wikidata_id
stringlengths 2
9
| text
stringlengths 44
216k
| version_id
stringlengths 14
20
|
---|---|---|
Q11541376 |
_START_ARTICLE_
業平道
_START_PARAGRAPH_
業平道(なりひらみち)とは、平安時代の貴族・歌人である在原業平が大和国と河内国を行き来した際に通ったとされる道筋の総称。 その道筋は下記のとおり諸説ある。
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
在原業平とされる人物が自邸のある大和国(現在の天理市)から河内国(現在の八尾市)へ通っていた記述が『伊勢物語』やそれを基にした能・謡曲『井筒』、『大和物語』、『河内名所図会』、『河内鑑名所記』などに記され、所謂「業平の高安通い」伝説の根拠とされている。_NEWLINE_伊勢物語において業平は高安郡にある玉祖神社参拝の折、神立村の福屋という茶店の娘・梅野に恋をして、八百夜も通いつめた。『井筒』では枚岡明神詣での途中で高安の女と出会うことになっている。_NEWLINE_なお、その道筋については記述や解釈により大きくは二手に分かれている。
_START_SECTION_
櫟本町(天理市)から龍田(斑鳩町)まで
_START_PARAGRAPH_
天理市櫟本町から斑鳩町龍田までほぼ東西にまっすぐ通っていた。条里制に沿った直線で構成され、所謂横大路に沿っていたと考えられる。途中の斑鳩町の東部に高安と呼ばれる地名があり、この地に「業平の高安通い」伝説が伝わる。業平が河内国へ通った際の通り道だったため、村の美人たちは業平に連れて行かれないようにするため顔に鍋墨を塗ってわざと醜くしたという。のちに村人は業平のことを忘れないように地名を高安村と改めたという。 地区内の富雄川に架かる橋は業平にちなんで「業平橋」と名づけられた。_NEWLINE_斑鳩町西部を流れる竜田川を題材とした歌を業平は残している。
_START_SECTION_
龍田(斑鳩町)から高安(八尾市)まで
_START_PARAGRAPH_
この間で2通りのルートが伝わっている。
_START_SECTION_
十三峠越え
_START_PARAGRAPH_
いわゆる十三街道を通る道筋であり、そのまま目的地である神立茶屋辻(八尾市神立)にたどり着く。恋に冷めた業平が逃げ帰ったとされる道筋は十三峠越えの少し南のおうとう越である。玉祖神社には業平が娘を呼び出すために吹いた笛が伝わっている。
_START_SECTION_
大県郡経由
_START_PARAGRAPH_
大県郡(太子道、竜田越奈良街道)を通り、大県郡太平寺から北上する。東高野街道よりは東の山側を通っていた。柏原市太平寺にある石神社のそば、太平寺会館横の道が業平道であるとされる。また、柏原市大県には業平の歌碑が建立されている。しかし柏原市北部から八尾市にかけての道筋はハッキリとは残っていない。 | 351807672775148570 |
Q5578124 |
_START_ARTICLE_
極楽駅
_START_SECTION_
概要・駅名
_START_PARAGRAPH_
2008年に開業した、明知線で最も新しい駅。駅名は公募に寄せられた案のうち、駅所在地付近の字名および駅近くに鎌倉時代から南北朝時代にかけて存在した寺院「極楽寺」に由来して決められた。極楽寺駅や極楽橋駅は他の鉄道で先例があったが、極楽駅は日本初であることも理由であった。_NEWLINE_仏教において浄土を意味する縁起が良い駅名であることから、駅自体を目的に訪れたり、硬券の切符を買い求めたりする旅行者も多い。プラットホームには地蔵菩薩像や、地元岩村藩出身の儒者・佐藤一斎の『言志四録』の一文を刻んだ碑文などが置かれている。_NEWLINE_建設費は約2160万円。地元岐阜県に本社があるスーパーマーケットのバローから1,080万円(費用の半額に相当する)の寄付金が寄せられた。バローは新駅設置に前後して、駅前にショッピングセンターを開業している(「駅周辺」参照)。
_START_SECTION_
駅構造
_START_PARAGRAPH_
単式1面1線の無人駅。ホームは愛知万博開催時に愛知環状鉄道 万博八草駅(現・八草駅)のホーム拡張に使われたものを再利用している。
_START_SECTION_
駅構造
_START_PARAGRAPH_
1面1線の単式ホームのみを持つ地上駅。無人駅である。 | 2134809588049956446 |
Q1157671 |
_START_ARTICLE_
榎本大輔
_START_PARAGRAPH_
榎本 大輔(えのもと だいすけ、1971年(昭和46年) - )は、千葉県松戸市出身の実業家である。現在は香港に在住。Dice-Kという通名を自称している。流通経済大学付属柏高等学校卒業、ウェストンワース工科大学の講義を聴講。_NEWLINE_かつて存在した大規模草の根BBS 東京がらくた工房 SYGOPであり、当時のハンドルネームは「Dice-K」であった。_NEWLINE_起業のきっかけであった「エクサモデム」は、当時国内製高速モデムが高価であったため、同BBSでの予約販売形式による輸入であった。 | 11918758894458532865 |
Q226952 |
_START_ARTICLE_
構成
_START_PARAGRAPH_
構成(こうせい、英:Composition、コンポジション)とは、目的に従って統一的にすることである。 _NEWLINE_なお、ある目的に従って構成された組織のメンバーを構成員という。本項には哲学と美学における構成の概念を解説するがこの他にも音楽の作曲をさして構成という場合もある。(コンポーズ)
_START_SECTION_
哲学における構成
_START_PARAGRAPH_
哲学において構成とは主に概念操作により認識対象を組み立てる事である。また、そうしてできた対象も構成と言うことがある。絶対的観念論では絶対者からの自然および歴史の構成が、相対的観念論では、感覚要素から知識対象への構成が説かれている。 | 17701131610746455110 |
Q11541968 |
_START_ARTICLE_
構造構成主義
_START_PARAGRAPH_
構造構成主義(こうぞうこうせいしゅぎ、英: structural-constructivism)とは、人間科学においてありがちな信念体系どうしの対立(信念対立)を克服し、建設的なコラボレーションを促進するための方法論・思想・メタ理論のことである。構造構成学、超メタ理論と称されることもある。
_START_SECTION_
概論
_START_PARAGRAPH_
フッサール、ソシュール、丸山圭三郎、池田清彦らの方法論・思想を組み合わせて生まれたメタ理論である。_NEWLINE_人間というのは、各人、自身が心に持っている理論体系を信奉し、その理論体系に沿ってある手順で生み出された「記述」を(それは本当は、いつのまにか学習・刷り込みされた、恣意的な規則で生まれたものにすぎないのだが)てっきり「絶対の真理」そのものだと思い込んでいるものだから、信念どうしの救いようのない対立というものが生まれている。_NEWLINE_そこで、構造構成主義では、それを回避する方法を採用している。つまり、「構造」ではなく「現象(=各人が感じている内容)」のほうを、より重視するのである。_NEWLINE_西條剛央などによって体系化された。
_START_SECTION_
ベースになっているさまざまな方法論や思想
_START_PARAGRAPH_
構造構成主義は、フッサール−竹田青嗣の現象学、ソシュールの言語学、丸山圭三郎の記号論、池田清彦の構造主義科学論、ロムバッハの構造存在論などの知見、方法論などを組み合わせ、生まれた。
_START_SECTION_
重要視するもの:「現象」
_START_PARAGRAPH_
まず若干の用語説明をしながら解説する必要がある。「現象」という言葉は、分野ごとに様々な意味で用いられているが、構造構成主義における「現象」とは(現象学などにおける用法に相当するものであり)「経験を通して各人に立ち現れたすべての何か(=人々が感じる感覚内容、あるいは、いわゆる感覚質など)」を意味する。「構造」とは、同一性あるいは「同一性の関係形式」およびそれらの総体である。なお、構造構成主義では、「現象」には夢や錯覚も含まれる。_NEWLINE_構造構成主義においては、信念の対立を克服するために、どのような信念を持っている人にとっても明らかだと思われる点から論理を組み立てる。そのために、構造構成主義では人為的に構成された「構造」よりも、「現象」(人々が現に感じている感覚内容)を最も尊重する。_NEWLINE_「構造」というのは、「現象」(=感覚内容)を、そこに見出される「同一性」という基準で(恣意的に)構造化したものである。つまり、そこにはすでに原理的に見て、何かしら疑わしい点が混入しており、修正されなければならない可能性や、洗練しなければならない可能性がある。それに比べて、「現象(=感覚内容)」というのは、その中身に関係なく(=理屈をこねる前から)、誰にとっても疑いようもなく(各人の心に)立ち現れている。したがって、疑わしい点のある「構造」というものと、疑いようもなく立ちあらわれている「現象(=感覚内容)」とを比較した場合、「現象」を尊重する。
_START_SECTION_
構造構成主義が採用している二つの理論体系
_START_PARAGRAPH_
構造構成主義と、現象学的概念や構造主義科学論との間には、共通点がある。
_START_SECTION_
現象学的概念
_START_PARAGRAPH_
現象学的概念は、関心相関性と信憑性からなる。関心相関性とは、「存在や意味や価値というものは、(絶対的なものではなく)、主体(=観察者や受け手)の身体や欲望や関心といったものと相関するかたちで決まる」、という原理である。構造構成主義では、信念対立を解消し、建設的コラボレーションを実現するために、関心相関性を中核原理に位置づけている。(つまり、存在や意味や価値が絶対なものだなどとは見なさず、あくまで見る人の身体状況や欲望の状況や関心の度合いによって決まるのだ、と見なす)。_NEWLINE_この関心相関性は中核となる概念なので、これが理解できれば、構造構成主義の重要性は理解できる。_NEWLINE_構造構成主義において、「信憑性」とは、疑い難い確信のことである。構造構成主義では、「客観的真理」などという概念は、徹底した懐疑には耐えられない概念であるとし、そういったものは採用しない。それに代わって「信憑性」という概念を導入している。
_START_SECTION_
構造主義科学論
_START_PARAGRAPH_
構造主義科学論とは、池田清彦によって体系化されたメタ科学論、あるいは科学論である。その要点は「科学は真理の探究ではなく、同一性(構造や形式)の追求である」というものである。構造主義科学論を採用すれば、「主体とは独立自存する外部実在」などというものは仮定しなくとも、科学的営みが実行可能となる。また、構造主義科学論は異なった認識論の間で、どうしても言葉が通じなくなってしまうという、「共約不可能性」の問題を、その根底から解きほぐしてくれる方法論でもある。_NEWLINE_構造構成主義では、構造主義科学論を帰納主義や反証主義といった従来の科学論の上位レベル(あるいは別の言い方をすれば基底部)に位置づけ、メタレベルの認識論すなわち「超認識論」という認識の次元(領域)を確保することで、人間科学のあらゆる領域に用いることができるような科学論的基盤を整備しているのである。_NEWLINE_この現象学的概念と構造主義科学論は、次に説明する「哲学的構造構成」と「科学的構造構成」に共通した概念として位置づけられている。
_START_SECTION_
哲学的構造構成
_START_PARAGRAPH_
「哲学的構造構成」とは、「疑い難い確信」が成立するための条件を解明する哲学的営みである。哲学的構造構成は、判断中止、還元といった現象学的思考法と、「記号論的還元」、「科学論的還元」といった記号論を含んでいる。「哲学的構造構成」は、信念対立を回避するための認識論の基盤となっている。
_START_SECTION_
科学的構造構成
_START_PARAGRAPH_
「科学的構造構成」とは、人間科学のあらゆる領域で用いることができるような、科学的営みを保証する。「科学的構造構成」には、関心相関的選択、構造化に至る軌跡、関心相関的継承、アナロジー法といった、人間科学で用いられる方法論が整備されている。科学的構造構成は信念対立に陥らないために、認識論的、方法論的多元主義の理論的基盤を有している。
_START_SECTION_
応用・発展
_START_PARAGRAPH_
構造構成主義の特徴のひとつに、非常に優れた汎用性を挙げることができる。構造構成主義は西條剛央によって体系化されるとほぼ同時に、心理統計学、質的研究、発達研究、知覚研究、医学、作業療法、古武術、認知運動療法、QOLといった領域で応用された。その後、歴史学や政治・経済、文学そして教育学といった領域へ応用(継承)が行われた。_NEWLINE_すでに、提唱者である西條剛央の他にも、京極真など構造構成主義者を自認する人びとがいる。
