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Q11461466
_START_ARTICLE_ 小林和男 (政治家) _START_PARAGRAPH_ 小林 和男(こばやし かずお、1935年10月30日 - 2018年1月26日)は、日本の政治家・元地方公務員・元教諭。北海道乙部町出身。北海道学芸大学旭川分校卒業。前北海道三笠市市長(3期)。 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 8人兄弟の5番目として生まれる。大学卒業後、小中学校教諭、三笠市立博物館副館長を経て、1987年三笠市議会議員に当選。その後の市議選で落選し、1999年7月三笠市教育長に就任。市教育長を辞職して、2003年三笠市長選に立候補し初当選。2011年3期目当選。市長在職中は全国市長会理事も務めていた。2015年任期満了で市長を退任。_NEWLINE_退任後は、後任の西城賢策市長の発案により、三笠市の特産品などをPRする目的で新設した特命大使第1号に任命された。2015年7月11日に香港で開催された「北海道フードフェア」では、初めての海外販売となる「三笠メロン(I.Kメロン)」の発売記念式典であいさつし、「安心・安全の食を香港の人々に届けたい」とアピールした。_NEWLINE_2015年秋旭日小綬章受章(地方自治功労)。_NEWLINE_2018年1月26日、間質性肺炎のため死去、82歳。2018年2月23日、従五位に叙任。
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Q54293280
_START_ARTICLE_ 小林政一 _START_PARAGRAPH_ 小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1973年12月25日)は、日本の建築家、教育者。明治神宮外苑の建設に関わり、日本建築学会会長、千葉大学学長などを務めた。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1891年(明治24年)、茨城県稲敷郡の豪農の家に生まれる。竜ヶ﨑中学校、第二高等学校を経て、1916年(大正5年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業(高橋貞太郎、伊部貞吉、小倉強らと同年)。卒業後、大蔵省臨時建築局嘱託。_NEWLINE_1919年、恩師佐野利器の推薦で明治神宮造営局技師(高橋貞太郎の後任)に就任、神宮外苑の施設建設(絵画館、競技場、水泳場、日本青年館など)に従事。関東大震災を乗り越え、外苑の整備に尽力する。_NEWLINE_1926年に東京高等工業学校教授。1929年、同校の大学昇格に伴い東京工業大学教授。1929年、論文「明治神宮外苑工事に就て」で工学博士号取得。1930年1月より文部省の派遣で欧米に出張。1943・1944年に日本建築学会会長を務めた。_NEWLINE_1951年、東京工業大学を退官。その後も武蔵工業大学教授、千葉大学工学部長・学長などを歴任。また、日本英霊奉賛会会長も務めた。1966年、勲二等旭日重光章を受章。1973年逝去。
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Q11462496
_START_ARTICLE_ 小泉劇場 _START_SECTION_ 解散前 _START_PARAGRAPH_ 2005年、小泉は郵政国会において郵政民営化法案を本国会で成立させることを公言し、法案不成立の場合は衆議院を解散し総選挙を行うことを明言した。郵政民営化法案は衆議院を通過後、参議院で審議されていたが、衆議院採決で自民党から37人の反対・14人の棄権が出るなど自民党内の反発も多く、本国会での法案成立は困難が予想された。自民党内では衆議院を解散すれば党内に遺恨を残し、総選挙で自民党が民主党に負けて下野する予想があったため、法案修正案や継続審議案による解散回避論が高まっていた。_NEWLINE_小泉はこれらの党内融和論には妥協せず、法案を修正すること無く参議院本会議で可決・成立させる意向を示した。8月6日、首相の出身派閥領袖であり前首相である森喜朗が小泉に衆議院解散を思いとどまるよう説得を試みたが、小泉は「信念だ。殺されてもいい」と解散回避の説得を聞き入れなかった。この時、小泉は高級チーズ・ミモレットを供し、森は小泉のこの歓待をネタにしてその決断を「干からびたチーズ一切れ(ミモレットはかなり乾いた食感を有する)と缶ビールしか出さなかった。俺もさじ投げたな。あれ(小泉)は『変人以上』だ」と評した。後に森は「あの時は小泉君に怒って出て行った風にしてくれと言われたのであのように言った」として、党内外に小泉は本気で解散をやるぞというシグナルを送ったつもりだった旨を述懐している。 _START_SECTION_ 解散・総選挙 _START_PARAGRAPH_ 8月8日、郵政民営化法案は参議院本会議採決でも自民党から22人の反対・8人の棄権が出たため否決された。これを受け、小泉は郵政民営化に対して国民の信を問うために、解散への署名を拒否して辞表を提出した島村宜伸農水相を罷免してまで衆議院解散(郵政解散)をし、総選挙に踏み切った。解散後に首相官邸で行われた首相声明では、郵政民営化に対する意気込みを示した。同時に「与党で過半数を取れなければ退陣する」と明言した。_NEWLINE_さらに、国会採決で郵政民営化法案に反対した自民党衆院議員は自民党候補として公認せず、これらに対抗して郵政民営化賛成候補(いわゆる刺客;後述)を擁立した。このことによって自民党は事実上の分裂選挙の様相を呈した。さらに、女性候補を自民党比例名簿上位に登載するなどして、選挙戦で女性候補を注目させる選挙戦術を取った。また、料理研究家(藤野真紀子)やIT起業家(ライブドア社長(当時)の堀江貴文。無所属候補であり公認や推薦をしなかったが、事実上支援した)などタレント候補を多数擁立している。なお、自民党反郵政民営化の選挙区で自民党候補として要請されたが断られた例もあった(白石真澄・大平光代)。_NEWLINE_マスメディアは郵政民営化について自民党執行部が主張するメリットと造反組が主張するデメリットとを上げてその双方を比較する一方で、小泉首相の強権的姿勢には批判的な報道が多かった。しかし、上述の解散経緯によって、小泉へのマスメディアの注目力を上昇させた。選挙中は与党候補は一貫して郵政民営化を訴え、郵政民営化を国民的議題に乗せ、郵政民営化を問う選挙にすることに成功した。解散当初は自民党の分裂選挙で民主党が漁夫の利を得ると思われていたが、自民党の分裂選挙が大きく注目されて郵政民営化が選挙の争点となったため、法案審議中に郵政改革に対して明白な政策を打ち出していなかった民主党は自民党の分裂選挙に完全に埋没した。 _START_SECTION_ 総選挙圧勝・郵政法案成立 _START_PARAGRAPH_ 9月11日の総選挙で与党が圧勝。特に、従来弱かった都市部において自民党が大勝したことは「逆1区現象」とも呼ばれた。また、比例区の東京ブロック・南関東ブロック・近畿ブロック・四国ブロックでは自民党重複候補の多くが当選し、比例名簿の下位順位の候補に議席が配分され、比例下位順位の当選者が13人も存在した。当の自民党でさえこれほどの大勝は予測できなかったようで、比例での当選者の中には便宜的に立候補させていた党職員や、ほとんど選挙運動をしなかった候補者さえ存在した。また、東京ブロックは自民の全比例候補が当選してもなお当選枠が余ったため、1議席が社民党に配分される事態にまでなった。_NEWLINE_与党は総選挙によって480議席中327議席と3分の2以上の議席を獲得し、参議院で法案が否決されても、衆議院の優越によって衆議院の3分の2以上の再可決で法案成立が可能となったため、郵政法案が成立する土壌が整った。自民党の議席増大により、小泉首相の影響力も強まった。この選挙で当選した自民党新人議員は小泉チルドレンと呼ばれた。10月14日、郵政法案は国会で可決・成立した。_NEWLINE_森喜朗は、「元々、国民の関心は、年金や税制の方が上で、郵政は下の方だった。でも選挙になると郵政は年金に次ぐ二番手になった。理由は賛成派も反対派も郵政のことばかり話したからだ。小泉さんも『郵政』『郵政』って余計なことをしゃべらせなかった。みんな見事にひっかかった。小泉さんによる報道管制が敷かれたようなものだよ」と評した。 _START_SECTION_ 用語 _START_PARAGRAPH_ 小泉劇場という言葉はマスコミによって作られた造語であり、解散直後は反小泉陣営から小泉首相の政治手法を批判する際にしきりに使われた。しかし、後に小泉支持者からも小泉首相の政治手法を肯定する意味で使われるようになった。また、テレビ朝日の『ビートたけしのTVタックル』などでバラエティ色を強くして何度も放映されたことから、それまで政治に興味のなかった主婦、若年層などの大衆層にまで浸透していき、一種の社会現象化した。_NEWLINE_「小泉純一郎首相の主演・監督・脚本・演出の小泉劇場」という表現も使われるようになった。_NEWLINE_2005年の新語・流行語大賞に「小泉劇場」が選ばれ、武部勤自民党幹事長が受賞者を務めた。関連として「刺客」も流行語に選ばれている。
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Q11463072
_START_ARTICLE_ 小田急クヤ31形検測電車 _START_SECTION_ 登場の経緯 _START_PARAGRAPH_ 小田急では、軌道保守を工務部というセクションが担当しており、1973年以降はマティサ社製PV-6形という軌道検測車を導入していた。しかし、このPV-6形は機械扱いであったために列車が運行している時間帯には使用できず、使用可能な時間帯が終電後に限られていた上、検測するための速度も25km/hに過ぎず、全線の検測を行うためには7日間を要していた。一方、架線の点検については電気部というセクションが担当していたが、これも実施できるのは終電後の時間帯に限られていた上、全て人力による検査であった。_NEWLINE_その後PV-6形の老朽化が進み、代替車両を導入することになったが、この際に両部門の行っている検査を日中に行うことが可能で、しかも通常の列車と同じ扱いで運用できるような車両を製造することになり、登場したのがクヤ31形である。 _START_SECTION_ 車両概説 _START_PARAGRAPH_ クヤ31形は全長20m級の制御車である。 _START_SECTION_ 車体 _START_PARAGRAPH_ 3000形の小田原方先頭車をベースとしたオールステンレス車両で、車体の基本的な寸法も3000形と同一である。_NEWLINE_前面も3000形と同一であるが、側面については両開き扉を1箇所・側面窓を2箇所配置した。乗務員室の扉は設けず、小窓のみ設置した。前面・側面とも、3000形でLED種別・行先表示器が設置されている場所は「検測」の固定表示としている。_NEWLINE_床面高さは、レール面から1,150mmであるが、後述するレーザー基準装置を床上に搭載し、その上に検測室の床を設けたため、検測室の床高さはレール面から1,400mmと250mm高い位置になっている。新宿方の妻面には貫通扉を設け、扉の両側に手すりを設けた。 _START_SECTION_ 内装 _START_PARAGRAPH_ 小田原方の車内は測定室として、各種測定機器が搭載され、測定台とデータ処理装置が設置されているほか、どの場所からでもパソコンを接続できるように10箇所にコンセントが設けられている。_NEWLINE_新宿方の車内は中央に通路を配した機器室となっている。 _START_SECTION_ 運行用の機器 _START_PARAGRAPH_ 制動装置(ブレーキ)は3000形と同様の全電気指令式電磁直通制動 (MBSA-R) で、牽引車となる1000形が電磁直通ブレーキ(空気指令方式)の制動装置を搭載しているため、ブレーキ読替装置を搭載した。基礎制動装置はユニットブレーキを採用した。_NEWLINE_台車は東急車輛製造製の円筒積層ゴム式軸箱支持のボルスタレス式コイルばね台車であるTS-1028形で、固定軸距は2,100mm・車輪径860mmで、軌道検測用の光センサー取り付けのための測定枠を設けている。また、正確な検測を図るため、全車軸に空転滑走防止装置を設けた。_NEWLINE_連結器は回り子式密着連結器を使用しているが、新宿方の連結器には96芯電気連結器を装備した。冷房装置については、10,500kcal/hの能力を有するCU-195B型集約分散式冷房装置を2台搭載した。_NEWLINE_乗務員室は小田原方にのみ設けられている。運転台は3000形を基本としているが、モニタ装置は搭載しておらず、代わりにブレーキ管と直通管の圧力計が配置されている。また、車掌スイッチも設置されていない。_NEWLINE_補助電源装置は搭載しておらず、牽引車となる1000形から三相交流200Vの供給を受け、これを三相交流200V・単相交流100V・直流100Vに変換する三相変圧器を搭載する。 _START_SECTION_ 測定用の機器 _START_PARAGRAPH_ 検測室の床下にはレーザー基準装置が設けられた。これはレーザー発信機と受光器3台で構成される。受光器の情報によって車体のたわみを測定し、検測走行で取得したデータに反映するための装置である。 _START_SECTION_ 架線検測 _START_PARAGRAPH_ 架線(トロリ線)検測用の機器として、トロリ線磨耗変位測定装置とトロリ線高低差検出器を設けた。磨耗変位測定装置ではレーザー光を垂直に照らし、トロリ線の摺面からの反射光を光電変換して測定する。高低差検出器では、トロリ線に半導体レーザー光線を照射して高低差を測定する。_NEWLINE_このほか、測定用のパンタグラフとしてPT9002-A形パンタグラフを新宿方の屋根上に設置した。パンタグラフにはわたり検出器・支障物検出器・硬点検出器を装備し、監視用カメラと投光器を設置した。このパンタグラフでは、主軸の回転角度を基にしてトロリ線の高さを、支障物はマイクロスイッチを使用した支障物検出器により、上下方向の加速度計を用いた硬点検出器で架線の硬点を、架線電圧から離線を測定する。 _START_SECTION_ 検測データ処理等 _START_PARAGRAPH_ 測定の位置情報は、車軸に設けた速度発電機(距離パルス発生器)、屋根上に設けた電柱位置検出装置と、データデポ地上子のデータで補正することで正確な位置情報を保つことを図った。位置情報の誤差は2m以内に抑えている。_NEWLINE_測定室では3台のモニタ画面を設け、走行状態・パンタグラフ状態・波形の検測データを表示するほか、トロリ線摺面とパンタグラフ動作状態はデジタルビデオに収録される。また、測定されたデータは光磁気ディスクに記録され、地上の処理装置を使用した上で、パソコンによって編集や検査判定を行っている。
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Q17224784
_START_ARTICLE_ 小社神社 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 三重県度会郡玉城町小社曽根(おごそそね)に鎮座する。玉城町にある13の内宮摂末社のうちの1社である。内宮の末社16社のうち第4位である。社地の面積は7反22歩(≒7,014.9m²)ある。地域では「雨の宮」または「雨の宮さん」と呼び、日照りが続くと雨乞い祈願が行われていた。_NEWLINE_祭神は、高水上命(たかみなかみのみこと)。水の神であり、玉城町内にある内宮摂社の坂手国生神社にも祀られている。神体は石である。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 倭姫命が定めた神社である。伊勢神宮の末社の定義により、『延暦儀式帳』成立、すなわち延暦23年(804年)以前に創建された。内宮の御料田として地域を開拓した荒木田氏の一門は小社曽根に本拠を置き、小社神社を氏神として尊んできた。『建久三年皇太神宮年中行事』(1192年)には旧暦4月の初申の日に一族で参拝したと記されている。_NEWLINE_戦国時代になると武家勢力が侵入し、荒木田氏は内宮の鎮座する宇治へ移り、小社神社は衰退した。神宮では明治の初期、社殿が中絶した摂末社21社の再興を目指した。まず1874年(明治7年)、宇治山田神社・鴨下神社・津布良神社・大津神社の再興が実現した。続いて1875年(明治8年)には5社の再興を教部大輔に願い出た。この願い出は聞き届けられなかったが、1880年(明治13年)に御塩殿神社の東西御倉の古材をもって小社神社と葭原神社の社殿が造営された。残る15社については再興されることはなかった。_NEWLINE_1911年(明治44年)3月に造り替えられた。
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Q11463409
_START_ARTICLE_ 小笠原長世 _START_PARAGRAPH_ 小笠原 長世(おがさわら ながつぐ、明和2年(1765年) - 文化10年8月5日(1813年8月30日))は、江戸時代の旗本。豊前国下毛郡時枝(現在の大分県宇佐市の一部)領主。時枝小笠原氏の第5代当主。小笠原政久の四男、小笠原長喜(ながよし)の養子。室は山名義徳娘、のちに離縁し小笠原長為の娘と再婚。子に小笠原長保。別名は長貴、長如。通称は菊三郎、大膳、中務。官位は大和守。_NEWLINE_中津藩主小笠原長胤の弟小笠原長宥(ながます)が、元禄7年(1694年)に豊前国下毛郡宇佐のうち私墾田10ヶ村5,000石が与えられ、翌年旗本に列した。元禄11年、長胤が改易となるが領地はそのまま残った。小笠原長丘(ながおか)、小笠原長賢(ながかた)、長喜と続き、その養子が長世である。_NEWLINE_明和8年(1771年)12月6日、7歳で家督を継ぐ。文化5年(1808年)3月28日、日光奉行となり、文化10年(1813年)8月5日の死去時まで務める。
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Q11464530
_START_ARTICLE_ 少女A _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 「少女A」は、1982年10月27日発売のスタジオ・アルバム『バリエーション〈変奏曲〉』からの先行シングルとして、1982年7月28日にシングル・レコード (EP: L-1616)で発売された。シングル・レコードのライナーノーツには本曲の楽譜が掲載された。_NEWLINE_この、デビューシングルとは詞調も曲調も一転した楽曲は、売野雅勇が作詞し、芹澤廣明が作曲を手掛け、萩田光雄が編曲を務めた。プロデュースは前作「スローモーション」に続いて小田洋雄が担当した。1981年にシャネルズ(のちのラッツ&スター)の「星くずのダンス・ホール」で作詞家デビューした売野にとって、本曲が最初のヒット曲ともなった。また、この楽曲を契機に、売野と芹澤とのコンビによるチェッカーズの一連のヒット曲を手掛けていく。_NEWLINE_シングル盤「少女A」のB面として発表された「夢判断」は、中里綴の作詞と三室のぼるによる作曲で、編曲は「少女A」に続いて萩田が務めた楽曲である。 _START_SECTION_ コンセプト _START_PARAGRAPH_ 担当ディレクター・島田雄三は今東光の記録小説『悪太郎』を読み、この当時のヤンキー全盛の若者文化との共通点を感じていた。そんな「普通のことを書かないでほしい」という発注条件のもと、従来の歌謡曲の枠外で曲を作りたいと考えて「反社会」をコンセプトとした売野のある詞案が目に留まったという。_NEWLINE_タイトルかつ歌詞の最後に登場する「少女A」は、少年犯罪において実名報道を避けるために用いられる匿名から売野が思いついたもので、中森のイニシャルとは無関係である。もともとのタイトルは「少女A(16)」だったが、「少女A(17)」を経て最終的に「少女A」に落ち着いた。_NEWLINE_本曲の詞については、もともと沢田研二向けに「ロリータ」のタイトルで提供され廃案になった歌詞(プールサイドで年配の男が10代の少女を口説く設定)を書き直したものだという。また、サビの一部の歌詞も、後述「蒼いシャガールの絵」に元々あった「ねえ、あなた ねえ、あなた」を、「じれったい じれったい」に書き換えたという経緯がある。これも含め売野は、「プレイバックPart2」(山口百恵)の捨てゼリフなど阿木燿子作品を参考にもしたという。なお島田は最終的に、売野が書いた1番と2番の歌詞を入れ替えた。_NEWLINE_詞先であり、島田や売野らの検討の結果、当時売野と同じ作家事務所に在籍していた芹澤のデモ曲ストック3曲のうち、(売野とは別の作詞家による)半年ほど前に作られた「蒼いシャガールの絵」用のメロディーが採用された。_NEWLINE_始まりはアルバムに入るかどうかというものだったが、何段階かを経てシングル曲となった(売野によると、研音の中森の担当者・角津徳五郎が曲タイトルに衝撃を受けてメロディーも気に入ったため、ほぼ決定しかけていた「あなたのポートレート」に代わって昇格)。 _START_SECTION_ 展開 _START_PARAGRAPH_ 中森はこの楽曲でTBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』に初出演(1982年9月16日放送)したほか、フジテレビ系の音楽番組『夜のヒットスタジオ』にも初出演(1982年9月20日放送)を果たした。この曲ではマイクを振り動かす振りを付けており、これについて中森は「自分が歌いやすいように考えただけなんです。」と語っている。_NEWLINE_また、後の作品でも本曲は新録されており、2002年12月リリースのベスト・アルバム『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』と、2006年1月リリースのベスト・アルバム『BEST FINGER 25th anniversary selection』にそれぞれ収録された。2010年には、中森をモチーフとしたパチンコ台『CR中森明菜・歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』に本曲が収録された。中森本人は「少女A」について、好きではないとのコメントを残しているものの、ライブのセットリストには複数組まれている楽曲の一つでもある。 _START_SECTION_ 批評 _START_PARAGRAPH_ 『CDジャーナル』は「少女A」について、サザンオールスターズなどにも通底する曲調で、当時のミュージック・シーンにも影響を及ぼしたと指摘、歌唱については、「不良っぽくもありながら、どこか哀しげなヴォーカル・ワークに心揺さぶられるナンバー。」と批評。加えて、中森がアイドル歌手としての地位を強固なものとした楽曲であると批評した。_NEWLINE_馬飼野元宏は、音域が狭く、徹底して下降旋律で作られている曲だと指摘している。 _START_SECTION_ チャート成績 _START_PARAGRAPH_ 「少女A」は、オリコン週間シングルチャートの1982年8月9日付で初登場40位を記録後、1982年10月18日付で最高順位5位を記録し、およそ40万枚の売り上げとなった。TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』では、中森にとって初出演となった1982年9月16日の放送で9位を記録後、1982年10月28日の放送で最高順位3位を記録した。
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Q6584319
_START_ARTICLE_ 山内忠義 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 文禄元年(1592年)、山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれた。_NEWLINE_慶長8年(1603年)に伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る。同10年(1605年)に家督相続したが、年少のため実父康豊の補佐を受けた。慶長15年(1610年)、松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された。また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦した。なお、この時預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し豊臣方に加わるという珍事が起きている。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、暴風雨のために渡海できず参戦はしなかった。_NEWLINE_藩政においては、慶長17年(1612年)に法令75条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永8年(1631年)からは野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い、明暦2年(1656年)7月3日に忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した。_NEWLINE_寛文4年(1665年)11月24日、73歳で死去。墓所は高知県高知市天神町の真如寺。
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Q18235873
_START_ARTICLE_ 山口和雄 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 佐賀県立唐津東高等学校ではエース。上手投げで直球が武器。バッティングもよく四番を打っていた。_NEWLINE_1967年のドラフトで南海ホークスから13位で指名され入団。_NEWLINE_投手として入団したが、その後、外野手に転向。一軍公式戦に出場することはなく、退団した。
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Q22120717
_START_ARTICLE_ 山口孫一 _START_PARAGRAPH_ 山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年(明治41年)4月27日 - 1970年(昭和45年)10月31日)は、日本の銀行家。紀陽銀行頭取、大阪植木社長、大日本除虫菊取締役、白浜温泉ホテル監査役を務めた。父は紀伊貯蓄銀行頭取を務めた山口孫七。 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 和歌山県海草郡山口村(現・和歌山市)出身。山口孫七の長男。1931年、東京農業大学農学部卒業。大日本除虫菊監査役・取締役・専務を経て、1949年紀陽銀行取締役、1952年常務、1955年頭取。_NEWLINE_趣味は美術工芸品、ゴルフ、運動、煙草。宗教は浄土宗。
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Q11466913
_START_ARTICLE_ 山口椿 _START_PARAGRAPH_ 山口 椿(やまぐち つばき、1931年 - )は、日本の作家、画家、チェリスト。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 東京神田三崎町生まれ。1959年パリ、ピエール・ギュモン国際コンクール銀賞。54歳から官能・残酷ものの小説、エッセイを書く。
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Q11468372
_START_ARTICLE_ 山形亜裕子 _START_PARAGRAPH_ 山形 亜裕子(やまがた あゆこ 1967年8月1日 - )は、元テレビ東京アナウンサー、元女優。東京都出身。旧芸名は優希 亜裕子。玉川大学文学部芸術学科卒業。 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 学生時代に演劇集団キャラメルボックスに在籍し、女優として活動していた。大学卒業後の1991年、テレビ東京に入社。1997年6月30日付けで退社。アメリカに移住した。
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Q60987985
_START_ARTICLE_ 山本みどり (テニス選手) _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 小学2年生からテニスを始める。_NEWLINE_中学校はクルム伊達公子や浅越しのぶを育てた名門・園田学園中学校に入学。コンスタントに全国トップ入りを果たし中学2年生時には初の日本代表ジュニアに選出された。 _NEWLINE_高校でも全国選抜室内テニス選手権シングルス準優勝やインターハイダブルス優勝などの数々の全国タイトルを獲り二度目の日本代表ジュニアに選出された。 _NEWLINE_大学では全日本学生室内テニス選手権大会シングルス・ダブルス共に優勝した。_NEWLINE_全日本学生ランキングでシングルス・ダブルス共に1位になり、大学在学中の2014年プロ転向。_NEWLINE_転向後ITF国際大会でダブルス準優勝2回、国内大会で3勝などの成績を収める。_NEWLINE_日本ランキング自己最高位は30位。WTAランキング自己最高位は624位。_NEWLINE_2018年6月 芸能事務所 トラロックエンターテインメント株式会社とマネジメント契約を締結した。_NEWLINE_2019年6月 芸能事務所 トラロックエンターテインメント株式会社を退所した。_NEWLINE_夫はプロテニス選手の小ノ澤新。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 学生時代には学業と部活を両立し、大学3年生の春には卒業単位を取り終えていた。_NEWLINE_音楽が好きな影響で試合の合間にDJとしても活動している。_NEWLINE_2018年11月12日発売の週刊プレイボーイにて日本テニス界初の水着グラビアを挑戦した。
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Q26254347
_START_ARTICLE_ 山本太郎 (画家) _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 1974年熊本県生まれ。_NEWLINE_2000年京都造形芸術大学卒業。大学在学中の1999年に、寺社仏閣とファーストフード店が至近距離で混在する京都にインスピレーションを受け、伝統と現代、異質な文化が同居する「ニッポン画」を提唱。_NEWLINE_秋田公立美術大学が開学した2013年4月から2018年3月まで、秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻准教授として在任。現在は、京都造形芸術大学准教授。_NEWLINE_琳派継承者の一人である。 _START_SECTION_ ニッポン画 _START_PARAGRAPH_ ニッポン画は、山本太郎が古典絵画を現代の視点で再構成した自身の作品について提唱した呼称。日本の古典絵画と現代の風俗が融合した絵画である。_NEWLINE_京都造形芸術大学在学在学中より伝統日本画の技法や形を用いつつ、現代的な視点でユーモアとパロディを交えてアレンジした古典絵画を「ニッポン画」として山本が提唱していた。2007年にはVOCA賞を受賞したことで、日本国内および日本国外からも注目を集めるようになった。
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Q21655849
_START_ARTICLE_ 山本弥之助 _START_PARAGRAPH_ 山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6月27日 - 1986年(昭和61年)4月11日)は、日本の警察・朝鮮総督府官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、盛岡市長。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 本籍・岩手県。山本幸太郎の長男として大阪市に生まれる。第三高等学校を卒業。1931年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1932年、京都帝国大学法学部を卒業。朝鮮総督府に入府し内務局属となる。_NEWLINE_以後、朝鮮総督府道理事官、平安北道学務課長、忠清南道地方課長、京畿道学務課長、総督府殖産局事務官、黄海道警察部長、咸鏡北道警察部長、総督府書記官・警務局経済警察課長などを歴任。_NEWLINE_1944年7月、岩手県部長・警察部長へ転任。1945年10月に休職となり、翌年に退官した。武徳会岩手県支部理事長のため、公職追放となる。_NEWLINE_その後、盛岡魚市場社長、岩手県水産物商業協同組合理事長、盛岡冷蔵社長、盛岡市議会議員などを務めた。_NEWLINE_1954年2月、盛岡市長に当選。下水道、道路、教育施設の整備などに尽力。また、全国市長会副会長も務めた。市長三期目の在任中、1965年1月に辞職し、第31回衆議院議員総選挙で岩手県第1区に日本社会党から出馬し当選。その後、第33回総選挙まで連続3回当選したが、第34回総選挙で落選した。
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Q9131710
_START_ARTICLE_ 山本彩乃 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 特技はピアノ、バレエ、バトン、ベース、台詞早覚え。_NEWLINE_趣味はネイル手入れ、インターネット、ゲーム、アニメを観ること。 _START_SECTION_ 出演 _START_PARAGRAPH_ 太字はメインキャラクター。
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Q11469137
_START_ARTICLE_ 山本栄一郎 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 島根県松江市出身。島根商業(現・島根県立松江商業高等学校)卒業後、神戸で働いていたが、1920年(大正9年)、早稲田大学野球部OBである加藤吉兵衛(後に山陽クラウンズの総監督)の紹介で日本運動協会の入団テストを受け合格。入団志願者の中でも特に技量が優れていたことから主将にも選ばれた。_NEWLINE_協会ではチームのエース投手であり、1922年(大正11年)9月9日に行なわれた早稲田大学野球部との試合では、当時日本一の実力とも言われた早稲田を9回まで0点に抑えた。また打者としてもチームの中心であり、身長162cmと当時としても小柄な体格であったが、「遠心打法」と自称した打法でその体格に似合わない長打をよく放っており、打順は主に3番であった。_NEWLINE_協会が宝塚に本拠地を移し「宝塚運動協会」となった1924年(大正13年)の9月、肩を痛めて満足な投球ができなくなったことから協会を退団。協会の大ファンであった6代目尾上菊五郎邸で居候をしつつ、尾上の野球チームで活動した。_NEWLINE_翌1925年(大正14年)、満州へ渡り大連実業団に加わる。大連実業団では三塁・一塁を主に守り、不動の4番打者として1928年(昭和3年)の第2回都市対抗野球大会ではチームを優勝に導いた。しかしこの優勝の後、山本は大連実業団を辞めて京城(現・ソウル特別市)の鉄道チームへと移る。この理由については不明であるが、山本が残したスクラップ・ブックの中に「山本などの、かつてプロであった選手がアマチュアの大会である都市対抗に出場できるのはおかしいのではないか」という内容の記事の切り抜きがあったことから、自分がいるとチームの優勝にケチがつくと考えたためではないか、と推測されている。京城にも長くは留まらず、その後は臨時の助っ人として日本各地の実業団チームを転々とした。_NEWLINE_1932年(昭和7年)、「薄汚れた和服の着流しで、バット1本ぶらさげただけ」の姿で埼玉県熊谷市に現れ、熊谷スター倶楽部という地元チームに助っ人として入団する。この時、あまりにみすぼらしい格好だったため初めは偽物扱いされたが、キャッチボールをしてみて本物だと認められたという。熊谷では結婚し子供も産まれるなど落ち着いた生活を送ったが、1934年(昭和9年)、来日する全米代表チームの相手として、社会人による全日本代表チームをかつて協会時代にコーチを務めたこともある市岡忠男が編成する、という話を聞いた山本はこれに志願し、二塁手としてメンバーに選ばれた。なお、この時、三原脩、苅田久徳、沢村栄治など山本以外の全日本メンバーは全員市岡に口説き落とされての参加であり、自ら志願したのは山本1人である。_NEWLINE_その後、全日本メンバーを中心に作られた大日本東京野球倶楽部(1935年(昭和10年)に東京巨人軍へ改称)へそのまま入団。背番号は10。翌年、9番に変更。巨人軍では、選手としてのピークを過ぎていたこともあって代打・代走などでの出場が主だったが、チームの最年長として若い選手たちへアドバイスなどをよく行なっていた。また、沢村栄治が日本初のノーヒットノーランを達成した試合では、代打で登場し決勝打となるタイムリーヒットを放っている。_NEWLINE_1942年(昭和17年)、現役を引退。引退後は巨人でスカウトを務めたほか、小泉吾郎に誘われ女子プロ野球のロマンス・ブルーバードや京浜ジャイアンツの監督も務めた。_NEWLINE_1979年(昭和54年)12月15日に死去。77歳。死の寸前、しきりに「車を呼べ。成城の三原(脩)の家へ行くんだ」と言っていたという。
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Q11470005
_START_ARTICLE_ 山海漬 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 数の子と刻んだ野菜を酒粕で漬けた粕漬けにしたもの。現在は、日本全国で食される一品である。_NEWLINE_名称の由来は、農産物の「山の幸」・海産物の「海の幸」による。 _START_SECTION_ 特徴 _START_PARAGRAPH_ キュウリ、シロウリ、ダイコンなどを塩漬け(塩蔵加工品)にしたものと、数の子(塩蔵加工品)を塩抜きし、それらを切り刻み、香辛料・調味料を調合した酒粕に漬け込み、熟成させる。酒粕には、わさび漬けが用いられる場合が、全国的に多い形態である。
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Q11470263
_START_ARTICLE_ 山田哲也 (バスケットボール) _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 八王子高校から青山学院大学に進み、ユニバーシアードにも出場。_NEWLINE_2002年に日立サンロッカーズに加入。2011年、bjリーグドラフト会議にて全体11位(3巡目)で横浜ビー・コルセアーズに指名されるが、JBL2の豊田通商ファイティングイーグルスに移籍したものの、練習中にアキレス腱を断裂し、チームを退団した。_NEWLINE_2014年10月、NBDLに2014-15シーズンより参入するアースフレンズ東京Zと契約基本合意されたことが発表された。_NEWLINE_2016年4月13日、2015-16シーズンをもって現役引退を発表。_NEWLINE_元競泳選手の田中雅美は高校の1年先輩、東京ヤクルトスワローズの石川雅規は大学の同期である。
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Q11470430
