互選によって選出される。特定の執政による独裁化を防ぐため、執政は常に2名と決められており、しかも執政の任期は6か月のみで再選は3年間認められない。執政の就任式は毎年4月1日と10月1日に行われる。また就任の際は、アレンゴが開かれる。なお、2名の執政は一方が国家元首、他方が政府代表とされている。",
"title": "政治"
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"text": "サンマリノでは、1945年以来、連立政権が続いている。2006年6月、キリスト教民主党が第一党となったが、7月、社会主義者・民主主義者党、人民同盟、統一左翼による中道左派政権が発足した。2007年11月、従来の連立に、キリスト教民主党から分裂した中道民主主義者党を加えた4党連立政権が発足した。2008年11月の総選挙で中道右派の「サンマリノのための協定」連合が勝利して12月に政権が発足した。2012年11月に行われた総選挙では中道・中道左派の「サンマリノ公益」連合が勝利し、12月に新政権を発足させた。2016年11月の総選挙では、いずれの政党連合も過半数を得られなかったため、翌月に決選投票が行われた。その結果、野党連合の Adesso.sm が勝利を収め、政権交代が実現した。2019年には早期解散によって12月に総選挙が行われたが、過半数又は議席数の半数以上の得票数を得た政党や政党連合がおらず、野党で第一党のサンマリノ・キリスト教民主党、政党連合「動く明日」と「共和国のための我ら」が連立を組み、翌年2020年1月に政権交代となるベッカーリ内閣が発足した。",
"title": "政治"
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"text": "人口がわずか3万人ほどのサンマリノでは、国民全員が「顔見知り」に近い状態であり、自国民では中立公平な審議や判決が困難であるという理由から、サンマリノでの裁判はほとんどが外国人の裁判官によって行われる。サンマリノの国土はイタリアに囲まれており公用語もイタリア語であるため、裁判官も基本的にはイタリアから赴任する形をとっている。",
"title": "政治"
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"text": "サンマリノの領土は以下の9つのカステッロ(Castello、「城」の意)からなる。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "大きな町の1つにドガーナ(英語版)があるがセラヴァッレのカステッロの管轄下にある。イタリアのコムーネと同様に役所所在地(capoluogo)の周囲にいくつかの分離集落(Frazione, pl. Frazioni)を有する。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "サンマリノは1943年以来紙幣の発行を行っておらず、イタリアの通貨が自由に流通した。1972年以降は独自のコイン(サンマリノ・リラ)を発行してコイン・コレクターの人気を集めた。2014年現在、サンマリノは欧州連合の正式な一員ではないものの、欧州議会における取り決めによりユーロの流通が認められている。ユーロコインの片側に独自のデザインを使用する権利を持っており、ユーロ流通以前のサンマリノ・リラはイタリア・リラと交換できた。なお、流通量が少ないサンマリノ・ユーロはそれ以前のサンマリノ・リラと同様、収集家たちからの人気が高い。サンマリノはまた、おもに切手収集家向けの切手を発行しており、一定の財源となっている。他に重要な収入としては、イタリアからの援助と移民からの送金がある。",
"title": "経済"
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"text": "サンマリノのGDPの50%以上は観光客(281万人、2004年)によるものであり、1997年の段階では330万人以上が訪問している。1985年には小規模な空港が完成した。観光以外の基幹産業としては銀行業、電子産業、窯業があり、主な農産品はワインとチーズである。",
"title": "経済"
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"text": "1人あたりの支出レベルや生活水準はイタリアとほぼ同様である。国内に金融機関が11あり、国内で過去に倒産したことが一度もない。",
"title": "経済"
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"text": "2017年、サンマリノは海外との経済ネットワークづくりを国家をあげて力を入れている。日本との経済交流や情報交換も盛んで、サンマリノ企業の日本への進出にも力を入れている。日本企業のサンマリノ共和国進出も歓迎されており、両国の提携にも熱心である。サンマリノ共和国と日本との橋渡しは「日本サンマリノ通商協力機構」が担っている。",
"title": "経済"
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"text": "サンマリノの法人税は17%と低率であり、それ以外の税金はない。特に付加価値税が一切ないため、諸外国から買い物目的の観光客が年間300万人前後訪れる。また、税率が低いため、諸外国からの企業進出も増加傾向にある。1862年成立のイタリアと関税同盟以降、現在も入国に際する税関の検査はない。",
"title": "経済"
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"text": "経済成長率は2.4%(2005年)、失業率は1.4%(2007年)、物価上昇率は2.0%(2007年)である。",
"title": "経済"
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"text": "なお、経済の中心は首都サンマリノ市ではなく、山麓の町ボルゴ・マッジョーレである。",
"title": "経済"
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"text": "サンマリノでの第一次産業の比率は0.4%と低い。農業従事者は約1,000人程度(2003年)であり、国土の約20%が農地、さらに20%が牧畜に利用されている。主な栽培作物はブドウ、コムギ、オリーブ、野菜類、葉たばこである。林業はほとんど見られない。貿易統計が公開されていないため、輸出入に占める農業生産物の割合、品目は不明である。",
"title": "経済"
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"text": "サンマリノでは石材の切り出しや加工が盛んであるが、それ以外の鉱物資源は特に確認されていない。",
"title": "経済"
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"text": "サンマリノの工業は軽工業が主で、食品工業では、デザートワインとして用いられる甘口のモスカートワイン、オリーブ油、チーズなどが対象となる。繊維工業では、綿織物、染色業がみられる。窯業では、陶器、タイル、レンガなどが生産されている。",
"title": "経済"
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"text": "観光業はコインや切手の発行とともに重要な基幹産業であり、そのユニークな歴史や景観、また買い物を目的として多くの観光客が集まる。",
"title": "経済"
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"text": "毎年9月3日は、町の創立者である聖マリーノを記念する祭典(Festa di San Marino)があり、中世の時代衣装を身に着けたパレードや石弓競技が行われている。また、ティターノ山の山頂にはロープウェイで登るルートがあり、アドリア海の眺望を楽しむことができる。",
"title": "経済"
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{
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"text": "首都サンマリノ市には、大聖堂、ゴシック様式のサン・フランチェスコ教会、1894年に建てられた政庁、ロッカ・グアーイタ、ロッカ・デッラ・フラッタ、ロッカ・モンターレと呼ばれる3つの岩峰・城塞があり、中世の面影を残している。",
"title": "経済"
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"text": "24キロメートル離れたイタリアのリミニとは定期バスで結ばれている。ボルゴ・マッジョーレからサンマリノ市(旧市街)へのサン・マリノ・ロープウェイがある。エレベーターも公共交通機関として利用されている。軽飛行機向けの650メートルの滑走路とヘリポート(英語版)がある(北緯43度56分58秒 東経12度30分40秒)。過去には1932年から1944年の間、アドリア海沿岸のリミニからサンマリノを結ぶリミニ=サンマリノ鉄道が運行されていたが、2012年に800メートルの区間を復活させた。",
"title": "経済"
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"text": "サンマリノにはサンマリノ軍及びその指揮下の国家憲兵が存在する。ただし、儀仗兵などの儀礼的な部隊のみで、軍隊を保有していない国家と言われている。一方で、政府は国防のために16歳から60歳までの全国民を動員できる権限を有する。",
"title": "軍事"
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"text": "公用語はイタリア語で、日常語としてはサンマリノ語(ガロ・イタリア語のロマーニャ語に含まれる)も話される。",
"title": "国民"
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"text": "住民は北東部イタリア住民と同様の文化を持ち、宗教はキリスト教が92.2パーセント(カトリック教会88.7パーセント)で、ローマ・カトリックが支配的である。",
"title": "国民"
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"text": "出生率は1,000人に対し9.7人(2009年)、死亡率は同じく7.4人(2009年)、乳児死亡率は1.0人(2009年)、合計特殊出生率は1.5(2008年)である。",
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"text": "サンマリノ在留日本人は2021年時点で7人。また日本在留サンマリノ人は1人、日本訪問サンマリノ人は年間2人(いずれも2020年)。",
"title": "国民"
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"text": "2014年5月15日に世界保健機関(WHO)が発表した『世界保健報告(2014年版)』によると、2011年のサンマリノの平均寿命は男性が82歳で世界一、女性は84歳で世界2位の長寿国である。",
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"text": "2008年にサンマリノ旧市街に位置するティターノ山が、ユネスコの世界遺産リストに文化遺産として登録されている。詳細はサンマリノの世界遺産 サンマリノの歴史地区とティターノ山を参照。",
"title": "文化"
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"text": "2008年以降、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加している。",
"title": "文化"
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"text": "サンマリノの宗教ではキリスト教が92.2パーセント(カトリック教会88.7パーセント)である。 2014年にヨーロッパで初めての日本の最古の宗教である神道の神社である「サンマリノ神社」が建立された。また日本は在サンマリノ日本大使館を開設している(在イタリア日本国大使館が兼轄)。",
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"text": "サンマリノ共和国大学",
"title": "教育"
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"text": "サンマリノ国内に本拠を置く唯一のプロサッカークラブとして、1960年にサンマリノ・カルチョが創設された。イタリア・セリエCに籍を置きセラヴァッレを本拠地としている。しかし2019年7月にクラブは解散した。",
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"text": "1985年にはサッカーリーグの「カンピオナート・サンマリネーゼ」が創設された。SPトレ・フィオリが、2度の3連覇を含むリーグ最多8度の優勝を達成している。",
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"text": "かつてF1・サンマリノGPが行われていた。実際にレースが行われていたのはサンマリノ国内ではなく、麓の町イタリア・イーモラである。2007年以降はF1の開催が完全に「1ヶ国1開催遵守」となったため、以降はサンマリノGPは開催されていない。",
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"text": "二輪のロードレース世界選手権ではサンマリノGPが開催されている。これもサンマリノ国内ではなくイタリアのミサノ・サーキットで行われている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "イタリアンベースボールリーグおよびセリエAで3連覇を含む6度の優勝、更に3度のヨーロッパ王者に輝いた強豪サンマリノ・ベースボールが本拠地(スタジオ・ディ・ベースボール・ディ・セッラヴァッレ)を置いている。",
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"text": "野球専用スタジアムを有する世界で最も小さな国でもある。",
"title": "スポーツ"
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"text": "サンマリノRTV",
"title": "メディア"
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"text": "2014年にヨーロッパで初めての「サンマリノ神社」が建立された。また日本は在サンマリノ日本大使館を開設している(在イタリア日本国大使館が兼轄)。",
"title": "日本との関係"
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サンマリノ共和国、通称サンマリノは、イタリア半島の中東部に位置する共和制国家。首都はサンマリノ市。国土の周囲は全てイタリアで囲まれた内陸国で、国土の面積は61.2平方キロメートル(日本の東京都世田谷区や十和田湖とほぼ同じ)で、世界で5番目に小さなミニ国家である。また、現存する世界最古の共和国と考えられており、同国もそれを誇りとしている。1700年間、一度も戦争をしたことがない。 欧州連合(EU)には加盟していない。
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{{Otheruses|国|アメリカ合衆国カリフォルニア州の都市|サン・マリノ (カリフォルニア州)}}
{{出典の明記|date=2017年9月}}
{{基礎情報 国
| 略名 = サンマリノ
| 日本語国名 = サンマリノ共和国
| 公式国名 = '''{{Lang|it|Repubblica di San Marino}}'''
| 国旗画像 = Flag of San Marino.svg
| 国章画像 = [[File:Coat of arms of San Marino.svg|85px|サンマリノの国章]]
| 国章リンク = ([[サンマリノの国章|国章]])
| 標語 = ''{{Lang|la|Libertas}}''<br />([[ラテン語]]:自由)
| 国歌 = [[サンマリノの国歌]]
| 位置画像 = San Marino on the globe (Europe centered).svg
| 公用語 = [[イタリア語]]<ref name="mofa" />
| 首都 = [[サンマリノ市]]
| 最大都市 = [[セラヴァッレ]]
| 元首等肩書 = [[サンマリノの執政|執政]]
| 元首等氏名 = {{ill2|フィリッポ・タマニーニ|en|Filippo Tamagnini}}<br />{{ill2|ガエターノ・トロイーナ|en|Gaetano Troina}}
| 首相等肩書 =
| 首相等氏名 = なし
| 面積順位 = 191
| 面積大きさ = 1 E7
| 面積値 = 61.2<ref name="朝日20220821">[https://globe.asahi.com/article/14700660 【小国に生きる】サンマリノ共和国▶1700年間一度も戦争したことがない国] [[朝日新聞グローブ|The AsahiShimbun GLOBE]](『[[朝日新聞]]』朝刊2022年8月21日G2面(2022年9月3日閲覧)</ref>
| 水面積率 = 極僅か
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 192
| 人口大きさ = 1 E4
| 人口値 = 34,000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/sm.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-11 |language=en}}</ref>
| 人口密度値 = 563.5<ref name="population" />
| GDP統計年元 = 2004
| GDP値元 = 10億6100万
| GDP統計年MER = 2004
| GDP順位MER =
| GDP値MER = 10億4800万
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| GDP順位 = 175
| GDP値 = 20億9,000万
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| 建国形態 = [[国家の独立|独立]]
| 建国年月日 = [[301年]][[9月3日]]
| 通貨 = [[ユーロ]](€)
| 通貨コード = EUR
| 通貨追記 = <ref group="注釈">[[1999年]]以前の通貨は[[イタリア・リラ]]、[[サンマリノ・リラ]]。「[[サンマリノのユーロ硬貨]]」も参照。</ref>
| 時間帯 = +1
| 夏時間 = +2
| ISO 3166-1 = SM / SMR
| ccTLD = [[.sm]]
| 国際電話番号 = 378
}}
'''サンマリノ共和国'''(サンマリノきょうわこく、{{lang-it-short|Repubblica di San Marino}})、通称'''サンマリノ'''は、[[イタリア半島]]の中東部に位置する[[共和制]][[国家]]<ref name="mofa">{{Cite web|和書|title=サンマリノ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sanmarino_r/data.html |website= |access-date=2022-05-01 |language=ja |publisher=[[日本国外務省]]}}</ref>。[[首都]]は[[サンマリノ市]]<ref name="mofa" />。[[国土]]の周囲は全て[[イタリア]]で囲まれた<ref name="mofa" />[[内陸国]]で、国土の面積は61.2平方キロメートル<ref name="朝日20220821"/>([[日本]]の[[東京都]][[世田谷区]]<ref name="朝日20220821"/>や[[十和田湖]]([[青森県]]・[[秋田県]])とほぼ同じ<ref>{{Cite web|和書|title=世界最古の『山頂の共和国』 |url=https://www.sammarinese.org/post/サンマリノ共和国について-その1 |website=SAMMARINESE |date=2018-07-09 |access-date=2022-05-02 |last=SAMMARINESE}}</ref>)で、世界で5番目に小さな[[ミニ国家]]である<ref>{{Cite web |title=The smallest countries in the world by area |url=https://www.countries-ofthe-world.com/smallest-countries.html |website=www.countries-ofthe-world.com |access-date=2022-05-02 |language=en}}</ref>。また、現存する[[世界最古の一覧|世界最古]]の[[共和国]]と考えられており<ref name="朝日20220821"/><ref name="BBC">{{Cite news|title=San Marino country profile|url=https://www.bbc.com/news/world-europe-17842338|work=[[英国放送協会|BBC News]]|date=2018-05-18|access-date=2022-05-01|language=en-GB}}</ref>、同国もそれを誇りとしている<ref name="サンマリノ共和国大使館">[http://rsm-giappone.com/jp/ 世界で最も古い共和国] 駐日サンマリノ共和国大使館(2022年9月3日閲覧)</ref>。1700年間、一度も戦争をしたことがない<ref>{{Cite web|和書|url=https://globe.asahi.com/article/14701318 |title=「山のてっぺんの島国」サンマリノ 暮らしてわかった、日本との共通点 |publisher = |accessdate=2023-03-20}}</ref>。
[[欧州連合]](EU)には加盟していない<ref name="朝日20220821"/>。
== 国名・国旗・国章・国歌 ==
{{See also|サンマリノの国旗|サンマリノの国章|サンマリノの国歌}}
サンマリノの正式名称は[[イタリア語]]で {{Lang|it|Serenissima Repubblica di San Marino}}(セレニッスィマ・レプッブリカ・ディ・サン・マリーノ)。通称 San Marino(サンマリーノ)。英語表記は {{Lang|en|Most Serene Republic of San Marino}}(モウスト・セリーン・リパブリック・オヴ・サン・マリーノ)。「{{Lang|it|Serenissima}}」とは「最も清らかな」の意であり直訳すれば「最も清らかなる聖マリヌスの共和国」となるが、外国語における公式国名の表記ではほとんどの場合これを訳さず単に「サンマリノ共和国({{Lang|it|Repubblica di San Marino}}、{{Lang|en|Republic of San Marino}})」とし、[[日本国外務省]]もこれに倣っている。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は聖馬力諾(聖は意訳)。
建国伝説によると、[[ローマ皇帝]][[ディオクレティアヌス]]による[[古代末期のキリスト教#ディオクレティアヌスとテトラルキア体制下の迫害|キリスト教迫害]]を避けた[[ダルマチア]]の[[石工]]マリーノが[[301年]]、[[ティターノ山]]に逃れて山頂に三つの[[砦]]を築き、同志とつくった[[キリスト教徒]]の[[共同体]]に始まる<ref name="サンマリノ共和国大使館"/><ref name="朝日20220821"/>。国名は「聖(サン)マリーノ」を意味する{{sfn|世界の国旗と国ぐに|2003|p=52}}。「[[聖マリヌス]]」も参照。
[[サンマリノの国旗]]は1862年4月6日に制定され、[[白色]]が平和、[[青色]]が自由を表現している<ref>{{Cite web |url=http://rsm-giappone.com/wp/wp-content/themes/jstork/img/Countryprofile_en.pdf |title=COUNTRY PROFILE Republic of San Marino |access-date=2022-04-30 |publisher=サンマリノ共和国大使館 |language=en |year=2016 |format=PDF |page=7}}</ref>。[[サンマリノの国章|サンマリノの紋章]](国章)の中央にはティターノ山の3つの[[峰]]に建つ[[塔]]が描かれ、"{{Lang|la|LIBERTAS}}"(「[[自由]]」)の文字が書かれている{{sfn|世界の国旗と国ぐに|2003|p=52}}。
紋章を取り囲んでいる[[オーク]]の枝は「安定」、[[月桂樹]]の枝は「自由」、[[クラウン (紋章学)|王冠]]は「[[主権]]」をそれぞれ象徴している。
== 歴史 ==
<!-- ''詳細は[[サンマリノの歴史]]を参照'' -->
サンマリノは、[[共和制|共和政体]]を採用する現存国家としては世界でも最も長い歴史を持つ。[[1631年]]、[[ローマ教皇]]が[[国家の承認|独立を承認]]して世界最古の独立共和国となった。サンマリノも侵略や短期間の占領を受けたことはあるが、ローマ教皇の助力を得るなど外交的立ち回りや、敵将の急死といった幸運や<ref name="朝日20220821" />、山中にあって[[地政学]]的重要性が低く資源が乏しかったことなどの理由で、現代に至るまで独立を保ち続けた<ref name="朝日20220821"/>。[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]]に勝利して北イタリアを制圧した[[ナポレオン・ボナパルト]]から、約20キロメートル東の[[アドリア海]]沿岸の[[リミニ]]まで領土を広げることを提案されたが、紛争に巻き込まれる危険性を避けるため断った<ref name="朝日20220821"/>。その後、[[1815年]]には、[[ナポレオン戦争]]後の[[ウィーン会議]]でサンマリノの独立が再確認されている。
[[19世紀]]半ばの[[イタリア統一運動]](リソルジメント)でも立役者である[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]を[[オーストリア帝国]]から匿ったり<ref name="朝日20220821"/>、[[義勇軍]]を派遣したりして独立国として残った{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。[[1862年]]、統一された[[イタリア王国]]と[[関税同盟]]を結ぶ一方、友好善隣条約を結んで[[近代国家]]としての[[主権]]と独立を獲得し、それ以来イタリアとは密接な関係を維持している。イタリアとの間では[[1897年]]に友好条約を締結、[[1953年]]にはこれを更新した{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
[[冷戦]]終結後の[[1992年]]には[[国際連合]]と[[国際通貨基金]](IMF)に加盟した{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
なお、[[2008年]]には「[[サンマリノの歴史地区とティターノ山]]」として、[[サンマリノ市]]、[[ボルゴ・マッジョーレ]]市などの一部が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録されている。
=== 年譜 ===
[[File:Urbanviii.jpg|right|thumb|150px|サンマリノの独立を承認したローマ教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]]]
* [[301年]] - イタリア半島の対岸[[ダルマツィア]]地方出身の石工[[聖マリヌス|マリヌス]] (聖マリーノ)が、[[ローマ帝国]]の皇帝[[ディオクレティアヌス]]による[[キリスト教]]迫害を逃れるために、[[9月3日]]仲間に仲間とともにチタン山(現・[[サンマリノ市]]の[[ティターノ山]])に立てこもり建国したといわれる。
* [[951年]] - [[文献資料 (歴史学)|文献]]上に初めてサンマリノの存在が現れる。
* [[1257年]] - [[ギベリン]](皇帝派)と[[グエルフ]](教皇派)の闘争に巻き込まれ、ローマ教皇[[インノケンティウス4世]]より[[破門]]される。破門は2年後に解除された。
* [[1463年]] - 近隣[[リミニ]](現・[[エミリア=ロマーニャ州|エミリア=ロマーニャ州]][[リミニ県]])の[[マラテスタ家]]の侵略に晒された。しかし独力で撃退、追撃を加えて逆に領土を拡大した。
* 1631年 - 教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]より独立を承認される。
* [[1739年]] - アルベロニ[[枢機卿]]によって一時的に占領されるが、教皇[[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]の勧告により独立を維持。
* 1815年 - [[ウィーン会議]]で、サンマリノの独立が再確認される。
* [[1849年]] - イタリア統一を目指す[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]を[[オーストリア帝国]]軍の追撃から匿う。
* [[1854年]] - 教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が、ガリバルディを匿ったサンマリノを「自由主義者の巣窟」として糾弾。[[トスカーナ大公国]]に命じてサンマリノ共和国の教皇領併合を企てるが失敗。
* 1862年 - イタリア統一運動(リソルジメント)における功労によって、イタリアと友好善隣条約を締結。独立が再確認される。
* 1923年 - [[サンマリノファシスト党]]政権が誕生する。
* [[第二次世界大戦]]中 - サンマリノは[[武装中立]]を宣言したが、[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]が始まると、戦火を逃れるために約10万人の[[難民]]が国内に流入した<ref name="朝日20220821"/>。[[1944年]][[6月26日]]には[[イギリス空軍]]機の[[誤爆]]を受け、69名の民間人が死亡した。[[9月17日]]には[[ドイツ軍]]が占領、同日から20日にかけて{{仮リンク|サンマリノの戦い|en|Battle of San Marino}}が発生し、[[ナチス・ドイツ]]を撃退した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]によって約2か月間占領された。
* [[1947年]] - 世界初の自由選挙による[[サンマリノ共産党]]政権が誕生する。
* [[1992年]] - [[3月2日]]、[[国際連合]]に加盟。
== 地理・地誌 ==
[[File:San marino map.png|thumb|right|250px|サンマリノの地図]]
<!-- ''詳細は[[サンマリノの地理]]を参照'' -->
[[イタリア半島]]北東部、周囲を[[イタリア共和国]]に囲まれた面積61.2平方キロメートルの小規模な[[内陸国]]であり、海には面していない{{sfn|世界の国旗と国ぐに|2003|p=52}}。地中海の海岸からは23キロメートル程度の距離でしかない。国土は[[標高]]749 メートルの岩山ティターノ山を中心に広がる山地および丘陵地で、[[アドリア海]]を眺望することができる。西・北・東側でイタリアの[[エミリア=ロマーニャ州|エミリア=ロマーニャ州]]の[[リミニ県]]と、南側で[[マルケ州]]の[[ペーザロ・エ・ウルビーノ県]]に接し、これらのイタリアの2つの県に挟まれるかたちで立地し、東西およそ8キロ、南北およそ13キロメートル。面積は[[ニューヨーク市]]([[アメリカ合衆国]])の[[マンハッタン島]]や[[日本]]の[[八丈島]]の大きさにほぼ等しい{{sfn|世界の国旗と国ぐに|2003|p=52}}<ref name="atlas">{{Cite web|和書|url=http://atlas.cdx.jp/nations/europe/sanmarino.htm |title=世界の国々「サンマリノ」 |website= |accessdate=2021-09-04}}</ref>。
首都[[サンマリノ市]]はティターノ山の頂上にある<ref name="atlas" />。[[緯度]]は北緯43度9.53分と比較的高緯度である。ただし、アドリア海に近いため冬季も温暖な[[地中海性気候]](Cs)である<ref name="atlas" />。夏は乾燥し雨量は少ないが、乾燥の度合いはイタリア半島西海岸ほどではない{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}<ref name="atlas" />。冬にはまとまった降雨がある<ref name="atlas" />。
サンマリノ市以外では、[[ボルゴ・マッジョーレ]]や[[セラヴァッレ]]などの町があり{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}、人口はセラヴァッレが最も多い。
== 政治 ==
{{Main|サンマリノの政治}}
サンマリノには専業の政治家はおらず、元々は[[家長]]の集まりであった[[アレンゴ]]を物事を決め、[[13世紀]]には執政を2人体制として権力の集中を防ぐようになっていた<ref name="朝日20220821"/>。
[[立法機関]]として、国民の[[比例代表選挙]]によって選出される定員60名の[[大評議会 (サンマリノ)|大評議会]]({{Lang|it|Consiglio Grande e Generale}})がある<ref name="mofa" />。議員の任期は5年である{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
[[行政]]の[[政府の長|長]]である[[サンマリノの執政|執政]]({{Lang|it|Capitani Reggenti}})は、大評議会議員の中から[[互選]]によって選出される<ref name="mofa" />。特定の執政による独裁化を防ぐため、執政は常に2名と決められており、しかも執政の任期は6か月のみで再選は3年間認められない。執政の就任式は毎年[[4月1日]]と[[10月1日]]に行われる。また就任の際は、[[アレンゴ]]が開かれる。なお、2名の執政は一方が国家[[元首]]、他方が政府代表とされている{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。
サンマリノでは、[[1945年]]以来、[[連立政権]]が続いている{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。[[2006年]]6月、[[w:Sammarinese Christian Democratic Party|キリスト教民主党]]が第一党となったが、7月、[[w:Party of Socialists and Democrats|社会主義者・民主主義者党]]、[[w:Popular Alliance (San Marino)|人民同盟]]、[[統一左翼 (サンマリノ)|統一左翼]]による中道左派政権が発足した{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。[[2007年]]11月、従来の連立に、キリスト教民主党から分裂した中道民主主義者党を加えた4党連立政権が発足した{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。[[2008年]]11月の総選挙で中道右派の「サンマリノのための協定」連合が勝利して12月に政権が発足した{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。[[2012年]]11月に行われた総選挙では中道・中道左派の「サンマリノ公益」連合が勝利し、12月に新政権を発足させた<ref>{{Cite book|和書|editor=[[二宮書店]]編集部 編 |title=データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 |date=2016-01-10 |publisher=二宮書店 |isbn=978-4-8176-0399-9 |page={{要ページ番号|date=2021年9月}} |chapter=サンマリノ |url=https://www.ninomiyashoten.co.jp/item/978-4-8176-0399-9 |accessdate=2021-09-04}}</ref>。[[2016年]]11月の総選挙では、いずれの政党連合も過半数を得られなかったため、翌月に決選投票が行われた。その結果、野党連合の Adesso.sm が勝利を収め、政権交代が実現した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sanmarino_r/data.html |title=サンマリノ基礎データ |website= |accessdate=2017-01-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170113152026/http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sanmarino_r/data.html |archive-date=2017-01-13 |publisher=日本国外務省}}</ref>。2019年には早期解散によって12月に総選挙が行われたが、過半数又は議席数の半数以上の得票数を得た政党や政党連合がおらず、野党で第一党のサンマリノ・キリスト教民主党、政党連合「動く明日」と「共和国のための我ら」が連立を組み、翌年2020年1月に政権交代となるベッカーリ内閣が発足した<ref name="mofa" />。
人口がわずか3万人ほどのサンマリノでは、国民全員が「顔見知り」に近い状態であり、自国民では中立公平な審議や判決が困難であるという理由から、サンマリノでの[[裁判]]はほとんどが[[外国人]]の[[裁判官]]によって行われる。サンマリノの国土はイタリアに囲まれており公用語もイタリア語であるため、裁判官も基本的にはイタリアから赴任する形をとっている<ref name="朝日20220821"/>。
== 地方行政区分 ==
{{seealso|[[サンマリノの行政区画]]}}
[[File:San Marino.png|thumb|250px|サンマリノの行政区分]]
サンマリノの領土は以下の9つのカステッロ({{Lang|it|Castello}}、「城」の意)からなる。
* [[アックアヴィーヴァ]]({{Lang|it|Acquaviva}})
* [[キエザヌオーヴァ (サンマリノ)|キエザヌオーヴァ]]({{Lang|it|Chiesanuova}})
* [[サンマリノ市|サンマリノ]]({{Lang|it|Città di San Marino}})([http://www.meteosanmarino.com/webcamCentroStorico.htm live view])
* [[ボルゴ・マッジョーレ]]({{Lang|it|Borgo Maggiore}})
* [[ドマニャーノ]]({{Lang|it|Domagnano}})
* [[ファエターノ]]({{Lang|it|Faetano}})
* [[フィオレンティーノ]]({{Lang|it|Fiorentino}})
* [[モンテジャルディーノ]]({{Lang|it|Montegiardino}})
* [[セラヴァッレ]]({{Lang|it|Serravalle}})
大きな町の1つに{{仮リンク|ドガーナ|en|Dogana}}があるがセラヴァッレのカステッロの管轄下にある。イタリアの[[コムーネ]]と同様に役所所在地(''capoluogo'')の周囲にいくつかの[[分離集落]](Frazione, ''pl.'' Frazioni)を有する。
== 経済 ==
<!-- ''詳細は[[サンマリノの経済]]を参照'' -->
[[File:Borgo maggiore.jpg|right|250px|thumb|山麓の町[[ボルゴ・マッジョーレ]]]]
サンマリノは[[1943年]]以来[[紙幣]]の発行を行っておらず、イタリアの[[通貨]]が自由に流通した{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。[[1972年]]以降は独自の[[コイン]]([[サンマリノ・リラ]])を発行してコイン・コレクターの人気を集めた{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。2014年現在、サンマリノは[[欧州連合]]の正式な一員ではないものの、[[欧州議会]]における取り決めにより[[ユーロ]]の流通が認められている{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。ユーロコインの片側に独自の[[デザイン]]を使用する権利を持っており{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}、ユーロ流通以前のサンマリノ・リラは[[イタリア・リラ]]と交換できた。なお、流通量が少ないサンマリノ・ユーロはそれ以前のサンマリノ・リラと同様、収集家たちからの人気が高い。サンマリノはまた、おもに[[切手]]収集家向けの切手を発行しており、一定の財源となっている{{sfn|世界の国旗と国ぐに|2003|p=52}}。他に重要な収入としては、イタリアからの援助と[[移民]]からの送金がある{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
サンマリノの[[国内総生産|GDP]]の50%以上は観光客(281万人、[[2004年]])によるものであり、[[1997年]]の段階では330万人以上が訪問している。[[1985年]]には小規模な[[空港]]が完成した。観光以外の基幹産業としては[[銀行業]]、電子産業、[[窯業]]があり、主な農産品は[[ワイン]]と[[チーズ]]である。
1人あたりの支出レベルや生活水準はイタリアとほぼ同様である。国内に[[金融機関]]が11あり、国内で過去に倒産したことが一度もない。
2017年、サンマリノは海外との経済ネットワークづくりを国家をあげて力を入れている。日本との経済交流や情報交換も盛んで、サンマリノ企業の日本への進出にも力を入れている。日本企業のサンマリノ共和国進出も歓迎されており、両国の提携にも熱心である。サンマリノ共和国と日本との橋渡しは「日本サンマリノ通商協力機構」が担っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://japan-sanmarino.com/ |title=日本サンマリノ通商協力機構 |accessdate=2011-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110202202446/http://japan-sanmarino.com/ |archivedate=2011-02-02 |deadlink=2020年3月}}</ref>。
サンマリノの[[法人税]]は17%と低率であり、それ以外の税金はない。特に[[付加価値税]]が一切ないため、諸外国から買い物目的の観光客が年間300万人前後訪れる。また、税率が低いため、諸外国からの企業進出も増加傾向にある。1862年成立のイタリアと関税同盟以降、現在も入国に際する[[税関]]の検査はない{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
[[経済成長率]]は2.4%([[2005年]])、[[失業率]]は1.4%([[2007年]])、[[物価]]上昇率は2.0%([[2007年]])である{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。
なお、経済の中心は首都サンマリノ市ではなく、山麓の町[[ボルゴ・マッジョーレ]]である。
[[File:Monte Titano.jpg|thumb|250px|right|[[ティターノ山]]]]
=== 農業 ===
サンマリノでの[[第一次産業]]の比率は0.4%と低い。農業従事者は約1,000人程度([[2003年]])であり、国土の約20%が農地、さらに20%が[[牧畜]]に利用されている。主な栽培作物は[[ブドウ]]、[[コムギ]]、[[オリーブ]]、[[野菜]]類、[[葉たばこ]]である。[[林業]]はほとんど見られない。貿易統計が公開されていないため、輸出入に占める農業生産物の割合、品目は不明である。
=== 鉱業 ===
サンマリノでは[[石材]]の切り出しや加工が盛んであるが、それ以外の[[鉱物資源]]は特に確認されていない。
=== 工業 ===
サンマリノの[[工業]]は[[軽工業]]が主で、[[食品工業]]では、デザートワインとして用いられる甘口の[[モスカートワイン]]、[[オリーブ油]]、チーズなどが対象となる。[[繊維工業]]では、[[綿織物]]、染色業がみられる。窯業では、[[陶器]]、[[タイル]]、[[レンガ]]などが生産されている。
=== 観光業 ===
観光業はコインや切手の発行とともに重要な基幹産業であり<ref name="BBC" />、そのユニークな歴史や景観、また買い物を目的として多くの観光客が集まる。
[[File:San Marino Postage Stamps.jpg|thumb|250px|right|サンマリノ共和国の多様な切手]]
毎年[[9月3日]]は、町の創立者である聖マリーノを記念する祭典(Festa di San Marino)があり、中世の時代衣装を身に着けた[[パレード]]や[[石弓]]競技が行われている。また、ティターノ山の山頂には[[ロープウェイ]]で登るルートがあり、アドリア海の眺望を楽しむことができる。
首都サンマリノ市には、大聖堂、[[ゴシック様式]]のサン・フランチェスコ教会、[[1894年]]に建てられた政庁、ロッカ・グアーイタ、ロッカ・デッラ・フラッタ、ロッカ・モンターレと呼ばれる3つの岩峰・城塞があり、中世の面影を残している{{sfn|堺|2004|p=}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
=== 運輸・交通 ===
24キロメートル離れたイタリアのリミニとは[[バス (交通機関)|定期バス]]で結ばれている。[[ボルゴ・マッジョーレ]]からサンマリノ市(旧市街)への[[サン・マリノ・ロープウェイ]]がある。[[エレベーター]]も公共交通機関として利用されている。軽飛行機向けの650メートルの[[滑走路]]と{{仮リンク|トッラッチャ飛行場|en|Torraccia airfield|label=ヘリポート}}がある({{ウィキ座標|43|56|58|N|12|30|40|E|region:SM|地図}})。過去には1932年から1944年の間、アドリア海沿岸のリミニからサンマリノを結ぶ[[リミニ=サンマリノ鉄道]]が運行されていたが、2012年に800メートルの区間を復活させた。
== 軍事 ==
サンマリノにはサンマリノ軍及びその指揮下の[[国家憲兵]]が存在する。ただし、[[儀仗兵]]などの儀礼的な部隊のみで、[[軍隊を保有していない国家の一覧|軍隊を保有していない国家]]と言われている。一方で、政府は国防のために16歳から60歳までの全国民を動員できる権限を有する。
== 国民 ==
<!--''詳細は[[サンマリノの国民]]を参照''-->
公用語はイタリア語で、日常語としてはサンマリノ語([[ガロ・イタリア語]]の[[ロマーニャ語]]に含まれる<ref group="注釈">[[ラ・スペツィア=リミニ線|マッサ=セニガッリア線]]の北側の言語で[[西ロマンス語]]に属する。南側の[[イタリア語|標準的なイタリア語]]の属する[[イタロ・ダルマチア語]]に対立することがある。</ref>)も話される{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。
住民は北東部イタリア住民と同様の文化を持ち、宗教はキリスト教が92.2パーセント([[カトリック教会]]88.7パーセント)で、ローマ・カトリックが支配的である{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。
[[出生率]]は1,000人に対し9.7人([[2009年]])、[[死亡率]]は同じく7.4人(2009年)、乳児死亡率は1.0人(2009年)、[[合計特殊出生率]]は1.5(2008年)である{{sfn|データブック オブ・ザ・ワールド|2012|p=343}}。
サンマリノ在留日本人は{{時点|2021}}で7人<ref name="mofa" />。また日本在留サンマリノ人は1人、日本訪問サンマリノ人は年間2人(いずれも2020年)<ref name="mofa" />。
[[2014年]][[5月15日]]に[[世界保健機関]](WHO)が発表した『世界保健報告(2014年版)』によると、[[2011年]]のサンマリノの[[平均寿命]]は男性が82歳で世界一、女性は84歳で世界2位の長寿国である。
== 文化 ==
=== 世界遺産 ===
2008年にサンマリノ旧市街に位置するティターノ山が、ユネスコの世界遺産リストに[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]として登録されている<ref name="BBC" />。詳細は[[サンマリノの世界遺産]] [[サンマリノの歴史地区とティターノ山]]を参照。
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable"
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
|-
|[[1月1日]]||[[元日]]||Capodanno||rowspan="3"|
|-
|[[1月6日]]||[[公現祭|主の公現]]||Epifania
|-
|[[2月5日]]||聖アガタと共和国開放の祭||Festa di Sant'Agata e di Liberazione della Repubblica
|-
|不定||[[復活祭]]||Pasqua||春分後の満月後の日曜
|-
|復活祭翌日||小復活祭||Lunedì dell'Angelo||rowspan="4"|
|-
|[[3月25日]]||[[アレンゴ記念日]]||Anniversario dell'Arengo
|-
|[[4月1日]]||[[執政就任式 (サンマリノ)|執政就任式]]||Cerimonia di insediamento
|-
|[[5月1日]]||[[メーデー]]||Festa dei lavoratori
|-
|不定||[[聖体の祝日]]||Corpus Domini||[[三位一体の主日]]の後の木曜日
|-
|[[7月28日]]||ファシズムからの解放記念日||Festa della Liberazione dal Fascismo||[[サンマリノファシスト党]]政権崩壊日
|-
|[[8月15日]]||[[聖母の被昇天|聖母の被昇天祭]]||Ferragosto||rowspan="10"|
|-
|[[9月3日]]||[[サンマリノ建国記念日]]||Festa di San Marino e di Fondazione della Repubblica
|-
|[[10月1日]]||執政就任式||Cerimonia di insediamento
|-
|[[11月1日]]||[[諸聖人の日]]||Ognissanti
|-
|[[11月2日]]||[[戦没者記念日]]||Festa dei lavoratori
|-
|[[12月8日]]||[[無原罪の御宿り]]||Immacolata Concezione
|-
|[[12月24日]]||[[クリスマス・イブ]]||Vigilia di Natale
|-
|[[12月25日]]||[[クリスマス]]||Natale
|-
|[[12月26日]]||[[聖ステファノの日]]||Santo Stefano
|-
|[[12月31日]]||[[年越し|大晦日]]||vigilia di capodanno
|}
=== 音楽 ===
2008年以降、[[サンマリノのユーロビジョン・ソング・コンテスト|ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]に参加している。
=== 宗教 ===
サンマリノの宗教ではキリスト教が92.2パーセント(カトリック教会88.7パーセント)である。
[[2014年]]にヨーロッパで初めての日本の最古の宗教である[[神道]]の[[神社]]である「[[サンマリノ神社]]」が建立された<ref>{{Cite web|和書|url=http://girlpower.jp/?p=351 |title=Girl Power サンマリノ共和国の神社に参拝 |website=一般社団法人Girl Power |date= 2014-06-26 |accessdate=2021-09-04}}</ref>。また日本は在サンマリノ日本大使館を開設している(在イタリア日本国大使館が兼轄)<ref>{{Cite web|和書|title=在サンマリノ日本国大使館 |url=https://www.it.emb-japan.go.jp/jointad/sm/ja/index.html |website= |access-date=2022-05-01 |publisher=外務省}}</ref>。
== 教育 ==
=== 大学 ===
[[サンマリノ共和国大学]]
== スポーツ ==
=== サッカー ===
{{main|サッカーサンマリノ代表|サンマリノサッカー連盟}}
サンマリノ国内に本拠を置く唯一のプロ[[サッカークラブ]]として、[[1960年]]に[[サンマリノ・カルチョ]]が創設された。[[イタリア]]・[[セリエC (サッカー)|セリエC]]に籍を置き[[セラヴァッレ]]を本拠地としている。しかし[[2019年]]7月にクラブは解散した。
[[1985年]]にはサッカーリーグの「[[カンピオナート・サンマリネーゼ]]」が創設された。[[SPトレ・フィオリ]]が、2度の3連覇を含むリーグ最多8度の優勝を達成している。
=== モータースポーツ ===
かつて[[フォーミュラ1|F1]]・[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]が行われていた。実際に[[モータースポーツ|レース]]が行われていたのはサンマリノ国内ではなく、麓の町イタリア・[[イーモラ]]である。[[2007年]]以降はF1の開催が完全に「1ヶ国1開催遵守」となったため、以降はサンマリノGPは開催されていない。
二輪の[[ロードレース世界選手権]]では[[サンマリノグランプリ (ロードレース)|サンマリノGP]]が開催されている。これもサンマリノ国内ではなくイタリアの[[ミサノ・サーキット]]で行われている。
=== 野球 ===
[[イタリアンベースボールリーグ]]および[[セリエA (野球)|セリエA]]で3連覇を含む6度の優勝、更に3度の[[欧州チャンピオンズカップ (野球)|ヨーロッパ王者]]に輝いた強豪[[T&Aサンマリノ|サンマリノ・ベースボール]]が本拠地(スタジオ・ディ・ベースボール・ディ・セッラヴァッレ)を置いている。
野球専用スタジアムを有する世界で最も小さな国でもある。
<!--
== 放送 ==
* 局名:[http://www.sanmarinortv.sm San Marino RTV]
* 住所:Viale J.F.Kennedy 13,RSM-47890,Repubblica di San Marino.
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== メディア ==
[[San Marino RTV|サンマリノRTV]]
== 日本との関係 ==
{{Main|日本とサンマリノの関係}}
[[2014年]]にヨーロッパで初めての「[[サンマリノ神社]]」が建立された<ref>{{Cite web|和書|url=http://girlpower.jp/?p=351 |title=Girl Power サンマリノ共和国の神社に参拝 |website=一般社団法人Girl Power |date= 2014-06-26 |accessdate=2021-09-04}}</ref>。また日本は在サンマリノ日本大使館を開設している(在イタリア日本国大使館が兼轄)<ref>{{Cite web|和書|title=在サンマリノ日本国大使館 |url=https://www.it.emb-japan.go.jp/jointad/sm/ja/index.html |website= |access-date=2022-05-01 |publisher=外務省}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=歴史と文化研究所 編著|chapter=サンマリノ|editor=|year=2003|month=12|title=世界の国旗と国ぐに|publisher=[[メイツ出版]]|isbn=978-4895776875|ref={{sfnref|世界の国旗と国ぐに|2003}} }}
* {{Cite book|和書|author=堺憲一|authorlink=堺憲一|chapter=サン・マリノ|editor=[[小学館]] 編|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカ Professional Win版|page={{要ページ番号|date=2021年9月}}|isbn=4099067459|ref={{sfnref|堺|2004}} }}
* {{Cite book|和書|chapter=サンマリノ|editor=[[二宮書店]](編)|year=2012|month=2|title=データブック オブ・ザ・ワールド 2012年版|publisher=二宮書店|series=|isbn=978-4-8176-0358-6|ref={{sfnref|データブック オブ・ザ・ワールド|2012}} }}
== 関連項目 ==
* [[ルパン三世 PART IV]]:サンマリノが舞台。
* [[高見沢俊彦]]([[THE ALFEE]]):サンマリノに[[葡萄園]]を所有し、同国から勲章を受けている。
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|San Marino|San Marino}}
; 政府
* [https://www.consigliograndeegenerale.sm/on-line/home.html サンマリノ共和国議会]{{It icon}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sanmarino_r/index.html 日本外務省 - サンマリノ]{{Ja icon}}
* [https://www.it.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在イタリア日本国大使館] - 在サンマリノ大使館を兼轄{{Ja icon}}
; 観光
* [http://www.visitsanmarino.com/ サンマリノ政府観光局]{{It icon}}{{En icon}}
* [http://thewotme.com/2012/11/san-marino-pinceladas-de-un-pequeno-pais/ サンマリノ、小国ストローク]
; その他
* {{Kotobank|サン・マリノ}}
{{ヨーロッパ}}
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''このページは[[プロジェクト:国|ウィキプロジェクト 国]]のテンプレートを使用しています。''
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[[Category:サンマリノ|*]]
[[Category:ヨーロッパの国]]
[[Category:ヨーロッパの都市]]
[[Category:内陸国]]
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14,294 |
951年
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951年(951 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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951年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛亥]]
* [[日本]]
** [[天暦]]5年
** [[皇紀]]1611年
* [[中国]]
** 五代
*** [[後周]] : [[広順]]元年
** 十国
*** [[南唐]] : [[保大 (南唐)|保大]]9年
*** [[呉越]] : [[広順]]元年(後周の元号を使用)
*** [[南漢]] : [[乾和]]9年
*** [[楚 (十国)|楚]] : 保大9年(南唐の元号を使用)
*** [[後蜀 (十国)|後蜀]] : [[広政]]14年
*** [[北漢]] : [[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]4年([[後漢 (五代)|後漢]]の元号を継続して使用)
** その他
*** [[遼]] : [[天禄 (遼)|天禄]]5年、[[応暦]]元年
*** [[大理国]] : [[至治 (大理)|至治]]6年
*** [[于闐]] : [[同慶 (于闐)|同慶]]40年
* [[朝鮮]]
** [[高麗]] : [[光徳 (高麗)|光徳]]2年
* [[仏滅紀元]] : 1493年 - 1494年
* [[ユダヤ暦]] : 4311年 - 4312年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=951|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[後撰和歌集]]が完成
* [[大和物語]]が完成
* [[醍醐寺]]の[[五重塔]]が建立される
== 誕生 ==
{{see also|Category:951年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[趙徳昭]]、[[宋 (王朝)|宋]]の[[皇族]](+ [[979年]])
* [[仁海]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1046年]])
* [[藤原朝光]]、平安時代の[[公卿]](+ [[995年]])
* [[源扶義]]、平安時代の公卿(+ [[998年]])
* [[致平親王]]、平安時代の皇族(+ [[1041年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:951年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月18日]](天暦5年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[源等]]、[[平安時代]]の[[公家]](* [[880年]])
* [[王延政]]、[[五代十国時代|十国]]・[[閩]]の第8代の王(* 生年未詳)
* [[世宗 (遼)|世宗]]、[[遼]]の第3代皇帝(* [[918年]])
* [[段思良]]、[[大理国]]の第3代の王(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|951}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1257年
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1257年(1257 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1257年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[康元]]2年、[[正嘉]]元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]] -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1917年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[宝祐]]5年
* 中国周辺
** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 憲宗([[モンケ]])7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[高宗 (高麗王)|高宗]]44年
** [[檀君紀元|檀紀]]3590年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[元豊 (陳朝)|元豊]]7年
* [[仏滅紀元]] : 1799年 - 1800年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 654年 - 655年
* [[ユダヤ暦]] : 5017年 - 5018年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1257|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 5月 - 10月 : [[リンジャニ山|サマラス山]]が[[噴火]]。過去3700年間で最大規模と推定されている。
* 元軍の侵攻始まる(1257年、84 - 85年、87 - 88年)
* [[神学者]][[ロベール・ド・ソルボン]]が[[パリ大学]]の神学寮「ソロボンヌ」を創立。
* [[チャオプラヤー川|メナム川]]流域で[[タイ族|タイ民族]]初の王朝[[スコータイ王朝]]が成立
== 誕生 ==
{{see also|Category:1257年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[10月14日]] - [[プシェミスウ2世 (ポーランド王)|プシェミスウ2世]]{{要出典|date=2021-02}}、[[ポーランド王国|ポーランド王]](+ [[1296年]])
* [[陳仁宗]]、[[ベトナム]]の[[陳朝]]の第3代[[皇帝]](+ [[1308年]])
* [[日高 (僧)|日高]]、[[鎌倉時代]]の[[日蓮宗]]の[[僧]](+ [[1314年]])
* [[フリードリヒ1世 (マイセン辺境伯)|フリードリヒ1世]]、[[マイセン辺境伯]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]](+ [[1323年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1257年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月10日]](康元2年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[伊賀光宗]]、[[鎌倉時代]]の[[御家人]](* [[1178年]])
*[[5月17日]] [[崔沆 (高麗の武臣)|崔沆]]、[[武臣政権]]の第7代執権者(* [[1209年]])
* [[6月4日]] - [[プシェミスウ1世]]、[[ヴィエルコポルスカ]]公(* 1220年/1221年)
* [[11月4日]]([[モンケ|蒙哥]]7年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[元好問]]、[[金 (王朝)|金]]の[[文人]](* [[1190年]])
* [[イッズッディーン・アイバク]]、[[マムルーク朝|バフリー・マムルーク朝]]の第2代[[スルターン]](* 生年未詳)
* [[ウラクチ]]、[[ジョチ・ウルス]]の第4代[[ハーン|ハン]](* 生年未詳)
* [[サルタク]]、ジョチ・ウルスの第3代ハン(* 生年未詳)
* [[シャジャル・アッ=ドゥッル]]、[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]、[[マムルーク朝]]の初代[[君主]](* 生年未詳)
* [[新田政義]]、鎌倉時代の御家人、[[新田氏]]当主(* [[1187年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1257}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}}
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[[Category:1257年|*]]
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14,296 |
1463年
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1463年(1463 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1463年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1463}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛正]]4年
*** [[古河公方]] : [[享徳]]12年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2123年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[天順 (明)|天順]]7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[世祖 (朝鮮王)|世祖]]9年
** [[檀君紀元|檀紀]]3796年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光順]]4年
* [[仏滅紀元]] : 2005年 - 2006年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 867年 - 868年
* [[ユダヤ暦]] : 5223年 - 5224年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1463|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:1463年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月17日]] - [[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]、[[ザクセン選帝侯]](+ [[1525年]])
* [[2月24日]] - [[ピコ・デラ・ミランドラ]]、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期の[[哲学者]](+ [[1494年]])
* [[5月21日]](寛正4年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[島津忠昌]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[戦国大名]]、[[島津氏]]の第11代当主(+ [[1508年]])
* [[6月14日]] - [[ハインリヒ1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ハインリヒ1世]]、[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯]](+ [[1514年]])
* [[正親町三条実望]]、室町時代、戦国時代の[[公卿]](+ [[1530年]])
* [[カテリーナ・スフォルツァ]]、[[イーモラ]]、[[フォルリ]]の女性領主(+ [[1509年]])
* [[洞松院]]、戦国大名[[赤松政則]]の後室(+ 没年未詳)
* [[内藤義清]]、室町時代、戦国時代の[[武将]](+ [[1537年]])
* [[マルグリット・ド・ロレーヌ (1463-1521)|マルグリット・ド・ロレーヌ]]、[[アランソン公]][[ルネ (アランソン公)|ルネ]]の妃(+ [[1521年]])
* [[吉田重賢]]、室町時代、戦国時代の武将、弓術家(+ [[1543年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1463年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月18日]](寛正3年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[結城成朝]]、室町時代の武将、[[結城氏]]の第13代当主(* [[1439年]])
* [[2月11日]](寛正4年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[雲章一慶]]、室町時代の[[臨済宗]][[聖一派]]の僧(* [[1386年]])
* [[9月2日]](寛正4年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[朝倉教景]]、室町時代の武将、[[朝倉氏]]の第5代当主(* [[1380年]])
* [[9月20日]](寛正4年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[日野重子]]、[[室町幕府]]6代将軍[[足利義教]]の側室、7代[[足利義勝|義勝]]、8代[[足利義政|義政]]の生母(* [[1411年]])
* [[10月8日]](寛正4年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]) - [[長尾景仲]]、室町時代の武将、[[上野国|上野]]および[[武蔵国]][[守護代]](* [[1388年]])
* [[10月18日]](寛正4年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[志玉]]、室町時代の[[東大寺]]の僧(* [[1383年]])
* [[11月1日]] - [[ダヴィド (トレビゾンド皇帝)|ダヴィド]]、[[トレビゾンド帝国]]の[[皇帝]](* 生年未詳)
* [[11月18日]] - [[ヨハン4世 (バイエルン公)|ヨハン4世]]、[[バイエルン大公|上バイエルン=ミュンヘン公]](* [[1437年]])
* [[11月23日]](寛正4年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[宇都宮明綱]]、室町時代の武将、[[宇都宮氏]]の第15代当主(* [[1443年]])
* [[11月29日]] - [[マリー・ダンジュー]]{{要出典|date=2021-04}}、[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の王妃(* [[1404年]])
* [[12月1日]] - [[メアリー・オブ・グエルダース]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ2世 (スコットランド王)|ジェームズ2世]]の王妃(* [[1434年]])
* [[12月2日]] - [[アルブレヒト6世 (オーストリア大公)|アルブレヒト6世]]、[[オーストリア大公]](* [[1418年]])
* [[ウィリアム・ネヴィル (ケント伯)|ウィリアム・ネヴィル]]、[[ケント伯]](* [[1410年]]頃)
* [[畠山義忠]]、室町時代の[[守護大名]](* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1463}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:1463年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1463%E5%B9%B4
|
14,298 |
1631年
|
1631年(1631 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
|
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1631年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
|
{{年代ナビ|1631}}
{{year-definition|1631}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛永]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2291年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[崇禎]]4年
** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]9年
** [[檀君紀元|檀紀]]3964年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[徳隆]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2173年 - 2174年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1040年 - 1041年
* [[ユダヤ暦]] : 5391年 - 5392年
* [[ユリウス暦]] : 1630年12月22日 - 1631年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1631}}
== できごと ==
* [[2月5日]] - [[ロジャー・ウィリアムズ]]が[[ボストン]]の教会の牧師に着任。
* [[9月17日]]([[旧暦]][[9月7日 (旧暦)|9月7日]]) - [[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]。
* [[12月7日]] - 地球上からの[[金星の太陽面通過]]が起こった<ref>{{Cite web
|url=http://astro.ukho.gov.uk/nao/transit/V_1631/index.html
|title=1631 December 7th Transit of Venus
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|accessdate=2017-09-16}}</ref>。
* 日本で、[[奉書船]]制度始まる。
* [[江戸幕府]]が[[町奉行]]を設置。(成立時期については諸説あり)
== 誕生 ==
{{see also|Category:1631年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月11日]] ([[ユリウス暦]][[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[ニコラウス・ステノ]]、[[デンマーク]]の[[地質学]]者(+ [[1687年]])
* [[7月26日]] ([[寛永]]8年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[堀田正信]]、[[下総国|下総]][[佐倉藩]]第2代藩主(+ [[1680年]])
* [[8月9日]] - [[ジョン・ドライデン]]、[[イングランド]]の[[詩人]]、[[文芸評論|文芸評論家]]、[[劇作家]](+ [[1700年]])
* [[10月30日]] - [[ピエール・ボーシャン]]、[[振り付け師]](+ [[1705年]])
* [[住吉具慶]]、画家(+ [[1705年]])
* [[井上真改]]、[[刀工]](+ [[1682年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1631年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月2日]](寛永7年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[准如]]、[[本願寺]]第12世門主(* [[1577年]])
* [[2月14日]](寛永8年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[津軽信枚]]、[[津軽地方|津軽]][[弘前藩]][[藩主]]
* [[3月31日]] - [[ジョン・ダン]]、詩人、[[作家]](* [[1572年]])
* [[6月17日]] - [[ムムターズ・マハル]]、[[ムガル帝国]]王妃(* [[1595年]])
* [[6月21日]] - [[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]]、[[軍人]]、[[探検家]](* [[1580年]])
* [[10月7日]](寛永8年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[加藤嘉明]]、[[陸奥国]][[会津藩]]藩主(* [[1563年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
==外部リンク==
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1066年
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1066年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丙午]]
* [[日本]]
** [[治暦]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1726年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[治平 (宋)|治平]]3年
** [[遼]] : [[咸雍]]2年
** [[西夏]] : [[拱化]]4年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[龍彰天嗣]]元年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1066|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[3月]] - [[ハレー彗星]]接近。
* [[契丹]]の[[道宗 (遼)|道宗]]、国号を[[遼|大遼]]に改める(2度目の改名)。
=== ヨーロッパ ===
* [[1月6日]] - ハロルド・ゴドウィンソン、前日死去したエドワード懺悔王の後を継ぎ、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]として即位。
* [[9月20日]] - [[フルフォードの戦い]]。[[トスティ・ゴドウィンソン]]と[[ノルウェー]]王[[ハーラル3世 (ノルウェー王)|ハーラル3世]]、アングロサクソン貴族のノーサンブリア伯[[モルカール]]とその弟マーシア伯[[エドウィン (マーシア伯)|エドウィン]]を破る。
* [[9月25日]] - [[スタンフォード・ブリッジの戦い]]。イングランド王ハロルド2世が、弟[[トスティ・ゴドウィンソン|トスティ]]とノルウェー王ハーラル3世を破る。
* [[9月28日]] - ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)がイングランドに侵入。ノルマン・コンクエストが始まる。
* [[10月14日]] - [[ヘイスティングズの戦い]]。ノルマンディー公ギヨームがイングランド王ハロルド2世を破る。
* [[12月25日]] - ノルマンディー公ギヨーム、イングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位([[ノルマン・コンクエスト]])。
* [[ヘーゼビュー]]がスラヴ人によって略奪され、放棄。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1066年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|エンリケ]]、[[ポルトゥカーレ伯領|ポルトゥカーレ]][[ポルトガル君主一覧|伯爵]](+ [[1112年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1066年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月5日]] - [[エドワード懺悔王]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1004年]]?)
* [[9月25日]] - [[トスティ・ゴドウィンソン]]、エドワード懺悔王の義兄、ハロルド2世の弟(* [[1026年]]?)
* 9月25日 - [[ハーラル3世 (ノルウェー王)|ハーラル3世]]、[[ノルウェー王]](* [[1015年]])
* [[10月14日]] - [[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]、エドワード懺悔王の義兄、最後の[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]]系イングランド王(* [[1022年]])
* [[11月8日]](治暦2年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[藤原明衡]]、[[平安時代]]の[[儒学者]]、[[文人]](* [[989年]]?)
* [[蘇洵]]、[[北宋]]時代の文人、[[唐宋八大家]]の一人(* [[1009年]])
== フィクションのできごと ==
* タイムロードのモンク、ハロルド王に未来の兵器を与えヘイスティングスの戦いの結果を改竄しようとする。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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969年
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969年(969 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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969年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[己巳]]
* [[日本]]
** [[安和]]2年
** [[皇紀]]1629年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[開宝]]2年
** 十国
*** [[南唐]] : 開宝2年(北宋の元号を使用)
*** [[呉越]] : 開宝2年(北宋の元号を使用)
*** [[南漢]] : [[大宝 (南漢)|大宝]]12年
*** [[北漢]] : [[天会 (北漢)|天会]]13年
** その他
*** [[遼]] : [[応暦]]19年、[[保寧]]元年
*** [[大理国]] : [[明政 (大理)|明政]]元年
*** [[于闐]] : [[天尊]]3年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
=== ビザンツ帝国 ===
* [[12月11日]] - [[ヨハネス1世ツィミスケス]]が、[[ニケフォロス2世フォカス]]を暗殺して即位
=== ヨーロッパ ===
* [[ペタル1世]]が退位して修道院に引退し、[[ボリス2世]]が[[ブルガリア]]の皇帝(ツァーリ)として即位
* [[キエフ大公国]]の摂政[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]が死に、[[スヴャトスラフ1世]]が親政を開始
* [[スヴャトスラフ1世]]が[[第一次ブルガリア帝国]]を征服
=== アフリカ ===
* [[ファーティマ朝]]が[[エジプト]]を征服。[[ケルアン]]から[[フスタート]]へ遷都し、フスタート北部に[[カイロ]]を建設する。
=== 中国 ===
* [[遼]]の[[景宗 (遼)|景宗]](耶律 明扆)が即位
* [[北宋|宋]]の[[趙匡胤|太祖]]趙匡胤が[[北漢]]に親征し、北漢への遼の援軍を受けて兵を引く。
=== 日本 ===
* [[9月27日]]([[安和]]2年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - [[冷泉天皇]]が譲位し、第64代[[天皇]]・[[円融天皇]]が即位
* [[安和の変]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:969年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ハマザーニー]]、[[アラビア語文学|アラビア語]][[詩人]]、[[マカーマ (文学)|マカーマ]]文学の創始者(+ [[1007年]])
* [[源経房]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1023年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:969年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月11日]] - [[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]、[[キエフ大公国]]第2代大公[[イーゴリ1世]]の妃(* 生年未詳)
* [[10月24日]](安和2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[婉子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[斎院|賀茂斎院]](* [[904年]])
* [[12月1日]](安和2年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[藤原師尹]]、平安時代の[[公卿]](* [[920年]])
* [[12月10日]] - [[ニケフォロス2世フォカス]]、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の[[皇帝]](* [[913年]])
* [[段思聡]]、[[大理国]]の第4代王(* 生年未詳)
* [[法蔵 (日本)|法蔵]]、平安時代の[[法相宗]]の[[僧]](* [[905年]])
* [[穆宗 (遼)|穆宗]]、[[遼]]の第4代[[皇帝]](* [[931年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|969}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,303 |
立春
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立春(りっしゅん)は、二十四節気の第1。正月節(旧暦12月後半から1月前半)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が315度のときで2月3日、2月4日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/8年(約45.66日)後で2月5日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の雨水前日までである。
冬が極まり春の気配が立ち始める日。『暦便覧』には「春の気立つを以って也」と記されている。冬至と春分の中間に当たり、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合は、この日から立夏の前日までが春となる。九州など暖かい地方では梅が咲き始める。二十四節気が成立した中国内陸部は大陸性気候のためこの頃には暖かくなり始めるが、海に囲まれた日本列島は、立春を過ぎても寒さや荒天が続く。また、南岸低気圧の発生も立春を境に多くなり、その一例として平成26年の大雪のように関東で記録的な大雪になったのも立春後である。
立春は八十八夜・二百十日・二百二十日など、雑節の起算日(第1日目)となっている。立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風を春一番と呼ぶ。桜の開花時期は、立春からの最高気温の合計が540°Cという概算法がある(ほかに、元日からの平均気温の合計が600°C、2月1日からの最高気温の合計が600°Cという方法もある)。
一般的な節分とは、立春の前日のことである。立春の早朝、禅寺では門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある。また、中国では立春の日に春餅(チュンビン)を食べる習慣がある。
九星気学では立春が1年の始まりとなる。
定気法による立春の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での立春日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。
グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の立春は表のとおり。 2023年の立春は2月4日。[更新]
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(立春は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。 1985年から2020年までは2月4日だが、1984年までは2月5日、1897年までは2月3日もあった。2021年から閏年の翌年は再び2月3日となる(2021年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。
立春は旧暦1月1日だという勘違いがあるが、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められるため、多くの年は1日にならない。ただし約30年に1度、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年がある(朔旦立春)。近年は1954年・1992年がそうで、次は2038年と予測される。
旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。
節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣である。
二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「春の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「大寒から立春までは一年のうちで最も寒い季節であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくる」とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような気象的事象のゆえに「立春」が定められたのではなく、冬至から春分への中間点として、暦法上の要請から定められたものだということである。
春の区分は、西欧では習慣的に暑くも寒くもない季節、つまり、春分から夏至までを spring とする。古代中国では昼夜の長短のピークとなる二至(夏至、冬至)と、昼夜の長さがほぼ同じとなる二分(春分、秋分)を各季節の分かれ目とし、これらの中間に各季節の極として四立(立春、立夏、立秋、立冬)を設けた。なお、日本の気象庁では、3月 - 5月が春、6月 - 8月が夏、9月 - 11月が秋、12月 - 2月が冬としている。
立春の旧暦での日付は大まかに言って、半分の年では新年1月の前半、半分の年では旧年12月(あるいは希に閏12月)の後半である。旧年12月(または閏12月)の立春を年内立春、新年1月の立春を新年立春と呼ぶ。また特に旧暦1月1日にあたる場合を朔旦立春(さくたんりっしゅん)と呼び、非常に縁起のよい日とされている。
より正確に言えば、立春の次の節気である雨水を含む暦月が1月なので、立春翌日から雨水当日までの約半月間に朔(新月)があれば、立春は前年12月(または閏12月)なので年内立春であり、その期間に朔がなければ立春は1月であり新年立春となる。
このように旧暦では年の初めか終わりに立春があり、年によっては2回立春がある反面、立春がない年も発生する。この立春のない年を盲年と呼び、結婚には不向きであるとの伝承がある。
近年の立春の旧暦での日付は次のとおり(未来は予測)。19年周期(メトン周期)でほぼ同じ日付が繰り返され、近年では19年中10年が年内立春、9年が新年立春である。
『古今和歌集』の巻頭には、年内立春を詠んだ歌がある。
ふるとしに春たちける日よめる
年明け前に立春となった日に詠んだ歌
立春の期間の七十二候は以下のとおり。
大寒 → 立春 → 雨水
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"text": "近年の立春の旧暦での日付は次のとおり(未来は予測)。19年周期(メトン周期)でほぼ同じ日付が繰り返され、近年では19年中10年が年内立春、9年が新年立春である。",
"title": "旧暦と立春"
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"text": "『古今和歌集』の巻頭には、年内立春を詠んだ歌がある。",
"title": "旧暦と立春"
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"text": "ふるとしに春たちける日よめる",
"title": "旧暦と立春"
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"text": "年明け前に立春となった日に詠んだ歌",
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"text": "立春の期間の七十二候は以下のとおり。",
"title": "七十二候"
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"text": "大寒 → 立春 → 雨水",
"title": "前後の節気"
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] |
立春(りっしゅん)は、二十四節気の第1。正月節(旧暦12月後半から1月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が315度のときで2月3日、2月4日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/8年(約45.66日)後で2月5日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の雨水前日までである。
|
{{Otheruses|節気|その他の用法|立春 (曖昧さ回避)}}
{{節気}}
'''立春'''(りっしゅん)は、[[二十四節気]]の第1。正月節([[旧暦12月]]後半から[[旧暦1月|1月]]前半)。
現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が315[[度 (角度)|度]]のときで[[2月3日]]、[[2月4日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から1/8年(約45.66日)後で[[2月5日]]ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[雨水]]前日までである。
== 季節 ==
冬が極まり[[春]]の気配が立ち始める日<ref>天体観測ハンドブック―「天文年鑑」を100%活用するために, 誠文堂新光社 (たとえば1970年) </ref>。『[[暦便覧]]』には「春の気立つを以って也」と記されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536637/7|title=こよみ便覧|accessdate=2022-12-17|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。[[冬至]]と[[春分]]の中間に当たり、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合は、この日から[[立夏]]の前日までが春となる。[[九州]]など暖かい地方では[[ウメ|梅]]が咲き始める。二十四節気が成立した中国内陸部は大陸性気候のためこの頃には暖かくなり始めるが、海に囲まれた日本列島は、立春を過ぎても寒さや荒天が続く<ref>[http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0702.htm こよみのページ - なぜずれる? 二十四節気と季節感]</ref>。また、[[南岸低気圧]]の発生も立春を境に多くなり、その一例として[[平成26年の大雪]]のように関東で記録的な大雪になったのも立春後である。
立春は[[八十八夜]]・[[二百十日]]・[[二百二十日]]など、[[雑節]]の起算日(第1日目)となっている。立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風を[[春一番]]と呼ぶ。桜の開花時期は、立春からの最高気温の合計が540℃という概算法がある(ほかに、[[元日]]からの平均気温の合計が600℃、[[2月1日]]からの最高気温の合計が600℃という方法もある)。
一般的な[[節分]]とは、立春の前日のことである。{{anchors|立春大吉|大吉}}立春の早朝、[[禅寺]]では門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある。また、[[中国]]では立春の日に[[春餅]](チュンビン)を食べる習慣がある。
[[九星気学]]では立春が1年の始まりとなる。
== 日付 ==
{{節気時刻説明|立春}}
{| class="wikitable" align="left"
|-
! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国
{{節気の日付|1966|02|04|06|38}}
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{{節気の日付|2059|02|03|20|22}}
{{節気の日付|2060|02|04|02|07}}
|}
{{clear}}
===グレゴリオ暦===
{{節気日付パターン説明|立春|{{CURRENTYEAR-JST}}}}
[[1985年]]から[[2020年]]までは[[2月4日]]だが、[[1984年]]までは[[2月5日]]、[[1897年]]までは[[2月3日]]もあった。[[2021年]]から[[閏年]]の翌年は再び[[2月3日]]となる(2021年が日の境界に近いため、不確かさが残る)。
{| class="wikitable" align="left"
! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年
|-
! 1 !! 2 !! 3 !! 0 !! 真夜中の前後10分
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1601|1612}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 || 1609(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1613|1644}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 || 1642(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1645|1676}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1677|1700}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1701|1708}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1709|1748}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 || 1745(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1749|1780}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1781|1800}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1801|1816}} || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || 1815(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1817|1848}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || 1848(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1849|1884}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1885|1900}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1901|1916}} || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1917|1952}} || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || 1918(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1953|1984}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|1985|2020}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2021|2056}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 || 2021(3-4日), 2054(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2057|2088}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2089|2100}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2101|2120}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2121|2156}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2157|2192}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 ||2157(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2193|2200}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2201|2224}} || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2225|2260}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || 2260(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2261|2296}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 || 2293(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2297|2300}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2301|2328}} || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || 2326(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2329|2360}} || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2361|2396}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || 2396(4-5日),
|-
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|-
|{{EqJSTYRangeMark|2433|2464}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2465|2496}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2497|2500}} || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || bgcolor=yellow|3日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2501|2528}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2529|2568}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 || 2532(4-5日), 2565(3-4日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2569|2600}} || bgcolor=yellow|3日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2601|2636}} || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2637|2668}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || 2668(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2669|2700}} || |4日 || |4日 || |4日 || |4日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2701|2704}} || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || 2701(4-5日),
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2705|2736}} || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2737|2768}} || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|-
|{{EqJSTYRangeMark|2769|2800}} || |4日 || |4日 || |4日 || bgcolor=cyan|5日 ||
|}
{{clear}}
== 旧暦と立春 ==
立春は[[旧暦1月1日]]だという勘違いがあるが、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず[[朔]](新月)だが、立春は朔に関係なく定められるため、多くの年は1日にならない。ただし約30年に1度、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年がある([[朔旦立春]])。近年は[[1954年]]・[[1992年]]がそうで、次は[[2038年]]と予測される。
[[旧暦]](中国・日本の[[太陰太陽暦]])では[[元日]]が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを[[夏正]](かせい)という。古代中国[[夏 (三代)|夏王朝]]の正月という意である。[[平気法]]ではそのために、立春の次の[[雨水]]を含む月を正月([[1月 (旧暦)|1月]])とする。[[定気法]]での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。
[[節切り]]にあっては立春が年初となる。[[四柱推命]]や[[風水]]などの[[占い]]では、[[節分]]までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。[[節分]]の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣である。
二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「[[春]]の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「[[大寒]]から立春までは一年のうちで最も寒い[[季節]]であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、[[春]]の気配が忍び入ってくる」とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような[[気象]]的事象のゆえに「立春」が定められたのではなく、[[冬至]]から[[春分]]への中間点として、[[暦法]]上の要請から定められたものだということである。
[[春]]の区分は、西欧では習慣的に暑くも寒くもない季節、つまり、[[春分]]から[[夏至]]までを [[:en:Spring (season)|spring]] とする。[[古代中国]]では昼夜の長短のピークとなる二至(夏至、冬至)と、昼夜の長さがほぼ同じとなる二分(春分、秋分)を各季節の分かれ目とし、これらの中間に各季節の極として[[四立]](立春、立夏、立秋、立冬)を設けた。なお、日本の[[気象庁]]では、3月 - 5月が[[春]]、6月 - 8月が[[夏]]、9月 - 11月が[[秋]]、12月 - 2月が[[冬]]としている<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/toki.html 気象庁(時に関する用語)]</ref>。
=== 新年立春と年内立春 ===
立春の旧暦での日付は大まかに言って、半分の年では新年[[1月 (旧暦)|1月]]の前半、半分の年では旧年[[12月 (旧暦)|12月]](あるいは希に[[閏月|閏]]12月)の後半である。旧年12月(または閏12月)の立春を年内立春、新年1月の立春を新年立春と呼ぶ。また特に旧暦1月1日にあたる場合を[[朔旦立春]](さくたんりっしゅん)と呼び、非常に縁起のよい日とされている。
より正確に言えば、立春の次の[[節気]]である[[雨水]]を含む[[暦月]]が1月なので、立春翌日から雨水当日までの約半月間に[[朔]](新月)があれば、立春は前年12月(または閏12月)なので年内立春であり、その期間に朔がなければ立春は1月であり新年立春となる。
このように旧暦では年の初めか終わりに立春があり、年によっては2回立春がある反面、立春がない年も発生する。この立春のない年を盲年と呼び、結婚には不向きであるとの伝承がある。
近年の立春の旧暦での日付は次のとおり(未来は予測)。19年周期([[メトン周期]])でほぼ同じ日付が繰り返され、近年では19年中10年が年内立春、9年が新年立春である。
{| class="wikitable"
|-
! 新暦 !! 旧暦 !! 新暦 !! 旧暦
|-
| 1992年{{0}}2月{{0}}4日 || 1992年[[1月1日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}1日]] || 2011年{{0}}2月{{0}}4日 || 2011年[[1月2日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}2日]]
|-
| 1993年{{0}}2月{{0}}4日 || 1993年[[1月13日 (旧暦)|{{0}}1月13日]] || 2012年{{0}}2月{{0}}4日 || 2012年[[1月13日 (旧暦)|{{0}}1月13日]]
|-
| 1994年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 1993年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]] || 2013年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2012年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]
|-
| 1995年{{0}}2月{{0}}4日 || 1995年[[1月5日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}5日]] || 2014年{{0}}2月{{0}}4日 || 2014年[[1月5日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}5日]]
|-
| 1996年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 1995年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]] || 2015年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2014年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]
|-
| 1997年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 1996年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]] || 2016年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2015年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]
|-
| 1998年{{0}}2月{{0}}4日 || 1998年[[1月8日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}8日]] || 2017年{{0}}2月{{0}}4日 || 2017年[[1月8日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}8日]]
|-
| 1999年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 1998年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]] || 2018年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2017年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]
|-
| 2000年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 1999年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]] || 2019年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2018年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]
|-
| 2001年{{0}}2月{{0}}4日 || 2001年[[1月12日 (旧暦)|{{0}}1月12日]] || 2020年{{0}}2月{{0}}4日 || 2020年[[1月11日 (旧暦)|{{0}}1月11日]]
|-
| 2002年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2001年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]] || 2021年{{0}}2月{{0}}3日 || style="background:pink" | 2020年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]
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| 2003年{{0}}2月{{0}}4日 || 2003年[[1月4日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}4日]] || 2022年{{0}}2月{{0}}4日 || 2022年[[1月4日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}4日]]
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| 2004年{{0}}2月{{0}}4日 || 2004年[[1月14日 (旧暦)|{{0}}1月14日]] || 2023年{{0}}2月{{0}}4日 || 2023年[[1月14日 (旧暦)|{{0}}1月14日]]
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| 2005年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2004年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]] || 2024年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2023年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]
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| 2006年{{0}}2月{{0}}4日 || 2006年[[1月7日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}7日]] || 2025年{{0}}2月{{0}}3日 || 2025年[[1月6日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}6日]]
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| 2007年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2006年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]] || 2026年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2025年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]
|-
| 2008年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2007年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]] || 2027年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2026年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]
|-
| 2009年{{0}}2月{{0}}4日 || 2009年[[1月10日 (旧暦)|{{0}}1月10日]] || 2028年{{0}}2月{{0}}4日 || 2028年[[1月9日 (旧暦)|{{0}}1月{{0}}9日]]
|-
| 2010年{{0}}2月{{0}}4日 || style="background:pink" | 2009年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]] || 2029年{{0}}2月{{0}}3日 || style="background:pink" | 2028年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]
|}
=== 年内立春の歌 ===
『[[古今和歌集]]』の巻頭には、年内立春を詠んだ歌がある。
ふるとしに春たちける日よめる
{{Cquote|
年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ
|4=[[在原元方]]}}
年明け前に立春となった日に詠んだ歌
{{Cquote|
年が明けないうちに立春が来てしまった。昨日までの一年(一月一日から節分)を去年と言おうか、今年と言おうか
|4=現代語訳}}
== 七十二候 ==
立春の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。
;初候
:'''東風解凍'''(はるかぜ こおりを とく):[[東風]]が厚い氷を解かし始める(日本・中国)
;次候
:'''黄鶯睍睆'''(うぐいす なく):[[ウグイス|鶯]]が山里で鳴き始める(日本)
:'''蟄虫始振'''(ちっちゅう はじめて ふるう):冬籠りの虫が動き始める(中国)
;末候
:'''魚上氷'''(うお こおりを のぼる):割れた氷の間から魚が飛び出る(日本・中国)
== 前後の節気 ==
[[大寒]] → '''立春''' → [[雨水]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{wikiquote|立春}}
*[[節分]] - 立春の前日
*[[春節]]
{{DEFAULTSORT:りつしゆん}}
[[Category:節気]]
[[Category:春の季語]]
[[Category:2月]]
[[Category:旧暦12月]]
[[Category:旧暦1月]]
|
2003-08-28T16:15:51Z
|
2023-11-30T01:45:22Z
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Otheruses",
"Template:節気",
"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%98%A5
|
14,304 |
雨水
|
雨水(うすい)は、二十四節気の第2。正月中(通常旧暦1月内)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が330度のときで2月18日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/6年(約60.87日)後で2月20日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の啓蟄前日までである。
古代中国夏王朝は雨水を年始と定めており(三正)、西洋占星術では雨水を双魚宮(うお座)の始まりとする。
空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころ。『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。実際は積雪の山場(ピーク)であり、それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。
春一番が吹き、鶯の鳴き声が聞こえ始める地域もある。
昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。
定気法による雨水の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での雨水日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。
グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の雨水は表のとおり。 2023年の雨水は2月19日。[更新]
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(雨水は閏日の挿入される2月末日より前のため、 4で割って1余る年が先頭)。 1961年から2200年までは2月18日、2月19日のいずれか。1960年までは2月20日のときもあった。
雨水の期間の七十二候は以下の通り。
立春 → 雨水 → 啓蟄
|
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"text": "空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころ。『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。実際は積雪の山場(ピーク)であり、それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。",
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雨水(うすい)は、二十四節気の第2。正月中(通常旧暦1月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が330度のときで2月18日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/6年(約60.87日)後で2月20日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の啓蟄前日までである。 古代中国夏王朝は雨水を年始と定めており(三正)、西洋占星術では雨水を双魚宮(うお座)の始まりとする。
|
{{otheruses|暦の呼称|気象現象|[[雨]]」もしくは「[[降水]]|雨水の排出に関する事柄|[[排水設備|雨水排水]]」もしくは「[[下水道]]}}
{{節気}}
'''雨水'''(うすい)は、[[二十四節気]]の第2。正月中(通常[[旧暦1月]]内)。
現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が330[[度 (角度)|度]]のときで[[2月18日]]ごろ<ref> 「年中行事事典」p82 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から1/6年(約60.87日)後で[[2月20日]]ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[啓蟄]]前日までである。
古代中国[[夏 (三代)|夏]]王朝は雨水を年始と定めており([[三正]])、[[西洋占星術]]では雨水を[[双魚宮]]([[うお座]])の始まりとする。
==季節==
空から降るものが[[雪]]から[[雨]]に変わり、雪が溶け始めるころ。『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。実際は積雪の山場(ピーク)であり、それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。
[[春一番]]が吹き、[[ウグイス|鶯]]の鳴き声が聞こえ始める地域もある。
昔から[[農業|農耕]]の準備を始める目安とされてきた。
==日付==
{{節気時刻説明|雨水}}
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|-
! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国
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|}
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===グレゴリオ暦===
{{節気日付パターン説明|雨水|{{CURRENTYEAR-JST}}}}
[[1961年]]から[[2200年]]までは[[2月18日]]、[[2月19日]]のいずれか。[[1960年]]までは[[2月20日]]のときもあった。
{|class="wikitable" align="left"
! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年
|-
! 1 !! 2 !! 3 !! 0 !! 真夜中の前後10分
|-
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|}
{{clear}}
== 七十二候 ==
雨水の期間の[[七十二候]]は以下の通り。
;初候
:'''土脉潤起'''(つちのしょう うるおい おこる):雨が降って土が湿り気を含む(日本)
:'''[[獺祭魚]]'''(かわうそ うおを まつる):[[カワウソ|獺]]が捕らえた魚を並べて食べる(中国)
;次候
:'''霞始靆'''(かすみ はじめて たなびく):霞がたなびき始める(日本)
:'''鴻雁来'''(こうがん きたる):[[雁]]が北へ渡って行く(中国)
;末候
:'''草木萌動'''(そうもく めばえ いずる):草木が芽吹き始める(日本)
:'''草木萌動'''(そうもく きざし うごく):草木が芽吹き始める(中国)
== 前後の節気 ==
[[立春]] → '''雨水''' → [[啓蟄]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
{{DEFAULTSORT:うすい}}
[[Category:節気]]
[[Category:2月]]
[[Category:春の季語]]
[[Category:旧暦1月]]
|
2003-08-28T16:24:11Z
|
2023-08-22T07:48:40Z
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"Template:節気時刻説明",
"Template:節気の日付",
"Template:Clear",
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"Template:EqJSTYRangeMark",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Otheruses",
"Template:節気"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%B0%B4
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啓蟄
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啓蟄(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「開く」、「蟄(なお、チツは慣用音で、漢・呉音はチフ・ヂフ)」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。
現在広まっている定気法では太陽黄経が345度のときで3月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から5/24年(約76.09日)後で3月8日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の春分前日までである。
大地が温まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ。『暦便覧』には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されている。
柳の若芽が芽吹き、ふきのとうの花が咲くころ。
定気法による啓蟄の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での啓蟄日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。
グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の啓蟄は表のとおり。 2023年の啓蟄は3月6日。[更新]
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(啓蟄は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1920年から2087年までは3月5日、3月6日のいずれか。1919年までは3月7日もあった。2088年からは3月4日が出現する。
啓蟄のことを日本以外の漢字文化圏では驚蟄(惊蛰、拼音: jīngzhé)と書く。また日本でもそう書く場合がある。
これは、漢王朝6代皇帝である景帝の諱が「啓」(現代北方音: qǐ)であり、避諱して意味が似ている「驚」の字で代用したことに由来する。同時に、孟春正月の驚蟄と、仲春二月節の「雨水」との順番を入れ換えた。同様に、「穀雨」と「清明」の順次も入れ換えた。
唐代に入ると、啓の字を避ける必要がなくなったことから「啓蟄」に戻された。それと同時に、順次も孟春正月中に変えられている。しかし、使い慣れないせいもあって玄宗治世下の大衍暦で再び「驚蟄」に戻され現在に至る。
日本でも、中国と同様に「驚蟄」が歴代の具注暦に使われている。後に日本でも大衍暦と宣明暦を採用したが、驚蟄は、日本では、仲春二月節とされた。日本で「啓蟄」が名称として用いられたのは、貞享の改暦の時である。従来の仲春二月節のまま、文字だけが改められた。二十四節気の名称のうちで日本と中国で異なっているのはこれだけである。
アメリカにはジリスの一種グラウンドホッグが外に出るか、出ないかで春を占う「グラウンドホッグデー」というものがある。
啓蟄の期間の七十二候は以下の通り。
雨水 → 啓蟄 → 春分
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啓蟄(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「開く」、「蟄(なお、チツは慣用音で、漢・呉音はチフ・ヂフ)」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。 現在広まっている定気法では太陽黄経が345度のときで3月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から5/24年(約76.09日)後で3月8日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の春分前日までである。
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{{節気}}
'''啓蟄'''(けいちつ)は、[[二十四節気]]の第3。二月節([[旧暦1月]]後半から[[旧暦2月|2月]]前半)。「啓」は「開く」、「蟄(なお、チツは慣用音で、漢・呉音はチフ・ヂフ)」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の[[季語]]でもある。
現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が345[[度 (角度)|度]]のときで[[3月6日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[平気法]]では[[冬至]]から5/24年(約76.09日)後で[[3月8日]]ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[春分]]前日までである。
== 季節 ==
大地が温まり[[冬眠]]をしていた虫が穴から出てくるころ。『[[暦便覧]]』には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されている。
[[柳]]の若芽が芽吹き、[[フキ|ふきのとう]]の花が咲くころ。
== 日付 ==
{{節気時刻説明|啓蟄}}
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|-
! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国
{{節気の日付|1966|03|06|00|51}}
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=== グレゴリオ暦 ===
{{節気日付パターン説明|啓蟄|{{CURRENTYEAR-JST}}}}
[[1920年]]から[[2087年]]までは[[3月5日]]、[[3月6日]]のいずれか。[[1919年]]までは[[3月7日]]もあった。[[2088年]]からは[[3月4日]]が出現する。
{|class="wikitable" align="left"
! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年
|-
! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分
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== 驚蟄 ==
啓蟄のことを日本以外の[[漢字文化圏]]では'''驚蟄'''(惊蛰、{{ピン音|jīngzhé}})と書く。また日本でもそう書く場合がある。
これは、[[前漢|漢]]王朝6代皇帝である[[景帝 (漢)|景帝]]の[[諱]]が「啓」(現代北方音: qǐ)であり、[[避諱]]して意味が似ている「驚」の字で代用したことに由来する。同時に、孟春正月の驚蟄と、仲春二月節の「雨水」との順番を入れ換えた。同様に、「[[穀雨]]」と「[[清明]]」の順次も入れ換えた。
*漢初以前 立春 ⇒ 啓蟄 ⇒ 雨水 ⇒ 春分 ⇒ 穀雨 ⇒ 清明
*漢景帝代 立春 ⇒ 雨水 ⇒ 驚蟄 ⇒ 春分 ⇒ 清明 ⇒ 穀雨
[[唐]]代に入ると、啓の字を避ける必要がなくなったことから「啓蟄」に戻された。それと同時に、順次も孟春正月中に変えられている。しかし、使い慣れないせいもあって[[玄宗]]治世下の[[大衍暦]]で再び「驚蟄」に戻され現在に至る。
日本でも、中国と同様に「驚蟄」が歴代の[[具注暦]]に使われている。後に日本でも大衍暦と[[宣明暦]]を採用したが、驚蟄は、日本では、仲春二月節とされた。日本で「啓蟄」が名称として用いられたのは、[[貞享]]の改暦の時である。従来の仲春二月節のまま、文字だけが改められた。二十四節気の名称のうちで日本と中国で異なっているのはこれだけである。
アメリカには[[ジリス]]の一種グラウンドホッグが外に出るか、出ないかで春を占う「[[グラウンドホッグデー]]」というものがある。
== 七十二候 ==
啓蟄の期間の[[七十二候]]は以下の通り。
;初候
:'''蟄虫啓戸'''(ちっちゅう こを ひらく):冬籠りの虫が出て来る(日本)
:'''桃始華'''(もも はじめて はなさく):[[モモ|桃]]の花が咲き始める(中国)
;次候
:'''桃始笑'''(もも はじめて わらう):桃の花が咲き始める(日本)
:'''倉庚鳴'''(そうこう なく):[[コウライウグイス|倉庚]]が鳴き始める(中国)
;末候
:'''菜虫化蝶'''(なむし ちょうと けす):青虫が羽化して[[紋白蝶]]になる(日本)
:'''鷹化為鳩'''(たか けして はとと なる):[[鷹]]が[[カッコウ|鳩]]に姿を変える(中国)
== 前後の節気 ==
[[雨水]] → '''啓蟄''' → [[春分]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[武田時昌]]「漢籍の時空と魅力」([[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター]]編『漢籍はおもしろい』 [[2008年]]) ISBN 978-4-87636-280-6
{{DEFAULTSORT:けいちつ}}
[[Category:節気]]
[[Category:3月]]
[[Category:春の季語]]
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2023-03-24T10:30:41Z
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[
"Template:Clear",
"Template:節気日付パターン説明",
"Template:EqJSTYRangeMark",
"Template:節気",
"Template:節気の日付",
"Template:ピン音",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:節気時刻説明"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%9F%84
|
14,306 |
春分
|
春分(しゅんぶん、英: vernal equinox)は、二十四節気の第4である。3月20日または3月21日になることが多い。
現在広く採用されている定気法では、太陽が春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が0度となったとき(黄道十二宮では白羊宮の原点に相当)が天文学上の「春分」である。
暦では「春分」の瞬間が属する日を春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。いずれの日が春分日になるかはその国・地域の時差によって1日の違いが出る。 平気法では冬至から1/4年(約91.31日)後で3月23日ごろが春分日である。
「春分」の語には期間としての意味もあり、この場合は、春分日から、次の節気である清明の前日までの期間をいう。
しばしば、春分日においては昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなると言われるが、実際には昼の方が14分ほど長い(日本の場合。後述#昼夜の長さ)。
日本では、春分に関して、3種の用語がある。
定気法による春分の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での春分日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 日本と中国との時差が1時間あるので、春分の時刻が世界時の15時台である場合(日本時間では0時台)には、日本と中国での春分日の日付がずれる。1989年、2022年、2051年、2055年がこれに当たる。
グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の春分は表のとおり。 2023年の春分は3月21日。[更新]
365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(春分は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。
1924年から2091年は3月20日か3月21日だが、1923年までは3月22日もあり、2092年からは3月19日もある。
日本では春分の日という休日(国民の祝日)となる。この日が休日となる歴史は1879年(明治12年)から続いており、1948年(昭和23年)に休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)が廃止されるまでは春季皇霊祭という名称だった。
春分の日は、国立天文台の算出する定気法による春分日を基にして、前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄で暦要項として公告される。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、この日をはさんで前後7日間が春の彼岸である。
イラン暦の元日、ノウルーズ(nawrūz)はちょうど春分の日に当たり、イランを中心に、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。ヨーロッパなどでも、春分をもって春の開始とする。いくつかの国では休日とされる。
キリスト教で復活祭の日付を算出するには、春分を基点とし、春分後最初の満月の次の日曜日を復活祭の日と定める。この算出方法をコンプトゥスという。ただし、ここでいう「春分」は暦の上での3月21日に固定されており、太陽黄経が0度の日とは必ずしも一致しない。「満月」も簡素化した計算によって求められており、天文学上の満月とは必ずしも一致しない。この算定法は第1ニカイア公会議で定められた。
『暦便覧』に「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」と記されているとおり、春分では昼夜の長さが等しくなるとされる。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年により差があり、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。これは、次の理由による。
これらを合わせると、日出は、太陽の中心が地平線から昇るより平均3分25秒早く、日没は、太陽の中心が地平線より沈むより平均3分25秒遅くなる。したがって、春分の日の昼の長さは平均12時間7分、夜の長さは平均11時間53分である。そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は春分の4日程度前になる。
春分日には、太陽は真東から昇って真西に沈む。赤道上の観測者から見ると、太陽は正午に天頂を通過する。北極点または南極点の観測者から見ると、春分の太陽はちょうど地平線と重なるようにして動き、昇ることも沈むこともない。
春分の期間の七十二候は以下のとおり。
啓蟄 → 春分 → 清明
|
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"text": "春分(しゅんぶん、英: vernal equinox)は、二十四節気の第4である。3月20日または3月21日になることが多い。",
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"text": "現在広く採用されている定気法では、太陽が春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が0度となったとき(黄道十二宮では白羊宮の原点に相当)が天文学上の「春分」である。",
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"text": "暦では「春分」の瞬間が属する日を春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。いずれの日が春分日になるかはその国・地域の時差によって1日の違いが出る。 平気法では冬至から1/4年(約91.31日)後で3月23日ごろが春分日である。",
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"text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の春分は表のとおり。 2023年の春分は3月21日。[更新]",
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"text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(春分は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。",
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"text": "春分の日は、国立天文台の算出する定気法による春分日を基にして、前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄で暦要項として公告される。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、この日をはさんで前後7日間が春の彼岸である。",
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"text": "イラン暦の元日、ノウルーズ(nawrūz)はちょうど春分の日に当たり、イランを中心に、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。ヨーロッパなどでも、春分をもって春の開始とする。いくつかの国では休日とされる。",
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"text": "キリスト教で復活祭の日付を算出するには、春分を基点とし、春分後最初の満月の次の日曜日を復活祭の日と定める。この算出方法をコンプトゥスという。ただし、ここでいう「春分」は暦の上での3月21日に固定されており、太陽黄経が0度の日とは必ずしも一致しない。「満月」も簡素化した計算によって求められており、天文学上の満月とは必ずしも一致しない。この算定法は第1ニカイア公会議で定められた。",
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"text": "『暦便覧』に「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」と記されているとおり、春分では昼夜の長さが等しくなるとされる。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年により差があり、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。これは、次の理由による。",
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"text": "これらを合わせると、日出は、太陽の中心が地平線から昇るより平均3分25秒早く、日没は、太陽の中心が地平線より沈むより平均3分25秒遅くなる。したがって、春分の日の昼の長さは平均12時間7分、夜の長さは平均11時間53分である。そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は春分の4日程度前になる。",
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春分は、二十四節気の第4である。3月20日または3月21日になることが多い。 現在広く採用されている定気法では、太陽が春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が0度となったとき(黄道十二宮では白羊宮の原点に相当)が天文学上の「春分」である。 暦では「春分」の瞬間が属する日を春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。いずれの日が春分日になるかはその国・地域の時差によって1日の違いが出る。
平気法では冬至から1/4年(約91.31日)後で3月23日ごろが春分日である。 「春分」の語には期間としての意味もあり、この場合は、春分日から、次の節気である清明の前日までの期間をいう。 しばしば、春分日においては昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなると言われるが、実際には昼の方が14分ほど長い(日本の場合。後述#昼夜の長さ)。
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{{Otheruses|天文・暦法上の春分|[[日本]]の[[国民の祝日]]|春分の日}}
{{節気}}
'''春分'''(しゅんぶん、{{lang-en-short|vernal equinox}})は、[[太陽]]が[[春分点]](天の赤道を南から北へ横切る点)を通過すること<ref name="kodama" /><ref name="egoshi" />。[[二十四節気]]の第4にあたる。3月20日または3月21日になることが多い。
二至二分([[冬至]]、[[夏至]]、春分、[[秋分]])を基盤とする暦法は[[春秋時代]]には存在していたが、「春分」の名は後に「二十四節気」における節気名として名付けられた<ref name="ozawa" />。
== 概要 ==
=== 春分の概念 ===
地球は約1年の周期で太陽の周りを公転しており、この太陽の年周運動を天球上で表したもの(太陽の通り道)が黄道である<ref name="kodama">{{Cite web|和書|author=児玉光義|title=プラネタリウム技術の系統化調査|url=https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/115.pdf |website=国立科学博物館産業技術史資料情報センター|date= |access-date=2023-12-19 |language=ja}}</ref><ref name="egoshi">{{Cite web|和書|author=江越 航|title=春分の日|url=http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~egoshi/files/pdf/universe/2010/201103_16-17.pdf |website=大阪市立科学館|date= |access-date=2023-12-19 |language=ja}}</ref>。黄道と天の赤道は天球上の2箇所で交わっており、春分点は太陽が天の赤道を南から北へ横切る点で、ここを通過するのが春分(その属する日が春分日)である<ref name="kodama" /><ref name="egoshi" />。
* 春分:[[太陽]]が[[春分点]]を通過した瞬間の時刻をその国の標準時で表したもの。秋分時ということもある<ref>{{Cite journal |和書 |author1=宮崎 茂 |author2=巌本 巌 |author3=宮崎 茂 |author4=巌本 巌 |title=7. 2 夜間上部電離圏における o+イオン密度 トラフの季節変化特性 |journal=電波研究所季報 |volume=28 |issue=146 |publisher=国立研究開発法人情報通信研究機構 |year=1982|pages=471-477 |url=https://www.nict.go.jp/publication/kiho/28/146/Kiho_Vol28_No146_pp471-477.pdf}}</ref>。例えば2022年の春分は、日本時間では3月21日0時33分である<ref>理科年表2022、p.3(暦3)</ref>。
* 春分日:春分が属する日。時差のために国・地域によって1日の違いが生ずる。 例えば2022年の春分日は、日本では3月21日であり、中国では3月20日である。
=== 昼夜の長さ ===
[[ファイル:Earth-lighting-equinox EN.png|thumb|250px|春分の日の太陽光の当たり方]]
[[ファイル:冬至 夏至 春分秋分.svg|thumb|250px|太陽の動き]]
『[[暦便覧]]』では春分について「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」(ちなみに秋分については「陰陽の中分なれば也」)と記され、昼夜の時間が同じになるという意味であるが、これは江戸時代に庶民が用いた時法が季節による昼夜の時間の長短に応じて1単位時間の長さが変動する[[不定時法]]だったことによる<ref>{{Cite web|和書|author=染谷康宏|title=二十四節気 季節で感じる運命学《春分》|url=https://surirekigaku.com/2019/03/30/24sekishunbun/ |website=一般社団法人数理暦学協会|date= |access-date=2023-12-19 |language=ja}}</ref><ref name="yuasa" />。
現代では春分は太陽の黄経が0度となる瞬間と定義され、定時法が採用されているもとでは、昼夜がちょうど12時間ずつとはならない<ref name="yuasa">{{Cite journal |和書 |author=湯浅吉美 |title=前近代日本人の時間意識 |journal=埼玉学園大学紀要 人間学部篇 |volume=埼玉学園大学 |issue=15 |publisher= |year=2015|pages=195-202 |url=https://saigaku.repo.nii.ac.jp/records/175}}</ref>。
実際には昼の方が夜よりも長くなるが、これは次の理由による。
;日の出と日の入の定義
:太陽の上端が地平線と一致した時刻を日の出及び日の入と定義しているため<ref name="a0303" />。
;[[大気差]]
:[[大気]]による[[屈折]]で太陽の位置が実際より上に見えるため、太陽が上に見える[[角度]]の分、日出が早く、日没が遅くなる。屈折は太陽が[[地平線]]に近いほど大きくなる。[[国立天文台]]では、太陽が地平線付近にある時の、その角度を35分8秒角と見積もっている<ref name="a0303" />。
これらを合わせると日本において、日出は、太陽の中心が地平線から昇るより平均3分25秒早く、日没は、太陽の中心が地平線より沈むより平均3分25秒遅くなる。したがって、春分の日の昼の長さは平均12時間7分、夜の長さは平均11時間53分である。そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は春分の4日程度前になる<ref name="a0303">[https://www.nao.ac.jp/faq/a0303.html 国立天文台 よくある質問 「春分の日・秋分の日には、昼と夜の長さは同じになるの?」]</ref>。
== 暦法 ==
中国では春秋時代に二至二分(冬至と夏至の二至及び春分と秋分の二分)を基盤とする暦法が用いられていた<ref name="ozawa">{{Cite journal |和書 |author=小沢賢二 |title=春秋の暦法と戦国の暦法 : 『競建内之』に見られる日食表現とその史的背景 |journal=中国研究集刊 |volume= |issue=45 |publisher= 大阪大学|year=2007|pages=195-202 |url=https://doi.org/10.18910/61027}}</ref>。
その後、[[二十八宿]]を天空上に配置するモデルが出現した<ref name="ozawa" />。二十八宿の[[角宿]]は春秋時代前期から戦国時代直前にかけて、春分日の日没時に真東に位置していたことが判明している<ref name="ozawa" />。
ただ、「春分」という語はあくまでも後世の「二十四節気」における節気名である<ref name="ozawa" />。
=== 二十四節気 ===
二十四節気は一太陽年を24等分(約15日間)にして季節の目安としたもので、春分は[[啓蟄]]と[[清明]]の間にあたる<ref name="ito">{{Cite web|和書|author=伊藤節子|title=天象用語解説1 24節気|url=https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1979/pdf/19790705.pdf |website=天文月報第72巻第7号|date= |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。当初は1年の長さをそのまま24等分する平気法(恒気法、常気法)が用いられたが、天保暦で太陽の視黄経が15度の倍数になる瞬間で定義する定気法(実気法)が導入された<ref>{{Cite web|和書|title=旧暦2033年問題について|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/tex/topics2014.pdf |website=国立天文台 天文情報センター 暦計算室|date= |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。春分は太陽の視黄経が0度のときにあたる<ref name="ito" />。
=== 七十二候 ===
春分の期間の[[七十二候]]は以下のとおり。
;初候
:'''雀始巣'''(すずめ はじめて すくう):雀が巣を構え始める(日本)
:'''玄鳥至'''(げんちょう いたる):燕が南からやって来る(中国)
;次候
:'''桜始開'''(さくら はじめて ひらく):桜の花が咲き始める(日本)
:'''雷乃発声'''(かみなり すなわち こえを はっす):遠くで雷の音がし始める(中国)
;末候
:'''雷乃発声'''(らい すなわち こえを はっす):遠くで雷の音がし始める(日本)
:'''始雷'''(はじめて いなびかりす):稲光が初めて光る(中国)
=== 春分日の日付 ===
{{節気時刻説明|春分}}
日本と中国との時差が1時間あるので、春分の時刻が世界時の15時台である場合(日本時間では0時台)には、日本と中国での春分日の日付がずれる。1989年、2022年、2051年、2055年がこれに当たる。
{|class="wikitable" align="left"
|-
! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国
{{節気の日付|1966|03|21|01|53}}
{{節気の日付|1967|03|21|07|37}}
{{節気の日付|1968|03|20|13|22}}
{{節気の日付|1969|03|20|19|08}}
{{節気の日付|1970|03|21|00|56}}
{{節気の日付|1971|03|21|06|38}}
{{節気の日付|1972|03|20|12|21}}
{{節気の日付|1973|03|20|18|12}}
{{節気の日付|1974|03|21|00|07}}
{{節気の日付|1975|03|21|05|57}}
{{節気の日付|1976|03|20|11|50}}
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{{節気の日付|1979|03|21|05|22}}
{{節気の日付|1980|03|20|11|10}}
{{節気の日付|1981|03|20|17|03}}
{{節気の日付|1982|03|20|22|56}}
{{節気の日付|1983|03|21|04|39}}
{{節気の日付|1984|03|20|10|24}}
{{節気の日付|1985|03|20|16|14}}
{{節気の日付|1986|03|20|22|03}}
{{節気の日付|1987|03|21|03|52}}
{{節気の日付|1988|03|20|09|39}}
{{節気の日付|1989|03|20|15|28}}
{{節気の日付|1990|03|20|21|19}}
{{節気の日付|1991|03|21|03|02}}
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{{節気の日付|1993|03|20|14|41}}
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{{節気の日付|1995|03|21|02|14}}
{{節気の日付|1996|03|20|08|03}}
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{{節気の日付|2003|03|21|01|00}}
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{{節気の日付|2016|03|20|04|30}}
{{節気の日付|2017|03|20|10|28}}
{{節気の日付|2018|03|20|16|15}}
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{{節気の日付|2024|03|20|03|06}}
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{{節気の日付|2026|03|20|14|45}}
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{{節気の日付|2028|03|20|02|16}}
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{{節気の日付|2032|03|20|01|21}}
{{節気の日付|2033|03|20|07|22}}
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{{節気の日付|2035|03|20|19|01}}
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{{節気の日付|2040|03|20|00|10}}
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{{節気の日付|2042|03|20|11|52}}
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{{節気の日付|2046|03|20|10|56}}
{{節気の日付|2047|03|20|16|51}}
{{節気の日付|2048|03|19|22|32}}
{{節気の日付|2049|03|20|04|27}}
{{節気の日付|2050|03|20|10|18}}
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{{節気の日付|2060|03|19|20|37}}
|}
{{clear}}
=== 閏年の循環との関係 ===
{{節気日付パターン説明|春分|{{CURRENTYEAR-JST}}}}
[[1924年]]から[[2091年]]は[[3月20日]]か[[3月21日]]だが、[[1923年]]までは[[3月22日]]もあり、[[2092年]]からは[[3月19日]]もある。
{|class="wikitable" align="left"
|+ 表 春分日(日本時間におけるもの)
|-
! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年
|-
! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分
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== 記念日 ==
{{seealso|春分の日}}
日本では[[春分の日]]という[[休日]]([[国民の祝日]])となる。この日が休日となる歴史は[[1879年]]([[明治]]12年)から続いており、[[1948年]]([[昭和]]23年)に[[s:休日ニ關スル件|休日ニ關スル件]](昭和2年勅令第25号)が廃止されるまでは[[皇霊祭|春季皇霊祭]]という名称だった。
春分の日は、[[国立天文台]]の算出する定気法による春分日を基にして、前年の[[2月]]第1[[平日]]付の[[官報]]の公告([[特殊法人]]等)欄で[[暦要項]]として公告される。なお、この暦要項は、[[閣議決定]]等はされず、閣議報告事項でもない<ref>閣議案件は、首相官邸HP[https://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/index.html 閣議]で公表されている。</ref>。
[[イラン暦]]の元日、[[ノウルーズ]](nawrūz)はちょうど春分の日に当たり、イランを中心に、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。ヨーロッパなどでも、春分をもって[[春]]の開始とする。いくつかの国では休日とされる。
[[キリスト教]]で[[復活祭]]の日付を算出するには、春分を基点とし、春分後最初の[[満月]]の次の[[日曜日]]を復活祭の日と定める。この算出方法を[[コンプトゥス]]という。ただし、ここでいう「春分」は暦の上での3月21日に固定されており、太陽黄経が0度の日とは必ずしも一致しない。「満月」も簡素化した計算によって求められており、天文学上の満月とは必ずしも一致しない。この算定法は[[第1ニカイア公会議]]で定められた。
== 前後の節気 ==
[[啓蟄]] → '''春分''' → [[清明]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[彼岸]]([[春彼岸]])
* [[暑さ寒さも彼岸まで]]
* [[春分点]]-[[春分の日]]
* [[秋分点]]-[[秋分]]-[[秋分の日]]
* [[国民の祝日に関する法律]]
* [[黄道]]-[[天の赤道]]
* [[夏至]]-[[冬至]]
* [[魔女の宅急便]] - この世界では、「春分以前の満月で清めたくしゃみの薬に用いる12種類の薬草<ref>『[[魔女の宅急便]] その2』p.p.364-366に「あかね・ねのたね・たねのつぶ・つぶり・めのつぶ・つるのたね・ねこのめ・すずのめ・めめりぐさ・くさや・くさぐさ・さくやはな」と12種類すべてが明かされている(最初の6つが朝の薬ぐさ、後半6つは夜の薬ぐさ)が、全て実在しない植物である。</ref>の種のうち『朝のくすりぐさ』6種をこの日の午前6時,『夜のくすりぐさ』6種を午後6時に全て植え、13日間水をやる」という魔女の慣習が存在する。
{{DEFAULTSORT:しゆんふん}}
[[Category:天文学]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:節気]]
[[Category:年中行事]]
[[Category:3月]]
[[Category:春の季語]]
[[Category:旧暦2月]]
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ボリス・スパスキー
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ボリス・ヴァシーリエヴィッチ・スパスキー(ロシア語: Бори́с Васи́льевич Спа́сский, 英語: Boris Vasilievich Spassky, 1937年1月30日 - )は、ソビエト連邦生まれのチェスプレーヤー。チェス世界チャンピオン(1969年 - 1972年)。
レニングラード(現・サンクトペテルブルク)出身。1955年、アントウェルペンで開催された世界ジュニアチェス選手権で優勝しインターナショナルマスターとなる。同年、初出場したインターゾーナル戦で7位同率となり、翌年の挑戦者決定戦への出場権を手に入れると同時にグランドマスターとなる。
1966年初めて世界チャンピオンへの挑戦者となる。この時は当時のチャンピオンチグラン・ペトロシアンに敗れたが、1969年、2度目の挑戦でペトロシアンを破り、チャンピオンになる。1972年、レイキャヴィークでの世界チェス選手権でボビー・フィッシャーに敗退し、失冠。1975年、フランスに亡命し、フランス人女性と3度目の結婚。
2006年10月1日、サンフランシスコで講演中だったスパスキーは、軽い脳卒中となった。復帰後の最初の大きな試合は、2007年4月におこなわれた、ハンガリー人グランドマスター Lajos Portischとの対戦であった。
2010年3月27日、73歳となっていたスパスキーは、ワシリー・スミスロフが死去したことに伴い、存命中では最高齢の元世界チャンピオンとなった。
2010年9月23日、ChessBase が発表したところによると、スパスキーは以前のものより深刻な脳卒中に見舞われ、左半身が不随となったとされた。その後、彼はフランスに戻り、長期間のリハビリテーション生活に入った。2012年8月16日、スパスキーはフランスを離れ、紛糾した状況の中でロシアへ戻り、その後はモスクワのアパートに住んでいる。
2016年9月25日、タリ・メモリアル(英語版) のトーナメント開会式において、スパスキーはスピーチをした。彼は、ミハイル・タリについて、「極めて輝かしい記憶の数々」をもっていると述べ、第15回(英語版)チェス・オリンピアードのときの逸話を紹介し、ボビー・フィッシャーとミハイル・ボトヴィニクの対戦において封じ手をソビエト側がどのように分析していたかを語った。Chess24 の報じるところでは、スパスキーは「元気 (sprightly)」だったという。
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ボリス・ヴァシーリエヴィッチ・スパスキー(ロシア語: Бори́с Васи́льевич Спа́сский, 英語: Boris Vasilievich Spassky, 1937年1月30日 - )は、ソビエト連邦生まれのチェスプレーヤー。チェス世界チャンピオン。 レニングラード(現・サンクトペテルブルク)出身。1955年、アントウェルペンで開催された世界ジュニアチェス選手権で優勝しインターナショナルマスターとなる。同年、初出場したインターゾーナル戦で7位同率となり、翌年の挑戦者決定戦への出場権を手に入れると同時にグランドマスターとなる。 1966年初めて世界チャンピオンへの挑戦者となる。この時は当時のチャンピオンチグラン・ペトロシアンに敗れたが、1969年、2度目の挑戦でペトロシアンを破り、チャンピオンになる。1972年、レイキャヴィークでの世界チェス選手権でボビー・フィッシャーに敗退し、失冠。1975年、フランスに亡命し、フランス人女性と3度目の結婚。
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'''ボリス・ヴァシーリエヴィッチ・スパスキー'''({{Lang-ru|Бори́с Васи́льевич Спа́сский}}, {{lang-en|Boris Vasilievich Spassky}}, [[1937年]][[1月30日]] - )は、[[ソビエト連邦]]生まれの[[チェスプレーヤーの一覧|チェスプレーヤー]]。[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェス世界チャンピオン]]([[1969年]] - [[1972年]])。
== 来歴 ==
レニングラード(現・[[サンクトペテルブルク]])出身。[[1955年]]、[[アントウェルペン]]で開催された[[世界ジュニアチェス選手権]]で優勝しインターナショナルマスターとなる。同年、初出場したインターゾーナル戦で7位同率となり、翌年の挑戦者決定戦への出場権を手に入れると同時に[[グランドマスター]]となる。
[[1966年]]初めて世界チャンピオンへの挑戦者となる。この時は当時のチャンピオン[[チグラン・ペトロシアン]]に敗れたが、[[1969年]]、2度目の挑戦でペトロシアンを破り、チャンピオンになる。[[1972年]]、[[レイキャヴィーク]]での[[世界チェス選手権]]で[[ボビー・フィッシャー]]に敗退し、失冠。[[1975年]]、[[フランス]]に亡命し、フランス人女性と3度目の結婚。
== 2000年以降 ==
[[File:Boris Spasski 2.jpg|thumb|2009年、フランス在住当時のスパスキー。]]
[[2006年]][[10月1日]]、[[サンフランシスコ]]で講演中だったスパスキーは、軽い[[脳卒中]]となった。復帰後の最初の大きな試合は、[[2007年]]4月におこなわれた、[[ハンガリー人]][[グランドマスター]] [[:en:Lajos Portisch|Lajos Portisch]]との対戦であった。
[[2010年]][[3月27日]]、73歳となっていたスパスキーは、[[ワシリー・スミスロフ]]が死去したことに伴い、存命中では最高齢の[[チェスの世界チャンピオン一覧|元世界チャンピオン]]となった<ref>{{cite web |title = Vasily Smyslov |url = https://chess24.com/en/read/players/vasily-smyslov |publisher = Chess24|accessdate=2020-02-15}}</ref>。
[[2010年]][[9月23日]]、[[:en:ChessBase|ChessBase]] が発表したところによると、スパスキーは以前のものより深刻な[[脳卒中]]に見舞われ、左半身が不随となったとされた<ref>{{cite web|url=http://www.chessbase.com/newsdetail.asp?newsid=6692 |title=Chess News – Boris Spassky in grave condition |publisher=ChessBase.com |accessdate=2011-11-12}}</ref>。その後、彼はフランスに戻り、長期間のリハビリテーション生活に入った<ref>{{cite web|author=mishanp on November 26, 2010 |url=http://www.chessintranslation.com/2010/11/bits-and-pieces-1/ |title=Bits and Pieces #1 |publisher=Chessintranslation.com |date=2010-11-26 |accessdate=2011-11-12}}</ref>。[[2012年]][[8月16日]]、スパスキーはフランスを離れ、紛糾した状況の中でロシアへ戻り<ref>{{cite web|url=http://www.chessbase.com/newsdetail.asp?newsid=8417 |title=Boris Spassky, fearing death, 'flees' to Russia |publisher=ChessBase.com |date=2012-08-18 |accessdate=2012-08-19}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.chessbase.com/newsdetail.asp?newsid=8429 |title=Spassky's sister: help save my brother!|publisher=ChessBase.com |date=2012-08-23 |accessdate=2012-08-31}}</ref>、その後は[[モスクワ]]のアパートに住んでいる<ref>{{cite web |url=https://en.chessbase.com/post/spaky-surfaces-on-ruia-1tv-s-tonight-show |title=Spassky surfaces – on Russia 1TV's Tonight Show |publisher=ChessBase / Chess News |date=2013-01-30 |accessdate=2016-05-15}}</ref><ref>{{cite web |first=Colin |last=McGourty |url=https://chess24.com/en/read/news/boris-spassky-i-m-waging-a-war |title=Boris Spassky: “I’m waging a war” |publisher=Chess24 |date=2016-03-04|accessdate=2016-05-15}}</ref>。
[[2016年]][[9月25日]]、{{仮リンク|タリ・メモリアル|en|Tal Memorial}} のトーナメント開会式において、スパスキーはスピーチをした。彼は、[[ミハイル・タリ]]について、「極めて輝かしい記憶の数々」をもっていると述べ、{{仮リンク|第15回チェス・オリンピアード|label=第15回|en|15th Chess Olympiad}}[[チェス・オリンピアード]]のときの逸話を紹介し、[[ボビー・フィッシャー]]と[[ミハイル・ボトヴィニク]]の対戦において[[封じ手]]をソビエト側がどのように分析していたかを語った。Chess24 の報じるところでは、スパスキーは「元気 (sprightly)」だったという<ref>{{cite web |title=Spassky stars as Mamedyarov crushes Tal blitz |url=https://chess24.com/en/read/news/spassky-stars-as-mamedyarov-crushes-tal-blitz |publisher=Chess24 |first=Colin |last=McGourty|accessdate=2020-02-16}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連書籍 ==
* ジョージ・スタイナー 著、諸岡敏行 訳 『白夜のチェス戦争』 ([[晶文社]]、1978/11) ISBN 4794955758 / ISBN 9784794955753 --- ボビー・フィッシャー戦のレポート
== 関連項目 ==
* 『[[完全なるチェックメイト]]』 - [[2014年]]に製作された[[アメリカ合衆国]]の[[伝記映画]]。1972年の世界チェス選手権を描いている。スパスキーを演じたのは[[リーヴ・シュレイバー]]である。
{{チェス世界チャンピオン|1969 - 1972}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すはすきい ほりす}}
[[Category:ロシアのチェス選手]]
[[Category:ソビエト連邦のチェス選手]]
[[Category:フランスのチェス選手]]
[[Category:チェスのグランドマスター]]
[[Category:チェス・オリンピアード出場選手]]
[[Category:ソビエト連邦の亡命者]]
[[Category:名誉記章勲章受章者]]
[[Category:サンクトペテルブルク出身の人物]]
[[Category:1937年生]]
[[Category:存命人物]]
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18
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18(十八、じゅうはち、とおあまりやつ)は自然数、また整数において、17の次で19の前の数である。ラテン語では duodeviginti(ドゥオデーウィーギンティー)。
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18(十八、じゅうはち、とおあまりやつ)は自然数、また整数において、17の次で19の前の数である。ラテン語では duodeviginti(ドゥオデーウィーギンティー)。
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{{出典の明記|date=2016年3月6日 (日) 07:59 (UTC)}}
{{整数|Decomposition=2 × 3{{sup|2}}}}
'''18'''('''十八'''、じゅうはち、とおあまりやつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[17]]の次で[[19]]の前の数である。[[ラテン語]]では duodeviginti(ドゥオデーウィーギンティー)。
== 性質 ==
* 18は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[3]], [[6]], [[9]], 18 である。
** [[約数の和]]は[[39]]。
*** 自身を除く約数の和は[[21]]であり2番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[12]]、次は[[20]]。
**** [[過剰数]]の中で[[高度合成数]]でない最小の数である。次は[[20]]。
*** [[約数]]の和が奇数になる7番目の数である。1つ前は[[16]]、次は[[25]]。
*** 約数の和が3の倍数になる10番目の数である。1つ前は[[17]]、次は[[20]]。
** 1とその数以外で、4つの約数を持つ[[単偶数]]では最小の数である。
** [[約数]]の積は[[5832]]。
*** 約数の積の値がそれ以前の数を上回る9番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[20]]。({{OEIS|A034287}})
* 3番目の[[七角数]]である。1つ前は[[7]]、次は[[34]]。
* 6番目の[[リュカ数]]である。1つ前は[[11]]、次は[[29]]。
* {{sfrac|1|18}} = 0.0{{underline|5}}55… (下線部は循環節で長さは1)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が1になる6番目の数である。1つ前は[[15]]、次は[[24]]。({{OEIS|A070021}})
** [[六進法]]では {{sfrac|1|30}} = 0.02 となり、[[十二進法]]では {{sfrac|1|16}} = 0.08 となる。
* 3乗した数の各桁の数の和が元の数になる数。つまり、18{{sup|3}} = 5832 → 5 + 8 + 3 + 2 = 18 。1つ前は[[17]]、次は[[26]]。
** このような数は6個あり、[[1]], [[8]], [[17]], 18, [[26]], [[27]]。({{OEIS|A046459}})
* 18{{sup|3}} = 5832 , 18{{sup|4}} = 104976 であるが、これには 0~9 までの全ての数が重複なく出現している。
* [[九九]]では 2 の段で 2 × 9 = 18(にくじゅうはち)、3 の段で 3 × 6 = 18(さぶろくじゅうはち)、 6 の段で 6 × 3 = 18(ろくさんじゅうはち)、 9 の段で 9 × 2 = 18(くにじゅうはち)と 4 通りの表し方がある。
* 18[[階乗|!]] = 6402373705728000 である(16桁)。
* 各位の和が18になる[[ハーシャッド数]]の最小は[[198]]、[[1000]]までに25個、[[10000]]までに335個ある。
** 10000までの数で各位の和が18になるハーシャッド数は最多の数である。
* 12番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[12]]、次は[[20]]。
** 9を基とする2番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[9]]、次は[[27]]。
** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が9になる最小の数である。
* 各位の[[平方和]]が65になる最小の数である。次は[[47]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の64は[[8]]、次の66は[[118]]。({{OEIS|A055016}})
* 各位の[[立方和]]が513になる最小の数である。次は[[81]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の512は[[8]]、次の514は[[118]]。({{OEIS|A165370}})
* 18 = 1 × 3 × 6
** 3連続[[三角数]]の積で表せる最小の数である。次は[[180]]。
** 18 = 3 × 3! = 4! − 3!
*** ''n'' = 3 のときの ''n'' × ''n''! の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[96]]。({{OEIS|A001563}})
* 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で9番目の数である。1つ前は[[15]]、次は[[19]]。
* [[約数]]の和が18になる数は2個ある。([[10]], [[17]]) 約数の和2個で表せる2番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[31]]。
** 約数の和 ''n'' 個で表せる ''n'' 番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[48]]。
* 18 = 9 + 9
** 10進数における1桁+1桁の最大の数である。
* 各位の積が8となる2番目の数である。1つ前は[[8]]。次は[[24]]。({{OEIS|A199989}})
* 18 = 3<sup>3</sup> − 3<sup>2</sup>
** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|3}} − ''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[48]]。({{OEIS|A045991}})
* 18 = 2 × 3{{sup|2}}
** ''n'' = 2 のときの ''n'' × 3{{sup|''n''}} の値とみたときで1つ前は[[3]]、次は[[81]]。({{OEIS|A036290}})
** ''n'' = 3 のときの 2 × ''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[32]]。({{OEIS|A001105}})
** ''n'' = 2 のときの 2 × 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[54]]。({{OEIS|A008776}})
** 18 = 9 × 2
*** ''n'' = 1 のときの 9 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[36]]。({{OEIS|A005010}})
** 2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる2番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[20]]。({{OEIS|A054753}})
** 18 = 2{{sup|1}} × 3{{sup|2}} 、2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} (''i'' ≧ 1, ''j'' ≧ 1) で表せる3番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[24]]。({{OEIS|A033845}})
* 18 = 1<sup>2</sup> + 1<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup>
** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる8番目の数である。1つ前は[[17]]、次は[[19]]。({{OEIS|A025321}})
* 18 = 3 × 2{{sup|1}} × (2{{sup|2}} − 1)
** ''n'' = 2 のときの 3 × 2{{sup|''n''−1}} × (2{{sup|''n''}} − 1) の値である。1つ前は[[3]]、次は[[84]]。({{OEIS|A103897}})
** [[完全数]]6の3倍の数である。
* ''n''{{sup|3}} の数を昇順に並べた数とみたとき1つ前は[[1]]、次は1827。({{OEIS|A019522}})
* 18 = [[360]] ÷ [[20]]
** [[角度]]の[[1/20]]周は18[[度 (角度)|°]]である。また、正[[二十角形]]の中心角も18°である。
** sin 18°= {{sfrac|1|2φ}} (ただしφは[[黄金数]])({{OEIS|A019827}})
== その他 18 に関連すること ==
* 18の[[接頭辞]]:octodeci([[ラテン語|拉]])、octadeca, octakaideca([[ギリシャ語|希]])
* 18[[倍]]を英語で'''オクトデキュプル''' (octodecuple) という。
* 18は、E24系列の[[標準数#JIS C 60063の標準数列|標準数]]。
* [[周期表]]の[[族 (元素)|族]]は 18。また、[[電子殻|M殻]]に入る[[電子]]の最大数は 18。
* [[第18族元素]]を貴ガスという。
* [[原子番号]]18の[[元素]]は、[[アルゴン]] (Ar)。
* 理論上考えられる炭素数8の[[アルカン]]の[[異性体]]の数は18。
* 1[[斗]]がおよそ18リットルであり、その名残が[[灯油]]の販売単位、[[18リットル缶]]などにみられる。
* 第18代[[天皇]]は[[反正天皇]]。
* 第18代[[内閣総理大臣]]は[[寺内正毅]]。
* 通算して第18代の[[征夷大将軍]]は[[足利義詮]]([[室町幕府]]第2代将軍)。
* [[大相撲]]第18代[[横綱]]は[[大砲万右エ門]]。
* [[アメリカ合衆国]]第18代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は[[ユリシーズ・グラント]]。
* アメリカ合衆国の18番目の[[州]]は[[ルイジアナ州]]。
* JIS X 0401、[[ISO 3166-2:JP]]の[[都道府県コード]]の「18」は[[福井県]]。
* [[殷|殷朝]]第18代帝は[[陽甲]]。
* [[周|周朝]]第18代王は[[襄王 (周)|襄王]]。
* 第18代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ポンティアヌス (ローマ教皇)|ポンティアヌス]](在位:[[230年]][[7月21日]]~[[235年]][[9月25日]])である。
* [[タロット]]の[[大アルカナ]]で XVIII は[[月 (タロット)|月]]。
* [[易占]]の[[六十四卦]]で第18番目の卦は[[周易上経三十卦の一覧#蠱|山風蠱]]。
* 紀元前1000年頃のバビロニアの天文学においては、三つの帯(赤道帯より北、赤道帯、赤道帯より南)に、18のサインが位置づけられていた。現在の[[サイン (占星術)|黄道12宮]]となったのは前5世紀末頃から。
* [[1月18日]]は、[[年始]]からの数え日数が18日目に当てはまる。
* [[クルアーン]]における第18番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[洞窟 (クルアーン)|洞窟]]である。
* [[クォーク]]は色で分けて考えると18種類。
* [[日本プロ野球]]において[[野球の背番号|背番号18]]は[[エースナンバー]]とされ、[[投手|主力投手]]がつけるものとされているが、「背番号18は投手が付けなければならない」という規定はなく、過去には背番号18の[[野手]]([[北海道日本ハムファイターズ]]在籍時代の[[岡大海|岡大海外野手]])も存在した。
* [[月#月齢と呼び名|十八日月]]を居待月(いまちづき)という。
* [[ゴルフ]]競技のホール数は18。
* [[中央競馬]]のフルゲートの最大頭数は、[[1991年]]の[[投票券 (公営競技)|馬連]]発売開始以降18頭。
* [[F/A-18 (航空機)|F/A-18]] ホーネットは、アメリカの[[戦闘攻撃機]]。
* [[Il-18 (航空機)|Il-18]] は、[[ソ連]]の[[旅客機]]。
* [[QF 18ポンド砲]]は、[[イギリス]]の[[野砲]]。
* [[青春18きっぷ]]は、[[JR]] の乗車券の一つ。学生を意識した名称だが、使用にあたって年齢制限は無い。
* [[十八銀行]]は、[[長崎市]]に本社を置く[[地方銀行]]。
* [[18KIN]] は、お笑いコンビ。
* 『[[おくさまは18歳]]』は、[[本村三四子]]の[[漫画]]及びこれを原作とした[[テレビドラマ]]と[[映画]]。
* 『[[18 -eighteen-]]』は、[[北出菜奈]]のファーストアルバム。
* 『[[18 (アルバム)|18]]』は、[[吉井和哉]]の7枚目のオリジナルアルバム。
* 「[[18人の音楽家のための音楽]]」は、[[スティーヴ・ライヒ]]が作曲した、[[ミニマル・ミュージック]]の楽曲。
* 軍隊等
** [[大日本帝国陸軍]][[第18方面軍 (日本軍)|第18方面軍]]
** 第18軍
*** 大日本帝国陸軍[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]
*** [[第二次世界大戦]]時の[[第18軍 (ドイツ軍)|ドイツ陸軍第18軍]]
*** [[アメリカ陸軍]][[第18空挺軍団 (アメリカ軍)|第18空挺軍団]]
*** [[アメリカ空軍]][[第18空軍 (アメリカ軍)|第18空軍]]
** 各国の[[第18師団]]
** 第18連隊
*** 大日本帝国陸軍[[歩兵第18連隊]]
*** [[陸上自衛隊]][[第18普通科連隊]]
*** [[フランス陸軍]][[第18通信連隊 (フランス軍)|第18通信連隊]]
* 多くの国で18歳以上が、[[成人]]として定義される。[[日本]]では2022年4月1日までは成人年齢が20歳以上だったが、現在は他の国と同様に18歳以上が成人として定義されている。
** 多くの国で[[選挙権]]は18歳以上で与えられる。日本では[[公職選挙法]]で[[1945年]]から選挙権年齢を20歳以上としていたが、[[2015年]][[6月]]に改正公職選挙法が成立し18歳以上に引き下げられた<ref name="47news20150617">{{cite news
|title= 選挙権年齢「18歳以上」に 改正公選法が成立
|newspaper= 47NEWS
|date= 2015/06/17
|url= https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html
|accessdate= 2015/06/18
}}</ref>。
** [[皇室典範]]では、[[天皇]]・[[皇太子]]・[[皇太孫]]は、18歳で[[成人]]を迎える。
** [[民法 (日本)|民法]]では18歳から[[結婚|婚姻]]することができる。
** 多くの国で18歳は、[[自動車]]の[[運転免許]]を取得できる年齢とされている。[[道路交通法]]では、[[普通自動車]]や[[大型自動二輪車]]、[[大型特殊自動車]]、[[牽引自動車|けん引]]などの運転免許が18歳から取得できる。
** [[労働安全衛生法]]では、[[建設機械]]の操作免許・資格を18歳から取得できる。
** [[船舶職員及び小型船舶操縦者法]]では、1級[[小型船舶]]の免許(受験は17歳9ヶ月から)および[[大型船舶]]の免許を18歳から取得できる。
** [[航空法]]では、事業用の[[飛行機]]、[[ヘリコプター]]、[[飛行船]]、[[グライダー|滑空機]]の操縦免許を18歳から取得できる。
* [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]1部 ([[J1リーグ|J1]]) の参加クラブ数は18(2005年度より)。
* [[テルスター18]] - [[2018 FIFAワールドカップ]]で使用された公式球
* [[ルルドの聖母]]は18回出現した。
* [[モブキャスト]]が運用していた、[[パズル]]式の[[ロールプレイングゲーム]]「【18】キミト ツナガル パズル」<ref name="mobcast">{{Cite web|和書
|title= 【18】キミト ツナガル パズル
|publisher= モブキャスト
|date= 2015/10/18
|url= https://eighteen.jp
|accessdate= 2015/10/18
}}/{{Cite web|和書
|title= 【18】キミト ツナガル パズル
|publisher= [[モブキャスト]]
|date= 2015/10/18
|url= https://mobcast.net/18/
|accessdate= 2015/10/18
}}</ref>と、そのアニメ化作品「[[18if]]」。
* 「18」はアルファベットの1番目がA、8番目がHであることから、[[アドルフ・ヒトラー]]('''A'''dolf '''H'''itler)を意味する。団体『[[Combat 18]]』の名称のように、ネオナチや[[白人至上主義]]者が好んで用いる隠語となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.adl.org/education/references/hate-symbols/18 |title=18 |website=Hate Symbols Database |publisher=[[名誉毀損防止同盟|ADL.org]] |accessdate=2021-10-10}}</ref>。
* [[朝鮮語]]の18(십팔、シッ'''パル''')が、[[英語]]の "[[ファック|Fuck]] you" に当たる 씨발(シッ'''バル''')と発音が似ている。そのため、[[大韓民国|韓国]]などで 씨발 (Fuck you) を意味する[[ネットスラング]]として、「18」が用いられることがある<ref name=Jcast20110910>{{Cite web|和書
| url = http://www.j-cast.com/2011/09/10106886.html?p=all
| title = フジ人気ドラマに「JAP18」の文字 「日本を侮蔑」とネットで大騒ぎ
| publisher = [[J-castニュース]]
| date = 2011/09/10
| accessdate = 2021/11/26
}}</ref><ref name="getnews20110912">{{Cite web|和書
| url = http://getnews.jp/archives/140744
| title = 「JAP18問題」を韓国メディアが報道 日本の嫌韓ネチズンが激怒中…犯人捜しも
| author= [[朴美奈]]
| publisher = [[ガジェット通信]]
| date = 2011/09/12
| accessdate = 2021/11/26
}}</ref>。過去には[[それでも、生きてゆく|フジテレビのドラマ]]内で[[それでも、生きてゆく#JAP18|同スラング]]を用いた [[ダブルミーニング]]とも取れる内容の雑誌が登場し、話題になった。
== 十八個一組で数えるもの ==
* '''[[歌舞伎十八番]]''':[[助六]]・[[矢の根]]・[[関羽 (歌舞伎)|関羽]]・[[不動]]・[[象引]]・[[毛抜]]・[[外郎売]]・[[暫]]・[[七つ面]]・[[解脱]]・[[嫐]]・[[蛇柳]]・[[鳴神]]・[[鎌髭]]・[[景清 (歌舞伎十八番)|景清]]・不破・[[押戻]]・[[勧進帳]]。
* '''[[十八宗]]''':[[三論宗]]・[[法相宗]]・[[華厳宗]]・[[律宗]]・[[倶舎宗]]・[[成実宗]]・[[天台宗]]・[[真言宗]]・[[融通念仏宗]]・[[浄土宗]]・[[臨済宗]]・[[曹洞宗]]・[[浄土真宗]]・[[日蓮宗]]・[[時宗]]・[[普化宗]]・[[黄檗宗]]・[[修験宗]]。
* '''[[武芸十八般]]''':[[剣術]]・[[弓術]]・[[柔術]]・[[手裏剣術]]・[[槍術]]・[[薙刀術]]・[[棒術]]・[[杖術]]・[[鎖鎌術]]・[[水術]]・[[十手術]]・[[鉄扇術]]・[[捕縄術]]・[[馬術]]・[[抜刀術]]・[[砲術]]・[[刺又術]]・[[短刀術]]。
* '''[[十八史略]]''':[[史記]]・[[漢書]]・[[後漢書]]・[[三国志]]・[[晋書]]・[[宋書]]・[[南斉書]]・[[梁書]]・[[陳書]]・[[魏書]]・[[北斉書]]・[[周書]]・[[隋書]]・[[南史]]・[[北史]]・[[新唐書]]・[[新五代史]]・[[続宋編年資治通鑑]]。
* '''[[十八学士]]''':[[杜如晦]]・[[房玄齢]]・[[于志寧]]・[[蘇世長]]・[[薛収]]・[[褚亮]]・[[姚思廉]]・[[陸徳明]]・[[孔穎達]]・[[李玄道]]・[[李守素]]・[[虞世南]]・[[蔡允恭]]・[[顔相時]]・[[許敬宗]]・[[薛元敬]]・[[蓋文達]]・[[蘇勗]]。[[唐]]王朝における18人の[[文学館]][[学士]]。
* '''[[阿羅漢#十八羅漢|十八羅漢]]''':[[阿羅漢#十六羅漢|十六羅漢]]に二人を追加した呼称。
== 符号位置 ==
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|}
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|18}}
{{Wiktionarypar|十八}}
* [[数に関する記事の一覧]]
** [[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] [[100]]
** [[10]] [[11]] [[12]] [[13]] [[14]] [[15]] [[16]] [[17]] '''18''' [[19]]
** '''18''' [[36]] [[54]] [[72]] [[90]] [[108]] [[126]] [[144]] [[162]] [[180]] [[198]] [[216]] [[234]] [[252]] [[270]] [[288]] [[306]] [[324]] [[342]] [[360]]
* [[西暦]][[18年]] [[紀元前18年]] [[1918年]] [[18世紀]] - [[平成18年]] [[昭和18年]] [[明治18年]] - [[1月8日]]
* [[名数一覧]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/18
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14,310 |
バロック
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バロック(伊: barocco, 仏: baroque 英: Baroque, 独: Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。
バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ているとする説が有力である(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のbarocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある。
現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。
1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」 と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」 という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』 においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。
さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった。皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。
ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。
バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。
(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう.
バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断したカトリック教会によってバロックの人気と成功は促進された。
1545-1563年のトリエント公会議によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令」(« Décret sur l’innovation et les reliques des saints, et sur les images saintes ».)である。つまりは対抗宗教改革の芸術であった。しかしながら、宗教改革に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。
世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。
バロック様式の魅力は、16世紀のマニエリスム芸術の繊細さや知的な特質から、感覚に向けられた直感的なものへと意識的に移行した。直截的、単純明快、劇的な図像が用いられた。バロック芸術はアンニーバレ・カラッチとその仲間たちの果断な傾向から一定の影響を受けており、またコレッジョ、カラヴァッジオ、フェデリコ・バロッチといった、今日では「初期バロック」と分類されることもある芸術家たちの影響も見出される。
カラッチ一族(兄弟と従兄)とカラヴァッジオはしばしば古典主義とバロックという言葉で対比され、 両者は造形の分野(ヴェルフリンが定義した)で対照的な影響を持ち、後世に多大な影響を及ぼした。
18世紀には古典的バロックから後期バロックもしくはロココへと移行した。これらは17世紀末にドイツ、オーストリア、ボヘミアで出現した。官能的な美の趣味は17世紀バロックの型に嵌った性質により自由な創作をもたらした。
装飾が増殖し、豊饒かつ幻想的になった。トロンプ・ルイユの壁画、階段、アレゴリーのニンファエウムや彫刻が教会、城、噴水を過剰なまでに満たした。ウィーン、ロンドン、ドレスデン、トリノ、南ドイツ、ボヘミアがこうした新機軸を取り入れた。ニコラ・サルヴィによるローマのトレヴィの泉(1732-1762)やルイージ・ヴァンヴィテッリによるナポリ近郊のカゼルタ宮殿の階段(1751-1758)に見られるように後期バロックの旺盛なカプリッツィオにあって目の喜びは不可欠なものであった。
パリ(コンコルド広場)、ボルドー(ブルス広場)、ナンシー(スタニスラス広場)などに建築空間が開かれた。オーストリアではフィッシャー・フォン・エルラッハとルーカス・フォン・ヒルデブラントが幻想的な建築で競い合った。バイエルンでは田舎の修道院が小天使に覆われた。ミュンヘンではアダム兄弟が高名である。ボヘミア、モルドバ、南ドイツのロココは巡礼教会を装飾し、ヴィースの巡礼教会では白地を覆う金泥の装飾で壁が崩れんばかりとなっている。
スペインとポルトガルのアメリカ植民地はイベリアのプレテレスコ様式に影響を与えた。フランスでは、ジュール・アルドゥアン=マンサールの門人たちが邸宅とその内部装飾に取り組み、サンジェルマン街やマレー、さらにはランブイエの非凡な鏡板などで見ることができる。
ハインリヒ・ヴェルフリンはバロックを円に代わり楕円が構成の中心に据えられ、全体の均衡が軸を中心とした構成に取って代わり、色彩と絵画的な効果がより重要になり始めた時代と定義した。
このアナロジーを音楽に当て嵌めると、「バロック音楽」という表現は有用なものとなる。対照的なフレーズの長さ、和音、対位法はポリフォニーを時代遅れにし、オーケストラ的な色彩がより強く現れるようになる。同様に、詩の表現は単純で、力強く、劇的なものとなり、明快でゆったりしたシンコペーションのリズムがジョン・ダンのようなマニエリスム詩人の用いる洗練され入り組んだ形而上学的な直喩に取って代わった。バロックの叙事詩であるジョン・ミルトンの『失楽園』では視覚表現の発達に強く影響された想像力が感じられる。
絵画では、バロックの身振りはマニエリスムのそれに比べゆったりとしている。より両義的、不可解、神秘的でなく、むしろバロックの主要な芸術形態の1つであるオペラでの身振りに近い。バロックのポーズはコントラポスト(傾いだ姿勢)に頼っており、肩と腰の平面を反対方向にずらして置くフォルムの緊張感は今にも動き出しそうな印象を与える。
17世紀初頭にはヨーロッパ全土で激烈を極めた宗教戦争などあらゆる闘争が起こり、国家や社会が分裂した。その不安な時代において、連続的な運動と永続的な秩序との間にしかるべき関係を見出そうとする努力がなされ、そこから独特な心情的表現が生まれた。これが「バロック」である。強い激烈な印象を与える変化と対比など、これらすべては、動的で変化に富む自然と人間の感情から見出された新しい表現であった。
調和・均整を目指すルネサンス様式に対して劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。「永遠の相のもとに」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもとに」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「ヴァニタス」、その中で常に死を思う「メメント・モリ」、そうであるからこそ現在を生きよとする「カルペ・ディエム」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。
ルネサンスからバロック初期はイタリアが文化の中心であったが、バロック後期には文化の中心はフランスへ移ってゆく。
絵画における「バロック」の意味を定義づけるものの1つはピーテル・パウル・ルーベンスがマリー・ド・メディシスのためにパリのリュクサンブール宮殿で制作した一連の絵(現在はルーヴル美術館蔵)であり、ここではカトリックの画家がカトリックのパトロンを要求を満足させている――バロック時代の君主制、図像学、描画技法、構図、そして空間や動きの描写などの概念である。カラヴァッジオからコルトーナまで、イタリアのバロック絵画には大きく異なった流れがあるが、いずれも異なった様式で情動的なダイナミズムを追求している。
後期バロック様式は徐々により装飾的なロココへと入れ替わってゆき、バロックの定義はこのロココとの対比によってより明確となる。フランスでは君主制に仕える芸術と見做されることも多い古典主義美術もバロックと対比するものと見做される。
バロック彫刻では、人物の集合に新しい重要性が生じ、人間のフォルムによってダイナミックな動きとエネルギーがもたらされた――人物は中心の渦巻を取り巻いて輪をなし、あるいは外を向き周辺の空間へと向かう。バロック彫刻になって初めて、彫刻は複数の理想的な視角を獲得した。隠された光源や噴水といった彫刻以外の補足的な要素を付け加えるのもバロック彫刻の特徴の1つである。
ベルニーニ (1598-1680) の建築、彫刻、噴水はバロック様式の特徴を強く示しており、間違いなく最も重要なバロック期の彫刻家であった。ベルニーニはその万能さではミケランジェロに迫るものがあった――彫刻し、建築家として働き、描き、戯曲を書き、上演を行った。20世紀末にはベルニーニの彫刻は、大理石を彫る名人芸と、身体と精神を調和させたフォルムの創造とによって非常に高名なものとなった。また有力者からの需要が多かった胸像の優れた彫り手でもあった。
ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会のコルナロ礼拝堂のために制作されたベルニーニの『聖テレジアの法悦』(1645-52)はバロックを理解する助けとなる。コルナロ家のために教会の側面の補助スペースとして設計されたこの礼拝堂は、建築、彫刻、そして演劇を1つの大きな奇想に纏め上げた総合芸術の傑作となっている。
ベルニーニは煉瓦のボックスを作り、白い大理石の聖テレジアの恍惚する舞台とした。これは多色の大理石で作られた建築的な枠によって取り巻かれ、窓が彫像を高みから照らす。礼拝堂の両側壁沿いにある桟敷席にはコルナロ家の人々の顔が軽いレリーフで彫られている。見る者は聖人の神秘的な恍惚の観客=目撃者となる。アビラのテレジアは空想的な装飾によって強く理想化されている。対抗宗教改革で人気のある聖人であったテレジアは自身の神秘的な体験をカルメル会の修道女たちのために綴った。これらの書き物は霊性を追い求める俗人に人気となり、この彫像はその話を体現するものである。テレジアは神の愛をその心臓を貫く燃える矢と表現した。ベルニーニはこのイマージュを文字通りに、テレジアの足許でお辞儀の姿勢をして微笑みかける、クピドのようにして黄金の弓を持つ天使を置くことで具現化した。天使の像は矢を彼女の心臓に射込もうとはしておらず、引き下げている。聖女の顔は恍惚の予兆ではなく現在の充足感を映し出しており、オルガスム的でもあると言われる。
信仰とエロティシズムの混淆はバロック精神の特徴の1つであり、新古典主義の慎みやヴィクトリア朝の羞恥心に背くものであり続けてきた。ベルニーニは信心深いカトリックであり、修道女を風刺しようとしたのではなく宗教的体験から引き出される複雑な真実を大理石の中に体現しようとしたのである。テレジアは恍惚という多くの神秘主義者たちが用いてきた表現によって霊的な天啓に対する肉体的な反応を表したのであり、ベルニーニは真摯であった。
コルナロ家はこの礼拝堂で控え目に自分達を宣伝している。彼らの姿は礼拝堂の側面に彫られ、桟敷席からこの出来事を目撃している形になっている。オペラハウスでのように、コルナロ家の人々には桟敷席という聖女に最も近い、観客と比べ特別な位置が与えられているが、しかしながら観客の方が正面の良く見える位置になる。(17世紀から恐らくは19世紀までは)コルナロ家の許可なくしては誰も彫像の下の祭壇でミサを行うことが出来なかったという意味ではこれは私有の礼拝堂であるが、見る者と彫像を隔てるものは祭壇の柵だけである。この彫像の光景は、神秘主義と一家の誇りの両方を示しているのである。
バロック建築では、重点は力強いマッス、柱、ドーム、キアロスクーロ、絵画的な色彩効果、量感と空間との取り合わせなどにあった。内装では、バロックの何もない空間を取り巻き横切る壮大な階段はそれまでの建築には存在しなかったものであった。世界各地のバロック建築の内装で見られる他の特徴として、奥に行くにつれて徐々に豪華になり、華麗な寝室、王座の間、謁見室などで頂点を迎える儀式用の続き部屋がある。これは気取った貴族の住居でも小さなスケールで模倣された。
バロック建築はドイツ中部(ルートヴィヒスブルク宮殿やツヴィンガー宮殿)、オーストリア、ポーランド(ヴィラヌフ宮殿やビャウィストク宮殿)、ロシア(ペテルゴフ宮殿)などでも熱狂的に受け入れられた。イギリスでは、バロック建築はクリストファー・レン卿、ジョン・ヴァンブルー卿、ニコラス・ホークスムアらによって1660-1725年頃に頂点を迎えた。
ヨーロッパの他の都市やイスパノアメリカでも数多くのバロック建築や都市計画を見ることができる。
この時代の都市計画は交差点に小公園のある放射状の大通りを持ち、これはバロック庭園の設計から着想されたものであった。
イタリア式庭園でのバロックの庭はルネサンス期の16世紀にもみられ、エステ荘、ランテ荘の庭などにも、バロック性がみられるが、同国でこの形式の庭園の造営の中心は17世紀から18世紀にかけてで、特徴として、大規模カスケードや池のテラス化といったルネサンス式よりも斜面を大胆に利用しているものがみられ、壁面、噴水、彫刻、園亭、階段及び手摺り、水劇場(野外劇場)、グロット(庭園洞窟)、壁がん、鉢(花鉢、飾り鉢)など石造物もテラスにおいて多く用いられている。そして統一性と立体性を図り、カスケードと水劇場による力動性をもたせ、驚かせる、奇想さといった、遊戯性とスペクタクル(壮観)性、イベント性が強調され、ルネサンスの基本精神である古代文明・文化の復興・再現という考えや芸術観であった自然の模倣は後退し希薄となっていき、ルネサンスのシンメトリー、調和、比例に代わって、創造的奇才の発揮と、庭の学芸性、多様性、総合性から一面性へと向かった。
イタリア式の場合は、ローマの南東20キロにあるフラスカーティに多い。フラスカーティはローマ時代の一大別荘地、温泉地であり、丘陵地でルネサンス期に別荘地・保養地として見直された。イタリアンバロックの代表例ではアルドブランディーニ荘(1598-1603)があげられ、このほかにはトルローニア荘、モンドラゴーネ荘、ムッティ荘、ファルコニエーリ荘、ルフィネッラ荘、ファルネーゼ荘や、イゾラ・ベッラ(マジョーレ湖,ベッラ島階段状のバロック庭園,イタリア式庭園・バロック)などがある。
平面幾何学式庭園・フレンチバロックの例では現在でも残されあるいは往時の姿に再建されたものも数多く、ランゲンブルク城バロック庭園(建築はルネッサンス建築の城)、ヴォー=ル=ヴィコント城(フランス・バロック庭園の初期の傑作)、プロイシシュ・オルデンドルフのクアパーク・バート・ホルツハウゼン(19世紀に風景庭園が増設されている)、ニュルンベルク・ノインホーフ城のバロック庭園、 リュベッケのシュトックハウゼン館庭園(但し、かつてのバロック庭園は、わずかにしか遺されていない)、カッセルのベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ(一部は風景式に改造)、ハイデルベルク城(1719年に庭の一部をバロック庭園に手直し)、アンスバッハのオランジュリーと宮廷庭園(1723年から1730年までにバロック庭園として拡張される)、コーブルクホーフガルテン(Hofgarten、王宮庭園)、シェンゲンの「Gärten ohne Grenzen」(再建されたバロック庭園)、キルヒブラークのヴェスターブラーク騎士館バロック庭園、ヴァイカースハイム城(フランケン地方で最も初期のバロック庭園の一つに数えられる)、ホーフガルテン (ミュンヘン)、 シュタットハーゲンのシュタットガルテン、ニンフェンブルク宮殿バロック式庭園、シュヴェツィンゲン城バロック式庭園、シュテムヴェーデハルデム城公園(おそらくバロック庭園であったと推定されている)などがある。
英国のカントリー・ハウスでも18世紀に広まる風景式庭園前世代となる17世紀時点では、バロック庭園の幾何学的な形状を有したものが好まれて採用されている。現代でもグイード・ハガーなどが小規模ながら、時としてバロック庭園を手がけている。
バロック文学は、広く見られるメタファーとアレゴリーの使用と、マラヴィリア("Maraviglia", 不思議、驚き――マニエリスムでのように)の探求の中でのトリックの使用としてまとめられる新しい価値を示した。マニエリスムがルネサンスに最初の穴を開けたのだとすれば、バロックはルネサンスに正反対の応答をした。人間の心理的な苦悩――確固とした拠り所を求めてニコラウス・コペルニクスとマルティン・ルターの起こした革命の後では放棄された主題、「人間の究極の力」の証し――が、バロック期の芸術や建築では再び見出される。ローマのカトリック教会が主要な「顧客」であったので、作品のテーマは宗教的なものとなった。
芸術家たちは細部に気を配るリアリズム(典型的な「複雑さ」とも言える)を伴うヴィルトゥオジテ(名人芸――ヴィルトゥオーゾはあらゆる芸術に共通のあり方となった)を追求した。
外形に与えられた特権が、バロック作品の多くに見られる内容の欠如を埋め合わせ釣り合わせるであろう。例えば、ジャンバッティスタ・マリーノのマラヴィリアは素朴な形式によって作り出されており、観客、読者、聞き手などに幻想と想像が引き起こされる。全ては個人としての人間に焦点が当てられており、作者もしくは作品そのものと、その受け手、顧客との直接的な関係となっている。芸術とその受け手の距離が縮まり、両者を隔てていた文化的な溝がマラヴィリアによって解消されている。個人への注目は、こうした図式によってロマンツォ(小説)などのような重要なジャンルを作りだし、それまでの通俗的もしくは局所的な芸術形式、特に教育文学を脇に押し退けた。イタリアでは、この個人へと向かう運動(「文化的な下降」であるとも言われ、バロックと古典主義との対立の原因であるともされる)はラテン語からイタリア語への決定的な移行をもたらした。
イギリス文学では、形而上詩人たちがこの運動に近い。その詩は一般的でないメタファーを、しばしば細心の注意を払って用いていた。パラドックスと、意図的に作り出された普通でない言い回しへの好みが現れていた。
演劇の領域では、練り上げられた奇想、プロットの頻繁な転換、(例えばシェイクスピアの悲劇のような)マニエリスムの典型的なシチュエーションといった要素は、あらゆる芸術を1つに統合したオペラによって取って代わられた。
フランスではピエール・コルネイユ(『舞台は夢』)、モリエール(『ドン・ジュアンあるいは石像の宴』)、スペインではティルソ・デ・モリーナ(喜劇『信心深いマルタ』Marta la piadosa、史劇『セビリャの色事師と石の招客』)、ロペ・デ・ベガ(喜劇La estrella de Sevilla)、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ(『人生は夢』)など、バロック期には多くの作家が劇作品を書いた。
バロックは知的な分析よりも感情や感覚を好み、本当らしさよりも幻想を推し進め、調子の統一性よりも移ろいやすさや矛盾に重きを置き、単純さよりも複雑さを取った。
幻影(illusion; 幻想、幻)もまたバロックの特徴であり、多くの面を持つ宝石のような様相を呈する。 多くの作品は紋中紋(劇中劇)の構造を持っていた。 コルネイユの『舞台は夢』では、父親がその息子が世の中を動き回るのを見るという劇を観客は見るのであるが、それ自体がまた劇であると明らかになる。このことによって、作者はその演劇の弁護に力を与え、観客を魅き付けてその視点に従わせる。人物たちも、観客と同様に、その時々で幻影の犠牲となる。プリダマンは戯曲の977行目で息子が死んだと信じ、マタモールは自分自身の嘘を信じている。『舞台は夢』は演劇について語るだけではない。人物たちを通して、この作品は17世紀に普及していた他の文学ジャンルをも呼び出している。クランドールがピカレスクな主人公であり、大胆不敵で御都合主義、放浪と冒険好きである一方で、アルカンドルは牧人劇に出て来る魔術師の化身のようである。同様に、マタモールの人物像はラテン語の喜劇に登場する典型的なほら吹き兵士に対応している。
バロックの美学は動き、変わりやすさ、矛盾、アンチテーゼなどに依拠している。人物たちはある感情の色調から別のものへと移り変わる。彼らは過剰や激情の只中にいる。語りは聞くよりもむしろ見るものであり、修辞技法の眼前描出法によってイマージュを喚び起こし、魅せることが重要となっている。古典主義の美学が統一性を追求するのに対し、バロックは複数性に喜びを見出し、列叙法の趣味を持つ。バロックは1つのメダルの両面を見せる――真実は嘘と、現実は夢と、生は死と不可分のものとなっている。
劇場では、人物の動きを目立たせるある種の演出(照明、演技、衣装、装飾......)もまたバロックの表現に一役買っている。
音楽では、バロックは17世紀初頭から18世紀半ば頃までの音楽様式の総称である。その時代は概ねオペラの誕生からヨハン・ゼバスティアン・バッハの死までの期間に相当する。
音楽に「バロック」の語が明確に適用されたのは比較的近年になってからである。ヴェルフリンのバロック概念を1919年に音楽に適用したのはクルト・ザックスであった。英語でバロック音楽の語が用いられたのは1940年になってから(マンフレッド・ブコフツァーの論文が初出)である。1960年代に至っても、クラウディオ・モンテヴェルディ、フランソワ・クープラン、J・S・バッハらの大きく異なる音楽を同じ一つの呼称でまともに扱うことが出来るかは学識者の間で大きな論争となっていた。
バロック時代の視覚芸術や文学の美学的原則とバロック音楽とにどのくらい共通点があるのかは議論の的となっている。装飾への愛は明確な共通要素であり、古典主義時代の到来と共に音楽と建築の双方で装飾の重要性が大きく減じたのは象徴的であろう。
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"text": "バロック(伊: barocco, 仏: baroque 英: Baroque, 独: Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。",
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"text": "バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ているとする説が有力である(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のbarocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある。",
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"text": "現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。",
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"text": "1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」 と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」 という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』 においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。",
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"text": "さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった。皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。",
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"text": "ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。",
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"text": "バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。",
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"text": "(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう.",
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"text": "バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断したカトリック教会によってバロックの人気と成功は促進された。",
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"text": "1545-1563年のトリエント公会議によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令」(« Décret sur l’innovation et les reliques des saints, et sur les images saintes ».)である。つまりは対抗宗教改革の芸術であった。しかしながら、宗教改革に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。",
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"text": "世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。",
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"text": "カラッチ一族(兄弟と従兄)とカラヴァッジオはしばしば古典主義とバロックという言葉で対比され、 両者は造形の分野(ヴェルフリンが定義した)で対照的な影響を持ち、後世に多大な影響を及ぼした。",
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"text": "18世紀には古典的バロックから後期バロックもしくはロココへと移行した。これらは17世紀末にドイツ、オーストリア、ボヘミアで出現した。官能的な美の趣味は17世紀バロックの型に嵌った性質により自由な創作をもたらした。",
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"text": "装飾が増殖し、豊饒かつ幻想的になった。トロンプ・ルイユの壁画、階段、アレゴリーのニンファエウムや彫刻が教会、城、噴水を過剰なまでに満たした。ウィーン、ロンドン、ドレスデン、トリノ、南ドイツ、ボヘミアがこうした新機軸を取り入れた。ニコラ・サルヴィによるローマのトレヴィの泉(1732-1762)やルイージ・ヴァンヴィテッリによるナポリ近郊のカゼルタ宮殿の階段(1751-1758)に見られるように後期バロックの旺盛なカプリッツィオにあって目の喜びは不可欠なものであった。",
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"text": "パリ(コンコルド広場)、ボルドー(ブルス広場)、ナンシー(スタニスラス広場)などに建築空間が開かれた。オーストリアではフィッシャー・フォン・エルラッハとルーカス・フォン・ヒルデブラントが幻想的な建築で競い合った。バイエルンでは田舎の修道院が小天使に覆われた。ミュンヘンではアダム兄弟が高名である。ボヘミア、モルドバ、南ドイツのロココは巡礼教会を装飾し、ヴィースの巡礼教会では白地を覆う金泥の装飾で壁が崩れんばかりとなっている。",
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"text": "ハインリヒ・ヴェルフリンはバロックを円に代わり楕円が構成の中心に据えられ、全体の均衡が軸を中心とした構成に取って代わり、色彩と絵画的な効果がより重要になり始めた時代と定義した。",
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"text": "このアナロジーを音楽に当て嵌めると、「バロック音楽」という表現は有用なものとなる。対照的なフレーズの長さ、和音、対位法はポリフォニーを時代遅れにし、オーケストラ的な色彩がより強く現れるようになる。同様に、詩の表現は単純で、力強く、劇的なものとなり、明快でゆったりしたシンコペーションのリズムがジョン・ダンのようなマニエリスム詩人の用いる洗練され入り組んだ形而上学的な直喩に取って代わった。バロックの叙事詩であるジョン・ミルトンの『失楽園』では視覚表現の発達に強く影響された想像力が感じられる。",
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"text": "絵画では、バロックの身振りはマニエリスムのそれに比べゆったりとしている。より両義的、不可解、神秘的でなく、むしろバロックの主要な芸術形態の1つであるオペラでの身振りに近い。バロックのポーズはコントラポスト(傾いだ姿勢)に頼っており、肩と腰の平面を反対方向にずらして置くフォルムの緊張感は今にも動き出しそうな印象を与える。",
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"text": "ベルニーニ (1598-1680) の建築、彫刻、噴水はバロック様式の特徴を強く示しており、間違いなく最も重要なバロック期の彫刻家であった。ベルニーニはその万能さではミケランジェロに迫るものがあった――彫刻し、建築家として働き、描き、戯曲を書き、上演を行った。20世紀末にはベルニーニの彫刻は、大理石を彫る名人芸と、身体と精神を調和させたフォルムの創造とによって非常に高名なものとなった。また有力者からの需要が多かった胸像の優れた彫り手でもあった。",
"title": "彫刻"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会のコルナロ礼拝堂のために制作されたベルニーニの『聖テレジアの法悦』(1645-52)はバロックを理解する助けとなる。コルナロ家のために教会の側面の補助スペースとして設計されたこの礼拝堂は、建築、彫刻、そして演劇を1つの大きな奇想に纏め上げた総合芸術の傑作となっている。",
"title": "彫刻"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ベルニーニは煉瓦のボックスを作り、白い大理石の聖テレジアの恍惚する舞台とした。これは多色の大理石で作られた建築的な枠によって取り巻かれ、窓が彫像を高みから照らす。礼拝堂の両側壁沿いにある桟敷席にはコルナロ家の人々の顔が軽いレリーフで彫られている。見る者は聖人の神秘的な恍惚の観客=目撃者となる。アビラのテレジアは空想的な装飾によって強く理想化されている。対抗宗教改革で人気のある聖人であったテレジアは自身の神秘的な体験をカルメル会の修道女たちのために綴った。これらの書き物は霊性を追い求める俗人に人気となり、この彫像はその話を体現するものである。テレジアは神の愛をその心臓を貫く燃える矢と表現した。ベルニーニはこのイマージュを文字通りに、テレジアの足許でお辞儀の姿勢をして微笑みかける、クピドのようにして黄金の弓を持つ天使を置くことで具現化した。天使の像は矢を彼女の心臓に射込もうとはしておらず、引き下げている。聖女の顔は恍惚の予兆ではなく現在の充足感を映し出しており、オルガスム的でもあると言われる。",
"title": "彫刻"
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"text": "信仰とエロティシズムの混淆はバロック精神の特徴の1つであり、新古典主義の慎みやヴィクトリア朝の羞恥心に背くものであり続けてきた。ベルニーニは信心深いカトリックであり、修道女を風刺しようとしたのではなく宗教的体験から引き出される複雑な真実を大理石の中に体現しようとしたのである。テレジアは恍惚という多くの神秘主義者たちが用いてきた表現によって霊的な天啓に対する肉体的な反応を表したのであり、ベルニーニは真摯であった。",
"title": "彫刻"
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"text": "コルナロ家はこの礼拝堂で控え目に自分達を宣伝している。彼らの姿は礼拝堂の側面に彫られ、桟敷席からこの出来事を目撃している形になっている。オペラハウスでのように、コルナロ家の人々には桟敷席という聖女に最も近い、観客と比べ特別な位置が与えられているが、しかしながら観客の方が正面の良く見える位置になる。(17世紀から恐らくは19世紀までは)コルナロ家の許可なくしては誰も彫像の下の祭壇でミサを行うことが出来なかったという意味ではこれは私有の礼拝堂であるが、見る者と彫像を隔てるものは祭壇の柵だけである。この彫像の光景は、神秘主義と一家の誇りの両方を示しているのである。",
"title": "彫刻"
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"text": "バロック建築では、重点は力強いマッス、柱、ドーム、キアロスクーロ、絵画的な色彩効果、量感と空間との取り合わせなどにあった。内装では、バロックの何もない空間を取り巻き横切る壮大な階段はそれまでの建築には存在しなかったものであった。世界各地のバロック建築の内装で見られる他の特徴として、奥に行くにつれて徐々に豪華になり、華麗な寝室、王座の間、謁見室などで頂点を迎える儀式用の続き部屋がある。これは気取った貴族の住居でも小さなスケールで模倣された。",
"title": "建築"
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"text": "バロック建築はドイツ中部(ルートヴィヒスブルク宮殿やツヴィンガー宮殿)、オーストリア、ポーランド(ヴィラヌフ宮殿やビャウィストク宮殿)、ロシア(ペテルゴフ宮殿)などでも熱狂的に受け入れられた。イギリスでは、バロック建築はクリストファー・レン卿、ジョン・ヴァンブルー卿、ニコラス・ホークスムアらによって1660-1725年頃に頂点を迎えた。",
"title": "建築"
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"text": "ヨーロッパの他の都市やイスパノアメリカでも数多くのバロック建築や都市計画を見ることができる。",
"title": "建築"
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"text": "この時代の都市計画は交差点に小公園のある放射状の大通りを持ち、これはバロック庭園の設計から着想されたものであった。",
"title": "庭園"
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"text": "イタリア式庭園でのバロックの庭はルネサンス期の16世紀にもみられ、エステ荘、ランテ荘の庭などにも、バロック性がみられるが、同国でこの形式の庭園の造営の中心は17世紀から18世紀にかけてで、特徴として、大規模カスケードや池のテラス化といったルネサンス式よりも斜面を大胆に利用しているものがみられ、壁面、噴水、彫刻、園亭、階段及び手摺り、水劇場(野外劇場)、グロット(庭園洞窟)、壁がん、鉢(花鉢、飾り鉢)など石造物もテラスにおいて多く用いられている。そして統一性と立体性を図り、カスケードと水劇場による力動性をもたせ、驚かせる、奇想さといった、遊戯性とスペクタクル(壮観)性、イベント性が強調され、ルネサンスの基本精神である古代文明・文化の復興・再現という考えや芸術観であった自然の模倣は後退し希薄となっていき、ルネサンスのシンメトリー、調和、比例に代わって、創造的奇才の発揮と、庭の学芸性、多様性、総合性から一面性へと向かった。",
"title": "庭園"
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"text": "イタリア式の場合は、ローマの南東20キロにあるフラスカーティに多い。フラスカーティはローマ時代の一大別荘地、温泉地であり、丘陵地でルネサンス期に別荘地・保養地として見直された。イタリアンバロックの代表例ではアルドブランディーニ荘(1598-1603)があげられ、このほかにはトルローニア荘、モンドラゴーネ荘、ムッティ荘、ファルコニエーリ荘、ルフィネッラ荘、ファルネーゼ荘や、イゾラ・ベッラ(マジョーレ湖,ベッラ島階段状のバロック庭園,イタリア式庭園・バロック)などがある。",
"title": "庭園"
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"text": "平面幾何学式庭園・フレンチバロックの例では現在でも残されあるいは往時の姿に再建されたものも数多く、ランゲンブルク城バロック庭園(建築はルネッサンス建築の城)、ヴォー=ル=ヴィコント城(フランス・バロック庭園の初期の傑作)、プロイシシュ・オルデンドルフのクアパーク・バート・ホルツハウゼン(19世紀に風景庭園が増設されている)、ニュルンベルク・ノインホーフ城のバロック庭園、 リュベッケのシュトックハウゼン館庭園(但し、かつてのバロック庭園は、わずかにしか遺されていない)、カッセルのベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ(一部は風景式に改造)、ハイデルベルク城(1719年に庭の一部をバロック庭園に手直し)、アンスバッハのオランジュリーと宮廷庭園(1723年から1730年までにバロック庭園として拡張される)、コーブルクホーフガルテン(Hofgarten、王宮庭園)、シェンゲンの「Gärten ohne Grenzen」(再建されたバロック庭園)、キルヒブラークのヴェスターブラーク騎士館バロック庭園、ヴァイカースハイム城(フランケン地方で最も初期のバロック庭園の一つに数えられる)、ホーフガルテン (ミュンヘン)、 シュタットハーゲンのシュタットガルテン、ニンフェンブルク宮殿バロック式庭園、シュヴェツィンゲン城バロック式庭園、シュテムヴェーデハルデム城公園(おそらくバロック庭園であったと推定されている)などがある。",
"title": "庭園"
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"text": "英国のカントリー・ハウスでも18世紀に広まる風景式庭園前世代となる17世紀時点では、バロック庭園の幾何学的な形状を有したものが好まれて採用されている。現代でもグイード・ハガーなどが小規模ながら、時としてバロック庭園を手がけている。",
"title": "庭園"
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"text": "バロック文学は、広く見られるメタファーとアレゴリーの使用と、マラヴィリア(\"Maraviglia\", 不思議、驚き――マニエリスムでのように)の探求の中でのトリックの使用としてまとめられる新しい価値を示した。マニエリスムがルネサンスに最初の穴を開けたのだとすれば、バロックはルネサンスに正反対の応答をした。人間の心理的な苦悩――確固とした拠り所を求めてニコラウス・コペルニクスとマルティン・ルターの起こした革命の後では放棄された主題、「人間の究極の力」の証し――が、バロック期の芸術や建築では再び見出される。ローマのカトリック教会が主要な「顧客」であったので、作品のテーマは宗教的なものとなった。",
"title": "文学と哲学"
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"text": "芸術家たちは細部に気を配るリアリズム(典型的な「複雑さ」とも言える)を伴うヴィルトゥオジテ(名人芸――ヴィルトゥオーゾはあらゆる芸術に共通のあり方となった)を追求した。",
"title": "文学と哲学"
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{
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"text": "外形に与えられた特権が、バロック作品の多くに見られる内容の欠如を埋め合わせ釣り合わせるであろう。例えば、ジャンバッティスタ・マリーノのマラヴィリアは素朴な形式によって作り出されており、観客、読者、聞き手などに幻想と想像が引き起こされる。全ては個人としての人間に焦点が当てられており、作者もしくは作品そのものと、その受け手、顧客との直接的な関係となっている。芸術とその受け手の距離が縮まり、両者を隔てていた文化的な溝がマラヴィリアによって解消されている。個人への注目は、こうした図式によってロマンツォ(小説)などのような重要なジャンルを作りだし、それまでの通俗的もしくは局所的な芸術形式、特に教育文学を脇に押し退けた。イタリアでは、この個人へと向かう運動(「文化的な下降」であるとも言われ、バロックと古典主義との対立の原因であるともされる)はラテン語からイタリア語への決定的な移行をもたらした。",
"title": "文学と哲学"
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"text": "イギリス文学では、形而上詩人たちがこの運動に近い。その詩は一般的でないメタファーを、しばしば細心の注意を払って用いていた。パラドックスと、意図的に作り出された普通でない言い回しへの好みが現れていた。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "演劇の領域では、練り上げられた奇想、プロットの頻繁な転換、(例えばシェイクスピアの悲劇のような)マニエリスムの典型的なシチュエーションといった要素は、あらゆる芸術を1つに統合したオペラによって取って代わられた。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "フランスではピエール・コルネイユ(『舞台は夢』)、モリエール(『ドン・ジュアンあるいは石像の宴』)、スペインではティルソ・デ・モリーナ(喜劇『信心深いマルタ』Marta la piadosa、史劇『セビリャの色事師と石の招客』)、ロペ・デ・ベガ(喜劇La estrella de Sevilla)、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ(『人生は夢』)など、バロック期には多くの作家が劇作品を書いた。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "バロックは知的な分析よりも感情や感覚を好み、本当らしさよりも幻想を推し進め、調子の統一性よりも移ろいやすさや矛盾に重きを置き、単純さよりも複雑さを取った。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "幻影(illusion; 幻想、幻)もまたバロックの特徴であり、多くの面を持つ宝石のような様相を呈する。 多くの作品は紋中紋(劇中劇)の構造を持っていた。 コルネイユの『舞台は夢』では、父親がその息子が世の中を動き回るのを見るという劇を観客は見るのであるが、それ自体がまた劇であると明らかになる。このことによって、作者はその演劇の弁護に力を与え、観客を魅き付けてその視点に従わせる。人物たちも、観客と同様に、その時々で幻影の犠牲となる。プリダマンは戯曲の977行目で息子が死んだと信じ、マタモールは自分自身の嘘を信じている。『舞台は夢』は演劇について語るだけではない。人物たちを通して、この作品は17世紀に普及していた他の文学ジャンルをも呼び出している。クランドールがピカレスクな主人公であり、大胆不敵で御都合主義、放浪と冒険好きである一方で、アルカンドルは牧人劇に出て来る魔術師の化身のようである。同様に、マタモールの人物像はラテン語の喜劇に登場する典型的なほら吹き兵士に対応している。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "バロックの美学は動き、変わりやすさ、矛盾、アンチテーゼなどに依拠している。人物たちはある感情の色調から別のものへと移り変わる。彼らは過剰や激情の只中にいる。語りは聞くよりもむしろ見るものであり、修辞技法の眼前描出法によってイマージュを喚び起こし、魅せることが重要となっている。古典主義の美学が統一性を追求するのに対し、バロックは複数性に喜びを見出し、列叙法の趣味を持つ。バロックは1つのメダルの両面を見せる――真実は嘘と、現実は夢と、生は死と不可分のものとなっている。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "劇場では、人物の動きを目立たせるある種の演出(照明、演技、衣装、装飾......)もまたバロックの表現に一役買っている。",
"title": "文学と哲学"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "音楽では、バロックは17世紀初頭から18世紀半ば頃までの音楽様式の総称である。その時代は概ねオペラの誕生からヨハン・ゼバスティアン・バッハの死までの期間に相当する。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "音楽に「バロック」の語が明確に適用されたのは比較的近年になってからである。ヴェルフリンのバロック概念を1919年に音楽に適用したのはクルト・ザックスであった。英語でバロック音楽の語が用いられたのは1940年になってから(マンフレッド・ブコフツァーの論文が初出)である。1960年代に至っても、クラウディオ・モンテヴェルディ、フランソワ・クープラン、J・S・バッハらの大きく異なる音楽を同じ一つの呼称でまともに扱うことが出来るかは学識者の間で大きな論争となっていた。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "バロック時代の視覚芸術や文学の美学的原則とバロック音楽とにどのくらい共通点があるのかは議論の的となっている。装飾への愛は明確な共通要素であり、古典主義時代の到来と共に音楽と建築の双方で装飾の重要性が大きく減じたのは象徴的であろう。",
"title": "音楽"
}
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バロックとは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。
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{{脚注の不足|date=2019年3月}}
{{Otheruses|ヨーロッパでの文化様式|その他のバロック|バロック (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:Peter_Paul_Rubens_-_The_Adoration_of_the_Magi_-_WGA20244.jpg|thumb|right|[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]『[[東方三博士の礼拝 (ルーベンス、アントウェルペン王立美術館)|東方三博士の礼拝]]』(1642):なにもない空間の周りを螺旋状に人物たちが取り囲むダイナミックな構図。鮮やかな襞、一条の光の矢に照らされた動きの気配、卓越した腕前を思うまま発揮して描かれている。]]
'''バロック'''({{lang-it-short|barocco}}, {{lang-fr-short|baroque}} {{lang-en-short|Baroque}}, {{lang-de-short|Barock}})とは、[[16世紀]]末から[[17世紀]]初頭にかけ[[イタリア]]の[[ローマ]]、[[マントヴァ]]、[[ヴェネツィア]]、[[フィレンツェ]]で誕生し、[[ヨーロッパ]]の大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。<!--狭義には17世紀の芸術を特徴づける言葉をさすのに用いられるが、広くは同時代の生活態度全般を特徴づける言葉である。-->バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとして[[ルネサンス]]の芸術運動の後に始まった。[[カトリック教会]]の[[対抗改革]](反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の[[絶対王政]]を背景に、影響は[[彫刻]]、[[絵画]]、[[文学]]、[[建築]]、[[音楽]]などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。<!--芸術運動としては一過性に終わったが精力的に過ぎたこの運動によって、調和のとれた明快な[[ルネサンス美術]]は破壊された。-->18世紀後半には[[新古典主義]](文学、音楽は[[古典主義]])へと移行した。
== バロックという概念の誕生と発展 ==
バロックという語は、[[真珠]]や[[宝石]]のいびつな形を指す[[ポルトガル語]]の''barroco''から来ているとする説が有力である(ただし[[名詞]]''barroco''はもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた<ref>Olívio da Costa Carvalho, Dicionário de português-francês, Porto Editora, 1996 ISBN 972-0-05011-X</ref>。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。一方、[[ベネデット・クローチェ]]によれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使った[[ラテン語]]のbarocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家[[フェデリコ・バロッチ]]を由来とする説もある<ref>Helen Hills ''[https://books.google.co.jp/books?id=9tYIBkeLtNsC&pg=PA32 Rethinking the Baroque]''</ref>。
現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく[[古典主義]]であると考えていた。彼らは[[中世]]のフォルムや、建築の[[オーダー (建築)|オーダー]]や、[[ペディメント]]や、古典的な[[モデナチュール]]といったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった<ref>Albert Dauzat & al., Dictionnaire étymologique Larousse, 1989 ISBN 2-03-710006-X</ref>。
1694年(バロック期の最中)には、この語は[[アカデミー・フランセーズ]]の辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」<ref>Dictionnaire de L’Académie française, 1<sup>re</sup> édition. ([http://portail.atilf.fr/dictionnaires/ACADEMIE/PREMIERE/search.form.fr.html オンライン版])</ref> と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」<ref>Dictionnaire de L’Académie française, 4<sup>e</sup> édition. ([http://portail.atilf.fr/dictionnaires/ACADEMIE/QUATRIEME/search.form.fr.html オンライン版])</ref> という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、[[スイス]]の美術史家[[ヤーコプ・ブルクハルト]]が『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』<ref>Source : Claude Lebédel, ''Histoire et splendeurs du baroque en France'', édition Ouest-France, Rennes, 2003.</ref> においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「[[ルイ14世様式]]」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。
さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった<ref>Dictionnaire de L’Académie française, 7<sup>e</sup> édition. F. Didot, Paris, 1878 ([http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k504096/f219.chemindefer オンライン版])</ref>。[[ウジェニー・ド・モンティジョ|皇后ウジェニー]]は
<!--宮廷風に?-->気取ったものや[[ルイ15世様式]]を再び流行させ、今日[[ネオバロック]](バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた{{efn|[[シャルル・ガルニエ]]が皇后に[[ガルニエ宮]]は何様式であるかと尋ねられた時の返答「[[ナポレオン3世]]様式にございます、妃殿下」が想起されるであろう。[[ルネサンス]]、[[新古典主義]]、[[ルイ15世様式]]が混淆した当時流行の様式はそれほどまでに定義困難なものだったのである。}}。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家[[ハインリヒ・ヴェルフリン]](1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。
ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した<ref>Heinrich Wölfflin, ''Renaissance und Barock: Eine Untersuchung über Wesen und Entstehung der Barockstils in Italien'', 1888</ref>。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようには[[マニエリスム]]とバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花した[[ロココ]]という相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。
=== 始まり ===
[[ファイル:Église Gesù - Rome (IT62) - 2021-08-30 - 2.jpg|thumb|[[ローマ]]の[[ジェズ教会]]の[[ファサード]]。バロック様式の教会としては初めてのものであったと考えられている(1580年、[[ジャコモ・デッラ・ポルタ]])。]]
バロックの萌芽となる着想は[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。
(大抵は[[プロテスタント]]の)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい[[信仰]]の形――[[宗教改革]]――を生んださまざまな文化的運動に[[カトリック教会]]が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは[[教皇]]が、[[絶対王政]]がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの[[対抗宗教改革]]の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている{{誰|date=2010年2月}}。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう.
=== 拡散 ===
バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断した[[カトリック教会]]によってバロックの人気と成功は促進された<ref>Helen Gardner, Fred S. Kleiner, and Christin J. Mamiya, ''Gardner's Art Through the Ages'' (Belmont, CA: Thomson/Wadsworth, 2005), p. 516.</ref>。
1545-1563年の[[トリエント公会議]]によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令」(''« Décret sur l’innovation et les reliques des saints, et sur les images saintes »''.)である。つまりは[[対抗宗教改革]]の芸術であった。しかしながら、[[宗教改革]]に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。
世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。
バロック様式の魅力は、16世紀の[[マニエリスム]]芸術の繊細さや知的な特質から、感覚に向けられた直感的なものへと意識的に移行した。直截的、単純明快、劇的な図像が用いられた。バロック芸術は[[アンニーバレ・カラッチ]]とその仲間たちの果断な傾向から一定の影響を受けており、また[[コレッジョ]]、[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]、[[フェデリコ・バロッチ]]といった、今日では「初期バロック」と分類されることもある芸術家たちの影響も見出される。
カラッチ一族(兄弟と従兄)とカラヴァッジオはしばしば[[古典主義]]とバロックという言葉で対比され、
両者は造形の分野(ヴェルフリンが定義した)で対照的な影響を持ち、後世に多大な影響を及ぼした。
[[ファイル:Prometheus Adam Louvre MR1745.jpg|thumb|right|[[ニコラ=セバスチャン・アダム]]『[[プロメーテウス|プロメテウス]]』(1737年、[[ルーヴル美術館]]蔵)。際立った緊張感、複数のアングルと視点、激しい情動に満ちた熱を帯びた力作。]]
18世紀には古典的バロックから後期バロックもしくは[[ロココ]]へと移行した。これらは17世紀末にドイツ、オーストリア、ボヘミアで出現した。官能的な美の趣味は17世紀バロックの型に嵌った性質により自由な創作をもたらした。
装飾が増殖し、豊饒かつ幻想的になった。[[トロンプ・ルイユ]]の壁画、階段、[[アレゴリー]]の[[ニンファエウム]]や彫刻が教会、城、噴水を過剰なまでに満たした。ウィーン、ロンドン、ドレスデン、トリノ、南ドイツ、ボヘミアがこうした新機軸を取り入れた。[[ニコラ・サルヴィ]]によるローマの[[トレヴィの泉]](1732-1762)や[[ルイージ・ヴァンヴィテッリ]]によるナポリ近郊の[[カゼルタ宮殿]]の階段(1751-1758)に見られるように後期バロックの旺盛なカプリッツィオにあって目の喜びは不可欠なものであった。
パリ(コンコルド広場)、ボルドー(ブルス広場)、ナンシー(スタニスラス広場)などに建築空間が開かれた。オーストリアでは[[ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ|フィッシャー・フォン・エルラッハ]]と[[ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント|ルーカス・フォン・ヒルデブラント]]が幻想的な建築で競い合った。バイエルンでは田舎の修道院が小天使に覆われた。ミュンヘンでは[[ロバート・アダム|アダム兄弟]]が高名である。ボヘミア、モルドバ、南ドイツのロココは巡礼教会を装飾し、[[ヴィースの巡礼教会]]では白地を覆う金泥の装飾<!-- effets -->で壁が崩れんばかりとなっている。
スペインとポルトガルのアメリカ植民地はイベリアの[[プレテレスコ様式]]に影響を与えた。フランスでは、[[ジュール・アルドゥアン=マンサール]]の門人たちが邸宅とその内部装飾に取り組み、サンジェルマン街やマレー、さらには[[ランブイエ]]の非凡な鏡板などで見ることができる。
== 特徴 ==
[[ハインリヒ・ヴェルフリン]]はバロックを[[円 (数学)|円]]に代わり[[楕円]]が構成の中心に据えられ、全体の均衡が軸を中心とした構成に取って代わり、色彩と絵画的な効果がより重要になり始めた時代と定義した。
このアナロジーを音楽に当て嵌めると、「[[バロック音楽]]」という表現は有用なものとなる。対照的なフレーズの長さ、和音、[[対位法]]は[[ポリフォニー]]を時代遅れにし、オーケストラ的な色彩がより強く現れるようになる。同様に、[[詩]]の表現は単純で、力強く、劇的なものとなり、明快でゆったりしたシンコペーションのリズムが[[ジョン・ダン]]のような[[マニエリスム]]詩人の用いる洗練され入り組んだ形而上学的な[[直喩]]に取って代わった。バロックの[[叙事詩]]である[[ジョン・ミルトン]]の『[[失楽園]]』では視覚表現の発達に強く影響された想像力が感じられる。
絵画では、バロックの身振りはマニエリスムのそれに比べゆったりとしている。より両義的、不可解、神秘的でなく、むしろバロックの主要な芸術形態の1つである[[オペラ]]での身振りに近い。バロックのポーズは[[コントラポスト]](傾いだ姿勢)に頼っており、肩と腰の平面を反対方向にずらして置くフォルムの緊張感は今にも動き出しそうな印象を与える。
17世紀初頭にはヨーロッパ全土で激烈を極めた宗教戦争などあらゆる闘争が起こり、国家や社会が分裂した。その不安な時代において、連続的な運動と永続的な秩序との間にしかるべき関係を見出そうとする努力がなされ、そこから独特な心情的表現が生まれた。これが「バロック」である。強い激烈な印象を与える変化と対比など、これらすべては、動的で変化に富む自然と人間の感情から見出された新しい表現であった。
調和・均整を目指す[[ルネサンス]]様式に対して劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。「永遠の相のもとに{{efn|sub specie aeternitatis. [[スピノザ]]『エチカ』にある言葉。}}」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもとに」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「[[ヴァニタス]]」、その中で常に死を思う「[[メメント・モリ]]」、そうであるからこそ現在を生きよとする「[[その日を摘め|カルペ・ディエム]]」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。
ルネサンスからバロック初期はイタリアが文化の中心であったが、バロック後期には文化の中心はフランスへ移ってゆく。
== 絵画 ==
{{Main|バロック絵画}}
<!--現在では巨匠とされる[[マニエリスム]]派の画家が現れた。-->
[[ファイル:Aeneas'_Flight_from_Troy_by_Federico_Barocci.jpg|thumb|240px|[[フェデリコ・バロッチ]]『トロイアから逃げるアエネイス』(1598)――古典文学の1場面、劇的なアクションの只中で凝固し、斜めの遠近法の広がりの中で前景のイマージュがはっきりと現れている。]]
絵画における「バロック」の意味を定義づけるものの1つは[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]が[[マリー・ド・メディシス]]のためにパリの[[リュクサンブール宮殿]]で制作した一連の絵(現在は[[ルーヴル美術館]]蔵)であり<ref>[http://www.students.sbc.edu/vandergriff04/mariedemedici.html The Life of Marie de' Medici<!-- Titre généré automatiquement -->] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20030914111817/http://www.students.sbc.edu/vandergriff04/mariedemedici.html |date=2003年9月14日 }}</ref>、ここでは[[カトリック教会|カトリック]]の画家がカトリックの[[パトロン]]を要求を満足させている――バロック時代の君主制、図像学、描画技法、構図、そして空間や動きの描写などの概念である。[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]から[[ピエトロ・ダ・コルトーナ|コルトーナ]]まで、イタリアのバロック絵画には大きく異なった流れがあるが、いずれも異なった様式で情動的なダイナミズムを追求している。
後期バロック様式は徐々により装飾的な[[ロココ]]へと入れ替わってゆき、バロックの定義はこのロココとの対比によってより明確となる。フランスでは君主制に仕える芸術と見做されることも多い[[古典主義]]美術もバロックと対比するものと見做される。
*ネーデルラント(フランドル)
**[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]
*ネーデルラント(オランダ)
**[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]
**[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]
*スペイン
**[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]
*フランス
**[[ニコラ・プッサン]](ローマで活躍)
**[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]
*イタリア
**[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]
== 彫刻 ==
バロック彫刻では、人物の集合に新しい重要性が生じ、人間のフォルムによってダイナミックな動きとエネルギーがもたらされた――人物は中心の渦巻を取り巻いて輪をなし、あるいは外を向き周辺の空間へと向かう。バロック彫刻になって初めて、彫刻は複数の理想的な視角を獲得した。隠された光源や[[噴水]]といった彫刻以外の補足的な要素を付け加えるのもバロック彫刻の特徴の1つである。
[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]] (1598-1680) の建築、彫刻、噴水はバロック様式の特徴を強く示しており、間違いなく最も重要なバロック期の彫刻家であった。ベルニーニはその万能さでは[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]に迫るものがあった――彫刻し、建築家として働き、描き、戯曲を書き、上演を行った。20世紀末にはベルニーニの彫刻は、大理石を彫る名人芸と、身体と精神を調和させたフォルムの創造とによって非常に高名なものとなった。また有力者からの需要が多かった胸像の優れた彫り手でもあった。
=== コルナロ礼拝堂――総合芸術の傑作 ===
[[ファイル:Estasi di Santa Teresa.jpg|thumb|[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]『聖テレジアの法悦』([[:en:Santa Maria della Vittoria]])]]
[[ローマ]]の[[サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会]]のコルナロ礼拝堂のために制作された[[ベルニーニ]]の『[[聖テレジアの法悦]]』(1645-52)はバロックを理解する助けとなる。コルナロ家のために教会の側面の補助スペースとして設計されたこの礼拝堂は、建築、彫刻、そして演劇を1つの大きな奇想に纏め上げた総合芸術の傑作となっている。
ベルニーニは煉瓦のボックスを作り、白い大理石の聖テレジアの恍惚する舞台とした。これは多色の大理石で作られた建築的な枠によって取り巻かれ、窓が彫像を高みから照らす。礼拝堂の両側壁沿いにある桟敷席にはコルナロ家の人々の顔が軽いレリーフで彫られている。見る者は聖人の神秘的な恍惚の観客=目撃者となる。[[アビラのテレサ|アビラのテレジア]]は空想的な装飾によって強く理想化されている。[[対抗宗教改革]]で人気のある聖人であったテレジアは自身の神秘的な体験を[[カルメル会]]の修道女たちのために綴った。これらの書き物は霊性を追い求める俗人に人気となり、この彫像はその話を体現するものである。テレジアは神の愛をその心臓を貫く燃える矢と表現した。ベルニーニはこのイマージュを文字通りに、テレジアの足許でお辞儀の姿勢をして微笑みかける、[[クピードー|クピド]]のようにして黄金の弓を持つ[[天使]]を置くことで具現化した。天使の像は矢を彼女の心臓に射込もうとはしておらず、引き下げている。聖女の顔は恍惚の予兆ではなく現在の充足感を映し出しており、[[オルガスム]]的でもあると言われる。
信仰と[[エロティシズム]]の混淆はバロック精神の特徴の1つであり、[[新古典主義]]の慎みや[[ヴィクトリア朝]]の羞恥心に背くものであり続けてきた。ベルニーニは信心深いカトリックであり、修道女を[[風刺]]しようとしたのではなく宗教的体験から引き出される複雑な真実を大理石の中に体現しようとしたのである。テレジアは恍惚という多くの神秘主義者たちが用いてきた表現によって霊的な天啓に対する肉体的な反応を表したのであり、ベルニーニは真摯であった。
コルナロ家はこの礼拝堂で控え目に自分達を宣伝している。彼らの姿は礼拝堂の側面に彫られ、桟敷席からこの出来事を目撃している形になっている。オペラハウスでのように、コルナロ家の人々には桟敷席という聖女に最も近い、観客と比べ特別な位置が与えられているが、しかしながら観客の方が正面の良く見える位置になる。(17世紀から恐らくは19世紀までは)コルナロ家の許可なくしては誰も彫像の下の祭壇でミサを行うことが出来なかったという意味ではこれは私有の礼拝堂であるが、見る者と彫像を隔てるものは祭壇の柵だけである。この彫像の光景は、神秘主義と一家の誇りの両方を示しているのである。
== 建築 ==
{{Main|バロック建築}}
[[ファイル:Residenzschloss Ludwigsburg.jpg|thumb|[[シュトゥットガルト]]近郊のルートヴィヒスブルク宮殿。最大のバロック宮殿。]]
[[ファイル:Stift melk 001 2004.jpg|thumb|[[ヴァッハウ渓谷]]の[[メルク修道院]]]]
バロック建築では、重点は力強いマッス、[[柱]]、[[ドーム]]、[[キアロスクーロ]]、絵画的な色彩効果、量感と空間との取り合わせなどにあった。内装では、バロックの何もない空間を取り巻き横切る壮大な階段はそれまでの建築には存在しなかったものであった。世界各地のバロック建築の内装で見られる他の特徴として、奥に行くにつれて徐々に豪華になり、華麗な寝室、王座の間、謁見室などで頂点を迎える儀式用の続き部屋がある。これは気取った貴族の住居でも小さなスケールで模倣された。
バロック建築は[[ドイツ]]中部([[ルートヴィヒスブルク宮殿]]や[[ツヴィンガー宮殿]])、[[オーストリア]]、[[ポーランド]]([[ヴィラヌフ]]宮殿や[[ビャウィストク]]宮殿)、[[ロシア]]([[ペテルゴフ]]宮殿)などでも熱狂的に受け入れられた。[[イギリス]]では、バロック建築は[[クリストファー・レン]]卿、[[ジョン・ヴァンブルー]]卿、[[ニコラス・ホークスムア]]らによって1660-1725年頃に頂点を迎えた。
ヨーロッパの他の都市や[[イスパノアメリカ]]でも数多くのバロック建築や都市計画を見ることができる。
== 庭園 ==
[[ファイル:UssePark.jpg|thumb|フランス、[[ユッセ城]]のバロック庭園]]
この時代の都市計画は交差点に小公園のある放射状の大通りを持ち、これはバロック庭園の設計から着想されたものであった。
[[イタリア式庭園]]でのバロックの庭は[[ルネサンス]]期の16世紀にもみられ、[[エステ荘]]、ランテ荘の庭などにも、バロック性がみられるが、同国でこの形式の庭園の造営の中心は17世紀から18世紀にかけてで、特徴として、大規模カスケードや池のテラス化といったルネサンス式よりも斜面を大胆に利用しているものがみられ、壁面、噴水、彫刻、園亭、階段及び手摺り、水劇場(野外劇場)、グロット(庭園洞窟)、壁がん、鉢(花鉢、飾り鉢)など石造物もテラスにおいて多く用いられている。そして統一性と立体性を図り、カスケードと水劇場による力動性をもたせ、驚かせる、奇想さといった、遊戯性とスペクタクル(壮観)性、イベント性が強調され、ルネサンスの基本精神である古代文明・文化の復興・再現という考えや芸術観であった自然の模倣は後退し希薄となっていき、ルネサンスのシンメトリー、調和、比例に代わって、創造的奇才の発揮と、庭の学芸性、多様性、総合性から一面性へと向かった。
イタリア式の場合は、ローマの南東20キロにあるフラスカーティに多い。フラスカーティはローマ時代の一大別荘地、温泉地であり、丘陵地でルネサンス期に別荘地・保養地として見直された。イタリアンバロックの代表例ではアルドブランディーニ荘(1598-1603)があげられ、このほかにはトルローニア荘、モンドラゴーネ荘、ムッティ荘、ファルコニエーリ荘、ルフィネッラ荘、ファルネーゼ荘や、イゾラ・ベッラ([[マジョーレ湖]],[[ベッラ島]]階段状のバロック庭園,[[イタリア式庭園]]・バロック)などがある。
[[平面幾何学式庭園]]・フレンチバロックの例では現在でも残されあるいは往時の姿に再建されたものも数多く、[[ランゲンブルク]]城バロック庭園(建築は[[ルネッサンス建築]]の城)、[[ヴォー=ル=ヴィコント城]](フランス・バロック庭園の初期の傑作)、[[プロイシシュ・オルデンドルフ]]のクアパーク・バート・ホルツハウゼン(19世紀に風景庭園が増設されている)、[[ニュルンベルク]]・ノインホーフ城のバロック庭園、
[[リュベッケ]]のシュトックハウゼン館庭園(但し、かつてのバロック庭園は、わずかにしか遺されていない)、[[カッセル]]のベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ(一部は風景式に改造)、[[ハイデルベルク城]](1719年に庭の一部をバロック庭園に手直し)、[[アンスバッハ]]のオランジュリーと宮廷庭園([[1723年]]から[[1730年]]までにバロック庭園として拡張される)、[[コーブルク]]ホーフガルテン(Hofgarten、王宮庭園)、[[シェンゲン]]の「{{lang|de|Gärten ohne Grenzen}}」(再建されたバロック庭園)、[[キルヒブラーク]]のヴェスターブラーク騎士館バロック庭園、[[ヴァイカースハイム]]城(フランケン地方で最も初期のバロック庭園の一つに数えられる)、[[ホーフガルテン (ミュンヘン)]]、 [[シュタットハーゲン]]のシュタットガルテン、[[ニンフェンブルク宮殿]]バロック式庭園、[[シュヴェツィンゲン]]城バロック式庭園、[[シュテムヴェーデ]]ハルデム城公園(おそらくバロック庭園であったと推定されている)などがある。
英国の[[カントリー・ハウス]]でも18世紀に広まる[[イギリス式庭園|風景式庭園]]前世代となる17世紀時点では、バロック庭園の幾何学的な形状を有したものが好まれて採用されている。現代でも[[グイード・ハガー]]などが小規模ながら、時としてバロック庭園を手がけている。
== 文学と哲学 ==
{{出典の明記| date = 2023-04-26| section = 1}}
{{main|バロック文学}}
バロック文学は、広く見られる[[メタファー]]と[[アレゴリー]]の使用と、マラヴィリア("Maraviglia", 不思議、驚き――[[マニエリスム]]でのように)の探求の中での[[トリック]]の使用としてまとめられる新しい価値を示した。マニエリスムがルネサンスに最初の穴を開けたのだとすれば、バロックはルネサンスに正反対の応答をした。人間の心理的な苦悩――確固とした拠り所を求めて[[ニコラウス・コペルニクス]]と[[マルティン・ルター]]の起こした革命の後では放棄された主題、「人間の究極の力」の証し――が、バロック期の芸術や建築では再び見出される。ローマのカトリック教会が主要な「顧客」であったので、作品のテーマは宗教的なものとなった。
芸術家たちは細部に気を配る[[リアリズム]](典型的な「複雑さ」とも言える)を伴うヴィルトゥオジテ(名人芸――[[ヴィルトゥオーソ|ヴィルトゥオーゾ]]はあらゆる芸術に共通のあり方となった)を追求した。
外形に与えられた特権が、バロック作品の多くに見られる内容の欠如を埋め合わせ釣り合わせるであろう。例えば、[[ジャンバッティスタ・マリーノ]]のマラヴィリアは素朴な形式によって作り出されており、観客、読者、聞き手などに幻想と想像が引き起こされる。全ては個人としての人間に焦点が当てられており、作者もしくは作品そのものと、その受け手、顧客との直接的な関係となっている。芸術とその受け手の距離が縮まり、両者を隔てていた文化的な溝がマラヴィリアによって解消されている。個人への注目は、こうした図式によってロマンツォ([[小説]])などのような重要なジャンルを作りだし、それまでの通俗的もしくは局所的な芸術形式、特に教育文学を脇に押し退けた。[[イタリア]]では、この個人へと向かう運動(「文化的な下降」であるとも言われ、バロックと古典主義との対立の原因であるともされる)は[[ラテン語]]から[[イタリア語]]への決定的な移行をもたらした。
[[イギリス文学]]では、[[形而上詩人]]たちがこの運動に近い。その詩は一般的でないメタファーを、しばしば細心の注意を払って用いていた。パラドックスと、意図的に作り出された普通でない言い回しへの好みが現れていた。
=== 演劇 ===
演劇の領域では、練り上げられた奇想、プロットの頻繁な転換、(例えば[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の悲劇のような)[[マニエリスム]]の典型的なシチュエーションといった要素は、あらゆる芸術を1つに統合した[[オペラ]]によって取って代わられた。
[[ファイル:Don Juan (Molière).jpg|thumb|[[モリエール]]『ドン・ジュアンあるいは石像の宴』(1682)]]
<!--[[ファイル:Pierre Corneille 2.jpg|thumb|140px|[[ピエール・コルネイユ]]]]-->
フランスでは[[ピエール・コルネイユ]](『舞台は夢』)、[[モリエール]](『[[ドン・ジュアン (戯曲)|ドン・ジュアンあるいは石像の宴]]』)、スペインでは[[ティルソ・デ・モリーナ]](喜劇『信心深いマルタ』''Marta la piadosa''、史劇『セビリャの色事師と石の招客』)、[[ロペ・デ・ベガ]](喜劇''La estrella de Sevilla'')、[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ]](『人生は夢』)など、バロック期には多くの作家が劇作品を書いた。
バロックは知的な分析よりも感情や感覚を好み、本当らしさよりも幻想を推し進め、調子の統一性よりも移ろいやすさや矛盾に重きを置き、単純さよりも複雑さを取った。
[[ファイル:Hof-Musici Krumlov 2017.jpg|左|サムネイル|[[チェスキー・クルムロフ城]]のバロック劇場の舞台]]
幻影(illusion; 幻想、幻)もまたバロックの特徴であり、多くの面を持つ宝石のような様相を呈する。
多くの作品は[[紋中紋]]([[劇中劇]])の構造を持っていた。
コルネイユの『舞台は夢』では、父親がその息子が世の中を動き回るのを見るという劇を観客は見るのであるが、それ自体がまた劇であると明らかになる。このことによって、作者はその演劇の弁護に力を与え、観客を魅き付けてその視点に従わせる。人物たちも、観客と同様に、その時々で幻影の犠牲となる。プリダマンは戯曲の977行目で息子が死んだと信じ、マタモールは自分自身の嘘を信じている。『舞台は夢』は演劇について語るだけではない。人物たちを通して、この作品は17世紀に普及していた他の文学ジャンルをも呼び出している。クランドールが[[ピカレスク小説|ピカレスク]]な主人公であり、大胆不敵で御都合主義、放浪と冒険好きである一方で、アルカンドルは[[パストラル|牧人劇]]に出て来る魔術師の化身のようである。同様に、マタモールの人物像はラテン語の喜劇に登場する典型的なほら吹き兵士に対応している。
バロックの美学は動き、変わりやすさ、[[矛盾]]、[[アンチテーゼ]]などに依拠している。人物たちはある感情の色調から別のものへと移り変わる。彼らは過剰や激情の只中にいる。語りは聞くよりもむしろ見るものであり、[[修辞技法]]の眼前描出法によってイマージュを喚び起こし、魅せることが重要となっている。古典主義の美学が統一性を追求するのに対し、バロックは複数性に喜びを見出し、列叙法の趣味を持つ。バロックは1つのメダルの両面を見せる――真実は嘘と、現実は夢と、生は死と不可分のものとなっている。
劇場では、人物の動きを目立たせるある種の演出(照明、演技、衣装、装飾……)もまたバロックの表現に一役買っている。
== 音楽 ==
[[ファイル:Baschenis - Musical Instruments.jpg|thumb|240px|バロック時代の楽器。[[エヴァリスト・バスケニス]]画]]
{{Main|バロック音楽}}
音楽では、バロックは17世紀初頭から18世紀半ば頃までの音楽様式の総称である。その時代は概ね[[オペラ]]の誕生から[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の死までの期間に相当する。
音楽に「バロック」の語が明確に適用されたのは比較的近年になってからである。ヴェルフリンのバロック概念を1919年に音楽に適用したのは[[クルト・ザックス]]であった。英語でバロック音楽の語が用いられたのは1940年になってから([[マンフレッド・ブコフツァー]]の論文が初出)である。1960年代に至っても、[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]、[[フランソワ・クープラン]]、J・S・バッハらの大きく異なる音楽を同じ一つの呼称でまともに扱うことが出来るかは学識者の間で大きな論争となっていた。
バロック時代の視覚芸術や文学の美学的原則とバロック音楽とにどのくらい共通点があるのかは議論の的となっている。装飾への愛は明確な共通要素であり、古典主義時代の到来と共に音楽と建築の双方で装飾の重要性が大きく減じたのは象徴的であろう。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* Gardner, Helen, Fred S. Kleiner, Christin J Mamiya. 2005. ''Gardner's Art through the Ages'', 12th edition. Belmont, CA : Thomson/Wadsworth, ; ISBN 9780155050907 (hardcover) ISBN 9780534640958 (v. 1, pbk.) 0534640915 ISBN 9780534640910 (v. 2, pbk.) ISBN 9780534640811 (CD-ROM) ISBN 9780534641009 (Resource Guide) ISBN 9780534641085 (set) 0534641075 ISBN 9780534641078 (v. 1, international student ed., pbk.) ISBN 9780534633318 (cd-rom)
* [[:en:Christine Buci-Glucksmann|Christine Buci-Glucksmann]], Baroque Reason: The Aesthetics of Modernity, Sage, 1994
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* Germain Bazin, ''Destins du baroque'', Hachette Groupe Livre, Paris, 1968
* Yves Bottineau, ''L’Art baroque'' (1986), Citadelle & Mazenod, Paris, rééd. 2006, ISBN 978-2850880216
* [[ジル・ドゥルーズ|Gilles Deleuze]], Le Pli - Leibniz et le baroque, Les éditions de Minuit (coll. « Critique »), Paris, 1988, 191 p.
* [[:fr:Dominique Fernandez|Dominique Fernandez]], photographies de Ferrante Ferranti. ''La perle et le croissant/L’Europe baroque de Naples à Saint-Pétersbourg'', Omnibus, coll. « Terres Humaines », Paris, 1995, trad. Agathe Rouart-Valéry, éd. Gallimard, Paris, coll. « Folios essais », 1935, rééd. 2000, ISBN 2070413411
* [[:fr:Benito Pelegrín|Benito Pelegrín]], ''Figurations de l’infini, l’âge baroque européen'', le Seuil, Paris, 2000, 456 pages, ISBN 2020147017
* Benito Pelegrín, ''D'un Temps d'incertitude'', [[:fr:Éditions Sulliver|Éditions Sulliver]], Paris, 2008.
* Victor-Lucien Tapié, ''Baroque et classicisme'', Hachette, coll. « Pluriel Référence », 1957, réédition 1980, ISBN 2012792766
* Victor-Lucien Tapié, ''Le Baroque'', PUF, coll. « Que sais-je », Paris, 2000, ISBN 213052849X
* Heinrich Wölfflin, ''Renaissance et baroque'', éd. G. Monfort, collection « Imago Mundi », Brionne, 1997, ISBN 2852265370
* [[:fr:Yves Bonnefoy|Yves Bonnefoy]], ''Rome, 1630 - L'horizon du premier baroque'', Flammarion, Paris 2000
==邦語文献==
* マリオ・プラーツ(上村忠男ほか訳)『バロックのイメージ世界:綺想主義研究』([[みすず書房]]、2006)<small>ISBN 4622071991</small>
* マリオ・プラーツ(伊藤博明訳)『綺想主義研究 : バロックのエンブレム類典』([[ありな書房]]、1998)<small>ISBN 4756698557</small>
* ジャンカルロ・マイオリーノ(岡田温司ほか訳)『コルヌコピアの精神 : 芸術のバロック的統合』(ありな書房、1999)<small>ISBN 4756699561</small>
* アンヌ=ロール・アングールヴァン(秋山伸子訳)『バロックの精神』([[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉、1996)<small>ISBN 4560057850</small>
* ハインリッヒ・ヴェルフリン(上松佑二訳)『ルネサンスとバロック : イタリアにおけるバロック様式の成立と本質に関する研究』([[中央公論美術出版]]、1993)<small>ISBN 4805502142</small>
* 下村寅太郎『ルネサンスとバロックの人間像(下村寅太郎著作集:6)』(みすず書房、1993)<small>ISBN 4622009161</small>
* 高階秀爾『バロックの光と闇』([[小学館]]、2001)<small>ISBN 4093860696</small>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Baroque art}}
{{Wikisourcelang|fr|Portail:Le Baroque|バロック}} <!--英独伊西なし-->
* [[バロック建築]]
* [[バロック美術]]
* [[バロック音楽]]
* [[バロック文学]]
* [[ヴァニタス]]、[[メメント・モリ]]、[[その日を摘め]]
== 外部リンク ==
* [http://www.lettres-et-arts.net/histoire_litteraire/9 ''Lettres-et-arts.net''] バロックの定義を巡る試論と詞華集
* [http://www.ibiblio.org/wm/paint/glo/baroque/ Webmuseum Paris]
* [http://www.sentieridelbarocco.it/FRA/index.htm Le baroque en Sicile]
* [http://www.clio.fr/BIBLIOTHEQUE/introduction_a_la_question_du_baroque.asp Introduction à la question du baroque] ヴィレット市立音楽博物館学芸員Frédéric Dassasによる解説
<!--* [http://www.artelio.org/art.php3?id_article=1321 De la Renaissance à l’âge baroque] mort -->
* [http://www.grandspeintres.com/mouvements/baroque.php Grands Peintres : le mouvement et les peintres baroques]
* [http://crit.perrinchassagne.net/baroque.html Pertinence du baroque en France] バロック詩人の詞華集レクチャー
* [http://www.all-art.org/history252_contents_Baroque_Rococo.html Baroque in the "History of Art"]
* [http://etext.lib.virginia.edu/DicHist/dict.html ''Dictionary of the History of Ideas''] 文学におけるバロック
* [http://www.art-drawing.ru/destinations-and-styles/1802-baroque バロックの美術品の]
* {{Kotobank}}
{{西洋の芸術運動}}
{{normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はろつく}}
[[Category:バロック|*]]
[[Category:バロック芸術|*]]
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五声
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五声(ごせい)は、中国の音楽で使われる階名。五音(ごいん)ともいう。
宮(きゅう)、商(しょう)、 角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五つ。音の高低によって並べると、五音音階ができる。西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラに相当する。後に変宮(宮の低半音)と変徴(徴の低半音)が加えられ、七声または七音となった。変宮と変徴はシとファ#に相当する。宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮で、七音音階を形成する。これは教会旋法のリディア旋法の音階に等しい。すなわち宮をファとすると宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当する。
五声は三分損益法に基づいている。三分損益法は西洋のピタゴラス音律の原理と同一のものであるため、上記のような西洋音楽の音階との対応を示すことが可能となっている。
中国の漢王朝で書かれた『史記』25巻「律書第三」に「律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角」とある。
これは宮を81とすると以下のような比率となることを示している。
宮: 81 {\displaystyle {81}}
徴: 81 × 2 3 = 54 {\displaystyle {81\times {\frac {2}{3}}}=54}
商: 54 × 4 3 = 72 {\displaystyle {54\times {\frac {4}{3}}}=72}
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角: 48 × 4 3 = 64 {\displaystyle {48\times {\frac {4}{3}}}=64}
五声は十二律に基づいて基準音である宮を定め、それから三分損益法によって他の音高を決定する。五声では60宮調、七声では84宮調の調式を得ることができる(宮を主音とする調式を「宮」、その他の各音を主音とする調式を「調」と呼んだので、84の調式は12宮72調、合わせて84宮調)。ただし、実際の音楽で用いられる調式は限られており、例えば、燕楽では7宮21調、北曲では6宮11調、南曲では5宮8調のみが使われた。
昔の中国では、五声のそれぞれに身分的な意味を持っていた。
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五声(ごせい)は、中国の音楽で使われる階名。五音(ごいん)ともいう。 宮(きゅう)、商(しょう)、 角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五つ。音の高低によって並べると、五音音階ができる。西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラに相当する。後に変宮(宮の低半音)と変徴(徴の低半音)が加えられ、七声または七音となった。変宮と変徴はシとファ#に相当する。宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮で、七音音階を形成する。これは教会旋法のリディア旋法の音階に等しい。すなわち宮をファとすると宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当する。 五声は三分損益法に基づいている。三分損益法は西洋のピタゴラス音律の原理と同一のものであるため、上記のような西洋音楽の音階との対応を示すことが可能となっている。 中国の漢王朝で書かれた『史記』25巻「律書第三」に「律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角」とある。 これは宮を81とすると以下のような比率となることを示している。 宮: 81 徴: 81 × 2 3 = 54 商: 54 × 4 3 = 72 羽: 72 × 2 3 = 48 角: 48 × 4 3 = 64 五声は十二律に基づいて基準音である宮を定め、それから三分損益法によって他の音高を決定する。五声では60宮調、七声では84宮調の調式を得ることができる(宮を主音とする調式を「宮」、その他の各音を主音とする調式を「調」と呼んだので、84の調式は12宮72調、合わせて84宮調)。ただし、実際の音楽で用いられる調式は限られており、例えば、燕楽では7宮21調、北曲では6宮11調、南曲では5宮8調のみが使われた。 昔の中国では、五声のそれぞれに身分的な意味を持っていた。 宮 - 君主
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角 - 民
徴 - 事
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'''五声'''(ごせい)は、[[中国]]の音楽で使われる[[階名]]。'''五音'''(ごいん)ともいう。
'''宮'''(きゅう)、'''商'''(しょう)、 '''角'''(かく)、 '''徴'''(ち)、 '''羽'''(う)の五つ。音の高低によって並べると、[[五音音階]]ができる。西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラに相当する。後に'''変宮'''(宮の低[[半音]])と'''変徴'''(徴の低半音)が加えられ、'''七声'''または'''七音'''となった。変宮と変徴はシとファ#に相当する。宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮で、[[七音音階]]を形成する。これは[[教会旋法]]のリディア旋法の音階に等しい。すなわち宮をファとすると宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当する。
五声は[[三分損益法]]に基づいている。三分損益法は西洋の[[ピタゴラス音律]]の原理と同一のものであるため、上記のような西洋音楽の音階との対応を示すことが可能となっている。
中国の漢王朝で書かれた『[[史記]]』25巻「律書第三<ref>{{Cite wikisource|title=史記/卷025|author=司馬遷|wslanguage=zh}}</ref>」に「{{lang|zh-tw|律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角}}」とある。
これは宮を81とすると以下のような比率となることを示している。
'''宮''':<math> {81} </math><br>
'''徴''':<math> {81 \times \frac{2}{3}} = 54 </math><br>
'''商''':<math> {54 \times \frac{4}{3}} = 72 </math><br>
'''羽''':<math> {72 \times \frac{2}{3}} = 48 </math><br>
'''角''':<math> {48 \times \frac{4}{3}} = 64 </math><br>
{| class="wikitable"
|-----
|
! 宮(81) !! 商(72) !! 角(64) !! 徴(54)
! 羽(48)
|-----
! 宮(81)
| - || 8/9 || 64/81 || 2/3 || 16/27
|-----
! 商(72)
| 9/8 || - || 8/9 || 3/4 || 2/3
|-----
! 角(64)
| 81/64 || 9/8 || - || 27/32 || 3/4
|-----
! 徴(54)
| 3/2 || 4/3 || 32/27 || - || 8/9
|-----
! 羽(48)
| 27/16 || 3/2 || 4/3 || 9/8 || -
|}
五声は[[十二律]]に基づいて基準音である宮を定め、それから三分損益法によって他の音高を決定する。五声では60宮調、七声では84宮調の[[調式]]を得ることができる(宮を主音とする調式を「宮」、その他の各音を主音とする調式を「調」と呼んだので、84の調式は12宮72調、合わせて84宮調)。ただし、実際の音楽で用いられる調式は限られており、例えば、[[燕楽]]では7宮21調、[[北曲]]では6宮11調、[[南曲]]では5宮8調のみが使われた。
昔の中国では、五声のそれぞれに身分的な意味を持っていた<ref>{{cite book|和書
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| author = 孫玄齢
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| coauthors =
| year = 1990
| others = 田畑佐和子
| title = 中国の音楽世界
| publisher = 岩波書店
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}}</ref>。
* 宮 - 君主
* 商 - 臣下
* 角 - 民
* 徴 - 事
* 羽 - 物
== 参考文献 ==
<references/>
== 関連項目 ==
*[[十二律]]
*[[律管]]
*[[三分損益法]]
*[[ピタゴラス音律]]
*[[ヨナ抜き音階]]
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[[Category:音階]]
[[Category:中国の伝統音楽]]
[[Category:中国の名数5|せい]]
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14,312 |
一風堂
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一風堂(いっぷうどう)
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一風堂(いっぷうどう) 一風堂 (ディスカウントストア) - 東京都渋谷区にあるディスカウントストア。
一風堂 (バンド) - 日本のニュー・ウェイヴ系ロックバンド。楽曲「すみれ September Love」で知られる。名称は上記に由来。
博多一風堂 - 福岡県福岡市に本店がある博多ラーメンチェーン店。名称は創業者が好きな上記バンドに由来。
|
'''一風堂'''(いっぷうどう)
* '''[[一風堂 (ディスカウントストア)]]''' - [[東京都]][[渋谷区]]にある[[ディスカウントストア]]。
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14,313 |
アラム語
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アラム語(アラム語、ܠܫܢܐ ܐܪܡܝܐ, ラテン語: Lingua Aramaica)は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語(英語版)などと同じ北西セム語に属す言語である。アラマイ語とも呼ばれる。
もともとアラム語は今のシリアを中心としてその周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だった。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した。
アラム語は新アッシリア帝国の外交用語としても使われ、新バビロニアやアケメネス朝ペルシア帝国は行政用の公用語としてアラム語が使われた。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。
アラム語によって書かれた文献は3000年間近くにわたる長い歴史を持ち、その間に大きな変化を経ている。また地理的な違いも大きい。大別すると以下のように分けられる。
現代のアラム語を話す住民の居住地として、シリアの首都ダマスカス周辺の村々が知られていたが、2011年に発生したシリア内戦を契機にアラム語を話す住民が離散。言葉を引き継ぐ世代交代が難しくなっていることに加え、シリア国内にいるアラム語の専門家の数も減り続けており、近い将来、シリア国内からは消えてしまう可能性がある。
古代アラム語ではセム祖語以来の子音の区別は保たれていたと考えられる。帝国アラム語以降、θ ð θʼ ɬ ɬʼ x ɣ がそれぞれ t d tʼ s ʕ ħ ʕ に合流した結果、後期アラム語では子音数は22になった。その一方で、子音弱化によって閉鎖音が摩擦音化した。
とくに ɬʼ の咽頭音化は目立つ変化であり、セム祖語 ʔarɬʼ(地)は、ヘブライ語 ʔɛrɛsʼ(אֶרֶץ)に対してアラム語では ʔarʕaː になる(アラビア語では ʔarḍ( أرض))。
帝国アラム語以降、アクセントのない短母音の弱化が進み、後期アラム語では多くの方言で消失した。中期アラム語以降、母音 e o が発生し、また母音の長短の区別が失われた。一部の方言ではさらに ɛ ɔ が発生して7母音になった。7-9世紀になるとダイアクリティカルマークによる母音表記のシステムが地域ごとに4種類作られるが、ティベリア式とネストリウス式では7母音、バビロニア式では6母音、ヤコブ派式では5母音の区別がなされる。
名詞・形容詞・分詞は性(男性・女性)、数(単数・複数)、および定性で変化する。格は区別されない。
名詞・形容詞はヘブライ語と同様の絶対形と連語形(合成形、所属形)のほかに強調形が存在する。強調形は起源としては定冠詞 aː が後置された形であり、古くは定性があることを示した。それに対して絶対形は不定のものを示し、連語形では限定する名詞によって定性が決定された。しかし、後期アラム語では強調形が定性の有無にかかわらず使われるようになり、絶対形と連語形は衰退した。ただし、形容詞および分詞においては絶対形が叙述用法の形として生き残った。形容詞は修飾する名詞の後に置かれ、修飾する名詞と性・数・定性を一致させる。指示代名詞も後置される。
人称代名詞は性・数・人称によって10通りの形が存在する。独立した人称代名詞のほかに接尾語形がある。
動詞は二子音・三子音または四子音からなる語根があり、母音のパターンと接頭辞・接中辞によっていくつかの語幹が作られる(アラビア語の派生形と同様)。動詞は3つの人称と2つの性(一人称を除く)、2つの数によって人称変化する。完了形、不完了形、命令形、不定形、能動分詞、受動分詞があり、帝国アラム語までは指示形もあった。分詞とコピュラを組み合わせて複合時制が作られた。後期アラム語では完了形で過去を、分詞で非過去を、不完了形で目的や意志などを表すように変化した。
語順は一定でないが、多くの方言ではVSO型がもっとも無標の形である。帝国アラム語ではアッカド語の影響によって、しばしば動詞が最後に置かれる。主語は特に言う必要がなければ省略される。動詞は主語の人称・性・数に一致するが、主語が動詞に後置される場合はしばしば複数の主語に単数の動詞が使われたり、女性の主語に男性形の動詞が使われたりする。主語が前置される場合はこのような不一致はほとんど見られない。
紀元前3世紀頃から後のアラム語は2つのグループに分けられる。
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"text": "アラム語によって書かれた文献は3000年間近くにわたる長い歴史を持ち、その間に大きな変化を経ている。また地理的な違いも大きい。大別すると以下のように分けられる。",
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"text": "現代のアラム語を話す住民の居住地として、シリアの首都ダマスカス周辺の村々が知られていたが、2011年に発生したシリア内戦を契機にアラム語を話す住民が離散。言葉を引き継ぐ世代交代が難しくなっていることに加え、シリア国内にいるアラム語の専門家の数も減り続けており、近い将来、シリア国内からは消えてしまう可能性がある。",
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"text": "古代アラム語ではセム祖語以来の子音の区別は保たれていたと考えられる。帝国アラム語以降、θ ð θʼ ɬ ɬʼ x ɣ がそれぞれ t d tʼ s ʕ ħ ʕ に合流した結果、後期アラム語では子音数は22になった。その一方で、子音弱化によって閉鎖音が摩擦音化した。",
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"text": "帝国アラム語以降、アクセントのない短母音の弱化が進み、後期アラム語では多くの方言で消失した。中期アラム語以降、母音 e o が発生し、また母音の長短の区別が失われた。一部の方言ではさらに ɛ ɔ が発生して7母音になった。7-9世紀になるとダイアクリティカルマークによる母音表記のシステムが地域ごとに4種類作られるが、ティベリア式とネストリウス式では7母音、バビロニア式では6母音、ヤコブ派式では5母音の区別がなされる。",
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"text": "語順は一定でないが、多くの方言ではVSO型がもっとも無標の形である。帝国アラム語ではアッカド語の影響によって、しばしば動詞が最後に置かれる。主語は特に言う必要がなければ省略される。動詞は主語の人称・性・数に一致するが、主語が動詞に後置される場合はしばしば複数の主語に単数の動詞が使われたり、女性の主語に男性形の動詞が使われたりする。主語が前置される場合はこのような不一致はほとんど見られない。",
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アラム語は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語(英語版)などと同じ北西セム語に属す言語である。アラマイ語とも呼ばれる。 もともとアラム語は今のシリアを中心としてその周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だった。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した。 アラム語は新アッシリア帝国の外交用語としても使われ、新バビロニアやアケメネス朝ペルシア帝国は行政用の公用語としてアラム語が使われた。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。
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{{Infobox language
|name=アラム語
|nativename={{lang|arm|ܐܪܡܝܐ}}‎, {{lang|he|ארמית}}<br>''Arāmît''
|pronunciation={{IPA-sem|arɑmiθ], [arɑmit],<br /> [ɑrɑmɑjɑ], [ɔrɔmɔjɔ|}}
|states={{LBN}}<br/>{{IRN}}<br/>{{IRQ}}<br/>{{ISR}}<br/>{{SYR}}<br/>{{TUR}}<br/>{{JOR}}<br/>
* アッシリア人のディアスポラ
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|familycolor=アフロ・アジア語族
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|script=[[アラム文字]], [[シリア文字]], [[ヘブライ文字]], [[マンダ文字]], [[アラビア文字]] (日常語) [[デモティック]]<ref>[http://links.jstor.org/sici?sici=0003-0279(199104%2F06)111%3A2%3C362%3ATATIDS%3E2.0.CO%3B2-Y The Aramaic Text in Demotic Script: The Liturgy of a New Year's Festival Imported from Bethel to Syene by Exiles from Rash] – On JSTOR</ref>、[[漢字]]<ref>[http://links.jstor.org/sici?sici=0041-977X(1983)46%3A2%3C326%3AMAITCH%3E2.0.CO%3B2-4 Manichaean Aramaic in the Chinese Hymnscroll]</ref>の碑文が少数ながら見つかっている。
|lc1=arc|ld1=帝国アラム語 (700–300 BC)|ll1=none
|lc2=oar|ld2=古代アラム語 (-700 BC)|ll2=none
|lc3=aii|ld3=アッシリア現代アラム語
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{{特殊文字|説明=[[アラム文字]]}}
'''アラム語'''(アラム語、<span dir="rtl" style="font:larger 'Code2000',sans-serif">ܠܫܢܐ ܐܪܡܝܐ</span>, {{lang-la|Lingua Aramaica}})は、かつて[[歴史的シリア|シリア地方]]、[[メソポタミア]]で遅くとも[[紀元前500年|紀元前1000年]]ごろから紀元[[600年]]頃までには話されており、かつ現在も[[レバノン]]などで話されている[[アフロ・アジア語族]][[セム語派]]の[[言語]]で、系統的には[[フェニキア語]]や[[ヘブライ語]]、[[ウガリト語]]、[[モアブ語]][[:en:Moab#Moabite language|(英語版)]]などと同じ[[北西セム語]]に属す言語である。'''アラマイ語'''とも呼ばれる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%AA%9E-27869 「アラム語」- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>。
もともとアラム語は今の[[シリア]]を中心としてその周辺([[レバノン]]、[[ヨルダン]]、[[トルコ]]、[[イラク]])に住む[[アラム人]]の言語だった。アラム人は主に農民だったが、[[アレッポ]]や[[ダマスカス]]に代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体の[[リンガ・フランカ]]として使われるようになったが、7世紀に[[アラビア語]]に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語や[[クルド語]]の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した<ref>Creason (2004) p.391</ref>。
アラム語は[[アッシリア|新アッシリア帝国]]の外交用語としても使われ、[[新バビロニア]]や[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]は行政用の公用語としてアラム語が使われた。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。
== 歴史 ==
アラム語によって書かれた文献は3000年間近くにわたる長い歴史を持ち、その間に大きな変化を経ている。また地理的な違いも大きい。大別すると以下のように分けられる<ref>Kaufman (1997) p.114-119</ref>。
* 古代アラム語(紀元前850年 - 紀元前612年<ref>Creason (2004) p.392によると 950BC-600BC</ref>)各地の碑文によって知られる。当時アラム人は中東で重要な役割を果たし、アラム語は[[新アッシリア王国]]の外交のための国際語として使われ、[[エジプト]]から[[メソポタミア]]に至る地域で使われたが、まだ標準は成立していなかった。
* 帝国アラム語(紀元前600年 - 紀元前200年)アラム語は[[新バビロニア]]と[[アケメネス朝]]の行政のための公用語として、エジプト、[[アナトリア]]から[[インド亜大陸]]に及ぶ広大な地域で用いられた。また標準的なアラム語の文章語が成立した。なお、この時代の文献はほとんど残っていないが、主にエジプトから[[パピルス]]や革に書かれた文章が発見されており、その代表が[[エレファンティネ・パピルス]]である。また、聖書の[[エズラ記]]の中に引用されているアラム語の手紙はこの時代に属する。ほかにわずかな碑文が残る([[ペルセポリス]]のものやアラム語で書かれた[[アショーカ王碑文]])。
* 中期アラム語(紀元前200年 - 西暦250年)この時代、中東世界の行政語としてのアラム語の地位は[[ギリシア語]]に取ってかわられた。また、地域ごとの方言分岐が起きた。しかし、帝国アラム語時代以来の文章語は地域差を越えて使われ続けた。[[パルミラ]]、[[ナバタイ]]、[[ハトラ]]などの碑文や、[[死海文書]]のアラム語文献、聖書の[[ダニエル書]]の一部で使われているアラム語、[[オンケロス]]およびヨナタンによる[[タルグーム]](聖書の翻訳)はこの時代に属する。
* 後期アラム語(または古典アラム語、西暦200年 - 1200年<ref>Creason (2004) p.392 では700年までとする</ref>)東西の2方言あるいは[[パレスチナ]]、[[シリア]]、[[バビロニア]]の3つの方言に大別され、[[ユダヤ教]]、[[サマリア人]]、[[キリスト教]]、[[マンダ教]]の文献が書かれた。とくにシリアのキリスト教徒の文献の言語を[[シリア語]]と称する。この時代の後半になると話し言葉としてのアラム語は大部分が[[アラビア語]]によって駆逐される。
* 現代アラム語
** [[現代西アラム語]]は[[シリア]]の3つの村でのみ話される言語で、うち[[マアルーラ]]はキリスト教、残り2つはイスラム教の村である<ref>Jastrow (1997) p.334</ref>。
** 現代東アラム諸語は[[トルコ]]南東部、[[イラク]]北部、[[イラン]]北西部に散在し、その分布は大部分が[[クルド語]]地域([[クルディスタン]])の中にあって[[言語島]]をなす。[[アッシリア現代アラム語]]、[[カルデア現代アラム語]]、[[トゥロヨ語]]、[[マンダ語]]などがこのグループに属するが、何種類の言語・方言があるかはよくわかっていない。宗教的には[[キリスト教]]、[[ユダヤ教]]および[[マンダ教]]であるが、20世紀はじめ以来宗教的迫害にあってその大部分は国外に離散し、ほとんどの話者は本来の土地に住んでいない<ref>Jastrow (1997) p.347</ref>。
===話者の減少===
現代のアラム語を話す住民の居住地として、シリアの首都[[ダマスカス]]周辺の村々が知られていたが、[[2011年]]に発生した[[シリア内戦]]を契機にアラム語を話す住民が離散。言葉を引き継ぐ世代交代が難しくなっていることに加え、シリア国内にいるアラム語の専門家の数も減り続けており、近い将来、シリア国内からは消えてしまう可能性がある<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-07-20|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3233583 |title=キリストが使った言語、内戦の影響で消滅の危機 シリア |publisher= AFP|accessdate=2019-07-21}}</ref>。
== 音声 ==
古代アラム語では[[セム祖語]]以来の子音の区別は保たれていたと考えられる<ref>Kaufman (1997) p.119</ref>。帝国アラム語以降、{{IPA2|θ ð θʼ ɬ ɬʼ x ɣ}} がそれぞれ {{IPA2|t d tʼ s ʕ ħ ʕ}} に合流した結果、後期アラム語では子音数は22になった。その一方で、[[子音弱化]]によって閉鎖音が摩擦音化した<ref>Kaufman (1997) pp.119-120</ref><ref name="proto">セム祖語の形は Huehnergard (2004) p.142 に従う</ref>。
{|class="wikitable Unicode"
! セム祖語
| θ || ð || θʼ || ɬ || ɬʼ
|-
! アラム語
| t || d || tʼ (ṭ) || s || ʕ (ʿ)
|-
! ヘブライ語
| š || z || sʼ (ṣ) || ɬ (ś) || sʼ (ṣ)
|-
! アラビア語
| θ (ṯ) || ð (ḏ) || (ẓ)<ref name="dad">アラビア語の {{unicode|ḍ ẓ}}({{lang|ar|ظ ض}})が本来どう発音されていたかには議論がある</ref> || ɬ<ref>9世紀以降に今の音({{IPA2|ʃ}})に変化した</ref> || (ḍ)<ref name="dad"/>
|}
とくに {{IPA2|ɬʼ}} の咽頭音化は目立つ変化であり、セム祖語 {{IPA2|ʔarɬʼ}}(地)は、ヘブライ語 {{IPA2|ʔɛrɛsʼ}}({{lang|he|[[wikt:ארץ|אֶרֶץ]]}})に対してアラム語では {{IPA2|ʔarʕaː}} になる<ref>Huehnergard (2004) p.144</ref>(アラビア語では {{unicode|ʔarḍ}}({{lang|ar|[[wikt:en: أرض| أرض]]}}))。
帝国アラム語以降、アクセントのない短母音の弱化が進み、後期アラム語では多くの方言で消失した<ref>Kaufman (1997) pp.120-121</ref>。中期アラム語以降、母音 e o が発生し、また母音の長短の区別が失われた。一部の方言ではさらに {{IPA2|ɛ ɔ}} が発生して7母音になった<ref>Creason (2004) p.398</ref>。7-9世紀になるとダイアクリティカルマークによる母音表記のシステムが地域ごとに4種類作られるが<ref>Creason (2004) p.394</ref>、ティベリア式とネストリウス式では7母音、バビロニア式では6母音、ヤコブ派式では5母音の区別がなされる<ref>Creason (2004) pp.399-400</ref>。
== 文法 ==
名詞・形容詞・分詞は[[性 (文法)|性]](男性・女性)、[[数 (文法)|数]](単数・複数)、および[[定性]]で変化する。[[格]]は区別されない<ref name="名前なし-1">Creason (2004) pp.402-403</ref>。
名詞・形容詞はヘブライ語と同様の絶対形と連語形(合成形、所属形)のほかに強調形が存在する。強調形は起源としては定冠詞 {{unicode|aː}} が後置された形であり<ref>Kaufman (1997) p.123</ref>、古くは定性があることを示した。それに対して絶対形は不定のものを示し、連語形では限定する名詞によって定性が決定された。しかし、後期アラム語では強調形が定性の有無にかかわらず使われるようになり、絶対形と連語形は衰退した。ただし、形容詞および分詞においては絶対形が[[形容詞句#叙述用法|叙述用法]]の形として生き残った<ref name="名前なし-1"/>。形容詞は修飾する名詞の後に置かれ、修飾する名詞と性・数・定性を一致させる。指示代名詞も後置される<ref>Creason (2004) pp.418-419</ref>。
人称代名詞は性・数・人称によって10通りの形が存在する。独立した人称代名詞のほかに接尾語形がある<ref>Creason (2004) pp.404-408</ref>。
動詞は二子音・三子音または四子音からなる語根があり、母音のパターンと[[接頭辞]]・[[接中辞]]によっていくつかの語幹が作られる([[アラビア語]]の派生形と同様)。動詞は3つの人称と2つの性(一人称を除く)、2つの数によって人称変化する。完了形、不完了形、命令形、不定形、能動分詞、受動分詞があり、帝国アラム語までは指示形もあった。分詞と[[コピュラ]]を組み合わせて複合時制が作られた。後期アラム語では完了形で過去を、分詞で非過去を、不完了形で目的や意志などを表すように変化した<ref>Creason (2004) p.411</ref>。
語順は一定でないが、多くの方言では[[VSO型]]がもっとも[[標識 (言語学)|無標]]の形である。帝国アラム語では[[アッカド語]]の影響によって、しばしば動詞が最後に置かれる<ref>Creason (2004) p.422</ref>。主語は特に言う必要がなければ省略される。動詞は主語の人称・性・数に一致するが、主語が動詞に後置される場合はしばしば複数の主語に単数の動詞が使われたり、女性の主語に男性形の動詞が使われたりする。主語が前置される場合はこのような不一致はほとんど見られない<ref>Creason (2004) p.421</ref>。
== 下位分類 ==
[[File:Syriac Dialects EN.svg|thumb|現代アラム語話者の分布(緑が西方アラム、他が東方アラム。マンダ語は見えていない)]]
紀元前3世紀頃から後のアラム語は2つのグループに分けられる。
* '''[[西アラム語]]'''は、かつて[[アラビア]]の[[ナバテア人]]、[[パルミラ|パルミラ人]]、[[サマリア人]]、[[パレスチナ]]のキリスト教徒や[[アラム人]]ユダヤ教徒によって話された。[[イエス・キリスト|イエス]]は[[イエスが使った言語|西アラム語の方言をおもに話した]]と言われる。現在は、[[シリア]]の[[マアルーラ]] (Ma'loula) 村など三つの村で話される[[現代西アラム語|現代西方アラム語]]を除いてまったく消滅している<ref>AFPBB News 2008年5月19日[https://www.afpbb.com/articles/-/2386061?pid=2889664 【動画】キリストが話していた「アラム語」、21世紀に直面する消滅の危機]</ref><ref>[[川又一英]]「アラム語を話す村マールーラ」、[[国立民族学博物館]](監修)『[[季刊民族学]]』89号、1999年7月20日
</ref>。
* '''{{仮リンク|東アラム語|en|Eastern Aramaic languages}}'''は、[[シリア語]]や[[マンダ語]]、{{仮リンク|現代アラム語|en|Neo-Aramaic languages}}などを含む。現代アラム語の話者はキリスト教・ユダヤ教・マンダ教徒などがあり、[[シリア]]・[[イラク]]・[[イラン]]・[[トルコ]]・[[グルジア]]・[[アルメニア]]で話されているが、いずれの土地でも宗教的弾圧を受け、多くの話者が移住を余儀なくされている。アラム語を話すユダヤ教徒の一部は、現代のイスラエルと[[ロサンゼルス]]へ移住したが、アラム語を話す能力を失いつつある。[[キリスト教]]の[[聖書]]のアラム語版はシリア語の方言であり、現代のキリスト教徒によって話される主な言語に[[アッシリア現代アラム語]](少数民族[[アッシリア人]](スリョイェ)によって話され、「アッシリア語」とも呼ばれる)、[[カルデア現代アラム語]]がある。これらと大きく異なる言語に[[トゥロヨ語]]や最近絶滅した Mlahsô 語([[:en:Mlahsô language|英語版]])がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*[[岩下紀之]]『旧約聖書アラム語入門』[[中部日本教育文化会]]、1993年。ISBN 4885210941
*[[飯島紀]]『アラム語入門 : ペルシア帝国の国際公用語キリストの日常語-そして現代も生きる』[[泰流社]]、1998年。ISBN 4812102421
*[[谷川政美]]訳 『バアルの物語』 [[新風舎]] 1998年。ISBN 4797403276
*古代語研究会、谷川政美著『ウガリト語入門』 [[キリスト新聞社]] 2003年。ISBN 4873953782
*[[土岐健治]]、[[村岡崇光]]『イエスは何語を話したか』[[教文館]]、2016年。ISBN 4764261103
* {{cite book|author=Creason, Stuart|chapter=Aramaic|year=2004|editor=Roger D. Woodard|title=The Cambridge Encyclopedia of the World’s Ancient Languages|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521562560|pages=391-426}}
* {{cite book|author=Huehnergard, John|chapter=Afro-Asiatic|year=2004|editor=Roger D. Woodard|title=The Cambridge Encyclopedia of the World’s Ancient Languages|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521562560|pages=138-159}}
* {{cite book|author=Jastrow, Otto|chapter=The Neo-Aramaic Languages|title=The Semitic Languages|year=1997|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=334-377}}
* {{cite book|author=Kaufman, Stephen A.|chapter=Aramaic|title=The Semitic Languages|year=1997|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=114-130}}
== 関連項目 ==
*[[典礼言語]]
*[[マンダ教]]、[[サービア教徒]]
*[[十字架上のキリストの最後の7つの言葉]]
*[[イエスが使った言語]]
*[[アラム語訳聖書]]
*メソポタミア公用語(アラム語以外):[[アッカド語]]、[[エラム語]]
*[[パッション (2004年の映画)]] - 全編にわたり、セリフがアラム語とラテン語で構成されている
== 外部リンク ==
{{Wikipedia|arc}}
*[http://cal.huc.edu/ Comprehensive Aramaic Lexicon] ([[ヘブライ・ユニオン・カレッジ]]のアラム語オンライン辞典。13世紀までのアラム語の語彙を網羅)
*[http://www.learnassyrian.com/ Learn Assyrian Online]{{en icon}}
*[http://www.aina.org/aol/ Assyria Online]{{en icon}}
*[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%AA%9E-27869 アラム語(アラムご)とは] - [[コトバンク]]
*[http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_middleeast_12.html 世界の文字>アラム文字] - [[地球ことば村]]
*[http://arabic.gooside.com/aramaic/ アラム語の頁]
*[http://llmap.org/languages/arc.html LL-Map Imperial Aramaic]
*[http://llmap.org/languages/oar.html LL-Map Old Aramaic]
*[http://llmap.org/languages/aii.html LL-Map Sureth]
*[http://llmap.org/languages/aij.html LL-Map Lishanid Noshan]
*[http://llmap.org/languages/amw.html LL-Map Loghtha Siryanoytha]
*[http://llmap.org/languages/bhn.html LL-Map Bohtan Neo-Aramaic]
*[http://llmap.org/languages/bjf.html LL-Map Lishan Didan]
*[http://llmap.org/languages/cld.html LL-Map Modern Chaldean]
*[http://llmap.org/languages/hrt.html LL-Map Hértevin]
*[http://llmap.org/languages/huy.html LL-Map Hulaulá]
*[http://llmap.org/languages/jpa.html LL-Map Jewish Palestinian Aramaic]
*[http://llmap.org/languages/kqd.html LL-Map Koy Sanjaq Soorit]
*[http://llmap.org/languages/lhs.html LL-Map Mlaḥso]
*[http://llmap.org/languages/lsd.html LL-Map Lishana Deni]
*[http://llmap.org/languages/mid.html LL-Map Neo-Mandaic]
*[http://llmap.org/languages/myz.html LL-Map Mandaic, Classical]
*[http://llmap.org/languages/sam.html LL-Map Samaritan Aramaic]
*[http://llmap.org/languages/syc.html LL-Map Suryaya]
*[http://llmap.org/languages/syn.html LL-Map Senaya]
*[http://llmap.org/languages/tmr.html LL-Map Jewish Babylonian Aramaic]
*[http://llmap.org/languages/trg.html LL-Map Lishán Didán]
*[http://llmap.org/languages/tru.html LL-Map Turoyo]
*[http://llmap.org/languages/xrm.html LL-Map Armazic]
*[http://multitree.org/codes/arc MultiTree Imperial Aramaic](死語)
*[http://multitree.org/codes/oar MultiTree Old Aramaic](死語)
*[http://multitree.org/codes/aii MultiTree Assyrian Neo-Aramaic] 219,330人
*[http://multitree.org/codes/aij MultiTree Lishanid Noshan] 2,250人
*[http://multitree.org/codes/amw MultiTree Western Neo-Aramaic] 15,000人
*[http://multitree.org/codes/bhn MultiTree Bohtan Neo-Aramaic] 1,000人
*[http://multitree.org/codes/bjf MultiTree Barzani Jewish Neo-Aramaic] 20人
*[http://multitree.org/codes/cld MultiTree Chaldean Neo-Aramaic] 216,000人
*[http://multitree.org/codes/hrt MultiTree Hértevin] 1,000人
*[http://multitree.org/codes/huy MultiTree Hulaulá] 10,350人
*[http://multitree.org/codes/jpa MultiTree Jewish Palestinian Aramaic](死語)
*[http://multitree.org/codes/kqd MultiTree Koy Sanjaq Surat] 900人
*[http://multitree.org/codes/lhs MultiTree Mlahsö](死語)
*[http://multitree.org/codes/lsd MultiTree Lishana Deni] 7,500人
*[http://multitree.org/codes/mid MultiTree Neo-Mandaic] 5,500人
*[http://multitree.org/codes/myz MultiTree Mandaic](死語)
*[http://multitree.org/codes/sam MultiTree Samaritan Aramaic](死語)
*[http://multitree.org/codes/syc MultiTree Syriac](死語)
*[http://multitree.org/codes/syn MultiTree Senaya] 460人
*[http://multitree.org/codes/tmr MultiTree Jewish Babylonian Aramaic](死語)
*[http://multitree.org/codes/trg MultiTree Lishán Didán] 4,450人
*[http://multitree.org/codes/tru MultiTree Turoyo] 84,000人
*[http://multitree.org/codes/xrm MultiTree Armazic](死語)
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[[Category:アラム語|*]]
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14,315 |
シリア文字
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シリア文字(シリアもじ)は、シリア語で用いられる文字で、22文字からなるアブジャドである。アラビア文字やヘブライ文字などと同様に、右から左に書かれる。アラム文字から発達したが、文字はアラビア文字と同様につなげて書かれ、一部の文字は語頭・語中・語末・独立の4つの異なる字形を持っている。
シリア文字がいつどのように発生したかは正確にはわからないが、エデッサ(現在のウルファ)を中心とする北メソポタミアに、西暦1-3世紀ごろの碑文が残る。文書としては、411年のものがもっとも古い。
本来は古典シリア語のために用いられる文字だったが、19世紀にヨーロッパの宣教師がシリア文字の東方書体を使って現代アラム語を記すための正書法を考案し、これが現在でも使われている。
5世紀以降、シリア文字のエストランゲロ体に近い文字が、パレスチナのキリスト教徒の用いる西アラム語(シリア語とは別)を記すのに使われた。また、シリア文字のエストランゲロ体に由来する文字はマニ教徒によって中世ペルシア語・パルティア語・ソグド語・バクトリア語などを記すために用いられた(マニ文字を参照)。一方東方書体(ネストリウス体)は、キリスト教徒によってソグド語を記すためにも用いられた。
また、インドのマラヤーラム語(マランカラ正教会(英語版))、およびガルシュニ(英語版)として知られるアラビア語(中東のキリスト教徒が用いる)でも用いられる。
主要な書体には次の三種類がある。
ほかに、メルキト体などがある。
シリア文字は原則として子音のみを表記するが、ʾ で長い ā, ē を、y で ī, ay を、w で u, ū, o, ō, aw を表すことが行われた。
シリア文字では、さまざまな目的のために文字の上下に点を打った。
まず、d と r の文字がほとんど同形になっていたので、区別のために d は文字の中に、r は文字の上に点を打つことで区別した。
また、名詞の単数形と複数形は母音でのみ区別され、綴りの上に違いが現れなかったので、複数形では上にトレマに似た点を打つことで区別した。ほかにも点を上に打ったり下に打ったりすることで同綴語を区別した。
後世には、母音をより正確に表すための記号が発達した。西方書体ではギリシア文字の母音(Α Ε Η Ο ΟΥ)に由来する記号を文字の上か下に小さく記した。東方書体では点の打つ位置と個数で母音を区別した。
ほかに、発音しない子音(黙字)を示す記号や、破裂音と摩擦音を区別するための記号が使われることもあった。
22文字中、8文字(ʾ d h w z ṣ r t) は後ろに続かない。また、エストランゲロ体では位置による字形の違いはあまりなく、k m n で語末形が異なるにとどまる。
Microsoft Windows XPで「Estrangelo Edessa」フォントが追加された。
大半の文字は Unicode 3.0 で対応しているが、背景色がグレーの文字は Unicode 4.0 で対応した。
ガルシュニー、パレスチナのキリスト教アラム語、中世ペルシア語、ソグド語のための文字を含む。
2017年のUnicode 10.0では、マラヤラム語を表記するための拡張ブロック(Syriac Supplement: U+0860-U+086F)が追加された。
|
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"text": "まず、d と r の文字がほとんど同形になっていたので、区別のために d は文字の中に、r は文字の上に点を打つことで区別した。",
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"text": "また、名詞の単数形と複数形は母音でのみ区別され、綴りの上に違いが現れなかったので、複数形では上にトレマに似た点を打つことで区別した。ほかにも点を上に打ったり下に打ったりすることで同綴語を区別した。",
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"text": "2017年のUnicode 10.0では、マラヤラム語を表記するための拡張ブロック(Syriac Supplement: U+0860-U+086F)が追加された。",
"title": "コンピュータ"
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] |
シリア文字(シリアもじ)は、シリア語で用いられる文字で、22文字からなるアブジャドである。アラビア文字やヘブライ文字などと同様に、右から左に書かれる。アラム文字から発達したが、文字はアラビア文字と同様につなげて書かれ、一部の文字は語頭・語中・語末・独立の4つの異なる字形を持っている。
|
{{Infobox WS
|name=シリア文字
|type=アブジャド
|languages=[[シリア語]], [[アラム語]], [[アラビア語]]({{仮リンク|ガルシュニ|en|Garshuni}})
|time=[[紀元前200年]]頃-現在
|fam1=[[原カナン文字]]
|fam2=[[フェニキア文字]]
|fam3=[[アラム文字]]
|children=[[ソグド文字]]<br />
[[突厥文字]]<br />
[[ロヴァーシュ文字]]<!-- [[Old Hungarian script|en]] --><br />
[[ウイグル文字]]<br />
[[モンゴル文字]]<br />
[[ナバテア文字]]<br />
[[アラビア文字]]<br />
[[グルジア文字]](議論あり)
| unicode = [https://www.unicode.org/charts/PDF/U0700.pdf U+0700-U+074F]<br>[https://www.unicode.org/charts/PDF/U0860.pdf U+0860-U+086F]
| sample = SyriacJohn.svg
| caption = シリア文字による[[ヨハネによる福音書]]の冒頭。上からセルトー体(西方書体)、ネストリウス体(東方書体)、エストランゲロ体。
|iso15924=Syrc<br>Syre(エストランゲロ)<br>Syrj(セルトー)<br>Syrn(東方)
}}
[[ファイル:Syriac text Nestorian Stele 781AD 1.png|thumb|200px|[[大秦景教流行中国碑]](8世紀)のシリア文字]]
[[Image:Estrangela.jpg|thumb|180px|エストランゲロ体の書物。[[9世紀]]。]]
[[Image:Syriac Sertâ book script.jpg|thumb|280px|セルトー体(西方書体)の写本。[[11世紀]]。]]
{{音素文字}}
'''シリア文字'''(シリアもじ)は、[[シリア語]]で用いられる文字で、22文字からなる[[アブジャド]]である。[[アラビア文字]]や[[ヘブライ文字]]などと同様に、右から左に書かれる。[[アラム文字]]から発達したが、文字は[[アラビア文字]]と同様につなげて書かれ、一部の文字は語頭・語中・語末・独立の4つの異なる字形を持っている。
== 言語 ==
シリア文字がいつどのように発生したかは正確にはわからないが、エデッサ(現在の[[シャンルウルファ|ウルファ]])を中心とする北メソポタミアに、西暦1-3世紀ごろの碑文が残る。文書としては、411年のものがもっとも古い<ref>{{cite book|author=Hatch, William Henry Paine|title=An Album of Dated Syriac Manuscripts|year=1946|location=Boston|publisher=American Academy of Arts and Sciences|page=52}}</ref>。
本来は古典シリア語のために用いられる文字だったが、19世紀にヨーロッパの宣教師がシリア文字の東方書体を使って現代アラム語を記すための正書法を考案し、これが現在でも使われている<ref>{{cite book|author=Hoberman, Orbert D|chapter=Modern Aramaic|title=The World's Writing Systems|editor=Peter T. Daniels; William Bright|year=1996|publisher=Oxford University Press|pages=504-510}}</ref>。
5世紀以降、シリア文字のエストランゲロ体に近い文字が、パレスチナのキリスト教徒の用いる[[西アラム語]](シリア語とは別)を記すのに使われた。また、シリア文字のエストランゲロ体に由来する文字は[[マニ教|マニ教徒]]によって中世ペルシア語・[[パルティア語]]・[[ソグド語]]・[[バクトリア語]]などを記すために用いられた([[マニ文字]]を参照)。一方東方書体(ネストリウス体)は、キリスト教徒によってソグド語を記すためにも用いられた<ref>{{cite book|author=Skjævø, P. Oktor|chapter=Aramaic Scripts for Iranian Languages|editor=Peter T. Daniels; William Bright|title=The World's Writing Systems|year=1996|publisher=Oxford University Press|pages=515-535}}</ref>。
また、インドの[[マラヤーラム語]]({{仮リンク|マランカラ正教会|en|Malankara Orthodox Church}})、および{{仮リンク|ガルシュニ|en|Garshuni}}として知られる[[アラビア語]](中東の[[キリスト教|キリスト教徒]]が用いる)でも用いられる。
== 書体 ==
主要な書体には次の三種類がある。
* エストランゲロ体({{Script|Syre|ܐܣܛܪܢܓܠܐ}}、もっとも古い書体。他の2書体の元になった)
* ネストリウス体({{Script|Syrn|ܡܕܢܚܝܐ}}、東方書体とも。[[ネストリウス派]]で用いた)
* セルトー体({{Script|Syrj|ܣܪܛܐ}}、西方書体とも。[[ヤコブ派]]や[[マロン派]]で用いた)
ほかに、メルキト体<ref>{{cite web|url=https://hmmlorientalia.wordpress.com/2013/05/10/examples-of-melkite-syriac-script/|title=Examples of Melkite Syriac script|publisher=hmmlorientalia|date=2013-05-10|accessdate=2015-06-14}}</ref>などがある。
== 母音の表記 ==
シリア文字は原則として子音のみを表記するが、{{unicode|ʾ}} で長い {{unicode|ā, ē}} を、{{unicode|y}} で {{unicode|ī, ay}} を、{{unicode|w}} で {{unicode|u, ū, o, ō, aw}} を表すことが行われた。
== 加点 ==
シリア文字では、さまざまな目的のために文字の上下に点を打った。
まず、d と r の文字がほとんど同形になっていたので、区別のために d は文字の中に、r は文字の上に点を打つことで区別した。
また、名詞の単数形と複数形は母音でのみ区別され、綴りの上に違いが現れなかったので、複数形では上に[[トレマ]]に似た点を打つことで区別した。ほかにも点を上に打ったり下に打ったりすることで同綴語を区別した。
後世には、母音をより正確に表すための記号が発達した。西方書体では[[ギリシア文字]]の母音({{el|Α Ε Η Ο ΟΥ}})に由来する記号を文字の上か下に小さく記した。東方書体では点の打つ位置と個数で母音を区別した。
ほかに、発音しない子音([[黙字]])を示す記号や、破裂音と摩擦音を区別するための記号が使われることもあった。
== シリア文字のエストランゲロ体 ==
22文字中、8文字({{unicode|ʾ d h w z ṣ r t}}) は後ろに続かない。また、エストランゲロ体では位置による字形の違いはあまりなく、{{unicode|k m n}} で語末形が異なるにとどまる。
{| class="wikitable" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center;"
!文字!!基本形!!語末<br>接続形!!語末<br>非接続形
! colspan="2" |フォント!!発音
|-
|アーラフ<br>({{unicode|ʾālap̄}})||[[画像:Aramaic alap.svg]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܐ}}|| ʾ {{ipa|ʔ}}
|-
|ベート<br>({{unicode|bēṯ}})||[[画像:aramaic_beth.png]]||[[画像:aramaic_beth_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܒ}}|| b, ḇ {{ipa|v}}
|-
|ガーマル<br>({{unicode|gāmal}})||[[画像:aramaic_gamal.png]]||[[画像:aramaic_gamal_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܓ}}|| g, ḡ {{ipa|ɣ}}
|-
|ダーラト<br>({{unicode|dālaṯ}})||[[画像:aramaic_daleth.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܕ}}|| d, ḏ {{ipa|ð}}
|-
|ヘー<br>({{unicode|hē}})||[[画像:aramaic_heh.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܗ}}|| h
|-
|ワウ<br>({{unicode|waw}})||[[画像:aramaic_waw.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܘ}}|| w
|-
|ザイン<br>({{unicode|zayn}})||[[画像:aramaic_zain.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܙ}}|| z
|-
|ヘート<br>({{unicode|ḥēṯ}})||[[画像:aramaic_kheth.png]]||[[画像:aramaic_kheth_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܚ}}|| ḥ {{ipa|ħ}}
|-
|テート<br>({{unicode|ṭēṯ}})||[[画像:aramaic_teth.png]]||[[画像:aramaic_teth_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܛ}}|| ṭ {{ipa|tˤ}}
|-
|ユード<br>({{unicode|yūḏ}})||[[画像:aramaic_yodh.png]]||[[画像:aramaic_yodh_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܝ}}|| y {{ipa|j}}
|-
|カーフ<br>({{unicode|kāp̄}})||[[画像:aramaic_kap.png]]||[[画像:aramaic_kap_c.png]]||[[画像:aramaic_kap_f.png]]
|{{script|Syrc|ܟ}}
|{{script|Syrc|ܟܟ}}|| k, ḵ {{ipa|x}}
|-
|ラーマド<br>({{unicode|lāmaḏ}})||[[画像:aramaic_lamadh.png]]||[[画像:aramaic_lamadh_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܠ}}|| l
|-
|ミーム<br>({{unicode|mīm}})||[[画像:aramaic_meem.png]]||[[画像:aramaic_meem_c.png]]||
|{{script|Syrc|ܡ}}
|{{script|Syrc|ܡܡ}}|| m
|-
|ヌーン<br>({{unicode|nūn}})||[[画像:aramaic_noon.png]]||[[画像:aramaic_noon_c.png]]||[[画像:aramaic_noon_f.png]]
|{{script|Syrc|ܢ}}
|{{script|Syrc|ܢܢ}}|| n
|-
|セムカト<br>({{unicode|semkaṯ}})||[[画像:aramaic_simkath.png]]||[[画像:aramaic_simkath_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܣ}}|| s
|-
|エー<br>({{unicode|ʿē}})||[[画像:aramaic_ain.png]]||[[画像:aramaic_ain_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܥ}}|| ʿ {{ipa|ʕ}}
|-
|ペー<br>({{unicode|pē}})||[[画像:aramaic_payin.png]]||[[画像:aramaic_payin_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܦ}}|| p, p̄ {{ipa|f}}
|-
|サーデー<br>({{unicode|ṣāḏē}})||[[画像:aramaic_tsade.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܨ}}|| ṣ {{ipa|sˤ}}
|-
|コーフ<br>({{unicode|qōp̄}})||[[画像:aramaic_qoph.png]]||[[画像:aramaic_qoph_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܩ}}|| q
|-
|レーシュ<br>({{unicode|rēš}})||[[画像:aramaic_resh.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܪ}}|| r
|-
|シーン<br>({{unicode|šīn}})||[[画像:aramaic_sheen.png]]||[[画像:aramaic_sheen_c.png]]||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܫ}}|| š {{ipa|ʃ}}
|-
|タウ<br>({{unicode|taw}})||[[画像:aramaic_taw.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܬ}}|| t, ṯ {{ipa|θ}}
|-
| ||[[画像:aramaic_lamadh_alap.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܠܐ}}||ラーマドとアーラフの合字<br>(単語末)
|-
| ||[[画像:aramaic_taw_alap.png]]|| ||
| colspan="2" |{{script|Syrc|ܬܐ}}||タウとアーラフの合字<br>(単語末)
|}
== コンピュータ ==
[[Microsoft Windows XP]]で「Estrangelo Edessa」フォントが追加された<ref>{{citation|url=https://docs.microsoft.com/en-us/typography/font-list/estrangelo-edessa|title=Estrangelo Edessa font family|date=2017-10-19|publisher=Microsoft}}</ref>。
=== Unicode ===
大半の文字は [[Unicode]] 3.0 で対応しているが、{{bgcolor|#DDD|背景色がグレー}}の文字は Unicode 4.0 で対応した。
ガルシュニー、パレスチナのキリスト教アラム語、中世ペルシア語、ソグド語のための文字を含む。
2017年のUnicode 10.0では、[[マラヤラム語]]を表記するための拡張ブロック(Syriac Supplement: U+0860-U+086F)が追加された<ref>{{citation|url=https://www.unicode.org/charts/PDF/U0860.pdf|title=Syriac Supplement|publisher=Unicode, Inc}}</ref><ref>{{citation|url=https://www.unicode.org/versions/Unicode10.0.0/|title=Unicode 10.0.0|date=2017-06-20|publisher=Unicode, Inc}}</ref>。
{|border="1" cellpadding="4" cellspacing="0" style="font-family:'TITUS Cyberbit Basic','Estrangelo Edessa';font-size:125%;"
|-style="background:#333;color:#fff;"
!U+!!width="15pt"|0!!width="15pt"|1!!width="15pt"|2!!width="15pt"|3!!width="15pt"|4!!width="15pt"|5!!width="15pt"|6!!width="15pt"|7!!width="15pt"|8!!width="15pt"|9!!width="15pt"|A!!width="15pt"|B!!width="15pt"|C!!width="15pt"|D!!width="15pt"|E!!width="15pt"|F
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff;"|0700
|܀||܁||܂||܃||܄||܅||܆||܇||܈||܉||܊||܋||܌||܍||style="background:#444;"| || ܏
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff;"|0710
|ܐ||ܑ||ܒ||ܓ||ܔ||ܕ||ܖ||ܗ||ܘ||ܙ||ܚ||ܛ||ܜ||ܝ||ܞ||ܟ
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff;"|0720
|ܠ||ܡ||ܢ||ܣ||ܤ||ܥ||ܦ||ܧ||ܨ||ܩ||ܪ||ܫ||ܬ||style="background:#DDD;"|ܭ||style="background:#DDD;"|ܮ||style="background:#DDD;"|ܯ
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff;"|0730
| ܰ|| ܱ|| ܲ|| ܳ|| ܴ|| ܵ|| ܶ|| ܷ|| ܸ|| ܹ|| ܺ|| ܻ|| ܼ|| ܽ|| ܾ|| ܿ
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff;"|0740
| ݀|| ݁|| ݂|| ݃|| ݄|| ݅|| ݆|| ݇|| ݈|| ݉|| ݊||style="background:#444;"| ||style="background:#444;"| ||style="background:#DDD;"|ݍ||style="background:#DDD;"|ݎ||style="background:#DDD;"|ݏ
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
==外部リンク==
* {{citation|和書|url=http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_middleeast_1.html|title=シリア文字|publisher=地球ことば村・世界の文字}}
* {{citation|和書|url=http://arabic.gooside.com/aramaic/moji_syr/syr_hyou.html|title=シリア語の文字|publisher=アラビア語ちゃんねる}}
* [http://bethmardutho.org/ Beth Marduro] - 「Meltho」フォントの入手が可能。エストランゲロ・セルトー・東方書体を含む。
* [http://titus.fkidg1.uni-frankfurt.de/unicode/tituut.asp TITUS UNICODE FONT DOWNLOAD PAGE] - 対応フォント「TITUS Cyberbit Basic」の入手が可能
{{文字}}
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[[Category:アラム語群]]
[[Category:キリスト教の歴史]]
|
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|
14,357 |
川中島の戦い
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川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した。
1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。
室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。
甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年(1542年)に武田晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている。武田氏は諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。
それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、武田氏が北条氏と同盟することは武田氏と山内上杉氏との間の関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。
その後、甲斐の武田晴信は信濃国への軍の出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。
武田軍は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。
天文17年(1548年)の上田原の戦いでは、武田晴信は村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで武田軍は小笠原長時を撃破する。
天文19年(1550年)、武田軍は小笠原長時を追い払い、仁科盛能を臣従させ、武田氏は中信地方を制圧し自国の領土とする。
同年、武田軍は村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、武田軍は戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。
また、武田信玄は越後隣国の越中国の内乱に干渉し続けた為、上杉謙信は度々越中国に遠征しなければならず、天正4年(1576年)には上杉謙信が越中国を統一する事となった。(越中の戦国時代を参照)
対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあった。信濃で村上氏の勢力が衰退し、代わって武田晴信の率いる武田軍の脅威が増大すると北信濃国人衆は恐怖を感じて越後の長尾氏に援助を求めるようになった。特に長尾氏と高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であった。越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、長尾家は先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は長尾景虎の叔母でもあった。こうして、越後の長尾景虎は北信濃での戦いに本格的に軍事介入することになった。
信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南で、犀川が千曲川へ合流する地点から広がる地を川中島と呼ぶ。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。
この地域には栗田氏や市河氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。
天文22年(1553年)4月、武田晴信は北信濃へ軍を出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して長尾景虎に支援を願った。
5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現・千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信は10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
長尾景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。
なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。
川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。
天文23年(1554年)、武田晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉氏と対峙する後北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広(越後北条氏)に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。
天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿 (初代)が武田氏に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾氏方諸豪族への圧力が高まった。
晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎としてはこの旭山城を無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城の守兵に軍勢の背後を突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。そこで長尾軍は旭山城とは裾花川を挟んでほぼ真正面に位置する葛山に葛山城(長野県長野市)を築いた。これによって前進拠点を確保したと共に旭山城の機能を封殺することに成功した。
晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。
長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。
その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。
第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。
第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、武田晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。長尾景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市河氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には長尾景虎家臣の大熊朝秀が武田氏に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田氏に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。
弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。上杉謙信の対応は雪解けまで遅れた。
長尾氏も攻勢を強め、4月18日には長尾景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田氏の諸城を攻め、高井郡山田城、福島城を落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、長尾景虎は武田氏領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍した。
6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。晴信は市河氏(志久見郷)への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。武田氏は志久見郷の防衛に成功。長尾氏は武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には高井郡野沢城・尼飾城を攻めるが武田氏は決戦を避け、長尾景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。
弘治3年(1557年)7月5日、武田氏は安曇郡平倉城(小谷城)を攻略すると北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には髻山城近くの水内郡上野原において武田氏・長尾氏は合戦を行う。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は長尾氏との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)正月16日に武田晴信は信濃守護、嫡男武田義信は三管領に補任された。
武田晴信の信濃守護補任の条件には長尾景虎方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である小笠原長時の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城)(長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。
『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。
永禄4年(1561年)4月、武田信玄が割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。その際、武田信玄の信濃侵攻の参謀と言われた原虎胤が負傷した。これに代わって、山本勘助が参謀になる。
北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。
膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。
9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長、本庄繁長、鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。
10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。
頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で首実検を行い、勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。
また、これは『甲陽軍鑑』の記述とは関係ないが、上杉軍はこの合戦に参戦したとされる長尾藤景が川中島合戦における上杉政虎の戦術を批判したとして政虎からの不興を買っている。数年後に政虎(当時は輝虎と改名)は同じく家臣の本庄繁長に命じて藤景を成敗させているが、この際に恩賞が出なかったことを不服とした繁長は甲斐国の武田信玄の誘いに応じて上杉家に謀反(本庄繁長の乱)を起こしている。事実の程は不明であるが、この川中島の戦いは後年の上杉家にしこりを残しているといえる。
この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容の感状を7通発給しており自身の旗本や揚北衆の中条や色部を中心にその戦功を称えている。信玄側にも2通の感状が確認されている。
『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である小山田氏は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『勝山記』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は信茂に交代する。
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は、武田信玄の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣した。川中島に布陣する上杉謙信に対して、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して後北条氏との戦いを続けた。後北条氏と同盟する武田氏は常に上杉輝虎の背後を脅かしていた。上杉輝虎の武田信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓った。
飛騨国では国衆同志の争いが武田氏・上杉氏の対立と相関し、飛騨国衆の三木良頼・三木自綱親子と江馬(江間)輝盛は、江馬時盛と敵対していた。永禄7年(1564年)には信玄が江馬時盛を、輝虎が三木氏・江馬輝盛を支援して介入する。『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となる。同年8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、上杉輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
川中島をめぐる武田氏・上杉氏間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている。上杉謙信は武田信玄の支援を受けた、越中の武将や越中一向一揆の鎮圧に忙殺されることになる。
武田氏は、対外方針を転じ、同盟国であった今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め、永禄8年(1565年)、信長の養女を信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎える。同年10月、今川氏真の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚し(義信事件)、永禄11年(1568年)11月、義信正室が駿河へ帰国した。他方、今川氏は、上杉氏と秘密外交を行ったが、これが武田方に露見する。武田氏は、同年12月、駿河今川領国への侵攻を開始するが(駿河侵攻)、これは北条氏との甲相同盟を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏は、上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、武田氏は、織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している(甲越和与)。
その後、武田氏は、三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し(西上作戦)、上杉氏とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。
元亀4年(1573年)の武田信玄死去後、1575年の長篠の戦いで惨敗した武田勝頼は上杉謙信と和睦して甲斐に無事帰国している。
謙信死去により越後で後継をめぐる御館の乱(1578年)が起こると、武田勝頼は越後に出兵する。上杉景勝は、勝頼の異母妹菊姫と婚を通じて和睦し、甲越同盟が成立する。
甲越同盟によって、武田氏の勢力は、川中島の戦いの係争地であった川中島四郡を超えて越後国に及んだ。結果、甲相同盟を再び破綻させ、上杉氏では柴田勝家らからなる織田軍の攻勢を防備するが、武田方では天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍による侵攻(甲州征伐)により滅亡する。
武田氏滅亡後の川中島を含む信濃領国は森長可ら織田家臣によって支配されるが、同年末の本能寺の変において信長が横死すると森長可が逃亡し無主となった武田遺領は空白地域となり、上杉、徳川、北条三者による争奪戦(天正壬午の乱)となり、武田遺領は徳川氏により確保された。
豊臣秀吉によって上杉家は会津を経て米沢へ移封され、川中島の地域は徳川氏の勢力下となった。天下統一をなした豊臣秀吉は、川中島の地を訪れ、人々が信玄と謙信の優れた軍略を称賛するなか、「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。
元和8年(1622年)、真田家が、徳川政権により、上田城から海津城(松代城)に移される。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、藩主は勿論、家臣団ら武田遺臣にとっても祖父や大叔(伯)父らが活躍した川中島の地は神聖視され、松代藩の手により辛うじて残されていた戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。
江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。
川中島の戦いにおける記録の中には、周知されているものとは別の説が存在する。
江戸時代には『甲陽軍鑑』や『川中島五箇度合戦之次第』などの軍記物が流布し、二次的に『武田三代記』『北越軍記』『北越軍談』などの軍記物が生まれ、川中島の戦いは五回あったとする五戦説が広まっていた。
近代歴史学においては1889年(明治22年)に田中義成が五戦説を否定し、川中島の戦いは弘治元年と永禄4年の2回であったとした。また、1932年(昭和7年)には軍人の北村建信が田中の二戦説を補強している。
これに対し、1929年(昭和4年)には渡辺世祐が五戦説を提唱し、戦後には1959年(昭和34年)に小林計一郎が五戦説を支持している。
2000年には柴辻俊六が五戦説を再検討し、川中島の戦いとそれ以外の小規模な戦闘を甲越対戦と区別し、川中島の戦いは永禄4年9月の第四次合戦に限定されるとした。
2002年には平山優が信濃国衆の動向を中心に武田信玄の信濃侵攻から川中島の戦いに至る過程の再検討を行い、川中島の戦いを東国戦国史のなかに位置づけた。
近世には『甲陽軍鑑』『北越軍談』に基づいて甲州流軍学・越後流軍学が形成され大名家にも招聘された。江戸前期から大名家においては『軍鑑』『軍談』『甲越信戦録』『絵本甲越軍記』などに基づいて川中島合戦図屏風が制作されたものと考えられている。現在でも数々の作例が現存しており、特に柏原美術館所蔵品や和歌山県立博物館所蔵品(紀州本)などが川中島合戦図屏風の代表作として知られる。川中島合戦図屏風は作例により『軍鑑』『軍談』それぞれの記述に忠実なものや両者が折衷したものなど特徴が見られ、これは製作された大名家における軍学の影響力が製作事情に反映されているものであると考えられている。
主題として描かれるのは主に永禄4年(1561年)9月1日の八幡原における合戦の場面で、画面構成は武田陣営には白熊兜や北斗七星の軍配を持ち床几に座すなどの特徴で信玄の姿が描かれ、上杉方では白頭巾や連銭芦毛の駿馬を駆った姿を特徴とする上杉謙信が描かれ、上杉勢の強襲により敗走する武田勢や迎え撃つ山県昌景の軍勢、妻女山から急行する武田別働隊、さらに信玄・謙信の一騎討ちなどの場面が異時同図的に描かれる。合戦の様子ではなく配陣図を描いた作例も見られる。
更に浮世絵の画題の一つ武者絵においても、川中島合戦図はしばしば描かれ、その数は200種類を超えるとも言われる。古くは懐月堂安度の肉筆画による信玄軍陣影図や一騎討ちの図、版画では二代鳥居清倍や奥村政信、喜多川歌麿らが一騎討ちの図を手掛けている。三枚続の群像表現を導入したのは、文化6年(1809年)の勝川春亭が最初である。その後、文政から天保にかけて同様の川中島合戦図は殆ど描かれていないが、天保15年(1844年)5月に歌川広重が春亭図を模した作品を描く。同年10月には本図の出版に対して伺書が提出され、南町奉行より出版許可が降りた。これが契機となって、続く弘化以降には歌川国芳や歌川芳虎ら国芳一門、歌川貞秀ら歌川派を中心に数多くの川中島合戦図が描かれるようになる。天正年間以降の合戦や人物を扱った作品では変名が使われるのが通例だが、それ以前の合戦である川中島合戦の場合は、人物や合戦名も史実通りに表記されるのが特徴である。場面としては一騎討ちの他にも、第四次合戦における山本勘助の活躍や討死などの名場面や、さらには武田・上杉両軍の諸将が対戦した創作的な作例も見られる。明治以降になると、歴史画の隆盛で画題が広がり、相対的に川中島合戦は描かれなくなるが、大分な揃物の中には、しばしば信玄や謙信が姿が見受けられる。
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"text": "川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した。",
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"paragraph_id": 1,
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"text": "1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。",
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"paragraph_id": 2,
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"text": "最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。",
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"text": "川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。",
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"text": "室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
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"text": "甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年(1542年)に武田晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている。武田氏は諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
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"text": "それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、武田氏が北条氏と同盟することは武田氏と山内上杉氏との間の関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
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"text": "その後、甲斐の武田晴信は信濃国への軍の出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
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{
"paragraph_id": 8,
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"text": "武田軍は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
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{
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"text": "天文17年(1548年)の上田原の戦いでは、武田晴信は村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで武田軍は小笠原長時を撃破する。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "天文19年(1550年)、武田軍は小笠原長時を追い払い、仁科盛能を臣従させ、武田氏は中信地方を制圧し自国の領土とする。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "同年、武田軍は村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、武田軍は戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
},
{
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"text": "また、武田信玄は越後隣国の越中国の内乱に干渉し続けた為、上杉謙信は度々越中国に遠征しなければならず、天正4年(1576年)には上杉謙信が越中国を統一する事となった。(越中の戦国時代を参照)",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあった。信濃で村上氏の勢力が衰退し、代わって武田晴信の率いる武田軍の脅威が増大すると北信濃国人衆は恐怖を感じて越後の長尾氏に援助を求めるようになった。特に長尾氏と高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であった。越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、長尾家は先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は長尾景虎の叔母でもあった。こうして、越後の長尾景虎は北信濃での戦いに本格的に軍事介入することになった。",
"title": "戦国期東国の地域情勢と川中島合戦"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南で、犀川が千曲川へ合流する地点から広がる地を川中島と呼ぶ。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。",
"title": "川中島"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "この地域には栗田氏や市河氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。",
"title": "川中島"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。",
"title": "第一次合戦"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "天文22年(1553年)4月、武田晴信は北信濃へ軍を出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して長尾景虎に支援を願った。",
"title": "第一次合戦"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現・千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。",
"title": "第一次合戦"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信は10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。",
"title": "第一次合戦"
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{
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"text": "この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。",
"title": "第一次合戦"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "長尾景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。",
"title": "第一次合戦"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。",
"title": "第一次合戦"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "天文23年(1554年)、武田晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉氏と対峙する後北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広(越後北条氏)に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿 (初代)が武田氏に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾氏方諸豪族への圧力が高まった。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎としてはこの旭山城を無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城の守兵に軍勢の背後を突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。そこで長尾軍は旭山城とは裾花川を挟んでほぼ真正面に位置する葛山に葛山城(長野県長野市)を築いた。これによって前進拠点を確保したと共に旭山城の機能を封殺することに成功した。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。",
"title": "第二次合戦"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、武田晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。",
"title": "第三次合戦"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。長尾景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市河氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には長尾景虎家臣の大熊朝秀が武田氏に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田氏に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。",
"title": "第三次合戦"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。上杉謙信の対応は雪解けまで遅れた。",
"title": "第三次合戦"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "長尾氏も攻勢を強め、4月18日には長尾景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田氏の諸城を攻め、高井郡山田城、福島城を落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、長尾景虎は武田氏領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍した。",
"title": "第三次合戦"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。晴信は市河氏(志久見郷)への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。武田氏は志久見郷の防衛に成功。長尾氏は武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には高井郡野沢城・尼飾城を攻めるが武田氏は決戦を避け、長尾景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。",
"title": "第三次合戦"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "弘治3年(1557年)7月5日、武田氏は安曇郡平倉城(小谷城)を攻略すると北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には髻山城近くの水内郡上野原において武田氏・長尾氏は合戦を行う。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。",
"title": "第三次合戦"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は長尾氏との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)正月16日に武田晴信は信濃守護、嫡男武田義信は三管領に補任された。",
"title": "第三次合戦"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "武田晴信の信濃守護補任の条件には長尾景虎方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である小笠原長時の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている。",
"title": "第三次合戦"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城)(長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。",
"title": "第三次合戦"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。",
"title": "第四次合戦"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。",
"title": "第四次合戦"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。",
"title": "第四次合戦"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。",
"title": "第四次合戦"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "永禄4年(1561年)4月、武田信玄が割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。その際、武田信玄の信濃侵攻の参謀と言われた原虎胤が負傷した。これに代わって、山本勘助が参謀になる。",
"title": "第四次合戦"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。",
"title": "第四次合戦"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。",
"title": "第四次合戦"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。",
"title": "第四次合戦"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。",
"title": "第四次合戦"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長、本庄繁長、鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。",
"title": "第四次合戦"
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"text": "頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で首実検を行い、勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。",
"title": "第四次合戦"
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"tag": "p",
"text": "また、これは『甲陽軍鑑』の記述とは関係ないが、上杉軍はこの合戦に参戦したとされる長尾藤景が川中島合戦における上杉政虎の戦術を批判したとして政虎からの不興を買っている。数年後に政虎(当時は輝虎と改名)は同じく家臣の本庄繁長に命じて藤景を成敗させているが、この際に恩賞が出なかったことを不服とした繁長は甲斐国の武田信玄の誘いに応じて上杉家に謀反(本庄繁長の乱)を起こしている。事実の程は不明であるが、この川中島の戦いは後年の上杉家にしこりを残しているといえる。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容の感状を7通発給しており自身の旗本や揚北衆の中条や色部を中心にその戦功を称えている。信玄側にも2通の感状が確認されている。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である小山田氏は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『勝山記』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は信茂に交代する。",
"title": "第四次合戦"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は、武田信玄の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣した。川中島に布陣する上杉謙信に対して、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。",
"title": "第五次合戦"
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"text": "上杉輝虎は、関東へ連年出兵して後北条氏との戦いを続けた。後北条氏と同盟する武田氏は常に上杉輝虎の背後を脅かしていた。上杉輝虎の武田信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓った。",
"title": "第五次合戦"
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"text": "飛騨国では国衆同志の争いが武田氏・上杉氏の対立と相関し、飛騨国衆の三木良頼・三木自綱親子と江馬(江間)輝盛は、江馬時盛と敵対していた。永禄7年(1564年)には信玄が江馬時盛を、輝虎が三木氏・江馬輝盛を支援して介入する。『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となる。同年8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。",
"title": "第五次合戦"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、上杉輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。",
"title": "第五次合戦"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "川中島をめぐる武田氏・上杉氏間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている。上杉謙信は武田信玄の支援を受けた、越中の武将や越中一向一揆の鎮圧に忙殺されることになる。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "武田氏は、対外方針を転じ、同盟国であった今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め、永禄8年(1565年)、信長の養女を信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎える。同年10月、今川氏真の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚し(義信事件)、永禄11年(1568年)11月、義信正室が駿河へ帰国した。他方、今川氏は、上杉氏と秘密外交を行ったが、これが武田方に露見する。武田氏は、同年12月、駿河今川領国への侵攻を開始するが(駿河侵攻)、これは北条氏との甲相同盟を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏は、上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、武田氏は、織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している(甲越和与)。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "その後、武田氏は、三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し(西上作戦)、上杉氏とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "元亀4年(1573年)の武田信玄死去後、1575年の長篠の戦いで惨敗した武田勝頼は上杉謙信と和睦して甲斐に無事帰国している。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
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{
"paragraph_id": 67,
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"text": "謙信死去により越後で後継をめぐる御館の乱(1578年)が起こると、武田勝頼は越後に出兵する。上杉景勝は、勝頼の異母妹菊姫と婚を通じて和睦し、甲越同盟が成立する。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "甲越同盟によって、武田氏の勢力は、川中島の戦いの係争地であった川中島四郡を超えて越後国に及んだ。結果、甲相同盟を再び破綻させ、上杉氏では柴田勝家らからなる織田軍の攻勢を防備するが、武田方では天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍による侵攻(甲州征伐)により滅亡する。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "武田氏滅亡後の川中島を含む信濃領国は森長可ら織田家臣によって支配されるが、同年末の本能寺の変において信長が横死すると森長可が逃亡し無主となった武田遺領は空白地域となり、上杉、徳川、北条三者による争奪戦(天正壬午の乱)となり、武田遺領は徳川氏により確保された。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
},
{
"paragraph_id": 70,
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"text": "豊臣秀吉によって上杉家は会津を経て米沢へ移封され、川中島の地域は徳川氏の勢力下となった。天下統一をなした豊臣秀吉は、川中島の地を訪れ、人々が信玄と謙信の優れた軍略を称賛するなか、「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
},
{
"paragraph_id": 71,
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"text": "元和8年(1622年)、真田家が、徳川政権により、上田城から海津城(松代城)に移される。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、藩主は勿論、家臣団ら武田遺臣にとっても祖父や大叔(伯)父らが活躍した川中島の地は神聖視され、松代藩の手により辛うじて残されていた戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。",
"title": "戦後の甲越関係と川中島"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。",
"title": "両軍の兵力"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "川中島の戦いにおける記録の中には、周知されているものとは別の説が存在する。",
"title": "異説"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には『甲陽軍鑑』や『川中島五箇度合戦之次第』などの軍記物が流布し、二次的に『武田三代記』『北越軍記』『北越軍談』などの軍記物が生まれ、川中島の戦いは五回あったとする五戦説が広まっていた。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "近代歴史学においては1889年(明治22年)に田中義成が五戦説を否定し、川中島の戦いは弘治元年と永禄4年の2回であったとした。また、1932年(昭和7年)には軍人の北村建信が田中の二戦説を補強している。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "これに対し、1929年(昭和4年)には渡辺世祐が五戦説を提唱し、戦後には1959年(昭和34年)に小林計一郎が五戦説を支持している。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2000年には柴辻俊六が五戦説を再検討し、川中島の戦いとそれ以外の小規模な戦闘を甲越対戦と区別し、川中島の戦いは永禄4年9月の第四次合戦に限定されるとした。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2002年には平山優が信濃国衆の動向を中心に武田信玄の信濃侵攻から川中島の戦いに至る過程の再検討を行い、川中島の戦いを東国戦国史のなかに位置づけた。",
"title": "研究史"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "近世には『甲陽軍鑑』『北越軍談』に基づいて甲州流軍学・越後流軍学が形成され大名家にも招聘された。江戸前期から大名家においては『軍鑑』『軍談』『甲越信戦録』『絵本甲越軍記』などに基づいて川中島合戦図屏風が制作されたものと考えられている。現在でも数々の作例が現存しており、特に柏原美術館所蔵品や和歌山県立博物館所蔵品(紀州本)などが川中島合戦図屏風の代表作として知られる。川中島合戦図屏風は作例により『軍鑑』『軍談』それぞれの記述に忠実なものや両者が折衷したものなど特徴が見られ、これは製作された大名家における軍学の影響力が製作事情に反映されているものであると考えられている。",
"title": "川中島合戦図"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "主題として描かれるのは主に永禄4年(1561年)9月1日の八幡原における合戦の場面で、画面構成は武田陣営には白熊兜や北斗七星の軍配を持ち床几に座すなどの特徴で信玄の姿が描かれ、上杉方では白頭巾や連銭芦毛の駿馬を駆った姿を特徴とする上杉謙信が描かれ、上杉勢の強襲により敗走する武田勢や迎え撃つ山県昌景の軍勢、妻女山から急行する武田別働隊、さらに信玄・謙信の一騎討ちなどの場面が異時同図的に描かれる。合戦の様子ではなく配陣図を描いた作例も見られる。",
"title": "川中島合戦図"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "更に浮世絵の画題の一つ武者絵においても、川中島合戦図はしばしば描かれ、その数は200種類を超えるとも言われる。古くは懐月堂安度の肉筆画による信玄軍陣影図や一騎討ちの図、版画では二代鳥居清倍や奥村政信、喜多川歌麿らが一騎討ちの図を手掛けている。三枚続の群像表現を導入したのは、文化6年(1809年)の勝川春亭が最初である。その後、文政から天保にかけて同様の川中島合戦図は殆ど描かれていないが、天保15年(1844年)5月に歌川広重が春亭図を模した作品を描く。同年10月には本図の出版に対して伺書が提出され、南町奉行より出版許可が降りた。これが契機となって、続く弘化以降には歌川国芳や歌川芳虎ら国芳一門、歌川貞秀ら歌川派を中心に数多くの川中島合戦図が描かれるようになる。天正年間以降の合戦や人物を扱った作品では変名が使われるのが通例だが、それ以前の合戦である川中島合戦の場合は、人物や合戦名も史実通りに表記されるのが特徴である。場面としては一騎討ちの他にも、第四次合戦における山本勘助の活躍や討死などの名場面や、さらには武田・上杉両軍の諸将が対戦した創作的な作例も見られる。明治以降になると、歴史画の隆盛で画題が広がり、相対的に川中島合戦は描かれなくなるが、大分な揃物の中には、しばしば信玄や謙信が姿が見受けられる。",
"title": "川中島合戦図"
}
] |
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう。双方が勝利を主張した。 1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。 最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。 川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日から10日)を指すことが多い。 第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
|
{{Battlebox|
|battle_name=川中島の戦い
|campaign=武田信玄の戦闘
|image=[[画像:Kawanakajima Takeda Shingen vs Uesugi Kenshin statue.jpg|280px]]
|caption= [[上杉謙信]](右)の[[太刀]]を[[武田信玄]](左)が[[軍配]]で受け止める像。写真は長野市[[八幡原史跡公園]]の[[一騎討ち|一騎討]]像
|conflict=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
|date=[[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年)- [[1564年]]([[永禄]]7年)
|place=[[日本]][[信濃国]][[川中島]](現:[[長野市]])
|result=双方が勝利を主張<br>ただし、[[川中島]]地方は武田の勢力下に入る
|combatant1=[[File:Japanese Crest Takedabishi.svg|20px]] 武田軍
|combatant2=[[File:Japanese Crest Uesugi Sasa of Kenmonshokamon.svg|上杉氏竹に雀|20px]] 上杉軍
|commander1= [[武田信玄]]<br>[[武田信繁]]{{KIA}}<br>[[武田義信]]<br>[[諸角虎定]]{{KIA}}<br>[[山本勘助]]{{KIA}}<br>[[飯富虎昌]]<br>[[馬場信春]]<br>[[高坂昌信]]<br>[[真田幸隆]]
|commander2= [[上杉謙信|上杉政虎]]<br>[[直江実綱]]<br> [[柿崎景家]]<br>[[甘粕景持]]<br>[[中条藤資]]<br>[[色部勝長]]<br>[[本庄繁長]]<br>[[村上義清]]<br>[[高梨政頼]]
|strength1=20000
|strength2=13000
|casualties1=戦死者<br>[[武田信繁]]<br>[[諸角虎定]]<br>[[山本勘助]]など<br>他4000人死傷
|casualties2=戦死者<br>[[志駄義時|志田義時]]<br>[[大川忠秀]]など<br>他3000人死傷
|}}
'''川中島の戦い'''(かわなかじまのたたかい)は、[[日本]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に、領土拡大を目指し[[信濃国]](現在の[[長野県]])南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した[[甲斐国]](現在の[[山梨県]])の[[戦国大名]]である[[武田信玄]](武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた[[越後国]](現在の[[新潟県]])の戦国大名である[[上杉謙信]](長尾景虎)との間で、主に[[川中島]]で行われた数次の戦いをいう<ref name=help>日本大百科全書(ニッポニカ)。1541年(天文10)6月に家督相続した武田信玄は信濃へ出兵、10年くらいの間に信濃の豪族を次々破り、その中の[[村上義清]]、[[小笠原長清]]らは越後の上杉謙信に救援を求めた。</ref><ref>[https://n-story.jp/topic/05/page3.php 上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将] 新潟文化物語 新潟県文化振興課。上杉謙信と武田信玄、川中島で向かい合ったのは1553年、すでに武田信玄は信濃の南部、中部を手に入れており、北信濃を落とせば信越国境に迫ることになる。</ref>。双方が勝利を主張した。
[[1542年]]([[天文 (元号)|天文]]11年)に[[武田信玄]]が[[甲斐国]]の実権掌握後に[[信濃国]]に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の[[上杉謙信]]との間に軍事的な緊張が生まれた。武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになった。
最大の激戦となった第四次の戦は[[信濃川|千曲川]]と[[犀川 (長野県)|犀川]]が合流する三角状の平坦地である[[川中島]]の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。[[ファイル:BattleKawanakajima.jpg|thumb|350px|故人[[勝川春亭|春亭]]画 応需[[歌川広重|広重]]模写「信州川中嶋合戦之図」]]
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「[[川中島]]」で戦闘が行われたのは、第二次の[[犀川 (長野県)|犀川]]の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]](1561年[[10月17日]])から[[9月10日 (旧暦)|10日]]([[10月18日|18日]]))を指すことが多い。
# [[#第一次合戦|第一次合戦]]:[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])
# [[#第二次合戦|第二次合戦]]:天文24年([[1555年]])
# [[#第三次合戦|第三次合戦]]:[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])
# [[#第四次合戦|第四次合戦]]:[[永禄]]4年([[1561年]])
# [[#第五次合戦|第五次合戦]]:永禄7年([[1564年]])
[[ファイル:BattleKawanakajima.jpg|thumb|350px|故人[[勝川春亭|春亭]]画 応需[[歌川広重|広重]]模写「信州川中嶋合戦之図」]]
== 戦国期東国の地域情勢と川中島合戦 ==
[[画像:戦国甲信越.png|thumb|353px|戦国時代の甲信越地方[//upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/7/73/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E7%94%B2%E4%BF%A1%E8%B6%8A.png 拡大]]]
室町期の東国は[[鎌倉公方]]の分裂や鎌倉公方と[[関東管領]]の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。
甲斐国は[[武田信虎|信虎]]期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。武田氏では天文11年([[1542年]])に武田晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている<ref>平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上、下(学研M文庫、2002年)</ref>。武田氏は諏訪郡を制圧し[[信濃侵攻]]を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。
それまで武田氏と友好的関係にあった[[山内上杉家]]は関東において北条氏と敵対していたため、武田氏が北条氏と同盟することは武田氏と山内上杉氏との間の関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。
その後、甲斐の武田晴信は信濃国への軍の出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では[[村上氏]]が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃[[守護]]家の[[小笠原氏]]が抵抗を続けていた。
武田軍は、[[高遠氏]]、[[藤沢氏]]、[[大井氏]]など信濃[[国人]]衆を攻略、天文16年([[1547年]])には佐久に影響力を残していた[[関東管領]][[上杉憲政]]を[[小田井原の戦い|小田井原]]で破り、笠原氏の[[志賀城]]([[佐久市]])を落として村上氏と対峙する。
天文17年([[1548年]])の[[上田原の戦い]]では、武田晴信は[[村上義清]]に敗北を喫するが、[[塩尻峠の戦い]]で武田軍は[[小笠原長時]]を撃破する。
天文19年([[1550年]])、武田軍は小笠原長時を追い払い、[[仁科盛能]]を臣従させ、武田氏は中信地方を制圧し自国の領土とする。
同年、武田軍は[[村上義清]]の支城の[[戸石城]](砥石城とも)を攻めるが、敗退する([[砥石崩れ]])。しかし、翌天文20年(1551年)、[[真田幸隆]]の働きにより、武田軍は戸石城を落とすことに成功。また[[屋代氏]]などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地[[葛尾城]]に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。
また、[[武田信玄]]は[[越後]]隣国の[[越中国]]の内乱に干渉し続けた為、[[上杉謙信]]は度々[[越中国]]に遠征しなければならず、[[天正]]4年([[1576年]])には[[上杉謙信]]が[[越中国]]を統一する事となった。([[越中の戦国時代]]を参照)
対武田では村上氏と協力関係にあった[[長野盆地]]以北の北信濃国人衆([[高梨氏]]や[[井上氏]]の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあった。信濃で村上氏の勢力が衰退し、代わって武田晴信の率いる武田軍の脅威が増大すると北信濃国人衆は恐怖を感じて越後の長尾氏に援助を求めるようになった。特に長尾氏と高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父[[長尾為景]]の実母は高梨家出身であった。越後の守護でもあった[[関東管領]][[上杉氏]]との戦いでは、長尾家は先々代[[高梨政盛]]から多大な支援を受けていた。更に当代の[[高梨政頼]]の妻は長尾景虎の叔母でもあった。こうして、越後の[[長尾景虎]]は北信濃での戦いに本格的に軍事介入することになった。
== 川中島 ==
[[画像:SaiRiverJoinsChikumaRiver.jpg|thumb|left|[[千曲川]](左)へ犀川が合流する地点]]
信濃国北部、[[千曲川]]のほとりには[[長野盆地]]と呼ばれる[[盆地]]が広がる。この地には信仰を集める名刹・[[善光寺]]があり、[[戸隠神社]]や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南で、[[犀川 (長野県)|犀川]]が千曲川へ合流する地点から広がる地を'''[[川中島]]'''と呼ぶ。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった[[松本盆地]]に至る要地であった。
この地域には[[栗田氏]]や[[市河氏]]、[[屋代氏|屋代]]、[[小田切氏|小田切]]、[[信濃島津氏|島津]]などの小[[国人]]領主や[[地侍]]が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。
== 第一次合戦 ==
[[画像:川中島の戦い.png|thumb|350px|川中島の戦い[//upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/17/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84.png 拡大]]]
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年([[1553年]])に行われ、'''布施の戦い'''あるいは'''更科八幡の戦い'''とも言う。[[上杉謙信|長尾景虎]](上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて[[武田信玄|武田晴信]](武田信玄)と戦った。
[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])4月、武田晴信は北信濃へ軍を出兵して、[[小笠原氏]]の残党と[[村上氏]]の諸城を攻略。支えきれなくなった[[村上義清]]は、[[葛尾城]]を捨てて[[越後国]]へ逃れ、[[長尾氏]]と縁戚につながる[[高梨氏]]を通して[[上杉謙信|長尾景虎]]に支援を願った。
5月、[[村上義清]]は[[北信濃]]の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現・[[千曲市]]八幡地区、[[武水別神社]]付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、[[村上義清]]は[[葛尾城]]奪回に成功する。7月、[[武田氏]]軍は再び[[北信濃]]に侵攻し、[[村上氏]]方の諸城を落として[[村上義清]]の立て籠もる[[塩田城]]を攻めた。8月、[[村上義清]]は城を捨てて[[越後国]]へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて[[北信濃]]へ出陣。布施の戦い(現[[長野市]][[篠ノ井]])で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて[[荒砥城]](現千曲市上山田地区)を落とし、3日には[[青柳城]]を攻めた。[[武田氏]]軍は、[[今福石見守]]が守備する[[苅屋原城]]救援のため[[山宮氏]]や[[飯富左京亮]]<ref>飯富左京亮は[[飯富虎昌]]の子か。</ref>らを援軍として派遣し、さらに[[荒砥城]]に夜襲をしかけ、[[長尾氏]]軍の退路を断とうとしたため、景虎は[[八幡原]]まで兵を退く。一旦は兵を[[塩田城]]に向け直した景虎だったが、[[塩田城]]に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に[[越後国]]へ引き揚げた。晴信は10月17日に本拠地である[[甲斐国]]・[[甲府]]へ帰還した。
この戦いは川中島を含む[[長野盆地]]より南の千曲川沿いで行われており、[[長野盆地]]の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。[[長尾氏]]にとって、[[村上氏]]の旧領復活こそ叶わなかったが、[[村上氏]]という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に[[武田氏]]に靡く事態を防ぐ事には成功した。[[武田氏]]にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、[[小県郡]]はもちろん[[村上氏]]の本領・[[埴科郡]]を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
長尾景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して[[後奈良天皇]]に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は[[賊軍]]とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の[[佐久郡]]・[[下伊那郡]]・[[木曽郡]]の制圧を進めている。
なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、{{要出典範囲|date=2019年3月|武田氏研究者の[[柴辻俊六]]は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。}}
== 第二次合戦 ==
川中島の戦いの第二次合戦は、[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])に行われ、'''犀川の戦い'''とも言う。[[武田晴信]]と[[長尾景虎]]は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。
[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])、[[武田晴信]]は[[南信]]の[[伊那郡]]を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた[[相模国]]の[[後北条氏]]、駿河国の[[今川氏]]と三者で同盟を結び、特に北関東において[[上杉氏]]と対峙する[[後北条氏]]と共同して上杉氏と対決していく([[甲相駿三国同盟]])。その上で、[[長尾氏]]の有力家臣[[北条高広]]([[越後北条氏]])に反乱を起こさせた。景虎は[[北条高広]]を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で[[小笠原氏]]と共に[[武田氏]]に抵抗していた[[二木氏]]が[[小笠原氏]]逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した[[大日方氏]]が賞されている。
[[File:Shinshu Zenkoji.jpg|left|250px|thumb|善光寺]]
[[天文 (元号)|天文]]24年・[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、[[信濃国]][[善光寺]]の国衆・[[栗田永寿 (初代)]]が[[武田氏]]に寝返り、長野盆地の南半分が[[武田氏]]の勢力下に置かれ、[[善光寺]]以北の[[長尾氏]]方諸豪族への圧力が高まった。
晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の[[旭山城]](長野県長野市)に篭城する。景虎としてはこの旭山城を無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城の守兵に軍勢の背後を突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。そこで長尾軍は旭山城とは[[裾花川]]を挟んでほぼ真正面に位置する葛山に[[葛山城]](長野県長野市)を築いた<ref>『勝山記』天文24年条。なお、このときの援軍には[[鉄砲]]300挺、弓800張が動員されたと記されており、武田氏の合戦において初めて鉄砲の使用が確認される記事である。</ref>。これによって前進拠点を確保したと共に旭山城の機能を封殺することに成功した。
晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、[[犀川 (長野県)|犀川]]を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる<ref>『戦武』436 - 448号</ref>。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。
長尾軍に呼応して[[加賀一向一揆|一向一揆]]の抑えとして加賀に出兵していた[[朝倉宗滴]]が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、
閏10月15日、[[駿河国]]の[[今川義元]]の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した<ref>『勝山記』</ref>。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。
その後、晴信は木曽郡の[[木曾義康]]・[[木曾義昌|義昌]]父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。
第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の[[感状]]が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。
== 第三次合戦 ==
[[ファイル:Kai-Zenkoji-temple Kofu-city Yamanashi Japan.JPG|250px|thumb|甲斐善光寺]]
第三次合戦は、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に行われ、'''上野原の戦い'''とも言う。[[武田晴信]]の北信への勢力伸張に反撃すべく[[長尾景虎]]は出陣するが、[[武田晴信]]は決戦を避け、決着は付かなかった。
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])6月28日、[[越後]]では宗心(景虎)が[[出家]]隠遁を図る事件が起きている<ref>『[[歴代古案]]』『上越市史』 - 134号</ref>。[[上杉謙信|長尾景虎]]は[[長尾政景]]らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は[[長尾氏]]との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には[[高井郡]]の市河氏にも知行宛行を行っている。8月には[[真田幸綱]](幸隆)・[[小山田虎満]](備中守)らが[[東条氏]]が拠る長野盆地東部の[[埴科郡]][[尼飾城]]([[長野市]]松代町)を陥落させ<ref>『戦国遺文武田氏編』507、508号</ref>、同年8月には[[上杉謙信|長尾景虎]]家臣の[[大熊朝秀]]が[[武田氏]]に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県[[糸魚川市]]青梅)において景虎に敗れると[[武田氏]]に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])正月、景虎は[[武水別神社|更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)]]に[[願文]]を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡[[葛山城 (信濃国)|葛山城]](長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、[[高梨政頼]]の居城である[[飯山城]]に迫った<ref>『戦武』533-548号</ref>。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。[[上杉謙信]]の対応は雪解けまで遅れた。
[[長尾氏]]も攻勢を強め、4月18日には[[長尾景虎]]自身が出陣し長野盆地に着陣した<ref>『上越市史』別編(上杉氏文書集)145 - 148号</ref>。4月から6月にかけて[[北信濃]]の[[武田氏]]の諸城を攻め、[[高井郡]][[山田城 (信濃国)|山田城]]、[[福島城 (信濃国)|福島城]]を落とし、[[長沼城 (信濃国)|長沼城]]と[[善光寺]]を奪還。[[横山城 (信濃国)|横山城]]に着陣して、さらに破却されていた[[旭山城]]を再興して本営とした。5月、[[長尾景虎]]は[[武田氏]]領内へ深く侵攻、[[埴科郡]]・[[小県郡]]境・坂木の岩鼻まで進軍した。
6月11日に景虎は[[高梨政頼]]を派遣して[[高井郡]]の[[市河藤若]](信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には[[北条氏康]]の加勢である[[北条綱成]]勢が上田に到着し、同23日に景虎は[[飯山城]]へ撤退した。晴信は[[市河氏]]([[志久見郷]])への救援に[[塩田城]]の[[原与左衛門尉]]の足軽衆を派遣させているが間に合わず、[[塩田城]]の[[飯富虎昌]]に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている<ref>。なお、[[市河藤若]]に晴信上意を伝える使者として[[山本菅助]]が派遣されている([[市河家文書]])。[[山本菅助]]については後述。</ref>。[[武田氏]]は志久見郷の防衛に成功。[[長尾氏]]は武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には[[高井郡]][[野沢城]]・[[尼飾城]]を攻めるが[[武田氏]]は決戦を避け、[[長尾景虎]]は[[飯山城]]([[長野県]][[飯山市]])に引き揚げた。
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])7月5日、[[武田氏]]は[[安曇郡]][[平倉城]]([[小谷城 (長野県)|小谷城]])を攻略すると[[北信地方|北信]]・[[川中島]]へと侵攻し<ref>『戦武』564 - 571号</ref>、8月下旬には[[髻山城]]近くの[[水内郡]]上野原において[[武田氏]]・[[長尾氏]]は合戦を行う<ref>『上越』152 - 154号、なお「上野原」は[[長野市]]上野に比定されると考えられている。</ref>。景虎は[[旭山城]]を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に[[越後国]]へ引き揚げ、晴信も10月には[[甲斐国]]へ帰国した。
=== 足利義輝の仲介 ===
このころ[[京都|京]]では[[征夷大将軍|将軍]]の[[足利義輝]]が[[三好長慶]]、[[松永久秀]]と対立し[[近江国]]高島郡朽木谷(滋賀県[[高島市]])へ逃れる事件が起きている。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、[[長尾氏]]と[[武田氏]]の和睦を勧告する[[御内書]]を送った。晴信は[[長尾氏]]との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、[[永禄]]元年([[1558年]])正月16日に[[武田晴信]]は[[信濃国|信濃守護]]、嫡男[[武田義信]]は三管領に補任された<ref>『戦武』 - 586号</ref>。
[[武田晴信]]の信濃守護補任の条件には[[長尾景虎]]方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている<ref>『戦武』 - 609号</ref>。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である[[小笠原長時]]の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている{{Sfn|丸島|2008}}。
=== 武田氏が高梨氏館(中野城)を落とす ===
[[永禄]]2年([[1559年]])3月、[[長尾氏]]の有力な盟友であった[[高梨氏]]は本拠地の[[高梨氏館]]([[中野城]])([[長野県]][[中野市]])を落とされ、[[飯山城]]([[長野県]][[飯山市]])に後退した。[[長尾景虎]]は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。
==第四次合戦==
{{Wikisource|謙信記|3=謙信による義信評「謙信は歯噛をなして、年若なる者に仕懸けられ、殊更、我が勢油断致候事、我等一代の疵なりと、至極無念に存ぜられ候。流石は信玄が子とて、我等に仕懸けける。然れども義信、是を自慢に弓取らば、越度出来せん。信玄が如くしまり、遠慮を主(むね)として弓取らば、能き大将となるべしと、申され候」の原文}}
{{Wikisource|北越耆談|3=上杉方による義信評「此時武田義信の手柄、比類なき事なり。是を甲陽軍鑑の作者知らざるか、記し置かず。若武者の義信に逢ひて不覚を取る、一代の越度なりと、後々まで、無念に口惜がり申されつる由」の原文}}
『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である[[勝沼信友]]がおり、信友は天文4年([[1535年]])に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には[[今井氏|府中今井氏]]の[[今井信甫]]が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には[[今井信良|信良]]がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。
川中島の戦いの第四次合戦は、[[永禄]]4年([[1561年]])に行われ、'''八幡原の戦い'''とも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『[[甲陽軍鑑]]』{{Efn|『甲陽軍鑑』は近世初頭の元和年間に原本が成立した[[軍学書]]で、武田流軍学の聖典として武田側の視点から川中島合戦をはじめ信玄期の事績が数多く記されている。原本は春日虎綱(高坂昌信)の口述とされ内容については文書・記録資料上の事績と符合する部分もあるものの文書から確認されない事績や年紀・人物比定の誤りなどを数多く含むため、史料性については慎重視されている。一方で甲陽軍鑑は類書を含めて近世社会において広く普及し、現在にいたるまで川中島合戦の具体的イメージを形成した影響力を持っている。}}などの[[軍記物語]]のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『[[勝山記]]』{{Efn|『勝山記』は富士北麓の常在寺の僧により記された年代記で、富士北麓・郡内地域の地域情勢を中心に政治・外交的な記述を多く含み、同時代の記録資料として注目されている。}}や上杉氏の[[感状]]や[[近衛前久]]宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。
=== 合戦の背景 ===
天文21年([[1552年]])、[[北条氏康]]に敗れた[[関東管領]]・[[上杉憲政]]は越後国へ逃れ、景虎に[[上杉氏]]の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年([[1559年]])、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年([[1560年]])、大義名分を得た景虎は[[関東]]へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて[[小田原城]](神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年([[1561年]])3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた([[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]])。
[[永禄]]4年([[1561年]])4月、[[武田信玄]]が[[割ヶ嶽城]]([[長野県]][[上水内郡]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]])を攻め落とした。その際、[[武田信玄]]の[[信濃侵攻]]の参謀と言われた[[原虎胤]]が負傷した。これに代わって、[[山本勘助]]が参謀になる。
北条氏康は、同盟者の'''武田信玄'''(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に[[海津城]](長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、[[相模国]]・[[鎌倉市|鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を'''上杉政虎'''と改めて越後国へ引き揚げた。
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、[[塩崎城]]、[[山布施城]]等諸説がある)に対陣する。
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=== 『甲陽軍鑑』等における合戦の経過 ===
[[画像:第4次川中島の戦い.png|thumb|355px|第4次川中島の戦い[//upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/0e/%E7%AC%AC4%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84.png 拡大]]]
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の[[妻女山]]に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある[[海津城]]と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・[[高坂昌信]]から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の[[茶臼山]]に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある[[塩崎城]]に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の[[八幡原]]を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。
膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、[[山本勘助]]{{Efn|山本勘助は『甲陽軍鑑』において武田家の[[軍師]]的人物として描かれる武田氏の[[足軽大将]]で、甲州流軍学の教本となった『軍鑑』では特にその活躍が描かれている。一方、確実な文書においてはその名が見られないことからその実在性や『軍鑑』における活躍には疑問視もなされているが、戦後には「[[市河文書]]」や勘助に比定される可能性のある「山本菅助」が第三次合戦において[[使者]]を務めており、さらに2009年に発見された「真下所蔵家文書」においても「菅助」文書が確認され注目されている<ref>{{Cite journal|和書|author=海老沼真治|title=群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-|journal=山梨県立博物館研究紀要|issue=3号|year=2009}}</ref>。「山本勘助」については{{Cite book|和書|author=平山優|title=山本菅助|publisher=講談社|year=2006}}、{{Citation|和書|editor1=上野晴朗|editor2=萩原三雄|title=山本勘助のすべて|publisher=新人物往来社|year=2006}}を参照。}}と[[馬場信春|馬場信房]]に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは[[啄木鳥]](きつつき)が嘴(くちばし)で[[虫]]の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「'''啄木鳥戦法'''」と名づけられた{{Efn|実際のキツツキはこのようなエサの取り方はしないが、当時はそう信じられていた。}}。
9月9日(ユリウス暦では[[1561年]]10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると[[1561年]]10月27日<ref>[http://maechan.net/kanreki/ 【換暦】暦変換ツール]</ref>)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に[[鶴翼の陣]]で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、[[雨宮の渡し]]から千曲川を対岸に渡った。これが、[[頼山陽]]の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、[[甘粕景持]]、[[村上義清]]、[[高梨政頼]]に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに[[色部勝長]]、[[本庄繁長]]、[[鮎川清長]]ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。
10日(ユリウス暦では[[1561年]]10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると[[1561年]]10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、[[柿崎景家]]を先鋒に、車懸り([[波状攻撃]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8A%E6%87%B8%E3%81%8B%E3%82%8A-486520 コトバンク> デジタル大辞泉> 車懸かりとは]</ref>)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の[[武田信繁]]や[[山本勘助]]、[[室住虎光|諸角虎定]]、[[初鹿野忠次]]らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、[[名馬一覧#戦国時代・江戸時代|放生月毛]]に跨がり、[[名刀]]、[[日本刀一覧|小豆長光]]を振り上げた騎馬武者が[[床几]](しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると[[軍配]]をもってこれを受け、御中間頭の[[原虎吉|原大隅守]](原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。
[[頼山陽]]はこの場面を「'''流星光底長蛇を逸す'''」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の[[元亀]]元年([[1570年]])である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では[[一騎討ち]]が行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・[[天海]]の目撃談も記している。江戸時代に作成された『[[上杉家御年譜]]』では、斬りかかったのは[[荒川伊豆守]]だと書かれている<ref>{{Cite journal|和書|author=吉田義信|date=1993-05-29|title=置賜史談会創立四十周年を迎えて|journal=置賜文化|issue=第九十二号|page=3|publisher=置賜史談会|id={{NDLJP|4437714/5}}}}{{要登録}}</ref>。また、盟友関係にあった[[関白]]・[[近衛前久]]が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた[[甘粕景持]]隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で首実検を行い、勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も[[首実検]]を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。
また、これは『甲陽軍鑑』の記述とは関係ないが、上杉軍はこの合戦に参戦したとされる[[長尾藤景]]が川中島合戦における上杉政虎の戦術を批判したとして政虎からの不興を買っている。数年後に政虎(当時は輝虎と改名)は同じく家臣の[[本庄繁長]]に命じて藤景を成敗させているが、この際に恩賞が出なかったことを不服とした繁長は甲斐国の[[武田信玄]]の誘いに応じて上杉家に謀反([[本庄繁長の乱]])を起こしている。事実の程は不明であるが、この川中島の戦いは後年の上杉家にしこりを残しているといえる。
この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「'''[[血染めの感状]]'''」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容の感状を7通発給しており自身の旗本や揚北衆の中条や色部を中心にその戦功を称えている。信玄側にも2通の感状が確認されている。
=== 参戦武将 ===
* 武田軍
** '''旗本本隊'''(8000人)
*** '''総大将''':[[武田信玄]]
*** [[武田信繁]]、[[武田義信]]、[[武田信廉]]、武田義勝([[望月信頼]])、[[穴山信君]]、飯富昌景([[山県昌景]])、工藤祐長([[内藤昌豊]])、[[室住虎光|諸角虎定]]、[[跡部勝資]]、[[今福虎孝]]、[[浅利信種]]、[[山本勘助]]、[[室賀信俊]]
** '''妻女山別働隊'''(12000人)
*** [[春日虎綱]](高坂昌信)、[[馬場信春|馬場信房]]、[[飯富虎昌]]、[[小山田信有 (弥三郎)|小山田信有]](弥三郎)?、[[甘利昌忠]]、[[真田幸綱]]、[[相木昌朝]]、[[芦田信守]]、[[小山田虎満]](昌辰)、[[小幡憲重]]
* 上杉軍(13000人)
** '''総大将''':[[上杉謙信|上杉政虎]]
** [[柿崎景家]]、[[本庄実乃]]、[[新発田重家|五十公野治長]]、[[中条藤資]]、[[安田長秀]]、[[加地春綱]]、[[色部勝長]]、[[本庄繁長]]、[[鮎川清長]]、[[山吉豊守]][[村上義清]]、[[高梨政頼]]、[[井上清政]]、[[北条高広]]、[[宇佐美定満]]、[[荒川長実]]、[[志駄義時]]、[[大川忠秀]]
** [[直江景綱|直江実綱]](小荷駄護衛)
** [[甘粕景持]](殿(しんがり))
** [[長尾政景]](春日山留守居)
** [[斎藤朝信]](越中方面守備)
『甲陽軍鑑』などによる。なお、都留郡の領主である[[小山田氏]]は、『甲陽軍鑑』では当主の弥三郎信有が参陣し妻女山を迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。一方、『[[勝山記]]』によれば弥三郎信有本人は病床にあったため参陣せず、小山田衆を派遣しており、小山田衆は側面攻撃を意味する「ヨコイレ」を行ったという。弥三郎信有は永禄8年(1565年)に死去し、小山田氏当主は[[小山田信茂|信茂]]に交代する。
== 第五次合戦 ==
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、[[永禄]]7年([[1564年]])、'''塩崎の対陣'''とも言う。'''上杉輝虎'''(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は、[[武田信玄]]の[[飛騨国]]侵入を防ぐために川中島に出陣した。川中島に布陣する[[上杉謙信]]に対して、[[武田信玄]]は決戦を避けて[[塩崎城]]に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
[[上杉輝虎]]は、関東へ連年出兵して[[後北条氏]]との戦いを続けた。[[後北条氏]]と同盟する[[武田氏]]は常に[[上杉輝虎]]の背後を脅かしていた。[[上杉輝虎]]の[[武田信玄]]への憎悪は凄まじく、居城であった[[春日山城]]([[新潟県]][[上越市]])内の看経所と[[弥彦神社]](新潟県[[西蒲原郡]][[弥彦村]])に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓った。
=== 飛騨国内紛に武田・上杉が介入 ===
[[飛騨国]]では[[国衆]]同志の争いが[[武田氏]]・[[上杉氏]]の対立と相関し、[[飛騨国]]衆の[[姉小路良頼|三木良頼]]・[[姉小路頼綱|三木自綱]]親子と[[江馬輝盛|江馬(江間)輝盛]]は、[[江馬時盛]]と敵対していた。[[永禄]]7年([[1564年]])には信玄が[[江馬時盛]]を、輝虎が[[三木氏]]・[[江馬輝盛]]を支援して介入する。『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣の[[山県昌景]]・[[甘利昌忠]](信忠)を[[飛騨]]へ派遣し、これにより[[三木氏]]・[[江馬輝盛]]は劣勢となる。同年8月、[[上杉輝虎]]は信玄の[[飛騨国]]侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の[[塩崎城]]まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
以後、信玄は[[東海道]]や[[美濃国|美濃]]、[[上野国|上野]]方面に向かって勢力を拡大し、[[上杉輝虎]]は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
== 戦後の甲越関係と川中島 ==
川中島をめぐる[[武田氏]]・[[上杉氏]]間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている{{Sfn|丸島|2008|p=37}}。[[上杉謙信]]は[[武田信玄]]の支援を受けた、[[越中]]の[[武将]]や[[越中一向一揆]]の鎮圧に忙殺されることになる。
[[武田氏]]は、対外方針を転じ、同盟国であった[[今川氏]]と敵対する[[織田氏]]と外交関係を深め{{Efn|永禄3年([[1560年]])5月、[[今川義元]]が[[桶狭間の戦い]]で尾張の[[織田信長]]に討たれ、[[今川氏]]は[[今川氏真]]へ当主交代する。これに伴い三河国岡崎では[[徳川家康|松平元康]](徳川家康)が自立するなど、国衆の反乱が相次いだ([[遠州忩劇]]){{Sfn|丸島|2008|pp=37-40}}。ただし、信玄が織田氏との関係を強めた本来の意図は信長の美濃進出で武田氏と織田氏の勢力圏が接したことによる衝突を避ける目的で、今川氏を標的とするものではなかったとみられている<ref>丸島和洋「武田氏から見た今川氏の外交」(初出:『静岡県地域史研究』5号(2015年)/大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P401.</ref>。}}、永禄8年([[1565年]])、信長の養女を信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎える{{Sfn|丸島|2008|p=41}}。同年10月、[[今川氏真]]の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚し([[武田義信#義信事件|義信事件]]){{Sfn|丸島|2008|pp=40-41}}、永禄11年(1568年)11月、義信正室が駿河へ帰国した{{Efn|義信は永禄10年10月19日に死去し、永禄11年11月には氏真の要請で義信正室が駿河へ帰国した{{Sfn|丸島|2008|p=41}}。}}。他方、今川氏は、上杉氏と秘密外交を行ったが、これが武田方に露見する{{Efn|信玄による今川家臣の内応工作により、今川・上杉間の交渉が露見した{{Sfn|丸島|2008|pp=41-42}}。}}。武田氏は、同年12月、駿河今川領国への侵攻を開始するが([[駿河侵攻]])、これは北条氏との[[甲相同盟]]を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏は、上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え([[越相同盟]])、武田氏は、織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している([[甲越和与]])。
その後、武田氏は、三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し([[西上作戦]])、上杉氏とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。
=== 長篠の戦い以降 ===
[[元亀]]4年([[1573年]])の[[武田信玄]]死去後、[[1575年]]の[[長篠の戦い]]で惨敗した[[武田勝頼]]は[[上杉謙信]]と和睦して甲斐に無事帰国している。
謙信死去により越後で後継をめぐる[[御館の乱]]([[1578年]])が起こると、武田勝頼は越後に出兵する。[[上杉景勝]]は、勝頼の異母妹[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]と婚を通じて和睦し、[[甲越同盟]]が成立する。
=== 甲州征伐 ===
[[甲越同盟]]によって、[[武田氏]]の勢力は、川中島の戦いの係争地であった[[北信地方|川中島四郡]]を超えて[[越後国]]に及んだ。結果、[[甲相同盟]]を再び破綻させ、[[上杉氏]]では[[柴田勝家]]らからなる[[織田氏|織田軍]]の攻勢を防備するが、武田方では[[天正]]10年([[1582年]])に織田・徳川連合軍による侵攻([[甲州征伐]])により滅亡する。
=== 武田氏滅亡と天正壬午の乱 ===
[[武田氏]]滅亡後の川中島を含む信濃領国は[[森長可]]ら織田家臣によって支配されるが、同年末の[[本能寺の変]]において信長が横死すると[[森長可]]が逃亡し無主となった武田遺領は空白地域となり、上杉、徳川、北条三者による争奪戦([[天正壬午の乱]])となり、武田遺領は徳川氏により確保された。
=== 豊臣政権 ===
[[豊臣秀吉]]によって[[上杉家]]は会津を経て[[米沢城|米沢]]へ[[移封]]され、[[川中島]]の地域は[[徳川氏]]の勢力下となった。天下統一をなした豊臣秀吉は、川中島の地を訪れ、人々が信玄と謙信の優れた軍略を称賛するなか、「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。
=== 江戸時代 ===
[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、[[真田家]]が、[[江戸幕府|徳川政権]]により、[[上田城]]から[[海津城]]([[松代城]])に移される。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、藩主は勿論、家臣団ら武田遺臣にとっても祖父や大叔(伯)父らが活躍した川中島の地は神聖視され、松代藩の手により辛うじて残されていた戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。
== 両軍の兵力 ==
江戸時代の幕府の顧問僧であった[[天海]]の目撃情報などに基づく。
{| class="wikitable"
|+'''両軍の規模'''
|-
! !!上杉軍!!武田軍!!備考
|-
|第一次||8,000人||10,000人||小競り合いにて終結。
|-
|第二次||8,000人||12,000人||膠着状態になり、[[今川義元]]の仲介にて、[[旭山城]]の破却と[[犀川 (長野県)|犀川]]を境として北を上杉領、南を武田領とすることで和睦。
|-
|第三次||10,000人||23,000人||[[足利義輝]]の仲介([[御内書]])にて和睦。[[武田信玄|晴信]]が[[信濃国#武家官位としての信濃守|信濃守護]]となる。
|-
|第四次||13,000人||20,000人||多数の死傷者を出す激戦となり、双方が勝利を主張。[[武田信繁]]・[[室住虎光|諸角虎定]]・[[山本勘助]]など名立たる武将が討ち死するも、北信濃の地は武田が制圧。
|-
|第五次||?人||?人||両軍睨み合いのまま双方撤退。
|}
== 異説 ==
川中島の戦いにおける記録の中には、周知されているものとは別の説が存在する。
* 川中島の戦いは、戦を行う理由として、[[武田氏|武田]]、[[長尾氏|長尾(上杉)]]両氏が内乱を起こしかねない臣下に対して求心力を高めるためのパフォーマンスのようなものだったとする説がある<ref>[[山室恭子]]『群雄創世紀』(朝日新聞社、1995年)</ref>。
* 『甲陽軍鑑』に記される「啄木鳥の戦法」については、いくつかの異論や反論が存在する。まず、妻女山の尾根の傾斜がきつく、馬が通るだけの余裕がないため、実際に挟み撃ちが可能かについて疑問が出されている<ref>栗岩英治『飛翔謙信(田中武夫編)』の中で、地理を知る郷土史家としてはどうにも合点がいかず、これをそのままに放任するわけにはいかない、と難色を示した。</ref>。そこで妻女山に陣をしいた上杉軍を取り囲んで兵糧攻めにしたところ、窮地を脱しようと上杉軍が全軍で武田軍本陣に突撃をかけたのではないかとする説が生まれた。
* 両軍ともに濃霧の中で行軍していて、本隊同士が期せずして遭遇して合戦になったという「不期遭遇戦説」<ref>{{Cite journal|和書|author=柴辻俊六|title=川中島合戦の虚像と実像|journal=信濃|volume=52巻|issue=5号|year=2000}}を受けて、{{Cite book|和書|author=三池純正|title=真説・川中島合戦― 封印された戦国最大の白兵戦―|publisher=洋泉社|year=2003}}で遭遇戦の過程を推理した。</ref>もある。この説は、当時の合戦にしては異常ともいえる死亡率の高さの説明にもなり<ref>統率された軍団同士の戦闘では死傷者はそこまで多くならない。被害が増大した部隊は組織的に退却するからである。一般的に死傷者が大幅に増加するのは潰走が始まり指揮命令系統が機能しなくなってからか、不意の遭遇により指揮命令系統が確立せずに戦闘が始まった時である。</ref>、状況証拠などの分析により一定の信憑性があるとされる。
== 研究史 ==
江戸時代には『甲陽軍鑑』や『川中島五箇度合戦之次第』などの軍記物が流布し、二次的に『武田三代記』『北越軍記』『[[北越軍談]]』などの軍記物が生まれ、川中島の戦いは五回あったとする五戦説が広まっていた。
近代歴史学においては[[1889年]](明治22年)に[[田中義成]]が五戦説を否定し<ref>田中義成「甲越事績考―川中島合戦―」(『史学会雑誌』1号、1890年)</ref>、川中島の戦いは弘治元年と永禄4年の2回であったとした。また、[[1932年]](昭和7年)には軍人の北村建信が田中の二戦説を補強している<ref>[[北村建信]]「甲越川中島戦史」(報国学会、1932年)</ref>。
これに対し、[[1929年]](昭和4年)には[[渡辺世祐]]が五戦説を提唱し<ref>[[渡辺世祐]]『武田信玄の経綸と修養』(創元社、1943年)</ref>、戦後には1959年(昭和34年)に[[小林計一郎]]が五戦説を支持している<ref>[[小林計一郎]]『川中島の戦―甲信越戦国史―』(銀河書房、1980年)</ref>。
[[2000年]]には[[柴辻俊六]]が五戦説を再検討し<ref>{{Cite journal|和書|author=柴辻俊六|title=川中島合戦の虚像と実像|journal=信濃|volume=52巻|issue=5号|year=2000}}</ref>、川中島の戦いとそれ以外の小規模な戦闘を甲越対戦と区別し、川中島の戦いは永禄4年9月の第四次合戦に限定されるとした。
[[2002年]]には平山優が信濃国衆の動向を中心に武田信玄の信濃侵攻から川中島の戦いに至る過程の再検討を行い、川中島の戦いを東国戦国史のなかに位置づけた<ref>平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上・下(学研M文庫、2002年)</ref>。
== 川中島合戦図 ==
近世には『甲陽軍鑑』『北越軍談』に基づいて[[甲州流軍学]]・[[越後流]]軍学が形成され大名家にも招聘された。江戸前期から大名家においては『軍鑑』『軍談』『甲越信戦録』『絵本甲越軍記』などに基づいて川中島合戦図屏風が制作されたものと考えられている。現在でも数々の作例が現存しており、特に[[柏原美術館]]所蔵品<ref>紙本着色八曲一双、岩国市指定文化財。画風から[[17世紀]]中頃の[[狩野派]]の作と推測される。初伝では、川中島の戦いに参加した武田氏の旧臣伴総九郎が描かせたもので、総九郎の曾孫が安芸武田氏に納め、後にその子孫から岩国美術館の前身であるにしむら博物館に寄贈したという([[桑田忠親]]他編集 『戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』 [[中央公論社]]、1980年、普及版1988年 ISBN 978-4-12-402721-1)。[http://www.iwakuni-art-museum.org/ex/ex_03_01.htm 公式サイトの解説]。</ref>や[[和歌山県立博物館]]所蔵品(紀州本<ref>紙本着色六曲一双、17世紀後半、狩野派の絵師の作と推定される。[http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/cgi-bin/list.cgi?ID=622 公式サイトの解説])。この屏風については、[[高橋修 (歴史学者)|高橋修]] 『【異説】もうひとつの川中島合戦 ─紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』([[洋泉社]]<新書y170>、2007年 ISBN 978-4-86248-126-9)に詳しい。</ref>)などが川中島合戦図屏風の代表作として知られる<ref>他に、岐阜・[[ミュージアム中仙道]]([[土佐光起]]の嫡男[[土佐光成]]筆、[http://www.nakasendou.jp/museum/A-98-3.htm 画像])、山形・[[米沢市上杉博物館]]、福井・[[勝山城 (越前国)|勝山城]]博物館、[[長野県立歴史館]]、個人蔵2点が確認されている(『<small>大河ドラマ特別展</small> 風林火山 信玄、謙信、そして伝説の軍師』図録、山梨県立博物館2007年4-5月、[[新潟県立歴史博物館]]8-9月、[[大阪歴史博物館]]10-12月、画像と解説あり)。</ref>。川中島合戦図屏風は作例により『軍鑑』『軍談』それぞれの記述に忠実なものや両者が折衷したものなど特徴が見られ、これは製作された大名家における[[軍学]]の影響力が製作事情に反映されているものであると考えられている。
主題として描かれるのは主に永禄4年(1561年)9月1日の八幡原における合戦の場面で、画面構成は武田陣営には白熊兜や北斗七星の[[軍配]]を持ち床几に座すなどの特徴で信玄の姿が描かれ、上杉方では白頭巾や連銭芦毛の駿馬を駆った姿を特徴とする上杉謙信が描かれ、上杉勢の強襲により敗走する武田勢や迎え撃つ山県昌景の軍勢、妻女山から急行する武田別働隊、さらに信玄・謙信の一騎討ちなどの場面が異時同図的に描かれる。合戦の様子ではなく配陣図を描いた作例も見られる。
更に[[浮世絵]]の画題の一つ[[武者絵]]においても、川中島合戦図はしばしば描かれ、その数は200種類を超えるとも言われる<ref>[[山梨県立美術館]]ほか主催 『錦絵にみる戦国絵巻 武田信玄の世界』 山梨県立美術館、1988年、p.3。</ref>。古くは[[懐月堂安度]]の[[肉筆浮世絵|肉筆画]]による信玄軍陣影図や一騎討ちの図、版画では[[鳥居清倍 (2代目)|二代鳥居清倍]]や[[奥村政信]]、[[喜多川歌麿]]らが一騎討ちの図を手掛けている。三枚続の群像表現を導入したのは、[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])の[[勝川春亭]]が最初である。その後、[[文政]]から[[天保]]にかけて同様の川中島合戦図は殆ど描かれていないが、天保15年([[1844年]])5月に[[歌川広重]]が春亭図を模した作品を描く。同年10月には本図の出版に対して伺書が提出され、[[町奉行|南町奉行]]より出版許可が降りた。これが契機となって、続く[[弘化]]以降には[[歌川国芳]]や[[歌川芳虎]]ら国芳一門、[[歌川貞秀]]ら[[歌川派]]を中心に数多くの川中島合戦図が描かれるようになる<ref>[[小林計一郎]] 酒井雁高 『浮世絵川中島大合戦』 白文社、1986年4月、ISBN 4-938521-10-5。</ref>。[[天正]]年間以降の合戦や人物を扱った作品では変名が使われるのが通例だが、それ以前の合戦である川中島合戦の場合は、人物や合戦名も史実通りに表記されるのが特徴である。場面としては一騎討ちの他にも、第四次合戦における山本勘助の活躍や討死などの名場面や、さらには武田・上杉両軍の諸将が対戦した創作的な作例も見られる。[[明治]]以降になると、[[歴史画]]の隆盛で画題が広がり、相対的に川中島合戦は描かれなくなるが、大分な揃物の中には、しばしば信玄や謙信が姿が見受けられる<ref>渡邉晃 「戦乱の時代の浮世絵─出陳作品を中心として」([[浮世絵 太田記念美術館|太田記念美術館]]編集・発行 『浮世絵 戦国絵巻~城と武将』、2011年10月、pp.11-12)。</ref>。
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* [[井上靖]]『[[風林火山 (小説)|風林火山]]』[[新潮社]]、改訂版[[2005年]]、ISBN 4101063079
* [[新田次郎]] 『[[武田信玄]]』 風の巻、林の巻、火の巻、山の巻 文藝春秋 新装版 2005年 ISBN 4167112302, ISBN 4167112310, ISBN 4167112329, ISBN 4167112337
* [[海音寺潮五郎]]『[[天と地と|天と地と 下巻]]』[[文藝春秋]]、改訂版[[2004年]]、ISBN 4167135450
* [[半村良]]『[[戦国自衛隊]]』[[角川書店]]、新装版2005年、ISBN 4041375339
* [[伊東潤]] 『吹けよ風呼べよ嵐』 [[祥伝社]] 2016年
=== 映画 ===
*[[川中島合戦 (映画)|川中島合戦]]([[1941年]]、[[東宝]]、武田信玄…[[大河内伝次郎]],上杉謙信…[[市川猿翁 (初代)|市川猿之助]]、山本勘助…[[小杉義男]]、作曲…[[山田耕筰]])
* [[風林火山 (映画)|風林火山]]([[1969年]]、[[東宝]]、山本勘助…[[三船敏郎]]、武田信玄…[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、上杉謙信…[[石原裕次郎]])
* [[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]([[1979年]]、東宝、伊庭義明三尉…[[千葉真一]]、長尾景虎…[[夏八木勲]]、武田信玄…[[田中浩 (俳優)|田中浩]])
* [[天と地と#映画|天と地と]]([[1990年]]、東宝、上杉謙信…[[榎木孝明]]、武田信玄…[[津川雅彦]])
=== テレビドラマ ===
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]([[1969年]]、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、上杉謙信…[[石坂浩二]]、武田信玄…[[高橋幸治]])
** 川中島の戦いは[[DVD]]『NHK想い出倶楽部2~黎明期の大河ドラマ編~ (5)「天と地と」』に収録。その他の映像は現存しない。
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]([[1988年]]、NHK大河ドラマ、武田信玄…[[中井貴一]]、上杉謙信…[[柴田恭兵]])
** 第27回 『川中島血戦(一)』、第28回 『川中島血戦(二)』。当時の大河ドラマとしては最大規模のロケを敢行した。この回はDVD『NHK 大河ドラマ 武田信玄 完全版 第壱集』に収録されている。
* [[風林火山 (1992年のテレビドラマ)|風林火山]]([[1992年]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、山本勘助…[[里見浩太朗]]、武田信玄…[[舘ひろし]]、上杉謙信…[[髙嶋政宏]])
* [[風林火山 (2006年のテレビドラマ)|風林火山]]([[2006年]]、[[テレビ朝日]]、山本勘助…[[北大路欣也]]、武田信玄…[[松岡昌宏]]、上杉謙信…[[徳重聡]])
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]([[2007年]]、NHK大河ドラマ、山本勘助…[[内野聖陽]]、武田信玄…[[市川猿之助 (4代目)|二代目市川亀治郎]]、上杉謙信…[[Gackt]])
** 第四次川中島の戦いが最終回(本作の主人公である山本勘助がこの戦いで戦死するため)。本作最大のクライマックスとなった。
* テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル [[天と地と]]([[2008年]]、[[テレビ朝日]]、上杉謙信…[[松岡昌宏]]、武田信玄…[[渡部篤郎]])
* 戦国ヤンキー 川中島学園([[2010年]]、[[テレビ神奈川|tvk]]他4局共同制作『[[戦国鍋TV 〜なんとなく歴史が学べる映像〜]]』内コーナードラマ、上杉謙信…[[與真司郎]]、武田信玄…[[鈴之助]]、山本勘助…[[石井智也]])
** 戦いを(制作・放送時点での)現代の高校に於ける不良グループの抗争に置き換え、『[[クローズZERO]]』風の世界観で描いた作品。
=== ゲーム ===
* 風林火山([[バンダイifシリーズ]])
* 川中島合戦([[エポック社]]EWEシリーズ)
* 武田騎馬軍団(エポック社)
* 関東制圧([[ツクダホビー]])
* 甲斐の虎(ツクダホビー)
* 信玄vs謙信〜川中島血戦〜([[翔企画]])
* 川中島軍記([[ウォーゲーム日本史]])
* シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦([[1981年]] [[コーエー|光栄マイコンシステム]])
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[笹本正治]] 監修・長野県飯山市 編『川中島合戦再考』([[新人物往来社]]、[[2000年]]) ISBN 4404028997
* [[平山優 (歴史学者)|平山優]]『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上、下([[学研ホールディングス|学研]]M文庫、[[2002年]])
** 上 ISBN 4059011266、下 ISBN 4059011347
* 三池純正『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』([[洋泉社]]新書y、[[2003年]]) ISBN 4896917529
* 柴辻俊六『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営』([[中央公論新社]]、[[2006年]]) ISBN 4121018729
* 柴辻俊六『武田信玄合戦録』([[角川学芸出版]] 、2006年) ISBN 4047034037
* 桑田忠親監修『日本の合戦(3)群雄割拠』 (新人物往来社、[[1978年]]) <!-- ASIN B000J8ONFG -->
* 桑田忠親『新編日本合戦全集 応仁室町編』([[秋田書店]]、[[1990年]])ISBN 4253003796
* 『クロニック戦国全史』 ([[講談社]]、[[1995年]])ISBN 4062060167
* 杉山博 『日本の歴史 (11) 戦国大名』(中央公論新社、[[1974年]])ISBN 4122000866
* [[磯貝正義]]、[[服部治則]]校注『甲陽軍鑑(上)(中)(下)』(新人物往来社、[[1965年]])
* 小林計一郎『武田軍記』(新人物往来社 [[1967年]]、朝日文庫 1988年復刊、いずれも絶版)
* 小林計一郎『川中島の戦―甲信越戦国史』(銀河書房、[[1980年]])
* [[栗岩英治]]『飛翔謙信(田中武夫編)』(信濃毎日新聞社、1969年)
* [[笹本正治]]『武田・上杉・真田氏の合戦』([[宮帯出版社]]、[[2011年]]) ISBN 9784863660847
* {{Citation|和書|author=丸島和洋|chapter=信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交|editor=柴辻俊六|title=新編武田信玄のすべて|publisher=新人物往来社|year=2008|ref={{SfnRef|丸島|2008}}}}
== 関連項目 ==
{{Wikisource|カテゴリ:甲陽軍鑑|甲陽軍鑑}}
{{Wikisource|カテゴリ:越後史集|越後史集}}
* [[川中島古戦場]]
* [[川中島合戦戦国絵巻]]‐川中島の戦いにちなみ、毎年4月に山梨県[[笛吹市]]で開催されるイベント。
* [[謙信道]]
* [[大名領国制]]
* [[日本史時代区分表]]
* [[戦国大名]]
* [[日本の合戦一覧]]
* [[戦国時代史料の一覧]]
* [[戦国時代の人物一覧]]
* [[川中島ダービー]]
== 外部リンク ==
* [http://www.furin-kazan.jp/nagano/ 【川中島の戦い】長野市「信州・風林火山」特設サイト]…財団法人ながの観光コンベンションビューロー開設。歴史解説、史跡・観光・イベント案内。
* [http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_furinkazan_04kawanaka.htm 「山梨県立博物館の資料にみる『風林火山』の世界」4:川中島の戦い][http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_furinkazan_04kawanaka2.htm 2] - 川中島合戦を描いた錦絵などにおける「一騎討ち」場面の画像
* [https://n-story.jp/topic/05/page3.php 「上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将」] 新潟文化物語 新潟県文化振興課
* [https://web.archive.org/web/20130409011954/http://www.geocities.jp/seiryokuzu/ 戦国武将勢力地図]
* [http://www.jp-history.info/ 日本の歴史ガイド]
* [http://hakko-daiodo.com/main-0 戦国武将の家紋集]
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写真植字
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写真植字(しゃしんしょくじ、略称は写植、英: phototypesetting, photocomposition)は、写真植字機を用いて文字などを印画紙やフィルムに印字して、写真製版用の版下などを作ること。また長らくテレビ放送用のテロップ用の版下としても使われた。
多くのサイズの活字が必要な活版印刷に対し、写真植字では1個の文字ネガで足りる。オフセット印刷の普及とともに、写真植字も急速に需要を拡大した。
文字のネガをレンズで拡大または変形して印画紙に焼き付けるので、独特の柔らか味がある事が写真植字のメリットの一つである。DTPが普及した昨今でも、タイトル文字などに限って写真植字を指定して使うケースが見られる。
また、写真植字の歴史は、写研の歴史そのものとも言える。
文字の大きさの単位をQ(または級)、文字の送り量の単位をH(または歯)とする。いずれも0.25mmを1とする。すなわち24Qといえば6mmの大きさの文字を意味する。
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文字のネガをレンズで拡大または変形して印画紙に焼き付けるので、独特の柔らか味がある事が写真植字のメリットの一つである。[[DTP]]が普及した昨今でも、タイトル文字などに限って写真植字を指定して使うケースが見られる。
また、写真植字の歴史は、[[写研]]の歴史そのものとも言える。
文字の大きさの単位をQ(または級)、文字の送り量の単位をH(または歯)とする。いずれも0.25mmを1とする。すなわち24Qといえば6mmの大きさの文字を意味する。
== 関連項目 ==
* [[印刷]]
* [[出版]]
* [[組版]]
* [[写研]](旧称:写真植字機研究所)
* [[活版]]
* [[電算写植]]
* [[DTP]]
== 外部リンク ==
* [http://www.youtube.com/watch?v=o1XtiG0wvDg# インタビュー「写真植字の時代」(DTPニュースvol.12)](YouTube)
* {{Kotobank}}
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昆虫
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昆虫(こんちゅう、insect)は、六脚亜門の昆虫綱(学名: Insecta)に分類される節足動物の総称である。昆虫類とも総称されるが、これを昆虫と内顎類を含んだ六脚類の意味で使うこともある。
かつては全ての六脚類が昆虫に含められていたが、分類体系が見直され、現在は内顎類(内顎綱)の分類群(トビムシ、カマアシムシ、コムシ)が除外される。この記事ではこれら内顎類にも触れる。
昆虫は多様な節足動物の中でも、特に陸上で進化したグループである。
ほとんどの種は陸上で生活し、淡水中に棲息するものは若干、海中で棲息する種は例外的である。水中で生活する昆虫は水生昆虫(水棲昆虫)と呼ばれ、陸上で進化した祖先から二次的に水中生活に適応したものと考えられている。地球内の気候、環境に適応しており、種多様性が非常に高い。
日本の国立科学博物館によれば、2018年時点で知られている昆虫は約100万種で、確認されている生物種の半分以上を占める。未発見・未分類の昆虫も多いと推測されている。日本産生物種数調査によれば、日本産の既知種数は30747種とされる(2003年現在)。
単に「虫」として一般に知られる動物群であるが、これは昆虫を専門に指す名称ではなく、ダンゴムシ・クモ・ムカデ・ミミズ・カタツムリなど昆虫以外の多くの小動物をも含んだ雑多な総称である。
以下は昆虫の一般的な特徴である。しかし、寄生性昆虫や一部の幼虫などには、これらの特徴から大きく逸脱した例もある。
他の節足動物と同様、昆虫の体は、体節(somite)と呼ばれる節(ふし)の繰り返し構造でできている。昆虫では、体節がいくつかずつセットになり、先節と直後5節を含んだ頭部(head)、3節を含んだ胸部(thorax)、11節を含んだ腹部(abdomen)という3つの合体節(tagma)にまとまっている。頭部の体節は完全に癒合して1つの構造体にまとまり、腹部は最終の体節が退化的であるため外見上は10節以下に見える。
各部位の付属肢(関節肢)やその他の附属体は、原則として頭部には触角(antenna)・大顎(mandible)・小顎(maxilla)各1対および前後で上唇(labrum)と下唇(labium)各1枚、胸部には脚3対、腹部には生殖肢(gonopod)2対と尾毛(cerci)1対がある。下唇は癒合した第2小顎であり、生殖肢は多くの場合では著しく特化して生殖器となり、付属肢らしからぬ形態をもつ。
呼吸器官として気管系(tracheal system)があり、胸部と腹部の両側に気門(trachea)を開く。水生昆虫では腹部に鰓など別の呼吸器をもつ場合がある。
ほとんどの昆虫(有翅昆虫)は胸部に2対の翅(wing)を持ち、空を飛ぶことができる。空を飛んだ最初の動物は昆虫だとされている。昆虫の翅の構造は、グループによって様々に特化し、彼らの生活の幅の広がりに対応している。
特別な感覚器官としては、眼と触角が挙げられる。それ以外の各部に小さな受容器を持つ。
大部分の昆虫は頭部に1対の複眼と3個以下の単眼を持つ。両者を有する場合、片方だけの場合、ごく一部に両方とも持たない例がある。複眼は主要な視覚器として働き、よく発達したものでは優れた視覚を持つと考えられる。また、紫外線を視覚する能力を持っている。すなわち解剖学的に、昆虫の目には紫外線を感知する細胞がある。ヒトの眼ではオスとメスの色の区別ができない昆虫(たとえば、モンシロチョウの翅の色)でも、実際にはオスとメスの翅で紫外線反射率に大きな差がある。そのため、モンシロチョウ自身の目には、ヒトの目と違って、オスとメスの翅は全く別の色であると認識できているものと推察される。また単眼は明暗のみを感知する。
化学物質の受容、つまり味覚と嗅覚は触角、口器、および歩脚の先端部である附節にある。いくつかの昆虫は個体間の誘因などの役割を担うフェロモンを出すが、その受容は触角で行われる。
聴覚に特化した器官を持つ例は多くなく、コオロギやセミなど一部に限られる。夜行性のガにはコウモリによる捕食を回避するため、コウモリの出す超音波を聴き取る鼓膜器官を持つものが多い。
2010年代以降、虫が感情に似た脳機能を持っている可能性があることが科学論文で報告されることが増えている。
1990年から2020年の間に発表された科学文献のレビューでは、昆虫には認知能力や感性があるという証拠がみつかった。2022年には、6つの昆虫目における感覚(特に痛み)の証拠を、検討した論文が発表された。研究によると、双翅目(ハエと蚊)とゴキブリ目(ゴキブリとシロアリ)の2つの目の成虫で、痛み体験の「強い証拠」が見つかった。また、ハチ目(ハチ、スズメバチ、アリ、ノコギリ)、バッタ目(コオロギ、バッタ)、チョウ目(チョウ、ガ)の成虫では「実質的証拠」があり、甲虫目の成虫では「ある程度の証拠」があった。幼虫の段階においても、いくつかの幼虫で、痛み体験の「実質的証拠」が見つかった。なお、いずれの昆虫目でも、感覚、特に痛覚の存在を否定する十分な証拠は見つからなかった。
また、解剖学的次元では、ミバエの幼虫が熱いものに触れると逃げること、その行動が脊椎動物の痛覚ニューロンに似たニューロンの媒介を経ることが研究で確かめられた。
多くは卵生だが、フタバカゲロウのような卵胎生、ツェツェバエのような胎生昆虫もいる。
昆虫の場合、幼生は幼虫と呼ばれる。成虫に似た姿のものも、かなりかけ離れた姿のものもあるが、基本的には幼虫も昆虫としての姿を備えており、その意味では直接発生的である。生育過程で、幼虫が成虫に変化する変態を行う。変態の形式により、幼虫が蛹になってから成虫になる完全変態をするグループと、幼虫が直接成虫に変わる不完全変態を行うグループ、そして形態がほとんど変化しない無変態のグループに分けられる。成虫になるときに翅が発達するが、シミ目など翅の全くない種類も少なからずいる。
昆虫の生態的な多様性は極めて広い。樹上や洞窟を含めた地上、土壌中、淡水中にごく普通に生息し、さらに一部の例外を除いて殆どの種が空を飛ぶことが出来る。分布は世界中にわたり、高山から低地までどこにでもおり、特に熱帯域での多様性が高い。
基本的に陸上で生活する生物で、水生昆虫でも成虫時に水中で生活する昆虫は少なく、成虫の多くは止水域で空気呼吸を行う。特に海には極少数の種がいるだけで、それもウミユスリカなどの潮間帯に生息する種がほとんどで、外洋では海水面上で活動するウミアメンボ属の5種しか確認されておらず、完全な海生昆虫は発見されていない。これは、海でのニッチが既に祖先である甲殻類によって占められていたため再進出できなかった、陸上に比べて魚類などの天敵が多く生存競争に勝てなかった、陸上や淡水での生活に特化したためマルピーギ管が海水の塩分調整に対応できなかった、海水中を漂う海藻の胞子などが気門に詰まるため呼吸できなかった、陸上に比べて海中には酸素が乏しく昆虫類の外骨格形成に不利であるなど、様々な説がある。
石炭紀からペルム紀にかけて大気中の酸素濃度が高かった時期には体長数十cmに達する巨大な昆虫が生息していたが、現代では最小の哺乳類や鳥類(1-2g)を超える体重を持つ昆虫は少数であり、小さいものは0.2mm、5μg以下と大型の原生動物(大型のゾウリムシなど)を下回る。
食性の上では、草食性、肉食性、雑食性など様々である。草食性では餌とする植物の種に特異性を持つ例も多く、そのため植物の種ごとに決まった昆虫がある、という状況が見られる。寄生性のものもあり、シラミやハジラミ、クモバエやコウモリバエ、カエルキンバエやラセンウジバエなどは脊椎動物に寄生する。他の昆虫に寄生する種では、捕食寄生という独特な寄生の型を持つ例も多い。
大半の種が変温動物であり、3°C以上の環境でないと成長が行われず、それ以下になると冬眠状態となる。成虫の場合、一般に-3°C以下、45°C以上の環境にさらされ続けると死滅するが、卵の状態では温度耐性(特に低温)の範囲が大きくなるため、このまま越冬する種も多い。例外として群集性のものには、ハナバチ類の一部が、0°C時に30°C以上の体温を安定して保てるなど、ほぼ完全な恒温性のものも存在する。セッケイカワゲラやヒョウガユスリカのように、氷点下の気温でも活動できる種もあり、南極でも昆虫が生息している。
昆虫の一部は、植物の受粉と深い関係がある。花粉の媒介方法としては風と動物がほとんどを占め、動物媒は虫媒のほかに鳥やコウモリによる媒介も含まれるが、動物媒の中で最も多いものは虫媒である。虫媒のみに頼る、または一部を虫媒とする花は16万種に及ぶとされる。動物媒の花は虫を花に引き付けるために、風媒花と異なり美しい花や強い香り、豊かな蜜などを発達させたが、なかでも虫媒花は虫の強い嗅覚を利用するため、香りが強いものが多いことが特徴となっている。(鳥は嗅覚が弱いため、鳥媒の花には香りは必要なく香りは弱いものとなっている)。こうした虫の多くは花の蜜腺から分泌される蜜を食料とするほか、彼らの体につく花粉そのものも重要な食料としている。
バッタ、イナゴ、蝶、ハチなど多くの昆虫の血糖はトレハロースであり、体内で分解酵素・トレハラーゼの作用でブドウ糖(グルコース)に変わることによって利用される。また、スズメバチとその幼虫の栄養交換液の中にもある。
昆虫の血糖としてのトレハロース濃度は、400-3,000 mg/dL(10-80 mM)の範囲にある。この値はヒトのグルコースとしての通常の血糖値100-200 mg/dLに比べてはるかに高い。この理由の一つとして、トレハロースがタンパク質に対して糖化反応を起こさずグルコースに比べて生体に有害性をもたらさないためである。
外骨格は甲殻類と違い、形成時にカルシウム沈着を伴わない。これは海中に比べてカルシウムに乏しい陸上での生活に適応した結果であり、外骨格を軽くすることにも繋がったため、後に飛行能力を発達させる上で有利に働いたという説がある。
種類数の多いグループとしては、以下のようなものがある。(括弧内は2003年現在の日本産既知種数)
甲虫類は実際に種類が多いとされているが、飛翔能力が他の昆虫に比較して弱く、発見、採集が容易なため、種の同定が進んでいるのだとも言える。甲虫同様、生態が多様なハエ目やハチ目の昆虫は、実際には甲虫目を上回る種が存在するのではないかとも言われている。
昆虫は地球の歴史上、4億年前、動物の陸上進出が始まった頃に上陸した動物群の一つである。なお2014年11月の大規模な分子系統解析によれば、陸上植物が出現して間もない4億8千万年前には原始的な六脚類が現れ、昆虫は4億4千万年前、翅で飛ぶ昆虫は約4億6百万年前、完全変態昆虫は3億5千万年前に出現した。3億6千万年前に上陸した脊椎動物の両生類よりも早い時期であった。
昆虫の生活様式、形態は非常にバラエティに富んでおり、様々な環境ニッチに適応して繁殖しており、その種類も非常に多い。恐竜登場前の2億-3億年前には、現在のゴキブリやトンボなどの祖先が既に登場していた。
伝統的な系統学では、昆虫を含んだ六脚類は、多足類とともに無角類(Atelocerata、または気門類 Tracheata)としてまとめられ、甲殻類、鋏角類とともに、節足動物の3つの大きな群をなすと考えられてきた。この説では、多足類は六脚類の姉妹群、もしく六脚類が側系統群の多足類から派生したとする。
これに対して2000年代をはじめとして、根本的にこれを否定する説が徐々に有力視される。2019年現在 全ての分子系統学的解析(遺伝子解析)は、六脚類は多足類とは遠縁であり、むしろ側系統群の甲殻類から派生していることを根強く支持し、他に神経解剖学的構造 やヘモシアニンの構成 にもそれを支持する証拠が挙げられる。このように六脚類と甲殻類からなる系統群は、汎甲殻類(Pancrustacea)という。多足類は六脚類に類縁でなく、むしろそれより早期に分岐し、汎甲殻類と共に大顎類をなす。汎甲殻類の中に、まず貧甲殻類(貝虫類・ヒゲエビ類・鰓尾類など)が分岐し、続いて多甲殻類(軟甲類・フジツボ類・カイアシ類)と異エビ類(カシラエビ類・鰓脚類・ムカデエビ類、六脚類)に二分され、後者の甲殻類の中で、ムカデエビ類は六脚類の姉妹群として有力視される。
昆虫以外の六脚類は、顎が体の中にあるなど共通の性質を持つため、内顎類と総称される。内顎類および六脚類は単系統とする説が主流だが、一部の分子系統では異論もある。
昆虫綱の中では、比較的原始的な、翅のない無翅類と、翅を腹側へ畳めない旧翅類がまず分けられる。しかし、無翅類は原始的な形質でまとめられた側系統だという説が1960年代頃から有力となり、それを反映した次のような分類が普及しつつある。ただし、有翅「下綱」などの修正された階級については研究者の見解は必ずしも一致していない。
旧翅類の単系統性にも疑問が持たれており、カゲロウ目とトンボ目のどちらかが先に分かれた可能性がある。ただし、それを反映した分類はまだ確立していない。
分類体系によって異なるが、(狭義の)昆虫綱 Insecta は30目を含む。以下のものは『岩波生物学辞典 第5版』 による。命名者名は省略。
なお、以前バッタ目(直翅目)Orthoptera とされていたものはガロアムシ目(非翅目、欠翅目)Grylloblattodea、ナナフシ目(竹節虫目)Phasmatodea、バッタ目(直翅目)Orthoptera、カマキリ目(蟷螂目)Mantodea、ゴキブリ目 Blattodea に分類される。
また、ゴキブリ目 Blattodea、シロアリ目(等翅目)Isoptera と分かれていたが、21世紀現在はゴキブリ目 Blattodea に統一される。この場合、シロアリ目の中に含まれる亜科は科となり、チャタテムシ目(噛虫目)Psocoptera とシラミ目(裸尾目)Phthiraptera は咀顎目 Psocodea に統一される。
チョウ目(鱗翅目) Lepidoptera の中にあるコバネガ科は、トビケラ目(毛翅目) Trichoptera とチョウ目(鱗翅目) Lepidoptera の祖先形質を持っているので、チョウ目(鱗翅目) Lepidoptera、トビケラ目(毛翅目) Trichoptera、コバネガ目と提案されることもある。
2002年に、翅がなくナナフシに似た外観を持つカカトアルキ目(マントファスマ目)が新目として設立された。
生物世界で最も種類の多い動物群であり、何らかの関わりなしに生活することが不可能なほどに、あらゆる局面でかかわりを生じる。直接に人間の役に立つものを益虫、人の健康、財産、家畜、農作物などに害を与えるものを害虫と言う。ただし、実害はない不快害虫もいれば、日常生活で益虫・害虫扱いされるものの分類学的には昆虫以外の小動物も含まれる。
益虫は、インセクトブリーダーなどによる昆虫養殖(英語版)(養蜂、養蚕、ゴキブリ養殖(英語版)など)が行われる。
昆虫採集や飼育は趣味の一分野である。昆虫標本などは博物館などの展示物として人気があり、名和昆虫博物館(岐阜県岐阜市)、倉敷昆虫館(岡山県倉敷市) のような飼育専門施設の昆虫館もある。生きた昆虫の輸入も行われるが、有害動物は植物防疫法によって輸入禁止である。そいういった輸入された昆虫を放虫した場合は、外来種であり、自然界に様々な悪影響を及ぼすので避けるべきで責任をもって逃がさず育てることが推奨される。
文化として、季節や天候を知るために昔から観察されてきたこともあり、虫(蟄)が冬から解放され(啓いて)動き出す日として24節気のひとつ啓蟄があるほか、北海道では雪虫は初雪を告げる昆虫として知られている。
古代エジプトでは、一部の甲虫がスカラベとして崇拝対象となった。
学問の昆虫学も大きく発展し、昆虫分類学・応用昆虫学・蚕学・天敵昆虫学(生物的防除)・衛生昆虫学・法医昆虫学・環境昆虫学・遺伝学など幅広い。また、ミツバチや蚕などの産業動物である昆虫は獣医学で取り扱う。
採集その他の手段で入手した昆虫を集めたり飼育したりする娯楽は古くから存在する。ダーウィン、ウォーレスなどの泰斗を輩出している博物学の祖国イギリスで顕著であるが、広くヨーロッパにみられ、チョウの幼虫やオサムシ類を飼育する例が多い。現代ではナナフシの人気が高く、観葉植物感覚で飼育される。
日本においては、平安時代の貴族階級において、スズムシ、マツムシ、コオロギなどの「鳴く虫」(直翅目)の飼育、鳴き声の観賞がはじまり、江戸時代中期にはそれらを行商人が売り歩く商業も確立、江戸町民を中心に鳴く虫飼育の文化が広く普及した。鳴く虫のほか、蛍も同様に広く取引された。こうした虫売り文化は昭和初期には最盛期を迎えたものの、戦後は衰退した。元々これらの文化は、中国から伝播したとも、独自に並行発生したともいわれるが定かでない。また、中国では鳴き声の鑑賞のみならずコオロギの格闘を楽しむ娯楽「闘蟋」も古くから親しまれてきた。闘蟋の歴史は唐の玄宗期にさかのぼるとされ、南宋の宰相である賈似道はこの趣味が高じて世界初のコオロギの百科事典『促織経』を著した。一方、児童年齢の子供がカブトムシやクワガタムシなどに昆虫相撲を取らせる古典的遊びも、江戸時代からあり、それらの昆虫は「サイカチ」「オニガラ」「オニムシ」などと呼ばれた。
21世紀現在の日本には、サブカルチャー・ホビーの一つとして、クワガタムシやカブトムシなどの甲虫類に鑑賞価値を見出し累代飼育するファンが多く、10万人単位の愛好者がいるといわれる。
今日の日本においては、昆虫食はあまり一般的ではなく、どちらかと言うとゲテモノ料理や珍味として扱われる機会が多い。その中でイナゴ(佃煮)は全国的に食べられていると言ってもよく、ハチ、セミ、ゲンゴロウ、トビケラやカワゲラ(水生昆虫の幼虫をまとめてざざむしと総称)、カイコガ、カミキリムシなども食用とされることがある。商品として売り出されたところもある。2008年時点で、はちの子、イナゴの缶詰はともに1トン弱、カイコのサナギが300キログラム、まゆこ(カイコのガ)が100キログラム、ザザムシが300キログラム製造されている。なかには、長野県のハチの子の佃煮のように郷土料理や名物になっている地域もある。
世界的にはタガメやアリ、甲虫などの昆虫の幼虫を食べる文化を持っている国や地域、民族は多い。なかでも昆虫の多い亜熱帯から熱帯地域において昆虫食の文化は根付いている。
昆虫はタンパク質やミネラルを豊富に含んで栄養価が高い上、従来の家畜に比べ飼料の転換効率がよいため、将来的に重要な食料となるとの見方を国連食糧農業機関は示している。
中国の生薬を集めた『本草綱目』には、多種の昆虫が記載されている。一例としてシナゴキブリは、シャチュウ(䗪虫)の名で、血行改善作用があるとされている。学問的に薬効は必ずしも明らかになっていない例が多いが、他にも薬酒の原料としてスズメバチ、アリ、ゴミムシダマシ、冬虫夏草(昆虫の幼虫から真菌キノコが成長したもの)などが使われたり、粉末にして外用薬にされる昆虫もある。また、昆虫そのものではないが、セミの抜け殻は蝉退(センタイ)といって、解熱、鎮静、鎮痙などに用いられる。
世界的な人口増加により昆虫由来の飼料が研究されており、2020年4月に農林水産省にフードテック研究会が新設された。
日本の法律(農薬取締法)は、農作物を害する昆虫、ダニ、細菌などの防除に使われる薬剤のみならず、防除に有益な天敵をも一括して農薬と整理した。このため、農薬として登録されている昆虫、クモ、ダニ、細菌、ウイルスなどがあり、これらは生物農薬とも呼ばれる。これらは法律上は農薬であるため、用法、用量、販売にも規制がある。現在日本で登録されている天敵昆虫には、オンシツツヤコバチ、ヨコスジツヤコバチ、タイリクヒメハナカメムシ、ヤマトクサカゲロウ、ナミテントウ、コレマンアブラバチなどがある。こうした天敵農薬による生物的防除としては、19世紀末のアメリカにおいて、イセリアカイガラムシの大発生を原産地オーストラリアにおける天敵ベダリアテントウの導入によって防いだ例などが知られ、成功すれば大きな効果を上げるものの、目的の害虫以外の虫が攻撃され大被害を受けることも珍しくないため、導入には細心の注意が必要である。
歴史的に最も広範に利用されている産業用昆虫として、絹糸を生産するためのカイコガがある。絹は歴史を通じて高級繊維としての地位を確立しており、これを生み出すカイコを育てる養蚕は産業の一つとして成立している。カイコは家畜化された歴史が長いためすでに野生では存在せず、人間の手を離れては生きられなくなっている。なお、カイコ以外にも絹糸を生成できる虫はヤママユ(テンサン、天蚕)やその亜種であるサクサン(柞蚕)などいくつか存在し、野蚕と総称される。ミツバチ類は蚕と並んでもっとも重要な産業用昆虫であり、蜂蜜やロイヤルゼリー、さらに蜜蝋の採取目的で飼育されている。ミツバチのもう一つ重要な用途としては果樹や野菜といった虫媒花の受粉が挙げられる。受粉は農業上非常に重要であり、養蜂は蜂蜜採取よりも授粉用の需要の方が大きくなっている。授粉用昆虫としては、このほかにマルハナバチ類も多用される。カイコとミツバチは昆虫でありながら家畜になっているといえる。イボタロウムシも蝋の生産に重要である。
この他、海外では赤色染料の原料としてカイガラムシ類が広く利用され、なかでも良質のコチニール色素の取れるコチニールカイガラムシはアステカで珍重されて、19世紀中盤に化学染料が優勢になる前は世界で広く栽培されていた。またラックカイガラムシは染料としても使用されていたが、それよりもシェラックと呼ばれる樹脂の生産で知られており、かつてはワニスなど様々な用途に使用されていた。また、幼虫(ウジ)を釣り餌として利用するために累代飼育されているハエや爬虫類の餌として飼育販売されているコオロギなどのような例もある。
タマムシ、チョウ、ガなど、色彩や光沢の鮮やかな昆虫は、工芸品などの装飾材料にも利用される。日本で国宝に指定されている玉虫厨子は、本来タマムシの羽を装飾として使用していたことでこの名がついており、オリジナルの玉虫厨子でその装飾が失われた後も、タマムシの羽をふんだんに使用して作成当時の姿を復元したレプリカがいくつか作成されている。
モデル生物として重要なものもある。ショウジョウバエやカイコが遺伝学で、アズキゾウムシやコクヌストモドキが個体群生態学で演じた役割は非常に大きい。昆虫は小型で扱いやすく、狭い環境でも飼育が可能で、また短い時間で複数世代が観察できる。上記のような昆虫はそのような点でモデル生物として好適であった。また、処理のしやすさについても独特である。ハワード・エヴァンズ(英語版)は著書『虫の惑星』で昆虫の変態ホルモンに関する実験で、複数の幼虫の首を切ってつなぎ合わせてその変態を見る実験について説明した後、この実験をネコで行うことが想像できるか?と述べている。
また、ゴキブリは、昆虫の中でも大きい方なので、研究用の生物(昆虫)としても利用されている。
アメリカ合衆国などでは、クロバエなどが死体に産卵する特性と幼虫(ウジ)の成長の程度が、遺体の放置時間を推定する際の手掛かりの一つとされている。
医療、治療方法として、無菌状態にしたハエなどの幼虫のウジに患部の壊死した組織を食べさせるマゴットセラピーがある。これは1930年代にアメリカで広まったものの、1940年代にペニシリンが開発されると急速に使用されなくなっていったが、1990年代末から再び使用が増加しつつある。
バイオ医薬品などの組換えタンパク質の生産宿主としても昆虫や昆虫細胞は用いられている。宿主としてはカイコやイラクサギンウワバ(英語版)、ツマジロクサヨトウ(英語版)、ウイルスベクターとしてはバキュロウイルスが用いられており、このような発現系はバキュロウイルス発現ベクター系(BEVS)と呼ばれる。昆虫由来培養細胞とAutographa californica multiple核多角体病ウイルス(AcMNPV)を用いた組換えタンパク質の生産法は1983年にテキサスA&M大学のゲール・スミスやマックス・サマーズ(英語版)らによって開発され、カイコ幼虫個体とカイコ核多角体病ウイルス(BmNPV)を用いた方法は1985年に鳥取大学の前田進らによって開発された。BEVSはインターフェロンや抗体などの試薬のほか『サーバリックス』や『Novavax COVID-19ワクチン』といったワクチン用タンパク質の生産にも役立てられている。
上に記したような、食料、医薬品や医療、農業、衣料あるいはペットなどとしての利用は、生態系サービスのうちの供給サービスあるいは文化的サービスに当たるが、それ以外にも生態系の調整サービスや基盤サービスの担い手として重要な役割を果している
例えば、ミツバチ以外にも様々なハナバチや、アブやハエ、チョウやガ、ハナムグリやカミキリ等の甲虫などが、植物の受粉を担っている。また、枯木や倒木、デトリタス、枯葉は、シロアリ、ゴキブリ、クワガタ、カミキリ、土壌性昆虫、水中ではトビケラや双翅目幼虫などが分解している。野生動物の糞や死体は、ハエ、シデムシ、糞虫などにより分解される。特定の虫が大発生することを、多くの捕食寄生昆虫や肉食性昆虫が抑制している。
他方では、クモ、鳥、コウモリ等の哺乳類、両生類、爬虫類、淡水魚などの餌として、生態ピラミッドのより高次の消費者を支えている。
こうして多種多様な昆虫により様々な自然生態系が維持され、ひいては人間にも様々な生態系サービスをもたらしている。
上記のような益虫のほか、人類に害を与える害虫も数多く存在する。一部の昆虫は媒介者として伝染病の感染源となっている。こうした媒介者の中で最も有害な昆虫はカであり、マラリアやデング熱などさまざまな伝染病を媒介して、2016年のデータでは1年間で死者は83万人にも上り、「地球上でもっとも人類を殺害する生物」となっている。人間だけでなく、農作物や家畜に害を与える昆虫も多く存在する。なかでもイナゴやバッタなどは相変異を起こした大集団が周囲のすべての草本類を食らいつくす蝗害を発生させることがあり、この場合周囲の生態系は大打撃を受け飢饉が発生することもある。
現代の日常会話では、昆虫を単に「虫」(むし)と呼ぶことが多いが、ダンゴムシやフナムシなどの用法でわかるとおり、ムシとは本来はもっと広い範囲の意味を持つ言葉で、獣、鳥、魚介類以外の全動物を指す言葉であった。
漢字の「虫」(キ、拼音: huǐ)は本来、毒蛇(マムシ)を型取った象形文字であるが、蛇など爬虫類の一部や、両生類、環形動物など、果ては架空の動物である竜までを含めた広い範囲の生物群を指す「蟲」(チュウ、拼音: chóng)の略字として古代から使われている。
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"text": "昆虫(こんちゅう、insect)は、六脚亜門の昆虫綱(学名: Insecta)に分類される節足動物の総称である。昆虫類とも総称されるが、これを昆虫と内顎類を含んだ六脚類の意味で使うこともある。",
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"text": "大部分の昆虫は頭部に1対の複眼と3個以下の単眼を持つ。両者を有する場合、片方だけの場合、ごく一部に両方とも持たない例がある。複眼は主要な視覚器として働き、よく発達したものでは優れた視覚を持つと考えられる。また、紫外線を視覚する能力を持っている。すなわち解剖学的に、昆虫の目には紫外線を感知する細胞がある。ヒトの眼ではオスとメスの色の区別ができない昆虫(たとえば、モンシロチョウの翅の色)でも、実際にはオスとメスの翅で紫外線反射率に大きな差がある。そのため、モンシロチョウ自身の目には、ヒトの目と違って、オスとメスの翅は全く別の色であると認識できているものと推察される。また単眼は明暗のみを感知する。",
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"text": "化学物質の受容、つまり味覚と嗅覚は触角、口器、および歩脚の先端部である附節にある。いくつかの昆虫は個体間の誘因などの役割を担うフェロモンを出すが、その受容は触角で行われる。",
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"text": "聴覚に特化した器官を持つ例は多くなく、コオロギやセミなど一部に限られる。夜行性のガにはコウモリによる捕食を回避するため、コウモリの出す超音波を聴き取る鼓膜器官を持つものが多い。",
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"text": "1990年から2020年の間に発表された科学文献のレビューでは、昆虫には認知能力や感性があるという証拠がみつかった。2022年には、6つの昆虫目における感覚(特に痛み)の証拠を、検討した論文が発表された。研究によると、双翅目(ハエと蚊)とゴキブリ目(ゴキブリとシロアリ)の2つの目の成虫で、痛み体験の「強い証拠」が見つかった。また、ハチ目(ハチ、スズメバチ、アリ、ノコギリ)、バッタ目(コオロギ、バッタ)、チョウ目(チョウ、ガ)の成虫では「実質的証拠」があり、甲虫目の成虫では「ある程度の証拠」があった。幼虫の段階においても、いくつかの幼虫で、痛み体験の「実質的証拠」が見つかった。なお、いずれの昆虫目でも、感覚、特に痛覚の存在を否定する十分な証拠は見つからなかった。",
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"text": "基本的に陸上で生活する生物で、水生昆虫でも成虫時に水中で生活する昆虫は少なく、成虫の多くは止水域で空気呼吸を行う。特に海には極少数の種がいるだけで、それもウミユスリカなどの潮間帯に生息する種がほとんどで、外洋では海水面上で活動するウミアメンボ属の5種しか確認されておらず、完全な海生昆虫は発見されていない。これは、海でのニッチが既に祖先である甲殻類によって占められていたため再進出できなかった、陸上に比べて魚類などの天敵が多く生存競争に勝てなかった、陸上や淡水での生活に特化したためマルピーギ管が海水の塩分調整に対応できなかった、海水中を漂う海藻の胞子などが気門に詰まるため呼吸できなかった、陸上に比べて海中には酸素が乏しく昆虫類の外骨格形成に不利であるなど、様々な説がある。",
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"text": "石炭紀からペルム紀にかけて大気中の酸素濃度が高かった時期には体長数十cmに達する巨大な昆虫が生息していたが、現代では最小の哺乳類や鳥類(1-2g)を超える体重を持つ昆虫は少数であり、小さいものは0.2mm、5μg以下と大型の原生動物(大型のゾウリムシなど)を下回る。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "食性の上では、草食性、肉食性、雑食性など様々である。草食性では餌とする植物の種に特異性を持つ例も多く、そのため植物の種ごとに決まった昆虫がある、という状況が見られる。寄生性のものもあり、シラミやハジラミ、クモバエやコウモリバエ、カエルキンバエやラセンウジバエなどは脊椎動物に寄生する。他の昆虫に寄生する種では、捕食寄生という独特な寄生の型を持つ例も多い。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "大半の種が変温動物であり、3°C以上の環境でないと成長が行われず、それ以下になると冬眠状態となる。成虫の場合、一般に-3°C以下、45°C以上の環境にさらされ続けると死滅するが、卵の状態では温度耐性(特に低温)の範囲が大きくなるため、このまま越冬する種も多い。例外として群集性のものには、ハナバチ類の一部が、0°C時に30°C以上の体温を安定して保てるなど、ほぼ完全な恒温性のものも存在する。セッケイカワゲラやヒョウガユスリカのように、氷点下の気温でも活動できる種もあり、南極でも昆虫が生息している。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "昆虫の一部は、植物の受粉と深い関係がある。花粉の媒介方法としては風と動物がほとんどを占め、動物媒は虫媒のほかに鳥やコウモリによる媒介も含まれるが、動物媒の中で最も多いものは虫媒である。虫媒のみに頼る、または一部を虫媒とする花は16万種に及ぶとされる。動物媒の花は虫を花に引き付けるために、風媒花と異なり美しい花や強い香り、豊かな蜜などを発達させたが、なかでも虫媒花は虫の強い嗅覚を利用するため、香りが強いものが多いことが特徴となっている。(鳥は嗅覚が弱いため、鳥媒の花には香りは必要なく香りは弱いものとなっている)。こうした虫の多くは花の蜜腺から分泌される蜜を食料とするほか、彼らの体につく花粉そのものも重要な食料としている。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "バッタ、イナゴ、蝶、ハチなど多くの昆虫の血糖はトレハロースであり、体内で分解酵素・トレハラーゼの作用でブドウ糖(グルコース)に変わることによって利用される。また、スズメバチとその幼虫の栄養交換液の中にもある。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "昆虫の血糖としてのトレハロース濃度は、400-3,000 mg/dL(10-80 mM)の範囲にある。この値はヒトのグルコースとしての通常の血糖値100-200 mg/dLに比べてはるかに高い。この理由の一つとして、トレハロースがタンパク質に対して糖化反応を起こさずグルコースに比べて生体に有害性をもたらさないためである。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "外骨格は甲殻類と違い、形成時にカルシウム沈着を伴わない。これは海中に比べてカルシウムに乏しい陸上での生活に適応した結果であり、外骨格を軽くすることにも繋がったため、後に飛行能力を発達させる上で有利に働いたという説がある。",
"title": "形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "種類数の多いグループとしては、以下のようなものがある。(括弧内は2003年現在の日本産既知種数)",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "甲虫類は実際に種類が多いとされているが、飛翔能力が他の昆虫に比較して弱く、発見、採集が容易なため、種の同定が進んでいるのだとも言える。甲虫同様、生態が多様なハエ目やハチ目の昆虫は、実際には甲虫目を上回る種が存在するのではないかとも言われている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "昆虫は地球の歴史上、4億年前、動物の陸上進出が始まった頃に上陸した動物群の一つである。なお2014年11月の大規模な分子系統解析によれば、陸上植物が出現して間もない4億8千万年前には原始的な六脚類が現れ、昆虫は4億4千万年前、翅で飛ぶ昆虫は約4億6百万年前、完全変態昆虫は3億5千万年前に出現した。3億6千万年前に上陸した脊椎動物の両生類よりも早い時期であった。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "昆虫の生活様式、形態は非常にバラエティに富んでおり、様々な環境ニッチに適応して繁殖しており、その種類も非常に多い。恐竜登場前の2億-3億年前には、現在のゴキブリやトンボなどの祖先が既に登場していた。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "伝統的な系統学では、昆虫を含んだ六脚類は、多足類とともに無角類(Atelocerata、または気門類 Tracheata)としてまとめられ、甲殻類、鋏角類とともに、節足動物の3つの大きな群をなすと考えられてきた。この説では、多足類は六脚類の姉妹群、もしく六脚類が側系統群の多足類から派生したとする。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "これに対して2000年代をはじめとして、根本的にこれを否定する説が徐々に有力視される。2019年現在 全ての分子系統学的解析(遺伝子解析)は、六脚類は多足類とは遠縁であり、むしろ側系統群の甲殻類から派生していることを根強く支持し、他に神経解剖学的構造 やヘモシアニンの構成 にもそれを支持する証拠が挙げられる。このように六脚類と甲殻類からなる系統群は、汎甲殻類(Pancrustacea)という。多足類は六脚類に類縁でなく、むしろそれより早期に分岐し、汎甲殻類と共に大顎類をなす。汎甲殻類の中に、まず貧甲殻類(貝虫類・ヒゲエビ類・鰓尾類など)が分岐し、続いて多甲殻類(軟甲類・フジツボ類・カイアシ類)と異エビ類(カシラエビ類・鰓脚類・ムカデエビ類、六脚類)に二分され、後者の甲殻類の中で、ムカデエビ類は六脚類の姉妹群として有力視される。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "昆虫以外の六脚類は、顎が体の中にあるなど共通の性質を持つため、内顎類と総称される。内顎類および六脚類は単系統とする説が主流だが、一部の分子系統では異論もある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "昆虫綱の中では、比較的原始的な、翅のない無翅類と、翅を腹側へ畳めない旧翅類がまず分けられる。しかし、無翅類は原始的な形質でまとめられた側系統だという説が1960年代頃から有力となり、それを反映した次のような分類が普及しつつある。ただし、有翅「下綱」などの修正された階級については研究者の見解は必ずしも一致していない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "旧翅類の単系統性にも疑問が持たれており、カゲロウ目とトンボ目のどちらかが先に分かれた可能性がある。ただし、それを反映した分類はまだ確立していない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "分類体系によって異なるが、(狭義の)昆虫綱 Insecta は30目を含む。以下のものは『岩波生物学辞典 第5版』 による。命名者名は省略。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、以前バッタ目(直翅目)Orthoptera とされていたものはガロアムシ目(非翅目、欠翅目)Grylloblattodea、ナナフシ目(竹節虫目)Phasmatodea、バッタ目(直翅目)Orthoptera、カマキリ目(蟷螂目)Mantodea、ゴキブリ目 Blattodea に分類される。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、ゴキブリ目 Blattodea、シロアリ目(等翅目)Isoptera と分かれていたが、21世紀現在はゴキブリ目 Blattodea に統一される。この場合、シロアリ目の中に含まれる亜科は科となり、チャタテムシ目(噛虫目)Psocoptera とシラミ目(裸尾目)Phthiraptera は咀顎目 Psocodea に統一される。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "チョウ目(鱗翅目) Lepidoptera の中にあるコバネガ科は、トビケラ目(毛翅目) Trichoptera とチョウ目(鱗翅目) Lepidoptera の祖先形質を持っているので、チョウ目(鱗翅目) Lepidoptera、トビケラ目(毛翅目) Trichoptera、コバネガ目と提案されることもある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2002年に、翅がなくナナフシに似た外観を持つカカトアルキ目(マントファスマ目)が新目として設立された。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "生物世界で最も種類の多い動物群であり、何らかの関わりなしに生活することが不可能なほどに、あらゆる局面でかかわりを生じる。直接に人間の役に立つものを益虫、人の健康、財産、家畜、農作物などに害を与えるものを害虫と言う。ただし、実害はない不快害虫もいれば、日常生活で益虫・害虫扱いされるものの分類学的には昆虫以外の小動物も含まれる。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "益虫は、インセクトブリーダーなどによる昆虫養殖(英語版)(養蜂、養蚕、ゴキブリ養殖(英語版)など)が行われる。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "昆虫採集や飼育は趣味の一分野である。昆虫標本などは博物館などの展示物として人気があり、名和昆虫博物館(岐阜県岐阜市)、倉敷昆虫館(岡山県倉敷市) のような飼育専門施設の昆虫館もある。生きた昆虫の輸入も行われるが、有害動物は植物防疫法によって輸入禁止である。そいういった輸入された昆虫を放虫した場合は、外来種であり、自然界に様々な悪影響を及ぼすので避けるべきで責任をもって逃がさず育てることが推奨される。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "文化として、季節や天候を知るために昔から観察されてきたこともあり、虫(蟄)が冬から解放され(啓いて)動き出す日として24節気のひとつ啓蟄があるほか、北海道では雪虫は初雪を告げる昆虫として知られている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "古代エジプトでは、一部の甲虫がスカラベとして崇拝対象となった。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "学問の昆虫学も大きく発展し、昆虫分類学・応用昆虫学・蚕学・天敵昆虫学(生物的防除)・衛生昆虫学・法医昆虫学・環境昆虫学・遺伝学など幅広い。また、ミツバチや蚕などの産業動物である昆虫は獣医学で取り扱う。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "採集その他の手段で入手した昆虫を集めたり飼育したりする娯楽は古くから存在する。ダーウィン、ウォーレスなどの泰斗を輩出している博物学の祖国イギリスで顕著であるが、広くヨーロッパにみられ、チョウの幼虫やオサムシ類を飼育する例が多い。現代ではナナフシの人気が高く、観葉植物感覚で飼育される。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本においては、平安時代の貴族階級において、スズムシ、マツムシ、コオロギなどの「鳴く虫」(直翅目)の飼育、鳴き声の観賞がはじまり、江戸時代中期にはそれらを行商人が売り歩く商業も確立、江戸町民を中心に鳴く虫飼育の文化が広く普及した。鳴く虫のほか、蛍も同様に広く取引された。こうした虫売り文化は昭和初期には最盛期を迎えたものの、戦後は衰退した。元々これらの文化は、中国から伝播したとも、独自に並行発生したともいわれるが定かでない。また、中国では鳴き声の鑑賞のみならずコオロギの格闘を楽しむ娯楽「闘蟋」も古くから親しまれてきた。闘蟋の歴史は唐の玄宗期にさかのぼるとされ、南宋の宰相である賈似道はこの趣味が高じて世界初のコオロギの百科事典『促織経』を著した。一方、児童年齢の子供がカブトムシやクワガタムシなどに昆虫相撲を取らせる古典的遊びも、江戸時代からあり、それらの昆虫は「サイカチ」「オニガラ」「オニムシ」などと呼ばれた。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "21世紀現在の日本には、サブカルチャー・ホビーの一つとして、クワガタムシやカブトムシなどの甲虫類に鑑賞価値を見出し累代飼育するファンが多く、10万人単位の愛好者がいるといわれる。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "今日の日本においては、昆虫食はあまり一般的ではなく、どちらかと言うとゲテモノ料理や珍味として扱われる機会が多い。その中でイナゴ(佃煮)は全国的に食べられていると言ってもよく、ハチ、セミ、ゲンゴロウ、トビケラやカワゲラ(水生昆虫の幼虫をまとめてざざむしと総称)、カイコガ、カミキリムシなども食用とされることがある。商品として売り出されたところもある。2008年時点で、はちの子、イナゴの缶詰はともに1トン弱、カイコのサナギが300キログラム、まゆこ(カイコのガ)が100キログラム、ザザムシが300キログラム製造されている。なかには、長野県のハチの子の佃煮のように郷土料理や名物になっている地域もある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "世界的にはタガメやアリ、甲虫などの昆虫の幼虫を食べる文化を持っている国や地域、民族は多い。なかでも昆虫の多い亜熱帯から熱帯地域において昆虫食の文化は根付いている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "昆虫はタンパク質やミネラルを豊富に含んで栄養価が高い上、従来の家畜に比べ飼料の転換効率がよいため、将来的に重要な食料となるとの見方を国連食糧農業機関は示している。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "中国の生薬を集めた『本草綱目』には、多種の昆虫が記載されている。一例としてシナゴキブリは、シャチュウ(䗪虫)の名で、血行改善作用があるとされている。学問的に薬効は必ずしも明らかになっていない例が多いが、他にも薬酒の原料としてスズメバチ、アリ、ゴミムシダマシ、冬虫夏草(昆虫の幼虫から真菌キノコが成長したもの)などが使われたり、粉末にして外用薬にされる昆虫もある。また、昆虫そのものではないが、セミの抜け殻は蝉退(センタイ)といって、解熱、鎮静、鎮痙などに用いられる。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "世界的な人口増加により昆虫由来の飼料が研究されており、2020年4月に農林水産省にフードテック研究会が新設された。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本の法律(農薬取締法)は、農作物を害する昆虫、ダニ、細菌などの防除に使われる薬剤のみならず、防除に有益な天敵をも一括して農薬と整理した。このため、農薬として登録されている昆虫、クモ、ダニ、細菌、ウイルスなどがあり、これらは生物農薬とも呼ばれる。これらは法律上は農薬であるため、用法、用量、販売にも規制がある。現在日本で登録されている天敵昆虫には、オンシツツヤコバチ、ヨコスジツヤコバチ、タイリクヒメハナカメムシ、ヤマトクサカゲロウ、ナミテントウ、コレマンアブラバチなどがある。こうした天敵農薬による生物的防除としては、19世紀末のアメリカにおいて、イセリアカイガラムシの大発生を原産地オーストラリアにおける天敵ベダリアテントウの導入によって防いだ例などが知られ、成功すれば大きな効果を上げるものの、目的の害虫以外の虫が攻撃され大被害を受けることも珍しくないため、導入には細心の注意が必要である。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "歴史的に最も広範に利用されている産業用昆虫として、絹糸を生産するためのカイコガがある。絹は歴史を通じて高級繊維としての地位を確立しており、これを生み出すカイコを育てる養蚕は産業の一つとして成立している。カイコは家畜化された歴史が長いためすでに野生では存在せず、人間の手を離れては生きられなくなっている。なお、カイコ以外にも絹糸を生成できる虫はヤママユ(テンサン、天蚕)やその亜種であるサクサン(柞蚕)などいくつか存在し、野蚕と総称される。ミツバチ類は蚕と並んでもっとも重要な産業用昆虫であり、蜂蜜やロイヤルゼリー、さらに蜜蝋の採取目的で飼育されている。ミツバチのもう一つ重要な用途としては果樹や野菜といった虫媒花の受粉が挙げられる。受粉は農業上非常に重要であり、養蜂は蜂蜜採取よりも授粉用の需要の方が大きくなっている。授粉用昆虫としては、このほかにマルハナバチ類も多用される。カイコとミツバチは昆虫でありながら家畜になっているといえる。イボタロウムシも蝋の生産に重要である。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "この他、海外では赤色染料の原料としてカイガラムシ類が広く利用され、なかでも良質のコチニール色素の取れるコチニールカイガラムシはアステカで珍重されて、19世紀中盤に化学染料が優勢になる前は世界で広く栽培されていた。またラックカイガラムシは染料としても使用されていたが、それよりもシェラックと呼ばれる樹脂の生産で知られており、かつてはワニスなど様々な用途に使用されていた。また、幼虫(ウジ)を釣り餌として利用するために累代飼育されているハエや爬虫類の餌として飼育販売されているコオロギなどのような例もある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "タマムシ、チョウ、ガなど、色彩や光沢の鮮やかな昆虫は、工芸品などの装飾材料にも利用される。日本で国宝に指定されている玉虫厨子は、本来タマムシの羽を装飾として使用していたことでこの名がついており、オリジナルの玉虫厨子でその装飾が失われた後も、タマムシの羽をふんだんに使用して作成当時の姿を復元したレプリカがいくつか作成されている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "モデル生物として重要なものもある。ショウジョウバエやカイコが遺伝学で、アズキゾウムシやコクヌストモドキが個体群生態学で演じた役割は非常に大きい。昆虫は小型で扱いやすく、狭い環境でも飼育が可能で、また短い時間で複数世代が観察できる。上記のような昆虫はそのような点でモデル生物として好適であった。また、処理のしやすさについても独特である。ハワード・エヴァンズ(英語版)は著書『虫の惑星』で昆虫の変態ホルモンに関する実験で、複数の幼虫の首を切ってつなぎ合わせてその変態を見る実験について説明した後、この実験をネコで行うことが想像できるか?と述べている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、ゴキブリは、昆虫の中でも大きい方なので、研究用の生物(昆虫)としても利用されている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国などでは、クロバエなどが死体に産卵する特性と幼虫(ウジ)の成長の程度が、遺体の放置時間を推定する際の手掛かりの一つとされている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "医療、治療方法として、無菌状態にしたハエなどの幼虫のウジに患部の壊死した組織を食べさせるマゴットセラピーがある。これは1930年代にアメリカで広まったものの、1940年代にペニシリンが開発されると急速に使用されなくなっていったが、1990年代末から再び使用が増加しつつある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "バイオ医薬品などの組換えタンパク質の生産宿主としても昆虫や昆虫細胞は用いられている。宿主としてはカイコやイラクサギンウワバ(英語版)、ツマジロクサヨトウ(英語版)、ウイルスベクターとしてはバキュロウイルスが用いられており、このような発現系はバキュロウイルス発現ベクター系(BEVS)と呼ばれる。昆虫由来培養細胞とAutographa californica multiple核多角体病ウイルス(AcMNPV)を用いた組換えタンパク質の生産法は1983年にテキサスA&M大学のゲール・スミスやマックス・サマーズ(英語版)らによって開発され、カイコ幼虫個体とカイコ核多角体病ウイルス(BmNPV)を用いた方法は1985年に鳥取大学の前田進らによって開発された。BEVSはインターフェロンや抗体などの試薬のほか『サーバリックス』や『Novavax COVID-19ワクチン』といったワクチン用タンパク質の生産にも役立てられている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "上に記したような、食料、医薬品や医療、農業、衣料あるいはペットなどとしての利用は、生態系サービスのうちの供給サービスあるいは文化的サービスに当たるが、それ以外にも生態系の調整サービスや基盤サービスの担い手として重要な役割を果している",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "例えば、ミツバチ以外にも様々なハナバチや、アブやハエ、チョウやガ、ハナムグリやカミキリ等の甲虫などが、植物の受粉を担っている。また、枯木や倒木、デトリタス、枯葉は、シロアリ、ゴキブリ、クワガタ、カミキリ、土壌性昆虫、水中ではトビケラや双翅目幼虫などが分解している。野生動物の糞や死体は、ハエ、シデムシ、糞虫などにより分解される。特定の虫が大発生することを、多くの捕食寄生昆虫や肉食性昆虫が抑制している。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "他方では、クモ、鳥、コウモリ等の哺乳類、両生類、爬虫類、淡水魚などの餌として、生態ピラミッドのより高次の消費者を支えている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "こうして多種多様な昆虫により様々な自然生態系が維持され、ひいては人間にも様々な生態系サービスをもたらしている。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "上記のような益虫のほか、人類に害を与える害虫も数多く存在する。一部の昆虫は媒介者として伝染病の感染源となっている。こうした媒介者の中で最も有害な昆虫はカであり、マラリアやデング熱などさまざまな伝染病を媒介して、2016年のデータでは1年間で死者は83万人にも上り、「地球上でもっとも人類を殺害する生物」となっている。人間だけでなく、農作物や家畜に害を与える昆虫も多く存在する。なかでもイナゴやバッタなどは相変異を起こした大集団が周囲のすべての草本類を食らいつくす蝗害を発生させることがあり、この場合周囲の生態系は大打撃を受け飢饉が発生することもある。",
"title": "人間との関わり"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "現代の日常会話では、昆虫を単に「虫」(むし)と呼ぶことが多いが、ダンゴムシやフナムシなどの用法でわかるとおり、ムシとは本来はもっと広い範囲の意味を持つ言葉で、獣、鳥、魚介類以外の全動物を指す言葉であった。",
"title": "ムシ"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "漢字の「虫」(キ、拼音: huǐ)は本来、毒蛇(マムシ)を型取った象形文字であるが、蛇など爬虫類の一部や、両生類、環形動物など、果ては架空の動物である竜までを含めた広い範囲の生物群を指す「蟲」(チュウ、拼音: chóng)の略字として古代から使われている。",
"title": "ムシ"
}
] |
昆虫(こんちゅう、insect)は、六脚亜門の昆虫綱に分類される節足動物の総称である。昆虫類とも総称されるが、これを昆虫と内顎類を含んだ六脚類の意味で使うこともある。 かつては全ての六脚類が昆虫に含められていたが、分類体系が見直され、現在は内顎類(内顎綱)の分類群(トビムシ、カマアシムシ、コムシ)が除外される。この記事ではこれら内顎類にも触れる。
|
{{出典の明記|date=2010年9月}}
{{生物分類表
|色 = 動物界
|名称 = 昆虫
|fossil_range = {{fossilrange|earliest=440|400|0}}<small>[[デボン紀]]前期–[[現世]]
|画像 = [[ファイル:Insect collage.png|300px|]]
|画像キャプション = 様々な昆虫<br>左上:[[オドリバエ]]の1種 ''Empis livida''、左中:[[サシガメ]]の1種、左下:[[ガ]]の1種 ''Opodiphthera eucalypti''、右上:[[ゾウムシ]]の1種 ''Rhinotia hemistictus'')、右中:[[ケラ]]の一種 ''Gryllotalpa brachyptera''、右下:[[ヨーロッパクロスズメバチ]] ''Vespula germanica''
| 地質時代 = [[デボン紀]]<ref group="注釈">[[分子系統解析]]によると[[シルル紀]](およそ4億4千万年前)に起源とされる。後述参照。</ref>
| 地質時代2 = [[現世 (地球科学)|現世]]
| 界 = [[動物界]] [[:en:Animalia|Animalia]]
| 門 = [[節足動物門]] [[:en:Arthropoda|Arthropoda]]
| 門階級なし = [[大顎類]] [[:en:Mandibulata|Mandibulata]]<br />[[汎甲殻類]] [[:en:Pancrustacea|Pancrustacea]]
| 亜門 = [[六脚亜門]] [[:en:Hexapoda|Hexapoda]]
| 綱 = '''昆虫綱''' {{Sname||Insecta}}
| 学名 = '''{{Sname||Insecta}}'''<br><small>{{AUY|Linnaeus|1758}}</small>
| シノニム = * {{Sname||Ectognatha}}<br><small>{{AUY|Stummer-Traunfels|1891}}</small>
| タイプ種 =
| 英名 = [[:en:insect|insect]]
| 下位分類名 = [[亜綱]]
| 下位分類 =
伝統的分類
* [[無翅亜綱]] {{Sname||Apterygota}}
* [[有翅亜綱]] {{Sname||Pterygota}}
系統分類
* [[単関節丘亜綱]] {{Sname||Monocondylia}}
* [[双関節丘亜綱]] {{Sname||Dicondylia}}
}}
[[File:Insect anatomy diagram.svg|right|upright=1.35|thumb|昆虫の形態<br/>
'''A'''- 頭部 '''B'''- 胸部 '''C'''- 腹部
{{image key
|list type=ordered
|[[触角]]
|{{ill2|単眼|en|ocellus|redirect=1}} (下部)
|単眼 (上部)
|{{ill2|複眼|en|compound eye|redirect=1}}
|昆虫脳 (脳の[[神経節]]、[[キノコ体]]、{{ill2|触覚葉|en|Antennal lobe}}、{{ill2|視葉|en|Optic lobe (arthropods)}})
|{{ill2|前胸|en|prothorax}}
|背行血管
|[[invertebrate trachea|tracheal]] tubes (trunk with [[Spiracle (arthropods)|spiracle]])
|{{ill2|中胸|en|mesothorax}}
|{{ill2|後胸|en|metathorax}}
|[[昆虫の翅|前翅]]
|[[昆虫の翅|後翅]]
|中腸 (胃)
|dorsal tube (心臓)
|卵巣
|{{ill2|後腸|en|Hindgut}} (intestine, rectum, anus)
|肛門
|輸卵管
|{{ill2|腹神経索|en|ventral nerve cord|label=nerve cord (abdominal ganglia)}}
|[[マルピーギ管]]
|tarsal pads
|爪
|[[関節肢|ふ節]]
|[[関節肢|脛]]
|[[関節肢|腿節]]
|[[関節肢|転節]]
|前腸 (crop, gizzard)
|{{ill2|胸部神経節|en|ventral nerve chord}}
|[[関節肢|臀部]]
|唾液腺
|食道下神経節
|{{ill2|口器|en|insect mouthparts|redirect=1}}
}}]]
'''昆虫'''(こんちゅう、'''[[:en:Insect|insect]]''')は、[[六脚亜門]]の'''昆虫綱'''([[学名]]: '''{{Sname|Insecta}}''')に分類される[[節足動物]]の総称である。'''昆虫類'''とも総称されるが、これを昆虫と内顎類を含んだ[[六脚類]]の意味で使うこともある。
かつては全ての六脚類が昆虫に含められていたが、分類体系が見直され、現在は[[内顎類]](内顎綱)の分類群([[トビムシ目|トビムシ]]、[[カマアシムシ]]、[[コムシ]])が除外される。この記事ではこれら内顎類にも触れる。
==概要==
昆虫は多様な節足動物の中でも、特に[[陸|陸上]]で[[進化]]したグループである。
ほとんどの[[種 (分類学)|種]]は陸上で生活し、[[淡水]]中に棲息するものは若干、[[海]]中で棲息する種は例外的である。水中で生活する昆虫は[[水生昆虫]](水棲昆虫)と呼ばれ、陸上で進化した祖先から二次的に水中生活に適応したものと考えられている。[[地球]]内の[[気候]]、[[環境]]に適応しており、[[種多様性]]が非常に高い。
[[日本]]の[[国立科学博物館]]によれば、2018年時点で知られている昆虫は約100万種で、確認されている生物種の半分以上を占める。未発見・未分類の昆虫も多いと推測されている<ref>[http://www.konchuten.jp/ 特別展「昆虫」] 国立科学博物館(2018年10月14日閲覧)。</ref>。日本産生物種数調査によれば、日本産の既知種数は30747種とされる(2003年現在)<ref>日本分類学会連合(2003) 第1回日本産生物種数調査 http://ujssb.org/biospnum/search.php (2023年11月3日閲覧)</ref>。
単に「[[虫]]」として一般に知られる動物群であるが、これは昆虫を専門に指す名称ではなく、[[ダンゴムシ]]・[[クモ]]・[[ムカデ]]・[[ミミズ]]・[[カタツムリ]]など昆虫以外の多くの小動物をも含んだ雑多な総称である。
== 形態 ==
{{Main|昆虫の構造|六脚類#形態}}
以下は昆虫の一般的な特徴である。しかし、[[寄生]]性昆虫や一部の幼虫などには、これらの特徴から大きく逸脱した例もある。
他の[[節足動物]]と同様、昆虫の体は、[[体節]](somite)と呼ばれる節(ふし)の繰り返し構造でできている。昆虫では、体節がいくつかずつセットになり、[[先節]]と直後5節を含んだ'''[[頭部]]'''(head)、3節を含んだ'''[[胸部]]'''(thorax)、11節を含んだ'''[[腹部]]'''(abdomen)という3つの合体節(tagma)にまとまっている。頭部の体節は完全に癒合して1つの構造体にまとまり、腹部は最終の体節が退化的であるため外見上は10節以下に見える<ref>{{Cite book|title=Principles of insect morphology|url=https://www.worldcat.org/oclc/761232619|location=Ithaca|isbn=978-1-5017-1791-8|oclc=761232619|last=Snodgrass, R. E. (Robert E.), 1875-1962,}}</ref>。
各部位の[[付属肢]]([[関節肢]])やその他の附属体は、原則として頭部には[[触角]](antenna)・[[大顎]](mandible)・[[小顎]](maxilla)各1対および前後で[[上唇 (節足動物)|上唇]](labrum)と[[小顎#六脚類|下唇]](labium)各1枚、胸部には脚3対、腹部には[[生殖肢]](gonopod)2対と[[尾毛]](cerci)1対がある。下唇は癒合した第2小顎であり、生殖肢は多くの場合では著しく特化して生殖器となり、付属肢らしからぬ形態をもつ<ref>{{Cite journal|last=Boudinot|first=Brendon E.|date=2018-11-01|title=A general theory of genital homologies for the Hexapoda (Pancrustacea) derived from skeletomuscular correspondences, with emphasis on the Endopterygota|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1467803918301397|journal=Arthropod Structure & Development|volume=47|issue=6|pages=563–613|language=en|doi=10.1016/j.asd.2018.11.001|issn=1467-8039}}</ref>。
[[呼吸器官]]として[[気管#節足動物の気管|気管]]系(tracheal system)があり、胸部と腹部の両側に気門(trachea)を開く。[[水生昆虫]]では腹部に[[鰓]]など別の呼吸器をもつ場合がある。
ほとんどの昆虫(有翅昆虫)は胸部に2対の[[昆虫の翅|翅]]([[:en:Insect wing|wing]])を持ち、[[飛翔|空を飛ぶ]]ことができる。空を飛んだ最初の動物は昆虫だとされている。昆虫の翅の構造は、グループによって様々に特化し、彼らの生活の幅の広がりに対応している。
=== 感覚 ===
{{See also|複眼と単眼}}
特別な[[感覚器官]]としては、[[眼]]と[[触角]]が挙げられる。それ以外の各部に小さな[[受容器]]を持つ。
大部分の昆虫は頭部に1対の[[複眼]]と3個以下の[[単眼]]を持つ。両者を有する場合、片方だけの場合、ごく一部に両方とも持たない例がある。複眼は主要な視覚器として働き、よく発達したものでは優れた視覚を持つと考えられる。また、[[紫外線]]を[[視覚]]する能力を持っている。すなわち[[解剖学]]的に、昆虫の目には[[紫外線]]を感知する[[細胞]]がある。[[ヒト]]の眼ではオスとメスの色の区別ができない昆虫(たとえば、[[モンシロチョウ]]の翅の色)でも、実際にはオスとメスの翅で紫外線反射率に大きな差がある。そのため、モンシロチョウ自身の目には、ヒトの目と違って、オスとメスの翅は全く別の色であると認識できているものと推察される。また単眼は明暗のみを感知する。
化学物質の受容、つまり[[味覚]]と[[嗅覚]]は触角、口器、および歩脚の先端部である附節にある。いくつかの昆虫は個体間の誘因などの役割を担う[[フェロモン]]を出すが、その受容は触角で行われる。
[[聴覚]]に特化した器官を持つ例は多くなく、[[コオロギ]]や[[セミ]]など一部に限られる。夜行性のガにはコウモリによる捕食を回避するため、コウモリの出す超音波を聴き取る鼓膜器官を持つものが多い<ref>中野亮 2012 チョウ目害虫における超音波を用いた行動制御技術.植物防疫 66(6): 300-303.</ref>。
=== 認知能力・感受性 ===
2010年代以降、虫が感情に似た脳機能を持っている可能性があることが科学論文で報告されることが増えている<ref>{{Cite web |url=https://scitechdaily.com/scientists-discover-that-worms-may-have-emotions/ |title=Scientists Discover That Worms May Have “Emotions” |access-date=20231202}}</ref>。
1990年から2020年の間に発表された科学文献のレビューでは、昆虫には認知能力や感性があるという証拠がみつかった<ref>{{Cite web|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0168159121002197|title=Wouldn’t hurt a fly? A review of insect cognition and sentience in relation to their use as food and feed|accessdate=20210924|publisher=ScienceDirect}}</ref>。2022年には、6つの昆虫目における感覚(特に痛み)の証拠を、検討した論文が発表された。研究によると、双翅目(ハエと蚊)とゴキブリ目(ゴキブリとシロアリ)の2つの目の成虫で、痛み体験の「強い証拠」が見つかった。また、ハチ目(ハチ、スズメバチ、アリ、ノコギリ)、バッタ目(コオロギ、バッタ)、チョウ目(チョウ、ガ)の成虫では「実質的証拠」があり、甲虫目の成虫では「ある程度の証拠」があった。幼虫の段階においても、いくつかの幼虫で、痛み体験の「実質的証拠」が見つかった。なお、いずれの昆虫目でも、感覚、特に痛覚の存在を否定する十分な証拠は見つからなかった<ref>{{Cite web |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0065280622000170?dgcid=author |title=Can insects feel pain? A review of the neural and behavioural evidence |access-date=20221119}}</ref>。
また、解剖学的次元では、ミバエの幼虫が熱いものに触れると逃げること、その行動が脊椎動物の痛覚ニューロンに似たニューロンの媒介を経ることが研究で確かめられた<ref>{{Cite book|和書 |title=肉食の終わり 非動物性食品システム実現へのロードマップ |date=20211126 |year=2021 |publisher=原書房 |page=221 |author=ジェイシー・リース |translator=井上太一}}</ref>。
=== 発生 ===
{{Main|変態#昆虫の変態}}
多くは[[卵生]]だが、[[フタバカゲロウ]]のような[[卵胎生]]、[[ツェツェバエ]]のような[[胎生]]昆虫もいる。
昆虫の場合、[[幼生]]は[[幼虫]]と呼ばれる。成虫に似た姿のものも、かなりかけ離れた姿のものもあるが、基本的には幼虫も昆虫としての姿を備えており、その意味では[[直接発生]]的である。生育過程で、幼虫が[[成虫]]に変化する[[変態]]を行う。変態の形式により、幼虫が[[蛹]]になってから成虫になる[[完全変態]]をするグループと、幼虫が直接成虫に変わる[[不完全変態]]を行うグループ、そして形態がほとんど変化しない[[無変態]]のグループに分けられる。成虫になるときに翅が発達するが、[[シミ目]]など翅の全くない種類も少なからずいる。
=== 生態 ===
昆虫の生態的な多様性は極めて広い。樹上や[[洞窟]]を含めた地上、[[土壌]]中、[[淡水]]中にごく普通に生息し、さらに一部の例外を除いて殆どの種が空を飛ぶことが出来る。分布は世界中にわたり、高山から低地までどこにでもおり、特に[[熱帯]]域での多様性が高い。
基本的に陸上で生活する生物で、水生昆虫でも成虫時に水中で生活する昆虫は少なく、成虫の多くは止水域で空気呼吸を行う。特に[[海]]には極少数の種がいるだけで、それも[[ウミユスリカ]]などの[[潮間帯]]に生息する種がほとんどで、外洋では海水面上で活動する[[ケシウミアメンボ|ウミアメンボ属]]の5種しか確認されておらず<ref>http://fujiwara-nh.or.jp/archives/2009/0106_120000.php</ref>、完全な海生昆虫は発見されていない。これは、海での[[ニッチ]]が既に祖先である[[甲殻類]]によって占められていたため再進出できなかった、陸上に比べて[[魚類]]などの天敵が多く生存競争に勝てなかった、陸上や淡水での生活に特化したため[[マルピーギ管]]が海水の塩分調整に対応できなかった、海水中を漂う[[海藻]]の胞子などが気門に詰まるため呼吸できなかった、陸上に比べて海中には酸素が乏しく昆虫類の外骨格形成に不利である<ref>「[https://www.tmu.ac.jp/news/topics/35603.html 【研究発表】昆虫学の大問題=「昆虫はなぜ海にいないのか」に関する新仮説]」東京都立大学2023年4月18日</ref>など、様々な説がある。
[[石炭紀]]から[[ペルム紀]]にかけて大気中の酸素濃度が高かった時期には体長数十cmに達する巨大な昆虫が生息していたが、現代では最小の[[哺乳類]]や[[鳥類]](1-2g)を超える体重を持つ昆虫は少数であり、小さいものは0.2[[ミリメートル|mm]]、5μg以下と大型の[[原生動物]](大型の[[ゾウリムシ]]など)を下回る。
食性の上では、[[草食動物|草食性]]、[[肉食動物|肉食性]]、[[雑食]]性など様々である。草食性では餌とする[[植物]]の種に特異性を持つ例も多く<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p253 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>、そのため植物の種ごとに決まった昆虫がある、という状況が見られる。寄生性のものもあり、[[シラミ]]や[[ハジラミ]]、[[クモバエ]]や[[コウモリバエ]]、[[カエルキンバエ]]や[[ラセンウジバエ]]などは[[脊椎動物]]に寄生する。他の昆虫に寄生する種では、[[捕食寄生]]という独特な寄生の型を持つ例も多い。
大半の種が[[変温動物]]であり、3[[摂氏|℃]]以上の環境でないと成長が行われず、それ以下になると[[冬眠]]状態となる。成虫の場合、一般に-3℃以下、45℃以上の環境にさらされ続けると死滅するが、卵の状態では温度耐性(特に低温)の範囲が大きくなるため、このまま越冬する種も多い。例外として群集性のものには、[[ハナバチ]]類の一部が、0℃時に30℃以上の体温を安定して保てるなど、ほぼ完全な[[恒温動物|恒温]]性のものも存在する。[[セッケイカワゲラ]]や[[ヒョウガユスリカ]]のように、氷点下の気温でも活動できる種もあり、[[南極]]でも昆虫が生息している。
昆虫の一部は、[[植物]]の[[受粉]]と深い関係がある。花粉の媒介方法としては[[風]]と動物がほとんどを占め、動物媒は虫媒のほかに[[鳥]]や[[コウモリ]]による媒介も含まれるが、動物媒の中で最も多いものは虫媒である<ref>「樹木学」p105 ピーター・トーマス 築地書館 2001年7月30日初版発行</ref>。虫媒のみに頼る、または一部を虫媒とする花は16万種に及ぶとされる<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p254 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。動物媒の花は虫を[[花]]に引き付けるために、風媒花と異なり美しい花や強い香り、豊かな蜜などを発達させたが、なかでも虫媒花は虫の強い嗅覚を利用するため、香りが強いものが多いことが特徴となっている<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p13-15 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。(鳥は嗅覚が弱いため、鳥媒の花には香りは必要なく香りは弱いものとなっている)<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p16 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。こうした虫の多くは花の[[蜜腺]]から分泌される[[蜜]]を食料とするほか、彼らの体につく花粉そのものも重要な食料としている<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p8-10 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。
===生体===
[[バッタ]]、[[イナゴ]]、[[蝶]]、[[ハチ]]など多くの昆虫の[[血糖]]は[[トレハロース]]であり、体内で分解[[酵素]]・[[トレハラーゼ]]の作用でブドウ糖([[グルコース]])に変わることによって利用される。また、[[スズメバチ]]とその[[幼虫]]の栄養交換液の中にもある。
昆虫の血糖としてのトレハロース濃度は、400-3,000 mg/dL(10-80 mM)の範囲にある<ref>河野義明「生物コーナー 昆虫のトレハロース代謝を抑えて害虫を制御する」『化学と生物、Vol. 』33 (1995) No. 4。{{doi|10.11150/10.1271/kagakutoseibutsu1962.33.259}}</ref>。この値は[[ヒト]]の[[グルコース]]としての通常の血糖値100-200 mg/dLに比べてはるかに高い。この理由の一つとして、トレハロースが[[タンパク質]]に対して[[糖化反応]]を起こさずグルコースに比べて生体に有害性をもたらさないためである<ref>中野雄介ほか「非還元性糖のヒト腹膜中皮細胞へ与える影響『ライフサポート』Vol. 17 (2005) No. Supplement. p.83。{{doi|10.5136/lifesupport.17.Supplement_83}}</ref><ref>佐中孜「浸透圧物質としてのトレハロース (trehalose) にかける期待」『日本透析医学会雑誌 』Vol. 40 (2007) No. 7.{{doi|10.4009/jsdt.40.568}}</ref>。
[[外骨格]]は甲殻類と違い、形成時に[[カルシウム]]沈着を伴わない。これは海中に比べてカルシウムに乏しい陸上での生活に適応した結果であり、外骨格を軽くすることにも繋がったため、後に飛行能力を発達させる上で有利に働いたという説がある。<ref>「[https://www.tmu.ac.jp/news/topics/35603.html 【研究発表】昆虫学の大問題=「昆虫はなぜ海にいないのか」に関する新仮説]」東京都立大学2023年4月18日</ref>
== 分類 ==
{{Main|昆虫の分類}}
種類数の多いグループとしては、以下のようなものがある。(括弧内は2003年現在の日本産既知種数)
* [[甲虫類|甲虫目]](鞘翅目) - [[カブトムシ]]、[[ゴミムシ]]などの仲間、35万種(10233種)
* [[チョウ目]](鱗翅目) - [[チョウ]]、[[ガ]]の仲間、17万種(5337種)
* [[ハエ目]](双翅目) - [[ハエ]]・[[カ]]・[[アブ]]などの仲間、15万種(5183種)
* [[ハチ目]](膜翅目) - [[ハチ]]、[[アリ]]の仲間、11万種(4516種)
* [[カメムシ目]](半翅目) - [[セミ]]、[[カメムシ]]などの仲間、8万2千種(2973種)
* [[バッタ目]](直翅目) - [[バッタ]]、[[コオロギ]]などの仲間、2万種(370種)
* [[トンボ目]](蜻蛉目) - [[トンボ]]の仲間、5千種(180種)
甲虫類は実際に種類が多いとされているが、飛翔能力が他の昆虫に比較して弱く、発見、採集が容易なため、種の同定が進んでいるのだとも言える。甲虫同様、生態が多様なハエ目やハチ目の昆虫は、実際には甲虫目を上回る種が存在するのではないかとも言われている。
=== 進化 ===
{{Main|汎甲殻類|六脚類#起源と進化}}
昆虫は[[地球]]の歴史上、4億年前、[[動物]]の陸上進出が始まった頃に上陸した動物群の一つである<ref name="yama">{{Cite web|和書
|author = 宮田研究室|date = |url = http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ymiyata/files/life/Life_evolution.htm|title = 生命の進化|work = 授業の資料|publisher = [[山口大学]]メディア基盤センター|accessdate = 2013-07-05}}</ref>。なお2014年11月の大規模な[[分子系統解析]]によれば、陸上植物が出現して間もない4億8千万年前には原始的な[[六脚類]]が現れ、昆虫は4億4千万年前、翅で飛ぶ昆虫は約4億6百万年前、完全変態昆虫は3億5千万年前に出現した<ref name=":2">{{Cite journal|last=Misof|first=B.|last2=Liu|first2=S.|last3=Meusemann|first3=K.|last4=Peters|first4=R. S.|last5=Donath|first5=A.|last6=Mayer|first6=C.|last7=Frandsen|first7=P. B.|last8=Ware|first8=J.|last9=Flouri|first9=T.|date=2014-11-07|title=Phylogenomics resolves the timing and pattern of insect evolution|url=https://www.sciencemag.org/lookup/doi/10.1126/science.1257570|journal=Science|volume=346|issue=6210|pages=763–767|language=en|doi=10.1126/science.1257570|issn=0036-8075}}</ref>。3億6千万年前に上陸した脊椎動物の[[両生類]]よりも早い時期であった<ref name="yama" />。
昆虫の生活様式、形態は非常にバラエティに富んでおり、様々な環境[[ニッチ]]に適応して繁殖しており、その種類も非常に多い。[[恐竜]]登場前の2億-3億年前には、現在の[[ゴキブリ]]や[[トンボ]]などの祖先が既に登場していた。
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伝統的な[[系統学]]では、昆虫を含んだ[[六脚類]]は、[[多足類]]とともに[[無角類]]([[:en:Atelocerata|Atelocerata]]、または[[気門類]] Tracheata)としてまとめられ、[[甲殻類]]、[[鋏角類]]とともに、[[節足動物]]の3つの大きな群をなすと考えられてきた。この説では、多足類は六脚類の[[姉妹群]]<ref name=":1">{{Cite book|title=Entomology|url=https://doi.org/10.1007/1-4020-3183-1_1|publisher=Springer Netherlands|date=2005|location=Dordrecht|isbn=978-1-4020-3183-0|pages=3–23|doi=10.1007/1-4020-3183-1_1|language=en|editor-first=Cedric|editor-last=Gillott}}</ref>、もしく六脚類が[[側系統群]]の多足類から派生したとする<ref name=":1" />。
これに対して2000年代をはじめとして、根本的にこれを否定する説が徐々に有力視される。2019年現在<ref name=":0">{{Cite journal|last=Giribet|first=Gonzalo|last2=Edgecombe|first2=Gregory D.|date=2019-06-17|title=The Phylogeny and Evolutionary History of Arthropods|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0960982219304865|journal=Current Biology|volume=29|issue=12|pages=R592–R602|language=en|doi=10.1016/j.cub.2019.04.057|issn=0960-9822}}</ref> 全ての[[分子系統学]]的解析([[遺伝子]]解析)は、六脚類は多足類とは遠縁であり、むしろ側系統群の[[甲殻類]]から派生していることを根強く支持し<ref>{{Cite journal|last=Shultz|first=J. W.|last2=Regier|first2=J. C.|date=2000-05-22|title=Phylogenetic analysis of arthropods using two nuclear protein-encoding genes supports a crustacean + hexapod clade|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10874751|journal=Proceedings. Biological Sciences|volume=267|issue=1447|pages=1011–1019|doi=10.1098/rspb.2000.1104|issn=0962-8452|pmid=10874751|pmc=1690640}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Giribet|first=Gonzalo|last2=Ribera|first2=Carles|date=2000|title=A Review of Arthropod Phylogeny: New Data Based on Ribosomal DNA Sequences and Direct Character Optimization|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1096-0031.2000.tb00353.x|journal=Cladistics|volume=16|issue=2|pages=204–231|language=en|doi=10.1111/j.1096-0031.2000.tb00353.x|issn=1096-0031}}</ref><ref name="evolution">{{Citation
| author1=Glenner, H.