_START_SECTION_
ふんばろう東日本支援プロジェクト
_START_PARAGRAPH_
「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は、2011年3月11日の東日本大震災による危機的状況に対応するために西條剛央が立ち上げた、構造構成主義といくつかのソーシャルネットワークサービスを活用した自律的なクラウドソーシング・プラットフォームである。2011年4月1日に被災地支援のボランティア組織として開始して以降、必要に応じて様々なプロジェクトを立ち上げ、支援を続けていった。そして、各プロジェクトを事業化し、仕事として地元に渡すという目標と共に、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」という大きな枠組みは2014年9月末に解体された。_NEWLINE_解体に至るまでに、50以上のプロジェクト、支部、チームによる大規模かつ多岐に渡る支援活動を行った。「物資支援プロジェクト」では、3000ヶ所以上の避難所・仮設・自宅避難宅に 15万5000品目に及ぶ物資を支援。 Amazon.comの「ほしいものリスト」を活用するシステムによって、2万4000個以上の物資送付を実現させた。(2012年1月時点)「大量送付プロジェクト」では、ものの行き場をなくしていた膨大な物資を、同様の方法で被災者へマッチングさせることに成功し、「家電プロジェクト」では、行政や日本赤十字社からの支援が受けられない個人避難宅へ、 夏冬あわせて総計2万5000世帯以上に家電を送った。_NEWLINE_なお、アルス・エレクトロニカという世界で最も歴史あるデジタルメディアコンペティションのコミュニティ部門において、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」が最優秀賞にあたるゴールデン・ニカを受賞した。このコミュニティ部門では、過去、Webの創設にあたるWWW(World Wide Web)や Wikipediaがゴールデン・ニカを受賞、WikiLeaksが準グランプリを受賞している。
_START_SECTION_
臨床現場における信念対立解消
_START_PARAGRAPH_
構造構成主義の応用となる目的相関的実践原理が臨床現場にて活用された。ある臨床医に「病棟を変えるには10年かかる。」と言われたが、10ヶ月で病棟から信念対立が減少し、皆が活き活きと働きだすことになったという。 | 18198687874227173522 |
Q30928936 |
_START_ARTICLE_
樊他広
_START_PARAGRAPH_
樊他広(はんたこう、生没年不明)は、紀元前2世紀に中国の前漢にいた人である。『史記』は他広、『漢書』は佗広と書く。舞陽侯(紀元前150年 - 紀元前144年)。_NEWLINE_漢の功臣樊噲の孫で、景帝7年(紀元前150年)に父の樊市人の後を継いで舞陽侯になった。後、他広の舎人(身分の低い家来)が罪を得て他広を恨み、景帝中元6年(紀元前144年))に訴え出た。「荒侯市人は病で子をなすことができず、弟と自分の夫人を交わらせて他広を生ませた。他広は実は荒侯の子でない」というのである。景帝は詔して吏に調べさせた。他広は侯をやめさせられ、国を除かれた。 | 15483843643267927112 |
Q11542313 |
_START_ARTICLE_
権現堂堤
_START_PARAGRAPH_
権現堂堤(ごんげんどうつつみ)は、埼玉県幸手市内国府間にある、埼玉県内はもとより関東地方でも有数の桜の名所である。そのことから、権現堂桜堤とも呼ばれる。周辺に整備された県営公園については権現堂公園を参照。
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
中川の堤防上約1kmにわたって、約1000本の桜並木が続く。桜はソメイヨシノで、4月上旬が見ごろであるが、近年は開花時期が早まっている。桜の開花と同時期に堤下に広がるアブラナも咲くため、ピンクと黄色のコントラストが美しい。堤下には他にも全国から集められた様々な種類の桜が植樹されている。桜祭りの期間中は、中川に架かる外野橋は夜間ライトアップされ、夜桜見物の人の目を惹く。また、100種約15,000株のアジサイや、約100万本の曼珠沙華(ヒガンバナ)が堤に植えられている。_NEWLINE_社団法人日本観光協会が主催する平成19年度の「花の観光地づくり大賞」において「フラワーツーリズム賞」を受賞した。また、権現堂堤の桜は2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
_START_SECTION_
アクセス
_START_PARAGRAPH_
東武日光線幸手駅より朝日バス「五霞町役場」行「権現堂」にて下車、徒歩1分。_NEWLINE_開花シーズンには臨時直行バスが運行される。 | 2929059535996355630 |
Q21702942 |
_START_ARTICLE_
横江金夫
_START_SECTION_
来歴
_START_PARAGRAPH_
愛知県名古屋市出身。1958年、明治大学法学部卒業。_NEWLINE_1963年、愛知県議会議員選挙に名古屋市中川区選挙区から日本社会党公認で立候補し初当選した。以後4期務め、この間社会党愛知県本部書記長や副委員長を歴任した。_NEWLINE_1983年の第37回衆議院議員総選挙で旧愛知6区から立候補して初当選。1986年の第38回衆議院議員総選挙で落選した。1992年の第16回参議院議員通常選挙で愛知県選挙区から社会党公認で立候補したが、次点で落選した。 | 1292997616596128959 |
Q254064 |
_START_ARTICLE_
檀道済
_START_PARAGRAPH_
檀 道済(たん どうせい、? - 436年3月)、東晋末から宋初頭にかけての武将。檀韶・檀祗の弟。本貫は高平郡金郷県。宋の建国者である劉裕に仕え、宋第2代皇帝・少帝の後見になったが、のちにその武名を恐れた文帝によって殺害された。『三十六計』の著者。
_START_SECTION_
決起軍
_START_PARAGRAPH_
404年、東晋を滅ぼして自ら皇帝を僭称していた桓玄を討伐するため、劉裕に従い決起し、大いに功績をあげている。416年には、劉裕の北伐に先方として参戦し、後秦を滅ぼした。そのときの功により、征虜将軍および琅邪内史となる。
_START_SECTION_
興国の元勲
_START_PARAGRAPH_
東晋に代わり宋が建国されると、永修県公、南兗州刺史となる。422年、劉裕は、檀道済や徐羨之、傅亮、謝晦に後事を託し、死去する。第2代皇帝として少帝が即位したが、徐羨之らと共に少帝を廃し、文帝を擁立する。424年の文帝の即位に伴い、征北将軍となる。また、426年には、少帝廃立・殺害の罪を問われた謝晦を討伐し、征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史となる。なお、檀道済が江州刺史であった頃、野に下った陶潜の才能を惜しみ、仕官を勧めているが拒絶されている。_NEWLINE_431年1月、檀道済は北伐を実行し、北魏の歴城に到達するも兵糧不足のため撤退する。やがて宋軍の最高職である司空となる。
_START_SECTION_
最期
_START_PARAGRAPH_
檀道済自身、才能におぼれるところがあり、そのため、文帝としばしば対立することがあった。またその威勢は天下に奮い、左右の腹心は全員百戦の勇者で子弟は皆才気煥発の俊秀ばかりだった。このため文帝が病に倒れた際、重臣の讒言と国を奪われるという後難を怖れた文帝により殺害されることとなる。このとき捕らえられた檀道済は、文帝を睨みつけながら目の前で頭巾を床にたたきつけ、「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだと伝えられている。
_START_SECTION_
人物・逸話
_START_PARAGRAPH_
北魏への北伐の際、宋軍は歴城まで達するも兵糧不足となり、逃亡者や士気の衰えが出始めていた。やむなく檀道済は撤退を決定するが、宋軍の損失を最小限にとどめるための策を考案した。枡に砂を盛って米のように見せ、また余った兵糧を地面にばら撒き、兵糧が豊富にあるかのように偽装した。これを見た北魏軍は、宋軍の兵糧が尽きていないと思い込んだ。そこで檀道済は宋軍を悠然と退却させたが、北魏軍は伏兵を懼れて追走してこなかった。_NEWLINE_『三十六計』の走為上は、南斉書の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」と「三十六計逃げるに如かず」の語源である。_NEWLINE_檀道済の死を知った北魏は「最早宋にはひとりの恐るるに足る者もおらぬ」と喜んだと伝わり、また文帝は449年に北魏軍が大軍を率いて南下し都にまで迫った際、北方を臨みながら「ああ、今もし檀道済が生きていたら、胡び馬にここまで攻めてこさせるような事はなかったろうに」と嘆息して述べたと伝わる。 | 1317726149498933071 |
Q11544842 |
_START_ARTICLE_
櫻田淳
_START_PARAGRAPH_
櫻田 淳(さくらだ じゅん、1965年1月29日 - )は日本の政治学者。東洋学園大学教授。専門は国際政治学、安全保障。日本国際フォーラム政策委員。
_START_SECTION_
略歴・人物
_START_PARAGRAPH_
宮城県栗原市出身。八戸第一養護学校中等部から青森県立八戸高等学校に進み、北海道大学法学部を卒業、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程を修了。_NEWLINE_愛知和男衆議院議員の政策担当秘書、慶應義塾大学大学院法学研究科非常勤講師、東洋学園大学現代経営学部専任講師を務める。2005年9月、愛知が衆議院議員に返り咲いたため政策担当秘書に復帰し、東洋学園大学兼任講師となった。2007年4月、政策担当秘書を辞し東洋学園大学准教授、2011年4月より同教授。_NEWLINE_1996年、論文「日本の戦後と国家論の不在」により、第1回読売論壇新人賞・最優秀賞受賞。以降、雑誌『中央公論』などを中心にして現実主義の立場から論陣を張る。2001年、第1回正論新風賞受賞。雑誌『諸君!』や『正論』にも頻繁に寄稿していた。_NEWLINE_「9・11」事件以降、保守論壇のなかの「反米」論を「観念主義」と呼び、2002年9月17日の小泉純一郎内閣総理大臣の北朝鮮訪問以降に保守論壇内で浮上した「対北朝鮮強硬論」や「日本核武装論」などのタカ派的主張を批判した。また、安倍晋三政権の保守イデオロギーを鮮明にした政策にも懐疑的・批判的な態度を示した。山崎正和・五百旗頭眞・岡崎久彦など親米リアリストの系譜にあることを自負し、ジョセフ・ナイに倣ってタカ派でもハト派でもない、外交を重視する「フクロウ派」を自認している。近時もメディアやブログなどで、一部の保守論壇や保守論客への批判を続けている。日本については、かつて長谷川如是閑が指摘した「職人の国」という視点を重視せよと唱えている。_NEWLINE_出生時に患った脳性小児麻痺による重度身体障害を抱える。従来の社会福祉を「障害者を隔離するだけのもの」と批判。さらに「入試や論文執筆の際、たとえ答えが分かっていて文章能力があっても、体が不自由なため十分なものが書けなかった。自分には能力があってもそれを十分に生かせる社会ではない」として、福祉政策の再考とバリアフリー社会の推進を主張した。また、乙武洋匡著『五体不満足』が巻き起こしたブームを批判し、論文「「五体不満足」を巡る奇妙な論理」を著した。本人は、「障害者という立場に寄りかかった活動」を批判したこともあり、福祉を題材にした言論を封印することを表明、それ以降は雑誌媒体では福祉については論じていない。 | 13746811586096055056 |
Q30936194 |
_START_ARTICLE_
歌川春中
_START_PARAGRAPH_
歌川 春中(うたがわ はるなか、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。
_START_SECTION_
来歴
_START_PARAGRAPH_
歌川芳春の門人。明治6年(1873年)建立の一勇斎歌川先生墓表に、「芳春社中」として「春中」の名があるが、その他の経歴や作については不明。『浮世絵師人名辞書』は作画期を「慶応頃」としている。 | 15577246315152798646 |
Q130854 |
_START_ARTICLE_
武村正義
_START_SECTION_
生い立ち
_START_PARAGRAPH_