_START_ARTICLE_ 山田智敏 _START_PARAGRAPH_ 山田 智敏(やまだ ちとし)は、日本の警察官。愛称「韋駄天」。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 富山県出身、魚津市立東部中学校卒。大学を卒業し、富山県警察学校卒業。上市警察署に入署。30歳で富山県警察山岳警備隊入隊。2005年11月3日の上市町駅伝競走大会で57分21秒で優勝。_NEWLINE_勤務地の剱沢警備派出所は、歩いて2時間以上も掛る標高2500mの山の上。年間約100万人の観光客や登山者が訪れる、立山連峰剱岳周辺の警備に当たる。「想像力」が山岳救助任務で一番大事なものだと語る。_NEWLINE_2010年現在、富山県警察山岳警備隊分隊長。階級は巡査部長、39歳。2010年4月、母校の魚津市立東部中学校で創立記念講演『重くても、重くない』。
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Q7687021
_START_ARTICLE_ 山田英二 _START_PARAGRAPH_ 山田 英二(やまだ えいじ、1962年4月25日 - )は、日本のレーシングドライバー。奈良県出身。血液型はB型。愛称はターザン山田。由来は幼い頃、鈴鹿サーキットの看板によじ登って観戦していた事から。主に雑誌企画等でのタイムアタックで名を知られており、様々な車種のチューニングカーを幅広く乗りこなす。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 1981年に鈴鹿フレッシュマンレースにてデビュー。その後、全日本F3選手権や全日本ツーリングカー選手権等に参戦している。近年ではスーパー耐久シリーズに参戦している。2011年には全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の審査員に就任した。_NEWLINE_以前V-OPT主催のレースで、チューニングショップのオーテックツカダ製作のR32GT-Rで他車を10秒近く差をつけ優勝したが、ファイナルラップでの蛇行運転により失格になった事がある。_NEWLINE_愛車はクライスラー・PTクルーザー。以前はトヨタ・ヴィッツやフォード・モンデオ(後述の人体実験企画でエアバッグテストに使われる)に乗っていた事がある。その理由について「GT-Rとかに乗ると煽られそうだから」と話している。また、同じ理由で洗車もしていないとのこと。 _START_SECTION_ Optionでの活躍 _START_PARAGRAPH_ レース活動だけでなく、雑誌『OPTION』(ビデオマガジン『ビデオオプション』を含む)の取材や企画でも盛んに活動しており、タイムアタック等で数多くのチューニングカーに乗っている。また、カメラの前においてはラーマン山田(場合によっては噴飯者、馬鹿者とつく場合がある)を名乗り性悪なキャラクターを演じる一方、普段は大人しく土屋圭市や織戸学などにからかわれる一面もある。なお、取材カメラと間違えて、ファンのカメラにずっと喋りかけていたこともある。_NEWLINE_なお危険が伴う企画にも率先して受け続ける姿勢には、土屋をはじめ、関係者から評価が高い。_NEWLINE_本雑誌とのタイアップしたレースゲーム「Optionチューニングカーバトル」に、ターザン山田の名前で登場。伝説の走り屋『疾風』の影武者として主人公と対決する。尚、本当の『疾風』は当時Optionで活躍していた稲田大二郎(ゲームでは『Dai』)である。
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Q11470724
_START_ARTICLE_ 山田隆子 _START_PARAGRAPH_ 山田 隆子(やまだ たかこ、1956年2月4日 - )は、JRT四国放送の女性アナウンサー。
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Q11472005
_START_ARTICLE_ 岡堂哲雄 _START_PARAGRAPH_ 岡堂 哲雄(おかどう てつお、1932年 - 2018年6月23日)は、日本の臨床心理学者。臨床心理士・家族心理士。教育学博士(東北大学)。文教大学名誉教授。専門は臨床心理学・家族心理学・家族療法。北海道弟子屈町出身。
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Q903497
_START_ARTICLE_ 岡山藩 _START_PARAGRAPH_ 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。 _START_SECTION_ 略史 _START_PARAGRAPH_ 岡山城を築城したのは宇喜多秀家である。宇喜多氏は岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた。しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。_NEWLINE_慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5,000石で入封した。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。_NEWLINE_代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5,000石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。_NEWLINE_このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。_NEWLINE_光政は東叡山寛永寺の開山者で家康時代からの将軍家側近有力者であった天海大僧正によって東照宮(玉井宮東照宮)を備前に勧請し、岡山城の鎮守とする願いを寛永20年(1643年)に将軍家に出し、東照宮造営の許可を翌年正保元年(1644年)に東叡山の同意の元、大老酒井讃岐守忠勝より正式な許可を得て、同年12月17日に落成した。これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであった。_NEWLINE_光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在国宝)も開いた。また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。_NEWLINE_光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年(1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。_NEWLINE_幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。そうした中神戸事件が起こり、その対応に苦慮した。_NEWLINE_明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。_NEWLINE_なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。 _START_SECTION_ 支藩 _START_PARAGRAPH_ 江戸時代中3藩が存在した。いずれの支藩も岡山新田藩(おかやましんでんはん)と称した。そのため現在ではそれぞれ「児島藩」「鴨方藩」「生坂藩」と呼ばれることが多い。 _START_SECTION_ 児島藩 _START_PARAGRAPH_ 児島藩(こじまはん)は、岡山藩の支藩で、備前から備中南部に領地を有していた。池田利隆の次男で池田光政の弟である池田恒元が領主であった。_NEWLINE_岡山藩主の池田光政が、慶安元年(1648年)3月19日に岡山藩領の一部を恒元に分け与え、これをもって児島藩の立藩とされる。_NEWLINE_『寛政重修諸家譜』には、「備前国児島において2万石を領有」との記載になっている。しかし、実際は備前国児島郡以外の領地も多く、むしろ児島郡内の領地の藩領全体に占める割合は少ない方であった。_NEWLINE_『撮要録』によれば、実際の領地は古地・新田を含め備前国8郡内27村、備中国5郡内14村に及び、石高は合計約2万5千余石にのぼった。_NEWLINE_また『藩史大事典』には「池田恒元領、別称児島藩」と記載されている。_NEWLINE_慶安2年(1649年)、東隣国播磨の宍粟郡に政庁を構える山崎藩の領主がいない状態であったため、備前に近く且つ池田家に所縁があるという事から、新領主として恒元に白羽の矢が立ち、恒元が山崎に転封となり、山崎藩約3万石の藩主となった。そのため、児島藩は廃藩となり、恒元が領有していた地は再び岡山藩に復した。わずか2年足らずの短期の藩となった。_NEWLINE_なお、陣屋は設置されていなかったが、設置される前に短期間で廃藩になったためともいわれる。 _START_SECTION_ 鴨方藩 _START_PARAGRAPH_ 鴨方藩(かもがたはん)は、備中国浅口郡(現:岡山県浅口市)・小田郡・窪屋郡を領有し、藩庁は鴨方陣屋。石高は2万5000石。寛文12年(1672年)、光政の次男・政言が立藩した。藩主はほとんど岡山城下に居住していた。江戸期を通じての名称は岡山新田藩(おかやましんでんはん)で、明治元年(1868年)に鴨方藩と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県により鴨方県となった。 _START_SECTION_ 生坂藩 _START_PARAGRAPH_ 生坂藩(いくさかはん)は、備中国窪屋郡生坂(現・倉敷市)周辺を領有した。石高は1万5000石であるが、この石高は岡山藩の内高に含まれる。寛文12年(1672年)、光政の三男・輝録が立藩した。藩主は岡山城下に居住していた。江戸期を通じての名称は岡山新田藩(おかやましんでんはん)で、明治3年(1870年)に生坂藩と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県により生坂県となった。 _START_SECTION_ 幕末の領地 _START_PARAGRAPH_ 児島藩のみ、江戸時代中に廃藩になったため、廃藩時点の領地を記載。
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Q11472749
_START_ARTICLE_ 岡山藩藩学 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 岡山藩藩学は寛文9年(1669年)岡山藩主池田光政によって開設された。これは江戸幕府が開いた湯島聖堂よりも21年早い。_NEWLINE_これより前の寛永18年(1641年)熊沢蕃山の主宰により藩校の前身となる花畠会が創設され、花畠(現在の岡山市中区網浜)に「花畠教場」が開かれた。寛文6年(1666年)花畠教場が廃止され、岡山城内の石山にあった松平政種の邸宅を学校に転用し仮学館が設置された。_NEWLINE_寛文9年(1669年)生徒が増加し仮学館が手狭となったため、光政は津田永忠と熊沢蕃山の弟・泉仲愛を総奉行に任じ西中山下に藩学を建造するよう命じた。同地には光政が弾圧した日蓮宗不受不施派の円乗院という寺院があったが、弾圧により破壊された。この寺院跡と家臣の屋敷の敷地十七区を接収し建造された。岡山藩を致仕し播磨国明石に居た熊沢蕃山を招き、同年7月25日に開校式を行った。開校式には生徒85人を含め来賓等併せて160人が参加した。_NEWLINE_学校奉行が設けられ運用にあたった。初代学校奉行には建造にあたった津田永忠・泉仲愛が任じられた。光政は陽明学徒であったが、この藩校では幕府が正学としていた朱子学を中心に教えた。授業の内容は、専任の講師および授読師により主に小学・四書・五経などの誦読と講習、合間に武技の演習が行われた。_NEWLINE_廃藩置県となる明治4年(1871年)に廃止するまで存続した。閉校後の明治9年(1876年)に岡山県師範学校となり、明治44年(1911年)には岡山県女子師範学校となった。_NEWLINE_藩学の建造物は次第に撤去され大正後期には南門、校門、講堂等が残されていた。大正11年(1922年)3月8日、国の史跡に指定された。しかし、昭和20年(1945年)6月29日の岡山空襲により、泮池とそこに架かる橋以外は全て焼失した。太平洋戦争後まもなく校門・講堂の基礎は埋め立てられ現在の岡山市立岡山中央中学校となり、周囲の学舎跡地は市街地となった。 _START_SECTION_ 敷地の概要 _START_PARAGRAPH_ 敷地の規模は、南北202.5メートル(112間半)、東西110.7メートル(61間半)、面積2.24ヘクタールに及んだ。_NEWLINE_儒教思想に基づき校舎が整然と対称的に配置された。南門(本瓦葺き、薬医門)・泮池・校門(入母屋造り、本瓦葺き)・講堂(入母屋造り、本瓦錣葺き、建築面積120坪(約400平方メートル))・中室・食堂が中心軸として南から北に一列に建てられていた。中心軸の東側には1棟の塾と5棟の文学舎、西側にはに1棟と5棟の演武場舎が対称に設置されていた。学舎の周囲には学校奉行屋敷、吏舎(講師宿舎)、諸生部屋(学生宿舎)などが設置されていた。更に西外堀の外側には長さ181.8メートル(100間)の馬場が設けられた。 _START_SECTION_ 生徒数 _START_PARAGRAPH_ 初期の定員は「小生161名、小侍者67名を極(きわめ)とす」とある。その後、藩財政が逼迫し天和3年(1683年) - 元禄15年(1702年)の間は定員は「63名を極とす」と改訂され、就学者数も減少した。江戸時代後期の文政 - 天保年間(1815年 - 1842年)頃に最盛期を迎え、最大時には242名もの就学者を数えた。_NEWLINE_藩校であるため藩士の子弟の教育が目的ではあったが、光政は“農民の子弟で篤志の者は名字帯刀を許し学費を給付する”という特典を付与し、庶民にも就学の門戸を開いた。
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Q11473141
_START_ARTICLE_ 岡本昭彦 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1991年天理大学外国語学部インドネシア学科卒業後、吉本興業入社。2年後にダウンタウンのマネージャーとなる。ダウンタウンのマネージャー時代には「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」などのバラエティ番組にブリーフ一丁で猫を抱いた奇妙な格好で出演し、逆バンジー企画に挑むなどの芸人顔負けなキャラクターを発揮する事もあった。その後、今田耕司、東野幸治、130R(蔵野孝洋・板尾創路)、木村祐一らも担当。芸人の仕事を整理するデスク業務の経験のほか、マネージャーや番組制作の仕事が長い。吉本興業の東京制作部でチーフプロデューサー及び吉本興業所属の若手お笑い芸人のDVDを独占的に製作・発売する株式会社アール・アンド・シー(R and C Ltd.)の取締役、吉本興業代表取締役副社長、共同代表取締役社長COOを経て代表取締役社長、YDクリエイション代表取締役社長を務める。_NEWLINE_学生時代は、アメリカンフットボール部で、クォーターバックをしていた。_NEWLINE_2019年7月20日、週刊誌フライデーが報じた闇営業で謹慎処分となっていた雨上がり決死隊の宮迫博之と、ロンドンブーツ1号2号の田村亮の謝罪会見が開かれた。会見の中で2人は「(岡本)社長から『お前らテープ回してないやろな?』」と発言内容を録音していないかを疑われ、謝罪会見を開きたいと申し出た田村に対しては「亮、ええよ。お前辞めて1人で会見したらええわ。やってもええけど、ほんなら全員連帯責任でクビにするからな。それでもええんやったら記者会見やれ。俺にはお前ら全員クビにする力があるんだ」と社長から言われ、誰も何も言えなくなったことを告白。会社への不信感を感じた2人は弁護士を付けて交渉することになったが、会社側から宮迫と田村亮の弁護士に書面で、「2人の引退会見か、2人との契約解除のどちらかを選んでください」という内容が突然送られてきたこと、更には、引退ではなく謝罪会見をしたかったので岡本社長と話をしたかったが断られ、昨日の12時に引退会見を開くよう急に迫られたため、2人は「会社主導の引退会見をするぐらいならば、会社を辞めて自分たちで会見しよう」と判断したことも会見で告白した。_NEWLINE_上記の一連の騒動を受け、同年同月22日に都内で会見を開いた。会見は5時間30分にも及んだ。自身の進退については、辞任する意向は述べず、「50%の減俸を1年間続けることとします」と明かし、また大崎も本人からの申し出で同じく50%の減俸を1年間続けると発表した。
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Q11474483
_START_ARTICLE_ 岩崎弥次郎 _START_PARAGRAPH_ 岩崎 弥次郎(いわさき やじろう、文化5年(1808年) - 明治6年(1873年)7月28日)は、江戸時代末期(幕末)の土佐藩の地下浪人。名は高勝。子に三菱財閥の創始者で初代総帥・岩崎弥太郎、2代目総帥・岩崎弥之助など。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 文化5年(1808年)、 岩崎弥三郎の子として誕生。母は恒(小松氏)。祖父に岩崎弥次右衛門がいる。_NEWLINE_岩崎家は甲斐武田家の後裔と称するも、土佐藩の地下浪人であったため、生活はあまり豊かではなかった。また、朴訥で直情径行な人物として知られており、安政2年(1855年)に庄屋の島田便右衛門と諍いを起こして負傷し、床に臥すほどの重傷を負った。そのため、弥次郎の免罪を訴えた長男・弥太郎も投獄された事によって一時期岩崎家は困窮を極めたといわれている。_NEWLINE_明治6年(1873年)に、死亡した。墓所は東京都豊島区の染井霊園にある。
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Q11474970
_START_ARTICLE_ 岩手県道272号戸田荷軽部線 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 九戸村から久慈市方面への最短ルートだが幅員狭小箇所あり。九戸村営戸田牧場前と久慈市山形町荷軽部字芦沢の間は冬期閉鎖となる。また国道281号寄りにはスノーシェルターがあり、同線との合流点まで続いている。
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Q11475762
_START_ARTICLE_ 岳沢小屋 _START_PARAGRAPH_ 岳沢小屋(だけさわごや)は、上高地から岳沢を前穂高岳へ登る登山道にある山小屋。標高2,170m地点にある。_NEWLINE_ここには以前岳沢ヒュッテがあった。しかし平成18年豪雪により発生した大規模な雪崩で、2006年1月に建物が全壊、同年4月に経営者が事故死したことも重なり廃業へと追い込まれた。岳沢ヒュッテから紀美子平までの重太郎新道は、日本アルプス屈指の急登で、途中に水場もないので利用の場合(特に登りの際)は水補給が必須とされたが、廃業により水補給やトイレ利用も不能となった。_NEWLINE_しかし、2009年4月に槍ヶ岳山荘などを経営する会社、槍ヶ岳観光が小屋を再建することを発表。「岳沢小屋」の名で2010年7月23日に営業を再開した。規模が非常に小さい小屋となり宿泊には予約が必須となった。
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Q11475941
_START_ARTICLE_ 岸柳島 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ さぁ事だ 馬の小便 渡し舟_NEWLINE_浅草の厩橋にある舟着場。一艘の渡し舟が出ようとした瞬間、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍が飛び込んできた。_NEWLINE_「あー、もっとそっちィ寄れッ。町人の分際で何だその方たちは、あー? うー、人間の形をしてやがる。邪魔だッ。寄れ!!」_NEWLINE__NEWLINE_「これ以上よったら川に落ちます…」_NEWLINE__NEWLINE_「構わん。川に飛び込め! ・・・あー、目ばたきをしてはならん。・・・息をするなッ」_NEWLINE_なんとも無茶苦茶な侍だ。不穏な空気を載せたまま、舟は渡し場を出発した。_NEWLINE_それからしばらく経ち…。さっきの侍が、吸殻を落とそうと舟べりでキセルを叩いた途端、罹宇(らお)が緩んでいたと見え、雁首が取れて川の中に落ちてしまった。_NEWLINE_「雁首を探すから、舟を止めろ!」_NEWLINE_船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないという。_NEWLINE__NEWLINE_無念そうに侍がブツブツ言っていると、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋が、「不要になった吸い口を買い上げたいと」持ちかけた。_NEWLINE_雁首無くしてイライラしている所で、この言葉を聞いた侍は逆上。_NEWLINE_『落とした雁首と、貴様の雁首を引き換えに』するから、その首をこっちへ出せと大騒ぎになってしまう。_NEWLINE_と…、中間(ちゅうげん)に槍を持たせた七十過ぎのお武家が、そこへ仲裁に乗り出した。_NEWLINE_「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。乗り合わせたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」_NEWLINE_これで収まるかと思ったら、侍は仲裁に乗るどころか余計に怒り出し、お武家に決闘の申し込みをしてしまう。_NEWLINE__NEWLINE_最初は断っていた武家だが、あまりのしつこさに覚悟を決め、「ここでは迷惑がかかるから」と舟を岸辺に戻させた。_NEWLINE_さあ、舟の中は大騒ぎ。_NEWLINE_「どっちが強いかな?」_NEWLINE__NEWLINE_「そりゃあ、若侍のほうだろうよ。まず爺さんが斬られて、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを真っ二つに…」_NEWLINE__NEWLINE_「何でだよ」_NEWLINE__NEWLINE_「オレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに・・・・』」_NEWLINE__NEWLINE_「床屋じゃねえや」_NEWLINE_若侍は袴の股立を取り、襷を掛けて、【居合い抜きの気が違ったよう】な格好をして「この爺、ただ一撃ちだ」と勇んで支度をしている。_NEWLINE__NEWLINE_一方のお武家は、ゆっくりと槍の鞘を払い、りゅうりゅうとしごいている。_NEWLINE_さて、舟が岸辺に到着。侍がまず飛び降りるが、お武家は何故か降りない。_NEWLINE__NEWLINE_それどころか、侍が飛び降りた反動で舟が沖に向けて動き出した所を見計らって、槍の石突きで石垣をグーンと一突き。それでますます舟は後戻り…。たちまち岸を離れてしまった。_NEWLINE_「こら、卑怯者! 船頭、返せ、戻せ!」_NEWLINE__NEWLINE_若侍は地団太踏んで怒鳴るが、老武家は相手にせず、_NEWLINE__NEWLINE_「船頭、あんな馬鹿に構わず、舟を出してしまえ」_NEWLINE_老武家の機転に他の乗客たちは大喜び。もうこわくないぞと、一人川岸に取り残された侍に野次を飛ばす。_NEWLINE_「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」_NEWLINE__NEWLINE_「何だい、そりゃ?」_NEWLINE__NEWLINE_「揚げっぱなしィ」_NEWLINE_《テンプラ》の雑言に呆れつつ、「悔しければ橋を渡って追っかけてこい」などと怒鳴っている奴もいる。_NEWLINE__NEWLINE_それを聞いた侍は、何を思ったのかふんどし一丁になると、小刀(しょうとう)を咥えて川の中に飛び込んだ。_NEWLINE_意趣返しに、舟底へ穴を開けて沈める気だ…。舟の中が大騒ぎになった。お武家が「騒ぐな」と皆を制止していると、侍が水面に姿を現した。_NEWLINE_お武家が「わしに謀(たばか)られたを恨み、舟を沈めに参ったか?」と訊ねると、若侍の答えは…。_NEWLINE_「なぁに、さっきの雁首を探しに来た」 _START_SECTION_ 「巌流島」? それとも「岸柳島」? _START_PARAGRAPH_ 『桑名舟』を東京に移す際、講釈種の『佐々木巌流』の一節が加味される事になった。_NEWLINE_そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、お武家が『昔、巌流(小次郎)がしつこく立ち会いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し、勝負をしなかった』という伝説を物語る場面が存在していた。_NEWLINE_この説明がなければ、「巌流」といっても何のことかわからず、むしろ「岸柳島」の演題が正しいと三遊亭円朝は述べている。 _START_SECTION_ 志ん生と「岸柳島」 _START_PARAGRAPH_ ともすれば「血の雨」が降りかねなかったこの状況を、抱腹絶倒の物語に仕立てたのは五代目志ん生だった。_NEWLINE_今回のあらすじは彼の口演を参考にしたもので、『目ばたきをしてはならん。息をするな』や『オレが頼む』という件や、『宵越しの天ぷら』といった件は彼が考案した。 _START_SECTION_ 可楽の「岸柳島」 _START_PARAGRAPH_ いかにも江戸落語らしいあっさりとした演出であるが、当世風のクスグリを入れるのが好きな可楽は、『宵越しの天ぷら』のくだりを『人工衛星の犬』と変えていた。
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Q11476266
_START_ARTICLE_ 島善高 _START_PARAGRAPH_ 島 善高(しま よしたか、1952年 - )は、日本の法制史学者。_NEWLINE_早稲田大学社会科学総合学術院教授。博士(法学) (京都大学)。_NEWLINE_専門は、法制史、基礎法学、日本近代史、皇室史(旧皇室典範)。また、早稲田大学の歴史および、創立者大隈重信に詳しい。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 佐賀県出身。1971年、佐賀県立佐賀北高等学校卒業、1976年、早稲田大学法学部卒業、1978年、國學院大學大学院法学研究科修士課程修了、1982年、國學院大學大学院法学研究科単位取得退学。同1982年、日本学術振興会奨励研究員、1983年から1986年まで國學院大學非常勤講師。_NEWLINE_國學院大學大学院では、すでに瀧川政次郎が退職した後であり、小林宏に師事。小林の勧めもあって瀧川の自宅に通うようになり、1986年名城大学教職課程部講師として赴任するまでその教えを受ける。_NEWLINE_1989年に名城大学助教授、1991年に早稲田大学社会科学部助教授に転任し、1995年から早稲田大学社会科学部教授・大学院社会科学研究科教授、2004年9月から早稲田大学社会科学総合学術院教授。2011年、博士(法学) (京都大学、学位論文「律令制から立憲制へ」)。_NEWLINE_2012年、総理官邸で行われた「皇室制度に関する有識者ヒアリング」に招かれ、皇室史・明治皇室典範(旧皇室典範)制定過程の研究者として、意見陳述を行った。 _START_SECTION_ 大隈重信研究 _START_PARAGRAPH_ 早稲田大学の成り立ちに詳しく、早稲田大学の歴史を、非西洋における近代国家・日本の形成という大きな流れの中に位置づけ、「東西文明の調和」を理念に掲げた早稲田大学の歴史を、近代日本の政治・外交の歩みと重ね、その今日的意義を探る。_NEWLINE_創立者大隈重信とは同郷である。大隈が、マスクメロンの味をこよなく愛し、趣味の園芸を生かし、自宅の温室でメロンを育て、品種改良によるメロンの大衆化を試みていたといったエピソードにも詳しい。_NEWLINE_2011年、大隈候の90回忌にあわせ、慶應義塾創立者の福澤諭吉との親交や、大隈についての新しい研究成果を反映させた「佐賀偉人伝02『大隈重信』」を上梓した。 書籍版のほか、電子書籍版(PC版 iPad版 iPhone版 アンドロイド版)も発売され、PC版 iPad版 には、演説の一部が収められており、大隈の「肉声」を聴くことも出来る。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ 日本近代史、比較法制史の専門家としてテレビ等でコメントすることがある(日本テレビ「ズームイン!!SUPER」(韓国の恩赦制度の背景について)、NHK教育テレビ『知るを楽しむ・歴史に好奇心』「明治改暦大事件」(明治の改暦について) )。_NEWLINE_皇室史の研究者でもあり、女系天皇についての議論が盛んになる以前から、この問題について発言を行っている。
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Q482769
_START_ARTICLE_ 崔煕渉 _START_SECTION_ メジャー時代 _START_PARAGRAPH_ デレク・リー(シカゴ・カブス)の父親で、日本でも馴染み深いレオン・リーがカブスのアジア担当スカウトだった時に、発掘してきた選手である。高麗大学を中退しカブスに入団。カブスのマイナー時代はたびたび有望新人リストに掲載され、マーク・グレイスの後継者と評されるほどの注目を集めていた。しかし、メジャーではシーズン2ケタ本塁打を2度記録したが、フルシーズンレギュラーを取ったことはなかった。_NEWLINE_2002年9月のロースター拡大に伴ってメジャーに昇格して初出場を果たす。2003年シーズンはメジャーで開幕を迎え、出場機会も増えた。しかし、同年のインターリーグにおけるヤンキース戦でサード側に飛んだフライを追いすぎて投手のケリー・ウッドと交錯、後頭部を地面に打って脳震盪を起こし、球場内に救急車が入るほどの騒ぎとなってしまった(日本ではこのシーンがBSで放映された)。この怪我が原因で故障者リスト入りし、その後は出場機会が激減。結局80試合出場に止まり、カブスはポストシーズン進出を果たしたがロースターからは漏れた。_NEWLINE_2003年シーズンオフ、奇しくもデレク・リーとのトレードでフロリダ・マーリンズに移籍。2004年シーズンは4月だけで9本のホームランを打つなど、ついに期待されていた大砲としての素質が開花したかのように見えた。しかし、5月以降は月2本のペースでしか打てなかった。それでも、2割7分台の打率の割には高い3割8分台の出塁率を評価されて、同年のトレード締め切りの直前にブラッド・ペニーと一緒にポール・ロデューカ、ギレルモ・モタとの交換トレードでロサンゼルス・ドジャースに移籍した。ドジャースでは同じポジションに主砲のショーン・グリーンがいたため出場機会が減り、一塁の控え要員に回された。同年のプレイオフではセントルイス・カージナルスとのディビジョン・シリーズの第1戦に代打として出場、凡打に終わった。_NEWLINE_ショーン・グリーンがダイヤモンドバックスに移籍した2005年シーズンの序盤は、オルメド・サインズとのツープラトンで相手先発が右投手の時のスタメン一塁手を務めていたが、終盤戦はジェイソン・フィリップスにポジションを奪われ、一塁の控え兼代打要員としてベンチを温める機会が多かった。_NEWLINE_直球に滅法強い反面、変化球を苦手としていて、2005年6月のミネソタ・ツインズとの3連戦では3打席連続を含めて3試合で6本の本塁打を打って大砲の片鱗を見せたこともあるが、スイングスピードが遅く、持ち前のパワーを生かしきれていないと評されている。_NEWLINE_2006年に行われたワールド・ベースボール・クラシックでは韓国代表のメンバーに選ばれ、4番を打った。なお、アメリカ戦では、ダン・ウィーラーからだめ押しのスリーラン本塁打を打ってチームの韓国代表の勝利および2次リーグ突破の立役者にもなった。この年の春季キャンプ中にウェーバーに掛けられ、ボストン・レッドソックスに移籍。しかし、キャンプ終了後にカットされてマイナー行きとなり、3Aのポータケット・レッドソックスでシーズンをはじめる。この年は故障続きでメジャーに一度も昇格することなく、シーズン途中でメジャーの40人ロースターから外された。シーズン後にはマイナー契約を交わしていたポータケット・レッドソックスからも解雇され、自由契約。2007年の春季キャンプにはタンパベイ・デビルレイズとスプリット契約を交わして参加したが、40人ロースターに入ることなく解雇され、韓国に帰国することとなった。 _START_SECTION_ 起亜時代 _START_PARAGRAPH_ 2007年3月、KBO(韓国野球委員会)の海外進出選手特別ドラフトで、出身高校の所在地である光州広域市をフランチャイズ保護地域として持つ起亜タイガースが指名した。5月に起亜への入団が正式決定し、契約金8億ウォン、年俸3億5000万ウォンと破格の待遇で迎えられた。_NEWLINE_2006年末にはメジャーリーグ番組のレポーターをしていた日本人女性と婚約したが、2007年11月には婚約破棄が伝えられた。_NEWLINE_起亜入団時には、本拠地光州だけでなく各地の球場が崔希涉見たさに満員となったが、調整不足と相手のマークが厳しかったこともありまったく打てず、脇腹痛もありすぐに2軍落ちした。だが7月に1軍復帰後本来の実力を見せ始め、韓国1年目の成績は52試合に出場、打率.337、67安打、7本塁打、46打点の好成績を残した。_NEWLINE_2008年は、キャンプから原因のわからない頭痛を訴え、トレーニング不足による故障と不振でシーズン途中1軍と2軍を行き来して、結局、背筋痛などで登録を抹消されたままシーズンを終了した。シーズンが終わって、前年より落ちた成績で、精神力の弱さも指摘された。また、メジャーリーグ出身選手の補強でシーズン直前の予想では優勝候補にまで挙がっていた所属チームの起亜タイガースは6位でシーズンを終え、彼の不振がその一因として挙げられた。この不振により、2009年の年俸は2億ウォンと、2008年より1億5000万ウォンも減額されてしまった。_NEWLINE_韓国3年目となった2009年は、打率3割、30本塁打、100打点を超える好成績でようやく本領を発揮し、チームの韓国シリーズ優勝に大きく貢献し、2010年シーズンの契約更改では、前年比倍増の年俸4億ウォンとなった。_NEWLINE_2010年12月に、5歳年下の2006年度ミス・コリアのKim Yoo-miと結婚した。_NEWLINE_2011年は過去2年と比べ、故障もあって出場試合数も減り成績も悪化した。_NEWLINE_2012年1月、チームの合同練習などを無断欠席するなどの騒動を起こしたため、年俸は前年の半額以下の1億7000万ウォンとなり、球団から2000万ウォンの罰金が科せられた。同年も故障が多く、レギュラーとしての活躍はできなかった。_NEWLINE_2013年も出場機会が増えず成績は向上せず、2014年の年俸は1億ウォンまで下がり同年は韓国で初めて一軍出場がなかった。2015年限りで起亜を退団し現役を引退。
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Q236728
_START_ARTICLE_ 崖の上のポニョ _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 魚の女の子ポニョは、海の女神である母と魔法使いの父に育てられている。ある日、家出をして海岸へやってきたポニョは、空き瓶に頭が挟まっていたところを、保育園児の宗介に助けられる。宗介は魚のポニョが好きになり、ポニョも宗介が好きになる。ところが、ポニョがいなくなったことに気づいた父に追いかけられて捕まり、ポニョは海底に連れ戻されてしまう。_NEWLINE_ポニョの父は、海底にある家の井戸に、"命の水"を蓄えていた。その井戸が一杯になると、忌まわしき人間の時代が終わり、再び海の時代が始まるのだという。ポニョは、宗介に会うために家から逃げ出そうとして、偶然に、その井戸へ海水を注ぎ込んでしまう。すると命の水はポニョの周りに溢れ出し、ポニョは人間の姿へと変わる。強い魔力を得た彼女は激しい嵐を呼び起こし、津波に乗りながら宗介の前に現れて、宗介に飛びついて抱きしめる。宗介は、女の子の正体が魚のポニョであるとすぐに気づいて、彼女が訪れたことを嬉しがる。_NEWLINE_一方、ポニョの父は、"ポニョが世界に大穴を開けた"と言って、このままでは世界が破滅すると慌て出す。しかし、ポニョの母は、ポニョを人間にしてしまえば良いのだと夫に提案する。古い魔法を使えば、ポニョを人間にして、魔法を失わせることができるのだ。だが、それには宗介の気持ちが揺らがないことが条件だった。さもなくば、ポニョは泡になってしまうという。_NEWLINE_嵐が落ちつくと、宗介の母は、彼女が勤めている老人ホームの様子を見に出かけていく。翌朝、ポニョと宗介が母の後を追うと、途中でポニョは眠り出し、魚の姿に戻ってしまう。そこへやってきたポニョの父が、二人を海底に沈んでいる老人ホームまで連れて行くと、そこには宗介の母とポニョの母が待っていた。_NEWLINE_ポニョの母は、宗介が心からポニョを好きなことと、ポニョが魔法を捨てても人間になりたいことを確かめて、ポニョを人間にする魔法をかける。ポニョと宗介が陸に戻り、キスをすると、ポニョの姿は5歳の女の子に変わるのだった。 _START_SECTION_ モチーフ _START_PARAGRAPH_ 本作はハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』(1836年発表)をモチーフとした作品とされている。しかし、『人魚姫』をそのまま原作としては使用しておらず、宮崎は「キリスト教色を払拭」するとしたうえで、舞台を現代の日本に移すなど大きな変更を行っている。ただ、ヴェネツィア国際映画祭での記者会見では、宮崎から「製作中に『人魚姫』の話に似ていると気付いたものの、元来意図的にベースとしたわけではない」という旨の発言も出ている。_NEWLINE_なお、同記者会見において宮崎は、ポニョ発想のルーツを質問され「9歳の頃初めて読んだ文字の本がアンデルセンの人魚姫であり、そこにある『人間には魂があるが、人魚は"物"であり魂を持たない』という価値観に納得が行かなかった事が、遡ればポニョの起点なのかもしれない」と答えている。 _START_SECTION_ 世界観 _START_PARAGRAPH_ 本作は、ストーリーの起承転結が明確になっておらず、ほとんど伏線が存在しない。天変地異が起こっても詳しく理由が説明されることなく、全体的に消化不良のまま物語が収束するなど「スピード感と勢い」を重視しており、ファンタジーと現実社会が入り混じったストーリー構成となっている。この点について、宮崎は「ルールが何にも分からなくても分かる映画を作ろうと思った」「順番通り描いてくと、とても収まらないから思い切ってすっ飛ばした」「出会って事件が起きて、小山があって、最後に大山があってハッピーエンドというパターンをずっとやってくと腐ってくる、こういうものは捨てなきゃいけない」と話している。 _START_SECTION_ 作画方法の見直し _START_PARAGRAPH_ 『ハウルの動く城』完成の後、しばらく宮崎が構想を練っていたものを、ジブリスタッフを伴っての制作が2006年10月に始まった。元々は今まで通りの手法で作る予定であったが、制作前にイギリスのテート・ブリテンで鑑賞したジョン・エヴァレット・ミレーの絵画、「オフィーリア」に感銘を受け、改めて作画方法について見直すことになる。_NEWLINE_その後、宮崎が「紙に描いて動かすのがアニメーションの根源。そこに戻ろうと思う。もう一遍、自分たちでオールを漕ぎ、風に帆を上げて海を渡る。とにかく鉛筆で描く」という意向を固め、コンピューター(CG)を一切使わず、手書きによって作画されることとなった(ただし作画以降の彩色・撮影はデジタル)。作画にコンテを使うなど、絵のタッチは素朴なものになり、これまでのジブリと違った新しい試みになっていると鈴木敏夫は話している。特に海(波)の描写に力を入れているという。_NEWLINE_その一方でジブリの背景美術たちはすごく暇になったため『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は半分近く描いてもらったと押井守は発言している。 _START_SECTION_ 構想段階 _START_PARAGRAPH_ 構想段階では、宮崎が中川李枝子の作品が好きであったために「崖の上のいやいやえん」らしいものを作ろうと考えていた。作品を作るにあたり「人魚姫」や「雪女」「安珍・清姫」などの民間伝承、童話などに数多くにある変態過程の描写と背景が「淡白」に描かれていることを踏まえ、そこを重点にしてポニョの変態過程を構成させた。_NEWLINE_海を舞台にした作品は、宮崎がいつか描きたいと長年夢見てきたが、「波を描くのが大変」という理由で、それまで踏み切れずにいた。2004年11月にスタジオジブリの社員旅行で訪れた瀬戸内海の港町である広島県福山市の鞆の浦(とものうら)を非常に気に入り、準備として2005年の春、鞆の浦の海に隣した崖の上の一軒家に2ヶ月間滞在し、さらに2006年夏、単身でこもった。本作の構想もこの時に練り、自身を極限に追いつめる鬼気迫った姿がNHKで放送された。2ヶ月間滞在では、瀬戸内と関東の屋根瓦との違いや、太平洋との波の違いに特に興味を引いた。この宮崎の行動に対し、妻の出した条件は「生きてる証拠として、毎日絵手紙を出すこと」だったという。_NEWLINE_三鷹の森ジブリ美術館で上映されている宮崎の短編監督作『くじらとり』『水グモもんもん』『やどさがし』などからも影響も受けているという。 _START_SECTION_ 設定のみの『崖の上のポニョ』 _START_PARAGRAPH_ 宮崎が劇場公開以前に描いた初期ボードのポニョの姿は本作と異なっており、カエルのような姿をした魚という設定になっていた。人間姿のポニョの髪や衣装も全く異なっている。_NEWLINE_ポニョが1人で宗介の家までたどり着き、宗介とリサの前に玄関で迎えられるという設定になっているが、本作の場面には描かれていない。その他にもポニョが宗介が描いたポニョの似顔絵を見つけて驚いたり、ポニョが宗介にぶたれて泣いたり(『となりのトトロ』のメイが泣いたシーンとよく似ている)、ポニョが宗介と一緒に海の中を泳いだり、ポニョが人間のままグランマンマーレの「魔法が使えなくなりますよ」という話を聞いて快く頷いている場面が設定されていたが、すべて没となった。 _START_SECTION_ 試写会~初日 _START_PARAGRAPH_ 一般公開前にスタジオ内にある映写室で、スタッフや知人の子供を集めて試写を行うも、子供達の反応は鈍く、宮崎は不安を抱えたまま公開日を迎える。本作の公開に合わせ、「公開カウントダウン「崖の上のポニョ」に秘められた謎」がPR番組として日本テレビ系列で2008年7月15日から18日まで放送された(後述)。_NEWLINE_宮崎と親交の深い押井守監督の『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』と時を同じくして公開されるのは鈴木敏夫が同時に公開しようと提案したため。鈴木は「かたや空、かたや海、時を同じくして似たようなのが出てくる。歩みは違ってもなんだかんだでずっと接点がある押井守との友情です」と語る。_NEWLINE_東京の日比谷スカラ座での初日舞台挨拶の際、偶然にも震度3(宮城県で震度4)の地震が発生。津波注意報が出たことから宮崎は「ポニョがいる」とつぶやいた。キャラクターのモデルは、スタジオ内のスタッフやその子供たちで、その子育てを見ながら制作したので、新しく生まれてくる子供たちに向けた作品にしたという。_NEWLINE_通常、舞台挨拶などのイベントはメイン劇場とされる劇場での公開初日の初回上映および2便上映のみだが、主題歌が大ヒットしたため、公開初日の初回上映で舞台挨拶を行った日比谷スカラ座で9月15日に「大ヒット御礼主題歌祭り」を行った。 _START_SECTION_ 公開後の展開 _START_PARAGRAPH_ 2009年7月3日、製作ドキュメンタリーDVD・Blu-ray Discの「ポニョはこうして生まれた。〜宮崎駿の思考過程」と、「崖の上のポニョ 特別保存版」が音楽に関する許諾を取っていなかったことが発覚したため、12月に発売延期となった。なお、通常版のDVDは発売延期されていない。少数ながらVHSでも発売されている。_NEWLINE_2010年2月5日、日本テレビ『金曜特別ロードショー』にてテレビ初放送。視聴率は29.8%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。2012年8月24日『金曜ロードSHOW!』枠にて2年ぶり2回目の放送がなされた。2015年2月13日には同枠で3年ぶり3回目の放送が行われた。_NEWLINE_2011年11月16日 新装パッケージ版のBlu-ray販売。