| author2=Thomsen, P. F.
| author3=Hebsgaard, M. B.
| author4=Sorensen, M. V.
| author5=Willerslev, E.
| title=Evolution. The origin of insects
| journal=Science
| volume=314
| issue=5807
| year=2006
| pages=1883-1884
}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Regier|first=Jerome C.|last2=Shultz|first2=Jeffrey W.|last3=Kambic|first3=Robert E.|date=2005-02-22|title=Pancrustacean phylogeny: hexapods are terrestrial crustaceans and maxillopods are not monophyletic|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1634985/|journal=Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences|volume=272|issue=1561|pages=395–401|doi=10.1098/rspb.2004.2917|issn=0962-8452|pmid=15734694|pmc=1634985}}</ref><ref>{{cite journal|author=Regier, Jerome C., et al.|title=Arthropod relationships revealed by phylogenomic analysis of nuclear protein-coding sequences|journal=Nature|volume=463|number=7284|year=2010|pages=1079-1083|doi=10.1038/nature08742}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Oakley|first=Todd H.|last2=Wolfe|first2=Joanna M.|last3=Lindgren|first3=Annie R.|last4=Zaharoff|first4=Alexander K.|date=2013-01-01|title=Phylotranscriptomics to Bring the Understudied into the Fold: Monophyletic Ostracoda, Fossil Placement, and Pancrustacean Phylogeny|url=https://academic.oup.com/mbe/article/30/1/215/1021983|journal=Molecular Biology and Evolution|volume=30|issue=1|pages=215–233|language=en|doi=10.1093/molbev/mss216|issn=0737-4038}}</ref><ref name=":3">{{Cite journal|last=Schwentner|first=Martin|last2=Combosch|first2=David J.|last3=Pakes Nelson|first3=Joey|last4=Giribet|first4=Gonzalo|date=2017-06|title=A Phylogenomic Solution to the Origin of Insects by Resolving Crustacean-Hexapod Relationships|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0960982217305766|journal=Current Biology|volume=27|issue=12|pages=1818–1824.e5|language=en|doi=10.1016/j.cub.2017.05.040}}</ref><ref name=":4">{{Cite journal|last=Lozano-Fernandez|first=Jesus|last2=Giacomelli|first2=Mattia|last3=Fleming|first3=James F.|last4=Chen|first4=Albert|last5=Vinther|first5=Jakob|last6=Thomsen|first6=Philip Francis|last7=Glenner|first7=Henrik|last8=Palero|first8=Ferran|last9=Legg|first9=David A.|date=2019-08-01|title=Pancrustacean Evolution Illuminated by Taxon-Rich Genomic-Scale Data Sets with an Expanded Remipede Sampling|url=https://academic.oup.com/gbe/article/11/8/2055/5528088|journal=Genome Biology and Evolution|volume=11|issue=8|pages=2055–2070|language=en|doi=10.1093/gbe/evz097}}</ref>、他に[[神経解剖学]]的構造<ref>{{Cite journal|last=Stemme|first=Torben|last2=Iliffe|first2=Thomas M.|last3=von Reumont|first3=Björn M.|last4=Koenemann|first4=Stefan|last5=Harzsch|first5=Steffen|last6=Bicker|first6=Gerd|date=2013-06-10|title=Serotonin-immunoreactive neurons in the ventral nerve cord of Remipedia (Crustacea): support for a sister group relationship of Remipedia and Hexapoda?|url=https://doi.org/10.1186/1471-2148-13-119|journal=BMC Evolutionary Biology|volume=13|issue=1|pages=119|doi=10.1186/1471-2148-13-119|issn=1471-2148|pmid=23758940|pmc=3687579}}</ref> や[[ヘモシアニン]]の構成<ref>{{Cite journal|last=Ertas|first=Beyhan|last2=von Reumont|first2=Björn M.|last3=Wägele|first3=Johann-Wolfgang|last4=Misof|first4=Bernhard|last5=Burmester|first5=Thorsten|date=2009-12-01|title=Hemocyanin Suggests a Close Relationship of Remipedia and Hexapoda|url=https://academic.oup.com/mbe/article/26/12/2711/1531624|journal=Molecular Biology and Evolution|volume=26|issue=12|pages=2711–2718|language=en|doi=10.1093/molbev/msp186|issn=0737-4038}}</ref> にもそれを支持する証拠が挙げられる<ref name=":0" />。このように六脚類と甲殻類からなる系統群は、'''[[汎甲殻類]]'''([[:en:Pancrustacea|Pancrustacea]])という。多足類は六脚類に類縁でなく、むしろそれより早期に分岐し、汎甲殻類と共に[[大顎類]]をなす。汎甲殻類の中に、まず[[貧甲殻類]]<ref name=":5">{{Citation|title=顎脚類(甲殻類)の分類と系統に関する研究の最近の動向|url=https://doi.org/10.19004/taxa.48.0_49|publisher=日本動物分類学会|date=2020-02-29|accessdate=2020-04-20|doi=10.19004/taxa.48.0_49|language=ja|first=攻|last=大塚|first2=隼人|last2=田中}}</ref>([[貝虫]]類・[[ヒゲエビ類]]・[[鰓尾類]]など)が分岐し、続いて[[多甲殻類]]<ref name=":5" />([[軟甲類]]・[[蔓脚類|フジツボ類]]・[[カイアシ類]])と[[異エビ類]]<ref name=":5" />([[カシラエビ]]類・[[鰓脚類]]・[[ムカデエビ]]類、六脚類)に二分され、後者の甲殻類の中で、ムカデエビ類は六脚類の[[姉妹群]]として有力視される<ref name=":0" /><ref name=":3" /><ref name=":4" />。
*'''[[汎甲殻類]] {{Sname||Pancrustacea}}'''
**[[甲殻亜門]] [[:en:Crustacea|Crustacea]]([[側系統群]])
**'''[[六脚亜門]] {{Sname||Hexapoda}}'''
***[[内顎綱]] {{Sname||Entognatha}}
****[[カマアシムシ目]](原尾目){{Sname||Protura}}
****[[トビムシ目]](粘管目){{Sname||Collembola}}
****[[コムシ目]](倍尾目){{Sname||Diplura}}
***'''[[昆虫綱]] [[:en:Insecta|Insecta]]'''
昆虫以外の六脚類は、顎が体の中にあるなど共通の性質を持つため、[[内顎類]]と総称される。[[内顎類]]および六脚類は単系統とする説が主流だが、一部の分子系統では異論もある<ref name=":2" /><ref>{{Cite journal|last=Nardi|first=Francesco|last2=Spinsanti|first2=Giacomo|last3=Boore|first3=Jeffrey L.|last4=Carapelli|first4=Antonio|last5=Dallai|first5=Romano|last6=Frati|first6=Francesco|date=2003-03-21|title=Hexapod Origins: Monophyletic or Paraphyletic?|url=https://science.sciencemag.org/content/299/5614/1887|journal=Science|volume=299|issue=5614|pages=1887–1889|language=en|doi=10.1126/science.1078607|issn=0036-8075|pmid=12649480}}</ref>。
=== 昆虫綱の大分類 ===
{{Main2|詳細な分類は「[[昆虫の分類#下位分類]]」を}}
* 昆虫綱
** [[無翅亜綱]] : [[シミ目]]、[[イシノミ目]]
** [[有翅亜綱]]
*** [[旧翅下綱]] : [[カゲロウ目]]、[[トンボ目]]
*** [[新翅下綱]]
昆虫綱の中では、比較的原始的な、翅のない[[無翅亜綱|無翅類]]と、翅を腹側へ畳めない[[旧翅下綱|旧翅類]]がまず分けられる。しかし、無翅類は原始的な形質でまとめられた側系統だという説が1960年代頃から有力となり、それを反映した次のような分類が普及しつつある。ただし、有翅「下綱」などの修正された階級については研究者の見解は必ずしも一致していない。
* 昆虫綱
** 単関節丘亜綱 : イシノミ目
** 双関節丘亜綱
*** 無翅下綱 : シミ目
*** 有翅下綱
**** 旧翅節 : カゲロウ目、トンボ目
<!-- **** 蜻蛉節 : トンボ目 -->
**** 新翅節
旧翅類の単系統性にも疑問が持たれており、カゲロウ目とトンボ目のどちらかが先に分かれた可能性がある。ただし、それを反映した分類はまだ確立していない。
=== 現生昆虫の目 ===
{{Main|昆虫の分類#下位分類}}
分類体系によって異なるが、(狭義の)昆虫綱 {{sname|Insecta}} は30[[目 (分類学)|目]]を含む。以下のものは『岩波生物学辞典 第5版』<ref>『岩波生物学辞典 第5版』(2013) pp.1598-1601</ref> による。命名者名は省略。
* [[六脚亜門]] {{sname||Hexapoda}}('''広義の昆虫類''' {{sname||Incecta}} ''{{lang|la|[[sensu#sensuを用いた一般的な修飾語句|s.l.]]}}'')
**[[内顎綱]] {{sname||Entognatha}}
***[[コムシ目]](双尾目){{sname||Diplura}}
*** [[カマアシムシ目]](原尾目){{sname||Protura}}
*** [[トビムシ目]](粘管目){{sname||Collembola}}
**'''昆虫綱 {{sname||Incecta}}''' (外顎綱 {{sname|Ectognatha}}、狭義の昆虫類 {{sname||Incecta}} ''{{lang|la|[[sensu#sensuを用いた一般的な修飾語句|s.s.]]}}'')
***[[イシノミ目]](古顎目){{sname||Archaeognatha}}
*** [[シミ目]](総尾目){{sname||Thysanura}}
*** [[カゲロウ目]](蜉蝣目){{sname||Ephemeroptera}}
*** [[トンボ目]](蜻蛉目){{sname||Odonata}}
*** [[ガロアムシ目]](非翅目、欠翅目){{sname||Grylloblattodea}}
*** [[カカトアルキ目]](踵歩目){{sname||Mantophasmatodea}}
*** [[ハサミムシ目]](革翅目){{sname||Dermaptera}}
*** [[カワゲラ目]](襀翅目){{sname||Plecoptera}}
*** [[シロアリモドキ目]](紡脚目){{sname||Embioptera}}
*** [[ジュズヒゲムシ目]](絶翅目){{sname||Zoraptera}}
*** [[ナナフシ目]](竹節虫目){{sname||Phasmatodea}}
*** [[バッタ目]](直翅目){{sname||Orthoptera}}
*** [[カマキリ目]](蟷螂目){{sname||Mantodea}}
*** [[ゴキブリ目]] (網翅目){{sname||Blattodea}}
*** [[シロアリ目]](等翅目){{sname||Isoptera}}
*** [[カジリムシ目]] (咀顎目){{sname||Psocodea}}
*** [[アザミウマ目]](総翅目){{sname||Thysanoptera}}
*** [[カメムシ目]](半翅目){{sname||Hemiptera}}
*** [[ラクダムシ目]](駱駝虫目){{sname||Raphidioptera}}
*** [[ヘビトンボ目]](広翅目){{sname||Megaloptera}}
*** [[アミメカゲロウ目]](脈翅目){{sname||Neuroptera}}
*** [[コウチュウ目]](鞘翅目){{sname||Coleoptera}}
*** [[ネジレバネ目]](撚翅目){{sname||Strepsiptera}}
*** [[シリアゲムシ目]](長翅類){{sname||Mecoptera}}
*** [[ノミ目]](隠翅目){{sname||Sihonaptera}}
*** [[ハエ目]](双翅目){{sname||Diptera}}
*** [[トビケラ目]](毛翅目){{sname||Trichoptera}}
*** [[チョウ目]](鱗翅目){{sname||Lepidoptera}}
*** [[ハチ目]](膜翅目){{sname||Hymenoptera}}
なお、以前[[バッタ目]](直翅目){{sname||Orthoptera}} とされていたものは[[ガロアムシ目]](非翅目、欠翅目){{sname||Grylloblattodea}}、[[ナナフシ目]](竹節虫目){{sname||Phasmatodea}}、[[バッタ目]](直翅目){{sname||Orthoptera}}、[[カマキリ目]](蟷螂目){{sname||Mantodea}}、[[ゴキブリ目]] {{sname||Blattodea}} に分類される。
また、[[ゴキブリ目]] {{sname||Blattodea}}、[[シロアリ目]](等翅目){{sname||Isoptera}} と分かれていたが、21世紀現在は[[ゴキブリ目]] {{sname||Blattodea}} に統一される。この場合、シロアリ目の中に含まれる亜科は科となり、[[チャタテムシ目]](噛虫目){{sname||Psocoptera}} と[[シラミ目]](裸尾目){{sname||Phthiraptera}} は[[咀顎目]] {{sname||Psocodea}} に統一される。
[[チョウ目]](鱗翅目) {{sname||Lepidoptera}} の中にある[[コバネガ科]]は、[[トビケラ目]](毛翅目) {{sname||Trichoptera}} と[[チョウ目]](鱗翅目) {{sname||Lepidoptera}} の祖先形質を持っているので、[[チョウ目]](鱗翅目) {{sname||Lepidoptera}}、[[トビケラ目]](毛翅目) {{sname||Trichoptera}}、コバネガ目と提案されることもある。
[[2002年]]に、翅がなく[[ナナフシ]]に似た外観を持つ[[マントファスマ|カカトアルキ目(マントファスマ目)]]が新目として設立された<ref>藤田敏彦 (2010) , p.168</ref>。
== 人間との関わり ==
{{See also|益虫|害虫}}
生物世界で最も種類の多い動物群であり、何らかの関わりなしに生活することが不可能なほどに、あらゆる局面でかかわりを生じる。直接に人間の役に立つものを[[益虫]]、人の健康、財産、家畜、農作物などに害を与えるものを[[害虫]]と言う。ただし、実害はない不快害虫もいれば、日常生活で益虫・害虫扱いされるものの分類学的には昆虫以外の小動物も含まれる。
益虫は、インセクトブリーダーなどによる{{ill2|昆虫養殖|en|Insect farming}}([[養蜂]]、[[養蚕]]、{{ill2|ゴキブリ養殖|en|Cockroach farming}}など)が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/cor/2023/08/24/33906.html |title=新しい職業?「インセクトブリーダー」昆虫の繁殖を仕事に | NHK |access-date=2023-10-12 |last=日本放送協会 |website=NHK NEWS WEB |language=ja}}</ref>。
[[昆虫採集]]や[[飼育]]は[[趣味]]の一分野である。[[昆虫標本]]などは[[博物館]]などの展示物として人気があり、[[名和昆虫博物館]](岐阜県岐阜市)、倉敷昆虫館([[岡山県]][[倉敷市]])<ref>[http://www.shigei.or.jp/ento_museum/ 倉敷昆虫館](2018年10月14日閲覧)。</ref> のような飼育専門施設の[[昆虫館]]もある。生きた昆虫の輸入も行われるが、有害動物は[[植物防疫法]]によって輸入禁止である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/pps/j/trip/memo/live_insect.html |title=生きた昆虫類を輸入される方へ:植物防疫所 |access-date=2023-08-13 |website=www.maff.go.jp}}</ref>。そいういった輸入された昆虫を[[放虫]]した場合は、外来種であり、自然界に様々な悪影響を及ぼすので避けるべきで責任をもって逃がさず育てることが推奨される<ref>{{Cite web|和書|url=https://kumanichi.com/articles/2743 |title=近所で巨大クワガタ捕まえた! 熊本市の小学生 専門家「外来種、逃がさず大切に育てて」|熊本日日新聞社 |access-date=2023-08-13 |last=https://www.facebook.com/KUMANICHIs |website=熊本日日新聞社 |language=ja}}</ref>。
文化として、[[季節]]や[[天候]]を知るために昔から観察されてきたこともあり、虫(蟄)が冬から解放され(啓いて)動き出す日として24節気のひとつ[[啓蟄]]がある<ref>{{cite kotobank|啓蟄}}</ref>ほか、[[北海道]]では[[雪虫]]は初雪を告げる昆虫として知られている。
[[古代エジプト]]では、一部の甲虫が[[スカラベ]]として崇拝対象となった。
学問の[[昆虫学]]も大きく発展し、[[昆虫分類学]]・[[応用昆虫学]]・[[蚕学]]・[[天敵昆虫学]]([[生物的防除]])・[[衛生昆虫学]]・[[法医昆虫学]]・[[環境昆虫学]]・[[遺伝学]]など幅広い。また、ミツバチや蚕などの[[産業動物]]である昆虫は[[獣医学]]で取り扱う。
=== ペットとしての昆虫 ===
採集その他の手段で入手した昆虫を集めたり飼育したりする[[娯楽]]は古くから存在する。[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]、[[アルフレッド・ラッセル・ウォレス|ウォーレス]]などの泰斗を輩出している[[博物学]]の祖国[[イギリス]]で顕著であるが、広く[[ヨーロッパ]]にみられ、[[チョウ]]の幼虫や[[オサムシ]]類を飼育する例が多い。現代では[[ナナフシ]]の人気が高く、[[観葉植物]]感覚で飼育される。
[[日本]]においては、[[平安時代]]の貴族階級において、[[スズムシ]]、[[マツムシ]]、[[コオロギ]]などの「[[鳴く虫]]」(直翅目)の飼育、鳴き声の観賞がはじまり<ref>「昆虫観賞 鳴く虫を楽しむ」p131 加納康嗣 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>、江戸時代中期にはそれらを行商人が売り歩く商業も確立、江戸町民を中心に鳴く虫飼育の文化が広く普及した。鳴く虫のほか、蛍も同様に広く取引された<ref>「昆虫観賞 鳴く虫を楽しむ」p138-139 加納康嗣 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>。こうした[[虫売り]]文化は[[昭和]]初期には最盛期を迎えたものの、戦後は衰退した<ref>「昆虫観賞 鳴く虫を楽しむ」p137 加納康嗣 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>。元々これらの文化は、中国から伝播したとも、独自に並行発生したともいわれるが定かでない。また、中国では鳴き声の鑑賞のみならずコオロギの格闘を楽しむ娯楽「[[コオロギ#闘蟋|闘蟋]]」も古くから親しまれてきた。闘蟋の歴史は[[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]期にさかのぼるとされ、[[南宋]]の宰相である[[賈似道]]はこの趣味が高じて世界初のコオロギの百科事典『促織経』を著した<ref>「昆虫観賞 鳴く虫を楽しむ」p129 加納康嗣 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>。一方、児童年齢の子供が[[カブトムシ]]や[[クワガタムシ]]などに[[昆虫相撲]]を取らせる古典的遊びも、江戸時代からあり、それらの昆虫は「サイカチ」「オニガラ」「オニムシ」などと呼ばれた。
21世紀現在の日本には、[[サブカルチャー]]・[[ホビー]]の一つとして、クワガタムシやカブトムシなどの甲虫類に鑑賞価値を見出し累代飼育するファンが多く、10万人単位の愛好者がいるといわれる。
=== 食材としての昆虫 ===
{{Main|昆虫食}}
今日の日本においては、[[昆虫食]]はあまり一般的ではなく、どちらかと言うと[[ゲテモノ]]料理や[[珍味]]として扱われる機会が多い。その中で[[イナゴ]]([[いなごの佃煮|佃煮]])は全国的に食べられていると言ってもよく、[[ハチ]]、[[セミ]]、[[ゲンゴロウ]]、[[トビケラ]]や[[カワゲラ]](水生昆虫の幼虫をまとめて[[ざざむし]]と総称)、[[カイコガ]]、[[カミキリムシ]]なども食用とされることがある。商品として売り出されたところもある。2008年時点で、はちの子、イナゴの缶詰はともに1[[トン]]弱、カイコのサナギが300[[キログラム]]、まゆこ(カイコのガ)が100キログラム、ザザムシが300キログラム製造されている<ref>野中[2008:233]</ref>。なかには、[[長野県]]のハチの子の佃煮のように[[郷土料理]]や名物になっている地域もある。
世界的には[[タガメ]]や[[アリ]]、甲虫などの昆虫の幼虫を[[食文化|食べる文化]]を持っている[[国]]や地域、[[民族]]は多い。なかでも昆虫の多い[[亜熱帯]]から[[熱帯]]地域において昆虫食の文化は根付いている<ref>「食文化としての昆虫食」p43 野中健一 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>。
昆虫は[[タンパク質]]や[[ミネラル]]を豊富に含んで[[栄養価]]が高い上、従来の[[家畜]]に比べ[[飼料]]の転換効率がよいため、将来的に重要な食料となるとの見方を[[国連食糧農業機関]]は示している<ref>「食文化としての昆虫食」p40-41 野中健一 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>。
=== 薬材としての昆虫 ===
中国の[[生薬]]を集めた『[[本草綱目]]』には、多種の昆虫が記載されている。一例として[[シナゴキブリ]]は、シャチュウ(䗪虫<ref name=kanjigen>『漢字源』p.1405</ref>)の名で、血行改善作用があるとされている。学問的に薬効は必ずしも明らかになっていない例が多いが、他にも薬酒の原料として[[スズメバチ]]、アリ、[[ゴミムシダマシ]]、[[冬虫夏草]](昆虫の幼虫から[[真菌]]キノコが成長したもの)などが使われたり、粉末にして外用薬にされる昆虫もある。また、昆虫そのものではないが、セミの抜け殻は蝉退(センタイ)といって、解熱、鎮静、鎮痙などに用いられる。
=== 飼料としての昆虫 ===
世界的な人口増加により昆虫由来の飼料が研究されており、2020年4月に農林水産省にフードテック研究会が新設された<ref>{{Cite news |url=https://www.agrinews.co.jp/p50589.html |accessdate=2020-4-20 |title=食肉代替品、昆虫飼料 官民で実用化加速 食料安定供給強化へ 農水省が研究会|newspaper=日本農業新聞}}</ref>。
=== 農薬としての昆虫 ===
日本の法律([[農薬取締法]])は、農作物を害する昆虫、[[ダニ]]、[[細菌]]などの[[防除]]に使われる薬剤のみならず、防除に有益な[[天敵]]をも一括して[[農薬]]と整理した。このため、農薬として登録されている昆虫、[[クモ]]、ダニ、細菌、[[ウイルス]]などがあり、これらは[[生物農薬]]とも呼ばれる。これらは法律上は農薬であるため、用法、用量、販売にも規制がある。現在日本で登録されている天敵昆虫には、[[オンシツツヤコバチ]]、[[ヨコスジツヤコバチ]]、[[タイリクヒメハナカメムシ]]、[[ヤマトクサカゲロウ]]、[[ナミテントウ]]、[[コレマンアブラバチ]]などがある。こうした天敵農薬による生物的防除としては、19世紀末の[[アメリカ]]において、[[イセリアカイガラムシ]]の大発生を原産地[[オーストラリア]]における天敵[[ベダリアテントウ]]の導入によって防いだ例などが知られ、成功すれば大きな効果を上げるものの、目的の害虫以外の虫が攻撃され大被害を受けることも珍しくないため、導入には細心の注意が必要である<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p17-18 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。
=== 産業用の昆虫 ===
歴史的に最も広範に利用されている産業用昆虫として、[[絹]]糸を生産するための[[カイコガ]]がある。絹は歴史を通じて高級繊維としての地位を確立しており、これを生み出すカイコを育てる[[養蚕]]は産業の一つとして成立している。カイコは家畜化された歴史が長いためすでに野生では存在せず、人間の手を離れては生きられなくなっている<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p54 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。なお、カイコ以外にも絹糸を生成できる虫は[[ヤママユ]](テンサン、天蚕)やその亜種であるサクサン(柞蚕)などいくつか存在し、[[野蚕]]と総称される。[[ミツバチ]]類は蚕と並んでもっとも重要な産業用昆虫であり、[[蜂蜜]]や[[ロイヤルゼリー]]、さらに[[蜜蝋]]の採取目的で飼育されている<ref>「感じる花 薬効・芸術・ダーウィンの庭」p19 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。ミツバチのもう一つ重要な用途としては[[果樹]]や[[野菜]]といった[[虫媒花]]の[[受粉]]が挙げられる。受粉は[[農業]]上非常に重要であり、[[養蜂]]は蜂蜜採取よりも授粉用の需要の方が大きくなっている<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p78-82 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。授粉用昆虫としては、このほかに[[マルハナバチ]]類も多用される。カイコとミツバチは昆虫でありながら[[家畜]]になっているといえる。イボタロウムシも蝋の生産に重要である。
この他、海外では赤色[[染料]]の原料として[[カイガラムシ]]類が広く利用され、なかでも良質の[[コチニール色素]]の取れる[[コチニールカイガラムシ]]は[[アステカ]]で珍重されて、19世紀中盤に化学染料が優勢になる前は世界で広く栽培されていた<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p88 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。またラックカイガラムシは染料としても使用されていたが、それよりも[[シェラック]]と呼ばれる[[天然樹脂|樹脂]]の生産で知られており、かつては[[ワニス]]など様々な用途に使用されていた<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p120-124 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。また、幼虫(ウジ)を[[釣り餌]]として利用するために累代飼育されている[[ハエ]]や爬虫類の餌として飼育販売されているコオロギなどのような例もある。
=== 装飾用の昆虫 ===
[[タマムシ]]、[[チョウ]]、[[ガ]]など、色彩や光沢の鮮やかな昆虫は、工芸品などの装飾材料にも利用される。日本で[[国宝]]に指定されている[[玉虫厨子]]は、本来タマムシの羽を装飾として使用していたことでこの名がついており、オリジナルの玉虫厨子でその装飾が失われた後も、タマムシの羽をふんだんに使用して作成当時の姿を復元したレプリカがいくつか作成されている<ref>「昆虫にかかわる美術工芸品」p77 三橋淳 (「文化昆虫学事始め」所収 三橋淳・小西正泰編 創森社 2014年8月20日第1刷)</ref>。
=== モデル生物として ===
{{Main|モデル生物}}
[[モデル生物]]として重要なものもある。[[ショウジョウバエ]]や[[カイコ]]が[[遺伝学]]で、アズキゾウムシや[[コクヌストモドキ]]が[[個体群生態学]]で演じた役割は非常に大きい。昆虫は小型で扱いやすく、狭い環境でも飼育が可能で、また短い時間で複数世代が観察できる。上記のような昆虫はそのような点でモデル生物として好適であった。また、処理のしやすさについても独特である。{{仮リンク|ハワード・エヴァンズ|en|Howard Ensign Evans}}は著書『虫の惑星』で昆虫の[[変態]][[ホルモン]]に関する実験で、複数の幼虫の首を切ってつなぎ合わせてその変態を見る実験について説明した後、この実験を[[ネコ]]で行うことが想像できるか?と述べている。
また、ゴキブリは、昆虫の中でも大きい方なので、研究用の生物(昆虫)としても利用されている。
=== 法医昆虫学 ===
{{main|法医昆虫学}}
[[アメリカ合衆国]]などでは、[[クロバエ]]などが死体に産卵する特性と幼虫(ウジ)の成長の程度が、遺体の放置時間を推定する際の手掛かりの一つとされている<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p244-245 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。
=== 医療としての昆虫 ===
{{Main|マゴットセラピー}}
医療、治療方法として、[[無菌]]状態にしたハエなどの幼虫のウジに患部の[[壊死]]した組織を食べさせる[[マゴットセラピー]]がある。これは1930年代にアメリカで広まったものの、1940年代に[[ペニシリン]]が開発されると急速に使用されなくなっていったが、1990年代末から再び使用が増加しつつある<ref>「虫と文明 螢のドレス・王様のハチミツ酒・カイガラムシのレコード」p212-216 ギルバート・ワルドバウアー著 屋代通子訳 築地書館 2012年9月5日初版発行</ref>。
[[バイオ医薬品]]などの[[組換えタンパク質]]の生産宿主としても昆虫や昆虫細胞は用いられている。宿主としては[[カイコ]]や{{仮リンク|イラクサギンウワバ|en|Cabbage looper}}、{{仮リンク|ツマジロクサヨトウ|en|Fall armyworm}}、[[ウイルスベクター]]としては[[バキュロウイルス]]が用いられており<ref>{{Cite journal|和書|title=カイコを用いた組換えタンパク質生産|author=加藤竜也|journal=生物工学会誌|volume=92|issue=6|page=303|publisher=日本生物工学会|date=2014|id={{NDLJP|10518865}}}}</ref>、このような発現系はバキュロウイルス発現ベクター系(BEVS)と呼ばれる<ref name="Zhao2020">{{Cite journal|title=Construction of a Baculovirus Derivative to Produce Linearized Antheraea pernyi (Lepidoptera: Saturniidae) Multicapsid Nucleopolyhedrovirus Genomic DNA|author=Zhenjun Zhao; Bo Ye; Dongmei Yue; Peipei Li; Bo Zhang; Linmei Wang; Qi Fan|journal=Journal of Insect Science|volume=20|issue=2|publisher=Entomological Society of America|date=2020-3|ISSN=1536-2442|doi=10.1093/jisesa/ieaa011}}</ref>。昆虫由来培養細胞とAutographa californica multiple[[核多角体病ウイルス]](AcMNPV)を用いた組換えタンパク質の生産法は1983年に[[テキサスA&M大学]]のゲール・スミスや{{仮リンク|マックス・サマーズ|en|Max D. Summers}}らによって開発され、カイコ幼虫個体とカイコ核多角体病ウイルス(BmNPV)を用いた方法は1985年に[[鳥取大学]]の[[前田進]]らによって開発された<ref name="Zhao2020"/>。BEVSは[[インターフェロン]]や[[抗体]]などの[[試薬]]のほか『[[サーバリックス]]』や『[[Novavax COVID-19ワクチン]]』といったワクチン用タンパク質の生産にも役立てられている。
=== 生態系の調整・基盤サービスの担い手としての昆虫 ===
上に記したような、食料、医薬品や医療、農業、衣料あるいはペットなどとしての利用は、[[生態系サービス]]のうちの供給サービスあるいは文化的サービスに当たるが、それ以外にも生態系の調整サービスや基盤サービスの担い手として重要な役割を果している<ref>T.D. Schowalter, J.A. Noriega and T. Tschrntle 2017 Insect effects on ecosystem services – Introduction. Basic and Applied Ecology 26(6): 1-7.</ref><ref>Pedro Cardoso, et al. Scientists’ warning to humanity on insect extinctions., Biological Conservation, https://doi.org/10.1016/j.biocon.2020.108426</ref>
例えば、ミツバチ以外にも様々なハナバチや、アブやハエ、チョウやガ、ハナムグリやカミキリ等の甲虫などが、植物の受粉を担っている。また、枯木や倒木、デトリタス、枯葉は、シロアリ、ゴキブリ、クワガタ、カミキリ、土壌性昆虫、水中ではトビケラや双翅目幼虫などが分解している。野生動物の糞や死体は、ハエ、シデムシ、糞虫などにより分解される。特定の虫が大発生することを、多くの捕食寄生昆虫や肉食性昆虫が抑制している。
他方では、クモ、鳥、コウモリ等の哺乳類、両生類、爬虫類、淡水魚などの餌として、[[生態ピラミッド]]のより高次の消費者を支えている。
こうして多種多様な昆虫により様々な自然生態系が維持され、ひいては人間にも様々な[[生態系サービス]]をもたらしている<ref>デイブ・グールソン 藤原多伽夫訳 2022 サイレント・アース 昆虫たちの「沈黙の春」NHK出版</ref>。
=== 害虫 ===
上記のような益虫のほか、人類に害を与える害虫も数多く存在する。一部の昆虫は[[媒介者]]として[[伝染病]]の感染源となっている。こうした媒介者の中で最も有害な昆虫は[[カ]]であり、[[マラリア]]や[[デング熱]]などさまざまな伝染病を媒介して、2016年のデータでは1年間で死者は83万人にも上り、「地球上でもっとも人類を殺害する生物」となっている<ref>https://www.huffingtonpost.jp/entry/don_jp_5c5d4fefe4b0974f75b157ff 「どの動物が人間を一番殺しているのか...? ビル&メリンダ・ゲイツ財団がまとめた驚きの結果」錦光山雅子 ハフィントンポスト 2017年11月11日 2019年6月16日閲覧</ref>。人間だけでなく、農作物や家畜に害を与える昆虫も多く存在する。なかでも[[イナゴ]]や[[バッタ]]などは[[相変異 (動物)|相変異]]を起こした大集団が周囲のすべての[[草本|草本類]]を食らいつくす[[蝗害]]を発生させることがあり、この場合周囲の生態系は大打撃を受け[[飢饉]]が発生することもある。
== ムシ ==
{{Main|虫}}
現代の日常会話では、昆虫を単に「[[虫]]」(むし)と呼ぶことが多いが、[[ダンゴムシ]]や[[フナムシ]]などの用法でわかるとおり、ムシとは本来はもっと広い範囲の意味を持つ言葉で、獣、鳥、魚介類以外の全動物を指す言葉であった。
[[漢字]]の「虫」(キ、{{ピン音|huǐ}})は本来、[[毒蛇]]([[ニホンマムシ|マムシ]])を型取った[[象形文字]]であるが、[[ヘビ|蛇]]など[[爬虫類]]の一部や、[[両生類]]、[[環形動物]]など、果ては架空の動物である[[竜]]までを含めた広い範囲の生物群を指す「蟲」(チュウ、{{ピン音|chóng}})の略字として古代から使われている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2013年7月5日 (金) 19:14 (UTC)}}
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|author = 斎藤哲夫ほか
|title = 新応用昆虫学
|origyear =
|edition = 3訂版
|year = 1996
|publisher = [[朝倉書店]]
|isbn = 4-254-42015-3
|page =
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* {{Cite book|和書
|author= 石川良輔|authorlink=石川良輔
|title = 昆虫の誕生 : 一千万種への進化と分化
|year = 1996
|publisher = [[中央公論社]]
|series = [[中公新書]]
|isbn = 4-12-101327-1
|page =
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* {{Cite book|和書
|author = 水波誠
|title = 昆虫 : 驚異の微小脳
|year = 2006
|publisher = 中央公論新社
|series = 中公新書
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|year = 2013
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|edition = 第5版
|publisher = 岩波書店
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|author = 藤堂明保・松本昭・武田晃・加納喜光 編
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|title = 漢字源
|edition = 改訂第五版
|publisher = 学研
|isbn = 978-4-05-303101-3
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|author = 野中健二
|year = 2008
|title = 昆虫食先進国ニッポン
|edition = 第1版
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|author=藤田敏彦 著
|date=2010-04-25
|title=新・生命科学シリーズ 動物の系統分類と進化
|edition = 第1版
|publisher=裳華房
|isbn=9784785358426}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Wikispecies|Insecta|昆虫綱}}
{{Commonscat|Insecta|昆虫綱}}
{{ウィキポータルリンク|昆虫}}
*[[昆虫学]]
* [[無脊椎動物天然記念物一覧]]
* [[昆虫類レッドリスト (環境省)]]
* [[昆虫の構造]] - [[昆虫の翅]]
* [[昆虫の分類]]
* {{ill2|化性|en|Voltinism}} - 昆虫が一年間に一定回数の世代を繰り返す性質。
* {{ill2|囲食膜|en|Peritrophic matrix}} - 無脊椎動物の消化管で食べ物を包み腸内細菌などから消化管を守るキチン質の膜。
* [[微小昆虫]]
* [[水生昆虫]]
* [[害虫]] - [[益虫]]
* [[昆虫採集]]
* {{ill2|食虫動物|en|Insectivore}}(昆虫食)
* [[マゴットセラピー]]
* [[日本昆虫学会]]
* [[ジャン・アンリ・ファーブル]]
**[[昆虫記|ファーブル昆虫記]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書
|author = [[九州大学]]大学院農学研究院昆虫学教室
|date =
|url = http://konchudb.agr.agr.kyushu-u.ac.jp/index-j.html
|title = 昆虫学データベース KONCHU
|work =
|publisher =
|accessdate = 2013-07-05
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* {{Cite web|和書
|author = 独立行政法人[[農業環境技術研究所]]
|date = 2012-12-10
|url = http://insect.niaes.affrc.go.jp/
|title = 昆虫データベース総合インベントリーシステム-INSECT INVENTORY SEARCH ENGINE-
|work =
|publisher =
|accessdate = 2013-07-05
}}
* {{Cite web|和書
|author = 日本分類学会連合
|date =
|url = http://research2.kahaku.go.jp/ujssb/search?KINGDOM=Animalia&PHYLUM=Arthropoda&SUBPHYLUM=Mandibulata&CLASS=Insecta
|title = 日本産生物種数調査
|work =
|publisher =
|accessdate = 2013-07-05
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* [http://www.inariyama-lib.jp/archive 稲荷山アーカイブ(稲荷山図書館)]
* {{Kotobank}}
{{昆虫}}
{{食肉}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こんちゆう}}
[[Category:六脚類]]
[[Category:昆虫|*]]
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首都高速道路
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首都高速道路(しゅとこうそくどうろ)は、首都高速道路株式会社(しゅとこうそくどうろかぶしきがいしゃ)が維持・管理等を行う東京都区部とその周辺地域にある路線長337.8キロメートル (km)(管理327.2km、新設10.6km)の都市高速道路。「首都高速」「首都高」と略されることが多い。なお、「首都高速」「首都高」は、首都高速道路株式会社の登録商標。
道路法で定められている一般国道、都県道(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県)及び市道(横浜市・川崎市)であり、道路構造令においては「都市部の自動車専用道路」(第2種第1級・第2級)に区分される。東京都内で完結する路線には都道番号がつかないが、東京都と他県にまたがる路線には都県道番号がついている。
首都高速道路株式会社(しゅとこうそくどうろ、英語: Metropolitan Expressway Company Limited)は、高速道路株式会社法に基づき設置された、首都高速道路の管理等の業務を行う特殊会社。通称は「首都高速道路会社」。日本道路公団等民営化関係法施行法により、首都高速道路公団の業務を独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構(以下「機構」)とともに承継した。2005年(平成17年)10月1日設立。
日本国政府および地方公共団体が常時3分の1以上の株式を保有し、当分の間日本国政府から債務保証を受ける。一方、営業年度毎の事業計画や社債の募集、資金の借入については国土交通大臣の認可を要する。
また会社は機構との協定に従い、政令で定められた機構への出資金・補助金の中から、建設費等の一部につき無利子貸付が受けられる。
現在の同社のスローガンは「ひと・まち・くらしをネットワーク」である。
出典:
私たちは、首都圏のひと・まち・くらしを安全・円滑な首都高速道路ネットワークで結び、豊かで快適な社会の創造に貢献します。
出典:
東京を中心に神奈川・埼玉・千葉の3方面へ伸びる首都高速道路のネットワークと、そのネットワークづくりを通じて「ひと・まち・くらし」を支えていくという会社の姿勢をシンボルマークとして表現している。
首都高速道路の範囲において、機構と締結した協定に基づき以下の業務を行う。
いわゆる上下分離方式を採用した中での「上」に相当する。
同一路線について法的手続きである都市計画・基本計画・事業計画の各事業段階において(それぞれ若干異なる)「路線名」がつけられているが、案内の分かりやすさのために、一般に標識などで案内されているのは「路線呼称」と「ルートマーク(路線番号・記号)」である。これが正式に実施されたのは1989年だが、1989年以前でもこの路線番号がある。環状線は2009年から横楕円形と矢印で表記されている。
ここでは路線呼称とルートマークを見出しに記載している(路線番号・路線呼称と道路法上の路線名)。
東京都内・千葉県内路線の東京外環自動車道以南の路線。環状道路である都心環状線 (C1) から放射状に延びる路線に、1号上野・羽田線から11号台場線まで、時計回りに路線名と行先の地名の呼称が与えられている。
葛西JCTと大井JCTの間は首都高速湾岸線の一部である。
路線呼称が未定の路線があるため、道路法上の路線名または基本計画の路線名。これより以下の斜体は仮称
東京に高速道路を建設する構想は、近藤謙三郎による道路立体化構想、石川栄耀・山田正男らによって作成された内務省案が、太平洋戦争以前から存在していた。戦後の1946年に東京都庁が作成した都市計画中には、幅員100メートル (m) の高速道路敷地も確保されていたが、1949年(昭和24年)のドッジライン政策により計画が縮小され、100 m道路は実現しなかった。
本格的に検討されるようになったのは、高度経済成長が始まる1950年代後半になってからである。当時の東京では、四輪自動車の急増と伴に、各地で交通渋滞が頻発するようになり、このまま放置すれば、やがて東京都区部が交通麻痺に陥ると予測されていた。1950年(昭和25年)頃から近藤謙三郎、樋口実などが独自に民間高速道路の計画案を提出し、樋口の東京高速道路に免許が交付された。
近藤案に触発された町田保を中心とする建設省首都建設委員会、東京都、運輸省により、首都高速道路の新設が決定された。路線の選定にあたっては、早期の交通対策が可能となるよう用地取得の容易さが重視され、とりわけ都心部においては神田川、古川、外壕などの河川上空、楓川、京橋川、築地川などの運河の埋め立て、都電の廃止で幅員を広げた道路により、民間からの用地買収を極力抑えて路線用地を確保した。なお、計画が1959年(昭和34年)に開催が決定した、1964年東京オリンピックとの関係については、山田正男は「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と語っている。なお、下記のように、1964年五輪の招致決議以前に、河川や公有地の上を活用した時速60 kmの首都高速道路網の原型は決定され、五輪開催決定以前に、一部路線が日本道路公団により工事着手されている。
湾岸線は全区間で6車線道路であり、直線区間が多くカーブも緩やかである。そのため最高速度を超過して走行する車両が多く、しばしば速度取締りが行われる。空港中央出入口周辺は、速度違反自動取締装置や白バイによる取り締まり重点路線に指定されている。
平成19年度に行われた調査研究では、最高速度が60 km/hである区間の34箇所、および最高速度が50 km/hである4号新宿線代々木 - 新宿間の3箇所で平均速度の現地調査が行われたが、すべての区間で平均速度が最高速度を上回っていた。最高速度が60 km/hである区間では30% - 50%(約15 km/h - 30 km/h)の速度超過が、最高速度が50 km/hである区間では30% - 40%(約15 km/h - 20 km/h)の速度超過が見られている。
2012年(平成24年)1月1日午前0時より、それまでの料金圏別の「均一料金制」から、料金圏のない「距離別料金制」に移行した。
2016年(平成28年)4月1日午前0時より、首都圏の高速道路料金体系の見直しに伴い、料金水準を高速自動車国道の大都市近郊区間と同水準とし、料金車種区分もこれまでの2車種区分から5車種区分へ移行した。
日本高速道路保有・債務返済機構との協定により、料金徴収期間は2065年9月30日までと定められている。
料金 (Y) は次の式で計算される。ここで ⌊ x ⌋ {\displaystyle \lfloor x\rfloor } は、床関数(ガウス記号)である。
普通車の場合、ほぼ0.3 km 毎に料金が10円ずつ加算されることになる。
協定に定められた「料金の額」(R)(例えば、普通車は29.52円)及び「利用1回に対して課する固定額」(F)(150円)のそれぞれに消費税額を加算し、四捨五入により10円単位の端数処理(床関数による)を行って、算出している。
中型車と特大車については、激変緩和措置として、1 km 当たりの料金の額が低く設定されている。
中型車と特大車については、激変緩和措置として、1 km 当たりの料金の額が低く設定されている。
消費税率は10%としている。
ETC軽・二輪 Y = ⌊ 25.9776 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\displaystyle Y=\lfloor {\frac {25.9776L+165}{10}}+0.5\rfloor *10} 円
ETC普通車 Y = ⌊ 32.472 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\displaystyle Y=\lfloor {\frac {32.472L+165}{10}}+0.5\rfloor *10} 円
ETC中型車 Y = ⌊ 38.9664 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\displaystyle Y=\lfloor {\frac {38.9664L+165}{10}}+0.5\rfloor *10} 円
ETC大型車 Y = ⌊ 53.5788 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\displaystyle Y=\lfloor {\frac {53.5788L+165}{10}}+0.5\rfloor *10} 円
ETC特大車 Y = ⌊ 89.298 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\displaystyle Y=\lfloor {\frac {89.298L+165}{10}}+0.5\rfloor *10} 円
中型車と特大車の1 km 当たりの料金の額が協定の本則通りとなる。
対距離料金制に変更される直前(2011年12月当時)の料金である。
「東京線」「神奈川線」「埼玉線」の3つの地区(料金圏)別の均一料金。複数の料金圏にまたがって走行する場合は、通過する料金圏ごとに料金が発生した。
企画割引および社会実験割引は記していない。
1962年に京橋 - 芝浦が開通して以来延伸を続け、延長と物価上昇率を考慮して通行料金を改定している。
普通車の通行料金改定の経緯は下表のとおりである。
中央環状王子線が開通した2002年12月には東京線が800円に値上げされる案があったが、廃案となっている。
首都高速道路などの都市高速道路で採用されてきた均一料金制は、ネットワークが拡大するにつれて1回あたりの利用距離のばらつきが大きくなり、利用程度に応じた負担という点で不公平さが増すなどの諸課題が顕在化しつつあった。ETCの活用により、大量交通の効率処理と利用区間の把握の両立およびネットワークの有効活用に資する弾力的な料金設定も可能となることから、2000年(平成12年)11月30日の第101回道路審議会において、ETC利用を基本とする新たな料金制度を導入すべきとの答申がなされた。
2003年(平成15年)12月22日、道路関係四公団民営化の基本的枠組みについての政府・与党申し合わせにおいて、2008年度(平成20年度)を目標に対距離料金制を導入することとされた。しかし、経済状況の悪化により延期され、さらに政権交代で計画は見直されることになった。
会社発足から間もない2005年(平成17年)11月にパブリックコメントが行われ、料率31円/km、ターミナルチャージ290円(いずれも普通車の場合)とする対距離料金制の基本設計イメージが公表された。翌年3月の機構との協定および事業許可に平成20年度以降の料金の額として載るも、「社会経済情勢、ETCの普及状況、社会実験の結果等を勘案し、長距離利用者の負担軽減措置の導入など、料金の設定等について改めて検討し、見直しを行う。」とされた。
2006年(平成18年)12月3日からは、ETC距離別割引社会実験が実施された。内容はETC割引制度#都市高速道路の距離別割引社会実験を参照のこと。
2007年(平成19年)9月、距離別料金の具体案が発表された。この案では、多くの利用が単一料金圏内で完結する現状を踏まえ、また長距離利用負担の抑制の観点などから、料金圏を当面存続し、東京線400円-1,200円、神奈川線400円-1,100円、埼玉線300円-550円(いずれも普通車の料金。以下同じ。)とされた。
しかし、原油価格の高騰などで厳しい経済局面となり、それを受けて2008年8月29日に打ち出された「安心実現のための緊急総合対策」で、対距離料金制の導入は延期されることになった。9月にはリーマンショックが襲い、さらなる対策として打ち出された「生活対策」により、首都高速と阪神高速においても料金引下げが行われることになった。同年12月の道路特定財源の一般財源化についての政府・与党合意では、生活対策による料金引下げ後(2011年度以降)に上限料金を抑えた対距離料金制度を検討することとされた。
2009年(平成21年)2月24日に国土交通大臣同意がなされた高速道路利便増進事業計画では、2011年度から2013年度までは、東京線600円-800円、神奈川線500円-700円、埼玉線350円-450円、2014年度から2017年度までは、東京線500円-900円、神奈川線400円-800円、埼玉線300円-500円という体系が検討にあたっての基本として示されたが、後述のように政権交代後の計画変更で大幅に見直しされることになった。
2009年8月30日に執行された第45回衆議院議員総選挙で、高速道路原則無料化をマニフェストに掲げる民主党が勝利した。しかし、首都高速と阪神高速は無料化の対象外とする旨を選挙前から党幹部が発言しており、2010年度から実施の無料化社会実験についての発表資料において、首都高速と阪神高速は対象区間の割合を示す分母からも除外されている。
2010年(平成22年)4月9日、民主党政権主導で決められた新たな料金割引案が国土交通省から発表された。この中で首都高速と阪神高速については、移動を阻害しているとして料金圏を撤廃し、下限500円・上限900円とする対距離料金制案が示され、地方議会での議決を前提に同年末から翌年初めごろを目途に試行導入とされた。しかし、割引財源の一部を道路整備へ転用することから、特にNEXCO・本四高速で実質値上げとなる点が目立ち、利用者のみならず与党内からも強い反発を受け、一旦廃案になった。
2011年(平成23年)2月16日に発表された「高速道路の当面の新たな料金割引」では、首都高速と阪神高速については、前年の料金圏なし500円 - 900円案に地方からの意見を踏まえた新たなETC割引が盛り込まれ、地方議会での審議期間を考慮して2012年から実施とした(新たなETC割引については当面2013年度までの実施)。2月25日から3月4日まで、機構と6会社による利便増進事業計画変更に伴うパブリックコメントが行われた。
地方議会の議決は、2011年10月21日までにすべての関係自治体で得られ、24日に事業許可変更申請がなされた後、11月2日に変更許可が下りて2012年1月1日の対距離料金制移行が正式決定された。
なお、協定および事業許可においては、2005年度の対距離料金基本設計はそのままで、この料金制度は当分の間の「特別の措置」という扱いになっている。
ETC車載器のない車に対して、専用通信器と電子マネーEdyカードのセットを数千円の保証料で貸し出し、実際に走った料金との差額を払い戻すシステムのコードネーム。2007年10月22日に通信器の第1号試作機の完成発表が行われ、2008年度の対距離料金制開始に合わせて導入予定とされていた。しかし続報はなく、2011年度の対距離料金制導入に当たって、このシステムには全く触れられていない。
交通量は1990年度まで増加傾向にあり、1日平均通行台数が110万台を越えたが、その後は横ばいである。
近年の年度別1日平均通行台数は下表のとおりである。2010年度以前は東京線・神奈川線・埼玉線のそれぞれの通行台数を合算したものであり、乗り継いで通行したものも重複してカウントしていた。距離別料金を採用した2011年度以降は、東京線・神奈川線・埼玉線を乗り継いで通行したものは重複してカウントしていない。
近年の月別1日平均通行台数は下表のとおりである。
以下の路線は地域高規格道路(東京圏都市圏自専道)等の路線に含まれるが、事業者は未定であり、首都高速道路になるとは限らない。また、一部を除き都市計画決定されておらず、事業化も未定である。斜体は仮称である。
首都高速道路は都市高速道路であり、都市間高速道路(東日本高速道路・中日本高速道路・西日本高速道路管理の高速自動車国道)とは道路の性格が違うため、設計速度・最高速度は、湾岸線や埼玉県内などの一部路線・区間を除き、多くの区間で60 km/h以下となっている。都市間高速道路に比べると急カーブが多く、多くが市街地に建設されていることから騒音への配慮も必要なためである。
またオートバイの二人乗りも、事故防止の観点から、都心環状線を中心に一部区間で乗り入れ不可となっている。
地上の一般道路を拡幅し、その上空又は地下や運河などの公共用地を最大限利用し、大部分が既成市街地の制約の下で計画・設計・建設されているため、必然的に道路の幾何構造(曲線半径や勾配など)が道路構造令で定められる限界値となっている箇所や、出入口やJCTの分合流が、左右両側の車線に行われる箇所がある。そのため、短区間で交通が合流したのち分岐する「織込み」が発生する箇所があったり、道路標識が複雑であったりすることがある。
首都高速道路(特にトンネル)で事故が発生した場合、ラジオ(AM・FM)のスイッチを入れたまま走行していると、チューナーを1620 kHzに合わせなくても、強制的に放送に割り込み、事故が発生した場所や種類(単独・衝突・追突など)、それに伴う速度規制、車線規制、渋滞などの情報を運転者に知らせる仕組みになっている。
都市間高速道路と異なり、開通当初はジャンクションを「インターチェンジ」と呼んでいたが、1990年代に都市間高速と同じ「ジャンクション」に改名している。
1964年8月1日、首都高速道路開通記念の額面10円の記念切手が発行された。
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"text": "首都高速道路(しゅとこうそくどうろ)は、首都高速道路株式会社(しゅとこうそくどうろかぶしきがいしゃ)が維持・管理等を行う東京都区部とその周辺地域にある路線長337.8キロメートル (km)(管理327.2km、新設10.6km)の都市高速道路。「首都高速」「首都高」と略されることが多い。なお、「首都高速」「首都高」は、首都高速道路株式会社の登録商標。",
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"text": "道路法で定められている一般国道、都県道(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県)及び市道(横浜市・川崎市)であり、道路構造令においては「都市部の自動車専用道路」(第2種第1級・第2級)に区分される。東京都内で完結する路線には都道番号がつかないが、東京都と他県にまたがる路線には都県道番号がついている。",
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"text": "首都高速道路株式会社(しゅとこうそくどうろ、英語: Metropolitan Expressway Company Limited)は、高速道路株式会社法に基づき設置された、首都高速道路の管理等の業務を行う特殊会社。通称は「首都高速道路会社」。日本道路公団等民営化関係法施行法により、首都高速道路公団の業務を独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構(以下「機構」)とともに承継した。2005年(平成17年)10月1日設立。",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "日本国政府および地方公共団体が常時3分の1以上の株式を保有し、当分の間日本国政府から債務保証を受ける。一方、営業年度毎の事業計画や社債の募集、資金の借入については国土交通大臣の認可を要する。",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "また会社は機構との協定に従い、政令で定められた機構への出資金・補助金の中から、建設費等の一部につき無利子貸付が受けられる。",
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"text": "現在の同社のスローガンは「ひと・まち・くらしをネットワーク」である。",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "出典:",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "私たちは、首都圏のひと・まち・くらしを安全・円滑な首都高速道路ネットワークで結び、豊かで快適な社会の創造に貢献します。",
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"text": "出典:",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "東京を中心に神奈川・埼玉・千葉の3方面へ伸びる首都高速道路のネットワークと、そのネットワークづくりを通じて「ひと・まち・くらし」を支えていくという会社の姿勢をシンボルマークとして表現している。",
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"text": "首都高速道路の範囲において、機構と締結した協定に基づき以下の業務を行う。",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "いわゆる上下分離方式を採用した中での「上」に相当する。",
"title": "首都高速道路株式会社"
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"text": "同一路線について法的手続きである都市計画・基本計画・事業計画の各事業段階において(それぞれ若干異なる)「路線名」がつけられているが、案内の分かりやすさのために、一般に標識などで案内されているのは「路線呼称」と「ルートマーク(路線番号・記号)」である。これが正式に実施されたのは1989年だが、1989年以前でもこの路線番号がある。環状線は2009年から横楕円形と矢印で表記されている。",
"title": "路線"
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"text": "ここでは路線呼称とルートマークを見出しに記載している(路線番号・路線呼称と道路法上の路線名)。",
"title": "路線"
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{
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"text": "東京都内・千葉県内路線の東京外環自動車道以南の路線。環状道路である都心環状線 (C1) から放射状に延びる路線に、1号上野・羽田線から11号台場線まで、時計回りに路線名と行先の地名の呼称が与えられている。",
"title": "路線"
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"text": "葛西JCTと大井JCTの間は首都高速湾岸線の一部である。",
"title": "路線"
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"text": "路線呼称が未定の路線があるため、道路法上の路線名または基本計画の路線名。これより以下の斜体は仮称",
"title": "路線"
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{
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"text": "東京に高速道路を建設する構想は、近藤謙三郎による道路立体化構想、石川栄耀・山田正男らによって作成された内務省案が、太平洋戦争以前から存在していた。戦後の1946年に東京都庁が作成した都市計画中には、幅員100メートル (m) の高速道路敷地も確保されていたが、1949年(昭和24年)のドッジライン政策により計画が縮小され、100 m道路は実現しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "本格的に検討されるようになったのは、高度経済成長が始まる1950年代後半になってからである。当時の東京では、四輪自動車の急増と伴に、各地で交通渋滞が頻発するようになり、このまま放置すれば、やがて東京都区部が交通麻痺に陥ると予測されていた。1950年(昭和25年)頃から近藤謙三郎、樋口実などが独自に民間高速道路の計画案を提出し、樋口の東京高速道路に免許が交付された。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "近藤案に触発された町田保を中心とする建設省首都建設委員会、東京都、運輸省により、首都高速道路の新設が決定された。路線の選定にあたっては、早期の交通対策が可能となるよう用地取得の容易さが重視され、とりわけ都心部においては神田川、古川、外壕などの河川上空、楓川、京橋川、築地川などの運河の埋め立て、都電の廃止で幅員を広げた道路により、民間からの用地買収を極力抑えて路線用地を確保した。なお、計画が1959年(昭和34年)に開催が決定した、1964年東京オリンピックとの関係については、山田正男は「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と語っている。なお、下記のように、1964年五輪の招致決議以前に、河川や公有地の上を活用した時速60 kmの首都高速道路網の原型は決定され、五輪開催決定以前に、一部路線が日本道路公団により工事着手されている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "湾岸線は全区間で6車線道路であり、直線区間が多くカーブも緩やかである。そのため最高速度を超過して走行する車両が多く、しばしば速度取締りが行われる。空港中央出入口周辺は、速度違反自動取締装置や白バイによる取り締まり重点路線に指定されている。",
"title": "最高速度"
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{
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"text": "平成19年度に行われた調査研究では、最高速度が60 km/hである区間の34箇所、および最高速度が50 km/hである4号新宿線代々木 - 新宿間の3箇所で平均速度の現地調査が行われたが、すべての区間で平均速度が最高速度を上回っていた。最高速度が60 km/hである区間では30% - 50%(約15 km/h - 30 km/h)の速度超過が、最高速度が50 km/hである区間では30% - 40%(約15 km/h - 20 km/h)の速度超過が見られている。",
"title": "最高速度"
},
{
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"text": "2012年(平成24年)1月1日午前0時より、それまでの料金圏別の「均一料金制」から、料金圏のない「距離別料金制」に移行した。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "2016年(平成28年)4月1日午前0時より、首都圏の高速道路料金体系の見直しに伴い、料金水準を高速自動車国道の大都市近郊区間と同水準とし、料金車種区分もこれまでの2車種区分から5車種区分へ移行した。",
"title": "通行料金"
},
{
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"text": "日本高速道路保有・債務返済機構との協定により、料金徴収期間は2065年9月30日までと定められている。",
"title": "通行料金"
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{
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"text": "料金 (Y) は次の式で計算される。ここで ⌊ x ⌋ {\\displaystyle \\lfloor x\\rfloor } は、床関数(ガウス記号)である。",
"title": "通行料金"
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{
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"text": "普通車の場合、ほぼ0.3 km 毎に料金が10円ずつ加算されることになる。",
"title": "通行料金"
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{
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"text": "協定に定められた「料金の額」(R)(例えば、普通車は29.52円)及び「利用1回に対して課する固定額」(F)(150円)のそれぞれに消費税額を加算し、四捨五入により10円単位の端数処理(床関数による)を行って、算出している。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "中型車と特大車については、激変緩和措置として、1 km 当たりの料金の額が低く設定されている。",
"title": "通行料金"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "中型車と特大車については、激変緩和措置として、1 km 当たりの料金の額が低く設定されている。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "消費税率は10%としている。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "ETC軽・二輪 Y = ⌊ 25.9776 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\\displaystyle Y=\\lfloor {\\frac {25.9776L+165}{10}}+0.5\\rfloor *10} 円",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ETC普通車 Y = ⌊ 32.472 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\\displaystyle Y=\\lfloor {\\frac {32.472L+165}{10}}+0.5\\rfloor *10} 円",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ETC中型車 Y = ⌊ 38.9664 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\\displaystyle Y=\\lfloor {\\frac {38.9664L+165}{10}}+0.5\\rfloor *10} 円",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ETC大型車 Y = ⌊ 53.5788 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\\displaystyle Y=\\lfloor {\\frac {53.5788L+165}{10}}+0.5\\rfloor *10} 円",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "ETC特大車 Y = ⌊ 89.298 L + 165 10 + 0.5 ⌋ ∗ 10 {\\displaystyle Y=\\lfloor {\\frac {89.298L+165}{10}}+0.5\\rfloor *10} 円",
"title": "通行料金"
},
{
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"text": "中型車と特大車の1 km 当たりの料金の額が協定の本則通りとなる。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "対距離料金制に変更される直前(2011年12月当時)の料金である。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「東京線」「神奈川線」「埼玉線」の3つの地区(料金圏)別の均一料金。複数の料金圏にまたがって走行する場合は、通過する料金圏ごとに料金が発生した。",
"title": "通行料金"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "企画割引および社会実験割引は記していない。",
"title": "通行料金"
},
{
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"text": "1962年に京橋 - 芝浦が開通して以来延伸を続け、延長と物価上昇率を考慮して通行料金を改定している。",
"title": "通行料金"
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{
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"text": "普通車の通行料金改定の経緯は下表のとおりである。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "中央環状王子線が開通した2002年12月には東京線が800円に値上げされる案があったが、廃案となっている。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "首都高速道路などの都市高速道路で採用されてきた均一料金制は、ネットワークが拡大するにつれて1回あたりの利用距離のばらつきが大きくなり、利用程度に応じた負担という点で不公平さが増すなどの諸課題が顕在化しつつあった。ETCの活用により、大量交通の効率処理と利用区間の把握の両立およびネットワークの有効活用に資する弾力的な料金設定も可能となることから、2000年(平成12年)11月30日の第101回道路審議会において、ETC利用を基本とする新たな料金制度を導入すべきとの答申がなされた。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "2003年(平成15年)12月22日、道路関係四公団民営化の基本的枠組みについての政府・与党申し合わせにおいて、2008年度(平成20年度)を目標に対距離料金制を導入することとされた。しかし、経済状況の悪化により延期され、さらに政権交代で計画は見直されることになった。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "会社発足から間もない2005年(平成17年)11月にパブリックコメントが行われ、料率31円/km、ターミナルチャージ290円(いずれも普通車の場合)とする対距離料金制の基本設計イメージが公表された。翌年3月の機構との協定および事業許可に平成20年度以降の料金の額として載るも、「社会経済情勢、ETCの普及状況、社会実験の結果等を勘案し、長距離利用者の負担軽減措置の導入など、料金の設定等について改めて検討し、見直しを行う。」とされた。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)12月3日からは、ETC距離別割引社会実験が実施された。内容はETC割引制度#都市高速道路の距離別割引社会実験を参照のこと。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)9月、距離別料金の具体案が発表された。この案では、多くの利用が単一料金圏内で完結する現状を踏まえ、また長距離利用負担の抑制の観点などから、料金圏を当面存続し、東京線400円-1,200円、神奈川線400円-1,100円、埼玉線300円-550円(いずれも普通車の料金。以下同じ。)とされた。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "しかし、原油価格の高騰などで厳しい経済局面となり、それを受けて2008年8月29日に打ち出された「安心実現のための緊急総合対策」で、対距離料金制の導入は延期されることになった。9月にはリーマンショックが襲い、さらなる対策として打ち出された「生活対策」により、首都高速と阪神高速においても料金引下げが行われることになった。同年12月の道路特定財源の一般財源化についての政府・与党合意では、生活対策による料金引下げ後(2011年度以降)に上限料金を抑えた対距離料金制度を検討することとされた。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)2月24日に国土交通大臣同意がなされた高速道路利便増進事業計画では、2011年度から2013年度までは、東京線600円-800円、神奈川線500円-700円、埼玉線350円-450円、2014年度から2017年度までは、東京線500円-900円、神奈川線400円-800円、埼玉線300円-500円という体系が検討にあたっての基本として示されたが、後述のように政権交代後の計画変更で大幅に見直しされることになった。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2009年8月30日に執行された第45回衆議院議員総選挙で、高速道路原則無料化をマニフェストに掲げる民主党が勝利した。しかし、首都高速と阪神高速は無料化の対象外とする旨を選挙前から党幹部が発言しており、2010年度から実施の無料化社会実験についての発表資料において、首都高速と阪神高速は対象区間の割合を示す分母からも除外されている。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2010年(平成22年)4月9日、民主党政権主導で決められた新たな料金割引案が国土交通省から発表された。この中で首都高速と阪神高速については、移動を阻害しているとして料金圏を撤廃し、下限500円・上限900円とする対距離料金制案が示され、地方議会での議決を前提に同年末から翌年初めごろを目途に試行導入とされた。しかし、割引財源の一部を道路整備へ転用することから、特にNEXCO・本四高速で実質値上げとなる点が目立ち、利用者のみならず与党内からも強い反発を受け、一旦廃案になった。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2011年(平成23年)2月16日に発表された「高速道路の当面の新たな料金割引」では、首都高速と阪神高速については、前年の料金圏なし500円 - 900円案に地方からの意見を踏まえた新たなETC割引が盛り込まれ、地方議会での審議期間を考慮して2012年から実施とした(新たなETC割引については当面2013年度までの実施)。2月25日から3月4日まで、機構と6会社による利便増進事業計画変更に伴うパブリックコメントが行われた。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "地方議会の議決は、2011年10月21日までにすべての関係自治体で得られ、24日に事業許可変更申請がなされた後、11月2日に変更許可が下りて2012年1月1日の対距離料金制移行が正式決定された。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、協定および事業許可においては、2005年度の対距離料金基本設計はそのままで、この料金制度は当分の間の「特別の措置」という扱いになっている。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ETC車載器のない車に対して、専用通信器と電子マネーEdyカードのセットを数千円の保証料で貸し出し、実際に走った料金との差額を払い戻すシステムのコードネーム。2007年10月22日に通信器の第1号試作機の完成発表が行われ、2008年度の対距離料金制開始に合わせて導入予定とされていた。しかし続報はなく、2011年度の対距離料金制導入に当たって、このシステムには全く触れられていない。",
"title": "通行料金"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "交通量は1990年度まで増加傾向にあり、1日平均通行台数が110万台を越えたが、その後は横ばいである。",
"title": "交通量"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "近年の年度別1日平均通行台数は下表のとおりである。2010年度以前は東京線・神奈川線・埼玉線のそれぞれの通行台数を合算したものであり、乗り継いで通行したものも重複してカウントしていた。距離別料金を採用した2011年度以降は、東京線・神奈川線・埼玉線を乗り継いで通行したものは重複してカウントしていない。",
"title": "交通量"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "近年の月別1日平均通行台数は下表のとおりである。",
"title": "交通量"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "以下の路線は地域高規格道路(東京圏都市圏自専道)等の路線に含まれるが、事業者は未定であり、首都高速道路になるとは限らない。また、一部を除き都市計画決定されておらず、事業化も未定である。斜体は仮称である。",
"title": "構想中・計画中路線"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "首都高速道路は都市高速道路であり、都市間高速道路(東日本高速道路・中日本高速道路・西日本高速道路管理の高速自動車国道)とは道路の性格が違うため、設計速度・最高速度は、湾岸線や埼玉県内などの一部路線・区間を除き、多くの区間で60 km/h以下となっている。都市間高速道路に比べると急カーブが多く、多くが市街地に建設されていることから騒音への配慮も必要なためである。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "またオートバイの二人乗りも、事故防止の観点から、都心環状線を中心に一部区間で乗り入れ不可となっている。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "地上の一般道路を拡幅し、その上空又は地下や運河などの公共用地を最大限利用し、大部分が既成市街地の制約の下で計画・設計・建設されているため、必然的に道路の幾何構造(曲線半径や勾配など)が道路構造令で定められる限界値となっている箇所や、出入口やJCTの分合流が、左右両側の車線に行われる箇所がある。そのため、短区間で交通が合流したのち分岐する「織込み」が発生する箇所があったり、道路標識が複雑であったりすることがある。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "首都高速道路(特にトンネル)で事故が発生した場合、ラジオ(AM・FM)のスイッチを入れたまま走行していると、チューナーを1620 kHzに合わせなくても、強制的に放送に割り込み、事故が発生した場所や種類(単独・衝突・追突など)、それに伴う速度規制、車線規制、渋滞などの情報を運転者に知らせる仕組みになっている。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "都市間高速道路と異なり、開通当初はジャンクションを「インターチェンジ」と呼んでいたが、1990年代に都市間高速と同じ「ジャンクション」に改名している。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1964年8月1日、首都高速道路開通記念の額面10円の記念切手が発行された。",
"title": "発行物"
}
] |
首都高速道路(しゅとこうそくどうろ)は、首都高速道路株式会社(しゅとこうそくどうろかぶしきがいしゃ)が維持・管理等を行う東京都区部とその周辺地域にある路線長337.8キロメートル (km)(管理327.2km、新設10.6km)の都市高速道路。「首都高速」「首都高」と略されることが多い。なお、「首都高速」「首都高」は、首都高速道路株式会社の登録商標。 道路法で定められている一般国道、都県道(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県)及び市道(横浜市・川崎市)であり、道路構造令においては「都市部の自動車専用道路」(第2種第1級・第2級)に区分される。東京都内で完結する路線には都道番号がつかないが、東京都と他県にまたがる路線には都県道番号がついている。
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{{Redirect|首都高|2005年9月まで首都高を運営していた特殊法人|首都高速道路公団}}
{{告知|提案|首都高速道路の公式サイトについて|プロジェクト‐ノート:道路#首都高速道路の公式サイトについて|date=2023年11月}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 首都高速道路株式会社
| 英文社名 = Metropolitan Expressway Company Limited
| ロゴ = Shutoko logo.svg
| 画像 =
| 画像説明 = 本社がある日土地ビル
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]<br/>高速道路株式会社法による[[特殊会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = 首都高
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 100-8930
| 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]一丁目4番1号 日土地ビル
| 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 40|本社緯度秒 = 15.6|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139|本社経度分 = 45|本社経度秒 = 1.5|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[2005年]][[10月1日]]
| 法人番号 = 2010001095722
| 業種 = 9050
| 事業内容 = 高速道路、自動車専用道路の管理運営
| 代表者 = [[前田信弘]]([[代表取締役]][[社長]])<br />寺山徹(代表取締役[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務]])<br />[[藤井健 (実業家)|藤井健]](代表取締役専務)<br />(2022年3月31日現在)<ref>[https://www.shutoko.co.jp/company/info/profile/ 企業情報]</ref>
| 資本金 = 135億円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuuhou2022">{{Cite report |和書 |author=首都高速道路株式会社 |coauthors= |date=2022-06-28 |title=第17期有価証券報告書}}</ref>
| 発行済株式総数 = 2700万株<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuuhou2022"/>
| 売上高 = 連結 : 3852億6500万円<br />単体 : 3804億9500万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuuhou2022"/>
| 営業利益 = 連結 : 56億4900万円<br />単体 : 32億3200万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuuhou2022"/>
| 純利益 = 連結 : 45億2300万円<br />単体 : 34億9900万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuuhou2022"/>
| 純資産 = 連結 : 656億7800万円<br />単体 : 520億7000万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuuhou2022"/>
| 総資産 = 連結 : 3837億8200万円<br />単体 : 3623億1700万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuuhou2022"/>
| 従業員数 = 連結 : 4256人<br />単体 : 1123人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuuhou2022"/>
| 決算期 = 毎年[[3月31日]]
| 主要株主 = [[財務大臣 (日本)|財務大臣]] 49.99%<br />[[東京都]] 26.72%<br />[[神奈川県]] 8.28%<br />[[埼玉県]] 5.90%<br />[[横浜市]] 4.45%<br />[[川崎市]] 3.82%<br />[[千葉県]] 0.80%<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuuhou2022"/>
| 主要子会社 = [[首都高速道路サービス]] 100%
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.shutoko.co.jp/
| 特記事項 =
}}
[[File:Tokyo Metropolitan Expressway map-ja-4.svg|thumb|250px|首都高速道路の路線(赤線)及び建設中路線(点線)<br />なお、上図破線部一部の神奈川7号横浜北線と図に表記されてない神奈川7号横浜北西線も開業している]]
'''首都高速道路'''(しゅとこうそくどうろ)は、'''首都高速道路株式会社'''(しゅとこうそくどうろかぶしきがいしゃ)が維持・管理等を行う[[東京都区部]]とその周辺地域にある路線長337.8[[キロメートル]] (km)(管理327.2km、新設10.6km)の[[都市高速道路]]。「'''首都高速'''」「'''首都高'''」と略されることが多い。なお、「首都高速」「首都高」は、首都高速道路株式会社の[[登録商標]]。
[[道路法]]で定められている[[一般国道]]、[[都道府県道|都県道]]([[東京都]]・[[神奈川県]]・[[千葉県]]・[[埼玉県]])及び[[市町村道|市道]]([[横浜市]]・[[川崎市]])であり、[[道路構造令]]においては「[[都市高速道路|都市部の自動車専用道路]]」(第2種第1級・第2級)に区分される。東京都内で完結する路線には都道番号がつかないが、東京都と他県にまたがる路線には都県道番号がついている。
== 首都高速道路株式会社 ==
'''首都高速道路株式会社'''(しゅとこうそくどうろ、{{lang-en|Metropolitan Expressway Company Limited}})は、[[高速道路株式会社法]]に基づき設置された、首都高速道路の管理等の業務を行う[[特殊会社]]。通称は「'''首都高速道路会社'''」。日本道路公団等民営化関係法施行法により、[[首都高速道路公団]]の業務を[[独立行政法人]][[日本高速道路保有・債務返済機構]](以下「機構」)とともに承継した。[[2005年]]([[平成]]17年)[[10月1日]]設立。
[[日本国政府]]および[[地方公共団体]]が常時3分の1以上の[[株式]]を保有し、当分の間日本国政府から債務保証を受ける。一方、営業年度毎の事業計画や[[社債]]の募集、資金の借入については[[国土交通大臣]]の[[認可]]を要する。
また会社は機構との協定<ref>[http://www.jehdra.go.jp/kyoutei.html 協定一覧] - 日本高速道路保有・債務返済機構</ref>に従い、政令で定められた機構への[[出資|出資金]]・[[補助金]]の中から、建設費等の一部につき無利子貸付が受けられる。
現在の同社のスローガンは「'''ひと・まち・くらしをネットワーク'''」である。
=== 基本理念 ===
出典:<ref name="philosophy">{{Cite web|和書|title=経営理念|企業情報|首都高速道路株式会社|url=https://www.shutoko.co.jp/company/info/philosophy|website=首都高速道路株式会社|accessdate=2021-10-12}}</ref>
私たちは、首都圏のひと・まち・くらしを安全・円滑な首都高速道路ネットワークで結び、豊かで快適な社会の創造に貢献します。
=== 経営理念 ===
出典:<ref name="philosophy">{{Cite web|和書|title=経営理念|企業情報|首都高速道路株式会社|url=https://www.shutoko.co.jp/company/info/philosophy|website=首都高速道路株式会社|accessdate=2021-10-12}}</ref>
;お客様第一
: 安全と快適を追求し、お客様に満足いただける質の高いサービスを提供します。
;地域社会との共生
: 地域の皆様とともに、よりよい環境の実現と地域社会の発展を目指します。
;社会的責任
: 高い倫理観と透明性をもって、お客様、地域の皆様、投資家の皆様との信頼関係を築きます。
;自立する経営
: 効率的で健全な経営を行い、新しい分野での事業も積極的に展開します。
;活力あふれる職場
: 社員が自らの力を高め、誇りと達成感を持てる職場をつくります。
=== トライアングル・ストリーム ===
東京を中心に神奈川・埼玉・千葉の3方面へ伸びる首都高速道路のネットワークと、そのネットワークづくりを通じて「ひと・まち・くらし」を支えていくという会社の姿勢をシンボルマークとして表現している。
=== 歴代社長 ===
* 初代社長 [[橋本鋼太郎]]
* 2代目社長 [[佐々木克已]]
* 3代目社長 [[橋本圭一郎]]
* 4代目社長 [[菅原秀夫]]
* 5代目社長 宮田年耕
* 6代目社長 [[前田信弘]]
=== 業務 ===
首都高速道路の範囲において、機構と締結した協定に基づき以下の業務を行う。
* 高速道路の新設又は改築。完了時には、道路資産と債務がともに機構に帰属する。
* 機構の保有する道路資産を有償で借り受けての、かかる高速道路の管理。
いわゆる[[上下分離方式]]を採用した中での「上」に相当する。
== 路線 ==
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
| 1=首都高速1号上野線-神田.jpg
| 2=[[首都高速1号上野線]]
| 3=Shuto Kosokudoro Route 1 -01.jpg
| 4=[[東京モノレール羽田空港線]]と併走する[[首都高速1号羽田線]]
| 5=Hakozaki Junction - 01.jpg
| 6=[[箱崎ジャンクション]]
| 7=Ariake JCT, Tokyo.jpg
| 8=[[有明ジャンクション]]
| 9=Yokohama Baybridge.jpg
| 10=[[横浜ベイブリッジ]](横浜市)
}}
同一路線について法的手続きである[[都市計画]]・基本計画・事業計画の各事業段階において(それぞれ若干異なる)「路線名」がつけられているが、案内の分かりやすさのために、一般に標識などで案内されているのは「路線呼称」と「ルートマーク(路線番号・記号)」である。これが正式に実施されたのは1989年だが、1989年以前でもこの路線番号がある。環状線は2009年から横楕円形と矢印で表記されている。
ここでは路線呼称とルートマークを見出しに記載している(路線番号・路線呼称と道路法上の路線名)。
=== 東京線 ===
東京都内・千葉県内路線の[[東京外環自動車道]]以南の路線。環状道路である都心環状線 (C1) から放射状に延びる路線に、1号上野・羽田線から11号台場線まで、時計回りに路線名と行先の地名の呼称が与えられている<ref name="ロム・インターナショナル2005"/>。
==== 環状線 ====
; [[File:Shutoko Expwy Routemark C1.svg|20px]] C1 [[首都高速都心環状線|高速都心環状線]](環状部分)
:* 都道首都高速1号線([[江戸橋ジャンクション|江戸橋JCT]] - [[汐留ジャンクション|汐留JCT]] - [[浜崎橋ジャンクション|浜崎橋JCT]])
:* 都道首都高速2号線(浜崎橋JCT - [[一ノ橋ジャンクション|一ノ橋JCT]])
:* 都道首都高速2号分岐線(一ノ橋JCT - [[谷町ジャンクション|谷町JCT]])
:* 都道首都高速3号線(谷町JCT - [[三宅坂ジャンクション|三宅坂JCT]])
:* 都道首都高速4号線(三宅坂JCT - [[神田橋ジャンクション|神田橋JCT]])、同・分岐線(神田橋JCT - 江戸橋JCT)
:* 都道首都高速8号線([[京橋ジャンクション|京橋JCT]] - [[東銀座出口]]付近)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark C2.svg|20px]] C2 [[首都高速中央環状線|高速中央環状線]]([[大井ジャンクション|大井JCT]] - [[葛西ジャンクション|葛西JCT]])
:* 都道首都高速品川目黒線(大井JCT - [[大橋ジャンクション|大橋JCT]])
:* 都道首都高速目黒板橋線(大橋JCT - [[熊野町ジャンクション|熊野町JCT]])
:* 都道首都高速5号線(熊野町JCT - [[板橋ジャンクション|板橋JCT]])
:* 都道首都高速板橋足立線(板橋JCT - [[江北ジャンクション|江北JCT]])
:* 都道高速葛飾川口線(江北JCT - [[小菅ジャンクション|小菅JCT]])
:* 都道首都高速6号線(小菅JCT - [[堀切ジャンクション|堀切JCT]])
:* 都道首都高速葛飾江戸川線(堀切JCT - 葛西JCT)
葛西JCTと大井JCTの間は[[首都高速湾岸線]]の一部である。
==== 放射線 ====
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 1.svg|20px]] 1 [[首都高速1号上野線|高速1号上野線]](江戸橋JCT - [[入谷出入口]])
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 1.svg|20px]] 1 [[首都高速1号羽田線|高速1号羽田線]](浜崎橋JCT - [[高速大師橋]])
:* 都道首都高速1号線(入谷 - 江戸橋JCT - 汐留JCT - 浜崎橋JCT - 羽田と連続している)
:* 都道147号高速横浜羽田空港線(羽田 - 高速大師橋)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 2.svg|20px]] 2 [[首都高速2号目黒線|高速2号目黒線]](一ノ橋JCT - [[戸越出入口]])
:* 都道首都高速2号線(汐留乗継所 - 戸越)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 3.svg|20px]] 3 [[首都高速3号渋谷線|高速3号渋谷線]](谷町JCT - [[東京インターチェンジ|用賀]])
:* 都道首都高速3号線(三宅坂JCT - 用賀)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 4.svg|20px]] 4 [[首都高速4号新宿線|高速4号新宿線]](三宅坂JCT - [[高井戸インターチェンジ|高井戸]])
:* 都道首都高速4号線(道路法上は、[[西銀座ジャンクション|西銀座JCT]] - 神田橋JCT - 三宅坂JCT - 高井戸)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 5.svg|20px]] 5 [[首都高速5号池袋線|高速5号池袋線]]([[竹橋ジャンクション|竹橋JCT]] - [[美女木ジャンクション|美女木JCT]])
:* 都道首都高速5号線(竹橋JCT - [[高島平出入口|高島平]])
:* 都道254号高速板橋戸田線・埼玉県道254号高速板橋戸田線(高島平 - 美女木JCT)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 6.svg|20px]] 6 [[首都高速6号向島線|高速6号向島線]](江戸橋JCT - 堀切JCT)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 6.svg|20px]] 6 [[首都高速6号三郷線|高速6号三郷線]](小菅JCT - [[三郷ジャンクション|三郷JCT]])
:* 都道首都高速6号線(江戸橋JCT - [[加平出入口|加平]])
:* 都道243号高速足立三郷線・埼玉県道243号高速足立三郷線(加平 - 三郷JCT)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 7.svg|20px]] 7 [[首都高速7号小松川線|高速7号小松川線]]([[両国ジャンクション|両国JCT]] - [[篠崎インターチェンジ|谷河内]])
:* 都道首都高速7号線
; 8 (欠番)
:* 都道首都高速8号線は[[京橋ジャンクション|京橋JCT]]から[[東京高速道路]]接続点までの延長0.1 km区間の路線として実在するが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jehdra.go.jp/pdf/hoyu/h117.pdf|title=道路資産保有及び貸付状況(路線別)・都道首都高速8号線|accessdate=2017-01-04|date=2016-04-30|format=PDF|work=日本高速道路保有・債務返済機構ホームページ|publisher=[[日本高速道路保有・債務返済機構]]}}</ref>、延長が短く、案内すると標識が煩雑になりドライバーの混乱を招くとの配慮から、都心環状線の支線として案内している<ref>{{Cite web|和書|title=最短の路線 “8号線”|首都高NEWS|url=https://www.shutoko.jp/ss/shutokonews/archive/trivia/201712.html|website=首都高NEWS|accessdate=2021-10-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|date=2017-04-18|title=首都高に「8号線」はない? 路線図に見当たらないもっともなワケ|newspaper=乗りものニュース|url=https://trafficnews.jp/post/66866|publisher=メディア・ヴァーグ}}</ref><ref name="佐藤2015">{{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎 |authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター) |date=2015-11-25 |title=国道者 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-339731-1 |page=70}}</ref>。
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 9.svg|20px]] 9 [[首都高速9号深川線|高速9号深川線]]([[箱崎ジャンクション|箱崎JCT]] - [[辰巳ジャンクション|辰巳JCT]])
:* 都道首都高速9号線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 10.svg|20px]] 10 [[首都高速10号晴海線|高速10号晴海線]]([[晴海出入口]] - [[東雲ジャンクション|東雲JCT]])
:* 都道首都高速晴海線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark 11.svg|20px]] 11 [[首都高速11号台場線|高速11号台場線]]([[芝浦ジャンクション|芝浦JCT]] - [[有明ジャンクション|有明JCT]])
:* 都道首都高速11号線
==== その他の路線 ====
; [[File:Shutoko Expwy Routemark Y.svg|20px]] Y [[首都高速八重洲線|高速八重洲線]](神田橋JCT - 西銀座JCT、汐留乗継所 - 汐留JCT)
:* 都道首都高速4号線(神田橋JCT - 西銀座JCT)
:* 都道首都高速2号線(汐留乗継所 - 汐留JCT) <br />
; [[File:Shutoko Expwy Routemark B.svg|20px]] B [[首都高速湾岸線|高速湾岸線]]([[多摩川トンネル]] - [[高谷ジャンクション|高谷JCT]])
:* 都道294号高速湾岸線・千葉県道294号高速湾岸線 <br />
; [[File:Shutoko Expwy Routemark B.svg|20px]] B [[首都高速湾岸線#高速湾岸分岐線|高速湾岸分岐線]]([[昭和島ジャンクション|昭和島JCT]] - [[東海ジャンクション (東京都)|東海JCT]])
:* 都道首都高速湾岸分岐線 <br />
=== 神奈川線 ===
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K1.svg|20px]] K1 [[首都高速神奈川1号横羽線|高速神奈川1号横羽線]](高速大師橋 - [[石川町ジャンクション|石川町JCT]])
:* 神奈川県道147号高速横浜羽田空港線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K2.svg|20px]] K2 [[首都高速神奈川2号三ツ沢線|高速神奈川2号三ツ沢線]]([[金港ジャンクション|金港JCT]] - [[保土ヶ谷インターチェンジ|三ツ沢]])
:* 横浜市道高速1号線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K3.svg|20px]] K3 [[首都高速神奈川3号狩場線|高速神奈川3号狩場線]]([[本牧ジャンクション|本牧JCT]] - [[狩場インターチェンジ|狩場]])
:* 神奈川県道147号高速横浜羽田空港線(本牧JCT - 石川町JCT)
:* 横浜市道高速2号線(石川町JCT - 狩場)
; K4 (欠番)
:*K4にあたる路線として、[[高速磯子線]]([[阪東橋出入口]]付近 - 湾岸線(磯子区磯子1丁目付近)間)の構想が存在していたが、[[本牧ジャンクション|本牧JCT]]の磯子方面への道路が後から開通したため、開通する見込みがほぼなくなった<ref name="佐藤2015"/>。
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K5.svg|20px]] K5 [[首都高速神奈川5号大黒線|高速神奈川5号大黒線]]([[大黒ジャンクション|大黒JCT]] - [[生麦ジャンクション|生麦JCT]])
:* 横浜市道高速湾岸線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K6.svg|20px]] K6 [[首都高速神奈川6号川崎線|高速神奈川6号川崎線]]([[大師ジャンクション|大師JCT]] - [[川崎浮島ジャンクション|川崎浮島JCT]])
:* 川崎市道高速縦貫線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K7.svg|20px]] K7 [[首都高速神奈川7号横浜北線|高速神奈川7号横浜北線]]([[港北インターチェンジ|横浜港北出入口/JCT]] - [[生麦ジャンクション|生麦JCT]])
:* 横浜市道高速横浜環状北線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark K7.svg|20px]] K7 [[首都高速神奈川7号横浜北西線|高速神奈川7号横浜北西線]]([[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉出入口/JCT]] - [[港北インターチェンジ|横浜港北出入口/JCT]])
:* 横浜市道高速横浜環状北西線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark B.svg|20px]] B [[首都高速湾岸線|高速湾岸線]]([[並木インターチェンジ|並木]] - 多摩川トンネル)
:* 神奈川県道294号高速湾岸線(並木 - 多摩川トンネル)
:* 横浜市道高速湾岸線([[本牧ふ頭出入口|本牧ふ頭]] - 大黒JCT)
=== 埼玉線 ===
; [[File:Shutoko Expwy Routemark S1.svg|20px]] S1 [[首都高速川口線|高速川口線]]([[江北ジャンクション|江北JCT]] - [[川口ジャンクション|川口JCT]])
:* 都道242号高速葛飾川口線・埼玉県道242号高速葛飾川口線(小菅JCT - 川口JCT)
; [[File:Shutoko Expwy Routemark S2.svg|20px]] S2 [[首都高速埼玉新都心線|高速埼玉新都心線]]([[与野出入口]] - [[さいたま見沼出入口]])
:* 埼玉県道124号高速さいたま戸田線
; [[File:Shutoko Expwy Routemark S5.svg|20px]] S5 [[首都高速埼玉大宮線|高速埼玉大宮線]]([[美女木ジャンクション|美女木JCT]] - 与野出入口)
:* 埼玉県道124号高速さいたま戸田線
:5 [[首都高速5号池袋線|高速5号池袋線]]([[竹橋ジャンクション|竹橋JCT]] - 美女木JCT)、6 [[首都高速6号三郷線|高速6号三郷線]]([[小菅ジャンクション|小菅JCT]] - [[三郷ジャンクション|三郷JCT]])は、埼玉県内区間についても東京線に所属。
:* S3並びにS4は欠番であるが、高速5号池袋線の延長上にある高速埼玉大宮線が便宜上S5とされたためであり、S3・S4にあたる計画はない<ref name="佐藤2015"/>。
=== 建設中・事業中路線 ===
路線呼称が未定の路線があるため、道路法上の路線名または基本計画の路線名。これより以下の''斜体''は仮称
====神奈川県====
* '''[[首都高速神奈川6号川崎線|高速川崎縦貫線]]'''I期(''富士見出入口'' - [[大師ジャンクション|大師JCT]]):整備先送り<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shutoko.co.jp/company/enterprise/road/committee/h27/~/media/pdf/corporate/company/enterprise/road/committee/h27/s_03.pdf|title=事業概要及び事業評価【事後評価】-高速川崎縦貫線|accessdate=2016-05-31|date=2015-12-04|format=PDF|publisher=首都高速道路株式会社}}</ref>/II期は[[川崎縦貫道路]]を参照。
** 川崎市道高速縦貫線
====埼玉県====
* '''[[新大宮上尾道路]]'''([[与野ジャンクション|与野JCT]] - ''上尾南出入口''):[[2017年]]度事業化<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shutoko.co.jp/updates/h28/data/03/31_start/|title=一般国道17号(新大宮上尾道路(与野~上尾南))の事業着手について|accessdate=2017-04-03|date=2017-04-03|publisher=首都高速道路株式会社}}</ref>。2026年度末に完成予定<ref>[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k255m.pdf 都道首都高速1号線等に関する協定の一部を変更する協定] 一般国道17号(新大宮上尾道路(与野~上尾南))(埼玉県さいたま市中央区円阿弥一丁目から埼玉県上尾市堤崎まで)に関する工事の内容及び工事に要する費用に係る債務引受限度額、別紙1-24、ページ49/98、「(ロ) 工事の完成予定年月日 平成39年 3月31日」</ref>。
** [[国道17号]]バイパス([[新大宮バイパス]]・[[上尾道路]]の専用部、S5 高速埼玉大宮線の延伸部)
**: ※ 前述までの通り、これまでの首都高速道路の路線は都道・県道・市道のいずれかに指定されており、一般国道として事業を行うのは初となる。
** 新大宮上尾道路は、上尾南出入口から更に北上し、途中[[首都圏中央連絡自動車道]][[桶川北本インターチェンジ|桶川北本IC]](JCT)を経由して、箕田(埼玉県[[鴻巣市]])に至る地域高規格道路計画路線であるが、上尾南出入口以北は事業化されておらず、事業主体も未定である。
== 歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年10月}}
東京に高速道路を建設する構想は、[[近藤謙三郎]]による道路立体化構想、[[石川栄耀]]・[[山田正男]]らによって作成された[[内務省 (日本)|内務省]]案が、[[太平洋戦争]]以前から存在していた<ref name="horie">{{Cite journal |和書|author =堀江興|title =東京の高速道路計画の成立経緯|date =1996|publisher =土木学会|journal =土木計画学研究・論文集|volume =13|doi=10.2208/journalip.13.1|pages =1-22|ref = }}</ref>。戦後の1946年に[[東京都庁]]が作成した都市計画中には、幅員100メートル (m) の高速道路敷地も確保されていたが、1949年(昭和24年)の[[ドッジライン]]政策により計画が縮小され、100 m道路は実現しなかった<ref name="horie"/>。
本格的に検討されるようになったのは、[[高度経済成長]]が始まる[[1950年代]]後半になってからである。当時の東京では、[[四輪自動車]]の急増と伴に、各地で[[交通渋滞]]が頻発するようになり、このまま放置すれば、やがて[[東京都区部]]が交通麻痺に陥ると予測されていた。1950年(昭和25年)頃から近藤謙三郎、[[樋口実]]などが独自に民間高速道路の計画案を提出し、樋口の[[東京高速道路]]に免許が交付された<ref name="horie"/>。
近藤案に触発された[[町田保]]を中心とする[[建設省]][[首都建設法|首都建設委員会]]、東京都、[[運輸省]]により、首都高速道路の新設が決定された<ref name="horie"/>。路線の選定にあたっては、早期の交通対策が可能となるよう用地取得の容易さが重視され、とりわけ都心部においては[[神田川 (東京都)|神田川]]、[[渋谷川|古川]]、[[外濠 (東京都)|外壕]]などの河川上空、[[楓川]]、[[京橋川]]、[[築地川]]などの[[運河]]の埋め立て、[[東京都電車|都電]]の廃止で幅員を広げた道路により、民間からの用地買収を極力抑えて路線用地を確保した。なお、計画が[[1959年]](昭和34年)に開催が決定した、[[1964年東京オリンピック]]との関係については、[[山田正男]]は「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と語っている<ref> 対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」所収 1973年 403頁</ref>。なお、下記のように、1964年五輪の招致決議以前に、河川や公有地の上を活用した時速60 kmの首都高速道路網の原型は決定され、五輪開催決定以前に、一部路線が[[日本道路公団]]により工事着手されている。
* [[1953年]]([[昭和]]28年)4月 : 慢性的な交通渋滞の緩和を目指し、「首都高速道路に関する計画」を首都建設委員会が勧告。「路線は高架、地下(開鑿を含む)または地上専用形式」「最高60粁/時、最低40粁/時を標準とする速度を保持し得るよう設計すること」とされた。路線網(5路線49km)は現在のように河川や公有地の上を通過するものではなかった。
* [[1956年]](昭和31年)11月 : [[日本道路公団]]が東京調査事務所を設置し、路線計画の調査を開始。
* [[1957年]](昭和32年)7月 : 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を発表。「路線の経過地の選定にあたっては市街地の土地利用を考慮し原則として家屋の密集地を避け、つとめて不利用地、治水利水上支障のない河川又は運河を使用する」「設計速度は1時間60粁を原則とする」とされた。
* [[1957年]](昭和32年)11月 : 東京都都市計画高速道路調査特別委員会が首都高速道路網計画を策定、報告。「昭和40年には本計画対象区域の交差点交通能力が満度に達するものと想定されるので本計画は極めて短期間に建設されることが必要」とし、首都高速の当初の路線網はこの段階で概ね決定された。(日本橋の下を首都高速道路が通ることとされる等一部は現在のものとは異なる。)
* [[1958年]](昭和33年)4月 : [[日本道路公団]]が1958年度予算の新規着工路線として「東京高速道路(戸越〜銀座八丁目)」を含む計画を決定。<ref>[[1958年]](昭和33年)4月29日付け読売新聞</ref>
* [[1958年]](昭和33年)4月 : 国会でオリンピック東京招致決議案を可決。
* [[1958年]](昭和33年)7月 : 首都圏整備委員会が首都高速道路網計画を含んだ首都圏整備計画を決定、告示。
* [[1958年]](昭和33年)12月 : 東京都市計画地方審議会が首都高速道路計画を一部保留して付議どおり議決し、建設大臣に答申。
* [[1959年]](昭和34年)[[2月25日]] : [[日本道路公団]]が西戸越〜汐留間を「一般有料道路 東京都市高速道路」として工事着手。<ref>[[1959年]](昭和34年)[[2月25日]]付け官報 日本道路公団工事開始公告</ref>(後に首都高に引継。)
* [[1959年]](昭和34年)[[4月8日]] : 首都高速道路公団法が可決、成立。
* [[1959年]](昭和34年)[[5月26日]] : 東京オリンピック開催決定。
* [[1959年]](昭和34年)[[6月17日]] : 首都高速道路公団が誕生。
* [[1959年]](昭和34年)[[8月7日]] : 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。
* [[1962年]](昭和37年)[[12月20日]] : 首都高速道路初の路線として、京橋 - 芝浦 (4.5 km) 開通。均一料金制による料金徴収を実施。
* [[1963年]](昭和38年)[[12月21日]] : 本町 - 京橋 (1.9 km)、1号羽田線芝浦 - [[鈴ヶ森出入口|鈴ヶ森]] (6.4 km)、都心環状線[[呉服橋出入口|呉服橋]] - 江戸橋JCT (0.6 km) 開通。
* [[1964年]](昭和39年)[[8月2日]] : 1号羽田線鈴ヶ森 - [[空港西出入口|空港(現:空港西)]](4.6 km)、八重洲線汐留JCT - 新橋 (0.3 km)、[[神田橋出入口|神田橋]] - 4号新宿線[[初台出入口|初台]] (9.8 km)、都心環状線呉服橋 - 神田橋 (0.4 km) 開通
* 1964年(昭和39年)[[9月21日]] : 都心環状線三宅坂JCT - [[霞が関出入口|霞が関]] (1.4 km) 開通
* 1964年(昭和39年)[[10月1日]] : 都心環状線浜崎橋JCT - [[芝公園出入口|芝公園]] (1.4 km)、3号渋谷線渋谷 - 渋谷 (1.3 km) 開通。
* 1964年(昭和39年)[[12月23日]] : [[世界銀行]]との間で調印(横浜-羽田間)25,000千[[アメリカ合衆国ドル|USD]]
* [[1966年]](昭和41年)[[7月2日]] : 京橋JCT (0.1 km) 新設。8号線完成。
* 1966年(昭和41年)12月21日 : 1号羽田線空港(現:空港西) - 羽田 (0.9 km) 開通
* [[1967年]](昭和42年)[[3月30日]] : 5号池袋線竹橋JCT - [[西神田出入口|西神田]] (1.2 km) 開通
* 1967年(昭和42年)[[7月4日]] : 都心環状線芝公園 - 霞が関 (3.7 km) 開通。都心環状線完成
* 1967年(昭和42年)[[9月2日]] : 3号渋谷線谷町JCT - 渋谷 (2.7 km) 開通
* 1967年(昭和42年)[[9月30日]] : 2号目黒線一ノ橋JCT - 戸越 (5.9 km)、2号線完成。
* [[1968年]](昭和43年)[[7月19日]] : 神奈川1号横羽線[[東神奈川出入口|東神奈川]] - 浅田 (6.8 km) 開通。神奈川県内では初の開通。総延長が50 kmを突破。
* 1968年(昭和43年)[[11月28日]] : 神奈川1号横羽線浅田 - 羽田 (6.9 km) 開通
* [[1969年]](昭和44年)[[5月31日]] : 1号上野線[[入谷出入口|入谷]] - 本町 (3.6 km) 開通。1号線完成
* 1969年(昭和44年)[[6月27日]] : 5号池袋線西神田 - [[護国寺出入口|護国寺]] (3.9 km) 開通
* 1969年(昭和44年)[[12月19日]] : 5号池袋線護国寺 - [[北池袋出入口|北池袋]] (3.0 km) 開通。
* 1970年(昭和45年)[[4月1日]]:通行料金値上げ(普通車150円から200円に変更)<ref>普通車で二百円に 通航量値上げ『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月26日朝刊 12版 15面</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)[[3月21日]] : 6号向島線江戸橋JCT - [[向島出入口|向島]] (7.9 km)、7号小松川線両国JCT - 京葉道路接続部 (10.4 km) 開通。7号線完成、京葉道路と接続。
* 1971年(昭和46年)12月21日 : 3号渋谷線渋谷 - 東名高速接続部 (7.9 km) 開通。3号線完成、東名高速と接続。
* [[1972年]](昭和48年)[[8月7日]] : 神奈川1号横羽線東神奈川 - [[横浜駅西口出入口|横浜駅西口]] (2.2 km) 開通
* [[1973年]](昭和48年)[[2月15日]] : 八重洲線西銀座JCT - 神田橋JCT (1.6 km) 開通。八重洲線完成。総延長が100 kmを突破。
* 1973年(昭和48年)[[8月15日]] : 4号新宿線[[永福出入口|永福]] - 高井戸 (2.5 km) 開通
* 1973年(昭和48年)[[10月27日]] : 4号新宿線初台 - 永福 (4.0 km) 開通
* [[1976年]](昭和51年)[[5月18日]] : 4号新宿線高井戸 - 中央道接続部 (0.7 km) 開通。4号線完成、中央道と接続。
* 1976年(昭和51年)[[8月12日]] : 湾岸線大井 - 13号地(現: [[臨海副都心出入口|臨海副都心]])(2.8 km) 開通
* [[1977年]](昭和52年)[[8月19日]] : 5号池袋線北池袋 - [[高島平出入口|高島平]] (8.6 km) 開通
* [[1978年]](昭和53年)[[1月20日]] : 湾岸線[[新木場出入口|新木場]] - 浦安 (6.0 km) 開通。千葉県内では初の開通。
* 1978年(昭和53年)[[3月7日]] : 神奈川2号三ツ沢線横浜駅西口 - 第三京浜接続部 (1.8 km)、[[横浜公園出入口|横浜公園]] - 金港JCT (4.0 km) 開通。神奈川1号横羽線完成。
* [[1980年]](昭和55年)[[2月5日]] : 9号深川線箱崎JCT - 新木場 (7.0 km) 開通。9号深川線完成。
* [[1981年]](昭和56年)[[5月19日]] : 湾岸線有明 - 辰巳JCT (1.7 km) 開通
* [[1982年]](昭和57年)3月30日 : 6号向島線向島 - 中央環状線[[千住新橋出入口|千住新橋]] (5.2 km) 開通
* 1982年(昭和57年)[[4月27日]] : 湾岸線浦安 - 東関東道接続部 (6.9 km) 開通。東関東道と接続。総延長が150 kmを突破。
* [[1983年]](昭和58年)[[2月24日]] : 湾岸線大井 - 東海JCT (5.1 km) 開通
* 1983年(昭和58年)[[11月30日]] : 中央環状線堀切JCT - [[四つ木出入口|四つ木]] (1.4 km) 開通
* [[1984年]](昭和59年)[[2月2日]] : 神奈川3号狩場線[[新山下出入口|新山下]] - 横浜公園 (1.8 km) 開通
* 1984年(昭和59年)[[12月12日]] : 湾岸線13号地(現: [[臨海副都心出入口|臨海副都心]]) - 有明 (1.8 km) 開通
* [[1985年]](昭和60年)[[1月24日]] : 6号三郷線小菅JCT - 三郷JCT (10.6 km) 開通。6号線完成、常磐道へ接続。埼玉県内では初の開通。
* [[1987年]](昭和62年)[[9月9日]] : 中央環状線四つ木 - 葛西JCT (11.2 km)、千住新橋 - 川口線川口JCT (16.5 km) 開通。川口線完成、東北道へ接続。総延長が200 kmを突破。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月27日]] : 神奈川5号大黒線[[生麦ジャンクション|生麦JCT]] - 新山下JCT (8.8 km) 開通。神奈川5号大黒線完成、[[横浜ベイブリッジ]]開通。
* 1989年(平成元年)[[12月26日]] : 大井JCT新設
* [[1990年]](平成2年)[[3月20日]] : 神奈川3号狩場線石川町JCT - 横浜横須賀道路接続部 (7.7 km) 開通。神奈川3号狩場線完成、横浜横須賀道路へ接続。
* 1990年(平成2年)[[11月27日]] : 5号池袋線高島平 - [[戸田南出入口|戸田南]] (2.6 km) 開通
* [[1993年]](平成5年)[[8月26日]] : 11号台場線芝浦JCT - 有明JCT (5.0 km) 開通。11号台場線完成、[[レインボーブリッジ]]開通。
* 1993年(平成5年)9月27日 : 湾岸線[[空港中央出入口|空港中央]] - 東海JCT (4.2 km) 開通。それに伴い1号線の空港を空港西に改称。
* 1993年(平成5年)[[10月26日]] : 5号池袋線戸田南 - 美女木JCT (2.2 km) 開通、5号池袋線が外環道と接続。
* [[1994年]](平成6年)[[12月21日]] : 湾岸線大黒JCT - 空港中央 (16.4 km) 開通。[[鶴見つばさ橋]]開通
* [[1997年]](平成9年)[[12月18日]] : 川崎浮島JCT新設、[[東京湾アクアライン]]と接続。
* [[1998年]](平成10年)5月18日 : 埼玉大宮線美女木JCT - 与野 (8.0 km) 開通。埼玉大宮線完成
* [[1999年]](平成11年)[[7月15日]] : 横浜横須賀道路接続部 - 杉田 (3.5 km)、湾岸線[[三渓園出入口|三渓園]](仮)- 本牧ふ頭 (4.1 km) 開通
* [[2000年]](平成12年)[[4月17日]] : 埼玉新都心線[[新都心西出入口]]開通
* [[2001年]](平成13年)[[10月22日]] : 湾岸線杉田 - 三渓園 (7.0 km) 開通。湾岸線全線開通
* [[2002年]](平成14年)[[4月30日]] : 神奈川6号川崎線川崎浮島JCT - [[殿町出入口|殿町]] (3.5 km) 開通
* 2002年(平成14年)[[12月25日]] : 中央環状線板橋JCT - 江北JCT (7.1 km) 開通
* [[2004年]](平成16年)[[5月26日]] : 埼玉新都心線与野 - [[新都心出入口|新都心]] (2.3 km) 開通
* [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] : 首都高速道路株式会社設立。道路などの施設は[[日本高速道路保有・債務返済機構]]の保有となる。
* [[2006年]](平成18年)[[8月4日]] : 埼玉新都心線新都心 - [[さいたま見沼出入口|さいたま見沼]] (3.5 km) 開通。埼玉新都心線完成
* [[2007年]](平成19年)[[12月22日]] : 中央環状線西新宿JCT - 熊野町JCT (6.7 km) 開通。湾岸線の13号地が臨海副都心へ改称。
* [[2009年]](平成21年)[[2月11日]] : 10号晴海線豊洲 - 東雲JCT (1.5 km) 開通
* 2009年(平成21年)[[3月29日]] : 神奈川1号横羽線[[大師出入口]](横浜方面)開通
* [[2010年]](平成22年)[[3月28日]] : 中央環状線大橋JCT - 西新宿JCT (4.3 km) 開通
* 2010年(平成22年)[[10月20日]] : 神奈川6号川崎線大師JCT - 殿町 (2.0 km) 開通。総延長が300 kmを突破。
* [[2012年]](平成24年)[[1月1日]] : 東京圏・神奈川圏・埼玉圏の料金圏を撤廃し、距離別料金制へ移行。
* 2012年(平成24年)[[12月20日]] : 開通50周年
* [[2013年]](平成25年)[[4月1日]] : 10号晴海線[[豊洲出入口]]に首都高初の[[自動精算機#有料道路における自動精算機|自動精算機]]を設置<ref>{{Cite press release|和書|title=高速10号晴海線(下り)豊洲料金所他22料金所において料金精算機を導入します|publisher=首都高速道路株式会社|date=2013-01-15|url=http://www.shutoko.co.jp/company/press/h24/data/01/15_sesanki/|accessdate=2013-02-08}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月7日]] : 中央環状線[[大井ジャンクション|大井JCT]] - 大橋JCT (9.4 km) 開通。[[山手トンネル]]・中央環状線全線開通
* [[2016年]](平成28年)[[4月1日]] : [[首都圏 (日本)|首都圏]]の高速道路料金体系の見直しに伴い、料金水準を[[高速自動車国道]]の[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]と同水準とし、料金車種区分もこれまでの2車種区分から5車種区分へ移行した。
* [[2017年]](平成29年)[[3月4日]] : 湾岸線[[南本牧ふ頭出入口]]開通
* 2017年(平成29年)[[3月18日]] : 神奈川7号横浜北線生麦JCT - 横浜港北JCT (8.2 km) 開通
* [[2018年]](平成30年)[[3月10日]] : 10号晴海線晴海 - 豊洲 (1.2 km) 開通
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月22日]] : [[首都高速神奈川7号横浜北西線|神奈川7号横浜北西線]]横浜港北JCT - 横浜青葉JCT (7.1 km) 開通
* [[2021年]](令和3年)[[5月10日]] : [[首都高速道路都心環状線]]の[[江戸橋出入口]]・[[呉服橋出入口]]が日本橋川内の橋脚本数の削減と地下化工事作業のため廃止<ref name=P20210126>{{Cite web|和書|url=https://www.shutoko.co.jp/company/press/2020/data/01/26_nihonbashi/ |title=都心環状線 呉服橋出入口・江戸橋出入口を2021年5月10日(月)午前0時に廃止します 〜首都高速道路日本橋区間地下化事業〜 |publisher=首都高速道路 |date=2021-01-26 |accessdate=2022-01-04 }}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[4月1日]] : 34か所の入口料金所が新たに[[ETC]]専用となる(うち5か所は先行して[[3月1日]]から)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shutoko.co.jp/company/press/2021/data/12/10_etc_dedicated/|title=2022年4月首都高速道路の料金所のうち、34箇所が新たにETC専用になります 〜3月1日から5箇所、4月1日から29箇所で開始します〜|date=2021-12-10|accessdate=2022-04-03|publisher=首都高速道路株式会社}}</ref>。
== 最高速度 ==
{| class="wikitable"
|-
!速度<br/>(km/h) !! 区間
|-
|style="text-align:center;"| 30 || [[美女木ジャンクション|美女木JCT]]、[[西新宿ジャンクション|西新宿JCT]]
|-
|style="text-align:center;"| 40 || [[首都高速八重洲線|八重洲線]]全線、[[箱崎ロータリー]]を含む[[箱崎ジャンクション|箱崎JCT]]、[[江戸橋ジャンクション|江戸橋JCT]]、[[浜崎橋ジャンクション|浜崎橋JCT]]、[[大橋ジャンクション|大橋JCT]]、[[川崎浮島ジャンクション|川崎浮島JCT]]等
|-
|style="text-align:center;"| 50 || [[首都高速都心環状線|都心環状線]]全線、[[首都高速神奈川3号狩場線|神奈川3号狩場線]]の[[本牧ジャンクション|本牧JCT]] - [[永田出入口]]間、[[首都高速4号新宿線|4号新宿線]]の[[代々木出入口]] - [[新宿出入口]]間、[[首都高速5号池袋線|5号池袋線]]の[[北池袋出入口]] - [[熊野町ジャンクション|熊野町JCT]]間等
|-
|style="text-align:center;"| 60 || [[首都高速中央環状線|中央環状線]]全線等、大半の区間
|-
|style="text-align:center;"| 70 || [[首都高速湾岸線|湾岸線]]の[[大井南出入口]] - [[臨海副都心出入口]]間
|-
|style="text-align:center;"| 80 || 湾岸線、[[首都高速埼玉大宮線|埼玉大宮線]]および[[首都高速神奈川6号川崎線|神奈川6号川崎線]]の一部区間を除く全線、[[首都高速川口線|川口線]]の[[東領家出口]] - [[川口ジャンクション|川口JCT]]間、[[首都高速6号三郷線|6号三郷線]]の[[加平出入口]] - [[三郷ジャンクション|三郷JCT]]間
|}
湾岸線は全区間で6車線道路であり、直線区間が多くカーブも緩やかである。そのため最高速度を超過して走行する車両が多く、しばしば速度取締りが行われる。[[空港中央出入口]]周辺は、[[速度違反自動取締装置]]や[[白バイ]]による取り締まり重点路線に指定されている。
平成19年度に行われた調査研究では、最高速度が60 [[キロメートル毎時|km/h]]である区間の34箇所、および最高速度が50 km/hである4号新宿線代々木 - 新宿間の3箇所で平均速度の現地調査が行われたが、すべての区間で平均速度が最高速度を上回っていた<ref>{{ Cite report |language = ja| author = 規制速度決定の在り方に関する調査研究検討委員会 | date = March 2008 | title = 平成19年度 規制速度決定の在り方に関する調査研究 報告書 | url = https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/seibi2/kisei/mokuteki/kiseisokudo/pdf/H19houkokusyo.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20180618175621/https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/seibi2/kisei/mokuteki/kiseisokudo/pdf/H19houkokusyo.pdf | archivedate = 2018-06-18 }}</ref>。最高速度が60 km/hである区間では30% - 50%(約15 km/h - 30 km/h)の速度超過が、最高速度が50 km/hである区間では30% - 40%(約15 km/h - 20 km/h)の速度超過が見られている。
== 通行料金 ==
=== 料金体系の変更、料金徴収期間 ===
[[2012年]]([[平成]]24年)[[1月1日]]午前0時より、それまでの料金圏別の「均一料金制」から、料金圏のない「距離別料金制」に移行した<ref name="kyoripress">{{Cite press release|和書|title=距離別料金への移行等のお知らせ|publisher=首都高速道路株式会社|date=2011-11-02|url=http://www.shutoko.co.jp/company/press/h23/data/11/1102/|accessdate=2011-11-04}}</ref><ref name="kyoriinfo">{{Cite web|和書|date=2012-01-01|url=http://www.shutoko.jp/news/2012/data/1/0101/|work=首都高ドライバーズサイト|title=平成24年1月1日より首都高の料金は距離別料金に移行しました|publisher=首都高速道路株式会社|accessdate=2012-01-01}}</ref>。
[[2016年]]([[平成]]28年)[[4月1日]]午前0時より、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の高速道路料金体系の見直しに伴い、料金水準を[[高速自動車国道]]の[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]と同水準とし、料金車種区分もこれまでの2車種区分から5車種区分へ移行した<ref>{{Cite press release|和書|title=首都圏の新たな高速道路料金について|publisher=首都高速道路株式会社|date=2016-03-01|url=http://www.shutoko.co.jp/company/press/h27/data/03/01_fee2804/}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.shutoko.co.jp/~/media/pdf/corporate/company/press/h27/03/01_01.pdf 「首都圏の新たな高速道路料金」について] - 首都高速道路株式会社|2.19MB}}</ref>。
[[日本高速道路保有・債務返済機構]]との協定により、料金徴収期間は[[2065年]][[9月30日]]までと定められている<ref>{{PDFlink|[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1004_8.pdf 都道首都高速1号線等に関する協定の一部を変更する協定(2016年2月29日付け)]|309KB}} 別紙8 料金の額及びその徴収期間 〔4〕料金の徴収期間 ページは、別紙8の表紙を含めて第17ページ目</ref>。
=== 料金の計算式(2016年4月1日から2022年3月31日まで) ===
料金 (Y) は次の式で計算される<ref>{{PDFlink|[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1004_8.pdf 都道首都高速1号線等に関する協定の一部を変更する協定(2016年2月29日付け)]|309KB}} 別紙8 料金の額及びその徴収期間 〔1〕基本料金の額、〔2〕特別の措置 第2-3ページ、第4-5ページ</ref>。ここで<math>\lfloor x \rfloor</math>は、[[床関数]](ガウス記号)である。
* Y = 料金(円:消費税込み)= <math>( L * R + F ) *(1 + n/100)</math>(nは[[消費税]]率(%)、n=8 又はn=10)
* L = 料金距離(入口から出口までの距離 km: 0.1 km単位)<ref>{{PDFlink|[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1004_8.pdf 都道首都高速1号線等に関する協定の一部を変更する協定(2016年2月29日付け)]|309KB}} 別紙8 料金の額及びその徴収期間 別添2 第20ページから第24ページ</ref>
* R = 1 km 当たりの料金の額(円:消費税抜き)(5つの車種毎に異なる)
* F = 利用1回に対して課するターミナルチャージ額(円:消費税抜き)= 150 円
普通車の場合、ほぼ0.3 km 毎に料金が10円ずつ加算されることになる。
協定に定められた「料金の額」(R)(例えば、普通車は29.52円)及び「利用1回に対して課する固定額」(F)(150円)のそれぞれに消費税額を加算し、四捨五入により10円単位の端数処理([[床関数]]による)を行って、算出している。
==== 2016年4月1日から2019年9月30日までの料金(消費税 8% 込みの料金) ====
* ETC軽・二輪 <math>Y = \lfloor \frac{25.505 28 L + 162} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC普通車 <math>Y = \lfloor \frac{31.8816 L + 162} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC中型車 <math>Y = \lfloor \frac{34.113 312 L + 162} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC大型車 <math>Y = \lfloor \frac{52.604 64 L + 162} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC特大車 <math>Y = \lfloor \frac{68.226 624 L + 162} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
中型車と特大車については、激変緩和措置として、1 km 当たりの料金の額が低く設定されている。
==== 2019年10月1日から2022年3月31日までの料金(消費税 10% 込みの料金) ====
* ETC軽・二輪 <math>Y = \lfloor \frac{25.9776 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC普通車 <math>Y = \lfloor \frac{32.472 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC中型車 <math>Y = \lfloor \frac{34.745 04 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC大型車 <math>Y = \lfloor \frac{53.5788 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
* ETC特大車 <math>Y = \lfloor \frac{69.490 08 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
中型車と特大車については、激変緩和措置として、1 km 当たりの料金の額が低く設定されている。
=== 料金の計算式(2022年4月1日以降) ===
消費税率は'''10%'''としている。
ETC軽・二輪
<math>Y = \lfloor \frac{25.9776 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
ETC普通車
<math>Y = \lfloor \frac{32.472 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
ETC中型車
<math>Y = \lfloor \frac{38.9664 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
ETC大型車
<math>Y = \lfloor \frac{53.5788 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
ETC特大車
<math>Y = \lfloor \frac{89.298 L + 165} {10} + 0.5 \rfloor * 10 </math> 円
中型車と特大車の1 km 当たりの料金の額が協定の本則通りとなる。
=== 下限・上限料金、現金車の料金 ===
: ETC車(無線通行)については、利用した入口 - 出口間の料金距離 (L) に応じて次表のようになる<ref>{{PDFlink|[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k252m.pdf 都道首都高速1号線等に関する協定の一部を変更する協定(2016年2月29日付け)]|557KB}} 別紙8 料金の額及びその徴収期間</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;"
|+2022年4月1日からの下限・上限料金
!rowspan="2" colspan="2"| !!colspan="2"|[[軽自動車|軽]]・[[普通自動二輪車|普二輪]]・[[大型自動二輪車|大二輪]] !!colspan="2"|[[普通自動車|普通車]] !!colspan="2"|[[中型自動車|中型車]] !!colspan="2"|[[大型自動車|大型車]] !!colspan="2"|[[特定大型車|特大車]]
|-
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
|-
!colspan="2"|[[ETC]]車
| 280円 || 1,590円 || 300円 || 1,950円 || 330円 || 2,310円 || 400円 || 3,110円 || 550円 || 5,080円
|-
!colspan="2"|現金車
|colspan="2"| 1,590円 || colspan="2"| 1,950円 || colspan="2"| 2,310円 || colspan="2"| 3,110円 || colspan="2"| 5,080円
|}
:* 走行距離が4.2 km以下または'''55 km以上'''であるETC車の料金は、上表の下限料金と上限料金を適用する。
:* 中型車と特大車の下限・上限料金が協定の本則通りとなる。
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;"
|+2019年10月1日から2022年3月31日までの下限・上限料金
!rowspan="2" colspan="2"| !!colspan="2"|[[軽自動車|軽]]・[[普通自動二輪車|普二輪]]・[[大型自動二輪車|大二輪]] !!colspan="2"|[[普通自動車|普通車]] !!colspan="2"|[[中型自動車|中型車]] !!colspan="2"|[[大型自動車|大型車]] !!colspan="2"|[[特定大型車|特大車]]
|-
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
!下限料金!!上限料金
|-
!colspan="2"|[[ETC]]車
| 280円 || 1,090円 || 300円 || 1,320円 || 310円 || 1,410円 || 400円 || 2,080円 || 460円 || 2,650円
|-
!colspan="2"|現金車
|colspan="2"| 1,090円 || colspan="2"| 1,320円 || colspan="2"| 1,410円 || colspan="2"| 2,080円 || colspan="2"| 2,650円
|}
:* 走行距離が4.2 km以下または35.7 km以上であるETC車の料金は、上表の下限料金と上限料金を適用する。
:* 中型車と特大車については、激変緩和措置として、料金額を低くしている。
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;"
|+2016年3月31日までの料金(消費税8%を含む。)
|-
!走行距離!![[普通自動車|普通車]]!![[大型自動車|大型車]]
|-
| 6 km以下 || 510円 || 1,030円
|-
| 6 km超 - 12 km以下 || 610円 || 1,230円
|-
| 12 km超 - 18 km以下 || 720円 || 1,440円
|-
| 18 km超 - 24 km以下 || 820円 || 1,640円
|-
| 24 km超 || 930円 || 1,850円
|}
:* 30 kmを超える区間の上記料金は、[[道路整備事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律#高速道路利便増進事業|高速道路利便増進事業]]による割引の扱いであった(上限料金の引下げに係る割引)<ref>{{PDFlink|[http://www.jehdra.go.jp/pdf/riben/r028.pdf#page=3 首都高速道路株式会社が管理する高速道路に係る高速道路利便増進事業に関する計画]|83KB}} - 日本高速道路保有・債務返済機構、2011年3月11日</ref>。
; ETC車以外(現金支払い、無線通行によらないETCカード支払い)
: 利用した入口から最も遠い出口までの料金距離に応じて上表の料金となる。この距離が35.7 km以下となるのは[[放射線・環状線|放射線]][[郊外]]方向の一部入口からの利用に限られるので、原則的には普通車1,950円、大型車3,110円の一律料金である。
:* 旧料金圏境をまたぐ利用の場合、最初の料金所で料金を支払って[[通行券|領収書]](ETCカード支払いでは利用証明書になる。以下同じ。)を受け取り、2番目以降の本線料金所では領収書を提示する(ただし、かつて料金圏境にあった[[湾岸浮島本線料金所]]および川崎浮島料金所は撤去された)。領収書が無いと新たに料金を支払うことになるので、'''最初の料金所で領収書を必ず受領し、無くさないように注意が必要'''である。また、領収書には有効時間があり、正当な理由([[渋滞]])なく有効時間を過ぎた場合も、新たに料金を支払うことになる。
; 料金距離 (L) について
: 入口 - 出口間で複数の経路がある場合、首都高速のみを利用した最短経路で算出する。
: 方向によって最短経路が異なる場合は、実際に利用した方向にかかわらず短いほうの距離を採用する。
: [[常盤橋出入口]]または[[八重洲地下街#アクセス|八重洲出入口]]発着で[[東京高速道路]]を通過する経路が最短となる場合、当該経路で算出し、東京高速道路の距離は含めない。
=== ETC割引 ===
; 都心流入割引
: [[東京外環自動車道]]接続部相当の放射道路の端末部と、[[首都高速都心環状線]]・[[首都高速八重洲線|八重洲線]]間の利用については、外環道端末部から一番近い都心環状線の出入口までの高速料金を上限とする割引制度。
: [[首都高速川口線]]を出発地・到着地とした場合は、[[一ツ橋出入口|一ツ橋]]・[[飯田橋出入口|飯田橋]]・[[箱崎出入口 (東京都)|箱崎]]・[[浜町出入口|浜町]]・[[清洲橋出口|清洲橋]]の出入口を利用した際にも、割引が適用される。
; 都心流入・湾岸線誘導割引
: 横浜都心部及び[[首都高速三ツ沢線|三ツ沢線]]・[[首都高速狩場線|狩場線]]と、都心環状線・八重洲線間との利用で、[[首都高速湾岸線]]の[[川崎浮島ジャンクション|川崎浮島JCT]]から[[大黒ジャンクション|大黒JCT]]を通過する利用者に対する割引制度。
: 下記「環境ロードプライシング割引」と重複する場合は、環境ロードプライシング割引適用後額に対し、この割引を適用される。
; 環境ロードプライシング
: ''[[ロードプライシング#都市高速道路の環境ロードプライシング]]を参照''
; 大口・多頻度割引
: 運送業者などを対象に実施されている割引。[[ETC#ETCコーポレートカード|ETCコーポレートカード]]による無線通行が前提となっており、暦月1ヶ月間の利用額に応じて割り引かれる。[[ETC割引制度#大口・多頻度割引(NEXCO3社)|NEXCO]]と同様に車両単位割引と契約単位割引の組み合わせになっているが、契約単位割引は利便増進事業で追加されたものである。
: 車両単位割引は、カードごとの月間利用額に応じて次表1のようになる。ただし、2012年1月利用分から2014年3月利用分までは、次表2の内容に拡充される。
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;"
|+ 表1
! 月間利用額 !! 割引率
|-
| 5,000円以下の部分 || 0%
|-
| 5,000円超 - 10,000円以下の部分 || 2%
|-
| 10,000円超 - 30,000円以下の部分 || 5%
|-
| 30,000円超 - 50,000円以下の部分 || 8%
|-
| 50,000円超の部分 || 12%
|}
{| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;"
|+ 表2
! 月間利用額 !! 割引率
|-
| 5,000円以下の部分 || 0%
|-
| 5,000円超 - 10,000円以下の部分 || 10%
|-
| 10,000円超 - 30,000円以下の部分 || 15%
|-
| 30,000円超の部分 || 20%
|}
: 契約単位割引は、1契約者で100万円を超え、かつ、1台平均5,000円を超える場合、5%引き。ただし、2012年1月利用分から2014年3月利用分までは10%引き。
=== 廃止された割引(2016年3月31日終了) ===
; 中央環状線迂回利用割引
: 2012年1月1日開始。放射線上り入口から他の放射線下り出口までの利用(中央環状線より外側の出入口相互間に限る)で、都心環状線を経由せず中央環状線を経由し、かつ、それが都心環状線経由より遠回りの経路となる場合、普通車100円引き、大型車210円引き。
; 放射道路端末区間割引
: 2012年1月1日開始。放射線端末の出入口 - 都心環状線内の出入口間の料金を、従前の料金以下に据え置く。また、5号池袋線・6号三郷線・川口線の一部出入口から一定距離範囲の料金を引下げる。中央環状線迂回利用割引との重複適用が可能(例.[[高島平出入口|高島平]]-[[葛西出入口|葛西]])。
; 埼玉線内々利用割引
: 2012年1月1日開始。旧埼玉線([[戸田出入口]]を含む大宮線・埼玉新都心線)のみの利用の場合、普通車100円引き、大型車210円引き。
; 羽田空港アクセス割引
: 2012年1月1日開始。[[空港中央出入口]]または[[湾岸環八出入口]]発着の場合、[[空港西出入口]]または[[羽田出入口]]までの最低料金となるように料金距離を減じる。協定および事業許可においては割引ではない。
; 会社間乗継割引
: 2012年1月1日開始。首都高速に直接接続する[[ネクスコ|NEXCO]]の高速道路([[一般有料道路]]を含む)との乗継利用で、首都高速の料金距離が6 km以下または接続地点に最も近い出入口を利用する場合、普通車100円引き、大型車210円引き。2016年3月31日終了。
:* [[中央自動車道]]または[[東京湾アクアライン]]との乗継は、普通車210円引き、大型車410円引き。
:* [[東京外環自動車道]]と大宮線の乗継は割引対象外。
=== 2011年までの均一料金 ===
対距離料金制に変更される直前(2011年12月当時)の料金である。
「東京線」「神奈川線」「埼玉線」の3つの地区(料金圏)別の均一料金。複数の料金圏にまたがって走行する場合は、通過する料金圏ごとに料金が発生した。
{| class="wikitable" style="margin: 0 2em 0.5em;"
|+ 通常区間
! 地区 !! 普通車 !! 大型車
|-
! 東京線
| style="text-align:right" | 700円
| style="text-align:right" | 1,400円
|-
! 神奈川線
| style="text-align:right" | 600円
| style="text-align:right" | 1,200円
|-
! 埼玉線
| style="text-align:right" | 400円
| style="text-align:right" | 800円
|}
; 特定区間割
: 上表によらない特定料金が適用された区間の一覧である。案内上は割引扱いであったが、協定および事業許可においては割引ではない。普通車300円(大型車600円)になる「特定区間割300」と普通車500円(大型車1,000円)になる「特定区間割500」があった。
{| class="wikitable" style="margin: 0 2em 0.5em;"
|+ 特定区間割300 区間一覧
! colspan="2" | 路線 !! 区間 !! 対象車両
|-
| rowspan="6" | 東京線 || rowspan="2" | 1号上野線 || 入谷・上野→本町 || ETC車のみ
|-
| 本町→上野・入谷 || 全車
|-
| 1号羽田線 || 平和島 - 羽田 || 全車
|-
| rowspan="2" | 4号新宿線 || 永福→高井戸・中央道 || 全車
|-
| 中央道・高井戸→永福 || ETC車のみ
|-
| 湾岸線 || 浮島・川崎浮島JCT - 湾岸環八・空港中央 || 全車
|-
| rowspan="7" | 神奈川線 || 神奈川1号横羽線 || 大師 - 羽田 || 全車
|-
| 神奈川1号横羽線<br/>神奈川2号三ツ沢線 || 東神奈川 - 横浜駅西口・三ツ沢・三ツ沢JCT || ETC車のみ
|-
| 神奈川2号三ツ沢線 || みなとみらい - 横浜駅東口・横浜駅西口・三ツ沢・三ツ沢JCT || ETC車のみ
|-
| rowspan="3" | 湾岸線 || 並木IC(横横道路)・幸浦→杉田 || ETC車のみ
|-
| 杉田→幸浦・並木IC(横横道路)|| 全車
|-
| 東扇島 - 川崎浮島JCT・浮島 || ETC車のみ
|-
| 神奈川6号川崎線 || 殿町 - 川崎浮島JCT || ETC車のみ
|-
| rowspan="2" | 埼玉線 || 埼玉大宮線 || 戸田・美女木JCT - 浦和南 || 全車
|-
| 埼玉新都心線 || 新都心 - さいたま見沼 || ETC車のみ
|}
{| class="wikitable" style="margin: 0 2em 0.5em;"
|+ 特定区間割500 区間一覧
! colspan="2" | 路線 !! 区間 !! 対象車両
|-
| rowspan="4" | 東京線 || 3号渋谷線 || 池尻 - 三軒茶屋・用賀・東名高速 || ETC車のみ
|-
| 湾岸線 || 浦安 - 千鳥町・東関東道 || ETC車のみ
|-
| 川口線 || 新郷 - 安行・新井宿・川口JCT || ETC車のみ
|-
| 6号三郷線 || 八潮南 - 八潮・三郷・三郷JCT || ETC車のみ
|-
| 神奈川線 || 神奈川3号狩場線 || 阪東橋 - 花之木・永田・狩場JCT || ETC車のみ
|}
=== 距離別料金制移行で廃止されたETC割引 ===
企画割引および社会実験割引は記していない。
* [[ETC割引制度#都市高速道路の時間帯割引|時間帯割引]](平日夜割、日祝割)
* [[ETC割引制度#お得意様割(首都高速)|一般向け頻度割引]](お得意様割)
* 会社間連続利用割引(高速ダブる割) - 並木経由で[[横浜横須賀道路]] - 横浜地区の指定出入口(杉田・三溪園・石川町・横浜公園)相互間を利用した場合<ref group="注">2012年からの会社間乗継割引では、杉田発着のみが割引対象になる。</ref>、普通車100円引き、大型車200円引き。
=== 料金の推移 ===
1962年に京橋 - 芝浦が開通して以来延伸を続け、延長と物価上昇率を考慮して通行料金を改定している。
普通車の通行料金改定の経緯は下表のとおりである。
<div style="height:auto; overflow: auto; text-align: left">
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+首都高速道路料金推移(普通車)<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/syutokou/06/14.pdf 首都高速道路の料金改定の経緯]|590KB}} - 国土交通省</ref>
!rowspan="2"|料金改定年月日
!colspan="3"|普通車の通行料金
!rowspan="2"|備考
|-
!東京線
!神奈川線
!埼玉線
|-
|1962年(昭和37年)12月20日
|50円
|rowspan="3" style="text-align:center;"|未開業
|rowspan="15" style="text-align:center;"|未開業
|style="text-align:left;"|京橋 - 芝浦 (4.5 km) 開通、暫定料金
|-
|1963年(昭和38年)12月21日
|100円
|style="text-align:left;"|本料金へ移行
|-
|1964年(昭和39年){{0}}8月{{0}}2日
|rowspan="3"|150円
|
|-
|1968年(昭和43年){{0}}7月19日
|100円
|style="text-align:left;"|浅田 - 東神奈川 (6.8 km) 開通
|-
|1968年(昭和43年)11月28日
|rowspan="2"|150円
|
|-
|1970年(昭和45年){{0}}4月{{0}}1日
|200円
|
|-
|1974年(昭和49年){{0}}8月{{0}}1日
|250円
|rowspan="2"|200円
|
|-
|1976年(昭和51年){{0}}8月12日
|rowspan="2"|300円
|
|-
|1978年(昭和53年){{0}}3月{{0}}7日
|rowspan="2"|300円
|
|-
|1980年(昭和55年){{0}}2月{{0}}5日
|rowspan="2"|400円
|
|-
|1984年(昭和59年){{0}}2月{{0}}2日
|rowspan="2"|350円
|
|-
|1985年(昭和60年){{0}}1月24日
|rowspan="2"|500円
|
|-
|1985年(昭和60年){{0}}4月{{0}}1日
|rowspan="2"|400円
|
|-
|1987年(昭和62年){{0}}9月10日
|600円
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年){{0}}5月{{0}}9日
|rowspan="3"|700円
|rowspan="2"|500円
|
|-
|1998年(平成10年){{0}}5月18日
|rowspan="2"|400円
|style="text-align:left;"|美女木JCT - 与野 (8.0 km) 開通
|-
|2002年(平成14年){{0}}7月{{0}}1日
|600円
|
|-
|rowspan="2"|2012年(平成24年){{0}}1月{{0}}1日
|style="text-align:center;" colspan="3"|ETC車:≦6 km:500円、≦12 km:600円、≦18 km:700円、≦24 km:800円、>24 km:900円
|style="text-align:left;"|距離別制へ移行
|-
|style="text-align:center;" colspan="3"|一般車:900円
|
|-
|rowspan="2"|2014年(平成26年){{0}}4月{{0}}1日
|style="text-align:center;" colspan="3"|ETC車:≦6 km:510円、≦12 km:610円、≦18 km:720円、≦24 km:820円、>24 km:930円
|style="text-align:left;" rowspan="2"|消費税増税に伴う値上げ
|-
|style="text-align:center;" colspan="3"|一般車:930円
|-
|rowspan="2"|2016年(平成28年){{0}}4月{{0}}1日
|style="text-align:center;" colspan="3"|ETC車:≦4.2 km:300円、4.2 km≦35.7 km:300円 - 1300円、>35.7 km:1300円<br />
(ほぼ0.3 kmごとに10円加算)
|style="text-align:left;"|高速自動車国道の大都市近郊区間と<br>ほぼ同等の距離別制へ移行
|-
|style="text-align:center;" colspan="3"|普通車:1300円
|style="text-align:left;"|車両区分を2区分から、<br/>高速自動車国道と同じ5区分に細分化
|-
|rowspan="2"|2019年(令和元年)10月{{0}}1日
|style="text-align:center;" colspan="3"|ETC車:≦4.2 km:300円、4.2 km≦35.7 km:300円 - 1320円、>35.7 km:1320円<br />
(ほぼ0.3 kmごとに10円加算)
|style="text-align:left;" rowspan="2"|消費税増税に伴う値上げ
|-
|style="text-align:center;" colspan="3"|普通車:1320円
|-
|rowspan="2"|2022年(令和{{0}}4年){{0}}4月{{0}}1日
|style="text-align:center;" colspan="3"|ETC車:≦4.2 km:300円、4.2 km≦55 km:300円 - 1950円、>55 km:1950円<br />
(ほぼ0.3 kmごとに10円加算)
|style="text-align:left;" rowspan="2"|深夜割引の導入
|-
|style="text-align:center;" colspan="3"|普通車:1950円
|}
</div>
中央環状王子線が開通した2002年[[12月]]には東京線が800円に値上げされる案があったが、廃案となっている。
=== 距離別料金制の導入経緯 ===
首都高速道路などの都市高速道路で採用されてきた均一料金制は、ネットワークが拡大するにつれて1回あたりの利用距離のばらつきが大きくなり、利用程度に応じた負担という点で不公平さが増すなどの諸課題が顕在化しつつあった。[[ETC]]の活用により、大量交通の効率処理と利用区間の把握の両立およびネットワークの有効活用に資する弾力的な料金設定も可能となることから、[[2000年]](平成12年)[[11月30日]]の第101回道路審議会において、ETC利用を基本とする新たな料金制度を導入すべきとの答申がなされた<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/singi/001215/001215-1.html 第101回道路審議会「都市高速道路の料金体系のあり方等についての答申」] - 国土交通省、2000年11月30日</ref>。
[[2003年]](平成15年)[[12月22日]]、[[道路関係四公団]][[民営化]]の基本的枠組みについての[[政府]]・[[与党]]申し合わせにおいて、[[2008年|2008]][[年度]](平成20年度)を目標に対距離料金制を導入することとされた<ref>{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/road/4kou-minei/pdf/2003/1222/031222.pdf#page=4 道路関係四公団民営化の基本的枠組みについて(平成15年12月22日政府・与党申し合わせ)]|388KB}} - 国土交通省</ref>。しかし、経済状況の悪化により延期され、さらに[[政権交代]]で計画は見直されることになった。
==== 当初の料金案 ====
会社発足から間もない[[2005年]](平成17年)[[11月]]に[[パブリックコメント]]が行われ、料率31円/km、[[ターミナルチャージ]]290円(いずれも普通車の場合)とする対距離料金制の基本設計イメージが公表された<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/arikata/5pdf/21.pdf 第5回 今後の有料道路のあり方研究会 資料2-1 首都高速道路の意見募集要領]|541KB}} - 国土交通省</ref>。[[2006年|翌年]][[3月]]の機構との協定および事業許可に平成20年度以降の料金の額として載るも、「社会経済情勢、ETCの普及状況、[[社会実験]]の結果等を勘案し、長距離利用者の負担軽減措置の導入など、料金の設定等について改めて検討し、見直しを行う。」とされた<ref>{{PDFlink|[http://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k033.pdf#page=7 都道首都高速1号線等に関する協定 別紙8「料金の額及びその徴収期間」]|73KB}} - 日本高速道路保有・債務返済機構</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.shutoko.co.jp/company/approval/200703/~/media/pdf/corporate/share2011/company/plan/200703/document/21.pdf#page=5 事業許可 別紙-21 「料金の額及びその徴収期間」]|62KB}} - 首都高速道路株式会社</ref>。
[[2006年]](平成18年)[[12月3日]]からは、ETC距離別割引社会実験が実施された。内容は''[[ETC割引制度#都市高速道路の距離別割引社会実験]]''を参照のこと。
[[2007年]](平成19年)[[9月]]、距離別料金の具体案が発表された<ref>{{Cite press release|和書|title=距離別料金に関する懇談会からの提言及び意見募集の開始について|publisher=首都高速道路株式会社|date=2007-09-20|url=http://www.shutoko.co.jp/company/press/h19/data/9/0920/}}</ref>。この案では、多くの利用が単一料金圏内で完結する現状を踏まえ、また長距離利用負担の抑制の観点などから、料金圏を当面存続し、東京線400円-1,200円、神奈川線400円-1,100円、埼玉線300円-550円(いずれも普通車の料金。以下同じ。)とされた。
==== 導入延期 ====
しかし、原油価格の高騰などで厳しい経済局面となり、それを受けて[[2008年]][[8月29日]]に打ち出された「安心実現のための緊急総合対策」<ref>「安心実現のための緊急総合対策」に関する政府・与党会議、経済対策閣僚会議合同会議</ref>で、対距離料金制の導入は延期されることになった<ref>{{PDFlink|[https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2008/080829taisaku.pdf#page=8 安心実現のための緊急総合対策(本文)]|416KB}} - 内閣府</ref>。9月には[[リーマンショック]]が襲い、さらなる対策として打ち出された「生活対策」<ref>平成20年10月30日、新たな経済対策に関する政府・与党会議、経済対策閣僚会議合同会議</ref>により、首都高速と阪神高速においても料金引下げが行われることになった。同年[[12月]]の[[道路特定財源]]の一般財源化についての政府・与党合意では、生活対策による料金引下げ後([[2011年]]度以降)に上限料金を抑えた対距離料金制度を検討することとされた<ref>{{PDFlink|[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/douro/zaigen.pdf#page=2 道路特定財源の一般財源化等について(平成20年12月8日政府・与党合意)]|129KB}} - 首相官邸</ref>。
[[2009年]](平成21年)[[2月24日]]に国土交通大臣同意がなされた高速道路利便増進事業計画では、2011年度から[[2013年]]度までは、東京線600円-800円、神奈川線500円-700円、埼玉線350円-450円、[[2014年]]度から[[2017年]]度までは、東京線500円-900円、神奈川線400円-800円、埼玉線300円-500円という体系が検討にあたっての基本として示されたが<ref>{{PDFlink|[http://www.jehdra.go.jp/pdf/riben/r009.pdf#page=12 首都高速道路株式会社が管理する高速道路に係る高速道路利便増進事業に関する計画 ]|38KB}} - 日本高速道路保有・債務返済機構、2009年2月24日</ref>、後述のように政権交代後の計画変更で大幅に見直しされることになった。
==== 政権交代後の新たな料金案 ====
2009年[[8月30日]]に執行された[[第45回衆議院議員総選挙]]で、[[高速道路無料化|高速道路原則無料化]]を[[マニフェスト]]に掲げる[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が勝利した。しかし、首都高速と阪神高速は無料化の対象外とする旨を選挙前から党幹部が発言しており、[[2010年]]度から実施の無料化社会実験についての発表資料において、首都高速と阪神高速は対象区間の割合を示す分母からも除外されている<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000057575.pdf 平成22年度高速道路無料化社会実験計画(案)]|1.68MB}} - 国土交通省、2010年2月2日</ref>。
[[2010年]](平成22年)[[4月9日]]、民主党政権主導で決められた新たな料金割引案が[[国土交通省]]から発表された<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000112017.pdf 高速道路の再検証結果と新たな料金割引]|891KB}} - 国土交通省、2010年4月9日</ref>。この中で首都高速と阪神高速については、移動を阻害しているとして料金圏を撤廃し、下限500円・上限900円とする対距離料金制案が示され、地方議会での議決を前提に同年末から翌年初めごろを目途に試行導入とされた<ref group="注" name="giketsu">首都高速・阪神高速は[[道路法]]上では[[都道府県道|都府県道]]または[[市町村道|政令市道]]であるので、[[道路整備特別措置法]]第3条の規定により、本来の道路管理者([[首長#日本の地方公共団体の長|地方自治体の長]])の同意が必要となる。また、この同意にはその自治体の議会の議決が必要である。</ref>。しかし、割引財源の一部を道路整備へ転用することから、特にNEXCO・本四高速で実質値上げとなる点が目立ち、利用者のみならず与党内からも強い反発を受け、一旦廃案になった。
2011年(平成23年)[[2月16日]]に発表された「高速道路の当面の新たな料金割引」では、首都高速と阪神高速については、前年の料金圏なし500円 - 900円案に地方からの意見を踏まえた新たなETC割引が盛り込まれ、地方議会での審議期間を考慮して2012年から実施とした(新たなETC割引については当面2013年度までの実施)<ref>{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/common/000135479.pdf#page=4 高速道路の当面の新たな料金割引について]|233KB}} - 国土交通省、2011年2月16日</ref>。2月25日から3月4日まで、機構と[[高速道路株式会社法#設立された会社|6会社]]による利便増進事業計画変更に伴うパブリックコメントが行われた<ref>{{PDFlink|[http://www.jehdra.go.jp/pdf/796.pdf 高速道路の当面の新たな料金割引に関する計画(案)について意見募集を開始します]|2.95MB}} - 日本高速道路保有・債務返済機構、2011年2月25日</ref>。
地方議会の議決は、[[2011年]][[10月21日]]までにすべての関係自治体で得られ<ref>{{Cite news|title=首都高、定額制料金やめます 12年1月から距離制に|newspaper=asahi.com|date=2011-10-21|url=http://www.asahi.com/car/news/TKY201110210520.html|publisher=朝日新聞社}}</ref>、[[10月24日|24日]]に事業許可変更申請がなされた後<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/interview/okudahukudaijin111024.html 奥田副大臣会見要旨(2011年10月24日)] - 国土交通省</ref>、[[11月2日]]に変更許可が下りて2012年1月1日の対距離料金制移行が正式決定された<ref name="kyoripress"/>。
なお、協定および事業許可においては、2005年度の対距離料金基本設計はそのままで、この料金制度は当分の間の「特別の措置」という扱いになっている<ref name="kyotei110613">{{PDFlink|[http://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k202.pdf#page=92 都道首都高速1号線等に関する協定の一部を変更する協定(平成23年6月13日付け)]|903KB}}</ref><ref name="jigyokyoka111102">{{PDFlink|[http://www.shutoko.jp/company/approval/license-attached01/~/media/pdf/corporate/share2011/company/plan/200701/document/h231102j.pdf#page=11 「都道首都高速1号線等に関する事業」別紙-22(平成23年11月2日変更許可)]|501KB}} - 首都高速道路株式会社</ref>。
==== 首都高X ====
ETC車載器のない車に対して、専用通信器と[[電子マネー]][[Edy|Edyカード]]のセットを数千円の保証料で貸し出し、実際に走った料金との差額を払い戻す[[システム]]のコードネーム。2007年[[10月22日]]に通信器の第1号試作機の完成発表が行われ、2008年度の対距離料金制開始に合わせて導入予定とされていた<ref>{{Cite press release|和書|title=ETCを付けなくても距離別料金を適用可能なシステム(「首都高X(エックス)」)の検討を進めています 〜 「首都高X通信器」の第1号試作機が完成 〜|publisher=首都高速道路株式会社|date=2007-10-22|url=http://www.shutoko.co.jp/company/press/h19/data/10/1022-1/}}</ref>。しかし続報はなく、2011年度の対距離料金制導入に当たって、このシステムには全く触れられていない。
; システムの概要
: 通信器の本体は、長さ69[[ミリメートル|mm]]、横幅49mm、高さ13.5mm、質量約65[[グラム|g]]。車の[[シガーソケット]]に差し込んで使用する。
: 利用者は料金所で一旦停止してEdyカードで上限料金を支払うが、通信器が出口[[アンテナ]]と[[通信]]し、入口・出口の[[データ]]を首都高センターに送る。翌日以降に、利用者が再度利用する首都高速の料金所でEdyカードを収受員に手渡しすれば、上限額と通行料金との差額がEdyカード内に払い戻される。首都高速をしばらく使わない場合は、[[コンビニエンスストア]]([[ファミリーマート]]または[[am/pm]])に設置されている[[機械]]にカードをタッチすれば同様に払い戻される。
: 保証金は、通信器を返却すればEdyカード代と通信器使用料を差し引いて電子マネーで返金される。
: 料金所で収受員との電子マネーカードのやり取りが生じるため、ETC無線通行を条件とする割引は適用されない。
== 交通量 ==
交通量は1990年度まで増加傾向にあり、1日平均通行台数が110万台を越えたが、その後は横ばいである。
近年の年度別1日平均通行台数は下表のとおりである。2010年度以前は東京線・神奈川線・埼玉線のそれぞれの通行台数を合算したものであり、乗り継いで通行したものも重複してカウントしていた。距離別料金を採用した2011年度以降は、東京線・神奈川線・埼玉線を乗り継いで通行したものは重複してカウントしていない。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!年度
!東京線!!神奈川線!!埼玉線
!通行台数
|-
|2008年(平成20年)
| 810,002 || 260,002 || 42,673 || 1,114,678
|-
|2009年(平成21年)
| 812,879 || 262,529 || 44,332 || 1,119,739
|-
|2010年(平成22年)
| 809,119 || 260,258 || 44,492 || 1,113,870
|-
|2011年(平成23年)
| || || || 956,459
|-
|2012年(平成24年)
| || || || 949,430
|-
|2013年(平成25年)
| || || || 950,495
|}
近年の月別1日平均通行台数は下表のとおりである。
<div style="height:auto; overflow: auto; text-align: right">
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
!年度!!4月!!5月!!6月!!7月!!8月!!9月!!10月!!11月!!12月!!1月!!2月!!3月
|-
|2012年(平成24年)
| 944,803 || 925,988 || 950,987 || 974,563 || 978,512 || 958,666 || 964,947 || 974,358 || 956,564 || 844,673 || 933,252 || 985,282
|-
|2013年(平成25年)
| 945,173 || 936,806 || 949,400 || 982,561 || 975,280 || 958,045 || 952,328 || 981,555 || 970,676 || 910,501 || 844,007 || 990,337
|-
|2014年(平成26年)
| 932,109 || 922,638 || 936,834 || 963,605 || 952,190 || 956,959 || 946,780 || 950,402 || 949,591 || 888,473 || 929,408 || 995,646
|-
|2015年(平成27年)
| 956,056 || 932,383 || 968,155 || 992,092 || 978,824 || 975,255 || 984,352 || 976,371 || 981,375 || 899,606 || 960,699 || 1,012,622
|-
|2016年(平成28年)
| 960,828 || 937,982 || 979,688 || 995,857 || 984,625 || 994,486 || 992,526 || 996,499 || 1,004,334 || 928,330 || 990,540 || 1,036,147
|-
|2017年(平成29年)
| 993,712 || 969,962 || 1,011,173 || 1,023,895 || 1,017,717 || 1,018,658 || 997,185 || 1,029,955 || 1,025,791 || 885,012 || 988,805 || 1,044,183
|-
|2018年(平成30年)
| 1,010,953 || 992,272 || 1,009,404 || 1,027,520 || 1,025,739 || 1,005,252 || 1,036,541 || 1,045,215 || 1,021,787 || 946,403 || 997,626 || 1,051,928
|-
|2019年(令和元年)
| 1,016,327 || 980,903 || 1,005,207 || 1,027,719 || 1,019,646 || 1,029,890 || 979,022 || 1,033,378 || 1,029,773 || 959,326 || 985,739 || 946,629
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 719,169 || 670,440 || 886,982 || 917,179 || 917,609 || 969,292 || 978,416 || 982,385 || 970,090 || 825,870 || 920,708 || 991,958
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 963,631 || 887,363 || 969,013 || 904,342 || 832,015 || 926,872 || 982,439 || 1,012,032 || 1,020,654 || 876,469 || 897,057 || 1,007,738
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 971,970 || 947,170 || 1,009,305 || 994,823 || 979,811 || 1,003,839 || 1,021,775 || 1,025,559 || 1,027,440 || 944,285 || 1,002,920 || 1,057,521
|}
</div>
== キャラクター ==
* [[Mr.ETC]](2007年[[4月]]入社)ETC推進グループ配属
* [[Mr.ETC|Ms.カレージョETC]](2007年[[12月]]よりETC安全走行キャンペーンを展開)
* ETC2.0くん<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shutoko.jp/ss/etc2portal/ |title=ETC2.0くん PORTAL SITE |access-date=2023-03-13 |publisher=首都高速道路株式会社}}</ref>
== 構想中・計画中路線 ==
{{出典の明記|date=2017年6月|section=1}}
以下の路線は[[地域高規格道路]]([[地域高規格道路一覧#東京圏都市圏自専道|東京圏都市圏自専道]])等の路線に含まれるが、事業者は未定であり、首都高速道路になるとは限らない。また、一部を除き[[都市計画]]決定されておらず、事業化も未定である。''斜体''は仮称である。
===既存路線延伸===
* [[首都高速1号上野線#延伸計画|首都高速1号上野線延伸計画 (II期)]]([[入谷出入口]] - [[本木南町]]付近)
** [[首都高速中央環状線]] (C2) と接続予定
* [[首都高速2号目黒線]]延伸計画([[戸越出入口]] - 川崎市内)
** [[第三京浜道路]]などと接続予定
* [[首都高速10号晴海線#延伸計画|首都高速10号晴海線延伸計画]](''[[築地]]1丁目付近/[[新富町出口|新富町JCT]]'' - ''[[晴海出入口]]'')([[首都高速湾岸線|東雲JCT]] - [[第二東京湾岸道路]])
** [[築地]]1丁目付近と''[[新富町出口|新富町JCT]]''の2ヶ所で[[首都高速都心環状線]] (C1) と接続予定。
** [[首都高速都心環状線]] (C1) の接続予定地点で、[[都心新宿線]]で[[新宿]]方面へ延伸する計画がある。
** 2018年3月に完成した[[晴海出入口]]は本計画路線が実現した場合、廃止・撤去される予定。
** [[首都高速湾岸線|東雲JCT]]より以南へ延伸し、計画中の[[第二東京湾岸道路]]と接続予定
* [[川崎縦貫道路#2期区間|川崎縦貫道路(II期)]]、[[川崎縦貫道路#川崎縦貫道路延伸|川崎縦貫道路延伸]]
** [[東京外かく環状道路|東京外郭環状道路]]の東名高速道路以南の区間との一本化を一つの案として検討することとしている。
===地域高規格道路候補路線===
====東京都====
* [[都心新宿線]](''[[新富町出口|新富町JCT]]'' - [[首都高速中央環状線]] (C2) [[新宿]]付近)
** [[首都高速中央環状線]](C2)[[新宿]]付近での接続地点より、以西へ[[多摩新宿線]]で[[三多摩|北多摩]]方面へ延伸する計画がある。
* [[多摩新宿線]]([[首都高速中央環状線]] (C2) [[新宿]]付近 - [[三多摩|北多摩]]方面)
** [[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]と接続予定
* [[高速練馬線]]
** 当初は[[関越自動車道]]から[[首都高速中央環状線|首都高速中央環状新宿線]] (C2) に接続し、計画中の[[内環状線 (東京都)|高速内環状線]]に接続予定だったが、その後、中央環状線より西側の区間のみの計画に変更。
* [[高速北千葉線]]([[首都高速中央環状線]](C2)[[四つ木出入口|四つ木]]付近 - [[北千葉道路]])
** [[首都高速中央環状線]]から[[北千葉道路]]への連絡路。
** なお、[[首都高速11号台場線]]は都市計画法上(都市計画道路)「12号線」であり、[[高速北千葉線]]が「11号線」である。
* [[第二東京湾岸道路]]
** ルートは[[首都高速湾岸線|高速湾岸線]]のさらに海側である。
* [[内環状線 (東京都)|高速内環状線]]
====神奈川県====
* [[横浜環状道路|横浜環状道路(西側区間)]]([[横浜環状南線|戸塚IC]] - ''港北IC/横浜港北JCT'')
* [[高速磯子線|首都高速神奈川4号磯子線]]([[阪東橋出入口|阪東橋JCT(仮)]]- [[首都高速湾岸線]]磯子区磯子1丁目付近)
* [[高速扇島線]]
** ルートは[[首都高速神奈川6号川崎線|都市計画道路川崎縦貫線]] (I期) とほぼ同じである。
== 備考 ==
首都高速道路は[[都市高速道路]]であり、都市間高速道路([[東日本高速道路]]・[[中日本高速道路]]・[[西日本高速道路]]管理の[[高速自動車国道]])とは道路の性格が違うため、設計速度・[[最高速度]]は、湾岸線や埼玉県内などの一部路線・区間を除き、多くの区間で60 km/h以下となっている。都市間高速道路に比べると急[[線形 (路線)|カーブ]]が多く、多くが市街地に建設されていることから[[騒音]]への配慮も必要なためである。
また[[オートバイの二人乗り]]も、事故防止の観点から、都心環状線を中心に一部区間で乗り入れ不可となっている。
地上の[[一般道路]]を拡幅し、その上空又は[[地下]]や[[運河]]などの公共用地を最大限利用し、大部分が既成市街地の制約の下で計画・設計・建設されているため、必然的に道路の幾何構造(曲線半径や[[線形 (路線)#勾配|勾配]]など)が道路構造令で定められる限界値となっている箇所や、出入口やJCTの分合流が、左右両側の[[車線]]に行われる箇所がある。そのため、短区間で交通が合流したのち分岐する「織込み」が発生する箇所があったり、道路標識が複雑であったりすることがある<ref>{{Cite web|和書|date=2017-06-24 |url=https://trafficnews.jp/post/74126 |title=首都高本線で信号待ち? いまや幻、江戸橋JCTの信号機 設置の経緯と撤去できたワケ |publisher=[[乗りものニュース]] |accessdate=2020-08-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-10 |url=https://trafficnews.jp/post/98951?utm_source=onesignal&utm_medium=rss&utm_campaign=webpush&utm_term=98951 |title=首都高「初見殺しの合流」5選 短すぎる加速車線 右合流 一時停止も |publisher=乗りものニュース |accessdate=2020-08-10}}</ref>。
首都高速道路(特に[[トンネル]])で事故が発生した場合、ラジオ(AM・FM)のスイッチを入れたまま走行していると、チューナーを1620 [[キロヘルツ|kHz]]に合わせなくても、強制的に[[放送]]に割り込み、事故が発生した場所や種類(単独・衝突・追突など)、それに伴う速度規制、車線規制、渋滞などの情報を運転者に知らせる仕組みになっている。
都市間高速道路と異なり、開通当初はジャンクションを「インターチェンジ」と呼んでいたが、1990年代に都市間高速と同じ「ジャンクション」に改名している。
== 関連企業 ==
* [[首都高速道路サービス]]株式会社(首都高速道路管内の[[パーキングエリア]]を管理する企業)
* 首都高トールサービス西東京株式会社(首都高速道路管内の料金収受業務を行う企業)
* 首都高トールサービス東東京株式会社(首都高速道路管内の料金収受業務を行う企業)
* 首都高トールサービス神奈川株式会社<ref>[http://www.shutoko-tsk.co.jp/ 首都高トールサービス神奈川株式会社]</ref>(首都高速道路管内の料金収受業務を行う企業)
* [[首都高パトロール]]株式会社(首都高速道路管内の交通管理業務を行う企業)
* [[首都高技術]]株式会社(首都高速道路管内の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高メンテナンス西東京株式会社(東京線西部・埼玉線の首都高速道路管内の土木設備の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高メンテナンス東東京株式会社(東京線東部の首都高速道路管内の土木設備の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高メンテナンス神奈川株式会社(神奈川線の首都高速道路管内の土木設備の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高電気メンテナンス株式会社(首都高速道路管内の電気設備の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高ETCメンテナンス株式会社(首都高速道路管内の料金所設備の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高機械メンテナンス株式会社(首都高速道路管内の機械設備の維持修繕業務を行う企業)
* 首都高速保険サポート株式会社 (車の保険や生命保険を取り扱う企業)
== 発行物 ==
1964年[[8月1日]]、首都高速道路開通記念の額面10円の[[記念切手]]が発行された。
== 首都高速道路を舞台とした作品 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年4月}}
{{See also|[[:Category:首都高速道路を舞台とした作品]]}}
* [[惑星ソラリス]] - 1972年公開の[[ソ連]][[映画]]。未来都市の風景として、1970年に首都高4号線を走行して撮影した映像が使われている。
* [[セブンスドラゴン2020]]
* [[ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT]]
* [[首都高バトルシリーズ]]
* [[湾岸ミッドナイト]]
* [[SS (漫画)|SS]]
* [[首都高速トライアル]]
* [[レーシングラグーン]]
* [[よろしくメカドック]]
* [[バトルギア4]]
* [[レーシングバトル -C1 GRAND PRIX-]]
* 首都高SPL
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="ロム・インターナショナル2005">{{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|page=56}}</ref>
}}
<!--
== 参考文献 ==
-->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Metropolitan Expressway (Tokyo)}}
* [[Mr.ETC]]
* [[東京スマートドライバー]]
* [[日本の高速道路]]
* [[地域高規格道路]]
* [[自動車専用道路]]
* [[都市高速道路]]
* [[日本高速道路保有・債務返済機構]]
* [[阪神高速道路]]
* [[東京高速道路]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shutoko.jp/ 首都高ドライバーズサイト] - 道路情報公式サイト
* [https://www.shutoko.co.jp/ 首都高速道路株式会社] - 企業公式サイト
=== 関係法令 ===
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=327AC1000000180 道路法]
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=327CO0000000479 道路法施行令]
* [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=345CO0000000320 道路構造令]
{{首都高速道路}}
{{日本の高速道路}}
{{特殊法人}}
{{デフォルトソート:しゆとこうそくとうろ}}
[[Category:首都高速道路|* しゆとこうそくとうろ]]
[[Category:日本の高速道路|* にほんのこうそくとうろ]]
[[Category:地域高規格道路]]
[[Category:特殊会社]]
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[[Category:千代田区の企業]]
[[Category:有料道路事業者]]
[[Category:特殊法人]]
[[Category:霞が関]]
[[Category:登録商標]]
|
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|
2023-12-05T01:25:29Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF
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14,365 |
豊臣氏
|
豊臣氏(とよとみうじ、とよとみし、旧字体: 豐臣氏)は、日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。
天正13年(1585年)に正親町天皇から羽柴秀吉に下賜され、これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた藤原の氏を豊臣に改めた。この氏は豊臣政権における大名統制の手段として用いられ、有力大名の官位叙任では家伝の姓は無視され基本的に豊臣氏が用いられた。
秀吉は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると平氏を称した。これは主君・織田信長を模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の天正11年(1583年)の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の天正13年(1585年)の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記されている。
その後、天正13年(1585年)7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、氏を平から藤原に改める。
そして翌天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。秀吉が自らの右筆である大村由己に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから源平藤橘にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。
改姓の厳密な時期については明確でない。局務押小路家に伝来した『押小路家文書』には「請う、藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の上奏文と、これに応えた天正13年(1585年)9月9日付の改姓を許可する宣旨が残されている。一方『公卿補任』では、天正14年(1586年)の項に、秀吉について「藤秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓を改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば、改姓は天正14年(1586年)になってから行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年(1587年)からである。実は、秀吉の官位叙任については、天正10年(1582年)10月3日の任左近衛少将、天正11年(1583年)5月22日の任参議など、そのことを示す文書は残っているものの、あとから日付を仮構して偽作したとされているものが少なくない。当時の秀吉にとっては日付を操作して文書を偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても、天皇に日付をさかのぼった文書の発給を求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書』の上奏文と宣旨も同様の性質のものとみなされている(『大日本史料』第11編之20 天正13年9月9日条など)。実際に秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、天正14年(1586年)12月19日の太政大臣任官を契機としているものとみるのが通説である。
藤原氏に代わる新たな摂関家の氏として創始された豊臣姓は、この政権における官位叙任ではまさしく特権的に扱われた。秀吉は機会あるごとに、家臣だけでなく陪臣にまで広範囲に豊臣の氏を与えていった。豊臣政権下における官位叙任は秀吉の意志がすべてである。秀吉から口頭で官位叙任を告げられれば、その場ですぐにその官位を正式に名乗ることもできた。秀吉が戦争のために京都を離れている時期に、そのような例がしきりに見られる。朝廷は単にそれを追認して事後に宣旨・口宣案などの官位叙任文書を作成するにすぎなかったが、その文書には、本人の本姓が源氏であろうと藤原氏であろうと、一律にすべて「豊臣朝臣某」という名が記載されることになっていたのである。豊臣氏はこうして膨大な数の構成員を獲得していくことになった。
しばしば誤解されるが、秀吉は「羽柴」という苗字を「豊臣」に改めたのではない。これは現代人が氏と苗字を区別する習慣を失い、両者を混同することからくる錯誤である。当時は氏と苗字を併用する習慣があり、そのなかで豊臣氏と羽柴姓は並行して存在、使用された。そもそも「羽柴」は単なる私的な名乗りである名字(苗字)に過ぎないが、「豊臣」は天皇が創始し朝廷の手続きを踏んで公式に下賜された氏である。氏と苗字は厳密に異なる存在であり互換不能であり、交換できない。秀吉が「豊臣」に改めたのはあくまで関白叙任の際に得ていた「藤原」の氏であり、苗字は改姓の記録が見当たらず従って羽柴姓のままであったと考えられる。つまり秀吉は藤原秀吉から豊臣秀吉となると同時に、従前通り羽柴秀吉でもあり続けたと思われる。このことは江戸時代に至るも豊臣氏の子孫が、豊臣の氏と並行して羽柴姓の旧姓である「木下」を用い続けていることからも推測される(秀吉の血縁者は大阪の陣以降、徳川氏をはばかり秀吉の旧姓である木下姓を使用した)。しかしながらこの錯誤は一般に広く浸透しており、たとえば国民的歴史作家とされる司馬遼太郎も著書『豊臣家の人々』のなかで「羽柴の姓を豊臣に改め」などと記述している。
豊臣氏の拡大は、秀吉が個人的な権力により官位叙任権を独占し、同時に官位叙任文書の内容を意のままに改変できたことに基づくものであり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると当然その拡大は停止し逆に縮小に向かった。徳川家康とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年(1603年)には家康が「新田」・「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として征夷大将軍となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前の秀吉のように官位叙任権を排他的に独占するにはいたっていない。秀吉の後継者で羽柴宗家の当主である秀頼は、大坂城によりながら、自らの直属家臣に対する官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名が羽柴の名字や豊臣の氏を使用するかしないかは、基本的に本人の判断にゆだねられたままであった。
たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同慶長8年(1603年)山内一豊が従四位下に叙せられ、土佐守に任じられているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正は関ヶ原の戦いの恩賞として肥後一国を一円領有するに当たり、主計頭から肥後守へ改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。いわゆる“豊臣恩顧”の大名の代表格でもあり、秀吉の親戚である清正は別として、輝政は家康の女婿であり、一豊は「小山評定」の逸話で著名な親徳川派であるが、この件では特に家康への遠慮のようなものは見いだせない。
その後も、池田輝政の長男輝直(後の利隆)、加藤清正の次男清孝(忠正)、福島正則の次男忠清(後の忠勝)など、豊臣氏の再生産は続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍徳川秀忠の偏諱を与えられており、明らかに江戸幕府を通じての官位叙任であるにもかかわらず、幕府は豊臣の氏の使用を阻止できないでいる。秀頼がなお健在であるという前提があるとはいえ、秀吉が達成した既成事実は大きく重いものとして幕府にのしかかっていた。
慶長20年(1615年)7月に大坂の陣で大坂城の羽柴宗家(豊臣家)が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたものらしい。
ただし、秀吉の正妻高台院の兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『寛政重修諸家譜』には、豊臣を本姓とする大名家として、備中足守25,000石の木下家と豊後日出25,000石の木下家の2軒、同じく旗本として、足守木下家の分家1軒と日出木下家の分家2軒を掲載する。このうち木下利次は、高台院の養子となり、豊臣氏(羽柴家)の祭祀を継承することが許されている。
また、朝廷の地下官人のうち、かつての滝口武者を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、明和5年(1768年)に木下秀峯が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、安永7年(1778年)に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して幕末に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ介まで)となるのを極官とした。極位は正六位下であった。さらに、「滝口豊臣秀時(秀峯の子)」の子に佐野秀孝(極位極官は文政8年(1826年)12月19日時点で正六位下・雅楽少允)が、秀孝の子には佐野秀富(極位極官は弘化3年(1846年)4月18日時点で正六位下・雅楽少允)がいた。
加えて、『地下家伝』によれば、山本正綱は内蔵寮官人・豊臣信易と長井宗信女との間に生まれた子であり、氏は豊臣・大江であったとされる。正綱は、延宝7年(1679年)9月20日に生まれ、寛保3年(1744年)に辞官する際には従六位下・修理大属であった。先祖については、「家記依焼失先祖年序不相知候」とあり、家記が火災によって燃えたために不明であったという。正綱の子孫は利房-正興-正芳-正安と続き、正安は垣内氏と改姓した上で正武-匡雄-匡幸-匡久-匡盛と続いた(参考 : 地下家の一覧)。
その後、明治時代に「氏」制度が廃止されるまで、新たな氏は創設されることはなかった。華族の宗族制では、足守・日出の両木下家が「豊臣朝臣・肥後守俊定裔」として第75類に分類されている。豊臣朝臣は皇別・神別・外別のいずれのカテゴリーにも含まれておらず、同様の扱いを受けたのは琉球国王であった尚家だけであった。
すでに平安時代には解体し形骸化していた氏であるが、藤氏長者・源氏長者などの役職、氏爵などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで氏長者を設置している。「豊氏長者」(ほうしのちょうじゃ)である。天正19年(1591年)12月、秀吉が養子羽柴秀次に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『足守木下家文書』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者に補任する内容を持つ宣旨が含まれている。秀吉の関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、秀吉も豊氏長者の地位にあったものと考えられる。
なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、近衛家に対して、将来的には前久の子息信輔に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのである。そのことを誇示するように、秀吉は豊臣に改姓したあとの天正16年(1588年)1月に、藤原氏の氏神春日社の最高責任者の一人である正預職の任命権を行使している。また、同天正16年(1588年)12月には、藤原氏の始祖藤原鎌足を祀る多武峯寺に、弟羽柴秀長の居城のある郡山への遷宮を命じ、実行に移している。このとき用いられた命令文書は、本来は藤原氏の大学別曹である勧学院の別当(弁官が務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者の意志を奉じて発給する奉書である長者宣(藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、藤原北家勧修寺流に属する右中弁中御門資胤であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者に補する宣旨のほか、藤氏長者を意味する「氏長者」に補す旨の宣旨が別途作成されている。
村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」の「豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の豊臣秀吉・豊臣吉子(高台院)・豊臣秀頼の3名は村川作成の表には含まれていない。また、豊臣姓を名乗ったとされることが多い佐竹義宣・里見義康・鳥居忠政・山口正弘については、村川は信憑性が低いとして表から除いている。
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"text": "豊臣氏(とよとみうじ、とよとみし、旧字体: 豐臣氏)は、日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。",
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"text": "天正13年(1585年)に正親町天皇から羽柴秀吉に下賜され、これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた藤原の氏を豊臣に改めた。この氏は豊臣政権における大名統制の手段として用いられ、有力大名の官位叙任では家伝の姓は無視され基本的に豊臣氏が用いられた。",
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"text": "秀吉は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると平氏を称した。これは主君・織田信長を模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の天正11年(1583年)の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の天正13年(1585年)の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記されている。",
"title": "豊臣氏の誕生"
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"text": "その後、天正13年(1585年)7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、氏を平から藤原に改める。",
"title": "豊臣氏の誕生"
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"text": "そして翌天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。秀吉が自らの右筆である大村由己に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから源平藤橘にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。",
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"text": "改姓の厳密な時期については明確でない。局務押小路家に伝来した『押小路家文書』には「請う、藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の上奏文と、これに応えた天正13年(1585年)9月9日付の改姓を許可する宣旨が残されている。一方『公卿補任』では、天正14年(1586年)の項に、秀吉について「藤秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓を改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば、改姓は天正14年(1586年)になってから行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年(1587年)からである。実は、秀吉の官位叙任については、天正10年(1582年)10月3日の任左近衛少将、天正11年(1583年)5月22日の任参議など、そのことを示す文書は残っているものの、あとから日付を仮構して偽作したとされているものが少なくない。当時の秀吉にとっては日付を操作して文書を偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても、天皇に日付をさかのぼった文書の発給を求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書』の上奏文と宣旨も同様の性質のものとみなされている(『大日本史料』第11編之20 天正13年9月9日条など)。実際に秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、天正14年(1586年)12月19日の太政大臣任官を契機としているものとみるのが通説である。",
"title": "豊臣氏の誕生"
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"text": "藤原氏に代わる新たな摂関家の氏として創始された豊臣姓は、この政権における官位叙任ではまさしく特権的に扱われた。秀吉は機会あるごとに、家臣だけでなく陪臣にまで広範囲に豊臣の氏を与えていった。豊臣政権下における官位叙任は秀吉の意志がすべてである。秀吉から口頭で官位叙任を告げられれば、その場ですぐにその官位を正式に名乗ることもできた。秀吉が戦争のために京都を離れている時期に、そのような例がしきりに見られる。朝廷は単にそれを追認して事後に宣旨・口宣案などの官位叙任文書を作成するにすぎなかったが、その文書には、本人の本姓が源氏であろうと藤原氏であろうと、一律にすべて「豊臣朝臣某」という名が記載されることになっていたのである。豊臣氏はこうして膨大な数の構成員を獲得していくことになった。",
"title": "豊臣姓の特権的地位"
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"text": "しばしば誤解されるが、秀吉は「羽柴」という苗字を「豊臣」に改めたのではない。これは現代人が氏と苗字を区別する習慣を失い、両者を混同することからくる錯誤である。当時は氏と苗字を併用する習慣があり、そのなかで豊臣氏と羽柴姓は並行して存在、使用された。そもそも「羽柴」は単なる私的な名乗りである名字(苗字)に過ぎないが、「豊臣」は天皇が創始し朝廷の手続きを踏んで公式に下賜された氏である。氏と苗字は厳密に異なる存在であり互換不能であり、交換できない。秀吉が「豊臣」に改めたのはあくまで関白叙任の際に得ていた「藤原」の氏であり、苗字は改姓の記録が見当たらず従って羽柴姓のままであったと考えられる。つまり秀吉は藤原秀吉から豊臣秀吉となると同時に、従前通り羽柴秀吉でもあり続けたと思われる。このことは江戸時代に至るも豊臣氏の子孫が、豊臣の氏と並行して羽柴姓の旧姓である「木下」を用い続けていることからも推測される(秀吉の血縁者は大阪の陣以降、徳川氏をはばかり秀吉の旧姓である木下姓を使用した)。しかしながらこの錯誤は一般に広く浸透しており、たとえば国民的歴史作家とされる司馬遼太郎も著書『豊臣家の人々』のなかで「羽柴の姓を豊臣に改め」などと記述している。",
"title": "改姓における豊臣氏と羽柴姓への誤解"
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"text": "豊臣氏の拡大は、秀吉が個人的な権力により官位叙任権を独占し、同時に官位叙任文書の内容を意のままに改変できたことに基づくものであり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると当然その拡大は停止し逆に縮小に向かった。徳川家康とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年(1603年)には家康が「新田」・「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として征夷大将軍となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前の秀吉のように官位叙任権を排他的に独占するにはいたっていない。秀吉の後継者で羽柴宗家の当主である秀頼は、大坂城によりながら、自らの直属家臣に対する官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名が羽柴の名字や豊臣の氏を使用するかしないかは、基本的に本人の判断にゆだねられたままであった。",
"title": "秀吉死後の豊臣氏"
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"text": "たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同慶長8年(1603年)山内一豊が従四位下に叙せられ、土佐守に任じられているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正は関ヶ原の戦いの恩賞として肥後一国を一円領有するに当たり、主計頭から肥後守へ改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。いわゆる“豊臣恩顧”の大名の代表格でもあり、秀吉の親戚である清正は別として、輝政は家康の女婿であり、一豊は「小山評定」の逸話で著名な親徳川派であるが、この件では特に家康への遠慮のようなものは見いだせない。",
"title": "秀吉死後の豊臣氏"
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"text": "その後も、池田輝政の長男輝直(後の利隆)、加藤清正の次男清孝(忠正)、福島正則の次男忠清(後の忠勝)など、豊臣氏の再生産は続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍徳川秀忠の偏諱を与えられており、明らかに江戸幕府を通じての官位叙任であるにもかかわらず、幕府は豊臣の氏の使用を阻止できないでいる。秀頼がなお健在であるという前提があるとはいえ、秀吉が達成した既成事実は大きく重いものとして幕府にのしかかっていた。",
"title": "秀吉死後の豊臣氏"
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"text": "慶長20年(1615年)7月に大坂の陣で大坂城の羽柴宗家(豊臣家)が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたものらしい。",
"title": "江戸時代の豊臣氏"
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"text": "ただし、秀吉の正妻高台院の兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『寛政重修諸家譜』には、豊臣を本姓とする大名家として、備中足守25,000石の木下家と豊後日出25,000石の木下家の2軒、同じく旗本として、足守木下家の分家1軒と日出木下家の分家2軒を掲載する。このうち木下利次は、高台院の養子となり、豊臣氏(羽柴家)の祭祀を継承することが許されている。",
"title": "江戸時代の豊臣氏"
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"text": "また、朝廷の地下官人のうち、かつての滝口武者を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、明和5年(1768年)に木下秀峯が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、安永7年(1778年)に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して幕末に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ介まで)となるのを極官とした。極位は正六位下であった。さらに、「滝口豊臣秀時(秀峯の子)」の子に佐野秀孝(極位極官は文政8年(1826年)12月19日時点で正六位下・雅楽少允)が、秀孝の子には佐野秀富(極位極官は弘化3年(1846年)4月18日時点で正六位下・雅楽少允)がいた。",
"title": "江戸時代の豊臣氏"
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"text": "加えて、『地下家伝』によれば、山本正綱は内蔵寮官人・豊臣信易と長井宗信女との間に生まれた子であり、氏は豊臣・大江であったとされる。正綱は、延宝7年(1679年)9月20日に生まれ、寛保3年(1744年)に辞官する際には従六位下・修理大属であった。先祖については、「家記依焼失先祖年序不相知候」とあり、家記が火災によって燃えたために不明であったという。正綱の子孫は利房-正興-正芳-正安と続き、正安は垣内氏と改姓した上で正武-匡雄-匡幸-匡久-匡盛と続いた(参考 : 地下家の一覧)。",
"title": "江戸時代の豊臣氏"
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"text": "その後、明治時代に「氏」制度が廃止されるまで、新たな氏は創設されることはなかった。華族の宗族制では、足守・日出の両木下家が「豊臣朝臣・肥後守俊定裔」として第75類に分類されている。豊臣朝臣は皇別・神別・外別のいずれのカテゴリーにも含まれておらず、同様の扱いを受けたのは琉球国王であった尚家だけであった。",
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"text": "すでに平安時代には解体し形骸化していた氏であるが、藤氏長者・源氏長者などの役職、氏爵などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで氏長者を設置している。「豊氏長者」(ほうしのちょうじゃ)である。天正19年(1591年)12月、秀吉が養子羽柴秀次に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『足守木下家文書』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者に補任する内容を持つ宣旨が含まれている。秀吉の関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、秀吉も豊氏長者の地位にあったものと考えられる。",
"title": "豊臣氏の組織"
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"text": "なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、近衛家に対して、将来的には前久の子息信輔に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのである。そのことを誇示するように、秀吉は豊臣に改姓したあとの天正16年(1588年)1月に、藤原氏の氏神春日社の最高責任者の一人である正預職の任命権を行使している。また、同天正16年(1588年)12月には、藤原氏の始祖藤原鎌足を祀る多武峯寺に、弟羽柴秀長の居城のある郡山への遷宮を命じ、実行に移している。このとき用いられた命令文書は、本来は藤原氏の大学別曹である勧学院の別当(弁官が務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者の意志を奉じて発給する奉書である長者宣(藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、藤原北家勧修寺流に属する右中弁中御門資胤であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者に補する宣旨のほか、藤氏長者を意味する「氏長者」に補す旨の宣旨が別途作成されている。",
"title": "豊臣氏の組織"
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"text": "村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」の「豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の豊臣秀吉・豊臣吉子(高台院)・豊臣秀頼の3名は村川作成の表には含まれていない。また、豊臣姓を名乗ったとされることが多い佐竹義宣・里見義康・鳥居忠政・山口正弘については、村川は信憑性が低いとして表から除いている。",
"title": "豊臣姓を称した者のリスト(暫定)"
}
] |
豊臣氏は、日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。 天正13年(1585年)に正親町天皇から羽柴秀吉に下賜され、これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた藤原の氏を豊臣に改めた。この氏は豊臣政権における大名統制の手段として用いられ、有力大名の官位叙任では家伝の姓は無視され基本的に豊臣氏が用いられた。
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{{参照方法|date=2009年12月}}
<!--現在の記事は全体として個々の記述の出典が不明な状態です。出典の明記にご協力ください。-->
{{日本の氏族 (古代氏族)
|氏名 = 豊臣氏
|画像 = [[ファイル:Taiko Giri (inverse).svg|120px]]<br/>「太閤桐」<br/>(豊臣秀吉定紋)<br/>[[ファイル:Goshichi no kiri inverted.svg|120px]]<br/>五七の桐
|氏姓 = 豊臣[[朝臣]]
|出自 = '''称'''・[[藤原氏]]
|氏祖 = [[豊臣秀吉]]
|人物 = [[豊臣秀吉]]<br/>[[豊臣秀長]]<br/>[[豊臣秀次]]<br/>[[豊臣秀頼]]
|後裔 = [[羽柴氏]]([[武家]]・[[公家]])<br>[[木下氏]]([[武家]] → [[華族]])
}}
'''豊臣氏'''(とよとみうじ、とよとみし、{{旧字体|'''豐臣氏'''}})は、[[日本]]の[[氏#古代氏族としての「氏」|氏族]]のひとつ。姓([[カバネ]])は'''[[朝臣]]'''。
[[天正]]13年([[1585年]])に[[正親町天皇]]から[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に下賜され、これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた藤原の氏を豊臣に改めた。この氏は豊臣政権における大名統制の手段として用いられ、有力大名の官位叙任では家伝の姓は無視され基本的に豊臣氏が用いられた。
== 豊臣氏の誕生 ==
[[豊臣秀吉|秀吉]]は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると[[平氏]]を称した。これは主君・[[織田信長]]を模倣したものと考えられており、たとえば『[[公卿補任]]』の[[天正]]11年([[1583年]])の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の天正13年([[1585年]])の「正二位[[内大臣]]」まで、その氏名は一貫して「'''平'''秀吉」と記されている。
その後、天正13年([[1585年]])7月、[[関白]]叙任に際し前関白[[近衛前久]]の[[猶子]]となり、氏を平から'''[[藤原氏|藤原]]'''に改める。
そして翌天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。秀吉が自らの[[右筆]]である[[大村由己]]に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから[[源氏|源]][[平氏|平]][[藤原氏|藤]][[橘氏|橘]]にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。
改姓の厳密な時期については明確でない。[[局務]][[押小路家 (中原氏)|押小路家]]に伝来した『押小路家文書』には「請う、藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の[[上奏]]文と、これに応えた天正13年(1585年)9月9日付の改姓を許可する[[宣旨]]が残されている。一方『公卿補任』では、天正14年([[1586年]])の項に、秀吉について「藤秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓を改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば、改姓は天正14年(1586年)になってから行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年([[1587年]])からである。実は、秀吉の官位叙任については、天正10年([[1582年]])10月3日の任左近衛少将、天正11年([[1583年]])5月22日の任参議など、そのことを示す文書は残っているものの、あとから日付を仮構して偽作したとされているものが少なくない。当時の秀吉にとっては日付を操作して文書を偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても、天皇に日付をさかのぼった文書の発給を求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書』の上奏文と[[宣旨]]も同様の性質のものとみなされている。実際に秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、天正14年([[1586年]])12月19日の[[太政大臣]][[任官]]を契機としているものとみるのが通説である<ref>『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』{{要ページ番号|date=2017年7月}}など</ref>。
== 豊臣姓の特権的地位 ==
藤原氏に代わる新たな摂関家の氏として創始された豊臣姓は、この政権における官位叙任ではまさしく特権的に扱われた。秀吉は機会あるごとに、家臣だけでなく[[陪臣]]にまで広範囲に豊臣の氏を与えていった。豊臣政権下における官位叙任は秀吉の意志がすべてである。秀吉から口頭で官位叙任を告げられれば、その場ですぐにその官位を正式に名乗ることもできた。秀吉が戦争のために京都を離れている時期に、そのような例がしきりに見られる。[[朝廷 (日本)|朝廷]]は単にそれを追認して事後に[[宣旨]]・[[口宣案]]などの官位叙任文書を作成するにすぎなかったが、その文書には、本人の本姓が源氏であろうと藤原氏であろうと、一律にすべて「豊臣朝臣某」という名が記載されることになっていたのである。豊臣氏はこうして膨大な数の構成員を獲得していくことになった。
== 改姓における豊臣氏と羽柴姓への誤解 ==
しばしば誤解されるが、秀吉は「[[羽柴氏|羽柴]]」という苗字を「豊臣」に改めたのではない。これは現代人が氏と苗字を区別する習慣を失い、両者を混同することからくる錯誤である。当時は氏と苗字を併用する習慣があり、そのなかで豊臣氏と羽柴姓は並行して存在、使用された。そもそも「羽柴」は単なる私的な名乗りである[[名字]](苗字)に過ぎないが、「豊臣」は天皇が創始し朝廷の手続きを踏んで公式に下賜された氏である。氏と苗字は厳密に異なる存在であり互換不能であり、交換できない。秀吉が「豊臣」に改めたのはあくまで関白叙任の際に得ていた「藤原」の氏であり、苗字は改姓の記録が見当たらず従って羽柴姓のままであったと考えられる<ref>{{Cite book|和書|author=岡野友彦|title=源氏と日本国王|series=講談社現代新書|year=2003|page=28}}</ref>。つまり秀吉は藤原秀吉から豊臣秀吉となると同時に、従前通り羽柴秀吉でもあり続けたと思われる。このことは江戸時代に至るも豊臣氏の子孫が、豊臣の氏と並行して羽柴姓の旧姓である「木下」を用い続けていることからも推測される(秀吉の血縁者は大阪の陣以降、徳川氏をはばかり秀吉の旧姓である木下姓を使用した)。しかしながらこの錯誤は一般に広く浸透しており、たとえば国民的歴史作家とされる[[司馬遼太郎]]も著書『豊臣家の人々』のなかで「羽柴の姓を豊臣に改め」などと記述している。
== 秀吉死後の豊臣氏 ==
豊臣氏の拡大は、秀吉が個人的な権力により官位叙任権を独占し、同時に官位叙任文書の内容を意のままに改変できたことに基づくものであり、[[慶長]]3年([[1598年]])に秀吉が死去すると当然その拡大は停止し逆に縮小に向かった。[[徳川家康]]とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年([[1603年]])には家康が「新田」・「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として[[征夷大将軍]]となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前の秀吉のように官位叙任権を排他的に独占するにはいたっていない。秀吉の後継者で羽柴宗家の当主である[[豊臣秀頼|秀頼]]は、大坂城によりながら、自らの直属家臣に対する官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名が羽柴の名字や豊臣の氏を使用するかしないかは、基本的に本人の判断にゆだねられたままであった。
たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年([[1603年]])、[[池田輝政]]が[[近衛府|右近衛権少将]]に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同慶長8年(1603年)[[山内一豊]]が[[従四位|従四位下]]に叙せられ、土佐守に任じられているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年(1603年)のこと、[[加藤清正]]は[[関ヶ原の戦い]]の恩賞として[[肥後国|肥後]]一国を一円領有するに当たり、主計頭から肥後守へ改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。いわゆる“豊臣恩顧”の大名の代表格でもあり、秀吉の親戚である清正は別として、輝政は家康の女婿であり、一豊は「小山評定」の逸話で著名な親徳川派であるが、この件では特に家康への遠慮のようなものは見いだせない。
その後も、池田輝政の長男輝直(後の[[池田利隆|利隆]])、加藤清正の次男清孝([[加藤忠正|忠正]])、[[福島正則]]の次男忠清(後の[[福島忠勝|忠勝]])など、豊臣氏の再生産は続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍[[徳川秀忠]]の[[偏諱]]を与えられており、明らかに江戸幕府を通じての官位叙任であるにもかかわらず、幕府は豊臣の氏の使用を阻止できないでいる。秀頼がなお健在であるという前提があるとはいえ、秀吉が達成した既成事実は大きく重いものとして幕府にのしかかっていた。
== 江戸時代の豊臣氏 ==
[[慶長]]20年([[1615年]])7月に[[大坂の陣]]で大坂城の羽柴宗家(豊臣家)が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたものらしい。
ただし、秀吉の正妻[[高台院]]の兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『[[寛政重修諸家譜]]』には、豊臣を本姓とする[[大名]]家として、備中[[足守藩|足守]]25,000石の木下家と豊後[[日出藩|日出]]25,000石の木下家の2軒、同じく[[旗本]]として、足守木下家の分家1軒と日出木下家の分家2軒を掲載する。このうち[[木下利次]]は、高台院の養子となり、豊臣氏(羽柴家)の[[祭祀]]を継承することが許されている<ref>{{Cite journal|和書|author=池田洋子|title=名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート|url=https://web.archive.org/web/20220118041512/http://www.nzu.ac.jp/lib/journal/files/2012/4.pdf|format=PDF|journal=名古屋造形大学紀要|issue=18|year=2012}}</ref>。
また、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の[[地下人|地下官人]]のうち、かつての[[滝口武者]]を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、[[明和]]5年([[1768年]])に[[木下秀峯]]が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、[[安永]]7年([[1778年]])に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して[[幕末]]に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ[[介]]まで)となるのを[[極位極官|極官]]とした。[[極位極官|極位]]は[[正六位下]]であった。さらに、「滝口豊臣秀時(秀峯の子)」の子に[[佐野秀孝]]([[極位極官]]は[[文政]]8年([[1826年]])12月19日時点で[[正六位下]]・雅楽少允)が、秀孝の子には[[佐野秀富]]([[極位極官]]は[[弘化]]3年([[1846年]])4月18日時点で[[正六位下]]・雅楽少允)がいた。
加えて、『[[地下家伝]]』によれば、[[山本正綱]]は内蔵寮官人・'''[[豊臣信易]]'''と[[長井宗信]]女との間に生まれた子であり、氏は豊臣・[[大江氏|大江]]であったとされる。正綱は、[[延宝]]7年([[1679年]])9月20日に生まれ、[[寛保]]3年([[1744年]])に辞官する際には[[従六位下]]・修理大属であった。先祖については、「家記依焼失先祖年序不相知候」とあり、家記が火災によって燃えたために不明であったという。正綱の子孫は利房-正興-正芳-正安と続き、正安は[[垣内氏]]と改姓した上で正武-匡雄-匡幸-匡久-匡盛と続いた(参考 : [[地下家の一覧]])。
その後、[[明治]]時代に[[氏姓制度|「氏」制度]]が廃止されるまで、新たな氏は創設されることはなかった。[[華族]]の[[宗族制 (華族)|宗族制]]では、足守・日出の両木下家が「豊臣朝臣・肥後守俊定裔」として第75類に分類されている。豊臣朝臣は[[皇別]]・[[神別]]・[[諸蕃|外別]]のいずれのカテゴリーにも含まれておらず、同様の扱いを受けたのは[[琉球王国|琉球国]]王であった[[第二尚氏|尚家]]だけであった。
== 豊臣氏の組織 ==
すでに[[平安時代]]には解体し形骸化していた氏であるが、[[藤氏長者]]・[[源氏長者]]などの役職、[[氏爵]]などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで[[氏長者]]を設置している。「豊氏長者」(ほうしのちょうじゃ)である。[[天正]]19年([[1591年]])12月、秀吉が養子[[豊臣秀次|羽柴秀次]]に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『[[足守木下家文書]]』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者に補任する内容を持つ[[宣旨]]が含まれている。秀吉の関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、{{要出典範囲|date=2017年7月|秀吉も豊氏長者の地位にあったものと考えられる}}。
なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、[[近衛家]]に対して、将来的には[[近衛前久|前久]]の子息[[近衛信尹|信輔]]に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで[[摂家]]のものであった藤氏長者までも奪ったのである。{{要出典範囲|date=2017年7月|そのことを誇示するように}}、秀吉は豊臣に改姓したあとの天正16年([[1588年]])1月に、藤原氏の氏神[[春日大社|春日社]]の最高責任者の一人である[[正預]]職の任命権を行使している。また、同天正16年(1588年)12月には、藤原氏の始祖[[藤原鎌足]]を祀る[[談山神社|多武峯寺]]に、弟[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の居城のある[[大和郡山市|郡山]]への遷宮を命じ、実行に移している。このとき用いられた命令文書は、本来は藤原氏の[[大学別曹]]である[[勧学院]]の別当([[弁官]]が務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者の意志を奉じて発給する奉書である[[長者宣]](藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、[[藤原北家]][[勧修寺流]]に属する[[右中弁]][[中御門資胤]]であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者に補する宣旨のほか、藤氏長者を意味する「氏長者」に補す旨の宣旨が別途作成されている。
== 豊臣姓を称した者のリスト(暫定) ==
[[村川浩平]]「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」<ref>{{Cite journal|和書|author=村川浩平|authorlink=村川浩平|title=羽柴氏下賜と豊臣姓下賜|journal=駒沢史学|issue=49号|year=1996}}/所収:{{Cite book|和書|author=村川浩平|title=日本近世武家政権論|publisher=日本図書刊行会|year=2000}}</ref>の「豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」<ref>{{Cite journal|和書|author=村川浩平|title=天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜|journal=駒沢史学|issue=80号|year=2013}}</ref>より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の[[豊臣秀吉]]・豊臣吉子([[高台院]])・[[豊臣秀頼]]の3名は村川作成の表には含まれていない。また、豊臣姓を名乗ったとされることが多い[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]・[[里見義康]]・[[鳥居忠政]]・[[山口宗永|山口正弘]]については、村川は信憑性が低いとして表から除いている。
{| class="wikitable"
! 下賜年 !! 下賜された人物
|-
| 1586年 || [[豊臣秀長]]、[[豊臣秀次]]、[[宮部長房|宮部長煕]]、[[雀部重政]]、[[溝口秀勝]]、[[井伊直政]]、[[榊原康政]]、[[高力清長]]、[[大久保忠隣]]
|-
| 1587年 || [[宇喜多秀家]]・[[森忠政]]
|-
| 1588年 || [[豊臣秀勝|羽柴秀勝]]、[[木下勝俊]]、[[結城秀康]]、[[稲葉貞通]]、[[池田輝政]]、[[織田長益]]、[[織田信秀_(侍従)|織田信秀]]、[[蒲生氏郷]]、[[京極高次]]、[[筒井定次]]、[[丹羽長重]]、[[長谷川秀一]]、[[蜂屋頼隆]]、[[細川忠興]]、[[堀秀政]]、[[前田利家]]、[[前田利長]]、[[毛利秀頼]]、[[波多親]]、[[大友義統]]、[[最上義康]]、[[上杉景勝]]、[[立花宗茂]]、[[龍造寺政家]]、[[吉川広家]]、[[小早川隆景]]、[[毛利輝元]]、[[粟屋元貞]]、[[堅田元慶]]、[[口羽春良|口羽春長]]、[[国司元蔵]]、[[島津義弘]]、[[林就長]]、[[福原元俊]]、[[穂井田元清|穂田元清]]、[[三浦元忠]]、[[渡辺長]]、[[直江兼続]]、[[赤川元房]]、[[色部長実|色部長真]]、[[萩田長茂]]
|-
| 1589年 || [[鍋島直茂]]、[[内藤政長]]、[[大友義乗|大友義述]]、[[大宝寺義勝]]、[[毛利秀包]]、[[粟屋元吉]]、[[児玉元次]]、[[出羽元蔵]]、[[平佐元貞]]、[[鍋島勝茂]]、[[須田満親]]
|-
| 1590年 || [[富田一白|富田知信]]、[[朽木元綱]]、[[堀秀治]]、之孝、忠長
|-
| 1591年 || [[小早川秀秋]]、[[豊臣秀保]]、[[駒井重勝]]、[[堀親良]]、[[佐竹義久|東義久]]、宣武、吉勝。
|-
| 1592年 || [[浅野長政]]、[[福智政直]]、[[柴田勝政]]、[[松野重元]]、[[毛利秀元]]、[[佐野信吉]]、成直。
|-
| 1593年 || [[石田正澄]]、[[前田利政]]、[[山中長俊]]、[[柳沢元政]]
|-
| 1594年 || [[長束直吉]]、[[今枝重直]]、[[戸田重治]]、[[津田重久]]、[[加藤貞泰]]、[[中川秀成]]、[[生駒直勝]]、[[上田重安]]、[[宇都宮国綱]]、[[真田信繁]]、政春、直正、満一
|-
| 1595年 || [[小笠原秀政]]、[[奥平家昌]]、[[内藤清成]]、[[松平康重|松井康重]]、[[三浦重成]]、[[二宮就辰]]、[[末次元康|毛利元康]]、[[宍戸元次]]
|-
| 1596年 || [[小出秀政]]、[[宮城豊盛|宮城定勝]]、[[田丸直昌]]、[[富田景政]]、[[山高親重]]、[[永井直勝]]、[[伊達秀宗]]、[[阿部正勝]]、[[天野元政|毛利元政]]、[[平賀元相]]、[[榎本元吉]]、[[熊谷元直]]、[[益田元祥]]、[[関一政]]、宗信、土佐守政長
|-
| 1597年 || [[福原長堯|福原長成]]、[[吉田忠文]]、[[佐久間政実]]、[[寺西是成]]、[[分部光嘉]]、[[水野忠重]]、[[徳川秀忠]]、[[五島玄雅]]、[[宇喜多秀高|宇喜多秀徳]]、[[石川康長|石川三長]]、伊賀守政長、長治、賢忠、宗保、盛吉、長則
|-
| 1598年 || [[平野長泰]]、武吉([[村上武吉]]ヵ)
|-
| 1599年 || [[伊東祐兵]]、[[大村喜前]]、[[相良頼房]]、[[大須賀忠政]]、[[毛利秀就]]、元次、重成
|-
| 1600年 || [[有馬慶氏]]、忠能
|-
| 1602年 || [[福島正則]]、[[吉田保三]]
|-
| 1603年 || [[加藤清正]]、[[蜂須賀至鎮]]、[[生駒一正|生駒一政]]、[[山内一豊]]
|-
| 1604年 || [[堀尾吉晴]]
|-
| 1605年 || [[片桐且清]]、[[津田正勝]]、[[佐々正重]]、[[池田利隆]]、吉元
|-
| 1606年 || [[加藤忠正|加藤清孝]]
|-
| 1612年 || [[寺沢忠晴]]、[[松浦隆信 (平戸藩主)|松浦隆信]]
|-
| 1614年 || [[片桐孝利]]、[[速見則守]]、[[大野頼直]]、[[土橋景明]]
|-
| style="white-space:nowrap"|年代不明 ||[[青山宗勝]]、[[生駒利豊]]、[[稲葉典通]]、[[奥村永福]]、[[片桐且元]]、 [[木下家定]]、[[来島通総]]、[[前田秀則]]
|}
== 系図 ==
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">豊臣本家系図(諸説あり)</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{familytree/start|style=font-size:90%}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 |001=|002=弥助<ref group="*">名は長助とも</ref>}}
{{familytree |border=0| |||||)|-|-|-|-|.||||}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 | 003 | 004 |~|y|~| | 005 |001=|002=長左衛門|003=|004=[[中村国吉]]<ref group="*">国吉の父親は[[浅井重政]]、または[[高島高泰]]とも</ref><br>〔'''[[中村氏]]''' / '''[[木下氏]]'''〕|005=於高}}
{{familytree |border=0| ||||||||||,|-|-|(||}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 | 003 | 004 | 005 |001=|002=|003=|004=[[中村昌高|昌高]]<ref group="*">弟・吉高と同一人物とも</ref>|005=[[中村吉高|吉高]]}}
{{familytree |border=0| |||||||||||||)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 | 003 | 004 | 005 |~|y|~| 006 |~|~|y|~|~| 007 | 008 | 009 |001=|002=|003=|004=|005=[[木下弥右衛門|昌吉]]|006=[[大政所]]|007=[[竹阿弥]]|008=|009=[[福島正信]]<ref group="*">[[福島正秀]]の子とも</ref><br>〔'''[[福島氏]]'''〕}}
{{familytree |border=0| ||||||||||,|-|-|-|-|-|(|||||||`|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|v|-|.}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 |~|y|~| 004 | 005 | 006 |~|~|~| 007 | 008 | 009 | 010 | 011 | 012 |001=|002=[[三好吉房]]|003=|004=[[日秀尼|智]]|005=|006=[[豊臣秀吉]]<sup>1</sup><br>〔'''[[羽柴氏]]''' / '''豊臣氏'''〕|007=[[高台院|寧々]]|008=|009=|010=[[豊臣秀長]]|011=小四郎|012=[[朝日姫|旭]]}}
{{familytree |border=0| |||||,|-|+|-|-|.|||,|-|-|+|-|-|v|~|~|V|~|~|7||||||)|~|~|V|~|7}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 | 003 | 004 | 005 | 006 | 007 | 008 | 009 | 010 | 011 | 012 | 013 |001=|002=[[豊臣秀次]]|003=[[豊臣秀勝]]|004=[[豊臣秀保]]|005=[[羽柴秀勝 (石松丸)|石松秀勝]]|006=[[豊臣鶴松|鶴松]]|007=[[豊臣秀頼|秀頼]]<sup>3</sup>|008=[[豊臣秀次|秀次]]<sup>2</sup>|009=[[豊臣秀勝|秀勝]]|010=|011=小一郎|012=[[豊臣秀保|秀保]]|013=[[藤堂高吉|仙丸]]}}
{{familytree |border=0| |||||||||||||,|-|-|v|-|-|(|||!|||!||||||}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 | 003 | 004 | 005 | 006 | 007 ||!|| 009 |001=|002=|003=|004=|005=[[豊臣国松|国松]]|006=[[天秀尼]]|007=[[伊集院久尚]]<br>〔'''[[伊集院氏|伊集院式部家]]'''〕|008=|009=[[豊臣完子|完子]]}}
{{familytree |border=0| |||||,|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|(||||||||||}}
{{familytree |border=0| 001 | 002 | 003 | 004 | 005 | 006 | 007 | 008 |001=|002=[[豊臣仙千代丸|仙千代丸]]|003=[[豊臣百丸|百丸]]|004=[[豊臣十丸|十丸]]|005=[[豊臣土丸|土丸]]|006=[[露月院]]|007=[[お菊]]|008=[[隆清院]]}}
{{familytree/end}}
:'''系図注'''
{{Reflist|group="*"}}
</div>
</div>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[三上景文]]著・[[正宗敦夫]]校訂『[[地下家伝]]』 自治新報社、1968年。
* [[大村由己]]「任官之事」 [[塙保己一]]『[[続群書類従]]』第20輯下 続群書類従完成会、1979年。
* 下橋敬長述・羽倉敬尚注『幕末の朝廷』 平凡社〈東洋文庫〉、1979年。
* 人見彰彦「足守木下家文書」山陽新聞社編『ねねと木下家文書』 山陽新聞社、1982年。
* 下村效「天正文禄慶長年間の公家成・諸大夫成一覧」『栃木史学』7号、國學院大學栃木短期大學史学会、1993年/所収:『中世の法と経済』 続群書類従完成会、1998年。
* 下村效「豊臣氏官位制度の成立と発展-公家成・諸大夫成・豊臣授姓-」『日本史研究』337号、1994年/所収:『中世の法と経済』 続群書類従完成会、1998年。
* {{Cite journal|和書|author=米田雄介|authorlink=米田雄介|title=徳川家康・秀忠の叙位任官文書について|journal=栃木史学|issue=8号|publisher=國學院大學栃木短期大學史学会|year=1994}}
* {{Citation|和書|author=山口和夫|chapter=統一政権の成立と朝廷の近世化|editor=山本博文|editor-link=山本博文|title=新しい近世史1 国家と秩序|publisher=新人物往来社|year=1996}}
* {{Cite journal|和書|author=黒田基樹|authorlink=黒田基樹|title=慶長期大名の氏姓と官位|journal=日本史研究|issue=414号|publisher=日本史研究会|year=1997}}
* {{Cite book|和書|author=笠谷和比古|authorlink=笠谷和比古|title=関が原合戦と近世の国制|publisher=思文閣出版|year=2000}}
* {{Cite book|和書|author=池享|authorlink=池享|title=戦国・織豊期の武家と天皇|publisher=校倉書房|year=2003}}
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ブルーボーイ事件
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ブルーボーイ事件(ブルーボーイじけん、Blue boy trial)とは、1964年に十分な診察を行わずに性転換手術(現在の性別適合手術)を行った産婦人科医師が、1965年に麻薬取締法違反と優生保護法(現在の母体保護法)違反により逮捕され、1969年に有罪判決を受けた事件。優生保護法違反の方が重い量刑を下された。
当時の優生保護法第28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」に違反したものとされた。
検察によれば、問題となった行為の経緯は次のようであるとされる。
医師は、当時ブルーボーイと呼ばれていた男娼の職にある20歳代の戸籍上の男性3人に対して、1964年に相次いで性転換手術を行った。
この際、今日の性同一性障害の診療で行われているような、「本当に手術の必然性があり、それは個人の嗜好や職業上の利得を動機とするものではない」という判断を下すに足る十分な精神科的診察を行わなかった。
当時は売春の取り締まりが社会的な課題となっていた時期であった。
その中で、少数ながら、性転換手術を受けた後に売春をする戸籍上の男性たちがいた。彼らは法的には「男性」として扱われるため十分に取り締まることができず、警察や関連機関は何らかの形で「元を断つ」必要性を感じていた。
1969年2月15日、東京地方裁判所刑事第12部により被告人医師を有罪とする判決が下された。被告人医師は、別件の麻薬取締法違反と併せて懲役2年および罰金40万円執行猶予3年に処せられた。
判決文は、性転換手術に対する様々な意見を挙げた上で、次のような判断を下している。
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ブルーボーイ事件とは、1964年に十分な診察を行わずに性転換手術(現在の性別適合手術)を行った産婦人科医師が、1965年に麻薬取締法違反と優生保護法(現在の母体保護法)違反により逮捕され、1969年に有罪判決を受けた事件。優生保護法違反の方が重い量刑を下された。 当時の優生保護法第28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」に違反したものとされた。
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'''ブルーボーイ事件'''(ブルーボーイじけん、Blue boy trial)とは、[[1964年]]に十分な診察を行わずに[[性別適合手術|性転換手術]](現在の[[性別適合手術]])を行った[[産婦人科]][[医師]]が、[[1965年]]に麻薬取締法違反と優生保護法(現在の[[母体保護法]])違反により[[逮捕]]され、[[1969年]]に有罪判決を受けた事件。優生保護法違反の方が重い量刑を下された。
当時の優生保護法第28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく[[生殖]]を不能にすることを目的として[[手術]]又は[[放射線|レントゲン]]照射を行ってはならない」に違反したものとされた。
== 事件 ==
[[検察]]によれば、問題となった行為の経緯は次のようであるとされる。
医師は、当時'''[[ニューハーフ|ブルーボーイ]]'''と呼ばれていた[[男娼]]の職にある20歳代の[[戸籍]]上の[[男性]]3人に対して、1964年に相次いで性転換手術を行った。
この際、今日の性同一性障害の診療で行われているような、「本当に手術の必然性があり、それは個人の[[性的嗜好|嗜好]]や職業上の[[利益|利得]]を動機とするものではない」という判断を下すに足る十分な[[精神科]]的診察を行わなかった。
== 背景 ==
当時は[[売春]]の取り締まりが社会的な課題となっていた時期であった。
その中で、少数ながら、性転換手術を受けた後に売春をする戸籍上の男性たちがいた。彼らは法的には「男性」として扱われるため十分に取り締まることができず、[[警察]]や関連機関は何らかの形で「元を断つ」必要性を感じていた。
== 判決 ==
[[1969年]][[2月15日]]、[[東京地方裁判所]]刑事第12部により被告人医師を有罪とする判決が下された。被告人医師は、別件の[[麻薬及び向精神薬取締法|麻薬取締法]]違反と併せて[[懲役]]2年および[[罰金]]40万円[[執行猶予]]3年に処せられた<ref name="han">[http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/source/law/blue.html ブルーボーイ事件判決文] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20030819092351/http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/source/law/blue.html |date=2003年8月19日 }}</ref>。
判決文は、性転換手術に対する様々な意見を挙げた上で、次のような判断を下している。
* [[性転換症|性転向症]]に対して性転換手術を行うことの医学的正当性を一概に否定することはできないが、生物学的には男女のいずれでもない人間を現出させる非可逆的な手術であるので、少なくとも次のような条件を満たさなければならない。
** 手術前には[[精神医学]]や[[心理学]]的な検査と一定期間にわたる観察を行うべきである。
** 当該患者の家族関係、生活史や将来の生活環境に関する調査が行われるべきである。
** 手術の適応は、[[精神科医]]を交えた専門を異にする複数の医師により検討されたうえで決定され、能力のある医師により実施されるべきである。
** 診療録はもちろん調査、検査結果等の資料が作成され、保存されるべきである。
** 性転換手術の限界と危険性を十分理解しうる能力のある患者に対してのみ手術を行うべきであり、その際手術に関し本人の同意は勿論、配偶者のある場合は配偶者の、未成年者については一定の保護者の同意を得るべきである。
* 証人・鑑定人となった以上、高橋進の報告によれば、手術を受けた3人は性転向症であったと認めることができる(ただし、今日の基準において性同一性障害であると判断できるかどうかは現在となっては不明である)。
* しかし、被告人医師は、上記に挙げたような十分な診察・調査を行わなかった。
* 従って、手術の医療行為としての正当性を認めるには足りず、「正当な理由をなくして、生殖を不能にすることを目的として手術」を行ったものといえる。これは[[優生保護法]]第28条に反する。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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* {{Cite journal ja-jp|author=富田孝三|year=1970|month=5|title=性転換手術と刑事責任--東京地裁昭和40年合(わ)第307号優生保護法違反被告事件昭和44年2月15日刑12部判決をめぐって(特集・最近の医療をめぐる諸問題)|url=|format=|journal=法律のひろば|volume=23|issue=5|serial=|publisher=ぎょうせい|issn=0916-9806|doi=|naid=40003515241|pages=20-23}}
* {{Cite journal ja-jp
|author=内藤道興|year=1971|month=8|title=捜査法医学演習-1-生体鑑定--性転換手術事件|url=|format=|journal=警察学論集|volume=24|issue=8|serial=|publisher=立花書房
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* {{Cite journal ja-jp|author=後藤幸子|year=2004|month=3|issue=7|title=「ブルーボーイ事件」再考 : 「性転換手術」の実施と規制をめぐって(1)|pages=54-58|journal=日本文化論年報|publisher=神戸大学|issn=1347-6475|naid=110000996518}}
* {{Cite journal ja-jp|author=後藤幸子|year=2005|month=3|issue=8|title=「ブルーボーイ事件」再考 : 「性転換手術」の実施と規制をめぐって(2)|pages=28-80|journal=日本文化論年報|publisher=神戸大学|issn=1347-6475|naid=110001258597}}
== 関連項目 ==
* [[性同一性障害]]
* [[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]
== 外部リンク ==
*
{{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/web/20091214080111/http://www.netlaputa.ne.jp:80/~eonw/source/law/blue.html |date=2009年12月14日|title=「ブルーボーイ裁判」判例 }}
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人力発電
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人力発電(じんりきはつでん)とは、人間が身体を動かして電気を起こすこと。発電機を回転させ、携帯ラジオ、懐中電灯、携帯電話、パーソナルコンピュータの利用や充電といった電源として用いられる。手回し発電機や自転車を漕ぐ方式があるほか、出力は微少だが声による空気振動を電力に転換することもできる。
人力発電では、小型のものは発電機に手回しハンドルを接続した極めて簡単な機構のみで運用可能である。そのため、災害による停電時や紛争地帯、無人地帯のように商用電源や電池、燃料の利用が難しい局面で重宝されている。世界各地の情報格差解消が期待される100ドルPCでは、手回し式充電器で利用できるパーソナルコンピュータが開発中である。
またある程度の電力を必要とするものでは足漕ぎ式のものも考えられるが、こちらは余り多く出まわっておらず、そのような用途には専ら太陽光発電(太陽電池)や風力発電、あるいは小型の水力発電機のような、他のエネルギーに電力を求める様式が一般的である。
ただ、足漕ぎや自転車で発電というアイデアも必ずしも非効率という訳ではない。NHK『大科学実験』では競輪選手20人が一斉に全力疾走する事でメリーゴーラウンドを駆動することに成功した。東京工業大学では「大岡山ゑれきてる」と題したコンテストを実施し、省電力家庭用電化製品程度なら難なく動かせる発電量を実現したチームも続出している。製品レベルでは日本の日省エンジニアリングや南アフリカ共和国のフリープレイパワーグループがペダル式の充電式電源を開発・販売している。
人間が生きて行けるところであれば必然的にこれら電源が利用可能であるため、このような機器は古くから構想されていた。日本では自転車の前照灯のダイナモに使われるのが主であったが、防災用品として販売されるようになっており、様々な人力発電機付き機器(主に懐中電灯やラジオ受信機)が発売されている。しかし手回し発電の機器では発電量が限られるほか電流が安定せず、スマートフォンのような多くの電力を消費するため容量の大きいバッテリーを搭載した機器の充電は緊急時の通話やメッセージの発信のための一時的な動作を賄える程度で、非常時の代替電源としては乾電池を流用する充電器や太陽光発電機能を備えたモバイルバッテリーほど効率的ではない。
人力発電は、日本においては災害などへの備えの一つであったり、あるいはLED懐中電灯など消費電力が極めて小さいながら自然放電などで乾電池が気付かないうちに切れてしまいやすい(そしてそれはいざ使おうとする時に非常に困る)機器への適用という傾向が見出され、携帯電話の充電も太陽光発電による充電装置や電池式充電器など他の充電に使える電源と同程度の意味合いしかない。
しかしアフリカでは、携帯電話の急速な普及に関連して、携帯電話を充電するための重要な電源として利用されている様子も見られる。
アフリカ諸国では、電力用や固定電話用の電線といった有線インフラの整備が遅れている反面、携帯電話は地方コミュニティにとって有力な通信手段となっており、電話の全契約者の9割を占める。これらの携帯電話は、緊急の医療要請から都市部の農作物相場など地域コミュニティに現金収入をもたらす重要な情報を伝えるのに役立っており、それら地域に住む人たちの生活に欠かせないものとなっている。
しかし電源に関しても整備が遅れているため、電力がない地方コミュニティや移動中の利用者の間では、自動車用の鉛蓄電池バッテリーを使った充電屋などから電気をそのつど購入している。これら充電屋の中には、前述のフリープレイパワーグループの製品である「足踏み式充電器」を使っているところもみられ、携帯電話の普及の一助ともなっている模様である。
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人力発電(じんりきはつでん)とは、人間が身体を動かして電気を起こすこと。発電機を回転させ、携帯ラジオ、懐中電灯、携帯電話、パーソナルコンピュータの利用や充電といった電源として用いられる。手回し発電機や自転車を漕ぐ方式があるほか、出力は微少だが声による空気振動を電力に転換することもできる。
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[[画像:Dynamo flashlight.JPG|thumb|right|発電機内蔵の[[発光ダイオード|LED]]式[[懐中電灯]]<br /><small>(ハンドルを手回しして充電するため、電池切れの心配がない)</small>]]
[[画像:Laptop-crank.jpg|thumb|right|100ドルPC<br /><small>ハンドルを手回しすることで充電して利用する。[[開発途上国]]の地方農村部ではいまだ電力インフラ整備が遅れていたり、[[停電]]が多かったりするため、「電源を必要としないこと」は普及の上で大きな弾みになると考えられている。</small>]]
'''人力発電'''(じんりきはつでん)とは、[[人間]]が身体を動かして[[電気]]を起こすこと。[[発電機]]を回転させ、携帯[[ラジオ]]、[[懐中電灯]]、[[携帯電話]]、[[パーソナルコンピュータ]]の利用や充電といった[[電源]]として用いられる。手回し発電機や[[自転車]]を漕ぐ方式があるほか、出力は微少だが[[声]]による空気振動を電力に転換することもできる<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20230130/k00/00m/020/204000c 料金高騰の冬 自転車こいで暖房動かす:人力発電 節電の一助に?]」『[[毎日新聞]]』夕刊2023年2月6日1面(同日閲覧)</ref>。
==概要==
人力発電では、小型のものは発電機に手回しハンドルを接続した極めて簡単な機構のみで運用可能である。そのため、[[災害]]による[[停電]]時や紛争地帯、無人地帯のように[[商用電源]]や[[電池]]、[[燃料]]の利用が難しい局面で重宝されている。世界各地の[[情報格差]]解消が期待される[[The Children's Machine|100ドルPC]]では、手回し式充電器で利用できるパーソナルコンピュータが開発中である。
またある程度の電力を必要とするものでは足漕ぎ式のものも考えられるが、こちらは余り多く出まわっておらず、そのような用途には専ら[[太陽光発電]]([[太陽電池]])や[[風力発電]]、あるいは小型の[[水力発電|水力発電機]]のような、他のエネルギーに電力を求める様式が一般的である。
ただ、足漕ぎや自転車で発電というアイデアも必ずしも非効率という訳ではない。[[日本放送協会|NHK]]『[[大科学実験]]』では[[競輪]]選手20人が一斉に全力疾走する事で[[メリーゴーラウンド]]を駆動することに成功した。[[東京工業大学]]では「大岡山ゑれきてる<ref>[http://www.taka.ee.titech.ac.jp/elecon/ 大岡山ゑれきてる]{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>」と題したコンテストを実施し、省電力家庭用電化製品程度なら難なく動かせる発電量を実現したチームも続出している。製品レベルでは日本の日省エンジニアリング<ref>[http://www.nseg.co.jp/ 日省エンジニアリング]</ref>や[[南アフリカ共和国]]のフリープレイパワーグループ<ref>[http://www.freeplayenergy.com/ フリープレイパワーグループ]</ref>がペダル式の充電式電源を開発・販売している。
人間が生きて行けるところであれば必然的にこれら電源が利用可能であるため、このような機器は古くから構想されていた。日本では自転車の前照灯の[[ダイナモ]]に使われるのが主であったが、[[防災用品]]として販売されるようになっており、様々な人力発電機付き機器(主に[[懐中電灯]]や[[ラジオ]]受信機)が発売されている。しかし手回し発電の機器では発電量が限られるほか電流が安定せず、[[スマートフォン]]のような多くの電力を消費するため容量の大きいバッテリーを搭載した機器の充電は緊急時の通話やメッセージの発信のための一時的な動作を賄える程度で、非常時の代替電源としては[[乾電池]]を流用する充電器や太陽光発電機能を備えたモバイルバッテリーほど効率的ではない<ref>「[http://www.nikkei.com/article/DGXDZO71305130W4A510C1W02001/ 頼りになるか スマホ用発電機の実力、記者が検証]」{{リンク切れ|date=2023年2月}}[[日本経済新聞]]</ref>。
==人力発電と携帯電話==
人力発電は、日本においては災害などへの備えの一つであったり、あるいは[[発光ダイオード|LED]]懐中電灯など消費電力が極めて小さいながら[[自然放電]]などで[[乾電池]]が気付かないうちに切れてしまいやすい(そしてそれはいざ使おうとする時に非常に困る)機器への適用という傾向が見出され、携帯電話の充電も太陽光発電による充電装置や電池式充電器など他の充電に使える電源と同程度の意味合いしかない。
しかし[[アフリカ]]では、携帯電話の急速な普及<ref>[http://wired.jp/wv/archives/2003/01/15/%E6%80%A5%E9%80%9F%E3%81%AB%E6%99%AE%E5%8F%8A%E9%80%B2%E3%82%80%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%90%BA%E5%B8%AF%E9%9B%BB%E8%A9%B1/ 「急速に普及進むアフリカ諸国の携帯電話」]{{リンク切れ|date=2023年2月}}[[WIRED]].jp</ref>に関連して、携帯電話を充電するための重要な電源として利用されている様子も見られる<ref>[[YouTube]][http://www.youtube.com/watch?v=_Hc5uXtBuTk&feature=player_embedded# “Rural Energy Case Study Freeplay Foundation 9 08 07”]</ref>。
アフリカ諸国では、電力用や固定電話用の電線といった有線インフラの整備が遅れている反面、携帯電話は地方コミュニティにとって有力な通信手段となっており、電話の全契約者の9割を占める<ref>[[国際協力機構]](JICA)[http://www.jica.go.jp/story/interview/interview_76.html 「ウガンダの農家を変えた携帯電話」]{{リンク切れ|date=2023年2月}}<br />[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=42944 JANJANニュース]{{リンク切れ|date=2023年2月}}/[http://ipsnews.net/news.asp?idnews=42944 IPSニュース]{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>。これらの携帯電話は、緊急の医療要請から都市部の農作物相場など地域コミュニティに現金収入をもたらす重要な情報を伝えるのに役立っており、それら地域に住む人たちの生活に欠かせないものとなっている。
しかし電源に関しても整備が遅れているため、電力がない地方コミュニティや移動中の利用者の間では、[[自動車]]用の[[鉛蓄電池]]バッテリーを使った充電屋などから電気をそのつど購入している。これら充電屋の中には、前述のフリープレイパワーグループの製品である「足踏み式充電器」を使っているところもみられ、携帯電話の普及の一助ともなっている模様である。
==脚注==
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{{Reflist}}
==関連項目==
*[[発電床]]
*[[ダイナマイト・プランジャー]]
*[[携帯機器]]
*[[防災]]
*[[人力車]] - [[リヤカー]]
{{発電の種類}}
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[[Category:発電]]
[[Category:防災]] <!-- 関係するので入れる -->
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太陽光発電
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太陽光発電(たいようこう はつでん、またはソーラー発電、英: Photovoltaics, Solar photovoltaics、略してPVともいわれる)は、太陽光を太陽電池を用いて直接的に電力に変換する発電方式である。大規模な(特に設備容量が1メガワットを超える)太陽光発電所は「メガソーラー」とも呼ばれる。再生可能エネルギーである太陽エネルギーの利用方法の1つである。
技術的特徴として、発電電力量が日照(気候・天候や季節、地形による差が大きい)に依存し不随意に変化する一方、昼間の電力需要ピークを緩和できる。さらに火力発電では不可避の化石燃料消費量と温室効果ガス排出量をともに削減できる。放射性廃棄物の処理や事故が起きた場合の汚染被害といった課題を抱える原子力発電への依存度を下げる手段としても活用されつつある。さらに、発電装置はパネル状なので屋上にも設置でき、本来であれば太陽光発電専用の敷地を必要としない。だが、メガソーラー式では太陽光発電専用の敷地を用意している。
設備は1つ目として太陽電池、2つ目は電力として利用するために必要な電圧及び周波数を変換するインバータ(パワーコンディショナー)で構成される。発電が行われる時間帯・地域と電力需要が異なる場合には、蓄電池も組み合わせて調整される。
開発当初は極めて高価で、宇宙開発等限られた用途に使われた。近年は発電コストの低減が進み、多くの発電方法と比較して高コストながら、年間数十ギガワット単位で導入されるようになった(太陽光発電の市場動向を参照)。今後コスト低減や市場拡大が続くと見込まれ、各国で普及政策が進められると同時に、貿易摩擦に発展する例や、価格競争で倒産する企業が見られる。
SDGsの観点とパネルのコスト低下から目覚ましい勢いで普及しており、IAEAは太陽光発電が今後10年の再生可能エネルギーの供給拡大をけん引すると予想している。ビロル事務局長は「太陽光が世界の電力市場の新たな王様になるとみている」と述べている。
制約が少なく、腕時計から人工衛星にも用いられる。屋上、若しくは、地上に直接設置でき、太陽光を十分に受けられパネル重量に耐えられる場所であれば、建物の屋根や壁など様々な場所に設置可能である。
軽量柔軟なフレキシブル太陽電池では、重量や接地面形状の制約も減少する。剛性があるパネルであっても通常の半分程度まで軽量化し、耐荷重の制約を減らした製品も開発されている。
前述のように、人家近くや緑地を除去しての建設には弊害が大きい。波が穏やかな内水面に設置したり、海外では砂漠に建設したりする例もある。
主に以下の要素で構成する。
太陽電池からの電力は接続箱経由で取り出す。独立型での接続箱とインバータやパワーコンディショナーとの間には直流側開閉器が備わる。系統連系型の接続箱とパワーコンディショナーとの間にも直流側開閉器があるが、送電網につながる分電盤との間に交流側開閉器を備える。(余剰電力を)売電する系統連系型設備では売電用の電力メーターが買電力用のメーターと直列につなげる(全量を売電する系統連系設備では、太陽電池に繋がる配線と建物内配線を分離する)。
未電化地域や宇宙、遠洋・離島などの遠隔地や道路標識等の小電力用途では系統に繋がず、蓄電池や他の電源を組み合わせた独立型や独立蓄電型で構成される。
一般住宅用の系統連系型では高価な大型蓄電池の設置は稀であるが、災害等での停電時に電力供給を可能とする家庭用大型蓄電池製品も存在する。独立蓄電型に商用電力を常時併用し災害停電発生時に必要最小限の電力を連続供給する大型のUPSが発売された。
太陽光発電のコストは、一般的に設備の価格でほぼ決まる。運転に燃料費は不要であり、保守管理費用も比較的小さい。エネルギーセキュリティ向上などの付加的なコスト上のメリットも有する。特に昼間の需要ピークカットのコスト的メリットが大きいとされる。途上国で送電網が未整備な場合、消費電力に比して燃料輸送費や保守費が高い場所など(山地、離島、砂漠、宇宙等)では、現段階でも他方式に比較して最も安価な電源として利用されている。
設備導入費用の内訳は太陽電池モジュール(パネル)以外の工事・流通・周辺機器の割合が比較的大きく、日本国内では2011年時点でパネル製造費割合が2割程度とされる。
発電設備自体のコスト以外では火力発電や原子力発電の発電電力量の削減を進めるに伴い、需要と供給の各種変動ギャップを埋める費用発生も見込まれる。風力発電等の電源も関連する。スマートグリッド等の総合的な対策が各国で検討推進されている。
開発当初は高価で用途も人工衛星等に限られたが経験曲線効果に従い価格が低下した。現時点でもコストが比較的高く普及促進に助成が必要とされる国や地域もあるが、条件の良い地域では既にグリッドパリティが達成されている。中長期的には、風力発電と共にコスト(均等化発電原価)が最も安い発電手段の一つになると予測されている。
グリッドパリティ達成はモジュール価格で1ドル/Wp以下が目安とされた。2012年時点でパネルの種類によっては0.5 - 0.9ユーロ/Wp前後になっている。更なるコスト低減を表明する企業もある。
フランス・ドイツ・イギリス等で2020年までに順次既存の火力発電とコストで競い始めると予測されている。また、米国の好条件地域では、2012 - 2014年頃に天然ガス等の発電コストよりも安くなり始めると予測されている。
日本では補助金が中断した2005年頃から一時的に価格が上昇したが、2008 - 2009年にかけて普及促進政策が施行されてからは低減を再開した。
さらに、2012年7月に施行された再生可能エネルギー特別措置法に基づく固定価格買い取り制度により、「メガソーラー(大規模太陽光発電所)」に代表される産業用の太陽光発電の導入が進み、コストの下落が加速した。
蓄電池を用いる独立型システムについても、今後の価格低下と途上国での普及拡大が予測されている。
経済産業省によると、個別の発電では太陽光のコストは低いものの、出力の変動をカバーするために火力との連動が必要なことから総合的なコストでは太陽光のコストが最も割高になると試算された。他にコストを押し上げる理由として、規制を逃れるために大規模な太陽光発電所を50kW未満の低圧システムに分割する「分割案件」が横行していることがあげられている。
発電した電力を二次電池に蓄電利用し外部送電網に接続しない形態。夜間や悪天候時の発電量低下時も太陽光発電のみの発電で電力供給する場合利用する。系統連系に比べ蓄電設備にかかる費用・エネルギー・CO2排出量が増加するが、外部からの送電費用が上回る場合のほか、移動式や非常用電源システムで用いる。消費電力が少なく送電網から遠い場合にメリットが大きいが、送電網に近くても送電電圧が高い場合には変電設備よりも独立電源設備が安いことがある。一般向けに、小型の最大電力点追従制御機能(MPPT)と自動車用バッテリーで構築する製品も市販されている。
電力会社の送電網に同期接続する形態が系統連系である。送電網が近傍にある場合は、売電するために系統連系して利用する場合が多い。太陽電池モジュール→パワーコンディショナー→商用電線路という接続形態を取る。再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT制度)では発電量が設置場所での利用量を上回る分を電力会社に供給する(売電)。電力を送電網に送ることを逆潮流と呼ぶ。夜間や悪天候時に発電量を利用量が上回ると系統側から電力供給する。一般に独立型より発電規模が大きい。独立蓄電型のような大容量の蓄電設備が不要であり、その分、発電量あたりのコスト・温室効果ガス(Greenhouse Effect Gas:GEG)排出量・ライフサイクル中の投入エネルギーが独立型より小さい。
天候や気温で出力変動し曇天・雨天時は晴天時より大幅に発電量が低下し、夜間は発電できない。大規模な系統連系では変動が速すぎると他の電源による調整が追いつかない恐れがあるとされる。
モジュールを複数の方向に向けて設置する場合個々の方向で最大出力になる時間帯がずれ、正午の瞬間最大出力が低くなる代わりに、他の時間帯に出力増加する。電力需要は時間帯で変動し一般に午後の方が多い。固定式設備の場合、電力需要との整合性の観点では真南よりも多少西向きに設置するのが好ましい一方で角度により発電量が減る場合がある。米国サクラメント市における解析例では、20度の傾斜を持たせて設置する場合、真南から30度西にずらすと、総発電量は約1%減少するが、容量が系統に貢献する度合いは25%近く増加し全体で経済的価値が大きくなると報告された。冷房需要の多い地域では日照と電力需要の相関関係が高い。
最大電力点追従制御 (Maximum power point tracking、MPPT) は、インバーターが太陽電池からの電圧と電流の積である電力が最大になる出力電圧で電流を取り出すための制御機能である。使用することで日射量に応じて最適の条件で電力を供給できる。インバーターが直流/交流変換動作を行わない場合太陽電池の出力電流がゼロなら出力電圧は開放電圧 (Open circuit voltage; Voc) である。インバータの電流制御によって徐々に太陽電池の出力電流を増やした時にインバータを通過する電力が増えればさらに電流を増やし、逆に増やして電力が減れば電流を減らす方法によって最大電力点に到達する。この制御方法を山登り法と呼ぶ。住宅用太陽光発電用インバータでは太陽電池がアモルファス、結晶系など多様な電流・電圧特性を持つためいずれの特性の太陽電池に対しても安定に最大電力点に追従して運転することが求められることから最大電力追従のための一回の電流の変化幅と変化の速さ・頻度の選択が重要である。最大電力点追従制御は,インバーターでの直流運転電圧を太陽電池アレイと直流ケーブルを通した最大電力点の電圧に近付ける働きをする。最大電力点追従制御は太陽光発電システムの使用者による測定が困難でインバーターの直流/交流変換の効率と同じく製造者による性能表示が重要である。
太陽光発電設備の発電部は、多数の太陽電池素子で構成される。素子やその集合体には、規模や形態に応じて下記の様な呼称がある。
大部分の製品が稼働できると推測される「期待寿命」とメーカーが性能を保証する「保証期間」がある。メーカーの製造ミスで早期出力低下などトラブルが起こることもある。通常の経年劣化による出力低下は20年で1割未満とされる。
太陽は巨大な原子炉(半径7 x l0 ^ 5 km)であり、大量の放射エネルギー(3.8 x l0 ^ 23 KW、5800°K)を放出し、熱エネルギーに簡単に変換できる。太陽光のエネルギーは膨大で、地上で実際に利用可能な量だけで世界のエネルギー消費量の約50倍と見積もられる。地球に降り注ぐ太陽光の総エネルギー量173000 TWのうち僅か40 TWが光合成を経て有機物を生成する。人間活動で消費するエネルギー量はさらに少なく14 TWである。仮にゴビ砂漠に現在市販されている太陽電池を敷き詰めれば、全人類のエネルギー需要量に匹敵する発電量が得られるという。
生産に必要な原料は豊富で少なくとも2052年頃までの予測需要は十分満たせるとされる。シリコンを用いる太陽電池では資源量は事実上無限とされる。シリコンを用いない太陽電池はインジウムなどの資源が将来的に制約要因になる可能性があるが、技術的に使用量を減らせば2050年以降も利用可能とされる。太陽電池用シリコン原料の供給は2008年まで逼迫し価格が高止まりしたが各社の増産が追いつき2009年から価格低下が予測された。太陽電池専用シリコン原料生産技術は様々なものが実用化され、精製に必要なエネルギーやコストが大幅に削減されるとされる(ソーラーグレードシリコンを参照)。
世界的に見て、日本の平均年間日照量は最も日照の多い海外地域の半分程度であるが、ドイツなどより多い。国内では冬期に晴天が少なく積雪の多い日本海側で日照量(発電量)が少なく、太平洋側で多くなる。
潜在的には必要量よりも桁違いに多い設備量(7984GWp = 約8TWp分)が導入可能と見積もられるが、実際の導入量は安定電力供給の電源構成上の観点から決まると見られる。導入可能な設備量は102GWp-202GWp程度とされる。建造物へのソーラーパネル設置により期待される導入量が多く、2008年時点で将来の導入可能量は戸建住宅53GWp(ギガワットピーク)、集合住宅22GWp、大型産業施設53GWp、公共施設14GWp、その他60GWpとされていた。実際の普及局面ではその他に含まれる野立てが大半を占めた。
2020年の太陽光発電の累計導入設備量は64.8GWで、日本の年間総発電量のうち約7.9%を発電した。
GHG排出量は化石燃料電源の排出量より格段に少なく、利用するとGHG排出量を削減できる。エネルギーペイバックタイムやエネルギー収支比の点でも実用水準である。
太陽光発電の発電電力当たりのGHG排出量や投入エネルギー量はシステム製造工程と設置環境での発電量でほぼ決まる。稼動時は燃料を必要とせずGHGを排出しない。メンテナンスや廃棄時に排出するGHGや投入エネルギー量も比較的少ない。
製造時等では温暖化ガスの排出を伴うが、発電中は全く排出しない。採鉱から廃棄までのライフサイクル中の全排出量をライフサイクル中の全発電量で割った値(排出原単位)は数十g-CO2/kWhであり、化石燃料による排出量(日本平均690g-CO2/kWh)より桁違いに少ない。
エネルギー源としての性能を比較する際に、エネルギーペイバックタイム (EPT) やエネルギー収支比(EPR)が指標として用いられることがある。製造や原料採鉱・精製、保守等に投入されるエネルギーに対して得られる電力の大きさを示す。ライフサイクルアセスメント(LCA)の一環である。エネルギー収支や環境性能の実用性を否定する意見は都市伝説として否定されている。
現状でEPTが1-3年程度、EPRが10-30倍程度とされる。
世界全体の太陽電池生産量は指数関数的に拡大し続ける。PV NEWSの集計は2010年の生産量が2009年に比べ111%増加し23.9GWp(ギガ・ワットピーク)となった(値は調査会社で異なりPhoton Internationalは27.2GWpとする)。地域シェアは中国台湾合計59%、欧州13%、日本9%、北米5%、他14%である。 世界全体の2010年の太陽光発電導入量はEPIAの集計では16.6GWpである。solarbuzz社の集計で18.2GW、額が820億米ドル(約6.5兆円)である。地域別年間導入量は欧州(13.2GWp)、日本(0.99GWp)、北米(0.98GWp)、中国(0.52GWp)、APEC(0.47GWp)、他(0.42GWp)である。 市場規模は2025年に太陽電池約9兆円、構成機器全体で約13兆円、システム構築市場が約18兆円となり、それぞれ2009年の5倍以上に達するとも予測されている。
2015年の世界市場の太陽電池セル製造メーカー上位3社のシェアは次の通りである。上位10企業のシェアの合計は53%で、2008年の54%から低下した。供給過剰と価格競争が続き旧来の大手企業が倒産する例がある。
2008年の世界市場の太陽電池セル製造装置売上高トップはアプライド・マテリアルズであった。以下Roth & Rau、Centrotherm、OC Oerlikon Balzers、アルバックと続く。
日本は1970年代のオイルショックから開発と普及に力を入れ、生産量や導入量で長く世界一であり、2000年ごろまで太陽光発電量は欧州全体より日本1国が多かった。
2004年頃には世界の約半分の太陽電池を生産していたが2010年の生産世界シェアは9%である。生産自体は2GWpを超えて増加しており(右図)半分以上を輸出する。輸入量は国内販売量の約16%である。国内出荷量の約8割は住宅向けで一戸建て向けが中心であるが近年は集合住宅での導入例も見られる。
2005年に新エネルギー財団 (NEF) の助成が終了すると国内市場は縮小し、価格が下がらなくなった。
2008年以降助成策強化で国内市場は拡大し価格が下がり始めた。(右図)
関連産業の規模は2010年度見込みが約1.3兆円とされた。2011年度に約1.5兆円に拡大するとする。約半分がセル・モジュールで半分が他産業の分である。関連雇用は4万人を超えたとする。
2011年3月の東日本大震災後、日本政府による自給エネルギーの確保と低炭素社会の実現という政策で、化石燃料や原子力に依存し過ぎないエネルギーミックスを推進。2012年7月には再生可能エネルギーの固定買い取り制度が導入され、新規事業者の参入が相次いだが、その後の買い取り価格の段階的な引き下げで市場拡大のペースが鈍化、事業者の乱立の影響もあり競争は激化し、早くも淘汰の時代に入り、倒産業者数も2015年度には54件と前年度比較で倍増、2016年には1月ー9月だけで42件(負債総額185億200万円)に上った。2016年には日本ロジテック協同組合(東京都)、太陽エナジー販売(神奈川県)、サン・エコイング(兵庫県)などが倒産した。
2015年4月30日、東京証券取引所がインフラファンド市場を創設し、太陽光発電を投資対象とする投資法人が上場している。
国内ではメガソーラーなどの大規模発電に適した土地が少なくなっている。2018年において住宅の屋根に太陽光発電を置いているのは全国で約200万戸であり、これは住宅全体の7%である。国民が多額の費用を負担することにより太陽光発電の普及を後押しする買い取り制度について、19年には50万件・200万キロワット分の太陽光発電の買い取り義務が終わる。太陽光発電協会は50年に2億キロワットの国内累積導入量を目指す長期目標を立てた。
日本では2011年現在余剰電力買取制度(固定価格買取制度)と国・自治体の各種助成策が実施された。2012年からはさらに公共産業向け設備への全量買取制度が導入されると共に、他の再生可能エネルギーも全量買取対象に加わる。これらの制度はFIT制度と呼ばれているが、2020年にはFIT制度は廃止される見込みだ。 共同で太陽光発電所を設置・運営し売電収入を分配する市民共同発電所の設置例・検討例がある。
これらのFIT政策により太陽光発電導入は2013年から急激に進み、 太陽光発電設備の発電能力容量は2015年の末までには3000万kW(30GW(ギガワット))であったが、2017年3月にはほぼ40GWに達した。https://solarjournal.jp/solarpower/22325/。 さらに太陽光発電協会は2018年中には累積発電能力容量は40-50GWになるだろうと予測した。 実際に、政府の再生可能エネルギー調達価格等算定委員会は2018年3月の発電能力容量は44.5GW、2019年は56GWであったと発表した。政府の2030年エネルギーミックスの太陽光導入目標値は88GW以上とされたが、これは達成可能な数値であり、むしろ導入抑制のために政府はメガソーラー認定取り消しを実施した(2030年エネルギーミックスの再生可能エネ発電導入は目標22-24%だったが、2021年の政府方針では30%程度に引き上げる)。実際の発電量については、2018年の日本の全発電量に占める再生可能エネルギー発電量は15%だったが、そのうち従来水力発電が7%、太陽光発電7%、その他が1%であった。2019年には再生可能エネルギー発電量は16%より多くなり、この中で太陽光発電量が増えて水力発電量を追い越す。2030年には再生可能エネルギー発電量は30%程度になる予定。
太陽光発電の日本平均の設備利用率は夜昼年間を通すと全体の13%だと計算されている。すなわち日本の天候では年間365日x24時間すなわち8760時間のうち1100時間だけ、太陽光パネルがフル発電しそれ以外の時間は休止している計算である。結果として1kw太陽光パネルは日本では1年間に1100kWh発電する。40GWの太陽光発電装置による年間発電量は、40GWx1100時間=年間440億kWh程度であり、2017年の日本の電力総需要(0.9兆kWh)の5%以上が太陽光発電でまかなわれた。日本では2018年の昼間電力については1割以上を太陽光発電に依存している。
晴れた日の昼間は冷房のため電力需要が12時以降に増加するが、太陽光発電の発電量も10時から14時までが最大で、夏の冷房等電力需要と供給の時間バランスはおおよそ一致している。
10-14時は定格発電能力の6-7割の出力があり、需要の増加に対応して太陽光は電力供給量を補うことができている。少し古いデーターだが2015年夏の場合、沖縄電力を除く他の9電力会社の管内では10-14時の時間帯に30GWの太陽光発電設備によって1千万kW以上すなわち原子力発電所10基稼働分程度の太陽光電気を供給してエアコン電力需要に対応した。半面、太陽光発電は4-5月と7-8月の正午頃に最大発電するので、その季節には再稼働原発数が多い九州電力では電力供給が上回り、昼間に太陽光電気の受け入れ拒否を行うことも増えてきた。
2021年には法規制を逃れるための「分割案件」が横行していることが経済産業省の有識者会議で問題視され、10kWh未満の地上設置型について分割時の審査が行われることになった。
2010年の日本の太陽電池生産企業はシャープ、京セラ、三洋電機(2009年パナソニックの子会社化後に解体)、三菱電機(2020年撤退)である。
他にセル生産や部材供給に関わる企業が多数存在する(例:)。
中国やカナダ等海外からの日本市場参入が見られる。
2017年5月16日、兵庫県内の複数の太陽光発電所から送電ケーブルを盗んだ電気工事業者が逮捕された。被害は50件、約9,100万円。山間部など人目のつかない、警備の手薄な発電所が狙われており、状況によっては防犯体制などのリスクや対策費用が必要となること判明している。
住宅用ソーラーパネル設置には下記の困難がつきまとうので注意が必要である。
太陽光発電は屋根に設置することもあり、ちゃんとした工事をしないと雨漏りに繋がる。しかし訪問販売業者は、施工コストを削るために足場が必要な現場でも設置しない、下請け業者を使って安く済ませる、メーカーの認定を受けていない等、工事の質が悪い。
雨漏りについては、建築した業者に許可等がなく設置をすると、建築した会社の保証なども利かなくなり、さらに訪問販売業者の対応もずさんであると、住宅にとって、雨漏りは構造躯体の腐食、シロアリの原因など致命傷に直結する。そういった防水処理の知識がない、または経験の浅い業者での施工により雨漏りに繋がっているケースも多々ある。
2019年1月28日、消費者庁消費者安全調査委員会がまとめた報告書によれば、2017年11月までの約10年間で住宅用太陽光発電システムから火災、発火、発煙、過熱が生じた件数は127件。うち、少なくとも7件は屋根側にも延焼した(ただし、住宅用太陽光発電システムは、2018年10月時点で全国約240万棟に普及しており分母になる数は非常に大きい)。火災となったケースは、いずれもシステムと屋根が一体型となったもので、報告書では注意を呼びかけている。
個人宅屋根やビルなど巨大施設屋上及び壁面・平地への太陽光パネル設置と異なり、山地丘陵での森林伐採など山林を切り崩しての太陽光パネル設置(工事)に加え、建設後に関しては水質汚濁や豪雨災害時における土石流、地滑りなど土砂災害の危険や土壌流出などによる砂漠遷移化といった自然環境破壊を招くことがある。そのため、景観への悪影響や土砂災害を誘発するおそれがあるなどとして、特に大規模太陽光発電所(メガソーラー)への反対運動が各地で起こっている。2021年4月1日時点で太陽光発電設備関連の設置規制条例が146市町村で設けられ、都道府県単位でも兵庫や和歌山、岡山県では制定されている。
宇宙で太陽光発電を行う宇宙太陽光発電構想があり、日本、アメリカ、欧州等で研究が進められている。
太陽光発電用の人工衛星を打ち上げ、発電した電力をマイクロ波またはレーザー光に変換して地上の受信局に送信し、地上で再び電力に変換する構想である。宇宙空間の太陽光は、大気で減衰される地上より強力であり、大気圏外では地球上の天候(雲)や季節に左右されない。
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"text": "発電設備自体のコスト以外では火力発電や原子力発電の発電電力量の削減を進めるに伴い、需要と供給の各種変動ギャップを埋める費用発生も見込まれる。風力発電等の電源も関連する。スマートグリッド等の総合的な対策が各国で検討推進されている。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "開発当初は高価で用途も人工衛星等に限られたが経験曲線効果に従い価格が低下した。現時点でもコストが比較的高く普及促進に助成が必要とされる国や地域もあるが、条件の良い地域では既にグリッドパリティが達成されている。中長期的には、風力発電と共にコスト(均等化発電原価)が最も安い発電手段の一つになると予測されている。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "グリッドパリティ達成はモジュール価格で1ドル/Wp以下が目安とされた。2012年時点でパネルの種類によっては0.5 - 0.9ユーロ/Wp前後になっている。更なるコスト低減を表明する企業もある。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "フランス・ドイツ・イギリス等で2020年までに順次既存の火力発電とコストで競い始めると予測されている。また、米国の好条件地域では、2012 - 2014年頃に天然ガス等の発電コストよりも安くなり始めると予測されている。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本では補助金が中断した2005年頃から一時的に価格が上昇したが、2008 - 2009年にかけて普及促進政策が施行されてからは低減を再開した。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "さらに、2012年7月に施行された再生可能エネルギー特別措置法に基づく固定価格買い取り制度により、「メガソーラー(大規模太陽光発電所)」に代表される産業用の太陽光発電の導入が進み、コストの下落が加速した。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "蓄電池を用いる独立型システムについても、今後の価格低下と途上国での普及拡大が予測されている。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "経済産業省によると、個別の発電では太陽光のコストは低いものの、出力の変動をカバーするために火力との連動が必要なことから総合的なコストでは太陽光のコストが最も割高になると試算された。他にコストを押し上げる理由として、規制を逃れるために大規模な太陽光発電所を50kW未満の低圧システムに分割する「分割案件」が横行していることがあげられている。",
"title": "発電コスト"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "発電した電力を二次電池に蓄電利用し外部送電網に接続しない形態。夜間や悪天候時の発電量低下時も太陽光発電のみの発電で電力供給する場合利用する。系統連系に比べ蓄電設備にかかる費用・エネルギー・CO2排出量が増加するが、外部からの送電費用が上回る場合のほか、移動式や非常用電源システムで用いる。消費電力が少なく送電網から遠い場合にメリットが大きいが、送電網に近くても送電電圧が高い場合には変電設備よりも独立電源設備が安いことがある。一般向けに、小型の最大電力点追従制御機能(MPPT)と自動車用バッテリーで構築する製品も市販されている。",
"title": "利用形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "電力会社の送電網に同期接続する形態が系統連系である。送電網が近傍にある場合は、売電するために系統連系して利用する場合が多い。太陽電池モジュール→パワーコンディショナー→商用電線路という接続形態を取る。再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT制度)では発電量が設置場所での利用量を上回る分を電力会社に供給する(売電)。電力を送電網に送ることを逆潮流と呼ぶ。夜間や悪天候時に発電量を利用量が上回ると系統側から電力供給する。一般に独立型より発電規模が大きい。独立蓄電型のような大容量の蓄電設備が不要であり、その分、発電量あたりのコスト・温室効果ガス(Greenhouse Effect Gas:GEG)排出量・ライフサイクル中の投入エネルギーが独立型より小さい。",
"title": "利用形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "天候や気温で出力変動し曇天・雨天時は晴天時より大幅に発電量が低下し、夜間は発電できない。大規模な系統連系では変動が速すぎると他の電源による調整が追いつかない恐れがあるとされる。",
"title": "出力変動"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "モジュールを複数の方向に向けて設置する場合個々の方向で最大出力になる時間帯がずれ、正午の瞬間最大出力が低くなる代わりに、他の時間帯に出力増加する。電力需要は時間帯で変動し一般に午後の方が多い。固定式設備の場合、電力需要との整合性の観点では真南よりも多少西向きに設置するのが好ましい一方で角度により発電量が減る場合がある。米国サクラメント市における解析例では、20度の傾斜を持たせて設置する場合、真南から30度西にずらすと、総発電量は約1%減少するが、容量が系統に貢献する度合いは25%近く増加し全体で経済的価値が大きくなると報告された。冷房需要の多い地域では日照と電力需要の相関関係が高い。",
"title": "出力変動"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "最大電力点追従制御 (Maximum power point tracking、MPPT) は、インバーターが太陽電池からの電圧と電流の積である電力が最大になる出力電圧で電流を取り出すための制御機能である。使用することで日射量に応じて最適の条件で電力を供給できる。インバーターが直流/交流変換動作を行わない場合太陽電池の出力電流がゼロなら出力電圧は開放電圧 (Open circuit voltage; Voc) である。インバータの電流制御によって徐々に太陽電池の出力電流を増やした時にインバータを通過する電力が増えればさらに電流を増やし、逆に増やして電力が減れば電流を減らす方法によって最大電力点に到達する。この制御方法を山登り法と呼ぶ。住宅用太陽光発電用インバータでは太陽電池がアモルファス、結晶系など多様な電流・電圧特性を持つためいずれの特性の太陽電池に対しても安定に最大電力点に追従して運転することが求められることから最大電力追従のための一回の電流の変化幅と変化の速さ・頻度の選択が重要である。最大電力点追従制御は,インバーターでの直流運転電圧を太陽電池アレイと直流ケーブルを通した最大電力点の電圧に近付ける働きをする。最大電力点追従制御は太陽光発電システムの使用者による測定が困難でインバーターの直流/交流変換の効率と同じく製造者による性能表示が重要である。",
"title": "出力変動"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "太陽光発電設備の発電部は、多数の太陽電池素子で構成される。素子やその集合体には、規模や形態に応じて下記の様な呼称がある。",
"title": "発電部の構成と特殊な製品例"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "大部分の製品が稼働できると推測される「期待寿命」とメーカーが性能を保証する「保証期間」がある。メーカーの製造ミスで早期出力低下などトラブルが起こることもある。通常の経年劣化による出力低下は20年で1割未満とされる。",
"title": "経年劣化と寿命"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "太陽は巨大な原子炉(半径7 x l0 ^ 5 km)であり、大量の放射エネルギー(3.8 x l0 ^ 23 KW、5800°K)を放出し、熱エネルギーに簡単に変換できる。太陽光のエネルギーは膨大で、地上で実際に利用可能な量だけで世界のエネルギー消費量の約50倍と見積もられる。地球に降り注ぐ太陽光の総エネルギー量173000 TWのうち僅か40 TWが光合成を経て有機物を生成する。人間活動で消費するエネルギー量はさらに少なく14 TWである。仮にゴビ砂漠に現在市販されている太陽電池を敷き詰めれば、全人類のエネルギー需要量に匹敵する発電量が得られるという。",
"title": "発電可能な量"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "生産に必要な原料は豊富で少なくとも2052年頃までの予測需要は十分満たせるとされる。シリコンを用いる太陽電池では資源量は事実上無限とされる。シリコンを用いない太陽電池はインジウムなどの資源が将来的に制約要因になる可能性があるが、技術的に使用量を減らせば2050年以降も利用可能とされる。太陽電池用シリコン原料の供給は2008年まで逼迫し価格が高止まりしたが各社の増産が追いつき2009年から価格低下が予測された。太陽電池専用シリコン原料生産技術は様々なものが実用化され、精製に必要なエネルギーやコストが大幅に削減されるとされる(ソーラーグレードシリコンを参照)。",
"title": "発電可能な量"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "世界的に見て、日本の平均年間日照量は最も日照の多い海外地域の半分程度であるが、ドイツなどより多い。国内では冬期に晴天が少なく積雪の多い日本海側で日照量(発電量)が少なく、太平洋側で多くなる。",
"title": "発電可能な量"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "潜在的には必要量よりも桁違いに多い設備量(7984GWp = 約8TWp分)が導入可能と見積もられるが、実際の導入量は安定電力供給の電源構成上の観点から決まると見られる。導入可能な設備量は102GWp-202GWp程度とされる。建造物へのソーラーパネル設置により期待される導入量が多く、2008年時点で将来の導入可能量は戸建住宅53GWp(ギガワットピーク)、集合住宅22GWp、大型産業施設53GWp、公共施設14GWp、その他60GWpとされていた。実際の普及局面ではその他に含まれる野立てが大半を占めた。",
"title": "発電可能な量"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2020年の太陽光発電の累計導入設備量は64.8GWで、日本の年間総発電量のうち約7.9%を発電した。",
"title": "発電可能な量"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "GHG排出量は化石燃料電源の排出量より格段に少なく、利用するとGHG排出量を削減できる。エネルギーペイバックタイムやエネルギー収支比の点でも実用水準である。",
"title": "温室効果ガス (GHG) 排出量とエネルギー収支"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "太陽光発電の発電電力当たりのGHG排出量や投入エネルギー量はシステム製造工程と設置環境での発電量でほぼ決まる。稼動時は燃料を必要とせずGHGを排出しない。メンテナンスや廃棄時に排出するGHGや投入エネルギー量も比較的少ない。",
"title": "温室効果ガス (GHG) 排出量とエネルギー収支"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "製造時等では温暖化ガスの排出を伴うが、発電中は全く排出しない。採鉱から廃棄までのライフサイクル中の全排出量をライフサイクル中の全発電量で割った値(排出原単位)は数十g-CO2/kWhであり、化石燃料による排出量(日本平均690g-CO2/kWh)より桁違いに少ない。",
"title": "温室効果ガス (GHG) 排出量とエネルギー収支"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "エネルギー源としての性能を比較する際に、エネルギーペイバックタイム (EPT) やエネルギー収支比(EPR)が指標として用いられることがある。製造や原料採鉱・精製、保守等に投入されるエネルギーに対して得られる電力の大きさを示す。ライフサイクルアセスメント(LCA)の一環である。エネルギー収支や環境性能の実用性を否定する意見は都市伝説として否定されている。",
"title": "温室効果ガス (GHG) 排出量とエネルギー収支"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "現状でEPTが1-3年程度、EPRが10-30倍程度とされる。",
"title": "温室効果ガス (GHG) 排出量とエネルギー収支"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "世界全体の太陽電池生産量は指数関数的に拡大し続ける。PV NEWSの集計は2010年の生産量が2009年に比べ111%増加し23.9GWp(ギガ・ワットピーク)となった(値は調査会社で異なりPhoton Internationalは27.2GWpとする)。地域シェアは中国台湾合計59%、欧州13%、日本9%、北米5%、他14%である。 世界全体の2010年の太陽光発電導入量はEPIAの集計では16.6GWpである。solarbuzz社の集計で18.2GW、額が820億米ドル(約6.5兆円)である。地域別年間導入量は欧州(13.2GWp)、日本(0.99GWp)、北米(0.98GWp)、中国(0.52GWp)、APEC(0.47GWp)、他(0.42GWp)である。 市場規模は2025年に太陽電池約9兆円、構成機器全体で約13兆円、システム構築市場が約18兆円となり、それぞれ2009年の5倍以上に達するとも予測されている。",
"title": "世界各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2015年の世界市場の太陽電池セル製造メーカー上位3社のシェアは次の通りである。上位10企業のシェアの合計は53%で、2008年の54%から低下した。供給過剰と価格競争が続き旧来の大手企業が倒産する例がある。",
"title": "世界各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2008年の世界市場の太陽電池セル製造装置売上高トップはアプライド・マテリアルズであった。以下Roth & Rau、Centrotherm、OC Oerlikon Balzers、アルバックと続く。",
"title": "世界各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本は1970年代のオイルショックから開発と普及に力を入れ、生産量や導入量で長く世界一であり、2000年ごろまで太陽光発電量は欧州全体より日本1国が多かった。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2004年頃には世界の約半分の太陽電池を生産していたが2010年の生産世界シェアは9%である。生産自体は2GWpを超えて増加しており(右図)半分以上を輸出する。輸入量は国内販売量の約16%である。国内出荷量の約8割は住宅向けで一戸建て向けが中心であるが近年は集合住宅での導入例も見られる。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2005年に新エネルギー財団 (NEF) の助成が終了すると国内市場は縮小し、価格が下がらなくなった。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2008年以降助成策強化で国内市場は拡大し価格が下がり始めた。(右図)",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "関連産業の規模は2010年度見込みが約1.3兆円とされた。2011年度に約1.5兆円に拡大するとする。約半分がセル・モジュールで半分が他産業の分である。関連雇用は4万人を超えたとする。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2011年3月の東日本大震災後、日本政府による自給エネルギーの確保と低炭素社会の実現という政策で、化石燃料や原子力に依存し過ぎないエネルギーミックスを推進。2012年7月には再生可能エネルギーの固定買い取り制度が導入され、新規事業者の参入が相次いだが、その後の買い取り価格の段階的な引き下げで市場拡大のペースが鈍化、事業者の乱立の影響もあり競争は激化し、早くも淘汰の時代に入り、倒産業者数も2015年度には54件と前年度比較で倍増、2016年には1月ー9月だけで42件(負債総額185億200万円)に上った。2016年には日本ロジテック協同組合(東京都)、太陽エナジー販売(神奈川県)、サン・エコイング(兵庫県)などが倒産した。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2015年4月30日、東京証券取引所がインフラファンド市場を創設し、太陽光発電を投資対象とする投資法人が上場している。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "国内ではメガソーラーなどの大規模発電に適した土地が少なくなっている。2018年において住宅の屋根に太陽光発電を置いているのは全国で約200万戸であり、これは住宅全体の7%である。国民が多額の費用を負担することにより太陽光発電の普及を後押しする買い取り制度について、19年には50万件・200万キロワット分の太陽光発電の買い取り義務が終わる。太陽光発電協会は50年に2億キロワットの国内累積導入量を目指す長期目標を立てた。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本では2011年現在余剰電力買取制度(固定価格買取制度)と国・自治体の各種助成策が実施された。2012年からはさらに公共産業向け設備への全量買取制度が導入されると共に、他の再生可能エネルギーも全量買取対象に加わる。これらの制度はFIT制度と呼ばれているが、2020年にはFIT制度は廃止される見込みだ。 共同で太陽光発電所を設置・運営し売電収入を分配する市民共同発電所の設置例・検討例がある。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "これらのFIT政策により太陽光発電導入は2013年から急激に進み、 太陽光発電設備の発電能力容量は2015年の末までには3000万kW(30GW(ギガワット))であったが、2017年3月にはほぼ40GWに達した。https://solarjournal.jp/solarpower/22325/。 さらに太陽光発電協会は2018年中には累積発電能力容量は40-50GWになるだろうと予測した。 実際に、政府の再生可能エネルギー調達価格等算定委員会は2018年3月の発電能力容量は44.5GW、2019年は56GWであったと発表した。政府の2030年エネルギーミックスの太陽光導入目標値は88GW以上とされたが、これは達成可能な数値であり、むしろ導入抑制のために政府はメガソーラー認定取り消しを実施した(2030年エネルギーミックスの再生可能エネ発電導入は目標22-24%だったが、2021年の政府方針では30%程度に引き上げる)。実際の発電量については、2018年の日本の全発電量に占める再生可能エネルギー発電量は15%だったが、そのうち従来水力発電が7%、太陽光発電7%、その他が1%であった。2019年には再生可能エネルギー発電量は16%より多くなり、この中で太陽光発電量が増えて水力発電量を追い越す。2030年には再生可能エネルギー発電量は30%程度になる予定。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "太陽光発電の日本平均の設備利用率は夜昼年間を通すと全体の13%だと計算されている。すなわち日本の天候では年間365日x24時間すなわち8760時間のうち1100時間だけ、太陽光パネルがフル発電しそれ以外の時間は休止している計算である。結果として1kw太陽光パネルは日本では1年間に1100kWh発電する。40GWの太陽光発電装置による年間発電量は、40GWx1100時間=年間440億kWh程度であり、2017年の日本の電力総需要(0.9兆kWh)の5%以上が太陽光発電でまかなわれた。日本では2018年の昼間電力については1割以上を太陽光発電に依存している。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "晴れた日の昼間は冷房のため電力需要が12時以降に増加するが、太陽光発電の発電量も10時から14時までが最大で、夏の冷房等電力需要と供給の時間バランスはおおよそ一致している。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "10-14時は定格発電能力の6-7割の出力があり、需要の増加に対応して太陽光は電力供給量を補うことができている。少し古いデーターだが2015年夏の場合、沖縄電力を除く他の9電力会社の管内では10-14時の時間帯に30GWの太陽光発電設備によって1千万kW以上すなわち原子力発電所10基稼働分程度の太陽光電気を供給してエアコン電力需要に対応した。半面、太陽光発電は4-5月と7-8月の正午頃に最大発電するので、その季節には再稼働原発数が多い九州電力では電力供給が上回り、昼間に太陽光電気の受け入れ拒否を行うことも増えてきた。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2021年には法規制を逃れるための「分割案件」が横行していることが経済産業省の有識者会議で問題視され、10kWh未満の地上設置型について分割時の審査が行われることになった。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2010年の日本の太陽電池生産企業はシャープ、京セラ、三洋電機(2009年パナソニックの子会社化後に解体)、三菱電機(2020年撤退)である。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "他にセル生産や部材供給に関わる企業が多数存在する(例:)。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "中国やカナダ等海外からの日本市場参入が見られる。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2017年5月16日、兵庫県内の複数の太陽光発電所から送電ケーブルを盗んだ電気工事業者が逮捕された。被害は50件、約9,100万円。山間部など人目のつかない、警備の手薄な発電所が狙われており、状況によっては防犯体制などのリスクや対策費用が必要となること判明している。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "住宅用ソーラーパネル設置には下記の困難がつきまとうので注意が必要である。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "太陽光発電は屋根に設置することもあり、ちゃんとした工事をしないと雨漏りに繋がる。しかし訪問販売業者は、施工コストを削るために足場が必要な現場でも設置しない、下請け業者を使って安く済ませる、メーカーの認定を受けていない等、工事の質が悪い。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "雨漏りについては、建築した業者に許可等がなく設置をすると、建築した会社の保証なども利かなくなり、さらに訪問販売業者の対応もずさんであると、住宅にとって、雨漏りは構造躯体の腐食、シロアリの原因など致命傷に直結する。そういった防水処理の知識がない、または経験の浅い業者での施工により雨漏りに繋がっているケースも多々ある。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2019年1月28日、消費者庁消費者安全調査委員会がまとめた報告書によれば、2017年11月までの約10年間で住宅用太陽光発電システムから火災、発火、発煙、過熱が生じた件数は127件。うち、少なくとも7件は屋根側にも延焼した(ただし、住宅用太陽光発電システムは、2018年10月時点で全国約240万棟に普及しており分母になる数は非常に大きい)。火災となったケースは、いずれもシステムと屋根が一体型となったもので、報告書では注意を呼びかけている。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "個人宅屋根やビルなど巨大施設屋上及び壁面・平地への太陽光パネル設置と異なり、山地丘陵での森林伐採など山林を切り崩しての太陽光パネル設置(工事)に加え、建設後に関しては水質汚濁や豪雨災害時における土石流、地滑りなど土砂災害の危険や土壌流出などによる砂漠遷移化といった自然環境破壊を招くことがある。そのため、景観への悪影響や土砂災害を誘発するおそれがあるなどとして、特に大規模太陽光発電所(メガソーラー)への反対運動が各地で起こっている。2021年4月1日時点で太陽光発電設備関連の設置規制条例が146市町村で設けられ、都道府県単位でも兵庫や和歌山、岡山県では制定されている。",
"title": "日本の状況"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "宇宙で太陽光発電を行う宇宙太陽光発電構想があり、日本、アメリカ、欧州等で研究が進められている。",
"title": "宇宙太陽光発電"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "太陽光発電用の人工衛星を打ち上げ、発電した電力をマイクロ波またはレーザー光に変換して地上の受信局に送信し、地上で再び電力に変換する構想である。宇宙空間の太陽光は、大気で減衰される地上より強力であり、大気圏外では地球上の天候(雲)や季節に左右されない。",
"title": "宇宙太陽光発電"
}
] |
太陽光発電は、太陽光を太陽電池を用いて直接的に電力に変換する発電方式である。大規模な(特に設備容量が1メガワットを超える)太陽光発電所は「メガソーラー」とも呼ばれる。再生可能エネルギーである太陽エネルギーの利用方法の1つである。
|
{{Otheruses|光電効果を利用している「太陽光発電」|太陽エネルギーを熱として利用する発電方式|太陽熱発電}}
{{右|
[[ファイル:Giant_photovoltaic_array.jpg|thumb|250px|none|砂漠に設置された大規模'''太陽光発電所'''。それぞれのパネルは一軸式の追尾装置(ソーラートラッカー)上に取り付けられ、太陽と正対するように旋回する(米国、2007年10月)]]
[[ファイル:Solar panels on house roof.jpg|thumb|250px|none|一般家庭の屋根に設置された太陽光発電システム(米国、2007年5月)]]
[[ファイル:Solor panels on the water.jpeg|250px|thumb|none|水上式太陽光発電システム(富山県射水市、2010年(平成22年)4月)]]
[[ファイル:Nyakōji-ike, Kutsukake-cho Toyoake 2018.jpg|250px|thumb|none|水上式メガソーラー発電所(愛知県豊明市、2018年(平成30年)5月)]]
}}
'''太陽光発電'''(たいようこう はつでん、またはソーラー発電、{{lang-en-short|Photovoltaics}}{{refnest|group="注"|"photovoltaic"という語は本来は太陽光発電パネルの動作原理である「[[光起電力効果|光起電力]]([[光電効果]])の」「光起電力に関する」という意味の形容詞であるが、語尾を"-ics"とした"photovoltaic'''s'''"という語は太陽光発電を指す名詞として使用されている<ref>[http://dictionary.reference.com/browse/photovoltaic?s=t]</ref><ref>[http://dictionary.reference.com/browse/-ics]</ref><ref>[http://dictionary.reference.com/browse/photovoltaics?s=t]</ref>。}}, Solar photovoltaics<ref>[http://www.cansia.ca/solar-energy-101/what-solar-photovoltaics-pv What is Solar Photovoltaics (PV)? | CanSIA<!-- Bot generated title -->]</ref>、略して'''PV'''ともいわれる)は、[[太陽光]]を[[太陽電池]]を用いて直接的に[[電力]]に変換する[[発電]]方式である。大規模な(特に設備容量が1メガワットを超える)太陽光発電所は「'''メガソーラー'''」とも呼ばれる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=記録的大雨 三浦半島で崖崩れ相次ぐ「危険と思っていた」|url=https://www.kanaloco.jp/news/social/article-562549.html|website=カナロコ by 神奈川新聞|accessdate=2021-07-04|language=ja|quote=同市田浦のメガソーラーの工事現場でも同日午前9時ごろ、崖崩れが起きた。}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=日本中を太陽光パネルが埋め尽くす未来の現実味 {{!}} ブルームバーグ|url=https://toyokeizai.net/articles/-/438302|website=東洋経済オンライン|date=2021-07-03|accessdate=2021-07-04|language=ja}}</ref>。[[再生可能エネルギー]]である[[太陽エネルギー]]の利用方法の1つである。
== 概要 ==
[[ファイル:ROSSA.jpg|250px|thumb|[[ISS]]の太陽電池パネル]]
[[ファイル:NoupHeadLighthouse.jpg|250px|thumb|灯台の電源として用いられる太陽光発電設備]]
技術的特徴として、発電電力量が[[日照]]([[気候]]・[[天候]]や[[季節]]、[[地形]]による差が大きい)に依存し不随意に変化する一方、昼間の電力需要ピークを緩和できる。さらに[[火力発電]]では不可避の[[化石燃料]]消費量と[[温室効果ガス]]排出量をともに削減できる。[[放射性廃棄物]]の処理や事故が起きた場合の汚染被害といった課題を抱える[[原子力発電]]への依存度を下げる手段としても活用されつつある<ref>[http://www.sankei.com/economy/news/171212/ecn1712120018-n1.html 仏、太陽光発電に3兆円 原発依存率引き下げへ] 産経新聞ニュース(2017年12月12日)2018年4月20日閲覧</ref>。さらに、発電装置はパネル状なので屋上にも設置でき、本来であれば太陽光発電専用の敷地を必要としない。だが、[[メガソーラー]]式では太陽光発電専用の敷地を用意している。
[[#装置構成|設備]]は1つ目として太陽電池、2つ目は電力として利用するために必要な[[電圧]]及び[[周波数]]を変換する[[インバータ]]([[パワーコンディショナー]])で構成される。発電が行われる時間帯・地域と電力需要が異なる場合には、[[蓄電池]]も組み合わせて調整される。
開発当初は極めて高価で、[[宇宙開発]]等限られた用途に使われた<ref name="Kuwano_History" />。近年は[[#発電コスト|発電コスト]]の低減が進み、多くの発電方法と比較して高コストながら、年間数十[[ギガ]][[ワット]]単位で導入されるようになった([[太陽光発電の市場動向]]を参照)。今後コスト低減や市場拡大が続くと見込まれ<ref name="EPIA2011Sep_Fig12" /><ref name="ETP2010_Costs" /><ref name="FujiKeizai_201012" />、各国で普及[[#政策|政策]]が進められると同時に、貿易摩擦に発展する例や<ref name="Forbes20120524" />、価格競争で倒産する企業が見られる<ref name="PVmag20120111" />。
[[SDGs]]の観点とパネルのコスト低下から目覚ましい勢いで普及しており、[[IAEA]]は太陽光発電が今後10年の再生可能エネルギーの供給拡大をけん引すると予想している。ビロル事務局長は「太陽光が世界の電力市場の'''新たな王様'''になるとみている」と述べている<ref>{{Cite news|title=世界の発電、太陽光が「新たな王様」に 再生エネ拡大で=IEA|url=https://jp.reuters.com/article/iea-energy-renewables-idJPKBN26Y0PT|work=Reuters|date=2020-10-13|accessdate=|language=|first=|last=}}</ref>。
=== 長所 ===
* 装置
** 発電部(セル)に可動部分が無く[[ソリッドステート]]であるため、原理的に機械的故障が起きにくい([[太陽電池#原理]]を参照)。
** 規模を問わず発電効率が一定なため小規模・分散運用に向く。
** 発電時に廃棄物、排水・排気、騒音・振動が発生しない。
** 出力ピークが昼間電力需要ピークと重なり、需要ピーク電力の削減に効果がある<ref name="Fraunhofer_liefern">[http://www.ise.fraunhofer.de/aktuelles/meldungen-2011/solaranlagen-liefern-spitzenlaststrom Solaranlagen liefern Spitzenlaststrom, Statement Prof. Bruno Burger, Fraunhofer ISE, Freiburg, Juni 2011] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110831055259/http://www.ise.fraunhofer.de/aktuelles/meldungen-2011/solaranlagen-liefern-spitzenlaststrom |date=2011年8月31日 }}(ドイツにおける太陽光と風力発電の発電実績の例(独語))</ref>。
* 設置位置