滋賀県蒲生郡玉緒村(八日市市、現東近江市)の農家に生まれた。滋賀県立八日市高等学校を経て、名古屋大学工学部に入学し、その後、再受験して、東京大学に編入学。教育学部を卒業後、東京大学新聞研究所を経て経済学部に学士入学、経済学部を卒業。_NEWLINE_1962年、自治省に入省。西ドイツ留学で西ドイツ連邦、州政府の成り立ちなどを見聞。さらに帰国後、愛知県、埼玉県に出向。埼玉県総務部文書課長として、自治体行政を経験することで、政治への関心を募らせていった。田中角栄のお抱え官僚の一人であったとされ日本列島改造論の代筆も担当したという。_NEWLINE_1970年代後半~1980年代前半、滋賀県知事のかたわら龍谷大学に客員教授として教鞭をとる。その縁で龍谷大学理工学部を滋賀県へ誘致、滋賀県大津市の「びわこ文化公園都市」に理工学部と社会学部の第3のキャンパスを開く。
_START_SECTION_
八日市市長
_START_PARAGRAPH_
自治省を退職して、1971年に郷里の八日市市長選に立候補し当選。30歳代の若い市長として、自転車で市役所まで通勤するなど、当時から環境を意識した行動をしていた。
_START_SECTION_
滋賀県知事
_START_PARAGRAPH_
3年後の1974年、滋賀県知事選に立候補し、当選を果たす。滋賀県知事時代は県民との対話を重視し、住民運動を先取りした県政との高い評価を受けた。実績としては、琵琶湖の水質汚染を防ぐために、日本初の合成洗剤追放条例(正式名称「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」、1979年10月17日制定、1980年1月1日施行、参照,_NEWLINE_通称:琵琶湖条例)や、風景条例(正式名称「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例」、1984年7月19日制定、1985年7月1日施行、参照)など、全国的に注目を集めた環境保全条例の制定が挙げられる。また、1984年8月28日~8月31日には滋賀県主催の国際会議「国際湖沼環境会議」を大津市で開催。ちなみに、この会議にはのちの滋賀県知事、嘉田由紀子が琵琶湖研究所の研究員として参加し、滋賀県立琵琶湖博物館を提唱していた。_NEWLINE_県知事には1978年に無投票で再選。1982年に無投票で三選を果たした。日本の公選知事選挙において連続で無投票当選したのは武村が初めてである。
_START_SECTION_
国政への進出
_START_PARAGRAPH_
1986年7月6日の第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)に滋賀県全県区で保守系無所属で立候補し(選挙期間中に自民党公認となり)当選、国政へ進出(同区で自身が最初に知事選出馬した際の支援者たる民社党新人川端達夫も当選)。_NEWLINE_自民党では清和政策研究会(安倍派→三塚派)に所属する(本当は田中派から出馬を希望していたが同派現職山下元利が居たため、同派内の創政会会長竹下登が自身の盟友で安倍派会長安倍晋太郎に武村を紹介した)。1988年には、1期上の田中秀征(宮澤派)、当選同期の鳩山由紀夫(竹下派)、1期下の簗瀬進(河本派)らや、三塚派の若手を中心に政策集団「ユートピア政治研究会」を結成し、金のかかる政治に対する改革を訴えた。なお、このユートピア政治研究会がのちの「新党さきがけ」の母体となった。
_START_SECTION_
宮沢解散と新党さきがけ結成
_START_PARAGRAPH_
1993年6月18日、宮澤喜一を首班とする宮澤内閣不信任案可決に伴う衆議院の解散(いわゆる「嘘つき解散」。ただし武村自身は不信任案に対して反対票を投じており、決議の時点では造反していなかった)を機に、同年6月21日、10人の自民党議員とともに自民党を離党、「新党さきがけ」を結党し、党代表に就任。同年7月18日の第40回衆議院議員総選挙では「新党ブーム」に乗って13議席を獲得し躍進。衆院選翌日の7月19日には、知事時代から親しい関係にあった細川護煕の日本新党と、院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成し、細川とともに共同代表となる。衆院選後の政局で日本新党と共にキャスティング・ボートを握り、後藤田正晴を中心とする自民党内政治改革推進派と提携しようとするが、同年8月9日、新生党の小沢一郎代表幹事の工作によって、細川を首班とする非自民・非共産連立政権である細川内閣が誕生。武村は内閣官房長官に就任した。
_START_SECTION_
細川政権
_START_PARAGRAPH_
細川政権のキーパーソンに一躍浮上した武村は、対国民的には「ムーミンパパ」の愛称を認知させることでソフトなイメージを出すことに成功。政治改革やコメ自由化などで細川政権を閣内から支える一方で、閣外の意思決定機関「与党代表者会議」を主宰する小沢と対立することで自分を際だたせることに成功するなどしたたかな政略を見せたため、欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島になぞらえ、三木武夫以来の「バルカン政治家」とも称された。細川は当初、連立内閣を小沢と武村のバランスに立って運営していたが、次第に小沢に傾斜する。官邸主導の政治を目論む武村は、与党代表者会議を牛耳る小沢や公明党書記長の市川雄一の一・一ラインと激しく対立した。また細川が消費税を廃止し、新たに税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税」構想を唐突に発表した際、武村が「過ちを改めるにしくはなし」と発言し細川との間は急速に冷却化していった。岩上安身や小池百合子は、両者の亀裂が生じたのは、アメリカ合衆国(クリントン政権)が武村を北朝鮮と親しい政治家であると見て、細川に更迭するよう圧力を掛けた結果であるとしている。1994年4月8日、細川政権の崩壊直後、「さきがけ日本新党」は解消され、日本新党と新党さきがけの合流は構想倒れに終わった。
_START_SECTION_
羽田内閣
_START_PARAGRAPH_
細川退陣表明から20日後の4月28日発足の羽田孜を首班とする羽田内閣の成立に当たっては、閣外協力に転じ、院内会派「改新」には参加しなかった。
_START_SECTION_
村山自社さ政権
_START_PARAGRAPH_
この間、水面下で野党・自民党、および連立から離脱した社会党と交渉を重ね、同年6月24日に自社両党と連立を組み、翌日6月25日、羽田内閣は総辞職。_NEWLINE_6月30日、村山富市を首班とする自社さ連立内閣(村山内閣)を成立させる。武村は大蔵大臣に就任し、1995年の村山改造内閣でも留任する。同年11月において、大蔵大臣として「日本財政危機発言」を行う。このとき日本の国債発行残高は458兆円(IMF数値)であった。_NEWLINE_政界再編のキーマンであった武村が連立政権で蔵相に就任したことは違和感なく受け入れられたものの、バブル崩壊の後始末を巡って深刻化する金融情勢に、必ずしも財政政策や金融政策に精通しているわけではなかった武村は実効性のある対策を打てなかった。_NEWLINE_1995年9月、大蔵相在任中ながらフランスの核実験再開及び核実験実施に対するタヒチでの抗議デモに参加した。_NEWLINE_新党さきがけの党運営については、やがて党代表幹事だった鳩山由紀夫との間で、社会党との新党、「社さ新党」構想をめぐり対立が表面化。1996年8月28日、代表を辞任。1ヶ月後の9月28日には鳩山、菅直人、簗瀬らが新党さきがけを離党し、民主党を結成。民主党の結成に際しては新党さきがけ全体での合流を希望したが、鳩山らは「排除の論理」でこれを拒否した。8月28日の代表辞任後井出正一が後任の代表となるが、新党さきがけは閣外協力の形で自民党政権を支えたものの、党勢の退潮に歯止めが効かず埋没(同年の第41回衆議院議員総選挙で自民党が躍進し、また社さ両党が議席を半減させたことも大きな一因だった)。1998年5月31日、代表に復帰。同年6月、自民党との連立を解消し、環境政党としての再出発を表明、同年10月、党名を「さきがけ」に改称し事実上解党する。1999年(平成11年)-7月、衆院本会議で国旗及び国歌に関する法律に賛成票を投じた。
_START_SECTION_
政界引退とその後
_START_PARAGRAPH_
2000年、腹部大動脈瘤破裂で倒れたが、一命を取りとめた。同年6月25日の第42回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し、武村の健康問題を批判した小西哲(自民)の前に落選。2001年3月10日、さきがけを離党し民主党に入党した。7月23日に小西が死去し、それに伴う10月の衆議院補欠選挙では立候補に意欲を見せるも、病気の悪化などがあり立候補を断念。事実上の政界引退となった。_NEWLINE_2004年、旭日大綬章を受章。現在は病気を克服して、かつて非常勤講師を務めていた龍谷大学にて客員教授として再び教壇に立つ傍ら、地球環境問題にも取り組んでいる。また、2009年の民主党政権誕生以降は、かつて非自民政権の中枢にいた立場から、新政権についてコメントする機会も多い。2011年には岩波書店からオーラルヒストリーによる回顧録を出版した。
_START_SECTION_
国家像「きらりと光る国」
_START_PARAGRAPH_
武村は「小国主義(小日本主義)を主張した石橋湛山にならい、日本のあるべき姿を「小さくともキラリと光る国」と表現。新党さきがけも党のスローガンに「質実国家」「足るを知る経済」を掲げた。新党さきがけには後に『石橋湛山と小国主義』(岩波ブックレット)を著した井出正一や、2004年に石橋湛山に関する著書を発表した田中秀征も参加している。新党さきがけ参加議員には石橋湛山の主張が意識されており、新党の離合集散が繰り返される中で埋もれがちであったとはいえ「小国主義」は新党さきがけが強く打ち出していた国家像であった。この主張は中村敦夫のみどりの会議に引き継がれた。_NEWLINE_2006年11月20日、後援者・有志により滋賀県大津市の長等山園城寺(三井寺)北院法明院庭園に、武村の政治活動を記念しその業績を称える記念碑が建立された。碑表面には「きらり」「武村正義物語記念碑」(『毎日新聞』滋賀版に84回にわたって連載された自叙伝の表題を記念)と刻まれ、裏面には武村の経歴が記されている。碑の文字は地元の書家・太田佐亨によるものである。「きらり」は武村の日本の将来像を示す象徴的表現であった。 | 17061453073355957008 |
Q1622119 |
_START_ARTICLE_
武漢航空
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
武漢航空は1986年4月2日に設立された航空会社で、本拠地空港は武漢天河国際空港であった。ボーイング737やY-7(中国製ターボプロップ機)などを使い中国国内線を営業していた。しかし2002年に航空業界再編のために中国東方航空に吸収合併された。
_START_SECTION_
事故
_START_PARAGRAPH_
2000年6月22日、湖北省恩施市から武漢市に向かっていた武漢航空343便(Y-7-100、機体記号:B-3479)が、着陸進入中、武漢市漢陽区永豊郷四台村付近に墜落した。この事故で乗員4名乗客38名全員と漢水の川岸にいた4名の46名が犠牲になった。事故原因は落雷を受け空中爆発して墜落したとされた。 | 6291849928872550861 |
Q11546099 |
_START_ARTICLE_
武田信方
_START_SECTION_
略歴
_START_PARAGRAPH_
若狭国守護・武田信豊の子として誕生。_NEWLINE_天文21年(1552年)3月20日、武田氏の元被官である粟屋右馬允が近江国から若狭国へ攻め込み各地に放火するという事件が起こるが、信方は大将として粟屋勢と2度に渡って合戦し撃退させている。弘治2年(1556年)、父・信豊と兄・義統の間に対立が起こり内乱へと発展し、叔父である信重(信高)が討死すると、信重の養子という形で後を継ぎ、若狭武田氏の軍事力を掌握する。永禄10年(1567年)、義統が死去する数ヶ月前に叛乱を企むが、信方の家臣団が反対し家中を退くという挙に出たため、不成功に終わった。_NEWLINE_その後、若狭は越前国の朝倉義景が平定し、逝去した父義統から若狭武田氏の家督を継いだ元明は拘束され、若狭武田氏は朝倉氏に従属した。元亀元年(1570年)4月、越前の朝倉義景を攻めるため、織田信長が若狭に入ると、武田氏被官人の多くがこれを出迎え朝倉攻めの先陣を務めたが、信方は朝倉方にいた元明の命で信長に抵抗した。その後、近江の浅井長政の挙兵によりこの朝倉攻めが失敗すると、同年9月から10月にかけて朝倉氏は近江坂本へ出兵し、別働隊が若狭に侵攻。信方は朝倉氏より若狭の統治を任せられ、10月22日には織田方の山県孫三郎の城を武藤友益と共に攻めている。_NEWLINE_しかし、天正元年(1573年)8月、織田氏によって朝倉氏が滅亡すると、信方は若狭を退転。その後は諸説あり、天正10年(1582年)の甲州征伐の際に殺害されたとも、備後国に下り足利義昭に仕え、備後の鞆にて死去した(没年は天正13年(1585年)、天正14年(1586年))ともいわれる。法名は帰雲寺殿前金吾菊潭宗英大居士。 | 14708094332218617279 |