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Q11477386
_START_ARTICLE_ 嶋田純次 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ サッカー少年だった中学生のころにテレビで競馬中継をみて騎手を志す。2008年、競馬学校に騎手課程第27期生として入学。在学時にはフジテレビ系列の情報バラエティ番組『潜入!リアルスコープ』の密着取材を受けた。2011年2月に競馬学校を卒業、とくに騎乗技術が優秀だった者に与えられるアイルランド大使特別賞を受賞した。2011年3月1日付けで騎手免許を取得(平地競走・障害競走)。_NEWLINE_2011年3月5日の中山競馬第1競走でワイズアンドクールに騎乗し優勝、松山弘平以来となるJRA史上45人目の初騎乗初勝利を飾った。9月4日には、新潟2歳ステークスにフィロパトロールで重賞初騎乗(9着)。1年目は新人最多の18勝を挙げ、民放競馬記者クラブ賞を受賞した。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 同期には横山和生や杉原誠人らがいる。目標とする騎手は松岡正海。嶋田功、嶋田潤兄弟(いずれも元調教師、元騎手)、嶋田高宏(調教助手、元騎手。嶋田潤の長男)との血縁関係はない。_NEWLINE_2011年12月より同期の高嶋活士(引退。後に障碍者馬術選手に転向)とともにTwitterを開始した。_NEWLINE_『潜入!リアルスコープ』出演時に女優の夏帆の大ファンであることが注目され、以降”夏帆ちゃん好き”キャラが定着している。またかつて開設していたTwitterの自己紹介欄では夏帆のほかにももいろクローバーZのファンであることも公言している。
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Q11477596
_START_ARTICLE_ 川上英幸 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1991年にテレビドラマ『ルージュの伝言』で脚本家としてデビュー。_NEWLINE_『ウルトラマンネクサス』などを除いた平成ウルトラマンシリーズの多くで脚本家として活躍。時代物を好み、近年はNHK時代劇への参加も多く、時代小説も手がけている。
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Q11477969
_START_ARTICLE_ 川口市役所 _START_PARAGRAPH_ 川口市役所(かわぐちしやくしょ)は、日本の地方公共団体である埼玉県川口市の執行機関としての事務を行う施設である。施設は本庁舎や鳩ヶ谷庁舎のほか、青木分室、市民会館、第二庁舎、分庁舎(教育局)、水道庁舎、朝日環境センターがある。職員数は4,204人(2013年4月1日現在)。
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Q11478359
_START_ARTICLE_ 川崎八右衛門 (2代目) _START_PARAGRAPH_ 2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日(1866年5月19日) - 昭和22年(1947年))は、日本の実業家。初代川崎八右衛門、世舞子夫妻の三男。金三郎と命名される。川崎守之助の父。妻、幸子(こうこ)は、郷純造の娘。東京川崎財閥第2代目当主。
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Q11478729
_START_ARTICLE_ 川村みどり _START_SECTION_ 出演作品 _START_PARAGRAPH_ 太字は主役、メインキャラクター
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Q6379618
_START_ARTICLE_ 川村駅 (愛知県) _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 相対式2面2線ホームをもつ高架駅。
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Q6379600
_START_ARTICLE_ 川間駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 島式ホーム1面2線を有する地上駅。駅の南北を連絡する地下道の中間から階段を上ったところに駅舎があり、駅舎からは船橋方面にホームが伸びる形態である。_NEWLINE_開業当初は、改札内に汲み取り式便所が設置されていたが、1993年頃水洗式になり、以降は改札外に設置されている。その後は2010年度にエレベーターと多機能トイレを設置し、駅構内のバリアフリー化が図られており、2015年度末には北口駅前広場の整備を計画している。 _START_SECTION_ 駅周辺 _START_PARAGRAPH_ 駅周辺は東武鉄道の開発によるものも含めて住宅地が広がり、また関宿地区(旧東葛飾郡関宿町)方面への玄関口の一つでもある。
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Q11479587
_START_ARTICLE_ 工藤昭雄 _START_PARAGRAPH_ 工藤 昭雄(くどう あきお、1930年12月3日 - 2010年12月17日)は、英文学者、東京都立大学名誉教授。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 青森県北津軽郡板柳町生まれ。東京大学英文科卒業。東京都立大学助教授、教授、1994年に定年退官、名誉教授、学習院大学教授を務め、2001年退任。_NEWLINE_当初英国の現代文学を研究、翻訳し、のちV・S・ナイポールなど植民地文学に移った。_NEWLINE_2010年12月17日、肺炎のため東京都文京区の病院で死去。80歳没。
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Q28684956
_START_ARTICLE_ 市原市立中央図書館 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1991年(平成3年)11月27日に開館し、開館当初の蔵書数は約12万冊で、オンラインで接続する市内の他の図書館の蔵書と合わせて約32万冊の利用が可能であった。_NEWLINE_また、開館に際しては、蔵書や施設面などで特色がないとの批判もあった。 _START_SECTION_ 貸出・返却 _START_PARAGRAPH_ 貸出には「図書利用カード」が必要となり、市原市在住者・在勤者・在学者がカードの発行を受けることができる。貸出点数は図書・雑誌が10冊まで、視聴覚資料は2点までとされている。カードは公民館図書室などでもそのまま使えるが、貸出点数も合算される。_NEWLINE_返却は中央図書館だけでなく、公民館図書室でも行える。 _START_SECTION_ 建物 _START_PARAGRAPH_ 34億5000万円(ただし、図書整備費用などを含む)が投じられた、一部に鉄骨造を採用した鉄筋コンクリート造の3階建てである。利用者が利用可能なフロアは1階と2階の視聴覚コーナーのみで、2階の大部分・3階には閉架書架が置かれている。55万冊の図書を収蔵できる設計がとられている。 _START_SECTION_ バス _START_PARAGRAPH_ 運行会社は小湊鐵道塩田営業所。 五井駅東口4番乗り場から「保健センター・YOUホール前」下車。
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Q15930195
_START_ARTICLE_ 市道173号 (台湾) _START_PARAGRAPH_ 市道173号(しどう173ごう)は、台南市麻豆区から同市七股区九塊厝を結ぶ、全長21.874kmの台湾の市道である。台19線と重複区間がある。 _START_SECTION_ 甲線 _START_PARAGRAPH_ 市道173号甲線(けんどう173ごうこうせん)は、台南市北門区蘆竹溝から同市七股区九塊厝を結ぶ、全長16.579kmの台湾の市道であり。台61線の側車道がある。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 市道173号はもともと、県道173号の名称で当初は塩水区までの路線だった。後に塩水区から麻豆までの区間が県道177号線(現在の市道177号線)とともに台19甲線に再編され、県道173号の起点も麻豆に改められた。2013年に県道173号線、県道173甲線はそれぞれ市道173号線、市道173号甲線に改められた。
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Q5353775
_START_ARTICLE_ 帝都復興院 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 総裁は内務大臣後藤新平(元鉄道院総裁・東京市長)が兼務し、幹部には後藤の腹心やブレーンが集められた。総裁官房・計画局・土地整理局・土木局・建築局・経理局・物資供給局が置かれ、内務省、鉄道省その他から有能な技術者を集めて、帝都復興事業に取り組んだ。_NEWLINE_復興院が立案した帝都復興計画は、伊東巳代治(枢密顧問官)ら長老政治家や、野党政友会の反発によって大幅に縮小された。これには、復興院内部が、積極派の副総裁松木幹一郎、建築局長佐野利器らと、消極派で拙速主義を取り、予算を削減しようとする副総裁宮尾舜治、計画局長池田宏らとに割れて路線対立を起こし、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかったことも影響している。そして同年12月の虎ノ門事件により第2次山本内閣が総辞職すると、総裁は後藤から水野錬太郎に交代し、1924年(大正13年)2月25日に帝都復興院は廃止された。帝都復興事業は内務省の外局として設置された復興局に引き継がれた。なお復興局は1930年(昭和5年)4月1日に復興事務局に改組され、1932年(昭和7年)4月1日に復興事務局も廃止された。
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Q11481100
_START_ARTICLE_ 師団対空情報処理システム _START_PARAGRAPH_ 師団対空情報処理システム(しだんたいくうじょうほうしょりシステム、英:Division Air defence Data-processing System、略語DADS)は、陸上自衛隊の装備。主に師団の高射特科部隊に配備される。対空レーダ等の情報を集約し、対空射撃、対空戦闘に必要な情報を迅速・正確に処理伝達するための装備。1990年(平成2年)度から配備が始まった。製作は日本電気。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 対空レーダ装置 JTPS-P14、低空レーダ装置 JTPS-P18などの対空レーダの情報を集約・処理し、87式自走高射機関砲、93式近距離地対空誘導弾、81式短距離地対空誘導弾などを運用する対空戦闘部隊に指示を伝達する。 _START_SECTION_ 後継 _START_PARAGRAPH_ 師団の対空戦闘指揮所で運用される本システムと方面隊の対空戦闘指揮所で運用される「高射指揮所装置(MTQ-1)」の後継の「対空戦闘指揮統制システム」の調達が平成21年度から開始され、平成23年度から取得される予定である。_NEWLINE_対空戦闘指揮統制システムは方面隊や師団や旅団の高射特科部隊に配備される。複数の方面隊や師団や旅団が運用する、対空監視レーダと低空レーダや、03式中距離地対空誘導弾、ホーク、81式短距離地対空誘導弾、93式近距離地対空誘導弾、87式自走高射機関砲、91式携帯地対空誘導弾を対空戦闘指揮統制装置に連接することにより、対空情報が共有され一元的な指揮統制が可能となり、撃ち漏らしや重複射撃を防止できるようになっている。_NEWLINE_また、情報集約能力や処理能力や伝送能力が飛躍的に向上し、同時に現れる多種多数の飛翔体にも対処可能となっている。さらに航空自衛隊の新自動警戒管制システム(JADGE)とも連接することで、対空情報が共有化され、より広域の情報取得も可能である。
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Q3142989
_START_ARTICLE_ 帯広の森スピードスケート場 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2009年(平成21年)9月1日使用開始。帯広の森運動公園にあり、日本国内では長野エムウェーブに次ぐ屋内スピードスケート場として開場。スピードスケート競技に加え、中地多目的広場はフットサル、テニスなどを行うことができ、外周を利用したランニング走路も設置されている。 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 前身は1985年(昭和60年)開場の屋外施設「帯広の森スピードスケート場」であり、多くの国際・国内大会を開催してきた。1998年(平成10年)に長野オリンピックスピードスケート男子500m競技で帯広市出身の清水宏保が金メダルを獲得(長野オリンピックスピードスケート競技)。これを契機として屋内スケート場の建設構想が持ち上がり道立施設誘致を働きかけるが、北海道が財政難を理由に設置困難を示した。さらに、環境問題により製造中止となった冷媒フロンの在庫期限が迫る中、帯広市は単独整備へと方針転換した。その後、国・道の補助が決まり2007年(平成19年)6月から全面改修が始まった。 _START_SECTION_ アクセス _START_PARAGRAPH_ 北海道旅客鉄道(JR北海道)帯広駅からバスで約40分
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Q4390995
_START_ARTICLE_ 常州北駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 島式ホーム2面の地上駅である。2本の通過線を持つ。
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Q11060811
_START_ARTICLE_ 平塚為広 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 父は三郎入道無心。三浦氏の一族であり、平塚郷を賜ったのを機に改姓したと伝わる宮野宣康「大谷刑部関係史跡事典」。通称は平九郎、因幡守。_NEWLINE_明智光秀に仕えていたともされ、本能寺の変に参加したとも。_NEWLINE_豊臣秀吉の中国出陣時、秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵が播磨の戦で黒田孝高に陣借りをし、高倉山城主福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えたとする話があり、この平塚藤蔵を為広とする。_NEWLINE_為広は後に秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。文禄4年(1595年)7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年(1598年)、醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加している。また、同年5月には筑前に下向した石田三成に代わって真田信幸の取次も務めている。_NEWLINE_秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられ垂井城城主となる。同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなった。伏見城攻めでは軍功を挙げている。のちに吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日(9月11日)には東軍の前田利長に備えるために北庄城に入る。8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日(10月9日)に関ヶ原の西南の山中村に着陣。9月14日(10月20日)、吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている。_NEWLINE_9月15日(10月21日)の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも孤軍奮闘したが、山内一豊の家臣樫井太兵衛に討たれた。小早川秀秋の家臣横田小半介に討たれたとも言われる。死ぬ前に吉継に辞世の歌(「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。_NEWLINE_(大谷吉継は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」と返歌しているが届いたかは不明)_NEWLINE_同合戦で子の庄兵衛も討死したとされる。また、為広と同様に怪力で知られた弟の平塚久賀は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。_NEWLINE_昭和15年(1940年)9月15日、為広の子孫である平塚定二郎が、為広が討ち死にした藤川の地に「平塚為広の墓碑」を建立した。
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Q7446727
_START_ARTICLE_ 平尾誠二 _START_SECTION_ プロフィール _START_PARAGRAPH_ 現役時代のポジションは主にスタンドオフ及びインサイドセンター。日本代表キャップは35。同じく神戸製鋼の選手だった細川隆弘は従兄弟である。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 京都府京都市南区出身、伏見工業高校、同志社大学商学部商学科卒業。同志社大学大学院政策科学総合研究科(修士課程)修了。_NEWLINE_小学校の時は野球をやっていたが、京都市立陶化中学校入学と同時にラグビーを始める。理由は「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。そこでラグビー部を見たら、12、3人程度、先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから」。中学時代、父親にラグビースパイクが欲しいと伝えた時、無理だろうと思っていたのに買ってくれたことが「ラグビー人生で一番嬉しかったこと」と『徹子の部屋』にゲスト出演した際に語っている。_NEWLINE_伏見工業高校への入学のきっかけは山口良治。平尾が中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た山口がそのプレーにほれ込み平尾の自宅を訪ねた。その時、平尾は特待生(授業料免除)で名門花園高への入学が決まりかけていたという。当時は伏見工はワルの集まりだったため両親は反対。しかし平尾はそれを振り切り伏見工業高校に入学する。同校1年の京都府大会決勝で花園高に敗れた際は、悔しさの余り表彰式で受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰ってきた。しかし翌年全国大会初出場を果たし、3年生の時の全国大会で同校が初優勝した際の主将となる。_NEWLINE_1982年に史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出。同志社大学ラグビー部在籍時代にはセンターとして史上初の大学選手権3連覇に貢献。しかし1985年、日本選手権では、松尾雄治を擁し7連覇を果たした新日鐵釜石ラグビー部に勝つことができなかった。_NEWLINE_1985年、英国リッチモンドにラグビー留学した。そもそも大学卒業後の進路として平尾は、強豪ラグビーチームを有する多くの企業から誘いを受けるも、「大学卒業後はラグビーはしません」と公言しており、外国で事業や起業をしたいと考えていたことがその動機であった。イギリスを選んだ理由には、以前より望んでいたデザインの勉強ができることだけでなく、自分のラグビーのレベルが世界ではどの程度か知りたいと考えたこともあったという。イギリスではリッチモンドクラブ (Richmond Football Club) に所属し試合に出場しながら、イギリスのデザイン学校の入学試験準備や受験勉強に取り組んでいた。_NEWLINE_しかし、ファッション誌にモデルで登場したことが当時のアマチュア規定に抵触したとの理由により、日本代表候補選手から除外された。平尾の下宿に協会から連絡が入り、留学直前に受けたファッション誌の取材記事がアマチュア規定に反すること、アマチュア資格の停止のことを知らされた。違反を犯していた認識がなかったため寝耳に水だったが、日本ではもうラグビーをしないと考えていたため深刻に考えなかったという。しかしアマチュア資格の停止は国際的なもの(日本以外でも試合に出られない)と知らされ、弁明のため一時帰国。汚名を返上したければ日本の一流チームで成績を出せ、と言われ、急遽日本での所属チーム探しに追われることとなる。事件後はそれまでが嘘のように企業からの連絡はなくなっていた。そんな折、偶然イギリス出張に来ていた以前より顔見知りであった神戸製鋼の当時専務であった亀高素吉と食事に行く機会を持つ。そこで企業を探していることを相談、すると「ならウチはどうだ」と言われ神戸製鋼行きを決める。「神戸は遠足で行って以来、好きな街でしたし」とも語っている。_NEWLINE_1986年、神戸製鋼に入社。社会人時代は、日本選手権で7連覇を達成(初優勝時から3連覇時までは主将、7連覇時は主将代行を務めた)。また、国内チーム相手でゲームキャプテンを務めた試合では負けた事が一度だけ(同志社大学時代の日本選手権対新日鐵釜石戦)という抜群のキャプテンシーを発揮。平尾は主将として「ボールをつないでトライを取るラグビー」を掲げ、強いフォワード選手に対しタイミングよくボールを出すことを求め、ラグビーの球技的側面を強調することで得点力を高めた。平尾は「ノックオンは犯罪的行為」とまで言い切り「ボールが一番大事」という意識を徹底的にチームに植え付けた。_NEWLINE_ラグビーワールドカップには、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場。特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利(対ジンバブエ戦)の原動力として活躍した。その後一度は代表を退いたが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、その後代表選手として本戦に出場した。_NEWLINE_1998年1月、現役を引退。その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任。_NEWLINE_2000年4月、スポーツと地域社会の振興を図るため、NPO「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)」を旗揚げ。_NEWLINE_2008年7月12日には日本サッカー協会理事に、同協会犬飼基昭会長の推薦で伊達公子(プロテニス選手)とともにサッカー界以外から就任したが、1期のみで退任している。_NEWLINE_2011年には文部科学省の中央教育審議会委員に就任した。_NEWLINE_2016年10月20日午前7時16分、京都市内の病院で死去。53歳だった。_NEWLINE_病名などの死因については当初は遺族の意向によって非公表となっていたが、その後遺族からの発表にて前年秋から胆管細胞癌の闘病中であったことが明らかになった。 _START_SECTION_ エピソード _START_PARAGRAPH_ テーピングの際は「絶対にテープが見えないようにしてくれ」と要求したことがあった。弱みを見せず強さを際立たせる意図があったのではとの意見もある。_NEWLINE_著書『勝者のシステム:勝ち負けの前に何をなすべきか』によると、同志社大学時代のチームメイトであった土田雅人がサントリーのヘッドコーチに就任直後、会食の最中に平尾に主将は誰がいいか相談し、「永友洋司がええんちゃうか」との平尾の進言にしたがって抜擢。その後、第48回全国社会人ラグビーフットボール大会の決勝トーナメント1回戦で、ノーサイド直前に永友がペナルティゴールを決め、サントリーは神戸製鋼と20-20の引き分けながらも、トライ数が上回っていたことから準決勝に進出。同時に、神戸製鋼の8年連続日本一の夢は潰えた。この結果を踏まえて、平尾は、「土田にしてやられた。永友の件以外にも、サントリーの弱点はどこかなど聞いてきて、当たり障りのない範囲で言ったつもりが、それがサントリーにとっての重要な戦略であったと後で気づかされた。」と述懐した。
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Q11482611
_START_ARTICLE_ 平岡瑤子 _START_SECTION_ 生い立ち _START_PARAGRAPH_ 1937年(昭和12年)2月13日、日本画家の父・杉山寧と母・元子の間に長女として誕生。その後、妹1人と弟2人ができ、4人姉弟の1番上として育った。幼い頃より能に親しんだ。_NEWLINE_瑤子の通う日本女子大学附属豊明小学校には1学年下に村松英子がいて顔見知りであった。英子の兄・村松剛は小学校4年の妹の学芸会を見学した際、5年生の演劇で御小姓の役を演じる小柄で目鼻立ちのはっきりした可憐な少女に目がいき、その子の名前を英子に訊ねると、「ああ、あの方は杉山瑤子さんよ」と教えられた。_NEWLINE_1957年(昭和32年)の夏にも、村松は妹・英子と軽井沢の喫茶店に入った時に、偶然瑤子を見かけた。_NEWLINE_若々しい美女が入口の横の方の席に坐っていた。先方にも連れがあって、彼女は妹に会釈してまもなく連れと一緒に席を立った。妹に名まえをきくと、_NEWLINE_――杉山瑤子さんよ。_NEWLINE__NEWLINE_彼女が七、八年まえのあの学芸会の少女であるとは、こちらはすぐには気がつかなかった。妹の方は二度も名まえをたずねられて、兄貴めはよほど瑤子さんに関心があるのかと思ったそうである。_NEWLINE_ — 村松剛「三島由紀夫の世界」 _START_SECTION_ 三島との出会い _START_PARAGRAPH_ 1958年(昭和33年)3月23日、日本女子大学英文科2年生の時、瑤子の良縁を探していた叔母の小松静子夫人(夫は元伯爵の小松晃道)と親しい間柄の湯浅あつ子が、瑤子の写真を友人の三島由紀夫に見せた。その見合い写真は、秋山庄太郎の港区麻布今井町(現・六本木)のスタジオで秋山の弟子が撮影したものであった。瑤子が三島好みの「丸顔で可愛らしい」顔だったためOKを出し、会うこととなった。_NEWLINE_4月13日、湯浅は瑤子を連れて銀座のドイツ料理店「ケテル」で三島と引き合わせ、その後3人で「浜作」で夕食を取った後、青山のナイトクラブに踊りに行った。三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った旨を湯浅に報告した。瑤子の感想の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうな声であったという。_NEWLINE_4月21日にも湯浅同伴で三島と瑤子は再び会い、第一生命ホールで映画『女優志願』の試写会を観て、西新橋田村町の「ジョージス」で夕食後、青山のナイトクラブに行った。4月30日には、湯浅と小松夫人が目黒区緑ヶ丘(現・緑が丘1丁目)の三島の家を訪問し下話をまとめ、5月3日に、平岡家と杉山家の両家での懇談を持った。_NEWLINE_5月5日、三島の父・平岡梓は、杉山夫妻と瑤子、小松夫人と湯浅を中華料理店に招待し、正式に瑤子と三島の婚約の運びとなった。この時、三島の母・倭文重は病気入院中で欠席しており、5月1日の手術で癌ではないことが判明していた。瑤子は大学を2年で中退して、主婦業に専念することとなった。_NEWLINE_ジョン・ネイスンは、同性愛者の三島はもともと結婚を考えていなかったと推察し、甲状腺癌(手術の後に誤診であることが判明)と診断された母を安心させるために取り急ぎ瑤子と結婚したと書いているが、実際には、母親の病気発覚以前から三島が結婚を考えたことは様々な資料から明らかで、1957年(昭和32年)には、のちに皇后となる独身時代の正田美智子(日清製粉の社長令嬢)と歌舞伎座で隣り合わせになる形で待ち合わせ、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で食事を兼ねたお見合いをしている。さらに1954年(昭和29年)8月から約3年半、三島と交際していた豊田貞子(結婚後の名は後藤貞子)という結婚寸前の女性もいた。また1952年(昭和27年)に遡ると、川端康成の養女・黒田政子との結婚を秀子夫人に切り出して断られたこともあった。_NEWLINE_5月9日、平岡・杉山両家は結納を取り交わした。平岡家からはダイヤモンドの指輪が瑤子に贈られ、杉山家からは夏服仕立て券付き布地1着分が三島に贈られた。三島が結婚するという驚きのニュースはすぐに文壇に拡がり、石原慎太郎は、「三島さんが見合結婚なんて考えられない。人の知らない間に、どこかで素晴らしいお嬢さんをちゃんと射止めていたんじゃないかな。見合結婚というのもひとつの演出と思われるほどだ」と祝福した。_NEWLINE_三島の所属する「鉢の木会」の面々も、「まるで、スキャンダル並だね」(福田恆存)、「結構でしょう、そろそろ年貢の納め時だ」(大岡昇平)、「アレも人の子ヨメ迎え」(中村光夫)、「ちくしょう、また物入りだな」(吉田健一)と週刊誌の取材にコメントした。三島は結婚相手の条件を、「三島由紀夫」ではなくて、「平岡公威」と結婚したい女性を望む旨と共に、以下のように語っていた。_NEWLINE_文学なんかにはちつとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思つてくれる素直なやさしい女らしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん、僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支へてくれる人。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「私の見合結婚」_NEWLINE_また「家庭の事情」も重んじたとし、「その意味で芸術家の娘を選んだことはよかつたと思ふ」と述べ、「三十三にもなつて、二十一の可愛い女房を迎へたのだから、嬉しい」と喜びを語った。_NEWLINE_5月20日、瑤子は三島と共に秋山ちえ子の取材を銀座の「ケテル」で受けた後、「和光」に赴き、三島が注文していたエンゲージ・リングを受け取った。 _START_SECTION_ 結婚 _START_PARAGRAPH_ 6月1日の日曜日、瑤子と三島は、港区元赤坂の明治記念館で結婚式を挙げ、神妙な顔つきで三々九度の盃をあげた。披露宴は午後4時から麻布三河台町(現・六本木)の国際文化会館にてカクテル・パーティー式で開かれた、平岡精二クインテットが「魅惑のワルツ」を演奏する中、新郎新婦が入場した。タキシード姿の三島の横で、瑤子は純白のウェディングドレスに身を包み、カトレアと白薔薇の花束を胸に抱えていた。_NEWLINE_媒酌人は川端康成で、司会はべらんめえ口調の外人タレント・ロイ・ジェームス(のちに湯浅あつ子の夫となる)が務めた。川端は、「新郎はすでに一家をなしている人でありますから、私の方でよろしくお願いしたいくらいで、皆様によろしくとは申しませんが、新婦はまだ二十一歳。くれぐれもよろしくお願いいたします。(中略)世界的作家・三島由紀夫氏の媒酌をすることにより、私の名はまたもや世界的に広まることでありましょう」とユーモアを交えて挨拶した。_NEWLINE_三島は招待客の間を、「可愛いだろう」「可愛いでしょう」と自慢げに瑤子を紹介しながら巡り歩いていたという。披露宴はいくつかに分かれて行われ、椿山荘でのパーティーでは芸能人などが大勢かけつけていた。_NEWLINE_新婚旅行は、披露宴後の午後5時51分の東京発熱海行きの湘南電車で出発し、小田原駅から車で箱根宮ノ下の富士屋ホテルに到着。「菊の間」に3泊した。6月3日は、箱根ホテルの庭からモーターボートで芦ノ湖を一巡りした後、夕方、富士屋ホテル前の版画屋で買った開化絵をジェイムス・メリル(英語: James Merrill)(小説家)と『仮面の告白』英訳出版社のニュー・ディレクションズ社(英語: New Directions Publishing)の編集長のロバート・マクリガー宛てに三島が船便で送った。6月4日は箱根を発ち、熱海起雲閣に宿泊した。ちなみに、冒頭部で説明した三島の手紙の日付は6月4日となっている。_NEWLINE_6月5日、展望車「はと」で京都に向い、都ホテルに4泊。7日には、大映京都撮影所で、映画『炎上』の撮影風景を見学した。9日からはホテル大阪グランド(現・リーガロイヤルホテル)に2泊。10日は修学旅行で大阪に来ていた妹とその学友を交えホテルで夕食をとった。11日の夕方に天保山桟橋から「るり丸」に乗船して別府に向い、12日の午前11時に到着した後、高崎山などを見学して杉乃井旅館に宿泊した。_NEWLINE_6月13日は地獄めぐりなどをした後、別府市鉄輪村で映画『美徳のよろめき』を観た。14日の午後、温泉列車「ゆのか」で別府を発ち、博多に到着して日活国際ホテルに宿泊。15日の午後、板付空港から日航機で発ち、羽田空港で弟妹、夫の弟・平岡千之の出迎えを受け、目黒区の三島の家の帰宅し家族共々で祝いの夕食となった。 _START_SECTION_ 出産後 _START_PARAGRAPH_ 1959年(昭和34年)5月10日に大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)の新築の家へ転居した。同じ敷地内の離れには、夫の両親(梓と倭文重)も居住。6月2日に長女が誕生した。午後7時頃、三島が新生児室のガラス越しにわが子を見る。8日のお七夜で長女は「紀子」と命名された。16日夕方、瑤子は赤ん坊を抱いて病院から帰宅した。_NEWLINE_1960年(昭和35年)5月23日には、東京西方に空飛ぶ円盤が現われるという情報を、同じ「日本空飛ぶ円盤研究会」会員の北村小松から得た三島と一緒に、自宅屋上で観測を続けUFOを目撃した。出没予測時刻の朝5時を過ぎても何も起こらないので、25分頃に三島が下りようとすると、北の方から黒い雲が出てきた。瑤子は「おやおや異変が現われたわ。円盤が出るかもしれなくってよ」と三島を引き留めた。やがて雲が西方に伸びてゆき、カプセルに似た形の葉巻型のUFOが現われた。_NEWLINE_同年11月1日からは、夫と2人で海外旅行に出発。中村光夫や舟橋聖一らに見送られ、羽田空港からハワイに向い、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークなどを訪れ、12月2日からは、ポルトガル、スペインを経て、フランスへ行った。20日頃からロンドンに滞在し、その後ドイツに移動して年末まで滞在した。_NEWLINE_1961年(昭和36年)の新年をローマで迎え、1月2日はボローニャ、3日と4日はベニス、5日はミラノに宿泊。6日からはローマに4泊し、10日からは、アテネ、カイロに宿泊。15日から香港に5泊し、タイガーバームガーデンなどを見学して、20日に羽田空港に帰着した。_NEWLINE_1962年(昭和37年)5月2日には、長男・威一郎を出産した。