**屋上に設置できるため、専用の敷地を必要としない
** 需要地に近接設置が可能で送電コストや損失を最小化できる。
** 蓄電池の利用で、非常用電源となりうる。
** 運搬・移動に適した小型製品がある。
** 他の発電方式と比較し設置制限が少ない。建築物の屋根や壁面に設置でき土地を占有せずに設置可能。
* 社会
** [[エネルギー自給率]]を向上させる。
** 稼働に化石燃料を必要とせず、エネルギー[[国家安全保障|安全保障]]上で有利([[#エネルギー収支]]を参照)。
** 発電時に温室効果ガスを排出せず、設備製造等での排出も比較的少ない([[#温室効果ガス (GHG) 排出量]]を参照)。
=== 短所 ===
* 装置
** 送配電系統へ連結する場合、[[直流]]から[[交流]]へ、及び必要な[[商用電源周波数]]へ変換するための[[インバータ]]装置が必要。
* コスト
** 発電電力量当たりのコストが他の発電方法より割高である([[#発電コスト]]を参照)。
** 設置面積当たりの発電電力量が、集中型発電方式に比べて低い。
** 発電電力量に関してスケールメリットが効かず、規模を拡大しても発電効率が変わらない(コストにはスケールメリットがある)。
** 夜間には発電できず、昼間も天候等により発電電力量が大きく変動する<ref name="AIST_fluctuation">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/output/fluctuation.html 出力変動と緩和策](産総研 太陽光発電工学研究センター)</ref>。
* 発電環境
** 高温時に出力が落ちる<ref name="AIST_output">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/output/irradiance.html 実環境における発電量](産総研 太陽光発電工学研究センター)</ref>([[太陽熱発電]]と逆の特性。[[太陽電池#その他参考資料|温度の影響]]参照)。
** 影やパネルの汚れ、[[火山灰]]、降[[雪]]等で太陽光を遮蔽されると、電力出力が落ちる<ref name="AIST_output" /><ref name="Sanyo_Kaisetsu">[http://jp.sanyo.com/solar/users/question/ 住宅用太陽光発電システム Q&A、三洋電機]{{リンク切れ|date=2015年2月}}(メーカー解説例、2011年6月27日閲覧)</ref><ref name="Nikkei_Sumai">[http://sumai.nikkei.co.jp/edit/classroom/detail/MMSUc1001022032011/ 荒尾博、失敗しない家づくり教室第28回太陽光発電と日影規制、日経住宅サーチコラム、2011/3/2](解説記事例)</ref>。また、影はパネル全体にかからなくとも、部分的に影になるだけでも発電効率は大幅に低下する<ref>{{Cite journal|和書 | author = 細川 佳輝 | author2 = 鍋島 美奈子 | author3 = 中尾 正喜 | author4 = 西岡 真稔 | author5 = 小澤 吉幸 | author6 = 大橋 良之 | author7 = 村山 裕哉 | year = 2012 | title = H-69 太陽光パネルへの日影が発電効率へ及ぼす影響に関する実測調査 | journal = 空気調和・衛生工学会大会 学術講演論文集 | pages = 2825-2828 | publisher = 空気調和・衛生工学会 | doi = 10.18948/shasetaikai.2012.3.0_2825 | ref = harv }}</ref>。
[[File:原子力と再エネに必要な面積.jpg|thumb|原子力と再エネに必要な面積]]
* 環境
** 十分な発電量を得るためには広い面積が必要であり<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/tokushu/nuclear/nuclearcost.html | title = 原発のコストを考える | publisher = 経済産業省 | date = 2017-10-31 | accessdate = 2022-06-05}}</ref>、[[景観]]・自然環境への影響や[[災害]]リスクの増大が懸念される。具体的には、発電施設建設のため[[森林]]が伐採されることなどによる動植物の生息環境悪化や土砂災害の危険性が指摘されている<ref>[https://www.wbsj.org/activity/spread-and-education/toriino/toriino-kyozon/mega-solar/ 早急な法整備を!急増するメガソーラー施設][[日本野鳥の会]](2018年4月20日閲覧)</ref>。
** 人家近くに設置された場合、パネルで[[反射 (物理学)|反射]]された太陽光による[[光害]]や[[熱中症]]が引き起こされる<ref>[https://www.sankei.com/article/20160119-YW6BHGNEMFJMLJLEWAYQ6H3QUU/ 【関西の議論】「太陽光パネルで熱中症」〝室温52度〟わが家は地獄に変わった!?再生可能エネルギーは迷惑施設なのか][[産経新聞|産経WEST]](2016年1月19日)2018年4月20日閲覧</ref>。
** [[火災]]等で設備が破損した場合、日中はもちろんのこと夜間であっても、炎の光で発電が継続されてしまうため、設備が新たな[[発火]]の原因になったり、放水による[[漏電]]で消火作業中の消防隊員が[[感電]]したりする恐れがある。なお、消防隊員が残火確認中に感電した事例も報告されている<ref>消防庁消防研究センター「[http://nrifd.fdma.go.jp/publication/gijutsushiryo/gijutsushiryo_81_120/files/shiryo_no83.pdf 太陽光発電システム火災と消防活動における安全対策]」消防庁、2014年3月</ref><ref>独立行政法人産業技術総合研究所太陽光発電研究センターシステムチーム「[https://unit.aist.go.jp/rcpv/ci/service/PV_Electrical_Safety(AIST2015)/Technical_Information_on_Fire-Fighting_for_PV_Fire_Accident(AIST2015).pdf 太陽光発電火災発生時の消防活動に関する技術情報]」独立行政法人産業技術総合研究所、2014年2月</ref>。このため消火作業・鎮火宣言が遅れることがある。
** 太陽光パネルの損壊部から、[[鉛]]や[[セレン]]等の[[有害物質]]が流出し、[[土壌汚染]]を招く危険がある<ref>太陽光発電設備の廃棄処分等に関する実態調査、総務省、平成29年9月</ref>。破損したパネルを処理する場合は、排出事業者が処理責任を負う<ref>廃棄物処理法第3条</ref>。
** 設置者は、感電の危険性や有害物質流出についての注意喚起し、[[災害]]時には安全のために立ち入り禁止としたり、破損部をシートで覆う等の危険防止策が必要となる<ref>熊本地震により被災した太陽光発電設備の保管等について、環境省通知、平成28年5月16日</ref>。
** 経年劣化(後述)は避けられず、環境省の「太陽光発電設備のリサイクル等の推進に向けたガイドライン」によると、太陽光パネルの製品寿命は約25~30年とされる。日本国内だけでも[[2030年代]]以降、年間数十万トンの[[産業廃棄物]]が生じるものと推測されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ieei.or.jp/2019/06/special201310_01_067/ |title=太陽光パネルの大量廃棄時代に備える |publisher=国際環境経済研究所 |date=2019 |accessdate=2022-11-22}}</ref>。
* 気温の上昇
**[[ファイル:ヒートアイランド各種対策導入後の気温差グラフ.png|thumb|ヒートアイランド各種対策導入後の気温差グラフ]]都市部では[[ヒートアイランド]]の原因になる可能性がある。ソーラーパネルの設置により、パネルの両面から大気へと顕熱輸送が生じるため、パネルが無い場合に比べて周囲の気温が高くなる可能性がある。太陽光パネルによる影のひさし効果を期待する意見もあるが、実際には屋上とパネルは離れており、屋上面積が2倍になるのと等しく放熱面積もパネルの裏表からの2倍となりパネル設置前よりも温度は上昇する。そのため大規模に設置された場合、気温を上昇させる可能性がある<ref>{{Cite journal|和書 | author = 一谷匡陸 | author2 = 森山正和 | author3 = 竹林英樹 | year = 2005-03 | title = 太陽電池パネルのヒートアイランド抑制効果に関する研究 | journal = 神戸大学都市安全研究センター研究報告 | volume = 9 | pages = 321-326 | publisher = 神戸大学都市安全研究センター | ISSN = 13429167 | naid = 110004629452 | ref = harv }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 | author = 大橋唯太 | year = 2004 | title = 各種ヒートアイランド対策の導入が都市気温に及ぼす影響 : 東京23区オフィスビル街を対象にした数値実験 | journal = 岡山理科大学紀要. A, 自然科学 | volume = 40 | pages = 71 - 80 | publisher = 岡山理科大学 | ncid = AN00033244 | url = http://id.nii.ac.jp/1182/00001748/ | ref = harv }}</ref>。
*火災
**火災時の消火が困難である。太陽光発電は光があたると自然に発電するため、通電を止めることができずに、消火時の水を通して消防隊員が感電するおそれがある。パネルの表面は滑りやすく隊員が屋根で消火活動する際に滑落の危険性がある。そのため、感電しないように噴霧注水ないし遠くからの棒状注水を行う、高い絶縁性能を持つ手袋及び靴を着用するなどの工夫が要るが、不可能というほどでもなく日本で消火の妨げになったことはない<ref>{{Cite web|和書|title=ファクトチェック:「太陽光パネルの火災は水で消せない」は誤り SNSで拡散 |url=https://mainichi.jp/articles/20220113/k00/00m/040/080000c |website=毎日新聞 |accessdate=2022-04-06 |language=ja}}</ref>。また、配線の損傷によりアーク放電が発生し、延焼を広げる可能性がある<ref>{{Cite web|和書| url = https://unit.aist.go.jp/rpd-envene/PV/ja/service/PV_Electrical_Safety/Technical_Information_on_Fire-Fighting_for_PV_Fire_Accident(AIST2015).pdf | title = 太陽光発電火災発生時の消防活動に関する技術情報 | publisher = 独立行政法人 産業技術研究所 | website = 国立研究開発法人 産業技術総合研究所 | accessdate = 2021-10-02 }}</ref>。
***感電リスク低減対策として、遮光して発電量を落とす事が必要とされる。方法として、遮光のあるシートなどで覆う方法や<ref>{{Cite report|author=加藤 達仁|author2=中西 智宏|author3=山内 一弘|author4=田中 守人|author5=石井 剛|author6=渡邉 茂男|author7=東京消防庁消防技術安全所|title=太陽光発電システムの消防活動時の危険性に関する検証(その2)|date=2013|url=https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/hp-gijyutuka/shyohou2/50/50-5.pdf|author7link=東京消防庁}}</ref><ref>{{Cite report|author=産業技術総合研究所|title=太陽光発電の直流電気安全のための手引きと技術情報(第 2 版)|date=2019|url=https://unit.aist.go.jp/rpd-envene/PV/ja/service/PV_Electrical_Safety/Technical_Information_on_PV_Electrical_Safety2(AIST2019).pdf|authorlink=産業技術総合研究所}}</ref>、黒色の水性ポリマーなど遮光性の塗料を吹きかける放射器などが開発されている。しかし、塗料は表面が濡れていると定着しにくいことや<ref name="環境省2004">{{Cite report|author=環境省|authorlink=環境省|title=平成30年度環境技術実証事業 テーマ自由枠 実証報告書|date=Mar 2019|url=https://www.env.go.jp/policy/etv/pdf/list/h30/130-1803b.pdf}}</ref>、遮光シートは作業に手間がかかることなど課題もある<ref name="大関2013">{{Cite journal|和書 | author = 大関 崇 | author2 = 吉富 政宣 | year = 2013 | title = 太陽光発電の火災リスクに関して | journal = 安全工学 | volume = 52 | issue = 3 | pages = 162-172 | publisher = 安全工学会 | doi = 10.18943/safety.52.3_162 | ref = harv }}</ref>。
*電波障害
**パワーコンディショナ(GCPC)及びパワーコンバーター(DDPC)から発生した電波が無線機器に干渉し電波妨害や障害を起こす可能性がある。国の対応としてIEC(国際電気標準会議)に妨害波許容値設定モデルの提案をしている<ref>{{Cite report|author=総務省電波利用環境委員会|authorlink=総務省|title=電波利用環境委員会報告概要~CISPRウラジオストク会議の審議結果~|date=2018-01-24|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000528963.pdf}}</ref><ref>{{Cite report|author=総務省電波利用環境委員会|authorlink=総務省|title=電波利用環境委員会報告(案)概要~CISPRの審議状況及び会議対処方針について~|date=2022-09-01|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000838917.pdf}}</ref>。
=== 設置場所 ===
制約が少なく、[[腕時計]]から[[人工衛星]]にも用いられる。屋上、若しくは、地上に直接設置でき、太陽光を十分に受けられパネル重量に耐えられる場所であれば、建物の[[屋根]]や[[壁]]など様々な場所に設置可能である<ref name="JPEA_BIPV_example">[http://www.jpea.gr.jp/11basic072.html 公共施設における導入事例](JPEA)</ref><ref name="PVPS_Gallery">[http://www.iea-pvps.org/photos/index.htm Photo Gallery of PV-installations] (IEA PVPS)</ref>。
軽量柔軟なフレキシブル太陽電池では、重量や接地面形状の制約も減少する<ref name="Fuji_Flexible">[http://www.fesys.co.jp/sougou/seihin/fwave/tokuchou.html フレキシブルなアモルファスシリコン太陽電池の例(富士電機システムズ株式会社F-Wave)]</ref>。剛性があるパネルであっても通常の半分程度まで軽量化し、耐荷重の制約を減らした製品も開発されている<ref>[https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1210/02/news023.html 独自の軽量ガラスを活用してメガソーラー、屋根に負担をかけずにパネルを設置、ITMedia スマートジャパン、2012年10月02日]</ref>。
前述のように、人家近くや緑地を除去しての建設には弊害が大きい。波が穏やかな内水面に設置したり<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00466557 東京センチュリーと京セラ、千葉・市原に国内最大規模の水上メガソーラー]『[[日刊工業新聞]]』2018年3月21日(2018年4月19日閲覧)</ref>、海外では[[砂漠]]に建設したりする例もある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO17663720U7A610C1X93000/ 丸紅のUAE太陽光 天然ガスより安く、発電コスト2円台] 日本経済新聞ニュースサイト(2017年6月19日)2018年4月20日閲覧</ref>。
== 装置構成 ==
[[ファイル:PV-system-schematics-residential-JP.png|thumb|right|300px|住宅用太陽光発電設備(系統連系型)の構成例<ref name="SekkeiSekou"/><ref name="SC2nd_Fig10_2"/>]]
主に以下の要素で構成する<ref name="SekkeiSekou">[[#太陽光発電協会編 (2011)|太陽光発電協会編 (2011)]] {{要ページ番号|date=2015-11-28}}</ref><ref name="SC2nd_Fig10_2">Solar Cells and their Applications Second Edition, Lewis Fraas, Larry Partain, Wiley, 2010, ISBN 978-0-470-44633-1 , Figure 10.2</ref>。
{{multiple image
|direction = horizontal
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|header align = center
|image1 = Solarlight.JPG
|caption1 = ガーデン ソーラーライト
|width1 = 155
|image2 = Solar-lamp.gif
|caption2 = 構成
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}}
* [[太陽電池]]
* 架台
* 接続箱
* [[パワーコンディショナー]]
** インバータ
** 保護回路
* (直流側/交流側 開閉器)
* (売電用電力メーター)
* ([[チャージコントローラー]])
* ([[蓄電池]])
太陽電池からの電力は接続箱経由で取り出す。独立型での接続箱とインバータや[[パワーコンディショナー]]との間には直流側開閉器が備わる。系統連系型の接続箱とパワーコンディショナーとの間にも直流側開閉器があるが、送電網につながる分電盤との間に交流側開閉器を備える。(余剰電力を)売電する系統連系型設備では売電用の電力メーターが買電力用のメーターと直列につなげる<ref name="SekkeiSekou" />(全量を売電する系統連系設備では、太陽電池に繋がる配線と建物内配線を分離する)。
未電化地域や宇宙、遠洋・離島などの遠隔地や道路標識等の小電力用途では系統に繋がず、蓄電池や他の電源を組み合わせた独立型や独立蓄電型で構成される。
一般住宅用の系統連系型では高価な大型蓄電池の設置は稀であるが、災害等での停電時に電力供給を可能とする家庭用大型蓄電池製品も存在する<ref>住宅用大容量蓄電池をパナソニックが製品化、容量1.6kWhと3.2kWh。アットマークアイティ・モノイスト2011年10月。</ref><ref>ドコモが太陽光蓄電システム 家庭向け10万円以下。2012年にも発売。日経新聞、2011年10月27日。</ref>。独立蓄電型に商用電力を常時併用し災害停電発生時に必要最小限の電力を連続供給する大型の[[無停電電源装置|UPS]]が発売された<ref>[http://sdb-solarups.nagano-now.info/ 信越電気防災 ソーラーUPS]</ref>。
== 発電コスト ==
[[ファイル:EU-PV-LCOE-Projection.png|200px|right|thumb|欧州での太陽光発電の発電コスト見通し<ref name="EPIA2011Sep_Fig7">[http://www.epia.org/uploads/tx_epiapublications/Competing_Full_MR.pdf Solar Photovoltaics competing in the energy sector - On the road to competitiveness, EPIA, Sep 2011], Figure 7</ref>]]
[[ファイル:RE-Cost-ETP-2050-JP.png|thumb|200px|設備容量あたりの各種発電所建設単価予測 (2050年)<ref name="ETP2010_Costs"/>]]
太陽光発電のコストは、一般的に設備の価格でほぼ決まる。運転に[[燃料]]費は不要であり、保守管理費用も比較的小さい。エネルギーセキュリティ向上などの付加的なコスト上のメリットも有する。特に昼間の需要ピークカットのコスト的メリットが大きいとされる<ref>[[#ロビンス (2005)|ロビンス (2005)]], pp. 131-132.</ref><ref name="solarrevolution">Solar Revolution / The Economic Transformation of the Global Energy Industry, Travis Bradford, The MIT press, ISBN 978-0-262-02604-8</ref>。途上国で送電網が未整備な場合、消費電力に比して燃料輸送費や保守費が高い場所など(山地、離島、砂漠、宇宙等)では、現段階でも他方式に比較して最も安価な電源として利用されている。
設備導入費用の内訳は太陽電池モジュール(パネル)以外の工事・流通・周辺機器の割合が比較的大きく、日本国内では2011年時点でパネル製造費割合が2割程度とされる<ref name="NREL_Cost_PVSC37">[http://www.nrel.gov/docs/fy11osti/50714.pdf An Economic Analysis of Photovoltaics Versus Traditional Energy Sources: Where Are We Now and Where Might We Be in the Near Future?, Michael Woodhouse, Ted James, Robert Margolis, David Feldman, Tony Merkel, Alan Goodrich, NREL/CP-6A20-50714, July 2011]</ref>。{{see|[[太陽光発電のコスト#コスト構造]]}}
発電設備自体のコスト以外では[[火力発電]]や[[原子力発電]]の発電電力量の削減を進めるに伴い、需要と供給の各種変動ギャップを埋める費用発生も見込まれる。[[風力発電]]等の電源も関連する。[[スマートグリッド]]等の総合的な対策が各国で検討推進されている<ref name="METI_SmartGrid">[https://www.meti.go.jp/policy/energy_environment/smart_community/ 経済産業省、スマートグリッド・スマートコミュニティ(関連情報の集積ページ例)]</ref><ref name="EU_SmartGrid">[http://www.smartgrids.eu/ SmartGrids Technology Platform](欧州のスマートグリッド開発推進機構)</ref><ref name="US_SmartGrid_NETL">[http://www.netl.doe.gov/moderngrid/docs/A%20Vision%20for%20the%20Modern%20Grid_Final_v1_0.pdf A Vision for the Modern Grid(NETL)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081230075251/http://www.netl.doe.gov/moderngrid/docs/A%20Vision%20for%20the%20Modern%20Grid_Final_v1_0.pdf |date=2008年12月30日 }}</ref><ref name="US_SmartGridLaw">[http://www.thomas.gov/cgi-bin/query/z?c110:H.R.6.ENR: U.S. Energy Independence and Security Act of 2007]</ref>。
開発当初は高価で用途も人工衛星等に限られたが<ref name="Kuwano_History">[[#桑野 (2011)|桑野 (2011)]], pp. 38, 89.</ref>[[経験曲線効果]]に従い価格が低下した<ref name="EPIA2011Sep_Fig3">[http://www.epia.org/uploads/tx_epiapublications/Competing_Full_MR.pdf Solar Photovoltaics competing in the energy sector - On the road to competitiveness, EPIA, Sep 2011], Figure 3,4</ref>。現時点でもコストが比較的高く普及促進に助成が必要とされる国や地域もあるが<ref name="IEA_Deployment">[http://www.iea.org/publications/free_new_Desc.asp?PUBS_ID=2444 IEA, Deploying Renewables 2011] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120518003811/http://www.iea.org/publications/free_new_Desc.asp?PUBS_ID=2444 |date=2012年5月18日 }}</ref>、条件の良い地域では既に[[グリッドパリティ]]が達成されている<ref name="GTM201112">[http://www.greentechmedia.com/articles/read/New-Study-Solar-Grid-Parity-Is-Here-Today/ New Study: Solar Grid Parity Is Here Today, Greentech Media, Dec 7 2011]</ref>。中長期的には、[[風力発電]]と共にコスト([[均等化発電原価]])が最も安い発電手段の一つになると予測されている<ref name="ETP2010_Costs">[http://www.iea.org/W/bookshop/add.aspx?id=401 IEA, Energy Technology Perspectives 2010, Chapter3, Table 3.2 - 3.5] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110826185433/http://www.iea.org/w/bookshop/add.aspx?id=401 |date=2011年8月26日 }}</ref>。
[[グリッドパリティ]]達成はモジュール価格で1ドル/Wp以下が目安とされた。2012年時点でパネルの種類によっては0.5 - 0.9ユーロ/[[ワットピーク|Wp]]前後になっている<ref name="SolarServer_price">[http://www.solarserver.com/service.html Current price index of solar PV modules, SolarServer.com]</ref>。更なるコスト低減を表明する企業もある<ref name="FirstSolar_2014">[http://www.pv-tech.org/chip_shots/_a/52cent_manufactured_cost_per_wat_first_solar_analyst_day_post-mortem_part_i/ First Solar analyst day post-mortem, Part I: 52 cents manufactured cost per watt seen by 2014, PV-tech.org, 30 June 2009]</ref>。
フランス・ドイツ・イギリス等で2020年までに順次既存の火力発電とコストで競い始めると予測されている<ref name="EPIA2011Sep_Fig12">{{PDFlink|[http://www.epia.org/uploads/tx_epiapublications/Competing_Full_MR.pdf Solar Photovoltaics competing in the energy sector - On the road to competitiveness, EPIA, Sep 2011]}}, Figure 12</ref>。また、米国の好条件地域では、2012 - 2014年頃に天然ガス等の発電コストよりも安くなり始めると予測されている<ref name="GTM_2011">[http://www.greentechmedia.com/images/wysiwyg/research-blogs/GTM-LCOE-Analysis.pdf GTM Research, Cost and LCOE by Generation Technology, 2009 - 2020], P.5</ref>。
日本では補助金が中断した2005年頃から一時的に価格が上昇したが<ref name="IEA_PVPS_JPModulePriceTrend">[http://www.iea-pvps.org/trends/download/index.htm IEA PVPS, Indicative module prices in national currencies per watt in reporting countries]</ref>、2008 - 2009年にかけて普及促進政策が施行されてからは低減を再開した<ref name="KadenWatch201108">[https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/solar/473699.html 家電Watch、藤本健のソーラーリポート再生エネ法成立でソーラー市場が一気に拡大 〜2020年までに発電コストは商用電力以下に、2011年8月]</ref>。{{see|[[太陽光発電のコスト#政策]]}}さらに、2012年7月に施行された再生可能エネルギー特別措置法に基づく[[固定価格買い取り制度]]により<ref name="meti-nattoku">[https://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saiene/ なっとく!再生可能エネルギー|資源エネルギー庁]</ref>、「メガソーラー(大規模太陽光発電所)」に代表される産業用の太陽光発電の導入が進み、コストの下落が加速した<ref>[https://www.enecho.meti.go.jp/category//saving_and_new/saiene/kaitori/fit_mikado.html 太陽光発電の未稼働案件|固定価格買い取り制度|なっとく!再生可能エネルギー]</ref>。
蓄電池を用いる独立型システムについても、今後の価格低下と途上国での普及拡大が予測されている<ref name="EPIA_EUROBAT">[http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/documents/press/Press_Conference_The_role_of_Energy_Storage_in_the_future.pdf W.Hoffman(EPIA),R.Kubis(EUROBAT),The role of Energy Storage in the future development of photovoltaic power, Intersolar, 12 June 2008]{{リンク切れ|date=November 2013}}</ref>。
[[経済産業省]]によると、個別の発電では太陽光のコストは低いものの、出力の変動をカバーするために火力との連動が必要なことから総合的なコストでは太陽光のコストが最も割高になると試算された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210803-DB4OZ56DWRL2FFOR6LTNPWU3TA/|title=事業用太陽光が最も割高に 2030年の電源別統合コスト|accessdate=2021-08-05}}</ref>。他にコストを押し上げる理由として、規制を逃れるために大規模な太陽光発電所を50kW未満の低圧システムに分割する「分割案件」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fit-portal.go.jp/PublicInfo|title=再生可能エネルギー 事業計画認定情報|accessdate=2021年8月14日|publisher=資源エネルギー庁}}</ref>が横行していることがあげられている<ref>{{Cite web|和書|title=減らない「低圧太陽光の分割案件」を問題視、エネ庁が審査基準を厳格化|url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1911/26/news050.html|website=スマートジャパン|accessdate=2021-08-14|language=ja}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=太陽光の“分割案件”を問題視、経産省が10kW未満も分割審査へ|url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/2103/25/news040.html|website=スマートジャパン|accessdate=2021-08-14|language=ja}}</ref>。
<!--2021年において日本の太陽光発電のコストは1キロワット時13.5円(1ドル=114円換算)である。これは5円の中国や6.5円のアメリカの2倍以上である。加えて、フランスとドイツはそれぞれ7.3円と7.6円でありいずれも日本より大幅に安い。日本は平地が少ないために整備費が嵩む傾向にある<ref>{{Cite journal|last=|first=|year=2021年10月23日|title=再生エネ導入「最優先に」、政府、原案踏襲で計画決定――太陽光、コスト高が普及阻む、日本、米中の2倍超。 日本経済新聞|url=https://doi.org/10.11606/d.8.2018.tde-13032018-104036|journal=}}{{出典無効|date=2022年1月}}リンク先は日本経済新聞ではない</ref>。-->
== 利用形態 ==
=== 独立蓄電 ===
{{Vertical_images_list
| 幅= 120px
| 1=Parking-meter_hannover_20050625_111.jpg
| 2=[[パーキングメーター]]への利用例
| 3=Street light.JPG
| 4=街路灯で風力発電と併用
| 5=Solar-powered Coca-Cola vending machine in Japan 2011.jpg
| 6=[[自動販売機]]への利用例
| 7=Mobile Battery Solar Charger.jpg
| 8=[[二次電池|モバイルバッテリー]]への利用例
}}
発電した電力を[[二次電池]]に蓄電利用し外部送電網に接続しない形態。夜間や悪天候時の発電量低下時も太陽光発電のみの発電で電力供給する場合利用する。系統連系に比べ蓄電設備にかかる費用・エネルギー・CO{{sub|2}}排出量が増加するが、外部からの送電費用が上回る場合のほか、移動式や非常用電源システムで用いる。消費電力が少なく送電網から遠い場合にメリットが大きいが、送電網に近くても送電電圧が高い場合には変電設備よりも独立電源設備が安いことがある。一般向けに、小型の[[最大電力点追従制御]]機能(MPPT)と自動車用バッテリーで構築する製品も市販されている<ref name="SMALLPC">[http://www.morningstarcorp.com/ http://www.morningstarcorp.com/]</ref>。
* 携帯用小型機器
** 電卓・懐中電灯・腕時計など消費電力の少ない携帯機器を電池交換や充電せずに利用するために小型の太陽電池が内蔵されている。小型一次電池が比較的高価なためコスト面で有利である。
* 未電化地域での電源。
** 送電網がない地域の照明や家電の電源。
* 移動時の電源
** [[ソーラープレーン]]や[[ソーラーカー]]・[[電気自動車]]の電源。
** 砂漠移動時の電源
*** [[ラクダ]]に積む場合がある。
** 船舶の補助電源
*** 2008年から[[日本郵船]]と[[新日本石油]](現:[[ENEOS]])が自動車運搬船で実証試験を行った<ref name="NYK">[http://www.nyk.com/csr/envi/ocean/index_05.htm 海での取組み、日本郵船]</ref>。2012年には[[商船三井]]、[[三菱重工業]]、[[パナソニック]]が[[リチウム]]蓄電池付きシステムを搭載した自動車運搬船を進水させた<ref name="MSN20120625">[http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/06/0625ship/ 航海中に太陽光で充電 最新鋭の自動車運搬船公開、MSN産経ニュース2012年6月25日] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120704201212/http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/06/0625ship/ |date=2012年7月4日 }}</ref>。
** 宇宙空間での電源
*** 人工衛星や太陽から近い所を飛ぶ探査機で利用。
* 小規模電源
** 庭園灯や街路灯や駐車券発行機などメンテナンスや配線のコスト削減のために利用。
** ポータブルバッテリーへの蓄電。
** 非常用電源。
** 無線通信網の中継局や航空管制局<ref name="RFSTATION">[http://www.pvsystem.net/mongolia/mngpvabs2.html http://www.pvsystem.net/mongolia/mngpvabs2.html] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070325105948/http://www.pvsystem.net/mongolia/mngpvabs2.html |date=2007年3月25日 }}</ref>
** 軍用・アウトドア用の可搬式電源
** 自動車の換気用電源<ref name="SolarPrius">[http://www.solarelectricalvehicles.com/ SolarElectricalVehicles] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110126042211/http://www.solarelectricalvehicles.com/ |date=2011年1月26日 }}ハイブリッド車に太陽電池を装備</ref><ref name="Toyota_Prius_withPV">[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/news/20090520/1026362/?rt=nocnt 新型プリウスオプション装備に京セラの太陽電池パネル、日経トレンディネット2009年05月20日]</ref>。
** 灯台用電源
*** [[海上保安庁]]は[[灯台]]への太陽光発電の設置を進めている<ref name="Yomiuri20120210">[http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20120210-OYT8T00448.htm 灯台にも太陽光発電とLED…長崎、読売新聞2012年2月10日]{{リンク切れ|date=November 2013}}</ref><ref>[[常神岬灯台]]</ref>。
=== 系統連系 ===
[[ファイル:Berlin_pv-system_block-103_20050309_p1010367.jpg|thumb|right|220px|集合住宅での利用例]]
電力会社の送電網に同期接続する形態が[[系統連系]]である。送電網が近傍にある場合は、売電するために系統連系して利用する場合が多い。太陽電池モジュール→パワーコンディショナー→商用[[電線路]]という接続形態を取る。再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT制度)<ref>電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法(平成二十三年八月三十日法律第百八号)最終改正:平成二七年九月一一日法律第六六号。なお改正案が平成28年2月9日に閣議決定され国会に提出されている(平成29年4月1日施行予定)。</ref>では発電量が設置場所での利用量を上回る分を電力会社に供給する(売電)。電力を送電網に送ることを逆潮流と呼ぶ。夜間や悪天候時に発電量を利用量が上回ると系統側から電力供給する。一般に独立型より発電規模が大きい。独立蓄電型のような大容量の蓄電設備が不要であり、その分、発電量あたりのコスト・温室効果ガス(Greenhouse Effect Gas:GEG)排出量・ライフサイクル中の投入エネルギーが独立型より小さい。
==出力変動==
天候や気温で出力変動し[[曇り|曇天]]・[[雨]]天時は[[晴れ|晴天]]時より大幅に発電量が低下し、[[夜]]間は発電できない。大規模な系統連系では変動が速すぎると他の電源による調整が追いつかない恐れがあるとされる<ref name="Sansoken_Hendo" />。
* 比較的短い周期(数秒-数十分)の変動
** 分散型電源では大規模化と分散化により速い変動成分が平滑化され電源網側での対処が容易となり、これをならし効果と呼ぶ。ある程度の導入量まで問題ないとされる<ref name="Sansoken_Hendo">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/output/fluctuation.html 出力変動と緩和策]([[産業技術総合研究所]])</ref>。米国での調査では特別な対策をしなくても系統負荷の3割以上の設備容量を系統連系可能とし<ref>[[#ロビンス (2005)|ロビンス (2005)]], p. 261.</ref>、過去の大規模な実証試験で変動を電力網側の調整余力で対応でき送電網全体で送電コスト低減によるメリットが上回ると報告されている<ref>[[#ロビンス (2005)|ロビンス (2005)]], p. 300 など。</ref>。さらに連系する容量が増加すると変動対策が必要になるとされる<ref name="Sansoken_Hendo" />。将来的に[[スマートグリッド]]など系統全体の包括的対策が必要とする。{{see|[[#発電コスト]]}}
* 比較的長い周期(数時間-数日)の変動
** 導入量が少ない段階では大きな心配はないとされる<ref name="Sansoken_Hendo" />。昼間の電力が余ると余剰分の調整が必要である。独立型設備で電力を太陽光発電に頼る場合はバッテリーを追加して需給の差をバッテリー容量の範囲で埋める。二次電池を備えた蓄電所で変動を吸収する計画もある<ref>{{Cite web|和書|title=米EVメーカー テスラ 北海道に余剰電力ためる大型蓄電所建設へ|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210819/k10013212471000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-08-20|last=日本放送協会}}</ref>。{{see|[[#独立蓄電]]}}
モジュールを複数の方向に向けて設置する場合個々の方向で最大出力になる時間帯がずれ、正午の瞬間最大出力が低くなる代わりに、他の時間帯に出力増加する。電力需要は時間帯で変動し一般に午後の方が多い<ref>日本における一日の電力需要の変化の例:[http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data1013.html 電力の需要量の変化とその対応] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090917130009/http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data1013.html |date=2009年9月17日 }}</ref>。固定式設備の場合、電力需要との整合性の観点では真南よりも多少西向きに設置するのが好ましい一方で角度により発電量が減る場合がある。米国サクラメント市における解析例では、20度の傾斜を持たせて設置する場合、真南から30度西にずらすと、総発電量は約1%減少するが、容量が系統に貢献する度合いは25%近く増加し全体で経済的価値が大きくなると報告された<ref name="WENGER">[http://www.energy.ca.gov/papers/1996-09_SMUD_SOLAR_STUDY.PDF H.Wengerら, 1996年] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20051223190345/http://www.energy.ca.gov/papers/1996-09_SMUD_SOLAR_STUDY.PDF |date=2005年12月23日 }}</ref>。[[冷房]]需要の多い地域では[[日照]]と電力需要の相関関係が高い<ref>[[#ロビンス (2005)|ロビンス (2005)]], p. 231 など。</ref>。
=== 最大電力点追従制御 ===
[[最大電力点追従制御]] (Maximum power point tracking、MPPT) は、インバーターが太陽電池からの電圧と電流の積である電力が最大になる出力電圧で電流を取り出すための制御機能である。使用することで日射量に応じて最適の条件で電力を供給できる。インバーターが直流/交流変換動作を行わない場合太陽電池の出力電流がゼロなら出力電圧は[[開放電圧]] (Open circuit voltage; Voc) である。インバータの電流制御によって徐々に太陽電池の出力電流を増やした時にインバータを通過する電力が増えればさらに電流を増やし、逆に増やして電力が減れば電流を減らす方法によって最大電力点に到達する。この制御方法を山登り法と呼ぶ。住宅用太陽光発電用インバータでは太陽電池がアモルファス、結晶系など多様な電流・電圧特性を持つためいずれの特性の太陽電池に対しても安定に最大電力点に追従して運転することが求められることから最大電力追従のための一回の電流の変化幅と変化の速さ・頻度の選択が重要である。最大電力点追従制御は,インバーターでの直流運転電圧を太陽電池アレイと直流ケーブルを通した最大電力点の電圧に近付ける働きをする。最大電力点追従制御は太陽光発電システムの使用者による測定が困難でインバーターの直流/交流変換の効率と同じく製造者による性能表示が重要である。
== 発電部の構成と特殊な製品例 ==
=== セル、モジュール、アレイ ===
[[ファイル:CellStructure-SiCrystal.PNG|thumb|right|200px|結晶シリコン型[[太陽電池]](セル)の代表的構造]]
[[ファイル:4inch_poly_solar_cell.jpg|thumb|right|200px|多結晶シリコン型[[太陽電池]](セル)]]
太陽光発電設備の発電部は、多数の太陽電池素子で構成される。素子やその集合体には、規模や形態に応じて下記の様な呼称がある。
; セル
: [[太陽電池]]の単体の素子は「セル」(cell) と呼ばれる。素子中の[[電子]]に光エネルギーを吸収させ、[[光起電力効果]]によって直接的に電気エネルギーに変換する。([[太陽電池#原理]]を参照)
: 1つのセルの出力[[電圧]]は通常 0.5-1.0V である。複数の太陽電池を積層したハイブリッド型や[[太陽電池#形態の観点による分類]]では1セルの出力電圧が高くなる。必要な電圧を得るために通常は複数のセルをハンダ付け等で直列接続する。薄膜型[[太陽電池]]では太陽電池を構成する薄膜の形成と並行して、セルの直列接続構造も造り込む(集積化)<ref name="Konagai_P120">[[#小長井ら (2010)|小長井ら (2010)]], p. 120.</ref>。
; モジュール
: セルを直列接続し、樹脂や強化ガラスや金属枠で保護したものを「モジュール」(module) または「パネル」(panel) と呼ぶ。モジュール化で取り扱いや設置を容易にし、湿気や汚れや紫外線や物理的な応力からセルを保護する。モジュールの重量は通常は屋根瓦の1/4-1/5程度である。太陽光発電モジュールは「ソーラーパネル」(solar panel) と呼ばれることもある。この名称は太陽熱利用システム([[太陽熱温水器]]など)の集熱器にも用いられる。
; ストリング
: モジュールを複数枚数並べて直列接続したものを「ストリング」(string) と呼ぶ<ref name=autogenerated1>[[#太陽光発電協会 (2011)|太陽光発電協会編 (2011)]] {{要ページ番号|date=2015-11-28 }}</ref>。
; アレイ
: ストリングを並列接続したものを「アレイ」(array) と呼ぶ<ref name="SekkeiSekou" />。
=== モジュール製品の例 ===
* セルとセルの間に隙間を作り光を透過させる機能も併せ持つもの([[タミヤ製作所]])
* 高[[効率]]で狭い面積で済むもの
* 高温環境対策品([[太陽電池#その他参考資料|温度の影響]])
* 強風対策品
* [[塩害]]対策品
* 低角度設置に対応し汚れを落ちやすくしたもの
* 反射光を軽減し周囲に配慮したもの
* 網目状セルの半透過型(窓やビル壁面で利用)
* 着色し[[デザイン]]性を持たせたもの
* 軽量で屋根への負担を軽減したもの
* 両面から光を取り入れ周囲からの[[反射 (物理学)|反射]][[散乱光]]も利用するもの
* 曲げられる[[フレキシブル]]型(持ち歩きが容易)
* 平面や曲面に接着剤で貼り付け設置できるもの
== 経年劣化と寿命 ==
大部分の製品が稼働できると推測される「期待寿命」とメーカーが性能を保証する「保証期間」がある。メーカーの製造ミスで早期出力低下などトラブルが起こることもある。通常の'''経年劣化による出力低下は20年で1割未満'''とされる。
* ソーラーパネルは税制面において、[[耐用年数|法定耐用年数]]が17年と定められている<ref name="taiyounensu">[http://standard-project.net/solar/jyumyo.html 太陽光発電の耐用年数およびソーラーパネルの寿命について]</ref>。ただし産業用として設置されたものについては、形態によっては製造設備の一部とみなされるため、設備としての耐用年数(3∼17年)が適用される{{refnest|group="注"|自動車製造業の事例では9年<ref>「国税庁 法令等 質疑応答事例 [https://www.nta.go.jp/law/shitsugi/hojin/05/12.htm 風力・太陽光発電システムの耐用年数について]」 国税庁</ref>。}}。
* 屋外用大型モジュールの期待寿命は、'''過去の製品の結果から一般に20-30年以上'''とされる<ref name="JPEA_Lifetime">[http://www.jpea.gr.jp/pdf/009.pdf 耐用年数と補修]、[[太陽光発電協会|JPEA]]</ref><ref name="Jordan" />。期待寿命は明確に定められておらず、統一基準も無い。
* モジュールは年月と共に徐々に性能低下する。世界各国の2000例近い各種太陽電池モジュールの経年劣化調査データのまとめでは、性能低下速度の中央値は0.5%/年、平均値は0.8%/年と報告されている<ref name="Jordan">[https://doi.org/10.1002/pip.1182 D. C. Jordan, S. R. Kurtz, Photovoltaic Degradation Rates — an Analytical Review, Progress in Photovoltaics: Research and Applications, 2011.]</ref>。
*経年劣化を調査する実証実験<ref>[http://unit.aist.go.jp/energy/event/20110309/proc/C2.pdf 各種太陽電池の長期曝露試験による出力劣化特性評価]</ref>においてパネルの種類による経年劣化の違いを検証した結果をもとにすると、25年間に使用により単結晶シリコンパネルで出力が82 - 85%、多結晶シリコンパネルで86.8 - 89%、CISパネルで92.7 - 93.2%、ヘテロ接合(HITハイブリッドなど)パネルで90.4%、アモルファスシリコンパネルで74.6%に低下するという結果になる<ref name="taiyounensu" />。なお、屋外用モジュールの出力保証として、各メーカーが10 - 25年の出力保証を付けているが、定格出力に対して保証される経年劣化による出力は25年で80%など、それぞれ実験結果と比べて低い基準でもうけられている<ref>[http://standard-project.net/solar/maker/ 太陽光発電メーカー・比較と一覧](保証内容比較)</ref>。
* モジュールの強化ガラスとセルとの間に通常[[酢酸ビニル|EVA]]等の樹脂が充填される。昔の製品は樹脂が紫外線で黄変(browningまたはdarkening)し性能が急速に劣化する場合があったが樹脂の改良やガラスに[[セリウム]]を添加する等の対策で解決された<ref name="Holley">[http://ieeexplore.ieee.org/Xplore/login.jsp?url=/iel3/4263/12206/00564361.pdf?temp=x W.H.Holley Jr., S.C.Agro, J.P.Galica, R.S.Yorgensen,UV stability and module testing of nonbrowning experimental PVencapsulants, Conference Record of the Twenty Fifth IEEE, May 1996, pp.1259 - 1262] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100306180544/http://ieeexplore.ieee.org/Xplore/login.jsp?url=%2Fiel3%2F4263%2F12206%2F00564361.pdf%3Ftemp%3Dx |date=2010年3月6日 }}</ref><ref name="CeriumGlass">[http://www.jdsu.com/product-literature/sccrrg_ds_co_ae.pdf http://www.jdsu.com/product-literature/sccrrg_ds_co_ae.pdf] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081204114703/http://www.jdsu.com/product-literature/sccrrg_ds_co_ae.pdf |date=2008年12月4日 }}(JDSU)</ref><ref name="Sandia_Browning">[http://www.sandia.gov/pv/docs/PDF/prmking.pdf D.L.King et al, Photovoltaic Module Performance and Durability Following Long-Term Field Exposure, Sandia National Laboratories] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080517113040/http://www.sandia.gov/pv/docs/PDF/prmking.pdf |date=2008年5月17日 }}</ref>。
* 経年劣化で発生する代表的変化としては、セルを固定するEVAなど樹脂がはがれたり(delamination)、湿気がモジュール内部に侵入し電極の腐食を起こす例が挙げられる<ref name="NREL_Degradation">[http://www.sandia.gov/pv/docs/PDF/IEEE%20Quintana.pdf M.A.Quintana, D.L.King, T.J.McMahon, C.R.Osterwald, COMMONLY OBSERVED DEGRADATION IN FIELD-AGED PHOTOVOLTAIC MODULES, NREL]{{リンク切れ|date=November 2013}}</ref><ref name="ArcoModule_20years">[http://sunbird.jrc.it/solarec/publications/Munich_20yeayold.pdf A.Realini et al, STUDY OF A 20-YEAR OLD PV PLANT (MTBF PROJECT)]{{リンク切れ|date=2015年2月}}</ref>。製造企業の技量不足から比較的早期に性能低下し交換対象になる例もある<ref name="Niels_UniSolarReliability">[http://www.ecw.org/wisconsun/learn/pvroofs.pdf Niels Wolter, Joe Burdick, Photovoltaic (PV) Roofing Products - Are They Reliable?, 2003] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081119035908/http://www.ecw.org/wisconsun/learn/pvroofs.pdf |date=2008年11月19日 }}</ref>。
* アモルファスシリコンを用いたモジュールは屋外光で劣化しやすかったが現在では長寿命化され、20年以上の性能を保証する製品もある<ref name="UNISOLAR">[http://www.uni-solar.com/interior.asp?id=100 http://www.uni-solar.com/interior.asp?id=100] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060320085045/http://www.uni-solar.com/interior.asp?id=100 |date=2006年3月20日 }}</ref>。
* [[太陽電池]]の型式により使用開始時に数%程度性能が低下しその後安定する挙動を示す(初期劣化)。定格値として初期劣化後の値(安定化効率)が用いられる<ref name="NEDO_aSi">[http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/nedonews/166/1-1.html 太陽電池技術開発動向] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050306123028/http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/nedonews/166/1-1.html |date=2005年3月6日 }},NEDO</ref><ref name="Konagai_aSi">[http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/bestmix/opinion24.html 太陽光発電新時代の現状と将来の展望] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050312192927/http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/bestmix/opinion24.html |date=2005年3月12日 }},NEDO</ref>。
* 製品寿命予測のための加速試験手法として塩水噴霧や紫外線照射、高温多湿 (Damp Heat)環境試験などを用いる。検証手段として実際に屋外の環境に晒すフィールドテストが1980年代から大規模に行われ、現在20数年分のデータが蓄積された<ref name="DUNLOP2">[http://www3.interscience.wiley.com/cgi-bin/abstract/110531855/ABSTRACT Ewan D. Dunlop, David Halton, Progress in Photovoltaics: Research and Applications 14 (2005) 53.]</ref>。
* パワーコンディショナーなど周辺機器に寿命(10年?)があり部品交換などメンテナンスが必要である。
* [[人工衛星]]の電源など[[宇宙]]空間での利用では温度差200℃程度の周期的な温度変化、打ち上げ時の振動、放射線による劣化などに対応できる必要がある<ref name="Sharp_space">[http://www.sharp.co.jp/corporate/rd/journal70/pdf/70-14.pdf 宇宙用単結晶シリコン太陽電池]</ref><ref name="Ogiso_space">[http://www.aero.osakafu-u.ac.jp/as/lab3/ 衛星の開発と設計について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090216142733/http://www.aero.osakafu-u.ac.jp/as/lab3/ |date=2009年2月16日 }}(大阪府立大学 小木曽研究室資料)</ref>。このためモジュール(パドル)の構造、セルの材料や構造など各部にわたり対策が施される。
* 太陽光発電モジュールは長寿命なため、取り付ける架台や施工部分にも長寿命が求められる。一般の建築物同様に数年ごとの保守点検が推奨され、メーカーや代理店によっては定期保守点検プランを用意する場合がある。点検項目のガイドラインとして[[日本電機工業会]]が定めたものがある<ref name="JEM_TR228">技術資料JEM-TR228、小出力太陽光発電システムの保守・点検ガイド、平成15年12月、[[日本電機工業会]]</ref>。
== 発電可能な量 ==
{{main|太陽光発電の資源量}}
=== 資源量 ===
[[ファイル:Solar_land_area.png|thumb|right|250px|地球上の太陽光エネルギー資源量の分布(1991-1993年の平均、昼夜の変化や天候の影響含む)。黒点は変換効率8%と仮定して世界の主要エネルギー源を太陽光で十分賄うのに必要な面積([[:en:Solar energy]])]]
[[ファイル:Fullneed.jpg|thumb|250px|right|ドイツ、EU25カ国および全世界の需要と等しい電力を[[太陽エネルギー]]で発電するのに必要な面積<ref name="DLR">[http://www.dlr.de/tt/Portaldata/41/Resources/dokumente/institut/system/projects/Ecobalance_of_a_Solar_Electricity_Transmission.pdf Eco-balance of a Solar Electricity Transmission from North Africa to Europe] TECHNICAL UNIVERSITY OF BRAUNSCHWEIG Faculty for Physics and Geological Sciences 2005年8月17日</ref>]]
太陽は巨大な原子炉(半径7 x l0 ^ 5 km)であり、大量の放射エネルギー(3.8 x l0 ^ 23 KW、5800°K)を放出し、熱エネルギーに簡単に変換できる<ref name="power">[https://www.electricaldeck.com/2020/01/solar-power.html Solar Radiation on Earth ] - www.electricaldeck.com</ref>。太陽光のエネルギーは膨大で、地上で実際に利用可能な量だけで世界のエネルギー消費量の約50倍と見積もられる<ref name="taiyoukouhatsudenkougaku">[[#山田・小宮山 (2002)|山田・小宮山 (2002)]] {{要ページ番号|date=2015-11-28 }}</ref>。地球に降り注ぐ太陽光の総エネルギー量173000 TWのうち僅か40 TWが光合成を経て有機物を生成する。人間活動で消費するエネルギー量はさらに少なく14 TWである。仮に'''[[ゴビ砂漠]]に現在市販されている太陽電池を敷き詰めれば、全人類のエネルギー需要量に匹敵する発電量が得られる'''という<ref name="NEDOkaisetsu">{{Cite web|和書|url=http://www.ted-corp.co.jp/fieldtest.html |title=NEDOフィールドテスト事業 |publisher=熱技術開発 |accessdate=2015-11-28 |quote=''ゴビ砂漠全部に太陽電池を敷きつめますと、地球上で人間が使っているエネルギーの全てをまかなうことができます。'' }}</ref>。
生産に必要な原料は豊富で少なくとも2052年頃までの予測需要は十分満たせるとされる<ref name="NREL_FAQ_MATERIALS">[http://www.nrel.gov/docs/fy04osti/35098.pdf PV FAQs:Will we have enough materials for energy-significant PV production?],[[国立再生可能エネルギー研究所]] (NREL), DOE/GO-102004-1834, January 2004</ref>。[[シリコン]]を用いる太陽電池では資源量は事実上無限とされる。シリコンを用いない太陽電池は[[インジウム]]などの資源が将来的に制約要因になる可能性があるが、技術的に使用量を減らせば2050年以降も利用可能とされる<ref name="NREL_FAQ_MATERIALS" />。太陽電池用シリコン原料の供給は2008年まで逼迫し価格が高止まりしたが各社の増産が追いつき2009年から価格低下が予測された<ref name="greentech_SiPrice">[http://www.greentechmedia.com/articles/new-energy-finance-predicts-43-solar-silicon-price-drop-1288.html New Energy Finance Predicts 43% Solar Silicon Price Drop, greentechmedia, 18 August 2008]</ref>。太陽電池専用シリコン原料生産技術は様々なものが実用化され、精製に必要なエネルギーやコストが大幅に削減されるとされる([[ソーラーグレードシリコン]]を参照)。
=== 日本における導入規模 ===
世界的に見て、日本の平均年間日照量は最も日照の多い海外地域の半分程度であるが、ドイツなどより多い。国内では冬期に晴天が少なく積雪の多い日本海側で日照量(発電量)が少なく、太平洋側で多くなる<ref name="AIST_Hatsudenryo">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/output/irradiance.html 実環境における発電量] ([[産業技術総合研究所]])</ref>。
潜在的には必要量よりも桁違いに多い設備量(7984GWp = 約8TWp分)が導入可能と見積もられるが、実際の導入量は安定電力供給の電源構成上の観点から決まると見られる<ref name="Sansoken_JapanCapacity">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/output/JPpotential.html 日本で導入できる量]([[産業技術総合研究所]])</ref>。導入可能な設備量は102GWp-202GWp程度とされる。建造物へのソーラーパネル設置により期待される導入量が多く、2008年時点で将来の導入可能量は戸建住宅53GWp([[ギガ]][[ワットピーク]])、集合住宅22GWp、大型産業施設53GWp、公共施設14GWp、その他60GWpとされていた<ref name="NEDO_PV_CAPACITY">[http://www.nedo.go.jp/nedata/17fy/01/b/0001b008.html 2030年頃までの技術発展を想定したときの国内導入可能量 (MW)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080122074238/http://www.nedo.go.jp/nedata/17fy/01/b/0001b008.html |date=2008年1月22日 }}([[NEDO]] [http://www.nedo.go.jp/nedata/17fy/index.html 新エネルギー関連データ集 平成17年度版] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080913203434/http://www.nedo.go.jp/nedata/17fy/index.html |date=2008年9月13日 }}){{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。実際の普及局面ではその他に含まれる野立てが大半を占めた。
2020年の太陽光発電の累計導入設備量は64.8GW<ref>エネルギー白書2022</ref>で、日本の年間総発電量のうち約7.9%を発電した<ref>[https://www.enecho.meti.go.jp/statistics/total_energy/pdf/gaiyou2020fykaku.pdf 令和2年度(2020年度)エネルギー需給実績を取りまとめました(確報)]資源エネルギー庁 2022年4月15日</ref>。
== 温室効果ガス (GHG) 排出量とエネルギー収支 ==
[[温室効果ガス|GHG]]排出量は[[化石燃料]]電源の排出量より格段に少なく、利用するとGHG排出量を削減できる<ref name="Sansoken_PV_Emission">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/feature/feature_1.html 温室効果ガス排出量の削減]([[産業技術総合研究所]])</ref>。エネルギーペイバックタイムやエネルギー収支比の点でも実用水準である<ref name="Sansoken_PV_EPT">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/e_source/PV-energypayback.html 太陽光発電のエネルギー収支]([[産業技術総合研究所]])</ref><ref name="NEDO_LCA" />。
=== 主な影響要因 ===
太陽光発電の発電電力当たりのGHG排出量や投入エネルギー量はシステム製造工程と設置環境での発電量でほぼ決まる。稼動時は燃料を必要とせずGHGを排出しない<ref name="Sansoken_PV_Emission" />。メンテナンスや廃棄時に排出するGHGや投入エネルギー量も比較的少ない<ref name="NEDO_LCA" />。
* 製造時GHG排出量や投入エネルギー量は用いる[[太陽電池#種類]]や量産技術、量産規模に影響される。生産量は単結晶シリコン型が最も多く多結晶シリコン型が続く<ref name="NEDO_LCA" />。薄膜型(アモルファス、CdTe、CIGS、積層型など)は比較的少ない。年間生産量が10MWから1GWになると設備容量あたりの投入エネルギー量が半分以下と計算される<ref name="taiyoukouhatsudenkougaku" />。
* 設置地域で寿命まで発電できる量は[[日照時間]]や温度の影響を受ける。緯度や気候のデータや過去の実績から大まかな予測が可能である<ref name="Sansoken_Hatsudenryo">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/output/index.html 太陽光発電の発電量]([[産業技術総合研究所]])</ref>。
=== 温室効果ガス (GHG) 排出量 ===
製造時等では[[温暖化ガス]]の排出を伴うが、発電中は全く排出しない。採鉱から廃棄までのライフサイクル中の全排出量をライフサイクル中の全発電量で割った値(排出原単位)は数十g-CO2/kWhであり、化石燃料による排出量(日本平均690g-CO2/kWh<ref name="ENV_FIRE_EMISSION">[https://www.env.go.jp/council/06earth/r062-01/2-4.pdf IV.2010 年の温室効果ガス削減ポテンシャル]</ref>)より桁違いに少ない。
* 日本での排出原単位は一般家庭で29-78g-CO2/kWh(稼働期間20年の場合。30年だとこの2/3)と算出される<ref name="Sansoken_PV_Emission" /><ref name="NEDO_LCA">[http://www.nedo.go.jp/library/database_index.html NEDO成果報告書] みずほ情報総研、NEDO、太陽光発電システムのライフサイクル評価に関する調査研究、No. 20090000000073</ref>。削減効果の目安は660g-CO2/kWhとされる<ref name="Sansoken_PV_Emission" />
* 欧州南部の見積もりでは結晶シリコン太陽電池は現状25-32g-CO2/kWh、将来は約15g-CO2/kWhに減少すると見積もられている<ref name="ECN2006">Alsema, E.A.; Wild - Scholten, M.J. de; Fthenakis, V.M.''[http://www.ecn.nl/publicaties/default.aspx?nr=ECN-RX--06-016 Environmental impacts of PV electricity generation - a critical comparison of energy supply options]'' ECN, September 2006; 7p.Presented at the 21st European Photovoltaic Solar Energy Conference and Exhibition, Dresden, Germany, 4-8 September 2006.</ref>
{{see|太陽光発電の環境性能}}
=== エネルギー収支 ===
エネルギー源としての性能を比較する際に、[[エネルギーペイバックタイム]] (EPT) や[[エネルギー収支比]](EPR)が指標として用いられることがある。製造や原料採鉱・精製、保守等に投入されるエネルギーに対して得られる電力の大きさを示す。[[ライフサイクルアセスメント]](LCA)の一環である。エネルギー収支や環境性能の実用性を否定する意見は[[都市伝説]]として否定されている<ref name="Sansoken_QA">[http://unit.aist.go.jp/rcpvt/ci/about_pv/supplement/Supplement_EPT.html [Q&A] 太陽光発電のEPT/EPRについて]([[産業技術総合研究所]])</ref><ref name="NREL_QA">[http://www.nrel.gov/docs/fy05osti/37322.pdf What is the energy payback for PV?, PV FAQs]([[国立再生可能エネルギー研究所]](NREL)</ref><ref name="DOE_QA">[http://www1.eere.energy.gov/solar/myths.html Learning About PV: The Myths of Solar Electricity]([[米国エネルギー省]])</ref>。
現状でEPTが1-3年程度、EPRが10-30倍程度とされる<ref name="Sansoken_PV_EPT" /><ref name="NREL_QA" />。
{{see|太陽光発電の環境性能}}
== 世界各国の状況 ==
[[ファイル:SolarCellProduction-J.PNG|thumb|300px|世界の太陽電池(セル)生産量<ref name="PVNEWS_201105"/>]]
{{see|[[太陽光発電の市場動向#世界の状況]]}}
世界全体の太陽電池生産量は指数関数的に拡大し続ける。PV NEWSの集計は2010年の生産量が[[2009年]]に比べ111%増加し23.9GWp([[ギガ]]・[[ワットピーク]])となった<ref name="PVNEWS_201105">[http://www.greentechmedia.com/research/report/pv-news PV NEWS (Greentech Media)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150924043545/http://www.greentechmedia.com/research/report/pv-news |date=2015年9月24日 }}、2011年5月号</ref>(値は調査会社で異なりPhoton Internationalは27.2GWpとする<ref name="Photon">[http://www.photon-magazine.com/ Photon International誌] 2011年3月号</ref>)。地域シェアは中国台湾合計59%、欧州13%、日本9%、北米5%、他14%である<ref name="PVNEWS_201105" />。
世界全体の2010年の太陽光発電導入量は[[EPIA]]の集計では16.6GWpである<ref name="EPIA_Outlook2015">EPIA, Global Market Outlook for Photovoltaics Until 2015 [http://www.epia.org/publications/photovoltaic-publications-global-market-outlook.html 公式サイト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111103225052/http://www.epia.org/publications/photovoltaic-publications-global-market-outlook.html |date=2011年11月3日 }}からダウンロード可)</ref>。solarbuzz社の集計で18.2GW、額が820億米ドル(約6.5兆円)である<ref name="TechOn110318">[https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20110318/190447/ 2010年の太陽電池設置量は18.2GWで市場規模は6.5兆円―Solarbuzz調査、日経Tech-On!2011年3月]</ref>。地域別年間導入量は欧州(13.2GWp)、日本(0.99GWp)、北米(0.98GWp)、中国(0.52GWp)、APEC(0.47GWp)、他(0.42GWp)である<ref name="EPIA_Outlook2015" />。
市場規模は2025年に太陽電池約9兆円、構成機器全体で約13兆円、システム構築市場が約18兆円となり、それぞれ2009年の5倍以上に達するとも予測されている<ref name="FujiKeizai_201012">[https://www.fuji-keizai.co.jp/market/10117.html 世界の太陽光発電システム、周辺機器市場の調査を実施、富士経済、2010年12月]</ref>。
=== セル製造シェア ===
{{see|[[太陽光発電の市場動向#世界の状況]]}}
2015年の世界市場の太陽電池セル製造メーカー上位3社のシェアは次の通りである<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/column/15/286991/041900018/|title=日本メーカーが消えた、2015年太陽電池セル世界トップ10|accessdate=2018-4-15|publisher=}}</ref><ref name="RTS201105">太陽光発電情報、2011年5月分、[http://www.rts-pv.com/index.html 資源総合システム] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120305075038/http://www.rts-pv.com/index.html |date=2012年3月5日 }}</ref>。上位10企業のシェアの合計は53%で、2008年の54%<ref name="RTS200904">太陽光発電情報、2009年4月分、資源総合システム</ref>から低下した<ref name="RTS201105" />。供給過剰と価格競争が続き旧来の大手企業が倒産する例がある<ref name="PVmag20120111">[http://www.pv-magazine.com/opinion-analysis/blogdetails/beitrag/the-solar-shakeout--and-what-to-expect-in-2012_100005443/ The solar shakeout, and what to expect in 2012, PV Magazine, 2012 Jan 11.]</ref>。
{|
|{{CHN}}
| トリナ・ソーラー
|7%
|-
|{{CHN}}
| [[w:en:JA Solar Holdings|Ja Solar]]
|7%
|-
|{{KOR}}
| [[Qセルズ|ハンファQセルズ]]
|7%
|}
=== 太陽電池セル製造用装置メーカー ===
2008年の世界市場の太陽電池セル製造装置売上高トップは[[アプライド・マテリアルズ]]であった<ref>VLSI Research {{Cite web|和書|url=http://www.sijapan.com/content/l_news/2009/02/lo86kc000000bf68.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年5月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090418063652/http://sijapan.com/content/l_news/2009/02/lo86kc000000bf68.html |archivedate=2009年4月18日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。以下[[w:en:Roth & Rau|Roth & Rau]]、[[w:en:centrotherm Photovoltaics|Centrotherm]]、[[ユナクシス|OC Oerlikon Balzers]]、[[アルバック]]と続く。
===政策===
* [[固定価格買い取り制度]](フィード・イン・タリフ制度)で法的に電力買取価格を保証する国が増加し<ref name="Martinot_SUMMARY">[http://www.isep.or.jp/event/080603sympoGEN_ISEP/Eric%20Martinot080603.pdf Global Renewable Energy Trends, Policies, and Scenarios, Eric Martinot, June 3, 2008] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090920125752/http://www.isep.or.jp/event/080603sympoGEN_ISEP/Eric%20Martinot080603.pdf |date=2009年9月20日 }}</ref>、普及促進効果が報告された<ref>IEA, Deploying Renewables -- Principles for Effective Policies, 2008年9月, ISBN 978-92-64-04220-9</ref><ref name="EPIA_SG">[http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/documents/EPIA_SG_V_ENGLISH_FULL_Sept2008.pdf Solar Generation V] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081029182523/http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/documents/EPIA_SG_V_ENGLISH_FULL_Sept2008.pdf |date=2008年10月29日 }}(EPIA)</ref>。普及量世界一のドイツでは国内の設備導入費用が2006年から5年間で半額以下になった<ref name="Germany_PriceCut">[http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20110810/195270/ ドイツの太陽光発電システムはこの5年で半額以下に、業界団体が発表、日経Tech-On!、2011年8月]</ref>。一方で供給過剰と価格低下で[[Qセルズ]]、ソロン、ソーラー・ミレニアムが破綻した。また、電気料金への転嫁による消費者負担も問題となり、2012年6月ドイツ連邦議会は買い取り価格の20 - 30%の引き下げに同意し同年4月に遡って適用された<ref>[https://archive.is/20130425004908/www.asahi.com/international/update/0628/TKY201206280442.html ドイツ、太陽光発電の買い取り価格引き下げ 議会が合意] 朝日新聞デジタル2012年6月28日</ref><ref>[http://www.jaea.go.jp/03/senryaku/topics/t12-3.pdf 原子力海外ニューストピックス2012年第3号] 日本原子力研究開発機構</ref><ref>[http://www.bmu.de/pressemitteilungen/aktuelle_pressemitteilungen/pm/48558.php BMU - Bundestag beschliest Anpassung der Fordersatze fur Solarstrom im EEG<!-- Bot generated title -->]</ref>。
{{see|[[固定価格買い取り制度]]}}
* 欧州委員会は2007年1月に、2020年にはEUで電力の34%程度が風力や太陽光などを含む再生可能エネルギーで賄われる可能性があると予測した<ref name="NEDO_EU_REPORT">[http://www.nedo.go.jp/content/100104998.pdf 「再生可能エネルギーロードマップ」-欧州委員会の提案(抄録)] NEDO海外レポート NO.1000、2007年5月23日</ref>。2008年12月には、2020年までにエネルギー需要の20%に再生可能エネルギーを使用すると決定した<ref name="AFPBB_EU2020">[https://www.afpbb.com/articles/-/2547376?pid=3600605 EU、2020年までに再生可能エネルギー20%使用で合意、AFP BBNews,2008年12月09日 23:26]</ref><ref name="Guardian_EU2020">[http://www.guardian.co.uk/environment/2008/dec/09/climatechange-energy EU agrees 2020 clean energy deadline,Guardian, Tuesday 9 December 2008 17.02 GMT]</ref>。
* モジュール製造で中国がシェアを大幅に拡大した<ref name="RTS201105" />。米国は中国による政策的ダンピングとして高率関税をかける決定を下し<ref name="FT20120518">[http://www.ft.com/intl/cms/s/0/eeda5714-a051-11e1-88e6-00144feabdc0.html Finantial Times, Trade war fears over US solar duties, 2012 May 18]</ref><ref name="Guardian20120517">[http://www.guardian.co.uk/world/2012/may/17/us-tariffs-chinese-solar-panels US commerce department brings heavy tariffs against Chinese solar panels, Guardian, 2012 May 17.]</ref>、中国は米国をルール違反として反論する等<ref name="Forbes20120524">[http://www.forbes.com/sites/toddwoody/2012/05/24/solar-trade-war-heats-up-as-china-accues-u-s-of-violating-rules/ Solar Trade War Heats Up As China Accuses U.S. Of Violating Rules, Forbes, 2012 May 24]</ref>、貿易戦争が激化した<ref name="Forbes20120524" />。
== 日本の状況 ==
[[ファイル:Japan Photovoltaics Installed Capacity.svg|サムネイル|lang=ja]]
[[ファイル:Japan-SolarCellProductionAndExport-2.png|thumb|日本における太陽電池の出荷状況<ref name="JPEA_STATISTICS">[http://www.jpea.gr.jp/04doc01.html JPEAによる国内の生産量・出荷量の統計]</ref>]]
[[ファイル:ModulePrices-Japan-2011.png|thumb|日本におけるモジュール単価の推移<ref name="IEA_PVPS_trend">[http://www.iea-pvps.org/index.php?id=32 IEA-PVPS, Trends in Photovoltaic Applications]</ref>]]
{{main|太陽光発電の市場動向}}
日本は1970年代の[[オイルショック]]から開発と普及に力を入れ<ref name="Kuwano">[[#桑野 (2011)|桑野 (2011)]] {{要ページ番号|date=2015-11-28 }}</ref>、生産量や導入量で長く世界一であり<ref name="Ikki">[[#一木修監修 (2010)|一木修監修 (2010)]] {{要ページ番号|date=2015-11-28 }}</ref>、2000年ごろまで太陽光発電量は欧州全体より日本1国が多かった{{要出典|date=2015年11月28日 (土) 13:57 (UTC)}}。
2004年頃には世界の約半分の太陽電池を生産していたが2010年の生産世界シェアは9%である<ref name="PVNEWS_201105" />。生産自体は2GWpを超えて増加しており(右図)<ref name="JPEA_STATISTICS_PDF">[http://www.jpea.gr.jp/pdf/qlg2007.pdf 日本における太陽電池出荷量の推移(JPEA)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120525095640/http://www.jpea.gr.jp/pdf/qlg2007.pdf |date=2012年5月25日 }}</ref>半分以上を輸出する。輸入量は国内販売量の約16%である<ref name="JPEA_FYstat" />。国内出荷量の約8割は住宅向けで<ref name="JPEA_FYstat">[http://www.jpea.gr.jp/pdf/t110520.pdf 平成22年度第4四半期及び年度値 太陽電池セル・モジュール出荷統計について、太陽光発電協会(JPEA)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111009135819/http://jpea.gr.jp/pdf/t110520.pdf |date=2011年10月9日 }}</ref>一戸建て向けが中心であるが近年は集合住宅での導入例も見られる<ref name="Shuugou_METI">[http://www.meti.go.jp/committee/materials2/downloadfiles/g90326a07j.pdf 集合住宅における太陽光発電システムの設置の現状と課題、資源エネルギー庁、H21年3月]</ref><ref name="Sekisui">[http://diamond.jp/articles/-/4827 環境価値と経済メリットを両立させる積水ハウスのECO賃貸住宅、ダイヤモンドオンライン]</ref>。
2005年に[[新エネルギー財団]] (NEF) の助成が終了すると国内市場は縮小し、価格が下がらなくなった。
2008年以降助成策強化で国内市場は拡大し価格が下がり始めた。(右図) {{see|[[太陽光発電の市場動向#歴史的経過]]}} 関連産業の規模は2010年度見込みが約1.3兆円とされた<ref name="OITDA">[http://www.oitda.or.jp/main/press/prdct10-j.pdf 2010(平成22)年度光産業国内生産額、全出荷額調査結果について、光産業技術振興協会、2011年4月]</ref>。2011年度に約1.5兆円に拡大するとする<ref name="OITDA" />。約半分がセル・モジュールで半分が他産業の分である<ref name="OITDA" />。関連雇用は4万人を超えたとする<ref name="IEA_PVPS_trend" />。
[[2011年]][[3月]]の[[東日本大震災]]後、[[日本政府]]による[[自給エネルギー]]の確保と[[低炭素社会]]の実現という[[政策]]で、[[化石燃料]]や[[原子力]]に依存し過ぎない[[エネルギーミックス]]を推進。[[2012年]][[7月]]には再生可能エネルギーの固定買い取り制度が導入され、新規事業者の参入が相次いだが、その後の買い取り価格の段階的な引き下げで市場拡大のペースが鈍化、事業者の乱立の影響もあり競争は激化し、早くも淘汰の時代に入り、[[倒産]]業者数も[[2015年]]度には54件と前年度比較で倍増、[[2016年]]には1月ー9月だけで42件([[負債]]総額185億200万円)に上った。2016年には[[日本ロジテック協同組合]]([[東京都]])、[[太陽エナジー販売]]([[神奈川県]])、[[サン・エコイング]]([[兵庫県]])などが倒産した<ref name="yahoo">[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161031-00010000-biz_shoko-bus_all Yahoo!ニュース 「太陽光関連事業者」の倒産が過去最多ペース 東京商工リサーチ 10/31(月) 13:00配信 ]</ref>。
2015年4月30日、東京証券取引所が[[インフラファンド]]市場を創設し、太陽光発電を投資対象とする[[投資法人]]が上場している。
国内では[[メガソーラー大牟田発電所|メガソーラー]]などの大規模発電に適した土地が少なくなっている。2018年において住宅の屋根に太陽光発電を置いているのは全国で約200万戸であり、これは住宅全体の7%である。国民が多額の費用を負担することにより太陽光発電の普及を後押しする買い取り制度について、19年には50万件・200万キロワット分の太陽光発電の買い取り義務が終わる。[[太陽光発電協会]]は50年に2億キロワットの国内累積導入量を目指す長期目標を立てた<ref>{{Cite web|和書|url=https://t21.nikkei.co.jp/g3/ATCD017.do?keyPdf=20180327NKMTCR60090627%5CNKM%5C6%5C6%5C001%5C%5C1476%5CY%5C%5C2018/0327/20180327NKMTCR60090627.pdf%5CPDF%5C20180327%5C6c83590e&analysisIdentifer=&analysisPrevActionId=CMNUF10|website=t21.nikkei.co.jp|accessdate=2021-12-05|title=再生エネ、どう育てる 日本経済新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.researchgate.net/profile/Yoshifumi-Ishikawa/publication/254413030_Economic_Effects_of_Installing_Renewable_Energy_in_the_Tohoku_RegionAnalyses_of_mega_solar_and_wind_power_generation_using_the_interregional_IO_table_Japanese/links/546deb880cf2a7492c56adfb/Economic-Effects-of-Installing-Renewable-Energy-in-the-Tohoku-RegionAnalyses-of-mega-solar-and-wind-power-generation-using-the-interregional-IO-table-Japanese.pdf|title=「東北地域における再生可能エネルギー導入の経済効果」 石川良文 中村良平 松本明 |accessdate=2021年12月5日}}</ref>。
=== 日本の太陽光導入政策と成果/2011年から現在まで===
{{main|太陽光発電の市場動向#助成策}}
日本では2011年現在余剰電力買取制度([[固定価格買取制度]])と国・自治体の各種助成策が実施された。2012年からはさらに公共産業向け設備への全量買取制度が導入されると共に、他の[[再生可能エネルギー]]も全量買取対象に加わる。これらの制度はFIT制度と呼ばれているが、2020年にはFIT制度は廃止される見込みだ<ref name="KaitoriPortal">[http://www.enecho.meti.go.jp/saiene/kaitori/index.html なっとく!再生可能エネルギー、資源エネルギー庁](買取制度の解説サイト)</ref>。
共同で太陽光発電所を設置・運営し売電収入を分配する市民共同発電所の設置例・検討例がある<ref name="Kyodo_Hikone">[http://www.ex.biwa.ne.jp/~sunden/kifushusshi/toppage.html 市民共同発電所 出資者 募集!、彦根市、愛荘町、NPO燦電会] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110914051448/http://www.ex.biwa.ne.jp/~sunden/kifushusshi/toppage.html |date=2011年9月14日 }}(市民共同発電所、彦根市の例)</ref><ref name="Kyodo_Shiga">[https://web.archive.org/web/20110612160419/http://www.asahi.com/areanews/shiga/OSK201106040144.html 住民出資、共同で太陽光発電所 東近江モデル、拡大構想、asahi.com](市民共同発電所、滋賀県の例)</ref><ref name="Kyodo_Hyogo">[http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0004442356.shtml 住民出資発電/自然エネ推進のモデルを、神戸新聞] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120526035851/http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0004442356.shtml |date=2012年5月26日 }}(市民共同発電所、兵庫県の検討例)</ref>。
これらのFIT政策により太陽光発電導入は2013年から急激に進み<ref name="資源エネルギー庁150203">{{Cite web|和書|url=http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/shoene_shinene/shin_ene/pdf/009_03_00.pdf |title=資料3 太陽光発電の導入状況等について |work=総合資源エネルギー調査会 省エネルギー・新エネルギー分科会 新エネルギー小委員会(第9回) |publisher=資源エネルギー庁 |pages=2, 4 |format=PDF |date=2015-02-03 |accessdate=2015-11-28 |quote=p.2 「太陽光発電の導入状況(認定量と運転開始量の推移) 」:''月別運転開始量は、FIT制度開始後、平成25年度頃から高い水準が継続しており...''。p.4 「2 マクロバランスに基づく接続制約の検証について」:''昨年、系統WGで試算した7電力会社...の太陽光発電の接続可能量の合計は2,369万kWであり、その設備利用率を平均13%とすれば...'' }}</ref>、
太陽光発電設備の発電能力容量は2015年の末までには3000万kW(30GW(ギガワット))であったが、2017年3月にはほぼ40GWに達した。https://solarjournal.jp/solarpower/22325/。 さらに太陽光発電協会は2018年中には累積発電能力容量は40-50GWになるだろうと予測した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.titech.ac.jp/education/stories/retiring_professors2015.html |title=2015年春、退職教員インタビュー 小長井誠「太陽光発電が日本の基幹エネルギーになる日を夢見て」 |work=教育 |publisher=[[東京工業大学]] |date= |accessdate=2015-11-28 |quote=''2015年末までに太陽光発電システムの導入量は3,000万キロワットに達する見込みです。'' }}</ref>{{refnest|group="注"|2014年末の段階での資源エネルギー庁の試算では2,369万kW<ref name="資源エネルギー庁150203" />。}}。 実際に、政府の再生可能エネルギー調達価格等算定委員会は2018年3月の発電能力容量は44.5GW、2019年は56GWであったと発表した。政府の2030年エネルギーミックスの太陽光導入目標値は88GW以上とされたが、これは達成可能な数値であり、むしろ導入抑制のために政府はメガソーラー認定取り消しを実施した(2030年エネルギーミックスの再生可能エネ発電導入は目標22-24%だったが、2021年の政府方針では30%程度に引き上げる)<ref>{{Cite web|和書|title=太陽光の“未稼働案件”は30GW以上に、FIT認定量は既に30年目標超え|url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1810/11/news028.html|website=スマートジャパン|accessdate=2021-08-14|language=ja}}</ref><ref>https://www.meti.go.jp/shingikai/enecho/denryoku_gas/saisei_kano/pdf/014_02_00.pdf</ref>。実際の発電量については、2018年の日本の全発電量に占める再生可能エネルギー発電量は15%だったが、そのうち従来水力発電が7%、太陽光発電7%、その他が1%であった。2019年には再生可能エネルギー発電量は16%より多くなり、この中で太陽光発電量が増えて水力発電量を追い越す。2030年には再生可能エネルギー発電量は30%程度になる予定。
太陽光発電の日本平均の[[設備利用率]]は夜昼年間を通すと全体の13%だと計算されている。すなわち日本の天候では年間365日x24時間すなわち8760時間のうち1100時間だけ、太陽光パネルがフル発電しそれ以外の時間は休止している計算である。結果として1kw太陽光パネルは日本では1年間に1100kWh発電する。40GWの太陽光発電装置による年間発電量は、40GWx1100時間=年間440億kWh程度であり、2017年の日本の電力総需要(0.9兆kWh)の5%以上が太陽光発電でまかなわれた<ref name="資源エネルギー庁150203" />。日本では2018年の昼間電力については1割以上を太陽光発電に依存している。
晴れた日の昼間は冷房のため電力需要が12時以降に増加するが、太陽光発電の発電量も10時から14時までが最大で、夏の冷房等電力需要と供給の時間バランスはおおよそ一致している<ref>{{Cite news |author=石田雅也 |url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1509/29/news026.html |title=夏の電力供給に太陽光と風力が貢献、東京電力の管内で377万kWに (1/2) |newspaper=スマートジャパン |publisher=アイティメディア |date=2015-09-29 |accessdate=2015-11-28 |quote=''東京電力の管内では8月7日...に最高気温が37.0度に達した。...家庭や企業の冷房需要が増加して、昼間の13時台に今夏の最大電力を記録した...夏の電力需要と太陽光発電の出力は比例する場合が多く、晴天による冷房需要の増加があっても同時に太陽光発電の発電量が増える。...電力をピーク時に太陽光で供給できるようになった。''}}</ref><ref name="朝日新聞15-08-08" />。
10-14時は定格発電能力の6-7割の出力があり、需要の増加に対応して太陽光は電力供給量を補うことができている<ref name="朝日新聞15-08-08">{{Cite news |author=平林大輔 |title=太陽光、ピーク時肩代わり 夏の電力需給 猛暑、晴れて本領 |newspaper=朝日新聞 東京朝刊 |page=3 |date=2015-08-08 |quote=''...夏のピーク時の電力供給を補う存在になりつつあるのが太陽光発電だ。太陽光は天気に左右される不安定な電源とされるが、猛暑の日はまず晴れており電力の供給面では頼りになる。...国内の太陽光の導入量は...15年3月末には約2700万キロワット...実際の出力はその6割程度に下がると計算しても...'' }}</ref>。少し古いデーターだが2015年夏の場合、沖縄電力を除く他の9電力会社の管内では10-14時の時間帯に30GWの太陽光発電設備によって1千万kW以上すなわち原子力発電所10基稼働分程度の太陽光電気を供給してエアコン電力需要に対応した<ref>{{Cite news |author=平林大輔 |title=太陽光発電、1割担う 今夏ピーク時の電力供給 原発十数基分 |newspaper=朝日新聞 東京朝刊 |date=2015-09-03 |page=1 |quote=''沖縄を除く電力各社への取材で...電力需要の...ピークは9社とも8月上旬で、太陽光の最大出力は午前11時台から午後1時台...最大出力は合計で約1500万キロワット。原発だと十数基分以上に相当する。''}}</ref><ref>{{Cite news |author=石田雅也 |url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1510/14/news024_2.html |title=夏の電力需給に構造変化、太陽光発電が増えて「脱・電力会社」が加速 (2/2) |newspaper=スマートジャパン |publisher=アイティメディア |date=2015-10-15 |accessdate=2015-11-28 |quote=''沖縄を除く9つの地域で最大需要を記録した時間帯の太陽光発電を合計すると1093万kWに達した。原子力発電所の10基稼働分に相当する規模だ。'' }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/kihonseisaku/denryoku_jukyu/pdf/012_04_00.pdf |title=2. 供給面の検証((4)太陽光) |work=総合資源エネルギー調査会 基本政策分科会 電力需給検証小委員会 第12回会合 資料4「2015年度夏季需給検証について」 |publisher=経済産業省 |page=7 |date=2015-10-09 |accessdate=2015-11-28 |quote=''太陽光の供給力の主な増加要因としては、(1)設備導入量の増加、(2)出力比率の増加が考えられる。'' }}</ref>。半面、太陽光発電は4-5月と7-8月の正午頃に最大発電するので、その季節には再稼働原発数が多い九州電力では電力供給が上回り、昼間に太陽光電気の受け入れ拒否を行うことも増えてきた。
2021年には法規制を逃れるための「分割案件」が横行していることが経済産業省の有識者会議で問題視され、10kWh未満の地上設置型について分割時の審査が行われることになった<ref name=":2" />。
=== 太陽光発電システムメーカー ===
[[ファイル:Solar_Ark.jpg|thumb|250px|[[ソーラーアーク]] ]]
2010年の日本の太陽電池生産企業はシャープ、京セラ、三洋電機(2009年パナソニックの子会社化後に解体<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.panasonic.com/jp/corporate/profile/history.html |title=パナソニック 沿革 |publisher=パナソニック |accessdate=2020-06-01}}</ref>)、三菱電機(2020年撤退<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-19 |url=https://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1911/19/news078.html |title=三菱電機が自社の太陽光パネル生産から撤退、京セラと提携しソリューション提案に注力|publisher=スマートジャパン |accessdate=2020-06-01}}</ref>)である<ref name="RTS201105" />。{{see|[[太陽光発電の市場動向]]}}
他にセル生産や部材供給に関わる企業が多数存在する(例:<ref name="JPEA_CompanyList">[http://www.jpea.gr.jp/01jpea04.html 太陽光発電協会 (JPEA) によるメーカー一覧]</ref>)。
中国やカナダ等海外からの日本市場参入が見られる<ref name="NDL">{{PDFlink|[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2011/201002_12.pdf 日中企業の相互進出の諸相、帖佐廉史]}}</ref>。
===施設の破壊・盗難===
2017年5月16日、[[兵庫県]]内の複数の太陽光発電所から送電ケーブルを盗んだ電気工事業者が逮捕された。被害は50件、約9,100万円。山間部など人目のつかない、警備の手薄な発電所が狙われており、状況によっては防犯体制などのリスクや対策費用が必要となること判明している<ref>[http://www.sankei.com/west/news/170517/wst1705170038-n1.html 「無人で狙いやすかった」 太陽光発電所の送電線窃盗、9千万円被害] 産経ニュースWEST(2017年5月16日)2017年9月29日</ref>。
===住宅用ソーラーパネル導入時のトラブル===
住宅用ソーラーパネル設置には下記の困難がつきまとうので注意が必要である。
太陽光発電は屋根に設置することもあり、ちゃんとした工事をしないと雨漏りに繋がる。しかし訪問販売業者は、施工コストを削るために足場が必要な現場でも設置しない、下請け業者を使って安く済ませる、メーカーの認定を受けていない等、工事の質が悪い。
雨漏りについては、建築した業者に許可等がなく設置をすると、建築した会社の保証なども利かなくなり、さらに訪問販売業者の対応もずさんであると、住宅にとって、雨漏りは構造躯体の腐食、シロアリの原因など致命傷に直結する。そういった防水処理の知識がない、または経験の浅い業者での施工により雨漏りに繋がっているケースも多々ある。
[[2019年]][[1月28日]]、[[消費者庁]]消費者安全調査委員会がまとめた報告書によれば、2017年11月までの約10年間で住宅用太陽光発電システムから[[火災]]、発火、発煙、過熱が生じた件数は127件。うち、少なくとも7件は屋根側にも延焼した(ただし、住宅用太陽光発電システムは、2018年10月時点で全国約240万棟に普及しており分母になる数は非常に大きい)。火災となったケースは、いずれもシステムと屋根が一体型となったもので、報告書では注意を呼びかけている<ref>{{Cite web|和書|date= 2019-01-28|url= https://www.asahi.com/articles/ASM1W6CTYM1WUTIL01T.html|title= 太陽光発電で発火、10年で127件 住宅に延焼も7件|publisher= 朝日新聞|accessdate=2019-01-28}}</ref>。
=== メガソーラー建設による環境への影響と反対運動 ===
個人宅屋根やビルなど巨大施設屋上及び壁面・平地への太陽光パネル設置と異なり、山地丘陵での[[森林伐採]]など山林を切り崩しての太陽光パネル設置(工事)に加え、建設後に関しては[[水質汚濁]]や豪雨災害時における[[土石流]]、[[地すべり|地滑り]]など[[土砂災害]]の危険や土壌流出などによる砂漠遷移化といった自然環境破壊を招くことがある<ref>{{Cite news|title=全国で公害化する太陽光発電 出現した黒い山、田んぼは埋まった| date=2021-06-27|newspaper=毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20210626/k00/00m/020/304000c|accessdate=2021-07-06}}</ref><ref>{{Cite news|title=【独自】川が汚れてから住民気づく…太陽光発電巡りトラブル続発、条例で規制も| date=2021-02-21|newspaper=読売新聞|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210221-OYT1T50059/|accessdate=2021-07-06}}</ref><ref>{{NHK for School clip|D0005320584_00000|太陽光発電の問題点}}</ref>。そのため、景観への悪影響や土砂災害を誘発するおそれがあるなどとして、特に大規模太陽光発電所(メガソーラー)への反対運動が各地で起こっている<ref>{{Cite news|title=函南町 「メガソーラー」めぐり反対住民らが県に要望|newspaper=NHKニュース|date=2021-07-01|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/shizuoka/20210701/3030012120.html|accessdate=2021-07-06}}</ref><ref name="asahi210604">{{Cite news|title=太陽光発電の建設に「待った」 規制条例が全国で急増|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2021-06-04|url=https://www.asahi.com/articles/ASP627QVXP50PLFA00H.html|accessdate=2021-07-06}}</ref>。2021年4月1日時点で太陽光発電設備関連の設置規制条例が146市町村で設けられ、都道府県単位でも兵庫や和歌山、岡山県では制定されている<ref name="asahi210604"/>。
== 宇宙太陽光発電 ==
{{Right|[[ファイル:Solardisk.jpg|thumb|none|200px|宇宙太陽光発電衛星(想像図)]]}}
{{main|宇宙太陽光発電}}
[[宇宙]]で太陽光発電を行う[[宇宙太陽光発電]]構想があり、日本、アメリカ、欧州等で研究が進められている。
太陽光発電用の[[人工衛星]]を打ち上げ、発電した電力を[[マイクロ波]]または[[レーザー光]]に変換して地上の受信局に送信し、地上で再び電力に変換する構想である。宇宙空間の太陽光は、[[大気]]で減衰される地上より強力であり、[[大気圏]]外では地球上の天候([[雲]])や季節に左右されない。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
* {{Cite book |和書 |others=資源総合システム編著、一木修監修 |title=太陽光発電ビジネス、大競争時代を乗り越えろ |series=B&Tブックス 知らなきゃヤバイ! |publisher=[[日刊工業新聞社]] |date=2010-03 |isbn=978-4-526-06447-0 |ref=一木修監修 (2010) }}
* {{Cite book |和書 |author=小長井誠 |author2=近藤道雄 |author3=山口真史 |title=太陽電池の基礎と応用 |publisher=培風館 |year=2010 |isbn=978-4563067809 |chapter=4.6節 |ref=小長井ら (2010) }}
* {{Cite book |和書 |author=桑野幸徳|authorlink=桑野幸徳 |title=太陽電池はどのように発明され、成長したのか |publisher=[[オーム社]] |date=2011-08 |isbn=978-4-274-50348-1 |ref=桑野 (2011) }}
* {{Cite book |和書 |editor=太陽光発電協会 |title=太陽光発電システムの設計と施工 |publisher=オーム社 |date=2011-09 |edition=改訂4版 |isbn=978-4-274-21060-0 |ref=太陽光発電協会編 (2001) }}<!--2006年12月5日 (火) 16:19 (UTC) -->
* {{Cite book |和書 |author1=山田興一|authorlink1=山田興一|author2=小宮山宏|authorlink2=小宮山宏|title=太陽光発電工学 - 太陽電池の基礎からシステム評価まで |publisher=日経BP社 |date=2002-10 |isbn=978-4-8222-8148-9 |ref=山田・小宮山 (2002) }}<!--2005年10月1日 (土) 09:15 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |last=ロビンス |first=エイモリー・B. |authorlink=:en:Amory Lovins |others=山藤泰訳 |title=[[:en:Small Is Profitable|スモール・イズ・プロフィタブル]] - 分散型エネルギーが生む新しい利益 |publisher=省エネルギーセンター |date=2005-05 |isbn=978-4-87973-294-1 |ref=ロビンス (2005) }}<!--2005年10月1日 (土) 09:15 (UTC)-->
{{参照方法|date=2015年11月28日 (土) 13:57 (UTC)|section=1}}
* 飯田哲也 『自然エネルギー市場』 ISBN 4-8067-1303-1。<!--2005年10月1日 (土) 09:15 (UTC)-->
* 産業技術総合研究所太陽光発電研究センター編著 『トコトンやさしい太陽電池の本』 ISBN 978-4-526-05795-3。<!--2007年2月21日 (水) 13:33 (UTC)-->
*吉田肇「地域における住宅用太陽光発電システムに対する補助支援策の展開に関する考察」2012年10月 都市計画論文集 第47巻
*
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい-->
* 太和田喜久 『太陽光が育くむ地球のエネルギー』 ISBN 4872593030。<!--2012年2月23日 (木) 10:46 (UTC)--> - 太陽電池に関する入門書
* 岡本博明・太和田善久 『薄膜シリコン系太陽電池の最新技術』 ISBN 4781301347。<!--2012年2月23日 (木) 10:46 (UTC)--> - 太陽電池に関する専門書
* 『図解最新太陽光発電のすべて』 工業調査会編、2009年7月。ISBN 4769371713。<!--2009年8月28日 (金) 17:03 (UTC) で加筆と共に参考文献に追加されたが、その後加筆部分が除去されたため関連書籍に移動-->
* 『太陽エネルギー利用技術』 日本太陽エネルギー学会編。ISBN 4-274-20278-X<!--2008年12月29日 (月) 09:47 (UTC) で加筆と共に参考文献に追加されたが、記述量が十分でない-->
* 浜川圭弘・桑野幸徳 『太陽エネルギー工学』 ISBN 4-563-03603-X。<!--2006年4月21日 (金) 00:11 (UTC)で加筆と共に参考文献に追加されたが、記述量が十分でない-->
* 和田木哲哉(野村證券) 『爆発する太陽電池産業』 東洋経済新報社、2008年11月。ISBN 978-4-492-76178-6。<!--2008年12月9日 (火) 18:21 (UTC) に加筆と共に参考文献に追加されたが、その後加筆部分が除去されたため、関連書籍に移動-->
*太陽光発電所ネットワーク「わが家ではじめる太陽光発電」2004/06 合同出版
*斎藤勝裕「よくわかる太陽電池」2009/02 [[日本実業出版社]]
*クリーンエネルギーライフクラブ「広がる広がれ太陽光発電」 2009/07 西田書店
*「徹底特集『太陽光発電』なぜ今,太陽電池なのか?」 雑誌「[[ニュートン (雑誌)|Newton]]」 2009/09
*岩堀良弘「『発電貯金』生活のススメ」 2010/1 合法令出版
*山下和之「太陽光発電は本当にトクなのか?」 2010/04 [[毎日コミュニケーションズ]]
*瀬川浩司他「太陽電池のしくみ」サイエンス徹底図解 2010/05 [[新星出版社]]
*加藤和彦「太陽光発電システムの不具合事例ファイル」 2010/07 [[日刊工業新聞社]]
*「わが家も太陽光発電」 2010/06 [[朝日新聞出版]]
*石川 憲二「自然エネルギーの可能性と限界」2010/07 [[オーム社]]
*[[佐藤勝昭]]「太陽電池」のキホン 2011/04 フレックスコミックス
*小西正暉他「太陽光発電システムがわかる本」2011/04 オ-ム社
*[[鈴木孝夫]]「しあわせ節電」2011/06 [[文藝春秋]]
*「エネルギー総選挙」電力の政権交代が起きる日 2011/07 [[日経ビジネス]]
*[[円居総一]]「原発に頼らなくても日本は成長できる」2011/07 [[ダイヤモンド社]]
*「徹底比較!「新エネルギー」がよくわかる本」レッカ社 [[PHP研究所]] 2011/08
*「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」NEWTON別冊 2011/08 [[ニュートンプレス]]
*「よくわかる最新火力発電の基本と仕組み」火力発電の原理と現状を基礎から学ぶ 火力原子力発電技術協会 2011/09 [[秀和システム]]
*太和田善久「プロが教える太陽電池のすべてがわかる本」2011/09 [[ナツメ社]]
*[[川村康文]]著「自分で作る太陽光発電」(大人の週末工作) 2012/05 総合科学出版
*中村昌広「自分で作るハブダイナモ水力発電」(大人の週末工作) (著)2012/07 総合科学出版
*[[川村康文]]著「自分で作るハブダイナモ風力発電 + 」(大人の週末工作) 2012/11 総合科学出版
*[[ゲーリー・スナイダー]] + [[山尾三省|山尾 三省]]「聖なる地球のつどいかな 」[[山里勝己]]監修2013/04 新泉社
*中村昌広 (著) 「自分で作る風力発電」( 大人の週末工作)2013/06 総合科学出版
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== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
}}
* [[日本の太陽光発電所]]
* [[太陽光]]
* [[宇宙太陽光発電]]
* [[太陽電池]]
* [[電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法]] - RPS制度について
* [[ソーラーアーク]]
* [[ソーラーカー]]
* [[太陽熱発電]]
* アウグスティン・ムショ[[:en:Augustin Mouchot|(英語版)]]
* [[ジョン・エリクソン]]
* [[太陽熱温水器]]
* [[新エネルギー]]
* [[地球温暖化]]
== 外部リンク ==
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=== 解説サイト ===
* [https://unit.aist.go.jp/rpd-envene/PV/ja/about_pv/index.html 太陽光発電とは](産総研・太陽光発電研究センター)
=== 産業団体 ===
* 米国:[[:en:Solar Energy Industries Association]] (SEIA) [https://www.seia.org/ 公式サイト]
* 欧州:[https://www.solarpowereurope.org/ European Photovoltaic Industry Association (EPIA)]、[https://etip-pv.eu/ ETIP PV The European Technology and Innovation Platform for Photovoltaics]
* ドイツ:[https://www.solarwirtschaft.de/ German Solar Industry Association (BSW)]
* スペイン:[https://www.asif.org/ Spanish Photovoltaic Industry Association / Asociacion de la Industria Fotovoltaica (ASIF)]
* 日本
** [[太陽光発電協会]] (JPEA) [http://www.jpea.gr.jp/ 公式サイト] - 日本最大の太陽光発電専門の業界団体。導入・普及促進・広報事業などを手がける。
** 太陽光発電技術研究組合(PVTEC) [http://www.pvtec.or.jp/ 公式サイト] - 日本の業界団体で、研究・技術開発に重点を置く。
** 光産業技術振興協会(OITDA) [http://www.oitda.or.jp/ 公式サイト]
** ソーラーシステム振興協会(SSDA) [http://www.ssda.or.jp/ 公式サイト]
** [[日本電機工業会]](JEMA) [https://www.jema-net.or.jp/ 公式サイト]
=== 公的機関 ===
* [http://www.iea-pvps.org/ IEA Photovoltaic Power Systems Programme](IEA PVPS) - [[国際エネルギー機関]](IEA)内の専門組織。国際的な研究協力や情報収集・交換を手がける。
* [[国際再生可能エネルギー機関]](IRENA) [http://irena.org/ 公式サイト]
;日本
:* [[新エネルギー・産業技術総合開発機構]] (NEDO) [http://www.nedo.go.jp/ 公式サイト] - エネルギー・環境技術の一環として、太陽光発電に関する[[研究開発]]・普及を推進する活動を行っている。
:* [[東京都]] 太陽エネルギー利用拡大会議 [https://web.archive.org/web/20080304024747/http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/kikaku/renewables/solarenergy.html 公式サイト] - 太陽光発電や太陽熱利用の利用拡大方策の検討会。2008年2月に最終のとりまとめ
=== 研究開発 ===
==== 専門部署を有する研究機関 ====
* [[国立再生可能エネルギー研究所]] (National Renewable Energy Laboratory, NREL) [http://www.nrel.gov/ 公式サイト] - 再生可能エネルギーや[[省エネルギー]]技術全般を扱う米国の研究所。
* [http://ec.europa.eu/dgs/jrc/index.cfm 欧州機構共同研究センター](JRC)
* [http://www.ise.fraunhofer.de/ Fraunhofer-Instituts fur Solare Energiesysteme (Fraunhofer ISE)] - ドイツの研究機構である[[フラウンホーファー協会]]内で太陽エネルギーを専門とする研究機関。
; 日本
:* [[東京大学]]: [https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/ 先端科学技術研究センター](RCAST)
:* [[東京工業大学]]: [http://solid.pe.titech.ac.jp/ 小長井・山田研究室]
:* [[東京理科大学]]: [http://www.rs.noda.tus.ac.jp/~solar/index.html 太陽光発電研究部門] - 2010年4月発足。各種太陽電池の他、宇宙用システム、システムの高信頼性化等も手がける
==== 専門学会・展示会 ====
; 国際学会
:* World Conference on Photovoltaic Energy Conversion (WCPEC) - 4年毎に地域を変えて開催される専門学会。 - [http://www.oitda.or.jp/main/cofrep/H19/H19No17.pdf OITDAによる専門学会に関する資料]
:* [http://www.photovoltaic-conference.com/ European Photovoltaic Solar Energy Conference and Exhibition (EU-PVSEC)] - 欧州の専門学会。年々規模が拡大しており、2010年9月開催の第25回では学術セッションだけで参加者4540人、併設展示会(広さ8万平方メートル)への来場者38000人を記録している。[https://web.archive.org/web/20110827204319/http://www.photovoltaic-conference.com/pressnews/archive-pressreleases/archive2010/english.html 25th EU PVSEC / WCPEC-5, September 2010, Valencia, Spain, Press Release]
:* [http://www.ieee-pvsc.org/ IEEE Photovoltaic Specialists Conference (PVSC)] - 米国の専門学会。
: 国際的な展示会は年間数十件に上る - [https://web.archive.org/web/20100102163750/http://solarbuzz.com/InfoCenterUpcoming.htm Solarbuzzの展示会情報]。
; 日本の学会
:* [https://www.jses-solar.jp/ 日本太陽エネルギー学会] - 日本国内の専門学会。
:* [http://www.renewableenergy.jp/ 再生可能エネルギー協議会] - [[再生可能エネルギー]]全般を扱う展示会と学会。
:* [http://www.pvexpo.jp/ PV EXPO] - アジア最大の国際商談展示会。
:* [[日本学術振興会]] [http://solid.pe.titech.ac.jp/~gakushin/ 産学協力研究委員会 次世代の太陽光発電システム 第175委員会] - 次世代の太陽電池の各種技術開発に関する研究会・ワークショップ・シンポジウムなどを開催している。
==== 専門論文誌 ====
* [http://www.elsevier.com/locate/issn/0038092X Solar Energy]
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高速自動車国道
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高速自動車国道(こうそくじどうしゃこくどう)とは、日本の国道かつ自動車専用の道路の一種であり、高規格幹線道路のA路線に該当する。自動車専用道路と共に高速道路である。
高速自動車国道法〈以降「法」と表記〉第4条で規定される。
高速自動車国道は計画および整備中の路線を含め、全国に43路線、延長1万1520キロメートル(km)ある。高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路や本州四国連絡道路および、都市高速道路などは、高速自動車国道の中には含まれない。一般道路とは異なり、自動車を高速かつ安全に運転できる道路として造られることが特徴で、次の要件を満たすこととなっている。
2019年(令和元年)度末時点供用中の高速自動車国道は、ほとんどが有料道路として供用されている。2010年(平成22年)に民主党(当時)が一部路線を試験的に無料開放したことがあるが、それ以降は新直轄区間および一般国道へ降格された区間を除き、無料開放されたことはない。
高速自動車国道には沿道に商店などを建てることができず、路肩に自動車を停めることもできないことから、休憩施設として概ね50 kmおきにサービスエリア(SA)、15 kmおきにパーキングエリア(PA)が設けられる。
路線は、
のうちから、高速自動車国道の路線を指定する政令で指定される(法第4条)。路線が指定された場合、一義的には国土交通大臣が整備計画を定め、建設、その他の管理まで行う。
しかしながら、料金を徴収してでも道路の整備を促進する趣旨で、別途道路整備特別措置法が1956年(昭和31年)に制定され、建設大臣は日本道路公団に高速自動車国道の新設または改築を行わせ(施行命令)、料金を徴収させることができるものとされた(同法第2条の2)。これを受けて、公団は路線名および工事の区間、工事方法、工事予算、工事の着手および完成の予定年月日を「工事実施計画」として提出する(同第2条の3)。
2005年(平成17年)10月1日施行の道路関係4公団の民営化に伴う法改正により、東日本・中日本・西日本各高速道路会社が日本高速道路保有・債務返済機構との協定に基づき、国土交通大臣の許可を受けて、高速自動車国道を含む高速道路を新設し、または改築して、料金を徴収することができるものと改められた(同第3条)。
高速自動車国道は、自動車の高速交通の用に供する趣旨から、高速自動車国道法第11条により連結できる施設は以下のものに限られている。
これらの連結には、国土交通大臣の連結許可を要する。連結位置および連結予定施設は、前述の整備計画の必要事項とされており、かつては連結施設を追加的に新設する場合にも、新めて整備計画を経る必要があったが、現在は簡素化されている。
また、法施行令では、本線車道に直接出入りすることができる施設につき、連結位置に関する基準が示されており、本線車道の接続部分が他の施設のそれから、本線車道に沿って2km以上離れていることと定められている。
公団民営化による新規着工鈍化が必至のなか、地方負担による新たな形の手法が模索され、2003年(平成15年)12月25日に開催された第1回国土開発幹線自動車道建設会議(国幹会議)において、民営化後の新会社による道路整備を補完する手法として、地方にも費用負担させる「新たな直轄事業」が導入された。この場合、建設費償還が不要なため無料となる。これが新直轄方式である。この方式を採用して建設が行われる区間を新直轄区間という。
この第1回国幹会議では、整備計画まで決定している区間のうち27区間699kmが新直轄方式に変更されることが決まった。これを受け、2003年(平成15年)5月12日に改正高速自動車国道法等が施行。国がその4分の3以上で政令で定める割合を、残りを都道府県や政令指定都市が費用負担するものと改正された。実際には、都道府県等の負担分については地方交付税措置の重点配分(県の負担分の9割を地方債で充当し、その元利償還金について地方交付税措置を行う)や高速道路の後進地域に対する補助等によりある程度まで抑えられる見通しとなっている。
なお、新直轄方式の「新」とは従来の直轄事業である高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路(国と県の建設費負担は2対1)に対するものである。
国内第1号の新直轄方式は、北海道横断自動車道釧路線である。当初この路線は、従来方式での建設で計画されていたが、近隣市町が応分の費用を積極的に負担し完成を急ぐ必要があるという自発的な住民運動によって積極的に新直轄方式に変更した。2007年(平成19年)9月には日本海沿岸東北自動車道の本荘 - 岩城が新直轄方式としては初めて開通した。
高速自動車国道には、「高速自動車国道の路線を指定する政令」で指定された路線名(正式名)と、NEXCOなど道路管理者が一般公衆向けの案内に使用する道路名(通称名)の二つの路線名がある。開通供用している路線には、以下の道路名がある。高速道路としては連続していても、高速自動車国道ではない区間(高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路=A'路線)は除いてある。なお、起終点は、ここでは道路名ごとの案内上の「下り線」「上り線」の方向に準拠して記述する。
現在、道路名に用いられる名称(通称名)の数は64路線となっている。それぞれの道路名に対応する「高速自動車国道の路線を指定する政令」における路線名(正式名)も併記している。
また、国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)=B路線や、地域高規格道路として開通供用している路線の中でも、一部が法的には高速自動車国道に指定されている部分が数か所あるため、これらについても備考欄に合わせて記述している。
整備計画の変更により一般国道から高速自動車国道へ昇格された区間が存在する。このような手法がとられた理由は、高速自動車国道を建設するためには多額の建設費を必要とするため、一般国道の有料道路を高規格幹線道路に改修して建設費用となる国の借入金を抑え、少しでも早く高速道路網を完成させるという狙いからである。
また、逆に高速自動車国道から一般国道へ降格された区間として唯一、一般国道116号新潟西バイパスの新潟西IC - 黒埼IC(旧北陸自動車道新潟料金所 - 新潟黒埼IC)が存在する。
高速自動車国道の料金制は対距離制、均一制、区間料金制の3種類あり、区間によって適用される料金制が異なる。
高速自動車国道の多くの区間で適用されている。走行距離に比例して課される可変額部分と利用1回ごとに課される固定額部分(ターミナルチャージ)がある。
普通区間(一部区間を除く)での1kmあたりの料金は以下のように設定されている。
大都市近郊区間、関越特別区間、恵那山特別区間、飛騨特別区間、関門特別区間については1kmあたりの料金が別途定められている。いずれも普通区間より割高に設定されている。また、普通区間の一部についても1kmあたりの料金が別途定められている。中京圏の各高速道路(東海環状自動車道の内側の対距離制区間)、阪和自動車道の一部区間では普通区間より割高に、逆に沖縄自動車道では普通区間より割安に設定されている。
100kmを超え200kmまでの部分の料金は25%割引、200kmを超える部分の料金は30%割引される。
目的地までに複数の経路を有する場合は、最短経路の2倍を超える経路でない限り最も安い経路の通行料金で計算される。
料金は可変額部分と固定額部分の合計に1.1を乗じることにより消費税および地方消費税を加え、この額が10,000円以下の場合には四捨五入して10円単位とし、10,000円を超える場合には100円未満を切り捨てて計算される。
渋滞が予想されるなどの理由で入口または出口に料金所が設けられていない路線の一部で採用されている。料金は、平均旅行距離をもとに上記の方法で算出されている。このため、短距離利用の場合は対距離制より割高に、全区間の走行など長距離利用の場合は割安になる。
都市部で採用されていたが、ETCの普及に伴い多くの均一制区間が事業許可上は区間料金制に移行しており、2021年現在、事業許可において均一制とされているのは道央自動車道札幌南IC - 札幌JCT間、札樽自動車道札幌西IC - 札幌JCT間のみである。
事業許可では三角表などによって料金が定められており、入口ICごとまたは入口ICと出口ICの組み合わせごとに料金が設定されている。主に入口または出口に料金所が設けられていない路線で採用されており、かつて均一制を採用していた区間もある。料金所のない出入口においてフリーフローアンテナによって通過を確認できるETC車については多くの区間で走行距離に応じた料金が設定されている一方で、通過を確認できない非ETC車については均一料金や入口ICから利用できる最長区間の料金が設定されている。
東日本・中日本・西日本各高速道路会社とも、2006年(平成18年)4月1日から2060年6月1日。これにはNEXCO各社および本州四国連絡高速道路株式会社の管理する全国路線網の一般有料道路も含まれる。
道路交通法施行令に基づいて、法定速度として最高速度および最低速度が定められている。
125cc以下の二輪車である小型自動二輪車、原動機付自転車およびミニカーについては、高速自動車国道の通行可能車両の規定は道路交通法ではなく道路運送車両法に基づき規定され、これらの車両は同法施行規則第1条で「原動機付自転車」とされ、自動車の範疇から外れるため通行することができない。
また、高速自動車国道のうち一部にでも対面通行でない区間(法定最低速度が50km/h)を含む道路の区間は、次の自動車は通行できない(一方、自動車専用道路については、個別の通行止め標識または最低速度規制が無い限りは通行可能である)。
法定最高速度は車種によって異なり、次のように定められている。
なお、暫定2車線区間や道路構造令、天候・障害(工事、故障車、落下物、災害)によって50 - 80km/hで速度規制されることがある。
また、秋田・山形・山梨・京都・奈良・和歌山・鳥取・島根・高知・大分・鹿児島・沖縄の各府県を通る高速自動車国道では、当該府県内の区間における最高速度がすべて80km/h以下となっている。
法定最低速度は車種にかかわらず50km/hとしている。基本的に高速自動車国道で道路標識等により最低速度が指定される事はない。
法定最低速度は対面通行でない区間の本線車道のみに適用される。対面通行区間の本線車道、加速車線、減速車線、登坂車線、路側帯、路肩においては適用されない。
「高速自動車国道の本線車道のうち対面通行でない区間」とそれ以外の道路(具体的には高速自動車国道の本線車道のうち対面通行の区間(暫定2車線区間等)や登坂車線・自動車専用道路・一般道路)とでは、最高速度や最低速度に関する規制が異なる(詳細は各項目を参照)。
高速自動車国道や自動車専用道路のうち高規格幹線道路のものなど最高速度が80 - 100 km/hとなっている道路については、自然現象や故障車・事故・渋滞等の発生などにより必要に応じて臨時に速度規制が行われている。そのため、最高速度の標識には表示幕方式や電光方式といった可変式のものが採用されている。
通行止め規制やチェーン規制・事故等や渋滞・混雑の発生に関する道路交通情報としては、高速自動車国道のほぼ全区間と一部の自動車専用道路・都市高速道路については日本道路交通情報センターにより道路情報のリアルタイム提供がなされている。
高速自動車国道および自動車専用道路の入口・出口(主にインターチェンジ)には「自動車専用」の道路標識が設置されており、補助標識で高速自動車国道と自動車専用道路のどちらに該当するかが記載されている。ただし補助標識がない場合もあるほか、高速自動車国道であるにも関わらず「自動車専用道路」と記されている場合もある。
通行している高速道路がどちらであるかの区別は、東名・名神・新東名・新名神・東京湾アクアライン連絡道・京滋バイパス・関門橋の例外を除き「自動車道」という道路名でなければ高速自動車国道ではないことや道路の車線数・線形などの常識的な情報以外には走行途中に判断できるような情報がない。
「ここから有料道路」などの案内標識では高速自動車国道入り口では使われないため、高速自動車国道か否かを判断できる可能性はある。なお、最低速度を示す道路標識については必ずしも高速自動車国道か否かを判断する材料にはならないが、「高速自動車国道の本線車道のうち対面通行でない区間」については道路標識を設置せずとも最低速度は50km/hに法定で規制される事から、「対面通行でない区間」に50km/hの最低速度の道路標識が設置されている場合、自動車専用道路であると推認する事はできる。
なお、暫定2車線区間であれば高速自動車国道と自動車専用道路で規制に差異は無く、運転上は気にする必要はない(ただし、一般道路と高速道路とでは、規制に差異がある)。
ここでは運転上、利用上のものに限る。
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"text": "高速自動車国道には、「高速自動車国道の路線を指定する政令」で指定された路線名(正式名)と、NEXCOなど道路管理者が一般公衆向けの案内に使用する道路名(通称名)の二つの路線名がある。開通供用している路線には、以下の道路名がある。高速道路としては連続していても、高速自動車国道ではない区間(高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路=A'路線)は除いてある。なお、起終点は、ここでは道路名ごとの案内上の「下り線」「上り線」の方向に準拠して記述する。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "現在、道路名に用いられる名称(通称名)の数は64路線となっている。それぞれの道路名に対応する「高速自動車国道の路線を指定する政令」における路線名(正式名)も併記している。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また、国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)=B路線や、地域高規格道路として開通供用している路線の中でも、一部が法的には高速自動車国道に指定されている部分が数か所あるため、これらについても備考欄に合わせて記述している。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "整備計画の変更により一般国道から高速自動車国道へ昇格された区間が存在する。このような手法がとられた理由は、高速自動車国道を建設するためには多額の建設費を必要とするため、一般国道の有料道路を高規格幹線道路に改修して建設費用となる国の借入金を抑え、少しでも早く高速道路網を完成させるという狙いからである。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また、逆に高速自動車国道から一般国道へ降格された区間として唯一、一般国道116号新潟西バイパスの新潟西IC - 黒埼IC(旧北陸自動車道新潟料金所 - 新潟黒埼IC)が存在する。",
"title": "路線"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "高速自動車国道の料金制は対距離制、均一制、区間料金制の3種類あり、区間によって適用される料金制が異なる。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "高速自動車国道の多くの区間で適用されている。走行距離に比例して課される可変額部分と利用1回ごとに課される固定額部分(ターミナルチャージ)がある。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "普通区間(一部区間を除く)での1kmあたりの料金は以下のように設定されている。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "大都市近郊区間、関越特別区間、恵那山特別区間、飛騨特別区間、関門特別区間については1kmあたりの料金が別途定められている。いずれも普通区間より割高に設定されている。また、普通区間の一部についても1kmあたりの料金が別途定められている。中京圏の各高速道路(東海環状自動車道の内側の対距離制区間)、阪和自動車道の一部区間では普通区間より割高に、逆に沖縄自動車道では普通区間より割安に設定されている。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "100kmを超え200kmまでの部分の料金は25%割引、200kmを超える部分の料金は30%割引される。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "目的地までに複数の経路を有する場合は、最短経路の2倍を超える経路でない限り最も安い経路の通行料金で計算される。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "料金は可変額部分と固定額部分の合計に1.1を乗じることにより消費税および地方消費税を加え、この額が10,000円以下の場合には四捨五入して10円単位とし、10,000円を超える場合には100円未満を切り捨てて計算される。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "渋滞が予想されるなどの理由で入口または出口に料金所が設けられていない路線の一部で採用されている。料金は、平均旅行距離をもとに上記の方法で算出されている。このため、短距離利用の場合は対距離制より割高に、全区間の走行など長距離利用の場合は割安になる。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "都市部で採用されていたが、ETCの普及に伴い多くの均一制区間が事業許可上は区間料金制に移行しており、2021年現在、事業許可において均一制とされているのは道央自動車道札幌南IC - 札幌JCT間、札樽自動車道札幌西IC - 札幌JCT間のみである。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "事業許可では三角表などによって料金が定められており、入口ICごとまたは入口ICと出口ICの組み合わせごとに料金が設定されている。主に入口または出口に料金所が設けられていない路線で採用されており、かつて均一制を採用していた区間もある。料金所のない出入口においてフリーフローアンテナによって通過を確認できるETC車については多くの区間で走行距離に応じた料金が設定されている一方で、通過を確認できない非ETC車については均一料金や入口ICから利用できる最長区間の料金が設定されている。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "東日本・中日本・西日本各高速道路会社とも、2006年(平成18年)4月1日から2060年6月1日。これにはNEXCO各社および本州四国連絡高速道路株式会社の管理する全国路線網の一般有料道路も含まれる。",
"title": "料金の額およびその徴収期間"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "道路交通法施行令に基づいて、法定速度として最高速度および最低速度が定められている。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "125cc以下の二輪車である小型自動二輪車、原動機付自転車およびミニカーについては、高速自動車国道の通行可能車両の規定は道路交通法ではなく道路運送車両法に基づき規定され、これらの車両は同法施行規則第1条で「原動機付自転車」とされ、自動車の範疇から外れるため通行することができない。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、高速自動車国道のうち一部にでも対面通行でない区間(法定最低速度が50km/h)を含む道路の区間は、次の自動車は通行できない(一方、自動車専用道路については、個別の通行止め標識または最低速度規制が無い限りは通行可能である)。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "法定最高速度は車種によって異なり、次のように定められている。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、暫定2車線区間や道路構造令、天候・障害(工事、故障車、落下物、災害)によって50 - 80km/hで速度規制されることがある。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、秋田・山形・山梨・京都・奈良・和歌山・鳥取・島根・高知・大分・鹿児島・沖縄の各府県を通る高速自動車国道では、当該府県内の区間における最高速度がすべて80km/h以下となっている。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "法定最低速度は車種にかかわらず50km/hとしている。基本的に高速自動車国道で道路標識等により最低速度が指定される事はない。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "法定最低速度は対面通行でない区間の本線車道のみに適用される。対面通行区間の本線車道、加速車線、減速車線、登坂車線、路側帯、路肩においては適用されない。",
"title": "法定速度"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "「高速自動車国道の本線車道のうち対面通行でない区間」とそれ以外の道路(具体的には高速自動車国道の本線車道のうち対面通行の区間(暫定2車線区間等)や登坂車線・自動車専用道路・一般道路)とでは、最高速度や最低速度に関する規制が異なる(詳細は各項目を参照)。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "高速自動車国道や自動車専用道路のうち高規格幹線道路のものなど最高速度が80 - 100 km/hとなっている道路については、自然現象や故障車・事故・渋滞等の発生などにより必要に応じて臨時に速度規制が行われている。そのため、最高速度の標識には表示幕方式や電光方式といった可変式のものが採用されている。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "通行止め規制やチェーン規制・事故等や渋滞・混雑の発生に関する道路交通情報としては、高速自動車国道のほぼ全区間と一部の自動車専用道路・都市高速道路については日本道路交通情報センターにより道路情報のリアルタイム提供がなされている。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "高速自動車国道および自動車専用道路の入口・出口(主にインターチェンジ)には「自動車専用」の道路標識が設置されており、補助標識で高速自動車国道と自動車専用道路のどちらに該当するかが記載されている。ただし補助標識がない場合もあるほか、高速自動車国道であるにも関わらず「自動車専用道路」と記されている場合もある。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "通行している高速道路がどちらであるかの区別は、東名・名神・新東名・新名神・東京湾アクアライン連絡道・京滋バイパス・関門橋の例外を除き「自動車道」という道路名でなければ高速自動車国道ではないことや道路の車線数・線形などの常識的な情報以外には走行途中に判断できるような情報がない。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "「ここから有料道路」などの案内標識では高速自動車国道入り口では使われないため、高速自動車国道か否かを判断できる可能性はある。なお、最低速度を示す道路標識については必ずしも高速自動車国道か否かを判断する材料にはならないが、「高速自動車国道の本線車道のうち対面通行でない区間」については道路標識を設置せずとも最低速度は50km/hに法定で規制される事から、「対面通行でない区間」に50km/hの最低速度の道路標識が設置されている場合、自動車専用道路であると推認する事はできる。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、暫定2車線区間であれば高速自動車国道と自動車専用道路で規制に差異は無く、運転上は気にする必要はない(ただし、一般道路と高速道路とでは、規制に差異がある)。",
"title": "交通規制"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ここでは運転上、利用上のものに限る。",
"title": "交通規制"
}
] |
高速自動車国道(こうそくじどうしゃこくどう)とは、日本の国道かつ自動車専用の道路の一種であり、高規格幹線道路のA路線に該当する。自動車専用道路と共に高速道路である。 高速自動車国道法〈以降「法」と表記〉第4条で規定される。
|
{{出典の明記|date=2013年3月}}
{{Law}}
[[ファイル:Tomobe JCT..JPG|thumb|right|275px|「'''高速自動車国道'''」の建設管理は、法令上、[[東日本高速道路|東日本]]・[[中日本高速道路|中日本]]・[[西日本高速道路|西日本]]の各道路会社(民営化前は[[日本道路公団]])が行っている。<br/>(写真は、[[w:ja:東日本高速道路株式会社|東日本高速道路株式会社〈NEXCO東日本〉]]の[[常磐自動車道]][[友部ジャンクション]]下り線)]]
{{Mapbox/高速自動車国道}}
'''高速自動車国道'''(こうそくじどうしゃこくどう)とは、[[日本]]の[[国道]]かつ[[自動車専用道路|自動車専用]]の道路の一種であり、[[高規格幹線道路]]のA路線に該当する。[[自動車専用道路]]と共に'''[[日本の高速道路|高速道路]]'''である。
[[高速自動車国道法]]〈以降「法」と表記〉第4条で規定される。
: 「自動車の高速交通の用に供する道路で、全国的な自動車交通網の枢要部分を構成し、かつ、政治・経済・文化上特に重要な地域を連絡するものその他国の利害に特に重大な関係を有する」道路である。
== 概要 ==
高速自動車国道は計画および整備中の路線を含め、全国に43路線、延長1万1520[[キロメートル]](km)ある{{Sfn|浅井建爾|2001|p=58}}{{Sfn|武部健一|2015|pp=201-202}}。[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]や[[本州四国連絡道路]]および、[[都市高速道路]]などは、高速自動車国道の中には含まれない{{Sfn|浅井建爾|2001|p=58}}。一般道路とは異なり、自動車を高速かつ安全に運転できる道路として造られることが特徴で{{Sfn|浅井建爾|2015|p=13}}、次の要件を満たすこととなっている{{Sfn|浅井建爾|2001|pp=58-59}}。
* [[国道]]である。
* 走行車両は[[インターチェンジ]]から出入りする。
* 自動車専用の道路であり、[[自転車]]などの[[軽車両]]や[[歩行者]]、125 cc以下の[[小型自動二輪車|小二輪]]、[[原動機付自転車|原付]]は通行不可である。
* 往復交通は、[[中央分離帯]]で分離されている。
* [[立体交差]]である。
* [[サービスエリア]]、[[パーキングエリア]]を備えている。
[[2019年]]([[令和]]元年)度末時点供用中の高速自動車国道は、ほとんどが[[有料道路]]として供用されている。[[2010年]](平成22年)に[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]](当時)が一部路線を試験的に無料開放したことがあるが、それ以降は[[新直轄方式|新直轄]]区間および[[一般国道]]へ降格された区間を除き、無料開放されたことはない。
{{main|高速道路無料化}}
高速自動車国道には沿道に[[店|商店]]などを建てることができず、[[路肩]]に自動車を停めることもできないことから、休憩施設として概ね50 kmおきに[[サービスエリア]](SA)、15 kmおきに[[パーキングエリア]](PA)が設けられる。
== 整備 ==
路線は、
* [[国土開発幹線自動車道]]の予定路線
* 高速自動車国道として建設すべき道路の予定路線
のうちから、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]で指定される(法第4条)。路線が指定された場合、一義的には[[国土交通大臣]]が'''整備計画'''を定め、建設、その他の管理まで行う。
しかしながら、料金を徴収してでも道路の整備を促進する趣旨で、別途[[道路整備特別措置法]]が[[1956年]]([[昭和]]31年)に制定され、[[建設大臣]]は[[日本道路公団]]に高速自動車国道の新設または改築を行わせ('''施行命令''')、料金を徴収させることができるものとされた(同法第2条の2)。これを受けて、公団は路線名および工事の区間、工事方法、工事予算、工事の着手および完成の予定年月日を「工事実施計画」として提出する(同第2条の3)。
[[2005年]](平成17年)[[10月1日]]施行の[[道路関係4公団]]の民営化に伴う法改正により、[[東日本高速道路|東日本]]・[[中日本高速道路|中日本]]・[[西日本高速道路|西日本]]各高速道路会社が[[日本高速道路保有・債務返済機構]]との協定に基づき、国土交通大臣の[[許可]]を受けて、高速自動車国道を含む高速道路を新設し、または改築して、料金を徴収することができるものと改められた(同第3条)。
== 連結 ==
{{独自研究|date=2019年7月|section=1}}
高速自動車国道は、自動車の高速交通の用に供する趣旨から、[[高速自動車国道法]]第11条により連結できる施設は以下のものに限られている。
* 道路、一般自動車道または政令で定める一般交通の用に供する通路その他の施設
: [[インターチェンジ]]や[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]で接続する他の路線や[[一般道路]]を指す。
* 当該高速自動車国道の通行者の利便に供するための休憩所、給油所その他の施設または利用者のうち相当数の者が当該高速自動車国道を通行すると見込まれる商業施設、レクリエーション施設その他の施設
: 連結利便施設等。このうち前者はSA・PAで道路に面する道路サービス施設を指す。
* 第一号に掲げるものを除くほか、前号の施設と当該高速自動車国道とを連絡する通路その他の施設であつて、専ら同号の施設の利用者の通行の用に供することを目的として設けられるもの
: 連結通路等。かつての高速自動車国道活用施設を含むいわゆる[[ハイウェイオアシス]](これらを連結施設という)を連絡するものを指す。
これらの連結には、国土交通大臣の連結許可を要する。連結位置および連結予定施設は、前述の整備計画の必要事項とされており、かつては連結施設を追加的に新設する場合にも、新めて整備計画を経る必要があったが、現在は簡素化されている。
また、法施行令では、[[本線車道]]に直接出入りすることができる施設につき、連結位置に関する基準が示されており、本線車道の接続部分が他の施設のそれから、本線車道に沿って2km以上離れていることと定められている。
== 新直轄方式 ==
{{Main|新直轄方式}}
公団民営化による新規着工鈍化が必至のなか、地方負担による新たな形の手法が模索され、[[2003年]](平成15年)[[12月25日]]に開催された第1回[[国土開発幹線自動車道建設会議]](国幹会議)において、民営化後の新会社による道路整備を補完する手法として、地方にも費用負担させる「新たな直轄事業」が導入された。この場合、建設費償還が不要なため無料となる。これが[[新直轄方式]]である。この方式を採用して建設が行われる区間を[[新直轄方式#新直轄区間|新直轄区間]]という。
この第1回国幹会議では、整備計画まで決定している区間のうち27区間699kmが新直轄方式に変更されることが決まった。これを受け、2003年(平成15年)[[5月12日]]に改正高速自動車国道法等が施行。国がその4分の3以上で政令で定める割合を、残りを[[都道府県]]や[[政令指定都市]]が費用負担するものと改正された。実際には、都道府県等の負担分については[[地方交付税]]措置の重点配分(県の負担分の9[[割]]を[[地方債]]で充当し、その元利償還金について地方交付税措置を行う)や高速道路の後進地域に対する補助等によりある程度まで抑えられる見通しとなっている。
なお、新直轄方式の「新」とは従来の[[直轄事業]]である[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]](国と県の建設費負担は2対1)に対するものである。
国内第1号の新直轄方式は、[[北海道横断自動車道|北海道横断自動車道釧路線]]である。当初この路線は、従来方式での建設で計画されていたが、近隣市町が応分の費用を積極的に負担し完成を急ぐ必要があるという自発的な住民運動によって積極的に新直轄方式に変更した。[[2007年]](平成19年)[[9月]]には[[日本海沿岸東北自動車道]]の[[本荘インターチェンジ|本荘]] - [[岩城インターチェンジ|岩城]]が新直轄方式としては初めて開通した。
== 路線 ==
{{Main|高速自動車国道の路線を指定する政令#別表}}
=== 道路名 ===
[[ファイル:HighwayMapKansai.pdf|thumb|right|240px|路線図(関西地区)]]
高速自動車国道には、「[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]」で指定された'''路線名(正式名)'''と、NEXCOなど道路管理者が一般公衆向けの案内に使用する'''道路名(通称名)'''の二つの路線名がある{{Sfn|浅井建爾|2015|p=169}}。開通供用している路線には、以下の道路名がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jehdra.go.jp/hoyuukashitsuke.html|title=道路資産の保有及び貸付状況|date=2015-06-30|accessdate=2015-09-23|publisher=独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/publish/nenpou/H15/pdf/4-03.pdf|title=高速道路路線別事業概要|work=日本道路公団年報 平成15年|date=2003-07-01|accessdate=2015-09-23|publisher=日本道路公団|format=PDF}}</ref>。'''高速道路'''としては連続していても、'''高速自動車国道'''ではない区間([[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]=A'路線)は除いてある。なお、起終点は、ここでは道路名ごとの案内上の「下り線」「上り線」の方向に準拠して記述する。
現在、道路名に用いられる名称(通称名)の数は64路線となっている。それぞれの道路名に対応する「高速自動車国道の路線を指定する政令」における路線名(正式名)も併記している。
また、[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)]]=B路線や、[[地域高規格道路]]として開通供用している路線の中でも、一部が法的には高速自動車国道に指定されている部分が数か所あるため、これらについても備考欄に合わせて記述している。
{| class="wikitable"
![[高速道路ナンバリング]]
!道路名<br/>{{Fontsize|small|(通称名)}}
![[高速自動車国道の路線を指定する政令|政令]]による路線名<br/>{{Fontsize|small|(正式名)}}
!起点
!終点
!備考
|-
|{{Nowrap|{{Ja Exp Route Sign|E5}}}}
|[[道央自動車道]]
|[[北海道縦貫自動車道]]<br/>函館名寄線
|[[大沼公園インターチェンジ|大沼公園IC]]
|[[士別剣淵インターチェンジ|士別剣淵IC]]
|千歳恵庭JCT - 札幌JCT間は北海道横断自動車道黒松内釧路線・黒松内北見線と重複
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E5A}}
|[[札樽自動車道]]
|rowspan="3"|[[北海道横断自動車道]]<br/>黒松内釧路線
|[[札幌ジャンクション|札幌JCT]]
|[[小樽インターチェンジ|小樽IC]]
|rowspan="2"|黒松内北見線と重複
|-
|[[後志自動車道]]
|[[小樽ジャンクション|小樽JCT]]
|[[余市インターチェンジ|余市IC]]
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E38}}
|rowspan="2"|[[道東自動車道]]
|[[千歳恵庭ジャンクション|千歳恵庭JCT]]
|[[阿寒インターチェンジ|阿寒IC]]
|千歳恵庭JCT - 本別JCT間は黒松内北見線と重複
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E61}}
|rowspan="2"|北海道横断自動車道<br/>黒松内北見線
|[[本別ジャンクション|本別JCT]]
|[[足寄インターチェンジ|足寄IC]]
|
|-
|[[十勝オホーツク自動車道]]
|[[陸別小利別インターチェンジ|陸別小利別IC]]
|[[北見西インターチェンジ|北見西IC]]
|北見西IC - [[北見東インターチェンジ|北見東IC]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E4}}
|[[東北自動車道]]
|[[東北縦貫自動車道]]<br/>弘前線
|[[川口ジャンクション|川口JCT]]
|[[青森インターチェンジ|青森IC]]
|川口JCT - 安代JCT間は八戸線と重複<br/>岩舟JCT - 栃木都賀JCT間は{{Ja Exp Route Sign|E50}} 北関東自動車道と重複<br/>福島JCT - [[桑折ジャンクション|桑折JCT]]間は{{Ja Exp Route Sign|E13}} 東北中央自動車道相馬尾花沢線と重複<br/>村田JCT - [[仙台南インターチェンジ|仙台南IC]]間は{{Ja Exp Route Sign|E48}} と重複<br/>北上JCT - 花巻JCT間は{{Ja Exp Route Sign|E46}} 東北横断自動車道釜石秋田線と重複
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E4A}}
|rowspan="2"|[[八戸自動車道]]
|rowspan="3"|東北縦貫自動車道<br/>八戸線
|[[安代ジャンクション|安代JCT]]
|[[八戸北インターチェンジ|八戸北IC]]
|八戸北IC - [[七戸インターチェンジ|七戸IC]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[八戸ジャンクション|八戸JCT]]
|[[八戸インターチェンジ|八戸IC]]
|七戸方面へ延伸以降は事実上のロングランプウェイ
|-
|[[青森自動車道]]
|[[青森ジャンクション|青森JCT]]
|[[青森東インターチェンジ|青森東IC]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E46}}
|[[釜石自動車道]]
|rowspan="2"|[[東北横断自動車道]]<br/>釜石秋田線
|[[花巻ジャンクション|花巻JCT]]
|[[遠野インターチェンジ|遠野IC]]
|遠野IC - [[釜石ジャンクション|釜石JCT]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|rowspan="3"|[[秋田自動車道]]
|[[北上ジャンクション|北上JCT]]
|[[秋田北インターチェンジ|秋田北IC]]
|rowspan="3"|秋田北IC - 昭和男鹿半島IC、琴丘森岳IC - [[二ツ井白神インターチェンジ|二ツ井白神IC]]、[[蟹沢インターチェンジ|蟹沢IC]] - 釈迦内PA間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|rowspan="8"|{{Ja Exp Route Sign|E7}}
|rowspan="2"|{{Nowrap|[[日本海沿岸東北自動車道]]}}
|[[昭和男鹿半島インターチェンジ|昭和男鹿半島IC]]
|[[琴丘森岳インターチェンジ|琴丘森岳IC]]
|-
|[[釈迦内パーキングエリア|釈迦内PA]]
|[[小坂ジャンクション|小坂JCT]]
|-
|rowspan="6"|[[日本海東北自動車道]]
|北陸自動車道
|[[新潟中央ジャンクション|新潟中央JCT]]
|[[新潟空港インターチェンジ|新潟空港IC]]
|
|-
|rowspan="2"|日本海沿岸東北自動車道
|新潟空港IC
|[[朝日まほろばインターチェンジ|朝日まほろばIC]]
|
|-
|[[あつみ温泉インターチェンジ|あつみ温泉IC]]
|鶴岡JCT
|
|-
|東北横断自動車道酒田線
|鶴岡JCT
|[[酒田みなとインターチェンジ|酒田みなとIC]]
|日本海沿岸東北自動車道と重複
|-
|rowspan="2"|日本海沿岸東北自動車道
|酒田みなとIC
|[[遊佐比子インターチェンジ|遊佐比子IC]]
|
|-
|[[本荘インターチェンジ|本荘IC]]
|[[河辺ジャンクション|河辺JCT]]
|[[象潟インターチェンジ|象潟IC]] - 本荘IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E48}}
|rowspan="2"|[[山形自動車道]]
|rowspan="2"|東北横断自動車道<br/>酒田線
|[[村田ジャンクション|村田JCT]]
|[[月山インターチェンジ|月山IC]]
|rowspan="2"|月山IC - 湯殿山IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[湯殿山インターチェンジ|湯殿山IC]]
|[[鶴岡ジャンクション|鶴岡JCT]]
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E49}}
|[[磐越自動車道]]
|東北横断自動車道<br/>いわき新潟線
|[[いわきジャンクション|いわきJCT]]
|[[新潟中央インターチェンジ|新潟中央IC]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E13}}
|rowspan="2"|[[東北中央自動車道]]
|rowspan="2"|東北中央自動車道<br/>相馬尾花沢線
|[[福島ジャンクション|福島JCT]]
|[[米沢北インターチェンジ|米沢北IC]]
|rowspan="2"|[[相馬インターチェンジ|相馬IC]] - [[桑折ジャンクション|桑折JCT]]、米沢北IC - 南陽高畠IC、尾花沢IC - [[新庄鮭川インターチェンジ|新庄鮭川IC]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[南陽高畠インターチェンジ|南陽高畠IC]]
|[[尾花沢インターチェンジ|尾花沢IC]]
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E17}}
|[[関越自動車道]]
|関越自動車道<br/>新潟線
|[[練馬インターチェンジ|練馬IC]]
|[[長岡ジャンクション|長岡JCT]]
|[[長岡インターチェンジ|長岡IC]] - 長岡JCT間は北陸自動車道と重複
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E18}}
|rowspan="2"|[[上信越自動車道]]
|rowspan="2"|関越自動車道<br/>上越線
|[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]
|[[藤岡インターチェンジ|藤岡IC]]
|rowspan="2"|練馬IC - 藤岡JCT-藤岡IC間は新潟線と重複
|-
|藤岡IC
|[[上越ジャンクション|上越JCT]]
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E6}}
|colspan="2"|[[常磐自動車道]]
|[[三郷ジャンクション|三郷JCT]]
|[[亘理インターチェンジ|亘理IC]]
|亘理IC - 仙台港北IC - 利府JCT - 富谷IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E14}}
|rowspan="2"|[[館山自動車道]]
|rowspan="3"|[[東関東自動車道]]<br/>千葉富津線
|千葉南JCT<ref group="注">京葉道路との境界であり、ランプウェイなどの設備は一切存在しない。名称は{{PDFlink|[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1001_8.pdf]}}による。</ref>
|[[富津竹岡インターチェンジ|富津竹岡IC]]
|[[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]] - 千葉南JCT、富津竹岡IC - [[富浦インターチェンジ|富浦IC]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[木更津南ジャンクション|木更津南JCT]]
|[[木更津南インターチェンジ|木更津南IC]]
|木更津南支線<br/>事実上のロングランプウェイ
|-
|{{Ja Exp Route Sign|CA}}
|([[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン連絡道]])
|[[木更津ジャンクション|木更津JCT]]
|{{Nowrap|木更津西JCT<ref group="注">自動車専用道路との境界であり、ランプウェイなどの設備は一切存在しない。名称は{{PDFlink|[https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1001_8.pdf]}}による。</ref>}}
|連絡道は自動車専用道路だが、この部分に限り館山道の支線扱い。東京湾アクアラインに接続
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E51}}
|rowspan="2"|[[東関東自動車道]]
|rowspan="2"|東関東自動車道<br/>水戸線
|[[高谷ジャンクション|高谷JCT]]
|[[潮来インターチェンジ|潮来IC]]
|rowspan="2"|
|-
|[[鉾田インターチェンジ|鉾田IC]]
|[[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]]
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|C3}}
|rowspan="3"|[[東京外環自動車道]]
|東北縦貫自動車道<br/>弘前線
|[[大泉インターチェンジ|大泉IC]]
|川口JCT
|八戸線と重複
|-
|常磐自動車道
|川口JCT
|三郷JCT
|
|-
|東関東自動車道<br/>水戸線
|三郷JCT
|[[高谷ジャンクション|高谷JCT]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E50}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[北関東自動車道]]
|[[高崎ジャンクション|高崎JCT]]
|[[岩舟ジャンクション|岩舟JCT]]
|
|-
|[[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]]
|[[水戸南インターチェンジ|水戸南IC]]
|水戸南IC - [[ひたちなかインターチェンジ|ひたちなかIC]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E68}}
|rowspan="4"|[[中央自動車道]]
|rowspan="2"|中央自動車道<br/>富士吉田線
|[[大月ジャンクション|大月JCT]]
|[[富士吉田インターチェンジ|富士吉田IC]]
|富士吉田支線
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E20}}
|[[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]]
|[[大月ジャンクション|大月JCT]]
|西宮線・長野線と重複
|-
|rowspan="4"|中央自動車道<br/>西宮線
|[[大月ジャンクション|大月JCT]]
|[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]
|高井戸IC - 大月JCT - 岡谷JCT間は長野線と重複
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E19}}
|[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]
|[[小牧ジャンクション|小牧JCT]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E1}}
|[[名神高速道路]]
|[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]
|[[西宮インターチェンジ|西宮IC]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E88}}
|([[京滋バイパス]])
|[[久御山淀インターチェンジ|久御山淀IC]]
|[[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]]/[[大山崎インターチェンジ|IC]]
|この部分に限り名神高速の支線扱いである。
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E19}}
|[[長野自動車道]]
|中央自動車道<br/>長野線
|[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]
|[[更埴ジャンクション|更埴JCT]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E1}}
|[[東名高速道路]]
|rowspan="2"|[[第一東海自動車道]]
|[[東京インターチェンジ|東京IC]]
|[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]
|小牧JCT - 小牧IC間は中央自動車道西宮線と重複
|-
|{{Ja Exp Route Sign|C4}}
|{{Nowrap|([[首都圏中央連絡自動車道]])}}
|[[海老名南ジャンクション|海老名南JCT]]
|[[海老名インターチェンジ|海老名IC]]
|圏央道は自動車専用道路(B路線)だが、この部分に限り東名高速の支線扱い<br/>第二東海自動車道横浜名古屋線と連絡
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E41}}
|colspan="2"|[[東海北陸自動車道]]
|[[一宮ジャンクション|一宮JCT]]
|[[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}}
|rowspan="4"|[[新東名高速道路]]
|rowspan="4"|[[第二東海自動車道]]<br/>横浜名古屋線
|[[海老名南ジャンクション|海老名南JCT]]
|[[新秦野インターチェンジ|新秦野IC]]
|
|-
|[[新御殿場インターチェンジ|新御殿場IC]]
|[[豊田東ジャンクション|豊田東JCT]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E52}}
|[[清水ジャンクション|清水JCT]]
|[[新清水ジャンクション|新清水JCT]]
|清水連絡路<br/>第一東海自動車道と連絡
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E69}}
|[[浜松いなさジャンクション|浜松いなさJCT]]
|[[三ヶ日ジャンクション|三ヶ日JCT]]
|引佐連絡路<br/>第一東海自動車道と連絡
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E52}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[中部横断自動車道]]
|[[新清水ジャンクション|新清水JCT]]
|[[双葉ジャンクション|双葉JCT]]
|
|-
|[[八千穂高原インターチェンジ|八千穂高原IC]]
|[[佐久小諸ジャンクション|佐久小諸JCT]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E8}}
|[[北陸自動車道]]
|北陸自動車道
|[[新潟中央ジャンクション|新潟中央JCT]]
|[[米原ジャンクション|米原JCT]]
|新潟中央JCT - 長岡JCT間は関越自動車道新潟線と重複
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}}
|rowspan="2"|[[伊勢湾岸自動車道]]
|第二東海自動車道<br/>横浜名古屋線
|豊田東JCT
|[[東海インターチェンジ|東海IC]]
|東海IC - [[名港中央インターチェンジ|名港中央IC]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[近畿自動車道]]<br/>名古屋神戸線
|[[飛島インターチェンジ|飛島IC]]
|[[四日市ジャンクション|四日市JCT]]
|名港中央IC - 飛島IC間は自動車専用道路(A'路線)<br/>伊勢線と重複
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|C2}}
|rowspan="2"|[[名古屋第二環状自動車道]]
|rowspan="3"|近畿自動車道<br/>名古屋亀山線
|[[名古屋南ジャンクション|名古屋南JCT]]
|[[飛島ジャンクション|飛島JCT]]
|伊勢線と重複
|-
|[[上社ジャンクション|上社JCT]]
|[[名古屋インターチェンジ|名古屋IC]]
|名古屋支線<br/>第一東海自動車道に接続する
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E23}}
|[[東名阪自動車道]]
|[[名古屋西ジャンクション|名古屋西JCT]]
|[[伊勢関インターチェンジ|伊勢関IC]]
|四日市JCT - 伊勢関IC間で伊勢線と重複<br/>天理IC - 亀山IC間の自動車専用道路(A'路線)に接続
|-
|[[伊勢自動車道]]
|近畿自動車道<br/>伊勢線
|伊勢関IC
|[[伊勢インターチェンジ|伊勢IC]]
|
|-
|rowspan="5"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}}
|rowspan="5"|[[新名神高速道路]]
|rowspan="5"|近畿自動車道<br/>名古屋神戸線
|四日市JCT
|{{Nowrap|大津JCT(仮称)}}
|
|-
|[[城陽ジャンクション・インターチェンジ|城陽JCT]]
|[[八幡京田辺ジャンクション・インターチェンジ|八幡京田辺JCT]]
|
|-
|[[高槻ジャンクション|高槻JCT]]
|[[神戸ジャンクション|神戸JCT]]
|
|-
|[[亀山ジャンクション|亀山JCT]]
|[[亀山西ジャンクション|亀山西JCT]]
|亀山連絡路<br/>伊勢線、名古屋亀山線と連絡
|-
|大津JCT(仮称)
|[[草津ジャンクション|草津JCT]]
|大津連絡路。中央自動車道西宮線に連絡。
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E25}}
|[[西名阪自動車道]]
|rowspan="2"|近畿自動車道<br/>天理吹田線
|松原JCT
|[[天理インターチェンジ|天理IC]]
|天理IC - 亀山IC間の自動車専用道路(A'路線)に接続
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E26}}
|[[近畿自動車道]]
|[[吹田ジャンクション|吹田JCT]]
|[[松原ジャンクション|松原JCT]]
|
|-
|rowspan="3"|[[阪和自動車道]]
|rowspan="4"|近畿自動車道<br/>松原那智勝浦線
|松原JCT
|[[和歌山ジャンクション|和歌山JCT]]
|
|-
|rowspan="4"|{{Ja Exp Route Sign|E42}}
|和歌山JCT
|[[有田インターチェンジ|有田IC]]
|rowspan="2"|有田IC - 御坊IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[御坊インターチェンジ|御坊IC]]
|[[南紀田辺インターチェンジ|南紀田辺IC]]
|-
|rowspan="2"|[[紀勢自動車道]]
|南紀田辺IC
|[[すさみ南インターチェンジ|すさみ南IC]]
|rowspan="2"|すさみ南IC - 尾鷲北IC間の自動車専用道路(A'路線)の一部が開通している
|-
|近畿自動車道<br/>尾鷲多気線
|[[勢和多気ジャンクション|勢和多気JCT]]
|[[尾鷲北インターチェンジ|尾鷲北IC]]
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E27}}
|[[舞鶴若狭自動車道]]
|近畿自動車道<br/>敦賀線
|[[吉川ジャンクション|吉川JCT]]
|[[敦賀ジャンクション|敦賀JCT]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E2A}}
|[[中国自動車道]]
|[[中国縦貫自動車道]]
|吹田JCT
|[[下関インターチェンジ|下関IC]]
|吹田JCT - 神戸JCT間は山陽自動車道吹田山口線と重複<br/>山崎JCT - 佐用JCT間は{{Ja Exp Route Sign|E29}} 中国横断自動車道姫路鳥取線と重複<br/>落合JCT - 北房JCT間は{{Ja Exp Route Sign|E73}} 中国横断自動車道岡山米子線と重複<br/>千代田JCT - 広島北JCT間は{{Ja Exp Route Sign|E74}} 中国横断自動車道広島浜田線と重複
|-
|rowspan="5"|{{Ja Exp Route Sign|E2}}
|rowspan="5"|[[山陽自動車道]]
|rowspan="4"|山陽自動車道<br/>吹田山口線
|神戸JCT
|[[廿日市ジャンクション|廿日市JCT]]
|rowspan="2"|廿日市JCT - 大竹JCT間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[大竹ジャンクション|大竹JCT]]
|[[山口ジャンクション|山口JCT]]
|-
|[[三木ジャンクション|三木JCT]]
|[[神戸西インターチェンジ|神戸西IC]]
|木見支線<br/>[[神戸淡路鳴門自動車道]]に接続
|-
|[[倉敷ジャンクション|倉敷JCT]]
|[[早島インターチェンジ|早島IC]]
|倉敷早島支線<br/>[[瀬戸中央自動車道]]に接続
|-
|山陽自動車道<br/>宇部下関線
|[[宇部ジャンクション|宇部JCT]]
|[[下関ジャンクション|下関JCT]]
|
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E29}}
|[[播磨自動車道]]
|rowspan="3"|中国横断自動車道<br/>姫路鳥取線
|[[播磨ジャンクション|播磨JCT]]
|[[宍粟ジャンクション|宍粟JCT]]
|
|-
|rowspan="2"|[[鳥取自動車道]]
|[[佐用ジャンクション|佐用JCT]]
|[[西粟倉インターチェンジ|西粟倉IC]]
|rowspan="2"|西粟倉IC - 智頭IC間は自動車専用道路(A'路線)<br/>さらにこの区間内にある[[志戸坂トンネル]]前後は一般道路である
|-
|[[智頭インターチェンジ|智頭IC]]
|[[鳥取インターチェンジ|鳥取IC]]
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E73}}
|rowspan="2"|[[岡山自動車道]]
|山陽自動車道<br/>吹田山口線
|[[岡山ジャンクション|岡山JCT]]
|[[岡山総社インターチェンジ|岡山総社IC]]
|
|-
|rowspan="2"|中国横断自動車道<br/>岡山米子線
|岡山総社IC
|[[北房ジャンクション|北房JCT]]
|
|-
|[[米子自動車道]]
|[[落合ジャンクション|落合JCT]]
|[[米子インターチェンジ|米子IC]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E54}}
|[[尾道自動車道]]
|rowspan="2"|中国横断自動車道<br/>尾道松江線
|[[尾道ジャンクション|尾道JCT]]
|[[三次東ジャンクション|三次東JCT]]
|
|-
|[[松江自動車道]]
|三次東JCT
|[[宍道ジャンクション|宍道JCT]]
|
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E74}}
|rowspan="2"|[[広島自動車道]]
|中国縦貫自動車道
|[[広島北ジャンクション|広島北JCT]]
|[[広島北インターチェンジ|広島北IC]]
|中国横断自動車道広島浜田線と重複
|-
|rowspan="2"|中国横断自動車道<br/>広島浜田線
|[[広島ジャンクション|広島JCT]]
|広島北JCT
|
|-
|[[浜田自動車道]]
|[[千代田ジャンクション|千代田JCT]]
|[[浜田インターチェンジ|浜田IC]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E9}}
|rowspan="2"|[[山陰自動車道]]
|中国横断自動車道<br/>尾道松江線
|[[松江玉造インターチェンジ|松江玉造IC]]
|[[宍道ジャンクション|宍道JCT]]
|山陰自動車道鳥取益田線と重複
|-
|山陰自動車道<br/>鳥取益田線
|宍道JCT
|[[出雲インターチェンジ|出雲IC]]
|この区間以外の山陰道([[大栄東伯インターチェンジ|大栄東伯IC]] - 松江玉造IC間など)は自動車専用道路(A'路線)
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E11}}
|rowspan="2"|[[高松自動車道]]
|rowspan="2"|[[四国横断自動車道]]<br/>阿南四万十線
|[[鳴門インターチェンジ|鳴門IC]]
|川之江JCT
|
|-
|[[坂出ジャンクション|坂出JCT]]
|[[坂出インターチェンジ|坂出IC]]
|坂出支線。瀬戸中央自動車道に接続
|-
|rowspan="3"|[[松山自動車道]]
|rowspan="2"|[[四国縦貫自動車道]]
|[[川之江ジャンクション|川之江JCT]]
|[[松山インターチェンジ (愛媛県)|松山IC]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E56}}
|松山IC
|[[大洲インターチェンジ|大洲IC]]
|rowspan="2"|大洲IC - 大洲北只ICは自動車専用道路(A'路線)<br/>四万十町中央IC - 宇和島北IC間の一部が、それに並行する自動車専用道路(A'路線)として開通している
|-
|四国横断自動車道<br/>愛南大洲線
|[[大洲北只インターチェンジ|大洲北只IC]]
|[[宇和島北インターチェンジ|宇和島北IC]]
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E55}}
|[[徳島南部自動車道]]
| rowspan="3" |四国横断自動車道<br/>阿南四万十線
|[[徳島津田インターチェンジ|徳島津田IC]]
|[[徳島ジャンクション|徳島JCT]]
|
|-
| rowspan="4" |{{Ja Exp Route Sign|E32}}
| rowspan="3" |[[徳島自動車道]]
|[[鳴門ジャンクション|鳴門JCT]]
|[[徳島ジャンクション|徳島JCT]]
|
|-
|徳島JCT
|[[徳島インターチェンジ|徳島IC]]
|
|-
|四国縦貫自動車道
|徳島IC
|[[川之江東ジャンクション|川之江東JCT]]
|
|-
|rowspan="3"|[[高知自動車道]]
|rowspan="3"|四国横断自動車道<br/>阿南四万十線
|川之江JCT
|[[高知インターチェンジ|高知IC]]
|
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E56}}
|高知IC
|[[須崎東インターチェンジ|須崎東IC]]
|rowspan="2"|須崎東IC - 須崎西IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[須崎西インターチェンジ|須崎西IC]]
|[[四万十町中央インターチェンジ|四万十町中央IC]]
|-
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E3}}
|rowspan="2"|[[九州自動車道]]
|rowspan="2"|[[九州縦貫自動車道]]<br/>鹿児島線
|[[門司インターチェンジ|門司IC]]
|[[えびのジャンクション|えびのJCT]]
|宮崎線と重複
|-
|えびのJCT
|[[鹿児島インターチェンジ|鹿児島IC]]
|[[加治木ジャンクション|加治木JCT]] - 鹿児島IC間は東九州自動車道と重複
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E10}}
|[[宮崎自動車道]]
|九州縦貫自動車道<br/>宮崎線
|[[えびのジャンクション|えびのJCT]]
|[[宮崎インターチェンジ|宮崎IC]]
|
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E34}}
|rowspan="2"|[[長崎自動車道]]
|九州縦貫自動車道<br/>鹿児島線
|[[鳥栖ジャンクション|鳥栖JCT]]
|[[鳥栖インターチェンジ|鳥栖IC]]
|九州横断自動車道長崎大分線と重複
|-
|rowspan="3"|[[九州横断自動車道長崎大分線|九州横断自動車道<br/>長崎大分線]]
|鳥栖IC
|[[長崎インターチェンジ|長崎IC]]
|
|-
|[[大分自動車道]]
|鳥栖ジャンクション|鳥栖JCT
|[[日出ジャンクション|日出JCT]]
|
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E35}}
|([[西九州自動車道]])
|[[武雄ジャンクション|武雄JCT]]
|[[武雄南インターチェンジ|武雄南IC]]
|西九州道は自動車専用道路(B路線)だが、この部分に限り長崎道の支線扱い<br/>全長0.6kmであるが、料金計算上は武雄JCTと武雄南ICは距離がないため(区間距離0km扱い)、この区間の料金は発生しない
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E77}}
|[[九州中央自動車道]]
|九州横断自動車道<br/>延岡線
|[[嘉島ジャンクション|嘉島JCT]]
|[[山都中島西インターチェンジ|山都中島西IC]]
|[[蔵田交差点]] - [[延岡ジャンクション|延岡JCT]]間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|rowspan="5"|{{Ja Exp Route Sign|E10}}
|rowspan="8"|[[東九州自動車道]]
|rowspan="2"|東九州自動車道
|[[北九州ジャンクション|北九州JCT]]
|[[みやこ豊津インターチェンジ|みやこ豊津IC]]
|rowspan="2"|みやこ豊津IC - 椎田南IC間、宇佐IC - 速見IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[椎田南インターチェンジ|椎田南IC]]
|[[宇佐インターチェンジ|宇佐IC]]
|-
|九州横断自動車道<br/>長崎大分線
|[[速見インターチェンジ|速見IC]]
|[[大分米良インターチェンジ|大分米良IC]]
|2018年までは大分道であった<br/>正式名としての東九州自動車道と重複
|-
|rowspan="5"|東九州自動車道
|大分米良IC
|[[北川インターチェンジ|北川IC]]
|rowspan="2"|北川IC - 門川IC間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|[[門川インターチェンジ|門川IC]]
|[[清武ジャンクション|清武JCT]]
|-
|rowspan="3"|{{Ja Exp Route Sign|E78}}
|清武JCT
|[[清武南インターチェンジ|清武南IC]]
|
|-
|[[日南北郷インターチェンジ|日南北郷IC]]
|[[日南東郷インターチェンジ|日南東郷IC]]
|
|-
|[[志布志インターチェンジ|志布志IC]]
|[[隼人東インターチェンジ|隼人東IC]]
|隼人東IC - 加治木JCT間は自動車専用道路(A'路線)
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E65}}
|[[新空港自動車道]]
|[[新空港自動車道|成田国際空港線]]
|[[成田ジャンクション|成田JCT]]
|[[新空港インターチェンジ|新空港IC]]
|国土開発幹線自動車道の予定路線ではない
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E71}}
|[[関西空港自動車道]]
|[[関西空港自動車道|関西国際空港線]]
|[[泉佐野ジャンクション|泉佐野JCT]]
|[[りんくうジャンクション|りんくうJCT]]
|りんくうJCT以北は自動車専用道路・[[関西国際空港連絡橋]]である<br/>政令上の関西国際空港線の終点は[[関西国際空港]]であるが、連絡橋はA'路線にも指定されていない。ただしIC番号やキロポストは連続している<br/>なお、[[関西空港自動車道]]は国土開発幹線自動車道の予定路線ではない
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E2A}}
|[[関門橋|関門橋(関門自動車道)]]
|関門自動車道
|下関インターチェンジ|下関IC
|門司インターチェンジ|門司IC
|現在、NEXCOが発行する案内図では、左のように括弧書きで正式路線名を併記している<br/>なお、国土開発幹線自動車道の予定路線ではない
|-
|{{Ja Exp Route Sign|E58}}
|[[沖縄自動車道]]
|沖縄自動車道
|[[那覇インターチェンジ|那覇IC]]
|[[許田インターチェンジ|許田IC]]
|国土開発幹線自動車道の予定路線ではない
|}
=== 高速自動車国道への編入 ===
整備計画の変更により一般国道から高速自動車国道へ昇格された区間が[[存在]]する。このような手法がとられた理由は、高速自動車国道を建設するためには多額の建設費を必要とするため、一般国道の有料道路を[[高規格幹線道路]]に改修して建設費用となる国の借入金を抑え、少しでも早く高速道路網を完成させるという狙いからである{{Sfn|浅井建爾|2015|p=91}}。
{| class="wikitable"
!編入年月日
!編入路線名
!編入区間
!旧道路名
|-
|rowspan="4"|[[1973年]](昭和48年)[[4月1日]]
|札樽自動車道
|[[札幌西インターチェンジ|札幌西IC]] - 小樽IC
|[[国道5号|一般国道5号]] 札幌小樽道路{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|関越自動車道
|練馬IC - [[川越インターチェンジ|川越IC]]
|[[国道254号|一般国道254号]] 東京川越道路{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|東名阪自動車道
|[[桑名インターチェンジ|桑名IC]] - [[亀山インターチェンジ|亀山IC]]
|[[国道1号|一般国道1号]] 東名阪道路{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|西名阪自動車道
|天理IC - 松原JCT
|[[国道25号|一般国道25号]] 西名阪道路{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|[[1987年]](昭和62年)[[10月8日]]
|沖縄自動車道
|許田IC - [[石川インターチェンジ|石川IC]]
|[[国道329号|一般国道329号]] 沖縄自動車道{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|[[1998年]](平成10年)[[7月1日]]
|山形自動車道
|[[笹谷インターチェンジ|笹谷IC]] - [[関沢インターチェンジ|関沢IC]]
|[[国道286号|一般国道286号]] [[笹谷トンネル]]{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|[[2005年]](平成17年)[[4月1日]]
|阪和自動車道
|[[海南インターチェンジ|海南IC]] - 吉備IC(現:有田IC)
|[[国道42号|一般国道42号]] [[海南湯浅道路]]{{Sfn|浅井建爾|2015|p=92}}
|-
|[[2017年]](平成29年)[[11月21日]]
|高松自動車道
|[[津田東インターチェンジ|津田東IC]] - [[三木町]]・[[高松市]]境
|[[国道11号|一般国道11号]] [[高松東道路]]
|}
また、逆に高速自動車国道から一般国道へ降格された区間として唯一、[[国道116号|一般国道116号]][[新潟西バイパス]]の[[新潟西インターチェンジ|新潟西IC]] - [[黒埼インターチェンジ|黒埼IC]](旧北陸自動車道新潟料金所 - 新潟黒埼IC)が存在する。
== 料金の額およびその徴収期間 ==
=== 料金の額 ===
高速自動車国道の料金制は対距離制、均一制、区間料金制の3種類あり、区間によって適用される料金制が異なる<ref name="e-nexco-20161214">{{Cite web|和書| url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/company/law_ordinance/1612business_license/03.pdf#page=2 | title=料金の額及びその徴収期間 | accessdate = 2021-08-25 | format=PDF | work = 1 高速自動車国道北海道縦貫自動車道函館名寄線等に関する事業について | date = 2016-12-14 | publisher = 東日本高速道路株式会社 | pages=2-3,7 }}</ref><ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=2 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-08-25 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路株式会社 | pages = 2-3 }}</ref><ref name="w-nexco-20190329">{{Cite web|和書| url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/covenant/permission/h31_0329/pdfs/1-03.pdf#page=2 | title = 料金の額及びその徴収期間 | accessdate = 2021-08-25 | format = PDF | work = 高速自動車国道中央自動車道西宮線等に関する事業許可 | date = 2019-03-29 | publisher = 西日本高速道路株式会社 | pages = 2-3 }}</ref>。
==== 対距離制 ====
高速自動車国道の多くの区間で適用されている。走行距離に比例して課される可変額部分と利用1回ごとに課される固定額部分([[ターミナルチャージ]])がある。
===== 可変額部分 =====
普通区間(一部区間を除く)での1kmあたりの料金は以下のように設定されている<ref name="e-nexco-20161214" /><ref name="c-nexco-20200501" /><ref name="w-nexco-20190329" />。
* [[軽自動車]]等 : 19.68円/km(普通車の0.8倍)
* [[普通自動車|普通車]] : 24.6円/km
* [[中型自動車|中型車]] : 29.52円/km(普通車の1.2倍)
* [[大型自動車|大型車]] : 40.59円/km(普通車の1.65倍)
* [[特定大型車|特大車]] : 67.65円/km(普通車の2.75倍)
[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]、[[関越自動車道#関越特別区間|関越特別区間]]、[[中央自動車道#料金|恵那山特別区間]]、[[東海北陸自動車道#料金|飛騨特別区間]]、[[関門橋#関門特別区間|関門特別区間]]については1kmあたりの料金が別途定められている。いずれも普通区間より割高に設定されている<ref name="e-nexco-20161214" /><ref name="c-nexco-20200501" /><ref name="w-nexco-20190329" />。また、普通区間の一部についても1kmあたりの料金が別途定められている。[[中京圏]]の各高速道路([[東海環状自動車道]]の内側の対距離制区間)、[[阪和自動車道]]の一部区間では普通区間より割高に、逆に沖縄自動車道では普通区間より割安に設定されている<ref name="c-nexco-20200501" /><ref name="w-nexco-20190329" />。
100kmを超え200kmまでの部分の料金は25[[パーセント|%]]割引、200kmを超える部分の料金は30%割引される<ref name="e-nexco-20161214" /><ref name="c-nexco-20200501" /><ref name="w-nexco-20190329" />。
目的地までに複数の経路を有する場合は、最短経路の2倍を超える経路でない限り最も安い経路の通行料金で計算される。
===== 固定額部分 =====
* 150円(全車種共通・利用1回ごと)<ref name="e-nexco-20161214" /><ref name="c-nexco-20200501" /><ref name="w-nexco-20190329" />
料金は可変額部分と固定額部分の合計に1.1を乗じることにより[[消費税]]および[[地方消費税]]を加え、この額が10,000円以下の場合には四捨五入して10円単位とし、10,000円を超える場合には100円未満を切り捨てて計算される。
==== 均一制 ====
[[渋滞]]が予想されるなどの理由で入口または出口に料金所が設けられていない路線の一部で採用されている。料金は、平均旅行距離をもとに上記の方法で算出されている。このため、短距離利用の場合は対距離制より割高に、全区間の走行など長距離利用の場合は割安になる。
[[都市]]部で採用されていたが、ETCの普及に伴い多くの均一制区間が事業許可上は区間料金制に移行しており、2021年現在、事業許可において均一制とされているのは[[道央自動車道]][[札幌南インターチェンジ|札幌南IC]] - [[札幌ジャンクション|札幌JCT]]間、[[札樽自動車道]][[札幌西インターチェンジ|札幌西IC]] - 札幌JCT間のみである<ref name="e-nexco-20161214" />。
==== 区間料金制 ====
事業許可では三角表などによって料金が定められており、入口ICごとまたは入口ICと出口ICの組み合わせごとに料金が設定されている。主に入口または出口に料金所が設けられていない路線で採用されており、かつて均一制を採用していた区間もある。料金所のない出入口においてフリーフローアンテナによって通過を確認できるETC車については多くの区間で走行距離に応じた料金が設定されている一方で、通過を確認できない非ETC車については均一料金や入口ICから利用できる最長区間の料金が設定されている。
=== 料金の徴収期間 ===
東日本・中日本・西日本各高速道路会社とも、2006年(平成18年)4月1日から[[2060年]][[6月1日]]<!--未来事項につき元号省略-->。これにはNEXCO各社および[[本州四国連絡高速道路]]株式会社の管理する[[全国路線網]]の一般有料道路も含まれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jehdra.go.jp/kyoutei_2708.html|title=独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構と高速道路株式会社との「協定」等について(平成27年8月5日)|date=2015-08-05|accessdate=2015-09-21|publisher=独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構}}</ref>。
== 法定速度 ==
道路交通法施行令に基づいて、法定速度として[[最高速度]]および[[最低速度]]が定められている。
125cc以下の二輪車である[[小型自動二輪車]]、[[原動機付自転車]]および[[ミニカー (車両)|ミニカー]]については、高速自動車国道の通行可能車両の規定は[[道路交通法]]ではなく[[道路運送車両法]]に基づき規定され、これらの車両は同法施行規則第1条で「原動機付自転車」とされ、自動車の範疇から外れるため通行することができない。
また、高速自動車国道のうち一部にでも[[対面通行]]でない区間(法定[[最低速度]]が50km/h)を含む道路の区間は、次の自動車は通行できない(一方、[[自動車専用道路]]については、個別の通行止め標識または最低速度規制が無い限りは通行可能である)。
* [[特殊自動車|小型特殊自動車]] - 法律および車両の仕様上速度が出せない
* 大型特殊自動車においては、最低速度基準を満たしている農耕トラクターの一部車種のみ通行可能
=== 最高速度 ===
{{See also|最高速度}}
法定最高速度は車種によって異なり、次のように定められている。
* 100km/h - [[大型自動車|大型乗用自動車]]・[[中型自動車|中型乗用自動車]]・中型貨物自動車([[車両総重量]]が8トン未満'''かつ'''[[最大積載量]]が5トン未満<ref group="注" name=":0">よって、[[中型自動車|特定中型貨物自動車]]以外の中型貨物自動車が100km/hであり、[[中型自動車|特定中型貨物自動車]]は80km/hとなる。</ref>)・[[準中型自動車]]・[[普通自動車]](ここまで三輪と牽引を除く)・大型自動二輪車・普通自動二輪車<ref group="注">大自二・普自二ともに[[特定二輪車]]を含む。</ref>、および緊急自動車
* 80km/h - 大型貨物自動車・中型貨物自動車(車両総重量が8トン以上'''または'''最大積載量が5トン以上<ref group="注" name=":0" />)・大型特殊自動車・[[牽引自動車]](トレーラー<ref group="注">[[大型自動二輪車]]、[[普通自動二輪車]]、[[緊急自動車]]に牽引されるものを除く。</ref><ref group="注">なお、法定では、トレーラーの最大積載量は無関係であり重被牽引車以外のトレーラーも該当する(この点は、「けん引」の補助標識による定義と異なる)。</ref>)・三輪の自動車<ref group="注">[[トライク]]・[[サイドトライカー]]は80km/h。</ref>
なお、[[暫定2車線]]区間や道路構造令、天候・障害(工事、故障車、落下物、災害)によって50 - 80km/hで速度規制されることがある。
また、[[秋田県|秋田]]・[[山形県|山形]]・[[山梨県|山梨]]・[[京都府|京都]]・[[奈良県|奈良]]・[[和歌山県|和歌山]]・[[鳥取県|鳥取]]・[[島根県|島根]]・[[高知県|高知]]・[[大分県|大分]]・[[鹿児島県|鹿児島]]・[[沖縄県|沖縄]]の各府県を通る高速自動車国道では、当該府県内の区間における最高速度がすべて80km/h以下となっている。
=== 最低速度 ===
法定[[最低速度]]は車種にかかわらず50km/hとしている。基本的に高速自動車国道で道路標識等により最低速度が指定される事はない。
法定最低速度は[[対面通行]]でない区間の[[本線車道]]のみに適用される。対面通行区間の本線車道、加速車線、減速車線、[[登坂車線]]、[[路側帯]]、[[路肩]]においては適用されない。
== 交通規制 ==
「高速自動車国道の本線車道のうち対面通行でない区間」とそれ以外の道路(具体的には高速自動車国道の本線車道のうち[[対面通行]]の区間([[暫定2車線]]区間等)や[[登坂車線]]・自動車専用道路・一般道路)とでは、[[最高速度]]や[[最低速度]]に関する[[規制]]が異なる(詳細は各項目を参照)。
高速自動車国道や自動車専用道路のうち高規格幹線道路のものなど最高速度が80 - 100 [[キロメートル毎時|km/h]]となっている道路については、自然現象や故障車・[[交通事故|事故]]・[[渋滞]]等の発生などにより必要に応じて臨時に速度規制が行われている。そのため、最高速度の標識には表示幕方式や電光方式といった可変式のものが採用されている。
通行止め規制や[[タイヤチェーン|チェーン規制]]・事故等や渋滞・混雑の発生に関する[[道路交通情報]]としては、高速自動車国道のほぼ全区間と一部の自動車専用道路・[[都市高速道路]]については[[日本道路交通情報センター]]により道路情報のリアルタイム提供がなされている<ref>[http://www.jartic.or.jp/ 日本道路交通情報センター:JARTIC]</ref>。
=== 標識による案内 ===
<!--[[ファイル:Japan road sign 325.svg|160px|thumb|自動車専用の標識]]-->
[[File:高速自動車国道.jpg|160px|thumb|[[日本の道路標識#規制標識|自動車専用の標識]](高速自動車国道の[[日本の道路標識#補助標識|補助標識]]が追加されている)]]
高速自動車国道および自動車専用道路の入口・出口(主に[[インターチェンジ]])には「自動車専用」の[[道路標識]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/kijyun/kukaku/bpkukaku02.html |title=道路標識、区画線及び道路標示に関する命令 別表第2 |accessdate=2017-8-3}} - 同命令第3条に規定があり、同表(325)にデザインが記されている。</ref>が設置されており、補助標識で高速自動車国道と自動車専用道路のどちらに該当するかが記載されている。ただし補助標識がない場合もあるほか、高速自動車国道であるにも関わらず「自動車専用道路」と記されている場合もある。
通行している高速道路がどちらであるかの区別は、東名・名神・新東名・新名神・東京湾アクアライン連絡道・京滋バイパス・関門橋の例外を除き「自動車道」という道路名でなければ高速自動車国道ではない<ref group="注">いっぽう[[東海環状自動車道]]のように、「自動車道」を名乗る自動車専用道路も多数存在する([[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路〈一般国道の自動車専用道路〉]])。ごく一部、[[地域高規格道路]]であるにもかかわらず「自動車道」を称するものも存在する([[山陰近畿自動車道]]など)。逆や裏が成り立たない、ということ。</ref>ことや道路の[[車線]]数・[[線形 (路線)|線形]]などの常識的な情報以外には走行途中に判断できるような情報がない。
「ここから有料道路」などの案内標識では高速自動車国道入り口では使われないため、高速自動車国道か否かを判断できる可能性はある。なお、[[最低速度]]を示す道路標識については必ずしも高速自動車国道か否かを判断する材料にはならないが、「高速自動車国道の本線車道のうち[[対面通行]]でない区間」については道路標識を設置せずとも最低速度は50km/hに法定で規制される事から、「対面通行でない区間」に50km/hの最低速度の道路標識が設置されている場合、自動車専用道路であると推認する事はできる。
なお、[[暫定2車線]]区間であれば高速自動車国道と自動車専用道路で規制に差異は無く、運転上は気にする必要はない(ただし、一般道路と高速道路とでは、規制に差異がある)。
=== 高速自動車国道と自動車専用道路の規制などの差異 ===
ここでは運転上、利用上のものに限る。
* 法定最高速度と法定最低速度の変化、
** 具体的速度は前述および「[[最高速度]]」「[[最低速度]]」参照。
** ただし、[[暫定2車線]]の場合、法定最高速度、法定最低速度とも変化はない。
* [[車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分など|牽引自動車の高速道路等の通行区分]](重被牽引車に限る)
** 高速自動車国道の場合、[[暫定2車線]]を除いては、道路標識が無くとも第1通行帯通行指定となる。自動車専用道路の場合、道路標識が無ければ適用がない。
** 反対に、「牽引自動車の高速自動車国道通行区分(327の3)」の道路標識がある場合は高速自動車国道、「牽引自動車の自動車専用道路第一通行帯通行指定区間(327の6)」の道路標識がある場合は自動車専用道路である<ref group="注">[[伊勢湾岸自動車道]]の[[東海インターチェンジ|東海IC]]〜[[飛島インターチェンジ|飛島IC]]間に適用されている。</ref>。
** [[暫定2車線]]の場合はそもそも適用がない。
* なお、「特定の種類の車両の通行区分(327の2)」の道路標識では判断できない(全ての道路において見られるため)
* ほか、かつては[[ETC割引制度|ETC時間帯割引]]の適用可否に関係していた。{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の道路一覧]]
* [[日本の高速道路]]
* [[一般国道]]
* [[高規格幹線道路]]
* [[高速自動車国道法]]
* [[高速自動車国道の路線を指定する政令]]
* [[国土開発幹線自動車道建設会議]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mlit.go.jp/road/ 国土交通省道路局]
* [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構]
* [https://www.e-nexco.co.jp/ NEXCO東日本]
* [https://www.c-nexco.co.jp/ NEXCO中日本]
* [https://www.w-nexco.co.jp/ NEXCO西日本]
{{日本の高速道路}}
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[[Category:日本の高速道路|*]]
[[Category:高速自動車国道|*]]
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島国
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島国(しまぐに、英: Island country)とは、領土の殆ど又はすべてが島から成る国である。領土を構成する島の数は、1島のみのナウルから、イギリス、日本、フィリピン、インドネシアなど数千から1万以上の島で構成される島国もある。日本は6,852の島から成る島国であり、最大の島は本州である。2014年時点で、島国は国際連合の加盟国193か国中、47か国である
「島国」という言葉は、日本の国語辞典などでは周囲を海で囲まれた国とあるが、国際的には、領土がすべて島から構成される国を意味する。
例えば、海に囲まれたオーストラリアは大陸国家である。すなわち、6つの大陸の中で最小の大陸であるオーストラリア大陸、および、周囲の島々から成る国である。
島国は、面積だけをとってもさまざまで、ナウルの21平方kmからインドネシアの191万9440平方kmまである。周辺は海洋であるため、海洋からの資源(食糧など)、船舶による貿易を容易にする条件が整っている場合がある。交易ルートとして栄える地域も多い。気候条件はさまざまであるが、大陸性気候にはならない、つまり気温の年較差が小さいという点では一致している。
大消費地域に近い、もしくは航路上に位置する場合は、交易によって発展しやすい。近代に至るまでは船舶は速力が遅く、頻繁な補給が必要であった。船員も現代のタンカーのように数人~10人程度という少人数ではなく、数十人という場合もあった。このため、頻繁な食料補給が必要となり、島国は貴重な補給基地として活用された。寄港地には船舶によって運搬されてきた物品を扱う交易所が発展する傾向が見られる。
島国に住む人の住民性のステレオタイプを指して島国根性(英: insularism)と呼ぶ場合がある。一般に、排他的であり、多様性・異文化を許容せず、自国の民族、資源、思想などに依存している様子を指す。端的には、閉鎖的で視野が狭い様子を指す。島国気質、島国的(英: insularity)とも言われ、特に政治・経済・文化がグローバル化する現代においてはネガティブに受け取られる。
文化的な閉鎖性を批判する表現として「島国」という言葉を使うことがある。また世界経済がグローバル化する中で、日本人の英会話能力が突出して低い事や国家間の自由貿易に消極的である点などから経済的に孤立しようとしている事を「島国根性」と批判する事例もある。
亜寒帯~寒帯では海流によって気候が一定に保たれている事も多い。国土が狭い島国では河川や湖沼などの形で雨水が残り難く、井戸を掘っても海に近い地域では塩水井となってしまう。農耕に適するだけの水が得がたい地域も少なくない。 海洋資源の魚類・貝類・カニ類などの採取により、動物性蛋白質を得ることが容易な島国が多い。
地球温暖化に伴う海面上昇によって、沿岸部に開けた平地が水没する危険もある地域も出てきている。特に海抜の低い太平洋諸国において、国土が縮小しており、いずれ国土そのものが消失してしまうのではないかという危機に直面している。ツバルやモルディブなどでは海面上昇が死活問題ともなっている。モルディブは海面が1m上昇するだけで、国土の80%が海に沈むと予測されており、深刻な状況である。
島国の面積は、ナウルの21平方kmからインドネシアの191万9440平方kmまでさまざまである。周辺は海洋であるため、海洋からの資源(食糧など)、船舶による貿易を容易にする条件が整っている場合がある。交易ルートとして栄える地域も多い。気候条件はさまざまであるが、気温の年較差が大陸より小さく大陸性気候にはならない。ただし、日本の北海道は大陸性気候に近い。
大消費地域に近い、もしくは航路上に位置する場合は、交易によって発展しやすい傾向がある。シンガポールはまさにこの例であり、国際海運の要地となっている。近代に至るまでは船舶は速力が遅く、頻繁な補給が必要であった。船員も現代のタンカーのように数人~10人程度という少人数ではなく、数十人という場合もあった。このため、頻繁な食料補給が必要となり、島国は貴重な補給基地として活用された。寄港地には、船舶によって運搬されてきた物品を扱う交易所や食文化が発展する傾向が見られる。
共通点は少ないものの、近代以前は軍団を大量の船舶で輸送しなければ島国を攻撃することはできない。攻撃されても守備側有利の上陸戦を行えるため、攻撃すら受けない場合が多く、極端に対外戦争経験が少ない国もある。近代以後も国防は海上防衛を中心とすることが多い。
航空機が登場してからも攻撃側と同程度の軍事力を備えた島国への侵攻は容易ではなく、例えばイギリスはバトル・オブ・ブリテンにおいてナチス・ドイツからの航空攻撃を防ぎ切ってドイツのイギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)を中止させるに至った。ただし、大陸国家と同じく、太平洋戦争時の日本のように、完全に制空権を損失した場合はその限りではないとはいえ、島の上に国境線が引かれ、他国と島を共有している場合、陸路侵攻される可能性があることから陸軍も重要となる。実際、ハイチは歴史上においてドミニカ共和国を攻撃しているほか、日本も第二次世界大戦の終盤、赤軍に北緯50度線を突破されて南樺太に侵攻されている。またキューバ島にはキューバ政府と敵対する米軍のグアンタナモ米軍基地が置かれており、米国・キューバ両国が防衛を強化している。逆に、上陸された場合は撤退し態勢を立て直す場がなく、降伏か全滅まで抵抗かの二択を迫られる(本土決戦)。
島国にも様々なタイプがある。一概にまとめることはできないが、いくつかの分類を提示する。
こういった区分はあくまでも恣意的なものであり、全ての事例に対して当てはまるわけではないことは明記する。海洋国家として覇権を握ることに成功した、大陸に近い大きな島国を除き、近代以降は西洋文明の進出により多くが植民地化、半植民地化されていき、こういった特性は次第に薄れた。それでも国防上、強力な海軍を擁したり、経済上巨大な港を建設するなどの特性はあったが、現代に入り、航空技術の発展や経済、情報のグローバル化、植民地独立の達成により均質化が進み、そういった特性も次第に薄れつつある。
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島国とは、領土の殆ど又はすべてが島から成る国である。領土を構成する島の数は、1島のみのナウルから、イギリス、日本、フィリピン、インドネシアなど数千から1万以上の島で構成される島国もある。日本は6,852の島から成る島国であり、最大の島は本州である。2014年時点で、島国は国際連合の加盟国193か国中、47か国である
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[[ファイル:Island nations.svg|thumb|300px|世界の島国: [[領土]]のすべてが[[島]]から構成される47ヵ国、この内、緑色の国は陸上(島内)に[[国境]]を持つ。(参考)[[オーストラリア]]は[[大陸国家]]、[[オーストラリア大陸]]と周囲の島々から成る]]
[[ファイル:Nauru satellite.jpg|right|260px|thumb|[[ナウル]]の衛星画像<br>全領土が1島から成る島国]]
[[ファイル:Indonesia provinces english.png|thumb|260px|[[インドネシア]]<br>領土が13,466島から成る島国]]
[[ファイル:Borderless countries.PNG|thumb|260px|(参考)陸上に[[国境]]を持たない国や地域。島国に加えて[[大陸国家]]である[[オーストラリア]]も該当する]]
'''島国'''(しまぐに、{{lang-en-short|Island country}})とは、[[領土]]の殆ど又はすべてが[[島]]から成る国である<ref name=teigi>[[:en:Island country]]参照:a country whose primary territory consists of one or more islands or parts of islands.</ref>。領土を構成する島の数は、1島のみの[[ナウル]]から、[[イギリス]]、[[日本]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]など数千から1万以上の島で構成される島国もある。[[日本]]は6,852の島から成る島国であり<ref>『日本統計年鑑』(総務省統計局)「1 - 1 国土構成島数,周囲及び面積」</ref>、最大の島は[[本州]]である。2014年時点で、島国は[[国際連合]]の加盟国193か国中、47か国である<ref>[[島国一覧]]。[[:en:Island country|英語版記事]]。</ref>
==概要==
「島国」という言葉は、日本の[[国語辞典]]などでは周囲を海で囲まれた国とあるが、国際的には、[[領土]]がすべて[[島]]から構成される国を意味する<ref name=teigi/>。
例えば、海に囲まれた[[オーストラリア]]は[[大陸国家]]である。すなわち、6つの[[大陸]]の中で最小の大陸である[[オーストラリア大陸]]、および、周囲の島々から成る国である。
島国は、面積だけをとってもさまざまで、ナウルの21平方kmからインドネシアの191万9440平方kmまである。周辺は[[海洋]]であるため、海洋からの資源([[食糧]]など)、[[船舶]]による[[貿易]]を容易にする条件が整っている場合がある。交易ルートとして栄える地域も多い。気候条件はさまざまであるが、[[大陸性気候]]にはならない、つまり気温の年較差が小さいという点では一致している。
===経済===
大消費地域に近い、もしくは航路上に位置する場合は、交易によって発展しやすい。近代に至るまでは船舶は速力が遅く、頻繁な補給が必要であった。船員も現代のタンカーのように数人~10人程度という少人数ではなく、数十人という場合もあった。このため、頻繁な食料補給が必要となり、島国は貴重な補給基地として活用された。寄港地には船舶によって運搬されてきた物品を扱う交易所が発展する傾向が見られる。
===文化===
島国に住む人の住民性の[[ステレオタイプ]]を指して'''島国根性'''({{Lang-en-short|''insularism''}})と呼ぶ場合がある。一般に、排他的であり、[[多様性]]・[[異文化]]を許容せず、自国の民族、資源、思想などに依存している様子を指す。端的には、閉鎖的で視野が狭い様子を指す。'''島国気質'''、'''島国的'''({{Lang-en-short|''insularity''}})とも言われ、特に政治・経済・文化がグローバル化する現代においてはネガティブに受け取られる。</p>文化的な閉鎖性を批判する表現として「島国」という言葉を使うことがある。また世界経済がグローバル化する中で、日本人の[[英会話]]能力が突出して低い事や国家間の[[自由貿易]]に消極的である点などから経済的に孤立しようとしている事を「島国根性」と批判する事例もある。
== 特徴 ==
=== 気候や環境 ===
[[亜寒帯]]~[[寒帯]]では[[海流]]によって気候が一定に保たれている事も多い。国土が狭い島国では[[河川]]や[[湖沼]]などの形で雨水が残り難く、[[井戸]]を掘っても海に近い地域では塩水井となってしまう。[[農業|農耕]]に適するだけの水が得がたい地域も少なくない。
[[海洋資源]]の[[魚類]]・[[貝類]]・[[カニ類]]などの採取により、動物性[[蛋白質]]を得ることが容易な島国が多い。
[[地球温暖化]]に伴う[[海面上昇]]によって、沿岸部に開けた平地が水没する危険もある地域も出てきている。特に[[海抜]]の低い太平洋諸国において、[[国土]]が縮小しており、いずれ国土そのものが消失してしまうのではないかという危機に直面している。[[ツバル]]や[[モルディブ]]などでは海面上昇が死活問題ともなっている。モルディブは海面が1m上昇するだけで、国土の80%が海に沈むと予測されており、深刻な状況である<ref>[http://getnews.jp/archives/906929 モルディブ政府が発表した「世界最大の浮島計画」。温暖化による海面上昇に新たな一手。] [[ガジェット通信]](元記事はTABI-LABO)</ref>。
島国の[[面積]]は、[[ナウル]]の21平方kmから[[インドネシア]]の191万9440平方kmまでさまざまである。周辺は[[海洋]]であるため、海洋からの資源([[食糧]]など)、[[船舶]]による[[貿易]]を容易にする条件が整っている場合がある。交易ルートとして栄える地域も多い。[[気候]]条件はさまざまであるが、[[気温]]の年較差が[[大陸]]より小さく[[大陸性気候]]にはならない。ただし、[[日本]]の[[北海道]]は大陸性気候に近い。
=== 貿易・交通・国防 ===
大消費地域に近い、もしくは航路上に位置する場合は、交易によって発展しやすい傾向がある。[[シンガポール]]はまさにこの例であり、国際海運の要地となっている<ref>[http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/curriculum/trip/95singapore/BF_SINGA.html/BF_SINGA24.html シンガポールの貿易] 奈良女子大学付属中等教育学校 研究発表学習</ref>。[[近代]]に至るまでは船舶は速力が遅く、頻繁な補給が必要であった。船員も現代の[[タンカー]]のように数人~10人程度という少人数ではなく、数十人という場合もあった。このため、頻繁な食料補給が必要となり、島国は貴重な補給基地として活用された。寄港地には、船舶によって運搬されてきた物品を扱う交易所や食文化が発展する傾向が見られる。
共通点は少ないものの、近代以前は軍団を大量の船舶で輸送しなければ島国を攻撃することはできない。攻撃されても守備側有利の上陸戦を行えるため、攻撃すら受けない場合が多く、極端に対外戦争経験が少ない国もある。近代以後も国防は海上防衛を中心とすることが多い。
航空機が登場してからも攻撃側と同程度の軍事力を備えた島国への侵攻は容易ではなく、例えばイギリスは[[バトル・オブ・ブリテン]]において[[ナチス・ドイツ]]からの航空攻撃を防ぎ切ってドイツのイギリス本土上陸作戦([[アシカ作戦]])を中止させるに至った。ただし、大陸国家と同じく、[[太平洋戦争]]時の日本のように、完全に[[制空権]]を損失した場合はその限りではないとはいえ、島の上に[[国境]]線が引かれ、他国と島を共有している場合、陸路侵攻される可能性があることから陸軍も重要となる。実際、[[ハイチ]]は歴史上において[[ドミニカ共和国]]を攻撃しているほか、[[日本]]も[[第二次世界大戦]]の終盤、[[赤軍]]に北緯[[50度線]]を突破されて[[南樺太]]に[[樺太の戦い (1945年)|侵攻]]されている。また[[キューバ]]島にはキューバ政府と敵対する[[アメリカ軍|米軍]]の[[グアンタナモ米軍基地]]が置かれており、米国・キューバ両国が防衛を強化している。逆に、上陸された場合は撤退し態勢を立て直す場がなく、降伏か全滅まで抵抗かの二択を迫られる([[本土決戦]])。
== 分類 ==
島国にも様々なタイプがある。一概にまとめることはできないが、いくつかの分類を提示する。
*'''[[大陸]]に近く、比較的国土規模の大きな国'''
**[[日本]]・[[イギリス]]・[[インドネシア]]・[[スリランカ]]・[[キューバ]]などは[[文化的]]には大陸の影響を強く受けているが、[[政治]]的や[[軍事]]的には[[独立]]の歴史が長い。また世界4位の人口を誇るインドネシアをはじめ、数千万人以上を抱える人口大国が多い。また経済規模が大きい日本、イギリスは[[海洋国家]]として大陸にも政治的・文化的に大きな影響を与えてきた。なお、イギリスの海外領土である[[ジブラルタル]]は、[[ヨーロッパ大陸]]上にある。
*'''大陸に近いが、国土規模の小さな国'''
**[[キプロス]]・[[シンガポール]]・[[バーレーン]]などは、文化的にも政治的にも大陸国家や島国の影響を強く受けており、その植民地などであった時代が長く、独立は比較的最近のことである。
*'''大陸から離れているが、国土規模の大きな国'''
**[[マダガスカル]]・[[フィリピン]]・[[ニュージーランド]]などは、文化的に様々な勢力から影響を受けてきた。大陸から離れていたため、文明や政治の発達は遅れ、政治的には海洋国家の影響下に置かれた時代が長い。
*'''大陸から離れた、国土規模の小さな国'''
**[[アイスランド]]・[[インド洋]]諸国・[[太平洋]]諸国(ニュージーランドを除く)などは、文化的にも政治的にも独自の発展を遂げていたが、西欧諸国やアメリカ合衆国などに征服されるか、影響下におかれた歴史があり、これらの国からの移民が多数を占めている場合もある。
こういった区分はあくまでも恣意的なものであり、全ての事例に対して当てはまるわけではないことは明記する。海洋国家として覇権を握ることに成功した、大陸に近い大きな島国を除き、近代以降は[[西洋]]文明の進出により多くが[[植民地]]化、[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0-606618#:~:text=%E5%90%8D%E7%9B%AE%E4%B8%8A%E3%81%AF%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E5%A4%96%E5%9B%BD,%E3%81%8C%E5%85%B8%E5%9E%8B%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82 半植民地]化されていき、こういった特性は次第に薄れた。それでも[[国防]]上、強力な[[海軍]]を擁したり、経済上巨大な[[港]]を建設するなどの特性はあったが、現代に入り、[[航空]]技術の発展や[[経済]]、[[情報]]の[[グローバル化]]、植民地独立の達成により均質化が進み、そういった特性も次第に薄れつつある。
*かつて存在した島国
**[[耽羅]](1402年に[[李氏朝鮮]]が併合→[[済州島]])
**[[シチリア王国]](古代からの紆余曲折を経て最終的には1816年に[[イタリア王国]]が併合。現在の[[イタリア共和国]])
**[[ハワイ王国]](1898年に[[アメリカ合衆国]]が併合→[[ハワイ州]])
**[[ザンジバル]](1964年に[[タンガニーカ]]と合併し、[[タンザニア]]の一部に)
**[[琉球王国]](1879年に[[日本]]に併合され[[沖縄県]]に)
**[[アンギラ共和国]]([[1969年]]の1年間のみ[[イギリス]]から独立を宣言していたが、再びイギリス領に戻された)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[島]]
* [[島国一覧]]
* [[島の一覧 (面積順)|世界の島の面積順位]]
* [[大陸国家]]、[[大陸]]
* [[内陸国]]
* [[島嶼]]、[[半島]]
* [[無人島]]、[[人工島]]
* [[世界の地理]]
* [[アジアの地理]]、[[アジア]]、[[東アジア]]
* [[日本の地理]]
* [[日本列島]]、[[日本の地域]]、[[本土]]、[[離島]]、[[四島]]
* [[群島国家]]
* [[海洋国家]]
* [[小島嶼開発途上国]]
* [[ガラパゴス化]]
== 外部リンク ==
* [http://www.forumsec.org/ Pacific Islands Forum Secretariat] [[太平洋諸島フォーラム]]
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/pif/gaiyo.html 太平洋諸島フォーラム(PIF)概要] 日本の外務省サイト
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[[Category:島国| ]]
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14,376 |
エーディーケイ
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株式会社エーディーケイ (英: ADK CORPORATION) は、かつて日本のコンピュータゲーム制作・販売会社を行っていた会社である。登記上の商号は株式会社エーデイーケイ。旧商号はアルファ電子株式会社(アルファでんし)。開発・製造部門としてアルファ電子工業株式会社(アルファでんしこうぎょう)を名乗っていた時期もある。
1980年7月に設立。当時のオフィスは埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)のマンションの一室。アーケードゲームの開発、発売を主に行っていた他、AOU構成団体のひとつである埼玉県アミューズメント施設営業者協会の事務局を本社内に置いていた。
設立当初はテレビゲームとは無縁の、トランシーバーなどの通信機器とスピーカーの部品などの音響パーツを扱うメーカーだった。しかし三立技研が販売を担当した『ジャンピューター』の成功をきっかけに黎明期を迎えた日本のアーケードゲーム業界に本格参入。元々、自己資本の乏しいメーカーだったため、クラール電子やコアランドテクノロジーといったメーカーから開発資金を調達し、それらのメーカーを通して「クラッシュローラー」、「ジャンプバグ」などのスマッシュヒット作をリリースしていた。またテーカンが販売した「将棋」シリーズの開発では「ジャンピューター」の麻雀に次いで、アーケードゲームで将棋というジャンルを確立することに成功。それまでドットイートゲームやシューティングゲームが中心だった日本のビデオゲームのジャンルを広げ、麻雀や将棋をはじめとするテーブルゲームの確立に貢献した。
やがて自己資金で開発できる環境が整うと、本社を埼玉県上尾市へ移転。セガ販売の『チャンピオンベースボール』から始まり、『エキサイティングサッカー』などの作品をリリースし、中堅メーカーながらも参入当初から見せるその技術力の高さをアピールした。
1993年1月に社名をエーディーケイ (ADK) へと変更。また社名を変更する前に、自社開発のソフトの販売等で関係のあったSNK(旧社)と『Multi Video System』を共同開発した。その際、ADK自身も業務提携しゲームソフト開発を筆頭サードパーティーとして協力して行った。そこで取り交わした契約上、ネオジオ以外の他機種向けのゲーム開発は禁止されていた。しかし、表向きには“関連企業”としていた「未来ソフト」という別ブランドで、他機種向けの作品を開発・販売していた。ネオジオゲームの市場は主に海外だったため、当時の円高でADKの業績は悪化していった。なお、SNKも行きすぎた多角経営と主力としていた対戦型格闘ゲームの退潮で経営が悪化し2001年に倒産している。
業績低下が止まらず社員を削減していった結果、2000年頃にはわずか10人余りとなってしまった。新規に携帯電話コンテンツやLCDゲーム事業を始めるが、これも上手く行かず2003年頃に事業停止。これにより広告代理店のアサツー ディ・ケイが「ADK」の略称を譲る形となり、当社のビデオゲーム等の版権はSNKプレイモア(2016年に旧社と同じSNKに社名変更)が引き継いだ。
倒産後しばらくはADK作品を基にした新作や続編は出てこなかった。しかし2005年、『ティンクルスタースプライツ』の続編『ティンクルスタースプライツ〜La Petite Princesse〜』が現在の版権元であるSNKプレイモアより発売された。さらに同年、『ネオジオバトルコロシアム』に、ADK作品からも数キャラほどプレイヤーキャラクターとして登場した。
それ以降、SNK時代に作られたシリーズ化されている作品を除くSNKプレイモア純正作品などに、ADKのキャラクターがたまに登場している。
2008年12月18日には、『ニンジャマスターズ〜覇王忍法帖〜』、『ニンジャコンバット』、『ニンジャコマンドー』、『痛快GANGAN行進曲』、『ティンクルスタースプライツ』のADK作品5本を収録したPlayStation 2用ソフト『ADK魂』がSNKプレイモアより発売された。
なお、「ネオジオ」以前の作品に関しては、2011年発売の「SNKアーケードクラシックスゼロ」にて「スーパーチャンピオンベースボール」(海外版)の移植を皮切りに幾つかの作品がアーケードアーカイブやSNKのオムニバス集的なソフトで収録されている。
しかし、SNK販売以外のアルファ電子タイトルの版権の殆どが不明のままになっており、ゲームメーカーであるM2も「エクイテスの移植希望が増えているけど、まずは権利関係を整理するところから始めないと」と述べている。
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株式会社エーディーケイ は、かつて日本のコンピュータゲーム制作・販売会社を行っていた会社である。登記上の商号は株式会社エーデイーケイ。旧商号はアルファ電子株式会社(アルファでんし)。開発・製造部門としてアルファ電子工業株式会社(アルファでんしこうぎょう)を名乗っていた時期もある。
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'''株式会社エーディーケイ''' ({{Lang-en-short|ADK CORPORATION}}) は、かつて<!--存在していた-->[[日本]]の[[コンピュータゲーム]]制作・販売会社を行っていた会社である。登記上の商号は'''株式会社エーデイーケイ'''<ref>「デ」の次の「イ」が大文字。2014年9月19日閲覧。</ref>。旧商号は'''アルファ電子株式会社'''(アルファでんし)。開発・製造部門として'''アルファ電子工業株式会社'''(アルファでんしこうぎょう)を名乗っていた時期もある。
== 概要 ==
1980年7月に設立。当時のオフィスは[[埼玉県]][[浦和市]](現:[[さいたま市]][[浦和区]])のマンションの一室。[[アーケードゲーム]]の開発、発売を主に行っていた他、[[全日本アミューズメント施設営業者協会連合会|AOU]]構成団体のひとつである埼玉県アミューズメント施設営業者協会の事務局を本社内に置いていた。
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やがて自己資金で開発できる環境が整うと、本社を[[埼玉県]][[上尾市]]へ移転。[[株式会社セガ|セガ]]販売の『[[チャンピオンベースボール]]』から始まり、『[[エキサイティングサッカー]]』などの作品をリリースし、中堅メーカーながらも参入当初から見せるその技術力の高さをアピールした。
1993年1月に社名をエーディーケイ (ADK) へと変更。また社名を変更する前に、自社開発のソフトの販売等で関係のあった[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](旧社)と『[[Multi Video System]]』を共同開発した。その際、ADK自身も業務提携しゲームソフト開発を筆頭サードパーティーとして協力して行った。そこで取り交わした契約上、[[ネオジオ]]以外の他機種向けのゲーム開発は禁止されていた。しかし、表向きには“関連企業”としていた「未来ソフト」という'''別ブランド'''で、他機種向けの作品を開発・販売していた。ネオジオゲームの市場は主に海外だったため、当時の円高でADKの業績は悪化していった。なお、SNKも行きすぎた多角経営と主力としていた対戦型格闘ゲームの退潮で経営が悪化し[[2001年]]に倒産している。
業績低下が止まらず社員を削減していった結果、2000年頃にはわずか10人余りとなってしまった。新規に携帯電話コンテンツや[[LCDゲーム]]事業を始めるが、これも上手く行かず[[2003年]]頃に事業停止。これにより[[広告代理店]]の[[ADKホールディングス|アサツー ディ・ケイ]]が「ADK」の略称を譲る形となり、当社のビデオゲーム等の版権はSNKプレイモア([[2016年]]に旧社と同じ[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]]に社名変更)が引き継いだ。
== 沿革 ==
{{節スタブ}}
; [[1980年]]
: [[7月1日]]、'''アルファ電子'''株式会社として設立。主にアーケードゲームの開発・販売を務める。
; [[1981年]]
: [[3月]]、業界初の麻雀ゲーム『ジャンピューター』をリリース。
; [[1983年]]
: [[4月15日]]付けで販売・企画部門を分社化する。開発・製造部門を持つ旧社を'''アルファ電子工業'''株式会社(本社[[北本市]])に社名変更、新会社を'''アルファ電子'''株式会社(本社上尾市)とする。
; [[1984年]]
: [[3月20日]]上尾市内に新事務所ビル完成し、開発・販売部門を持つ'''アルファ電子'''株式会社を移転させる。[[4月1日]]業務開始。<ref>「ゲームマシン」1984年5月15日号9面</ref>
; [[1990年]]
: '''Multi Video System'''の[[回路設計]]を担当。
; [[1993年]]
: [[1月]]、社名を株式会社'''エーディーケイ'''に改称(法人格としてはアルファ電子'''工業'''株式会社(本社上尾市)が社名変更した<ref>「ゲームマシン」1993年5月1日号7面</ref>)。ユーザー向けには'''ADK'''を主に使用。
; [[1999年]]
: 携帯電話向けコンテンツ事業開始。
; [[2003年]]頃
: 事業停止。版権等はSNKプレイモアに引き継がれる。
== 作品 ==
=== 「アルファ電子」及び「ADK」として ===
; 1980年
:* ドラちゃん (クラール電子発売) - 『[[ドラえもん]]』のキャラクターとBGMを無断使用したドットイートゲーム。小学館より訴えられ、回収。基板に書かれた元タイトルは「LOVE ATTACK」。敵キャラクターのデータは後の『コロスケローラー』に流用された。
; 1981年
:* [[ジャンピューター]]([[三立技研]]発売) - 2人打ちの麻雀ゲーム。なお、発売元の[[三立技研]]は[[シムス|サンリツ電気]]とは全く別の会社である。
:* [[クラッシュローラー]] (クラール電子発売)
:* [[コロスケローラー]] (クラール電子発売) - 『クラッシュローラー』の続編。
:* [[ジャンプバグ]]([[株式会社セガ|セガ]]発売) - 豊栄産業(後の[[コアランドテクノロジー]]/[[バンプレスト]])との共同開発。
; 1982年
:* 将棋(テーカン発売) - [[日本将棋連盟]]のサロンにも置かれた。
:* 将棋パートII([[テクモ|テーカン]]発売) - 難易度が上がったバージョンアップ版。
:* タルボット - 正式に市場に流通したのは、タイトルに「PART II」が付くバージョンで、PART Iはロケテストのみの出荷。タイトル画面のクレジットには発売元と思しき「VOLT ELECTRONICS」の社名表記があるが、詳細は不明。
; 1983年
:* [[チャンピオンベースボール]](セガ発売) - 選手データは1982年度のものを使用。
:* チャンピオンベースボール2(セガ発売) - 前作のチームデータを1983年度版に入れ替え、2P対戦モードを追加したバージョンアップ版。
:* [[エキサイティングサッカー]]
; 1984年
:* エクイテス(セガ発売) - ロボットを操るSFシューティングゲーム
:* ブルファイター(セガ発売) - アイスホッケーゲーム。
:* エキサイティングサッカーII
; 1985年
:* スプレンダーブラスト - 3D視点のSFレースゲーム。
:* ハイボルテージ - 3D視点のSFシューティングゲーム。
:* ザ・高校野球 - 全国の都道府県からチームを選択でき、初期設定は[[埼玉県立上尾高等学校|埼玉県代表]]の[[上尾高校]]となっている。上尾はADKの所在地で、実在の上尾高校も1970〜1980年代にかけての甲子園常連校だった。
:* [[パーフェクトジャンピューター]] - 4人打ちの麻雀ゲーム。
:* 激走 - レースゲーム。タイトル画面のクレジットには発売元と思しき「EASTERN CORP」の社名表記があるが、詳細は不明。
; 1986年
:* スーパースティングレイ(セガ発売) - 『[[T・A・N・K]]』を思わせる戦車戦シューティングゲーム。
:* フラワー(セガ発売) - 縦スクロールシューティングだが横画面。
:* カイロスの館
:* 名人戦(SNK発売) - この作品で初めてSNKと接触し、以後の密接な関係に繋がっていく。
; 1987年
:* バトルフィールド(SNK発売) - ループレバーを使用するなど『[[怒 IKARI]]』を思わせる戦争アクションゲーム。
; 1988年
:* スカイソルジャー(SNK発売) - ウェポン選択が可能な縦スクロールシューティングゲーム。
; 1989年
:* スカイアドベンチャー(SNK発売) - 『スカイソルジャー』の続編。得点が基本的に1点しか入らない変わったシステムとなっている。
:* ギャングウォーズ(SNK発売)
:* スーパーチャンピオンベースボール(SNK発売) - 「帰ってきたチャンピオンベースボール」と表記し、「スーパーチャンピオンベースボール」と読む。
; 1990年
:* STED 遺跡惑星の野望(ケイ・アミューズメントリース発売) - ファミコン用ロールプレイングゲーム。
:* [[マジシャンロード]](SNK発売) - ファンタジーアクションシューティング。
:* [[ニンジャコンバット]](SNK発売) - 忍者が主人公のアクションシューティング格闘。ボスキャラクターの中には倒すと以後ステージ開始時に選んで使えるものも存在する。
; 1991年
:* [[ラギ]](SNK発売)
:* [[クロスソード]](SNK発売、ネオジオCD版は『クロススウォード』) - 3D視点のファンタジーアクション。
:* スラッシュラリー(SNK発売、ネオジオCD版は『ラリーチェイス』) - 2Dのラリーレーシングゲーム。
; 1992年
:* [[ニンジャコマンドー]](SNK発売) - 忍者が主人公の縦スクロールアクションシューティング。コマンド必殺技が存在し、特に''爆烈究極拳''の入力が「上、左下、右下、左上、右上、下、攻撃ボタン」の順という複雑なものだった。
:* [[ワールドヒーローズ]](SNK発売) - 歴史上の人物を題材にした対戦型格闘ゲーム。プレイヤーキャラクターに忍者がいる。
; 1993年
:* ワールドヒーローズ2(SNK発売)
; 1994年
:* [[痛快GANGAN行進曲]](SNK発売) - [[不良行為少年|不良]]を主人公にした対戦型格闘ゲーム。多くの対戦格闘と異なり、奥行き方向の移動が可能。『ワールドヒーローズ』シリーズに登場の忍者「フウマ」が登場している。
:* ワールドヒーローズ2JET(SNK発売)
; 1995年
:* 将棋の達人(SNK発売)
:* ワールドヒーローズパーフェクト(SNK発売)
:* ADKワールド - ネオジオCD専用で、ADKのネオジオソフトとしては初めて[[MVS]]と家庭用ネオジオには出さなかった作品である。同社が過去に出したネオジオソフトのデータが見れたり、様々なミニゲームが収録されている。
; 1996年
:* オーバートップ - 2Dのレーシングゲーム。
:* [[押し出しジントリック]] - ADK初であり唯一の対戦パズルゲーム。『ADKワールド』に続くネオジオCD専用タイトルで、本作もMVSや家庭用ネオジオでは発売されなかった。また、ネオジオCD以外の機種には移植されていない。
:* [[NINJA MASTER'S〜覇王忍法帖〜|ニンジャマスターズ〜覇王忍法帖〜]] - 戦国時代が舞台の対戦型格闘ゲーム。タイトルが示す通り、プレイヤーキャラクターに忍者が非常に多い。
:* [[ティンクルスタースプライツ]] - ADK最後のネオジオ作品。縦スクロールの[[シューティングゲーム]]。対戦の要素を盛り込んだことや、かわいいキャラクター等のため人気を博した。[[1997年]]には[[セガサターン]]、[[2000年]]には[[ドリームキャスト]](SNK発売)に移植された。
; 1998年
:* [[ビーストバスターズ セカンドナイトメア]](SNK発売) - ADK唯一の[[ハイパーネオジオ64]]作品。ADK唯一のガンシューティングゲーム。SNKが1989年に開発・発売した『ビーストバスターズ』の続編。ただし、ストーリーの繋がりはない。アーケードゲームとしては、本作がADKが開発に携わった最後のゲームとなった。
=== 「未来ソフト」として ===
;1997年
:*[[トレジャーギア]] - ADKにしては珍しい[[ローグライクゲーム]]の作品。[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]専用ソフト。
:*[[すたあ☆もんじゃ]] - [[テクモ]](現・[[コーエーテクモゲームス]])の[[モンスターファーム (PlayStation)|モンスターファーム]]に似ている。PlayStation専用ソフト。開発が遅れたため[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCE]]側が課したペナルティーとして2000枚しかプレスされなかった。そのうち5枚は元社員が所有している。
== 倒産後 ==
倒産後しばらくはADK作品を基にした新作や続編は出てこなかった。しかし[[2005年]]、『ティンクルスタースプライツ』の続編『ティンクルスタースプライツ〜La Petite Princesse〜』が現在の版権元であるSNKプレイモアより発売された。さらに同年、『[[ネオジオバトルコロシアム]]』に、ADK作品からも数キャラほどプレイヤーキャラクターとして登場した。
それ以降、SNK時代に作られたシリーズ化されている作品を除くSNKプレイモア純正作品などに、ADKのキャラクターがたまに登場している。
[[2008年]][[12月18日]]には、『ニンジャマスターズ〜覇王忍法帖〜』、『ニンジャコンバット』、『ニンジャコマンドー』、『痛快GANGAN行進曲』、『ティンクルスタースプライツ』のADK作品5本を収録した[[PlayStation 2]]用ソフト『'''ADK魂'''』がSNKプレイモアより発売された。
なお、「ネオジオ」以前の作品に関しては、2011年発売の「[[SNKアーケードクラシックスゼロ]]」にて「スーパーチャンピオンベースボール」(海外版)の移植を皮切りに幾つかの作品がアーケードアーカイブやSNKのオムニバス集的なソフトで収録されている。
しかし、SNK販売以外のアルファ電子タイトルの版権の殆どが不明のままになっており、ゲームメーカーであるM2も「エクイテスの移植希望が増えているけど、まずは権利関係を整理するところから始めないと」と述べている。
== 出身者 ==
* [[さいとうつかさ]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/19991008031143/http://www.bekkoame.ne.jp/~adk/ 株式会社エーディーケイ] - インターネットアーカイブ
* [http://game.snkplaymore.co.jp/official/adk/ ADK魂](SNKプレイモア)
* [http://adk.game-host.org.uk/ ADK HEROES] - 同社の社員が知り合いというファンが作った、非公式のADK紹介サイト。
* {{Mediaarts-db}}
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[[Category:ADK|*]]
[[Category:上尾市の歴史]]
[[Category:1980年設立の企業]]
[[Category:2003年廃止の企業]]
[[Category:かつて存在した埼玉県の企業]]
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西多摩郡
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西多摩郡(にしたまぐん)は、東京都の郡。東京都に現存する唯一の郡である。
人口54,140人、面積375.86km2、人口密度144人/km2。(2023年11月1日、推計人口)。
以下の3町1村を含む。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町1村から瑞穂町の一部(二本木・高根・駒形富士山・富士山栗原新田)を除き、以下の市全域を加えた区域にあたる。
発足時に隣接していた郡は以下の通り。
『旧高旧領取調帳』に記載されている明治初年時点での、多摩郡のうち後の当郡域の支配は以下の通りに記述されている。幕府領は代官・江川太郎左衛門支配所が管轄した。●は村内に寺社領が存在。(101村)
なお、氷川村・小河内村内の各村も1村に数える。
『神奈川県史 別編1 人物』による。
特記なき場合『東京府史 行政篇 第1巻』による。
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西多摩郡(にしたまぐん)は、東京都の郡。東京都に現存する唯一の郡である。 人口54,140人、面積375.86km²、人口密度144人/km²。(2023年11月1日、推計人口)。 以下の3町1村を含む。 瑞穂町(みずほまち)
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檜原村(ひのはらむら)
奥多摩町(おくたままち)
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[[ファイル:Tokyo-Nishitama-District.png|frame|東京都西多摩郡の範囲(1.瑞穂町 2.日の出町 3.檜原村 4.奥多摩町 薄緑:後に他郡から編入した区域)]]
'''西多摩郡'''(にしたまぐん)は、[[東京都]]の[[郡]]。東京都に現存する唯一の郡である。
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以下の3町1村を含む。
* [[瑞穂町]](みずほまち)
* [[日の出町]](ひのでまち)
* [[檜原村]](ひのはらむら)
* [[奥多摩町]](おくたままち)
== 郡域 ==
[[1878年]](明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町1村から瑞穂町の一部(二本木・高根・駒形富士山・富士山栗原新田)を除き、以下の市全域を加えた区域にあたる。
* [[青梅市]]
* [[福生市]]
* [[あきる野市]]
* [[羽村市]]
=== 隣接していた郡 ===
発足時に隣接していた郡は以下の通り。
* [[神奈川県]] : [[南多摩郡]]、[[北多摩郡]]、[[津久井郡]]
* [[埼玉県]] : [[入間郡]]、[[高麗郡]]、[[秩父郡]]
* [[山梨県]] : [[北都留郡]]
== 歴史 ==
=== 郡発足までの沿革 ===
『[[旧高旧領取調帳]]』に記載されている[[明治]]初年時点での、[[多摩郡]]のうち後の当郡域の支配は以下の通りに記述されている。幕府領は[[代官]]・[[江川太郎左衛門]]支配所が管轄した。●は村内に[[寺社領]]が存在。(101村)
なお、氷川村・小河内村内の各村も1村に数える。
{| class="wikitable"
|-
! style="width:25%" colspan=2 | [[知行]]
! style="width:5%" | 村数
! 村名
|-
| rowspan=3 | [[天領|幕府領]]
| 幕府領
| 49村
| 留浦村(小河内村のうち)、境村、小河内村ノ内・原村、●殿ヶ谷村、石畑村、●箱根ヶ崎村、長谷部新田、●福生村、●羽村、●上草花村、●菅生村、原小宮村、原小宮村・勘次郎組(原小宮村のうち)、●伊奈村、●横沢村、三内村、●網代村、●上平井村、留原村、●山田村、小中野村、●小和田村、●舘屋村、●高尾村、●檜原村、●新町村、●黒沢村、●北小曾木村、●根ヶ布村、●青梅村、日向和田村、●千ヶ瀬村、●河辺村、●友田村、竜寿寺村、駒木野村、●御嶽村、●柚木村、●二俣尾村、川井村、大丹波村、白丸村、棚沢村、丹三郎村、海沢村、氷川村ノ内・栃久保村、氷川村ノ内・大沢村/小菅村/日原村(日原村を指す)、氷川本村(氷川村を指す)、小河内村ノ内・河内村、小河内村ノ内・川野村
|-
| [[地方知行|旗本領]]
| 22村
| 下師岡新田、五ノ神村、●瀬戸岡村、平沢村、●二宮村、●野辺村、●小川村、●雨間村、油平村、牛沼村、淵上村、中平井村、下平井村、●吹上村、大門村、木ノ下村、●谷野村、上成木村上下分(2村)、●西分村、畑中村、●日影和田村
|-
| 幕府領・旗本領
| 6村
| 熊川村、川崎村、●下草花村、●引田村、●五日市村、●今寺村
|-
| rowspan=4 | [[藩|藩領]]
| [[上野国|上野]][[前橋藩]]
| 9村
| 養沢村、●塩船村、●野上村、●藤橋村、●勝沼村、●長淵村上下分(上長淵村、下長淵村の2村を指す)、●沢井村、小丹波村
|-
| [[常陸国|常陸]][[龍ヶ崎藩]]<ref>幕末時点では[[羽前国|羽前]][[長瀞藩]]。明治に入ってから[[上総国|上総]][[大網藩]]、龍ヶ崎藩と[[藩庁]]の移転を繰り返しているが、『旧高旧領取調帳』ではすでに龍ヶ崎藩と記載されており、郡内の所領の変遷は不明。</ref>
| 3村
| ●下代継村、●上代継村、●乙津村
|-
| [[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]
| 3村
| ●富岡村、●下成木村上分(下成木村上下分の誤記か。2村に数える)
|-
| 岩槻藩・前橋藩
| 1村
| ●南小曾木村
|-
| rowspan=2 | 幕府領・藩領
| 幕府領・[[三河国|三河]][[西端藩]]
| 3村
| 下大久野村、●上大久野村、●北大久野村
|-
| 旗本領・前橋藩
| 4村
| ●今井村、●上師岡村、●下師岡村、●下村(下村三郷)
|}
* [[慶応]]4年=[[明治]]元年
** [[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[1868年]][[8月17日]]) - 幕府領に'''[[韮山県]]'''を設置。引き続き、旧[[幕府]]代官の[[江川英武]](太郎左衛門)が管轄。
** [[7月10日 (旧暦)|7月10日]](1868年[[8月27日]]) - 後の当郡域の旗本領を管轄する旧[[幕府]][[代官]]の松村長為が'''[[武蔵知県事]]'''に就任。
** 8月8日(1868年[[9月23日]]) - 松村長為知県事が[[古賀定雄]](一平)に交代。
* 明治初年(98村)
** 上草花村・下草花村が合併して草花村となる。
** 上平井村・中平井村・下平井村が合併して平井村となる。平井村は後に韮山県に属する。
* 明治2年
** 2月9日(1869年3月21日) - 古賀知県事の管轄区域に'''[[品川県]]'''を設置。韮山県の一部(下師岡新田、五ノ神村の全域、五日市村のうち旧幕府領<ref name="shinagawa">『旧高旧領取調帳』では品川県のまま。</ref>)が品川県に移管。
** 五日市村を除く旧幕府領・旗本領相給の各村のうち旧旗本領が韮山県に編入<ref name="shinagawa"></ref>。
** 韮山県の一部(横沢村、三内村、網代村<ref>『旧高旧領取調帳』では韮山県のまま。</ref>)が西瑞藩領となる。
** 龍ヶ崎藩領の一部(下代継村、上代継村<ref>『旧高旧領取調帳』では龍ヶ崎藩領のまま。</ref>)が品川県に移管。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[前橋県]]'''、'''[[龍ヶ崎県]]'''、'''[[岩槻県]]'''、'''[[西端県]]'''となる。
** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 前橋県の管轄区域が'''[[群馬県]]'''の管轄となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 品川県・韮山県・龍ヶ崎県・岩槻県・群馬県・西端県のうち後の当郡に属する区域が'''[[入間県]]'''に移管。
** 11月 - 各県の後の五日市町域が'''[[神奈川県]]'''に移管。該当区域は入間県(伊奈村・留原村・山田村・小中野村・小和田村・館谷村・高尾村・五日市村)、旧前橋県(養沢村)、旧龍ヶ崎県(乙津村)、旧西端県(入野村・深沢村・戸倉村・横沢村・三内村・網代村)。
* 明治5年
** 1月 - 各県の後の日の出町域が神奈川県に移管。該当区域は入間県(平井村の全域、大久野村のうち旧幕府領)、旧西端県(大久野村のうち旧西端藩領)。
** 5月 - 入間県のうち後の当郡に属する区域の残部が神奈川県に移管。
* [[1873年]](明治6年) - 上大久野村・下大久野村・北大久野村が合併して大久野村となる。(96村)
* [[1874年]](明治7年) - 上師岡村・下師岡村が合併して師岡村となる。(95村)
* [[1875年]](明治8年)(1町93村)
** 青梅村が青梅町に、竜寿寺村が梅沢村にそれぞれ改称。
** 栃久保村(氷川村のうち)が氷川村に編入。
=== 郡発足以降の沿革 ===
[[ファイル:Kanagawa NishiTama-gun 1889.png|frame|1.青梅町 2.西多摩村 3.東秋留村 4.西秋留村 5.増戸村 6.霞村 7.小曽木村 8.成木村 9.調布村 10.吉野村 11.三田村 12.古里村 13.氷川村 14.小河内村 15.大久野村 16.檜原村 A.5町村組合(五日市町ほか) B.箱根ヶ崎村外三ヶ村組合 C.福生村熊川村組合 D.5村組合(平井村ほか) (青:合併なし 紫:青梅市 黄:あきる野市 赤:奥多摩町 橙:日の出町)]]
* [[1878年]](明治11年)[[11月18日]] - [[郡区町村編制法]]の神奈川県での施行により、神奈川県多摩郡のうち1町93村の区域をもって'''西多摩郡'''が発足。郡役所が青梅町(現在の青梅図書館の場所)に設置。
* [[1889年]](明治22年)
** [[3月31日]] - 下記の各町村が合併。(2町30村)
*** '''[[青梅町]]''' ← 青梅町、勝沼村、西分村、日向和田村(現・青梅市)
*** '''[[五日市町 (東京都)|五日市町]]''' ← 五日市町[大部分]、小中野村(現・あきる野市)A
*** '''[[三ッ里村]]''' ← 小和田村、留原村、高尾村(現・あきる野市)A
*** '''[[明治村 (東京府)|明治村]]''' ← 館谷村、入野村、深沢村、五日市町[一部](現・あきる野市)A
*** '''[[羽村市|西多摩村]]''' ← 羽村、五ノ神村、川崎村(現・羽村市)
*** '''[[東秋留村]]''' ← 野辺村、小川村、二宮村、平沢村、雨間村(現・あきる野市)
*** '''[[西秋留村]]''' ← 淵上村、牛沼村、油平村、上代継村、下代継村、引田村(現・あきる野市)
*** '''[[増戸村]]''' ← 伊奈村、山田村、網代村、横沢村、三内村(現・あきる野市)
*** '''[[霞村 (東京都)|霞村]]''' ← 藤橋村、大門村、今井村、新町村、今寺村、野上村、吹上村、塩船村、根ヶ布村、谷野村、木野下村、師岡村(現・青梅市)
*** '''[[小曽木村]]''' ← 南小曽木村、富岡村、黒沢村(現・青梅市)
*** '''[[成木村]]''' ← 上成木村下分、上成木村上分、下成木村上分、下成木村下分、北小曽木村(現・青梅市)
*** '''[[調布村]]''' ← 下長淵村、千ヶ瀬村、河辺村、上長淵村、友田村、駒木野村(現・青梅市)
*** '''[[吉野村 (東京都)|吉野村]]''' ← 下村三郷、畑中村、日影和田村、柚木村(現・青梅市)
*** '''[[三田村 (東京都)|三田村]]''' ← 沢井村下分、沢井村上分、二俣尾村、御岳村、御岳山(現・青梅市)
*** '''[[古里村 (東京都)|古里村]]''' ← 小丹波村、大丹波村、梅沢村、川井村、丹三郎村、棚沢村、白丸村(現・奥多摩町)
*** '''[[氷川町 (東京都)|氷川村]]''' ← 氷川村、日原村、海沢村、境村(現・奥多摩町)
*** '''[[小河内村 (東京都)|小河内村]]''' ← 川野村、原村、河内村、留浦村(現・奥多摩町)
*** '''[[小宮村]]''' ← 養沢村、乙野村[大部分](現・あきる野市)A
*** '''[[戸倉村 (東京都)|戸倉村]]''' ← 戸倉村、乙野村[一部](現・あきる野市)A
*** '''[[大久野村]]'''(単独村制。現・日の出町)
*** '''[[檜原村]]'''(檜原本村が単独村制。現・檜原村)
*** '''[[箱根ヶ崎村]]'''、'''[[石畑村]]'''、'''[[殿ヶ谷村]]'''(それぞれ単独村制。現・瑞穂町)B
*** '''[[長岡村 (東京府)|長岡村]]''' ← 長谷部新田、下師岡新田(現・瑞穂町)B
*** '''[[福生村 (東京府)|福生村]]'''、'''[[熊川村 (東京府)|熊川村]]'''(それぞれ単独村制。現・福生市)C
*** '''[[菅生村 (東京府)|菅生村]]'''、'''[[草花村]]'''、'''[[原小宮村]]'''、'''[[瀬戸岡村]]'''(それぞれ単独村制。現・あきる野市)D
*** '''[[平井村 (東京都)|平井村]]'''(単独村制。現・日の出町)D
** [[4月1日]] - 上記2町30村が[[町村制]]を施行。上記A - Dは町村組合を結成(名称は地図参照)。
* [[1893年]](明治26年)4月1日 - '''[[東京府]]'''の管轄となる。
* [[1899年]](明治32年)[[7月1日]] - [[郡制]]を施行。
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[12月1日]] - 五日市町・三ッ里村・明治村が合併し、改めて'''五日市町'''が発足。(2町28村)
* [[1921年]](大正10年)4月1日 - 菅生村・草花村・原小宮村・瀬戸岡村が合併して'''[[多西村]]'''が発足。(2町25村)
* [[1923年]](大正12年)4月1日 - 郡会が廃止。残務処理のため郡役所は存続。
* [[1926年]](大正15年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
* [[1940年]]([[昭和]]15年)
** [[2月11日]] - 氷川村が町制施行して'''[[氷川町 (東京都)|氷川町]]'''となる。(3町24村)
** [[11月10日]](5町18村)
*** 福生村・熊川村が合併して'''[[福生市|福生町]]'''が発足。
*** 箱根ヶ崎村・石畑村・殿ヶ谷村・長岡村が合併して'''[[瑞穂町]]'''が発足。
* [[1943年]](昭和18年)7月1日 - [[東京都制]]の施行により'''[[東京都]]'''の管轄となる。
* [[1951年]](昭和26年)4月1日 - 青梅町・霞村・調布村が合併して'''[[青梅市]]'''が発足し、郡より離脱。(4町16村)
* [[1955年]](昭和30年)
** 4月1日(5町4村)
*** 東秋留村・西秋留村・多西村が合併して'''[[秋川市|秋多町]]'''が発足。
*** 五日市町・増戸村・戸倉村・小宮村が合併し、改めて'''[[五日市町 (東京都)|五日市町]]'''が発足。
*** 氷川町・古里村・小河内村が合併して'''[[奥多摩町]]'''が発足。
*** 小曽木村・成木村・吉野村、三田村が青梅市に編入。
** [[6月1日]] - 大久野村・平井村が合併して'''[[日の出町|日の出村]]'''が発足。(5町3村)
* [[1956年]](昭和31年)[[10月1日]] - 西多摩村が町制施行・改称して'''[[羽村市|羽村町]]'''となる。(6町2村)
* [[1958年]](昭和33年)[[10月15日]] - 瑞穂町が[[埼玉県]][[入間郡]][[元狭山村]]を編入。
* [[1970年]](昭和45年)7月1日 - 福生町が市制施行して'''[[福生市]]'''となり、郡より離脱。(5町2村)
* [[1972年]](昭和47年)[[5月5日]] - 秋多町が市制施行、即日改称して'''[[秋川市]]'''となり、郡より離脱。(4町2村)
* [[1974年]](昭和49年)6月1日 - 日の出村が町制施行して'''[[日の出町]]'''となる。(5町1村)
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月1日]] - 羽村町が市制施行して'''[[羽村市]]'''となり、郡より離脱。(4町1村)
* [[1995年]](平成7年)[[9月1日]] - 五日市町が秋川市と合併して'''[[あきる野市]]'''が発足し、郡より離脱。(3町1村)
=== 変遷表 ===
{{hidden begin
|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{|class="wikitable" style="font-size:x-small;"
!明治22年以前
!明治22年4月1日
!明治22年 - 明治45年
!大正元年 - 大正15年
!昭和元年 - 昭和19年
!昭和20年 - 昭和39年
!昭和40年 - 昭和64年
!平成元年 - 現在
!現在
|-
|駒形富士山村<br />高根村<br />富士山栗原新田
|[[埼玉県]][[入間郡]]<br />元狭山村の一部
|埼玉県入間郡<br />元狭山村
|埼玉県入間郡<br />元狭山村
|埼玉県入間郡<br />元狭山村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和33年10月15日<br />瑞穂町に編入
|rowspan="6" style="background-color:#66FFFF;"|瑞穂町
|rowspan="6" style="background-color:#66FFFF;"|瑞穂町
|rowspan="6" style="background-color:#66FFFF;"|[[瑞穂町]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|箱根ヶ崎村
|style="background-color:#99CCFF;"|箱根ヶ崎村
|style="background-color:#99CCFF;"|箱根ヶ崎村
|style="background-color:#99CCFF;"|箱根ヶ崎村
|rowspan="5" style="background-color:#66FFFF;"|昭和15年11月10日<br />瑞穂町
|rowspan="5" style="background-color:#66FFFF;"|瑞穂町
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|石畑村
|style="background-color:#99CCFF;"|石畑村
|style="background-color:#99CCFF;"|石畑村
|style="background-color:#99CCFF;"|石畑村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|殿ヶ谷村
|style="background-color:#99CCFF;"|殿ヶ谷村
|style="background-color:#99CCFF;"|殿ヶ谷村
|style="background-color:#99CCFF;"|殿ヶ谷村
|-
|height=20 style="background-color:#99CCFF;"|長谷部新田<br />下師岡新田
|height=30 rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|長岡村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|長岡村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|長岡村
|-
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|藤橋村
|-
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|霞村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|霞村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|霞村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|霞村
|rowspan="5"|昭和26年4月1日<br />青梅市
|rowspan="9"|青梅市
|rowspan="9"|青梅市
|rowspan="9"|[[青梅市]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|大門村<br />今井村<br />新町村<br />今寺村<br />野上村<br />吹上村<br />塩船村<br />根ヶ布村<br />谷野村<br />木野下村<br />師岡村
|-
|style="background-color:#66FFFF;"|青梅町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|青梅町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|青梅町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|青梅町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|青梅町
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|勝沼村<br />西分村<br />日向和田村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|下長淵村<br />千ヶ瀬村<br />河辺村<br />上長淵村<br />友田村<br />駒木野村
|style="background-color:#99CCFF;"|調布村
|style="background-color:#99CCFF;"|調布村
|style="background-color:#99CCFF;"|調布村
|style="background-color:#99CCFF;"|調布村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|小曽木村<br />富岡村<br />黒沢村
|style="background-color:#99CCFF;"|小曽木村
|style="background-color:#99CCFF;"|小曽木村
|style="background-color:#99CCFF;"|小曽木村
|style="background-color:#99CCFF;"|小曽木村
|rowspan="4"|昭和30年4月1日<br />青梅市に編入
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|上成木村下分<br />上成木村上分<br />下成木村上分<br />下成木村下分<br />北小曽木村
|style="background-color:#99CCFF;"|成木村
|style="background-color:#99CCFF;"|成木村
|style="background-color:#99CCFF;"|成木村
|style="background-color:#99CCFF;"|成木村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|下村三郷<br />畑中村<br />日影和田村<br />柚木村
|style="background-color:#99CCFF;"|吉野村
|style="background-color:#99CCFF;"|吉野村
|style="background-color:#99CCFF;"|吉野村
|style="background-color:#99CCFF;"|吉野村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|沢井村下分<br />沢井村上分<br />二俣尾村<br />御岳村<br />御岳山
|style="background-color:#99CCFF;"|三田村
|style="background-color:#99CCFF;"|三田村
|style="background-color:#99CCFF;"|三田村
|style="background-color:#99CCFF;"|三田村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|福生村
|style="background-color:#99CCFF;"|福生村
|style="background-color:#99CCFF;"|福生村
|style="background-color:#99CCFF;"|福生村
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|昭和15年11月10日<br />福生町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|福生町
|rowspan="2"|昭和45年7月1日<br />市制
|rowspan="2"|福生市
|rowspan="2"|[[福生市]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|熊川村
|style="background-color:#99CCFF;"|熊川村
|style="background-color:#99CCFF;"|熊川村
|style="background-color:#99CCFF;"|熊川村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|菅生村
|style="background-color:#99CCFF;"|菅生村
|style="background-color:#99CCFF;"|菅生村
|rowspan="4" style="background-color:#99CCFF;"|大正10年4月1日<br />多西村
|rowspan="4" style="background-color:#99CCFF;"|多西村
|rowspan="6" style="background-color:#66FFFF;"|昭和30年4月1日<br />秋多町
|rowspan="6"|昭和47年5月5日<br />市制改称<br />秋川市
|rowspan="16"|平成7年9月1日<br />あきる野市
|rowspan="16"|[[あきる野市]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|草花村
|style="background-color:#99CCFF;"|草花村
|style="background-color:#99CCFF;"|草花村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|原小宮村
|style="background-color:#99CCFF;"|原小宮村
|style="background-color:#99CCFF;"|原小宮村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|瀬戸岡村
|style="background-color:#99CCFF;"|瀬戸岡村
|style="background-color:#99CCFF;"|瀬戸岡村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|野辺村<br />小川村<br />二宮村<br />平沢村<br />雨間村
|style="background-color:#99CCFF;"|東秋留村
|style="background-color:#99CCFF;"|東秋留村
|style="background-color:#99CCFF;"|東秋留村
|style="background-color:#99CCFF;"|東秋留村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|淵上村<br />牛沼村<br />油平村<br />上代継村<br />下代継村<br />引田村
|style="background-color:#99CCFF;"|西秋留村
|style="background-color:#99CCFF;"|西秋留村
|style="background-color:#99CCFF;"|西秋留村
|style="background-color:#99CCFF;"|西秋留村
|-
|height=10 style="background-color:#99CCFF;"|小中野村
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|五日市町
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|五日市町
|rowspan="5" style="background-color:#66FFFF;"|大正7年12月1日<br />五日市町
|rowspan="5" style="background-color:#66FFFF;"|五日市町
|rowspan="10" style="background-color:#66FFFF;"|昭和30年4月1日<br />五日市町
|rowspan="10" style="background-color:#66FFFF;"|五日市町
|-
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|五日市町
|-
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|明治村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|明治村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|館谷村<br />入野村<br />深沢村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|小和田村<br />留原村<br />高尾村
|style="background-color:#99CCFF;"|三ッ里村
|style="background-color:#99CCFF;"|三ッ里村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|伊奈村<br />山田村<br />網代村<br />横沢村<br />三内村
|style="background-color:#99CCFF;"|増戸村
|style="background-color:#99CCFF;"|増戸村
|style="background-color:#99CCFF;"|増戸村
|style="background-color:#99CCFF;"|増戸村
|-
|height=10 style="background-color:#99CCFF;"|戸倉村
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|戸倉村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|戸倉村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|戸倉村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|戸倉村
|-
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|乙野村
|-
|height=20 rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|小宮村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|小宮村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|小宮村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|小宮村
|-
|height=10 style="background-color:#99CCFF;"|養沢村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|羽村<br />五ノ神村<br />川崎村
|style="background-color:#99CCFF;"|西多摩村
|style="background-color:#99CCFF;"|西多摩村
|style="background-color:#99CCFF;"|西多摩村
|style="background-color:#99CCFF;"|西多摩村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和31年10月1日<br />町制改称<br />羽村町
|style="background-color:#66FFFF;"|羽村町
|平成3年11月1日<br />市制
|[[羽村市]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|大久野村
|style="background-color:#99CCFF;"|大久野村
|style="background-color:#99CCFF;"|大久野村
|style="background-color:#99CCFF;"|大久野村
|style="background-color:#99CCFF;"|大久野村
|rowspan="2" style="background-color:#99CCFF;"|昭和30年6月1日<br />日の出村
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|昭和49年6月1日<br />町制
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|日の出町
|rowspan="2" style="background-color:#66FFFF;"|[[日の出町]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|平井村
|style="background-color:#99CCFF;"|平井村
|style="background-color:#99CCFF;"|平井村
|style="background-color:#99CCFF;"|平井村
|style="background-color:#99CCFF;"|平井村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|氷川村<br />日原村<br />海沢村<br />境村
|style="background-color:#99CCFF;"|氷川村
|style="background-color:#99CCFF;"|氷川村
|style="background-color:#99CCFF;"|氷川村
|style="background-color:#66FFFF;"|昭和15年2月11日<br />町制
|rowspan="3" style="background-color:#66FFFF;"|昭和30年4月1日<br />奥多摩町
|rowspan="3" style="background-color:#66FFFF;"|奥多摩町
|rowspan="3" style="background-color:#66FFFF;"|奥多摩町
|rowspan="3" style="background-color:#66FFFF;"|[[奥多摩町]]
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|小丹波村<br />大丹波村<br />梅沢村<br />川井村<br />丹三郎村<br />棚沢村<br />白丸村
|style="background-color:#99CCFF;"|古里村
|style="background-color:#99CCFF;"|古里村
|style="background-color:#99CCFF;"|古里村
|style="background-color:#99CCFF;"|古里村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|川野村<br />原村<br />河内村<br />留浦村
|style="background-color:#99CCFF;"|小河内村
|style="background-color:#99CCFF;"|小河内村
|style="background-color:#99CCFF;"|小河内村
|style="background-color:#99CCFF;"|小河内村
|-
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原本村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|檜原村
|style="background-color:#99CCFF;"|[[檜原村]]
|}
{{hidden end}}
== 行政 ==
;神奈川県西多摩郡長
『神奈川県史 別編1 人物』による{{sfn|神奈川県県民部県史編集室|1983|loc=付表51頁|ref=kanagawakenshi}}。
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||細谷五郎右衛門||明治11年([[1878年]])[[11月18日]]||明治15年([[1882年]])[[6月23日]]||
|-
|2||村上佳景||明治15年(1882年)6月23日 ||明治26年([[1893年]])[[3月31日]]||東京府に移管
|}
;東京府西多摩郡長
特記なき場合『東京府史 行政篇 第1巻』による{{sfn|東京府|1935|loc=1033-1094頁|ref=tokyo}}。
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|1||村上佳景||明治26年([[1893年]])[[4月1日]]||明治28年([[1895年]])[[9月10日]]||神奈川県西多摩郡長より留任
|-
|2||福井光||明治28年(1895年)9月10日||明治32年([[1899年]])[[4月8日]]||
|-
|3||丸山良香||明治32年(1899年)4月8日||明治33年([[1900年]])[[6月2日]]||
|-
|4||橋口常彦||明治33年(1900年)6月2日||明治35年([[1902年]])[[12月1日]]||
|-
|5||松平正秀||明治35年(1902年)12月1日||明治39年([[1906年]])[[12月11日]]||在任中に死去
|-
|6||[[武藤文吾]]||明治39年(1906年)[[12月22日]]||明治42年([[1909年]])[[5月]]||のち[[八王子市]]長
|-
|7||安藤源治郎||明治42年(1909年)[[5月26日]]||大正4年([[1915年]])[[7月26日]]||
|-
|8||原林之助||[[大正]]4年(1915年)||大正6年([[1917年]])[[4月28日]]||在任中に死去
|-
|9||川越守男||大正6年(1917年)[[5月16日]]||大正7年([[1918年]])[[10月10日]]||
|-
|10||山田信太郎||大正7年(1918年)10月10日||大正13年([[1924年]])[[12月16日]]||
|-
|11||奥田久七郎||大正13年(1924年)[[12月23日]]||大正15年([[1926年]])[[6月30日]]||[[郡制|郡役所]]廃止により、廃官
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
-->
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author = 東京府 編 |title = 東京府史 行政篇 第1巻 |publisher = [[東京府]] |series = |volume = |edition = |year = 1935 |pages = |url = {{NDLDC|1686820}}|doi = |id = |isbn = |ncid = |ref = tokyo}}
* {{Cite book |和書 |author = 神奈川県県民部県史編集室 編 |title = 神奈川県史 別編1 人物 |publisher = [[神奈川県]] |series = |volume = |edition = |year = 1983 |pages = |url = |doi = |id = |isbn = |ncid = |ref = kanagawakenshi}}
* {{Cite book |和書 |editor= 角川日本地名大辞典 編纂委員会 |title=[[角川日本地名大辞典]] 13 東京都|publisher=[[角川書店]] |date=1983-10 |isbn=4040011309|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1983}}}}
* {{Cite web|和書|url=https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param |title=旧高旧領取調帳データベースの検索 |publisher=[[国立歴史民俗博物館]] |accessdate=2022-11-15}}
== 外部リンク ==
* [http://www.nishitama-kouiki.jp/ にしたまねっと] - 西多摩地域広域行政圏協議会
== 関連項目 ==
* [[多摩地域]] - [[西多摩]]、[[奥多摩]]、[[大多摩]]
* [[北多摩郡]]
* [[南多摩郡]]
* [[東多摩郡]]
* [[豊多摩郡]]
* [[品川県]]
* [[韮山県]]
{{s-start}}
{{s-bef|before=[[多摩郡]]|表記=前}}
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{{東京府・東京都の郡}}
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[[Category:西多摩郡|*]]
[[Category:東京都の郡]]
[[Category:西多摩地域|*くん]]
[[Category:青梅市の歴史]]
[[Category:福生市の歴史]]
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|
2003-08-29T12:26:24Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%83%A1
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14,380 |
牛タン
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牛タン(ぎゅうタン)は、牛の舌部が食用に供される場合に用いられる名称。日本では「仙台牛タン焼き」を指す場合もある。
漢音の「ギュウ」に、英語で舌を意味する tongue(英語発音: [tʌŋ] タン(グ))に由来する「タン」からなり、漢語と外来語から構成される合成語(複合語)。
同部の人類による摂取は、旧石器時代にまで遡る。同部の中でも先端部と根部ではその肉質が異なる。脂肪含量が非常に高く、カロリーのほぼ75%が脂肪に由来しているとされる。
数十センチの長さがある。ブロック肉は煮込み、薄切り肉は焼肉(タン塩)などに調理される
牛タンは玉ネギやその他の香辛料によって味付けされることが多く、その後茹でられる。調理後、皮が剥がされ、残りの部位が出される。牛タンを調理するもう一つの方法は熱水中で煮沸した後、皮を剥ぐ方法である。その後、ローストビーフと同様にローストし、肉汁はグレイビーを作るために使われる。
ベルギーでは、牛タンはマデラソース中でキノコと共に調理されることが多い。ポーランドやドイツ、オーストリアでは、ホースラディッシュソースと共に出される。
実際の栄養価は、飼育条件、品種などで異なるため記載されている値は代表値である。
牛タンはメキシコ料理で広く使われ、タコスやブリートの具材として目にすることが多い。また、ブルガリア料理、ルーマニア料理、ドイツ料理、ポルトガル料理、ブラジル料理、ペルシャ料理、インドネシア料理(スムール・リダー〈タンシチュー〉)、ニカラグア料理、フィリピン料理、アルバニア料理、イギリス料理、ロシア料理、朝鮮料理(牛タンスライス)、日本料理(後述)、イタリア料理(ピエモンテ州やジェノヴァでは一般的)で使われる。
北米においても、牛タンはタントースト(オープンサンドイッチ)の主要な具材である。
牛肉食文化が近代になって普及した日本だが、もとは畜産副産物として、牛解体時に生じる正肉以外の部分、モツ(内臓)をも食べる習慣の広がりとも相まって、牛タンは既に広く親しまれた食材である。
先端部分(タン先)と裏側(さがり)などの固い部位を除いたタンを薄く輪切りにし焼いて食すのが一般的で、焼肉店でも提供されることが多く、塩味のタンは一般に「タン塩」と呼ばれる。塩ダレのまま焼いて食す他、焼肉のタレやレモン汁に浸けて食べる場合もある。
「仙台牛タン焼き」の場合は、店員が塩味やタレをつけた牛タンを炭火等で焼いて出し、そのまま食べる。レモン汁はつけない。また、塩味とタレでは圧倒的に塩味が多い。
「牛タン」は原価が高く、希少部位として知られている。1頭の牛からは1~2kgの牛タンしか取れないため、多くの焼肉店では輸入されたものを使用する。しかし、格安の焼肉店ではコストを抑えるために牛タンの先端部分を使用することがある。この部分は通常は硬くて使用されない部分だが、筒状のケースに入れて圧縮し、結着剤を使用して形を整えた後にスライスして牛タンの結着加工製品として販売/消費される。 。
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"text": "牛タンは玉ネギやその他の香辛料によって味付けされることが多く、その後茹でられる。調理後、皮が剥がされ、残りの部位が出される。牛タンを調理するもう一つの方法は熱水中で煮沸した後、皮を剥ぐ方法である。その後、ローストビーフと同様にローストし、肉汁はグレイビーを作るために使われる。",
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"text": "ベルギーでは、牛タンはマデラソース中でキノコと共に調理されることが多い。ポーランドやドイツ、オーストリアでは、ホースラディッシュソースと共に出される。",
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"text": "実際の栄養価は、飼育条件、品種などで異なるため記載されている値は代表値である。",
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"text": "牛タンはメキシコ料理で広く使われ、タコスやブリートの具材として目にすることが多い。また、ブルガリア料理、ルーマニア料理、ドイツ料理、ポルトガル料理、ブラジル料理、ペルシャ料理、インドネシア料理(スムール・リダー〈タンシチュー〉)、ニカラグア料理、フィリピン料理、アルバニア料理、イギリス料理、ロシア料理、朝鮮料理(牛タンスライス)、日本料理(後述)、イタリア料理(ピエモンテ州やジェノヴァでは一般的)で使われる。",
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"text": "北米においても、牛タンはタントースト(オープンサンドイッチ)の主要な具材である。",
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"text": "牛肉食文化が近代になって普及した日本だが、もとは畜産副産物として、牛解体時に生じる正肉以外の部分、モツ(内臓)をも食べる習慣の広がりとも相まって、牛タンは既に広く親しまれた食材である。",
"title": "日本における牛タンの消費"
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"text": "先端部分(タン先)と裏側(さがり)などの固い部位を除いたタンを薄く輪切りにし焼いて食すのが一般的で、焼肉店でも提供されることが多く、塩味のタンは一般に「タン塩」と呼ばれる。塩ダレのまま焼いて食す他、焼肉のタレやレモン汁に浸けて食べる場合もある。",
"title": "日本における牛タンの消費"
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"text": "「仙台牛タン焼き」の場合は、店員が塩味やタレをつけた牛タンを炭火等で焼いて出し、そのまま食べる。レモン汁はつけない。また、塩味とタレでは圧倒的に塩味が多い。",
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"text": "「牛タン」は原価が高く、希少部位として知られている。1頭の牛からは1~2kgの牛タンしか取れないため、多くの焼肉店では輸入されたものを使用する。しかし、格安の焼肉店ではコストを抑えるために牛タンの先端部分を使用することがある。この部分は通常は硬くて使用されない部分だが、筒状のケースに入れて圧縮し、結着剤を使用して形を整えた後にスライスして牛タンの結着加工製品として販売/消費される。 。",
"title": "日本における牛タンの消費"
}
] |
牛タン(ぎゅうタン)は、牛の舌部が食用に供される場合に用いられる名称。日本では「仙台牛タン焼き」を指す場合もある。 漢音の「ギュウ」に、英語で舌を意味する tongue( タン)に由来する「タン」からなり、漢語と外来語から構成される合成語(複合語)。 同部の人類による摂取は、旧石器時代にまで遡る。同部の中でも先端部と根部ではその肉質が異なる。脂肪含量が非常に高く、カロリーのほぼ75%が脂肪に由来しているとされる。 数十センチの長さがある。ブロック肉は煮込み、薄切り肉は焼肉(タン塩)などに調理される
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{{Otheruses|牛肉の部位|魚|ウシノシタ}}
{{出典の明記|date=2013年1月}}
[[ファイル:Beef tongue preparation.jpg|thumb|right|皮を削がれる牛タン]]
'''牛タン'''(ぎゅうタン)は、[[ウシ|牛]]の[[舌]]部が食用に供される場合に用いられる名称。[[日本]]では「[[仙台牛タン焼き]]」を指す場合もある。
[[漢音]]の「ギュウ」に、[[英語]]で舌を意味する ''tongue''({{IPA-en|tʌŋ}} '''タ'''ン<small>([[軟口蓋鼻音|グ]])</small>)に由来する「タン」からなり、[[漢語]]と[[外来語]]から構成される[[合成語]]([[複合語]])。
同部の人類による摂取は、[[旧石器時代]]にまで遡る。同部の中でも先端部と根部ではその肉質が異なる。脂肪含量が非常に高く、カロリーのほぼ75%が脂肪に由来している<ref>{{cite web|url=http://www.calorie-count.com/calories/item/13340.html|title=Calories in Beef Tongue: Cooked, Simmered|publisher=Nutation and Health Facts|accessdate=2013-03-27}}</ref>とされる。
数十センチの長さがある。ブロック肉は煮込み、薄切り肉は[[焼肉]](タン塩)などに調理される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nisshokukyo.com/_src/1171820/%E5%89%AF%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98.pdf |title=畜産副生物の知識 |publisher=公益社団法人日本食肉協議会|accessdate=2020-08-08}}</ref>
== 調理 ==
牛タンは[[玉ネギ]]やその他の[[香辛料]]によって味付けされることが多く、その後茹でられる。調理後、皮が剥がされ、残りの部位が出される。牛タンを調理するもう一つの方法は熱水中で煮沸した後、皮を剥ぐ方法である。その後、ローストビーフと同様にローストし、肉汁は[[グレイビーソース|グレイビー]]を作るために使われる。
[[ベルギー]]では、牛タンはマデラソース中で[[キノコ]]と共に調理されることが多い。[[ポーランド]]や[[ドイツ]]、[[オーストリア]]では、[[ホースラディッシュ]]ソースと共に出される。
{{hidden begin|border = #aaa solid 1px|titlestyle=text-align: center; |title=牛タン栄養価の代表値|bg=#F0F2F5}}
実際の栄養価は、飼育条件、品種などで異なるため記載されている値は代表値である。
{{栄養価 | name=牛タン| water =64.53 g| kJ =937| protein =14.9 g| fat =16.09 g| carbs =3.68 g| fiber =0 g| calcium_mg =6| iron_mg =2.95| magnesium_mg =16| phosphorus_mg =133| potassium_mg =315| sodium_mg =69| zinc_mg =2.87| manganese_mg =0.026| selenium_μg =9.4| vitC_mg =3.1| thiamin_mg =0.125| riboflavin_mg =0.34| niacin_mg =4.24| pantothenic_mg =0.653| vitB6_mg=0.31| folate_ug =7| vitB12_ug =3.79| vitA_ug =0| satfat =7 g| monofat =7.24 g| polyfat =0.9 g| opt2n = [[コレステロール]]| opt2v = 87 mg| tryptophan =0.114 g| threonine =0.648 g| isoleucine =0.641 g| leucine =1.113 g| lysine =1.149 g| methionine =0.315 g| cystine =0.195 g| phenylalanine =0.615 g| tyrosine =0.482 g| valine =0.713 g| arginine =0.949 g| histidine =0.386 g| alanine =0.858 g| aspartic acid =1.361 g| glutamic acid =2.053 g| glycine =0.894 g| proline =0.696 g| serine =0.601 g| right=1 | source_usda=1 }}
{{hidden end}}
== 料理 ==
牛タンは[[メキシコ料理]]で広く使われ、[[タコス]]や[[ブリート]]の具材として目にすることが多い。また、[[ブルガリア料理]]、[[ルーマニア料理]]、[[ドイツ料理]]、[[ポルトガル料理]]、[[ブラジル料理]]、[[ペルシャ料理]]、[[インドネシア料理]](スムール・リダー〈タンシチュー〉)、[[ニカラグア料理]]、[[フィリピン料理]]、[[アルバニア料理]]、[[イギリス料理]]、[[ロシア料理]]、[[朝鮮料理]](牛タンスライス)、[[日本料理]](後述)、[[イタリア料理]]([[ピエモンテ州]]や[[ジェノヴァ]]では一般的)で使われる。
[[北米]]においても、牛タンは[[タントースト]]([[オープンサンドイッチ]])の主要な具材である。
<gallery>
ファイル:Tansashi.jpg|牛タン刺身
ファイル:Matsusaka Beef tongue of Korean barbecue.jpg|牛タン炭火焼肉
ファイル:Sedaigyutantei200607.jpg|牛タン定食
ファイル:Kare-karejf.JPG|[[カレカレ]]([[フィリピン]]料理)。タンとホワイトソース、[[パンシットカントン]]。
ファイル:Beef tongue pancetta.jpg|タン、[[パンチェッタ]]、[[ノヂシャ|マーシュ]]。
</gallery>
== 日本における牛タンの消費 ==
{{See also|仙台牛タン焼き}}
[[牛肉]]食文化が近代になって普及した日本だが、もとは[[畜産副産物]]として、牛解体時に生じる正肉以外の部分、[[モツ]]([[内臓]])をも食べる習慣の広がりとも相まって、牛タンは既に広く親しまれた食材である。
先端部分(タン先)と裏側(さがり)などの固い部位を除いたタンを薄く輪切りにし焼いて食すのが一般的で、[[焼肉]]店でも提供されることが多く、塩味のタンは一般に「タン塩」と呼ばれる。塩ダレのまま焼いて食す他、焼肉のタレや[[レモン]]汁に浸けて食べる場合もある。
「仙台牛タン焼き」の場合は、店員が塩味やタレをつけた牛タンを炭火等で焼いて出し、そのまま食べる。レモン汁はつけない。また、塩味とタレでは圧倒的に塩味が多い。
「牛タン」は原価が高く、希少部位として知られている。1頭の牛からは1~2kgの牛タンしか取れないため、多くの焼肉店では輸入されたものを使用する。しかし、格安の焼肉店ではコストを抑えるために牛タンの先端部分を使用することがある。この部分は通常は硬くて使用されない部分だが、筒状のケースに入れて圧縮し、結着剤を使用して形を整えた後にスライスして牛タンの結着加工製品として販売/消費される。
<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140308_240961.html?DETAIL 格安焼肉店の丸い牛タン 舌の先端部を結着剤で整形する例も]</ref>。
== 牛タンを題材にした作品 ==
* [[大塚愛]]の曲である「[[黒毛和牛上塩タン焼680円]]」(作詞・作曲/愛 編曲/愛×Ikoman)
* 『[http://www.bh-net.co.jp/pages/gyu/cd.html 大好き! 牛タンタン]』([[西又葵]]デザインの「もーたん」が[[マスコット]]。[[着ぐるみ]]あり)
* 『[http://www.bh-net.co.jp/pages/gyu/rap.html 牛タンラップ]』
* 「[[牛タンゲーム]]」という遊びがある。[[1998年]]頃に中高生を中心に流行した。当時影響力の強かった[[広末涼子]]が『[[LOVE LOVEあいしてる]]』で発言した<ref>[http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/54.html 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】 ゲストとのLOVE LOVEなトーク #054 HomePageだけの特別編集版 広末涼子編]</ref>ことがきっかけであるといわれる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
*「仙台の牛タン」おいしい牛タンの店49軒 プレスアート/編 プレスアート 2011.1
*「りらく」2012年7月号 第14巻第12号 牛たん わが町に名店あり プランニング・オフィス社 2012.7
*「にほんごでよむ仙台・宮城」 vol.1 初中級 牛タン 仙台国際日本語学校/編 仙台国際日本語学校 2013.7
{{Commonscat|Beef tongue}}
{{牛肉}}
{{DEFAULTSORT:きゆうたん}}
[[Category:食用内臓]]
[[Category:牛肉]]
|
2003-08-29T12:31:40Z
|
2023-11-28T01:06:09Z
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[
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"Template:出典の明記",
"Template:IPA-en"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E3%82%BF%E3%83%B3
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14,381 |
瑞穂町
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瑞穂町(みずほまち)は、東京都の多摩地域北部に位置し、西多摩郡に属する町。
多摩地域に3つある町のひとつ。狭山丘陵の西端に位置している。南部は在日米軍横田基地で占められているため、人口密度が約2,000人/kmと周辺と比べて低い。人口は2005年ごろをピークに微減している。
瑞穂町の土地利用は、畑や雑木林だった所に住宅を建てるなどの開発が目立っている。狭山丘陵に位置しているため、場所によっては畑・茶園などが残り、昔の面影を留めている。
瑞穂町では、住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されておらず、土地区画整理事業が完了した区域等で町名地番整理が実施されている。
この街道と、奥多摩の石灰を江戸に輸送するために開かれた青梅街道との交差する箱根ヶ崎が宿駅として発達し、江戸後期には街道結節点の宿場町、陸上交通の要として栄えた。 さらに幕府の新田開発の奨励により、栗原・長谷部・下師岡の3つの新田が開かれた。
特記なき場合『瑞穂町勢要覧2016』による。
2009年の工業事業所数は 233、従業員数は 5,838 人、製品出荷額は約 3,269億円、付加価値額は約1,992億円である 。
※かつて町内に存在した商業施設
町内に旅客空港は存在しないが、横田基地の軍用飛行場である横田飛行場が、福生市・武蔵村山市・立川市・羽村市・昭島市を跨って所在する。
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"text": "特記なき場合『瑞穂町勢要覧2016』による。",
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"text": "※かつて町内に存在した商業施設",
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"text": "町内に旅客空港は存在しないが、横田基地の軍用飛行場である横田飛行場が、福生市・武蔵村山市・立川市・羽村市・昭島市を跨って所在する。",
"title": "交通"
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] |
瑞穂町(みずほまち)は、東京都の多摩地域北部に位置し、西多摩郡に属する町。
|
{{Otheruses|[[東京都]]にある自治体|その他の瑞穂町|瑞穂#地名}}
{{日本の町村
|画像 = 狭山池公園(5月) - panoramio (1).jpg
|画像の説明 = [[狭山池公園 (東京都)|狭山池公園]]
|旗 = [[ファイル:Flag_of_Mizuho,_Tokyo.svg|border|100px]]
|旗の説明 = 瑞穂[[市町村旗|町旗]]
|紋章 = [[ファイル:Emblem_of_Mizuho,_Tokyo.svg|70px]]
|紋章の説明 = 瑞穂[[市町村章|町章]]
|自治体名 = 瑞穂町
|区分 = 町
|都道府県 = 東京都
|郡 = [[西多摩郡]]
|コード = 13303-5
|隣接自治体 = [[武蔵村山市]]、[[青梅市]]、[[羽村市]]、[[福生市]]<br />[[埼玉県]]:[[所沢市]]、[[入間市]]
|木 = [[モクセイ]]・[[マツ]]<br />(1978年1月20日制定)
|花 = [[茶]]・[[ツツジ]]・[[モクセイ]]<br />(1978年1月20日制定)
|シンボル名 = 町の鳥
|鳥など = [[ヒバリ]]<br />(1978年1月20日制定)
|郵便番号 = 190-1292
|所在地 = 西多摩郡瑞穂町大字箱根ケ崎2335番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:mizuhotounoffice.jpg|250px|瑞穂町役場]]
|外部リンク = {{Official website}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|303|image=Mizuho in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}|
}}
'''瑞穂町'''(みずほまち)は、[[東京都]]の[[多摩地域]]北西部に位置し、[[西多摩郡]]に属する[[町]]。
==概要==
多摩地域に3つある町のひとつ。[[狭山丘陵]]の西端に位置している。南部は[[在日米軍]][[横田飛行場|横田基地]]<ref>[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/yokota-kichi/matitokiti.htm 瑞穂町と横田基地:瑞穂町公式Webサイト]</ref>で占められているため、人口密度が約2,000人/km<sup>2</sup>と周辺と比べて低い。人口は2005年ごろをピークに微減している。
==地理==
[[File:Mizuhomachi-Landsat001.jpg|thumb|200px|町域の衛星写真]]
===地形===
====山地====
;主な山
*[[野山北・六道山公園|六道山]](ろくどうやま)
====河川====
;主な川
*[[残堀川]]
*[[不老川]]
====湖沼====
;主な池
*[[狭山池公園 (東京都)|狭山池]]
瑞穂町の土地利用は、畑や雑木林だった所に住宅を建てるなどの開発が目立っている。[[狭山丘陵]]に位置しているため、場所によっては畑・茶園などが残り、昔の面影を留めている。
===地域===
瑞穂町では、[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]は実施されておらず、[[土地区画整理事業]]が完了した区域等で町名地番整理が実施されている。
<!-- 町名の順序は、瑞穂町統計書等公的資料の順序による。 -->
{{瑞穂町の町・字}}
{|class="wikitable" style="width:100%" style="font-size:small"
|-
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|設置年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施直前の町名
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|大字殿ケ谷|おおあざとのがや}}
|1940年11月10日
|未実施
|
|隣接する[[武蔵村山市]][[岸 (武蔵村山市)|岸]](横田基地内)に[[飛地]]がある
|-
|{{ruby|大字石畑|おおあざいしはた}}
|1940年11月10日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字箱根ケ崎|おおあざはこねがさき}}
|1940年11月10日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字長岡下師岡|おおあざながおかしももろおか}}
|1940年11月10日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字長岡長谷部|おおあざながおかはせべ}}
|1940年11月10日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字長岡藤橋|おおあざながおかふじはし}}
|1940年11月10日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字二本木|おおあざにほんぎ}}
|1958年10月15日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字駒形富士山|おおあざこまがたふじやま}}
|1958年10月15日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字高根|おおあざたかね}}
|1958年10月15日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字冨士山栗原新田|おおあざふじやまくりはらしんでん}}
|1958年10月15日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|大字武蔵|おおあざむさし}}
|年月日
|未実施
|
|
|-
|{{ruby|[[箱根ケ崎東松原]]|はこねがさきひがしまつばら}}
|1992年4月1日
|未実施
|
|町名地番整理実施区域
|-
|{{ruby|[[箱根ケ崎西松原]]|はこねがさきにしまつばら}}
|1992年4月1日
|未実施
|
|町名地番整理実施区域
|-
|{{ruby|[[南平 (瑞穂町)|南平]]||みなみだいら}}一-二丁目
|1992年4月1日
|未実施
|
|町名地番整理実施区域
|-
||{{ruby|[[長岡 (瑞穂町)|長岡]]|ながおか}}一-四丁目
|1992年4月1日
|未実施
|
|町名地番整理実施区域
|-
|{{ruby|[[むさし野 (瑞穂町)|むさし野]]|むさしの}}一-三丁目
|1992年4月1日
|未実施
|
|町名地番整理実施区域
|-
|}
===人口===
{{人口統計|code=13303|name=瑞穂町|image=Population distribution of Mizuho, Tokyo, Japan.svg}}
===隣接自治体===
*東 - [[武蔵村山市]]、[[埼玉県]][[所沢市]]
*西 - [[青梅市]]、[[羽村市]]
*南 - [[福生市]]
*北 - 埼玉県[[入間市]]
==歴史==
===古代===
;旧石器時代
*人が住み始めたのは[[旧石器時代]]といわれ、浅間谷や狭山遺跡では、その頃の[[石槍]]が発見されている<ref name="mizuho-yokota">[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/yokota-kichi/siryou/mizuho-yokota.htm 資料 瑞穂町と横田基地 沿革]</ref>。石槍は、瑞穂町郷土資料館に展示されている。
===近世===
;江戸時代
*[[江戸時代]]に入り、[[八王子千人同心]]が日光勤番の往復に利用する[[日光脇往還]]が町内を南北に縦断した。これを瑞穂町内では'''日光街道'''とも称する。
この街道と、[[奥多摩]]の[[石灰]]を[[江戸]]に輸送するために開かれた[[青梅街道]]との交差する箱根ヶ崎が[[宿駅]]として発達し、江戸後期には街道結節点の[[宿場|宿場町]]、陸上交通の要として栄えた。
さらに[[江戸幕府|幕府]]の[[新田開発]]の奨励により、栗原・長谷部・下師岡の3つの[[新田]]が開かれた<ref name="mizuho-yokota"/>。
===近代===
;明治
*[[1889年]](瑞穂町前史)に箱根ヶ崎・石畑・殿ヶ谷・長岡の4か村をもって組合を組織し、行政運営を行う<ref name="mizuho-yokota"/>。
;昭和
*[[1940年]][[11月10日]] - [[箱根ヶ崎村]]、[[石畑村]]、[[殿ヶ谷村]]、[[長岡村 (東京府)|長岡村]]を廃して町制施行、'''瑞穂町'''となる。町名は当時の[[東京都知事一覧|東京府知事]]・[[岡田周造]]が名付けた[[瑞祥地名]]<ref>[[角川日本地名大辞典]]・東京都、瑞穂町の項目より。</ref><ref>[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/town/002/p004129.html 瑞穂町の由来(瑞穂町HP)]より。</ref>。
===現代===
;昭和
* [[1958年]][[10月15日]] - [[埼玉県]][[入間郡]][[元狭山村]]を編入する。なお、元狭山村のうち二本木の第二区・第三区・第四区の全域と第十区の一部、および狭山台は、前日の[[10月14日]]に[[入間郡]][[入間市|武蔵町]]へ編入された。
;平成
* [[2018年]][[11月]]頃 - 瑞穂町役場の新築工事着工。
== 行政 ==
*町長:[[杉浦裕之]](すぎうら ひろゆき、2期目、任期満了日 : 2025年5月15日)
*町職員数 : 215人([[2018年]]4月1日現在、臨時・非常勤除く)
*当初予算規模(平成27年度) : 136.4080億円(一般会計)、93.0425億円(特別会計)
=== 歴代村長 ===
*[[村山信太郎]] 1889年5月 - 1903年4月
*[[吉岡栄蔵]] 1904年11月 - 1908年11月
*[[関谷三五郎]] 1908年11月 - 1920年12月
*吉岡栄蔵 1922年12月 - 1926年12月
*[[清水弥平次]] 1926年12月 - 1930年12月
*[[石川三津造]] 1930年12月 - 1936年11月
*[[石塚敏之助]] 1937年1月 - 1940年11月
===歴代町長===
特記なき場合『瑞穂町勢要覧2016』による<ref name="mizuho">{{Cite web|和書|url=http://www.town.mizuho.tokyo.jp/tyosei/015/002/p000813.html|title=瑞穂町勢要覧2016|publisher=瑞穂町|date=|accessdate=2021-09-15}}</ref>。
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任!!退任!!備考
|-
! colspan="5" | 瑞穂町長(官選)
|-
| 1 || 石塚敏之助 || 昭和15年11月 || 昭和20年11月 ||
|-
| 2 || [[村山為輔]] || 昭和20年12月 || 昭和26年4月 ||
|-
! colspan="5" | 瑞穂町長(公選)
|-
| 3 || [[吉岡伊助]] || 昭和26年4月 || 昭和28年6月 ||
|-
| 4 || [[原島治平]] || 昭和28年6月 || 昭和40年5月 ||
|-
| 5 || 石塚幸右衛門(敏之助) || 昭和40年5月 || 昭和48年5月 ||
|-
| 6 || [[吉岡親一]] || 昭和48年5月 || 昭和60年5月 ||
|-
| 7 || [[吉岡源次]] || 昭和60年5月 || 平成元年5月 ||
|-
| 8 || [[関谷久(瑞穂町長)|関谷久]]|| 平成元年5月 || 平成13年5月 ||
|-
| 9 || [[石塚幸右衛門]](彬丸) || 平成13年5月 || 平成29年5月 ||
|-
| 10 || [[杉浦裕之]] || 平成29年5月16日 || 現職 ||
|}
== 議会 ==
=== 瑞穂町議会 ===
* 定数:16人 現員:15人
* 任期:2023年5月1日 - 2027年4月30日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/|title=任期満了日(定数)一覧|accessdate=2019年5月2日|publisher=東京都}}</ref>
* 議長:古宮郁夫(こみや いくお)
* 副議長:山﨑 栄(やまざき さかえ)
{| class="wikitable"
|+ 会派別名簿(2023年5月6日現在)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.mizuho.tokyo.jp/gikai/member/p000387_d/fil/R2-5-6.pdf|title=瑞穂町議会 会派一覧|accessdate=2021年10月25日|publisher=瑞穂町議会}}</ref>
!会派名!!議席数
!党派!!議員名(◎:代表者)
!女性議員数
!女性議員の割合(%)
|-
| 自民誠和会 || style="text-align:right" | 8
|[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||◎村上嘉男、山﨑 栄、森 亘、榎本義輝、古宮郁夫、下澤章夫、香取幸子
|2
|25
|-
| 公明党 || style="text-align:right" | 3
|[[公明党]]||◎小川龍美、下野義子、原 隆夫
|2
|66.67
|-
| 日本共産党 || style="text-align:right" | 1
|[[日本共産党]]||◎大坪国広
|0
|0
|-
| もっと瑞穂に笑顔 || style="text-align:right" | 1
|[[無所属]]||◎近藤 浩
|0
|0
|-
| 日本維新の会 || style="text-align:right" | 1
|[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]||
|0
|0
|-
|立憲民主党
|1
|[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]
|
|0
|0
|-
!計(欠員1)
!15
!
!