Q26043945 |
_START_ARTICLE_
武田良介
_START_SECTION_
プロフィール
_START_PARAGRAPH_
1979年8月、長野県中野市の兼業のりんご農家に兄、姉に続き次男として生まれる。現在は長野市在住。長野県飯山北高等学校卒業。2003年3月、信州大学教育学部を卒業後、日本民主青年同盟長野県委員会の専従役員となる。2004年、民青同盟長野県委員長に就任。2008年6月、結婚し3人の子供を授かる。2013年、党長野県常任委員に任命される。_NEWLINE_2012年の第46回衆議院議員総選挙に長野1区から出馬し落選。_NEWLINE_2013年の第23回参議院議員通常選挙に参議院比例区から出馬し、落選。_NEWLINE_2014年の第46回衆議院議員総選挙に長野1区から出馬し落選。_NEWLINE_2016年の第24回参議院議員通常選挙に参議院比例区から出馬し、初当選。 | 9118532572792831880 |
Q11546340 |
_START_ARTICLE_
武蔵国郡村誌
_START_PARAGRAPH_
武蔵国郡村誌(むさしのくにぐんそんし)は、皇国地誌編纂のため埼玉県が進達した郡村誌の控えを翻刻したもの。_NEWLINE_1953年(昭和28年)、県庁に保存されていた村誌をまとめ「武蔵國郡村誌」として県から刊行された。_NEWLINE_皇国地誌が実際には刊行されなかったため、実質的にこれが最初の出版となった。 | 18309109329696736563 |
Q11546346 |
_START_ARTICLE_
武蔵坊弁慶生誕伝説
_START_SECTION_
弁慶の母弁吉について
_START_PARAGRAPH_
弁慶の母弁吉は、紀州田那部(和歌山県田辺市)の郷士である誕象という男が熊野権現に祈って授けてもらった娘だったが、二十歳になっても結婚相手に恵まれなかった。_NEWLINE_そのことを悲しんだ両親は、出雲の国の結びの神(安来市西松井町)の出雲路幸神社に祈って良縁を得させようと考え、弁吉を出雲国へ旅出させた(熊野権現のお告げとする説あり)。_NEWLINE_出雲路幸神社に到着した弁吉は七日七夜参詣を続け、夢で枕木山の長海村で七年間住むことで願いはかなうとのお告げを得る。_NEWLINE_弁吉はお告げに従い長海村に住み着き、三年経た頃山伏が来訪、山伏は出雲の神の縁結びにより弁吉の夫となる事に決まったと告げ立ち去った。_NEWLINE_この後弁吉は身篭り、つわりのため鍬を食べる。村人の鍬を盗んで食べ続け、十本目の時村の子供に見つかってしまい、半分程食べ残してしまった。_NEWLINE_或いは、10本目の半分を食べた所で、弁慶が出てきたと解釈することもできる。_NEWLINE_その後、1151年 (仁平元年)3月3日に、弁慶が誕生した。_NEWLINE_弁慶の父については、『懐橘談』上(続々群書類従第9所収)の「枕木」の項目では熊野大社の別当弁斎となっているが、「天狗」や「山伏」の説が大半である。
_START_SECTION_
弁慶の出生から出奔まで
_START_PARAGRAPH_
産まれたばかりの弁慶は長髪に髪は長く、歯も生え揃い、左の肩には「摩利支天」、右の肩には「大天狗」の文字が刻まれ、顔の色は黒く鉄色だった。但し、母が鉄を食べ残したからか、喉の四寸四方だけは普通の肌になっていた。_NEWLINE_母弁吉は自らが鍬を食べて産んだ事と弁慶の様相が普通の赤子とは違う事もあり、自らの手で井戸を掘り水を汲み、それを生湯に使った。_NEWLINE_「弁慶」と言う名前に関して、母の弁吉は弁慶のことを初め「弁太」と名付けた。_NEWLINE_弁慶が子どもの頃、悪戯が過ぎ村人に憎まれた為、母弁吉は中海にある小島へ弁慶を捨てた。後にこの小島は弁慶島(野原町)と呼ばれる事になる。_NEWLINE_弁慶島に於いて弁慶は父である山伏と出会い、脱出の助言を得、砂を海中に落として海に渡り道を作りようやく脱出した。_NEWLINE_修行に行く前、弁太は鬼若と改名する。_NEWLINE_その後、枕木山にある華蔵寺(けぞうじ)、福原の澄水寺(ちょうすいじ)、出雲の鰐淵寺(がくえんじ)に立ち寄り修行をして母の元へと戻った。_NEWLINE_修行が終わると鬼若は弁慶と改名した。_NEWLINE_成長した弁慶はある時出雲の別所で鍛冶屋をしている叔父に薙刀を作ってくれるよう注文。三年後に出来上がった薙刀は鉄丸も切ることのできるすばらしい切れ味だった。_NEWLINE_そこで叔父が注文が有ればいくらでも作ると話した事で、他人にも作られては堪らないと思った弁慶は叔父を切り殺し、出奔しようとした。_NEWLINE_その時折悪く母弁吉が病気に罹り、際の際(いまわのきわ)に最期近くなった母弁吉は彼を枕元へ呼び、「菩提を弔おうと思うのなら、紀州国に行き、誕象一門を訪ねよ。そして、武士になるのなら田那部を、また法師になるなら武蔵坊と名乗るように」と遺言して亡くなった。_NEWLINE_そこで弁慶は長海神社に参詣し、書状を書き置いて出雲地方を去り京都へ上り、後に源頼朝の弟である牛若丸と運命の出合いをした。牛若丸はその後義経と改めている。 | 6350483881951422922 |
Q4187 |
_START_ARTICLE_
武陵源
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
1984年にこの地を訪れた胡耀邦によって王維の作品『桃源行』の武陵桃源(仙郷)に因んで命名された。武陵源は、その独特の石の柱が立ち並んでいる景観で知られる。その柱は珪岩で出来ており、二酸化珪素の含有率はおおよそ75%-95%である。その石柱のほとんどが200m以上あり、場所によっては300m以上のものも存在する。珪岩の外に一部ではカルスト地形などの石灰岩で出来た地形もあり、40ほどの洞窟が確認されている。_NEWLINE_植物層も豊かで、中国第一級保護植物が4種、第二級が40種確認されている。動物では28種の国家級保護動物が確認されている。_NEWLINE_漢の時期、武陵山脈の近くに武陵郡を設置した。「源」は水と繋ぐ、水源の意味も含め、昔の詩の中によく「山と水があるいいどころ」として使っていた。_NEWLINE_また、映画アバターのジェームズ・キャメロン監督と制作スタッフが劇中の山々の主なモデルを黄山や桂林と述べたことに対抗し、関係者の大量の写真撮影を根拠に本作に影響を与えたと張家界市が主張して武陵源の一部をアバター・ハレルヤ山に改称して中国で大きな議論を呼んだことでも知られる。 | 1465383709911201950 |
Q11546681 |
_START_ARTICLE_
歩兵第22連隊
_START_SECTION_
戦歴
_START_PARAGRAPH_
日清戦争にて初陣を飾り、平壌攻略の一番乗りを果たして武名を轟かせた。日本軍の先鋒を務めて雪中行軍し、多くの凍傷、脚気患者を出しつつも清国内まで攻め抜く。22連隊の進撃は、下関条約の交渉を日本優位に導いた。日清戦争では、戦死44名、傷病死172名、自死4名、負傷132名。_NEWLINE_日露戦争では、乃木希典大将の下、旅順攻囲戦の東鶏冠山北堡塁攻略で活躍する。旅順要塞攻略後は、すでに大半の将兵が負傷していたが、次いで奉天会戦に参加して激戦を展開した。この当時の戦いぶりは、22連隊旗手桜井忠温中尉の戦記「肉弾」に描かれている。以来、22連隊は「伊予の肉弾連隊」と畏怖されるようになった。日露戦争では、戦死653名、負傷3891名、行方不明671名の損害を受けながら日本の勝利に貢献した。_NEWLINE_シベリア出兵では、氷点下50度にもなるシベリアで、共産主義革命を叫ぶロシア過激派軍と交戦した。チタ郊外のノーウォザルダミンスコエの戦いでは、22連隊将兵約500名が、過激派軍約3000名を狙撃戦で圧倒して撃退する。日本軍の他部隊では、長引く出兵で士気が低下し、シベリア住民と軋轢を生んだが、22連隊ではそれは見られず、名誉連隊として凱旋した。シベリア出兵では、出兵期間1年7ヶ月。戦死17名、戦傷病死20名、事故死2名。_NEWLINE_第1次上海事変では、白川義則大将(愛媛県松山出身)の下、上海在住日本人の保護のため、駆逐艦に分乗して上陸し、十九路軍を急襲して撃ち破り、嘉定城に一番乗りした。上海上陸後1か月以内に快勝。任務完遂後は速やかに停戦して兵を退く、白川大将の水際立つ指揮と麾下部隊は、天皇陛下よりお褒めの言葉を賜った。第1次上海事変では、戦死8名、負傷病兵42名。_NEWLINE_第2次上海事変では、戦艦陸奥で中国大陸に急行した。支那軍が陣を構える上海に敵前上陸し、南京を目指した。混乱した支那軍は同士討ちを繰り返し、焦土作戦を採りながら後退したが、22連隊は中国の民衆を保護しつつ行軍を続けた。22連隊の戦死傷者は報道管制が敷かれたため不詳である。出征期間約8か月。一説に、将兵の4分の1は戦死したとの風聞がある。_NEWLINE_太平洋戦争において、22連隊第1大隊は、歩兵第333大隊と改名しメレヨン島の守備に派遣された。メレヨンは、敵潜水艦により補給の途絶した絶海の孤島であったため、将兵の約9割が餓死、病死する惨状であった。_NEWLINE_沖縄戦では、卓越した戦術によりアメリカ軍の侵攻を何度も何度も撃退した。真栄里で徹底抗戦を続け、同地にてアメリカ軍沖縄攻略部隊司令官バックナー将軍は、日本軍の攻撃により戦死する。沖縄戦での戦況は、22連隊第1大隊長小城正大尉著『天王山』に詳しい。昭和20年6月17日、米軍は、22連隊本部の洞窟陣地に爆薬を投げ込み、22連隊本部は全員戦死した。翌日、沖縄本島を守備する日本軍の玉砕が発表された。
_START_SECTION_
沖縄戦での行動記録
_START_PARAGRAPH_
当初沖縄戦は、米軍を包囲殲滅する決戦思想であったため、22連隊は嘉手納に布陣し、当地で築城と飛行場設営に務めた。築城においては、建設資材の調達がままならず、人力に頼る工法で、危険な難工事であった。また、22連隊自らの棲息壕の構築のみならず、増援部隊の受け入れを考慮するよう要求され、自隊の3倍以上の兵力を収容でき、かつ1t爆弾にも耐えうる地下壕の構築を厳命されていた。_NEWLINE_沖縄本島到着から半年をすぎた1945年(昭和20年)4月。決戦兵力であった第9師団が台湾へ移動したことにより、22連隊は、沖縄本島最大の重要港湾である小禄の海軍司令部壕の隣に移動した。那覇市南方の島尻一帯の防衛を任じられ、当地で築城、飛行場建設にあたった。アメリカ軍の上陸までに、22連隊は現地で召集された1500人以上の沖縄県出身者が配属された。
_START_SECTION_
アメリカ軍上陸
_START_PARAGRAPH_
4月1日に米軍が嘉手納海岸から上陸してくるが、22連隊は島尻地区の陣地において沖縄本島南方からの奇襲上陸に備えていた。_NEWLINE_4月10日、22連隊は豊見城から首里方面への陣地移動が命じられた。これにより22連隊は、戦闘に本格的に参加していく。首里北方を守備していた62師団が損害甚大となったことで、沖縄戦最大規模の激戦となった嘉数の戦いなどに参加する。この時、22連隊は行軍中に、神風特攻隊が敵艦に命中する光景を目撃して「やった。万歳!」と一斉に喜び叫んだ。南風原から与那原に移動し、運玉森に集結した。_NEWLINE_4月11日朝、22連隊本部は、首里北方の弁ヶ岳付近に進出した。第1大隊は南上原へ、第2大隊は我如古へ、第3大隊は仲間に進出していった。_NEWLINE_4月12日、22連隊は日本軍反撃の主力として第62師団に編入されたが、地理不案内なため行動に支障をきたしていた。第1大隊(大隊長 鶴屋義則少佐 士52期 鹿児島県出身)は翁長の155高地(米称:ツームヒル。現:琉球大学の東の丘頂上)に斬り込みを敢行したが、米軍は最新鋭の赤外線眼鏡を狙撃班に装備していたため、先頭の第1中隊(中隊長 鈴木義雄大尉 士56期 岩手県出身)は奇襲に失敗し、中隊長以下約60名の戦死者を出して後退した。第2大隊(大隊長 平野茂雄大尉 特志 愛媛県八幡浜出身)の一部は、142高地(米称:ロッキークラッグス。現:琉球大学の西の丘頂上)に移動して夜間斬り込みを敢行した。しかし、米軍の砲撃の前に日本軍の攻勢は挫折した。この日、フランクリン・ルーズベルト大統領が急逝した。だがアメリカ軍の攻勢に変化はなかった。4月13日、22連隊は首里北方の西原村に展開した。22連隊は、左翼、右翼部隊に増援派出を命じられる。第1大隊は南上原での戦闘を継続したが、第2大隊は、棚原地区でゲリラ戦術により善戦している独立歩兵第12大隊(大隊長 賀屋与吉少佐)に配属される。また第3大隊(大隊長 田川慶介大尉 士53期 愛媛県松山出身)は、嘉数の戦いで戦果をあげている独立歩兵第13大隊(大隊長 原宗辰少佐)に配属されたが、米軍の絶え間ない砲撃により、通信線は寸断され伝令は出られず、連絡がとれないままになっていた。22連隊では、軍用犬を連絡に走らせたが、それも壕を突っ走った途端に撃ち殺された。_NEWLINE_4月16日、22連隊第1大隊と迫撃砲中隊は、南上原で米軍を撃退したが、翌日には幸地に後退した。この日、中城村の女子青年義勇隊60名が、22連隊の各隊に弾薬や食料を運び込んでくれた。地元出身の兵隊も村から食料を調達するために弾の下をくぐって活躍していた。_NEWLINE_4月17日、第2大隊は、独立歩兵第12大隊から配置を解除された。_NEWLINE_4月18日、牧港から米軍の総攻撃が始まった。22連隊第3大隊は、22連隊本部と連絡が途絶しながらも防戦を続けていた。_NEWLINE_4月21日夜、伊祖高地の奪還のため、22連隊第3大隊は、夜襲を敢行した。この時、愛媛県人が多数所属する独立歩兵第15大隊と独立臼砲第1連隊も参加したが、攻撃は成功せず、甚大な犠牲を払った。