瑤子は三島と仲睦まじく、この年から毎年(昭和40年まで)自宅でクリスマスパーティーを催し、手料理で招待客をもてなして西洋風の女主人の役を務めた。外出の際には、車の運転をしないペーパードライバーの三島のために運転手の役もこなした。_NEWLINE_1964年(昭和39年)8月には、家族4人で2週間ほど静岡県下田市の下田東急ホテルに滞在し、この年以降、毎年8月は下田で過ごすことが一家の恒例行事となった。_NEWLINE_1965年(昭和40年)夏頃、車の運転の得意な瑤子はスポーツカーレースの参加を希望したものの、三島の許可が得られず断念したこともあったとされる。なお、三島の母・倭文重によると、瑤子は三島の飼猫チルに嫉妬し、書斎にやって来るチルに三島が煮干しをあげて可愛がるのさえも嫌がったという。_NEWLINE_同年9月5日から三島に同伴して、再び海外旅行に出発。ニューヨークなどに滞在した後、22日からヨーロッパ(ストックホルム、パリ、ハンブルク)を巡った。10月12日からは東南アジア(バンコク、カンボジア)を巡り、見学不可のタイ王国の薔薇宮を取材する三島を手助けし、31日に帰国した。_NEWLINE_1967年(昭和42年)4月29日には、車に寿司や生菓子など手土産を積んで、三島が単身で体験入隊中の陸上自衛隊富士学校を訪問し、訓練に勤しむ三島を叱咤激励した。同年9月26日から10月4日までは、三島に同伴してインドへ行った(三島はその後も引き続きタイ王国、ラオスへ出発)。_NEWLINE_1968年(昭和43年)12月には、三島が結成した楯の会の遊撃戦の講義(講師は山本舜勝)の場として、叔母・小松静子が経営していた品川の常盤軒のビルの一室を提供した。_NEWLINE_1969年(昭和44年)3月10日には、三島が楯の会候補生を引率して第3回の自衛隊体験入隊中の富士学校滝ヶ原駐屯地を、日本ATGの葛井欣士郎と共に訪れた。瑤子は自宅にたびたびやって来る楯の会会員の若者らを、姐御肌の口調で取り仕切っていた。_NEWLINE_1970年(昭和45年)7月、セギュール夫人のLes petites filles modèlesを『ちっちゃな淑女たち』の題名で松原文子(あやこ)と共訳し、小学館から刊行した(序文および訳文監修は三島が担当)。この本は小学館児童文学賞を受賞した。_NEWLINE_同年11月25日に三島が割腹自殺した(詳細は三島事件を参照)。当日の朝、三島が髭剃りをしている頃、瑤子は2人の子供を学校へ車で送るために家を出た。その後、乗馬の練習に馬事公苑に向う途中、用件を思い出した瑤子は家に電話を入れて家政婦にそれを告げた。家政婦が受話器を置こうとすると、珍しく三島がそれをすばやく横取りし、瑤子から直接内容を聞き「ああ、そうか」と電話を置いた。それが夫との最後の会話となった。 _START_SECTION_ 夫の死後 _START_PARAGRAPH_ 三島事件で怪我をした自衛官らを見舞うなど、事後処置に追われる中、瑤子は1971年(昭和46年)に「三島瑤子」名義で夫の遺作『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』(1971年)のカバー画を描いた他、1972年(昭和47年)1月刊行の『定本三島由紀夫書誌』(島崎博との共編、薔薇十字社)の完成に向けて尽力するなど、三島の蔵書や遺稿の保存整理に心を砕いた。_NEWLINE_三島が演出し、自身の死後に上演予定していた戯曲『サロメ』(オスカー・ワイルド原作)を、三島事件でパニックになった劇団浪曼劇場の代表演出家・松浦竹夫が上演中止すると宣言したが、瑤子が「上演をお願い」と電話を入れたことにより、無事予定通りに紀伊国屋ホールで上演された。_NEWLINE_1971年(昭和46年)2月28日、西日暮里の神道禊大教会で行われた楯の会解散式に出席。杉山家は、神道と関係が深く、神道禊大教会は杉山家と縁があり、解散式の場所となった。元楯の会会員・伊藤好雄によると、瑤子は神道に関する造詣が深かったという。三島が生前に楯の会の班長らに渡し、皇居の済寧館に預けられていた日本刀を、瑤子は各班長に形見として渡した。_NEWLINE_同年3月23日から東京地方裁判所で始まった「楯の会事件」の公判(全18回)には、舅の平岡梓、遺言執行人の斎藤直一弁護士と共に傍聴した。7月7日には、第7回公判で保釈になった小賀正義、小川正洋、古賀浩靖を出迎えに小菅の東京拘置所に行き、彼らを自宅に招いて食事会をした。_NEWLINE_三島の命日11月25日には、毎年何人かの親しい知人(編集者の榎本昌治、川島勝、記者の伊達宗克、演出家の織田紘二など)を自宅に招いて夕食会を開いた。客にもてなす料理は瑤子が全て手作りし、食器や酒器の中には、父・杉山寧の絵付けのものもあり、全て瑤子の窯の作品であったという。_NEWLINE_三島の遺志では、三島邸は「三島記念館」にし、家族は別の場所に家を建てて住むことが希望されていた。その意向に沿うことはできなかったが、瑤子は三島邸を夫が在世当時のままの状態で維持することに努力した。しかし折々の息苦しさから逃れるため、三島邸とは別に小さなマンションを都内に求め、染付けの絵を描いたり、金属ビーズのハンドバッグを織ったりといった仕事で心を紛らせた。千代田区三番町の霞友会館では、毎年それらの作品を展示していた。_NEWLINE_1976年(昭和51年)4月中旬からアメリカ旅行に出発した瑤子は、ニューヨーク・シティ・オペラで上演のオペラ『卒塔婆小町』を鑑賞し、三島の小説『午後の曳航』をルイス・ジョン・カルリーノ(英語: Lewis John Carlino )が映画化した作品『The Sailor who fell from grace with the sea』のプレミアショーに出席した。同年7月5日には、その映画の日比谷みゆき座での日本試写会に倭文重と出席。帝国ホテルでの映画完成記念パーティーで、瑤子は日本語と英語で挨拶をした。この年の12月16日に舅・平岡梓が死去した。_NEWLINE_1977年(昭和52年)3月3日、元楯の会会員・伊藤好雄と西尾俊一も加わった経団連襲撃事件に際して、経団連会館に立てこもった彼らの説得にあたった。瑤子は夜中の0時頃に現場の会長室に電話をいれ、「あんた、伊藤さんでしょ。何やってんのよ。もう、いい加減に出てきなさい」と叱りつけ、切られても再度電話し、「今から私がむかえにいくからね。ドア、開けてよ」と告げた後に直談判に向った。瑤子はすでに会館を訪れていて、会長室の下の階から電話をかけていたため、すぐに部屋にやって来た。急襲に遭った伊藤らは強い要求にドアを開けてしまい、瑤子の気迫に押されて投降となった。_NEWLINE_平岡梓の没後、倭文重は、亡き娘・美津子の同級生で日頃から娘のように親しくしていた女性・新井道子の紹介で、1981年(昭和56年)正月から世田谷区上用賀3丁目19-8の高級老人ホーム「フランシスコ・ビラ」へ入居した。一説には、瑤子が倭文重に対し、敷地内の和風屋敷から立ち退くことを強く求め、虎の門病院分院から退院した倭文重が、次男・千之の力添で入居したとも言われている。_NEWLINE_1985年(昭和60年)1月に発表された雑誌インタビューで瑤子は、三島亡き後の14年間の生活を語った。_NEWLINE_三島が亡くなって十四年、わが家は家具も飾りも、庭にある例のアポロ像も、すべて昔のままです。ただ、保護者がいなくなった心細さは、痛いほど感じます。はだかで世の中に放っぽり出されたたよりなさ、と申せばいいでしょうか。_NEWLINE_ — 三島瑤子「三島家十四年の歳月」_NEWLINE_1987年(昭和62年)9月1日に三島由紀夫賞が創設され、瑤子は授賞式パーティーに毎年出席した。同年10月21日、倭文重が心不全のため虎の門病院で死去した。_NEWLINE_1988年(昭和63年)9月9日、東京都中央区銀座8丁目5-24のエイトスタービル1階に宝飾店「アウローラ」を、長男の威一郎が開店した。1990年(平成2年)9月24日に長女の紀子が結婚。1993年(平成5年)10月20日には、実家の父・杉山寧が死去した。_NEWLINE_1995年(平成7年)、瑤子は初夏頃から肺真菌症が悪化し、シンガポール(外交官の夫の駐在先)から帰国していた長女・紀子の看病を自邸にて受けていたが、容態が急変したため東京女子医科大学病院に入院し、7月31日、急性心不全で死去した。容態が急変した時に紀子が救急車を呼ぼうとしたが、瑤子は「近所に迷惑だから、威ちゃんに連れて行ってもらいたい」と頼んだという。_NEWLINE_それ以前のある時期に、喘息の発作に悩まされ、庭に出て一夜を明かすこともあったが、台湾の鍼灸師に看てもらって回復したと言い、同じく喘息持ちの知人・川島勝(講談社の編集者)にも勧めていたこともあった。また瑤子は川島に、「こんどメタル・ビーズを使って面白い本を作ってみない?」と装幀の仕事に意欲を見せていたが、訃報の年にはビーズ作品展も、三島由紀夫賞授賞式にも欠席していた。_NEWLINE_告別式は8月2日に自宅で営まれ、葬儀委員長は中央公論社の嶋中鵬二が務めた。
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Q11482748
_START_ARTICLE_ 平川祐弘 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)生まれ。一高・東大教授でドイツ文学者の竹山道雄の女婿となり、長女の足立節子も比較文学者である。兄の平川浩正(1929-1986)は物理学者・東大理学部教授。 _START_SECTION_ その他研究概歴 _START_PARAGRAPH_ 修士課程在学中に5年近くフランス、イタリア、ドイツに留学し、各国語に通じる。帰国後の1961年、修士論文を短縮した『ルネサンスの詩』を刊行、またダンテの『神曲』を口語体で翻訳した。1974年、博士論文『和魂洋才の系譜』、1974年に『西欧の衝撃と日本』、1976年に『夏目漱石 非西洋の苦闘』を刊行した。_NEWLINE_鶴田欣也と数多くの国際シンポジウムを開催し、その論文集を共編で出している。
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Q20645185
_START_ARTICLE_ 平成27年台風第11号 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 7月3日、マーシャル諸島で発生した熱帯低気圧11Wが、4日3時(協定世界時3日18時)頃、北緯9.8度、東経170.8度で台風に成長し、アジア名ナンカー(Nangka)と命名された。_NEWLINE_台風はマーシャル諸島近海を発達しながら西進、5日21時からの48時間で中心気圧が60ヘクトパスカル低下して925ヘクトパスカルに達し、7日には非常に強い勢力となった。9日から10日にかけてマリアナ諸島を通過したのち12日から進路を北寄りに変えて、13日には南鳥島近海に到達。15日には大型で非常に強い勢力となり、更に北上を続けて大型で強い勢力を保ったまま、16日23時頃に高知県室戸市付近へ上陸。四国を縦断したのち瀬戸内海に出て、17日6時頃には岡山県倉敷市付近に再上陸、同日午後に日本海に達したのち、17日21時(協定世界時17日12時)に北緯36.8度、東経134.3度で熱帯低気圧となった。 _START_SECTION_ マーシャル諸島 _START_PARAGRAPH_ マーシャル諸島の首都・マジュロでは、4日に台風の強い風で住宅の屋根の破壊や倒木、停電などが発生したほか、少なくとも25隻の潟にあった舟が緩い破られた。また、沿岸部では洪水が報告されている。 _START_SECTION_ 日本 _START_PARAGRAPH_ 7月16日朝には西日本の広い範囲が強風域に入り、台風からの湿った空気が流れ込んだことで、四国から東北南部にかけての広範囲で局地的な大雨となった。四国から関東までの各地で土砂災害警戒情報が出されたほか、17日には和歌山県新宮市熊野川町や田辺市本宮町で熊野川やその支流が氾濫。高知県から茨城県の2府14県で1,087,284人に避難勧告、43,384人に避難指示が出された。台風の中心が日本海に抜けた17日夕方以降は、活発な台風の外側の雲が関西にかかり続けて京阪神では記録的な大雨となり、兵庫県神戸市で18日1時40分までの24時間で観測史上最大の272ミリを観測するなど、多くの地点で観測史上最大または7月最大の雨量を観測した。 _START_SECTION_ 交通機関 _START_PARAGRAPH_ 関東を中心に各地でJR線などが運転を見合わせとなったり、遅れが出たりした。また、高速道路は中央自動車道や東名高速道路が通行止めとなった。さらに、航空は、100便以上が欠航となった。近畿地方では17日夕方から18日明け方まで断続的に大雨が降り続けた影響で、JR線を中心に運転見合わせが相次ぎ、一部の路線は18日午前9時になっても運転再開のめどが立たない状態となった。奈良県十津川村では法面崩壊により国道168号が2か月にわたって通行止めとなり、代替交通としてダム湖で渡船が運航された。
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Q11483118
_START_ARTICLE_ 平林敏彦 _START_PARAGRAPH_ 平林 敏彦(ひらばやし としひこ、1924年8月3日 - )は、日本の詩人。草鹿宏の名で作家としても活動。_NEWLINE_横浜市生まれ。横浜市立商業学校卒業。戦中に詩作をはじめ「四季」などに発表。戦後、第一次「ユリイカ」創刊と同時に編集に携わる。1993年、詩集『磔刑の夏』で富田砕花賞、2005年、『舟歌』で現代詩人賞、2009年、『戦中戦後 詩的時代の証言』で桑原武夫学芸賞受賞。2012年、第18回横浜文学賞受賞。2015年、『ツィゴイネルワイゼンの水邊』で小野十三郎賞受賞。_NEWLINE_草鹿宏名義ではジュニア向けノンフィクション、漫画のノヴェライゼーションなどを書き、『神様なぜ愛にも国境があるの』は映画化もされ話題になった。
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Q11483204
_START_ARTICLE_ 平泉バイパス _START_SECTION_ 概説 _START_PARAGRAPH_ 平泉町内を通る国道4号(現道)は旧規格の2車線で歩道が狭く、特に春と秋の藤原まつり開催時は交通規制が行われるため大渋滞が起きる。このため迂回路として1981年からバイパス事業が進められ1984年9月に着工、1999年11月に南半分を暫定2車線で供用開始している(交差する道路の高舘橋も架け替え)。また北半分は柳之御所遺跡の世界遺産登録に伴う調査のためルート変更を余儀なくされ、北上川ギリギリに沿う形となった(川の筋も同時に一部変更)。当初2007年度に2車線供用(暫定)予定だったのが1年ずれ込み、2008年8月5日14時に全線開通した。_NEWLINE_この延期について、国土交通省側は大雨等による工事の遅れと予算不足が原因と説明しているが、一部には民主党がガソリン税の暫定税率廃止を訴えていることに対する意趣返しとして国交省側が小沢一郎代表の中選挙区時代の地元での工事をストップさせていたとする見方もある。_NEWLINE_北半分は世界遺産に登録された平泉史跡群を構成する「柳之御所遺跡」の景観を保護する観点から、バイパスを走行する車両が遺跡公園から極力見えないよう、道路両側に盛土をして切り通し(半地下)状態とした。さらに信号機も当バイパス全区間において濃い茶色のデザインアームLED式を採用し、制御線も全て地中配線している。_NEWLINE_なお案内標識の国道4号アイコンは当BP側にのみ表記され、旧道側に国道アイコンはバイパス全通当初から表記されていない。のちに旧道区間は2015年4月1日付けで国道指定より外され、「岩手県道300号三日町瀬原線」へ移管された(平泉字瀬原T字路~当BP北口十字路間は「岩手県道37号花巻平泉線=宮城県道・岩手県道49号栗駒平泉線重複」へ変更)。
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Q11483342
_START_ARTICLE_ 平田正房 _START_PARAGRAPH_ 平田 正房(ひらた まさふさ、延宝元年12月6日(1674年1月12日) - 寛保2年3月28日(1742年5月2日))は、薩摩藩鹿児島城下士。家格は寄合。本姓は桓武平氏。平田宗勝にはじまる平田家の7代目当主。薩摩藩家老平田宗正の孫で、薩摩藩家老平田靱負の父。諱は初め宗朋、のち宗房、正房。幼名は平三(あるいは平蔵)。通称は初め兵十郎、のち新左衛門。平田宗勝にはじまる同家は正房の代で、家格寄合に昇格したという。本人は家老にはならなかったが、勘定奉行まで昇進。
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Q11483847
_START_ARTICLE_ 年料別納租穀 _START_PARAGRAPH_ 年料別納租穀(ねんりょうべつのうそこく)とは、平安時代に各国の正倉に納められた田租を不動穀とは別に稲穀の形態で現地で保管して、中央において財政が不足した折に太政官符に基づいて位禄・季禄・衣服料として京官に支給したもの。_NEWLINE_遠国を中心として年料租舂米を負担しない国を中心に負担した(ただし、年料舂米と重複することでは、年料租舂米負担国と同様である)。本来、京官の給与は庸調から支出されたが、庸調の未進が相次いだり、納付された物の品質の悪化なより、財源に事欠くようになったために、代わりに本来は不動穀として備蓄する筈であった租の中から捻出しようとしたものである。また、平安時代に入ると都(平安京)の住人は貴族・庶民を問わず農業生産から切り離された都市生活者としての性格を強めるようになり、都における米の需要の増加への対応の側面も指摘されている。_NEWLINE_延喜式において、25ヶ国が負担対象国であり、総計133,729斛を負担したことが記されている。平安京に勤務する貴族・官人でも原則として年料別納租穀を受ける場合には現地で支給を受けることになっていたが、延喜式には中国以上の国家からの位禄の輸送費用は官で負担する規定が存在していた。
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Q22128613
_START_ARTICLE_ 広光秀国 _START_SECTION_ 剣道暦 _START_PARAGRAPH_ 明治神宮大会 2回出場。国民体育大会 2回出場。大日本東西対抗剣道大会出場6回。日本剣道親善使節団団員として渡米。ハワイ日本人移民100年記念剣道大会に出場。
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Q11484737
_START_ARTICLE_ 広島県女子サッカーリーグ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 日本全国の都道府県にある都道府県リーグのひとつであり、日本の女子サッカーリーグ編成において5部に相当する。_NEWLINE_県リーグはAリーグとBリーグに分かれており、それぞれAリーグが1部、Bリーグが2部に相当する。_NEWLINE_順位決定は1回戦総当り勝ち点制になっていて、1試合は前半30分、後半30分にて行う。なお、不戦敗の場合は勝ち点-3となる。_NEWLINE_2014年度で第37回を迎える。 _START_SECTION_ 中国女子サッカーリーグへの昇格 _START_PARAGRAPH_ Aリーグ成績上位3チーム中から上位から優先して2チームが中国女子サッカーリーグチャレンジ戦への参加権を得る。これは上位チームに中国リーグチャレンジ戦参加辞退が例え出ても、上位3位以内は必須条件となる。_NEWLINE_チャレンジ戦は中国地方5県の県リーグ上位チームが参加するトーナメント戦で、上位2チームが中国女子サッカーリーグ入替戦に出場できる。_NEWLINE_中国女子サッカーリーグ下位2チームとの入替戦に勝利すると、中国女子サッカーリーグへ昇格することが出来る。_NEWLINE_チャレンジリーグ昇格などで中国リーグに欠員が出た場合は、チャレンジ戦優勝で自動昇格、チャレンジ戦2位が中国リーグ最下位と入替戦となる。
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Q65267000
_START_ARTICLE_ 広瀬辰五郎 (2代目) _START_PARAGRAPH_ 二代目広瀬 辰五郎(2だいめ ひろせ たつごろう、元治元年(1864年)‐明治30年(1897年))は明治時代の地本問屋。伊勢辰商店の二代目。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 本名は広瀬芳太郎。初代広瀬辰五郎の長男。明治21年(1888年)の初代没後、跡を継いでおり、芳太郎が27歳のときに二代目広瀬辰五郎を襲名した。日本橋に育ち、初代の父と苦楽をともにした。明治3年(1870年)に神田弁慶橋(元岩井町10番地)に店舗を移しており、当時の文明開化に注目、築地居留地や横浜の外国商館に対して錦絵や千代紙などを売り込み、商売に活路を開拓した。また、河鍋暁斎や柴田是真といった画家と深く交流、その趣味は三代目に継承されていった。明治30年に享年34で死去した。
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Q11485789
_START_ARTICLE_ 庄下川 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 上流の東富松川の伊丹市境を起点とし、尼崎市南塚口町八丁目で2つの支流が合流する(以前はこの合流地点より下流を庄下川と称した)。川は南下し、大西町と名神町の境で五合橋線と交差(新庄下橋)、昆陽(こや)川と尾浜町で合流。南下してJR神戸線(東海道本線)と交差し、工業地帯の間を通り、西長洲町で玉江橋線(長洲橋)をくぐり同道路の東側に出る。左岸に尼崎総合文化センターを見ながら国道2号(玉江橋)をくぐり、さらに阪神尼崎駅の東側で阪神本線・阪神なんば線の線路をくぐる。国道43号・阪神高速道路3号神戸線と交差して、この南側で東西へ向きを変え、西へ分かれた流れ(旧左門殿川)は工場地域の運河となり河口部で尼崎閘門に達し東浜排水機場(ポンプ)により尼崎港(大阪湾)へ注ぐ。東へ分かれた流れは松島排水機場・庄下川水門によって大阪市との境目を流れる、神崎川の分流である左門殿川(さもんどがわ)に合流する。同排水機場は大阪高潮対策事業の一環として建設、1971年に完成した。_NEWLINE_大正から昭和初期には尼崎閘門の完成で流れが淀み、また流域の工場排水などにより水質が悪化したが、昭和末期から平成にかけての整備工事により鯉が住めるほどには水質が改善。2000年には建設省の「甦る水100選」の一つに選ばれた。 _START_SECTION_ 支流 _START_PARAGRAPH_ 尾浜町の尼崎インターチェンジ南側で東から昆陽川が合流する。昆陽川をさかのぼると上流部ではさらに上坂部川、伊丹川、昆陽川捷水路に枝分かれする。昆陽川捷水路は、猪名川の分流である藻川から水を取り入れており、途中で伊丹川と交差している。_NEWLINE_南塚口町八丁目の合流地点から北に3つに分かれる。東側から富松(とまつ)川、北からは東富松川、西からは西富松排水路(西富松川)の3川となっている。なお、東富松川は尼崎・伊丹市境までの区間を庄下川に含むこともある。富松川と東富松川は一級河川に含まれるが、西富松排水路は普通河川の扱いとなっている。_NEWLINE_東富松川を上流へたどると途中で富松川と交差し、南塚口町の3川合流地点から東側に分かれていた富松川が東富松川の西側に移る。東富松川はさらに上流をたどるといくつかの川が枝分かれするがそのうちの一つが伊丹市の昆陽池に達する。_NEWLINE_西富松排水路は、尼崎市立尼崎高等学校の敷地を通り、武庫之荘五丁目で尼宝線と交差、西武庫団地の東側付近からは水路が複数に分かれる。最終的には市内最北端の宮ノ北団地の西側にある六樋に達する。_NEWLINE__NEWLINE_この六樋は武庫川の水を農業用水にするため設けられた取水口であり、それまであった野間井、生島井、武庫井、水堂井、守部井、大島井の6つの取水口を1924年の武庫川改修に際し統合したものである。このため、庄下川には武庫川の水も流れていることになる。 _START_SECTION_ 文化 _START_PARAGRAPH_ 市中心部では、船で庄下川を下る祭り「船だんじり」が行われている。明治時代から昭和初期に行われていたが、平成に入り復活させた。
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Q11486080
_START_ARTICLE_ 府内戦紙 _START_PARAGRAPH_ 府内戦紙(ふないぱっちん)は、大分県大分市の祭り。山車と踊り隊が大分市の中心街を練り歩く。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 毎年8月第1週の金曜日から日曜日までの3日間にわたって開催される大分七夕まつりのメイン・イベントで、七夕まつり初日の金曜日の夜に、20基以上の山車と踊り隊が、歩行者天国とされた中央通りをはじめとする大分市の中心街を練り歩く。_NEWLINE_山車は、武者や竜などの勇壮な姿を、骨組みに和紙を貼って立体的にかたどったもので、内部から電飾で照らされる。 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 大分市の祭りには目玉になるような大きなイベントがなかったことから、新しい祭りを起こそうと考えた大分商工会議所青年部が、1985年(昭和60年)に、電飾を施した山車を作って大分七夕まつりの市民みこしに参加したのがきっかけである。_NEWLINE_当時の大分市長の佐藤益美が、ぱっちん(めんこの大分方言)の絵柄に似ていると評したことから、大分市中心部の江戸時代までの呼び名である「府内」を冠して「府内ぱっちん」と名付けられ、「府内戦紙」の字が当てられるようになった。_NEWLINE_1988年(昭和63年)には、初めて大分商工会議所青年部以外が加わって参加団体が3団体となり、翌1989年(平成元年)には、参加が12基に急増して市民みこしから独立し、今日の府内戦紙の原型ができあがった。_NEWLINE_近年では観客が25万人に達し、20団体以上が参加する大分市を代表する祭りに成長している。 _START_SECTION_ テレビ中継 _START_PARAGRAPH_ 毎年この祭の模様を地元のケーブルテレビ局:大分ケーブルテレコムの制作で、全国の主要ケーブルテレビ局に衛星生中継として配信されているほか、同社のホームページからでもインターネット同時ライブ中継を行っている。
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Q11486368
_START_ARTICLE_ 廣栄武道具 _START_SECTION_ 会社概要 _START_PARAGRAPH_ 剣道やなぎなた用の防具を中心に剣道衣・袴・竹刀の他に、空手衣を中心とした空手用品・柔道衣などを製造している。_NEWLINE_特に武道を正式科目に取り入れている各学校、全国の都道府県警察への同社の製品の採用率が高い。また他のスポーツ用品店での取り扱いも比較的高い割合を占める。_NEWLINE_同社の剣道具ブランドである「廣栄」は、一般向け剣道具最大手として熊本県に本社を置くオガタ武道具工業のブランド「武蔵号」やミツボシの同ブランドの剣道具などと共にその名を知られており、海外で剣道を愛好する人々からも高く評価されている。
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Q3543602
_START_ARTICLE_ 弘田三枝子 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 東京都世田谷区池尻出身。小学生時代の7歳から立川市などの進駐軍のキャンプでポップスやジャズなどを歌っていた。ハワイアンをやっていた兄からの助言と、童謡と英語を先生について習った。その当時、同じ立川で同じように歌っていた少女が伊東ゆかりであり、弘田は「あの子はどんな歌手になるのだろう」と幼心に思ったとのちに語っている。_NEWLINE_1961年に東芝音楽工業から、「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー。当時14歳。翌62年には各社競作で出された「ヴァケイション」(コニー・フランシスのカバー)が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山ミチ版は3万枚の小ヒットだった。村田久夫は「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出したのは弘田三枝子」と指摘している。_NEWLINE_1964年10月に日本コロムビアへ移籍。_NEWLINE_1965年7月には、日本人歌手として初めて、アメリカの「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出場。カーメン・マクレエ、クインシー・ジョーンズ、デューク・エリントン、ジョン・コルトレーンなど、当時のトップクラスのジャズミュージシャンが勢ぞろいした中、ビリー・テイラー・トリオをバックに歌い、3日目のトリという大役を務めた。なお、弘田はポップス歌手であり、ジャズ歌手ではない。一方1968年、自身初のリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開く。ジャズ、ポップスに続きR&Bという新たなジャンルをものにした。だが、66年ごろから音楽的スランプを迎える。 _START_SECTION_ カムバック:「人形の家」以降 _START_PARAGRAPH_ 彼女は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが、筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年、「人形の家」で第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。川口真も、それまでGSの編曲などをおこなっていたが、このヒットで有名作曲家の仲間入りを果たし、その後、尾崎紀世彦、金井克子、夏木マリ、布施明らにヒット曲、名曲を提供していった。また京都にてR&Bの2回目のコンサートを行う。_NEWLINE_1970年には、「ミコのカロリーBOOK」を出版。当時は、まだこのようなダイエット本が珍しく、150万部を超える大ベストセラーになる。ファッションやビューティーにも関心を持ち1970年度のベストドレッサー賞を受賞している。独特のヘアスタイル、衣装、メイクで当時のファッションリーダー的存在であった。更に同年、「できごと」で、東京国際歌謡音楽祭(後の世界歌謡祭)の歌唱賞を受賞した。尚、この「できごと」は「喜劇 開運旅行」(松竹、1971年)の1シーンで本人出演により歌われている。_NEWLINE_1973年には、ブルガリア音楽祭へ出場。1976年に、中野サンプラザでおよそ10年ぶりのリサイタル「Mieko in peason」を開いたことで話題になる。立ち見客が出るほどの反響ぶりで、この模様は後にLP盤で発売された。1977年1月25日、1975年頃から愛人関係にあったギター奏者・杉本喜代志の妻に右背側部に刺し傷を受け、7針縫う全治10日間のけがで入院。その後、アメリカ滞在中の1978年9月結婚(相手に妻と子供3人 事実婚)し愛娘を授かるが、すぐに離婚(別れる)。幼い愛娘を連れて1980年に帰国する。_NEWLINE_帰国後の私生活は実姉との同居生活が続いており、本業ではカムバック用のシングル盤「ミスターシャドー」が、古巣の東芝EMIから発売される。1983年にはキングレコードへ移籍し、2枚のシングル盤を発表するが、その後はディナーショーなどでの活動が中心となる。近年ではテレビ東京の懐メロ番組にも出演している。_NEWLINE_2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売、またジャマイカでSly & Robbieと初めてのレゲエを吹き込む。11月1日、22年ぶりの新曲「恋のクンビア21」をNY在住のDJ GOMIリミックスによりリリース。2007年には、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」に新アルバムとしてボックス入りしていた「MICO JAZZING」が、東南アジア13カ国で発売された。_NEWLINE_兄(物故)、姉、娘がいる。
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Q5404604
_START_ARTICLE_ 強迫性障害の原因 _START_PARAGRAPH_ 強迫性障害の原因(きょうはくせいしょうがいのげんいん)では、強迫性障害(obsessive-compulsive disorder、OCD)の症状の発現に関与する生物学的危険因子の同定に関して述べる。有力な仮説では神経解剖学、神経化学、神経免疫学、神経遺伝学及び神経行動学の分野での発見と共に眼窩前頭皮質、大脳基底核及び/または大脳辺縁系の関与が提唱されている。 _START_SECTION_ 神経化学 _START_PARAGRAPH_ 神経化学機能がOCDの症状を媒介する役割があることについては、普遍的な事実だと見られている。その中でも、近年の精神薬理学の研究では、セロトニン(5-HT)神経伝達物質系が特に重要な役割を担っていることが判明している。健常対照群との比較において、OCDの治療には選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)の長期投与が、ノルアドレナリン再取り込み阻害薬よりも効果的であることがわかっている。例としてRapoport et al. は、セロトニン再取り込みの阻害作用が比較的強い抗うつ薬として知られるクロミプラミンは、デシプラミンよりも、一部の反復行動を減少させるのに有効であることを示した。また、他の研究では、5-HT拮抗薬の投与はしばしばOCDの症状を悪化させることが示されている。_NEWLINE_これが真実の場合、ミルタザピン (5-HT2A受容体拮抗薬)と、この受容体に対しても拮抗作用を有する非定型抗精神病薬がSSRIの効果を弱めることが予期されるものの、これらの薬物の臨床試験では反対の結果が示された。ミルタザピンはそれ自体は効果的ではないが、パロキセチンの効果を早めることが示されており、一部研究では非定型抗精神病薬は難治性OCD患者のSSRIの効果を増強することが示されている(Bloch et al., 2006)。_NEWLINE_これらの発見は明確な原因を提供してはいないが、精神状態は薬理学的に解剖可能であるとの考えの土台を形成した。SSRIでの強迫観念と強迫行為の制御効果はOCDの根底に神経化学的病因があることを示唆している。_NEWLINE_ドーパミン作動系はドーパミン作用薬の働き、小児自己免疫性溶連菌関連性精神神経障害(PANDAS)が関係している可能性があるとの事実、そして様々なニューロイメージング研究によりOCDに関係している。OCDは抗精神病薬で治療する可能だが、精神刺激薬もまたOCD症状を軽減することにおいて一定の見込みがあることを示している 。これらは調整する必要があるが、両方ともドーパミン作動系に関係している。また、OCD患者は、ADHDの併存率も高率であり、これは精神刺激薬で治療されドーパミン作動系の一過性シグナルの増加と持続性シグナルの減少が原因の可能性がある。小児自己免疫性溶連菌関連性精神神経障害は、ドーパミンが神経伝達物質として大きな役割を担っている、大脳基底核にも影響を与えていると見られている。 _START_SECTION_ 神経免疫学 _START_PARAGRAPH_ ヘンリエッタ・レオナルドとスーザン・スウェドは彼らの論文「Paediatric autoimmune neuropsychiatric disorders associated with streptococcal infection (PANDAS)」で神経免疫学的危険因子ついてのエビデンスを提供した。研究者達はレンサ球菌に感染後に起こる場合のある自己免疫反応が、小児期のOCD発症の潜在的環境要因である可能性を示唆している。1980年代にOCDの子供達の大規模なコホートが前向きに評価されていた。レンサ球菌感染の後、子供のサブグループは「一晩中発症する(coming on overnight)」と特徴づけられるほどのOCD症状の悪化を示す。この研究から導かれる一次仮説では、場合によってはレンサ球菌感染症に対する抗体が、大脳基底核を攻撃し損傷させる自己免疫反応の結果としてOCDを発症する可能性があるというものである。_NEWLINE_強迫観念と強迫行為はトゥレット障害、パーキンソン病、てんかん、統合失調症、ハンチントン病、嗜眠性脳炎、シデナム舞踏病及び特定の脳領域の損傷を含む他の一部病状において非常に一般的であり、OCDと同様にこれらの症状でも大脳基底核に異常を示している。大脳基底核では認知、感情、動作の仲介を担っており、本領域の混乱は強迫(繰り返し放出される行動パターン)と衝動(様々な刺激により突然放出される行動パターン)を特徴とする多くの症状を引き起こす。これはOCD患者の症状は大脳基底核の異常な機能の結果である可能性を示唆している。 _START_SECTION_ OCDの遺伝的要因を示唆する研究 _START_PARAGRAPH_ 双生児研究と親族研究では強迫性障害の根底に明確な遺伝的要因が存在することを示している。親族研究の大半は、少なくともOCDの一部タイプは家族性であることを証明している。罹患した個人の親族間におけるOCDの割合はOCDの推定人口罹患率及び対称群間の割合よりも有意に高い。成人のOCD患者の親族は対称群より罹患する可能性が約2倍高く、小児期や思春期のOCD患者の親族は同様にOCDに罹患する可能性が約10倍高かった。しかしながら、その家族性関連は文化や環境要因によっても引き起こされる可能性もある。2007年現在、OCDの背後にある環境要因を調査している研究は僅かしかないが、環境リスク要因の遡及的研究において研究者達は妊娠中の遷延分娩と浮腫はOCDとの相関があることを発見しており、環境は症状の発現を決定する上で何らかの役割を果たすと示唆している。_NEWLINE_結果として、OCDの症状が遺伝性であり、したがって遺伝的に関連していることを示すために双生児研究が行われた。一卵性双生児は基本的に遺伝子が100%同じであるの対して、二卵性双生児は遺伝子の平均50%を共有している。古典的な双生児研究は一卵性と二卵性双生児を比較するものであり、一卵性双生児が二卵性よりもはるかに密接に似ている場合、関心の形質の発達に遺伝学が強い役割を担っている可能性がある。これらの研究で強迫性障害における遺伝的影響は小児で45〜65%であると示された。成人では遺伝の影響は減少し27〜47%の範囲である。しかしながら、研究結果はサンプルにおけるOCDを持つ個人の存在がしばしば不足するという事実によって複雑化しており、結果として研究者達はしばしば強迫症状または無症状OCDを有する個人を対象に含めている。そうすることで彼らは恐らく他の関連障害に罹患している被験者を含めていた。初期の双生児研究はDSM基準と発端者の確認を満たしたOCDの双子を用いて後に再現されたが、実施されたのはほんの数例である。 _START_SECTION_ 早期発症型OCD _START_PARAGRAPH_ 小児期や思春期に発現する早期発症型OCDは、成人発症型OCDとは病因的に異なるOCDのサブタイプ(亜型)である。早発型OCDの患者は、トゥレット障害や他のチック症の発症率が高いことが研究でわかっていることから、この早発型OCDはチック症やトゥレット障害と遺伝的に関連していると報告されている。家族性関連研究では早期発症型OCDは家族性及び恐らく遺伝的リスクの増加と相関があると示唆されている。小児期や思春期にOCDを発症した発端者の親族間でのOCD・無症状OCDの割合は、成人期にOCDを発症した発端者の親族間の少なくとも2倍であった。他の研究でも、発端者の発症年齢と近親者のOCDリスクとの間には逆相関があることが示されている。結果的に2種類のOCDには異なる遺伝メカニズムが存在する可能性があるため、候補遺伝子の検査時には発症年齢を管理する必要が出てくる可能性がある。 _START_SECTION_ 候補遺伝子SLC1A1 _START_PARAGRAPH_ 多数の遺伝子がOCDの進行に重要である可能性がある。これらの候補遺伝子の一部は同定されているが、グルタミン酸トランスポーターのEAAC1をコードする、グルタミン酸トランスポーター遺伝子SLC1A1(溶質キャリアファミリー1、メンバー1)に関連するものを除いて、候補遺伝子研究のどれも一貫して再現されていない。候補遺伝子の同定の難しさは、大半の遺伝子研究が環境要因を無視しているという事実に関連している可能性がある。結果的に、さらなる遺伝子研究を行うためには、OCDの特定のサブタイプの遺伝子と環境要因間の相互作用モデルを開発する必要がある可能性がある。OCDの3つのゲノムワイド関連解析も完了しており、SLC1A1を内包する領域9p24を含む潜在的な関心領域が示唆されている。SLC1A1は皮質、線条体、視床(皮質-線条体-視床皮質回路、CSTC)内で発現しグルタミン酸神経伝達と関連している。ニューロイメージング、候補遺伝子及び動物モデル研究によりSLC1A1とグルタミン酸シグナリングを、OCDの発生に関連付けるエビデンスが提供されている。ニューロイメージング研究では早期発症型のOCD患者は、対称群と比較して尾状グルタミン酸濃度は前帯状皮質で低く尾状で高いことがわかっており、グルタミン酸トランスポーター(同様にグルタミン酸トランスポーター遺伝子SLC1A1)が、OCDの発症に関連していることを示唆している。_NEWLINE_遺伝子SLC1A1内の一塩基多型 (SNPs)は一貫してOCDに関連することがわかっている。グルタミン酸トランスポーターに加えて、SLC1A1によってコード化されたトランスポーターEAAC1もまたOCDに対する感受性を促進し得るGABAの合成に関係している。初期の研究ではOCDとSLC1A1遺伝子の3つの連鎖遺伝子多型に有意な関連があることを示した。この結果は多くの研究で再現されている。ある研究では漢民族集団の早期発症型OCD患者のSLC1A1遺伝子内の4つのSNPsをテストし、SNPsのうちの1つであるrs10491734が、対称群よりもOCD患者において有意に頻度が高いことが判明した。異なる研究で同定された正確なSNPsは異なっているものの、これは異なる民族集団で行われたことが原因の可能性もある。例えば、家族ベースの関連研究ではアメリカ合衆国の家族におけるSLC1A1内及びその周辺のSNPsの事例を分析し、異なるSNPのrs4740788と3-SNPハプロタイプrs4740788-rs10491734-rs10491733は、両方ともOCDに関連するものであることがわかった。_NEWLINE_強迫性障害の研究用にいくつかのマウスのモデルが開発されている。モデル生物はある種(この場合、ヒト)の一部の精神障害の特徴を他の種(この場合、マウス)で調査できるようにするために有用である。特に、SLC1A1ヌルマウスは攻撃性の増大と毛皮の喪失につながる過度の自己グルーミング(毛づくろい)を示すことで強迫行動を示した。しかしながら、これらはOCDと大まかに関連する2つの行動に過ぎないため、EAAC1の欠如とOCDのような行動間の関係性の強い証拠を提供するものではなかった。SLC1A1遺伝子とOCD間の強い相関を考慮するとEAAC1の欠如は、視床の皮質-線条体-視床皮質回路(CSTC)の関連遺伝子の他の稀な突然変異と組み合わさった時に、OCDのような行動をもたらすだけであることを示唆している。 _START_SECTION_ 神経行動学 _START_PARAGRAPH_ 精神医学研究では一般的に病気の原因として近因メカニズムに重点を置いている。対照的に、進化理論は遠因メカニズムがどのように病因と関係しているかについて疑問を投げかけてきた。OCDは進化史を通じて保存されてきた可能性があるいくつかの行動スキーマを含んでおり、危険性の確認や汚染の回避、食糧の貯蔵に役立つ認知パターンを多くの種が受け継いでいる。理論家達はこれらの戦略のいずれかが機能不全になることでOCDの発症につながり得るとの仮説を立てた。この推論はそのような受け継がれる種族特有の戦略は大脳基底核に保存されているとのエビデンスにより更に支持されている。_NEWLINE_ヒト以外の種族における強迫性障害の発症を検討する際に研究者達は、大型犬における肢端舐性皮膚炎(舐性皮膚炎としても知られる)を研究した。この症例は過度に舐めたり引っ掻いたりすることによる脱毛と、その後の肉芽腫性病変(創傷表面の血管組織)を特徴としている。Rapoport et al.は罹患犬のこの強迫行動がクロミプラミンの投与後に軽減したことが発見した。そのため進化的に選択された形質が不適応の進行性神経機能障害になり得ると考えられる。