!4
!26.67
|}
=== 東京都議会 ===
;2021年東京都議会議員選挙
* 選挙区:西多摩選挙区([[福生市]]、[[羽村市]]、[[あきる野市]]、瑞穂町、[[日の出町]]、[[檜原村]]、[[奥多摩町]])
* 定数:2人
* 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日
* 投票日:2021年7月4日
* 当日有権者数:205,078人
* 投票率:35.79%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 清水康子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 27,748票
|-
| 田村利光 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 26,507票
|-
| 宮崎太朗 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 41 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 15,077票
|-
| 高沢一成 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 2,126票
|-
| 角田統領 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 72 || [[諸派]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 555票
|}
;2017年東京都議会議員選挙
* 選挙区:西多摩選挙区
* 定数:2人
* 投票日:2017年7月2日
* 当日有権者数:209,019人
* 投票率:47.21%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 清水康子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 33,526票
|-
| 田村利光 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 27,771票
|-
| 島田幸成 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 49 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || 23,468票
|-
| 西村雅人 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 50 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 12,469票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[東京都第25区|東京25区]] ([[青梅市]]、[[昭島市]]、[[福生市]]、[[あきる野市]]、[[羽村市]]、瑞穂町、[[日の出町]]、[[檜原村]]、[[奥多摩町]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:413,266人
* 投票率:54.90%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[井上信治]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 52 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 131,430票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| || 島田幸成 || style="text-align:center;" | 53 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 89,991票 || style="text-align:center;" | ○
|}
==施設==
===警察===
;所轄署
*[[警視庁]] [[福生警察署]]
;交番
*[[箱根ケ崎駅|箱根ヶ崎駅]]前[[交番]](箱根ケ崎)
;駐在所
*箱根ケ崎[[駐在所]](箱根ケ崎)
*箱根ケ崎北駐在所(箱根ケ崎)
*武蔵野駐在所(むさし野)
*石畑上駐在所(石畑)
*石畑駐在所(石畑)
*元狭山駐在所(駒形富士山)
*長岡駐在所(長岡)
===消防===
;本部
*[[東京消防庁]]
;消防署
*[[福生消防署]]
**瑞穂出張所(箱根ケ崎)
===福祉施設===
*保健センター
*ふれあいセンター
*高齢者福祉センター「寿楽」
*心身障害者(児)福祉センター「あゆみ」
*あすなろ児童館
*子ども家庭支援センター「ひばり」
===郵便局===
;郵便番号
:[[日本の郵便番号|郵便番号]]は以下の通りである。
*190-12xx:[[羽村郵便局]]([[羽村市]])が集配を担当
===図書館===
* [[瑞穂町図書館]]
* 元狭山ふるさと思い出館図書館
* 長岡図書館(長岡会館内)
* 武蔵野コミュニティセンター図書館
* 殿ヶ谷図書館(殿ヶ谷会館内)
===文化施設===
*耕心館(旧細渕家住宅)<ref>[http://www.koshinkan.jp/index.html 耕心館(公式ウェブサイト)]</ref> - 武蔵野の旧家のたたずまいの中で展覧会やコンサートなどが開かれる。軽食・喫茶有り。
;ホール・集会場
* スカイホール
* 町民会館(ホール、会議室、和室)
;博物館
* [[瑞穂町郷土資料館]](大字駒形富士山316-5、耕心館の隣) 愛称は「けやき館」。
* 元狭山ふるさと思い出館(旧元狭山村役場〔復元〕)(大字二本木710)
;公民館
* 生涯学習センター(瑞穂第一小内)(小ホール、集会室、いこいの間)
* 武蔵野コミュニティセンター(むさし野一丁目5番地、瑞穂アパート27号棟1階)
* 元狭山コミュニティセンター(大字二本木673-1)
* 長岡コミュニティセンター(大字箱根ケ崎1180) ※平成23年11月27日オープン
===運動施設===
* 中央体育館
* ビューパーク競技場(スカイホールに隣接)
* 町営プール(25mプールほか)
* 武道館(柔道、剣道)
* 町営グランド(野球場、庭球場)
* 町営第2グランド(野球場、ゲートボール場)
* 町営第2庭球場
* 町営少年サッカー場(クラブハウス有り)
* シクラメンスポーツ公園
===その他の施設===
*みずほリサイクルプラザ(中間処理を行う工場棟、ごみ処理の学習や環境問題啓発を行うプラザ棟)
*[[瑞穂斎場]](近隣市町で構成される一部事務組合が運営)
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
====海外====
;姉妹都市
*{{Flagicon|USA}}[[:en:Morgan Hill, California|モーガンヒル]]([[アメリカ合衆国]] [[カリフォルニア州]])
*:[[2006年]]([[平成]]18年)[[7月3日]] - 姉妹都市締結<ref>[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/tyosei/016/001/001/p001097.html 姉妹都市]</ref>。
;提携都市
*{{Flagicon|THA}}[[コーンケン]]([[タイ王国]] [[イーサーン|イーサーン地方]] [[コーンケン県]])
*:[[2016年]]([[平成]]28年)[[6月16日]] - 都市交流提携締結<ref>[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/tyosei/016/005/p002288.html 都市交流提携]</ref>。
====国内====
;提携都市
*{{Flagicon|岐阜県}}[[瑞穂市]]([[中部地方]] [[岐阜県]])
*:[[2013年]]([[平成]]25年)[[1月31日]] - [[災害時相互応援協定]]締結<ref>[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/town/004/p000008.html 大規模災害時相互応援協定]</ref>。
==経済==
[[File:JA Nishitama Mizuho Branch.jpg|thumb|200px|JAにしたま瑞穂支店]]
[[File:The Mall Mizuho 16.JPG|thumb|200px|[[ザ・モールみずほ16]]]]
===第一次産業===
====農業====
;主な農産物
*[[東京狭山茶]](栽培面積東京都第1位)
*[[シクラメン]](長岡地区の岩蔵街道沿いにシクラメン農家が立ち並ぶため、シクラメン街道とも呼ばれている)
;農業協同組合
*[[東京狭山茶農業協同組合]]
*[[西多摩農業協同組合]](JAにしたま)
**瑞穂支店
===第二次産業===
====工業====
2009年の工業事業所数は 233、従業員数は 5,838 人、製品出荷額は約 3,269億円、付加価値額は約1,992億円である<ref>[http://www.toukei.metro.tokyo.jp/kougyou/2009/kg09pf0004.pdf 東京都 - 2009 工業統計調査(速報)PDF]</ref> 。
;主な企業
*[[IHI]] 瑞穂工場 (航空エンジン・宇宙機器)
*[[オリジン (メーカー)]] 瑞穂工場 (合成樹脂塗料)
*[[ダイトロン]] 特機工場(電子部品)
*トーヨーアサノ 東京工場 (コンクリートパイル)
*[[奥多摩工業]] 瑞穂工場・技術研究所 (石灰)
*[[プリモ (企業)|プリモ]] 本社・工場(音響機器)
===第三次産業===
====商業====
;主な商業施設
*[[Olympicグループ|オリンピック]]瑞穂店
*[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]多摩瑞穂店
*[[ジョイフル本田]]瑞穂店
*[[ジャパンミート|ジャパンミート生鮮館]]瑞穂店(ジョイフル本田瑞穂店併設)
*[[好日山荘]]瑞穂店
*シモダディスカウントセンター瑞穂店
※'''かつて町内に存在した商業施設'''
*[[カネマン]]石畑店(2019年3月31日閉店)
*[[ザ・モールみずほ16]](2022年2月28日閉店)
==情報・通信==
===マスメディア===
====放送局====
;テレビ放送
*[[瑞穂ケーブルテレビ (東京都)|瑞穂ケーブルテレビ]]([[入間ケーブルテレビ]])
*[[多摩ケーブルネットワーク]](長岡4丁目)
;ラジオ放送
*[[エフエム茶笛|FM-CHAPPY]] 77.7MHz (入間市・災害時の緊急放送協定を結んでいる)
==生活基盤==
===ライフライン===
====電信====
*[[NTT東日本]]<ref>[http://www.ntt-east.co.jp/info-st/info_dsl/area-tokyo.xls NTT東日本-収容局毎のカバーエリア(東京)] Excelファイル</ref>
;市外局番
*042[立川MA]
*0428[青梅MA](長岡4丁目の一部)
==教育==
[[File:MizuhoHighSchoolMizuhoNishitamaTokyo.jpg|thumb|200px|[[東京都立瑞穂農芸高等学校]]]]
===高等学校===
;都立
*[[東京都立瑞穂農芸高等学校]]
===中学校===
;町立
*[[瑞穂町立瑞穂中学校]]
*[[瑞穂町立瑞穂第二中学校]]
===小学校===
;町立
*[[瑞穂町立瑞穂第一小学校]]
*[[瑞穂町立瑞穂第二小学校]]
*[[瑞穂町立瑞穂第三小学校]]
*[[瑞穂町立瑞穂第四小学校]]
*[[瑞穂町立瑞穂第五小学校]]
==交通==
[[File:JR Hachiko-Line Hakonegasaki Station East Exit.jpg|thumb|200px|[[箱根ケ崎駅]]]]
===空路===
====空港====
町内に旅客空港は存在しないが、横田基地の[[軍用飛行場]]である[[横田飛行場]]が、[[福生市]]・[[武蔵村山市]]・[[立川市]]・[[羽村市]]・[[昭島市]]を跨って所在する。
===鉄道===
;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
*[[八高線]]:[[箱根ケ崎駅]]
===バス===
===路線バス===
*[[都営バス]]梅70系統([[都営バス青梅支所|早稲田自動車営業所青梅支所]])
:[[青梅線]] [[青梅駅]]方面・[[東大和市駅]]・JR[[新小平駅]]・[[青梅街道駅]]・経由[[西武新宿線]] [[花小金井駅]]方面(一部は[[小平駅]]行)
*[[立川バス]]([[立川バス福生営業所|福生営業所]]<ref group="注釈">過去には町内に[[立川バス瑞穂営業所|瑞穂営業所]]があった。</ref>)
:[[中央本線|中央線]] [[立川駅]]方面・[[西武拝島線]] [[西武立川駅]]、青梅線 [[昭島駅]]、[[福生駅]]、[[羽村駅]]方面
*[[西武バス]]([[西武バス飯能営業所|飯能営業所]])
:[[西武池袋線]] [[入間市駅]]方面([[小手指駅]]方面:土休日1便のみ)
*[[西東京バス]]
:[[三ッ原工業団地|三ツ原]]循環西廻り、[[日立製作所]]バス停が当町に掛かる。
*[[コミュニティバス]]
: [[瑞穂町コミュニティバス]](立川バス福生営業所)
::過去には[[瑞穂町福祉バス]]([[武州交通興業|武州交通興業瑞穂営業所]]に委託、町内に在住する[[交通弱者]]専用の無料巡回バス)があったが、瑞穂町コミュニティバスに転換。
===道路===
====高速道路====
*なし
**構想として、[[地域高規格道路]]である[[多摩新宿線]]が青梅街道、新青梅街道に並行する形で町内を通るルート案が存在する<ref>{{Citation|和書|editor=東京都都市計画局施設計画部街路計画課|date=1996-5|title=[https://catalog.library.metro.tokyo.lg.jp/winj/opac/switch-detail.do?lang=ja&bibid=1102294971 多摩新宿線整備構想に関する基本調査報告書]|publisher=東京都|page=45|ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=東京都都市整備局|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/keikaku_03-2.pdf|title=都市計画のあらまし 令和3年版 第3章第2節 施設計画|accessdate=2023-4-30}}</ref>。
====国道====
*[[国道16号]]
====都道====
;主要地方道
*[[東京都道5号新宿青梅線]]([[青梅街道]]、[[新青梅街道]])
*[[東京都道44号瑞穂富岡線]]([[岩蔵街道]])
;一般都道
*[[東京都道166号瑞穂あきる野八王子線]](東京環状・旧国道16号)
*[[東京都道163号羽村瑞穂線]] (羽村街道)
*[[埼玉県道・東京都道179号所沢青梅線|東京都道179号所沢青梅線]]
*[[東京都道・埼玉県道218号二本木飯能線|東京都道218号二本木飯能線]]
*[[埼玉県道・東京都道219号狭山下宮寺線|東京都道219号狭山下宮寺線]]
==観光==
[[ファイル:阿豆佐味天神社(瑞穂町)拝殿.jpg|thumb|240px|阿豆佐味天神社]]
===名所・旧跡===
;主な寺院
*[[円福寺]] - [[東京だるま]]の[[だるま市]]が催される。
;主な神社
*[[阿豆佐味天神社]] - 延喜式内の古社
;街道
*[[日光脇往還]]・[[青梅街道]]
**[[日光脇往還#宿場|箱根ケ崎宿]]
===観光スポット===
*"[[となりのトトロ|トトロ]]の森"と呼ばれる狭山丘陵が、町中央部から東方に広がる。
:周辺は六道山展望台付近を除いて、[[野山北・六道山公園]]として東京都により整備されている(展望台付近は町立文化の森・六道山公園)。
*[[東京都立狭山自然公園]]
**[[狭山池公園 (東京都)|狭山池公園]]・[[狭山池公園 (東京都)#狭山池|狭山池]](町営の公園になっている)
*六道山公園 - 狭山丘陵の一角
*長岡温室とシクラメン街道(岩蔵街道沿い)
*[[瑞穂町郷土資料館]]
==文化・名物==
===祭事・催事===
* 六道山さくらまつり (4月上旬)
* 残堀川ふれあいイベント (5月)
* 殿ヶ谷・石畑・箱根ケ崎三地区合同夏祭り (7月の上旬 - 中旬)
* サマーフェスティバル (8月の第3土曜日(雨天時は翌日の日曜日に延期))
* 町民体育祭 (10月)
* こどもフェスティバル (10月)
* 総合文化祭 (10月下旬~11月上旬)
* 産業祭 (11月)
* 駅伝競走大会 (1月)
===名産・特産===
*[[東京だるま]](多摩だるま) - 毎年1月18日に円福寺(町内箱根ケ崎)で[[だるま市]]が開かれる。
*[[東京狭山茶]]
*[[シクラメン]] - 東京都内では最大の生産量。
*[[村山大島紬]]
==出身関連著名人==
===出身著名人===
* [[中村忠 (サッカー選手)|中村忠]] - 元サッカー選手、[[FC東京]]U-18監督
* [[根元俊一]] - 元プロ野球選手、[[千葉ロッテマリーンズ]]二軍内野守備・走塁コーチ
* [[小桜エツコ|小桜エツ子]]<ref>{{Cite book|和書|year=1997|title=声優ヒストリー 12人の声優が歩んだ軌跡|pages=88|publisher=[[徳間書店]]|ISBN=978-4-19-720015-3}}</ref> - 声優
* [[成嶋竜]] - 空手家、[[極真会館]]
* [[栗原正己]] - ミュージシャン、栗コーダーカルテットのメンバー
*[[山下美月]] - [[乃木坂46]]
===ゆかりの人物===
* [[大瀧詠一]] - シンガーソングライター。生前に在住していた。
* [[村瀬継蔵]] - 造形物製作者。瑞穂町を拠点に活動している。
* 緑山涼 - シンガーソングライター。3枚のアルバムを今までにリリース。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[瑞穂]]
*[[CLANNAD (ゲーム)]]:アニメ版の舞台のひとつとして瑞穂町界隈が描かれた。
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Wikivoyage|ja:瑞穂町}}
* {{Official website|name=瑞穂町}}
* {{Twitter|mizuho_koho|瑞穂町広報}}
{{Geographic Location
|Centre = 瑞穂町
|North = [[埼玉県]][[入間市]]
|Northeast = 埼玉県[[所沢市]]
|East = [[武蔵村山市]]
|Southeast =
|South = [[福生市]]
|Southwest =
|West = [[羽村市]]
|Northwest = [[青梅市]]
}}
{{瑞穂町の町・字}}
{{東京都の自治体}}
{{多摩地域の市町村}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:みすほまち}}
[[Category:瑞穂町|*]]
[[Category:東京都の市町村]]
[[Category:西多摩郡]]
[[Category:狭山丘陵]]
|
2003-08-29T12:34:59Z
|
2023-12-25T17:33:10Z
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[
"Template:多摩地域の市町村",
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"Template:Official website",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E7%A9%82%E7%94%BA
|
14,382 |
フォアグラ
|
フォアグラ(フランス語: foie gras)は、世界三大珍味として有名な食材。ガチョウやアヒルに沢山の餌を与えることにより、肝臓を肥大させて作る。フランスでは、クリスマスや祝い事の伝統料理およびご馳走として食される。フランス料理の食材の一つであり、宮廷料理として供されるほか、美食家や富裕層にも食されている。
生産量も消費量も最も多いのはフランスであるが、20世紀後半以降、生産を開始する国や地域が増えてきた。一方で、強制給餌(ガヴァージュ)を伴う生産方法は、動物福祉の観点から論争が起こっており、欧州連合で生産や販売を禁止する動きもある。その一方、生産地を抱えるフランスやハンガリーは議会が生産者を保護する傾向にある。
フォアグラ生産者は、「数百年前から伝わる製法であり、鳥たちに害はない」とし、「渡り鳥なので元来栄養を貯め込むものだし、苦痛は無いし、苦痛があったら良いフォアグラにならない」と主張している。しかしフォアグラに使用されるのは野生種を家禽化したアヒルとガチョウであり、両者ともに飛翔能力はほとんどなく移住のために渡りを行わない。さらに、フォアグラ生産に使用されるのは主にアヒルであるが、アヒルの原種であるカモの中にはそもそも渡りを行わない種がおり、このことは、渡りの機能をもたない鳥がフォアグラに使用されていることを示している。苦痛については後述する通り、複数の専門家、公的機関がフォアグラの強制給餌が鳥にとって有害であると結論付けている。
「foie」「gras」は、フランス語でそれぞれ、「肝臓」「脂肪」の意。
紀元前2500年頃の古代エジプトでガチョウの肥育が既に行われていた。古代エジプト人がフォアグラを求めたか定かではないが、野生状態のガチョウを観察して、肥育の技術を得たと考えられる。
古代ローマ人が、干しイチジクをガチョウに与えて飼育し、その肝臓を食べたのが始まりと言われる。大プリニウスの『博物誌』によると、古代ローマでは、ガリアからもたらされたガチョウに強制肥育を施して、食材としていたことが記録されている。これにある美食家がさらに工夫を加えて、イチジクで肥育させた上に、肥大した肝臓を蜂蜜入りの牛乳に浸して調理する技法を発案したと伝えられている。
ローマ帝国崩壊後にこれらの技法はいったん衰退したが、徐々に復活し、ルネサンス期にはフォアグラ生産業が定着して、食材として認知されるようになった。フランス革命前までは、フォアグラの製造にはガチョウだけではなくニワトリも用いられたが、19世紀になると、ガチョウがフォアグラの素材の定番として定着した。ガチョウは牧草のような粗飼料で大きく育つため、古くからあまり地味の豊かでない土地で多く飼育され、またその地方では17世紀になるとアメリカ州からトウモロコシが導入されて、農業生産がようやく向上した。後述するような今日のフランスの主要フォアグラ産地は、このような地理的、歴史的条件を背景とし、ガチョウ飼育農業とトウモロコシの出会いの上に成立した。伝統的に、フォアグラ用ガチョウの肥育は他の家禽の世話と同じく農家の女性の仕事とされた。今日ではガチョウ以外にアヒルのフォアグラも作られており、野生的な味がガチョウのものと異なるものとして評価されているが、火を通したときに溶けやすいこともあって、料理法の許容範囲はガチョウのものほど広くはなく、ガチョウのフォアグラよりも安価である。なお、日本におけるフランス料理用語では野生のカモと野生のマガモを家畜化したアヒルを訳し分けない慣行であるため、アヒルも「鴨」と表記される。
ロワール川の南方にある、西ゴート王国(現在のフランス西部)のアラリック2世 (484年 - 507年) は日常的にフォアグラを食べていたと伝わる。千年以上の時を経て、フランスブルボン朝・ルイ14世の頃に、宮廷でフォアグラが食されている。ルイ16世がフォアグラを好んだことで流行した。19世紀のイタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニは美食家で「ロッシーニ風」と呼ばれるフォアグラやトリュフを用いた料理を残した。
2004年4月5日、12年ぶりに国賓としてフランスを訪れたエリザベス女王を迎える形で、ジャック・シラクが主催したエリゼ宮殿での晩餐会のメニューに前菜としてフォアグラのテリーヌが出された。また、アメリカ合衆国の大統領バラク・オバマもフォアグラをディナーに用い、2013年も用いている。
日本では、昭和天皇が鄧小平(初訪日は1978年)を招いた宮中晩餐会が行われた際、フランスのフォアグラブランドのルージエ社によれば、皇室の料理長がフォアグラとペリゴール産トリュフを使った神戸牛のトゥヌドを作り、その料理を「トゥヌド・ジョン・ルージィ」(Tournedos Jean Rougié) と命名したという。
フランスはフォアグラの主たる産地である。世界のフォアグラの生産量は2000年で約1万8000トンだが、そのうちフランス産は1万5300トンにも及び、フォアグラの生産も消費もフランスが最多となっている。しかしそのフランスでもフォアグラに否定的な人は少なくない。2014年12月に実施されたOpinionWayの調査によると、フランス人の47%がフォアグラの生産における強制給餌の禁止を支持している
フランス国内では、南西部のペリゴール地方(現ドルドーニュ県)とランド県が主産地で、ガチョウと鴨の両方のフォアグラが生産されている。南西部全体での生産量は、フランスの生産量の75%を占める。また、アルザス地方のストラスブールやラングドック地方のトゥールーズも、産地としてよく知られている。また、ガチョウよりもアヒルの方が飼育が楽で、病気にも強いことから、今日では鴨のフォアグラの生産量は増加傾向にある。
フランスのフォアグラ産業は、その関連事業の労働者が約10万人いるといわれる。
2005年に議会がフォアグラはフランスの文化遺産だとする宣言を行うほど、熱心に生産者を保護しているが、動物愛護団体の攻撃があったり、近年では、バイオ燃料の普及でエサとなるトウモロコシの穀物が高騰し、生産コストがかつての10倍以上に上昇した。農家は利益を上げるため飼育数を増やしたが、経済危機が追い打ちをかけ、フランスでは採算が合わなくなって廃業する農家がでている。
2013年現在、フォアグラの主要生産国であるフランスは、欧州向け以外に、中国、ロシア、ブラジル、大韓民国、台湾にも輸出している。
フランス観光開発機構によると、あるフォアグラのブランドは、世界120か国に輸出しているとしている。
フォアグラの大産地であるフランス南西部ランド県では、その県都モンドマルサンで2年に一度、「フォアグラエキスポ」(見本市)が行われ、生産者が生産技術を展示する。 また、フランス南西部のペリゴール地方にあるサルラは、フォアグラの街として知られ、2月の第3日曜に「サルラのガチョウ祭」(サルラ フェストワ:Sarlat Fest'Oie)が開催されたり、「フォアグラルート」 (la route du Foie gras) と呼ばれる、多くの農家がフォアグラを販売する街道もある。
1994年には、フランスのアジャン近郊に世界初の「フォアグラ博物館」(Le Musée du Foie Gras) が開設された。
2013年、ヴェルサイユ宮殿ではルイ14世の製法をできるだけ再現したフォアグラが、「Chateau de Versailles - Epicerie Fine」(ヴェルサイユ宮殿-高級食料品)と言う名で販売された。
ハンガリーのドナウ川西岸(ドゥナーントゥール(英語版)、Dunántúl)でも昔からフォアグラの生産が行われており、フランスへの輸出も盛んである。フォアグラを取る前のアヒルやカモを数週間フランスで飼育するとフランス産と表示でき、フランス産と記されたフォアグラの半分以上がハンガリーで飼育されたガチョウやカモであることにより、ハンガリーは世界一のフォアグラの生産国だという者もある。
2006年に欧州に鳥インフルエンザが流行した際、各国がフランス産からハンガリー産に切り替え、これが世界にアピールする機会になったという。ハンガリーでは、年間2500-2600トンのフォアグラ(ガチョウとアヒル)が生産され、約20億フォリントの売上げがあり、これは鶏肉生産高の約1割を占める。また、約5,000人分の雇用を提供する産業でもある。
欧州のユダヤ人は、ローマ帝国の崩壊後もフォアグラの生産に携わり、伝統を伝えた。たとえば、1581年にボヘミア皇帝(現在のチェコ一帯)の料理人がフランクフルトで出版した「新しい料理の本」の中には、「ボヘミアに住むユダヤ人たちに太らせた、3リーヴル(1リーヴル=500g)以上のガチョウの肝臓をローストした」とある。
植物油が入手しにくい寒冷地では、調理油は主に動物から自給されるが、ブタからとれるラードはユダヤ人にとって禁忌であり、バターは乳製品ゆえに肉料理を中心とした献立だけでなく、その後に食べられるデザートにも使用できない。このためカシュルートに適正なガチョウの脂肪を抽出してシュマルツとして利用した。
かつてイスラエルは1940年代-1950年代にヨーロッパから移民したユダヤ人によってフォアグラ生産が行われ、生産量世界3位の国となり、600人の労働者と農夫が150の農場に働いていたが、2003年のイスラエル最高裁の決定でフォアグラ生産は禁じられることになった。
近年、生産を開始した国には、ヨーロッパではベルギー、スペイン、ギリシャ。その他の地域ではマダガスカル、インド、グアテマラ、キューバ、チュニジア、タイ、中華人民共和国がある。ただしベルギーのフランダース地域は、動物福祉大臣が強制給餌の廃止を約束したことから、フォアグラ生産が2023年に廃止された。
フランスは世界最大のフォアグラの消費国であり、全世界で生産されるフォアグラのおよそ75%がフランス国内で消費される。
パテに加工し甘めの柔らかいパンに塗って食べるか、ソテーして食べるのが一般的だが、トリュフ入りのパイ包み焼きのような、パイ料理の素材としてもよく使われる。フォアグラとトリュフを乗せて焼いたヒレ肉のステーキは、ロッシーニ風トゥルヌドステーキ (Tournedos Rossini) と呼ばれる。フランスでは、伝統的にソーテルヌのようなワインと一緒に食べる。
フランスではクリスマス前になると、産地にフォアグラを買いに行く人が増える。フランス人はフォアグラを買うことに景気付けの意味合い(うまくいかない時に元気になるため)もあるという。フランスでは、クリスマスの時期の消費が全体の8割に上る。
2013年現在、フランスの8割の人々がフォアグラを食す。フランス人の多くにとってはクリスマスやレヴェヨン(英語版)という新年前夜の晩餐でしか口にすることのない珍味である。が、近年になって生産量が増加したため珍しさは薄れてきた。また、クリスマスに偏りがちなフォアグラの消費を通年消費にするために、生産業者はあれこれと販売を工夫し、消費量を拡大している。中には一年中フォアグラを賞味する地域もある。
20世紀の終わりごろになると、フランス国内には自国産品以外に、東欧(ハンガリー、ブルガリア)からの安価な輸入品が流入し、近年は中国産も台頭する。2010年上半期の貿易収支は、フランス国外からの輸入が激減した影響で、黒字額が大幅に増えた。
フランス北部には「ルクルス」( Lucullos ) というフォアグラと牛タンで作られる郷土料理があり、輸出も始まった。
お祝いの席でフォアグラを食す。とくにフォアグラのリゾットは、ハンガリー人の大好物とされる。フォアグラのリゾットは、リゾットの本家イタリアでは、元来フォアグラを食べる習慣がなく、ハンガリー料理と言ってよいとする者もいる。
ソテーにして食べる以外では、フォアグラのとんかつ、丼、鍋、寿司に調理する店がある。また、スナック菓子に用いる例もある。
2013年現在、日本への輸入は、全てハンガリー産とフランス産で占められている。ガチョウのフォアグラの最大の輸入先はハンガリーで、鴨のフォアグラの最大の輸入先はフランスである。また、イスラエルおよびユダヤ人が生産するフォアグラは、かつて日本に輸入されていた。
2013年、日経トレンディは、日本でフォアグラが目につく機会が増えたことを報じた。フォアグラは2012年頃にはジョナサンやココスといったファミリーレストランのメニューにも登場した。また、居酒屋チェーン、モンテローザの店舗にも見られる。これらの現象について、「消費者がアベノミクスの効果で“プチ贅沢”を楽しみたいという気分が盛り上がったからだ」と見ている人物もいる。また、フォアグラが安い価格帯で提供可能となったのは、大量に仕入れることが可能になった点や、フォアグラの集客効果を期待して採算はあえて求めず、他のメニューで利益を出していると説明する店もある。この価格低下について、人件費の安い中国産が入ったからではないか、と推測するメディアもあった。
2014年2月、日本で初めて、フォアグラの料理コンクールが開催された。この「ルージエ レシピコンクール」は仏大手フォアグラメーカー・ルージエ社 ( Rougié ) が「日本の料理人の腕を通してフォアグラの調理法を広めたい」と主催した。
フォアグラは他の高級素材キャビアやトリュフよりも料理のバリエーションが豊富で、温かい料理でも冷たい料理でも使え、ほかの料理の調味料のような使い方も可能であり、アレンジの幅が広い。脂肪含有量が60パーセント以上といわれ、常温で放置すると柔らかくなるため、切る時や焼く時は冷蔵庫から出してすぐに行い、テリーヌを作る際の下処理では、柔らかくして用いるとよいとされる。デリケートな調理が必要とされ、強火で調理すると脂分が溶け出したり、生の状態で放置しても脂分が部分的に溶けてしまったりする。また、品質の低いフォアグラはフォアグラ独特の香りではなくレバーのような香りしかしなかったり、何を食べているか分からない食感になったりする場合もある。
真空低温調理法ともいう。フォアグラは脂肪分が多いため、そのまま加熱調理を行うと脂肪が溶け出し、内容量が4割以上も目減りしてしまう。真空調理法は、この課題の解決のために1974年にジョルジュ・プラリュにより考え出された調理法で、フォアグラをプラスチックフィルムで真空パックし、パックしたまま低温で加熱調理を行う。この方法で脂分の目減りが5パーセント程度に少なくなった。
弾力のあるものを選ぶ。色は鮮やかな象牙色からやや黄色みがかった色、またはピンク色のものがよいとされる。胆汁の緑色がついているものは避ける。
調理を終えたら、その日のうちに使いきるのが原則とされる。保存するときはラップで包み冷蔵庫で保管する。
他の動物のレバーと同じく、ビタミン類やミネラルに富む。12種類のビタミンと9種類のミネラルを豊富に含み、とくにビタミンAや葉酸の含有量が突出して高い。
いわゆるフレンチパラドックス(フランス人はフォアグラ、チーズ、バターなどの動物性脂肪を多く含む食品を大量に摂取しているにもかかわらず、心臓病や各種心疾患を患う人の数が少ない)について、大手フォアグラ生産者のルージエ社は、「鴨の脂には不飽和脂肪酸がオリーブオイル(植物油)とほぼ同様に、豊富に含まれている」ことを理由に挙げている。
1960年代以降、「動物性脂肪を豊富に含む動物性食品は、健康に悪影響を及ぼす可能性がある」と言われるようになると、栄養学者たちは「動物の肉には、生命維持に欠かせない全ての必須アミノ酸、全ての必須脂肪酸、13種類ある必須ビタミンのうちの12種類がたくさん含まれている」という栄養学上の事実の指摘を控えるようになった。ビタミンDとビタミンB12の両方を含む食べ物は「動物性食品だけ」である。フォアグラは脂溶性ビタミン(A,D,E,K)とビタミンB12、各種ミネラルを豊富に含む。
フォアグラは、「アミロイドーシス」(Amyloidosis, 組織や臓器において、変質したタンパク質が沈着して機能障害を惹き起こす)を発症する危険因子であることが知られている。2007年、米国科学アカデミー紀要に発表されたフランスの神経生物学研究所の論文によると、フォアグラの摂取は、炎症性疾患のような一連の病状にかかりやすい個体においてはアミロイド関連疾患を誘発し、加速させる可能性が高くなるという。
「膵炎の原因になるため、犬にフォアグラを与えてはいけない」と述べている獣医もいる。
今日、フォアグラ用に飼育されるガチョウは「オワ・ド・トゥールーズ Oie de Toulouse」のような大型品種である。初夏に生まれた雛を野外の囲い地で放し飼いにし、牧草を食べさせ、強制給餌に耐えられる基礎体力を付けさせる。夏を越して秋になると飼育小屋に入れ、消化がよいように柔らかくなるまで蒸したトウモロコシを、漏斗(ガヴール)で胃に詰め込む強制給餌(ガヴァージュ)と呼ばれる“肥育”を1日に3回繰り返す。職人技の手作業にこだわる農場では、餌のトウモロコシは250グラムから始め、最後に倍になるよう少しずつ増やしていく。1ヶ月の肥育で、脂肪肝になった肝臓は2kgに達するほどに肥大し、頭部と胴体を水平にする姿勢をとるようになる。この段階のガチョウを屠殺して肝臓を取り出し、余分な脂肪、血管、神経を丁寧に除いてから、冷水に浸して身を締めたものがフォアグラである。食味をよくするために、調理の前処理でも血管や神経を除く。
鴨のフォアグラ生産用には、ノバリケンを家畜化したバリケン種(バルバリー種)と、マガモを家畜化したアヒル(ペキンアヒルが好まれる)を交雑した一代雑種が好まれる。ムラード(英語版)またはムーラーと呼ばれるこの雑種アヒルは、バリケン種のように大型でマガモ系アヒルのように成長が速く、しかも丈夫でおとなしいためフォアグラ生産に向いている。
アヒルは、ガチョウにはない素嚢(そのう)と呼ばれる食道にある袋のような器官に餌が多量に入っていると、消化の速度が上がるという特性を持っている。そのため、人の手による強制給餌(ガヴァージュ)を行う前に10日間ほど好きなだけ餌を食べさせるプレガヴァージュを行い、効率よく強制給餌を進める。給餌は一日2回で、期間は3週間である。また、近年では機械化された飼育場ですりつぶしたトウモロコシを自動的に与え、2週間ほどで強制給餌を終わらせる速成法もあるが、素嚢でトウモロコシが発酵してしまうため、フォアグラの質は劣る。
なお、フォアグラ用に飼育されるガチョウやアヒルは基本的にオスである。メスの肝臓は静脈が多く屠殺時と調理時に除去する手間がかかるためオスのフォアグラより評価が低い。このためメスの雛は孵化後にオスと選別された後に殺処分されることが殆どである。
フォアグラ生産で最も大切な点は、ガチョウやアヒルにできるだけストレスを与えないことだという。強制給餌が開始される前の3か月程度、自然豊かな場所にある農場に、広い運動場を設けることもある。また、毎日同じ人が餌を与えると、強制給餌のストレスが軽減されるという。 フォアグラを取り出した残りの屠体には、肥育によって多量の脂肪が蓄積されている。フランスの伝統的なフォアグラ産地では残った肉はグリルや煮込み料理の他、ガチョウ自身の脂肪で油煮にして保存食料のコンフィを作る。ガチョウの血をパセリやニンニクと混ぜて凝固させたものはサングェットまたはサンクェット(フランス語版)と呼ばれ、ガチョウの脂で炒めて食べる。
また、飼育期間の長いピレネー地方のムーラー種からは良質の羽毛が副産物として取れる。
強制給餌を用いずに飼育期間を長くしてフォアグラを生産する、しばしば“倫理的なフォアグラ” (ethical foie gras) と紹介される飼育法がある。スペインのエドゥアルド・スーザ(英語版)が経営する農場兼レストラン、ラ・パテリア・デ・スーザ (La Pateria de Sousa) では、自然に近い飼育場で半野生のガチョウを放し飼いにし、渡りの季節にエネルギー源として肝臓に脂肪を蓄える習性を利用してフォアグラを生産している。農場から渡りに出てしまい出荷できなくなるガチョウもいるが、全体の10パーセント程度に留まるという。この方法の課題は、近年の気候変動の影響を受けてか、収穫の時期(渡りの時期)が一定しないことだという。
この生産者のフォアグラは、2006年、フランスのクー・ド・クール (Coup de Coeur) という美食コンテストで優勝したことで注目された。この飼育法はガチョウに強制給餌をすることなく、ガチョウに自ら餌をついばませる方法であるため、飼育期間は一年かかるといわれ費用がかかるが、味に高い評価を得ているため価格は高価になる。
批判の主な矛先は、上記のような伝統的な職人技の農場や、倫理的な生産法ではなく、工場化した大規模農場に集中している。ある大きな生産農場では、数千羽のアヒルが、3羽ひとまとめの狭いケージで肥育されるが、ケージは給餌作業がしやすいよう作業者の身長に合わせて地上に設置され、床にはアヒルの糞尿と食べ残しが放置されたり、飼育数が多いため、一羽一羽の健康状態にまで手が回らないと報じられる。
近年は、飼育環境を改善するための対策が取られ始め、フランスの農業・農産加工業・林業省はフォアグラ生産者に対し、3羽が少なくとも動き回ったり翼を広げたりできる大きさのケージを2016年までに採用するよう求めた。
今日、強制給餌を伴わないフォアグラ生産は前述のLa Pateria de Sousa農場以外に確認されず、市場に出回るほぼ100%のフォアグラは強制給餌が行われている。この強制給餌は動物福祉の観点から論争がおこっており、後述するように複数の国でフォアグラの強制給餌が禁止されている。 2015年12月に発表された英国ケンブリッジ大学のDonald M. Broom教授と、生物学博士Irene Rochlitz博士の共著による報告書「フォアグラ製造におけるアヒルの福祉」では、次のように述べている。
また国際連合食糧農業機関(FAO)は2002年に次のように述べている。
また、フォアグラ生産農場における鳥の死亡率は、通常の飼育に比べて10-20倍と報告されており、欧州連合の科学委員会は次のように結論付けている。
なお、この強制給餌への批判に対し、アメリカの『Artisan Farmers Alliance』(職人農民同盟)は、「鴨やアヒルは(人間と違って)咽頭反射は無く、苦も無く大きな魚を呑み込めること、独立した獣医や科学者が害が無いと考えている」と反論している。
今日では動物愛護や動物の権利論の高まりもあり、一部の国では、生産者や消費者に対する風当たりが強くなりつつある。2023年、ドイツでは、小売業者が強制給餌で得たフォアグラを販売したとして500ユーロの罰金を科された。
オーストリアに拠点を置く動物愛護団体フィアープフォーテン(ドイツ語版)の創設者ドゥングラーは、2011年、「我々の活動で西欧のフォアグラ市場はすでに崩壊寸前だ。次の標的はハンガリーのような東欧諸国だ」と述べた。
欧州評議会(46か国加盟)の「農業目的で保持される動物の保護に関する欧州条約」加盟国35カ国では、フォアグラの生産は「すでに定着している場合を除き」、1999年に禁止された。一方で、欧州議会(27か国加盟)はフォアグラの生産について「動物の生体パラメータを尊重した大規模な生産形態であるため、動物福祉基準を尊重した農業手順に基づいている」とする農業動物福祉の実施報告書を2022年2月15日に採択している。
イタリア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、フィンランド、ポーランド、ルクセンブルクの各国とオーストリアの9州のうち6州では、「動物の強制給餌」自体が禁止されたことにより、フォアグラの生産は事実上、違法となった。2022年にはマルタ共和国がフォアグラを禁止した。同国ではすでに生産は行われておらず、今後事業を開始するのを防ぐための予防措置として施行。また、アイルランド、イギリス、スウェーデン、オランダ、スイスでも、動物保護法の解釈上、フォアグラの生産は違法とされた。ただし、いずれの国も、輸入したフォアグラの販売は禁止されていない。
フランス、スペイン、ベルギー(、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリアでは、フォアグラの生産が続いている。
ベルギー連邦三つの地域のうちの一つであるフランダース地域は、動物福祉大臣が強制給餌の廃止を約束したことから、フォアグラ生産が2023年に廃止された。また2022年の調査によると、同国のワロン地域でも、約70%がフォアグラにおける強制給餌に反対している。
2005年度の世界生産量23,500トンの内、18,450トンがフランスで生産され、フランスが依然として一大産地である。2005年10月、フランスの国民議会の下院が農業政策に関する包括法の一部として、フォアグラは仏文化の遺産であるとした法案を全会一致で可決した。
その際、フランスが世界でフォアグラの80%以上を生産していることを指摘し、保護すべき仏文化、料理の貴重な遺産であると宣言した。ガチョウやアヒルの強制肥育についても、他に方法はなく止むを得ないとして、擁護する姿勢を鮮明にした。フォアグラを文化遺産とするのは、欧州連合 (EU) の家畜保護規定が、宗教・文化的な習俗は規制対象外としていることによる、という。
いっぽうでフランス人の47%が、フォアグラのための強制給餌の禁止を支持すると回答しており、近年フランスでは、フォアグラの代替となるヴィ―ガン仕様などの代替品が出回り始めている。
ハンガリー最大のフォアグラ生産会社フンゲリト(Hungerit Zrt.:センテシュ市(英語版) (Szentes) に本社・工場)が、2008年8月末に強制給餌で飼育されたガチョウとアヒルの生産を中止し従業員200人を解雇するが、同社の労働組合は9月、解雇の原因となった動物愛護団体のフィアープフォーテンの建物前で抗議した。この動物愛護団体は2006年からフンゲリトを攻撃し、ハイパーマーケット向けのブラックリストに掲載させ、取引をしないよう呼びかけた。労働組合はブラックリストからの削除と、生産の再開を求めた。
動物愛護団体の攻勢が強まった2008年、ハンガリー議会が国内の特産物を保護する決議を採択した。これを受け、「食の伝統文化」としてフォアグラを保護し、財政支援を行う法案づくりの動きが進んだ。鶏肉生産者団体 (Baromfi Termék Tanács) は、伝統的なフォアグラ生産を「ハンガリーの文化」の一部として認めるよう、動物愛護法を改正するよう求めた。
2011年7月、オロシャザ市で、新たにフォアグラ業界団体『ハンガリー・フォアグラ協会』を設立する計画が発表され、11月9日に正式に発足した。国内の養鶏や加工・貿易・レストランをはじめ、業界全体がスクラムを組み、動物愛護団体の圧力に対抗する。
2004年9月29日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州では、州内で「肝臓肥大を目的とした鳥類の強制給餌」と「強制給餌によって作られた製品の販売」を2012年以降禁止する法律を成立させ、2012年7月1日から飲食店やスーパーでの提供が禁止となり、違反すれば1日当たり1000ドルの罰金が科されることとなった。このためか、禁止直前に消費が4倍に増加したり、禁止後に隣接するネバダ州でフォアグラの消費が増加した。カリフォルニアから遠出して買いにくるからだという。また、あるレストランは州政府へ抗議を込めて、フォアグラを使ったハンバーガーの早食い競争にフォアグラを販売せずに無償提供した。抗議の意味が込められたハンバーガーの名前は「Shut the Duck Up Burger」(「だまりやがれ!」という意味のフレーズの一部を“duck”に置き換えた名称)だった。また、フランスの政治家は、カリフォルニア州への報復措置として、カリフォルニアのワインを提供しないようフランスのレストランに呼びかけた。
2006年4月には、イリノイ州シカゴで、市議会の決議によってフォアグラの販売が全面的に禁止された。しかしこの条例制定後、すぐに地元レストランのシェフらから猛反発を受け、訴訟にまで発展した。市民の反発があるため、取り締まりもほとんど行われなかった。リチャード・M・デイリー(英語版)市長も「シカゴ市を国中の物笑いの種にするようなもの」と批判し、撤廃を訴えた。当時48対1の圧倒的多数で可決した同条例は、2008年5月、市議会で37対6で廃止が決まり、制定後2年で失効した。フォアグラ禁止中は、市内にある一部のレストランがフォアグラを無料にすることで「法の抜け穴」を利用し、フォアグラを提供した。こうしたレストランは、1920年-1933年の禁酒法時代に「スピークイージー」 (speakeasy) と呼ばれる場所で酒をこっそり売っていたのに因み、「ダッキージー」 (duckeasy) と呼ばれた。
2019年10月30日、ニューヨーク市議会は、無理やり太らせたカモやガチョウからとるフォアグラの提供を禁じる条例を可決した。条例は2022年に施行された。
2023年12月18日、ペンシルベニア州のピッツバーグ市議会が、フォアグラの生産、および販売を禁止する議案を可決。同議案には「動物虐待を減らすことは公共の利益だ」と書かれている。
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"text": "ロワール川の南方にある、西ゴート王国(現在のフランス西部)のアラリック2世 (484年 - 507年) は日常的にフォアグラを食べていたと伝わる。千年以上の時を経て、フランスブルボン朝・ルイ14世の頃に、宮廷でフォアグラが食されている。ルイ16世がフォアグラを好んだことで流行した。19世紀のイタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニは美食家で「ロッシーニ風」と呼ばれるフォアグラやトリュフを用いた料理を残した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2004年4月5日、12年ぶりに国賓としてフランスを訪れたエリザベス女王を迎える形で、ジャック・シラクが主催したエリゼ宮殿での晩餐会のメニューに前菜としてフォアグラのテリーヌが出された。また、アメリカ合衆国の大統領バラク・オバマもフォアグラをディナーに用い、2013年も用いている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本では、昭和天皇が鄧小平(初訪日は1978年)を招いた宮中晩餐会が行われた際、フランスのフォアグラブランドのルージエ社によれば、皇室の料理長がフォアグラとペリゴール産トリュフを使った神戸牛のトゥヌドを作り、その料理を「トゥヌド・ジョン・ルージィ」(Tournedos Jean Rougié) と命名したという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "フランスはフォアグラの主たる産地である。世界のフォアグラの生産量は2000年で約1万8000トンだが、そのうちフランス産は1万5300トンにも及び、フォアグラの生産も消費もフランスが最多となっている。しかしそのフランスでもフォアグラに否定的な人は少なくない。2014年12月に実施されたOpinionWayの調査によると、フランス人の47%がフォアグラの生産における強制給餌の禁止を支持している",
"title": "産地と消費"
},
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "フランス国内では、南西部のペリゴール地方(現ドルドーニュ県)とランド県が主産地で、ガチョウと鴨の両方のフォアグラが生産されている。南西部全体での生産量は、フランスの生産量の75%を占める。また、アルザス地方のストラスブールやラングドック地方のトゥールーズも、産地としてよく知られている。また、ガチョウよりもアヒルの方が飼育が楽で、病気にも強いことから、今日では鴨のフォアグラの生産量は増加傾向にある。",
"title": "産地と消費"
},
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"text": "フランスのフォアグラ産業は、その関連事業の労働者が約10万人いるといわれる。",
"title": "産地と消費"
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{
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"tag": "p",
"text": "2005年に議会がフォアグラはフランスの文化遺産だとする宣言を行うほど、熱心に生産者を保護しているが、動物愛護団体の攻撃があったり、近年では、バイオ燃料の普及でエサとなるトウモロコシの穀物が高騰し、生産コストがかつての10倍以上に上昇した。農家は利益を上げるため飼育数を増やしたが、経済危機が追い打ちをかけ、フランスでは採算が合わなくなって廃業する農家がでている。",
"title": "産地と消費"
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{
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"tag": "p",
"text": "2013年現在、フォアグラの主要生産国であるフランスは、欧州向け以外に、中国、ロシア、ブラジル、大韓民国、台湾にも輸出している。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "フランス観光開発機構によると、あるフォアグラのブランドは、世界120か国に輸出しているとしている。",
"title": "産地と消費"
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{
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"tag": "p",
"text": "フォアグラの大産地であるフランス南西部ランド県では、その県都モンドマルサンで2年に一度、「フォアグラエキスポ」(見本市)が行われ、生産者が生産技術を展示する。 また、フランス南西部のペリゴール地方にあるサルラは、フォアグラの街として知られ、2月の第3日曜に「サルラのガチョウ祭」(サルラ フェストワ:Sarlat Fest'Oie)が開催されたり、「フォアグラルート」 (la route du Foie gras) と呼ばれる、多くの農家がフォアグラを販売する街道もある。",
"title": "産地と消費"
},
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"tag": "p",
"text": "1994年には、フランスのアジャン近郊に世界初の「フォアグラ博物館」(Le Musée du Foie Gras) が開設された。",
"title": "産地と消費"
},
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2013年、ヴェルサイユ宮殿ではルイ14世の製法をできるだけ再現したフォアグラが、「Chateau de Versailles - Epicerie Fine」(ヴェルサイユ宮殿-高級食料品)と言う名で販売された。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ハンガリーのドナウ川西岸(ドゥナーントゥール(英語版)、Dunántúl)でも昔からフォアグラの生産が行われており、フランスへの輸出も盛んである。フォアグラを取る前のアヒルやカモを数週間フランスで飼育するとフランス産と表示でき、フランス産と記されたフォアグラの半分以上がハンガリーで飼育されたガチョウやカモであることにより、ハンガリーは世界一のフォアグラの生産国だという者もある。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2006年に欧州に鳥インフルエンザが流行した際、各国がフランス産からハンガリー産に切り替え、これが世界にアピールする機会になったという。ハンガリーでは、年間2500-2600トンのフォアグラ(ガチョウとアヒル)が生産され、約20億フォリントの売上げがあり、これは鶏肉生産高の約1割を占める。また、約5,000人分の雇用を提供する産業でもある。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "欧州のユダヤ人は、ローマ帝国の崩壊後もフォアグラの生産に携わり、伝統を伝えた。たとえば、1581年にボヘミア皇帝(現在のチェコ一帯)の料理人がフランクフルトで出版した「新しい料理の本」の中には、「ボヘミアに住むユダヤ人たちに太らせた、3リーヴル(1リーヴル=500g)以上のガチョウの肝臓をローストした」とある。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "植物油が入手しにくい寒冷地では、調理油は主に動物から自給されるが、ブタからとれるラードはユダヤ人にとって禁忌であり、バターは乳製品ゆえに肉料理を中心とした献立だけでなく、その後に食べられるデザートにも使用できない。このためカシュルートに適正なガチョウの脂肪を抽出してシュマルツとして利用した。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "かつてイスラエルは1940年代-1950年代にヨーロッパから移民したユダヤ人によってフォアグラ生産が行われ、生産量世界3位の国となり、600人の労働者と農夫が150の農場に働いていたが、2003年のイスラエル最高裁の決定でフォアグラ生産は禁じられることになった。",
"title": "産地と消費"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "近年、生産を開始した国には、ヨーロッパではベルギー、スペイン、ギリシャ。その他の地域ではマダガスカル、インド、グアテマラ、キューバ、チュニジア、タイ、中華人民共和国がある。ただしベルギーのフランダース地域は、動物福祉大臣が強制給餌の廃止を約束したことから、フォアグラ生産が2023年に廃止された。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "フランスは世界最大のフォアグラの消費国であり、全世界で生産されるフォアグラのおよそ75%がフランス国内で消費される。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "パテに加工し甘めの柔らかいパンに塗って食べるか、ソテーして食べるのが一般的だが、トリュフ入りのパイ包み焼きのような、パイ料理の素材としてもよく使われる。フォアグラとトリュフを乗せて焼いたヒレ肉のステーキは、ロッシーニ風トゥルヌドステーキ (Tournedos Rossini) と呼ばれる。フランスでは、伝統的にソーテルヌのようなワインと一緒に食べる。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "フランスではクリスマス前になると、産地にフォアグラを買いに行く人が増える。フランス人はフォアグラを買うことに景気付けの意味合い(うまくいかない時に元気になるため)もあるという。フランスでは、クリスマスの時期の消費が全体の8割に上る。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2013年現在、フランスの8割の人々がフォアグラを食す。フランス人の多くにとってはクリスマスやレヴェヨン(英語版)という新年前夜の晩餐でしか口にすることのない珍味である。が、近年になって生産量が増加したため珍しさは薄れてきた。また、クリスマスに偏りがちなフォアグラの消費を通年消費にするために、生産業者はあれこれと販売を工夫し、消費量を拡大している。中には一年中フォアグラを賞味する地域もある。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "20世紀の終わりごろになると、フランス国内には自国産品以外に、東欧(ハンガリー、ブルガリア)からの安価な輸入品が流入し、近年は中国産も台頭する。2010年上半期の貿易収支は、フランス国外からの輸入が激減した影響で、黒字額が大幅に増えた。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "フランス北部には「ルクルス」( Lucullos ) というフォアグラと牛タンで作られる郷土料理があり、輸出も始まった。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "お祝いの席でフォアグラを食す。とくにフォアグラのリゾットは、ハンガリー人の大好物とされる。フォアグラのリゾットは、リゾットの本家イタリアでは、元来フォアグラを食べる習慣がなく、ハンガリー料理と言ってよいとする者もいる。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ソテーにして食べる以外では、フォアグラのとんかつ、丼、鍋、寿司に調理する店がある。また、スナック菓子に用いる例もある。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2013年現在、日本への輸入は、全てハンガリー産とフランス産で占められている。ガチョウのフォアグラの最大の輸入先はハンガリーで、鴨のフォアグラの最大の輸入先はフランスである。また、イスラエルおよびユダヤ人が生産するフォアグラは、かつて日本に輸入されていた。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2013年、日経トレンディは、日本でフォアグラが目につく機会が増えたことを報じた。フォアグラは2012年頃にはジョナサンやココスといったファミリーレストランのメニューにも登場した。また、居酒屋チェーン、モンテローザの店舗にも見られる。これらの現象について、「消費者がアベノミクスの効果で“プチ贅沢”を楽しみたいという気分が盛り上がったからだ」と見ている人物もいる。また、フォアグラが安い価格帯で提供可能となったのは、大量に仕入れることが可能になった点や、フォアグラの集客効果を期待して採算はあえて求めず、他のメニューで利益を出していると説明する店もある。この価格低下について、人件費の安い中国産が入ったからではないか、と推測するメディアもあった。",
"title": "産地と消費"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2014年2月、日本で初めて、フォアグラの料理コンクールが開催された。この「ルージエ レシピコンクール」は仏大手フォアグラメーカー・ルージエ社 ( Rougié ) が「日本の料理人の腕を通してフォアグラの調理法を広めたい」と主催した。",
"title": "産地と消費"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "フォアグラは他の高級素材キャビアやトリュフよりも料理のバリエーションが豊富で、温かい料理でも冷たい料理でも使え、ほかの料理の調味料のような使い方も可能であり、アレンジの幅が広い。脂肪含有量が60パーセント以上といわれ、常温で放置すると柔らかくなるため、切る時や焼く時は冷蔵庫から出してすぐに行い、テリーヌを作る際の下処理では、柔らかくして用いるとよいとされる。デリケートな調理が必要とされ、強火で調理すると脂分が溶け出したり、生の状態で放置しても脂分が部分的に溶けてしまったりする。また、品質の低いフォアグラはフォアグラ独特の香りではなくレバーのような香りしかしなかったり、何を食べているか分からない食感になったりする場合もある。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "真空低温調理法ともいう。フォアグラは脂肪分が多いため、そのまま加熱調理を行うと脂肪が溶け出し、内容量が4割以上も目減りしてしまう。真空調理法は、この課題の解決のために1974年にジョルジュ・プラリュにより考え出された調理法で、フォアグラをプラスチックフィルムで真空パックし、パックしたまま低温で加熱調理を行う。この方法で脂分の目減りが5パーセント程度に少なくなった。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "弾力のあるものを選ぶ。色は鮮やかな象牙色からやや黄色みがかった色、またはピンク色のものがよいとされる。胆汁の緑色がついているものは避ける。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "調理を終えたら、その日のうちに使いきるのが原則とされる。保存するときはラップで包み冷蔵庫で保管する。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "他の動物のレバーと同じく、ビタミン類やミネラルに富む。12種類のビタミンと9種類のミネラルを豊富に含み、とくにビタミンAや葉酸の含有量が突出して高い。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "いわゆるフレンチパラドックス(フランス人はフォアグラ、チーズ、バターなどの動物性脂肪を多く含む食品を大量に摂取しているにもかかわらず、心臓病や各種心疾患を患う人の数が少ない)について、大手フォアグラ生産者のルージエ社は、「鴨の脂には不飽和脂肪酸がオリーブオイル(植物油)とほぼ同様に、豊富に含まれている」ことを理由に挙げている。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1960年代以降、「動物性脂肪を豊富に含む動物性食品は、健康に悪影響を及ぼす可能性がある」と言われるようになると、栄養学者たちは「動物の肉には、生命維持に欠かせない全ての必須アミノ酸、全ての必須脂肪酸、13種類ある必須ビタミンのうちの12種類がたくさん含まれている」という栄養学上の事実の指摘を控えるようになった。ビタミンDとビタミンB12の両方を含む食べ物は「動物性食品だけ」である。フォアグラは脂溶性ビタミン(A,D,E,K)とビタミンB12、各種ミネラルを豊富に含む。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "フォアグラは、「アミロイドーシス」(Amyloidosis, 組織や臓器において、変質したタンパク質が沈着して機能障害を惹き起こす)を発症する危険因子であることが知られている。2007年、米国科学アカデミー紀要に発表されたフランスの神経生物学研究所の論文によると、フォアグラの摂取は、炎症性疾患のような一連の病状にかかりやすい個体においてはアミロイド関連疾患を誘発し、加速させる可能性が高くなるという。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "「膵炎の原因になるため、犬にフォアグラを与えてはいけない」と述べている獣医もいる。",
"title": "産地と消費"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "今日、フォアグラ用に飼育されるガチョウは「オワ・ド・トゥールーズ Oie de Toulouse」のような大型品種である。初夏に生まれた雛を野外の囲い地で放し飼いにし、牧草を食べさせ、強制給餌に耐えられる基礎体力を付けさせる。夏を越して秋になると飼育小屋に入れ、消化がよいように柔らかくなるまで蒸したトウモロコシを、漏斗(ガヴール)で胃に詰め込む強制給餌(ガヴァージュ)と呼ばれる“肥育”を1日に3回繰り返す。職人技の手作業にこだわる農場では、餌のトウモロコシは250グラムから始め、最後に倍になるよう少しずつ増やしていく。1ヶ月の肥育で、脂肪肝になった肝臓は2kgに達するほどに肥大し、頭部と胴体を水平にする姿勢をとるようになる。この段階のガチョウを屠殺して肝臓を取り出し、余分な脂肪、血管、神経を丁寧に除いてから、冷水に浸して身を締めたものがフォアグラである。食味をよくするために、調理の前処理でも血管や神経を除く。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "鴨のフォアグラ生産用には、ノバリケンを家畜化したバリケン種(バルバリー種)と、マガモを家畜化したアヒル(ペキンアヒルが好まれる)を交雑した一代雑種が好まれる。ムラード(英語版)またはムーラーと呼ばれるこの雑種アヒルは、バリケン種のように大型でマガモ系アヒルのように成長が速く、しかも丈夫でおとなしいためフォアグラ生産に向いている。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アヒルは、ガチョウにはない素嚢(そのう)と呼ばれる食道にある袋のような器官に餌が多量に入っていると、消化の速度が上がるという特性を持っている。そのため、人の手による強制給餌(ガヴァージュ)を行う前に10日間ほど好きなだけ餌を食べさせるプレガヴァージュを行い、効率よく強制給餌を進める。給餌は一日2回で、期間は3週間である。また、近年では機械化された飼育場ですりつぶしたトウモロコシを自動的に与え、2週間ほどで強制給餌を終わらせる速成法もあるが、素嚢でトウモロコシが発酵してしまうため、フォアグラの質は劣る。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、フォアグラ用に飼育されるガチョウやアヒルは基本的にオスである。メスの肝臓は静脈が多く屠殺時と調理時に除去する手間がかかるためオスのフォアグラより評価が低い。このためメスの雛は孵化後にオスと選別された後に殺処分されることが殆どである。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "フォアグラ生産で最も大切な点は、ガチョウやアヒルにできるだけストレスを与えないことだという。強制給餌が開始される前の3か月程度、自然豊かな場所にある農場に、広い運動場を設けることもある。また、毎日同じ人が餌を与えると、強制給餌のストレスが軽減されるという。 フォアグラを取り出した残りの屠体には、肥育によって多量の脂肪が蓄積されている。フランスの伝統的なフォアグラ産地では残った肉はグリルや煮込み料理の他、ガチョウ自身の脂肪で油煮にして保存食料のコンフィを作る。ガチョウの血をパセリやニンニクと混ぜて凝固させたものはサングェットまたはサンクェット(フランス語版)と呼ばれ、ガチョウの脂で炒めて食べる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、飼育期間の長いピレネー地方のムーラー種からは良質の羽毛が副産物として取れる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "強制給餌を用いずに飼育期間を長くしてフォアグラを生産する、しばしば“倫理的なフォアグラ” (ethical foie gras) と紹介される飼育法がある。スペインのエドゥアルド・スーザ(英語版)が経営する農場兼レストラン、ラ・パテリア・デ・スーザ (La Pateria de Sousa) では、自然に近い飼育場で半野生のガチョウを放し飼いにし、渡りの季節にエネルギー源として肝臓に脂肪を蓄える習性を利用してフォアグラを生産している。農場から渡りに出てしまい出荷できなくなるガチョウもいるが、全体の10パーセント程度に留まるという。この方法の課題は、近年の気候変動の影響を受けてか、収穫の時期(渡りの時期)が一定しないことだという。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "この生産者のフォアグラは、2006年、フランスのクー・ド・クール (Coup de Coeur) という美食コンテストで優勝したことで注目された。この飼育法はガチョウに強制給餌をすることなく、ガチョウに自ら餌をついばませる方法であるため、飼育期間は一年かかるといわれ費用がかかるが、味に高い評価を得ているため価格は高価になる。",
"title": "製法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "批判の主な矛先は、上記のような伝統的な職人技の農場や、倫理的な生産法ではなく、工場化した大規模農場に集中している。ある大きな生産農場では、数千羽のアヒルが、3羽ひとまとめの狭いケージで肥育されるが、ケージは給餌作業がしやすいよう作業者の身長に合わせて地上に設置され、床にはアヒルの糞尿と食べ残しが放置されたり、飼育数が多いため、一羽一羽の健康状態にまで手が回らないと報じられる。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "近年は、飼育環境を改善するための対策が取られ始め、フランスの農業・農産加工業・林業省はフォアグラ生産者に対し、3羽が少なくとも動き回ったり翼を広げたりできる大きさのケージを2016年までに採用するよう求めた。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "今日、強制給餌を伴わないフォアグラ生産は前述のLa Pateria de Sousa農場以外に確認されず、市場に出回るほぼ100%のフォアグラは強制給餌が行われている。この強制給餌は動物福祉の観点から論争がおこっており、後述するように複数の国でフォアグラの強制給餌が禁止されている。 2015年12月に発表された英国ケンブリッジ大学のDonald M. Broom教授と、生物学博士Irene Rochlitz博士の共著による報告書「フォアグラ製造におけるアヒルの福祉」では、次のように述べている。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また国際連合食糧農業機関(FAO)は2002年に次のように述べている。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また、フォアグラ生産農場における鳥の死亡率は、通常の飼育に比べて10-20倍と報告されており、欧州連合の科学委員会は次のように結論付けている。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、この強制給餌への批判に対し、アメリカの『Artisan Farmers Alliance』(職人農民同盟)は、「鴨やアヒルは(人間と違って)咽頭反射は無く、苦も無く大きな魚を呑み込めること、独立した獣医や科学者が害が無いと考えている」と反論している。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "今日では動物愛護や動物の権利論の高まりもあり、一部の国では、生産者や消費者に対する風当たりが強くなりつつある。2023年、ドイツでは、小売業者が強制給餌で得たフォアグラを販売したとして500ユーロの罰金を科された。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "オーストリアに拠点を置く動物愛護団体フィアープフォーテン(ドイツ語版)の創設者ドゥングラーは、2011年、「我々の活動で西欧のフォアグラ市場はすでに崩壊寸前だ。次の標的はハンガリーのような東欧諸国だ」と述べた。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "欧州評議会(46か国加盟)の「農業目的で保持される動物の保護に関する欧州条約」加盟国35カ国では、フォアグラの生産は「すでに定着している場合を除き」、1999年に禁止された。一方で、欧州議会(27か国加盟)はフォアグラの生産について「動物の生体パラメータを尊重した大規模な生産形態であるため、動物福祉基準を尊重した農業手順に基づいている」とする農業動物福祉の実施報告書を2022年2月15日に採択している。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "イタリア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、フィンランド、ポーランド、ルクセンブルクの各国とオーストリアの9州のうち6州では、「動物の強制給餌」自体が禁止されたことにより、フォアグラの生産は事実上、違法となった。2022年にはマルタ共和国がフォアグラを禁止した。同国ではすでに生産は行われておらず、今後事業を開始するのを防ぐための予防措置として施行。また、アイルランド、イギリス、スウェーデン、オランダ、スイスでも、動物保護法の解釈上、フォアグラの生産は違法とされた。ただし、いずれの国も、輸入したフォアグラの販売は禁止されていない。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "フランス、スペイン、ベルギー(、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリアでは、フォアグラの生産が続いている。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ベルギー連邦三つの地域のうちの一つであるフランダース地域は、動物福祉大臣が強制給餌の廃止を約束したことから、フォアグラ生産が2023年に廃止された。また2022年の調査によると、同国のワロン地域でも、約70%がフォアグラにおける強制給餌に反対している。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2005年度の世界生産量23,500トンの内、18,450トンがフランスで生産され、フランスが依然として一大産地である。2005年10月、フランスの国民議会の下院が農業政策に関する包括法の一部として、フォアグラは仏文化の遺産であるとした法案を全会一致で可決した。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "その際、フランスが世界でフォアグラの80%以上を生産していることを指摘し、保護すべき仏文化、料理の貴重な遺産であると宣言した。ガチョウやアヒルの強制肥育についても、他に方法はなく止むを得ないとして、擁護する姿勢を鮮明にした。フォアグラを文化遺産とするのは、欧州連合 (EU) の家畜保護規定が、宗教・文化的な習俗は規制対象外としていることによる、という。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "いっぽうでフランス人の47%が、フォアグラのための強制給餌の禁止を支持すると回答しており、近年フランスでは、フォアグラの代替となるヴィ―ガン仕様などの代替品が出回り始めている。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ハンガリー最大のフォアグラ生産会社フンゲリト(Hungerit Zrt.:センテシュ市(英語版) (Szentes) に本社・工場)が、2008年8月末に強制給餌で飼育されたガチョウとアヒルの生産を中止し従業員200人を解雇するが、同社の労働組合は9月、解雇の原因となった動物愛護団体のフィアープフォーテンの建物前で抗議した。この動物愛護団体は2006年からフンゲリトを攻撃し、ハイパーマーケット向けのブラックリストに掲載させ、取引をしないよう呼びかけた。労働組合はブラックリストからの削除と、生産の再開を求めた。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "動物愛護団体の攻勢が強まった2008年、ハンガリー議会が国内の特産物を保護する決議を採択した。これを受け、「食の伝統文化」としてフォアグラを保護し、財政支援を行う法案づくりの動きが進んだ。鶏肉生産者団体 (Baromfi Termék Tanács) は、伝統的なフォアグラ生産を「ハンガリーの文化」の一部として認めるよう、動物愛護法を改正するよう求めた。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
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"text": "2011年7月、オロシャザ市で、新たにフォアグラ業界団体『ハンガリー・フォアグラ協会』を設立する計画が発表され、11月9日に正式に発足した。国内の養鶏や加工・貿易・レストランをはじめ、業界全体がスクラムを組み、動物愛護団体の圧力に対抗する。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
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"text": "2004年9月29日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州では、州内で「肝臓肥大を目的とした鳥類の強制給餌」と「強制給餌によって作られた製品の販売」を2012年以降禁止する法律を成立させ、2012年7月1日から飲食店やスーパーでの提供が禁止となり、違反すれば1日当たり1000ドルの罰金が科されることとなった。このためか、禁止直前に消費が4倍に増加したり、禁止後に隣接するネバダ州でフォアグラの消費が増加した。カリフォルニアから遠出して買いにくるからだという。また、あるレストランは州政府へ抗議を込めて、フォアグラを使ったハンバーガーの早食い競争にフォアグラを販売せずに無償提供した。抗議の意味が込められたハンバーガーの名前は「Shut the Duck Up Burger」(「だまりやがれ!」という意味のフレーズの一部を“duck”に置き換えた名称)だった。また、フランスの政治家は、カリフォルニア州への報復措置として、カリフォルニアのワインを提供しないようフランスのレストランに呼びかけた。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
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"text": "2006年4月には、イリノイ州シカゴで、市議会の決議によってフォアグラの販売が全面的に禁止された。しかしこの条例制定後、すぐに地元レストランのシェフらから猛反発を受け、訴訟にまで発展した。市民の反発があるため、取り締まりもほとんど行われなかった。リチャード・M・デイリー(英語版)市長も「シカゴ市を国中の物笑いの種にするようなもの」と批判し、撤廃を訴えた。当時48対1の圧倒的多数で可決した同条例は、2008年5月、市議会で37対6で廃止が決まり、制定後2年で失効した。フォアグラ禁止中は、市内にある一部のレストランがフォアグラを無料にすることで「法の抜け穴」を利用し、フォアグラを提供した。こうしたレストランは、1920年-1933年の禁酒法時代に「スピークイージー」 (speakeasy) と呼ばれる場所で酒をこっそり売っていたのに因み、「ダッキージー」 (duckeasy) と呼ばれた。",
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"text": "2019年10月30日、ニューヨーク市議会は、無理やり太らせたカモやガチョウからとるフォアグラの提供を禁じる条例を可決した。条例は2022年に施行された。",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
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"text": "2023年12月18日、ペンシルベニア州のピッツバーグ市議会が、フォアグラの生産、および販売を禁止する議案を可決。同議案には「動物虐待を減らすことは公共の利益だ」と書かれている。",
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"text": "",
"title": "動物愛護の観点から規制される飼育方法"
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] |
フォアグラは、世界三大珍味として有名な食材。ガチョウやアヒルに沢山の餌を与えることにより、肝臓を肥大させて作る。フランスでは、クリスマスや祝い事の伝統料理およびご馳走として食される。フランス料理の食材の一つであり、宮廷料理として供されるほか、美食家や富裕層にも食されている。 生産量も消費量も最も多いのはフランスであるが、20世紀後半以降、生産を開始する国や地域が増えてきた。一方で、強制給餌(ガヴァージュ)を伴う生産方法は、動物福祉の観点から論争が起こっており、欧州連合で生産や販売を禁止する動きもある。その一方、生産地を抱えるフランスやハンガリーは議会が生産者を保護する傾向にある。 フォアグラ生産者は、「数百年前から伝わる製法であり、鳥たちに害はない」とし、「渡り鳥なので元来栄養を貯め込むものだし、苦痛は無いし、苦痛があったら良いフォアグラにならない」と主張している。しかしフォアグラに使用されるのは野生種を家禽化したアヒルとガチョウであり、両者ともに飛翔能力はほとんどなく移住のために渡りを行わない。さらに、フォアグラ生産に使用されるのは主にアヒルであるが、アヒルの原種であるカモの中にはそもそも渡りを行わない種がおり、このことは、渡りの機能をもたない鳥がフォアグラに使用されていることを示している。苦痛については後述する通り、複数の専門家、公的機関がフォアグラの強制給餌が鳥にとって有害であると結論付けている。 「foie」「gras」は、フランス語でそれぞれ、「肝臓」「脂肪」の意。
|
[[ファイル:Foie gras en cocotte.jpg|代替文=|サムネイル|250x250ピクセル|皿に盛り付けられたフォアグラのココット(中央にある食品)。]]
[[ファイル:Foie gras caviar de vénus1.jpg|right|250px|thumb|フォアグラの[[キャビア]]添え。スライスしてキャビアをのせたディッシュ。]]
'''フォアグラ'''({{lang-fr|'''foie gras'''}})は、[[世界三大一覧#食生活|世界三大珍味]]として有名な[[食材]]。[[ガチョウ]]や[[アヒル]]に沢山の[[餌]]を与えることにより、[[肝臓]]を肥大させて作る。[[フランス]]では、[[クリスマス]]や祝い事の伝統料理および[[高級食材|ご馳走]]として食される。[[フランス料理]]の食材の一つであり、宮廷料理として供されるほか、[[食通|美食家]]や[[富裕層]]にも食されている。
生産量も消費量も最も多いのはフランスであるが、[[20世紀]]後半以降、生産を開始する国や地域が増えてきた。一方で、[[強制給餌]](ガヴァージュ)を伴う生産方法は、[[動物福祉]]の観点から論争が起こっており、[[欧州連合]]で生産や販売を禁止する動きもある。その一方、生産地を抱えるフランスやハンガリーは議会が生産者を保護する傾向にある。
フォアグラ生産者は、「数百年前から伝わる製法であり、鳥たちに害はない」とし、「渡り鳥なので元来栄養を貯め込むものだし、苦痛は無いし、苦痛があったら良いフォアグラにならない」と主張している。しかしフォアグラに使用されるのは野生種を家禽化した[[アヒル]]と[[ガチョウ]]であり、両者ともに飛翔能力はほとんどなく移住のために渡りを行わない。さらに、フォアグラ生産に使用されるのは主に[[アヒル]]であるが<ref>「ガチョウは世界全体のフォアグラ生産の10%以下」 Guémené D.; Guy, G. (2004). "The past, present and future of force-feeding and "foie gras" production". World's Poultry Science Journal. 60 (02): 210–222. https://www.cambridge.org/core/journals/world-s-poultry-science-journal/article/past-present-and-future-of-forcefeeding-and-foie-gras-production/EE092554707E59632C6349C04EE73FE4</ref>、アヒルの原種である[[カモ]]の中にはそもそも渡りを行わない種がおり<ref name="eureport">欧州連合 動物の福祉と健康の科学委員会レポート "アヒルとガチョウのフォアグラ生産における動物福祉の側面" Adopted 16 December 1998 https://ec.europa.eu/food/sites/food/files/safety/docs/sci-com_scah_out17_en.pdf</ref>、このことは、渡りの機能をもたない鳥がフォアグラに使用されていることを示している。苦痛については後述する通り、複数の専門家、公的機関がフォアグラの強制給餌が鳥にとって有害であると結論付けている。
「{{lang|fr|''foie''}}」「{{lang|fr|''gras''}}」は、[[フランス語]]でそれぞれ、「肝臓」「脂肪」の意。
== 歴史 ==
[[ファイル:Egyptiangeesefeeding.jpg|thumb|right|250px|ガチョウの肥育は紀元前2500年頃の[[古代エジプト]]にすでにあった<ref name=his-foie/>。]]
紀元前2500年頃の[[古代エジプト]]でガチョウの肥育が既に行われていた。古代エジプト人がフォアグラを求めたか定かではないが、野生状態のガチョウを観察して、肥育の技術を得たと考えられる<ref>{{Cite book
|last = McGee
|first = Harold
|title = On Food and Cooking: The Science and Lore of the Kitchen
|publisher = Scribner
|year = 2004
|page = 167
|isbn = 0-684-80001-2
|ref = harv
}}</ref><ref>{{Cite book
|last = Toussaint-Samat
|first = Maguelonne
|title = History of Food
|publisher = Blackwell Publishing Professional
|year = 1994
|page = 425
|isbn = 0-631-19497-5
|ref = harv
}}</ref><ref name=his-foie/>。
[[古代ローマ]]人が、干し[[イチジク]]をガチョウに与えて飼育し、その肝臓を食べたのが始まりと言われる。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]の『[[博物誌]]』によると、古代ローマでは、[[ガリア]]からもたらされたガチョウに強制肥育を施して、食材としていたことが記録されている。これにある美食家がさらに工夫を加えて、イチジクで肥育させた上に、肥大した肝臓を[[蜂蜜]]入りの[[牛乳]]に浸して調理する技法を発案したと伝えられている。
[[ローマ帝国]]崩壊後にこれらの技法はいったん衰退したが、徐々に復活し、[[ルネサンス]]期にはフォアグラ生産業が定着して、食材として認知されるようになった。[[フランス革命]]前までは、フォアグラの製造にはガチョウだけではなく[[ニワトリ]]も用いられたが、[[19世紀]]になると、ガチョウがフォアグラの素材の定番として定着した。ガチョウは[[牧草]]のような粗飼料で大きく育つため、古くからあまり地味の豊かでない土地で多く飼育され、またその地方では[[17世紀]]になると[[アメリカ州]]から[[トウモロコシ]]が導入されて、農業生産がようやく向上した。後述するような今日のフランスの主要フォアグラ産地は、このような地理的、歴史的条件を背景とし、ガチョウ飼育農業とトウモロコシの出会いの上に成立した。伝統的に、フォアグラ用ガチョウの肥育は他の家禽の世話と同じく農家の女性の仕事とされた<ref>{{Cite book
|author = Paula Wolfert
|title = The Cooking of South-west France
|year = 1988
|publisher = Perennial Library
|isbn = 0-06-097195-9
|page = 13
}}</ref>。今日ではガチョウ以外にアヒルのフォアグラも作られており、野生的な味がガチョウのものと異なるものとして評価されているが、火を通したときに溶けやすいこともあって、料理法の許容範囲はガチョウのものほど広くはなく、ガチョウのフォアグラよりも安価である。なお、日本におけるフランス料理用語では野生の[[カモ]]と野生の[[マガモ]]を[[家畜化]]したアヒルを訳し分けない慣行であるため、アヒルも「鴨」と表記される。
=== 歴史的人物の食 ===
[[ファイル:Tournedos Rossini with Truffle Madeira Sauce.jpg|thumb|right|200px|[[トゥルヌド・ロッシーニ]](牛フィレ肉とフォアグラのロッシーニ風)]]
[[ロワール川]]の南方にある、[[西ゴート王国]](現在のフランス西部)の[[アラリック2世]] ([[484年]] - [[507年]]) は日常的にフォアグラを食べていたと伝わる<ref name=storyfoie3/>。千年以上の時を経て、フランス[[ブルボン朝]]・[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の頃に、宮廷でフォアグラが食されている<ref name=his-foie/>。[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]がフォアグラを好んだことで流行した<ref name=wsj2008/>。[[19世紀]]の[[イタリア]]の作曲家[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]は美食家で「ロッシーニ風」と呼ばれるフォアグラや[[トリュフ]]を用いた料理を残した<ref name=ni125451>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070523/125451/ 第2回 フォアグラとトリュフの付け合わせが基本素材]水谷彰良, 2007年5月28日 - 日経ビジネスオンライン</ref>。
[[2004年]][[4月5日]]、12年ぶりに[[国賓]]としてフランスを訪れた[[エリザベス2世|エリザベス女王]]を迎える形で、[[ジャック・シラク]]が主催した[[エリゼ宮殿]]での晩餐会のメニューに[[前菜]]としてフォアグラの[[テリーヌ]]が出された<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120925/237244/ 内憂外患の今こそ政治に必要なのは「合従連衡」の知恵] 御立尚資, 2012年10月1日 - 『日経ビジネスオンライン』</ref>。また、アメリカ合衆国の[[大統領]][[バラク・オバマ]]もフォアグラをディナーに用い、2013年も用いている<ref>[http://www.pullmanhotels.com/gb/discovering-pullman-hotel/neighbourhoods/paris-tour-eiffel.shtml Hotel Pullman Paris Tour Eiffel : Trocadéro, Quai Branly]</ref><ref>[http://www.honolulumagazine.com/Honolulu-Magazine/December-2013/Barack-Obama-is-Back/ Barack Obama is Back! - Honolulu Magazine - December 2013 - Hawaii]</ref>。
日本では、[[昭和天皇]]が[[鄧小平]](初訪日は[[1978年]])を招いた[[宮中]][[晩餐会]]が行われた際、フランスのフォアグラブランドのルージエ社によれば、[[皇室]]の料理長がフォアグラとペリゴール産トリュフを使った[[神戸牛]]のトゥヌドを作り、その料理を「トゥヌド・ジョン・ルージィ」({{lang|fr|Tournedos Jean Rougié}}) と命名したという<ref>[http://www.rougie.jp/index.php?option=com_content&view=article&id=62&Itemid=54&lang=jp&d75da5f7b75d65ffe0309ef1f41cf1bc=2768a537c0158f5599e37048d6ba7c6c ルージエの歴史]ルージエ(日本語版)</ref>。
== 産地と消費 ==
[[ファイル:Flickr - gorriti - Foie Heaven.jpg|thumb|250px|right|さまざまな[[瓶詰]]。[[ニコラ・アペール|保存法]]の発明により、フォアグラも長期保存できるようになった]]
{| class="wikitable" style="float:left; clear:left; margin-right:1em"
|-
! colspan=2|2005年のフォアグラ生産量<br>(単位はトン)
|-
| {{FRA}} || style="text-align:right;"| 18,450<ref name=xinhua>{{cite news |title = China to boost foie gras production |url = http://news.xinhuanet.com/english/2006-04/11/content_4409586.htm |date = 11 April 2006 |accessdate = 12 March 2007 |publisher = Xinhua online}}</ref>
|-
| {{HUN}} || style="text-align:right;"| 1,920<ref name=xinhua/>
|-
| {{BUL}} || style="text-align:right;"| 1,500<ref name=xinhua/>
|-
| {{USA}} || style="text-align:right;"| 340<ref>[http://www.starchefs.com/features/food_debates/foie_gras/index.shtml Foie Gras Food Debate on StarChefs]starchefs.com</ref>
|-
| {{CAN}} || style="text-align:right;"| 200<ref>[https://web.archive.org/web/20080228004632/http://www.mapaq.gouv.qc.ca/NR/rdonlyres/A8B635A2-01C6-40B1-8CE3-B628A2C17F2F/5950/Bioclips13n18.pdf Bio Clips](仏語)</ref>
|-
| {{CHN}} || style="text-align:right;"| 150<ref name=xinhua/>
|-
| その他 || style="text-align:right;"| 940
|-
|'''世界総計''' || style="text-align:right;"| '''23,500'''<ref name=xinhua/>
|}
=== 伝統的な産地 ===
==== フランス ====
[[ファイル:Foie Gras Geese (Normandie).jpg|thumb|200px|right|フォアグラ用に飼育されるガチョウ(フランス・ノルマンディー地方)]][[File:2011-08-27 Frankreich Elsass Strassburg Foie Gras.JPG|thumb|200px|right|ストラスブールのフォアグラ加工場の看板]]
フランスはフォアグラの主たる産地である。世界のフォアグラの生産量は[[2000年]]で約1万8000トンだが、そのうちフランス産は1万5300トンにも及び、フォアグラの生産も消費もフランスが最多となっている。しかしそのフランスでもフォアグラに否定的な人は少なくない。2014年12月に実施されたOpinionWayの調査によると、フランス人の47%がフォアグラの生産における強制給餌の禁止を支持している<ref>[https://www.l214.com/communications/20141220-consommation-sondage-foie-gras 47% des Français sont favorables à l'interdiction du gavage]</ref>
フランス国内では、南西部の[[ペリゴール]]地方(現[[ドルドーニュ県]])と[[ランド県]]が主産地で、ガチョウと鴨の両方のフォアグラが生産されている。南西部全体での生産量は、フランスの生産量の75%を占める。また、[[アルザス地域圏|アルザス地方]]の[[ストラスブール]]や[[ラングドック=ルシヨン地域圏|ラングドック地方]]の[[トゥールーズ]]も、産地としてよく知られている。また、ガチョウよりもアヒルの方が飼育が楽で、病気にも強いことから、今日では鴨のフォアグラの生産量は増加傾向にある。
フランスのフォアグラ産業は、その関連事業の労働者が約10万人いるといわれる<ref name=sankei20131014>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/131014/wec13101412010003-n4.htm 【岡田敏一のエンタメよもやま話】「街の本屋」守るため?仏議会がアマゾン「割引&無料宅配」を法律で禁じた“真の理由”とは…(4/5ページ)- MSN産経west]2013.10.14 12:00</ref>。
2005年に議会がフォアグラはフランスの文化遺産だとする宣言を行うほど、熱心に生産者を保護しているが、[[動物愛護団体]]の攻撃があったり、近年では、[[バイオ燃料]]の普及でエサとなるトウモロコシの穀物が高騰し、生産コストがかつての10倍以上に上昇した<ref name=asahi20111111/>。農家は利益を上げるため飼育数を増やしたが、[[経済危機]]が追い打ちをかけ、フランスでは採算が合わなくなって廃業する農家がでている<ref name=asahi20111111/>。
2013年現在、フォアグラの主要生産国であるフランスは、欧州向け以外に、中国、[[ロシア]]、[[ブラジル]]、[[大韓民国]]、[[台湾]]にも輸出している<ref name=reuter2013>[http://jp.reuters.com/article/idJPTYE92R01J20130328 仏産フォアグラにも欧州債務危機の影、輸出落ち込む | Reuters]2013年 03月 28日 11:47 JST</ref>。
フランス観光開発機構によると、あるフォアグラのブランドは、世界120か国に輸出しているとしている<ref name=ren40280>[http://jp.rendezvousenfrance.com/discover/40280 本場フランスの味!ルージエのフォアグラ**:visites, infos pratiques, évènements] 『日本-フランス観光開発機構オフィシャルサイト』</ref>。
===== フランスのフォアグラ文化 =====
フォアグラの大産地であるフランス南西部[[ランド県]]では、その県都[[モン=ド=マルサン|モンドマルサン]]で2年に一度、「フォアグラエキスポ」(見本市)が行われ、生産者が生産技術を展示する<ref>[http://www.maisondupalmipede.fr/ Foie Gras Expo Mont de Marsan Maison du Palmipède Salon professionnel des filières avicoles Concours Foie Gras]</ref><ref>[http://nature.cc.hirosaki-u.ac.jp/lab/3/animsci/060309_avian_flu_EU.html 仏の「フォアグラ祭り」延期 鳥インフルエンザの影響]朝日新聞社 asahi.com 2006年3月9日より引用、([[弘前大学]]農学生命科学部 畜産学研究室ホームページ)</ref>。
また、フランス南西部の[[ペリゴール]]地方にある[[サルラ=ラ=カネダ|サルラ]]は、フォアグラの街として知られ、2月の第3日曜に「サルラのガチョウ祭」(サルラ フェストワ:{{lang|fr|Sarlat Fest'Oie}})が開催されたり、「フォアグラルート」 ({{lang|fr|la route du Foie gras}}) と呼ばれる、多くの農家がフォアグラを販売する街道もある<ref name=ren40280/>{{refnest|group="注釈"|name="Sarlat"|サルラは、[[1875年]]にルージエ社 ({{lang|fr|rougié}}) が設立され、ルージエ社は2012年現在、フランス産のフォアグラの約30%を占めるメーカーになる<ref name=ren40280/>。}}。
[[1994年]]には、フランスの[[アジャン]]近郊に世界初の「フォアグラ博物館」({{lang|fr|Le Musée du Foie Gras}}) が開設された<ref>[http://www.ot-agen.org/_eng/sejourner/musee/musee-du-foie-gras.htm Agen - Tourist Office - The Foie Gras Museum]</ref><ref>[http://www.souleilles-foiegras.com/musee.html Souleilles Foie Gras - Le Musée du Foie Gras]</ref>。
2013年、[[ヴェルサイユ宮殿]]ではルイ14世の製法をできるだけ再現したフォアグラが、「{{lang|fr|Chateau de Versailles - Epicerie Fine}}」(ヴェルサイユ宮殿-高級食料品)と言う名で販売された<ref>【paris】ベルサイユ宮殿が高級食料品の販売を開始!? - すでにヨーロッパでの展開が話題に。近い将来は日本でも! [http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20131127/1053779/?ST=life&P=1 1],[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20131127/1053779/?ST=life&P=2 2],[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20131127/1053779/?ST=life&P=3 3],[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20131127/1053779/?ST=life&P=4 4], 2013年11月29日 - 日経トレンディネット</ref>。
==== ハンガリー ====
[[ハンガリー]]の[[ドナウ川]]西岸({{仮リンク|ドゥナーントゥール|en|Transdanubia}}、{{interlang|hu|Dunántúl}})でも昔からフォアグラの生産が行われており、フランスへの輸出も盛んである{{refnest|group="注釈"|name="roudou"|フランスに比べて、東欧のハンガリーは安価な労働力という強みがある。ハンガリーは平均収入がフランスの3分の1以下という人件費の安さがある<ref name=asahi20111111/>。}}。フォアグラを取る前のアヒルやカモを数週間フランスで飼育するとフランス産と表示でき、フランス産と記されたフォアグラの半分以上がハンガリーで飼育されたガチョウやカモであることにより、ハンガリーは世界一のフォアグラの生産国だという者もある<ref name=hokudai-recep/>。
[[2006年]]に欧州に[[鳥インフルエンザ]]が流行した際、各国がフランス産からハンガリー産に切り替え、これが世界にアピールする機会になったという<ref name=asahi20111111/>。ハンガリーでは、年間2500-2600トンのフォアグラ(ガチョウとアヒル)が生産され、約20億[[フォリント]]の売上げがあり、これは鶏肉生産高の約1割を占める<ref name=hokudai080911/>。また、約5,000人分の雇用を提供する産業でもある<ref name=hokudai080911/>。
==== ユダヤ人 ====
欧州の[[ユダヤ人]]は、ローマ帝国の崩壊後もフォアグラの生産に携わり、伝統を伝えた<ref name=his-foie>[http://www.artisanfarmers.org/historyoffoiegras.html Artisan Farmers Alliance, Foie Gras Farmers of America]</ref>。たとえば、[[1581年]]にボヘミア皇帝(現在のチェコ一帯)の料理人がフランクフルトで出版した「新しい料理の本」の中には、「[[ボヘミア]]に住むユダヤ人たちに太らせた、3[[リーヴル]](1リーヴル=500g)以上のガチョウの肝臓をローストした」とある<ref name=storyfoie3>[http://www.lecanarddore.co.jp/story/storyfoie3.htm フォアグラについて-フォアグラの歴史「技術の広がりと継承」]</ref>。
植物油が入手しにくい寒冷地では、調理油は主に動物から自給されるが、[[ブタ]]からとれる[[ラード]]はユダヤ人にとって禁忌であり、[[バター]]は乳製品ゆえに肉料理を中心とした献立だけでなく、その後に食べられる[[デザート]]にも使用できない。このため[[カシュルート]]に適正なガチョウの脂肪を抽出して[[シュマルツ]]として利用した。
かつて[[イスラエル]]は[[1940年代]]-[[1950年代]]にヨーロッパから移民したユダヤ人によってフォアグラ生産が行われ、生産量世界3位の国となり、600人の労働者と農夫が150の農場に働いていたが、[[2003年]]のイスラエル最高裁の決定でフォアグラ生産は禁じられることになった<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/3146835.stm Business | Israel court cans foie gras farms]Last Updated: Wednesday, 13 August, 2003, 11:57 GMT 12:57 UK , BBC NEWS </ref>。
=== 新しい産地 ===
近年、生産を開始した国には、ヨーロッパでは[[ベルギー]]、[[スペイン]]、[[ギリシャ]]。その他の地域では[[マダガスカル]]、[[インド]]、[[グアテマラ]]、[[キューバ]]、[[チュニジア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[中華人民共和国]]がある<ref>[http://www.lecanarddore.co.jp/story/storyfoie7.htm 世界のフォアグラ生産地]</ref>。ただしベルギーのフランダース地域は、[[動物福祉]]大臣が強制給餌の廃止を約束したことから、フォアグラ生産が2023年に廃止された<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.euractiv.com/section/agriculture-food/news/belgian-region-ends-force-feeding-as-last-foie-gras-farm-closes |title=Belgian region ends force-feeding as last foie gras farm closes |access-date=20230111}}</ref>。
* [[北アメリカ|北米]](アメリカ合衆国と[[カナダ]])も20世紀後半から生産を始めた<ref name=his-foie/>。アメリカにおいては、[[1950年代]]以降、フランス人のシェフが[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン]]のフレンチレストランでフォアグラを使い始めた<ref name=wsj2008>[http://online.wsj.com/news/articles/SB121207726422829649 A Short History of Foie Gras]Updated May 31, 2008 12:01 a.m. ET - The Wallstreet Journal</ref>。
* ベルギーには[[1984年]]創業のフォアグラ生産会社がある<ref>[http://www.belgium-wallonia.jp/trade/listing 商品リスト - ベルギーの製品(食品・飲料) - Upignac S.A.フォアグラ]ベルギー王国ワロン地域政府 貿易・外国投資振興庁(AWEX)公式サイト</ref>。
* 2011年、[[ブルガリア]]がハンガリーを抜いて、欧州2位のフォアグラ生産国となった。ブルガリアではフォアグラ生産が1万人の雇用を支えている<ref>[http://news.nna.jp.edgesuite.net/free_eu/news/20111209bgl250A.html 【ブルガリア】ブルガリア、欧州2位のフォアグラ生産国に[社会]/NNA.EU]2011-12-9</ref>。ほか[[ルーマニア]]や[[ギリシャ]]の[[バルカン諸国]]でも生産される<ref name=biz6575>[http://agri-biz.jp/item/detail/6575 バルカン農業だより 第5回 - バルカンでも期待される日本の農業技術]越川頼知 2009年12月01日</ref>。
* 中華人民共和国では、新たなフォアグラ生産者に対して欧州の投資家が投資を行い畜産場を作ったり、あるいはノウハウを教え生産させてフランスに輸出する動きがある<ref>{{Cite news
|url = http://www.dailymail.co.uk/news/article-2215489/Foie-gras-factory-project-China-scrapped-Roger-Moores-campaign-torture-tin.html
|title = Foie gras factory project in China scrapped after Roger Moore's campaign against 'torture in a tin' | Mail Online
|author = Graham Smith
|date = 2012-10-10
|accessdate = 2014-02-10
}}</ref><ref>{{Cite newspaper
|url = http://www.independent.co.uk/life-style/food-and-drink/china-goes-gourmet-with-foie-gras-1906067.html
|title = China goes gourmet with foie gras
|newspaper = The Independent
|date = 2010-02-21
|accessdate = 2014-02-10
}}</ref><ref name=jetro2011/>。フランスの企業(例えば{{仮リンク|ユーラリス|fr|Euralis}}社 (Euralis) や VAL DE LUCE 社)は、中国企業と契約したり、提携している<ref name=jetro2011/><ref>[http://www.larepubliquedespyrenees.fr/2013/04/23/euralis-prepare-son-foie-gras-de-luxe-made-in-china,1128052.php Euralis prépare son foie gras de luxe "made in China"]Publié le 23/04/2013 à 06h00, Mise à jour : 23/04/2013 à 08h17 - LaRepubliquedesPyrenees.fr(仏語)</ref>。フランスの企業と提携した、中国の Jilin Zhengfang 社は、2010年現在フォアグラにおいて世界2位のメーカーに躍進した<ref name=jetro2011/>。また、中国産フォアグラの一部は、フランスのブランドとして世界の高級飲食店へ輸出される<ref name=jetro2011/>。中国国内の消費は200トンと言われるが、2010年現在、市場が成長している<ref name=jetro2011>[https://www.jetro.go.jp/world/europe/fr/foods/trends/1102001.html 報道等にみられる食に関する消費動向・トレンド - 市場・トレンド情報 - 食品・農林水産物 - フランス - 欧州 - 国・地域別情報] 2011年2月 - [[ジェトロ]]</ref>。なお、中国においては[[北京ダック]]に用いるアヒルに対して「填鴨」と呼ばれるガヴァージュ同様の給餌手法が用いられている。
=== 消費 ===
==== フランス ====
[[ファイル:Foiegras 20070824.jpg|thumb|250px|フォアグラのソテー]]
フランスは世界最大のフォアグラの消費国であり、全世界で生産されるフォアグラのおよそ75%がフランス国内で消費される<ref name=sankei20131014/>。
[[パテ (料理)|パテ]]に加工し甘めの柔らかい[[パン]]に塗って食べるか、[[ソテー]]して食べるのが一般的だが、[[セイヨウショウロ|トリュフ]]入りのパイ包み焼きのような、[[パイ]]料理の素材としてもよく使われる。フォアグラと[[セイヨウショウロ|トリュフ]]を乗せて焼いた[[ヒレ]]肉の[[ステーキ]]は、[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]風トゥルヌドステーキ ({{interlang|en|Tournedos Rossini}}) と呼ばれる<ref name=ni125451/>。フランスでは、伝統的に[[ソーテルヌ (ワイン)|ソーテルヌ]]のような[[ワイン]]と一緒に食べる。
フランスではクリスマス前になると、産地にフォアグラを買いに行く人が増える<ref name=reuter201112>[http://jp.reuters.com/video/2011/12/26/%E4%BB%8F%E3%81%A7%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%A3%B2%E3%82%8C%E8%A1%8C%E3%81%8D%E5%A5%BD%E8%AA%BF%E5%AD%97%E5%B9%95%E3%83%BB21%E6%97%A5?videoId=227415473 (映像)仏でフォアグラの売れ行き好調(字幕)](クリスマスシーズンの様子)2011-12-26 - Reuters.com</ref>。フランス人はフォアグラを買うことに景気付けの意味合い(うまくいかない時に元気になるため)もあるという<ref name=reuter201112/>。フランスでは、クリスマスの時期の消費が全体の8割に上る<ref name=rtbf121210>[http://www.rtbf.be/tv/thematique/documentaire/detail_les-secrets-de-la-table-de-noel-extrait?id=7890107 Les secrets de la table de Noël / extrait]lundi 10 décembre 2012 à 15h40 - RTBF Documentaires(仏語)</ref>。
2013年現在、フランスの8割の人々がフォアグラを食す<ref name=afp131227>{{YouTube|fCt1ak8LhXY|変革迫られるフランスのフォアグラ産業(日本語字幕)}} - afpbbnews, 2013-12-27[https://www.afpbb.com/articles/-/3005523 記事]</ref>{{要出典|date=2019年1月|title=出典のリンク先が切れており、根拠が不明}}。フランス人の多くにとっては[[クリスマス]]や{{仮リンク|レヴェヨン|en|Réveillon}}という[[正月|新年]]前夜の晩餐でしか口にすることのない珍味である{{refnest|group="注釈"|name="daily-meal"|[[ストラスブール]]においては、フォアグラも地域の特産であるが、日常食としてはほとんど食べられていなかったという[[1993年]]の調査もある<ref>[https://doi.org/10.11402/cookeryscience1995.35.4_375 フランス人の日常食についての実態調査 : 1993年ストラスブールの主婦の場合] (PDF) 379頁、日本調理科学会誌 Vol.35 (2002) No.4 p.375-381、一般社団法人日本調理科学会 </ref>。}}。が、近年になって生産量が増加したため珍しさは薄れてきた。また、クリスマスに偏りがちなフォアグラの消費を通年消費にするために、生産業者はあれこれと販売を工夫し、消費量を拡大している<ref name=jetro2011/>。中には一年中フォアグラを賞味する地域もある。
20世紀の終わりごろになると、フランス国内には自国産品以外に、東欧(ハンガリー、ブルガリア)からの安価な輸入品が流入し<ref name=reuter2013/><ref name=afp5523-1>[https://www.afpbb.com/articles/-/3005523 変革迫られるフランスのフォアグラ産業(1) 国際ニュース:AFPBB News]2013年12月23日 13:54 発信地:オーシュ/フランス</ref>、近年は中国産も台頭する<ref name=jetro2011/>。2010年上半期の貿易収支は、フランス国外からの輸入が激減した影響で、黒字額が大幅に増えた<ref name=jetro2011/>。
フランス北部には「ルクルス」( {{lang|fr|'''Lucullos '''}} ) というフォアグラと牛タンで作られる郷土料理があり、輸出も始まった<ref>{{YouTube|fr-BS3QXg1E|フランスの冬の味覚、フォアグラと牛タンで作る「ルクルス」}}公開日: 2014/01/14 </ref>。
==== ハンガリー ====
お祝いの席でフォアグラを食す<ref name=hokudai-recep/>。とくにフォアグラの[[リゾット]]は、ハンガリー人の大好物とされる<ref name=hokudai-recep/>。フォアグラのリゾットは、リゾットの本家イタリアでは、元来フォアグラを食べる習慣がなく、ハンガリー料理と言ってよいとする者もいる<ref name=hokudai-recep>[https://web.archive.org/web/20150504134759/http://src-hokudai-ac.jp:80/hungary/tips/receptek.html ハンガリー料理のレシピ - フォアグラのリゾット]ハンガリー文化センター:先週のハンガリー・ニュース、(北海道大学)</ref>。
==== 日本 ====
[[ソテー]]にして食べる以外では、{{要校閲範囲|フォアグラの[[とんかつ]]|date=2023年4月}}、[[丼物|丼]]、[[鍋]]、[[寿司]]に調理する店がある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121231/waf12123118000009-n3.htm 【大阪から世界を読む】米「フォアグラ禁止法」に仏反発、中国も参戦で“世界大戦”(3/3ページ)- MSN産経west]2012.12.31 18:00</ref><ref>[http://www.nhk.or.jp/osaka/program/eetoko/past/20130830.html こてこてグルメ街の噂の真相 -大阪・生野区 アン ミカ&大木こだま-]NHK 大阪放送局 『えぇトコ』</ref>。また、[[スナック菓子]]に用いる例もある<ref name=nike20131112/>。
2013年現在、日本への輸入は、全てハンガリー産とフランス産で占められている<ref>[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140117-00010000-takaraj-life ファミレス、居酒屋、コンビニのお菓子にまで…。日本にあふれかえる「フォアグラ」の奇怪 (宝島) - Yahoo!ニュース]宝島 2014年1月17日(金)17時41分配信</ref>。ガチョウのフォアグラの最大の輸入先はハンガリーで、鴨のフォアグラの最大の輸入先はフランスである<ref name=chefpride/>。また、イスラエルおよびユダヤ人が生産するフォアグラは、かつて日本に輸入されていた<ref name=chefpride>[http://www.chefpride.co.jp/foiegras.htm フォアグラ特集]シェフプライド</ref>{{refnest|group="注釈"|name="Israel"|日本が2005年に輸入した家禽(かきん)の臓器は758トンだが、[[農林水産省]]によればその大部分はフォアグラと推定され、フランス産が377トン、ハンガリー産が331トン、イスラエル産が47トンとなる<ref name=asa060613>[https://web.archive.org/web/20060616020743/http://www.asahi.com/special/051102/TKY200606130673.html asahi.com:フォアグラ、ハンガリー産も禁輸 鳥インフルエンザで - 鳥インフルエンザ]2006年06月13日20時04分</ref>。}}。
2013年、[[日経トレンディ]]は、日本でフォアグラが目につく機会が増えたことを報じた<ref name=nike20131112/>。フォアグラは2012年頃には[[ジョナサン (ファミリーレストラン)|ジョナサン]]や[[ココスジャパン|ココス]]といった[[ファミリーレストラン]]のメニューにも登場した<ref name=nike20131112/>。また、[[居酒屋]]チェーン、[[モンテローザ (企業)|モンテローザ]]の店舗にも見られる<ref>[http://biz-journal.jp/2014/02/post_4091.html フォアグラ、なぜ安価で提供する飲食店が増加?生産・輸送コスト減、プチ贅沢志向…(1/2)]2014.02.08 - ビジネスジャーナル</ref>。これらの現象について、「消費者が[[アベノミクス]]の効果で“プチ贅沢”を楽しみたいという気分が盛り上がったからだ」と見ている人物もいる<ref name=nike20131112/>。また、フォアグラが安い価格帯で提供可能となったのは、大量に仕入れることが可能になった点や、フォアグラの集客効果を期待して採算はあえて求めず、他のメニューで利益を出していると説明する店もある<ref name="nike20131112">なぜ今「フォアグラ大放出」!? ファミレス、居酒屋、食べ放題… - “分かりやすさ”が魅力、女性客獲得の切り札にも!? 日経トレンディネット 2013年11月12日 [http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20131106/1053346/]、[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20131106/1053346/?ST=life&P=2]、[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20131106/1053346/?ST=life&P=3]、[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20131106/1053346/?ST=life&P=4]</ref>。この価格低下について、人件費の安い中国産が入ったからではないか、と推測するメディアもあった<ref>[http://biz-journal.jp/2014/02/post_4091_2.html フォアグラ、なぜ安価で提供する飲食店が増加?生産・輸送コスト減、プチ贅沢志向…(2/2)]2014.02.08 - ビジネスジャーナル</ref>。
2014年2月、日本で初めて、フォアグラの料理コンクールが開催された。この「ルージエ レシピコンクール」は仏大手フォアグラメーカー・ルージエ社 ( {{lang|fr|'''Rougié'''}} ) が「日本の料理人の腕を通してフォアグラの調理法を広めたい」と主催した<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201402/0006699389.shtml 社会|フォアグラコンクールで優勝 神戸のシェフ高木さん]2014/2/10 19:51 神戸新聞NEXT</ref>。
=== 調理 ===
フォアグラは他の高級素材[[キャビア]]や[[セイヨウショウロ|トリュフ]]よりも料理のバリエーションが豊富で、温かい料理でも冷たい料理でも使え、ほかの料理の調味料のような使い方も可能であり、アレンジの幅が広い<ref name=nike20131112/>。脂肪含有量が60パーセント以上といわれ、常温で放置すると柔らかくなるため、切る時や焼く時は冷蔵庫から出してすぐに行い、[[テリーヌ]]を作る際の下処理では、柔らかくして用いるとよいとされる<ref>[http://www.hyoei.ac.jp/library/nadeshiko/116.html 世界の高級食材<3>フォアグラ Fois gras]兵庫栄養調理製菓専門学校</ref>。デリケートな調理が必要とされ、強火で調理すると脂分が溶け出したり、生の状態で放置しても脂分が部分的に溶けてしまったりする<ref name=nike20131112/>。また、品質の低いフォアグラはフォアグラ独特の香りではなく[[レバー]]のような香りしかしなかったり、何を食べているか分からない食感になったりする場合もある<ref name=nike20131112/>。
<gallery caption="" widths="200px" heights="150px" perrow="">
Foie gras in store.jpg|スペインの店頭に並ぶフォアグラ
Foie gras top.jpg|真空パックを除去したところ。
06 Éveinage.jpg|調理(血管やすじを取り除く)<ref name=ovni0307/>
Cutting foie gras-2.jpg|フォアグラのカット
</gallery>
==== 真空調理法 ====
{{See also|真空調理法}}
真空低温調理法ともいう。フォアグラは脂肪分が多いため、そのまま加熱調理を行うと脂肪が溶け出し、内容量が4割以上も目減りしてしまう<ref>[https://doi.org/10.11402/cookeryscience1995.30.3_285 外食産業の新しい調理システム]久保 修、日本調理科学会誌、Vol.30 (1997) No.3</ref>。真空調理法は、この課題の解決のために[[1974年]]にジョルジュ・プラリュにより考え出された調理法で、フォアグラをプラスチックフィルムで真空パックし、パックしたまま低温で加熱調理を行う。この方法で脂分の目減りが5パーセント程度に少なくなった<ref>[http://www.tokyo-chefs.jp/information/2012020311084668.html 新調理システム機器を理解し使いこなすために(1)]公益社団法人:全日本司厨士協会 東京地方本部</ref>。
==== 選び方と保存方法 ====
弾力のあるものを選ぶ<ref name=eiyo2010/>。色は鮮やかな[[象牙色]]からやや黄色みがかった色、またはピンク色のものがよいとされる<ref name=eiyo2010/>。胆汁の緑色がついているものは避ける<ref name=eiyo2010/>。
調理を終えたら、その日のうちに使いきるのが原則とされる<ref name=eiyo2010/>。保存するときはラップで包み冷蔵庫で保管する<ref name=eiyo2010/>。
=== 栄養価 ===
{|class="wikitable floatright" style="clear:right"
|+フォアグラ・ゆで(100g中)<ref name=eiyo2010/>
|-
!項目!!分量
|-
|1点重量||16 g
|-
|[[エネルギー]]||510 kcal/100g
|-
|[[タンパク質]]||0.7 g/100g
|-
|[[脂質]]||49.9 g/100g
|-
|[[鉄]]||2.7 mg/100g
|-
|[[ビタミンA]] (RAE)||1000 μg/100g
|-
|[[葉酸]]||220 μg/100g
|}
{{栄養価
|name = フォアグラの[[パテ (料理)|パテ]]缶詰、燻製<ref>[http://ndb.nal.usda.gov/ndb/foods/show/995 Basic Report: 05282, Pate de foie gras, canned (goose liver pate), smoked] Agricultural Research Service , United States Department of Agriculture , National Nutrient Database for Standard Reference , Release 26 </ref><!-- Pate de foie gras, canned (goose liver pate), smoked -->
|image = [[File:French Foie Gras de Canard, canned.jpg|鴨のフォアグラの缶詰|220px]]
|water = 37.04 g
|kJ = 1933
|fat = 43.84 g
|carbs = 4.67 g
|fiber = 0.0 g
|protein = 11.40 g
|calcium_mg = 70
|iron_mg = 5.50
|magnesium_mg = 13
|phosphorus_mg = 200
|potassium_mg = 138
|sodium_mg = 697
|zinc_mg = 0.92
|vitC_mg = 2.0
|thiamin_mg = 0.088
|riboflavin_mg = 0.299
|niacin_mg = 2.51
|vitB6_mg = 0.060
|folate_ug = 60
|vitB12_ug = 9.40
|vitA_ug = 1001
|opt1n = [[ビタミンA]]効力
|opt1v = 3333 IU
|satfat = 14.450
|monofat = 25.610
|polyfat = 0.840
|opt2n = [[コレステロール]]
|opt2v = 150 mg
|right = 1
|source_usda = 1
}}
他の動物の[[レバー]]と同じく、[[ビタミン類]]や[[ミネラル]]に富む<ref name=eiyo2010>[http://co-4gun.eiyo.ac.jp/food%20database/2gun/foods-dic-2-foiegras.html 食材データベース:肉類・フォアグラ]Revised Feb/2010, 『KNUダイエット(四群点数法)』 [[女子栄養大学]] </ref>。12種類のビタミンと9種類のミネラルを豊富に含み、とくに[[ビタミンA]]や[[葉酸]]の含有量が突出して高い。
いわゆる[[フレンチパラドックス]](フランス人はフォアグラ、チーズ、バターなどの[[動物性脂肪]]を多く含む食品を大量に摂取しているにもかかわらず、[[心臓病]]や各種心疾患を患う人の数が少ない)について、大手フォアグラ生産者のルージエ社は、「鴨の脂には不飽和脂肪酸が[[オリーブオイル]](植物油)とほぼ同様に、豊富に含まれている」ことを理由に挙げている<ref>[http://www.rougie.jp/index.php?option=com_content&view=article&id=60&Itemid=59&lang=jp&d75da5f7b75d65ffe0309ef1f41cf1bc=3d52a8191e9cd6efc7cb022dea098235 フォアグラの驚くべき栄養成分]ルージエ(日本語版)</ref>。
{{See also|フレンチパラドックス|ポリフェノール}}
1960年代以降、「動物性脂肪を豊富に含む動物性食品は、健康に悪影響を及ぼす可能性がある」と言われるようになると、栄養学者たちは「動物の肉には、生命維持に欠かせない全ての必須アミノ酸、全ての必須脂肪酸、13種類ある必須ビタミンのうちの12種類がたくさん含まれている」という栄養学上の事実の指摘を控えるようになった<ref name = "Why we get fat" />。[[ビタミンD]]と[[ビタミンB12]]の両方を含む食べ物は「'''動物性食品だけ」'''である<ref name = "Why we get fat">{{Cite book|last = Taubes|first = Gary|year = 2010|title = Why We Get Fat|publisher = Alfred A. Knopf|location = New York City|isbn = 978-0-307-27270-6}}</ref><ref>{{Cite web |author = |date = |url = https://mdrnyu.org/spring-2016-potentially-missing-vitamins-in-the-vegan-and-vegetarian-diet/#:~:text=Lastly%2C%20another%20essential%20nutrient%20that,dairy%20products%2C%20and%20egg%20yolks.|title = Potentially Missing Vitamins in the Vegan and Vegetarian Diet|website = |publisher = mdrnyu.org|accessdate = 19 November 2020}}</ref>。フォアグラは脂溶性ビタミン(A,D,E,K)とビタミンB12、各種ミネラルを豊富に含む。
フォアグラは、「[[アミロイドーシス]]」({{lang|en|'''Amyloidosis'''}}, 組織や臓器において、変質したタンパク質が沈着して機能障害を惹き起こす)を発症する危険因子であることが知られている。2007年、[[米国科学アカデミー紀要]]に発表されたフランスの神経生物学研究所の論文によると、フォアグラの摂取は、炎症性疾患のような一連の病状にかかりやすい個体においてはアミロイド関連疾患を誘発し、加速させる可能性が高くなるという<ref>[https://www.pnas.org/content/104/26/10998 Amyloidogenic potential of foie gras Alan Solomon, Tina Richey, Charles L. Murphy, Deborah T. Weiss, Jonathan S. Wall, Gunilla T. Westermark, and Per Westermark PNAS June 26, 2007 104 (26) 10998-11001]</ref>。
「[[膵炎]]の原因になるため、犬にフォアグラを与えてはいけない」と述べている獣医もいる<ref>[http://www.thelocal.fr/20131203/dont-feed-dogs-foie-gras-at-christmas-french-vets 'Don’t feed dogs foie gras at Christmas,' warn vets]Published: 03 Dec 2013 18:17 GMT+01:00, Updated: 03 Dec 2013 18:17 GMT+01:00 - The Local </ref>。
== 製法 ==
=== 強制給餌を伴う伝統的な生産 ===
[[ファイル:Foie gras - gavage in Rocamadour, France.jpg|thumb|150px|left|フランスにおけるガチョウのガヴァージュ。近代的な機械による給餌。]]
今日、フォアグラ用に飼育されるガチョウは「オワ・ド・トゥールーズ {{lang|fr|Oie de Toulouse}}」のような大型品種である。初夏に生まれた雛を野外の囲い地で放し飼いにし、牧草を食べさせ、[[強制給餌]]に耐えられる基礎体力を付けさせる<ref name=2003gravure/>。夏を越して秋になると飼育小屋に入れ、[[消化]]がよいように柔らかくなるまで蒸したトウモロコシを、[[漏斗]](ガヴール)で[[胃]]に詰め込む[[強制給餌]](ガヴァージュ)と呼ばれる“肥育”を1日に3回繰り返す。職人技の手作業にこだわる農場では、餌のトウモロコシは250グラムから始め、最後に倍になるよう少しずつ増やしていく<ref name=afpbb20131223-2>[https://www.afpbb.com/articles/-/3005523?pid=0&page=2 変革迫られるフランスのフォアグラ産業(2) 国際ニュース:AFPBB News]2013年12月23日 13:54 発信地:オーシュ/フランス</ref>。1ヶ月の肥育で、脂肪肝になった肝臓は2kgに達するほどに肥大し、頭部と胴体を水平にする姿勢をとるようになる。この段階のガチョウを屠殺して肝臓を取り出し、余分な[[脂肪]]、[[血管]]、[[神経]]を丁寧に除いてから、冷水に浸して身を締めたものがフォアグラである。食味をよくするために、調理の前処理でも血管や神経を除く<ref name=ovni0307>[http://www.ovninavi.com/737societe 「高貴な食材、そして フランスの大切な文化」]2013年3月7日、パリの日本語新聞オヴニーのウェブ版-OVNI</ref>。
鴨のフォアグラ生産用には、[[ノバリケン]]を家畜化したバリケン種(バルバリー種)と、マガモを家畜化したアヒル(ペキンアヒルが好まれる)を交雑した[[雑種第一代|一代雑種]]が好まれる。{{仮リンク|ムラード (動物)|en|Mulard|label=ムラード}}またはムーラーと呼ばれるこの雑種アヒルは、バリケン種のように大型でマガモ系アヒルのように成長が速く、しかも丈夫でおとなしいためフォアグラ生産に向いている<ref>{{cite book
|title = The Foie Gras Wars
|last = Caro
|first = Mark
|year = 2009
|publisher = Simon & Schuster
|isbn = 978-1-4165-5668-8
}}</ref>。
アヒルは、ガチョウにはない[[素嚢]](そのう)と呼ばれる食道にある袋のような器官に餌が多量に入っていると、消化の速度が上がるという特性を持っている。そのため、人の手による[[強制給餌]](ガヴァージュ)を行う前に10日間ほど好きなだけ餌を食べさせるプレガヴァージュを行い、効率よく強制給餌を進める。給餌は一日2回で、期間は3週間である。また、近年では機械化された飼育場ですりつぶしたトウモロコシを自動的に与え、2週間ほどで強制給餌を終わらせる速成法もあるが、素嚢でトウモロコシが[[発酵]]してしまうため、フォアグラの質は劣る。
なお、フォアグラ用に飼育されるガチョウやアヒルは基本的にオスである。メスの肝臓は静脈が多く屠殺時と調理時に除去する手間がかかるためオスのフォアグラより評価が低い。このためメスの雛は孵化後にオスと選別された後に殺処分されることが殆どである。
フォアグラ生産で最も大切な点は、ガチョウやアヒルにできるだけストレスを与えないことだという<ref name=2003gravure/>。強制給餌が開始される前の3か月程度、自然豊かな場所にある農場に、広い運動場を設けることもある。また、毎日同じ人が餌を与えると、強制給餌のストレスが軽減されるという<ref name=2003gravure>[http://lin.alic.go.jp/alic/month/fore/2003/mar/gravure.htm ベルギーのフォアグラ生産 ブラッセル駐在員事務所]畜産の情報-グラビア-2003年3月 月報海外編</ref>。
フォアグラを取り出した残りの屠体には、肥育によって多量の脂肪が蓄積されている。フランスの伝統的なフォアグラ産地では残った肉は[[グリル]]や煮込み料理の他、ガチョウ自身の脂肪で油煮にして保存食料の[[コンフィ]]を作る{{refnest|group="注釈"|name="languedoc"|フランスの地方料理は多用する油脂の種類で特徴付けられ、例えば[[ノルマンディー]]や[[ブルターニュ]]地方は[[バター]]文化圏、[[イル・ド・フランス]]地方は[[ラード]]文化圏であるが、フォアグラの主要な産地のひとつである[[ラングドック]]地方はガチョウ脂肪[[文化圏]]に属している。}}。ガチョウの血を[[パセリ]]や[[ニンニク]]と混ぜて凝固させたものはサングェットまたは{{仮リンク|サンクェット|fr|Sanquette}}と呼ばれ、ガチョウの脂で炒めて食べる<ref>{{Cite book
|author = Paula Wolfert
|title = The Cooking of South-west France
|year = 1988
|publisher = Perennial Library
|isbn = 0-06-097195-9
|page = 14
}}</ref>。
また、飼育期間の長い[[ピレネー山脈|ピレネー]]地方のムーラー種からは良質の羽毛が副産物として取れる<ref>[http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/11468/1/61J14438.pdf 羽毛品質の改善に関する検討 53頁](PDF) 三重大学社会連携研究センター研究報告. 2010, 18, p. 51-56.</ref>{{refnest|group="注釈"|name="Waterfowl"|美味な肉と珍味の肝臓(フォアグラ)を採る為に飼育されたグースは、肉や卵用のダックに比して、一般的に機能的には優れており、グースは体も大きいので大きなダウンが取れ易い<ref>[http://kwd.jp/main3.html 羽毛とは]河田フェザー株式会社</ref>。}}。
=== 強制給餌の無い長期飼育のフォアグラ ===
強制給餌を用いずに飼育期間を長くしてフォアグラを生産する、しばしば“倫理的なフォアグラ” ({{lang|fr|ethical foie gras}}) と紹介される飼育法がある。スペインの{{仮リンク|エドゥアルド・スーザ|en|Eduardo Sousa}}が経営する農場兼レストラン、ラ・パテリア・デ・スーザ ({{lang|fr|La Pateria de Sousa}}) では、自然に近い飼育場で半野生のガチョウを放し飼いにし、[[渡り]]の季節にエネルギー源として肝臓に脂肪を蓄える習性を利用してフォアグラを生産している。農場から渡りに出てしまい出荷できなくなるガチョウもいるが、全体の10パーセント程度に留まるという{{refnest|group="注釈"|name="kimochi"|ここのガチョウの群れは農場の近所に飛んでいくこともあるが、農場が気に入っているため、再び帰ってくる。野生の鴨の群れが飛来することもある。この放し飼いの手法は、ガチョウの気持ちに寄り添ったものなので、ガチョウが閉じ込められていると感じないように害獣除けの電気網の設置の仕方にも気を配ったり、あるいは、翼を怪我して飛び立てないメスを飼い、渡りをしようとする群れ全体をそのメスが引き止めるので群れが留まるような工夫をする。}}。この方法の課題は、近年の[[気候変動]]の影響を受けてか、収穫の時期(渡りの時期)が一定しないことだという<ref>[http://punta.jp/archives/21718 強制給餌なしで育った「幸せなガチョウ」のフォアグラ | ニュースマガジン PUNTA - プンタ]2014年1月17日、Author:プラド夏樹</ref><ref>[http://www.meatinfo.co.uk/news/fullstory.php/aid/16463/Spanish_farmer_produces__91ethical_92_foie_gras.html Spanish farmer produces ‘ethical’ foie gras - MeatInfo]12 December, 2013, By Line Elise Svanevik</ref><ref>[https://www.huffpost.com/entry/ethical-foie-gras_b_3380752 Ethical Foie Gras]by Daniel Klein, Posted: 06/03/2013 5:37 pm, Part of AOL-HuffPost Food ※スペイン語動画付き</ref>。
この生産者のフォアグラは、2006年、フランスのクー・ド・クール ({{lang|fr|''Coup de Coeur''}}) という美食コンテストで優勝したことで注目された<ref name=myeurop/><ref>[https://recommend-ted.blogspot.com/2013/05/blog-post.html ダン・バーバー「驚くべきフォアグラ物語」]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20071128130319/http://www.regiondigital.com/modulos/mod_periodico/pub/mostrar_noticia.php?id=47071 Economía : El Salón Internacional de la Alimentación de París, SIAL 2006, reconoce a la empresa extremeña "La Patería de Sousa"]2006年10月16日 - www.regiondigital.com</ref>。この飼育法はガチョウに強制給餌をすることなく、ガチョウに自ら餌をついばませる方法であるため、飼育期間は一年かかるといわれ費用がかかるが、味に高い評価を得ているため価格は高価になる<ref name=rtbf121210/><ref name=myeurop>[http://fr.myeurop.info/2013/07/23/le-meilleur-foie-gras-du-monde-est-espagnol-11691 Le meilleur foie gras du monde est espagnol]Mar, 23/07/2013 - 14:07, myEurop(仏語)</ref>。
== 動物愛護の観点から規制される飼育方法 ==
[[ファイル:28-gavage-foie-gras-cages-individuelles-France-2012.jpg|thumb|200px|right|個別ケージはフォアグラ農場で使用される]]
[[ファイル:Gavage industriel des canards à foie gras en cages collectives, France 2012.jpg|thumb|200px|right|大規模な工場生産の例]]
<!--ガチョウやアヒルを運動させず、飼料を大量に無理矢理食べさせて[[脂肪肝]]を発症するまで肥大させることで製造することから、古くから不自然な食材としてこれを否定的にみる議論も見られた{{要出典|date=2014-2-13}}。[[昆虫学]]者の[[ジャン・アンリ・ファーブル|ファーブル]]は、嫌って食べなかったことが伝えられている{{要出典|date=2014-2-13}}。
--><!-- 著名人はファーブルだけ? -->
批判の主な矛先は、上記のような伝統的な職人技の農場や、倫理的な生産法ではなく、工場化した大規模農場に集中している<ref name=afpbb20131223-2/>。大規模農場では、数千羽のアヒルが、3羽ひとまとめの狭いケージで肥育されるが、ケージは給餌作業がしやすいよう作業者の身長に合わせて地上に設置され、床にはアヒルの糞尿と食べ残しが放置されたり、飼育数が多いため、一羽一羽の健康状態にまで手が回らないと報じられる<ref name=afpbb20131223-2/>{{refnest|group="注釈"|name="tohoku"|[[東北大学]]大学院教授の佐藤衆介(応用動物行動学)は、「フォアグラ生産には、[[食道]]の損傷、脚の変形、異常な歩様や歩行、そして高死亡率を伴う強制給餌という家畜福祉問題がある。」と書いている<ref>[https://doi.org/10.4190/jjvc.32.98 学術シンポジウムⅠ. 家畜の生産と動物福祉](PDF),99頁、佐藤衆介(東北大大学院 農学研究科)、日本家畜臨床学会誌 Vol.32 (2009) No.2 p.98-99</ref>。}}。
近年は、飼育環境を改善するための対策が取られ始め、フランスの農業・農産加工業・林業省はフォアグラ生産者に対し、3羽が少なくとも動き回ったり翼を広げたりできる大きさのケージを[[2016年]]までに採用するよう求めた<ref name=afp5523-1/>。
===強制給餌の問題===
[[ファイル:Mulard duck being force fed corn in order to fatten its liver for foie gras production.jpg|thumb|250px|給餌される様子]]
今日、[[強制給餌]]を伴わないフォアグラ生産は前述の[http://lapateria.eu/ La Pateria de Sousa農場]以外に確認されず、市場に出回るほぼ100%のフォアグラは強制給餌が行われている。
この[[強制給餌]]は動物福祉の観点から論争がおこっており、後述するように複数の国でフォアグラの強制給餌が禁止されている。
2015年12月に発表された英国ケンブリッジ大学のDonald M. Broom教授と、生物学博士Irene Rochlitz博士の共著による報告書「フォアグラ製造におけるアヒルの福祉」<ref>The Welfare of Ducks during Foie Gras Production By Professor D.M. Broom and Dr. I. Rochlitz Cambridge University Animal Welfare Information Service 14 September 2015 https://cdn.uc.assets.prezly.com/1ec913a1-b75c-4b19-b2c7-1dcbf188cc70/-/inline/no/</ref>では、次のように述べている。
{{quotation|強制給餌は、鳥の嘴、頭部、目、鼻孔、頚部および上消化管への傷害および痛みを引き起こすだけでなく、肥満を引き起こし、結果的に脚に負傷および痛みを引き起こす。さらに、アヒルが摂取しなければならない大量の高エネルギー食品は、かなりの熱ストレスを引き起こし、彼らは自分の体温を調整しようと努力して、多くの時間をあえいで(息切れして)費やす。
コントロールグループと比較して、強制給餌されたアヒルは、不動、横になったまま長時間過ごす、ほとんど身づくろいしたり触れ合ったりしない、長時間の息切れなど、一連の行動変化を示している。}}
また[[国際連合食糧農業機関]](FAO)は2002年に次のように述べている。
{{quotation|フォアグラのための脂肪質の肝臓の生産は、深刻な動物福祉の課題を含んでおり、そしてそれはFAOによって容認される習慣ではない。現在、欧州連合の法律は、強制給餌を生産が定着した領域にだけにとどまらせている。<ref>FAO ANIMAL PRODUCTION AND HEALTH PAPER-154 ISSN 0254-6019 http://www.fao.org/docrep/005/Y4359E/y4359e0d.htm</ref>}}
また、フォアグラ生産農場における鳥の死亡率は、通常の飼育に比べて10-20倍と報告されており<ref name="skippon">Skippon, W. (2013). “The animal health and welfare consequences of foie gras production“. Canadian Veterinary Journal. 54 (4): 403–404. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3595949/</ref>、欧州連合の科学委員会は次のように結論付けている。
{{quotation|フォアグラ生産における強制給餌は鳥の福祉にとって有害である<ref name="eureport"/>}}
なお、この[[強制給餌]]への批判に対し、アメリカの『{{lang|en|'''Artisan Farmers Alliance'''}}』(職人農民同盟)は、「鴨やアヒルは(人間と違って)[[絞扼反射|咽頭反射]]は無く、苦も無く大きな魚を呑み込めること、独立した獣医や科学者が害が無いと考えている」と反論している<ref>[http://www.artisanfarmers.org/factsaboutfoiegras.html Artisan Farmers Alliance, Foie Gras Farmers of America]</ref>。
=== フォアグラの強制給餌を禁止する各地の動き ===
[[ファイル:Foie gras ilegal Mapa.PNG|thumb|right|350px|{{legend|#FF0000|フォアグラを生産する主な国や地域}} {{legend|#0000CD|生産を禁止した国や地域}}<ref>[http://www.itavi.asso.fr/economie/eco_filiere/NoteConjonctureFoieGras.pdf Foie Gras] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130921060121/http://www.itavi.asso.fr/economie/eco_filiere/NoteConjonctureFoieGras.pdf |date=2013年9月21日 }}ITAVI - Institut Technique de l'AVIculture</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20080627221326/http://www.mensvogue.com/food/articles/2006/08/21/foie_gras?currentPage=1 Foie gras: Pleasure, or murder most fowl?: Food: mensvogue.com]</ref><ref>[http://www.pacma.es/n/12865 Prohibido el foie gras en California :: PACMA]</ref>]]
[[動物愛護]]や[[動物の権利]]論の高まりとともに、フォアグラ規制の動きがある。2023年、[[ドイツ]]では、小売業者が強制給餌で得たフォアグラを販売したとして500ユーロの罰金を科された<ref>{{Cite web |url=https://www.peta.de/presse/erfolg-erstmals-auflage-fuer-verkauf-von-stopfleber/ |title=Nach PETA-Anzeige: Händler muss wegen Verkauf von Stopfleber 500 Euro als Auflage zahlen |access-date=20230613}}</ref>。
オーストリアに拠点を置く[[動物愛護団体]]{{仮リンク|フィアープフォーテン|de|Vier Pfoten}}の創設者ドゥングラーは、2011年、「我々の活動で[[西ヨーロッパ|西欧]]のフォアグラ市場はすでに崩壊寸前だ。次の標的はハンガリーのような[[東欧]]諸国だ」と述べた<ref name=asahi20111111/>。
==== 欧州 ====
[[欧州評議会]](46か国加盟)の「農業目的で保持される動物の保護に関する欧州条約」加盟国35カ国では、フォアグラの生産は「すでに定着している場合を除き」、1999年に禁止された{{refnest|group="注釈"|name="eu19980720"|1998年7月20日の指令。「家畜は、健康を維持し、その栄養的必要を満たすために、その年齢とその種類に応じた安全な飼料を、量的に十分に与えられなければならない。いかなる家畜も、苦痛もしくは無益なダメージを被るようには、えさを与えられ、水を飲まされてはならない」<ref name=suda>[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/project/pdf/obk2-23-2.pdf 第2章 フランスの農業及び農政の最近の動向](PDF) (須田文明)、農林水産政策研究所/構造分析プロジェクト(欧米韓)研究資料 第2号、欧米の価格・所得政策と韓国のFTA国内対策 (その2)、74-75頁 - 農林水産省</ref>。}}。一方で、[[欧州議会]](27か国加盟)はフォアグラの生産について「動物の生体パラメータを尊重した大規模な生産形態であるため、動物福祉基準を尊重した農業手順に基づいている」とする農業動物福祉の実施報告書<ref>{{Cite web |url=https://www.eurogroupforanimals.org/news/decerle-report-prioritises-economic-interests-farmers-over-and-above-welfare-farmed-animals |title=Decerle Report prioritises the economic interests of farmers over and above the welfare of farmed animals |accessdate=20220218}}</ref>を[[2022年]][[2月15日]]に採択している。
[[イタリア]]、[[チェコ]]、[[デンマーク]]、[[ドイツ]]、[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]、[[ポーランド]]、[[ルクセンブルク]]の各国と[[オーストリア]]の9州のうち6州では、「動物の強制給餌」自体が禁止されたことにより、フォアグラの生産は事実上、違法となった。2022年にはマルタ共和国がフォアグラを禁止した。同国ではすでに生産は行われておらず、今後事業を開始するのを防ぐための予防措置として施行<ref>{{Cite web |url=https://newsbook.com.mt/en/foie-gras-production-and-fur-farming-banned-in-malta/ |title=Foie gras production and fur farming banned in Malta |access-date=20221109}}</ref>。また、[[アイルランド]]、[[イギリス]]、[[スウェーデン]]、[[オランダ]]、[[スイス]]でも、動物保護法の解釈上、フォアグラの生産は違法とされた。ただし、いずれの国も、輸入したフォアグラの販売は禁止されていない。
[[フランス]]、[[スペイン]]、[[ベルギー]](、[[ギリシャ]]、[[ルーマニア]]<ref name=biz6575/>、[[ブルガリア]]<ref name=biz6575/>では、フォアグラの生産が続いている。
===== ベルギー =====
ベルギー連邦三つの地域のうちの一つであるフランダース地域は、[[動物福祉]]大臣が強制給餌の廃止を約束したことから、フォアグラ生産が2023年に廃止された<ref name=":0" />。また2022年の調査によると、同国のワロン地域でも、約70%がフォアグラにおける強制給餌に反対している<ref>{{Cite web |url=https://www.gaia.be/fr/campagnes/7-wallons-sur-10-souhaitent-linterdiction-du-gavage-force-des-canards-et-des-oies |title=7 WALLONS SUR 10 souhaitent l’interdiction du gavage forcé des canards et des oies |access-date=20230113}}</ref>。
===== フランス =====
2005年度の世界生産量23,500トンの内、18,450トンがフランスで生産され、フランスが依然として一大産地である。2005年10月、[[フランス]]の[[国民議会 (フランス)|国民議会]]の[[下院]]が農業政策に関する包括法の一部として、フォアグラは[[フランス文化|仏文化]]の遺産であるとした法案を全会一致で可決した<ref name=yomiuri2005/><ref name=aka051022>[https://web.archive.org/web/20051024045505/http://www.asahi.com/international/update/1022/002.html フォアグラは「文化遺産」仏で法案可決 虐待批判に対抗]2005年10月22日01時28分, 朝日新聞社(asahi.com)</ref>。
{{quotation|フォアグラはフランスで保護された美食的文化遺産の一部をなす<ref name=suda/>}}
その際、フランスが世界でフォアグラの80%以上を生産していることを指摘し、保護すべき仏文化、料理の貴重な遺産であると宣言した<ref name=yomiuri2005/>。ガチョウやアヒルの強制肥育についても、他に方法はなく止むを得ないとして、擁護する姿勢を鮮明にした<ref name=yomiuri2005>フォアグラは仏文化の「遺産」、仏下院が法案可決 【パリ=島崎雅夫】2005年10月20日 読売新聞</ref>。フォアグラを文化遺産とするのは、[[欧州連合]] (EU) の家畜保護規定が、宗教・文化的な習俗は規制対象外としていることによる、という<ref name=aka051022/>。
いっぽうでフランス人の47%が、フォアグラのための強制給餌の禁止を支持すると回答しており<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/world/2014/dec/21/force-fed-foie-gras-loses-favour-france |title=Force-fed foie gras loses favour in France |access-date=20221222}}</ref>、近年フランスでは、フォアグラの代替となる[[ヴィーガニズム|ヴィ―ガン]]仕様などの代替品が出回り始めている<ref>{{Cite web |url=https://www.poultryworld.net/the-industrymarkets/market-trends-analysis-the-industrymarkets-2/consumers-in-paris-choose-between-foie-gras-or-faux-gras/ |title=Consumers in Paris choose between foie gras or ‘faux gras’ |access-date=20221222}}</ref>。
===== ハンガリー =====
ハンガリー最大のフォアグラ生産会社フンゲリト<ref>{{YouTube|oFcxO9qD96g|Hungarian foie gras(フンゲリト社の工場の資料映像)}}</ref>({{lang|hu|Hungerit Zrt.}}:{{仮リンク|センテシュ市|en|Szentes}} (Szentes) に本社・工場)が、2008年8月末に強制給餌で飼育されたガチョウとアヒルの生産を中止し従業員200人を解雇するが、同社の労働組合は9月、解雇の原因となった動物愛護団体のフィアープフォーテンの建物前で抗議した<ref name=hokudai080911/>。この動物愛護団体は2006年からフンゲリトを攻撃し、[[ハイパーマーケット]]向けの[[ブラックリスト]]に掲載させ、取引をしないよう呼びかけた<ref name=hokudai080911/>。労働組合はブラックリストからの削除と、生産の再開を求めた<ref name=hokudai080911>[https://web.archive.org/web/20140221174518/http://src-hokudai-ac.jp/hungary/tips/amulthet080911-20.html フォアグラ生産中止の波紋広がる:動物愛護団体前で抗議行動]ハンガリー文化センター:先週のハンガリー・ニュース080911-20、(北海道大学)</ref>。
動物愛護団体の攻勢が強まった2008年、ハンガリー議会が国内の特産物を保護する決議を採択した<ref name=asahi20111111/>。これを受け、「食の伝統文化」としてフォアグラを保護し、財政支援を行う法案づくりの動きが進んだ<ref name=asahi20111111/>。鶏肉生産者団体 ({{lang|hu|Baromfi Termék Tanács}}) は、伝統的なフォアグラ生産を「ハンガリーの文化」の一部として認めるよう、動物愛護法を改正するよう求めた<ref name=hokudai080911/>。
[[2011年]]7月、オロシャザ市で<ref>オロシャザ市には、ハンガリーにおけるフォアグラの大手メーカーのREX CIBORUM社がある</ref>、新たにフォアグラ業界団体『ハンガリー・フォアグラ協会』を設立する計画が発表され、[[11月9日]]に正式に発足した<ref name=asahi20111111/>。国内の養鶏や加工・貿易・レストランをはじめ、業界全体がスクラムを組み、動物愛護団体の圧力に対抗する<ref name=asahi20111111>[https://web.archive.org/web/20111113183506/http://digital.asahi.com/articles/TKY201111100643.html 朝日新聞デジタル:「フォアグラは虐待」批判 生産2位ハンガリーは対抗]2011年11月11日03時00分</ref>。
===== アメリカ合衆国 =====
2004年9月29日、[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア州]]では、州内で「肝臓肥大を目的とした鳥類の強制給餌」と「強制給餌によって作られた製品の販売」を[[2012年]]以降禁止する法律を成立させ、2012年7月1日から飲食店やスーパーでの提供が禁止となり、違反すれば1日当たり1000ドルの罰金が科されることとなった<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012063000088 1日からフォアグラ禁止=駆け込み消費、反発の声も-米加州] - 時事ドットコム、2012年6月30日。</ref>。このためか、禁止直前に消費が4倍に増加したり<ref name=narinari>[https://www.narinari.com/Nd/20120818643.html フォアグラ禁止令に“抜け穴”、加州でたっぷり170g使用のバーガー。]2012/08/06 12:38。動画付き。</ref>、禁止後に隣接する[[ネバダ州]]でフォアグラの消費が増加した<ref name=yucasee/>。カリフォルニアから遠出して買いにくるからだという<ref name=yucasee>[http://media.yucasee.jp/posts/index/12634 隣の州までフォアグラを買いに行く加州セレブ | YUCASEE MEDIA(ゆかしメディア)]最終更新:2012年12月19日 12時15分</ref>。また、あるレストランは州政府へ抗議を込めて、フォアグラを使ったハンバーガーの早食い競争にフォアグラを販売せずに無償提供した<ref name=narinari/>。抗議の意味が込められた[[ハンバーガー]]の名前は「{{lang|en|Shut the Duck Up Burger}}」(「だまりやがれ!」という意味のフレーズの[[ファック#用法|一部]]を“duck”に置き換えた名称)だった<ref name=narinari/><ref>{{YouTube|C8th1R2J-Ag|"Shut the Duck Up" Burger, foodbeastTV}}</ref>。また、フランスの政治家は、カリフォルニア州への報復措置として、カリフォルニアの[[ワイン]]を提供しないようフランスのレストランに呼びかけた<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M71XSQ6JTSEU01.html フォアグラ禁止に激怒の南仏-カリフォルニアにワインで報復]更新日時: 2012/07/13 00:58 JST - Bloomberg</ref>。
2006年4月には、[[イリノイ州]][[シカゴ]]で、市議会の決議によってフォアグラの販売が全面的に禁止された<ref name=afp20080516/>。しかしこの条例制定後、すぐに地元レストランのシェフらから猛反発を受け、訴訟にまで発展した。市民の反発があるため、取り締まりもほとんど行われなかった<ref name=afp20080516/>。{{仮リンク|リチャード・M・デイリー|en|Richard M. Daley}}市長も「シカゴ市を国中の物笑いの種にするようなもの」と批判し、撤廃を訴えた。当時48対1の圧倒的多数で可決した同条例は、2008年5月、市議会で37対6で廃止が決まり、制定後2年で失効した<ref name=afp20080516/>。フォアグラ禁止中は、市内にある一部のレストランがフォアグラを無料にすることで「法の抜け穴」を利用し、フォアグラを提供した<ref name=afp20080516/>。こうしたレストランは、[[1920年]]-[[1933年]]の[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法時代]]に「[[スピークイージー]]」 (speakeasy) と呼ばれる場所で酒をこっそり売っていたのに因み、「ダッキージー」 (duckeasy) と呼ばれた<ref name=afp20080516>[https://www.afpbb.com/articles/-/2391921 シカゴ市、フォアグラ販売禁止条例を廃止 写真2枚 国際ニュース]2008年05月16日 21:19 - AFPBB News</ref>。
2019年10月30日、[[ニューヨーク]]市議会は、無理やり太らせたカモやガチョウからとるフォアグラの提供を禁じる条例を可決した。条例は2022年に施行された<ref>{{Cite web |author = Jeffery C. Mays and Amelia Nierenberg|date = |url = https://www.nytimes.com/2019/10/30/nyregion/foie-gras-ban-nyc.html|title = Foie Gras, Served in 1,000 Restaurants in New York City, Is Banned|website = |work = [[The New York Times]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20191031180313/https://www.nytimes.com/2019/10/30/nyregion/foie-gras-ban-nyc.html|archivedate = 31 October 2019|accessdate = 16 January 2021}}</ref>。
2023年12月18日、[[ペンシルベニア州]]の[[ピッツバーグ|ピッツバーグ市]]議会が、フォアグラの生産、および販売を禁止する議案を可決。同議案には「動物虐待を減らすことは公共の利益だ」と書かれている<ref>{{Cite web |url=https://triblive.com/local/pittsburgh-bans-foie-gras-pauses-efforts-to-bar-fur-sales-horse-drawn-carriages/ |title=Pittsburgh bans foie gras, pauses efforts to bar fur sales, horse-drawn carriages |access-date=20231222}}</ref>。
===== その他の国 =====
*イスラエルでは、2003年8月に最高裁が農林水産省に対してガチョウの強制給餌を禁止するよう指示を出し<ref>[https://web.archive.org/web/20140213085108/http://www.47news.jp/CN/200308/CN2003081101000441.html フォアグラ生産は残酷 イスラエル最高裁が禁止]2003/08/11 12:27 共同通信</ref>、2006年2月以降に禁止された。
*アルゼンチンでは、フォアグラの生産は禁止されている。
==== その他の動き ====
[[ファイル:15-contestation-foie-gras-champs-elysees-10-12-2011.JPG|thumb|200px|right|生産法に反対する人たち([[動物愛護団体]]L214<ref name=afp131227/>)]]
* 2007年3月、[[ウルフギャング・パック]]は、アメリカ動物愛護協会 ( '''HSUS''' ) に協力し、自身の経営するレストランチェーンのメニューからフォアグラを除いた<ref>[http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-25233620070323 米有名シェフ、自然食ブームに賛同しメニュー変更 | エンタテインメント]2007年 03月 23日 14:55 JST - Reuters</ref>。
* 2008年、[[英国王室]]は、動物愛護団体の指摘により、公邸でフォアグラを使用しないことに決めた<ref name=a080301>[https://www.afpbb.com/articles/-/2357296 チャールズ英皇太子、公邸でのフォアグラ料理を禁止 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News]2008年03月01日 21:59 </ref>。2022年に動物保護団体[[動物の倫理的扱いを求める人々の会|PETA]]は、イギリスの[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ国王]]が王宮でのフォアグラの使用を禁止していることを再確認している<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/c33a03aba752020d2b70ac0a1596cb559d6cb31f/comments |title=チャールズ英国王、公邸でフォアグラ提供禁止 動物愛護団体 |access-date=20221121}}</ref>。
* 2008年、[[イングランド]]東部[[ケンブリッジ]]の有名レストラン、{{仮リンク|ミッドサマーハウス|en|Midsummer House}} ({{lang|en|Midsummer House}}) はメニューからフォアグラを外したが、[[エコテロリスト|強硬派]]の[[動物愛護団体]]である[[動物解放戦線]] ({{lang|en|Animal Liberation Front}}) の[[脅し]]や[[暴力]]を受けていた<ref name=a080301/>。
* 2009年、ベルギーの動物愛護団体が偽のフォアグラ・「ガイアのフォアグラ」({{lang|fr|Gaia de Faux Gras}}) を作った。植物から製造され、[[ベジタリアン]](菜食主義者)でも食せる<ref>[http://www.portfolio.nl/article/show/3065 ポートフォリオ - オランダニュース - ベルギー動物愛護団体 「フォアグラ」販売]2009-12-02 16:07 </ref>。
* 2012年12月、英国[[下院]]に続き、英国[[上院]]でも、動物愛護団体の抗議により、そのレストランでのフォアグラの使用が避けられた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2918066 英上院レストランがフォアグラメニュー廃止、動物愛護団体の批判うけ 写真1枚 国際ニュース]2012年12月25日 17:39 AFPBB News</ref>。
* 2013年、オンラインショッピングサイト大手の [[Amazon.com|Amazon]] は動物愛護団体が問題視するフォアグラを含む[[象牙]]や[[鯨肉]]、[[フカヒレ]]をはじめとする計100品目の英国サイトでの販売禁止に踏み切った<ref name=s20131014-4/><ref>[http://www.japanjournals.com/index.php?option=com_content&view=article&id=3990:aaaaaaaa&catid=37:uk-today&Itemid=96 10/15 動物虐待…フォアグラ、英「Amazon」で販売禁止に]2013年 10月 14日(月曜日) 23:00</ref>。これにフランス政府や議会は、インターネット書店業者に対し、書籍を割引販売して、無料配達するというサービスを禁止する法を制定したり<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/131014/wec13101412010003-n1.htm 【岡田敏一のエンタメよもやま話】「街の本屋」守るため?仏議会がアマゾン「割引&無料宅配」を法律で禁じた“真の理由”とは…(1/5ページ)]2013.10.14 12:00 - MSN産経west</ref>、新しい課税制度で対抗した<ref name=s20131014-4/>。フランスのギョーム・ギャロ農務大臣は「アマゾンの決定は遺憾である」とし、「私は動物の幸福を尊重しながら、長年にわたり素晴らしい製品の品質維持に努めるわが国の(フォアグラ)生産者の努力を示したい」と述べた<ref name=s20131014-4>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/131014/wec13101412010003-n4.htm 【岡田敏一のエンタメよもやま話】「街の本屋」守るため?仏議会がアマゾン「割引&無料宅配」を法律で禁じた“真の理由”とは…(4/5ページ)]2013.10.14 12:00 - MSN産経west</ref>。
* 2014年1月、デンマークでは議論を受けて、[[スーパーマーケット]]・チェーンの全てがフォアグラ販売から撤退し、小規模な小売店が販売するのみとなった<ref name=" denmark">{{Cite news
|url = https://www.afpbb.com/articles/-/3006746
|title = フォアグラ販売、最後のスーパーが撤退 [[デンマーク]]
|newspaper = 国際ニュース:AFPBB News
|date = 2014-01-17
|accessdate = 2014-01-17
}}</ref>。
* 日本の[[コンビニエンスストア]][[チェーンストア|チェーン]]の[[ファミリーマート]]は、2014年1月28日からフォアグラを使用した弁当「ファミマプレミアム[[黒毛和種|黒毛和牛]]入り [[ハンバーグ]]弁当 - フォアグラパテ添え」の発売を予定していたが、販売への抗議意見が22通寄せられ、発売を見合わせた<ref>{{PDFlink|[http://www.family.co.jp/company/news_releases/2014/140124_01.pdf 商品発売の見合わせに関するお知らせ]}} - ファミリーマート、2014年1月24日</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140124/biz14012417490018-n1.htm ファミマに「フォアグラの飼育は残酷」と抗議 やむなく特製弁当の販売を中止] 産経新聞 2014年1月24日</ref>(事実上の発売中止)。
* [[機内食]]からフォアグラの提供を止めた主要航空会社があり、[[スカンジナビア航空]]、[[KLMオランダ航空]]、[[エア・カナダ]]、[[デルタ航空]]、[[ユナイテッド航空]]、[[アメリカン航空]]、[[ニュージーランド航空]]が挙げられる。
* 2019年、イギリスの[[労働党 (イギリス)|労働党]]は、[[公約]]の一つにフォアグラの輸入禁止を掲げた<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-30 |url=https://web.archive.org/web/20190902225648/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019083100401&g=int |title=商業捕鯨の再開停止を=英最大野党が公約発表 |publisher=時事通信 |accessdate=2019-08-31}}</ref>。
* 2023年、オランダ王室がフォアグラの提供を禁止<ref>{{Cite web |url=https://royalcentral.co.uk/europe/netherlands/king-willem-alexander-follows-in-the-example-of-king-charles-as-he-bans-foie-gras-at-royal-residence-189461/ |title=King Willem-Alexander bans foie gras at royal residence |access-date=20230514}}</ref>
* 2023年、日本のセレモニー企業が28施設の結婚式場のコースメニューに、動物性素材を使用しない植物性フォアグラを導入<ref>{{Cite web |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000100472.html |title=「株式会社Dr.Foodsによる”ヴィーガン・フォアグラ”と”ヴィーガン・キャビア”が全国28施設の結婚式場のコースメニューに採用(約16万食分)」 |access-date=20231225}}</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*Lang, George. ''The Cuisine of Hungary''. Bonanza, New York, 1990.
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Foie gras}}
*{{仮リンク|フォアグラ論争|en|Foie gras controversy}}
*{{仮リンク|カリフォルニア州・フォアグラ法|en|California foie gras law}}
*[[ガチョウ]]
*[[キャビア]]
*[[セイヨウショウロ|トリュフ]]
*[[北京ダック]]
*[[海のフォアグラ]]
*[[神豬]]
== 外部リンク ==
*[http://online.wsj.com/news/articles/SB121207726422829649 A Short History of Foie Gras](簡単な年表) - The Wallstreet Journal{{en icon}}
*[http://jp.reuters.com/video/2011/12/26/%E4%BB%8F%E3%81%A7%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%A3%B2%E3%82%8C%E8%A1%8C%E3%81%8D%E5%A5%BD%E8%AA%BF%E5%AD%97%E5%B9%95%E3%83%BB21%E6%97%A5?videoId=227415473 (映像)仏でフォアグラの売れ行き好調(日本語字幕)](クリスマスシーズンの様子) - Reuters.com
*[http://www.maisondupalmipede.fr/ Foie Gras Expo] - フランスのフォアグラエキスポ{{fr icon}}
*{{YouTube|gbhGKc86eSk|フォアグラが溶けにくい焼き方}} - [http://shinpoh.com/cate3.html 株式会社シンポフーズ]
*[http://www.madeinmouse.com/file/uploads/2013/05/livret_recettes_guy_martin_sarrade_delpeyrat_japon_2.pdf フォアグラの12レシピ例](PDF)
;生産方法
*[http://lin.alic.go.jp/alic/month/fore/2003/mar/gravure.htm フォアグラ生産の例](ベルギー)- 『畜産の情報』2003年3月
*[http://www.artisanfarmers.org/factsaboutfoiegras.html Artisan Farmers Alliance, Foie Gras Farmers of America] - 強制給餌についての反論{{en icon}}
*{{TED talk|id=dan_barber_s_surprising_foie_gras_parable
|title = ダン・バーバー: 驚くべきフォアグラ物語
|詳細 = スペインの“倫理的なフォアグラ”飼育農場について。字幕あり。[https://recommend-ted.blogspot.com/2013/05/blog-post.html 解説]
|date = 2008年7月
|time = 20分24秒
}}
;議論
*[http://video.jp.msn.com/watch/video/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E%E3%81%A77%E6%9C%88%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A6%81%E6%AD%A2-%E5%B4%96%E3%81%A3%E3%81%B7%E3%81%A1%E3%81%AE-%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%A9/2a11jqfei (動画)米カリフォルニア州の禁止撤廃を求める人々を取材(日本語字幕)][http://www.afpbb.com/articles/-/2885053 by AFP](原題:カリフォルニア州で7月から禁止、崖っぷちの「フォアグラ」) - MSN ビデオ
*[http://jp.reuters.com/news/video/combo?type=oddlyEnoughNews&videoId=236297003&videoChannel=203 (動画)米カリフォルニア州で禁止直前に嘆く人々の動画ニュース(日本語字幕)- Video](原題:フォアグラ禁止法が発効、米カリフォルニア州)- Reuters.com
*{{YouTube|cbDBPoMDHCg|米カリフォルニア州でのフォアグラ禁止、フランスの生産者は?(日本語字幕)}} - afpbbnews, 2012年7月すぎ
*[http://webronza.asahi.com/culture/2014013100004.html 過剰反応? 「フォアグラ弁当」発売中止] - 朝日新聞社 (WEBRONZA)
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日本酒
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日本酒(にほんしゅ)、または和酒(わしゅ)は、通常は米(主に酒米)と麹と水を主な原料とする清酒(せいしゅ)を指す。日本特有の製法で醸造された酒で、醸造酒に分類される。
日本古語では「酒々(ささ)」、仏教僧侶の隠語で「般若湯(はんにゃとう)」、江戸時代頃より、「きちがい水」という別称も使われる。現代では「ポン酒(ぽんしゅ)」と呼ばれることもある。
アメリカでは「sake(サーキー)」と呼ばれることが多い。
日本では、酒類に関しては酒税法が包括的な法律となっている。同法において「清酒」とは、次の要件を満たした酒類で、アルコール分が22度未満のものをいう(3条7号)。
なお、日本酒に類似する酒類として「その香味、色沢その他の性状が清酒に類似する」混成酒である「合成清酒」(同条8号)や、どぶろくなど一部の「その他の醸造酒」(同条19号)がある。
一般的な日本酒のアルコール度数は15~16%と醸造酒としては高い部類になる。女性や若者など軽い酒を好む消費者や、輸出を含めた洋酒との競争に対応するため、アルコール度数がビールよりやや高い程度の6~8%台や、ワインと同程度(10%台前半)の低アルコール日本酒も相次ぎ開発・販売されている。発泡日本酒では5%という製品もある。
逆に、清酒と類似の原材料、製法で酒税法上の定義より高いアルコール度数(22度以上)の酒を製造することも技術的には可能である。「越後さむらい」(玉川酒造)のように、清酒の製法(醸造した原酒にアルコール添加・加水しての製造)で製造されながらアルコール度数が46度に達する酒も存在する(酒税法上は3条21号のリキュール扱い)。
日本酒的かつ個性的な酒を、時には米・水以外の原料も加えて少量醸造する動きもあり、2022年6月には「クラフトサケブリュワリー協会」が6つの醸造所により設立された(製品は酒税法では「その他の醸造酒」「雑酒」となる)。「クラフト」を冠した酒類については「クラフトビール」参照。
普通酒とは、後述の特定名称酒以外の清酒である。一般に流通している大部分の日本酒は普通酒に分類される。
米、米こうじ、水のほか、清酒かす(酒粕)、政令で定める物品を原料(副原料)として製造される。この物品には、醸造アルコール、焼酎、ぶどう糖その他の糖類、有機酸、アミノ酸塩(うま味調味料など)または清酒がある(酒税法施行令2条)。これらの副原料は、その重量が米・米こうじの重量を50%を超えない範囲という条件つきで使用を認められている(酒税法3条7号ロ)。
三倍増醸清酒、またはそれをブレンドした酒は、2006年(平成18年)の酒税法改正で清酒の範疇には含まれなくなった。合成清酒は元より清酒ではないので、普通酒ではない。
製法や品質が特定名称酒に相当する日本酒であっても、特定名称を表示せず、普通酒として販売する場合もある。
製品としては各メーカーが独自の名称、ランク付けを用いて表記される。
清酒の要件を満たしたもののうち、原料や製法が一定の基準を満たすものは、国税庁告示に定められた特定の名称を容器又は包装に表示することができる。特定名称を表示した清酒を特定名称酒という。
特定名称酒は、農産物検査法に基づく米穀検査により3等以上に格付けされた玄米又はこれに相当する玄米を精米した白米を用い、こうじ米の使用割合(白米の重量に対するこうじ米の重量の割合)が、15%以上のものに限られる。
特定名称酒の表示は、当該特定名称によることとされ、これと類似する用語又は特定名称に併せて「極上」「優良」「高級」等の品質が優れている印象を与える用語は用いることができない。ただし、特定名称の清酒を含めて自社の製品のランク付けとしてのみであれば、表示することができる(「特別」を除く)。
特定名称酒は、原料や精米歩合により、本醸造酒、純米酒、吟醸酒に分類される。
特定名称以外にも特徴的な原料や製法によって様々な分類があるが、これらは国税庁の告示(清酒の製法品質表示基準)によるものと、酒造メーカーや業界団体によって伝統的・慣用的に用いられるものがある。前者は、特定名称といくつかの記載事項・任意記載事項・記載禁止事項を定めている。後者は、付加価値を高めるための、前者において定義されていない多様な分類が見られるが、同意の分類でも地方や世代などによって異なる用語が用いられることがあり(中取り/中汲み等)、統一されていない。「特撰」「上撰」「佳撰」といった呼称も、酒造メーカー独自のランク付けとして一部で使われているものである。
特定名称の使用が定められる以前は、「特級(酒)」」「一級(酒)」「二級(酒)」という級別制度が存在した(詳しくは「日本酒の歴史」を参照)。
国税庁の清酒の製法品質表示基準による任意記載事項は、以下の通り。
以下3項目は、上槽時に搾りが施されている間の時期(前期・中期・後期など)で分類されるが、明確な基準はない。
が指定を受けているほか、日本国内全体を産地として保護する「日本酒」も指定されている。
上述の通り「日本酒」または「Japanese Sake」の表示は、地理的表示保護制度によって日本国内において製造された清酒にのみ認められている。日本国外で製造された清酒は「日本酒」と呼称することができないほか、「日本風」「日本式の製法」などとラベルや広告、店頭ポップ等に表示することもできない。
また、外国産の日本酒については、「酒」「清酒」「〇〇産清酒」としてのみ販売できる。日本以外で作られた「外国産清酒」を日本国内で販売する場合には、原産国名および外国産清酒を使用したことの表示が必要となる。アメリカなどでは「SAKE(サーキー)」が一般的であり、こちらで呼ばれることが多い。
日本酒は、シャーベット状に半ば凍らせた「みぞれ酒」から常温の「冷や」、約60°C程度までの「熱燗」と、幅広い温度帯で飲まれる。同種のアルコール飲料を同じ地域で、異なる温度により味わうのが常態である例は、他に中国の紹興酒などがある程度であり、比較的珍しい(熱燗について「燗酒」も参照)。
悪酔いを防ぎ、心身の健康を保つため、食事や「和(やわ)らぎ水」と呼ばれる水と一緒に飲むことを、日本酒関連団体などが推奨している。
いずれの温度帯でも日本酒をそのまま飲むことが多いが、熱燗では、火を通した魚を浸して味を付ける骨酒、ひれ酒の伝統もある。さらに現代では、杯に氷を入れるオン・ザ・ロック、水割りやお湯割りと飲み方も多様化した。ハイボールやカクテルの素材にもなる。日欧文化比較によれば江戸時代頃には通年燗をつけて飲むのが普通であり、また水割り(正確に言えば水増し)の酒が多かったとされる。
日本酒は、魚介類の臭み消しのほか、煮物などを含めた味・香り付けなどの調味料として、調理に使用される。調理専用の料理酒も製造・販売される。日本酒の製造過程で生じる酒粕(さけかす)は酒粕焼酎の原料になる他、甘酒などにして飲用したり、粕漬けや粕汁などの料理に用いたりされる。
2018年度(平成30年度)における清酒の製成数量は40万6,064キロリットル、販売(消費)数量は48万8,696キロリットルである。名産地・灘があり大手日本酒メーカーの集中する兵庫県(約26%)、同じく伏見のある京都府(約22%)が多い。これに、新潟県(約8%)、埼玉県(約4%)、秋田県(約4%)と続く。成人一人当たりの日本酒販売(消費)数量は、新潟県が最も多く、東北・北陸地方の各県がこれに続く。
2017年度(平成29年度)の清酒の製造業者数は1,371業者で、そのうち中小企業が99.6%を占めている。
蔵元が所在する地域の地方自治体にとって、日本酒は重要な地場産業の一つである。このため、東京などに出店したアンテナショップで地酒を販売したり、宴会などでまず地元産日本酒を飲むことを勧める乾杯条例を制定したりと、様々な振興策を展開している。
清酒の酒類製造免許を新たに取得できるのは、既存の清酒製造者が、企業合理化を図るため新たに製造場を設置して清酒を製造しようとする場合等に限られており、新規参入は制限されている。新規参入には、休廃業した酒造会社を買収し酒蔵の免許を移転する方法が使われる(北海道の上川大雪酒造の例)。2021年には海外への輸出を後押しするため、輸出用清酒製造免許が設定された。第1号は福島県のねっかに交付された。
日本酒の主な原料は、米と水と麹(米麹)である。広義には、日本酒の醸造を支える酵母・乳酸菌などの全てを「日本酒の原料」と呼ぶこともある。専門的には、香味の調整に使われる醸造アルコール、酸味料、調味料、アミノ酸、糖類などは副原料と呼んで区別する。
用途によって、麹米(こうじまい)用と掛け米(かけまい)用の2種類がある。
麹米には通常酒米(酒造好適米)が使われる。掛け米には全部または一部に一般米(うるち米)が使われるが、特定名称酒の場合には酒米のみが使われることが多い。普通酒は麹米、掛け米ともにすべて一般米で造られるのがほとんどである。
原料米の選び方や使い方は、かつては特定名称酒などの高級酒ともなると代表的な酒米の山田錦一辺倒の傾向すらあったが、今日では一般米からも高い評価を得る酒が造られており、近年は新種の開発などにより変化が著しい。
米が豊作の年には、米の質の関係から、醸造に失敗しやすい事もある。これは豊作の年の米が比較的硬いため、酵母が充分繁殖するのに時間がかかり、その間に雑菌が繁殖してしまうのだという。大正4年(1915年)には、この現象(後に「大正の大腐造」とも呼ばれたという)により日本各地で醸造に失敗、酒造業全体に深刻なダメージを被ったとされている。
水は日本酒の80%を占める成分で、品質を左右する大きな要因となる。このため灘の宮水など、地域によっては特別な名称で呼ばれる場合もある。水源はほとんどが伏流水や地下水などの井戸水である。条件が良い所では、これらを水源とする水道水が使われることもあるが、醸造所によって専用の水源を確保することが多い。都市部の醸造所などでは、水質の悪化のために遠隔地から水を輸送したり、良質な水源を求めて移転したりすることもある。酒造りに使われる水は酒造用水と呼ばれ、仕込み水として、また瓶、製造設備などの洗浄用水として利用される。蔵元の一部は、仕込み水を商品として販売している。
東京都心に立地する東京港醸造は敢えて水道水を使っている。その理由としては、東京都水道局が取水する利根川・荒川水系が中軟水で、酒造りに不適な一部ミネラル(鉄分やマンガン)が少ないのと、安全・衛生的で殺菌用塩素も製造工程で抜けるため支障がないことを挙げている。
日本酒に用いる麹は、一般的に蒸した米に麹菌(ニホンコウジカビの胞子)を振りかけて育てたものであり、その色からニホンコウジカビは黄麹ともいわれ、米麹(こめこうじ)ともいう。これが米のデンプンをブドウ糖に変える糖化の働きをする。だだし21世紀からは日本酒の醸造においても、焼酎や泡盛の醸造で使われていた白麹と黒麹(アワモリコウジカビ)が使われ始めており。白麹(黒麹のアルビノ突然変異体)を醸造に使用した酒は、2009年の新政酒造の「亜麻猫」の発売以来普及した。白麹は多くのクエン酸を生成するため、微生物の繁殖を防ぐ能力が高く、クエン酸由来の酸味が強い風味を持つ傾向に仕上がりやすい。酒母を作る伝統的な方法である生酛づくりや山廃づくりにおいても、より近代的な方法の速醸なみの速さででき、それらは速醸と違い人工的に作られた乳酸を添加しないため「無添加」の表示ができ、特に輸出する際のマーケティングの観点から有利である。
日本酒が原料とする米の主成分は多糖類であるデンプンだが、そのままでは酵母がエネルギー源として利用できない(デンプンから直接アルコール発酵を行えない)ので、まず麹の働きによって分子量の小さな糖へと分解する必要がある。つまり、酵母がブドウ糖からアルコールを生成できるように、下ごしらえとしてデンプンを糖化してブドウ糖を生成する役割を担うのが米麹である。米麹は、コウジカビが生成するデンプンの分解酵素であるα-アミラーゼやグルコアミラーゼを含み、これらの働きによって糖化が行われる。ほかにタンパク質の分解酵素も含んでおり、タンパク質を分解して生じるアミノ酸やペプチドは、酵母の生育や完成した酒の風味に影響する(参照:#麹造り)。
洋酒を代表するワインでは、原料であるブドウ果汁の中に既にブドウ糖が含まれているので、こうした糖化の工程が要らない単発酵文化圏となった。東洋においては、日本酒だけでなく、他の酒類や味噌・味醂・醤油など多くの食品に麹が使われ、食文化的に複発酵文化圏、カビ文化圏などとも呼ばれる。これは東南アジアから東アジアにかけての中高温湿潤地帯という気候上の特性から可能であった、微生物としてのカビの効果を利用した醸造法である。東洋で使われる麹菌にはさまざまな種類があり、焼酎には白麹・黒麹(黒麹菌)・黄麹、泡盛には黒麹、紹興酒には赤麹が用いられるのが通常だが、日本酒の場合は味噌、味醂、醤油と同じく一般的に黄麹(きこうじ、黄麹菌・黄色麹菌)が用いられる。ただし、「黄」と言っても実際の色は緑色や黄緑色に近い。
酒造会社が使う麹や酒蔵に以前から定着している微生物以外の納豆菌や雑菌などは、酒に悪影響を与える。特に納豆菌が麹米に繁殖すると、スベリ麹と呼ばれるヌルヌルした納豆のような麹になる。このため見学者らに来訪直前は納豆を食べないよう求める造り酒屋もあり、また酒造期の蔵人が納豆を食さない所もある。
日本で用いられる麹は、肉眼で見る限り米粒そのままの形状をしており、散麹(ばらこうじ)と呼ばれる。それに対して、中国など他の東洋諸国で用いられる麹は餅麹(もちこうじ)と呼ばれ、原料となる米・麦など穀物の粉に水を加えて練り固めたものに自然界に存在するクモノスカビやケカビの胞子が付着・繁殖してできるものである。
麹の中の米のデンプンから生成されたブドウ糖は、酵母によって分解され、エタノールと二酸化炭素が生成される。酵母は真菌類に属する単細胞生物であって原料ではないが、これが行うアルコール発酵が日本酒造りの過程において大きな要素であるためここに記す(詳細は清酒酵母を参照)。多種多様な酵母の中で日本酒の醸造に用いられるものを清酒酵母といい、種は80%以上がSaccharomyces cerevisiae(出芽酵母)である。何十万もの種類が自然界に広く存在しており、それぞれ異なった資質を持っている。酵母の多様性は酒の味や香りや質を決定付ける重要な鍵となる。
前近代には、麹と水を合わせる過程において空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、酒蔵に棲みついた「蔵つき酵母」(家つき酵母)に頼ったりするなど、その時々の運任せであった。このため、科学的再現性に欠けており、醸造される酒は品質が安定しなかった。
明治時代になると微生物学の導入によって有用な菌株の分離と養育が行われ、それが配布されることによって日本酒全体の品質の安定・向上が図られた。1911年(明治44年)第1回全国新酒鑑評会が開かれ、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で1位となるなど客観的に優秀と評価された酵母を純粋培養して頒布した。頒布された酵母(協会系酵母または協会酵母)には、日本醸造協会に因んで「協会n号」(nには番号が入る)という名が付けられている。アルコール発酵時に二酸化炭素の泡を出す泡あり酵母(協会1号から協会15号など)と、出さない泡なし酵母に大別される。泡なし酵母は突然変異により生まれた発酵時に泡を出さない酵母で、酒造りの過程において泡守り(あわもり)が不要であるなど利点も多いために研究が進み、従来の泡あり酵母のなかで優良な種株の泡なし版が多く作られていった。
元々、日本酒には米の持つ地味な香りだけがあり、ワインのようなフルーティーな香りは無かったが、鑑評会向けに優れた香りを持つ酒を醸造する工夫が重ねられて吟醸酒が誕生し、各地の蔵で吟醸造りが行われるようになった。これに大きな役割を果たしたのが協会系酵母の中の協会7号(真澄酵母)と協会9号(香露酵母・熊本酵母)であった。1980年代に吟醸酒が一般層にも広く受け入れられて消費が伸びてくると、この他にも少酸性酵母、高エステル生成酵母、リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す泡なし酵母が作られ、1990年代以降はそれぞれ開発地の地名を冠する静岡酵母、山形酵母、秋田酵母、福島酵母などが登場し、吟醸造りに用いられる酵母も多様化していった。
最近では、アルプス酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母や、東京農業大学がなでしこ、ベコニア、ツルバラの花から分離した花酵母など、強い吟醸香を引き出すものが注目を集めており、今も大手メーカーやバイオ研究所、大学などで様々な酵母が作られている。協会系酵母として現在頒布されているものの70%近くは泡なし酵母である。
一方、新たに開発された酵母によっては吟醸香が不自然に強すぎて酒の味を損なうなど、却って好まれない場合もあるため、一概に香りを強く鮮やかにすることが望ましいわけではない。
乳酸は、他の雑菌が繁殖しないようにするために、特に仕込みの初期に重要である。また、乳酸を始めとする有機酸が、酒に“腰”を与える。酛立ての際に醸造用乳酸を加える場合と、乳酸菌に乳酸を作らせる場合があり、前者を速醸(そくじょう)系、後者を生酛(きもと)系と呼ぶ。
正式には副原料に区分されるもの。
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日本酒はビールやワインと同じく醸造酒に分類され、原料を発酵させてアルコールを得る。発酵では酵母が単糖類を利用する。ブドウを原料とするワインなどは、含まれる糖質が単糖なため、そのまま利用される。しかし、アルコール醸造は原料の糖質が単糖のまま利用されるばかりではない。日本酒やビールの原材料である米や麦では多糖類(でんぷんなど)として貯蔵された形になっている。そのため含有される多糖類を単糖にする糖化という過程が必要である。ビールの場合は、アミラーゼにより完全に麦汁を糖化させた後に発酵させる。日本酒は糖化と発酵を並行して行う工程があることが大きな特徴である。並行複発酵と呼ばれるこの日本酒独特の醸造方法が、他の醸造酒に比べて高いアルコール度数を得ることができる要因になっている。日本酒で糖化の工程で利用されるのが麹になる。
日本酒は、次の過程を経て醸造される。
玄米から糠・胚芽を取り除き、あわせて胚乳を削る。削られた割合は精米歩合によって表される。
米に含まれるタンパク質・脂肪は、米粒の外側に多く存在する。醸造の過程において、タンパク質・脂肪は雑味の原因となるため、米が砕けないよう慎重に削り落とされ、それにより洗練された味を引き出すことができる。その反面、精米歩合が低くなればなるほど米の品種の個性が生かしにくくなり、発酵を促すミネラル分やビタミン類も失われるので、後の工程での高度な技術が要求されることになる。
精米の速度が速すぎると、米が熱をもって変質したり砕けたりするので、細心の注意をもってゆっくり行わなくてはならない。吟醸、大吟醸となると、削りこむ部分が大きいだけでなく、そのぶん対象物が小さくなって神経も使うので、精米に要する時間は丸二日を超えることもある。
1930年(昭和5年)頃以降は縦型精米機の出現により、より高度で迅速な精米作業が可能になり、ひいてはのちの吟醸酒の大量生産を可能にした(参照:吟醸酒の誕生)。最近ではこの縦型精米機をコンピュータで制御して精米している大手メーカーもある。
2023年時点で最も精米されている日本酒は、新澤醸造店の「零響 Crystal 0」(137万5千円)であり、精米歩合0.85%以下(99.15%以上を除去)の記録を持つ。
精米後の白米、分け後の酒母、出麹後の麹を次の工程で使用されるまで放置すること。
精米された米はかなりの摩擦熱を帯びている。精米歩合が低く、精米時間が長ければ長いほど、帯びる熱量も大きくなる。そのままでは次の工程へ進むには米の質が安定していない(杜氏や蔵人の言葉では「米がおちついていない」)ため、袋に入れて倉庫の中でしばらく冷ますことになる。また、摩擦熱によって蒸発した水分を元に戻す。これを放冷(ほうれい)、また杜氏・蔵人の言葉では枯らし(からし)という。「しばらく」と言っても数時間単位で済む作業ではなく、摩擦熱が放散しきって完全に米が落ち着くまで通常3週間から4週間は掛かる。
精米された米は、精米の過程で表面に付いた糠・米くずを徹底的に除去される。これが洗米(せんまい)である。
普通酒を造る米などは、機械で一度に大量に洗米される。他方、高級酒を造る米は、手作業でおよそ10キログラムぐらいずつ、5°C前後の冷水で、流れる水圧を利用して少しずつ洗われる。洗っている間にも米は必要な水分を吸収し始めており、「第二の精米作業」と言われるほどに、細心の注意を払う工程である。こうして洗われた米は浸漬へ回される。
洗米された米は、水に漬けられ、水分を吸わされる。これを浸漬(しんせき、若しくは、しんし)という。
浸漬は、のちのち蒸しあがった米にムラができないように、米の粒全般に水分を行き渡らせるために施される工程である。水が、米粒の外側から、中心部の心白(杜氏蔵人言葉では「目んたま」)と呼ばれるデンプン質の多い部分へ浸透していくと、米粒が文字通り透き通ってくる。米の搗(つ)き方、その日の天候、気温、湿度、水温など様々な条件によって、浸漬に必要な時間は精緻に異なる。
このとき、米にどれだけ水を吸わせるかによって、できあがりの酒の味が著しく違ってくる。米の品種や、目指す酒質によって、浸漬時間も数分から数時間と幅広い。精米歩合が低い米ほど、その違いが大きく結果を左右するので、高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位まで厳密に浸漬時間を管理する。米は水から上げた後もしばらく吸水し続けるので、その時間も計算に入れた上で浸漬時間は判断される。
なお、できあがりの酒質のコンセプトによっては、意図的に途中で水から上げるなど、ある一定の時間だけ米に吸水させる。これを限定吸水(げんていきゅうすい)という。
蒸気で米を蒸し蒸米をつくる。蒸米は、麹、酒母、醪を作る各工程で用いられる。
浸漬を経た米は広げて、湿度を保たせる。この間も米は水分を吸収し続ける。
その後、麹の酵素が米のデンプンを分解しやすくさせるために、米を蒸す。この工程を正式には蒸きょう(じょうきょう:「きょう」は「食へんに強」)、もしくは杜氏蔵人言葉で蒸しという。普通酒などでは自動蒸米機(じどうじょうまいき)という機械で、高級酒などでは和釜に載せた甑(こしき)という大きな蒸籠(せいろ)に移して、40分から1時間ほど蒸す。
蒸し上がった米は、「外硬内軟」といって、外側がパサパサとしていて内側が柔らかいのがよいとされている。後の工程で米の形がある程度残る硬さを保ち、また効果的にコウジカビの生育を促す意味を持つ。外側が溶けていると、コウジカビの定着の前に腐敗が始まる恐れがあり、また、内側に芯が残っていると、菌糸の成長が抑えられ米で一番良質のデンプン質を含んだ部分が、糖化・発酵しない可能性があるからである。
なお、酒造期最後の蒸しが終わり、和釜から甑を外すことを甑倒し(こしきだおし)という。
麹とは、蒸した米に麹菌というコウジカビの胞子をふりかけて育てたもので、米のデンプン質をブドウ糖へ変える糖化の働きをする(詳しくは麹参照)。麹造りは正式には製麹(せいきく、せいぎく)という。
口噛み製法で醸されていた原初期の酒造りを除いて、奈良時代の初めには既に麹を用いた製法が確立していたと考えられる。以来、永らく麹造りは、酒造りの工程に占める重要性と、味噌や醤油など他の食品への供給需要から、酒屋業とは別個の専門職として室町時代まで営まれてきたのだが、1444年の文安の麹騒動によって酒屋業の一部へと武力で吸収合併された(参照:日本酒の歴史 - 室町時代)。
現在、たいてい酒蔵には麹室(こうじむろ)と呼ばれる特別の部屋があり、そこで麹造りが行われている。床暖房やエアコンなどで温度は30°C近く、湿度は60%に保たれている。温度が高いのは、そうしないと黄麹菌が培養されないからであり、また湿度に関しては、それ以上高いと黄麹菌以外のカビや雑菌が繁殖してしまうからである。雑菌の侵入を防ぐために入室時には手洗いや靴の履き替えを行い、関係者以外は入れないのが普通である。それに加え、室外から雑菌が入り込まないように二重扉、密閉窓、断熱壁など、かなりの資本をかけて念入りに造られている。よく「麹室は酒蔵の財産」と言われる。
「麹」の項に詳しく述べられているように、麹からは糖化作用のためのデンプン分解酵素のほか、タンパク質分解酵素なども出ており、これらが蒸し米を溶かし、なおかつ酒質や酒味を決めていく。あまり酵素が出すぎると目指す酒質にならないため、米の溶け具合がちょうど良いところで止まるように麹を造る必要がある。
杜氏や蔵人の間ではよく「一麹(いちこうじ)、二酛(にもと)、三造り(さんつくり)」と言われる。「良い麹ができれば酒は七割できたも同然」という杜氏や蔵人もいるくらいで、酒造りの根本として重要視される。
目指す酒質によって、麹造りには以下のような方法がある。
酵母を増やす工程のこと。杜氏・蔵人言葉では「酛立て」(もとだて)という。
酵母にはブドウ糖をアルコールに変える働き、すなわち発酵作用があるものの、酒蔵で扱うような大量の米を発酵させるためには、微生物である酵母が一匹や二匹ではまったく不十分で、米の量に見合っただけの大量の酵母が必要となる。
こうした状況の中で酒蔵では、アンプルに入っている少量の優良酵母を特定の環境で大量に育てることになる。このように大量に培養されたものを酒母(しゅぼ / もと)または酛(もと)という。
作業としては、まず酛桶(もとおけ)と呼ばれる高さ1mほどの桶もしくはタンクに、麹と冷たい水を入れ、それらをよく混ぜる。これを水麹(みずこうじ)と呼ぶ。酛桶は、最近では高品質のステンレス鋼など表面を琺瑯(ほうろう)加工した金属製タンクが使われることが多いが、醸造器としてはあくまでも「酛桶」と呼ばれる。一方で、酒母造りの前後の工程に使われる甑や樽を含めて、木製道具を使い続けたり、復活させたりする酒蔵もある。
そのあと水麹に醸造用乳酸と、採用すると決めた酵母を少量だけ入れる。採用する酵母は、多種多様な清酒酵母から、造り手が目指す酒質に適すると考えるものが通常は一種類だけ選ばれるが、その酵母があまりにも強い特性を持つ場合などには、それを緩和するためにもう一種類の酵母をブレンドして入れることも多い。
上記のものに蒸し米を加えると酒母造りの仕込みは完成する。あとは製法によって2週間から1ヶ月待つと、仕込まれた桶の中で酵母が大量に培養され酒母すなわち酛の完成となる。
酒母造りの場所は、酒母室(しゅぼしつ)もしくは酛場(もとば)と呼ばれ、雑菌や野生酵母が入り込まないように室温は5°Cぐらいに保たれている。しかし麹室に比べると管理の厳重さを必要としないので、酒蔵によっては見学者を入れてくれる所もある。酒母室の中では、酵母が発酵する小さな独特の音が響いている。
酒母造りの際には、タンクの蓋は開け放しの状態になるから、空気中からタンク内にたくさんの雑菌や野生酵母が容易に入り込んでくる。そのため硝酸還元菌や乳酸菌を加え、乳酸を生成させることによって雑菌や野生酵母を死滅させ駆逐することが必要となる。この乳酸を、どのように加えるかによって、酒母造りは大きく生酛系(きもとけい)と速醸系(そくじょうけい)の2つに分類される。
生酛系(きもとけい)の酒母造りは現在大きく生酛と山廃酛(やまはいもと)に分けられる。
速醸系(そくじょうけい)は、雑菌や野生酵母による汚染を防止するために必要な乳酸を人工的に加える製法。現在造られている日本酒のほとんどは速醸系である。
菩提酛や煮酛などがある。
材料(酒母、麹、蒸米、水)を3回に分けてタンクに入れて醪を作り発酵させる。
醪(もろみ)とは、仕込みに用いるタンクの中で酒母、麹、蒸米が一体化した、白く濁って泡立ちのある粘度の高い液体のことである。醪造りは、単に「造り」とも呼ばれる。「一麹、二酛、三造り」というときの「造り」はこれを意味している。造りを行う場所を仕込み場(しこみば)という。
醪造りの工程においては、麹によって米のデンプンが糖に変わり、同時に、酵母は糖を分解しアルコール(と炭酸ガス)を生成する。この同時並行的な変化が日本酒に特徴的な並行複発酵である。
醪を仕込むとき、三回に分けて蒸米と麹を加える。この仕込み方法は段仕込みもしくは三段仕込みと呼ばれ、室町時代の記録『御酒之日記』にも既に記載がある。もし蒸米と麹とを全量、一度に混合して発酵を開始させると、酒母の酸度や酵母密度が大きく下がり、雑菌や野生酵母の繁殖で醪造りは失敗しやすくなる。段仕込みは、発酵環境を安定させ雑菌の繁殖を防ぎつつ酵母を増殖させ、その状態を保ちつつ酵母のアルコール発酵の材料である糖を米麹や蒸米の状態で最終投入量まで投入できる仕込み方法である。これにより酵母が活性を失うことなく発酵を進められるため、醪造りの最後にはアルコール度数20度を超えるアルコールが生成される。これは醸造酒としては稀に見る高いアルコール度数であり、日本酒ならではの特異な方法で、世界に誇れる技術的遺産といえる。
なお段仕込みの1回目を初添(はつぞえ 略称「添」)、踊りと呼ばれる中一日を空けて、2回目を仲添(なかぞえ 略称「仲」)、3回目を留添(とめぞえ 略称「留」)という。20 - 30日かけて発酵させる。
上槽の約2日前から2時間前にかけて、30%程度に薄めた醸造アルコールを添加していくこと。
「アルコール添加」または略して「アル添(アルてん)」という語感から、工業的に何か不純な添加物を加えるかのようなイメージをもたれることが多い(参照:当記事内『美味しんぼ』)が、古くは江戸時代の柱焼酎という技法に遡る、伝統的な工程の一つである。また日本国内製造の日本酒全体の製造量の76.9%がアル添であり、日本最大の日本酒コンテストの「全国新酒鑑評会」出品作の78.3%がアル添であり、入賞作の91.1%がアル添であるため、低品質を意味するものではない。アル添には次のような目的がある。
添加するアルコールの原料を日本国内産の酒米に限り、品質の高さやトレーサビリティをアピールする取り組みもある。
上槽(じょうそう)とは、醪(もろみ)から生酒(なまざけ)を搾る工程である。杜氏の判断で「熟成した」と判断された醪へ、アルコール添加や副原料が投入され、これを搾って、白米・米麹などの固形分と、生酒となる液体分とに分離する。杜氏蔵人言葉では搾り(しぼり)、上槽(あげふね)ともいう。
なお、固形分がいわゆる酒粕(さけかす)になる。原材料白米に対する酒粕の割合を、粕歩合(かすぶあい)という。
上槽を行う場所を上槽場(じょうそうば)または槽場(ふなば)という。多くの場合は、「ヤブタ式」などの自動圧搾機で搾られるが、「佐瀬式」などの槽搾りを採用する酒蔵もある。大吟醸酒のように繊細な酒は、醪に掛かる圧力が小さい袋吊りや遠心分離などの方法で搾られる。
搾りだされた酒が出てくるところを槽口(ふなくち)という。
また酒蔵では、その年初めての酒が上槽されると、軒下に杉玉(すぎたま)もしくは酒林(さかばやし)を吊るし、新酒ができたことを知らせる習わしがある。吊るしたばかりの杉玉は蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた、その酒蔵の新酒の熟成具合を人々に知らせる役割をしている。
滓下げ(おりさげ)とは、上槽を終えた酒の濁りを取り除くために、待つことを指す。槽口(ふなくち)から搾り出されたばかりの酒は、まだ炭酸ガスを含むものも多く、酵母、デンプンの粒子、タンパク質、多糖類などが漂い、濁った黄金色をしている。この濁りの成分を滓(おり)といい、これらを沈澱させるため、酒はしばらくタンクの中で放置される。滓下げによる効果は、単に濁りをとることに留まらず、余分な蛋白質を除去することで、瓶詰後の温度変化や経時変化によって引き起こされる蛋白変性での濁りの予防や、後工程となる濾過の負担軽減へも影響を及ぼす。
滓下げを施した上澄みの部分を「生酒」(なましゅ)という。「生酒」(なまざけ)とは別の概念なので注意を要する。
完成酒を生酒(なまざけ)や無濾過酒(むろかしゅ)に仕立てる場合などは異なるが、大多数の一般的な酒の場合、上槽から出荷までには二度ほど滓下げを施すことが多い。第一回目の滓下げを行ったあとの生酒(なましゅ)にも、まだ酵母やデンプン粒子などの滓が残っているのが普通で、雑味もかなりあり、これらを漉し取るために濾過の工程が必要となってくる。
近年では、消費者の「生」志向に乗じて、滓引き以降の工程を施さず「無濾過生原酒」として出荷する酒蔵も現れてきている。
なお、滓下げと混同されやすいものに「滓引き」という用語があるが、滓下げとはまた別の概念なので注意を要する。滓引きは滓下げを終えた上澄み部分を取り出すことを言う。
濾過(ろか)とは、滓下げの施された生酒(なましゅ)の中にまだ残っている細かい滓(おり)や雑味を取り除くことである。液体の色を、黄金色から無色透明にできるだけ近づける目的もある。なお、この工程をあえて省略して、無濾過酒として出荷する場合も多い。
槽口(ふなくち)から搾られたばかりの日本酒は、たいてい秋の稲穂のように美しい黄金色をしている。かつての全国新酒鑑評会では、酒に色がついた出品酒を減点対象にしていた時代があった。そのため酒蔵はどこも懸命に活性炭濾過で色を抜き、水のような無色透明の状態にして出荷することが多かった。
いわゆる「清酒」という言葉から一般的に連想される無色透明な色調は、そのような時代の名残りともいえる。現在では、雑味や雑香はともかく色の抜去は求められなくなってきたので、色のついたまま流通する酒が復活し、自然な色のついた酒の素朴さを好む消費者も増えてきている。
火入れ(ひいれ)とは、醸造した酒を加熱して殺菌処理を施すこと。火当て(ひあて)ともいう。火入れされる前の酒は、まだ中に酵母が生きて活動している。また、麹により生成された酵素もその活性を保っているため酒質が変化しやすい。また、乳酸菌の一種である火落菌が混入している恐れもある。これを放置すると酒が白く濁ってしまう(火落ち)。そこで火入れにより、これら酵母・酵素・火落菌を殺菌あるいは失活させて酒質を安定させる。これにより酒は常温においても長期間の貯蔵が可能になる。しかし、あまり加熱が過ぎれば、アルコール分や揮発性の香気成分が蒸発して飛んでしまい酒質を損なう。そのため、これも加減が難しく、62°C - 68°C程度で行われる。なお、65°Cの温度で23秒間加熱すれば乳酸菌を殺菌できることが知られている。吟醸酒などは香りが飛ばないように瓶詰めしてから火入れすることもある。(瓶燗火入れ)
火入れの技法は、室町時代に書かれた醸造技術書『御酒之日記』にも既に記載され、平安時代後期から畿内を中心に行われていたことが分かる。これはすなわち、西洋における細菌学の祖、ルイ・パスツールが1866年にパスチャライゼーションによる加熱殺菌法をワイン製造に導入するより500年も前に、日本ではそれが酒造りにおいて一般に行われていたことになる。
明治時代に来日したイギリス人アトキンソンは、1881年に各地の酒屋を視察して「酒の表面に“の”の字がやっと書ける」程度が適温(約130°F(55°C))であるとして、温度計のない環境で寸分違わぬ温度管理を行っている様子を観察し、驚きをもって記している。
上槽 → 滓下げ1回目 → 濾過1回目 → 火入れ1回目 →貯蔵・熟成 → 滓下げ2回目 → 濾過2回目→割水→火入れ2回目 → 瓶詰め → 出荷
熟成(じゅくせい)とは、貯蔵されている間に進行する、酒質の成長や完成への過程をいう。上槽や滓下げのあと、無濾過や生酒として出荷するために、濾過や火入れを経ないものもあるが、そうでない製成酒は通常それらの工程を経た後に、さらに酒の旨み、まろみ、味の深みなどを引き出すためにしばらく貯蔵される。
熟成による具体的な変化は、
とされている。
吟醸系の酒は、香りや味わいを安定させるために、半年かそれ以上、熟成の期間を持たせるものも多い。しかし、いちいち古酒、古々酒といった表示をするのは、吟醸の品格からして無粋であるというような感覚から、そういった表示はラベルにされないのが通常である。
非吟醸系であっても、本醸造酒や純米酒では、酒蔵のある風土の自然条件、仕込み水の特徴、杜氏が目的とするコンセプトなど様々な理由から、長期間貯蔵して熟成させるものがある。
火入れを経過させない酒においては発酵が止まっておらず、調熟作用(ちょうじゅくさよう)といって、アミノ酸分解や糖化により風味の自然調和が続いている。そのため、調熟作用によって最終的にその酒の持ち味を生み出している銘柄では、すぐに出荷せず貯蔵・熟成させるのは、欠かすことのできない工程の一部である。一般的に完全醗酵させた純米酒は熟成がゆっくりと進み、劣化しにくい。不完全醗酵の製成酒は、アルコールに分解されていない成分が多く含まれるため、酒質の変化は早いが劣化しやすいと言われている。
熟成の原因は、大きく分けて外部から加わる熱や酸素になどによる物理的要因と、内部で起こるアミノ酸を初めとする窒素酸化物やアルデヒドなどによる化学的原因とに分かれるが、具体的な理論に関しては未解明な部分が多い。たとえば、廃坑や廃線になったトンネルなど或る特定の場所で貯蔵すると、いくら温度や湿度など科学的に条件を同じにしても、他の場所で貯蔵するよりもあきらかに味がまろやかになる、といった例がある。化学的原因を詳しく見ると、保存中にアミノ酸やタンパク質等の窒素化合物は、残存している糖分に作用してメイラード反応(アミノカルボニル反応)を起こし褐変化を起こす。一方、酵母が生成する含硫黄アミノ酸(硫黄化合物) を由来とする揮発性硫黄化合物は香気特性を悪化させるジメチルジスルフィド(DMDS)、ジメチルトリスルフィド(DMTS)、メチルメルカプタン、メチオナールなどの物質の増加の原因となる。
全ては原料米に依存するが、タンパク質は精米歩合を高くした原料を使う事で減少させる事が可能であるが、硫黄は、原料米含有成分が大きく影響を及ぼしている。
滋賀県の鮒寿司のように、その地方の基本的食品がある一定の期間の貯蔵・熟成を経てから食べられる土地などにおいては、食品が熟成する時間と同じだけの時間が、酒質の完成にももとよりかかるように醸造される酒もある。つまり食と酒を同じ時期に仕込み、同じ年月を隔てて同時に食べるわけである。こういった熟成は、まさに食文化の基礎にある相互補完という地酒の原点を物語るものである。
日本酒は、毎年7月から翌年6月が製造年度と定められており、通常は製造年度内に出荷されたものが新酒と呼ばれる。 しかし最近は、上槽した年の秋を待たず6月より前に出荷する酒に「新酒」というラベルを貼って、ひやおろしから差別化して新鮮さをアピールする酒が増えたために、「新酒」の定義に混乱が生じつつある。
冬から春にかけては「しぼりたて」「新酒」「生酒」などとして、フレッシュさを売り物にする酒蔵や酒販店、飲食店も多い。新酒の鮮度を強調した売り方としては、酒蔵や酒販店でつくる日本名門酒会が1998年から、立春の2月4日に合わせて「立春朝搾り」の出荷を始めている。未明から上槽と瓶詰めを行い、蔵によっては縁起物として近隣の神社で無病息災や家内安全の祈祷をしてから出荷する。2018年は34都道府県の43蔵元が参加し、約31万本を搾る予定である。
逆に製造年度内でなく、貯蔵期間を経た後に出荷・提供する日本酒を熟成酒、古酒、古々酒または秘蔵酒と呼ぶこともある。酒がメイラード反応により褐色に変わるまで長期保管したり、赤ワインやシェリーを入れていた樽に入れて香りを移したりする酒造会社もある。酒販店や飲食店が仕入れた日本酒を寝かせて古酒にするケースもある。蔵元によっては、西洋のワインにおけるヴィンテージという考え方を導入し、ラベルに酒の製造年度を明記している。熟成することによって味に奥行きが出るように造るこうしたヴィンテージ系日本酒は、熟成期間の長いものでは20 - 40年間にも及ぶ。酒造会社などでつくる長期熟成酒研究会は「満3年以上蔵元で熟成させた、糖類添加酒を除く清酒」を熟成古酒と定義している。
大古酒(だいこしゅ / おおこしゅ)という語に関して、現在のところ明確には定義されていない。しかし概して「大」が付くにふさわしい、桁違いの熟成が求められる。1968年(昭和43年)に開封された元禄の大古酒のように279年まで行かなくとも、熟成期間100年を超した年代ものは一般に大古酒と呼ばれる。
ひやおろしとは、冬季に醸造したあと春から夏にかけて涼しい酒蔵で貯蔵・熟成させ、気温の下がる秋に瓶詰めして出荷する酒のことである。その際、火入れをしない(冷えたままで卸す)ことから、この名称ができた。醸造年度を越して出荷されるという意味では、本来は古酒に区分されることになるが、慣行的に新酒の一種として扱われる。
割水(わりみず)とは、熟成のための貯蔵タンクから出された酒へ、出荷の直前に水を、より正確には加水調整用水を加える作業をいう。「加水調整」あるいは単に「加水」とも呼ばれる。ちなみに焼酎の製造過程では、まったく同じ工程を「和水」(わすい)と呼んでいる。
この工程の目的は、酒のアルコール度数を下げることにある。醪(もろみ)ができた直後には、ほとんどの酒が並行複発酵により20度近いアルコール度数となっている。アルコール度数の高いほうが腐敗の危険が少ないので、貯蔵・熟成もこの20度近いアルコール度のまま行われるため、出荷するときには目的とするアルコール度数まで下げる必要がある。(「低濃度酒」参照。)
いっぽう、割水をしないで、醪ができた時点のアルコール度のまま出荷した酒のことを原酒という(ただし、アルコール度数の変化が1%未満の加水は認められている)。原酒というと、一般的にはその酒の元となった醪や酵母を使った本源的な酒、あるいは何かどろっとした濃いエキスのような酒がイメージされるようであるが、実際はそういうものではない。ただ、割水をしていない分、一般酒よりもアルコール度数が高く、比較して濃厚であることは確かである。
複数の蔵元が製造した酒を混ぜたブレンド日本酒が販売されることもある。新型コロナウイルス感染症の影響で日本酒需要が減少した2020年以降に各地で企画された。
こうして割水など最後の調整を果たした酒は、洗瓶用水で洗浄された瓶の中へ瓶詰めされて出荷され、各自の蔵元がそれぞれ独自に切り拓いている流通販路に乗る。
現在は使われていない、歴史上の製法にかかわる表現を含む。
「 - 歩合(ぶあい)」で終わる用語には、次のものがある。
学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、
「仕込む」=「造る」、「仕込み」=「造り」
というように、ほぼ同義語として考えてよい。
「 - 仕込み」または「 - 造り」で終わる用語には、次のものがある。
学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、
はほぼ同義語として考えてよい。
「 - 酛」または「 - 酒母」で終わる用語には、次のものがある。
以上の分類に当てはまらない用語には、次のものがある。
計量法は、物象の状態の量の一つである比重の計量単位として、「日本酒度」を定めている。その名のとおり、清酒の比重を計測するための単位であるが、測定対象は清酒には限らない。
計量法では、日本酒度は次のように定義されている。ここで、清酒の比重は、101325 Paの圧力(標準気圧を意味する。)、4 °Cの条件下で計測したものである。
これを逆算すると、以下の式も得られる。
日本酒度の実際の計測方法は2種類ある。
振動式密度計を用いて15°Cにおける検体の密度を測定し、0.99997で除して比重(15/4°C)とし、次式により換算して検体の日本酒度とする。
日本酒度の値が示す比重が軽いものは+(プラス)の値、重いものは - (マイナス)の値をとる。日本酒度が高い(+の値が大きい)ほど辛口になる傾向があり、味の目安としてラベルに表示されることが多い。より厳密に酒の辛口甘口を示す指標として甘辛度(あまからど)がある。
清酒10ミリリットルを中和するのに要する、0.1モル/リットルの水酸化ナトリウム溶液の滴定ミリリットル数のこと。この値が大きければ「さっぱり」、小さければ「こくがある」といった表現が使われる。しかし、これも日本酒度と同様に、人の味覚は、香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動する。
甘辛度は、清酒の甘辛の度合いを示す値。清酒のブドウ糖濃度と酸度から次のように計算される。
また、ブドウ糖濃度の代わりに日本酒度を用いて、
とすることもできる。
この式によって人間が酒を甘い辛いと感じる感覚の81%が説明できる。清酒の甘辛の程度と甘辛度の関連は下記の通り。
濃淡度(のうたんど)は、清酒の味の濃淡の度合いを示す値。清酒のブドウ糖濃度と酸度から次のように計算される。
ブドウ糖濃度は直接還元糖であり、分子構造の大きなデキストリンを除いた残りの糖分の量を指す。濃淡度がプラスになるほど味が濃い。
甘辛度や濃淡度の表示は少ないものの、味の指標としては日本酒度よりは信頼性がある。
清酒10ミリリットルを酸度の場合と同様に0.1モル/リットルの水酸化ナトリウムで中和した後、中性ホルマリン液を5ミリリットル加え再度0.1モル/リットルの水酸化ナトリウムで中和したのに要した滴定ミリリットル数のこと(ホルモール法による測定)。値は後者の水酸化ナトリウム滴定数量に等しい。値が大きいと濃醇、小さいと淡麗の傾向がある。これも日本酒度・酸度の場合と同じで、一般の人の味覚は、香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動するものである。
一般に生酛系や山廃系ではアミノ酸が多くなる傾向がある。たとえ生酛や山廃酛でもアミノ酸を低く抑えるのが、名人と言われる杜氏たちの造り方ともいわれるが、アミノ酸の多くなった生酛や山廃酛のどっしりした味わいを好む愛飲家も多いこともまた事実である。
アミノ酸が生成される主な原因はタンパク質分解酵素の酸性プロテアーゼであり、麹造りの仲仕事から仕舞い仕事の間に、34°Cから38°Cの温度帯でほとんどが生成される。したがって最終的な仕上がりを軽い味にしたい杜氏は、麹米が乾かないようにしながら破精を進ませ、できるだけ敏速にこの工程を切り抜ける。逆に重い味に仕上げたい場合は時間を掛ける。
酒蔵の槽口から出てくる、できたての酒は本来、秋の稲穂のような黄金色に近い色である。また熟成が進むと深い茶色へと進んでいったり、少しばかり緑がかってくる。あるいは精米歩合が高く、造りがしっかりしている大吟醸などは、ダイヤモンドのように鮮やかにきらめく光沢を持つ。
しかし全国新酒鑑評会では過去に、色のついたまま出品されている酒は減点の対象としていた時代があり、それゆえ酒蔵では活性炭濾過などで必死に色を抜いていた。その結果が今日「清酒」という言葉から一般的にイメージされる水のような無色透明である。
昨今は天然の色のまま販路に乗せる酒蔵も増えてきたので、酒の色も再び楽しめるようになった。
これも製法に関わる用語・表現と同じく、時代・世代や地方によって様々であるが、標準的なものを示しておく。
また、酒器を手に取ってから飲み込むまでの各段階において感じられる香りは以下のように呼ばれる。
これも統一された用語というわけではないが標準的なものを示しておく。ただし、2000年代初頭では「冷や」が拡大解釈され、常温よりも冷やしたものを指して用いられていることもある。
一般に温度上昇によって、舌に感じられる酸味が相対的に下がり、旨味が上がることから、「冷や」から「熱燗」くらいまでの温度帯に限っておおざっぱにいうならば、上に行くほどコクと深みを持った味になり、また辛さを感じるようになる。生酛系や純米系など、昔からある製法で造っている酒では、冷やで飲んでもさほど印象的でなかった酒が、燗にすると本領を発揮し、奥深い味を展開することが多い。そういう酒は「燗映え(かんばえ)する」という。また燗をしたときに、温かさがほんのり酒全域に均等に行き渡り、その酒の良さがうまく引き出されることを「燗上がり(かんあがり)する」という。うまく燗上がりさせるのに最も確実な方法は、徳利に入れて湯煎することである。猪口に入れて電子レンジで温めるのも多少は有効だが、中にムラができやすい。いちど燗をした酒がふたたび冷えることを「燗冷まし(かんざまし)になる」という。ていねいに造ってある酒は、燗冷ましになってもそれなりに味わいがあるが、そうでないものは風味のバランスが崩れ、薬品のようなアルコール臭が上立香としてのぼってくる。これを「燗崩れ(かんくずれ)」という。
帝国データバンクの統計調査によると、2017年(平成29年)12月時点で日本全国に日本酒を製造するメーカーが1,254社存在し、都道府県別の所在地を見ると、首位は新潟県で84社、2位は長野県で64社、3位は兵庫県で57社となっている。創業100年以上の老舗企業が903社と7割を占め、創業時代別に見ると、首位は明治時代で431社、2位は江戸時代で399社、3位は昭和時代で266社であった。このうち日本酒製造を主業とするのは1,077社で、2016年(平成28年)度の総売上高は4,416億900万円で、2012年(平成24年)度から2016年(平成28年)度まで5年連続で総売上高が小幅上昇している。特に売上高増加が顕著なのが旭酒造で、「獺祭」ブランドの海外展開により前年度比6割の増収となっている。なお獺祭を擁する旭酒造は積極的な海外展開などのおかげで2022年9月期に164億円の売り上げを達成しており、これを2016年度のランキングに当てはめると4位となる。
日本酒の蔵元(造り酒屋)を酒蔵と呼ぶこともある。酒類製造免許を持つ酒蔵のうち、1000程度が実際に営業していると推測されている。
以下に2016年度の売上高上位20社までを記す。
近年、日本ではビールやウイスキーも含めたアルコール飲料全般の消費量が減少しており、日本酒もその例に漏れない。
一方、日本国外では21世紀に入ってから日本酒の人気が拡大しており、日本酒は日本語の「酒」にちなみ「sake(サケ、英語読みはサキィ)」と呼ぶ。(参照:「日本酒の歴史」- 昭和時代以降)。アメリカ合衆国やフランスの市場では日本酒、特に吟醸酒の消費が拡大し、イギリスでも2007年から国際ワインコンテストに日本酒部門が設置された。アジア圏においても日本酒の消費量が以前に比べて拡大し、2015年にはとりわけ和食が普及するソウル、香港、台北、シンガポールにおいて高い値を示す。タイ王国では日本酒の需要の急増で日本の蔵元が挙って市場に参入し、競争が激化した。また訪日外国人観光客による、高級な日本酒のまとめ買いも増えている。
日本酒の輸出額は、2013年に初めて100億円を超えた。2020年の日本酒輸出額は241億円で、酒類輸出総額710億円の34%を占めたが、輸出額が急増するジャパニーズ・ウイスキー(271億円、38.2%)に20年ぶりに抜かれて、酒類における最多輸出額品目の地位から陥落した。
2022年の日本酒の輸出額は前年比18.2%増の475億円、酒類輸出総額1,392億円の約34%を占め、酒類の品目別に言うとジャパニーズ・ウイスキーの561億円に次いで2位であった。輸出上位5か国(地域)は、中国142億円、アメリカ109億円、香港71億円、韓国25億円、シンガポール23億円であった。
このように日本酒の輸出は好調に推移しているが、フランスのワイン輸出額は約2兆円(155億ユーロ、2021年)、英国北部スコットランドのスコッチ輸出額は約5,600億円(38億ポンド、2020年)と、日本酒輸出額の12倍から42倍の差がある。また日本酒の最大市場となりえるアメリカの2020年のアルコール飲料消費量のうち、日本酒はわずか0.2%にすぎず(ビール・ウイスキー・ワインの三大アルコールで60%)、そのうち流通量換算でいえば8割が安価な現地生産の日本酒である。
なお、酒に関する規制や税制は各国で異なる。例えば、アメリカ合衆国ではアルコール添加を行った日本酒は、税制上蒸留酒と同一の区分となり、純米酒より酒税が大幅に高くなるため、アメリカ合衆国へ輸出される日本酒の多くが純米酒となっている。
高価格帯の輸出を後押しするため輸出専用の免許が設定されている。
清酒を海外で造る取り組みは、明治時代にハワイに移住した日本人が行って以来の歴史がある。現代においては地理的表示(GI)の規制により「日本酒」を名乗ることはできないため「SAKE」などの名称で販売している。
海外で生産された酒は水や米の違いから日本産とは味が異なるためライバルとはならず、日本酒ファンを増やす可能性が指摘されている。
各国でのSAKE造りは、以下のような状況である。
このほかメキシコ、オーストラリア、ニュージーランドで各1社が酒造りをしている。
酒を飲むときや供するときに用いられる道具。
酒を造るために用いる道具。
ほとんどが神道系で、神社や祠(ほこら)である。日本全国に酒に関する神社は40社近くあり、全部で55以上の神がまつられる。なかには麹や仕込み水など祀る対象を特化する神社もある。日本においては、ヨーロッパのバッカス、中国の杜康のように、酒のみの神として特定できる神様はいないと言われている。
興味深いことに、日本酒に関する神社は、千葉県から福岡県の間だけに位置するという。中でも京都と奈良に集中している。
日本酒の醸造技術については、各蔵元で工夫・継承される以外に、日本で最初に醸造科学科を設立した東京農業大学などで研究・教育が行われている。
地酒どころとして知られる新潟県は、都道府県立研究機関では唯一、日本酒を専門とする醸造試験場を持つ。同県にある国立の新潟大学は県と酒造組合と連携協定を結び、2018年に「日本酒学センター」を設立。さらにワイン学をモデルに、日本酒の製造技術だけでなく流通など経済的側面や心身の健康への影響、歴史、文化・芸術との関わりを学際的に研究する全国組織「日本酒学研究会」発足(2019年)を主導し、学会への移行をめざしている。
日本酒学とは、醸造・発酵などの造りの領域から、流通流通・販売などの消費に関係する領域、さらには健康・酒税・地域性・歴史・文化・法律などのより広い観点の領域を内包した総合科学としての新しい学問分野である。海外においては「ワイン学」という学問分野も確立されており、ペアリングのような感性的な領域と思われるものでも、科学的な根拠に基づいて議論されている。
2018年4月1日に新潟大学日本酒学センターを設置した新潟大学では、新潟県、新潟県酒造組合との3者間の協力のもと、全学部の学生を対象とした「日本酒学A-1、A-2」を開講している。また、当初予定していた200名の定員を大幅に上回る受講希望者が殺到したため、300名に変更するなどした。
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"text": "日本酒(にほんしゅ)、または和酒(わしゅ)は、通常は米(主に酒米)と麹と水を主な原料とする清酒(せいしゅ)を指す。日本特有の製法で醸造された酒で、醸造酒に分類される。",
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"text": "日本古語では「酒々(ささ)」、仏教僧侶の隠語で「般若湯(はんにゃとう)」、江戸時代頃より、「きちがい水」という別称も使われる。現代では「ポン酒(ぽんしゅ)」と呼ばれることもある。",
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"text": "アメリカでは「sake(サーキー)」と呼ばれることが多い。",
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"text": "日本では、酒類に関しては酒税法が包括的な法律となっている。同法において「清酒」とは、次の要件を満たした酒類で、アルコール分が22度未満のものをいう(3条7号)。",
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"text": "なお、日本酒に類似する酒類として「その香味、色沢その他の性状が清酒に類似する」混成酒である「合成清酒」(同条8号)や、どぶろくなど一部の「その他の醸造酒」(同条19号)がある。",
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"text": "一般的な日本酒のアルコール度数は15~16%と醸造酒としては高い部類になる。女性や若者など軽い酒を好む消費者や、輸出を含めた洋酒との競争に対応するため、アルコール度数がビールよりやや高い程度の6~8%台や、ワインと同程度(10%台前半)の低アルコール日本酒も相次ぎ開発・販売されている。発泡日本酒では5%という製品もある。",
"title": "定義"
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"text": "逆に、清酒と類似の原材料、製法で酒税法上の定義より高いアルコール度数(22度以上)の酒を製造することも技術的には可能である。「越後さむらい」(玉川酒造)のように、清酒の製法(醸造した原酒にアルコール添加・加水しての製造)で製造されながらアルコール度数が46度に達する酒も存在する(酒税法上は3条21号のリキュール扱い)。",
"title": "定義"
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"text": "日本酒的かつ個性的な酒を、時には米・水以外の原料も加えて少量醸造する動きもあり、2022年6月には「クラフトサケブリュワリー協会」が6つの醸造所により設立された(製品は酒税法では「その他の醸造酒」「雑酒」となる)。「クラフト」を冠した酒類については「クラフトビール」参照。",
"title": "定義"
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"text": "普通酒とは、後述の特定名称酒以外の清酒である。一般に流通している大部分の日本酒は普通酒に分類される。",
"title": "分類"
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"text": "米、米こうじ、水のほか、清酒かす(酒粕)、政令で定める物品を原料(副原料)として製造される。この物品には、醸造アルコール、焼酎、ぶどう糖その他の糖類、有機酸、アミノ酸塩(うま味調味料など)または清酒がある(酒税法施行令2条)。これらの副原料は、その重量が米・米こうじの重量を50%を超えない範囲という条件つきで使用を認められている(酒税法3条7号ロ)。",
"title": "分類"
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"text": "三倍増醸清酒、またはそれをブレンドした酒は、2006年(平成18年)の酒税法改正で清酒の範疇には含まれなくなった。合成清酒は元より清酒ではないので、普通酒ではない。",
"title": "分類"
},
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"text": "製法や品質が特定名称酒に相当する日本酒であっても、特定名称を表示せず、普通酒として販売する場合もある。",
"title": "分類"
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"text": "製品としては各メーカーが独自の名称、ランク付けを用いて表記される。",
"title": "分類"
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"text": "清酒の要件を満たしたもののうち、原料や製法が一定の基準を満たすものは、国税庁告示に定められた特定の名称を容器又は包装に表示することができる。特定名称を表示した清酒を特定名称酒という。",
"title": "分類"
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"tag": "p",
"text": "特定名称酒は、農産物検査法に基づく米穀検査により3等以上に格付けされた玄米又はこれに相当する玄米を精米した白米を用い、こうじ米の使用割合(白米の重量に対するこうじ米の重量の割合)が、15%以上のものに限られる。",
"title": "分類"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "特定名称酒の表示は、当該特定名称によることとされ、これと類似する用語又は特定名称に併せて「極上」「優良」「高級」等の品質が優れている印象を与える用語は用いることができない。ただし、特定名称の清酒を含めて自社の製品のランク付けとしてのみであれば、表示することができる(「特別」を除く)。",
"title": "分類"
},
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "特定名称酒は、原料や精米歩合により、本醸造酒、純米酒、吟醸酒に分類される。",
"title": "分類"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "特定名称以外にも特徴的な原料や製法によって様々な分類があるが、これらは国税庁の告示(清酒の製法品質表示基準)によるものと、酒造メーカーや業界団体によって伝統的・慣用的に用いられるものがある。前者は、特定名称といくつかの記載事項・任意記載事項・記載禁止事項を定めている。後者は、付加価値を高めるための、前者において定義されていない多様な分類が見られるが、同意の分類でも地方や世代などによって異なる用語が用いられることがあり(中取り/中汲み等)、統一されていない。「特撰」「上撰」「佳撰」といった呼称も、酒造メーカー独自のランク付けとして一部で使われているものである。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "特定名称の使用が定められる以前は、「特級(酒)」」「一級(酒)」「二級(酒)」という級別制度が存在した(詳しくは「日本酒の歴史」を参照)。",
"title": "分類"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "国税庁の清酒の製法品質表示基準による任意記載事項は、以下の通り。",
"title": "表示"
},
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "以下3項目は、上槽時に搾りが施されている間の時期(前期・中期・後期など)で分類されるが、明確な基準はない。",
"title": "表示"
},
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "が指定を受けているほか、日本国内全体を産地として保護する「日本酒」も指定されている。",
"title": "表示"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "上述の通り「日本酒」または「Japanese Sake」の表示は、地理的表示保護制度によって日本国内において製造された清酒にのみ認められている。日本国外で製造された清酒は「日本酒」と呼称することができないほか、「日本風」「日本式の製法」などとラベルや広告、店頭ポップ等に表示することもできない。",
"title": "表示"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "また、外国産の日本酒については、「酒」「清酒」「〇〇産清酒」としてのみ販売できる。日本以外で作られた「外国産清酒」を日本国内で販売する場合には、原産国名および外国産清酒を使用したことの表示が必要となる。アメリカなどでは「SAKE(サーキー)」が一般的であり、こちらで呼ばれることが多い。",
"title": "表示"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "日本酒は、シャーベット状に半ば凍らせた「みぞれ酒」から常温の「冷や」、約60°C程度までの「熱燗」と、幅広い温度帯で飲まれる。同種のアルコール飲料を同じ地域で、異なる温度により味わうのが常態である例は、他に中国の紹興酒などがある程度であり、比較的珍しい(熱燗について「燗酒」も参照)。",
"title": "飲み方と料理への利用"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "悪酔いを防ぎ、心身の健康を保つため、食事や「和(やわ)らぎ水」と呼ばれる水と一緒に飲むことを、日本酒関連団体などが推奨している。",
"title": "飲み方と料理への利用"
},
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"text": "いずれの温度帯でも日本酒をそのまま飲むことが多いが、熱燗では、火を通した魚を浸して味を付ける骨酒、ひれ酒の伝統もある。さらに現代では、杯に氷を入れるオン・ザ・ロック、水割りやお湯割りと飲み方も多様化した。ハイボールやカクテルの素材にもなる。日欧文化比較によれば江戸時代頃には通年燗をつけて飲むのが普通であり、また水割り(正確に言えば水増し)の酒が多かったとされる。",
"title": "飲み方と料理への利用"
},
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"paragraph_id": 27,
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"text": "日本酒は、魚介類の臭み消しのほか、煮物などを含めた味・香り付けなどの調味料として、調理に使用される。調理専用の料理酒も製造・販売される。日本酒の製造過程で生じる酒粕(さけかす)は酒粕焼酎の原料になる他、甘酒などにして飲用したり、粕漬けや粕汁などの料理に用いたりされる。",
"title": "飲み方と料理への利用"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2018年度(平成30年度)における清酒の製成数量は40万6,064キロリットル、販売(消費)数量は48万8,696キロリットルである。名産地・灘があり大手日本酒メーカーの集中する兵庫県(約26%)、同じく伏見のある京都府(約22%)が多い。これに、新潟県(約8%)、埼玉県(約4%)、秋田県(約4%)と続く。成人一人当たりの日本酒販売(消費)数量は、新潟県が最も多く、東北・北陸地方の各県がこれに続く。",
"title": "製成・販売数量と製造業者数、産地"
},
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"text": "2017年度(平成29年度)の清酒の製造業者数は1,371業者で、そのうち中小企業が99.6%を占めている。",
"title": "製成・販売数量と製造業者数、産地"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "蔵元が所在する地域の地方自治体にとって、日本酒は重要な地場産業の一つである。このため、東京などに出店したアンテナショップで地酒を販売したり、宴会などでまず地元産日本酒を飲むことを勧める乾杯条例を制定したりと、様々な振興策を展開している。",
"title": "製成・販売数量と製造業者数、産地"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "清酒の酒類製造免許を新たに取得できるのは、既存の清酒製造者が、企業合理化を図るため新たに製造場を設置して清酒を製造しようとする場合等に限られており、新規参入は制限されている。新規参入には、休廃業した酒造会社を買収し酒蔵の免許を移転する方法が使われる(北海道の上川大雪酒造の例)。2021年には海外への輸出を後押しするため、輸出用清酒製造免許が設定された。第1号は福島県のねっかに交付された。",
"title": "製成・販売数量と製造業者数、産地"
},
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"paragraph_id": 32,
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"text": "日本酒の主な原料は、米と水と麹(米麹)である。広義には、日本酒の醸造を支える酵母・乳酸菌などの全てを「日本酒の原料」と呼ぶこともある。専門的には、香味の調整に使われる醸造アルコール、酸味料、調味料、アミノ酸、糖類などは副原料と呼んで区別する。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "用途によって、麹米(こうじまい)用と掛け米(かけまい)用の2種類がある。",
"title": "原料"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "麹米には通常酒米(酒造好適米)が使われる。掛け米には全部または一部に一般米(うるち米)が使われるが、特定名称酒の場合には酒米のみが使われることが多い。普通酒は麹米、掛け米ともにすべて一般米で造られるのがほとんどである。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "原料米の選び方や使い方は、かつては特定名称酒などの高級酒ともなると代表的な酒米の山田錦一辺倒の傾向すらあったが、今日では一般米からも高い評価を得る酒が造られており、近年は新種の開発などにより変化が著しい。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "米が豊作の年には、米の質の関係から、醸造に失敗しやすい事もある。これは豊作の年の米が比較的硬いため、酵母が充分繁殖するのに時間がかかり、その間に雑菌が繁殖してしまうのだという。大正4年(1915年)には、この現象(後に「大正の大腐造」とも呼ばれたという)により日本各地で醸造に失敗、酒造業全体に深刻なダメージを被ったとされている。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "水は日本酒の80%を占める成分で、品質を左右する大きな要因となる。このため灘の宮水など、地域によっては特別な名称で呼ばれる場合もある。水源はほとんどが伏流水や地下水などの井戸水である。条件が良い所では、これらを水源とする水道水が使われることもあるが、醸造所によって専用の水源を確保することが多い。都市部の醸造所などでは、水質の悪化のために遠隔地から水を輸送したり、良質な水源を求めて移転したりすることもある。酒造りに使われる水は酒造用水と呼ばれ、仕込み水として、また瓶、製造設備などの洗浄用水として利用される。蔵元の一部は、仕込み水を商品として販売している。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "東京都心に立地する東京港醸造は敢えて水道水を使っている。その理由としては、東京都水道局が取水する利根川・荒川水系が中軟水で、酒造りに不適な一部ミネラル(鉄分やマンガン)が少ないのと、安全・衛生的で殺菌用塩素も製造工程で抜けるため支障がないことを挙げている。",
"title": "原料"
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"text": "日本酒に用いる麹は、一般的に蒸した米に麹菌(ニホンコウジカビの胞子)を振りかけて育てたものであり、その色からニホンコウジカビは黄麹ともいわれ、米麹(こめこうじ)ともいう。これが米のデンプンをブドウ糖に変える糖化の働きをする。だだし21世紀からは日本酒の醸造においても、焼酎や泡盛の醸造で使われていた白麹と黒麹(アワモリコウジカビ)が使われ始めており。白麹(黒麹のアルビノ突然変異体)を醸造に使用した酒は、2009年の新政酒造の「亜麻猫」の発売以来普及した。白麹は多くのクエン酸を生成するため、微生物の繁殖を防ぐ能力が高く、クエン酸由来の酸味が強い風味を持つ傾向に仕上がりやすい。酒母を作る伝統的な方法である生酛づくりや山廃づくりにおいても、より近代的な方法の速醸なみの速さででき、それらは速醸と違い人工的に作られた乳酸を添加しないため「無添加」の表示ができ、特に輸出する際のマーケティングの観点から有利である。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "日本酒が原料とする米の主成分は多糖類であるデンプンだが、そのままでは酵母がエネルギー源として利用できない(デンプンから直接アルコール発酵を行えない)ので、まず麹の働きによって分子量の小さな糖へと分解する必要がある。つまり、酵母がブドウ糖からアルコールを生成できるように、下ごしらえとしてデンプンを糖化してブドウ糖を生成する役割を担うのが米麹である。米麹は、コウジカビが生成するデンプンの分解酵素であるα-アミラーゼやグルコアミラーゼを含み、これらの働きによって糖化が行われる。ほかにタンパク質の分解酵素も含んでおり、タンパク質を分解して生じるアミノ酸やペプチドは、酵母の生育や完成した酒の風味に影響する(参照:#麹造り)。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "洋酒を代表するワインでは、原料であるブドウ果汁の中に既にブドウ糖が含まれているので、こうした糖化の工程が要らない単発酵文化圏となった。東洋においては、日本酒だけでなく、他の酒類や味噌・味醂・醤油など多くの食品に麹が使われ、食文化的に複発酵文化圏、カビ文化圏などとも呼ばれる。これは東南アジアから東アジアにかけての中高温湿潤地帯という気候上の特性から可能であった、微生物としてのカビの効果を利用した醸造法である。東洋で使われる麹菌にはさまざまな種類があり、焼酎には白麹・黒麹(黒麹菌)・黄麹、泡盛には黒麹、紹興酒には赤麹が用いられるのが通常だが、日本酒の場合は味噌、味醂、醤油と同じく一般的に黄麹(きこうじ、黄麹菌・黄色麹菌)が用いられる。ただし、「黄」と言っても実際の色は緑色や黄緑色に近い。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "酒造会社が使う麹や酒蔵に以前から定着している微生物以外の納豆菌や雑菌などは、酒に悪影響を与える。特に納豆菌が麹米に繁殖すると、スベリ麹と呼ばれるヌルヌルした納豆のような麹になる。このため見学者らに来訪直前は納豆を食べないよう求める造り酒屋もあり、また酒造期の蔵人が納豆を食さない所もある。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "日本で用いられる麹は、肉眼で見る限り米粒そのままの形状をしており、散麹(ばらこうじ)と呼ばれる。それに対して、中国など他の東洋諸国で用いられる麹は餅麹(もちこうじ)と呼ばれ、原料となる米・麦など穀物の粉に水を加えて練り固めたものに自然界に存在するクモノスカビやケカビの胞子が付着・繁殖してできるものである。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "麹の中の米のデンプンから生成されたブドウ糖は、酵母によって分解され、エタノールと二酸化炭素が生成される。酵母は真菌類に属する単細胞生物であって原料ではないが、これが行うアルコール発酵が日本酒造りの過程において大きな要素であるためここに記す(詳細は清酒酵母を参照)。多種多様な酵母の中で日本酒の醸造に用いられるものを清酒酵母といい、種は80%以上がSaccharomyces cerevisiae(出芽酵母)である。何十万もの種類が自然界に広く存在しており、それぞれ異なった資質を持っている。酵母の多様性は酒の味や香りや質を決定付ける重要な鍵となる。",
"title": "原料"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "前近代には、麹と水を合わせる過程において空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、酒蔵に棲みついた「蔵つき酵母」(家つき酵母)に頼ったりするなど、その時々の運任せであった。このため、科学的再現性に欠けており、醸造される酒は品質が安定しなかった。",
"title": "原料"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "明治時代になると微生物学の導入によって有用な菌株の分離と養育が行われ、それが配布されることによって日本酒全体の品質の安定・向上が図られた。1911年(明治44年)第1回全国新酒鑑評会が開かれ、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で1位となるなど客観的に優秀と評価された酵母を純粋培養して頒布した。頒布された酵母(協会系酵母または協会酵母)には、日本醸造協会に因んで「協会n号」(nには番号が入る)という名が付けられている。アルコール発酵時に二酸化炭素の泡を出す泡あり酵母(協会1号から協会15号など)と、出さない泡なし酵母に大別される。泡なし酵母は突然変異により生まれた発酵時に泡を出さない酵母で、酒造りの過程において泡守り(あわもり)が不要であるなど利点も多いために研究が進み、従来の泡あり酵母のなかで優良な種株の泡なし版が多く作られていった。",
"title": "原料"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "元々、日本酒には米の持つ地味な香りだけがあり、ワインのようなフルーティーな香りは無かったが、鑑評会向けに優れた香りを持つ酒を醸造する工夫が重ねられて吟醸酒が誕生し、各地の蔵で吟醸造りが行われるようになった。これに大きな役割を果たしたのが協会系酵母の中の協会7号(真澄酵母)と協会9号(香露酵母・熊本酵母)であった。1980年代に吟醸酒が一般層にも広く受け入れられて消費が伸びてくると、この他にも少酸性酵母、高エステル生成酵母、リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す泡なし酵母が作られ、1990年代以降はそれぞれ開発地の地名を冠する静岡酵母、山形酵母、秋田酵母、福島酵母などが登場し、吟醸造りに用いられる酵母も多様化していった。",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "最近では、アルプス酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母や、東京農業大学がなでしこ、ベコニア、ツルバラの花から分離した花酵母など、強い吟醸香を引き出すものが注目を集めており、今も大手メーカーやバイオ研究所、大学などで様々な酵母が作られている。協会系酵母として現在頒布されているものの70%近くは泡なし酵母である。",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一方、新たに開発された酵母によっては吟醸香が不自然に強すぎて酒の味を損なうなど、却って好まれない場合もあるため、一概に香りを強く鮮やかにすることが望ましいわけではない。",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "乳酸は、他の雑菌が繁殖しないようにするために、特に仕込みの初期に重要である。また、乳酸を始めとする有機酸が、酒に“腰”を与える。酛立ての際に醸造用乳酸を加える場合と、乳酸菌に乳酸を作らせる場合があり、前者を速醸(そくじょう)系、後者を生酛(きもと)系と呼ぶ。",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "正式には副原料に区分されるもの。",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "〈ラベルに表示される項目〉",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "<ラベルに表示されない項目>",
"title": "原料"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "日本酒はビールやワインと同じく醸造酒に分類され、原料を発酵させてアルコールを得る。発酵では酵母が単糖類を利用する。ブドウを原料とするワインなどは、含まれる糖質が単糖なため、そのまま利用される。しかし、アルコール醸造は原料の糖質が単糖のまま利用されるばかりではない。日本酒やビールの原材料である米や麦では多糖類(でんぷんなど)として貯蔵された形になっている。そのため含有される多糖類を単糖にする糖化という過程が必要である。ビールの場合は、アミラーゼにより完全に麦汁を糖化させた後に発酵させる。日本酒は糖化と発酵を並行して行う工程があることが大きな特徴である。並行複発酵と呼ばれるこの日本酒独特の醸造方法が、他の醸造酒に比べて高いアルコール度数を得ることができる要因になっている。日本酒で糖化の工程で利用されるのが麹になる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "日本酒は、次の過程を経て醸造される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "玄米から糠・胚芽を取り除き、あわせて胚乳を削る。削られた割合は精米歩合によって表される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "米に含まれるタンパク質・脂肪は、米粒の外側に多く存在する。醸造の過程において、タンパク質・脂肪は雑味の原因となるため、米が砕けないよう慎重に削り落とされ、それにより洗練された味を引き出すことができる。その反面、精米歩合が低くなればなるほど米の品種の個性が生かしにくくなり、発酵を促すミネラル分やビタミン類も失われるので、後の工程での高度な技術が要求されることになる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "精米の速度が速すぎると、米が熱をもって変質したり砕けたりするので、細心の注意をもってゆっくり行わなくてはならない。吟醸、大吟醸となると、削りこむ部分が大きいだけでなく、そのぶん対象物が小さくなって神経も使うので、精米に要する時間は丸二日を超えることもある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1930年(昭和5年)頃以降は縦型精米機の出現により、より高度で迅速な精米作業が可能になり、ひいてはのちの吟醸酒の大量生産を可能にした(参照:吟醸酒の誕生)。最近ではこの縦型精米機をコンピュータで制御して精米している大手メーカーもある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2023年時点で最も精米されている日本酒は、新澤醸造店の「零響 Crystal 0」(137万5千円)であり、精米歩合0.85%以下(99.15%以上を除去)の記録を持つ。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "精米後の白米、分け後の酒母、出麹後の麹を次の工程で使用されるまで放置すること。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "精米された米はかなりの摩擦熱を帯びている。精米歩合が低く、精米時間が長ければ長いほど、帯びる熱量も大きくなる。そのままでは次の工程へ進むには米の質が安定していない(杜氏や蔵人の言葉では「米がおちついていない」)ため、袋に入れて倉庫の中でしばらく冷ますことになる。また、摩擦熱によって蒸発した水分を元に戻す。これを放冷(ほうれい)、また杜氏・蔵人の言葉では枯らし(からし)という。「しばらく」と言っても数時間単位で済む作業ではなく、摩擦熱が放散しきって完全に米が落ち着くまで通常3週間から4週間は掛かる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "精米された米は、精米の過程で表面に付いた糠・米くずを徹底的に除去される。これが洗米(せんまい)である。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "普通酒を造る米などは、機械で一度に大量に洗米される。他方、高級酒を造る米は、手作業でおよそ10キログラムぐらいずつ、5°C前後の冷水で、流れる水圧を利用して少しずつ洗われる。洗っている間にも米は必要な水分を吸収し始めており、「第二の精米作業」と言われるほどに、細心の注意を払う工程である。こうして洗われた米は浸漬へ回される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "洗米された米は、水に漬けられ、水分を吸わされる。これを浸漬(しんせき、若しくは、しんし)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "浸漬は、のちのち蒸しあがった米にムラができないように、米の粒全般に水分を行き渡らせるために施される工程である。水が、米粒の外側から、中心部の心白(杜氏蔵人言葉では「目んたま」)と呼ばれるデンプン質の多い部分へ浸透していくと、米粒が文字通り透き通ってくる。米の搗(つ)き方、その日の天候、気温、湿度、水温など様々な条件によって、浸漬に必要な時間は精緻に異なる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "このとき、米にどれだけ水を吸わせるかによって、できあがりの酒の味が著しく違ってくる。米の品種や、目指す酒質によって、浸漬時間も数分から数時間と幅広い。精米歩合が低い米ほど、その違いが大きく結果を左右するので、高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位まで厳密に浸漬時間を管理する。米は水から上げた後もしばらく吸水し続けるので、その時間も計算に入れた上で浸漬時間は判断される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、できあがりの酒質のコンセプトによっては、意図的に途中で水から上げるなど、ある一定の時間だけ米に吸水させる。これを限定吸水(げんていきゅうすい)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "蒸気で米を蒸し蒸米をつくる。蒸米は、麹、酒母、醪を作る各工程で用いられる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "浸漬を経た米は広げて、湿度を保たせる。この間も米は水分を吸収し続ける。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "その後、麹の酵素が米のデンプンを分解しやすくさせるために、米を蒸す。この工程を正式には蒸きょう(じょうきょう:「きょう」は「食へんに強」)、もしくは杜氏蔵人言葉で蒸しという。普通酒などでは自動蒸米機(じどうじょうまいき)という機械で、高級酒などでは和釜に載せた甑(こしき)という大きな蒸籠(せいろ)に移して、40分から1時間ほど蒸す。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "蒸し上がった米は、「外硬内軟」といって、外側がパサパサとしていて内側が柔らかいのがよいとされている。後の工程で米の形がある程度残る硬さを保ち、また効果的にコウジカビの生育を促す意味を持つ。外側が溶けていると、コウジカビの定着の前に腐敗が始まる恐れがあり、また、内側に芯が残っていると、菌糸の成長が抑えられ米で一番良質のデンプン質を含んだ部分が、糖化・発酵しない可能性があるからである。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "なお、酒造期最後の蒸しが終わり、和釜から甑を外すことを甑倒し(こしきだおし)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "麹とは、蒸した米に麹菌というコウジカビの胞子をふりかけて育てたもので、米のデンプン質をブドウ糖へ変える糖化の働きをする(詳しくは麹参照)。麹造りは正式には製麹(せいきく、せいぎく)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "口噛み製法で醸されていた原初期の酒造りを除いて、奈良時代の初めには既に麹を用いた製法が確立していたと考えられる。以来、永らく麹造りは、酒造りの工程に占める重要性と、味噌や醤油など他の食品への供給需要から、酒屋業とは別個の専門職として室町時代まで営まれてきたのだが、1444年の文安の麹騒動によって酒屋業の一部へと武力で吸収合併された(参照:日本酒の歴史 - 室町時代)。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "現在、たいてい酒蔵には麹室(こうじむろ)と呼ばれる特別の部屋があり、そこで麹造りが行われている。床暖房やエアコンなどで温度は30°C近く、湿度は60%に保たれている。温度が高いのは、そうしないと黄麹菌が培養されないからであり、また湿度に関しては、それ以上高いと黄麹菌以外のカビや雑菌が繁殖してしまうからである。雑菌の侵入を防ぐために入室時には手洗いや靴の履き替えを行い、関係者以外は入れないのが普通である。それに加え、室外から雑菌が入り込まないように二重扉、密閉窓、断熱壁など、かなりの資本をかけて念入りに造られている。よく「麹室は酒蔵の財産」と言われる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "「麹」の項に詳しく述べられているように、麹からは糖化作用のためのデンプン分解酵素のほか、タンパク質分解酵素なども出ており、これらが蒸し米を溶かし、なおかつ酒質や酒味を決めていく。あまり酵素が出すぎると目指す酒質にならないため、米の溶け具合がちょうど良いところで止まるように麹を造る必要がある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "杜氏や蔵人の間ではよく「一麹(いちこうじ)、二酛(にもと)、三造り(さんつくり)」と言われる。「良い麹ができれば酒は七割できたも同然」という杜氏や蔵人もいるくらいで、酒造りの根本として重要視される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "目指す酒質によって、麹造りには以下のような方法がある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "酵母を増やす工程のこと。杜氏・蔵人言葉では「酛立て」(もとだて)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "酵母にはブドウ糖をアルコールに変える働き、すなわち発酵作用があるものの、酒蔵で扱うような大量の米を発酵させるためには、微生物である酵母が一匹や二匹ではまったく不十分で、米の量に見合っただけの大量の酵母が必要となる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "こうした状況の中で酒蔵では、アンプルに入っている少量の優良酵母を特定の環境で大量に育てることになる。このように大量に培養されたものを酒母(しゅぼ / もと)または酛(もと)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "作業としては、まず酛桶(もとおけ)と呼ばれる高さ1mほどの桶もしくはタンクに、麹と冷たい水を入れ、それらをよく混ぜる。これを水麹(みずこうじ)と呼ぶ。酛桶は、最近では高品質のステンレス鋼など表面を琺瑯(ほうろう)加工した金属製タンクが使われることが多いが、醸造器としてはあくまでも「酛桶」と呼ばれる。一方で、酒母造りの前後の工程に使われる甑や樽を含めて、木製道具を使い続けたり、復活させたりする酒蔵もある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "そのあと水麹に醸造用乳酸と、採用すると決めた酵母を少量だけ入れる。採用する酵母は、多種多様な清酒酵母から、造り手が目指す酒質に適すると考えるものが通常は一種類だけ選ばれるが、その酵母があまりにも強い特性を持つ場合などには、それを緩和するためにもう一種類の酵母をブレンドして入れることも多い。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "上記のものに蒸し米を加えると酒母造りの仕込みは完成する。あとは製法によって2週間から1ヶ月待つと、仕込まれた桶の中で酵母が大量に培養され酒母すなわち酛の完成となる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "酒母造りの場所は、酒母室(しゅぼしつ)もしくは酛場(もとば)と呼ばれ、雑菌や野生酵母が入り込まないように室温は5°Cぐらいに保たれている。しかし麹室に比べると管理の厳重さを必要としないので、酒蔵によっては見学者を入れてくれる所もある。酒母室の中では、酵母が発酵する小さな独特の音が響いている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "酒母造りの際には、タンクの蓋は開け放しの状態になるから、空気中からタンク内にたくさんの雑菌や野生酵母が容易に入り込んでくる。そのため硝酸還元菌や乳酸菌を加え、乳酸を生成させることによって雑菌や野生酵母を死滅させ駆逐することが必要となる。この乳酸を、どのように加えるかによって、酒母造りは大きく生酛系(きもとけい)と速醸系(そくじょうけい)の2つに分類される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "生酛系(きもとけい)の酒母造りは現在大きく生酛と山廃酛(やまはいもと)に分けられる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "速醸系(そくじょうけい)は、雑菌や野生酵母による汚染を防止するために必要な乳酸を人工的に加える製法。現在造られている日本酒のほとんどは速醸系である。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "菩提酛や煮酛などがある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "材料(酒母、麹、蒸米、水)を3回に分けてタンクに入れて醪を作り発酵させる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "醪(もろみ)とは、仕込みに用いるタンクの中で酒母、麹、蒸米が一体化した、白く濁って泡立ちのある粘度の高い液体のことである。醪造りは、単に「造り」とも呼ばれる。「一麹、二酛、三造り」というときの「造り」はこれを意味している。造りを行う場所を仕込み場(しこみば)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "醪造りの工程においては、麹によって米のデンプンが糖に変わり、同時に、酵母は糖を分解しアルコール(と炭酸ガス)を生成する。この同時並行的な変化が日本酒に特徴的な並行複発酵である。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "醪を仕込むとき、三回に分けて蒸米と麹を加える。この仕込み方法は段仕込みもしくは三段仕込みと呼ばれ、室町時代の記録『御酒之日記』にも既に記載がある。もし蒸米と麹とを全量、一度に混合して発酵を開始させると、酒母の酸度や酵母密度が大きく下がり、雑菌や野生酵母の繁殖で醪造りは失敗しやすくなる。段仕込みは、発酵環境を安定させ雑菌の繁殖を防ぎつつ酵母を増殖させ、その状態を保ちつつ酵母のアルコール発酵の材料である糖を米麹や蒸米の状態で最終投入量まで投入できる仕込み方法である。これにより酵母が活性を失うことなく発酵を進められるため、醪造りの最後にはアルコール度数20度を超えるアルコールが生成される。これは醸造酒としては稀に見る高いアルコール度数であり、日本酒ならではの特異な方法で、世界に誇れる技術的遺産といえる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "なお段仕込みの1回目を初添(はつぞえ 略称「添」)、踊りと呼ばれる中一日を空けて、2回目を仲添(なかぞえ 略称「仲」)、3回目を留添(とめぞえ 略称「留」)という。20 - 30日かけて発酵させる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "上槽の約2日前から2時間前にかけて、30%程度に薄めた醸造アルコールを添加していくこと。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "「アルコール添加」または略して「アル添(アルてん)」という語感から、工業的に何か不純な添加物を加えるかのようなイメージをもたれることが多い(参照:当記事内『美味しんぼ』)が、古くは江戸時代の柱焼酎という技法に遡る、伝統的な工程の一つである。また日本国内製造の日本酒全体の製造量の76.9%がアル添であり、日本最大の日本酒コンテストの「全国新酒鑑評会」出品作の78.3%がアル添であり、入賞作の91.1%がアル添であるため、低品質を意味するものではない。アル添には次のような目的がある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "添加するアルコールの原料を日本国内産の酒米に限り、品質の高さやトレーサビリティをアピールする取り組みもある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "上槽(じょうそう)とは、醪(もろみ)から生酒(なまざけ)を搾る工程である。杜氏の判断で「熟成した」と判断された醪へ、アルコール添加や副原料が投入され、これを搾って、白米・米麹などの固形分と、生酒となる液体分とに分離する。杜氏蔵人言葉では搾り(しぼり)、上槽(あげふね)ともいう。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "なお、固形分がいわゆる酒粕(さけかす)になる。原材料白米に対する酒粕の割合を、粕歩合(かすぶあい)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "上槽を行う場所を上槽場(じょうそうば)または槽場(ふなば)という。多くの場合は、「ヤブタ式」などの自動圧搾機で搾られるが、「佐瀬式」などの槽搾りを採用する酒蔵もある。大吟醸酒のように繊細な酒は、醪に掛かる圧力が小さい袋吊りや遠心分離などの方法で搾られる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "搾りだされた酒が出てくるところを槽口(ふなくち)という。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "また酒蔵では、その年初めての酒が上槽されると、軒下に杉玉(すぎたま)もしくは酒林(さかばやし)を吊るし、新酒ができたことを知らせる習わしがある。吊るしたばかりの杉玉は蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた、その酒蔵の新酒の熟成具合を人々に知らせる役割をしている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "滓下げ(おりさげ)とは、上槽を終えた酒の濁りを取り除くために、待つことを指す。槽口(ふなくち)から搾り出されたばかりの酒は、まだ炭酸ガスを含むものも多く、酵母、デンプンの粒子、タンパク質、多糖類などが漂い、濁った黄金色をしている。この濁りの成分を滓(おり)といい、これらを沈澱させるため、酒はしばらくタンクの中で放置される。滓下げによる効果は、単に濁りをとることに留まらず、余分な蛋白質を除去することで、瓶詰後の温度変化や経時変化によって引き起こされる蛋白変性での濁りの予防や、後工程となる濾過の負担軽減へも影響を及ぼす。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "滓下げを施した上澄みの部分を「生酒」(なましゅ)という。「生酒」(なまざけ)とは別の概念なので注意を要する。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "完成酒を生酒(なまざけ)や無濾過酒(むろかしゅ)に仕立てる場合などは異なるが、大多数の一般的な酒の場合、上槽から出荷までには二度ほど滓下げを施すことが多い。第一回目の滓下げを行ったあとの生酒(なましゅ)にも、まだ酵母やデンプン粒子などの滓が残っているのが普通で、雑味もかなりあり、これらを漉し取るために濾過の工程が必要となってくる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "近年では、消費者の「生」志向に乗じて、滓引き以降の工程を施さず「無濾過生原酒」として出荷する酒蔵も現れてきている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "なお、滓下げと混同されやすいものに「滓引き」という用語があるが、滓下げとはまた別の概念なので注意を要する。滓引きは滓下げを終えた上澄み部分を取り出すことを言う。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "濾過(ろか)とは、滓下げの施された生酒(なましゅ)の中にまだ残っている細かい滓(おり)や雑味を取り除くことである。液体の色を、黄金色から無色透明にできるだけ近づける目的もある。なお、この工程をあえて省略して、無濾過酒として出荷する場合も多い。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "槽口(ふなくち)から搾られたばかりの日本酒は、たいてい秋の稲穂のように美しい黄金色をしている。かつての全国新酒鑑評会では、酒に色がついた出品酒を減点対象にしていた時代があった。そのため酒蔵はどこも懸命に活性炭濾過で色を抜き、水のような無色透明の状態にして出荷することが多かった。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "いわゆる「清酒」という言葉から一般的に連想される無色透明な色調は、そのような時代の名残りともいえる。現在では、雑味や雑香はともかく色の抜去は求められなくなってきたので、色のついたまま流通する酒が復活し、自然な色のついた酒の素朴さを好む消費者も増えてきている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "火入れ(ひいれ)とは、醸造した酒を加熱して殺菌処理を施すこと。火当て(ひあて)ともいう。火入れされる前の酒は、まだ中に酵母が生きて活動している。また、麹により生成された酵素もその活性を保っているため酒質が変化しやすい。また、乳酸菌の一種である火落菌が混入している恐れもある。これを放置すると酒が白く濁ってしまう(火落ち)。そこで火入れにより、これら酵母・酵素・火落菌を殺菌あるいは失活させて酒質を安定させる。これにより酒は常温においても長期間の貯蔵が可能になる。しかし、あまり加熱が過ぎれば、アルコール分や揮発性の香気成分が蒸発して飛んでしまい酒質を損なう。そのため、これも加減が難しく、62°C - 68°C程度で行われる。なお、65°Cの温度で23秒間加熱すれば乳酸菌を殺菌できることが知られている。吟醸酒などは香りが飛ばないように瓶詰めしてから火入れすることもある。(瓶燗火入れ)",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "火入れの技法は、室町時代に書かれた醸造技術書『御酒之日記』にも既に記載され、平安時代後期から畿内を中心に行われていたことが分かる。これはすなわち、西洋における細菌学の祖、ルイ・パスツールが1866年にパスチャライゼーションによる加熱殺菌法をワイン製造に導入するより500年も前に、日本ではそれが酒造りにおいて一般に行われていたことになる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "明治時代に来日したイギリス人アトキンソンは、1881年に各地の酒屋を視察して「酒の表面に“の”の字がやっと書ける」程度が適温(約130°F(55°C))であるとして、温度計のない環境で寸分違わぬ温度管理を行っている様子を観察し、驚きをもって記している。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "上槽 → 滓下げ1回目 → 濾過1回目 → 火入れ1回目 →貯蔵・熟成 → 滓下げ2回目 → 濾過2回目→割水→火入れ2回目 → 瓶詰め → 出荷",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "熟成(じゅくせい)とは、貯蔵されている間に進行する、酒質の成長や完成への過程をいう。上槽や滓下げのあと、無濾過や生酒として出荷するために、濾過や火入れを経ないものもあるが、そうでない製成酒は通常それらの工程を経た後に、さらに酒の旨み、まろみ、味の深みなどを引き出すためにしばらく貯蔵される。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "熟成による具体的な変化は、",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "とされている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "吟醸系の酒は、香りや味わいを安定させるために、半年かそれ以上、熟成の期間を持たせるものも多い。しかし、いちいち古酒、古々酒といった表示をするのは、吟醸の品格からして無粋であるというような感覚から、そういった表示はラベルにされないのが通常である。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "非吟醸系であっても、本醸造酒や純米酒では、酒蔵のある風土の自然条件、仕込み水の特徴、杜氏が目的とするコンセプトなど様々な理由から、長期間貯蔵して熟成させるものがある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "火入れを経過させない酒においては発酵が止まっておらず、調熟作用(ちょうじゅくさよう)といって、アミノ酸分解や糖化により風味の自然調和が続いている。そのため、調熟作用によって最終的にその酒の持ち味を生み出している銘柄では、すぐに出荷せず貯蔵・熟成させるのは、欠かすことのできない工程の一部である。一般的に完全醗酵させた純米酒は熟成がゆっくりと進み、劣化しにくい。不完全醗酵の製成酒は、アルコールに分解されていない成分が多く含まれるため、酒質の変化は早いが劣化しやすいと言われている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "熟成の原因は、大きく分けて外部から加わる熱や酸素になどによる物理的要因と、内部で起こるアミノ酸を初めとする窒素酸化物やアルデヒドなどによる化学的原因とに分かれるが、具体的な理論に関しては未解明な部分が多い。たとえば、廃坑や廃線になったトンネルなど或る特定の場所で貯蔵すると、いくら温度や湿度など科学的に条件を同じにしても、他の場所で貯蔵するよりもあきらかに味がまろやかになる、といった例がある。化学的原因を詳しく見ると、保存中にアミノ酸やタンパク質等の窒素化合物は、残存している糖分に作用してメイラード反応(アミノカルボニル反応)を起こし褐変化を起こす。一方、酵母が生成する含硫黄アミノ酸(硫黄化合物) を由来とする揮発性硫黄化合物は香気特性を悪化させるジメチルジスルフィド(DMDS)、ジメチルトリスルフィド(DMTS)、メチルメルカプタン、メチオナールなどの物質の増加の原因となる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "全ては原料米に依存するが、タンパク質は精米歩合を高くした原料を使う事で減少させる事が可能であるが、硫黄は、原料米含有成分が大きく影響を及ぼしている。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "滋賀県の鮒寿司のように、その地方の基本的食品がある一定の期間の貯蔵・熟成を経てから食べられる土地などにおいては、食品が熟成する時間と同じだけの時間が、酒質の完成にももとよりかかるように醸造される酒もある。つまり食と酒を同じ時期に仕込み、同じ年月を隔てて同時に食べるわけである。こういった熟成は、まさに食文化の基礎にある相互補完という地酒の原点を物語るものである。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "日本酒は、毎年7月から翌年6月が製造年度と定められており、通常は製造年度内に出荷されたものが新酒と呼ばれる。 しかし最近は、上槽した年の秋を待たず6月より前に出荷する酒に「新酒」というラベルを貼って、ひやおろしから差別化して新鮮さをアピールする酒が増えたために、「新酒」の定義に混乱が生じつつある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "冬から春にかけては「しぼりたて」「新酒」「生酒」などとして、フレッシュさを売り物にする酒蔵や酒販店、飲食店も多い。新酒の鮮度を強調した売り方としては、酒蔵や酒販店でつくる日本名門酒会が1998年から、立春の2月4日に合わせて「立春朝搾り」の出荷を始めている。未明から上槽と瓶詰めを行い、蔵によっては縁起物として近隣の神社で無病息災や家内安全の祈祷をしてから出荷する。2018年は34都道府県の43蔵元が参加し、約31万本を搾る予定である。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "逆に製造年度内でなく、貯蔵期間を経た後に出荷・提供する日本酒を熟成酒、古酒、古々酒または秘蔵酒と呼ぶこともある。酒がメイラード反応により褐色に変わるまで長期保管したり、赤ワインやシェリーを入れていた樽に入れて香りを移したりする酒造会社もある。酒販店や飲食店が仕入れた日本酒を寝かせて古酒にするケースもある。蔵元によっては、西洋のワインにおけるヴィンテージという考え方を導入し、ラベルに酒の製造年度を明記している。熟成することによって味に奥行きが出るように造るこうしたヴィンテージ系日本酒は、熟成期間の長いものでは20 - 40年間にも及ぶ。酒造会社などでつくる長期熟成酒研究会は「満3年以上蔵元で熟成させた、糖類添加酒を除く清酒」を熟成古酒と定義している。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "大古酒(だいこしゅ / おおこしゅ)という語に関して、現在のところ明確には定義されていない。しかし概して「大」が付くにふさわしい、桁違いの熟成が求められる。1968年(昭和43年)に開封された元禄の大古酒のように279年まで行かなくとも、熟成期間100年を超した年代ものは一般に大古酒と呼ばれる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "ひやおろしとは、冬季に醸造したあと春から夏にかけて涼しい酒蔵で貯蔵・熟成させ、気温の下がる秋に瓶詰めして出荷する酒のことである。その際、火入れをしない(冷えたままで卸す)ことから、この名称ができた。醸造年度を越して出荷されるという意味では、本来は古酒に区分されることになるが、慣行的に新酒の一種として扱われる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "割水(わりみず)とは、熟成のための貯蔵タンクから出された酒へ、出荷の直前に水を、より正確には加水調整用水を加える作業をいう。「加水調整」あるいは単に「加水」とも呼ばれる。ちなみに焼酎の製造過程では、まったく同じ工程を「和水」(わすい)と呼んでいる。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "この工程の目的は、酒のアルコール度数を下げることにある。醪(もろみ)ができた直後には、ほとんどの酒が並行複発酵により20度近いアルコール度数となっている。アルコール度数の高いほうが腐敗の危険が少ないので、貯蔵・熟成もこの20度近いアルコール度のまま行われるため、出荷するときには目的とするアルコール度数まで下げる必要がある。(「低濃度酒」参照。)",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "いっぽう、割水をしないで、醪ができた時点のアルコール度のまま出荷した酒のことを原酒という(ただし、アルコール度数の変化が1%未満の加水は認められている)。原酒というと、一般的にはその酒の元となった醪や酵母を使った本源的な酒、あるいは何かどろっとした濃いエキスのような酒がイメージされるようであるが、実際はそういうものではない。ただ、割水をしていない分、一般酒よりもアルコール度数が高く、比較して濃厚であることは確かである。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "複数の蔵元が製造した酒を混ぜたブレンド日本酒が販売されることもある。新型コロナウイルス感染症の影響で日本酒需要が減少した2020年以降に各地で企画された。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "こうして割水など最後の調整を果たした酒は、洗瓶用水で洗浄された瓶の中へ瓶詰めされて出荷され、各自の蔵元がそれぞれ独自に切り拓いている流通販路に乗る。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "現在は使われていない、歴史上の製法にかかわる表現を含む。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "「 - 歩合(ぶあい)」で終わる用語には、次のものがある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "「仕込む」=「造る」、「仕込み」=「造り」",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "というように、ほぼ同義語として考えてよい。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "「 - 仕込み」または「 - 造り」で終わる用語には、次のものがある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "はほぼ同義語として考えてよい。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "「 - 酛」または「 - 酒母」で終わる用語には、次のものがある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "以上の分類に当てはまらない用語には、次のものがある。",
"title": "日本酒の製法"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "計量法は、物象の状態の量の一つである比重の計量単位として、「日本酒度」を定めている。その名のとおり、清酒の比重を計測するための単位であるが、測定対象は清酒には限らない。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "計量法では、日本酒度は次のように定義されている。ここで、清酒の比重は、101325 Paの圧力(標準気圧を意味する。)、4 °Cの条件下で計測したものである。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "これを逆算すると、以下の式も得られる。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "日本酒度の実際の計測方法は2種類ある。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "振動式密度計を用いて15°Cにおける検体の密度を測定し、0.99997で除して比重(15/4°C)とし、次式により換算して検体の日本酒度とする。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "日本酒度の値が示す比重が軽いものは+(プラス)の値、重いものは - (マイナス)の値をとる。日本酒度が高い(+の値が大きい)ほど辛口になる傾向があり、味の目安としてラベルに表示されることが多い。より厳密に酒の辛口甘口を示す指標として甘辛度(あまからど)がある。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "清酒10ミリリットルを中和するのに要する、0.1モル/リットルの水酸化ナトリウム溶液の滴定ミリリットル数のこと。この値が大きければ「さっぱり」、小さければ「こくがある」といった表現が使われる。しかし、これも日本酒度と同様に、人の味覚は、香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動する。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "甘辛度は、清酒の甘辛の度合いを示す値。清酒のブドウ糖濃度と酸度から次のように計算される。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "また、ブドウ糖濃度の代わりに日本酒度を用いて、",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "とすることもできる。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "この式によって人間が酒を甘い辛いと感じる感覚の81%が説明できる。清酒の甘辛の程度と甘辛度の関連は下記の通り。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "濃淡度(のうたんど)は、清酒の味の濃淡の度合いを示す値。清酒のブドウ糖濃度と酸度から次のように計算される。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "ブドウ糖濃度は直接還元糖であり、分子構造の大きなデキストリンを除いた残りの糖分の量を指す。濃淡度がプラスになるほど味が濃い。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "甘辛度や濃淡度の表示は少ないものの、味の指標としては日本酒度よりは信頼性がある。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "清酒10ミリリットルを酸度の場合と同様に0.1モル/リットルの水酸化ナトリウムで中和した後、中性ホルマリン液を5ミリリットル加え再度0.1モル/リットルの水酸化ナトリウムで中和したのに要した滴定ミリリットル数のこと(ホルモール法による測定)。値は後者の水酸化ナトリウム滴定数量に等しい。値が大きいと濃醇、小さいと淡麗の傾向がある。これも日本酒度・酸度の場合と同じで、一般の人の味覚は、香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動するものである。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "一般に生酛系や山廃系ではアミノ酸が多くなる傾向がある。たとえ生酛や山廃酛でもアミノ酸を低く抑えるのが、名人と言われる杜氏たちの造り方ともいわれるが、アミノ酸の多くなった生酛や山廃酛のどっしりした味わいを好む愛飲家も多いこともまた事実である。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "アミノ酸が生成される主な原因はタンパク質分解酵素の酸性プロテアーゼであり、麹造りの仲仕事から仕舞い仕事の間に、34°Cから38°Cの温度帯でほとんどが生成される。したがって最終的な仕上がりを軽い味にしたい杜氏は、麹米が乾かないようにしながら破精を進ませ、できるだけ敏速にこの工程を切り抜ける。逆に重い味に仕上げたい場合は時間を掛ける。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "酒蔵の槽口から出てくる、できたての酒は本来、秋の稲穂のような黄金色に近い色である。また熟成が進むと深い茶色へと進んでいったり、少しばかり緑がかってくる。あるいは精米歩合が高く、造りがしっかりしている大吟醸などは、ダイヤモンドのように鮮やかにきらめく光沢を持つ。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "しかし全国新酒鑑評会では過去に、色のついたまま出品されている酒は減点の対象としていた時代があり、それゆえ酒蔵では活性炭濾過などで必死に色を抜いていた。その結果が今日「清酒」という言葉から一般的にイメージされる水のような無色透明である。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "昨今は天然の色のまま販路に乗せる酒蔵も増えてきたので、酒の色も再び楽しめるようになった。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "これも製法に関わる用語・表現と同じく、時代・世代や地方によって様々であるが、標準的なものを示しておく。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "また、酒器を手に取ってから飲み込むまでの各段階において感じられる香りは以下のように呼ばれる。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "これも統一された用語というわけではないが標準的なものを示しておく。ただし、2000年代初頭では「冷や」が拡大解釈され、常温よりも冷やしたものを指して用いられていることもある。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "一般に温度上昇によって、舌に感じられる酸味が相対的に下がり、旨味が上がることから、「冷や」から「熱燗」くらいまでの温度帯に限っておおざっぱにいうならば、上に行くほどコクと深みを持った味になり、また辛さを感じるようになる。生酛系や純米系など、昔からある製法で造っている酒では、冷やで飲んでもさほど印象的でなかった酒が、燗にすると本領を発揮し、奥深い味を展開することが多い。そういう酒は「燗映え(かんばえ)する」という。また燗をしたときに、温かさがほんのり酒全域に均等に行き渡り、その酒の良さがうまく引き出されることを「燗上がり(かんあがり)する」という。うまく燗上がりさせるのに最も確実な方法は、徳利に入れて湯煎することである。猪口に入れて電子レンジで温めるのも多少は有効だが、中にムラができやすい。いちど燗をした酒がふたたび冷えることを「燗冷まし(かんざまし)になる」という。ていねいに造ってある酒は、燗冷ましになってもそれなりに味わいがあるが、そうでないものは風味のバランスが崩れ、薬品のようなアルコール臭が上立香としてのぼってくる。これを「燗崩れ(かんくずれ)」という。",
"title": "日本酒の評価基準・用語・表現"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "帝国データバンクの統計調査によると、2017年(平成29年)12月時点で日本全国に日本酒を製造するメーカーが1,254社存在し、都道府県別の所在地を見ると、首位は新潟県で84社、2位は長野県で64社、3位は兵庫県で57社となっている。創業100年以上の老舗企業が903社と7割を占め、創業時代別に見ると、首位は明治時代で431社、2位は江戸時代で399社、3位は昭和時代で266社であった。このうち日本酒製造を主業とするのは1,077社で、2016年(平成28年)度の総売上高は4,416億900万円で、2012年(平成24年)度から2016年(平成28年)度まで5年連続で総売上高が小幅上昇している。特に売上高増加が顕著なのが旭酒造で、「獺祭」ブランドの海外展開により前年度比6割の増収となっている。なお獺祭を擁する旭酒造は積極的な海外展開などのおかげで2022年9月期に164億円の売り上げを達成しており、これを2016年度のランキングに当てはめると4位となる。",
"title": "日本酒メーカーと売上高ランキング"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "日本酒の蔵元(造り酒屋)を酒蔵と呼ぶこともある。酒類製造免許を持つ酒蔵のうち、1000程度が実際に営業していると推測されている。",
"title": "日本酒メーカーと売上高ランキング"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "以下に2016年度の売上高上位20社までを記す。",
"title": "日本酒メーカーと売上高ランキング"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "日本酒メーカーと売上高ランキング"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "近年、日本ではビールやウイスキーも含めたアルコール飲料全般の消費量が減少しており、日本酒もその例に漏れない。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "一方、日本国外では21世紀に入ってから日本酒の人気が拡大しており、日本酒は日本語の「酒」にちなみ「sake(サケ、英語読みはサキィ)」と呼ぶ。(参照:「日本酒の歴史」- 昭和時代以降)。アメリカ合衆国やフランスの市場では日本酒、特に吟醸酒の消費が拡大し、イギリスでも2007年から国際ワインコンテストに日本酒部門が設置された。アジア圏においても日本酒の消費量が以前に比べて拡大し、2015年にはとりわけ和食が普及するソウル、香港、台北、シンガポールにおいて高い値を示す。タイ王国では日本酒の需要の急増で日本の蔵元が挙って市場に参入し、競争が激化した。また訪日外国人観光客による、高級な日本酒のまとめ買いも増えている。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "日本酒の輸出額は、2013年に初めて100億円を超えた。2020年の日本酒輸出額は241億円で、酒類輸出総額710億円の34%を占めたが、輸出額が急増するジャパニーズ・ウイスキー(271億円、38.2%)に20年ぶりに抜かれて、酒類における最多輸出額品目の地位から陥落した。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "2022年の日本酒の輸出額は前年比18.2%増の475億円、酒類輸出総額1,392億円の約34%を占め、酒類の品目別に言うとジャパニーズ・ウイスキーの561億円に次いで2位であった。輸出上位5か国(地域)は、中国142億円、アメリカ109億円、香港71億円、韓国25億円、シンガポール23億円であった。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "このように日本酒の輸出は好調に推移しているが、フランスのワイン輸出額は約2兆円(155億ユーロ、2021年)、英国北部スコットランドのスコッチ輸出額は約5,600億円(38億ポンド、2020年)と、日本酒輸出額の12倍から42倍の差がある。また日本酒の最大市場となりえるアメリカの2020年のアルコール飲料消費量のうち、日本酒はわずか0.2%にすぎず(ビール・ウイスキー・ワインの三大アルコールで60%)、そのうち流通量換算でいえば8割が安価な現地生産の日本酒である。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "なお、酒に関する規制や税制は各国で異なる。例えば、アメリカ合衆国ではアルコール添加を行った日本酒は、税制上蒸留酒と同一の区分となり、純米酒より酒税が大幅に高くなるため、アメリカ合衆国へ輸出される日本酒の多くが純米酒となっている。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "高価格帯の輸出を後押しするため輸出専用の免許が設定されている。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "清酒を海外で造る取り組みは、明治時代にハワイに移住した日本人が行って以来の歴史がある。現代においては地理的表示(GI)の規制により「日本酒」を名乗ることはできないため「SAKE」などの名称で販売している。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "海外で生産された酒は水や米の違いから日本産とは味が異なるためライバルとはならず、日本酒ファンを増やす可能性が指摘されている。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "各国でのSAKE造りは、以下のような状況である。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "このほかメキシコ、オーストラリア、ニュージーランドで各1社が酒造りをしている。",
"title": "日本国外での人気"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "酒を飲むときや供するときに用いられる道具。",
"title": "日本酒に関する道具"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "酒を造るために用いる道具。",
"title": "日本酒に関する道具"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "ほとんどが神道系で、神社や祠(ほこら)である。日本全国に酒に関する神社は40社近くあり、全部で55以上の神がまつられる。なかには麹や仕込み水など祀る対象を特化する神社もある。日本においては、ヨーロッパのバッカス、中国の杜康のように、酒のみの神として特定できる神様はいないと言われている。",
"title": "日本酒に関する施設"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "興味深いことに、日本酒に関する神社は、千葉県から福岡県の間だけに位置するという。中でも京都と奈良に集中している。",
"title": "日本酒に関する施設"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "日本酒の醸造技術については、各蔵元で工夫・継承される以外に、日本で最初に醸造科学科を設立した東京農業大学などで研究・教育が行われている。",
"title": "日本酒についての学術研究"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "地酒どころとして知られる新潟県は、都道府県立研究機関では唯一、日本酒を専門とする醸造試験場を持つ。同県にある国立の新潟大学は県と酒造組合と連携協定を結び、2018年に「日本酒学センター」を設立。さらにワイン学をモデルに、日本酒の製造技術だけでなく流通など経済的側面や心身の健康への影響、歴史、文化・芸術との関わりを学際的に研究する全国組織「日本酒学研究会」発足(2019年)を主導し、学会への移行をめざしている。",
"title": "日本酒についての学術研究"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "日本酒学とは、醸造・発酵などの造りの領域から、流通流通・販売などの消費に関係する領域、さらには健康・酒税・地域性・歴史・文化・法律などのより広い観点の領域を内包した総合科学としての新しい学問分野である。海外においては「ワイン学」という学問分野も確立されており、ペアリングのような感性的な領域と思われるものでも、科学的な根拠に基づいて議論されている。",
"title": "日本酒についての学術研究"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "2018年4月1日に新潟大学日本酒学センターを設置した新潟大学では、新潟県、新潟県酒造組合との3者間の協力のもと、全学部の学生を対象とした「日本酒学A-1、A-2」を開講している。また、当初予定していた200名の定員を大幅に上回る受講希望者が殺到したため、300名に変更するなどした。",
"title": "日本酒についての学術研究"
}
] |
日本酒(にほんしゅ)、または和酒(わしゅ)は、通常は米(主に酒米)と麹と水を主な原料とする清酒(せいしゅ)を指す。日本特有の製法で醸造された酒で、醸造酒に分類される。
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{{出典の明記|date=2010年1月}}
{{JIS2004|説明={{どこ|date=2022-5}}}}
[[画像:Sake set.jpg|thumb|220px|酒器に酌まれた日本酒。[[盃]](左)、[[猪口|お猪口]](中央)、[[枡]](右)。]]
[[File:Tokkuri sake and takowasa.JPG|thumb|一合徳利(左)、酒の肴(中央上)、お猪口(右)。]]
{{栄養価| name=日本酒| water =78.4 g| kJ =561| protein =0.5 g| fat =0 g| carbs =5 g| fiber =0 g| sugars =0 g| calcium_mg =5| iron_mg =0.1| magnesium_mg =6| phosphorus_mg =6| potassium_mg =25| sodium_mg =2| zinc_mg =0.02| selenium_μg =1.4| vitC_mg =0| thiamin_mg =0| riboflavin_mg =0| niacin_mg =0| vitB6_mg=0| folate_ug =0| choline_mg =0| vitB12_ug =0| vitA_ug =0| betacarotene_ug =0| lutein_ug =0| vitE_mg =0| vitD_iu =0| vitK_ug =0| satfat =0 g| monofat =0 g| polyfat =0 g| alcohol =16.1 g| right=1 | source_usda=1 }}
'''日本酒'''(にほんしゅ)、または'''和酒'''(わしゅ)は、通常は[[米]](主に[[酒米]])と[[麹]]と[[水]]を主な原料とする'''清酒'''(せいしゅ)を指す。[[日本]]特有の製法で[[醸造]]された[[酒]]で、[[醸造酒]]に分類される。
== 定義 ==
=== 呼称・名称 ===
[[中古日本語|日本古語]]では「酒々(ささ)」、[[仏教]][[僧|僧侶]]の[[隠語]]で「[[般若]]湯(はんにゃとう)」、[[江戸時代]]頃より、「[[きちがい]]水」という別称も使われる。現代では「ポン酒(ぽんしゅ<ref group="注釈">日本をニッポンと読んで、ニッ''ポン酒''の略。</ref>)」と呼ばれることもある。
アメリカでは「'''sake'''(サーキー)」と呼ばれることが多い<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=初出荷で表彰 日本人が米国で挑む超我流SAKE造り|グルメクラブ|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO51891930X01C19A1000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-06-14|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。
=== 酒税法による定義とアルコール度数 ===
日本では、酒類<ref group="注釈">酒税法2条1項は「酒類」について、「[[アルコール]]分1度以上の飲料…をいう。」と定義している。</ref>に関しては[[酒税法]]が包括的な法律となっている。同法において「清酒」とは、次の要件を満たした酒類で、'''アルコール分が22度未満'''のものをいう(3条7号)<ref>[http://www.asahibeer.co.jp/csr/tekisei/guidebook/drunkenness/make/index.html お酒の分類と製造過程] [[アサヒビール]](2020年9月21日閲覧)</ref>。
* '''[[米]]'''、'''米こうじ([[麹]])'''及び'''[[水]]'''を原料として'''[[発酵]]'''させて、'''こした'''もの<!-- 「こす」の意義
酒類の製造方法の一つである「こす」とは、その方法のいかんを問わず酒類のもろみを液状部分とかす部分とに分離する全ての行為をいう。-->
#'''米'''、'''米こうじ'''、'''水'''及び'''清酒かすその他政令で定める物品'''<ref group="注釈">酒税法施行令2条は「清酒の原料として定める物品」として、アルコール、[[焼酎]]、[[ぶどう糖]]その他[[財務省]][[省令|令]]で定める糖類、[[有機酸]]、[[アミノ酸塩]]、清酒を定める。</ref><ref group="注釈">この政令で定める物品の重量の合計は、米と米こうじの重量の50%を超えないものに限られる(酒税法3条7号ロ)。</ref>を原料として'''発酵'''させて、'''こした'''もの
#'''清酒'''に'''清酒かす'''を加えて、'''こした'''もの
なお、日本酒に類似する酒類として「その香味、色沢その他の性状が清酒に類似する」混成酒である「[[合成清酒]]」(同条8号)や、[[どぶろく]]<ref group="注釈">酒税法上は「その他の醸造酒」(3条19号)、[[構造改革特別区域法]]では「酒税法第3条第19号に規定するその他の醸造酒(米…、米こうじ及び水又は米、水及び麦その他の[[財務省|財務]][[省令]]で定める物品を原料として発酵させたもので、こさないものに限る。)」(28条1項2号)、酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律施行規則では「[[濁り酒|濁酒]]」(11条の5、「米、米こうじ及び水を原料として発酵させたもので、こさないもの」)と定義される。</ref>など一部の「その他の醸造酒」(同条19号)がある。
一般的な日本酒の[[アルコール度数]]は15~16%と[[醸造酒]]としては高い部類になる。女性や若者など軽い酒を好む消費者や、輸出を含めた[[洋酒]]との競争に対応するため、アルコール度数が[[ビール]]よりやや高い程度の6~8%台や、[[ワイン]]と同程度(10%台前半)の低アルコール日本酒も相次ぎ開発・販売されている<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO21877810U7A001C1NZ1P00/ 飲み口軽やか 日本酒に酔う/アルコール度数、通常の半分も 酒蔵、伝統守り新機軸続々]」『[[日本経済新聞]]』夕刊2017年10月5日</ref>。[[発泡日本酒]]では5%という製品もある<ref>[http://www.takarashuzo.co.jp/news/2011/11-i-001.htm 〜アルコール度数5度!爽やかな泡が心地よい、ほんのり甘い発泡性清酒が登場〜松竹梅白壁蔵「澪」スパークリング清酒 新発売] [[宝酒造]]ニュースリリース(2011年6月7日)</ref>。
逆に、清酒と類似の原材料、製法で酒税法上の定義より高いアルコール度数(22度以上)の酒を製造することも技術的には可能である。「[[越後さむらい]]」([[玉川酒造]])のように、清酒の製法(醸造した原酒にアルコール添加・加水しての製造)で製造されながらアルコール度数が46度に達する酒も存在する(酒税法上は3条21号の[[リキュール]]扱い)。
==== クラフトサケ(クラフト日本酒) ====
日本酒的かつ個性的な酒を、時には米・水以外の原料も加えて少量醸造する動きもあり、2022年6月には「クラフトサケブリュワリー協会」が6つの醸造所により設立された(製品は酒税法では「その他の醸造酒」「雑酒」となる)<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/193155 【TOKYO発】世界へ羽ばたけ クラフトSAKE 新しい「日本酒」]『[[東京新聞]]』朝刊2022年8月2日24面(2022年8月11日閲覧)</ref>。「クラフト」を冠した酒類については「[[クラフトビール]]」参照。
== 分類 ==
=== 特定名称分類 ===
==== 普通酒 ====
'''普通酒'''とは、後述の特定名称酒以外の清酒である。一般に流通している大部分の日本酒は普通酒に分類される。
[[#米|米]]、[[#麹(正字は「麴」)|米こうじ]]、[[#水|水]]のほか、清酒かす([[酒粕]])、[[政令]]で定める物品を原料([[#原料|副原料]])として製造される。この物品には、'''[[醸造アルコール]]'''、'''[[焼酎]]'''、[[ぶどう糖]]その他の'''糖類'''、'''[[有機酸]]'''、'''アミノ酸塩'''([[うま味調味料]]など)または清酒がある(酒税法施行令2条)。これらの副原料は、その重量が米・米こうじの重量を50%を超えない範囲という条件つきで使用を認められている(酒税法3条7号ロ)。
'''[[三倍増醸清酒]]'''、またはそれをブレンドした酒は、[[2006年]]([[平成]]18年)の酒税法改正で清酒の範疇には含まれなくなった。[[合成清酒]]は元より清酒ではないので、普通酒ではない。
製法や品質が特定名称酒に相当する日本酒であっても、特定名称を表示せず、普通酒として販売する場合もある<ref>{{Cite web|和書|title=「純米大吟醸」なのに、そう名乗らない日本酒のなぜ?|MONO TRENDY|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO04423210U6A700C1000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-10-03|language=ja|last=[[日本経済新聞社]]・[[日経BP]]社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=〈トーク〉剣菱酒造・白樫政孝社長 ブレンドが生む安定の味、どんな料理とも相性70点超を目指す|url=https://www.ssnp.co.jp/liquor/249550/|website=食品産業新聞社ホームページ|accessdate=2020-10-03|language=ja|last=食品産業新聞社}}</ref>。
製品としては各メーカーが独自の名称、ランク付けを用いて表記される<ref>[https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/sake/type/type02.html 普通酒・一般酒とはどのような酒ですか?「特撰」「上撰」「佳撰」の違いを教えてください。]</ref>。
==== 特定名称酒 ====
清酒の要件を満たしたもののうち、原料や製法が一定の基準を満たすものは、[[国税庁]]告示<ref>[https://www.nta.go.jp/taxes/sake/hyoji/seishu/kokuji891122/03.htm 清酒の製法品質表示基準を定める件](平成元年11月22日国税庁告示第8号)</ref>に定められた特定の名称を容器又は包装に表示することができる。特定名称を表示した清酒を'''特定名称酒'''という。
特定名称酒は、[[農産物検査法]]に基づく[[米穀検査]]<ref>[https://www.maff.go.jp/j/seisan/syoryu/kensa/kome/k_kikaku/index.html 玄米の検査規格「醸造用玄米の品位」]農林水産省生産局農産部穀物課米麦流通加工対策室(2020年9月21日閲覧)</ref>により3等以上に格付けされた玄米又はこれに相当する[[玄米]]を精米した[[白米]]を用い、こうじ米の使用割合(白米の重量に対するこうじ米の重量の割合)が、15%以上のものに限られる。
特定名称酒の表示は、当該特定名称によることとされ、これと類似する用語又は特定名称に併せて「極上」「優良」「高級」等の品質が優れている印象を与える用語は用いることができない。ただし、特定名称の清酒を含めて自社の製品のランク付けとしてのみであれば、表示することができる(「特別」を除く)。
特定名称酒は、原料や[[精米歩合]]により、'''[[#本醸造酒|本醸造酒]]'''、'''[[#純米酒|純米酒]]'''、'''[[#特定名称酒|吟醸酒]]'''に分類される。
{| class="wikitable" style="font-size:80%"
|+特定名称の清酒の表示<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/hyoji/seishu/gaiyo/02.htm
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120502150321/nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/hyoji/seishu/gaiyo/02.htm
| title = 「清酒の製法品質表示基準」の概要
| publisher = 国税庁
| accessdate = 2012-6-18
| archivedate = 2012-5-2
| deadlinkdate = 2020年9月 }}</ref>
!特定名称!!使用原料!!精米歩合!!香味等の要件!!こうじ米使用割合
|-
!本醸造酒
|rowspan=2|米、米こうじ、水、醸造アルコール||70%以下||香味、色沢が良好||rowspan="8"|15%以上
|-
!特別本醸造酒
|60%以下又は特別な製造方法(要説明表示)||香味、色沢が特に良好
|-
!純米酒
|rowspan=2|米、米こうじ、水||-||香味、色沢が良好
|-
!特別純米酒
|60%以下又は特別な製造方法(要説明表示)||香味、色沢が特に良好
|-
!吟醸酒
|米、米こうじ、水、醸造アルコール||rowspan=2|60%以下||rowspan=2|吟醸造り、固有の香味、色沢が良好
|-
!純米吟醸酒
|米、米こうじ、水
|-
!大吟醸酒
|米、米こうじ、水、醸造アルコール||rowspan=2|50%以下||rowspan=2|吟醸造り、固有の香味、色沢が特に良好
|-
!純米大吟醸酒
|米、米こうじ、水
|}
{|class="wikitable"
|+特定名称の規則性を表化
|||align="center"|'''吟醸造り'''<br>かつ<br>精米歩合:'''50%以下'''||align="center"|'''吟醸造り'''<br>かつ<br>精米歩合:'''60%以下'''||align="center"|'''特別な製造方法'''<br>又は<br>精米歩合:'''60%以下'''||align="center"|-
|-
|醸造アルコール:'''なし'''(純米)||align="center" style="background:#fcc;"|'''純米大吟醸酒'''||align="center" style="background:#fcc;"|'''純米吟醸酒'''||align="center" style="background:#fd9;"|'''特別純米酒'''||align="center" style="background:#fd9;"|'''純米酒'''
|-
|醸造アルコール:'''あり'''(アル添)||align="center" style="background:#fcc;"|'''大吟醸酒'''||align="center" style="background:#fcc;"|'''吟醸酒'''||align="center" style="background:#afa;"|'''特別本醸造酒'''||align="center" style="background:#afa;"|'''本醸造酒'''<br>(精米歩合:'''70%以下''')
|}
; {{Anchors|本醸造酒}}本醸造酒
: '''本醸造酒'''とは、精米歩合'''70%以下'''の白米、米こうじ、醸造アルコール及び水を原料として製造した清酒で、香味及び色沢が良好なものに用いることができる名称である。使用する白米の重量の10%未満(白米1[[トン]]につきおよそ120[[リットル]]以下)の量に限り醸造アルコールを添加することができる。
:; {{Anchors|特別本醸造酒}}特別本醸造酒
:: '''特別本醸造酒'''とは、本醸造酒のうち、香味及び色沢が「特に良好」であり、かつ、その旨を使用原材料、製造方法その他の客観的事項をもって当該清酒の容器又は包装に説明表示するもの(精米歩合をもって説明表示する場合は、精米歩合が'''60%以下'''の場合に限る)に用いることができる名称である。
; {{Anchors|純米酒}}純米酒
: '''純米酒'''とは、白米、米こうじ及び水のみを原料として製造した清酒で、香味及び色沢が良好なものに用いることができる名称である。ただし、その白米は、他の特定名称酒と同様、3等以上に格付けた玄米又はこれに相当する玄米を使用し、さらに米こうじの総重量は、白米の総重量に対して15%以上必要である。
:; {{Anchors|特別純米酒}}特別純米酒
:: '''特別純米酒'''とは、純米酒のうち、香味及び色沢が「特に良好」であり、かつ、その旨を使用原材料、製造方法その他の客観的事項をもって当該清酒の容器又は包装に説明表示するもの(精米歩合をもって説明表示する場合は、精米歩合が'''60%以下'''の場合に限る)に用いることができる名称である。
:純米酒は、特定名称酒の中でも(純米のものを含む)吟醸系の酒や本醸造酒に比べて濃厚な味わいがあり、蔵ごとの個性が強いといわれる。
:[[1991年]](平成3年)に[[日本酒級別制度]]が廃止されて以降、[[2003年]](平成15年)12月31日までの間は、「純米酒」の品位を一定以上に保つため、「精米歩合が'''70%以下'''のもの」と法的に規制されていた。当時は精米歩合が低い(玄米をより多く削る)ほど高級酒であるという通念があったからである。
: しかし、近年の[[規制緩和]]の一環として、この規定は[[2004年]](平成16年)1月1日に削除され、米だけで造ってあれば、たとえ食用米並の精米歩合であっても「純米酒」の名称を認めることとなった。この改正に関しては、評価は[[消費者]]の選択に任せるべきで「消費者の権利拡大である」と賛成する立場と「酒造技術の低下を招くもの」と批判する立場がある。
: この規制緩和によって、醸造アルコール無添加でも[[米粉]]などを使用していたために「純米酒」を名乗れなかった銘柄が、数多く格上げされるのではないかという疑念があったが、実際には先述のように「麹歩合15%以上」「規格米使用」といった制約があり、麹歩合15%未満の酒や規格外米・屑米・米粉を使用した酒は「純米酒」を称することはできない。
: 一方で上記の条件を満たした上で、かつて普通酒にも用いられなかったような高い精米歩合に敢えてすることで、独特の酒質を引き出す'''[[低精白酒]]'''などの新しい純米酒の開発も進んだ。
; {{Anchors|吟醸酒}}吟醸酒
: '''吟醸酒'''とは、精米歩合'''60%以下'''の白米、米こうじ及び水、又はこれらと醸造アルコールを原料とし、'''吟醸造り'''によって製造した清酒で、固有の香味及び色沢が良好なものに用いることができる名称である。低温で長時間かけて発酵させて造られ、'''吟醸香'''と呼ばれる[[リンゴ]]や[[バナナ]]、[[メロン]]を思わせる華やかな香気成分([[酢酸イソアミル]]や[[カプロン酸エチル]]など)を特徴とする<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.iwate.jp/~kiri/infor/theme/1998/pdf/H10-16-koboginjo.pdf 育種酵母による吟醸酒製造試験 Sake Brewing with Hybrid Yeast Strains]}}</ref>。吟醸造りでは、もろみを絞る直前に醸造アルコールを添加することで、芳香成分を酒粕側から日本酒側に移行させることができる。なお、添加できる醸造アルコールの量は、白米の重量の10%未満(白米1[[トン]]につきおよそ120[[リットル]]以下)と定められている。
:; {{Anchors|純米吟醸酒}}純米吟醸酒
:: '''純米吟醸酒'''とは、吟醸酒のうち、醸造アルコールを添加せず、米、米こうじ及び水のみを原料として製造したものに特に用いることができる名称である。一般に醸造アルコールを添加した吟醸酒に比べて香りは穏やか(控えめ)になり、味は厚みのあるものとなる。
: 本記事を含めて一般に'''吟醸系(の酒)'''と表現する場合は、吟醸酒、純米吟醸酒、大吟醸酒、純米大吟醸酒などの酒を総称している。
: 元々は鑑評会向けの特に「吟味して醸した酒」を意味した。[[1920年代]]から開発に着手され、[[1930年代]]の精米技術の向上、[[1950年代]]以降の吟醸酒製造により適した酵母の頒布、[[1970年代]]の温度管理技術と麹および酵母の選抜育種技術の進歩に促されて品質が向上するとともに、やがて一般市場に出回るだけの生産量が確保できるようになった。吟醸系の酒が日本国内の市場に流通するようになったのは[[1980年代]]以降であり、[[2000年代]]以降では日本国外でも[[日本食ブーム]]に伴って需要が高まっている(参照:[[日本酒の歴史#吟醸酒の誕生|「吟醸酒の誕生」]])。
; {{Anchors|大吟醸酒}}大吟醸酒
: '''大吟醸酒'''とは、吟醸酒のうち、精米歩合'''50%以下'''の白米を原料として製造し、固有の香味及び色沢が特に良好なものに用いることができる名称である。吟醸酒よりさらに徹底して低温長期発酵する。最後に吟醸香を引き出すために少量の醸造アルコールを添加する。添加できる醸造アルコールの量は、吟醸酒と同じく白米の重量の10%未満である。
[[File:花垣 福井の地酒.jpg|thumb|純米大吟醸酒(福井県)]]
:; {{Anchors|純米大吟醸酒}}純米大吟醸酒
:: '''純米大吟醸酒'''とは、大吟醸酒のうち、醸造アルコールを添加せず、米、米こうじ及び水のみを原料として製造したものに特に用いることができる名称である。一般に醸造アルコールを添加した大吟醸酒に比べて穏やかな香りで味わい深い。
=== 他の分類 ===
特定名称以外にも特徴的な原料や製法によって様々な分類があるが、これらは国税庁の告示([[#NTAspec|清酒の製法品質表示基準]])によるものと、酒造メーカーや業界団体によって伝統的・慣用的に用いられるものがある。前者は、特定名称といくつかの記載事項・[[#任意記載事項|任意記載事項]]・記載禁止事項を定めている。後者は、付加価値を高めるための、前者において定義されていない多様な分類が見られるが、同意の分類でも地方や世代などによって異なる用語が用いられることがあり(中取り/中汲み等)、統一されていない。「特撰」「上撰」「佳撰」といった呼称も、酒造メーカー独自のランク付けとして一部で使われているものである。
特定名称の使用が定められる以前は、「特級(酒)」」「一級(酒)」「二級(酒)」という[[日本酒級別制度|級別制度]]が存在した(詳しくは「[[日本酒の歴史]]」を参照)。
== 表示 ==
[[File:冷酒 (5942984517).jpg|thumb|一杯の日本酒]]
[[File:Sake before the kagami biraki.jpg|thumb|樽酒]]
=== ラベル表示用語 ===
==== 任意記載事項 ====
[[国税庁]]の[[#NTAspec|清酒の製法品質表示基準]]による任意記載事項は、以下の通り。
; 原料米の品種名
: [[酒造好適米]]など、特定の品種を原料米の50%以上使用した場合、品種名とその使用割合を表示できる。
; 清酒の産地名
: 単一の産地で製造された場合、産地名を表示できる。
; 貯蔵年数
: 一年以上[[#貯蔵・熟成|貯蔵・熟成]]された清酒には、貯蔵年数を表示できる。酒造メーカーによっては、1年以上経た酒に古酒、古々酒、大古酒、熟成酒、熟成古酒、秘蔵酒などの名称を冠して販売することがある。年数と用語に関する統一された基準はないが、[[酒蔵]]や酒販店で組織する長期熟成酒研究会によれば3年以上寝かせた酒を指すことが多い<ref name="日経20201121">【くらし探検隊】[[ヴィンテージ]]日本酒 探ってみた*酸味やとろみ 個性の幅に驚き『[[日本経済新聞]]』2020年11月21日土曜別刷りNIKKEI+1(11面)</ref>。
; [[#割水|原酒]]
: [[#上槽|上漕]]後、[[#割水|割水]]もしくは[[#割水|加水調整]](アルコール分1%未満の範囲内の加水調整を除く)をしない清酒。
;[[#火入れ|生酒]]
: 製成後、加熱処理([[#火入れ|火入れ]])を一度もしない清酒。[[酵母]]などの微生物や酵素が残っており品質が変化しやすいので、鮮度には注意が必要であり、冷蔵保存する必要がある。
; [[#火入れ|生貯蔵酒]]
: 製成後、火入れをしないで貯蔵し、製造場から移出する際に火入れした清酒。貯蔵期間については規定されていない。
; 生一本
: 清酒の製法品質表示基準「単一の製造場のみで醸造した純米酒である場合」と定められている。表示基準などが制限される以前は、「灘酒」が生一本の代名詞として呼ばれていた。<ref>「灘の酒用語集」灘酒研究会発行 1997年 p256</ref>
; 樽酒
: 木製の[[樽]]で貯蔵し、[[#香りの用語・表現|木香]]のついた清酒(瓶その他の容器に詰め替えたものを含む)。
==== その他の表示 ====
[[Image:Unfiltered Sake at Gyu-Kaku.jpg|thumb|right|220px|[[濁り酒]]]]
; [[#火入れ|生詰酒]]
: 生貯蔵酒とは逆に、製成後、[[#火入れ|火入れ]]をしてから貯蔵し、製造場から移出する際には火入れを行わない清酒。
; [[#ひやおろし|ひやおろし]]
: 冬季に醸造した後に春・夏の間涼しい酒蔵で[[#貯蔵・熟成|貯蔵・熟成]]させ、気温の下がる秋に瓶詰めして出荷された清酒。本ページ「[[#ひやおろし|ひやおろし]]」参照。
以下3項目は、[[#上槽|上槽]]時に搾りが施されている間の時期(前期・中期・後期など)で分類されるが、明確な基準はない。
; 荒走り(あらばしり)
: 上槽時、すなわち[[槽]]という搾り器を使って[[#醪(もろみ)造り|醪]](もろみ)を搾るときに、最初にほとばしるように出てくる部分の酒のこと。圧力を加えないで、最初に積まれた酒袋の重みだけで自然に出てくるもの。一般に固形分である[[#滓引き|滓]](おり)が多く、アルコール度は比較的に低めで、香りも高く切れ味が良い。
; 中取り(なかどり)、中汲み(なかぐみ)、中垂れ(なかだれ)
: 上槽時、荒走りの次に、中間層として出てくる部分。アルコール度や味は、ほどほどの中間点。味と香りのバランスが最も良い、あるいは荒走りより練られた味だ、とも評される。厳密には、この中取り、もしくは中汲み、中垂れという一つの段階の中にも、酒袋が槽一杯になるまで積まれたときに酒袋の山の自重で出てきたものと、自重に加えてさらに圧力を掛けたときに出てきたものの二段階がある。
; 責め(せめ)・押し切り(おしきり)
: 上槽時、最後に出てくる部分。特に槽搾りにおいて、圧搾して出てきた部分。アルコール度は高く、かなり練られた濃い味。
; 袋吊り、袋しぼり、雫しぼり、首吊り
: 上槽時、もろみを袋に詰め、袋を吊り下げてそこから垂れてくる酒をとる方法。出品酒などの高級酒に多く用いられる。こうして採られた酒は'''雫酒'''(しずくざけ)と呼ばれることもある。
; 斗瓶取り、斗瓶囲い
: 上槽時、出てきた酒を[[斗]]瓶(18リットル瓶)単位に分け、そこから良いものを選ぶ方法。出品酒等の高級酒に多く用いられる。
; [[#濾過|無濾過]]
: 「無濾過」については酒税法上の明確な定義はなく、製造者によって使われ方が異なる。「一切濾過行為をしない」「不要な固形物を取り除くための粗い目のフィルター以外には濾過をしない」「[[活性炭]]濾過による香味調整をしない」などの意味合いとして表示される<ref>{{Cite book|和書|title=J.S.A SAKE DIPLOMA Second Edition|date=2020年3月1日|year=|publisher=一般社団法人日本ソムリエ協会|page=96}}</ref>。
; [[濁り酒]]、おりがらみ
: 濁り酒は、上槽の際に粗い目の布などで濾して、意図的に滓を残したもの。火入れをしない場合は瓶内部で発酵が持続し、発泡性のものになる。おりがらみは、滓下げをしないままのもの。どちらも、滓に含まれているや旨み、醪独特の濃厚な香りや味わいを楽しむために造られる。「にごり酒」と表示されていても、清酒に微かな滓が漂っているものから、瓶の向こう側が見えない[[どぶろく]]状の商品まで、濁りの度合いは幅広い。
; 発泡日本酒
: 発酵や封入による[[炭酸ガス]]の泡立ちを楽しめる[[発泡日本酒]]もあり、製造元の酒蔵が集まって2016年に「awa酒協会」を設立した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.awasake.or.jp/|title=「awa酒協会」公式サイト |publisher=一般社団法人「awa酒協会」ホームページ |accessdate=2017-04-14}}</ref>。
; [[地理的表示]]
: 国税庁の[https://www.nta.go.jp/law/kokuji/151030_3/index.htm 酒類の地理的表示に関する表示基準を定める件(平成27年国税庁告示第19号)]により、国税庁長官の指定を受けた地域においてはその表示できるとともに、産地の特長を生かすよう原料や製法等が制限される。また、「清酒の産地のうち国税庁長官が指定するものを表示する地理的表示は、当該産地以外の地域を産地とする清酒について使用してはならない」ため、他地域で製造された清酒には類似表示(「○○風仕込み」「○○式清酒」)が禁止され、地域ブランドを保護できる。[[2020年]]現在、清酒では以下の5地域。
* 白山([[白山菊酒]]):[[石川県]][[白山市]]、2005年12月指定
* 山形:[[山形県]]、2016年12月指定
* [[灘五郷]]:[[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]]・[[東灘区]]、[[芦屋市]]、[[西宮市]]、2018年6月指定
* [[播磨国|はりま]]:兵庫県[[姫路市]]、[[相生市]]、[[加古川市]]、[[赤穂市]]、[[西脇市]]、[[三木市]]、[[高砂市]]、[[小野市]]、[[加西市]]、[[宍粟市]]、[[加東市]]、[[たつの市]]、[[明石市]]、[[多可町]]、[[稲美町]]、[[播磨町]]、[[市川町]]、[[福崎町]]、[[神河町]]、[[太子町 (兵庫県)|太子町]]、[[上郡町]]、[[佐用町]]、2020年3月指定
* 三重:[[三重県]]、2020年6月指定
が指定を受けているほか、日本国内全体を産地として保護する「日本酒」も指定されている<ref>{{Cite web|和書|title=酒類の地理的表示一覧|国税庁|url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/hyoji/chiri/ichiran.htm|website=www.nta.go.jp|accessdate=2020-10-03|publisher=}}</ref>。
=== 外国産清酒の表示 ===
上述の通り「日本酒」または「Japanese Sake」の表示は、地理的表示保護制度によって日本国内において製造された清酒にのみ認められている。日本国外で製造された清酒は「日本酒」と呼称することができないほか、「日本風」「日本式の製法」などとラベルや広告、[[POP広告|店頭ポップ]]等に表示することもできない。
また、外国産の日本酒については、「酒」「清酒」「〇〇産清酒」としてのみ販売できる。日本以外で作られた「外国産清酒」を日本国内で販売する場合には、原産国名および外国産清酒を使用したことの表示が必要となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/hyoji/chiri/pdf/0020006-141.pdf|title=「清酒」と「日本酒」について|accessdate=2020-10-03|publisher=国税庁}}</ref>。アメリカなどでは「SAKE(サーキー)」が一般的であり、こちらで呼ばれることが多い。
== 飲み方と料理への利用 ==
日本酒は、シャーベット状に半ば凍らせた「みぞれ酒」から常温の「冷や」、約60℃程度までの「[[燗酒|熱燗]]」と、幅広い温度帯で飲まれる。同種のアルコール飲料を同じ地域で、異なる温度により味わうのが常態である例は、他に[[中国]]の[[紹興酒]]などがある程度であり、比較的珍しい(熱燗について「[[燗酒]]」も参照)。
悪酔いを防ぎ、心身の健康を保つため、食事や「[[チェイサー|和(やわ)らぎ水]]」と呼ばれる水<ref>[http://www.japansake.or.jp/sake/yawaragi/ 日本酒ときどき「和らぎ水」]日本酒造組合中央会(2018年1月16日閲覧)</ref>と一緒に飲むことを、日本酒関連団体などが推奨している。
いずれの温度帯でも日本酒をそのまま飲むことが多いが、熱燗では、火を通した魚を浸して味を付ける[[骨酒]]、[[ひれ酒]]の伝統もある。さらに現代では、杯に氷を入れる[[オン・ザ・ロック]]、水割りやお湯割りと飲み方も多様化した。[[ハイボール]]<ref>[https://j-tradition.com/sake/nomikata.html 水割り、湯割り、ハイボール、みぞれ酒:日本酒の飲み方] 日本伝統文化スタイル(2018年1月16日閲覧)</ref>や[[カクテル]]の素材にもなる。[[日欧文化比較]]によれば江戸時代頃には通年燗をつけて飲むのが普通であり、また水割り(正確に言えば水増し)の酒が多かったとされる。
日本酒は、[[魚介類]]の臭み消しのほか、[[煮物]]などを含めた味・香り付けなどの[[調味料]]として、調理に使用される。調理専用の[[料理酒]]も製造・販売される。日本酒の製造過程で生じる[[酒粕]](さけかす)は[[粕取焼酎|酒粕焼酎]]の原料になる他、[[甘酒]]などにして飲用したり、[[粕漬け]]や[[粕汁]]などの料理に用いたりされる。
== 歴史 ==
{{see|日本酒の歴史}}
== 製成・販売数量と製造業者数、産地 ==
2018年度(平成30年度)における清酒の製成数量は40万6,064キロリットル、販売(消費)数量は48万8,696キロリットルである<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=酒のしおり(令和2年3月)|国税庁|url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/shiori-gaikyo/shiori/2020/index.htm|website=www.nta.go.jp|accessdate=2020-05-20}}</ref>。名産地・[[灘五郷|灘]]があり大手日本酒メーカーの集中する[[兵庫県]](約26%)、同じく[[伏見]]のある[[京都府]](約22%)が多い。これに、[[新潟県]](約8%)、[[埼玉県]](約4%)、[[秋田県]](約4%)と続く<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=清酒製造業の概況(平成30年度調査分)|国税庁|url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/shiori-gaikyo/seishu/2018/index.htm|website=www.nta.go.jp|accessdate=2020-05-20}}</ref>。成人一人当たりの日本酒販売(消費)数量は、新潟県が最も多く、[[東北地方|東北]]・[[北陸地方]]の各県がこれに続く<ref name=":0" />。
2017年度(平成29年度)の清酒の製造業者数は1,371業者で、そのうち中小企業が99.6%を占めている<ref name=":1" />。
蔵元が所在する地域の[[地方公共団体|地方自治体]]にとって、日本酒は重要な地場産業の一つである。このため、[[東京]]などに出店した[[アンテナショップ]]で[[地酒]]を販売したり、宴会などでまず地元産日本酒を飲むことを勧める[[乾杯条例]]を制定したりと、様々な振興策を展開している。
清酒の[[酒類製造免許]]を新たに取得できるのは、既存の清酒製造者が、企業合理化を図るため新たに製造場を設置して清酒を製造しようとする場合等に限られており<ref>{{Cite web|和書|title=第10条 製造免許等の要件|国税庁|url=https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kihon/sake/2-08.htm|website=www.nta.go.jp|accessdate=2020-05-20}}</ref>、新規参入は制限されている<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=社説(5/17):輸出用の日本酒製造/新制度生かし 需要取り込め|url=https://kahoku.news/articles/20210517khn000008.html|website=河北新報オンラインニュース|date=2021-05-17|accessdate=2021-06-14|language=ja}}</ref><ref>[https://xtrend.nikkei.com/atcl/trn/pickup/15/1008498/101501513/?P=2 謎の「ボタニカル日本酒」、500ml入り3000円でも売れるワケ(2ページ目)] - 日経クロストレンド(2018年11月06日)2020年9月21日閲覧</ref>。新規参入には、休廃業した酒造会社を買収し[[酒蔵]]の免許を移転する方法が使われる([[北海道]]の[[上川大雪酒造]]の例)<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/35838 戦後初、日本一新しい日本酒の「酒造会社」誕生秘話] [[フォーブス (雑誌)#フォーブス日本版|フォーブス日本版]](2020年7月15日配信)2020年4月14日閲覧</ref>。2021年には海外への輸出を後押しするため、輸出用清酒製造免許が設定された<ref>{{Cite web|和書|title=輸出用清酒製造免許の取得をご検討の方へ|国税庁|url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/menkyo/seishuseizo/index.htm|website=www.nta.go.jp|accessdate=2021-06-14}}</ref><ref name=":3" />。第1号は福島県のねっかに交付された<ref>{{Cite web|和書|title=只見の日本酒世界へ 「ねっか」に輸出用製造免許 全国初の交付 : ニュース : 福島 : 地域|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/fukushima/news/20210528-OYTNT50144/|website=読売新聞オンライン|date=2021-05-29|accessdate=2021-06-14|language=ja}}</ref>。
== 原料 ==
日本酒の主な原料は、米と水と[[麹]]([[米麹]])である。広義には、日本酒の醸造を支える[[酵母]]・[[乳酸菌]]などの全てを「日本酒の原料」と呼ぶこともある。専門的には、香味の調整に使われる[[醸造アルコール]]、酸味料、[[調味料]]、[[アミノ酸]]、[[糖|糖類]]などは'''副原料'''と呼んで区別する。
=== 米 ===
用途によって、'''麹米'''(こうじまい)用と'''掛け米'''(かけまい)用の2種類がある。
麹米には通常[[酒米]](酒造好適米)が使われる。掛け米には全部または一部に'''一般米'''([[米|うるち米]])が使われるが、'''[[#特定名称酒|特定名称酒]]'''の場合には'''酒米'''のみが使われることが多い。[[#普通酒|普通酒]]は麹米、掛け米ともにすべて一般米で造られるのがほとんどである。
原料米の選び方や使い方は、かつては特定名称酒などの高級酒ともなると代表的な酒米の[[山田錦]]一辺倒の傾向すらあったが、今日では一般米からも高い評価を得る酒が造られており、近年は新種の開発などにより変化が著しい。
米が[[豊作]]の年には、米の質の関係から、醸造に失敗しやすい事もある。これは豊作の年の米が比較的硬いため、酵母が充分繁殖するのに時間がかかり、その間に雑菌が繁殖してしまうのだという。[[大正]]4年([[1915年]])には、この現象(後に「大正の大腐造」とも呼ばれたという)により日本各地で醸造に失敗、酒造業全体に深刻なダメージを被ったとされている。
{{seealso|酒米}}
=== 水 ===
[[水]]は日本酒の80%を占める成分で、品質を左右する大きな要因となる。このため灘の[[宮水]]など、地域によっては特別な名称で呼ばれる場合もある。水源はほとんどが[[伏流水]]や[[地下水]]などの[[井戸水]]である。条件が良い所では、これらを水源とする[[水道水]]が使われることもあるが、醸造所によって専用の水源を確保することが多い。都市部の醸造所などでは、水質の悪化のために遠隔地から水を輸送したり、良質な水源を求めて移転したりすることもある。酒造りに使われる水は[[#水|酒造用水]]と呼ばれ、仕込み水として、また瓶、製造設備などの洗浄用水として利用される。[[蔵元]]の一部は、仕込み水を商品として販売している。
[[東京]][[都心]]に立地する[[東京港醸造]]は敢えて水道水を使っている。その理由としては、[[東京都水道局]]が取水する[[利根川]]・[[荒川 (関東)|荒川]]水系が[[軟水|中軟水]]で、酒造りに不適な一部[[ミネラル]]([[鉄分]]や[[マンガン]])が少ないのと、安全・衛生的で殺菌用[[塩素]]も製造工程で抜けるため支障がないことを挙げている<ref>[https://www.sankei.com/article/20180224-WD7MF7ZQA5M7DDIGOFJDS4LUBE/ 【近ごろ都に流行るもの】おいしい水道水/酒造りに最適!?浄水器も多様化]『[[産経新聞]]』朝刊2018年2月19日(東京面)2020年9月21日閲覧</ref>。
; 硬度
: 水の[[硬度 (水)|硬度]]は、酒の味に影響する要素の一つである。おおざっぱに言えば、[[軟水]]で造れば醗酵の緩いソフトな酒、[[硬水]]で造れば醗酵の進んだハードな酒になる。理由は、醸造過程で硬水を使用するとミネラルが酵母の働きを活発にして[[アルコール発酵]]すなわち糖の分解が速く進み、逆に軟水を使用するとミネラルが少ないため酵母の働きが低調になり発酵がなかなか進まないからである。
: [[江戸時代]]以来、[[灘五郷|灘]]では[[宮水]]と呼ばれる硬水が使用されていたが、[[1897年]]([[明治]]30年)には広島県の[[三浦仙三郎]]により[[軟水醸造法]]が開発された。
: 硬度の測定には、日本の日常生活では[[硬度 (水)#計算法|アメリカ硬度]]が用いられるが、醸造業界では長らく[[硬度 (水)#計算法|ドイツ硬度]]が用いられている(アメリカ硬度も使用される)<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/hokanken/oyakudati_kousui.html 硬水と軟水] 京都府保健環境研究所(2020年9月21日閲覧)</ref>。
; 水質
: 酒造用水に課せられている水質基準は、水道水などと比べるとはるかに厳格である。酒蔵は、使用する水を事前にそれぞれの地域の[[保健所]]、[[食品試験所]]、酒造指導機関などに送って検査を受けなくてはならない。
: 検査は以下のような項目で行われる。
* '''[[臭気]]'''
* '''[[味覚|味]]'''
* '''[[色度]]'''
* '''[[濁度]]'''
* '''[[水素イオン指数|pH]]'''
* '''[[塩素]][[イオン]]'''
* '''[[カルシウム]]'''
* '''[[硬度 (水)|総硬度]]'''
* '''[[マグネシウム]]'''
* '''[[トリクロロエチレン]]'''
* '''[[リン|全燐]]'''
* '''[[硝酸態窒素|亜硝酸性窒素および硝酸性窒素]]''' - 不検出でなければならない。
* '''[[過マンガン酸カリウム]]消費量'''
* '''一般[[細菌]]数''' - 不検出でなければならない。
* '''[[大腸菌]]群''' - 不検出でなければならない。
* '''[[水銀]]'''
* '''[[鉄]]''' - 許容範囲は 0.02[[ミリグラム|mg]]/L 以下(水道水では 0.3mg/L 以下)。鉄分は日本酒の着色の原因となるほか、香味を低下させる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kikumasamune.co.jp/toshokan/05/05_02.html|title=第5巻 品質管理|accessdate=2020-10-03|publisher=菊正宗}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=鉄 {{!}} 灘の酒用語集|url=http://www.nada-ken.com/main/jp/index_te/85.html|website=www.nada-ken.com|accessdate=2020-10-03}}</ref>。
* '''[[マンガン]]''' - 許容範囲は 0.02mg/L 以下(水道水では 0.3mg/L 以下)。
: 日本の水は、各地によって小差はあるもののほとんどが[[中硬水]]であり、香味を損ねる鉄分やマンガンの含有量が少ないので、醸造に適しているといえる。[[太平洋戦争]]前に[[満州]]へ渡り在留日本人のために清酒の現地生産を図るも、当地の水は硬水で醸造に適しておらず、安定して製造することは困難だった<ref>{{Cite web|和書|title=三増酒の出来るまでの経緯と純米酒復活に至るまでの流れ【Vol.1】「合成酒と三増酒の登場」と「満州国とアルコール添加酒」 {{!}} 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」|url=https://jp.sake-times.com/knowledge/word/sake_g_sanzousyu_1|website=SAKETIMES {{!}} 日本酒をもっと知りたくなるWEBメディア|date=2015-04-08|accessdate=2020-10-03|language=ja}}</ref>。
: なお、発酵の助成促進または安全醸造のための必要最小限の塩類([[リン酸カリウム|酸性りん酸カリウム]]、[[リン酸カルシウム|酸性りん酸カルシウム]]、[[塩化マグネシウム]]等)については、仕込み水に添加することができる<ref>{{Cite web|和書|title=第3条 その他の用語の定義|国税庁|url=https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kihon/sake/2-02.htm|website=www.nta.go.jp|accessdate=2020-10-03}}</ref>。
; 水の用途
: 酒造りに用いられる酒造用水は、以下のように分類される。
* '''醸造用水''' - 醸造作業の最中に酒の中に成分として取りこまれる水。
** 洗米浸漬用水 - 米を洗い、浸しておく水。仕込みの前に米の中に吸収される水でもある。
** 仕込み用水 - 醸造時に主原料として加える水。
** 雑用用水 - 洗浄や[[ボイラー]]に用いられる水。これにも[[#水|水質の項]]で述べられているような厳しい基準を通過した酒造用水が用いられる。
* '''瓶詰用水'''
** 洗瓶用水 - 瓶を洗う水である。
** 加水調整用水 - アルコール度数を調整するために加える水。醸造後に酒に取り込まれる。
** 雑用用水 - タンクや[[バケツ]]の清掃に用いる水。これにも水質の項で述べられているような厳しい基準を通過した酒造用水が用いられる。
=== 麹(正字は「{{JIS2004フォント|麴}}」) ===
日本酒に用いる[[麹]]は、一般的に蒸した米に麹菌([[ニホンコウジカビ]]の[[胞子]])を振りかけて育てたものであり、その色からニホンコウジカビは'''黄麹'''ともいわれ、'''米麹'''(こめこうじ)ともいう。これが米の[[デンプン]]を[[グルコース|ブドウ糖]]に変える'''[[糖化]]'''の働きをする。だだし21世紀からは日本酒の醸造においても、[[焼酎]]や[[泡盛]]の醸造で使われていた'''白麹'''と'''黒麹'''([[アワモリコウジカビ]])が使われ始めており。白麹(黒麹の[[アルビノ]]突然変異体)を醸造に使用した酒は、2009年の[[新政酒造]]の「亜麻猫」の発売以来普及した。白麹は多くの[[クエン酸]]を生成するため、微生物の繁殖を防ぐ能力が高く、クエン酸由来の酸味が強い風味を持つ傾向に仕上がりやすい。酒母を作る伝統的な方法である生酛づくりや山廃づくりにおいても、より近代的な方法の速醸なみの速さででき、それらは速醸と違い人工的に作られた乳酸を添加しないため「無添加」の表示ができ、特に輸出する際のマーケティングの観点から有利である<ref name="kawachii220520">{{Cite web|和書|url=https://sakestreet.com/ja/media/learn-shiro-koji-and-kuro-koji|archive-url=https://web.archive.org/web/20220930061200/https://sakestreet.com/ja/media/learn-shiro-koji-and-kuro-koji|title=日本酒造りにもたらされた「クエン酸」による変革!! - 白麹、黒麹仕込みの日本酒を学ぶ|publisher=Sake Street|date=2022-5-22|archive-date=2022-9-30|access-date=2023-4-9}}</ref>。
日本酒が原料とする米の主成分は[[多糖|多糖類]]であるデンプンだが、そのままでは酵母がエネルギー源として利用できない(デンプンから直接[[アルコール発酵]]を行えない)ので、まず麹の働きによって[[分子量]]の小さな糖へと分解する必要がある。つまり、酵母がブドウ糖からアルコールを生成できるように、下ごしらえとしてデンプンを糖化してブドウ糖を生成する役割を担うのが米麹である。米麹は、コウジカビが生成するデンプンの分解[[酵素]]である[[アミラーゼ|α-アミラーゼ]]や[[グルコアミラーゼ]]を含み、これらの働きによって糖化が行われる。ほかに[[タンパク質]]の分解酵素も含んでおり、タンパク質を分解して生じる[[アミノ酸]]や[[ペプチド]]は、酵母の生育や完成した酒の風味に影響する(参照:[[#麹造り]])。
洋酒を代表する[[ワイン]]では、原料である[[ブドウ]]果汁の中に既にブドウ糖が含まれているので、こうした糖化の工程が要らない[[醸造酒|単発酵]]文化圏となった。東洋においては、日本酒だけでなく、他の酒類や[[味噌]]・[[みりん|味醂]]・[[醤油]]など多くの食品に麹が使われ、食文化的に[[醸造酒|複発酵]]文化圏、[[カビ]]文化圏などとも呼ばれる。これは[[東南アジア]]から[[東アジア]]にかけての中高温湿潤地帯という[[気候]]上の特性から可能であった、[[微生物]]としてのカビの効果を利用した醸造法である。東洋で使われる麹菌にはさまざまな種類があり、[[焼酎]]には白麹・黒麹(黒麹菌)・黄麹、[[泡盛]]には黒麹、[[紹興酒]]には赤麹が用いられるのが通常だが、日本酒の場合は[[味噌]]、[[みりん|味醂]]、[[醤油]]と同じく一般的に'''黄麹'''(きこうじ、'''黄麹菌'''・'''黄色麹菌''')が用いられる。ただし、「黄」と言っても実際の色は緑色や黄緑色に近い。
酒造会社が使う麹や酒蔵に以前から定着している微生物以外の[[納豆]]菌や[[雑菌]]などは、酒に悪影響を与える。特に納豆菌が麹米に繁殖すると、スベリ麹と呼ばれるヌルヌルした納豆のような麹になる。このため見学者らに来訪直前は納豆を食べないよう求める[[造り酒屋]]もあり<ref>[http://www.kikunotsukasa.jp/column/archives/313 酒蔵見学で気をつけてほしい3つのポイント] [[菊の司酒造]]きくつかこらむ(2016年8月31日)2017年12月16日閲覧</ref>、また酒造期の蔵人が納豆を食さない所もある<ref>[http://www.hagino-shuzou.co.jp/blog/201411011550.php 酒蔵と納豆] 萩野酒造(2014年11月1日)2020年9月21日閲覧</ref>。
日本で用いられる麹は、肉眼で見る限り米粒そのままの形状をしており、'''散麹'''(ばらこうじ)と呼ばれる。それに対して、中国など他の[[東洋]]諸国で用いられる麹は'''餅麹'''(もちこうじ)と呼ばれ、原料となる[[米]]・[[ムギ|麦]]など[[穀物]]の粉に水を加えて練り固めたものに自然界に存在する[[クモノスカビ]]や[[ケカビ]]の[[胞子]]が付着・繁殖してできるものである。
=== 酵母 ===
麹の中の米のデンプンから生成されたブドウ糖は、[[酵母]]によって分解され、[[エタノール]]と二酸化炭素が生成される。酵母は[[菌類|真菌類]]に属する[[単細胞生物]]であって原料ではないが、これが行う'''[[アルコール発酵]]'''が日本酒造りの過程において大きな要素であるためここに記す(詳細は[[清酒酵母]]を参照)。多種多様な酵母の中で日本酒の醸造に用いられるものを[[清酒酵母]]といい、種は80%以上が''Saccharomyces cerevisiae''([[出芽酵母]])である。何十万もの種類が自然界に広く存在しており、それぞれ異なった資質を持っている。酵母の多様性は酒の味や香りや質を決定付ける重要な鍵となる。
前近代には、麹と水を合わせる過程において空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、酒蔵に棲みついた「[[蔵つき酵母]]」(家つき酵母)に頼ったりするなど、その時々の運任せであった。このため、科学的[[再現性]]に欠けており、醸造される酒は品質が安定しなかった。
[[明治|明治時代]]になると[[微生物学]]の導入によって有用な[[種菌|菌株]]の分離と養育が行われ、それが配布されることによって日本酒全体の品質の安定・向上が図られた。[[1911年]](明治44年)第1回[[全国新酒鑑評会]]が開かれ、'''[[日本醸造協会]]'''が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で1位となるなど客観的に優秀と評価された酵母を純粋培養して頒布した。頒布された酵母('''[[協会系酵母]]'''または'''協会酵母''')には、日本醸造協会に因んで「協会n号」(nには番号が入る)という名が付けられている。アルコール発酵時に二酸化炭素の泡を出す[[協会系酵母#泡あり酵母|泡あり酵母]](協会1号から協会15号など)と、出さない[[協会系酵母#泡なし酵母|泡なし酵母]]に大別される。泡なし酵母は突然変異により生まれた発酵時に泡を出さない酵母で、酒造りの過程において泡守り(あわもり)が不要であるなど利点も多いために研究が進み、従来の泡あり酵母のなかで優良な種株の泡なし版が多く作られていった。
元々、日本酒には米の持つ地味な香りだけがあり、ワインのようなフルーティーな香りは無かったが、鑑評会向けに優れた香りを持つ酒を醸造する工夫が重ねられて'''[[#特定名称酒|吟醸酒]]'''が誕生し、各地の蔵で吟醸造りが行われるようになった。これに大きな役割を果たしたのが協会系酵母の中の[[協会系酵母#協会7号|協会7号(真澄酵母)]]と[[協会系酵母#協会9号|協会9号(香露酵母・熊本酵母)]]であった。[[1980年代]]に吟醸酒が一般層にも広く受け入れられて消費が伸びてくると、この他にも少酸性酵母、高エステル生成酵母、[[リンゴ酸]]高生産性多酸酵母といった高い香りを出す泡なし酵母が作られ、[[1990年代]]以降はそれぞれ開発地の地名を冠する[[清酒酵母#静岡酵母|静岡酵母]]、[[清酒酵母#山形酵母|山形酵母]]、[[清酒酵母#秋田酵母|秋田酵母]]、[[清酒酵母#福島酵母|福島酵母]]などが登場し、吟醸造りに用いられる酵母も多様化していった。
最近では、[[清酒酵母|アルプス酵母]]に代表される[[カプロン酸エチル]]高生産性酵母や、[[東京農業大学]]が[[清酒酵母#大学で開発された酵母|なでしこ]]、[[清酒酵母#大学で開発された酵母|ベコニア]]、[[清酒酵母#大学で開発された酵母|ツルバラ]]の花から分離した[[清酒酵母#大学で開発された酵母|花酵母]]など、強い[[#香りの用語・表現|吟醸香]]を引き出すものが注目を集めており、今も大手メーカーやバイオ研究所、大学などで様々な酵母が作られている。協会系酵母として現在頒布されているものの70%近くは泡なし酵母である。
一方、新たに開発された酵母によっては吟醸香が不自然に強すぎて酒の味を損なうなど、却って好まれない場合もあるため、一概に香りを強く鮮やかにすることが望ましいわけではない。
=== 乳酸 ===
[[乳酸]]は、他の雑菌が繁殖しないようにするために、特に仕込みの初期に重要である。また、乳酸を始めとする[[有機酸]]が、酒に“腰”を与える。[[日本酒#酒母造り|酛立て]]の際に[[醸造用乳酸]]を加える場合と、[[乳酸菌]]に乳酸を作らせる場合があり、前者を速醸(そくじょう)系、後者を生酛(きもと)系と呼ぶ。
=== その他 ===
正式には'''副原料'''に区分されるもの。
〈ラベルに表示される項目〉
* [[醸造アルコール]] - すっきりした味わいにするため、あるいは香りを残すために[[もろみ]]に加えられる。加えられたものは「アル添酒」と呼ばれる。
* [[糖|糖類]] - 酒に甘味を付け加える。精米の副産物である米糠のデンプンを糖化、精製したもの(米糠糖化液)を米の代替として加え、発酵させる場合もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kikumasamune.co.jp/mondou/faq2.html|title=原料|日本酒なんでもFAQ|日本酒の学校|菊正宗~生酛(生もと)で辛口はうまくなる。~|accessdate=2020-10-03|publisher=}}</ref>。
* [[アミノ酸]] - 酒に旨みを付け加える。
* [[酸味料]] - 酒に酸味を付け加える。
<ラベルに表示されない項目>
* 酵素剤 - 麹菌が造る[[酵素]]を補うためなどに「酵素剤」を使用することがある。原料重量の 1,000分の1 以下の場合、原料として扱われない。
* [[活性炭]] - 酒の雑味を取る。使いすぎると酒自体の味が薄くなる。
* 清澄剤
* ろ過助剤
== 日本酒の製法 ==
日本酒は[[ビール]]やワインと同じく[[醸造酒]]に分類され、原料を発酵させてアルコールを得る。発酵では酵母が単糖類を利用する。ブドウを原料とするワインなどは、含まれる糖質が単糖なため、そのまま利用される。しかし、アルコール醸造は原料の糖質が単糖のまま利用されるばかりではない。日本酒やビールの原材料である米や麦では多糖類(でんぷんなど)として貯蔵された形になっている。そのため含有される多糖類を単糖にする'''糖化'''という過程が必要である。ビールの場合は、アミラーゼにより完全に[[麦汁]]を糖化させた後に発酵させる。日本酒は糖化と発酵を並行して行う工程があることが大きな特徴である。[[醸造酒|並行複発酵]]と呼ばれるこの日本酒独特の醸造方法が、他の醸造酒に比べて高いアルコール度数を得ることができる要因になっている。日本酒で糖化の工程で利用されるのが麹になる。
日本酒は、次の過程を経て醸造される。
=== 精米 ===
玄米から[[糠]]・[[胚芽]]を取り除き、あわせて[[胚乳]]を削る<ref group="注釈">削られた部分は[[米粉]]、あるいは[[飼料]]用に転用されて再利用されている。</ref>。削られた割合は[[精米歩合]]によって表される。
米に含まれる[[タンパク質]]・[[脂肪]]は、米粒の外側に多く存在する。醸造の過程において、タンパク質・脂肪は雑味の原因となるため<ref group="注釈">しかし、これらの雑味の中には調理に有効な旨味成分も多く含まれていることから、料理酒用として醸造される日本酒の中にはあえて雑味を残す醸造方法をとっているものもある。[https://tg-uchi.jp/topics/3222 どちらを使えばいい?「料理酒」と「清酒」の【5つの違い】]家のコトで役立つ [[東京瓦斯|東京ガス]]くらし情報サイト ウチコト 2019年7月31日閲覧</ref>、米が砕けないよう慎重に削り落とされ、それにより洗練された味を引き出すことができる。その反面、精米歩合が低くなればなるほど米の品種の個性が生かしにくくなり、発酵を促すミネラル分や[[ビタミン]]類も失われるので、後の工程での高度な技術が要求されることになる。
精米の速度が速すぎると、米が熱をもって変質したり砕けたりするので、細心の注意をもってゆっくり行わなくてはならない。吟醸、大吟醸となると、削りこむ部分が大きいだけでなく、そのぶん対象物が小さくなって神経も使うので、精米に要する時間は丸二日を超えることもある。
[[1930年]]([[昭和]]5年)頃以降は[[縦型精米機]]の出現により、より高度で迅速な精米作業が可能になり、ひいてはのちの吟醸酒の大量生産を可能にした(参照:[[日本酒の歴史#吟醸酒の誕生|吟醸酒の誕生]])。最近ではこの縦型精米機を[[コンピュータ]]で制御して精米している大手メーカーもある。
2023年時点で最も精米されている日本酒は、新澤醸造店の「零響 Crystal 0」(137万5千円)であり、精米歩合0.85%以下(99.15%以上を除去)の記録を持つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00765/00003/|archive-url=https://web.archive.org/web/20230127134216/https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00765/00003/?n_cid=nbpnxr_twed_new|title=日本酒の世界最高精米歩合、ついに更新 新澤醸造店が目指す新地平|publisher=Nikkei Business Publications, Inc.|date=2023-01-24|archive-date=2023-01-27|access-date=2023-03-19}}</ref>。
=== 放冷・枯らし ===
精米後の白米、分け後の酒母、出麹後の麹を次の工程で使用されるまで放置すること。
精米された米はかなりの[[摩擦|摩擦熱]]を帯びている。精米歩合が低く、精米時間が長ければ長いほど、帯びる熱量も大きくなる。そのままでは次の工程へ進むには米の質が安定していない([[杜氏]]や蔵人の言葉では「米がおちついていない」)ため、袋に入れて倉庫の中でしばらく冷ますことになる。また、摩擦熱によって蒸発した水分を元に戻す。これを'''放冷'''(ほうれい)、また杜氏・蔵人の言葉では'''枯らし'''(からし)という。「しばらく」と言っても数時間単位で済む作業ではなく、摩擦熱が放散しきって完全に米が落ち着くまで通常3週間から4週間は掛かる。
=== 洗米 ===
精米された米は、精米の過程で表面に付いた糠・米くずを徹底的に除去される。これが'''洗米'''(せんまい)である。
[[#普通酒|普通酒]]を造る米などは、機械で一度に大量に洗米される。他方、高級酒を造る米は、手作業でおよそ10キログラムぐらいずつ、5[[セルシウス度|℃]]前後の冷水で、流れる水圧を利用して少しずつ洗われる。洗っている間にも米は必要な水分を吸収し始めており、「第二の精米作業」と言われるほどに、細心の注意を払う工程である。こうして洗われた米は浸漬へ回される。
=== 浸漬 ===
洗米された米は、水に漬けられ、水分を吸わされる。これを'''浸漬'''(しんせき、若しくは、しんし)という。
浸漬は、のちのち蒸しあがった米にムラができないように、米の粒全般に水分を行き渡らせるために施される工程である。水が、米粒の外側から、中心部の'''[[酒米#構造|心白]]'''([[杜氏]]蔵人言葉では「目んたま」)と呼ばれるデンプン質の多い部分へ浸透していくと、米粒が文字通り透き通ってくる。米の搗(つ)き方、その日の[[天気|天候]]、[[気温]]、[[湿度]]、[[水温]]など様々な条件によって、浸漬に必要な時間は精緻に異なる。
このとき、米にどれだけ水を吸わせるかによって、できあがりの酒の味が著しく違ってくる。米の品種や、目指す酒質によって、浸漬時間も数分から数時間と幅広い。[[精米歩合]]が低い米ほど、その違いが大きく結果を左右するので、高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位まで厳密に浸漬時間を管理する。米は水から上げた後もしばらく吸水し続けるので、その時間も計算に入れた上で浸漬時間は判断される。
なお、できあがりの酒質のコンセプトによっては、意図的に途中で水から上げるなど、ある一定の時間だけ米に吸水させる。これを'''限定吸水'''(げんていきゅうすい)という。
=== 蒸し ===
蒸気で米を蒸し蒸米をつくる。蒸米は、麹、酒母、醪を作る各工程で用いられる。
浸漬を経た米は広げて、湿度を保たせる。この間も米は水分を吸収し続ける。
その後、麹の酵素が米のデンプンを分解しやすくさせるために、米を蒸す。この工程を正式には'''蒸きょう'''(じょうきょう:「きょう」は「食へんに強」)、もしくは杜氏蔵人言葉で'''蒸し'''という。普通酒などでは自動蒸米機(じどうじょうまいき)という機械で、高級酒などでは和釜に載せた[[甑]](こしき)という大きな[[蒸籠]](せいろ)に移して、40分から1時間ほど蒸す。
蒸し上がった米は、「外硬内軟」といって、外側がパサパサとしていて内側が柔らかいのがよいとされている。後の工程で米の形がある程度残る硬さを保ち、また効果的にコウジカビの生育を促す意味を持つ。外側が溶けていると、コウジカビの定着の前に腐敗が始まる恐れがあり、また、内側に芯が残っていると、菌糸の成長が抑えられ米で一番良質のデンプン質を含んだ部分が、糖化・発酵しない可能性があるからである。
なお、酒造期最後の蒸しが終わり、和釜から甑を外すことを'''甑倒し'''(こしきだおし)という。<!-- 甑倒し後も醪の発酵、上槽、火入れ等の作業はあるため、酒造りの終了ではない。-->
=== 麹造り ===
[[File:Okuhidashuzo-010.jpg|thumb|日本酒の麹造り(奥飛騨酒造)]]
[[麹]]とは、蒸した米に[[麹菌]]というコウジカビの胞子をふりかけて育てたもので、米の[[デンプン|デンプン質]]を[[グルコース|ブドウ糖]]へ変える'''[[糖化]]'''の働きをする(詳しくは[[#麹(正字は「麴」)|麹]]参照)。麹造りは正式には'''製麹'''(せいきく、せいぎく)という。
[[日本酒の歴史#口嚼ノ酒(くちかみのさけ)とカビの酒|口噛み製法]]で醸されていた原初期の酒造りを除いて、[[奈良時代]]の初めには既に麹を用いた製法が確立していたと考えられる。以来、永らく麹造りは、酒造りの工程に占める重要性と、[[味噌]]や[[醤油]]など他の食品への供給需要から、酒屋業とは別個の専門職として[[室町時代]]まで営まれてきたのだが、[[1444年]]の[[文安の麹騒動]]によって酒屋業の一部へと武力で吸収合併された(参照:[[日本酒の歴史#室町時代|日本酒の歴史 - 室町時代]])。
現在、たいてい酒蔵には'''麹室'''(こうじむろ)と呼ばれる特別の部屋があり、そこで麹造りが行われている。床暖房や[[エア・コンディショナー|エアコン]]などで温度は30℃近く、湿度は60%に保たれている。温度が高いのは、そうしないと黄麹菌が培養されないからであり、また湿度に関しては、それ以上高いと黄麹菌以外のカビや雑菌が繁殖してしまうからである。雑菌の侵入を防ぐために入室時には手洗いや靴の履き替えを行い、関係者以外は入れないのが普通である。それに加え、室外から雑菌が入り込まないように二重扉、密閉窓、断熱壁など、かなりの資本をかけて念入りに造られている。よく「麹室は酒蔵の財産」と言われる。
「[[#麹(正字は「麴」)|麹]]」の項に詳しく述べられているように、麹からは糖化作用のためのデンプン分解酵素のほか、[[タンパク質]]分解酵素なども出ており、これらが蒸し米を溶かし、なおかつ酒質や酒味を決めていく。あまり酵素が出すぎると目指す酒質にならないため、米の溶け具合がちょうど良いところで止まるように麹を造る必要がある。
; 破精込み具合
: それを見極めるのに着目されるのが、米のところどころに生じる'''[[破精]]'''(はぜ)である。ちょうど植物が土中へ根を生やすように、[[コウジカビ]]が蒸米の中へ菌糸を伸ばしていくことを'''破精込み'''(はぜこみ)といい、その態様を'''破精込み具合'''(はぜこみぐあい)という。麹は、破精込み具合によって突破精型(つきはぜがた)、総破精型(そうはぜがた)、塗り破精型(ぬりはぜがた)、馬鹿破精型(ばかはぜがた)に分類される。
: '''突破精型'''は、[[コウジカビ]]の[[菌糸]]は蒸米の表面全体を覆うことなく、破精の部分とそうでない部分がはっきり分かれており、なおかつ菌糸は蒸米の内部奥深くへしっかり喰いこみ伸びている状態。強い[[糖化|糖化力]]と、適度なタンパク質分解力を持つ理想的な麹となり、淡麗で上品な酒質に仕上がるため、一般的な傾向としては[[#吟醸酒|吟醸酒]]によく使われる。
:'''総破精型'''は、コウジカビの菌糸が蒸米の表面全体を覆い、内部にも深く菌糸が喰い込んでいる状態。糖化力、タンパク質分解力ともに強いが、使用する量によっては味の多い酒になりやすい。濃醇でどっしりした酒質に仕上がるため一般に[[#純米酒|純米酒]]に好んで使われる。
: '''塗り破精型'''は、コウジカビの菌糸は蒸米の表面全体を覆っているが、内部には菌糸が深く喰いこんでいない状態。糖化力、タンパク質分解力ともに弱く、[[粕歩合]]が高く、力のない酒になりやすい。
: '''馬鹿破精型'''は、前の工程、[[#蒸し|蒸し]]の段階で手加減を間違えたため、蒸米が柔らかすぎて、表面にも内部にも菌糸が喰いこみすぎ、グチャグチャになった状態。こうなると雑菌に汚染されている危険もある。酒造りには通常使えない。
[[杜氏]]や蔵人の間ではよく「一麹(いちこうじ)、二{{JIS2004フォント|酛}}(にもと)、三造り(さんつくり)」と言われる。「良い麹ができれば酒は七割できたも同然」という杜氏や蔵人もいるくらいで、酒造りの根本として重要視される。
目指す酒質によって、麹造りには以下のような方法がある。
; 蓋麹法
: '''蓋麹法'''(ふたこうじほう)は、主に吟醸酒かそれ以上の高級酒のための方法であり、麹造りに要する時間は丸2日以上、だいたい50時間で、おおかた以下のような順番で作業が行われる。
# '''種切り''' 35℃近くの蒸し米を薄く敷き詰め、[[篩]](ふるい)から'''種麹'''(たねこうじ)、すなわち粉状の黄麹菌を振りかけていく。終わると米を大きな饅頭のように中央に集めて布で包む。
# '''切り返し''' 種切りから8 - 9時間経つと、黄麹菌の[[繁殖熱]]により水分が蒸発し米が固くなっているので、いったん広げて熱を放散させたうえで、ふたたび大きな饅頭にして包む。
# '''盛り''' 翌日あたりになると黄麹菌の活動が盛んになり、米の温度も上昇が著しい。そこで大きな饅頭を解き、'''[[麹蓋]]'''(こうじぶた)または'''もろ蓋'''と呼ばれる小さな箱に米を約1.5kgから2.5kgずつ小分けにしていき、この箱を決められたスペースに積み重ねて管理する。麹蓋に米を盛りつけることからこの工程を'''盛り'''と呼ぶ。
# '''積み替え''' 盛りから3 - 4時間経つと再び米が熱を持ってくるので、麹蓋を上下に積み替えて温度を下げる。
# '''仲仕事'''(なかしごと) ふたたび熱を散らすために米を広げて温度を下げる。
# '''仕舞い仕事'''(しまいしごと) また熱を散らすため、米を広げる。これで米の熱を散らす作業は終わりという意味から'''仕舞い仕事'''と呼ぶのだが、実際上はこれが最後ではない。
# '''最高積み替え''' 仕舞い仕事のあとも米の温度はさらに上がる。温度が最高になったときに、最後の温度調整のために麹蓋の上下積み替えを行う。温度が最高になったときに行うので'''最高積み替え'''という。この後も何回か米の温度を見て、適宜に積み替えをして温度を下げる作業が続く。
# '''出麹'''(でこうじ) 50時間ほど経過した頃になると、[[栗]]を焼いたような香ばしい匂いがしてくる。これが麹ができたサインとなる。こうなったら麹室から麹を出す。
; 箱麹法
: '''箱麹法'''(はここうじほう)は、蓋麹法から「3. 盛り」以降を簡略化する手法で、[[麹蓋]]の代わりに米を約15kgから30kgずつ[[麹蓋|麹箱]]に盛る。一枚に盛れる量が増えるため省スペース、省力化になる。
; 床麹法
: '''床麹法'''(とここうじほう)は、麹蓋や麹箱を用いずに、[[麹蓋|麹床]](こうじどこ)などと呼ばれる、米に黄麹を振りかける台で米の熱を放散させて造る方法である。普通酒を中心とした酒質に用いられる。
; 機械製麹法
: '''機械製麹法'''(きかいせいぎくほう)は、機械を用いて麹を大量生産できる方法。手間がかからず生産コストは抑えられるが、できる酒質には限界があるので、高級酒には適さないとされる。普通酒を中心とした酒質に用いられる。最近では若い杜氏の小さな蔵での少量高品質の酒用への取り組みが注目されている。人の手が入ることによる雑菌混入が引き起こす酸度の予期せぬ上昇を抑えるというメリットがあり、少ない人員でより効率的に麹の生育状況を厳密に管理できることに加え、同時にデータの収集・蓄積も出来る。今まで経験頼りでムラのある作業ではない、正確無比な狙い通りの麹が造れることから、積極的に小規模な機械製麹機によるプレミアム日本酒造りが行われている。
=== 酒母造り ===
[[酵母]]を増やす工程のこと。[[杜氏]]・蔵人言葉では「'''{{JIS2004フォント|酛}}立て'''」(もとだて)という。
酵母には[[グルコース|ブドウ糖]]を[[アルコール]]に変える働き、すなわち'''[[発酵]]'''作用があるものの、酒蔵で扱うような大量の米を発酵させるためには、微生物である酵母が一匹や二匹ではまったく不十分で、米の量に見合っただけの大量の酵母が必要となる。
こうした状況の中で酒蔵では、アンプルに入っている少量の[[清酒酵母|優良酵母]]を特定の環境で大量に育てることになる。このように大量に培養されたものを'''酒母'''(しゅぼ / もと)または'''{{JIS2004フォント|酛}}'''(もと)という。
作業としては、まず'''{{JIS2004フォント|酛}}桶'''(もとおけ)と呼ばれる高さ1mほどの桶もしくはタンクに、麹と冷たい水を入れ、それらをよく混ぜる。これを'''水麹'''(みずこうじ)と呼ぶ。{{JIS2004フォント|酛}}桶は、最近では高品質の[[ステンレス鋼]]など表面を[[琺瑯]](ほうろう)加工した金属製タンクが使われることが多いが、醸造器としてはあくまでも「{{JIS2004フォント|酛}}桶」と呼ばれる。一方で、酒母造りの前後の工程に使われる甑や樽を含めて、木製道具を使い続けたり、復活させたりする酒蔵もある<ref>[[剣菱酒造]](兵庫県神戸市)や[[新政酒造]](秋田市)など『[[読売新聞]]』朝刊2017年12月15日「日本酒が面白い(3)自作米と湧き水 伝統の味/おけ、樽…木製道具の良さ再発見」</ref>。
そのあと水麹に[[醸造用乳酸]]と、採用すると決めた酵母を少量だけ入れる。採用する酵母は、多種多様な[[清酒酵母]]から、造り手が目指す酒質に適すると考えるものが通常は一種類だけ選ばれるが、その酵母があまりにも強い特性を持つ場合などには、それを緩和するためにもう一種類の酵母をブレンドして入れることも多い。
上記のものに蒸し米を加えると酒母造りの仕込みは完成する。あとは製法によって2週間から1ヶ月待つと、仕込まれた桶の中で酵母が大量に培養され酒母すなわち{{JIS2004フォント|酛}}の完成となる。
酒母造りの場所は、'''酒母室'''(しゅぼしつ)もしくは'''{{JIS2004フォント|酛}}場'''(もとば)と呼ばれ、[[雑菌]]や[[野生酵母]]が入り込まないように室温は5℃ぐらいに保たれている。しかし麹室に比べると管理の厳重さを必要としないので、酒蔵によっては見学者を入れてくれる所もある。酒母室の中では、酵母が発酵する小さな独特の音が響いている。
酒母造りの際には、タンクの蓋は開け放しの状態になるから、空気中からタンク内にたくさんの[[雑菌]]や[[野生酵母]]が容易に入り込んでくる。そのため[[硝酸還元菌]]や[[乳酸菌]]を加え、乳酸を生成させることによって雑菌や野生酵母を死滅させ駆逐することが必要となる。この乳酸を、どのように加えるかによって、酒母造りは大きく'''生{{JIS2004フォント|酛}}系'''(きもとけい)と'''速醸系'''(そくじょうけい)の2つに分類される。
==== 生酛系 ====
生酛系(きもとけい)の酒母造りは現在大きく'''[[生酛]]'''と'''[[山廃仕込み|山廃酛]]'''(やまはいもと)に分けられる。
; 生酛
: '''生酛'''(きもと)とは、現在でも用いられる中で最も古くから続く製法で、[[乳酸菌]]を空気中から取り込んで乳酸を作らせ、雑菌や野生酵母を駆逐するものである。酒母になるまでの所要期間は約1か月。所要期間が長いのは、工程が多く手間が掛かるのと、醗酵段階も[[完全醗酵]]させるからである。現在でも時間や労力が掛かるので敬遠される傾向にあるが、成功すればしっかりとした酒質となるため、伝統の復活のために取り組んでいる酒蔵も増えてきている。主な工程は以下の通り。
: 米、麹、水を桶(タンク)に投入 > 山卸 > 温度管理 > 酵母添加 > 温度管理 > 酒母完成
: しかし、腐造や酸敗のリスクが大きかったことから明治42年([[1909年]])に[[国立醸造試験所]](現在の独立行政法人[[酒類総合研究所]])によって山廃{{JIS2004フォント|酛}}が開発された。次項参照。
; 山廃酛
: '''山廃酛'''(やまはいもと)とは、生{{JIS2004フォント|酛}}系に属する仕込み方の一つで'''山卸廃止酛'''(やまおろしはいしもと)の略である。この方法で醸造した酒のことを '''[[山廃仕込み]]'''(やまはいしこみ / -じこみ)あるいは単に'''山廃'''(やまはい)という。おおざっぱに言えば、生酛造りの工程から[[山廃仕込み#山卸|山卸]]を除いたものとなるが、単に山卸を省略したものではなく、関連するその他の細部の作業もいろいろ異なる。「山卸」とは米と麹と水を櫂で混ぜる作業のことで「酛すり」ともいう。
{{Main|山廃仕込み|生酛#生酛・山廃・速醸酛の関係}}
==== 速醸系 ====
'''速醸系'''(そくじょうけい)は、雑菌や野生酵母による汚染を防止するために必要な[[乳酸]]を人工的に加える製法。現在造られている日本酒のほとんどは速醸系である。
; 速醸'''酛'''
: 明治43年([[1910年]])に考案された。仕込み水に醸造用の乳酸を加え、十分に混ぜ合わせた上で、掛け米と麹を投入して行われる。後述の高温糖化酛と区別するために'''普通速醸'''とも呼ばれる。所要期間は約2週間。工程は以下の通り。
: 米、麹、水、乳酸を混ぜる > 酵母添加 > 温度管理 > 酒母完成
; 高温糖化酛
: 酒母造りの最初の段階を高温(55℃から58℃程度)にすることで糖化を急速に進行させる方法。[[甘酒]]の製法と同じ原理である。所要時間は約1週間。生酛系や普通速醸では酒母を10℃以下まで冷却する必要があるのに対し、高温糖化酛は20℃程度まで下げられればよいので、西日本や九州等、冬場の気温が比較的高い地域での酒母造りに向いているとされる<ref>{{Cite web|和書|title=高温糖化酒母 {{!}} 灘の酒用語集|url=http://www.nada-ken.com/main/jp/index_ko/228.html|website=www.nada-ken.com|accessdate=2020-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【日本酒用語解説】「速醸」について ─ 高温速醸とは? {{!}} 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」|url=https://jp.sake-times.com/knowledge/word/sake_kouonsokujyo|website=SAKETIMES {{!}} 日本酒をもっと知りたくなるWEBメディア|date=2016-04-12|accessdate=2020-10-03|language=ja}}</ref>。工程は以下の通り。
: お湯に米、麹を加え糖化 > 乳酸を混ぜる > 酵母添加 > 温度管理 > 酒母完成
==== その他 ====
菩提酛や煮酛などがある。
; '''菩提酛'''
: '''菩提酛'''(ぼだいもと)は、米や水などの環境中から乳酸菌を取り込むという意味では生酛系に近く、酒母を仕込む時点で仕込み水に乳酸が含まれているという面からは速醸系に近い。
{{Main|菩提酛}}
; '''煮酛'''
{{Main|煮酛}}
=== 醪(もろみ)造り ===
[[Image:Moromi.JPG|thumb|right|220px|醪]]
材料(酒母、麹、蒸米、水)を3回に分けてタンクに入れて醪を作り発酵させる。
[[もろみ|'''醪'''(もろみ)]]とは、仕込みに用いるタンクの中で酒母、麹、蒸米が一体化した、白く濁って泡立ちのある粘度の高い液体のことである。醪造りは、単に「造り」とも呼ばれる。「一麹、二{{JIS2004フォント|酛}}、三造り」というときの「造り」はこれを意味している。造りを行う場所を'''仕込み場'''(しこみば)という。
醪造りの工程においては、麹によって米のデンプンが糖に変わり、同時に、酵母は糖を分解しアルコール(と炭酸ガス)を生成する。この同時並行的な変化が日本酒に特徴的な[[並行複発酵]]である。
醪を仕込むとき、三回に分けて蒸米と麹を加える。この仕込み方法は'''[[段仕込み]]'''もしくは'''[[段仕込み|三段仕込み]]'''と呼ばれ、室町時代の記録『[[御酒之日記]]』にも既に記載がある。もし蒸米と麹とを全量、一度に混合して発酵を開始させると、酒母の酸度や酵母密度が大きく下がり、雑菌や野生酵母の繁殖で醪造りは失敗しやすくなる。段仕込みは、発酵環境を安定させ雑菌の繁殖を防ぎつつ酵母を増殖させ、その状態を保ちつつ酵母のアルコール発酵の材料である糖を米麹や蒸米の状態で最終投入量まで投入できる仕込み方法である。これにより酵母が活性を失うことなく発酵を進められるため、醪造りの最後にはアルコール度数20度を超えるアルコールが生成される。これは醸造酒としては稀に見る高いアルコール度数であり、日本酒ならではの特異な方法で、世界に誇れる技術的遺産といえる。
なお段仕込みの1回目を'''[[段仕込み#初添|初添]]'''(はつぞえ 略称「添」)、'''[[段仕込み#踊り|踊り]]'''と呼ばれる中一日を空けて、2回目を'''[[段仕込み#仲添|仲添]]'''(なかぞえ 略称「仲」)、3回目を'''[[段仕込み#留添|留添]]'''(とめぞえ 略称「留」)という。20 - 30日かけて発酵させる。{{Main|段仕込み}}
; 泡の状貌
: [[温度計]]もセンサーもなかった時代から、杜氏や蔵人たちは[[もろみ|醪(もろみ)]]の表面の泡立ちの様子を観察し、いくつかの段階に区分けすることによって、内部の発酵の進行状況を把握してきた。この醪の表面の泡立ちの状態を'''(泡の)状貌'''(じょうぼう)といい、以下のように示される。
# '''筋泡'''(すじあわ) [[段仕込み#留添|留添]]から2 - 3日ほど経つと生じてくる筋のような泡で、醪の内部での発酵の始まりを告げる。
# '''水泡'''(みずあわ) 筋泡からさらに2日ほど経った頃。[[カニ]]が口から吹くような白い泡。醪の中の糖分は頂点に達している。
# '''岩泡'''(いわあわ) 水泡からさらに2日ほど経った頃。岩のような形となる泡。発酵に伴って放熱されるので温度上昇も著しい頃である。
#: '''転覆''' 留添から5日くらいで、仕込みタンク上面を覆う泡全体の上下が反転することがある<ref>河野裕昭 写真集『大吟醸』1995年、p.112</ref>。
# '''高泡'''(たかあわ) 岩泡からさらに2日ほど経った頃。[[段仕込み#留添|留添]]から通算すると1週間から10日前後。岩泡全体が盛り上がりを見せる。化学的には発酵が糖化に追いつこうとしている状態。[[協会系酵母#泡あり酵母|泡あり酵母]]と[[協会系酵母#泡なし酵母|泡なし酵母]]の区別は、この高泡の有無で決められることが多い。
# '''落泡'''(おちあわ) 留添から12日前後経った頃。泡の盛り上がりが落ち着いてくる。化学的には発酵が糖化に追いついた状態。
# '''玉泡'''(たまあわ) さらに2日ほど、また留添から通算で2週間ほど経った頃。詳しくは'''大玉泡'''→'''中玉泡'''→'''小玉泡'''に分けられる。泡は玉の形になってどんどん小さくなっていく。小さければ小さいほど発酵はだいぶ落ち着いてきている。
# '''地'''(じ) さらに5日ほど、または留添から通算3週間近く経った頃。玉泡が小さくなりきって、今度は消えていく。発酵も終盤に近いことを示す。だが、どの段階で「醪造り」の全工程の終了とみなすかは、杜氏の判断に任されている。目的とする酒質によっては、このまま何日か時間を置いたほうがよく、また吟醸系の場合はさらにその状態を持続させることが好ましいとされるからである。
: 近年、[[協会系酵母#泡なし酵母|泡なし酵母]]が多く開発されてきたが、今日でも[[協会系酵母#泡あり酵母|泡あり酵母]]を使った醸造では、仕込みタンクの中で日々刻々と上記のような状貌の推移を見ることができる。
=== アルコール添加 ===
上槽の約2日前から2時間前にかけて、30%程度に薄めた[[醸造アルコール]]を添加していくこと。
「アルコール添加」または略して「アル添(アルてん)」という語感から、工業的に何か不純な添加物を加えるかのようなイメージをもたれることが多い(参照:当記事内『[[#文芸・漫画・映像作品|美味しんぼ]]』)が、古くは[[江戸時代]]の[[柱焼酎]]という技法に遡る、伝統的な工程の一つである。また日本国内製造の日本酒全体の製造量の76.9%がアル添であり、日本最大の日本酒コンテストの「[[全国新酒鑑評会]]」出品作の78.3%がアル添であり、入賞作の91.1%がアル添であるため、低品質を意味するものではない<ref name="jozopr">[https://web.archive.org/web/20220428202209/https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000043100.html 老舗酒蔵×日本酒ベンチャー×若手蒸留家が共同開発 楽しく、美味しく、学べる酒「すごい!!アル添」を2月12日販売開始.] PR Times. 2022年2月12日</ref>。アル添には次のような目的がある。
# '''防腐効果''' 現在のアルコール添加の起源である江戸時代の柱焼酎は、酒の[[腐敗|腐造]]を防ぐため[[焼酎]]を加える技法であった。かつては防腐効果がアルコール添加の最も重要な目的であった。衛生管理が進んだ現代では、こうした意味合いは薄れてきている。[[シェリー (ワイン)|シェリー]]や[[ポートワイン]]等の[[酒精強化ワイン]]も、同じ目的でアルコール添加を行っている。
# '''香味の調整''' 現在のアルコール添加の目的の第一はこれである。適切なアルコール添加は、醪からあがった原酒に潜在している香りを引き出す。特に吟醸系の酒の香味成分は、水には溶けないものが多く、それを溶かし出すためにアルコール添加が必要となる。そもそも吟醸酒自体が、アルコール添加を前提として開発された酒種であった(参照:[[日本酒の歴史#吟醸酒の誕生]])。吟醸酒を生産する酒蔵では、アルコール添加は酒質を高めるために必須と考えているところが多い。
# '''味の軽快化''' 現在のアルコール添加の目的の第二。[[もろみ|醪(もろみ)]]の中には、発酵の過程で生成された[[糖]]や[[酸]]が多く含まれており、これらを放置しておくと、完成した酒が、良く言えば重厚、悪く言えば鈍重な味わいになる。ここでアルコール添加を行っておくと、それらが調整される。また純米酒はその性質上、多かれ少なかれ酸味が飲んだ後に残る。アルコール添加により酸味が抑えられ、飲み口がまろやかになる。さらに、現代の食生活では旨み・油が多用され、飲料としては軽快な味わいのものが求められるようになってきたために、酒の切れ味を良くするために、アルコール添加が活用されている側面もある。
# '''増量''' [[三倍増醸清酒|三増酒]]の全盛時代には、酒の量を水増しするために行われた。「『アル添』という工程が、一般的に悪いイメージを持たれるのには、主にそうした前の時代の負の遺産である」と言い訳されることもあるが、「実際に『アル添』された酒は、臭みが増す」との声もある。
添加するアルコールの原料を日本国内産の酒米に限り、品質の高さや[[トレーサビリティ (流通)|トレーサビリティ]]をアピールする取り組みもある<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO2925096011042018FFR000/ 男山本店など大吟醸 国産米で醸造アルコール 高い品質アピール]」『日本経済新聞』朝刊2018年4月23日(新興・中堅Biz面)2018年4月27日閲覧</ref>。
=== 上槽 ===
[[画像:Uda Matsuyama06s3872.jpg|thumb|right|220px|造り酒屋の玄関に吊るされた[[杉玉]]]]
'''上槽'''(じょうそう)とは、醪([[もろみ]])から生酒(なまざけ)を搾る工程である。[[杜氏]]の判断で「熟成した」と判断された[[#醪(もろみ)造り|醪]]へ、[[#アルコール添加|アルコール添加]]や[[#原料|副原料]]が投入され、これを搾って、白米・米麹などの固形分と、生酒となる液体分とに分離する。杜氏蔵人言葉では'''搾り'''(しぼり)、'''上槽'''(あげふね)ともいう。
なお、固形分がいわゆる'''[[酒粕]]'''(さけかす)になる。原材料白米に対する酒粕の割合を、'''粕歩合'''(かすぶあい)という。
上槽を行う場所を'''上槽場'''(じょうそうば)または'''槽場'''(ふなば)という。多くの場合は、「ヤブタ式」などの自動圧搾機で搾られるが、「佐瀬式」などの槽搾りを採用する酒蔵もある<ref>{{Cite web|和書|title=薮田式自動醪搾機{{!}}薮田産業株式会社|url=http://www.yabuta.co.jp/products/products02.html|website=www.yabuta.co.jp|accessdate=2020-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=片山酒造初搾り!佐瀬式とは?-日光ブランド情報-日光ファン~日光LOVEな方のファンサイト|url=http://www.nikkofan.jp/topics/topics.php?id=211|website=日光ファン~日光LOVEな方のファンサイト|accessdate=2020-10-03|language=ja}}</ref>。大吟醸酒のように繊細な酒は、醪に掛かる圧力が小さい'''袋吊り'''や'''遠心分離'''などの方法で搾られる<ref>{{Cite web|和書|url=http://asahishuzo.ne.jp/dassai/system.html |title=獺祭について 遠心分離システム紹介 |publisher=旭酒造株式会社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100204092445/http://asahishuzo.ne.jp/dassai/system.html |archivedate=2010-02-04 |accessdate=2021-05-14}}</ref>。
搾りだされた酒が出てくるところを'''槽口'''(ふなくち)という。
また酒蔵では、その年初めての酒が上槽されると、軒下に'''[[杉玉]]'''(すぎたま)もしくは'''[[杉玉|酒林]]'''(さかばやし)を吊るし、新酒ができたことを知らせる習わしがある。吊るしたばかりの杉玉は蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた、その酒蔵の新酒の[[#貯蔵・熟成|熟成]]具合を人々に知らせる役割をしている。
=== 滓下げ ===
'''滓下げ'''(おりさげ)とは、上槽を終えた酒の濁りを取り除くために、待つことを指す。槽口(ふなくち)から搾り出されたばかりの酒は、まだ炭酸ガスを含むものも多く、[[#酵母|酵母]]、デンプンの粒子、タンパク質、多糖類などが漂い、濁った黄金色をしている。この濁りの成分を'''滓'''(おり)といい、これらを[[沈殿|沈澱]]させるため、酒はしばらくタンクの中で放置される。滓下げによる効果は、単に濁りをとることに留まらず、余分な蛋白質を除去することで、瓶詰後の温度変化や経時変化によって引き起こされる蛋白変性での濁りの予防や、後工程となる濾過の負担軽減へも影響を及ぼす。
滓下げを施した上澄みの部分を「'''生酒'''」(なましゅ)という。「生酒」(なまざけ)とは別の概念なので注意を要する。
完成酒を生酒(なまざけ)や'''無[[ろ過|濾過]]酒'''(むろかしゅ)に仕立てる場合などは異なるが、大多数の一般的な酒の場合、上槽から出荷までには二度ほど滓下げを施すことが多い。第一回目の滓下げを行ったあとの生酒(なましゅ)にも、まだ酵母やデンプン粒子などの滓が残っているのが普通で、雑味もかなりあり、これらを漉し取るために濾過の工程が必要となってくる。
近年では、消費者の「生」志向に乗じて、滓引き以降の工程を施さず「無濾過生原酒」として出荷する酒蔵も現れてきている。
なお、滓下げと混同されやすいものに「滓引き」という用語があるが、滓下げとはまた別の概念なので注意を要する。滓引きは滓下げを終えた上澄み部分を取り出すことを言う。
=== 濾過 ===
'''[[ろ過|濾過]]'''(ろか)とは、滓下げの施された生酒(なましゅ)の中にまだ残っている細かい滓(おり)や雑味を取り除くことである。液体の色を、黄金色から無色透明にできるだけ近づける目的もある。なお、この工程をあえて省略して、無濾過酒として出荷する場合も多い。
# '''活性炭濾過''' 生酒(なましゅ)の中に、粉末状の[[活性炭]]を投入して行われる濾過を'''炭素濾過'''(たんそろか)もしくは'''活性炭濾過'''(かっせいたんろか)ともいう。この活性炭粉末を、酒蔵では単に'''[[炭]](すみ)'''と呼ぶ。基本的には一般家庭の冷蔵庫などで使われる脱臭炭や、[[タバコ|煙草]]の[[紙巻きたばこ#フィルター|フィルター]]に入っている黒い粉末と同じものである。生酒(なましゅ)に活性炭を投入し、取り除きたい成分や色をその炭に吸着させて沈澱させる。その後に不要成分ごと炭を脱去する。活性炭を投入するといっても、単に投げ入れるだけではなく、活性炭の種類や加える量によって取り除ける成分や色が異なるところにこの工程の難しさがある。このように、'''炭加減'''(すみかげん)が大変に微妙であることから、地酒の本場では蔵人の間で'''炭屋'''(すみや)と呼ばれる、この工程だけの専門家が多く存在した。活性炭をあまり入れすぎると酒は澄んでくるが、味も色も香りも全て無化して面白くも何ともない完成酒になってしまう。かつては生酒(なましゅ)1キロリットルにつき炭1キログラムを投入する、通称「キロキロ」が目安とされていたが、現在では活性炭の使用量は減少傾向にあり、使用しないことも増え、炭屋なる専門職は減少傾向にある<ref>{{Cite journal|和書|author=秋山裕一 |title=吟醸造りと品評会の歴史から (その1) |url=https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.94.542 |journal=日本醸造協会誌 |publisher=日本醸造協会 |year=1999 |volume=94 |issue=7 |pages=542-547 |naid=130004306444 |doi=10.6013/jbrewsocjapan1988.94.542 |issn=0914-7314 |accessdate=2020-10-03}}</ref>。また活性炭を使用してから他の方法で濾過する場合も多いので、「活性炭の使用」の有無と「濾過」の有無は、違う話である。
# '''珪藻土濾過''' 精製された[[珪藻土]]の層を用いた濾過を行い、夾雑物を、そして活性炭濾過を行ったあとであれば活性炭そのものを取り除く。珪藻土とは[[珪藻]]類の[[化石]]で、非常に小さな孔を多数持つ形状をしており、色の元となる物質、雑味物質、香り物質もある程度除去する。この濾過技術の進歩は、活性炭の使用減少の一助ともなっている。
# '''濾紙による濾過''' 特殊な濾紙を用いて濾過をする場合もある。
# '''フィルター濾過''' 最近とみに増加してきた。カートリッジ式のフィルターを用いて濾過する方法。カートリッジ式なので取り替えが可能で、手軽さがメリットである。特に生酒(なまざけ)として出荷する場合は、高精度な(0.22 - 0.5μm程度の)濾過を行うことで[[火落ち菌]]を含む微生物を除去することがある<ref>{{Cite web|和書|title=精密ろ過 {{!}} 灘の酒用語集|url=http://www.nada-ken.com/main/jp/index_se/292.html|website=www.nada-ken.com|accessdate=2020-10-03}}</ref>。
[[#上槽|槽口]](ふなくち)から搾られたばかりの日本酒は、たいてい秋の稲穂のように美しい'''黄金色'''をしている。かつての[[全国新酒鑑評会]]では、酒に色がついた[[出品酒]]を減点対象にしていた時代があった。そのため酒蔵はどこも懸命に活性炭濾過で色を抜き、水のような無色透明の状態にして出荷することが多かった。
いわゆる「清酒」という言葉から一般的に連想される無色透明な色調は、そのような時代の名残りともいえる。現在では、雑味や雑香はともかく色の抜去は求められなくなってきたので、色のついたまま流通する酒が復活し、自然な色のついた酒の素朴さを好む消費者も増えてきている。
=== 火入れ ===
'''火入れ'''(ひいれ)とは、醸造した酒を加熱して殺菌処理を施すこと。'''火当て'''(ひあて)ともいう。火入れされる前の酒は、まだ中に[[#酵母|酵母]]が生きて活動している。また、麹により生成された酵素もその活性を保っているため酒質が変化しやすい。また、[[乳酸菌]]の一種である[[火落ち#火落ち菌|火落菌]]が混入している恐れもある。これを放置すると酒が白く濁ってしまう(火落ち)。そこで火入れにより、これら酵母・酵素・火落菌を殺菌あるいは失活させて酒質を安定させる。これにより酒は常温においても長期間の貯蔵が可能になる。しかし、あまり加熱が過ぎれば、アルコール分や揮発性の香気成分が蒸発して飛んでしまい酒質を損なう。そのため、これも加減が難しく、62℃ - 68℃程度で行われる<ref>[https://web.archive.org/web/20030423082249/http://www.tokyo-eiken.go.jp/learn/report/sake/sake.htm 「食品工場探訪」日本酒の蔵元]東京都健康安全研究センター</ref>。なお、65℃の温度で23秒間加熱すれば乳酸菌を[[殺菌]]できることが知られている<ref>野白喜久雄ほか『改訂醸造学』1993年3月 ISBN 978-4-06-153706-4</ref>。吟醸酒などは香りが飛ばないように瓶詰めしてから火入れすることもある。(瓶燗火入れ)
火入れの技法は、[[日本酒の歴史#室町時代|室町時代]]に書かれた醸造技術書『[[御酒之日記]]』にも既に記載され、[[日本酒の歴史#中古|平安時代後期]]から[[畿内]]を中心に行われていたことが分かる。これはすなわち、[[西洋]]における[[細菌学]]の祖、[[ルイ・パスツール]]が[[1866年]]に[[パスチャライゼーション]]による[[殺菌#高温処理|加熱殺菌]]法をワイン製造に導入するより500年も前に、日本ではそれが酒造りにおいて一般に行われていたことになる<ref group="注釈">[[中華人民共和国|中国]]ではパスツールより700年以上前の[[北宋|宋]]代の[[1117年]]([[政和]]7年)に序文が書かれた醸造技術書『[[北山酒経]]』の中に、「[[清酒酵母#前近代|酵]]」という表現が見られ、加熱殺菌を意味する「煮酒」の技法が記載されている。しかし同書が室町時代頃までに日本にもたらされたか否かについては定かでないので、日本の火入れの技法が[[中国大陸]]から伝来したものか、日本が独自で辿り着いたのかについては、現在まだ分かっていない。</ref>。
[[日本酒の歴史#明治時代|明治時代]]に来日したイギリス人[[ロバート・ウィリアム・アトキンソン|アトキンソン]]は、[[1881年]]に各地の酒屋を視察して「酒の表面に“の”の字がやっと書ける」程度が適温(約130°[[華氏|F]](55℃))であるとして、温度計のない環境で寸分違わぬ温度管理を行っている様子を観察し、驚きをもって記している。
; 火入れと「生酒」の関係
: 火入れをしていない酒は「生酒」「[[#その他の表示|無濾過生原酒]]」などとして人気がある。そういう「生」系の酒は瑞々しく、香りも若やいで華やかであり、また残存する微発泡感はのど越しもよい。火入れをするとそれらの'''酒の繊細さが失われる'''ため、保存管理さえ徹底されていれば「生酒」には火入れした酒にはない味わいがある。
: 従来は低温での保存、流通を管理するのは難しく「生酒」が市場に出るのはまれだった。保存管理が行き届くようになった近年は「生酒」が市場に出回るようになり、日本酒の中で「生酒」が新しい楽しみ方の一つとなっている。
: ただし、日本酒は火入れをしなければ劣化が早く、すぐに[[#香りの用語・表現|生老ね香]]を発するため、生酒は特に正しい保存管理をしなければならない。
: また「生」系の酒の味は荒々しく、[[#貯蔵・熟成|貯蔵・熟成]]を経た酒が持つ旨みやまろみ、深みに欠けるため、従来通りの火入れの工程を経た酒も日本酒としての魅力を失うわけではない。
; 「生酒」をめぐる表示問題
: '''生貯蔵酒'''(なまちょぞうしゅ)や'''生詰酒'''(なまづめしゅ)に仕立てる場合などを除いて、大多数の一般的な酒の場合、上槽から出荷までの間に火入れは二度ほど行われる。すなわち、1回目は貯蔵して熟成させる前、2回目は瓶詰めして出荷する直前である。特に1回目の火入れは、成分に落ち着きを与え、その先の貯蔵中にどのように熟成していくかの方向性を左右する。これを分かりやすくチャートにすると以下のようになる。
'''上槽''' → '''滓下げ1回目''' → '''濾過1回目''' → '''火入れ1回目''' →'''貯蔵・熟成''' → '''滓下げ2回目''' → '''濾過2回目'''→'''割水'''→'''火入れ2回目''' → '''瓶詰め''' → '''出荷'''
* '''生貯蔵酒''' 火入れ1回目をしない。[[杜氏]]蔵人言葉では「先生」(さきなま)、「生貯」(なまちょ)などという。
* '''生詰酒''' 火入れ2回目をしない。杜氏蔵人言葉では「後生」(あとなま)などという。
* '''生酒(なまざけ) ''' 火入れ1回目も2回目もしない。杜氏蔵人言葉では「生生」(なまなま)、「本生」(ほんなま)などという。
* '''原酒''' 滓下げ1回目を施された上澄み部分の酒のこと。
: 以上のような前提の中で、生貯蔵酒や生詰酒は、少なくとも1回は火入れをしていて'''本当は「生」ではない'''わけだから、'''「生」を名称に含めるのは妥当ではない'''、という議論がなされている。
: また、「生」好みの消費者心理を利用し、生貯蔵酒や生詰酒の「生」の字だけを大きく、あるいは目立つ色彩でラベルに印刷し、その他の文字を小さく地味に添えるなどして、あたかも生貯蔵酒や生詰酒が「生」の酒であるかのようにイメージを演出して流通させている蔵元もある。一方では、吟醸酒や純米酒の中には「生詰」と表示しているだけでも、本当の生酒(なまざけ)、いうならば「生生」も流通されるようになってきた。