_START_SECTION_
幸地の戦い
_START_PARAGRAPH_
幸地の戦闘詳細 https://web.archive.org/web/20171009071843/http://www.okinawa-senshi.com/kochi2008.htm_NEWLINE_4月22日から陣地転換が行われ22連隊は連隊本部を幸地に移した。首里には日本軍守備隊の総司令部があったが、首里北方を守備する第62師団が、実質的に壊滅したことによる大幅な作戦変更であった。22連隊は第24師団に復帰し、首里北方の幸地(米称ゼブラヒル:現 中頭郡西原町アドベンチストメディカルセンター付近)に全面展開して、アメリカ軍と激戦を交える。_NEWLINE_22連隊は、第24師団の中央に展開し、右翼は北海道歩兵第89連隊、左翼は山形歩兵第32連隊が担当した。上級司令部からは、さらに前進して敵陣地奪取を命じられたが、22連隊長吉田勝中佐(士32期 北海道出身)は彼我の兵力差を考慮して、より現実的な持久戦案を意見具申し、これが認められた。対戦するアメリカ軍は、第77歩兵師団、第96歩兵師団であり、短期攻略を目論み次々と侵攻してきたが、22連隊は地形を生かした防御戦闘により善戦した。ここでは激戦として著名な「幸地の戦い」が繰り広げられた。_NEWLINE_4月24日、第1大隊長鶴屋少佐は、第3大隊陣地で敵情偵察中に艦砲射撃によって戦死し、26日に小城正大尉(士54期 鹿児島県出身)が引き継いだ。第2大隊が伊祖丘陵から後退するとき、アメリカ海兵隊の戦車の大群が襲来した。第2大隊第5中隊の山之内敏夫中尉(愛媛県周桑郡出身)は、仁王立ちで睨み据えると、振り返って「生命を大切にせいよ。最後までご奉公するんだぞ。」と傷だらけになった部下一人一人の手を握って言い渡したのち、自ら急造爆雷を抱きかかえて敵戦車に体当たりを敢行した。山之内中尉の戦死により、第2大隊は石嶺に後退を命じられ、負傷兵は首里鳥堀の患者収容所に運ばれた。第11中隊の佐伯清之曹長(愛媛県周桑郡出身)、連隊砲中隊の吉良駿治准尉(愛媛県南宇和郡出身)らが戦死した。_NEWLINE_4月26日、22連隊は幸地に健在であった。第1大隊は米軍の砲撃により大損害を出しつつもアメリカ第7師団の攻勢を阻んでいた。第1大隊長小城大尉は、敵のロケット弾の猛射を浴びここで半数以上の部下を失う。しかし、小城大尉は、大隊に配備されている36個の八九式重擲弾筒を集中射撃で応戦し続けて米軍の進撃を阻止していた。アメリカ第7師団は、軍団長から「もっと強烈な攻撃をしろ。」と、厳命を受けていた。幸地、小波津地区では、機関銃と迫撃砲約12門の集中射撃によって、米軍の攻勢を防ぎきった。22連隊は、大きな損害を出していたが、対戦するアメリカ軍の損害はそれを上回っていた。_NEWLINE_4月27日、沖縄は雨期に入ったように雨が降った。22連隊は、歩兵第32連隊の援護と前田高地の奪還を命じられたが、アメリカ軍の攻勢の前には、机上の空論であった。戦線は交錯し、アメリカ軍は、航空機や砲撃による同士討ちで、兵士60名以上の戦死者を発生していた。この頃の日米両軍の激戦は、映画ハクソー・リッジに描写されている。22連隊の正面には、敵戦車20数両と2500~3000名の敵が攻め込んできたが、機関銃中隊の八幡勇少尉(愛媛県松山出身)は、銃身が焼け付くほどに奮戦して守り切った。巧妙に配置されていた12丁の九二式重機関銃の連射は、前進してくるアメリカ軍の将兵をなぎ倒した。第2大隊第5中隊は約7割が死傷して残り約50名に減少し、指揮を林繁昌准尉(愛媛県松山出身)が執って戦い続けていたが、林准尉も戦死した。_NEWLINE_4月30日、日本軍の前線部隊は、夜襲を実施した。歩兵第32連隊伊東大隊は146高地を夜間攻撃して奪回に成功した。歩兵第89連隊深見大隊の120高地の奪回は失敗した。22連隊は、第2大隊を攻撃準備させたが、出撃はしなかった。30日朝には、米軍は戦車を伴い反撃したが、日本軍は速射砲、野戦高射砲を用いて防衛に成功した。陣頭に立って戦い、部下には「死に急ぐなよ」と言い聞かせていた尺八の名手、鈴鹿喜四郎准尉(愛媛県周桑郡出身)が戦死した。第1大隊の栗林栄少尉(愛媛県松山出身)も負傷し後送された。_NEWLINE_5月1日~3日、幸地では、米軍の火焔放射戦車を含む部隊と交戦し、霧雨にも助けられ、迫撃砲と手榴弾の集中投擲で撃退した。この時、22連隊第11中隊長 木口恒好大尉(士55期 愛媛県八幡浜出身)は、第1大隊長小城大尉に「大隊長!あのへんで、敵の戦車がうろうろしているから、私が行ってやっつけてきますから、やらしてください!いいですか?」と自ら志願し、兵士2,3人を連れて敵陣に潜入し、敵の戦車を爆砕した後、無事生還して、22連隊の士気を高めた。_NEWLINE_5月2日、歩兵第64旅団独立歩兵第13大隊に配属されていた第3大隊は、安波茶で22連隊復帰の命令を受領した。
_START_SECTION_
日本軍総反撃
_START_PARAGRAPH_
5月3日、増援として、独立歩兵第28大隊が連隊に加わった。_NEWLINE_同日夜には、翌日実施される日本軍総反撃の先駆けとして、斬り込み隊を編成し、米軍陣地へ夜間浸透を試みた。攻撃準備をする兵隊は、栄養失調から夜盲症に罹っている者も多かった。22連隊は、軍旗を弁ヶ岳から幸地に移した。_NEWLINE_5月4日、日本軍最後の総反撃が始まった。また、沖合では大規模な特攻作戦である菊水5号作戦も開始された。22連隊は「中突進隊」と呼称され、アメリカ軍陣地を中央突破し棚原北方の占領を命じられた。しかし、22連隊の前面にはすでに強力なアメリカ軍の野戦陣地が形成されており、八原参謀の指示を受け、損耗を避けるため、22連隊の第11中隊(中隊長 木口恒好大尉 士55期 愛媛県八幡浜出身)のみが出撃することとなった。_NEWLINE_04:50、突撃準備射撃が開始され、軍砲兵の15cm榴弾砲、10cmカノン砲が100,000発以上発射された。_NEWLINE_05:00、日本軍は前進を開始する。_NEWLINE_07:00、第3中隊が幸地のホースシューリッジ南側で煙幕を作りアメリカ軍陣地の視界を奪うことに成功した。第11中隊は、機を得てアメリカ軍陣地に接近を図った。しかし、運悪く風向きが南西風から南東風となり、第11中隊はアメリカ軍の攻撃にさらされた。奇襲には失敗したが、すでに死を覚悟している木口恒好大尉の指揮のもと、壮烈な強襲をかけ獅子奮迅と戦闘したが、アメリカ軍はM4中戦車をもって反撃し、第11中隊は全員戦死した。また、戦車27連隊の戦車もほとんどが撃破された。しかしながら、22連隊の兵士は、この状況下でも敵陣を約1000mも潜入する者も見られた。アメリカ軍は、さらに戦車をもって幸地陣地に攻撃を加えたが、22連隊は総力を挙げてこの防戦に努めた。_NEWLINE_5月5日、第3大隊は22連隊と合流したが、消耗しており、実質2個中隊の兵力であった。_NEWLINE_1800、日本軍は攻撃失敗を悟り、作戦中止命令を下令した。
_START_SECTION_
首里防衛
_START_PARAGRAPH_
5月6日、沖縄県は梅雨が始まった。沖縄守備隊の奮闘により、アメリカ軍は、日本本土への侵攻作戦を梅雨と酷暑期の過ぎた9月以降に延期せざるを得なくなった。日本軍の総攻撃は失敗に終わったが、アメリカ軍からの逆襲もなく部隊再編を急いだ。第32軍は再度持久戦に徹するよう指示をだした。22連隊は、幸地から146高地において、アメリカ軍の攻撃を破砕するように命じられた。雨により、衛生環境が著しく悪化し、傷病兵が増加した。また、沖縄本島の非舗装道路は、交通を害し、補給は停滞した。日本軍の地下壕内にも雨水が侵入してきた。_NEWLINE_5月7日、22連隊は「一兵でも多くの敵を倒し、大損害を与えるべし。」との命令を受けた。同日、米第7師団第17連隊に、22連隊が守備する幸地(米称ゼブラヒル)の攻略命令が下った。米軍の火炎戦車が幸地に侵入してきたが、一通り火炎を放射して反転していくところを背後から猛烈に砲撃して撃破した。_NEWLINE_5月8日、第1大隊と第3大隊が交代するよう準備されたが、敵の攻撃の前に第1大隊(小城大隊)、第3大隊(田川大隊)が共同で守備に就いた。前日から雨が降り続く中、アメリカ軍の攻撃は続き、手榴弾戦、白兵戦が繰り返された。すでに不眠不休の激戦が続いており、第1大隊は交代を心待ちにしていたが叶わなかった。 _NEWLINE_アメリカ軍は疲労と損害に耐えかねた第7師団が第96師団と交代し、次々と新手を繰り出しており、その状況をうらやましく見えたと22連隊記録に記述されている。戦局の好転こそなし得なかったが、22連隊の奮戦が、アメリカ陸軍最精鋭師団の鋭鋒を挫いたのである。この日、ドイツは降伏し、アメリカ軍は日本軍に拡声器で宣伝を続けた。戦場におけるこのような苦難を忍ぶにあたって、拠り所となっていたのは、圧倒的に不利な状況下であっても必ず勝利を繰り返し、幾多の武勲に輝く歩兵第22連隊の伝統であった。第1大隊は戦績を認められ、22連隊長から感状を授けられた。 _NEWLINE_5月9日、22連隊は2日連続の米軍の攻撃を受け、さらに損害を受けた。幸地南西にある高地頂上をアメリカ軍に占領された。22連隊は増援を要請したが、本来戦闘職種ではなく、武器もほとんど手にしたことのない航空機の整備兵が補充されてきた。_NEWLINE_5月10日、22連隊は、昨日から幸地南西で激しい争奪戦を繰り返していた。10日夜には、夜襲を敢行したが、損害を増やしただけに終わった。22連隊は消耗し、完全包囲される恐れがあったため、弁ヶ岳北東に後退していった。22連隊の戦力は、第1、第2大隊をあわせて200名以下、第3大隊は壊滅し、第10中隊長渡邊裕二大尉(士56期 秋田県出身)以下10数名となった。アメリカ軍はハウ高地から幸地にかけて野戦築城を施し守備を固めた。しかし切り通しから140高地と呼ばれる陣地は依然、22連隊が死守していた。この守兵の中には、日支事変以来のもっとも頼もしい歴戦の下士官が数名おり、彼らはいつもと同じように敵の攻勢を撃退し続けていた。_NEWLINE_『日本軍の歩兵は銃剣術を鍛えてました。だから防御していて敵が目の前に迫っても「早く来ないか。来たらやってやる!」と自信があるわけです。だから八百名の大隊が四、五十名になって八百名と同じ陣地を持っていても米軍を寄せつけない。米軍も怖がって突っ込んで来ないという状態で、兵隊がどんどん少なくなって戦線を縮小しないと隙間だらけで危ないから、ちょっと配置を変えようとすると「ここで、死なして下さい!」と動かない、それはもう立派なものでした。昼間は連日戦ってその間中、撃たれっ放しです。敵が攻めてくるのは午前一回午後一回です。それで疲れ切っているのに夜は壕を掘り、弾を取りに帰り、負傷者を後ろに下げてやったり、戦死者を仮埋葬で埋めたりと、やることはいっぱいあるわけです。そういう状態で飯も食えません。そこへ私たちの居た部落の女子青年団の人達がおにぎりを作ってカマスに入れて第一線まで運んでくれました。第一線の後ろは無事かというと、そうではありません。道路のめぼしい交差点は全て、日本軍が移動出来ないように一晩中弾を撃ってきます。日本軍の射撃なんかとても目じゃないというほど、どの交差点にも間をおいて集中射撃が加えられます。そういう所をかい潜って女の子達がおにぎりを届けてくれました。そのおかげで、一日一食ですけれど、ご飯を食べて三週間以上同じ陣地で頑張ったのです。他の陣地が全部やられて22連隊第1大隊が、鉛筆芯の先の尖った所みたいな形で頑張っていたとき、32軍司令部が押さえられそうになって危ないから戦線を縮小するから下がれということで下がりました。その時のことです。私(小城大尉)の壕の地下に前の部隊の負傷兵が寝かされているというので何段も階段を下りて地下二階くらいのところまで行ってみると、そこに負傷兵が寝ていました。私(小城大尉)が下りて行って「俺の大隊は、ここから下がるから米軍が来るぞ。君たちも下がりなさい。」 と言ってよく見ると、豚の脂を燃やした灯のかたわらに女の子が一人だけで、負傷兵が三、四人を看護していました。そして、その女の子は「私はここに残ります。」と言うのです。私としてはもはや何も言うことができませんでした。海軍の沖縄根拠地隊司令官の太田少将が、大本営へ最後の電報を打ったときに、沖縄県民はこんなによく戦った、戦後格別の御配慮をお願いしたい、と言っておられますが、その通りでした。』と、歩兵第22連隊第1大隊長小城正大尉が戦後述べている。_NEWLINE_将兵がもっとも必要としたのは水だった。水は慢性的に不足しており、非常にのどが渇いているため乾パンを飲み込むのも大変だった。22連隊の陣地のひとつ140高地は、戦後、石嶺地区市営住宅の給水塔となっている。