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Q11488223
_START_ARTICLE_ 往来物 _START_SECTION_ 平安時代 _START_PARAGRAPH_ 平安時代後期より公家などの文筆に携わる人々が往復書簡(往来)の形式を採った文例集(消息集)に由来している(同じような形式のものは、中国伝来とされる『杜家立成雑書要略』が正倉院宝物中にあるが、当時の中国の書式を元により整理された形式となっており、往来物が中国のものの影響を受けながらも日本独自に発展していったことがわかる)。だが、後世に入ると武士や商人・農民など身分それぞれの必要に合わせた知識や慣習を盛り込んだものや習字用の「字尽し」など書簡形式をとらないもの、地理や歴史、道徳的な要素を盛り込んだものなど、多彩な形式の往来物が著された。江戸時代には寺子屋などの教材として様々な往来物が執筆され、特に寺子屋の教師の中に自前の往来物を著す者が多かったことからその総数を把握することは不可能に近いが、現存するものは約7,000種と言われている。_NEWLINE_現存する最古のものは、文章博士や大学頭を務めた平安時代末期の学者・藤原明衡のものとされる『明衡往来』(『雲州往来』・『雲州消息』とも)と言われており、月ごとにその月にまつわる行事などの文例をまとめた12か月分によって構成されている。これとほぼ同時代の作品と言われているものに『高山寺本古往来』・『季綱往来』・『東山往来』・『和泉往来』などがある。 _START_SECTION_ 江戸時代以降 _START_PARAGRAPH_ 江戸時代に入ると、『庭訓往来』のような既成の往来物に加えて新たな往来物が目的に応じて著されるようになった。農村向けのものとしては農事暦の要素を織り込んだ『田舎往来』・『農業往来』・『百姓往来』などが、都市の商人向けのものとしては『商売往来』・『問屋往来』・『呉服往来』・『万祥廻船往来』などが代表的な往来物としてあげられる。『富士野往来』に始まる歴史物語を織り込んだものは「武家往来」とも呼ばれ、十返舎一九が伝記型の往来物を確立し、更に史詩型の往来物へと発展した。また、子供達の関心を呼ぶために他地域の地理や風物・物産などを織り込んだ往来物も作られ、『日本国尽』・『都名所往来』・『浪花往来』・『中仙道往来』、そして明治維新期には『世界風俗往来』まで作成されるに至った。_NEWLINE_日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったものとして、日本の教育史上高く評価されている。
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Q11489001
_START_ARTICLE_ 御座候 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 社名・品名はお買い上げ賜り、ありがたく御座候という感謝の意に由来する。_NEWLINE_現在では全国にチェーン展開し、北は北海道から西は広島・徳島まで広く親しまれている。また、一部地域では今川焼きそのものの代名詞として御座候と呼ぶ事もある。_NEWLINE_地元姫路以外で「御座候」と言えば主力の今川焼きを指すが、姫路市をはじめごく一部の店舗では、もう1つの人気商品「ジャンボ焼餃子」が販売されている。ジャンボ焼餃子は姫路駅地下街、山陽百貨店地下街で買うことができる(全国販売はされていない)。また、ジャンボ焼餃子販売店では格安のラーメンを食すこともできる。_NEWLINE_本社および工場はJR姫路駅南東にあり、直営の工場ショップでは今川焼きをその場で作ってもらい購入しショップ内カフェテリアで食べることができる。また上記のラーメン、餃子等を食べられるコーナーもある。一日2回、無料の工場見学も開催している。2009年(平成21年)6月20日にはこの隣接地に「あずきミュージアム」をオープンさせた。_NEWLINE_あずきミュージアムのキャラクター「あずきさん」がミュージアムキャラクターアワード2012において2674票を獲得し1位に選ばれた。_NEWLINE_今川焼きの餡に使用しているアズキの品種「エリモショウズ」が、落葉病というアズキの病気に抵抗性がないため作付けが年々減少し、耐病性品種から代用品種を模索するも、味や生産の面で問題があり、適したものが見つからなかったために、将来に危機感を覚え、2005年(平成17年)自社で育種を開始し、12年の時を経て2017年(平成29年)に耐病性を備え色と味が当社商品の餡に適した新品種「紫さやか」を作出した(片親はエリモショウズであり、収量も同品種並み)。これは普通小豆(大粒の大納言小豆と対比した中・小粒系統)としては民間初の新品種であり、2019年5月(令和元年5月)現在出願中である(第33087号2018(平成30)年4月出願 同年9月9日公表 同社と株式会社バイオテックとの共同出願)。
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Q11489112
_START_ARTICLE_ 御旅屋セリオ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 御旅屋第一街区第1種市街地再開発事業として地元地権者らが設立した「御旅屋第一街区市街地再開発組合」が施工者となって建設された中心市街地にある地下1階、地上9階の再開発ビルである。都市再開発法第110条による全員同意型で地権者の権利変換が行われている。 _START_SECTION_ 高岡市や地元企業による支援 _START_PARAGRAPH_ 2007年(平成19年)には高岡市がオタヤ開発の立体駐車場を約2.5億円で取得して、2004年(平成16年)から高岡市が行っている低利融資約8億円を約5.5億円に減らし、高岡市20%、大和20%、北陸銀行、高岡商工会議所などの出資で設立された建物の運営を行う第三セクター「オタヤ開発株式会社」の株式の一部8.67%分の株式を高岡市の仲介で2007年(平成19年)11月24日に三協立山アルミ、トナミ運輸、伏木海陸運送、北陸コカ・コーラボトリング、塩谷建設などの地元有力企業が取得して地元財界を挙げての支援体制がとられたのを皮切りに様々な改善策・支援策が採られている。_NEWLINE_大和高岡店の規模縮小に伴い、以前から入居していた富山県旅券センター高岡支所や高岡市国際交流センターに加えて2011年(平成23年)2月25日に高岡市が高岡子育て支援センターを8階に移転させたほか、同年3月11日には6階に北日本新聞カルチャーパーク高岡や北陸銀行のポイント制度の会員を対象とした顧客サロンなどの地元有力企業北陸電力、三協立山アルミ、高岡ケーブルネットワーク、FKKエアーサービスの施設が開設されたり、高岡ステーションビルから高岡市観光協会が移転するなど地元政財界を上げて集客力の維持が図られた。_NEWLINE_こうした改装の結果、若い女性客が増えて婦人衣料や子供服の売上が好調となり、大和高岡店も全体の売上高こそ前年同期を下回ったものの営業を継続した売場ベースでは前年超えとなるなど効果が出ている。_NEWLINE_また同年に隣接する半地下式の公園「御旅屋メルヘン広場」の中心部にある噴水や植栽を撤去してイベントに使いやすくする改修工事が行われ、大和や地元商店街などで作る実行委員会を組織してイベントを行えるようにして商店街の賑わい復活を目指す施策が採られ、大和が隣接する旧店舗跡地に整備していた広場「万葉の杜(もり)ドラえもんの散歩道」を顧客の要望の多い駐車場に改修するなどの対応も行われた。_NEWLINE_(同広場にあったのび太やジャイアン、スネ夫などの12体モニュメント像は8月に高岡駅前にあるウイング・ウイング高岡前広場に移設された。)_NEWLINE_2012年(平成24年)3月から閉店時間を1時間早めて午後6時とするなど更なる合理化も進められている。 _START_SECTION_ 大和の撤退 _START_PARAGRAPH_ 2019年(平成31年)4月11日、キーテナントの大和が同年(令和元年)8月25日を以って閉店することが発表された。_NEWLINE_大和の閉店後は、2019年6月時点では、1階に大和以外の既存12店舗を集約し、地下1階に大和とテナント契約をしている食品専門店の営業継続および新規の食料品店を誘致、空きフロアとなる2~5階は高岡市が新たな公共スペースを設置することが検討されていた。しかし入居する大和のサテライトショップを含めると1階に全店舗を集約出来なくなるため、同年7月に1~2階に集約する方針に変更された。_NEWLINE_大和の撤退後は、早くても10月にリニューアルオープンする予定。この間大和以外の既存店舗は、改装工事期間中も工事に支障を来なさい範囲で認める方針である。なお、リニューアルオープン時に1階に新たに大和のサテライトショップが入店し、7、8階に入っている高岡市関連の施設(オタヤ市民サービスコーナー、高岡子育て支援センターなど)は引き続き現在と同じ場所で運営を続ける一方、7階のレストランとそば店は大和の撤退と同時に閉店となる。
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Q22127858
_START_ARTICLE_ 復興フラッグ _START_PARAGRAPH_ 復興フラッグ(ふっこうフラッグ)は、福島県新地町の海沿いの釣師地区(平成27年8月25日から復興工事のため新地町役場に移設中)に掲示されている旗。(地図) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 平成23年3月11日に発生した東日本大震災において大きな被害を受けた新地町の沿岸部で捜索活動を行っていた自衛隊隊員が、瓦礫の中から4つに折りたたまれた小学校の名前の入った日の丸の旗を見つけ、アルミサッシフレームの瓦礫を旗竿として、変わり果てた新地の街に掲げたのが始まり。(初代)_NEWLINE_その後、同じ仲間の隊員がもっと大きい旗をと、隊にあった日の丸の旗に言葉を添えて掲げた。(2代目)_NEWLINE__NEWLINE_平成25年末、風雨により劣化した旗を見かねた地元ライダーを中心としたメンバーが、福島県あったかふくしま観光交流大使のおくさんデザインにより新しい旗を作成、平成26年1月1日より「復興フラッグ」として掲げた。(3代目)_NEWLINE__NEWLINE_平成26年中に復興工事のため、交差点北東角から道路向かい側の交差点南西角に移設。また、海風による劣化のため同デザイン(4代目)の旗に替わっている。_NEWLINE_回収した復興フラッグ(3代目)は、九州のバイク乗りの手によりツーリングイベント的に九州各地に掲示されていた。_NEWLINE__NEWLINE_平成27年1月1日、同デザインで一回り大きいサイズ(5代目)の旗に替わった。_NEWLINE_また、新しいプロジェクトとして、_NEWLINE_①有志が復興フラッグを持って、全国各地のライダー仲間のもとを訪問する。_NEWLINE_②全国のライダー仲間に復興フラッグを送り、各地でツーリングしてもらう。_NEWLINE_が行われている。_NEWLINE_平成27年8月25日からは、復興工事の支障となるため沿岸部の公園が完成するまでの期間、新地町役場の駐車場に仮に移設されている。_NEWLINE__NEWLINE_※3代目以降の復興フラッグについては、劣化により不定期に交換されている。
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Q428414
_START_ARTICLE_ 循環定義 _START_PARAGRAPH_ 循環定義(じゅんかんていぎ、英: circular definition)は、ある概念を定義するためにその概念自体を用いることである。この場合、定義文のみの知識では定義した概念の本質的な理解が出来ないため、定義は成立しない。 _START_SECTION_ 概説 _START_PARAGRAPH_ 端的に言えば、ある概念の定義文に、その概念自体の名称を用いた場合が循環定義である。例えば、"カシ"の定義文として、「どんぐりをつける木」としたとき、どんぐりの定義文を「カシの作る種実類」とする。定義文を相互に代入するとカシの定義文が「カシの作る種実類をつける木」、どんぐりの定義文が「どんぐりをつける木の作る種実類」となり循環定義となる。このように、定義が循環すると定義文のみの知識では概念の相対的な位置付けは理解できるが、定義する概念自体の絶対的な理解が出来ないため、定義は成立しない。_NEWLINE_循環の輪が大きい場合には、循環定義を発見することが難しくなるが、循環に関係する概念の数が多くなるため実際の理解においては既知の概念を経由する可能性が大きくなり問題とならない場合も多い。そもそも、語彙が有限であり、全ての語彙を定義するためには既に定義されている語彙を用いるか、一切定義されていない語彙を用いる必要が有るため、循環定義を完全に無くすことは不可能である(ミュンヒハウゼンのトリレンマ)。
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Q6998419
_START_ARTICLE_ 徳川宗敬 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 1897年(明治30年)5月31日、水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男として東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)の水戸徳川家別邸で生まれる。初名は敬信。最後の将軍・徳川慶喜は宗敬の大叔父に当たる。_NEWLINE_1910年(明治43年)、東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)卒業。1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1916年(大正5年)に一橋徳川家第11代当主・達道(さとみち)の養子となり、名を宗敬と改める。_NEWLINE_1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科卒業。宮内省帝室林野局の官吏となり、1926年(大正15年)にドイツ・ベルリン留学。1928年(昭和3年)に帰国し、1934年(昭和9年)に家督相続し伯爵を襲爵した。1939年(昭和14年)7月10日には伯子男爵議員互選選挙で貴族院議員に当選する(当選1回)。_NEWLINE_1941年(昭和16年)、東京帝国大学に学位論文「江戸時代に於ける造林技術の史的研究」を提出、農学博士(東京帝国大学)の学位を取得。_NEWLINE_1946年(昭和21年)6月19日、酒井忠正の議員辞職を受けて第15代貴族院副議長に就任。日本国憲法施行により貴族院は廃止されたため、最後の貴族院副議長となった(なお、最後の貴族院議長は徳川宗家の徳川家正)。同年、日本博物館協会第3代会長に就任。_NEWLINE_1947年(昭和22年)、第1回参院選全国区に無所属で立候補し上位当選。保守系の院内会派・緑風会に所属し、緑風会議員総会議長となった。1951年(昭和26年)、緑風会議員総会議長としてサンフランシスコ平和条約の全権委員に就任し、同条約の調印に参与。同年、参議院皇室経済法特別重点会委員長などを務めるなど、主に農林水産関係、図書館、議院運営に尽くした。1953年(昭和28年)の第3回参院選にも立候補したが、当選圏の約15万票に届かず落選した。1956年(昭和31年)の第4回参院選と1959年(昭和34年)の第5回参院選には茨城地方区から立候補しているが、いずれも次点で落選している。_NEWLINE_1966年(昭和41年)7月、神宮大宮司及び神社本庁顧問に就任し、第60回式年遷宮に向けて尽力した。1976年(昭和51年)に神宮大宮司を退任した後は神社本庁統理を務めるなど、神社界にも貢献している。他にも日本文化放送協会会長、全国視聴覚教育連盟会長、日本風景協会会長、全日本美術工芸作家協会会長、東京都港区芝海岸通国土総合開発促進協議会会長などを歴任した。_NEWLINE_1967年(昭和42年)に勲二等旭日重光章を、1981年(昭和56年)4月に勲一等瑞宝章を受章。_NEWLINE_1989年(平成元年)5月1日午前8時39分、膵臓癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。91歳没。従三位に叙せられた。
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Q6992886
_START_ARTICLE_ 徳川虎千代 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 文化3年(1806年)2月11日、徳川家斉の九男として生まれる。生母は曽根氏。_NEWLINE_文化5年(1808年)に家斉の正室広大院の養いとなり、翌年(1809年)12月11日、紀州藩主徳川治寶の長女である鍇姫と婚約し、治寶の婿養子となったが、文化7年(1810年)10月2日、死去、享年5(満4歳没)。_NEWLINE_その後、異母兄の清水斉順が治寶の養子となり、紀州徳川家を継いだ。また、婚約した鍇姫は仙台藩主の伊達斉宗の正室となる。
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Q11491282
_START_ARTICLE_ 応用生物学部 _START_PARAGRAPH_ 応用生物学部(おうようせいぶつがくぶ)は、応用生物学(生体工学)を教育研究するために大学におかれる学部の1つである。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 応用生物学とは、「生物学」と「工学」とを融合させた学際領域である。_NEWLINE_応用生物学部は、生物の生体や機能、特性に学び、それらを社会生活に役立てる研究を行う学部である。_NEWLINE_取り扱う分野としては、ロボット等の機械、電気電子機器から、医療、薬品、食品、化粧品、資源、自然、環境などに渡り幅広い。
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Q11492260
_START_ARTICLE_ 恩来教育基金 _START_PARAGRAPH_ 恩来教育基金(おんらいきょういくききん、英訳名:Onrai Education Foundation)は、サーチナ創業者端木正和が2011年6月に設立した一般財団法人である。
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Q11492275
_START_ARTICLE_ 恩田琴江 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 金城学院大学現代文化学部卒業後、2008年4月に北陸朝日放送入社。_NEWLINE_北陸朝日放送の地上デジタル放送推進大使(橋本和芳の後任)を務めており、2009年度における石川県での地上デジタル放送推進CMでは、石川県内の地上デジタル放送推進大使(片山千恵子、白崎あゆみ、安田真理、細木美知代)と出演した。趣味はテニス。4人兄弟の末っ子で、三女。
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Q11492280
_START_ARTICLE_ 恩田運動公園 _START_SECTION_ 宇部市野球場 _START_PARAGRAPH_ 1941年(昭和16年)に宇部市営恩田野球場(うべしえい おんだやきゅうじょう)として開場。1998年(平成10年)のリニューアルオープンの際に条例上の名称を改称し、通称名を宇部市野球場(うべし やきゅうじょう)とした。また2011年(平成23年)春には宇部市に本社を置き、物流機器レンタルなどを手掛けるユーピーアールが施設命名権(ネーミングライツ)を取得し、同年4月1日付で愛称「ユーピーアールスタジアム」が付与された。
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Q11492558
_START_ARTICLE_ 悪夢のエレベーター _START_PARAGRAPH_ 『悪夢のエレベーター』(あくむのエレベーター)は、幻冬舎から出版された木下半太の小説。または、これを原作としたテレビドラマ、舞台、映画、漫画。 _START_SECTION_ テレビドラマ _START_PARAGRAPH_ フジテレビで2007年3月27日に放送された。演出は後に映画『ハンサム★スーツ』で映画監督デビューする英勉(はなぶさ つとむ)。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ エレベーターに閉じこめられた4人の物語である。妻の出産立会いに急ぐ男、刑務所から出所してすぐの元空き巣のヤクザ、他人の過去が見える超能力者、自殺を考える女子高生。 _START_SECTION_ 舞台 _START_PARAGRAPH_ 2008年9月12-21日(東京シアタートラム)、9月25-28日(大阪シアター・ドラマシティ)開催。 _START_SECTION_ ストーリー (映画) _START_PARAGRAPH_ 「消化試合ではない人生を送っている人間はどれだけいるだろう」。_NEWLINE_マンションのエレベーターに乗っていた小川順は気を失う。気が付くと一緒に乗り合わせたのは凶暴そうな安井、ゴスロリ 少女、マンションの住人で、ジョギングに出かけようとしていた牧原。小川は妻・麻奈美の出産の立ち会いに向かう途中だった。非常ボタンは壊れているし、携帯電話も電池切れで助けを呼ぶ手段がない。少女も携帯を捨ててきたといい、責めるとナイフをかざす。小川はどうしてこのマンションにいたかと訊かれる。安井は住民でないことがバレ、富永と偽名を使う。少女はマンションが一番高いから飛び降りるためと告白。超能力者で他人の体に触れると心が読める牧原は少女の心に火に包まれた家が見えるという。引きこもりでカウンセリングのボランティアが来るようになるが、姉が目当てだと分かり、青少年なんとかセンターに放火したという。安井に触ると、刑務所帰りの空き巣狙いでマンションを訪れたことがバレる。小川は5階の愛人の陽子の部屋にいたことが分かる。このまま餓死したらと少女がいうので小川はICレコーダーに遺書を録音することになる。しかし、何かがおかしいと小川は思う。_NEWLINE_2週間前、麻奈美が探偵の安井に夫の本心を聴きたいと依頼。『そして誰もいなくなった』などサスペンス好きのアルバイトの少女・愛敬香とオカマの牧原が「ストックホルム症候群」が効きそうな密室で実行。麻奈美からの電話は少女が担当する。ところが、眠らせたはずの小川が死んでしまう。死体を処理しようとして管理人室に行くと、偽だというエレベーターのモニターが動いていて殴り殺す。今度は愛人が屋上から飛び降りようとするので説得にあたるが…。
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Q11493129
_START_ARTICLE_ 愛してない _START_SECTION_ 解説 _START_PARAGRAPH_ 完全限定生産盤には「愛してない」のPVとオフショットを収録したDVD付。通常盤の初回限定盤には封入特典として携帯用デコレーションステッカー封入(全3種類中1枚ランダム封入)、オリジナル携帯待ち受け画面プレゼント(全4種類中1種選択)。_NEWLINE_レコーディングにはギターにAKIHIDE(from BREAKERZ)、ベースにSHUSE(ex.La'cryma Christi)、ドラムスに菅沼孝三が参加。AKIHIDEは前2作のPVには出演しているが、レコーディングに参加するのは3作目にして初である。PVは今回初めてyasu一人だけでの撮影となる。箱根でPV撮影が行われ、夜間に雨に打たれながら歌うシーンを撮影するのはかなり寒かったようだ。_NEWLINE_カップリング曲には《Recreation Track》として1979年に久保田早紀がリリースしたデビューシングル「異邦人」のカバーを収録している。編曲、コーラスにはkiyoが参加している。また、kiyoは全てのインストゥルメンタルパートを担当している。yasu本人は気に入っていたがスタッフ受けが良くなかったらしく、「まさかシングルになるとは思っていなかったのでうれしかった」とのこと。
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Q11493304
_START_ARTICLE_ 愛の園 (布施明の曲) _START_SECTION_ 解説 _START_PARAGRAPH_ 本曲は1968年4月20日に発売された。布施明の代表的なヒット曲の一曲である。布施はこの曲で1968年のNHK紅白歌合戦に2度目の出場を果たした。_NEWLINE_作曲の平尾昌晃は、布施の代表曲である『霧の摩周湖』のヒットを機に、作曲家として本格的に活動することを決意して結核の完全治療を行うために肋骨6本を切除する大手術を受けて長期入院中であり、本曲はその入院中に制作したことを後年語っている。
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Q4058871
_START_ARTICLE_ 愛気 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 少年画報社発行の漫画雑誌『ヤングキング』にて連載を開始し、2004年20号から2006年20号まで連載された。この間は、月2回発行の掲載誌に対し隔号掲載という月一ペースでの発表となっている。2006年10月に新創刊された『月刊ヤングキング』に移籍。創刊号となる同年12月号から掲載され、2013年2月号(2012年12月発売)まで連載された。全99話。単行本は少年画報社のYKコミックスにて全14巻が刊行されている。_NEWLINE_第99話の「東欧編」完結をもって『愛気』としては一旦終了となるものの、新シリーズ開始に伴ってタイトルを『愛気-S』とリニューアル。翌2013年1月発売の『月刊ヤングキング』同年3月号にて連載を続行し、2013年8月(同年10月号)において同誌が『月刊ヤングキングアワーズGH』へリニューアルされたのを経て、2018年1月(同年3月号)まで連載。
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Q11494244
_START_ARTICLE_ 愛知県立明和高等学校 _START_SECTION_ 進学状況 _START_PARAGRAPH_ 進路としては、地元の名古屋大学に例年名古屋市内の高校で最多の合格者数を出すなどきわめて地元志向が強いが、関東圏・関西圏の大学へ進学するものもいる。_NEWLINE_2016年度の合格者数は、地元の名古屋大学が78名、(関東圏)東京大学が9名、慶應義塾大学が16名、早稲田大学が30名、(関西圏)京都大学が22名、大阪大学が12名であった(含浪人)。
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Q11495061
_START_ARTICLE_ 慎吾ママのおはロック _START_SECTION_ 解説 _START_PARAGRAPH_ 香取慎吾が、フジテレビ系バラエティ『サタ☆スマ』内で扮するキャラクター、慎吾ママ名義で発売したデビューシングルである。同番組の「慎吾ママのこっそり朝御飯」という企画内で登場したキャラクターであり、他局の朝の子供番組で当時MCを担当した有名な声優などが使用する朝の挨拶『おっはー』を随所で使用するなどして人気を得ていた。_NEWLINE_香取としては、1997年10月29日にサザンオールスターズのキーボーディスト、原由子とデュエットで発売した「みんないい子」以来、2年10ヵ月となるソロシングルである。_NEWLINE_楽曲製作に当たり、当時ピチカート・ファイヴに在籍していた小西康陽がプロデュース、作詞・作曲を担当した。歌い出しやサビでこの「おっはー」のフレーズを織り交ぜるポップスに仕上がっている。8月にシングルリリースされた際には、香取が慎吾ママに扮し、テレビ朝日の『ミュージックステーション』などの音楽番組に出演した。特定の放送局で演じられるキャラクターが、他局にキャラクターのまま出演する例はまれであり、番組内でもあくまでも香取慎吾とは別人であるという設定を押し通した。_NEWLINE_本作のヒットが象徴するように、大流行となったこの「おっはー」は2000年の新語・流行語大賞の年間大賞を受賞した。2000年にデビューした歌手の中では最大のヒット曲となった。 _START_SECTION_ チャート成績 _START_PARAGRAPH_ 本作はオリコンチャートの集計上不利となる、通例の水曜日より2日遅い金曜日発売となったが、発売週のオリコンシングルチャートで1位を記録した。SMAPメンバーのソロシングルが1位を記録したのは本作が初である。2016年現在でも、SMAPのソロメンバーでは香取と稲垣吾郎(&G名義)のみ記録している。最終的にはオリコン・日本レコード協会の集計で共にミリオンセラーを達成する大ヒットとなり、累計売上は130万枚以上である。 _START_SECTION_ ミュージック・ビデオ _START_PARAGRAPH_ 本作のミュージック・ビデオはエキストラの子供たちのほか、SMAPのメンバーを始め、番組の共演などでゆかりのある笑福亭鶴瓶、菅野美穂、萩本欽一、更には田中邦衛、ジェームス・ブラウンなど数々の著名人が出演した。このPVにはそれぞれオリジナルの「おっはー」が収録されており、CD音源とは別バージョンとなる。このPVはMVA00の BEST POPS VIDEO 賞を受賞した。
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Q11074097
_START_ARTICLE_ 慕容仁 _START_PARAGRAPH_ 慕容 仁(ぼよう じん、? - 336年)は、五胡十六国時代前燕の人物。字は元愷、小字は千年。父は慕容廆。母は段氏。初代君主慕容皝の同母弟に当たる。慕容廆の死後、後を継いだ慕容皝と対立するようになると平郭で自立し、遼東一帯の覇権を争った。 _START_SECTION_ 慕容廆の時代 _START_PARAGRAPH_ 慕容部の大人慕容廆と段氏(段部単于の娘)との間に生まれた。_NEWLINE_319年12月、父の慕容廆が遼東の覇権を争っていた西晋の平州刺史崔毖を撃破し、その勢力を散亡させた。慕容仁は父より征虜将軍に任じられ、遼東の鎮守を命じられた。慕容仁は官府や村落には手出しをせず、民衆の生活をこれまで通り保証した。_NEWLINE_当時、高句麗美川王は度々兵を派遣しては遼東を襲撃していた。慕容廆の命により、慕容仁は慕容翰と共にこれを迎え撃ったが、美川王が和睦を請うと攻撃を中止して軍を退却させた。_NEWLINE_320年12月、高句麗が遼東へ再び侵攻したが、慕容仁はこれを返り討ちにして大破した。これ以後、高句麗は慕容仁の領土を侵さなくなった。_NEWLINE_321年、慕容廆が遼東公に封じられると、慕容仁は平郭の鎮守を命じられた。_NEWLINE_325年1月、宇文部の大人宇文乞得亀が慕容部に襲来すると、慕容廆は慕容皝を迎撃軍の総大将に命じると共に、慕容仁を平郭から呼び寄せて柏林に赴かせると、軍の左翼に配置した。宇文乞得亀は兄の宇文悉跋堆に慕容仁軍を攻撃させたが、慕容仁はこれを迎撃して打ち破り、乱戦の最中に宇文悉跋堆を斬り殺し、その兵を尽く捕虜とした。さらに勝ちに乗じると、慕容皝と合流して宇文乞得亀の本隊に攻撃を仕掛けて大勝した。これにより宇文部軍は崩壊して宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容仁は慕容皝と共に宇文部の都城へ侵入した。同時に、軽騎兵を派遣して宇文乞得亀を追撃させ、三百里余り追い立てた所で引き返した。この戦勝により重宝を尽く獲得し、畜産は百万を数えた。また、帰順した人民は数万にも上った。 _START_SECTION_ 平郭で自立 _START_PARAGRAPH_ 333年5月、慕容廆が没すると、同母兄である慕容皝が後を継いだ。かねてより慕容仁は庶長兄の慕容翰や同母弟の慕容昭と共に父から寵愛を受けており、慕容皝はこの事を常々妬ましく思っていた。その為、兄弟の関係は決して良好なものではなく、慕容皝が後を継いだ事によってその問題が表面化する事となった。_NEWLINE_同年10月、慕容翰は慕容皝から禍を受ける事を恐れ、段部へ亡命してしまった。_NEWLINE_同月、慕容仁は自ら統治している平郭を出発し、父の葬儀に参列すべく本拠地の棘城へやって来た。この時、密かに慕容昭の下へ赴くと「我らはかねてより嗣君(慕容皝)に対して驕慢に振る舞い、多くの無礼をなしてしまった。嗣君は剛毅で厳重な性格であり、罪が無くとも人は恐れているというのに、罪がある我はどうすべきであろうか!」と尋ねた。これに慕容昭は「我らはみな正嫡(慕容廆の正室の子)であり、国土を分けてもらう権利があります。兄上(慕容仁)はかねてより士卒より慕われており、我は内(棘城)におりながら疑念を抱かれておりませんので、その隙を伺って彼を亡き者にするのは難しい事ではありません。兄上が外で挙兵し、我が内部よりこれに応じるのです。成功した暁には我に遼東を頂ければ幸いです。一介の男子が一たび事業を起こしたならば、失敗すれば死あるのみです。間違っても建威(慕容翰)のように、異国の地でひっそりと人生を送るような真似は出来ません」と答え、両者で結託して反乱を起こす事を勧めた。慕容仁はこれを聞くと「よし!」と述べて深く同意した。そして、その計画を内に秘めたまま、葬儀を終えると平郭に帰還した。_NEWLINE_11月、慕容仁は計画を実行に移すと、慕容皝に気取られないように密かに西へ向けて進軍を開始した。だが、棘城内にいるとある人物が慕容仁と慕容昭の謀略を漏れ聞いており、この事を慕容皝へ密告してしまった。慕容皝は当初これを信用しなかったが、念のため慕容仁の下へ使者を派遣してその動向を確認させた。この時、慕容仁は既に黄水まで軍を進めていたが、使者が到来すると計画が慕容皝に露呈した事を知って計画を中止すると、その使者を殺害して平郭に帰還した。慕容皝はこれを受け、すぐさま慕容昭に自害を命じると共に、慕容仁討伐の兵を挙げた。玄菟郡太守高詡に5千の兵を与え、庶弟の建武将軍慕容幼・慕容稚・広威将軍慕容軍・寧遠将軍慕容汗・司馬冬寿らと共に平郭へ侵攻させた。慕容仁は汶城の北において討伐軍を迎え撃つと、これに大勝して慕容幼・慕容稚・慕容軍らを尽く捕えた。冬寿はかつて慕容仁の司馬として仕えていたことがあったので、彼もまた降伏して慕容仁に帰順した。_NEWLINE_また、遼東の地ではかつて大司農であった孫機や襄平県令王永らが遼東城ごと慕容仁に呼応すると、東夷校尉封抽・護軍乙逸・遼東相韓矯らは城を放棄して逃走した。これにより慕容仁は遼東の殆どを領有するようになり、段部の大人段遼を始めとした鮮卑の諸部族はみな慕容仁に味方した。_NEWLINE_334年2月、慕容仁は司馬翟楷を領東夷校尉に任じ、かつての平州別駕龐鑒を領遼東相に任じ、遼東の統治を委ねた。_NEWLINE_4月、慕容仁は車騎将軍・平州刺史・遼東公を自称し、自らこそが慕容廆の跡継ぎである事を主張した。_NEWLINE_8月、東晋朝廷は慕容皝に鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公・持節を与える事を決め、謁者徐孟や侍御史王斉らを使者として派遣した。だが、徐孟らは馬石津を船で下っている所を慕容仁により捕縛され、慕容仁は1年余りに渡ってこれを抑留した。_NEWLINE_11月、慕容皝自ら遼東討伐の兵を挙げ、襄平まで進撃すると、遼東城の守将の一人である王岌は城を明け渡す事を条件に降伏を請うた。こうして慕容皝軍がさしたる抵抗を受けずに入城を果たし、翟楷・龐鑒は単騎で逃走し、居就・新昌などの諸々の県は全て降伏した。慕容仁は平郭の守りを固めた。_NEWLINE_12月、兵を派遣して慕容皝の領土である新昌を攻撃したが、督護王寓により返り討ちにあった。_NEWLINE_335年10月、慕容仁は王斉ら東晋の使者を建康へ帰らせようとしたが、彼らは元々の使命である慕容皝への詔命を告げるという目的を果たす為、慕容仁の下から離れると海路より棘城へ向かってしまった。 _START_SECTION_ 最期 _START_PARAGRAPH_ 12月、段部と宇文部が使者を派遣し、慕容仁の下を訪問した。会見の後、両使者は平郭の城外に宿泊したが、慕容皝の帳下督である張英は百騎余りを率いて間道より侵入してその宿を奇襲した。これにより宇文部の使者10人余りが殺され、段部の使者は捕らえられた。その後、張英は撤退した。_NEWLINE_336年1月、慕容皝は弟の軍師将軍慕容評らを率いて昌黎より氷上を渡って東へ進撃し、およそ三百里余りで歴林口まで到達した。ここで輜重を捨てると、軽兵のみで平郭を奇襲した。慕容皝が平郭城から七里の所まで到来すると、慕容仁の斥候がこれを報告し、慕容仁は驚いてこれを慌てて迎え撃った。だが、まさか慕容皝が自ら到来したとは思っておらず、また張英のような一軍が掠奪しようとしているのだと考えた。慕容仁はかつて張英が二国の使者を攻撃した際、これを捕えられなかったことを悔やんでいたので、側近へ向けて「此度は馬一匹すら無事には帰さぬぞ!」と言い放ち、城の西北に全軍を布陣させた。だが、広威将軍慕容軍が配下を率いて慕容皝に寝返ったので、慕容仁軍は大いに動揺してしまい、慕容皝はこの機を逃さず攻撃してこれを大破した。慕容仁は敗走を図ったが、配下の兵がみな反旗を翻し、遂に生け捕られた。慕容皝はまず慕容仁を裏切って捕らえた者を処刑すると、その後に慕容仁に自害を命じた。慕容仁の信任を受けていた丁衡や游毅・孫機らもみな処刑され、王冰は自殺し、慕容幼・慕容稚・冬寿・郭充・翟楷・龐鑒はみな東へ逃走した。冬寿・郭充は高句麗へ亡命したが、翟楷・龐鑒は追いつかれて殺害された。その他の官吏や民については、やむなく慕容仁に従っていたとして罪には問わなかった。こうして、慕容皝と慕容仁の抗争は終わりを告げた。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 勇猛さと知略を兼ね備えており、父の慕容廆から寵愛を受けていた。戦場に出ては幾度も功績を上げ、士卒からも深く信頼を得られていた。慕容廆の時代、庶兄の慕容翰は胡人・漢人問わず良く慰撫しており、威厳と慈愛を兼ね備えていると称えられていたが、慕容仁もまたこれに次ぐ評判を得ていたという。