=== 貯蔵・熟成 ===
==== 熟成の概要 ====
'''熟成'''(じゅくせい)とは、貯蔵されている間に進行する、酒質の成長や完成への過程をいう。[[#上槽|上槽]]や[[#滓引き|滓下げ]]のあと、'''無濾過'''や'''生酒'''として出荷するために、[[#濾過|濾過]]や[[#火入れ|火入れ]]を経ないものもあるが、そうでない製成酒は通常それらの工程を経た後に、さらに酒の旨み、まろみ、味の深みなどを引き出すためにしばらく貯蔵される。
熟成による具体的な変化は、
# 色調 - 黄緑色 → 褐色 → 赤褐色 → 黒赤色。
# 香り - [[黒糖]]香 → [[蜂蜜]]香 → [[キャラメル]]香 → 老酒香。
# 味濃醇化 - 味幅の拡がり、苦味の増加、[[五味|五原味]]の調和。
# 触感 - 丸ろやかさ、滑らかさの増大。
# 物性 - オリの生成。
とされている<ref>西谷尚道「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.97.240 日本酒復権への展望(II) 日本酒の品質多様化の展望]」『日本醸造協会誌』2002年 97巻 4号 p.240-246, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan1988.97.240}}</ref>。
'''[[#吟醸酒|吟醸系]]'''の酒は、香りや味わいを安定させるために、半年かそれ以上、熟成の期間を持たせるものも多い。しかし、いちいち[[#新酒、古酒・秘蔵酒|古酒]]、[[#新酒、古酒・秘蔵酒|古々酒]]といった表示をするのは、吟醸の品格からして無粋であるというような感覚から、そういった表示はラベルにされないのが通常である。
'''非吟醸系'''であっても、[[#本醸造酒|本醸造酒]]や[[#純米酒|純米酒]]では、酒蔵のある風土の自然条件、[[#水|仕込み水]]の特徴、[[杜氏]]が目的とするコンセプトなど様々な理由から、長期間貯蔵して熟成させるものがある。
==== 熟成のメカニズム ====
火入れを経過させない酒においては発酵が止まっておらず、'''調熟作用'''(ちょうじゅくさよう)といって、アミノ酸分解や糖化により風味の自然調和が続いている。そのため、調熟作用によって最終的にその酒の持ち味を生み出している銘柄では、すぐに出荷せず貯蔵・熟成させるのは、欠かすことのできない工程の一部である。一般的に[[完全醗酵]]させた[[#純米酒|純米酒]]は熟成がゆっくりと進み、劣化しにくい。[[完全醗酵#完全醗酵でない|不完全醗酵]]の製成酒は、アルコールに分解されていない成分が多く含まれるため、酒質の変化は早いが劣化しやすいと言われている。
熟成の原因は、大きく分けて外部から加わる熱や[[酸素]]になどによる'''物理的要因'''と、内部で起こるアミノ酸を初めとする[[窒素酸化物]]や[[アルデヒド]]などによる'''化学的原因'''とに分かれるが、具体的な理論に関しては未解明な部分が多い。たとえば、廃坑や廃線になったトンネルなど或る特定の場所で貯蔵すると、いくら温度や湿度など科学的に条件を同じにしても、他の場所で貯蔵するよりもあきらかに味がまろやかになる、といった例がある<ref>協同組合福岡銘酒会「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.91.845 協同組合福岡銘酒会、旧国鉄遊休トンネル活用による熟成酒開発]」『日本醸造協会誌』1996年 91巻 12号 p.845-848, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan1988.91.845}}</ref>。化学的原因を詳しく見ると、保存中にアミノ酸やタンパク質等の[[窒素化合物]]は、残存している糖分に作用して[[メイラード反応]](アミノカルボニル反応)を起こし褐変化を起こす。一方、酵母が生成する含硫黄アミノ酸([[硫黄化合物]])<ref>協同組合福岡銘酒会「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan.104.90 小野文一郎、出芽酵母(''Saccharomyces cerevisiae'')の含硫アミノ酸合成について]」『日本醸造協会誌』2009年 104巻 2号 p.90-97, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan.104.90}}</ref> を由来とする揮発性硫黄化合物は香気特性を悪化させる[[ジメチルジスルフィド]](DMDS)、[[ジメチルトリスルフィド]](DMTS)、[[メチルメルカプタン]]、[[メチオナール]]などの物質の増加の原因となる<ref>奥田将生「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan.105.262 原料米の窒素及び硫黄化合物が清酒貯蔵後の香気変化に及ぼす影響]」『日本醸造協会誌』2010年 105巻 5号 p.262-272, {{DOI|10.6013/jbrewsocjapan.105.262}}</ref>。
全ては原料米に依存するが、タンパク質は精米歩合を高くした原料を使う事で減少させる事が可能であるが、硫黄は、原料米含有成分が大きく影響を及ぼしている。
==== 食との相互補完 ====
[[滋賀県]]の[[鮒寿司]]のように、その地方の基本的食品がある一定の期間の貯蔵・熟成を経てから食べられる土地などにおいては、食品が熟成する時間と同じだけの時間が、酒質の完成にももとよりかかるように醸造される酒もある。つまり食と酒を同じ時期に仕込み、同じ年月を隔てて同時に食べるわけである。こういった熟成は、まさに[[食文化]]の基礎にある[[相互補完]]という地酒の原点を物語るものである。
==== 新酒、古酒・秘蔵酒 ====
日本酒は、毎年7月から翌年6月が'''[[醸造年度|製造年度]]'''と定められており、通常は製造年度内に出荷されたものが'''[[新酒]]'''と呼ばれる。<!--年度内に出荷せず2年間貯蔵すると'''[[古酒]]'''、貯蔵期間が3年だと'''[[古々酒]]'''、5年以上だと'''[[秘蔵酒]]'''と呼ばれる。←詳細はノートにて-->
しかし最近は、上槽した年の秋を待たず6月より前に出荷する酒に「新酒」というラベルを貼って、[[#ひやおろし|ひやおろし]]から差別化して新鮮さをアピールする酒が増えたために、「新酒」の定義に混乱が生じつつある。
冬から春にかけては「しぼりたて」「新酒」「生酒」などとして、フレッシュさを売り物にする酒蔵や酒販店、飲食店も多い<ref>[http://kurand.jp/25709/ 冬の究極の愉しみ。季節限定の日本酒「しぼりたて」とは?]KURANDホームページ(2018年1月19日閲覧)</ref>。新酒の鮮度を強調した売り方としては、酒蔵や酒販店でつくる日本名門酒会が1998年から、[[立春]]の2月4日に合わせて「立春朝搾り」の出荷を始めている。未明から上槽と瓶詰めを行い、蔵によっては縁起物として近隣の[[神社]]で無病息災や家内安全の祈祷をしてから出荷する。2018年は34都道府県の43蔵元が参加し、約31万本を搾る予定である<ref>「立春 新酒で祝う/2月4日に搾って出荷」『読売新聞』朝刊2018年1月19日(くらし面)</ref>。
逆に製造年度内でなく、貯蔵期間を経た後に出荷・提供する日本酒を'''熟成酒'''、'''[[古酒]]'''、'''古々酒'''または'''秘蔵酒'''と呼ぶこともある。酒が[[メイラード反応]]により<ref name="日経20201121"/>[[褐色]]に変わるまで長期保管したり、[[赤ワイン]]や[[シェリー (ワイン)|シェリー]]を入れていた樽に入れて香りを移したりする酒造会社もある。酒販店や飲食店が仕入れた日本酒を寝かせて古酒にするケースもある。蔵元によっては、西洋の[[ワイン]]における[[ヴィンテージ]]という考え方を導入し、ラベルに酒の製造年度を明記している。熟成することによって味に奥行きが出るように造るこうしたヴィンテージ系日本酒は、熟成期間の長いものでは20 - 40年間にも及ぶ<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28865840S8A400C1KNTP00/ 【トレンド】日本酒、熟成のプレミアム 時を経て色づく味の深み]『日本経済新聞』夕刊2018年4月2日(くらしナビ面)</ref>。酒造会社などでつくる長期熟成酒研究会は「満3年以上蔵元で熟成させた、糖類添加酒を除く清酒」を熟成古酒と定義している<ref>[http://www.vintagesake.gr.jp/aboutvintagesake/ 熟成古酒とは]長期熟成酒研究会(2018年5月5日閲覧)</ref>。
==== 大古酒 ====
'''大古酒'''(だいこしゅ / おおこしゅ)という語に関して、現在のところ明確には定義されていない。<!--'''古々酒'''もしくは'''二年古酒'''、また'''三年古酒'''でもあっさりと大古酒に類別する酒類評論家もいる。←詳細はノートにて-->しかし概して「大」が付くにふさわしい、桁違いの熟成が求められる。[[1968年]](昭和43年)に開封された[[元禄の大古酒]]のように279年まで行かなくとも、熟成期間100年を超した年代ものは一般に大古酒と呼ばれる。
==== ひやおろし ====
'''ひやおろし'''とは、冬季に醸造したあと春から夏にかけて涼しい酒蔵で[[#貯蔵・熟成|貯蔵・熟成]]させ、気温の下がる秋に瓶詰めして出荷する酒のことである。その際、火入れをしない(冷えたままで卸す)ことから、この名称ができた。[[醸造年度]]を越して出荷されるという意味では、本来は古酒に区分されることになるが、慣行的に'''新酒'''の一種として扱われる。
=== 割水 ===
'''割水'''(わりみず)とは、[[#貯蔵・熟成|熟成]]のための貯蔵タンクから出された酒へ、出荷の直前に水を、より正確には[[#水|加水調整用水]]を加える作業をいう。「加水調整」あるいは単に「加水」とも呼ばれる。ちなみに[[焼酎]]の製造過程では、まったく同じ工程を「和水」(わすい)と呼んでいる。
この工程の目的は、酒のアルコール度数を下げることにある。醪(もろみ)ができた直後には、ほとんどの酒が[[並行複発酵]]により20度近い[[酒#度数|アルコール度数]]となっている。アルコール度数の高いほうが腐敗の危険が少ないので、貯蔵・熟成もこの20度近いアルコール度のまま行われるため、出荷するときには目的とするアルコール度数まで下げる必要がある。(「[[低濃度酒]]」参照。)
いっぽう、割水をしないで、醪ができた時点のアルコール度のまま出荷した酒のことを原酒という(ただし、アルコール度数の変化が1%未満の加水は認められている)。原酒というと、一般的にはその酒の元となった醪や酵母を使った本源的な酒、あるいは何かどろっとした濃いエキスのような酒がイメージされるようであるが、実際はそういうものではない。ただ、割水をしていない分、一般酒よりもアルコール度数が高く、比較して濃厚であることは確かである。
=== ブレンド ===
複数の蔵元が製造した酒を混ぜたブレンド日本酒が販売されることもある。[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルス感染症の影響]]で日本酒需要が減少した2020年以降に各地で企画された<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASNDC7HD9ND2PISC01S.html 「富山ブレンド」16の酒蔵が乾杯 限定販売開始] [[朝日新聞デジタル]](2020年12月12日配信)2021年4月14日閲覧</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFB315UN0R30C21A3000000/ 「ブレンド日本酒、花盛り 新潟の蔵元がタッグ、定番化も」]『[[日経MJ]]』2021年4月14日フード面(同日閲覧)</ref>。
=== 瓶詰め・出荷 ===
こうして割水など最後の調整を果たした酒は、[[#水|洗瓶用水]]で洗浄された瓶の中へ瓶詰めされて出荷され、各自の蔵元がそれぞれ独自に切り拓いている流通販路に乗る。
=== 製法の用語・表現 ===
現在は使われていない、歴史上の製法にかかわる表現を含む。
==== 「歩合」 ====
「 - 歩合(ぶあい)」で終わる用語には、次のものがある。
* [[精米歩合]]
* [[精米歩合#酒造米の精米歩合|重量精米歩合]]
* [[精米歩合#酒造米の精米歩合|見掛精米歩合]]
* [[精米歩合#酒造米の精米歩合|真精米歩合]]
* [[整粒歩合]]
* [[#麹(正字は「麴」)|麹歩合]]
* [[#上槽|粕歩合]]
* [[伊丹酒#大量生産|汲水歩合]]
* [[酒株#酒造石高|酒垂れ歩合]] または 「清酒垂れ歩合」
==== 「仕込み」「造り」 ====
学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、
{{Indent|1=「仕込む」=「造る」、「仕込み」=「造り」}}
というように、ほぼ同義語として考えてよい。
「 - 仕込み」または「 - 造り」で終わる用語には、次のものがある。
* [[山廃仕込み]](やまはいじこみ)
* [[段仕込み]](だんじこみ)
* [[段仕込み|三段仕込み]](さんだんじこみ)
* [[段仕込み#四段仕込み|四段仕込み]]
* [[寒造り|寒仕込み]](かんじこみ) または [[寒造り]](かんづくり)
* [[伊丹酒#大量生産|十水仕込み]](とみずじこみ)
* [[宮水|宮水仕込み]](みやみずじこみ)
* [[高温糖化法|高熱液化仕込みまたは高温液化仕込み]]
* [[木桶仕込み]] または [[木桶仕込み|木桶造り]]
* [[木樽造り]]
* [[融米造り]](ゆうまいづくり)
* [[焙炒造り]](ばいしょうづくり)
* [[姫飯造り]](ひめいいづくり)
==== 「酛」「酒母」 ====
学問的・専門的にではなく、あくまでも一般的な理解のためという前提で補足すると、日本酒の製法という文脈に限っては、
* 「酛(もと)」=「酒母(もと/しゅぼ)」
はほぼ同義語として考えてよい。
「 - 酛」または「 - 酒母」で終わる用語には、次のものがある。
* [[日本酒の歴史#中古|菩提酛]](ぼだいもと)
* [[日本酒の歴史#中古|煮酛]](にもと)
* [[高温糖化法|高温糖化酛]](こうおんとうかもと)または「高温糖化酒母」
* [[#速醸系|速醸酛]](そくじょうもと)
* [[中温速醸もと|中温速醸酛]](ちゅうおんそくじょうもと) または 「中温速醸酒母」
* [[山廃仕込み#山卸廃止酛|山廃酛]](やまはいもと)または「山卸廃止酛」
* [[生酛]](きもと)
==== その他 ====
以上の分類に当てはまらない用語には、次のものがある。
* [[#アルコール添加|アル添]](あるてん)
* [[#ひやおろし|ひやおろし]]
* [[#酒母造り|酛立て]](もとだて)
* [[段仕込み#四段仕込み|四段掛け]](よんだんがけ / よだんがけ)
* [[伊丹酒#柱焼酎|柱焼酎]]
* [[酒株#酒造石高|汲水延ばし]](くみみずのばし)または「汲み水を延ばす」
* [[山廃仕込み#打瀬|打瀬]](うたせ)
* [[高温糖化法]]
* [[火落ち]]
* [[#その他の表示|無濾過]](むろか)
* [[#濾過|炭素濾過]](たんそろか)または[[#濾過|活性炭濾過]](かっせいたんろか)
== 日本酒の評価基準・用語・表現 ==
=== 日本酒度 ===
[[計量法]]は、[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]の一つである[[比重]]の[[計量単位]]として、「日本酒度」を定めている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080_20161001_000000000000000&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E8%A6%8F%E5%89%87 計量単位規則] 別表第1、項番2</ref>。その名のとおり、清酒の比重を計測するための単位であるが、測定対象は清酒には限らない。
[[計量法]]では、日本酒度は次のように定義されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#90 計量単位規則 別表第一] 項番2、比重、「日本酒度」の欄 「物質の質量のその物質と十万千三百二十五パスカルの圧力、四セルシウス度の温度の下において同一の体積を有する水の質量に対する比の値の逆数から一を減じた値の千四百四十三倍」
</ref>。ここで、清酒の比重は、101325 Paの圧力([[標準気圧]]を意味する。)、4 ℃の条件下で計測したものである。
* 日本酒度 = (1/清酒の比重 - 1)×1443
これを逆算すると、以下の式も得られる。
* 清酒の温度を15 ℃にした時の比重 = 1443/(1443 + 日本酒度)
==== 計測方法 ====
日本酒度の実際の計測方法は2種類ある<ref>[https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kobetsu/sonota/kaisei070622/01.pdf 国税庁所定分析法] p.3、3 清酒、3-3 比重(日本酒度)、国税庁訓令第1号、1961-01-11 最終改正2007年国税庁訓令第6号、国税庁</ref>。
* 浮ひょう法<ref>{{Cite journal|和書|author=外池良三 |year=1961 |url=https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.56.73 |title=分析法 (1) |journal=日本釀造協會雜誌 |ISSN=0369-416X |publisher=日本醸造協会 |volume=56 |issue=1 |pages=73-70 |doi=10.6013/jbrewsocjapan1915.56.73 |CRID=1390282681053349504}}</ref>
対象とする清酒を15℃にし、規定の浮秤(ふひょう [[:en:hydrometer]])を浮かべて計測する。そのときに、4℃の[[蒸留水]]と同じ質量の酒の日本酒度を0とする。
* 振動式密度計法
振動式密度計を用いて15℃における検体の密度を測定し、0.99997で除して比重(15/4℃)とし、次式により換算して検体の日本酒度とする。
: 日本酒度=1443/S-1443 (ただし、Sは比重(15/4℃))
日本酒度の値が示す比重が軽いものは+(プラス)の値、重いものは - (マイナス)の値をとる。日本酒度が高い(+の値が大きい)ほど辛口になる傾向があり、味の目安としてラベルに表示されることが多い。より厳密に酒の辛口甘口を示す指標として'''[[#甘辛度|甘辛度]]'''(あまからど)がある。
=== 酸度 ===
清酒10ミリリットルを中和するのに要する、0.1[[モル]]/リットルの[[水酸化ナトリウム]]溶液の滴定ミリリットル数のこと。この値が大きければ「さっぱり」、小さければ「こくがある」といった表現が使われる。しかし、これも日本酒度と同様に、人の味覚は、香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動する。
=== 甘辛度 ===
甘辛度は、清酒の甘辛の度合いを示す値。清酒の[[ブドウ糖]]濃度と酸度から次のように計算される。
* 甘辛度 = 0.86×ブドウ糖濃度 - 1.16 × 酸度 - 1.31
また、ブドウ糖濃度の代わりに日本酒度を用いて、
* 甘辛度 = {193 593 ÷(1443 + 日本酒度)} - 1.16 × 酸度 - 132.57
とすることもできる。
この式によって人間が酒を甘い辛いと感じる感覚の81%が説明できる。清酒の甘辛の程度と甘辛度の関連は下記の通り。
{| class="wikitable"
|非常に辛い || -3
|-
|かなり辛い || -2
|-
|すこし辛い || -1
|-
|どちらでもない || 0
|-
|すこし甘い || 1
|-
|かなり甘い || 2
|-
|非常に甘い || 3
|}
=== 濃淡度 ===
濃淡度(のうたんど)は、清酒の味の濃淡の度合いを示す値。清酒のブドウ糖濃度と酸度から次のように計算される。
*濃淡度 = 0.42×ブドウ糖濃度 - 1.88 × 酸度 - 4.44
ブドウ糖濃度は直接還元糖であり、[[分子]]構造の大きな[[デキストリン]]を除いた残りの糖分の量を指す。濃淡度がプラスになるほど味が濃い。
甘辛度や濃淡度の表示は少ないものの、味の指標としては日本酒度よりは信頼性がある。
=== アミノ酸度 ===
清酒10ミリリットルを酸度の場合と同様に0.1モル/リットルの[[水酸化ナトリウム]]で[[中和]]した後、中性[[ホルマリン]]液を5ミリリットル加え再度0.1モル/リットルの水酸化ナトリウムで中和したのに要した滴定ミリリットル数のこと([[ホルモール法]]による測定)。値は後者の水酸化ナトリウム滴定数量に等しい。値が大きいと[[#味の表現|濃醇]]、小さいと[[#味の表現|淡麗]]の傾向がある。これも日本酒度・酸度の場合と同じで、一般の人の味覚は、香り、食べあわせ、体調などにより大きく変動するものである。
一般に[[#生酛|生{{JIS2004フォント|酛}}系]]や[[#山廃酛|山廃系]]ではアミノ酸が多くなる傾向がある。たとえ生{{JIS2004フォント|酛}}や山廃{{JIS2004フォント|酛}}でもアミノ酸を低く抑えるのが、名人と言われる杜氏たちの造り方ともいわれるが、アミノ酸の多くなった生{{JIS2004フォント|酛}}や山廃{{JIS2004フォント|酛}}のどっしりした味わいを好む愛飲家も多いこともまた事実である。
アミノ酸が生成される主な原因はタンパク質分解酵素の[[酸性プロテアーゼ]]であり、[[#麹造り|麹造り]]の[[#麹造り|仲仕事]]から[[#麹造り|仕舞い仕事]]の間に、34℃から38℃の温度帯でほとんどが生成される。したがって最終的な仕上がりを軽い味にしたい杜氏は、麹米が乾かないようにしながら[[#麹造り|破精]]を進ませ、できるだけ敏速にこの工程を切り抜ける。逆に重い味に仕上げたい場合は時間を掛ける。
=== 味の表現 ===
; 辛口
: 日本酒の味覚評価も、基本的に[[五味]](酸苦甘辛鹹)であるが、料理のそれと同じ言葉を使っていても概念は大きく異なる。「辛い」といっても、料理における'''辛'''([[トウガラシ]]や[[コショウ]]のような味)や'''鹹'''(塩辛さ)ではない。また、[[舌]]の表面にある[[味蕾]](みらい)でキャッチされ脳へ送られる[[味覚]]は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味のみであり、[[味細胞]]には辛味の受容体はないため、「酒が辛い」と感じるのは、舌表の[[痛覚]]がアルコールに刺激されているだけだと考えられる。
: そのため一般に、アルコール度や[[#日本酒度|日本酒度]]が高ければそれだけ辛口に感じる。また、「'''淡麗辛口'''が優れた酒の基本条件である」かのような偏った認識(参照:[[日本酒の歴史#淡麗辛口ブーム|辛口ブーム]])が蔓延していた頃もあったが、辛口には辛口の良さ、旨口には旨口の良さがあり、「この酒は甘口だ/辛口だ」というだけの品評にはあまり意味はない(参照:[[#日本酒度|日本酒度]]・[[#甘辛度|甘辛度]]・[[#アミノ酸度|アミノ酸度]])。
; 甘口
: 旨口(うまくち)と混同されることが多いので注意が必要である。日本酒の比重を大きくする成分のほとんどが糖分であるため、一般には「[[#日本酒度|日本酒度]]が低ければ甘口」といえる。
: しかしながら、[[#その他の表示|濁り酒]](にごりざけ)や[[#その他の表示|おりがらみ]]のように固形分を含む日本酒は比重が大きく、[[#日本酒度|日本酒度]]は低くなるが、必ずしも甘口になるとは限らない。
; 旨口(うまくち)
: 一般に清酒に関して「甘口」と表現されるのは、じつはこの旨口である場合がほとんどである。相対的に辛味が刺激されないため「甘口」と間違えられやすいのである。旨口は、辛口の要素となりやすいキレよりも、コクと奥行きのある馥郁(ふくいく)たる味わいである。目指す仕上がりへ持っていくためには、アルコール度数の高さでごまかせないため、造り手にとってはある意味でいっそう難しい味ともいわれる。
; 端麗 / 淡麗(たんれい)
: 口に含んだときに、きれいで滑らかな感じを受けたときに用いる表現である。日本語としては本来「端麗」が正しいのだが、[[1980年代]]に始まる[[日本酒の歴史#淡麗辛口ブーム|辛口ブーム]]の間に[[商標]]などを通じて「淡麗」と書かれ始め、現在では酒の味に関しては「淡麗」と書くようになった。
; 芳醇 / 豊醇(ほうじゅん)
: 香りが高く味がよいこと。本来「芳醇」が正しい(日本語の辞書の中には「芳醇」がなく、「芳純」「芳潤」ともある)表記であるが、[[商標]]や酒銘などで一般化し「豊醇」とも表記される。
; 濃醇(のうじゅん)
: 味が濃いこと。「淡麗」の対極にあるのはむしろこの濃醇である。
; ピン
: 後味が引き締まった感じを指す。辛・甘・旨の味のバランスによって織り成される。そのバランスが酒の味のアウトラインを決めるといってもよい。
; キレ
: 後味がすっきりして軽快な場合に「キレがある」と表現する。地方によっては「サバケがよい」と表現する。
; 荒い
: 口に含んだときに、口中に刺激を受ける状態を指す。よく言えば元気のある若々しい味、わるく言えば熟成感に欠ける味である。
; 吟味(ぎんあじ)
: 長い時間をかけて低温熟成した酒に生まれる、あっさりとした旨みを指す。
; ふくらみ
: 口中に広がる、バランスの良いしっかりとしたコクのある味を指す。「ゴク味」「味の幅」などとも表現される。
; ゴク味
: 酒の[[五味]]がほどよく調和して、バランスの良いコクが感じられる状態を「ゴク味がある」と表現する。
; 収斂味(しゅうれんみ)
: 酒がまだ若いときに感じられる、思わず口をすぼめたくなるような渋みのこと。たいていは酒の熟成とともに自然に消えていく。逆に、これが消えていくのを以って酒の熟成度を舌で測ることもできる。
; 押し味
: 酒を利いたあとの後味にふくらみがあり、安定して余韻を響かせているような味。
; コシ
: 押し味があって、安定した味わい残すときにはを「コシがある」「コシが強い」といい、反対に後味がぼけた感じがするときは「コシがない」「コシが弱い」という。
; どっしり
: ふくらみとコシのある、容易に[[日本酒#アミノ酸度|燗くずれ]]のしない、丹念な造りの味に用いられる表現。
; しっかり
: 安定感とコシのある、容易に[[日本酒#アミノ酸度|燗くずれ]]のしない、丹念な造りの味に用いられる表現。ある意味では「どっしり」よりも頻繁に使われる「しっかり」だが、しっかりかどうかを判断するのは初心者には難しいのもまた現実である。初心者にも分かりやすい手軽な判断方法としては、酒をアルコール14度くらいにまで水で割って[[#温度の表現(飲用温度).|ぬる燗]]にして味わってみることである。そのときに味切れが良い酒は「しっかり」した造りである。酒中に未分解の成分が多かったり、醪末期に急激に酵母が死滅してしまうと、酵母から余計なアミノ酸が出ることによって、味切れが悪くなることがある。こういう酒は概して[[完全醗酵]]させた酒に比べて劣化が早く、味も「しっかりしている」とは言わない。こういうことは個々人の主観、すなわち味覚で判断するのが一番で、裏ラベルに表示されている[[#アミノ酸度|アミノ酸度]]など見ても分かることではない。
; (味/香りが)開く
: 冷やでは、その酒質が本来持つ味や香りが冷たさの奥に閉じ込められてしまい、官能として感じられないことがあるが、それらを人肌燗・[[#温度の表現(飲用温度).|ぬる燗]]あたりまで温めると、花がゆっくり開くようにそれらが感じられてくる。そのような時に用いる表現である。しかしあまり熱すると、却って感じられなくなる。
:ちなみに日本[[酒匠]]研究会では、「甘い/辛い」「淡麗/濃醇」を座標軸とする味の分類には実用性がないとして、[[#温度の表現(飲用温度).|飲用温度]]や料理、[[#酒器|器]]を連想しやすい「香りが高い/低い」「味が濃い/淡い」を新たな座標軸とし、次のような四分法を用いている。
; 熟酒(じゅくしゅ)
: 香りが高く、味が濃い酒。時間をかけて熟成された濃厚な味わい。熟成酒、[[古酒]]、秘蔵酒など。
; 醇酒(じゅんしゅ)
: 香りが低く、味が濃い酒。いわゆるコクが感じられる味わい。[[#純米酒|純米酒]]、[[#生酛系|生{{JIS2004フォント|酛}}系]](きもとけい)など。
; 薫酒(くんしゅ)
: 香りが高く、味が淡い酒。吟醸香の在り方が鑑賞できるもの。[[#大吟醸酒|大吟醸]]など。
;爽酒(そうしゅ)
:香りが低く、味が淡い酒。軽快でなめらかなもの。[[#表示|生酒]]、[[#表示|生貯蔵酒]]、低アルコール酒など。
=== 色の表現 ===
酒蔵の槽口から出てくる、できたての酒は本来、秋の稲穂のような黄金色に近い色である。また[[#貯蔵・熟成|熟成]]が進むと深い茶色へと進んでいったり、少しばかり緑がかってくる。あるいは[[精米歩合]]が高く、造りがしっかりしている[[#大吟醸酒|大吟醸]]などは、[[ダイヤモンド]]のように鮮やかにきらめく光沢を持つ。
しかし[[全国新酒鑑評会]]では過去に、色のついたまま出品されている酒は減点の対象としていた時代があり、それゆえ酒蔵では[[#その他の表示|活性炭濾過]]などで必死に色を抜いていた。その結果が今日「清酒」という言葉から一般的にイメージされる水のような無色透明である。
昨今は天然の色のまま販路に乗せる酒蔵も増えてきたので、酒の色も再び楽しめるようになった。
; 冴え(さえ)
: 美しく透き通った光沢。特に、やや青みがかって見える状態を'''青冴え'''(あおざえ)といい、高く評価される。
; 照り(てり)
: うっすら[[ヤマブキ#文化|山吹色]]に艶の出た状態。たいてい好まれる。
; ぼけ
: 少々混濁して、色彩がぼやけていること。
; 透明度
: どれだけ透明に製成されたかを語る指標。
; 澄明度
: 自然に造られた澄んだみずみずしいきらめき。
; 黄金色(こがねいろ)
: 照りの中でも最も好まれる色調。
; 番茶色(ばんちゃいろ)
: 古酒などに多い、やや濃く熟成した色調。黄金色ほどは、色が鑑賞の対象とはならないことが多い。
; 色沢良好(しきたくりょうこう)
: 鑑評会などで語られる、色合いが好ましいさまを語る定番の表現。
; 色沢濃厚(しきたくのうこう)
: かなり色がついている状態。好ましいと受け取る者も多い。
; 混濁
: いろいろな色調に濁っていること。見た目としては評価を得がたいが、こうした酒が一概に味もまずいとは限らない。
=== 香りの用語・表現 ===
これも製法に関わる用語・表現と同じく、時代・世代や地方によって様々であるが、標準的なものを示しておく。
; 熟成香
:[[#貯蔵・熟成|熟成]]によって生じる好ましい香りで、強いものは「古酒香」とも呼ばれる。香りの様態は様々で、それぞれ[[紹興酒]]、[[シェリー酒]]、[[カラメル]]、[[干ししいたけ]]、[[干しブドウ]]などに例えて表現される。
; 吟醸香(ぎんじょうこう / ぎんじょうか)
: 「ぎんじょうこう」が正しい読み方とよく言われるが、専門家の中でもわざわざ「ぎんじょうか」とルビを振り読者の注意を促す者もいる<ref name="chouya2004-1">{{Cite book|和書|author=蝶谷初男|title=うまい日本酒に会いたい そのために知っておきたい100問100答|publisher=ポプラ社|id=ISBN 4-591-08389-6|date=2004年|page=145|chapter=|edition=}}</ref>ので注意を要する。
: [[#特定名称酒|吟醸酒]]や[[#特定名称酒|大吟醸酒]]に特有の芳香。[[リンゴ]]や[[バナナ]]のような香りが最も一般的だが、酒によってはマロン、クリーム、チョコレートのような吟醸香を出しているものもある。決して香料を加えているのではなく、吟醸造りのような低温発酵時に酵母が出す[[エステル]]類、特に[[カプロン酸エチル]]や[[酢酸イソアミル]]に起因する香りである(参照:[[#醪(もろみ)造り|醪(もろみ)]])。造りの良い[[#純米酒|純米酒]]など、吟醸酒以外にも感じられることは多い。なお、生成された吟醸香は全てが醪の中に留まるわけではなく、多くは大気中に放散される。このため、[[ヤコマン]]装置によりそれを回収・液化して、醪の中に戻したり、あるいは元の醪以外の日本酒へ添加したりすることもかつて行われていた。最近は新型酵母の開発により、そういう必要はなくなってきたといわれる。
; リンゴ香
: 吟醸香の一種で、[[カプロン酸エチル]]に起因する[[レッドデリシャス|デリシャスリンゴ]]のような芳香。適度なリンゴ香は吟醸酒に気品を与えるとされる。
; バナナ香
: 吟醸香の一種で、[[酢酸イソアミル]]に起因するバナナのような芳香。適度なバナナ香は日本酒に甘くフルーティーな香りの厚みを加えるものとして好まれるが、強すぎると異臭に感じられ「酢酸エチル臭」「セメダイン臭」と呼ばれて減点の対象となる。[[ヤコマン]]装置によって回収される主な香り成分でもある。
; 新酒ばな
: 主に[[#麹(正字は「麴」)|麹]]に由来する新酒特有の若々しい香りで、熟成するにしたがって消えていく。[[燗酒#温度の表現(飲用温度)]]を好む熟達した飲み手は、燗によって強められた新酒ばなを敬遠することが多い。
; アルコール臭
: [[#アルコール添加|アルコール添加]]がうまく行かなかったときに生じる薬品のような臭い。醗酵によって生じるアルコール成分と違って、酒そのものと一体化していない、添加したアルコールが浮いた感じになって起こる。
; 老ね香(ひねか)
: 「[[#貯蔵・熟成|熟成]]が進みすぎた(過熟)」「熟成しないうちに劣化した」「保存方法が正しくなかった」などの理由で、酒が酸化してしまったときに生じる異香。熟成香と紙一重で、不快であれば老ね香とされる。それゆえごく稀に、少しばかりの老ね香はかえって酒に箔をつけるものとしてプラスに評価される場合もある。
; 生老ね香(なまひねか)
:「生酒が古くなった」「保存方法が正しくなかった」などの理由から、酵素の働きから生じる、蒸れたような猛烈な悪臭。[[#濾過|活性炭濾過]]でも除去できず、出荷前に発生すると蔵にとって致命傷となるが、実際には出荷後の流通・小売業者、あるいは購入後の消費者の、保存方法や温度管理のまずさによるところが大きい。「生酒は米の[[牛乳]]」と思っておけば、まず間違いない。
; つわり香
: 醪の醗酵の失敗などに起因する、乳製品が腐ったような臭いで、吐き気を催させることからこう呼ばれる。専門的には「[[ジアセチル|ダイアセチル]]臭」と呼ばれ、「火落ち臭」と似ている。
; 火落ち臭
: [[火落ち#火落ち菌|火落ち菌]]が繁殖することによって生じる臭いで、菌の種類によって様態は異なるが、おおむねつわり香と似ている。
; 濾過臭(ろかしゅう)
: [[#濾過|濾過]]の工程で付く異臭の総称。和紙を水で濡らしたときの臭いに似ているとされる。
; 炭臭(すみしゅう)
:[[#濾過|活性炭濾過]]の工程で、質の悪い炭を使ったり、炭を入れすぎたときに付く異臭。炭自体が臭気を吸収しやすいので、保存中に炭が外部から吸収した臭い成分を、酒に投入されたときに酒の中へ放出して生じることも多い。
; 酸敗臭(さんぱいしゅう)
: 腐造菌という雑菌が醪を汚染し、[[酢酸]]などが生成されて付く極めて不快な臭い。
; 袋臭(ふくろしゅう)
: 醪をしぼる酒袋の臭いが酒に移ったもの。酒袋の管理が正しくなく、酸化した付着物があったときなどに生じる。
; 日光臭
: 光にさらされて発生する、刺激性のある異臭。「ひなた臭」「けもの臭」ともいう。室内[[蛍光灯]]など、日光以外の[[光線]]に長時間さらされていても発生する。出荷後の流通・小売業者、あるいは購入後の消費者の、保存方法のまずさに起因することが多い。瓶を新聞紙などにくるんでおくと防げる。かつては瓶の臭いが酒についたものと考えられ「瓶臭」という語があったが、現在ではそれは日光臭と老ね香の混じった臭気とされている。
; 木香(きか / きが / もくが / もくか / もっか)
: 「きか」が正しい読み方とよく言われるが、専門家の中でも、わざわざ「きが」とルビを振り読者の注意を促す者もいる<ref name="chouya2004-2">{{Cite book|和書|author=蝶谷初男|title=うまい日本酒に会いたい そのために知っておきたい100問100答|publisher=ポプラ社|id=ISBN 4-591-08389-6|date=2004年|page=176|chapter=|edition=}}</ref>ので注意を要する。
: [[スギ]]など[[樽]]の木材の香りが酒に移ったもの。香りの程度と酒質によってはプラスに評価されることもあるが、鑑評会などでは「木香臭(きがしゅう)がする」というと往々にしてマイナス点である。ちなみに醗酵の最中に[[#アルコール添加|アルコール添加]]すると生成されることがある、木香のような臭いを「木香様臭」といい、本質的には別物であるが混同されやすい。
また、酒器を手に取ってから飲み込むまでの各段階において感じられる香りは以下のように呼ばれる。
; 上立香(うわだちか)
: まだ酒を口に含まず、酒の表面から鼻先へ匂い立つ香。酒を[[猪口]]に注いで、丸く揺らしたときに立ち上がってくる揮発性の芳香。吟醸香に重きを置く酒や、[[全国新酒鑑評会|鑑評会]]に出品される酒では、とかく重視される。
; 含み香(ふくみか)
: 酒を口に含み、舌先で転がしたときに、鼻へ抜けていく香。香りの成分としては、上立香ほど[[相転移#物理学的性質|揮発性]]が高くないので、口に含むまでは感じられない。
; 吟香(ぎんか)
: 酒を呑みこむとき、喉を過ぎるときに感じられる香。鑑評会などで[[利き酒]]をするときは、酒は呑みこまず、味わったあとは吐き出してしまうので、吟香は味わえない。よって鑑評会での評価の対象になりえないという問題がある。今ではほとんど「吟醸香」と同じものを指す。
; 返り香(かえりか)
: 呑んだあとに、腹から鼻に抜けるように感じられる香。これも鑑評会などでは評価の対象から漏れてしまうとして問題視する識者も多い。
=== 温度の表現(飲用温度) ===
これも統一された用語というわけではないが標準的なものを示しておく。ただし、[[2000年代]]初頭では「冷や」が拡大解釈され、常温よりも冷やしたものを指して用いられていることもある<ref>{{Cite book|和書|author=増田晶文|title=うまい日本酒はどこにある?|publisher=草思社|page=162|chapter=第4章 うまい日本酒を呑ませる処|date=2004-09-30|edition=第1刷|id=ISBN 4-7942-1347-6}}</ref>。
{|class="wikitable"
|+ '''日本酒の温度表現'''
!名称!!飲用温度!!備考
|-
|飛び切り燗(とびきりかん)||55度前後||香りが凝縮し、最も辛口に感じられる。
|-
|[[熱燗]](あつかん)||50度前後||香りはシャープに、味わいはキレがよくなる。
|-
|上燗||45度前後||香りがきりっと締まり、味わいは柔らかさと引き締まりが出る。
|-
|[[ぬる燗]]||40度前後||香りが最も大きくなり、味わいにふくらみが出る。
|-
|[[人肌燗]]||37度前後||米や麹の香りが引き立ちサラサラとした味わい。
|-
|日向燗(ひなたかん)||33度前後||香りが立ってくる。なめらかな味わい。
|-
|[[冷や]]||[[常温]]||'''冷蔵庫などで冷やしたものが「冷や」ではない。'''
|-
|涼冷え(すずびえ)||15度前後||フルーティーさやフレッシュさが感じられる。
|-
|花冷え||10度前後||最近は「冷や」と区別するために「冷やして」などともいう。
|-
|雪冷え||5度前後||いわゆる「キンキンに冷やした」もの。
|-
|(霙(みぞれ))||-10度前後||冷凍庫で短時間、静かに冷やした後、注ぐと透明からシャーベット状に変化する。
|}
一般に温度上昇によって、舌に感じられる酸味が相対的に下がり、旨味が上がることから、「冷や」から「熱燗」くらいまでの温度帯に限っておおざっぱにいうならば、上に行くほどコクと深みを持った味になり、また辛さを感じるようになる。[[#生酛系|生{{JIS2004フォント|酛}}系]]や[[#純米酒|純米系]]など、昔からある製法で造っている酒では、冷やで飲んでもさほど印象的でなかった酒が、燗にすると本領を発揮し、奥深い味を展開することが多い。そういう酒は「'''燗映え'''(かんばえ)する」という。また燗をしたときに、温かさがほんのり酒全域に均等に行き渡り、その酒の良さがうまく引き出されることを「'''燗上がり'''(かんあがり)する」という。うまく燗上がりさせるのに最も確実な方法は、[[徳利]]に入れて湯煎することである。[[猪口]]に入れて電子レンジで温めるのも多少は有効だが、中にムラができやすい。いちど燗をした酒がふたたび冷えることを「'''燗冷まし'''(かんざまし)になる」という。ていねいに造ってある酒は、燗冷ましになってもそれなりに味わいがあるが、そうでないものは風味のバランスが崩れ、薬品のようなアルコール臭が[[#香りの用語・表現|上立香]]としてのぼってくる。これを「'''燗崩れ'''(かんくずれ)」という。
== 日本酒に関する単位 ==
[[File:Sake Hachimangu.jpg|thumb|260px|酒樽、[[鶴岡八幡宮]]]]
; 1[[升]](しょう)=10[[合]](ごう)=1.8[[リットル]]
; 1[[石 (単位)|石]](こく)=10[[斗]](と)=100[[升]]
: これらの[[体積|容積]]単位は全て日本の[[単位系]]である[[尺貫法]]の一部である。
: 1升とは、[[酒屋]]などでごく普通に目にする日本酒の大瓶、すなわち'''[[一升瓶]]'''に入る容量である。[[1901年]]([[明治]]34年)に[[白鶴]]が一升瓶で日本酒を販売するようになって以来、百年余りにわたって主流を占めてきた。近年では、その大きさやつきまとうイメージの泥臭さなどが消費減退の理由だと唱える人々がおり、小型化する傾向もある(参照:[[#日本酒の製法]])。
: いわゆる中瓶は'''四合瓶'''で、文字通り4合(720ミリリットル)入る。
: 酒蔵では、18リットル入る'''斗瓶'''を使っており、消費者が販売店で見る「斗瓶囲い」といった記載表示はそれに由来する(参照:[[#その他の表示]])。
: 石(こく)は、主に酒蔵の生産量を示すのに用いられる。これも極めておおざっぱな目安であるが、一般の小さな酒蔵だと年間500石、大手の酒蔵で年間5,000石以上といったところである。
: 当然ではあるが、生産石高と生産される酒質には何の相関関係もない。
; 荷(か)
: 「荷」は、主に酒の陸上輸送に使われた単位である。人足が酒樽を天秤棒(てんびんぼう)で前後に1個ずつ担いだことに由来する。
: 「荷」の表現は中世の公家や僧侶の日記に頻出の表現であり、「樽一荷」で酒二樽を意味するようになった<ref>{{Cite book|和書|edition=Shohan|title=Oke to taru : wakiyaku no Nihon shi|url=https://www.worldcat.org/oclc/44582740|publisher=Hōsei Daigaku Shuppankyoku|date=2000|location=Tōkyō|isbn=4-588-32121-8|oclc=44582740|others=Kazuko Koizumi, 小泉和子|pages=68,76}}</ref>。近世頃まで使用された表現で、江戸時代には二斗樽2つを一荷とした<ref>{{Cite journal|author=緒方 敏郎|year=1937|title=近世に於ける酒樽の經濟的段階 (承前)|journal=日本釀造協會雜誌|volume=32巻8号|page=p.882-887}}</ref>。
; 駄(だ)
: 江戸時代に酒樽が大型化し、「伝馬の制」の駄馬の積載量上限である四十貫に合わせ、四斗樽2樽を駄馬に積載し、これを一駄とした。以降10駄を一単位として酒価等を表示することが慣例化した。半分の一樽は片馬と称した<ref>{{Cite book|和書|edition=Shohan|title=Oke to taru : wakiyaku no Nihon shi|url=https://www.worldcat.org/oclc/44582740|publisher=Hōsei Daigaku Shuppankyoku|date=2000|location=Tōkyō|isbn=4-588-32121-8|oclc=44582740|others=Kazuko Koizumi, 小泉和子|pages=107-108}}</ref>。近世から明治以降の近代に至るまで使用された単位である。
; 1盃(はい)
: 現代では、挨拶などで「一杯やりましょう」と発言してもそれは、[[ワイングラス]]や[[コップ]]などの入れ物で「1杯」という意味には必ずしもならない。さかのぼって[[江戸時代]]以前は、「一盃」はれっきとした容積単位であった。ただ、地方や[[藩]]によって違いがあり、厳密なものではなかった。[[豊臣秀吉]]が[[太閤検地]]を行った際に[[度量衡]]の基準を示し、容積についても「[[京枡]](きょうます)」を定めた。ところが、[[江戸時代]]になっても[[東北地方]]の藩などに普及しなかった。
: 小差はあっても概して「100盃=(約)4[[斗]]」であったというから、「1盃=(約)720ミリリットル」ということになり、4合瓶やワイン1本と同じくらいの分量ということになる。当時は「一盃」飲むとなると、4合瓶を飲み干すことを意味したのである。{{要出典|date=2022年4月}}
; 献(こん)
: 現在では「一献やりましょう」というように、「一緒に酒を飲む」という意味で用いられる。古くは一盃になみなみと酒を満たし、酒席をぐるりとひと回りするのが「一献」であった。例えば「宴が三献ほどしたら」というような表現があった。
; [[勺]](しゃく)
: 1升=10合=100勺
: 1勺は約18ミリリットル。
== 日本酒メーカーと売上高ランキング ==
[[帝国データバンク]]の統計調査によると、2017年(平成29年)12月時点で日本全国に日本酒を製造するメーカーが1,254社存在し、[[都道府県]]別の所在地を見ると、首位は[[新潟県]]で84社、2位は[[長野県]]で64社、3位は[[兵庫県]]で57社となっている。創業100年以上の[[老舗]]企業が903社と7割を占め、創業時代別に見ると、首位は明治時代で431社、2位は[[江戸時代]]で399社、3位は[[昭和]]時代で266社であった。このうち日本酒製造を主業とするのは1,077社で、2016年(平成28年)度の総売上高は4,416億900万円で、2012年(平成24年)度から2016年(平成28年)度まで5年連続で総売上高が小幅上昇している。特に売上高増加が顕著なのが[[旭酒造 (山口県)|旭酒造]]で、「[[獺祭 (日本酒)|獺祭]]」ブランドの海外展開により前年度比6割の増収となっている<ref name="teikoku"/>。なお獺祭を擁する旭酒造は積極的な海外展開などのおかげで2022年9月期に164億円の売り上げを達成しており、これを2016年度のランキングに当てはめると4位となる<ref name="dassai22">[https://web.archive.org/web/20221124034817/https://shokuhin.net/65578/2022/11/24/topnews/ 清酒「獺祭」 米国酒蔵が来年始動 「市場創造に挑戦」旭酒造・桜井社長] 食品新聞 2022年11月24日</ref>。
日本酒の[[蔵元]]([[造り酒屋]])を酒蔵と呼ぶこともある。[[酒類製造免許]]を持つ酒蔵のうち、1000程度が実際に営業していると推測されている<ref name="日経20201121"/>。
以下に2016年度の売上高上位20社までを記す<ref name="teikoku">[https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p171204.pdf 特別企画:清酒メーカーの経営実態調査] 帝国データバンク 2017年12月21日</ref>。
{| class="wikitable" style="margin-left:auto;margin-right:auto;text-align:center"
|-
|style=""colspan="6"|'''2016年度 日本酒メーカー売上高'''
|-
! style="width:4em" | 順位!! 社名!! 所在地!! 主要銘柄!! 16年度売上高<br>(百万円)!!参考(最新)売上高<br>(百万円)
|-
| align=center | 1 || [[白鶴酒造]]|| [[兵庫県]]|| 白鶴|| align=right | 34,808|| 27,300<ref>[https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp69154/outline.html 白鶴酒造(株)]</ref>(22年3月期)
|-
| align=center | 2 || [[月桂冠 (企業)|月桂冠]]|| [[京都府]] || 月桂冠|| align=right | 27,387||17,200<ref>[https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp50122/outline.html 月桂冠(株)]</ref>(22年3月期)
|-
| align=center | 3 || [[宝ホールディングス]]|| 京都府 || 松竹梅|| align=right | 24,822||12,803<ref>[https://ir.takara.co.jp/ja/IREvents/IREvents-493096495778163176222345/main/0/teaserItems1/02/linkList/0/link/20220517setsumeikai.pdf 2022年3月期決算報告]</ref>(22年3月期)
|-
| align=center | 4 || [[大関 (酒造メーカー)|大関]]|| 兵庫県|| 大関|| align=right | 16,376
|-
| align=center | 5 || [[日本盛]]|| 兵庫県 || 日本盛|| align=right | 14,770||13,230<ref>[https://catr.jp/settlements/024ae/109888 日本盛株式会社 第128期決算公告]</ref>(19年3月期)
|-
| align=center | 6 || [[小山本家酒造]]|| [[埼玉県]] || 金紋世界鷹|| align=right | 11,358||12,400<ref>[https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp52629/outline.html (株)小山本家酒造(世界鷹小山家グループ)]</ref>(22年9月期)
|-
| align=center | 7 || [[菊正宗]]|| 兵庫県 || 菊正宗|| align=right | 11,018||9,700<ref>[https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp3130/outline.html 菊正宗酒造(株)]</ref>(22年3月期)
|-
| align=center | 8 || [[旭酒造 (山口県)|旭酒造]]|| [[山口県]] || 獺祭|| align=right | 10,803||16,400<ref name="dassai22"/>(22年9月期)
|-
| align=center | 9 || [[黄桜]]|| 京都府 || 黄桜|| align=right | 10,000||9,500<ref>[https://kizakura.co.jp/company/profile.html ご挨拶]</ref>(20年9月期)
|-
| align=center | 10 || [[オエノンホールディングス]]|| [[東京都]]|| 大雪乃蔵、福徳長|| align=right | 9,105
|-
| align=center | 11 || [[朝日酒造 (新潟県)|朝日酒造]]|| [[新潟県]]|| 久保田|| align=right | 8,589||6,247<ref>[https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/2820 時代を醸す 朝日酒造〈1〉]</ref>(20年9月期)
|-
| align=center | 12 || [[八海醸造]] || 新潟県 || 八海山|| align=right | 6,169||6,190<ref>[https://job.rikunabi.com/2023/company/r829081005/ 八海醸造グループ(八海醸造株式会社/株式会社八海山)]</ref>(20年8月期)
|-
| align=center | 13 || [[辰馬本家酒造]]|| 兵庫県 || 白鹿|| align=right | 6,063
|-
| align=center | 14 || [[菊水酒造]]|| 新潟県 || 菊水|| align=right | 5,452||4,400<ref>[https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp68955/outline.html 菊水酒造(株)]</ref>(21年9月期)
|-
| align=center | 15 || [[加藤吉平商店]]|| [[福井県]] || 梵|| align=right | 4,829
|-
| align=center | 16 || [[剣菱酒造]]|| 兵庫県 || 剣菱|| align=right | 4,300||2,030<ref>[https://next.rikunabi.com/company/cmi0062371001/ 剣菱酒造株式会社]</ref>(22年3月期)
|-
| align=center | 17 || [[小西酒造]]|| 兵庫県|| 白雪|| align=right | 4,085||2,200<ref>[https://web.pref.hyogo.lg.jp/sr05/documents/hanshin3.pdf 小西酒造㈱]</ref>(21年3月期)
|-
| align=center | 18 || [[沢の鶴]]|| 兵庫県 || 沢の鶴|| align=right | 3,980
|-
| align=center | 19 || 中杢酒造|| [[愛知県]] || 國盛|| align=right | 3,700||4,000<ref>[https://www.nakanoshuzou.jp/corporate/corporate/ 会社概要]</ref>
|-
| align=center | 20 || [[清洲桜醸造|清州櫻醸造]] || 愛知県 || 清州桜 || align=right | 3,500
|}
== 日本国外での人気 ==
=== 日本国外への輸出 ===
近年、日本では[[ビール]]や[[ウイスキー]]も含めたアルコール飲料全般の消費量が減少しており、日本酒もその例に漏れない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/shiori-gaikyo/shiori/2011/index.htm |title=酒のしおり・酒類業者の概況・全国市販酒類調査の結果 |publisher=国税庁 |accessdate=2012-07-14}}</ref>。
一方、日本国外では21世紀に入ってから日本酒の人気が拡大しており、日本酒は[[日本語]]の「酒」にちなみ「sake(サケ、[[英語]]読みはサキィ)」と呼ぶ。(参照:「日本酒の歴史」- 昭和時代以降)。[[アメリカ合衆国]]や[[フランス]]の市場では日本酒、特に吟醸酒の消費が拡大し、[[イギリス]]でも2007年から[[国際ワインコンテスト]]に日本酒部門が設置された。アジア圏においても日本酒の消費量が以前に比べて拡大し、2015年にはとりわけ和食が普及する[[ソウル特別市|ソウル]]、[[香港]]、[[台北]]、[[シンガポール]]において高い値を示す<ref>[http://www.hakuhodo.co.jp/archives/newsrelease/20038 アジア14都市における和食・日本酒・緑茶の浸透度(経験度)] [[博報堂]]【Global HABIT レポート 2015年 Vol.1】 2016年6月1日閲覧</ref>。[[タイ王国]]では日本酒の需要の急増で日本の蔵元が挙って市場に参入し、競争が激化した<ref>{{cite news |title=タイ、日本酒需要増で競争激化 100社超進出、生存かける老舗蔵元 |newspaper=[[産業経済新聞社|Sankeibiz]] |date=2016-03-08 |url=https://web.archive.org/web/20160808200010/http://www.sankeibiz.jp/macro/news/160308/mcb1603080500001-n1.htm | accessdate=2016-06-01 }}</ref>。また訪日外国人観光客による、高級な日本酒のまとめ買いも増えている<ref>{{cite news |title=外国人観光客増の波及効果でリポート=日銀 |newspaper=[[トムソン・ロイター|Reuters]] |date=2014-10-20 |url=http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPKCN0I912D20141020 | accessdate=2014-10-20 }}</ref>。
日本酒の輸出額は、2013年に初めて100億円を超えた<ref>「[http://news.tv-asahi.co.jp/news society/articles/000021696.html?r=rss2&n=20140218192654 日本酒の輸出が過去最高に 初の“100億円突破”]」[[テレビ朝日]]2014年2月18日</ref>。2020年の日本酒輸出額は241億円で、酒類輸出総額710億円の34%を占めたが、輸出額が急増する[[ジャパニーズ・ウイスキー]](271億円、38.2%)に20年ぶりに抜かれて、酒類における最多輸出額品目の地位から陥落した<ref>[https://www.nta.go.jp/information/release/kokuzeicho/2020/sake_yushutsu/0021001-122.pdf 2020年(令和2年)の酒類の輸出動向について] 国税庁</ref>。
2022年の日本酒の輸出額は前年比18.2%増の475億円、酒類輸出総額1,392億円の約34%を占め、酒類の品目別に言うとジャパニーズ・ウイスキーの561億円に次いで2位であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/yushutsu/yushutsu_tokei/pdf/0021010-203.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20230207165709/https://www.nta.go.jp/taxes/sake/yushutsu/yushutsu_tokei/pdf/0021010-203.pdf|title=最近の日本産酒類の輸出動向について||publisher=[[国税庁]]|date=|archive-date=2023-02-07|access-date=2023-02-08}}</ref>。輸出上位5か国(地域)は、中国142億円、アメリカ109億円、香港71億円、韓国25億円、シンガポール23億円であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacom.or.jp/ryutsu/news/2023/02/230206-64508.php|archive-url=https://web.archive.org/web/20230207170150/https://www.jacom.or.jp/ryutsu/news/2023/02/230206-64508.php|title=日本酒輸出2022年度実績 金額・数量ともに過去最高 日本酒造組合中央会|publisher=[[農業協同組合]]|date=2023-02-06|archive-date=2023-02-07|access-date=2023-02-08}}</ref>。
このように日本酒の輸出は好調に推移しているが、フランスのワイン輸出額は約2兆円(155億ユーロ、2021年)<ref>[https://web.archive.org/web/20220312185915/https://www.reuters.com/article/france-wine-idJPKBN2KL076 21年の仏ワイン輸出、過去最高 米制裁解除や経済回復で] ロイター 2022年2月16日</ref>、英国北部[[スコットランド]]の[[スコッチ]]輸出額は約5,600億円(38億ポンド、2020年)<ref>[https://web.archive.org/web/20221002003550/https://r-whisky.net/359 【ニュース】2020年に影響を受けた『スコッチウイスキー』の輸出先と割合] PR TIMES Inc. 2022年2月9日</ref>と、日本酒輸出額の12倍から42倍の差がある。また日本酒の最大市場となりえるアメリカの2020年のアルコール飲料消費量のうち、日本酒はわずか0.2%にすぎず(ビール・ウイスキー・ワインの三大アルコールで60%)、そのうち流通量換算でいえば8割が安価な現地生産の日本酒である<ref>[https://www.nta.go.jp/taxes/sake/yushutsu/chosa/pdf/r03.pdf 令和三年度「海外主要国における日本産酒類の市場調査」- 日本産酒類 輸出戦略 - p.133.] 国税庁</ref>。
なお、酒に関する規制や税制は各国で異なる。例えば、アメリカ合衆国ではアルコール添加を行った日本酒は、税制上[[蒸留酒]]と同一の区分となり、純米酒より酒税が大幅に高くなるため、アメリカ合衆国へ輸出される日本酒の多くが純米酒となっている<ref>{{PDFLink|[https://zenbeiyu.com/pdf/us_sake_2015.pdf アメリカ西海岸における 清酒(日本酒)市場の動向と輸出環境について]}} 全日本コメ・コメ関連食品輸出促進協議会、2016年3月(2019年7月9日閲覧)</ref>。
高価格帯の輸出を後押しするため輸出専用の免許が設定されている<ref name=":3" />。
===日本国外におけるSAKE生産===
清酒を海外で造る取り組みは、明治時代に[[ハワイにおける日本人移民|ハワイに移住した日本人]]が行って以来の歴史がある。現代においては[[地理的表示]](GI)の規制により「日本酒」を名乗ることはできないため「'''SAKE'''」などの名称で販売している。
海外で生産された酒は水や米の違いから日本産とは味が異なるためライバルとはならず、日本酒ファンを増やす可能性が指摘されている<ref name=":2" />。
各国でのSAKE造りは、以下のような状況である<ref>「SAKEの未来」『[[日本経済新聞]]』朝刊2017年10月1日(NIKKEI The STYLE)</ref>。
* {{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]]
:大手日本酒メーカーの大関、松竹梅、月桂冠などは80年代から進出しており現地生産しているが、アメリカ人が経営する少量生産のクラフト・サケも増加している<ref>{{Cite web|和書|title=アメリカの日本酒ブームを牽引する起業家たち 田酒造・迫義弘さん(前編):朝日新聞GLOBE+|url=https://globe.asahi.com/article/13051956|website=朝日新聞GLOBE+|accessdate=2021-06-14|language=ja-JP}}</ref><ref name=":2" />。2023年には[[獺祭 (日本酒)|獺祭]]ブランドを擁する[[旭酒造 (山口県)|旭酒造]]が[[ニューヨーク]]に蔵を建設して操業を開始した。「DASSAI BLUE」ブランドで日本酒の販売を開始する<ref name="asahi0329">[https://web.archive.org/web/20230524000821/https://www.asahi.com/articles/ASR3Y4CDPR3YULFA001.html 獺祭、米NYで酒造り開始 「経営者として失格かも」会長語る] 朝日新聞 2023年3月29日</ref>。同年には[[南部美人]]で2年間修行したアメリカ人らが[[アーカンソー州]][[ホットスプリングス]]に「Origami Sake」銘柄の日本酒を製造する蔵を設立した。アーカンソー州は[[コシヒカリ]]を生産するなどアメリカでの米生産の5割を占めており、旭酒造や「Origami Sake」は同州産の山田錦も使用する<ref>[https://web.archive.org/web/20230528101928/https://news.yahoo.co.jp/articles/5d98461b5fa539f9221abf592568c40016a66e3f アメリカ・アーカンソー州で初の“酒蔵”誕生 コメも水も地元から…アメリカ産「日本酒」ブーム広がるか] 2023年5月26日</ref><ref name="asahi0329"/>。
* {{Flagicon|Norway}}[[ノルウェー]] - {{仮リンク|ヌグネ・エウ|en|Nøgne Ø}}が南部[[グリムスタ]]で2010年に酒蔵を開設し、「[[裸島 (酒)|裸島]]」ブランドで生産。
* {{Flagicon|GBR}}[[イギリス]] - 日本の酒造会社の酒蔵の他、月桂冠で研修を受けた愛好家が酒蔵を立ち上げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.sake-times.com/knowledge/international/sake_kanpai-london_interview|title=ロンドン初の酒蔵!イギリス人夫妻の”ビール好き”から”SAKE好き”に至った道|accessdate=2021/06/14|publisher=SAKETIMES}}</ref>。
* {{Flagicon|Spain}}[[スペイン]] - [[ピレネー山脈]]の麓でセーダ・リキーダ社が2016年に開始。
* {{Flagicon|Canada}}[[カナダ]] - アーティザン・サケ・メーカー([[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]])など3社が製造。
* {{Flagicon|Brazil}}[[ブラジル]] - 6社が製造。
* {{Flagicon|China}}[[中華人民共和国]] - 5社以上が製造。
このほか[[メキシコ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]で各1社が酒造りをしている。
== 日本酒に関する道具 ==
[[File:SakeContainers.jpg|thumb|220px|通い徳利や樽形徳利]]
=== 酒器 ===
{{main|酒器}}
酒を飲むときや供するときに用いられる道具<ref>[http://shukiya.com/278 酒器で彩どる日本酒の世界]</ref>。
=== 醸造器 ===
酒を造るために用いる道具。
* [[壺]](つぼ) / [[甕]](かめ) / [[桶]](おけ)
* [[樽]](たる) / [[結樽]](ゆいだる) / [[箍]](たが)
* [[釜]](かま) / [[甑]](こしき) / [[蒸籠]](せいろ)
* [[#麹造り|麹室]](こうじむろ) / [[麹蓋]](こうじぶた) / [[麹蓋#麹箱|麹箱]](こうじばこ) / [[麹蓋#麹床|麹床]](こうじどこ)
* [[#酒母造り|{{JIS2004フォント|酛}}場]](もとば) / [[#酒母造り|{{JIS2004フォント|酛}}桶]](もとおけ)
* [[#醪(もろみ)造り|仕込み場]](しこみば)
* [[笊籬]](いかき) / [[槽]](ふね) / [[袋]](ふくろ) / [[やぶた]]
* [[#濾過|炭]](すみ)
* [[精米機]](せいまいき) / [[縦型精米機]](たてがたせいまいき)
== 日本酒に関する施設 ==
=== 宗教施設 ===
ほとんどが[[神道]]系で、[[神社]]や[[祠]](ほこら)である。日本全国に酒に関する神社は40社近くあり、全部で55以上の神がまつられる。なかには[[#麹(正字は「麴」)|麹]]や[[#水|仕込み水]]など祀る対象を特化する神社もある。日本においては、ヨーロッパの[[バッカス]]、中国の[[杜康]]のように、酒のみの神として特定できる神様はいないと言われている。
====祀られている主な神々====
* [[スクナビコナ|少彦名神]](すくなひこな)- 少名毘古那神とも。
* [[大国主|大国主神]](おおくにぬし)- 大己貴神とも。
* [[大物主|大物主神]](おおものぬし)
* [[大山祇神]](おおやまつみ)- 大山積神、大山津見神とも。
* [[コノハナノサクヤビメ|木花咲耶姫]] (このはなさくやひめ)- 木華佐久耶姫、木花之佐久夜毘売、木花開耶姫とも。
* [[大山咋神]](おおやまくい)
* [[佐牙弥豆男神]]と[[佐牙弥豆女神]] (さかみずお・さかみずめ)- 酒弥豆男神と酒弥豆女神、酒美豆男と酒美豆女とも。
興味深いことに、日本酒に関する神社は、[[千葉県]]から[[福岡県]]の間だけに位置するという<ref name="ina2007">{{Cite book|和書|author=稲保幸|title=日本酒15706種|publisher=誠文堂新光社|id=ISBN 978-4-416-80797-2|date=2007年|page=31|chapter=|edition=}}</ref>。中でも京都と奈良に集中している。
====主な神社====
; [[大神神社]]
: [[奈良県]][[桜井市]]。酒の神として大物主神、[[大神神社#摂社|高橋活日命]]が奉られている。三輪明神とも。
; [[松尾大社]]
: [[京都市]]。醸造の神として信仰され、お酒の資料館も併設されている<ref>[https://www.kyoto-kankou.or.jp/sp/info_search/?id=3611&r=1579605461.7211 京都府観光ガイド]松尾大社お酒の資料館</ref>。
; [[弓弦羽神社]]
: [[灘五郷]]の古社。
; [[梅宮大社]]
: 京都市。ここのご[[祭神]]は[[木之花開耶姫]](このはなさくやひめ)とその父神、[[大山祇神]](おおやまつみのかみ)で、「[[日本書紀]]」では『木之花開耶姫が狭名田の稲を以って 天甜酒 を醸んで嘗す』とあり、我が国で最初に酒を造られた神様とされています。<ref>別冊『酒の神々 上巻』 [[菊正宗酒造株式会社]]文化事業部 編集発行 2001年 p14</ref>
; [[出雲大社]]
: [[島根県]][[出雲市]]。
; [[佐香神社]]
: 島根県出雲市。島根県が開発した酒米[[酒米#島根県|佐香錦]]の名称由来ともなった。
; [[日吉大社]]
: [[滋賀県]][[大津市]]。
; [[佐牙神社]]
: [[京都府]][[京田辺市]]。佐牙弥豆男神と佐牙弥豆女神を祀る。
; [[壺神神社]]
: [[奈良市]]。佐牙弥豆男神と佐牙弥豆女神を祀る。
; [[酒見神社]]
: [[愛知県]][[一宮市]]。佐牙弥豆男神と佐牙弥豆女神を祀る。
; [[御酒殿神]]
: [[三重県]][[伊勢市]]。祭神は社名と同じ御酒殿神。
====神社以外====
; [[正暦寺|菩提山正暦寺]]
: [[奈良市]]。かつて[[僧坊酒]]を造っていた中心的な寺院であった。初めて清酒がここで醸造されたという伝承があり、「日本清酒発祥之地」の碑が建つ。(参照:[[日本酒の歴史#清酒の起源|清酒の起源]])
=== 博物館・資料館 ===
* [[男山酒造り資料館]]([[北海道]][[旭川市]]) - もとは[[摂泉十二郷]]の銘柄であった「[[男山]]」340年の歴史と江戸時代の資料、文献、酒器などが展示、公開されている。
* [[南部杜氏の里]]([[岩手県]][[花巻市]][[石鳥谷町]]) - [[南部杜氏伝承館]]、[[南部杜氏会館]]、[[南部杜氏歴史民俗資料館]]、[[石鳥谷農業伝承館]]など多くの[[南部杜氏]]に関する歴史や文物の展示施設が点在している。
* [[松山酒ミュージアム]]([[宮城県]][[大崎市]](旧[[松山町 (宮城県)|志田郡松山町]]))
* [[酒造資料館東光の酒蔵]]([[山形県]][[米沢市]])-大吟醸の試飲が1000円で可能である。<ref>{{Cite web |title=酒 資料館 山形 - Google 検索 |url=https://www.google.com/search?q=%E9%85%92+%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8+%E5%B1%B1%E5%BD%A2&sca_esv=585404198&rlz=1CAJEUV_enJP968&ei=xEFjZcumJujk1e8P77qL0AI&ved=0ahUKEwjLmKrS3OGCAxVocvUHHW_dAioQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E9%85%92+%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8+%E5%B1%B1%E5%BD%A2&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiFOmFkiDos4fmlpnppKgg5bGx5b2iMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGIAEGKIEMggQABiABBiiBEjrJlCkEFjgIXAAeAKQAQCYAYkBoAHaBKoBAzAuNbgBA8gBAPgBAcICBBAAGEfCAgQQABgewgIGEAAYBRgewgIIEAAYCBgeGA_CAgUQIRigAcICCBAAGIkFGKIE4gMEGAAgQYgGAZAGCg&sclient=gws-wiz-serp&safe=active&ssui=on#:~:text=%E6%9D%B1%E5%85%89%E3%81%AE%E9%85%92%E8%94%B5,jp%20%E2%80%BA%20sakagura |website=www.google.com |access-date=2023-11-26}}</ref>
* [[月山の酒造資料館 設楽酒造店]] (山形県[[西川町|西村山郡西川町]])
* [[秩父錦 酒づくりの森]](埼玉県[[秩父市]]) - 秩父市[[矢尾酒造]]が開設している資料館で、江戸時代の酒造関係の文書や機具、また全国に散在する[[江州蔵]]の成り立ちについての資料を展示している。
* [[日本の酒情報館 Sake Plaza]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]) - [[日本酒造組合中央会]]が直営する日本酒や焼酎に関する資料館。各種展示のほか、約6,000冊の関係資料の閲覧もできる。イベント開催のため閉館の日も多い。
* [[ぽんしゅ館]]([[新潟県]][[湯沢町|南魚沼郡湯沢町]]) - [[上越新幹線]][[越後湯沢駅]]構内に併設されている小規模の博物館だが、新潟県内ほぼ全ての酒を利けるコーナーや酒風呂などがある。
* [[國盛酒の文化館]]([[愛知県]][[半田市]])
* [[キンシ正宗堀野記念館]]([[京都市]][[中京区]])
* [[月桂冠大倉記念館]](京都市[[伏見区]])
* [[キザクラカッパカントリー]](京都市伏見区)
* [[ブルワリーミュージアム]]([[兵庫県]][[伊丹市]])
* [[日本盛酒蔵通り煉瓦館]](兵庫県[[西宮市]])
* [[白鹿記念酒造博物館]](兵庫県西宮市)
* [[白鷹禄水苑]](兵庫県西宮市)
* [[酒匠館]](兵庫県[[神戸市]][[東灘区]]) - 2009年運営蔵元の廃業により廃止。
* [[白鶴酒造資料館]](兵庫県神戸市東灘区)
* [[神戸酒心館]](兵庫県神戸市東灘区)
* [[沢の鶴資料館]](兵庫県神戸市東灘区)
* [[浜福鶴吟醸工房]](兵庫県神戸市東灘区)
* [[櫻正宗記念館櫻宴]](兵庫県神戸市東灘区)
* [[菊正宗酒造記念館]](兵庫県神戸市東灘区)
* [[明石江井島酒館]](兵庫県[[明石市]])
* [[西条酒蔵通り]]([[広島県]][[東広島市]])
== 日本酒に関する文化行事 ==
=== 家庭行事 ===
* [[屠蘇]](屠蘇散)
* 別火(わかれび) [[上巳|桃の節句]]。[[#温度の表現(飲用温度).|燗]]を止めることを指す。
* [[花見|花見酒]](はなみざけ)
* [[菖蒲|菖蒲酒]](しょうぶざけ)五月五日の端午の節句に飲む。燗をしたお酒の中に菖蒲の茎を浸して味わうもので、飲めば邪気払いになるという。
* [[夏越酒]](なごしざけ)六月の晦日に、半年間の汚れを流す意味から飲むお酒。これからの暑い夏を乗り越えるため、暑気払いのお酒。<ref>日本酒読本 日本酒造組合中央会 発行 1996年 17p</ref>
* [[菊酒]](きくざけ) [[重陽|菊の節句]]。燗のつけはじめでもあった。
* [[月見|月見酒]](つきみざけ)
* [[雪見|雪見酒]](ゆきみざけ)
=== 祭り ===
* [[酒祭り]]([[広島県]][[東広島市]][[西条町 (広島県)|西条]])
* [[どろめ祭り]]([[高知県]][[香美郡]][[赤岡町]])
* [[どぶろく#日本のどぶろく祭|どぶろく祭り]](日本各地多数)
* [[にいがた酒の陣]]([[新潟市|新潟県新潟市]])
== 日本酒についての学術研究 ==
{{seealso|醸造#醸造学それに類する学科を持つ大学|発酵工学}}
日本酒の醸造技術については、各蔵元で工夫・継承される以外に、日本で最初に醸造科学科を設立した[[東京農業大学]]<ref>[https://www.nodai.ac.jp/campus/facilities/syokutonou/kuramoto/ 卒業生の蔵元紹介] 東京農業大学「食と農」の博物館(2020年9月21日閲覧)</ref>などで研究・教育が行われている。
地酒どころとして知られる[[新潟県]]は、都道府県立研究機関では唯一、日本酒を専門とする醸造試験場を持つ。同県にある国立の[[新潟大学]]は県と酒造組合と連携協定を結び、2018年に「日本酒学センター」を設立。さらに[[ワイン学]]をモデルに、日本酒の製造技術だけでなく流通など経済的側面や心身の健康への影響、歴史、文化・芸術との関わりを[[学際]]的に研究する全国組織「日本酒学研究会」発足(2019年)を主導し、[[学会]]への移行をめざしている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190521/ddm/005/070/006000c 【そこが聞きたい】日本酒学研究会 発足/新潟大学経済学部長 澤村明氏「ツーリズムへ発展期待」]『毎日新聞』朝刊2019年5月21日(オピニオン面)2020年9月21日閲覧</ref>。
=== 日本酒学(Sakeology) ===
'''日本酒学'''とは、醸造・発酵などの造りの領域から、流通流通・販売などの消費に関係する領域、さらには健康・酒税・地域性・歴史・文化・法律などのより広い観点の領域を内包した総合科学としての新しい学問分野である<ref>{{Cite web|和書|title=清酒王国・新潟県で誕生した「日本酒学」─ 産官学の連携が日本酒の未来をつくる {{!}} 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」|url=https://jp.sake-times.com/special/interview/sake_nihonshugaku|website=SAKETIMES {{!}} 日本酒をもっと知りたくなるWEBメディア|date=2021-03-12|accessdate=2021-03-17|language=ja}}</ref>。海外においては「ワイン学」という学問分野も確立されており、ペアリングのような感性的な領域と思われるものでも、科学的な根拠に基づいて議論されている。
[[2018年]]4月1日に新潟大学日本酒学センターを設置した[[新潟大学]]では、新潟県、[[新潟県酒造組合]]との3者間の協力のもと、全学部の学生を対象とした「日本酒学A-1、A-2」を開講している。また、当初予定していた200名の定員を大幅に上回る受講希望者が殺到したため、300名に変更するなどした。
=== 日本酒関連プロジェクトを行う大学 ===
* 全国の大学で初めて「醸造科学科」を開設した専門教育機関としても知られる[[東京農業大学]]では、2019年に日本酒サークル「酒仙会」を設立している<ref>{{Cite web|和書|title=「大学日本酒部/日本酒サークル」って何? (1) - 東京農業大学日本酒サークル「酒仙会」|url=https://sakestreet.com/ja/media/introduction-of-sake-group-1?lang=ja&slug=introduction-of-sake-group-1|website=SAKE Street {{!}} プロも愛読の日本酒メディア|accessdate=2021-03-17|language=ja}}</ref>。
* [[2020年]]には、[[上川大雪酒造]]が[[帯広畜産大学|国立帯広畜産大学]]キャンパス内に上川大雪酒造・碧雲蔵(へきうんぐら)を創設した。
* [[秋田県立大学]]、2009年より'''日本酒醸造プロジェクト'''に取り組んでおり、[[2021年]]3月にはオリジナル日本酒の発売に至っている<ref>{{Cite web|和書|title=日本酒「究」2400本発売 原料は県立大産の酒米、酵母|url=https://www.sakigake.jp/news/article/20210324AK0010/|website=[[秋田魁新報]]電子版|accessdate=2021-03-24|language=ja}}</ref>。
== 日本酒を題材にした作品 ==
=== 文芸・漫画・映像作品 ===
* [[藏]] - [[宮尾登美子]]作の小説。[[太平洋戦争]]前に[[新潟県]]の[[造り酒屋]]の娘として生まれた女性が、障害を負いながらも[[蔵元]]として成長する姿を描く。1995年に[[松たか子]]主演で[[テレビドラマ]]、[[浅野ゆう子]]主演で映画化された。
* [[夏子の酒]] - [[尾瀬あきら]]作の[[漫画]]。東京でOLをしていた新潟県の造り酒屋の娘が、兄の死をきっかけに蔵を継ぎ、様々な問題に立ち向かう。[[亀の尾]]復活をモデルに幻の酒米の復活の描写がある。1994年に[[和久井映見]]主演でテレビドラマ化された。
* [[奈津の蔵]] - 尾瀬あきら作。『[[夏子の酒]]』の主人公夏子の祖母である奈津が蔵に嫁入りしてからの半生を、酒造技術の発展や戦争などの時代背景とともに描く。
* [[美味しんぼ]] - [[雁屋哲]]原作・[[花咲アキラ]]作画の漫画・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]。連載当初からフランス料理の「料理とワインのマリアージュ」に対し、日本にも[[和食]]と日本酒の引き立て合いの文化があること、あるいは西洋料理と日本酒のマリアージュも紹介している。一方、大手メーカーや非純米酒に対して批判的な描写も見られる。
* [[もやしもん]] - [[石川雅之]]作の漫画・アニメ・ドラマ。麹や酵母等の菌が見える主人公・沢木と、周囲の人間たちの農業大学での生活を描く。沢木は「もやし屋」こと種麹屋の息子で、共に上京入学した幼馴染が蔵元の跡継ぎなこともあり、また酒造は発酵の研究をしている参加ゼミの重要なテーマであることから、日本酒をはじめとした様々な酒が登場する。
*[[大使閣下の料理人]] - [[西村ミツル]]著の回想記、およびこれを原作として脚色を加えた[[かわすみひろし]]作画の漫画。料理人である主人公が雇用者である[[外交官]]に、日本酒の良さを説くものの、日本国外での日本酒の流行は流行りに弱い若い世代だけに限られるとして、取り合ってもらえない。最終的には、日本酒の真価が認められる、というエピソードがある。
* [[酒のほそ道]] - [[ラズウェル細木]]作。漫画。東京でサラリーマン生活を送る独身の岩間宗達とその周辺の飲兵衛が繰り広げる、[[うんちく|蘊蓄]]とドタバタを季節感たっぷりに紹介する。
* [[蔵人 (漫画)|蔵人 クロード]] - 尾瀬あきら作。漫画。[[日系アメリカ人|日系3世のアメリカ人]]クロードが、造り酒屋の蔵人になり、幻の酒を復活させようとする。<!--酒についての情報は、漫画の中ではかなり正確。-->
* [[BARレモン・ハート]] - [[古谷三敏]]作の[[バー (酒場)|バー]]を舞台とした漫画。作中に日本酒を含む多くの酒が登場する。
* [[甘辛しゃん]](1997年度下期[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])- 兵庫県篠山の酒米農家の娘が台風災害と母親の再婚によって[[灘五郷|灘]]の造り酒屋の家族となって、生前の実父が目指した純米酒づくりを目指す物語。[[佐藤夕美子]]主演。
* [[恋のしずく (映画)]](2018年公開)- 農業大学の女子学生が[[インターンシップ]]先の[[広島市]]西条の造り酒屋で日本酒作りに奮闘する物語。[[瀬木直貴]]監督、[[川栄李奈]]主演。
* [[SAKE NEW WORLD]] - [[テレビ朝日]]のミニ番組。[[中田英寿]]がナビゲーターを務める。
=== 音楽・演劇・舞踊・落語 ===
* 『胡飲酒』(こんじゅ)([[雅楽]]) - 唐楽で、[[天平]]年間に [[林邑]][[比丘|僧]]仏哲が伝えた「[[林邑楽八曲]]」の一つ。胡 ([[西域]]) 人が酒に酔ってこの曲を演奏する様を舞にした、一人舞の舞楽でもある。
* 『[[猩猩|猩々]]』(しょうじょう)([[能]])
* 『[[安宅 (能)|安宅]]』(あたか)(能) - [[山伏]]に身をやつした[[源義経|義経]]主従が[[陸奥国|奥州]][[平泉町|平泉]]へ逃げのびる際、[[北陸道]][[安宅の関]]を通ろうとすると、怪しまれて止められる。[[武蔵坊弁慶|弁慶]]は関守の富樫と[[山伏]]について問答をし、偽の勧進帳を読み上げ、必死で危機を乗り越えようとする。その姿に感銘を受けた富樫は、義経主従とは知りつつも関の通過を許し、詫びのしるしとして一行に酒を振る舞う。その酒を豪快に飲み干した弁慶は、お礼にと[[延年の舞]]を披露しつつ一行をせき立て、奥州へ落ち延びていく。[[歌舞伎]]『[[勧進帳]]』の原作。
* 『[[棒縛]]』(ぼうしばり)([[狂言]]) - 主の留守に、家来の[[ストックキャラクター|太郎冠者、次郎冠者]]が酒を盗み飲みするので、ある日主人は外出に際して、太郎冠者を棒に縛り付け、また次郎冠者を後ろ手に縛って出かける。二人は縛られたまま、何とか酒を飲もうと色々と工夫してついに酒のふたを開け、互いに飲ませ合い、すっかり酔って歌うは舞うはの騒ぎとなり、主の悪口を言い合っている所に当の主人が帰ってくる。歌舞伎にもほぼ同じ筋書きのまま取り入れられたほか、[[宝塚少女歌劇]]で最初に飲酒がテーマになった演目としても著名。
* 『[[笹の露]]』([[地歌]]・[[箏曲]]) - [[大御所時代|文化文政時代]]に、[[京都]]で活躍した[[視覚障害者|盲人]][[音楽家]][[菊岡検校]]が地歌として作曲、[[八重崎検校]]が[[箏]]の手付をした[[手事もの]](てごともの)の大曲。和漢の様々な故事から、酒にまつわる箇所を色々引いて酒の徳を讃えた曲。「笹の露」とは酒の美称でもあり、またこの曲の別名を「酒」ともいう。2ヶ所の長大な[[手事]] (楽器だけで奏される長い器楽間奏部) は技巧に富むかたわら、[[三味線]]と箏の掛け合いが非常に多く、これは酒を差しつ差されつするさまを表しているといわれる。
* 『[[勧進帳]]』([[歌舞伎]]および[[長唄]]) - [[1840年]]([[天保]]11年)初演。四世杵屋六三郎作曲。歌舞伎十八番の一つで人気が高い。内容は能の『[[安宅 (能)|安宅]]』に同じ。また長唄の曲としても知られ、演奏会で長唄のみ演奏されることも多い。
* 『新版酒餅合戦』(しんぱんさかもちがっせん)([[長唄]]・[[常磐津節]]・[[義太夫節]] 掛け合い曲) - 昭和40年代、[[現代邦楽]]の作曲家、[[杵屋正邦]]の作品。酒をはじめとする食品を[[擬人化]]した曲。[[きな粉]]元年[[小豆|あずき]]の末、自慢のし合いがもとで、酒一族と[[餅]]一族が座敷が原で[[合戦]]を繰り広げる。それを聞きつけた[[練馬大根|白大根練馬介]]の[[御台所]]・白妙の方が、[[人参]]の赤姫、[[ゴボウ]]の黒姫などの女武者を引き連れて仲裁に入り、争いも治まり平和になる。
* 『[[黒田節]]』([[福岡県]][[民謡]])
* 『[[禁酒番屋]]』([[落語]]) - 酒の持込禁止をするために設けられた番屋の目をごまかそうと努力する様子が面白い。
* 『[[試し酒]]』(落語) - 「うちの下男、久蔵は大酒飲みで5升は飲み干せる」と自慢する近江屋の主人に、尾張屋の主人が本当に久蔵が5升飲めるかどうかの賭けを持ちかける。当の久蔵は戸惑って「少し考えるので待っていてほしい」と言い残して表に出て行く。しばらくして戻って来た久蔵は見事に5升の酒を1升ずつ飲み干してみせる。賭けに負けた尾張屋が「どうしてそんなに酒が飲めるのか。さっき出て行った時に何かしたのか」と尋ねると、久蔵は「酒を5升も飲んだことがなかったので、表の酒屋で試しに5升飲んできた」
* 『[[親子酒]]』(落語) - 酒好きの親子。息子の酒癖の悪いのを憂えた父親の提案でが二人で禁酒するが、ある日、息子が出かけている間に父親は酒を飲み始めてしまう。そこに帰ってきた息子も取引先に勧められるままに酒を飲んで酔っている。口論の挙句、父親は女房に向かって「婆さん、こいつの顔はさっきからいくつにも見える。こんな化け物に[[身代]]は渡せない」。息子も負けずに「俺だって、こんなぐるぐる回る家は要らねぇ」。
* 『[[二番煎じ (落語)|二番煎じ]]』(落語) - 寒い冬の晩、夜回り当番の面々が番小屋で鍋をつつきながら禁止されている酒を飲んでいると突然[[三廻|廻り方同心]](侍)がそこを訪れる。あわてた一同は鍋と酒を隠そうとするが酒だけは隠し切れない。とっさに「これは煎じ薬でございます。」というと「そうか、身共(わたし)もここのところ[[風邪]]気味じゃ。町人の薬を吟味したい」といって酒を口にする。「うむ、結構な薬だ。もう一杯ふるまわんか」と、結局同心は鍋も見つけ、酒も鍋もすっかり平らげてしまう。「もう煎じ薬がございません」と告げると「しからば、いま町内をひと回りしてまいる。二番を煎じておけ」。
* 『[[芝浜]]』(落語) - 魚屋の勝は大の酒好きで仕事もろくにしない。ある朝、女房に叩き起こされて渋々市場に向かったが、浜辺で大金の入った革の財布を見つけ、飛んで帰って大宴会を開く。翌日、[[二日酔い]]で起き出した勝は女房に、こんなに呑んで支払いをどうする気かと言われる。拾った財布の金のことを訴えるが女房は、そんなものは知らない、金欲しさのあまりに酔って夢を見たんだろと言う。勝は愕然とするがついに納得。つくづく反省して断酒を決意し死にもの狂いで働き始める。三年後の[[大晦日]]の晩。今では表通りに店を構え、生活も安定するまでになった。妻は「話しがある」と、三年前の財布の件について真相を勝に話した。十[[両#通貨単位|両]]盗めば首が飛ぶといわれた当時、拾った金の横領が露見すれば死刑だ。勝が酔い潰れている間に[[長屋]]の大家と相談し、大家は財布を役所に届け、妻は勝の泥酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言いくるめることにした。落とし主が現れなかったために役所から下げ渡された財布を見せられた勝は、道を踏み外しそうになった自分を立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。妻は懸命に頑張ってきた夫をねぎらい、久し振りに酒でもと勧める。はじめは拒んだ勝だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」といったんは杯を口元に運ぶが、やはり飲まずに杯を置いてしまう。「どうしたの?」「よそう。また夢になるといけねえ」
=== 芸能 ===
* 一般社団法人ミス日本酒の主宰する[[ミス・コンテスト]]「[[ミス日本酒]]」では、伝統ある日本酒と日本文化の魅力を日本国内外に発信する美意識と知性を身につけたアンバサダーを選出する目的で毎年コンテストを開催している。選出されたMiss SAKEは、国内外のイベント等にて日本酒のピーアール活動を行っている。
== 日本酒に関する参考本 ==
* 『日本酒』 [[岩波新書]] [[秋山裕一]]著 [[岩波書店]]発行 1994年
* 『日本酒ルネッサンス』 [[中公新書]] [[小泉武夫]]著 [[中央公論社]]発行 1992年
* 『日本の酒づくり』 [[中公新書]] [[篠田次郎]]著 [[中央公論社]]発行 1992年
* 『美酒の条件』 [[山本祥一郎]]著 [[時事通信社]]発行 1992年
* 『日本酒ベストセレクション392』 [[小檜山俊]]監修 [[日本文芸社]]発行 1994年
* 『[[地酒]]の本』 CBSソニー出版編集部編集 [[ソニーマガジンズ]]発行 1990年
* 『全国蔵元一覧表』[[日本酒造組合中央会]]発行 2003年
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite web|和書
| url = http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/hyoji/seishu/kokuji891122/03.htm
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20110524005924/nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/hyoji/seishu/kokuji891122/03.htm
| title = 清酒の製法品質表示基準を定める件 (国税庁告示第8号)
| publisher = 国税庁
| date = 2006-4
| accessdate = 2012-2-13
| archivedate = 2011-5-24
| deadlinkdate = 2020年9月21日
| ref = NTAspec }}
== 関連項目 ==
* [[日本酒の歴史]]
* [[坂口謹一郎]]
* [[醸造業]] / [[酒蔵]] / [[蔵元]] / [[酒屋]] / [[造り酒屋]] / [[杜氏]] / [[蔵人]] / [[杜氏組合]]
* [[清酒酵母]] / [[協会系酵母]] / [[蔵つき酵母]]
* [[酒米]] / [[山田錦]] / [[精米歩合]] / [[酒粕]]
* [[醸造酒]] / [[並行複発酵]] / [[完全醗酵]] / [[健全醗酵]]
* [[どぶろく]] / [[どぶろく裁判]]
* [[活性酒]](活性清酒/活性) / [[発泡日本酒]] / [[貴醸酒]] / [[低濃度酒]] / [[低精白酒]]
* [[利き酒]]({{JIS2004フォント|唎}}き酒) / [[全国新酒鑑評会]]
* [[煎り酒]](いりざけ) / [[練酒]](ねりざけ) / [[甘酒]] / [[燗酒]] / [[白酒 (日本酒)|白酒]]
* [[濁り酒]] / [[霞み酒]](かすみざけ)
* [[三倍増醸清酒]](または三増酒) / [[合成清酒]] / [[混和酒]] / [[柱焼酎]]
* [[灰持酒]]
* [[灘五郷]] / [[灘五郷#江戸時代前期まで|灘目三郷]] / [[摂泉十二郷]]
* [[焼酎]] / [[泡盛]] / [[ワイン]] / [[ウイスキー]] / [[ビール]]
* [[みりん|味醂]] / [[味噌]] / [[醤油]]
* [[日本醸造協会]] / [[酒類総合研究所]]
* [[日本酒の銘柄一覧]] / [[日本酒メーカー一覧]]
* [[ライスワイン]]
* [[カクテルの一覧#日本酒・ベース]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks}}
* [https://www.nrib.go.jp 独立行政法人酒類総合研究所]
* [http://www.jozo.or.jp 財団法人日本醸造協会]
* [https://www.japansake.or.jp 日本の酒] - 日本酒造組合中央会
* [https://www.nta.go.jp/taxes/sake/hyoji/seishu/gaiyo/02.htm 「清酒の製法品質表示基準」の概要] - [[国税庁]]
* [https://www.ssi-w.com 日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会]
{{アルコール飲料}}
{{地理的表示}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にほんしゆ}}
[[Category:米の飲料]]
[[Category:日本酒|*]]
[[Category:レトロニム]]
[[Category:日本の地理的表示保護制度登録産品]]
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2003-08-29T13:01:27Z
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2023-12-26T14:06:24Z
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日光線
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日光線(にっこうせん)は、栃木県宇都宮市の宇都宮駅と同県日光市の日光駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。
日光線は、栃木県の県庁所在地である宇都宮と国際観光都市の日光を結ぶ近郊路線で、全区間単線である。主な利用者層は、日光市今市・鹿沼方面から宇都宮市内に向かう通勤・通学客であり、平日朝ラッシュ時上りの宇都宮行列車は特に鹿沼駅 - 宇都宮駅間で前述の利用者により激しく混雑する。2010年3月13日のダイヤ改正では、2両編成で運用されていた列車の一部が4両編成以上の運用に変更された。2013年3月16日のダイヤ改正で205系600番台の導入に伴い全列車が4両編成に統一されたが、2022年3月12日のダイヤ改正でE131系600番台が導入され、3両編成となった。そのため、以前より混雑がさらに激しくなり、4月の新学期から学生などの大量の積み残しが発生し、問題となっている。
歴史的には、明治時代の開国とともにその景観の美しさから世界的に知られていた日光にはお雇い外国人を中心とする西洋圏の富裕層が頻繁に訪れるようになり、当線開業間もない1893年には、日本を訪れたオーストリア皇室のフランツ・フェルディナント大公が日本鉄道(当線開業時の運営会社)の上野駅 - 日光駅間を利用して日光を訪問している。
鹿沼市以西は東武日光線と並走しており、かつては東京 - 日光間の観光輸送において東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・東武日光線と国鉄東北本線(現在のJR宇都宮線)・日光線は競合関係にあった。当線は宇都宮駅でスイッチバックを行う必要があり、また全線単線であるのに対して、東武日光線は浅草方からそのまま直通できる配線であり、全線にわたって複線である。 故に、現在は東武鉄道が優位に立っており、直通特急「日光」「(スペーシア)きぬがわ」の設定などでJR東日本と東武鉄道は協調関係にある。
2009年3月からは、日光線開業120周年記念事業の一環として、列車外装に西洋風レトロ調エンブレムを施し、列車内の案内表示には英文・中文・ハングルなどを併記しているほか、駅設備も洋風レトロ調に合わせた装飾とし、英文案内や案内スタッフの配置などにより乗り換え案内を充実させ、日本国外からの観光客を意識した設備が整えられている。2022年3月に導入されたE131系600番台においては、宇都宮線と車両が共通運用であるため、107系や205系600番台に施されていたエンブレムは廃されているものの、レトロ調のデザインを継承した茶色と黄色をデザインに取り入れているほか、車内自動放送や車内案内表示装置による多言語の運行案内を行っておりさらに設備を充実させている。
2008年3月15日から、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。
全線が大宮支社の管轄である。
各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。
全線にわたり長大な橋梁・トンネルは無く、日光に向かうに連れ標高を増す。鹿沼駅 - 日光駅間では最大25‰の勾配も存在する。
宇都宮駅を出た日光線列車は、しばらく宇都宮線(東北本線)と並行して進み、田川を渡ったところで西側にカーブして宇都宮線の線路と分かれ、宇都宮グランドホテルを周回し宝木台地の切り通しを割って西に進む。この宇都宮駅 - 田川橋梁間は宇都宮線の複線の西側に日光線の単線が敷設されているため、宇都宮線上り列車と併走することがある。東京街道をくぐって台上に登ると南側車窓にSUBARU(旧・富士重工業)宇都宮製作所の工場群が広がる。太平洋戦争中に中島飛行機の戦闘機(陸軍四式戦闘機「疾風」)生産ラインとして創業し、戦後は2002年(平成14年)までディーゼル気動車を中心に鉄道車両の生産も行っていたが、その後は宇宙・航空事業ならびに風力発電事業に集約している。SUBARUに隣接する市営宮原球場を見ながら進んで東武宇都宮線の高架をくぐると、県立宇都宮高校のグラウンド端部を走って栃木街道の高架下を進み鶴田駅に着く。
かつて東武大谷線の軌道線と軽便線が当駅から北に向かって伸び大谷石輸送を行っていたが、戦後の1964年(昭和39年)までにすべて廃止された。その後しばらくは田園風景が広がっていたが、近年は急速に新興住宅地として開発が進んでいる。鶴田駅を出ると住宅地の中を進むが宮環を越えると田園地帯に入り、北側車窓進行方向の林の上に日光連山が見えてくる。反対側車窓の丘上には国指定史跡の根古谷台遺跡があり、うつのみや遺跡の広場として公園整備されている。列車は姿川を渡って丘陵地の合間をカーブしながら進み、楡木街道の陸橋をくぐって切通を抜けると、車窓北側の見通しが開け日光連山の山容が大きく広がる。武子川を渡って鹿沼市に入るとすぐ東北道をくぐる。鹿沼市木工団地の北側を通り、鹿沼市東部の住宅街を抜けて右に大きくカーブを切り、鹿沼市街に入ると間もなく鹿沼駅に着く。
鹿沼駅のホームは2面3線だが3番線はバリアフリー化工事に伴い廃止された。駅標の路線カラーは緑色となっている。鹿沼市市街地にはJR鹿沼駅と東武鉄道の新鹿沼駅があるが、JR鹿沼駅が市街地東部の黒川左岸台地上にあるのに対し、新鹿沼駅はJR鹿沼駅の西方約3 kmの黒川対岸にあり、周辺は旧日光例幣使街道(壬生通り)鹿沼宿である。当初、鹿沼駅は旧市内に作られる計画であったが、一部の反対により現在の位置に決定した。鹿沼駅を出ると切通しを下って武子川沿いの平地部に抜け、やがて上り坂の切通しを登って台上に上がり林の中を走行する。時折林間に材木工場や農家を、また東側車窓には古賀志山を見ながら進んで文挟駅に着く。
文挟駅のホームは2面3線だったが、3番線は未使用である。また旅客列車が列車交換を行うことが多くなっている。また当線の西側に日光例幣使街道が並走し、道沿いには鬱蒼とした日光杉並木が続く。文挟駅を出るとすぐ西側に大谷石の石蔵が見える。この淡い黄緑色を呈する大谷石の石蔵や家塀は宇都宮周辺で広く見られるが、鉄筋コンクリートが普及する前は、大谷石が鉄道駅ホーム等の構造物として関東各地で広く利用された。東京周辺の古い駅ホームでは大谷石のホーム土台を広く見ることができる。列車は築堤に出て車窓両側に文挟の住宅地を見ながら進み、家並みが途切れると再び林の中を進み右にカーブして道路をくぐると再び西側車窓に日光連山が見えてくる。そして右側に道路が並走し左にカーブを切りながら進むと間もなく下野大沢駅に着く。
駅は2面3線だが3番線は柵が取り付けられ未使用となっている。進行方向東側の車窓に高原山を見ながら下野大沢駅を出る。東側を併走していた道路と一旦分かれ、林の向こうに住宅地を見ながら再び東側に道路が並走する。間もなく日光宇都宮道路、そして東武日光線の下をくぐり平地に出ると農地が広がる。西側に東原中学校を見ながら左にカーブを切ると間もなく日光市市役所の最寄駅である今市駅に着く。
今市駅もかつては2面3線だったが、現在は改札ホームの線路は撤去されている。東武鉄道の下今市駅とは700m程離れている。今市は栃木県内有数の蕎麦処であり、今市市時代から蕎麦の町として町おこししている。今市駅から下今市駅にかけての通り沿いにも数件の蕎麦屋がある。今市駅を出た列車は、前方に大きく聳える日光連山に向かって一気に勾配を上って行く。右側車窓にはまず手前に赤薙・女峰の鋭鋒とその左奥に大真名子・小真名子が、また左側車窓には男体山が、それぞれ見える。右側に日光杉並木を見ながら日光街道(国道119号)と暫く並走し、緩やかに右にカーブを切って街道を跨ぎ東武日光線が右側に接近して来て、旧日光市街に入ると間もなく日光線の終着駅である日光駅に着く。
日光駅もかつては2面3線だったが一線は撤去され、2021年5月現在は2面2線となっている。日光の玄関口としては東武鉄道の東武日光駅に大きく水をあけられているが、大正元年竣工の駅舎には一等待合室や貴賓室があり、往時の賑わいが偲ばれる。駅前からは世界遺産の日光二社一寺経由で、中禅寺湖・日光湯元温泉方面、霧降高原・大笹牧場方面の各方面へ向かう路線バスや、これらの観光地や鬼怒川温泉を周遊する定期観光バスが発着する。
1時間あたり1 - 2本程度の普通列車のほか、朝夕の通勤・通学時間帯のみ宇都宮駅 - 鹿沼駅間の区間列車が設定されている。朝6時台の1本は宇都宮線(東北本線)小金井発の直通列車となっている。
また、びゅうコースター風っこやリゾートやまどりを使った臨時列車や、クルーズトレイン「TRAIN SUITE 四季島」の乗り入れもある。
2022年3月12日以降はすべての列車がE131系600番台による3両編成での運転であり、ワンマン運転が行われている。107系が使用されていた2013年3月15日までは全28往復中、半数にあたる14往復が4両編成で、始発や終電と混雑時間帯の4往復が6両編成で、宇都宮駅 - 鹿沼駅間の区間運転列車4往復を含む10往復が2両編成で運行されていた。2013年3月16日から2022年3月11日までは205系600番台が使用され、全列車が4両編成で運転されていた。車両のドアは一年を通じて「半自動扱い」となっている。
修学旅行シーズンには東京都・神奈川県・埼玉県方面からの修学旅行列車が、ほぼ毎日運転される。車両には主にE257系5000・5500番台(大宮総合車両センター所属)が充当されている。以前は、185系(大宮総合車両センター所属)や183系・189系(田町車両センターまたは幕張車両センター所属)、更に以前は155系・165系・167系(田町電車区所属)が充当されていた。 かつては東京方面と日光を結ぶ主要経路として優等列車が頻繁に運行されており、現在も修学旅行列車や団体臨時列車といった長編成の列車が乗り入れて来るため、全駅に行き違い施設があり、適したホーム有効長が確保されている。
日光線で定期運用されている車両は以下のとおり。
かつて日光線で定期運用されていた車両は以下のとおり。
日光線の開通以前、東京から日光へは、4時間かけて汽車でまず宇都宮駅まで行き、宇都宮から更に人力車で5時間を要した。日光への鉄道を計画したのは日光鉄道会社で、日本鉄道がその計画を引き継いで建設した。宇都宮 - 今市間は当初、徳次郎、大沢を経由する日光街道(現・国道119号)沿線ルートが検討され、続いて駒生、古賀志、文挟を経由する宇都宮街道(現・栃木県道70号宇都宮今市線)沿線ルートに変更されたが、最終的に砥上(後に鶴田)、鹿沼経由のルートが選定された。1890年(明治23年)6月に宇都宮駅 - 今市駅間が開通し、同年8月には日光駅まで全通した。開業間もない1893年(明治26年)には、日本を訪れたオーストリア皇室のフランツ・フェルディナント大公が上野駅 - 日光駅間の日本鉄道を利用して日光を訪問しており、その記録を紀行文として残している。1906年(明治39年)には鉄道国有法により国有化され、その後1909年(明治42年)の線路名称制定により日光線とされた。当時、東京方面と鹿沼・日光方面を結ぶ路線として上野駅 - 日光駅間には現・東北本線経由で毎日5 - 6往復の定期普通列車(1等車連結)が運行されていた。しかし、1929年(昭和4年)に距離的に有利な東武日光線が開業したことにより、以後競合関係となり熾烈な誘客合戦が展開された。1930年(昭和5年)には時間短縮のため、雀宮駅から鶴田駅に短絡する線路の建設が計画されたが、宇都宮商工会議所を中心とする反対運動に押されて断念した。
東武鉄道の浅草駅 - 東武日光駅間135.5 kmに対し、当路線経由での上野駅 - 日光駅間は146.6 kmと距離が長く、宇都宮駅での折り返しが必要である国鉄は、1956年(昭和31年)に上野駅 - 日光駅間でキハ44800形気動車による準急「日光」の運転を開始し、上野駅 - 日光駅間の所要時間を約2時間に短縮した。その後始発着駅を東京駅に延長、さらに1959年(昭和34年)には全線を電化の上、日光形と呼ばれた特急並みの設備を持つ157系電車を投入し、東京駅 - 日光駅間の所要時間を2時間以内に短縮した。一時期は伊東駅と日光駅を東京駅経由で直通する準急「湘南日光」が人気を博した。また同じ157系電車を使用して新宿駅 - 日光駅間を結ぶ毎日運転の季節列車「中禅寺」も運行され、その間合運用で日光駅 - 黒磯駅間に快速列車も運行されるなど、当時の日光線は優等列車が多数運行されていた。一方、東武鉄道は1960年(昭和35年)に1720系「デラックスロマンスカー」を投入してこれに対抗。1969年(昭和44年)に国鉄は急行「日光」を157系電車から165系電車に置き換えたが、観光旅客輸送としては東武優勢となり、1982年(昭和57年)の東北新幹線開業に伴って急行「日光」は廃止された。その後は上野駅発着列車や黒磯駅発着列車など東北本線と直通運転していた普通列車も削減され、最終的にJR日光線と東北本線の直通運転は県都・宇都宮と鹿沼・今市・日光方面を結ぶ地域輸送に特化されることとなり、使用車両も115系電車や165系電車といったクロスシート車主体の運用から全車ロングシートの通勤形107系電車に切り替えられた(競争については、優等列車沿革も参照)。
また、沿線の宇都宮市陽南(宇都宮駅 - 鶴田駅間)には、日本の気動車メーカーの一つであった富士重工業(現・SUBARU)の宇都宮製作所がある。気動車をはじめ日本国内外向けの多様な車両が製作され、鶴田駅からユーザーに発送されていたが、富士重工業の鉄道車両事業からの撤退に伴い、2002年(平成14年)に鉄道車両輸送は廃止された。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、文挟駅のみである。
かつては、鶴田駅 - 鹿沼駅間に新駅を設置する計画があったが、廃止されている。栃木県経済同友会は2017年にまとめた『トチギの未来夢計画』の中で、鶴田駅 - 鹿沼駅間の新駅のほか、日光線と東武宇都宮線との結節点として富士重工(現・SUBARU)付近への新駅設置を提言している。
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"text": "日光線(にっこうせん)は、栃木県宇都宮市の宇都宮駅と同県日光市の日光駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。",
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"text": "日光線は、栃木県の県庁所在地である宇都宮と国際観光都市の日光を結ぶ近郊路線で、全区間単線である。主な利用者層は、日光市今市・鹿沼方面から宇都宮市内に向かう通勤・通学客であり、平日朝ラッシュ時上りの宇都宮行列車は特に鹿沼駅 - 宇都宮駅間で前述の利用者により激しく混雑する。2010年3月13日のダイヤ改正では、2両編成で運用されていた列車の一部が4両編成以上の運用に変更された。2013年3月16日のダイヤ改正で205系600番台の導入に伴い全列車が4両編成に統一されたが、2022年3月12日のダイヤ改正でE131系600番台が導入され、3両編成となった。そのため、以前より混雑がさらに激しくなり、4月の新学期から学生などの大量の積み残しが発生し、問題となっている。",
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"text": "歴史的には、明治時代の開国とともにその景観の美しさから世界的に知られていた日光にはお雇い外国人を中心とする西洋圏の富裕層が頻繁に訪れるようになり、当線開業間もない1893年には、日本を訪れたオーストリア皇室のフランツ・フェルディナント大公が日本鉄道(当線開業時の運営会社)の上野駅 - 日光駅間を利用して日光を訪問している。",
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"text": "鹿沼市以西は東武日光線と並走しており、かつては東京 - 日光間の観光輸送において東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・東武日光線と国鉄東北本線(現在のJR宇都宮線)・日光線は競合関係にあった。当線は宇都宮駅でスイッチバックを行う必要があり、また全線単線であるのに対して、東武日光線は浅草方からそのまま直通できる配線であり、全線にわたって複線である。 故に、現在は東武鉄道が優位に立っており、直通特急「日光」「(スペーシア)きぬがわ」の設定などでJR東日本と東武鉄道は協調関係にある。",
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"text": "2009年3月からは、日光線開業120周年記念事業の一環として、列車外装に西洋風レトロ調エンブレムを施し、列車内の案内表示には英文・中文・ハングルなどを併記しているほか、駅設備も洋風レトロ調に合わせた装飾とし、英文案内や案内スタッフの配置などにより乗り換え案内を充実させ、日本国外からの観光客を意識した設備が整えられている。2022年3月に導入されたE131系600番台においては、宇都宮線と車両が共通運用であるため、107系や205系600番台に施されていたエンブレムは廃されているものの、レトロ調のデザインを継承した茶色と黄色をデザインに取り入れているほか、車内自動放送や車内案内表示装置による多言語の運行案内を行っておりさらに設備を充実させている。",
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"text": "2008年3月15日から、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。",
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"text": "全線が大宮支社の管轄である。",
"title": "概要"
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"text": "各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。",
"title": "平均通過人員"
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"text": "全線にわたり長大な橋梁・トンネルは無く、日光に向かうに連れ標高を増す。鹿沼駅 - 日光駅間では最大25‰の勾配も存在する。",
"title": "沿線概況"
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"text": "宇都宮駅を出た日光線列車は、しばらく宇都宮線(東北本線)と並行して進み、田川を渡ったところで西側にカーブして宇都宮線の線路と分かれ、宇都宮グランドホテルを周回し宝木台地の切り通しを割って西に進む。この宇都宮駅 - 田川橋梁間は宇都宮線の複線の西側に日光線の単線が敷設されているため、宇都宮線上り列車と併走することがある。東京街道をくぐって台上に登ると南側車窓にSUBARU(旧・富士重工業)宇都宮製作所の工場群が広がる。太平洋戦争中に中島飛行機の戦闘機(陸軍四式戦闘機「疾風」)生産ラインとして創業し、戦後は2002年(平成14年)までディーゼル気動車を中心に鉄道車両の生産も行っていたが、その後は宇宙・航空事業ならびに風力発電事業に集約している。SUBARUに隣接する市営宮原球場を見ながら進んで東武宇都宮線の高架をくぐると、県立宇都宮高校のグラウンド端部を走って栃木街道の高架下を進み鶴田駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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"text": "かつて東武大谷線の軌道線と軽便線が当駅から北に向かって伸び大谷石輸送を行っていたが、戦後の1964年(昭和39年)までにすべて廃止された。その後しばらくは田園風景が広がっていたが、近年は急速に新興住宅地として開発が進んでいる。鶴田駅を出ると住宅地の中を進むが宮環を越えると田園地帯に入り、北側車窓進行方向の林の上に日光連山が見えてくる。反対側車窓の丘上には国指定史跡の根古谷台遺跡があり、うつのみや遺跡の広場として公園整備されている。列車は姿川を渡って丘陵地の合間をカーブしながら進み、楡木街道の陸橋をくぐって切通を抜けると、車窓北側の見通しが開け日光連山の山容が大きく広がる。武子川を渡って鹿沼市に入るとすぐ東北道をくぐる。鹿沼市木工団地の北側を通り、鹿沼市東部の住宅街を抜けて右に大きくカーブを切り、鹿沼市街に入ると間もなく鹿沼駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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"text": "鹿沼駅のホームは2面3線だが3番線はバリアフリー化工事に伴い廃止された。駅標の路線カラーは緑色となっている。鹿沼市市街地にはJR鹿沼駅と東武鉄道の新鹿沼駅があるが、JR鹿沼駅が市街地東部の黒川左岸台地上にあるのに対し、新鹿沼駅はJR鹿沼駅の西方約3 kmの黒川対岸にあり、周辺は旧日光例幣使街道(壬生通り)鹿沼宿である。当初、鹿沼駅は旧市内に作られる計画であったが、一部の反対により現在の位置に決定した。鹿沼駅を出ると切通しを下って武子川沿いの平地部に抜け、やがて上り坂の切通しを登って台上に上がり林の中を走行する。時折林間に材木工場や農家を、また東側車窓には古賀志山を見ながら進んで文挟駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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"text": "文挟駅のホームは2面3線だったが、3番線は未使用である。また旅客列車が列車交換を行うことが多くなっている。また当線の西側に日光例幣使街道が並走し、道沿いには鬱蒼とした日光杉並木が続く。文挟駅を出るとすぐ西側に大谷石の石蔵が見える。この淡い黄緑色を呈する大谷石の石蔵や家塀は宇都宮周辺で広く見られるが、鉄筋コンクリートが普及する前は、大谷石が鉄道駅ホーム等の構造物として関東各地で広く利用された。東京周辺の古い駅ホームでは大谷石のホーム土台を広く見ることができる。列車は築堤に出て車窓両側に文挟の住宅地を見ながら進み、家並みが途切れると再び林の中を進み右にカーブして道路をくぐると再び西側車窓に日光連山が見えてくる。そして右側に道路が並走し左にカーブを切りながら進むと間もなく下野大沢駅に着く。",
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"text": "駅は2面3線だが3番線は柵が取り付けられ未使用となっている。進行方向東側の車窓に高原山を見ながら下野大沢駅を出る。東側を併走していた道路と一旦分かれ、林の向こうに住宅地を見ながら再び東側に道路が並走する。間もなく日光宇都宮道路、そして東武日光線の下をくぐり平地に出ると農地が広がる。西側に東原中学校を見ながら左にカーブを切ると間もなく日光市市役所の最寄駅である今市駅に着く。",
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"text": "今市駅もかつては2面3線だったが、現在は改札ホームの線路は撤去されている。東武鉄道の下今市駅とは700m程離れている。今市は栃木県内有数の蕎麦処であり、今市市時代から蕎麦の町として町おこししている。今市駅から下今市駅にかけての通り沿いにも数件の蕎麦屋がある。今市駅を出た列車は、前方に大きく聳える日光連山に向かって一気に勾配を上って行く。右側車窓にはまず手前に赤薙・女峰の鋭鋒とその左奥に大真名子・小真名子が、また左側車窓には男体山が、それぞれ見える。右側に日光杉並木を見ながら日光街道(国道119号)と暫く並走し、緩やかに右にカーブを切って街道を跨ぎ東武日光線が右側に接近して来て、旧日光市街に入ると間もなく日光線の終着駅である日光駅に着く。",
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"text": "日光駅もかつては2面3線だったが一線は撤去され、2021年5月現在は2面2線となっている。日光の玄関口としては東武鉄道の東武日光駅に大きく水をあけられているが、大正元年竣工の駅舎には一等待合室や貴賓室があり、往時の賑わいが偲ばれる。駅前からは世界遺産の日光二社一寺経由で、中禅寺湖・日光湯元温泉方面、霧降高原・大笹牧場方面の各方面へ向かう路線バスや、これらの観光地や鬼怒川温泉を周遊する定期観光バスが発着する。",
"title": "沿線概況"
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"text": "1時間あたり1 - 2本程度の普通列車のほか、朝夕の通勤・通学時間帯のみ宇都宮駅 - 鹿沼駅間の区間列車が設定されている。朝6時台の1本は宇都宮線(東北本線)小金井発の直通列車となっている。",
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"text": "修学旅行シーズンには東京都・神奈川県・埼玉県方面からの修学旅行列車が、ほぼ毎日運転される。車両には主にE257系5000・5500番台(大宮総合車両センター所属)が充当されている。以前は、185系(大宮総合車両センター所属)や183系・189系(田町車両センターまたは幕張車両センター所属)、更に以前は155系・165系・167系(田町電車区所属)が充当されていた。 かつては東京方面と日光を結ぶ主要経路として優等列車が頻繁に運行されており、現在も修学旅行列車や団体臨時列車といった長編成の列車が乗り入れて来るため、全駅に行き違い施設があり、適したホーム有効長が確保されている。",
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"text": "東武鉄道の浅草駅 - 東武日光駅間135.5 kmに対し、当路線経由での上野駅 - 日光駅間は146.6 kmと距離が長く、宇都宮駅での折り返しが必要である国鉄は、1956年(昭和31年)に上野駅 - 日光駅間でキハ44800形気動車による準急「日光」の運転を開始し、上野駅 - 日光駅間の所要時間を約2時間に短縮した。その後始発着駅を東京駅に延長、さらに1959年(昭和34年)には全線を電化の上、日光形と呼ばれた特急並みの設備を持つ157系電車を投入し、東京駅 - 日光駅間の所要時間を2時間以内に短縮した。一時期は伊東駅と日光駅を東京駅経由で直通する準急「湘南日光」が人気を博した。また同じ157系電車を使用して新宿駅 - 日光駅間を結ぶ毎日運転の季節列車「中禅寺」も運行され、その間合運用で日光駅 - 黒磯駅間に快速列車も運行されるなど、当時の日光線は優等列車が多数運行されていた。一方、東武鉄道は1960年(昭和35年)に1720系「デラックスロマンスカー」を投入してこれに対抗。1969年(昭和44年)に国鉄は急行「日光」を157系電車から165系電車に置き換えたが、観光旅客輸送としては東武優勢となり、1982年(昭和57年)の東北新幹線開業に伴って急行「日光」は廃止された。その後は上野駅発着列車や黒磯駅発着列車など東北本線と直通運転していた普通列車も削減され、最終的にJR日光線と東北本線の直通運転は県都・宇都宮と鹿沼・今市・日光方面を結ぶ地域輸送に特化されることとなり、使用車両も115系電車や165系電車といったクロスシート車主体の運用から全車ロングシートの通勤形107系電車に切り替えられた(競争については、優等列車沿革も参照)。",
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"text": "かつては、鶴田駅 - 鹿沼駅間に新駅を設置する計画があったが、廃止されている。栃木県経済同友会は2017年にまとめた『トチギの未来夢計画』の中で、鶴田駅 - 鹿沼駅間の新駅のほか、日光線と東武宇都宮線との結節点として富士重工(現・SUBARU)付近への新駅設置を提言している。",
"title": "駅一覧"
}
] |
日光線(にっこうせん)は、栃木県宇都宮市の宇都宮駅と同県日光市の日光駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。
|
{{otheruses|東日本旅客鉄道の日光線|東武鉄道の日光線|東武日光線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 日光線
|路線色=#880022
|画像=Nikko-Line E131-600-TN6.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[男体山]]をバックに走行する[[JR東日本E131系電車|E131系電車]]<br>(2022年3月 [[日光駅]] - [[今市駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[栃木県]][[宇都宮市]]、[[鹿沼市]]、[[日光市]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]])
|起点=[[宇都宮駅]]
|終点=[[日光駅]]
|駅数=7駅
|電報略号 = ニコセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|開業={{start date and age|1890|6|1}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線距離=40.5 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線]]
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
|最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="LRT" />
|路線図=File:JR Nikko Line llinemap.svg
}}
'''日光線'''(にっこうせん)は、[[栃木県]][[宇都宮市]]の[[宇都宮駅]]と同県[[日光市]]の[[日光駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。
== 概要 ==
日光線は、[[栃木県]]の県庁所在地である[[宇都宮市|宇都宮]]と国際観光都市の[[日光市|日光]]を結ぶ近郊路線で、全区間[[単線]]である<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』</ref>。主な利用者層は、日光市今市・[[鹿沼市|鹿沼]]方面から宇都宮市内に向かう通勤・通学客であり、平日朝ラッシュ時上りの宇都宮行列車は特に鹿沼駅 - 宇都宮駅間で前述の利用者により激しく混雑する。[[2010年]][[3月13日]]のダイヤ改正では、2両編成で運用されていた列車の一部が4両編成以上の運用に変更された<ref>『普通列車編成両数表』Vol.25 2009年12月1日現在([[交通新聞社]])</ref><ref>『普通列車編成両数表』Vol.26 2010年3月13日現在(交通新聞社)</ref>。[[2013年]][[3月16日]]のダイヤ改正で[[国鉄205系電車|205系600番台]]の導入に伴い全列車が4両編成に統一されたが、[[2022年]][[3月12日]]のダイヤ改正で[[JR東日本E131系電車|E131系600番台]]が導入され、3両編成となった。そのため、以前より混雑がさらに激しくなり、4月の新学期から学生などの大量の積み残しが発生し、問題となっている<ref>{{Cite news|title=ダイヤ改正で「満員電車」に JR日光線、乗客不満の声 JR「全く乗れないほどではない」【動画】|newspaper=下野新聞|date=2022-04-16|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/577869|access-date=2022-04-18}}</ref>。
歴史的には、[[明治]]時代の[[開国#日本の開国|開国]]とともにその景観の美しさから世界的に知られていた日光には[[お雇い外国人]]を中心とする西洋圏の富裕層が頻繁に訪れるようになり、当線開業間もない[[1893年]]には、日本を訪れた[[オーストリア]][[皇室]]の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]が[[日本鉄道]](当線開業時の運営会社)の[[上野駅]] - 日光駅間を利用して日光を訪問している。
鹿沼市以西は[[東武日光線]]と並走しており、かつては東京 - 日光間の観光輸送において[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)・東武日光線と[[日本国有鉄道|国鉄]][[東北本線]](現在のJR[[宇都宮線]])・日光線は競合関係にあった。当線は宇都宮駅で[[スイッチバック]]を行う必要があり、また全線単線であるのに対して、東武日光線は浅草方からそのまま直通できる配線であり、全線にわたって複線である。
故に、現在は[[東武鉄道]]が優位に立っており、直通特急[[日光 (列車)|「日光」「(スペーシア)きぬがわ」]]の設定などでJR東日本と東武鉄道は協調関係にある。
[[2009年]]3月からは、日光線開業120周年記念事業の一環として、列車外装に西洋風レトロ調エンブレムを施し、列車内の案内表示には英文・[[中国語|中文]]・[[ハングル]]などを併記しているほか、駅設備も洋風レトロ調に合わせた装飾とし、英文案内や案内スタッフの配置などにより乗り換え案内を充実させ、日本国外からの観光客を意識した設備が整えられている<ref>[http://rail.hobidas.com/blog/natori09/archives/2009/03/post-984.html JR日光線が変身中。] - 編集長敬白アーカイブ 2009年3月25日</ref>。[[2022年]]3月に導入されたE131系600番台においては、宇都宮線と車両が共通運用であるため、107系や205系600番台に施されていたエンブレムは廃されているものの、レトロ調のデザインを継承した茶色と黄色をデザインに取り入れているほか、車内自動放送や[[車内案内表示装置]]による多言語の運行案内を行っておりさらに設備を充実させている<ref name="press20210617">{{Cite press release|和書|title=宇都宮線・日光線に新型車両を投入します|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2021-06-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20210617_o05.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210617081308/https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20210617_o05.pdf|archivedate=2021-06-17}}</ref>。
[[2008年]][[3月15日]]から、[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」<ref name="jreast20071214" />、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている<ref name="jreast20071214">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf 2008年3月 Suica がますます便利になります]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2007年12月21日</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):40.5 km <ref name="youran" />
*管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]] <ref name="youran" />
* 駅数:7(起終点駅含む)
** 日光線所属駅に限定する場合、東北本線所属の宇都宮駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref> が除外され、6駅となる。
* 複線区間:なし(全線[[単線]])<ref name="youran" />
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]])<ref name="youran" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* [[運転指令所]]:宇都宮[[列車集中制御装置|CTC]]センター
** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):宇都宮駅・日光駅
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/safe/pdf/report2012/report2012_09.pdf 「安全報告書2012」]}} - 東日本旅客鉄道</ref>
* 最高速度:95 km/h<ref name="LRT">{{Cite web |和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/078/150824shiryou4.pdf |title=芳賀・宇都宮LRTの車両について |website=宇都宮市 |format=PDF |page=5 |accessdate=2023-12-10 }}</ref>
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]:全線(東京近郊区間)
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:全線([[Suica]]首都圏エリア)
全線が[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]の管轄である<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/recruit/pdf/tokyo_areamap.pdf 東京エリアの各支社] - 東日本旅客鉄道}}</ref>。
== 平均通過人員 ==
各年度の[[輸送密度|平均通過人員]](人/日)は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況(2009〜2013年度)|accessdate=2019-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004015258/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf|archivedate=2019-10-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況(2014〜2018年度)|accessdate=2019-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190707014015/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf|archivedate=2019-07-07}}</ref>。
* 宇都宮駅 - 鹿沼駅間
** 1987年度:7,824人/日
** 2013年度:8,080人/日
** 2014年度:7,921人/日
** 2015年度:8,231人/日
** 2016年度:8,265人/日
** 2017年度:8,513人/日
** 2018年度:8,562人/日
* 鹿沼駅 - 日光駅間
** 1987年度:4,854人/日
** 2013年度:3,860人/日
** 2014年度:3,836人/日
** 2015年度:4,131人/日
** 2016年度:4,054人/日
** 2017年度:4,298人/日
** 2018年度:4,301人/日
== 沿線概況 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#880022}}
{{BS-table}}
{{BS||||[[東北本線]]([[宇都宮線]])|}}
{{BS3|BHFq|O1=HUBa|STR+r||0.0|[[宇都宮駅]]||}}
{{BS3|BHFq|O1=HUBe|KRZu|STRq|||[[東北新幹線]]|}}
{{BS3||ABZgl|STRq|||東北本線|}}
{{BS3|STRq|KRZu|STRq|||[[東武鉄道|東武]]:[[東武宇都宮線|宇都宮線]]|}}
{{BS3|uexSTRq|emABZg+r||||東武:''[[東武大谷線|大谷軌道線]]''|}}
{{BS3|exKBSTaq|eABZg+r||||''[[日本専売公社|専売公社]]''|}}
{{BS|BHF|4.8|[[鶴田駅]]||}}
{{BS|ekABZg3|||東武:''[[東武大谷線|大谷線]]''|}}
{{BS5|exHSTq|exkABZq1|eKRZu+xk4|exSTRq||||''新鶴田信号場''|}}
{{BS|eBHF|5.8|''[[砥上駅]]''|-1902|}}
{{BS3||STR|STR+l|||東武:[[東武日光線|日光線]]|}}
{{BS3||STR|HST|||[[新鹿沼駅]]|}}
{{BS3||BHF|STR|14.3|[[鹿沼駅]]||}}
{{BS3||STR|HST|||[[北鹿沼駅]]|}}
{{BS3||BHF|LSTR|22.4|[[文挟駅]]||}}
{{BS3||BHF|LSTR|28.2|[[下野大沢駅]]||}}
{{BS5|STR+l|STRq|KRZu|STRr|||||}}
{{BS5|HST||STR|||||[[下今市駅]]|}}
{{BS5|eABZg+l|exKBHFeq|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|||33.9|[[今市駅]]|''新今市駅''|}}
{{BS5|ABZgr||STR|||||東武:[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]|}}
{{BS5|HST||STR|||||[[上今市駅]]|}}
{{BS5|STR|uexSTR+l|emABZgr|uexSTR+l|uexSTR+r||||}}
{{BS5|STR|uexSTR|BHF|O3=HUBaq|uexBHF|O4=HUBeq|uexSTR|40.5|[[日光駅]]||}}
{{BS5|emABZgl|uexABZql|emKRZu|uexABZg+r|uexSTRg|||''[[日光駅|日光駅前駅]]''|}}
{{BS5|STR||STR|uexBHF|O4=HUBa|uexSTR|||''[[東武日光駅|東武駅前駅]]''|}}
{{BS5|STR||STR|uexSTRl|O4=HUB|uexABZg+r||||}}
{{BS5|STRl|STRq|KRZu|KBHFeq|O4=HUBe|uexSTR|||[[東武日光駅]]<ref name="chizuchou-p18">今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』新潮社、2008年、p.18</ref>|}}<!-- 東武日光駅の位置というより引上げ線の終端位置が要出典?-->
{{BS5|||ENDEe||uexSTR||||}}
{{BS5|||||uexSTR|||東武:''[[東武日光軌道線|日光軌道線]]''|}}
|}
|}
全線にわたり長大な橋梁・トンネルは無く、日光に向かうに連れ標高を増す。鹿沼駅 - 日光駅間では最大25‰の勾配も存在する。
[[宇都宮駅]]を出た日光線列車は、しばらく[[宇都宮線]]([[東北本線]])と並行して進み、[[田川 (利根川水系)|田川]]を渡ったところで西側にカーブして宇都宮線の線路と分かれ、[[宇都宮グランドホテル]]を周回し[[宝木台地]]の切り通しを割って西に進む。この宇都宮駅 - 田川橋梁間は宇都宮線の複線の西側に日光線の単線が敷設されているため、宇都宮線上り列車と併走することがある。[[東京街道 (宇都宮市)|東京街道]]をくぐって台上に登ると南側車窓に[[SUBARU]](旧・富士重工業)宇都宮製作所の工場群が広がる。[[太平洋戦争]]中に[[中島飛行機]]の戦闘機([[四式戦闘機|陸軍四式戦闘機「疾風」]])生産ラインとして創業し、戦後は[[2002年]]([[平成]]14年)まで[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]][[気動車]]を中心に鉄道車両の生産も行っていたが、その後は宇宙・航空事業ならびに風力発電事業に集約している。SUBARUに隣接する[[宇都宮市宮原運動公園野球場|市営宮原球場]]を見ながら進んで[[東武宇都宮線]]の高架をくぐると、[[栃木県立宇都宮高等学校|県立宇都宮高校]]のグラウンド端部を走って[[栃木県道2号宇都宮栃木線|栃木街道]]の高架下を進み[[鶴田駅]]に着く。
かつて[[東武大谷線]]の[[東武大谷線#大谷軌道線|軌道線]]と[[東武大谷線#大谷軽便線|軽便線]]が当駅から北に向かって伸び[[大谷石]]輸送を行っていたが、戦後の[[1964年]]([[昭和]]39年)までにすべて廃止された。その後しばらくは田園風景が広がっていたが、近年は急速に新興住宅地として開発が進んでいる。鶴田駅を出ると住宅地の中を進むが[[宇都宮環状道路|宮環]]を越えると田園地帯に入り、北側車窓進行方向の林の上に[[日光連山]]が見えてくる。反対側車窓の丘上には国指定史跡の[[根古谷台遺跡]]があり、[[根古谷台遺跡|うつのみや遺跡の広場]]として公園整備されている。列車は[[姿川]]を渡って丘陵地の合間をカーブしながら進み、[[栃木県道6号宇都宮楡木線|楡木街道]]の陸橋をくぐって切通を抜けると、車窓北側の見通しが開け日光連山の山容が大きく広がる。[[武子川]]を渡って[[鹿沼市]]に入るとすぐ[[東北自動車道|東北道]]をくぐる。鹿沼市木工団地の北側を通り、鹿沼市東部の住宅街を抜けて右に大きくカーブを切り、鹿沼市街に入ると間もなく[[鹿沼駅]]に着く。
鹿沼駅のホームは2面3線だが3番線はバリアフリー化工事に伴い廃止された。駅標の路線カラーは緑色となっている。鹿沼市市街地にはJR鹿沼駅と[[東武鉄道]]の[[新鹿沼駅]]があるが、JR鹿沼駅が市街地東部の[[黒川 (利根川水系)|黒川]]左岸台地上にあるのに対し、新鹿沼駅はJR鹿沼駅の西方約3 kmの黒川対岸にあり、周辺は旧[[日光例幣使街道]]([[壬生通り]])[[鹿沼宿]]である。当初、鹿沼駅は旧市内に作られる計画であったが、{{要出典範囲|一部の反対により|date=2015年6月}}現在の位置に決定した。鹿沼駅を出ると切通しを下って武子川沿いの平地部に抜け、やがて上り坂の切通しを登って台上に上がり林の中を走行する。時折林間に材木工場や農家を、また東側車窓には[[古賀志山]]を見ながら進んで[[文挟駅]]に着く。
文挟駅のホームは2面3線だったが、3番線は未使用である。また旅客列車が[[列車交換]]を行うことが多くなっている。また当線の西側に日光例幣使街道が並走し、道沿いには鬱蒼とした[[日光杉並木]]が続く。文挟駅を出るとすぐ西側に大谷石の石蔵が見える。この淡い黄緑色を呈する大谷石の石蔵や家塀は宇都宮周辺で広く見られるが、[[鉄筋コンクリート]]が普及する前は、大谷石が[[鉄道駅]][[プラットホーム|ホーム]]等の構造物として[[関東地方|関東各地]]で広く利用された。東京周辺の古い駅ホームでは大谷石のホーム土台を広く見ることができる<ref group="注釈">大谷石を使用した駅構造物は、JRの[[東神奈川駅]]・[[藤沢駅]]、[[京浜急行電鉄]]各駅、東武鉄道各駅などに見られる。</ref>。列車は築堤に出て車窓両側に文挟の住宅地を見ながら進み、家並みが途切れると再び林の中を進み右にカーブして道路をくぐると再び西側車窓に日光連山が見えてくる。そして右側に道路が並走し左にカーブを切りながら進むと間もなく[[下野大沢駅]]に着く。
駅は2面3線だが3番線は柵が取り付けられ未使用となっている。進行方向東側の車窓に[[高原山]]を見ながら下野大沢駅を出る。東側を併走していた道路と一旦分かれ、林の向こうに住宅地を見ながら再び東側に道路が並走する。間もなく[[日光宇都宮道路]]、そして[[東武日光線]]の下をくぐり平地に出ると農地が広がる。西側に東原中学校を見ながら左にカーブを切ると間もなく[[日光市]]市役所の最寄駅である[[今市駅]]に着く。
今市駅もかつては2面3線だったが、現在は改札ホームの線路は撤去されている。東武鉄道の下今市駅とは700m程離れている。今市は栃木県内有数の[[蕎麦]]処であり、[[今市市]]時代から[[蕎麦#栃木県|蕎麦の町]]として[[町おこし]]している。今市駅から[[下今市駅]]にかけての通り沿いにも数件の蕎麦屋がある。今市駅を出た列車は、前方に大きく聳える日光連山に向かって一気に勾配を上って行く。右側車窓にはまず手前に[[赤薙山|赤薙]]・[[女峰山|女峰]]の鋭鋒とその左奥に[[大真名子山|大真名子]]・[[小真名子山|小真名子]]が、また左側車窓には[[男体山]]が、それぞれ見える。右側に日光杉並木を見ながら[[日光街道]]([[国道119号]])と暫く並走し、緩やかに右にカーブを切って街道を跨ぎ東武日光線が右側に接近して来て、旧日光市街に入ると間もなく日光線の終着駅である[[日光駅]]に着く。
日光駅もかつては2面3線だったが一線は撤去され、2021年5月現在は2面2線となっている。日光の玄関口としては東武鉄道の東武日光駅に大きく水をあけられているが、大正元年竣工の駅舎には一等待合室や貴賓室があり、往時の賑わいが偲ばれる。駅前からは[[世界遺産]]の[[日光の社寺|日光二社一寺]]経由で、[[中禅寺湖]]・[[日光湯元温泉]]方面、[[霧降高原]]・[[大笹牧場]]方面の各方面へ向かう[[路線バス]]や、これらの観光地や[[鬼怒川温泉]]を周遊する定期観光バスが発着する。
== 運行形態 ==
[[ファイル:風っ子号 2014-2-22.jpg|サムネイル|ディーゼル機関車DD51と電気機関車EF65のプッシュ-プルによる風っ子号]]
1時間あたり1 - 2本程度の普通列車のほか、朝夕の通勤・通学時間帯のみ宇都宮駅 - 鹿沼駅間の区間列車が設定されている。朝6時台の1本は[[宇都宮線]]([[東北本線]])[[小金井駅|小金井]]発の直通列車となっている<ref name="JRjikokuhyou201506">『JR時刻表』2015年6月号 交通新聞社</ref>。
また、[[びゅうコースター風っこ]]や[[リゾートやまどり]]を使った臨時列車や<ref name="JRjikokuhyou201506" />、クルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]]」の乗り入れもある。
2022年3月12日以降はすべての列車が[[JR東日本E131系電車#600番台(宇都宮線・日光線用)|E131系600番台]]による3両編成での運転であり、[[ワンマン運転]]が行われている。[[JR東日本107系電車|107系]]が使用されていた2013年3月15日までは全28往復中、半数にあたる14往復が4両編成で、始発や終電と混雑時間帯の4往復が6両編成で、宇都宮駅 - 鹿沼駅間の区間運転列車4往復を含む10往復が2両編成で運行されていた<ref>『普通列車編成両数表』Vol.28 2011.3.12現在(交通新聞社)</ref>。2013年3月16日から2022年3月11日までは[[国鉄205系電車#日光線・宇都宮線向け(600番台)|205系600番台]]が使用され、全列車が4両編成で運転されていた。車両のドアは一年を通じて「[[半自動ドア|半自動扱い]]」となっている{{Efn|ただし2020年3月以降は新型コロナウイルス感染防止対策として行う換気の目的で自動開閉扱いとなっている。2022年3月12日のダイヤ改正以降は運転士が行なっている。2022年3月11日までは車掌が行なっていた。}}{{Efn|ただし宇都宮駅、鹿沼駅(一部の電車に限る)日光駅では到着後、一旦すべてのドアが開くようになっている。}}。
[[修学旅行]]シーズンには[[東京都]]・[[神奈川県]]・[[埼玉県]]方面からの[[修学旅行列車]]が、ほぼ毎日運転される。車両には主に[[JR東日本E257系電車|E257系5000・5500番台]]([[大宮総合車両センター]]所属)が充当されている。以前は、[[国鉄185系電車|185系]](大宮総合車両センター所属)や[[国鉄183系電車|183系・189系]]([[田町車両センター]]または[[幕張車両センター]]所属)、更に以前は[[国鉄153系電車|155系]]・[[国鉄165系電車|165系・167系]]([[田町車両センター|田町電車区]]所属)が充当されていた<ref>『[[鉄道ダイヤ情報]]』各巻 交通新聞社</ref>。
かつては東京方面と日光を結ぶ主要経路として優等列車が頻繁に運行されており、現在も修学旅行列車や[[団体専用列車|団体臨時列車]]といった長編成の列車が乗り入れて来るため、全駅に[[列車交換|行き違い施設]]があり、適したホーム[[有効長]]が確保されている。
== 使用車両 ==
<!-- 不定期列車の個別車種列挙は(当線区の場合、特に)情報量が膨大になり冗長化を招くので自粛願いたい。詳しくはノートページを参照 -->
日光線で定期運用されている車両は以下のとおり。
* [[JR東日本E131系電車|E131系電車]]
** 2022年3月12日のダイヤ改正から、「いろは」を含む全ての205系を置き換える形で運用開始<ref name="press20210617"/><ref name="press20211217" />。3両編成15本(宇都宮線と共通運用)が導入される<ref name="press20210617">{{Cite press release|和書|title=宇都宮線・日光線に新型車両を投入します|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2021-06-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20210617_o05.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210617081308/https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20210617_o05.pdf|archivedate=2021-06-17}}</ref>。
<gallery>
Series-E131-600 TN6.jpg|E131系600番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
かつて日光線で定期運用されていた車両は以下のとおり<ref name="RF201109">『鉄道ファン』2011年9月号 交友社 p.120「日光参詣への峠道-その1-」</ref>。
* [[国鉄キハ10系気動車#キハ17形(キハ45000形)|キハ45000形気動車]]
** 日光線に投入されたはじめての気動車[[快速列車|快速]][[日光 (列車)#準急「日光」・「湘南日光」の登場と花形157系|「日光」]](上野駅 - 日光駅間)で充当された。
* [[国鉄キハ55系気動車|キハ44800形気動車「日光形」]]
** キハ45000形気動車に続いて上野駅 - 日光駅間に投入された気動車。この投入から所要時間が大幅に短縮され、「日光」は[[準急行列車|準急]]として運行されるようになった。
* [[国鉄31系電車|31系電車]]
* [[国鉄40系電車|40系電車]]
* [[国鉄70系電車|70系電車]]
* [[国鉄80系電車|80系電車]]
* [[国鉄115系電車|115系電車]]
* [[国鉄157系電車|157系電車「日光形」]]
** 日光線の電化に伴い、準急「日光」に充当されていたキハ44800形を置き換えた。当時の花形列車だった。準急「湘南日光」(伊東駅 - 東京駅 - 日光駅間)、同「中禅寺」(新宿駅 - 日光駅間)、日光駅 - 黒磯駅間の快速列車にも充当された。
* [[国鉄165系電車|165系電車]]
** 157系電車を置き換えて登場した。基本的に急行「日光」として使用されたが、その[[間合い運用|間合運用]]で普通列車にも使用された。
* [[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形1000番台|キハ40形1000番台]]気動車
** [[烏山線]]用の車両。烏山線の間合い運用で宇都宮駅 - 鹿沼駅間の区間列車に使用された。
* [[JR東日本107系電車|107系0番台電車]](小山車両センター所属)
** 1988年に運行開始<ref name="sougou-nenpyou-p147">池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.147</ref>。2013年運行終了<ref name="raifjp20130316">[http://railf.jp/news/2013/03/16/142400.html 日光線用107系が営業運転を終了] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2013年3月16日</ref>。107系0番台は予備車が不足しているため、代走として[[JR東日本107系電車|107系100番台]]([[高崎車両センター]]所属)や[[国鉄115系電車|115系]](高崎車両センター所属)が運用されることもあった<ref>[http://railf.jp/news/2011/11/03/055900.html 115系が日光線・小山車両センターへ] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年11月3日</ref>。
*[[国鉄205系電車#日光線・宇都宮線向け(600番台)|205系600番台]]([[小山車両センター]]所属)
** [[2013年]][[3月16日]]より<ref name="raifjp20130317">[http://railf.jp/news/2013/03/17/163000.html 205系600番台が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2013年3月17日</ref>、107系の置き換え用として、[[京葉車両センター]]から4両編成4本が改造の上で移籍した<ref name="hobidas20120927">[http://rail.hobidas.com/news/info/article/133900.html 日光線、宇都宮線に205系リニューアル車投入] - 鉄道ホビダス 鉄道ニュース 最新鉄道情報、2012年9月27日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.city.saitama.jp/www/contents/1355903818534/files/201303daiyakaisei.pdf 2013年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道大宮支社 2012年12月21日</ref>。宇都宮側の先頭車(4号車)に[[車椅子スペース]]と[[列車便所|トイレ]]を設置した<ref name="hobidas20120927" />。予備編成を持たないため検査時や故障で運用できない編成が生じた場合、同形式の宇都宮線運用車(一部、元[[川越車両センター]]所属車)で代走する。
** このうち1編成(Y3編成、元ケヨ4編成)は、[[2018年]][[4月1日]] - [[6月30日]]に開催された[[デスティネーションキャンペーン|「本物の出会い 栃木」デスティネーションキャンペーン]]に合わせ、観光車両「[[いろは (鉄道車両)|いろは]]」に再改造され<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/20171116_o03.pdf 観光のお客さまに快適にご利用いただける車両を日光線に投入します!]}} - 東日本旅客鉄道大宮支社 2017年11月16日</ref>、2018年4月1日より運行を開始した<ref name="mynavi20180401">[https://news.mynavi.jp/article/20180401-iroha/ JR東日本205系改造「いろは」日光線でデビュー! 宇都宮駅で出発式] - マイナビニュース、2018年4月1日</ref>。
<gallery>
file:Jr-e-N107-0.jpg|107系0番台電車(旧塗色)
file:JRE107NikkoLineNewColor.jpg|107系0番台電車(新塗装)
file:Jr_kanuma_115.jpg|日光線内で107系の代走をした115系電車
file:Jr107_0_100.jpg|107系0番台と100番台で連結した運用も行われた
JRE-Series205-600_Y10.jpg|205系600番台
Series205-600 Iroha.jpg|right|観光車両「いろは」
</gallery>
== 歴史 ==
[[ファイル:HOT7000DCintsuruta.jpg|thumb|right|200px|鶴田駅で見られた新造気動車の輸送]]
日光線の開通以前、[[東京]]から日光へは、4時間かけて[[蒸気機関車|汽車]]でまず宇都宮駅まで行き、宇都宮から更に[[人力車]]で5時間を要した<ref>{{Cite book|和書|author=ホーム,チャールズ|authorlink=チャールズ・ホーム|title=チャールズ・ホームの日本旅行記―日本美術愛好家の見た明治|publisher=[[彩流社]]|editor=トニ・ヒューバマン、ソニア・アシュモア、菅靖子|translator=菅靖子・門田園子|date=2011-03-31|pages=87-88|isbn=978-4-7791-1607-0|ref={{sfnref|ホーム|2011}}}}</ref>。日光への鉄道を計画したのは日光鉄道会社で<ref name="zensenzeneki-p140">宮脇俊三・原田勝正『全線全駅鉄道の旅4 関東JR私鉄2100キロ』小学館、1991年、p.14</ref>、[[日本鉄道]]がその計画を引き継いで建設した<ref name="zensenzeneki-p140" />。宇都宮 - 今市間は当初、[[徳次郎町|徳次郎]]、[[大沢村 (栃木県)|大沢]]を経由する[[日光街道]](現・[[国道119号]])沿線ルートが検討され、続いて[[駒生 (宇都宮市)|駒生]]、[[古賀志町|古賀志]]、[[文挟駅|文挟]]を経由する宇都宮街道(現・[[栃木県道70号宇都宮今市線]])沿線ルートに変更されたが、最終的に砥上(後に[[鶴田駅|鶴田]])、[[鹿沼駅|鹿沼]]経由のルートが選定された<ref>{{Cite book|和書|editor=宇都宮市|title=改訂 うつのみやの歴史|publisher=[[宇都宮市役所|宇都宮市]]|date=1992-03-31|page=364|ncid=BN07977757}}</ref>。[[1890年]]([[明治]]23年)6月に宇都宮駅 - 今市駅間が開通し、同年8月には日光駅まで全通した<ref name="zensenzeneki-p140" />。開業間もない[[1893年]](明治26年)には、日本を訪れた[[オーストリア]][[皇室]]の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]が上野駅 - 日光駅間の日本鉄道を利用して日光を訪問しており、その記録を紀行文として残している<ref>Franz Ferdinand, Erzherzog von Osterreich-Este: ''Tagebuch meiner Reise um die Erde. 1892-1893.2'' 2 Bde. Wien: Alfred Holder 1895/96(日本語翻訳版あり。『オーストリア皇太子の日本日記-明治二十六年夏の記録-』 フランツ・フェルディナント著、[[安藤勉]]訳(2005年)[[講談社]])</ref>。[[1906年]](明治39年)には[[鉄道国有法]]により国有化され、その後[[1909年]](明治42年)の線路名称制定により'''日光線'''とされた<ref name="kokuji54">[{{NDLDC|788068/158}} 「鉄道院告示第54号」『法令全書』第122冊]、内閣官報局、明治42年、pp.1813 - 1815(国立国会図書館デジタルコレクションより)</ref>。当時、東京方面と鹿沼・日光方面を結ぶ路線として上野駅 - 日光駅間には現・東北本線経由で毎日5 - 6往復の定期普通列車(1等車連結)が運行されていた。しかし、[[1929年]]([[昭和]]4年)に距離的に有利な[[東武日光線]]が開業したことにより、以後競合関係となり熾烈な誘客合戦が展開された。[[1930年]](昭和5年)には時間短縮のため、[[雀宮駅]]から鶴田駅に短絡する線路の建設が計画されたが、宇都宮商工会議所を中心とする反対運動に押されて断念した<ref>{{Cite book|和書|editor=宇都宮市|title=改訂 うつのみやの歴史|publisher=宇都宮市|date=1992-03-31|pages=364-365|ncid=BN07977757}}</ref>。
[[東武鉄道]]の[[浅草駅]] - [[東武日光駅]]間135.5 kmに対し、当路線経由での上野駅 - 日光駅間は146.6 kmと距離が長く、宇都宮駅での折り返しが必要である国鉄は、[[1956年]](昭和31年)に上野駅 - 日光駅間で[[国鉄キハ55系気動車|キハ44800形]]気動車による準急「[[日光 (列車)|日光]]」の運転を開始し、上野駅 - 日光駅間の所要時間を約2時間に短縮した。その後始発着駅を[[東京駅]]に延長、さらに[[1959年]](昭和34年)には全線を電化の上、日光形と呼ばれた特急並みの設備を持つ[[国鉄157系電車|157系]]電車を投入し、東京駅 - 日光駅間の所要時間を2時間以内に短縮した。一時期は[[伊東駅]]と日光駅を東京駅経由で直通する準急「[[日光 (列車)|湘南日光]]」が人気を博した。また同じ157系電車を使用して新宿駅 - 日光駅間を結ぶ毎日運転の季節列車「[[日光 (列車)|中禅寺]]」も運行され、その[[間合い運用|間合運用]]で日光駅 - 黒磯駅間に快速列車も運行されるなど、当時の日光線は優等列車が多数運行されていた。一方、東武鉄道は[[1960年]](昭和35年)に[[東武1720系電車|1720系]]「デラックスロマンスカー」を投入してこれに対抗。[[1969年]](昭和44年)に国鉄は急行「日光」を157系電車から[[国鉄165系電車|165系]]電車に置き換えたが、観光旅客輸送としては東武優勢となり、[[1982年]](昭和57年)の[[東北新幹線]]開業に伴って急行「日光」は廃止された。その後は上野駅発着列車や黒磯駅発着列車など東北本線と直通運転していた普通列車も削減され、最終的にJR日光線と東北本線の直通運転は県都・宇都宮と鹿沼・今市・日光方面を結ぶ地域輸送に特化されることとなり、使用車両も[[国鉄115系電車|115系]]電車や165系電車といったクロスシート車主体の運用から全車ロングシートの通勤形[[JR東日本107系電車|107系]]電車に切り替えられた(競争については、[[日光 (列車)#国鉄・JR東日本日光線優等列車沿革|優等列車沿革]]も参照)<ref name="RF201109" />。
また、沿線の宇都宮市陽南(宇都宮駅 - [[鶴田駅]]間)には、日本の[[気動車]]メーカーの一つであった富士重工業(現・[[SUBARU]])の宇都宮製作所がある。気動車をはじめ日本国内外向けの多様な車両が製作され、鶴田駅からユーザーに発送されていたが、富士重工業の鉄道車両事業からの撤退に伴い、[[2002年]]([[平成]]14年)に[[車両輸送#鉄道車両の輸送|鉄道車両輸送]]は廃止された。
=== 年表 ===
* [[1890年]](明治23年)
** [[6月1日]]:'''日本鉄道''' 宇都宮駅 - 今市駅間が開業。砥上駅・[[鹿沼駅]]・[[文挟駅]]・[[今市駅]]が開業<ref name="youran" /><ref name="zensenzeneki-p140" /><ref name="chizuchou">今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』新潮社、2008年、p.27</ref>。
** [[8月1日]]:今市駅 - 日光駅間が開業し全通。日光駅が開業<ref name="youran" /><ref name="zensenzeneki-p140" /><ref name="chizuchou" />。
* [[1902年]](明治35年)[[9月13日]]:[[鶴田駅]]が開業。砥上駅が廃止<ref name="chizuchou" />。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が国に買収され国有化、官有鉄道となる<ref name="zensenzeneki-p140" /><ref name="chizuchou" />。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、宇都宮駅 - 日光駅間を'''日光線'''とする<ref name="kokuji54" />。
* [[1929年]](昭和4年)11月1日:下野大沢駅が開業<ref name="chizuchou" />。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:[[決戦非常措置要綱]]に基づき、日光線内の列車の[[二等車]]が廃止される<ref>国鉄一等車、寝台車は全廃(昭和19年3月25日 朝日新聞 『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p784 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)7月11日:集中豪雨により鶴田駅-鹿沼駅間で路床80mが流出。下り列車が現場をさしかかるも急停車で難を逃れる<ref>「日光線冠水で不通」『日本経済新聞』昭和25年7月12日</ref>。
* [[1959年]](昭和34年)[[9月22日]]:全線電化<ref name="zensenzeneki-p140" />。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月3日]]:[[列車集中制御装置]] (CTC) 導入<ref>{{Cite news |和書|title=CTC制御所が開所 日光線の営業新体制ととのう |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1970-03-17 |page=2 }}</ref>。
* [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:[[上越新幹線]]開業に伴う[[1982年11月15日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]により急行「日光」が廃止。これにより当線を走る定期列車としての優等列車は消滅した。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:全線の貨物営業廃止。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道が継承。[[日本貨物鉄道]]が宇都宮 - 鶴田間 (4.8 km) の第二種鉄道事業者となる。
* [[1988年]](昭和63年)[[6月1日]]:107系電車運行開始<ref name="sougou-nenpyou-p147" />。
* [[1990年]](平成2年)[[12月1日]]:下野大沢駅の呼称を「しもずけおおさわ」から「しもつけおおさわ」に変更<ref name="chizuchou" />。
* [[2003年]](平成15年)4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(宇都宮駅 - 鶴田駅間 4.8 km)廃止。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:全線が東京近郊区間になり、[[Suica]]が導入<ref name="jreast20071214" />。
* [[2009年]](平成21年)3月:日光線全線開通120周年記念事業の一環として、107系電車の塗装が西洋風レトロ調に変更。また、それと同時に、各駅の駅名標や[[下野大沢駅]]など一部の駅がリニューアルされる。
* [[2012年]](平成24年)8月:2代目の日光駅舎が100周年を迎え、同年10月にそれを記念した団体臨時列車「湘南日光号」が小田原駅 - 日光駅間で運行される。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月15日]]:107系電車運行終了<ref name="raifjp20130316" />。
** [[3月16日]]:205系600番台電車運行開始<ref name="raifjp20130317" />。
* [[2018年]](平成30年)[[4月1日]]:観光車両「[[いろは (鉄道車両)|いろは]]」運行開始<ref name="mynavi20180401" />。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:全列車をE131系電車によるワンマン運転に統一。また「いろは」に代わって観光需要に対応するための臨時快速列車(途中停車駅:鹿沼駅・今市駅)を設定する<ref name="press20211217">{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道株式会社 大宮支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20211217_o01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064108/https://www.jreast.co.jp/press/2021/omiya/20211217_o01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全列車普通列車(全駅に停車)
* [[列車交換]]は全駅で可能。
* 全駅[[栃木県]]内に所在。
* 接続路線の括弧内の番号は[[駅ナンバリング|停留場番号]]
* 駅の[[発車メロディ]]は宇都宮駅と日光駅を除き、[[櫻井音楽工房|テイチク]]製の「シンコペーション」と「See you again」である(宇都宮駅は「カリフォルニアシャワー」、日光駅は発車ベル)。なお、2022年春のダイヤ改正以降の定期旅客列車は全てワンマン運転のため、車掌が乗務する臨時列車などを除いては車両のスピーカーから流れる発車メロディとアナウンス、あるいはアナウンスのみで発車する。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #880022;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
<!--!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #880022;"|臨時快速 -->
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #880022;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #880022;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #880022;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #880022;"|累計
|-
|[[宇都宮駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
<!--|style="text-align:center;"|●-->
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|17px|■]] [[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・{{Color|#F68B1E|■}}[[東北本線]]([[宇都宮線]]<ref group="*">[[湘南新宿ライン]]・[[上野東京ライン]]を含む。</ref>)・{{Color|#339966|■}}[[烏山線]]<ref group="*">路線の起点は宝積寺駅であるが、大半の列車が東北本線(宇都宮線)を経由して宇都宮駅まで乗り入れる。</ref><br />[[宇都宮ライトレール]]:{{Color|#ffd700|■}}[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]([[宇都宮駅#宇都宮ライトレール|宇都宮駅東口停留場]]: 01)
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[宇都宮市]]
|-
|[[鶴田駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|4.8
<!--| -->
|
|-
|[[鹿沼駅]]
|style="text-align:right;"|9.5
|style="text-align:right;"|14.3
<!--|style="text-align:center;"|●-->
|
|[[鹿沼市]]
|-
|[[文挟駅]]
|style="text-align:right;"|8.1
|style="text-align:right;"|22.4
<!--| -->
|
|rowspan="4"|[[日光市]]
|-
|[[下野大沢駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|28.2
<!--| -->
|
|-
|[[今市駅]]
|style="text-align:right;"|5.7
|style="text-align:right;"|33.9
<!--|style="text-align:center;"|●-->
|
|-
|[[日光駅]]
|style="text-align:right;"|6.6
|style="text-align:right;"|40.5
<!--|style="text-align:center;"|●-->
|
|}
{{Reflist|group="*"}}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-09}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、[[文挟駅]]のみである。
かつては、鶴田駅 - 鹿沼駅間に新駅を設置する計画があったが、廃止されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kanuma.tochigi.jp/manage/contents/upload/58250aab24d96.pdf |title=第2回鹿沼市総合計画審議会議事録 |access-date=2023-03-10 |publisher=鹿沼市}}</ref>。栃木県経済同友会は2017年にまとめた『トチギの未来夢計画』の中で、鶴田駅 - 鹿沼駅間の新駅のほか、日光線と東武宇都宮線との結節点として富士重工(現・SUBARU)付近への新駅設置を提言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.douyuukai.jp/pdf/topics/topics49_doc02.pdf#page=15 |title=トチギの未来夢計画 |format=PDF |access-date=2023-03-10 |publisher=栃木県経済同友会}}</ref>。
=== 過去の接続路線 ===
* 鶴田駅:[[東武大谷線]]<ref>今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』新潮社、2008年、p.19</ref>
* 日光駅:[[東武日光軌道線]] - 1968年2月25日廃止<ref>和久田康雄『私鉄史ハンドブック』[[電気車研究会]] 1993年 p.56</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nikkō Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=54=1=%93%fa%8c%f5%90%fc 検索結果(日光線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道大宮支社}}
{{デフォルトソート:につこう}}
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日光線|*]]
[[Category:日本鉄道|路につこう]]
[[Category:栃木県の交通]]
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2003-08-29T13:24:08Z
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2023-12-26T04:58:07Z
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毛利衛
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毛利 衛(もうり まもる、1948年(昭和23年)1月29日 - )は、日本の宇宙飛行士、科学者。科学者としての専門は真空表面科学、核融合炉壁材料、宇宙実験。化学者でもある。
北海道出身。宇宙航空研究開発機構 (JAXA) 宇宙環境利用システム本部有人宇宙活動推進室長、京都大学大学院特任教授、東京工業大学大学院総合理工学研究科連携教授、公益財団法人日本宇宙少年団団長。
アラバマ大学客員教授、筑波大学客員教授、日本科学未来館館長なども歴任した。
《この節の主な出典:》
北海道余市郡余市町に生まれる。幼い頃はカマキリと水泳が大の苦手で、風呂で溺れそうになった経験を持つ。
1961年、13歳の時にソビエト連邦のボストーク1号が人類初の有人宇宙飛行に成功した際、飛行士のユーリイ・ガガーリンが発した「地球は青かった」という言葉に、宇宙に対する憧れを抱く。1963年、余市町立東中学校を卒業して、北海道立余市高等学校に進む。同年7月20日に起きた日食(北海道の一部が皆既帯に入った)を見て、科学者を志望した。1966年に高校を卒業後、北海道大学理学部に進学する。1970年に理学部化学科を卒業、引き続き大学院化学専攻で研究をおこない、1972年に修士号を取得した。
南オーストラリア州立フリンダース大学大学院理学研究科化学専攻に留学し、1975年に修士号、1976年に博士号をそれぞれ取得した。
1980年に母校の北海道大学工学部講師に就任し、1982年に助教授 (原子工学科高真空工学講座) に昇格する。この間、本業の研究以外に当時問題となり始めた札幌市などの春先の粉塵についての研究を、研究室の教授である山科俊郎や名古屋大学の雨宮進らと行い、この粉塵が自動車のスパイクタイヤによって路面のアスファルトが削られたものであることなどを明らかにした。
1983年12月、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構)が「1988年初め頃の飛行」を前提に、スペースシャトルに搭乗する初の日本人宇宙飛行士を募集する(募集期間は翌年1月まで)。毛利はこれに応募、1985年に公表された最終候補者7人の中では最年長(当時37歳)であった。同年8月7日、向井千秋、土井隆雄とともに飛行士に選ばれる。応募者総数は531人だった。事業団の所属となり、日米で訓練を受ける。
1986年1月28日に母が死去し、北海道の実家に戻ろうとした矢先にチャレンジャー号爆発事故のニュースに接して、帰省を延期の上で事業団の記者会見に出席した。
1987年より、アラバマ大学ハンツビル校微小重力実験研究センターにて研究に従事する。オーストラリアでの留学生寮生活の経験から対人コミュニケーションの重要性を認識し、NASAでは技術者たちだけではなく、事務員たちとも親しく接していた。事務員たちの心証が良かったことが評価され、搭乗運用技術者に選抜されたことに繋がったという。
前記の通り、日本人宇宙飛行士によるスペースシャトル搭乗は当初1988年初頭が予定されていたが、チャレンジャー号爆発事故の影響で発射は中断、再開後も日本人搭乗ミッションは延期された。日本人によるスペースシャトルミッションの最初の搭乗者が毛利に正式に決定したのは1990年4月24日だった(その時点でのミッションは1991年6月の予定だった)。しかしそれに先だってTBSが記者をソビエト連邦のソユーズ宇宙船に乗せることが報じられていた。1990年12月にTBS記者の秋山豊寛がソビエト連邦のソユーズTM-11で初の日本人宇宙飛行士となる。アメリカでの訓練中にこの報に接した毛利は「非常に刺激になった。私たちも日本とアメリカの最先端の技術を駆使した実験を計画しており、ぜひ成功させたい。」とコメントした。
最終的に毛利の搭乗ミッションは1992年にずれ込み、9月12日から9月20日までスペースシャトルエンデバーのミッション(STS-47)にペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗し、秋山に次ぐ二人目の日本人宇宙飛行士となった(正確には当時の毛利は搭乗科学技術者)。また、日本国籍保有者として初めてスペースシャトル計画に加わった宇宙飛行士である。帰還直後、テレビカメラの前で「宇宙からは国境線は見えなかった」とコメントした。同年10月、宇宙開発事業団宇宙環境利用システム本部宇宙環境利用推進部有人宇宙活動推進室に異動する。
1998年、NASAのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)の資格を得る。
2000年2月12日から2月23日には、エンデバーで2度目となる宇宙飛行(STS-99)に参加。ミッションスペシャリストとして、レーダーによる地球の地形の精密な観測 (SRTM) を行った。これ以降、現在まで宇宙飛行歴はない。
2000年10月、日本科学未来館館長に就任する。
2003年、沖縄沖にて、しんかい6500に搭乗した。同年、世界初の南極での皆既日食観測に参加しNHKで生中継を行った。
2004年(平成16年)5月15日に行われたタウンミーティングにおいて、習熟度別授業に対して肯定的な意見を述べた。
2007年1月には、南極・昭和基地を訪問した。このとき、“宇宙には数分でたどり着けるが、昭和基地には何日もかかる。(南極は)宇宙よりも遠い”場所である旨を語っている。
2021年3月末、日本科学未来館館長を退任。
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毛利 衛は、日本の宇宙飛行士、科学者。科学者としての専門は真空表面科学、核融合炉壁材料、宇宙実験。化学者でもある。 北海道出身。宇宙航空研究開発機構 (JAXA) 宇宙環境利用システム本部有人宇宙活動推進室長、京都大学大学院特任教授、東京工業大学大学院総合理工学研究科連携教授、公益財団法人日本宇宙少年団団長。 アラバマ大学客員教授、筑波大学客員教授、日本科学未来館館長なども歴任した。
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{{Infobox Astronaut
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'''毛利 衛'''(もうり まもる、[[1948年]]([[昭和]]23年)[[1月29日]] - )は、日本の[[宇宙飛行士]]、[[科学者]]。科学者としての専門は真空表面科学、核融合炉壁材料、宇宙実験。[[化学者]]でもある。
[[北海道]]出身。[[宇宙航空研究開発機構]] (JAXA) 宇宙環境利用システム本部有人宇宙活動推進室長、[[京都大学]][[大学院]]特任教授<ref>京都大学野生動物研究センター http://www.wrc.kyoto-u.ac.jp/members.html</ref>、[[東京工業大学]][[大学院]]総合理工学研究科連携教授、[[公益財団法人]][[日本宇宙少年団]]団長。
[[アラバマ大学]]客員教授、[[筑波大学]]客員教授、[[日本科学未来館]]館長なども歴任した。
== 来歴 ==
《この節の主な出典:<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.jaxa.jp/shuttle/flight/sts99/mohri_profile.html/|title=毛利衛 宇宙飛行士プロフィール/|date=2000-02-15|publisher=[[宇宙航空研究開発機構]]|accessdate=2022-01-11|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091228055859/https://iss.jaxa.jp/shuttle/flight/sts99/mohri_profile.html|archivedate=2009-12-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jst.go.jp/pr/announce/20000926/beppu3.html|title=館長 毛利衛氏の略歴/|date=2000-09-26|publisher=[[科学技術振興機構|科学技術振興事業団]]|accessdate=2022-01-11|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171122023041/https://www.jst.go.jp/pr/announce/20000926/beppu3.html|archivedate=2017-11-22}}</ref>》
=== 研究者となるまで ===
[[北海道]][[余市郡]][[余市町]]に生まれる。幼い頃は[[カマキリ]]と[[水泳]]が大の苦手で、[[風呂]]で溺れそうになった経験を持つ。
1961年、13歳の時に[[ソビエト連邦]]の[[ボストーク1号]]が人類初の有人宇宙飛行に成功した際、飛行士の[[ユーリイ・ガガーリン]]が発した「地球は青かった」という言葉に、宇宙に対する憧れを抱く<ref name="van">{{Cite news|url=http://www.v-shinpo.com/special/402-2011-10-14-20-42-36|title=毛利衛さん宇宙特別授業「宇宙からの贈りもの」|newspaper=バンクーバー新報|date=2011-10-14|accessdate=2019-09-01}}</ref>。1963年、余市町立東中学校を卒業して、[[北海道余市高等学校|北海道立余市高等学校]]に進む。[[1963年7月20日の日食|同年7月20日に起きた日食]](北海道の一部が皆既帯に入った)を見て、科学者を志望した<ref name="van"/>。[[1966年]]に高校を卒業後、[[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|北海道大学理学部]]に進学する。1970年に理学部化学科を卒業、引き続き大学院化学専攻で研究をおこない、[[1972年]]に修士号を取得した。
[[南オーストラリア州]]立[[フリンダース大学]]大学院理学研究科化学専攻に留学し、1975年に修士号、1976年に博士号をそれぞれ取得した。
[[1980年]]に母校の北海道大学[[工学部]]講師に就任し、[[1982年]]に助教授 (原子工学科高真空工学講座) に昇格する。この間、本業の研究以外に当時問題となり始めた札幌市などの春先の粉塵についての研究を、研究室の教授である山科俊郎や[[名古屋大学]]の雨宮進らと行い、この粉塵が自動車の[[スパイクタイヤ]]によって路面の[[アスファルト]]が削られたものであることなどを明らかにした<ref>{{Cite journal|last=毛利|author=|first=衛|last2=雨宮|first2=進|last3=前田|first3=滋|last4=福田|first4=伸|last5=加藤|first5=茂樹|last6=佐竹|first6=徹|last7=橋場|first7=正男|last8=山科|first8=俊郎|year=|date=1983-05-31|title=スパイクタイヤ車粉塵の精密分析(第二報)|url=https://hdl.handle.net/2115/41790|journal=北海道大學工學部研究報告|volume=114|page=|pages=47–56|issn=0385-602X}}</ref><ref>{{Cite book|title=車粉物語|date=|year=2007|publisher=須田製版|last=山科|first=俊郎|editor=車粉をなくす市民の会/『車粉物語』発刊委員会|isbn=9784915746390}}</ref>。
=== 宇宙飛行士時代 ===
[[File:STS-47 crew.jpg|thumb|[[STS-47]](1992年1月6日)]]
[[File:STS-47 crew in SLJ make notes during shift changeover.jpg|thumb|[[STS-47]](1992年9月)]]
[[File:Astronaut-Mamoru-Mohri-STS-99-Shuttle-14 Feb-2000.png|thumb|毛利衛、[[スペースシャトル・エンデバー]]、[[STS-99]](2000年2月14日)]]
[[ファイル:Mamoru Mori and Yasuo Fukuda 20080608.jpg|thumb|200px|[[2008年]][[6月8日]]、[[日本科学未来館]]を訪れた[[内閣総理大臣]][[福田康夫]](右)を案内]]
[[1983年]]12月、[[宇宙開発事業団]](現・[[宇宙航空研究開発機構]])が「1988年初め頃の飛行」を前提に、[[スペースシャトル]]に搭乗する初の日本人宇宙飛行士を募集する(募集期間は翌年1月まで)<ref>「宇宙飛行士志願200人超す」[[朝日新聞]]1984年1月28日朝刊3頁</ref>。毛利はこれに応募、1985年に公表された最終候補者7人の中では最年長(当時37歳)であった<ref>「スペースシャトルの日本人宇宙飛行士候補 NASAの現地入り」朝日新聞1985年6月22日夕刊13頁</ref>。同年8月7日、[[向井千秋]]、[[土井隆雄]]とともに飛行士に選ばれる<ref>「初の日本人宇宙飛行士3人決まる」朝日新聞1985年8月7日夕刊11頁</ref>。応募者総数は531人だった<ref>朝日新聞1984年4月3日夕刊10頁</ref>。事業団の所属となり、日米で訓練を受ける。
1986年1月28日に母が死去し、北海道の実家に戻ろうとした矢先に[[チャレンジャー号爆発事故]]のニュースに接して、帰省を延期の上で事業団の記者会見に出席した<ref>朝日新聞1986年1月29日夕刊11頁</ref>。
1987年より、[[アラバマ大学ハンツビル校]]微小重力実験研究センターにて研究に従事する<ref>{{Cite web|和書|title=毛利衛:JAXAの宇宙飛行士 - 宇宙ステーション・きぼう広報・情報センター - JAXA|url=https://humans-in-space.jaxa.jp/space-job/astronaut/mohri-mamoru/|website=iss.jaxa.jp|accessdate=2019-03-31}}</ref>。オーストラリアでの留学生寮生活の経験から対人コミュニケーションの重要性を認識し、NASAでは技術者たちだけではなく、事務員たちとも親しく接していた。事務員たちの心証が良かったことが評価され、搭乗運用技術者に選抜されたことに繋がったという<ref>[[日本放送協会|NHK]][[ラジオ深夜便]]「わたしの“がむしゃら”時代」、2013年4月9日放送より</ref>{{出典無効|date=2019-09}}。
前記の通り、日本人宇宙飛行士によるスペースシャトル搭乗は当初1988年初頭が予定されていたが、チャレンジャー号爆発事故の影響で発射は中断、再開後も日本人搭乗ミッションは延期された。日本人によるスペースシャトルミッションの最初の搭乗者が毛利に正式に決定したのは[[1990年]]4月24日だった(その時点でのミッションは1991年6月の予定だった)<ref>[[読売新聞]]1990年4月24日夕刊15頁</ref>。しかしそれに先だって[[TBSテレビ|TBS]]が記者をソビエト連邦の[[ソユーズ|ソユーズ宇宙船]]に乗せることが報じられていた。1990年12月にTBS記者の[[秋山豊寛]]がソビエト連邦の[[ソユーズTM-11]]で初の日本人宇宙飛行士となる<ref name="anp901203">「『中年』の快挙に弾む歓声 秋山豊寛さん、ソ連のソユーズで軌道へ」朝日新聞1990年12月3日朝刊31頁</ref>。アメリカでの訓練中にこの報に接した毛利は「非常に刺激になった。私たちも日本とアメリカの最先端の技術を駆使した実験を計画しており、ぜひ成功させたい。」とコメントした<ref name="anp901203"/>。
最終的に毛利の搭乗ミッションは[[1992年]]にずれ込み、[[9月12日]]から[[9月20日]]までスペースシャトル[[スペースシャトル・エンデバー|エンデバー]]のミッション([[STS-47]])に[[搭乗科学技術者|ペイロードスペシャリスト]](搭乗科学技術者)として搭乗し、秋山に次ぐ二人目の日本人宇宙飛行士となった(正確には当時の毛利は搭乗科学技術者)。また、日本国籍保有者として初めてスペースシャトル計画に加わった宇宙飛行士である。帰還直後、テレビカメラの前で「宇宙からは[[国境]]線は見えなかった」とコメントした。同年10月、宇宙開発事業団宇宙環境利用システム本部宇宙環境利用推進部有人宇宙活動推進室に異動する。
[[1998年]]、NASAの[[搭乗運用技術者|ミッションスペシャリスト]](搭乗運用技術者)の資格を得る。
[[2000年]][[2月12日]]から[[2月23日]]には、エンデバーで2度目となる宇宙飛行([[STS-99]])に参加。ミッションスペシャリストとして、[[レーダー]]による地球の地形の精密な観測 ([[Shuttle Radar Topography Mission|SRTM]]) を行った。これ以降、現在まで宇宙飛行歴はない。
=== 飛行士引退後 ===
2000年10月、[[日本科学未来館]]館長に就任する。
[[2003年]]、沖縄沖にて、[[しんかい6500]]に搭乗した。同年、世界初の南極での皆既日食観測に参加しNHKで生中継を行った。
[[2004年]](平成16年)[[5月15日]]に行われた[[タウンミーティング]]において、[[習熟度別学習|習熟度別授業]]に対して肯定的な意見を述べた<ref>[https://www8.cao.go.jp/town/ehime160515/youshi.html 教育改革タウンミーティング イン 愛媛 議事要旨]</ref>。
[[2007年]][[1月]]には、[[南極]]・[[昭和基地]]を訪問した。このとき、“宇宙には数分でたどり着けるが、昭和基地には何日もかかる。(南極は)[[宇宙よりも遠い場所#概要|宇宙よりも遠い”場所]]である旨を語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/episode/te/Q8M3K7RLY9/|title=「南極〜なぜ人はわざわざ南極を目指す?〜」|work=[[ブラタモリ]]|publisher=NHK|accessdate=2022-01-11|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220101233025/https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/episode/te/Q8M3K7RLY9/|archivedate=2022-01-01}}</ref>。
[[2021年]]3月末、日本科学未来館館長を退任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210326/k10012938671000.html|title=毛利衛さん 20年間務めてきた日本科学未来館の館長を退任へ|work=NHK|date=2021-03-26|accessdate=2021-03-27}}</ref>。
== 親族 ==
*結婚し、[[子供|子]]が3人いる。
*兄4人と姉3人(真ん中の姉は亡くなっていた)の8人兄妹の末っ子。[[物理学者]]の[[毛利信男]]は[[兄|実兄]]。
*両親も共に[[理系]]派。父親の正信は[[獣医師]]([[1979年]]に72歳で死去)。[[新潟県]][[新発田]]出身の母親の友子は、[[1910年]]([[明治]]43年)の[[ハレー彗星]]の日に生まれ、少女時代から心の内から既にハレー彗星に生まれた子だと信じ、[[小樽高等女学校]]を卒業、[[台風]]の影響での農業機械化促進に伴い、夫の代わりに家計を支えるため、町の依頼から[[銭湯]]の経営の仕事を勤めて、ハレー彗星が再来した[[1986年]]の1月28日に76歳でこの世を去る<ref>『[[わたしの宮沢賢治]]第7巻 地球生命の未来圏』p.21-p.23、p.79-p.80</ref>。
== 人物 ==
*[[航空事故]]に遭遇したこともあるが、死ぬのは怖くないという。
*趣味は[[スキー]]、[[テニス]]、[[野球]]、[[卓球]]、[[アイススケート]]、[[スキューバダイビング]]、[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]、エアロビクス、[[フィットネス]]。また、[[アマチュア無線技士]]の資格を持つ。
== 賞歴 ==
*[[内閣総理大臣顕彰]]:1992年[[10月13日]]。([[内閣|授与内閣]] : [[宮澤喜一]]内閣)。受賞理由は「日本人初のスペースシャトル搭乗者」。
*[[日本宇宙生物科学会]]功績賞:[[1995年]]
*[[藤村記念歴程賞]]特別賞:[[2011年]]。「宇宙連詩」プロジェクト(発案・企画者の山中勉(日本宇宙フォーラム主任研究員)と共同受賞)
*[[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ:[[2018年]]<ref>[https://jp.ambafrance.org/article13069 毛利衛氏がレジオン・ドヌール勲章を受章]在日フランス大使館</ref>
*[[イーハトーブ賞]]2021年第31回本賞を受賞。
== 社会的活動 ==
*財団法人[[日本宇宙少年団]]団長 (1987年 - )
*[[文部科学省]][[日本ユネスコ国内委員会]]委員
*[[フジテレビジョン]]番組審議会委員(2005年7月 - ?)
*公益財団法人[[旭硝子財団]]評議員<ref>[https://www.af-info.or.jp/about/officer.html 旭硝子財団について役員・評議員]旭硝子財団</ref>
== 著書 ==
*『毛利衛、ふわっと宇宙へ』 朝日新聞社、1992年、ISBN 4-02-256528-4
*『宇宙実験レポート from U.S.A. スペースシャトルエンデバーの旅』 講談社、1992年、ISBN 4-06-206121-X
*『地球星の詩』 朝日新聞社、1995年、ISBN 4-02-258585-4
*『宇宙の風 50歳からの再挑戦』 朝日新聞社、1998年、ISBN 4-02-261247-9
*『宇宙からの贈りもの』 岩波書店、2001年、ISBN 4-00-430739-2
*『エク!赤道におりた宇宙飛行士』講談社、2001年、ISBN 4-06-210893-3
*『未来をひらく最先端科学技術(全6巻セット)』 岩崎書店、2004年、ISBN 4-265-10318-9
*『夢が現実に!ロボット新時代(第1巻 - 第4巻)』 学習研究社、2005年、ISBN 4-05-152282-2
*『モマの火星探検記』 講談社、2009年、ISBN 978-4-06-378701-6
*『日本人のための科学論』 PHPサイエンス・ワールド新書、2010年、ISBN 978-4-569-79133-3
*『宇宙から学ぶ―ユニバソロジのすすめ』 岩波新書、2011年、ISBN 978-4-00-431346-5
*『[[わたしの宮沢賢治]] 地球生命と未来圏』ソレイユ出版、2021年
== 出演 ==
<!--テレビ、新聞、雑誌などへの出演・掲載等や、特記すべき講演会の情報など 補填してください-->
=== テレビ番組 ===
==== 教養番組 ====
*[[NHKスペシャル]] [[生命40億年はるかな旅|生命 40億年はるかな旅]] (1994 - 1995年) - キャスター
*東日本放送開局25周年記念特別番組『私たちの地球スペシャル・オーロ ラからの手紙~北極と赤道は今』(2000年11月3日)テレビ朝日系列全国ネット。
*4Kアドベンチャー 日本列島 奇跡の海を行く([[BS朝日]]) - スペシャルナビゲーター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs-asahi.co.jp/japan_sea/|title=4Kアドベンチャー 日本列島 奇跡の海を行く|publisher=BS朝日|accessdate=2019-2-26}}</ref>
**第一夜 富士山と立山が育む 豊かな深海 (2018年12月8日)
**第二夜 黒潮と親潮が運ぶ海の宝 (2018年12月9日)
*毛利衛&[[中川翔子]] 地球最後の日鏡へ!ニッポンの深海大冒険 (2019年2月8日、[[BS-TBS]])<ref>{{cite news|url=https://thetv.jp/news/detail/177875/|title=毛利衛&中川翔子が宇宙より謎だらけの深海を大冒険!|publisher=KADOKAWA|work=ザテレビジョン|date=2019-2-3|accessdate=2019-10-17}}</ref>
*ブルー・アース 生命の海 (2021年5月2日、BS-TBS)
==== テレビドラマ ====
*『[[ロケット・ボーイ]]』フジテレビ
:[[2001年]][[3月21日]]放送の最終回に、宇宙開発事業団の面接官役で出演。
*[[連続テレビ小説]]『[[まんてん]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])
:[[2002年]]。本人役。
=== CM ===
<!--企業名、商品名、出演期間、CMタイトル(「○○篇」のようなものがあれば)等 補填をお願いします-->
* [[積水ハウス]] - [[俳優|女優]]の[[多部未華子]]らと共演。「歌舞伎の人?」と間違われる演出がある(北大の助教授時代、実際にそのように言われていたことのパロディである)。
* [[ソニー|SONY]] - [[VAIO]]([[茂木健一郎]]、[[松下奈緒]]、[[森泉]]と共演)
* [[九州電力]] - [[玄海原子力発電所]]「[[プルサーマル]]」
* [[ACジャパン]] - 「地球のために始めよう」(1993年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
{{節スタブ}}
* 『[[わたしの宮沢賢治]]第7巻 地球生命の未来圏』([[ソレイユ出版]]、2021年1月30日発行)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mamoru Mohri}}
{{Wikinews|宇宙飛行士の毛利さんが南極へ―1月に出発予定|date = 2006年11月14日}}
* [[宇宙飛行士一覧]]
* [[:en:List of human spaceflights, 1991–2000|有人宇宙飛行の一覧(1991年–2000年)''(英語版)'']]
* [[日本人の宇宙飛行]]
* [[宇宙授業]] - 宇宙と地球の教室とで交信しながらの授業を実施
* [[衛 (小惑星)]]
* [[竹鶴政孝]] - [[ニッカウヰスキー]]の創業者。毛利衛の父親であり、[[獣医師]]の毛利正信とは[[囲碁]]友人<ref>『[[わたしの宮沢賢治]]第7巻 地球生命の未来圏』p.22</ref>。
== 外部リンク == <!-- {{Cite web}} -->
* [https://humans-in-space.jaxa.jp/space-job/astronaut/mohri-mamoru/ 毛利衛:JAXAの宇宙飛行士 - 宇宙ステーション・きぼう広報・情報センター - JAXA]
* {{NHK人物録|D0009070961_00000}}
* {{NHK放送史|D0009030249_00000|毛利衛さん宇宙飛行}}(1992年)
{{日本の宇宙飛行士}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:もうり まもる}}
[[Category:日本の宇宙飛行士]]
[[Category:スペースシャトル計画の宇宙飛行士]]
[[Category:日本の化学者]]
[[Category:北海道大学の教員]]
[[Category:東京工業大学の教員]]
[[Category:宇宙航空研究開発機構の人物]]
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[[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]]
[[Category:余市町|人]]
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[[Category:フリンダース大学出身の人物]]
[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:1948年生]]
[[Category:存命人物]]
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ザ・モールみずほ16
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ザ・モールみずほ16(ザ・モールみずほ16)は、かつて東京都西多摩郡瑞穂町に所在したショッピングモール。西友が運営する大型ショッピングモール「ザ・モール」の店舗の一つであった。核店舗はLIVIN ザ・モールみずほ16店。JLLモールマネジメント(当時、現:JLLリテールマネジメント)が運営管理を受託していた。店名は国道16号に由来していた。
2022年2月28日18時をもって閉店した。
瑞穂町北部の埼玉県入間市との都県境から約1kmの位置に立地していた。国道16号(東京環状)の瑞穂バイパス北側に面し、自家用車では新青梅街道からも比較的近くアクセスは良いが、町内唯一の鉄道駅であるJR八高線箱根ケ崎駅や瑞穂町中心部からは離れた場所に立地するため、各方面からシャトルバス(無料送迎バス)を運行して集客に努めてきた。
2002年3月13日に開業し、ザ・モールの中では最も新しい店舗であったが、2022年2月28日をもって閉店した。これに伴い、ザ・モールの店舗は関東地方から消滅し、同年に一部建物のみで運営されていたザ・モール春日井も「アクロスプラザ春日井」に改称されたため、残るは東北地方のザ・モール郡山、ザ・モール仙台長町の合計2店のみとなる。
フロア構成の詳細は、外部リンクの節にある公式サイトを参照。
相模原・川越方面から
新宿・西東京方面から
北都留郡・甲府方面から
高速道路
青梅インターチェンジから瑞穂・入間・立川方面
開業当初から従業員送迎を兼ねて無料送迎バスを運行してきた。西武総合企画飯能営業所が運行受託していた。
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ザ・モールみずほ16(ザ・モールみずほ16)は、かつて東京都西多摩郡瑞穂町に所在したショッピングモール。西友が運営する大型ショッピングモール「ザ・モール」の店舗の一つであった。核店舗はLIVIN ザ・モールみずほ16店。JLLモールマネジメントが運営管理を受託していた。店名は国道16号に由来していた。 2022年2月28日18時をもって閉店した。
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{{商業施設
| 書式 = リヴィン
| 社色 = #006400
| 文字色 = #fff
| グループ社色 = #0000CD
| グループ文字色 = #FFF
| グループ文字フォント = sans-serif
| グループ = LIVIN
| 名称 = ザ・モールみずほ16
| 外国語表記 = THE MALL Mizuho16
| 画像 = [[ファイル:The Mall Mizuho 16.JPG|300px|ザ・モールみずほ16]]
| 画像説明 = [[国道16号]][[瑞穂バイパス]]富士原交差点より撮影
| 地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=300}}
| 郵便番号 = 190-1203
| 所在地 = [[東京都]][[西多摩郡]][[瑞穂町]]大字高根623
| 緯度度 = 35
| 緯度分 = 47
| 緯度秒 = 8.5
| 経度度 = 139
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| 座標右上表示 =
| 開業日 = [[2002年]][[3月13日]]<ref name="都商研" />
| 閉業日 = [[2022年]][[2月28日]]<ref name="都商研" /><ref name="LIVIN" /><ref name="閉館のお知らせ" /><ref name="jpg" />
| 店番号 =
| 正式名称 =
| 建物名称 =
| 土地所有者 =
| 施設所有者 =
| 施設管理者 = [[JLLモールマネジメント]](当時)<ref name="jpg" />
| 設計者 =
| 施工者 =
| 敷地面積 = 65685.77
| 敷地面積脚注 =
| 敷地面積備考 =
| 建築面積 =
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| 延床面積 = 65619.87
| 延床面積脚注 =
| 延床面積備考 =
| 商業施設面積 =
| 商業施設面積脚注 =
| 商業施設面積備考 =
| 店舗数 = 63(専門店街)<ref>{{Cite web|和書|title=ショップガイド |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|株式会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/shopguide/ |archiveurl=https://archive.is/vfUCg |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}</ref>
| 中核店舗 = [[リヴィン|LIVIN]]ザ・モールみずほ16店
| 営業時間 = 店舗により異なる
| 駐車台数 = 1800
| 駐車台数脚注 = <ref name="アクセス" />
| 駐車台数備考 = 無料
| 駐輪台数 =
| 駐輪台数脚注 =
| 駐輪台数備考 =
| 前身 =
| 後身 =
| 商圏人口 =
| 最寄駅 =
| 最寄バス停 = ザ・モールみずほ16バス停([[入間市内循環バス]])
| 最寄IC = [[青梅インターチェンジ]]
| 外部リンク = [https://mizuho16.the-mall.jp/ ザ・モールみずほ16]([https://archive.is/2lkl7 アーカイブ])<br />[https://www.seiyu.co.jp/shop/ザ・モールみずほ16店/ LIVIN ザ・モールみずほ16店]([https://archive.is/Q25wi アーカイブ])
}}
'''ザ・モールみずほ16'''(ザ・モールみずほ16)は、かつて[[東京都]][[西多摩郡]][[瑞穂町]]に所在した[[ショッピングモール]]。[[西友]]が運営する大型ショッピングモール「'''[[ザ・モール (ショッピングセンター)|ザ・モール]]'''」の店舗の一つであった。[[核店舗]]は[[リヴィン|LIVIN]] ザ・モールみずほ16店<ref name="LIVIN">{{Cite web|和書|title=LIVIN ザ・モールみずほ16店 |website=[[西友|SEIYU]] |publisher=合同会社西友 |url=https://www.seiyu.co.jp/shop/ザ・モールみずほ16店/|archiveurl=https://archive.is/Q25wi |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}</ref>。[[JLLモールマネジメント]](当時、現:[[JLLリテールマネジメント]])が運営管理を受託していた<ref name="jpg">{{Cite web|和書|title=ザ・モールみずほ16 閉館のお知らせ |url=http://mizuho16.the-mall.jp/wp-content/uploads/2021/08/a55d49525ad97efd335f609e9776906e.jpg|archiveurl=https://archive.is/owCFa |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=株式会社西友、JLLモールマネジメント株式会社 |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}</ref>。店名は[[国道16号]]に由来していた。
[[2022年]][[2月28日]]18時をもって閉店した<ref name="都商研">[https://toshoken.com/news/22717 ザ・モールみずほ16・西友リヴィンみずほ16、2022年2月28日閉店] 都市商業研究所、2021年8月16日、2022年2月9日閲覧。</ref><ref name="LIVIN" /><ref name="jpg" /><ref name="閉館のお知らせ">{{Cite web|和書|title=ザ・モールみずほ16 閉館のお知らせ |url=http://mizuho16.the-mall.jp/event/9453/ |archiveurl=https://archive.is/6Kb42 |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=合同会社西友 |date=2021-09-11 |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}</ref>。
== 概要 ==
瑞穂町北部の[[埼玉県]][[入間市]]との[[県境|都県境]]から約1[[キロメートル|km]]の位置に立地していた<ref name="アクセス" />。[[国道16号]](東京環状)の[[瑞穂バイパス]]北側に面し<ref name="アクセス" />、[[自家用車]]では[[東京都道5号新宿青梅線|新青梅街道]]からも比較的近くアクセスは良いが、町内唯一の[[鉄道駅]]である[[JR]][[八高線]][[箱根ケ崎駅]]や瑞穂町中心部からは離れた場所に立地するため、各方面から[[シャトルバス]]([[無料送迎バス]])を運行して集客に努めてきた<ref name="アクセス">{{Cite web|和書|title=アクセス |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/access/ |archiveurl=https://archive.is/MlWcf |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}</ref>。
[[2002年]][[3月13日]]に開業し<ref name="都商研" />、ザ・モールの中では最も新しい店舗であったが、[[2022年]][[2月28日]]をもって閉店した<ref name="LIVIN" /><ref name="jpg" /><ref name="閉館のお知らせ" />。これに伴い、ザ・モールの店舗は[[関東地方]]から消滅し、同年に一部建物のみで運営されていた[[ザ・モール春日井]]も「アクロスプラザ春日井」に改称されたため、残るは[[東北地方]]の[[ザ・モール郡山]]、[[ザ・モール仙台長町]]の合計2店のみとなる。
== 沿革 ==
* [[2002年]][[3月13日]] - 開業<ref name="都商研">[https://toshoken.com/news/22717 ザ・モールみずほ16・西友リヴィンみずほ16、2022年2月28日閉店] 都市商業研究所、2021年8月16日、2022年2月9日閲覧。</ref>。
* [[2017年]]4月 - 「[[ザ・モール (ショッピングセンター)|ザ・モール]]」「[[リヴィン|LIVIN]]」の運営管理を受託する[[JLLモールマネジメント]](当時)が、ザ・モールみずほの運営受託を開始。詳細は「[[JLLリテールマネジメント#運営管理物件]]」を参照。
* [[2021年]][[9月11日]] - 公式サイトで、翌2022年2月28日をもって全館閉店することが発表される<ref name="LIVIN" /><ref name="jpg" /><ref name="閉館のお知らせ" />。
* [[2022年]][[2月28日]] - 全館閉店。
== 主なテナント ==
<!--面積の広いテナントのほか、著名性のあるテナント、話題性のあるテナント、老舗を特筆性についての出典がある場合に記載。レストラン街・フードコートの飲食専業店は原則記載していません-->
フロア構成の詳細は、外部リンクの節にある公式サイトを参照。
* 核店舗:LIVIN ザ・モールみずほ16店<ref name="LIVIN" />
* 営業時間
** LIVIN館は、1階食品売場は24時間営業、2階・3階は10時から21時まで。
** 専門店街1階 - 3階、[[フードコート]]は10時から21時まで。
** レストラン「[[サイゼリヤ]]」は10時から24時までの深夜営業を行っていた。
*: ただし2020年以降は、新型コロナウイルス感染症流行の影響により営業時間に変動があった。
== 交通アクセス ==
=== 一般道・高速道路 ===
'''[[相模原市|相模原]]・[[川越市|川越]]方面から'''
*国道16号を[[八王子市|八王子]]・瑞穂方面へ
*多摩大橋通りを[[昭島市|昭島]]・[[武蔵村山市|武蔵村山]]方面へ(新青梅街道経由)
'''[[新宿区|新宿]]・[[西東京市|西東京]]方面から'''
*青梅街道を[[所沢市|所沢]]・瑞穂方面へ
*新青梅街道を[[青梅市|青梅]]・[[奥多摩町|奥多摩]]方面へ
*五日市街道を[[福生市|福生]]方面へ(国道16号経由)
*所沢街道を所沢・[[狭山市|狭山]]方面へ(国道16号経由)
'''[[北都留郡]]・[[甲府市|甲府]]方面から'''
*青梅街道を新宿・青梅方面へ
*吉野街道を八王子・[[立川市|立川]]方面へ
*甲州街道を[[相模湖町|相模湖]]・八王子方面へ(国道16号経由)
'''高速道路'''
*[[首都圏中央連絡自動車道]]
[[青梅インターチェンジ]]から瑞穂・[[入間市|入間]]・立川方面
[[ファイル:Seibu-sogokikaku THE MALL mizuho 16-shuttle-bus.jpg|thumb|right|無料シャトルバス<br />西武総合企画の車両([[ツーステップバス]])]]
[[File:Seibusogokikaku S486.JPG|thumb|right|無料シャトルバス<br />[[西武バス]]からの移籍車([[ワンステップバス]])]]
=== 公共交通 ===
* 隣接する[[埼玉県]][[入間市]]の[[入間市内循環バス|入間市内循環バス「てぃーワゴン」]]が「ザ・モールみずほ16」停留所へ乗り入れていた。
* [[瑞穂町コミュニティバス]]開業にあたり乗り入れ計画があったが、ザ・モールみずほ16の閉店発表により乗り入れはされず、最寄り停留所として「松山町西」が新設された。
=== 無料シャトルバス ===
開業当初から従業員送迎を兼ねて[[無料送迎バス]]を運行してきた<ref name="アクセス" /><ref name="バス時刻表">{{Cite web|和書|title=バス時刻表 |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/access/#schedule |archiveurl=https://archive.is/MlWcf |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}</ref>。[[西武総合企画|西武総合企画飯能営業所]]が運行受託していた。
=== 発着地 ===
* [[青梅線]][[羽村駅]]東口([[西友]]羽村店前) - ザ・モールみずほ16、LIVIN館前
* 瑞穂都営住宅 - [[八高線]][[箱根ケ崎駅]]西口 - ザ・モールみずほ16、LIVIN館前
* [[西武池袋線]][[入間市駅]]南口(4番乗り場) - ザ・モールみずほ16、LIVIN館前
=== 運行時間・運行間隔 ===
* 運行時間:9時台 - 21時台
* 乗車時間:羽村便(約15分間)、箱根ケ崎便(約10分間)、入間便(約20 - 30分間)
* 運行間隔:1時間に1本程度。
=== 専用車両 ===
* [[いすゞ・エルガミオ]]([[2017年]]2月より運用開始)
== 周辺 ==
* [[瑞穂斎場]]
* [[東京都立瑞穂農芸高等学校]]
* [[瑞穂町郷土資料館]]
* [[野山北・六道山公園]]<ref>[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/shisetsu/006/p004205.html 六道山公園] 瑞穂町</ref>
* みずほエコパーク<ref>
[http://www.town.mizuho.tokyo.jp/kurashi/005/015/p000000.html みずほエコパーク] 瑞穂町</ref>
* [[瑞穂ビューパーク]]
* [[東野高等学校]]
* [[三井アウトレットパーク 入間]]
* [[青梅スタジアム]]
* [[岩蔵温泉]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[西友]]
** [[ザ・モール (ショッピングセンター)]]
** [[リヴィン]]
** [[ウォルマート]] - [[セゾングループ]]解体後、ウォルマート傘下時代に開業した。
* [[JLLリテールマネジメント]] - 運営管理を受託(JLLモールマネジメント時代)。
* [[西武総合企画]] - 無料シャトルバスを受託。
* [[瑞穂町]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|title=トップページ |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/ |archiveurl=https://archive.is/2lkl7 |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}
** {{Cite web|和書|title=ショップガイド |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/shopguide/ |archiveurl=https://archive.is/vfUCg |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}
** {{Cite web|和書|title=イベント&トピックス |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/event/ |archiveurl=https://archive.is/UhMSU |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}
** {{Cite web|和書|title=営業時間 |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/hours/ |archiveurl=https://archive.is/kNw2e |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}
** {{Cite web|和書|title=アクセス |website=ザ・モールみずほ16 |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=http://mizuho16.the-mall.jp/access/ |archiveurl=https://archive.is/MlWcf |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}
**
* {{Cite web|和書|title=LIVIN ザ・モールみずほ16店 |website=SEIYU |publisher=[[西友|合同会社西友]] |url=https://www.seiyu.co.jp/shop/ザ・モールみずほ16店/ |archiveurl=https://archive.is/Q25wi |date= |accessdate=2022-02-09 |archivedate=2022-02-09 }}
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[[Category:ザ・モール|廃みすほ]]
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[[Category:2022年廃止の施設]]
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宇都宮駅
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宇都宮駅(うつのみやえき)は、栃木県宇都宮市川向町(かわむこうちょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)および日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。事務管コードは▲411012。
本項では、隣接する宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線の宇都宮駅東口停留場(うつのみやえきひがしぐちていりゅうじょう)についても記述する。
所属路線は、東北本線(宇都宮線)、日光線、烏山線、東北新幹線、山形新幹線および秋田新幹線である。なお、正式な線路名称上では東北新幹線は東北本線に包括され、山形新幹線、秋田新幹線という線路名称は存在しない。また2002年の東北新幹線八戸延伸開業以降、秋田新幹線は全列車が当駅を通過する。
当駅は1885年(明治18年)7月16日に日本鉄道第二区線の駅として開業、1890年(明治23年)6月1日には同じく日本鉄道が宇都宮駅から日光に至る支線を開業し、国有化後の1909年(明治42年)10月12日、日本鉄道第二区線および日光に至る支線の線路名称はそれぞれ東北線および日光線と制定された。その後、国有鉄道時代の1982年(昭和57年)6月23日には東北新幹線の開業と同時に東北新幹線の駅となり、分割民営化され東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承された後の1990年(平成2年)3月10日には上野 - 黒磯間に宇都宮線の愛称が付けられた。
現在、当駅には在来線の宇都宮線列車(上野駅発着、上野東京ライン、湘南新宿ライン、黒磯駅発着など)、日光線列車、烏山線列車、東北新幹線「やまびこ」「なすの」、山形新幹線「つばさ」が発着し、在来線の列車はほぼ全ての列車において当駅が始発、終着駅となっている。
なお、東北本線は日本貨物鉄道(JR貨物)が第二種鉄道事業者となっているが、当駅は現在臨時車扱貨物のみを取り扱っており、定期貨物列車の発着はない。
直営駅であり宇都宮営業統括センター所在駅。管理駅として東北本線・大宮支社内の岡本駅 - 豊原駅、日光線内の全駅、烏山線内の全駅を管理している。駅北東には宇都宮運転所が併設されている。
駅舎は地上3階建てで南北に伸びる地上の東北本線(宇都宮線)、高架の東北新幹線の線路西側に沿うように建設された。うち3階設備は新幹線ホームのみで、1 - 2階は主に南側がJR東日本の駅施設、北側は宇都宮ステーション開発の駅ビル「パセオ」として利用されている。駅ビル「パセオ」と駅改札前「とちぎグランマルシェ」(2階)を中心に駅舎ビル全体で商業施設が展開されている。
改札は駅舎ビル2階にあり、改札外にはみどりの窓口・自動券売機(近距離・指定席券売機)・駅事務室などのほか、インフォメーションセンター(観光案内所)などが置かれている。また改札内には待合室や新幹線乗り換え改札、精算所・精算機、コインロッカー、多目的トイレ等が設置されている。在来線ホームは駅舎ビルの東側地上、新幹線ホームは駅舎ビル3階に敷設されており、駅改札内コンコースと各ホーム間には階段のほかエスカレーター、エレベーターが設置されている。駅の清掃はJR東日本環境アクセス宇都宮事業所が担当する。同事業所は2018年より栃木県立特別支援学校宇都宮青葉高等学園の生徒を就業体験で受け入れており、同校生徒が清掃業務に当たることがある。
駅舎ビル2階には駅西口にペデストリアンデッキ、および駅東口への東西自由通路が取り付けられており、それぞれ階下はバスのりば、タクシーのりばとなっている。東西両口にも階段に加えエスカレーター、エレベーターが設置されており、バリアフリー化されている。
店舗は改札内外にNewDaysがあるほか、カフェやそば店がある。駅ビル「パセオ」は1、2階がショッピングフロアで、3階は飲食店とホテルメッツ宇都宮フロントがあり、4階以上は同ホテルの客室となっている。
駅舎ビル南側1階には宇都宮東警察署宇都宮駅交番が所在する。1903年(明治35年)2月に『宇都宮警察署停車場巡査派出所』として設置されたのが起源で、1982年(昭和57年)6月の東北新幹線開業に際して現在の駅舎ビル1階に移設された。
新幹線ホームは、高架上に17両編成対応の相対式ホーム2面を有し、この間に通過線(本線)2線(2・3番線)をはさむ。
在来線ホームは単式、島式ホーム3面5線の地平ホーム(15両編成対応)となっているほか、5番線と7番線の間に貨物列車等待避線(6番線)を有する。島式ホームの7・8番線および9・10番線ホーム上にはグリーン券券売機が設置されている。
すべての新幹線ホームおよび在来線ホームには、改札階である2階コンコース間を結ぶ階段のほかエスカレーターおよびエレベーターが設置され、バリアフリーに対応している。
(出典:JR東日本:駅構内図)
東口駅前広場に位置し、島式ホーム1面2線で、折り返し設備を有する。このほか旅客サービス設備として無償のWi-Fi接続ポイントと、観光や交通情報を提供する多機能型デジタルサイネージ「コレオ・タッチ」(下野新聞社による運営)が整備されている。仮称は「JR宇都宮駅東口」であった。
至近にコンベンション・ホール「ライトキューブ宇都宮」が所在することから、「ライトキューブ宇都宮前」の副停留場名が設定されている。
なお、当線のJR宇都宮駅西側への延伸時には、西口駅前広場にも停留場が設けられる予定である。
停留場1階のエスカレーターの裏側には定期券売り場が設置されており、線内で唯一の有人駅となっている。(他の宇都宮芳賀ライトレール線の駅は全て無人駅)
列車の発車時には、発車メロディ「美雷と」(福嶋尚哉作曲)が車両から鳴動する。
宇都宮駅は、日本国有鉄道の駅構内販売機関自らの沿革において「地元業者『白木屋』がホームで発売したおにぎりが最初の駅弁である」「駅弁発祥の地」とされている(駅弁#起源も参照)。
かつては、富貴堂弁当部と松廼家の2社が営業していたが、富貴堂の撤退に伴い現在は松廼家1社のみの営業である。かつては松廼家・富貴堂の両社とも駅構内で立ち売りを行っていた が、現在は消滅した。
主な駅弁は下記の通り。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
宇都宮駅西口は宇都宮市の中心部に面し、ビジネス客や観光客が訪れる宇都宮の玄関口である。宇都宮市の中心部は、駅西側を流れる田川の対岸1 - 2 km西方の東武宇都宮駅周辺であり、オリオン通りなどの商店街や東武宇都宮駅と直結する東武宇都宮百貨店などの商業集積地であり、栃木県庁や宇都宮市役所などの行政主要機関なども所在する。
宇都宮駅は日本鉄道第二区線大宮 - 宇都宮間の開業に伴い開設されたが、当時より国内有数の人口を擁する地方都市であった宇都宮では、線路が街中(市街地)を避けた田川対岸、宇都宮の東側にいわば追いやられた格好で設置された。一方で路線敷設工事が急ピッチで進められたこともあり駅周辺整備が十分でないまま開業となったこともあって、当初は駅と現中心街を結ぶ大通りが開通しておらず、日本鉄道第二線区の開通式に参列し栃木県庁を訪問した伊藤博文、井上勝、渡辺洪基らは田川下流部にかかる押切橋を渡って宇都宮の街中に入り県庁を目指した。その後小袋町(現在の上河原付近)と簗瀬村の土地を買い上げて道路とし、田川には宮の橋を架けることによって現在の大通りが開通した。
現在、駅前広場の南側ロータリーには5面のプラットホームに計18のバス乗降場とタクシー降車場が、また北側ロータリーにはタクシー乗降場と一般車両乗降場、タクシープールが設けられている。一般車両については、広場内で待機する車両への市営駐車場利用と、南側ロータリーへの進入を回避し博労町交差点(旧奥州街道との交差点)方面への走行を誘導している。当駅西口と市街中心地の間は大通りで結ばれ、関東自動車、JRバス関東の路線バスが頻回運行され、広い歩道も整備されている。大通り沿いにはビジネスビルが立ち並ぶが、一歩路地裏に入ると寺社が林立し、城下町宇都宮の面影を残している。なお西口は北関東最大の都市でありながら駅前として「みにくい景観25選」の1位に選ばれてしまった経緯があり、老朽化が著しい建物の乱立や混在する看板などで景観の悪化が深刻な状態であり再開発が急がれている。西口第四B地区の住宅棟とホテル棟は2010年から2011年にかけ竣工している 。
一方、宇都宮駅東口は、宇都宮駅開業時より構内の車両留置線や貨物の積み下ろし設備等として機能してきた用地を、1971年(昭和46年)に宇都宮貨物ターミナル駅へと移転し、また車両基地宇都宮運転所の機能の一部を田端運転所に移し、余剰となった線路跡地に設置されたものである。東口地区再開発事業の開始とともに20線を超えた留置線も撤去され、2008年(平成20年)には交番、バスのりば、タクシーのりば、一般車乗降場が新設された。2つのプラットホームに6つのバスのりば、タクシー乗降所、および一般車両乗降場が設けられている。また再開発にあわせて川向町および東宿郷一丁目のそれぞれ一部の町名称が変更され、市の公募により宮みらいと命名された。この地区では新たな都市拠点の形成を目指し、商業施設や宿泊施設が入る複合施設やコンベンション施設、交流広場などの整備が宇都宮ライトレールの整備と連携して進められている。この整備事業の詳細は宇都宮駅東口交流拠点施設の項を参照。
宇都宮駅周辺の主な施設は以下のとおり。
宇都宮駅には関東自動車とJRバス関東(宇都宮支店)の路線バスと宇都宮市が運行する市内循環バス「きぶな号」、高速バス、空港直行バスが発着する。西口に市内各地への路線バスや高速バス(羽田空港・成田空港・名古屋・京都・大阪方面)のターミナルがある。東口には岡本、駅東地区に向かう一部路線バスの停留所があるが、便数は限られている。
JR東日本が提供しているロケーションサービスの一環として、宇都宮駅でも種々の作品で撮影が行われている。
※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは山形新幹線を参照のこと。
|
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"text": "宇都宮駅(うつのみやえき)は、栃木県宇都宮市川向町(かわむこうちょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)および日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。事務管コードは▲411012。",
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"text": "本項では、隣接する宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線の宇都宮駅東口停留場(うつのみやえきひがしぐちていりゅうじょう)についても記述する。",
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"text": "所属路線は、東北本線(宇都宮線)、日光線、烏山線、東北新幹線、山形新幹線および秋田新幹線である。なお、正式な線路名称上では東北新幹線は東北本線に包括され、山形新幹線、秋田新幹線という線路名称は存在しない。また2002年の東北新幹線八戸延伸開業以降、秋田新幹線は全列車が当駅を通過する。",
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"text": "当駅は1885年(明治18年)7月16日に日本鉄道第二区線の駅として開業、1890年(明治23年)6月1日には同じく日本鉄道が宇都宮駅から日光に至る支線を開業し、国有化後の1909年(明治42年)10月12日、日本鉄道第二区線および日光に至る支線の線路名称はそれぞれ東北線および日光線と制定された。その後、国有鉄道時代の1982年(昭和57年)6月23日には東北新幹線の開業と同時に東北新幹線の駅となり、分割民営化され東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承された後の1990年(平成2年)3月10日には上野 - 黒磯間に宇都宮線の愛称が付けられた。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "現在、当駅には在来線の宇都宮線列車(上野駅発着、上野東京ライン、湘南新宿ライン、黒磯駅発着など)、日光線列車、烏山線列車、東北新幹線「やまびこ」「なすの」、山形新幹線「つばさ」が発着し、在来線の列車はほぼ全ての列車において当駅が始発、終着駅となっている。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "なお、東北本線は日本貨物鉄道(JR貨物)が第二種鉄道事業者となっているが、当駅は現在臨時車扱貨物のみを取り扱っており、定期貨物列車の発着はない。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "直営駅であり宇都宮営業統括センター所在駅。管理駅として東北本線・大宮支社内の岡本駅 - 豊原駅、日光線内の全駅、烏山線内の全駅を管理している。駅北東には宇都宮運転所が併設されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅舎は地上3階建てで南北に伸びる地上の東北本線(宇都宮線)、高架の東北新幹線の線路西側に沿うように建設された。うち3階設備は新幹線ホームのみで、1 - 2階は主に南側がJR東日本の駅施設、北側は宇都宮ステーション開発の駅ビル「パセオ」として利用されている。駅ビル「パセオ」と駅改札前「とちぎグランマルシェ」(2階)を中心に駅舎ビル全体で商業施設が展開されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "改札は駅舎ビル2階にあり、改札外にはみどりの窓口・自動券売機(近距離・指定席券売機)・駅事務室などのほか、インフォメーションセンター(観光案内所)などが置かれている。また改札内には待合室や新幹線乗り換え改札、精算所・精算機、コインロッカー、多目的トイレ等が設置されている。在来線ホームは駅舎ビルの東側地上、新幹線ホームは駅舎ビル3階に敷設されており、駅改札内コンコースと各ホーム間には階段のほかエスカレーター、エレベーターが設置されている。駅の清掃はJR東日本環境アクセス宇都宮事業所が担当する。同事業所は2018年より栃木県立特別支援学校宇都宮青葉高等学園の生徒を就業体験で受け入れており、同校生徒が清掃業務に当たることがある。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅舎ビル2階には駅西口にペデストリアンデッキ、および駅東口への東西自由通路が取り付けられており、それぞれ階下はバスのりば、タクシーのりばとなっている。東西両口にも階段に加えエスカレーター、エレベーターが設置されており、バリアフリー化されている。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "店舗は改札内外にNewDaysがあるほか、カフェやそば店がある。駅ビル「パセオ」は1、2階がショッピングフロアで、3階は飲食店とホテルメッツ宇都宮フロントがあり、4階以上は同ホテルの客室となっている。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅舎ビル南側1階には宇都宮東警察署宇都宮駅交番が所在する。1903年(明治35年)2月に『宇都宮警察署停車場巡査派出所』として設置されたのが起源で、1982年(昭和57年)6月の東北新幹線開業に際して現在の駅舎ビル1階に移設された。",
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"text": "新幹線ホームは、高架上に17両編成対応の相対式ホーム2面を有し、この間に通過線(本線)2線(2・3番線)をはさむ。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "在来線ホームは単式、島式ホーム3面5線の地平ホーム(15両編成対応)となっているほか、5番線と7番線の間に貨物列車等待避線(6番線)を有する。島式ホームの7・8番線および9・10番線ホーム上にはグリーン券券売機が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "すべての新幹線ホームおよび在来線ホームには、改札階である2階コンコース間を結ぶ階段のほかエスカレーターおよびエレベーターが設置され、バリアフリーに対応している。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "東口駅前広場に位置し、島式ホーム1面2線で、折り返し設備を有する。このほか旅客サービス設備として無償のWi-Fi接続ポイントと、観光や交通情報を提供する多機能型デジタルサイネージ「コレオ・タッチ」(下野新聞社による運営)が整備されている。仮称は「JR宇都宮駅東口」であった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "至近にコンベンション・ホール「ライトキューブ宇都宮」が所在することから、「ライトキューブ宇都宮前」の副停留場名が設定されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "なお、当線のJR宇都宮駅西側への延伸時には、西口駅前広場にも停留場が設けられる予定である。",
"title": "駅構造"
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"text": "停留場1階のエスカレーターの裏側には定期券売り場が設置されており、線内で唯一の有人駅となっている。(他の宇都宮芳賀ライトレール線の駅は全て無人駅)",
"title": "駅構造"
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"text": "列車の発車時には、発車メロディ「美雷と」(福嶋尚哉作曲)が車両から鳴動する。",
"title": "駅構造"
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"text": "宇都宮駅は、日本国有鉄道の駅構内販売機関自らの沿革において「地元業者『白木屋』がホームで発売したおにぎりが最初の駅弁である」「駅弁発祥の地」とされている(駅弁#起源も参照)。",
"title": "駅弁"
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"text": "かつては、富貴堂弁当部と松廼家の2社が営業していたが、富貴堂の撤退に伴い現在は松廼家1社のみの営業である。かつては松廼家・富貴堂の両社とも駅構内で立ち売りを行っていた が、現在は消滅した。",
"title": "駅弁"
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"text": "主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
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"text": "2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。",
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"text": "宇都宮駅西口は宇都宮市の中心部に面し、ビジネス客や観光客が訪れる宇都宮の玄関口である。宇都宮市の中心部は、駅西側を流れる田川の対岸1 - 2 km西方の東武宇都宮駅周辺であり、オリオン通りなどの商店街や東武宇都宮駅と直結する東武宇都宮百貨店などの商業集積地であり、栃木県庁や宇都宮市役所などの行政主要機関なども所在する。",
"title": "駅周辺"
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"text": "宇都宮駅は日本鉄道第二区線大宮 - 宇都宮間の開業に伴い開設されたが、当時より国内有数の人口を擁する地方都市であった宇都宮では、線路が街中(市街地)を避けた田川対岸、宇都宮の東側にいわば追いやられた格好で設置された。一方で路線敷設工事が急ピッチで進められたこともあり駅周辺整備が十分でないまま開業となったこともあって、当初は駅と現中心街を結ぶ大通りが開通しておらず、日本鉄道第二線区の開通式に参列し栃木県庁を訪問した伊藤博文、井上勝、渡辺洪基らは田川下流部にかかる押切橋を渡って宇都宮の街中に入り県庁を目指した。その後小袋町(現在の上河原付近)と簗瀬村の土地を買い上げて道路とし、田川には宮の橋を架けることによって現在の大通りが開通した。",
"title": "駅周辺"
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"text": "現在、駅前広場の南側ロータリーには5面のプラットホームに計18のバス乗降場とタクシー降車場が、また北側ロータリーにはタクシー乗降場と一般車両乗降場、タクシープールが設けられている。一般車両については、広場内で待機する車両への市営駐車場利用と、南側ロータリーへの進入を回避し博労町交差点(旧奥州街道との交差点)方面への走行を誘導している。当駅西口と市街中心地の間は大通りで結ばれ、関東自動車、JRバス関東の路線バスが頻回運行され、広い歩道も整備されている。大通り沿いにはビジネスビルが立ち並ぶが、一歩路地裏に入ると寺社が林立し、城下町宇都宮の面影を残している。なお西口は北関東最大の都市でありながら駅前として「みにくい景観25選」の1位に選ばれてしまった経緯があり、老朽化が著しい建物の乱立や混在する看板などで景観の悪化が深刻な状態であり再開発が急がれている。西口第四B地区の住宅棟とホテル棟は2010年から2011年にかけ竣工している 。",
"title": "駅周辺"
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"text": "一方、宇都宮駅東口は、宇都宮駅開業時より構内の車両留置線や貨物の積み下ろし設備等として機能してきた用地を、1971年(昭和46年)に宇都宮貨物ターミナル駅へと移転し、また車両基地宇都宮運転所の機能の一部を田端運転所に移し、余剰となった線路跡地に設置されたものである。東口地区再開発事業の開始とともに20線を超えた留置線も撤去され、2008年(平成20年)には交番、バスのりば、タクシーのりば、一般車乗降場が新設された。2つのプラットホームに6つのバスのりば、タクシー乗降所、および一般車両乗降場が設けられている。また再開発にあわせて川向町および東宿郷一丁目のそれぞれ一部の町名称が変更され、市の公募により宮みらいと命名された。この地区では新たな都市拠点の形成を目指し、商業施設や宿泊施設が入る複合施設やコンベンション施設、交流広場などの整備が宇都宮ライトレールの整備と連携して進められている。この整備事業の詳細は宇都宮駅東口交流拠点施設の項を参照。",
"title": "駅周辺"
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"text": "宇都宮駅周辺の主な施設は以下のとおり。",
"title": "駅周辺"
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"text": "宇都宮駅には関東自動車とJRバス関東(宇都宮支店)の路線バスと宇都宮市が運行する市内循環バス「きぶな号」、高速バス、空港直行バスが発着する。西口に市内各地への路線バスや高速バス(羽田空港・成田空港・名古屋・京都・大阪方面)のターミナルがある。東口には岡本、駅東地区に向かう一部路線バスの停留所があるが、便数は限られている。",
"title": "バス路線"
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"text": "JR東日本が提供しているロケーションサービスの一環として、宇都宮駅でも種々の作品で撮影が行われている。",
"title": "舞台となった作品"
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"tag": "p",
"text": "※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは山形新幹線を参照のこと。",
"title": "隣の駅"
}
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宇都宮駅(うつのみやえき)は、栃木県宇都宮市川向町(かわむこうちょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)および日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。事務管コードは▲411012。 本項では、隣接する宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線の宇都宮駅東口停留場(うつのみやえきひがしぐちていりゅうじょう)についても記述する。
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{{Otheruses|東日本旅客鉄道(JR東日本)の宇都宮駅|東武鉄道宇都宮線の駅|東武宇都宮駅|日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物駅|宇都宮貨物ターミナル駅}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 宇都宮駅
|画像 = Utsunomiya-STA West.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 西口(2023年8月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|33|32.02|N|139|53|54.05|E}}}}
|よみがな = うつのみや
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|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />[[宇都宮ライトレール]]
|所在地 = [[栃木県]][[宇都宮市]]
|備考 =
}}
[[ファイル:Utsunomiya_Station_from_Lighthill.jpg|thumb|東口(2023年7月)]]
'''宇都宮駅'''(うつのみやえき)は、[[栃木県]][[宇都宮市]]川向町(かわむこうちょう)にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)および[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[鉄道駅|駅]]である<ref name = zenrin>ゼンリン 栃木県宇都宮市川向町周辺(ほか)地図</ref><ref name = shobunsha>昭文社 MAPPLE 栃木県宇都宮市川向町周辺(ほか)地図</ref><ref name = utsunomiya-eki>[http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=248 東日本旅客鉄道公式ホームページ『宇都宮駅』]</ref><ref name = kamotsu-jikokuhyo>貨物時刻表 平成22年3月ダイヤ改正 財団法人日本貨物協会</ref>。[[事務管理コード|事務管コード]]は▲411012<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。
本項では、隣接する[[宇都宮ライトレール]][[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]の'''宇都宮駅東口停留場'''(うつのみやえきひがしぐちていりゅうじょう)についても記述する。
== 乗り入れ路線 ==
所属路線は、[[東北本線]](宇都宮線)、[[日光線]]、[[烏山線]]、[[東北新幹線]]、[[山形新幹線]]および[[秋田新幹線]]である<ref name = utsunomiya-eki/><ref>[http://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=51=1=東北本線&token==&city=&ekimei=&kana=&pc=1 JR東日本ホームページ「東北本線の駅」]</ref><ref>[http://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=54=1=日光線 JR東日本ホームページ「日光線の駅」]</ref><ref>[http://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=75=1=東北新幹線 JR東日本ホームページ「東北新幹線の駅」]</ref><ref>[http://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=77=1=山形新幹線 JR東日本ホームページ「山形新幹線の駅」]</ref><ref>[http://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=73=1=秋田新幹線 JR東日本ホームページ「秋田新幹線の駅」]</ref>。なお、正式な線路名称上では東北新幹線は東北本線に包括され、山形新幹線、秋田新幹線という線路名称は存在しない<ref name = teishajo-hensen>『停車場変遷大事典』国鉄・JR編、石野哲編、1998年(JTB発行)</ref>。また2002年の東北新幹線八戸延伸開業以降、秋田新幹線は全列車が当駅を通過する。
当駅は1885年(明治18年)7月16日に[[日本鉄道]]第二区線の駅として開業、1890年(明治23年)6月1日には同じく日本鉄道が宇都宮駅から[[日光駅|日光]]に至る支線を開業し、国有化後の1909年(明治42年)10月12日、日本鉄道第二区線および日光に至る支線の線路名称はそれぞれ[[東北本線|東北線]]および日光線と制定された。その後、[[国有鉄道]]時代の1982年(昭和57年)6月23日には東北新幹線の開業と同時に東北新幹線の駅となり、分割民営化され東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承された後の[[1990年]](平成2年)3月10日には上野 - 黒磯間に[[宇都宮線]]の愛称が付けられた<ref name = teishajo-hensen/><ref name = yashu-tetsudo>大町雅美著『郷愁の野州鉄道 -栃木県鉄道秘話-』(随想社刊)</ref><ref name = tochigi-20-jokan>『とちぎ20世紀 上巻』下野新聞とちぎ20世紀取材班編、2000年(下野新聞社発行)</ref><ref>『とちぎ20世紀 下巻』下野新聞とちぎ20世紀取材班編、2001年(下野新聞社発行)</ref><ref name = jre-youran-2010>東日本旅客鉄道 会社要覧 2010</ref>。
現在、当駅には在来線の宇都宮線列車([[上野駅]]発着、[[上野東京ライン]]<ref group="注釈">[[東京駅]]から[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]へ直通する。</ref>、[[湘南新宿ライン]]<ref group="注釈">[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]][[新宿駅]]経由で、[[西大井駅]]から[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]へ直通する。</ref>、[[黒磯駅]]発着など)、日光線列車、[[烏山線]]列車、東北新幹線「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」「[[なすの (列車)|なすの]]」、山形新幹線「[[つばさ (列車)|つばさ]]」が発着し、在来線の列車はほぼ全ての列車において当駅が始発、終着駅となっている<ref name = utsunomiya-eki/><ref name = teishajo-hensen/><ref name = JTB-jikokuhyo-201106>JTB時刻表2011年6月号(JTBパブリッシング)</ref><ref name = JR-jikokuhyo-201106>JR時刻表2011年6月号(交通新聞社)</ref>。
なお、東北本線は日本貨物鉄道(JR貨物)が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]となっているが、当駅は現在臨時[[車扱貨物]]のみを取り扱っており、定期[[貨物列車]]の発着はない。
== 歴史 ==
=== 宇都宮駅 ===
[[ファイル:Utsunomiya station in Meiji Era.png|thumb|2代目駅舎]]
[[ファイル:Utsunomiya Station.1975.jpg|thumb|駅周辺の空中写真(1975年2月)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1885年]]([[明治]]18年)[[7月16日]]:[[日本鉄道]]第二区線の駅として開業、第二区線の終着駅となる<ref name = yashu-tetsudo/><ref name="hensen2">『停車場変遷大事典』2、395頁</ref>。当時、[[栗橋駅]] - 中田仮駅間の[[利根川]]架橋が未了の状態で開業したため、この間は連絡船が結んでいた。翌1886年(明治19年)6月に利根川橋梁が完成し、上野から宇都宮までが全通した<ref name = yashu-tetsudo/><ref name="hensen1-1">『停車場変遷大事典』1、189・190頁</ref>。
** 線路は当時の宇都宮市街を避けて設置され、駅は[[田川 (利根川水系)|田川]]を挟んで対岸に設けられた。現在も駅舎及び交通・商業複合設備は線路西側にある。日本初とされる[[駅弁]]([[おにぎり]]2個に[[沢庵漬け|たくあん]]が添えてあるもの)が販売される<ref name = yashu-tetsudo/><ref name = ekiben/><ref name = ekiben2/>。
* [[1886年]](明治19年)[[10月1日]]:日本鉄道第二区線として宇都宮駅 - 那須駅(現・[[西那須野駅]])間を延伸<ref name="hensen1-1"/>。
* [[1890年]](明治23年)[[6月1日]]:現在の日光線にあたる路線が、日本鉄道により[[今市駅]]まで開通(のち日光まで延伸)<ref name="hensen1-2">『停車場変遷大事典』1、195頁</ref>。
* [[1902年]](明治35年)[[4月1日]]:2代目の駅舎(2階建て)に改築<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi>『宇都宮駅100年史』日本国有鉄道 宇都宮駅 編、1985年</ref>。この駅舎は[[京都鉄道]][[二条駅]]の駅舎の模範にされた<ref>大阪朝日新聞京都付録1904年2月11日</ref>。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]される<ref name = yashu-tetsudo/><ref name="hensen2"/><ref name="hensen1-1"/><ref name="hensen1-2"/>。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により東北本線の所属となる。日光方面の支線は日光線と命名<ref name = yashu-tetsudo/><ref name="hensen1-1"/><ref name="hensen1-2"/>。
* [[1910年]](明治43年)[[10月15日]]:建設中の大日本製粉宇都宮工場を[[日清製粉]]が買収し、宇都宮駅鉄道引込線使用契約を締結<ref name = nisshin-seifun-shashi>[[日清製粉]]70年史、同100年史</ref>。
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[12月27日]]:駅舎の改築工事着工<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
* [[1926年]](大正15年)[[4月9日]]:駅長室の拡張工事着工<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月12日]]:[[宇都宮空襲#宇都宮大空襲|宇都宮大空襲]]により駅舎(2代目)が焼失<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/><ref name = utsunomiya-dai-kushu>『炎 鎮火せず』(宇都宮平和祈念館建設準備会、下野新聞社、栃木新聞社編集・発行)</ref>。
* [[1946年]](昭和21年)[[3月10日]]:駅舎が木造1階建て、[[粘板岩|スレート]]葺き[[バラック]]建築で復旧(3代目駅舎)<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/><ref name = utsunomiya-dai-kushu/>。
* [[1958年]](昭和33年)
** [[2月27日]]:4代目駅舎が落成、[[3月1日]]に供用開始<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
** [[3月7日]]:駅舎2階に駅デパートが開業<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
* [[1966年]](昭和41年)7月:宇都宮駅(日清製粉宇都宮工場) - [[大川駅]](同鶴見工場)間で[[ホッパ車]]のホキ2200形による原料小麦輸送が始まる<ref name = nisshin-seifun-shashi/><ref name = tetsudo-shumishi>[[鉄道ピクトリアル]] 1967年2月号([[電気車研究会]]刊)</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月3日]]:旅行センター開業<ref>交通年鑑昭和48年度内「交通日誌」</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)[[9月25日]]:[[車扱貨物]]の取り扱い範囲を、[[専用鉄道|専用線]]発着のみに縮小<ref name="hensen2"/>。
* [[1974年]](昭和49年)11月1日:新幹線工事のための5代目駅舎(仮駅舎)供用開始。駅ビル「ラミア」を併設する<ref name = jre-youran-2010/><ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
* [[1979年]](昭和54年)[[2月11日]]:構内で[[貨車]]が[[脱線]]。負傷者無し。翌日に復旧<ref>東北本線は復旧 宇都宮の脱線事故『朝日新聞』1979年2月12日夕刊 3版 9面</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[6月10日]]:現駅舎が完成、6代目駅舎となる<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
** [[8月1日]]:駅東側地区の宅地化を受け、東西自由通路が開通<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
** [[9月5日]]:駅ビル「ラミア」が全面営業開始<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[6月23日]]:東北新幹線が開業し同線の駅となる<ref name = tochigi-20-jokan/><ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/><ref>『停車場変遷大事典』2、423頁</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)[[10月4日]]:ペデストリアンデッキが完成<ref name = utsunomiya-eki-100nenshi/>。
* [[1985年]](昭和60年)[[9月7日]]:改札内コンコースに直営のコーヒーハウス「ベル宇都宮店」開店<ref>『国鉄、7日に開業、宇都宮・小山両駅内にコーヒー店』昭和60年8月31日日本経済新聞地方経済面北関東</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)[[4月26日]]:改札口脇に直営のプレイガイド「プレイガイドつばめ」開店<ref>『宇都宮駅、全国8店目の国鉄直営プレイガイド』昭和61年4月26日日本経済新聞地方経済面北関東</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、JR東日本とJR貨物の駅となる。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月1日]]:駅ビルが増築され、「パセオ」と改称<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[2月25日]]:在来線改札に[[自動改札機]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[11月30日]]:日清製粉宇都宮工場が操業を停止。この頃貨物列車の発着がなくなる<ref name = nisshin-seifun-shashi/>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる(大宮方面のみ)<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリア|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2001-09-04|accessdate=2020-05-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140203062122/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archivedate=2014-02-03}}</ref><ref name = jre-youran-2010/>。
* [[2003年]](平成15年)[[10月12日]]:東北新幹線でSuica FREX定期券およびSuica FREXパル定期券の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|title=10月12日(日)、「SuicaFREX 定期券」デビュー!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2003-09-10|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304120356/https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref><ref name = jre-youran-2010/>。
* [[2004年]](平成16年)[[10月16日]]:ICカード「Suica」が黒磯駅まで利用が可能となる<ref group="報道" name="press/20040807">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2004_1/20040807.pdf|title=首都圏でSuicaをご利用いただけるエリアが広がります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2004-08-07|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304100943/https://www.jreast.co.jp/press/2004_1/20040807.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>。東北新幹線でのSuica FREX定期券およびSuica FREXパル定期券が那須塩原駅まで利用が可能となる<ref group="報道" name="press/20040807" />。湘南新宿ライン、宇都宮線普通列車へのグリーン車導入、駅ホームでのグリーン券売機運用開始<ref name = jre-youran-2010/>。
* [[2005年]](平成17年)3月:在来線に[[発車メロディ]]を導入。
* [[2006年]](平成18年)[[7月8日]]:宇都宮線の15両編成列車の運行が当駅まで延長される。従来は[[小金井駅]]までの運行であった。
* [[2007年]](平成19年)
** [[5月7日]]:びゅうプラザとみどりの窓口一体化工事開始。5月13日から仮設券売機を使用開始。
** [[7月30日]]:上記工事終了、供用開始。
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月29日]]:在来線Suica専用改札機使用開始。
** [[3月15日]]:ICカード「Suica」が日光線で利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf|title=2008年3月 Suicaがますます便利になります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2007-12-21|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304095817/https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>。
** 11月1日:東口新駅前広場オープン。
* [[2011年]](平成23年)3月:パセオを全面改装のため完全休業。
* [[2012年]](平成24年)4月:パセオの売場を3階まで縮小する形でリニューアルオープン、4階以上はホテル アール・メッツ宇都宮(現・JR東日本ホテルメッツ宇都宮)として開業。
* [[2018年]](平成30年)4月1日:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の開始について ~新幹線もタッチ&ゴー、新幹線の新しい乗車スタイル~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-12-05|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200922054704/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|archivedate=2020-09-22}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の詳細について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-01-25|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510103143/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|archivedate=2019-05-10}}</ref>。「本物の出会い 栃木」ディスティネーションキャンペーンの一環として、在来線ホームの[[発車メロディ]]が期間限定で「栃木県民の歌」に変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180211.pdf|title=「本物の出会い 栃木」デスティネーションキャンペーンの開催について|format=PDF|page=15|publisher=JRグループ|date=2018-02-14|accessdate=2020-05-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200529161241/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180211.pdf|archivedate=2020-05-30}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** 4月1日:「本物の出会い 栃木」アフターディスティネーションキャンペーンの一環として、在来線ホームの発車メロディが期間限定で「カリフォルニア・シャワー」に変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/oomiya/20190214_o03.pdf|title=「本物の出会い 栃木」アフターデスティネーションキャンペーンの開催について|format=PDF|page=24|publisher=「本物の出会い 栃木」ディスティネーションキャンペーン実行委員会、東日本旅客鉄道、東武鉄道|date=2019-02-14|accessdate=2020-05-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200529160715/https://www.jreast.co.jp/press/2018/oomiya/20190214_o03.pdf|archivedate=2020-05-30}}</ref>。
** [[6月27日]]:JR東日本が、在来線ホームの発車メロディの「カリフォルニア・シャワー」を継続使用することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20190627_o02.pdf|title=宇都宮駅発車メロディの継続について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2019-06-27|accessdate=2020-05-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200529161520/https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20190627_o02.pdf|archivedate=2020-05-30}}</ref>。
** [[6月28日]]:びゅうプラザが閉店。この閉店により栃木県内はびゅうプラザが完全撤退となる。
* [[2020年]](令和2年)
** [[3月14日]]:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、北海道旅客鉄道、西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226110513/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-02-26}}</ref>。
** [[3月27日]]:日光線(5番線)ホームに待合室を新設<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20200220_o02.pdf|title=宇都宮駅に新しく待合室がオープンします|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社|date=2020-02-20|accessdate=2020-06-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200605122503/https://www.jreast.co.jp/press/2019/omiya/20200220_o02.pdf|archivedate=2020-06-05}}</ref>。
** [[9月23日]]:パセオ西口1階が「宇都宮FOOD HALL」としてリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200916_o01.pdf|title=宇都宮パセオに「宇都宮FOOD HALL」が誕生! ~地元店が集まって、栃木県・宇都宮市の「食」の魅力を発信します~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道大宮支社、宇都宮ステーション開発|date=2020-09-16|accessdate=2020-09-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200916071503/https://www.jreast.co.jp/press/2020/omiya/20200916_o01.pdf|archivedate=2020-09-16}}</ref>。
=== 宇都宮駅東口停留場 ===
* [[2023年]](令和5年)[[8月26日]]:開業<ref name="koushiki0602">{{Cite web|和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/kotsu/lrt/1028857/1032422.html|title=芳賀・宇都宮LRTの開業日が決定しました|publisher=宇都宮市|date=2023-06-02|accessdate=2023-06-02}}</ref><ref name="shimotsuke0531">{{Cite news|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/744780|title=LRT8月26日開業 宇都宮市と芳賀町、近く運輸開始認可手続きへ|publisher=[[下野新聞]]|date=2023-05-31|accessdate=2023-05-31}}</ref><ref name="lrtkaigyou">{{Cite web|和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/029/845/220817haga_utsunomiya_lrt.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220817124422/https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/029/845/220817haga_utsunomiya_lrt.pdf|title=芳賀・宇都宮LRT事業等について|archivedate=2022-08-17|accessdate=2022-08-17|publisher=宇都宮市|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。当駅周辺で「発車式」を挙行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/780762|title=LRT開業日ダイジェスト 一番列車、パレード、イベント… 現地から丸ごとお届け|publisher=下野新聞|date=2023-08-26|accessdate=2023-08-31}}</ref>。
{{-}}
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = 宇都宮駅
|画像 = Utsunomiya-STA Shinkansen-Gate.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 新幹線改札口(2021年9月)
|よみがな = うつのみや
|ローマ字 = Utsunomiya
|電報略号 = ミヤ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)
|所在地 = [[栃木県]][[宇都宮市]]川向町1番23号
|座標 = {{coord|36|33|32.02|N|139|53|54.05|E|display=inline,title|type:railwaystation_region:JP-09}}
|開業年月日 = [[1885年]]([[明治]]18年)[[7月16日]]
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[高架駅]](新幹線)<br />[[橋上駅]](在来線)
|ホーム = 2面2線(新幹線)<br />3面5線(在来線)
|乗車人員 = {{Smaller|(新幹線)-2022年-}}<br />10,344人/日(降車客含まず)<hr>{{Smaller|(合計)-2022年-}}<br />31,241
|統計年度 =
|乗入路線数 = 5
|所属路線1 = {{Color|green|■}}[[東北新幹線]]<br />({{Color|#ee7b28|■}}[[山形新幹線]])
|前の駅1 = [[小山駅|小山]]
|駅間A1 = 28.9
|駅間B1 = 48.3
|次の駅1 = [[那須塩原駅|那須塩原]]
|キロ程1 = 109.5
|起点駅1 = [[東京駅|東京]]
|所属路線2 = {{Color|#f68b1e|■}}[[東北本線]]([[宇都宮線]])<br />({{color|#339966|■}}[[烏山線]]直通含む)
|前の駅2 = [[雀宮駅|雀宮]]
|駅間A2 = 7.7
|駅間B2 = 6.2
|次の駅2 = [[岡本駅 (栃木県)|岡本]]
|駅番号2 =
|キロ程2 = 109.5 km(東京起点)<br />東京から[[尾久駅|尾久]]経由で109.7
|起点駅2 =
|所属路線3 = {{Color|#880022|■}}[[日光線]]
|前の駅3 =
|駅間A3 =
|駅間B3 = 4.8
|次の駅3 = [[鶴田駅|鶴田]]
|キロ程3 = 0.0
|起点駅3 = 宇都宮
|乗換 =
|備考 = [[直営駅]]([[管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有
|備考全幅 =
}}
直営駅であり宇都宮営業統括センター所在駅。管理駅として東北本線・大宮支社内の[[岡本駅 (栃木県)|岡本駅]] - [[豊原駅]]、日光線内の全駅、烏山線内の全駅を管理している<ref>{{Cite news |title=JR東労組大宮地本No.197号 |date=2021-11-30|url=http://jreuomiya.web.fc2.com/toplink/topfax/2021/2021omiya070.pdf |accessdate=2023-02-10|format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合大宮地方本部}}</ref>。駅北東には[[宇都宮運転所]]が併設されている<ref name = zenrin/><ref name = shobunsha/><ref name = JR-kidosha-kyakusha-henseihyo>JR気動車客車編成表 2010 交通新聞社刊</ref>。
駅舎は地上3階建てで南北に伸びる地上の東北本線(宇都宮線)、高架の東北新幹線の線路西側に沿うように建設された。うち3階設備は新幹線ホームのみで、1 - 2階は主に南側がJR東日本の駅施設、北側は[[宇都宮ステーション開発]]の[[駅ビル]]「[[パセオ (宇都宮市)|パセオ]]」として利用されている。駅ビル「パセオ」と駅改札前「とちぎグランマルシェ」(2階)を中心に駅舎ビル全体で商業施設が展開されている<ref name = zenrin/><ref name = shobunsha/><ref name = utsunomiya-eki/><ref name = jre-youran-2010/><ref name = utsunomiya-eki-konaizu>[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/248.html 東日本旅客鉄道公式ホームページ『宇都宮駅 構内図』]</ref><ref name = ekipara-utsunomiya-paseo>[http://www.ekipara.com/html/Indication/BuildingHtml/FloorList/FloorListK4010R01.html 駅パラ 宇都宮/パセオ ショップリスト]</ref>。
[[改札]]は駅舎ビル2階にあり、改札外には[[みどりの窓口]]・[[自動券売機]](近距離・[[指定席券売機]])・駅事務室などのほか、インフォメーションセンター(観光案内所)などが置かれている。また改札内には[[待合室]]や新幹線乗り換え改札、精算所・[[自動精算機#鉄道における自動精算機|精算機]]、[[コインロッカー]]、[[バリアフリー#物理上の改善|多目的トイレ]]等が設置されている。在来線ホームは駅舎ビルの東側地上、新幹線ホームは駅舎ビル3階に敷設されており、駅改札内[[コンコース]]と各ホーム間には[[階段]]のほか[[エスカレーター]]、[[エレベーター]]が設置されている。駅の清掃は[[JR東日本環境アクセス]]宇都宮事業所が担当する<ref name="st1901">{{Cite web|和書|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/118962|title=特別支援生徒の駅清掃に高評価 宇都宮青葉高等学園生がJR宇都宮駅で就業体験|publisher=下野新聞|date=2019-01-08|accessdate=2020-07-25}}</ref>。同事業所は2018年より[[栃木県立特別支援学校宇都宮青葉高等学園]]の生徒を[[職場体験|就業体験]]で受け入れており、同校生徒が清掃業務に当たることがある<ref name="st1901"/>。
駅舎ビル2階には駅西口に[[ペデストリアンデッキ]]、および駅東口への[[跨線橋|東西自由通路]]が取り付けられており、それぞれ階下は[[宇都宮駅のバス乗り場|バスのりば]]、[[タクシー]]のりばとなっている。東西両口にも階段に加えエスカレーター、エレベーターが設置されており、[[バリアフリー]]化されている<ref name = zenrin/><ref name = shobunsha/><ref name = utsunomiya-eki-konaizu/><ref name = rakuraku-utsunomiya-eki-annaizu>[http://www.ecomo-rakuraku.jp/stationmap/21736.html らくらくおでかけネット『駅案内図一覧 宇都宮駅』]</ref>。
店舗は改札内外に[[NewDays]]があるほか、カフェやそば店がある<ref name = zenrin/><ref name = utsunomiya-eki/><ref name = jre-youran-2010/><ref name = utsunomiya-eki-konaizu/>。駅ビル「パセオ」は1、2階がショッピングフロアで、3階は飲食店とホテルメッツ宇都宮フロントがあり、4階以上は同ホテルの客室となっている。
駅舎ビル南側1階には[[宇都宮東警察署]]宇都宮駅[[交番]]が所在する。[[1903年]](明治35年)2月に『宇都宮警察署停車場巡査派出所』として設置されたのが起源で、1982年(昭和57年)6月の東北新幹線開業に際して現在の駅舎ビル1階に移設された<ref name = utsunomiya-eki-koban>[http://www.pref.tochigi.lg.jp/keisatu/hiroba/higasi/p01.html 宇都宮東警察署HP『宇都宮駅交番』]</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Utsunomiya-STA Gate.jpg|在来線改札口(2021年9月)
Utsunomiya-STA Shinkansen-Transfer.jpg|新幹線のりかえ口(2021年9月)
</gallery>
==== のりば ====
新幹線ホームは、[[高架橋|高架]]上に17両編成対応の[[相対式ホーム]]2面を有し、この間に通過線(本線)2線(2・3番線)をはさむ。
在来線ホームは単式、島式ホーム3面5線の地平ホーム(15両編成対応)となっているほか、5番線と7番線の間に[[貨物列車]]等待避線(6番線)を有する。島式ホームの7・8番線および9・10番線ホーム上にはグリーン券券売機が設置されている。
すべての新幹線ホームおよび在来線ホームには、改札階である2階[[コンコース]]間を結ぶ階段のほかエスカレーターおよびエレベーターが設置され、バリアフリーに対応している<ref name = utsunomiya-eki-konaizu/><ref name = rakuraku-utsunomiya-eki>[http://www.ecomo-rakuraku.jp/rakuraku/index?nextpage=StationInfo.html&stationCode=21736 らくらくおでかけネット『駅・ターミナル情報検索 宇都宮駅』]</ref>。
<!--新幹線や日光線の方面表記および路線表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠。それ以外の路線や系統は未記載のため、「時刻表」の記載に準拠-->
{| class="wikitable" rules="rows"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先
|-
|colspan="4" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''新幹線 高架ホーム'''<ref name = utsunomiya-eki-konaizu/>
|-
!1
|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北・山形・秋田新幹線<!--「駅構内図」の記載に準拠-->
|style="text-align:center;"|下り
|[[郡山駅 (福島県)|郡山]]・[[仙台駅|仙台]]・[[盛岡駅|盛岡]]・[[山形駅|山形]]・[[新庄駅|新庄]]方面<!--「駅構内図」の記載に準拠-->
|-
!4
|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 新幹線<!--「駅構内図」の記載に準拠-->
|style="text-align:center;"|上り
|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]方面<!--「駅構内図」の記載に準拠-->
|-
| colspan="4" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;" |'''在来線 地上ホーム'''<!--宇都宮線経由で小山駅から両毛線に直通する列車が毎日2本のみ設定されているが、小山駅で20分以上停車し後発の宇都宮線(湘南新宿ライン)列車の接続を受けることから、事実上小山駅で系統分離されているとみなし本表には記載しない。-->
|-
!5
|{{Color|#880022|■}} 日光線
| style="text-align:center;" |-<!-- (路線・運行系統の始終端となる駅では方向案内は省略しています)-->
|[[鹿沼駅|鹿沼]]・[[今市駅|今市]]・[[日光駅|日光]]方面<!--「駅構内図」の記載に準拠-->
|-
!rowspan="3"|7 - 10
|rowspan="2"|{{Color|#f68b1e|■}} 宇都宮線(東北線)
|style="text-align:center;"|下り
|[[黒磯駅|黒磯]]・郡山方面<ref name="timetable/list0248">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0248.html|title=時刻表 宇都宮駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-05}}</ref>
|-
|style="text-align:center;"|上り
|大宮・上野・[[新宿駅|新宿]]・[[横浜駅|横浜]]・[[小田原駅|小田原]]方面<ref name="timetable/list0248" /><br />([[上野東京ライン]])([[湘南新宿ライン]])
|-
|{{Color|#339966|■}} 烏山線<!-- 公式サイト構内図では「9・10番線」のみとなっていますが、実際には8番線発着列車もありますので一纏めにします。列車個別の発着番線は公式サイト時刻表から確認可能のため --->
|style="text-align:center;"|-<!-- (路線・運行系統の始終端となる駅では方向案内は省略しています)-->
|[[烏山駅|烏山]]方面<ref name="timetable/list0248" /><!-- (備考:宝積寺まで宇都宮線(下り)を走行)-->
|}
(出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/248.html JR東日本:駅構内図])
; 付記事項
* 日中の「なすの」・「やまびこ」(※主に仙台発着かつ福島以南各停の列車、一部例外もあり)は、この駅で「はやぶさ」+「こまち」号の通過待ち合わせを行なう。またそれ以外の当駅に停車する列車においても、通過待ち合わせを行なうことがある。
* 新幹線の定期列車は「[[なすの (列車)|なすの]]」のほぼ全列車(早朝の[[小山駅|小山]]始発の上り1本を除く)と「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」「[[つばさ (列車)|つばさ]]」のほぼ全列車(最速達の1往復を除く)が停車する。ただし臨時の「やまびこ」「つばさ」の中には当駅を通過する列車が設定されることもある。「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」「[[こまち (列車)|こまち]]」は全列車が通過する。
* 広大な留置線を用いて[[夜間滞泊|夜間留置]]が多数設定されている。
* 在来線各線は、6時台の小山発黒磯行きと小金井発日光行きの2本を除きすべて当駅で折り返す。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR East Utsunomiya Station Shinkansen Platform 20221127.jpg|新幹線ホーム(2022年11月)
JR East Utsunomiya Station JR Line Platform 5 20221127.jpg|在来線5番線ホーム(2022年11月)
Utsunomiya-STA Home7-8.jpg|在来線7・8番線ホーム(2022年3月)
Utsunomiya-STA Home9-10.jpg|在来線9・10番線ホーム(2022年3月)
</gallery>
=== 宇都宮ライトレール ===
{{駅情報
|社色 = #ffd700
|文字色 = #000000
|駅名 = 宇都宮ライトレール<br />宇都宮駅東口停留場
|画像 = Utsunomiya Station East Station Mar. 5, 2023.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 停留場全景(2023年3月)
|よみがな = うつのみやえきひがしぐち
|ローマ字 = Utsunomiya Station East
|副駅名 = ライトキューブ宇都宮前
|前の駅 =
|駅間A =
|駅間B = 0.4<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.miyarail.co.jp/pdf/fares.pdf|title=普通旅客運賃三角表|publisher=宇都宮ライトレール株式会社|date=2023-08-25|accessdate=2023-08-30}}</ref>
|次の駅 = [[東宿郷停留場|東宿郷]] 02
|駅番号 = '''01'''
|所属事業者 = [[宇都宮ライトレール]]
|所属路線= {{color|#ffd700|■}}[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 宇都宮駅東口
|所在地 = 栃木県宇都宮市[[宮みらい]]一丁目
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[2023年]]([[令和]]5年)[[8月26日]]<ref name="koushiki0602" /><ref name="shimotsuke0531" /><ref name="lrtkaigyou" />
|備考 =
}}
東口[[駅前広場]]に位置し<ref name="heimen20220119">[https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/029/yusenseibikukanheimenzu.pdf 優先整備区間平面図] - 宇都宮市公式Webサイト 2022年1月19日作成、1月21日閲覧</ref>、島式ホーム1面2線で、折り返し設備を有する。このほか旅客サービス設備として無償の[[Wi-Fi]]接続ポイントと、観光や交通情報を提供する多機能型[[デジタルサイネージ]]「コレオ・タッチ」([[下野新聞]]社による運営)が整備されている<ref>{{Cite news|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/032/746/00-0.pdf#page59|title=令和5年7月定例記者会見|publisher=宇都宮市|date=2023-07-27|accessdate=2023-07-27}}</ref>。仮称は「JR宇都宮駅東口」であった<ref>{{Cite press release|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/022/203/meishou_kouhyou.pdf |title=芳賀・宇都宮LRT停留場名称の決定について|publisher=宇都宮市 |language=ja |format=PDF |accessdate=2021-09-18}}</ref>。
至近にコンベンション・ホール「[[ライトキューブ宇都宮]]」が所在することから、「ライトキューブ宇都宮前」の副停留場名が設定されている<ref name="NR">{{Cite press release|title=LRT副停留場名称が決定しました(ネーミングライツ)|publisher=宇都宮市|date=2023-02-21|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/kotsu/lrt/1028857/1030911.html|accessdate=2023-02-21}}</ref>。
なお、当線のJR宇都宮駅西側への延伸時には、西口駅前広場にも停留場が設けられる予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/017/454/01.pdf |title=JR宇都宮駅の東西を横断するLRTルートが決まりました。|publisher=LRT企画課協働広報室 |format=PDF |accessdate=2022-05-02}}</ref>。
停留場1階の[[エスカレーター]]の裏側には定期券売り場が設置されており、線内で唯一の有人駅となっている。(他の宇都宮芳賀ライトレール線の駅は全て[[無人駅]])
==== のりば ====
列車の発車時には、[[発車メロディ]]「美雷と」([[福嶋尚哉]]作曲)が車両から鳴動する<ref>{{Cite YouTube|title=LRT開業記念 貴重な場所を歩く「レールウォーク」 定員140人対し応募は5千人超「倍率は約40倍に」|date=2023-07-31|url=https://www.youtube.com/watch?v=L4QR7VGOzlA|accessdate=2023-09-16|publisher=[[とちぎテレビ]]|publication-date=2023-07-31|work=YouTube|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.switching.co.jp/未分類/612 |title=宇都宮ライトレールの発車メロディーなどを制作しました。 |access-date=2023-09-16 |publisher=[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]] |website=スイッチオフィシャルサイト |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230907070944/https://www.switching.co.jp/未分類/612 |archive-date=2023-09-07 |date=2023-09-06}}</ref>。
{| class="wikitable"
! 番線 !! 路線 !! 方向 !! 行先
|-
! 1・2
| style="text-align:center" | {{color|#ffd700|■}}芳賀・宇都宮LRT
| style="text-align:center" | -<!-- (始終端の駅(停留場)では「下り」・「上り」は記述しないことを基本としています(参考:宇都宮駅-JR線のりば)) -->
| style="text-align:center" | [[芳賀・高根沢工業団地停留場|芳賀・高根沢工業団地]]方面
|}
<gallery widths="150" style="font-size:90%;">
Utsunomiya-Station-East-STA 2F-Entrance.jpg|東西自由通路側の出入口(2023年9月)
Utsunomiya-Station-East-STA North-area.jpg|停留場北側の延伸予定地(2023年9月)
宇都宮駅東口停留場202205.jpg|建設中の停留場(2022年5月)
</gallery>
{{-}}
== 駅弁 ==
宇都宮駅は、[[日本国有鉄道]]の駅構内販売機関自らの沿革において「地元業者『白木屋』がホームで発売した[[おにぎり]]が最初の駅弁である」「[[駅弁]]発祥の地」とされている([[駅弁#起源]]も参照)<ref name = ekiben>『会員の家業とその沿革』(国鉄構内営業中央会刊)</ref><ref name = ekiben2>JR東日本ホームページ「鉄道の歴史」『明治18年 1885年 7月 宇都宮駅(日本鉄道)で、にぎり飯を売り出す(駅弁の始まり)』</ref>。
かつては、富貴堂弁当部と[[松廼家]]の2社が営業していたが、富貴堂の撤退に伴い現在は松廼家1社のみの営業である。かつては松廼家・富貴堂の両社とも駅構内で立ち売りを行っていた<ref>[[鉄道ジャーナル]] 2003年12月号より</ref> が、現在は消滅した。
主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=76,576}}</ref>。
{{Div col||20em}}
* とちぎ霧降高原牛めし
* よくばりスタミナ弁当
* 日光強めし
* 日光杉並木
* ふるさと幕の内
* 宮小町
* とりめし
* 大人の休日・駅弁発祥地より汽車辨當
* 七福むすび
* 宮の釜めし
* うわさの弁当、古代米入り
* 下野玄米弁当
* 下野山菜弁当
* 玄氣いなり
* 芭蕉気分
{{Div col end}}
== 利用状況 ==
* 2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''31,241人'''である<ref group="利用客数" name="passenger/2022_01" />。
** JRの駅としては[[北関東]]3県で最も多い。なお旅客収入額はJR東日本で第13位(2009年度)<ref name = jre-youran-2010/>。
* 新幹線 - 2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''10,344人'''である<ref group="新幹線" name="passenger/2022_shinkansen" />。
** [[東京駅]]、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、[[仙台駅]]、[[高崎駅]]に次いで5番目に多い数字である。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="3"|1日平均乗車人員推移
|-
!年度
!計
!新幹線
|-
|2000年(平成12年)
|36,295<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2001年(平成13年)
|35,832<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2002年(平成14年)
|35,136<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2003年(平成15年)
|34,922<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2004年(平成16年)
|34,890<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2005年(平成17年)
|35,545<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2006年(平成18年)
|35,773<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2007年(平成19年)
|35,921<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2008年(平成20年)
|35,416<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2009年(平成21年)
|34,160<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2010年(平成22年)
|33,985<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2011年(平成23年)
|34,023<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|
|-
|2012年(平成24年)
|35,018<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|12,245<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|36,176<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|12,685<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|35,769<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|12,658<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|36,421<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|13,010<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|36,584<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-02-13}}</ref>
|13,153<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|37,586<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|13,456<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-07-10}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|38,324<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref>
|13,623<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|37,724<ref group="利用客数" name="passenger/2019_01">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-10}}</ref>
|13,233<ref group="新幹線" name="passenger/2019_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-10}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|24,559<ref group="利用客数" name="passenger/2020_01">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-09}}</ref>
|6,981<ref group="新幹線" name="passenger/2020_shinkansen">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-09}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|27,135<ref group="利用客数" name="passenger/2021_01">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref>
|8,068<ref group="新幹線" name="passenger/2021_shinkansen">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|31,241<ref group="利用客数" name="passenger/2022_01">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-09}}</ref>
|10,344<ref group="新幹線" name="passenger/2022_shinkansen">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-09}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|zoom=13|frame-width=250|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|36|33|32.02|N|139|53|54.05|E}}|title=宇都宮駅|coord2={{coord|36|33|32.64|N|139|52|49.44|E}}|title2=東武宇都宮駅|marker-color=008000|marker-color2=0f6cc3|frame-latitude=36.55936|frame-longitude=139.889005|text=当駅(右)と東武宇都宮駅(左)との位置関係}}
宇都宮駅西口は宇都宮市の中心部に面し、ビジネス客や観光客が訪れる宇都宮の玄関口である<ref name="zenrin" /><ref name="shobunsha" /><ref name="utsunomiya-eki-koban" />。宇都宮市の中心部は、駅西側を流れる[[田川 (利根川水系)|田川]]の対岸1 - 2 [[キロメートル|km]]西方の[[東武宇都宮駅]]周辺であり、[[オリオン通り]]などの商店街や東武宇都宮駅と直結する[[東武宇都宮百貨店]]などの商業集積地であり、[[栃木県庁]]や[[宇都宮市役所]]などの行政主要機関なども所在する。
宇都宮駅は[[日本鉄道]]第二区線[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - 宇都宮間の開業に伴い開設されたが、当時より国内有数の人口を擁する地方都市であった[[宇都宮市#概略|宇都宮]]では、線路が街中(市街地)を避けた田川対岸、宇都宮の東側にいわば追いやられた格好で設置された。一方で路線敷設工事が急ピッチで進められたこともあり駅周辺整備が十分でないまま開業となったこともあって、当初は駅と現中心街を結ぶ[[大通り (宇都宮市)|大通り]]が開通しておらず、日本鉄道第二線区の開通式に参列し栃木県庁を訪問した[[伊藤博文]]、[[井上勝]]、[[渡辺洪基]]らは田川下流部にかかる押切橋を渡って宇都宮の街中に入り県庁を目指した。その後小袋町(現在の上河原付近)と簗瀬村の土地を買い上げて道路とし、田川には[[宮の橋]]を架けることによって現在の大通りが開通した<ref name = yashu-tetsudo/>。
現在、駅前広場の南側ロータリーには5面のプラットホームに計18のバス乗降場とタクシー降車場が、また北側ロータリーには[[タクシー]]乗降場と一般車両乗降場、タクシープールが設けられている。一般車両については、広場内で待機する車両への市営駐車場利用と、南側ロータリーへの進入を回避し博労町交差点(旧[[奥州街道]]との交差点)方面への走行を誘導している。当駅西口と市街中心地の間は[[栃木県道10号宇都宮烏山線|大通り]]で結ばれ、[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]、[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]の[[路線バス]]が頻回運行され、広い歩道も整備されている。大通り沿いにはビジネスビルが立ち並ぶが、一歩路地裏に入ると寺社が林立し、[[城下町]]宇都宮の面影を残している。なお西口は北関東最大の都市でありながら駅前として「みにくい景観25選」の1位に選ばれてしまった経緯があり、老朽化が著しい建物の乱立や混在する看板などで景観の悪化が深刻な状態であり再開発が急がれている。西口第四B地区の[[住宅]]棟と[[ホテル]]棟は[[2010年]]から[[2011年]]にかけ竣工している<ref name = zenrin/><ref name = shobunsha/><ref name="kantobus-annai">[https://www.kantobus.co.jp/route/route.html 関東バス『路線バスのご案内 JR宇都宮駅乗り場のご案内』]</ref><ref name = utsunomiya-nishiguchi-rule>[http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kotsu/buskotsu/014320.html 宇都宮市HP『宇都宮駅西口広場の「一般車乗降ルール」を守りましょう』]</ref><ref name = utsunomiya-nishiguchi-rule-poster>{{PDFlink|[http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/dbps_data/_material_/localhost/sougouseisaku/kotsuseisaku/tirashi.pdf 宇都宮市『宇都宮駅西口広場の「一般車乗降ルール」を守りましょう』広告ポスター]}}</ref><ref name = saikaihatsu-1>[http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/machizukuri/19382/ 宇都宮市HP『市街地再開発事業』]</ref>
<ref name = saikaihatsu-2>[http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/machizukuri/19382/008545.html 宇都宮市HP『宇都宮駅西口第四B地区』]</ref><ref name = richmond-utsunomiya-annex>[http://richmondhotel.jp/utsunomiya-annex/archive_details.php?id=12311 リッチモンドホテル宇都宮駅前アネックス『2010年12月1日 リッチモンドホテル宇都宮駅前アネックス グランドオープン』]</ref>。
一方、宇都宮駅東口は、宇都宮駅開業時より構内の車両留置線や貨物の積み下ろし設備等として機能してきた用地を、[[1971年]](昭和46年)に[[宇都宮貨物ターミナル駅]]へと移転し、また車両基地[[宇都宮運転所]]の機能の一部を[[田端運転所]]に移し、余剰となった線路跡地に設置されたものである。東口地区再開発事業の開始とともに20線を超えた留置線も撤去され、[[2008年]](平成20年)には[[交番]]、バスのりば、タクシーのりば、一般車乗降場が新設された。2つのプラットホームに6つのバスのりば、タクシー乗降所、および一般車両乗降場が設けられている。また再開発にあわせて川向町および東宿郷一丁目のそれぞれ一部の町名称が変更され、市の公募により[[宮みらい]]と命名された。この地区では新たな都市拠点の形成を目指し、商業施設や宿泊施設が入る複合施設やコンベンション施設、交流広場などの整備が宇都宮ライトレールの整備と連携して進められている。この整備事業の詳細は[[宇都宮駅東口交流拠点施設]]の項を参照。
宇都宮駅周辺の主な施設は以下のとおり<ref name = zenrin/><ref name = shobunsha/><ref name = bunka-rekishi>[http://www.utsunomiya-cvb.org/miru/bunka.html 宇都宮観光コンベンション協会『文化・歴史』]</ref><ref name = bijutsukan-hakubutsukan>[http://www.utsunomiya-cvb.org/miru/bijyutsu.html 宇都宮観光コンベンション協会『美術館・博物館』]</ref>。
=== 西口 ===
<!-- 特筆性のない施設(チェーン店・コンビニ・娯楽施設・個人商店など)と解説および所在地の住所や所要時間は記載しないこと -->
; 近接地区(川向町、駅前通り)
{{columns-list|2|
* [[駅ビル]] [[パセオ (宇都宮市)|パセオ]]
** [[JR東日本ホテルメッツ]]宇都宮
* [[トナリエ宇都宮]]
* [[サンルートホテルチェーン|ホテルサンルート]]宇都宮
* 宇都宮ステーションホテル
* [[ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ|チサンホテル]]宇都宮
* [[リッチモンドホテル]]宇都宮駅前・宇都宮駅前アネックス
* ホテル魚楽
* 宇都宮川向郵便局
* [[栃木県道196号宇都宮停車場線]]
* [[餃子像]] - かつては東口にあったが西口に移設された<ref name = gyozazo-1>[https://web.archive.org/web/20130317194528/http://www.47news.jp/CN/200810/CN2008100601000501.html 宇都宮の餃子像が真っ二つ 駅前で移転作業中壊れる]</ref><ref name = gyozazo-2>[https://web.archive.org/web/20131203004057/http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008110101000294.html 宇都宮でギョーザ祭り 壊れた餃子像も復活(共同通信社 47News 2008年11月1日)]</ref>
* [[田川 (利根川水系)|田川]] - [[宮の橋]]
}}
; 近接地区(今泉)
{{columns-list|1|
* [[東横イン]]宇都宮駅前
* [[旧篠原家住宅]]
* [[興禅寺 (宇都宮市)|興禅寺]]([[興禅寺 (宇都宮市)#文化財|釈迦如来像]])
* [[健康ランド]]グランドスパ南大門
* 宇都宮今泉町郵便局
}}
; 南部地区
{{columns-list|1|
* [[善願寺 (宇都宮市)|善願寺]]
* ホテルサンロイヤル宇都宮
* [[こくみん共済 coop]] 栃木推進本部宇都宮店
}}
; 中心市街地地区
{{columns-list|2|
* [[筑波銀行]] 宇都宮支店
* [[群馬銀行]] 宇都宮支店
* [[大東銀行]] 宇都宮支店
* [[山形銀行]] 宇都宮支店
* [[りそな銀行]] 宇都宮支店
* 宇都宮上河原郵便局
* 宇都宮千手町郵便局
* ホテルニューイタヤ
* [[宝蔵寺 (宇都宮市)|宝蔵寺]]([[およりの鐘]])
* [[清巌寺]]([[清巌寺鉄塔婆|鉄塔婆]])
* [[樋爪氏の墓]]
* [[おしどり塚]]
}}
=== 東口 ===
<!-- 特筆性のない施設(チェーン店・コンビニ・娯楽施設・個人商店など)と解説および所在地の住所や所要時間は記載しないこと -->
{{columns-list|2|
* 東口バス乗り場 - 駅東地区へ向かうバスも、一部を除き大半は西口を発着する
* 宇都宮中央病院
* ホテルサンシャイン
* 宇都宮宿郷郵便局
* [[宇都宮駅東公園]]
* [[ウツノミヤテラス]]
* [[ライトキューブ宇都宮]]
* [[ホテルマイステイズ宇都宮]]
}}
== バス路線 ==
{{Main|宇都宮駅バスのりば}}
宇都宮駅には[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]と[[ジェイアールバス関東宇都宮支店|JRバス関東(宇都宮支店)]]の路線バスと宇都宮市が運行する市内循環バス「[[きぶな号]]」、高速バス、空港直行バスが発着する。西口に市内各地への路線バスや[[高速バス]]([[東京国際空港|羽田空港]]・[[成田国際空港|成田空港]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[京都市|京都]]・[[大阪市|大阪]]方面)のターミナルがある。東口には[[岡本駅 (栃木県)|岡本]]、駅東地区に向かう一部路線バスの停留所があるが、便数は限られている<ref name = kantobus-annai/><ref name="kantobus-jikokuhyou-nishiguti-odori">[https://kantobus.info/timetable/select/?no=1&f_from_type=1&f_from=宇都宮駅 関東バス時刻表(宇都宮駅西口)]</ref><ref name="kantobus-jikokuhyou-higashiguti-kinudori">[https://kantobus.info/timetable/select/?no=593&f_from_type=1&f_from=宇都宮駅 関東バス時刻表(宇都宮駅東口)]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_etc/cntimep01.cfm?pa=1&pb=1&pc=j0390111&pd=0&st=1 |title=JRバス関東時刻表【平日】作新学院前 - JR宇都宮駅 - 芳賀町役場・茂木 |access-date=2023-08-18 |publisher=ジェイアールバス関東}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_etc/cntimep01.cfm?pa=1&pb=1&pc=j0390113&pd=0&st=1 |title=JRバス関東時刻表【土休日】作新学院前 - JR宇都宮駅 - 芳賀町役場・茂木 |access-date=2023-08-18 |publisher=ジェイアールバス関東}}</ref>。
* LRT⇔路線バスと[[宇都宮市の地域内交通|宇都宮市地域内交通]]の乗継割引を'''[[地域連携ICカード#totra|totra]]利用者限定で'''宇都宮市・芳賀町による施策により実施している。'''totra'''を使ってLRTと路線バス (関東自動車・JRバス関東) を乗り継ぐと、2乗車目の公共交通の運賃から大人100円・小児50円が割引される。宇都宮市地域内交通と乗り継いだ場合は大人200円・小児100円が割引される<ref>[https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/kotsu/chiikinai/1029813.html LRTとバスと地域内交通の乗継割引制度] - 宇都宮市公式webサイト </ref><ref>[https://www.miyarail.co.jp/faq.html よくあるご質問-乗継割引について] - 宇都宮ライトレール公式webサイト</ref>。なお、宇都宮市内では'''「totra(トトラ)」などの交通系ICカード'''を使って日中(午前9時~午後4時)に路線バスを利用すると、1乗車の運賃の上限が400円になるバスの上限運賃制度も継続されている。
== 舞台となった作品 ==
JR東日本が提供しているロケーションサービスの一環として、宇都宮駅でも種々の作品で撮影が行われている<ref name = jre-youran-2010/><ref name = utsunomiya-film-comission>[http://www.utsunomiya-cvb.org/film/page_07.html 宇都宮フィルムコミッション実績]</ref>。
; 2009年度
* [[2009年]](平成21年)
** [[11月12日]]撮影 - [[テレビ朝日]][[テレビドラマ|ドラマ]]『[[西村京太郎トラベルミステリー]]第53作 ― 山形新幹線つばさ111号の殺人』。
*** 宇都宮駅で撮影。[[2010年]](平成22年)[[2月6日]]放映。
* 2010年(平成22年)
** [[3月28日]]撮影 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]ドラマ『[[Mother (テレビドラマ)|Mother]]』。
*** 宇都宮駅および[[宮の橋]]周辺。第1話(同年[[4月14日]])と第2話(同年[[4月21日]])放送分で放映。
** [[3月31日]]撮影 - [[テレビ東京]]『[[経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断|ルビコンの決断]]{{~}}[[エキナカ]]ビジネス』。
*** 宇都宮駅構内。同[[5月6日]]放送。
** 撮影日不明 - テレビ東京『[[出没!アド街ック天国]]』。
*** 宇都宮駅構内。同[[11月2日]]放送。
== 隣の駅 ==
※山形新幹線の隣の駅の停車駅は列車記事もしくは[[山形新幹線]]を参照のこと。<!--東北新幹線内のうち大宮駅 - 仙台駅間で全ての列車が停車しない駅が存在するため、両隣の停車駅および通過するものの記載はなしでお願いします。列車の記事ならびに路線の記事へのリンクのみにしてください。--->
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 東北新幹線
::: [[小山駅]] - '''宇都宮駅''' - [[那須塩原駅]]
: {{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線
:: {{Color|#f68b1e|■}}快速(「ラビット」を含む)
::: [[雀宮駅]] - '''宇都宮駅'''
:: {{Color|#18a629|■}}普通
::: 雀宮駅 - '''宇都宮駅''' - [[岡本駅 (栃木県)|岡本駅]]
: {{Color|#339966|■}}烏山線(当駅 - 宝積寺駅間は東北本線)
::: '''宇都宮駅''' - 岡本駅
: {{Color|#880022|■}}日光線
::: '''宇都宮駅''' - [[鶴田駅]]
; 宇都宮ライトレール
: {{color|#ffd700|■}}宇都宮芳賀ライトレール線
:::'''宇都宮駅東口停留場''' - [[東宿郷停留場]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|3}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"|2}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="利用客数"|3}}
==== 新幹線 ====
{{Reflist|group="新幹線"|3}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=248|name=宇都宮}}
* 明治26年の駅周辺図[{{NDLDC|843744/46}} 『特別大演習記事. 附表・附図』](国立国会図書館デジタルコレクション)
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[[Category:宇都宮駅|*]]
[[Category:宇都宮市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 う|つのみや]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
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14,391 |
富士山バスター
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『富士山バスター』(フジヤマバスター)は、カネコが開発と製造を行い、1992年9月にサミーにより発売された業務用2D対戦格闘ゲーム。欧題は『Shogun Warriors』。
「欧米人が全力で勘違いした江戸時代」的な世界観を持ち、後に続編的立ち位置の『大江戸ファイト』も製作された。
また、BGMに外国人アーティストを起用したり、英語版のセリフを用意するなど海外市場を意識した作りでもある。
明確なキャラクター名は決まっておらず、ほとんどのキャラクターが職業名や種族名で表示される。
コマンドの内容はプレイヤーが右向き時のもの。
選択可能な8人よりも能力が高いキャラクター。CPU専用なので選択不可。全て飛び道具を持っていて、天狗以外の飛び道具はダメージを受けると必ずダウンしてしまう。
サイトロン・レーベル『G.S.M.1500シリーズ』で、収録曲がサウンドトラックになって発売された。ミニカード「必殺技虎の巻」が同封されており、操作方法や各キャラクターのコマンドが記されている。
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『富士山バスター』(フジヤマバスター)は、カネコが開発と製造を行い、1992年9月にサミーにより発売された業務用2D対戦格闘ゲーム。欧題は『Shogun Warriors』。
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{{コンピュータゲーム
| Title = 富士山バスター
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}}
『'''富士山バスター'''』(フジヤマバスター)は、[[カネコ]]が開発と製造を行い、1992年9月に[[サミー]]により発売された[[アーケードゲーム|業務用]][[対戦型格闘ゲーム|2D対戦格闘ゲーム]]。欧題は『''Shogun Warriors''』。
== 概要 ==
「欧米人が全力で勘違いした[[江戸時代]]」的な世界観を持ち、後に続編的立ち位置の『[[大江戸ファイト]]』も製作された。
また、BGMに外国人アーティストを起用したり、英語版のセリフを用意するなど海外市場を意識した作りでもある。
== システム ==
*選択・操作可能キャラクターは8名、ボスキャラクターは4名。CPU戦では最初は自分が選択したキャラクター以外の操作可能なキャラクター7人(出現順はランダム)と対戦して7勝すると、8戦目からはボスキャラクター達が登場する(順番は固定)。最後のボスキャラクター・五右衛門に勝利するとエンディングとなる。
*4ボタン(弱/強パンチ 弱/強キック)+1レバーの操作体系。他の4ボタンゲームと違い、『[[ストリートファイターII]]』と同じコネクタ(キックハーネス)を使用している。
*コマンド入力はきわめて容易であり、ほぼ全員に飛び道具または回転連続攻撃が存在する。コマンドによっては「ニュートラル」(インストラクションカードでは「・」で表記)の状態までもを含んでいる場合もある。なお本作の必殺技はすべて中段判定になっているので、しゃがみガードではダメージを受けてしまう。後述の鬼が放つ飛び道具は地を這うがこれも中段判定なのでしゃがみガードではダメージを受ける。
*必殺技は弱ボタンで放つ方が飛び道具やキャラクターの動きが速いが、ガードされるとノーダメージである。強ボタンで放つと逆に遅くなるがガードされても相手の体力を削ることができる。
*通常攻撃がレバー入れ・ニュートラル状態の他、しゃがみ時の攻撃もレバーが真下か斜め下かでも変化するなど細かく設定されている。そのため、かっぱ・忍者が可能なスライディングキックもレバーを真下に正確に入れた状態でなければ出すことができない。
*つかみ技は接近して2つのパンチまたはキックボタンを同時に押す。その後ボタン連打(つかみ技が複数あるキャラクターは、連打するボタンで技が変わる)。逆につかまれた時に振りほどく時はレバーをひたすら左右に振る。侍や将軍のような相手をつかんでの打撃攻撃の場合はダメージを与えやすいが、芸者などの投げ技しかない場合は連打が速くないと投げることができない。忍者と相撲には空中投げもあり、これは間合いに入った時に2つのパンチボタン同時押し(逃れることはできない)。
*連続技を受けても、気絶(一定時間動けなくなる)などの概念がない。
*途中、2回のボーナスステージがある。画面中央のだるまや招き猫などのターゲットを時間内に破壊するとボーナス得点が入る。
*先述の通りの世界観のためか、将軍ステージでは背景に高層ビルが見えたり、エンディングではなぜか優勝賞品として車が進呈される。
*CPUはあらゆる攻撃に対応してくるため非常に強い。勝ち進むためには単調になりがちだが、ある程度のパターン化が必要である。
== 登場キャラクター ==
明確なキャラクター名は決まっておらず、ほとんどのキャラクターが職業名や種族名で表示される。
=== プレイヤーキャラクター ===
コマンドの内容はプレイヤーが右向き時のもの。
; [[侍]]
: 外見やセリフや行動は[[遠山の金さん]]風だが、家紋は[[島津家]](丸に十字)。日本刀を持って戦う。
::「残像剣」(飛び道具) 下、左、右+パンチ
::「隼斬り」(連打系) パンチ連打
; [[征夷大将軍|将軍]]
: [[甲冑]]姿だが、使う技は[[ロボット]]じみている。声にエコーが入っていて、両手に日本刀を持って戦う。
::「ドリルアーム」(飛び道具) 左斜め下、ニュートラル、右+パンチ
::「カミカゼアタック」(連打系) パンチ連打
; [[芸者]]
: 本作品の紅一点。生足の超ミニ着物で戦う。勝ちセリフは[[京都弁]]。
::「鶴の舞い」(回転連続攻撃) 右、下、右下+パンチ
::「蝶の舞い」(対空技) 4ボタン同時押し
; [[相撲]]
: [[丁髷]]を結っていない上に化粧回しに「金」と書いているので、相撲取りというより[[金太郎]]に近い。つかみ技が多彩。
::「竜の子アタック」(対空技) 下、ニュートラル、右下+パンチ
::「相撲タックル」(突進系) 4ボタン同時押し
; [[歌舞伎]]
: 連獅子風の外見をしていて、対戦前のアップ画面では角と牙がある鬼のような顔をしている。セリフは英語。
::「スパイダーズスレッド」(その場で電撃攻撃) 下、ニュートラル、右+パンチ ※当てるとしびれさせてダウンさせる
::「ファイアーハリケーン」(対空技) 4ボタン同時押し
; さぶ
: [[消防団|火消し]]。唯一プレイヤーキャラクターでは職業ではなく、固有の名前で呼ばれている。纒を槍状に用いて戦う。全キャラクターで最も通常技のリーチが長い。
::「風林火山」(回転連続攻撃) 下、左下、左、右+パンチ
::「風雲大車輪」(対空技) 4ボタン同時押し
; [[河童|かっぱ]]
: 手足が伸びるトリッキーな性能を持つ。本作品の妖怪キャラクターで唯一のプレイヤーキャラクター。
::「タートルスピンクラッシュ」(回転連続攻撃) 左、左下、下、右下、右+パンチ
::「アイスボム」(対空系) 4ボタン同時押し ※当てると凍らせてダウンさせる
; [[忍者]]
: ゲーム中では覆面を付けているが、対戦前のアップ画面では素顔になっている。選択可能なキャラクターでは唯一必殺技が3つある。
::「背負い手裏剣」(飛び道具) 下、右下、右+パンチ
::「忍法火円輪」(対空技) 4ボタン同時押し ※当てると燃やしてダウンさせる
::「疾蹴り」(連打系) キック連打
=== ボスキャラクター ===
選択可能な8人よりも能力が高いキャラクター。CPU専用なので選択不可。全て飛び道具を持っていて、天狗以外の飛び道具はダメージを受けると必ずダウンしてしまう。
; [[鬼]]
: 一番手のボス。片足に鉄球を付けた青鬼。セリフは英語。地を這う飛び道具は中段判定なので、しゃがみガードではダメージを受ける。
; [[天狗]]
: 二番手のボス。彼も鬼と同様にセリフが英語。スピードがかなり速い。飛び道具は竜巻。
; 弁慶
: 三番手のボス。[[武蔵坊弁慶]]をモチーフにした[[僧兵]]。薙刀を持っている。動きは遅いが対空技で薙刀を振り回すため安易に近づくことができない。
; 五右衛門
: 本作品の最終ボス。外見や勝利ポーズは[[石川五右衛門]]をモチーフにしているが、素手で戦うキャラクター。パワー、スピードともに最終ボスに相応しい能力を誇る。
== その他 ==
[[サイトロン・レーベル]]『G.S.M.1500シリーズ』で、収録曲がサウンドトラックになって発売された。ミニカード「必殺技虎の巻」が同封されており、操作方法や各キャラクターのコマンドが記されている。
== 関連項目 ==
*[[対戦型格闘ゲーム一覧]]
*[[バカゲー]]
*[[アイフル]]
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[[Category:カネコのゲームソフト]]
[[Category:2D対戦型格闘ゲーム]]
[[Category:1992年のアーケードゲーム]]
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1200年
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1200年(1200 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1200年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[正治]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1860年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[慶元]]6年
** [[金 (王朝)|金]] : [[承安 (金)|承安]]5年
* 中国周辺
** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]23年?
** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[天慶 (西夏)|天慶]]7年
** [[大理国]] : [[安定 (大理)|安定]]末年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[神宗 (高麗王)|神宗]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]] : 3533年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天資嘉瑞]]15年
* [[仏滅紀元]] : 1742年 - 1743年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 596年 - 597年
* [[ユダヤ暦]] : 4960年 - 4961年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[梶原景時の変]]で[[梶原氏]]滅亡。
* 藤原俊成女が無名草子を完成させる。
* [[旧暦]]5月に[[源頼家]]が[[念仏]]禁断の命令を出し、1人の[[僧侶]]を逮捕して袈裟を焼かせるという事件を起こす。
* [[旧暦]]8月に[[佐々木経高]]が[[京都]]で騒動を起こし、3か国の[[守護]]職を没収される。
* [[旧暦]]12月に源頼家が[[治承]]以来の新恩500町を越える部分の所領没収を図る。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1200年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月19日]](正治2年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[道元]]、鎌倉時代の[[曹洞宗]]の[[僧]](+ [[1253年]]<ref>{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=752-753 }}</ref>)
* [[7月7日]](正治2年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[北条有時]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](+ [[1270年]])
* [[10月20日]](正治2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[雅成親王]]、鎌倉時代の[[皇族]](+ [[1255年]])
* [[10月28日]] - [[ルートヴィヒ4世 (テューリンゲン方伯)|ルートヴィヒ4世]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]]、[[ザクセン公国|ザクセン]][[宮中伯]](+ [[1227年]])
* [[ウリヤンカダイ]]、[[モンゴル帝国]]の[[将軍]](+ [[1271年]])
* [[公暁]]、鎌倉時代の僧、[[鎌倉幕府]]2代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼家]]の次男(+ [[1219年]])
* [[ビアンカ・ランチア]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の愛妾(+ [[1233年]])
* [[礼子内親王 (後鳥羽天皇皇女)|礼子内親王]]、鎌倉時代の皇族、[[斎院|賀茂斎院]](+ [[1273年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1200年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月13日]] - [[オトン1世 (ブルゴーニュ伯)|オトン1世]]、[[ブルゴーニュ伯]]、[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]](* 1167年-1171年)
* [[2月6日]](正治2年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]])- [[梶原景時]]、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]](* [[1140年]]?)
* 2月6日(正治2年1月20日)- [[梶原景季]]、鎌倉幕府の御家人(* [[1162年]])
* [[2月9日]](正治2年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]])- [[三浦義澄]]、鎌倉幕府の御家人(* [[1127年]])
* [[3月27日]](正治2年[[閏]][[2月11日 (旧暦)|2月11日]])- [[吉田経房]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1142年]])
* [[4月23日]](慶元6年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]])- [[朱熹]]、[[儒学者]](* [[1130年]])
* [[5月27日]](正治2年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]])- [[国分胤長]]、鎌倉時代の[[武将]](* [[1178年]]?)
* [[6月9日]](正治2年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]])- [[安達盛長]]、鎌倉幕府の御家人(* [[1135年]])
* [[8月2日]](正治2年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]])- [[岡崎義実]]、鎌倉時代の武将(* [[1112年]])
* [[8月9日]](正治2年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]])- [[菅原在茂]]、鎌倉時代の[[儒学者]](* [[1121年]])
* [[8月29日]](正治2年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])- [[藤原兼雅]]、鎌倉時代の公卿(* [[1148年]])
* [[アル=ファーディル]]、[[エジプト]]出身の[[ファーティマ朝]]、[[アイユーブ朝]]の[[官僚]](* [[1135年]])
* [[光宗 (宋)|光宗]]、[[南宋]]の第3代[[皇帝]](* [[1147年]])
* [[ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)|ステファン・ネマニャ]]、[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]][[ネマニッチ朝]]の創始者(* [[1113年]])
* [[武田有義]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳)
* [[段智興]]、[[大理国]]の第18代国王(* 生年未詳)
* [[アラーウッディーン・テキシュ]]、[[ホラズム・シャー朝]]の第6代君主(* 生年未詳)
== 脚注 ==
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'''注釈'''
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'''出典'''
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<!--== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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ルーホッラー・ホメイニー
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アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(آیتالله روحالله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī 発音, 1902年9月24日 - 1989年6月3日)は、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者として、同国を精神面から指導した。
「ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本ではホメイニーの存命中から今日に至るまで、外務省や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、死後でも一般にはこのホメイニ師の方がより広く知られている。
1000リアルから10万リアルの7種類の紙幣にその肖像を見ることができる。
ホメイニーは、1902年、イラン中部の人口1万に満たない小さな町・ホメインに、シーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイド(預言者ムハンマドの直系子孫)の家系として生まれ、出生名をルーホッラー・ムーサーヴィーといった。当時イランには近代化政策に伴う創姓法によりすでに家姓が存在したため、ムーサヴィーが本名の姓にあたる。のちに「ホメイン出身の者」を意味するニスバより、ホメイニーを名乗る。なお、シーア派では法学者が出身地などを冠したニスバで呼ばれるのは極めて一般的である。
ホメイニーが生後5ヶ月の時に法学者であった父親が地元の人間により殺害され、母親とおば達によって教育を受ける。16歳の時に二人とも亡くなり、その後は兄に教育を受けた。 幼い頃に亡くなった父にならい、アラークで学んだ後に彼もイランのシーア派の聖地ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの称号を得た。これらの教育や研究の中で「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」という信念を確かなものとし、自分の人生においてもこれを実践するとともに人々に呼びかけた。
そして第二次世界大戦中の1941年頃から、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明する。その後1963年に、皇帝が宣言した「白色革命」の諸改革に潜むイラン皇帝の独裁的な性格を非難、抵抗運動を呼びかけて逮捕される。この時は釈放されるものの政府批判を続け、翌年1964年、ついにホメイニーの国民への影響力を恐れたパフラヴィー皇帝に拉致され、国外追放を受け亡命した。
この「白色革命」を含む皇帝の政策は、石油のアメリカ合衆国やイギリス、日本などへの輸出による豊富な外貨収入を背景にした工業化と西欧化を中心に据えたものであるものの、西欧的で世俗的なだけでなく、多分に独裁的な性格が強く、さらにイランの内情や国民の生活を省みない急激な改革を行ったために貧富の格差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動が起きた。ホメイニーはこの運動のシンボル的な存在だった。
その後、トルコに滞在した後に、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニーは、イラン国民に改革の呼びかけを行う一方、ここでシーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとするホメイニ以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱えた。
このイラク滞在時に長男が突然死しているが、パフラヴィー皇帝の「サヴァク」による暗殺とみられている。1978年にイラクを離れ、フランスに亡命してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。
1979年1月16日、フランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかね、皇帝とその家族がエジプトに亡命。これを受けて、ホメイニーは2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、ただちにイスラーム革命評議会を組織した。
2月11日、評議会はパーレヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し唯一の公式政府となると、「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニーは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きをイラン革命と呼ぶ。
新政権は、その発足直後からイランアメリカ大使館人質事件やイラン・イラク戦争などの外交危機や戦争、バニーサドル大統領と議会多数党のイスラム共和党の対立など、さまざまな危機的状況にもまれたが、革命イランの最高指導者としてホメイニーは、諸政策に強い影響力をもった。ホメイニーは政治・司法・文化をイスラムに基づいて構築し直すことを目指したが、当初はある程度は現実にあわせたイスラムを考えて改革的な政策も施行していた。
ホメイニーは、革命中はかつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者(モスタズアフィーン)」の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗するシーア派社会主義の理念を取り入れ、この革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張した。この主張によってホメイニーは、元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗的中産階級からも支持を取り付け、革命を達成した。
しかし革命達成後は一転して、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル)」として弾圧するなど、事実上の宗教独裁体制を敷いた。さらに1988年に発表された、イギリスの作家サルマン・ラシュディがムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』を「冒涜的」だとして、1989年2月14日に著者のラシュディ、及び発行に関わった者などに対して死刑を宣言するなど、強権的な姿勢をさらに強め、イスラム教国を含む世界各国から強い反発を招いた(日本語訳者の五十嵐一が殺害されたが未解決)。
1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。イラン最高指導者の職はアリー・ハーメネイーが継承した。葬儀の際には、棺を移送中に取り扱いの不手際で棺の蓋が開いて遺体が落下、これを見た一部の参会者がショックで卒倒する一方で、多くの参会者はその衣服や体の一部を「聖遺物」として持ち帰ろうとその遺体に殺到、これが暴徒化して大騒動になった。現在はテヘラン南部のホメイニー廟に祀られている。
ホメイニーの著書『イスラム統治体制』(法学者の統治論)はイスラムに基づく国家と社会のあり方について述べているが、本書の理念はイラン・イスラム共和国憲法の基本原理として盛り込まれた 。
法学者の統治論は十二イマーム派の政治理論であり、ホメイニー以前から存在していたもので、ホメイニーはこれを発展させ、『イスラム統治体制』でイスラム法学者はイスラム政治体制を樹立し、国家権力を持った社会統治を行う(連帯)義務を持っているとした。 また、『イスラム統治体制』ではイスラムの政治体制の目的はイスラムの法を行うことであり、統治者に必要な条件はイスラム法学についての知識と指導者としての公正さであるとし、一般信徒は無謬のイマームに対するのと同じように従う義務があるとされている。
そして、イスラーム法に厳正にのっとった統治を行うことで社会に「イスラーム」的秩序を貫徹させ、汚職のない公平な税収運用、支配者による収奪の徹底した排除、被抑圧者の解放と救済などを達成するよう説いており、彼の主張する「イスラーム的統治」によって、君主や貴族の汚職・浪費・収奪などが批判されたパフラヴィー朝とは全く異なるイスラーム的公益社会を実現しようとした。
ホメイニーは君主制・世襲権力をイスラームの理念に反しているとして否定している。直接にはパフラヴィー朝を指しているが、ホメイニーはそれまで合議制だったカリフ位をウマイヤ家が世襲制にしたことにシーア派が対抗した事例を挙げることで、シーア派の歴史の中に反君主制・世襲権力という動きを見出そうとしている。 ただし、当時シーア派がウマイヤ家のカリフ位世襲に反対したのは、預言者の血縁のアリー家によるカリフ位の世襲を目指したためである。
1988年初め、ホメイニーは公益に適うならば政府の令が伝統的なイスラーム法に優先すると表明した。これは、国家の現実にイスラームの伝統的規範を適合させようとする努力であった。また、当時イスラーム法が政府の令に優先するという伝統的な考え方の人物も多くいるなかでの重要な表明だった。 同年9月、宗教的道徳に反する使用はしないという条件付きで、楽器とチェスの解禁も行った。この時、コムの宗教法学者が権威あるイスラーム・シーア派の伝承を引用してこのことをホメイニーに問いただしたが、ホメイニーは「現代に適応できない宗教学者」のくびきから脱すべしとこの宗教法学者を諭した。
ホメイニーの次に最高指導者となったハーメネイーはその見解でホメイニーの発言や考えにも言及している。(以下はこの見解を参考)
イラン・イスラム革命が勝利した際、ホメイニーは「もしこの運動に女性の協力がなかったら、革命は勝利していなかっただろう」と述べ、女性たちが賛同せず、信じなければこの革命が成功することはなかったとの考えを示した。 イラン・イスラム革命では、参加者の半数が女性であり、女性は革命の先頭にたって戦い、家庭環境においても女性はその家族に文化的な影響を与えた。
ホメイニーは革命時およびその後の革命体制時における女性の役割を、またイスラム社会の完成とその革命的・イスラム的な成熟における女性の地位を、非常に大きなものと見ていた。これには、"イラン人女性・イスラム女性が、「西側の堕落した文化」が築いた道の中で、様々な罠から解放されるための自らの聖なる戦いを、強固な決意で継続する"ことが必須であるとした。
『イスラーム統治論』では、「植民地主義者」の政策に関する警告もなされている。ここでは、西側の植民地主義者は、300年あるいはそれ以上前からイスラム諸国に進出していたが、自分たちの利益獲得を難しくし、その政治的権力を危うくしているのはイスラームとその法規範、人々のイスラームへの信仰だと見做したため、多様な手段をもって反イスラームの宣伝と陰謀を実施したとされている。当時、宗教学院界で養成された布教者、大学や政府の宣伝機構、印刷出版所における植民地主義者の代理人、植民地主義的な諸政府に奉仕する東洋学者たちがこの政策に協力し、本来真理と正義を求める人々の宗教であるイスラムを捻じ曲げ、異なった形で紹介し、一般の人々に誤った考えを持たせ、宗教学院界で不完全なイスラムの姿を提示したとする。
この理由として、「イスラームの活力と革命的性格を奪い、そしてムスリムたちが努力すること、運動に従事すること、自由を求めること、イスラームの法規範の執行を求めること、ムスリムたちの幸福を保障し人間としての尊厳を保った生活を認める統治(体制)を作ること、これらを阻止する意図である」としている。 この例として「イスラームは包括的な宗教ではない。生活に即した宗教ではない。社会(運営)のための諸制度や諸法を持っていない。統治方法やその諸法を持っていない。」、「倫理性も持つが、生活や社会の運営には値しない」と宣伝されていたことが挙げられている。
本来のイスラームはもちろんまったく異なる極めて政治的な宗教であるが、当時これらの「植民地主義者」の悪意のある宣伝は効果を上げており、一般の民衆よりも教育を受けた大学人や宗教学徒のほうが誤った考えを信じてイスラムをまったく正しく理解していなく、もし誰かが正しいイスラームを紹介しようとしても人々は簡単には信じようとはせず、逆に宗教学院の植民地主義の協力者が騒ぎ立てるという状況があった、としている 。
この植民地主義の宣伝が誤っていることを証明するために、ホメイニーは次のように述べている。「コーランにおいて、社会問題に言及した箇所と(社会問題ではなく個人的次元に属する)宗教儀礼の章句の比は100対1以上である。約50巻からなり、すべての法規範を包含する伝承の1セット中、3巻ないし4巻が宗教儀礼ならびに神に対する人間の義務に関連し、また、一部の法規範は道徳に関連しているが、残りはすべて社会・経済・法律・政治・社会運営に関連している(つまり、「本来のイスラーム」は個人次元の信仰よりも、社会問題により多く関わるものである)」
以上のことを述べた上で、若い世代に向けて自分が述べる論題について研究しながら、イスラムの諸法と制度を紹介するために生涯努力し、イスラムがそのはじめからいかなる障害に直面し、現在いかなる敵意と苦難に直面しているかを人々に知らせ、イスラムの本質と真実が覆い隠されたままにしてはならない、キリスト教と同じくイスラムも神と人民の関係(社会と関わりをもたない関係)についての命令のみの宗教だと人々が考えないようにしなければならない、と訴えている。
また、同著でユダヤ人の反イスラーム宣伝に関する記述もある。
「(第三次中東戦争〈1967年〉直後の)今日ユダヤ教徒が意のままに改ざんしたコーランをイスラエルの占領地で印刷していること」を挙げた上で、「声をあげ、人々に気づかせ、もってユダヤ教徒たちや彼らを支援する外国の者たちはイスラームの根幹に反対し、ユダヤ教徒の統治を世界に打ちたてようとしていることをはっきりさせなければならない。我々一部の者の無気力さが原因となって、ユダヤ教徒が我々を統治することになるのを恐れる」と述べており、これらの人々をムスリムたちを脅かす存在として、イランにおいて存在し、宣教活動を行っていることに対して危惧の念を示している。
ホメイニーは著作に於いて「イスラムの支配下に於いて異教徒は一定程度の人権を守られるだけで満足するべきであり、政治的権利など与えられない」と主張している。著書において、現代においてもジズヤ徴収(すなわちズィンミー制)は有効だと主張している箇所がある。
パフラヴィー朝下の1962年10月6日に、政府が地方選挙において選挙権・被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハイ教徒などにも市民権を拡大させようとした時には、バハイ教徒を背教者として憎悪する12イマーム派の立場から、同僚の法学者とともに激しい抗議運動を行い、同法を撤回させた。しかし、後に「彼ら(バハイ教徒)が我々(ムスリム)をしだいに弛緩させて相互に離反させ、各個人に「宗教義務」を明らかにした結果、[我々]に言葉の違いと混乱が広がった。そして今や、彼らが望むことを何でもムスリムたちやイスラーム国家に対して行っている」と主張している。
著書でイスラム以前の時代に関して、アメリカ先住民を「野蛮な状態で日々を過ごす半開化の赤色人」、古代の(自国である)イランとローマの国家を指して「専制支配、貴族性、差別性の下にあり、専横なる人々の支配下で、人々や法による統治の痕跡は無かった」と述べている。イスラム教では、発祥の地であるアラビア半島のこともイスラム教以前の時代は「ジャーヒリーヤ時代(無知、無明時代)」とされ、野蛮な時代とされている。
イスラエルのユダヤ人に対してはイスラエルのパレスチナ占領およびパレスチナ人への抑圧という事情もあって対立する立場で、イスラームの初期におけるユダヤ人との確執を「反イスラームの宣伝と陰謀」とし、現在のパレスチナ問題に至るまでこの対立が尾を引いたものと認識している。
また、公正なる支配者に関する記述で、「ムスリムたちと人類社会を統治するものは常に公的な諸面と利益に配慮し、個人的な諸面や個人的な愛着には目をつむらなければならない」とし、それゆえにイスラームでは社会、人類の利益に反する部族・集団は滅ぼしてきたとしている。例としてムハンマドがクライザ族が腐敗を増やしていたために滅ぼした(クライザ族虐殺事件)ことを挙げている。
ホメイニーはハッド刑に関しても、著書でその必要性を強く主張していた。例として(ホメイニーは「堕落」と表現している)婚外性交渉を行ったものに対する100回の鞭打ち(未婚者)や石打ちによる死刑(既婚者)、窃盗犯に対する人体切断などをあげている。
結果として、ホメイニーが著書で主張した政体のほとんどが、革命イランのイスラム共和制において実現された。
イラン刑法はイスラム法体系(シャリーア)の規定にそい、イスラームを棄教したもの、婚外性交渉をした者や同性愛者に対する鞭打ち刑や投石殺刑などを定めている。またイスラーム以外の宗教のうち、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教は、当初のホメイニーの主張通りにズィンミーになることは免れ、憲法でもその尊重がうたわれたものの、政治的権利や信仰の自由などでイスラム教徒に対して劣勢に置かれることとなった。また、バハイ教徒や無神論者は完全にその存在を否定され、発覚した場合死刑である。
ホメイニーには15人の孫がいるが、そのうちの4名が政治活動を行っている。最年長のホセイン(英語版)は祖父の掲げた「法学者による統治論」の廃止と世俗国家化を主張し、「聖職者(ウラマー)が政治介入する現体制は全体主義も同然」として体制転換を主張しており、現在はイラン当局により自宅軟禁下に置かれている。アリーは改革派陣営から2008年の議会選挙に立候補したが、保守派のウラマーで構成される監督者評議会の審査により立候補資格を剥奪された。同じく改革派から立候補した孫娘のザフラー (en) も立候補資格を取り消されている。このため、ホメイニーの孫で現在も政治に関わっているのはハサン(英語版)ただ一人である。そのハサンも2009年1月31日に行われたイスラーム革命30周年記念式典での演説で革命がイスラーム主義者だけではなく、左翼や民族主義者など全ての勢力が参加して実現できたとし、間接的にではあるが、現在の体制に不満を表明したといわれる。また最近は、2009年の大統領選挙後の国内騒乱で逮捕された改革派幹部の家族宅を慰問したり、国営放送の祖父ホメイニーに関する放送内容があまりに一面的だと抗議するなど、保守強硬派主導の革命体制に反発しているとされる。このため保守強硬派の間にはハサンに対する不満が存在しており、2010年6月4日に開かれたホメイニー死去から21周年を記念する集会では、アフマディーネジャード大統領の支持者がハサンの演説途中に「偽善者に死を!」「ムーサヴィーに死を!」などと叫んで妨害し、ハサンの演説が中断に追い込まれるという一幕があった。
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"text": "アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(آیتالله روحالله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī 発音, 1902年9月24日 - 1989年6月3日)は、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者として、同国を精神面から指導した。",
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"text": "「ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本ではホメイニーの存命中から今日に至るまで、外務省や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、死後でも一般にはこのホメイニ師の方がより広く知られている。",
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"text": "1000リアルから10万リアルの7種類の紙幣にその肖像を見ることができる。",
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"text": "ホメイニーは、1902年、イラン中部の人口1万に満たない小さな町・ホメインに、シーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称するサイイド(預言者ムハンマドの直系子孫)の家系として生まれ、出生名をルーホッラー・ムーサーヴィーといった。当時イランには近代化政策に伴う創姓法によりすでに家姓が存在したため、ムーサヴィーが本名の姓にあたる。のちに「ホメイン出身の者」を意味するニスバより、ホメイニーを名乗る。なお、シーア派では法学者が出身地などを冠したニスバで呼ばれるのは極めて一般的である。",
"title": "経歴について"
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"text": "ホメイニーが生後5ヶ月の時に法学者であった父親が地元の人間により殺害され、母親とおば達によって教育を受ける。16歳の時に二人とも亡くなり、その後は兄に教育を受けた。 幼い頃に亡くなった父にならい、アラークで学んだ後に彼もイランのシーア派の聖地ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの称号を得た。これらの教育や研究の中で「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」という信念を確かなものとし、自分の人生においてもこれを実践するとともに人々に呼びかけた。",
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"text": "そして第二次世界大戦中の1941年頃から、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明する。その後1963年に、皇帝が宣言した「白色革命」の諸改革に潜むイラン皇帝の独裁的な性格を非難、抵抗運動を呼びかけて逮捕される。この時は釈放されるものの政府批判を続け、翌年1964年、ついにホメイニーの国民への影響力を恐れたパフラヴィー皇帝に拉致され、国外追放を受け亡命した。",
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"text": "この「白色革命」を含む皇帝の政策は、石油のアメリカ合衆国やイギリス、日本などへの輸出による豊富な外貨収入を背景にした工業化と西欧化を中心に据えたものであるものの、西欧的で世俗的なだけでなく、多分に独裁的な性格が強く、さらにイランの内情や国民の生活を省みない急激な改革を行ったために貧富の格差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動が起きた。ホメイニーはこの運動のシンボル的な存在だった。",
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"text": "その後、トルコに滞在した後に、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニーは、イラン国民に改革の呼びかけを行う一方、ここでシーア派のイスラム法学者がお隠れ(ガイバ)中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとするホメイニ以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱えた。",
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"text": "このイラク滞在時に長男が突然死しているが、パフラヴィー皇帝の「サヴァク」による暗殺とみられている。1978年にイラクを離れ、フランスに亡命してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。",
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"text": "1979年1月16日、フランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかね、皇帝とその家族がエジプトに亡命。これを受けて、ホメイニーは2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、ただちにイスラーム革命評議会を組織した。",
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"text": "2月11日、評議会はパーレヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し唯一の公式政府となると、「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニーは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きをイラン革命と呼ぶ。",
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"text": "新政権は、その発足直後からイランアメリカ大使館人質事件やイラン・イラク戦争などの外交危機や戦争、バニーサドル大統領と議会多数党のイスラム共和党の対立など、さまざまな危機的状況にもまれたが、革命イランの最高指導者としてホメイニーは、諸政策に強い影響力をもった。ホメイニーは政治・司法・文化をイスラムに基づいて構築し直すことを目指したが、当初はある程度は現実にあわせたイスラムを考えて改革的な政策も施行していた。",
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"text": "ホメイニーは、革命中はかつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者(モスタズアフィーン)」の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗するシーア派社会主義の理念を取り入れ、この革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張した。この主張によってホメイニーは、元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗的中産階級からも支持を取り付け、革命を達成した。",
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"text": "しかし革命達成後は一転して、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル)」として弾圧するなど、事実上の宗教独裁体制を敷いた。さらに1988年に発表された、イギリスの作家サルマン・ラシュディがムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』を「冒涜的」だとして、1989年2月14日に著者のラシュディ、及び発行に関わった者などに対して死刑を宣言するなど、強権的な姿勢をさらに強め、イスラム教国を含む世界各国から強い反発を招いた(日本語訳者の五十嵐一が殺害されたが未解決)。",
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"text": "1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。イラン最高指導者の職はアリー・ハーメネイーが継承した。葬儀の際には、棺を移送中に取り扱いの不手際で棺の蓋が開いて遺体が落下、これを見た一部の参会者がショックで卒倒する一方で、多くの参会者はその衣服や体の一部を「聖遺物」として持ち帰ろうとその遺体に殺到、これが暴徒化して大騒動になった。現在はテヘラン南部のホメイニー廟に祀られている。",
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"text": "ホメイニーの著書『イスラム統治体制』(法学者の統治論)はイスラムに基づく国家と社会のあり方について述べているが、本書の理念はイラン・イスラム共和国憲法の基本原理として盛り込まれた 。",
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"text": "法学者の統治論は十二イマーム派の政治理論であり、ホメイニー以前から存在していたもので、ホメイニーはこれを発展させ、『イスラム統治体制』でイスラム法学者はイスラム政治体制を樹立し、国家権力を持った社会統治を行う(連帯)義務を持っているとした。 また、『イスラム統治体制』ではイスラムの政治体制の目的はイスラムの法を行うことであり、統治者に必要な条件はイスラム法学についての知識と指導者としての公正さであるとし、一般信徒は無謬のイマームに対するのと同じように従う義務があるとされている。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "そして、イスラーム法に厳正にのっとった統治を行うことで社会に「イスラーム」的秩序を貫徹させ、汚職のない公平な税収運用、支配者による収奪の徹底した排除、被抑圧者の解放と救済などを達成するよう説いており、彼の主張する「イスラーム的統治」によって、君主や貴族の汚職・浪費・収奪などが批判されたパフラヴィー朝とは全く異なるイスラーム的公益社会を実現しようとした。",
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"text": "ホメイニーは君主制・世襲権力をイスラームの理念に反しているとして否定している。直接にはパフラヴィー朝を指しているが、ホメイニーはそれまで合議制だったカリフ位をウマイヤ家が世襲制にしたことにシーア派が対抗した事例を挙げることで、シーア派の歴史の中に反君主制・世襲権力という動きを見出そうとしている。 ただし、当時シーア派がウマイヤ家のカリフ位世襲に反対したのは、預言者の血縁のアリー家によるカリフ位の世襲を目指したためである。",
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"text": "1988年初め、ホメイニーは公益に適うならば政府の令が伝統的なイスラーム法に優先すると表明した。これは、国家の現実にイスラームの伝統的規範を適合させようとする努力であった。また、当時イスラーム法が政府の令に優先するという伝統的な考え方の人物も多くいるなかでの重要な表明だった。 同年9月、宗教的道徳に反する使用はしないという条件付きで、楽器とチェスの解禁も行った。この時、コムの宗教法学者が権威あるイスラーム・シーア派の伝承を引用してこのことをホメイニーに問いただしたが、ホメイニーは「現代に適応できない宗教学者」のくびきから脱すべしとこの宗教法学者を諭した。",
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"text": "ホメイニーの次に最高指導者となったハーメネイーはその見解でホメイニーの発言や考えにも言及している。(以下はこの見解を参考)",
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"text": "イラン・イスラム革命が勝利した際、ホメイニーは「もしこの運動に女性の協力がなかったら、革命は勝利していなかっただろう」と述べ、女性たちが賛同せず、信じなければこの革命が成功することはなかったとの考えを示した。 イラン・イスラム革命では、参加者の半数が女性であり、女性は革命の先頭にたって戦い、家庭環境においても女性はその家族に文化的な影響を与えた。",
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"text": "ホメイニーは革命時およびその後の革命体制時における女性の役割を、またイスラム社会の完成とその革命的・イスラム的な成熟における女性の地位を、非常に大きなものと見ていた。これには、\"イラン人女性・イスラム女性が、「西側の堕落した文化」が築いた道の中で、様々な罠から解放されるための自らの聖なる戦いを、強固な決意で継続する\"ことが必須であるとした。",
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"text": "『イスラーム統治論』では、「植民地主義者」の政策に関する警告もなされている。ここでは、西側の植民地主義者は、300年あるいはそれ以上前からイスラム諸国に進出していたが、自分たちの利益獲得を難しくし、その政治的権力を危うくしているのはイスラームとその法規範、人々のイスラームへの信仰だと見做したため、多様な手段をもって反イスラームの宣伝と陰謀を実施したとされている。当時、宗教学院界で養成された布教者、大学や政府の宣伝機構、印刷出版所における植民地主義者の代理人、植民地主義的な諸政府に奉仕する東洋学者たちがこの政策に協力し、本来真理と正義を求める人々の宗教であるイスラムを捻じ曲げ、異なった形で紹介し、一般の人々に誤った考えを持たせ、宗教学院界で不完全なイスラムの姿を提示したとする。",
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"text": "この理由として、「イスラームの活力と革命的性格を奪い、そしてムスリムたちが努力すること、運動に従事すること、自由を求めること、イスラームの法規範の執行を求めること、ムスリムたちの幸福を保障し人間としての尊厳を保った生活を認める統治(体制)を作ること、これらを阻止する意図である」としている。 この例として「イスラームは包括的な宗教ではない。生活に即した宗教ではない。社会(運営)のための諸制度や諸法を持っていない。統治方法やその諸法を持っていない。」、「倫理性も持つが、生活や社会の運営には値しない」と宣伝されていたことが挙げられている。",
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"text": "本来のイスラームはもちろんまったく異なる極めて政治的な宗教であるが、当時これらの「植民地主義者」の悪意のある宣伝は効果を上げており、一般の民衆よりも教育を受けた大学人や宗教学徒のほうが誤った考えを信じてイスラムをまったく正しく理解していなく、もし誰かが正しいイスラームを紹介しようとしても人々は簡単には信じようとはせず、逆に宗教学院の植民地主義の協力者が騒ぎ立てるという状況があった、としている 。",
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"text": "この植民地主義の宣伝が誤っていることを証明するために、ホメイニーは次のように述べている。「コーランにおいて、社会問題に言及した箇所と(社会問題ではなく個人的次元に属する)宗教儀礼の章句の比は100対1以上である。約50巻からなり、すべての法規範を包含する伝承の1セット中、3巻ないし4巻が宗教儀礼ならびに神に対する人間の義務に関連し、また、一部の法規範は道徳に関連しているが、残りはすべて社会・経済・法律・政治・社会運営に関連している(つまり、「本来のイスラーム」は個人次元の信仰よりも、社会問題により多く関わるものである)」",
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"text": "以上のことを述べた上で、若い世代に向けて自分が述べる論題について研究しながら、イスラムの諸法と制度を紹介するために生涯努力し、イスラムがそのはじめからいかなる障害に直面し、現在いかなる敵意と苦難に直面しているかを人々に知らせ、イスラムの本質と真実が覆い隠されたままにしてはならない、キリスト教と同じくイスラムも神と人民の関係(社会と関わりをもたない関係)についての命令のみの宗教だと人々が考えないようにしなければならない、と訴えている。",
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"text": "また、同著でユダヤ人の反イスラーム宣伝に関する記述もある。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "「(第三次中東戦争〈1967年〉直後の)今日ユダヤ教徒が意のままに改ざんしたコーランをイスラエルの占領地で印刷していること」を挙げた上で、「声をあげ、人々に気づかせ、もってユダヤ教徒たちや彼らを支援する外国の者たちはイスラームの根幹に反対し、ユダヤ教徒の統治を世界に打ちたてようとしていることをはっきりさせなければならない。我々一部の者の無気力さが原因となって、ユダヤ教徒が我々を統治することになるのを恐れる」と述べており、これらの人々をムスリムたちを脅かす存在として、イランにおいて存在し、宣教活動を行っていることに対して危惧の念を示している。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "ホメイニーは著作に於いて「イスラムの支配下に於いて異教徒は一定程度の人権を守られるだけで満足するべきであり、政治的権利など与えられない」と主張している。著書において、現代においてもジズヤ徴収(すなわちズィンミー制)は有効だと主張している箇所がある。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "パフラヴィー朝下の1962年10月6日に、政府が地方選挙において選挙権・被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハイ教徒などにも市民権を拡大させようとした時には、バハイ教徒を背教者として憎悪する12イマーム派の立場から、同僚の法学者とともに激しい抗議運動を行い、同法を撤回させた。しかし、後に「彼ら(バハイ教徒)が我々(ムスリム)をしだいに弛緩させて相互に離反させ、各個人に「宗教義務」を明らかにした結果、[我々]に言葉の違いと混乱が広がった。そして今や、彼らが望むことを何でもムスリムたちやイスラーム国家に対して行っている」と主張している。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "著書でイスラム以前の時代に関して、アメリカ先住民を「野蛮な状態で日々を過ごす半開化の赤色人」、古代の(自国である)イランとローマの国家を指して「専制支配、貴族性、差別性の下にあり、専横なる人々の支配下で、人々や法による統治の痕跡は無かった」と述べている。イスラム教では、発祥の地であるアラビア半島のこともイスラム教以前の時代は「ジャーヒリーヤ時代(無知、無明時代)」とされ、野蛮な時代とされている。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "イスラエルのユダヤ人に対してはイスラエルのパレスチナ占領およびパレスチナ人への抑圧という事情もあって対立する立場で、イスラームの初期におけるユダヤ人との確執を「反イスラームの宣伝と陰謀」とし、現在のパレスチナ問題に至るまでこの対立が尾を引いたものと認識している。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "また、公正なる支配者に関する記述で、「ムスリムたちと人類社会を統治するものは常に公的な諸面と利益に配慮し、個人的な諸面や個人的な愛着には目をつむらなければならない」とし、それゆえにイスラームでは社会、人類の利益に反する部族・集団は滅ぼしてきたとしている。例としてムハンマドがクライザ族が腐敗を増やしていたために滅ぼした(クライザ族虐殺事件)ことを挙げている。",
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"text": "ホメイニーはハッド刑に関しても、著書でその必要性を強く主張していた。例として(ホメイニーは「堕落」と表現している)婚外性交渉を行ったものに対する100回の鞭打ち(未婚者)や石打ちによる死刑(既婚者)、窃盗犯に対する人体切断などをあげている。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "結果として、ホメイニーが著書で主張した政体のほとんどが、革命イランのイスラム共和制において実現された。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "イラン刑法はイスラム法体系(シャリーア)の規定にそい、イスラームを棄教したもの、婚外性交渉をした者や同性愛者に対する鞭打ち刑や投石殺刑などを定めている。またイスラーム以外の宗教のうち、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教は、当初のホメイニーの主張通りにズィンミーになることは免れ、憲法でもその尊重がうたわれたものの、政治的権利や信仰の自由などでイスラム教徒に対して劣勢に置かれることとなった。また、バハイ教徒や無神論者は完全にその存在を否定され、発覚した場合死刑である。",
"title": "主義と主張について"
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"text": "ホメイニーには15人の孫がいるが、そのうちの4名が政治活動を行っている。最年長のホセイン(英語版)は祖父の掲げた「法学者による統治論」の廃止と世俗国家化を主張し、「聖職者(ウラマー)が政治介入する現体制は全体主義も同然」として体制転換を主張しており、現在はイラン当局により自宅軟禁下に置かれている。アリーは改革派陣営から2008年の議会選挙に立候補したが、保守派のウラマーで構成される監督者評議会の審査により立候補資格を剥奪された。同じく改革派から立候補した孫娘のザフラー (en) も立候補資格を取り消されている。このため、ホメイニーの孫で現在も政治に関わっているのはハサン(英語版)ただ一人である。そのハサンも2009年1月31日に行われたイスラーム革命30周年記念式典での演説で革命がイスラーム主義者だけではなく、左翼や民族主義者など全ての勢力が参加して実現できたとし、間接的にではあるが、現在の体制に不満を表明したといわれる。また最近は、2009年の大統領選挙後の国内騒乱で逮捕された改革派幹部の家族宅を慰問したり、国営放送の祖父ホメイニーに関する放送内容があまりに一面的だと抗議するなど、保守強硬派主導の革命体制に反発しているとされる。このため保守強硬派の間にはハサンに対する不満が存在しており、2010年6月4日に開かれたホメイニー死去から21周年を記念する集会では、アフマディーネジャード大統領の支持者がハサンの演説途中に「偽善者に死を!」「ムーサヴィーに死を!」などと叫んで妨害し、ハサンの演説が中断に追い込まれるという一幕があった。",
"title": "孫たちについて"
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アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーは、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者として、同国を精神面から指導した。 「ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本ではホメイニーの存命中から今日に至るまで、外務省や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、死後でも一般にはこのホメイニ師の方がより広く知られている。 1000リアルから10万リアルの7種類の紙幣にその肖像を見ることができる。
|
{{大統領
| 人名 = ルーホッラー・ホメイニー
| 各国語表記 = روحالله خمینی
| 画像 = Portrait of Ruhollah Khomeini.jpg
| 画像サイズ = 202px
| キャプション =1981年
| 国名 = {{Flagicon|IRN}} [[イラン・イスラム共和国]]
| 代数 = [[File:Emblem of Iran.svg|18px]] 初
| 職名 = [[イランの最高指導者|最高指導者]]
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1902|09|21|1989|06|03}}
| 没地 = {{IRN}}、[[テヘラン]]
| 配偶者 = ハディージェ・サカフィー
| 政党 =
| サイン = Ruhollah Khomeini signature.svg
}}
'''アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー'''({{lang|fa|آیتالله روحالله خمینی}}, {{lang|fa-Latn|Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī}} {{audio|Fa-ir-khomeini_(1).ogg|発音}}, [[1902年]][[9月24日]] - [[1989年]][[6月3日]])は、[[イラン]]における[[シーア派]]の[[十二イマーム派]]の精神的指導者であり、[[政治家]]、[[法学者]]。1979年に[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パフラヴィー]]皇帝を国外に追放し、[[イスラム共和制|イスラム共和制政体]]を成立させた[[イラン革命]]の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の[[元首]]である[[イランの最高指導者|最高指導者]]として、同国を精神面から指導した。
「ルーホッラー・ホメイニー」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本ではホメイニーの存命中から今日に至るまで、[[外務省]]<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/searchresult.html?cx=011758268112499481406%3Afkqokg_sxzw&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E5%B8%AB&siteurl=www.mofa.go.jp%2Fmofaj%2F&ref=www.google.com%2F&ss=56j3136j2 外務省公式サイト]における「ホメイニ師」表記の類例。</ref>や新聞・報道は一貫して「ホメイニ師」「アヤトラ・ホメイニ師」などと表記しており、死後でも一般にはこの'''ホメイニ師'''の方がより広く知られている。
1000[[イラン・リアル|リアル]]から10万リアルの7種類の紙幣にその肖像を見ることができる。
== 経歴について ==
{{観点|date=2010年10月|section=1}}
===生い立ち===
[[ファイル:خمینی و همدرسان.JPG|250px|thumb|若い頃のホメイニー(右から2人目)]]
{{イスラム主義のサイドバー}}
{{Islam}}
ホメイニーは、1902年、イラン中部の人口1万に満たない小さな町・ホメインに、シーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称する[[サイイド]]([[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の直系子孫)の家系として生まれ、出生名をルーホッラー・ムーサーヴィーといった。当時イランには近代化政策に伴う創姓法によりすでに家姓が存在したため、ムーサヴィーが本名の姓にあたる。のちに「ホメイン出身の者」を意味する[[ニスバ]]より、ホメイニーを名乗る。なお、シーア派では法学者が出身地などを冠したニスバで呼ばれるのは極めて一般的である。
ホメイニーが生後5ヶ月の時に法学者であった父親が地元の人間により殺害され、母親とおば達によって教育を受ける。16歳の時に二人とも亡くなり、その後は兄に教育を受けた。
幼い頃に亡くなった父にならい、アラークで学んだ後に彼もイランのシーア派の聖地[[ゴム (イラン)|ゴム]]で[[イスラム法学]]を修め、シーア派の上級法学者を意味する[[アーヤトッラー]]の称号を得た。これらの教育や研究の中で「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」という信念を確かなものとし、自分の人生においてもこれを実践するとともに人々に呼びかけた。
===皇帝の政策への批判と反帝制運動===
そして[[第二次世界大戦]]中の1941年頃から、[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明する。その後1963年に、皇帝が宣言した「[[白色革命]]」の諸改革に潜むイラン皇帝の独裁的な性格を非難、抵抗運動を呼びかけて逮捕される。この時は釈放されるものの政府批判を続け、翌年1964年、ついにホメイニーの国民への影響力を恐れたパフラヴィー皇帝に拉致され、国外追放を受け亡命した。
この「白色革命」を含む皇帝の政策は、石油の[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス]]、[[日本]]などへの輸出による豊富な外貨収入を背景にした工業化と西欧化を中心に据えたものであるものの、西欧的で世俗的なだけでなく、多分に独裁的な性格が強く、さらにイランの内情や国民の生活を省みない急激な改革を行ったために貧富の格差が増大した。これらのことに国民は反発して抵抗運動が起きた。ホメイニーはこの運動のシンボル的な存在だった。
その後、トルコに滞在した後に、[[イラク]]のシーア派の聖地[[ナジャフ]]に移ったホメイニーは、イラン国民に改革の呼びかけを行う一方、ここでシーア派のイスラム法学者がお隠れ([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])中のイマームに代わって信徒の統治を行わなければならないとするホメイニ以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「[[法学者の統治論]](ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱えた。
このイラク滞在時に長男が突然死しているが、パフラヴィー皇帝の「[[サヴァク]]」による暗殺とみられている。1978年にイラクを離れ、[[フランス]]に[[亡命]]してからも、一貫して国外からイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。
===革命の成功===
1979年1月16日、フランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかね、皇帝とその家族が[[エジプト]]に亡命。これを受けて、ホメイニーは2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、ただちに[[イスラーム革命評議会]]を組織した。
2月11日、評議会はパーレヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し唯一の公式政府となると、「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得た。4月1日、ホメイニーは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の[[イランの最高指導者|最高指導者]]([[国家元首]])となり、任期4年の[[イランの大統領|大統領]](行政府の長)をも指導しうる、文字通り同国の最高指導者となった。この一連の動きを[[イラン革命]]と呼ぶ。
===国家元首として===
新政権は、その発足直後から[[イランアメリカ大使館人質事件]]や[[イラン・イラク戦争]]などの外交危機や戦争、[[アボルハサン・バニーサドル|バニーサドル]]大統領と議会多数党の[[イスラム共和党]]の対立など、さまざまな危機的状況にもまれたが、革命イランの最高指導者としてホメイニーは、諸政策に強い影響力をもった。ホメイニーは政治・司法・文化を[[イスラム]]に基づいて構築し直すことを目指したが、当初はある程度は現実にあわせたイスラムを考えて改革的な政策も施行していた。
ホメイニーは、革命中はかつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者(モスタズアフィーン)」の抵抗の象徴とし、皇帝の独裁に対抗する[[シーア派社会主義]]の理念を取り入れ、この革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張した。この主張によってホメイニーは、元来社会主義の支持者だった貧困層や世俗的中産階級からも支持を取り付け、革命を達成した。
しかし革命達成後は一転して、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル<!--語義-->)」として弾圧するなど、事実上の宗教独裁体制を敷いた<ref>ジル・ケペル『ジハード-イスラム主義の発展と衰退』第5章「イラン革命とホメイニーの遺産」。</ref>。さらに[[1988年]]に発表された、[[イギリス]]の作家[[サルマン・ラシュディ]]が[[ムハンマド]]の生涯を題材に書いた小説『[[悪魔の詩]]』を「冒涜的」だとして、1989年2月14日に著者のラシュディ、及び発行に関わった者などに対して死刑を宣言するなど、強権的な姿勢をさらに強め、イスラム教国を含む世界各国から強い反発を招いた(日本語訳者の[[五十嵐一]]が殺害されたが未解決)。
===死去===
1989年6月3日死去。86歳だった。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。イラン最高指導者の職は[[アリー・ハーメネイー]]が継承した。葬儀の際には、棺を移送中に取り扱いの不手際で棺の蓋が開いて遺体が落下、これを見た一部の参会者がショックで卒倒する一方で、多くの参会者はその衣服や体の一部を「聖遺物」として持ち帰ろうとその遺体に殺到、これが暴徒化して大騒動になった。現在はテヘラン南部の[[ホメイニー廟]]に祀られている。
== 主義と主張について ==
=== 統治形態について ===
ホメイニーの著書『イスラム統治体制』(法学者の統治論)はイスラムに基づく国家と社会のあり方について述べているが、本書の理念は[[イラン・イスラム共和国]]憲法の基本原理として盛り込まれた<ref>『新イスラム事典』日本イスラム協会監修(2002)、445頁。</ref> 。
法学者の統治論は[[十二イマーム派]]の政治理論であり、ホメイニー以前から存在していたもので、ホメイニーはこれを発展させ、『イスラム統治体制』で[[イスラム法学者]]はイスラム政治体制を樹立し、国家権力を持った社会統治を行う(連帯)義務を持っているとした。
また、『イスラム統治体制』ではイスラムの政治体制の目的はイスラムの法を行うことであり、統治者に必要な条件はイスラム[[法学]]についての知識と指導者としての[[公正]]さであるとし、一般信徒は無謬の[[イマーム]]に対するのと同じように従う義務があるとされている<ref>『新イスラム事典』442頁。</ref>。
そして、イスラーム法に厳正にのっとった統治を行うことで社会に「イスラーム」的秩序を貫徹させ、汚職のない公平な税収運用<ref>ホメイニー (2003)、33-35頁。</ref>、支配者による収奪の徹底した排除<ref>ホメイニー (2003)、50-51頁。</ref>、被抑圧者の解放と救済<ref>ホメイニー (2003)、39-40頁。</ref>などを達成するよう説いており、彼の主張する「イスラーム的統治」によって、君主や貴族の汚職・浪費・収奪などが批判されたパフラヴィー朝とは全く異なるイスラーム的公益社会を実現しようとした。
ホメイニーは君主制・世襲権力をイスラームの理念に反しているとして否定している。直接にはパフラヴィー朝を指しているが、ホメイニーはそれまで合議制だったカリフ位を[[ウマイヤ家]]が世襲制にしたことにシーア派が対抗した事例を挙げることで、シーア派の歴史の中に反君主制・世襲権力という動きを見出そうとしている<ref>ホメイニー『イスラーム統治論・大ジハード論』、富田建次 訳 (2003)、17・37・49頁</ref>。
ただし、当時シーア派がウマイヤ家のカリフ位世襲に反対したのは、預言者の血縁の[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]家によるカリフ位の世襲を目指したためである。
=== 現実に適わせたイスラームについて ===
[[1988年]]初め、ホメイニーは[[公益]]に適うならば政府の令が伝統的な[[イスラーム法]]に優先すると表明した<ref>富田健次著『 アーヤトッラー たちのイラン;イスラーム統治体制の矛盾と展開』、(1993),129-132頁</ref>。これは、国家の現実にイスラームの伝統的規範を適合させようとする努力であった。また、当時イスラーム法が政府の令に優先するという伝統的な考え方の人物も多くいるなかでの重要な表明だった<ref>『アジア読本イラン』、 上岡弘二編、(1999)、193頁</ref>。
同年9月、宗教的道徳に反する使用はしないという条件付きで、楽器と[[チェス]]の解禁も行った。この時、コムの宗教法学者が権威あるイスラーム・シーア派の伝承を引用してこのことをホメイニーに問いただしたが、ホメイニーは「現代に適応できない宗教学者」のくびきから脱すべしとこの宗教法学者を諭した<ref>『アジア読本イラン』、 上岡弘二編、(1999)、194頁</ref>。
=== 革命に貢献した女性の役割と女性の地位について ===
ホメイニーの次に最高指導者となったハーメネイーはその見解<ref>ハーメネイの見解「最高指導者の考えるイスラム文化における女性と西側文化における女性」(2010)</ref>でホメイニーの発言や考えにも言及している。(以下はこの見解を参考)
[[イラン・イスラム革命]]が勝利した際、ホメイニーは「もしこの運動に女性の協力がなかったら、[[革命]]は勝利していなかっただろう」と述べ、女性たちが賛同せず、信じなければこの革命が成功することはなかったとの考えを示した。 イラン・イスラム革命では、参加者の半数が女性であり、女性は革命の先頭にたって戦い、家庭環境においても女性はその家族に文化的な影響を与えた。
ホメイニーは革命時およびその後の[[革命体制]]時における女性の役割を、またイスラム社会の完成とその革命的・イスラム的な成熟における女性の地位を、非常に大きなものと見ていた。これには、"[[イラン]]人女性・イスラム女性が、「西側の堕落した文化」が築いた道の中で、様々な罠から解放されるための自らの聖なる戦いを、強固な決意で継続する"ことが必須であるとした。
=== 「植民地主義者」の反イスラーム政策への危惧について ===
『イスラーム統治論』では、「[[植民地主義]]者」の政策に関する警告もなされている。ここでは、[[西側諸国|西側]]の植民地主義者は、300年あるいはそれ以上前からイスラム諸国に進出していたが、自分たちの利益獲得を難しくし、その政治的権力を危うくしているのはイスラームとその法規範、人々のイスラームへの[[信仰]]だと見做したため、多様な手段をもって反イスラームの宣伝と陰謀を実施したとされている。当時、宗教学院界で養成された[[布教]]者、大学や政府の[[宣伝]]機構、印刷出版所における植民地主義者の代理人、植民地主義的な諸政府に奉仕する東洋学者たちがこの政策に協力し、本来[[真理]]と[[正義]]を求める人々の宗教であるイスラムを捻じ曲げ、異なった形で紹介し、一般の人々に誤った考えを持たせ、宗教学院界で不完全なイスラムの姿を提示したとする。
この理由として、「イスラームの活力と革命的性格を奪い、そしてムスリムたちが努力すること、運動に従事すること、自由を求めること、イスラームの法規範の執行を求めること、ムスリムたちの[[幸福]]を保障し人間としての尊厳を保った生活を認める統治(体制)を作ること、これらを阻止する意図である」としている。
この例として「イスラームは[[包括的]]な宗教ではない。生活に即した宗教ではない。社会(運営)のための諸制度や諸法を持っていない。[[統治方法]]やその諸法を持っていない。」、「[[倫理]]性も持つが、生活や社会の運営には値しない」と宣伝されていたことが挙げられている。
本来のイスラームはもちろんまったく異なる極めて[[政治的]]な宗教であるが、当時これらの「植民地主義者」の悪意のある宣伝は効果を上げており、一般の民衆よりも教育を受けた大学人や宗教学徒のほうが誤った考えを信じてイスラムをまったく正しく理解していなく、もし誰かが正しいイスラームを紹介しようとしても人々は簡単には信じようとはせず、逆に宗教学院の植民地主義の協力者が騒ぎ立てるという状況があった、としている<ref>ホメイニー(2003)14頁。</ref> 。
==== イスラムの社会性、政治性について ====
この植民地主義の宣伝が誤っていることを証明するために、ホメイニーは次のように述べている。「コーランにおいて、社会問題に言及した箇所と(社会問題ではなく個人的次元に属する)宗教儀礼の章句の比は100対1以上である。約50巻からなり、すべての法規範を包含する伝承の1セット中、3巻ないし4巻が宗教儀礼ならびに神に対する人間の義務に関連し、また、一部の法規範は道徳に関連しているが、残りはすべて社会・経済・法律・政治・社会運営に関連している(つまり、「本来のイスラーム」は個人次元の信仰よりも、社会問題により多く関わるものである)」<ref>ホメイニー(2003)14-15頁。</ref>
以上のことを述べた上で、若い世代に向けて自分が述べる論題について研究しながら、イスラムの諸法と制度を紹介するために生涯努力し、イスラムがそのはじめからいかなる障害に直面し、現在いかなる敵意と苦難に直面しているかを人々に知らせ、イスラムの本質と真実が覆い隠されたままにしてはならない、キリスト教と同じくイスラムも神と人民の関係(社会と関わりをもたない関係)についての命令のみの宗教だと人々が考えないようにしなければならない、と訴えている。
また、同著でユダヤ人の反イスラーム宣伝に関する記述もある。
「([[第三次中東戦争]]〈1967年〉直後の)今日ユダヤ教徒が意のままに改ざんしたコーランをイスラエルの占領地で印刷していること」を挙げた上で、「声をあげ、人々に気づかせ、もってユダヤ教徒たちや彼らを支援する外国の者たちはイスラームの根幹に反対し、[[ユダヤ教徒]]の統治を世界に打ちたてようとしていることをはっきりさせなければならない。我々一部の者の無気力さが原因となって、ユダヤ教徒が我々を統治することになるのを恐れる」<ref>ホメイニー (2003)、155-156頁。</ref>と述べており、これらの人々をムスリムたちを脅かす存在として、イランにおいて存在し、宣教活動を行っていることに対して危惧の念を示している。
=== 他宗教勢力の見方とイスラム時代以前の世界の見方について ===
ホメイニーは著作に於いて「イスラムの支配下に於いて異教徒は一定程度の人権を守られるだけで満足するべきであり、政治的権利など与えられない」と主張している。著書において、現代においても[[ジズヤ]]徴収(すなわち[[ズィンミー]]制)は有効だと主張している箇所がある<ref>ホメイニー (2003)、30、34-35頁。</ref>。
パフラヴィー朝下の1962年10月6日に、政府が地方選挙において選挙権・被選挙権をムスリムのみに限った条項<ref group="注">イスラム国家において、政治的権力を非ムスリムが持つことは厳しく制限される。</ref>を撤廃し、バハイ教徒などにも市民権を拡大させようとした時には、バハイ教徒を背教者として憎悪する12イマーム派の立場から、同僚の法学者とともに激しい抗議運動を行い、同法を撤回させた<ref name="名前なし-1">ホメイニー (2003)、142頁。</ref>。しかし、後に「彼ら([[バハイ教|バハイ教徒]])が我々(ムスリム)をしだいに弛緩させて相互に離反させ、各個人に「宗教義務」を明らかにした結果、[我々]に言葉の違いと混乱が広がった。そして今や、彼らが望むことを何でもムスリムたちやイスラーム国家に対して行っている」と主張している<ref name="名前なし-1"/>。
著書でイスラム以前の時代に関して、アメリカ先住民を「野蛮な状態で日々を過ごす半開化の赤色人」<ref name="Khomeini2003_p15">ホメイニー (2003)、15頁。</ref>、古代の(自国である)イランとローマの国家を指して「専制支配、貴族性、差別性の下にあり、専横なる人々の支配下で、人々や法による統治の痕跡は無かった」<ref>ホメイニー(2003)、15頁。</ref>と述べている。イスラム教では、発祥の地である[[アラビア半島]]のこともイスラム教以前の時代は「[[ジャーヒリーヤ]]時代(無知、無明時代)」とされ、野蛮な時代とされている。
イスラエルの[[ユダヤ人]]に対してはイスラエルのパレスチナ占領およびパレスチナ人への抑圧という事情もあって対立する立場で、イスラームの初期におけるユダヤ人との確執を「反イスラームの宣伝と陰謀」<ref>ホメイニー (2003)、12頁。</ref>とし、現在のパレスチナ問題に至るまでこの対立が尾を引いたものと認識している<ref>ホメイニー (2003)、155頁。</ref>。
また、公正なる支配者に関する記述で、「ムスリムたちと人類社会を統治するものは常に公的な諸面と利益に配慮し、個人的な諸面や個人的な愛着には目をつむらなければならない」<ref>ホメイニー(2003)、98頁。</ref>とし、それゆえにイスラームでは社会、人類の利益に反する部族・集団は滅ぼしてきたとしている<ref>ホメイニー (2003)、98-99頁。</ref>。例としてムハンマドが[[クライザ族]]が腐敗を増やしていたために滅ぼした([[クライザ族虐殺事件]])ことを挙げている。
=== 刑罰について ===
ホメイニーはハッド刑に関しても、著書でその必要性を強く主張していた<ref>ホメイニー (2003)、58・84-85頁。</ref>。例として(ホメイニーは「堕落」と表現している)婚外性交渉を行ったものに対する100回の鞭打ち(未婚者)<ref>ホメイニー (2003)、20頁。</ref>や石打ちによる死刑(既婚者)<ref>ホメイニー (2003)、19頁。</ref>、窃盗犯に対する人体切断<ref>ホメイニー (2003)、98頁。</ref>などをあげている。
=== 共和国への影響について ===
結果として、ホメイニーが著書で主張した政体のほとんどが、革命イランのイスラム共和制において実現された。
イラン刑法は[[シャリーア|イスラム法体系(シャリーア)]]の規定にそい、イスラームを棄教したもの、[[性行為|婚外性交渉]]をした者や[[同性愛者]]に対する鞭打ち刑や投石殺刑などを定めている。またイスラーム以外の宗教のうち、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教は、当初のホメイニーの主張通りにズィンミーになることは免れ、憲法でもその尊重がうたわれたものの、政治的権利や信仰の自由などでイスラム教徒に対して劣勢に置かれることとなった。また、[[バハイ教]]徒や[[無神論者]]は完全にその存在を否定され、発覚した場合死刑である。
== 孫たちについて ==
ホメイニーには15人の孫がいるが、そのうちの4名が政治活動を行っている。最年長の{{ill2|ホセイン・ホメイニー|label=ホセイン|en|Hussein Khomeini}}は祖父の掲げた「法学者による統治論」の廃止と世俗国家化を主張し、「[[ウラマー|聖職者(ウラマー)]]が政治介入する現体制は[[全体主義]]も同然」として体制転換を主張しており<ref>http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP118406 [[メムリ]]緊急報告シリーズNo 1184</ref>、現在はイラン当局により自宅軟禁下に置かれている。アリーは改革派陣営から2008年の議会選挙に立候補したが、保守派のウラマーで構成される[[監督者評議会]]の審査により立候補資格を剥奪された。同じく改革派から立候補した孫娘のザフラー ([[:en:Zahra Eshraghi|en]]) も立候補資格を取り消されている。このため、ホメイニーの孫で現在も政治に関わっているのは{{ill2|ハサン・ホメイニー|label=ハサン|en|Hassan Khomeini}}ただ一人である。そのハサンも2009年1月31日に行われたイスラーム革命30周年記念式典での演説で革命がイスラーム主義者だけではなく、左翼や民族主義者など全ての勢力が参加して実現できたとし、間接的にではあるが、現在の体制に不満を表明したといわれる<ref>『読売新聞』2009年2月4日付国際面記事より。</ref>。また最近は、2009年の大統領選挙後の国内騒乱で逮捕された改革派幹部の家族宅を慰問したり、国営放送の祖父ホメイニーに関する放送内容があまりに一面的だと抗議するなど、保守強硬派主導の革命体制に反発しているとされる<ref>『読売新聞』2010年2月12日付国際面記事</ref>。このため保守強硬派の間にはハサンに対する不満が存在しており、2010年6月4日に開かれたホメイニー死去から21周年を記念する集会では、[[マフムード・アフマディーネジャード|アフマディーネジャード]]大統領の支持者がハサンの演説途中に「偽善者に死を!」「[[ミールホセイン・ムーサヴィー|ムーサヴィー]]に死を!」などと叫んで妨害し、ハサンの演説が中断に追い込まれるという一幕があった<ref>http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100604/mds1006042006004-n1.htm ホメイニの孫の演説妨害 イラン</ref><ref>http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100611_203438.html</ref>。
== ギャラリー ==
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Image:بچه و خمینی.JPG|
Image:خمینی و نوهها.JPG|
Image:خمینی و مردم.JPG|
Image:خمینی در نماز.JPG|
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==著作==
*{{Cite book|和書|translator=[[清水学 (経済学者)|清水学]]|title=ホメイニわが闘争宣言|publisher=ダイヤモンド社|date=1980-02-28|id={{NDLJP|11928260}}}}
*{{Cite book|和書|translator=共同通信社|title=ホメイニわが革命 イスラム政府への道|publisher=共同通信社|date=1980-03-15|id={{NDLJP|11928434}}}}
*{{Cite book|和書|translator=富田健次|title=イスラーム統治論・大ジハード論|publisher=[[平凡社]]|date=2003}}
==関連文献==
*{{Cite book|和書|author=H.ヌスバウマー|translator=アジア現代史研究所|title=ホメイニー おいたちとイラン革命|publisher=社会思想社|date=1981-06-15|id={{NDLJP|12220971}}}}
*{{Cite book|和書|author=ピエール・サリンジャー|translator=[[玉木裕]],[[山田侑平]]|title=ホメイニに敗れたアメリカ 外交ドキュメント|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|date=1982-11-25|id={{NDLJP|11924379}}}}
*『回教革命 アヤトラ・ホメイニ会見記』高杉信美 パン・アジアクラブ, 1987.1.
*『鞭と鎖の帝国 ホメイニ師のイラン』[[高山正之]] 文芸春秋, 1988.8.
*『ホメイニ師の賓客 イラン米大使館占拠事件と果てなき相克』マーク・ボウデン [[伏見威蕃]]訳 早川書房 2007.5.