_START_SECTION_
アメリカ軍総攻撃
_START_PARAGRAPH_
5月11日、米軍の総攻撃が開始された。米軍はすでに沖縄本島北部の攻略を完了しており、この総攻撃にはアメリカ海兵隊 第1師団、第6師団、アメリカ陸軍第77師団、第96師団、第7師団が投入される。22連隊は、首里に中央突破を仕掛けてくるアメリカ第77師団と対戦した。日本側の政略放送東京ローズは、シュガーローフの戦い(那覇市安里)や、チョコレートドロップの戦い(那覇市首里石嶺)で攻めあぐねるアメリカ軍に対し、心理戦を強化した。日本軍は治療中の負傷兵から歩行可能なものは、再度前線に投入した。_NEWLINE_5月11日から15日にかけて、22連隊は石嶺地区で防戦にあたり、連日アメリカ軍の攻勢を撃退していた。140高地(米称フラットトップ 現:那覇市首里石嶺町2丁目市営住宅給水塔)を中心として第2大隊平野大尉以下奮戦したが、5月15日時点で、140高地の残兵は20数名となり、32連隊伊東大隊の増援を受け、戦車27連隊の90式野砲4門の支援砲撃で戦線を維持することができた。この頃、近藤歳次郎准尉(愛媛県伊予三島出身)、田川慶介大尉(愛媛県松山出身)、八幡勇少尉(愛媛県松山出身)、白尾重枝曹長(愛媛県大洲出身)、山本政秋曹長(愛媛県上浮穴出身)、渡辺玉吉曹長(愛媛県上浮穴出身)、中田政行准尉(愛媛県東宇和郡出身)、山本栄馬准尉(愛媛県松山出身)ら、22連隊を支えてきた将兵が戦死していった。_NEWLINE_5月16日未明、アメリカ軍の手榴弾奇襲攻撃により、歩兵第22連隊第1大隊は大損害を受け後退する。この日、沖縄出身者の防衛召集兵百数十名が、22連隊に補充されることになったが、22連隊長吉田中佐は「22連隊は、全滅に瀕している。もう来るには及ばない。後日に備えて原隊に帰り、負傷兵の治療に専念してくれ。」と補充兵に命令した。すでに戦争の帰結は、22連隊の兵士すべてにわかっている。これ以上沖縄出身の補充兵を、敵戦車の餌食にしたくなかった。第3大隊の兵力は、2日間で90名から25名に激減した。日本軍沖縄守備隊32軍司令部は大本営に対して「首里に最後の予備兵力を投入するも保持困難。武器なき25000人の戦闘員に対する急速兵器の輸送。精鋭歩兵数個師団の沖縄への緊急落下傘降下。全航空兵力による沖縄周辺の敵艦船撃破。」の要請を打電した。_NEWLINE_5月17日払暁、アメリカ歩兵第77師団が22連隊正面に不意打ちをかけ、石嶺(米称:チョコレートドロップ)が奪取された。140高地の頂上が一時米軍に占領されたが、夕刻までに撃退した。22連隊の兵士は、タコツボ壕を巧妙に偽装して隠れ、敵をやり過ごして背後から殺しまくった。_NEWLINE_5月18日、140高地は火炎戦車を伴なう米軍に包囲され、馬乗り攻撃を受けた。米軍戦車は、タコツボ壕を一つ一つ踏みつぶし、潜伏している日本兵を確実に殺していった。翌日には洞窟陣地が爆破された。翌々日には140高地で250体以上の日本兵の遺棄遺体を米軍により確認された。_NEWLINE_5月19日、140高地の平野大尉は、馬乗り攻撃を受けた後、奇跡的に脱出に成功した。第3大隊は壊滅し、独立山砲第1連隊第5中隊の数十名を新たに22連隊第3大隊として戦い続けた。_NEWLINE_5月20日、日本軍右翼部隊の歩兵第89連隊は、運玉森で壊滅した。第24師団長は22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命じた。22連隊に配属された独立臼砲第1連隊第5中隊長緒方眞治中尉(士52期)が22連隊第3大隊長となり、22連隊第3大隊が再編成された。_NEWLINE_5月21日、日本軍左翼部隊の歩兵第32連隊も事実上壊滅し、津嘉山に後退した。以後日本軍左翼の防御は、歩兵第32連隊から独立歩兵21大隊に変更された。日本軍の中央部隊である22連隊は、戦車第27連隊(連隊長 村上乙中佐 士36期 愛媛県新居浜出身)の応援を受けて、首里北方石嶺、弁ヶ岳付近に存在した。ただし、戦車第27連隊は、主力戦車がすでに壊滅し、残った数両の九五式軽戦車は砲撃により道路が破壊されて通行ができず、戦車から機関銃を取り外し、機関銃を担いだ徒歩の戦車兵が応援にきた。米軍は攻勢をさらに強化して、アメリカ第77師団の援護に第96師団も投入して首里攻略を狙った。_NEWLINE_5月24日、32軍司令部の要請に応え、大本営は義烈空挺隊による読谷、嘉手納飛行場の奇襲を行ったが、戦局全般には影響しなかった。
_START_SECTION_
真栄里 22連隊最後の戦い
_START_PARAGRAPH_
5月27日、首里城にある32軍司令部の放棄が実施され、日本軍は沖縄本島南部に撤退を開始した。アメリカ軍の追撃は、一部の残留部隊による抵抗と、豪雨によって阻止された。首里には日本軍の負傷兵約1万名が収容されていたが、司令部の南部転進により移動不能な負傷兵約5,000名がその場で自決した。戦車第27連隊長の村上乙中佐(愛媛県新居浜出身)が、首里城において迫撃砲の破片により大腿部に重傷を負い、出血多量にて東風平の病院に搬送中戦死した。22連隊第1大隊は兵力をかき集め、下士官、兵、約40名。軽機関銃1丁、擲弾筒数筒の戦力で、撤退する日本軍の退却援護を命じられた。_NEWLINE_5月29日、首里陥落。_NEWLINE_5月31日、日本軍は沖縄本島南部に撤退を完了する。 22連隊は、喜屋武半島の真栄里に撤退した。 22連隊は、約300名に増員されたが、その兵士のほとんどが、野戦病院の壕から這い出てきた負傷兵たちであった。_NEWLINE_6月7日、第1大隊は志多伯付近で米軍と交戦し、包囲され馬乗り攻撃を受けたため真壁に脱出した。_NEWLINE_6月10日、22連隊長吉田中佐は、これまでの戦績を認められ大佐に昇進した。_NEWLINE_6月11日、小禄の海軍部隊が全滅する。海軍壕に隣接していた22連隊の壕も占領された。_NEWLINE_6月13日、第1大隊、第2大隊は真栄里(現:糸満市中央図書館付近)に布陣した。第3大隊は与座岳の89連隊に派出された。22連隊第1大隊長小城大尉は「ここが、我々の最後の陣地だ。我々は、ここで死ぬんだ。」と訓示した。22連隊第1大隊は、兵員20名に小銃6丁、軽機関銃と擲弾筒数丁、手榴弾が最後の戦力となった。アメリカ軍は戦車を押し立てて侵攻してきた。22連隊の右翼には32連隊が展開して防御にあたり、残存の砲火を集中してアメリカ軍を撃退した。_NEWLINE_6月15日まで22連隊の本部は、真壁タヂリガマの壕を使用していた。現在、糸満市真壁 萬華之塔敷地内には『山3474部隊慰霊之碑』が建立されている。_NEWLINE_6月17日、真栄里に、奇しくも同名の敵部隊、アメリカ海兵隊第22連隊が侵攻する。真栄里73高地の22連隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ、22連隊の本部全員が戦死した。また、与座岳に派遣されていた22連隊第3大隊も全滅したと推定される。敵に包囲され絶体絶命の22連隊長吉田大佐から、最前線で戦闘する22連隊第1大隊への命令は、『22連隊は最後まで戦う。小城大尉の幸運を祈る。』であった。 アメリカ軍沖縄攻略部隊司令官バックナー中将が、日本軍守備隊司令官牛島中将に降伏勧告の親書を送った。_NEWLINE_6月18日、真栄里で、アメリカ海兵隊第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐は、日本軍の狙撃により戦死する。その約1時間後、今度はアメリカ軍沖縄攻略部隊司令官サイモン・B・バックナー将軍が日本軍の攻撃により戦死する。22連隊第1大隊長小城大尉は、生き残った部下15名に部隊解散を命令し、前田高地の志村大隊と合流するよう指示した。この日、沖縄守備隊司令官牛島満中将は、大本営に対し決別電報を送信した。_NEWLINE_6月19日、真栄里にて、アメリカ陸軍第96師団のクラウディス・M・イーズリー准将が日本軍の機関銃弾2発を額に受け戦死する。アメリカ軍による敗残兵狩りが強化される。19日から21日にかけて、日本軍の生き残り約9千名が掃討される。_NEWLINE_6月21日、アメリカ軍沖縄占領を宣言。_NEWLINE_6月23日早朝、牛島司令官自決。_NEWLINE_6月24日、連隊旗を託された本田昇少尉(愛媛県上浮穴出身)は、宇江城の24師団司令部に後送のうえ奉焼した。22連隊旗の最後は、24師団司令部の白石直之准尉(愛媛県松山出身)が見届けた。現在、糸満市宇江城に『山雨之塔』「22連隊軍旗奉焼の地」の慰霊碑が建立されている。_NEWLINE_6月25日、沖縄本島守備の日本軍玉砕が発表される。22連隊本部が玉砕した後も、糸満南方の防御に就いていた22連隊の兵士たちは、最後の一兵まで手榴弾を投げ続け、徹底抗戦をしていたという。_NEWLINE_なお、22連隊玉砕の地には、戦後、栄里の塔という慰霊碑が建立され、以下の碑文が刻まれた。_NEWLINE_ 歩兵第22連隊は第32軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並びに将兵の遺骨1万2千柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。_NEWLINE_ 昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会
_START_SECTION_
歩兵第二十二聯隊歌
_START_PARAGRAPH_
時は明治の十九年 八月十有七日に 協力同心帝國を 保護せよかしとのたまひて さつけ給ひし我か軍旗 聯隊長はかしこみて 死力をつくし國家をは 守りまつらんと奉答し 拝受せられし我か軍旗 光かかやく我か軍旗 _NEWLINE_二十七年征清の 軍(いくさ)おこるや仁川に 上陸なして平壌を おとしいれたる旗風に 鶏林八道なひかして 満州の野に進入し しはしは敵とたたかひて うちやふりつつ おひまくり 遼西まても攻め入れり 田庄台まて攻めぬけり | 8387633505387413867 |
Q713589 |
_START_ARTICLE_
段珪
_START_PARAGRAPH_
段 珪(だん けい、? - 光熹元年(189年))は、後漢時代末期の宦官。済陰郡の人。『後漢書』に記録がある。
_START_SECTION_
生涯
_START_PARAGRAPH_
宦官を重用した霊帝の時代、侯覧、王甫、曹節が中常侍として権勢を振るっていた時期に、小黄門の地位にあった。侯覧と共に済北国で農業を営んでいたが、家来に略奪をするなど悪行があったため、済北相であった騰延という人物が侯覧と段珪の家来を殺害し、屍を晒し者にした。侯覧と段珪は激怒し、皇帝に騰延を誣告したため、騰延は免職となった。_NEWLINE_後に王甫は刑死、侯覧は自殺に追い込まれ、曹節も病死した。代わって趙忠、張譲が権勢を振るっていた。その時期に中常侍に任命された12名の宦官の一人として、段珪の名も挙がっている。_NEWLINE_189年、霊帝が没し、劉弁が即位すると、十常侍は外戚の大将軍何進と対立した。軍を中央に集めて宦官誅殺を図る何進の先手を打ち、何進を誘き出して暗殺した。このとき畢嵐と共に兵を率いて実際に何進を殺害したのは段珪である(何進伝)。十常侍は偽の詔勅で事態の収拾を図ったが、何進の部下の袁紹らが蜂起し、宮中に乱入、趙忠ら多くの宦官が殺害された。段珪は張譲と共に皇帝とその弟である陳留王劉協(後の献帝)を擁して逃亡するが、董卓、盧植、呉匡らの追撃を受け(『三国志』魏志董卓伝)、進退に窮し、張譲と共に入水自殺した。_NEWLINE_『三国志演義』でも、ほぼ同様の最期を遂げて河南中部掾の閔貢によってその首級を挙げられている。 | 4207518375346653547 |
Q707769 |
_START_ARTICLE_
殷汝耕
_START_SECTION_
初期の活動
_START_PARAGRAPH_
地方名望家の家庭に生まれ、1902年(光緒28年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(光緒31年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷は日本人女性と結婚している。_NEWLINE_1911年(宣統3年)に辛亥革命が発生すると、殷汝耕は黄興にしたがって帰国し、湖北省で革命に参加した。中華民国が成立すると、殷は国民党に加入している。1913年(民国2年)に第二革命(二次革命)が勃発すると、殷は革命派としてこれに参加した。しかし革命派は敗北し、殷は再び日本へ留学する。日本では、兄の殷汝驪が欧事研究会の発起人に名を列ね、殷汝耕もまたその構成員となった。_NEWLINE_早稲田大学政治学科を卒業した後の1916年(民国5年)に、殷汝耕は帰国した。当初は北京政府に入り、中国銀行から委託された調査のため、またしても日本に赴いている。その翌年に護法運動が勃発すると、孫文(孫中山)の護法軍政府により、殷は駐日委員に任命された。_NEWLINE_1920年(民国9年)に帰国すると、殷汝耕はいったん政界を離れて実業に従事している。1925年(民国14年)10月、臨時執政段祺瑞が開催した関税会議に顧問として招聘された。同年11月、奉天派の軍人・郭松齢が張作霖に対して兵変を発動すると、殷は郭の配下となり、外交処長に任ぜられた。しかし翌月に郭は敗死し、殷は日本領事館に逃げ込んでいる。