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Q11074111
_START_ARTICLE_ 慕容翰 _START_PARAGRAPH_ 慕容 翰(ぼよう かん、? - 344年)は、五胡十六国時代前燕の人物。字は元邕。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)を本貫とする鮮卑慕容部の出身である。慕容廆の庶長子であり、異母弟に慕容皝・慕容仁・慕容昭・慕容評・慕容幼らがいる。波乱に富んだ一生を送り、その生涯において様々な勢力を渡り歩いた。前燕の将軍としては高句麗・宇文部征伐に功績を挙げ、前燕の遼東・遼西地方における支配権確立に大いに貢献した。 _START_SECTION_ 素喜連・木丸津の乱鎮圧 _START_PARAGRAPH_ 慕容廆の庶長子として生まれた。成長すると父の征伐に従軍するようになり、やがて鷹揚将軍に任じられた。_NEWLINE_309年、西晋の東夷校尉李臻が遼東郡太守龐本に殺害されるという事件が起こると、鮮卑族の素喜連・木丸津は李臻の報復を名目として挙兵し、連年に渡り遼東を侵略して暴行略奪の限りを尽くした。州郡は度々軍を派遣して討伐を試みたものの、いずれも敗れ去ってしまった。李臻の後任となった東夷校尉封釈はこの乱を鎮める為、龐本を処刑して講和を求めたが、素喜連らが侵略を止める事は無かった。_NEWLINE_311年12月、慕容翰は慕容廆の下へ進み出て「主君となった人間は、まず国家への忠誠を大義名分として掲げて民衆の心を掴み、遂には大業を成就したものです。素喜連と木丸津は龐本討伐を口先で叫んでいましたが、その実、動乱をこれ幸いと乗じているだけです。その証拠に封釈が龐本を誅殺して講和を求めたにもかかわらず、彼等は略奪を止めておりません。中原が乱れてから久しく、州の軍隊では兵力が足りておらず、遼東はこれだけ荒れきっているのに、救済する者がおりません。今こそ、単于(慕容廆)が彼らの悪行を数え上げてこれを討伐するべきです。そうすれば、晋へ対しては遼東復興を名目と説明できますし、実益としては素喜連・木丸津の兵力を吸収できます。 本朝(晋)には忠義を取り、私利は我らが元へ入る。これこそ王業の基礎となります」と献策を行った。_NEWLINE_これを聞いた慕容廆は笑って「まだ子供だと思っていたら、いつの間にかそんな知恵を身につけておったか」と感嘆し、その勧めに従って素喜連・木丸津討伐の兵を挙げた。慕容翰は討伐軍の前鋒となって出撃すると、敵軍を大破して素喜連・木丸津を討ち取った。そしてこの二将の兵力を吸収すると共に、三千家余りを慕容廆の傘下に入れた。 _START_SECTION_ 宇文部を撃退 _START_PARAGRAPH_ 313年4月、慕容廆は西晋の司空王浚の呼びかけにより、拓跋部と共同で段部攻略に乗り出すと、慕容翰にその重任を委ねた。慕容翰は棘城より出撃すると、軍を進めて徒河・新城を攻め落とした。さらに陽楽に進むと、西晋の遼西郡太守陽耽と交戦となったが、これを撃破して陽耽を生け捕りとした。だが、拓跋部の将軍拓跋六脩が段部に敗れたと聞き、征伐を中止して徒河に軍を移し、青山を背にして陣営を築いた。その後は棘城に戻らず、数年に渡って徒河に留まった。_NEWLINE_319年12月、遼東を実効支配していた西晋の平州刺史崔毖は、慕容廆の勢力が強盛である事を妬み、同じく慕容部と対立していた高句麗・段部・宇文部と同盟を結んで討伐を目論んだ。三国はいずれもこれに応じて兵を挙げ、慕容部の本拠地である棘城へ向けて軍を進めた。慕容廆は離間工作を用いて高句麗と段部の軍を退却させたものの、宇文部の大人(部族長)宇文遜昵延だけは攻略の意志を崩さず、数十万の兵力と四十里にも連なる陣営をもって棘城を威圧した。その為、慕容廆は籠城作戦を取りつつ、徒河に駐屯していた慕容翰に救援を要請したが、慕容翰は使者を派遣して「遜昵延(宇文遜昵延)は国を挙げて来寇しました。敵軍と我等は多勢に無勢であり、計略を使えば易々と打ち破れましょうが、力攻めで勝つのは難しいでしょう。城内の兵だけでも防ぐだけなら十分でしょうから、この翰(慕容翰)は外で遊撃隊となって敵を撹乱し、隙を見つけてこれを撃ちます。内外共に奮戦すれば、敵は震え上がって為す術もなく、敗れるのは必定といえます。今、我が城内に入って軍を一つにしてしまえば、敵は城攻めだけに専念できます。それは上策ではありません。それに、防戦一方の逃げの姿勢を部下へ示すことにも繋がり、戦う前に味方の士気が萎えてしまうことも危惧されます」と答え、救援に向かわなかった。これを読んだ慕容廆は、息子が臆病風に吹かれて参戦を拒絶したかと疑ったが、韓寿が「遜昵延(宇文遜昵延)は勢いこそ盛んでありますが、将は大軍である事に驕っており、兵卒は怠けており、軍律は厳しさを欠いております。もし奇襲を掛けて敵の不意を衝けば、必ず撃破できることでしょう」と進言したので、慕容翰が徒河に留まることを許した。_NEWLINE_宇文遜昵延は慕容翰が徒河から動かない事を知って「翰(慕容翰)はもとよりその勇猛さで名を馳せているが、それが今救援に来ようとしていないのは何かを企んでいるのであろう。まず先にこれを取るべきである。城(棘城)など憂うほどのものでもない」と述べ、別動隊として数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させた。慕容翰は敵の侵攻を知ると、まず部下を段部の使者に変装させて差し向け、宇文部軍を出迎えさせた。その使者は宇文部軍と合流すると「我々にとって慕容翰は長い間患いの種でした。あなた方がこれを襲撃すると聞き、我等も既に出陣して到着を待っております。どうか速やかに進軍されますよう!」と偽りの言葉を伝えた。また、慕容翰は使者を向かわせた後に自ら城を出て伏兵となり、敵軍の到来を待ち受けた。宇文部軍は使者の言葉を真に受けて大いに喜んで進軍を早め、備えもせずに伏兵の待ち受ける地点まで進んだ。ここで慕容翰軍は一斉にこれを奇襲し、奮戦して敵兵を尽く捕らえる事に成功した。_NEWLINE_慕容翰はさらに勝ちに乗じて進撃を開始すると、棘城へ使者を派遣して慕容廆へ全軍を総動員して宇文部の本隊を撃つよう請うた。これを受け、慕容廆は慕容皝(慕容翰の異母弟)と長史裴嶷に精鋭を与えて先鋒とし、自らもまた大軍を率いて後続した。宇文遜昵延は全く備えをしていなかったので、慕容廆の出撃に驚いて慌てて全軍を出陣させた。この時、慕容翰は千騎を率いて既に敵陣の背後に控えており、先鋒軍の戦いが始まったのを見計らって宇文遜昵延の陣営へ突入し、これを焼き払っていった。これにより宇文部軍は大混乱に陥って為す術もなく大敗を喫し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出す有様であった。この戦いで慕容廆は敵兵のほとんどを捕虜とし、さらに宇文部に代々伝わっていた皇帝の玉璽三紐を手に入れた。 _START_SECTION_ 高句麗を威圧 _START_PARAGRAPH_ 同年、高句麗美川王は度々兵を派遣しては遼東を襲撃していた。その為、慕容廆の命により、慕容翰は慕容仁(慕容翰の異母弟)と共に高句麗討伐に向かったが、美川王が和睦を請うたので討伐を中止して軍を退却させた。_NEWLINE_321年12月、慕容廆の命により、慕容翰は遼東を鎮守する事となった。慕容翰はよく人心を慰撫して儒学を好んだため、上流階級から庶民に至るまで従う事を拒む者はいなかったという。その威恵は甚だ大きく、高句麗は慕容翰を恐れて侵攻を思い止まるようになったという。 _START_SECTION_ 亡命 _START_PARAGRAPH_ 同月、弟の慕容皝が世子(世継ぎ)に立てられた。慕容翰は長男であり、父からも寵愛を受けていたが、母の出自が卑しかったために後継に立てられなかった(慕容皝は正室である段夫人の子)。_NEWLINE_333年5月、慕容廆が没して慕容皝が後を継ぐと、慕容翰は建威将軍に任じられた。_NEWLINE_慕容仁は勇気と軍略を兼ね備えており、また慕容昭(慕容翰の末弟)は文才を有していたので、慕容翰と同様に父から寵愛を受けていた。だが、それ故に慕容皝は彼ら三人の存在を常々妬ましく思っていた。_NEWLINE_10月、慕容翰は次第に慕容皝に害されるのを恐れるようになり、嘆息して「我は先公(慕容廆)より重任を委ねられ、勇気もなく力も及ばなかったが、幸いにして先公の威光により功績を打ち立てる事が出来た。だが、これは天が我が国に味方してくれただけであり、人の力によるものではないのだ。だが、人々はこれを我の力量によるものと考え、傑出した才能があるとして他人の下に甘んじる人間ではないと評している。故に弟(慕容皝)はますます猜疑心を募らせているのだ。我はどうして座して災いを待てようか!」と述べると、遂に子息と共に慕容部から離反して段部へ亡命した。段部の首領段遼はかねてからその勇名を聞いていたので、大喜びで迎え入れると、甚だ厚遇して深い敬愛を示した。こうして慕容翰は仇国に身を置くこととなったが、それでも故郷への思慕の念は変わらず抱いており、いつも立忠を忘れることはなかったという。_NEWLINE_11月、慕容仁・慕容昭は慕容皝に反乱を企てたが、決行する前に計画は露見してしまい、慕容昭は誅殺されて慕容仁は平郭へ逃亡した。その後、慕容皝は慕容仁討伐に向かうも返り討ちに遭い、これにより慕容仁は遼東一帯を占拠して自立した。 _START_SECTION_ 柳城へ侵攻 _START_PARAGRAPH_ 334年2月、段遼は弟の段蘭に慕容部の柳城攻略を命じると、慕容翰もまたこれに従軍した。だが、柳城を守る都尉石琮・城大慕輿泥は死力を尽くして城を守り抜いたので、段蘭軍は勝利を得られないまま退却を余儀なくされた。段遼は敗戦の報告に激怒して段蘭と慕容翰を叱責し、柳城を必ず攻略するように厳命した。_NEWLINE_その後、段蘭軍は再び侵攻を開始すると、雲梯を作り四面同時に昼夜を問わず攻め立てた。だが、石琮と慕輿泥はますます堅固に守りを固めたので、段蘭軍はまたも攻略に失敗して千人余りの兵を失った。だが、石琮らの救援の為に慕容汗・封奕の軍が到来すると、段蘭はこれを牛尾谷において迎え撃ち、散々に打ち破った。段蘭はこの勝ちに乗じて追撃を掛け、敵地深くへ侵入しようと考えたが、慕容翰は祖国が滅ぼされるのではないかと憂慮して「将軍となった以上、その務めは慎重に果たさなければなりません。詳細に敵の兵力を量り、万全でなければ動くべきではありません。今、先鋒を撃破しましたが、敵はまだ主力を残しています。慕容皝は策が多く、伏兵をよく用います。もしも、敵が我等を誘き寄せた上で退路を断ち、全軍を挙げて反撃すれば我等は全滅してしまいます。我等へ課せられたのはこの勝利のみです。もし、君命を無視して攻撃を続けた挙げ句に敗北してしまえば、功名共に失います。その時、何の面目があって国に戻れましょうか」と段蘭を諫めた。これに段蘭は「いや、もし慕容皝を捕虜にすることができればそれ以上の大功はない。卿は故郷を滅ぼしたくないからそのようなことを言うのであろう。今、千年(慕容仁の字)が東に割拠している。我が事が成った暁には、彼を迎え入れて慕容部の後継としよう。そうすれば宗廟の祀りも絶えず、卿の憂いごとも無くなるであろう」と反論したが、なおも慕容翰は「私は既に国を棄てた男です。故国の存亡など、今の私に興味はありません。ただ、この国のことを思うからこそ、功名を惜しむのです」と言い、自分の手勢だけでも引き上げると訴えたので、段蘭もやむをえず軍を退却させた。 _START_SECTION_ 宇文部へ奔る _START_PARAGRAPH_ 338年1月、後趙君主石虎が総勢20万の大軍でもって段部征伐に乗り出した。3月、慕容皝もまた後趙の動きに呼応し、自ら出撃して段部の領域である令支以北の諸城を攻撃して回った。段遼はこれを迎え撃とうと考えたが、慕容翰は「今、趙の軍団が南方に迫っております。全力を挙げて防がなければならない時に、更に燕と戦うつもりですか。燕王自らが出向いた以上、率いるのは精鋭部隊でしょう。万が一にも敗れたら、どうやって南敵(後趙軍)と戦おうというのですか!」と諫めた。側に控えていた段蘭はこれに怒って「我は以前、卿のせいで道を誤った。今日の災いを招いたのはその為であろう。我は二度と卿の術中に嵌る事はない!」と述べて慕容翰の意見を退けると、総力を挙げて慕容皝を攻めた。だが、慕容皝は伏兵を設けて段蘭を待ち受けており、段蘭軍は大敗を喫して数千の兵を失い、五千世帯の人民・一万を越える家畜が略奪されてしまった。_NEWLINE_その頃、石虎もまた金台まで進軍しており、その配下である支雄は段部領である漁陽・上谷・代郡を相継いで降伏させ、四十を超える城を陥落させた。段遼は段蘭が敗戦していた事もあり、もはや石虎と一戦を交えようとは考えず、令支を放棄して妻子親族及び豪族千戸余りを率いて密雲山へ逃走を図った。この時、段遼は慕容翰の手を取って涙を流して「卿(慕容翰)の進言を用いず、自ら敗亡の道を選んでしまった。我はもとより自業自得だが、卿の寄る辺まで失う事になり、慙愧の念に堪えない」と謝罪したという。慕容翰はここで段遼と袂を分かち、北へ逃走して宇文部へ亡命した。 _START_SECTION_ 故国へ帰還 _START_PARAGRAPH_ 宇文部の首領宇文逸豆帰は一度は慕容翰を快く迎え入れたものの、次第にその才名を妬むようになっていった。身の危険を感じた慕容翰は狂人の真似をして髪を掻き乱して歌を歌ったり、跪いて物を食べたりし、その警戒を解こうとした。これにより宇文部では国中の人が彼を賤しむようになり、まともに相手にする者さえいなくなった。そうして誰も慕容翰の動向に注意を払わなくなると、慕容翰は密かにあちこち国内を巡り、山川の地形を調べてはその全てを暗記するという事を繰り返したという。_NEWLINE_慕容翰はもともと慕容皝へ対して造反したわけではなく、疑われることを嫌って国を出奔しただけであり、また他国へ亡命してからも何かと前燕の為に便宜を計っていたので、慕容皝もまた次第に彼のことを気にかけるようになっていた。_NEWLINE_340年1月、慕容皝は商人の王車を間者として宇文部へ派遣し、慕容翰の様子を探らせた。慕容翰は王車と市場で出会ったが、ただ無言で胸を撫でて頷くのみであった。王車が国へ戻ってこの事を報告すると、慕容皝は「彼は故郷へ帰りたいのだ」と喜んだ。そして慕容翰がいつも使っている、三石の重さがある弓と普通より長く大きな矢を作らせると、これを王車に持たせて再び慕容翰の下へ派遣した。王車はこの弓を道の傍らへ埋め、慕容翰へ向けて慕容皝の意向を密かに伝えた。これにより慕容翰は故郷への帰還を決意した。_NEWLINE_2月、慕容翰は宇文逸豆帰の名馬を盗むと、二人の子供を連れて弓矢を取って逃亡を図った。これを知った宇文逸豆帰は配下の精鋭百騎余りにこれを追跡させたが、慕容翰は彼らへ「我は長い間故国へ帰る事を望んでいたが、今その為の名馬を得ることができた。もはや再び戻ることは無い。我は日頃汝らを欺くために狂った振りをしていたが、我が腕は衰えていない。これ以上近づくと自ら死に向かうことになろう!」と忠告した。だが、騎兵部隊は彼を軽んじて追撃を続けたので、慕容翰は「我は久しく汝らの国に世話になった。汝らを殺すのは忍びない。我から百歩離れた所に刀を立てるのだ。それを我が射てみせよう。一発で当たったならば汝らは帰るのだ。当たらなければ進んでくるが良い」と告げた。そこで、騎兵部隊はこれに応じて刀を立てると、慕容翰は矢を放って一発で刀の環に当てたので、これを見て騎兵部隊は逃げ散ったという。_NEWLINE_こうして慕容翰は無事故郷に帰還を果たすと、慕容皝はその到来を大いに喜んで迎え入れ、以来彼を厚く恩遇するようになった。やがて慕容翰は建威将軍に任じられた。 _START_SECTION_ 高句麗征伐 _START_PARAGRAPH_ 342年10月、慕容翰が慕容皝へ「宇文部は強盛を誇り、度々我が国へ害を為しております。宇文逸豆帰は宇文乞得亀から大人の座を簒奪し、国民は彼に懐いておりません。また、彼自身の素質も凡庸で将帥の器ではありません。国に防備は無く、軍には規律がありません。臣はしばらくあの国におりましたから、その地形は知り尽くしております。彼等は、羯族の強国(後趙)と友好関係にありますが、かの国とは遠く離れておりますので助けには成らないでしょう。今戦えば、百戦百勝は間違いありません。ただ、高句麗には注意が必要です。彼等は宇文部と連絡を密に保っています。宇文部が滅ぼされたら、次は我が身に災厄が降りかかると知っているのです。ですから、我等が宇文部へ攻め込めば、その隙を衝いて国へ侵攻して来ることでしょう。もしも少数の兵卒しか国内に残さなければ撃破されますし、守備を堅めすぎれば遠征の兵力が不足します。つまり、高句麗は心腹の病なのです。宇文部攻略の為には、それに先がけてまず高句麗を討つべきです。彼らの兵力を見ると、一度の攻勢で勝てます。この時、宇文部は守りを固めるだけで攻撃はしますまい。 既に高句麗を奪ってから、転進して宇文部を攻め取る。二国を平定すれば、東海は我が内海となります。国は富み兵は強くなり、後顧の憂いもなくなります。そうしてこそ、中原進出を図ることができるのです」と進言すると、慕容皝はこれに同意して高句麗討伐に乗り出した。_NEWLINE_高句麗を攻撃するに当たって侵攻経路は二つあり、その一方は平坦で道幅も広い北道であり、もう一方は険阻な南道であった。群臣は誰もが北道を行くべきだと考えていたが、慕容翰は「敵も同様に考え、北道の警備を厳重にしているはず。南道は険阻で大軍を動かすには不向きですが、精鋭兵だけで南道から進撃すれば、敵の不意を衝くことができます。そうすれば、丸都(高句麗の本拠地)も容易く落とせます。そして、別働隊で北道を抑え万一の事態に備えるのです。その心腹を潰しておけば、四肢は何もできません」と進言すると、慕容皝はこの意見を採用した。_NEWLINE_11月、慕容皝は自ら4万の兵を率いて南道を進み、先鋒を慕容翰と慕容覇(後の慕容垂)に委ねた。また、長史の王寓には一万五千を与え、別働隊として北道を進ませた。高句麗の故国原王は「皝軍は北路を進むであろう」と述べ、弟の高武へ5万の精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身は残った弱兵を率いて南道へ出た。慕容翰は先行して故国原王の軍と交戦を繰り広げ、その間に後続の慕容皝本隊が到着した。左常侍鮮于亮は数騎を引き連れ、高句麗の陣へ突撃して大いに荒らし回り、慕容翰らはこれを見逃さずに総攻撃を掛け、高句麗軍を大敗させた。さらに勝ちに乗じて追撃を掛け、遂に丸都へ突入すると、高句麗王は単騎で逃亡した。前燕軍は男女五万人を捕虜とし、宮殿を焼き丸都を壊してから帰国した。 _START_SECTION_ 宇文部を滅ぼす _START_PARAGRAPH_ 343年2月、宇文部の相莫浅渾が前燕へ侵攻した。前燕の諸将はこれと交戦を望んだものの、慕容皝は許さなかった。これにより莫浅渾は敵軍が恐れを為していると思いこみ、酒を飲んだり狩猟をしたりして警備を怠るようになった。これを見た慕容皝は慕容翰へ討伐を命じた。慕容翰は出撃して敵軍と一戦を交えると、これを散々に打ち破って兵卒の大半を捕らえ、莫浅渾はかろうじて逃げ帰った。_NEWLINE_344年1月、慕容皝は宇文部討伐のため親征を決意すると、慕容翰は前鋒将軍に任じられて軍の先鋒となり、劉佩がその副将となった。また、慕容軍・慕容恪・慕容覇・折衝将軍慕輿根にもまた各々兵を率い、三道に分かれて進軍した。これに対し、宇文逸豆帰は南羅大の渉夜干へ精鋭兵を与えて迎撃させた。慕容皝は使者を派遣して慕容翰へ「渉夜干の勇名は三軍に鳴り響いている。少し退却した方がよい」と伝えたが、慕容翰は「宇文逸豆帰は、国内の精鋭をかき集めて渉夜干の軍へ配属しました。渉夜干にはもとより勇名があり、国中の頼みの綱となっております。逆に言えば、彼さえ撃退すれば、宇文部は攻撃せずとも自ずから潰れることでしょう。それに、臣は奴らの人となりを知っております。虚名こそありますが、与し易い相手です。退却するのは我が方の士気を挫くだけです」と反論し、進撃を続けた。こうして渉夜干軍と交戦となると、慕容翰は自ら陣より出撃して迎え撃った。これに慕容垂が傍らから援護を行い、慕容翰は渉夜干軍を撃破してその首級を挙げた。これを見た宇文部の兵卒は恐れおののき、戦わずして崩壊した。前燕軍は勝ちに乗じてこれを追撃し、遂に都城を攻略した。 宇文逸豆帰は逃亡を図るも漠北にて命を落とし、こうして宇文部は滅亡した。慕容皝は五千戸を超える住民を昌黎へ強制移住させた。この戦勝により前燕は領土を千里以上広げた。 _START_SECTION_ 最期 _START_PARAGRAPH_ 慕容翰は宇文部との戦いで流れ矢に当たってしまったので、しばらく床に伏せるようになり、出仕することも出来なかった。やがて少しずつ傷が癒えてくると、自邸で馬の試し乗りを行うようになったが、これを見た者が慕容皝へ「慕容翰は病と称して家に閉じこもり、密かに乗馬の練習をしております」と告げた。これは慕容翰を疑わせようとしての讒言に過ぎなかったが、心中彼の勇名を恐れるようになっていた慕容皝はこれを信じ込んでしまい、慕容翰へ自害を命じてしまった。慕容翰はこの命を受け入れ、最期に「我は罪を負って出奔したが、情けなくも戻って来た。今日死ぬとしても、むしろ遅すぎるのだ。だが、未だに羯族(後趙)が中原にのさばっていることから、我は身の程もわきまえずに、国家を強くして天下を統一させることを願った。この志を遂げることはできなかったが、これを怨むことはない。天命であろう」と語ると、自ら毒を飲んで自害した。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 雄壮・豪放な性格の持ち主であり、策略にも長けていた。また、腕が非常に長く射術に秀で、並外れた腕力を有していた。用いる弓は重さ三石を越えており、矢も普通より長くて大きいものを用いていたという。_NEWLINE_父の慕容廆はその才能を見て只者では無いと感じ、外交折衝の任を彼に委ねたという。また、征伐に従軍すると、その勇猛さと優れた計略によって行く先々で戦功を挙げたので、士卒からも慕われていた。その威声は大いに振るい、周囲の者だけでなく遠方からも畏怖の対象となったという。
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_START_ARTICLE_ 我孫子武丸 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1989年、『8の殺人』で小説家デビュー。速水三兄妹・人形シリーズなどのコミカルタッチや女性視点の作品から、腐蝕シリーズ・『殺戮にいたる病』などの重いタッチの作品まで、幅広く手がける。また、漫画作品『半熟探偵団』(絵:河内実加)の原作も手がける。_NEWLINE_1994年に発売されたサウンドノベルゲームソフト、『かまいたちの夜』のシナリオを担当し、ゲーム業界において高い名声を得る。本作はいくつかの選択肢があるものの、基本的に小説を読み進めるだけのゲームであるが、内容はこれまでにない本格ミステリーであり、プレイヤーに推理させ文字入力により回答させることが受け、大ヒットとなった。ゲームに詳しい我孫子は、ゲームシステム面でのアドバイスを行なっている。_NEWLINE_日本テレビの番組、『マジカル頭脳パワー』の「マジカルミステリー劇場」に原案ブレーンとして、またTBSで1994・1995年に放送された『超難解推理クイズ 頭脳警察(パート1・2)』にも、問題作成ブレーンとして参加したことがある。_NEWLINE_作中で活躍する探偵役としては、速水三兄妹、鞠小路鞠夫が主なシリーズ探偵であるが、近年ではノンシリーズでの執筆が主である。2004年から2007年にかけては作家直送オンライン販売サイトe-novelsの運営を手がけ、また宮崎あおいの昔からのファンとしての一面もある。
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_START_ARTICLE_ 戦国時代 (日本) _START_SECTION_ 名称 _START_PARAGRAPH_ 応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する。_NEWLINE_一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に、「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)の永正五年(1508年)四月十六日の条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。_NEWLINE_武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていたことが伺える。_NEWLINE_ただし、江戸時代にベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田・上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって、保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。_NEWLINE_畿内中央から、全国各地の地域に及ぶそれぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われ、旧来の上位権力による制御が困難となった。このような永続的な衝突を可能にする背景は貨幣経済の浸透と充実により国衙や荘園の統治機構や畿内中央の首都経済の需要のみには依存しない地域経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことにあり、在地の経済や文化の発展が時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展して貨幣経済をさらに拡大する中で自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。こうした経済発展と頻発する武力紛争に対応して都市部では町、農村部などでは惣村という重武装した新興の自治共同体が、それぞれ町人身分と百姓身分の一揆契約に基づく団体として自生・発展を続け、武家領主たちの統治単位も旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの町村へと移行する。戦国大名の領国もこの町村を背景にしたものとして組織されたものであり、後の幕藩体制や近代の地方自治体もこの時誕生した町村を基盤とすることとなる。 _START_SECTION_ 応仁の乱から明応の政変まで _START_PARAGRAPH_ 元々、足利幕府は南北朝の並立と足利政権を二分した観応の擾乱を治めるために、自派についた大名への恩賞や、南朝や足利直冬などと結び、強大な独立勢力と化していた山名氏、大内氏らの勢力を維持したまま取り込んだことで、独立的性格を持つ大大名の支持の上に成り立つ不安定さを持つ政権であった。しかし、三代将軍足利義満は南北朝の統一を果たして有力大名の勢力削減に成功し、直属軍を設立するなど将軍権力の強化に成功する。_NEWLINE_しかし、さらなる将軍権力の強化を図って強権的手段に出た六代目の足利義教が嘉吉の乱で暗殺されて以降、室町幕府は衰勢となり、有力守護大名等に対して統制を効かせるのが難しくなっていく。関東では鎌倉公方が古河御所に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こすと、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった(堀越公方)。大和や加賀でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発する有様であった。_NEWLINE_こうした中、八代将軍足利義政の跡継ぎを巡る争いが始まり、これに山名氏・細川氏ら有力守護大名の権力争い、畠山氏・斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わって、全国を東西に分けて巻き込む応仁の乱へと至ってしまう。大内氏、若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にした争いが十余年も続いた。この戦いは山名氏の衰微、大内ら西軍主力の京都撤退など細川氏が政治的優位を確保して終わったが、双方にとり痛み分けであり、はっきりとした結果が残らなかったため後々までに影響する事になる。乱の最中には、戦争に勝利するために、本拠を空けた守護大名の隙きを突いた朝倉氏など守護代の下克上を許すだけでなく、むしろ積極的に支持して取り込み、他にも敵対陣営の領国を混乱させるため武将を送り込むなど既存の幕府・守護体制を覆す工作を様々に行ったため争いの火種が各地でくすぶり続けた。_NEWLINE_とは言え、応仁の乱終結後も幕府の力は暫く残っており、1487年の将軍に敵対する近江守護六角高頼攻め(鈎の陣)には尾張国や若狭国など京都近辺の諸大名が従い、1492年の足利義材の河内攻めにも多くの諸大名の軍勢が馳せ参じている。だが、この河内攻め最中の1493年4月に管領細川政元による将軍廃立を図った権力簒奪が成功して実権が細川氏に移る事件が発生する(明応の政変)。これにより将軍は傀儡化し、その細川氏も政元の横死後、澄元・晴元父子と高国の二派に分裂して抗争を続けたため幕府は混迷を深めていった。こうして中央政権としての幕府の力は決定的に失われ、将軍はその回復を夢見て各地の大名に身を寄せる存在となり、幕府の直接的な影響力は概ね山城国一国に留まるのみとなってしまう。地方豪族は自ら力を蓄えるか力ある存在に身を寄せるようになり、北条早雲や斎藤道三親子など旧来の守護大名でなくとも、実力が幅を利かすようになった状況を捉えて力を蓄え自立し戦国大名となった者も少なくない。 _START_SECTION_ 信長登場以後 _START_PARAGRAPH_ 1560年に、尾張国の織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、1567年に美濃国を斉藤氏から奪い、1568年、信長は義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。信長が入京して最初にしたことは大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたことである。また、イエズス会のルイス・フロイスに京居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。_NEWLINE_この頃になると、信長の動きに関連して各地方の有力な大名も勢力を伸ばしてゆく。桶狭間の戦いの後に今川氏の庇護下から松平氏の旧領三河を回復した徳川家康、関東の後北条氏、甲斐・信濃の武田氏、北陸の上杉氏、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏などである。これらの大名は信長と同盟を結んだり、あるいは他の大名と同盟を結んで信長に対抗したりした。信長との関係が悪化した将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山、本願寺、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好三人衆ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げたが、各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京を追われた(幕府という形態はこの後、備後の鞆に細々と続く)。各地で発生した一向一揆と信長の戦いも続き、石山本願寺とは10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。織田信長はこれらの敵対勢力を次々と屈服させ、1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げたが、最後は本能寺の変で明智光秀に攻められ嫡男の信忠と共に自害する。_NEWLINE_信長の死後、織田家重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は本能寺の変が発生するといち早く山崎の戦いで明智光秀を倒し、翌年には信長の後継を巡り対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り覇権を確立した。_NEWLINE_清洲会議で信長の嫡孫三法師を擁して覇権を確立した羽柴秀吉であったが、1584年に安土城から信雄を退去させるなど両者の関係は悪化していた。信雄は徳川家康とともに挙兵し、さらには雑賀衆、根来衆、北条氏政、長宗我部元親、佐々成政らが秀吉包囲網を築きあげたが、戦線が悶着したところで信雄は秀吉に懐柔され家康は撤退、包囲網は解散した(小牧・長久手の戦い)。家康は秀吉に臣従する形となったが豊臣政権で重く用いられている。_NEWLINE_秀吉は豊臣姓を賜り関白となるなど朝廷を中心とした日本の伝統的な官位も活用して支配を進めていった。秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、更には太閤検地、刀狩、身分統制令、貨幣統一を行い、1590年には小田原征伐で後北条氏を滅ぼし名実ともに統一を達成した。統一後の1592年と1597年には朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)も行ったが、秀吉の死去により退却した。その後李氏朝鮮とは江戸時代初期に対馬の宗氏を通じて国交が回復している。_NEWLINE_秀吉の死後、豊臣政権の五大老の一人徳川家康を中心とする東軍と豊臣政権の五奉行の一人石田三成を中心とする西軍が戦った関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、東軍総大将を務めた徳川家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として諸大名の転封や改易を行い、1603年、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。家康は1605年に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍職は世襲により継承するものであることを諸大名に徹底確認させた。一国一城令に従わせることは、諸大名から軍事的な拠点を奪い戦争をさせないためでもあった。家康はその後も大御所として影響力を持ち、諸大名の転封や改易を積極的に行い、方広寺鐘銘事件を名目に1614年から1615年にかけて大坂の陣で豊臣秀頼の居城大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼす。そして17世紀中期、3代将軍徳川家光が死去し4代将軍徳川家綱が就任した頃より幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換してゆく。 _START_SECTION_ 戦国大名 _START_PARAGRAPH_ 戦国大名は、そのほとんどが守護大名・守護代・国人を出自とする。国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)を出自とする者もいた。まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。_NEWLINE_戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有すると、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を、大名領国制という。戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人・被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された。 _START_SECTION_ 奥羽 _START_PARAGRAPH_ 奥羽地方の戦国大名は、鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。_NEWLINE_奥羽地方は、関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方や雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗が奥州探題・大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。_NEWLINE_とは言え、奥羽地方の特に南部では領主間の婚姻が盛んであった上、大名に後継者が不在の場合には一族の庶流出身者よりも他の大名家から養子を迎えることが多かったのが特徴的である。極端なケースでは伊達晴宗の嫡男が外祖父の岩城重隆の跡を継ぎ(岩城親隆)、蘆名盛氏に敗れて人質として差し出された二階堂盛義の嫡男が当主の急逝によって急遽蘆名氏の養嗣子として当主になる(蘆名盛隆)といったものがあった。このため、諸大名の確執が合戦に発展した場合でもどちらかが壊滅する前に双方と血縁関係にある第三者が仲介して和解に至るケースが多かった。_NEWLINE_1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こして、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。_NEWLINE_これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成する。彼らは新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。_NEWLINE_16世紀第4四半期の時点で、安東氏が秋田、三戸南部氏が糠部、奥州探題大崎氏が大崎、葛西氏が登米、羽州探題最上氏が最上・村山、伊達氏が信夫・伊達・置賜・刈田・柴田・宮城、蘆名氏が会津・耶麻・大沼・河沼・西蒲原・安積・岩瀬、二本松氏(畠山氏)が安達、田村氏が田村、石川氏・白河結城氏が白河、相馬氏が行方・宇多・標葉、岩城氏が楢葉・岩城・磐前・菊田・多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。_NEWLINE_一般的に奥羽地方南部は戦国時代の末期(1580年代)に伊達政宗が登場して軍事的才能をもって地域統合を果たしたとされることが多い。だが、実際にはその直前に常陸国の佐竹義重がこの地域の諸大名を傘下に置いて地域統合を確立しつつあった。