*『ホメイニー―イラン革命の祖』富田健次 [[山川出版社]]、2014.12. ISBN 4634351005
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*ホメイニー『イスラーム統治論・大ジハード論』[[富田健次]]訳、平凡社、2003年、ISBN 4-582-73916-4。
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|روحالله خمینی}}
*[[ホメイニー廟]]
{{イラン最高指導者}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:ルーホッラー・ホメイニー|*]]
[[Category:20世紀の統治者]]
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1657年
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1657年(1657 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明暦]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2317年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[順治]]14年
** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]11年
** [[朱亶セキ|朱亶塉]] ([[南明]]) : [[定武]]12年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]8年
** [[檀君紀元|檀紀]]3990年
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** [[黎朝|後黎朝]] : [[盛徳 (黎朝)|盛徳]]5年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]20年
* [[仏滅紀元]] : 2199年 - 2200年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1067年 - 1068年
* [[ユダヤ暦]] : 5417年 - 5418年
* [[ユリウス暦]] : 1656年12月22日 - 1657年12月21日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[カール・グスタフ戦争]]勃発。
* [[5月25日]] - [[イングランド共和国]]で[[謙虚な請願と勧告]]制定。[[6月26日]]に[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル]]の就任式が行われる。
=== 日本 ===
* [[3月2日]]([[明暦]]3年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[明暦の大火]]発生。当時の[[江戸]]の大半が焼失。死者102,100余人。焼死者を葬った塚が、後の[[回向院]]となる。
* [[中国]]の[[僧]][[陳道栄]]が[[学林]]([[駒澤大学]]の前身の一たる[[学寮]])を[[旃檀林]]と命名。
* [[西尾城]]の[[総構え]]が完成。
* [[徳川光圀]]が[[彰考館]]を開き、[[大日本史]]の編纂に着手( - [[1906年]])。
* [[江戸幕府]]による第一次[[酒造統制]]の発令。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1657年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月26日]] - [[ウィリアム・ウェーク]]([[w:William Wake|William Wake]])、[[カンタベリー大主教]]、[[作家]](+ [[1737年]])
* [[2月11日]] - [[ベルナール・フォントネル]]、[[フランス]]の[[著述家]](+ [[1757年]])
* [[3月24日]]([[明暦]]3年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[新井白石]]、[[政治家]]、[[学者]](+ [[1725年]])
* [[4月5日]](明暦3年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[真田幸道]]、[[大名]](+ [[1727年]])
* [[5月3日]](明暦3年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[松平頼道]]、大名(+ [[1721年]])
* [[5月13日]](明暦3年[[3月30日 (旧暦)|3月30日]]) - [[戸田氏定]]、大名(+ [[1733年]])
* [[5月14日]] - [[サンバージー|サンバージー・ボーンスレー]]、第2代[[マラーター王]](+[[1689年]])
* [[6月17日]] - [[ルイ・エリーズ・デュ・パン]]([[w:Louis Ellies du Pin|Louis Ellies du Pin]])、[[歴史家]](+ [[1719年]])
* [[7月11日]] - [[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]、[[プロイセン王国]]初代[[国王]](+ [[1713年]])
* [[9月17日]] - [[ソフィア・アレクセイェヴナ]]([[w:Sophia Alekseyevna|Sophia Alekseyevna]])、[[ロシア]]の[[摂政]](+ [[1704年]])
* [[9月22日]](明暦3年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[酒井忠予]]、大名(+ [[1736年]])
* [[10月4日]] - [[フランチェスコ・ソリメーナ]]、[[画家]](+ [[1747年]])
* [[10月13日]](明暦3年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[関長治]]、大名(+ [[1738年]])
* [[12月15日]] - [[ミシェル=リシャール・ドラランド]]、フランスの[[作曲家]](+ [[1726年]])
* 月日不明 - [[服部土芳]]、[[俳諧師]](+ [[1730年]])
* 月日不明 - [[今井似閑]]、[[国学者]](+ [[1723年]])
* 月日不明 - [[大田原典清]]、大名(+ [[1694年]])
* 月日不明 - [[加藤泰恒]]、大名(+ [[1715年]])
* 月日不明 - [[九鬼隆律]]、大名(+ [[1686年]])
* 月日不明 - [[ジョン・デニス]]([[w:John Dennis (dramatist)|John Dennis]])、[[劇作家]]、[[批評家]](+ [[1734年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1657年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月15日]](明暦2年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[板倉重宗]]、大名(* [[1586年]])
* [[3月7日]](明暦3年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[林羅山]]、[[儒学者]](* [[1583年]])
* [[3月17日]] - [[ヨハン・シサット]]、[[スイス]]の学者(* [[1587年]]頃)
* [[4月2日]] - [[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1608年]])
* [[4月19日]](明暦3年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[山崎治頼]]、大名(* [[1650年]])
* [[5月7日]](明暦3年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]) - [[鍋島勝茂]]、[[佐賀藩]]初代[[藩主]](* [[1580年]])
* [[5月9日]] - [[ウィリアム・ブラッドフォード (ピューリタン)|ウィリアム・ブラッドフォード]]([[w:William Bradford (1590-1657)|William Bradford]])、プリマス[[植民地]][[総督]](* [[1590年]])
* [[5月10日]] - [[グスタフ・ホルン]]、[[スウェーデン]]の軍人(* [[1592年]])
* [[5月29日]](明暦3年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]) - [[丹羽氏定]]、大名(* [[1615年]])
* [[6月3日]] - [[ウイリアム・ハーベー]]、イギリスの[[医学者]](* [[1578年]])
* [[7月12日]](明暦3年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[松永尺五]]、儒学者(* [[1592年]])
* [[7月27日]](明暦3年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[秋元富朝]]、大名(* [[1610年]])
* [[8月6日]] - [[ボフダン・フメリニツキー]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の[[貴族]]、[[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン|首領]](* [[1595年]])
* [[8月17日]] - [[ロバート・ブレイク]]、[[イギリス海軍]][[提督]](* [[1599年]])
* [[8月19日]] - [[フランス・スナイデルス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Frans-Snyders Frans Snyders Flemish painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、画家(* [[1579年]])
* [[8月27日]](明暦3年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[幡随院長兵衛]]、侠客(* [[1622年]])
* [[8月29日]] - [[ジョン・リルバーン]]、[[政治家]]、[[w:Levellers|水平派]]指導者(* [[1614年]])
* [[9月7日]] - [[アーヴィド・ヴィッテンベルク]]([[w:Arvid Wittenberg|Arvid Wittenberg]])、[[スウェーデン]][[元帥]](* [[1606年]])
* [[11月4日]](明暦3年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]) - [[諏訪忠恒]]、大名(* [[1595年]])
* [[12月2日]](明暦3年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[伊東祐久]]、大名(* [[1609年]])
* 月日不明 - [[黙子如定]]、中国から来日した僧(* [[1597年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1657}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1652年
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1652年(1652 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
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1652年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[慶安]]5年、[[承応]]元年9月18日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2312年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[順治]]9年
** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]6年
** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]) : [[定武]]7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]]3985年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[慶徳]]4年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]15年
* [[仏滅紀元]] : 2194年 - 2195年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1062年 - 1063年
* [[ユダヤ暦]] : 5412年 - 5413年
* [[ユリウス暦]] : 1651年12月22日 - 1652年12月21日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[4月6日]] - [[オランダ東インド会社]]が[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]に到着、[[ケープ植民地]]を設立。
* [[10月20日]](慶安5年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - 日本、[[改元]]して[[承応]]元年
* 第1次[[英蘭戦争]](-[[1654年]])
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]:[[ロードアイランド州]]で[[北アメリカ]]初の[[奴隷]]を禁止する法律が制定される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1652年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月3日]] - [[トーマス・オトウェイ]]([[w:Thomas Otway|Thomas Otway]])、[[劇作家]](+ [[1685年]])
* [[4月7日]] - [[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Clement-XII Clement XII pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ローマ教皇]](+ [[1740年]])
* [[5月27日]] - [[エリザベート・シャルロット (プファルツ選帝侯女)|エリザベート・シャルロット]]([[w:Elizabeth Charlotte, Princess Palatine|Elizabeth Charlotte, Princess Palatine]])、プファルツ[[選帝侯]]女(+ [[1722年]])
* [[9月15日]](承応元年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - [[浅見絅斎]]、[[儒学者]](+ [[1711年]])
* [[12月21日]](承応元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[松平頼常]]、[[讃岐国]][[高松藩]][[藩主]]、[[徳川光圀]]の実子(+ [[1704年]])
* [[12月25日]] - [[アーチボルド・ピトケアン]]([[w:Archibald Pitcairne|Archibald Pitcairne]])、[[医師]]、[[風刺|風刺家]](+ [[1713年]])
* [[ジェーン・バーカー]]([[w:Jane Barker|Jane Barker]])、[[詩人]]、[[小説家]](+ [[1732年]])
* [[ネイハム・テイト]]([[w:Nahum Tate|Nahum Tate]])、詩人、劇作家(+ [[1715年]])
* [[英一蝶]]、画家(+ [[1724年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1652年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月30日]] - [[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]、[[画家]](* [[1593年]])
* [[2月7日]] - [[グレゴリオ・アレグリ]]、[[司祭]]、[[作曲家]](* [[1582年]])
* [[4月21日]] - [[ピエトロ・デラ・ヴァッレ]]([[w:Pietro Della Valle|Pietro Della Valle]])、[[貴族]]、[[探検家]](* [[1586年]])
* [[6月21日]] - [[イニゴー・ジョーンズ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography//Inigo-Jones Inigo Jones English architect and artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[建築家]](* [[1573年]])
*6月21日(慶安5年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[松木庄左衛門]]、[[義民]](* [[1625年]])
* [[8月7日]] - [[ジョン・スミス (哲学)|ジョン・スミス]]、[[哲学者]](* [[1616年]])
* [[8月22日]] - [[ヤコブ・デ・ラ・ガーディ]]([[w:Jacob De la Gardie|Jacob De la Gardie]])、[[政治家]]、[[軍人]](* [[1583年]])
* [[9月2日]] - [[ホセ・デ・リベーラ]]、画家(* [[1591年]])
* [[9月17日]](慶安5年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[住友政友]]、[[商人]]、[[住友家]]初代(* [[1585年]])
* [[12月11日]] - [[ディオニシウス・ペタヴィウス]]([[w:Denis Pétau|Dionysius Petavius]])、[[神学|神学者]](* [[1583年]])
* [[12月23日]] - [[ジョン・コットン (牧師)|ジョン・コットン]]([[w:John Cotton|John Cotton]])、[[牧師]](* [[1585年]])
* [[陳洪綬]]、画家(* [[1598年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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ニコラス・バトラー
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ニコラス・マレイ・バトラー(Nicholas Murray Butler, 1862年4月2日 - 1947年12月7日)は、アメリカの哲学者で、著述家。ニューヨーク市のコロンビア大学の総長を務めた(任期1902年 - 1945年)。 ケロッグ・ブリアン条約の締結を促した功績を認められ、1931年に、ジェーン・アダムズと共にノーベル平和賞を受賞した。
ニコラス・マレイ・バトラーは、1862年アメリカのニュージャージー州のエリザベスで工場経営者の息子として生まれた。彼はニューヨークのコロンビア・カレッジ(今日のコロンビア大学の前身)に学び、卒論ではイマヌエル・カントを取り上げた。1884年哲学の学位を取得、1888年コロンビア・カレッジの哲学の教授になった。その上、1893年には教育学の教授職も引き受け、1902年にはコロンビア・カレッジの学長に就任し、今日世界的にその名を知られるコロンビア大学へと発展していくことになる改革を行った。1945年、83歳で彼は学長職を引退した。
マレイは、かなり早い時期から平和運動に積極的に係わっていた。とりわけ熱心だったのは、国際理解というテーマである。彼には、政府から総督、大使、さらには外務長官などの職の提供があったが、彼はこれらをすべて固辞している。1907年、彼はフランスの政治家エストゥルネル・ド・コンスタンが創設した国民的関心の防衛と国際的和解のための委員会のアメリカ支部を創設する。1907年-1912年バトラーは、常設国際司法裁判所の創設のための準備に参加する。常設国際司法裁判所は、1921年になってデン・ハーグに設けられた。
1910年アメリカの実業家アンドリュー・カーネギーが、カーネギー国際平和基金を創設し、これに1,000万ドルの基金を提供した。バトラーはこの準備のために大きく関与する。この財団は、以後、国際的な平和活動のため最も重要な支柱として寄与していくことになる。バトラーはワシントンD.C.で、この財団の事務長に就任し、1925年以後は理事長となる。 その役割としては、彼は彼を外部の相談相手として利用したアメリカ大統領の相談相手という役もあった。時には外交官のようなこともやってのけ、それには、ソ連の共産党書記長ウラジーミル・レーニンやイタリアの首相ベニート・ムッソリーニとの会談のようなものもある。第一次世界大戦の後、新設された国際連盟にはバトラーは懐疑的な立場をとった。
1927年アリステッド・ブリアンが発表した政治的な手段としての戦争の追放宣言にバトラーは感銘し、アメリカをこれに賛成する側に引き込んだ。この件により、彼は1928年に締結されたケロッグ・ブリアン条約の最も重要な推進者となったのである。
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ニコラス・マレイ・バトラーは、アメリカの哲学者で、著述家。ニューヨーク市のコロンビア大学の総長を務めた。
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== 生涯と業績 ==
=== 生い立ちと大学での活動 ===
ニコラス・マレイ・バトラーは、1862年アメリカの[[ニュージャージー州]]の[[エリザベス (ニュージャージー州)|エリザベス]]で工場経営者の息子として生まれた。彼はニューヨークのコロンビア・カレッジ(今日のコロンビア大学の前身)に学び、卒論では[[イマヌエル・カント]]を取り上げた。1884年哲学の学位を取得、1888年コロンビア・カレッジの哲学の教授になった。その上、1893年には教育学の教授職も引き受け、1902年にはコロンビア・カレッジの学長に就任し、今日世界的にその名を知られる[[コロンビア大学]]へと発展していくことになる改革を行った。1945年、83歳で彼は学長職を引退した。
=== 平和運動 ===
マレイは、かなり早い時期から[[平和運動]]に積極的に係わっていた。とりわけ熱心だったのは、[[国際理解]]というテーマである。彼には、政府から総督、大使、さらには外務長官などの職の提供があったが、彼はこれらをすべて固辞している。1907年、彼はフランスの政治家[[エストゥルネル・ド・コンスタン]]が創設した[[国民的関心の防衛と国際的和解のための委員会]]のアメリカ支部を創設する。1907年-1912年バトラーは、[[常設国際司法裁判所]]の創設のための準備に参加する。常設国際司法裁判所は、1921年になってデン・ハーグに設けられた。
1910年アメリカの実業家[[アンドリュー・カーネギー]]が、[[カーネギー国際平和基金]]を創設し、これに1,000万ドルの基金を提供した。バトラーはこの準備のために大きく関与する。この財団は、以後、国際的な平和活動のため最も重要な支柱として寄与していくことになる。バトラーはワシントンD.C.で、この財団の事務長に就任し、1925年以後は理事長となる。 その役割としては、彼は彼を外部の相談相手として利用したアメリカ大統領の相談相手という役もあった。時には外交官のようなこともやってのけ、それには、ソ連の共産党書記長[[ウラジーミル・レーニン]]やイタリアの首相[[ベニート・ムッソリーニ]]との会談のようなものもある。第一次世界大戦の後、新設された国際連盟にはバトラーは懐疑的な立場をとった。
1927年アリステッド・ブリアンが発表した政治的な手段としての戦争の追放宣言にバトラーは感銘し、アメリカをこれに賛成する側に引き込んだ。この件により、彼は1928年に締結されたケロッグ・ブリアン条約の最も重要な推進者となったのである。
== 参考文献==
* Bernhard Kupfer: ''Lexikon der Nobelpreisträger'', Patmos Verlag Düsseldorf 2001, ISBN 3491724511
== 外部リンク ==
* [http://www.nobel.se/peace/laureates/1931/butler-bio.html Nicholas Murray Butler – Biography](英語)
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[[Category:アメリカ合衆国の哲学者]]
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産業
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産業(さんぎょう、羅: industria)とは、人々が生活するうえで必要とされるものを生み出したり、提供したりする経済活動のこと。また、経済活動の分類の単位という意味でも使われる。
産業は、社会的な分業として行われる製品・サービスの生産・分配にかかわるすべての活動を意味し、公営・民営のかかわりなく、また営利・非営利のかかわりなく、教育、宗教、公務などの活動をも含む概念である。なお、日本語の「産業」という語は西周によるものとされている。
産業分類は、分析の枠組みや目的に応じてそれぞれに適した方法が用いられる。基礎的・標準的な分類としては公的な統計において標準産業分類が設定されている。
産業分類は、経済学が学問として確立しはじめた当初から経済学者によって論じられてきた。重農学派のフランソワ・ケネーは『経済表』(1758)において地主階級、生産階級(農業)、不生産階級(商業)の3分類を示し、農業だけが生産的であると考えた。カール・マルクスは『資本論』第2巻(1885)で第一部門(生産財生産部門)と第二部門(消費財生産部門)という産業間分析を行っている。1930年代に入ると、経済発展を産業構造の変化という視点でとらえるようになり、本格的に産業分類が研究されるようになった。
ワルター・ホフマン(en:Walther G. Hoffmann)は、経済発展を、消費財を直接に生産する段階から、製造設備などの資本財を作りこれを利用して生産性を高める段階への変化としてとらえた。従って、産業を消費財産業と資本財産業とに分類し、「消費財産業の純生産額」÷「資本財産業の純生産額」(ホフマン比率)を見ることで経済発展の程度がわかると考えた。ホフマンによれば、比率は第1段階では5.0、第2段階では2.5、第3段階では1.0、第4段階ではそれ以下となる。ただしホフマンの方法は、産業連関分析が発達した今日から見れば難点が多いとされている。
コーリン・クラークは、『経済的進歩の諸条件』(1941)において、産業を第一次産業、第二次産業、第三次産業に3分類し、経済発展につれて第一次産業から第二次産業、第三次産業へと産業がシフトしていくことを示した。これは17世紀にウィリアム・ペティが『政治算術』(1690)で述べた考え方を定式化したもので、両者にちなんで「ペティ=クラークの法則」と呼ばれる。
クラークの産業分類に関しては、第三次産業に単純労働が含まれ、後進的な産業が先進的な産業と同じ扱いになっているという批判がある。さらに、経済発展につれて産業内部で生じている構造変化をとらえきれないという弱点がある。また、第三次産業は、公益事業のような資本集約的な産業も、飲食業のような労働集約的な産業も、教育のような知識集約的な産業も含むという雑多な産業の集合体であり、雑多な産業を単一のくくりで単純化することについても批判がある。
アーサー・ルイスは、開発途上国の経済を伝統的部門(主に伝統的な農業)と近代的部門(資本集約的産業)とに分ける2部門モデルを提案した。ルイスによれば、経済が一定の発展段階に達するまでは伝統的部門からの固定賃金での無制限労働供給が続くため、経済援助の効果がなかなか現れないと説いた。
ルイスのモデルは、ラニスとフェイによって精緻化され、ラニス=フェイモデルでは、農業部門からの労働力流出によって、経済発展の「第1局面」「第2局面」「第3局面」が訪れ、1人あたり農業所得が上昇してゆくと説明される。
製造業は、古典的な分類では食品、繊維などの軽工業と、鉄鋼、機械、化学などの重化学工業とに2分され、工業化の進展に連れて重化学工業の比率が高まってゆくと説明されてきた。しかし1960年代の日本では、重化学工業化率がアメリカやイギリスの同水準に達していながら、製造業の生産性において大きな隔たりがあることが観察されていた。
篠原三代平は、製造業を素材産業と組立て産業とに分類して分析する必要性を指摘した(1967)。篠原によれば、当時の日本では素材産業の大きさに比べて、素材を加工し組み立てる産業が未熟であり、それが工業の生産性の低さに現れていた。こうして、経済発展の指標として高加工度化という分析視点が不可欠とされるようになった。
1970年代になると、産業構造の知識集約化という視点が注目されるようになった。これは繊維産業は単純製品からファッション性の高いブランド製品へ、サービス業も単純・反復労働から金融工学やコンサルティングへというように、経済発展につれて同じ産業であってもより知識・技術の集約度の高い方向へと変化し、「物」の生産そのものよりも「情報」の生産がより大きな付加価値を生んでいるという見方である。
マーク・ポラトは、『情報経済入門』(1977)において、情報交換の場として市場と組織内(企業や政府の内部)を考え、市場における情報の供給主体(通常の意味での情報産業)を第1次情報部門、組織内情報の生産活動を第2次情報部門と呼んだ。ポラトはこの枠組みに基づいた産業連関表を作成し、1967年のアメリカ経済では第1次情報部門の付加価値がGNPの25.1パーセント、第2次情報部門が21.1パーセントを占めるとした。
産業は、その製品・サービスが国際的に取引され国際競争にさらされているか、あるいは主に国内で取引されているかによって、輸出産業と国内産業とに区分される。こうした輸出産業と国内産業という分析視点は日本経済の二重構造を論じる際に用いられる。一般に、日本の代表的な輸出産業である自動車産業やエレクトロニクス産業(ハイテク産業、IT産業)は国際競争力が高いが、建設、農業、医療、金融などの国内産業は生産性が低いと言われる。 輸出産業と国内産業との区分は政策や社会環境によっても変わってくる。農産物は国際的に取引されている商品であるが、日本では農業保護政策によって各種の農産物が国際競争から隔離されている。電力は日本では国内産業であるがヨーロッパでは国際取引されている。情報通信業は従来は国内産業と考えられてきたが、情報通信技術の発達を背景に、インドや中国を拠点として遠隔地からサービスを行う動きも出てきている(オフショアリング)。
標準産業分類は、各種の統計間の比較可能性を確保するために、統計調査の対象となる各種産業の標準的な分類体系を定めた統計基準である。国際的には、1948年に国際連合の統計委員会により国際標準産業分類(International Standard Industrial Classification of All Economic Activities, ISIC)が設定されている。各国においても、統計の国際比較を可能にするため、産業分類をできるだけISICに準拠して作成するよう配慮がされている。
日本でも、日本標準産業分類がISICに準拠する形で作成されている。最初の日本標準産業分類は1949年に完成された。その後改定が重ねられたが、2002年に大改定が行われ、情報通信業が新たな産業分類として設定された。
日本の証券取引所に上場されている企業は、証券コード協議会が定めた統一的な基準により33の業種に分類されている。証券コード協議会は全国の証券取引所により組織され、東京証券取引所が事務局を務めている。 証券コードによる業種分類は基本的には日本標準産業分類に準拠している。毎年の決算書を元に、上場企業の各事業のうち最も売上が大きい事業の業種がその企業の業種とされる。事業内容が大きく変化する場合は、年に2回、所属業種の見直し審査が行われる。
Global Industry Classification Standard(世界産業分類基準)の略。1999年にスタンダード&プアーズとMSCIが定めたグローバルな産業分類の一つで、統一的な基準により大きく11のセクター(開始当初は10)、24の産業に分類されている。現在は主に、S&P ダウ・ジョーンズ・インデックスおよびMSCIが使用している。
Industrial Classification Benchmark(業種分類ベンチマーク)の略。2005年にFTSEとダウ・ジョーンズが定めたグローバルな産業分類の一つで、統一的な基準により大きく11の産業、20のセクターに分類されている。現在は主に、FTSEラッセル、NASDAQ Inc.、STOXXが使用している。
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"text": "産業は、社会的な分業として行われる製品・サービスの生産・分配にかかわるすべての活動を意味し、公営・民営のかかわりなく、また営利・非営利のかかわりなく、教育、宗教、公務などの活動をも含む概念である。なお、日本語の「産業」という語は西周によるものとされている。",
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"text": "産業分類は、経済学が学問として確立しはじめた当初から経済学者によって論じられてきた。重農学派のフランソワ・ケネーは『経済表』(1758)において地主階級、生産階級(農業)、不生産階級(商業)の3分類を示し、農業だけが生産的であると考えた。カール・マルクスは『資本論』第2巻(1885)で第一部門(生産財生産部門)と第二部門(消費財生産部門)という産業間分析を行っている。1930年代に入ると、経済発展を産業構造の変化という視点でとらえるようになり、本格的に産業分類が研究されるようになった。",
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"text": "ワルター・ホフマン(en:Walther G. Hoffmann)は、経済発展を、消費財を直接に生産する段階から、製造設備などの資本財を作りこれを利用して生産性を高める段階への変化としてとらえた。従って、産業を消費財産業と資本財産業とに分類し、「消費財産業の純生産額」÷「資本財産業の純生産額」(ホフマン比率)を見ることで経済発展の程度がわかると考えた。ホフマンによれば、比率は第1段階では5.0、第2段階では2.5、第3段階では1.0、第4段階ではそれ以下となる。ただしホフマンの方法は、産業連関分析が発達した今日から見れば難点が多いとされている。",
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"text": "コーリン・クラークは、『経済的進歩の諸条件』(1941)において、産業を第一次産業、第二次産業、第三次産業に3分類し、経済発展につれて第一次産業から第二次産業、第三次産業へと産業がシフトしていくことを示した。これは17世紀にウィリアム・ペティが『政治算術』(1690)で述べた考え方を定式化したもので、両者にちなんで「ペティ=クラークの法則」と呼ばれる。",
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"text": "クラークの産業分類に関しては、第三次産業に単純労働が含まれ、後進的な産業が先進的な産業と同じ扱いになっているという批判がある。さらに、経済発展につれて産業内部で生じている構造変化をとらえきれないという弱点がある。また、第三次産業は、公益事業のような資本集約的な産業も、飲食業のような労働集約的な産業も、教育のような知識集約的な産業も含むという雑多な産業の集合体であり、雑多な産業を単一のくくりで単純化することについても批判がある。",
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"text": "アーサー・ルイスは、開発途上国の経済を伝統的部門(主に伝統的な農業)と近代的部門(資本集約的産業)とに分ける2部門モデルを提案した。ルイスによれば、経済が一定の発展段階に達するまでは伝統的部門からの固定賃金での無制限労働供給が続くため、経済援助の効果がなかなか現れないと説いた。",
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"text": "ルイスのモデルは、ラニスとフェイによって精緻化され、ラニス=フェイモデルでは、農業部門からの労働力流出によって、経済発展の「第1局面」「第2局面」「第3局面」が訪れ、1人あたり農業所得が上昇してゆくと説明される。",
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"text": "製造業は、古典的な分類では食品、繊維などの軽工業と、鉄鋼、機械、化学などの重化学工業とに2分され、工業化の進展に連れて重化学工業の比率が高まってゆくと説明されてきた。しかし1960年代の日本では、重化学工業化率がアメリカやイギリスの同水準に達していながら、製造業の生産性において大きな隔たりがあることが観察されていた。",
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"text": "篠原三代平は、製造業を素材産業と組立て産業とに分類して分析する必要性を指摘した(1967)。篠原によれば、当時の日本では素材産業の大きさに比べて、素材を加工し組み立てる産業が未熟であり、それが工業の生産性の低さに現れていた。こうして、経済発展の指標として高加工度化という分析視点が不可欠とされるようになった。",
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"text": "1970年代になると、産業構造の知識集約化という視点が注目されるようになった。これは繊維産業は単純製品からファッション性の高いブランド製品へ、サービス業も単純・反復労働から金融工学やコンサルティングへというように、経済発展につれて同じ産業であってもより知識・技術の集約度の高い方向へと変化し、「物」の生産そのものよりも「情報」の生産がより大きな付加価値を生んでいるという見方である。",
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"text": "マーク・ポラトは、『情報経済入門』(1977)において、情報交換の場として市場と組織内(企業や政府の内部)を考え、市場における情報の供給主体(通常の意味での情報産業)を第1次情報部門、組織内情報の生産活動を第2次情報部門と呼んだ。ポラトはこの枠組みに基づいた産業連関表を作成し、1967年のアメリカ経済では第1次情報部門の付加価値がGNPの25.1パーセント、第2次情報部門が21.1パーセントを占めるとした。",
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"text": "日本でも、日本標準産業分類がISICに準拠する形で作成されている。最初の日本標準産業分類は1949年に完成された。その後改定が重ねられたが、2002年に大改定が行われ、情報通信業が新たな産業分類として設定された。",
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"text": "日本の証券取引所に上場されている企業は、証券コード協議会が定めた統一的な基準により33の業種に分類されている。証券コード協議会は全国の証券取引所により組織され、東京証券取引所が事務局を務めている。 証券コードによる業種分類は基本的には日本標準産業分類に準拠している。毎年の決算書を元に、上場企業の各事業のうち最も売上が大きい事業の業種がその企業の業種とされる。事業内容が大きく変化する場合は、年に2回、所属業種の見直し審査が行われる。",
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"text": "Global Industry Classification Standard(世界産業分類基準)の略。1999年にスタンダード&プアーズとMSCIが定めたグローバルな産業分類の一つで、統一的な基準により大きく11のセクター(開始当初は10)、24の産業に分類されている。現在は主に、S&P ダウ・ジョーンズ・インデックスおよびMSCIが使用している。",
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"text": "Industrial Classification Benchmark(業種分類ベンチマーク)の略。2005年にFTSEとダウ・ジョーンズが定めたグローバルな産業分類の一つで、統一的な基準により大きく11の産業、20のセクターに分類されている。現在は主に、FTSEラッセル、NASDAQ Inc.、STOXXが使用している。",
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産業とは、人々が生活するうえで必要とされるものを生み出したり、提供したりする経済活動のこと。また、経済活動の分類の単位という意味でも使われる。 産業は、社会的な分業として行われる製品・サービスの生産・分配にかかわるすべての活動を意味し、公営・民営のかかわりなく、また営利・非営利のかかわりなく、教育、宗教、公務などの活動をも含む概念である。なお、日本語の「産業」という語は西周によるものとされている。
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{{Otheruses||[[日本]]の[[プロ野球]]チームである'''産業軍'''|中日ドラゴンズ}}
{{出典の明記|date=2020年5月}}
[[File:Gdp-and-labour-force-by-sector.png|400px|thumb|upright=1.15|各産業が[[国内総生産|GDP]]に占める割合(上図)および、各産業ごとの労働者数の割合(下図)。緑が第一次産業(農林水産業)、赤が第二次産業(鉱工業)、青が第三次産業(サービス業)であり、占める割合が高い産業の色に寄って表示される。GDPの割合ではいくつかの[[産油国]]が赤寄り、[[アフリカ]]内陸部の数か国が緑寄りの他はおおむね青系の色に寄って表示されている。また、労働者の割合ではアフリカや[[南アジア]]・[[東南アジア]]諸国が緑系の色で表示されており、第一次産業従事者が多数を占めていることを示している]]
'''産業'''(さんぎょう、{{Lang-la-short|industria}})とは、人々が[[生活]]するうえで必要とされるものを生み出したり、提供したりする[[経済活動]]のこと。また、経済[[活動]]の分類の単位という意味でも使われる。
産業は、社会的な分業として行われる製品・[[サービス]]の[[生産]]・分配にかかわるすべての活動を意味し、公営・民営のかかわりなく、また営利・非営利のかかわりなく、[[教育]]、[[宗教]]、[[公務]]などの活動をも含む[[概念]]である。なお、[[日本語]]の「産業」という語は[[西周 (啓蒙家)|西周]]によるものとされている<ref name="hanashinoneta_p55">毎日新聞社編『話のネタ』PHP文庫 p.55 1998年</ref>。
== 産業分類 ==
産業分類は、分析の枠組みや目的に応じてそれぞれに適した方法が用いられる。基礎的・標準的な分類としては公的な統計において標準産業分類が設定されている。
産業分類は、[[経済学]]が学問として確立しはじめた当初から経済学者によって論じられてきた。[[重農主義|重農学派]]の[[フランソワ・ケネー]]は『経済表』(1758)において地主階級、生産階級(農業)、不生産階級(商業)の3分類を示し、[[農業]]だけが生産的であると考えた。[[カール・マルクス]]は『[[資本論]]』第2巻(1885)で第一部門(生産財生産部門)と第二部門(消費財生産部門)という産業間分析を行っている。1930年代に入ると、経済発展を産業構造の変化という視点でとらえるようになり、本格的に産業分類が研究されるようになった。
=== ホフマンの産業分類 ===
[[ワルター・ホフマン]]([[:en:Walther G. Hoffmann]])は、経済発展を、消費財を直接に生産する段階から、製造設備などの資本財を作りこれを利用して生産性を高める段階への変化としてとらえた。従って、産業を消費財産業と資本財産業とに分類し、「消費財産業の純生産額」÷「資本財産業の純生産額」([[ホフマン比率]])を見ることで経済発展の程度がわかると考えた。ホフマンによれば、比率は第1段階では5.0、第2段階では2.5、第3段階では1.0、第4段階ではそれ以下となる。ただしホフマンの方法は、[[産業連関表|産業連関分析]]が発達した今日から見れば難点が多いとされている。
=== クラークの産業分類 ===
[[コーリン・クラーク]]は、『経済的進歩の諸条件』(1941)において、産業を[[第一次産業]]、[[第二次産業]]、[[第三次産業]]に3分類し、経済発展につれて第一次産業から第二次産業、第三次産業へと産業がシフトしていくことを示した。これは[[17世紀]]に[[ウィリアム・ペティ]]が『[[政治算術 (書物)|政治算術]]』(1690)で述べた考え方を定式化したもので、両者にちなんで「ペティ=クラークの法則」と呼ばれる。
* '''[[第一次産業]]''' - [[農業]]、[[林業]]、[[水産業]]など、狩猟、採集。
* '''[[第二次産業]]''' - [[製造業]]、[[建設業]]など、[[工業]]生産、加工業。[[電気]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[水道]]業
* '''[[第三次産業]]''' - [[情報通信業]]、[[金融業]]、[[運輸業]]、[[小売]]業、[[サービス]]業など、非物質的な生産業、配分業。
クラークの産業分類に関しては、第三次産業に単純労働が含まれ、後進的な産業が先進的な産業と同じ扱いになっているという批判がある。さらに、経済発展につれて産業内部で生じている構造変化をとらえきれないという弱点がある。また、第三次産業は、公益事業のような資本集約的な産業も、飲食業のような労働集約的な産業も、[[教育]]のような知識集約的な産業も含むという雑多な産業の集合体であり、雑多な産業を単一のくくりで単純化することについても批判がある。
=== ルイスの2部門モデル ===
[[アーサー・ルイス]]は、[[開発途上国]]の経済を伝統的部門(主に伝統的な農業)と近代的部門(資本集約的産業)とに分ける2部門[[モデル]]{{要曖昧さ回避|date=2021年9月}}を提案した。ルイスによれば、経済が一定の発展段階に達するまでは伝統的部門からの固定賃金での無制限労働[[供給]]が続くため、[[政府開発援助|経済援助]]の効果がなかなか現れないと説いた。
ルイスのモデルは、[[ラニス]]と[[フェイ]]によって精緻化され、ラニス=フェイモデルでは、農業部門からの労働力流出によって、経済発展の「第1局面」「第2局面」「第3局面」が訪れ、1人あたり農業所得が上昇してゆくと説明される。
=== 軽工業と重工業・素材産業と組み立て産業 ===
[[製造業]]は、古典的な分類では食品、繊維などの軽工業と、鉄鋼、機械、化学などの重化学工業とに2分され、工業化の進展に連れて重化学工業の比率が高まってゆくと説明されてきた。しかし1960年代の[[日本]]では、重化学工業化率が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]の同水準に達していながら、製造業の生産性において大きな隔たりがあることが観察されていた。
[[篠原三代平]]は、製造業を素材産業と組立て産業とに分類して分析する必要性を指摘した(1967)。篠原によれば、当時の日本では素材産業の大きさに比べて、素材を加工し組み立てる産業が未熟であり、それが工業の生産性の低さに現れていた。こうして、経済発展の指標として高加工度化という分析視点が不可欠とされるようになった。
=== ポラトの産業分類 ===
1970年代になると、産業構造の知識集約化という視点が注目されるようになった。これは[[繊維産業]]は単純製品からファッション性の高いブランド製品へ、サービス業も単純・反復労働から[[金融工学]]や[[コンサルティング]]へというように、経済発展につれて同じ産業であってもより知識・技術の集約度の高い方向へと変化し、「物」の生産そのものよりも「情報」の生産がより大きな付加価値を生んでいるという見方である。
[[マーク・ポラト]]は、『情報経済入門』(1977)において、情報交換の場として市場と組織内(企業や政府の内部)を考え、市場における情報の供給主体(通常の意味での情報産業)を第1次情報部門、組織内情報の生産活動を第2次情報部門と呼んだ。ポラトはこの枠組みに基づいた産業連関表を作成し、1967年のアメリカ経済では第1次情報部門の付加価値がGNPの25.1パーセント、第2次情報部門が21.1パーセントを占めるとした。
=== 輸出産業と国内産業 ===
産業は、その製品・[[サービス]]が国際的に取引され国際競争にさらされているか、あるいは主に国内で取引されているかによって、輸出産業と国内産業とに区分される。こうした輸出産業と国内産業という分析視点は日本経済の二重構造を論じる際に用いられる。一般に、日本の代表的な輸出産業である自動車産業や[[エレクトロニクス]]産業([[ハイテク]]産業、[[情報技術|IT]]産業)は国際競争力が高いが、建設、農業、医療、金融などの国内産業は[[生産]]性が低いと言われる。
輸出産業と国内産業との区分は政策や社会環境によっても変わってくる。農産物は国際的に取引されている商品であるが、日本では農業保護政策によって各種の農産物が国際競争から隔離されている。電力は日本では国内産業であるがヨーロッパでは国際取引されている。[[情報通信業]]は従来は国内産業と考えられてきたが、情報通信技術の発達を背景に、[[インド]]や[[中華人民共和国|中国]]を拠点として遠隔地からサービスを行う動きも出てきている([[オフショアリング]])。
== 標準産業分類 ==
標準産業分類は、各種の統計間の比較可能性を確保するために、統計調査の対象となる各種産業の標準的な分類体系を定めた統計基準である。国際的には、1948年に[[国際連合]]の統計委員会により[[国際標準産業分類]](International Standard Industrial Classification of All Economic Activities, ISIC)が設定されている。各国においても、統計の国際比較を可能にするため、産業分類をできるだけISICに準拠して作成するよう配慮がされている。
日本でも、[[日本標準産業分類]]がISICに準拠する形で作成されている。最初の日本標準産業分類は1949年に完成された。その後改定が重ねられたが、2002年に大改定が行われ、[[情報通信業]]が新たな産業分類として設定された。
== 上場企業の産業分類 ==
=== 証券コードによる業種分類 ===
{{main|業種}}
日本の証券取引所に上場されている企業は、証券コード協議会が定めた統一的な基準により33の業種に分類されている。証券コード協議会は全国の証券取引所により組織され、[[東京証券取引所]]が事務局を務めている。
証券コードによる業種分類は基本的には日本標準産業分類に準拠している。毎年の決算書を元に、上場企業の各事業のうち最も売上が大きい事業の業種がその企業の業種とされる。事業内容が大きく変化する場合は、年に2回、所属業種の見直し審査が行われる。
=== GICS ===
{{lang|en|Global Industry Classification Standard}}(世界産業分類基準)の略。[[1999年]]に[[スタンダード&プアーズ]]と[[MSCI]]が定めたグローバルな産業分類の一つで、統一的な基準により大きく11のセクター(開始当初は10)、24の産業に分類されている。現在は主に、[[S&P ダウ・ジョーンズ・インデックス]]およびMSCIが使用している。
=== ICB ===
{{lang|en|Industrial Classification Benchmark}}(業種分類ベンチマーク)の略。[[2005年]]に[[FTSE]]と[[ダウ・ジョーンズ]]が定めたグローバルな産業分類の一つで、統一的な基準により大きく11の産業、20のセクターに分類されている。現在は主に、FTSEラッセル、NASDAQ Inc.、[[STOXX]]が使用している。
== 産業別の統計 ==
{{Main|[[:en:List of countries by GDP sector composition]]}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Columns-list|2|
* [[産業革命]]
** [[第二次産業革命]]
** [[第三次産業革命]]
** [[第四次産業革命]]([[インダストリー4.0]])
* [[第一次産業]]{{Ndash}}[[第二次産業]]{{Ndash}}[[第三次産業]]
* [[産業構造の転換]]
* [[産業法]]
* [[経済法]]
* [[労働]]{{Ndash}}[[職業]]
* [[六次産業]]
* [[産業組織論]]
* [[ニッチ市場]]
* [[軍需産業]]
* [[空洞化]]
* [[地場産業]]
* [[産業振興プラザ]]
* [[会計学]]
* [[簿記]] - [[簿記講習所]]
<!--* [[国税庁]]
* [[税務大学校]]
* [[税理士]]-->
* [[日本経営学会]]
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Wiktionary}}
* [https://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/seido/sangyo/ 日本標準産業分類]
* [https://unstats.un.org/unsd/classifications/Econ/ISIC.cshtml 国際標準産業分類 (ISIC)]{{en icon}}
* [https://www.msci.com/gics 世界産業分類基準 (GICS)]{{en icon}}
* [https://www.ftserussell.com/ja 業種分類ベンチマーク(ICB)]
* [http://www.esri.go.jp/jp/archive/sei/sei014/sei014.html 知識・情報集約型経済への移行と日本経済](吉川 薫、田丸 征克、山口 慎一、1999年4月、[[経済企画庁経済研究所]])
* {{Kotobank}}
{{主要産業}}
{{就業}}
{{normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さんきよう}}
[[Category:産業|*]]
[[Category:生業]]
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2003-08-29T16:33:37Z
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2023-08-14T10:46:52Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E6%A5%AD
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14,400 |
現代社会
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現代社会(げんだいしゃかい)は、時代の変化と共に社会に生じる変化を強調し、現在存在する社会を過去の社会と区別するために用いられる概念である。
日本で現代社会の語が用いられる場合には、日本社会や、先進国の社会一般などが言及の対象として想定されていることも多い。そのような意味での現代社会の特徴は、高度情報化社会・大衆社会・ポスト産業社会などと形容されることもある。
日本では、少産少子化・超高齢社会が進行しており、都市周辺部の都市化、都市部以外の過疎化が進行している。統計的な予測によると、4人に1人が高齢者という社会がすぐそこまで迫っている。加えて2030年以降の非婚率は30%を超えるであろうと予測されている。30代、40代ですでに社会から孤立する者が急速に増えている。無縁社会、 ネットカフェ難民、年越し派遣村という新造語も次々に生まれている。高齢者の生きがい、社会参加、共生、共生きという新しい共生社会のモデルの模索が始まっている。
世界に目を向けると、世界各地で民族紛争が起こり、南北問題も問題視されている。また、地球環境問題は、近年、非常に大きな注目を浴びている。
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現代社会(げんだいしゃかい)は、時代の変化と共に社会に生じる変化を強調し、現在存在する社会を過去の社会と区別するために用いられる概念である。
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'''現代社会'''(げんだいしゃかい)は、時代の変化と共に社会に生じる変化を強調し、現在存在する[[社会]]を過去の社会と区別するために用いられる概念である。
==概要==
日本で現代社会の語が用いられる場合には、日本社会や、[[先進国]]の社会一般などが言及の対象として想定されていることも多い。そのような意味での現代社会の特徴は、高度[[情報化社会]]・[[大衆社会]]・ポスト[[産業社会]]などと形容されることもある。
日本では、少産[[少子化]]・[[超高齢社会]]が進行しており、都市周辺部の[[都市化]]、都市部以外の[[過疎化]]が進行している。統計的な予測によると、4人に1人が高齢者という社会がすぐそこまで迫っている。加えて2030年以降の[[生涯未婚率|非婚率]]は30%を超えるであろうと予測されている。30代、40代ですでに社会から孤立する者が急速に増えている。[[無縁社会]]、 [[ネットカフェ難民]]、[[年越し派遣村]]という[[新造語]]も次々に生まれている。高齢者の生きがい、社会参加、[[共生]]、共生きという新しい共生社会のモデルの模索が始まっている。
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== 関連項目 ==
* [[社会学]]
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14,401 |
体操競技
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体操競技(たいそうきょうぎ)は、徒手または器械を用いた体操の演技について技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う競技(スポーツ)である。
学校体育で用いられる鉄棒・跳び箱・マット運動をはじめ、雲梯・ジャングルジム・登り棒・滑り台・ブランコ等も含めることができる。
競技スポーツとしては、男子は床運動(ゆか)・鞍馬(あん馬)・吊り輪(つり輪)・跳馬・平行棒・鉄棒の6種目、女子は跳馬・段違い平行棒・平均台・床運動の4種目が行われている。女子の床運動では音楽が用いられる。体操器具は高価であり、日本国内では段違い平行棒等を所有していない学校でも競技に参加できるよう、代わりに低鉄棒を大会種目に設ける場合もある。
採点方法は、10点満点制が長年にわたり親しまれてきたが、高難度化にともない2006年に上限が廃止された(詳細は後述)。技の名前に、それを最初に成功させた選手の名前が付くことも特徴である。
男子は日本・アメリカ合衆国・中華人民共和国等が、女子はルーマニア・アメリカ合衆国・中華人民共和国等が強豪国として知られる。かつてはソビエト連邦・ドイツ民主共和国(東ドイツ)も名を馳せた。
すべての種目において身体を回転させる技が求められる競技特性上、回転の妨げとなる慣性モーメントが小さいほど高得点を得る上で有利となる。したがって身長・体重は小さいほど選手としての適性が高く、国際的な一流選手においても男子は160cm台、女子は140cm台も多い。主力選手が10代中心と低年齢化の進んだ女子においては、第二次性徴の発現とともに、競技の上では無駄にしかならない体脂肪が増えて体格が大きく変わってしまい、選手としての能力面で旨みのある時期が終わってしまう等の理由から、身体が成長する前に年齢による出場資格の下限がある上位の国際大会に出場させるために年齢を実年齢よりも高く詐称させるという問題がたびたび持ち上がる。一方、男子においては体幹・上腕の強靭な筋力を求められる種目が多く、筋肉を競技上不利とならない範囲で最大限に増大させると同時に体脂肪を極限まで落とすことが求められる。
一方、競技中・練習中に発生する事故により、死亡または頸椎・脊椎の損傷(脊髄損傷)による重大な後遺症を受傷する事例も少なくない、危険なスポーツでもある。このため年齢・性別による禁止技が設けられており、整った環境・補助の下で適切な指導を受けることが重要である。
日本では競技体操の新体操、トランポリンらと並ぶ一分野(種別)「体操競技」という、用語がややこしい状況にある。これらと区別をする為「器械体操」と呼ばれる事もある。
1811年、ドイツのヤーンがベルリン郊外ハーゼンハイデというところで、若者を集めて小さな体育場を開設した。そこには、今の器械の原形となる、木・棒・あん馬・平行棒などがあり、若者達は熱気にあふれていたという。若者達は、いろいろな器具を使い、技を沢山作り、競い合ったという。
そして、それが現在の鞍馬や、鉄棒などにつながるものになった。
1881年、国際体操連盟(Fédération Internationale de Gymnastique 略称:FIG)が3カ国により設立、1921年にアメリカ合衆国等非ヨーロッパ諸国が連盟に加わり、現在の形に再編成されるまで、欧州体操連盟(FEG)と呼ばれていた。 体操競技は1896年第1回近代オリンピック・アテネ大会の競技として含まれ、1903年からは世界体操競技選手権が開催されるようになった。
女子体操については、団体競技が1928年アムステルダムオリンピックから、世界体操競技選手権には1950年第12回世界選手権から、競技されるようになり、個人競技は、個人総合が1934年第10回世界選手権から、第12回世界選手権で種目別4種目が取り入れられ、1952年ヘルシンキオリンピック以降現在の形となった。
団体総合に強く、1960 - 70年代にかけ、オリンピック・世界選手権にて男子団体総合が10連勝するなど、"日本式体操"が世界の頂点に君臨し「体操ニッポン」「お家芸」と謳われるまでに至った。日本人選手の名前が付く技も多い。
伝統的に鉄棒を得意とする選手が多い。
日本に器械体操が最初に導入されたのは、1830年(天保元年)頃、高島秋帆による藩の新兵訓練とされている。徴兵令施行により、日本軍の新兵訓練にも採用された。しかし入隊後の訓練期間が惜しいと、学校教育にも器械体操が採用されるようになった。
1932年(昭和7年)、ロサンゼルス五輪に初参加したが、参加5ヶ国中最下位であった。しかし、これを機に国際大会への参加も相次ぎ、学生スポーツとして徐々に盛り上がりを見せた。
第二次世界大戦後数年は、国際的な連盟に加盟できず、オリンピック・世界選手権等には出場できなかった。しかし、この間に外国(アメリカ、ドイツ等)との交流試合を開催し、世界水準にまで成長した。1952年(昭和27年)のヘルシンキ五輪では団体5位はじめ種目別でもメダルを獲得。1960年(昭和35年)にはローマ五輪にて男子団体優勝。以後約20年間の長期にわたり連覇を続け、さらに個人総合・種目別金メダルも多数獲得。文字通り、この時期の日本の体操は無敵と言えるもので、日本の体操は20年にわたり世界の頂点に君臨した。
ボイコット不参加となったモスクワ五輪前後から選手の技能継承の失敗やエースの後継者育成の失敗などの要因で凋落。ロサンゼルス五輪以降は長らく世界選手権を含め金メダル獲得が無く、不振の時代を迎えた。特にアトランタ五輪・シドニー五輪はメダル無しに終わった(注:この間、世界選手権での銀・銅メダルはあった)。2000年(平成12年)前後には不況の影響もあり、企業の部活が相次いで休部・廃部に追い込まれた。
しかし、2003年(平成15年)に世界選手権種目別(鉄棒・あん馬)で金メダルを獲得、団体でも8年ぶりに表彰台に上がる等、復活の機運が見えはじめた。翌年のアテネ五輪で28年ぶりに男子団体優勝を果たし、再び世界のトップレベルに返り咲いたことを強く印象付けた。以後、北京五輪、ロンドン五輪でも団体銀メダルを獲得する等、種目別・個人総合での優勝含むメダル獲得が続いている。2015年(平成27年)、世界選手権大会(グラスゴー)で37年ぶりに世界選手権で男子団体優勝を果たした。
この他に、アジア競技大会などの国際総合大会において体操競技が設けられている。
Category:日本の体操競技大会も参照
この他に、ジュニア・学生・社会人向けの大会が行われている。
体操競技で難度は技や運動の難しさの程度を言う。跳馬を除き、男子はA~I、女子はA〜Jまであり、それぞれ0.1~0.9または1.0点が配点されている。男子は10個の技の点の合計が、女子は8個の技の点の合計が難度点(Difficulty Value)になる。演技価値点すなわちDスコア(Difficulty)は難度点と構成要求(最大2.0)と組み合わせ加点の合計からなる。また、跳馬においては各技に得点が配点されており、それがDスコアとなる。本来難度はA~Cの3段階に分類されていたが、技術の進歩により1985年にはD難度、更に1993年にはE難度が導入された。しかしそれらをも上回るものが出てきたため、1998年から一時的にスーパーEが導入された後、2006年の規則改正に合わせてF難度、G難度が導入された。さらに2013年から採用される採点規則において、女子には新たにI難度が創設された。現在では難度が高い技ほど得点がのびやすいため難度の高い技を行う選手が増加している。
日常会話で使用され、「とっておきの大逆転技」という意味で用いられるウルトラCであるが、1964年東京オリンピック前に体操競技の難度を示す言葉として造語されたものである。発案者には諸説あり、『ブリタニカ国際大百科事典』の「小項目事典」では「最初に使ったのは国際体操連盟 FIG男子技術委員も務めた金子明友、普及に力を尽くしたのが東京オリンピック日本体操チーム総監督の佐々野利彦といわれる。」と記し、デイリースポーツ社史の『デイリースポーツ三十年史』では体操競技の強化委員を務めた上迫忠夫が五輪前年の強化合宿で取材に答えて発して報じたものを初出とする。上記のように当時の難度はA,B,Cしかなく、当時の最高難度であったC難度よりもさらに難しい技という意味で使用されたとされるが、上迫はむしろ「本来C以上のものもCに含まれていた」ため、そのようなものを区別するためにこの言葉で表現したという。
体操の技名は基本的に演技内容を粛々と述べただけのもの(例としてムーンサルト:鉄棒またはゆかにおける後方2回宙返り1回ひねり下り)であるが、FIG(国際体操連盟)の定める国際大会で過去実施されたことのない新技を事前に申請した上で発表・成功すると、その技の通称として実施者の姓が技名として認定される。多くの技がこの名前で呼ばれ、ロサンゼルスオリンピックで森末慎二が発表した平行棒での後方棒上かかえ込み二回宙返り腕支持はモリスエと呼ばれるなどしている。同一の人名の技が同名でその種目に存在する場合はそれぞれA,B,C...やII,III,IV...と語尾につけられる(例:シュテクリB・ゲイロードII)。
新技を申請しFIGの定める国際大会で新技を成功させれば、コバチやトカチェフといった自らの姓がついた技を新技につけることができるのだが、もしも新技を失敗してしまうと、今後は誰がその同じ新技を国際試合で成功させようとも、その技に人の姓がつけられることはなくなる。ex:伸身トカチェフ ただし、2016年リオデジャネイロオリンピックでは、ブレットシュナイダーの平行棒の技と、イーゴリ・ラディビロフの跳馬の4回宙の2つの技について、オリンピックでは成功しなかったが、後に同じ選手が挑戦して成功させれば名前がつく可能性があるとなっている。
また、現在では新技に名前を付けるためにはC難度以上として認定される必要があり、B難度以下の技で新技申請を行っても名前がつくことはなくなっている。
同一の人名が別々の種目につけられることもあり、山脇恭二が発表した技はあん馬での馬端から馬端への背面とび横移動、つり輪での前方かかえこみ二回宙返り懸垂があり、それぞれヤマワキと呼ばれる。
なお、塚原光男が1972年ミュンヘンオリンピックで発表した鉄棒での月面宙返り下り、いわゆるムーンサルトはツカハラと名付けられている。ムーンサルトの命名は、恩師である竹本正男(ローマ五輪金メダリスト・元日本体育大学副学長)である。
他に、田中光が1996年アトランタオリンピックに出場し平行棒においてオリジナル技「TANAKA」(懸垂前振りひねり前方かかえ込み2回宙返り腕支持:難度E)を発表し、認定されている。
2013年に白井健三が初めて成功した「後方伸身宙返り4回ひねり」が「シライ」となった。
なお、ここで述べるルールはFIG(国際体操連盟)国際大会のルールであり、変更規則I、IIおよび各地で開催される大会にはジュニアルールなど、多くのローカルルールも存在する。ルールは4年に1度、オリンピックの翌年に改定され、現在は2017−2020年版採点規則が適用されている。
2006年から2008年までは技の難度、要求、加点によって決まるAスコア、実施された技の減点、不完全な技に対しては個々減点を行うなどの実施減点であるBスコアがそれぞれA審判、B審判により算出され、それぞれの合計が決定点となる。 また、2009年からはAがD、BがEと置き換えられている(difficulty、executionの頭文字) DスコアはD審判により次のように算出される。
特別要求(2.5(0.5×5))
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組み合わせ加点
跳馬の場合
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"text": "2006年から2008年までは技の難度、要求、加点によって決まるAスコア、実施された技の減点、不完全な技に対しては個々減点を行うなどの実施減点であるBスコアがそれぞれA審判、B審判により算出され、それぞれの合計が決定点となる。 また、2009年からはAがD、BがEと置き換えられている(difficulty、executionの頭文字) DスコアはD審判により次のように算出される。",
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体操競技(たいそうきょうぎ)は、徒手または器械を用いた体操の演技について技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う競技(スポーツ)である。
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{{Redirect|ウルトラC|その他の用法|ウルトラ#ウルトラC}}
[[File:Daniele Hypólito 16072007.jpg|thumb|体操競技の一つ、女子平均台(2007年、[[:en:Daniele Hypólito|ダニエリ・イポリト]]による競技場面)]]
[[ファイル:FabianHambuechen-WM07.jpg|サムネイル|体操競技の一つ、男子鉄棒(2007年、[[ファビアン・ハンビューヘン]]による競技場面)]]
'''体操競技'''(たいそうきょうぎ)は、徒手または器械を用いた[[体操]]の演技について技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う[[競技]]([[スポーツ]])である。
==概要==
学校体育で用いられる鉄棒・[[跳び箱]]・マット運動をはじめ、[[雲梯]]・[[ジャングルジム]]・登り棒・[[滑り台]]・[[ブランコ]]等も含めることができる。
競技スポーツとしては、'''男子は[[ゆか|床運動]](ゆか)・[[あん馬|鞍馬]](あん馬)・[[つり輪|吊り輪]](つり輪)・[[跳馬]]・[[平行棒]]・[[鉄棒]]の6種目、女子は跳馬・[[段違い平行棒]]・[[平均台]]・床運動の4種目'''が行われている。女子の床運動では音楽が用いられる。体操器具は高価であり、日本国内では段違い平行棒等を所有していない学校でも競技に参加できるよう、代わりに低鉄棒を大会種目に設ける場合もある。
採点方法は、[[10点満点]]制が長年にわたり親しまれてきたが、高難度化にともない2006年に上限が廃止された(詳細は後述)。技の名前に、それを最初に成功させた選手の名前が付くことも特徴である。
男子は[[日本]]・[[アメリカ合衆国]]・[[中華人民共和国]]等が、女子は[[ルーマニア]]・アメリカ合衆国・中華人民共和国等が強豪国として知られる。かつては[[ソビエト連邦]]・[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)も名を馳せた。
すべての種目において身体を回転させる技が求められる競技特性上、回転の妨げとなる[[慣性モーメント]]が小さいほど高得点を得る上で有利となる。したがって身長・体重は小さいほど選手としての適性が高く、国際的な一流選手においても男子は160cm台、女子は140cm台も多い。主力選手が10代中心と低年齢化の進んだ女子においては、[[第二次性徴]]の発現とともに、競技の上では無駄にしかならない体脂肪が増えて体格が大きく変わってしまい、選手としての能力面で旨みのある時期が終わってしまう等の理由から、身体が成長する前に年齢による出場資格の下限がある上位の国際大会に出場させるために[[年齢詐称|年齢を実年齢よりも高く詐称]]させるという問題がたびたび持ち上がる<ref>1980年代に活躍した[[ダニエラ・シリバシュ]](ルーマニア)が、2002年になって現役時代の年齢詐称を告白。近年では、[[2000年シドニーオリンピックの体操競技|シドニー五輪]]で[[中国|中華人民共和国]]女子選手の詐称が認定された [http://sankei.jp.msn.com/sports/other/100227/oth1002271058000-n1.htm] 他、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]でも同国の女子選手に詐称疑惑が起きた。</ref>。一方、男子においては体幹・上腕の強靭な筋力を求められる種目が多く、筋肉を競技上不利とならない範囲で最大限に増大させると同時に体脂肪を極限まで落とすことが求められる。
一方、競技中・練習中に発生する事故により、死亡または[[頸椎]]・[[脊椎]]の損傷([[脊髄損傷]])による[[身体障害|重大な後遺症]]を受傷する事例も少なくない<ref group="注">日本国内の調査では、1972年1月〜1974年1月の2年間に10名が事故死・13名が頸椎骨折などの重傷を負ったことが判明した(1974年7月30日読売新聞「事故防止で禁止ワザを通達」より)。国内では後に[[画家]]として知られる[[星野富弘]]が、国外では世界選手権優勝の[[エレナ・ムヒナ]](ソ連)が、それぞれ練習中の事故で身体障害を負ったことが特に有名である。</ref>、危険なスポーツでもある。このため年齢・性別による禁止技が設けられており、整った環境・補助の下で適切な指導を受けることが重要である。
日本では競技[[体操]]の[[新体操]]、[[トランポリン]]らと並ぶ一分野(種別)「体操競技」という、用語がややこしい状況にある。これらと区別をする為「'''器械体操'''」と呼ばれる事もある。
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<gallery caption="男子種目" mode="packed" height="180">
File:Brasil disputa final da ginástica olímpica masculina (28754201572).jpg|ゆか
File:Artur Davtyan on the pommel horse in Olympic gymnastics.jpg|あん馬
File:13th Austrian Future Cup Linz-Mayer Niklas-6608.jpg|つり輪
File:DHypolito-Vault.jpg|跳馬
File:Espen Jansen - NMturn15.jpg|平行棒
File:Figure on horizontal bar.jpg|鉄棒
</gallery>
<gallery caption="女子種目" mode="packed" height="180">
File:Vault figure.jpg|跳馬
File:Pauline Morel uneven bars.JPG|段違い平行棒
File:Dorina Böczögő, balance beam, 2012.jpg|平均台
File:Shawn Johnson competes.jpg|ゆか
</gallery>
==歴史==
{{節スタブ}}
[[1811年]]、ドイツのヤーンがベルリン郊外ハーゼンハイデというところで、若者を集めて小さな体育場を開設した。そこには、今の器械の原形となる、木・棒・あん馬・平行棒などがあり、若者達は熱気にあふれていたという。若者達は、いろいろな器具を使い、技を沢山作り、競い合ったという。
そして、それが現在の鞍馬や、鉄棒などにつながるものになった。
[[1881年]]、[[国際体操連盟]](Fédération Internationale de Gymnastique 略称:FIG)が3カ国により設立、[[1921年]]にアメリカ合衆国等非ヨーロッパ諸国が連盟に加わり、現在の形に再編成されるまで、欧州体操連盟(FEG)と呼ばれていた。 体操競技は[[1896年]][[1896年アテネオリンピック|第1回近代オリンピック・アテネ大会]]の競技として含まれ、[[1903年]]からは[[世界体操競技選手権]]が開催されるようになった。
女子体操については、団体競技が[[1928年]][[アムステルダムオリンピック]]から、世界体操競技選手権には[[1950年]]第12回世界選手権から、競技されるようになり、個人競技は、個人総合が[[1934年]]第10回世界選手権から、第12回世界選手権で種目別4種目が取り入れられ、[[1952年]][[ヘルシンキオリンピック]]以降現在の形となった。
==日本における体操競技==
===概要===
団体総合に強く、1960 - 70年代にかけ、オリンピック・世界選手権にて男子団体総合が10連勝するなど、"日本式体操"が世界の頂点に君臨し「体操ニッポン」「お家芸」と謳われるまでに至った。日本人選手の名前が付く技も多い。
伝統的に鉄棒を得意とする選手が多い。
===歴史===
日本に器械体操が最初に導入されたのは、[[1830年]](天保元年)頃、[[高島秋帆]]による藩の新兵訓練とされている<ref name="yomi19600911">1960年9月11日 読売新聞「日本体操の歩み」</ref>。徴兵令施行により、[[日本軍]]の新兵訓練にも採用された。しかし入隊後の訓練期間が惜しいと、学校教育にも器械体操が採用されるようになった。
[[1932年]](昭和7年)、[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]に初参加したが、参加5ヶ国中最下位であった<ref name="yomi19600911"/>。しかし、これを機に国際大会への参加も相次ぎ、学生スポーツとして徐々に盛り上がりを見せた。
[[第二次世界大戦]]後数年は、国際的な連盟に加盟できず、オリンピック・世界選手権等には出場できなかった。しかし、この間に外国(アメリカ、ドイツ等)との交流試合を開催し、世界水準にまで成長した。[[1952年]](昭和27年)の[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキ五輪]]では団体5位はじめ種目別でもメダルを獲得。[[1960年]](昭和35年)には[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]にて男子団体優勝。以後約20年間の長期にわたり連覇を続け、さらに個人総合・種目別金メダルも多数獲得。文字通り、この時期の日本の体操は無敵と言えるもので、日本の体操は20年にわたり世界の頂点に君臨した。
ボイコット不参加となった[[1980年モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]前後から選手の技能継承の失敗やエースの後継者育成の失敗などの要因で凋落。[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]以降は長らく世界選手権を含め金メダル獲得が無く、不振の時代を迎えた。特に[[1996年アトランタオリンピック|アトランタ五輪]]・[[2000年シドニーオリンピック|シドニー五輪]]はメダル無しに終わった(注:この間、世界選手権での銀・銅メダルはあった)。[[2000年]](平成12年)前後には不況の影響もあり、企業の部活が相次いで休部・廃部に追い込まれた。
しかし、[[2003年]](平成15年)に世界選手権種目別(鉄棒・あん馬)で金メダルを獲得、団体でも8年ぶりに表彰台に上がる等、復活の機運が見えはじめた。翌年の[[2004年アテネオリンピック|アテネ五輪]]で28年ぶりに男子団体優勝を果たし、再び世界のトップレベルに返り咲いたことを強く印象付けた。以後、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]、[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]でも団体銀メダルを獲得する等、種目別・個人総合での優勝含むメダル獲得が続いている。2015年(平成27年)、[[2015年世界体操競技選手権|世界選手権大会(グラスゴー)]]で37年ぶりに世界選手権で男子団体優勝を果たした。
====年譜====
*[[1930年]](昭和{{0}}5年)[[4月13日]]、[[全日本体操連盟]]創立
*[[1932年]](昭和{{0}}7年)、[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]に初出場
*[[1939年]](昭和14年)10月、[[日本体操競技連盟]]設立
*[[1942年]](昭和17年)1月、全日本体操連盟と日本体操競技連盟が統合、 財団法人・大日本体育会体操部となる
*[[1946年]](昭和21年)3月、[[日本体操協会]]設立
*[[1951年]](昭和26年)、[[国際体操連盟]](FIG)に正式加盟
*[[1954年]](昭和29年)、[[1954年世界体操競技選手権|世界選手権(ローマ)]]にて、[[竹本正男]]([[徒手]])・[[池田敬子]](平均台)が日本体操界初の世界選手権金メダル
*[[1956年]](昭和31年)、[[1956年メルボルンオリンピック|メルボルン五輪]]にて、[[小野喬]](種目別鉄棒)が日本体操界初のオリンピック金メダル
*[[1960年]](昭和35年)-[[1978年]](昭和53年)、[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]から[[1978年世界体操競技選手権|世界選手権(ストラスブール)]]まで、オリンピック五連覇を含む団体総合10連勝(V10)を達成。
*[[2001年]](平成13年)、[[対テロ戦争|世界情勢の悪化]]から世界選手権への選手派遣を中止
==主要な大会と競技種別==
===国際大会===
*[[オリンピックの体操競技|オリンピック]]
*[[世界体操競技選手権]]
*[[世界ジュニア体操競技選手権]]
*[[FIG体操ワールドカップ]] ※廃止
===地域大会===
この他に、[[アジア競技大会]]などの国際総合大会において体操競技が設けられている。
*[[ヨーロッパ体操競技選手権]]
*[[環太平洋体操競技選手権]]
*[[アジア体操競技選手権]]
===国内大会===
''[[:Category:日本の体操競技大会]]も参照''
*[[全日本体操競技選手権]]
*[[NHK杯体操選手権]]
;外国人選手を招聘する大会
*[[豊田国際体操競技大会]](旧 中日カップ)
*[[体操JAPAN CUP]]
この他に、ジュニア・学生・社会人向けの大会が行われている。
===競技種別===
;[[団体総合]]
:1チームから複数名が演技し、その合計得点を競う。演技者数・採用演技数等はルールによって変動する。
;[[個人総合]]
:男子は6種目・女子は4種目を1人の選手が演技し、その合計得点を競う。
;種目別
:1種目ごとの演技の得点を競う。
<!--
;団体総合予選
:団体総合予選は、1チーム最大6名の中から各種目ごとに5名が演技し、上位4人の得点が採用され、その合計得点を競う。
;団体総合決勝
:団体総合決勝は、1チーム6名の中から各種目ごとに3名が演技し、その全員の得点が採用され、その合計得点を競う。
;個人総合
:個人総合は、団体総合予選の個人総合成績の上位成績者が、男子は6種目、女子は4種目を演技し、その合計得点を競う。
:※1カ国から参加できるのは2名まで。
;種目別決勝
:種目別決勝は、団体総合予選の種目ごとの上位成績者が再度演技を行い、その得点を競う。
:※1カ国から参加できるのは2名まで。
-->
==技と難度==
===難度===
{{節スタブ}}
'''体操競技'''で'''難度'''は技や[[スポーツ|運動]]の難しさの程度を言う。跳馬を除き、男子はA~I、女子はA〜Jまであり、それぞれ0.1~0.9または1.0点が配点されている。男子は10個の技の点の合計が、女子は8個の技の点の合計が難度点(Difficulty Value)になる。演技価値点すなわち'''Dスコア'''(Difficulty)は難度点と構成要求(最大2.0)と組み合わせ加点の合計からなる。また、跳馬においては各技に得点が配点されており、それがDスコアとなる。本来難度はA~Cの3段階に分類されていたが、技術の進歩により[[1985年]]にはD難度、更に[[1993年]]にはE難度が導入された。しかしそれらをも上回るものが出てきたため、[[1998年]]から一時的に[[スーパーE]]が導入された後、[[2006年]]の規則改正に合わせてF難度、G難度が導入された。さらに[[2013年]]から採用される採点規則において、女子には新たにI難度が創設された。現在では難度が高い技ほど[[得点]]がのびやすいため難度の高い技を行う選手が増加している。
日常会話で使用され、「とっておきの大逆転技」という意味で用いられる'''ウルトラC'''であるが、[[1964年東京オリンピック]]前に体操競技の難度を示す言葉として造語されたものである。発案者には諸説あり、『[[ブリタニカ国際大百科事典]]』の「小項目事典」では「最初に使ったのは国際体操連盟 FIG男子技術委員も務めた[[金子明友]]、普及に力を尽くしたのが東京オリンピック日本体操チーム総監督の[[佐々野利彦]]といわれる。」と記し<ref name="be">{{Cite Kotobank|ウルトラC[体操競技]|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2022-05-21}}</ref>、[[デイリースポーツ]]社史の『デイリースポーツ三十年史』では体操競技の強化委員を務めた[[上迫忠夫]]が五輪前年の強化合宿で取材に答えて発して報じたものを初出とする<ref name="ds30">『デイリースポーツ三十年史』デイリースポーツ社、1978年、P49。</ref>。上記のように当時の難度はA,B,Cしかなく、当時の最高難度であったC難度よりもさらに難しい技という意味で使用されたとされるが<ref name="be"/>、上迫はむしろ「本来C以上のものもCに含まれていた」ため、そのようなものを区別するためにこの言葉で表現したという<ref name="ds30"/>。
===技と技名・新技===
{{節スタブ}}
体操の技名は基本的に演技内容を粛々と述べただけのもの(例として[[ムーンサルト]]:鉄棒またはゆかにおける後方2回宙返り1回ひねり下り)であるが、FIG(国際体操連盟)の定める国際大会で過去実施されたことのない新技を事前に申請した上で発表・成功すると、その技の通称として実施者の姓が技名として認定される。多くの技がこの名前で呼ばれ、[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]で[[森末慎二]]が発表した[[平行棒]]での後方棒上かかえ込み二回宙返り腕支持は'''モリスエ'''と呼ばれるなどしている。同一の人名の技が同名でその種目に存在する場合はそれぞれA,B,C...やII,III,IV...と語尾につけられる(例:シュテクリB・ゲイロードII)。
新技を申請しFIGの定める国際大会で新技を成功させれば、コバチやトカチェフといった自らの姓がついた技を新技につけることができるのだが、もしも新技を失敗してしまうと、今後は誰がその同じ新技を国際試合で成功させようとも、その技に人の姓がつけられることはなくなる。ex:伸身トカチェフ ただし、[[2016年リオデジャネイロオリンピック]]では、ブレットシュナイダーの平行棒の技と、[[イーゴリ・ラディビロフ]]の跳馬の4回宙の2つの技について、オリンピックでは成功しなかったが、後に同じ選手が挑戦して成功させれば名前がつく可能性があるとなっている。<ref>[http://www.fig-gymnastics.com/site/figNews/view?id=1651 Additionally, two elements not successfully performed in the men's competition will be published in the Men's Code of Points, though they will not be named for the gymnast who attempted them. If done well by their originators at a future competition, they may be named retroactively.] </ref>
また、現在では新技に名前を付けるためにはC難度以上として認定される必要があり、B難度以下の技で新技申請を行っても名前がつくことはなくなっている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpn-gym.or.jp/artistic/wp-content/uploads/sites/2/2021/02/923ae65a9b9355b8b4033bc59a443d3d.pdf|title=男子体操競技情報 29 号|accessdate=2021/8/15|publisher=日本体操協会}}</ref>
同一の人名が別々の種目につけられることもあり、[[山脇恭二]]が発表した技は[[あん馬]]での馬端から馬端への背面とび横移動、[[つり輪]]での前方かかえこみ二回宙返り懸垂があり、それぞれ'''ヤマワキ'''と呼ばれる。
なお、[[塚原光男]]が[[1972年ミュンヘンオリンピック]]で発表した[[鉄棒]]での月面宙返り下り、いわゆる[[ムーンサルト]]は'''ツカハラ'''と名付けられている。ムーンサルトの命名は、恩師である[[竹本正男]]([[ローマ五輪]]金メダリスト・元[[日本体育大学]]副学長)である。
他に、[[田中光 (体操選手)|田中光]]が[[1996年アトランタオリンピック]]に出場し[[平行棒]]においてオリジナル技「TANAKA」(懸垂前振りひねり前方かかえ込み2回宙返り腕支持:難度E)を発表し、認定されている。
2013年に[[白井健三]]が初めて成功した「後方伸身宙返り4回ひねり」が「シライ」となった。
==採点方法==
なお、ここで述べるルールはFIG([[国際体操連盟]])国際大会のルールであり、変更規則Ⅰ、Ⅱおよび各地で開催される大会にはジュニアルールなど、多くのローカルルールも存在する。ルールは4年に1度、オリンピックの翌年に改定され、現在は2017−2020年版採点規則が適用されている。
===2009(2006)年以降===
2006年から2008年までは技の難度、要求、加点によって決まるAスコア、実施された技の減点、不完全な技に対しては個々減点を行うなどの実施減点であるBスコアがそれぞれA審判、B審判により算出され、それぞれの合計が決定点となる。
また、2009年からはAがD、BがEと置き換えられている(difficulty、executionの頭文字)
DスコアはD審判により次のように算出される。
'''特別要求'''(2.5(0.5×5))
:グループがI~Vまであり(ゆかはI~IV)、それぞれのグループの技を一つでも実施すれば満たすことができる。
:しかし終末技はD難度以上でなければいけない(C難度では0.3、A、Bでは0.0)
:内容はたとえば鉄棒であれば、懸垂振動技、手放し技、鉄棒に近い技、背面・大逆手の技、終末技である
:また、1つのグループにつき4技までしか実施してはいけない(実施しても価値は認められないが実施減点はある)
'''難度'''
:技ごとにA~Jまでの難度が設定されており、A・B・C・D・E・F・G・H・I・Jの順に0.1~1.0の価値点があり、男子は終末技の他に9技まで、女子は終末技の他に7技まで、難度の高いほうから順に技を選ぶ(一つのグループで4技を超えて実施されていた場合は4技までしか取ることはできない)
'''組み合わせ加点'''
:男子はゆかと鉄棒のみにあり(つり輪は2009年に削除された)、女子は段違い平行棒、平均台、ゆかにある。
:男子の場合、床ではD難度以上の宙返り技と他の宙返り技を組み合わせることによって得られる。双方がD難度以上場合は0.2、片方の場合は0.1である。また、双方にまたがって加点を得ることはできない
:前方2回ひねり→前宙(D+A)加点0.1
:後方2・1/2ひねり→前方2回ひねり(D+D)加点0.2
:テンポ宙返り→後方2・1/2ひねり→前方1/2ひねり(B+D+B)加点0.1
:鉄棒の場合は離し技と離し技、離し技とその他の技の組み合わせによって得られる。
'''跳馬の場合'''
:男女とも跳馬の場合は技ごとに価値点が決まっていて価値点が直接Dスコアとなる。
:ちなみに2009年よりDスコアが7.0を越す技(ラディビロフ)が出てきたが現在はその危険性から禁止技となっている。
===2005年以前===
2005年までの採点は、A審判による価値点の算出とB審判による減点から算出される。
;価値点
:A審判は、構成される演技構成から、10点満点で価値点を算出する。価値点の内訳は以下のとおり。ただし、[[跳馬]]種目においては以下の法則は適用されず、一つ実施される技そのものにより価値点が決定する。内訳は'''2005年度版'''。
:現在では採点により公平性を持たせるためといった理由により、10点満点制は廃止されているが、[[サーカス]]にはない体操にのみ備わる独特の美しさが損なわれ、難しい技を詰め込むだけの演技になるのではと危惧される一面もあり賛否両論である。
;5.0 演技実施
:演技を行うと与えられる。
;2.8 難度要求
:C難度以下の技を実施した場合、技の難度に応じて加えられる。最高でA,B,C難度それぞれ男子は4,3,3回(女子は2,3,3回)を実施する必要があることになるが、この項目は高い難度の技で低い難度を代用することが出来る。たとえば、A,B難度の技を一度も行わないとしてもC難度の技を10回実施すれば難度要求を満たすことになる。
;0.6 特別要求
:各種目により、実施が義務付けられているカテゴリの技を実施すると与えられる。たとえば男子の場合5種類あり、それぞれは0.1点だが終末技には0.2点が割り当てられている。内容はたとえば鉄棒であれば、懸垂振動技、手放し技、鉄棒に近い技、鉄棒に後ろ向きで行われる技、終末技が規則により設定されている。
;1.6 難度加点
:D難度以上の技を実施した場合、技の難度に応じて加えられる。技の個数に制限はなく、E難度を8回実施しても、D難度を16回実施しても満たすことが出来る。
;技難度
:体操競技で行われる技にはそれぞれ、A,B,C,D,E,スーパーEの難度が設定され、スーパーE難度の技が一番難しいとされる。A,B,C難度の技を実施することで、難度要求の部分に0.1,0.3,0.5の加点を、D,E,スーパーE難度の技を組み込むことにより、難度加点の部分に0.1,0.2,0.3点の加点をもらうことができる。ただし、ゆかのスーパーE難度技に対する加点は優遇され、0.4点が与えられる。
;組み合わせ加点
:技の組み合わせによって、たとえば、B難度とC難度の技を組み合わせることにより、一つ上のD難度にランクアップすることができる。また、C難度+D難度の実施は0.1、D+D,D+E,E+D,E+Eの組み合わせを実施すると0.2の加点が難度加点部分に与えられる。組み合わせ加点においてスーパーE難度の技はE難度と同等に計算される。
;跳馬種目の価値点
:技そのものに価値点があり、それぞれ7~10点の価値点が設定されている。10点の技は非常に難度が高く、たとえば前方3回宙返り半ひねり(ドラグレスク)など限られたものだけである。2004年アテネ五輪団体総合決勝で日本勢が実施した側転とび3/4ひねり後方伸身宙返り1回半ひねり(ドリッグス)は価値点9.9となり、この技では10点は獲得できない。
;減点
:B審判は、実施された技の減点を行う。不完全な技に対しては個々減点を行い、最終的に算出される点数はA審判の出した価値点からB審判の出した減点分を合算して算出される。不完全な技が、別の技になってしまった場合の減点はA審判の裁量であり、B審判の採点はあくまでも実施された技(現実に見えた技)に対して行われる。また、女子競技の場合は芸術点の採点もB審判が行う。
;禁止技・禁止行為
:禁止技という物も規則により設定されており、たとえば、ゆかであれば片手倒立が禁止技とされている。この禁止技に指定されている技を行うと、減点されてしまう。また、[[あん馬]]の一部の技を除いた同一の技を3回以上繰り返す、[[つり輪]]で同じ技を3回以上演技に組み込む、ゆか種目でのラインオーバー・タイムオーバー、跳馬のラインオーバー、器具からの落下、なども減点対象となる。
==その他==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2011年10月}}
*[[1996年アトランタオリンピック]]で[[田中光 (体操選手)|田中光]]がこの時点で新技である'''ベーレ1/2ひねり'''を発表した際、彼がファンである[[X JAPAN]]からもじって、FIGに「ヒカルX」という名前を付けて貰うよう申請したが、却下されていたと本人が告白した話は有名である。
*体操競技で使用している鉄棒は、学校・公園にある鉄棒とは違い、良くしなる。
*[[TBSテレビ|TBS]]が放送している番組である、芸能人による[[筋肉番付|スポーツマンNo.1決定戦]]内での'''モンスターボックス'''種目(20段を超える跳び箱競技)では世界的な体操選手によるオープン戦も行われており、過去には[[アレクセイ・ネモフ]]や跳馬世界一であり、前転跳び2回宙返り半ひねりの技名にもなっているマリアン・ドラグレスクなど錚々たるメンバーも参加している。
*ルーマニアの体操選手、白い妖精と呼ばれた[[ナディア・コマネチ]](nadia-comaneci)は体操史上初めて10点満点を出した選手として有名。初めて彼女が10点満点を出した演技が終了したときには、審判団は長い協議の末「1.00」というスコアボードを掲げたのだが、これは10点という点数を想定していなかったため、スコアボードで10点を表示できず仕方なく1.00点と表示したためだった。勿論、このスコアボードと共に点数が10点満点であることを伝えるアナウンスが会場に流れた。<!-- 後に、10点満点が乱立する時代が訪れるが、果たしてどれ程10点満点に相応しい演技が存在するのかは甚だ疑問であり、とりわけロサンゼルスオリンピックでのアメリカの演技につけられた10点満点の多くは首を傾げざるえない。 -->ちなみに、現在はルール自体が変更された為、満点という意味での10点満点は存在しなくなった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==関連項目==
*[[世界体操競技選手権]]
*[[新体操]]
*[[男子新体操]]
*[[体操競技選手一覧]]
*[[体操競技の技名一覧]]
==外部リンク==
{{Commonscat|Artistic gymnastics}}
*[https://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1356152.htm 学校体育実技指導資料第10集「器械運動指導の手引」] - 文部科学省
*[https://www.jpn-gym.or.jp/ 日本体操協会]
*[https://g-flash.net/ G-Flash]
{{Gymnastics Events}}
{{スポーツ一覧}}
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さだまさし
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さだ まさし(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。
フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている。
トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。身長153cm
父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年4月10日、長崎県長崎市で生まれる。
佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町(現:浜田市)にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連(現:ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。父・雅人(1920 - 2009)は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子(1926 - 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。
雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった(ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる)。
3歳よりヴァイオリンを習い始める。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。
最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻する、といった調子の生活をしていたという)。
上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまう。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。
高校卒業後、國學院大學法学部に進学した。尚、大学は数ヶ月程度で中退しており、ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。当時、吉田拓郎が「結婚しようよ」や「旅の宿」で大ブレイクし、自分たちの闘志にも火がついた、フォーク調の曲作りを始めたのもこの頃から。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至った。
デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。
1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。
1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。
1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。
1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。
1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当する。
さらに、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまった。(大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。
この頃は映画の失敗に加え、1980年代的な「ドライでクール」な世相のノリと合わなくなったこと、「関白宣言」「防人の詩」に対して右翼的との批判を受けるなど、さだ不遇の時代でもあった。
1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。
1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。
南こうせつが中心になって1986年から広島市で開催された「広島ピースコンサート」の第一回に参加した際、友人たちを前に「広島で出来ることをなぜ長崎でやらないんだ」と嘆いたら、「それはお前がやらないからだろう」と言われた。機が熟したと感じ、長崎での平和コンサート実現に向け動き出し、長崎選出の衆議院議員・西岡武夫に「8月9日の長崎原爆忌にコンサートを開きたい」と訴えた。しかし西岡から「理念は分かったが、8月9日は長崎に保守・革新陣営が集結して騒然とした空気に包まれるから、埋没するだけだ」と言われたため、それならば広島原爆忌の8月6日に、「長崎から広島に向かって平和を訴える」という趣旨にした。20回は絶対に続けたいと最初から考え、1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。
1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。
1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。
1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。
2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。
2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売した。
児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。
2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。
2004年12月、長編小説『眉山』発表。
2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。
2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。
2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。
2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。
2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。
2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。
2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。
2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。
2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。
2012年6月10日に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。
2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。
2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。
2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。
2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。
國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。
趣味はゴルフ、パチンコ、競馬、野球観戦、読書など。
血液型はA型。
既婚。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟はさだ企画社長で「日本人初のプロサッカー選手」の佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーでゴスペラーズ・北山陽一の妻・詠夢。
西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。
自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。
楽曲の制作は基本的に作曲した曲に詞を当てはめる「曲先」で行う。作詞のモチベーションが上がるきっかけは制作の締め切りが明確に存在する時であるといい、「締め切りは自分の虚飾を削ぎ落としてくれるすばらしい兵器だね。今日書かないとダメだもん。書けって言われたら、書くよね」と語っている。
「北の国から〜遥かなる大地より〜」を倉本聰と相談しながら1時間で制作したエピソードが度々語られたり、『嵐にしやがれ』(日本テレビ系列)の企画で嵐が作成した詞に15分かけてメロディをつけて「NIF〜 NIKU イン ファイヤー」という楽曲を完成させるなど、即興で楽曲を制作するセンスにも長けている。
さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している。しかし、その後もコンサートの年間開催回数に変動はなく2020年8月17日のチャリティーコンサートで4425回を達成している。
さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行っている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。
1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。
中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある。
その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。
同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である。
また中村八大、永六輔の影響を大きく受けているとも語っている。
さだは2020年11月の『読売新聞』連載〔時代の証言者〕に於いて、「僕の曲は批判的なレッテルを貼られることが多かった」と話し、この批判に対して以下の反論をした(内容の半分以下抜粋)。「『関白宣言』が女性蔑視と批判を浴び、それを巡って論争となったわけですが、この時に限らず、まず1974年、グレープ時代に『精霊流し』を出した時には『暗い』。当時、『四畳半フォーク』という言葉もあり、フォークという音楽に暗くじめじめしたイメージがありました。死を描いたこの曲が、『フォーク=暗い』にはまったのは納得できます。しかし、以後、『グレープ=暗い』となったのには、『ちょっと待ってくれよ』という気持ちでした。結局、このイメージから逃れられなかったところに、グレープの限界を感じたのは事実です。翌年、グレープで『無縁坂』を出した時には、『マザコン』。息子が人知れぬ母の苦労を思いやる歌詞ですが、あまりに短絡的な批判ではないでしょうか? 1973年に海援隊が母への思慕を歌った『母に捧げるバラード』を出した時には、『マザコン』の『マ』の字も出なかったと記憶しているのですが......。やせて髪が長く気の弱そうな僕の風貌がいけなかったのでしょう。こいつなら何を言っても黙っていると思われたようです。ソロ活動を始めた頃、フォークやロックなど洋楽色の強い音楽は、ニューミュージックと呼ばれるようになり、僕の音楽もそこに分類されました。ソロで最初のヒット曲『雨やどり』は『軟弱』。そして『関白宣言』は『女性蔑視』『男尊女卑』。この頃は『計算ずくの曲作りが鼻につく』『商売根性が見え見えだ』との世評もありました...」。
さだは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。
コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りという、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。
落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。
このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。
1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている。
2012年のデビュー40周年ツアー「さだまつり」では、1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。そして2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。
同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「今夜も生でさだまさし」を参照。
内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などと話す。
小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので...』(1976年3月、八曜社)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、文藝春秋)に収録)。
2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。
『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し〜あなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。
2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝制作で、犬童一心監督により映画化され、さらに2008年にはフジテレビでドラマ化されたた。
さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「ライナーノーツ」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。
童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。
さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。『さだの辞書』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。
生まれ育った日本への愛着を持っていることを語り、「僕はこの国を心から愛している」と著書で発言しており、前述の仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌などにもあるように、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向もある。ある企業が行った世界のティーンエイジャーに「不安に思うのは何か?」と問うアンケート調査で、どの国も「国の未来」と答えたにもかかわらず、日本の子供達だけそう答える者がいなかったことに対して「このままでは日本はたぶん滅びる」とショックを受け危機感を持った旨を語り、「日本人が日本語が下手になったらこの国は終わる」という危機感があることも語っている。また、政治家が経済について話すことを嫌い、外交・安全保障・教育に対して徹底的に取り組むことを求めている。
さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントが開催されることも多い。また、「戦友会」のように戦死者や遺族の心情に寄り添う楽曲も存在する。
2014年4月20日の東京新聞のコラム「つれづれ」にて『日本の調査捕鯨停止命令 食文化への差別悲しい』と題し、日本の捕鯨文化の維持を望む主張をした。
祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)。
こうした一面の一部分しか知らない者から批判を受けることもあり、かつては『防人の詩』で「右翼」、『しあわせについて』で「左翼」と批判されたほどであったという。
ウィキペディアに対して「ネットに書いてあることは、実に怪しげです。ウィキペディアっていうネット百科事典に、『さだまさし』に関する記事が載ってるんですけど、嘘ばっかりです」と批判している。
アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている。
さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧西彼杵郡琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で詩島(うたじま)と改名されたことにも現れる。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。
プロ野球では、長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまで読売ジャイアンツファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・松園尚巳が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督の古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという。2015年3月31日のスワローズ本拠地開幕戦では「スワローズCREW名誉会員」として始球式に登板した。また神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがあり、『つばめよつばめ』ではスワローズファンの悲哀も歌っている。「今夜も生でさだまさし」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。
その他、福岡ソフトバンクホークスも九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、北海道日本ハムファイターズファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。親交のある栗山英樹監督の要請で、2013年の北海道日本ハムファイターズ本拠地開幕戦(札幌ドーム)にゲスト参加。「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。
浦和レッドダイヤモンズファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が三菱重工等の企業城下町であり、前身の三菱重工業サッカー部以来のファンと公言している。
また1991年から2010年まで使用された競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものであった。
甲子園で、千葉県の多古高校と滋賀県の伊香高校が対戦し、伊香高校が10対8で多古高校に勝利することが夢である、とテレビ番組で語った。
1980年代の前半に東京地下鉄・赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。
この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同出資していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。故郷長崎市に「自由飛行館」がある。
NHK『連続テレビ小説』のファンであり、1番好きな作品は中学生の時に観た1966年度の『おはなはん』と話す。大泉洋が出演する、HTB『水曜どうでしょう』のファンでもある。
ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3,333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。
2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。
上記の人たちによるものではあるが、コンサートに至ってはサポートバンドを結成し参加している。
名称も、サーカス、元祖サーカス、ふりーばるーん、亀山社中、さだばんど、さだ工務店と変化している。
さだ工務店のメンバーは公益財団法人風に立つライオン基金の理事でもある。
芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学・高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。とコンサートで話している。さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。
さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色の一つとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会」(略称:さだ研)なるものが数多く結成されていることが挙げられる。かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られた。
学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『セイ!ヤング』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。『セイ!ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。
「さだ研」が『セイ!ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。結果は東大さだ研が圧勝。この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。
一部のサークルで一時期、「さだまさし研究会谷村新司派」が存在した。
最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ!ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB・OG会」のような活動になっている。全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ!ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。
早大の現役サークルも消滅の危機に陥ったが、他大生を加えたインターカレッジ・サークルとして存続させた。部員が鎌倉女子大学の学生一人のみの時期もあった。その後、2012年のさだまさし還暦祝いコンサート会場に早大さだ研のブースが設置されたのを機に関東近辺の大学生が多く集うようになった。
社会人系サークルも『セイ!ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改編を果たしてしまった団体も僅かながらある。
また逆に『セイ!ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。早稲田大学さだ研が独自にブログを立ち上げていたり、京都大学さだ研が毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト上でPDFファイルで公開している。
1990年リリースのアルバム『夢回帰線II』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:南カリフォルニア大学さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。
大学生活を描いたマンガ『幕張サボテンキャンパス』(みずしな孝之著)」にて、主要登場人物の一人が「さだ研」に加入している。
また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。
私公立学校の校歌を作曲し提供している。
『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。1977年・第28回にも「雨やどり」で出場の打診を受けていたが、当時の紅白ではフル・コーラスを歌うことができないという理由で辞退したという。2020年・第71回、2021年・第72回は特別企画の形で出場した。
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"text": "さだ まさし(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。",
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"text": "フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている。",
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"text": "トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。身長153cm",
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"text": "父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年4月10日、長崎県長崎市で生まれる。",
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"text": "佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町(現:浜田市)にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連(現:ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。父・雅人(1920 - 2009)は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子(1926 - 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。",
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"text": "雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった(ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる)。",
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"text": "3歳よりヴァイオリンを習い始める。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。",
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"text": "最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻する、といった調子の生活をしていたという)。",
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"text": "上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまう。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。",
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"text": "高校卒業後、國學院大學法学部に進学した。尚、大学は数ヶ月程度で中退しており、ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。当時、吉田拓郎が「結婚しようよ」や「旅の宿」で大ブレイクし、自分たちの闘志にも火がついた、フォーク調の曲作りを始めたのもこの頃から。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至った。",
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"text": "デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。",
"title": "経歴"
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"text": "1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。",
"title": "経歴"
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"text": "1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。",
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"text": "1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。",
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"text": "1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。",
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"text": "1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当する。",
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"text": "さらに、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまった。(大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。",
"title": "経歴"
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"text": "この頃は映画の失敗に加え、1980年代的な「ドライでクール」な世相のノリと合わなくなったこと、「関白宣言」「防人の詩」に対して右翼的との批判を受けるなど、さだ不遇の時代でもあった。",
"title": "経歴"
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"text": "1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。",
"title": "経歴"
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"text": "1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。",
"title": "経歴"
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"text": "南こうせつが中心になって1986年から広島市で開催された「広島ピースコンサート」の第一回に参加した際、友人たちを前に「広島で出来ることをなぜ長崎でやらないんだ」と嘆いたら、「それはお前がやらないからだろう」と言われた。機が熟したと感じ、長崎での平和コンサート実現に向け動き出し、長崎選出の衆議院議員・西岡武夫に「8月9日の長崎原爆忌にコンサートを開きたい」と訴えた。しかし西岡から「理念は分かったが、8月9日は長崎に保守・革新陣営が集結して騒然とした空気に包まれるから、埋没するだけだ」と言われたため、それならば広島原爆忌の8月6日に、「長崎から広島に向かって平和を訴える」という趣旨にした。20回は絶対に続けたいと最初から考え、1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。",
"title": "経歴"
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"text": "1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。",
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"text": "1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。",
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"text": "1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。",
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"text": "2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。",
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"text": "2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売した。",
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"text": "児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。",
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"text": "2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。",
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"text": "2004年12月、長編小説『眉山』発表。",
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"text": "2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。",
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"text": "2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。",
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"text": "2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。",
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"text": "2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。",
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"text": "2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。",
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"text": "2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。",
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"text": "2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。",
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"text": "2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。",
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"text": "2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。",
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"text": "2012年6月10日に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。",
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"text": "2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。",
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"text": "2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。",
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"text": "2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。",
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"text": "2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。",
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"text": "國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。",
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"text": "趣味はゴルフ、パチンコ、競馬、野球観戦、読書など。",
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"text": "血液型はA型。",
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"text": "既婚。1983年に結婚し、一男一女の父である。",
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"text": "弟はさだ企画社長で「日本人初のプロサッカー選手」の佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーでゴスペラーズ・北山陽一の妻・詠夢。",
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"paragraph_id": 48,
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"text": "西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "楽曲の制作は基本的に作曲した曲に詞を当てはめる「曲先」で行う。作詞のモチベーションが上がるきっかけは制作の締め切りが明確に存在する時であるといい、「締め切りは自分の虚飾を削ぎ落としてくれるすばらしい兵器だね。今日書かないとダメだもん。書けって言われたら、書くよね」と語っている。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "「北の国から〜遥かなる大地より〜」を倉本聰と相談しながら1時間で制作したエピソードが度々語られたり、『嵐にしやがれ』(日本テレビ系列)の企画で嵐が作成した詞に15分かけてメロディをつけて「NIF〜 NIKU イン ファイヤー」という楽曲を完成させるなど、即興で楽曲を制作するセンスにも長けている。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している。しかし、その後もコンサートの年間開催回数に変動はなく2020年8月17日のチャリティーコンサートで4425回を達成している。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
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"text": "さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行っている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また中村八大、永六輔の影響を大きく受けているとも語っている。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "さだは2020年11月の『読売新聞』連載〔時代の証言者〕に於いて、「僕の曲は批判的なレッテルを貼られることが多かった」と話し、この批判に対して以下の反論をした(内容の半分以下抜粋)。「『関白宣言』が女性蔑視と批判を浴び、それを巡って論争となったわけですが、この時に限らず、まず1974年、グレープ時代に『精霊流し』を出した時には『暗い』。当時、『四畳半フォーク』という言葉もあり、フォークという音楽に暗くじめじめしたイメージがありました。死を描いたこの曲が、『フォーク=暗い』にはまったのは納得できます。しかし、以後、『グレープ=暗い』となったのには、『ちょっと待ってくれよ』という気持ちでした。結局、このイメージから逃れられなかったところに、グレープの限界を感じたのは事実です。翌年、グレープで『無縁坂』を出した時には、『マザコン』。息子が人知れぬ母の苦労を思いやる歌詞ですが、あまりに短絡的な批判ではないでしょうか? 1973年に海援隊が母への思慕を歌った『母に捧げるバラード』を出した時には、『マザコン』の『マ』の字も出なかったと記憶しているのですが......。やせて髪が長く気の弱そうな僕の風貌がいけなかったのでしょう。こいつなら何を言っても黙っていると思われたようです。ソロ活動を始めた頃、フォークやロックなど洋楽色の強い音楽は、ニューミュージックと呼ばれるようになり、僕の音楽もそこに分類されました。ソロで最初のヒット曲『雨やどり』は『軟弱』。そして『関白宣言』は『女性蔑視』『男尊女卑』。この頃は『計算ずくの曲作りが鼻につく』『商売根性が見え見えだ』との世評もありました...」。",
"title": "シンガーソングライターとして"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "さだは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。",
"title": "「噺家」として"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りという、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。",
"title": "「噺家」として"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。",
"title": "「噺家」として"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。",
"title": "「噺家」として"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている。",
"title": "「噺家」として"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2012年のデビュー40周年ツアー「さだまつり」では、1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。そして2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。",
"title": "「噺家」として"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「今夜も生でさだまさし」を参照。",
"title": "「噺家」として"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などと話す。",
"title": "「噺家」として"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので...』(1976年3月、八曜社)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、文藝春秋)に収録)。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し〜あなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝制作で、犬童一心監督により映画化され、さらに2008年にはフジテレビでドラマ化されたた。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「ライナーノーツ」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。『さだの辞書』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。",
"title": "小説家として"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "生まれ育った日本への愛着を持っていることを語り、「僕はこの国を心から愛している」と著書で発言しており、前述の仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌などにもあるように、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向もある。ある企業が行った世界のティーンエイジャーに「不安に思うのは何か?」と問うアンケート調査で、どの国も「国の未来」と答えたにもかかわらず、日本の子供達だけそう答える者がいなかったことに対して「このままでは日本はたぶん滅びる」とショックを受け危機感を持った旨を語り、「日本人が日本語が下手になったらこの国は終わる」という危機感があることも語っている。また、政治家が経済について話すことを嫌い、外交・安全保障・教育に対して徹底的に取り組むことを求めている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントが開催されることも多い。また、「戦友会」のように戦死者や遺族の心情に寄り添う楽曲も存在する。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2014年4月20日の東京新聞のコラム「つれづれ」にて『日本の調査捕鯨停止命令 食文化への差別悲しい』と題し、日本の捕鯨文化の維持を望む主張をした。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "こうした一面の一部分しか知らない者から批判を受けることもあり、かつては『防人の詩』で「右翼」、『しあわせについて』で「左翼」と批判されたほどであったという。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ウィキペディアに対して「ネットに書いてあることは、実に怪しげです。ウィキペディアっていうネット百科事典に、『さだまさし』に関する記事が載ってるんですけど、嘘ばっかりです」と批判している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧西彼杵郡琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で詩島(うたじま)と改名されたことにも現れる。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "プロ野球では、長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまで読売ジャイアンツファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・松園尚巳が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督の古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという。2015年3月31日のスワローズ本拠地開幕戦では「スワローズCREW名誉会員」として始球式に登板した。また神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがあり、『つばめよつばめ』ではスワローズファンの悲哀も歌っている。「今夜も生でさだまさし」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "その他、福岡ソフトバンクホークスも九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、北海道日本ハムファイターズファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。親交のある栗山英樹監督の要請で、2013年の北海道日本ハムファイターズ本拠地開幕戦(札幌ドーム)にゲスト参加。「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "浦和レッドダイヤモンズファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が三菱重工等の企業城下町であり、前身の三菱重工業サッカー部以来のファンと公言している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "また1991年から2010年まで使用された競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものであった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "甲子園で、千葉県の多古高校と滋賀県の伊香高校が対戦し、伊香高校が10対8で多古高校に勝利することが夢である、とテレビ番組で語った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1980年代の前半に東京地下鉄・赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同出資していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。故郷長崎市に「自由飛行館」がある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "NHK『連続テレビ小説』のファンであり、1番好きな作品は中学生の時に観た1966年度の『おはなはん』と話す。大泉洋が出演する、HTB『水曜どうでしょう』のファンでもある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3,333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。",
"title": "人気・評価"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。",
"title": "人気・評価"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "上記の人たちによるものではあるが、コンサートに至ってはサポートバンドを結成し参加している。",
"title": "交友関係"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "名称も、サーカス、元祖サーカス、ふりーばるーん、亀山社中、さだばんど、さだ工務店と変化している。",
"title": "交友関係"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "さだ工務店のメンバーは公益財団法人風に立つライオン基金の理事でもある。",
"title": "交友関係"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学・高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。とコンサートで話している。さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。",
"title": "交友関係"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色の一つとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会」(略称:さだ研)なるものが数多く結成されていることが挙げられる。かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られた。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『セイ!ヤング』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。『セイ!ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "「さだ研」が『セイ!ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。結果は東大さだ研が圧勝。この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "一部のサークルで一時期、「さだまさし研究会谷村新司派」が存在した。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ!ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB・OG会」のような活動になっている。全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ!ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "早大の現役サークルも消滅の危機に陥ったが、他大生を加えたインターカレッジ・サークルとして存続させた。部員が鎌倉女子大学の学生一人のみの時期もあった。その後、2012年のさだまさし還暦祝いコンサート会場に早大さだ研のブースが設置されたのを機に関東近辺の大学生が多く集うようになった。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "社会人系サークルも『セイ!ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改編を果たしてしまった団体も僅かながらある。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "また逆に『セイ!ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。早稲田大学さだ研が独自にブログを立ち上げていたり、京都大学さだ研が毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト上でPDFファイルで公開している。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1990年リリースのアルバム『夢回帰線II』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:南カリフォルニア大学さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "大学生活を描いたマンガ『幕張サボテンキャンパス』(みずしな孝之著)」にて、主要登場人物の一人が「さだ研」に加入している。",
"title": "さだまさし研究会(さだ研)"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。",
"title": "主な著作"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "私公立学校の校歌を作曲し提供している。",
"title": "主な著作"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。1977年・第28回にも「雨やどり」で出場の打診を受けていたが、当時の紅白ではフル・コーラスを歌うことができないという理由で辞退したという。2020年・第71回、2021年・第72回は特別企画の形で出場した。",
"title": "出演"
}
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さだ まさしは、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。 フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている。 トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。身長153cm
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{{Infobox Musician
| 名前 = さだ まさし
| 背景色 = singer
| 出生名 = 佐田 雅志<ref>{{Cite web|和書|title=プロフィール ― PROFILE |url=https://masasingtown.com/profiles |website=さだまさしオフィシャルサイト |publisher=さだ企画 |accessdate=2021-12-19 }}</ref>
| 別名 = <!-- 活動時に使用した別名義を記載。愛称や略称ではありません。 -->
| 出生 = {{生年月日と年齢|1952|4|10}}
| 出身地 = {{JPN}} [[長崎県]][[長崎市]]
| 死没 =
| 学歴 = [[國學院大學]]中退<ref>{{Cite web|和書|title=卒業生紹介 |url=https://www.kokugakuin.ed.jp/education/introduce-graduates/ |publisher=國學院高等学校 |accessdate=2021-12-19 }}</ref>
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[ニューミュージック]]<ref>{{Cite web|和書|author=ばるぼら |title=平成と共に育った音楽ジャンル“J-POP”の始まり |url=https://natalie.mu/music/column/318703 |website=音楽ナタリー |publisher=(株)ナターシャ |date=2019-02-07 |accessdate=2021-12-19 |quote=ただしニューミュージックならなんでも流すわけではなく、例えば代表的な存在である松山千春やさだまさしは流れていない。 }}</ref>|[[フォークソング|フォーク]]<ref>{{Cite interview |和書|title=Interview:さだまさし フォークに原点回帰 時代超える名曲、カバーアルバムに |url=https://mainichi.jp/articles/20211125/dde/018/200/015000c |work=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2021-11-25 |accessdate=2021-12-19 }}</ref>}}
| 職業 = {{Hlist-comma|[[シンガーソングライター]]|[[ラジオパーソナリティ]]|[[小説家]]|[[映画監督]]、[[俳優]]}}
| 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]|[[ヴァイオリン]]|[[シンセサイザー]]|[[打楽器|パーカッション]]|[[マンドリン]]|[[和太鼓]]|[[ピアノ]]|[[ドラムセット|ドラムス]]}}
| 活動期間 = [[1973年]] -
| レーベル = {{Plainlist|
* [[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]](1976年 - 1977年)
* [[フリーフライトレコード|フリーフライト]](1978年 - )
* [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]] / [[Colourful Records]](2018年 - )}}
| 事務所 = [[さだ企画]]
| 共同作業者 = {{Plainlist|
* [[グレープ (ユニット)|グレープ]]
* [[渡辺俊幸]]}}
| 公式サイト = [https://masasingtown.com/ さだまさしオフィシャルサイト]
}}
{{Portal|文学}}
'''さだ まさし'''(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、[[1952年]][[4月10日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=80|id={{NDLJP|12276264/41}}}}</ref> - )は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]、[[俳優]]、[[タレント]]、[[小説家]]。[[國學院大學]]、[[東京藝術大学]]客員教授<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kokugakuin.ac.jp/graduate/homecomingday/p1 |title=ホームカミングデー 渋谷 |accessdate=2019-10-27 |publisher=國學院大學}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=さだまさし、東京藝術大学の客員教授に就任|url=https://natalie.mu/music/news/390976|website=音楽ナタリー|accessdate=2020-10-18|language=ja|publisher=株式会社ナターシャ}}</ref>。ファンとスタッフの間では「まっさん」の[[愛称]]で親しまれている。
フォークデュオの[[グレープ (ユニット)|グレープ]]でメジャーデビュー。「[[精霊流し (曲)|精霊流し]]」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「[[雨やどり (さだまさしの曲)|雨やどり]]」「[[案山子 (さだまさしの曲)|案山子]]」「[[関白宣言]]」「[[道化師のソネット]]」「[[親父の一番長い日]]」「[[北の国から〜遥かなる大地より〜]]」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている<ref>{{Cite web|和書|title=さだまさし、ソロコンサート通算4,400回を達成&アニメーション・ムービー「主人公」公開 {{!}} Daily News|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/80798|website=Billboard JAPAN|accessdate=2021-02-03|language=ja}}</ref>。
トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組の[[パーソナリティー]]や[[司会|MC]]などとしても活躍。小説家としても活動し、『[[解夏]]』『[[眉山 (さだまさし)|眉山]]』などの作品を発表している。身長153cm
== 経歴 ==
=== 生い立ち~青年期 ===
父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、[[1952年]][[4月10日]]、[[長崎県]][[長崎市]]で生まれる。
佐田家の本家は[[島根県]][[那賀郡 (島根県)|那賀郡]][[三隅町 (島根県)|三隅町]](現:[[浜田市]])にあり、本家の二男だった祖父・繁治は[[中国大陸]]や[[極東ロシア]]に渡り[[諜報活動]]に従事したのち[[商工省]]の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である<ref>{{Cite news |title=ファミリーヒストリー「さだまさし〜スパイだった祖父 大陸の奥地へ〜」(NHK総合) |publisher=[[Goo]] |date=2018-09-17 |url=https://web.archive.org/web/20190419192950/https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/nhk/28131/747009/ |accessdate=2019-04-20}}</ref>。その繁治と[[結婚]]した祖母エムもまた[[ソビエト連邦|ソ連]](現:[[ロシア]])の[[ウラジオストク]]で料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である<ref>さだまさし『もう愛の唄なんて詠えない』([[ダイヤモンド社]]、2007年、pp.177-178)および、さだまさし『噺歌集V』(文藝春秋 1993年 pp.62-70)</ref>。父・雅人(1920 - 2009)は[[第二次世界大戦]]終戦後、長崎出身の戦友とともに[[復員]]し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子(1926 - 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。
雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった<ref>出典:さだまさし『時のほとりで』1980年 [[新潮文庫]]。 pp.172-173掲載の「転宅」の解説より</ref>(ただし、1957年の[[諫早豪雨|諫早の大水害]]によって父の事業は失敗し<ref>さだまさし『時のほとりで』p.172</ref>、一家は豪邸を失い小さな[[長屋]]住まいとなる<ref group="注釈">この時のことを歌ったのがソロ・アルバム第1作目の『[[帰去来 (アルバム)|帰去来]]』に収録されている「転宅」である。</ref>)。
3歳より[[ヴァイオリン]]を習い始める。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽[[コンクール]]西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な[[鷲見三郎]]に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、[[葛飾区]]で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。中学3年生からの約20年間は[[千葉県]][[市川市]]で過ごした。
最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたての[[ギター]]でフォークソングの伴奏をしていたという。中学生時代に[[加山雄三]]や[[サイモン&ガーファンクル]]に影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで[[京成本線]]高架や市川橋の下に行っていたという<ref name="keisei_line">[[京成電鉄]]発行「京成らいん」2015年6月号 p.6</ref>(なお、当時は[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[おはなはん]]』にはまって38日間連続して[[遅刻]]する<ref name="keisei_line" />、といった調子の生活をしていたという)。
上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、[[東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校]](途中で[[東京都立駒場高等学校]]芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまう。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、[[國學院高等学校]]に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや[[作詞]]・[[作曲]]以外にも、小説作り、[[落語]]、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。<!--<ref>当人はとても苦しかったわけだが、時空を超えて未来の聴衆の側の視点で このできごとをとらえると、むしろ雅志がこの時点で受験に失敗してくれたおかげで、結果として、ギターや落語の才能を開花させ、その後 ポピュラーミュージックや軽妙な語りで人々を楽しませてくれる「さだまさし」が世に現れてくれることにつながったわけであり、未来の社会全体の側としてはある意味 幸運な出来事であったわけである。もしも雅志が芸大のお受験に成功するということにでもなっていたらおそらく、せいぜい(金太郎飴のように、似通った)堅苦しいヴァイオリン演奏をする人がまたひとりこの世に増えた、という結果にしかならず、人々は「さだまさし」に出会うことはできなかったであろうことは想像にかたくない。</ref>-->
=== グレープでデビュー ===
高校卒業後、國學院大學法学部に進学した。尚、大学は数ヶ月程度で中退しており、[[塗装|ペンキ屋(塗装工員)]]など、数々の[[アルバイト]]をしながらの生活を送るが、[[肝炎]]を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する<ref name="時代の証言者9">{{Cite news |title = 〔時代の証言者〕 現代の吟遊詩人 さだまさし(9) 帰郷 音楽仲間と再起 |date = 2020年11月14日 |newspaper = [[読売新聞]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 18 }}</ref>。1972年、高校時代からの友人[[吉田政美|吉田正美]](現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった<ref name="時代の証言者9"/>。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという<ref name="時代の証言者9"/>。以後二人は意気投合し同年11月3日、[[バンド (音楽)|バンド]]「[[グレープ (ユニット)|グレープ]]」を結成、音楽活動を開始する。当時、[[吉田拓郎]]が「[[結婚しようよ]]」や「[[旅の宿 (よしだたくろうの曲)|旅の宿]]」で大ブレイクし<ref name="時代の証言者9"/>、自分たちの闘志にも火がついた<ref name="時代の証言者9"/>、[[フォークソング|フォーク]]調の曲作りを始めたのもこの頃から<ref name="時代の証言者9"/>。11月25日、[[長崎放送|NBCビデオホール]]で開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー[[川又明博]]にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:[[ワーナーミュージック・ジャパン]])より全国デビューした。所属事務所([[プロダクション]])は[[ユイ音楽工房]]、[[ヤングジャパングループ]]<ref group="注釈">その際、ヤングジャパングループ所属だったアリスの[[谷村新司]]はヤングジャパングループ代表の[[細川健]]に採用を薦めるが、細川はプロフィール写真を見て「貧乏神のようだ」として採用を見送っている。谷村は「その際に細川が『貧乏神』と譬えたのは吉田正美の方ではなくお前の方だった。」とさだに語っている。</ref>などを当たるが不採用となり、最終的には[[赤い鳥 (フォークグループ)|赤い鳥]]の事務所[[ザ・バードコーポレーション]]で預かる形で、デビューに至った。
デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「[[精霊流し (曲)|精霊流し]]」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]の[[深夜番組]]『[[ミッドナイト東海]]』の中で、[[アナウンサー]]・[[蟹江篤子]]が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組の放送エリアの[[名古屋市|名古屋]]地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の[[第16回日本レコード大賞]]作詩賞を受賞することとなった。
1975年11月にリリースした「[[無縁坂 (曲)|無縁坂]]」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「[[朝刊 (グレープの曲)|朝刊]]」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。
=== ソロ歌手への転向 ===
{{内容過剰|date=2010-08|section=1}}
1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社である[[さだ企画]]を設立。
1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「[[雨やどり (さだまさしの曲)|雨やどり]]」が[[オリコンチャート|オリコンシングルチャート]]1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「[[精霊流し (曲)|精霊流し]]」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「[[もうひとつの雨やどり]]」、「雨どりや」、ライブにて、[[谷村新司]]との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「[[秋桜 (山口百恵の曲)|秋桜]]」や「[[案山子 (さだまさしの曲)|案山子]]」などがヒットする。
1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「[[天までとどけ/惜春|天までとどけ]]」をリリースした。同年7月にリリースした「[[関白宣言]]」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「[[親父の一番長い日]]」「[[道化師のソネット]]」「[[防人の詩]]」「[[驛舎]]」など、数々のヒット曲を放つ。
1980年、映画『[[翔べイカロスの翼]]』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は[[原田美枝子]])に[[サーカス]]団の[[道化師|ピエロ]]の青年役として主演、音楽も担当する。
さらに、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『[[長江 (映画)|長江]]』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり<ref group="注釈">さだはミュージシャンで、映画制作については専門外(「畑ちがい」)で、映画制作の資金調達の一般的なしくみを知らなかった。映画というものは大抵は製作費が膨らみ巨大化するもので、一般に(ある程度以上の規模の)映画の制作というものは、まずは多数の出資者候補に企画の概要を書いた文書を提示し、興業が成功した場合の利益分配の割合も提示した上で、出資を募って、(その中の、出資する気になってくれた出資者たちとの間に)まずは出資してもらう[[契約]]を結び、実際に資金を提供してもらい、それによって制作者側の金銭的リスクがほぼ無くなるような形で資金を確保しておいてからようやく制作に着手するものだ、という映画界の一種の常識を知らなかった。(ハリウッドでも、イギリス映画界、韓国映画界でも、世界を見渡すと一般に、映画への出資者というのは、多数の映画に分散して出資(投資)し、ほとんどの映画は興業に成功せず出資した分がほぼ返ってこないが、5本~10本のうち1本ヒットすれば、それが一種の大きな「配当」をもたらし、結果として自分の資金がむしろ増える、という構図のもとに出資は行われている。(投資として見返りを期待しつつ)出資をしたがっている人々、出資を受けて映画を制作したがっている人々、それら双方が互いに接触し契約を結ぶための、一種の市場(マーケット)のようなものもある。後年、さだは[[ビートたけし]]と対談した時に、(たけしのほうは、映画の制作や監督業で成功を重ねたわけだが)たけしから世の中の映画の制作の金銭的なしくみを説明され、さだは当時の自分の未熟さをかみしめつつ、反省の弁を述べることになる。なお韓国の映画制作の講座(映画制作を目指す人々のための講座)で、重きを置いて徹底的に教えられていることは(素人が想像するような、脚本づくり、演出方法、カメラワークなどではなく)特に[[資金調達]]の方法・テクニックなどである。実に、講座で教える時間の半分ほどもの時間を割いて、資金調達について教えている。映画制作をやりたがるような人々というのは、大抵、芸術的な面にばかり気をうばわれ、資本(お金)のしくみに疎く、それが盲点になりがちで、致命的なミスを犯しがちで、そのミスによって映画制作を試みる若者の人生が狂い再起不能になりがちなので、若者を愛すればこそ(芸術な要素で頭が一杯になりがちな芸術家志向の人々に対しては、彼らを護るために、彼らを愛すればこそ、なおさら)徹底して(彼らが、うかつにも関心を示さない)[[資金調達]]に重きを置いてそれのノウハウを教え込まなければならないわけである。</ref>)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの[[借金]]([[負債]])が残ってしまった<ref group="注釈">この借金については自身31作目のシングル「建具屋カトーの決心〜儂がジジイになった頃」の中の歌詩にも盛り込まれている。本人は「ガビ山からゴビ砂漠に向かってションベンして、借金して、島の王様で、昔は歌手、と言っても『嘘つけ、このハゲ!』なんか言われてしまうだろう」と述べている。</ref>。(大抵の人ならば、このような額だと[[自己破産]]手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。
この頃は映画の失敗に加え、1980年代的な「ドライでクール」な世相のノリと合わなくなったこと、「関白宣言」「防人の詩」に対して右翼的との批判を受けるなど、さだ不遇の時代でもあった<ref>[[外山恒一]] [http://www.warewaredan.com/blog/2006/04/4_4.html 青いムーブメント(4) (ファシズムへの誘惑・ブログ)]</ref>。
1981年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系ドラマ『[[北の国から]]』の音楽を担当する。テーマ曲「[[北の国から〜遥かなる大地より〜]]」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。
1985年、ソロ・コンサート通算1,000回([[東京厚生年金会館]])を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。
[[南こうせつ]]が中心になって1986年から[[広島市]]で開催された「広島ピースコンサート」の第一回に参加した際<ref name="時代の証言者20">{{Cite news |title = 〔時代の証言者〕 現代の吟遊詩人 さだまさし(20) 長崎から『大切な人』思う |date = 2020年11月30日 |newspaper = [[読売新聞]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 8 }}</ref>、友人たちを前に「広島で出来ることをなぜ長崎でやらないんだ」と嘆いたら、「それはお前がやらないからだろう」と言われた<ref name="時代の証言者20"/>。機が熟したと感じ、長崎での平和コンサート実現に向け動き出し、長崎選出の[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]・[[西岡武夫]]に「8月9日の長崎原爆忌にコンサートを開きたい」と訴えた<ref name="時代の証言者20"/>。しかし西岡から「理念は分かったが、8月9日は長崎に[[保守本流|保守]]・[[革新#日本の革新勢力|革新陣営]]が集結して騒然とした空気に包まれるから、埋没するだけだ」と言われたため、それならば[[平和記念日|広島原爆忌]]の8月6日に、「長崎から広島に向かって平和を訴える」という趣旨にした<ref name="時代の証言者20"/>。20回は絶対に続けたいと最初から考え<ref name="時代の証言者20"/>、1987年8月、故郷[[長崎市]]で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『[[夏 長崎から さだまさし|夏・長崎から]]』を開催した<ref name="時代の証言者20"/>。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い<ref name="時代の証言者20"/>、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった<ref name="時代の証言者20"/>。
1993年、ソロ・コンサート通算2,000回([[大阪フェスティバルホール]])を達成した。
1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月に[[ナガサキピースミュージアム]]開館)。
1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。
2000年4月1日、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]開幕戦にて「[[君が代]]」を独唱した。[[ロンドン]]・[[ロイヤルアルバートホール]]にて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の[[髙橋真梨子]]が初)。
2001年9月、小説『[[精霊流し (曲)|精霊流し]]』を発表した。後に[[日本放送協会|NHK]]で[[テレビドラマ]]化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『[[小説「精霊流し」の世界]]』を発売した。
児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年に[[ひろすけ童話賞]]を受賞する。
2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回([[東京国際フォーラム]])という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を[[東京]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪]]にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『[[解夏]](げげ)』発表。2004年に映画化、[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|フジテレビ月9]]枠で『[[愛し君へ (テレビドラマ)|愛し君へ]]』としてドラマ化。
2004年12月、長編小説『[[眉山 (さだまさし)|眉山]]』発表。
2005年8月17日、[[FIFAワールドカップ]]予選[[サッカー日本代表]]対[[サッカーイラン代表|イラン]]の試合にて「[[君が代]]」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を[[日本武道館]]にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『[[とこしへ]]』発売。10月、[[サッポロビール]]「冬物語」で初のパッケージデザイン。
2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『[[今夜も生でさだまさし|新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」]]』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。
2006年4月、シングル「[[がんばらんば]](長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。
2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。
2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、[[第48回日本レコード大賞]]・特別賞を受賞する。
2007年8月9日 [[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]開設50周年記念 「[[夏 長崎から さだまさし|2007 夏 広島から さだまさし]]」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の[[奥田民生]]に次いで2人目。
2008年秋、[[美空ひばり]]の曲をカバーしたアルバム『[[情継 こころをつぐ]]』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていた[[NHK紅白歌合戦]]に落選するが、『[[今夜も生でさだまさし|年の初めはさだまさし]]』は行われた。
2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを[[両国国技館]]にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。
2010年7月16日、さだまさし3776回記念 [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]][[山中湖]]ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。
2012年6月10日に[[本門佛立宗]]横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。
2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の[[長崎ブリックホール]]からスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。
2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。
2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式[[Instagram|インスタグラム]]開設と「[[ペンパイナッポーアッポーペン|PPAP]]〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/article/20170101-L27XXG7MCJIDLFSZBZMCUQG3XQ/ |title=さだまさしがインスタ開始!“ブレーン”は前DeNA球団社長の池田純氏 |newspaper=サンケイスポーツ |date=2017-01-01 |accessdate=2017-01-02}}</ref>。
2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社を[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]]に移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回[[日本ダービー]]で国歌「[[君が代]]」を独唱。
=== パーソナルデータ ===
[[國學院高等学校]]卒業、[[國學院大學]][[法学部]]中退。
趣味は[[ゴルフ]]、[[パチンコ]]、[[競馬]]、[[野球観戦]]、[[読書]]など。
[[ABO式血液型|血液型]]はA型。
==== 家族 ====
既婚。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟は[[さだ企画]]社長で「日本人初のプロ[[サッカー]]選手」の[[佐田繁理]]。妹は歌手の[[佐田玲子]]。長男はユニット「[[TSUKEMEN]]」のメンバーとして2010年にメジャーデビューした[[ヴァイオリニスト]]・TAIRIKこと[[佐田大陸]]。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーで[[ゴスペラーズ]]・[[北山陽一]]の妻・[[佐田詠夢|詠夢]]。
== シンガーソングライターとして ==
=== メロディーの傾向 ===
西洋の[[ポピュラー音楽]]や[[クラシック音楽]]の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]に憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。
自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。
=== 楽曲制作 ===
楽曲の制作は基本的に作曲した曲に詞を当てはめる「[[作詞#曲作りの工程における作詞の位置|曲先]]」で行う。作詞のモチベーションが上がるきっかけは制作の締め切りが明確に存在する時であるといい、「締め切りは自分の虚飾を削ぎ落としてくれるすばらしい兵器だね。今日書かないとダメだもん。書けって言われたら、書くよね」と語っている<ref>[https://www.tfm.co.jp/hv/smartphone/index.php?catid=471&itemid=148880 さだまさしさんの作詞・作曲法]TOKYO FM 2019年3月10日配信 2023年11月23日閲覧。</ref>。
「[[北の国から〜遥かなる大地より〜]]」を[[倉本聰]]と相談しながら1時間で制作したエピソードが度々語られたり、『[[嵐にしやがれ]]』([[日本テレビ系列]])の企画で[[嵐 (グループ)|嵐]]が作成した詞に15分かけてメロディをつけて「NIF〜 NIKU イン ファイヤー」という楽曲を完成させるなど、即興で楽曲を制作するセンスにも長けている<ref>[https://www.ntv.co.jp/arashinishiyagare/contents/20120707.html 今夜の「嵐にしやがれ」は…天才歌手・さだまさしさんが登場!]日本テレビ 2012年7月7日配信 2023年11月23日閲覧。</ref>。
=== 活発なコンサート活動 ===
さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『[[長江 (映画)|長江]]』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった<ref>[https://archive.is/Weq9X 歌い続けるのが天命=さだまさしがコンサート4000回]<!-- http://www.jiji.com/jc/c?g=etm_30&k=2013071700731 -->([[時事通信]] 2013年7月17日、2013年7月20日閲覧)</ref>。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2017/03/15/0009999812.shtml さだまさし 島をリフォーム 復活「ビフォーアフター」で着手 借金返済で決断]([[デイリースポーツ]] 2017年3月15日)</ref>。しかし、その後もコンサートの年間開催回数に変動はなく2020年8月17日のチャリティーコンサートで4425回を達成している。
さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など[[仏教]]的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、[[太宰府天満宮]]や[[東大寺]]などの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか東大寺大仏殿・[[薬師寺]]・[[平安神宮]]など、寺社でのコンサートも数多く行っている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。
1980年代前半、[[中華人民共和国|中国]]へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために[[日本航空]]の[[ダグラス DC-8|DC-8]]貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。
=== 影響を受けたアーティスト ===
中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。[[ポール・サイモン]]が1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、[[ニューヨーク]]まで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある<ref>それに対しサイモンは「やめられっこないよね、でもやめられる。音楽は常に過去に向かって進行しているんだから」と[[禅問答]]のような哲学的な答えを述べたという(『さだまさし 全一冊』TOKYO-FM出版 p.61)</ref>。
その次にさだが大きな影響を受けたのが[[加山雄三]]だった。「[[君といつまでも]]」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他に[[ブレッド (バンド)|ブレッド]]([[デヴィッド・ゲイツ]])の[[バラード]]タイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。
同世代の日本のシンガーソングライターには[[ビートルズ]]や[[ボブ・ディラン]]の影響を受けた者が多い中で、加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である<ref>ポール・サイモンについて「人がビートルズを基準に、その比較論で、音楽について評価する時に、僕はビートルズでなしに、彼を基準に、音楽を映してきた気がする。」と述べている(『さだまさし 全一冊』TOKYO-FM出版 P60、元は1980年に書かれた文章)</ref>。
また[[中村八大]]、[[永六輔]]の影響を大きく受けているとも語っている。
=== 楽曲に対する批判についての反論 ===
さだは2020年11月の『[[読売新聞]]』連載〔時代の証言者〕に於いて、「僕の曲は批判的なレッテルを貼られることが多かった」と話し、この批判に対して以下の反論をした(内容の半分以下抜粋)<ref name="時代の証言者17">{{Cite news |url=https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1331326724446035969 |title = 〔時代の証言者〕 現代の吟遊詩人 さだまさし(17) 「暗い」「軟弱」 曲への評判 |date = 2020年11月25日 |newspaper = [[読売新聞]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 8 }}</ref>。「『関白宣言』が[[ミソジニー|女性蔑視]]と批判を浴び、それを巡って論争となったわけですが、この時に限らず、まず1974年、グレープ時代に『精霊流し』を出した時には『暗い』。当時、『[[四畳半フォーク]]』という言葉もあり、フォークという音楽に暗くじめじめしたイメージがありました。死を描いたこの曲が、『フォーク=暗い』にはまったのは納得できます。しかし、以後、『グレープ=暗い』となったのには、『ちょっと待ってくれよ』という気持ちでした。結局、このイメージから逃れられなかったところに、グレープの限界を感じたのは事実です。翌年、グレープで『無縁坂』を出した時には、『[[マザーコンプレックス|マザコン]]』。息子が人知れぬ母の苦労を思いやる歌詞ですが、あまりに短絡的な批判ではないでしょうか? 1973年に[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]が母への思慕を歌った『[[母に捧げるバラード]]』を出した時には、『マザコン』の『マ』の字も出なかったと記憶しているのですが……。やせて髪が長く気の弱そうな僕の風貌がいけなかったのでしょう。こいつなら何を言っても黙っていると思われたようです。ソロ活動を始めた頃、[[フォークソング#日本のフォーク|フォーク]]や[[日本のロック|ロック]]など[[洋楽]]色の強い音楽は、[[ニューミュージック]]と呼ばれるようになり、僕の音楽もそこに分類されました<ref group="注釈">ニューミュージックは70年代後半から広く使われるようになった言葉で、[[松任谷由実]]、[[中島みゆき]]、[[アリス (フォークグループ)|アリス]]、[[サザンオールスターズ]]などがその代表格とされた。「フォーク=暗い」「ロック=[[不良行為少年|不良]]」といった旧来のイメージを払拭し、「新しい若者の音楽」として再定義したと言える。</ref>。ソロで最初のヒット曲『雨やどり』は『軟弱』。そして『関白宣言』は『女性蔑視』『[[女性差別|男尊女卑]]』。この頃は『計算ずくの曲作りが鼻につく』『商売根性が見え見えだ』との世評もありました…」<ref name="時代の証言者17"/>。
== 「噺家」として ==
さだは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と[[落語研究会 (サークル活動)|落語研究会]]に所属していた<ref group="注釈">落研当時の高座名は「飛行亭つい楽」。</ref>。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。
コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りという、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か[[漫談]]のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。
落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。
このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。
1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという<ref name="hanasikasyu3">CD『さだまさし ステージ・トーク・ライブ 噺歌集ライブ3』([[朝日ソノラマ]] 1994年12月) ISBN 978-4257090045</ref>。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている<ref name="hanasikasyu3"/>。
2012年のデビュー40周年ツアー「さだまつり」では、1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。そして2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。その喋りの才能は、ラジオの深夜放送([[文化放送]]『さだまさしの[[セイ!ヤング]]』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。
同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「[[今夜も生でさだまさし]]」を参照。
内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、[[松山千春]]は『フォーク界御三毛』」などと話す。
== 小説家として ==
小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので…』(1976年3月、[[八曜社]])収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、[[文藝春秋]])に収録)。
2001年、[[テレビ朝日]]で放送されていた『[[ほんパラ!関口堂書店]]』の番組企画をきっかけに、[[幻冬舎]]社長[[見城徹]]の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し<ref>{{Cite book|和書 |title=精霊流し |date=2001-9-10 |publisher=幻冬舎 |author=さだまさし |isbn=4344001117}}</ref>、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。
『精霊流し』はNHK・[[NHK夜の連続ドラマ|夜の連続ドラマ]]として2002年にドラマ化(『[[精霊流し〜あなたを忘れない〜]]』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『[[愛し君へ (テレビドラマ)|愛し君へ]]』(2004年)の原作となった。
2004年には、第3作『[[眉山 (さだまさし)|眉山(びざん)]]』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には[[東宝]]制作で、[[犬童一心]]監督により映画化され、さらに2008年にはフジテレビでドラマ化されたた。
さだは『精霊流し』以前にもアルバム『[[ADVANTAGE (アルバム)|ADVANTAGE]]』と『[[自分症候群]]』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「[[ライナーノーツ]]」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。
童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めて[[ひろすけ童話賞]]を受賞した。
さらに[[エッセイ]]も数多く、[[毎日新聞]]や[[新潮社]]の雑誌『[[旅 (雑誌)|旅]]』(完了)、[[ダイヤモンド社]]の雑誌『[[TVステーション|TV Station]]』などへの連載も行っている。『さだの辞書』で[[日本エッセイスト・クラブ賞]]を受賞した。<!--上と重複なおこれに先立つこと、1985年に、アルバム『[[ADVANTAGE (アルバム)|ADVANTAGE]]』の[[ライナーノート|ライナーノーツ]]をすべて掌編小説でまとめている。-->
ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。
== 人物 ==
=== 持論 ===
生まれ育った日本への愛着を持っていることを語り、「僕はこの国を心から愛している」と著書で発言しており<ref name = "日本への愛" />、前述の仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌などにもあるように、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向もある<ref>さだまさし「さだ語録 あなたの心は元気ですか?」[[セブン&アイ・ホールディングス|株式会社セブン&アイ出版]] pp.140-189</ref>。ある企業が行った世界のティーンエイジャーに「不安に思うのは何か?」と問うアンケート調査で、どの国も「国の未来」と答えたにもかかわらず、日本の子供達だけそう答える者がいなかったことに対して「このままでは日本はたぶん滅びる」とショックを受け危機感を持った旨を語り<ref name ="ショック" />、「日本人が日本語が下手になったらこの国は終わる」という危機感があることも語っている<ref name = "日本への愛">[https://www.sankei.com/article/20230730-PAYFOYWMHBN6ZIPHACT4Z2TTWI/?outputType=theme_portrait 話の肖像画 歌手・さだまさし<29> 日本語が下手になったら、この国は終わる]産経ニュース 2023年7月30日配信 2023年11月23日閲覧。</ref>。また、政治家が経済について話すことを嫌い、外交・安全保障・教育に対して徹底的に取り組むことを求めている<ref name ="ショック">さだまさし「やばい老人になろう やんちゃでちょうどいい」 PHP研究所 pp.184-185より。</ref>。
さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントが開催されることも多い<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/47172/full/ さだまさし、平和祈念で広島3万2千人イベント]</ref>。また、「[[家族の肖像 (さだまさしのアルバム)#収録曲|戦友会]]」のように戦死者や遺族の心情に寄り添う楽曲も存在する<ref>[https://www.uta-net.com/song/95872/ さだまさし - 戦友会]Uta-Net 2023年11月23日閲覧。</ref>。
2014年4月20日の[[東京新聞]]のコラム「つれづれ」にて『日本の調査捕鯨停止命令 食文化への差別悲しい』と題し、日本の[[捕鯨文化]]の維持を望む主張をした<ref>東京新聞 2014年4月20日号</ref>。
祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)<ref name="jcfa_070525">{{Cite web|和書|url=http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/070525.html |title=引き継がれた長江への思い さだまさしさんと中国 |author=及川淳子 |work=友好新聞 |publisher=[[日本中国友好協会]] |date=2007-05-25 |accessdate=2016-08-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071224171722/http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/070525.html|archivedate=2007-12-24}}</ref>。
こうした一面の一部分しか知らない者から批判を受けることもあり、かつては『防人の詩』で「[[右翼]]」、『しあわせについて』で「[[左翼]]」と批判されたほどであったという<ref name="migi hidari">[https://www.news-postseven.com/archives/20150729_337855.html?DETAIL 曲について話すと怖いさだまさし 座右の銘は「惜しまない」]</ref>。
ウィキペディアに対して「ネットに書いてあることは、実に怪しげです。ウィキペディアっていうネット百科事典に、『さだまさし』に関する記事が載ってるんですけど、嘘ばっかりです」と批判している<ref>さだまさし「笑って、泣いて、考えて。永六輔の尽きない話」p.173より。</ref>。
=== 詩へのこだわり ===
アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている<ref>グレープ時代は「作詞」とクレジットしているが、公式デビュー前のEP盤「Grape-1」(「蝉時雨」、「雪の朝」など収録)では「作詩」とクレジットしている。</ref>。
さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧[[西彼杵郡]][[琴海町]])の[[大村湾]]内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で[[詩島]](うたじま)と改名されたことにも現れる。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった[[太宰府天満宮]]から勧請した「詩島天満宮」がある。
=== スポーツの応援 ===
[[日本プロ野球|プロ野球]]では、[[長嶋茂雄]]監督が1980年に解任されるまで[[読売ジャイアンツ]]ファンだったが、その後は[[東京ヤクルトスワローズ]]ファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・[[松園尚巳]]が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督の[[古田敦也]]とは毎年一緒に酒を飲む仲だという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/baseball/nihon/2001/top/bt2001102610.html |title=古田と若松さん、二人三脚の優勝 さだまさし |publisher=産経新聞 |accessdate=2013-08-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020222000807/http://www.sanspo.com/baseball/nihon/2001/top/bt2001102610.html |archivedate=2002-02-22 |deadlinkdate=2018-03}}</ref>。2015年3月31日のスワローズ本拠地開幕戦では「スワローズCREW名誉会員」として[[始球式]]に登板した<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/photo/detail/20194 始球式にさだまさしさん!]</ref>。また[[神宮外苑]]を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがあり、『つばめよつばめ』ではスワローズファンの悲哀も歌っている。「[[今夜も生でさだまさし]]」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。
その他、[[福岡ソフトバンクホークス]]も九州出身者として[[毎日新聞]]連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、[[北海道日本ハムファイターズ]]ファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。親交のある[[栗山英樹]]監督の要請で、2013年の北海道日本ハムファイターズ本拠地開幕戦([[札幌ドーム]])にゲスト参加。「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。
[[浦和レッドダイヤモンズ]]ファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。かつてのバックメンバー[[坂元昭二]]も浦和サポーターである。自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が[[三菱重工]]等の企業城下町であり、前身の[[三菱重工業サッカー部]]以来のファンと公言している<ref group="注釈">なお長崎にも[[三菱重工長崎サッカー部]]がある。</ref>。
また1991年から2010年まで使用された[[競艇]]のSG・G1・一般競走の優勝戦の[[ファンファーレ]]はさだが作曲したものであった<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00002/contents/0025.htm さだまさし氏作曲のファンファーレを採用]</ref>。
[[全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]で、[[千葉県立多古高等学校|千葉県の多古高校]]と[[滋賀県立伊香高等学校|滋賀県の伊香高校]]が対戦し、伊香高校が10対8で多古高校に勝利することが夢である、とテレビ番組で語った。
=== 飲食店の経営 ===
1980年代の前半に[[東京地下鉄]]・[[赤坂見附駅]]付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。
*店先(地上)には[[ケンタッキーフライドチキン]]の[[カーネル・サンダース]]のパロディで、さだまさし自身の立像が据えられていた。
*地下に降りて行くとドアがあるが、そこはダミーのドアで、まごついていると横のところが開くようになっていた。
*壁には音響装置があり、ヘッドフォンでさだまさしの曲を聴くことができた。
*トイレの壁には「便訓」という張り紙が貼ってあった。
*メニューには「あみんセット」([[パンプキンパイ]]・シナモンティー・[[バラ]]の形の角砂糖)や、アルバム『うつろひ』収録の「分岐点」に因んだ「分岐点セット」([[ミートパイ]]とソーダ水)があった。
この他、[[渋谷]]に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同出資していた(2004年9月末で閉店。[[西村知美]]の夫である[[西尾拓美]]が店長をしていた)。故郷長崎市に「自由飛行館」がある。
=== その他 ===
[[日本放送協会|NHK]]『[[連続テレビ小説]]』のファンであり、1番好きな作品は中学生の時に観た1966年度の『[[おはなはん]]』と話す<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/72252/1176877/ ごごナマ おしゃべり日和「さだまさし」],goo</ref>。[[大泉洋]]が出演する、[[北海道テレビ放送|HTB]]『[[水曜どうでしょう]]』のファンでもある<ref>{{Cite web|和書|title=NHK SONGS @nhk_songs|url=https://twitter.com/nhk_songs/status/1137283290635722752|website=[[Twitter]]|accessdate=2021-04-02|language=ja}}</ref>。
== 人気・評価 ==
ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3,333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。
2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]出場歌手に関する[[世論調査]]」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート([[スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜]])でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。
== 交友関係 ==
=== ミュージシャン ===
;[[泉谷しげる]]
:
;[[谷村新司]]
:さだ曰く「フォーク界御三毛(ごさんけ)」の長兄。日本武道館でジョイント・コンサートを行ったこともある。グレープがデビューする前に、長崎放送のラジオ番組に、谷村新司と[[バンバン (フォークグループ)|バンバン]]と[[佐藤公彦|佐藤公彦(ケメ)]]が来て、公開コンサートで共演している。その後、谷村新司が所属している事務所にグレープのテープが回ってきて、所属させるかの検討の上、事務所社長の[[細川健]]が「さだまさしってのは不吉な予感がする」と思い断ったとのこと<ref>『週刊FM』昭和56年12・21-1・3号、p.106、谷村新司とさだまさしとの対談にて。</ref>。
;[[南こうせつ]]
:『[[ミュージックフェア]]』などで共演する機会も多い先輩。イベントなどで共演する度に「[[神田川 (曲)|神田川]]」の前奏・間奏のヴァイオリン演奏を依頼され、そのたびにさだが「精霊流し」のイントロをわざと間違えて弾く、というギャグをかましている。
;[[小田和正]]
:グレープ時代、北海道で[[オフコース]](小田・鈴木二人体制時代)とのジョイント・コンサートを行ったこともあるほか、「佐世保」では小田がバックコーラスを務めている。また、2007年12月には小田が毎年出演している特番『[[クリスマスの約束]]』にさだが出演し、2人で共同制作した楽曲『たとえば』を披露した。
;[[松山千春]]
:「フォーク界御三毛」のもう一人。コンサートなどではお互いに親しいがゆえの悪口を言い合って会場を盛り上げたりしていた。過去さだが松山の実家に遊びに行ったこともある仲だったが現在は疎遠になっている。『[[夜のヒットスタジオ]]』の最終回では各々がコンサート先の系列局から中継で顔を出し、例の如く漫才のような罵倒合戦を展開。司会の[[古舘伊知郎]]に「往年の(『[[笑点]]』における)[[三遊亭小圓遊|小円遊]]と[[桂歌丸|歌丸]]のようです」と揶揄され、出演者の笑いを誘った。
;[[中島みゆき]]
:1970年代以来の友人。「みゆき」「まさし」と呼ぶ間柄で<ref>さだまさし『さだまさし ステージ・トーク 噺歌集』(1986年、[[文春文庫]] pp.129-130</ref>、『今夜も生でさだまさし』でも度々さだが名前を出している。「あの人に似ている」を共作しているが、この曲は男の歌(さだ担当)・女の歌(中島担当)がそれぞれ同じコード進行の別メロディーで進行し、サビで一緒になるという複雑な構成になっている。これは、当初さだ・中島で作詞・作曲のどちらかをそれぞれ分担するというオファーになっていたものを、さだが「せっかく中島みゆきとやるのだから」と中島に提案し、あえて複雑にしたものである。その後、中島の要請で2人でのセルフ・カヴァーが実現し、中島のアルバム『[[おとぎばなし-Fairy Ring-]]』に収録されている。この時のインタビューではお互いに「ファンだ」と言い合っていた。また、妹の玲子のデビュー曲「くらやみ乙女」は中島が提供している。なお、さだは中島の表現力と感受性を大いに称賛しており、中島の作品を「良質な流行歌」と評す。
;[[森山良子]] / [[森山直太朗]]
:森山良子はグレープ時代の「掌」やソロデビュー後の「セロ弾きのゴーシュ」「[[秋桜 (山口百恵の曲)|秋桜]]」をカヴァーしている。息子の直太朗とは会報誌でさだとの対談が行われる等の親交がある。さだが原作を手掛ける『解夏』のドラマ版『愛し君へ』の主題歌を担当したことから互いのライブ等に行くようになる。多くのライブ本数をこなすさだを尊敬しており、自身もライブこそが最大のコミュニケーションと活動の場をステージに置くことを大切にしている。
;[[ももいろクローバーZ]]
:さだが自身の番組『[[今夜も生でさだまさし]]』に複数回出演させるなど親交が深く、2017年からは大晦日にももいろクローバーZが主宰する『[[ももいろ歌合戦]]』に、さだが中継で出演するのが恒例に。楽曲提供もしており、グループを花で喩えて「[[ブッソウゲ|仏桑花]]」([[ハイビスカス]]の一種)というタイトルの楽曲を書き下ろした(アルバム『[[AMARANTHUS]]』に収録)。親への感謝を歌った曲で、さだとももいろクローバーZのメンバーが食事に行って話し合う中で制作された<ref>西日本新聞インタビュー(2016年2月7日)</ref>。
;[[岡村孝子]]
:さだに憧れシンガーソングライターとなる。自身のユニット[[あみん]]の名称も、『[[夢供養]]』収録の「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店の名前から採った。2005年にはNHKの音楽番組『[[夢・音楽館]]』で共演し、岡村の「[[銀色の少女]]」ではさだが詩を提供した。なお、岡村との共演が2007年のあみん再結成のきっかけとなった。
;[[和田アキ子]]
:誕生日が同じで、[[ミュージックフェア]]で共演している。
;[[小林幸子]]
:同レコード会社所属当時(ワーナーパイオニア時代)から40年来の親交があり、芸能界では小林が先輩に当たるが年下のためにさだを「お兄ちゃん」と呼び慕っている。「約束」「茨の木」「道」「蛍前線」「おかあさんへ」を提供している。
;[[加山雄三]]
:中学時代、初めて歌を作るきっかけを作った人物(後述)。さだの憧れの人物の一人である。『夏・長崎から』などコンサートでも度々共演している。
;[[平原綾香]]
:父親の[[平原まこと]]が何度かさだのバックメンバーとしてコンサートやレコーディングに参加しており、親子で親交があり、綾香自身もさだのファンだと公言している。「[[秋桜 (山口百恵の曲)|秋桜]]」「ひまわり」をカヴァーしているほか<ref>「[[おひさま〜大切なあなたへ]]」など、さだのプロデューサー・[[渡辺俊幸]]が関わる平原の楽曲も何曲か存在する。</ref>、2006年正月のNHK『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』や最後の『夏・長崎から』にもゲスト出演した。
;[[BEGIN (バンド)|BEGIN]]
:『夏・長崎から』に2度ゲスト出演。『長崎から』に影響され、2001年から故郷・沖縄で『うたの日コンサート(後にカーニバル)』を行い、さだもゲスト出演した。
;[[岩崎宏美]]
:自ら「まさし教信者」と公言する<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120526/ent12052608350005-n1.htm 「穏やかで温かい気持ち」歌い上げ 岩崎宏美が12曲 さだまさしカバー] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120912134145/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120526/ent12052608350005-n1.htm |date=2012年9月12日}}(MSN産経ニュース 2012年5月26日。2012年10月13日閲覧)</ref>程のファンで、「まさし」「宏美」と呼び合い<ref>『[[今夜も生でさだまさし]]』2013年3月31日放送回で2人が明かした。</ref>ファンクラブ向けの「まさしんぐWORLDコンサート」にゲスト出演するなど親交も深い。岩崎はさだを「私にとって生神様」としている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.facebook.com/fansitehiromi/posts/%E5%A4%A7%E6%99%A6%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%88%9D%E3%82%81%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E7%B6%9A%E3%81%8D%E4%BB%8A%E5%A4%9C%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%A7%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%95%E3%81%A0%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B92018%E5%87%BA%E6%BC%94%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F16%E6%AD%B3%E3%81%AB%E6%AD%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%AD%8C%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E7%A7%81%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E7%A5%9E%E6%A7%98%E6%AC%BD/1667535663332529/ |title=Facebookの投稿 |accessdate=2020-05-29}}</ref>。岩崎の2012年のアルバム『Dear Friends VI』は全曲さだの曲のカヴァーで構成されている。
;[[高見沢俊彦]]([[THE ALFEE]])
:さだと親交が深く、さだの本質は「ロック」であると語る<ref>[https://natalie.mu/music/news/124769 さだまさし新曲はプログレ風、PVにかまってら]([[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] 2014年8月29日 2018年7月16日閲覧)</ref>。2014年のさだのアルバム『[[第二楽章 (さだまさしのアルバム)|第二楽章]]』では、「死んだらあかん」「君は歌うことが出来る」の編曲を担当したほか、THE ALFEEとしても『[[さだまさしトリビュート さだのうた]]』で「まほろば」をカヴァーしている。
;[[若旦那 (ミュージシャン)|若旦那]]([[湘南乃風]])
:さだへの尊敬の念を公言しており、ライブイベントなどで何度も共演している<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2052889/full/ 若旦那、さだまさしU-30ライブで異色“対バン”]([[オリコン]] 2015年5月15日 2018年7月16日閲覧)</ref>。
;[[ナオト・インティライミ]]
:さだを慕うミュージシャンの一人。2018年のさだのアルバム『[[Reborn~生まれたてのさだまさし~]]』では、「きみのとなりに」「パスワード シンドローム」の2曲を「ナオト・マサシ・インティライミ」名義で共作したほか、楽曲の編曲・プロデュースも行っている<ref>[https://natalie.mu/music/news/283127 さだまさし、アルバムに“ナオト・マサシ・インティライミ”楽曲を収録]([[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] 2018年5月21日 2018年7月16日閲覧)</ref>。
;[[レキシ]]
:幼稚園児の頃に親戚の結婚式の余興として『[[関白宣言]]』を歌ったのをきっかけにさだを聴き初めて以来、さだには大きな影響を受けたと語っている<ref>『[[TVステーション]]』2017年25号 pp.101-103「さだまさし×レキシ スペシャル対談」</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20170515_384543/?p=3 レキシの魅力に『関ジャム』迫る 影響を受けたのは「さだまさし」と「ドリフターズ」]([[エキサイト]] 2017年5月15日 2018年4月29日閲覧)</ref>。2018年のさだのアルバム『Reborn ~生まれたてのさだまさし~』では、「黄金律」の編曲・プロデュースを手掛けている<ref>[https://natalie.mu/music/news/285598 さだまさし新作「Reborn ~生まれたてのさだまさし~」にレキシ参加]([[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] 2018年6月7日 2018年7月16日閲覧)</ref>。
;[[福山雅治]]
:同郷の後輩。さだに対し敬意を払い、福山が言及する際はほぼ必ず「偉大なる」と前置きする。「秋桜」をカバーしたほか、自身のラジオ番組で「雨やどり」をかけ「好きでよく歌うのだが、歌うと泣いてしまう」と語った。他にも「関白宣言」「精霊流し」などをラジオの[[背景音楽|BGM]]として使用している。
=== アレンジャー・バックメンバーなど ===
*[[佐田玲子]](妹)
*[[佐田大陸]](息子) - 2007年のアルバム『[[Mist (アルバム)|Mist]]』で初共演。
*[[吉田政美]](元グレープ)
*[[石川鷹彦]]
*[[倉田信雄]]
*[[木村誠 (パーカッション奏者)|木村誠]]
*[[三沢またろう]]
*[[松原正樹]] - さだまさしばんどで参加。2016年2月8日没。
*田代耕一郎 - コンサートでは[[さだ工務店]]で初めて参加
*[[坂元昭二]]
*[[宅間久善]]
*[[旭孝]]
*[[徳沢青弦]]
*[[佐渡裕]]
*[[島村英二]] - さだまさしばんどから参加したが[[さだ工務店]]では名前はあるものの常には参加していない。さだの高校の時の先輩である。
*[[渡辺俊幸]]
*[[服部克久]]
*[[服部隆之]]
*[[福田幾太郎]]
*[[福田郁次郎]]
*[[信田かずお]]
*[[岡沢章]]
*[[山本直純]]
*[[チキンガーリックステーキ]]
*[[紺野紗衣]]
*[[平原まこと]]
*[[ジミー・ハスケル]]
*[[井上知幸]] - さだが関係するテレビやラジオの放送作家。
*[[住吉昇]] - さだが出演するNHK「今夜も生でさだまさし」の音響担当。
上記の人たちによるものではあるが、コンサートに至ってはサポートバンドを結成し参加している。
名称も、サーカス、元祖サーカス、ふりーばるーん、[[亀山社中]]、さだばんど、[[さだ工務店]]と変化している。
さだ工務店のメンバーは公益財団法人風に立つライオン基金の理事でもある。
=== その他 ===
;[[倉本聰]]
:公私共に仲が良く、お互い「先生」「まさし」と呼び合う仲である。さだは倉本が脚本を手がけた人気ドラマ『北の国から』の主題歌「北の国から〜遥かなる大地より〜」を作曲している。また、倉本が骨折した際、さだはライブツアー中で見舞いにも行けず、倉本と再会できたのはギプスも外れてほぼ完治に近い状態であった。しかし、ギプスが装着されていた部分の体毛が以前より濃くなっていたことに気がつき、「まさし、おまえ頭を骨折しろ!」と叫んだとのこと。これも、さだが得意とするステージトークでの自虐ネタとして使用していると共に2人の仲の良さを証明しているものである。
;[[笑福亭鶴瓶]]
:現在は名番組として鶴瓶の代表作となっている『[[鶴瓶の家族に乾杯]]』は、NHKからさだまさしに持ち込まれた企画であった。初回はさだがホストで鶴瓶はパートナーであったが、コンサートによる多忙のため、番組の続編を鶴瓶に任せて、現在の形態となっている。このとき、さだは「鶴瓶ちゃんなら」ということで彼に司会をバトンタッチしたほど、お互いに信頼しあっている。なお、主題歌はさだが担当している。
;[[おすぎとピーコ]]
:前述の『防人の詩』が批判された時期にはさだを批判する発言をしていたが、さだとホテルで遭遇し、真意を聞かされて以降はさだに理解を示すようになった<ref>さだまさし「笑って、泣いて、考えて。永六輔の尽きない話」pp.11-12より。</ref>。
:また、おすぎがまだ映画評論家としての地位を確立していなかった頃、おすぎの映画評論に感銘を受けたさだが自らのラジオ番組におすぎの映画評論コーナーをレギュラーで持たせていたこともある。
;[[原田泰治]]
:原田が書いた『さだおばさん』<ref group="注釈">なお、元々は『さだおばさん』自体はさだまさしとは全く関係なく、[[森林鉄道]]の駅長になった行商の「さだ」さんと、村の人々のふれあいを描いた絵本である(苗字が「佐田」ではなく名前が「サダ」「定」などの「さだ」。「さだ」さんは雪の中での線路点検作業中に雪崩に巻き込まれて亡くなってしまう)。「[[#主な映像作品など]]」の項目にあるように、後にさだが監督となって映画化されている。</ref>をたまたま書店で目にしたことから交流が始まり、ついにはさだが原田の故郷である諏訪に引っ越し、原田の家の近くに自宅を建ててしまったほどの仲である。
;[[的場均]]
:1990年代初頭の『さだまさしのセイ!ヤング』では競馬予想を展開する度に「的場(が来る)!」と断言していた(ちょうど当時の的場は[[ライスシャワー]]に騎乗し、数々の重賞レースを制している時期だった)。的場が通算一千勝を達成した際にはさだが作った「[[ひとりぽっちのダービー]]」を的場が歌ったCDが作られ、関係者に配布された。
;[[宮崎康平]]
:元[[島原鉄道]]の役員で、「[[島原の子守唄]]」の作者<ref group="注釈">現在では「島原の子守唄」は山梨民謡「甲州縁故節」からの編曲であることが知られている。</ref>、古代史研究家。さだの父雅人の友人であったことから親交があり、さだは幼い頃から「マー坊」と呼ばれていた。宮崎が没した際には、彼の著書『[[まぼろしの邪馬台国]]』にちなんだ楽曲「邪馬臺」(アルバム『[[うつろひ]]』収録)を制作している。宮崎は[[永六輔]]にさだの意に反する形で、「長崎に噺家になりたいという若者がいるから師匠を紹介してくれ」と相談しており、これがきっかけでさだと永の親交が生まれた<ref name="miyazaki">さだまさし「笑って、泣いて、考えて。永六輔の尽きない話」pp.28-29より。</ref>。
;[[蟹江篤子]]
:元[[東海ラジオ放送]]アナウンサーで、現・フリーアナウンサー。「精霊流し」ヒットの立役者であり、さだは「蟹江おねぇさん」と呼んで慕っている。名古屋からのさだの生放送番組の際には、スタジオ観覧に来ていた蟹江をさだが発見し、ハガキを読ませてしまうという異例の事態になった。
;[[立川談春]]
:落語家。上述のように落語好きなさだとは親交が深く、「セイ!ヤング」や2009年のファンクラブ向けコンサートにゲスト出演したこともあるほか、談春の著作『[[赤めだか]]』にもさだの名前が出てくる。『[[さだまさしトリビュート さだのうた]]』ではさだのトークのネタ「父さんとポチ」を落語の演目としてカヴァーしている。談春は、元々さだのファンである。
;[[桂春蝶 (3代目)]]
:落語家。「らくごカフェ」の代表の青木伸広の紹介がきっかけで交流を持っている。春蝶自身さだの大ファンである。また、さだは3代目春蝶の実父の[[桂春蝶 (2代目)]]のファンであった<ref>[http://blog.livedoor.jp/toby2005/archives/52989385.html 桂春蝶オフィシャルブログ さだまさしさん 2012年09月13日]ライブドアブログ</ref>。
;[[今里広記]]
:[[日本精工]]元会長。長崎県出身で「財界官房長官」と呼ばれた財界の実力者。在東京長崎県人会の席で知己となり、彼の紹介で[[中山素平]]らの実業家や[[谷川徹三]]、[[山本健吉]]、[[梅原龍三郎]]・[[蘆原英了]]といった[[芸術家]]・[[文化人]]とも交流を持った<ref>[http://goethe.nikkei.co.jp/article/114584318.html さだまさし連載 酒の渚 今里広記さん①] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20160829025743/http://goethe.nikkei.co.jp/article/114584318.html |date=2016年8月29日}}([[ゲーテ (雑誌)|WEBゲーテ]] 2016年8月23日)</ref>。特に山本健吉には多大な影響を受けている。
;[[庄司紗矢香]]
:世界的な[[ヴァイオリニスト]]。[[題名のない音楽会]]でさだまさしファンを自らカミングアウトした。
;[[レキシ]](池田貴史)
:「影響を受けたアーティストはさだまさし」と自ら認めている。
;[[松本人志]]([[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]])
:さだを「師匠」と呼び敬っている。以前より[[道化師のソネット]]に影響を受けたとしていたが「[[快傑えみちゃんねる]]」[[2019年]][[11月8日]]放送分にゲスト出演した際に尊敬する人物として発言したことで、松本がメインコメンテーターを務める[[ワイドナショー]]にさだがゲストに登場するなど共演が続いている。
;[[北山宏光]]([[Kis-My-Ft2]])
:交流のあるナオト・インティライミからの紹介をきっかけにプライベートで食事に行く仲であり、2020年に北山がパーソナルティーを務めた「[[24時間テレビ 愛は地球を救う]]」にて対談を行っている。
;[[ジェシー (アイドル)|ジェシー]]
:連絡先を交換する等で交流する仲である。<ref group="注釈">2023年10月20日放送分のTBSテレビ『[[オオカミ少年 (テレビ番組)|オオカミ少年]]』にて、ジェシー自ら「さださんの連絡先を知っている」と説明した為。</ref>
芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学・高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。とコンサートで話している。さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。
== さだまさし研究会(さだ研) ==
{{内容過剰|date=2010-08|section=1}}
さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色の一つとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会」(略称:さだ研)なるものが数多く結成されていることが挙げられる。かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られた。
学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『[[セイ!ヤング]]』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。『セイ!ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。
「さだ研」が『セイ!ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。結果は東大さだ研が圧勝。この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。
一部のサークルで一時期、「さだまさし研究会谷村新司派」が存在した。
最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ!ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB・OG会」のような活動になっている。全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ!ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。
早大の現役サークルも消滅の危機に陥ったが、他大生を加えたインターカレッジ・サークルとして存続させた<ref name="waseda">[https://ameblo.jp/waseda-sadaken2010/entry-11610614402.html?frm=theme 「他大生歓迎」についての一考]早大さだ研ブログ 2014年4月16日</ref>。部員が鎌倉女子大学の学生一人のみの時期もあった<ref name="waseda"/>。その後、2012年のさだまさし還暦祝いコンサート会場に早大さだ研のブースが設置されたのを機に関東近辺の大学生が多く集うようになった<ref>[https://woman.mynavi.jp/article/130511-017/ 「さだまさし研究会」ってどんなことしてますか? – 早稲田大学]マイナビウーマン 2013年5月11日</ref>。
社会人系サークルも『セイ!ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改編を果たしてしまった団体も僅かながらある。
また逆に『セイ!ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。[[早稲田大学]]さだ研が独自にブログ<ref>[https://ameblo.jp/waseda-sadaken2010/ 早稲田大学さだまさし研究会BLOG]</ref>を立ち上げていたり、[[京都大学]]さだ研が毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト<ref>[http://www6.plala.or.jp/ryokan/sadaken/ 京都大学さだまさし研究会]</ref>上でPDFファイルで公開している。
1990年リリースのアルバム『[[夢回帰線II]]』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:[[南カリフォルニア大学]]さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。
大学生活を描いたマンガ『[[幕張サボテンキャンパス]]』([[みずしな孝之]]著)」にて、主要登場人物の一人が「さだ研」に加入している。
== ディスコグラフィ ==
{{See|さだまさしのディスコグラフィ}}
== 主な著作 ==
;ステージトーク集
:*噺歌集(全5巻 [[文藝春秋]])
:*さだまさし 話のアルバム(新潮CD文庫)
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;その他
:*僕の愛読詩集(新潮社カセット文庫) - [[井伏鱒二]]との対談付
:*さだまさしのセイ!ヤング(赤本・青本)([[音楽之友社]])
:*アルバムライナーノート集『自分症候群』(新潮社)
:*ピクチャーブック『遙かなるクリスマス』(講談社)
:*『落談まさし版三国志英雄伝』(自由書館(絶版)、文藝春秋);エッセイ
:*本 人の縁とは不思議なもので…(八曜社) - 初の著作本
:*時のほとりで([[新潮文庫]])
:*さまざまな季節に(文藝春秋)
:*ゆめいくみはっぴい(夢行身発飛)(全3巻 [[新書館]])
:*風待煙草([[CBSソニー出版]])
:*せとぎわの魔術師(講談社)
:*日本が聞こえる(毎日新聞社)
:*まほろばの国で(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第二弾)
:*いつも君の味方(講談社)
:*本気で言いたいことがある(新潮社)
:*美しき日本の面影(新潮社)
:*もう愛の唄なんて詠えない(ダイヤモンド社)
:*まほろばの国で 終章(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第三弾)
:*[[いのちの理由]](ダイヤモンド社)
:*酒の渚(幻冬舎)のち文庫
:*さだの辞書(岩波書店)
:
;小説
:*[[精霊流し (曲)|精霊流し]](幻冬舎)<ref>{{Cite book|和書 |title=精霊流し |date=2001-9-10 |publisher=幻冬舎 |author=さだまさし |isbn=4344001117}}</ref>
:*[[解夏]](幻冬舎)
:*[[眉山 (さだまさし)|眉山]](幻冬舎)
:*茨の木(幻冬舎)
:*[[アントキノイノチ]](幻冬舎)
:*[[かすてぃら 僕と親父の一番長い日]]<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010480 番組エピソード 父と子の絆を描く【父の日ドラマ特集】 -NHKアーカイブス]</ref>(2012年4月5日、[[小学館]]、ISBN 978-4093863292)
:*はかぼんさん:空蝉風土記(2012年8月22日、[[新潮社]]、ISBN 978-4103008729)
:*[[風に立つライオン#小説|風に立つライオン]](2013年7月18日、幻冬舎、ISBN 978-4344024229)
:*[[ちゃんぽん食べたかっ!]](2015年5月28日、[[NHK出版]]、ISBN 978-4140056646)
:*銀河食堂の夜(2018年9月28日、幻冬舎、ISBN 978-4344033603)
:
;童話
:*ふうせんのはか([[くもん出版]])
:*おばあちゃんのおにぎり(くもん出版)
:*23時間57分のひとり旅(くもん出版)
:
;翻訳
:*とても温かで とてもせつない きみの絵本(2016年4月21日、ジュヌヴィエーヴ・カスターマン著、[[千倉書房]]、ISBN 978-4805110966)
:
;歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ
:*秋桜([[サンマーク出版]])
:*償い(サンマーク出版)
:*親父の一番長い日(サンマーク出版)
:*案山子(サンマーク出版)
:*奇跡(サンマーク出版)
また、1981年にはアルバム『[[うつろひ]]』の発売に合わせて、「嫁入新聞」という[[パロディ]]新聞を発行している。
;教育機関等への作曲
:*夢ありてこそ([[長崎県立長崎明誠高等学校]]校歌)
:*風光る([[つくば秀英高等学校]]校歌)
:*明成小学校校歌(金沢市立明成小学校校歌)
:*緑豊かに([[岩瀬日本大学高等学校]]校歌)
:*空はるか(長崎県南高来郡北有馬町立有馬小学校校歌)
:*約束をしよう(栃木県大田原市立黒羽中学校校歌)
:*千年の祈り(奈良県[[十津川村立十津川中学校]]校歌)
:*愛ありて([[川崎医療福祉大学]]大学歌)
:*花咲きぬ(川崎医療福祉大学大学歌)
私公立学校の校歌を作曲し提供している。
== 出演 ==
=== 主な映像作品など ===
*映画『[[翔べイカロスの翼]]』(主演・音楽、1980年)
*映画『[[関白宣言]]』(原作・出演・主題歌、1980年) - 主演・佐田繁理
*映画『[[長江 (映画)|長江]]』(監督・主演、1981年)
*映画『[[さだおばさん]]』([[原田泰治]]原作、監督・音楽、1994年) - 「[[欽ちゃんのシネマジャック]]」の1本として(アニメ作品)
*映画『[[学校 (映画)|学校III]]』([[山田洋次]]監督、出演、1998年) - 職業訓練校教務・北
*『[[はらぺこあおむし]]』([[エリック・カール]]の絵本のアニメ版、日本語版の朗読、2001年)
*映画『[[精霊流し (曲)|精霊流し]]』(原作・主題歌、2003年)
*映画『[[解夏]]』(原作・主題歌、2004年)
*映画『[[釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪]]』(出演、2005年)刑事
*映画『[[眉山 (さだまさし)|眉山-びざん-]]』(原作、2007年)
*映画『[[ぼくとママの黄色い自転車]]』(主題歌、2009年)
*映画『[[アントキノイノチ]]』(原作、2011年)
*映画『[[サクラサク (映画)|サクラサク]]』 (原作・主題歌、2014年)
*映画『[[宇宙兄弟|宇宙兄弟#0]]』(アニメ作品、声優、2014年) - 通りすがりの豆腐屋
=== 主なラジオ番組出演 ===
*[[文化放送]]
** 『[[セイ!ヤング]]』(グレープ時代)
** 『[[全日本ヤング選抜]]』(1976年)
** 『さだまさしの全力投球』(1979年9月 - 1980年3月)
** 『[[セイ!ヤング#『さだまさしのセイ!ヤング』(1981年 - 1994年)|さだまさしのセイ!ヤング]]』(1981年10月-1994年3月)<ref name="djmeikan"/>
** 『さだまさしのラジオまっぴるま』(1985年10月7日 - 1987年4月3日)<ref name="djmeikan"/>
** 『[[(有) さだまさし大世界社]]』(1994年 - 1998年)
** 『さだまさしのゆく世紀くる世紀(笑)』(1999年 - 2001年・不定期)
** 『さだまさしの[[セイ!ヤング21]]』(2001年度・2002年度 月曜担当)
** 『[[セイ!ヤング ネクステージ]]』(2007年4月2日)
** 『[[さだまさしカウントダウンスペシャル]]』(2010年 - )
** 『[[さだまさし セイ!シュン 49.69]]』(2021年10月1日 - 2022年3月28日)
*[[ニッポン放送]]
** 『[[フレッシュ・サウンド大進撃]] さだまさしのまさしんぐワールド』
** 『[[激突!サウンド・フィーバー]] さだまさしのきままな夜間飛行』(1978年10月 - 1979年3月)
** 『さだまさしのサンデーパーク』
*[[東海ラジオ放送]]『[[1時の鬼の魔酔い]]』(2022年10月25日 - )<ref>{{Cite web|和書|title=さだまさし レコードデビュー50周年記念番組「1時の鬼の魔酔い」~デビュー50周年イヤーに深夜番組をレギュラー放送~|url=https://www.tokairadio.co.jp/topics/kaihen/1jinokinomayoi.html|website=東海ラジオ|date=2022-09-26|accessdate=2022-10-24}}</ref>
*[[MBSラジオ|毎日放送]]
** 『[[MBSミュージックマガジン]]』(1981年10月 - 1982年3月)
** 『さだまさしの気まぐれ夜汽車』(1982年4月11日 - 1983年3月27日)
*[[KBCラジオ]]
** 『[[さだまさしの引き出しのすみっこ]]』(1976年11月 - 1977年12月)
** 『さだまさしの引き出しのすみっこ 一夜限りの復活』(2012年11月21日)
*『さだまさしのトークシアター』(地方局向け番組。1990年代前半に放送)
*[[エフエム東京]]『さだまさし それぞれの旅』(1984年4月 - 9月)
*[[全国FM放送協議会|JFN]]『さだまさし 夢回帰線』(1990年代)
*[[FM NACK5]]『さだまさし WEEKLY 〜Mist〜』(2007年10月7日 - 12月30日)
*[[エフエム愛媛|FM愛媛]]『さだまさし“人生の学び舎”』(2022年1月3日)<ref>{{Cite web|和書|title=FM愛媛で特別番組「さだまさし“人生の学び舎”」放送決定!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000021.000086916.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-29}}</ref>
=== 主なテレビ番組出演 ===
*[[ドリーム・フェスティバル]](1985年、[[サンテレビ]]。[[独立U局]]数局にネット、12月31日20:00-1月1日7:00。ただし「[[ゆく年くる年 (民間放送テレビ)]]」による中断を挟む)
*[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]10(1987年8月22日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - SAVE THE CHILDRENコンサート
*[[植木等デラックス]](1991年、[[毎日放送]])
*さだまさし音楽工房(1992年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) - 作詞・作曲講座。共演:[[佐田玲子]]・[[服部隆之]]
*[[花王名人劇場]]「さだまさしとゆかいな仲間」シリーズ(1980年代中期、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])
*[[愉快にオンステージ]](1990年代初頭、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - ホスト役の一人。
*[[徹子の部屋]]([[テレビ朝日]])
**2007年2月2日放送分にて、さだが希望していた「[[黒柳徹子]]をゲストに呼び自身が司会」という形式が、番組の31周年記念番組として実現した。タイトルは「まさしの部屋」。
**また、30周年記念コンサートで紹介された[[十津川村]]でのエピソードを盛り込んだ公開放送も、徹子の部屋では初めてのこと。さらには、2日連続放映というのも番組初のことであった。
*[[フードファイト]](2000年、日本テレビ)
*[[日曜劇場]]『[[末っ子長男姉三人]]』(2003年12月21日、[[TBSテレビ]]) - 本人 役で出演。
*さだまさしの見るラジオ・聴くテレビ(2001年8月5日・2002年6月5日、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]])「今夜は生でさだまさし」の原型
<!--切りが無いので詳細は番組記事に*#新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」(2006年1月1日)
*#横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし(2006年5月7日)
*#長崎から突然生放送!真夏の夜もさだまさし(2006年8月5日)
*#2007年新春生放送 年の初めはさだまさし(2007年1月1日)
*#真夜中なのに生放送 卒業式にもさだまさし(2007年3月18日)
*#松山から生放送!大型連休もさだまさし(2007年4月29日)
*#広島から生放送!真夏の夜もさだまさし(2007年8月8日)
*#名古屋から生放送!秋の夜長もさだまさし(2007年10月28日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]・[[地上デジタル音声放送|地上デジタルラジオ]]で同時放送)
*#2008年新春生放送 年の初めはさだまさし(2008年1月1日)
*#真夜中なのに生放送 桜咲いてもさだまさし(2008年3月30日)
*#真夜中なのに生放送!連休明けもさだまさし(2008年5月11日)
*#徳島から生放送!真夏の夜もさだまさし(2008年7月27日)
*#お台場から生放送!秋の夜長もさだまさし(2008年10月26日 [[フジテレビTWO|フジテレビ721]]と[[フジテレビNEXT|フジテレビCSHD]]で同時放送)
*#2009年新春生放送 年の初めはさだまさし(2009年1月1日)
*#盛岡から生放送!凍てつく夜もさだまさし(2009年2月15日)
*#今夜も生でさだまさし!長野の夜はただいま御開帳(2009年4月29日)-->
*[[今夜も生でさだまさし]]シリーズ(2006年 - 、NHK総合)<ref>{{Oricon TV|29207}}</ref>
{| class="wikitable mw-collapsible"
|+今夜も生でさだまさし各回概要
!回
!年度
!放送日
!サブタイトル
!会場
|-
|1
| rowspan="3" |2006
|1月1日
|新春いきなり生放送!年の初めはさだまさし
|NHK放送センター
|-
|2
|5月7日
|横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし
|NHK横浜放送局
|-
|3
|8月5日
|長崎から突然生放送!真夏の夜もさだまさし
|NHK長崎放送局
|-
|4
| rowspan="5" |2007
|1月1日
|2007年新春生放送!年の初めはさだまさし
|NHK放送センター
|-
|5
|3月18日
|真夜中なのに生放送!卒業式にもさだまさし
|NHK放送センター
|-
|6
|4月29日
|松山から生放送!大型連休もさだまさし
|NHK松山放送局
|-
|7
|8月8日
|広島から生放送!真夏の夜もさだまさし
|NHK広島放送局
|-
|8
|10月28日
|名古屋から生放送!秋の夜長もさだまさし
|NHK名古屋放送局
|-
|9
| rowspan="5" |2008
|1月1日
|2008年新春生放送年の初めはさだまさし
|NHK放送センター
|-
|10
|3月30日
|真夜中なのに生放送桜咲いてもさだまさし
|NHK放送センター
|-
|11
|5月11日
|真夜中なのに生放送!連休明けもさだまさし
|リーガロイヤルホテル東京
|-
|12
|7月27日
|徳島から生放送!真夏の夜もさだまさし
|NHK徳島放送局
|-
|13
|10月26日
|お台場から生放送!秋の夜長もさだまさし
|フジテレビ本社ビル
|-
|14
| rowspan="8" |2009
|1月1日
|2009年新春生放送年の初めはさだまさし
|NHK放送センター
|-
|15
|2月15日
|盛岡から生放送!凍てつく夜もさだまさし
|NHK盛岡放送局
|-
|16
|4月29日
|長野の春はただいま御開帳!
(この回よりタイトルは'''「今夜も生でさだまさし」''')
|NHK長野放送局
|-
|17
|5月31日
|北の国から 2009 札幌
|NHK札幌放送局
|-
|18
|8月1日
|奈良よし・鹿よし・あをによし
|春日大社
|-
|19
|8月30日
|夏の終わりに水戸で芸術?
|水戸芸術館
|-
|20
|11月1日
|そうだ、京都でやろう
|大谷大学旧本館
|-
|21
|11月28日
|秋の夜(よ)ナハ(那覇)はめんそーれ
|NHK沖縄放送局
|-
|22
| rowspan="9" |2010
|1月1日
|2010年新春生放送!年の初めはさだまさし
|両国国技館
|-
|23
|1月31日
|秋田でまさしときりたんぽ
|NHK秋田放送局
|-
|24
|4月25日
|しょうゆう訳で今度は千葉です。
|NHK千葉放送局
|-
|25
|5月30日
|甲府でコーフン幸福気分
|NHK甲府放送局
|-
|26
|8月1日
|北の国から2010旭川
|NHK旭川放送局
|-
|27
|8月29日
|浪花さだしぐれ・夏の陣
|NHK大阪放送局
|-
|28
|10月3日
|火の国熊本さだ馬刺し
|NHK熊本放送局
|-
|29
|10月31日
|南国土佐をさだにして
|NHK高知放送局
|-
|30
|11月28日
|出雲だョ!神佐月だョ!全員集合
|NHK松江放送局
|-
|31
| rowspan="11" |2011
|1月1日
|2011年新春生放送!年の初めはさだまさし ~尾張のはじまりなのだ!~
|名古屋国際会議場
|-
|32
|1月31日
|あたり前田の加賀まさし
|石川県政記念しいのき迎賓館
|-
|33
|2月27日
|美濃でも鵜飼いな仲間たち
|長良川国際会議場
|-
|34
|4月9日<ref group="注釈">同年4月24日13:05に再放送された。</ref>
|がんばらんば!日本
|NHK放送センター
|-
|35
|5月1日
|皆のもの!連休じゃ佐賀ってよし!
|NHK佐賀放送局
|-
|36
|6月5日
|がんばらんば!福島
|NHK福島放送局
|-
|37
|7月31日
|琵琶湖でビバビバ!江江GO!
|大津港
|-
|38
|8月21日
|おいでまさし山口へ
|NHK山口放送局
|-
|39
|9月18日
|いざ仙台!独断流さだ政宗
|NHK仙台放送局
|-
|40
|10月23日
|秋の米子はゲゲゲのゲ!
|米子鬼太郎空港
|-
|41
|11月28日
|越中富山だ!きときとナイト
|NHK富山放送局
|-
|42
| rowspan="9" |2012
|1月1日
|2012年新春生放送!年の初めはさだまさし
|大阪市中央体育館
|-
|43
|1月29日
|おーかやまいいそう!吉備といつまでも
|NHK岡山放送局
|-
|44
|2月26日
|薩摩!揚げあげナイト!
|NHK鹿児島放送局
|-
|45
|4月29日
|わーかやまいいぞう!夜空の梅星
|NHK和歌山放送局
|-
|46
|5月27日
|今夜も生でさだまさしイン・オレゴン~さだデー・ナイト・フィーバー!!~
|米国KPTV
|-
|47
|6月24日
|ギョギョ!宇都宮でギョウザいます!
|NHK宇都宮放送局
|-
|48
|8月19日
|北の国から2012北見
|NHK北見放送局
|-
|49
|10月28日
|いたいた まさしが おーいたいた
|NHK大分放送局
|-
|50
|11月18日
|一日えちぜん!ほやほやナイト
|NHK福井放送局
|-
|51
| rowspan="11" |2013
|1月1日
|2013年新春生放送!年の初めはさだまさし
|仙台サンプラザホール
|-
|52
|1月27日
|どげんかせんと!宮崎ナイト
|NHK宮崎放送局
|-
|53
|2月24日
|こんにゃ ぐんまで くにさだまさし
|NHK前橋放送局
|-
|54
|3月31日
|ずっとがんばれ日本!朝まで生で音楽会
|NHK放送センター
|-
|55
|4月28日
|北の国から2013室蘭
|NHK室蘭放送局
|-
|56
|5月26日
|静岡・浜松・茶だま茶し
|NHK浜松支局
|-
|57
|7月28日
|北の国から2013夏・函館
|NHK函館放送局
|-
|58
|8月25日
|ナイストゥ水戸ユー!
|NHK水戸放送局
|-
|59
|9月29日
|特別尽くしの長崎ナイト!(長崎は今日も生だった)
|稲佐山公園野外ステージ
|-
|60
|10月27日
|かがわいいぞう!うどんその愛
|NHK高松放送局
|-
|61
|11月24日
|ニイガッタチャンス!
|NHK新潟放送局
|-
|62
| rowspan="10" |2014
|1月1日
|2014年新春生放送!年の初めはさだまさし
|フェスティバルホール
|-
|63
|1月26日
|幸か福岡 バリさだナイト!
|NHK福岡放送局
|-
|64
|3月30日
|朝まで生で音楽会2014
|NHK放送センター
|-
|65
|4月26日
|なぜかさいたまさし
|NHKさいたま放送局
|-
|66
|5月25日
|春日の山に出でしさだかも
|春日大社
|-
|67
|7月27日
|北の国から2014帯広
|NHK帯広放送局
|-
|68
|8月31日
|来た!来た!まさしが北九州
|NHK北九州放送局
|-
|69
|9月28日
|六甲けっこうコケコッコー
|NHK神戸放送局
|-
|70
|10月26日
|胸を張って三重を張ってワン津ワン津
|NHK津放送局
|-
|71
|11月30日
|山形や いも煮しみ入る さだの声
|NHK山形放送局
|-
|72
| rowspan="11" |2015
|1月1日
|2015新春生放送!年の初めはさだまさし
|東京国際フォーラム
|-
|73
|2月1日
|ああ 津軽海峡 さだ景色
|NHK青森放送局
|-
|74
|2月22日
|そうだ、また京都行こう
|NHK京都放送局
|-
|75
|3月29日
|日本一周達成大感謝祭
|NHK放送センター
|-
|76
|5月3日
|香港さんいらっしゃい!
|香港日本人学校
|-
|77
|5月31日
|横浜じゃんじゃんナイト
|氷川丸一等食堂
|-
|78
|6月28日
|福山ビン備後!ゴー!ゴー!
|NHK福山支局
|-
|79
|8月30日
|北の国から完結編2015釧路
|NHK釧路放送局
|-
|80
|9月27日
|ネバー岐阜アップ!
|ぎふメディアコスモス
|-
|81
|10月25日
|日光けっこう!さだだらけ
|日光東照宮
|-
|82
|11月29日
|越中富山だ!さだます寿司
|NHK富山放送局
|-
|83
| rowspan="11" |2016
|1月1日
|2016新春生放送!年の初めはさだまさし
|名古屋国際会議場
|-
|84
|2月7日
|曲もいいけど滋賀サイコー!
|NHK大津放送局
|-
|85
|2月27日
|どん!鹿児島でごわす
|NHK鹿児島放送局
|-
|86
|3月26日
|朝まで生でがんばらんば・東北!
|気仙沼市民会館
|-
|87
|4月24日
|佐賀しものは有田ましたか!?
|有田町役場
|-
|88
|5月29日
|メガネもいいけど福井いね!
|セーレンプラネット
|-
|89
|6月26日
|清水わく湧くオンステージ
|清水寺
|-
|90
|8月28日
|丸亀ッシュナイター!うどーんと打ってみよう
|四国コカ・コーラボトリングスタジアム丸亀
|-
|91
|10月9日
|あべのハルカスで歌もあるカス!?
|あべのハルカス
|-
|92
|10月30日
|北の国から2016富良野
|新富良野プリンスホテル
|-
|93
|11月27日
|鳥取は左島根の右兵庫!砂丘!
|NHK鳥取放送局
|-
|94
| rowspan="10" |2017
|1月1日
|2017新春生放送!年の初めはさだまさし
|東京国際フォーラム・ホールA
|-
|95
|2月5日
|「台北です」
|台北日本人学校
|-
|96
|2月26日
|来た来たまさしが秋田来た!
|NHK秋田放送局
|-
|97
|3月25日
|朝まで生で文化祭
|NHK放送センター
|-
|98
|4月30日
|大型連休にジャスト水戸!
|NHK水戸放送局
|-
|99
|5月28日
|姫路のお城へ兵庫!ゴー!
|姫路城
|-
|100
|6月25日
|北の国から2017網走
|網走監獄 第3舎房廊下
|-
|101
|8月26日
|しゃべって歌ってナ・ラ・ランド
|奈良国立博物館
|-
|102
|9月24日
|久慈だョ!じぇじぇじぇん員集合
|三陸鉄道 久慈駅
|-
|103
|11月5日
|長崎名物ちゃんぽんカステラさだうどん
|長崎県美術館
|}
*元日テレビ〜今年は見せますNHK〜(2008年1月1日、NHK総合)
*元日テレビ〜お便りだけが頼りです〜(2008年1月1日、NHK総合)-『年の初めはさだまさし』とは別番組。[[タカアンドトシ]]と共演
*正月テレビ!〜これこそわが町元気魂!〜(2008年1月2日、NHK総合)
*まさしとタカトシのハッピー・モーニング・ショー(2008年1月3日、NHK総合)
*まさしとタカトシのハッピー・ニューイヤー・ショー(2008年1月3日、NHK総合)
*[[Japan News Network|JNN]]共同制作番組「ふぞろいの魚たち」(2010年2月11日、[[長崎放送]]) - 語り
*[[鶴瓶の家族に乾杯]](NHK総合)
*:前身となる番組はさだと鶴瓶による番組だった。現在の形式になってからも複数回出演し、主題歌も担当している。
*さだまさしドラマスペシャル(フジテレビ)
**『[[親父の一番長い日#テレビドラマ|親父の一番長い日]]』(2009年6月19日) - 髪店主 役(友情出演)
**『[[案山子 (さだまさしの曲)#テレビドラマ|故郷 〜娘の旅立ち〜]]』(2011年7月5日) - 本屋の店長 役(友情出演)
*『[[夢であいましょう#2013年復刻版|夢であいましょう]]』(2013年8月23日、NHK総合)
*風に立つライオン〜さだまさし・大沢たかお ケニア・命と自然の旅〜(2015年1月4日、NHK BSプレミアム)
*[[着信御礼!ケータイ大喜利]]「10周年記念スペシャル」(2015年7月18日、NHK総合)
*TBS年末スペシャルドラマ『[[赤めだか#テレビドラマ|赤めだか]]』(2015年12月28日、TBSテレビ) - すし屋の大将 役で出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/68406/|title=「赤めだか」二宮和也らが故・立川談志師匠に撮了報告|publisher=ニュースウォーカー|date=2015-11-21|accessdate=2015-12-07}}</ref>。
*[[鬼平犯科帳|鬼平犯科帳 THE FINAL 後編 雲竜剣]](2016年12月3日、フジテレビ) - 白玉売り 役
*[[大改造!!劇的ビフォーアフター]]スペシャル『借金で潮漬けされた島』(2017年4月2日、[[朝日放送テレビ]]) - さだ所有の詩島をリフォーム。
*[[5時に夢中!]] 3,000回スペシャル(2017年6月30日、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]) - スペシャルゲスト
*[[連続テレビ小説]](NHK総合)
**『[[カムカムエヴリバディ]]』(2021年11月1日 - 2022年4月8日) - [[平川唯一]] 役<ref>{{Cite web|title=2021年度後期 連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』 ラジオ英語講座「カムカム英語」の人気講師役にさだまさしさん決定!|url=https://web.archive.org/web/20210321211636/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/1000/445198.html|website=ドラマトピックス|accessdate=2021-05-06|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>
**『[[舞いあがれ!]]』(2022年10月3日 - 2023年3月31日) - ナレーション
*[[人生最高レストラン]](2022年7月9日、TBSテレビ) - ゲスト
* [[石子と羽男-そんなコトで訴えます?-]](2022年7月15日<ref group="注釈">当初は7月8日からの放送開始予定であったが、同日午前11時31分頃に発生した[[安倍晋三銃撃事件|安倍晋三元首相銃撃事件]]に伴い、夜半に至る[[報道特別番組]]が編成されたため、放送開始が1週間順延される事となった。</ref> - 9月16日、TBSテレビ) - 潮綿郎 役<ref>{{Cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2022/05/20/78865.html|title=有村架純の父役でさだまさし出演「石子と羽男」|newspaper=シネマカフェ|publisher=株式会社イード|date=2022-05-20|accessdate=2022-05-20}}</ref>
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。1977年・[[第28回NHK紅白歌合戦|第28回]]にも「[[雨やどり (さだまさしの曲)|雨やどり]]」で出場の打診を受けていたが、当時の紅白ではフル・コーラスを歌うことができないという理由で辞退したという<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/05/24/kiji/20200524s00041000366000c.html さだまさし 幻の紅白初出場明かす、2年後にひばりさんの“鶴の一声”「関白宣言」を歌唱]、[[スポーツニッポン|スポニチ Sponichi Annex]]、2020年5月24日 22時17分。</ref>。2020年・[[第71回NHK紅白歌合戦|第71回]]、2021年・[[第72回NHK紅白歌合戦|第72回]]は特別企画の形で出場した。
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"
!年度!!放送回!!回!!曲目!!備考
|-
|1979年||[[第30回NHK紅白歌合戦|第30回]]||初||[[関白宣言]]||
|-
|1980年||[[第31回NHK紅白歌合戦|第31回]]||2||[[防人の詩]]||
|-
|1990年||[[第41回NHK紅白歌合戦|第41回]]||3||[[風に立つライオン]]||
|-
|1991年||[[第42回NHK紅白歌合戦|第42回]]||4||[[家族の肖像 (さだまさしのアルバム)|奇跡〜大きな愛のように〜]]||
|-
|1992年||[[第43回NHK紅白歌合戦|第43回]]||5||[[秋桜 (山口百恵の曲)|秋桜]]||
|-
|1993年||[[第44回NHK紅白歌合戦|第44回]]||6||[[主人公 (さだまさしの曲)|主人公]]||
|-
|1995年||[[第46回NHK紅白歌合戦|第46回]]||7||[[精霊流し (曲)|精霊流し]]||
|-
|1996年||[[第47回NHK紅白歌合戦|第47回]]||8||[[案山子 (さだまさしの曲)|案山子]]||
|-
|1997年||[[第48回NHK紅白歌合戦|第48回]]||9||秋桜(2回目)||
|-
|1998年||[[第49回NHK紅白歌合戦|第49回]]||10||[[北の国から〜遥かなる大地より〜|北の国から'98]]||
|-
|1999年||[[第50回NHK紅白歌合戦|第50回]]||11||奇跡〜大きな愛のように〜(2回目)||
|-
|2000年||[[第51回NHK紅白歌合戦|第51回]]||12||[[無縁坂 (曲)|無縁坂]]||
|-
|2001年||[[第52回NHK紅白歌合戦|第52回]]||13||きみを忘れない〜タイムカプセル〜||
|-
|2002年||[[第53回NHK紅白歌合戦|第53回]]||14||精霊流し(2回目)||
|-
|2003年||[[第54回NHK紅白歌合戦|第54回]]||15||[[すろうらいふすとーりー|たいせつなひと]]||
|-
|2004年||[[第55回NHK紅白歌合戦|第55回]]||16||[[恋文 (さだまさしのアルバム)|遥かなるクリスマス]] 紅白歌合戦バージョン||
|-
|2005年||[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]||17||[[とこしへ|広島の空]]||
|-
|2006年||[[第57回NHK紅白歌合戦|第57回]]||18||案山子(2回目)||
|-
|2007年||[[第58回NHK紅白歌合戦|第58回]]||19||Birthday||
|-
|2020年||[[第71回NHK紅白歌合戦|第71回]]
|20<ref name="tokubetsukikaku" group="注釈">特別企画で出場。22回の出演時に特別企画で出場した回もカウントされていた。</ref>
|奇跡 2021(3回目)
|特別企画
|-
|2021年||[[第72回NHK紅白歌合戦|第72回]]
|21<ref name="tokubetsukikaku" group="注釈"/>
| [[道化師のソネット]]||[[両国国技館]]から中継<br/>特別企画
|-
|2023年||[[第74回NHK紅白歌合戦|第74回]]
|22
|秋桜(3回目) || [[両国国技館]]から中継<br/>
|}
=== CM ===
*[[ダスキン]](完了)
**ダスキンのCMにはかなり長期間出演しており、3分間の[[コント]]仕立てのCM「ダスキン100番100番劇場」などにも主演している。ダスキンのキャラクターとして定着し、子供達からは一時期「ダスキンのおじさん」と呼ばれるほどだった。
*[[常盤薬品工業]]「パスビタンD」(1992年)
**『セイ!ヤング』で募ったファンの[[エキストラ]]をホールに入れて「あなた三昧」を歌うコンサート風のバージョンと、マネージャー廣田泰永とさだとの楽屋での掛け合いの2バージョンがオンエア。
*[[長崎俵物]](2005年 - )ナレーションと音楽(案山子)
*[[西日本新聞]](2005年 - )音楽(愛)
*[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]](2009年)
**CM内で「[[私は犬になりたい¥490]]」を歌っている。
*[[サッポロビール]]「サッポロ クリーミーホワイト」(2010年 - )音楽(北の国から2010)
**ナレーターを担当したバージョンもある。
*[[日本香堂]]「[[青雲]]クリーン・心のケータイ」(2012年)[[白秋歌]]の歌唱
**3行詩「心のケータイ」募集を兼ねたプロモーションで、CFソングを担当。
*[[スカパーJSAT]]「[[スカパー!]]」(2018年)<ref>{{Cite news |title=「スカパー!」新CM公開 さだまさしが女の子に「お笑いの人?」と言われ... |newspaper=J-CASTトレンド |date=2018-12-26 |url=https://www.j-cast.com/trend/2018/12/26346868.html |accessdate=2019-2-6}}</ref>
*[[ジャパネットたかた]](2019年)
*[[ACジャパン]](2019年)「2019年度日本動物愛護協会支援キャンペーン『にゃんぱく宣言』」
**CMソングを担当。
*[[浅田飴]](2019年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.atpress.ne.jp/news/187333 |title=永六輔がつなぐ 浅田飴×さだまさし 株式会社浅田飴企業CMを7月5日(金)から TBSラジオにて放送開始 |publisher=atpress |accessdate=2018-09-06}}</ref>
*にゃんぱく宣言(2019年)<ref>[https://www.ad-c.or.jp/campaign/support/support_08.html 2019年度支援キャンペーン:にゃんぱく宣言|ACジャパン]</ref>
*[[明治 (企業)|明治]][[明治ヨーグルトR-1|明治プロビオヨーグルトR-1]]"体調一番地"シリーズ(2020年11月26日 - ) - 謎の男 役
**『体調一番地デビュー』篇、『ここは体調一番地』篇(2020年11月26日 - ) - [[江口のりこ]]、[[飯尾和樹]]、[[林遣都]]と共演<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000098.000015904.html|title= さだまさしさん、江口のりこさん、飯尾和樹さん、林遣都さんを起用 明治プロビオヨーグルトR-1新TVCM「体調一番地」<デビュー篇>が11月26日(木)より全国で公開 世界の体調管理法、体調第一家族に続く新CMシリーズは「体調一番地」という架空の街が舞台!|publisher=PRTIMES|date=2020-11-26|accessdate=2020-11-26}}</ref>
== 受賞 ==
*[[第16回日本レコード大賞]] 作詩賞(1974年)
*[[第19回日本レコード大賞]] 西条八十賞(1977年)
*長崎市政協力表彰(1989年)
*長崎県民栄誉賞(1996年・第2号。ちなみに第1号は[[サッカー]]指導者の[[小嶺忠敏]])
*長崎市栄誉市民(2004年4月、「長崎の魅力を全国に発信し、イメージアップを図ったことへの貢献」が認められる)
*[[第48回日本レコード大賞]] 特別賞(2006年)
*[[第55回日本レコード大賞]] 特別賞(2013年)
*第42回[[放送文化基金賞]]・放送文化部門(2016年)<ref>{{Cite press release |和書 |title=第42回「放送文化基金賞」表彰対象について |publisher=公益財団法人 放送文化基金 |date=2016-06-08 |url=http://www.hbf.or.jp/upload/42kisha.pdf|— |accessdate=2016-06-08}}</ref>
== 役職 ==
*[[長崎ブリックホール]]名誉館長
*[[諏訪市原田泰治美術館]]名誉館長
*[[十津川村]]観光大使
*[[カボス]]大使
*[[平城遷都1300年記念事業]]協会評議員
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[グレープ (ユニット)]]
* [[クラフト (フォークグループ)]]
* [[チキンガーリックステーキ]]
* [[宮崎康平]]
* [[川崎医療福祉大学]]
* [[岩瀬日本大学高等学校]]
* [[夏!まだまだ長崎から]]
* [[詩島]] - 長崎県長崎市の島。さだまさしが所有している。
* [[西伯カントリーパーク野球場]]
* [[つんく♂]]
* [[山本健吉]]
* [[文化放送]]
=== 家族 ===
* [[佐田繁理]](実弟)さだ企画社長、元サッカー選手
* [[佐田玲子]](実妹)歌手
* [[佐田大陸]](実子)ヴァイオリニスト(関連:「[[千の風]]」・[[塩谷靖子]])
* [[佐田詠夢]](実子)
== 外部リンク ==
*[https://masasingtown.com/ さだまさしオフィシャルサイト]
*[https://massamania.com/ Mass@Mania]
*[https://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A004477.html ビクター・エンタテインメント]
*[http://www.u-canent.jp/masashi/ ユーキャン・エンタテインメント]
*[https://www.youtube.com/user/MasashiSadaOfficial YouTube MasashiSadaOfficial]
*{{Instagram|sada_masashi|さだまさし}}
*[https://twitter.com/MasaSingTown さだまさし(StaffOfficial)](@MasaSingTown)- [[Twitter]]
*{{Wayback|url=https://ch.nicovideo.jp/sadamasashi |title=ニコニコチャンネル『さだ塾』 |date=20150222233620}}
* {{マンガ図書館Z作家|382}}
*[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010606 特集 『今夜も生でさだまさし』スペシャル座談会 NHKアーカイブス]
*[https://lion.or.jp/ 公益財団法人 風に立つライオン基金] - 創設者・理事
*{{NHK人物録|D0009070270_00000}}
{{さだまさし}}
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紀伊国
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紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属し、和歌山県と三重県南西部に属する。
7世紀に成立した当初は、木国(現代の標準語・共通語表記:きのくに)であった。名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。また、今の和歌山県北部が、有力豪族である紀国造が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった、という説もある。実際に、律令制以前の紀伊国は紀国造の領土のみであり、熊野国造の領土(牟婁郡)を含まなかった。
和銅6年(713年)に「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された時、紀伊国と表記するようになった。現代の近畿方言では「木」(きい)、「目」(めえ)、「手」(てえ)のように、1拍語を2拍で発音する傾向があるが、木国も同様、もともと当地(または都である奈良)の発音で「きいのくに」だったため当て字して「紀伊国」とした、とする説がある。逆に、「紀伊国」と書きながら「伊」は黙字で、後に「きいのくに」と読まれるようになった、とする説もある。ただし、奈良時代の日本語の発音は不明の点も多く、はっきりしない。
明治維新直前の領域は、現在の和歌山県に下記を加えた区域に相当する。
7世紀に成立した。
紀伊国は歴史が古く、『古事記』には神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であった。王権は、海人集団を部民に編成する海部の設定を進めた。また、忌部の設定は「紀氏集団」の在地の祭祀権を揺るがした。しかし、部民の設定は充分に展開しなかった。王権はつぎに国造制の導入と屯倉の設定という方策をとった。
天皇や皇后の紀伊行幸で史料に現れた確実な例は、斉明天皇の658年(斉明4年)紀温湯(牟呂温湯)行幸である。 この11月に有馬皇子の事件が起きた。
奈良時代の官衙遺跡の確実な例として、御坊市の堅田遺跡が挙げられる。この遺跡では、周りに柵か塀をめぐらしており、その内区には庇のついた掘立柱建物を中心に建物が全体として「コ」の字状に建てられており、外区には倉庫群が二組建てられていたようである。この堅田遺跡は8世紀前半から後半にかけての遺跡で、付近に「西郡」の名の字が残っているところから考えて、日高郡衙跡に比定されている。
平安時代後期に熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立し、太上天皇(上皇)による熊野御幸がおこなわれるようになると、熊野古道が整備され熊野詣が流行った。その他、紀州の三井寺とされた紀三井寺、空海の高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺など大寺大社が紀州の地に建てられた。
平安時代末期には、特に有田郡の湯浅地方を中心に湯浅党の武士団、口熊野の田辺・奥熊野の新宮付近に熊野別当家を総帥とする熊野水軍が発達し勢力を伸ばした。この湯浅党の武士団は平氏方、熊野水軍は源氏方として源平合戦(治承・寿永の乱)にも関与した。
南北朝時代は湯浅党を中心に南朝勢力が強い国の一つだった。 南北朝合一後は畠山氏が守護であったが、寺社勢力が強力なために、その支配力は限定的なものにとどまった。
戦国時代には、ルイス・フロイスが「紀州の地には四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった」と述べている通り、雑賀衆に代表される国人衆や寺社勢力が割拠する状態が続いた。紀伊の割拠状態は1585年(天正13)の羽柴秀吉による紀州征伐によって終焉した。紀伊の最有力勢力である雑賀衆と根来寺は、小牧・長久手の戦いの際、秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻していたが撃退され、秀吉の信雄・家康らとの和睦後、雑賀攻めを招いた。秀吉方は3月20日に出兵し、和泉の諸城を落として紀州に攻め入り、23日に根来寺を焼き討ちした。紀州の国人や各地の戦闘で敗れた残党なども加わって小さな太田城で抵抗したが、秀吉は水攻めで約一ヶ月後に降伏させた。平定後は刀狩りを命じ、跡を秀長に任せ、和歌山城を築造した。
現在の奈良県上北山村と下北山村は、元は牟婁郡の一部であったが、後に大和国吉野郡に編入された。
現在の三重県の尾鷲市、紀北町、大紀町南部の錦地区は、元は志摩国英虞郡の一部であったが、天正10年(1582年)に新宮城主の堀内氏善により紀伊国牟婁郡に編入された。
関ヶ原の戦いの後は浅野幸長が入封した(紀州藩)。1619年に浅野氏が安芸広島へ転封されると、徳川家康の十男徳川頼宣が和歌山に入封し、幕末まで紀州徳川家が統治した。
国府は名草郡に存在した。『和名抄』や『大御記』の記載からは10世紀以降には和歌山市府中(府守神社付近、北緯34度16分4.75秒 東経135度14分1.30秒 / 北緯34.2679861度 東経135.2336944度 / 34.2679861; 135.2336944 (紀伊国府推定地:府守神社))に所在したと推定され、それ以前については和歌山市府中とする説のほか岡田遺跡(岩出市)とする説が挙げられている。2019年度(令和元年度)の府中遺跡(和歌山市府中)における発掘調査では奈良時代の推定国府関連遺構として大型建物・塀が認められており、10世紀以前にも和歌山市府中に国府が存在した可能性が示唆されている。
延喜式内社
総社・一宮
※はじめの郡名は『延喜式』・『和名抄』による。 ※郡の後は8世紀の史料に見える郷名。
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"text": "現在の三重県の尾鷲市、紀北町、大紀町南部の錦地区は、元は志摩国英虞郡の一部であったが、天正10年(1582年)に新宮城主の堀内氏善により紀伊国牟婁郡に編入された。",
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"text": "関ヶ原の戦いの後は浅野幸長が入封した(紀州藩)。1619年に浅野氏が安芸広島へ転封されると、徳川家康の十男徳川頼宣が和歌山に入封し、幕末まで紀州徳川家が統治した。",
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"text": "国府は名草郡に存在した。『和名抄』や『大御記』の記載からは10世紀以降には和歌山市府中(府守神社付近、北緯34度16分4.75秒 東経135度14分1.30秒 / 北緯34.2679861度 東経135.2336944度 / 34.2679861; 135.2336944 (紀伊国府推定地:府守神社))に所在したと推定され、それ以前については和歌山市府中とする説のほか岡田遺跡(岩出市)とする説が挙げられている。2019年度(令和元年度)の府中遺跡(和歌山市府中)における発掘調査では奈良時代の推定国府関連遺構として大型建物・塀が認められており、10世紀以前にも和歌山市府中に国府が存在した可能性が示唆されている。",
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"text": "総社・一宮",
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"text": "※はじめの郡名は『延喜式』・『和名抄』による。 ※郡の後は8世紀の史料に見える郷名。",
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] |
紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属し、和歌山県と三重県南西部に属する。
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{{Otheruseslist|[[律令制]]'''以後'''の「紀伊国」|律令制'''以前'''の「紀伊国」|紀伊国造}}
{{基礎情報 令制国
|国名 = 紀伊国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|紀伊国}}
|別称 = 紀州(きしゅう)<br/>きのくに
|所属 = [[南海道]]
|領域 = [[和歌山県]]、[[三重県]]南部
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 7郡55郷
|国府 = 和歌山県[[和歌山市]]
|国分寺 = 和歌山県[[紀の川市]]([[紀伊国分寺|紀伊国分寺跡]])
|国分尼寺 = (推定)和歌山県[[岩出市]]
|一宮 = [[日前神宮・國懸神宮]](和歌山県和歌山市)<br/>[[丹生都比売神社]](和歌山県[[伊都郡]][[かつらぎ町]])<br/>[[伊太祁曽神社|伊太祁󠄀曽神社]](和歌山県和歌山市)
}}
'''紀伊国'''(きいのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[南海道]]に属し、[[和歌山県]]と[[三重県]]南西部に属する。
== 「紀伊」の名称と由来 ==
[[7世紀]]に成立した当初は、'''木国'''(現代の[[標準語]]・[[共通語]]表記:きのくに)であった。名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。また、今の和歌山県北部が、有力豪族である[[紀国造]]が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった、という説もある。実際に、律令制以前の紀伊国は紀国造の領土のみであり、[[熊野国造]]の領土([[牟婁郡]])を含まなかった。
[[和銅]]6年([[713年]])に「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された時、紀伊国と表記するようになった。現代の[[近畿方言]]では「木」(き'''い''')、「目」(め'''え''')、「手」(て'''え''')のように、1拍語を2拍で発音する傾向があるが、木国も同様、もともと当地(または都である奈良)の発音で「き'''い'''のくに」だったため[[当て字]]して「紀伊国」とした、とする説がある<ref>{{PDFlink|[http://libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo55/jinbun/kojin/jinbun258-266.pdf 狂言における関西訛せりふ考]}}([[名古屋女子大学]])</ref>。逆に、「紀伊国」と書きながら「伊」は[[黙字]]で、後に「きいのくに」と読まれるようになった、とする説もある<ref group="注釈">[[紀伊國屋文左衛門]]や[[紀伊國屋書店]]のように、後世においても「伊」を読まない例がある。</ref>。ただし、[[奈良時代]]の日本語の発音は不明の点も多く、はっきりしない。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[和歌山県]]に下記を加えた区域に相当する。
* [[三重県]][[南牟婁郡]][[紀宝町]]・[[御浜町]]
* 三重県[[熊野市]]
* 三重県[[尾鷲市]]
* 三重県[[北牟婁郡]][[紀北町]]
* 三重県[[度会郡]][[大紀町]]の一部(錦)
== 沿革 ==
[[7世紀]]に成立した。
紀伊国は歴史が古く、『[[古事記]]』には[[神武天皇]]が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、[[奈良盆地]]を地盤とする[[ヤマト王権]]から知られた国であった。王権は、海人集団を部民に編成する海部の設定を進めた。また、忌部の設定は「紀氏集団」の在地の祭祀権を揺るがした。しかし、部民の設定は充分に展開しなかった。王権はつぎに国造制の導入と屯倉の設定という方策をとった。
天皇や皇后の紀伊行幸で史料に現れた確実な例は、[[斉明天皇]]の[[658年]](斉明4年)紀温湯(牟呂温湯)行幸である。
この11月に[[有馬皇子]]の事件が起きた<ref group="注釈">[[孝徳天皇]]の子で、事件を[[有馬皇子の変]]という。『万葉集』巻二の「挽歌」の項に有馬皇子の歌二首がおさめられている。
:: 有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
:* 磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへりみむ(2-141) <small>磐代は現在の日高郡南部町岩代</small>
:* 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(2-142)
</ref>。
奈良時代の[[官衙]]遺跡の確実な例として、御坊市の[[堅田遺跡]]が挙げられる。この遺跡では、周りに柵か塀をめぐらしており、その内区には庇のついた[[掘立柱建物]]を中心に建物が全体として「コ」の字状に建てられており、外区には倉庫群が二組建てられていたようである。この堅田遺跡は8世紀前半から後半にかけての遺跡で、付近に「西郡」の名の字が残っているところから考えて、日高郡衙跡に比定されている。
[[平安時代]]後期に[[熊野三山]](熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立し、太上天皇(上皇)による[[熊野御幸]]がおこなわれるようになると、[[熊野古道]]が整備され熊野詣が流行った。その他、紀州の三井寺とされた[[紀三井寺]]、空海の[[高野山]][[金剛峯寺]]、[[道成寺]]、[[根来寺]]など大寺大社が紀州の地に建てられた。
平安時代末期には、特に有田郡の湯浅地方を中心に[[湯浅党]]の武士団、口熊野の田辺・奥熊野の新宮付近に[[熊野別当家]]を総帥とする[[熊野水軍]]が発達し勢力を伸ばした。この湯浅党の武士団は平氏方、熊野水軍は源氏方として源平合戦([[治承・寿永の乱]])にも関与した。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は湯浅党を中心に南朝勢力が強い国の一つだった。<br />
南北朝合一後は[[畠山氏]]が守護であったが、寺社勢力が強力なために、その支配力は限定的なものにとどまった。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[ルイス・フロイス]]が「紀州の地には四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった<ref>『中世終焉――秀吉の太田城水攻めを考える』(清文堂出版、2008年) ISBN 978-4-7924-0652-3 冒頭より。</ref>」と述べている通り、[[雑賀衆]]に代表される国人衆や寺社勢力が割拠する状態が続いた。紀伊の割拠状態は1585年(天正13)の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]による[[紀州征伐]]によって終焉した。紀伊の最有力勢力である雑賀衆と根来寺は、[[小牧・長久手の戦い]]の際、秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻していたが撃退され、秀吉の信雄・家康らとの和睦後、雑賀攻めを招いた。秀吉方は3月20日に出兵し、和泉の諸城を落として紀州に攻め入り、23日に[[根来寺]]を焼き討ちした。紀州の国人や各地の戦闘で敗れた残党なども加わって小さな太田城で抵抗したが、秀吉は水攻めで約一ヶ月後に降伏させた。平定後は刀狩りを命じ、跡を秀長に任せ、和歌山城を築造した。
現在の[[奈良県]][[上北山村]]と[[下北山村]]は、元は牟婁郡の一部であったが、後に[[大和国]][[吉野郡]]に編入された。<ref>[http://www.vill.shimokitayama.nara.jp/about/about5.html 下北山村を知る] 奈良県下北山村オフィシャルサイト</ref>
現在の[[三重県]]の[[尾鷲市]]、[[紀北町]]、[[大紀町]]南部の錦地区は、元は[[志摩国]][[英虞郡]]の一部であったが、[[天正]]10年([[1582年]])に[[新宮城]]主の[[堀内氏善]]により紀伊国牟婁郡に編入された。
[[関ヶ原の戦い]]の後は[[浅野幸長]]が入封した([[紀州藩]])。1619年に[[浅野氏]]が[[安芸国|安芸]][[広島市|広島]]へ転封されると、[[徳川家康]]の十男[[徳川頼宣]]が[[和歌山市|和歌山]]に入封し、[[幕末]]まで[[紀州徳川家]]が統治した。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,374村・444,148石余)。太字は当該郡内に本拠が所在。新宮領は[[紀州藩|和歌山藩]][[御附家老|附家老]][[水野氏]]、田辺領は和歌山藩附家老[[三河安藤氏|安藤氏]]が領有<ref group="注釈">記載はすでに新宮藩・田辺藩となっている。</ref>。
** [[名草郡]](150村・88,852石余) - '''[[紀州藩|和歌山藩]]'''、新宮領、田辺領
** [[海部郡 (和歌山県)|海部郡]](59村・25,925石余) - 和歌山藩
** [[那賀郡 (和歌山県)|那賀郡]](254村・91,117石余) - 和歌山藩、[[高野山]]領
** [[伊都郡]](161村・38,023石余) - 和歌山藩、高野山領
** [[有田郡]](138村・47,318石余) - 和歌山藩、新宮領、田辺領
** [[日高郡 (和歌山県)|日高郡]](151村・48,833石余) - 和歌山藩、新宮領、田辺領
** [[牟婁郡]](461村・104,077石余) - 和歌山藩、'''[[紀伊新宮藩|新宮領]]'''、'''[[紀伊田辺藩|田辺領]]'''
* [[慶応]]4年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1868年]][[2月17日]]) - 新宮領・田辺領が立藩して'''[[紀伊新宮藩|新宮藩]]'''・'''[[紀伊田辺藩|田辺藩]]'''となる。
* 明治2年([[1869年]])8月 - 高野山領が'''[[堺県]]'''の管轄となる。
* 明治3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]([[1870年]][[5月27日]]) - 堺県の管轄地域が'''[[五條県]]'''の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[和歌山県]]'''、'''[[新宮県]]'''、'''[[田辺県]]'''の管轄となる。
** [[11月1日 (旧暦)|11月1日]](1871年[[12月12日]]) - 五條県の管轄地域が和歌山県の管轄となる。
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、牟婁郡の一部(概ね[[熊野川]]・[[北山川]]以東、後の[[北牟婁郡]]・[[南牟婁郡]])が'''[[度会県]]'''、残部が'''[[和歌山県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 第2次府県統合により、度会県牟婁郡が'''[[三重県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[File:Fumori-jinja, torii-2.jpg|thumb|200px|right|{{center|[[府守神社]]([[和歌山市]]府中)の紀伊国府跡碑}}]]
[[File:Fuchu Site and Fumori-jinja in 2019.jpg|thumb|200px|right|{{center|府中遺跡と府守神社(奥)}}{{small|[[2019年]]発掘調査時。}}]]
[[国府]]は[[名草郡]]に存在した。『[[和名類聚抄|和名抄]]』や『[[為房卿記|大御記]]』の記載からは[[10世紀]]以降には[[和歌山市]]府中([[府守神社]]付近、{{Coord|34|16|4.75|N|135|14|1.30|E|region:JP-30_type:landmark|name=紀伊国府推定地:府守神社}})に所在したと推定され、それ以前については和歌山市府中とする説のほか岡田遺跡(岩出市)とする説が挙げられている。[[2019年]]度([[令和]]元年度)の府中遺跡(和歌山市府中)における発掘調査では[[奈良時代]]の推定国府関連遺構として大型建物・塀が認められており、10世紀以前にも和歌山市府中に国府が存在した可能性が示唆されている<ref>{{PDFlink|[https://w-bunkasports.com/wp-content/uploads/2019/12/725767a55babcc059e74bc941703beef.pdf 府中遺跡第6次発掘調査現地説明会資料]}}(公益財団法人和歌山市文化スポーツ振興財団)。</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[紀伊国分寺|紀伊国分寺跡]] ([[紀の川市]]打田町、{{Coord|34|16|7.60|N|135|20|21.00|E|region:JP-30_type:landmark|name=紀伊国分寺跡}})
*: 国の史跡。跡地上の[[紀伊国分寺|八光山醫王院国分寺]]が法燈を伝承する。
* [[紀伊国分尼寺跡]]
*: 不詳。西国分廃寺跡([[岩出市]]西国分、{{Coord|34|15|57.14|N|135|19|53.66|E|region:JP-30_type:landmark|name=西国分塔跡(紀伊国分尼寺跡か)}}、国の史跡)を国分尼寺跡とする説がある。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社13座13社・小社18座15社の計31座28社が記載されている([[紀伊国の式内社一覧]]参照)。大社13社は以下に示すもので、熊野早玉神社以外は[[名神大社]]である。
* [[伊都郡]] 丹生都比女神社
** 比定社:[[丹生都比売神社]] ([[伊都郡]][[かつらぎ町]]上天野、{{Coord|34|15|45.78|N|135|31|19.18|E|region:JP-30_type:landmark|name=紀伊国一宮、名神大社:丹生都比売神社}})
* [[名草郡]] 日前神社
** 比定社:[[日前神宮・國懸神宮]] (和歌山市秋月、{{Coord|34|13|40.58|N|135|12|8.78|E|region:JP-30_type:landmark|name=紀伊国一宮、名神大社:日前神宮・國懸神宮}})
* 名草郡 国懸神社
** 比定社:日前神宮・國懸神宮 (和歌山市秋月)
* 名草郡 伊太祁󠄀曽神社
** 比定社:[[伊太祁曽神社|伊太祁󠄀曽神社]] (和歌山市伊太祈曽、{{Coord|34|12|6.17|N|135|14|59.77|E|region:JP-30_type:landmark|name=紀伊国一宮、名神大社:伊太祁󠄀曽神社}})
* 名草郡 大屋都比売神社
** 比定社:[[大屋都姫神社]](和歌山市宇田森、{{Coord|34|15|39.59|N|135|14|59.02|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:大屋都姫神社}})
* 名草郡 都麻都比売神社
** 比定論社:都麻津姫神社 (和歌山市吉礼、{{Coord|34|12|18.49|N|135|14|6.79|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社論社:都麻津姫神社}})
** 比定論社:都麻都姫神社 (和歌山市平尾、{{Coord|34|12|30.30|N|135|14|49.90|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社論社:都麻都姫神社}})
** 比定論社:[[高積神社]] (和歌山市禰宜、{{Coord|34|14|2.19|N|135|15|17.06|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社論社:高積神社}})
* 名草郡 鳴神社
** 比定社:[[鳴神社]] (和歌山市[[鳴神 (和歌山市)|鳴神]]、{{Coord|34|13|40.19|N|135|12|40.79|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:鳴神社}})
* 名草郡 伊達神社
** 比定社:[[伊達神社 (和歌山市)|伊達神社]] (和歌山市園部、{{Coord|34|15|52.78|N|135|11|45.49|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:伊達神社}})
* 名草郡 志磨神社
** 比定社:[[志磨神社]] (和歌山市[[中之島 (和歌山市)|中之島]]、{{Coord|34|14|24.79|N|135|10|51.18|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:志磨神社}})
* 名草郡 静火神社
** 比定社:[[竈山神社|静火神社]] (和歌山市和田、{{Coord|34|12|10.63|N|135|12|28.80|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:静火神社}}) - [[竈山神社]]境外摂社。
* [[在田郡]] 須佐神社
** 比定社:[[須佐神社 (有田市)|須佐神社]] ([[有田市]]千田、{{Coord|34|3|53.55|N|135|8|29.32|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:須佐神社}})
* [[牟婁郡]] 熊野早玉神社 - 名神大社ではない。
** 比定社:[[熊野速玉大社]] (新宮市[[新宮 (新宮市)|新宮]]、{{Coord|33|43|55.75|N|135|59|0.68|E|region:JP-30_type:landmark|name=式内大社:熊野速玉大社}})
* 牟婁郡 熊野坐神社
** 比定社:[[熊野本宮大社]] ([[田辺市]]本宮町本宮、{{Coord|33|50|25.73|N|135|46|25.03|E|region:JP-30_type:landmark|name=名神大社:熊野本宮大社}})
'''[[総社]]・[[一宮]]'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 522-525。</ref>。
* 総社:[[大屋都姫神社]]に合祀の総社明神か。別説に[[府守神社]](和歌山市府中)か。
* 一宮:次の3社の説がある。
** [[日前・国懸神宮]](2社で1社) - 旧官幣大社。伊勢神宮に並ぶ準皇祖神として、12世紀後半には事実上の一宮。
** [[丹生都比売神社]] - 旧官幣大社。 [[鎌倉幕府]]の保護を受け、13世紀末期から日前・国懸神宮と比肩。
** [[伊太祁曽神社|伊太祁󠄀曽神社]] - 旧官幣中社。中世以降一宮を主張。
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[伊都郡]] - 指理
* [[那賀郡 (和歌山県)|那賀郡]] - 那賀・荒川・□前
* [[名草郡]] - 大屋・直川・大川・忌部・旦来、片岡
* [[海部郡 (和歌山県)|海部郡]] - 可太・浜中・木本・□
** 現在は[[海草郡]]に統合('''海'''部郡+名'''草'''郡)
* [[有田郡|在田郡(有田郡)]] - 吉備・英太・幡陀
* [[日高郡 (和歌山県)|日高郡]] - 財・清水・内原・南部
* [[牟婁郡]] - 岡田・牟婁・栗栖
** 現在は[[西牟婁郡]]・[[東牟婁郡]]・[[南牟婁郡]]・[[北牟婁郡]]に分割
**西牟婁郡・東牟婁郡は[[和歌山県]]、南牟婁郡・北牟婁郡は[[三重県]]
※はじめの郡名は『[[延喜式]]』・『[[和名抄]]』による。
※郡の後は8世紀の史料に見える郷名。
=== 江戸時代の藩 ===
{| class="wikitable"
|+ 紀伊国の藩の一覧
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
|-
! [[紀州藩]]
| [[和歌山城]]
||桑山家 (1600年~1601年、2万石)→大和[[新庄藩]]2万石に転封<br>
浅野家 (1601年~1619年、37万6千石)→安芸[[広島藩]]42万石に転封<br>
紀州徳川家 (1619年~1871年、55万5千石)
|-
! [[紀伊田辺藩]]
| [[田辺城 (紀伊国)|田辺城]]
||安藤家 (紀州藩附家老、1619年~1871年、3万8千石)
|-
! [[紀伊新宮藩]]
| [[新宮城]]
||水野家 (紀州藩附家老、1619年~1871年、3万5千石)
|}
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 紀伊守 ====
*[[山村王]](従五位上):[[天平宝字]]3年([[759年]])任官
*[[小野小贄]](従五位下):[[天平宝字]]8年([[764年]])任官
*[[伊刀王]](従五位下):[[宝亀]]2年([[771年]]) 任官
*[[占野王]](従五位下):[[天長]]3年([[826年]])任官
*[[文室海田麻呂]](従五位下):天長8年([[831年]])任官
*[[紀良門]](従五位上):[[承和 (日本)|承和]]元年([[834年]])任官
*[[藤原豊仲]](従五位上):承和3年([[836年]])任官
*[[伴龍男]](従五位下):承和13年([[846年]])任官
*[[文室真室]](従五位上):[[嘉祥]]3年([[850年]])任官
*[[紀真高]](従五位下):[[斉衡]]元年([[854年]])任官
*[[在原善淵]](従五位下):[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])任官
**[[紀恒身]](従五位下):天安2年(858年)任官(権守)
*[[文室益善]](従五位上):[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])任官
**[[並山王]](従五位上):貞観2年([[860年]])任官(権守)
*[[並山王]](従五位上):貞観5年([[863年]])任官
*[[在原善淵]](従四位下):貞観6年([[864年]])任官
*[[藤原仲統]](従四位上):貞観7年([[865年]])任官
**[[貞登]](従五位上):[[寛平]]5年([[893年]])任官(権守)
**[[藤原仲平]](従四位下):寛平9年([[897年]])任官(権守)
*[[菅野利陰]](従五位下)):[[延喜]]12年([[912年]])任官
*[[紀文利]](従五位下):[[康保]]5年([[968年]])任官
**[[十市有象]](従五位上):[[安和]]2年([[969年]])任官(権守)
*[[藤原棟利]](従五位下):[[天禄]]3年([[972年]])任官
*[[藤原景斉]]:[[天延]]2年([[974年]])任官
**[[藤原佐理]](従四位上):天延3年([[975年]])任官(権守)
*[[藤原景斉]]:[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]])任官
*[[大江景理]]:[[長徳]]4年([[998年]])任官
*[[源経相]]:[[長和]]4年([[998年]])離任
*[[高階成章]](従五位下):[[寛仁]]3年([[1019年]])任官
**[[藤原経家 (権中納言)|藤原経家]](従五位上):[[長元]]8年([[1035年]])任官(権守)
**[[源隆俊]](従五位下):[[長暦]]2年([[1038年]])任官(権守)
*[[平定家]]:[[永承]]2年([[1047年]])任官
**[[藤原伊房]](従五位上):永承4年([[1049年]])任官(権守)
*[[平教成]]:[[天喜]]2年([[1054年]])任官
**[[藤原能季]](従四位下):天喜5年([[1057年]])任官(権守)
*[[藤原兼綱]]:天喜6年([[1058年]])任官
*[[藤原重経]]:[[康平]]6年([[1063年]])任官
*[[藤原範永]]:康平8年([[1065年]])任官
*[[源師俊 (紀伊守)|源師俊]]:[[治暦]]3年([[1067年]])任官
*[[藤原師仲]]:[[延久]]4年([[1072年]])任官
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|- style="background-color: #eee;"
! 代
! 氏名
! 在職期間
! 出身家
|-
! 1
|[[豊島有経]]<br /><span style="font-size: smaller;">としま ありつね</span>
|[[治承]]8年 - 不詳<br />[[1184年]] - 不詳
|[[豊島氏]]
|-
! 2
|[[佐原義連]]<br /><span style="font-size: smaller;">さはら よしつら</span>
|不詳 - [[建仁]]3年<br />不詳 - [[1203年]]
|[[佐原氏]]
|-
! 3
|[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]御計<br /><small></small>
|[[建永]]2年 - [[承久]]3年<br />[[1207年]] - [[1221年]]
| -
|-
! 4
|[[三浦義村]]<br /><span style="font-size: smaller;">みうら よしむら</span>
|承久3年 - 不詳<br />1221年 - 不詳
|[[三浦氏]]
|-
! 5
|[[佐原家連]]<br /><span style="font-size: smaller;">さはら いえつら</span>
|[[貞応]]2年 - [[嘉禎]]3年<br />[[1223年]] - [[1237年]]
|佐原氏
|-
! 6
|[[北条久時]]<br /><span style="font-size: smaller;">ほうじょう ひさとき</span>
|[[弘安]]3年 - 不詳<br />[[1280年]] - 不詳
|[[赤橋流北条氏]]
|-
! 7
|[[北条時兼]]<br /><span style="font-size: smaller;">ほうじょう ときかね</span>
|[[正応]]4年 - 不詳<br />[[1291年]] - 不詳
|[[普恩寺流北条氏]]
|-
! 8
|[[北条氏]]<br /><small></small>
|不詳 - [[元弘]]3年<br />不詳 - [[1333年]]
|北条氏
|}
==== 室町幕府 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! 代
! 氏名
! 在職期間
! 出身家
|-
! 1
|[[畠山国清]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま くにきよ</span>
|[[建武 (日本)|建武]]3年 - [[観応]]2年<br />[[1336年]] - [[1351年]]
|[[畠山氏|河内畠山家]]
|-
! 2
|畠山国清<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま くにきよ</span>
|[[延文]]5年<br />[[1360年]]
|河内畠山家
|-
! 3
|[[細川氏春]]<br /><span style="font-size: smaller;">ほそかわ うじはる</span>
|[[応安]]6年 - 不詳<br />[[1373年]] - 不詳
|[[細川氏|細川家]]
|-
! 4
|[[細川業秀]]<br /><span style="font-size: smaller;">ほそかわ なりひで</span>
|[[永和 (日本)|永和]]4年<br />[[1378年]]
|細川家
|-
! 5
|[[山名義理]]<br /><span style="font-size: smaller;">やまな よしただ</span>
|永和4年 - [[明徳]]2年<br />1378年 - [[1391年]]
|[[山名氏|山名家]]
|-
! 6
|[[大内義弘]]<br /><span style="font-size: smaller;">おおうち よしひろ</span>
|明徳3年 - [[応永]]6年<br />[[1392年]] - [[1399年]]
|[[大内氏|周防大内家]]
|-
! 7
|[[畠山基国]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま もとくに</span>
|応永6年 - 応永13年<br />1399年 - [[1406年]]
|河内畠山家
|-
! 8
|[[畠山満慶]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま みつのり</span>
|応永13年 - 応永15年<br />1406年 - [[1408年]]
|河内畠山家
|-
! 9
|[[畠山満家]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま みついえ</span>
|応永15年 - [[永享]]5年<br />1408年 - [[1433年]]
|河内畠山家
|-
! 10
|[[畠山持国]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま もちくに</span>
|永享5年 - [[嘉吉]]元年<br />1433年 - [[1441年]]
|河内畠山家
|-
! 11
|[[畠山持永]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま もちなが</span>
|嘉吉元年<br />1441年
|河内畠山家
|-
! 12
|畠山持国<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま もちくに</span>
|嘉吉元年 - [[享徳]]4年<br />1441年 - [[1455年]]
|河内畠山家
|-
! 13
|[[畠山義就]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま よしひろ</span>
|享徳4年 - [[長禄]]4年<br />1455年 - [[1460年]]
|河内畠山家
|-
! 14
|[[畠山政長]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま まさなが</span>
|長禄4年 - [[応仁]]元年<br />1460年 - [[1467年]]
|河内畠山家
|-
! 15
|畠山義就<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま よしひろ</span>
|応仁元年<br />1467年
|河内畠山家
|-
! 16
|畠山政長<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま まさなが</span>
|応仁元年 - [[明応]]2年<br />1467年 - [[1493年]]
|河内畠山家
|-
! 17
|[[畠山義豊]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま よしとよ</span>
|明応2年 - 明応8年<br />1493年 - [[1499年]]
|[[畠山氏|総州畠山家]]
|-
! 18
|[[畠山義英]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま よしひで</span>
|明応8年 - [[永正]]元年<br />1499年 - [[1504年]]
|総州畠山家
|-
! 19
|[[畠山尚順]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま ひさよし</span>
|永正4年 - 永正14年<br />[[1507年]] - [[1517年]]
|[[畠山氏|尾州畠山家]]
|-
! 20
|[[畠山稙長]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま たねなが</span>
|永正14年 - [[天文 (元号)|天文]]14年<br />1517年 - [[1545年]]
|尾州畠山家
|-
! 21
|[[畠山政国]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま まさくに</span>
|天文14年 - 天文19年<br />1545年 - [[1550年]]
|尾州畠山家
|-
! 22
|[[畠山高政]]<br /><span style="font-size: smaller;">はたけやま たかまさ</span>
|天文19年 - 不詳<br />1550年 - 不詳
|尾州畠山家
|}
=== 戦国大名 ===
*紀伊国は国人領主の力が強く、強力な戦国大名は誕生しなかった。
*豊臣政権の大名
**[[豊臣秀長]]・[[豊臣秀保|秀保]]:紀伊・和泉64万石、後に大和国を加え110万石(1585年~1595年)。秀保死後は紀伊は[[豊臣秀吉]]の直轄領となる。
***入山城([[美浜町 (和歌山県)|日高]]):[[青木一矩]](1万石、1585年~1587年)。播磨立石城主に移封。
***猿岡城([[粉河町|粉河]]):藤堂高虎(1万石、1585年~1595年)。伊予板島([[宇和島市|宇和島]])7万石に移封。
***田辺(泊山城→上野山城):[[杉若無心]]・[[杉若氏宗|氏宗]](1万9千石、1585年~1600年)。[[関ヶ原の戦い]]の後に改易。
***[[新宮城]]:[[堀内氏善]](2万7千石、1585年~1600年)。関ヶ原の戦いの後に改易。
***[[和歌山城]]:[[桑山重晴]]・[[桑山一晴|一晴]](2万石、1585年~1600年)。関ヶ原の戦い後も本領安堵され、[[紀州藩]]として存続。
=== 武家官位としての紀伊守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[織田広遠]]:戦国時代の武将
*[[畠山高政]]:戦国時代の紀伊・河内の守護大名
*[[三村家親]]:戦国時代の武将、備中国の戦国大名。[[備中松山城]]主
*[[松平光重 (大草松平家)|松平光重]]:戦国時代の武将。[[大草松平家]]初代当主。
*[[青木一矩]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。紀伊入山城主、播磨立石城主、越前[[北ノ庄城]]主
*[[池田恒興]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。尾張[[犬山城]]主、摂津[[兵庫城]]主、美濃[[大垣城]]主
*[[池田元助]]:池田恒興の嫡男で、[[池田輝政]]の兄
*[[佐伯惟教]]:戦国時代から安土桃山時代の武将。[[佐伯氏 (豊後国)|豊後佐伯氏]]第12代当主
*[[立花道雪]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。[[立花宗茂]]の養父
*[[和田惟政]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名(摂津半国守護)。[[足利義昭]]、後に織田信長の家臣
*[[内藤信正]]:戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。近江[[長浜藩]]第2代藩主、摂津[[高槻藩]]、山城[[伏見藩]]主
*[[松平家忠 (形原松平家)|松平家忠]]:戦国時代から江戸時代にかけての武将。[[形原松平家]]第5代当主
==== 江戸時代 ====
*[[浅野氏|浅野家]]宗家
**[[浅野幸長]]:浅野宗家初代当主。紀伊[[和歌山藩]]初代藩主
**[[浅野光晟]]:浅野宗家3代当主。[[安芸国|安芸]][[広島藩]]第2代藩主
**[[浅野長勲]]:浅野宗家13代当主。広島藩第12代藩主
*[[越後国|越後]][[村上藩]]内藤家
**[[内藤弌信]]:越後村上藩初代藩主。[[内藤信正]]のひ孫
**[[内藤信輝]]:第2代藩主
**[[内藤信興]]:第3代藩主
**[[内藤信凭]]:第5代藩主
**[[内藤信敦]]:第6代藩主
**[[内藤信親]]:第7代藩主
*[[本多正重|正重系]]本多家
**[[本多正永]]:正重系本多家初代。[[下総国|下総]][[舟戸藩]]主。[[上野国|上野]][[沼田藩]]初代藩主。
**[[本多正珍]]:正重系本多家4代。[[駿河国|駿河]][[田中藩]]第2代藩主・老中
**[[本多正供]]:正重系本多家5代。田中藩第3代藩主
**[[本多正温]]:正重系本多家6代。田中藩第4代藩主。
**[[本多正訥]]:正重系本多家9代。田中藩第7代藩主、[[安房国|安房]][[長尾藩]]初代藩主
*[[丹波国|丹波]][[丹波亀山藩|亀山藩]][[形原松平家]]
**[[松平家信]]:亀山藩形原松平家初代(形原松平家第6代当主)。[[三河国|三河]][[形原藩]]主、[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]主、下総[[佐倉藩]]初代藩主
**[[松平信庸 (篠山藩主)|松平信庸]]:亀山藩形原松平家5代。老中。丹波[[篠山藩]]第4代藩主
**[[松平信岑]]:亀山藩形原松平家6代。篠山藩第5代藩主、丹波亀山藩初代藩主
**[[松平信直]]:亀山藩形原松平家7代。亀山藩第2代藩主。
**[[松平信道]]:亀山藩形原松平家8代。亀山藩第3代藩主。
**[[松平信彰]]:亀山藩形原松平家9代。亀山藩第4代藩主。
**[[松平信志]]:亀山藩形原松平家10代。亀山藩第5代藩主。
**[[松平信豪]]:亀山藩形原松平家11代。亀山藩第6代藩主。[[井伊直弼]]の舅
**[[松平信義 (丹波亀山藩主)|松平信義]]:亀山藩形原松平家12代。亀山藩の第7代藩主・老中
*その他
**[[大岡忠宜]]:三河[[西大平藩]]第2代藩主。[[大岡忠相]]の次男
**[[大岡忠愛]]:西大平藩第6代藩主
**[[相良頼之]]:[[肥後国|肥後]][[人吉藩]]第13代藩主
**[[伊達宗贇]]:[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]第3代藩主
<!--
==== 室町時代・安土桃山時代 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
|- style="background:#eee"
! 代
! 氏名
! 叙任
! 出身家
|-
! 1
|[[池田元助]]<br /><span style="font-size: smaller;">いけだ もとすけ</span>
|不詳
|[[池田氏|池田家]]
|-
! 1
|[[織田広遠]]<br />
|不詳
|[[織田氏|織田家]]
|-
! 2
|[[内藤信正]]<br /><span style="font-size: smaller;">ないとう のぶまさ</span>
|[[文禄]]4年([[1595年]])
|[[内藤家 (信成系)|信成系内藤家]]
|}
==== 江戸時代 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|- style="background-color: #eee"
! 代
! 氏名
! 叙任
! 藩
|-
! 1
|[[浅野幸長]]<br /><span style="font-size: smaller;">あさの よしなが</span>
|[[慶長]]6年([[1601年]])
|紀伊[[紀州藩]]37万6千石
|-
! 2
|[[内藤弌信]]<br /><span style="font-size: smaller;">ないとう かずのぶ</span>
|[[延宝]]元年([[1673年]])
|[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]7万石
|-
! 3
|[[大岡忠宜]]<br /><span style="font-size: smaller;">おおおか ただよし</span>
|[[享保]]19年([[1734年]])
|[[三河国|三河]][[西大平藩]]1万石
|-
! 4
|[[松平信岑]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶみね</span>
|[[宝暦]]6年([[1756年]])
|[[丹波国|丹波]][[丹波亀山藩|亀山藩]]5万石
|-
! 5
|[[松平信直]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶなお</span>
|宝暦14年([[1764年]])
|丹波亀山藩5万石
|-
! 6
|[[松平信道]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶみち</span>
|[[天明]]元年([[1781年]])
|丹波亀山藩5万石
|-
! 7
|[[松平信彰]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶたか</span>
|[[寛政]]8年([[1796年]])
|丹波亀山藩5万石
|-
! 8
|[[松平信志]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶゆき</span>
|[[享和]]2年([[1802年]])
|丹波亀山藩5万石
|-
! 9
|[[松平信豪]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶひで</span>
|[[文政]]10年([[1827年]])
|丹波亀山藩5万石
|-
! 10
|[[内藤信親]]<br /><span style="font-size: smaller;">ないとう のぶちか</span>
|不詳
|[[越後国|越後]][[村上藩]]5万石
|-
! 11
|[[松平信義 (丹波亀山藩主)|松平信義]]<br /><span style="font-size: smaller;">まつだいら のぶよし</span>
|不詳
|丹波亀山藩5万石
|}
-->
== 紀伊国の合戦 ==
*[[1577年]]:[[紀州征伐#信長の紀州攻め|織田信長の雑賀攻め]]
**[[1577年]]:[[紀州征伐#雑賀侵攻|雑賀侵攻]]、織田軍([[織田信忠]]、[[堀秀政]]、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]等) x [[雑賀衆]]([[鈴木孫一]]、[[土橋守重|土橋若大夫]]等)
**[[1578年]]:[[太田城 (紀伊国)#第一次太田城の戦い|第一次太田城の戦い]]、雑賀衆 x 大田衆・根来衆増援軍
**[[1581年]]:[[紀州征伐#高野攻め|高野攻め]]、織田軍([[織田信孝]]、[[岡田重孝]]等) x [[高野山]]
*[[1585年]]:[[紀州征伐#秀吉の紀州攻め|羽柴秀吉の紀州攻め]]、羽柴軍([[豊臣秀長|羽柴秀長]]、[[中村一氏]]、[[仙石秀久]]等) x 紀伊国人衆及び有力寺社
**[[1585年]]:[[太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦い|第二次太田城の戦い]]、羽柴秀吉軍・毛利水軍 x 太田衆・根来衆
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 30 和歌山県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kii Province}}
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[紀伊国造]]
* [[紀州藩]]
* [[紀州徳川家]]
* [[紀伊型戦艦]]
* [[紀伊半島]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[紀州弁]]
* [[南紀]]
* [[東紀州]]
* [[令制国一覧]]
</div>{{clear|left}}
=== 歴史 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[神武天皇]]
* [[神武東征]]
* [[大伴氏]]
* [[紀氏]]
* [[九鬼氏]]
* [[岩倉流泳法|岩倉流]]
* [[有馬皇子]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[関口新心流|関口流]]
* [[熊野速玉大社]]
* [[熊野本宮大社]]
* [[熊野那智大社]]
* [[和気清麻呂]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[空海]]
* [[湯浅宗重]]
* [[熊野別当湛増]]
* [[武蔵坊弁慶]]
* [[徳川吉宗]]
* [[華岡青洲]]
* [[安珍・清姫伝説]]
</div>{{clear|left}}
=== 列車名 ===
* [[ワイドビュー南紀]]
* [[関空快速・紀州路快速#紀州路快速|紀州路快速]]
=== かつて存在した列車名 ===
* [[紀伊 (列車)|紀伊]](東京-紀伊勝浦の寝台特急として運行されていた)
* [[くろしお (列車)|きのくに]](天王寺-新宮)
* [[きのくにシーサイド]]
=== 鉄道駅名 ===
ほかの駅との区別などの目的で「紀伊」を冠している駅が全部で25駅ある。他に[[紀伊駅]]もある。
* JR
** [[阪和線]] - [[紀伊中ノ島駅]]、紀伊駅
** [[紀勢本線|紀勢線]](JR東海) - [[紀伊井田駅]]、[[紀伊市木駅]]、[[紀伊長島駅]]
** きのくに線(紀勢線) - [[紀伊有田駅]]、[[紀伊内原駅]]、[[紀伊浦神駅]]、[[紀伊勝浦駅]]、[[紀伊佐野駅]]、[[紀伊新庄駅]]、[[紀伊田原駅]]、[[紀伊田辺駅]]、[[紀伊天満駅]]、[[紀伊富田駅]]、[[紀伊日置駅]]、[[紀伊姫駅]]、[[紀伊宮原駅]]、[[紀伊由良駅]]
** [[和歌山線]] - [[紀伊小倉駅]]、[[紀伊長田駅]]、[[紀伊山田駅]]
* [[南海電気鉄道|南海電鉄]] - [[紀伊神谷駅]]、[[紀伊清水駅]]、[[紀伊細川駅]]
* [[紀州鉄道]] - [[紀伊御坊駅]]
{{令制国一覧}}
{{紀伊国の郡}}
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[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:南海道|国きい]]
[[Category:和歌山県の歴史]]
[[Category:三重県の歴史]]
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|
14,404 |
瑠沢るか
|
瑠沢 るか(るさわ るか、7月5日生)は、漫画家。2007年5月よりペンネームをるかぽんに変更した。代表作は『パソトラ』。
元々は同人界隈で活動していたが、キルタイムコミュニケーションから発行されていたマニア向け自作パソコン雑誌「PC-DIY」(2004年3月休刊)の編集者に見込まれ、女性が自作パソコンを製作していく過程で実体験したトラブルを面白おかしくまとめたマンガ『パソコントラブルまんが』を執筆、漫画家として本格的に活動し始める。
『パソコントラブルまんが』は、単行本化されるにあたって『パソトラ』と命名される。PC-DIYでも人気コーナーであった『パソコントラブルまんが』であったが、実体験マンガであったがゆえに、作者自身のスキルアップや自作パソコンにおけるトラブルの減少によって、実際に起きるトラブルが少なくなってきたことなどによってマンガ連載が終了となる。
PC-DIYにおける連載が終了した後も、『パソコントラブルまんが』は同人誌の形態で2冊ほど出し、区切りをつけている。他に、PC-DIY編集部と協力して編集制作を行ったPCパーツメーカー「日本ギガバイト」の小冊子においてデビューしたマスコットキャラクター「ギガバイ子」ちゃんの作者として、一部自作PCユーザーから高い人気を誇る。
2006年は出産のため活動を休止していた(公式サイトより)。2007年より4コマ漫画誌に連載を持ち活動を再開している。
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瑠沢 るかは、漫画家。2007年5月よりペンネームをるかぽんに変更した。代表作は『パソトラ』。 元々は同人界隈で活動していたが、キルタイムコミュニケーションから発行されていたマニア向け自作パソコン雑誌「PC-DIY」(2004年3月休刊)の編集者に見込まれ、女性が自作パソコンを製作していく過程で実体験したトラブルを面白おかしくまとめたマンガ『パソコントラブルまんが』を執筆、漫画家として本格的に活動し始める。 『パソコントラブルまんが』は、単行本化されるにあたって『パソトラ』と命名される。PC-DIYでも人気コーナーであった『パソコントラブルまんが』であったが、実体験マンガであったがゆえに、作者自身のスキルアップや自作パソコンにおけるトラブルの減少によって、実際に起きるトラブルが少なくなってきたことなどによってマンガ連載が終了となる。 PC-DIYにおける連載が終了した後も、『パソコントラブルまんが』は同人誌の形態で2冊ほど出し、区切りをつけている。他に、PC-DIY編集部と協力して編集制作を行ったPCパーツメーカー「日本ギガバイト」の小冊子においてデビューしたマスコットキャラクター「ギガバイ子」ちゃんの作者として、一部自作PCユーザーから高い人気を誇る。 2006年は出産のため活動を休止していた(公式サイトより)。2007年より4コマ漫画誌に連載を持ち活動を再開している。
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'''瑠沢 るか'''(るさわ るか、[[7月5日]]生)は、[[漫画家]]。2007年5月よりペンネームを'''るかぽん'''に変更した。代表作は『[[パソトラ]]』。
元々は同人界隈で活動していたが、[[キルタイムコミュニケーション]]から発行されていたマニア向け自作パソコン雑誌「[[PC-DIY]]」([[2004年]]3月休刊)の編集者に見込まれ、女性が自作パソコンを製作していく過程で実体験したトラブルを面白おかしくまとめたマンガ『パソコントラブルまんが』を執筆、漫画家として本格的に活動し始める。
『パソコントラブルまんが』は、単行本化されるにあたって『パソトラ』と命名される。PC-DIYでも人気コーナーであった『パソコントラブルまんが』であったが、実体験マンガであったがゆえに、作者自身のスキルアップや自作パソコンにおけるトラブルの減少によって、実際に起きるトラブルが少なくなってきたことなどによってマンガ連載が終了となる。
PC-DIYにおける連載が終了した後も、『パソコントラブルまんが』は同人誌の形態で2冊ほど出し、区切りをつけている。他に、PC-DIY編集部と協力して編集制作を行ったPCパーツメーカー「[[GIGABYTE|日本ギガバイト]]」の小冊子においてデビューしたマスコットキャラクター「ギガバイ子」ちゃんの作者として、一部自作PCユーザーから高い人気を誇る。
2006年は出産のため活動を休止していた(公式サイトより)。2007年より4コマ漫画誌に連載を持ち活動を再開している。
== 作品リスト ==
* [[パソトラ]]
* [[織田家の人々]]
* [[ドキドキチュートリアル]]([[芳文社]]「[[まんがタイム]]」掲載)
* マンガ入門シリーズ 家電のお買いもの!([[飛鳥新社]])
* ガジェット愛がとまらない([[スタパ斎藤]]共著、[[メディアファクトリー]])
== 外部リンク ==
* [http://www.rukapon.com/ ぽんず] - 公式サイト
* {{マンガ図書館Z作家|4795|るかぽん}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:存命人物]]
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|
14,405 |
713年
|
713年(713 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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713年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|713}}
{{year-definition|713}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[癸丑]]
* [[日本]]
** [[和銅]]6年
** [[皇紀]]1373年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[先天 (唐)|先天]]2年、[[開元]]元年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=713|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
{{seealso|713年の日本}}
* [[4月3日]] - [[丹後国]]・[[美作国]]・[[大隅国]]を新たに設置
* [[5月2日]] - 地誌([[風土記]])編纂の官命
* [[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]が勅によって、[[長安]]城内・[[化度寺]]の[[無尽蔵]]院([[三階教|三階]]寺院)を破壊させる
* [[大祚栄]]が渤海郡王に[[冊封]]され、国号の震を[[渤海 (国)|渤海]]に改める
* [[西ゴート王国]]の残党勢力が滅亡
== 誕生 ==
{{see also|Category:713年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:713年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[10月10日]](和銅6年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]) - [[大伴手拍]]、[[飛鳥時代]]、[[奈良時代]]の貴族、[[造宮卿]](* 生年未詳)
* [[アリー・ザイヌルアービディーン]]、[[シーア派]]第4代[[イマーム]](* [[658年]])
* [[慧能]]、[[中国]]禅宗(南宗)の第六祖(* [[638年]])
* [[義浄]]、[[唐]]代の僧(* [[635年]])
* [[殤帝 (唐)|殤帝]]、唐の第7代[[皇帝]](* [[695年]])
* [[薛稷]]、唐代の[[書家]]・画家(* [[649年]])
* [[太平公主]]、唐の皇帝[[高宗 (唐)|高宗]]の娘(* [[665年]]?)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|713}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:713年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/713%E5%B9%B4
|
14,406 |
トロイア戦争にかかわる伝説
|
トロイア戦争にかかわる伝説(トロイアせんそうにかかわるでんせつ)では、トロイア戦争にかかわる伝説について記す。
この『イーリアス』以後の章は3世紀頃小アジアのスミュルナで活躍した詩人クィントスによる『トロイア戦記』の要約である。クィントスは自分のこの書物に特にタイトルをつけていなかったので、この書物はギリシア語で『タ・メタ・トン・ホメーロン』(ホメーロスの続き)、ラテン語で『ポスト・ホメリカ』(ホメーロス以後)と呼ばれた。主な内容は、ペンテシレイアの物語、メムノーンの物語、アキレウスの死、アイアースの死、エウリュピュロスの参戦、ネオプトレモスの参戦、ピロクテーテースの参戦、パリスの死、木馬の計略、トロイアの陥落である。
『タ・メタ・トン・ホメーロン』には『イーリアス』以後トロイアが陥落するまでの代表的な物語をほとんど収めているが、ヘレノスがトロイア陥落のための予言をした事についてのみは例外的に触れられていない。このため我々はこのヘレノスに関する物語のみは他の書籍を参考した。
(この章の作成には、松田治による『タ・メタ・トン・ホメーロン』の日本語訳『トロイア戦記 講談社学術文庫』を参考にした)。
ヘクトール亡き後、アマゾーンの女王ペンテシレイアがトロイアー勢の援軍としてきた。 ペンテシレイアはアレースの娘でヒッポリュテーの姉でもある。 ペンテシレイアはアキレウスの強さを知らなかったため、トロイアーについたペンテシレイアはトロイアー勢に、アキレウスを倒してアカイア勢の船団に火をつけることを約束した。 しかしアンドロマケーは夫であるヘクトールを殺された事でアキレウスの強さを知っていたため、ペンテシレイアの事を思慮の足りない女性であると思うだけであった。
戦場に出たペンテシレイアは、名高いアキレウスやディオメーデースと戦うため、アカイアの雑兵を幾人も殺しながら戦場を駆け巡った。 ペンテシレイアが奮戦する様子をみたトロイアーの女性達は、ペンテシレイアに倣って戦いに赴こうと武装した。 しかしアンテーノールの思慮深い妻テアーノーが彼女達を止めたので事無きを得た。
戦場を駆け巡るうちにペンテシレイアはついにアキレウスと大アイアースの二人に出会った。 ペンテシレイアは二人に挑発の言葉を投げかけたものの、ペンテシレイアの放言にアカイア勢は嘲笑するだけであった。 ペンテシレイアは二人に戦いを挑み、まずアイアースに槍を投げたが、槍はアイアースの脛当てを貫くにとどまった。 槍が無駄になった事を悔しがるペンテシレイア。アキレウスはペンテシレイアに一騎討ちを挑み、彼女の胸を傷つけた。ペンテシレイアは動揺し、アキレウスに命乞いすることも考えたがアキレウスはその隙を与えず、ペンテシレイアをその乗馬ごとケイローンから譲り受けた槍で貫いた。
ペンテシレイアが死ぬとアキレウスは死者を嬲ろうとまずペンテシレイアの兜を剥いだ。 兜の下から現われたペンテシレイアの顔があまりに美しかったため、アキレウスはペンテシレイアを殺した事を後悔し、苦悶した。 アキレウスが懊悩する様子を見たテルシーテースは、アキレウスを嘲笑した。 これにアキレウスは激怒し、アキレウスはテルシーテースを殴り殺した。
テルシーテースはアカイア勢に嫌われていたため、アカイア人達はテルシーテースの死をむしろ喜んだが、テルシーテースと血縁関係にあるディオメーデースのみはアキレウスに対し 立腹した。しかしアカイアの兵士達が彼をなだめたため大事には至らなかった。
アガメムノーンとメネラーオスが高貴なペンテシレイアに称賛の意を覚えたため、二人はトロイアー人達に彼女の遺体を引き取る事を許可した。 ペンテシレイアの死を知ったトロイアー人達は、彼女の死を嘆き、彼女の死体に宝石を乗せて遺体を火で燃やした。 そして裕福なラーオメドーンの墓に彼女を共に埋葬した。
ヘーラクレースの孫にあたるエウリュピュロスがトロイア側に加勢するため現われた。
カルカースは、イーリオンを陥落させるための条件をヘレノスが知っている事を予言した。 この頃プリアモスの子である予言者ヘレノスは、10年にわたる戦争に倦んだため山中に隠れ、戦争を避けようとしていた。 しかしカルカースの助けを借りたオデュッセウスがいち早くこれを察知し、ヘレノスを捕らえてイーリオンを陥落させる方法を詰問した。
するとヘレノスは、イーリオンを陥落させるために必要な三つの条件を言った。 その三つとは、ヘーラクレースの弓を手に入れる事、アキレウスの子ネオプトレモスが参戦する事、イーリオンからパラディオンを奪還する事であった。 (注:アポロドーロスの『ビブリオテーケー』では、ヘーラクレースの弓を手に入れるという条件の代わりにペロプスの骨をギリシアから持ってくる事を挙げている)。
ネオプトレモスの参戦理由についてクィントスは普通知られている伝説とは異なるものを紹介している。普通に知られている伝説は、ヘレノースの予言によりトロイアを陥落させるためにネオプトレモスの参戦が必須であったため、ネオプトレモスが参戦する。しかしクィントスはこの説を採っていない。クィントスの『タ・メタ・トン・ホメーロン』では、ネオプトレモスを参戦させるよう提案したのはカルカースである。『タ・メタ・トン・ホメーロン』でカルカースはネオプトレモスを参戦させる理由として、「彼は我々全員に大いなる光をもたらすはずだ」と述べている。しかしネオプトレモスの参戦がトロイアを陥落させるために必須である、とまではいっていない。 ピロクテーテースの参戦は、クィントスにとってもトロイアを陥落のための条件の一つである。「悲痛な戦闘に熟達したピロクテーテースがギリシアの軍団に参戦する前に、イーリオンの都が倒されるのは、運命の望むところではなかった」(松田治訳)事をカルカースが鳥の飛び方を見て知り、内臓占いで確認する。
アカイア勢が勝利する三つの神託の一つであるネオプトレモス=ピュロスは、アキレウスの死後にトロイア戦争への参戦を求められる。母デーイダメイアの反対を理由に従軍を拒否していたピュロスは、それでも食い下がるオデュッセウスらに「メネラーオスとヘレネーの娘ヘルミオネーと結婚させてくれるならば」という条件を提示する。これは断られる事を見越しての要求であったが、メネラーオスが承諾したため、ピュロスはしかたなく従軍に同意する。オデュッセウスから父の武具を引き継いだピュロスは義理の祖父ポイニクスより「ネオプトレモス(新しき戦士)」の名を授かり、トロイア勢との戦いで父に負けないほどの活躍を見せる。
しかしヘルミオネーは従兄であるオレステースと婚約していたため、彼女を略奪したことがネオプトレモスの死を招くことになる。
トロイアーへと向かう途中、彼らはレームノス島へと立ち寄り、ピロクテーテースからヘーラクレースの弓を得ようとした。 ピロクテーテースにはアカイア人達にレームノスに置き去りにされて以来、ヘーラクレースの弓で捕らえた鳥獣を食べて生きながらえていた。 置き去りにされた恨みがあるピロクテーテースがアカイア人達に快くヘーラクレースの弓を渡すとは思えなかったため、オデュッセウスは策を弄して弓を奪おうと考えた。 オデュッセウスは彼らの中で唯一ピロクテーテースと面識のないネオプトレモスをピロクテーテースの元へと派遣し、隙を見て弓を奪おうと企んだ。 しかしネオプトレモスはオデュッセウスと共に弓を奪おうと奸計を弄しているうちに、自らの企みを恥じたため、弓を奪おうとするオデュッセウスにむしろ抵抗をした。 しかし、突如現われたヘーラクレースの霊魂がピロクテーテースにトロイアー戦争への参戦を命じたため、ピロクテーテースはヘーラクレースの弓を持ってトロイアーへと向かった。
トロイアーに到着した後オデュッセウスはパラディオンを奪還するため、ディオメーデースと共に闇に乗じてイーリオンへと潜入した。 オデュッセウスは、ディオメーデースの肩車で、予め見つけておいた低みから城壁を越えてイーリオンへと侵入した。 オデュッセウスは乞食に姿をやつして、予め内通していたヘレネーに会い、ヘレネーの導きでパラディオンのあるアテーナー女神の神殿を目指した。 プリアモスは偽のパラディオンを幾つも作り、パラディオンを奪われるのを阻止しようとしていたが、オデュッセウスはヘレネーから真のパラディオンがどれであるかを知り、パラディオンを持ち帰った。
(注:別伝では、後に小アイアースがアテーナー女神の神殿でカッサンドラーを犯した時パラディオンが未だ神殿にあった事になっている)
ギリシア勢の陣地につれてこられたピロクテーテースは、アスクレーピオスの子ポダレイリオスの治療を受け、戦闘ができるところまで復活した。ヘーラクレースの鎧を身にまとって出陣したピロクテーテースは、城壁の上から放たれたパリスの弓矢を紙一重でかわすと、ヒドラの毒を塗ったヘーラクレースの弓矢で逆にパリスを射抜く。瀕死の重傷を負ったパリスは、退いてイーデー山に行き、かつての妻オイノーネーに傷の治療を求めるが拒絶され、イーリオスに戻る途中で死んでしまった。オイノーネーは後悔してパリスに追いつこうとするが、すでに死んでしまった後だったので、自殺して果てたという。
難攻不落のイーリオン城門を突破するため、オデュッセイアの練った計略にしたがってエペイオスは巨大な木馬を建造した。アカイア軍はオデュッセウスらが乗り込んだ木馬と、トロイア軍に顔の知られていないシノーンを残して近隣のテネドス島へ撤退する。
(注:木馬建造の理由が、アカイア軍が勝利するための三つの神託のうち最後の一つ「イーリオンの城門が壊される」を実現するためとされている伝承も存在する)
翌朝になってアカイア軍が消えたことに気づいたトロイア軍はシノーンを捉えて詰問するが、シノーンによって「アカイア軍は逃げた。この像はアテナの怒りを鎮めるためのもので、巨大なのはトロイアに木馬が運び込まれたらアカイアが負けると預言されたからだ」と欺かれ、カッサンドラーの警告を無視して自らの手で門を壊し、木馬を運び込んでしまう。
夜半、戦勝の祝宴によってトロイア人が酔い潰れた頃を見計らって木馬から抜けだしたオデュッセウスらは、松明で合図を出し、待機していた味方を呼び寄せる。イーリオンへ侵攻したアカイア軍は市内で暴れまわり、一方的な虐殺と略奪が繰り広げられた。
メネラーオスはデーイポボスを殺してヘレネーを奪い返し、小アイアスはアテーナーの神殿でカッサンドラーを強姦して神の怒りに触れ、カッサンドラーは略奪品としてアガメムノーンへ献上される。そしてネオプトレモスがヘクトルの子である王子アステュアナクスを城壁から落として殺し、最後にトロイア王プリアモスを討ち取ったことでイーリオンは陥落、ここにトロイアは滅亡した。
その後、オデュッセウスの帰国譚『オデュッセイア』、生き延びたアイネイアースが自らの王国を築き上げる『アエネーイス』、アガメムノーンの息子オレステースによる復讐劇『オレステイア』へと伝説は続いていく。
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トロイア戦争にかかわる伝説(トロイアせんそうにかかわるでんせつ)では、トロイア戦争にかかわる伝説について記す。
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'''トロイア戦争にかかわる伝説'''(トロイアせんそうにかかわるでんせつ)では、[[トロイア戦争]]にかかわる伝説について記す。
== 登場人物 ==
=== アカイア勢 ===
* [[大アイアース]]
* [[小アイアース]]
* [[アキレウス]]
* [[アガメムノーン]]
* [[アンティロコス]]
* [[イードメネウス]]
* [[オデュッセウス]]
* [[カルカース]]
* [[シノーン]]
* [[ディオメーデース]]
* [[アスカラポス]]
* [[イアルメノス]]
* [[テルシーテース]]
* [[パラメーデース]]
* [[パトロクロス]]
* [[ピロクテーテース]]
* [[プローテシラーオス]]
* [[ネストール]]
* [[メネラーオス]]
* [[マカーオーン]]
==== 関連人物 ====
* [[アイギストス]]
* [[アトレウス]]
* [[イーピゲネイア]]
* [[エーレクトラー]]
* [[オレステース]]
* [[クリュタイムネーストラー]]
* [[タンタロス]]
* [[テラモーン]]
* [[テーレマコス]]
* [[テューデウス]]
* [[テュエステース]]
* [[ピュラデース]]
* [[ブリーセーイス]]
* [[ペロプス]]
* [[ポイアース]]
==== 関連する神々 ====
* [[アテーナー]]
* [[テティス]]
* [[ヘーラー]]
* [[ポセイドーン]]
=== トロイア勢 ===
* [[アイネイアース]]
* [[アステュアナクス]](スカマンドリオス)
* [[アンドロマケー]]
* [[エウリュピュロス]]
* [[カッサンドラー]]
* [[サルペードーン]]
* [[ドローン (ギリシア神話)]]
* [[ヘクトール]]
* [[パリス]](アレクサンドロス)
* [[ヘレネー]]
* [[プリアモス]](ポダルケース)
* [[ヘレノース]]
* [[ペンテシレイア]]
* [[メムノーン]]
* [[ラーオコーン]]
==== 関連人物 ====
* [[トロース]]
* [[イーロス]]
* [[アッサラコス]]
* [[ガニュメーデース]]
==== 関連する神々 ====
* [[アレース]]
* [[アプロディーテー]]
* [[アポローン]]
* [[アルテミス]]
=== その他 ===
* [[ヘーラクレース]]
* [[クリューセーイス]]
* [[クリューセース]]
== 前史 ==
* ガニュメーデスがゼウスにさらわれる。
* アポローンとポセイドーンがイーリオンを作る。
* [[ヘーラクレース]]がトロイアを陥落する。
* [[パリス]]が誕生するが捨てられる。
* [[エーオース]]と[[ティートーノス]]の婚姻にほり、メムノーンが誕生する。
* メネラーオスと[[ヘレネー]]が結婚する。
== 前史(その他関連) ==
* [[テーバイ攻めの七将]]
* [[エピゴノイ]]
* [[アトレウス]]と[[テュエステース]]の争い
==トロイア戦争に至るまでの経過==
* [[ペーレウス]]と[[テティス]]との婚姻と[[黄金の林檎]]
* [[パリスの審判]]
* パリスがヘレネーを連れ去る
==トロイア戦争I(『イーリアス』以前)==
* [[アウリス]]にアカイア勢が集結
* パラメーデース
* タウリスのイーピゲネイア
* テーレポス
* 雲のヘレネー
* [[ピロクテーテース]]を置き去りにする。
* プローテシラーオスの死
==トロイア戦争II(『イーリアス』)==
* 第一歌 - 悪疫、[[アキレウス]]の怒り。
* 第二歌 - 夢、[[アガメムノーン]]軍の士気を試す、ボイオーティアまたは「軍船の表」。
* 第三歌 - 休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラーオスの一騎討ち。
* 第四歌 - 契約破棄。アガメムノーンの閲兵。
* 第五歌 - ディオメーデス奮戦す。
* 第六歌 - ヘクトールとアンドロマケーの語らい。
* 第七歌 - ヘクトールとアイアースの一騎討ち。死体収容。
* 第八歌 - 尻切れ合戦
* 第九歌 - 使節行。和解の嘆願。
* 第十歌 - ドローンの巻
* 第十一歌 - アガメムノーン奮戦す。
* 第十二歌 - 防壁をめぐる戦い。
* 第十三歌 - 船陣脇の戦い
* 第十四歌 - ゼウス騙し
* 第十五歌 - 船陣からの反撃
* 第十六歌 - パトロクロスの巻
* 第十七歌 - メネラーオス奮戦す
* 第十八歌 - 武具作りの巻
* 第十九歌 - アキレウス、怒りを収める
* 第二十歌 - 神々の戦い
* 第二十一歌 - 河畔の戦い
* 第二十二歌 - ヘクトールの死
* 第二十三歌 - パトロクロスの葬送競技
* 第二十四歌 - ヘクトールの遺体引き取り
==トロイア戦争III(『イーリアス』以後)==
この『イーリアス』以後の章は3世紀頃[[小アジア]]の[[スミュルナ]]で活躍した詩人[[スミュルナのコイントス|クィントス]]による『[[トロイア戦記]]』の要約である。クィントスは自分のこの書物に特にタイトルをつけていなかったので、この書物はギリシア語で『タ・メタ・トン・ホメーロン』(ホメーロスの続き)、ラテン語で『ポスト・ホメリカ』(ホメーロス以後)と呼ばれた。主な内容は、ペンテシレイアの物語、メムノーンの物語、アキレウスの死、アイアースの死、エウリュピュロスの参戦、ネオプトレモスの参戦、ピロクテーテースの参戦、パリスの死、木馬の計略、トロイアの陥落である。
『タ・メタ・トン・ホメーロン』には『イーリアス』以後トロイアが陥落するまでの代表的な物語をほとんど収めているが、[[ヘレノス]]がトロイア陥落のための[[予言]]をした事についてのみは例外的に触れられていない。このため我々はこのヘレノスに関する物語のみは他の書籍を参考した。
(この章の作成には、松田治による『タ・メタ・トン・ホメーロン』の日本語訳『トロイア戦記 講談社学術文庫』を参考にした)。
===ペンテシレイアの死===
ヘクトール亡き後、[[アマゾーン]]の女王[[ペンテシレイア]]がトロイアー勢の援軍としてきた。
ペンテシレイアは[[アレース]]の娘で[[ヒッポリュテー]]の姉でもある。
ペンテシレイアはアキレウスの強さを知らなかったため、トロイアーについたペンテシレイアはトロイアー勢に、アキレウスを倒してアカイア勢の船団に火をつけることを約束した。
しかしアンドロマケーは夫であるヘクトールを殺された事でアキレウスの強さを知っていたため、ペンテシレイアの事を思慮の足りない女性であると思うだけであった。
戦場に出たペンテシレイアは、名高いアキレウスやディオメーデースと戦うため、アカイアの雑兵を幾人も殺しながら戦場を駆け巡った。
ペンテシレイアが奮戦する様子をみたトロイアーの女性達は、ペンテシレイアに倣って戦いに赴こうと武装した。
しかし[[アンテーノール]]の思慮深い妻[[テアーノー]]が彼女達を止めたので事無きを得た。
戦場を駆け巡るうちにペンテシレイアはついにアキレウスと大アイアースの二人に出会った。
ペンテシレイアは二人に挑発の言葉を投げかけたものの、ペンテシレイアの放言にアカイア勢は嘲笑するだけであった。
ペンテシレイアは二人に戦いを挑み、まずアイアースに槍を投げたが、槍はアイアースの脛当てを貫くにとどまった。
槍が無駄になった事を悔しがるペンテシレイア。アキレウスはペンテシレイアに[[一騎討ち]]を挑み、彼女の胸を傷つけた。ペンテシレイアは動揺し、アキレウスに命乞いすることも考えたがアキレウスはその隙を与えず、ペンテシレイアをその乗馬ごとケイローンから譲り受けた槍で貫いた。
ペンテシレイアが死ぬとアキレウスは死者を嬲ろうとまずペンテシレイアの兜を剥いだ。
兜の下から現われたペンテシレイアの顔があまりに美しかったため、アキレウスはペンテシレイアを殺した事を後悔し、苦悶した。
アキレウスが懊悩する様子を見た[[テルシーテース]]は、アキレウスを嘲笑した。
これにアキレウスは激怒し、アキレウスはテルシーテースを殴り殺した。
テルシーテースはアカイア勢に嫌われていたため、アカイア人達はテルシーテースの死をむしろ喜んだが、テルシーテースと血縁関係にあるディオメーデースのみはアキレウスに対し
立腹した。しかしアカイアの兵士達が彼をなだめたため大事には至らなかった。
アガメムノーンとメネラーオスが高貴なペンテシレイアに称賛の意を覚えたため、二人はトロイアー人達に彼女の遺体を引き取る事を許可した。
ペンテシレイアの死を知ったトロイアー人達は、彼女の死を嘆き、彼女の死体に宝石を乗せて遺体を火で燃やした。
そして裕福な[[ラーオメドーン]]の墓に彼女を共に埋葬した。
===メムノーンの死(『小イーリアス』)===
; メムノーンの参戦
: ペンテシレイアの死後、[[メムノーン]]が自国の兵を連れ、トロイアー側に加勢しに来た。メムノーンは貴公子[[ティートーノス]]を父とし、曙の女神[[エーオース]]を母に持つエチオピアの王である。彼は早朝に戦場へと向かった。
; メムノーン、アンティロコスを仕留める
: 戦いに赴いたメムノーンは、[[ネストール]]の子である槍の名手[[アンティロコス]]と戦った。アンティロコスはまずメムノーンに槍を投げたが、メムノーンが避けたため槍は彼には当たらず、槍は彼の親友アイトプスを殺した。親友を殺され激怒したメムノーンはアンティロコスに襲い掛かった。アンティロコスは大石でメムノーンの頭蓋を殴り反撃したものの、兜に守られたメムノーンを殺すには至らなかった。アンティロコスの攻撃に耐えたメムノーンは獰猛な獅子が猪を襲うかのようにアンティロコスに襲い掛かり、槍で心臓を貫いてアンティロコスを殺した。
; トラシュメーデース、メムノーンに迫る。
: これの様子を見たネストールは悲観にくれ、アンティロコスの弟である[[トラシュメーデース]]にメムノーンを殺すべく檄を飛ばした。トラシュメーデースは家来であるペーレウス(アキレウスの父とは別人)を連れ、共にメムノーンへと向かった。二人はトロイアーの軍兵を殺し、メムノーンに迫ったが、メムノーンは自分のほうが二人より遥かに優れている事を確信していたため、あわてる様子もなくアンティロコスの死体から武具を外していた。メムノーンとの力の差を思い知り、二人は戦意を喪失した。
; メムノーン、老ネストールを諌める
: メムノーンは自分の父ティートーノスと同じ年頃である老ネストールに哀れをもよおし、ネストールを諌め、退却するよう促した。我が子アンティロコスを殺されたネストールはメムノーンに毒ついたものの、老いた自分がメムノーンに勝てるはずもないため、トラシュメーデースおよびペーレウスと共にメムノーンの元を去っていった。
; アキレウスとメムノーンの激突
: アンティロコスの武具を奪ったメムノーンはアカイア勢へと迫り、多くの雑兵を殺した。その間、メムノーンの元から逃げ帰ったネストールはアキレウスに、メムノーンを倒し、アンティロコスの死体と武具とを奪い返すように頼んだ。アンティロコスや他のアカイア勢の死に憤激したアキレウスはメムノーンへと迫った。対峙したアキレウスとメムノーンとはまず激しい舌戦を繰り広げた後、戦い始めた。
: 二人の戦いは、エリス(不和女神)、血に飢えたケール(死神)、邪悪なオレトロス(同じく死神)を楽しませるのみならず、天上の神々の注目をも集めた。
; メムノーンの死
:激突する両雄を見る神々の中でも二人の母、テティスとエーオースの恐れは並大抵のものではなかった。二神は[[オリュンポス]]に上り、大神[[ゼウス]]の元に我が子のため命乞いをした。二柱の神の嘆願に当惑したゼウスは、アキレウスとメムノーンとの二人の運命を天秤にかけた所、メムノーンの皿が沈んだ。こうして二人の生死は決定された。アキレウスはメムノーンに黒い剣を突き刺し、心臓をえぐった。メムノーンが黒い血の海に倒れると、エエオスが雲に隠れて嘆いたため、天が闇に覆われた。神々がメムノーンの血を集め、[[カズ・ダー|イーデー山]]の尾根にパープラゴネイオス川を作った。この川は毎年メムノーンが死した日が来るたびに血の色に染まり、耐え難い匂いを発する。
===アキレウスの最後===
; アキレウスの死
: アンティロコスの死に激こうし続けるアキレウスは、町の近くまでトロイアー兵を殺すべく追いかけ、大地が至るところ血にそまるほど多くの兵士を殺した。
: アキレウスがトロイアー兵を屠り殺す様子に憤りを感じたポイボス・アポローンは、アキレウスに声をかけ、戦場を離れるようにいった。しかしアキレウスはこのアポローンの忠告を省みないばかりか、逆にアポローンに遠くに退くよう言い、なおもトロイアー兵を追廻して殲滅し続けた。
: この様子に怒りに駆られた遠矢の神アポローンは、パリス(アレクサンドロス)に力を貸し、弓でもってアキレウスを射た。矢がアキレウスの踵に当たると、たちまち苦痛が心臓まで達し、アキレウスはその場に倒れた。
: (注:伝によってはアキレウスは不死身であると伝えられているが、この伝では踵がアキレウスの唯一の弱点である。アキレウスを射たのはアポローン、パリスふた通りの伝承がある)
: アキレウスは激痛を堪え、なおもトロイアー兵を屠り続けた後、ついに死んだ。死ぬ直前までのアキレウスの戦いぶりがあまりに凄まじかったため、トロイアー兵は誰一人としてアキレウスの異変に気づかなかったという。
; 遺体の争奪、グラウコスの死
: アキレウスが死ぬとアカイア、トロイアー両勢の間で遺体争奪の戦いが起こった。大アイアースはアキレウスの死体を守るべく槍で敵兵を追い払い死体を守ろうと、[[グラウコス]]の親友エリュマースをはじめ多くの者を殺した。親友を殺されたグラウコスはアイアースへと踊りかかり、槍でアイアースの盾を突いたが、幾層もの牛の皮でできた盾を貫くには至らず、大アイアースの攻撃で討ち死にした。
: アイアースはさらにアイネイアースとパリスとを傷つけ、[[オデュッセウス]]の援護のもと、アキレウスの死体を兵船の前の天幕まで連れ帰った。
; 埋葬
: アキレウスの死体を前に、アカイアの将達は様々に追悼を述べた。そして亡骸を大釜に入った湯でテティスがアキレウスに送った真紅の服を遺体に着せた。トリトーゲネイア・アテーナーはアキレウスに哀れをもよおし、アキレウスの死体にアンブロシアをかけた。アンブロシアには死体をいつまでも若く保つ効果があるという。さらにアテーナーはアキレウスの盾を、パトロクロスのために嚇怒した文様の恐ろしげなものに変えた。遺体があまりに生きているときさながらだったのでアカイアー勢は皆度肝を抜かれたという。アカイアー勢達は遺体の上に薪を積み上げ、火をつけた。テティスはアキレウスを火の中から運び去って、「[[ズミイヌイ島|レウケーの島]]」あるいは「至福者の島」に置いたと言う。
; 葬送競技
: {{節スタブ}}
===大アイアースの死===
; アキレウスの武具の分配
: アキレウスの葬送競技が一通り終わるとテティスは、生前アキレウスが使っていた武具をアカイア人達の真ん中に置いた。そしてテティスは、アキレウスの遺体の争奪戦で最も活躍した者にこの武具を与えるので、我こそはと思うものは自ら名乗りでるようアカイア人達に言った。
: するとアカイア人達の中から大アイアースとオデュッセウスの二人が名乗り出た。そして二人は自分達のいずれが最も活躍したのかの裁定を、イードメネウス、ネストール、アガメムノーンの三人に委ねた。
: しかしながら裁定を委ねられた三人は、裁定を行う事を恐れた。なぜなら選ばれなかった一方が彼らに激怒し、そのために何らかの破局を迎えるであろう事は容易に想像されたからである。
: そこでネストールは自分達で裁定を行う代わりに捕虜のトロイア兵達にいずれが遺体争奪戦の際彼らを苦しめたのかを述べさせる事で、アイアース、オデュッセウスのどちらが最も活躍したのかを決定する、という裁定方法を提案した。イードメネウスとアガメムノーンは自分達で裁定を行うのを避ようとこれに同意したので、捕虜達に活躍したのがどちらかを決定させる事に決まった。
: 評議のため捕虜のトロイア兵達が座の中央につれて来られ、自分こそアカイア勢の中で最も強いのだと信じるアイアースとオデュウセウスが互いに罵り合う中で、裁定が行われた。アイアースが舌戦でオデュッセウスにかなうはずもなく、オデュッセウスの言う意見にトロイア兵達は賛同し、彼らは全員、異口同音にオデュッセウスこそアキレウスの武具にふさわしい人物だと述べた。この勝利にオデュッセウスは一人酔いしれたが、残りのアカイア勢達はうめき声をあげた。なぜなら負けたアイアースの怒りが恐ろしかったからである。
; アイアースの夜襲
: 逆上したアイアースは、アカイアの将達を殺すべく、するどい剣を手に持ち、夜の闇に紛れ彼らの船団へと向かった。しかしトリトーニス・アテーネーが彼を狂わせたため、アイアースはそばにいた羊達をアカイア勢だと思ってしまった。狂えるアイアースはただ一人、逃げ惑う羊達を剣で一匹また一匹と斬りつけて殺していった。ギリシア勢に無常な定めを投げ与えたつもりになって。アガメムノーンを殺し、メネラーオスを殺し、将という将を殺したかのように錯覚したアイアースは、死に絶える羊達の屍を超えて一頭の羊へと向かい、そしてオデュッセウスだと誤解したその羊を惨殺した。羊が血溜りの中に倒れると、勝ち誇ったアイアースは満足げに死体を見て、頬にぞっとする笑いを浮かべて羊の死体に嘲笑の言葉を浴びせた。
; アイアースの自殺
: 我に返ったアイアースは、目の前一面に羊達の屍骸が転がっているのを見て茫然とした。神が仕掛けた罠に気づいたアイアースは、体から力という力が抜け落ちてその場に崩れた。そしてヘクトールとの一騎討ちの後、彼と交換して譲り受けた剣で、自らの首を貫き、砂埃の中に倒れた。
: アカイア人達はアイアースを見つけたが、彼が倒れるまでは恐れをなして誰一人彼の元へと歩み寄る事はしなかった。アイアースが倒れると、彼らは死体の周りでうつ伏せになって倒れ付し、自らの頭にかけられるだけの砂という砂をかけながら号泣した。中でもアイアースの異母兄弟であるテウクロスと、アイアースの妻であるテクメーッサの嘆きは大きかった。二人は死体にむしゃぶりつき、涙を流しながら悲しみの悲鳴をあげるのだった。
: オデュッセウスやアガメムノーンを始めとしたアカイアの将達は、アイアースに対する処遇を後悔し、彼らは死体を埋葬した。しかしアガメムノーンはアイアースの死体を焼く事だけは許さなかった。このためイーリオンで死んだ者達の中で彼だけが棺に収められる事になった。アイアースの死体はロイティオンに埋葬された。
===エウリュピュロスの参戦===
ヘーラクレースの孫にあたるエウリュピュロスがトロイア側に加勢するため現われた。
; マカーオーンの死
: 参戦した[[エウリュピュロス]]は、アカイアの雑兵を次々と殺し、そして[[ニーレウス]]と、[[アスクレーピオス]]の子[[マカーオーン]]を殺した。二人の死に気づいた[[テウクロス]]がアカイア勢に檄を飛ばすと、殺された二人の死体を巡って両軍の間に戦いが起こった。マカーオーンの弟[[ポダレイリオス]]達の活躍により二人の死体を回収する事に成功した。
===ヘレノスを捕らえ、イーリオン陥落の条件を聞き出す。===
[[カルカース]]は、イーリオンを陥落させるための条件をヘレノスが知っている事を予言した。
この頃プリアモスの子である予言者ヘレノスは、10年にわたる戦争に倦んだため山中に隠れ、戦争を避けようとしていた。
しかしカルカースの助けを借りたオデュッセウスがいち早くこれを察知し、ヘレノスを捕らえてイーリオンを陥落させる方法を詰問した。
するとヘレノスは、イーリオンを陥落させるために必要な三つの条件を言った。
その三つとは、ヘーラクレースの弓を手に入れる事、アキレウスの子[[ネオプトレモス]]が参戦する事、イーリオンからパラディオンを奪還する事であった。
(注:[[アポロドーロス]]の『[[ビブリオテーケー]]』では、ヘーラクレースの弓を手に入れるという条件の代わりにペロプスの骨をギリシアから持ってくる事を挙げている)。
ネオプトレモスの参戦理由についてクィントスは普通知られている伝説とは異なるものを紹介している。普通に知られている伝説は、ヘレノースの予言によりトロイアを陥落させるためにネオプトレモスの参戦が必須であったため、ネオプトレモスが参戦する。しかしクィントスはこの説を採っていない。クィントスの『タ・メタ・トン・ホメーロン』では、ネオプトレモスを参戦させるよう提案したのはカルカースである。『タ・メタ・トン・ホメーロン』でカルカースはネオプトレモスを参戦させる理由として、「彼は我々全員に大いなる光をもたらすはずだ」と述べている。しかしネオプトレモスの参戦がトロイアを陥落させるために必須である、とまではいっていない。
ピロクテーテースの参戦は、クィントスにとってもトロイアを陥落のための条件の一つである。「悲痛な戦闘に熟達したピロクテーテースがギリシアの軍団に参戦する前に、イーリオンの都が倒されるのは、運命の望むところではなかった」(松田治訳)事をカルカースが鳥の飛び方を見て知り、内臓占いで確認する。
===ネオプトレモスの参戦===
アカイア勢が勝利する三つの神託の一つであるネオプトレモス=ピュロスは、アキレウスの死後にトロイア戦争への参戦を求められる。母[[デーイダメイア]]の反対を理由に従軍を拒否していたピュロスは、それでも食い下がるオデュッセウスらに「メネラーオスとヘレネーの娘ヘルミオネーと結婚させてくれるならば」という条件を提示する。これは断られる事を見越しての要求であったが、メネラーオスが承諾したため、ピュロスはしかたなく従軍に同意する。オデュッセウスから父の武具を引き継いだピュロスは義理の祖父ポイニクスより「ネオプトレモス(新しき戦士)」の名を授かり、トロイア勢との戦いで父に負けないほどの活躍を見せる。
しかしヘルミオネーは従兄であるオレステースと婚約していたため、彼女を略奪したことがネオプトレモスの死を招くことになる。
{{節スタブ}}
===ピロクテーテースの参戦===
トロイアーへと向かう途中、彼らは[[レームノス島]]へと立ち寄り、ピロクテーテースからヘーラクレースの弓を得ようとした。
ピロクテーテースにはアカイア人達にレームノスに置き去りにされて以来、ヘーラクレースの弓で捕らえた鳥獣を食べて生きながらえていた。
置き去りにされた恨みがあるピロクテーテースがアカイア人達に快くヘーラクレースの弓を渡すとは思えなかったため、オデュッセウスは策を弄して弓を奪おうと考えた。
オデュッセウスは彼らの中で唯一ピロクテーテースと面識のないネオプトレモスをピロクテーテースの元へと派遣し、隙を見て弓を奪おうと企んだ。
しかしネオプトレモスはオデュッセウスと共に弓を奪おうと奸計を弄しているうちに、自らの企みを恥じたため、弓を奪おうとするオデュッセウスにむしろ抵抗をした。
しかし、突如現われたヘーラクレースの霊魂がピロクテーテースにトロイアー戦争への参戦を命じたため、ピロクテーテースはヘーラクレースの弓を持ってトロイアーへと向かった。
===パラディオン奪還===
{{Main|パラディウム}}
トロイアーに到着した後オデュッセウスは[[パラディオン]]を奪還するため、ディオメーデースと共に闇に乗じてイーリオンへと潜入した。
オデュッセウスは、ディオメーデースの肩車で、予め見つけておいた低みから城壁を越えてイーリオンへと侵入した。
オデュッセウスは乞食に姿をやつして、予め内通していたヘレネーに会い、ヘレネーの導きでパラディオンのあるアテーナー女神の神殿を目指した。
プリアモスは偽のパラディオンを幾つも作り、パラディオンを奪われるのを阻止しようとしていたが、オデュッセウスはヘレネーから真のパラディオンがどれであるかを知り、パラディオンを持ち帰った。
(注:別伝では、後に[[小アイアース]]がアテーナー女神の神殿で[[カッサンドラー]]を犯した時パラディオンが未だ神殿にあった事になっている)
===パリスの死===
ギリシア勢の陣地につれてこられた[[ピロクテーテース]]は、[[アスクレーピオス]]の子[[ポダレイリオス]]の治療を受け、戦闘ができるところまで復活した。[[ヘーラクレース]]の鎧を身にまとって出陣したピロクテーテースは、城壁の上から放たれた[[パリス]]の弓矢を紙一重でかわすと、[[ヒドラ]]の毒を塗ったヘーラクレースの弓矢で逆にパリスを射抜く。瀕死の重傷を負ったパリスは、退いてイーデー山に行き、かつての妻オイノーネーに傷の治療を求めるが拒絶され、イーリオスに戻る途中で死んでしまった。オイノーネーは後悔してパリスに追いつこうとするが、すでに死んでしまった後だったので、自殺して果てたという。
{{節スタブ}}
===木馬の計略===
{{Main|トロイアの木馬}}
難攻不落のイーリオン城門を突破するため、オデュッセイアの練った計略にしたがって[[エペイオス]]は巨大な木馬を建造した。アカイア軍はオデュッセウスらが乗り込んだ木馬と、トロイア軍に顔の知られていない[[シノーン]]を残して近隣のテネドス島へ撤退する。
(注:木馬建造の理由が、アカイア軍が勝利するための三つの神託のうち最後の一つ「イーリオンの城門が壊される」を実現するためとされている伝承も存在する)
翌朝になってアカイア軍が消えたことに気づいたトロイア軍はシノーンを捉えて詰問するが、シノーンによって「アカイア軍は逃げた。この像はアテナの怒りを鎮めるためのもので、巨大なのはトロイアに木馬が運び込まれたらアカイアが負けると預言されたからだ」と欺かれ、[[カッサンドラー]]の警告を無視して自らの手で門を壊し、木馬を運び込んでしまう。
{{節スタブ}}
===イーリオンの陥落===
夜半、戦勝の祝宴によってトロイア人が酔い潰れた頃を見計らって木馬から抜けだしたオデュッセウスらは、松明で合図を出し、待機していた味方を呼び寄せる。イーリオンへ侵攻したアカイア軍は市内で暴れまわり、一方的な虐殺と略奪が繰り広げられた。
メネラーオスはデーイポボスを殺してヘレネーを奪い返し、小アイアスはアテーナーの神殿でカッサンドラーを強姦して神の怒りに触れ、カッサンドラーは略奪品としてアガメムノーンへ献上される。そしてネオプトレモスがヘクトルの子である王子[[アステュアナクス]]を城壁から落として殺し、最後にトロイア王プリアモスを討ち取ったことでイーリオンは陥落、ここにトロイアは滅亡した。
その後、オデュッセウスの帰国譚『[[オデュッセイア]]』、生き延びた[[アイネイアース]]が自らの王国を築き上げる『[[アエネーイス]]』、アガメムノーンの息子[[オレステース]]による復讐劇『[[オレステイア]]』へと伝説は続いていく。
{{節スタブ}}
==『オデュッセイアー』==
* 第一歌 神々の会議。女神アテーナー、[[テーレマコス]]を激励する
* 第二歌 [[イタケー]]人の集会、テーレマコスの旅立ち
* 第三歌 ピュロスにて
* 第四歌 [[スパルタ|ラケダイモーン]]にて
* 第五歌 [[カリュプソー]]の洞窟。[[オデュッセウス]]の筏作り
* 第六歌 オデュッセウス、パイアケース人の国に着く
* 第七歌 オデュッセウス、[[アルキノオス]]に対面す
* 第八歌 オデュッセウスとパイアケース人との交歓
* 第九歌 アルキノオス邸でオデュッセウスの語る漂流談
* 第十歌 風神[[アイオロス]]、[[ライストリューゴーン族]]及び[[キルケー]]の物語
* 第十一歌 冥府行
* 第十二歌 [[セイレーン]]の誘惑。[[スキュラ]]と[[カリュブディス]]、陽の神[[ヘーリオス]]の牛
* 第十三歌 オデュッセウス、パイエケース人の国を発ち、イタケに帰還
* 第十四歌 オデュッセウス、豚飼いの[[エウマイオス]]に会う
* 第十五歌 テーレマコス、エウマイオスを訪ねる
* 第十六歌 テーレマコス、乞食(オデュッセウス)の正体を知る
* 第十七歌 テーレマコスの帰館
* 第十八歌 オデュッセウス、[[アルナイオス|イーロス]]と格闘す
* 第十九歌 オデュッセウスと[[ペーネロペー]]の出会い、足洗いの場
* 第二十歌 求婚者誅殺前夜のこと
* 第二十一歌 弓の引き競べ
* 第二十二歌 求婚者誅殺
* 第二十三歌 ペーネロペー、乞食(オデュッセウス)の正体を知る
* 第二十四歌 再び冥府の物語。和解
== その他『ノストイ』(帰国物語)等 ==
* [[小アイアース]]の死
* アガメムノーンの死
* [[エーレクトラー]]
* [[オレステース]]とピュラデース
* 慈みの女神たち
* [[アンドロマケー]]
* [[テレゴネイア]]
{{History-stub}}
{{DEFAULTSORT:とろいあせんそうにかかわるてんせつ}}
[[Category:ヨーロッパの伝説]]
[[Category:古代ギリシア]]
[[Category:トロイア戦争]]
[[Category:ギリシア神話]]
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淡路国
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淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。兵庫県淡路島・沼島にあたる。
律令制以前は淡道国造の領域であり、「淡道」の表記であった。律令制において令制国のひとつとなり「淡路」の表記となった。
『古事記』『日本書紀』の『国産み神話』では、日本列島で最初に生まれた島とされ、島内には伊弉諾神宮が祀られている。
5世紀の仁徳天皇の御代に設置された淡道国造に起源を持つものと推定される(国造本紀)。古くは津名郡と三原郡で構成されていた。
律令制の下で、田畑の面積が少なくとも一国として成立した。しかし『延喜式』や平城京などから発見された木簡によると租庸調に加え、贄(にえ)とよばれた海産物(主に魚)を直接に朝廷の内膳司(天皇家、朝廷の食膳を管理した役所)に納めていたことが分かっている。このことにより、朝廷にとって淡路国が特殊な位置にあったとする説がある(御食国を参照)。
天平宝字8年(764年)10月、淳仁天皇を廃して「淡路国の公」として淡路に配流する。一院に幽閉するが、その一院がどこであったか分かっていない。そして、山稜に葬られ、『延喜式』諸稜寮の項にその稜は「淡路国三原郡にあり」と記すが、その位置については諸説あって確定していない。
応仁の乱後、各国の守護職もしだいに領主化し、守護大名に変化していったが更に時代にくだると、その守護大名も守護職を家臣や守護代、国人に奪い取られる事が多くなったが、淡路国歴代の守護であった細川氏の場合、守護代、小守護、国人とも守護を圧するほどには成長しておらずで守護職を他士族に奪い取られるという事はなかったようである。しかし、最後の守護と思われる細川尚春は、三好之長によって殺された。その後は三好氏の勢力下を経て、四国攻めの過程で羽柴氏に制圧された。
など
『和名抄』によれば、国府は三原郡にあった。現在の南あわじ市(旧三原郡三原町)神代国衙にあったと推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
※郡名は『延喜式』による。
該当区域の面積は595.74km2、人口は14万3589人(2010年国勢調査速報値)。
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淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。兵庫県淡路島・沼島にあたる。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 淡路国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|淡路国}}
|別称 = 淡州(たんしゅう)
|所属 = [[南海道]]
|領域 = [[兵庫県]][[淡路島]]・[[沼島]]
|国力 = [[下国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 2郡17郷
|国府 = 兵庫県[[南あわじ市]]
|国分寺 = 兵庫県南あわじ市([[淡路国分寺|淡路国分寺塔跡]])
|国分尼寺 = (推定)兵庫県南あわじ市
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}}
'''淡路国'''(あわじのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[南海道]]に属する。[[兵庫県]][[淡路島]]・[[沼島]]にあたる。
== 「淡路」の名称 ==
[[律令制#日本の律令制|律令制]]以前は[[淡道国造]]の領域であり、「淡道」の表記であった。律令制において令制国のひとつとなり「淡路」の表記となった。<!--粟国(あわのくに。後の[[阿波国]])に渡る途中にあることを意味すると言われることが多いが神話に登場してくる順番や漢字も違う。そもそも当時の「路」や「道」に現代の「みち」としての意味はない。--><!--が古事記・日本書紀で淡路島が日本最初の国であると明記されているのにこの用法は明らかに間違っている。(古くは淡道と書いた。がある以上神話の内容に関して断言できる事ではない。)-->
== 沿革 ==
『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』の『[[国産み神話]]』では、[[日本列島]]で最初に生まれた島とされ、島内には[[伊弉諾神宮]]が祀られている。
[[5世紀]]の[[仁徳天皇]]の御代に設置された[[淡道国造]]に起源を持つものと推定される([[国造本紀]])。古くは[[津名郡]]と[[三原郡]]で構成されていた。
[[律令制]]の下で、田畑の面積が少なくとも一国として成立した。しかし『[[延喜式]]』や平城京などから発見された木簡によると[[租庸調]]に加え、[[贄]](にえ)とよばれた海産物(主に魚)を直接に朝廷の[[内膳司]](天皇家、朝廷の食膳を管理した役所)に納めていたことが分かっている。このことにより、朝廷にとって淡路国が特殊な位置にあったとする説がある([[御食国]]を参照)。
[[天平宝字]]8年([[764年]])[[10月 (旧暦)|10月]]、[[淳仁天皇]]を廃して「淡路国の公」として淡路に配流する。一院に幽閉するが、その一院がどこであったか分かっていない。そして、山稜に葬られ、『[[延喜式]]』諸稜寮の項にその稜は「淡路国三原郡にあり」と記すが、その位置については諸説あって確定していない。
[[応仁の乱]]後、各国の[[守護職]]もしだいに[[領主]]化し、[[守護大名]]に変化していったが更に時代にくだると、その守護大名も守護職を[[家臣]]や[[守護代]]、[[国人]]に奪い取られる事が多くなったが、淡路国歴代の守護であった[[細川氏#淡路守護家|細川氏]]の場合、守護代、[[小守護]]、国人とも守護を圧するほどには成長しておらずで守護職を他士族に奪い取られるという事はなかったようである。しかし、最後の守護と思われる[[細川尚春]]は、[[三好之長]]によって殺された。その後は[[三好氏]]の勢力下を経て、[[四国攻め]]の過程で[[羽柴氏]]に制圧された。
=== 戦国時代~江戸時代初期の移封 ===
* [[細川尚春]] - 淡路[[守護]]。[[三好之長]]により殺害。
* 洲本[[安宅氏]](安宅氏分家) - [[安宅治興]]は[[三好長慶]]弟・[[安宅冬康|冬康]]を養子に迎え、[[三好氏]]の傘下に。
* [[三好氏]] - [[織田信長]]によって滅亡。[[安宅冬康|冬康]]の子・[[安宅信康|信康]]は[[織田氏]]の支配下に。
** [[岩屋城 (淡路国)|岩屋城]] - 淡路国[[津名郡]](現在の[[兵庫県]][[淡路市]])にあった日本の城。[[文禄]]3年([[1594年]])廃城。
*:[[天正]]9年([[1581年]])、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の[[四国攻め|淡路侵攻]]を受け岩屋城落城。
* [[中国国分]] - [[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と[[毛利輝元]]の同盟関係が成立した[[天正]]11年([[1583年]])以降、[[中国地方]]に対する[[大名]]など諸[[領主]]への[[領土]]配分
** [[間島氏勝]] - [[赤松氏]]の支族であった[[播磨国]]の旧[[福中城]]主。天正11年([[1583年]])、淡路[[岩屋城 (淡路国)|岩屋城]]3000石の城主に<ref>『太閤記』</ref>。
** [[仙石秀久]] - 淡路国5万石で入府。(→[[天正]]13年([[1585年]])、[[四国攻め]]の軍功により[[讃岐国|讃岐]][[高松城 (讃岐国)|高松城]]10万石へ加増[[転封]])
** [[加藤嘉明]] - 天正14年([[1586年]])、[[津名]][[三原郡]][[志知城|志知城(志智城)]]([[兵庫県]][[南あわじ市]])1万5,000石。
*:[[文禄]]3年([[1594年]])2月、岩屋・群家内[[間島氏勝|間島]]分1700石が増封<ref group="注釈">間島は改易された模様。</ref><ref>近江水口加藤文書</ref>。天正15年([[1587年]])7月[[伊予国|伊予]][[松前城 (伊予国)|正木]]([[愛媛県]][[松前町 (愛媛県)|松前町]])に加増転封。
** [[脇坂安治]] - 淡路[[洲本藩]]3万石。(→[[慶長]]14年([[1609年]])、[[伊予国|伊予]][[大洲藩]]転封)
** [[菅達長]] - '''淡路国'''の[[国衆]]([[土豪]])。[[志知村|志知]]・[[釜口]]・[[淡路町|岩屋]]・[[洲本市|須本]]。旧領安堵のち、[[伊予国|伊予]]に転封。
* [[藤堂高虎]] - 藤堂高虎(伊予[[宇和島城]]8万石・[[今治城]]12万石)の属領。(→[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]転封。[[伊予国|伊予]][[越智郡]]2万石は飛び地として高虎に残る)
* [[池田輝政]] - [[慶長]]15年([[1610年]])、[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主・[[池田輝政]]に淡路一国が加増。淡路は姫路藩(海向かい)の属領となる。
* [[池田忠雄]] - [[池田輝政]]三男。慶長18年([[1613年]])1月に輝政が死去、淡路6万3千石が分与され、再び[[洲本藩]]が立藩。
:[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、[[岡山藩]]主で早世した兄・[[池田忠継]]の後を継いで[[池田忠雄|忠雄]]が岡山藩に移ったため、洲本藩は廃藩。
* [[蜂須賀至鎮]] - [[大坂の陣]]で軍功を挙げ[[徳島藩|阿波藩(明治以降に徳島藩と改称)]]とともに加増。
:[[大坂の陣]]([[慶長]]20年([[1615年]]))の報償として、[[阿波]][[蜂須賀家]]に[[岩屋]]を除く淡路7万石が加増。[[寛永]]3年([[1617年]])に岩屋も加増<ref>[http://sumoto-castle.net/history.html 洲本城の歴史]</ref>。幕末まで[[家老]]の[[稲田氏]]が[[洲本城]]代として淡路国を統治する。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が[[阿波国|阿波]]'''[[徳島藩]]'''領であった。(258村・136,576石余)
** [[津名郡]](124村・77,851石余)、[[三原郡]](134村・58,725石)
* [[明治]]3年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1870年]][[10月11日]]) - [[庚午事変]]の処分により、稲田家が[[日高国]][[新冠郡]]・[[静内郡]]・[[根室国]][[花咲郡]]の一部(後の[[色丹郡]])に移転。
* 明治4年
** 5月 - [[津名郡]]の一部が'''[[兵庫県]]'''の管轄となる<ref group="注釈">稲田家の北海道開拓費を兵庫県が負担したことによる。</ref>。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[徳島県]]'''の管轄となる。
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[名東県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''兵庫県'''の管轄となる。
=== [[兵庫県の城#淡路市|淡路国の城]]・館 ===
; [[淡路市]]
* [[岩屋城 (淡路国)|岩屋城]] - 別名:俎板山城。淡路国[[津名郡]]
* [[群家城 (淡路国)|群家城]] - 別名:田村氏館<ref group="注釈">田村氏は、淡路国[[一宮]][[伊弉諾神宮]]の祭主家。</ref>。[[伊弉諾神宮]]近く。[[郡家町 (兵庫県)|郡家村]][[多賀 (淡路市)|多賀]]
* [[柳沢城]]
* [[志筑城]]
; [[洲本市]]
* [[白巣城]]
* [[炬口城]]
* [[洲本城|洲本城(上の城)]] - 別名:三熊城。[[安宅氏]]が築城し、その後仙石氏、脇坂氏が[[洲本藩]]主に。
*:[[洲本城]][[天守台]]跡には[[1928年]]([[昭和]]3年)、[[昭和天皇]]の[[即位の礼]]を記念して建てられた日本最古の模擬[[天守閣]]がある。
* [[成ヶ島#歴史|由良城]] - 由良成山城([[水軍]]城)。[[慶長]]16年([[1610年]])、[[池田忠雄]]が[[洲本城|洲本城(上の城)]]を廃し、修築した。
*:[[寛永]]12年([[1635年]])、[[徳島藩]]2代藩主[[蜂須賀忠英]]の時代に由良が狭いため、城下町ごと由良城から洲本城に移転する(「由良引け」)
* [[洲本城|洲本城(下の城)]] - 由良引けの後に作られた[[平城]]の洲本城。[[江戸時代]]・[[蜂須賀家]][[家老]]稲田氏が治めた[[城下町]]。跡地には[[洲本市立淡路文化史料館|淡路文化史料館]]。
; 南あわじ市
* [[栗原城]]
* [[志知城]] - 別銘:志智城。淡路国[[三原郡]][[志知村]]
* [[庄田城]] - 淡路国[[三原郡]][[倭文村 (兵庫県)|倭文]]。城主:[[船越景直]]。
* [[養宜館]] - 淡路国[[三原郡]][[八木養宜中]]([[三原平野]]東端)。淡路国[[守護]]・[[細川氏]]の居館があったとされる。
* [[叶堂城]] - ([[南あわじ市]][[松帆古津路]]、[[感応寺 (淡路国)|感応寺]])
* [[前山城]]
* [[上田城 (淡路国)|上田城]]
* [[柿の木谷城]]
など
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
『[[和名抄]]』によれば、[[国府]]は三原郡にあった。現在の[[南あわじ市]](旧三原郡三原町)神代国衙にあったと推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* '''[[淡路国分寺]]'''
: [[国分寺|国分僧寺]]は、江戸時代に造営された護国山国分寺のある南あわじ市国分寺寺内に比定されている。今は、塔の心礎と跡石が残っているが、その礎石は創建当時の位置を保っておらず、伽藍の遺構も確認されていない。諸国国分寺で唯一創建当時の作とみられる[[法量#丈六|丈六]]の[[釈迦如来]]坐像がある。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社2座2社・小社11座11社の計13座13社が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも[[名神大社]]である。[[淡路国の式内社一覧]]を参照。
* [[津名郡]] 淡路伊佐奈伎神社 (現 [[伊弉諾神宮]]、[[淡路市]]多賀)
* [[三原郡]] [[大和大国魂神社]] (南あわじ市榎列上幡多)
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社:総社十一明神社 (南あわじ市十一カ所) - 名神大社2社以外の式内社11社の祭神が祀られている。
* 一宮:'''[[伊弉諾神宮]]'''
* 二宮:[[大和大国魂神社]]
=== 守護所 ===
* [[養宜館]]
: 南あわじ市八木養宜中。室町時代の約180年間、守護大名細川氏の[[守護所]]であった。鎌倉時代の守護所も同所であったとされる。
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[津名郡]]
*[[三原郡]]
※郡名は『[[延喜式]]』による。
該当区域の面積は595.74k㎡、人口は14万3589人(2010年国勢調査速報値)。
=== 江戸時代の藩 ===
*[[淡路洲本藩]]、[[脇坂氏|脇坂家]](3万石)→[[今治藩]]領→[[姫路藩]]領→[[池田氏#美濃池田家|池田家]]→[[徳島藩]]領
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 淡路守 ====
*[[御輔真男]]、[[承和 (日本)|承和]]8年([[841年]])任官
*[[伴益友]]、[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])任官
*[[三善氏吉]]、[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])任官
*[[時統諸兄]]、貞観5年([[863年]])任官
*[[善道継根]]、貞観9年([[867年]])任官
*[[伴貞宗]]、[[元慶]]5年([[881年]])任官
*[[佐伯清氏]]、[[仁和]]3年([[887年]])任官
*[[源頼親]]
*[[三善為長]]、[[延久]]4年([[1065年]])任官
*[[平教盛]]、[[仁平]]元年([[1151年]])任官
*[[平宗盛]]、[[永暦]]元年([[1160年]])任官
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*[[1190年]]~[[1193年]] - (小野)[[横山時広]]
*?~1200年 - [[佐々木経高]]
*1200年~1213年 - (小野)[[横山時兼]]
*1213年~1221年 - 佐々木経高
*1221年~1230年 - [[長沼宗政]]
*1230年~1243年 - [[長沼時宗]]
*1258年~1283年 - [[長沼宗泰]]
*1283年~1299年 - [[長沼宗秀]]
*[[1331年]]~[[1333年]] - [[長沼秀行]]
==== 室町幕府 ====
*[[1336年]]~1348年 - [[細川師氏]]
*1348年~1387年 - [[細川氏春]]
*1387年~1392年 - [[細川満春]]
*1398年~? - [[細川満俊]]
*1402年~1404年 - [[細川満久]]
*1407年~1441年 - 細川満俊
*1446年~? - [[細川持親]]
*1467年~1485年 - [[細川成春]]
*1485年~[[1519年]] - [[細川尚春]]
=== 戦国大名 ===
*[[三好氏]]
**[[安宅氏]]
**[[野口氏]]
**田村氏
*[[豊臣政権]]
**[[仙石秀久]]
**[[脇坂安治]]
**[[加藤嘉明]]
=== 武家官位としての淡路守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[長沼宗政]]
*[[金井秀景]]
*[[雀部重政]]
*[[細川師氏]]
*[[細川成春]]
*[[細川尚春]]
*[[脇坂安治]]
==== 江戸時代 ====
*[[播磨国|播磨]][[龍野藩]]主
** [[脇坂安照]]、第2代藩主
** [[脇坂安清]]、第3代藩主
** [[脇坂安興]]、第4代藩主
** [[脇坂安親]]、第7代藩主
** [[脇坂安宅]]、第9代藩主・[[老中]]
*[[美濃国|美濃]][[大垣新田藩]]主
**[[戸田氏成]]、初代藩主
**[[戸田氏房]]、第2代藩主
**[[戸田氏之]]、第3代藩主
**[[戸田氏養]]、第4代藩主
**[[戸田氏宥]]、第6代藩主
**[[戸田氏綏]]、第7代藩主
**[[戸田氏良]]、第8代藩主
*[[信濃国|信濃]][[須坂藩]]主
**[[堀直重]]、初代藩主
**[[堀直升]]、第2代藩主
**[[堀直英]]、第5代藩主
**[[堀直堅]]、第7代藩主
**[[堀直興]]、第10代藩主
**[[堀直武]]、第21代藩主
*[[肥前国|肥前]][[五島藩]]主
**[[五島玄雅]]、初代藩主
**[[五島盛利]]、第2代藩主
**[[五島盛勝]]、第4代藩主
**[[五島盛道]]、第7代藩主
*[[三河国|三河]][[刈谷藩]]土井家
**[[土井利以]]、第5代藩主
**[[土井利祐]]、第7代藩主
**[[土井利教]]、第9代藩主
*[[備中国|備中]][[足守藩]]木下家
**[[木下利当]]、第3代藩主
**[[木下利貞]]、第4代藩主
**[[木下利彪]]、第8代藩主
*江戸時代その他
**[[前田利次]]、[[越中国|越中]][[富山藩]]主
**[[土井利庸]]、[[三河国|三河]][[西尾藩]]主
**[[本多忠周]]、三河[[足助藩]]主
**[[水野重良]]、[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]主
**[[水野重期]]、新宮藩主
**[[鳥居忠房]]、[[甲斐国|甲斐]][[谷村藩]]主
**[[蜂須賀宗員]]、[[阿波国|阿波]][[徳島藩]]主
**[[蜂須賀茂韶]]、徳島藩主
**[[松平康映]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]、播磨[[山崎藩]]、[[石見国|石見]][[浜田藩]]主
**[[保科正純 (淡路守)|保科正純]]- [[旗本]]、[[山田奉行]]
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 28 兵庫県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
* 兵庫県民俗芸能調査会『ひょうごの城紀行』下、神戸新聞総合出版センター、1998年12月、253頁。
* 淡路の誇 上巻 下巻 片山喜一郎 實業之淡路社 1929
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Awaji Province}}
* [[洲本市]]
* [[淡路島]]
* [[淡路弁]]
* [[令制国一覧]]
* [[淡路 (大阪市)|淡路(大阪市)]]
{{令制国一覧}}
{{淡路国の郡}}
{{細川氏}}
{{デフォルトソート:あわしのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:南海道|国あわし]]
[[Category:淡路島|*あわしのくに]]
[[Category:兵庫県の歴史]]
[[Category:淡路国|*]]
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2023-06-16T23:10:56Z
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"Template:基礎情報 令制国",
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"Template:令制国一覧",
"Template:淡路国の郡"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%9B%BD
|
14,409 |
ムハンマド・バーキル・ハキーム
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アーヤトゥッラー・アッ=サイイド・ムハンマド・バーキル・アル=ハキーム(اية الله السيد محمد باقر الحكيم Ayatullah al-Sayyid Muhammad Baqir al-Hakim, 1939年 - 2003年8月29日)は、イラクのシーア派(12イマーム派)指導者で、反サッダーム・フセイン組織のひとつイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の指導者。
1939年、アーヤトゥッラー・サイイド・ムフシン・アル=ハキームの子として、ナジャフに生まれた。父ムフシンは、1955年から1970年に死ぬまで、12イマーム・シーア派の最高位法学者「マルジャエ・タクリード」を務めたイスラム法学者であった。ハキーム家は預言者ムハンマドの子孫を称するサイイドの家系で、イラクのシーア派信徒の尊敬を集める法学者の家系である。ハキームは、イラクのシーア派聖地ナジャフで育ち、ここで法学を修めた。
彼は1950年代の終わりごろからイスラム主義政治運動に携わり、その指導者ムハンマド・バーキル・サドル(英語版)に従った。1970年代に入ると彼らシーア派法学者の政治グループはバアス党政権によって弾圧を受けはじめ、1977年に逮捕されて終身刑の判決を受けた。1979年には釈放されたものの、サドルが翌1980年に処刑さたのを受け、前年シーア派法学者が実権を握っていたイランに亡命した。
ハキームは、イランでイラク・イスラム革命最高評議会をつくり、国外におけるシーア派反政府運動指導者となった。同評議会派はその関係上イラン政府とのとの関係が深いとされるが、近年はアメリカと接近していたとも言われる。
2003年、イラク戦争により、サッダーム・フセイン政権がアメリカに打倒されたのを受け、5月イラクに帰国。ナジャフに入り、アメリカ主導の暫定統治政権に協力的な姿勢を見せた。
8月29日、モスクでの金曜礼拝の説教を終えたところで爆弾テロを受け、死亡した。
イラク・イスラム革命最高評議会の指導者としての役割は、弟のアブドゥルアズィーズ・ハキームが継承した。
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アーヤトゥッラー・アッ=サイイド・ムハンマド・バーキル・アル=ハキームは、イラクのシーア派(12イマーム派)指導者で、反サッダーム・フセイン組織のひとつイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の指導者。 1939年、アーヤトゥッラー・サイイド・ムフシン・アル=ハキームの子として、ナジャフに生まれた。父ムフシンは、1955年から1970年に死ぬまで、12イマーム・シーア派の最高位法学者「マルジャエ・タクリード」を務めたイスラム法学者であった。ハキーム家は預言者ムハンマドの子孫を称するサイイドの家系で、イラクのシーア派信徒の尊敬を集める法学者の家系である。ハキームは、イラクのシーア派聖地ナジャフで育ち、ここで法学を修めた。 彼は1950年代の終わりごろからイスラム主義政治運動に携わり、その指導者ムハンマド・バーキル・サドルに従った。1970年代に入ると彼らシーア派法学者の政治グループはバアス党政権によって弾圧を受けはじめ、1977年に逮捕されて終身刑の判決を受けた。1979年には釈放されたものの、サドルが翌1980年に処刑さたのを受け、前年シーア派法学者が実権を握っていたイランに亡命した。 ハキームは、イランでイラク・イスラム革命最高評議会をつくり、国外におけるシーア派反政府運動指導者となった。同評議会派はその関係上イラン政府とのとの関係が深いとされるが、近年はアメリカと接近していたとも言われる。 2003年、イラク戦争により、サッダーム・フセイン政権がアメリカに打倒されたのを受け、5月イラクに帰国。ナジャフに入り、アメリカ主導の暫定統治政権に協力的な姿勢を見せた。 8月29日、モスクでの金曜礼拝の説教を終えたところで爆弾テロを受け、死亡した。 イラク・イスラム革命最高評議会の指導者としての役割は、弟のアブドゥルアズィーズ・ハキームが継承した。
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'''アーヤトゥッラー・アッ=サイイド・ムハンマド・バーキル・アル=ハキーム'''('''اية الله السيد محمد باقر الحكيم''' Ayatullah al-Sayyid Muhammad Baqir al-Hakim, [[1939年]] - [[2003年]][[8月29日]])は、[[イラク]]の[[シーア派]]([[12イマーム派]])指導者で、反[[サッダーム・フセイン]]組織のひとつ[[イラク・イスラム革命最高評議会]](SCIRI)の指導者。
1939年、[[アーヤトッラー|アーヤトゥッラー]]・サイイド・ムフシン・アル=ハキームの子として、[[ナジャフ]]に生まれた。父ムフシンは、[[1955年]]から[[1970年]]に死ぬまで、12イマーム・シーア派の最高位法学者「[[マルジャエ・タクリード]]」を務めたイスラム法学者であった。ハキーム家は[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の子孫を称する[[サイイド]]の家系で、イラクのシーア派信徒の尊敬を集める法学者の家系である。ハキームは、イラクのシーア派聖地[[ナジャフ]]で育ち、ここで法学を修めた。
彼は[[1950年代]]の終わりごろからイスラム主義政治運動に携わり、その指導者{{仮リンク|ムハンマド・バーキル・サドル|en|Mohammad Baqir al-Sadr}}に従った。[[1970年代]]に入ると彼らシーア派法学者の政治グループは[[バアス党]]政権によって弾圧を受けはじめ、[[1977年]]に逮捕されて終身刑の判決を受けた。[[1979年]]には釈放されたものの、サドルが翌[[1980年]]に処刑さたのを受け、前年シーア派法学者が実権を握っていた[[イラン]]に亡命した。
ハキームは、イランでイラク・イスラム革命最高評議会をつくり、国外におけるシーア派反政府運動指導者となった。同評議会派はその関係上イラン政府とのとの関係が深いとされるが、近年は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と接近していたとも言われる。
2003年、[[イラク戦争]]により、サッダーム・フセイン政権がアメリカに打倒されたのを受け、5月イラクに帰国。ナジャフに入り、アメリカ主導の暫定統治政権に協力的な姿勢を見せた。
8月29日、[[モスク]]での[[金曜礼拝]]の説教を終えたところで爆弾テロを受け、死亡した。
イラク・イスラム革命最高評議会の指導者としての役割は、弟の[[アブドゥルアズィーズ・ハキーム]]が継承した。
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[[Category:ナジャフ出身の人物]]
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ファトワー
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ファトワー(アラビア語: فتوى fatwā, 複数形 فتاوى fatāwā)は、イスラム教(イスラーム)においてイスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のこと。
ファトワーは、これを発令する権利があると認められたムフティーと呼ばれるウラマー(イスラム法学者)が、ムスリムの公的あるいは家庭的な法的問題の質問・要請に対して、口頭あるいは書面による返答として発せられる。これ自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。また、シャリーア(イスラム法)にのっとって裁判を行うカーディーは、法学書の意見とともに権威あるファトワーに従って判決を下す義務があるとみられており、裁判の過程において裁判官が判決の参考とするためにこれを要請したり、原告や被告が自身の主張を法的に裏付けるために勧告してもらうこともあった。また、発せられたファトワーを取り消すことができるのは、それを発したムフティー自身のみである。
高位のムフティーが発するファトワーは、ジハードの呼びかけや君主の改廃など政治的な目的に使われることも多かった。例えばオスマン帝国では、首都イスタンブールのムフティーであるシェイヒュルイスラームが、スルタンの即位と廃位、宣戦と講和、西欧化政策の導入についてもファトワーを出した。現在でもイランでは政治に影響力を持つと言われる。また、エジプトの首都カイロにあるスンナ派イスラムの最高学府アズハルのウラマーたちが発したファトワーは、同派の中では高い権威をもつ勧告として尊重されている。
ファトワーが法的拘束力を持つ国ではこれを発する権限を持つ行政機関が存在しており、それ以外の者がファトワーを発することを禁じている。アラブ首長国連邦ではイスラム宗教局(Department of Awqaf and Islamic Affairs)が発行した物をファトワー調査・執行局(Research and Fatwa Administration)が承認することで法的拘束力を持つ。
サウジアラビアではファトワーは一般法律に優先する場合があり、超法的手段を必要とする事態に対応するためにファトワーが発行されることがある。例として1979年に発生したアル=ハラム・モスク占拠事件では、モスクの中で銃撃戦を行う許可を得るためにファトワー発令の要請が行われた。
基本的にムフティーであれば誰でもファトワーを発行することが出来るため、ムフティーが偏見や私見に基づいてファトワーを濫発する事例が頻繁に起きている。また、ムフティーは周囲のムスリムが認めれば誰でも自称できるため、カルト的集団の指導者がムフティーを名乗りファトワーを発する事例も多く、アルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンもテロや殺人を奨励する主張をファトワーとして発令していた(1996年と1998年の2回にわたり、アメリカがイスラエルを支持するのをやめ中東から軍を引かない限り、ムスリムはアメリカとその同盟国の軍人や市民を殺すべきだとのファトワーを発した)。
また、ファトワーが濫発される事例として多いのが、イスラム教からの棄教者に対する死刑がある。死刑を濫発することはファトワーの権威を失墜させると見なされ、問題になっている。
ファトワーの効力は全てのムスリムに及ぶわけではなく、一つの国や特定の宗派の集団など通常は限られた範囲内でしか効力を持たない。しかし、ポケモン禁止のファトワーのように、一国で発されたファトワーが連鎖的に他の国のムフティーにも影響を与え、同じ内容のものが各地で発された事例もある。
場合によってはムフティー同士で双方の出したファトワーの非難合戦になることもあり、相手の出したファトワーを否定するファトワーを乱発し合う醜い争いになった結果、それに辟易した一般のムスリムが両方のムフティーの言う事を無視してしまうようになり、イスラム教の権威を失墜させる悪しき例とされることがある。
サウジアラビアであるムフティーが発した「ミッキーマウス抹殺」のファトワー(後述)は他のムフティーからも冷笑され、一般人どころか他のウラマーからも支持されなかった。
このような安易な死刑、抹殺、禁止のファトワーは欧米メディアで嘲笑を伴って取り上げられ、また人権侵害として問題になることもあり、イスラム教への偏見を助長することにもなっている。
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ファトワーは、イスラム教(イスラーム)においてイスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のこと。
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{{出典の明記|date=2013年10月}}
{{Islam}}
'''ファトワー'''({{lang-ar|فتوى}} {{lang|ar-Latn|fatwā}}, 複数形 {{lang|ar|فتاوى}} {{lang|ar-Latn|fatāwā}})は、[[イスラム教]]([[イスラーム]])において[[イスラム法学]]に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のこと<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC-615192 |title=世界大百科事典 第2版「ファトワー」の解説 |accessdate=2022-01-27 |publisher=コトバンク}}</ref>。
== 概要 ==
ファトワーは、これを発令する権利があると認められた[[ムフティー]]と呼ばれる[[ウラマー]](イスラム法学者)が、[[ムスリム]]の公的あるいは家庭的な法的問題の質問・要請に対して、口頭あるいは書面による返答として発せられる。これ自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各[[マズハブ|イスラム法学派]]の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。また、[[シャリーア]](イスラム法)にのっとって裁判を行う[[カーディー]]は、法学書の意見とともに権威あるファトワーに従って判決を下す義務があるとみられており、[[裁判]]の過程において[[裁判官]]が判決の参考とするためにこれを要請したり、[[原告]]や[[被告]]が自身の主張を法的に裏付けるために勧告してもらうこともあった。また、発せられたファトワーを取り消すことができるのは、それを発したムフティー自身のみである。
高位のムフティーが発するファトワーは、[[ジハード]]の呼びかけや君主の改廃など政治的な目的に使われることも多かった。例えば[[オスマン帝国]]では、首都イスタンブールのムフティーである[[シェイヒュルイスラーム]]が、スルタンの即位と廃位、宣戦と講和、西欧化政策の導入についてもファトワーを出した<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC-615192 |title=世界大百科事典 第2版「ファトワー」の解説 |accessdate=2022-01-27 |publisher=コトバンク}}</ref>。現在でも[[イラン]]では政治に影響力を持つと言われる。また、[[エジプト]]の首都[[カイロ]]にある[[スンナ派]]イスラムの最高学府[[アズハル]]のウラマーたちが発したファトワーは、同派の中では高い権威をもつ勧告として尊重されている。
ファトワーが法的拘束力を持つ国ではこれを発する権限を持つ行政機関が存在しており、それ以外の者がファトワーを発することを禁じている。[[アラブ首長国連邦]]ではイスラム宗教局(Department of Awqaf and Islamic Affairs)が発行した物をファトワー調査・執行局(Research and Fatwa Administration)が承認することで法的拘束力を持つ。
[[サウジアラビア]]ではファトワーは一般法律に優先する場合があり、超法的手段を必要とする事態に対応するためにファトワーが発行されることがある。例として[[1979年]]に発生した[[アル=ハラム・モスク占拠事件]]では、[[モスク]]の中で銃撃戦を行う許可を得るためにファトワー発令の要請が行われた。
==問題==
基本的にムフティーであれば誰でもファトワーを発行することが出来るため、ムフティーが偏見や私見に基づいてファトワーを濫発する事例が頻繁に起きている。また、ムフティーは周囲のムスリムが認めれば誰でも自称できるため、カルト的集団の指導者がムフティーを名乗りファトワーを発する事例も多く、[[アルカーイダ]]の[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]も[[テロリズム|テロ]]や[[殺人]]を奨励する主張をファトワーとして発令していた([[1996年]]と[[1998年]]の2回にわたり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[イスラエル]]を支持するのをやめ[[中東]]から軍を引かない限り、ムスリムはアメリカとその同盟国の軍人や市民を殺すべきだとのファトワーを発した)。
また、ファトワーが濫発される事例として多いのが、[[イスラム教における棄教|イスラム教からの棄教者]]に対する[[死刑]]がある。死刑を濫発することはファトワーの権威を失墜させると見なされ、問題になっている。
ファトワーの効力は全てのムスリムに及ぶわけではなく、一つの国や特定の宗派の集団など通常は限られた範囲内でしか効力を持たない。しかし、[[ポケットモンスター|ポケモン]]禁止のファトワー<ref>{{cite web |url=http://archives.cnn.com/2001/WORLD/meast/03/26/saudi.pokemon/ |title=Saudi bans Pokemon |accessdate=2016年2月5日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080525034521/http://archives.cnn.com/2001/WORLD/meast/03/26/saudi.pokemon/ |archivedate=2008年5月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>のように、一国で発されたファトワーが連鎖的に他の国のムフティーにも影響を与え、同じ内容のものが各地で発された事例もある。