_START_SECTION_
国民政府での活動
_START_PARAGRAPH_
1926年(民国15年)11月、殷汝耕は、国民政府の北伐軍に南昌で合流した。蒋介石により国民革命軍総司令部通訊処処長兼参議に任ぜられ、蒋が日本と交渉する際には通訳を担当している。翌年の上海クーデター(四・一二政変)を経て、上海市長黄郛の下で秘書に任ぜられた。1928年(民国17年)3月、黄郛が外交部長に就任すると、殷汝耕は駐日外交特派員となった。なお、この頃までには、殷汝耕は殷同、袁良、程克とともに、日本通の四巨頭と目されるようになっている。_NEWLINE_5月に済南事件が勃発してから数ヶ月後の冬に、首相田中義一と対立していた床次竹二郎が南京を訪れ、蒋介石と事件解決等を話し合った。ところが、このとき通訳を担当していた殷汝耕は、会談内容をすべて田中に密告してしまい、床次に政治的打撃を与える。床次は殷の漏洩行為を蒋に通知し、蒋は殷を通訳から罷免した。_NEWLINE_同年12月5日、殷汝耕は交通部航政司司長に任ぜられ、1930年(民国19年)1月13日まで務めた。その後、陸海空軍総司令部参議に異動している。1932年(民国21年)4月1日、上海市政府参事となり、第一次上海事変後において停戦協定の締結に参与した。翌年5月、北平政務整理委員会委員長となった黄郛の招聘に応じて華北に向かう。11月、河北薊密区行政督察専員に任じられ、やはり対日交渉に参与した。1935年(民国24年)8月、灤楡行政督察専員に異動している。
_START_SECTION_
冀東防共自治政府と通州事件
_START_PARAGRAPH_
同年11月25日、土肥原賢二に誘われる形で、殷汝耕は「冀東防共自治委員会」の成立と自治を宣言した。これにより、殷に対して国民政府は逮捕令を発している。翌月、委員会は冀東防共自治政府に改組され、殷は政務長官に就任した。_NEWLINE_しかし1937年(民国26年)7月、かねてから国民革命軍第29軍軍長宋哲元と秘密裏に連絡を取り合っていた冀東保安隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田が蜂起し、殷汝耕は捕縛されてしまった(通州事件)。張慶余は、捕らえた殷を宋に引き渡そうと北平に護送した。ところが、宋はすでに北平を離れており、日本軍と遭遇した護送部隊は蹴散らされてしまう。_NEWLINE_混乱の中で、殷汝耕は北平城内に逃げ込んで身を隠した。しかし日本軍は、殷を通州事件の首謀者と誤解していたため、まもなく殷は日本軍により逮捕されてしまう。危うく処刑されそうになった殷だったが、かねてから親交のあった頭山満の斡旋で辛うじて助命された。しかし、政務長官は辞任することになる(後任は秘書長の池宗墨)。その後5年間は、日本からの通告もあって、殷は北平に隠棲、蟄居することになる。
_START_SECTION_
晩年・刑死
_START_PARAGRAPH_
後に、殷汝耕は治水専門家としての技量を日本側から評価されることになる。1942年(民国32年)、殷は汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加する形で政界に復帰した。同年2月、山西煤鉱公司董事長に任命されている。翌年3月17日、国民政府経済委員会常務委員に任命され、1944年(民国33年)1月からは、治理運河籌備処主任、治理運河工程局局長を歴任した。しかし、殷は権限の小ささに不満を抱き、6月に治水関係の職務を辞して北平に戻った。_NEWLINE_日本降伏後の1945年(民国34年)12月、殷汝耕は漢奸として逮捕され、翌年5月、南京に護送された。殷は獄中で回顧録を著し、自分の行動が実は愛国心に基づいたものであったと主張したが、1947年(民国36年)11月8日、最高法院で死刑が確定した。処刑までの日々は、終日、読経により過ごしたとされる。12月1日、南京の刑場で銃殺に処せられたが、最期まで緊張とした態度であったという。享年63。 | 5057829717848534939 |
Q5417810 |
_START_ARTICLE_
毎日がイタリアン-ジャーダのカジュアル・クッキング-
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
イタリア生まれの料理研究家のジャーダが、カリフォルニア州ロサンゼルス郡のマリブ、パサデナ、パシフィック・パリセーズにあるフード・ネットワークのセットあるいは家(自宅とは限らない)を貸し切ってロケーション撮影される。この番組ではジャーダの家族も頻繁に登場し、ジャーダのファッションは元夫でファッションデザイナーのトッド・トンプソンによって製作された。母のヴェロニカ・デ・ラウレンティス、叔母のラファエラ・デ・ラウレンティス(愛称:ラフィー)、妹のエロイーザ(メイクアップアーティスト)がジャーダのキッチンにやって来て、傍で見守ったり、時には手伝いもしたりする。叔母のラフィーが最も出演回数が多く、ターキーソーセージとチェスナッツスタッフィングのスペシャルレシピを提供した事もあった。2008年2月に娘のジェード・マリー・デ・ラウレンティス=トンプソンの出産と育児に専念するため、番組の終了を自身のウェブサイトに告知した。_NEWLINE_この番組のおかげでジャーダの人気が高まり、『ジャーダ・ウィークエンド・ゲートウェイ』や『ジャーダのおもてなしレシピ』に繋がっていった。また、マリオ・バターリ監修による特別番組『Giada's Italian Holiday』はこの番組から派生した物である。 | 6246068172679895639 |
Q11547383 |
_START_ARTICLE_
比佐芳武
_START_SECTION_
来歴・人物
_START_PARAGRAPH_
現在の北海道滝川市に生まれる。_NEWLINE_マキノ・プロダクションに入社、同社で初めて採用されたのはオリジナルストーリーであった。中川信夫が脚本化し、マキノ正博が監督したこの『浪人太平記』は、1931年(昭和6年)3月19日に公開された。同年のマキノ解散後は、高村正次が興した「正映マキノキネマ」で1932年(昭和7年)、マキノ正博が「青山正雄」名義で監督した『喧嘩道中記』、おなじくマキノが監督した『二番手赤穂浪士』の2作にオリジナル脚本を書いた。同年、マキノとともに日活に入社、ひきつづきマキノとのコンビで野村胡堂原作の『七人の花嫁』の脚本を書き、荒井良平らにも脚本を提供したが、マキノの日活馘首後は、1934年(昭和9年)、嵐寛寿郎プロダクションに移籍した。同社では、『喧嘩一代』のオリジナル脚本、大仏次郎原作の『鞍馬天狗』全3篇、行友李風原作の『月形半平太』の脚本を執筆した。_NEWLINE_マキノ正博の録音研究による雌伏時代も、マキノによく協力し、1935年(昭和10年)11月、マキノによる「マキノトーキー製作所」の設立に参加、翌1936年(昭和11年)1月に発表になった同社の陣容では、脚本部の筆頭に名をつらねた。1937年(昭和12年)4月の同社の解散後、マキノが日活に1冊の脚本を手に売り込みに行くわけだが、それは比佐が書いた吉川英治原作の『恋山彦』であった。マキノとともに日活京都撮影所に入社する。_NEWLINE_1941年(昭和16年)1月の日活の製作部門と新興キネマ、大都映画の合併による大映の設立以降も大映に残ったが、1943年(昭和18年)、マキノとともに松竹下加茂撮影所に入社、同年8月1日付で発令、発表された同社の人事で、下加茂撮影所長・牧野正博、企画部長・牧野満男、製作部長・辻吉郎とともに脚本部長として名を連ね、マキノにひきつづき協力した。_NEWLINE_第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、新体制下の大映京都撮影所で、オリジナル脚本『七つの顔』が松田定次監督、片岡千恵蔵主演で映画化、これがオリジナルキャラクター「多羅尾伴内」の初登場作品となる。以降、片岡の当たり役となった。1949年(昭和24年)以降は東横映画、1951年(昭和26年)の3社合併後の東映京都撮影所で脚本を書きつづけ、二本立て上映の元祖となり「比佐天皇」と呼ばれた。1965年(昭和40年)東映京都の合理化を進める岡田茂に引退させられたが、1973年(昭和48年)にNET(のちのテレビ朝日)の「長谷川伸シリーズ」で植木等を主演にした『江戸の花和尚』の脚本を書き、これが遺作となった。_NEWLINE_1981年(昭和56年)12月17日に死去した。
_START_SECTION_
金田一耕助シリーズ
_START_PARAGRAPH_
東横映画で製作された横溝正史原作の金田一耕助シリーズ(片岡千恵蔵主演)の脚本を担当しているが、横溝によれば、比佐は「原作の持つアクの強さに理解がある」上に「原作を読んでいる観客でもあっといわせてみせるという自信家」で、真犯人はすべて原作とは異なっている。横溝は「私は私でいたって寛容の精神にとんでいるから、シナリオを読むたびにオンヤオヤと思いながら、それでも映画が当たるなら結構ではないかと、かえって面白がっていたものである」と回顧する一方、「作者としてはこいねがわくば原作どおりにやってほしい」と不満の意も示している。 | 7830810594933553289 |
Q11548083 |
_START_ARTICLE_
気楽流
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
創始者は、富田流(戸田流)7代目(あるいは6代目)の渡辺杢右衛門。その後、気楽流第11代目で中興の祖といわれる飯塚臥龍斎興義が、別の体系だった杢右衛門以来の気楽流と富田(戸田)流の2つに、上泉伊勢守の無敵流(新陰流の上野国での別名)を加え、これら3つを再編して気楽流「重術」と称した。これ以後、気楽流とは臥龍斎が再編したものを指す。喜楽流と書かれる例もある。_NEWLINE_大成者の飯塚臥龍斎興義以降、気楽流は彼の弟子や養子によって伝承された。臥龍斎以降の系統を3つに分けている。臥龍斎高弟・菅沼勇輔の系統は武蔵国秩父方面に伝来し、同じく高弟・児島善兵衛の系は上野国佐位郡伊勢崎町方面に伝承され、臥龍斎の養子・飯塚帯刀義高の系統は勢多・甘楽・西上州方面に伝来した。_NEWLINE_講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の師である福田八之助(柳儀斉)は、秩父の出身で天神真楊流と気楽流、奥山念流等の免許皆伝であった。このことから講道館柔道への影響も指摘されている。明治18年制定の警視庁柔術形にも技法のひとつ「見合取」が採用された。しかし警視庁の柔術形は講道館柔道の採用もあって廃れ失伝している。_NEWLINE_多くの流派で失伝した契木術の組型を現在も残している(『武芸流派大事典』)。 _NEWLINE_北関東一帯の祭りの棒術としても気楽流が存在していた。_NEWLINE_群馬県における気楽流の柔術の内、伊勢崎系の2団体は、気楽流柔術として日本古武道協会にそれぞれ加盟している。_NEWLINE_平成27年2月26日に水科寿美の練志館が伊勢崎市の無形民俗文化財に指定された。
_START_SECTION_
流儀歌
_START_PARAGRAPH_
闇の夜に鳴かぬ鳥の声聞かば生まれぬ先の父母ぞ恋しき_NEWLINE_ほらぬ井にのぞかぬ人の影さしてたよらぬ月と映る月影
_START_SECTION_
「気楽流」始祖
_START_PARAGRAPH_
気楽流の始祖は諸説伝わり、戸田越後守(富田越後守)・上泉伊勢守・水橋隼人の3名がみえる。水橋隼人説は気楽流との関係は不明。この説は菅沼系に伝わるもので、戸田越後守の3代前に水橋があり、戸田(富田)流の伝承と内容が重複している。『上毛剣術史』にて飯嶌は、上泉伊勢守説は飯塚臥龍斎が学んだ新陰流から遡ったとして始祖は戸田越後守とするが、彼はあくまで戸田流の始祖としている。_NEWLINE_上述の戸田越後守に関しては、富田流の富田越後守重政と同一人物説・別人説がある。飯塚家の伝承が書かれた飯塚臥龍斎頌徳碑(群馬県甘楽町)には、戸田越後を元長尾氏旧臣で箕輪に仕えた戸田八郎高安が戸田流祖とする。高安はのち飯塚姓と改め11代後の子孫が臥龍斎だとしている。そして飯塚系の巻物では、戸田越後守綱義とあり、前名を新八郎一利、越後国頸城郡戸田村出身とする。菅沼系は水橋隼人の子孫に戸田を置き、名を越後守秀雄とする。児島系は戸田越後守信正とし富田ともいったとする。飯嶌は富田重政と戸田越後を同一人物説をとる。_NEWLINE_戸田を祖と伝える系統でも初期は戸田越後守・上泉伊勢守・引田文五郎の3名が入り乱れている。飯嶌の説によれば、これは流祖を神格化するため上泉や引田を配したとされ、この次に新藤雲斎が共通してきているため、戸田の後は新藤とみなしている。一方、『上毛剣術史』で諸田政治は、『皇国英名録』の説を採用し、気楽流祖は上泉・疋田・戸田の順であるとし、上泉伊勢守の流れを当初から汲んだとする。_NEWLINE_新藤のあとの1・2代は戸田内記・戸田隼人・土屋将監の名が入り乱れるが、その次は渡辺杢右衛門で統一されている。大勢がそれに続いて金沢新五兵衛、渡辺兵右衛門、絹川久右衛門、蛭川菊右衛門とし11代飯塚臥龍斎興義に至っているが、一部異なる伝承もある。