政宗の家督継承は佐竹氏が北上して伊達氏と勢力圏が接する状況下で行われ、佐竹氏傘下の諸大名に圧迫された正室の実家(田村氏)の救援に乗り出したことで佐竹義重の奥州支配と対決することになり、やがて自らがその地位を取って代わることになったのである。 _START_SECTION_ 関東 _START_PARAGRAPH_ 関東では、京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。_NEWLINE_今川氏親の叔父で興国寺城主伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、伊豆国の堀越公方である足利政知の死去に伴う内乱に乗じて、1493年に実質堀越公方の足利茶々丸を滅ぼし伊豆を平定。その子孫が北条氏を自称した。この北条氏と上杉氏が関東の覇権を巡って戦い、1546年河越夜戦により上杉氏の勢力が衰えた。1552年、北条氏が古河御所を制圧して古河公方を掌握。山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。_NEWLINE_関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも奪えなかった。この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分すると、北条氏康と里見義堯(上杉陣営)による国府台合戦など、各地で戦いを引き起こした。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏、下野の宇都宮氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める伊達氏によって佐竹義重は南北両方面での戦いを余儀なくされた。_NEWLINE_1582年の甲州征伐で織田氏、徳川氏、後北条氏が武田氏の甲斐・信濃・駿河へ侵攻するが、同年に発生した本能寺の変の後に後北条氏は織田氏との同盟を破棄して甲斐・信濃へ侵攻(神流川の戦い)、さらに旧武田領を巡り徳川氏、上杉氏、後北条氏、真田昌幸らの間で天正壬午の乱が発生し、甲斐・南信濃を徳川氏、北信濃を上杉氏、上野を後北条氏、沼田領を真田氏が領することで一応の和睦を見た。_NEWLINE_豊臣秀吉が惣無事令を発した後の1590年、後北条氏の家臣による真田領への侵攻が惣無事令違反とされ、豊臣氏を中心とする21万人の連合軍を前に北条氏直は小田原城に籠城するも敢え無く落城し後北条氏は滅亡(小田原征伐)、ここに豊臣秀吉による全国統一が完成した。この時、北条陣営に付いた関東の多くの領主が所領を没収され、小山氏や千葉氏のような鎌倉時代以来の名家も姿を消している。1590年8月には関東に移し替えとなった徳川家康が江戸城に入城した。_NEWLINE_その後、1600年の関ヶ原の戦いを経て1603年に徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣政権から江戸幕府成立の過程において、佐竹氏や里見氏、宇都宮氏などの旧来の勢力は転封あるいは改易によって関東の地から姿を消す。以後1867年の大政奉還・江戸無血開城まで264年間に渡り江戸幕府の下で政治・経済の中心として江戸の街は繁栄する。明治維新後は東京奠都を経て首都機能を担い今日に至っている。 _START_SECTION_ 北関東 _START_PARAGRAPH_ 北関東でも、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱の影響を受けていた。下野宇都宮氏、佐竹氏、結城氏が3つ巴になって覇権を争った。_NEWLINE_1506年に、永正の乱に誘発され古河公方家の内紛が勃発。古河公方足利政氏と嫡子高基間の対立であり、政氏には下野の小山成長、常陸の佐竹義舜、下野の那須資房などが支持し、高基には岳父である下野の宇都宮成綱、下総の結城政朝、下野の那須資親、常陸の小田成治・政治父子といった足利高基の古河公方擁立を狙う宇都宮成綱を中心とした血縁関係のある勢力が中心となって支持した。内紛は関東南部や奥州にも影響を与えており、南奥の岩城由隆、白河顕頼が政氏を支持し、奥州の伊達稙宗、相模の北条早雲・氏綱父子、下総の千葉勝胤・昌胤父子は高基を支持している。古河公方足利家と緊密な関係である武家でも内紛が誘発されており、山内上杉家の内紛や下野宇都宮氏の永正の内訌が発生。さらには上那須氏や白河結城氏でも内紛が発生。この頃の北関東は混沌としており各地で戦闘が勃発した。_NEWLINE_戦国時代前期は宇都宮錯乱を克服した下野宇都宮氏の宇都宮成綱、佐竹の乱を克服した常陸佐竹氏の佐竹義舜が北関東の覇権を巡って争い、竹林の戦い・縄釣の戦いにより佐竹氏の勢威は一時衰えた。古河公方家の内紛も足利高基が勝利し3代目古河公方に就任しており、宇都宮成綱に擁立された形となった。下野宇都宮氏は勢威拡大と近隣勢力の弱体化により宇都宮成綱の代に北関東の覇権を制し凄まじい影響力を及ぼした。永正の乱に関わった政氏支持の勢力は一時減衰し、高基支持の勢力は後北条氏が北関東に進出してくるまで増大していくことになった。また、1514年、宇都宮氏の宇都宮成綱が断絶中の上那須氏に介入し再興させようとしたが上那須氏を乗っ取られることを危惧した下那須氏の那須資房は早急に上那須氏を取り込み統一那須氏となっている。_NEWLINE_下野宇都宮氏は宇都宮成綱が没すると徐々に不穏な情勢になり、大永年間に大永の内訌が勃発。不満を抱いていた重臣の芳賀氏、塩谷氏、笠間氏や同盟国の結城氏が手を結び、1523年に結城政朝は猿山合戦で宇都宮忠綱を破り追放し、宇都宮興綱を当主に擁立した。下野宇都宮氏は衰退し、後北条氏による北関東進出辺りまで家臣団による専横が続いていくことになる。この頃になると結城氏の結城政朝・政勝父子や小田氏の小田政治の躍進が目立つようになる。_NEWLINE_古河公方は当時の関東においては上位権力であり、覇権を確立するためには古河公方の威光は必要不可欠であった。そのため宇都宮成綱(足利高基を擁立)、北条氏康(足利義氏を擁立)、上杉謙信(足利藤氏を擁立)は古河公方の擁立を行った。しかし、戦国時代後期になると関東諸大名の古河公方への求心力は衰え、上位権力は形骸化している。_NEWLINE_佐竹氏、統一那須氏、小山氏、下野宇都宮氏は内紛の発生により後北条氏に大きく後れを取ることになった。その結果、関東諸勢力は北条氏政の北関東侵攻に対し、関東管領となった越後の上杉謙信を頼っていくことになる。そんな中、佐竹氏は度重なる内紛の中で着実に克服し、佐竹義昭の代には勢力を回復。1558年、佐竹義昭は宇都宮城を乗っ取った壬生綱房・綱雄父子の手から取り戻そうとしている芳賀高定に協力し、奪還の手助けを行った。その後は宇都宮広綱に娘の南呂院を嫁がせて婚姻同盟を結んでいる。_NEWLINE_戦国時代後期にはついに後北条氏が北関東へ進出。佐竹氏、宇都宮氏、小山氏らは上杉謙信を盟主とし敵対し一方、結城氏、那須氏、小田氏、壬生氏などが後北条氏側に付き二分となり、各地で戦闘が起こった。佐野氏、皆川氏、由良氏などは勢力をうまく変えて生き残りを図った。壬生氏は当時壬生綱房の弟の徳雪斎周長を中心とした勢力が宇都宮氏の傘下に降るなど分裂しており、鹿沼城壬生氏が宇都宮方、壬生城壬生氏が北条方について対立していたが1576年に壬生綱雄の子壬生義雄が徳雪斎を討ち再統一を果たした。_NEWLINE_1579年、上杉謙信が没すると、関東諸将は頭角を現した佐竹義重を盟主にして北条氏直の侵攻に抵抗した。沼尻の合戦などで後北条氏と戦うが徐々に不利になっていった。佐野氏は佐野宗綱が討死した後後北条氏による介入を受け後北条氏の一門を新当主に迎え入れざるを得なくなり、さらに小山氏の小山秀綱は小山祇園城を後北条氏に攻略されてしまった。そうした中、佐竹氏は会津の方へも勢力の拡大を行っており、蘆名氏を傘下に収めたりしていたが、奥州から伊達氏の伊達政宗が南下してきており、南北から挟撃されるなど厳しい状況になっていた。宇都宮氏も下野国南部が後北条氏に制圧され、宇都宮領が前線となった結果、那須氏、壬生氏、皆川氏らによる挟撃や北条軍による宇都宮城侵攻など過激化しており、宇都宮国綱は宇都宮城から防衛に優れる多気山城へ本拠を移すなど深刻な状況になっていた。_NEWLINE_豊臣秀吉による小田原征伐が行われると佐竹義重、結城晴朝、宇都宮国綱、などはそれに従い、宇都宮仕置で所領を安堵された。しかし、小山氏、小田氏、壬生氏、大掾氏などといった勢力は姿を消した。その一方で大関高増、大田原晴清、岡本正親、水谷政村などは豊臣大名として独立し、那須資晴も一度は改易されたが、大関高増ら働きにより那須資景が当主になることを条件に豊臣大名に復帰できた。由良国繁は後北条氏に従い小田原城に籠っていたが嫡子の由良貞繁が豊臣方として参陣したため罪は問われず豊臣大名として残れた。徳川家康の投降に応じた皆川広照も秀吉に許され豊臣大名として残れた。その一方で、宇都宮氏は浅野長政、石田三成ら豊臣政権の内部争いに巻き込まれ、石高の偽装などを理由に1597年に改易された。佐竹氏も連座改易させられそうになったが石田三成の尽力により改易から免れた。 _START_SECTION_ 甲信 _START_PARAGRAPH_ 甲斐国・信濃国では守護権力が弱体化し、有力国人が割拠する状態となっていた。_NEWLINE_甲斐国では、甲斐源氏の流れを汲む甲斐守護武田氏が上杉禅秀の乱に荷担して没落していたため、戦国時代に至るまで国内での抗争状態に陥っていた。一方、信濃国では、信濃府中(現在の松本地方)に信濃守護小笠原氏、北信に村上氏・高梨氏、東信に海野氏、安曇に仁科氏、諏訪に諏訪氏、木曾に木曾氏などの国人領主が割拠していた。_NEWLINE_やがて、武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地と定め隣国との和睦も達成して信濃侵攻を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。_NEWLINE_武田信玄は、信濃侵攻を本格化し、甲相駿三国同盟を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って甲越対決(川中島の戦い)を幾度も繰り広げた。_NEWLINE_その後、武田氏は甲相駿同盟を破棄して桶狭間の戦い後に弱体化した今川氏領国への駿河侵攻を行い、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。信玄の晩年期には大規模な西上作戦を発動し徳川氏の三河へ侵攻するも、野田城攻略中の信玄の急死により途上での退却を余儀なくされた。_NEWLINE_1575年、三河の長篠城を巡り武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍の間で発生した長篠の戦いで大敗を喫した武田氏は領国の動揺を招き、1582年、武田氏に臣従していた木曽谷領主木曾義昌の織田信長への寝返りに際して征伐軍を送ったものの敗退し、武田氏の親族衆穴山信君の離反を招き、織田氏の同盟者の徳川家康、北条氏政からも領国への侵攻を受け、十分な迎撃も出来ず織田信忠軍に追われた武田勝頼・武田信勝父子は天目山で自害し武田氏は滅亡した(甲州征伐)。_NEWLINE_武田氏の滅亡により甲斐・信濃は織田信長の家臣滝川一益らに分配されるが、本能寺の変が発生すると後北条氏が侵攻して滝川氏は後退し(神流川の戦い)、さらには空域化した武田遺領を巡り徳川氏や後北条氏、上杉氏、真田昌幸らによる争い(天正壬午の乱)が起こり、甲斐・信濃は乱を制した徳川氏が、北信濃は上杉氏が領した。豊臣政権により徳川氏が関東に転封されると信濃諸豪族も関東へ移るが、この中で武田遺臣の真田氏など近世大名化した例も見られる。また、保科氏は将軍徳川秀忠の庶子・保科正之が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられている家は多い。 _START_SECTION_ 北陸 _START_PARAGRAPH_ 越後国を上杉(長尾)氏、越中国を神保氏や椎名氏、能登国を畠山氏、越前国を朝倉氏、加賀国を一向一揆らが、それぞれ支配していた。_NEWLINE_越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代長尾氏が台頭。その長尾氏から誕生した長尾景虎(上杉謙信)は、1576年までに北陸地方をほぼ制圧した。_NEWLINE_越中では、神保氏が当初敵対していた一向一揆と結ぶも、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍により征伐された。_NEWLINE_能登は守護の畠山氏が、長氏らの重臣たちの専横に苦しみ、内紛を繰り返した。1576年には、越後上杉氏の軍門に降り滅亡した。_NEWLINE_越前では斯波氏を追い落とした朝倉氏が一向一揆を退けて、本拠の一乗谷に京の貴族を迎えるなど栄華を極めていた。やがて朝倉氏は1573年に織田信長の侵攻を受け浅井長政の援軍を受けて戦うも刀根坂の戦いで敗れ朝倉義景が自害し朝倉氏は滅亡する。その後前波吉継を城代として織田氏の庇護下に入るが富田長繁と浄土真宗本願寺勢力が結託して越前一向一揆が発生、一揆の持ちたる国となるも坊官下間頼照の専横への反発等の内部混乱に乗じて織田軍が侵攻し一揆は2年で平定された。_NEWLINE_加賀国では守護冨樫氏を滅ぼした加賀一向一揆が「本願寺王国」を形成し、100年間の自治を行った。加賀国の一向一揆は上杉氏らとも争ったが、織田信長の家臣の柴田勝家軍に敗れ100年に渡る自治は終わった。その後一向一揆は石山本願寺と信長の間で10年に渡って争いを続けた(石山合戦)。 _START_SECTION_ 東海・濃尾 _START_PARAGRAPH_ 美濃国に土岐氏が、尾張国と遠江国に斯波氏が、三河国に松平氏が、駿河国に今川氏が、一国一円割拠していた。_NEWLINE_美濃国では、土岐氏の内部争いが展開されていた。斎藤利政(斎藤道三)はその隙を突いて主君の土岐頼芸に取り入り、1542年にはその主君を追放して美濃国を手中に収めた。その後、織田信秀およびその支援を受けた土岐頼芸、朝倉孝景が美濃へ侵攻するが、籠城戦からの急襲で織田軍に大打撃を与えるなどして持ち堪えた(加納口の戦い)。後に斎藤道三は織田信秀の嫡男織田信長へ娘を嫁がせ織田氏と和睦するが、1555年に道三の子の斎藤義龍が挙兵し1556年に長良川の戦いで道三は義龍に討たれる。1561年に当主は義龍の子斎藤龍興が継ぐ。信長は5年の歳月をかけて美濃を攻略し1567年に稲葉山城を岐阜城と改称し翌年の上洛に向けて新たな拠点とした。_NEWLINE_尾張国は、朝倉氏の離反で越前を失った斯波氏の本拠となっていた。この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れた上に、京都での政争にも敗れて力を失った。やがて国内では、守護代・織田氏の傀儡的存在となる。1554年には、その織田氏の権力抗争に巻き込まれて切腹した斯波義統を最後に、尾張守護の斯波氏は断絶し、以後織田氏が尾張を治めた。織田信長は上・下の守護代2家が両立する織田一族の中では下守護代家の庶流に過ぎず、郡奉行として本家を支える立場でしかない身の上ながら、上下両守護代の内紛に乗じて尾張国主の座を奪った。桶狭間の戦いに勝利した後、今川氏から独立して松平氏の旧領の三河を回復した松平元康(徳川家康)と結ぶことで美濃攻略に専念。5年の歳月をかけて美濃国を斎藤龍興から奪うと、稲葉山城を岐阜城と改名し新たな本拠として天下の経営に乗り出した。_NEWLINE_駿河国では今川氏親が斯波氏から遠江の支配権を奪い、1526年には分国法・今川仮名目録を定めて領国支配力を高めていった。その子の今川義元の代には松平氏の三河も支配下に治め、1554年には甲斐国の武田氏や関東の北条氏と三国同盟(善徳寺の会盟)を結び西進政策を強化し、尾張の一部へも勢力を伸ばしていた。1560年、桶狭間の戦いにおいて義元が戦死し、今川氏真が跡を継いだものの弱体化し、後に徳川氏、武田氏の駿河侵攻を受け滅びる。_NEWLINE_三河国では松平氏が松平清康の代で版図を雄飛させるが、1535年の守山崩れによって清康が家臣に殺されると、事態は一変。駿河の今川氏からの後援無しに家命を保てないほど弱体化してしまった。松平氏の人質として幼少期に今川氏へ渡った松平元康は、元服後は今川氏の先鋒武将として桶狭間の戦いの緒戦にも参加していたが、桶狭間の戦い後に今川領国の動揺に乗じて1565年には三河を平定、徳川家康と改名して今川氏から独立して織田氏と同盟を結ぶ。甲斐の武田氏と密約を結んで今川領を東西から侵食、1569年に今川氏を滅ぼした(駿河侵攻)。その後、武田信玄が西上作戦を発動すると三河の徳川所領は侵食されてゆき、1573年の三方ヶ原の戦いでは徳川・織田両軍は大敗を喫した。三河領も奪われかねぬ窮地に陥るも、信玄の死で武田軍の西進が頓挫。命拾いをした。_NEWLINE_1575年には、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が鉄砲の力を利用して武田軍を破ると、1582年の甲州征伐への参戦協力の功により、徳川氏は信長から武田領の遠江、駿河を得た。しかも同年、本能寺の変で織田信長が死ぬと織田領である甲信に侵攻し、勢力下に治めている。_NEWLINE_1590年、豊臣秀吉により天下が定まると、秀吉より関東への移封を命ぜられたため徳川家康は武蔵国の江戸を本拠とした。やがて家康は秀吉の死後に発生した関ヶ原の戦いの勝者となって江戸幕府を開くことになる。 _START_SECTION_ 畿内近国 _START_PARAGRAPH_ 初期の畿内においては、足利将軍家と管領の細川氏との抗争が繰り広げられた。山城国一揆などの国人一揆も抗争のパーツとして結果的に組み込まれている。ただし、この抗争は大内氏などを主体とする地方勢力が足利氏を利用して中央介入を試みた側面が強い。細川氏が内部の権力闘争により弱体化すると、足利氏を補佐するという名目で、近江国の六角氏による介入が強まった。近江においては、佐々木氏の一族である北近江の京極氏と南近江の六角氏が覇を競ったが、京極氏は支配下にあった国人の浅井氏によって実権を奪われ、以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。_NEWLINE_基本的には、各国とも室町幕府の定めた守護大名が、そのまま戦国大名化したケースが多い。彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、非常に弱い立場でしかなかった。河内国の畠山氏、但馬国の山名氏、丹後国の一色氏、若狭国の武田氏などは周辺の諸勢力に国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を生き抜いた。_NEWLINE_伊賀国は忍者に代表される豪族が力を持ち合議制で支配されていた他、北部を六角氏、南部を北畠氏がゆるく支配していた。_NEWLINE_紀伊国では高野山・根来寺・熊野三山などの寺社勢力の力が強く、守護畠山氏の支配力は限定的だった。紀伊の地侍は連合して根来衆・雑賀衆などの集団を形成し、宗教を盾に地域自治を行った。_NEWLINE_伊勢国・志摩国では、南朝以来の伊勢国司である北畠氏が勢力を誇り、北畠晴具の代に戦国大名化した。_NEWLINE_先に述べた足利氏や細川氏の内紛は六角氏や赤松氏・浦上氏・畠山氏・筒井氏など周辺の豪族を巻き込んで行われた。しかし、本格的な騒乱は三好氏の政権掌握以降となる。彼らは領国の阿波国を始め、讃岐国、淡路国、摂津国、和泉国、河内国、山城国、丹波国、大和国などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。しかしいずれの国も完全な統治はできなかったようであり、三好長慶の死後の混乱を経て織田信長の上洛軍によって平定されていくことになる。 _START_SECTION_ 山陽・山陰 _START_PARAGRAPH_ 初期は大内義興と尼子経久との対立があった。大内義興は、勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7ヶ国に覇を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。尼子経久は守護代ながら月山富田城を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。_NEWLINE_両勢力の接点にあった安芸国では国全体の国人が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、国人の一人である毛利元就が集団の統率者となり戦国大名化した。元就は尼子氏と大内氏の間で外交的にはバランスを保っていたが、後に尼子氏を裏切り大内氏に付き、尼子晴久が吉田郡山城へ向けて進軍。元就は大内義隆に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する(吉田郡山城の戦い)。_NEWLINE_陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって大内義隆が死亡すると、8ヶ国守護となった尼子晴久と、大内義長を傀儡とする陶氏が共に力を持ち拮抗するが、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれ、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。更には出雲国においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰え、毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の島根県安来市にあった月山富田城に篭城するが兵糧攻めにあい開城した(月山富田城の戦い)。これにより毛利氏は中国の覇者となる。_NEWLINE_元就の孫・毛利輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となる。また、尼子氏再興を目指す山中幸盛(山中鹿之助)が度々挙兵するも、これを退ける。だが、織田軍の中国方面軍の羽柴秀吉が攻めて来ると、三木城(三木合戦)、鳥取城、高松城が次々と落とされた。_NEWLINE_しかし、本能寺の変が発生すると、輝元は秀吉と和睦し、秀吉も軍を返し(中国大返し)、命拾いした。その後、毛利氏は豊臣氏の配下となり、四国攻め、九州征伐、小田原征伐などで活躍し、輝元も五大老に就任する。1589年に輝元は海運の利を活かせる広島城の築城を開始し、江戸時代を通じて城下は安芸広島藩42万6000石の拠点として発展した。豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立して発生した関ヶ原の戦いにおいて、輝元は西軍の総大将を務め、戦後に周防、長門の2か国の36万9000石に封じられた。_NEWLINE_この他の主要戦国大名としては、備前の浦上氏(浦上村宗)、同じく備前の宇喜多氏(宇喜多直家)などがいる。浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨国・備前国・美作国を奪う。零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。浦上氏は宗景の代に入ると重臣・宇喜多直家の離反によって崩壊する。備前国を手中にした宇喜多直家は時代を読む目があった人物のようで、羽柴秀吉が播磨姫路城に入ると降伏、自身の嫡子宇喜多秀家を秀吉に人質にするなどした。秀家は関ヶ原の戦いで西軍の先鋒を務めるなど活躍したが、戦後に西軍の中心武将と見られて流罪となり、大名としての宇喜多氏は滅んだ(子孫は流罪先の八丈島で家系を保ち、現在も同島で墓を守り続けている)。 _START_SECTION_ 四国 _START_PARAGRAPH_ 東四国(阿波・讃岐)は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。_NEWLINE_阿波は細川氏が支配した。後に、撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで阿波屋形として存続した。戦国時代には勝瑞城が阿波統治拠点となった。讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の三好長正(十河一存)を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。しかし三好氏が衰えると彼らは織田氏へなびくようになる。_NEWLINE_伊予は守護の河野氏が中予、伊予宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。_NEWLINE_土佐の守護は細川氏であるはずだが、七守護(土佐七雄)と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた一条氏を盟主と仰いだ。一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国親・長宗我部元親が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして土佐平定後10年かけて1585年に四国を統一した。淡路は守護・細川氏が統治していた。_NEWLINE_のち、秀吉の四国攻めのため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。戦後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景と信任できるメンバーを集めている。 _START_SECTION_ 九州 _START_PARAGRAPH_ 九州の武家は平家方だったため、鎌倉幕府を開いた源頼朝の信頼は薄く、頼朝は、九州の抑えとして、関東では無名に近いが近臣として取り立てていた少弐氏、大友氏、島津氏を代官的存在として九州の守護とし、鎌倉時代、筑前・肥前・豊前は少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後は大友氏、薩摩・大隅・日向が島津氏と九州の統括体制がなされ、その下に地頭として平安時代以来の松浦氏、秋月氏、蒲池氏、菊池氏などの元平家方の武家が盤踞していた。戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の国人豪族は自立するべく、戦いが展開していった。_NEWLINE_しかし、少弐氏の勢力は九州探題に敵対したために室町時代後期には既に衰えており、宗像氏や麻生氏など筑前・豊前の国人は中国地方の大内氏の影響を受けた。少弐氏は肥前・対馬の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた龍造寺氏の下克上により滅ぼされた。この大内氏が陶氏によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は大友氏の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした毛利氏友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。_NEWLINE_大友氏は豊後を拠点に南筑後の蒲池氏を筆頭とする筑後十五城が盤踞する筑後、さらに阿蘇氏や相良氏の肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを支援し、豊前・筑前をも得た。また大友宗麟は同時にキリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。しかし大友氏は島津氏との耳川の戦いで大敗、家臣や幕下の国人の離反が相次いで急速に衰えていく。それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信の代になってほんの一時期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の鍋島直茂が替わった。_NEWLINE_島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。しかし分家の島津忠良の子・島津貴久が本家を継いだ。祁答院氏、菱刈氏、肝付氏などの数多いた豪族と戦いに明け暮れ、その後、島津貴久の息子の島津義久の指揮の下、薩摩・大隅を統一。木崎原の戦い以後は伊東氏を平らげ、大友宗麟との耳川の戦いで大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全なものにし、九州統一戦を開始した。残すは筑前・豊前のみというところで豊臣秀吉の中央軍の介入が始まり、降伏した。 _START_SECTION_ 軍事 _START_PARAGRAPH_ 戦国時代の諸勢力は、必ずしも全期間絶え間なく合戦に明け暮れていたわけではないが、少なくとも勢力間において発生する諸問題の解決に際して行使可能な手段として、武力、すなわち軍備の果たす役割に注目が集まる傾向にあったことは確かであり、諸勢力は軍備の整備・維持・向上に意を払っていた。_NEWLINE_そして、これは戦国大名や国人・土豪層はもとより、宗教組織や、自治組織においても同様である。宗教組織は、依然として僧兵組織の維持や、戦闘拠点となりうる寺院の造営に力を振り分けた。あるいは、自治組織においても、矢倉や塀、環濠のような防御施設の構築、牢人の傭兵化を行った。彼らの中には、特殊な戦闘技術を発達させ、忍者集団となったものもいる。_NEWLINE_さらには、一部の公家も限定的とはいえ、必ずしも自衛目的のみとは言えない軍事活動に自ら携わるなど、あらゆる階層を通じて、ある種の“力に対する信奉”があったことは注目される。 _START_SECTION_ 合戦 _START_PARAGRAPH_ 戦国時代における合戦には、大名同士の示威行動や小競り合いといった、低強度の武力闘争から、領地支配を巡っての軍同士の衝突、城を舞台にした攻城戦、籠城戦、戦国時代に含めるか否かは別として、少なくとも戦国時代の延長線上にはある関ヶ原の戦いのように、連合勢力同士の会戦・決戦といった、後の国家総力戦にある程度擬し得る戦争形態、さらには、外征戦争である文禄・慶長の役まで、多様な戦争形態が見られる。_NEWLINE_武力紛争の総数から見れば、その大部分は、隣接する非友好的な勢力が互いに、領地、あるいは、影響を及ぼし得る勢力圏の境境付近において繰り広げる小競り合い・抗争レベルの応酬であった。この中には、敵兵力に対して実力を行使するだけでなく、隣接勢力に対する嫌がらせの意味も含め、日常的な焼討ちや、稲薙ぎ・麦薙ぎといった耕作妨害も含まれており、結果として、そのエスカレーションが、大規模な軍事行動を誘引する面もあった。_NEWLINE_合戦においては武将が名乗りを上げ、それに敵武将が呼応する形で武将同士の一騎討ちで決着を付けることも多くあった。討ち取った武将の首は持ち帰り、これが多いほど手柄とされた。_NEWLINE_1543年に大隅国の種子島にたどり着いたポルトガル人から種子島時尭が鉄砲(火縄銃)を買い取ったのが、日本への鉄砲伝来とされるが、鉄砲の戦闘への導入は大きな軍事的革命であった。これまでの騎馬、弓、槍、長束、刀剣といった武器に鉄砲が加わり、鉄砲隊を組織するようになった。1575年の長篠の戦いでは織田信長は多数の鉄砲を用意して武田勝頼の騎馬隊に壊滅的なダメージを与えた。1584年の沖田畷の戦いでは島津家久・有馬晴信連合軍が数で勝る龍造寺隆信軍を鉄砲隊による奇襲で破り竜造寺隆信を戦死に追い込んでいる。_NEWLINE_各勢力の軍事力には地域差が存在した。織田信長が統一戦のなかで積極的に大砲を使用したのに対して、豊臣秀吉はあまり大砲を使用しなかった。信長は主に技術水準の高い畿内とその周辺の勢力との戦いが多かったのに比べ、秀吉は外域の勢力との戦いが中心だった。そのため大砲を使用する必要性が薄かった。文禄2年(1593年)、肥前・名護屋に参陣した陸奥の大名・南部信直は豊臣軍の軍事力に驚嘆し、やや自虐的に「このたびの御陣など見ずして在所にある人は、誠に虻、蚊にも劣りたるていにて候、唐土・天竺・日本三国のゆるぎたてる御弓矢、末世末代未来にもこれあるまじく候」と記している。戦国・織豊期の軍事力の地域差は非常に大きかったのである。 _START_SECTION_ 城と築城 _START_PARAGRAPH_ 江戸時代の姫路城に見られるような、城郭全体に主要構造として石垣が及び、礎石建物で瓦葺屋根に漆喰塗籠という織豊系城郭や後の近世城郭の特徴は織田信長の岐阜城や安土城などが築かれたころに登場したものである。戦国時代に築城あるいは使用された城の大部分は、基本的に土を盛ったり掘削したりして築く「土の城」であり、石垣は部分的に用いられた程度であった。_NEWLINE_戦国時代の城は従来、室町時代に普及した詰の城として使われる「山城」と生活区域の「居館」との関係性と同じように、防御施設としての山城と山城の麓の「根小屋」と呼ばれる居館の二元構造と考えられてきた。1945年以前、日本の考古学調査は戦国時代の城跡では安土城の天主台と本丸部分で行われたのみで、考古学の対象となっていなかったが、1970年代に田中角栄によって提唱された日本列島改造論によって国土開発が積極的に行われるに当たって、中世の城跡も発掘調査の対象となった。そのころ行われた小谷城の発掘調査によって山上に礎石建物が出土したことから、山城に住居施設が存在したことがわかり、観音寺城や置塩城などでも同様の構造が判明した。なお、小谷城と観音寺城は山麓に居館があったことがわかっている。また、小谷城跡山上からは37,000点の陶磁器の出土があり、このうち食器や灯明に使う素焼きの小皿「かわらけ」が36,000点以上を占めており、小谷城では山上に生活施設があったことが推定されている。これらのことから、戦国時代後半には守護大名や戦国大名などは山麓だけではなく山上にも生活施設を設けて、機能によって使い分けていたと中井均は考えている。また、石垣については従来1576年築城の安土城に始まるとされていたが、それ以前の15世紀後半にも高さ4メートルほどの石垣が積まれた城郭が築かれていたことがわっている。_NEWLINE_近年においては、各戦国大名がそれぞれ得意とし、特徴を持つ築城術を個々に扱った研究も進んでいる。これは各戦国大名固有の戦術ドクトリンとも密接に関連しており、甲斐武田氏領内における城を中心として見られる迎撃と射撃が補完し合う拠点としての丸馬出や、関東の後北条氏領内や九州北部地域の城を中心として見られる敵の侵攻経路を管制する竪堀、あるいは、火縄銃が多く流通した畿内を中心として見られる射撃拠点としての櫓や望楼を多く伴う城など、地域ごとにさまざまな縄張りへの工夫が見られる。16世紀末期になるとこれまでの軍事的拠点としての山城から、商業・経済の中心は平地や沿岸部に築城した平城の城下町へと移っていった。 _START_SECTION_ 経済と社会 _START_PARAGRAPH_ 中世の列島社会は生産力水準から、畿内近国地域・中間地域・辺境地域(先進地帯・中間地帯・後進地帯)の3つの地域に分類されている。_NEWLINE_中世の日本列島では、米と麦の二毛作が普及し、15世紀の畿内では三毛作を実施している地域も存在した(ただし、二毛作が積極的に行われたのは畿内や西日本であって、東日本では殆ど行われなかった)。麦は米と違い非課税で収穫のすべてが農民のものとなる。そのため農民にとって二毛作の重要性は高かった。中世の日本の農業生産は、二毛作の普及のほか用水の整備、土地の改善によって大きく向上していった。一方で戦国時代は小氷期の到来と一致しており、一部識者はこの寒冷化による農作物の減少が戦国時代の原因という説を発表している。東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕府体制の崩壊の一因となった。そして自国の領民を救うには他国の富・食糧を奪う必要が生じてそれが戦乱を生んだという見方もある。_NEWLINE_戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や南蛮貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。_NEWLINE_1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。_NEWLINE_市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。_NEWLINE_その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。_NEWLINE_商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。_NEWLINE_戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。 _START_SECTION_ 「食うための戦争」と民衆 _START_PARAGRAPH_ 藤木久志は著書『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)などで、戦国大名の英雄的な活躍の影で繰り広げられた雑兵たちの「食うための戦争」について論じている。_NEWLINE_武士たちのぶつかり合いによる戦闘という戦場の一般的なイメージの裏で、雑兵たちは戦闘以上に「乱取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していた。放火や刈田による略奪、そして一般民衆や農民を奴隷として拉致するという、現在であれば戦争犯罪にあたる行為が、戦国時代の戦場では(すくなくとも行っている側からは)認められていた。農民から徴用されたばかりの足軽にとって、手柄をあげない限り報酬は出ないが名のある武将を討ち取るのは難しく、また、大名の方でも彼らの士気が下がらないようにしなければならないため、兵たちの乱取りを黙認あるいは推奨した。藤木によれば、越後の上杉謙信(長尾景虎)は他国出兵を積極的に行っているが、これは短期(北信濃)・長期(関東)に関わらず冬期に行われており、「出稼ぎ」と「口減らし」の性格を持つものだという。_NEWLINE_奴隷狩りと略奪は各地で行われた記録が残り、キリスト教宣教師を通じて海外へ売り払われた人々もいた。こうした背景から豊臣秀吉は1587年(天正15年)にバテレン追放令を発布してキリスト教を禁じている。_NEWLINE_なお戦地での略奪以外の刈田は対立する大名領の収穫量を減らし、経済力を奪う目的の謀略という性格が強かった。 _START_SECTION_ 文化 _START_PARAGRAPH_ 戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。_NEWLINE_特に、千利休による茶の湯の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。_NEWLINE_戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村周継、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『鷹図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。_NEWLINE_文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁や細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実や古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。_NEWLINE_公家社会でも近衛家のように足利将軍家と婚姻を結び、地方の大名・武士と朝廷との間を取り持つことで社会的な地位をある程度まで保った層から家領を武士に奪われて生活に困窮し地方に疎開するだけの人脈も持てずに没落した層まで様々であった。永正16年(1519年)に発生した越水城の戦いを巡る当時の近衛尚通の日記『後法成寺関白記』と鷲尾隆康の日記『二水記』を比較すると両者の違いが明らかとなる。近衛尚通の元には合戦当事者を含めた武将やその家臣、僧侶など様々な身分の相手から情報が寄せられて合戦の事情を把握していることが分るのに対して、鷲尾隆康は公家社会の風説を聞いて「恐怖」するのみであったことが知ることが出来る。後者のような公家は武士層など他の階層とのつながりも持つことなく、やがて歴史の中に消えていくことになる(実際に鷲尾家は隆康の代で断絶して江戸時代初期になってようやく再興されている)。_NEWLINE_武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。 _START_SECTION_ 宗教 _START_PARAGRAPH_ 宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。_NEWLINE_日本は飛鳥時代の仏教伝来より、神仏習合に基づいた神や仏への信仰が篤かったが、戦国時代には、さらに天道思想が戦国武将に広がり、「天運」を司るものと認識され、仏教・儒教と神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透されるようになった。 _START_SECTION_ 戦国時代の国土認識 _START_PARAGRAPH_ 戦国時代初期、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」文明9年(1477年)12月10日条に、「就中、天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては、近江・美濃・尾張・遠江・三河・飛騨・能登・加賀・越前・大和・河内、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州・摂州・越中・和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記し、現在の中国、四国、近畿、東海、北陸を以て日本国のことごとくであるとしている。_NEWLINE_一方、戦国時代末の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国・西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)を合わせれば本朝は滞りない状態であるとしている。_NEWLINE_豊臣政権期には国土認識について変化が見られた。ルイス・フロイスは、九州平定の前年の天正14年(1586年)10月17日付書簡では豊臣秀吉のことを「ほぼ全国の君主」としていた。しかし九州平定の翌年、天正16年(1588年)には秀吉を「日本全国の絶対君主」「日本全国の国王」と呼ぶようになっており、豊臣政権期には九州が日本国の一部と認識されていたことがわかる。