場合によってはムフティー同士で双方の出したファトワーの非難合戦になることもあり、相手の出したファトワーを否定するファトワーを乱発し合う醜い争いになった結果、それに辟易した一般のムスリムが両方のムフティーの言う事を無視してしまうようになり、イスラム教の権威を失墜させる悪しき例とされることがある。
サウジアラビアであるムフティーが発した「[[ミッキーマウス]]抹殺」のファトワー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2520903?pid=3371011 |title=ミッキーマウスは「悪魔の手先」ではない、エジプトのイスラム聖職者|author=AFP|accessdate=2014-09-04}}</ref>(後述)は他のムフティーからも冷笑され、一般人どころか他のウラマーからも支持されなかった。
このような安易な死刑、抹殺、禁止のファトワーは欧米メディアで嘲笑を伴って取り上げられ、また[[人権蹂躙|人権侵害]]として問題になることもあり、[[イスラム教]]への偏見を助長することにもなっている。
== 著名なファトワー ==
=== 非常事態への対処を行うためのファトワー ===
* [[2005年パリ郊外暴動事件|2005年のパリ郊外暴動事件]]において、[[フランス]]国内のイスラム団体、仏イスラム教団連盟(UOIF)が暴力をいさめるファトワーを発令した。
* [[スマトラ島沖地震]]の被害を受けた[[インドネシア]]のイスラム教における最高権威「インドネシア・ウラマー評議会」が、外国からの援助食料を食べる事を許可するファトワーを発令した。当時、援助食料はあってもイスラム教に則った処理が行なわれていない、あるいは[[豚肉]]などが含まれている可能性もある事から、ムスリムの中には援助食料に手を付けられない者もいるという状況であった。
=== 科学や技術の発展に伴うファトワー ===
* [[2007年]]、[[マレーシア|マレーシア人]]の宇宙飛行士、[[シェイク・ムザファ・シュコア]]の任務に際し、マレーシアのファトワー評議会は、ムスリムの[[宇宙]]滞在中の過ごし方について18ページに及ぶファトワーを発令した。宇宙空間では[[キブラ]](礼拝の方角)や[[ラマダーン]]に伴う断食時間の決定が困難であることなどによる。
* [[オーストラリア]]のムフティー、シェイク・タージ・アルディン・アル・ヒアリは、頭髪および体の線が出ないように設計された女性ムスリム用水着「[[ブルキニ]]」が[[ハラール]](合法)であるとのファトワーを発した。
=== 表現に関わるファトワー ===
* [[1989年]][[2月14日]]、[[イラン]]の[[イランの最高指導者|最高指導者]][[アヤトラ・ホメイニ|アーヤトッラー・ホメイニー]]が『[[悪魔の詩]]』の著者の[[サルマン・ラシュディ]]、及び発行に関わった者などへの死刑を宣告するファトワーを発令した。その後、邦訳者[[五十嵐一]]を殺害した[[悪魔の詩訳者殺人事件]]をはじめ、各国で多くの殺傷事件が発生した。これによって国際社会から[[表現の自由]]の侵害だと大きな非難を招いたものの、ホメイニーがファトワーを取り消すことなく死去したため、事実上撤回することができなくなった。このため、後年イラン政府は「ファトワーを取り消す事はできないが、死刑の奨励は行わない」旨の声明を出した。(後に[[サルマン・ラシュディ刺傷事件]]が発生している)
* エジプトにて[[ムハンマド・ベショーイ・ヘガーズィー]]が、[[イスラム教]]から[[キリスト教]]への改宗を機にIDカードの宗教欄も変更するよう訴訟を起こした際、エジプト国内のムフティー達は、ヘガーズィーへの死刑を宣告するファトワーを相次いで出した。
* 2001年に[[ドバイ]]で[[ポケットモンスター]]が禁忌とされるファトワーが出された。
{{See|ポケットモンスター#イスラム諸国}}
* 2008年8月27日にサウジアラビアのムフティーであるムハンマド・アル=ムナッジド({{Lang|ar|الشيخ محمد صالح المنجد}})がアル・マジドテレビに出演し、「[[ネズミ]]はシャリーアの国では殺されねばならない存在であるため、[[ミッキーマウス]]なども禁止されねばならない」とのファトワーを読み上げた。このファトワーは外国のマスメディアでも取り上げられた。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|イスラーム}}
* [[喫煙の宗教的見解]]
*[[タバコ・ファトワー]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふあとわ}}
[[Category:イスラーム法学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC
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14,412 |
メタセコイア
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メタセコイア(学名: Metasequoia glyptostroboides)は、裸子植物マツ綱のヒノキ科メタセコイア属に属する落葉針葉樹の1種である(図1)。メタセコイアは、メタセコイア属の唯一の現生種である。葉は短枝に羽状に対生し、秋に紅葉して枝とともに落ちる。中国中部原産であるが、世界各地の公園や並木などに植えられている。メタセコイア属は化石植物として1941年に提唱されたが、そのすぐ後によく似た植物が中国で生き残っていることが発見されたため、生きている化石ともよばれる。
英名では dawn redwood とよばれ(dawnは曙、始まり、兆しなどの意味、redwoodはセコイアのこと)、これを元に和名ではアケボノスギともよばれる。学名である Metasequoia glyptostroboides の属名は「後のセコイア」、種小名は「スイショウ属 (Glyptostrobus) に似ている」の意味である。
落葉高木であり、大きなものは高さ50メートル (m)、幹の直径 2.5 m になる(図1, 2a)。幹はしばしばデコボコになり、樹皮は若木では赤褐色、成木では灰褐色、縦に細長く剥がれる(下図2b)。樹冠は若木では円錐形、主枝は不規則に輪生し斜立、枝は対生または対生状につき、宿存性の長枝と一年生の短枝がある。短枝には下記のように多数の葉がついて全体で卵形から楕円形(下図2c)、3–7 × 1.5–4 センチメートル (cm)、秋に落枝し、落枝痕は円く白色、腋に冬芽が1–2個つく。冬芽は長さ2–5ミリメートル (mm)、先端は鈍頭、芽鱗は対生し黄褐色、約 2–2.5 × 2–2.5 mm。
葉は短枝に対生して2列羽状につき、扁平な線形で 8-30 × 1-2 mm、先端は尖るが柔らかく、基部でねじれて無柄、向軸側(表側)は明緑色で中肋は窪み、背軸側(裏面)は緑白色で中肋は突出し、4–8列の気孔からなる気孔帯があるが不明瞭(下図2c)。葉は秋に赤褐色になり、枝についたまま落ちる。
雌雄同株、"花期"は葉の展開前であり、2–3月。"雄花"(雄錐、花粉錐、小胞子嚢穂、雄性胞子嚢穂、雄性球花)は卵形、2.5–5.5 × 2-3.8 mm、短い柄をもち、多数の"雄花"が尾状花序のようなまとまりを形成する(下図3a)。"雄花"は15-20個の小胞子葉からなり、各小胞子葉は2–3個の花粉嚢をもつ。"雄花"は秋に形成されるが、翌春になってから成熟して花粉を放出する。"雌花"(雌錐、種子錐、大胞子嚢穂、雌性胞子嚢穂、雌性球花)は前年枝の頂端または亜頂端に単生し、楕円形、およそ 9 × 5.5 mm、短い柄をもつ。球果は10–12月に熟し、楕円形、1.4-2.5 × 1.6-2.3 cm、成熟に伴って柄が長くなる(下図3b, c)。果鱗は16-30個が対生し、基部はくさび形で上部は盾状、木質、それぞれ種子が5–9個付随する(下図3c)。種子は扁平で倒卵形、約 5 × 4 mm、周囲に翼がある(下図3d)。子葉は2枚。染色体数は 2n = 22。
中国中部に分布し、自生とされるもののほとんどは利川県(湖北省)の標高 750–1500 m に分布するが、一部は竜山県(湖南省)、石柱トゥチャ族自治県(重慶市)から報告されている。また下記のように、日本を含む世界各地で植栽されている。
ふつう谷筋や川岸など湿った場所に生育し、斜面など乾燥した場所には見られない。原産地では水田下から大きな根株が見つかることから、水田を開拓する際に伐採されたと考えられている。実生は明るい場所に生育し、耐陰性は低い。成長は極めて速く(特に暖地)、3年で樹高 2 m、十数年で大木になる。樹齢は近縁種のセコイアやセコイアデンドロンほど長くなく、数百年程度とみられている。これらの特徴から、メタセコイアは植生遷移の比較的初期の段階で出現するパイオニア植物であり、洪水などによって植生が繰り返し更新される環境に生育していたものと考えられている。
国際自然保護連合 (IUCN) のレッドリストでは、絶滅危惧種に指定されている。
下記のように化石植物として報告されたものとほとんど同じ植物が生きていたことからメタセコイアは注目を集め、「生きている化石」とよばれるようになった。また成長が速く樹形が美しいことから、観賞用に世界中で植栽されている(図4)。材を利用するために造林されることもあるが、材はもろくあまり有用ではないとされる。実生または挿し木で増やす。病虫害は少なく、太い枝が切れても数年で傷口を塞ぐ修復力をもつことが知られている。
1948年に米国の植物学者であるチェイニー(Ralph W. Chaney)が発見直後のメタセコイアの種子を持ち帰って播種育成し、1949年に昭和天皇に送るとともに、1950年には化石植物としてのメタセコイア属の提唱者である三木茂が結成したメタセコイア保存会に100本の苗が送られ、保存会から日本国内の研究機関や自治体の植物園に配布された。現在では日本各地の公園、街路樹、校庭などに植えられている。
滋賀県高島市のメタセコイア並木は、日本紅葉の名所100選に選定されている(図4)。また東京都葛飾区の水元公園も「メタセコイアの森」の紅葉で名高い。
メタセコイアの花言葉は、「平和」とされる。
メタセコイア類の化石は北半球の第三紀地層からしばしば見つかっていたが、当初はセコイア属などに分類されていた。しかしセコイア属とは異なり、枝や葉、球果の鱗片が互生ではなく対生すること、また常緑性ではなく落葉性と考えられることなどから、1941年に古植物学者の三木茂によって新属 Metaseqouia が提唱され、セコイア属に分類されていた2つの化石種を、Metasequoia disticha (Heer) Miki (1941) と Metaseqouia japonica (Endo) Miki (1941) に組替えた。直後に始まった太平洋戦争の影響でこの論文はほとんどの国外の研究者の目には触れなかったが、中国北京の静生生物研究所の胡先驌はこの論文を読んでいた。
ちょうど同じ頃、中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)で神木とされていた木(「水杉(スイサン)」とよばれていた)の試料が王戦によって採集された。これを元に研究した胡先驌と鄭萬鈞はこの植物が三木が記載したメタセコイア属に属すると考え、1948年にメタセコイア属の新種として記載した。
古くは、メタセコイアはセコイアなどとともにスギ科に分類されることが多かったが、葉などが対生することからヒノキ科(狭義)に分類されることもあった。しかしスギ科とヒノキ科(狭義)は広義のヒノキ科にまとめられるようになり、2022年現在ではメタセコイアはヒノキ科に分類される。系統的にはセコイア属やセコイアデンドロン属に近縁であると考えられており、これらは合わせてセコイア亜科(Sequoioideae)に分類されている。
メタセコイア属は後期白亜紀に出現したと考えられており、シベリア東部、日本を含む北太平洋沿岸、カナダ極地周辺から化石が報告されている。日本では福島県広野町の後期白亜紀の地層から発見された化石が、国内最古のメタセコイアの化石とされる。古第三紀になると、ヨーロッパを除く北半球の北極圏から中緯度に広く分布していたことが示されている(図5)。やがて新第三紀になると寒冷化によって北極圏では見られなくなり、さらに鮮新世までには世界各地で姿を消した。鮮新世後期から前期更新世になると中央アジアと日本列島のみで化石が見つかるようになるが、前期更新世後期には化石記録がなくなる。
化石として見られるメタセコイアの形態は白亜紀以降ほとんど変化しておらず、大部分の化石は Metasequoia occidentalis (J.S.Newberry) Chaney (1951) に分類される(図5)。また M. occidentalis を現生のメタセコイア(M. glyptostroboides)と同種とする意見もある。
愛媛県伊予市の森の大谷海岸では、郡中層(約200万年前、前期更新世)の材化石が海岸の転石となることがある。この材化石は「扶桑木(ふそうぼく)」とよばれて愛媛県の天然記念物に指定されているが、主にメタセコイアに由来すると考えられている。そのため、伊予市ではメタセコイアが市の木に指定されている。また東京都八王子市の北浅川河床にも、約200万年前のメタセコイアの材化石が露出している。
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メタセコイアは、裸子植物マツ綱のヒノキ科メタセコイア属に属する落葉針葉樹の1種である(図1)。メタセコイアは、メタセコイア属の唯一の現生種である。葉は短枝に羽状に対生し、秋に紅葉して枝とともに落ちる。中国中部原産であるが、世界各地の公園や並木などに植えられている。メタセコイア属は化石植物として1941年に提唱されたが、そのすぐ後によく似た植物が中国で生き残っていることが発見されたため、生きている化石ともよばれる。 英名では dawn redwood とよばれ(dawnは曙、始まり、兆しなどの意味、redwoodはセコイアのこと)、これを元に和名ではアケボノスギともよばれる。学名である Metasequoia glyptostroboides の属名は「後のセコイア」、種小名は「スイショウ属 (Glyptostrobus) に似ている」の意味である。
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{{Otheruses|植物のメタセコイア|3次元コンピュータグラフィックスソフトウェア|Metasequoia}}
{{生物分類表
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|名称 = メタセコイア
|画像 = [[ファイル:Dawn redwood inside Bachkovo Monastery 01.jpg|250px|''Metasequoia glyptostroboides'']]
|画像キャプション = '''1'''. メタセコイア<br />(2018年6月、[[ブルガリア]])
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|科 = [[ヒノキ科]] {{Sname||Cupressaceae}}
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|属 = '''メタセコイア属''' {{Snamei||Metasequoia}}
|種 = '''メタセコイア''' {{Snamei||Metasequoia glyptostroboides|M. glyptostroboides}}
|学名 = {{Snamei||Metasequoia}} {{AU|Hu}} & {{AUY|W.C.Cheng|1948|bio=bot}}<ref name="PWOg">{{cite web|url=https://powo.science.kew.org/taxon/urn:lsid:ipni.org:names:331123-2|title=''Metasequoia''|date=|work=Plants of the World Online|publisher=Kew Botanical Garden|accessdate=2023-03-18}}</ref>{{efn2|name="属名"}}<br />{{Snamei|species|Metasequoia glyptostroboides}} {{AU|Hu}} & {{AUY|W.C.Cheng|1948|bio=bot}}<ref name="YList">{{YList|id = 6453|taxon = Metasequoia glyptostroboides|accessdate = 2016-02-03}}</ref><ref name="PWO">{{cite web|url=https://powo.science.kew.org/taxon/urn:lsid:ipni.org:names:828387-1|title=''Metasequoia glyptostroboides''|date=|work=Plants of the World Online|publisher=Kew Botanical Garden|accessdate=2023-03-18}}</ref>
|シノニム =
* {{Snamei|Sequoia glyptostroboides}} ({{AU|Hu & W.C.Cheng}}) {{AUY|Weide|1962|bio=bot}}<ref name="PWO" />
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|和名 = メタセコイア<ref name="YList" /><ref name="中川2006" /><ref name="大橋2015" />、アケボノスギ(曙杉)<ref name="YList" /><ref name="杉本1987">{{Cite book|author=杉本順一|year=1987|chapter=アケボノスギ属|editor=|title=世界の針葉樹|publisher=井上書店|ncid=BN01674934|page=103}}</ref><ref name="田中2011" />、ヌマスギモドキ<ref name="杉本1987" />、イチイノキ<ref name="杉本1987" />、イチイヒノキ<ref name="塚腰2016">{{Cite journal|author=塚腰実|year=2016|title=メタセコイアの発見と普及 ―三木 茂博士の発見から75年―|journal=化石|volume=100|issue=|pages=1-2|doi=10.14825/kaseki.100.0_1}}</ref>
|英名 = [[:en:dawn redwood|dawn redwood]]<ref name="GBIF">{{Cite web|author=GBIF Secretariat|date=2022|url=https://www.gbif.org/species/5284231|title=''Metasequoia glyptostroboides'' H.H.Hu & W.C.Cheng|website=GBIF Backbone Taxonomy|publisher=|accessdate=2023-03-18}}</ref>, dawn cypress<ref name="GBIF" />, water fir<ref name="GBIF" />
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'''メタセコイア'''([[学名]]: {{Snamei|Metasequoia glyptostroboides}})は、[[裸子植物]][[マツ綱]]の[[ヒノキ科]]メタセコイア属に属する[[落葉]][[針葉樹]]の1種である(図1)。メタセコイアは、'''メタセコイア属'''の唯一の現生種である。[[葉]]は短枝に羽状に[[対生]]し、秋に[[紅葉]]して枝とともに落ちる。[[中国]]中部原産であるが、世界各地の公園や並木などに植えられている。メタセコイア属は化石植物として1941年に提唱されたが、そのすぐ後によく似た植物が中国で生き残っていることが発見されたため、[[生きている化石]]ともよばれる。
英名では {{Lang|en|dawn redwood}} とよばれ(dawnは曙、始まり、兆しなどの意味、redwoodは[[セコイア]]のこと)、これを元に[[和名]]では'''アケボノスギ'''ともよばれる<ref name="田中2011">{{Cite book|author=田中潔|year=2011|chapter=|editor=|title=知っておきたい100の木:日本の暮らしを支える樹木たち|publisher=主婦の友社|isbn=978-4-07-278497-6|page=135}}</ref><ref name="百原1997" />。[[学名]]である {{Snamei|Metasequoia glyptostroboides}} の属名は「後の[[セコイア]]」、[[種小名]]は「[[スイショウ属]] ({{Snamei||Glyptostrobus}}) に似ている」の意味である<ref name="大橋2015" />。
== 特徴 ==
[[落葉]][[高木]]であり、大きなものは高さ50[[メートル]] (m)、[[幹]]の直径 2.5 m になる<ref name="FOC">{{Cite web|author=Flora of China Editorial Committee|date=2010|url=http://www.efloras.org/florataxon.aspx?flora_id=2&taxon_id=200005396|title=Metasequoia glyptostroboides|website=Flora of China|publisher=Missouri Botanical Garden and Harvard University Herbaria|accessdate=2023-03-18}}</ref><ref name="辻井1995">{{Cite book|author=辻井達一|year=1995|chapter=|editor=|title=日本の樹木|publisher=中央公論社|isbn=4-12-101238-0|pages=48–50}}</ref>(図1, 2a)。幹はしばしばデコボコになり、[[樹皮]]は若木では赤褐色、成木では灰褐色、縦に細長く剥がれる<ref name="FOC" /><ref name="TGD">{{Cite web|author=|date=|url=https://www.conifers.org/cu/Metasequoia.php|title=Metasequoia glyptostroboides|website=|publisher=The Gymnosperm Database|accessdate=2023-03-18}}</ref><ref name="鈴木2014">{{Cite book|author=鈴木庸夫・高橋冬・安延尚文|year=2014|title=樹皮と冬芽:四季を通じて樹木を観察する 431種|publisher=誠文堂新光社|page=245|isbn=978-4-416-61438-9}}</ref>(下図2b)。[[樹冠]]は若木では円錐形、主枝は不規則に輪生し斜立、枝は[[対生]]または対生状につき、宿存性の長枝と一年生の短枝がある<ref name="FOC" /><ref name="TGD" /><ref name="中川2006" /><ref name="杉本1987" />。短枝には下記のように多数の[[葉]]がついて全体で卵形から楕円形(下図2c)、3–7 × 1.5–4 [[センチメートル]] (cm)、秋に落枝し、落枝痕は円く白色、腋に冬芽が1–2個つく<ref name="FOC" /><ref name="TGD" /><ref name="鈴木2014" /><ref name="百原1997" />。冬芽は長さ2–5[[ミリメートル]] (mm)、先端は鈍頭、[[芽鱗]]は対生し黄褐色、約 2–2.5 × 2–2.5 mm<ref name="FOC" /><ref name="鈴木2014" /><ref name="百原1997">{{Cite book|author=百原新|year=1997|chapter=メタセコイア|editor=|title=週刊朝日百科 植物の世界 11|publisher=|isbn=9784023800106|pages=217–219}}</ref><ref name="中川2006" />。
[[葉]]は短枝に[[対生]]して2列羽状につき、扁平な線形で 8-30 × 1-2 mm、先端は尖るが柔らかく、基部でねじれて無柄、[[向軸側]](表側)は明緑色で中肋は窪み、[[背軸側]](裏面)は緑白色で中肋は突出し、4–8列の[[気孔]]からなる気孔帯があるが不明瞭<ref name="FOC" /><ref name="平野1997">{{Cite book|author=平野隆久(監修)|year=1997|chapter=|title=樹木ガイドブック|publisher=永岡書店|isbn=4-522-21557-6|page=290}}</ref><ref name="中川2006">{{Cite book|author=中川重年|year=2000|chapter=メタセコイア|editor=|title=樹に咲く花 離弁花1|publisher=山と渓谷社|isbn=4-635-07003-4|pages=616–617}}</ref><ref name="大橋2015">{{cite book|author=大橋広好|year=2015|chapter=メタセコイア|editor=大橋広好, 門田裕一, 邑田仁, 米倉浩司, 木原浩 (編)|title=改訂新版 日本の野生植物 1|publisher=平凡社|isbn=978-4582535310|page=39}}</ref>(下図2c)。葉は秋に赤褐色になり、枝についたまま落ちる<ref name="TGD" /><ref name="田中2011" /><ref name="中川2006" /><ref name="杉本1987" />。紅葉しはじめは短枝に緑色が残り、時間が経つにつれて葉が淡い橙色からレンガ色、赤茶色へと色が濃くなる<ref>{{Cite book|和書|author=林将之|title=紅葉ハンドブック|publisher=[[文一総合出版]]|date=2008-09-27|page=14|ISBN=978-4-8299-0187-8}}</ref>。
{{multiple image
| total_width = 600
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| caption_align = left
| image1 = Viale delle conifere - Villa Taranto.jpg
| caption1 = '''2a'''. 樹形
| image2 = Metasequoia glyptostroboides in Queenstown Gardens (1).jpg
| caption2 = '''2b'''. 樹皮
| image3 = Dawn Redwood Metasequoia glyptostroboides Needles 3264px.jpg
| caption3 = '''2c'''. 枝葉
}}
[[雌雄同株]]、"花期"は葉の展開前であり、2–3月<ref name="FOC" /><ref name="鈴木2014" /><ref name="中川2006" /><ref name="大橋2015" />。"雄花"(雄錐、花粉錐、小胞子嚢穂、雄性胞子嚢穂、雄性球花<ref name="植物形態学">{{Cite web|和書|author=福原達人|date=|url=http://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/kyuukarui.html|title=球果類|website=[http://staff.fukuoka-edu.ac.jp/fukuhara/keitai/index.html 植物形態学]|publisher=|accessdate=2023-02-17}}</ref><ref name="長谷部2020">{{cite book|author=長谷部光泰|year=2020|chapter=|editor=|title=陸上植物の形態と進化|publisher=裳華房|isbn=978-4785358716|page= 205}}</ref><ref name="清水2001">{{cite book|author=清水建美|year=2001|chapter=|editor=|title=図説 植物用語事典|publisher=八坂書房|isbn=978-4896944792|page=260}}</ref>)は卵形、2.5–5.5 × 2-3.8 mm、短い柄をもち、多数の"雄花"が尾状花序のようなまとまりを形成する<ref name="FOC" /><ref name="TGD" /><ref name="鈴木2014" /><ref name="中川2006" />(下図3a)。"雄花"は15-20個の小胞子葉からなり、各小胞子葉は2–3個の花粉嚢をもつ<ref name="FOCg" />。"雄花"は秋に形成されるが、翌春になってから成熟して花粉を放出する<ref name="FOCg" />。"雌花"(雌錐、種子錐、大胞子嚢穂、雌性胞子嚢穂、雌性球花<ref name="植物形態学" /><ref name="長谷部2020" /><ref name="清水2001" />)は前年枝の頂端または亜頂端に単生し、楕円形、およそ 9 × 5.5 mm、短い柄をもつ<ref name="FOCg" /><ref name="FOC" /><ref name="田中2011" />。[[球果]]は10–12月に熟し、楕円形、1.4-2.5 × 1.6-2.3 cm、成熟に伴って柄が長くなる<ref name="FOC" /><ref name="TGD" /><ref name="百原1997" /><ref name="中川2006" />(下図3b, c)。果鱗は16-30個が対生し、基部はくさび形で上部は盾状、木質、それぞれ[[種子]]が5–9個付随する<ref name="FOC" /><ref name="TGD" /><ref name="百原1997" /><ref name="杉本1987" />(下図3c)。種子は扁平で倒卵形、約 5 × 4 mm、周囲に翼がある<ref name="FOCg" /><ref name="TGD" /><ref name="百原1997" /><ref name="中川2006" />(下図3d)。[[子葉]]は2枚<ref name="FOCg" /><ref name="TGD" />。[[染色体]]数は 2''n'' = 22<ref name="FOCg">{{Cite web|author=Flora of China Editorial Committee|date=2010|url=http://www.efloras.org/florataxon.aspx?flora_id=2&taxon_id=120390|title=Metasequoia|website=Flora of China|publisher=Missouri Botanical Garden and Harvard University Herbaria|accessdate=2023-03-18}}</ref><ref name="TGD" /><ref name="大橋2015" />。
{{multiple image
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| caption_align = left
| image1 = 20160114Metasequoia glyptostroboides6.jpg
| caption1 = '''3a'''. "雄花序"
| image2 = Metasequoia glyptostroboides F.jpg
| caption2 = '''3b'''. 若い球果
| image3 = Metasequoia glyptostroboides (dawn redwood cones) 1 (49056830078).jpg
| caption3 = '''3c'''. 球果
}}
[[ファイル:Metasequoia glyptostroboides seeds, by Omar Hoftun.jpg|thumb|center|200px|'''3d'''. 種子]]
== 分布・生態 ==
[[中国]]中部に分布し、自生とされるもののほとんどは[[利川県]]([[湖北省]])の標高 750–1500 m に分布するが、一部は[[竜山県]]([[湖南省]])、[[石柱トゥチャ族自治県]]([[重慶市]])から報告されている<ref name="IUCN" />。また[[#人間との関わり|下記]]のように、日本を含む世界各地で植栽されている。
ふつう谷筋や川岸など湿った場所に生育し、斜面など乾燥した場所には見られない<ref name="TGD" /><ref name="百原1997" /><ref name="百原1994" />。原産地では[[水田]]下から大きな根株が見つかることから、水田を開拓する際に伐採されたと考えられている<ref name="百原1997" />。[[実生]]は明るい場所に生育し、耐陰性は低い<ref name="TGD" /><ref name="百原1997" /><ref name="百原1994" />。成長は極めて速く(特に暖地)、3年で樹高 2 m、十数年で大木になる<ref name="辻井1995" /><ref name="百原1997" />。樹齢は近縁種の[[セコイア]]や[[セコイアデンドロン]]ほど長くなく、数百年程度とみられている<ref name="辻井1995" /><ref name="百原1994" />。これらの特徴から、メタセコイアは[[植生遷移]]の比較的初期の段階で出現するパイオニア植物であり、洪水などによって植生が繰り返し更新される環境に生育していたものと考えられている<ref name="百原1994" />。
[[国際自然保護連合]] (IUCN) の[[レッドリスト]]では、[[絶滅危惧種]]に指定されている<ref name="IUCN" />。
== 人間との関わり ==
[[File:Metasequoia Namiki in 2019-2.jpg|thumb|250px|'''4'''. 紅葉したメタセコイア並木(滋賀県[[高島市]]、[[マキノ高原]])]]
[[#分類と進化|下記]]のように化石植物として報告されたものとほとんど同じ植物が生きていたことからメタセコイアは注目を集め、「[[生きている化石]]」とよばれるようになった<ref name="辻井1995" /><ref name="百原1997" /><ref name="百原1994">{{Cite journal|author=百原新|year=1994|title=メタセコイア属の古生態と古生物地理 (生きている化石)|journal=化石|volume=57|issue=|pages=24-30|doi=10.14825/kaseki.57.0_24}}</ref><ref name="中川2006" />。また成長が速く樹形が美しいことから、観賞用に世界中で植栽されている<ref name="辻井1995" /><ref name="TGD" /><ref name="百原1997" /><ref name="中川2006" />(図4)。材を利用するために造林されることもあるが、材はもろくあまり有用ではないとされる<ref name="TGD" /><ref name="平野1997" /><ref name="辻井1995" /><ref name="中川2006" />。実生または挿し木で増やす<ref name="杉本1987" />。病虫害は少なく、太い枝が切れても数年で傷口を塞ぐ修復力をもつことが知られている<ref name="田中2011" />。
1948年に[[米国]]の植物学者であるチェイニー(Ralph W. Chaney)が発見直後のメタセコイアの[[種子]]を持ち帰って播種育成し、1949年に[[昭和天皇]]に送るとともに、1950年には化石植物としてのメタセコイア属の提唱者である[[三木茂 (植物学者)|三木茂]]が結成したメタセコイア保存会に100本の苗が送られ、保存会から日本国内の研究機関や自治体の植物園に配布された<ref name=塚腰2016 /><ref name="大橋2015" /><ref name="荻野2005" /><ref name="辻井1995" />。現在では日本各地の[[公園]]、[[街路樹]]、[[校庭]]などに植えられている<ref name="平野1997" /><ref name="田中2011" />。
[[滋賀県]][[高島市]]のメタセコイア並木<ref>{{Cite web|和書|author = |date = |url = http://www.takashima-kanko.jp/spot/makino/532.html|title = メタセコイア並木|work = 高島市観光情報 ―人と自然のおもてなし―|publisher = びわ湖高島観光協会|accessdate = 2011-11-19}}</ref>は、[[日本紅葉の名所100選]]に選定されている(図4)。また[[東京都]][[葛飾区]]の[[水元公園]]も「メタセコイアの森」の紅葉で名高い<ref>{{Cite web|和書|title=水元公園の紅葉(東京都)|url=https://koyo.walkerplus.com/detail/ar0313e160399/|website=紅葉名所2020 - ウォーカープラス|accessdate=2021-04-17|language=ja}}</ref>。
メタセコイアの[[花言葉]]は、「平和」とされる<ref name="田中2011" />。
== 分類 ==
=== 発見の経緯 ===
メタセコイア類の[[化石]]は[[北半球]]の[[第三紀]]地層からしばしば見つかっていたが、当初は[[セコイア属]]などに分類されていた<ref name="百原1997" />。しかしセコイア属とは異なり、枝や葉、球果の鱗片が[[互生]]ではなく[[対生]]すること、また常緑性ではなく落葉性と考えられることなどから、1941年に古植物学者の[[三木茂 (植物学者)|三木茂]]によって新属 {{Snamei|Metaseqouia}} が提唱され{{efn2|name="属名"|{{Snamei|Metaseqouia}} の名は Miki (1941) によって提唱されたが、学名としては現生種に基づいた Hu & Cheng (1948) が著者となる<ref name="大橋2015" />。}}、セコイア属に分類されていた2つの化石種を、{{Snamei|Metasequoia disticha}} ({{AU|Heer}}) {{AUY|Miki|1941|bio=bot}} と {{Snamei|Metaseqouia japonica}} ({{AU|Endo}}) {{AUY|Miki|1941|bio=bot}}{{efn2|name="Metaseqouia japonica"|2023年現在では、この名は無効名であり、{{Snamei|Metasequoia occidentalis}} ({{AU|J.S.Newberry}}) {{AUY|Chaney|1951|bio=bot}} のシノニムとされ、また現生のメタセコイア({{Snamei|Metasequoia glyptostroboides}})と同種とする意見もある<ref name="化石データベース">{{Cite web|author=|date=|url=https://trekgeo.net/f/d/metasequoiaOccidentalis.htm|title=Metasequoia occidentalis|website=化石データベース|publisher=|accessdate=2023-03-24}}</ref>。}} に組替えた<ref name=塚腰2016 /><ref>{{Cite web|和書|url = http://www.takeda.co.jp/kyoto/area/plantno31.html|title = メタセコイア: 京都薬用植物園|publisher = [[武田薬品工業株式会社]]|accessdate = 2011-11-19}}</ref><ref name="tukagosi">{{Cite book|和書|author = 塚越実|editor = 化石研究会編|title = 化石から生命の謎を解く : 恐竜から分子まで|year = 2011|publisher = [[朝日新聞出版]]|series = [[朝日選書]]|isbn = 978-4-02-259977-3|page = 35|chapter = 生きている化石メタセコイア}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author = 西影裕一|date = 2007-05-15|url = http://www.city.himeji.lg.jp/atom/wadai/manako/410_s.pdf|title = 生きた化石 メタセコイア(アケボノスギ)|format = PDF|work = 科学の眼|publisher = [[姫路科学館]]|accessdate = 2011-11-19}}</ref>。直後に始まった[[太平洋戦争]]の影響でこの論文はほとんどの国外の研究者の目には触れなかったが、中国北京の静生生物研究所の胡先驌はこの論文を読んでいた<ref name=塚腰2016 />。
ちょうど同じ頃、[[中国]][[四川省]]磨刀渓村(現在は[[湖北省]][[利川市 (湖北省)|利川市]])で神木とされていた木(「水杉(スイサン)」とよばれていた)の試料が王戦によって採集された<ref name="百原1997" /><ref name="大橋2015" />。これを元に研究した胡先驌と[[鄭萬鈞]]はこの植物が三木が記載したメタセコイア属に属すると考え、1948年にメタセコイア属の新種として記載した<ref name="百原1997" /><ref name=塚腰2016 /><ref name="大橋2015" /><ref name="荻野2005">{{Cite journal|author=荻野博|year=2005|title=メタセコイアの「100 本の苗」|journal=学術の動向|volume=10|issue=11|pages=83-83|doi=10.5363/tits.10.11_83}}</ref>。
=== 上位分類 ===
古くは、メタセコイアは[[セコイア]]などとともに[[スギ科]]に分類されることが多かったが<ref name="百原1997" /><ref name="中川2006" />、葉などが対生することからヒノキ科(狭義)に分類されることもあった<ref name="杉本1987" />。しかしスギ科とヒノキ科(狭義)は広義の[[ヒノキ科]]にまとめられるようになり、2022年現在ではメタセコイアはヒノキ科に分類される<ref name="PWO" /><ref name="TGD" /><ref name="大橋2015" />。系統的には[[セコイア属]]や[[セコイアデンドロン属]]に近縁であると考えられており、これらは合わせてセコイア亜科({{Sname||Sequoioideae}})に分類されている<ref name="APweb" />。
=== 化石記録 ===
[[ファイル:Metasequoia occidentalis.jpg|thumb|right|250px|'''5'''. {{Snamei|Metasequoia occidentalis}}([[暁新世]]、[[カナダ]])]]
メタセコイア属は[[後期白亜紀]]に出現したと考えられており、[[シベリア]]東部、日本を含む北太平洋沿岸、[[カナダ]]極地周辺から化石が報告されている<ref name="寺田2021" /><ref name="百原1997" />。日本では[[福島県]][[広野町]]の後期[[白亜紀]]の地層から発見された化石が、国内最古のメタセコイアの化石とされる<ref>[https://kahoku.news/articles/20210119khn000043.html 福島の地層で国内最古のメタセコイア化石 県立博物館の学芸員が発見] [[河北新報]]、2023年3月24日閲覧</ref>。[[古第三紀]]になると、[[ヨーロッパ]]を除く北半球の北極圏から中緯度に広く分布していたことが示されている<ref name="寺田2021" /><ref name="百原1997" />(図5)。やがて[[新第三紀]]になると寒冷化によって北極圏では見られなくなり、さらに[[鮮新世]]までには世界各地で姿を消した<ref name="百原1997" />。鮮新世後期から前期[[更新世]]になると中央アジアと日本列島のみで化石が見つかるようになるが、前期[[更新世]]後期には化石記録がなくなる<ref name="寺田2021" /><ref name="百原1997" />。
化石として見られるメタセコイアの形態は[[白亜紀]]以降ほとんど変化しておらず、大部分の化石は {{Snamei||Metasequoia occidentalis}} ({{AU|J.S.Newberry}}) {{AUY|Chaney|1951|bio=bot}} に分類される<ref name="百原1997" />(図5)。また ''M. occidentalis'' を現生のメタセコイア({{Snamei|Metasequoia glyptostroboides|M. glyptostroboides}})と同種とする意見もある<ref name="化石データベース" />。
[[愛媛県]][[伊予市]]の森の大谷海岸では、郡中層(約200万年前、前期[[更新世]])の材化石が海岸の転石となることがある<ref name="寺田2021">{{Cite journal|author=寺田和雄|year=2021|title=愛媛県伊予市の更新統郡中層から産出した扶桑木の樹種|journal=愛媛県総合科学博物館研究報告|volume=26|issue=|pages=43-49|crid=1520573331291266048}}</ref>。この材化石は「扶桑木(ふそうぼく)」とよばれて愛媛県の天然記念物に指定されているが、主にメタセコイアに由来すると考えられている<ref name="寺田2021" /><ref name="伊予市" />{{efn2|name="扶桑木"|ただし扶桑木の1つの詳細な観察からは、この扶桑木がメタセコイアではないことが示されており、芙蓉木の全てがメタセコイアであるわけではない<ref name="寺田2021" />。}}。そのため、伊予市ではメタセコイアが市の木に指定されている<ref name="伊予市">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.city.iyo.lg.jp/machizukuri/kanko/guidemap/shiosai.html|title=森の海岸・しおさい公園|website=|publisher=伊予市|accessdate=2023-03-22}}</ref>。また東京都[[八王子市]]の[[北浅川]]河床にも、約200万年前のメタセコイアの材化石が露出している<ref name="小澤2022">{{Cite journal|author=小澤菜々子 & 吉田孝紀|year=2022|title=東京都八王子市北浅川における更新統の古環境 ―特にメタセコイア化石林における古土壌構成―|journal=信州大学環境科学年報|volume=44|issue=|pages=45–48|url=https://www.shinshu-u.ac.jp/group/env-sci/Vol44/paper2022/44-06_Ozawa-Yoshida.pdf}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=藤本治義|coauthors=木村達明・吉山寛|title=調査資料 第10号 八王子北浅川河床で発見したメタセコイア化石林の研究|year=1971|publisher=日本私学教育研究所|id={{全国書誌番号|69027665}}|isbn=|oclc=674557750|ASIN=B000J9VEB6|page=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=藤本治義|coauthors=鈴木哲|title=調査資料 第29号 八王子市・北浅川河床の基盤岩から産出したメタセコイア化石樹幹の年輪研究 第1報|year=1974|publisher=日本私学教育研究所|id={{全国書誌番号|69027667}}|isbn=|oclc =703761837|ASIN=B000J9VEAM|page=}}</ref><ref name="八王子市">{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p020593.html|title=生きている植物化石 メタセコイア|website=|publisher=八王子市|accessdate=2023-03-25}}</ref>。
== ギャラリー ==
<gallery style="font-size:80%;>
ファイル:Britain's first Dawn Redwood - geograph.org.uk - 4005116.jpg|樹形
ファイル:Metasequoia Forest, Damyang, Jeolla, Korea.jpg|[[紅葉]]した並木(韓国)
ファイル:Metasequoia avenue of the Seitaikei Park 20211107c.jpg|紅葉した並木(秋田県)
ファイル:Botanical garden – spring 9144.jpg|[[幹]]
ファイル:Metasequoia glyptostroboides in Queenstown Gardens (2).jpg|[[葉]]
ファイル:Metasequoia glyptostroboides (dawn redwood cone) 3 (49057562732).jpg|[[球果]](果鱗が対生している)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* 旧[[スギ科]]: [[コウヨウザン属]]、[[タイワンスギ属]]、[[タスマニアスギ属]]、[[セコイア属]]、[[セコイアデンドロン属]]、[[ヌマスギ属]]、[[スイショウ属]]、[[スギ属]]
* [[三木茂 (植物学者)|三木茂]] … メタセコイア属の名を最初に提唱した古植物学者
* [[三木町]] … 三木茂(上記)出身の香川県の町であり、博士の功績を記念し、メタセコイアを町のシンボルとしている。
* メタセコイアが植樹されている施設: [[東京都立秋川高等学校]]、[[大阪市立大学]]、[[大阪市立大学理学部附属植物園]]、東京都町田市立忠生第三小学校
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Metasequoia glyptostroboides}}
{{Wikispecies|Metasequoia glyptostroboides}}
* {{Cite web|url=https://powo.science.kew.org/taxon/urn:lsid:ipni.org:names:828387-1|title=''Metasequoia glyptostroboides''|date=|work=Plants of the World Online|publisher=Kew Botanical Garden|accessdate=2023-03-18}}(英語)
* {{Cite web|author=Flora of China Editorial Committee|date=2010|url=http://www.efloras.org/florataxon.aspx?flora_id=2&taxon_id=200005396|title=Metasequoia glyptostroboides|website=Flora of China|publisher=Missouri Botanical Garden and Harvard University Herbaria|accessdate=2023-03-18}}(英語)
* {{Cite web|author=|date=|url=https://www.conifers.org/cu/Metasequoia.php|title=Metasequoia glyptostroboides|website=|publisher=The Gymnosperm Database|accessdate=2023-03-18}}(英語)
* {{Cite web|和書|author = [[波田善夫]]|date = |url = http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/gymnospermae/taxodiaceae/metasekoia/metasecoia.htm|title = メタセコイア|work = 植物雑学事典|publisher = [[岡山理科大学]]生物地球学部|accessdate = 2023-03-23}}
* {{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82978046665.htm|title=メタセコイア(化石)|publisher=[[三重県立博物館]]|accessdate=2023-03-25}}
* {{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p020593.html|title=生きている植物化石 メタセコイア|website=|publisher=八王子市|accessdate=2023-03-25}}
{{Good article}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:めたせこいあ}}
[[Category:ヒノキ科]]
[[Category:生きている化石]]
[[Category:観賞用樹木]]
[[Category:中国国家一級保護植物]]
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2003-08-29T23:49:15Z
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2023-12-16T07:34:37Z
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進化
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進化(しんか、ラテン語: evolutio, 英語: evolution)は、生物の形質が世代を経る中で変化していく現象のことである。
生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない。
狭義に、種以上のレベルでの変化のみを進化とみなすこともあるが、一般的ではない。逆に、文化的伝達による累積的変化や生物群集の変化をも広く進化と呼ぶこともある。日常表現としては単なる「変化」の同義語として使われることも多く、恒星や政治体制が「進化」表現されるということもあるが、これは生物学でいう進化とは異なる。
進化過程である器官が単純化したり、縮小したりすることを退化というが、これもあくまで進化の一つである。退化は進化の対義語ではない。
生物は不変のもためはなく、共通祖先から長大な年月の間に次第に変化して現生の複雑で多様な生物が生じたということが、膨大な証拠から分かっている。
進化論は、チャールズ・ダーウィンら複数の博物学者が動物や植物の分類学的な洞察から導きだした仮説から始まった。現在の自然科学ではこの説を裏付ける証拠が、形態学・遺伝学・比較発生学・分子生物学など様々な分野から提出されており、「進化はほぼ確実に起こってきた事実である」と生物学者・科学者からは認められている。
進化をはっきりと示す化石証拠はダーウィンの時代には乏しかったが、現在では豊富に存在する。まず全体的なパターンとして、単純で祖先的と思われる生物は古い地層からも発見されるが、複雑で現生種に似た生物は新しい地層からしか見つからない。
化石証拠の豊富な生物については、化石を年代順に並べることで、特定の系統の進化を復元することもできる。プランクトンは死骸が古いものから順に連続的に堆積していくため、このような研究が容易であり、有孔虫や放散虫、珪藻の形態が徐々に進化し、時には種分化する過程が確認できる。プランクトン以外にも、三葉虫の尾節の数の進化を示す一連の化石などがある。
進化を否定する創造論者は、分類群間の中間的な特徴を示す化石が得られないことを指して「ミッシング・リンク」と呼んでいる。しかし、分類群間の移行段階と考えられる化石は既に一部得られている。
分類群の起源となった種そのものを見つけるのは確かに困難だが、その近縁種の化石があれば、進化過程を解明するのに充分である。たとえば爬虫類と鳥類の特徴を併せ持つ化石には有名な始祖鳥に加えて、多数の羽毛恐竜がある。クジラの進化過程は、時折水に入る陸生哺乳類であったインドヒウスに始まり、徐々に水中生活に適応していく一連の化石から明らかになっている。
現在の魚類と両生類をつなぐ移行化石としてはエウステノプテロン、パンデリクチス、アカンソステガ、イクチオステガなどが知られていたが、さらにパンデリクチスよりも両生類に近く、アカンソステガよりも魚類に近いティクターリクが2006年に発表された。無脊椎動物では、祖先的なハチの特徴と、より新しく進化したアリの特徴を併せ持つアケボノアリなどの例がある。
移行化石は次々と発見されており、たとえば2009年には、鰭脚類(アシカやアザラシ)と陸上食肉類との中間的な特徴を示す化石や、真猿類の祖先に近縁だと考えられるダーウィニウスの化石が報告されている。人類が他の類人猿に似た祖先から進化してくる過程を示す化石も見つかっている。
生物の分布がいかにして成立してきたかを探る分野である生物地理学は、進化を支持する強力な証拠をもたらす。進化生物学者のコイン(英語版)によれば、創造論者は生物地理学上の証拠に反論することができないため、無視を決め込んでいるという。
火山活動などによる海底の隆起によってできた、大陸と繋がったことのない島を海洋島と呼ぶ。ガラパゴス諸島やハワイ諸島、小笠原諸島といった海洋島の在来生物相には海を渡れない両生類、コウモリを除く哺乳類、純淡水魚がほとんど、あるいは全く含まれないのが普通である。それに対して大陸と繋がった歴史のある島には、哺乳類や両生類が普通に分布している。しかも島に棲む生物は、ほとんどの場合最も近い大陸の生物と近縁である。このようなパターンでは、生物が地球の歴史の中でその分布を広げながら進化してきたと考えない限り理解できない。
地域が違うと、似たような生息環境であっても異なる生物が分布することがあり、これも進化の証拠となる。同じ砂漠でも新世界にはサボテン科、旧世界にはキョウチクトウ科やトウダイグサ科の乾燥に適応した植物が生息している。
ダーウィンの時代には知られていなかったが、地球の歴史上、大陸は長い時間をかけて移動し、離合集散を繰り返してきた(大陸移動説)。生物の分布のなかには、かつて繋がっていた大陸に共通祖先がいて、大陸の分裂に伴って系統が分岐したと考えることでうまく説明できるものも多くある。たとえばシクリッド科の淡水魚や走鳥類の分布は、かつてのゴンドワナ大陸が複数の大陸に分裂した過程で分岐してきたことで成立したと考えられる。
輪状種の存在も、生物がわずかな変化を累積して連続的に進化してきたことの傍証となる。輪状種とは、ある場所では互いに交配せず、別種として区別できる生物が、実は多数の中間型によって連続している場合を指す。ヨーロッパ北西部ではセグロカモメとニシセグロカモメが互いに交配せず別種であると識別できるが、そこから東に向かい、北極の周りを一周してヨーロッパに戻ると、ニシセグロカモメが次第に変化してセグロカモメにいたる一連の亜種が観察でき、明瞭な種の区別はない。
進化の証拠は化石だけではなく、現生生物の形態を比較することからも得られている。たとえば陸上脊椎動物は外見上非常に多様であり、コウモリや鳥のように飛翔するものまで含まれる。それにもかかわらず、すべて基本的には同一の骨格を持ち、配置を比較することで相同(進化的な由来を同じくする)な骨を特定することができる。このことは、陸上脊椎動物が単一の共通祖先を持ち、祖先の形態を変化させながら多様化してきたことを示している。それぞれの種が独立に誕生したとしたら、鳥の翼と哺乳類の前脚のように全く機能の異なるものを、基本的に同一の骨格の変形のみで作る必然性はない。
機能が異なっていても由来と基本的構造を同じくする相同とは逆に、由来や構造の異なる器官が同一の機能を果たし、類似した形態を持つことを相似という。たとえばコウモリと鳥、翼竜はどれも前肢が翼となっているが、翼を支持する骨は大きく異なっている。鳥は羽毛によって翼の面積を大きくしており、掌や指の骨の多くは癒合して数を減らしているのに対し、コウモリは掌と指の骨を非常に長く発達させて、その間に膜を張ることで翼を構成している。その一方で、翼竜の翼は極端に長く伸びた薬指1本で支持されている。これは、翼を持たなかった共通祖先から、翼を持つ系統がそれぞれ別個に進化してきた(収斂進化)と考えれば合理的に理解できる。
進化がもともとの形態を改変して進んできたのだとしたら、生物には祖先の形態の名残が見られるはずである。実際に痕跡の例は枚挙に暇がなく、飛べない鳥の持つ痕跡的な翼、洞窟に住むホラアナサンショウウオ(英語版)の痕跡的な眼、ヒトの虫垂などが挙げられる。このような現象は、退化と言われ、進化の一側面をなすと考えられる。これらの器官は必ずしも何の機能も持たないわけではないが、本来の機能を果たしていた祖先からの進化を考えない限り、その存在を説明することはできない。
同様の証拠は解剖学のみならず、遺伝子の研究からも得られている。分子生物学の研究により、生物のゲノムには多数の偽遺伝子が含まれることが明らかになった。偽遺伝子とは、機能を持つ遺伝子と配列が似ているにもかかわらず、その機能を失っている塩基配列のことである。偽遺伝子は、かつて機能していた遺伝子が、環境の変化などによって不要になり、機能を失わせる突然変異が自然選択によって排除されなくなったことで生じると考えられている。一例として、嗅覚受容体の遺伝子が挙げられる。多くの哺乳類は嗅覚に強く依存した生活をしているため、多数の嗅覚受容体遺伝子を持つ。しかし視覚への依存が強く嗅覚の重要性が低い霊長類や、水中生活によって嗅覚が必要なくなったイルカ類では、嗅覚受容体遺伝子の多くが偽遺伝子として存在している。これは、霊長類やイルカ類が、より嗅覚に依存する生活をしていた祖先から進化したことを強く示唆している。
進化は既存の形態を徐々に変化させて進んでいくもためあり、一から設計しなおすようなことは起こらない。その結果として機能的に不合理な形態に進化してしまうことがある。極端な例は反回神経である。これは喉頭と脳をつなぐ神経であり、サメではその間を最短に近い経路で結んでいる。しかし、脊椎動物の進化過程で胸や顎の構造が変化するなかで、哺乳類では、この神経は喉頭から心臓の辺りまで下り、その後また上昇して脳にいたるという明らかな遠回りをするようになった。その結果、直線で結べば数センチメートルでよいはずの神経が、ヒトでは10センチメートル程度、キリンでは数メートルに及ぶ長さになっている。同様に哺乳類の輸精管は、精巣とペニスを最短距離で結ぶためはなく、尿管の上まで迂回するように伸びている。これは、哺乳類の進化過程で体内にあった精巣が下に下りてきたときに生じた不合理であると考えられる。同様の不合理な形態は、人体にも数多く見られる。
生物分類学の祖とされるリンネはダーウィンより前の時代に生きた創造論者だったが、入れ子状の階層的な分類体系を構築した。生物が共通祖先から分岐を繰り返して多様化してきたものだと考えれば、入れ子の各階層は一つの分岐点を反映するものとして解釈できる。そのため、形態に加えてDNAの塩基配列を含むさまざまな特徴が、例外はあるもののかなり一致した入れ子状の分類体系を支持するという事実は、共通祖先からの進化によって説明できる。
近年ではDNAの比較に基づく系統推定が盛んに行われている。このとき、複数の遺伝子をそれぞれ解析すると、細部は異なるにせよおおまかに一致した系統樹を支持することが多い。もし生物がそれぞれ別個に起源していたとしたら、異なる遺伝子が同じ傾向を示すと考える理由はないだろう。
多細胞生物は一細胞の卵から胚発生の過程を経て体を形成していく。この過程にも、進化の証拠が多く見られる。
有名なのは、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの唱えた反復説である。ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われるように、生物は胚発生の過程でその祖先の形態を繰り返すと主張した。現在では、この説は必ずしも成り立たないものとされているが、それでも発生過程に進化の痕跡を見て取れるのは確かである。たとえば脊椎動物の胚はすべて魚のような形態をしており、哺乳類のように成体では鰓を持たないものの胚も鰓弓を持つ。
以上の証拠は過去の進化過程を明らかにするものだが、現在進んでいる進化が観察されたこともある。古典的な例はオオシモフリエダシャクの工業暗化である。このガには白色型と黒色型がいるが、工業の発展に伴う煤煙で樹木表面が黒く汚れた結果、捕食者である鳥から姿を隠しやすい黒色型のガが急激に頻度を増した。次いで有名なのはガラパゴスフィンチの事例で、グラント夫妻らの30年以上にわたる長期の調査により、環境変動に伴う自然淘汰が嘴の進化を引き起こしたことが確認されている。病原菌や害虫に抗生物質や殺虫剤で対処しようとすると、急速に薬剤抵抗性が進化することもよく知られている。
ロシアの神経細胞学者であるリュドミラ・ニコラエブナ・トルット(英語版)とロシア科学アカデミーの遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフは共同研究でキツネの人為選択による馴致化実験を行った。100頭あまりのキツネを掛け合わせ、もっとも人間になつく個体を選択して配合を繰り返すことで、わずか40世代でイヌのようにしっぽを振り、人間になつく個体を生み出すことに成功した。同時に、耳が丸くなるなど飼い犬のような形質を発現することも観察された。これはなつきやすさという性質が、(自然、あるいは人為的に)選択されうることを示している。
人為的に進化を引き起こす研究も行われている。エンドラーはグッピーを異なる環境に移動させることによって、雄の体色が捕食者と雌による配偶者選択に応じて進化することを明らかにした。レンスキーらは大腸菌の長期培養実験によって、代謝能力の進化を観察している。また人為淘汰による進化は、農業における品種改良に応用されている。植物では、倍数化による種分化(後述)を実験的に再現することにも成功している。
現在、進化を説明する理論として最も支持されているのは進化の総合説と呼ばれるもため、ダーウィンとウォーレスの自然選択説と、メンデルの遺伝子の理論、集団遺伝学の理論や木村資生の中立進化説を統合したもためある。この総合説によれば、突然変異によって生じた遺伝子の変異はランダムでない自然選択と、確率的に起こる遺伝的浮動によって個体群中に固定し、新しい形質の出現や種分化などの進化現象を引き起こすと考えられる。
ある形質について変異が全くなければ、その形質は進化しない。変異があっても、その変異が次世代に伝わる傾向がなければ(すなわち、遺伝しなければ)進化は起こらない。
遺伝において親から子に受け渡されるのは遺伝子であり、その実体はDNAの塩基配列情報である。DNAは細胞分裂に際して複製されるが、その過程でエラー、すなわち突然変異が起こることがある。これによって生じる個体差が遺伝的変異である。さらには、突然変異によって生じた遺伝子が有性生殖や接合によって組み換えられることによっても、新しい遺伝的変異が生じる。
DNA配列上には現れないが遺伝子発現の変化による遺伝形質の変化についても、研究が進められている。塩基配列の変化を伴わない遺伝子の制御はエピジェネティクスと呼ばれ、DNAのメチル化による遺伝子発現抑制やヒストンの化学修飾による遺伝子発現変化などがある。しかしこの様な化学修飾は細胞分化に大きな役割を持ち、化学修飾が多世代を超えて長期間維持されることはないため、進化の原動力になるか疑問である。ただゲノムには狭義の遺伝子(コーディング領域)のみでなく遺伝子の制御領域(プロモーターやシスエレメント)があり、遺伝子の制御領域の突然変異が進化の原動力になる事がある。
一般的に、突然変異は「ランダム」に起こると言われる。これは、環境に応じて適応的な変異がより生じやすくなるというようなことはないという意味であり、あらゆる意味でランダムというわけではないということに注意する必要がある。ラマルクは、より多く使われた器官が発達し、その発達が次世代に遺伝することで適応的な遺伝的変異が生じるとした(用不用説)が、この説は誤りであることがわかっている。突然変異はこのような説を否定する意味においてのみ「ランダム」である。実際には突然変異はあらゆる意味で「ランダム」とは言えず、たとえば放射線や発癌性物質によって誘発される。
突然変異は発生の過程を変化させることによって表現型を変化させるため、変化の範囲には限りがある。この制約がどの程度実際の進化に影響するかについては議論がある。
この他に、他の生物が持つ遺伝子が他生物に取り込まれることでその遺伝子を獲得することがある(遺伝子の水平伝播)。
遺伝的変異が生じても、その変異(あるいはその変異のもととなる対立遺伝子)を持つ個体が子孫を残さなければ、その変異は個体群から消失する。しかし一部の変異は頻度を増して個体群内に定着(固定)し、個体群の特徴を変化させることになる。
対立遺伝子頻度は、以下の2つの過程によって変化する。
一部の遺伝的変異はそれを持つ生物個体の適応度(生存と繁殖)に影響する。その多くは適応度を低下させるため、それを持つ個体は子孫を残せず、変異は消失する(負の自然選択)。しかし、中には適応度を高める突然変異もある。たとえばレンスキーらは大腸菌の長期培養実験のなかで、クエン酸塩を利用できるようになる突然変異が稀に生じるのを観察した。
適応度を高める対立遺伝子は、それを持つ個体が持たない個体よりも平均して多くの子孫を残すため、個体群内で頻度を増す。この過程を正の自然選択という。正の自然選択によって、生物個体群は世代を経るにつれてより適応的な形質を持つように進化していく。自然選択は、適応進化を説明できる唯一の機構である。
自然選択において有利になる形質は環境条件によって異なる。モリマイマイ(英語版)(ヨーロッパに生息するカタツムリの一種)の殻の色彩は変異が大きく、個体群によって色と模様が異なる。これは、生息環境によって捕食者の目を逃れるのに適した色、体温調節に適した色が異なるため、自然選択によって個体群ごとに異なる色彩が進化したのだと考えられる。形質の適応度がその頻度によって決まることもある。たとえば、もし捕食者が多数派の模様を学習し、まれなタイプの模様はあまり食べないということがあれば、ある模様の適応度がその頻度が少ないときに高くなる。このような自然選択を頻度依存選択と呼ぶ。
広義には自然選択に含まれるが、性選択も適応度に影響する。性選択は、配偶者をめぐる同性間の競争や、異性による配偶者の選り好みによって起こる選択のことをいう。たとえばコクホウジャク(英語版)という鳥では、長い尾羽を持つ雄が雌に好まれるため、そのような雄の適応度は高くなる。
自然選択は個体あるいは遺伝子を単位として考えられることが多いが、かつては個体の集まったグループを単位とした自然選択(群選択あるいは集団選択)が重視されていた。かつてのような粗雑な群選択理論は今では否定されているが、グループを含む複数の階層での選択を考慮する複数レベル選択説が提唱されており、その重要性について議論になっている。
遺伝的変異の中には、適応度に全く、あるいはごくわずかしか影響しないものも多い。その場合には、遺伝子頻度はランダムに、確率的に変動することになる。また適応度に影響する場合でも、確率的な変動の影響は受ける。このランダムな遺伝子頻度の変化を遺伝的浮動という。遺伝的浮動はとくに数の少ない個体群において重要である。そのため、少数の個体が新しい生息地に移住して定着した場合に遺伝子頻度が大きく変化することがあり、これを創始者効果という。
木村資生は、遺伝子レベルの進化においては遺伝的浮動が重要であると指摘した(分子進化の中立説)。分子進化の中立説は、塩基配列のデータをよく説明できる。表現型レベルでも、適応度上中立な変化であれば遺伝的浮動によって進化することはありうるが、実際にはほとんどないと考えられている
化石が多く見つかっている系統の進化速度は、より新しい化石と古い化石の形態を比較することで調べることができる。量的な形態進化の速度は、100万年あたりネイピア数倍(約2.7倍)の変化を1ダーウィンとして定義する。離散的な形態の進化については、いくつかの形質状態を定義して、その変化の回数を数えることで計測できる。分類群の数を利用した進化速度の定義もあり、ある期間におけるある系統がいくつの種(あるいは属などより高次の分類群)に分けられるかによって進化速度を測定する。たとえば、ウマ類の系統は現生のものを除くと、5000万年の間に8属を経過してきたため、約625万年あたり1属の進化速度で進化してきたと計算できる。
進化速度は系統によって大きく異なり、進化速度が非常に遅いために祖先の化石種とほとんど変わらない形態を持つものを生きている化石と呼ぶ。ただし、同じ系統でも進化速度は一定ではない。たとえばハイギョ類は生きている化石として有名であり、確かに中生代以降の進化速度はかなり遅いが、古生代においてはむしろ急速に進化していた。また、すべての形質の進化速度が同じ傾向を示すわけでもない。ヒトの系統が脳の大きさに関して他の霊長類、たとえばアイアイに比べて急速な進化を遂げてきたのは明らかだが、同時にアイアイの歯はヒトの歯よりも初期霊長類と比べて違いが大きく、歯の形態に関してはアイアイのほうが進化速度が速かったと考えられる。
形態の進化速度に関わる断続平衡説については、種分化との関連で後ほど取り上げる。
分子レベルの進化速度は、単位時間(あるいは世代数)あたりの塩基置換数として計測できる。分子進化の中立説によれば、世代あたりの塩基置換速度は中立な突然変異率によって決まるため、突然変異率が一定ならば一定の速度で進化すると予測される。この予測は、塩基配列の比較から系統が分岐した年代を推定する分子時計の根拠となっている。
わずかな塩基配列の変化で機能が損なわれるような遺伝子は、中立な突然変異が少ないため、進化速度が遅くなる。逆に、もはやその役目を果たさない偽遺伝子ではほとんどの突然変異が中立になるため、進化速度が非常に速い。たとえば、地中に棲息し眼が退化したシリアヒメメクラネズミ(英語版)では、レンズを作るタンパク質をコードする遺伝子が偽遺伝子化し、急速に進化している。
種内で起こる形質の変化を小進化というのに対し、新しい種や、種より高次の分類群の起源や絶滅のプロセスを大進化という。このような区別がなされるのは、大進化を小進化の積み重ねで説明できるかどうかについて議論があるためである。しかし一般的には、大進化も小進化の延長として理解できると考えられている。
1種が2種以上に分岐し、新しい種が形成されることを種分化という。種の定義は多数あるが、進化生物学においては「相互に交配可能な生物の集団」として定義されることが多い(生物学的種概念)。したがって種分化は、集団間に生殖隔離が生じることを意味する。
前述したセグロカモメの事例のほか、エシュショルツサンショウウオなどで知られる輪状種の存在は、わずかな進化の累積が種分化を引き起こすことを示している。
一度に種分化が起こる事例も報告されている。たとえばカタツムリの殻の巻きは単一の遺伝子によって決定されているが、この遺伝子に突然変異が起こって右巻きになると、巻きの違う個体同士は交尾できないことが多いため、生殖隔離が成立する。植物では、倍数体(全ゲノムが倍化した個体)が、もとの種と生殖できなくなることによる種分化がかなり頻繁に起こっていると考えられている。
地層中の化石の出現パターンを調べると、基本的な形態はあまり変化しないで安定な状態にあり、新しい形態をもつ化石は、ある地層に突然現れ、その後長い年月の間、形態はふたたび安定して、あまり変化しないという傾向がある。古生物学者のエルドリッジとグールドは、このような現象を断続平衡現象と呼んだ。エルドリッジらは、進化は種分化のときにのみ急激に起こり、その他の期間は停滞すると主張した。
断続平衡説は種分化の重要な側面を捉えているという評価もある一方で、批判も多い。たとえば断続平衡説は生物学的種概念に基づく種分化の理論を援用しているが、化石種は交配可能性ではなく形態に基づいて分類されているため、化石種と生物学的種は必ずしも一致しない。実際に形態の変化を定量的に追跡できる事例についてみると、断続平衡的な進化を示す系統もあるが、一方で連続的に進化している系統もある。また、断続平衡説は主流の進化理論に矛盾すると言われたこともあるが、実際には一般的な進化理論の範疇で理解できるものである。
進化という概念は、日常生活でも頻繁に使用されるためか、誤解されていることが多い。よく見られる誤解について以下に述べる。
「進化」という概念は、ダーウィン以来の進化生物学の成功により有力となったが、生物学の影響を受けて、あるいはそれとは独立に「進化」という概念は、さまざまな学問分野において重要な役割を果たしている。たとえば、「進化経済学」「進化経営学」「進化心理学」「進化的計算」などは前者の例、「宇宙の進化」は後者の例である。
生物学の影響を受け、「進化」概念を研究・分析の中核に据えるとき、進化生物学の進化概念をどの程度忠実に移植するかについての議論は多い。進化経済学では、意図せざる進化と共に、意図された進化が重要であるとされることが多い。
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"text": "輪状種の存在も、生物がわずかな変化を累積して連続的に進化してきたことの傍証となる。輪状種とは、ある場所では互いに交配せず、別種として区別できる生物が、実は多数の中間型によって連続している場合を指す。ヨーロッパ北西部ではセグロカモメとニシセグロカモメが互いに交配せず別種であると識別できるが、そこから東に向かい、北極の周りを一周してヨーロッパに戻ると、ニシセグロカモメが次第に変化してセグロカモメにいたる一連の亜種が観察でき、明瞭な種の区別はない。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "進化の証拠は化石だけではなく、現生生物の形態を比較することからも得られている。たとえば陸上脊椎動物は外見上非常に多様であり、コウモリや鳥のように飛翔するものまで含まれる。それにもかかわらず、すべて基本的には同一の骨格を持ち、配置を比較することで相同(進化的な由来を同じくする)な骨を特定することができる。このことは、陸上脊椎動物が単一の共通祖先を持ち、祖先の形態を変化させながら多様化してきたことを示している。それぞれの種が独立に誕生したとしたら、鳥の翼と哺乳類の前脚のように全く機能の異なるものを、基本的に同一の骨格の変形のみで作る必然性はない。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "機能が異なっていても由来と基本的構造を同じくする相同とは逆に、由来や構造の異なる器官が同一の機能を果たし、類似した形態を持つことを相似という。たとえばコウモリと鳥、翼竜はどれも前肢が翼となっているが、翼を支持する骨は大きく異なっている。鳥は羽毛によって翼の面積を大きくしており、掌や指の骨の多くは癒合して数を減らしているのに対し、コウモリは掌と指の骨を非常に長く発達させて、その間に膜を張ることで翼を構成している。その一方で、翼竜の翼は極端に長く伸びた薬指1本で支持されている。これは、翼を持たなかった共通祖先から、翼を持つ系統がそれぞれ別個に進化してきた(収斂進化)と考えれば合理的に理解できる。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "進化がもともとの形態を改変して進んできたのだとしたら、生物には祖先の形態の名残が見られるはずである。実際に痕跡の例は枚挙に暇がなく、飛べない鳥の持つ痕跡的な翼、洞窟に住むホラアナサンショウウオ(英語版)の痕跡的な眼、ヒトの虫垂などが挙げられる。このような現象は、退化と言われ、進化の一側面をなすと考えられる。これらの器官は必ずしも何の機能も持たないわけではないが、本来の機能を果たしていた祖先からの進化を考えない限り、その存在を説明することはできない。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "同様の証拠は解剖学のみならず、遺伝子の研究からも得られている。分子生物学の研究により、生物のゲノムには多数の偽遺伝子が含まれることが明らかになった。偽遺伝子とは、機能を持つ遺伝子と配列が似ているにもかかわらず、その機能を失っている塩基配列のことである。偽遺伝子は、かつて機能していた遺伝子が、環境の変化などによって不要になり、機能を失わせる突然変異が自然選択によって排除されなくなったことで生じると考えられている。一例として、嗅覚受容体の遺伝子が挙げられる。多くの哺乳類は嗅覚に強く依存した生活をしているため、多数の嗅覚受容体遺伝子を持つ。しかし視覚への依存が強く嗅覚の重要性が低い霊長類や、水中生活によって嗅覚が必要なくなったイルカ類では、嗅覚受容体遺伝子の多くが偽遺伝子として存在している。これは、霊長類やイルカ類が、より嗅覚に依存する生活をしていた祖先から進化したことを強く示唆している。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "進化は既存の形態を徐々に変化させて進んでいくもためあり、一から設計しなおすようなことは起こらない。その結果として機能的に不合理な形態に進化してしまうことがある。極端な例は反回神経である。これは喉頭と脳をつなぐ神経であり、サメではその間を最短に近い経路で結んでいる。しかし、脊椎動物の進化過程で胸や顎の構造が変化するなかで、哺乳類では、この神経は喉頭から心臓の辺りまで下り、その後また上昇して脳にいたるという明らかな遠回りをするようになった。その結果、直線で結べば数センチメートルでよいはずの神経が、ヒトでは10センチメートル程度、キリンでは数メートルに及ぶ長さになっている。同様に哺乳類の輸精管は、精巣とペニスを最短距離で結ぶためはなく、尿管の上まで迂回するように伸びている。これは、哺乳類の進化過程で体内にあった精巣が下に下りてきたときに生じた不合理であると考えられる。同様の不合理な形態は、人体にも数多く見られる。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "生物分類学の祖とされるリンネはダーウィンより前の時代に生きた創造論者だったが、入れ子状の階層的な分類体系を構築した。生物が共通祖先から分岐を繰り返して多様化してきたものだと考えれば、入れ子の各階層は一つの分岐点を反映するものとして解釈できる。そのため、形態に加えてDNAの塩基配列を含むさまざまな特徴が、例外はあるもののかなり一致した入れ子状の分類体系を支持するという事実は、共通祖先からの進化によって説明できる。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "近年ではDNAの比較に基づく系統推定が盛んに行われている。このとき、複数の遺伝子をそれぞれ解析すると、細部は異なるにせよおおまかに一致した系統樹を支持することが多い。もし生物がそれぞれ別個に起源していたとしたら、異なる遺伝子が同じ傾向を示すと考える理由はないだろう。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "多細胞生物は一細胞の卵から胚発生の過程を経て体を形成していく。この過程にも、進化の証拠が多く見られる。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "有名なのは、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの唱えた反復説である。ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われるように、生物は胚発生の過程でその祖先の形態を繰り返すと主張した。現在では、この説は必ずしも成り立たないものとされているが、それでも発生過程に進化の痕跡を見て取れるのは確かである。たとえば脊椎動物の胚はすべて魚のような形態をしており、哺乳類のように成体では鰓を持たないものの胚も鰓弓を持つ。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "以上の証拠は過去の進化過程を明らかにするものだが、現在進んでいる進化が観察されたこともある。古典的な例はオオシモフリエダシャクの工業暗化である。このガには白色型と黒色型がいるが、工業の発展に伴う煤煙で樹木表面が黒く汚れた結果、捕食者である鳥から姿を隠しやすい黒色型のガが急激に頻度を増した。次いで有名なのはガラパゴスフィンチの事例で、グラント夫妻らの30年以上にわたる長期の調査により、環境変動に伴う自然淘汰が嘴の進化を引き起こしたことが確認されている。病原菌や害虫に抗生物質や殺虫剤で対処しようとすると、急速に薬剤抵抗性が進化することもよく知られている。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ロシアの神経細胞学者であるリュドミラ・ニコラエブナ・トルット(英語版)とロシア科学アカデミーの遺伝学者、ドミトリ・ベリャーエフは共同研究でキツネの人為選択による馴致化実験を行った。100頭あまりのキツネを掛け合わせ、もっとも人間になつく個体を選択して配合を繰り返すことで、わずか40世代でイヌのようにしっぽを振り、人間になつく個体を生み出すことに成功した。同時に、耳が丸くなるなど飼い犬のような形質を発現することも観察された。これはなつきやすさという性質が、(自然、あるいは人為的に)選択されうることを示している。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "人為的に進化を引き起こす研究も行われている。エンドラーはグッピーを異なる環境に移動させることによって、雄の体色が捕食者と雌による配偶者選択に応じて進化することを明らかにした。レンスキーらは大腸菌の長期培養実験によって、代謝能力の進化を観察している。また人為淘汰による進化は、農業における品種改良に応用されている。植物では、倍数化による種分化(後述)を実験的に再現することにも成功している。",
"title": "進化の証拠"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "現在、進化を説明する理論として最も支持されているのは進化の総合説と呼ばれるもため、ダーウィンとウォーレスの自然選択説と、メンデルの遺伝子の理論、集団遺伝学の理論や木村資生の中立進化説を統合したもためある。この総合説によれば、突然変異によって生じた遺伝子の変異はランダムでない自然選択と、確率的に起こる遺伝的浮動によって個体群中に固定し、新しい形質の出現や種分化などの進化現象を引き起こすと考えられる。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ある形質について変異が全くなければ、その形質は進化しない。変異があっても、その変異が次世代に伝わる傾向がなければ(すなわち、遺伝しなければ)進化は起こらない。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "遺伝において親から子に受け渡されるのは遺伝子であり、その実体はDNAの塩基配列情報である。DNAは細胞分裂に際して複製されるが、その過程でエラー、すなわち突然変異が起こることがある。これによって生じる個体差が遺伝的変異である。さらには、突然変異によって生じた遺伝子が有性生殖や接合によって組み換えられることによっても、新しい遺伝的変異が生じる。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "DNA配列上には現れないが遺伝子発現の変化による遺伝形質の変化についても、研究が進められている。塩基配列の変化を伴わない遺伝子の制御はエピジェネティクスと呼ばれ、DNAのメチル化による遺伝子発現抑制やヒストンの化学修飾による遺伝子発現変化などがある。しかしこの様な化学修飾は細胞分化に大きな役割を持ち、化学修飾が多世代を超えて長期間維持されることはないため、進化の原動力になるか疑問である。ただゲノムには狭義の遺伝子(コーディング領域)のみでなく遺伝子の制御領域(プロモーターやシスエレメント)があり、遺伝子の制御領域の突然変異が進化の原動力になる事がある。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "一般的に、突然変異は「ランダム」に起こると言われる。これは、環境に応じて適応的な変異がより生じやすくなるというようなことはないという意味であり、あらゆる意味でランダムというわけではないということに注意する必要がある。ラマルクは、より多く使われた器官が発達し、その発達が次世代に遺伝することで適応的な遺伝的変異が生じるとした(用不用説)が、この説は誤りであることがわかっている。突然変異はこのような説を否定する意味においてのみ「ランダム」である。実際には突然変異はあらゆる意味で「ランダム」とは言えず、たとえば放射線や発癌性物質によって誘発される。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "突然変異は発生の過程を変化させることによって表現型を変化させるため、変化の範囲には限りがある。この制約がどの程度実際の進化に影響するかについては議論がある。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この他に、他の生物が持つ遺伝子が他生物に取り込まれることでその遺伝子を獲得することがある(遺伝子の水平伝播)。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "遺伝的変異が生じても、その変異(あるいはその変異のもととなる対立遺伝子)を持つ個体が子孫を残さなければ、その変異は個体群から消失する。しかし一部の変異は頻度を増して個体群内に定着(固定)し、個体群の特徴を変化させることになる。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "対立遺伝子頻度は、以下の2つの過程によって変化する。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "一部の遺伝的変異はそれを持つ生物個体の適応度(生存と繁殖)に影響する。その多くは適応度を低下させるため、それを持つ個体は子孫を残せず、変異は消失する(負の自然選択)。しかし、中には適応度を高める突然変異もある。たとえばレンスキーらは大腸菌の長期培養実験のなかで、クエン酸塩を利用できるようになる突然変異が稀に生じるのを観察した。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "適応度を高める対立遺伝子は、それを持つ個体が持たない個体よりも平均して多くの子孫を残すため、個体群内で頻度を増す。この過程を正の自然選択という。正の自然選択によって、生物個体群は世代を経るにつれてより適応的な形質を持つように進化していく。自然選択は、適応進化を説明できる唯一の機構である。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "自然選択において有利になる形質は環境条件によって異なる。モリマイマイ(英語版)(ヨーロッパに生息するカタツムリの一種)の殻の色彩は変異が大きく、個体群によって色と模様が異なる。これは、生息環境によって捕食者の目を逃れるのに適した色、体温調節に適した色が異なるため、自然選択によって個体群ごとに異なる色彩が進化したのだと考えられる。形質の適応度がその頻度によって決まることもある。たとえば、もし捕食者が多数派の模様を学習し、まれなタイプの模様はあまり食べないということがあれば、ある模様の適応度がその頻度が少ないときに高くなる。このような自然選択を頻度依存選択と呼ぶ。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "広義には自然選択に含まれるが、性選択も適応度に影響する。性選択は、配偶者をめぐる同性間の競争や、異性による配偶者の選り好みによって起こる選択のことをいう。たとえばコクホウジャク(英語版)という鳥では、長い尾羽を持つ雄が雌に好まれるため、そのような雄の適応度は高くなる。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "自然選択は個体あるいは遺伝子を単位として考えられることが多いが、かつては個体の集まったグループを単位とした自然選択(群選択あるいは集団選択)が重視されていた。かつてのような粗雑な群選択理論は今では否定されているが、グループを含む複数の階層での選択を考慮する複数レベル選択説が提唱されており、その重要性について議論になっている。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "遺伝的変異の中には、適応度に全く、あるいはごくわずかしか影響しないものも多い。その場合には、遺伝子頻度はランダムに、確率的に変動することになる。また適応度に影響する場合でも、確率的な変動の影響は受ける。このランダムな遺伝子頻度の変化を遺伝的浮動という。遺伝的浮動はとくに数の少ない個体群において重要である。そのため、少数の個体が新しい生息地に移住して定着した場合に遺伝子頻度が大きく変化することがあり、これを創始者効果という。",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "木村資生は、遺伝子レベルの進化においては遺伝的浮動が重要であると指摘した(分子進化の中立説)。分子進化の中立説は、塩基配列のデータをよく説明できる。表現型レベルでも、適応度上中立な変化であれば遺伝的浮動によって進化することはありうるが、実際にはほとんどないと考えられている",
"title": "進化のしくみ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "化石が多く見つかっている系統の進化速度は、より新しい化石と古い化石の形態を比較することで調べることができる。量的な形態進化の速度は、100万年あたりネイピア数倍(約2.7倍)の変化を1ダーウィンとして定義する。離散的な形態の進化については、いくつかの形質状態を定義して、その変化の回数を数えることで計測できる。分類群の数を利用した進化速度の定義もあり、ある期間におけるある系統がいくつの種(あるいは属などより高次の分類群)に分けられるかによって進化速度を測定する。たとえば、ウマ類の系統は現生のものを除くと、5000万年の間に8属を経過してきたため、約625万年あたり1属の進化速度で進化してきたと計算できる。",
"title": "進化の速度"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "進化速度は系統によって大きく異なり、進化速度が非常に遅いために祖先の化石種とほとんど変わらない形態を持つものを生きている化石と呼ぶ。ただし、同じ系統でも進化速度は一定ではない。たとえばハイギョ類は生きている化石として有名であり、確かに中生代以降の進化速度はかなり遅いが、古生代においてはむしろ急速に進化していた。また、すべての形質の進化速度が同じ傾向を示すわけでもない。ヒトの系統が脳の大きさに関して他の霊長類、たとえばアイアイに比べて急速な進化を遂げてきたのは明らかだが、同時にアイアイの歯はヒトの歯よりも初期霊長類と比べて違いが大きく、歯の形態に関してはアイアイのほうが進化速度が速かったと考えられる。",
"title": "進化の速度"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "形態の進化速度に関わる断続平衡説については、種分化との関連で後ほど取り上げる。",
"title": "進化の速度"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "分子レベルの進化速度は、単位時間(あるいは世代数)あたりの塩基置換数として計測できる。分子進化の中立説によれば、世代あたりの塩基置換速度は中立な突然変異率によって決まるため、突然変異率が一定ならば一定の速度で進化すると予測される。この予測は、塩基配列の比較から系統が分岐した年代を推定する分子時計の根拠となっている。",
"title": "進化の速度"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "わずかな塩基配列の変化で機能が損なわれるような遺伝子は、中立な突然変異が少ないため、進化速度が遅くなる。逆に、もはやその役目を果たさない偽遺伝子ではほとんどの突然変異が中立になるため、進化速度が非常に速い。たとえば、地中に棲息し眼が退化したシリアヒメメクラネズミ(英語版)では、レンズを作るタンパク質をコードする遺伝子が偽遺伝子化し、急速に進化している。",
"title": "進化の速度"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "種内で起こる形質の変化を小進化というのに対し、新しい種や、種より高次の分類群の起源や絶滅のプロセスを大進化という。このような区別がなされるのは、大進化を小進化の積み重ねで説明できるかどうかについて議論があるためである。しかし一般的には、大進化も小進化の延長として理解できると考えられている。",
"title": "大進化"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1種が2種以上に分岐し、新しい種が形成されることを種分化という。種の定義は多数あるが、進化生物学においては「相互に交配可能な生物の集団」として定義されることが多い(生物学的種概念)。したがって種分化は、集団間に生殖隔離が生じることを意味する。",
"title": "大進化"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "前述したセグロカモメの事例のほか、エシュショルツサンショウウオなどで知られる輪状種の存在は、わずかな進化の累積が種分化を引き起こすことを示している。",
"title": "大進化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "一度に種分化が起こる事例も報告されている。たとえばカタツムリの殻の巻きは単一の遺伝子によって決定されているが、この遺伝子に突然変異が起こって右巻きになると、巻きの違う個体同士は交尾できないことが多いため、生殖隔離が成立する。植物では、倍数体(全ゲノムが倍化した個体)が、もとの種と生殖できなくなることによる種分化がかなり頻繁に起こっていると考えられている。",
"title": "大進化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "地層中の化石の出現パターンを調べると、基本的な形態はあまり変化しないで安定な状態にあり、新しい形態をもつ化石は、ある地層に突然現れ、その後長い年月の間、形態はふたたび安定して、あまり変化しないという傾向がある。古生物学者のエルドリッジとグールドは、このような現象を断続平衡現象と呼んだ。エルドリッジらは、進化は種分化のときにのみ急激に起こり、その他の期間は停滞すると主張した。",
"title": "大進化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "断続平衡説は種分化の重要な側面を捉えているという評価もある一方で、批判も多い。たとえば断続平衡説は生物学的種概念に基づく種分化の理論を援用しているが、化石種は交配可能性ではなく形態に基づいて分類されているため、化石種と生物学的種は必ずしも一致しない。実際に形態の変化を定量的に追跡できる事例についてみると、断続平衡的な進化を示す系統もあるが、一方で連続的に進化している系統もある。また、断続平衡説は主流の進化理論に矛盾すると言われたこともあるが、実際には一般的な進化理論の範疇で理解できるものである。",
"title": "大進化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "進化という概念は、日常生活でも頻繁に使用されるためか、誤解されていることが多い。よく見られる誤解について以下に述べる。",
"title": "進化に関する誤解"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "「進化」という概念は、ダーウィン以来の進化生物学の成功により有力となったが、生物学の影響を受けて、あるいはそれとは独立に「進化」という概念は、さまざまな学問分野において重要な役割を果たしている。たとえば、「進化経済学」「進化経営学」「進化心理学」「進化的計算」などは前者の例、「宇宙の進化」は後者の例である。",
"title": "生物学以外での「進化」概念"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "生物学の影響を受け、「進化」概念を研究・分析の中核に据えるとき、進化生物学の進化概念をどの程度忠実に移植するかについての議論は多い。進化経済学では、意図せざる進化と共に、意図された進化が重要であるとされることが多い。",
"title": "生物学以外での「進化」概念"
}
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進化は、生物の形質が世代を経る中で変化していく現象のことである。
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[[ファイル:Phylogenetic Tree of Life-ja.png|thumb|生物は共通祖先から進化し、多様化してきた。]]
'''進化'''(しんか、{{lang-la|evolutio}}, {{lang-en|evolution}})は、[[生物]]の[[形質]]が[[世代]]を経る中で変化していく現象のことである<ref name="ridley4">Ridley(2004) p.4</ref><ref name="futuyma2">Futuyma(2005) p.2</ref>。
{{Main2|進化論の歴史や社会・宗教との関わり|進化論|生物進化を研究する科学分野|進化生物学|進化を意味する英単語の関する諸項目|エボリューション}}
{{Wiktionary|進化}}
==定義==
[[ファイル:Stages in the evolution of the eye.png|thumb|right|300px|[[眼の進化]]]]
生物[[個体群]]の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である<ref name="futuyma2"/><ref name="ridley4"/>。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の[[遺伝子頻度]]の変化として定義されることもある<ref name="iwanami">『岩波生物学辞典』</ref><ref name="sober">ソーバー(2009) pp.7-8</ref>。この定義により、[[成長]]や[[変態]]のような[[個体]]の発生上の変化は進化に含まれない<ref name="ridley4"/><ref name="futuyma2"/>。
狭義に、[[種 (分類学)|種]]以上のレベルでの変化のみを進化とみなすこともあるが、一般的ではない<ref name="iwanami"/>。逆に、[[文化的]]伝達による累積的変化や生物群集の変化をも広く進化と呼ぶこともある<ref name="iwanami"/>。日常表現としては単なる「変化」の同義語として使われることも多く、[[恒星]]や[[政治体制]]が「進化」表現されるということもあるが、これは生物学でいう進化とは異なる<ref name="sober"/>。
進化過程である[[器官]]が単純化したり、縮小したりすることを[[退化]]という<ref name="iwanami"/>が、これもあくまで進化の一つである。退化は進化の対義語ではない。
==進化の証拠==
生物は不変ではなく、[[共通祖先]]から長大な年月の間に次第に変化して現生の複雑で多様な生物が生じたということが、膨大な証拠から分かっている<ref name="coyne">コイン(2010)</ref><ref name="dawkins">ドーキンス(2009)</ref>。
進化論は、[[チャールズ・ダーウィン]]ら複数の[[博物学者]]が[[動物]]や[[植物]]の[[分類学]]的な洞察から導きだした[[仮説]]から始まった。現在の[[自然科学]]ではこの説を裏付ける[[証拠]]が、[[形態学 (生物学)|形態学]]・[[遺伝学]]・[[比較発生学]]・[[分子生物学]]など様々な分野から提出されており、「進化はほぼ確実に起こってきた事実である」と生物学者・科学者からは認められている<ref name="coyne"/><ref name="dawkins"/><ref>Futuyma(2005) p.2</ref>。
===古生物学===
進化をはっきりと示す[[化石]]証拠はダーウィンの時代には乏しかったが、現在では豊富に存在する。まず全体的なパターンとして、単純で祖先的と思われる生物は古い[[地層]]からも発見されるが、複雑で現生種に似た生物は新しい地層からしか見つからない<ref>コイン(2010) pp.66-71</ref>。
化石証拠の豊富な生物については、化石を年代順に並べることで、特定の[[系統学|系統]]の進化を復元することもできる。[[プランクトン]]は死骸が古いものから順に連続的に[[堆積]]していくため、このような研究が容易であり、[[有孔虫]]や[[放散虫]]、[[珪藻]]の形態が徐々に進化し、時には[[種分化]]する過程が確認できる<ref>Ridley(2004) p.64</ref><ref name="coyne72">コイン(2010) pp.72-78</ref>。プランクトン以外にも、[[三葉虫]]の尾節の数の進化を示す一連の化石などがある<ref name="coyne72"/>。
====ミッシング・リンク====
[[ファイル:Tiktaalik roseae life restor.jpg|thumb|right|250px|魚類と両生類の特徴を併せ持つ[[ティクターリク]]の復元画]]
進化を否定する[[創造論]]者は、[[分類群]]間の中間的な特徴を示す化石が得られないことを指して「[[ミッシングリンク|ミッシング・リンク]]」と呼んでいる。しかし、分類群間の移行段階と考えられる化石は既に一部得られている<ref name="coyne78">コイン(2010) pp.78-81</ref><ref>ドーキンス(2009) Ch.6</ref>。
分類群の起源となった種そのものを見つけるのは確かに困難だが、その近縁種の化石があれば、進化過程を解明するのに充分である<ref name="coyne78"/>。たとえば[[爬虫類]]と[[鳥類]]の特徴を併せ持つ化石には有名な[[始祖鳥]]に加えて、多数の[[羽毛恐竜]]がある<ref>コイン(2010) pp.87-98</ref><ref>Chiappe(2009)</ref>。[[クジラ]]の進化過程は、時折水に入る陸生[[哺乳類]]であった[[インドヒウス]]に始まり、徐々に水中生活に適応していく一連の化石から明らかになっている<ref>コイン(2010) pp.98-105</ref><ref>Thewissen et al.(2009)</ref>。
現在の[[魚類]]と[[両生類]]をつなぐ移行化石としては[[エウステノプテロン]]、[[パンデリクチス]]、[[アカンソステガ]]、[[イクチオステガ]]などが知られていたが、さらにパンデリクチスよりも両生類に近く、アカンソステガよりも魚類に近い[[ティクターリク]]が[[2006年]]に発表された<ref>ドーキンス(2009) pp.230-261</ref><ref>シュービン(2008) Ch.2</ref>。[[無脊椎動物]]では、祖先的な[[ハチ]]の特徴と、より新しく進化した[[アリ]]の特徴を併せ持つ[[アケボノアリ]]などの例がある<ref>コイン(2010) pp.106-107</ref>。
移行化石は次々と発見されており、たとえば[[2009年]]には、[[鰭脚類]]([[アシカ]]や[[アザラシ]])と陸上[[食肉類]]との中間的な特徴を示す化石<ref>Rybczynski et al.(2009)</ref>や、[[真猿類]]の祖先に近縁だと考えられる[[ダーウィニウス]]の化石<ref>Franzen et al.(2009)</ref>が報告されている<ref>ドーキンス(2009) p.266, pp.275-276</ref>。[[人類]]が他の[[類人猿]]に似た祖先から進化してくる過程を示す化石も見つかっている<ref>コイン(2010) Ch.8</ref><ref>ドーキンス(2009) Ch.7</ref>。
===生物地理学から===
生物の分布がいかにして成立してきたかを探る分野である[[生物地理学]]は、進化を支持する強力な証拠をもたらす。進化生物学者の{{仮リンク|ジェリー・コイン|label=コイン|en|Jerry Coyne}}によれば、創造論者は生物地理学上の証拠に反論することができないため、無視を決め込んでいるという<ref>コイン(2010) p.164</ref>。
[[火山活動]]などによる[[海底]]の隆起によってできた、[[大陸]]と繋がったことのない[[島]]を海洋島と呼ぶ。[[ガラパゴス諸島]]や[[ハワイ諸島]]、[[小笠原諸島]]といった海洋島の在来生物相には[[海]]を渡れない両生類、[[コウモリ]]を除く哺乳類、純[[淡水魚]]がほとんど、あるいは全く含まれないのが普通である。それに対して大陸と繋がった歴史のある島には、哺乳類や両生類が普通に分布している。しかも島に棲む生物は、ほとんどの場合最も近い大陸の生物と近縁である。このようなパターンでは、生物が[[地球]]の歴史の中でその分布を広げながら進化してきたと考えない限り理解できない<ref>コイン(2010) pp.181-197</ref><ref>Futuyma(2005) p.119</ref>。
地域が違うと、似たような生息環境であっても異なる生物が分布することがあり、これも進化の証拠となる。同じ[[砂漠]]でも[[新世界]]には[[サボテン科]]、[[旧世界]]には[[キョウチクトウ科]]や[[トウダイグサ科]]の乾燥に適応した植物が生息している<ref>コイン(2010) pp.168-169</ref><ref>Futuyma(2005) p.118</ref>。
ダーウィンの時代には知られていなかったが、地球の歴史上、大陸は長い時間をかけて移動し、離合集散を繰り返してきた([[大陸移動説]])。生物の分布のなかには、かつて繋がっていた大陸に共通祖先がいて、大陸の分裂に伴って系統が分岐したと考えることでうまく説明できるものも多くある。たとえば[[シクリッド科]]の淡水魚や[[走鳥類]]の分布は、かつての[[ゴンドワナ大陸]]が複数の大陸に分裂した過程で分岐してきたことで成立したと考えられる<ref>Futuyma(2005) pp.126-128</ref>。
[[輪状種]]の存在も、生物がわずかな変化を累積して連続的に進化してきたことの傍証となる。輪状種とは、ある場所では互いに交配せず、別種として区別できる生物が、実は多数の中間型によって連続している場合を指す<ref>パターソン(2001) pp.8-11</ref>。[[ヨーロッパ]]北西部では[[セグロカモメ]]と[[ニシセグロカモメ]]が互いに交配せず別種であると識別できるが、そこから東に向かい、北極の周りを一周してヨーロッパに戻ると、ニシセグロカモメが次第に変化してセグロカモメにいたる一連の[[亜種]]が観察でき、明瞭な種の区別はない。
===比較解剖学から===
====相似と相同====
進化の証拠は化石だけではなく、現生生物の形態を比較することからも得られている。たとえば[[四肢動物|陸上脊椎動物]]は外見上非常に多様であり、コウモリや鳥のように飛翔するものまで含まれる。それにもかかわらず、すべて基本的には同一の[[骨格]]を持ち、配置を比較することで[[相同]](進化的な由来を同じくする)な[[骨]]を特定することができる。このことは、陸上脊椎動物が単一の共通祖先を持ち、祖先の形態を変化させながら多様化してきたことを示している<ref name="endo">遠藤(2006)</ref><ref>ドーキンス(2009) pp.409-422</ref>。それぞれの種が独立に誕生したとしたら、鳥の[[翼]]と哺乳類の前脚のように全く機能の異なるものを、基本的に同一の骨格の変形のみで作る必然性はない。
機能が異なっていても由来と基本的構造を同じくする相同とは逆に、由来や構造の異なる器官が同一の機能を果たし、類似した形態を持つことを[[相似 (生物学)|相似]]という。たとえばコウモリと鳥、[[翼竜]]はどれも前肢が翼となっているが、翼を支持する骨は大きく異なっている<ref>遠藤(2006) pp.109-117</ref>。鳥は[[羽毛]]によって翼の面積を大きくしており、[[掌]]や[[指]]の骨の多くは癒合して数を減らしているのに対し、コウモリは掌と指の骨を非常に長く発達させて、その間に[[膜]]を張ることで翼を構成している。その一方で、翼竜の翼は極端に長く伸びた[[薬指]]1本で支持されている。これは、翼を持たなかった共通祖先から、翼を持つ系統がそれぞれ別個に進化してきた([[収斂進化]])と考えれば合理的に理解できる。
====痕跡====
[[ファイル:Phalarocorax harrisiDI09P10CA.jpg|thumb|[[ガラパゴスコバネウ]]は飛べないが、痕跡的な翼を持つ。]]
進化がもともとの形態を改変して進んできたのだとしたら、生物には祖先の形態の名残が見られるはずである。実際に[[痕跡器官|痕跡]]の例は枚挙に暇がなく、[[飛べない鳥]]の持つ痕跡的な翼、[[洞窟]]に住む{{仮リンク|ホラアナサンショウウオ|en|Western grotto salamander}}の痕跡的な[[眼]]、[[ヒト]]の[[虫垂]]などが挙げられる<ref name="coyne112">コイン(2010) pp.112-128</ref><ref>ドーキンス(2009) pp.481-483, pp.490-493</ref>。このような現象は、退化と言われ、進化の一側面をなすと考えられる。これらの器官は必ずしも何の機能も持たないわけではないが、本来の機能を果たしていた祖先からの進化を考えない限り、その存在を説明することはできない<ref name="coyne112"/>。
同様の証拠は[[解剖学]]のみならず、[[遺伝子]]の研究からも得られている。分子生物学の研究により、生物の[[ゲノム]]には多数の[[偽遺伝子]]が含まれることが明らかになった。偽遺伝子とは、機能を持つ遺伝子と配列が似ているにもかかわらず、その機能を失っている[[塩基配列]]のことである<ref name="iwanami"/>。偽遺伝子は、かつて機能していた遺伝子が、環境の変化などによって不要になり、機能を失わせる[[突然変異]]が[[自然選択]]によって排除されなくなったことで生じると考えられている。一例として、[[嗅覚受容体]]の遺伝子が挙げられる。多くの哺乳類は[[嗅覚]]に強く依存した生活をしているため、多数の嗅覚[[受容体]]遺伝子を持つ。しかし[[視覚]]への依存が強く嗅覚の重要性が低い[[霊長類]]や、水中生活によって嗅覚が必要なくなった[[イルカ]]類では、嗅覚受容体遺伝子の多くが偽遺伝子として存在している。これは、霊長類やイルカ類が、より嗅覚に依存する生活をしていた祖先から進化したことを強く示唆している<ref>コイン(2010) pp.133-136</ref>。
====不合理な形態====
進化は既存の形態を徐々に変化させて進んでいくこともあり、一から設計しなおすようなことは起こらない<ref>遠藤(2006) pp.47-48</ref>。その結果として機能的に不合理な形態に進化してしまうことがある。極端な例は[[反回神経]]である。これは[[喉頭]]と[[脳]]をつなぐ[[神経]]であり、[[サメ]]ではその間を最短に近い経路で結んでいる。しかし、脊椎動物の進化過程で[[胸]]や[[顎]]の構造が変化するなかで、哺乳類では、この神経は喉頭から[[心臓]]の辺りまで下り、その後また上昇して脳にいたるという明らかな遠回りをするようになった。その結果、直線で結べば数[[センチメートル]]でよいはずの神経が、ヒトでは10センチメートル程度、[[キリン]]では数[[メートル]]に及ぶ長さになっている<ref>ドーキンス(2009) pp.501-507</ref>。同様に哺乳類の[[輸精管]]は、[[精巣]]と[[ペニス]]を最短距離で結ぶためはなく、[[尿管]]の上まで迂回するように伸びている。これは、哺乳類の進化過程で体内にあった精巣が下に下りてきたときに生じた不合理であると考えられる<ref>ウィリアムズ(1998) pp.232-236</ref><ref>ドーキンス(2009) pp.507-508</ref>。同様の不合理な形態は、人体にも数多く見られる<ref>遠藤(2006) Ch.4</ref><ref>ドーキンス(2009) p.508</ref>。
===系統分類学から===
生物分類学の祖とされる[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]はダーウィンより前の時代に生きた創造論者だったが、入れ子状の階層的な分類体系を構築した。生物が共通祖先から分岐を繰り返して多様化してきたものだと考えれば、入れ子の各階層は一つの分岐点を反映するものとして解釈できる。そのため、形態に加えて[[DNA]]の塩基配列を含むさまざまな特徴が、例外はあるもののかなり一致した入れ子状の分類体系を支持するという事実は、共通祖先からの進化によって説明できる<ref>コイン(2010) pp.38-41</ref><ref>Ridley(2004) pp.61-63</ref>。
近年ではDNAの比較に基づく[[系統樹|系統推定]]が盛んに行われている。このとき、複数の遺伝子をそれぞれ解析すると、細部は異なるにせよおおまかに一致した系統樹を支持することが多い。もし生物がそれぞれ別個に起源していたとしたら、異なる遺伝子が同じ傾向を示すと考える理由はないだろう<ref>ドーキンス(2009) pp.455-457</ref>。
===発生生物学から===
[[多細胞生物]]は一[[細胞]]の[[卵]]から[[胚発生]]の過程を経て体を形成していく。この過程にも、進化の証拠が多く見られる。
有名なのは、[[ドイツ帝国|ドイツ]]の[[生物学]]者[[エルンスト・ヘッケル]]の唱えた[[反復説]]である。ヘッケルは、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われるように、生物は胚発生の過程でその祖先の形態を繰り返すと主張した。現在では、この説は必ずしも成り立たないものとされているが、それでも発生過程に進化の痕跡を見て取れるのは確かである<ref name="coyne139">コイン(2010) pp.139-151</ref><ref>倉谷(2005)</ref>。たとえば脊椎動物の[[胚]]はすべて魚のような形態をしており、哺乳類のように成体では[[鰓]]を持たないものの胚も[[鰓弓]]を持つ<ref name="coyne139"/>。
===観察された進化===
[[ファイル:Geospiza fortis1.jpg|thumb|ガラパゴスフィンチの進化は長期の野外調査により観察されている。]]
{{See also|家畜化|人為選択}}
以上の証拠は過去の進化過程を明らかにするものだが、現在進んでいる進化が観察されたこともある<ref>Ridley(2004) pp.45-47</ref>。古典的な例は[[オオシモフリエダシャクの進化|オオシモフリエダシャク]]の[[工業暗化]]である。この[[ガ]]には白色型と黒色型がいるが、[[工業]]の発展に伴う[[煤煙]]で[[樹木]]表面が黒く汚れた結果、[[捕食者]]である鳥から姿を隠しやすい黒色型のガが急激に頻度を増した<ref>Majerus(2009)</ref>。次いで有名なのは[[ガラパゴスフィンチ]]の事例で、[[グラント夫妻]]らの30年以上にわたる長期の調査により、環境変動に伴う自然淘汰が[[嘴]]の進化を引き起こしたことが確認されている<ref>ワイナー(1995)</ref><ref>Grant & Grant(2002)</ref>。[[病原菌]]や[[害虫]]に[[抗生物質]]や[[殺虫剤]]で対処しようとすると、急速に薬剤抵抗性が進化することもよく知られている<ref>ワイナー(1995) Ch.18</ref>。
====実験進化====
[[ロシア]]の神経細胞学者である{{仮リンク|リュドミラ・トルート|label=リュドミラ・ニコラエブナ・トルット|en|Lyudmila Trut}}と[[ロシア科学アカデミー]]の[[遺伝学者]]、[[ドミトリ・ベリャーエフ]]は共同研究で[[キツネ]]の[[人為選択]]による馴致化実験を行った<ref>{{Cite web|和書|url=http://siberiandream.net/topic/pet.html|title=動物好きな研究者の夢 -- 40年の研究からペットギツネが誕生|accessdate={{?}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.rbth.com/articles/2012/03/07/14178.html|title=実験飼育場で遊ぶキツネ|accessdate={{?}}}}</ref>。100頭あまりのキツネを掛け合わせ、もっとも人間になつく個体を選択して配合を繰り返すことで、わずか40世代でイヌのようにしっぽを振り、人間になつく個体を生み出すことに成功した。同時に、耳が丸くなるなど飼い犬のような形質を発現することも観察された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www4.nhk.or.jp/dramatic/x/2014-12-14/31/28686/|title=地球ドラマチック「不自然な“進化”~今 動物に何が!?~」|accessdate={{?}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1103/feature01/|title=特集:野生動物 ペットへの道|accessdate={{?}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyoprogress.co.jp/report2.html|title=ロシア科学アカデミーシベリア支部 細胞学・遺伝学研究所の「キツネの家畜化研究」|accessdate={{?}}}}</ref>。これはなつきやすさという性質が、(自然、あるいは人為的に)選択されうることを示している。
人為的に進化を引き起こす研究も行われている。エンドラーは[[グッピー]]を異なる環境に移動させることによって、[[雄]]の体色が捕食者と[[雌]]による[[性淘汰#配偶者選択|配偶者選択]]に応じて進化することを明らかにした<ref>ワイナー(1995) pp.119-126</ref><ref>ドーキンス(2009) pp.216-224</ref>。レンスキーらは[[大腸菌]]の長期培養実験によって、代謝能力の進化を観察している<ref>ドーキンス(2009) pp.194-216</ref><ref name="lenski">Blount et al.(2008)</ref>。また[[人為淘汰]]による進化は、[[農業]]における[[品種改良]]に応用されている<ref>Ridley(2004) p.47</ref>。植物では、[[倍数性|倍数化]]による種分化(後述)を実験的に再現することにも成功している<ref>Ridley(2004) pp.53-54</ref>。
==進化のしくみ==
現在、進化を説明する理論として最も支持されているのは[[ネオダーウィニズム|進化の総合説]]と呼ばれるものであり、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]と[[アルフレッド・ラッセル・ウォレス|ウォーレス]]の[[自然選択説]]と、[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]の遺伝子の理論、[[集団遺伝学]]の理論や[[木村資生]]の[[中立進化説]]を統合したものである。この総合説によれば、突然変異によって生じた遺伝子の[[変異]]はランダムでない[[自然選択説|自然選択]]と、確率的に起こる[[遺伝的浮動]]によって個体群中に固定し、新しい形質の出現や種分化などの進化現象を引き起こすと考えられる。
===遺伝的変異===
ある形質について変異が全くなければ、その形質は進化しない。変異があっても、その変異が次世代に伝わる傾向がなければ(すなわち、[[遺伝]]しなければ)進化は起こらない。
[[ファイル:ADN static.png|thumb|right|DNAの配列に突然変異が生じることで、新たな形質が出現する]]
遺伝において親から子に受け渡されるのは遺伝子であり、その実体は[[デオキシリボ核酸|DNA]]の塩基配列情報である。DNAは[[細胞分裂]]に際して複製されるが、その過程でエラー、すなわち突然変異が起こることがある。これによって生じる個体差が遺伝的変異である。さらには、突然変異によって生じた遺伝子が[[有性生殖]]や[[接合 (生物)|接合]]によって[[遺伝的組換え|組み換え]]られることによっても、新しい遺伝的変異が生じる<ref>Ridley(2004) pp.87-88</ref>。
DNA配列上には現れないが[[遺伝子発現]]の変化による遺伝形質の変化についても、研究が進められている。塩基配列の変化を伴わない遺伝子の制御は[[エピジェネティクス]]と呼ばれ、[[DNAメチル化|DNAのメチル化]]による遺伝子発現抑制や[[ヒストン]]の化学修飾による遺伝子発現変化などがある<ref>佐々木(2005)</ref>。しかしこの様な化学修飾は[[細胞分化]]に大きな役割を持ち、化学修飾が多世代を超えて長期間維持されることはないため、進化の原動力になるか疑問である。ただゲノムには狭義の遺伝子([[コーディング領域]])のみでなく遺伝子の制御領域([[プロモーター]]や[[シスエレメント]])があり、遺伝子の制御領域の突然変異が進化の原動力になる事がある<ref>Jiménez-Delgado S et al (2009)</ref>。
一般的に、突然変異は「ランダム」に起こると言われる。これは、環境に応じて適応的な変異がより生じやすくなるというようなことはない{{Refnest|group="注釈"|寒いからといって、[[毛皮]]を厚くする突然変異が暑い場所よりも生じやすくなることはないなど。}}という意味であり、あらゆる意味でランダムというわけではないということに注意する必要がある<ref>ドーキンス(2004a) pp.482-485, 493-494</ref><ref>Ridley(2004) p.88-89</ref><ref>Futuyma(2005) pp.178-179</ref>。[[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]は、より多く使われた器官が発達し、その発達が次世代に遺伝することで適応的な遺伝的変異が生じるとした([[用不用説]])が、この説は誤りであることがわかっている<ref>ドーキンス(2004a) pp.452-453</ref>。突然変異はこのような説を否定する意味においてのみ「ランダム」である。実際には突然変異はあらゆる意味で「ランダム」とは言えず、たとえば[[放射線]]や[[発癌性]]物質によって誘発される。
突然変異は発生の過程を変化させることによって[[表現型]]を変化させるため、変化の範囲には限りがある<ref>ドーキンス(2004a) pp.491-493</ref>。この制約がどの程度実際の進化に影響するかについては議論がある<ref>ルース(2008) Ch.11</ref>。
この他に、他の生物が持つ遺伝子が他生物に取り込まれることでその遺伝子を獲得することがある([[遺伝子の水平伝播]])。
===遺伝子の頻度変化===
遺伝的変異が生じても、その変異(あるいはその変異のもととなる対立遺伝子)を持つ個体が子孫を残さなければ、その変異は個体群から消失する。しかし一部の変異は頻度を増して個体群内に定着(固定)し、個体群の特徴を変化させることになる。
対立遺伝子頻度は、以下の2つの過程によって変化する<ref>コイン(2010) pp.46-47</ref>。
*自然選択
*遺伝的浮動
====自然選択====
[[ファイル:Mutation and selection diagram.svg|thumb|250px|right|自然選択の模式図。図中では色の濃い個体ほど有利とされている。突然変異が様々な形質をもたらすが、そのうち生存に好ましくない変異が消滅し、残った個体が次世代に子孫を残す。この繰り返しによって、個体群が進化していく。]]
一部の遺伝的変異はそれを持つ生物個体の[[適応度]](生存と繁殖)に影響する。その多くは適応度を低下させるため、それを持つ個体は子孫を残せず、変異は消失する(負の自然選択)。しかし、中には適応度を高める突然変異もある。たとえばレンスキーらは大腸菌の長期培養実験のなかで、[[クエン酸]]塩を利用できるようになる突然変異が稀に生じるのを観察した<ref name="lenski"/>。
適応度を高める対立遺伝子は、それを持つ個体が持たない個体よりも平均して多くの子孫を残すため、個体群内で頻度を増す。この過程を正の自然選択という。正の自然選択によって、生物個体群は世代を経るにつれてより適応的な形質を持つように進化していく。自然選択は、適応進化を説明できる唯一の機構である<ref>ドーキンス(2004a) p.454</ref>。
[[ファイル:Cepaea nemoralis-Nl2.jpg|thumb|モリマイマイの殻の色彩には大きな変異がある。]]
自然選択において有利になる形質は環境条件によって異なる。{{仮リンク|モリマイマイ|en|Cepaea nemoralis}}(ヨーロッパに生息する[[カタツムリ]]の一種)の殻の色彩は変異が大きく、個体群によって色と模様が異なる。これは、生息環境によって捕食者の目を逃れるのに適した色、体温調節に適した色が異なるため、自然選択によって個体群ごとに異なる色彩が進化したのだと考えられる<ref name="patterson96">パターソン(2001) pp.96-99</ref>。形質の適応度がその頻度によって決まることもある。たとえば、もし捕食者が多数派の模様を[[学習]]し、まれなタイプの模様はあまり食べないということがあれば、ある模様の適応度がその頻度が少ないときに高くなる。このような自然選択を[[頻度依存選択]]と呼ぶ<ref name="patterson96"/>。
広義には自然選択に含まれるが、[[性選択]]も適応度に影響する。性選択は、配偶者をめぐる同性間の競争や、異性による配偶者の選り好みによって起こる選択のことをいう。たとえば{{仮リンク|コクホウジャク|en|MLong-tailed widowbird}}という[[鳥]]では、長い[[尾羽]]を持つ雄が雌に好まれるため、そのような雄の適応度は高くなる<ref>Andersson(1982)</ref>。
自然選択は個体あるいは遺伝子を単位として考えられることが多いが、かつては個体の集まったグループを単位とした自然選択([[群選択]]あるいは集団選択)が重視されていた。かつてのような粗雑な群選択理論は今では否定されているが、グループを含む複数の階層での選択を考慮する[[群選択|複数レベル選択説]]が提唱されており、その重要性について議論になっている<ref>松本(2010)</ref>。
[[ファイル:Allele-frequency.png|thumb|遺伝的浮動による遺伝子頻度変化の[[シミュレーション]]。個体数の少ない集団(上、10個体)では、個体数の多い場合(下、100個体)よりも浮動による変化が大きい。]]
====遺伝的浮動====
遺伝的変異の中には、適応度に全く、あるいはごくわずかしか影響しないものも多い。その場合には、遺伝子頻度はランダムに、確率的に変動することになる。また適応度に影響する場合でも、確率的な変動の影響は受ける。このランダムな遺伝子頻度の変化を遺伝的浮動という<ref>Futuyma(2005) p.226</ref>。遺伝的浮動はとくに数の少ない個体群において重要である。そのため、少数の個体が新しい生息地に移住して定着した場合に遺伝子頻度が大きく変化することがあり、これを[[創始者効果]]という<ref>Futuyma(2005) pp.231-232</ref>。
木村資生は、遺伝子レベルの進化においては遺伝的浮動が重要であると指摘した([[分子進化の中立説]])<ref name="kimura">木村(1988) pp.54-55</ref>。分子進化の中立説は、塩基配列のデータをよく説明できる。表現型レベルでも、適応度上中立な変化であれば遺伝的浮動によって進化することはありうるが、実際にはほとんどないと考えられている<ref name="futuyma236">Futuyma(2005) p.236</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし、表現型と分子のそれぞれにおいて、浮動と選択がどの程度重要かについては議論がある。斎藤(2008)は表現型の進化も浮動によって起こる可能性を指摘しているが、逆にオール(2009)は分子進化も相当部分が選択によると主張している。}}
==進化の速度==
===形態の進化===
化石が多く見つかっている系統の進化速度は、より新しい化石と古い化石の形態を比較することで調べることができる。量的な形態進化の速度は、100万年あたり[[ネイピア数]]倍(約2.7倍)の変化を1ダーウィンとして定義する<ref>Ridley(2004) p.591</ref>。離散的な形態の進化については、いくつかの形質状態を定義して、その変化の回数を数えることで計測できる<ref name="ridley606">Ridley(2004) pp.606-607</ref>。分類群の数を利用した進化速度の定義もあり、ある期間におけるある系統がいくつの種(あるいは[[属 (分類学)|属]]などより高次の分類群)に分けられるかによって進化速度を測定する。たとえば、[[ウマ]]類の系統は現生のものを除くと、5000万年の間に8属を経過してきたため、約625万年あたり1属の進化速度で進化してきたと計算できる<ref>シンプソン(1977) pp.102-103</ref>。
進化速度は系統によって大きく異なり、進化速度が非常に遅いために祖先の化石種とほとんど変わらない形態を持つものを[[生きている化石]]と呼ぶ。ただし、同じ系統でも進化速度は一定ではない。たとえば[[ハイギョ]]類は生きている化石として有名であり、確かに[[中生代]]以降の進化速度はかなり遅いが、[[古生代]]においてはむしろ急速に進化していた<ref name="ridley606"/>。また、すべての形質の進化速度が同じ傾向を示すわけでもない。ヒトの系統が脳の大きさに関して他の霊長類、たとえば[[アイアイ]]に比べて急速な進化を遂げてきたのは明らかだが、同時にアイアイの[[歯]]はヒトの歯よりも初期霊長類と比べて違いが大きく、歯の形態に関してはアイアイのほうが進化速度が速かったと考えられる<ref>シンプソン(1977) p.104</ref>。
形態の進化速度に関わる[[断続平衡説]]については、種分化との関連で後ほど取り上げる。
===分子進化===
分子レベルの進化速度は、単位時間(あるいは世代数)あたりの塩基置換数として計測できる。分子進化の中立説によれば、世代あたりの塩基置換速度は中立な突然変異率によって決まるため、突然変異率が一定ならば一定の速度で進化すると予測される。この予測は、塩基配列の比較から系統が分岐した年代を推定する[[分子時計]]の根拠となっている<ref name="futuyma236"/><ref>パターソン(2001) p.110-111</ref>。
わずかな塩基配列の変化で機能が損なわれるような遺伝子は、中立な突然変異が少ないため、進化速度が遅くなる<ref>Futuyma(2005) pp.236-237</ref><ref>パターソン(2001) p.117</ref>。逆に、もはやその役目を果たさない偽遺伝子ではほとんどの突然変異が中立になるため、進化速度が非常に速い。たとえば、地中に棲息し眼が退化した{{仮リンク|シリアヒメメクラネズミ|en|Middle East blind mole-rat}}では、レンズを作る[[タンパク質]]をコードする遺伝子が偽遺伝子化し、急速に進化している<ref>Hendriks et al.(1987)</ref>。
==大進化==
種内で起こる形質の変化を小進化というのに対し、新しい種や、種より高次の分類群の起源や[[絶滅]]のプロセスを大進化という。このような区別がなされるのは、大進化を小進化の積み重ねで説明できるかどうかについて議論があるためである<ref name="kawata">河田(1990) pp.114-115</ref>。しかし一般的には、大進化も小進化の延長として理解できると考えられている<ref name="kawata"/>。
===種分化===
{{Main|種分化}}
1種が2種以上に分岐し、新しい種が形成されることを種分化という。種の定義は多数あるが、進化生物学においては「相互に交配可能な生物の集団」として定義されることが多い(生物学的種概念)。したがって種分化は、集団間に[[生殖隔離]]が生じることを意味する<ref>Ridley(2004) p.381</ref>。
前述したセグロカモメの事例のほか、[[エシュショルツサンショウウオ]]<ref>Moritz et al.(2002)</ref>などで知られる輪状種の存在は、わずかな進化の累積が種分化を引き起こすことを示している<ref>Ridley(2004) pp.50-53</ref>。
一度に種分化が起こる事例も報告されている。たとえばカタツムリの殻の巻きは単一の遺伝子によって決定されているが、この遺伝子に突然変異が起こって右巻きになると、巻きの違う個体同士は交尾できないことが多いため、生殖隔離が成立する<ref>Ueshima & Asami(2003)</ref><ref>Hoso et al.(2010)</ref>。植物では、倍数体(全ゲノムが倍化した個体)が、もとの種と生殖できなくなることによる種分化がかなり頻繁に起こっていると考えられている<ref>コイン(2010) pp.321-326</ref>。
====断続平衡説====
{{Main|断続平衡説}}
[[ファイル:Punctuated-equilibrium.svg|thumb|right|漸進的進化(上)と断続平衡説(下)の対比。縦軸は下から上への時間の流れを、横軸は[[形態学 (生物学)|形態]]の類似の程度を表現している]]
地層中の化石の出現パターンを調べると、基本的な形態はあまり変化しないで安定な状態にあり、新しい形態をもつ化石は、ある地層に突然現れ、その後長い年月の間、形態はふたたび安定して、あまり変化しないという傾向がある{{Refnest|group="注釈"|ただし、古生物学でいう「突然」とは数万年程度の時間を指す。}}。古生物学者の[[ナイルズ・エルドリッジ|エルドリッジ]]と[[スティーヴン・ジェイ・グールド|グールド]]は、このような現象を[[断続平衡説|断続平衡現象]]と呼んだ<ref>河田(1990) pp.124-125</ref>。エルドリッジらは、進化は種分化のときにのみ急激に起こり、その他の期間は停滞すると主張した。
断続平衡説は種分化の重要な側面を捉えているという評価もある<ref>ステルレルニー(2004) pp.98-99</ref>一方で、批判も多い。たとえば断続平衡説は生物学的種概念に基づく種分化の理論を援用しているが、化石種は交配可能性ではなく形態に基づいて分類されているため、化石種と生物学的種は必ずしも一致しない<ref>河田(1990) pp.127-128</ref>。実際に形態の変化を定量的に追跡できる事例についてみると、断続平衡的な進化を示す系統もあるが、一方で連続的に進化している系統もある<ref>Ridley(2004) pp.605-606</ref>。また、断続平衡説は主流の進化理論に矛盾すると言われたこともあるが、実際には一般的な進化理論の範疇で理解できるものである<ref>ステルレルニー(2004) p.98</ref><ref>Ridley(2004) pp.600-601</ref><ref>ドーキンス(2004a) p.402</ref>。
==進化に関する誤解==
進化という概念は、日常生活でも頻繁に使用されるためか、誤解されていることが多い。よく見られる誤解について以下に述べる。
;進化に目的があるという誤解
:「高い所の葉を食べるために、キリンの首は伸びた」といった表現はよく使われる。しかし、首が伸びるという突然変異は目的とは関係なく起こり、それに自然選択が働いたにすぎない<ref>長谷川・長谷川(2000) pp.36-37</ref>。もっとも、無目的な突然変異と自然選択によって、あたかも目的を持って作られたかのような器官が生み出されるのも確かである。[[リチャード・ドーキンス|ドーキンス]]はこのことを「盲目の時計職人」という比喩で表現した<ref>ドーキンス(2004a) p.46</ref>。
;進化は進歩であるという誤解
:地中で生活するモグラの目が退化していることも進化の結果であるように、進化は必ずしも器官の発達や複雑化をもたらすわけではなく、また知能を発達させるとも限らない<ref>長谷川・長谷川(2000) pp.39-40</ref>。まして、ヒトが進化の頂点であり、進化はヒトを目指して進むなどと考えるべきではない<ref>長谷川・長谷川(2000) p.38</ref>。ヒトは他の現生生物と同じく、各々の環境に適応し、枝分かれしながら進む進化[[系統樹]]の末端の枝の一つにすぎない。ただしこれは進歩を複雑化やヒト化として定義した場合の話であり、定義によっては何らかの「進歩」(適応の向上、[[進化可能性]]の増大など)を進化に見出すことは可能だとする考えもある<ref>ステルレルニー(2004) pp.140-143</ref><ref name="dc">ドーキンス(2004b)</ref>。
:この誤解は、進化({{lang-en|evolution}})という語にその一因があるかもしれない。英語の「{{lang|en|evolution}}」という語はラテン語の「{{lang|la|evolvere}}」(展開する)に由来し、[[発生学]]においては[[前成説]]の発生過程を意味する語であったほか、日常語としては進歩({{lang|en|progress}})と強く結びついて使われる。そのためダーウィンはこの語をほとんど使わず、変化を伴う由来({{lang|en|descent with modification}})という表現を好んだ<ref name="esd">グールド(1984)</ref>。{{lang|en|evolution}} という語が生物進化の意味で使われるようになったのは[[ハーバート・スペンサー|スペンサー]]の影響である。このことは日本語の「進化」とも関連している。明治初期の日本ではダーウィンよりもスペンサーの影響が大きかったため、{{lang|en|evolution}} は万物の進歩を意味するスペンサーの用語として「進化」と訳されたが、これが現在にも続く、進化は進歩であるという誤解を招いている<ref>松永(2009) pp.51-52</ref>。
;「チンパンジーはいずれヒトに進化するのか」「ヒトがチンパンジーから進化したなら、なぜチンパンジーがまだいるのか」という疑問
[[ファイル:Ape skeletons.png|thumb|right|250px|ヒトと他の類人猿は、共通の祖先から進化した]]
:ヒトはチンパンジーと共通祖先を持ち、ヒトもチンパンジーもそこから独自の進化を遂げてきたにすぎないため、この疑問は的外れである<ref name="hasegawa">長谷川・長谷川(2000) pp.40-43</ref><ref name="at">ドーキンス(2006) pp.159-160</ref><ref name="watanabe">渡辺(2010) p.68</ref>。ヒトは数百万年前に、[[チンパンジー]](および[[ボノボ]])との共通祖先から分岐したと推定されている。この共通祖先はたまたまヒトよりはチンパンジーに似ていたと思われるが、それはヒトの系統がより多くの変化を遂げた結果にすぎず、共通祖先はチンパンジーともヒトとも異なる類人猿であった<ref name="at"/>。
:この誤解は、生物は下等なものから高等なものまで一列に配列され、進化はその序列の中で梯子を登るように進むという、より深い誤解を反映したものである<ref name="hasegawa"/>。実際には、進化は分岐を繰り返しながら進むものであり、現生の生物はどれも等しく系統樹の末端に位置づけられる。
==生物学以外での「進化」概念==
「進化」という概念は、ダーウィン以来の進化生物学の成功により有力となったが、生物学の影響を受けて、あるいはそれとは独立に「進化」という概念は、さまざまな学問分野において重要な役割を果たしている。たとえば、「[[進化経済学]]」<ref name="JAFEE">『進化経済学ハンドブック』「概説」1.「経済における進化」</ref>「進化経営学」「[[進化心理学]]」「[[進化的計算]]」などは前者の例、「宇宙の進化」<ref name="Kaifu">海部・吉岡(2011)</ref>は後者の例である。
生物学の影響を受け、「進化」概念を研究・分析の中核に据えるとき、進化生物学の進化概念をどの程度忠実に移植するかについての議論は多い<ref name="JAFEE"/>。進化経済学では、意図せざる進化と共に、意図された進化が重要であるとされることが多い<ref name="Ziman">Ziman(2000), I. Evolutionary thinking</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
==参考文献==<!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
<div style="font-size:90%">
*{{Cite journal|last=Andersson|first=Malte|title=Female choice selects for extreme tail length in a widowbird|journal=[[ネイチャー|Nature]]|volume=299|issue=5886|pages=818-820|year=1982|doi=10.1038/299818a0}}
*{{Cite journal|last1=Blount|first1=Zachary D.|last2=Borland|first2=Christina Z.|last3=Lenski|first3=Richard E.|authorlink3=:en:Richard Lenski|title=Historical contingency and the evolution of a key innovation in an experimental population of ''Escherichia coli''|journal=[[米国科学アカデミー紀要|Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America]]|volume=105|issue=23|pages=7899-7906|year=2008|doi=10.1073/pnas.0803151105|id={{PMID|18524956}} }}
*{{Cite journal|last=Chiappe|first=Luis M.|title=Downsized dinosaurs:the evolutionary transition to modern birds|journal=Evolution:Education and Outreach|volume=2|issue=2|pages=248-256|year=2009|doi=10.1007/s12052-009-0133-4 }}
*{{Cite book|和書|last=コイン|first=ジェリー・A |authorlink=:en:Jerry Coyne|title=進化のなぜを解明する|translator=塩原通緒|year=2010|origyear=2009|publisher=[[日経BP|日経BP社]]|isbn=9784822284206}}
*{{Cite book|和書|last=ドーキンス|first=リチャード|title=[[盲目の時計職人]]|date=2004年a|origyear=1986|publisher=[[早川書房]]|authorlink=リチャード・ドーキンス|translator=中嶋康裕・遠藤彰・遠藤知二・[[疋田努]]|others=[[日高敏隆]]監修|isbn=4152085576}}
*{{Cite book|和書|last=ドーキンス|first=リチャード|chapter=人間至上主義と進化的な進歩|title={{仮リンク|悪魔に仕える牧師|en|A Devil's Chaplain}}|date=2004年b|origyear=2003|pages=363-382|translator=垂水雄二|publisher=早川書房|isbn=4152085657}}
*{{Cite book|和書|last=ドーキンス|first=リチャード|title={{仮リンク|祖先の物語|en|The Ancestor's Tale}}|volume=上|translator=垂水雄二|publisher=[[小学館]]|year=2006|origyear=2004|isbn=4093562113}}
*{{Cite book|和書|last=ドーキンス|first=リチャード|title=[[進化の存在証明]]|translator=垂水雄二|year=2009|publisher=早川書房|origyear=2009|isbn=9784152090904}}
*{{Cite book|和書|author=遠藤秀紀|authorlink=遠藤秀紀|title=人体 失敗の進化史|year=2006|publisher=[[光文社]]|series=[[光文社新書]]|isbn=433403358X}}
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*{{Cite book|last=Futuyma|first=Douglas J.|authorlink=:en:Douglas J. Futuyma|title=Evolution|year=2005|publisher=Sinauer Associates|isbn=0878931872}}
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*{{Cite journal|last1=Hendriks|first1=W.|last2=Leunissen|first2=J.|last3=Nevo|first3=E.|last4=Bloemendal|first4=H.|last5=de Jong|first5=W. W.|title=The lens protein alpha A-crystallin of the blind mole rat, ''Spalax ehrenbergi'':evolutionary change and functional constraints|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America|volume=84|issue=15|pages=5320-5324|year=1987|id={{PMID|3474658}}|url=http://www.pnas.org/content/84/15/5320.short}}
*{{Cite book|和書|author=海部宣男|authorlink=海部宣男|author2=吉岡 一男|authorlink2=吉岡一男 (天文学者)|year=2010|title=進化する宇宙|edition=新訂|publisher=放送大学教育振興会|ISBN=978-4595312885}}
*{{Cite journal|last1=Hoso|first1=Masaki|last2=Kameda|first2=Yuichi|last3=Wu|first3=Shu-Ping|last4=Asami|first4=Takahiro|last5=Kato|first5=Makoto|last6=Hori|first6=Michio|title=A speciation gene for left-right reversal in snails results in anti-predator adaptation|journal={{仮リンク|ネイチャー・コミュニケーションズ|en|Nature Communications|label=Nature Communications}}|volume=1|pages=133|year=2010|doi=10.1038/ncomms1133|url=http://www.natureasia.com/ja-jp/ncomms/abstracts/35003}}
*{{Cite book|和書|author=河田雅圭|authorlink=河田雅圭|title=はじめての進化論|publisher=[[講談社]]|year=1990|isbn=4061489836|series=[[講談社現代新書]]|url=http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/}}
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*{{Cite book|和書|author=倉谷滋|title=個体発生は進化をくりかえすのか|year=2005|publisher=岩波書店|series=岩波科学ライブラリー108|isbn=4000074482}}
*{{Citation|和書|author=松本俊吉|chapter=自然選択の単位の問題|title=進化論はなぜ哲学の問題になるのか|editor=松本俊吉編著|publisher=[[勁草書房]]|year=2010|isbn=9784326101986|pages=1-25}}
*{{Cite journal|和書|author=松永俊男|title=日本におけるダーウィン理解の誤り|journal=[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]|volume=37|issue=5|pages=48-52|year=2009|naid=40016546740}}
*{{Cite journal|last=Majerus|first=Michael E. N.|authorlink=:en:Michael Majerus|title=Industrial melanism in the peppered moth, ''Biston betularia'':an excellent teaching example of Darwinian evolution in action|journal=Evolution:Education and Outreach|volume=2|issue=1|pages=63-74|year=2009|doi=10.1007/s12052-008-0107-y}}
*{{Cite journal|last1=Moritz|first1=Craig|last2=Schneider|first2=Christopher J.|last3=Wake|first3=David B.|year=2002|title=Evolutionary relationships within the ''Ensatina eschscholtzii'' complex confirm the ring species interpretation|journal=Systematic Biology|volume=41|issue=3|pages=273-291|doi=10.1093/sysbio/41.3.273}}
*{{Cite journal|和書|last=オール|first=H.A.|title=ゲノムから見た自然選択のパワー|journal=[[日経サイエンス]]|year=2009|volume=39|issue=4|pages=26-35|issn=0917009X|naid=40016490702}}
*{{Cite book|和書|last=パターソン|first=コリン|title=現代進化学入門|translator=[[馬渡峻輔]]・[[上原真澄]]・[[磯野直秀]]|publisher=岩波書店|year=2001|origyear=1999|isbn=4000053175}}
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*{{Cite book|和書|last=ルース|first=マイケル|authorlink=マイケル・ルース|title=ダーウィンとデザイン|publisher=[[共立出版]]|year=2008|origyear=2003|translator=[[佐倉統]]・土明文・矢島壮平|isbn=9784320056640}}
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*「進化」「偽遺伝子」「退化」{{Cite book|和書|chapter=退行的進化|title=岩波生物学辞典|edition=第4版、CD-ROM版|editor1-first=龍一|editor1-last=八杉|editor1-link=八杉龍一|editor2-first=治男|editor2-last=小関|editor2-link=小関治男|editor3-first=雅樹|editor3-last=古谷|editor4-first=敏隆編集|editor4-last=日高|year=1998|publisher=岩波書店}}
*{{Cite book|last=Ziman|first=John|year=2003|title=Technological Innovation as an Evolutionary Process|publisher=Cambridge Uninversity Press|isbn=9780521542173}}
</div>
==関連項目==
{{Sisterlinks|commons=Category:Evolution}}
* [[ティンバーゲンの4つのなぜ]]
* [[ミーム]]
==外部リンク==
*{{Wayback|url=http://jvsc.jst.go.jp/earth/sinka/index.html|title=〈進化〉って何だろう?|JSTバーチャル科学館|date=20051231223009}}{{リンク切れ|date=2021年12月}}
*{{EoE|Evolution|Evolution}}
{{IEP|evolutio|Evolution}}
{{SEP|evolution|Evolution}}
* {{Kotobank}}
{{進化}}
{{Popgen}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんか}}
[[Category:進化|*]]
[[Category:生物学の理論]]
[[Category:地球史]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]]
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バッタ目
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バッタ目(バッタもく、Orthoptera)は、昆虫類の分類群の一つ。バッタ、キリギリス、コオロギ、ケラ、カマドウマなどが属するグループである。直翅目(ちょくしもく)とも呼ばれる。
かつてはカマキリ、ナナフシ、ゴキブリ、ガロアムシまで含んだ大きな目で扱われたが、現在はこれらをそれぞれ独立した目として扱う分類法が一般的である。
熱帯から寒帯まで、全世界の陸上に広く分布する。種類数は判っているだけで約1万5千種類ほどだが、今後も熱帯雨林地帯を中心に多くの新種が発見されると考えられている。うち日本では150種類以上が知られる。
体は前後に細長く、やや左右に平たいものが多い。触角は単純で長く、特に夜行性のグループであるキリギリス亜目はほとんどが体長よりも長い触角をもつ。
脚の中では特に後脚が長く発達し、移動や敵からの逃走の際によく跳躍する。後脚の腿節には筋肉がつき太くなっている。また、各脚の脛には小さな棘の束がいくつもあり、キリギリス亜目の肉食性の強い種類では獲物を脚で抑えこむため棘が長く鋭く発達する傾向がある。
主に植物の葉上で生活するものは趺節-足先に吸着組織を備える。バッタ亜目では爪間盤、キリギリス亜目では褥盤と呼ばれ、いずれもガラス・プラスチックなどの平滑な面を歩く際に寄与する。
後脚の発達の悪い一部の種類では殆ど跳躍を行わない種類(ケラやカヤキリなど)もある。
口には大顎が発達し、食物をかじって食べる。バッタ亜目はほとんど植物食だが、キリギリス亜目では雑食や肉食のものが多く、肉食の強い種類は天敵に捕獲された際に大顎で噛みつくことも多い。キリギリスなどに噛まれると結構痛い。
一部の種類(ササキリ亜科のクサキリ族(クサキリ、クビキリギス、カヤキリ、ヒサゴクサキリなど)、ツユムシ亜科、ウマオイ亜科、クツワムシ亜科、コオロギではカンタン亜科。)はカマキリのように暗いところで複眼の色が黒っぽく変わる。
成虫には翅があり、これを使って活発に飛ぶものがいる。一方で、翅が鱗状に退化して飛行能力を失ったものや、羽化直後は後翅があって飛べるがしばらく後に後翅が抜け落ちて飛ぶ能力を失うもの等もいる。
キリギリス亜目ではオスの前翅にやすりのような発音器官と共鳴室を備え、前翅をこすり合わせ大きな音を出して鳴く種類が多い。鳴く種類ではオスの前翅の翅脈が複雑になるが、メスの翅脈は前後に単純に伸びる。バッタ亜目にもナキイナゴやショウリョウバッタなど鳴くものがいるが、これらは前翅と後脚、または前翅と後翅をこすり合わせており、キリギリス亜目とは鳴く仕組みが異なる。鳴き声は他個体との通信手段として用いられる。バッタ亜目では後胸部の側面、キリギリス亜目では前脚脛節のつけ根に耳を持っていて、ここで他個体の鳴き声や物音を聞き取る。鳴き声はオスがメスと出会い配偶行動をとるための手段としての他、個体ごとの移動による過剰な拡散を防いだり、危険を感じて鳴き止む事で他の個体にも危険を知らせている、などの意味がある。
腹部は11個の腹節があるが、最後の第11腹節は退化していて、第9腹節と第10腹節にオスの生殖器やメスの産卵管、尾毛(びもう)が集中する。尾毛は触角よりも太くて短いが、コオロギ類ではかなり長く発達する。これもまた触角と同様に周囲を探る感覚器となっている。
生活史は蛹の時期を経ず、卵 - 幼虫 - 成虫という不完全変態を行う。卵は土中や植物の組織内に産み付けられる。バッタ亜目ではメスが腹部を土中に差しこみ、粘性のある体液を分泌し泡立てて卵嚢を作るのに対し、キリギリス亜目ではメスの腹端に長い産卵管があり、これを土中や植物の組織に突き立てて一粒ずつ産卵する。孵化した幼虫は翅がなく体も小さいが、ほぼ親と同じ体型で、親と同じ食物を摂って成長する。
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バッタ目(バッタもく、Orthoptera)は、昆虫類の分類群の一つ。バッタ、キリギリス、コオロギ、ケラ、カマドウマなどが属するグループである。直翅目(ちょくしもく)とも呼ばれる。 かつてはカマキリ、ナナフシ、ゴキブリ、ガロアムシまで含んだ大きな目で扱われたが、現在はこれらをそれぞれ独立した目として扱う分類法が一般的である。
|
{{参照方法|date = 2021年7月}}
{{生物分類表
| 名称 = バッタ目(直翅目)
| 画像 = [[画像:W tonosamabatta5061.jpg|250px]]
| 画像キャプション = [[トノサマバッタ]] ''Locusta migratoria''
|省略 = 昆虫綱
| 目 = '''バッタ目'''(直翅目) [[:w:Orthoptera|Orthoptera]]<br />Latreille, [[1793年|1793]]
| 下位分類名 = [[亜目]]
| 下位分類 =
* [[バッタ亜目]] [[:w:Caelifera|Caelifera]]
* [[キリギリス亜目]] [[:w:Ensifera|Ensifera]]
}}
'''バッタ目'''(バッタもく、{{sname|Orthoptera}})は、[[昆虫類]]の分類群の一つ。[[バッタ]]、[[キリギリス]]、[[コオロギ]]、[[ケラ]]、[[カマドウマ]]などが属するグループである。'''直翅目'''(ちょくしもく)とも呼ばれる。
かつては[[カマキリ]]、[[ナナフシ]]、[[ゴキブリ]]、[[ガロアムシ]]まで含んだ大きな目で扱われたが、現在はこれらをそれぞれ独立した[[目 (分類学)|目]]として扱う分類法が一般的である。
== 概要 ==
[[熱帯]]から[[寒帯]]まで、全世界の陸上に広く分布する。種類数は判っているだけで約1万5千種類ほどだが、今後も[[熱帯雨林]]地帯を中心に多くの新種が発見されると考えられている。うち[[日本]]では150種類以上が知られる。
体は前後に細長く、やや左右に平たいものが多い。[[触角]]は単純で長く、特に夜行性のグループである[[キリギリス亜目]]はほとんどが体長よりも長い[[触角]]をもつ。
[[File:Locusta migratoria female flying HighSpeedPhoto.webm|thumb|トノサマバッタの跳躍の高速度撮影]]
[[脚]]の中では特に後脚が長く発達し、移動や敵からの逃走の際によく跳躍する。後脚の腿節には[[筋肉]]がつき太くなっている。また、各脚の脛には小さな[[棘]]の束がいくつもあり、キリギリス亜目の肉食性の強い種類では獲物を脚で抑えこむため棘が長く鋭く発達する傾向がある。
主に植物の葉上で生活するものは[[趺節]]-足先に吸着組織を備える。バッタ亜目では[[爪間盤]]、キリギリス亜目では[[褥盤]]と呼ばれ、いずれもガラス・プラスチックなどの平滑な面を歩く際に寄与する。
後脚の発達の悪い一部の種類では殆ど跳躍を行わない種類([[ケラ]]や[[カヤキリ]]など)もある。
口には[[大顎]]が発達し、食物をかじって食べる。バッタ亜目はほとんど植物食だが、キリギリス亜目では雑食や肉食のものが多く、肉食の強い種類は天敵に捕獲された際に大顎で噛みつくことも多い。キリギリスなどに噛まれると結構痛い。
一部の種類(ササキリ亜科のクサキリ族(クサキリ、クビキリギス、カヤキリ、ヒサゴクサキリなど)、ツユムシ亜科、ウマオイ亜科、クツワムシ亜科、コオロギではカンタン亜科。)は[[カマキリ]]のように暗いところで[[複眼]]の色が黒っぽく変わる。
成虫には[[昆虫の翅|翅]]があり、これを使って活発に飛ぶものがいる。一方で、翅が鱗状に[[退化]]して飛行能力を失ったものや、羽化直後は後翅があって飛べるがしばらく後に後翅が抜け落ちて飛ぶ能力を失うもの等もいる。
キリギリス亜目ではオスの前翅に[[やすり]]のような発音器官と共鳴室を備え、前翅をこすり合わせ大きな音を出して鳴く種類が多い。鳴く種類ではオスの前翅の翅脈が複雑になるが、メスの翅脈は前後に単純に伸びる。バッタ亜目にも[[ナキイナゴ]]や[[ショウリョウバッタ]]など鳴くものがいるが、これらは前翅と後脚、または前翅と後翅をこすり合わせており、キリギリス亜目とは鳴く仕組みが異なる。鳴き声は他個体との通信手段として用いられる。バッタ亜目では後胸部の側面、キリギリス亜目では前脚脛節のつけ根に[[耳]]を持っていて、ここで他個体の鳴き声や物音を聞き取る。鳴き声はオスがメスと出会い配偶行動をとるための手段としての他、個体ごとの移動による過剰な拡散を防いだり、危険を感じて鳴き止む事で他の個体にも危険を知らせている、などの意味がある。
[[腹部]]は11個の腹節があるが、最後の第11腹節は退化していて、第9腹節と第10腹節にオスの[[生殖器]]やメスの[[産卵管]]、尾毛(びもう)が集中する。尾毛は触角よりも太くて短いが、[[コオロギ]]類ではかなり長く発達する。これもまた触角と同様に周囲を探る[[感覚器]]となっている。
[[生活史 (生物)|生活史]]は[[蛹]]の時期を経ず、[[卵]] - [[幼虫]] - [[成虫]]という[[変態#不完全変態|不完全変態]]を行う。卵は土中や植物の組織内に産み付けられる。バッタ亜目ではメスが腹部を土中に差しこみ、粘性のある[[体液]]を分泌し[[泡]]立てて卵嚢を作るのに対し、キリギリス亜目ではメスの腹端に長い産卵管があり、これを土中や植物の組織に突き立てて一粒ずつ産卵する。孵化した幼虫は翅がなく体も小さいが、ほぼ親と同じ体型で、親と同じ食物を摂って成長する。
== 分類 ==
=== [[バッタ亜目]](雑弁亜目) {{Sname||Caelifera}} ===
* [[バッタ上科]] {{sname||Acridoidea}}
** [[バッタ科]] {{sname||Acrididae}} - [[ショウリョウバッタ]]、[[ショウリョウバッタモドキ]]、[[トノサマバッタ]]、[[クルマバッタ]]、[[クルマバッタモドキ]]、[[イボバッタ]]、[[カワラバッタ]]、[[マダラバッタ]]、[[ツマグロバッタ]]、[[ナキイナゴ]]、[[ヒロバネヒナバッタ]]、[[ヒナバッタ]]、[[コバネイナゴ]]、[[ハネナガイナゴ]]、[[ツチイナゴ]]、[[フキバッタ]]類など多数。
** {{sname||Arcypteridae}}
** {{sname||Charilaidae}}
** {{sname||Chrotogonidae}}
** {{sname||Lathiceridae}}
** {{sname||Lentulidae}}
** [[フトスナバッタ科]] {{sname||Pamphagidae}}
** [[セミバッタ科]] {{sname||Pneumoridae}}
** {{sname||Proscopiidae}}
** [[オンブバッタ科]] {{sname||Pyrgomorphidae}} - [[オンブバッタ]]、[[アカハネオンブバッタ]]。
* [[クビナガバッタ上科]] {{sname||Eumastacoidea}}
** [[クビナガバッタ科]] {{sname||Eumastacidae}}
* [[ヒシバッタ上科]] {{sname||Tetrigoidea}}
** {{sname||Batrachididae}}
** [[ヒシバッタ科]] {{sname||Tetrigidae}} - [[ハラヒシバッタ]]、[[ハネナガヒシバッタ]]、[[トゲヒシバッタ]]など。
* [[ノミバッタ上科]] {{sname||Tridactyloidea}}
** [[ツツケラ科]] {{sname||Cylindrachetidae}}
** {{sname||Rhipipterygidae}}
** [[ノミバッタ科]] {{sname||Tridactylidae}} - [[ノミバッタ]]。
=== [[キリギリス亜目]](剣弁亜目) {{Sname||Ensifera}} ===
[[画像:Heupferd fg01.jpg|thumb|250px|[[ヤブキリ]]の一種 ''Tettigonia viridissima'' (メス)]]
[[画像:Asigurotuyumusi.JPG|thumb|250px|[[アシグロツユムシ]]のメス ''Phaneroptera nigroantennata'']]
* [[コオロギ上科]] {{sname||Grylloidea}}
** [[コオロギ科]] {{sname||Gryllidae}} - [[エンマコオロギ]]、[[ツヅレサセコオロギ]]、[[ミツカドコオロギ]]、[[オカメコオロギ]]類、[[クサヒバリ]]、[[マダラスズ]]、[[シバスズ]]、[[スズムシ]]、[[マツムシ]]、[[アオマツムシ]]、[[カンタン (昆虫)|カンタン]]など多数。
** [[ケラ科]] {{sname||Gryllotalpidae}} - [[ケラ]]。
** [[カネタタキ科]] {{sname||Mogoplistidae}} - [[カネタタキ]]。
** [[アリヅカコオロギ科]] {{sname||Myrmecophilidae}} - [[アリヅカコオロギ]]。
* {{sname||Hagloidea}} 上科
** {{sname||Prophalangopsidae}}
* [[カマドウマ上科]] {{sname||Rhaphidophoroidea}}
** [[カマドウマ科]] {{sname||Rhaphidophoridae}} - [[カマドウマ]]、[[マダラカマドウマ]]、[[クラズミウマ]]、[[コノシタウマ]]など。
**クチキウマ亜科
* {{sname||Schizodactyloidea}} 上科
** {{sname||Schizodactylidae}}
* [[コロギス上科]] {{sname||Stenopelmatoidea}}
** {{sname||Anostostomatidae}} - [[ヤンバルクロギリス]]、[[ヤエヤマクロギリス]]、[[ジャイアント・ウェタ]] など
** {{sname||Cooloolidae}}
** [[コロギス科]] {{sname||Gryllacrididae}} - [[コロギス]]、[[ヒノマルコロギス]]、[[ハネナシコロギス]]、[[コバネコロギス]]。
** <!-- [[クロギリス科]]? -->{{sname||Stenopelmatidae}}
* [[キリギリス上科]] {{sname||Tettigonioidea}}
** [[キリギリス科]] {{sname||Tettigoniidae}} - [[キリギリス]]、[[ヒメギス]]、[[ヤブキリ]]類、[[クサキリ]]、[[カヤキリ]]、[[クビキリギス]]、[[ササキリ]]、[[ウスイロササキリ]]、[[ウマオイ]]類、[[ツユムシ]]、[[クツワムシ]]、[[クダマキモドキ]]類など多数。
<!-- == 関連項目 == -->
{{Wikispecies|Orthoptera}}
{{Commonscat|Orthoptera}}
== 参考文献 ==
* 宮武頼夫・加納康嗣編著 『検索入門 セミ・バッタ』 [[保育社]]、1992年、ISBN 4-586-31038-3。
*村井貴史・伊藤ふくお著 日本直翅類学会監修 『バッタ・コオロギ・キリギリス生態図鑑』 北海道大学出版会、2011年、ISBN 4832913948
== 外部リンク ==
* [http://research2.kahaku.go.jp/ujssb/search?KINGDOM=Animalia&PHYLUM=Arthropoda&SUBPHYLUM=Mandibulata&CLASS=Insecta&SORDER=Orthoptera 日本産生物種数調査](日本分類学会連合)
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14,419 |
泡盛
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泡盛(あわもり)は、日本の琉球諸島で造られる蒸留酒である。
米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、酵母でアルコール発酵させたもろみを単式蒸留器で蒸留して製造する。酒税法上は、単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)または原料用アルコール(「花酒」参照)に分類される。3年以上貯蔵したものは古酒(クース)と呼ばれる。
琉球では泡盛のことを伝統的に「サキ」と呼んでいた。1720年に清の冊封副使として来琉した徐葆光は、その滞在記録『中山伝信録』で琉球の酒を「サキ」と記している。19世紀に琉球を訪れた欧米の船舶の記録でも、泡盛は「サキ」と表記されており、この名称は長らく一般的なものであった。
「泡盛」という名称は、江戸時代前期の1671年に琉球王国中山王から徳川将軍家への献上品目録に「泡盛酒」と見えるのが最初である。これに先立って、1660年の島津光久から江戸幕府第4代将軍徳川家綱への献上品の中にも「泡盛」と記された例がある。それ以前にも献上は行われていたが、「琉球酒」「焼酒」「焼酎」といった名称が使われていた。島津氏を藩主とする薩摩藩は、1609年の琉球侵攻により琉球王国を附庸国としており江戸幕府(徳川将軍家)への献上は薩摩藩を通じて行われていた。薩摩藩では琉球から伝わった蒸留技術を用いた焼酎づくりが盛んになったが、そのような焼酎も「泡盛」と呼ばれることがあった一方、琉球産の酒も「泡盛」「琉球酒」「焼酎」「焼酒」等と様々に呼ばれていたものが、元禄年間(1688年 - 1704年)頃に琉球産の酒については「泡盛」という名が定着し、「焼酎」と明確に区別されるようになったと考えられている。
太平洋戦争における日本の降伏を経た沖縄の本土復帰後、泡盛は焼酎乙類に分類された。酒類表示に「泡盛」を使用することはできなかったが、1983年に「当該品目の名称以外に一般に慣熟した呼称があるものとして大蔵省令で定める酒類」として例外的に「泡盛」の表示が認められるようになった。また、同年、『泡盛の表示に関する公正競争規約』が作成され、沖縄県産の泡盛には「本場泡盛」の表示が認められた。1995年6月には、「琉球」が国税庁長官が指定した酒類の地理的表示(GI)として認められ、2004年には、国税庁の『地理的表示に関する表示基準』と『地理的表示に関する表示基準第2項に規定する国税庁長官が指定するぶどう酒、蒸留酒又は清酒の産地を定める件』が公示されて、沖縄県産の泡盛には「琉球泡盛」の表示が用いられるようになった。「琉球泡盛」は2006年12月に地域団体商標の登録も受けている。
沖縄県内では「島酒」(しまざけ、しまざき)とも呼称される。「シマーグヮー」や「シマー」という略称は、泡盛が不人気であった時代には蔑称として用いられたが、現在は親しみを込めた愛称として認識されている。
「泡盛」の名の由来には諸説があるが、よく語られるのが、蒸留の際、導管から垂れてくる泡盛が受壷に落ちる時、泡が盛り上がる状態を見て「泡盛る」となり、転じて「泡盛」となったという説である。実際、琉球では蒸留した酒を茶碗に入れて泡立たせ、徐々に水で薄めて泡が立たなくなるまでそれを繰り返すことによってアルコール度数を決定していた時期がある(現在はアルコール分1%を越えるものが酒)。これは、蒸留酒に含まれる高級アルコールなどの起泡性成分の含量がアルコール度数に比例することによる。沖縄の歴史家東恩納寛惇はこの説を採っている。文書の上では、1762年に薩摩に向かう途中で台風に遭い、土佐国(現在の高知県)に漂着した楷船に乗っていた琉球の官吏から土佐藩が聞き書きした『大島筆記』に、「泡盛とは、焼酎の中、至て宜きは蒸して落る露微細なる泡、盛り高になる。それを上とする故也と云えり。」との記述がある。
一方、伊波普猷は、「もり」は酒を意味する古語であり、タイ米が使われるようになる前は米と粟(アワ)とを原料としたことから、「粟もり」が転じて「泡盛」になったとする。島津重豪の命により編纂された『成形図説』(1804年頃)も粟に由来するとの説を採る。『臨海水土志』にも「粟(あわ)を以て酒を為り」のように、アワでみきを造っていたことによるとの説が見える。
この他に、献上品を指すアワモラチによるという説、サンスクリット語の酒を意味する「アワムリから来ているとする説などがある。
米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、出芽酵母でアルコール発酵させたもろみを一度だけ蒸留する。黒麹菌は沖縄県産のもので他の麹菌に比べて雑菌による腐敗を防ぎやすい。
原料の米は主にタイ産インディカ米の砕米が用いられる。タイ米は黒麹菌が菌糸を伸ばしやすく、アルコール発酵で温度管理がしやすいという利点がある。一方、地産地消の動きに伴って県内産のジャポニカ米を使ったものも生産されている。また、沖縄県産米による泡盛づくりをめざす「琉球泡盛テロワールプロジェクト」も進められている。
また、蒸留酒とともに伝わった酒甕(サキガーミ)は古酒の製造に欠かせないものになっている。
酒税法(第3条)上では単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)に分類される。政令ならびに財務省令によると、単式蒸留焼酎の内、「米こうじ(黒こうじ菌を用いたものに限る。)及び水を原料として発酵させたアルコール含有物を単式蒸留器により蒸留したもの(水以外の物品を加えたものを除く。)」については、酒類の種類(品目)の表示を「泡盛」とすることができるものとされている。
なお、酒税法で単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)のアルコール分は15°C下の容積比で45%以下と定められているため、蒸留された原酒のアルコール分が46%以上の場合は加水して調整する必要がある。与那国島(与那国町)に特例で製造が認められているアルコール度数60%の銘柄(花酒と呼ぶ)は酒税法上「原料用アルコール」となる。花酒には国泉泡盛の「どなん」、崎元酒造所の「与那国」、入波平酒造の「舞富名」(まいふな)の3銘柄があり、皿に広げるとアルコールが揮発し、着火すると容易に火がつく。花酒は法令上「泡盛」と表示することができなかったが、2020年の財務省令改正により、アルコール分45度以下のもの同様「泡盛」の表示が認められることとなった。
泡盛を寝かせると、アルコールの刺激が和らぎ、こくや独特の香気が出てうまくなるので、古酒(クース)と称して珍重される。一般的には、10年程度までは貯蔵期間が長いほど上質になるとされる。また、仕次ぎという減った量やアルコール分を注ぎ足す手法で、さらに長期間品質を劣化させることなく熟成させることも行われている。かつては琉球王朝時代に仕込みがなされた200年物や300年物が存在したとされるが、それらは沖縄戦によりほとんどが失われ、今では首里の識名酒造に貯蔵された150年物の古酒が現存するのみである(販売されることはない)。
1983年に『泡盛の表示に関する公正競争規約』が作成され、「全量を3年以上貯蔵したもの又は仕次ぎしたもので、3年以上貯蔵した泡盛が仕次ぎ後の泡盛の総量の50パーセントを超えるもの」に「古酒」の表示が認められた。
その後、本土(九州以北)並み課税を見込み、一般酒の価格競争力がなくなったとしても単価の高い古酒で対応すべく、古酒の基準を厳格化して品質向上を目指す機運が生じた結果、2004年6月から、沖縄県酒造組合連合会により自主基準が導入された。この基準では、「10年古酒」と表示することができるのは、10年古酒100パーセント、ブレンド古酒の場合は原酒には最低10年を経た古酒を使用したものである。ブレンド古酒の場合は、「5年50パーセント、3年50パーセント」などのブレンド比率の表示も可能である。
2012年に古酒の不当表示が明らかになったことを受けて、2013年10月10日に『泡盛の表示に関する公正競争規約』が改正され、2015年8月1日から適用された。改正規約では、自主基準と同様に、「古酒」は「泡盛を3年以上貯蔵したもの」と定められ、「全量が古酒であるもの」のみに「古酒」の表示が認められた。年数表示については、「当該年数以上貯蔵したものとする。異なる貯蔵年数の古酒を混和した場合は、その割合に関わらず、最も貯蔵年数の少ない古酒の年数を表示する。貯蔵年数の年数未満は切り捨てて表示するものとする。」とされ、混和酒の場合は、「古酒を10パーセント以上混和したもので、かつ混和割合を表示しなければ混和酒である旨を表示してはならない。」とされている。つまり、年数を表示する場合には、全量が表示年数以上貯蔵されたものではなければならず、例えば、全量が5年貯蔵酒か、5年貯蔵酒に5年以上貯蔵した古酒をブレンドしたものでなければ、「5年」を名乗ることはできない。また、ブレンド古酒の場合には、最も貯蔵年数が若いものの年数を表示しなければならず、例えば、10年貯蔵酒に少量でも3年貯蔵酒がブレンドされていれば、「3年」の表示しか認められない。一般酒に古酒を10パーセント以上のブレンドする場合には、「混和酒」又は「ブレンド酒」の表記が認められるが、この場合にも、混合割合を表記しなくてはならない。
なお、古酒の表示に代えて、クース又は貯蔵酒若しくは熟成酒と表示することができる。
伝統的には、一定期間に一本ずつ、選び出した泡盛で満たした南蛮甕を貯蔵し(順に親酒、二番手、三番手......と呼ばれる)、ある程度年数が経ったところで、最も古い酒である親酒を掘り出し、きき酒を行った上で慶事等の際飲用に供される。「親酒」を飲んだり、甕から浸み出したりして減った分は、その分だけ親酒に二番手を、二番手に三番手を...というように順次新しいものを古いものへ補充し、最後に最高の番手の甕に新しい酒を補充する。この方法を仕次ぎ(しつぎ)という。古くなるとアルコール分が減り、腐敗する場合もあるため、仕次ぎを行うことは品質保持の上でも非常に重要である。最低でも、甕を3個用意し、三番手まで作るのが望ましいとされる。
多くの酒造所で、様々な方法で貯蔵されているが、現在、効率性の観点から多く採用されている貯蔵方法はステンレスタンク貯蔵である。泡盛は瓶詰めされたものを寝かせても熟成が進み古酒化するとされているが、瓶、ステンレスタンク、ホーロータンク、甕、樽と異なる容器で熟成された古酒は風味が異なる。先に挙げた方法ほどアルコールの減少が少なく、泡盛本来のクリアな風味となり、後者になるほどアルコールが揮発して丸くなりやすく、容器から溶出した成分のため複雑な風味となるといわれている。
瓶内でも熟成されると考えられているため、家庭でも新酒をそのまま寝かせることにより古酒にすることも可能である。かつては本土に出荷した泡盛の売れ残りが送り返されることがあり、製造業者は古酒になっているため喜んで引き取っていた。本土の業者にも熟成のことが知れ渡ると、売れ残りが送り返されることがなくなったという。現在の紙パック製品も、焼酎類ようのものにはアルミニウム箔の層が入っていて、気密性、遮光性が高いため、未開封のまま数年間置くことで熟成は進められる。
古酒は、利益を出すまでに年月がかかるため、企業にとってはハイリスク商品である。また、泡盛業界は零細事業所が多いため信用力が低く、必ずしも思った利益が出るとは限らない長期事業に銀行など金融機関が貸し渋りする傾向がある。そのため、損益確定が早い一般酒に力を入れる動きが泡盛業界には多い。
こうした条件に対応するため、1976年より沖縄県酒造協同組合が各酒造場の生産する泡盛の原酒を仕入れ、ブレンドした後、長期貯蔵により古酒として出荷する事業を行っている。同組合には沖縄県内全46場が参加している。また、近年の法整備により貯蔵中の泡盛を担保とする融資制度が、2007年に沖縄振興開発金融公庫より開始された。
沖縄県内産以外であっても、規約に沿った材料・製法を踏襲すれば「泡盛」や「クース」の表示ができることを利用し、人件費や地価が安い国で製造し、年数を要する貯蔵まで現地で行おうとする動きも見られる。例えば、久米仙酒造は1994年に中国内モンゴル自治区ウランホト市に工場を建設し、1995年に内モンゴル産泡盛、1999年に内モンゴル産古酒を発売している。
また、一般の泡盛の不良在庫の分を「古酒」として売ることも出来る。この場合、保存状態により品質にばらつきが出るため、味の調整をしてブレンド古酒として商品になる。
2012年3月には、泡盛古酒の不当表示が行われていたことに対し、日本酒造組合中央会(東京)から沖縄県内の9社に違反行為の排除などを求める警告や指導の処分が出されていたことが明らかになった。
泡盛は蒸留酒で、アルコール度数が40度を超える高いものから、そのまま飲むことを前提に水割りされた12度程度のものまで市販されているため、幅広い飲み方が楽しめる。ストレート、オン・ザ・ロック、水割り、お湯割り、炭酸割り(ソーダ割り)などのほか、地元では烏龍茶割り、コーヒー割り、牛乳割りも行われる。また沖縄特産品を使用したシークヮーサー果汁割りやウコン割りなどでも飲まれ、また、カクテルベースとしても用いられて、様々なレシピのカクテルが考案されている(別項参照)。
一般的に多くされる飲み方は水割りであるが、熟成された古酒をより深く味わうのならストレートということになる。この場合、猪口と泡盛用の伝統的な酒器であるカラカラ(多くは壺屋焼だが、ガラス製のこともある)が使われる場合が多い。また、水割りなどの時は琉球ガラスのグラスがよく使われる。
カクテルの開発・提供などの活動を行う「泡盛マイスター協会」が組織されている。
など多数
泡盛は酒として味わうほか、沖縄料理の料理酒や調味料としても利用される。泡盛に島唐辛子を漬け込んで辛味を引き出した調味料がコーレーグスである。なお、「コーレーグス」は本来は唐辛子の意味である。
また、豆腐ようは、島豆腐を米麹、紅麹を混ぜた泡盛に漬け込み発酵熟成させた食品である。
製造時の副産物である酒粕(もろみかす)の一部はクエン酸を含む「もろみ酢」に加工、販売され、近年の健康ブームの中で人気を得ている。
沖縄には泡盛を利用した民間療法が多数あり、泡盛による刀傷の消毒や泡盛の利尿効果について記した文献が多数残っている。
酒の蒸留技術は14世紀後半から15世紀頃にシャム国(現在のタイ)から琉球に伝えられた。それとともに蒸留器、タイ米、貯蔵用の甕などがもたらされた。琉球の気候に最適な黒麹菌の導入などの改良によって、新たな蒸留酒、つまり泡盛が誕生したと考えられている。
1460年、第一尚氏王統の尚泰久王が李氏朝鮮に使者を派遣した時、朝鮮国王・世祖に天竺酒を贈っている。天竺酒の製法について、「桄榔樹の漿、焼きて酒を成す」と記されているので、サトウヤシ(桄榔)を原料としたヤシ酒(蒸留酒)、おそらくアラックのようなものだったのであろうと考えられる。
また、1478年、朝鮮漂着民が沖縄本島の那覇での見聞として、清酒、濁酒、さらに南蛮酒があり、この南蛮酒の味は、朝鮮の焼酒のようであるとの記述がある。
1534年、明からの冊封使・陳侃が琉球に赴いた時の記録『陳侃使録』に、「南蛮(南番)酒」のことが記されている。この南蛮酒は暹羅(シャム、タイ)からもたらされたものであり、醸法は中国の露酒であると記されている。
米を原料とした蒸留酒が沖縄でいつ造られるようになったのかは定かではない。東恩納寛惇が1941年の『泡盛雑考』等の論考で、タイには類似の蒸留器が見られたことから、「ラオロン」が起源ではないかと推測して以来、この説が有力である。
泡盛は、15世紀から19世紀まで、奉納品として中国と日本の権力者に献上されていた。日本へは、1609年の琉球侵攻により琉球を実質的に支配していた薩摩藩島津氏を通して江戸幕府に献上された。最も早い例としては、『徳川実紀』の慶長17年(1612年)12月26日の条及び慶長19年(1614年)7月19日の条にそれぞれ島津家久が琉球酒二壺を献じたとの記録がある。
沖縄戦では多くの酒造場が被害を受け、終戦後には原料の米も食料用すら不足する状態で泡盛の製造ができなくなり、燃料用アルコールを飲む者までいたという。
米軍統治下では酒造りは禁止されていたが、実際はイモや糖蜜、ソテツなどを原料とする密造酒が作られていた。米国軍政府は後任の酒造所の必要性を認めて1946年に官営の酒造工場(酒造廠)5か所を設置した。問題は沖縄戦の影響で各酒蔵で黒麹が消失していたことにあった。しかし、本島南部の咲元酒造(当時の名は佐久本酒造場)が焼け残っていた筵から黒麹の培養に成功し、これを各酒造場に供給したため泡盛造りも徐々に復興した。このため、咲元酒造の当時の2代目の佐久本政良は「泡盛復興の父」と呼ばれる。泡盛復興の過程で米軍が不要となり放出したビール瓶やウイスキー瓶に泡盛を詰めて販売したため、現在でもその名残で、本来540mlである3合瓶が600ml入りになっていたり、ウイスキー瓶に似た茶色の瓶に詰められていたりする泡盛が存在する。また、一部の例外を除けば前述の理由により各酒造場が同じ系統の麹を用いているため味の差異が出しにくいという問題もある。
いわゆる「アメリカ世」(ゆ)ではビールやウイスキーが普及し、一時は数百場あった泡盛の蔵元は大きく減った。
1970年代には焼酎の酒造技術が積極的に取り入れられ、国税事務所には専門の鑑定官が設置されるようになった。沖縄県酒造組合の集計によると、2017年の泡盛出荷量は前年比5.3%減の1万7709キロリットル(沖縄県内出荷が8割以上で、海外出荷は28キロリットル)。2004年のピーク(2万7688キロリットル)から13年連続の減少となった。北海道から九州まで、沖縄料理店や店舗・通信販売で泡盛が広く飲まれるようになった半面、酒類の安売り規制による値上がりや嗜好の多様化で、沖縄県内でも泡盛消費は減っている。
沖縄県内には47の酒造所(2018年時点)があり、泡盛の製造地域は、大きく分けて酒造組合のある6つの地域(沖縄本島の北部と中部と那覇・南部、久米島、宮古、八重山)に分けられる。なお、大東諸島は明治時代に伊豆諸島からの移民が開拓した島であるため、泡盛の製造は行われていない。各地域の酒造所は以下のとおり。
本島北部は小規模な酒造所が多く、流通量は多くない。本島中部、南部は、戦後、首里地区から移転した酒造所等もあり、比較的近代的、大規模な酒造所が多い。中心都市であり、琉球王朝の王府のあった首里地区を有する那覇市の酒造所の泡盛がよく流通している。琉球王朝時代、首里地区の首里三箇の酒造所のみ公認であったため、狭い地域に集中していた。しかし、沖縄戦で壊滅し、首里に戻って製造する蔵元は少数に留まった。
宮古諸島の酒は口当たりがよく飲みやすいものが多く人気が高い。宮古島は、酒豪が多い沖縄県でも特に酒に強い人が多いとされており、オトーリという酒の飲み方は有名である。八重山諸島の酒は離島の小規模業者により生産されていることが多いため、個性的である。
一部のメーカーが、台湾、中国内モンゴル自治区などに酒造所を所有している。 2003年から泡盛のルーツとなったタイ産もち米焼酎の南蛮古酒が、現地タイのトータイネットワーク社から販売となり話題となっている。
消費の割合は沖縄県内が8割で他地域が2割と推定される。沖縄県内で一般に流通しているもののアルコール度数は30%であるが、県外への移出や飲みやすさを考慮して25%にしたものが多く、また、減圧蒸留で製造された軽い風味のものも増えつつある。一方、長期熟成用の原酒にはより度数の高いものも多数ある。保管中にアルコール分の揮発等により度数が低くなるためである。伝統的な古酒を造るための原酒として、ろ過を抑えた泡盛も販売されている。新酒では欠点となる成分でも、熟成中に変化して、長所となると考えられているためである。
一般には熟成が3年未満の一般酒が流通する量が多く、多くの蒸留酒で寝かせてから販売されるのが普通であることと比較すると、やや特殊な例に当たる。昭和末までは、ほとんど二合瓶、三合瓶、一升瓶で出回り、特に手頃感のある三合瓶に人気があった。三合瓶と称されているが、他の焼酎と異なり、泡盛の容量は600mlである(上記のように沖縄戦後、米軍の放出したビール瓶に泡盛を詰めて販売した名残と言われている)。 本来の三合より多い60ml分は神様またはご先祖様の分とも言われ、飲酒時に一旦氷にかけて供えてから飲む風習もある。 二合瓶、三合瓶とも無色透明のガラス製で、ビール瓶をやや寸詰まりにした形で琉球泡盛という印が刻まれたリサイクル瓶である。瓶も蓋も全銘柄共通で使われ、一升瓶と同じ柄のラベルが貼られていた。現在では、様々な形の瓶やそのまま寝かせるための甕、記念品や土産として琉球ガラスや陶器に詰められた泡盛も流通している。
原料米についてもタイや台湾などから輸入のインディカ米を使用する醸造所が大多数を占めているが、日本で育成されたインディカ米やインディカ米とジャポニカ米との雑種等の国産米を使用する動きもある。
1972年の沖縄の日本復帰の際、本土メーカーとの価格競争による酒造所の経営悪化、小売店や飲食店への経営圧迫、価格上昇による県民の負担増などを避けるため、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律に基づき復帰後5年間は沖縄県産の泡盛などの酒類を県内で販売する場合に酒税を軽減する時限措置がとられることになった。当初、優遇税率は5年間の時限措置であったが、5年ごとに延長が繰り返され、一時は-15%までになったが、1990年からは-35%となった。
その後、2017年以降は従来の5年延長から2年延長とする方針が決まった。2020年度に延長する際には、沖縄振興特別措置法が2021年度末(令和4年)に期限を迎えるのに合わせるために、沖縄関係税制7項目全てが一年の延長となった。
そして2022年度の税制改正大綱で延長後、法改正により軽減措置を2024年から2032年までの9年間で段階的に廃止して通常の税率に戻していくことが決定された。
泡盛業者の中には税率の軽減措置の撤廃後も収益や経営基盤を維持するため、蒸留酒に馴染みが深い中国市場などでの販路拡大を進めている企業もある。また、ジンやラム、ウイスキーなどの洋酒の生産に挑戦する企業もある。
沖縄では泡盛は日常だけでなく旧暦行事や祝いの席の酒にもなっている。1989年には泡盛の消費拡大のため11月1日が「泡盛の日」に制定された。また、9月4日は「古酒(クースー)の日」に制定されている。
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"text": "泡盛(あわもり)は、日本の琉球諸島で造られる蒸留酒である。",
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"text": "米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、酵母でアルコール発酵させたもろみを単式蒸留器で蒸留して製造する。酒税法上は、単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)または原料用アルコール(「花酒」参照)に分類される。3年以上貯蔵したものは古酒(クース)と呼ばれる。",
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"text": "琉球では泡盛のことを伝統的に「サキ」と呼んでいた。1720年に清の冊封副使として来琉した徐葆光は、その滞在記録『中山伝信録』で琉球の酒を「サキ」と記している。19世紀に琉球を訪れた欧米の船舶の記録でも、泡盛は「サキ」と表記されており、この名称は長らく一般的なものであった。",
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"text": "「泡盛」という名称は、江戸時代前期の1671年に琉球王国中山王から徳川将軍家への献上品目録に「泡盛酒」と見えるのが最初である。これに先立って、1660年の島津光久から江戸幕府第4代将軍徳川家綱への献上品の中にも「泡盛」と記された例がある。それ以前にも献上は行われていたが、「琉球酒」「焼酒」「焼酎」といった名称が使われていた。島津氏を藩主とする薩摩藩は、1609年の琉球侵攻により琉球王国を附庸国としており江戸幕府(徳川将軍家)への献上は薩摩藩を通じて行われていた。薩摩藩では琉球から伝わった蒸留技術を用いた焼酎づくりが盛んになったが、そのような焼酎も「泡盛」と呼ばれることがあった一方、琉球産の酒も「泡盛」「琉球酒」「焼酎」「焼酒」等と様々に呼ばれていたものが、元禄年間(1688年 - 1704年)頃に琉球産の酒については「泡盛」という名が定着し、「焼酎」と明確に区別されるようになったと考えられている。",
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"text": "太平洋戦争における日本の降伏を経た沖縄の本土復帰後、泡盛は焼酎乙類に分類された。酒類表示に「泡盛」を使用することはできなかったが、1983年に「当該品目の名称以外に一般に慣熟した呼称があるものとして大蔵省令で定める酒類」として例外的に「泡盛」の表示が認められるようになった。また、同年、『泡盛の表示に関する公正競争規約』が作成され、沖縄県産の泡盛には「本場泡盛」の表示が認められた。1995年6月には、「琉球」が国税庁長官が指定した酒類の地理的表示(GI)として認められ、2004年には、国税庁の『地理的表示に関する表示基準』と『地理的表示に関する表示基準第2項に規定する国税庁長官が指定するぶどう酒、蒸留酒又は清酒の産地を定める件』が公示されて、沖縄県産の泡盛には「琉球泡盛」の表示が用いられるようになった。「琉球泡盛」は2006年12月に地域団体商標の登録も受けている。",
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"text": "沖縄県内では「島酒」(しまざけ、しまざき)とも呼称される。「シマーグヮー」や「シマー」という略称は、泡盛が不人気であった時代には蔑称として用いられたが、現在は親しみを込めた愛称として認識されている。",
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"text": "「泡盛」の名の由来には諸説があるが、よく語られるのが、蒸留の際、導管から垂れてくる泡盛が受壷に落ちる時、泡が盛り上がる状態を見て「泡盛る」となり、転じて「泡盛」となったという説である。実際、琉球では蒸留した酒を茶碗に入れて泡立たせ、徐々に水で薄めて泡が立たなくなるまでそれを繰り返すことによってアルコール度数を決定していた時期がある(現在はアルコール分1%を越えるものが酒)。これは、蒸留酒に含まれる高級アルコールなどの起泡性成分の含量がアルコール度数に比例することによる。沖縄の歴史家東恩納寛惇はこの説を採っている。文書の上では、1762年に薩摩に向かう途中で台風に遭い、土佐国(現在の高知県)に漂着した楷船に乗っていた琉球の官吏から土佐藩が聞き書きした『大島筆記』に、「泡盛とは、焼酎の中、至て宜きは蒸して落る露微細なる泡、盛り高になる。それを上とする故也と云えり。」との記述がある。",
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"text": "一方、伊波普猷は、「もり」は酒を意味する古語であり、タイ米が使われるようになる前は米と粟(アワ)とを原料としたことから、「粟もり」が転じて「泡盛」になったとする。島津重豪の命により編纂された『成形図説』(1804年頃)も粟に由来するとの説を採る。『臨海水土志』にも「粟(あわ)を以て酒を為り」のように、アワでみきを造っていたことによるとの説が見える。",
"title": "名称"
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"text": "この他に、献上品を指すアワモラチによるという説、サンスクリット語の酒を意味する「アワムリから来ているとする説などがある。",
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"text": "米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、出芽酵母でアルコール発酵させたもろみを一度だけ蒸留する。黒麹菌は沖縄県産のもので他の麹菌に比べて雑菌による腐敗を防ぎやすい。",
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"text": "原料の米は主にタイ産インディカ米の砕米が用いられる。タイ米は黒麹菌が菌糸を伸ばしやすく、アルコール発酵で温度管理がしやすいという利点がある。一方、地産地消の動きに伴って県内産のジャポニカ米を使ったものも生産されている。また、沖縄県産米による泡盛づくりをめざす「琉球泡盛テロワールプロジェクト」も進められている。",
"title": "製法と分類"
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"text": "また、蒸留酒とともに伝わった酒甕(サキガーミ)は古酒の製造に欠かせないものになっている。",
"title": "製法と分類"
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"text": "酒税法(第3条)上では単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)に分類される。政令ならびに財務省令によると、単式蒸留焼酎の内、「米こうじ(黒こうじ菌を用いたものに限る。)及び水を原料として発酵させたアルコール含有物を単式蒸留器により蒸留したもの(水以外の物品を加えたものを除く。)」については、酒類の種類(品目)の表示を「泡盛」とすることができるものとされている。",
"title": "製法と分類"
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"text": "なお、酒税法で単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)のアルコール分は15°C下の容積比で45%以下と定められているため、蒸留された原酒のアルコール分が46%以上の場合は加水して調整する必要がある。与那国島(与那国町)に特例で製造が認められているアルコール度数60%の銘柄(花酒と呼ぶ)は酒税法上「原料用アルコール」となる。花酒には国泉泡盛の「どなん」、崎元酒造所の「与那国」、入波平酒造の「舞富名」(まいふな)の3銘柄があり、皿に広げるとアルコールが揮発し、着火すると容易に火がつく。花酒は法令上「泡盛」と表示することができなかったが、2020年の財務省令改正により、アルコール分45度以下のもの同様「泡盛」の表示が認められることとなった。",
"title": "製法と分類"
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"text": "泡盛を寝かせると、アルコールの刺激が和らぎ、こくや独特の香気が出てうまくなるので、古酒(クース)と称して珍重される。一般的には、10年程度までは貯蔵期間が長いほど上質になるとされる。また、仕次ぎという減った量やアルコール分を注ぎ足す手法で、さらに長期間品質を劣化させることなく熟成させることも行われている。かつては琉球王朝時代に仕込みがなされた200年物や300年物が存在したとされるが、それらは沖縄戦によりほとんどが失われ、今では首里の識名酒造に貯蔵された150年物の古酒が現存するのみである(販売されることはない)。",
"title": "製法と分類"
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"text": "1983年に『泡盛の表示に関する公正競争規約』が作成され、「全量を3年以上貯蔵したもの又は仕次ぎしたもので、3年以上貯蔵した泡盛が仕次ぎ後の泡盛の総量の50パーセントを超えるもの」に「古酒」の表示が認められた。",
"title": "製法と分類"
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"text": "その後、本土(九州以北)並み課税を見込み、一般酒の価格競争力がなくなったとしても単価の高い古酒で対応すべく、古酒の基準を厳格化して品質向上を目指す機運が生じた結果、2004年6月から、沖縄県酒造組合連合会により自主基準が導入された。この基準では、「10年古酒」と表示することができるのは、10年古酒100パーセント、ブレンド古酒の場合は原酒には最低10年を経た古酒を使用したものである。ブレンド古酒の場合は、「5年50パーセント、3年50パーセント」などのブレンド比率の表示も可能である。",
"title": "製法と分類"
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"text": "2012年に古酒の不当表示が明らかになったことを受けて、2013年10月10日に『泡盛の表示に関する公正競争規約』が改正され、2015年8月1日から適用された。改正規約では、自主基準と同様に、「古酒」は「泡盛を3年以上貯蔵したもの」と定められ、「全量が古酒であるもの」のみに「古酒」の表示が認められた。年数表示については、「当該年数以上貯蔵したものとする。異なる貯蔵年数の古酒を混和した場合は、その割合に関わらず、最も貯蔵年数の少ない古酒の年数を表示する。貯蔵年数の年数未満は切り捨てて表示するものとする。」とされ、混和酒の場合は、「古酒を10パーセント以上混和したもので、かつ混和割合を表示しなければ混和酒である旨を表示してはならない。」とされている。つまり、年数を表示する場合には、全量が表示年数以上貯蔵されたものではなければならず、例えば、全量が5年貯蔵酒か、5年貯蔵酒に5年以上貯蔵した古酒をブレンドしたものでなければ、「5年」を名乗ることはできない。また、ブレンド古酒の場合には、最も貯蔵年数が若いものの年数を表示しなければならず、例えば、10年貯蔵酒に少量でも3年貯蔵酒がブレンドされていれば、「3年」の表示しか認められない。一般酒に古酒を10パーセント以上のブレンドする場合には、「混和酒」又は「ブレンド酒」の表記が認められるが、この場合にも、混合割合を表記しなくてはならない。",
"title": "製法と分類"
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"text": "なお、古酒の表示に代えて、クース又は貯蔵酒若しくは熟成酒と表示することができる。",
"title": "製法と分類"
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"text": "伝統的には、一定期間に一本ずつ、選び出した泡盛で満たした南蛮甕を貯蔵し(順に親酒、二番手、三番手......と呼ばれる)、ある程度年数が経ったところで、最も古い酒である親酒を掘り出し、きき酒を行った上で慶事等の際飲用に供される。「親酒」を飲んだり、甕から浸み出したりして減った分は、その分だけ親酒に二番手を、二番手に三番手を...というように順次新しいものを古いものへ補充し、最後に最高の番手の甕に新しい酒を補充する。この方法を仕次ぎ(しつぎ)という。古くなるとアルコール分が減り、腐敗する場合もあるため、仕次ぎを行うことは品質保持の上でも非常に重要である。最低でも、甕を3個用意し、三番手まで作るのが望ましいとされる。",
"title": "製法と分類"
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"text": "多くの酒造所で、様々な方法で貯蔵されているが、現在、効率性の観点から多く採用されている貯蔵方法はステンレスタンク貯蔵である。泡盛は瓶詰めされたものを寝かせても熟成が進み古酒化するとされているが、瓶、ステンレスタンク、ホーロータンク、甕、樽と異なる容器で熟成された古酒は風味が異なる。先に挙げた方法ほどアルコールの減少が少なく、泡盛本来のクリアな風味となり、後者になるほどアルコールが揮発して丸くなりやすく、容器から溶出した成分のため複雑な風味となるといわれている。",
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"text": "瓶内でも熟成されると考えられているため、家庭でも新酒をそのまま寝かせることにより古酒にすることも可能である。かつては本土に出荷した泡盛の売れ残りが送り返されることがあり、製造業者は古酒になっているため喜んで引き取っていた。本土の業者にも熟成のことが知れ渡ると、売れ残りが送り返されることがなくなったという。現在の紙パック製品も、焼酎類ようのものにはアルミニウム箔の層が入っていて、気密性、遮光性が高いため、未開封のまま数年間置くことで熟成は進められる。",
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"text": "古酒は、利益を出すまでに年月がかかるため、企業にとってはハイリスク商品である。また、泡盛業界は零細事業所が多いため信用力が低く、必ずしも思った利益が出るとは限らない長期事業に銀行など金融機関が貸し渋りする傾向がある。そのため、損益確定が早い一般酒に力を入れる動きが泡盛業界には多い。",
"title": "製法と分類"
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"text": "こうした条件に対応するため、1976年より沖縄県酒造協同組合が各酒造場の生産する泡盛の原酒を仕入れ、ブレンドした後、長期貯蔵により古酒として出荷する事業を行っている。同組合には沖縄県内全46場が参加している。また、近年の法整備により貯蔵中の泡盛を担保とする融資制度が、2007年に沖縄振興開発金融公庫より開始された。",
"title": "製法と分類"
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"text": "沖縄県内産以外であっても、規約に沿った材料・製法を踏襲すれば「泡盛」や「クース」の表示ができることを利用し、人件費や地価が安い国で製造し、年数を要する貯蔵まで現地で行おうとする動きも見られる。例えば、久米仙酒造は1994年に中国内モンゴル自治区ウランホト市に工場を建設し、1995年に内モンゴル産泡盛、1999年に内モンゴル産古酒を発売している。",
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"text": "また、一般の泡盛の不良在庫の分を「古酒」として売ることも出来る。この場合、保存状態により品質にばらつきが出るため、味の調整をしてブレンド古酒として商品になる。",
"title": "製法と分類"
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"text": "2012年3月には、泡盛古酒の不当表示が行われていたことに対し、日本酒造組合中央会(東京)から沖縄県内の9社に違反行為の排除などを求める警告や指導の処分が出されていたことが明らかになった。",
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"text": "泡盛は蒸留酒で、アルコール度数が40度を超える高いものから、そのまま飲むことを前提に水割りされた12度程度のものまで市販されているため、幅広い飲み方が楽しめる。ストレート、オン・ザ・ロック、水割り、お湯割り、炭酸割り(ソーダ割り)などのほか、地元では烏龍茶割り、コーヒー割り、牛乳割りも行われる。また沖縄特産品を使用したシークヮーサー果汁割りやウコン割りなどでも飲まれ、また、カクテルベースとしても用いられて、様々なレシピのカクテルが考案されている(別項参照)。",
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"text": "一般的に多くされる飲み方は水割りであるが、熟成された古酒をより深く味わうのならストレートということになる。この場合、猪口と泡盛用の伝統的な酒器であるカラカラ(多くは壺屋焼だが、ガラス製のこともある)が使われる場合が多い。また、水割りなどの時は琉球ガラスのグラスがよく使われる。",
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"text": "カクテルの開発・提供などの活動を行う「泡盛マイスター協会」が組織されている。",
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"text": "など多数",
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"text": "泡盛は酒として味わうほか、沖縄料理の料理酒や調味料としても利用される。泡盛に島唐辛子を漬け込んで辛味を引き出した調味料がコーレーグスである。なお、「コーレーグス」は本来は唐辛子の意味である。",
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"text": "また、豆腐ようは、島豆腐を米麹、紅麹を混ぜた泡盛に漬け込み発酵熟成させた食品である。",
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"text": "製造時の副産物である酒粕(もろみかす)の一部はクエン酸を含む「もろみ酢」に加工、販売され、近年の健康ブームの中で人気を得ている。",
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"text": "酒の蒸留技術は14世紀後半から15世紀頃にシャム国(現在のタイ)から琉球に伝えられた。それとともに蒸留器、タイ米、貯蔵用の甕などがもたらされた。琉球の気候に最適な黒麹菌の導入などの改良によって、新たな蒸留酒、つまり泡盛が誕生したと考えられている。",
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"text": "米を原料とした蒸留酒が沖縄でいつ造られるようになったのかは定かではない。東恩納寛惇が1941年の『泡盛雑考』等の論考で、タイには類似の蒸留器が見られたことから、「ラオロン」が起源ではないかと推測して以来、この説が有力である。",
"title": "歴史と現状"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "泡盛は、15世紀から19世紀まで、奉納品として中国と日本の権力者に献上されていた。日本へは、1609年の琉球侵攻により琉球を実質的に支配していた薩摩藩島津氏を通して江戸幕府に献上された。最も早い例としては、『徳川実紀』の慶長17年(1612年)12月26日の条及び慶長19年(1614年)7月19日の条にそれぞれ島津家久が琉球酒二壺を献じたとの記録がある。",
"title": "歴史と現状"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "沖縄戦では多くの酒造場が被害を受け、終戦後には原料の米も食料用すら不足する状態で泡盛の製造ができなくなり、燃料用アルコールを飲む者までいたという。",
"title": "歴史と現状"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "米軍統治下では酒造りは禁止されていたが、実際はイモや糖蜜、ソテツなどを原料とする密造酒が作られていた。米国軍政府は後任の酒造所の必要性を認めて1946年に官営の酒造工場(酒造廠)5か所を設置した。問題は沖縄戦の影響で各酒蔵で黒麹が消失していたことにあった。しかし、本島南部の咲元酒造(当時の名は佐久本酒造場)が焼け残っていた筵から黒麹の培養に成功し、これを各酒造場に供給したため泡盛造りも徐々に復興した。このため、咲元酒造の当時の2代目の佐久本政良は「泡盛復興の父」と呼ばれる。泡盛復興の過程で米軍が不要となり放出したビール瓶やウイスキー瓶に泡盛を詰めて販売したため、現在でもその名残で、本来540mlである3合瓶が600ml入りになっていたり、ウイスキー瓶に似た茶色の瓶に詰められていたりする泡盛が存在する。また、一部の例外を除けば前述の理由により各酒造場が同じ系統の麹を用いているため味の差異が出しにくいという問題もある。",
"title": "歴史と現状"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "いわゆる「アメリカ世」(ゆ)ではビールやウイスキーが普及し、一時は数百場あった泡盛の蔵元は大きく減った。",
"title": "歴史と現状"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1970年代には焼酎の酒造技術が積極的に取り入れられ、国税事務所には専門の鑑定官が設置されるようになった。沖縄県酒造組合の集計によると、2017年の泡盛出荷量は前年比5.3%減の1万7709キロリットル(沖縄県内出荷が8割以上で、海外出荷は28キロリットル)。2004年のピーク(2万7688キロリットル)から13年連続の減少となった。北海道から九州まで、沖縄料理店や店舗・通信販売で泡盛が広く飲まれるようになった半面、酒類の安売り規制による値上がりや嗜好の多様化で、沖縄県内でも泡盛消費は減っている。",
"title": "歴史と現状"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "沖縄県内には47の酒造所(2018年時点)があり、泡盛の製造地域は、大きく分けて酒造組合のある6つの地域(沖縄本島の北部と中部と那覇・南部、久米島、宮古、八重山)に分けられる。なお、大東諸島は明治時代に伊豆諸島からの移民が開拓した島であるため、泡盛の製造は行われていない。各地域の酒造所は以下のとおり。",
"title": "歴史と現状"
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"text": "本島北部は小規模な酒造所が多く、流通量は多くない。本島中部、南部は、戦後、首里地区から移転した酒造所等もあり、比較的近代的、大規模な酒造所が多い。中心都市であり、琉球王朝の王府のあった首里地区を有する那覇市の酒造所の泡盛がよく流通している。琉球王朝時代、首里地区の首里三箇の酒造所のみ公認であったため、狭い地域に集中していた。しかし、沖縄戦で壊滅し、首里に戻って製造する蔵元は少数に留まった。",
"title": "歴史と現状"
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"text": "宮古諸島の酒は口当たりがよく飲みやすいものが多く人気が高い。宮古島は、酒豪が多い沖縄県でも特に酒に強い人が多いとされており、オトーリという酒の飲み方は有名である。八重山諸島の酒は離島の小規模業者により生産されていることが多いため、個性的である。",
"title": "歴史と現状"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "一部のメーカーが、台湾、中国内モンゴル自治区などに酒造所を所有している。 2003年から泡盛のルーツとなったタイ産もち米焼酎の南蛮古酒が、現地タイのトータイネットワーク社から販売となり話題となっている。",
"title": "歴史と現状"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "消費の割合は沖縄県内が8割で他地域が2割と推定される。沖縄県内で一般に流通しているもののアルコール度数は30%であるが、県外への移出や飲みやすさを考慮して25%にしたものが多く、また、減圧蒸留で製造された軽い風味のものも増えつつある。一方、長期熟成用の原酒にはより度数の高いものも多数ある。保管中にアルコール分の揮発等により度数が低くなるためである。伝統的な古酒を造るための原酒として、ろ過を抑えた泡盛も販売されている。新酒では欠点となる成分でも、熟成中に変化して、長所となると考えられているためである。",
"title": "歴史と現状"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一般には熟成が3年未満の一般酒が流通する量が多く、多くの蒸留酒で寝かせてから販売されるのが普通であることと比較すると、やや特殊な例に当たる。昭和末までは、ほとんど二合瓶、三合瓶、一升瓶で出回り、特に手頃感のある三合瓶に人気があった。三合瓶と称されているが、他の焼酎と異なり、泡盛の容量は600mlである(上記のように沖縄戦後、米軍の放出したビール瓶に泡盛を詰めて販売した名残と言われている)。 本来の三合より多い60ml分は神様またはご先祖様の分とも言われ、飲酒時に一旦氷にかけて供えてから飲む風習もある。 二合瓶、三合瓶とも無色透明のガラス製で、ビール瓶をやや寸詰まりにした形で琉球泡盛という印が刻まれたリサイクル瓶である。瓶も蓋も全銘柄共通で使われ、一升瓶と同じ柄のラベルが貼られていた。現在では、様々な形の瓶やそのまま寝かせるための甕、記念品や土産として琉球ガラスや陶器に詰められた泡盛も流通している。",
"title": "歴史と現状"
},
{
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"text": "原料米についてもタイや台湾などから輸入のインディカ米を使用する醸造所が大多数を占めているが、日本で育成されたインディカ米やインディカ米とジャポニカ米との雑種等の国産米を使用する動きもある。",
"title": "歴史と現状"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1972年の沖縄の日本復帰の際、本土メーカーとの価格競争による酒造所の経営悪化、小売店や飲食店への経営圧迫、価格上昇による県民の負担増などを避けるため、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律に基づき復帰後5年間は沖縄県産の泡盛などの酒類を県内で販売する場合に酒税を軽減する時限措置がとられることになった。当初、優遇税率は5年間の時限措置であったが、5年ごとに延長が繰り返され、一時は-15%までになったが、1990年からは-35%となった。",
"title": "酒税軽減措置と撤廃"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その後、2017年以降は従来の5年延長から2年延長とする方針が決まった。2020年度に延長する際には、沖縄振興特別措置法が2021年度末(令和4年)に期限を迎えるのに合わせるために、沖縄関係税制7項目全てが一年の延長となった。",
"title": "酒税軽減措置と撤廃"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "そして2022年度の税制改正大綱で延長後、法改正により軽減措置を2024年から2032年までの9年間で段階的に廃止して通常の税率に戻していくことが決定された。",
"title": "酒税軽減措置と撤廃"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "泡盛業者の中には税率の軽減措置の撤廃後も収益や経営基盤を維持するため、蒸留酒に馴染みが深い中国市場などでの販路拡大を進めている企業もある。また、ジンやラム、ウイスキーなどの洋酒の生産に挑戦する企業もある。",
"title": "酒税軽減措置と撤廃"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "沖縄では泡盛は日常だけでなく旧暦行事や祝いの席の酒にもなっている。1989年には泡盛の消費拡大のため11月1日が「泡盛の日」に制定された。また、9月4日は「古酒(クースー)の日」に制定されている。",
"title": "文化"
}
] |
泡盛(あわもり)は、日本の琉球諸島で造られる蒸留酒である。 米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、酵母でアルコール発酵させたもろみを単式蒸留器で蒸留して製造する。酒税法上は、単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)または原料用アルコール(「花酒」参照)に分類される。3年以上貯蔵したものは古酒(クース)と呼ばれる。
|
[[File:Kikunotsuyu_Awamori.jpg|thumb|泡盛の[[瓶]]と注がれたグラス]]
[[ファイル:Awamori Omoto of Ishigaki, Okinawa.jpg|thumb|right|upright|[[石垣島]]の泡盛]]
'''泡盛'''(あわもり)は、[[日本]]の[[琉球諸島]]で造られる[[蒸留酒]]である。
[[米]]を原料として、黒麹菌([[アワモリコウジカビ]])を用いた[[麹#米麹|米麹]]である黒麹によって[[デンプン]]を[[糖化]]し、[[酵母]]で[[アルコール発酵]]させた[[もろみ]]を[[単式蒸留器]]で[[蒸留]]して製造する<ref name="okinawatimes_2018-04-05_6">{{cite news|title=タイムス×クロス 琉球の酒と食を愛でる <6>泡盛誕生のきっかけ 麦代用の米が黒麹菌に|author=小泉武夫|authorlink=小泉武夫|newspaper=[[沖縄タイムス]]+プラス|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/229854|date=2018-04-05}}</ref>。[[酒税法]]上は、[[焼酎#単式蒸留焼酎(焼酎乙類)|単式蒸留焼酎]](旧焼酎乙類)または原料用[[アルコール]](「[[花酒]]」参照)に分類される。3年以上貯蔵したものは'''[[泡盛#古酒|古酒]]'''(クース)と呼ばれる。
== 名称 ==
=== 名称の変遷 ===
琉球では泡盛のことを伝統的に「サキ」と呼んでいた。[[1720年]]に[[清]]の[[冊封使|冊封副使]]として来琉した[[徐葆光]]は、その滞在記録『[[中山伝信録]]』で琉球の酒を「サキ」と記している。19世紀に琉球を訪れた欧米の船舶の記録でも、泡盛は「サキ」と表記されており、この名称は長らく一般的なものであった{{sfn|萩尾|2016|p=3}}。
「'''泡盛'''」という名称は、[[江戸時代]]前期の[[1671年]]に[[琉球王国]][[琉球国王|中山王]]から[[徳川将軍家]]への献上品目録に「泡盛酒」と見えるのが最初である。これに先立って、[[1660年]]の[[島津光久]]から[[江戸幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱]]への献上品の中にも「泡盛」と記された例がある{{sfn|萩尾|2016|p=3}}。それ以前にも献上は行われていたが、「琉球酒」「焼酒」「焼酎」といった名称が使われていた{{sfn|東恩納|1979|p=325}}<ref name="okinawatimes_2018-04-05_4">{{cite news
| title = タイムス×クロス 琉球の酒と食を愛でる <4>泡盛の原型 古文書にタイ渡来記述
| author = 小泉武夫
| newspaper = 沖縄タイムス+プラス
| url = https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/229849
| date = 2018-04-05
}}</ref>。[[島津氏]]を藩主とする[[薩摩藩]]は、[[1609年]]の[[琉球侵攻]]により琉球王国を附庸国としており江戸幕府(徳川将軍家)への献上は薩摩藩を通じて行われていた。薩摩藩では琉球から伝わった蒸留技術を用いた焼酎づくりが盛んになったが、そのような焼酎も「泡盛」と呼ばれることがあった一方、琉球産の酒も「泡盛」「琉球酒」「焼酎」「焼酒」等と様々に呼ばれていたものが、[[元禄]]年間(1688年 - 1704年)頃に琉球産の酒については「泡盛」という名が定着し、「焼酎」と明確に区別されるようになったと考えられている{{sfn|萩尾|2016|p=6}}。
[[太平洋戦争]]における[[日本の降伏]]を経た[[沖縄返還|沖縄の本土復帰]]後、泡盛は焼酎乙類に分類された。酒類表示に「泡盛」を使用することはできなかったが、1983年に「当該品目の名称以外に一般に慣熟した呼称があるものとして[[大蔵省 (日本)|大蔵]][[省令]]で定める酒類」として例外的に「泡盛」の表示が認められるようになった。また、同年、『泡盛の表示に関する公正競争規約』が作成され、[[沖縄県]]産の泡盛には「'''本場泡盛'''」の表示が認められた。[[1995年]]6月には、「琉球」が[[国税庁]]長官が指定した酒類の[[地理的表示]](GI)として認められ<ref>{{Cite web|和書
| title = 酒類の地理的表示一覧
| publisher = 国税庁
| url = https://www.nta.go.jp/taxes/sake/hyoji/chiri/ichiran.htm
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref><ref name="GI">{{Cite web|和書
| title = 地理的GI表示について
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/gi/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>、2004年には、国税庁の『地理的表示に関する表示基準』と『地理的表示に関する表示基準第2項に規定する国税庁長官が指定するぶどう酒、蒸留酒又は清酒の産地を定める件』が公示されて、沖縄県産の泡盛には「'''琉球泡盛'''」の表示が用いられるようになった<ref name="proof">{{Cite web|和書
| title = 「琉球泡盛」が沖縄産の証(あかし)
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/awamori/knowledge/proof/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。「琉球泡盛」は2006年12月に[[地域団体商標]]の登録も受けている<ref>{{Cite web|和書
| title = 目指せ! ブランド確立! 先進団体に地域ブランドの極意 第5回 登録商標「琉球泡盛」 沖縄県酒造組合連合会
| publisher = 沖縄地域知的財産戦略本部
| url = http://ogb.go.jp/move/okip/menu_y121e.html
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
沖縄県内では「'''島酒'''」(しまざけ、しまざき)とも呼称される。「'''シマーグヮー'''」や「'''シマー'''」という略称は、泡盛が不人気であった時代には蔑称として用いられた<ref>{{cite news
| title = 泡盛の出荷が順調に伸びている。04年は製造・出荷量とも過去… | 社
| newspaper = 『[[八重山毎日新聞]]』
| url = http://www.y-mainichi.co.jp/news/3/
| date = 2005-03-04
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| title = 蔑視ではない「シマー」~「愛称」と理解している~
| publisher = 泡盛新聞
| url = http://awamori-news.co.jp/awamori_yomoyama_95_not-neglect_shima-pet-name/
| date = 2007-01
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>が、現在は親しみを込めた愛称として認識されている<ref>[http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN17114 シマーグヮー] 首里・那覇方言データベース</ref>。
=== 名称の由来 ===
「泡盛」の名の由来には諸説があるが、よく語られるのが、[[蒸留]]の際、導管から垂れてくる泡盛が受壷に落ちる時、[[泡]]が盛り上がる状態を見て「泡盛る」となり、転じて「泡盛」となったという説である。実際、琉球では蒸留した酒を茶碗に入れて泡立たせ、徐々に水で薄めて泡が立たなくなるまでそれを繰り返すことによって[[アルコール度数]]を決定していた時期がある(現在は[[アルコール]]分1%を越えるものが酒)。これは、蒸留酒に含まれる[[アルコール#高級アルコール|高級アルコール]]などの起泡性成分の含量がアルコール度数に[[比例]]することによる。沖縄の歴史家[[東恩納寛惇]]はこの説を採っている{{sfn|萩尾|2016|pp=4-8}}<ref name="name">{{Cite web|和書
| title = 泡盛の名前の由来
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/awamori/knowledge/name/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。文書の上では、[[1762年]]に薩摩に向かう途中で[[台風]]に遭い、[[土佐国]](現在の[[高知県]])に漂着した[[楷船]]に乗っていた琉球の官吏から[[土佐藩]]が聞き書きした『[[大島筆記]]』に、「泡盛とは、焼酎の中、至て宜きは蒸して落る露微細なる泡、盛り高になる。それを上とする故也と云えり。」との記述がある<ref>{{Cite web|和書
| title = 『大島筆記』
| work = 伊波普猷文庫
| publisher = [[琉球大学]]附属図書館
| url = http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00030300&page=38
| date = 2007-01
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref><ref name=kawagoe1>川越政則『焼酎文化図譜』(1987年、鹿児島民芸館)pp.132-140</ref>。
一方、[[伊波普猷]]は、「もり」は酒を意味する古語であり、[[インディカ米|タイ米]]が使われるようになる前は米と粟([[アワ]])とを原料としたことから、「粟もり」が転じて「泡盛」になったとする{{sfn|萩尾|2016|p=5}}。[[島津重豪]]の命により編纂された『[[成形図説]]』(1804年頃)も粟に由来するとの説を採る<ref name="name" />{{sfn|萩尾|2016|p=5}}。『[[臨海水土志]]』にも「粟(あわ)を以て酒を為り」のように、アワで[[みき (飲料水)|みき]]を造っていたことによるとの説が見える<ref name="kawagoe1"/>。
この他に、献上品を指すアワモラチによるという説<ref name="kawagoe1"/>、[[サンスクリット|サンスクリット語]]の酒を意味する「アワムリ<ref group="注">{{要出典範囲|{{Lang|sa|माधुरी }}(madhuri)か?。|date=2019年1月}}</ref>から来ているとする説<ref name="name" />{{sfn|萩尾|2016|p=6}}などがある。
== 製法と分類 ==
[[ファイル:Washing rice for awamori.jpg|thumb|right|250px|精米を洗浄し、蒸し、コウジにする]]
[[ファイル:Awamori production - jars of moromi.jpg|thumb|right|250px|もろみ甕]]
[[米]]を原料として、黒麹菌([[アワモリコウジカビ]])を用いた[[麹#米麹|米麹]]である黒麹によって[[デンプン]]を糖化し、出芽酵母で[[アルコール発酵]]させたもろみを一度だけ蒸留する。黒麹菌は沖縄県産のもので他の麹菌に比べて雑菌による腐敗を防ぎやすい<ref name="nahakeizai">{{Cite web|和書|url=https://www.city.naha.okinawa.jp/business/osirase/magazine/nahakeizaimagazine.files/201809_vol5_nahakeizaimagazine_mikoukai.pdf|title=なはけいざい Vol.5|accessdate=2021年9月1日}}</ref>。
原料の米は主に[[タイ王国|タイ]]産'''[[インディカ米]]'''の砕米が用いられる。タイ米は黒麹菌が菌糸を伸ばしやすく、アルコール発酵で温度管理がしやすいという利点がある<ref name="nahakeizai" />。一方、[[地産地消]]の動きに伴って県内産の[[ジャポニカ米]]を使ったものも生産されている。また、沖縄県産米による泡盛づくりをめざす「琉球泡盛[[テロワール]]プロジェクト」も進められている<ref>[https://www.agrinews.co.jp/p49162.html 「沖縄産で原料米確保へ 名実共に"琉球泡盛"プロジェクト始動/長粒種を作付け 交付金で収入増」]『[[日本農業新聞]]』2019年11月4日(1面)2019年11月14日閲覧</ref>。
また、蒸留酒とともに伝わった酒甕(サキガーミ)は古酒の製造に欠かせないものになっている<ref name="churashima">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kohokoryu/kense/publicity/kohoshi/kohoshi/back/2015/documents/churashima494_06.pdf|title=美ら島沖縄 2016.11|accessdate=2021年9月1日}}</ref>。
=== 酒税法上の分類 ===
酒税法(第3条)上では単式蒸留焼酎(旧[[焼酎]]乙類)に分類される。[[政令]]ならびに財務[[省令]]によると、単式蒸留焼酎の内、「'''米こうじ(黒こうじ菌を用いたものに限る。)及び水を原料として発酵させたアルコール含有物を[[単式蒸留器]]により蒸留したもの(水以外の物品を加えたものを除く。)'''」については、酒類の種類(品目)の表示を「泡盛」とすることができるものとされている。
なお、酒税法で単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)の[[アルコール度数|アルコール分]]は15℃下の容積比で45%以下と定められているため、蒸留された原酒のアルコール分が46%以上の場合は加水して調整する必要がある。[[与那国島]]([[与那国町]])に特例で製造が認められているアルコール度数60%の銘柄('''[[花酒]]'''と呼ぶ)は酒税法上「原料用アルコール」となる。花酒には[[国泉泡盛]]の「どなん」、[[崎元酒造所]]の「与那国」、[[入波平酒造]]の「舞富名」(まいふな)の3銘柄があり、皿に広げるとアルコールが[[揮発]]し、着火すると容易に火がつく。花酒は法令上「泡盛」と表示することができなかったが、2020年の財務省令改正により、アルコール分45度以下のもの同様「泡盛」の表示が認められることとなった<ref>{{Cite web|和書
| title = 酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律施行規則の一部を改正する省令新旧対照表
| publisher = 財務省
| url = https://www.mof.go.jp/tax_policy/tax_reform/outline/fy2020/syourei/shinkyu/syuzei_hozen.pdf
| accessdate = 2020-05-25
}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=花酒、泡盛になる|ken_oiwa|note|url=https://note.com/kentarowoiwa/n/n47940ee787e8|website=note(ノート)|accessdate=2020-05-25|language=ja}}</ref>。
=== 古酒 ===
泡盛を寝かせると、アルコールの刺激が和らぎ、こくや独特の香気が出てうまくなるので、'''古酒'''(クース)と称して珍重される。一般的には、10年程度までは貯蔵期間が長いほど上質になるとされる。また、仕次ぎという減った量やアルコール分を注ぎ足す手法で、さらに長期間品質を劣化させることなく熟成させることも行われている。かつては琉球王朝時代に仕込みがなされた200年物や300年物が存在したとされるが、それらは[[沖縄戦]]によりほとんどが失われ、今では[[首里]]の[[識名酒造]]に貯蔵された150年物の古酒が現存するのみである(販売されることはない)<ref>{{cite news
| title = 沖縄で現存する最古150年物の泡盛古酒を訪ねた
| newspaper = [[琉球新報]]Style
| url = https://ryukyushimpo.jp/style/living-style/entry-793755.html
| date = 2018-09-01
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| title = 現存する最古の古酒は?
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/kusu/heirloom/oldest/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
==== 公正競争規約 ====
[[1983年]]に『泡盛の表示に関する公正競争規約』が作成され、「全量を3年以上貯蔵したもの又は仕次ぎしたもので、3年以上貯蔵した泡盛が仕次ぎ後の泡盛の総量の50パーセントを超えるもの」に「古酒」の表示が認められた<ref name="GI">{{Cite web|和書
| title = 地理的GI表示について
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/gi/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref><ref name="kiyaku">{{Cite web|和書
| title = 泡盛の表示に関する公正競争規約・施行規則
| publisher = 一般社団法人全国公正取引協議会連合会
| url = http://www.jfftc.org/rule_kiyaku/pdf_kiyaku_hyouji/042.pdf
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref><ref name="taisho">{{Cite web|和書
| title = 泡盛の表示に関する公正競争規約一部変更案 新旧対照表
| publisher = e-Gov
| url = http://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000102915
| accessdate = 2019-01-27
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20190127154104/http://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000102915
| archivedate = 2019-01-27
}}</ref><ref name="define">{{Cite web|和書
| title = 古酒の定義
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/kusu/heirloom/define/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
その後、[[本土]]([[九州]]以北)並み課税を見込み、一般酒の価格競争力がなくなったとしても単価の高い古酒で対応すべく、古酒の基準を厳格化して品質向上を目指す機運が生じた結果、2004年6月から、沖縄県酒造組合連合会により自主基準が導入された。この基準では、「10年古酒」と表示することができるのは、10年古酒100パーセント、[[ブレンド]]古酒の場合は原酒には最低10年を経た古酒を使用したものである。ブレンド古酒の場合は、「5年50パーセント、3年50パーセント」などのブレンド比率の表示も可能である<ref>{{Cite web|和書
| title = 沖縄県酒造組合連合会が泡盛の品質表示の自主基準策定
| publisher = 焼酎紀行~焼酎紀行ニュース~
| url = http://www.shochu-kikou.com/shochukikounews/gyokai/040312_awamorijishukijun/
| date = 2004-03-12
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
2012年に古酒の不当表示が明らかになったことを受けて、2013年10月10日に『泡盛の表示に関する公正競争規約』が改正され、2015年8月1日から適用された<ref>{{cite news
| title = <古酒表示厳格化から1年>泡盛の信頼回復業界「一定支持」 出荷は減少傾向、「道半ば」の声も
| newspaper = 沖縄タイムス+プラス
| url = https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/54967
| date = 2016-07-30
}}</ref>。改正規約では、自主基準と同様に、「古酒」は「泡盛を3年以上貯蔵したもの」と定められ、「全量が古酒であるもの」のみに「古酒」の表示が認められた。年数表示については、「当該年数以上貯蔵したものとする。異なる貯蔵年数の古酒を混和した場合は、その割合に関わらず、最も貯蔵年数の少ない古酒の年数を表示する。貯蔵年数の年数未満は切り捨てて表示するものとする。」とされ、混和酒の場合は、「古酒を10パーセント以上混和したもので、かつ混和割合を表示しなければ混和酒である旨を表示してはならない。」とされている<ref name="kiyaku" /><ref name="taisho" />。つまり、年数を表示する場合には、全量が表示年数以上貯蔵されたものではなければならず、例えば、全量が5年貯蔵酒か、5年貯蔵酒に5年以上貯蔵した古酒をブレンドしたものでなければ、「5年」を名乗ることはできない。また、[[ブレンド]]古酒の場合には、最も貯蔵年数が若いものの年数を表示しなければならず、例えば、10年貯蔵酒に少量でも3年貯蔵酒がブレンドされていれば、「3年」の表示しか認められない。一般酒に古酒を10パーセント以上のブレンドする場合には、「混和酒」又は「ブレンド酒」の表記が認められるが、この場合にも、混合割合を表記しなくてはならない<ref name="define" />。
なお、古酒の表示に代えて、クース又は貯蔵酒若しくは熟成酒と表示することができる<ref name="kiyaku" />。
==== 貯蔵による熟成 ====
伝統的には、一定期間に一本ずつ、選び出した泡盛で満たした南蛮甕を貯蔵し(順に親酒、二番手、三番手……と呼ばれる)、ある程度年数が経ったところで、最も古い酒である'''親酒'''を掘り出し、[[利き酒|きき酒]]を行った上で慶事等の際飲用に供される。「親酒」を飲んだり、甕から浸み出したりして減った分は、その分だけ親酒に二番手を、二番手に三番手を…というように順次新しいものを古いものへ補充し、最後に最高の番手の甕に新しい酒を補充する。この方法を'''仕次ぎ'''(しつぎ)という<ref group="注">[[シェリー酒]]にも同様の手法があり、'''ソレラシステム'''という。</ref>。古くなるとアルコール分が減り、腐敗する場合もあるため、仕次ぎを行うことは品質保持の上でも非常に重要である<ref>稲垣真美『現代焼酎考』([[岩波新書]]321、1985年)pp40-42</ref>。最低でも、甕を3個用意し、三番手まで作るのが望ましいとされる。
多くの酒造所で、様々な方法で貯蔵されているが、現在、効率性の観点から多く採用されている貯蔵方法は[[ステンレス]]タンク貯蔵である。泡盛は瓶詰めされたものを寝かせても熟成が進み古酒化するとされているが、瓶、[[ステンレス]]タンク、[[琺瑯|ホーロー]]タンク、[[甕]]、[[樽]]と異なる容器で熟成された古酒は風味が異なる。先に挙げた方法ほどアルコールの減少が少なく、泡盛本来のクリアな風味となり、後者になるほどアルコールが揮発して丸くなりやすく、容器から溶出した成分のため複雑な風味となるといわれている。
瓶内でも熟成されると考えられているため、家庭でも新酒をそのまま寝かせることにより古酒にすることも可能である。かつては本土に出荷した泡盛の売れ残りが送り返されることがあり、製造業者は古酒になっているため喜んで引き取っていた。本土の業者にも熟成のことが知れ渡ると、売れ残りが送り返されることがなくなったという。現在の紙パック製品も、焼酎類ようのものには[[アルミニウム]]箔の層が入っていて、気密性、遮光性が高いため、未開封のまま数年間置くことで熟成は進められる。
==== 問題 ====
古酒は、利益を出すまでに年月がかかるため、企業にとってはハイリスク商品である。また、泡盛業界は零細事業所が多いため信用力が低く、必ずしも思った利益が出るとは限らない長期事業に銀行など金融機関が貸し渋りする傾向がある。そのため、損益確定が早い一般酒に力を入れる動きが泡盛業界には多い。
こうした条件に対応するため、1976年より[[沖縄県酒造協同組合]]が各酒造場の生産する泡盛の原酒を仕入れ、ブレンドした後、長期貯蔵により古酒として出荷する事業を行っている。同組合には沖縄県内全46場が参加している。また、近年の法整備により貯蔵中の泡盛を担保とする融資制度が、2007年に[[沖縄振興開発金融公庫]]より開始された。
沖縄県内産以外であっても、規約に沿った材料・製法を踏襲すれば「泡盛」や「クース」の表示ができることを利用し、[[人件費]]や[[地価]]が安い国で製造し、年数を要する貯蔵まで現地で行おうとする動きも見られる。例えば、[[久米仙酒造]]は1994年に中国[[内モンゴル自治区]][[ウランホト市]]に工場を建設し、1995年に内モンゴル産泡盛、1999年に内モンゴル産古酒を発売している<ref name="kumesen">{{Cite web|和書
| title = 久米仙酒造について
| publisher = 久米仙酒造株式会社
| url = https://kumesen.co.jp/about/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
また、一般の泡盛の不良在庫の分を「古酒」として売ることも出来る。この場合、保存状態により品質にばらつきが出るため、味の調整をしてブレンド古酒として商品になる。
2012年3月には、泡盛古酒の不当表示が行われていたことに対し、日本酒造組合中央会(東京)から沖縄県内の9社に違反行為の排除などを求める警告や指導の処分が出されていたことが明らかになった<ref>{{Cite web|和書
| title = お詫びとお知らせ
| work = 泡盛百科
| publisher = 沖縄県酒造組合連合会
| url = http://www.okinawa-awamori.or.jp/topics/info/?p=1432
| date = 2012-03-06
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20130406203953/http://www.okinawa-awamori.or.jp/topics/info/?p=1432
| archivedate = 2013-04-06
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
== 飲み方 ==
[[ファイル:Awamori by Blue Lotus in Okinawa.jpg|thumb|right|カラカラに入った泡盛と水割り用のグラス、水、氷]]
泡盛は蒸留酒で、アルコール度数が40度を超える高いものから、そのまま飲むことを前提に[[水割り]]された12度程度のものまで市販されているため、幅広い飲み方が楽しめる。ストレート、[[オン・ザ・ロック]]、水割り、お湯割り、[[炭酸]]割り(ソーダ割り)などのほか、地元では[[烏龍茶]]割り、[[コーヒー]]割り、[[牛乳]]割りも行われる。また沖縄特産品を使用した[[シークヮーサー]]果汁割りや[[ウコン]]割りなどでも飲まれ、また、[[カクテル]]ベースとしても用いられて、様々な[[レシピ]]のカクテルが考案されている[[泡盛#泡盛ベースのカクテル|(別項参照)]]。
一般的に多くされる飲み方は水割りであるが、熟成された古酒をより深く味わうのならストレートということになる。この場合、[[猪口]]と泡盛用の伝統的な酒器である[[カラカラ (器)|カラカラ]](多くは[[壺屋焼]]だが、[[ガラス]]製のこともある)が使われる場合が多い。また、水割りなどの時は[[琉球ガラス]]のグラスがよく使われる。
=== 泡盛ベースのカクテル ===
[[カクテル]]の開発・提供などの活動を行う「泡盛マイスター協会」が組織されている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14028640.html 【ひと】沖縄で「泡盛マイスター協会」の2代目会長になる 貞岡結子さん(39)]『[[朝日新聞]]』朝刊2019年5月25日(2面)2019年5月30日閲覧。</ref>。
{{Div col|15em}}
* 響(とよみ)
* 美南海
* 琉神
* オキナワン・ブリーズ
* ヒカンザクラ
* 黄金の花
* A-signカクテル
* ハイビスカス
* 琉華
* サンド・スター
* 琉宮
* パイナップル・ドール
* リーフ・ライン
* ティーダ
* 琉海
* 守礼
* サザンコール
* 万音(マノン)
* アイランダー
* ゴーヤーカクテル
* ピンクシーサー
* 花織(はなうい)
* 琉波
* アワモリ・コーク
* [[ジン・トニック|アワモリ・トニック]]
* [[マルガリータ|泡盛マルガリータ]]
* フローズン泡盛[[ダイキリ]]
* [[テキーラ・サンライズ|泡盛サンライズ]]
* さくら
* レキオ
* うりずん
* 琉球シンドローム
* スカーレット・トゥインクル
* ニライカナイ
* 琉美
* みやらび
* サザン・アイランド・オキナワ
* アスール・プラージャ
など多数<ref>{{Cite web|和書
| title = アワモリカクテル
| publisher = 瑞泉酒造
| url = http://www.zuisen.co.jp/enjoy/cocktail/index.html
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>
{{Div col end}}
=== 泡盛用の酒器 ===
; [[カラカラ (器)|カラカラ]]
: 注ぎ口の付いた扁平な形の泡盛用[[徳利]]<ref name="awamori01">{{Cite web|和書
| title = やちむんで泡盛を飲もう!
| work = 美ら島物語
| publisher = [[日本トランスオーシャン航空]]
| url = https://www.churashima.net/gourmet/awamori/awamori01/04.html
| date = 2002-11-21
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| title = カラカラ
| work = 『最新版 沖縄コンパクト事典』
| publisher = 琉球新報社
| url = https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-40969.html
| date = 2003-03
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。[[壺屋焼]]のものが多い。中身が空の時に振ると音のする玉入りのものもある。
; [[千代香|酒チューカー]](サキチューカー)
: 取っ手と蓋のついた扁平な[[土瓶]]型の酒器。[[鹿児島県|鹿児島]]のものとは異なり耐熱性はなく、取っ手まで一体で作られた共手のものが多い。
; [[抱瓶]](ダチビン)
: もともとは泡盛を携行するための注ぎ口がついた水筒。おおむね四角いが紐を通して肩にかけるため体に沿うよう湾曲した形(上から見ると三日月型)になっている<ref name="awamori01" /><ref>{{Cite web|和書
| title = 抱瓶 (だちびん)
| work = 『最新版 沖縄コンパクト事典』
| publisher = 琉球新報社
| url = https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-42020.html
| date = 2003-03
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。現在では実用品というより、置物や壁掛け、[[花瓶|花器]]として用いられることが多い。
; [[嘉瓶]](ユシビン)
: 琉球王朝時代から使われているお祝いの際の贈答用容器(酒器)。中ほどがくびれた[[ヒョウタン]]型で、首が長い[[徳利]]。過去の慣習では、贈るのは中身の泡盛だけであり、器自体は後とで返却してもらう[[リターナブル瓶]]形式であった。そのため[[家紋]]が入ったものもある<ref name="awamori01" /><ref>{{Cite web|和書
| title = 嘉瓶 (ゆしびん)
| work = 『最新版 沖縄コンパクト事典』
| publisher = 琉球新報社
| url = https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-43274.html
| date = 2003-03
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
; [[渡名喜瓶]](トナキビン)
: 神事の際のお供え用酒器<ref>{{Cite web|和書
| title = 渡名喜瓶 (となきびん)
| work = 『最新版 沖縄コンパクト事典』
| publisher = 琉球新報社
| url = https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-42313.html
| date = 2003-03
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。形は嘉瓶に似ている。名前は[[渡名喜島]]に由来する。この形のものが最初に渡名喜島から壺屋に注文されたからとか、水平にした時の断面が渡名喜島に似ているからといった説がある。
; [[鬼の手]](鬼の腕、ウニヌティ)
: 泡盛保管用の縦長の甕。荒焼き(素焼き)で、[[鬼]]の手に似ていることから名付けられた<ref name="awamori01" /><ref>{{Cite web|和書
| title = 鬼の腕 (うにぬてぃ)
| work = 『最新版 沖縄コンパクト事典』
| publisher = 琉球新報社
| url = https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-40408.html
| date = 2003-03
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。通常は一升以上入る大きなもの。ガラスビンが普及する前はこれに入れて小売りされていた。
<gallery>
ファイル:Wine Bottle with Spout, Tsuboya ware, Okinawa Main Island, Second Sho Dynasty, Ryukyu Kingdom, 19th century, ceramics - Tokyo National Museum - DSC05431.JPG|壺屋焼のカラカラ
ファイル:OkinawaPottery.jpg|抱瓶
ファイル:Zogan Dachibin.jpg|象嵌抱瓶
ファイル:Liquor bottle, Tsuboya ware, Okinawa Main Island, Second Sho dynasty, Ryukyu kingdom, 1800s AD, ceramic - Tokyo National Museum - Tokyo, Japan - DSC09131.jpg|壺屋焼の居瓶(嘉瓶)
</gallery>
=== 沖縄料理での利用 ===
泡盛は酒として味わうほか、沖縄料理の料理酒や調味料としても利用される。泡盛に[[キダチトウガラシ|島唐辛子]]を漬け込んで[[辛味]]を引き出した調味料が[[コーレーグス]]である。なお、「コーレーグス」は本来は唐辛子の意味である。
また、[[豆腐よう]]は、[[島豆腐]]を米麹、紅麹を混ぜた泡盛に漬け込み発酵熟成させた食品である。
=== 副産物 ===
製造時の副産物である[[酒粕]]([[もろみ]]かす)の一部は[[クエン酸]]を含む「[[もろみ酢]]」に加工、販売され、近年の健康ブームの中で人気を得ている。
=== 民間療法 ===
沖縄には泡盛を利用した民間療法が多数あり、泡盛による刀傷の消毒や泡盛の利尿効果について記した文献が多数残っている<ref name="nahakeizai" />。
== 歴史と現状 ==
[[ファイル:Cartoon of Ryukyu Shobun from Marumaru Chinbun 1879-05-24.jpg|thumb|right|『[[團團珍聞]]』明治12年5月24日<br>([[琉球処分]])]]
=== 歴史 ===
酒の蒸留技術は[[14世紀]]後半から[[15世紀]]頃に[[タイ王国|シャム国]](現在の[[タイ王国|タイ]])から[[琉球]]に伝えられた。それとともに蒸留器、[[タイ米]]、貯蔵用の[[甕]]などがもたらされた。琉球の気候に最適な[[アワモリコウジカビ|黒麹菌]]の導入などの改良によって、新たな蒸留酒、つまり泡盛が誕生したと考えられている。
[[1460年]]、[[第一尚氏王統]]の[[尚泰久王]]が[[李氏朝鮮]]に使者を派遣した時、朝鮮国王・[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]に[[天竺]]酒を贈っている{{sfn|『李朝実録』|1981|p=574}}。天竺酒の製法について、「桄榔樹の漿、焼きて酒を成す」{{sfn|『李朝実録』|1981|p=580}}と記されているので、[[サトウヤシ]](桄榔)を原料としたヤシ酒(蒸留酒)、おそらく[[アラック]]のようなものだったのであろうと考えられる。
また、1478年、朝鮮漂着民が[[沖縄本島]]の[[那覇市|那覇]]での見聞として、清酒、濁酒、さらに南蛮酒があり、この南蛮酒の味は、朝鮮の焼酒のようであるとの記述がある{{sfn|『李朝実録』|1981|p=588}}。
[[1534年]]、明からの[[冊封使]]・陳侃が琉球に赴いた時の記録『陳侃使録』に、「南蛮(南番)酒」のことが記されている。この南蛮酒は[[タイ王国|暹羅]](シャム、タイ)からもたらされたものであり、醸法は[[中国]]の露酒であると記されている<ref name="okinawatimes_2018-04-05_4" /><ref>{{Cite web|和書
| title = 『陳侃使録』
| work = 伊波普猷文庫
| publisher = 琉球大学附属図書館
| url = http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00030160&page=36
| date = 2007-01
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
米を原料とした蒸留酒が沖縄でいつ造られるようになったのかは定かではない。[[東恩納寛惇]]が1941年の『泡盛雑考』等の論考で、タイには類似の蒸留器が見られたことから、「[[ラオロン]]」が起源ではないかと推測して以来、この説が有力である{{sfn|萩尾|2016|p=25}}{{sfn|佐久本|1976|p=25}}。
泡盛は、15世紀から[[19世紀]]まで、奉納品として中国と日本の権力者に献上されていた。日本へは、[[1609年]]の[[琉球侵攻]]により琉球を実質的に支配していた[[薩摩藩]][[島津氏]]を通して[[江戸幕府]]に献上された。最も早い例としては、『[[徳川実紀]]』<ref group="注">『[[徳川実紀]]』は、19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書。</ref>の[[慶長]]17年(1612年)[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]の条<ref>{{cite book|和書
| title = 徳川実紀
| volume = 第壹編
| editor = [[成島司直]]等
| publisher = 経済雑誌社
| page = 335
| date = 1904
| url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/300
}}</ref>及び慶長19年(1614年)[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]の条<ref>{{cite book|和書
| title = 徳川実紀
| volume = 第壹編
| editor = 成島司直等
| publisher = 経済雑誌社
| page = 647
| date = 1904
| url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/332
}}</ref>にそれぞれ[[島津家久]]が琉球酒二壺を献じたとの記録がある<ref name="okinawatimes_2018-04-05_4" />。
沖縄戦では多くの酒造場が被害を受け、終戦後には原料の米も食料用すら不足する状態で泡盛の製造ができなくなり、燃料用アルコールを飲む者までいたという。
米軍統治下では酒造りは禁止されていたが、実際はイモや糖蜜、[[ソテツ]]などを原料とする密造酒が作られていた<ref name="nahakeizai" />。[[琉球列島米国軍政府|米国軍政府]]は後任の酒造所の必要性を認めて1946年に官営の酒造工場(酒造廠)5か所を設置した<ref name="nahakeizai" />。問題は沖縄戦の影響で各酒蔵で黒麹が消失していたことにあった。しかし、本島南部の咲元酒造(当時の名は佐久本酒造場)が焼け残っていた筵から黒麹の培養に成功し、これを各酒造場に供給したため泡盛造りも徐々に復興した。このため、咲元酒造の当時の2代目の佐久本政良は「泡盛復興の父」と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sakimoto-awamori.com/ |title=沖縄の泡盛・古酒の咲元酒造 |access-date=2023-11-8 |publisher=咲元酒造株式会社}}</ref>。泡盛復興の過程で米軍が不要となり放出したビール瓶や[[ウイスキー]]瓶に泡盛を詰めて販売したため、現在でもその名残で、本来540mlである3[[合]]瓶が600ml入りになっていたり、ウイスキー瓶に似た茶色の瓶に詰められていたりする泡盛が存在する。また、一部の例外を除けば前述の理由により各酒造場が同じ系統の麹を用いているため味の差異が出しにくいという問題もある。
いわゆる「[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ世]]」(ゆ)ではビールやウイスキーが普及し、一時は数百場あった泡盛の[[蔵元]]は大きく減った。
1970年代には焼酎の酒造技術が積極的に取り入れられ、国税事務所には専門の鑑定官が設置されるようになった<ref name="nahakeizai" />。沖縄県酒造組合の集計によると、2017年の泡盛出荷量は前年比5.3%減の1万7709キロリットル(沖縄県内出荷が8割以上で、海外出荷は28キロリットル)。2004年のピーク(2万7688キロリットル)から13年連続の減少となった。[[北海道]]から[[九州]]まで、沖縄料理店や店舗・通信販売で泡盛が広く飲まれるようになった半面、酒類の安売り規制による値上がりや嗜好の多様化で、沖縄県内でも泡盛消費は減っている<ref>{{cite news
| title = 沖縄の17年泡盛出荷量5.3%減 13年連続の減少
| newspaper = 『[[日本経済新聞]]』
| url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29261630R10C18A4LX0000/
| date = 2018-04-11}}</ref><ref>「泡盛出荷量、13年連続減/昨年の沖縄5.3%減 安売り規制響く」 『[[日経MJ]]』2018年4月16日(ニュースなデータ面)2018年9月20日閲覧。</ref>。
=== 生産地 ===
沖縄県内には47の酒造所(2018年時点)があり、泡盛の製造地域は、大きく分けて酒造組合のある6つの地域(沖縄本島の北部と中部と[[那覇市|那覇]]・南部、[[久米島]]、[[宮古列島|宮古]]、[[八重山列島|八重山]])に分けられる。なお、[[大東諸島]]は[[明治]]時代に[[伊豆諸島]]からの移民が開拓した島であるため、泡盛の製造は行われていない。各地域の酒造所は以下のとおり。
; 本島北部
: 11([[伊平屋酒造|伊平屋酒造所]]、伊是名酒造所、恩納酒造所、崎山酒造厰、金武酒造、今帰仁酒造、やんばる酒造、山川酒造、[[ヘリオス酒造]]、龍泉酒造、津嘉山酒造所)
; 本島中部
: 5([[新里酒造]]、[[神村酒造]]、[[比嘉酒造 (読谷村)|比嘉酒造]]、琉球泡盛古酒の郷、北谷長老酒造)
; 本島南部
: 13([[石川酒造場]]、上原酒造、[[まさひろ酒造]]、宮里酒造所、[[久米仙酒造]]、津波古酒造、[[瑞泉酒造]]、識名酒造、咲元酒造、[[瑞穂酒造]]、沖縄県酒造協同組合、神谷酒造所、[[忠孝酒造]])
; 久米島
: 2([[久米島の久米仙]]、[[米島酒造所]])
; 宮古
: 6(渡久山酒造、宮の華、[[多良川]]、沖之光酒造、池間酒造、菊之露酒造)
; 八重山
: 10(仲間酒造所、[[請福酒造]]、[[八重泉酒造]]、玉那覇酒造所、高嶺酒造所、池原酒造所、波照間酒造所、[[国泉泡盛]]、[[崎元酒造所]]、[[入波平酒造]])<ref>{{Cite web|和書
| title = 酒造所一覧
| publisher = 沖縄県酒造組合
| url = https://okinawa-awamori.or.jp/distilleries/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| title = 泡盛・古酒をたしなむ 酒造所一覧
| work = おきなわ物語
| publisher = 一般財団法人沖縄観光コンベンションビューロー
| url = https://www.okinawastory.jp/feature/awamori/list
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>。
本島北部は小規模な酒造所が多く、流通量は多くない。本島中部、南部は、戦後、首里地区から移転した酒造所等もあり、比較的近代的、大規模な酒造所が多い。中心都市であり、琉球王朝の王府のあった首里地区を有する那覇市の酒造所の泡盛がよく流通している。[[琉球王国|琉球王朝]]時代、首里地区の[[首里三箇]]の酒造所のみ公認であったため、狭い地域に集中していた。しかし、沖縄戦で壊滅し、首里に戻って製造する蔵元は少数に留まった。
[[宮古列島|宮古諸島]]の酒は口当たりがよく飲みやすいものが多く人気が高い。宮古島は、酒豪が多い沖縄県でも特に酒に強い人が多いとされており、[[オトーリ]]という酒の飲み方は有名である。[[八重山列島|八重山諸島]]の酒は離島の小規模業者により生産されていることが多いため、個性的である。
一部のメーカーが、[[台湾]]<ref>{{Cite web|和書
| title = 瑞穂の歴史 1990年~現在
| publisher = 瑞穂酒造株式会社
| url = https://www.mizuhoshuzo.co.jp/knowledge/history/1990/
| accessdate = 2019-01-27
}}</ref>、中国[[内モンゴル自治区]]<ref name="kumesen" />などに酒造所を所有している。
{{要出典範囲|[[2003年]]から泡盛のルーツとなったタイ産[[もち米]]焼酎の[[南蛮古酒]]が、現地タイの[[トータイネットワーク]]社から販売となり話題となっている。|date=2019年1月}}
=== 消費 ===
[[ファイル:SAKURA Lounge of Naha Airport01n4200.jpg|thumb|right|[[那覇空港]][[サクララウンジ]]の泡盛サービス]]
[[ファイル:Awamori at Miyakojima01s3s4500.jpg|thumb|right|店頭に陳列された[[宮古島]]産の泡盛]]
消費の割合は沖縄県内が8割で他地域が2割と推定される<ref>{{PDFlink|[https://www8.cao.go.jp/okinawa/osake2006/02kai_gaiyou.pdf 第2回「沖縄県産酒類振興・消費拡大懇話会」議論の概要]}} [[内閣府|内閣府 沖縄担当部局]]</ref>。沖縄県内で一般に流通しているものの[[アルコール度数]]は30%であるが、県外への移出や飲みやすさを考慮して25%にしたものが多く、また、減圧蒸留で製造された軽い風味のものも増えつつある。一方、長期熟成用の原酒にはより度数の高いものも多数ある。保管中にアルコール分の揮発等により度数が低くなるためである。伝統的な古酒を造るための原酒として、[[ろ過]]を抑えた泡盛も販売されている。新酒では欠点となる成分でも、熟成中に変化して、長所となると考えられているためである。
一般には熟成が3年未満の一般酒が流通する量が多く、多くの蒸留酒で寝かせてから販売されるのが普通であることと比較すると、やや特殊な例に当たる。[[昭和]]末までは、ほとんど二[[合]][[瓶]]、三合瓶、[[一升瓶]]で出回り、特に手頃感のある三合瓶に人気があった。三合瓶と称されているが、他の焼酎と異なり、泡盛の容量は600mlである(上記のように沖縄戦後、米軍の放出した[[ビール]]瓶に泡盛を詰めて販売した名残と言われている)。
本来の三合より多い60ml分は[[神様]]またはご[[先祖]]様の分とも言われ、[[飲酒]]時に一旦氷にかけて供えてから飲む風習もある。
二合瓶、三合瓶とも無色透明のガラス製で、ビール瓶をやや寸詰まりにした形で琉球泡盛という印が刻まれた[[リサイクル]]瓶である。瓶も蓋も全銘柄共通で使われ、一升瓶と同じ柄のラベルが貼られていた。現在では、様々な形の瓶やそのまま寝かせるための甕、記念品や[[土産]]として[[琉球ガラス]]や[[陶器]]に詰められた泡盛も流通している。
原料米についてもタイや[[台湾]]などから輸入のインディカ米を使用する醸造所が大多数を占めているが、日本で育成されたインディカ米やインディカ米とジャポニカ米との雑種等の国産米を使用する動きもある<ref>{{Cite journal |和書 |author=井上創平, 洌鎌あおい, 熱田和史 ほか|url=https://hdl.handle.net/20.500.12001/16061 |title=県産インディカ米「夢十色」による泡盛醸造 |issue=29 |page=9 |accessdate=2018-05-27|journal=南方資源利用技術研究会 研究発表会・特別講演会 |publisher=南方資源利用技術研究会}}</ref>。
== 酒税軽減措置と撤廃 ==
[[1972年]]の[[沖縄返還|沖縄の日本復帰]]の際、本土メーカーとの価格競争による酒造所の経営悪化、小売店や飲食店への経営圧迫、価格上昇による県民の負担増などを避けるため、[[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]に基づき復帰後5年間は沖縄県産の泡盛などの酒類を県内で販売する場合に酒税を軽減する時限措置がとられることになった<ref name="okinawatimes202302">[https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1099957 瀬戸際の泡盛業界 起死回生の妙手とは?](沖縄タイムス、2023年2月8日)</ref><ref name="toyokeizai202112">[https://toyokeizai.net/articles/-/479290 沖縄「泡盛」が本土復帰50年で直面した最大の試練](東洋経済オンライン、2021年12月25日)p.1</ref>。当初、優遇税率は5年間の時限措置であったが、5年ごとに延長が繰り返され、一時は-15%までになったが、1990年からは-35%となった。
その後、2017年以降は従来の5年延長から2年延長とする方針が決まった<ref>{{Cite news|title=沖縄関係税制、泡盛やビールなどの軽減措置2年延長|newspaper=沖縄タイムス|date=2016-12-08|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/74757}}</ref>。2020年度に延長する際には、[[沖縄振興特別措置法]]が2021年度末(令和4年)に期限を迎えるのに合わせるために、沖縄関係税制7項目全てが一年の延長となった<ref>{{Cite news|title=沖縄関係税制の1年延長を要望 内閣府が財務省に 酒税軽減措置など7項目|newspaper=琉球新報|date=2020-09-25|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1197187.html}}</ref>。
そして2022年度の税制改正大綱で延長後、法改正により軽減措置を[[2024年]]から[[2032年]]までの9年間で段階的に廃止して通常の税率に戻していくことが決定された<ref name="okinawatimes202302" /><ref name="toyokeizai202112" />。
泡盛業者の中には税率の軽減措置の撤廃後も収益や経営基盤を維持するため、蒸留酒に馴染みが深い中国市場などでの販路拡大を進めている企業もある<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/479290?page=3 沖縄「泡盛」が本土復帰50年で直面した最大の試練](東洋経済オンライン、2021年12月25日)p.3</ref>。また、ジンやラム、ウイスキーなどの洋酒の生産に挑戦する企業もある<ref name="okinawatimes202302" />。
== 文化 ==
沖縄では泡盛は日常だけでなく旧暦行事や祝いの席の酒にもなっている<ref name="churashima" />。1989年には泡盛の消費拡大のため11月1日が「泡盛の日」に制定された<ref name="churashima" />。また、9月4日は「古酒(クースー)の日」に制定されている<ref name="churashima" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
| last = 東恩納 | first = 寛惇
| authorlink = 東恩納寛惇
| chapter = 泡盛雑考
| title = 東恩納寛惇全集 3
| editor2 = 琉球新報社
| publisher = 第一書房
| year = 1979
| ref = harv
}}
* {{cite book|和書
| last = 萩尾 | first = 俊章
| title = 泡盛今昔
| url = http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/OishiiOkinawa/awamorikonjaku0329.pdf
| publisher = 沖縄民俗遺産研究所
| year = 2016
| format = PDF
| ref = harv
}}
* {{cite journal|和書
| author = 佐久本政敦
| title = 焼酎風土記 沖縄県(泡盛)
| url = https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.71.347
| journal = 日本釀造協會雜誌
| publisher = 日本釀造協會
| volume = 71
| issue = 5
| pages = 347-351
| year = 1976
| doi = 10.6013/jbrewsocjapan1915.71.347
| ref = harv
}}
* {{cite book|和書
| editor1 = 谷川健一
| editor2 = 島尻勝太郎
| title = 日本庶民生活史料集成 第27巻 三国交流誌
| chapter = [[朝鮮王朝実録|李朝実録]]
| publisher = [[三一書房]]
| year = 1981
| ref = {{SfnRef|李朝実録|1981}}
}}
==関連文献==
*{{Cite journal |和書|author=浜田由紀雄|title=泡盛の由来を訪ねて|publisher=日本醸造協会|journal=日本醸造協会誌|date=1992|volume=87|issue=8|pages=573-577|doi=10.6013/jbrewsocjapan1988.87.573}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Awamori}}
* [[泡盛の銘柄一覧]]
* [[首里三箇]] - 琉球王国時代に泡盛の製造を許可された地域。
* [[沖縄料理]]
* [[奄美黒糖焼酎]] - 泡盛の改良で作られた蒸留酒。
* [[壺屋焼]] - 泡盛の酒器、かつては貯蔵甕としても多く使われた。
* [[琉球ガラス]]
== 外部リンク ==
* [http://www.okinawa-awamori.or.jp/ 琉球泡盛] 沖縄県酒造組合
* [http://ama.ryukyu/ 一般社団法人 泡盛マイスター協会]
* [http://www.japansake.or.jp/honkaku/ 本格焼酎と泡盛] 日本酒造組合中央会
* [http://awamori-news.co.jp/ 沖縄泡盛新聞]
* [https://www.churashima.net/gourmet/awamori/index.html 美ら島物語 泡盛シリーズ]
{{アルコール飲料}}
{{蒸留酒}}
{{地理的表示}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あわもり}}
[[Category:日本の蒸留酒]]
[[Category:焼酎]]
[[Category:沖縄県の酒]]
[[Category:泡盛|*]]
[[Category:日本の地理的表示保護制度登録産品]]
|
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14,420 |
七十二候
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七十二候(しちじゅうにこう)とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつ。二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のこと。
各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている。
古代中国のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度か変更されている。 日本でも、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成された。現在では、1874年(明治7年)の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われている。俳句の季語には、中国の七十二候によるものも一部残っている。
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七十二候(しちじゅうにこう)とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつ。二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のこと。 各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている。 古代中国のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度か変更されている。 日本でも、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成された。現在では、1874年(明治7年)の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われている。俳句の季語には、中国の七十二候によるものも一部残っている。
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'''七十二候'''(しちじゅうにこう)とは、古代中国で考案された[[季節]]を表す方式のひとつ。[[二十四節気]]をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のこと<ref>『年中行事事典』p360 [[1958年]]([[昭和]]33年)[[5月23日]]初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>。
各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている。
古代中国のものがそのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は何度か変更されている。 日本でも、[[江戸時代]]に入って[[渋川春海]]ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成された。現在では、[[1874年]]([[明治]]7年)の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われている。[[俳句]]の[[季語]]には、中国の七十二候によるものも一部残っている。
==七十二候一覧==
{| class="wikitable"
!rowspan="2"|二十四節気!!rowspan="2"|候!!colspan="2"|[[略本暦]](日本)!!colspan="2"|[[宣明暦]](中国)
|-
!名称!!意味!!名称!!意味
|-
|rowspan="3"|[[立春]]||初候||東風解凍(はるかぜこおりをとく)||東風が厚い氷を解かし始める||東風解凍||東風が厚い氷を解かし始める
|-
|次候||黄鶯睍睆(うぐいすなく)||[[ウグイス|鶯]]が山里で鳴き始める||蟄虫始振||冬籠りの虫が動き始める
|-
|末候||魚上氷(うおこおりをいずる)||割れた氷の間から魚が飛び出る||魚上氷||割れた氷の間から魚が飛び出る
|-
|rowspan="3"|[[雨水]]||初候||土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)||雨が降って土が湿り気を含む||[[獺祭魚]]||[[カワウソ|獺]]が捕らえた魚を並べて食べる
|-
|次候||霞始靆(かすみはじめてたなびく)||霞がたなびき始める||鴻雁来||[[雁]]が飛来し始める
|-
|末候||草木萌動(そうもくめばえいずる)||草木が芽吹き始める||草木萌動||草木が芽吹き始める
|-
|rowspan="3"|[[啓蟄]]||初候||蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)||冬籠りの虫が出て来る||桃始華||[[モモ|桃]]の花が咲き始める
|-
|次候||桃始笑(ももはじめてさく)||桃の花が咲き始める||倉庚鳴||[[コウライウグイス|倉庚]]が鳴き始める
|-
|末候||菜虫化蝶(なむしちょうとなる)||青虫が羽化して[[モンシロチョウ|紋白蝶]]になる||鷹化為鳩||[[鷹]]が[[カッコウ|鳩]]に姿を変える
|-
|rowspan="3"|[[春分]]||初候||雀始巣(すずめはじめてすくう)||[[スズメ|雀]]が巣を構え始める||玄鳥至||[[ツバメ|燕]]が南からやって来る
|-
|次候||桜始開(さくらはじめてひらく)||[[サクラ|桜]]の花が咲き始める||雷乃発声||遠くで[[雷]]の音がし始める
|-
|末候||雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)||遠くで雷の音がし始める||始雷||稲光が初めて光る
|-
|rowspan="3"|[[清明]]||初候||玄鳥至(つばめきたる)||燕が南からやって来る||桐始華||[[キリ|桐]]の花が咲き始める
|-
|次候||鴻雁北(こうがんきたへかえる)||雁が北へ渡って行く||田鼠化為鴽||[[クマネズミ|田鼠]]が[[ウズラ|鴽]]になる
|-
|末候||虹始見(にじはじめてあらわる)||雨の後に[[虹]]が出始める||虹始見||雨の後に虹が出始める
|-
|rowspan="3"|[[穀雨]]||初候||葭始生(あしはじめてしょうず)||[[ヨシ|葦]]が芽を吹き始める||萍始生||浮き草が芽を出し始める
|-
|次候||霜止出苗(しもやんでなえいづる)||霜が終り[[イネ|稲]]の苗が生長する||鳴鳩払其羽||[[イカル|鳴鳩]]が羽を払う
|-
|末候||牡丹華(ぼたんはなさく)||[[ボタン (植物)|牡丹]]の花が咲く||戴勝降于桑||[[ヤツガシラ|戴勝]]が[[クワ|桑]]の木に止って[[カイコ|蚕]]を生む
|-
|rowspan="3"|[[立夏]]||初候||蛙始鳴(かわずはじめてなく)||[[カエル|蛙]]が鳴き始める||螻蟈鳴||[[ケラ|螻蟈]]が鳴き始める
|-
|次候||蚯蚓出(みみずいづる)||[[ミミズ|蚯蚓]]が地上に這出る||蚯蚓出||蚯蚓が地上に這出る
|-
|末候||竹笋生(たけのこしょうず)||[[タケノコ|筍]]が生えて来る||王瓜生||[[カラスウリ|王瓜]](からすうり)の実が生り始める
|-
|rowspan="3"|[[小満]]||初候||蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)||蚕が桑を盛んに食べ始める||苦菜秀||苦菜(にがな)がよく茂る
|-
|次候||紅花栄(べにばなさかう)||[[ベニバナ|紅花]]が盛んに咲く||靡草死||[[ナズナ|薺]](なずな)など田に生える草が枯れる
|-
|末候||麦秋至(むぎのときいたる)||麦が熟し[[麦秋]]となる||小暑至||ようやく暑さが加わり始める
|-
|rowspan="3"|[[芒種]]||初候||螳螂生(かまきりしょうず)||[[カマキリ|螳螂]]が生まれ出る||螳螂生||螳螂が生まれ出る
|-
|次候||腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)||腐った草が蒸れ蛍になる||鵙始鳴||[[モズ|鵙]]が鳴き始める
|-
|末候||梅子黄(うめのみきばむ)||[[ウメ|梅]]の実が黄ばんで熟す||反舌無声||[[クロウタドリ|反舌鳥]]が鳴かなくなる
|-
|rowspan="3"|[[夏至]]||初候||乃東枯(なつかれくさかるる)||[[ウツボグサ|夏枯草]]が枯れる||鹿角解||[[シカ|鹿]]が角を落とす
|-
|次候||菖蒲華(あやめはなさく)||[[ハナショウブ|あやめ]]の花が咲く||蜩始鳴||[[セミ|蝉]]が鳴き始める
|-
|末候||[[半夏生]](はんげしょうず)||[[カラスビシャク|烏柄杓]]が生える||半夏生||烏柄杓が生える
|-
|rowspan="3"|[[小暑]]||初候||温風至(あつかぜいたる)||暖い風が吹いて来る||温風至||暖い風が吹いて来る
|-
|次候||蓮始開(はすはじめてひらく)||[[ハス|蓮]]の花が開き始める||蟋蟀居壁||[[キリギリス|蟋蟀]]が壁で鳴く
|-
|末候||鷹乃学習(たかすなわちわざをなす)||鷹の幼鳥が飛ぶことを覚える||鷹乃学習||鷹の幼鳥が飛ぶことを覚える
|-
|rowspan="3"|[[大暑]]||初候||桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)||桐の花が(来年の)蕾をつける||腐草為蛍||腐った草が蒸れ蛍となる
|-
|次候||土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)||土が湿って蒸暑くなる||土潤溽暑||土が湿って蒸暑くなる
|-
|末候||大雨時行(たいうときどきにふる)||時として大雨が降る||大雨時行||時として大雨が降る
|-
|rowspan="3"|[[立秋]]||初候||涼風至(すづかぜいたる)||涼しい風が立ち始める||涼風至||涼しい風が立ち始める
|-
|次候||寒蝉鳴(ひぐらしなく)||[[ヒグラシ|蜩]]が鳴き始める||白露降||朝露が降り始める
|-
|末候||蒙霧升降(ふかききりまとう)||深い霧が立ち込める||寒蝉鳴||蜩が鳴き始める
|-
|rowspan="3"|[[処暑]]||初候||綿柎開(わたのはなしべひらく)||[[綿]]を包む[[萼]](がく)が開く||鷹乃祭鳥||鷹が捕らえた鳥を並べて食べる
|-
|次候||天地始粛(てんちはじめてさむし)||ようやく暑さが鎮まる||天地始粛||ようやく暑さが鎮まる
|-
|末候||禾乃登(こくものすなわちみのる)||稲が実る||禾乃登||稲が実る
|-
|rowspan="3"|[[白露]]||初候||草露白(くさのつゆしろし)||草に降りた露が白く光る||鴻雁来||雁が飛来し始める
|-
|次候||鶺鴒鳴(せきれいなく)||[[セキレイ|鶺鴒]](せきれい)が鳴き始める||玄鳥帰||燕が南へ帰って行く
|-
|末候||玄鳥去(つばめさる)||燕が南へ帰って行く||羣鳥養羞||多くの鳥が食べ物を蓄える
|-
|rowspan="3"|[[秋分]]||初候||雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)||雷が鳴り響かなくなる||雷乃収声||雷が鳴り響かなくなる
|-
|次候||蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)||虫が土中に掘った穴をふさぐ||蟄虫坏戸||虫が土中に掘った穴をふさぐ
|-
|末候||水始涸(みずはじめてかる)||田畑の水を干し始める||水始涸||田畑の水を干し始める
|-
|rowspan="3"|[[寒露]]||初候||鴻雁来(こうがんきたる)||雁が飛来し始める||鴻雁来賓||雁が多数飛来して客人となる
|-
|次候||菊花開(きくのはなひらく)||[[キク|菊]]の花が咲く||雀入大水為蛤||雀が海に入って[[ハマグリ|蛤]]になる
|-
|末候||蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)||蟋蟀が戸の辺りで鳴く||菊有黄華||菊の花が咲き出す
|-
|rowspan="3"|[[霜降]]||初候||霜始降(しもはじめてふる)||霜が降り始める||豺乃祭獣||山犬が捕らえた獣を並べて食べる
|-
|次候||霎時施(こさめときどきふる)||小雨がしとしと降る||草木黄落||草木の葉が黄ばんで落ち始める
|-
|末候||楓蔦黄(もみじつたきばむ)||もみじや[[蔦]]が黄葉する||蟄虫咸俯||虫がみな穴に潜って動かなくなる
|-
|rowspan="3"|[[立冬]]||初候||山茶始開(つばきはじめてひらく)||[[サザンカ|山茶花]]が咲き始める||水始氷||水が凍り始める
|-
|次候||地始凍(ちはじめてこおる)||大地が凍り始める||地始凍||大地が凍り始める
|-
|末候||金盞香(きんせんかさく)||水仙の花が咲く||雉入大水為蜃||[[キジ|雉]]が海に入って大蛤になる
|-
|rowspan="3"|[[小雪]]||初候||虹蔵不見(にじかくれてみえず)||虹を見かけなくなる||虹蔵不見||虹を見かけなくなる
|-
|次候||朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)||北風が木の葉を払い除ける||天気上騰地気下降||天地の寒暖が逆になる
|-
|末候||橘始黄(たちばなはじめてきばむ)||[[橘]]の実が黄色くなり始める||閉塞而成冬||天地の気が塞がって冬となる
|-
|rowspan="3"|[[大雪]]||初候||閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)||天地の気が塞がって冬となる||鶡鴠不鳴||[[ミミキジ]]が鳴かなくなる
|-
|次候||熊蟄穴(くまあなにこもる)||[[クマ|熊]]が冬眠のために穴に隠れる||虎始交||[[トラ|虎]]が交尾を始める
|-
|末候||鱖魚群(さけのうおむらがる)||[[サケ|鮭]]が群がり川を上る||茘挺出||[[ネジアヤメ]]が芽を出し始める
|-
|rowspan="3"|[[冬至]]||初候||乃東生(なつかれくさしょうず)||夏枯草が芽を出す||蚯蚓結||蚯蚓が地中で塊となる
|-
|次候||麋角解(おおしかのつのおつる)||大鹿が角を落とす||麋角解||大鹿が角を落とす
|-
|末候||雪下出麦(ゆきわたりてむぎいづる)||雪の下で麦が芽を出す||水泉動||地中で凍った泉が動き始める
|-
|rowspan="3"|[[小寒]]||初候||芹乃栄(せりすなわちさかう)||[[セリ|芹]]がよく生育する||雁北郷||雁が北に渡り始める
|-
|次候||水泉動(しみずあたたかをふくむ)||地中で凍った泉が動き始める||鵲始巣||[[カササギ|鵲]]が巣を作り始める
|-
|末候||雉始雊(きじはじめてなく)||雄の雉が鳴き始める||雉始雊||雄の雉が鳴き始める
|-
|rowspan="3"|[[大寒]]||初候||款冬華(ふきのはなさく)||蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す||鶏始乳||[[ニワトリ|鶏]]が卵を産み始める
|-
|次候||水沢腹堅(さわみずこおりつめる)||沢に氷が厚く張りつめる||鷙鳥厲疾||鷲・鷹などが空高く速く飛び始める
|-
|末候||鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)||鶏が卵を産み始める||水沢腹堅||沢に氷が厚く張りつめる
|}
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[二十四節気]]
* [[日本の暦]]
* [[中国暦]]
{{デフォルトソート:しちしゆうにこう}}
[[Category:節気|*しちしゆうにこう]]
[[Category:名数72|こう]]
[[Category:農事暦]]
[[Category:中国の名数|72 こう]]
|
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2023-08-22T07:48:51Z
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[] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99
|
14,421 |
ガトリング砲
|
ガトリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された火器の一種。
外部動力・多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を人力や外部動力(電気や油圧)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。
固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された連射可能な銃砲を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された火器を指す。また、より広義にはそれと同様の連射構造を機関砲(機関銃)の総称として、「ガトリング砲(Gatling gun)」という呼称が用いられている。20世紀後半に現れた外部動力式のものは「rotary cannon」、「rotary autocannon」とも呼ばれる。以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。
原始的な手銃の時代から、多数の銃身を並べて斉射するアイデアが存在し、ガトリング砲が登場した時期にもミトラィユーズ砲(日本では「蜂巣砲」と呼んだ)として知られる多砲身の「斉射砲」が存在していた。しかし、斉射砲は構造が複雑すぎて信頼性が低く、普及しなかった。
ガトリング砲が発明された当時のアメリカは、欧州に比して軍事的後進国だったため、依然として戦列歩兵式の歩兵運用が続いており、敵兵は密集した陣形を組んで向かってくる存在と認識されていた。こうした密集した敵兵に対しては、大砲から霰弾などの対人弾を浴びせる攻撃が昔から行われていた。そこで、ガトリングのアイデアは、銃身を環状に並べて回転させ、金属薬莢を使用する後装式の閉鎖機構と給弾機構をこれに組み合わせたものであり、それまでの斉射砲とは全く異なる構造の「連発砲」だった。
ガトリング砲には複数の砲身が環状に配置され、人力でクランクを回転させると、連続して給弾・装填・発射・排莢のサイクルが進行する構造であり、射撃は斉射ではなく連続して行われた。銃身を複数にしたことで、1本当たりの発射頻度は低くて済むため、後に開発された単砲身の機関砲・機関銃の欠点であった、過熱によって生じる様々な問題(ライフリングの急速な磨耗や弾頭周囲からのガス漏れによる作動不良など)が発生しにくい構造になっている。一方で、多砲身のため重く設置・操作には複数の兵士が必要で、小型砲並みのサイズとなり軽便さに欠けるという欠点があった。
初期のガトリング砲は、真鍮製の薬莢を用いる弾薬が普及していなかったため、紙に包んだ鉛玉を鉄製の薬莢に収めた専用弾薬と一緒に販売されていた。1862年型では、固定式弾倉に紙で包んだ鉛弾を内蔵する鉄製薬莢の実包をバラで投入する給弾方式であった。その後各種の金属薬莢式弾薬が普及し始めると、これを使用するタイプが製造されるようになり、1865年型からは口径0.58インチの真鍮製薬莢の実包をバネを用いずその自重で落とし給弾する箱型弾倉式に代わり、これ以外にも必要に応じて上部から実包を次々に継ぎ足す装弾クリップ式もあり、各国へ輸出されるようになった。
前装式小銃が主流だった南北戦争当時、ガトリング砲の持つ200発/分の連射速度は驚異的であり、1866年に軍によって採用される以前から、セールスエンジニアが戦場にガトリング砲を持ち込み、実際に敵兵(南軍)を撃って見せる実戦参加デモンストレーションが行われた。
初期のガトリング砲は射撃中、射手が一定速度でクランクを回さないと弾丸詰まりを起こしやすく、また回転速度を上げすぎると、過熱による部品の破損の危険があった。このため1893年には電動モーターにより一定のペースを保って射撃できるタイプが開発されたが、当時のモーターやバッテリーはまだ重量過大で信頼性が低く、さらに重量が増し、却って扱いが難しくなってしまった。後の時代に航空機用として生まれ変わったガトリング砲では、部品の精度や材質も改善され、外部動力のため不発が発生しても強制排莢して射撃が持続できるという利点があった。
しかし、南北戦争で双方が使用したエンフィールド銃に代表されるミニエー式小銃の強力な殺傷力が、戦列歩兵式の歩兵運用を廃れさせると、歩兵は密集して真っ直ぐ向かってくる存在から、散開しながら接近してくる存在へ変わってしまい、機動性と軽便さに欠けるガトリング砲は野戦では徐々に有効性を失ってしまった。また、射手はクランクを回して操作するために射撃姿勢が高く、狙撃を受けやすいという問題もあった。ガトリング砲が威力を発揮できたのは、敵兵が突撃を仕掛けてきた際の拠点防衛用や海戦においてであり、敵艦の甲板を掃射して乗組員を殺傷したり、接舷攻撃を仕掛けてきた敵を迎え撃つのには大変適しており、イギリスやロシア帝国は、植民地での海賊撃退用にこれを活用した。
機動性と射手の防御の問題を解決するため、イギリスのエジプト駐留軍では、四方を鉄板で覆った装甲列車に載せて使用していた。また、「キャメルガン」の名称で駱駝の背中に載せられるほど軽量化したことをアピールしたタイプや、ドーナツ型の弾倉を使用するものや銃身を短縮させた“ブルドッグ”と呼ばれたタイプも登場した。
やがて、マキシム機関銃やブローニング重機関銃といった、単銃身で軽量な重機関銃が出現すると、大型で重いガトリング砲は一挙に旧式化した存在となった。また、燃焼カスが大量に発生し銃身あたりの連射数の限界が低い黒色火薬や褐色火薬実包から、清掃無しでも連射数の比較的多い無煙火薬実包への切り替えも大きく寄与している。
これらの単銃身機関銃は、発射時の反動やガス圧といった内部動力を利用しているため、ガトリング砲よりも小型・軽量でありながら、ベルト給弾機構によって長時間の持続射撃が可能であり、特にマキシム機関銃は、水タンクで銃身を覆って冷却する構造となっており、19世紀の水準で作られたガトリング砲よりも高い工作精度で製造され、信頼性も高く、ボーア戦争・日露戦争・第一次大戦で高い戦果を挙げた。そして、なお重量過大であった重機関銃から、一人で携行射撃が可能な軽機関銃や短機関銃が登場した。
ガトリング砲は1950年代に航空機用機関砲(後述)として復活したほか、手回し式のガトリング砲はアメリカの州によっては法的に規制される自動火器には該当しないため、22LR弾を用いたミニチュアのガトリング砲が、手軽にフルオート射撃を楽しみたい人々に向けて市販されている。
日本では戊辰戦争においての河井継之助が率いた長岡藩兵が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある。河井は戊辰戦争における獨立特行を目指し、先進的な軍備の整備に努めて軍制改革を行い、スイスのファーブル・ブランド商会からガトリング砲を入手した。当時はスネル兄弟などの欧米の武器商人が欧米では旧式となった銃器を販売していたが、当時最新の兵器であったガトリング砲は日本に3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持していたことになる。
戦場では河井自身もガトリング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使用した河井の目論見は、コストパフォーマンスの悪い結果で終わった。
幕府が米国から購入し、新政府が引き継いだ軍艦「甲鉄」に搭載されていたガトリング砲は、1868年に同艦に対し榎本軍の軍艦「回天丸」の乗員が接舷斬り込み攻撃をかけた際の反撃に用いられたとされているが、『薩藩海軍史』には甲鉄の乗組員であった山県小太郎の「『ガトリング砲』にあらず、小銃をもって射撃せり」という発言が記載されており、実際に使われたかどうかは不明である。
1874年4月、北海道開拓使がアメリカから2挺を購入、8月にはユリシーズ・グラント大統領から明治天皇に対し1挺が贈呈されている。
その後発足した日本陸軍では、台湾出兵や西南戦争でガトリング砲が実戦投入された事が記録されている。
西南戦争の後は記録は途絶え、台湾総督府が反乱鎮圧用に常備していた事や、日清戦争・日露戦争で清軍・露軍が使用していたものを日本軍が鹵獲した記録などが散見される。
1920年にニコラエフスクがパルチザンに占領され日本人居留民、駐留日本軍がロシア人とともに殺戮された尼港事件の際には、中国海軍から日本軍砲撃のためにパルチザンに貸与されたガトリング砲が日本領事館攻撃に利用された。
戦闘機の主武装は、最初期から単銃身の機関銃・機関砲が主流であった。高速で飛行する物体が同じく高速で飛行する物体を正確に射撃することは極めて困難であり、多数の弾丸をばらまくことで命中率を高めるのが必然の選択であった。戦闘機の黎明期当時は、既にガトリング砲は陳腐化した兵器であり、戦闘機への搭載など考えられもしなかった。
しかし、1930年代から全金属製の軍用機が普及すると、防弾能力の付与が行われるようになり、戦闘機搭載の機関銃砲はこれに対応することが求められた。これに対して、主に英米は小口径機関銃を多数搭載することで対処したが、搭載位置が離れた機関銃の射線を、目標物に集中させるには、その射程が限られるという問題があった。主にドイツは機関砲の大口径化で対応したが、弾丸の速度や軌道の面で、ひいては命中率で小口径銃に劣るという欠点があった。同時に軍用機の速度は高速化し、その点でも命中率の低下は問題であった。
1940年代の半ばからジェット機が実用化されると、プロペラの干渉の問題が無くなったため、戦闘機においては胴体部分に多数の機銃を集中配備するようになり、射線の問題についてある程度は解決がなされたが、まだ不十分であった。同時に軍用機の高速化と構造強化も一層進展したため、新たな対処を迫られた。
第二次世界大戦末期にドイツで開発されたリヴォルヴァーカノンは、有効な解決手段と思われた。砲身は単一であるが発射速度が従来の機関砲の数倍に向上し、小口径機関砲を多数装備するのと同等の効果を、命中率の低下なしで達成するものである。戦後、欧米諸国に広く普及した。
この趨勢の中、アメリカ空軍は、リヴォルヴァーカノンより高い発射速度を求めて、ガトリング方式に着目し、陸軍博物館倉庫にあった骨董品のガトリング砲に電動モーターを取り付けたものを作成、実験を行い、期待以上の大きな発射速度と弾丸の集中的着弾による強力な破壊効果を確認した。有効性が認められたガトリング砲は、ゼネラル・エレクトリック社製M61/M61A1「バルカン」(製品名:米GE製品だが商標登録はスイス・エリコン社)として完成し、現在に至る。
M61/M61A1「バルカン」や同種機構の外部動力式自動火器は短時間で実包を大量消費するため、給弾機構はベルトコンベヤーのような構造をしている。 他の単銃身機関銃に採用されているリンクベルトはガトリング砲では弾薬消費のスピードが速すぎるため、張力に耐えられず使用できないことから「レール給弾」(砲と弾倉をチューブで繋ぎ、その中に弾倉内の砲弾を電動モーターで送り出す)方式が用いられる。
反面、ガトリング砲の根本的な欠陥である重量過大と構造の複雑さによる信頼性の低さ、またM61が使用する20mm弾の一発あたりの破壊力の低さ、そして「超高速のジェット機同士の空戦では、ガトリング砲が回転作動し始めてから給弾・発射されるまでのほんの一瞬の間でさえ、後れをとって勝敗を分けてしまう」欠点が指摘されている。そのため欧州の戦闘機においては、20mm台~30mm口径のリヴォルヴァーカノンが現在も採用されている。
M61 バルカンの開発から10年ほど経過していたベトナム戦争当時には、アメリカ空軍の戦闘機にガトリング形式の自動火器が搭載された機は少なかった。また、当時製造されたF-4をはじめ一部の戦闘機は初期設計では機関砲の類が搭載されていなかった。
これは当時流行した「航空機は高速化して機銃を撃つ機会はなくなり、高精度化したミサイルによりその必要もなくなる」という戦術思想に基づくミサイル万能論の影響によるもので、航空機に積まれる機関銃・機関砲は対地攻撃用兵器として捉えられるようになっていた。
だが、実戦が始まると、ミサイル万能論が楽観的であったことが以下のような事例で確認された。
こうして高い連射性能を持つガトリング形式の自動火器は空対空兵器としての地位を取り戻した。アメリカ空軍最新鋭のF-22Aステルス戦闘機にも、砲身の延長と機関の改良が行われたM61A2が搭載されている。航空機搭載に際する携行弾数は、全力で撃てば1分も経たずに撃ち尽くす程度の弾数、約600〜700発程度(F-4、F-14、F-15E、F-16、F/A-18、F-22等)だが、ごく一部の機体は約1,000発を搭載できた(F-105、F-15C)。
旧ソ連でも1960年代以降はGSh-6-30 30mmガトリング式航空機関砲が用いられたが、対地ロケット弾や対地ミサイルを補う対地掃射用であり、これは現在でもある程度継続使用されているが、搭載している機種は減少している。空対空機関砲としては1970年代半ばまでは23〜37ミリの大口径ガスト式機関砲2〜3門(装弾数は各100発程度)を搭載、それ以降の機関砲は一貫して30ミリ単砲身のGSh-30-1(搭載数一門。携行弾数は100〜150発)が用いられており、MiG-31を除いては空対空用としてガトリング砲を用いることは無かった。
今日のガトリング式機関砲は、前述の空対空機関砲としての用途に加え、その速射性から、海上対空兵器としてのCIWSや、空対地兵器として攻撃機や攻撃ヘリコプターなどにも搭載され、活用域は再び拡大している。
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"text": "ガトリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された火器の一種。",
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"text": "外部動力・多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を人力や外部動力(電気や油圧)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。",
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"text": "固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された連射可能な銃砲を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された火器を指す。また、より広義にはそれと同様の連射構造を機関砲(機関銃)の総称として、「ガトリング砲(Gatling gun)」という呼称が用いられている。20世紀後半に現れた外部動力式のものは「rotary cannon」、「rotary autocannon」とも呼ばれる。以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。",
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"text": "原始的な手銃の時代から、多数の銃身を並べて斉射するアイデアが存在し、ガトリング砲が登場した時期にもミトラィユーズ砲(日本では「蜂巣砲」と呼んだ)として知られる多砲身の「斉射砲」が存在していた。しかし、斉射砲は構造が複雑すぎて信頼性が低く、普及しなかった。",
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"text": "ガトリング砲が発明された当時のアメリカは、欧州に比して軍事的後進国だったため、依然として戦列歩兵式の歩兵運用が続いており、敵兵は密集した陣形を組んで向かってくる存在と認識されていた。こうした密集した敵兵に対しては、大砲から霰弾などの対人弾を浴びせる攻撃が昔から行われていた。そこで、ガトリングのアイデアは、銃身を環状に並べて回転させ、金属薬莢を使用する後装式の閉鎖機構と給弾機構をこれに組み合わせたものであり、それまでの斉射砲とは全く異なる構造の「連発砲」だった。",
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"text": "初期のガトリング砲は、真鍮製の薬莢を用いる弾薬が普及していなかったため、紙に包んだ鉛玉を鉄製の薬莢に収めた専用弾薬と一緒に販売されていた。1862年型では、固定式弾倉に紙で包んだ鉛弾を内蔵する鉄製薬莢の実包をバラで投入する給弾方式であった。その後各種の金属薬莢式弾薬が普及し始めると、これを使用するタイプが製造されるようになり、1865年型からは口径0.58インチの真鍮製薬莢の実包をバネを用いずその自重で落とし給弾する箱型弾倉式に代わり、これ以外にも必要に応じて上部から実包を次々に継ぎ足す装弾クリップ式もあり、各国へ輸出されるようになった。",
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ガトリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された火器の一種。 外部動力・多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を人力や外部動力(電気や油圧)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。 固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された連射可能な銃砲を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された火器を指す。また、より広義にはそれと同様の連射構造を機関砲(機関銃)の総称として、「ガトリング砲」という呼称が用いられている。20世紀後半に現れた外部動力式のものは「rotary cannon」、「rotary autocannon」とも呼ばれる。以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。
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{{脚注の不足|date=2021年12月}}
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|caption= 1865年型ガトリング砲
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<!-- Service History -->
|service=1862年-1911年
|used_by= [[file:Flag_of_Austria-Hungary_(1869-1918).svg|25px]][[オーストリア=ハンガリー帝国]]<br />[[file:Flag of the United Kingdom.svg|25px]][[イギリス帝国]]<br />{{flagcountry|Canada|1868}}<br />{{flagcountry|France}}<br />{{flagcountry|日本}}<br />{{flagcountry|Peru}}<br />{{flagcountry|Russian Empire}}<br />{{flagcountry|United States|1861}}
|wars=[[南北戦争]], [[太平洋戦争_(1879年-1884年)|太平洋戦争]], [[米西戦争]], [[日露戦争]],[[戊辰戦争]]
<!-- Production History -->
|designer=[[リチャード・ジョーダン・ガトリング]]
|degign_date= 1861年; 1862年(''特許取得'')
|manufacture=
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<!-- General specifications -->
|weight= 77.2 kg (砲架、弾倉、弾薬を除く)
|length= 107.9cm
|part_length= 67.3cm
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<!-- Ranged weapon specifications -->
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}}
'''ガトリング砲'''(ガトリングほう)、'''ガトリング銃'''(ガトリングじゅう)または'''ガトリングガン'''は、[[1861年]]に[[アメリカ合衆国]]の[[発明家]][[リチャード・ジョーダン・ガトリング]]によって製品化された[[火器]]の一種。
複数の銃身を人力や外部動力(電気や油圧)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。
固有名詞としての「ガトリング砲」はガトリングが発明してアメリカで製造され、20世紀初頭まで使用された連射可能な銃砲を、広義には同時代に他国でそのレプリカとして製作された火器を指す。より広義にはそれと同様の連射構造を機関砲(機関銃)の総称として、「ガトリング砲(Gatling gun)」という呼称が用いられている。20世紀後半に現れた外部動力式のものは「[[:en:rotary cannon|rotary cannon]]」、「rotary autocannon」とも呼ばれる。以降は機関銃(砲)の形式としての「ガトリング砲」についても記述する。
== 歴史と構造 ==
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2022年10月|独自研究=2022年10月}}
[[File:Mitrailleuse Gatling APX1895 Paris FRA 001.jpg|thumb|250px|[[ミトラィユーズ|ミトラィユーズ砲]]([[フランス軍事博物館]]所蔵)]]
原始的な手銃の時代から、多数の銃身を並べて斉射するアイデアが存在し、ガトリング砲が登場した時期にも[[ミトラィユーズ|ミトラィユーズ砲]](日本では「蜂巣砲」と呼んだ<ref>陸軍省大日記 日清戦役
<br />明治27年9月12日至明治28年4月2日
<br />「第1軍 戦闘詳報」
<br />「分捕兵器弾薬取調明細表 名称 個数 七珊知米突克慮伯野砲 同山砲 小口径克慮伯式山砲 ガットリング@発砲 同'''蜂巣砲''' 七珊知米突野山砲榴弾 同榴発弾 同霰弾 小口径山砲榴弾 小口径山砲尖弾 火薬」
</ref>)として知られる多砲身の「斉射砲」が存在していた。しかし、斉射砲は構造が複雑すぎて信頼性が低く、普及しなかった。
ガトリング砲が発明された当時のアメリカは、[[ヨーロッパ|欧州]]に比して軍事的後進国だったため、依然として[[戦列歩兵]]式の歩兵運用が続いており、敵兵は密集した陣形を組んで向かってくる存在と認識されていた。こうした密集した敵兵に対しては、[[大砲]]から[[キャニスター弾|霰弾]]などの対人弾を浴びせる攻撃が昔から行われていた。そこで、ガトリングのアイデアは、銃身を環状に並べて回転させ、金属[[薬莢]]を使用する後装式の閉鎖機構と給弾機構をこれに組み合わせたものであり、それまでの斉射砲とは全く異なる構造の「連発砲」だった。
ガトリング砲には複数の砲身が環状に配置され、人力でクランクを回転させると、連続して給弾・装填・発射・排莢のサイクルが進行する構造であり、射撃は斉射ではなく連続して行われた。銃身を複数にしたことで、1本当たりの発射頻度は低くて済むため、後に開発された単砲身の機関砲・機関銃の欠点であった、過熱によって生じる様々な問題([[ライフリング]]の急速な磨耗や弾頭周囲からのガス漏れによる作動不良など)が発生しにくい構造になっている。一方で、多砲身のため重く設置・操作には複数の兵士が必要で、小型砲並みのサイズとなり軽便さに欠けるという欠点があった。
初期のガトリング砲は、真鍮製の薬莢を用いる弾薬が普及していなかったため、紙に包んだ鉛玉を鉄製の薬莢に収めた専用弾薬と一緒に販売されていた。[[1862年]]型では、固定式弾倉に紙で包んだ鉛弾を内蔵する[[鉄]]製[[薬莢]]の[[実包]]をバラで投入する給弾方式であった。その後各種の金属薬莢式弾薬が普及し始めると、これを使用するタイプが製造されるようになり、[[1865年]]型からは口径0.58インチの[[真鍮]]製薬莢の実包をバネを用いずその自重で落とし給弾する箱型弾倉式に代わり、これ以外にも必要に応じて上部から実包を次々に継ぎ足す装弾クリップ式もあり、各国へ輸出されるようになった。
[[前装式]][[小銃]]が主流だった[[南北戦争]]当時、ガトリング砲の持つ200発/分の連射速度は驚異的であり、[[1866年]]に軍によって採用される以前から、セールスエンジニアが戦場にガトリング砲を持ち込み、実際に敵兵(南軍)を撃って見せる実戦参加デモンストレーションが行われた。
[[Image:Gatling gun.jpg|thumb|250px|1876年型ガトリング砲([[:en:Fort Laramie National Historic Site|米国国立公園局]]所蔵)]]
初期のガトリング砲は射撃中、射手が一定速度でクランクを回さないと弾丸詰まりを起こしやすく、また回転速度を上げすぎると、過熱による部品の破損の危険があった。このため[[1893年]]には[[電動機|電動モーター]]により一定のペースを保って射撃できるタイプが開発されたが、当時のモーターやバッテリーはまだ重量過大で信頼性が低く、さらに重量が増し、却って扱いが難しくなってしまった。後の時代に[[航空機]]用として生まれ変わったガトリング砲では、部品の精度や材質も改善され、外部動力のため不発が発生しても強制排莢して射撃が持続できるという利点があった。
しかし、南北戦争で双方が使用した[[エンフィールド銃]]に代表される[[ミニエー銃|ミニエー式]]小銃の強力な殺傷力が、[[戦列歩兵]]式の歩兵運用を廃れさせると、歩兵は密集して真っ直ぐ向かってくる存在から、散開しながら接近してくる存在へ変わってしまい、機動性と軽便さに欠けるガトリング砲は野戦では徐々に有効性を失ってしまった。また、射手はクランクを回して操作するために射撃姿勢が高く、狙撃を受けやすいという問題もあった。ガトリング砲が威力を発揮できたのは、敵兵が突撃を仕掛けてきた際の拠点防衛用や海戦においてであり、敵艦の甲板を掃射して乗組員を殺傷したり、[[移乗攻撃|接舷攻撃]]を仕掛けてきた敵を迎え撃つのには大変適しており、[[イギリス]]や[[ロシア帝国]]は、[[植民地]]での海賊撃退用にこれを活用した。
機動性と射手の防御の問題を解決するため、イギリスのエジプト駐留軍では、四方を[[鉄板]]で覆った[[装甲列車]]に載せて使用していた。また、「キャメルガン」の名称で[[ラクダ|駱駝]]の背中に載せられるほど軽量化したことをアピールしたタイプや、ドーナツ型の[[弾倉]]を使用するものや銃身を短縮させた“ブルドッグ”と呼ばれたタイプも登場した。
やがて、[[マキシム機関銃]]や[[コルト・ブローニングM1895重機関銃|ブローニング重機関銃]]といった、単銃身で軽量な[[重機関銃]]が出現すると、大型で重いガトリング砲は一挙に旧式化した存在となった。また、燃焼カスが大量に発生し銃身あたりの連射数の限界が低い[[黒色火薬]]や[[褐色火薬]][[実包]]から、清掃無しでも連射数の比較的多い[[無煙火薬]]実包への切り替えも大きく寄与している。
これらの単銃身[[機関銃]]は、発射時の反動やガス圧といった内部動力を利用しているため、ガトリング砲よりも小型・軽量でありながら、ベルト給弾機構によって長時間の持続射撃が可能であり、特にマキシム機関銃は、水タンクで銃身を覆って冷却する構造となっており、[[19世紀]]の水準で作られたガトリング砲よりも高い工作精度で製造され、信頼性も高く、[[ボーア戦争]]・[[日露戦争]]・[[第一次大戦]]で高い戦果を挙げた。そして、なお重量過大であった重機関銃から、一人で携行射撃が可能な[[軽機関銃]]や[[短機関銃]]が登場した。
ガトリング砲は[[1950年代]]に[[航空機関砲|航空機用機関砲]](後述)として復活したほか、手回し式のガトリング砲はアメリカの州によっては法的に規制される自動火器には該当しないため、[[.22ロングライフル弾|22LR弾]]を用いたミニチュアのガトリング砲が、手軽にフルオート射撃を楽しみたい人々に向けて市販されている。
== 日本におけるガトリング砲 ==
日本では[[戊辰戦争]]においての[[河井継之助]]が率いた[[越後長岡藩|長岡藩兵]]が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある<ref>『歴史を動かした兵器・武器の凄い話』149頁</ref>。河井は戊辰戦争における獨立特行を目指し、先進的な軍備の整備に努めて軍制改革を行い、スイスのファーブル・ブランド商会からガトリング砲を入手した。当時は[[スネル兄弟]]などの欧米の武器商人が欧米では旧式となった銃器を販売していたが、当時最新の兵器であったガトリング砲は日本に3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持していたことになる<ref>『河井継之助の生涯』、pp.175-176</ref><ref>[http://tsuginosuke.net/?page_id=17 展示品紹介]河井継之助記念館(2018.9.3アクセス)</ref><ref>[http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/kawaituginosuke.html 河井継之助]福島県観光交流局観光交流課(2018.9.3アクセス)</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20180430-NFHI4GV47ZJWNFP7TXIN2LJQGI/4/ 河井継之助 北越戦争で長岡城奪還 信念貫く武士道]産経ニュース(2018年4月30日)-2018年9月26日閲覧</ref><ref>『長岡歴史事典』、p.65</ref><ref>「鈴木総之丞日記」慶応4年5朔日の條(『河井継之助伝、p.278』)</ref><ref>『歴史への招待14』、pp.8-9、p.17、p.29</ref>。
戦場では河井自身もガトリング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使用した河井の目論見は、[[コストパフォーマンス]]の悪い結果で終わった。
幕府が米国から購入し、新政府が引き継いだ軍艦「[[東艦|甲鉄]]」に搭載されていたガトリング砲は、[[1868年]]に同艦に対し榎本軍の軍艦「[[回天丸]]」の乗員が接舷斬り込み攻撃をかけた際の反撃に用いられたとされているが、『薩藩海軍史』には甲鉄の乗組員であった山県小太郎の「『ガトリング砲』にあらず、小銃をもって射撃せり」という発言が記載されており、実際に使われたかどうかは不明である。
[[1874年]]4月、[[北海道]][[開拓使]]がアメリカから2挺を購入、8月には[[ユリシーズ・グラント]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]から[[明治天皇]]に対し1挺が贈呈されている。
その後発足した[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]では、[[台湾出兵]]<ref>単行書・処蕃始末・甲戌四月之一・第五冊
<br />蕃地事務局 明治7年4月7日<br />「陸軍省御中 開拓使 カツトリンク砲二挺附属品トモ代価別紙ノ通リ洋銀七千七百二十五弗五十二セント外ニ右買入方ニ付御入費金十七円九十九銭洋銀十弗七十五セント相掛リ候儀ニ有之尤モ前書七千七百弗余ノ分ハ買上ケ約定致シ候マデ@テ未払出不相成候間御省ヘ御買相成候ハ丶直ニウオルスフオール商会ヘ御払下相成候様存シ候当使ヘ御差越候テモ差支無之候此段及御掛合候也 カツトリング砲二挺砲台大薬価付精算 一インチ弾丸カツトリング砲一挺并附属品 代価二千弗 四十二カリブル弾丸直径カツトリング砲一挺同断右十二函入 代価千五百弗 四十二カリブル針打銅製弾丸一万発 捨函 代価三百九十弗 〆三千八百九十弗 相場違ニ五分減 百九十四弗五十銭〜」<p>単行書・処蕃始末・甲戌四月之三・第七冊
<br />蕃地事務局 明治7年〜明治8年
<br />「明治七年四月十七日横濱鈕育船ニテ結約 日本政府之名代トシテ同政府ノ為ニ極上品早合ガットリング炮実丸カリブル数十五万ガットリンク早合十万ヲ取寄ヘキ旨ヲシ、エ、ジファウルブラント商社一命シタリ早合之価ハ米國元価ニ船積料運送手数料并海上危険料ヲ加ヘ其上シエジファウルブラント商社ヘ口銭トシテ合価之五分ヲ与フヘシ 前記早合ハ非常事件アルノ外ハ約書調印之日ヨリ約ソ二ケ月之内横濱ニテ引渡スヘシ 前記早合注文スルニハ電信ヲ用フルニヨリ電信料ハ日本政府ニテ払戻スヘキ事 シエンファーウルブラント 大蔵卿大隈氏ノ命ニ因テ シダップリユリゼンドル 証人 イエムヒライ」</p></ref>や[[西南戦争]]<ref>陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」<br />陸軍省 明治10年3月4日
<br />砲第九十八号 カットリング弐門以下福岡エ差送ノ儀ニ付伺 南ノ関出張先福原大佐ヨリ別紙ノ通電報有之候ニ付申越ノ通可差送候哉此段相伺候也 明治十年三月四日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理陸軍少将西郷従道殿 伺ノ通 但臼砲二門榴弾百発焼弾百発木管属具共並ニカットリング砲二門弾薬六千五百発至急送達可致事 三月五日<p>陸軍省大日記 「大日記 砲兵工兵方面 5月木 陸軍省第1局」<br />陸軍大佐 大築尚志 明治10年5月 陸軍省<br />「陸第千百七十五号 甲第七十四号 至急砲弐百六十八号 大坂支廠ヨリ電報之儀ニ付伺 別紙之通昨夕大坂支廠ヨリ電報有之候ニ付当廠在庫品取調候処一舶用ブロートヱル属品共弐門一同弾信管共四百発一ガットリング車台属品共壱門同弾弐万発クルツプ榴弾信管共弐千発右之通有之候ニ付申越之通船便次第送方取計可申哉此段相伺候也 明治十年五月廿一日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理 陸軍少将井田譲殿 追テ猶又只今別紙乙印之通ヱンヒール火門針及ヒ換壱門之儀モ申越候是又申越之通相送可申哉此段モ添テ申進候也 伺之通 五月〜」</p></ref>でガトリング砲が実戦投入された事が記録されている。
西南戦争の後は記録は途絶え、[[台湾総督府]]が反乱鎮圧用に常備<ref>陸軍省大日記 密大日記 明治39年
<br />内務次官 吉原三治 明治39年3月22日
<br />陸軍省 内務省
<br />「密受第一〇四号 内務省 ガツトリシグ機関砲弾藥貸与ノ件 砲密第七五号 回答 次官ヨリ内務次官ヘ 蕃界警備用トシテ半吋ガツトリング機関砲弾藥ヲ台湾総督府ヘ貸興ノ儀ニ付台甲第三一号照会ノ趣了承右ハ来意ノ通該弾藥二萬発ヲ兵器本工廠ヨリ同総督府ヘ送達セシメラレ候条承知相成度 兵器本廠ヘ達 半吋ガツトクング機関砲弾藥 右蕃界警備用トシテ台湾総督府ヘ支給方取計フヘシ 但本費ハ軍事費兵器弾藥費ヨリ仕拂フヘシ 密発第五九号 内務省台甲第二一号ノ内 客年十月二十六日付密発第八一号ヲ以台湾総督府ヘ御貸興相成度機関砲及同弾藥ノ内ガツトリング半吋十連機関砲ハ蕃界@@上日取適@ノモノヘ@ニ有之候処尚等貸与セラレタル同弾丸ハ弾ニ五千発ニ止マリ爾来@@上該砲使用スルニ@@弾丸ニ差支〜」</ref>していた事や、[[日清戦争]]・[[日露戦争]]で清軍・露軍が使用していたものを日本軍が鹵獲<ref>陸軍省大日記 明治27年「秘27、8年戦役戦況及情報」
<br />作成者名称 大本営 児玉少将 9月26日 陸軍省
<br />「九月二十六日 九月二十四日午後三時十五分平壌発野津師団長ヨリ左ノ報アリ 平壌ニテ分捕ノ大砲四六門(四〇ノ誤ナラン)内克処普野砲四、山砲二六門ガットリング砲六、外ニ敵ノ案州ニ残シ置ケル野砲四門ヲ合シ〜」<p>陸軍省大日記 明治35年「参大日記 1月」<br />砲兵会議議長有坂成章 明治35年1月9日<br />「参第七号 砲兵会議 ガツトリング機関砲下渡ノ件 大臣 総務長官 機密課長 主務課員 庶務課長 主務課局 決裁 参事官 主務局長 主務課長 主務課員 受領 一月十四日 結了 一月十五日 提出年月 明治 年十一月 日 立案局課番号 砲三第七号 連帯局長 連帯課長 立案局課ノ校合者 御指令案 伺之通 一月十五日 兵器監部ヘ御達案 一米国製口径十一密五 ガツトリング(有被筒)機関砲 一門 但戦利兵器第一次審査報告第二@表中第六項ノモノ 右砲兵会議ヘ下渡方取計フヘシ 陸軍省送達 送乙第四九号 一月十五日 参第七号」</p></ref>した記録などが散見される。
[[1920年]]に[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ|ニコラエフスク]]が[[パルチザン]]に占領され日本人居留民、駐留日本軍がロシア人とともに殺戮された[[尼港事件]]の際には、[[中華民国海軍|中国海軍]]から日本軍砲撃のためにパルチザンに貸与されたガトリング砲が日本領事館攻撃に利用された<ref name="tyugokukaiso">陳抜談、陳鐸記、伊藤秀一和訳『ニコラエフスクの回想』ロシア史研究23 (1975年)収録</ref>。
== 航空機用火器としての復活 ==
[[戦闘機]]の主武装は、最初期から単銃身の機関銃・機関砲が主流であった。高速で飛行する物体が同じく高速で飛行する物体を正確に射撃することは極めて困難であり、多数の弾丸をばらまくことで命中率を高めるのが必然の選択であった。戦闘機の黎明期当時は、既にガトリング砲は陳腐化した兵器であり、戦闘機への搭載など考えられもしなかった。
しかし、[[1930年代]]から全金属製の軍用機が普及すると、防弾能力の付与が行われるようになり、戦闘機搭載の機関銃砲はこれに対応することが求められた。これに対して、主に英米は小口径機関銃を多数搭載することで対処したが、搭載位置が離れた機関銃の射線を、目標物に集中させるには、その射程が限られるという問題があった。主に[[ドイツ]]は機関砲の大口径化で対応したが、弾丸の速度や軌道の面で、ひいては命中率で小口径銃に劣るという欠点があった。同時に軍用機の速度は高速化し、その点でも命中率の低下は問題であった。
[[1940年代]]の半ばから[[ジェット機]]が実用化されると、プロペラの干渉の問題が無くなったため、戦闘機においては胴体部分に多数の機銃を集中配備するようになり、射線の問題についてある程度は解決がなされたが、まだ不十分であった。同時に軍用機の高速化と構造強化も一層進展したため、新たな対処を迫られた。
[[第二次世界大戦]]末期にドイツで開発された[[リヴォルヴァーカノン]]は、有効な解決手段と思われた。砲身は単一であるが発射速度が従来の機関砲の数倍に向上し、小口径機関砲を多数装備するのと同等の効果を、命中率の低下なしで達成するものである。戦後、欧米諸国に広く普及した。
[[File:Vulcan1.jpg|thumb|250px|left|ガトリング砲の発展型である[[M61 バルカン]]]]
[[画像:Gatling.gun.750pix.jpg|thumb|250px|[[A-10 (航空機)|A-10サンダーボルトII]]に搭載された[[GAU-8 (機関砲)|GAU-8]]・30mmガトリング砲、アヴェンジャー(対地用)]]
この趨勢の中、[[アメリカ空軍]]は、リヴォルヴァーカノンより高い発射速度を求めて、ガトリング方式に着目し、陸軍博物館倉庫にあった骨董品のガトリング砲に電動モーターを取り付けたものを作成、実験を行い、期待以上の大きな発射速度と弾丸の集中的着弾による強力な破壊効果を確認した。有効性が認められたガトリング砲は、[[ゼネラル・エレクトリック]]社製M61/M61A1「[[M61 バルカン|バルカン]]」(製品名:米GE製品だが商標登録はスイス・[[エリコン|エリコン社]])として完成し、現在に至る。
M61/M61A1「バルカン」や同種機構の外部動力式自動火器は短時間で実包を大量消費するため、給弾機構は[[ベルトコンベヤー]]のような構造をしている。
他の単銃身機関銃に採用されているリンクベルトはガトリング砲では弾薬消費のスピードが速すぎるため、張力に耐えられず使用できないことから「レール給弾」(砲と弾倉を[[チューブ]]で繋ぎ、その中に弾倉内の[[砲弾]]を電動モーターで送り出す)方式が用いられる。
反面、ガトリング砲の根本的な欠陥である重量過大と構造の複雑さによる信頼性の低さ、またM61が使用する20mm弾の一発あたりの破壊力の低さ、そして「超高速のジェット機同士の空戦では、ガトリング砲が回転作動し始めてから給弾・発射されるまでのほんの一瞬の間でさえ、後れをとって勝敗を分けてしまう」欠点が指摘されている。そのため欧州の戦闘機においては、20mm台~30mm口径のリヴォルヴァーカノンが現在も採用されている。
{{-}}
=== ミサイル万能論と「バルカン」 ===
{{独自研究|date=2021年12月|section=1}}
[[M61 バルカン]]の開発から10年ほど経過していた[[ベトナム戦争]]当時には、[[アメリカ空軍]]の戦闘機にガトリング形式の[[自動火器]]が搭載された機は少なかった。また、当時製造された[[F-4 (戦闘機)|F-4]]をはじめ一部の戦闘機は初期設計では機関砲の類が搭載されていなかった。
これは当時流行した「航空機は高速化して機銃を撃つ機会はなくなり、高精度化したミサイルによりその必要もなくなる」という戦術思想に基づく[[ミサイル万能論]]の影響によるもので、航空機に積まれる[[機関銃]]・[[機関砲]]は対地攻撃用兵器として捉えられるようになっていた。
だが、実戦が始まると、ミサイル万能論が楽観的であったことが以下のような事例で確認された。
;ミサイルの命中率・信頼性の低さ
:技術的な過大評価とベトナムの高温多湿による品質の低下。
;実際に携行されるミサイルの少なさに加え、運用コストの高さ
:最大8発のミサイルを搭載できる機でも、戦術上の都合と未使用ミサイルがコスト増を招くなどの理由もあって最大積載量まで満載されることはまずなく、精々4〜6発しか搭載されていなかった。戦闘で使用しなくても、出撃に用いられたミサイルは帰還後の整備を要するためである。またミサイルは重量があるため多く積載すればそれだけ航空機の運動性能が低下したほか、より多くの燃料を消費した。更に[[空母航空団]]では、[[航空母艦]]の場合狭い飛行甲板上での事故防止のため未使用のミサイルを着艦前に投棄せねばならなかった。
;[[アメリカ軍]]の当初の交戦規定では「視程外攻撃」を禁止
:目視前のレーダー捕捉のみによる攻撃が許されなかったため、結果、敵機による目視・回避される機会を増やした。
;任務上の問題
:制空戦闘・[[爆撃機]]の護衛が任務である以上、その場に留まることが要求された。[[北ベトナム]]側はミサイルを全弾発射した後、逃げ帰ることができたが、アメリカ側にはそのような作戦行動は許されなかった。
;機関砲の有効性
:実際には機関砲用の照準装置も飛躍的に進歩しており、高速化した戦闘機同士の戦闘でも、十分、能力を発揮できた。[[攻撃機]]が搭載する機関砲ですら、対戦闘機の自衛戦闘で予想外に大きな効果を上げたことが確認された。
;戦術想定の誤り
:想定と異なり実際の[[ドッグファイト]]時は、[[超音速]]飛行はあまり行われず、[[亜音速]]やそれ以下の[[速度]]で行われている。
こうして高い連射性能を持つガトリング形式の自動火器は空対空兵器としての地位を取り戻した。アメリカ空軍最新鋭の[[F-22 (戦闘機)|F-22A]][[ステルス機|ステルス戦闘機]]にも、砲身の延長と機関の改良が行われたM61A2が搭載されている。航空機搭載に際する携行弾数は、全力で撃てば1分も経たずに撃ち尽くす程度の弾数、約600〜700発程度([[F-4 (戦闘機)|F-4]]、[[F-14 (戦闘機)|F-14]]、[[F-15E (航空機)|F-15E]]、[[F-16 (戦闘機)|F-16]]、[[F/A-18 (航空機)|F/A-18]]、F-22等)だが、ごく一部の機体は約1,000発を搭載できた(F-105、F-15C)。
旧[[ソビエト連邦|ソ連]]でも[[1960年代]]以降は[[GSh-6-30 (機関砲)|GSh-6-30]] 30mmガトリング式航空機関砲が用いられたが、対地ロケット弾や対地ミサイルを補う対地掃射用であり、これは現在でもある程度継続使用されているが、搭載している機種は減少している。空対空機関砲としては[[1970年代]]半ばまでは23〜37ミリの大口径[[ガスト式]]機関砲2〜3門(装弾数は各100発程度)を搭載、それ以降の機関砲は一貫して30ミリ単砲身の[[GSh-30-1 (機関砲)|GSh-30-1]](搭載数一門。携行弾数は100〜150発)が用いられており、MiG-31を除いては空対空用としてガトリング砲を用いることは無かった。
今日のガトリング式機関砲は、前述の空対空機関砲としての用途に加え、その速射性から、海上対空兵器としての[[CIWS]]や、空対地兵器として[[攻撃機]]や[[攻撃ヘリコプター]]などにも搭載され、活用域は再び拡大している。
== 種類 ==
=== アメリカ合衆国 ===
;[[GAU-8 (機関砲)|GAU-8 アヴェンジャー]]
:口径30mm - 7銃身。対戦車攻撃用に開発され、[[A-10 (航空機)|A-10]]攻撃機に搭載。[[CIWS]]の一種である[[ゴールキーパー (火器)|ゴールキーパー]]にも使用。
;[[GAU-12 イコライザー|GAU-12]]
:口径25mm - 5銃身。[[AC-130]][[ガンシップ]]等に搭載。
;[[GAU-19]]
:口径12.7mm - 3銃身。
[[ファイル:GAU-17 machine gun fired from UH-1N Huey in 2006.jpg|thumb|250px|[[UH-1N]]に搭載されたGAU-17ミニガン]]
;GAU-17 [[M134 (機関銃)|M134]] ミニガン
:口径7.62mm - 6銃身。空軍での名称はGAU-2B/A。ヘリコプターの[[ドアガン]]や車載機銃として使用される。歩兵による運搬や運用を目指して、より小型のXM214「ミニミニガン」または「マイクロガン」と呼ばれる[[5.56x45mm NATO弾|5.56mm NATO弾]]版ミニガンも試作されたが、銃本体だけで12.25kg、弾薬込み装備重量では30kgを超えるものであった。本来2名で運搬し銃架に据え付けられて[[重機関銃]]として運用される火器であり、また弾薬以外に駆動用の大型バッテリーが必要で、映画のように個人が手持ちで保持射撃するのは不可能である。(→[[XM214]]ないし[[M134 (機関銃)|M134]]の項目を参照)
;[[GAU-12 イコライザー|GAU-22/A]]
:口径25mm - 4銃身。[[F-35 (戦闘機)|F-35A]]等に搭載。
;[[M61 バルカン]]
:口径20mm - 6銃身。戦闘機用に開発され、後に海軍の[[CIWS]]である[[ファランクス (火器)|ファランクスシステム]]にも使用。
:;[[M197機関砲|M197]]
::口径20mm - 3銃身。[[AH-1 コブラ]]等に搭載。M61の系列機。
=== ソビエト連邦・ロシア連邦 ===
;[[GSh-6-30 (機関砲)|GSh-6-30]]
:口径30mm - 6銃身。[[MiG-27]]に搭載。また、海軍のCIWSである[[AK-630]]や[[コールチク|コールチク(カシュタン)]]に用いられているAO-18機関砲のベースにもなっている。
;[[GSh-6-23 (機関砲)|GSh-6-23]]
:口径23mm - 6銃身。[[Su-24]]や[[MiG-31]]に搭載。
;[[YakB-12.7]]
:口径12.7mm - 4銃身。[[Mi-24 (航空機)|Mi-24D]]やMi-24Vに搭載。
;{{仮リンク|GShG-7.62|en|GShG-7.62 machine gun}}
:口径7.62mm - 4銃身。[[ガンポッド]]に装備。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2021年12月}}
* [[国立公文書館]]収蔵資料
* [[外務省外交史料館]]収蔵資料
* [[防衛省防衛研究所]]収蔵資料
* 月刊アーマーモデリング創刊号 『イラスト通信 日本最初の機関銃』(著:高荷義之)
* 小林良夫・関野邦夫『ピストルと銃の図鑑』[[池田書店]]
* 今泉鐸次郎『河井継之助伝』(目黒書店、1931)
* NHK「火を噴くガトリング砲」『歴史への招待14』(1981)
* 安藤英男『河井継之助の生涯』(新人物往来社、1987年)
* 長岡市教育委員会、長岡市立中央図書館『長岡歴史事典』(長岡市、2004)
== 関連項目 ==
*[[スナイドル銃]]
*[[チェーンガン]]
*[[オルガン砲]]
== 外部リンク ==
{{Commons category|Gatling guns|ガトリング砲}}
* [http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/ref/MG/I/MG-2.html 19th Century Machine Guns]
* [http://www.canit.se/~griffon/aviation/text/akandata.htm List of Military Gatling & Revolver cannons]
* [http://sunblest.net/gun/Gatling.htm Austro-Hungarian Gatling Guns]
* {{US patent|36836}} -- ''Gatling gun''
* {{US patent|47631}} -- ''improved Gatling gun''
* {{US patent|112138}} -- ''revolving battery gun''
* {{US patent|125563}} -- ''improvement in revolving battery guns''
* [http://science.howstuffworks.com/machine-gun4.htm Description of operating principle (with animation) from HowStuffWorks]
* [http://www.techeblog.com/index.php/tech-gadget/feature-cg-animation-shows-gatling-gun-cycle-of-operation CGI animated GAU-17/A]
* [http://www.victorianshipmodels.com/antitorpedoboatguns/Gatling/index.html Animations and technical descriptions of 1862, 1865 and 1874 models] (Requires Quicktime and not suitable for slow-speed links)
* [http://tsuginosuke.net/index.php 河井継之助記念館](新潟県長岡市、2006年12月27日開館)
* {{Wayback|url=http://www2.ocn.ne.jp/~tadami/kindex.html |title=河井継之助記念館 |date=20140819082406}}(河井の終焉の地・福島県只見町)
* [https://www.youtube.com/watch?v=4zYEDB4hM9E ガトリング砲 (1862) Gatling gun cal..58 [Audio L Eng.+ R JP]
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酒税法
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酒税法(しゅぜいほう)は、酒税の賦課徴収、酒類の製造及び販売業免許等について定めた日本の法律。所管官庁は、国税庁である。法令番号は昭和28年法律第6号、1940年に制定された旧酒税法(昭和15年法律第35号)を全部改正する形で制定され、1953年(昭和28年)2月28日に公布された。
アルコール分1度(容量パーセント濃度で1パーセント)以上の飲料が「酒類」として定義される。アルコール分90度以上で産業用に使用するアルコールについてはアルコール事業法(平成12年法律第36号)で扱われる。
かつては日本古来の焼酎を「大衆酒」と位置付けて低税率とするいっぽう、ウイスキー、ブランデーなどの洋酒は「高級酒」とされて高税率であった。これについて、洋酒生産国から『非関税障壁である』との批判を受けて、2008年(平成20年)に税率が改正され、焼酎とウイスキー、ブランデー、スピリッツはアルコール度数37度以上の場合、等しい税額を賦課されている。
またかつては日本酒は品評会により、特級・一級・二級の区分がなされ、高等級の酒ほど高税率を賦課されていた。しかし、日本酒級別制度は生産者の申請によるものであり、等級審査を経なければ「二級酒」として扱われた。そのため、特級や一級に相当する品質の酒について、あえて審査を申請せず、無審査二級酒として販売する業者が増加した。こうしたこともあって、1992年4月に日本酒級別制度は廃止され、一律の税率が賦課されるようになっている。
2017年(平成29年)現在では、ビールに対する高税率を回避するために開発された、発泡酒や「第三のビール」の税率が引き上げられる傾向にある。2018年(平成30年)の税制改正により、2020年(令和2年)から2026年(令和8年)にかけ、段階的にビールの税率を引き下げ、発泡酒や第三のビールについては税率を引き上げすることで、ビール類の税率を統一させることが決まっている。
酒税法第3条では17種類に分類されている。税率はアルコール度数だけではなく、原料の割合や製造法が加味されている。また醸造免許も分類ごとに法定製造数量が異なる。
日本酒については、特定名称酒制度など詳細な規定が存在するが、ウイスキーやワインなど、元来日本になかった酒類については大まかな規定しかない。また、スコッチ・ウイスキーやフランスワインのような原産地の保護に関する規定がなく、原酒が輸入品でも日本で瓶詰め・ブレンドを行えば『国産』と表記できるため、輸入されたブドウや濃縮果汁を使用した『国産ワイン』が出回っていた。2018年(平成30年)から『日本ワイン』の定義は厳格化されたが、ウイスキーに関しては、輸入したバルクウイスキーを日本で瓶詰めしただけで『ジャパニーズ・ウイスキー』を名乗れる状態である。
またビールは、当初富裕層が飲むものとされたため税率が高かったが、冷蔵庫の普及や生活水準の向上などにより庶民にも広まった。しかしその後も高い税率が維持されたため、酒造メーカーでは日本のビールの定義を利用し、発泡酒や第三のビールなどの『節税ビール』を発売した。税収を確保するため法改正がなされたことで、酒の定義は更に細かくなり、酒税負担が重くなるなどの税制上の歪みも発生している。
ただし、アルコール事業法の適用を受けるものや医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)の規定により製造・輸入・販売の許可を受けたアルコール含有医薬品・医薬部外品などは酒税法上の酒類から除かれる。
日本において酒類製造免許がない状態でのアルコール分を1%以上含む酒類の製造は、酒税法により原則禁止されている。これに違反し、製造した者は酒税法第54条により10年以下の懲役又は100万円以下の罰金が科せられる。かつては家庭においてリキュールを作ることさえ不可能で厳格な法律であったが、一部については規制緩和が行われた。
1961年(昭和36年)、当時の石橋内閣のもとで広報参与を務めていた読売新聞出身の石田穣が、日本経済新聞紙上に梅酒に関連した随筆を寄稿したことから、酒税法をめぐる騒動が発生する。石田の随筆の内容は、当時の酒税法に違反する内容であったためである。それまでも一般家庭では、梅酒やリキュールなどの自家製造は広く行われていたが、結局この失言騒動めいた経緯が決め手となり、翌1962年(昭和37年)に正式に法改正が行われ、家庭で梅酒などリキュールを作ることが可能となった。
ただし、漬け込むアルコールの度数は20度以上とするなど条件は厳しく、著しく例外規定的なものであった。一例として、2007年(平成19年)6月14日、テレビ番組『きょうの料理』(日本放送協会)の「特集★わが家に伝わる漬け物・保存食~梅酒~」にて、みりんを使った梅酒のつくり方を放送したが、そのレシピに従い、個人が梅酒を作ると違法となることが判明し、後日、謝罪放送がされるという事態が発生した。
既存の小売業者を保護し、酒税の安定した賦課徴収を図るために、新規参入者に対しては、酒税法に基づく厳格な制限が課されていた。しかし1998年(平成10年)3月に第2次橋本改造内閣で閣議決定された、規制緩和推進3カ年計画に基づき、2001年(平成13年)1月に距離基準(既存の販売場から一定距離を保つ規制)が廃止され、2003年(平成15年)9月には人口基準(一定人口ごとに酒類販売業免許を付与する規制)が廃止された。これにより、酒類の販売が事実上「自由化」されたものの、租税徴収と脱税防止のため、酒の販売に当たり『酒類販売業免許』が必要であることに変わりはない。
なお酒類販売の「自由化」と同時に、既存業者を保護することを目的とした議員立法(酒類小売業者の経営の改善等に関する緊急措置法)が制定され、かえって規制が強化された地域(特別調整区域)が存在するようになった。同法は2年間の時限立法であったため、2005年(平成17年)8月31日に失効しているが、失効前の改正によって規制強化は2006年(平成18年)8月31日まで存続した。
酒税法上、酒類製造免許がない者が、梅酒やサングリアなどの混成酒を造る場合、アルコール度数20度以上の酒を使用することが、酒税法により定められている。そのため通常、レシピのサングリアはワインが20度もアルコール度数がないため、酒税法違反となる。また店舗で提供する場合は、税務署への届け出と20度以上の蒸留酒を用いることが酒税法により定められている。サングリアを提供する店舗をハイパーリンクして紹介するウェブサイトがあるが、注意が必要である。どうしても作りたい場合は、酒税法43条10項の「消費の直前において酒類と他の物品(酒類を含む)との混和をする場合で政令で定めるときについては、適用しない」より、飲む直前に混ぜることになる。
市販の酒類を蒸留しエタノールを抽出する行為も酒類の製造と見なされ、中学校の理科など基礎科学実験で多いみりんやワインを蒸留する実験には、飲料に使えないように添加物を加えたりアルコール事業法の制限(90度)に抵触しないように配慮しなければ違法となる。しかし、国税庁は教育現場では「工業用アルコール」を使用しているとの建前で監査なども行わず、放置状態である。
法律改正により2006年5月より分類・品目が変更され、一部の定義なども変更されている。
なお参考として改正前の分類と定義を記す。
|
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"text": "酒税法(しゅぜいほう)は、酒税の賦課徴収、酒類の製造及び販売業免許等について定めた日本の法律。所管官庁は、国税庁である。法令番号は昭和28年法律第6号、1940年に制定された旧酒税法(昭和15年法律第35号)を全部改正する形で制定され、1953年(昭和28年)2月28日に公布された。",
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"text": "アルコール分1度(容量パーセント濃度で1パーセント)以上の飲料が「酒類」として定義される。アルコール分90度以上で産業用に使用するアルコールについてはアルコール事業法(平成12年法律第36号)で扱われる。",
"title": null
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"text": "かつては日本古来の焼酎を「大衆酒」と位置付けて低税率とするいっぽう、ウイスキー、ブランデーなどの洋酒は「高級酒」とされて高税率であった。これについて、洋酒生産国から『非関税障壁である』との批判を受けて、2008年(平成20年)に税率が改正され、焼酎とウイスキー、ブランデー、スピリッツはアルコール度数37度以上の場合、等しい税額を賦課されている。",
"title": "税率政策"
},
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"text": "またかつては日本酒は品評会により、特級・一級・二級の区分がなされ、高等級の酒ほど高税率を賦課されていた。しかし、日本酒級別制度は生産者の申請によるものであり、等級審査を経なければ「二級酒」として扱われた。そのため、特級や一級に相当する品質の酒について、あえて審査を申請せず、無審査二級酒として販売する業者が増加した。こうしたこともあって、1992年4月に日本酒級別制度は廃止され、一律の税率が賦課されるようになっている。",
"title": "税率政策"
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"text": "2017年(平成29年)現在では、ビールに対する高税率を回避するために開発された、発泡酒や「第三のビール」の税率が引き上げられる傾向にある。2018年(平成30年)の税制改正により、2020年(令和2年)から2026年(令和8年)にかけ、段階的にビールの税率を引き下げ、発泡酒や第三のビールについては税率を引き上げすることで、ビール類の税率を統一させることが決まっている。",
"title": "税率政策"
},
{
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"text": "酒税法第3条では17種類に分類されている。税率はアルコール度数だけではなく、原料の割合や製造法が加味されている。また醸造免許も分類ごとに法定製造数量が異なる。",
"title": "定義"
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"text": "日本酒については、特定名称酒制度など詳細な規定が存在するが、ウイスキーやワインなど、元来日本になかった酒類については大まかな規定しかない。また、スコッチ・ウイスキーやフランスワインのような原産地の保護に関する規定がなく、原酒が輸入品でも日本で瓶詰め・ブレンドを行えば『国産』と表記できるため、輸入されたブドウや濃縮果汁を使用した『国産ワイン』が出回っていた。2018年(平成30年)から『日本ワイン』の定義は厳格化されたが、ウイスキーに関しては、輸入したバルクウイスキーを日本で瓶詰めしただけで『ジャパニーズ・ウイスキー』を名乗れる状態である。",
"title": "定義"
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{
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"text": "またビールは、当初富裕層が飲むものとされたため税率が高かったが、冷蔵庫の普及や生活水準の向上などにより庶民にも広まった。しかしその後も高い税率が維持されたため、酒造メーカーでは日本のビールの定義を利用し、発泡酒や第三のビールなどの『節税ビール』を発売した。税収を確保するため法改正がなされたことで、酒の定義は更に細かくなり、酒税負担が重くなるなどの税制上の歪みも発生している。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "ただし、アルコール事業法の適用を受けるものや医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)の規定により製造・輸入・販売の許可を受けたアルコール含有医薬品・医薬部外品などは酒税法上の酒類から除かれる。",
"title": "定義"
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"text": "日本において酒類製造免許がない状態でのアルコール分を1%以上含む酒類の製造は、酒税法により原則禁止されている。これに違反し、製造した者は酒税法第54条により10年以下の懲役又は100万円以下の罰金が科せられる。かつては家庭においてリキュールを作ることさえ不可能で厳格な法律であったが、一部については規制緩和が行われた。",
"title": "酒類製造の制限"
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"text": "1961年(昭和36年)、当時の石橋内閣のもとで広報参与を務めていた読売新聞出身の石田穣が、日本経済新聞紙上に梅酒に関連した随筆を寄稿したことから、酒税法をめぐる騒動が発生する。石田の随筆の内容は、当時の酒税法に違反する内容であったためである。それまでも一般家庭では、梅酒やリキュールなどの自家製造は広く行われていたが、結局この失言騒動めいた経緯が決め手となり、翌1962年(昭和37年)に正式に法改正が行われ、家庭で梅酒などリキュールを作ることが可能となった。",
"title": "酒類製造の制限"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "ただし、漬け込むアルコールの度数は20度以上とするなど条件は厳しく、著しく例外規定的なものであった。一例として、2007年(平成19年)6月14日、テレビ番組『きょうの料理』(日本放送協会)の「特集★わが家に伝わる漬け物・保存食~梅酒~」にて、みりんを使った梅酒のつくり方を放送したが、そのレシピに従い、個人が梅酒を作ると違法となることが判明し、後日、謝罪放送がされるという事態が発生した。",
"title": "酒類製造の制限"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "既存の小売業者を保護し、酒税の安定した賦課徴収を図るために、新規参入者に対しては、酒税法に基づく厳格な制限が課されていた。しかし1998年(平成10年)3月に第2次橋本改造内閣で閣議決定された、規制緩和推進3カ年計画に基づき、2001年(平成13年)1月に距離基準(既存の販売場から一定距離を保つ規制)が廃止され、2003年(平成15年)9月には人口基準(一定人口ごとに酒類販売業免許を付与する規制)が廃止された。これにより、酒類の販売が事実上「自由化」されたものの、租税徴収と脱税防止のため、酒の販売に当たり『酒類販売業免許』が必要であることに変わりはない。",
"title": "酒類製造の制限"
},
{
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"text": "なお酒類販売の「自由化」と同時に、既存業者を保護することを目的とした議員立法(酒類小売業者の経営の改善等に関する緊急措置法)が制定され、かえって規制が強化された地域(特別調整区域)が存在するようになった。同法は2年間の時限立法であったため、2005年(平成17年)8月31日に失効しているが、失効前の改正によって規制強化は2006年(平成18年)8月31日まで存続した。",
"title": "酒類製造の制限"
},
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"text": "酒税法上、酒類製造免許がない者が、梅酒やサングリアなどの混成酒を造る場合、アルコール度数20度以上の酒を使用することが、酒税法により定められている。そのため通常、レシピのサングリアはワインが20度もアルコール度数がないため、酒税法違反となる。また店舗で提供する場合は、税務署への届け出と20度以上の蒸留酒を用いることが酒税法により定められている。サングリアを提供する店舗をハイパーリンクして紹介するウェブサイトがあるが、注意が必要である。どうしても作りたい場合は、酒税法43条10項の「消費の直前において酒類と他の物品(酒類を含む)との混和をする場合で政令で定めるときについては、適用しない」より、飲む直前に混ぜることになる。",
"title": "酒類製造の制限"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "市販の酒類を蒸留しエタノールを抽出する行為も酒類の製造と見なされ、中学校の理科など基礎科学実験で多いみりんやワインを蒸留する実験には、飲料に使えないように添加物を加えたりアルコール事業法の制限(90度)に抵触しないように配慮しなければ違法となる。しかし、国税庁は教育現場では「工業用アルコール」を使用しているとの建前で監査なども行わず、放置状態である。",
"title": "酒類製造の制限"
},
{
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"text": "法律改正により2006年5月より分類・品目が変更され、一部の定義なども変更されている。",
"title": "酒税法上の分類"
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{
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"tag": "p",
"text": "なお参考として改正前の分類と定義を記す。",
"title": "酒税法上の分類"
}
] |
酒税法(しゅぜいほう)は、酒税の賦課徴収、酒類の製造及び販売業免許等について定めた日本の法律。所管官庁は、国税庁である。法令番号は昭和28年法律第6号、1940年に制定された旧酒税法(昭和15年法律第35号)を全部改正する形で制定され、1953年(昭和28年)2月28日に公布された。 アルコール分1度(容量パーセント濃度で1パーセント)以上の飲料が「酒類」として定義される。アルコール分90度以上で産業用に使用するアルコールについてはアルコール事業法(平成12年法律第36号)で扱われる。
|
{{law}}
{{日本の法令
|題名= 酒税法
|効力= 現行法
|種類= [[租税法]]
|所管= [[国税庁]]
|内容= 酒税の賦課徴収
|関連= [[消費税法]]、[[たばこ税法]]、[[アルコール事業法]]、[[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]]、[[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]
|リンク= [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=328AC0000000006 e-Gov法令検索]
|}}
'''酒税法'''(しゅぜいほう)は、[[酒税]]の賦課徴収、[[酒|酒類]]の[[酒類免許|製造及び販売業免許]]等について定めた[[日本]]の[[法律]]。所管官庁は、[[国税庁]]である。[[法令番号]]は昭和28年法律第6号、[[1940年]]に制定された旧酒税法(昭和15年法律第35号)を全部改正する形で制定され、[[1953年]]([[昭和]]28年)2月28日に[[公布]]された。
[[アルコール度数|アルコール分]]1度(容量パーセント濃度で1パーセント)以上の飲料{{efn|薄めてアルコール分1度以上の飲料とすることができるもの(アルコール分が90度以上のアルコールのうち、第7条第1項の規定による酒類の製造免許を受けた者が酒類の原料として当該製造免許を受けた製造場において製造するもの以外のものを除く)または溶解してアルコール分1度以上の飲料とすることができる粉末状のものを含む。}}が「酒類」として定義される。アルコール分90度以上で産業用に使用するアルコールについては[[アルコール事業法]](平成12年法律第36号)で扱われる。
== 構成 ==
* 第1章 — 総則(第1条 - 第6条の4)
* 第2章 — [[酒類製造免許|酒類の製造免許]]および[[酒類販売業免許|酒類の販売業免許]]等(第7条 - 第21条)
* 第3章 — 課税標準および税率(第22条)
* 第4章 — 免税および税額控除等(第23条 - 第30条)
* 第5章 — 申告および納付等(第30条の2 - 第30条の6)
* 第6章 — 納税の担保(第31条 - 第36条)
* 第7章 — 削除(第37条 - 第39条)
* 第8章 — 雑則(第40条 - 第53条の2)
* 第9章 — 罰則(第54条 - 第62条)
== 税率政策 ==
{{see also|日本酒級別制度}}
かつては日本古来の[[焼酎]]を「大衆酒」と位置付けて低税率とするいっぽう、[[ウイスキー]]、[[ブランデー]]などの洋酒は「高級酒」とされて高税率であった。これについて、洋酒生産国から『[[非関税障壁]]である』との批判を受けて、2008年([[平成]]20年)に税率が改正され、焼酎とウイスキー、ブランデー、[[スピリッツ]]は[[アルコール度数]]37度以上の場合、等しい税額を賦課されている{{efn|第23条。1キロリットル当たりの酒税は、焼酎を含む蒸留酒類は21度未満が20万円、それ以上は度数×1万円であるが、ウイスキーなどは37度以下が一律37万円と異なる。ただし、一部に35度ウイスキーなどが存在する以外、一般に40度以上なので実質は同額である。}}。
またかつては[[日本酒]]は品評会により、特級・一級・二級の区分がなされ、高等級の酒ほど高税率を賦課されていた。しかし、[[日本酒級別制度]]は生産者の申請によるものであり、等級審査を経なければ「二級酒」として扱われた。そのため、特級や一級に相当する品質の酒について、あえて審査を申請せず、無審査二級酒として販売する業者が増加した。こうしたこともあって、[[1992年]]4月に日本酒級別制度は廃止され、一律の税率が賦課されるようになっている。
[[2017年]](平成29年)現在では、[[ビール]]に対する高税率を回避するために開発された、[[発泡酒]]や「[[第三のビール]]」の税率が引き上げられる傾向にある。2018年(平成30年)の税制改正により、[[2020年]]([[令和]]2年)から[[2026年]](令和8年)にかけ、段階的にビールの税率を引き下げ、発泡酒や第三のビールについては税率を引き上げすることで、ビール類の税率を統一させることが決まっている。
== 定義 ==
酒税法第3条では17種類に分類されている。税率はアルコール度数だけではなく、原料の割合や製造法が加味されている。また醸造免許も分類ごとに法定製造数量が異なる。
{{See also|酒税|酒類製造免許}}
[[日本酒]]については、特定名称酒制度など詳細な規定が存在するが、[[ウイスキー]]や[[ワイン]]など、元来日本になかった酒類については大まかな規定しかない。また、[[スコッチ・ウイスキー]]や[[フランスワイン]]のような原産地の保護に関する規定がなく、原酒が輸入品でも[[日本]]で瓶詰め・ブレンドを行えば『国産』と表記できるため、輸入された[[ブドウ]]や濃縮果汁を使用した『国産ワイン』が出回っていた。2018年(平成30年)から『[[日本のワイン|日本ワイン]]』の定義は厳格化されたが、ウイスキーに関しては、輸入したバルクウイスキーを日本で瓶詰めしただけで『[[ジャパニーズ・ウイスキー]]』を名乗れる状態である<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/213808?page=2 「ジャパニーズウイスキー」の悲しすぎる現実] - [[東洋経済オンライン]]</ref>。
また[[ビール]]は、当初[[富裕層]]が飲むものとされたため税率が高かったが、[[冷蔵庫]]の普及や生活水準の向上などにより庶民にも広まった。しかしその後も高い税率が維持されたため、酒造メーカーでは[[日本のビール]]の定義を利用し、[[発泡酒]]や[[第三のビール]]などの『節税ビール』を発売した。税収を確保するため法改正がなされたことで、酒の定義は更に細かくなり、酒税負担が重くなるなどの税制上の歪みも発生している。
ただし、[[アルコール事業法]]の適用を受けるもの{{efn|同法の規定する特定アルコールを精製し又はアルコール分を90度未満に薄めたもので、明らかに飲用以外の用途に供されると認められるものを含む}}や[[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]](薬機法)の規定により製造・輸入・販売の許可を受けたアルコール含有医薬品・医薬部外品などは酒税法上の酒類から除かれる。
== 酒類製造の制限 ==
{{節スタブ|1=保護法益について|date=2017年12月}}
{{See also|密造酒#日本における密造酒の歴史}}
日本において酒類製造免許がない状態でのアルコール分を1%以上含む酒類の製造は、酒税法により原則禁止されている。これに違反し、製造した者は酒税法第54条により10年以下の懲役又は100万円以下の罰金が科せられる。かつては家庭において[[リキュール]]を作ることさえ不可能で厳格な法律であったが、一部については規制緩和が行われた。
=== 規制緩和 ===
[[1961年]]([[昭和]]36年)、当時の[[石橋内閣]]のもとで[[政府広報|広報参与]]を務めていた[[読売新聞]]出身の石田穣が、[[日本経済新聞]]紙上に[[梅酒]]に関連した[[随筆]]を寄稿したことから、酒税法をめぐる騒動が発生する。石田の随筆の内容は、当時の酒税法に違反する内容であったためである。それまでも一般家庭では、[[梅酒]]やリキュールなどの自家製造は広く行われていたが、結局この失言騒動めいた経緯が決め手となり、翌[[1962年]](昭和37年)に正式に法改正が行われ、家庭で梅酒などリキュールを作ることが可能となった<ref>本郷明美『どはどぶろくのど 失われた酒を訪ねて』講談社</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20111204223922/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111205/plc11120503050002-n1.htm MSN産経ニュース - 産経抄 - 2011年12月5日](2011年12月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
ただし、漬け込むアルコールの度数は20度以上とするなど条件は厳しく、著しく例外規定的なものであった。一例として、[[2007年]]([[平成]]19年)[[6月14日]]、[[テレビ番組]]『[[きょうの料理]]』([[日本放送協会]])の「特集★わが家に伝わる漬け物・保存食~梅酒~」にて、[[みりん]]を使った梅酒のつくり方を[[放送]]したが、その[[レシピ]]に従い、個人が梅酒を作ると[[違法]]となることが判明し、後日、[[お詫び放送|謝罪放送]]がされるという事態が発生した。
既存の小売業者を保護し、酒税の安定した賦課徴収を図るために、新規参入者に対しては、酒税法に基づく厳格な制限が課されていた。しかし[[1998年]](平成10年)3月に[[第2次橋本内閣 (改造)|第2次橋本改造内閣]]で[[閣議決定]]された、[[規制緩和]]推進3カ年計画に基づき、[[2001年]](平成13年)1月に距離基準(既存の販売場から一定距離を保つ規制)が廃止され、[[2003年]](平成15年)9月には人口基準(一定人口ごとに[[酒類販売業免許]]を付与する規制)が廃止された。これにより、酒類の販売が事実上「自由化」されたものの、[[日本の租税|租税]]徴収と[[脱税]]防止のため、酒の販売に当たり『酒類販売業免許』が必要であることに変わりはない。
なお酒類販売の「自由化」と同時に、既存業者を保護することを目的とした[[議員立法]]([[酒類小売業者の経営の改善等に関する緊急措置法]])が制定され、かえって規制が強化された地域(特別調整区域)が存在するようになった。同法は2年間の[[時限立法]]であったため、[[2005年]](平成17年)8月31日に失効しているが、失効前の改正によって規制強化は[[2006年]](平成18年)[[8月31日]]まで存続した。
=== 注意点 ===
酒税法上、[[酒類製造免許]]がない者が、[[梅酒]]や[[サングリア]]などの混成酒を造る場合、[[アルコール度数]]20度以上の酒を使用することが、酒税法により定められている。そのため通常、レシピのサングリアはワインが20度もアルコール度数がないため、酒税法違反となる{{efn|サングリアはレシピなどが出回っているが、酒税法違反がほとんどである。日本酒サングリアも日本酒が20度以上あるものが少ないため違反となっているケースが多い。}}<ref name="国税庁・お酒についてのQ&A1">{{Cite web|和書|url = https://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/qa/06/32.htm | title = 消費者が自宅で梅酒を作ることに問題はありますか | accessdate = 2016-08-18}}</ref>。また店舗で提供する場合は、[[税務署]]への届け出と20度以上の'''蒸留酒'''を用いることが酒税法により定められている。サングリアを提供する店舗を[[ハイパーリンク]]して紹介する[[ウェブサイト]]があるが、注意が必要である{{efn|ワインは蒸留酒ではないし、アルコール度数も15度以下のため、店舗での提供は事実上不可能となる。}}<ref name="国税庁・お酒についてのQ&A2">{{Cite web|和書|url = https://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/qa/06/33.htm | title = 旅館等で自家製の梅酒を食前酒として提供することに問題はありますか | accessdate = 2016-08-18}}</ref>。どうしても作りたい場合は、酒税法43条10項の「消費の直前において酒類と他の物品(酒類を含む)との混和をする場合で政令で定めるときについては、適用しない」より、飲む直前に混ぜることになる。
市販の酒類を蒸留し[[エタノール]]を抽出する行為も酒類の製造と見なされ、中学校の理科など基礎科学実験で多い[[みりん]]や[[ワイン]]を蒸留する実験<ref>[http://www.ons.ne.jp/~taka1997/education/2002/chemistry/12/index.html#anchor375067 実験10みりん、ワインの蒸留/1年理科『化学』/takaの授業記録2002] - 中学校の教諭が生徒に持参させた酒類を蒸留する実験の記録</ref><ref>[http://edu.chemistry.or.jp/teibanjikken/jhigh/pdf/1-1.pdf 蒸留でエタノールを取り出す] - [[お茶の水女子大学附属中学校]]の教諭が中学向けの簡素な実験手順を紹介した事例。[[みりん]]や[[ワイン]]を使用する際の注意点も書かれている。</ref><ref>[https://www.sci.keio.ac.jp/eduproject/practice/chemistry/detail.php?eid=00021 アルコールの蒸留 文系学生実験] - [[慶應義塾大学]]自然科学研究教育センターが文化系の学部生向けに行っている基礎化学の実習。ワインまたは焼酎を蒸留している。</ref>には、飲料に使えないように添加物を加えたり[[アルコール事業法]]の制限(90度)に抵触しないように配慮しなければ違法となる<ref name=mbp001>[https://mbp-japan.com/hyogo/komorebipharmacy/column/5048531/ 消毒用アルコールが無いなら赤ワインから合法的に作ってみる。 薬剤師 植芝亮太] - [[薬剤師]]がワインから[[消毒用アルコール]]を製造するため国税庁などに問い合わせた事例。</ref>。しかし、国税庁は教育現場では「工業用アルコール」を使用しているとの建前で監査なども行わず、放置状態である<ref name=mbp001 />。
== 酒税法上の分類 ==
法律改正により[[2006年]]5月より分類・品目が変更され、一部の定義なども変更されている。
{| class="wikitable"
!分類
!品目
!酒税法の定義
!備考
|-
!rowspan="3"|発泡性酒類
![[ビール]]
|第3条第12号
|
|-
![[発泡酒]]
|第3条第18号
|
|-
!その他の発泡性酒類
|
|アルコールが10度未満で発泡性を有するもの。
|-
!rowspan="3"|[[醸造酒|醸造酒類]]
![[清酒]]
|第3条第7号
|[[清酒]]
|-
![[果実酒]]
|第3条第13号
|[[ワイン]]など
|-
![[その他の醸造酒]]
|第3条第19号
|[[どぶろく]]・[[黄酒]]・[[蜂蜜酒]]など
|-
!rowspan="6"|[[蒸留酒|蒸留酒類]]
!連続式蒸留焼酎
|第3条第9号
|[[焼酎]]甲類
|-
!単式蒸留焼酎
|第3条第10号
|焼酎乙類
|-
![[ウイスキー]]
|第3条第15号
|
|-
![[ブランデー]]
|第3条第16号
|
|-
!原料用アルコール
|第3条第17号
|
|-
!スピリッツ
|第3条第20号
|
|-
!rowspan="6"|[[混成酒|混成酒類]]
!|[[合成清酒]]
|第3条第8号
|
|-
![[みりん]]
|第3条第11号
|
|-
![[甘味果実酒]]
|第3条第14号
|
|-
![[リキュール]]
|第3条第21号
|
|-
![[粉末酒]]
|第3条第22号
|
|-
![[雑酒]]
|第3条第23号
|その他の混成酒、みりん類似、[[灰持酒]]・[[百歳酒]]など
|}
=== 改正前の定義 ===
なお参考として改正前の分類と定義を記す。
; [[清酒]]
: [[コメ|米]]、水及び清酒かす、米こうじその他政令で定める物品を原料として発酵させて、こしたもの
; [[合成清酒]]
: [[アルコール (食品)|アルコール]]、[[焼酎|しようちゆう]]、[[清酒]]、[[グルコース|ぶどう糖]]等を原料として製造した酒類で、その香味、色沢等が清酒に類似するもの
; [[焼酎|しようちゆう]](焼酎)
:; しようちゆう甲類(ホワイトリカー(1))
:: アルコール含有物を連続式蒸留機で[[蒸留]]したもので、アルコール分36度未満のもの
:; しようちゆう乙類(ホワイトリカー(2))
:: アルコール含有物を蒸留した酒類で、アルコール分45度以下のもの(しようちゆう甲類以外のしようちゆう){{efn|一般に「焼酎乙類」と表記。「焼酎甲類」より劣ると誤解されないように「本格焼酎」という表現も用いられるが、焼酎乙類には糖分などを2度未満加えることが可能なのに対して、本格焼酎は無添加のものに限られるなどの違いがある。}}
; [[みりん]]
: 米、米こうじにしようちゆう又はアルコールを加えて、こしたもの
; [[ビール]]
: [[麦芽]]、[[ホップ]]及び水を原料として発酵させたもの
; 果実酒類
:; [[果実酒]]
:: [[果実]]又は果実及び水を原料として発酵させたもの([[ワイン]]など)
:; [[甘味果実酒]]
:: 果実酒に糖類、ブランデー等を混和したもの(果実酒以外の果実酒類、[[シェリー酒]]、[[ポートワイン]]など)
; ウイスキー類
:; [[ウイスキー]]
:: 発芽させた穀類、水を原料として糖化させて、発酵させたアルコール含有物を蒸留したもの
:; [[ブランデー]]
:: 果実、水を原料として発酵させたアルコール含有物を蒸留したもの(ウイスキー以外のウイスキー類)
; スピリッツ類
:; [[スピリッツ]]
:: 清酒からウイスキー類までのいずれにも該当しない酒類でエキス分が2度未満のもの(原料用アルコール以外のスピリッツ類、[[ウォッカ]]・[[ジン_(蒸留酒)|ジン]]など)
:; 原料用アルコール
:: アルコール含有物を蒸留したものでアルコール分45度を超えるもの
; [[リキュール]]類
: 酒類と糖類等を原料としたものでエキス分が2度以上のもの
; 雑酒
:; [[発泡酒]]
:: 麦芽を原料の一部とした酒類で発泡性を有するもの
:; 粉末酒
:: 溶解してアルコール分1度以上の飲料とすることができる粉末状のもの
:; その他の雑酒
:: 清酒から粉末酒までのいずれにも該当しない酒類
::; その他の雑酒(1)
::: 清酒から粉末酒までのいずれにも該当しない酒類の内、みりんに性質が類似するもの([[灰持酒]]等)
::; その他の雑酒(2)
::: その他の雑酒の内、その他の雑酒(1)に該当しない酒類([[黄酒]]、[[蜂蜜酒]]、等)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<!-- 出典:追加した本文中の情報の後に脚注を導入し、実際に参考にした出典(文献参照ページ)を列挙してください。 -->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
* [[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]](旧名・未成年者飲酒禁止法)
* [[道路交通法]]
** [[飲酒運転]]
* [[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]] - [[沖縄県]]の区域で製造された一部の酒類について酒税の特例が規定されている。
* [[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]](薬機法)
* [[アルコール事業法]]
* [[第三のビール]]
* [[どぶろく]]
* [[税理士]]
* [[国税庁]]
* [[税務大学校]]
* [[無水エタノール]]
* [[消毒用アルコール]]
* [[健康酒]]
* [[梅酒]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nta.go.jp/taxes/sake/ お酒に関する情報] - 国税庁
* {{Egov law|328AC0000000006}}
* [https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000045696&searchDiv=1¤t=1 酒税法 昭和28年2月28日法律第6号 {{!}} 日本法令索引]
{{アルコール飲料}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:しゆせいほう}}
[[Category:日本の法律]]
[[Category:日本の税法]]
[[Category:日本の酒類関連法規]]
[[Category:1940年の法]]
[[Category:1953年の法]]
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地質時代
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地質時代(ちしつじだい、英: Geologic time scale; Geological age)とは、約46億年前の地球の誕生から現在までの内、直近数千年(地域によって異なる)の記録の残っている有史時代(歴史時代)以前のことで地質学的な手法でしか研究できない時代の事である。歴史の本来の意味は、文字で記録された人類に関わる過去の出来事の事であり、文字で記録されていないさらに時を遡る人類に関わる時代は先史時代と呼ばれている 。
地質時代における各時代区分は「地質年代」とも呼ばれ、また地質年代は地質時代と同義にも扱われる。
地球の年齢46億年超の内で、有史時代(数千年間)は約100万分の1であり、地球の年齢の99.9999%は地質時代である。前述の地質時代の定義から、地質時代は地球の年齢から有史時代を除いた部分であるが、現実には有史時代の長さは地質時代における誤差範囲よりはるかに小さく、有史時代(現在を含む)は新生代/第四紀/完新世/メーガーラヤンに含まれる。各地質時代区分の開始年代(基底年代)は何百万年前(Mya)と表現されるが、その基点は西暦2000年と定義されている。
地質時代は、比較的情報量が多く研究が進んでいる直近の「顕生代」(約5億年)、顕生代と比較すると生物化石に乏しくなるが微化石や生痕化石などが研究対象になる「原生代」(約20億年)、生物化石はほとんどなくなり研究対象が主に地層や岩石となる「太古代(始生代)」(約40億年)と、地球上で岩石や結晶などの直接証拠が少なく月の石や隕石などの情報から推察されている「冥王代」(約45億年)の4つの時代に区分されている。
138億年前の宇宙誕生(ビッグバン)から3分の2経過した今から46億年前に太陽系に地球が誕生した。この数十億年に渡る地球の過去を考察する場合、地球誕生から、月の形成、海洋誕生、大陸の形成分裂、造山運動・火山活動、巨大隕石の衝突、気候変動などの天文学的・地学的な絶対年代区分とは異なった、時代を発掘された化石や地層等から相対的に区分する手法が用いられており、これを地質時代と呼ぶ。この地質時代区分は地球史絶対年代とは異なるが、絶対年代上の重要事象の結果として多くの生物相の変化が起きたわけであり、地質時代と絶対年代に定義の差はあるが、相関性はある。
地球の過去は岩石や地層の中に封じ込められており、幾重にも亘る地層には、本の頁のように、地球の過去の事件やその時代の生物などが記録されている。これらの地層は、含まれる岩石や化石の放射年代測定により年齢を推定することが出来る。こうして地層の頁を紐解き、岩石という原子時計を測り、含まれる化石を見出すことにより地球の過去を知ることが可能となる。
地質時代の区分は発見される化石によるため、各時代はそれら生物の時代とも言え、その絶滅が時代を区分している。言い換えれば地質時代は生物の繁栄と絶滅の記録である。 一部の例外を除き各紀の境界では大量絶滅が発生している。右図参照。
詳細は地質学の歴史および古生物学の歴史(英語版)を参照。
古代から中世にかけて現生生物とはかけ離れた化石の発見から古生物の存在や、貝の化石が海から離れた場所で見つかることから現在の陸地が昔は海であった可能性などの推察があった。一方で、化石は生物起源ではない変わった形の岩石であり、『創造論』に基づいた時代認識が近世まで続いていた。近世に入りルネサンスを経て自然科学の発展が始まり近代につながる地球科学の各分野が誕生した。
区分の仕方は大きくは古い方から冥王代、太古代、原生代、顕生代の4つの累代、さらに細かく 代、紀、世、期と分類されている。これらの区分は化石帯区分と呼ばれ、地層や化石の研究から導きだされたものである。これらの時代区分は動物化石を基に分類されているので、植物相の変異とはズレがある。また第四紀に関してはヒト属の時代という区分である。
地球年代学(英: Geochronology、地質年代学とも)で定義する累代、代、紀、世、期に相応する地層を層序学(英: stratigraphy)および地質年代層序学(英: chronostratigraphy)では累界、界、系、統、階と呼ぶ。また地球年代学で言う前期、中期、後期に対しては下部、中部、上部となる。右の表を参照。
時代区分の定義、名称や基底年代等に関しては絶えず見直されており、また合意に至っていないものも多々ある。これらは国際地質科学連合(IUGS)、国際第四紀学連合(英語版)(INQUA)、国際層序委員会(ICS)等で検討され、4年ごとに開催される万国地質学会議(英: International Geological Congress)で批准されてきている。
時代区分は化石すなわち過去の生物相に拠るものであり地域毎に特性がある。よって細かい時代区分では各大陸での様相は均一ではなく、異なった区分が提唱されることもあり、それらをすり合わせる事が国際層序委員会の主な活動の一つである。
当記事では公式・暫定を含め国際地質科学連合(IUGS)および国際層序委員会(ICS)の資料に基づき記述する。
時代区分の開始年代(基底年代)は、主にその区分に属する岩石や化石の放射年代測定によって統計誤差を伴った年代数値が割り出されているが、新生代の新第三紀以降の年代数値は、放射年代測定の結果と良く適合し、気候変動を説明出来る日射量の変動サイクル(ミランコビッチサイクル)による絶対年代である天文年代で定義されている。また地層・岩石や化石試料の乏しい原生代以前に関しては、端数の無い大まかな天文年代で定義されている。
地球誕生以来、多くの重大事象が起き、初期の地球環境はかなり極端であったと予想されている。45.5億年前の月が出来る原因となったと思われる天体との衝突があり、地球の自転速度は月誕生直後では一日が5-8時間で、月は地球から1.5-2万キロ(現在は38万キロ)と近くにあり、非常に大きな潮汐力であった。その後徐々に1日が長くなると同時に、月が離れていった。(8.5億年前頃(新原生代)には一日は20.1時間で一年は435日であった。) 41億年前から38億年前の間には後期重爆撃期と呼ばれる多くの天体衝突があり、初期の地球環境は何度も破壊された。以降も直径10kmを超える小惑星を含めた隕石の衝突があり環境を激変させた。
地球誕生直後はマグマで覆われていたが、比較的早期に冷えて固まり42億年前には既に海洋が形成されていた事が、発見された岩石情報から推定されている。40億年前(太古代の初め)には地温勾配は現在の3倍程で、25億年前には2倍程になり、地球が冷え地殻が形成され、マントルの対流により超大陸の形成分裂が繰り返され、火山活動・造山活動もそれに伴い引き起こされた。25億年前にはそれまでの海底での火成活動から、大規模な陸上での火山活動が起きた。
太陽の明るさは40億年前には現在の70-75%と冷たい太陽であったが、温室効果ガスによると考えられ気温は現在とほぼ同じであった。地磁気は32億年前には現在の50%ぐらいで初期の地球大気を太陽風から守っていた。地磁気の逆転は何度も起きている。幾度もの氷河時代が訪れており特に強い氷河時代には赤道付近まで凍結する雪玉地球の状態であったと推定されている。これらの気候変動により数百メートルの幅で海水準変動が起きた。
また地学的事象との複合作用であるが、生物起源の地球環境の変化も起きており、その最たるものが24.5-18.5億年前の大酸化イベントと呼ばれる遊離酸素の大量供給である。推定では現在の大気中の酸素の約10倍の酸素がこの期間に供給され(数倍から20倍とも)、様々な酸化物を生成すると同時に大気中の酸素濃度がゼロから現在の10%(1%とも)以上になった。8-3億年前にも大気中酸素濃度の急上昇が起きており石炭紀末には最大で現在の1.7倍になったと考えられている。 約4億8830万 - 4億4000万年前頃にオゾン層が形成され生物の陸上進出が可能となる。
生物相はその生育環境である前述の地球環境に大きく依存している。地球誕生数億年後の冥王代末期に有機化合物(生命前駆物質)の化学進化により原始生命体誕生。太古代に地球生物の共通祖先から真性細菌と古細菌へ分岐、そして原核生物が誕生した。地質時代の前半分は遊離酸素の無い還元環境における嫌気性生物の時代であった。その後起きた大酸化イベントでは多くの嫌気性生物は絶滅し、酸化環境下での好気性生物の時代となった。
原生代には初期の大酸化イベントを境に真核生物の時代となり有性生殖が始まり、多細胞生物が誕生した。古生代の初期にはカンブリア爆発で海洋生物で堅い外骨格をまとった無脊椎動物が出現した。動物界では、カンブリア紀とオルドビス紀の無脊椎動物時代、シルル紀には昆虫の陸上進出があり、デボン紀の脊椎動物である魚類時代、石炭紀とペルム紀の両生類時代、中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の爬虫類時代、新生代の哺乳類時代に区分されている。一方植物界では古生代のカンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀の藻類・菌類時代(シルル紀に植物が陸上侵出した)、デボン紀、石炭紀、ペルム紀中頃までのシダ植物時代、ペルム紀中頃からジュラ紀、白亜紀中頃までの裸子植物時代、以降現在までが被子植物時代と区分されている。
時代区分の詳細は
国際層序委員会による地質系統・地質年代表 (International Stratigraphic Chart) 2015年1月版(以降 ICS2015 と略)に準拠して、地質時代の区分を概説する。時代区分名に関してはICS2018/07に基づく。
すべての階層の基底年代について、GSSPによって定義する作業が継続されている。2013年1月にICSが発行したISC2013では基底年代が大幅に書き換わり、2015年、2016年と改訂が続いている。また、おおよその数値を意味する波線(~)は継続して使用されている。その後も改訂作業は続いており、ICSからは随時改訂版が発表されている状況である。地質時代区分表 (詳細)も同様にISC2013年版の内容に準拠した上で、その後の改訂の内容を反映させるべく記事の更新作業が続いている。なお、地質時代区分の日本語名称に関しては、詳細表も含め、2015年4月に改訂された日本地質学会のガイドラインによる
時代区分の配色は国際地質科学連合公認の世界地質図委員会発行のGeologic Time Scale 2008 で用いられている色に拠った。
またこの節の表では、開始年代の値について誤差は記入せず中央値のみを記載している。
地学では、ヒューマンスケール(人間的尺度)とは大きく異なった地質時代の長さ(時間)を直感的に理解するために、地質時代を1年や1日の帯グラフ(左図)やパイチャート(右図)に割り当てて表示する手法がしばしば採用される。
以下に、46億年を1年に見立てた帯グラフ(左図)を解説する。46億年を365日で割ると、1日は1260万年、1時間は52万5千年、1分は8752年、1秒は146年に相当する。人生70年は0.5秒弱である。対して宇宙の年齢は3年に相当する。
元日に地球が誕生し、1月5日に月が分離。2月17日にかけて、原始海で化学反応により生命の素が出現する。以降6月初旬にかけて細菌や古細菌が誕生し、藍藻が出現。6月から11月中旬にかけては、藍藻が繁栄して酸素濃度が急上昇し、同時に大陸が形成される。11月19日以降が顕生代で、質と量においてある程度の化石情報があり、いわゆる“見える”時代である。
生物多様化(カンブリア爆発)が起こり、11月26日には生物が陸上へ進出。12月15日から26日にかけて恐竜の時代、続いて哺乳類の時代。
近世に鉱物資源探査に伴い地質学が発展し、同時に新旧の地層を研究する層序学の研究が進んできた。これらの研究は継続されており、地層区分や開始年代の見直しも随時行われている。18世紀には化石の出る地層(顕生代)と出ない地層(先カンブリア時代)、そして化石の出ない無生物の地層を「第一紀」、現生生物とは異なった化石の「第二紀」、現生生物とほぼ同じ生物化石の出る地層「第三紀」と大きく区分されていたが、その後の調査研究の進捗に伴い細かく区分され再定義され続けている。付け加えて国際定義の日本語化に関しては定義の変遷も見られる。Wikipedia内の多岐にわたる地質時代関連記事の更新も随時行われているが、新旧の記述が混在しているのが現状である。
1989年に国際地質科学連合(IUGS)は新生代をPaleogene(古第三紀), Neogene(新第三紀), Quaternary(第四紀)の3つの紀からなるものとし、Tertiary(第三紀)の語を正式な用語から外した。2008年には、第三紀が正式に非公式用語となった。
2010年には、人類の時代と定義されている第四紀は、それ以前の時代区分であった新第三紀・鮮新世・ジェラシアン(ジェーラ期)が組み込まれ開始年代が180万年前から約260万年前へと大幅に遡った。
2014年から2016年にかけては年代値の多くに修正がなされてきている。
2018年7月には第四紀・完新世の細分化やカンブリア紀の統/世で番号で呼ばれていたものの一部が命名された。また「Archean」の時代区分を、未使用となっている「Archeozoic」由来の「始生代」としていたが「 太古代」へ変更し「太古代(始生代)」と表記することに決定されている。
この他新生代の古第三紀および新第三紀の名称の変更や、同じく新生代の各期の名称についても議論が継続されている。
JISにおける地質年代の日本語表記の基本方針、引用
また各紀・世・期の名称の邦訳も地名の名詞化/形容詞化?~~アンとし、それに時代区分を付記する方針になったが、慣例から旧称(地名+紀)のまま残されているものもある。カンブリア紀、ペルム紀、ジュラ紀などは、方針に従えばカンブリアン紀、ペルミアン紀、ジュラシック紀等となるべきものである。
ウィキペディア日本語版における単語使用記事数を検索すると(2018年10月)エディアカラン 23件、エディアカラ 82件となっている。
また地名の中には中国の地名がいくつかあるが、日本地質学会の日本語表記の基本方針はInternational Chronostratigraphic Chartにある地質年代の英語綴りの発音をカタカナ表記する事になっているので漢字で表記されることはない。
改定の詳細については日本地質学会の「地質系統・年代の日本語記述ガイドライン_改訂履歴」を参照。
公式の国際年代層序表(略称: ICSチャート)は、国際層序委員会から発行される。日本地質学会ではそれを基に時代区分名・注意書きなどを和訳し発表している。日本地質学会による和訳発表には時間を要しており、国際層序委員会による最新バージョンとは異なっている場合もある。以下に国際層序委員会に情報を記する。 国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy、略称: ICS )では、2008年以降の各チャートおよび2012年以降の改訂履歴をまとめている。
掲載バージョン: 2008, 2009, 2010, 2012, 2013/01, 2014/02, 2014/10, 2015/01, 2016/04, 2016/10, 2017/02, 2018/07. 2018年10月時点では国際層序委員会による最新バージョンは2018/08であるが日本地質学会の最新の和訳チャートは 2018/07で最新の変更が反映されていない。
以下の変更件数は2018年10月17日時点で。ICSチャートは2012年以降年1-3回発行されている(年平均2回発行)。発行履歴は以下:
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"text": "地質時代(ちしつじだい、英: Geologic time scale; Geological age)とは、約46億年前の地球の誕生から現在までの内、直近数千年(地域によって異なる)の記録の残っている有史時代(歴史時代)以前のことで地質学的な手法でしか研究できない時代の事である。歴史の本来の意味は、文字で記録された人類に関わる過去の出来事の事であり、文字で記録されていないさらに時を遡る人類に関わる時代は先史時代と呼ばれている 。",
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},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "地質時代における各時代区分は「地質年代」とも呼ばれ、また地質年代は地質時代と同義にも扱われる。",
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{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "地球の年齢46億年超の内で、有史時代(数千年間)は約100万分の1であり、地球の年齢の99.9999%は地質時代である。前述の地質時代の定義から、地質時代は地球の年齢から有史時代を除いた部分であるが、現実には有史時代の長さは地質時代における誤差範囲よりはるかに小さく、有史時代(現在を含む)は新生代/第四紀/完新世/メーガーラヤンに含まれる。各地質時代区分の開始年代(基底年代)は何百万年前(Mya)と表現されるが、その基点は西暦2000年と定義されている。",
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},
{
"paragraph_id": 3,
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"text": "地質時代は、比較的情報量が多く研究が進んでいる直近の「顕生代」(約5億年)、顕生代と比較すると生物化石に乏しくなるが微化石や生痕化石などが研究対象になる「原生代」(約20億年)、生物化石はほとんどなくなり研究対象が主に地層や岩石となる「太古代(始生代)」(約40億年)と、地球上で岩石や結晶などの直接証拠が少なく月の石や隕石などの情報から推察されている「冥王代」(約45億年)の4つの時代に区分されている。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "138億年前の宇宙誕生(ビッグバン)から3分の2経過した今から46億年前に太陽系に地球が誕生した。この数十億年に渡る地球の過去を考察する場合、地球誕生から、月の形成、海洋誕生、大陸の形成分裂、造山運動・火山活動、巨大隕石の衝突、気候変動などの天文学的・地学的な絶対年代区分とは異なった、時代を発掘された化石や地層等から相対的に区分する手法が用いられており、これを地質時代と呼ぶ。この地質時代区分は地球史絶対年代とは異なるが、絶対年代上の重要事象の結果として多くの生物相の変化が起きたわけであり、地質時代と絶対年代に定義の差はあるが、相関性はある。",
"title": "概要"
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{
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"text": "地球の過去は岩石や地層の中に封じ込められており、幾重にも亘る地層には、本の頁のように、地球の過去の事件やその時代の生物などが記録されている。これらの地層は、含まれる岩石や化石の放射年代測定により年齢を推定することが出来る。こうして地層の頁を紐解き、岩石という原子時計を測り、含まれる化石を見出すことにより地球の過去を知ることが可能となる。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "地質時代の区分は発見される化石によるため、各時代はそれら生物の時代とも言え、その絶滅が時代を区分している。言い換えれば地質時代は生物の繁栄と絶滅の記録である。 一部の例外を除き各紀の境界では大量絶滅が発生している。右図参照。",
"title": "概要"
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"text": "詳細は地質学の歴史および古生物学の歴史(英語版)を参照。",
"title": "地質時代研究の歴史"
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{
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"text": "古代から中世にかけて現生生物とはかけ離れた化石の発見から古生物の存在や、貝の化石が海から離れた場所で見つかることから現在の陸地が昔は海であった可能性などの推察があった。一方で、化石は生物起源ではない変わった形の岩石であり、『創造論』に基づいた時代認識が近世まで続いていた。近世に入りルネサンスを経て自然科学の発展が始まり近代につながる地球科学の各分野が誕生した。",
"title": "地質時代研究の歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "区分の仕方は大きくは古い方から冥王代、太古代、原生代、顕生代の4つの累代、さらに細かく 代、紀、世、期と分類されている。これらの区分は化石帯区分と呼ばれ、地層や化石の研究から導きだされたものである。これらの時代区分は動物化石を基に分類されているので、植物相の変異とはズレがある。また第四紀に関してはヒト属の時代という区分である。",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "地球年代学(英: Geochronology、地質年代学とも)で定義する累代、代、紀、世、期に相応する地層を層序学(英: stratigraphy)および地質年代層序学(英: chronostratigraphy)では累界、界、系、統、階と呼ぶ。また地球年代学で言う前期、中期、後期に対しては下部、中部、上部となる。右の表を参照。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "時代区分の定義、名称や基底年代等に関しては絶えず見直されており、また合意に至っていないものも多々ある。これらは国際地質科学連合(IUGS)、国際第四紀学連合(英語版)(INQUA)、国際層序委員会(ICS)等で検討され、4年ごとに開催される万国地質学会議(英: International Geological Congress)で批准されてきている。",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "時代区分は化石すなわち過去の生物相に拠るものであり地域毎に特性がある。よって細かい時代区分では各大陸での様相は均一ではなく、異なった区分が提唱されることもあり、それらをすり合わせる事が国際層序委員会の主な活動の一つである。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "当記事では公式・暫定を含め国際地質科学連合(IUGS)および国際層序委員会(ICS)の資料に基づき記述する。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "時代区分の開始年代(基底年代)は、主にその区分に属する岩石や化石の放射年代測定によって統計誤差を伴った年代数値が割り出されているが、新生代の新第三紀以降の年代数値は、放射年代測定の結果と良く適合し、気候変動を説明出来る日射量の変動サイクル(ミランコビッチサイクル)による絶対年代である天文年代で定義されている。また地層・岩石や化石試料の乏しい原生代以前に関しては、端数の無い大まかな天文年代で定義されている。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "地球誕生以来、多くの重大事象が起き、初期の地球環境はかなり極端であったと予想されている。45.5億年前の月が出来る原因となったと思われる天体との衝突があり、地球の自転速度は月誕生直後では一日が5-8時間で、月は地球から1.5-2万キロ(現在は38万キロ)と近くにあり、非常に大きな潮汐力であった。その後徐々に1日が長くなると同時に、月が離れていった。(8.5億年前頃(新原生代)には一日は20.1時間で一年は435日であった。) 41億年前から38億年前の間には後期重爆撃期と呼ばれる多くの天体衝突があり、初期の地球環境は何度も破壊された。以降も直径10kmを超える小惑星を含めた隕石の衝突があり環境を激変させた。",
"title": "地球環境の変遷"
},
{
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"tag": "p",
"text": "地球誕生直後はマグマで覆われていたが、比較的早期に冷えて固まり42億年前には既に海洋が形成されていた事が、発見された岩石情報から推定されている。40億年前(太古代の初め)には地温勾配は現在の3倍程で、25億年前には2倍程になり、地球が冷え地殻が形成され、マントルの対流により超大陸の形成分裂が繰り返され、火山活動・造山活動もそれに伴い引き起こされた。25億年前にはそれまでの海底での火成活動から、大規模な陸上での火山活動が起きた。",
"title": "地球環境の変遷"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "太陽の明るさは40億年前には現在の70-75%と冷たい太陽であったが、温室効果ガスによると考えられ気温は現在とほぼ同じであった。地磁気は32億年前には現在の50%ぐらいで初期の地球大気を太陽風から守っていた。地磁気の逆転は何度も起きている。幾度もの氷河時代が訪れており特に強い氷河時代には赤道付近まで凍結する雪玉地球の状態であったと推定されている。これらの気候変動により数百メートルの幅で海水準変動が起きた。",
"title": "地球環境の変遷"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また地学的事象との複合作用であるが、生物起源の地球環境の変化も起きており、その最たるものが24.5-18.5億年前の大酸化イベントと呼ばれる遊離酸素の大量供給である。推定では現在の大気中の酸素の約10倍の酸素がこの期間に供給され(数倍から20倍とも)、様々な酸化物を生成すると同時に大気中の酸素濃度がゼロから現在の10%(1%とも)以上になった。8-3億年前にも大気中酸素濃度の急上昇が起きており石炭紀末には最大で現在の1.7倍になったと考えられている。 約4億8830万 - 4億4000万年前頃にオゾン層が形成され生物の陸上進出が可能となる。",
"title": "地球環境の変遷"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "生物相はその生育環境である前述の地球環境に大きく依存している。地球誕生数億年後の冥王代末期に有機化合物(生命前駆物質)の化学進化により原始生命体誕生。太古代に地球生物の共通祖先から真性細菌と古細菌へ分岐、そして原核生物が誕生した。地質時代の前半分は遊離酸素の無い還元環境における嫌気性生物の時代であった。その後起きた大酸化イベントでは多くの嫌気性生物は絶滅し、酸化環境下での好気性生物の時代となった。",
"title": "生物界の変遷"
},
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"text": "原生代には初期の大酸化イベントを境に真核生物の時代となり有性生殖が始まり、多細胞生物が誕生した。古生代の初期にはカンブリア爆発で海洋生物で堅い外骨格をまとった無脊椎動物が出現した。動物界では、カンブリア紀とオルドビス紀の無脊椎動物時代、シルル紀には昆虫の陸上進出があり、デボン紀の脊椎動物である魚類時代、石炭紀とペルム紀の両生類時代、中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の爬虫類時代、新生代の哺乳類時代に区分されている。一方植物界では古生代のカンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀の藻類・菌類時代(シルル紀に植物が陸上侵出した)、デボン紀、石炭紀、ペルム紀中頃までのシダ植物時代、ペルム紀中頃からジュラ紀、白亜紀中頃までの裸子植物時代、以降現在までが被子植物時代と区分されている。",
"title": "生物界の変遷"
},
{
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"text": "時代区分の詳細は",
"title": "地質時代の区分"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "国際層序委員会による地質系統・地質年代表 (International Stratigraphic Chart) 2015年1月版(以降 ICS2015 と略)に準拠して、地質時代の区分を概説する。時代区分名に関してはICS2018/07に基づく。",
"title": "地質時代の区分"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "すべての階層の基底年代について、GSSPによって定義する作業が継続されている。2013年1月にICSが発行したISC2013では基底年代が大幅に書き換わり、2015年、2016年と改訂が続いている。また、おおよその数値を意味する波線(~)は継続して使用されている。その後も改訂作業は続いており、ICSからは随時改訂版が発表されている状況である。地質時代区分表 (詳細)も同様にISC2013年版の内容に準拠した上で、その後の改訂の内容を反映させるべく記事の更新作業が続いている。なお、地質時代区分の日本語名称に関しては、詳細表も含め、2015年4月に改訂された日本地質学会のガイドラインによる",
"title": "地質時代の区分"
},
{
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"text": "時代区分の配色は国際地質科学連合公認の世界地質図委員会発行のGeologic Time Scale 2008 で用いられている色に拠った。",
"title": "地質時代の区分"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "またこの節の表では、開始年代の値について誤差は記入せず中央値のみを記載している。",
"title": "地質時代の区分"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "地学では、ヒューマンスケール(人間的尺度)とは大きく異なった地質時代の長さ(時間)を直感的に理解するために、地質時代を1年や1日の帯グラフ(左図)やパイチャート(右図)に割り当てて表示する手法がしばしば採用される。",
"title": "地質時代のタイムスケール"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "以下に、46億年を1年に見立てた帯グラフ(左図)を解説する。46億年を365日で割ると、1日は1260万年、1時間は52万5千年、1分は8752年、1秒は146年に相当する。人生70年は0.5秒弱である。対して宇宙の年齢は3年に相当する。",
"title": "地質時代のタイムスケール"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "元日に地球が誕生し、1月5日に月が分離。2月17日にかけて、原始海で化学反応により生命の素が出現する。以降6月初旬にかけて細菌や古細菌が誕生し、藍藻が出現。6月から11月中旬にかけては、藍藻が繁栄して酸素濃度が急上昇し、同時に大陸が形成される。11月19日以降が顕生代で、質と量においてある程度の化石情報があり、いわゆる“見える”時代である。",
"title": "地質時代のタイムスケール"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "生物多様化(カンブリア爆発)が起こり、11月26日には生物が陸上へ進出。12月15日から26日にかけて恐竜の時代、続いて哺乳類の時代。",
"title": "地質時代のタイムスケール"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "近世に鉱物資源探査に伴い地質学が発展し、同時に新旧の地層を研究する層序学の研究が進んできた。これらの研究は継続されており、地層区分や開始年代の見直しも随時行われている。18世紀には化石の出る地層(顕生代)と出ない地層(先カンブリア時代)、そして化石の出ない無生物の地層を「第一紀」、現生生物とは異なった化石の「第二紀」、現生生物とほぼ同じ生物化石の出る地層「第三紀」と大きく区分されていたが、その後の調査研究の進捗に伴い細かく区分され再定義され続けている。付け加えて国際定義の日本語化に関しては定義の変遷も見られる。Wikipedia内の多岐にわたる地質時代関連記事の更新も随時行われているが、新旧の記述が混在しているのが現状である。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "1989年に国際地質科学連合(IUGS)は新生代をPaleogene(古第三紀), Neogene(新第三紀), Quaternary(第四紀)の3つの紀からなるものとし、Tertiary(第三紀)の語を正式な用語から外した。2008年には、第三紀が正式に非公式用語となった。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2010年には、人類の時代と定義されている第四紀は、それ以前の時代区分であった新第三紀・鮮新世・ジェラシアン(ジェーラ期)が組み込まれ開始年代が180万年前から約260万年前へと大幅に遡った。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2014年から2016年にかけては年代値の多くに修正がなされてきている。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2018年7月には第四紀・完新世の細分化やカンブリア紀の統/世で番号で呼ばれていたものの一部が命名された。また「Archean」の時代区分を、未使用となっている「Archeozoic」由来の「始生代」としていたが「 太古代」へ変更し「太古代(始生代)」と表記することに決定されている。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この他新生代の古第三紀および新第三紀の名称の変更や、同じく新生代の各期の名称についても議論が継続されている。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "JISにおける地質年代の日本語表記の基本方針、引用",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また各紀・世・期の名称の邦訳も地名の名詞化/形容詞化?~~アンとし、それに時代区分を付記する方針になったが、慣例から旧称(地名+紀)のまま残されているものもある。カンブリア紀、ペルム紀、ジュラ紀などは、方針に従えばカンブリアン紀、ペルミアン紀、ジュラシック紀等となるべきものである。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ウィキペディア日本語版における単語使用記事数を検索すると(2018年10月)エディアカラン 23件、エディアカラ 82件となっている。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また地名の中には中国の地名がいくつかあるが、日本地質学会の日本語表記の基本方針はInternational Chronostratigraphic Chartにある地質年代の英語綴りの発音をカタカナ表記する事になっているので漢字で表記されることはない。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "改定の詳細については日本地質学会の「地質系統・年代の日本語記述ガイドライン_改訂履歴」を参照。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "公式の国際年代層序表(略称: ICSチャート)は、国際層序委員会から発行される。日本地質学会ではそれを基に時代区分名・注意書きなどを和訳し発表している。日本地質学会による和訳発表には時間を要しており、国際層序委員会による最新バージョンとは異なっている場合もある。以下に国際層序委員会に情報を記する。 国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy、略称: ICS )では、2008年以降の各チャートおよび2012年以降の改訂履歴をまとめている。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "掲載バージョン: 2008, 2009, 2010, 2012, 2013/01, 2014/02, 2014/10, 2015/01, 2016/04, 2016/10, 2017/02, 2018/07. 2018年10月時点では国際層序委員会による最新バージョンは2018/08であるが日本地質学会の最新の和訳チャートは 2018/07で最新の変更が反映されていない。",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "以下の変更件数は2018年10月17日時点で。ICSチャートは2012年以降年1-3回発行されている(年平均2回発行)。発行履歴は以下:",
"title": "地質時代区分の改定履歴"
}
] |
地質時代とは、約46億年前の地球の誕生から現在までの内、直近数千年(地域によって異なる)の記録の残っている有史時代(歴史時代)以前のことで地質学的な手法でしか研究できない時代の事である。歴史の本来の意味は、文字で記録された人類に関わる過去の出来事の事であり、文字で記録されていないさらに時を遡る人類に関わる時代は先史時代と呼ばれている。 地質時代における各時代区分は「地質年代」とも呼ばれ、また地質年代は地質時代と同義にも扱われる。 地球の年齢46億年超の内で、有史時代(数千年間)は約100万分の1であり、地球の年齢の99.9999%は地質時代である。前述の地質時代の定義から、地質時代は地球の年齢から有史時代を除いた部分であるが、現実には有史時代の長さは地質時代における誤差範囲よりはるかに小さく、有史時代(現在を含む)は新生代/第四紀/完新世/メーガーラヤンに含まれる。各地質時代区分の開始年代(基底年代)は何百万年前(Mya)と表現されるが、その基点は西暦2000年と定義されている。 地質時代は、比較的情報量が多く研究が進んでいる直近の「顕生代」(約5億年)、顕生代と比較すると生物化石に乏しくなるが微化石や生痕化石などが研究対象になる「原生代」(約20億年)、生物化石はほとんどなくなり研究対象が主に地層や岩石となる「太古代(始生代)」(約40億年)と、地球上で岩石や結晶などの直接証拠が少なく月の石や隕石などの情報から推察されている「冥王代」(約45億年)の4つの時代に区分されている。
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{{地質時代区分 概略}}
'''地質時代'''(ちしつじだい、{{Lang-en-short|Geologic time scale; Geological age}})とは、約46億年前の[[地球]]の誕生から現在までの内、直近数千年(地域によって異なる)の記録の残っている[[歴史時代|有史時代]]([[歴史]]時代)<ref>{{kotobank|歴史時代}}</ref>以前のことで地質学的な手法でしか研究できない時代の事である<ref>{{kotobank|地質時代}}</ref>。歴史の本来の意味は、[[文字]]で記録された[[人類]]に関わる過去の出来事の事であり<ref>{{kotobank|歴史}}</ref>、文字で記録されていないさらに時を遡る人類に関わる時代は[[先史時代]]と呼ばれている<ref>{{kotobank|先史時代}}</ref> 。
地質時代における各時代区分は「'''地質年代'''」とも呼ばれ、また地質年代は地質時代と同義にも扱われる<ref>{{kotobank|地質年代}}</ref>。
[[地球の年齢]]46億年超の内で、有史時代(数千年間)は約100万分の1であり、地球の年齢の99.9999%は地質時代である。前述の地質時代の定義から、地質時代は地球の年齢から有史時代を除いた部分であるが、現実には有史時代の長さは地質時代における誤差範囲よりはるかに小さく、有史時代(現在を含む)は[[新生代]]/[[第四紀]]/[[完新世]]/[[メーガーラヤン]]に含まれる。各地質時代区分の開始年代(基底年代)は何百万年前(Mya)と表現されるが、その基点は西暦2000年と定義されている。
地質時代は、比較的情報量が多く研究が進んでいる直近の<ref group=注釈>地質学のスケールで</ref>「顕生代」(約5億年)、顕生代と比較すると生物化石に乏しくなるが[[微化石]]や[[生痕化石]]などが研究対象になる「原生代」(約20億年)、生物化石はほとんどなくなり研究対象が主に地層や岩石となる「太古代(始生代)」(約40億年)と、地球上で岩石や結晶などの直接証拠が少なく月の石や隕石などの情報から推察されている「冥王代」(約45億年)の4つの時代に区分されている。
== 概要 ==
[[File:Geological-time-spiral ja.png|thumb|left|地質学時標図<ref group="注釈">[[アメリカ地質調査所]](USGS)作成のこの図は一般向け広報資料で、地質時代区分と基底年代は最新の情報ではない。更新依頼がUSGSに出されてはいる。[[:en:Talk:Geologic time scale#Spiral graphic |英版のノート]]より。</ref>]]
138億年前の宇宙誕生([[ビッグバン]])から3分の2経過した今から46億年前に[[太陽系]]に地球が誕生した。この数十億年に渡る地球の過去を考察する場合、地球誕生から、[[月]]の形成、[[海洋]]誕生、大陸の形成分裂、[[造山運動]]・[[火山活動]]、巨大隕石の衝突、気候変動などの天文学的・地学的な絶対年代区分とは異なった、時代を発掘された化石や地層等から相対的に区分する手法が用いられており、これを地質時代と呼ぶ。この地質時代区分は地球史絶対年代とは異なるが、絶対年代上の重要事象の結果として多くの[[生物相]]の変化が起きたわけであり、地質時代と絶対年代に定義の差はあるが、相関性はある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lbm.go.jp/satoguti/geology/geoseminor4th.html |title=地質時代区分と絶対年代 |publisher=滋賀県立琵琶湖博物館 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130120062509/http://www.lbm.go.jp/satoguti/geology/geoseminor4th.html |archivedate=2013-01-20 |deadlinkdate=2018-03-15}}<!-- 2012年4月7日閲覧だったようなので、2012年4月7日以降で最古のアーカイブを追加しました。 --></ref>。
地球の過去は岩石や地層の中に封じ込められており、幾重にも亘る地層には、本の頁のように、地球の過去の事件やその時代の[[生物]]などが記録されている。これらの地層は、含まれる岩石や化石の[[放射年代測定]]により年齢を推定することが出来る。こうして地層の頁を紐解き、岩石という原子時計を測り、含まれる化石を見出すことにより地球の過去を知ることが可能となる。
[[File:Phanerozoic Biodiversity ja.svg|thumb|300px|顕生代の生物多様化と大量絶滅]]
{{Main|古生物学|層序学}}
地質時代の区分は発見される化石によるため、各時代はそれら生物の時代とも言え、その絶滅が時代を区分している。言い換えれば地質時代は生物の繁栄と絶滅の記録である<ref>鹿児島県地学会
[http://kagosimatigakukai.web.fc2.com/4_knowl/2_hysto/hy_index.html 「地質時代」] 閲覧2012-4-7</ref>。
一部の例外を除き各紀の境界では[[大量絶滅]]が発生している。右図参照。
== 地質時代研究の歴史 ==
詳細は[[地質学の歴史]]および{{仮リンク|古生物学の歴史|en|history of paleontology}}を参照。
[[古代]]から[[中世]]にかけて現生生物とはかけ離れた化石の発見から古生物の存在や、貝の化石が海から離れた場所で見つかることから現在の陸地が昔は海であった可能性などの推察があった。一方で、化石は生物起源ではない変わった形の岩石であり、『[[創造論]]』に基づいた時代認識が[[近世]]まで続いていた。近世に入り[[ルネサンス]]を経て[[自然科学]]の発展が始まり[[近代]]につながる[[地球科学]]の各分野が誕生した。
; 16世紀
* 1548年、「[[鉱物学]]の父」と呼ばれるドイツの[[ゲオルク・アグリコラ]]が『化石の本性について』を出版し、化石は生物に類似した形になった鉱物ではなく、生物起源であると発表した。
* 1555年、スイスの[[博物学]]者[[コンラート・ゲスナー]]が化石を図入りで記載した『化石の全種類について』を出版した。
; 17世紀
* 1669年、デンマーク人の[[ニコラウス・ステノ]]がイタリアの[[トスカーナ]]地方の化石や地層について記述した地質学の先駆的な著書である『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を出版、[[地層累重の法則]]を提唱し、[[層序学]]の基礎を作る。
: 17世紀から18世紀にかけて化石が[[大洪水]]([[天変地異説]])による過去の生物の遺骸であるとの認識が広まる<ref name=NyankoSensei>Dino Club [http://www.dino.or.jp/shiba/geohist/geohist04.html 「自然の認識と産業革命」] </ref>。
; 18世紀
* 1709年、スイスの[[ヨハン・ヤーコブ・ショイヒツァー]]が植物化石をまとめた『洪水植物誌』を出版した。
* 1735年、「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]が『自然の体系』を出版、[[分類学]]の基礎を作る。
* 1759年、[[イタリア]]の[[地質学者]]{{仮リンク|ジョヴァンニ・アルドゥイノ|en|Giovanni Arduino (geologist)}}が、イタリアの南アルプスの地層の分析から地質時代を第一紀(化石の出ない時代)、第二紀(化石が出るが現生生物とは遙かに異なる)、[[第三紀]](現生生物に近い生物の化石が出る時代)に分類した。後に第四紀が追加されるが、その後の研究の進展から第一・第二紀は使われなくなり、第三紀は古第三紀と新第三紀に分割され、第三紀は使われなくなった。
: 18世紀後半になると[[産業革命]]に伴う鉱山開発から岩石や化石に関する関心も高まり、地質学や[[古生物学]]の基礎が形作られる<ref name=NyankoSensei/>。
* ドイツの地質学者[[アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー]]が[[鉱物分類法]]・[[構造地質学]]の基礎を築く。[[水成論]](水成岩起源説)を提唱した。
* 1795年、イギリスの[[ジェイムズ・ハットン]]が『地球の理論(Theory of the Earth)』を出版、[[斉一説]]および[[火成論]]を提唱、地殻運動の証拠となる「[[不整合 (地質学)|不整合]]」を発見。
; 19世紀
* 1809年、フランスの博物学者[[ジャン=バティスト・ラマルク]]が『動物哲学』を出版し、[[軟体動物]]化石の研究から[[進化論]]を提唱した。
* 「英国地質学の父」、「[[層位学]]の父」と呼ばれる[[ウィリアム・スミス (地質学者)|ウィリアム・スミス]]が[[地層累重の法則]]と[[示準化石]]による年代決定法([[地層同定の法則]])を編み出し、イギリスの地質図(1815年)を作った。
* 1831年、フランスの博物学者[[ジョルジュ・キュヴィエ]]が『骨化石の研究』を出版した。[[比較解剖学]]の創始者。
* 1859年、[[チャールズ・ダーウィン]]が『[[種の起源]]』を発表し進化論を提唱する。
; 20世紀
* 1912年、ドイツの[[気象学者]][[アルフレート・ヴェーゲナー]]が[[大陸移動説]]を提唱した。
* 1922年、ソ連の化学者[[アレクサンドル・オパーリン]]が[[化学進化説]]を提唱した。
* 1929年、[[松山基範]]が、東アジア各地の岩石の[[残留磁気]]の測定結果から[[地磁気|地球磁場]]の[[地磁気逆転|反転説]]を提唱した<ref group="注釈">発表当時は残留磁場の異常は落雷によるものと見なされており、松山の発表は全く注目されなかった。松山の没後、海洋底の磁場測定結果から地磁気逆転が頻発していたことが判明し、[[海嶺#海洋底拡大|海洋底拡大]] - [[大陸移動説]] - [[プレートテクトニクス]]へと繋がる。松山が発見した磁気逆転期は[[松山‐ブリュンヌ逆転]]と名付けられた。</ref>。
: 1940年代に[[質量分析法|質量分析器]]が開発され、50年代に[[放射性炭素年代測定]]が始まる。
* 1960年代代後半に[[プレートテクトニクス]]が確立。
* 1975年、米国の{{仮リンク|ウィリアム・ハートマン|en|William Kenneth Hartmann}}と{{仮リンク|ドナルド・R・デイヴィス|en|Donald R. Davis (astronomer)}}が月の生成に関する[[ジャイアント・インパクト説]]を再提唱。
* 1980年、恐竜絶滅の[[KT境界|隕石衝突説]]が提唱され、1991年に衝突跡が[[チクシュルーブ・クレーター]]と特定された。
* 1992年、[[雪玉地球]]仮説が提唱された。
; 21世紀
* [[縞状鉄鉱床]]の研究や[[炭素]]・[[硫黄]]などの[[同位体]]の分析から提唱されている{{仮リンク|質量非依存同位体分別効果|en|Mass-independent fractionation}}<ref>{{Cite journal|和書
|author = 掛川武
|date = 2003
|title = 太古代海洋における硫酸還元菌の活動と生息環境
|journal = 地学雑誌
|volume = 112
|issue = 2
|pages = 218-225
|url = http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf112-2/p218-225.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2012-10-18
}}</ref>に関連し{{仮リンク |大酸化イベント|en|Great Oxygenation Event}}と呼ばれる[[遊離酸素]]濃度の急激な上昇が研究されている。
== 定義 ==
区分の仕方は大きくは古い方から[[冥王代]]、[[太古代]]、[[原生代]]、[[顕生代]]の4つの[[累代]]、さらに細かく[[代 (地質学) | 代]]、[[紀]]、[[世]]、[[期]]と分類されている。これらの区分は化石帯区分と呼ばれ、地層や化石の研究から導きだされたものである。これらの時代区分は動物化石を基に分類されているので、植物相の変異とはズレがある。また第四紀に関しては[[ヒト属]]の時代という区分である。
{{地質時代の単位}}
地球年代学({{Lang-en-short | Geochronology}}、[[地質年代学]]とも)で定義する累代、代、紀、世、期に相応する地層を[[層序学]]({{Lang-en-short | stratigraphy}})および地質年代層序学({{Lang-en-short | chronostratigraphy}})では累界、界、系、統、階と呼ぶ。また地球年代学で言う前期、中期、後期に対しては下部、中部、上部となる。右の表を参照。
時代区分の定義、名称や基底年代等に関しては絶えず見直されており、また合意に至っていないものも多々ある。これらは[[国際地質科学連合]](IUGS)、{{仮リンク|国際第四紀学連合|en|International Union for Quaternary Research}}(INQUA)、[[国際層序委員会]](ICS)等で検討され、4年ごとに開催される[[万国地質学会議]]({{Lang-en-short | International Geological Congress}})で批准されてきている。
時代区分は化石すなわち過去の生物相に拠るものであり地域毎に特性がある。よって細かい時代区分では各大陸での様相は均一ではなく、異なった区分が提唱されることもあり、それらをすり合わせる事が国際層序委員会の主な活動の一つである。
当記事では公式・暫定を含め国際地質科学連合(IUGS)および国際層序委員会(ICS)の資料に基づき記述する。
=== 年代の定義 ===
{{main|国際標準模式層断面及び地点}}
時代区分の開始年代(基底年代)は、主にその区分に属する岩石や化石の放射年代測定によって統計誤差を伴った年代数値が割り出されているが、新生代の新第三紀以降の年代数値は、放射年代測定の結果と良く適合し、[[気候変動]]を説明出来る日射量の変動サイクル([[ミランコビッチサイクル]])による[[絶対年代]]である天文年代で定義されている。また地層・岩石や化石試料の乏しい原生代以前に関しては、端数の無い大まかな天文年代で定義されている<ref name="JGS_nendai">兼岡一郎 (2011) [http://www.geosociety.jp/faq/content0322.html 「地質年代表における年代数値」]日本地質学会、閲覧2012-5-31</ref>。
== 地球環境の変遷 ==
[[File:Pangaea to present.gif|thumb|left|300px|顕生代後半の大陸の推移 左上より<br>ペルム紀末頃(2.25億年前) - 三畳紀末頃(2億年前) - ジュラ紀末頃(1.5億年前) - 白亜紀末頃(6500万年前) - 現在]]
地球誕生以来、多くの重大事象が起き、初期の地球環境はかなり極端であったと予想されている。45.5億年前の[[月]]が出来る原因となったと思われる[[ジャイアント・インパクト説|天体との衝突]]があり、地球の[[自転]]速度は月誕生直後では一日が5-8時間で、月は地球から1.5-2万キロ(現在は38万キロ)と近くにあり<ref>知泉Wiki [http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%C3%CF%B5%E5 「だんだんと遅くなる地球」] 閲覧2012-10-26、仮リンク-参考情報</ref><ref name=kokuritutenmondai_F319>国立天文台 [http://moonstation.jp/ja/qanda/F319 「Q&A 昔の月は近かった」] 閲覧2012-10-26、仮リンク-参考情報</ref>、非常に大きな[[潮汐力]]であった。その後徐々に1日が長くなると同時に、月が離れていった<ref>国立天文台 [http://moonstation.jp/ja/qanda/F320 「Q&A 月がなぜ離れていく」] </ref>。(8.5億年前頃(新原生代)には一日は20.1時間で一年は435日であった<ref>葛生化石館 [http://wiki.livedoor.jp/kasakiborantia/d/%BA%C7%B8%C5%A4%CE%B2%BD%C0%D0%A1%A1%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A5%DE%A5%C8%A5%E9%A5%A4%A5%C8 「最古の化石 ストロマトライト」] 閲覧2012-10-26</ref>。)
41億年前から38億年前の間には[[後期重爆撃期]]と呼ばれる多くの[[天体衝突]]があり、初期の地球環境は何度も破壊された。以降も直径10㎞を超える[[小惑星]]を含めた[[隕石]]の[[クレーター#地球|衝突]]があり環境を激変させた。
地球誕生直後は[[マグマ]]で覆われていたが、比較的早期に冷えて固まり42億年前には既に海洋が形成されていた事が、発見された岩石情報から推定されている<ref>大阪市立自然史博物館 [http://www.mus-nh.city.osaka.jp/tokuten/2011kaseki/virtual/history/precambrian01.html 「地球と生命の誕生」] </ref>。40億年前(太古代の初め)には[[地温勾配]]は現在の3倍程で、25億年前には2倍程になり<ref>Stanley, Steven M. (1999). Earth System History. New York: W.H. Freeman and Company. pp. 297–301. ISBN 0-7167-2882-6</ref>、地球が冷え地殻が形成され、[[マントル]]の対流により[[超大陸]]の形成分裂が繰り返され、火山活動・造山活動もそれに伴い引き起こされた。25億年前にはそれまでの海底での[[火成活動]]から、大規模な陸上での火山活動が起きた。
[[太陽]]の明るさは40億年前には現在の70-75%と冷たい太陽であったが<ref>[[ネイチャー]] Nature Japan [http://www.natureasia.com/japan/nature/updates/index.php?i=77349 「気候: 冷たい太陽」]閲覧2012-6-21</ref>、温室効果ガスによると考えられ気温は現在とほぼ同じであった<ref>Nature Japan [http://www.natureasia.com/japan/nature/updates/index.php?i=10197 「始生代初期の微生物によるメタン生成に対する流体包有物からの証拠」]閲覧2012-6-21</ref>。[[地磁気]]は32億年前には現在の50%ぐらいで初期の地球大気を[[太陽風]]から守っていた<ref>Nature Asia [http://www.natureasia.com/japan/microbiology/highlights/article.php?i=55494 「ケイ酸塩単結晶に記録された32億年前の地球磁場強度」]閲覧2012-6-21</ref>。地磁気の逆転は何度も起きている。幾度もの[[氷河時代]]が訪れており特に強い氷河時代には赤道付近まで凍結する[[雪玉地球]]の状態であったと推定されている。これらの[[気候変動]]により数百メートルの幅で[[海水準変動]]が起きた。
[[File:Oxygenation-atm ja.svg|thumb|300px|酸素濃度の推移。<br>地質時代のほぼ中間で大酸化イベントと呼ばれる大量の酸素放出が起き、それまでの還元環境から酸化環境となり、好気性生物の出現、その後の生物の陸上進出を可能にした。]]
また地学的事象との複合作用であるが、生物起源の地球環境の変化も起きており、その最たるものが24.5-18.5億年前の大酸化イベントと呼ばれる遊離酸素の大量供給である。推定では現在の大気中の酸素の約10倍の酸素がこの期間に供給され<ref name="CPS">[[惑星科学研究センター]]{{PDFlink|[https://www.cps-jp.org/~mosir/pub/2011/2011-07-12/01_tajika/lecture03/pub-web/20110713_tajika_03.pdf 「大気の進化と酸素」]}} 閲覧2012-6-21</ref>(数倍から20倍とも<ref>東京大学大学院・新領域創成科学研究科・杉田研究室[https://www.astrobio.k.u-tokyo.ac.jp/contents/reserch/23.html 「全球凍結(スノーボールアース)と酸素大気の形成」]閲覧2012-6-21</ref>)、様々な酸化物を生成すると同時に大気中の酸素濃度がゼロから現在の10%<ref name="Heinrich">Heinrich D Holland[[王立協会]] {{PDFlink|[http://rstb.royalsocietypublishing.org/content/361/1470/903.full.pdf ''The oxygenation of the atmosphere and oceans'']}} 閲覧2012-6-21</ref>(1%とも<ref>東京大学大学院新領域創成科学研究科[http://www.k.u-tokyo.ac.jp/news/20111011press.html 「酸素は地球にいつどのように登場したのか -酸素大気形成のタイミングとメカニズムを解明-」]閲覧2012-6-21</ref>)以上になった。8-3億年前にも大気中酸素濃度の急上昇が起きており石炭紀末には最大で現在の1.7倍になったと考えられている<ref name="Heinrich"/>。
約4億8830万 - 4億4000万年前頃にオゾン層が形成され生物の陸上進出が可能となる。
== 生物界の変遷 ==
[[File:Tree of life ja.svg|thumb|300px|生物の[[系統樹]]<br>冥王代には原始生命体が出現した。太古代に現生生物の共通祖先が出現した。共通祖先から3ドメインである真性細菌、古細菌、真核生物へと分岐した。]]
生物相はその生育環境である前述の地球環境に大きく依存している。地球誕生数億年後の[[冥王代]]末期に[[有機化合物]](生命前駆物質)の[[生命の起源#化学進化説|化学進化]]により[[原始生命体]]誕生。[[太古代]]に地球生物の[[共通祖先]]から[[真性細菌]]と[[古細菌]]へ分岐、そして[[原核生物]]が誕生した。地質時代の前半分は遊離酸素の無い還元環境における嫌気性生物の時代であった。その後起きた大酸化イベントでは多くの嫌気性生物は絶滅し、酸化環境下での好気性生物の時代となった。
[[原生代]]には初期の大酸化イベントを境に[[真核生物]]の時代となり[[有性生殖]]が始まり、[[多細胞生物]]が誕生した。[[古生代]]の初期には[[カンブリア爆発]]で海洋生物で堅い外骨格をまとった無脊椎動物が出現した。動物界では、[[カンブリア紀]]と[[オルドビス紀]]の[[無脊椎動物]]時代、[[シルル紀]]には昆虫の陸上進出があり、[[デボン紀]]の[[脊椎動物]]である魚類時代、[[石炭紀]]と[[ペルム紀]]の[[両生類]]時代、[[中生代]]の[[三畳紀]]、[[ジュラ紀]]、[[白亜紀]]の[[爬虫類]]時代、[[新生代]]の[[哺乳類]]時代に区分されている。一方植物界では古生代のカンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀の[[藻類]]・[[菌類]]時代(シルル紀に植物が陸上侵出した)、デボン紀、石炭紀、ペルム紀中頃までの[[シダ植物]]時代、ペルム紀中頃からジュラ紀、白亜紀中頃までの[[裸子植物]]時代、以降現在までが[[被子植物]]時代と区分されている<ref>岩手県立総合教育センター [http://www1.iwate-ed.jp/tantou/kagaku/esdb/tishitujidai.html 「地質時代」] 閲覧2012-4-7</ref>。
{{main|生命の起源|進化}}
== 地質時代の区分 ==
時代区分の詳細は {{see|地質時代区分表 (詳細)}}
国際層序委員会による地質系統・地質年代表 (International Stratigraphic Chart) 2015年1月版(以降 ICS2015 と略)<ref>国際層序委員会 (ICS) {{PDFlink|[http://www.stratigraphy.org/ICSchart/ChronostratChart2015-01.pdf ''International Stratigraphic Chart'']}} 閲覧2015-05-25</ref>に準拠して、地質時代の区分を概説する。時代区分名に関してはICS2018/07に基づく<ref>日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor//name/ChronostratChart_jp.pdf 「International Chronostratigraphic Chart (国際年代層序表) v2018/07」] </ref>。
すべての階層の基底年代について、[[GSSP]]によって定義する作業が継続されている。2013年1月にICSが発行したISC2013では基底年代が大幅に書き換わり、2015年、2016年と改訂が続いている。また、おおよその数値を意味する波線(~)は継続して使用されている。その後も改訂作業は続いており、ICSからは随時改訂版が発表されている状況である。[[地質時代区分表 (詳細)]]も同様にISC2013年版の内容に準拠した上で、その後の改訂の内容を反映させるべく記事の更新作業が続いている。なお、地質時代区分の日本語名称に関しては、詳細表も含め、2015年4月に改訂された日本地質学会のガイドライン<ref name="GSJ0062">日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/name/content0062.html 「地質系統・年代の日本語記述ガイドライン 2015年4月改訂版」] 閲覧2015-10-29</ref>による{{refnest|group=注釈|地質年代の日本語名称については、JIS A 0204:2012「地質図-記号,色,模様,用語及び凡例表示」により、表記法が定められている<ref>{{Cite jis|A|0204|2012|name=地質図-記号,色,模様,用語及び凡例表示}}</ref><ref>日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/name/content0126.html 「JISに定められた地質年代の日本語表記」]閲覧2014-12-30</ref>。それによると、地質時代の名称は、同規格の表7に示された名称を用いるが、表7に示されていない世及び期については、対応する英文名の読みをそのままカタカナで書き下ろし、その後ろに時代の単位を添えて表示する、としている。}}
{{色}}
時代区分の配色は国際地質科学連合公認の[[世界地質図委員会]]発行の''Geologic Time Scale 2008'' で用いられている色<ref>世界地質図委員会 (CGMW) [http://ccgm.free.fr/icones/Charte%20strat08_verso.jpg ''Geologic Time Scale 2008''] 閲覧2012-5-27</ref>{{dead link|date=2018年10月}}<ref>[[パデュー大学]] Engineering [https://engineering.purdue.edu/Stratigraphy/charts/rgb.html Standard Color Codes for the Geological Time Scale] </ref><ref>{{Cite journal|和書
|author = 鹿野和彦|author2 = 星住英夫|author3 = 巖谷敏光|author4 = 酒井彰|author5 = 山元孝広|author6 = 牧本博
|author7 = 久保和也|author8 = 柳沢幸夫|author9 = 奥村公男
|title = 地質図に用いる用語,記号,模様,色及び凡例の表示に関する基準とその解説
|journal = 地質調査所月報
|volume = 51
|issue = 12
|pages = 657-678
|url = http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_51/51-12_04.pdf
|format = PDF
|year = 2000
|publisher = [[地質調査総合センター]]
|accessdate = 2012-6-3
}}</ref>に拠った<ref group="注釈">英語の記事では公式の色では読みづらいからと少数の議論参加者の多数決の結果独自の色の使用が始まっている。日本語版では整合性を保つため、公式の色を採用する。よって英語版の地質時代関連の記事の邦訳掲載に際しては、色使用がある場合は日本語版で使用のものと同一か確認が必要である。なお英語版による色記述がRGBコードやウェッブカラーの直書きでは無く[[Template:Period_color]]によるものであれば、色コードを日本語版のマスターデータから引いてくるので統一性は保たれる。</ref>。
またこの節の表では、開始年代の値について誤差は記入せず中央値のみを記載している。
{{地質時代区分表 (概略)}}
== 地質時代のタイムスケール ==
[[地学]]では、ヒューマンスケール(人間的尺度)とは大きく異なった地質時代の長さ(時間)を直感的に理解するために、地質時代を1年や1日の帯グラフ(左図)やパイチャート(右図)に割り当てて表示する手法がしばしば採用される。
<gallery caption="地質時代のタイムスケール" widths="240px" heights="240px" perrow="2">
File:Earth Calendar.jpg|帯グラフの割合はICSのv2013/01による。
File:地球時計.svg|パイの割合は古い時代区分によるもので、最新の左図の割合とは異なる。詳細は図の解説を参照。
</gallery>
以下に、46億年を1年に見立てた帯グラフ(左図)を解説する。46億年を365日で割ると、1日は1260万年、1時間は52万5千年、1分は8752年、1秒は146年に相当する。人生70年は0.5秒弱である。対して宇宙の年齢は3年に相当する。
[[File:Earth Calendar 1.jpg|500px| right|Earth Calendar 1]]
; 先カンブリア時代(322日)
元日に地球が誕生し、1月5日に月が分離。2月17日にかけて、原始海で化学反応により生命の素が出現する。以降6月初旬にかけて細菌や古細菌が誕生し、藍藻が出現。6月から11月中旬にかけては、藍藻が繁栄して酸素濃度が急上昇し、同時に大陸が形成される。11月19日以降が顕生代で、質と量においてある程度の化石情報があり、いわゆる“見える”時代である。
{{-}}
[[File:Earth Calendar 2.jpg|400px| right|Earth Calendar 2]]
; 顕生代(約43日)
生物多様化(カンブリア爆発)が起こり、11月26日には生物が陸上へ進出。12月15日から26日にかけて恐竜の時代、続いて哺乳類の時代。
{{-}}
[[File:Earth Calendar 3.jpg|320px| right|Earth Calendar 3]]
; 新生代(約5日)
:鳥類・哺乳類が繁栄する。12月27日ごろから[[霊長類]]([[サル目]])の[[人類の進化|適応分散(進化)]]が始まる。29日ごろ[[ヒト上科]]と[[オナガザル上科]]に分岐、31日の午前6時ごろ[[ヒト族]]と[[ゴリラ族]]へ分岐、正午ごろ[[ヒト亜族]]と[[チンパンジー亜族]]に分岐。
{{-}}
[[File:Earth Calendar 4.jpg|256px| right|Earth Calendar 4]]
; 第四紀(約5時間)
:: 大晦日の夜7時に[[ヒト属]](Homoと呼ばれる人類の祖先)が現れ[[原人]]-[[旧人]]-[[新人]]と適応分散した。20時半ごろにジャワ原人、23時42分ごろ[[ミトコンドリア・イブ]]、午前零時3分前に[[ネアンデルタール人]]が絶滅。ギザのピラミッドが作られたのが23時59分30秒ごろで、西暦2000年は最後の13.7秒に相当する。
{{-}}
== 地質時代区分の改定履歴 ==
<!-- 地質学会公式の改定に基づく記事の変更に関しては、読者の混乱を解消し理解の助けになるように、最新の情報で上書き更新するだけではなく、ここに改定履歴を明記してください。また、過去の地質時代の関連記事の更新履歴が[[プロジェクト‐ノート:地球科学#地質系統・年代の日本語名]]にあるので参照。-->
近世に鉱物資源探査に伴い地質学が発展し、同時に新旧の地層を研究する層序学の研究が進んできた。これらの研究は継続されており、地層区分や開始年代の見直しも随時行われている。18世紀には化石の出る地層(顕生代)と出ない地層(先カンブリア時代)、そして化石の出ない無生物の地層を「第一紀」、現生生物とは異なった化石の「第二紀」、現生生物とほぼ同じ生物化石の出る地層「第三紀」と大きく区分されていたが、その後の調査研究の進捗に伴い細かく区分され再定義され続けている。付け加えて国際定義の日本語化に関しては定義の変遷も見られる。Wikipedia内の多岐にわたる地質時代関連記事の更新も随時行われているが、新旧の記述が混在しているのが現状である<ref group="注釈">例えば「第三紀」の再定義による呼称の廃止は20世紀末期から議論され、2008年頃に正式に公式用語から除外されたが、10年後の2018年でも「第三紀(Tertiary)」の表記は主に図表を中心に残っている。また2018年7月にはArcheanの和名をArcheozoic由来の「始世代」から「太古代」に改訂されたが、教科書・専門書などを含めた書籍情報の更新には時間を要する。図表などへテキストが画像として書き込まれている場合は「検索・置換」では処理出来ないため、それらの図表の作り直しが必要となる。</ref>。
; 新生代の定義に関する議論
{{main|新生代#第四紀の区分定義決定までの議論}}
; 第三紀は非公式
1989年に[[国際地質科学連合]](IUGS)は[[新生代]]を{{lang|en|Paleogene}}([[古第三紀]]), {{lang|en|Neogene}}([[新第三紀]]), {{lang|en|Quaternary}}(第四紀)の3つの紀からなるものとし、{{lang|en|Tertiary}}(第三紀)の語を正式な用語から外した<ref name="OMN2011">{{Cite web|和書|url=http://www.mus-nh.city.osaka.jp/tokuten/2011kaseki/virtual/history/mesozoic04.html|title=化石のこばなし 生物の大量絶滅—P/T境界とK/Pg境界|work= 第42回特別展大化石展|date=2011|publisher=[[大阪市立自然史博物館]]|accessdate=2017-5-24}}</ref>。2008年には、第三紀が正式に非公式用語となった<ref>kotobank - 小学館・日本大百科全書(ニッポニカ) [https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%B4%80-91165#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「第三紀」] </ref>。
; 第四紀の開始年代
2010年には、人類の時代と定義されている第四紀は、それ以前の時代区分であった新第三紀・鮮新世・ジェラシアン(ジェーラ期)が組み込まれ開始年代が180万年前から約260万年前へと大幅に遡った<ref>日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/name/content0057.html 「第四紀下限変更に伴う諸問題検討に関する報告」] </ref>。
; 開始年代の改定
2014年から2016年にかけては年代値の多くに修正がなされてきている<ref name=KaiRireki>日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/name/content0163.html 「地質系統・年代の日本語記述ガイドライン_改訂履歴」] </ref>。
; 完新世の細分化と太古代を公認
2018年7月には第四紀・完新世の細分化やカンブリア紀の統/世で番号で呼ばれていたものの一部が命名された。また「Archean」の時代区分を、未使用となっている「Archeozoic」由来の「始生代」としていたが「 太古代」へ変更し「太古代(始生代)」と表記することに決定されている<ref name=KaiRireki/>。
; 複雑な日本語表記<ref>日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/name/content0126.html JISに定められた地質年代の日本語表記] </ref>
この他新生代の古第三紀および新第三紀の名称の変更や、同じく新生代の各期の名称についても議論が継続されている。
JISにおける地質年代の日本語表記の基本方針、引用<ref name=JAHyoki>日本地質学会 [http://www.geosociety.jp/name/content0126.html 「JISに定められた地質年代の日本語表記」] </ref>
JISに定める地質年代の日本語表記の基本方針は、International Chronostratigraphic Chartにある地質年代単元名の英語読み(英語での一般的な発音)をそのままカタカナ表記にし,末尾に年代単元あるいは層序単元を示す世/統,期/階を添える。たとえばBashkirianの場合,年代を示す場合はバシキーリアン期,対応する層序単元を示す場合はバシキーリアン階となる。
また各紀・世・期の名称の邦訳も地名の名詞化/形容詞化?~~アンとし、それに時代区分を付記する方針になったが、慣例から旧称(地名+紀)のまま残されているものもある。カンブリア紀、ペルム紀、ジュラ紀などは、方針に従えばカンブリアン紀、ペルミアン紀、ジュラシック紀等となるべきものである。
ウィキペディア日本語版における単語使用記事数を検索すると(2018年10月)エディアカラン 23件、エディアカラ 82件となっている。
また地名の中には中国の地名がいくつかあるが、日本地質学会の日本語表記の基本方針はInternational Chronostratigraphic Chartにある地質年代の英語綴りの発音<ref group="注釈">現地語と英語で綴りや発音が異なっていても英語の発音をとる。</ref>をカタカナ表記する事になっているので漢字で表記されることはない。
改定の詳細については日本地質学会の「地質系統・年代の日本語記述ガイドライン_改訂履歴」<ref name=KaiRireki/>を参照。
=== 国際年代層序表の改訂履歴 ===
公式の国際年代層序表(略称: ICSチャート)は、国際層序委員会から発行される。日本地質学会ではそれを基に時代区分名・注意書きなどを和訳し発表している。日本地質学会による和訳発表には時間を要しており、国際層序委員会による最新バージョンとは異なっている場合もある。以下に国際層序委員会に情報を記する。
国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy、略称: ICS )では、2008年以降の各チャートおよび2012年以降の改訂履歴をまとめている。
; これまでの国際年代層序表<ref>International Commission on Stratigraphy 国際層序委員会 [http://www.stratigraphy.org/index.php/ics-chart-timescale Chart] </ref>
掲載バージョン<ref group=注釈>後述の13年以降の改訂履歴に記録のあるバージョンの中には記載されていないバージョンもある。</ref>: 2008, 2009, 2010, 2012, 2013/01, 2014/02, 2014/10, 2015/01, 2016/04, 2016/10, 2017/02, 2018/07. 2018年10月時点では国際層序委員会による最新バージョンは2018/08であるが日本地質学会の最新の和訳チャートは 2018/07で最新の変更が反映されていない。
; 国際層序委員会による「ICS chart 2012 August」以降の改訂履歴のまとめ<ref>International Commission on Stratigraphy [http://www.stratigraphy.org/ICSchart/ChangeLog2012-2013-2014-2015-2016-2017-2018.txt Change Log] </ref>
以下の変更件数は2018年10月17日時点で。ICSチャートは2012年以降年1-3回発行されている(年平均2回発行)。発行履歴は以下:
** version 2012: 2012年8月のブリスベンで開催された第34回万国地質学会議(IGC)にて配布。
** ICS chart v.2013/01
** ICS chart v.2013/Episodes
** ICS chart v.2014/02
** ICS chart v.2014/10
** ICS chart v.2015/01
** ICS chart v.2016/04: 第35回万国地質学会議(ケープタウン)にて配布。
** ICS chart v.2016/10
** ICS chart v.2016/12
** ICS chart v.2017/02
** ICS chart v.2018/07: 日本地質学会の和訳の最新の版(2018年10月17日時点)
** ICS chart v.2018/08
* 追加GSSP(Global Boundary Stratotype Section and Point, 国際標準模式層断面及び地点): 11件
* GSSA(Global Standard Stratigraphic Age, 国際標準層序年代)変更および削除: 2件
* 基底年代の変更: 26件
* その他のチャートの記述変更履歴
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|editor=国立天文台|editor-link=国立天文台
|title = [[理科年表]] 平成20年
|url = http://www.rikanenpyo.jp/
|year = 2007
|publisher = [[丸善]]
|isbn = 978-4-621-07902-7
|pages =
}}
* {{Cite book|和書|author= J. G. オッグ|coauthors= G. M. オッグ・F. M. グラッドシュタイン|translator= 鈴木寿志|title= 要説 地質時代|origyear= 2008|year= 2012|publisher= 京都大学学術出版会|isbn=978-4-87698-599-9}}:J.G. Ogg; Gabi Ogg, F.M. Gradstein (2008) の訳書。
== 関連項目 ==
* [[地球史年表]]
* [[先史時代]] - [[紀元前11千年紀以前]]
* [[累代]] - [[代 (地質学)|代]](界) - [[紀]](系) - [[世]](統) - [[期]](階)
* [[太陽系の形成と進化]] - [[地球#歴史]] - [[月の地質年代尺度]]
* [[プレートテクトニクス]] - [[プルームテクトニクス]]
* {{仮リンク|大酸化イベント|en|Great Oxygenation Event}}
* [[海洋無酸素事変]]
* [[気候変動]]
** [[地球寒冷化]] - [[氷河時代]]
** [[地球温暖化]]
** [[海水準変動]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Geologic time scale}}
* {{Cite web|和書
|author = 仲田崇志
|date = 2009-10-29
|url = http://www2.tba.t-com.ne.jp/nakada/takashi/strat-chart/strat-chart.html
|title = 地質年代表
|work = きまぐれ生物学
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人海戦術
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人海戦術(じんかいせんじゅつ)とは、兵数の優位に物を言わせて目的を達成する戦術思想をさす。類似した軍事思想に飽和攻撃がある。
戦争における一般的な人海戦術のイメージは、端的にいえば「こちらが10万発の弾丸を持っているのに対して、あちらは10万人を上回る無防備かつ密集した兵を突撃させてきた。だから押し切られて負けた」という考えである。
この一見原始的な戦術は、朝鮮戦争における中国人民志願軍(事実上の中国人民解放軍)が運用して有名になった。
また百団大戦の各所でみられたように、堅固な陣地に対してひたすら海のように、兵隊が押し寄せる状態のことを人海戦術と捉える向きもある。
極僅かな機関銃陣地が、多数の歩兵の正面からの突撃を撃退できることは、第一次世界大戦で明らかになった。(極端な例だと、わずか二つの機関銃陣地が5000人の歩兵の突撃を押し返している)。以後、上記の「一般的な人海戦術の理解」で描かれた戦術が成功した例はなく、撃破された例は多数ある。かわって、この大戦で編み出された歩兵浸透戦術が、以後の歩兵攻撃の常道になった。
1950年11月に朝鮮戦争に参加した中国の抗美援朝義勇軍は、朝鮮人民軍を追撃して北上する国連軍(アメリカ軍主体)に対し、軽装備の歩兵を山岳丘陵地帯から迂回させる戦術を大規模に適用した。夜間行軍を伴う山岳機動を大規模に実施して成功したのは、第2次大戦後、中国大陸で武装解除した日本軍将校を招聘(しょうへい)して中国人民解放軍を訓練したことにも因っている。各所で側面や後方を脅かされたアメリカ軍は、自分たちが踏み込めない山野が中国兵で埋め尽くされていると感じ、敗走に移った。数日分の食糧を携えて山野を越える中国軍の機動は、道路輸送に完全に依存していた国連軍にとって予想外であり、戦略的奇襲となり、これは「人海戦術」としてアメリカで知られるようになった。
追撃が一段落してから、1951年2月に中国軍は再び攻勢に出て、初期の浸透には成功した。しかし、取り残された防御陣地を潰す際に、結局は歩兵による正面突撃、すなわち一般的な理解での「人海戦術」を採ることになり、機関銃等の重火器を備えていた国連軍の前に甚大な損害を蒙って(こうむって)失敗した。中でもM2重機関銃を4基搭載したアメリカのM16対空自走砲は掃討において大いに威力を発揮した事から「ミートチョッパー(挽肉製造器)」の異名で呼ばれた。
中国軍の伝統的なドクトリンは、国土防衛に重点を置いており、兵力の優位はまず自国の防衛を利するものとしている。近年の軍備近代化は攻撃能力向上を目指しているが、それはもっぱら質の向上に基づくものである。
中国国民党は、中国共産党軍が平民を人間の盾として、国民党軍陣地につき出しているとして「人海戦術」と呼んだ。そもそも漢字での「人海戦術」という一連の用語は、毛沢東の造語であるとの説もある。毛沢東が豪語したように、「人民の海に敵軍を埋葬する」ことが戦略としての人海戦術である。具体的には日本軍を点と線に封じ込め、その周囲を積極的な浸透工作によって獲得した敵性の住民の住む領域で包囲することである。こうした敵性の地域が広がれば、軍の遊撃、ゲリラ戦なども容易になり、追撃されても分散と逃亡も容易になる。このため、日中戦争は第二次国共合作以降、まさに非対称戦争の様相を呈し始めた。
そういった意味でも、「戦術」ではなく「戦略」と捉えたほうが妥当かもしれない。現在も人民戦争理論に基づき、人民公社単位で中国民兵を編制した体制を維持している。外国の攻撃があった場合、人民公社単位、村単位で民兵が抵抗し、正規軍が反撃を行うのである。
しかし、中越戦争で古典的な人海戦術は限界を見せたことにより、中国人民解放軍も近代的なドクトリンで修正するようになった。
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人海戦術(じんかいせんじゅつ)とは、兵数の優位に物を言わせて目的を達成する戦術思想をさす。類似した軍事思想に飽和攻撃がある。
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[[ファイル:French bayonet charge.jpg|サムネイル|281x281ピクセル|[[フランス軍]]の突撃 [[1913年]]]]
'''人海戦術'''(じんかいせんじゅつ)とは、兵数の優位に物を言わせて目的を達成する'''[[戦術]]'''思想をさす。類似した軍事思想に[[飽和攻撃]]がある。
== 概説 ==
[[戦争]]における一般的な人海戦術のイメージは、端的にいえば「こちらが10万発の弾丸を持っているのに対して、あちらは10万人を上回る無防備かつ密集した兵を突撃させてきた。だから押し切られて負けた」という考えである。
この一見原始的な戦術は、[[朝鮮戦争]]における[[中国人民志願軍]](事実上の[[中国人民解放軍]])が運用して有名になった<ref>Samuel Lyman Atwood Marshall. Infantry Operations & Weapons Usage in Korea. Greenhill Books. 1988: 5. ISBN 978-0-947898-88-5.(英文)</ref>。
また[[百団大戦]]の各所でみられたように、堅固な陣地に対してひたすら海のように、兵隊が押し寄せる状態のことを人海戦術と捉える向きもある。
== 歴史 ==
=== 第一次世界大戦 ===
極僅かな機関銃陣地が、多数の[[歩兵]]の正面からの突撃を撃退できることは、[[第一次世界大戦]]で明らかになった。{{要出典範囲|(極端な例だと、わずか二つの機関銃陣地が5000人の歩兵の突撃を押し返している)|date=2022年8月}}。以後、上記の「一般的な人海戦術の理解」で描かれた戦術が成功した例はなく、撃破された例は多数ある。かわって、この大戦で編み出された歩兵[[浸透戦術]]が、以後の歩兵攻撃の常道になった。
=== 中国軍の山岳浸透戦略 ===
[[1950年]][[11月]]に[[朝鮮戦争]]に参加した中国の[[抗美援朝義勇軍]]は、[[朝鮮人民軍]]を追撃して北上する[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]([[アメリカ軍]]主体)に対し、軽装備の歩兵を山岳丘陵地帯から迂回させる戦術を大規模に適用した。夜間行軍を伴う山岳機動を大規模に実施して成功したのは、第2次大戦後、中国大陸で武装解除した日本軍将校を招聘(しょうへい)して中国人民解放軍を訓練したことにも因っている。各所で側面や後方を脅かされたアメリカ軍は、自分たちが踏み込めない山野が中国兵で埋め尽くされていると感じ、敗走に移った。数日分の食糧を携えて山野を越える中国軍の機動は、道路輸送に完全に依存していた国連軍にとって予想外であり、戦略的[[奇襲]]となり、これは「人海戦術」としてアメリカで知られるようになった<ref>Appleman, Roy (1989), Disaster in Korea: The Chinese Confront MacArthur, College Station, TX: Texas A and M University Military History Series, 11, ISBN 978-1-60344-128-5 p. 353-262.</ref><ref>Roe, Patrick C. (2000), The Dragon Strikes, Novato, CA: Presidio, ISBN 0-89141-703-6 p. 435.</ref><ref>George, Alexander L. (1967), The Chinese Communist Army in Action: The War and its Aftermath, New York, NY: Columbia University Press, OCLC 284111 pp. 4–5.</ref>。
追撃が一段落してから、[[1951年]][[2月]]に中国軍は再び攻勢に出て、初期の浸透には成功した。しかし、取り残された防御陣地を潰す際に、結局は歩兵による正面突撃、すなわち一般的な理解での「人海戦術」を採ることになり、機関銃等の重火器を備えていた国連軍の前に甚大な損害を蒙って(こうむって)失敗した。中でも[[ブローニングM2重機関銃|M2重機関銃]]を4基搭載した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[M16対空自走砲]]は掃討において大いに威力を発揮した事から「ミートチョッパー([[挽肉]]製造器)」の異名で呼ばれた。
中国軍の伝統的なドクトリンは、国土防衛に重点を置いており、兵力の優位はまず自国の防衛を利するものとしている。近年の軍備近代化は攻撃能力向上を目指しているが、それはもっぱら質の向上に基づくものである。
=== 中国軍の戦略としての人海戦術 ===
[[中国国民党]]は、[[中国共産党]]軍が平民を[[人間の盾]]として、国民党軍陣地につき出しているとして「人海戦術」と呼んだ<ref>Liang, Su Rong (梁肅戎) (1995), Memoir of Liang Su Rong (大是大非 : 梁肅戎回憶錄) (in Chinese), Taipei, Taiwan: World Culture Publishing Ltd. (天下文化出版股份有限公司), ISBN 978-9-57621-299-4 p. 63.</ref><ref>Liang Surong(梁肅戎)'s memoir《大是大非: 梁肅戎回憶錄》p.63</ref>。そもそも漢字での「人海戦術」という一連の用語は、[[毛沢東]]の造語であるとの説もある。毛沢東が豪語したように、「人民の海に敵軍を埋葬する」ことが戦略としての人海戦術である。具体的には日本軍を点と線に封じ込め、その周囲を積極的な浸透工作によって獲得した敵性の住民の住む領域で包囲することである。こうした敵性の地域が広がれば、軍の遊撃、ゲリラ戦なども容易になり、追撃されても分散と逃亡も容易になる。このため、[[日中戦争]]は[[国共合作#第二次国共合作|第二次国共合作]]以降、まさに[[非対称戦争]]の様相を呈し始めた。
そういった意味でも、「戦術」ではなく「戦略」と捉えたほうが妥当かもしれない。現在も[[人民戦争理論]]に基づき、[[人民公社]]単位で[[中国民兵]]を編制した体制を維持している。外国の攻撃があった場合、人民公社単位、村単位で民兵が抵抗し、正規軍が反撃を行うのである。
しかし、[[中越戦争]]で古典的な人海戦術は限界を見せたことにより、中国人民解放軍も近代的なドクトリンで修正するようになった<ref>O'Dowd, Edward C. (2007), Chinese Military Strategy in the Third Indochina War, New York, NY: Routledge, ISBN 978-0-415-41427-2 pp. 150, 165.</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[バンザイ突撃]]
* [[飽和攻撃]]
* [[数の暴力]]
* [[数の論理]]
* [[人肉検索]]
* [[ブルートフォースアタック]]
* [[スパム電話]]、[[スパム (メール)]]
* [[ディエンビエンフーの戦い]]、[[歩兵]]主体の[[要塞攻略戦]]([[旅順攻囲戦]]、[[セヴァストポリの戦い]]、[[ヴェルダンの戦い]])
* [[白兵戦]]、[[近接格闘術]]、[[突撃]]
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[[Category:戦術]]
[[Category:ソビエト連邦の軍事]]
[[Category:中華人民共和国の軍事]]
[[Category:歩兵]]
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楽譜
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楽譜(がくふ)は、楽曲を演奏記号や符号などの記号によって書き表したものである。一般に、西洋音楽に発祥したものを指すが、世界の音楽において、様々な楽譜が存在している。また、この記号化の規則を記譜法といい、楽譜を譜面と呼んだり、単に譜と呼んだりもする。
楽譜は、ことばを記録する文字と役割が似ているが、文字が必ずしも朗読されることを目的として書かれるのでないとの対照的に、楽譜はほとんどの場合演奏されることによって目的が達成される所が大きく異なる。
文字では筆記者の意図を書き記したものと語られている内容を書き取ったものとがあるのと同様に、楽譜にも筆記者(作曲家・編曲家など)の意図を書き記したものと演奏を書き取ったものがあり、楽譜の作られ方に若干の相違が生じる。
また、音楽の記録のためには、音そのものを録音するという方法があり、この方法は音楽の微細な表情を記録するのに非常に有効である。しかし、録音が演奏の記録にすぎないのに対して、楽譜には音を使わずに読むことができるので演奏しながら読むことができる・演奏のためのさまざまなヒントを記すことができる・時間の流れを越えて視覚的に把握することができる・といった特徴があり、録音に取って代わられるものではない。
作曲においては楽譜という形で記す事で、楽曲の全体の構成を整えたりするという効用がある。また一方、楽譜を読み書きする技能は作曲や演奏・歌唱には絶対に必須のものではないため、楽譜が読み書きできない作曲家(例:ヴァンゲリス)や演奏家・歌手(例:ポール・マッカートニー)は少なくない。エロル・ガーナーはジャズの名曲・「ミスティ」の作曲家として有名なピアノ演奏家だが、独学でピアノ演奏を会得していたために楽譜の読み書きができず、ある日飛行機で移動する最中にふと頭に浮かんだメロディを記すすべがなかった。彼は到着した先のホテルのピアノとテープレコーダーを急遽借りて、演奏し録音する事でメロディの亡失を防いだ逸話が残っている。
5本の線を基にした五線記譜法による五線譜は、西洋音楽発祥で、現在最も広く用いられている。音高軸と時間軸とを持った点グラフの一種とみなされる五線には、音符や休符(英語版)以外にも、音部記号や拍子、調号、臨時記号、また、文字を用いて示すものと、それ以外のマークやシンボルによる演奏記号、言葉による標語などがある。これの発展した形にはクラウス・カール・ヒュプラーの楽譜のようにすべてのパラメーターを数段に分けて書いたものがある。完全に記譜できる反面演奏には極度の難解さを持っている。
文字譜とは古代ギリシアで用いられた記譜法。歌詞の上に音高を文字で記す。オクシリンコス・パピルスに現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされる『三位一体の聖歌』(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されていた。 紀元前3世紀ごろの石版にアポロンへの讃歌が刻まれており、讃歌の詩行間に文字があり楽譜を意味するといわれている。紀元後3世紀ごろにアリュピオスがこれらの文字を一覧表にし古典ギリシアの記譜法を書き残している。
9世紀頃、ネウマ譜による最古の聖歌集が現れた。これはキリスト教ローマ典礼で用いられるグレゴリオ聖歌のためのもので、最初は左から右に曲線と直線のみで音の長さと高さを表していたが、次に基準となる音程の位置を水平の線1本で標記する様になり、更に、それが4本、5本となり現代の楽譜と同じ形式になった。ちなみに現代のカトリック教会で使用されるネウマ譜は音の高さを表す線が4本のものである。
1025年頃、グイード・ダレッツォが4本の線の上に四角い音符を書くという、現在の楽譜の表記法の原型を考案した。
機械で印刷された楽譜が初めて登場したのは1473年のことで、これはヨハン・グーテンベルクによる活版印刷技術の開発から20年後にあたる。1501年にオッタヴィアーノ・ペトルーシが、おもにジョスカン・デ・プレとハインリヒ・イザークの曲、96曲を印刷して収録した Harmonice musices odhecaton を発行した。ペトルーシの印刷技法による楽譜はきれいで読みやすかったが、楽譜が出来るまでに五線、文字、音符の順に3度の印刷が必要となり、時間も手間もかかる作業だった。1520年頃のロンドンで、楽譜の印刷が1度の印刷でできるようになり、1528年にフランスのピエール・アテニャンはこの技術を広めた。
1575年にエリザベス1世がトーマス・タリスとウィリアム・バードに楽譜の独占印刷権を与えた。1596年にその期限が切れると、独占権はトーマス・モーリーに渡った。 楽譜の線が5本に落ち着いたのは、17世紀に入ってからで、それまで教会の聖歌隊は、音域が1オクターブなので4本。音域が広い鍵盤楽器は6本。ときには7~8本にもなっていたが、イタリアのオペラ界で音楽による楽譜の違いを統一し煩雑さを無くそうとする動きが出てからである。5本という数は人間が判別し、かつ、さまざまな音楽を表記するには最も適した数だった。オペラ先進国のイタリアから世界に5線譜が広まった。
19世紀には、音楽産業は楽譜印刷業界が担っていた。当時アメリカではティン・パン・アレーがその中心となっていた。20世紀に入ると蓄音機と録音した音楽に比重が移り、その動きを1920年代のラジオ放送開始が加速し、楽譜の出版は飽和を迎えた。そして次第に音楽産業は印刷業者からレコード業界へと移っていった。
20世紀後半から21世紀にかけては、楽譜をコンピュータで読み書きできる形にする技術の開発が盛んに行われ、いくつものシステムが開発された。その意味で、音楽データのデジタル転送規格であるMIDIを利用した記録方式であるStandard MIDI File等も楽譜の系列に連なるものである。
主にクラシック音楽を中心とした、著作権が切れてパブリックドメインとなった楽譜のライブラリをインターネット上に作る活動がある。
従来、出版用の楽譜の作成は専門の写譜屋が手作業で行っていたが、コンピューターの普及した現在はそのような作業を行う楽譜作成ソフトウェアもさまざまなものが発売され、専門の業者から個人まで、その利用者は多い。
その昔西洋において、学術の世界ではラテン語が公用語として用いられてきたように、旧来の西洋音楽においては、楽譜上に記す言語はイタリア語が公用語と規定されてきた。しかしながら、西洋音楽がイタリア優勢ではなくなり、楽譜中はイタリア語で、題名だけはドイツ語であったり、歌詞だけは英語であったり、多言語が氾濫するようになっていった。
また、作曲家が自分の母国語で楽語をイタリア語に混在させることが多くなり、それがベートーヴェンに見られ、シューマンにおいてはもっと顕著になり、後の印象主義の時代には、作曲家が国柄をポリシーとして自負することも兼ねて母国語を楽語に使うことが普通のこととなり、古くからの一部の基本的な楽語はイタリア語のままに存続しているものの、現在は多言語が混在したスタイルが定着している。
日本の作曲家の場合には、フランス音楽の影響を受けた作曲家はフランス語傾倒で、ドイツ音楽の影響を受けた作曲家はドイツ語傾倒で、どの影響を受けたことも表明したくない作曲家や中立を表明したい作曲家は英語傾倒若しくはイタリア語で書き込むことが多い。どの場合も、イタリア語による基本的な楽語に各国語を混合させて書き込むが、作曲家が日本語を書き込むことは、国際的な楽譜読解の壁を避けるためにも敬遠され、基本的に教育目的の楽譜などに限られる。
以下に挙げるサイトではパブリックドメインもしくは自由なライセンスの楽譜を入手可能である。著作権保護されているものについては利用に際してはライセンスに基づいた使用条件を守ることが求められる。
一社提供の楽譜配信サイトは上記の出版社参照。
|
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"text": "楽譜(がくふ)は、楽曲を演奏記号や符号などの記号によって書き表したものである。一般に、西洋音楽に発祥したものを指すが、世界の音楽において、様々な楽譜が存在している。また、この記号化の規則を記譜法といい、楽譜を譜面と呼んだり、単に譜と呼んだりもする。",
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"text": "楽譜は、ことばを記録する文字と役割が似ているが、文字が必ずしも朗読されることを目的として書かれるのでないとの対照的に、楽譜はほとんどの場合演奏されることによって目的が達成される所が大きく異なる。",
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"text": "また、音楽の記録のためには、音そのものを録音するという方法があり、この方法は音楽の微細な表情を記録するのに非常に有効である。しかし、録音が演奏の記録にすぎないのに対して、楽譜には音を使わずに読むことができるので演奏しながら読むことができる・演奏のためのさまざまなヒントを記すことができる・時間の流れを越えて視覚的に把握することができる・といった特徴があり、録音に取って代わられるものではない。",
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"text": "作曲においては楽譜という形で記す事で、楽曲の全体の構成を整えたりするという効用がある。また一方、楽譜を読み書きする技能は作曲や演奏・歌唱には絶対に必須のものではないため、楽譜が読み書きできない作曲家(例:ヴァンゲリス)や演奏家・歌手(例:ポール・マッカートニー)は少なくない。エロル・ガーナーはジャズの名曲・「ミスティ」の作曲家として有名なピアノ演奏家だが、独学でピアノ演奏を会得していたために楽譜の読み書きができず、ある日飛行機で移動する最中にふと頭に浮かんだメロディを記すすべがなかった。彼は到着した先のホテルのピアノとテープレコーダーを急遽借りて、演奏し録音する事でメロディの亡失を防いだ逸話が残っている。",
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"text": "5本の線を基にした五線記譜法による五線譜は、西洋音楽発祥で、現在最も広く用いられている。音高軸と時間軸とを持った点グラフの一種とみなされる五線には、音符や休符(英語版)以外にも、音部記号や拍子、調号、臨時記号、また、文字を用いて示すものと、それ以外のマークやシンボルによる演奏記号、言葉による標語などがある。これの発展した形にはクラウス・カール・ヒュプラーの楽譜のようにすべてのパラメーターを数段に分けて書いたものがある。完全に記譜できる反面演奏には極度の難解さを持っている。",
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"text": "文字譜とは古代ギリシアで用いられた記譜法。歌詞の上に音高を文字で記す。オクシリンコス・パピルスに現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされる『三位一体の聖歌』(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されていた。 紀元前3世紀ごろの石版にアポロンへの讃歌が刻まれており、讃歌の詩行間に文字があり楽譜を意味するといわれている。紀元後3世紀ごろにアリュピオスがこれらの文字を一覧表にし古典ギリシアの記譜法を書き残している。",
"title": "楽譜の歴史"
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"text": "9世紀頃、ネウマ譜による最古の聖歌集が現れた。これはキリスト教ローマ典礼で用いられるグレゴリオ聖歌のためのもので、最初は左から右に曲線と直線のみで音の長さと高さを表していたが、次に基準となる音程の位置を水平の線1本で標記する様になり、更に、それが4本、5本となり現代の楽譜と同じ形式になった。ちなみに現代のカトリック教会で使用されるネウマ譜は音の高さを表す線が4本のものである。",
"title": "楽譜の歴史"
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"text": "1025年頃、グイード・ダレッツォが4本の線の上に四角い音符を書くという、現在の楽譜の表記法の原型を考案した。",
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"text": "機械で印刷された楽譜が初めて登場したのは1473年のことで、これはヨハン・グーテンベルクによる活版印刷技術の開発から20年後にあたる。1501年にオッタヴィアーノ・ペトルーシが、おもにジョスカン・デ・プレとハインリヒ・イザークの曲、96曲を印刷して収録した Harmonice musices odhecaton を発行した。ペトルーシの印刷技法による楽譜はきれいで読みやすかったが、楽譜が出来るまでに五線、文字、音符の順に3度の印刷が必要となり、時間も手間もかかる作業だった。1520年頃のロンドンで、楽譜の印刷が1度の印刷でできるようになり、1528年にフランスのピエール・アテニャンはこの技術を広めた。",
"title": "楽譜の歴史"
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"text": "1575年にエリザベス1世がトーマス・タリスとウィリアム・バードに楽譜の独占印刷権を与えた。1596年にその期限が切れると、独占権はトーマス・モーリーに渡った。 楽譜の線が5本に落ち着いたのは、17世紀に入ってからで、それまで教会の聖歌隊は、音域が1オクターブなので4本。音域が広い鍵盤楽器は6本。ときには7~8本にもなっていたが、イタリアのオペラ界で音楽による楽譜の違いを統一し煩雑さを無くそうとする動きが出てからである。5本という数は人間が判別し、かつ、さまざまな音楽を表記するには最も適した数だった。オペラ先進国のイタリアから世界に5線譜が広まった。",
"title": "楽譜の歴史"
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"text": "19世紀には、音楽産業は楽譜印刷業界が担っていた。当時アメリカではティン・パン・アレーがその中心となっていた。20世紀に入ると蓄音機と録音した音楽に比重が移り、その動きを1920年代のラジオ放送開始が加速し、楽譜の出版は飽和を迎えた。そして次第に音楽産業は印刷業者からレコード業界へと移っていった。",
"title": "楽譜の歴史"
},
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"text": "20世紀後半から21世紀にかけては、楽譜をコンピュータで読み書きできる形にする技術の開発が盛んに行われ、いくつものシステムが開発された。その意味で、音楽データのデジタル転送規格であるMIDIを利用した記録方式であるStandard MIDI File等も楽譜の系列に連なるものである。",
"title": "楽譜の歴史"
},
{
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"text": "主にクラシック音楽を中心とした、著作権が切れてパブリックドメインとなった楽譜のライブラリをインターネット上に作る活動がある。",
"title": "楽譜の歴史"
},
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"text": "従来、出版用の楽譜の作成は専門の写譜屋が手作業で行っていたが、コンピューターの普及した現在はそのような作業を行う楽譜作成ソフトウェアもさまざまなものが発売され、専門の業者から個人まで、その利用者は多い。",
"title": "楽譜の歴史"
},
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"text": "その昔西洋において、学術の世界ではラテン語が公用語として用いられてきたように、旧来の西洋音楽においては、楽譜上に記す言語はイタリア語が公用語と規定されてきた。しかしながら、西洋音楽がイタリア優勢ではなくなり、楽譜中はイタリア語で、題名だけはドイツ語であったり、歌詞だけは英語であったり、多言語が氾濫するようになっていった。",
"title": "楽語・標語"
},
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"text": "また、作曲家が自分の母国語で楽語をイタリア語に混在させることが多くなり、それがベートーヴェンに見られ、シューマンにおいてはもっと顕著になり、後の印象主義の時代には、作曲家が国柄をポリシーとして自負することも兼ねて母国語を楽語に使うことが普通のこととなり、古くからの一部の基本的な楽語はイタリア語のままに存続しているものの、現在は多言語が混在したスタイルが定着している。",
"title": "楽語・標語"
},
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"text": "日本の作曲家の場合には、フランス音楽の影響を受けた作曲家はフランス語傾倒で、ドイツ音楽の影響を受けた作曲家はドイツ語傾倒で、どの影響を受けたことも表明したくない作曲家や中立を表明したい作曲家は英語傾倒若しくはイタリア語で書き込むことが多い。どの場合も、イタリア語による基本的な楽語に各国語を混合させて書き込むが、作曲家が日本語を書き込むことは、国際的な楽譜読解の壁を避けるためにも敬遠され、基本的に教育目的の楽譜などに限られる。",
"title": "楽語・標語"
},
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"text": "以下に挙げるサイトではパブリックドメインもしくは自由なライセンスの楽譜を入手可能である。著作権保護されているものについては利用に際してはライセンスに基づいた使用条件を守ることが求められる。",
"title": "パブリックドメインの楽譜"
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"text": "一社提供の楽譜配信サイトは上記の出版社参照。",
"title": "主な楽譜配信サイト"
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楽譜(がくふ)は、楽曲を演奏記号や符号などの記号によって書き表したものである。一般に、西洋音楽に発祥したものを指すが、世界の音楽において、様々な楽譜が存在している。また、この記号化の規則を記譜法といい、楽譜を譜面と呼んだり、単に譜と呼んだりもする。
|
{{WikipediaPage|ウィキペディアにおける楽譜の書き方については、[[Help:Score]]をご覧ください。}}
{{複数の問題
|出典の明記=2020年3月
|独自研究=2020年1月5日}}
[[File:BWV1001.jpg|thumb|right|200px| [[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ|無伴奏ヴァイオリン]] ソナタ1番 BWV1001 の自筆譜(1720年)– [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S. バッハ]]]]
{{Portal クラシック音楽}}
'''楽譜'''(がくふ)は、[[楽曲]]を[[演奏記号]]や符号などの[[記号]]によって書き表したものである<ref>スーパー大辞林(三省堂 2006-2008)より</ref>。一般に、[[西洋音楽]]に発祥したものを指すが、世界の音楽において、様々な楽譜が存在している。また、この記号化の規則を[[記譜法]]といい、楽譜を'''譜面'''と呼んだり、単に'''譜'''と呼んだりもする。
== 概要 ==
[[File:Tempyo_Biwa_Fu.jpg|thumb|left|180px|天平琵琶譜(奈良時代 天平10年頃 西暦738年頃)[[正倉院]]蔵]]
楽譜は、ことばを記録する[[文字]]と役割が似ているが、文字が必ずしも朗読されることを目的として書かれるのでないとの対照的に、楽譜はほとんどの場合[[演奏]]されることによって目的が達成される所が大きく異なる。
文字では[[筆記者]]の意図を書き記したものと語られている内容を書き取ったものとがあるのと同様に、楽譜にも筆記者([[作曲家]]・[[編曲家]]など)の意図を書き記したものと[[演奏]]を書き取ったものがあり、楽譜の作られ方に若干の相違が生じる。
また、音楽の記録のためには、音そのものを[[録音]]するという方法があり、この方法は音楽の微細な表情を記録するのに非常に有効である。しかし、録音が演奏の記録にすぎないのに対して、楽譜には音を使わずに読むことができるので演奏しながら読むことができる・演奏のためのさまざまなヒントを記すことができる・時間の流れを越えて視覚的に把握することができる・といった特徴があり、録音に取って代わられるものではない。
[[作曲]]においては楽譜という形で記す事で、楽曲の全体の構成を整えたりするという効用がある。また一方、楽譜を読み書きする技能は作曲や演奏・歌唱には絶対に必須のものではないため、楽譜が読み書きできない作曲家(例:[[ヴァンゲリス]])や演奏家・歌手(例:[[ポール・マッカートニー]])は少なくない。[[エロル・ガーナー]]はジャズの名曲・「[[ミスティ_(曲)|ミスティ]]」の作曲家として有名なピアノ演奏家だが、独学でピアノ演奏を会得していたために楽譜の読み書きができず、ある日飛行機で移動する最中にふと頭に浮かんだメロディを記すすべがなかった。彼は到着した先のホテルのピアノと[[テープレコーダー]]を急遽借りて、演奏し録音する事でメロディの亡失を防いだ逸話が残っている。
{{-}}
== 楽譜の種類 ==
=== 五線譜 ===
[[File:Chopin_Prelude_7.svg|thumb|right|300px]]
5本の線を基にした[[記譜法#五線記譜法|五線記譜法]]による[[五線譜]]は、[[西洋音楽]]発祥で、現在最も広く用いられている。音高軸と時間軸とを持った点グラフの一種とみなされる[[五線]]には、[[音符]]や{{仮リンク|休符|en|Rest (music)|redirect=1}}以外にも、[[音部記号]]や[[拍子]]、[[変化記号|調号、臨時記号]]、また、文字を用いて示すものと、それ以外のマークやシンボルによる[[演奏記号]]、言葉による[[標語]]などがある。これの発展した形には[[クラウス・K・ヒュプラー|クラウス・カール・ヒュプラー]]の楽譜のようにすべての[[パラメーター]]を数段に分けて書いたものがある。完全に記譜できる反面演奏には極度の難解さを持っている。
{{-}}
[[File:Full_score.jpg|thumb|right|220px|指揮台上の総譜]]
; フルスコア([[総譜]]・スコア)
: [[オーケストラ|管弦楽]]や[[吹奏楽]]など合奏用の楽譜で、各パートのすべての音が記載されているもの。普通は指揮者用のA3以上の大型スコアを指すが、作曲家や音楽学者の研究用にミニチュアスコア(Taschenpartitur・独)の方が多く存在し内容は全く同じである。
{{-}}
; [[コンデンススコア]](ミニスコア)
: 総譜を、見やすいように、ピアノでも弾けるようにまた指揮のレッスンでも使えるようにコンパクトにまとめたもの。
[[File:Chopin._Édition_Paderewski._HM.jpg|thumb|right|220px|ショパン作曲のピアノ譜]]
; [[大譜表]](ピアノ譜)
: [[ト音記号]]、[[ヘ音記号]]の2段からなる楽譜。総譜をコンパクトにまとめたり、[[鍵盤楽器]]用の曲を記したりするときに使われる。
; [[パート譜]]
: 管弦楽や吹奏楽など[[合奏]]用の楽譜で、それぞれのパートを演奏するのに必要な楽譜だけが抜き出してある楽譜。総譜の対義語。ヨーロッパには[[合唱]]の楽譜にも各パート譜がありボーカルスコアを使わないことが多い。
; ボーカルスコア
: [[声楽]]の含まれるオーケストラのフルスコアから、オーケストラのパートをピアノに直したもの。声楽のためのパート譜として使ったり、声楽がピアノで練習するときに使う。
; [[リード・シート]]([[Cメロ譜]])
: 原曲のメロディと[[コード・ネーム]]とが書かれている単純な楽譜。[[ジャズ]]などの[[ポピュラー音楽]]で、[[即興演奏|アドリブ]]演奏をされることを目的としている。
=== 五線譜以外 ===
; [[文字譜]]
[[File:Vihuela-Tab_Fuenllana_1554.jpg|thumb|right|180px|タブラチュア – 『Orphenica Lyra』Miguel de Fuenllana(1554年)]]
; [[タブラチュア]]
: 奏法譜と訳され、一般にはタブ譜と呼ぶ。現在では[[ギター]]の奏法(弦の押さえ方が記されている)を示すために多く使われる。
; [[一線譜]](一本線)
: 明確な音程を持たない打楽器の記譜に用いる。明確な音程がない打楽器は必ず一線譜で記譜されるというわけではなく、音部記号を持たない五線譜で記譜されることもある。
; [[図形楽譜]]
: 時間と音程を表した空間の中に線や[[幾何学]]図形などの図形で音を表す楽譜。芸術性のある視覚効果を狙ったものや、固定した時間軸と音程軸で表した空間に長い四角の図形を使い音を表したものまで様々。この手法を用いる作曲家としては[[ジョン・ケージ]]や[[スティーヴ・ライヒ]]・[[モートン・フェルドマン]]などの前衛的音楽家が多い。[[MIDI]]などの[[電子音楽]]では細かい演奏データを忠実に再現できるために、五線譜より精細な記法として図形楽譜的な視覚化を行って作曲・編曲されることがある。[[ピアノロール]]は楽譜として見るよりも実際にピアノに押し込んで演奏させる演奏媒体として見られる。現在では図形楽譜を用いる目的は五線譜で表現できないパッセージや[[雑音]]のみを記譜する場合が多い。
; [[文字楽譜]]
: ケージの「[[4分33秒]]」や[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]の「7つの日々」の音楽のように演奏すべき事柄をすべて文章によって記述した「楽譜」。「絵による楽譜」のように不確定要素が多く、演奏者の感性によって全く違う音楽が奏される一種の[[即興音楽]]として見られる。
; [[ムトウ記譜法]]
: ムトウ音楽メソッドを基に作られた、3本の基線で表す楽譜であり、3線譜ともいう。音部記号は変化記号はなく、音域は数字で表され、黒鍵の音にはそれぞれに独立した名称がついている。また、「楽譜表示具及び楽譜」の発明として日本及び世界で特許が認められている。<ref group="注釈">特許第3640886号(P3640886) 国際公開番号 WO2000/011635</ref>。
=== 日本 ===
; [[工尺譜]]
; 博士([[声明]])
: 西洋の[[ネウマ譜]]に相当する。
; 文化譜(三味線)
; 弦名譜(箏)
: [[三味線]]や[[箏]]の楽譜は、一般に、楽器の演奏の仕方を書き記した[[タブラチュア]]に分類される楽譜で書かれる。[[弦 (楽器)|弦]]名や[[勘所]]名、[[奏法]]、[[口三味線]]などの[[唱歌 (演奏法)|唱歌]](しょうが)によって示される。極簡単な例は例えば[[篠笛#楽譜]]参照。
; [[尺八]]の楽譜
== 楽譜の歴史 ==
===古代===
[[File:Delphichymn.jpg|thumb|right|240px|古代ギリシャの楽譜]]
文字譜とは[[古代ギリシア]]で用いられた記譜法。歌詞の上に音高を文字で記す。[[オクシリンコス・パピルス]]に現存する最古(紀元[[280年]])の[[キリスト教]]([[東方諸教会]])の聖歌とされる『三位一体の聖歌』(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されていた。
紀元前3世紀ごろの石版にアポロンへの讃歌が刻まれており、讃歌の詩行間に文字があり楽譜を意味するといわれている。紀元後3世紀ごろにアリュピオスがこれらの文字を一覧表にし古典ギリシアの記譜法を書き残している。
{{-}}
=== 中世 ===
[[File:Graduale Aboense.jpg|thumb|right|180px|ネウマ譜]]
[[9世紀]]頃、[[ネウマ譜]]による最古の聖歌集が現れた。これはキリスト教ローマ典礼で用いられる[[グレゴリオ聖歌]]のためのもので、最初は左から右に曲線と直線のみで音の長さと高さを表していたが、次に基準となる音程の位置を水平の線1本で標記する様になり、更に、それが4本、5本となり現代の楽譜と同じ形式になった。ちなみに現代のカトリック教会で使用されるネウマ譜は音の高さを表す線が4本のものである。
[[1025年]]頃、[[グイード・ダレッツォ]]が4本の線の上に四角い音符を書くという、現在の楽譜の表記法の原型を考案した。
=== 近代 ===
[[File:Adieu_mes_amours_tenor.jpg|thumb|right|240px|ジョスカン・デ・プレ『Adieu mes amours』。Harmonice Musices Odhecatonより。1501年、オッタヴィアーノ・ペトルーシによる印刷]]
機械で印刷された楽譜が初めて登場したのは[[1473年]]のことで、これは[[ヨハネス・グーテンベルク|ヨハン・グーテンベルク]]による[[活版印刷]]技術の開発から20年後にあたる。[[1501年]]に[[オッタヴィアーノ・ペトルーシ]]が、おもに[[ジョスカン・デ・プレ]]と[[ハインリヒ・イザーク]]の曲、96曲を印刷して収録した ''Harmonice musices odhecaton'' を発行した。ペトルーシの印刷技法による楽譜はきれいで読みやすかったが、楽譜が出来るまでに五線、文字、音符の順に3度の印刷が必要となり、時間も手間もかかる作業だった。[[1520年]]頃の[[ロンドン]]で、楽譜の印刷が1度の印刷でできるようになり、[[1528年]]にフランスの[[ピエール・アテニャン]]はこの技術を広めた。
[[1575年]]に[[エリザベス1世]]が[[トーマス・タリス]]と[[ウィリアム・バード]]に楽譜の独占印刷権を与えた。[[1596年]]にその期限が切れると、独占権は[[トーマス・モーリー]]に渡った。
楽譜の線が5本に落ち着いたのは、17世紀に入ってからで、それまで教会の聖歌隊は、音域が1オクターブなので4本。音域が広い鍵盤楽器は6本。ときには7~8本にもなっていたが、イタリアのオペラ界で音楽による楽譜の違いを統一し煩雑さを無くそうとする動きが出てからである。5本という数は人間が判別し、かつ、さまざまな音楽を表記するには最も適した数だった。オペラ先進国のイタリアから世界に5線譜が広まった。
[[19世紀]]には、[[音楽産業]]は楽譜印刷業界が担っていた。当時[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[ティン・パン・アレー]]がその中心となっていた。[[20世紀]]に入ると[[蓄音機]]と録音した音楽に比重が移り、その動きを[[1920年代]]のラジオ放送開始が加速し、楽譜の出版は飽和を迎えた。そして次第に音楽産業は印刷業者からレコード業界へと移っていった。
=== 現代 ===
20世紀後半から21世紀にかけては、楽譜を[[コンピュータ]]で読み書きできる形にする技術の開発が盛んに行われ、いくつものシステムが開発された。その意味で、音楽データの[[デジタル]]転送規格である[[MIDI]]を利用した記録方式である[[Standard MIDI File]]等も楽譜の系列に連なるものである。
主にクラシック音楽を中心とした、著作権が切れて[[パブリックドメイン]]となった楽譜のライブラリをインターネット上に作る活動がある。
従来、出版用の楽譜の作成は専門の[[写譜屋]]が手作業で行っていたが、コンピューターの普及した現在はそのような作業を行う[[楽譜作成ソフトウェア]]もさまざまなものが発売され、専門の業者から個人まで、その利用者は多い。
== 楽語・標語 ==
その昔[[西洋]]において、学術の世界では[[ラテン語]]が公用語として用いられてきたように、旧来の[[西洋音楽]]においては、楽譜上に記す言語は[[イタリア語]]が公用語と規定されてきた。しかしながら、[[西洋音楽]]が[[イタリア]]優勢ではなくなり、楽譜中は[[イタリア語]]で、題名だけは[[ドイツ語]]であったり、歌詞だけは[[英語]]であったり、多言語が氾濫するようになっていった。
また、[[作曲家]]が自分の母国語で[[楽語]]を[[イタリア語]]に混在させることが多くなり、それが[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]に見られ、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]においてはもっと顕著になり、後の[[印象主義]]の時代には、作曲家が国柄をポリシーとして自負することも兼ねて母国語を[[楽語]]に使うことが普通のこととなり、古くからの一部の基本的な[[楽語]]は[[イタリア語]]のままに存続しているものの、現在は多言語が混在したスタイルが定着している。
日本の作曲家の場合には、フランス音楽の影響を受けた作曲家は[[フランス語]]傾倒で、ドイツ音楽の影響を受けた作曲家は[[ドイツ語]]傾倒で、どの影響を受けたことも表明したくない作曲家や中立を表明したい作曲家は[[英語]]傾倒若しくは[[イタリア語]]で書き込むことが多い。どの場合も、[[イタリア語]]による基本的な楽語に各国語を混合させて書き込むが、作曲家が[[日本語]]を書き込むことは、国際的な楽譜読解の壁を避けるためにも敬遠され、基本的に教育目的の楽譜などに限られる。
== パブリックドメインの楽譜 ==
以下に挙げるサイトでは[[パブリックドメイン]]もしくは[[フリーコンテント|自由なライセンス]]の楽譜を入手可能である。著作権保護されているものについては利用に際してはライセンスに基づいた使用条件を守ることが求められる。
* [http://www.mutopiaproject.org/ Mutopiaプロジェクト]
* [http://www.gutenberg.org/browse/categories/4 プロジェクト・グーテンベルク]
* [[scores:メインページ|IMSLP]] --[[国際楽譜ライブラリープロジェクト]] 収録楽曲数6万以上、楽譜総数20万以上。
* [http://dme.mozarteum.at/ 新モーツァルト全集・デジタル版] --[[新モーツァルト全集]]の総譜すべてが網羅されており、[[Portable Document Format|PDF]]として入手できる。日本語に対応している。
* [http://www.cpdl.org/wiki/index.php/Main_Page Choral Public Domain Library (CPDL)] 合唱曲の図書館
* [http://www.sheetmusicfox.com/ SheetMusicFox]
* [http://www.free-scores.com/index_uk.php3/ Free-scores.com]
* [http://pianosheetmusiconline.com/ Piano Sheet Music Online]
* [http://www.musopen.com/sheetmusic.php Musopen Public Domain Sheet Music]
* [http://artsongcentral.com/ Art Song Central]
== 主な楽譜の出版社 ==
=== 日本国内 ===
* [[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス]]([[ヤマハミュージックメディア]]を吸収)
* [[シンコーミュージック・エンタテイメント]]
* [[ドレミ楽譜出版社]]
* [[kmp]]
* [[フェアリー (楽譜出版社)|フェアリー]]
* [[バンダイナムコアーツ|バンダイナムコアーツ(楽譜ブランド「L SCORE(えるすこ)」)]]
; 合唱・唱歌・クラシック音楽など
:* [[音楽之友社]]
:* [[全音楽譜出版社]]
:** [[河合楽器製作所|カワイ出版]]
:* [[教育芸術社]]
<!--
:* [[全日本合唱普及会]]
-->
:* [[NHK出版]]
:* [[パナムジカ]]([[メロス楽譜]]の事業を吸収)
:* [[野ばら社]]
; 吹奏楽・器楽合奏など
:* [[ウィンズスコア]]
:* [[ブレーン (企業)|ブレーン]]
:* [[ロケットミュージック]]
:* [[ミュージックエイト]]
:* [[フォスターミュージック]]
=== 日本国外 ===
;アメリカ
:* [[アルフレッド・ミュージック]] (Alfred Music)
:* [[ハル・レナード・コーポレーション|ハル・レナード]] (Hal Leonard)
;ヨーロッパ
:* [[ベーレンライター出版社|ベーレンライター]] (Bärenreiter-Verlag)
:* [[ブージー・アンド・ホークス]] (Boosey & Hawkes)
:* [[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]] (Breitkopf & Härtel)
:* [[リコルディ]] (Casa Ricordi)
:* [[エルンスト・オイレンブルク]] (Ernst Eulenburg)
:* [[ペータース (出版社)|ペータース]] (Peters)
:* [[ショット・ミュージック]] (Schott Music)
:* [[ウニヴェルザール出版社|ウニヴェルザール/ユニヴァーサル]] (Universal)
== 主な楽譜配信サイト ==
一社提供の楽譜配信サイトは上記の出版社参照。
* [[ぷりんと楽譜]](ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)
* [[@ELISE]](ジャパン・ミュージックワークス)<!--TODO: http://www.at-elise.com/Music/link-publisher.html -->
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group="注釈"}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Sheet_music}}
* [[記録技術の年表]]
* [[欧文西洋音楽用語の一覧]]
* [[:en:Music stand]] ([[譜面台]])
* [[楽譜検定]]
* [[楽譜浄書]]
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メトン周期
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メトン周期(メトンしゅうき 英: Metonic cycle, 古希: Μετωνικός κύκλος)とは、ある日付での月相が一致する周期の1つであり、19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のことである。メトン周期は、太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる)を求めるのに用いられた。
紀元前433年にアテナイの数学者のメトンが当時行われていた太陰太陽暦の誤りを正すために提案したのでこの名がある。中国では、19年を1章と呼ぶことから章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。
19太陽年は、約365.242192640 日×19 = 約6939.60166016 日である。一方、235朔望月は、約29.530588853 日×235 = 約6939.688380455 日であり、ほぼ等しくなっている(誤差は 約 1.25 × 10)。12か月 × 19年 + 7か月 = 235か月であるので、メトン周期に従うと太陰太陽暦では19年間に7回の閏月を入れれば、太陽年とのずれがほぼ解消されることになる。朔望月と太陽年との比は、235/19 = 12.36842105263...となる。
ただし19太陽年と235朔望月とは完全には一致しておらず、19太陽年につき、6939.688380455 − 6939.60166016 = 約 0.086720295 日(約2.081時間)ずれている。この差は219太陽年が経過すると、ほぼ1日ずれることになる((1日 / 0.086 720 295日)× 19年 = 219.095 年)。このため時々改暦を行い、ずれを修正する必要があった。
メトン自身は、19太陽年 = 235朔望月 = 6940 日ちょうど、として計算していた。これは1太陽年を約365.263日、1朔望月を約29.5319 日としていたことになる。メトン周期は、後にカリポスやヒッパルコスによって修正された。
カリポス周期(英語版)は、76太陽年を940朔望月に等しいとした周期である。
キュジコスの天文学者・カリポスはメトン周期を修正して、1太陽年を365.25日ちょうどとして計算した。したがって19年間では6939.75 日となる。これを4倍した76年間では27759 日となり、メトン周期の4倍(6940 日 × 4 = 27760 日)より1日少ない。
月数は235朔望月を4倍した940朔望月とし、日数を27759 日とした。したがって1朔望月は、27759/940 = 約29.530851 日となる。76年間に、28回(= 940 − 76 × 12)の閏月を入れることになる。
この76太陽年 = 940朔望月 = 27759 日のカリポス周期は紀元前330年に採用された。中国では四分暦に採用され、76年を1蔀と呼んでいる。
ヒッパルコス周期(英語版)は、304太陽年を3760 朔望月とする周期である。ニカイアのヒッパルコスはカリポス周期をさらに4倍して1日を差し引いて、304年 = 3760 月 = 111035 日とした。これにより1太陽年は、約365.24671 日、1朔望月は約29.530585 日とされた。304年間に112回(= 3760 − 304 × 12)の閏月を入れることになる。
1太陽年は約365.24219 日、1朔望月は約29.530589 日である(西暦2000年時点)。1太陽年を1朔望月で割ると365.24219/29.530589 = 12.368266342...となる。この値に近い分数を正則連分数展開によるディオファントス近似から求めると、連分数表示で[12; 2, 1, 2, 1, 1, 17, 3, 14, 1, 7, 3, 3, 1, 2, 6]となり、これの近似分数列(コンバージェント(英語版))は、12/1、25/2、37/3、99/8、136/11、235/19、4131/334、12628/1021、180923/14628、...となる。この中の235/19(= 12.368421052...)がメトン周期に相当する。
中国では章法と呼ばれていたメトン周期に従って太陽太陰暦が編纂された。19年7閏によって構成される周期を章と呼び、その切替の年を章首と呼んだ。そして章を開始する基準日として章首の年における冬至を11月1日と定めて、19年7閏を経て再び同じ日が巡ってくるように暦が編纂されていた。この冬至は特に朔旦冬至と呼ばれ定期的な朔旦冬至の到来は暦の安定、ひいてはその暦を作成・頒布する王朝の安定の象徴として宮廷においては盛大な祝賀行事が行われた。
ところが五胡十六国時代、北涼の玄始暦(412年施行)からメトン周期によらない暦法(これを「破章法」という)が行われた。例えば、玄始暦では600太陽年 = 7421朔望月(7421/600 = 12.368333333...)とし、南朝の大明暦(510年施行)では391太陽年 = 4836朔望月(4836/391 = 12.368286445...)としている。
高度な計算に基づく破章法によって暦の精度が良くなったのであるが、その代償として章首の冬至が必ず朔旦冬至になるとは限らなくなり、冬至の日がずれたり逆に章首以外の年に朔旦冬至が発生する事態も起こった。中国の朔旦冬至の儀式と破章法暦法の両方を継承した日本ではこうした事態を不吉として捉えて、月の大小や閏月の順序を入れ替えることで強引に章首の朔旦冬至を実現させていた(改暦)。
太陽周期とは、ある日付での七曜が一致する周期の1つで、ユリウス暦では28年周期となる。メトン周期(章法)の考え方を、月相ではなく七曜に当てはめたものである。太陽章ともいう。
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"text": "メトン自身は、19太陽年 = 235朔望月 = 6940 日ちょうど、として計算していた。これは1太陽年を約365.263日、1朔望月を約29.5319 日としていたことになる。メトン周期は、後にカリポスやヒッパルコスによって修正された。",
"title": "メトン周期の修正"
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"text": "キュジコスの天文学者・カリポスはメトン周期を修正して、1太陽年を365.25日ちょうどとして計算した。したがって19年間では6939.75 日となる。これを4倍した76年間では27759 日となり、メトン周期の4倍(6940 日 × 4 = 27760 日)より1日少ない。",
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"text": "月数は235朔望月を4倍した940朔望月とし、日数を27759 日とした。したがって1朔望月は、27759/940 = 約29.530851 日となる。76年間に、28回(= 940 − 76 × 12)の閏月を入れることになる。",
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"text": "ヒッパルコス周期(英語版)は、304太陽年を3760 朔望月とする周期である。ニカイアのヒッパルコスはカリポス周期をさらに4倍して1日を差し引いて、304年 = 3760 月 = 111035 日とした。これにより1太陽年は、約365.24671 日、1朔望月は約29.530585 日とされた。304年間に112回(= 3760 − 304 × 12)の閏月を入れることになる。",
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"text": "1太陽年は約365.24219 日、1朔望月は約29.530589 日である(西暦2000年時点)。1太陽年を1朔望月で割ると365.24219/29.530589 = 12.368266342...となる。この値に近い分数を正則連分数展開によるディオファントス近似から求めると、連分数表示で[12; 2, 1, 2, 1, 1, 17, 3, 14, 1, 7, 3, 3, 1, 2, 6]となり、これの近似分数列(コンバージェント(英語版))は、12/1、25/2、37/3、99/8、136/11、235/19、4131/334、12628/1021、180923/14628、...となる。この中の235/19(= 12.368421052...)がメトン周期に相当する。",
"title": "一般化"
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"text": "中国では章法と呼ばれていたメトン周期に従って太陽太陰暦が編纂された。19年7閏によって構成される周期を章と呼び、その切替の年を章首と呼んだ。そして章を開始する基準日として章首の年における冬至を11月1日と定めて、19年7閏を経て再び同じ日が巡ってくるように暦が編纂されていた。この冬至は特に朔旦冬至と呼ばれ定期的な朔旦冬至の到来は暦の安定、ひいてはその暦を作成・頒布する王朝の安定の象徴として宮廷においては盛大な祝賀行事が行われた。",
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"text": "ところが五胡十六国時代、北涼の玄始暦(412年施行)からメトン周期によらない暦法(これを「破章法」という)が行われた。例えば、玄始暦では600太陽年 = 7421朔望月(7421/600 = 12.368333333...)とし、南朝の大明暦(510年施行)では391太陽年 = 4836朔望月(4836/391 = 12.368286445...)としている。",
"title": "破章法"
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"text": "高度な計算に基づく破章法によって暦の精度が良くなったのであるが、その代償として章首の冬至が必ず朔旦冬至になるとは限らなくなり、冬至の日がずれたり逆に章首以外の年に朔旦冬至が発生する事態も起こった。中国の朔旦冬至の儀式と破章法暦法の両方を継承した日本ではこうした事態を不吉として捉えて、月の大小や閏月の順序を入れ替えることで強引に章首の朔旦冬至を実現させていた(改暦)。",
"title": "破章法"
},
{
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"text": "太陽周期とは、ある日付での七曜が一致する周期の1つで、ユリウス暦では28年周期となる。メトン周期(章法)の考え方を、月相ではなく七曜に当てはめたものである。太陽章ともいう。",
"title": "太陽周期"
}
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メトン周期とは、ある日付での月相が一致する周期の1つであり、19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のことである。メトン周期は、太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる)を求めるのに用いられた。 紀元前433年にアテナイの数学者のメトンが当時行われていた太陰太陽暦の誤りを正すために提案したのでこの名がある。中国では、19年を1章と呼ぶことから章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。
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'''メトン周期'''(メトンしゅうき {{lang-en-short|Metonic cycle}}, {{lang-grc-short|Μετωνικός κύκλος}})とは、ある[[日付]]での[[月相]]が一致する周期の1つであり、19[[太陽年]]は235[[朔望月]]にほぼ等しいという周期のことである{{sfn|平凡社 大百科事典14巻|page=808}}。メトン周期は、[[太陰太陽暦]]において[[閏月]]を入れる回数(19年に7回の[[閏月]]を入れる)を求めるのに用いられた<ref>[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C2C0B1A2C2C0CDDBCEF1.html 太陰太陽暦 周期 19年 (章法、メトン周期)] [[国立天文台]] > 暦計算室 > 暦Wiki</ref>。
[[紀元前5世紀|紀元前433年]]に[[アテナイ]]の数学者の[[メトン]]が当時行われていた[[太陰太陽暦]]の誤りを正すために提案したのでこの名がある{{sfn|平凡社 大百科事典14巻|page=808}}。[[中国]]では、19年を1章と呼ぶことから'''章法'''(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。
== 周期の根拠 ==
19[[太陽年]]は、{{val|p=約|365.242192640|u=日}}×19 = {{val|p=約|6939.60166016|u=日}}である。一方、235朔望月は、{{val|p=約|29.530588853|u=日}}×235 = {{val|p=約|6939.688380455|u=日}}であり{{efn|[[太陽年]]は少しずつ短くなり、[[朔望月]]は少しずつ長くなっている。ここで用いた太陽年と朔望月の日数は、西暦2000年におけるものである。}}、ほぼ等しくなっている(誤差は 約 1.25 × 10<sup>−5</sup>)。12か月 × 19年 + 7か月 = 235か月であるので、メトン周期に従うと[[太陰太陽暦]]では19年間に7回の閏月を入れれば、[[太陽年]]とのずれがほぼ解消されることになる。[[朔望月]]と太陽年との比は、235/19 = {{val|12.36842105263|end=...}}となる。
ただし19太陽年と235朔望月とは完全には一致しておらず、19太陽年につき、{{val|6939.688380455}} − {{val|6939.60166016}} = 約 {{val|0.086720295}} 日(約2.081時間)ずれている。この差は219太陽年が経過すると、ほぼ1日ずれることになる((1日 / 0.086 720 295日)× 19年 = 219.095 年)。このため時々[[改暦]]を行い、ずれを修正する必要があった。
== メトン周期の修正 ==
[[メトン]]自身は、19太陽年 = 235朔望月 = {{val|6940|u=日}}ちょうど、として計算していた。これは1太陽年を約365.263日、1朔望月を{{val|p=約|29.5319|u=日}}としていたことになる。メトン周期は、後にカリポスやヒッパルコスによって修正された。
=== カリポス周期 ===
{{仮リンク|カリポス周期|en|Callipic cycle|preserve=1}}は、76太陽年を940朔望月に等しいとした周期である。
[[キュジコス]]の天文学者・[[カリポス]]はメトン周期を修正して、1[[太陽年]]を365.25日ちょうどとして計算した。したがって19年間では{{val|6939.75|u=日}}となる。これを4倍した76年間では{{val|27759|u=日}}となり、メトン周期の4倍({{val|6940|u=日}} × 4 = {{val|27760|u=日}})より1日少ない。
月数は235朔望月を4倍した940朔望月とし、日数を{{val|27759|u=日}}とした。したがって1[[朔望月]]は、{{val|27759}}/940 = {{val|p=約|29.530851|u=日}}となる。76年間に、28回(= 940 − 76 × 12)の閏月を入れることになる。
この76太陽年 = 940朔望月 = {{val|27759|u=日}}のカリポス周期は紀元前330年に採用された。中国では[[四分暦]]に採用され、76年を1蔀と呼んでいる。
=== ヒッパルコス周期 ===
{{仮リンク|ヒッパルコス周期|en|Hipparchic cycle|preserve=1}}は、304太陽年を{{val|3760|u=朔望月}}とする周期である。[[ニカイア]]の[[ヒッパルコス]]はカリポス周期をさらに4倍して1日を差し引いて、304年 = {{val|3760|u=月}} = {{val|111035|u=日}}とした。これにより1太陽年は、{{val|p=約|365.24671|u=日}}、1朔望月は{{val|p=約|29.530585|u=日}}とされた。304年間に112回(= 3760 − 304 × 12)の閏月を入れることになる。
== 一般化 ==
1太陽年は{{val|p=約|365.24219|u=日}}、1朔望月は{{val|p=約|29.530589|u=日}}である(西暦2000年時点)。1太陽年を1朔望月で割ると{{nowrap|{{val|365.24219}}/{{val|29.530589}}}} = {{val|12.368266342|end=...}}となる。この値に近い[[分数]]を[[正則連分数]]展開による[[ディオファントス近似]]から求めると、連分数表示で{{math|[12; 2, 1, 2, 1, 1, 17, 3, 14, 1, 7, 3, 3, 1, 2, 6]}}<ref>{{WolframAlpha
|title={{nowrap|{{val|365.24219}}/{{val|29.530589}}}}の正則連分数展開
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|url=https://sagecell.sagemath.org/?z=eJxNi0EOgjAQRfck3IFlGxFaECMmwyGMO8KimJo2tNSUqj2-NCjyV2_en-_gwpw0I1OoPFZZcShojfPVFXVWlaQ61TiOFLz4zRmLWpLSbhZiFTQlQVgwJo7eQiqeXO2Tn-MomaNB7cSCHnRLuly3tFuEvCesn5DdO9wE8DN8ZyEPK0eHPP4bC35degC3ee4tZ8NychXqZtsK0L9u4huvQH8AHxU_7g|title={{nowrap|{{val|365.24219}}/{{val|29.530589}}}}のシュターン=ブロコ木上での探索結果|publisher=[[SageMath]]|accessdate=2020-01-09}}</ref>として得られる。}}。この中の'''235/19'''(= {{val|12.368421052|end=...}})がメトン周期に相当する。
== 破章法 ==
中国では章法と呼ばれていたメトン周期に従って太陽太陰暦が編纂された。19年7閏によって構成される周期を章と呼び、その切替の年を章首と呼んだ。そして章を開始する基準日として章首の年における[[冬至]]を[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]と定めて、19年7閏を経て再び同じ日が巡ってくるように暦が編纂されていた。この冬至は特に[[朔旦冬至]]と呼ばれ定期的な朔旦冬至の到来は暦の安定、ひいてはその暦を作成・頒布する王朝の安定の象徴として宮廷においては盛大な祝賀行事が行われた。
ところが[[五胡十六国時代]]、[[北涼]]の玄始暦([[412年]]施行)からメトン周期によらない暦法(これを「[[破章法]]」という)が行われた。例えば、玄始暦では600太陽年 = 7421朔望月(7421/600 = {{val|12.368333333|end=... }})とし、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[大明暦]]([[510年]]施行)では391太陽年 = 4836朔望月(4836/391 = {{val|12.368286445|end=...}})としている。
高度な計算に基づく破章法によって暦の精度が良くなったのであるが、その代償として章首の冬至が必ず朔旦冬至になるとは限らなくなり、冬至の日がずれたり逆に章首以外の年に朔旦冬至が発生する事態も起こった。中国の朔旦冬至の儀式と破章法暦法の両方を継承した[[日本]]ではこうした事態を不吉として捉えて、月の大小や閏月の順序を入れ替えることで強引に章首の朔旦冬至を実現させていた([[改暦#朔旦冬至を巡る「改暦」|改暦]])。
== 太陽周期 ==
'''太陽周期'''とは、ある[[日付]]での[[七曜]]が一致する周期の1つで、[[ユリウス暦]]では28年周期となる。メトン周期(章法)の考え方を、月相ではなく[[七曜]]に当てはめたものである。太陽章ともいう。
== 参考文献 ==
*{{cite book|和書|title=平凡社 大百科事典|volume=14|number=マク-ユウ|chapter=メトン周期|author=内田正男(執筆者)|publisher=平凡社|date=1985年6月28日|edition=初版|ref={{sfnref|平凡社 大百科事典14巻}}|page=808}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[太陰太陽暦]]
*[[太陽年]]
*[[朔望月]]
*[[閏月]]
*[[暦法]]
*[[中巌円月]] - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の僧、数学者。『治暦篇』にメトン周期への言及が見られる。
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太陽年
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太陽年(たいようねん、英: solar year)とは、太陽が黄道上の分点(春分・秋分)と至点(夏至・冬至)から出て再び各点に戻ってくるまでの周期のこと。回帰年(tropical year)ともいう。春分・夏至・秋分・冬至での回帰年を、それぞれ春分回帰年・夏至回帰年・秋分回帰年・冬至回帰年という。
回帰年は地球の歳差運動のため、恒星年より約20分24秒短い(春分回帰年の場合)。なお、分点・至点に対する各回帰年は、それぞれ異なる値を示し、平均したものを平均回帰年(平均太陽年)という。
平均太陽年の長さは一定ではなく、少しずつ短くなっており、現在はおよそ365.242189 日である。変化の原因は、惑星からの引力が、地球の公転軌道運動および歳差に摂動を及ぼすことによる。太陽年の変化は、地球の自転の変化(遅れ)とは別の事象である。
太陽年の変化は次の通りである。
これによれば、1900年から2000年までの100年間に約0.53秒、2000年から2008年の間に約0.24秒、2008年から2013年の間に約0.026秒、2013年から2023年の間に約0.053秒それぞれ短くなっている。
平均太陽年は、100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに約0.532秒ずつ短くなっている。もっと精密には、平均太陽年 Y (単位は、日)の計算式は、Tを2000年1月1日0時を起点(元期)としたユリウス世紀とすると、次の通りである。
Y = 365.242 189 6698 − 0.000 006 153 59 × T − 7.29 × 10 − 10 × T 2 + 2.64 × 10 − 10 × T 3 {\displaystyle Y=365.242\ 189\ 6698-0.000\ 006\ 153\ 59\times T-7.29\times 10^{-10}\times T^{2}+2.64\times 10^{-10}\times T^{3}}
この式から、2100年1月1日0時の太陽年と2000年1月1日0時の太陽年との差は、第2項の0.00000615359に1日の秒数である86400 秒を掛けることにより求めることができ、それは、上記と同じ 約0.532秒となる。
太陽暦の1年は太陽年にあわせて定められている。400年間に97回の閏日を設けるように決められたグレゴリオ暦の1年間は、平均して正確に365.2425日 = 正確に365日5時間49分12秒 = 正確に31556952 秒であり、2013年の太陽年に比べて約26.821秒長い。このため2013年を基準にすると、3,221年後の西暦5234年にはそのずれは1日に達する。そのころにはグレゴリオ暦で定められた閏日を省くことが必要になる。もしくはグレゴリオ暦が定められた1582年を基準にして、それから約3,200年後の西暦4782年ごろに閏日を省くことになるかもしれない。
ただし、前述のように平均太陽年は100年につき0.532秒ほど短くなっているので、実際にはもっと早い時点で1日の誤差が生じると考えられる。
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太陽年とは、太陽が黄道上の分点(春分・秋分)と至点(夏至・冬至)から出て再び各点に戻ってくるまでの周期のこと。回帰年ともいう。春分・夏至・秋分・冬至での回帰年を、それぞれ春分回帰年・夏至回帰年・秋分回帰年・冬至回帰年という。
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'''太陽年'''(たいようねん、{{Lang-en-short|solar year}})とは、[[太陽]]が[[黄道]]上の[[分点]]([[春分]]・[[秋分]])と[[至点]]([[夏至]]・[[冬至]])から出て再び各点に戻ってくるまでの周期のこと。'''回帰年'''(tropical year)ともいう。春分・夏至・秋分・冬至での回帰年を、それぞれ春分回帰年・夏至回帰年・秋分回帰年・冬至回帰年という。
== 概要 ==
回帰年は[[地球の歳差]]運動のため、[[恒星年]]より約20分24秒短い(春分回帰年の場合)。なお、分点・至点に対する各回帰年は、それぞれ異なる値を示し、平均したものを平均回帰年(平均太陽年)という。
== 太陽年の変化==
平均太陽年の長さは一定ではなく、少しずつ短くなっており、現在はおよそ'''{{val|365.242189|u=日}}'''である。変化の原因は、惑星からの引力が、地球の[[公転軌道]]運動および歳差に[[摂動]]を及ぼすことによる。太陽年の変化は、[[地球の自転]]の[[潮汐加速|変化(遅れ)]]とは別の事象である。
太陽年の変化は次の通りである。
; [[1900年]]1月0日12時([[世界時]])の値 : 365日5時間48分45.9747秒 = {{val|31556925.9747|u=秒}}<ref>1967年まで[[秒]]の定義となっていた</ref> = {{val|365.24219878125|u=日}}
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; 2008年年央値<ref>{{Cite book |和書 |editor=天文年鑑編集委員会 |title=天文年鑑2008年版 |date=2008年11月 |publisher=誠文堂新光社 |isbn=978-4-416-21285-1 |chapter=天文基礎データ}}</ref> : 365日5時間48分45.205秒 = {{val|31556925.205|u=秒}} = {{val|p=約|365.24218987|u=日}}
; 2013年年央値<ref>{{Cite book |和書 |author=井上 圭典 |editor=天文年鑑編集委員会 |title=天文年鑑2013年版 |date=2012年11月15日 |publisher=誠文堂新光社 |isbn=978-4-416-21285-1 |page=190 |chapter=天文基礎データ}}</ref> : 365日5時間48分45.179秒 = {{val|31556925.179|u=秒}} = {{val|p=約|365.24218957|u=日}}
; 2019年年央値<ref>{{Cite book |和書 |author=井上 圭典 |editor=天文年鑑編集委員会 |title=天文年鑑2019年版 |date=2018年11月21日 |publisher=誠文堂新光社 |isbn=978-4-416-71802-5 |page=190 |chapter=天文基礎データ}}</ref> : 365日5時間48分45.147秒 = {{val|31556925.147|u=秒}} = {{val|p=約|365.24218920|u=日}}
; 2023年年央値<ref>{{Cite book |和書 |author=相馬 充 |editor=天文年鑑編集委員会 |title=天文年鑑2023年版 |date=2022年11月24日 |publisher=誠文堂新光社 |isbn=978-4-416-52294-3 |page=202 |chapter=天文基礎データ}}</ref> : 365日5時間48分45.126秒 = {{val|31556925.126|u=秒}} = {{val|p=約|365.24218896|u=日}}
これによれば、1900年から2000年までの100年間に約0.53秒、2000年から2008年の間に約0.24秒、2008年から2013年の間に約0.026秒、2013年から2023年の間に約0.053秒それぞれ短くなっている。
平均太陽年は、100年(正確には1[[ユリウス年#ユリウス世紀|ユリウス世紀]])ごとに約0.532秒ずつ短くなっている。もっと精密には、平均太陽年 Y (単位は、日)の計算式は、Tを2000年1月1日0時を起点([[元期]])としたユリウス世紀とすると、次の通りである<ref>{{Cite book |last=McCarthy |first=Dennis D. |title=Time: From Earth Rotation to Atomic Physics |date=2009 |publisher=Wiley-VCH |isbn=978-3-527-40780-4 |page=18 |chapter=2.10 Tropical year |location=Weinheim |url=https://books.google.co.jp/books?id=fjFVW3-LGigC&pg=PA18&lpg=PA18&dq=Time:+From+Earth+Rotation+to+Atomic+Physics+Tropical+year&source=bl&ots=FK9nluUBjx&sig=aZVou-dEcavfS2c3hD4f0OOAPJA&hl=ja&sa=X&ved=0CCoQ6AEwAmoVChMIx_P1yeqHyAIVASaUCh1JaAsK#v=onepage&q=Time%3A%20From%20Earth%20Rotation%20to%20Atomic%20Physics%20Tropical%20year&f=false |last2=Seidelmann |first2=P. Kenneth |archive-url=https://web.archive.org/web/20160406035637/https://books.google.co.jp/books?id=fjFVW3-LGigC&pg=PA18&lpg=PA18&dq=Time:+From+Earth+Rotation+to+Atomic+Physics+Tropical+year&source=bl&ots=FK9nluUBjx&sig=aZVou-dEcavfS2c3hD4f0OOAPJA&hl=ja&sa=X&ved=0CCoQ6AEwAmoVChMIx_P1yeqHyAIVASaUCh1JaAsK#v=onepage&q=Time%3A%20From%20Earth%20Rotation%20to%20Atomic%20Physics%20Tropical%20year&f=false |archive-date=2016-04-06 03:56:37}}</ref><ref>{{Cite journal |last=Rots |first=Arnold H. |last2=Bunclark |first2=Peter S. |last3=Calabretta |first3=Mark R. |last4=Allen |first4=Steven L. |last5=Manchester |first5=Richard N. |last6=Thompson |first6=William T. |date=2015-02-01 |title=Representations of time coordinates in FITS - Time and relative dimension in space |url=https://www.aanda.org/articles/aa/abs/2015/02/aa24653-14/aa24653-14.html |journal=Astronomy & Astrophysics |volume=574 |pages=A36 |language=en |doi=10.1051/0004-6361/201424653 |issn=0004-6361}} 4.2. Time unit</ref>。
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この式から、2100年1月1日0時の太陽年と2000年1月1日0時の太陽年との差は、第2項の{{val|0.00000615359}}に1日の秒数である{{val|86400|u=秒}}を掛けることにより求めることができ、それは、上記と同じ 約0.532秒となる。
== 太陽年と太陽暦 ==
[[太陽暦]]の1年は太陽年にあわせて定められている。400年間に97回の[[閏日]]を設けるように決められた[[グレゴリオ暦]]の1年間は、平均して正確に365.2425日 = 正確に365日5時間49分12秒 = 正確に{{val|31556952|u=秒}}であり、2013年の太陽年に比べて約26.821秒長い。このため2013年を基準にすると、3,221年後の西暦5234年にはそのずれは1日に達する。そのころには[[グレゴリオ暦]]で定められた[[閏日]]を省くことが必要になる。もしくはグレゴリオ暦が定められた1582年を基準にして、それから約3,200年後の西暦4782年ごろに閏日を省くことになるかもしれない。
ただし、前述のように平均太陽年は100年につき0.532秒ほど短くなっているので、実際にはもっと早い時点で1日の誤差が生じると考えられる。
<!--== 太陽年の変化と地球自転の遅れ ==
なお、いわゆる「[[地球の自転]]の遅れ」(実際の自転の遅れは100年(正確には、1[[ユリウス年#ユリウス世紀|ユリウス世紀]])につき1.7ミリ秒/日程度<ref>{{Cite journal |last=McCarthy |first=Dennis D. |last2=Hackman |first2=Christine |last3=Nelson |first3=Robert A. |date=2008-10 |title=THE PHYSICAL BASIS OF THE LEAP SECOND |url=https://dx.doi.org/10.1088/0004-6256/136/5/1906 |journal=The Astronomical Journal |volume=136 |issue=5 |pages=1906–1908 |language=en |doi=10.1088/0004-6256/136/5/1906 |issn=1538-3881}} 4. THE LEAP SECONDの章、p.1907 右、下から6行目</ref>([[:en:USNO|USNO]]の解説では、1[[ユリウス年#ユリウス世紀|ユリウス世紀]]につき1.4ミリ秒/日程度としている<ref>[http://tycho.usno.navy.mil/leapsec.html] 「The Earth is constantly undergoing a deceleration」で始まるパラグラフの第2文目</ref>)は、[[閏秒]]に関わることであって、このことと太陽年が短くなることとは全く別のことである。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[メトン周期]]
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}
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[[Category:時間の単位]]
[[Category:天文学における時間]]
[[Category:天文学に関する記事]]
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恒星年
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恒星年(こうせいねん、英: sidereal year)とは太陽が天球上のある恒星に対する位置から再び同じ位置に戻るまでの時間である。すなわち、太陽が天球を360°一周するのに要する時間であり地球の公転周期(地球が太陽の周りを1周する時間)のことである。
恒星年の長さは 365日06時間09分09.765 秒 = 365.256 363 02日(2016.5年での値)である。春分点を基準とする太陽年よりも20分24.6秒ほど長い。この差を歳差という。
恒星年の長さは他の惑星が地球に及ぼす摂動によって、1万年に1秒の割合で長くなっている。
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'''恒星年'''(こうせいねん、{{lang-en-short|sidereal year}})とは[[太陽]]が[[天球]]上のある[[恒星]]に対する位置から再び同じ位置に戻るまでの時間である。すなわち、太陽が天球を360°一周するのに要する時間であり[[地球]]の[[公転]]周期(地球が[[太陽]]の周りを1周する時間)のことである。
恒星年の長さは 365日06時間09分09.765 秒<ref>天文年鑑2016年版、p188 天文基礎データ(このページの執筆者:井上圭典)、2015年11月26日発行、誠文堂新光社、ISBN 978-4-416-11545-9</ref> = 365.256 363 02日(2016.5年での値<ref>「2016.5年」とは、2016年の中央、すなわち2016年7月1日である。</ref>)である。[[春分点]]を基準とする[[太陽年]]よりも20分24.6秒ほど長い。この差を[[歳差]]という。
恒星年の長さは他の惑星が地球に及ぼす[[摂動 (天文学)|摂動]]によって、1万年に1秒の割合で長くなっている。
== 出典 ==
<references />
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発酵
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発酵(はっこう、英: fermentation、醱酵)は、酵素の働きによって有機物質に化学変化をもたらす代謝プロセスである。生化学では、酸素のない状態で炭水化物からエネルギーを取り出すことと、狭義に定義される。食品製造(英語版)においては、より広く、微生物の活動が食品や飲料に望ましい変化をもたらすあらゆる過程を指すこともある。発酵の科学は発酵学または酵素学と呼ばれる。
微生物において、発酵は、有機栄養素の嫌気的(英語版)な分解を通じてアデノシン三リン酸(ATP)を生成する主要な手段である。
人類は新石器時代から、食品や飲料の生産に発酵を利用してきた。たとえば、発酵は、キュウリのピクルス、コンブチャ、キムチ、ヨーグルトなどの酸っぱい食品に含まれる乳酸を生成する工程で長期保存を可能としたり、ビールやワインなどのアルコール飲料の製造(英語版)にも利用されている。また、発酵は、人間を含むすべての動物の消化管内でも起こる。
工業的発酵(英語版)とは、化学物質、バイオ燃料、酵素、タンパク質、医薬品の大規模製造に微生物を応用する工程を指す、さらに上位の概念である。
発酵のさまざまな定義を、非公式で一般的な用法からより科学的な定義まで次に示す。
「発酵(ferment)」という言葉は、沸騰を意味するラテン語の動詞「fervere」に由来する。14世紀後半に錬金術の分野で初めて使われたと考えられているが、あくまで広義の意味である。現代科学的な意味で使われるようになったのは1600年頃である。
好気呼吸と並んで、発酵は分子からエネルギーを取り出す方法である。これは、すべての細菌と真核生物に共通する唯一の方法である。そのため発酵は、地球上に植物が誕生する以前の太古の環境、つまり大気中に酸素が存在する以前の原始的な環境に適した、最も古い代謝経路であると考えられている。
真菌の一種である酵母は、果物の皮から昆虫や哺乳類の内蔵、そして深海に至るまで、微生物が生息できるほぼあらゆる環境に存在する。酵母は糖分を多く含む分子を変換(分解)してエタノールと二酸化炭素を生成する。
発酵の基本的な機構は、高等生物のすべての細胞に依然として残されている。哺乳類の筋肉は、酸素の供給が制限される激しい運動中に発酵を行い、乳酸を産生する。無脊椎動物では、発酵によってコハク酸やアラニンも生成する。
発酵細菌は、家畜の第一胃、汚水処理槽、淡水成堆積物に至るさまざまな生息環境で、メタンの生産に重要な役割を果たしている。発酵細菌は、水素、二酸化炭素、ギ酸、酢酸、カルボン酸を生成する。その後、複合微生物系が、二酸化炭素と酢酸をメタンに変換する。また、酢酸生成菌はこれらの酸を酸化し、さらに酢酸と水素またはギ酸を生成する。最後に、メタン生成菌(古細菌の一種)が酢酸をメタンに変換する。
発酵により、還元型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(NADH)が、内因性の有機電子受容体と反応する。通常、これは解糖系により糖から生成されたピルビン酸である。この反応によって、酸化型のNADと有機生成物が生成される。後者の代表例として、エタノール、乳酸、水素ガス(H2)、二酸化炭素もよく生成する。しかし、発酵によって酪酸やアセトンなど、さらに珍しい化合物が生成することもある。発酵生成物は、酸素を使わなければそれ以上代謝されないため、廃棄物とみなされる。
発酵は通常、嫌気環境で行われる。酸素(O2)が存在する場合、呼吸によって、NADHとピルビン酸がアデノシン三リン酸(ATP)を生成するのに使われる。これは酸化的リン酸化として知られている。これによって解糖系単独よりもはるかに多くのATPが生成される。このため、酸素が利用できる場合は、発酵はほとんど行われない。しかし、出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)などの一部の酵母株は、酸素が豊富にある場合でも、糖が十分に供給される限り、好気呼吸よりも発酵を好むことが知られている(クラブトリー効果(英語版)とも呼ばれる)。発酵プロセスの中には、酸素に耐えられない偏性嫌気性菌が関与するものもある。
ビールやワインなどのアルコール飲料に含まれるエタノールの生産では酵母が発酵を行うが、酵母だけが発酵を行うわけではなく、たとえばキサンタンガムの製造では細菌が発酵を行っている。
エタノール発酵(アルコール発酵とも呼ばれる)では、1分子のグルコースが、2分子のエタノールと2分子の二酸化炭素(CO2)に変換される。これはパン生地を膨らませるのにも使われ、二酸化炭素の作りだす気泡によって生地が泡だって膨張する。エタノールは、ワイン、ビール、リキュールなどのアルコール飲料に含まれる酩酊剤である。サトウキビ、トウモロコシ、テンサイなどの原料の発酵により生産されるエタノールは、バイオマスエタノールとしてガソリンに添加される。金魚や鯉など一部の魚類においては、エタノール発酵は(乳酸発酵とともに)酸素が不足したときのエネルギー供給源となる。
発酵の前に、グルコース分子は2分子のピルビン酸に分解される(解糖という)。この発熱反応からのエネルギーは、無機リン酸を ADP に結合させ、ADP を ATP に、NADをNADHにそれぞれ変換するために使われる。ピルビン酸塩は2分子のアセトアルデヒドに分解され、2分子の二酸化炭素を老廃物として排出する。アセトアルデヒドは、NADHのエネルギーと水素を使ってエタノールに還元され、NADHはNADに酸化され、このサイクルを繰り返すことができる。この反応は、ピルビン酸デカルボキシラーゼとアルコールデヒドロゲナーゼという酵素によって触媒される。
ホモ乳酸発酵(Homolactic fermentation、乳酸のみを生成する)は、最も単純な種類の発酵である。解糖系からのピルビン酸が単純な酸化還元反応を起こして乳酸を生成する。全体として、1分子のグルコース(または任意の六炭糖)が2分子の乳酸に変換される。
乳酸は、動物の筋肉で血液が酸素を供給するよりも早くエネルギーを必要とするときに、グリコーゲンが分解されて生成する。乳酸は、乳酸菌などの細菌や一部の真菌類にも存在する。ヨーグルトに含まれる乳糖を乳酸に変え、酸味を与えるのもこの種類の細菌である。これらの乳酸菌は、最終生成物のほとんどが乳酸であるホモ乳酸発酵と、一部の乳酸がさらにエタノールと二酸化炭素(ホスホケトラーゼ経路を経由)、酢酸、その他の代謝生成物に代謝されるヘテロ乳酸発酵のいずれかを行うことができる。一例を示す。
ヨーグルトやチーズのように、乳糖が発酵すると、まずグルコースとガラクトース(どちらも同じ原子式の六炭糖)に変換される。
ヘテロ乳酸発酵は、ある意味では、乳酸発酵とアルコール発酵など別の種類の発酵との中間的なものである。乳酸を別のものにさらに進んで変換する理由には、次のようなものがある。
水素ガス(H2)は、NADHからNADを再生する手段として、多くの種類の発酵により作られる。電子はフェレドキシンに移動し、フェレドキシンはヒドロゲナーゼによって酸化されてH2を生成する。水素ガスはメタン生成菌や硫酸還元菌の基質となるため、水素濃度は低く保たれ、このようなエネルギーに豊む化合物の生成に有利になるが、腸内ガスのようにかなり高濃度の水素ガスが生成されることもある。
たとえば、細菌であるクロストリジウム・パストゥリアヌム(Clostridium pasteurianum)はグルコースを酪酸、酢酸、二酸化炭素、水素ガスに発酵させる。酢酸を生成する反応は次のとおりである。
メタン発酵とは、メタン菌の有する代謝系のひとつであり、水素、ギ酸、酢酸などの電子を用いて二酸化炭素をメタンまで還元する系である。メタン菌以外の生物はこの代謝系を持っていない。嫌気環境における有機物分解の最終段階の代謝系であり、特異な酵素および補酵素群を有する。
その他の発酵には、混合酸発酵(英語版)、ブタンジオール発酵(英語版)、酪酸発酵、カプロン酸発酵、アセトン-ブタノール-エタノール発酵、グリオキシル酸発酵などがある。
食品および工業的な文脈では、管理された容器内で生物によって行われるあらゆる化学的修飾を「発酵(fermentation)」と呼ぶことがある。次にあげるいくつかの例は、生化学的な意味の発酵には該当しないが、広い意味では発酵と呼ばれるものである。
発酵は代替タンパク源の製造に使用されている。大豆のような植物性由来の食品を含む既存のタンパク質食品を、テンペや腐乳のような、より風味豊かな形に加工するためによく使われる。
より近代的な「発酵」では、肉類、牛乳、チーズ、卵の代用品を製造するのに役立つ組換えタンパク質が作られている。代表的な例をあげる。
ミオグロビンやヘモグロビンなどのヘムタンパク質 (en:英語版) は、食肉に特徴的な食感、風味、色、香りを与える。ミオグロビンやレグヘモグロビンの成分は、肉からではなく、発酵槽から得られるにもかかわらず、こうした特性を再現することができる。
工業的発酵(英語版)は、酵素の生産にも利用することができ、触媒活性を持つタンパク質が微生物によって産生・分泌される。発酵プロセス、微生物工学、および組換え遺伝子技術の開発により、さまざまな酵素が商業的に製造されるようになった。酵素は、食品(乳糖除去(英語版)、チーズ風味)、飲料(ジュース製造)、製パン(パンの軟化、生地の調整)、動物飼料、洗剤(タンパク質、デンプン、脂質の汚れ除去)、繊維、パーソナルケア、パルプ・製紙など、あらゆる産業分野で使用されている。
ほとんどの工業的発酵(英語版)は、バッチまたはフェッドバッチ(流加回分)の工程が用いられているが、さまざまな課題、特に無菌状態を維持する難しさを解決できるなら、連続発酵の方が経済的な場合もある。
バッチプロセスでは、すべての原料が一度に組み合わされて、追加の投入なしで反応が進行する。バッチ発酵(batch fermentation)は、何千年もの間、パンやアルコール飲料の製造に使用されており、特にそのプロセスがよく理解されていない場合には、今でも一般的な方法である。しかし、バッチとバッチとの間で高圧蒸気で発酵槽を殺菌しなければならないため、費用が高くつくことがある。厳密には、pHを制御したり、泡立ちを抑制するために、しばしば少量の化学物質が添加される。
バッチ発酵は、いくつかの段階からなる。細胞が環境に適応する遅滞期(lag phase、ラグフェーズ)があり、その後、指数関数的成長期が続く。多くの栄養素が消費されると増殖は鈍化し、指数関数的ではなくなるが、二次代謝産物(商業的に重要な抗生物質や酵素が含まれる)の生成は加速する。栄養素がほとんど消費された後も、定常期を通じてこの状態が続き、その後に細胞は死滅する。
フェッドバッチ発酵(fed-batch fermentation、流加培養)はバッチ発酵の変形で、発酵中に一部の原料が追加される。これにより、プロセスの段階をより細かく制御できるようになる。特に、非・指数関数的成長期に限定量の栄養素を追加することによって、二次代謝産物の生産量を増加させることができる。フェッドバッチ法は、しばしばバッチ法と併用される。
バッチとバッチの間で、発酵槽の殺菌にかかる高い費用は、汚染に強いさまざまなオープン型発酵法(open fermentation)を使用することで回避できる。一つは、自然に進化した混合培養を使用することである。混合個体群は多種多様な廃棄物に適応できるため、特に廃水処理に適している。好熱性細菌は、微生物汚染を防ぐのに十分な約50 °Cの温度で乳酸を生産することができ、エタノールはその沸点(78 °C)をわずかに下回る70 °Cで生産されるため、抽出が容易である。好塩性細菌は、高塩性条件下でバイオプラスチックを生成することができる。固体発酵は、固体の基質に少量の水を加えるもので、食品産業でフレーバー、酵素、有機酸を生産するために広く利用されている。
連続発酵(continuous fermentation)は、基質が連続的に追加され、最終生成物が連続的に除去される。栄養レベルを一定に保つケモスタット(英語版)(恒成分培養)、細胞量を一定に保つタービドスタット(英語版)(濁度調節型連続培養)、培地がチューブ内を安定的に流れ、細胞が出口から入口へと再利用されるプラグフローリアクター(英語版)(栓流培養)の3種類がある。プロセスがうまく機能すれば、供給物と排出物の安定した流れができ、バッチ処理を繰り返す手間と費用を避けられる。これにより、反応を阻害する副生成物を連続的に除去し、指数関数的成長期を延長することができる。しかし、汚染を回避し、定常状態を維持し続けることは容易でなく、設計も複雑になりやすい。連続型をバッチ型よりも経済的にするには、通常、発酵槽を500時間以上、連続稼働させる必要がある。
発酵の、特に酒類への利用は新石器時代から存在し、中国の賈湖(Jiahu)(英語版)では紀元前7000年から6600年頃にかけて、インドでは紀元前5000年、アーユルヴェーダには多くの薬用ワインが言及され、ジョージアでは紀元前6000年、古代エジプトでは紀元前3150年、バビロンでは紀元前3000年、古代メキシコでは紀元前2000年、スーダンでは紀元前1500年の記録がある。発酵食品はユダヤ主義やキリスト教的信仰(英語版) において宗教的な意味を持っている。バルト海の神(英語版)ルグティス(Rugutis)は、発酵を司る神として崇拝されていた。錬金術では、発酵(「腐敗」)は磨羯宮(まかつきゅう、、♑︎)によって象徴化されていた。
1837年、シャルル・カニャール・ド・ラ・ツール(英語版)(Charles Cagniard de la Tour)、テオドール・シュワン、フリードリヒ・トラウゴット・キュッツインクの3人はそれぞれ論文を発表し、顕微鏡による調査の結果、酵母は出芽によって繁殖する生物であると結論づけた。シュワンはブドウ果汁を煮沸して酵母を死滅させ、新しい酵母を加えるまで発酵が起こらないことを発見した。しかし、アントワーヌ・ラヴォアジエを含む多くの化学者は、発酵を単純な化学反応と見なし続け、生物が関与している可能性があるという考えを否定した。これは生気論(生物に関する信念)への回帰と見なされ、ユストゥス・フォン・リービッヒとフリードリヒ・ヴェーラーによる匿名の出版物で揶揄(やゆ)された。
転機となったのは、ルイ・パスツール(1822-1895)が1850年代から1860年代にかけて、シュワンの実験を繰り返した一連の研究で、発酵が生物によって起こされることを示したことである。1857年、パスツールは乳酸発酵が生物によって引き起こされることを示した。1860年に彼は、それまで単なる化学変化と考えられていた細菌による牛乳の酸味(英語版)の仕組みを明らかにした。食品の腐敗における微生物の役割を特定した彼の研究は、後に低温殺菌のプロセスにつながった。
1877年、フランスの醸造業の改善に務めたパスツールは、発酵に関する有名な論文「Etudes sur la Bière」を発表した。これは1879年に「発酵に関する研究(Studies on fermentation)」として英訳された。彼は(誤って)発酵を「空気を使わない生命(Life without air)」と定義したが、特定の種類の微生物がいかにして特定の種類の発酵を引き起こし、特定の最終生成物をもたらすかを正しく示した。
発酵が生きた微生物の働きによって起こることを示すことは画期的であったが、発酵の基本的な性質を説明したわけではなく、また常に存在していると思われた微生物が原因で引き起こされることを証明したわけでもなかった。パスツールを含む多くの科学者は、酵母から発酵酵素を抽出しようと試みて失敗した。
1897年、ドイツの化学者エドゥアルト・ブフナーが酵母を粉砕し、そこから分泌液を抽出したところ、この「死んだ」液体が生きた酵母と同じように糖液を発酵させ、二酸化炭素とアルコールを生成することを発見し、驚きとともに成功がもたらされた。
ブフナーの成果は、生化学の誕生に結びついたと考えられている。「無生酵母」は、生存酵母とまったく同じようにふるまった。それ以来、酵素という用語はすべての発酵に適用されるようになった。さらに、発酵は微生物が産生する酵素によって引き起こされることが理解された。1907年、ブフナーはその功績によりノーベル化学賞を受賞した。
微生物学と発酵技術の進歩は今日にいたるまで着実に続いている。たとえば、1930年代には、物理的または化学的処理によって微生物を変異させ、より収量が多く、より増殖が速く、より低い酸素を許容し、より高濃度の培地を使用できることが発見された。そのうえ、菌株の選択と交配も発展し、これらは現代のほとんどの食品発酵に影響を与えている。
発酵の分野は、食品や飲料から工業用化学薬品や医薬品に至るまで、幅広い消費財の生産に欠かせないものとなっている。古代文明の初期に始まって以来、発酵の利用は進化と拡大を続け、新しい手法や技術によって製品の品質、収量、効率が向上した。1930年代以降には、抗生物質や酵素のような高価値製品を生産するための新しいプロセスの開発、バルク化学物質の生産における発酵の重要性の向上、機能性食品や栄養補助食品の生産における発酵の利用への関心の高まりなど、発酵技術の多くの重要な進歩が見られた。
1950年代と1960年代には、固定化細胞や固定化酵素の使用といった新しい発酵技術が開発され、発酵プロセスをより正確に制御できるようになり、抗生物質や酵素のような高価値製品の生産が増加した。1970年代から1980年代にかけ、発酵はエタノール、乳酸、クエン酸などのバルク化学物質の生産においてますます重要性を増した。そのため新しい発酵技術が開発され、収率を向上させ生産コストを削減するために、遺伝子組換え微生物が使用されるようになった。1990年代から2000年代にかけて、発酵を利用して、基礎的な栄養摂取にとどまらない健康上の利点が期待できる機能性食品や栄養補助食品の製造への関心が高まった。このため、新しい発酵プロセスが開発され、プロバイオティクス(腸内有益菌)やその他の機能性成分が使用されるようになった。
全体として、1930年以降、工業目的での発酵の利用は著しく進歩し、現在世界中で消費されているさまざまな発酵製品の生産につながった。
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"text": "発酵細菌は、家畜の第一胃、汚水処理槽、淡水成堆積物に至るさまざまな生息環境で、メタンの生産に重要な役割を果たしている。発酵細菌は、水素、二酸化炭素、ギ酸、酢酸、カルボン酸を生成する。その後、複合微生物系が、二酸化炭素と酢酸をメタンに変換する。また、酢酸生成菌はこれらの酸を酸化し、さらに酢酸と水素またはギ酸を生成する。最後に、メタン生成菌(古細菌の一種)が酢酸をメタンに変換する。",
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"text": "フェッドバッチ発酵(fed-batch fermentation、流加培養)はバッチ発酵の変形で、発酵中に一部の原料が追加される。これにより、プロセスの段階をより細かく制御できるようになる。特に、非・指数関数的成長期に限定量の栄養素を追加することによって、二次代謝産物の生産量を増加させることができる。フェッドバッチ法は、しばしばバッチ法と併用される。",
"title": "工業的生産の方式"
},
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "バッチとバッチの間で、発酵槽の殺菌にかかる高い費用は、汚染に強いさまざまなオープン型発酵法(open fermentation)を使用することで回避できる。一つは、自然に進化した混合培養を使用することである。混合個体群は多種多様な廃棄物に適応できるため、特に廃水処理に適している。好熱性細菌は、微生物汚染を防ぐのに十分な約50 °Cの温度で乳酸を生産することができ、エタノールはその沸点(78 °C)をわずかに下回る70 °Cで生産されるため、抽出が容易である。好塩性細菌は、高塩性条件下でバイオプラスチックを生成することができる。固体発酵は、固体の基質に少量の水を加えるもので、食品産業でフレーバー、酵素、有機酸を生産するために広く利用されている。",
"title": "工業的生産の方式"
},
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "連続発酵(continuous fermentation)は、基質が連続的に追加され、最終生成物が連続的に除去される。栄養レベルを一定に保つケモスタット(英語版)(恒成分培養)、細胞量を一定に保つタービドスタット(英語版)(濁度調節型連続培養)、培地がチューブ内を安定的に流れ、細胞が出口から入口へと再利用されるプラグフローリアクター(英語版)(栓流培養)の3種類がある。プロセスがうまく機能すれば、供給物と排出物の安定した流れができ、バッチ処理を繰り返す手間と費用を避けられる。これにより、反応を阻害する副生成物を連続的に除去し、指数関数的成長期を延長することができる。しかし、汚染を回避し、定常状態を維持し続けることは容易でなく、設計も複雑になりやすい。連続型をバッチ型よりも経済的にするには、通常、発酵槽を500時間以上、連続稼働させる必要がある。",
"title": "工業的生産の方式"
},
{
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"tag": "p",
"text": "発酵の、特に酒類への利用は新石器時代から存在し、中国の賈湖(Jiahu)(英語版)では紀元前7000年から6600年頃にかけて、インドでは紀元前5000年、アーユルヴェーダには多くの薬用ワインが言及され、ジョージアでは紀元前6000年、古代エジプトでは紀元前3150年、バビロンでは紀元前3000年、古代メキシコでは紀元前2000年、スーダンでは紀元前1500年の記録がある。発酵食品はユダヤ主義やキリスト教的信仰(英語版) において宗教的な意味を持っている。バルト海の神(英語版)ルグティス(Rugutis)は、発酵を司る神として崇拝されていた。錬金術では、発酵(「腐敗」)は磨羯宮(まかつきゅう、、♑︎)によって象徴化されていた。",
"title": "発酵利用の歴史"
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"text": "1837年、シャルル・カニャール・ド・ラ・ツール(英語版)(Charles Cagniard de la Tour)、テオドール・シュワン、フリードリヒ・トラウゴット・キュッツインクの3人はそれぞれ論文を発表し、顕微鏡による調査の結果、酵母は出芽によって繁殖する生物であると結論づけた。シュワンはブドウ果汁を煮沸して酵母を死滅させ、新しい酵母を加えるまで発酵が起こらないことを発見した。しかし、アントワーヌ・ラヴォアジエを含む多くの化学者は、発酵を単純な化学反応と見なし続け、生物が関与している可能性があるという考えを否定した。これは生気論(生物に関する信念)への回帰と見なされ、ユストゥス・フォン・リービッヒとフリードリヒ・ヴェーラーによる匿名の出版物で揶揄(やゆ)された。",
"title": "発酵利用の歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "転機となったのは、ルイ・パスツール(1822-1895)が1850年代から1860年代にかけて、シュワンの実験を繰り返した一連の研究で、発酵が生物によって起こされることを示したことである。1857年、パスツールは乳酸発酵が生物によって引き起こされることを示した。1860年に彼は、それまで単なる化学変化と考えられていた細菌による牛乳の酸味(英語版)の仕組みを明らかにした。食品の腐敗における微生物の役割を特定した彼の研究は、後に低温殺菌のプロセスにつながった。",
"title": "発酵利用の歴史"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "1877年、フランスの醸造業の改善に務めたパスツールは、発酵に関する有名な論文「Etudes sur la Bière」を発表した。これは1879年に「発酵に関する研究(Studies on fermentation)」として英訳された。彼は(誤って)発酵を「空気を使わない生命(Life without air)」と定義したが、特定の種類の微生物がいかにして特定の種類の発酵を引き起こし、特定の最終生成物をもたらすかを正しく示した。",
"title": "発酵利用の歴史"
},
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "発酵が生きた微生物の働きによって起こることを示すことは画期的であったが、発酵の基本的な性質を説明したわけではなく、また常に存在していると思われた微生物が原因で引き起こされることを証明したわけでもなかった。パスツールを含む多くの科学者は、酵母から発酵酵素を抽出しようと試みて失敗した。",
"title": "発酵利用の歴史"
},
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"text": "1897年、ドイツの化学者エドゥアルト・ブフナーが酵母を粉砕し、そこから分泌液を抽出したところ、この「死んだ」液体が生きた酵母と同じように糖液を発酵させ、二酸化炭素とアルコールを生成することを発見し、驚きとともに成功がもたらされた。",
"title": "発酵利用の歴史"
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"text": "ブフナーの成果は、生化学の誕生に結びついたと考えられている。「無生酵母」は、生存酵母とまったく同じようにふるまった。それ以来、酵素という用語はすべての発酵に適用されるようになった。さらに、発酵は微生物が産生する酵素によって引き起こされることが理解された。1907年、ブフナーはその功績によりノーベル化学賞を受賞した。",
"title": "発酵利用の歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "微生物学と発酵技術の進歩は今日にいたるまで着実に続いている。たとえば、1930年代には、物理的または化学的処理によって微生物を変異させ、より収量が多く、より増殖が速く、より低い酸素を許容し、より高濃度の培地を使用できることが発見された。そのうえ、菌株の選択と交配も発展し、これらは現代のほとんどの食品発酵に影響を与えている。",
"title": "発酵利用の歴史"
},
{
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"text": "発酵の分野は、食品や飲料から工業用化学薬品や医薬品に至るまで、幅広い消費財の生産に欠かせないものとなっている。古代文明の初期に始まって以来、発酵の利用は進化と拡大を続け、新しい手法や技術によって製品の品質、収量、効率が向上した。1930年代以降には、抗生物質や酵素のような高価値製品を生産するための新しいプロセスの開発、バルク化学物質の生産における発酵の重要性の向上、機能性食品や栄養補助食品の生産における発酵の利用への関心の高まりなど、発酵技術の多くの重要な進歩が見られた。",
"title": "発酵利用の歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1950年代と1960年代には、固定化細胞や固定化酵素の使用といった新しい発酵技術が開発され、発酵プロセスをより正確に制御できるようになり、抗生物質や酵素のような高価値製品の生産が増加した。1970年代から1980年代にかけ、発酵はエタノール、乳酸、クエン酸などのバルク化学物質の生産においてますます重要性を増した。そのため新しい発酵技術が開発され、収率を向上させ生産コストを削減するために、遺伝子組換え微生物が使用されるようになった。1990年代から2000年代にかけて、発酵を利用して、基礎的な栄養摂取にとどまらない健康上の利点が期待できる機能性食品や栄養補助食品の製造への関心が高まった。このため、新しい発酵プロセスが開発され、プロバイオティクス(腸内有益菌)やその他の機能性成分が使用されるようになった。",
"title": "発酵利用の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "全体として、1930年以降、工業目的での発酵の利用は著しく進歩し、現在世界中で消費されているさまざまな発酵製品の生産につながった。",
"title": "発酵利用の歴史"
}
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発酵は、酵素の働きによって有機物質に化学変化をもたらす代謝プロセスである。生化学では、酸素のない状態で炭水化物からエネルギーを取り出すことと、狭義に定義される。食品製造においては、より広く、微生物の活動が食品や飲料に望ましい変化をもたらすあらゆる過程を指すこともある。発酵の科学は発酵学または酵素学と呼ばれる。 微生物において、発酵は、有機栄養素の嫌気的な分解を通じてアデノシン三リン酸(ATP)を生成する主要な手段である。 人類は新石器時代から、食品や飲料の生産に発酵を利用してきた。たとえば、発酵は、キュウリのピクルス、コンブチャ、キムチ、ヨーグルトなどの酸っぱい食品に含まれる乳酸を生成する工程で長期保存を可能としたり、ビールやワインなどのアルコール飲料の製造にも利用されている。また、発酵は、人間を含むすべての動物の消化管内でも起こる。 工業的発酵とは、化学物質、バイオ燃料、酵素、タンパク質、医薬品の大規模製造に微生物を応用する工程を指す、さらに上位の概念である。
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{{Otheruses|生化学的な作用|その他の用途|発酵 (曖昧さ回避)}}
{{Distinguish|嫌気呼吸}}
[[File:Fermenting.jpg|thumb|進行中の発酵。発酵混合物の上に[[二酸化炭素]]の泡が見える。]]
'''発酵'''(はっこう、{{Lang-en-short|fermentation}}、'''醱酵'''{{Efn|戦前から「發酵」表記は併存していた。[[福澤諭吉]]「福澤全集 巻四」時事新報社 (1898) p.159 [http://www.mita.lib.keio.ac.jp/search/complete_works.html#59 福澤諭吉著作一覧 - 全集・選集]、『大辭典 第二十巻』平凡社 (1936) p.593}})は、[[酵素]]の働きによって有機[[物質]]に化学変化をもたらす[[代謝]]プロセスである。[[生化学]]では、[[酸素]]のない状態で[[炭水化物]]から[[化学エネルギー|エネルギー]]を取り出すことと、狭義に定義される。{{ill2|発酵食品の一覧|en|List of fermented foods|label=食品製造}}においては、より広く、[[微生物]]の活動が食品や飲料に望ましい変化をもたらすあらゆる過程を指すこともある<ref name="Hui 2004 p.">{{cite book | last=Hui | first=Y. H. | title=Handbook of vegetable preservation and processing | publisher=M. Dekker | location=New York | year=2004 | isbn=978-0-8247-4301-7 | oclc=52942889 | page=180}}</ref>。発酵の科学は[[発酵学]]または[[酵素学]]と呼ばれる。
微生物において、発酵は、[[栄養素|有機栄養素]]の{{Ill2|嫌気消化|en|Anaerobic digestion|label=嫌気的}}な分解を通じて[[アデノシン三リン酸]](ATP)を生成する主要な手段である。
人類は[[新石器時代]]から、食品や飲料の生産に発酵を利用してきた。たとえば、発酵は、[[きゅうりピクルス|キュウリのピクルス]]、[[コンブチャ]]、[[キムチ]]、[[ヨーグルト]]などの酸っぱい食品に含まれる[[乳酸]]を生成する工程で長期保存を可能としたり、[[ビール]]や{{Ill2|発酵によるぶどう酒醸造|en|Fermentation in winemaking|label=ワインなどのアルコール飲料の製造}}にも利用されている。また、発酵は、人間を含むすべての動物の[[消化管]]内でも起こる<ref>{{cite web |last=Bowen |first=Richard |title=Microbial Fermentation |url=http://www.vivo.colostate.edu/hbooks/pathphys/digestion/largegut/ferment.html |access-date=29 April 2018 |website=Hypertexts for biological sciences |publisher=Colorado State University}}</ref>。
{{Ill2|工業的発酵|en|Industrial fermentation}}とは、化学物質、[[バイオ燃料]]、酵素、[[タンパク質]]、[[医薬品]]の大規模製造に微生物を応用する工程を指す、さらに上位の概念である。
==定義と語源==
発酵のさまざまな定義を、非公式で一般的な用法からより科学的な定義まで次に示す<ref>{{cite book |last1=Tortora |first1=Gerard J. |last2=Funke |first2=Berdell R.|last3=Case|first3=Christine L. |title=Microbiology An Introduction |url=https://archive.org/details/microbiologyintr00tort_505 |url-access=limited |date=2010 |publisher=Pearson Benjamin Cummings |location=San Francisco, CA |isbn=978-0-321-58202-7 |page=[https://archive.org/details/microbiologyintr00tort_505/page/n167 135]|edition=10|ref=31|chapter=5}}<!--|access-date=9 December 2014--></ref>。
# 微生物を用いた[[発酵食品|食品]]の保存法(一般用途)
# 空気の有無にかかわらず発生する大規模な微生物プロセス(産業界で使用される一般的な定義。{{Ill2|工業的発酵|en|Industrial fermentation}}として知られている)
# アルコール飲料または酸性乳製品を製造するあらゆる工程(一般用途)
# 嫌気条件下でのみ起こるエネルギー放出代謝プロセス(やや科学的)
# [[糖]]やその他の[[有機分子]]からエネルギーを放出し、酸素や[[電子伝達系]]を必要とせず、最終的な[[電子受容体]]として有機分子を使用する代謝プロセス(最も科学的)
「発酵(''ferment'')」という言葉は、[[沸騰]]を意味する[[ラテン語]]の動詞「''fervere''」に由来する。14世紀後半に[[錬金術]]の分野で初めて使われたと考えられているが、あくまで広義の意味である。現代科学的な意味で使われるようになったのは1600年頃である{{Citation needed|date=January 2021}}。
== 生物学的役割 ==
[[好気呼吸]]と並んで、発酵は[[分子]]からエネルギーを取り出す方法である。これは、すべての[[細菌]]と[[真核生物]]に共通する唯一の方法である。そのため発酵は、地球上に植物が誕生する以前の太古の環境、つまり大気中に酸素が存在する以前の原始的な環境に適した、最も古い[[代謝経路]]であると考えられている<ref name="Tobin" />{{rp|389}}。
[[真菌]]の一種である[[酵母]]は、果物の皮から昆虫や哺乳類の内蔵、そして深海に至るまで、微生物が生息できるほぼあらゆる環境に存在する。酵母は糖分を多く含む分子を変換(分解)して[[エタノール]]と[[二酸化炭素]]を生成する<ref>{{cite journal|last1=Martini|first1=A.|s2cid=35231385|title=Biodiversity and conservation of yeasts|journal=Biodiversity and Conservation|date=1992|volume=1|issue=4|pages=324–333|doi=10.1007/BF00693768}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Bass|first1=D.|last2=Howe|first2=A.|last3=Brown|first3=N.|last4=Barton|first4=H.|last5=Demidova|first5=M.|last6=Michelle|first6=H.|last7=Li|first7=L.|last8=Sanders|first8=H.|last9=Watkinson|first9=S. C|last10=Willcock|first10=S.|last11=Richards|first11=T. A|title=Yeast forms dominate fungal diversity in the deep oceans|journal=Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences|date=22 December 2007|volume=274|issue=1629|pages=3069–3077|doi=10.1098/rspb.2007.1067|pmid=17939990|pmc=2293941}}</ref>。
発酵の基本的な機構は、高等生物のすべての細胞に依然として残されている。[[哺乳類]]の[[筋肉]]は、酸素の供給が制限される激しい運動中に発酵を行い、[[乳酸]]を産生する<ref name="Voet">{{cite book|last1=Voet|first1=Donald|last2=Voet|first2=Judith G.|title=Biochemistry|date=2010|publisher=Wiley Global Education|isbn=9781118139936|edition=4th}}</ref>{{rp|63}}。[[無脊椎動物]]では、発酵によって[[コハク酸]]や[[アラニン]]も生成する<ref>{{cite book|last1=Broda|first1=E|title=The Evolution of the Bioenergetic Processes|journal=Progress in Biophysics and Molecular Biology|date=2014|volume=21|pages=143–208|publisher=Elsevier|pmid=4913287|isbn=9781483136134}}</ref>{{rp|141}}。
発酵細菌は、家畜の[[第一胃]]、汚水処理槽、淡水成堆積物に至るさまざまな生息環境で、[[メタン]]の生産に重要な役割を果たしている。発酵細菌は、水素、二酸化炭素、[[ギ酸塩|ギ酸]]、[[酢酸塩|酢酸]]、[[カルボン酸]]を生成する。その後、複合微生物系が、二酸化炭素と酢酸をメタンに変換する。また、[[酢酸菌|酢酸生成菌]]はこれらの酸を酸化し、さらに酢酸と水素またはギ酸を生成する。最後に、[[メタン生成菌]]([[古細菌]]の一種)が酢酸をメタンに[[メタン生成経路|変換]]する<ref>{{cite journal|last1=Ferry|first1=J G|title=Methane from acetate.|journal=Journal of Bacteriology|date=September 1992|volume=174|issue=17|pages=5489–5495|doi=10.1128/jb.174.17.5489-5495.1992|pmid=1512186|pmc=206491}}</ref>。
== 生化学的概要 ==
{{正確性|中間的な微好気性条件下での発酵に関する情報が欠けている(例: {{doi|10.1016/j.biotechadv.2012.11.005}})。このような条件で、酸素を除去する好気性細菌の存在のもと、偏性嫌気性細菌が生存することができる(例: {{doi|10.1186/s12934-016-0412-z}})。|date=2022年4月}}[[File:Cellular respiration.gif|thumb|upright=1.2|[[真核生物|真核]]細胞における好気呼吸と最もよく知られている発酵タイプとの比較<ref>{{cite book |last=Stryer |first=Lubert |year=1995 |title=Biochemistry |publisher=W. H. Freeman and Company |location=New York - Basingstoke |edition=fourth |isbn=978-0716720096 }}</ref>。円内の数字は分子の炭素原子数を示し、C6は[[グルコース]]C<sub>6</sub>H<sub>12</sub>O<sub>6</sub>,、C1は[[二酸化炭素]]CO<sub>2</sub>である。[[ミトコンドリア]]外膜は省略している。]]発酵により、[[還元]]型の[[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド]](NADH)が、[[内因性 (生物学)|内因性]]の[[有機化合物|有機]]{{Ill2|電子受容体|en|Electron acceptor}}と反応する<ref name="Prescott Microbiology">{{cite book|author1=Klein, Donald W.|url=http://highered.mcgraw-hill.com/sites/0072556781/information_center_view0/|title=Microbiology|author2=Lansing M.|author3=Harley, John|publisher=[[:en:McGraw-Hill|McGraw-Hill]]|year=2006|isbn=978-0-07-255678-0|edition=6th|location=New York}}</ref>。通常、これは[[解糖系]]により糖から生成された[[ピルビン酸]]である。この反応によって、酸化型のNAD<sup>+</sup>と有機生成物が生成される。後者の代表例として、[[エタノール]]、[[乳酸]]、[[水素ガス]](H<sub>2</sub>)、[[二酸化炭素]]もよく生成する。しかし、発酵によって[[酪酸]]や[[アセトン]]など、さらに珍しい化合物が生成することもある。発酵生成物は、酸素を使わなければそれ以上代謝されないため、廃棄物とみなされる{{cn|date=June 2022}}。
発酵は通常、[[貧酸素水塊|嫌気環境]]で行われる。酸素(O<sub>2</sub>)が存在する場合、[[細胞呼吸|呼吸]]によって、NADHと[[ピルビン酸]]が[[アデノシン三リン酸]](ATP)を生成するのに使われる。これは[[酸化的リン酸化]]として知られている。これによって解糖系単独よりもはるかに多くのATPが生成される。このため、酸素が利用できる場合は、発酵はほとんど行われない。しかし、[[出芽酵母]](''Saccharomyces cerevisiae'')などの一部の[[酵母]]株は、酸素が豊富にある場合でも、[[砂糖|糖]]が十分に供給される限り、[[好気呼吸]]よりも発酵を好むことが知られている({{Ill2|クラブトリー効果|en|Crabtree effect}}とも呼ばれる)<ref>{{cite book|last1=Piškur|first1=Jure|last2=Compagno|first2=Concetta|title=Molecular mechanisms in yeast carbon metabolism|date=2014|publisher=Springer|isbn=9783642550133|page=12}}</ref>。発酵プロセスの中には、酸素に耐えられない{{Ill2|偏性嫌気性菌|en|Obligate anaerobe}}が関与するものもある{{Citation needed|date=January 2021}}。
[[ビール]]や[[ワイン]]などのアルコール飲料に含まれるエタノールの生産では[[酵母]]が[[発酵食品|発酵]]を行うが、酵母だけが発酵を行うわけではなく、たとえば[[キサンタンガム]]の製造では[[細菌]]が発酵を行っている{{Citation needed|date=January 2021}}。
== 発酵生成物 ==
=== エタノール ===
{{Main|エタノール発酵}}
エタノール発酵(アルコール発酵とも呼ばれる)では、1分子の[[グルコース]]が、2分子のエタノールと2分子の[[二酸化炭素]](CO<sub>2</sub>)に変換される<ref name="Life 2004. pp. 139-140">{{cite book|last1=Purves|first1=William K.|last2=Sadava|first2=David E.|last3=Orians|first3=Gordon H.|last4=Heller|first4=H. Craig|title=Life, the science of biology|url=https://archive.org/details/lifesciencebiolo00purv_787|url-access=limited|date=2003|publisher=Sinauer Associates|location=Sunderland, Mass.|isbn=978-0-7167-9856-9|pages=[https://archive.org/details/lifesciencebiolo00purv_787/page/n141 139]–40|edition=7th}}</ref><ref name="stryer">{{cite book|title=Biochemistry|author=Stryer, Lubert|year=1975|publisher=W. H. Freeman and Company|isbn=978-0-7167-0174-3|url=https://archive.org/details/biochemistry00stry_1}}</ref>。これはパン生地を膨らませるのにも使われ、二酸化炭素の作りだす気泡によって生地が泡だって膨張する<ref>{{cite journal|last1=Logan|first1=BK|last2=Distefano|first2=S|title=Ethanol content of various foods and soft drinks and their potential for interference with a breath-alcohol test.|journal=Journal of Analytical Toxicology|date=1997|volume=22|issue=3|pages=181–83|pmid=9602932|doi=10.1093/jat/22.3.181|doi-access=free}}</ref><ref>{{cite journal|title=The Alcohol Content of Bread.|journal=Canadian Medical Association Journal|date=November 1926|volume=16|issue=11|pages=1394–95|pmid=20316063|pmc=1709087}}</ref>。エタノールは、ワイン、ビール、[[リキュール]]などのアルコール飲料に含まれる[[人体へのエタノールの作用|酩酊剤]]である<ref>{{cite web|title=Alcohol|url=https://www.drugs.com/alcohol.html|website=Drugs.com|access-date=26 April 2018}}</ref>。[[サトウキビ]]、[[トウモロコシ]]、[[テンサイ]]などの原料の発酵により生産されるエタノールは、[[バイオマスエタノール]]として[[ガソリン]]に添加される<ref name="usda1">{{cite web|url=http://www.rurdev.usda.gov/rbs/pub/sep06/ethanol.htm|title=Ethanol from Sugar|author=James Jacobs, Ag Economist|publisher=United States Department of Agriculture|access-date=2007-09-04|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20070910023203/http://www.rurdev.usda.gov/rbs/pub/sep06/ethanol.htm|archive-date=2007-09-10}}</ref>。[[金魚]]や[[鯉]]など一部の魚類においては、エタノール発酵は(乳酸発酵とともに)酸素が不足したときのエネルギー供給源となる<ref>{{cite book|first1=Aren |last1=van Waarde|first2=G. Van den |last2=Thillart|first3=Maria |last3=Verhagen|title=Surviving Hypoxia|date=1993|isbn=978-0-8493-4226-4|pages=157–70|chapter=Ethanol Formation and pH-Regulation in Fish}}</ref>。
発酵の前に、グルコース分子は2分子のピルビン酸に分解される([[解糖系|解糖]]という)。この[[発熱反応]]からのエネルギーは、[[リン酸塩|無機リン酸]]を ADP に結合させ、ADP を ATP に、NAD<sup>+</sup>をNADHにそれぞれ変換するために使われる。ピルビン酸塩は2分子の[[アセトアルデヒド]]に分解され、2分子の二酸化炭素を老廃物として排出する。アセトアルデヒドは、NADHのエネルギーと水素を使ってエタノールに還元され、NADHはNAD<sup>+</sup>に酸化され、このサイクルを繰り返すことができる。この反応は、[[ピルビン酸デカルボキシラーゼ]]と[[アルコールデヒドロゲナーゼ]]という酵素によって触媒される<ref name="Life 2004. pp. 139-140" />。
=== 乳酸 ===
{{Main|乳酸発酵}}
{{See also|{{ill2|混合有機酸発酵|en|Mixed acid fermentation}}}}
{{出典の明記| date = 2021年1月| section = 1}}
[[ホモ乳酸発酵]](''[[:en:Homolactic_fermentation|Homolactic fermentation]]、''乳酸のみを生成する)は、最も単純な種類の発酵である<ref name="Introductory Botany 2007. p. 86">Introductory Botany: plants, people, and the Environment. Berg, Linda R. Cengage Learning, 2007. {{ISBN|978-0-534-46669-5}}. p. 86</ref>。解糖系からのピルビン酸が単純な酸化還元反応を起こして[[乳酸]]を生成する<ref name="AP Biology. Anestis 2006. P. 61">AP Biology. Anestis, Mark. 2nd Edition. McGraw-Hill Professional. 2006. {{ISBN|978-0-07-147630-0}}. p. 61</ref><ref name="Volume 3. Thorpe 1922. p.159">A dictionary of applied chemistry, Volume 3. Thorpe, Sir Thomas Edward. Longmans, Green and Co., 1922. p.159</ref>。全体として、1分子のグルコース(または任意の六炭糖)が2分子の乳酸に変換される。
:C<sub>6</sub>H<sub>12</sub>O<sub>6</sub> → 2 CH<sub>3</sub>CHOHCOOH
乳酸は、動物の筋肉で血液が酸素を供給するよりも早くエネルギーを必要とするときに、[[グリコーゲン]]が分解されて生成する。乳酸は、[[乳酸菌]]などの[[細菌]]や一部の[[真菌]]類にも存在する。[[ヨーグルト]]に含まれる[[乳糖]]を乳酸に変え、酸味を与えるのもこの種類の細菌である。これらの乳酸菌は、最終生成物のほとんどが乳酸である[[ホモ乳酸発酵]]と、一部の乳酸がさらにエタノールと二酸化炭素<ref name="AP Biology. Anestis 2006. P. 61" />([[ホスホケトラーゼ]]経路を経由)、酢酸、その他の代謝生成物に代謝されるヘテロ乳酸発酵のいずれかを行うことができる。一例を示す。
:C<sub>6</sub>H<sub>12</sub>O<sub>6</sub> → CH<sub>3</sub>CHOHCOOH + C<sub>2</sub>H<sub>5</sub>OH + CO<sub>2</sub>
ヨーグルトやチーズのように、乳糖が発酵すると、まずグルコースと[[ガラクトース]](どちらも同じ原子式の六炭糖)に変換される。
:C<sub>12</sub>H<sub>22</sub>O<sub>11</sub> + H<sub>2</sub>O → 2 C<sub>6</sub>H<sub>12</sub>O<sub>6</sub>
ヘテロ乳酸発酵は、ある意味では、[[乳酸発酵]]と[[アルコール発酵]]など別の種類の発酵との中間的なものである。乳酸を別のものにさらに進んで変換する理由には、次のようなものがある。
* 乳酸の酸性は生物学的プロセスを抑制する。これによって酸性に適応できない競争相手が排除されて、発酵微生物にとって有益となりうる。その結果、食品の保存期間を長くできる(食品が意図的に発酵するひとつの理由)。しかし、ある点を超えると、酸性度はそれを生成する生物に影響を及ぼし始める。
* 高濃度の乳酸(発酵の最終生成物)は平衡を逆行させ([[ル・シャトリエの原理]])、発酵速度を低下させ、増殖の進行を遅らせる。
* 乳酸から容易に変換されるエタノールは揮発性が高く、容易に蒸発するため、反応は容易に進行する。CO<sub>2</sub>も生成されるが、弱酸性でエタノールよりも揮発性が高い。
* 別の変換生成物である酢酸は、エタノールほど揮発性は高くないが、酸素が限られている環境では、乳酸から酢酸を生成することで、さらにエネルギーが放出される。酢酸は乳酸よりも軽い分子で、周囲と形成する水素結合の数が少ないために揮発性が高く、反応がより迅速に進行する。
* [[プロピオン酸]]や[[酪酸]]など、より長いモノカルボン酸が生成すると、エタノールと同様に消費されるグルコースあたりの酸の生成量が減少し、より早く増殖することができる。
=== 水素ガス ===
{{Main|{{ill2|発酵水素生成|en|Fermentative hydrogen production}}}}
[[水素ガス]](H<sub>2</sub>)は、NADHからNAD<sup>+</sup>を再生する手段として、多くの種類の発酵により作られる。[[電子]]は[[フェレドキシン]]に移動し、フェレドキシンは[[ヒドロゲナーゼ]]によって酸化されてH<sub>2</sub>を生成する<ref name="Life 2004. pp. 139-140" />。水素ガスは[[メタン生成菌]]や[[硫酸還元菌]]の[[基質 (化学)#生化学|基質]]となるため、水素濃度は低く保たれ、このようなエネルギーに豊む化合物の生成に有利になるが<ref>{{cite book
| last1 = Madigan
| first1 = Michael T.
| last2 = Martinko
| first2 = John M.
| last3 = Parker
| first3 = Jack
| year = 1996
| title = Brock biology of microorganisms
| edition = 8th
| publisher = [[:en:Prentice Hall|Prentice Hall]]
| isbn = 978-0-13-520875-5
| url = https://archive.org/details/brockbiologyofmi0000madi
| access-date = 2010-07-12
| url-access = registration
}}</ref>、[[屁|腸内ガス]]のようにかなり高濃度の水素ガスが生成されることもある{{Citation needed|date=January 2021}}。
たとえば、細菌であるクロストリジウム・パストゥリアヌム(''[[:en:Clostridium_pasteurianum|Clostridium pasteurianum]]'')はグルコースを[[酪酸]]、[[酢酸]]、二酸化炭素、水素ガスに発酵させる<ref>{{Cite journal | last1 = Thauer | first1 = R.K.
| last2 = Jungermann | first2 = K. | last3 = Decker | first3 = K. | year = 1977 | title = Energy conservation in chemotrophic anaerobic bacteria | journal = Bacteriological Reviews | volume = 41 | issue = 1 | pages = 100–80 | issn = 0005-3678 | pmid=860983 | pmc=413997| doi = 10.1128/MMBR.41.1.100-180.1977
}}</ref>。酢酸を生成する反応は次のとおりである。
:C<sub>6</sub>H<sub>12</sub>O<sub>6</sub> + 4 H<sub>2</sub>O → 2 CH<sub>3</sub>COO<sup>−</sup> + 2 HCO<sub>3</sub><sup>−</sup> + 4 H<sup>+</sup> + 4 H<sub>2</sub>
=== メタン ===
{{Main|メタン発酵}}
メタン発酵とは、[[メタン菌]]の有する[[代謝]]系のひとつであり、[[水素]]、[[ギ酸]]、[[酢酸]]などの[[電子]]を用いて[[二酸化炭素]]を[[メタン]]まで還元する系である。メタン菌以外の生物はこの代謝系を持っていない。[[嫌気]]環境における[[有機物]]分解の最終段階の代謝系であり、特異な[[酵素]]および[[補酵素]]群を有する。
=== その他 ===
その他の発酵には、{{Ill2|混合酸発酵|en|Mixed acid fermentation}}、{{Ill2|ブタンジオール発酵|en|Butanediol fermentation}}、酪酸発酵、カプロン酸発酵、[[アセトン-ブタノール-エタノール発酵]]、グリオキシル酸発酵などがある{{Citation needed|date=January 2021}}。
=== 広義の発酵 ===
食品および工業的な文脈では、管理された容器内で生物によって行われるあらゆる化学的修飾を「発酵(fermentation)」と呼ぶことがある。次にあげるいくつかの例は、生化学的な意味の発酵には該当しないが、広い意味では発酵と呼ばれるものである。
==== 代替タンパク質 ====
{{See|{{ill2|発酵食品の一覧|en|List of fermented foods}}}}
[[File:Impossible Burger - Gott's Roadside- 2018 - Stierch.jpg|thumb|[[インポッシブル・フーズ|インポッシブル・バーガー]]に含まれるヘムタンパク質を製造するのに発酵が使用されている。]]
発酵は代替タンパク源の製造に使用されている。[[大豆]]のような植物性由来の食品を含む既存のタンパク質食品を、[[テンペ]]や[[腐乳]]のような、より風味豊かな形に加工するためによく使われる。
より近代的な「発酵」では、[[代替肉|肉類]]、[[代替乳|牛乳]]、[[アナログチーズ|チーズ]]、[[代用卵|卵]]の代用品を製造するのに役立つ[[組換えタンパク質]]が作られている。代表的な例をあげる<ref name="flora">{{cite web |author1=Flora Southey |title=What's next in alternative protein? 7 trends on the up in 2022 |url=https://www.foodnavigator.com/Article/2022/01/27/what-s-next-in-alternative-protein-7-trends-on-the-up-in-2022 |publisher=Food-Navigator.com, William Reed Business Media |access-date=27 January 2022 |date=27 January 2022}}</ref>。
* 人工肉用の組換えミオグロビン(Motif Foodworks)
* 組換え{{Ill2|レグヘモグロビン|en|Leghemoglobin}}を使った人工肉([[インポッシブル・フーズ]])
* 乳製品代替用の組換え乳清({{Ill2|パーフェクト・デイ (企業)|en|Perfect Day (company)|label=パーフェクト・デイ}})
* 組換え卵白(EVERY)
ミオグロビンやヘモグロビンなどの{{Ill2|ヘムタンパク質|en|Hemoprotein}}{{Enlink|Hemoprotein|英語版|en}}は、食肉に特徴的な食感、風味、色、香りを与える。ミオグロビンやレグヘモグロビンの成分は、肉からではなく、発酵槽から得られるにもかかわらず、こうした特性を再現することができる<ref name="flora" /><ref name="wired">{{Cite magazine|author=Matt Simon|date=2017-09-20|title=Inside the Strange Science of the Fake Meat That 'Bleeds'|url=https://www.wired.com/story/the-impossible-burger/|language=en-us|issn=1059-1028|magazine=Wired|access-date=2020-10-28}}</ref>。
==== 酵素 ====
{{Ill2|工業的発酵|en|Industrial fermentation}}は、[[酵素]]の生産にも利用することができ、[[触媒活性]]を持つタンパク質が微生物によって産生・分泌される。発酵プロセス、微生物工学、および[[組換え遺伝子]]技術の開発により、さまざまな酵素が商業的に製造されるようになった。酵素は、食品({{Ill2|限外ろ過牛乳|en|Ultrafiltered milk|label=乳糖除去}}、チーズ風味)、[[ジュース|飲料]](ジュース製造)、[[製パン]](パンの軟化、生地の調整)、動物[[飼料]]、[[洗剤]](タンパク質、デンプン、脂質の汚れ除去)、繊維、[[パーソナルケア]]、[[パルプ]]・製紙など、あらゆる産業分野で使用されている<ref>{{Cite journal|last1=Kirk|first1=Ole|last2=Borchert|first2=Torben Vedel|last3=Fuglsang|first3=Claus Crone|date=2002-08-01|title=Industrial enzyme applications|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0958166902003282|journal=Current Opinion in Biotechnology|language=en|volume=13|issue=4|pages=345–351|doi=10.1016/S0958-1669(02)00328-2|pmid=12323357 |issn=0958-1669}}</ref>。
== 工業的生産の方式 ==
ほとんどの{{Ill2|工業的発酵|en|Industrial fermentation}}は、バッチまたはフェッドバッチ(流加回分)の工程が用いられているが、さまざまな課題、特に無菌状態を維持する難しさを解決できるなら、連続発酵の方が経済的な場合もある<ref name="Li">{{cite journal|last1=Li|first1=Teng|last2=Chen|first2=Xiang-bin|last3=Chen|first3=Jin-chun|last4=Wu|first4=Qiong|last5=Chen|first5=Guo-Qiang|title=Open and continuous fermentation: Products, conditions and bioprocess economy|journal=Biotechnology Journal|date=December 2014|volume=9|issue=12|pages=1503–1511|doi=10.1002/biot.201400084|pmid=25476917|s2cid=21524147}}</ref>。
=== バッチ型 ===
バッチプロセスでは、すべての原料が一度に組み合わされて、追加の投入なしで反応が進行する。バッチ発酵(batch fermentation)は、何千年もの間、パンやアルコール飲料の製造に使用されており、特にそのプロセスがよく理解されていない場合には、今でも一般的な方法である<ref name="Cinar">{{cite book|last1=Cinar|first1=Ali|last2=Parulekar|first2=Satish J.|last3=Undey|first3=Cenk|last4=Birol|first4=Gulnur|title=Batch fermentation modeling, monitoring, and control.|date=2003|publisher=Marcel Dekker|location=New York|isbn=9780203911358}}</ref>{{rp|1}}。しかし、バッチとバッチとの間で高圧蒸気で発酵槽を殺菌しなければならないため、費用が高くつくことがある<ref name="Li" />。厳密には、[[水素イオン指数|pH]]を制御したり、泡立ちを抑制するために、しばしば少量の化学物質が添加される<ref name="Cinar" />{{rp|25}}。
バッチ発酵は、いくつかの段階からなる。細胞が環境に適応する遅滞期(lag phase、ラグフェーズ)があり、その後、[[指数関数的成長|指数関数的成長期]]が続く。多くの栄養素が消費されると増殖は鈍化し、指数関数的ではなくなるが、二次代謝産物(商業的に重要な抗生物質や酵素が含まれる)の生成は加速する。栄養素がほとんど消費された後も、定常期を通じてこの状態が続き、その後に細胞は死滅する<ref name="Cinar" />{{rp|25}}。
=== フェッドバッチ型 ===
{{See also|流加培養}}
フェッドバッチ発酵(fed-batch fermentation、[[流加培養]])はバッチ発酵の変形で、発酵中に一部の原料が追加される。これにより、プロセスの段階をより細かく制御できるようになる。特に、非・指数関数的成長期に限定量の栄養素を追加することによって、二次代謝産物の生産量を増加させることができる。フェッドバッチ法は、しばしばバッチ法と併用される<ref name="Cinar" />{{rp|1}}<ref name="Schmid">{{cite book|last1=Schmid|first1=Rolf D.|last2=Schmidt-Dannert|first2=Claudia|title=Biotechnology : an illustrated primer|date=2016|publisher=John Wiley & Sons|isbn=9783527335152|edition=Second|page=92}}</ref>。
=== オープン型 ===
バッチとバッチの間で、発酵槽の殺菌にかかる高い費用は、汚染に強いさまざまなオープン型発酵法(open fermentation)を使用することで回避できる。一つは、自然に進化した混合培養を使用することである。混合個体群は多種多様な廃棄物に適応できるため、特に廃水処理に適している。[[好熱菌|好熱性細菌]]は、微生物汚染を防ぐのに十分な約50 °Cの温度で乳酸を生産することができ、エタノールはその沸点(78 °C)をわずかに下回る70 °Cで生産されるため、抽出が容易である。[[好塩菌|好塩性細菌]]は、高塩性条件下で[[バイオプラスチック]]を生成することができる。固体発酵は、固体の基質に少量の水を加えるもので、食品産業で[[合成香料|フレーバー]]、酵素、有機酸を生産するために広く利用されている<ref name="Li" />。
=== 連続型 ===
連続発酵(continuous fermentation)は、基質が連続的に追加され、最終生成物が連続的に除去される<ref name="Li" />。栄養レベルを一定に保つ{{Ill2|ケモスタット|en|Chemostat}}(恒成分培養)、細胞量を一定に保つ{{Ill2|タービドスタット|en|Turbidostat}}(濁度調節型連続培養)、培地がチューブ内を安定的に流れ、細胞が出口から入口へと再利用される{{Ill2|プラグフローリアクターモデル|en|Plug flow reactor model|label=プラグフローリアクター}}(栓流培養)の3種類がある<ref name="Schmid" />。プロセスがうまく機能すれば、供給物と排出物の安定した流れができ、バッチ処理を繰り返す手間と費用を避けられる。これにより、反応を阻害する副生成物を連続的に除去し、指数関数的成長期を延長することができる。しかし、汚染を回避し、定常状態を維持し続けることは容易でなく、設計も複雑になりやすい<ref name="Li" />。連続型をバッチ型よりも経済的にするには、通常、発酵槽を500時間以上、連続稼働させる必要がある<ref name="Schmid" />。
== 発酵利用の歴史 ==
{{Main|発酵食品<!--Fermentation in food processing-->}}
発酵の、特に[[アルコール飲料|酒類]]への利用は[[新石器時代]]から存在し、[[中国の新石器文化の一覧|中国]]の{{Ill2|賈湖|en|Jiahu|label=賈湖(Jiahu)}}では紀元前7000年から6600年頃にかけて<ref name="mcgovern">{{Cite journal | last1 = McGovern | first1 = P. E. | last2 = Zhang | first2 = J. | last3 = Tang | first3 = J. | last4 = Zhang | first4 = Z. | last5 = Hall | first5 = G. R. | last6 = Moreau | first6 = R. A. | last7 = Nunez | first7 = A. | last8 = Butrym | first8 = E. D. | last9 = Richards | first9 = M. P. | last10 = Wang | first10 = C. -S. | last11 = Cheng | first11 = G. | last12 = Zhao | first12 = Z. | last13 = Wang | first13 = C. | title = Fermented beverages of pre- and proto-historic China | doi = 10.1073/pnas.0407921102 | journal = Proceedings of the National Academy of Sciences | volume = 101 | issue = 51 | pages = 17593–17598 | year = 2004 | pmid = 15590771| pmc = 539767| bibcode = 2004PNAS..10117593M | doi-access = free }}</ref>、インドでは紀元前5000年、[[アーユルヴェーダ]]には多くの薬用ワインが言及され、ジョージアでは紀元前6000年<ref name="mcgoverng">{{Cite journal | last1 = Vouillamoz | first1 = J. F. | last2 = McGovern | first2 = P. E. | last3 = Ergul | first3 = A. | last4 = Söylemezoğlu | first4 = G. K. | last5 = Tevzadze | first5 = G. | last6 = Meredith | first6 = C. P. | last7 = Grando | first7 = M. S. | doi = 10.1079/PGR2006114 | title = Genetic characterization and relationships of traditional grape cultivars from Transcaucasia and Anatolia | journal = Plant Genetic Resources: Characterization and Utilization | volume = 4 | issue = 2 | pages = 144–158 | year = 2006 | citeseerx = 10.1.1.611.7102 | s2cid = 85577497 }}</ref>、[[古代エジプト]]では紀元前3150年<ref name="Cavalieri">{{cite journal |last=Cavalieri |first=D |author2=McGovern P.E. |author3=Hartl D.L. |author4=Mortimer R. |author5=Polsinelli M. |year=2003 |title=Evidence for S. cerevisiae fermentation in ancient wine |journal=Journal of Molecular Evolution |volume=57 Suppl 1 |pages=S226–32 |id=15008419 |url=http://www.oeb.harvard.edu/hartl/lab/publications/pdfs/Cavalieri-03-JME.pdf|access-date=2007-01-28|doi=10.1007/s00239-003-0031-2 |pmid= 15008419 |archive-url = https://web.archive.org/web/20061209165920/http://www.oeb.harvard.edu/hartl/lab/publications/pdfs/Cavalieri-03-JME.pdf |archive-date=December 9, 2006 |url-status=dead|citeseerx = 10.1.1.628.6396|bibcode=2003JMolE..57S.226C |s2cid=7914033 }}</ref>、[[バビロン]]では紀元前3000年<ref name="FAO">{{cite web |url=http://www.fao.org/docrep/x0560e/x0560e05.htm |title=Fermented fruits and vegetables. A global perspective |access-date=2007-01-28 |work=FAO Agricultural Services Bulletins - 134 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070119162605/http://www.fao.org/docrep/x0560e/x0560e05.htm |archive-date=January 19, 2007 |url-status=dead }}</ref>、古代メキシコでは紀元前2000年<ref name="FAO" />、[[スーダン]]では紀元前1500年の記録がある<ref name="Dirar">Dirar, H., (1993), The Indigenous Fermented Foods of the Sudan: A Study in African Food and Nutrition, CAB International, UK</ref>。発酵食品は[[ハーメーツ|ユダヤ主義]]や{{Ill2|キリスト教におけるアルコールに対する考え方|en|Christian views on alcohol|label=キリスト教的信仰}} において宗教的な意味を持っている。{{Ill2|Baltic mythology|en|バルト神話|label=バルト海の神}}ルグティス(Rugutis)は、発酵を司る神として崇拝されていた<ref>{{cite web |url=http://www.spauda.lt/mitai/lietuva/lietdiev.htm |title=Gintaras Beresneviius. M. Strijkovskio Kronikos" lietuvi diev sraas |work=spauda.lt |access-date=2015-11-06}}</ref><ref>Rūgutis. Mitologijos enciklopedija, 2 tomas. Vilnius. Vaga. 1999. 293 p.</ref>。[[錬金術]]では、発酵(「腐敗」)は[[磨羯宮]](まかつきゅう、[[Image:Capricornus symbol (fixed width).svg|16px]]、♑︎)によって[[錬金術記号|象徴化]]されていた。
[[File:Portrait of Louis Pasteur in his laboratory Wellcome M0010355.jpg|thumb|研究室でのルイ・パスツール]]
1837年、{{Ill2|シャルル・カニャール・ド・ラ・ツール|en|Charles Cagniard de la Tour}}(Charles Cagniard de la Tour)、[[テオドール・シュワン]]、[[フリードリヒ・トラウゴット・キュッツインク]]の3人はそれぞれ論文を発表し、[[顕微鏡]]による調査の結果、酵母は[[出芽]]によって繁殖する生物であると結論づけた<ref name="Lengeler">{{cite book|editor-last1=Lengeler|editor-first1=Joseph W.|editor-last2=Drews|editor-first2=Gerhart|editor-last3=Schlegel|editor-first3=Hans Günter|title=Biology of the prokaryotes|date=1999|publisher=Thieme [u.a.]|location=Stuttgart|isbn=9783131084118}}</ref><ref name="Shurtleff">{{cite web|last1=Shurtleff|first1=William|last2=Aoyagi|first2=Akiko|title=A Brief History of Fermentation, East and West|url=http://www.soyinfocenter.com/HSS/fermentation.php|website=Soyinfo Center|publisher=Soyfoods Center, Lafayette, California|access-date=30 April 2018}}</ref>{{rp|6}}。シュワンはブドウ果汁を煮沸して酵母を死滅させ、新しい酵母を加えるまで発酵が起こらないことを発見した。しかし、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]を含む多くの化学者は、発酵を単純な化学反応と見なし続け、生物が関与している可能性があるという考えを否定した。これは[[生気論]](生物に関する信念)への回帰と見なされ、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]と[[フリードリヒ・ヴェーラー]]による匿名の出版物で揶揄(やゆ)された<ref name="Tobin">{{cite book|last1=Tobin|first1=Allan|last2=Dusheck|first2=Jennie|title=Asking about life|date=2005|publisher=Brooks/Cole|location=Pacific Grove, Calif.|isbn=9780534406530|edition=3rd}}</ref>{{rp|108–109}}。
転機となったのは、[[ルイ・パスツール]](1822-1895)が1850年代から1860年代にかけて、シュワンの実験を繰り返した一連の研究で、発酵が生物によって起こされることを示したことである<ref name="Volume 3. Thorpe 1922. p.159" /><ref name="Lengeler" />{{rp|6}}。1857年、パスツールは乳酸発酵が生物によって引き起こされることを示した<ref>[http://www.fjcollazo.com/fjc_publishings/documents/LPasteurRpt.htm Accomplishments of Louis Pasteur] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101130000148/http://www.fjcollazo.com/fjc_publishings/documents/LPasteurRpt.htm |date=2010-11-30 }}. Fjcollazo.com (2005-12-30). Retrieved on 2011-01-04.</ref>。1860年に彼は、それまで単なる化学変化と考えられていた細菌による牛乳の{{Ill2|酸性化|en|Souring|label=酸味}}の仕組みを明らかにした。食品の腐敗における微生物の役割を特定した彼の研究は、後に[[低温殺菌]]のプロセスにつながった<ref>[http://science.howstuffworks.com/dictionary/famous-scientists/chemists/louis-pasteur-info.htm HowStuffWorks "Louis Pasteur"]. Science.howstuffworks.com (2009-07-01). Retrieved on 2011-01-04.</ref>。
1877年、[[フランスのビール|フランスの醸造業]]の改善に務めたパスツールは、発酵に関する有名な論文「''Etudes sur la Bière''」を発表した。これは1879年に「発酵に関する研究(''Studies on fermentation'')」として英訳された<ref>Louis Pasteur (1879) Studies on fermentation: The diseases of beer, their causes, and the means of preventing them. Macmillan Publishers.</ref>。彼は(誤って)発酵を「空気を使わない生命(''Life without air'')」と定義したが<ref name="Modern History Sourcebook 1895">Modern History Sourcebook: Louis Pasteur (1822–1895): Physiological theory of fermentation, 1879. Translated by F. Faulkner, D.C. Robb.</ref>、特定の種類の微生物がいかにして特定の種類の発酵を引き起こし、特定の最終生成物をもたらすかを正しく示した{{Citation needed|date=January 2021}}。
発酵が生きた微生物の働きによって起こることを示すことは画期的であったが、発酵の基本的な性質を説明したわけではなく、また常に存在していると思われた微生物が原因で引き起こされることを証明したわけでもなかった。パスツールを含む多くの科学者は、[[酵母]]から発酵酵素を抽出しようと試みて失敗した<ref name="Modern History Sourcebook 1895" />。
1897年、ドイツの化学者[[エドゥアルト・ブフナー]]が酵母を粉砕し、そこから分泌液を抽出したところ、この「死んだ」液体が生きた酵母と同じように糖液を発酵させ、二酸化炭素とアルコールを生成することを発見し、驚きとともに成功がもたらされた<ref>[https://books.google.com/books?id=HFrBP8S7my4C&pg=PA25 New beer in an old bottle]: Eduard Buchner and the Growth of Biochemical Knowledge. [[:en:Cornish-Bowden, Athel|Cornish-Bowden, Athel]]. Universitat de Valencia. 1997. {{ISBN|978-84-370-3328-0}}. p. 25.</ref>。
ブフナーの成果は、生化学の誕生に結びついたと考えられている。「無生酵母」は、生存酵母とまったく同じようにふるまった。それ以来、酵素という用語はすべての発酵に適用されるようになった。さらに、発酵は微生物が産生する酵素によって引き起こされることが理解された<ref>[https://archive.org/details/enigmaoffermentf0000lage/page/7 The enigma of ferment: from the philosopher's stone to the first biochemical Nobel prize]. Lagerkvist, Ulf. World Scientific Publishers. 2005. {{ISBN|978-981-256-421-4}}. p. 7.</ref>。1907年、ブフナーはその功績により[[ノーベル化学賞]]を受賞した<ref>A treasury of world science, Volume 1962, Part 1. Runes, Dagobert David. Philosophical Library Publishers. 1962. p. 109.</ref>。
微生物学と発酵技術の進歩は今日にいたるまで着実に続いている。たとえば、1930年代には、物理的または化学的処理によって微生物を[[突然変異|変異]]させ、より収量が多く、より増殖が速く、より低い酸素を許容し、より高濃度の培地を使用できることが発見された<ref>{{cite book |last1=Steinkraus |first1=Keith |title=Handbook of Indigenous Fermented Foods |date=2018 |publisher=CRC Press |isbn=9781351442510 |edition=Second}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Wang|first1=H. L.|last2=Swain|first2=E. W.|last3=Hesseltine|first3=C. W.|title=Phytase of molds used in oriental food fermentation|journal=Journal of Food Science|volume=45|pages=1262–1266|year=1980|doi=10.1111/j.1365-2621.1980.tb06534.x|issue=5}}</ref>。そのうえ、菌株の[[自然選択説|選択]]と[[交配]]も発展し、これらは現代のほとんどの食品発酵に影響を与えている{{Citation needed|date=January 2021}}。
=== 1930年代以降 ===
発酵の分野は、食品や飲料から工業用化学薬品や医薬品に至るまで、幅広い消費財の生産に欠かせないものとなっている。古代文明の初期に始まって以来、発酵の利用は進化と拡大を続け、新しい手法や技術によって製品の品質、収量、効率が向上した。1930年代以降には、抗生物質や酵素のような高価値製品を生産するための新しいプロセスの開発、バルク化学物質の生産における発酵の重要性の向上、機能性食品や栄養補助食品の生産における発酵の利用への関心の高まりなど、発酵技術の多くの重要な進歩が見られた。
1950年代と1960年代には、固定化細胞や固定化酵素の使用といった新しい発酵技術が開発され、発酵プロセスをより正確に制御できるようになり、[[抗生物質]]や酵素のような高価値製品の生産が増加した。1970年代から1980年代にかけ、発酵はエタノール、乳酸、クエン酸などのバルク化学物質の生産においてますます重要性を増した。そのため新しい発酵技術が開発され、収率を向上させ生産コストを削減するために、遺伝子組換え微生物が使用されるようになった。1990年代から2000年代にかけて、発酵を利用して、基礎的な栄養摂取にとどまらない健康上の利点が期待できる[[機能性食品]]や[[栄養補助食品]]の製造への関心が高まった。このため、新しい発酵プロセスが開発され、[[プロバイオティクス]](腸内有益菌)やその他の機能性成分が使用されるようになった。
全体として、1930年以降、工業目的での発酵の利用は著しく進歩し、現在世界中で消費されているさまざまな発酵製品の生産につながった。
== 関連項目 ==
{{Columns-list|colwidth=20em|
* {{ill2|発酵食品の一覧|en|List of fermented foods}} - 微生物の働きによって生産または保存される食品の一覧
* {{ill2|好気発酵|en|Aerobic fermentation}} - 酸素の存在下で細胞が発酵によって糖を代謝する代謝過程
* [[アセトン-ブタノール-エタノール発酵]] - 細菌の発酵を利用して、デンプンやグルコースなどの炭水化物からアセトン、n-ブタノール、エタノールを合成する発酵過程
* {{ill2|暗発酵|en|Dark fermentation}} - 多様な細菌群によって発現する有機基質の生物水素への発酵的変換で、光がなくても進行する
* {{ill2|発酵ロック|en|Fermentation lock}} - ビールやワインの醸造で使用される二酸化炭素を逃がす装置
* [[腸発酵症候群]] - 摂取された炭水化物が消化管内で細菌または真菌によって発酵する特徴をもつ医学的症状
* {{ill2|工業的発酵|en|Industrial fermentation}} - 化学工業や医薬品や食品などの製造工程で発酵を意図的に利用すること
* {{ill2|非発酵菌|en|Non-fermenter}} - グルコースを発酵できないプロテオバクテリア門の細菌群
* {{ill2|光発酵|en|Photofermentation}} - 多様な光合成細菌群によって発現する有機基質の生物学的水素への発酵的変換で、光の存在下でのみ進行する
* {{ill2|共生発酵|en|Symbiotic fermentation}} - 複数の生物が共生して目的の生成物を生産する発酵の一形態
* [[スティックランド反応]] - アミノ酸の有機酸への酸化と 還元の連鎖を伴う化学反応
* [[サイレージ]] - 酸性化するまで発酵させて保存した緑葉作物から作られる家畜飼料
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* 山中健生 『微生物のエネルギー代謝』 学研出版センター、1986年8月25日初版、ISBN 4-7622-9496-9。
* 細野明義 『畜産食品微生物学』 朝倉書店、2000年1月20日初版、ISBN 978-4-254-43066-0。
* H.J.Phaff,M.W.Miller&E.M.Mrak (長井進訳)『酵母菌の生活』,(1982),学会出版センター
== 外部リンク ==
{{Commons category}}
{{EB1911 poster|Fermentation}}
{{Portal|生物学|技術と産業}}
* [http://www.kagakueizo.org/movie/education/89/ 生命の牧場] - 『[[科学映像館]]』より。協和発酵工業(現・[[協和発酵キリン]])の企画による広報映画。 《1966年製作。当時の協和発酵の工場で繰り広げられた研究・生産現場を追うことを通じ、発酵工業──微生物による生合成工業──の姿を浮き彫りにする》
* [https://www.pasteurbrewing.com/articles/works-english/ パスツールの研究 (英語)]
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ゲルマン人
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ゲルマン人(ゲルマンじん、独: Germanen、羅: Germani)は、歴史的に古代から中世初期にかけて中央ヨーロッパからスカンジナビアにかけて居住した民族集団のことを指す。19世紀ごろからは現在のドイツ北部やデンマーク、スカンディナヴィア南部に居住し、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属する言語を母語とした諸部族、または民族とされることもあるが、「ゲルマン」の学術的定義は複数存在する。
先史時代および歴史時代初期の、ゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ。
原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン(系)民族となり、4世紀以降のフン人の西進によりゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国したフランク人やヴァンダル人、東ゴート人、西ゴート人、ランゴバルド人などの新しい部族が形成された。
原始ゲルマン人は現在のデンマーク人やスウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人、イングランド人、スコットランド人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた。
またゲルマン人の一派であるノルマン人はイングランド、アイルランド、北アメリカ、ロシア北部、エストニアにも移住し、リムリックやダブリン、ノヴゴロドといった主要都市に拠点を築いた。
ゲルマンという語が文献上最初にあらわれるのは前80年ころギリシアの歴史家ポセイドニオスの記録であり、前2世紀末におけるゲルマンの小部族キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリア侵寇について書かれた。なお、紀元前4世紀末にマッシリアのギリシア人航海者ピュテアスがノルウェーやユトランド半島の民族について書いているが、ゲルマンという呼称は使われていない。
ゲルマン人の記録として重要なのは、カエサルの紀元前50年頃の『ガリア戦記』やタキトゥスの紀元100年頃の『ゲルマニア』である。 これらによれば、
原住地は紀元前2000年紀中葉にユトランド半島、北ドイツ、スカンジナビア半島の中南部といわれる。
紀元前1000年紀中葉ないし紀元前3世紀までには西はオランダからライン川下流域、東はヴィスワ川流域、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの3つのグループを形成した。
「ゲルマン系」または「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、直接的に生物学的な特徴は関連しない。ゲルマン人の場合はいわゆる「北方人種の白人」と結び付けられることが多いが、「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、中部・南部ドイツはむしろアルプス人種や東ヨーロッパ人種などの影響が指摘されており、遺伝子的にも北欧よりイタリアやフランス、スペインなど南欧との親和性が強い。反面、北部ドイツの住人は北欧人と近く、特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、内陸部では東ヨーロッパとの近隣性は無視できない。
現在のゲルマン系民族のY染色体ハプログループはハプログループI1 (Y染色体) 、ハプログループR1a (Y染色体) 、ハプログループR1b (Y染色体) に大別される。このうちゲルマン語派本来の担い手はR1bの下位系統R1b-U106と想定される。Iは欧州最古層のタイプであり、サブグループのI1が北欧で高頻度である。I1系統が金髪碧眼の発祥であると考えられ、ゲルマン人特有の外見的特徴をもたらした系統であると想定される。
大部族のスエービーはエルベ川の下流域に生息し、のちに一つの集団はライン川上流のドイツ南西部マインツ付近に定住し、もう一つの集団はボヘミア平原に定住した。カエサルとの戦争に敗北したアリオウィスト率いるスエービーの一部は、セムノーネースを中心としたアレマンネンに参加し、のちにフランク王国に併合された。スエービーの名前はシュヴァーベンとして残っている。別の一部はスペインでスエービー王国を作るが滅亡した。スペイン語やフランス語ではドイツ人はAlemania、Allemagneというがこれはアレマン人に由来する。
南部のスエービーの主力部分はボヘミアへ移住し、6世紀頃までにマルコマンネン人が住んでいたドイツ南東部からオーストリアに移住し、バイエルンと呼ばれた。
ユトランド半島にいたキンブリーとテウトニーは紀元前100年頃にイタリアへ侵攻したが、ローマ軍に撃退された。また、彼らはケルト系のボイイー地域へ移住した。キンブリーとテウトニーの後裔にはアトゥアートゥキーがいる。
このほか、ハルーデース、マルコマンニー、トゥリボキー、ウァンギオネース、ネメーテースなどがいた。
紀元100年頃にはインガエウォネース、イスタエウォネース、ヘルミノネースの3つの種族に分かれていた。
タキトゥスの時代から大移動までの300年の間連続性を保っていた部族は、
などである。
ゲルマン諸部族については『ベーオウルフ』『ウィードスィース』にも記録がある。
ゲルマン人は血統的には非印欧語系スカンディナヴィア原住民、球状アンフォラ文化の担い手など様々な混血である。ゲルマン語をもたらした集団の源流はヤムナ文化より分化し、バルカン半島、中央ヨーロッパを経由し、スカンディナヴィア半島南部にやってきた集団(ケルト語やイタリック語の担い手と近縁)という説、戦斧文化の担い手でありバルト・スラブ語派に近縁という説、あるいはその混合であるとの説がある。ゲルマン語の成立に非印欧語系の基層言語を認める説(ゲルマン語基層言語説)もあることから、多かれ少なかれ、非印欧語の担い手との混淆はあったと考えられる。 ゲルマン人は紀元前750年ごろから移動を始め、紀元前5世紀頃にゲルマン祖語が成立、その語西ゲルマン語群、東ゲルマン語群、北ゲルマン語群に分化した。
375年、フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。
この後すぐに西ローマ帝国において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊したため西方正帝廃止と民族大移動との関連性が考えられる。フン族の侵攻を食い止めたのがローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるためにゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。また、最近の研究では正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的にゲルマン化が進んだとされるフランク王国においてすら住民の8割はローマ人であった。フランク王国において宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末のカール大帝の時代になってからのことである。
ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人(ノルマン人ないしヴァイキング)は大移動時代にはデーン人がユトランド半島まで進出した程度である。
この後も、ヨーロッパにはスラヴ人やマジャール人(ハンガリー人)といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。
ゲルマン語派として分類される語派は東ゲルマン、北ゲルマン、西ゲルマンの三つに分類される。東ゲルマン語はすでに死滅している。
古代ギリシャ時代にはゲルマンという概念はそもそも存在せず、スキタイ諸族とケルト諸族に大別されていた。後のローマ時代には概ねオーデル・ヴィストゥラ諸族、ライン諸族、エルベ諸族、ジャトランド・デニッシュ諸族の四つに分類された。オーデル・ヴィストゥラ諸族は今日、東方ゲルマンと呼ばれるグループに相当し、タキトゥスによると、ここにはゲルマーニア人の言語と似ているが果たしてローマ人の知るゲルマーニア人と同種の言語として分類すべきか迷う部族もかなりいることを記しており、現代で言うところのスラヴ語派の古い言語を話していたと推定される部族がいたことを暗示している。残りの三族が西方ゲルマンと呼ばれるもので、移住せずにスカンディナヴィアに残った人々を北方ゲルマンとしている。またタキトゥスはバルト海沿岸部の諸民族が共通した文化を持つスエビ諸族であると主張したが、タキトゥスは「スエビ」が具体的にどのような共通文化を持つのか明言しておらず、実際に文化の連続性があったのか疑問が持たれている。歴史学者のアーサー・ポメロイは「(タキトゥスが)スエビとした複数の集団には全く共通性がない訳ではないが、それ以上に文化や言語で明確に異なる部分がある」と指摘しており、現代の歴史学および考古学ではバルト海沿岸部の住人は複数の民族に分かれるとする見解が一般的である。
古代から中世への過渡期には多数の蛮族がそれまで未開とされていた地域からローマへと侵入を開始した為、ローマ側の混乱や蛮族側の離合集散の中で一層に分類は乱れた。今日では明確にインド・イラン語派の集団と判明しているアラン人(サルマタイ人の一部)がゲルマン人とされていた事がこれを物語っている。
フランク人の中核となり、一部はザクセン人に吸収された。
ヴァイキングとして各地に進出した。
歴史言語学で明らかになっていることであるが、ゲルマン祖語の成立(グリムの法則の普及時期)は古くとも紀元前5世紀以降で、ヤストルフ文化時代(紀元前7世紀〜紀元前1世紀)のうちのヤストルフ期(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)の晩期あるいはリプドルフ期(前4世紀〜前150ごろ)の初期と考えられ、他のヨーロッパ諸言語の成立時期と比較するとかなり浅い。すなわちゲルマン語派の集団がローマ人と接触を始めた時代ではその語派の成立からほんの数世紀しか経っていない。そのためキンブリ・テウトニ戦争からマルコマンニ戦争の時代のゲルマン語派の諸部族は未だ主にゲルマーニア西北部一帯の狭い地域に留まっていたと考えられる。
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"title": "ゲルマン人の社会と政治"
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"text": "大部族のスエービーはエルベ川の下流域に生息し、のちに一つの集団はライン川上流のドイツ南西部マインツ付近に定住し、もう一つの集団はボヘミア平原に定住した。カエサルとの戦争に敗北したアリオウィスト率いるスエービーの一部は、セムノーネースを中心としたアレマンネンに参加し、のちにフランク王国に併合された。スエービーの名前はシュヴァーベンとして残っている。別の一部はスペインでスエービー王国を作るが滅亡した。スペイン語やフランス語ではドイツ人はAlemania、Allemagneというがこれはアレマン人に由来する。",
"title": "諸部族"
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"title": "歴史"
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"text": "ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人(ノルマン人ないしヴァイキング)は大移動時代にはデーン人がユトランド半島まで進出した程度である。",
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"text": "歴史言語学で明らかになっていることであるが、ゲルマン祖語の成立(グリムの法則の普及時期)は古くとも紀元前5世紀以降で、ヤストルフ文化時代(紀元前7世紀〜紀元前1世紀)のうちのヤストルフ期(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)の晩期あるいはリプドルフ期(前4世紀〜前150ごろ)の初期と考えられ、他のヨーロッパ諸言語の成立時期と比較するとかなり浅い。すなわちゲルマン語派の集団がローマ人と接触を始めた時代ではその語派の成立からほんの数世紀しか経っていない。そのためキンブリ・テウトニ戦争からマルコマンニ戦争の時代のゲルマン語派の諸部族は未だ主にゲルマーニア西北部一帯の狭い地域に留まっていたと考えられる。",
"title": "ゲルマン部族の一覧"
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] |
ゲルマン人は、歴史的に古代から中世初期にかけて中央ヨーロッパからスカンジナビアにかけて居住した民族集団のことを指す。19世紀ごろからは現在のドイツ北部やデンマーク、スカンディナヴィア南部に居住し、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属する言語を母語とした諸部族、または民族とされることもあるが、「ゲルマン」の学術的定義は複数存在する。 先史時代および歴史時代初期の、ゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ。 原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン(系)民族となり、4世紀以降のフン人の西進によりゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国したフランク人やヴァンダル人、東ゴート人、西ゴート人、ランゴバルド人などの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人やスウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人、イングランド人、スコットランド人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた。 またゲルマン人の一派であるノルマン人はイングランド、アイルランド、北アメリカ、ロシア北部、エストニアにも移住し、リムリックやダブリン、ノヴゴロドといった主要都市に拠点を築いた。
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{{複数の問題
|出典の明記=2015年11月14日 (土) 12:44 (UTC)
|脚注の不足=2015年11月14日 (土) 12:44 (UTC)
}}
[[ファイル:Europa Germanen 50 n Chr.svg|thumb|right|280px|1世紀の[[ゲルマニア]]。[[スエビ人]](おそらくケルト系が主)や[[ヴァンダル人]](おそらくスラヴ系が主)など、[[母語]]が[[ゲルマン語派]]の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。<br>
{{legend|#ABD939|[[北ゲルマン語群]]}}
{{legend|#FFF000|{{仮リンク|北海ゲルマン諸語|en|North Sea Germanic}}([[インガエウォネース族]])}}
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{{legend|#008837|[[プシェヴォルスク文化]]}}
]]
'''ゲルマン人'''(ゲルマンじん、{{lang-de-short|Germanen}}、{{lang-la-short|Germani}})は、歴史的に古代から中世初期にかけて[[中央ヨーロッパ]]から[[スカンディナヴィア|スカンジナビア]]にかけて居住した[[民族集団]]のことを指す。19世紀ごろからは現在の[[ドイツ]]北部や[[デンマーク]]、[[スカンディナヴィア]]南部に居住し、[[インド・ヨーロッパ語族]][[ゲルマン語派]]に属する言語を母語とした[[諸部族]]、または[[民族]]<ref name=my>百科事典[[マイペディア]]、[[平凡社]]</ref>とされることもあるが、「ゲルマン」の学術的定義は複数存在する<ref>{{Cite book|洋書|title=Germanen aus Sicht der Archäologie: Neue Thesen zu einem alten Thema|year=2021|publisher=de Gruyter|author=Steuer, Heiko}}</ref>。
[[先史時代]]および[[歴史時代]]初期の、[[ゲルマン語]]を話す[[部族]]および部族連合を'''原始ゲルマン人'''<ref name=my/>、または'''古ゲルマン人'''と呼ぶ<ref name=nipo>日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介</ref>。
原始ゲルマン人は中世初期に再編され'''ゲルマン(系)民族'''となり<ref name=my/>、[[4世紀]]以降の[[フン族|フン人]]の西進によりゲルマン系諸民族は[[ゲルマン人#ゲルマン民族の大移動|大移動]]を開始し、ローマ領内の各地に建国した[[フランク人]]や[[ヴァンダル人]]、[[東ゴート族|東ゴート人]]、[[西ゴート人]]、[[ランゴバルド人]]などの新しい部族が形成された<ref name=nipo/>。
原始ゲルマン人は現在の[[デンマーク人]]や[[スウェーデン人]]、[[ノルウェー人]]、[[アイスランド人]]、[[アングロ・サクソン人]]、[[オランダ人]]、[[ドイツ人]]、[[イングランド人]]、[[スコットランド人]]などの[[祖先]]となった<ref name=nipo/>。[[アングロ・サクソン人]]になったゲルマン人系部族には[[アングル人]]、[[サクソン人]]、[[ジュート人]]、[[フリース人]]がいた<ref name="iwatani">[[岩谷道夫]]「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004</ref>。
またゲルマン人の一派である[[ノルマン人]]は[[イングランド]]、[[アイルランド]]、[[北アメリカ]]、[[ロシア]]北部、[[エストニア]]にも移住し、[[リムリック]]や[[ダブリン]]、[[ノヴゴロド]]といった主要都市に拠点を築いた。
== 初出 ==
ゲルマンという語が文献上最初にあらわれるのは前80年ころギリシアの歴史家[[ポセイドニオス]]の記録であり、前2世紀末におけるゲルマンの小部族[[キンブリ族]]Cimbriと[[テウトニ族]]Teutoniのガリア侵寇について書かれた<ref name=sekai>世界大百科事典 第2版[[平凡社]]。</ref>。なお、[[紀元前4世紀]]末に[[マルセイユ|マッシリア]]のギリシア人航海者[[ピュテアス]]がノルウェーやユトランド半島の民族について書いているが、ゲルマンという呼称は使われていない<ref name=sekai>世界大百科事典 第2版[[平凡社]]。</ref>。
== ゲルマン人の社会と政治 ==
ゲルマン人の記録として重要なのは、[[カエサル]]の紀元前50年頃の『[[ガリア戦記]]』や[[タキトゥス]]の紀元100年頃の『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』である<ref name=iwatani/>。
これらによれば、
* ゲルマン人は定着農耕と牧畜を営んでいた<ref name=nipo/>。
* 階層的には自由人、半自由人、奴隷に分かれ、自由人の上層部は政治的特権と豪族層を形成した<ref name=nipo/>。彼らはローマ人達が[[キウィタス|キーウィタース]]と見做した政治単位に分かれ、それはさらにパーグス([[村落共同体]])に分かれていた<ref name=nipo/>。キーウィタースの上に[[ゲンス]](部族)があったが、タキトゥスの時代にはこれは祭祀団体であった<ref name=nipo/>。[[世襲王制]]をとるキーウィタースと、[[民会]]で選出される[[プリンケプス|プリンケップス]]に統治されるキーウィタースとがあり、政治権力の集中化も相当進んでいた<ref name=nipo/>。
== 原住地 ==
[[原住地]]は[[紀元前2000年紀]]中葉に[[ユトランド半島]]、北ドイツ、[[スカンジナビア半島]]の中南部といわれる<ref name=nipo/>。
紀元前1000年紀中葉ないし[[紀元前3世紀]]までには西は[[オランダ]]から[[ライン川]]下流域、東は[[ヴィスワ川]]流域、[[ドナウ川]]北岸、[[ドニエプル川]]下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの3つのグループを形成した<ref name=nipo/>。
== 生物学的要素 ==
「ゲルマン系」または「ゲルマン人」とは民族的な概念であるため、直接的に生物学的な特徴は関連しない。ゲルマン人の場合はいわゆる「[[北方人種]]の[[白人]]」と結び付けられることが多いが、「ゲルマニア」と呼ばれた土地のうち、中部・南部ドイツはむしろ[[アルプス人種]]や[[東ヨーロッパ人種]]などの影響が指摘されており、遺伝子的にも北欧より[[イタリア]]や[[フランス]]、[[スペイン]]など[[南欧]]との親和性が強い。反面、北部ドイツの住人は北欧人と近く、特にバルト海に面する地域は極めて近似しているが、内陸部では東ヨーロッパとの近隣性は無視できない。
現在のゲルマン系民族の[[Y染色体ハプログループ]]は[[ハプログループI (Y染色体)|ハプログループI1 (Y染色体)]] 、[[ハプログループR1a (Y染色体)]] 、[[ハプログループR1b (Y染色体)]] に大別される。このうちゲルマン語派本来の担い手はR1bの下位系統[[ハプログループR1b (Y染色体)|R1b-U106]]と想定される。Iは欧州最古層のタイプであり、サブグループのI1が北欧で高頻度である。I1系統が金髪碧眼の発祥であると考えられ、ゲルマン人特有の外見的特徴をもたらした系統であると想定される。
== 諸部族 ==
大部族のスエービーは[[エルベ川]]の下流域に生息し、のちに一つの集団はライン川上流のドイツ南西部[[マインツ]]付近に定住し、もう一つの集団は[[ボヘミア平原]]に定住した<ref name=iwatani/>。カエサルとの戦争に敗北したアリオウィスト率いるスエービーの一部は、セムノーネースを中心としたアレマンネンに参加し、のちにフランク王国に[[併合]]された<ref name=iwatani/>。スエービーの名前は[[シュヴァーベン]]として残っている<ref name=iwatani/>。別の一部はスペインでスエービー王国を作るが滅亡した<ref name=iwatani/>。スペイン語やフランス語ではドイツ人はAlemania、Allemagneというがこれは[[アレマン人]]に由来する<ref name=iwatani/>。
南部のスエービーの主力部分はボヘミアへ移住し、6世紀頃までにマルコマンネン人が住んでいたドイツ南東部からオーストリアに移住し、[[バイエルン]]と呼ばれた<ref name=iwatani/>。
[[ユトランド半島]]にいたキンブリーとテウトニーは紀元前100年頃にイタリアへ侵攻したが、ローマ軍に撃退された<ref name=iwatani/>。また、彼らはケルト系のボイイー地域へ移住した<ref name=iwatani/>。キンブリーとテウトニーの後裔にはアトゥアートゥキーがいる<ref name=iwatani/>。
このほか、ハルーデース、マルコマンニー、トゥリボキー、ウァンギオネース、ネメーテースなどがいた<ref name=iwatani/>。
紀元100年頃には[[インガエウォネース族|インガエウォネース]]、イスタエウォネース、ヘルミノネースの3つの種族に分かれていた<ref name=iwatani/>。
* インガエウォネース:北海沿岸。アングル、サクソン、フリージアンをふくむ。
* イスタエウォネース:エルベ川流域。
* ヘルミノネース:その他。
タキトゥスの時代から大移動までの300年の間連続性を保っていた部族は、
* ワンディリイー([[ヴァンダル]])
* フリースィイー([[フリージアン]])
* スエービー
* ランゴバルディー(ランゴバルド)
* アングリイー(アングル)
* エウドセース(ジュート)
* マルコマンニー(マルコマンネン)
* クァディー
* ゴトーネース(ゴート)
* ルギイー
* スイーオネース(スウェーデン)
などである<ref name=iwatani/>。
ゲルマン諸部族については『ベーオウルフ』『ウィードスィース』にも記録がある<ref name=iwatani/>。
== 歴史 ==
=== 先史時代 ===
{{出典の明記|date=2016年2月|section=1}}
[[ファイル:I1a europe.jpg|thumb|right|200px|[[ハプログループI (Y染色体)|Y染色体ハプログループI]]1aの分布図。[[北欧]]、[[イギリス]]、[[バルト海]]沿岸部に広がっており、[[西ヨーロッパ|西欧]]では北部ドイツや[[フランス]]の[[大西洋]]沿岸部より南にはあまり存在しない。]]
'''ゲルマン人'''は血統的には非印欧語系スカンディナヴィア原住民、[[球状アンフォラ文化]]の担い手など様々な混血である。[[ゲルマン語]]をもたらした集団の源流は[[ヤムナ文化]]より分化し、バルカン半島、中央ヨーロッパを経由し、[[スカンディナヴィア半島]]南部にやってきた集団([[ケルト語]]や[[イタリック語]]の担い手と近縁)という説、[[戦斧文化]]の担い手であり[[バルト・スラブ語派]]に近縁という説、あるいはその混合であるとの説<ref>[http://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_R1a_Y-DNA.shtml Eupedia]</ref>がある。ゲルマン語の成立に[[先印欧語|非印欧語系]]の[[基層言語]]を認める説([[ゲルマン語基層言語説]])もある<ref>{{cite journal |first= Sigmund |last= Feist |authorlink= Sigmund Feist |title= The Origin of the Germanic Languages and the Europeanization of North Europe |journal= Language |year= 1932 |volume= 8 |pages= 245–254 |doi= 10.2307/408831 |issue= 4 |publisher= Linguistic Society of America |jstor= 408831}}</ref>ことから、多かれ少なかれ、[[先印欧語|非印欧語]]の担い手との混淆はあったと考えられる。
ゲルマン人は紀元前750年ごろから移動を始め、紀元前5世紀頃に[[ゲルマン祖語]]が成立、その語[[西ゲルマン語群]]、[[東ゲルマン語群]]、[[北ゲルマン語群]]に分化した。
===ゲルマン民族の大移動===
{{出典の明記|date=2016年2月|section=1}}
{{see also|民族移動時代}}
[[ファイル:Germanic tribes (750BC-1AD).png|right|250px|thumb|[[ゲルマン民族の大移動]]の推移;[[紀元前750年]]-[[1年]]<ref>ペンギン世界歴史地図帳1988から引用</ref>: <br>
{{リスト|
|{{color|#ff0000|'''赤'''}}:移動前 紀元前750年
|{{color|#FF7F50|'''橙'''}}:紀元前500年
|{{color|#ffff00|'''黄'''}}:紀元前250年
|{{color|#00ff00|'''緑'''}}:1年
}}]]
[[375年]]、[[フン族]]に押されてゲルマン人の一派である[[ゴート族]]が南下し、[[ローマ帝国]]領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数の[[ゲルマニア]]出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や[[気候変動]]、それらに伴う経済構造の変化があげられている。
この後すぐに[[西ローマ帝国]]において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊したため[[ローマ皇帝一覧|西方正帝]]廃止と民族大移動との関連性が考えられる。フン族の侵攻を食い止めたのがローマの支配を受け入れて[[傭兵]]となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるためにゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。また、最近の研究では正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的に[[ゲルマン化]]が進んだとされるフランク王国においてすら住民の8割はローマ人であった。フランク王国において宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末の[[カール大帝]]の時代になってからのことである。
ゴート人などの東側の'''ゲルマン人'''は、[[ローマ人]]などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、[[イギリス]]などの[[国家]]の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人([[ノルマン人]]ないし[[ヴァイキング]])は大移動時代には[[デーン人]]が[[ユトランド半島]]まで進出した程度である。
この後も、ヨーロッパには[[スラヴ人]]や[[マジャル人|マジャール人]]([[ハンガリー人]])といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。
== 年表 ==
{{出典の明記|date=2016年2月|section=1}}
* [[紀元前80年]]頃 - ゲルマン人という用語が使われ始める。
*: ギリシアの歴史家[[ポセイドニオス]]が[[ガリア]]地方に侵入した部族について記述したとされる。これは後世の[[古代ローマ]]の歴史家の引用で伝えられている。
* [[紀元前58年]]〜[[紀元前51年]] - [[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]のガリア遠征。
*: 「[[ガリア戦記]]」の中でゲルマン人について記し、用語として普及するきっかけとなる。
* [[9年]] - [[トイトブルクの戦い]]で[[ローマ帝国]]がゲルマン人の同盟軍に大敗。
*: これによりローマ帝国はゲルマニア中央部への進出を断念し、ラテン文化の伝播が押し留められた。
* [[98年]] - [[古代ローマ]]の歴史家[[タキトゥス]]、「[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]」を著す。
*: 現在に至るまでゲルマン人研究での主要資料とされているが、誤った記述も多いとされる。
* [[2世紀]]頃 - 最古の[[ルーン文字]]成立。
* [[375年]] - [[民族移動時代]]に伴い、ゲルマニア住民が大移動を開始する。
*: [[フン族]]の攻撃から逃げ延びようとした[[西ゴート族]]が[[ドナウ川]]を超えてローマ帝国領内に侵入。[[378年]]、[[アドリアノープルの戦い]]でローマ帝国軍は敗退し、[[ウァレンス]]帝が戦死する事態に追い込まれる。以後、ゲルマン系諸民族が他の勢力と共に各地の領土を切り取って国家を形成していく。
* [[415年]] - 西ゴート族が[[西ゴート王国]]を建国。南ガリアと[[ヒスパニア]]([[イベリア半島]])を領有する。
* [[451年]] - [[カタラウヌムの戦い]]。西ローマ帝国と西ゴート王国、アラン王国の同盟軍が[[アッティラ]]大王を破り、フン人のガリア征服を断念させる。
* [[5世紀]] - [[グレートブリテン島]](現在の[[イギリス]])にゲルマン部族の一派[[アングロ・サクソン人]]、[[ジュート人|ユート人]]が侵入。
*: ローマ帝国の後退と同じ頃にブリテン島に侵入し、在来のブリトン人を破って[[七王国]]をうちたてた。この騒乱が後の[[アーサー王]]伝説の元になったと言われている。
* [[476年]] - [[西ローマ帝国]]、スキーリ族の傭兵隊長[[オドアケル]]によって滅ぼされる。オドアケルは西ローマ皇帝を東ローマに返却する代わりにイタリア総督、{{要出典|次いで[[イタリア王]]の称号を得た|date=2017年9月}}。イタリア王はその後、オドアケルを倒した[[東ゴート人]]やランゴバルト人の王に継承された後、フランク人の王位に統合された。
* [[481年]] - [[フランク人]]の諸勢力を統一した[[クローヴィス1世 (フランク王)|クロヴィス]]、[[メロヴィング朝]]フランク王国を創始。
*: [[アリウス派]]キリスト教から[[カトリック教会|カトリック]]に改宗して、旧西ローマの住民との融和をはかった。
* [[732年]] - [[トゥール・ポワティエ間の戦い]]
*: [[イベリア半島]]から侵入してきた[[イスラム帝国|イスラム勢力]]を[[フランク王国]]が、現在の[[フランス]]にあるトゥール・ポワティエ間で撃退。
* フランク王国[[カロリング朝]]・[[カール大帝]]の時代(在位768年-814年)
*: フランク王国の最盛期。それまでの[[地中海文明]]から所有地を分離させるべく、[[キリスト教]]を共通文化とする「[[ヨーロッパ文明]]」を形成する。
* [[8世紀]]〜[[9世紀]]頃? - 叙事詩『[[ベーオウルフ]]』が成立。
*: [[英文学]]最古の作品の1つ。古代ゲルマニアの[[風俗]]を伝える。
* [[843年]] - [[フランク王国]]が分裂。
*: 分割相続により3つの国に分かれ、その後、[[西フランク王国]]と[[東フランク王国]]に再編された。前者は[[フランス王国]]、後者は[[神聖ローマ帝国]]の原型を形作った。
* [[8世紀]]後半〜[[11世紀]] - [[ノルマン人]]、[[デーン人]]の活動が活発化。
*: [[ヴァイキング]]として知られ、恐れられた。東アジアなどの民族と混血していたとも言われるが、定かではない。
*: [[9世紀]]後半 - [[キエフ・ルーシ]]成立。[[ヴァリャーグ]]が[[ルーシ諸国家]]成立に関わる。
*: [[11世紀]]後半、フランスに領地を与えられていたノルマン系の[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ノルマンディー公ウィリアム]]が[[イングランド]]を征服して[[ノルマン朝]]を創始。→ [[ノルマン・コンクエスト]]
* 8世紀〜[[10世紀]] - [[アイスランド]]、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]、[[スウェーデン]]の[[国家]]が成立。スカンディナヴィア三国、[[王国]]を形成。
* [[1130年]] - ノルマン系の傭兵団、アラブ人を破って南イタリアを征服し[[シチリア王国]]を立てる([[オートヴィル朝]])。
* ? - [[サガ]]が成立。
*: アイスランドに伝わる[[伝承]]。ノルウェーでも成立。
== ゲルマン部族の一覧 ==
{{出典の明記|date=2016年2月|section=1}}
ゲルマン語派として分類される語派は東ゲルマン、北ゲルマン、西ゲルマンの三つに分類される。[[東ゲルマン語]]はすでに死滅している。{{main|[[ゲルマン語派]]}}
[[古代ギリシャ]]時代にはゲルマンという概念はそもそも存在せず、[[スキタイ#スキタイの諸族|スキタイ諸族]]とケルト諸族に大別されていた。後の[[ローマ]]時代には概ねオーデル・ヴィストゥラ諸族、ライン諸族、エルベ諸族、[[ジャトランド]]・デニッシュ諸族の四つに分類された。オーデル・ヴィストゥラ諸族は今日、東方ゲルマンと呼ばれるグループに相当し、タキトゥスによると、ここにはゲルマーニア人の言語と似ているが果たしてローマ人の知るゲルマーニア人と同種の言語として分類すべきか迷う部族もかなりいることを記しており、現代で言うところの[[スラヴ語派]]の古い言語を話していたと推定される部族がいたことを暗示している。残りの三族が西方ゲルマンと呼ばれるもので、移住せずにスカンディナヴィアに残った人々を北方ゲルマンとしている。また[[タキトゥス]]はバルト海沿岸部の諸民族が共通した文化を持つ[[スエビ族|スエビ諸族]]であると主張したが、タキトゥスは「スエビ」が具体的にどのような共通文化を持つのか明言しておらず、実際に文化の連続性があったのか疑問が持たれている。歴史学者の[[アーサー・ポメロイ]]は「(タキトゥスが)スエビとした複数の集団には全く共通性がない訳ではないが、それ以上に文化や言語で明確に異なる部分がある」と指摘しており、現代の歴史学および考古学ではバルト海沿岸部の住人は複数の民族に分かれるとする見解が一般的である。
古代から中世への過渡期には多数の蛮族がそれまで未開とされていた地域からローマへと侵入を開始した為、ローマ側の混乱や蛮族側の離合集散の中で一層に分類は乱れた。今日では明確に[[インド・イラン語派]]の集団と判明している[[アラン人]]([[サルマタイ|サルマタイ人]]の一部)がゲルマン人とされていた事がこれを物語っている。
=== 東方ゲルマン ===
* [[ブルグント族|ブルグント人]]([[ブルゴーニュ人]]とも)
* [[ヴァンダル人]](その文化である[[プシェヴォルスク文化]]は東方の[[スラヴ人]]文化である[[ザルビンツィ文化]]と酷似していることから、これは実はスラヴ系の[[ルギイ人]]であるか、あるいはルギイ人が加盟していた大きな部族連合であると推測される)
* [[ゴート人]] ※東ゴート人も西ゴート人も元々は同民族
** [[東ゴート人]]
** [[西ゴート人]]
** [[クリミアゴート族|クリミアゴート人]]
=== 西方ゲルマン ===
==== 北海 ====
* [[アングロ・サクソン人]]([[イングランド]]人の祖)
** [[サクソン人]]([[ザクセン人]]とも)
** [[ジュート人]]([[ユート人]]とも)
* [[フリース人]]([[オランダ]]人の祖) ※現在フリース人は[[少数民族]]で今のオランダ人を形作るのはサクソン系の住民である。
==== バルト海 ====
* [[アングル人]](イングランド人の祖)
==== エルベ川 ====
* [[アラマンニ人]] 現在の[[アレマン語]]地域に居住した。ケルト系との混血が進んでいるとされる。[[スエビ族]]の一派ともされる。
==== ヴェーザー川・ライン川 ====
[[フランク人]]の中核となり、一部はザクセン人に吸収された。
* [[バタウィ人]] ※サクソン人やフリース人と混合し[[オランダ人]]の主要部を構成する。[[ケルト系]]との説もある。
* [[カッティ人]](現[[ヘッセン人]])現在のドイツ中西部[[ヘッセン州]][[フランクフルト・アム・マイン]]を中心とした地域に居住した。
=== 北方ゲルマン ===
[[ヴァイキング]]として各地に進出した。
* [[ノルマン人]]
** [[デーン人]]([[デンマーク人]]の祖)
** [[ノール人]]([[ノルウェー人]]の祖)
** [[スヴェード人]](スヴェリ族とも。[[スウェーデン人]]の祖)
** [[ルーシ族]]([[ルーシ]])※実在するかどうかの議論がある他、複数の民族による混血説もある。
* [[ノース人]]
=== 系統不明 ===
* [[スエビ人]] ※[[タキトゥス]]が存在を主張した集団。上述の通り、今日では適当な分類法ではないと考えられる([[カッシウス・ディオ]]は古くはケルト人であったと主張している)。
** [[マルコマンニ人]]([[ケルト系]]との説もある)※[[ローマ帝国]]への侵入を図り、[[マルクス・アウレリウス]]との[[マルコマンニ戦争]]で滅ぼされた。
** [[バイエルン人]]※現在の南ドイツ住民の祖先。母胎であるマルコマンニ人同様、ケルト系との説がある。
* [[ロンバルド人]](ランゴバルド人) ※ランゴバルド史では、今日のデンマークの北方、[[スカンディナヴィア半島]]から移住して来たと記されている。
* [[ユート人]](ジュート人) ※現在のデンマークからイギリスに移動し、アングロサクソン人と同化した。英国人と[[ユダヤ人]]を同祖とみなす空想的な人々は、このユート人を、[[イスラエルの失われた10支族]]の末裔と考えた。[[スキタイ|スキタイ系]]との説もある。
** アングロサクソン人に近縁として西方ゲルマンに含める場合が多いが、既にスウェーデン方面から来住していたデーン系に圧迫される過程で混血もみられたと考えられる。
* [[フランク人]] 西方ゲルマンに分類されるが、厳密には民族ではない。
** ウェーザー・ラインゲルマンの諸部族を主体とし、アングロサクソン近縁の北海ゲルマンなど他のゲルマン諸族、[[ラテン系]]・[[ケルト系]]の在来住民、スキタイ人や[[アラン人]]([[サルマタイ]])など様々な種族が参加した一種の連合政権であった。
** 現在の大陸ゲルマン語(ドイツ語・オランダ語)の「フランク」諸方言も基本的にウェーザー・ラインゲルマン系ではあるが、低地方言(オランダ語)には北海ゲルマンの、高地方言(バイエルン州北部など)にはエルベゲルマンの要素が見られる。
[[歴史言語学]]で明らかになっていることであるが、[[ゲルマン語派|ゲルマン祖語]]の成立([[グリムの法則]]の普及時期)は古くとも[[紀元前5世紀]]以降で、[[ヤストルフ文化|ヤストルフ文化時代]](紀元前7世紀〜紀元前1世紀)のうちのヤストルフ期(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)の晩期あるいはリプドルフ期(前4世紀〜前150ごろ)の初期と考えられ、他のヨーロッパ諸言語の成立時期と比較するとかなり浅い。すなわちゲルマン語派の集団がローマ人と接触を始めた時代ではその語派の成立からほんの数世紀しか経っていない。そのため[[キンブリ・テウトニ戦争]]から[[マルコマンニ戦争]]の時代のゲルマン語派の諸部族は未だ主にゲルマーニア西北部一帯の狭い地域に留まっていたと考えられる。
== 脚注 ==
{{節スタブ|1=脚注形式での出典の明記|date=2015年11月14日 (土) 12:44 (UTC)}}
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
{{参照方法|date=2015年11月14日 (土) 12:44 (UTC)}}
* {{Cite book |和書 |editor=木村靖二|editor-link=木村靖二 |title=ドイツ史 |publisher=[[山川出版社]] |series=新版世界各国史 13 |date=2001-08 |isbn=978-4-634-41430-3 }}<!--2008年9月5日 (金) 02:04 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=藤川隆男ほか|authorlink=藤川隆男 |editor=藤川隆男 |title=白人とは何か? - ホワイトネス・スタディーズ入門 |publisher=[[刀水書房]] |series=刀水歴史全書 73 |date=2005-10 |isbn=978-4-88708-346-2 }}<!--2008年9月5日 (金) 02:04 (UTC)-->
* [[岩谷道夫]]「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい-->
* [[南川高志]] 『新・ローマ帝国衰亡史』 [[岩波書店]]〈[[岩波新書]] 新赤版 1426〉、2013年5月。ISBN 978-4-00-431426-4。<!--2015年8月30日 (日) 13:51 (UTC)-->
* [[増田四郎]]『西洋封建社会成立期の研究』1959・岩波書店
== 関連項目 ==
* [[ゲルマン人の一覧]]([[:en:List of ancient Germanic peoples]])
* [[ゲルマン法]]
* [[ディング]]
* [[アーリア人]]
* [[アーリアン学説]]
* [[民族移動時代]]
* [[ゲルマン民族の大移動]]
* [[インド・ヨーロッパ語族]]
* [[ゲルマン神話]]
** [[北欧神話]]
{{印欧語族}}
{{authority control}}
{{デフォルトソート:けるまんしん}}
[[Category:先史ヨーロッパ]]
[[Category:中東欧]]
[[Category:北欧]]
[[Category:ゲルマン人|*]]
[[Category:ドイツの民族]]
[[Category:北欧の民族]]
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2003-08-30T06:22:12Z
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2023-09-04T15:25:51Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
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14,444 |
橋本駅 (神奈川県)
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橋本駅(はしもとえき)は、神奈川県相模原市緑区橋本六丁目および同二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄の駅である。
当駅及び当駅周辺は相模原市(旧市街地)北部の交通・商業の拠点地域としての役割を持つ。
JR東日本の横浜線と相模線、京王電鉄の相模原線の2社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。京王電鉄は京王相模原管区所属。駅番号はJR東日本横浜線がJH 28、京王電鉄相模原線がKO45。
JR東日本の駅は横浜線を所属線としている。また相模線は当駅が終点である。
東海旅客鉄道(JR東海)によるリニア中央新幹線の駅が「神奈川県駅(仮称)」として併設される予定である。
江戸時代に、橋本付近を流れる境川に架かる両国橋一帯のことを「橋本宿」と呼んだことから、「橋本」となる。
3面5線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。1 - 3番線を横浜線、4・5番線を相模線が使用している。ただし、かつて運転されていた相模線茅ケ崎方面からの八王子行の列車は5番線から発車していた。1番線が単式ホーム、2・3番線、4・5番線は島式ホームである。
ホームの相模原・南橋本寄りにもう一方の連絡通路があり、エスカレーターとエレベーターが設置されている。
湘南・相模統括センター管内の直営駅であり、管理駅として相模原駅 - 淵野辺駅間、相模線の南橋本駅- 相武台下駅間の各駅を管理している。
北口側を1番線として、以下の通りである。
(出典:JR東日本:駅構内図)
京王電鉄の駅で唯一、相模原市に所在する。島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホームが3階、改札およびJR線のりばへの連絡通路が2階となる。エスカレーターとエレベーターが設置されている。
ホーム部分の屋根は、側壁により支持されているため、ホーム上に柱はない。
構内ではないがJR・北口方面への通路に次のような施設がある(いわゆる駅ナカ施設)
JR東日本・京王電鉄を合わせた利用者数は約23万人であり、相模大野駅を抑えて市内で最も利用者数が多い。
各年度の1日平均乗降人員推移は下表の通り(JRを除く)。
各年度の1日平均乗車人員推移は下表の通り。
東京都 - 大阪市の間をほぼ直線で結んだ建設ルートが予定されるリニア中央新幹線は、神奈川県相模原市付近を通過することが想定されており、橋本駅が建設候補地となっている。2012年2月に神奈川県が『橋本駅をリニア中央新幹線中間停車駅とするよう』、JR東海側に要請する方向で調整が進んでいることを明らかにした。駅前の旧神奈川県立相原高等学校の敷地が、駅建設予定地となっている。島式ホーム2面4線と名古屋方に渡り線が設けられる予定である。同時に京王相模原線の駅をリニア中央新幹線の駅寄りに移設することも検討している。
2013年9月にはJR東海によって詳細なルートが決定・発表され、2023年現在「神奈川県駅(仮称)」として建設中である。
なお、橋本駅は、県の「北のゲート」としての構想から、相模線の複線化、倉見駅への東海道新幹線新駅設置とともに、検討が行われている。
また、橋本駅以外にも、在日米軍相模総合補給廠の一部返還が予定される相模原駅などは、小田急電鉄多摩線の延伸とともにリニア中央新幹線の誘致も求める声があった。ただし相模原駅となると米軍補給廠の真下を横断することとなり、安全保障上の観点から米軍の同意を取り付けることは非現実的であるという見方もあり、立ち消えとなっている。
神奈川県の北の入口と位置付けられ、県や市、民間が主体となった再開発が進む。また、中心市街地活性化法では相模原市の第一の都市核として認定されている。相模原市南部の中心地である相模大野(南区)に対する北部の交通・商業の中心地として機能している。
駅の北口付近には超高層マンションが立ち並び、建設ラッシュが続く。当駅を核とした市街地域や住宅地域は、北部へ境川を越えて西部に拠点のない町田市まで広がっている。駅北方は以前からの住宅街である。
駅の西(南口から600m以上離れた場所)、かつての国鉄車両センター跡地にも超高層マンションやハイテクパーク、コーナン、東急ストア、橋本郵便局、相模原北警察署が完成している。
駅の南西部は、比較的新しく開発された住宅地が津久井方面へ広がっている。かつての大山街道である旧国道16号線沿いには宿場町のイメージが残る。旧相原高校の南には工場地帯が広がる。
南口南東部の大工場地帯は、当駅付近が首都圏都市再生特別法に指定されたことを受けて超高層マンションや大型ショッピングセンターアリオ橋本、電機メーカー研究所、接着剤メーカーなどが進出、または進出する予定である。
北口には再開発の際にペデストリアンデッキが設けられ、その下はバスターミナル・タクシー乗り場になっている。このペデストリアンデッキから直接「ミウィ」、「イオン」橋本店(2002年10月26日に「ビブレ」から改称後、2011年3月1日に店舗ブランドがイオンに統一されたため「サティ」から改称)および、飲食店等の入ったビル「味の食彩館はしもと」に行くことができる。
北口・南口双方のバスロータリーに一般路線バスが乗り入れており、神奈川中央交通・神奈川中央交通東・神奈川中央交通西と京王バスにより運行されている。そのほか、南口バスロータリーには高速バス・空港リムジンバスも乗り入れている。
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"text": "東京都 - 大阪市の間をほぼ直線で結んだ建設ルートが予定されるリニア中央新幹線は、神奈川県相模原市付近を通過することが想定されており、橋本駅が建設候補地となっている。2012年2月に神奈川県が『橋本駅をリニア中央新幹線中間停車駅とするよう』、JR東海側に要請する方向で調整が進んでいることを明らかにした。駅前の旧神奈川県立相原高等学校の敷地が、駅建設予定地となっている。島式ホーム2面4線と名古屋方に渡り線が設けられる予定である。同時に京王相模原線の駅をリニア中央新幹線の駅寄りに移設することも検討している。",
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"text": "北口には再開発の際にペデストリアンデッキが設けられ、その下はバスターミナル・タクシー乗り場になっている。このペデストリアンデッキから直接「ミウィ」、「イオン」橋本店(2002年10月26日に「ビブレ」から改称後、2011年3月1日に店舗ブランドがイオンに統一されたため「サティ」から改称)および、飲食店等の入ったビル「味の食彩館はしもと」に行くことができる。",
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橋本駅(はしもとえき)は、神奈川県相模原市緑区橋本六丁目および同二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄の駅である。 当駅及び当駅周辺は相模原市(旧市街地)北部の交通・商業の拠点地域としての役割を持つ。
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{{出典の明記|date=2018年5月}}
{{駅情報
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|駅名 = 橋本駅
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|画像説明 = 南口(2018年7月)
|地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
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|よみがな = はしもと
|ローマ字 = Hashimoto
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[京王電鉄]]([[#京王電鉄|駅詳細]])}}
|所在地 = [[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]][[橋本 (相模原市)|橋本]]
}}
'''橋本駅'''(はしもとえき)は、[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]][[橋本 (相模原市)|橋本]]六丁目および同二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[京王電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。
当駅及び当駅周辺は相模原市(旧市街地)北部の交通・商業の拠点地域としての役割を持つ。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の[[横浜線]]と[[相模線]]、京王電鉄の[[京王相模原線|相模原線]]の2社3路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。京王電鉄は京王相模原管区所属。[[駅ナンバリング|駅番号]]はJR東日本横浜線が'''JH 28'''、京王電鉄相模原線が'''KO45'''。
JR東日本の駅は横浜線を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている<ref>{{Cite book|和書|editor=石野哲 |title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編1|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=4533029809}}</ref>。また相模線は当駅が終点である。
[[東海旅客鉄道]](JR東海)による[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]の駅が「[[神奈川県駅]](仮称)」として併設される予定である。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2018年5月|section=1}}
* [[1908年]]([[明治]]41年)[[9月23日]]:[[横浜線|横浜鉄道]] [[東神奈川駅]] - [[八王子駅]]間の開通時に現在の名称にて開業<ref name="停車場78">[[#停車場|停車場変遷大事典]]、78頁</ref>。住民の要望によって設置された駅で、当初計画に駅設置の予定はなかった。
* [[1910年]](明治43年)[[4月1日]]:[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]が借り上げ{{R|停車場78}}。
* [[1917年]]([[大正]]6年)[[10月1日]]:国有化され、[[鉄道院|国有鉄道]](のちの[[日本国有鉄道]])横浜線の駅となる。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[4月29日]]:[[相模鉄道]]相模線が[[厚木駅]]から延伸開業<ref name="停車場83">[[#停車場|停車場変遷大事典]]、83頁</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2018-12|url=https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf|format=PDF|editor=相鉄グループ100年史編纂事務局|title=相鉄グループ100年史|publisher=相模鉄道|accessdate=2023-01-08|page=20}}</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:相模鉄道相模線が[[戦時買収私鉄]]として国有化され、国鉄相模線となる{{R|停車場83}}<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12|url=https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_003.pdf|format=PDF|editor=相鉄グループ100年史編纂事務局|title=相鉄グループ100年史|publisher=相模鉄道|accessdate=2023-01-08|page=35-38}}</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)5月:国鉄橋本工場(後の[[大宮総合車両センター|国鉄大宮工場]]橋本車両センター)が操業開始、工場へ続く側線が完成。
* [[1980年]](昭和55年)4月1日:現在の駅舎(2代目)に改築<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=一日 横浜線二駅が新装オープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1980-03-30 |page=3 }}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[2月1日]]:貨物取扱が廃止{{R|停車場78}}。北口の東側に1面2線の貨物ホームが存在したほか、国鉄工場線から分岐し[[大和製罐]]東京工場へ続く[[専用鉄道|専用線]]も存在した。
** 3月:橋本車両センター閉鎖。その後設備は解体されて更地となり、しばらく放置されていたが、[[1986年]](昭和61年)に跡地の一部を利用して[[忠実屋]](ダイエー買収後いったん閉店の後、[[東急ストア]](閉店))橋本店が開業したのを初めに、[[2000年代]]に入ると橋本郵便局や[[コーナン]](2023年閉店)が開業し、再開発によって変貌を遂げた。なお、1990年頃までは専用線の一部のレールや踏切も撤去されずに残っていた。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場78}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場78}}。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月30日]]:京王相模原線が[[南大沢駅]]から延伸開業と同時に京王初の自動改札機が導入された。
* [[1994年]](平成6年)[[9月28日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」供用開始。
* [[2004年]](平成16年)[[12月]]:京王電鉄改札内にエレベーターが設置される。
* [[2005年]](平成17年)[[1月]]:JR改札内にエレベーターが設置される。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:京王電鉄でICカード「[[PASMO]]」供用開始。
* [[2009年]](平成21年)12月 - [[2010年]](平成22年)1月:JR橋本駅に第二面から第一面、第三面に待合室が設置される。
* [[2013年]](平成25年):横浜線よくするプロジェクト で駅構内のLED照明、室内サインを改装実施
* [[2014年]](平成26年)[[3月31日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]の営業を終了。
* [[2018年]](平成30年)[[2月22日]]:京王相模原線にて「[[京王ライナー]]」の運行が開始され、下り列車の終着駅となる<ref group="報道">{{PDFlink|[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180124_timetable20180222.pdf 2月22日(木)始発から 京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します ~京王ライナーの運行開始や、平日朝間時間帯の速達性向上を図ります~]}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)2月22日:京王相模原線にて、当駅始発の上り「京王ライナー」が新設される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title= 2月22日(金)始発から京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します|publisher= 京王電鉄株式会社|date= 2019-01-22|url= https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr190122_timetable20190222.pdf|format= PDF|accessdate= 2019-06-20}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月14日]] - 京王電鉄の定期券売り場が営業を終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr200210v2056/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200729054956/https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr200210v2056/index.html|format=PDF|language=日本語|title=一部駅の定期券発売窓口閉鎖について|publisher=京王電鉄|date=2020-02-10|accessdate=2022-03-28|archivedate=2020-07-29}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[6月3日]]:横浜線ホーム(2番線を除く)で[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050253/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年度のホームドア整備について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[3月11日]]:翌日のダイヤ改正により、相模線の朝夕八王子乗り入れおよび5番線の八王子行き発着を終了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2021-12-17|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064059/https://www.jreast.co.jp/press/2021/yokohama/20211217_y01.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
{{出典の明記|date=2018年5月|section=1}}
{{See also|橋本 (相模原市)#沿革}}
[[江戸時代]]に、橋本付近を流れる境川に架かる両国橋一帯のことを「'''橋本宿'''」と呼んだことから、「'''橋本'''」となる。
== 駅構造 ==
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 橋本駅
|画像 = 橋本駅北口入口.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2020年4月)
|よみがな = はしもと
|ローマ字 = Hashimoto
|電報略号 = ハモ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]][[橋本 (相模原市)|橋本]]六丁目1番25号
|座標 = {{coord|35|35|41.5|N|139|20|42|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR 橋本駅|display=inline,title}}
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|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
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|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />56,999
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|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])
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|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
3面5線の[[プラットホーム|ホーム]]を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。1 - 3番線を横浜線、4・5番線を相模線が使用している。ただし、かつて運転されていた相模線茅ケ崎方面からの八王子行の列車は5番線から発車していた。1番線が[[単式ホーム]]、2・3番線、4・5番線は[[島式ホーム]]である。
ホームの相模原・南橋本寄りにもう一方の連絡通路があり、[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が設置されている。
[[茅ケ崎駅|湘南・相模統括センター]]管内の[[直営駅]]であり、[[管理駅]]として相模原駅 - [[淵野辺]]駅間、相模線の[[南橋本駅]]- [[相武台下駅]]間の各駅を管理している。
==== のりば ====
北口側を1番線として、以下の通りである。
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="3"|[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|rowspan="2"|[[町田駅|町田]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[東神奈川駅|東神奈川]]・[[桜木町駅|桜木町]]方面
|
|-
!2
|当駅始発
|-
!3
|style="text-align:center"|下り
|[[相原駅|相原]]・[[八王子駅|八王子]]方面
|一部2番線
|-
!4・5
|{{Color|#009793|■}} 相模線
| style="text-align:center"|上り
|[[海老名駅|海老名]]・[[厚木駅|厚木]]・[[茅ケ崎駅|茅ケ崎]]方面
|
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1224.html JR東日本:駅構内図])
* 南東方向には、主に横浜線の車両を留置している[[鎌倉車両センター]]橋本派出所がある。
* 1番線ホームと2番線ホームの間にホームがない線路(運転2番線。このため、運転番線と旅客番線はこのホーム以降異なる)がある。まれに横浜線の車両が留置されることがある。
* 相模線ホーム側隣の2線は留置線と八王子寄りの[[引き上げ線]]1本があり、主に相模線の車両が使用している。なお、八王子寄りの引き上げ線は1984年まで存在していた国鉄橋本工場の専用線の一部を転用したものである。
* 発車メロディーは、1番線が「Verde Rayo」、2番線が「Mellow time」、3番線が「Water Crown」、4・5番線が相模線オリジナルメロディ(通称近郊地域20番)(2番線のみ[[櫻井音楽工房]]製、それ以外[[東洋メディアリンクス]]製)となっている。4・5番線はスイッチを押すと必ず1コーラス流れるシステムである。
* 2015年5月29日より、JRのホームすべての番線でATOS放送が導入された。こちらは当初より上野東京ライン・宇都宮線などで使用している最新型アナウンスである。
* 2022年3月12日付で、ダイヤ改正により、近郊地域20番(4・5番線)の使用が終了。(詳しくは東洋メディアリンクスを参照)
<gallery>
Hashimoto station night view.jpg|橋本駅北口、ロータリーの夜景(2015年2月)
JR橋本駅構内.JPG|JR橋本駅構内(2007年7月16日)
JR Yokohama-Line・Sagami-Line Hashimoto Station Gates.jpg|JR橋本駅改札(2021年5月)
JR Yokohama-Line・Sagami-Line Hashimoto Station Platform 1 (20210620).jpg|JR橋本駅1番線ホーム(2021年6月)
JR Yokohama-Line・Sagami-Line Hashimoto Station Platform 2・3 (20210620).jpg|JR橋本駅2・3番線ホーム(2021年6月)
JR Yokohama-Line・Sagami-Line Hashimoto Station Platform 4・5.jpg|JR橋本駅4・5番線ホーム(2021年5月)
JRE-Hashimoto-station(Sagami-line).jpg|相模線ホームは電化の際に嵩上げされた跡がある(2005年2月)
</gallery>
==== 駅構内設備 ====
* [[キヨスク|KIOSK]] - 改札階改札入って右手ほか。
* [[飲食店]] - 1番線隣接の「味の食彩館はしもと」内にあり、一部店舗は改札内からの利用が可能。
* [[みどりの窓口]]は1か所2窓口。過去には自動券売機コーナーの隣に窓口が一つあるのみで、周辺に大学が多い上に京王線との乗換駅であることから、新年度初めには通学定期券の購入者が長蛇の列をなす光景が見られたが、2007年3月15日に自動券売機コーナーに[[指定席券売機]]が1台設置されたことにより、若干の混雑の緩和がなされ、2008年11月にびゅうプラザ併設型に改装した際に窓口や指定席券売機の設置数を増やした。なお、びゅうプラザに関しては現在は営業を終了している。
* JR改札前の通路は、京王線コンコースと接続し南北自由通路となっている。JR利用者だけでなく、京王線やバスの利用者も通行するため、非常に混雑する。この通路沿いにいわゆる[[駅ナカ]]店舗がある。下記に一覧を示す。
** [[NewDays]]([[コンビニエンスストア]])
** [[BECK'S COFFEE SHOP]]
** [[3COINS|3COINS station]]
** [[ビューアルッテ]] ([[現金自動預け払い機|ATM]])
=== 京王電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #dd0077
|文字色 =
|駅名 = 京王 橋本駅
|画像 = Keio Hashimoto Station Platform 20161208.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = ホーム(2016年12月)
|よみがな = はしもと
|ローマ字 = Hashimoto
|隣の駅 =
|前の駅 = KO44 [[多摩境駅|多摩境]]
|駅間A = 2.5
|駅間B =
|次の駅 =
|電報略号 =
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{Color|#dd0077|■}}[[京王相模原線|相模原線]]
|駅番号 = {{駅番号r|KO|45|#dd0077|5}}
|キロ程 = 22.6 km([[調布駅|調布]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から38.1
|起点駅 =
|所在地 = [[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]][[橋本 (相模原市)|橋本]]二丁目3番2号
|座標 = {{coord|35|35|41|N|139|20|40|E|region:JP_type:railwaystation|name=京王 橋本駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月30日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />82,307
|統計年度 = 2022年
|備考 =
}}
京王電鉄の駅で唯一、相模原市に所在する。島式ホーム1面2線を有する[[高架駅]]。ホームが3階、改札およびJR線のりばへの連絡通路が2階となる。エスカレーターとエレベーターが設置されている。
ホーム部分の屋根は、側壁により支持されているため、ホーム上に柱はない。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 相模原線
|[[多摩センター駅|京王多摩センター]]・[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]][[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]方面
|}
<gallery>
京王橋本駅構内.JPG|京王橋本駅構内(2007年7月)
End of Keio Sagamihara Line.jpg|橋本駅のホームから見た京王相模原線の終端。かつては[[津久井湖]]方面への延伸も計画されていたが[[1988年]]に幻と化した。
Keio Hashimoto Station.jpg|橋本駅改札口(2018年6月)
</gallery>
==== 駅構内設備 ====
* [[京王食品|ルパ]](ベーカリーショップ、改札内コンコース)
構内ではないがJR・北口方面への通路に次のような施設がある(いわゆる駅ナカ施設)
* [[京王クラウン街]] - [[京王ストア]]・[[京王百貨店]]・[[京王書籍販売|啓文堂書店]]などのテナントがある。出店テナントの詳細は公式サイト「[http://www.keio-ekichika.com/others/hashimoto/index.html フロアマップ]」を参照。
* 2階(改札階)コンコース(京王ストア前に出る出口前)に[[三菱UFJ銀行]]のATMが、コンコース(京王ストア口前付近)と改札内に[[きらぼし銀行]]のATMが、ダイソーの前に[[みずほ銀行]]のATMが設置されている。
== 利用状況 ==
JR東日本・京王電鉄を合わせた利用者数は約23万人であり、[[相模大野駅]]を抑えて市内で最も利用者数が多い。
*'''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''56,999人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
*: JR東日本の駅の中では[[原宿駅]]に次いで第66位。横浜線内では、[[町田駅]]、八王子駅に次いで3番目に多く、相模線内では最も多い。また、相模原市内のJRの駅では最も多く、市役所などが近接する隣駅の[[相模原駅]]よりも多い。
* '''京王電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''82,307人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。
*: 同社の駅の中では、[[新宿駅]]、[[渋谷駅]]、[[吉祥寺駅]]、[[調布駅]]、[[下北沢駅]]、[[分倍河原駅]]に次いで7番目に多く、相模原線の駅では調布駅に次いで第2位である。
各年度の1日平均'''乗降'''人員推移は下表の通り(JRを除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">{{Cite web|和書|title=レポート|url=https://www.train-media.net/report.html|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2023-06-16}}</ref><ref group="*">[http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/toukei/toukeisho/index.html 相模原市統計書] - 相模原市</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|京王電鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|<ref group="注">駅開設年度</ref>30,205 ||
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|41,400||37.1%
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|49,822||20.3%
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|55,492||11.4%
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|59,798||7.8%
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|63,007||5.3%
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|65,411||3.8%
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|66,733||2.0%
|-
|1998年(平成10年)
|<ref group="注">京王電鉄が2000年度に発表した資料の数値。1999年度発表のものは、「68,565人」となっている</ref>67,917||1.8%
|-
|1999年(平成11年)
|68,148||0.3%
|-
|2000年(平成12年)
|69,406||1.8%
|-
|2001年(平成13年)
|72,138||3.9%
|-
|2002年(平成14年)
|74,185||2.8%
|-
|2003年(平成15年)
|78,072||5.2%
|-
|2004年(平成16年)
|80,105||2.6%
|-
|2005年(平成17年)
|82,555||3.1%
|-
|2006年(平成18年)
|84,043||1.8%
|-
|2007年(平成19年)
|87,044||3.6%
|-
|2008年(平成20年)
|88,320||1.5%
|-
|2009年(平成21年)
|88,427||0.1%
|-
|2010年(平成22年)
|88,065||−0.4%
|-
|2011年(平成23年)
|87,242||−0.9%
|-
|2012年(平成24年)
|88,377||1.3%
|-
|2013年(平成25年)
|91,060||3.0%
|-
|2014年(平成26年)
|91,265||0.2%
|-
|2015年(平成27年)
|94,129||3.1%
|-
|2016年(平成28年)
|95,914||1.9%
|-
|2017年(平成29年)
|97,219||1.4%
|-
|2018年(平成30年)
|98,838||1.7%
|-
|2019年(令和元年)
|98,086||−0.8%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|65,241||−33.5%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-09-30 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink= |}}</ref>74,104||13.6%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-09-30 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>82,307||11.1%
|}
各年度の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
|-
!年度!!JR東日本!!京王電鉄!!出典
|-
|1975年(昭和50年)
|15,977
|rowspan=3 style="text-align:center"|未開業
|
|-
|1980年(昭和55年)
|17,572
|
|-
|1985年(昭和60年)
|22,379
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|28,733
|
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|44,944
|
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|42,090
|32,227
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/784899.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|47,340
|34,716
|<ref group="神奈川県統計">神奈川県県勢要覧(平成12年度)</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>47,026
|34,463
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>47,613
|35,130
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>49,028
|36,527
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>50,265
|37,585
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>52,261
|39,444
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>53,550
|40,459
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>54,854
|41,699
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>56,286
|42,167
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>58,080
|43,275
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>59,081
|43,890
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>59,049
|43,888
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>60,122
|43,621
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 神奈川県県勢要覧(平成23年度)]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>60,241
|43,135
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>61,127
|43,752
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>62,755
|45,101
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/762227.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>62,565
|45,190
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/821900.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>64,473
|46,530
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>65,375
|47,487
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20180614094521if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>65,871
|48,115
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 神奈川県県勢要覧(平成30年度)]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>66,136
|48,958
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 神奈川県県勢要覧(令和元年度)]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>65,328
|48,510
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 神奈川県県勢要覧(令和2年度)]}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>46,918
|32,286
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf 神奈川県県勢要覧(令和3年度)]}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>52,078
|37,007
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf 神奈川県県勢要覧(令和4年度)]}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>56,999
|
|
|}
== 中央新幹線神奈川県駅位置決定までの経緯 ==
{{main|[[中央新幹線#神奈川県]]}}
[[東京都]] - [[大阪市]]の間をほぼ直線で結んだ建設ルートが予定されるリニア[[中央新幹線]]は、神奈川県相模原市付近を通過することが想定されており、橋本駅が建設候補地となっている。2012年2月に神奈川県が『橋本駅をリニア中央新幹線中間停車駅とするよう』、JR東海側に要請する方向で調整が進んでいることを明らかにした<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=神奈川は橋本駅を要請へ リニア中間駅、JR東海に|newspaper=産経新聞 |date=2012-02-01|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120201/biz12020114120018-n1.htm |accessdate=2012-02-01|deadlinkdate=2023-06-20}}{{リンク切れ|date=2023-06-20}}</ref>。駅前の旧[[神奈川県立相原高等学校]]の敷地が、駅建設予定地となっている。島式ホーム2面4線と名古屋方に渡り線が設けられる予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://company.jr-central.co.jp/chuoshinkansen/procedure/construction2/_pdf/02_9-2-7.pdf|title=全幹法第9条第2項に基づく添附図書_連動図表|accessdate=2020-06-16}}</ref>。同時に京王相模原線の駅をリニア中央新幹線の駅寄りに移設することも検討している<ref>{{Cite web|和書|title=リニアがくる「橋本駅」京王相模原線の駅だけ移設検討なぜ? JRの駅はそのまま |url=https://trafficnews.jp/post/121200 |website=乗りものニュース |access-date=2022-08-09 |date=2022-08-09 |page=1}}</ref>。
2013年9月にはJR東海によって詳細なルートが決定・発表され<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |title=リニア詳細案決定 品川・名古屋駅は乗り換え素早く |newspaper=日本経済新聞 |date=2013-09-18 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG18016_Y3A910C1MM0000/ |access-date=2023-05-09}}</ref>、2023年現在「[[神奈川県駅]](仮称)」として建設中である<ref>{{Cite web |和書 |title=リニア中央新幹線「神奈川県駅」工事現場が初公開 橋本駅南口に”地下神殿”現る |website=乗りものニュース |date=2022-05-30 |url=https://trafficnews.jp/post/119138 |access-date=2023-05-09}}</ref>。
なお、橋本駅は、県の「北のゲート」としての構想から、相模線の[[複線]]化、[[倉見駅]]への[[東海道新幹線]][[相模新駅|新駅]]設置とともに、検討が行われている。
また、橋本駅以外にも、[[在日米軍]][[相模総合補給廠]]の一部返還が予定される[[相模原駅]]などは、[[小田急電鉄]][[小田急多摩線|多摩線]]の延伸とともにリニア中央新幹線の誘致も求める声があった<ref group="新聞">[http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/column/20090129/530020/?P=2 リニア新幹線の中間駅はどうなる?] p.2 日経BP社 ケンプラッツ 2009年2月6日</ref>。ただし相模原駅となると米軍補給廠の真下を横断することとなり、安全保障上の観点から米軍の同意を取り付けることは非現実的であるという見方もあり<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=リニア中央新幹線駅 候補地巡り橋本と相模原が誘致合戦 |newspaper=相模経済新聞|date=2009-04-13 |url=http://www.sokeinp.com/2009/0413/ |accessdate=2009-06-11}}</ref>、立ち消えとなっている<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=リニア中央新幹線「相模原駅」橋本が有力 |newspaper=相模経済新聞|date=2011-06-20}}</ref>。
== 駅周辺 ==
{{See also|橋本 (相模原市)#概要}}
神奈川県の北の入口と位置付けられ、県や市、民間が主体となった[[都市再開発|再開発]]が進む。また、[[中心市街地活性化法]]では相模原市の第一の都市核として認定されている。相模原市南部の中心地である[[相模大野]](南区)に対する北部の交通・商業の中心地として機能している。
駅の北口付近には[[超高層マンション]]が立ち並び、建設ラッシュが続く。当駅を核とした市街地域や住宅地域は、北部へ[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]を越えて西部に拠点のない[[町田市]]まで広がっている。駅北方は以前からの住宅街である。
駅の西(南口から600m以上離れた場所)、かつての国鉄車両センター跡地にも超高層マンションやハイテクパーク、コーナン、東急ストア、橋本郵便局、相模原北警察署が完成している。
駅の南西部は、比較的新しく開発された住宅地が[[津久井郡|津久井]]方面へ広がっている。かつての[[大山街道]]である旧国道16号線沿いには宿場町のイメージが残る。旧相原高校の南には工場地帯が広がる。
南口南東部の大工場地帯は、当駅付近が首都圏都市再生特別法に指定されたことを受けて超高層マンションや大型[[ショッピングセンター]]アリオ橋本、電機メーカー研究所、接着剤メーカーなどが進出、または進出する予定である。
=== 北口 ===
北口には再開発の際に[[ペデストリアンデッキ]]が設けられ、その下は[[バスターミナル]]・[[タクシー]]乗り場になっている。このペデストリアンデッキから直接「ミウィ」、「イオン」橋本店(2002年10月26日に「ビブレ」から改称後、2011年3月1日に店舗ブランドがイオンに統一されたため「サティ」から改称)および、飲食店等の入ったビル「味の食彩館はしもと」に行くことができる。
<!--以下、チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店、ATMのみ設置の銀行無人店舗などは記載しない-->
{{columns-list|2|
* 橋本駅北口再開発ビル
**[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]橋本店 - 計画当初は「橋本[[そごう]]」が出店する予定であったが<ref name="why-brand-brake-down-sogo-snow-mitsubishi">{{Cite book |和書 |author= 産経新聞取材班 |year=2001|title=ブランドはなぜ墜ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層 |publisher=[[角川書店]] |isbn=9784048836517 }}</ref>、1997年にそごうの経営悪化を理由に断念し、ビル自体の規模を縮小の上で[[ビブレ]]が2000年(平成12年)3月4日に出店した<ref group="新聞" name="nissyoku-2000-3-20">{{Cite news |和書 |title=マイカル「橋本ビブレ」開店、街を変える生活提案へ|date=2000-03-20|newspaper=[[日本食糧新聞]] |publisher=日本食糧新聞社}}</ref>
** [[カメラのキタムラ]]
** [[サブウェイ]]
** [[スターバックス]]
** [[ダイソー]]
** [[築地銀だこ]]
** [[はなまるうどん]]
** [[ブックオフ]]
** [[日本マクドナル|マクドナルド]]
** シティ・プラザはしもと - 5階と6階に入居。相模原市が政令指定都市になってからは緑区役所が入居していたが、2013年3月17日に緑区合同庁舎に移転した。
* [[ミウィ橋本]](2001年(平成13年)9月14日開業<ref group="新聞" name="nissyoku-2001-9-19-3F">{{Cite news |和書 |title=SC「ミウィ橋本」オープン、独自ショップで差別化へ、食品テナント充実|date=2001-0919|newspaper=日本食糧新聞 |publisher=日本食糧新聞社}}</ref>)
** [[相模原市立図書館#相模原市立橋本図書館|相模原市立橋本図書館]]
** 杜のホールはしもと
** [[横浜銀行]] 橋本支店
* [[みずほ銀行]] 橋本支店
* [[りそな銀行]] 橋本支店
* [[きらぼし銀行]] 橋本支店
* [[相模原市農業協同組合|JA相模原市]]旭支店
* [[SING橋本]]
** [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]] SING橋本駅前店
** [[松竹マルチプレックスシアターズ|MOVIX橋本]]([[シネマコンプレックス]])
** フィットネスクラブ ルネサンス橋本([[スポーツクラブ|フィットネスクラブ]])ほか
* [[橋本本町郵便局]]
* [[神明大神宮 (相模原市)|橋本神明大神宮]]
* [[東横イン]] 橋本駅北口
* [[国道16号]](東京環状)
** [[八王子バイパス]]
* [[相模原市立旭小学校]]
|}}
=== 南口 ===
{{columns-list|2|
* [[アリオ橋本]](2010年(平成22年)9月17日開業<ref group="新聞" name="nissyoku-2010-9-1-4">{{Cite news |和書 |title=オープン情報=イトーヨーカ堂「イトーヨーカドー橋本店」|date=2010-09-01|newspaper=日本食糧新聞 |publisher=日本食糧新聞社}}</ref>)
* 表忠碑 - 旧[[相模原協同病院]]付近にある。[[山縣有朋]] 書。
* 国道16号(東京環状)
** 橋本陸橋 - JR横浜線との[[立体交差]]
** 橋本駅南入口交差点 - 地下横断道(2013年7月開通)
** 橋本五差路(橋本[[高架橋]]) - 国道129号との交点
* [[国道129号]] - 終点:(緑区橋本五差路交差点=国道16号交点)
* [[国道413号]] - 終点:(緑区西橋本五丁目1番=国道16号交点)
* 緑区合同庁舎
** [[相模原市役所#緑区役所|相模原市緑区役所]]
** 相模原北メディカルセンターほか
* [[相模原北警察署|神奈川県相模原北警察署]]
* [[ロイヤルホームセンター]] 相模原橋本店
* [[神奈川県立橋本高等学校]]
* 相模原市立勤労者総合福祉センター(サン・エールさがみはら)
* ラ・フロール(2003年(平成15年)5月29日開業<ref group="新聞" name="nissyoku-2003-6-6-3C">{{Cite news |和書 |title=東急ストア、「橋本東急ストア」開店、生鮮の調理加工を強化、健食コーナー導入|date=2003-06-06|newspaper=日本食糧新聞 |publisher=日本食糧新聞社}}</ref>)
** [[オーケー]] 橋本店
** [[コナミスポーツ&ライフ|コナミスポーツクラブ]]
** [[コジマ]]×[[ビックカメラ]] 橋本店
* [[静岡銀行]] 橋本支店
* [[山梨信用金庫]] 橋本支店
* [[西武信用金庫]] 橋本支店
* [[多摩信用金庫]] 橋本支店
* [[橋本郵便局 (神奈川県)|橋本郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]] 橋本店
* 橋本公園
* 相模原北公園
* [[正継寺 (相模原市)|正継寺]]
* [[相模原市立橋本小学校]]
* [[相模原市立旭中学校]]
|}}
== バス路線 ==
北口・南口双方のバスロータリーに一般路線バスが乗り入れており、[[神奈川中央交通|神奈川中央交通・神奈川中央交通東・神奈川中央交通西]]と[[京王電鉄バス|京王バス]]により運行されている。そのほか、南口バスロータリーには高速バス・空港リムジンバスも乗り入れている。
=== 北口 ===
<!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先
|-
|style="text-align:center;"|神奈川中央交通西
|{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋01''']]・[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋08''']]・[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋09''']]・'''橋11'''・'''橋14'''・'''橋15''':城山総合事務所入口・若葉台住宅・三ヶ木・[[さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト|プレジャーフォレスト]]前・城山・三井方面|[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋03''']]・[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋07''']]:城山総合事務所入口・関・三ヶ木・[[鳥居原ふれあいの館]]方面|[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋16'''・'''橋20'''・'''橋61'''・'''橋63''']]:相原・[[法政大学]]・大戸方面|[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋18'''・'''橋24''']]:[[東京家政学院大学|東京家政学院]]方面|'''橋26''':城山総合事務所入口・大戸・法政大学方面}}
|-
|style="text-align:center;"|神奈川中央交通東
|{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 相模原駅方面|'''橋52''']]:宮下・[[相模原駅]]北口方面|'''橋55''':三菱電機前・相模原駅南口方面}}
|-
|style="text-align:center;"|神奈川中央交通
|{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通多摩営業所#橋本駅 - 寿橋 - 多摩美術大学・神奈中多摩車庫方面|'''橋75'''・'''橋78''']]:[[多摩美術大学]]・リーフィア町田小山ヶ丘方面|'''橋76''':三ツ目山公園・[[多摩境駅]]・[[神奈川中央交通多摩営業所|神奈中多摩車庫]]方面|[[神奈川中央交通多摩営業所#町田ターミナル - 市民病院前 - 根岸 - 淵野辺駅・橋本駅方面|'''町30'''・'''町60''']]・'''橋80''':堂の前・多摩境駅・[[町田バスセンター|町田バスセンター・町田ターミナル]]・神奈中多摩車庫方面|[[神奈川中央交通多摩営業所#八王子駅_-_片倉台_-_橋本駅方面|'''八77''']]:[[八王子駅]]南口方面}}
|-
|style="text-align:center;"|京王バス
|[[京王バス南大沢営業所#橋本線|'''南63''']]:[[南大沢駅]]方面
|}
=== 南口 ===
<!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先
|-
!colspan="2"|一般路線バス
|-
|style="text-align:center;"|神奈川中央交通東
|{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 葉山 - 小沢・田名バスターミナル方面|'''橋05'''・'''橋06''']]:葉山・小沢・田名バスターミナル方面|[[神奈川中央交通東・橋本営業所#せせらぎ号|'''橋30''']]:相模川自然の村方面/[[アリオ橋本]]方面(相模原市コミュニティバス「せせらぎ号」)|[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 六地蔵 - 上溝方面|'''橋34''']]・[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 六地蔵 - 上大島方面|'''橋36''']]・[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅_-_六地蔵_-_田名バスターミナル方面|'''橋57''']]:六地蔵・田名バスターミナル・望地キャンプ場入口・[[上溝駅]]<ref group="注">最寄り停留所名は「上溝」。</ref>・上大島方面|[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 相模原協同病院方面|'''橋41''']]:西橋本三丁目・相模原協同病院方面|[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 塚場坂上 - 下九沢団地方面|'''橋58''']]・[[神奈川中央交通東・橋本営業所#橋本駅 - 塚場坂上 - 田名バスターミナル方面|'''橋59''']]:塚場坂上・田名バスターミナル・水郷田名・下九沢団地方面}}
|-
|style="text-align:center;"|神奈川中央交通西
|{{Unbulleted list|'''橋08'''・[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋28''']]:若葉台住宅方面|[[神奈川中央交通西・津久井営業所|'''橋27'''・'''橋33'''・'''橋41''']]:西橋本三丁目・原宿五丁目・上大島・相模原協同病院方面}}
|-
!colspan="2"|高速バス・空港リムジンバス
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|神奈川中央交通東|[[京成バス]]}}
|[[成田国際空港|成田空港]]方面
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|神奈川中央交通西|[[富士急湘南バス]]}}
|[[富士急ハイランド]]・[[河口湖駅]]方面
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[南海バス]]}}
|[[シャルム号|京都・大阪・神戸方面]]
|}
== 付記 ==
* 過去には小田急多摩線<ref group="注">[[都市交通審議会答申第15号]]での東京9号線</ref>や[[西武多摩川線]]の延伸<ref>{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く | volume = 私鉄編 | publisher = JTB | year = 2001 | pages = 67-68 }}</ref>も計画されていた。
* 神奈川県内に所在する京王電鉄の駅は当駅と[[若葉台駅]]、[[京王稲田堤駅]](いずれも相模原線)のみで、旧[[相模国]]に相当する地域に所在する京王電鉄の駅は当駅のみである。
== 隣の駅 ==
<!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば [[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。-->
;東日本旅客鉄道(JR東日本)
:[[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#7fc342|■}}各駅停車
:::[[相模原駅]] (JH 27) - '''橋本駅 (JH 28)''' - [[相原駅]] (JH 29)
:{{Color|#009793|■}} 相模線
:::[[南橋本駅]] - '''橋本駅'''
;京王電鉄
:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 相模原線
:*{{Color|#dd0077|□}}「[[京王ライナー]]」発着駅
::{{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行
:::[[南大沢駅]] (KO43) - '''橋本駅 (KO45)'''
::{{Color|olive|■}}区間急行・{{Color|blue|■}}快速・{{Color|gray|■}}各駅停車(区間急行・快速は調布まで各駅に停車)
:::[[多摩境駅]] (KO44) - '''橋本駅 (KO45)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
==== 利用状況 ====
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
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; 京王電鉄の1日平均利用客数
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; JR・私鉄の統計データ
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; 神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|22em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=石野哲 |title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|ref=停車場}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hashimoto Station (Kanagawa)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1224|name=橋本}}
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko45_hashimoto/ 京王電鉄 橋本駅]
* [http://www2.wagamachi-guide.com/sagamihara/map/map.asp?itp=1&mmd=3&mtp=3&mpx=139.348042&mpy=35.591531&clx=319&cly=240&mps=4&mva=&ttp=1&wsz=2&swl=1%2C2%2C4%2C5%2C6%2C7%2C8%2C9 橋本駅上空の航空写真(相模原市)]{{リンク切れ|date=2020年9月}}
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[[Category:相模原市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 は|しもと]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:横浜線]]
[[Category:横浜鉄道]]
[[Category:相模鉄道の廃駅]]
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[[Category:相模原市緑区の交通|はしもとえき]]
[[Category:相模線]]
[[Category:相模原市緑区の建築物]]
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2003-08-30T06:28:55Z
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顕微鏡
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顕微鏡(けんびきょう、英語: microscope)とは、光学的もしくは電子的な技術を用いることによって、微小な物体を投影し、肉眼で見える大きさの像を得る装置である。様々な種類の顕微鏡が存在するが、単に顕微鏡というと、最も基本的な光学顕微鏡を指すことが多い。
光学顕微鏡は眼鏡屋のヤンセン父子によって発明された。その後、顕微鏡は主に自然科学において、微小な生物や構造などを明らかにしてきた。顕微鏡を使用する技術のことを顕微鏡法(microscopy)、検鏡法という。また、試料を顕微鏡で観察できる状態にしたものをプレパラートという。
最初の顕微鏡は1590年、オランダのミデルブルフで眼鏡製造者サハリアス・ヤンセンと父のハンス・ヤンセンが作った。他に、同じ眼鏡製造者であるハンス・リッペルハイ(望遠鏡を最初に作ったといわれる)が顕微鏡も最初に作ったとする説もある。ただし、彼らがこれを使って何か意味のある観察をしたという記録はない。
ガリレオ・ガリレイは、この顕微鏡を改良し昆虫の複眼を描いている。"microscope" という名称は、ガリレオの友人だったジョバンニ・ファベールが1625年に命名したという。ガリレオ自身は顕微鏡を "occhiolino"(小さな目)と呼んでいた。
最初に細胞の構造の詳細まで顕微鏡で観察しようとしたのは ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナで、1644年に L'ochio della mosca(ハエの眼)を著している。
1660年代以前、イタリア、オランダ、イギリスでは顕微鏡は単なる珍しい器具でしかなかった。イタリアの マルチェロ・マルピーギ は顕微鏡を使い、肺を手始めとして生物学的構造の分析を開始した。1665年、ロバート・フックが発刊した Micrographia(顕微鏡図譜)は、その印象的なイラストレーションで大きな衝撃を与えた。顕微鏡による生物研究に多大な進歩をもたらしたアントニ・ファン・レーウェンフックは、微生物(1674年)や精子(1677年)を発見した。彼は生涯を顕微鏡の改良に費やし、最終的には約300倍の倍率の顕微鏡を作っている。ただし、これは単レンズのものであり、顕微鏡そのものの改良につながってはいない。
日本には、オランダから1750年頃に伝わったと考えられている。1765年に後藤梨春が著した「紅毛談(おらんだばなし)」に「虫目がね」として顕微鏡が紹介されている。1781(天明元)年には、小林規右衛門が日本最初の顕微鏡を作っている。この顕微鏡は、島津創業記念資料館が所蔵している。「雪の殿様」の異名を持つ土井利位は、顕微鏡により雪の結晶を観察し、様々な模様を残している。宇田川榕庵は、シーボルトから贈られた顕微鏡を持っており、様々な研究に役立てている。
日本で工業的に作られた最初の顕微鏡は、田中杢次郎が1907(明治40)年に作り上げた田中式600倍顕微鏡とされる。この顕微鏡は、当時の皇太子(後の大正天皇)へ献上された。また、1910年には、 加藤嘉吉と神藤新吉により、エムカテラが開発された。当時、日本が顕微鏡を数多く輸入していたのは、ツァイスやライツなどを擁するドイツであったが、第一次世界大戦の影響により、ドイツからの輸入が途絶えたため、国産品が日本の市場を独占するようになる。しかし、当時の日本製顕微鏡は、まだ性能で外国製に及ばなかった。これに触発された山下長は、世界に通用する顕微鏡の開発を目指し、高千穂製作所(後のオリンパス)を創立した。
科学の諸分野の中で、生物学は恐らくもっともその影響を受け恩恵を被っている。ほとんどの生物学の教科書が細胞の発見から始まることを見ても、それは明らかである。また高等学校においては、通常は顕微鏡は生物教室におかれる。
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"text": "日本には、オランダから1750年頃に伝わったと考えられている。1765年に後藤梨春が著した「紅毛談(おらんだばなし)」に「虫目がね」として顕微鏡が紹介されている。1781(天明元)年には、小林規右衛門が日本最初の顕微鏡を作っている。この顕微鏡は、島津創業記念資料館が所蔵している。「雪の殿様」の異名を持つ土井利位は、顕微鏡により雪の結晶を観察し、様々な模様を残している。宇田川榕庵は、シーボルトから贈られた顕微鏡を持っており、様々な研究に役立てている。",
"title": "歴史"
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"text": "日本で工業的に作られた最初の顕微鏡は、田中杢次郎が1907(明治40)年に作り上げた田中式600倍顕微鏡とされる。この顕微鏡は、当時の皇太子(後の大正天皇)へ献上された。また、1910年には、 加藤嘉吉と神藤新吉により、エムカテラが開発された。当時、日本が顕微鏡を数多く輸入していたのは、ツァイスやライツなどを擁するドイツであったが、第一次世界大戦の影響により、ドイツからの輸入が途絶えたため、国産品が日本の市場を独占するようになる。しかし、当時の日本製顕微鏡は、まだ性能で外国製に及ばなかった。これに触発された山下長は、世界に通用する顕微鏡の開発を目指し、高千穂製作所(後のオリンパス)を創立した。",
"title": "歴史"
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"text": "科学の諸分野の中で、生物学は恐らくもっともその影響を受け恩恵を被っている。ほとんどの生物学の教科書が細胞の発見から始まることを見ても、それは明らかである。また高等学校においては、通常は顕微鏡は生物教室におかれる。",
"title": "顕微鏡と科学"
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顕微鏡とは、光学的もしくは電子的な技術を用いることによって、微小な物体を投影し、肉眼で見える大きさの像を得る装置である。様々な種類の顕微鏡が存在するが、単に顕微鏡というと、最も基本的な光学顕微鏡を指すことが多い。 光学顕微鏡は眼鏡屋のヤンセン父子によって発明された。その後、顕微鏡は主に自然科学において、微小な生物や構造などを明らかにしてきた。顕微鏡を使用する技術のことを顕微鏡法(microscopy)、検鏡法という。また、試料を顕微鏡で観察できる状態にしたものをプレパラートという。
|
{{Redirect|Microscope|[[櫻坂46]]の楽曲|BAN (曲)}}
[[File:Scientists are working in the lab.9.jpg|thumb|[[光学顕微鏡]]を使用して[[標本]]を研究する[[科学者]]]]
'''顕微鏡'''(けんびきょう、{{lang-en|microscope}})とは、光学的もしくは電子的な技術を用いることによって、微小な物体を[[映写|投影]]し、[[肉眼]]で見える大きさの[[像]]を得る[[装置]]である。様々な種類の顕微鏡が存在するが、単に顕微鏡というと、最も基本的な[[光学顕微鏡]]を指すことが多い。
光学顕微鏡は[[眼鏡]]屋のヤンセン父子('''[[サハリアス・ヤンセン]]とハンス・ヤンセン)'''によって発明された。その後、顕微鏡は主に[[自然科学]]において、微小な生物や構造などを明らかにしてきた。顕微鏡を使用する技術のことを'''顕微鏡法(microscopy)'''、'''検鏡法'''という。また、試料を顕微鏡で観察できる状態にしたものを[[プレパラート]]という。
== 歴史 ==
[[ファイル:Leeuwenhoek Microscope.png|thumb|130px|right|[[アントニ・ファン・レーウェンフック]]の初期の顕微鏡の複製]]
最初の顕微鏡は[[1590年]]、[[オランダ]]の[[ミデルブルフ]]で[[眼鏡]]製造者[[サハリアス・ヤンセン]]と父のハンス・ヤンセンが作った<ref>[http://nobelprize.org/educational_games/physics/microscopes/timeline/index.html Microscopes: Time Line]</ref>。他に、同じ眼鏡製造者である[[ハンス・リッペルハイ]]([[望遠鏡]]を[[世界初の一覧|最初]]に作ったといわれる)が顕微鏡も最初に作ったとする説もある。ただし、彼らがこれを使って何か意味のある[[観察]]をしたという[[記録]]はない。
[[ガリレオ・ガリレイ]]は、この顕微鏡を改良し[[昆虫]]の[[複眼と単眼#複眼|複眼]]を描いている。"microscope" という名称は、ガリレオの友人だった[[ジョバンニ・ファベール]]が[[1625年]]に[[命名]]したという<ref>Stephen Jay Gould(2000). The Lying Stones of Marrakech, ch.2 "The Sharp-Eyed Lynx, Outfoxed by ature". London: Jonathon Cape. ISBN 0224050443</ref>。ガリレオ自身は顕微鏡を "''occhiolino''"(小さな[[目]])と呼んでいた。
最初に[[細胞]]の構造の詳細まで顕微鏡で観察しようとしたのは [[ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナ]]で、[[1644年]]に ''L'ochio della mosca''(ハエの眼)を著している<ref>Bad Medicine: Doctors doing harm since Hippocrates. David Wootton. Oxford University Press, 2006.</ref>。
1660年代以前、[[イタリア]]、オランダ、[[イギリス]]では顕微鏡は単なる珍しい器具でしかなかった。イタリアの [[マルチェロ・マルピーギ]] は顕微鏡を使い、[[肺]]を手始めとして[[生物学]]的構造の[[分析]]を開始した。[[1665年]]、[[ロバート・フック]]が発刊した ''Micrographia''([[顕微鏡図譜]])は、その印象的な[[イラストレーション]]で大きな衝撃を与えた。顕微鏡による[[生物]][[研究]]に多大な[[進歩]]をもたらした[[アントニ・ファン・レーウェンフック]]は、[[微生物]]([[1674年]])や[[精子]]([[1677年]])を発見した<ref name="Wootton">see Wootton, David (2006) p. 119.</ref>。彼は生涯を顕微鏡の改良に費やし、最終的には約300倍の[[倍率]]の顕微鏡を作っている。ただし、これは単[[レンズ]]のものであり、顕微鏡そのものの改良につながってはいない。
[[日本]]には、[[オランダ]]から1750年頃に伝わったと考えられている。1765年に後藤梨春(ごとうりしゅん)が著した「紅毛談(おらんだばなし)」に「虫目がね」として顕微鏡が紹介されている。1781(天明元)年には、小林規右衛門が日本最初の顕微鏡を作っている。この顕微鏡は、[[島津創業記念資料館]]が所蔵している。「雪の殿様」の異名を持つ[[土井利位]]は、顕微鏡により[[雪]]の[[雪片|結晶]]を観察し、様々な模様を残している。[[宇田川榕庵]]は、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]から贈られた顕微鏡を持っており、様々な研究に役立てている<ref>{{Cite web|和書|title=顕微鏡の歴史 日本の顕微鏡の誕生と発展|url=http://www.microscope.jp/history/07-1.html |accessdate=2021-8-1 |publisher=日本顕微鏡工業会}}</ref>。
日本で工業的に作られた最初の顕微鏡は、田中杢次郎が1907(明治40)年に作り上げた田中式600倍顕微鏡とされる。この顕微鏡は、当時の皇太子(後の[[大正天皇]])へ献上された。また、1910年には、 加藤嘉吉と神藤新吉により、[[エムカテラ]]が開発された。当時、日本が顕微鏡を数多く輸入していたのは、[[カール・ツァイス|ツァイス]]やライツなどを擁する[[ドイツ]]であったが、[[第一次世界大戦]]の影響により、ドイツからの輸入が途絶えたため、国産品が日本の市場を独占するようになる。しかし、当時の日本製顕微鏡は、まだ性能で外国製に及ばなかった。これに触発された[[山下長]]は、世界に通用する顕微鏡の開発を目指し、高千穂製作所(後の[[オリンパス]])を創立した<ref>{{Cite web|title=沿革|url=https://www.tanaka-sci.com/company/111th.php |accessdate=2021-8-1|publisher=田中科学機器製作株式会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=創業の精神:沿革|url=https://www.olympus.co.jp/company/milestones/founding.html|accessdate=2021-8-1|publisher=[[オリンパス]]株式会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=顕微鏡の歴史 国産顕微鏡の夜明け|url=http://www.microscope.jp/history/07-2.html |accessdate=2021-8-1 |publisher=日本顕微鏡工業会}}</ref>。
== 種類 ==
* [[光学顕微鏡]] (OM)
** [[実体顕微鏡]]
** [[蛍光顕微鏡]]
** [[レーザー走査顕微鏡]]
** [[共焦点レーザー顕微鏡]]
* [[電子顕微鏡]]
** [[透過型電子顕微鏡]] (TEM)
** [[走査型電子顕微鏡]] (SEM)
* [[走査型プローブ顕微鏡]] (SPM)
** [[原子間力顕微鏡]] (AFM)
** [[走査型トンネル顕微鏡]] (STM)
** [[走査型近接場光顕微鏡]] (SNOM)
* [[X線顕微鏡]]
* [[超音波顕微鏡]]
* [[バーチャル顕微鏡]]
== 顕微鏡と科学 ==
=== 生物学 ===
科学の諸分野の中で、生物学は恐らくもっともその影響を受け恩恵を被っている。ほとんどの生物学の[[教科書]]が[[細胞]]の発見から始まることを見ても、それは明らかである。また[[高等学校]]においては、通常は顕微鏡は生物教室におかれる。
==ギャラリー==
<gallery>
File:LaborMik2.jpg|単眼顕微鏡
File:LaborMik1.jpg|双眼顕微鏡
File:SidJen.jpg|双眼顕微鏡の構造
File:SztereoMik.jpg|双眼実体顕微鏡
File:Objektiv2.jpg|対物レンズ
File:Objektiv1.jpg|対物レンズ
File:Objektiv4.jpg|対物レンズ
File:Huygens.JPG|接眼レンズ
File:Merook.JPG|接眼マイクロメーター
File:Zeissok.JPG|接眼レンズ(双眼)
File:Okular02.jpg|接眼レンズ
File:Okular01.jpg|接眼レンズ
</gallery>
==顕微鏡の構造==
<gallery>
ファイル:Korasztal.jpg|ステージと対物レンズ
ファイル:Revolver02.jpg|[[リボルバー (曖昧さ回避)|レボルバー]]([[ターレット]])
ファイル:Tubustarto.jpg|焦準装置
ファイル:MikTub.jpg|鏡筒(接眼レンズを取り外したところ)
ファイル:Talpazat.jpg|鏡台
ファイル:Rekesz.jpg|ステージ・絞り(下から見たところ)
ファイル:Kondenzor01.jpg|絞り
ファイル:Kondenzor.jpg|絞り
ファイル:Foglec.jpg|焦準装置
ファイル:Elesseg.jpg|焦準装置
ファイル:Asztal.jpg|ステージ
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Microscopes}}
* [[発明]]
* [[けんびきょう座]]
* [[ライカ]]
* [[オリンパス]]
* [[ニコン]]
* [[アントニ・ファン・レーウェンフック]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:けんひきよう}}
[[Category:顕微鏡|*]]
|
2003-08-30T06:32:10Z
|
2023-12-16T12:43:21Z
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[
"Template:Kotobank",
"Template:Normdaten",
"Template:Redirect",
"Template:Lang-en",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1
|
14,446 |
STM
|
STM
|
[
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}
] |
STM 走査型トンネル顕微鏡 の略称
ソフトウェアトランザクショナルメモリ の略称
STマイクロエレクトロニクス (STMicroelectronics)
モントリオール地下鉄の略称
Synchronous Transport Module(同期転送モジュール)の略称。SDHにおける多重化の単位のこと。
Synchronous Transfer Mode(同期転送モード)の略称
短期金融市場の略称
|
'''STM'''
* [[走査型トンネル顕微鏡]] (Scanning Tunneling Microscope) の略称
* [[ソフトウェアトランザクショナルメモリ]] (Software transactional memory) の略称
* [[STマイクロエレクトロニクス]] (STMicroelectronics)
* [[モントリオール地下鉄]] ([[:fr:Société de transport de Montreal|Société de transport de Montreal]])の略称
* [[Synchronous Transport Module]](同期転送モジュール)の略称。[[SDH]]における多重化の単位のこと。
* [[Synchronous Transfer Mode]](同期転送モード)の略称
* [[金融市場|短期金融市場]] (short term money market)の略称
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https://ja.wikipedia.org/wiki/STM
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14,447 |
鶴田駅
|
鶴田駅(つるたえき)は、栃木県宇都宮市西川田町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)日光線の駅である。
島式ホーム1面2線を有する地上駅。駅舎側のホームは使われていない。指定席券売機と簡易Suica改札機が設置されている。宇都宮駅管理の業務委託駅(JR東日本ステーションサービス受託)。
ホームは嵩上げされていない。駅本屋とホームを結ぶ跨線橋は1911年製で、2009年2月に経済産業省より平成20年度の近代化産業遺産に認定された。
(出典:JR東日本:駅構内図)
1番線を上下主本線とした一線スルーとなっているが、早朝・深夜の一部列車を除いては原則として方向別に発着する。
JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は1,235人である。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
かつては東武鉄道大谷線や専売公社工場(1984年2月廃止)および富士重工業(現:SUBARU)宇都宮製作所への専用線と接続していた。
東武鉄道大谷線の遺構は、住宅地開発や宇都宮環状道路の建設により新鶴田駅付近までほぼ消滅したが、道路化を免れた築堤(羽生田街道を市内方面から行き日光線踏み切り手前右側)が現存している。 専売公社専用線は廃線後、工場跡地にできた栃木県中央公園まで伸びる歩行者自転車専用道路「なかよし通り」に転用されている。同線の記念碑が「なかよし通り」沿い、駅から300m程のところにある。専売公社専用線は一部区間を東武大谷線(軌道線)の軌道跡を流用している。 富士重工業宇都宮製作所への専用線は日光線より50mほど上野寄りで東武宇都宮線をくぐり、宮原運動公園の北を通って宇都宮工場に至っていた。
|
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"text": "東武鉄道大谷線の遺構は、住宅地開発や宇都宮環状道路の建設により新鶴田駅付近までほぼ消滅したが、道路化を免れた築堤(羽生田街道を市内方面から行き日光線踏み切り手前右側)が現存している。 専売公社専用線は廃線後、工場跡地にできた栃木県中央公園まで伸びる歩行者自転車専用道路「なかよし通り」に転用されている。同線の記念碑が「なかよし通り」沿い、駅から300m程のところにある。専売公社専用線は一部区間を東武大谷線(軌道線)の軌道跡を流用している。 富士重工業宇都宮製作所への専用線は日光線より50mほど上野寄りで東武宇都宮線をくぐり、宮原運動公園の北を通って宇都宮工場に至っていた。",
"title": "その他"
}
] |
鶴田駅(つるたえき)は、栃木県宇都宮市西川田町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)日光線の駅である。
|
{{otheruses|栃木県宇都宮市にある日光線の駅|その他の「鶴田駅」}}
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 鶴田駅
|画像 = JR Tsuruta station.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2020年9月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|32|17.71|N|139|51|28.17|E}}}}
|よみがな = つるた
|ローマ字 = Tsuruta
|電報略号 = ツル
|所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[栃木県]][[宇都宮市]][[西川田|西川田町]]1079
|座標 = {{coord|36|32|17.71|N|139|51|28.17|E|region:JP-09_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日= [[1902年]]([[明治]]35年)[[9月13日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=469}}</ref>
|廃止年月日=
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面2線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =28 }}</ref>
|乗車人員 = 1,235
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{Color|#880022|■}}[[日光線]]
|前の駅 = [[宇都宮駅|宇都宮]]
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|駅間B = 9.5
|次の駅 = [[鹿沼駅|鹿沼]]
|駅番号 =
|キロ程 = 4.8
|起点駅 = [[宇都宮駅|宇都宮]]
|乗換 =
|備考 =[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
}}
'''鶴田駅'''(つるたえき)は、[[栃木県]][[宇都宮市]][[西川田|西川田町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[日光線]]の[[鉄道駅|駅]]である{{R|zeneki05}}。
== 歴史 ==
* [[1902年]]([[明治]]35年)[[9月13日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業{{R|停車場}}。旅客営業のみ{{R|停車場}}。
** これ以前に現在の駅位置より西よりに'''砥上駅'''(とがみえき)が存在したが、鶴田駅開業時に廃止(鶴田駅として移転・改称とも)されている{{R|zeneki05}}。
* [[1903年]](明治36年)[[3月16日]]:貨物の取扱いを開始{{R|停車場}}。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道国有化、[[鉄道省]]に移管{{R|停車場}}。
* [[1970年]]([[昭和]]45年)[[3月15日]]:[[チッキ|旅客手荷物・小荷物]]の取扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1974年]](昭和49年)[[10月1日]]:小荷物の取扱いを再開{{R|停車場}}。
* [[1976年]](昭和51年)[[5月1日]]:小荷物の取扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:[[車扱貨物]]の取扱いを廃止し、貨物営業終了{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月31日]]:車扱貨物の取扱いを、鉄道車両に限り再開。
** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道(JR東日本)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[2003年]]([[平成]]15年)4月1日:JR貨物の駅が廃止され、貨物営業終了。
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月31日]]:指定席券売機稼動開始。
** [[2月29日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。
** 3月15日:[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]拡大により、ICカード「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf|title=2008年3月 Suicaがますます便利になります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2007-12-21|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304095817/https://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071214.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>。
* [[2014年]](平成25年)[[3月14日]]:新駅舎の供用を開始<ref name="shimotuke-np-2014-3-14">“日光、烏山線6駅舎完成 JR東日本”.[[下野新聞]](下野新聞社). (2014年3月14日)</ref>。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
JR East Tsuruta Station.jpg|旧駅舎(2007年3月)
Tsuruta-eki20131214.JPG|仮駅舎(2013年12月)
</gallery>
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]{{R|zeneki05}}。駅舎側のホームは使われていない。[[指定席券売機]]と簡易[[Suica]]改札機が設置されている。宇都宮駅管理の業務委託駅([[JR東日本ステーションサービス]]受託)。
ホームは嵩上げされていない。駅本屋とホームを結ぶ[[跨線橋]]は1911年製で、2009年2月に[[経済産業省]]より平成20年度の[[近代化産業遺産]]に認定された<ref>[http://www.pref.tochigi.lg.jp/f01/system/honchou/honchou/documents/1237270982292.pdf 栃木県の近代化産業遺産Vol.2]- 栃木県産業政策課ウェブサイト掲載(8ページ目を参照)</ref>。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="2"|{{Color|#880022|■}}日光線
|style="text-align:center"|上り
|[[宇都宮駅|宇都宮]]方面
|
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[日光駅|日光]]方面
|一部1番線から発車
|}
(出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1023.html JR東日本:駅構内図])
1番線を上下主本線とした[[一線スルー]]となっているが、早朝・深夜の一部列車を除いては原則として方向別に発着する。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
JR Nikkō Line Tsuruta Station Gates.jpg|改札口(2022年3月)
JR Nikkō Line Tsuruta Station Vending Machine.jpg|券売機(2022年3月)
JR Nikkō Line Tsuruta Station Platform.jpg|ホーム(2022年3月)
</gallery>
== 利用状況 ==
JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]は'''1,235人'''である<ref group="利用客数" name="passenger/2022_05" />。
2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;"
|-
!colspan="3"|乗車人員推移
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|2000年(平成12年)
|style="text-align:right;"|1,454
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_03.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|style="text-align:right;"|1,494
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_03.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|style="text-align:right;"|1,488
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_03.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|style="text-align:right;"|1,466
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_03.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|style="text-align:right;"|1,446
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_03.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|style="text-align:right;"|1,456
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_03.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|style="text-align:right;"|1,416
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_03.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|style="text-align:right;"|1,381
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_03.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|style="text-align:right;"|1,362
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_03.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|style="text-align:right;"|1,382
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_03.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|style="text-align:right;"|1,393
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_03.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|style="text-align:right;"|1,308
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_03.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|style="text-align:right;"|1,286
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_05.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|style="text-align:right;"|1,333
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_05.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|style="text-align:right;"|1,323
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_05.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|style="text-align:right;"|1,385
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_05.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|style="text-align:right;"|1,432
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_05.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|style="text-align:right;"|1,460
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_05.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|style="text-align:right;"|1,486
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_05.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-21}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|style="text-align:right;"|1,457
|<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_05.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-18}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|style="text-align:right;"|1,219
|<ref group="利用客数" name="passenger/2020_05">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_05.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-28}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|style="text-align:right;"|1,226
|<ref group="利用客数" name="passenger/2021_05">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_05.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-12}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|style="text-align:right;"|1,235
|<ref group="利用客数" name="passenger/2022_05">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_05.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-09}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
[[File:Tochigi prefectural road No.155 on Utsunomiya city.jpg|thumb|250px|駅前を通る栃木県道155号羽生田鶴田線]]
* [[東武宇都宮線]][[江曽島駅]]
* 鶴田駅前郵便局
* [[栃木県立宇都宮高等学校]]
** 日光線は鶴田駅の宇都宮駅側直ぐ東において宇都宮高等学校の校庭を横断している。
* 栃木県立衛生福祉大学校
* [[SUBARU]]宇都宮製作所
* [[栃木県道2号宇都宮栃木線]]
** 日光線上をオーバーパスする。
* [[栃木県道3号宇都宮亀和田栃木線]]
* [[宇都宮環状道路]](宮環)
** 日光線下をアンダーパスする。
* [[栃木県道155号羽生田鶴田線]]
* [[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]「鶴田駅」停留所
== その他 ==
{{ 出典の明記 |ソートキー = 駅 | date = 2015年3月 |section = 1 }}
[[ファイル:鶴田駅から分岐する橋脚跡.JPG|thumb|250px|橋脚跡]]
かつては[[東武大谷線|東武鉄道大谷線]]や[[日本専売公社|専売公社]]工場([[1984年]]2月廃止)および富士重工業(現:SUBARU)宇都宮製作所への専用線と接続していた。
東武鉄道大谷線の遺構は、住宅地開発や宇都宮環状道路の建設により新鶴田駅付近までほぼ消滅したが、道路化を免れた築堤(羽生田街道を市内方面から行き日光線踏み切り手前右側)が現存している。
専売公社専用線は廃線後、工場跡地にできた[[栃木県中央公園]]まで伸びる歩行者自転車専用道路「なかよし通り」に転用されている。同線の記念碑が「なかよし通り」沿い、駅から300m程のところにある。専売公社専用線は一部区間を東武大谷線(軌道線)の軌道跡を流用している。
富士重工業宇都宮製作所への専用線は日光線より50mほど上野寄りで[[東武宇都宮線]]をくぐり、[[宮原運動公園]]の北を通って宇都宮工場に至っていた。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#880022|■}}日光線
:: [[宇都宮駅]] - '''鶴田駅''' - [[鹿沼駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====-->
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="利用客数"|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tsuruta Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[陸奥鶴田駅]] - [[青森県]][[鶴田町]]のJR[[五能線]]にある駅。
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1023|name=鶴田}}
{{日光線}}
{{DEFAULTSORT:つるた}}
[[Category:宇都宮市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 つ|るた]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の廃駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日光線]]
[[Category:1902年開業の鉄道駅]]
[[Category:2014年竣工の日本の建築物|つるたえき]]
[[Category:近代化産業遺産|つるたえき]]
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|
14,448 |
小川駅
|
小川駅(おがわえき、シャオチュアンえき)
小川駅(おがわえき)
小川駅(シャオチュアンえき)
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小川駅(おがわえき、シャオチュアンえき) 小川駅(おがわえき) 小川駅 (東京都) - 東京都小平市にある西武鉄道国分寺線・拝島線の駅。
小川駅 (熊本県) - 熊本県宇城市にある九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅。
常陸小川駅 - 茨城県小美玉市にあった鹿島鉄道線の駅。通称及びバス停留所名は「小川駅」。
東京都町田市にある東急田園都市線のつくし野駅の建設時の仮称。 小川駅(シャオチュアンえき) 小川駅 (陝西省) - 中華人民共和国・陝西省宝鶏市陳倉区拓石鎮小川にある隴海線の駅。
|
{{混同|緒川駅}}
'''小川駅'''(おがわえき、シャオチュアンえき)
'''小川駅'''(おがわえき)
* [[小川駅 (東京都)]] - [[東京都]][[小平市]]にある[[西武鉄道]][[西武国分寺線|国分寺線]]・[[西武拝島線|拝島線]]の駅。
* [[小川駅 (熊本県)]] - [[熊本県]][[宇城市]]にある[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[鹿児島本線]]の駅。
* [[常陸小川駅]] - [[茨城県]][[小美玉市]]にあった[[鹿島鉄道線]]の駅。通称及びバス停留所名は「小川駅」。
* 東京都[[町田市]]にある[[東急田園都市線]]の[[つくし野駅]]の建設時の仮称。
'''小川駅'''(シャオチュアンえき)
* [[小川駅 (陝西省)]] - 中華人民共和国・陝西省宝鶏市陳倉区拓石鎮小川にある隴海線の駅。
== 関連項目 ==
* [[小川町駅|小川町駅 (曖昧さ回避)]]
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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14,449 |
小川町駅
|
小川町駅(おがわまちえき)
|
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小川町駅(おがわまちえき) 小川町駅 (埼玉県) - 埼玉県比企郡小川町にある東武東上本線・東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅。
小川町駅 (東京都) - 東京都千代田区にある都営地下鉄新宿線の駅。
小川町駅 (岐阜県) - 岐阜県土岐市にかつて存在した東濃鉄道駄知線の駅。
小川町停留場 - 長崎県長崎市にある長崎電気軌道桜町支線の桜町停留場の旧称。
|
'''小川町駅'''(おがわまちえき)
* [[小川町駅 (埼玉県)]] - 埼玉県比企郡小川町にある東武東上本線・東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅。
* [[小川町駅 (東京都)]] - 東京都千代田区にある都営地下鉄新宿線の駅。
* 小川町駅 (岐阜県) - 岐阜県土岐市にかつて存在した[[東濃鉄道駄知線]]の駅。
* 小川町停留場 - 長崎県長崎市にある長崎電気軌道桜町支線の[[桜町停留場]]の旧称。
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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|
14,450 |
二等車
|
二等車(にとうしゃ 英語名: Second Class Car)とは、鉄道事業者が自社の保有する旅客用車両の等級を分ける際に使用している区分の一つ。
日本の旅客列車用の車両に存在した運賃および車両区分。時期により以下の二つに分類される。主に日本国有鉄道およびその前身組織の制度について記述するが、かつては、私鉄においても設定されていた。
明治時代以来の三等級制下における、中間級車両。それ以前の中等車に該当。
1960年以降の二等級制時代における下位級の車両。1960年以前の三等車。明治時代における下等車に該当。
一等車の項参照。
ヨーロッパの鉄道では、二等級制が取られているため、下位級の車両、現在の日本における普通車に相当する。
アメリカ合衆国本土において中長距離旅客列車を運行するアムトラックは、一部の路線において普通座席(コーチ)より上等のビジネスクラス席を用意している。「二等車」という表現は用いていないが、唯一高速列車のアセラ・エクスプレスに限ってファーストクラス席が存在するため、ビジネスクラス席は事実上の二等車とみなすことができる。
|
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"text": "ヨーロッパの鉄道では、二等級制が取られているため、下位級の車両、現在の日本における普通車に相当する。",
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"text": "アメリカ合衆国本土において中長距離旅客列車を運行するアムトラックは、一部の路線において普通座席(コーチ)より上等のビジネスクラス席を用意している。「二等車」という表現は用いていないが、唯一高速列車のアセラ・エクスプレスに限ってファーストクラス席が存在するため、ビジネスクラス席は事実上の二等車とみなすことができる。",
"title": "アメリカ"
}
] |
二等車とは、鉄道事業者が自社の保有する旅客用車両の等級を分ける際に使用している区分の一つ。
|
'''二等車'''(にとうしゃ 英語名: Second Class Car)とは、[[鉄道事業者]]が自社の保有する[[旅客車|旅客用車両]]の[[等級 (鉄道車両)|等級]]を分ける際に使用している区分の一つ。
== 日本 ==
日本の[[旅客列車]]用の車両に存在した[[運賃]]および[[鉄道車両|車両]]区分。時期により以下の二つに分類される。主に[[日本国有鉄道]]およびその[[鉄道省|前身組織]]の制度について記述するが、かつては、[[私鉄]]においても設定されていた。
=== 三等級制時代の二等車(1960年以前。旧二等) ===
[[明治時代]]以来の三等級制下における、中間級車両。それ以前の'''中等車'''に該当。
* 車体標記・形式記号は'''ロ'''。
* 側面窓下に青帯の塗装と[[ローマ数字]]の「II」、さらに[[1950年代]]以降は客用扉の横に「2」の標記がなされていた。
* 特別二等車出現前の二等車の座席は、シートピッチが大きく奥行きの深い固定クロスシートないしは転換クロスシートが基本であったが、車両限界が狭かった[[大正時代]]中期までは車内のスペースを広く使えることから、ロングシートが主流であった。
* なお、[[1950年]](昭和25年)以降、新造および[[国鉄60系客車|木造車両の鋼体化改造]]によって登場した、自在腰掛([[鉄道車両の座席|リクライニングシート]])を装備した車両を'''[[特別二等車]]'''(とくべつにとうしゃ、略称'''「特ロ」''')と称し、一般形二等車(同'''「並ロ」''')と区別した。なお、特別二等車の料金制度は[[1958年]](昭和33年)[[10月1日]]に廃止され、「特ロ」は二等指定席車、「並ロ」は二等自由席車となった。
* [[1960年]](昭和35年)[[6月1日]]の二等級制移行に伴う称号改正で[[一等車]]となった。さらに[[1969年]](昭和44年)[[5月10日]]の[[等級 (鉄道車両)#モノクラス制|モノクラス制]]移行後は、[[グリーン車]]となる。
=== 二等級制時代の二等車(1960年 - 1969年。新二等) ===
[[1960年]]以降の二等級制時代における'''下位級'''の車両。1960年以前の[[普通車 (鉄道車両)|三等車]]。明治時代における'''下等車'''に該当。
* 車体標記・形式記号は'''ハ'''。旧三等級制時代にみられた側面窓下の等級をあらわす記号は廃止された。
* 1969年のモノクラス制移行後、[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]となる。
=== 等級制時代(1969年以前)の運賃・料金 ===
[[一等車]]の項参照。
== ヨーロッパ ==
[[ヨーロッパ]]の鉄道では、二等級制が取られているため、下位級の車両、現在の日本における普通車に相当する。
== アメリカ ==
[[アメリカ合衆国]]本土において中長距離旅客列車を運行する[[アムトラック]]は、一部の路線において普通座席(コーチ)より上等のビジネスクラス席を用意している<ref>[https://www.amtrak.com/business-class Business Class] アムトラック公式ウェブサイト。 2018年6月12日閲覧。</ref>。「二等車」という表現は用いていないが、唯一[[高速鉄道|高速列車]]の[[アセラ・エクスプレス]]に限って[[一等車|ファーストクラス]]席が存在するため、ビジネスクラス席は事実上の二等車とみなすことができる。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* 中村光司「<small>旧形客車の青帯車あれこれ</small> 並ロの戦後史」
: 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』2006年5月号 No.775 pp.48 - 57
{{国鉄・JRの客車}}
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14,451 |
高尾駅
|
高尾駅(たかおえき)
|
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高尾駅(たかおえき)
|
'''高尾駅'''(たかおえき)
== 日本各地の「高尾駅」一覧 ==
*[[高尾駅 (東京都)]] - [[東京都]][[八王子市]]にある[[東日本旅客鉄道]][[中央本線]]・[[京王電鉄]][[京王高尾線|高尾線]]の駅。
*[[高尾駅 (岐阜県)]] - [[岐阜県]][[本巣市]]にある[[樽見鉄道樽見線]]の駅。
*[[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]]にある[[神戸すまいまちづくり公社摩耶ケーブル線]]・[[摩耶ケーブル駅]]の旧称。
*[[長崎県]][[佐世保市]]にあった[[日本国有鉄道]][[柚木線]]の駅。[[柚木線#駅一覧]]を参照。
== 関連項目 ==
* [[高尾山口駅]] - 東京都八王子市にある京王電鉄高尾線の駅。
* [[高尾野駅]] - [[鹿児島県]][[出水市]]にある[[肥薩おれんじ鉄道線]]の駅。
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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14,452 |
競艇場前駅
|
競艇場前駅(きょうていじょうまええき)
|
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競艇場前駅(きょうていじょうまええき) 競艇場前駅 (東京都) - 東京都府中市にある西武多摩川線の駅。
宮島ボートレース場駅 - 広島県廿日市市にある広島電鉄宮島線の駅。2019年3月までこの駅名であった。
|
'''競艇場前駅'''(きょうていじょうまええき)
* [[競艇場前駅 (東京都)]] - 東京都府中市にある西武多摩川線の駅。
* [[宮島ボートレース場駅]] - 広島県廿日市市にある広島電鉄宮島線の駅。2019年3月までこの駅名であった。
== 関連項目 ==
*[[蒲郡競艇場前駅]]
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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|
14,453 |
桜台駅
|
桜台駅(さくらだいえき)
|
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桜台駅(さくらだいえき) 桜台駅 (東京都) - 東京都練馬区にある、西武池袋線の駅。
桜台駅 (福岡県) - 福岡県筑紫野市にある、西鉄天神大牟田線の駅。
|
'''桜台駅'''(さくらだいえき)
* [[桜台駅 (東京都)]] - 東京都練馬区にある、西武池袋線の駅。
* [[桜台駅 (福岡県)]] - 福岡県筑紫野市にある、西鉄天神大牟田線の駅。
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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14,454 |
落合駅
|
落合駅(おちあいえき)
|
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落合駅(おちあいえき) 落合駅 (北海道) - 北海道空知郡南富良野町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線の駅。
落合駅 (東京都) - 東京都新宿区にある東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅。
陸前落合駅 - 宮城県仙台市青葉区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)仙山線の駅。
美作落合駅 - 岡山県真庭市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅。
備後落合駅 - 広島県庄原市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)芸備線・木次線の駅。
会津落合駅 - 福島県南会津郡下郷町にあった東日本旅客鉄道(JR東日本)会津線の駅(会津鉄道の養鱒公園駅として現存)。
落合駅 (樺太) - 樺太豊栄郡落合町にあった鉄道省樺太東線の駅(ロシア鉄道のドリンスク駅として現存)。
|
'''落合駅'''(おちあいえき)
* [[落合駅 (北海道)]] - 北海道空知郡南富良野町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線の駅。
* [[落合駅 (東京都)]] - 東京都新宿区にある東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅。
* [[陸前落合駅]] - 宮城県仙台市青葉区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)仙山線の駅。
* [[美作落合駅]] - 岡山県真庭市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅。
* [[備後落合駅]] - 広島県庄原市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)芸備線・木次線の駅。
* [[養鱒公園駅|会津落合駅]] - 福島県南会津郡下郷町にあった東日本旅客鉄道(JR東日本)会津線の駅(会津鉄道の'''養鱒公園駅'''として現存)。
* [[落合駅 (樺太)]] - 樺太豊栄郡落合町にあった鉄道省樺太東線の駅(ロシア鉄道の'''ドリンスク駅'''として現存)。
== 関連項目 ==
* [[落合川駅]] - 岐阜県中津川市にある東海旅客鉄道(JR東海)中央本線の駅。
* [[落合南長崎駅]] - 東京都新宿区にある東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅。
* [[下落合駅]] - 東京都新宿区にある西武鉄道新宿線の駅。
* [[落合|落合 (曖昧さ回避)]]
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南新宿駅
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南新宿駅(みなみしんじゅくえき)は、東京都渋谷区代々木二丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 02。
当駅が現在の位置に置かれたのは、隣接する新宿駅の拡張工事が1967年(昭和42年)に完了したときからである。駅はそれ以前、現在の位置よりも新宿駅寄り、現行の小田急線の新宿駅地下ホームからの線路が地上ホームからの線路と合流する踏切(新宿1号踏切)からその次の旧小田急本社(現在の小田急南新宿ビル)前の踏切(新宿2号踏切)にかけての地点に設置されていた。同地には新宿駅地上ホームへの線路と地下ホームへの線路との分岐器を設置したため、昔の駅の痕跡はほとんどみられず、わずかに踏切脇に当時の駅舎の土台部分のコンクリート跡が残る程度である。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。
2009年(平成21年)5月から駅の改良工事を実施しており、エレベーターの新設やトイレの改修などが施工された。2012年(平成24年)2月に、各駅停車の10両編成化に対応するためのホーム有効長の延伸工事が完了した。延伸部分は立入禁止の仕切りによって閉鎖していたが、2019年3月16日ダイヤ改正より10両編成の各駅停車が設定され、延伸部分の供用を開始した。現在、ホームドアの設置は無し。
海側(南側)から下表の通り。
(出典:小田急電鉄:駅構内図)
2022年度の乗降人員は3,588人であり、小田急線内全70駅中最下位である。ただし、次点の足柄駅との差は僅かであり、年度により順位が入れ替わることがある。
また、新宿駅と目と鼻の先で徒歩圏内、かつ500メートルほど離れた代々木駅からは山手線や中央総武線が運行されており、千代田区・中央区などの東京都心部や渋谷・池袋方面などに乗り換え無しで行けるなど、近距離に利便性の高い駅がある関係からか、東京23区内では利用者数の少ない鉄道駅の一つとなっている。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。
最寄りのバス停留所は、ハチ公バス神宮の杜ルート(フジエクスプレスが運行)の代々木一丁目である。
なお、1927年4月1日の小田急小田原線開業時から1946年5月31日まで、当駅と参宮橋駅との間に山谷駅が存在した。
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南新宿駅(みなみしんじゅくえき)は、東京都渋谷区代々木二丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 02。
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{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{駅情報
|社色 = #2288CC
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|駅名 = 南新宿駅
|画像 = Minami-Shinjuku Sta 20190928.jpg
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|画像説明 = 高架下にある駅入口(2019年9月28日)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = みなみしんじゅく
|ローマ字 = Minami-Shinjuku
|前の駅 = OH 01 [[新宿駅|新宿]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 0.7
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|電報略号 =
|所属事業者 = [[小田急電鉄]]
|所属路線 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急小田原線|小田原線]]
|駅番号 = {{駅番号r|OH|02|#2288CC|4||#2288CC}}
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|備考全幅=
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{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br/>南新宿駅<br/>配線図|#2288CC}}
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↑[[新宿駅]]
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↓[[参宮橋駅]]
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[[画像:Minami-Shinjuku_Sta_20190929.jpg|thumb|200px|改札口<br/>(2019年9月29日)]]
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[[画像:OER Minami-Shinjuku station Precincts.JPG|thumb|200px|駅構内(左側より1番、2番ホーム)<br/>(2008年3月7日)]]
'''南新宿駅'''(みなみしんじゅくえき)は、[[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]二丁目にある、[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OH 02'''。
駅名に新宿と付くが、渋谷区に存在する。駅名の由来は新宿駅の南に位置するというのが諸説である。
== 歴史 ==
当駅が現在の位置に置かれたのは、隣接する[[新宿駅]]の拡張工事が1967年(昭和42年)に完了したときからである。駅はそれ以前、現在の位置よりも新宿駅寄り、現行の小田急線の新宿駅地下ホームからの線路が地上ホームからの線路と合流する[[踏切]](新宿1号踏切)からその次の旧小田急本社(現在の小田急南新宿ビル)前の踏切(新宿2号踏切)にかけての地点に設置されていた。同地には新宿駅地上ホームへの線路と地下ホームへの線路との分岐器を設置したため、昔の駅の痕跡はほとんどみられず、わずかに踏切脇に当時の駅舎の土台部分のコンクリート跡が残る程度である。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]] - '''千駄ヶ谷新田駅'''(「'''千田ヶ谷新田'''」という表記もみられる<ref>綱島定治 『ポケット大東京案内』 地人社/竹田弘文堂 昭和6年発行</ref>)として開業<ref name="jtb">{{Cite book |和書 |author=生方良雄|authorlink=生方良雄 |title=小田急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |date=2010-02-01 |isbn=9784533075629 }}</ref><ref name="odakyu50-98">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/78|page=98-99|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref>。駅名は当時の駅所在地の地名に由来する。
* [[1937年]](昭和12年)[[7月1日]] - '''小田急本社前駅'''に改称<ref name="jtb"/><ref name="odakyu50-795">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/430|page=795|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref>。小田原急行鉄道の本社が駅前にあることから。
* [[1942年]](昭和17年)[[5月1日]] - 当時の小田急電鉄が当時の[[東京横浜電鉄]]等と合併し[[大東急|東京急行電鉄(大東急)]]となったことから'''南新宿駅'''に改称<ref name="jtb"/><ref name="odakyu50-798">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/432|page=798|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref><ref group="注">その後、各会社に分離された後も、小田急本社は新宿駅西口駅前に移転したため、駅名が「小田急本社前」に戻ることはなかった</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)[[5月26日]] - 前日の夜からのアメリカ軍による[[東京大空襲#5月|東京大空襲]](山の手大空襲)で、本社事務所(現在の小田急南新宿ビル)と新宿駅甲州口が焼失、新宿 - 南新宿間が不通となったため、数日間、全列車が当駅止まりとなる<ref name="odakyu50-800">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/433|page=800|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)[[12月21日]] - 参宮橋方に150m移転し、現在地に開業<ref name="jtb"/><ref name="odakyu50-817">{{Cite book|和書|title=小田急五十年史|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11956508/1/441|page=817|publisher=小田急電鉄|date=1980-12|doi=10.11501/11956508}}</ref>。
* [[2012年]]([[平成]]24年)[[2月]] - ホーム有効長を10両対応とする工事が完了<ref name="IR">{{Cite web|和書|url=http://www.odakyu.jp/ir/shared/pdf/report/2011/91_all.pdf |title=第91期のご報告(2011年4月1日から2012年3月31日まで) |page=9 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2015-01-03 |format=pdf}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[1月]]:[[駅ナンバリング]]が導入され、使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|title=小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します! 新宿駅から箱根・芦ノ湖まで通しのナンバリングにより、わかりやすくご利用いただけます|publisher=小田急電鉄/箱根登山鉄道|date=2013-12-24|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210509093516/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf|accessdate=2021-05-09|archivedate=2021-05-09}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] - ダイヤ改正により、新たに10両編成の各駅停車が停車するようになる。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]である。
2009年(平成21年)5月から駅の改良工事を実施しており、[[エレベーター]]の新設や[[便所|トイレ]]の改修などが施工された。2012年(平成24年)2月に、[[小田急小田原線#各駅停車|各駅停車]]の10両編成化に対応するためのホーム[[有効長]]の延伸工事が完了した<ref name="IR"/>。延伸部分は立入禁止の仕切りによって閉鎖していたが、2019年3月16日ダイヤ改正より10両編成の各駅停車が設定され、延伸部分の供用を開始した。現在、ホームドアの設置は無し。
=== のりば ===
海側(南側)から下表の通り。
{|class="wikitable"
!ホーム!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/minami_shinjuku/index.html |title=南新宿駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref>
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
|style="text-align:center"|下り
|[[小田原駅|小田原]]・[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[新宿駅|新宿]]方面
|}
(出典:[http://www.odakyu.jp/station/minami_shinjuku/index.html 小田急電鉄:駅構内図])
=== 駅構内設備 ===
* エレベーター
* 各ホームから[[改札]]への[[階段]]は8両編成の5号車付近にそれぞれ1か所ある。
* トイレと[[現金自動預け払い機|ATM]]([[横浜銀行]])は下りホームの新宿寄りにある。
* かつては改札内コンコースに忘れ物取扱所として「南新宿[[遺失物]]センター」が併設されていたが、2006年3月に[[経堂駅]]に移設された。
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''3,588人'''であり<ref group="小田急" name="odakyu2022" />、小田急線内全70駅中最下位である。ただし、次点の[[足柄駅 (神奈川県)|足柄駅]]との差は僅かであり、年度により順位が入れ替わることがある。
また、[[新宿駅]]と目と鼻の先で徒歩圏内、かつ500メートルほど離れた[[代々木駅]]からは[[山手線]]や[[中央・総武緩行線|中央総武線]]が運行されており、[[千代田区]]・[[中央区 (東京都)|中央区]]などの東京都心部や[[渋谷]]・[[池袋]]方面などに乗り換え無しで行けるなど、近距離に利便性の高い駅がある関係からか、東京23区内では利用者数の少ない鉄道駅の一つとなっている。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/city/pub/gaiyo.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref>
!年度
!1日平均<br/>乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br/>乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1972年(昭和47年)
|<ref>『首都圏沿線ガイド1 小田急線各駅停車』(椿書院・1973年)p21</ref>5,114
|
|
|-
|1982年(昭和57年)
|<ref>『日本の私鉄5 小田急』(保育社・1985年重版)p145</ref>7,625
|
|
|-
|1985年(昭和60年)
|<ref>『小田急 車両と駅の60年』([[大正出版]]・1987年6月1日)p150</ref>8,888
|
|
|-
|1989年(平成元年)
|<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻546号「特集・小田急電鉄」([[電気車研究会]]・1991年7月臨時増刊号)p17</ref>8,447
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|2,874
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|2,770
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|2,715
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|2,732
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|2,512
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|2,366
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|2,255
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|2,137
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻679号「特集・小田急電鉄」([[電気車研究会]]・1999年12月臨時増刊号)p29</ref>5,412
|2,033
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|1,962
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|1,871
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|
|1,981
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|4,565
|2,027
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|4,315
|1,899
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|4,178
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|2005年(平成17年)
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|-
|2006年(平成18年)
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|2007年(平成19年)
|4,124
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|2008年(平成20年)
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|-
|2009年(平成21年)
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|-
|2010年(平成22年)
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|-
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|-
|2013年(平成25年)
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|3,788
|1,638
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|3,815
|1,658
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|3,782
|1,649
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|4,024
|1,781
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|4,023
|1,803
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|3,977
|1,795
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|3,153
|1,411
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308034356/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-03-08|page=|accessdate=2023-08-26|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=2023-08-26}}</ref>3,410
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/|title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか
|archivedate=2023-07-01|page=|accessdate=2023-08-26|publisher=小田急電鉄|format=|language=日本語|deadlink=}}</ref>3,588
|
|
|}
== 駅周辺 ==
[[画像:Odakyu_Headquarters_Building.jpg|thumb|当駅の近くに建つ小田急南新宿ビルは、小田急電鉄の旧本社社屋(2018年6月)。]]
[[画像:Yoyogi 2-Chome 01.JPG|thumb|当駅付近から望む代々木二丁目の高層ビル群。手前の架線は小田急線のもの、その後ろの低層の建物が小田急南新宿ビル(2007年11月)。]]
* 小田急南新宿ビル(小田急電鉄の[[商業登記]]上の[[本店]]所在地<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=1011001005060 小田急電鉄株式会社の情報]([[国税庁]][[法人番号]]公表サイト)</ref>)
* [[小田急サザンタワー]]
** ホテルセンチュリーサザンタワー
<!--マイクロソフトは移転-->
* [[JR東京総合病院]]
* [[代々木駅]]([[東日本旅客鉄道]]〈JR東日本〉[[山手線]]・[[中央・総武緩行線]]、[[東京都交通局]]〈[[都営地下鉄]]〉[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])
** 新宿駅で階段等の上下移動を伴う大江戸線など、新宿駅の乗り換えよりもスムーズに乗り換えられる場合があるが、[[連絡運輸]]は行われていない。
* [[代々木ゼミナール]] 本部・代々木校
* 代々木ゼミナール造形学校
* [[山野美容専門学校]]
** [[山野ホール]]
* [[渋谷区立代々木小学校]]
* 代々木三郵便局
* 代々木駅前通郵便局
* [[北参道駅]]([[東京メトロ副都心線]])
=== バス路線 ===
最寄りのバス停留所は、[[ハチ公バス]]神宮の杜ルート([[フジエクスプレス]]が運行)の'''代々木一丁目'''である。
*ハチ公バス 神宮の杜ルート:代々木駅・[[千駄ケ谷駅]]・[[渋谷駅]]方面
== 隣の駅 ==
;小田急電鉄
:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田原線
::{{color|#f89c1c|■}}快速急行・{{color|#ef4029|□}}通勤急行・{{color|#ef4029|■}}急行
:::;通過
::{{color|#18469d|■}}各駅停車
:::[[新宿駅]] (OH 01) - '''南新宿駅 (OH 02)''' - [[参宮橋駅]] (OH 03)
なお、1927年4月1日の小田急小田原線開業時から1946年5月31日まで、当駅と参宮橋駅との間に[[山谷駅 (東京都)|山谷駅]]が存在した。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist|2}}
;小田急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="小田急"|3}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Minami-Shinjuku Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.odakyu.jp/station/minami_shinjuku/ 小田急電鉄 南新宿駅]
{{小田急小田原線}}
{{DEFAULTSORT:みなみしんしゆく}}
[[Category:渋谷区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 み|なみしんしゆく]]
[[Category:小田急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]]
[[Category:代々木]]
|
2003-08-30T06:55:35Z
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2023-12-02T14:20:00Z
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[
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