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_START_ARTICLE_ 戦国遺文 _START_PARAGRAPH_ 戦国遺文(せんごくいぶん)は、東京堂出版から発行されている戦国時代の古文書を集めた史料集。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 杉山博・下山治久が後北条氏関係の古文書を集成する『小田原遺文』を編纂しようとしたことがきっかけで、『平安遺文』や『鎌倉遺文』のように戦国時代の古文書を集成する計画へ発展した。_NEWLINE_1989年(平成元年)9月から「後北条氏編」が刊行されて完結、その後武田氏・今川氏・古河公方の各氏編及び房総編などの刊行が進められている。 2009年には初めて近畿地方の佐々木六角氏編が刊行された。_NEWLINE_各大名家の当主・一門・家臣の発給文書を中心に年代順に収録し、必要に応じて棟札・奥書なども採録している。房総編のように香取神宮などの寺社文書を取り上げているものなど、その基準は編者によって異なる事例もあるが、戦国時代を扱う古文書の集成は、戦国時代・戦国大名研究に大きく貢献すると考えられている。その一方で現在の編纂が関東地方に偏っており、日本全国の文書の網羅・刊行の実現には長い時間がかかるとみられている。 _START_SECTION_ 後北条氏編 _START_PARAGRAPH_ 1989年から1995年にかけて全6巻を刊行。編集は杉山博、下山治久。その後、1998年に佐脇栄智の校注による別巻(小田原衆所領役帳)、2000年に補遺編(鶴岡御造営日記、快元僧都記)を刊行。 _START_SECTION_ 武田氏編 _START_PARAGRAPH_ 2002年から2006年にかけて全6巻を刊行。補遺の刊行を予定している。編集は柴辻俊六・黒田基樹・丸島和洋。_NEWLINE_長享元年(1487年)から天正10年(1582年)までの戦国期甲斐武田氏に関する文書4300点を収する。第6巻は年未詳文書や穴山勝千代文書、武田氏受給文書、補遺、人名・地名索引など。『山梨県史』資料編が家別・所蔵者別なのに対して、編年別で文書を配列している。_NEWLINE_2007年には鴨川達夫により元亀2年(1571年)4月の武田氏による遠江侵攻は無かったとする新説が提示され、同年12月には柴裕之により追認された。遺文の編集では、この新説に基いて関係文書の年次比定の再検討を行っている。_NEWLINE_『武田氏研究』第45号(2012年)・第50号(2014年)に、その後発見された文書を集成した補遺がまとめられている。 _START_SECTION_ 古河公方編 _START_PARAGRAPH_ 2006年に刊行。 _START_SECTION_ 佐々木六角氏編 _START_PARAGRAPH_ 2009年に刊行。 _START_SECTION_ 今川氏編 _START_PARAGRAPH_ 2010年から2014年に4巻まで刊行(全5巻)。 _START_SECTION_ 房総編 _START_PARAGRAPH_ 2010年から2012年に全4巻を刊行。下総千葉氏・上総武田氏・安房里見氏他の文書を収録。 _START_SECTION_ 瀬戸内水軍編 _START_PARAGRAPH_ 2012年に刊行。 _START_SECTION_ 三好氏編 _START_PARAGRAPH_ 2013年から2014年に2巻までを刊行(全3巻)。 _START_SECTION_ 大内氏編 _START_PARAGRAPH_ 2016年から2017年に2巻までを刊行(全4巻)。 _START_SECTION_ 下野編 _START_PARAGRAPH_ 2017年に1巻を刊行(全3巻)。下野宇都宮氏・那須氏・小山氏・皆川氏などを扱う予定。 _START_SECTION_ 真田氏編 _START_PARAGRAPH_ 2018年から刊行を予定。
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Q11497342
_START_ARTICLE_ 技官 _START_PARAGRAPH_ 技官(ぎかん)は、日本における官職の呼称の一種。一般に、国の行政機関において技術を掌る官職の官名に用いられる。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ この官職名は国家公務員に特有であり、地方公務員では従来地方自治法に基づいて「技術吏員」と呼ばれてきたものに相当する。_NEWLINE_一般に、国家公務員採用総合職試験、一般職試験等において土木、機械、建築等の技術系の区分による試験に合格したものや、乗用車の運転など技芸に関する業務に従事するため国の行政機関に採用された者が技官の官名を受ける。「技術を掌る」とされるものの、実際には土木行政等、技術に関する行政事務に携わるものが多く、適用される俸給表は多く行政職である。しかし、研究職俸給表を適用される政府研究機関の研究者や、医療職の俸給表を適用される医師・歯科医師や看護職等の専門職も含まれ、技官の職務の幅は広い。_NEWLINE_国家行政組織法の昭和25年改正法附則第2項に基づき、各省においては、「技官」の前に省名から「省」の字を省いた名を冠し、厚生労働省であれば厚生労働技官というように呼称する。このほか、個別法によって置かれる内閣府技官、警察庁技官、検察技官、会計検査院技官、裁判所技官などもある。_NEWLINE_戦前の官吏制度においては、技官の官名はなく、技術を掌る官吏は奏任官では「技師」、判任官では「技手(ぎて)」と専ら呼ばれた。_NEWLINE_府省の事務次官に就任するのは事実上事務官に限られていることが多いが、文部科学省では旧科学技術庁採用のキャリア技官が、国土交通省では旧建設省採用の土木系技官が、厚生労働省の医系技官などがそれぞれ就任することがある。_NEWLINE_上記の省以外では、技官が本省局長級以上に昇進することは、厚生労働省(複数の本省局長、医務技監)、農林水産省(一部の局長、林野庁長官)、警察庁(情報通信局長)、気象庁(気象庁長官)の事例を除いて、稀である。しかし、近年は農林水産省の外局である水産庁で技官が長官に就任するなど、一部では人事慣行の変化もみられる。
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Q3565806
_START_ARTICLE_ 折り紙建築 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1981年に茶谷正洋により建築物などの造形を立体的に表現するための手法として考案された。数多くの建築物の折り紙建築がこれまでに発表されている。
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Q24877138
_START_ARTICLE_ 損保ジャパン日本興亜横浜馬車道ビル _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 川崎銀行の本店・支店の建築を数多く手掛けた矢部又吉の設計により、1922年(大正11年)に川崎銀行横浜支店として建設された。矢部は、本建物の北隣の横浜正金銀行本店(現 神奈川県立歴史博物館)を設計した妻木頼黄に師事していた。_NEWLINE_1985年春に建て替えの話が持ち上がったが、所有者の判断により解体は免れ、1989年春に、ファサード保存として建物の一部が残される形で改築が完工した。1988年度には、横浜市認定歴史的建造物の第1号として認定された。_NEWLINE_所有者変更や損害保険業界再編等の理由により、建物名称は複数回変更されている。 _START_SECTION_ 建築 _START_PARAGRAPH_ 旧建物はネオルネッサンス建築で、白い石造りの建物であった。1階には、イタリアによく見られる「ルスティカ積み」と呼ばれる粗さを持たせた仕上げとなっている。改築にあたり、馬車道に面する側の全面と、弁天通り側の一部に旧建物の外壁が使われた。1階の一部を公開空地とすることにより容積率の緩和を受け、従来より高い建物が可能となった。増築部分は、晴れた空をイメージした青いミラーガラスが使用されている。1990年には、日本建設業連合会主催の第31回BCS賞を受賞した。_NEWLINE_テナントには損害保険ジャパン日本興亜の代理店のほか、地下にはバー、一部がドーム状となった最上階にはステーキハウスが営業している。
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Q1170179
_START_ARTICLE_ 救命艇 (映画) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 狭い艇内に集った数名の男女による漂流を描いたジョン・スタインベックの小説を、ジョー・スワーリングが脚色、ヒッチコックが巧みな心理描写をいかして密室サスペンスに仕上げた。_NEWLINE_おなじみのヒッチコックのカメオ出演は。限定された空間が舞台とあって難航した(水死体の役も考えたという)が結局、新聞の「やせ薬」広告モデルとして登場した。_NEWLINE_1993年には、舞台を宇宙に置き換えてリメイクした "Lifepod" (日本では劇場未公開、ビデオタイトル「ライフポッド〜救命艇」)が制作されている。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 第二次世界大戦下、イギリスに向かう途中であった客船がドイツ軍のUボートの攻撃を受け沈没してしまう。辛くも撃沈された船から逃れた男女数名は、1隻の救命艇に乗り合わせる。攻撃したUボートも連合国軍の攻撃で撃沈されるが、奇しくもその乗組員が新たな避難者として救命艇に加わる。
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Q5951541
_START_ARTICLE_ 文公 (曹) _START_PARAGRAPH_ 文公(ぶんこう、? - 紀元前595年)は、中国の春秋時代の曹の君主(在位前618年 - 前595年)。姓は姫、名は寿。共公の子として生まれた。紀元前618年8月、共公が死去すると、文公が後を嗣いで曹公として即位した。紀元前612年、晋・宋・衛・蔡・鄭・許の諸侯らと扈で盟を交わした。紀元前602年、晋・魯・宋・衛・鄭の諸侯らと黒壌で会合した。紀元前600年、文公は晋・宋・衛・鄭の諸侯らと扈で会合した。紀元前595年5月壬申、文公は死去し、子の宣公が後を嗣いで曹公として即位した。
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Q17158507
_START_ARTICLE_ 斉藤京二 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1976年9月11日、新格闘術にてプロデビュー。_NEWLINE_1986年11月24日、MA日本キックボクシング連盟ライト級王者。_NEWLINE_2007年NJKFの理事長に就任。OGINI GYM会長就任後はTOMONORI、米田貴志、岩井伸洋、中須賀芳徳、ソムチャーイ高津、孫悟空丸山、AVIS、DJ.taiki、鈴木翔也、凌太などの選手を育てあげた。_NEWLINE_2014年4月14日、WBCムエタイ2013年度東洋太平洋地区ベストプロモーター賞受賞。
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Q55540912
_START_ARTICLE_ 斬、 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 監督の塚本は、「1本の刀を過剰に見つめ、なぜ斬らねばならないかに悩む若者を撮りたいと思った」と明かし、江戸時代末期の農村を舞台に、一人の浪人と周囲の人々を通して描かれる「生と死」の問題に迫る。時代劇ながらも現代人が持つ感覚を投影させ、開国論で揺れた時代を描いている。_NEWLINE_撮影は全編、山形県の鶴岡市内で2017年8月末から9月にかけてに行われた。_NEWLINE_長年にわたり塚本作品の音楽を手掛けてきた石川忠が2017年12月に亡くなり、この作品も石川が音楽を担当していたが、監督の塚本が受け継ぐ形で石川の作り上げてきた音楽を編集し完成させた。これにより、第51回シッチェス・カタロニア国際映画祭の最優秀音楽賞を受賞した。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 250年ものあいだ泰平の世が続いた江戸時代末期。困窮で藩を離れる武士も多く、江戸近郊の農村に身を寄せる若き浪人・都筑杢之進(池松壮亮)もその一人だった。杢之進は農家を手伝い食つなぐ日々を送りながら、農家の息子・市助(前田隆成)に剣の稽古をつけ自身の腕も磨き続き、市助の姉・ゆう(蒼井優)とは身分の違いがありながらも密かに想い合っていた。この頃、国内は開国するか否かで不穏な空気が漂い、ゆうは杢之進が村を離れ中央へ参戦する日が近づいている事と武士に憧れる血気盛んな弟を心配していた。ある日、三人は一人の剣豪・澤村(塚本晋也)と出くわす。杢之進と市助の稽古を見ていた澤村は杢之進の剣の腕にすっかり惚れ込み、自分の組織の一員として江戸へ行き、泰平を守るため京都の動乱に参戦しないかと二人に声を掛ける。誘いを引き受け、市助は農民の自分も連れて行ってもらえると喜ぶが、杢之進は剣の才能はあるが人を斬った事が無くそんな自分に葛藤する。そんな時、どこからか流れ着いてきた無頼者(中村達也)たちが村にやって来る。悪い噂の立つ彼らの存在に農民たちは怯え、剣の立つ杢之進にどうにかしてほしいと願うが、杢之進たちが江戸へ旅立つ前に小さな村で事件が起きる。 _START_SECTION_ 評価 _START_PARAGRAPH_ 第75回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門で受賞は逃すが、審査員長を務めた映画監督のギレルモ・デル・トロは本作を「サムライを兵器として描き、刀で斬ることの理由を問う残忍な寓話。パンクな鉄男シリーズにも通じる作品に込められた強烈なテーマ性。」と評し、2018年のお気に入り映画にも選出した。第69回芸術選奨の文部科学大臣賞を塚本晋也が本作で受賞した際には「日本映画史上の時代劇に敬意を払いつつ、『人を斬る』ことの意味を通じ、今までの時代劇には見られない『生と死』を巡る哲学的な考察に踏み込んでいる。」と受賞理由が発表された。映画監督のイ・チャンドンは主演の池松との対談で、「池松さんが演じている侍は今までに観た日本映画のどの侍とも違う、純粋な人間の姿をしていました。」と本作で池松が演じた人を斬れずに葛藤する浪人の姿を評した。
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Q11502314
_START_ARTICLE_ 新撰万葉集 _START_PARAGRAPH_ 『新撰万葉集』(しんせんまんようしゅう)は、私撰の歌集。2巻1冊または2冊。菅原道真撰と伝える。ただし下巻は別人の撰という。_NEWLINE_上巻には寛平5年(893年)9月25日、下巻には延喜13年(913年)8月21日の序がある。寛平御時后宮歌合、是貞親王家の歌合中の歌その他242首を真名で書き、左傍に七言絶句を配する。_NEWLINE_上巻は四季、恋、下巻は四季、恋、女郎花(女郎花は載せない本がある)。万葉集から古今和歌集までの間の唯一の撰集。
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Q11502480
_START_ARTICLE_ 新春 こだま&ワイドビューフリーきっぷ _START_PARAGRAPH_ 新春 こだま&ワイドビューフリーきっぷ(しんしゅん こだま&ワイドビューフリーきっぷ)は、東海旅客鉄道(JR東海)が発売していた正月限定の特別企画乗車券(一日乗車券)である。_NEWLINE_「普通車自由席用」と「グリーン車4回用」の2種類がある。
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Q11503554
_START_ARTICLE_ 新潟県道77号上越頸城大潟線 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 上越市有数の水田地帯を南北に縦貫する路線である。
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Q17209941
_START_ARTICLE_ 新美南吉童話賞 _START_PARAGRAPH_ 新美南吉童話賞(にいみなんきちどうわしょう)は、児童文学作家・新美南吉の出身地である愛知県半田市教育委員会が主催する創作童話を対象とする公募新人文学賞。1989年に制定。受賞作品は、作品集に収録され、各地の図書館などに寄贈される。
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Q11506512
_START_ARTICLE_ 日本ジェットエンジン _START_PARAGRAPH_ 日本ジェットエンジン株式会社(にっぽんジェットエンジン)は、日本の国策ジェットエンジンメーカー。略称はNJE。T-1 中等練習機に搭載するジェットエンジン「J3」の開発を行った。 _START_SECTION_ 時代背景 _START_PARAGRAPH_ 1952年(昭和27年)にGHQ SCAPによる航空禁止が一部解除され、日本企業による航空機製造が再開されたが、時代はすでにレシプロエンジンからジェットエンジンに移り変わっていた。第二次世界大戦中には数多くの軍用機を開発してきた日本企業だったが、時代の移り変わりはあまりに激しかった。かつての日本も元々エンジンには弱く、それでもレシプロは何とか物にしたが、開発にこぎつけたジェットエンジンは海軍航空技術廠の敗戦直前に完成させた「ネ20」のみだった。_NEWLINE_1954年(昭和29年)に発足した防衛庁と航空自衛隊には、アメリカ合衆国空軍から続々とF-86F戦闘機やT-33A練習機といったジェット機が供与され、これらは1955年(昭和30年)にそれぞれ戦前の航空機メーカーであった新三菱重工と川崎航空機がノックダウン生産、後にはライセンス生産することとなり、日本人は初めて本格的にジェットエンジンに携わるようになった。 _START_SECTION_ 国産ジェットエンジンの開発 _START_PARAGRAPH_ 一方、日本でも独自にジェットエンジンの開発を行うべく、通商産業省(現経済産業省)は、1952年(昭和27年)11月に国会で「航空機製造法」が施行された後、航空機生産審議会において「我が国航空機工業の再建振興方策」の諮問第一号を出し、翌年6月に「ジェットエンジン試作研究に関する特別措置」を公表して、試作するメーカーには助成金を出すとして募集した。_NEWLINE_最初に名乗りをあげたのは大宮富士工業だった。戦前に三菱と互角に航空機を作った中島飛行機は完全に解体され、航空再開後は工場毎の富士重工業と富士精密工業など数社にまとまった。その中の大宮富士工業の技術者、渋谷巌は日本が追いつくにはジェットエンジンを物にしなければならないと感じ、元中島のエンジン部門だった富士精密の協力を得て、助成金320万円を受け、1953年(昭和28年)から独自に欧米の文献を読み漁りながらジェットエンジンを開発し、翌年には戦後初の国産ジェットエンジン、「JO-1」を完成させてしまった。しかしJO-1は馬力が出ず、地上で試運転するだけであった。このことから渋谷は、ジェットエンジン開発には国や大企業の強力な支えが無ければものにならないと痛感した。 _START_SECTION_ NJEの設立 _START_PARAGRAPH_ 最初の富士重工に金は出せたものの、石川島播磨重工業などが次々に提案をしてきたため、とても各社に資金を供出するわけには行かなくなり、希望各社に対して共同出資で会社を設立するように指導した。そこで、石川島播磨、富士重工、富士精密、新三菱の4社が共同出資して資本金1億6千万円の日本ジェットエンジン株式会社(NJE)を設立した。_NEWLINE_NJEは最盛期には180人の従業員を従え、部長クラスは戦前の航空技術者が就いて率いた。また、戦前の航空産業を知る技術者たちは、軍人、つまりは役人が技術も知らないのに注文ばかりしてくることに苦しんだため、官庁からの天下りは全て拒否した。_NEWLINE_NJEは富士から引き継いだJO-1の研究を続けるとともに、独自に推力3トンのJ1の計画も進めた。しかし計画を進めるためには10億円(当時)ほどが必要と見積もられ、これを開発と会社設立をけしかけた通産省が大蔵省(現財務省)から引き出してくれるだろうと考えていた。_NEWLINE_ところが、最初に意気込んでジェットエンジン開発をけしかけたはずの通産省は、欧米のあまりに進んだエンジン技術を見るにつけ、次第に弱気になっていた。大蔵省にもエンジンの国内開発の重要性を説明できずに予算を勝ち取ることもできなかった。いっそのこと防衛庁がやらせているように、アメリカ製エンジンのライセンス生産のほうが、開発費もかからずに技術のおいしいところだけ取得できるのではないか、などと考え始めていた。開発を決定する前、世界のジェットエンジン技術がどうなっているかを知らず、勢いに任せて提案しただけだったのである。_NEWLINE_通産省の募集に乗り、通産省の指導で会社を設立し、すでに国産開発という方針を定めてしまったNJEは開発費を取得できず、自分たちを見放しつつあった通産省を批判した。しかし豹変した通産省の冷たい姿勢は変わらず、見通しは全くつかなくなった。実用的な大型エンジンの開発を計画していたが、結局J1よりもさらに小型のエンジン開発に後退してしまった。_NEWLINE_そんな折、防衛庁から「推力1トン程度の小型ジェットエンジンを搭載した航空機を求めている」といった声がもれてきた。これが後に中等練習機T-1となる機体である。日本初のジェット練習機であるT-1は、搭載するターボジェットエンジンもまた国産品であることが望まれた。エンジンは機体の開発とほぼ同時に進められることとなったが、1955年(昭和30年)5月に、T-1搭載の試作エンジンXJ3への要求が防衛庁から寄せられ、12月には庁議でエンジン試作が決定し、翌1956年(昭和31年)3月末にNJEと防衛庁でエンジン試作の契約を行った。_NEWLINE_エンジンの設計、開発はほぼ順調に進み、6月末には後にJ3と名づけられる試作エンジン(XJ3-3)が完成した。しかし、11月からの試運転では至るところで故障、破壊が相次ぎ、問題は山積みとなった。12月には初号機が防衛庁に納入されたが、庁内でもやはり問題が相次ぎ、使い物になるにはおよそ2年半を費やした。_NEWLINE_XJ3エンジンが量産に移れないことはNJEを焦らせていた。T-1量産第一期の20機には間に合わず、第二期の20機にも間に合わず(これらは試作機6機とあわせてT-1Aとなった)、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。 _START_SECTION_ 解散へ _START_PARAGRAPH_ 小型エンジン開発にも手間取っている様子から、NJEには途中で通産省の行政指導によって川崎航空機も参加した5社体制になっていたが、その5社の首脳によって1959年(昭和34年)初頭、NJEの今後について話し合いが持たれた。防衛庁がXJ3改めJ3エンジン生産の責任をはっきりさせるため、寄り合い所帯で曖昧になりやすいNJEから一社に集約し、品質やコストを保証していく体制を要求したのである。_NEWLINE_J3は防衛庁が50機程度を受注することとしていたが、それは開発が長引いたために開発費が暴騰し、量産台数が少ないためにメーカーにとって膨大な赤字が伴うことであった。5社によって様々な話し合い、駆け引きが行われたが、結局は石川島播磨重工業に製造権を渡し、各社が協力する、という形で収まった。実質、この時点で4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引いた事になる。金も時間も膨大にかかって、なおかつ質の悪いエンジンしか完成できなかった日本の実力を思い知らされ、得意の機体や他の事業に専念することにしたのである。_NEWLINE_年内に開発を正式に引き継いだ石川島播磨は、試作XJ3の各種の試験と改善を行い、量産先行機YJ3-3を7月に完成させた。翌1960年(昭和35年)にYJ3-3を、T1F2の試作1号機に搭載(ブリストル・シドレー オーフュースから換装)し、T1F1として5月17日に初飛行した。J3の量産は石川島播磨に引き渡され、NJEは解散した。1961年(昭和36年)に防衛庁によって制式採用され、J3-3となった。_NEWLINE_50基を受注したはずのJ3だったが、F-104戦闘機の導入によって教育方針が転換され、T-1の配備数を削減することから、第三期分の20基で終了してしまった。_NEWLINE_石川島播磨はその後もJ3の改良開発を行い、1967年(昭和42年)から海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機(川崎製)の補助エンジンとしてJ3-7C/Dが採用された。また、積極的な海外エンジンのライセンス生産を通じて勢力を拡大し、海外のエンジン開発にも積極的に参加、国内シェアの7割以上を占めるまでに成長した。このとき手を引いた三菱と川崎は、後にエンジンのライセンス生産や共同開発に参加するが、技術力は大きく水を開けられてしまい、また火付け役だった富士は航空エンジン産業に回帰することはなかった。_NEWLINE_なお、純国産エンジンはT-4練習機のF3ファンジェットで復活し、実証エンジンXF5-1を経て、P-1哨戒機のF7-10へ至るが、これらは全て石川島播磨が主体となって開発したものである。
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Q11506672
_START_ARTICLE_ 日本テレビ長野支局 _START_PARAGRAPH_ 日本テレビ長野支局(にほんてれびながのしきょく)は1980年10月1日に長野県のNNN加盟局テレビ信州(TSB)が開局するまで設置されていた日本テレビ放送網の支局である。長野県内における報道取材のために設置されていた。 _START_SECTION_ 概要・歴史 _START_PARAGRAPH_ 長野県の民間放送局として初のテレビ放送を開始した信越放送(SBC)は、1958年10月25日開局時点でのキー局、日本テレビ及びラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)とクロスネットを組み、それ以降番組はフリーネット(1991年3月31日まで続く)という編成を基本とするが、ニュース系列はSBCに朝日新聞社が出資している関係から、JNN(1959年8月1日発足)に加盟。番組販売ではなくJNN排他協定が適用される正式加盟であったため、日本テレビ系の報道番組「きょうの出来事」を含めたNNNの全報道番組をネットすることはもとより、同社を介しての取材活動も不可能となっていた。_NEWLINE_日本テレビはJNN発足(=SBCのJNN加盟)以降報道局が直接取材していたが、1966年4月1日のNNN発足後は長野県長野市に支局を設置し、そこからの取材に移行している。支局は読売新聞の長野支局が入っていた建物と同居していた(読売新聞長野支局は当該支局の廃止後、移転している)。_NEWLINE_1979年12月3日に日本テレビ系列として初の単独系列局となるTSBが設立され、取材活動はTSBへと移行されることが決まったことから、TSB開局の1980年10月1日をもって同支局は廃止されている。ちなみにTSBは開局から第4局(長野朝日放送[abn])開局までの10年半にわたりテレビ朝日とのクロスネット局であったが、テレビ朝日は日本テレビとは異なり、TSB開局以前には長野県内に取材拠点を設けていなかったという(テレビ朝日本体ではなく、関連会社で当地での報道取材を委託されていたテレビ朝日映像[朝日テレビニュース社→NET朝日制作→テレビ朝日映像]が実際の取材活動を行っていたことによる)。
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Q241257
_START_ARTICLE_ 日本レコード大賞 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1959年に創設され、1970年代から80年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)。_NEWLINE_これにより賞の権威は大きく低下し、第36回(1994年)には大賞受賞者が授賞式に出席しないという異例の事態となった。それ以降、歌手が受賞を辞退した場合または歌手がその年に死去した場合、その楽曲は大賞受賞曲とはならない。 _START_SECTION_ 審査への批判 _START_PARAGRAPH_ 2014年に審査委員を務めるスポーツニッポンが、大賞決定と同時刻に受賞作品の詳細をネットニュースで配信したため、事前にどの作品が受賞するかわかっていたのではないか、という疑惑が生じた。_NEWLINE_2015年には、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた。この種の癒着は1970年代ころからあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している。_NEWLINE_この様な中、審査委員を務める産経新聞は2015年に自ら、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した。また、大賞常任実行委員で音楽家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた。_NEWLINE_『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた1億円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている。 _START_SECTION_ 賞の創設 _START_PARAGRAPH_ 戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、年配世代がレコードを通じて歌謡曲を、若者世代がコンサートを通じて新音楽をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた。_NEWLINE_1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指す。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞である。_NEWLINE_しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担せざるを得なかった。 _START_SECTION_ 草創期 _START_PARAGRAPH_ 古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」、歌手は本作でデビューの水原弘、作詞は放送作家の永六輔、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した中村八大という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している。_NEWLINE_以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年頃には姿を消した。初めの数年は賞自体の知名度が低く、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など小規模の会場であった。 _START_SECTION_ 黄金期 _START_PARAGRAPH_ 1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19:00-21:00に本選を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始、更に会場を帝国劇場に移し、司会には高橋圭三を起用した。更に伴奏にはビッグバンドと当時の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団)、各種管打楽器(オーボエ、ホルン、ティンパニなど)、それに合唱団が並び、長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。_NEWLINE_演出に力を注ぎ、更に国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる。_NEWLINE_賞の権威は絶好調であったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年ころ、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、更にこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。 _START_SECTION_ 衰退期 _START_PARAGRAPH_ 1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。_NEWLINE_第27回(1985年)から会場を日本武道館に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、第28回(1986年)で視聴率が30%を割り込む。_NEWLINE_1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。_NEWLINE_第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、第35回(1993年)で廃止された。_NEWLINE_第36回(1994年)では、大賞を受賞したMr.Childrenが欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場がTBS放送センターに移る。_NEWLINE_第46回(2004年)からは紅白歌合戦や『年忘れにっぽんの歌』の出演でNHKホール(渋谷区)や新宿コマ劇場(新宿区)とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移した。_NEWLINE_第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。 _START_SECTION_ 放送 _START_PARAGRAPH_ 発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(JRN全国17局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。_NEWLINE_また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年からは2回)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている(TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、その部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある)。_NEWLINE_TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。_NEWLINE_第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。 _START_SECTION_ テレビでのネット局 _START_PARAGRAPH_ JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。_NEWLINE_静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた。_NEWLINE_近畿広域圏では1974年の第16回までは朝日放送(現:朝日放送テレビ)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送でのネットになる。_NEWLINE_福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。_NEWLINE_1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。_NEWLINE_2001-2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。 _START_SECTION_ ラジオでのネット局 _START_PARAGRAPH_ 1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)に留まっている。_NEWLINE_JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。なお、福井放送のように、テレビがJNN系列でない局が、ラジオだけで放送するケースもある。_NEWLINE_青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。_NEWLINE_西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。_NEWLINE_毎日放送では1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。第54回(2012年)は再びネットしたが、第55回(2013年)以降は自社制作枠の確保のため、再び放送されなくなった。
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