_START_SECTION_
「気楽流」の流祖と飯塚臥龍斎
_START_PARAGRAPH_
『上毛剣術史』によれば、気楽流流祖は渡辺杢右衛門とされる。ただし異伝もあり、飯塚系の多くは絹川久右衛門を、児島系は飯塚臥龍斎を流祖とするなど、飯塚臥龍斎・絹川久右衛門・蛭川菊右衛門の3名が「流祖(中興の祖)」として錯綜している。_NEWLINE_『武芸流派大事典』では9代目の絹川久右衛門が気楽流と改めたと伝えるが、『多野郡誌』・『新町町誌 通史編』・『境町史 民俗編』では臥龍斎が改めたという。_NEWLINE_『新町町誌 通史編』によれば、臥龍斎は戸田流であり、これを「気楽流」と称したきっかけは、文化11年(1807年)に真之神道流との間に門弟同士の刃傷事件が起こってしまい、その結果臥龍斎が新町宿を追放され戸田流を名乗るのを禁じられたからであるという。『上毛剣術史 下』では荒木流との諍いであったと推定している。_NEWLINE_この喧嘩「新町騒動」により、臥龍斎は捕縛され、板鼻陣屋で取調べを受け所払いとなったとされる。_NEWLINE_一方、気楽流伝書では、臥龍斎は追放されたのちに臥龍斎の技量を惜しんだ領主・跡部氏の前で縄抜の術を披露して追放を赦され、跡部家の柔術師範となったと伝え、また当時既に「気楽流」であったとし追放で名乗りを禁止されたが、この赦免によってその禁止が解かれたとする。
_START_SECTION_
飯塚臥龍斎以降の各派
_START_PARAGRAPH_
臥龍斎の後は菅沼勇輔系(秩父)、児島善兵衛系(伊勢崎)、飯塚帯刀義高系(甘楽)と大きく3つに分かれた。
_START_SECTION_
児島善兵衛の伊勢崎系(気楽流宗家)
_START_PARAGRAPH_
児島系は、12代の児島から同じく臥龍斎の弟子だった五十嵐金弥へ伝わり、14代斎藤武八郎が伊勢崎藩の柔術師範になった。武八郎には弟子が多く、武八郎の婿養子の斎藤武七郎、弟子の長沼綱吉、高木周輔、加藤勝馬が15代に挙がる。ただし現代まで残るのは長沼の系統のみともいう。_NEWLINE_斎藤武七郎は養父の跡を継いで伊勢崎藩指南役となったが、廃藩置県で故郷に帰り道場を開いた。この系統は武七郎養子・武二郎へと続く。加藤勝馬は新田岩松道純に仕え新田家柔術指南役となった。弟子には根岸義高などがいる。長沼綱吉の系統は下川淵村で続いた。この長沼のとき、甘楽藤岡系の長山弥一と長沼の高弟・栗原長蔵が正統気楽流宗家を巡って争っており、甘楽藤岡系との対立がみられた。長沼のあとは新井平馬・新井久平の2系統がみえる。16代新井久平系は17代森正秀へ続く。16代新井平馬の系統は17代新井数馬、18代新井道次郎と続く。道次郎の弟子には19代となり前橋で道場を開き道次郎の葬儀で演武を奉納した飯嶌文夫や、気楽流保存会の水科寿美がいる。_NEWLINE_19代飯嶌文夫は「宗家」と名乗っており、児島善兵衛・五十嵐金弥・斎藤武八郎・長沼綱吉・新井平馬・新井数馬・新井道次郎から自身へ続くとしている。岩井作夫によれば、甘楽系と秩父系が「宗家」と呼称していないのは伊勢崎の児島系に遠慮しているからという。_NEWLINE_元は型が360手あったが、戦後の入門者激減などで失伝し、100余しか残っていないとされる。また型は本来、居捕り・十手・鉄扇・棒・太刀・契木・鎖鎌・単縄・真剣の大きく9つに分かれていたが、このうちの十手・鉄扇・単縄が現在全く伝承されていない。_NEWLINE_武道研究家・武器研究家の岩井作夫は飯嶌の門人という。
_START_SECTION_
飯塚家の甘楽・藤岡系
_START_PARAGRAPH_
飯塚系は、臥龍斎の養子・飯塚帯刀義高からその子・興高が13代、14代に興高の弟・義興と続き、義興の周辺で諸流に分かれている。『上毛剣術史』には代数のある流派として、義興の高弟・根岸登美太と関口万蔵の2系統、および義興の兄弟弟子・長山弥一からその弟子・高山辰次郎へ続く1流を載せる。_NEWLINE_岩井作夫によれば、この系統の気楽流の体系は、飯塚興高が早世し、義興は興高の弟子・長山から教授を受けるという経緯のため、全て伝わっていないといい、また下田茂平の弟子で光輪洞合気道師範の川野ぐらいしか教授が行われていないという。
_START_SECTION_
菅沼勇輔系の秩父気楽流
_START_PARAGRAPH_
秩父系の気楽流は菅沼勇輔が祖であるが、柔術研究家で真蔭流師範の山田實によれば、秩父に気楽流をもたらしたのは菅沼の弟子の加藤軍司・町田五郎右衛門や加藤の実父・勅使河原仁平、孫弟子の本橋惣五郎などとされる。これら12代菅沼の弟子で13代とされるのは加藤軍司のほか、町田五郎右衛門や加藤の実父・勅使河原仁平がいた。_NEWLINE_加藤軍司系は、加藤の後に本橋惣五郎へ伝わり、惣五郎の子・万作、次いで孫の武次へと伝来したが、武次の死で途絶えたという。一方、飯嶌の作成した伝系図では、菅沼と加藤の間に勅使河原が挿入され加藤は菅沼の孫弟子になっている。_NEWLINE_町田五郎右衛門系は、町田から彼の3男・吉岡佐五郎を経て関根氏が継承したという。なお現代では秩父気楽流はほぼ失伝したとされ、山田によると1960年に根岸純太郎(児島系16代新井平馬の弟子)と岩田弥市(秩父系14代本橋惣五郎を師とする斎藤忠夫の弟子)が演武を行ったのが秩父における気楽流の最後だという。_NEWLINE_山田の弟子で武道研究家の平上信行によれば、山田は最後の伝承者という本橋武次(秩父気楽流16代)から教授を受け、また上州系など他の気楽流伝承者からも教えを得て秩父気楽流を復元したが、山田は欠伝が多いことを理由に気楽流を看板に挙げていないという。 | 13041149939886688314 |
Q7978253 |
_START_ARTICLE_
気象警報
_START_PARAGRAPH_
気象警報(きしょうけいほう)とは、気象災害、水害、地盤災害、地震、噴火などの重大な災害が起こるおそれがある場合に、気象庁が警告のために発表する情報。単に警報とも言う。災害の危険性が著しく大きいときには、警報より更に上位の特別警報が発表される。類似のものとして注意喚起のために発表される注意報があり、警報は注意報の上位に位置づけられるが、注意報はあっても警報は存在しない災害もある。_NEWLINE_2019年5月に運用が開始された防災気象情報の警戒レベルでは、大雨警報および洪水警報は警戒レベル3相当(避難準備・高齢者等は速やかに避難)、高潮警報は警戒レベル4相当(速やかに全員避難)となっている。_NEWLINE_日本における国の気象業務としては、毎日の天気予報の開始(1884年(明治17年)6月1日)よりも1年ほど早い1883年(明治16年)5月26日に初めて全国暴風警報が発表されて以来、太平洋戦争の開戦直前から敗戦直後までの約4年間を除き、国の責務として実施されている。
_START_SECTION_
対象区域と発表機関
_START_PARAGRAPH_
対象区域については、気象業務法第4条により警報・注意報ともに予報区を対象として行うことと定められ、さらに気象業務法施行規則第8条により府県予報区(周辺海域を含む)を対象として行うことと定められ、気象庁予報警報規定第2条はその府県予報区を具体的に指定している。なお、同規定12条の2は「(注意報および警報は)必要に応じ、一次細分区域または二次細分区域に限定して行う」と定め、別表にてその一次細分区域と二次細分区域を具体的に指定している(気象庁 「警報・注意報や天気予報の発表区域」参照)。実際の運用では、2010年(平成22年)5月27日13:00より、原則として市町村(一部では市町村内を分割して設定された区域)、東京23区は各特別区をそれぞれ単位として発表されている。なお、東京都小笠原村は長らく警報の対象ではなかったが、人が居住している父島・母島とその周辺海域に限り2008年(平成20年)3月26日9:00から警報の発表業務が開始されている。_NEWLINE_発表元機関については、同規定12条により警報・注意報ともに区域ごとに予め定められた担当気象官署が発表することと定められている。
_START_SECTION_
基準
_START_PARAGRAPH_
発表のタイミングと基準について、気象庁予報警報規定第12条は警報・注意報ともに「必要と認める場合に随時に行う」と定めているが、実際の運用では、単位時間当たりの降水量や風速などの気象要素やそれらの複合指標を数値化して予め基準を定め、予報値や観測値がその基準に達した時に警報を発表するものが多い。過去に何度か全面的に改正されており、2010年5月からは大雨警報で土壌雨量指数、洪水警報で流域雨量指数という複合指標をそれぞれ導入している。基準は、地理的な特性、過去の災害事例などを考慮して、地域により差がある。例えば大雨警報(浸水害)の発表基準となる予想雨量は多雨地帯の尾鷲市では3時間210mmであるが、東京都新宿区などでは1時間40mmとなっている。また、直前に地震(おおむね震度5強以上)・火山噴火が発生したり、豪雨に起因する大規模な災害があったなどの状況に応じて、基準が引き下げられる場合がある。
_START_SECTION_
警報の独占
_START_PARAGRAPH_
気象業務法第23条により、気象庁以外の者が警報を行うことは禁じられており、情報が錯綜することによる防災対応上・公安上の混乱を防止している。これと同様の規制はアメリカにおけるSingle "Official" Voice原則など、世界的にみられる。_NEWLINE_なお、通信が途絶するなどして気象庁の津波警報が利用できない場合に市町村長が行う津波警報は、気象業務法施行令第8条で“気象庁以外の者の行うことができる警報”とされ許容されている。また現地で確認した異変などに基づいて土地の管理者などが行う地象(がけ崩れなど)の警報は、緊急避難的なものとして許容されている。
_START_SECTION_
警報の補足
_START_PARAGRAPH_
警報の発表後に特に警戒しなければならない状況が生じた場合に、警報を補足する気象情報が発表されることがある。例えば大雨警報や特別警報発表中に数年に1回程度しか生じないような猛烈な雨を観測した場合には記録的短時間大雨情報が発表され、発生しつつある災害への警戒が呼びかけられる。また土砂災害の危険性が高まっている場合、土砂災害警戒情報を発表し市町村単位で土砂災害への警戒を呼びかけることも行われている。
_START_SECTION_
その他
_START_PARAGRAPH_
報道などにおいて「○○地方気象台が●●警報(注意報)を発令した」と表現されることがままあるが、正式には「発表」という表現が正しい。なお、災害対策基本法には「災害に関する予報又は警報の発令」が規定されており、これに基づき地方自治体が避難指示や避難勧告を発することは「発令」という。 | 3793014860085703795 |
Q11548762 |
_START_ARTICLE_
水木海水浴場
_START_SECTION_
開設期間
_START_PARAGRAPH_
7月14日 - 8月19日 | 360857596371218704 |
Q61954839 |
_START_ARTICLE_
水面
_START_SECTION_
概説
_START_PARAGRAPH_
水面というのは、水の表面のことである。_NEWLINE_基本的には、水と大気の境界面である。_NEWLINE_海の場合は特に「海面」(かいめん)と言うことがあり、川の場合は「川面」(かわも)ということがある。_NEWLINE_船舶用語では「平水面」と言うと、湖沼など、海とつながっていない水面を指す。_NEWLINE_漁業関係の用語では、「内水面」と言えば、湖沼や河川など淡水の水の上を指し、「外水面」は、海水面を指す。_NEWLINE_風によって水面に波が起きる。波の中でも特に風によって起きる波を風浪という。風速に応じて波の状態は変化する。川の流れによっても波はおきている。_NEWLINE_水面では熱交換が行われている。水文学などがそうしたことに関して研究を行っている。_NEWLINE_建築学では都市部に水面があることがもたらす効能について研究されることがある。
_START_SECTION_
海洋の水面
_START_PARAGRAPH_
地球の表面の約70%は海水面である。その海水面の高さは潮汐運動によって変化しつづけている。_NEWLINE_地理(測地学)で用いる海抜は、世界の海洋の水面(海水面)の平均的な高さ(海面#平均海水面)に基づいて算出されている。
_START_SECTION_
光の屈折
_START_PARAGRAPH_
水面の物理的特性として、光の屈折が挙げられる。光が空気から水へ進入する、もしくはその逆に進行する場合、波長の違いに応じて一定の角度で水面で光の筋が折れ曲がる。また、水中から水面に対して極めて浅い角度で光が進入したとき、全反射と呼ばれる現象が起こる。_NEWLINE_したがって波が起きる要素の少ない条件下では、水面は優れた鏡となる。水面に物の像が映って見えることを指して水鏡(みずかがみ、すいきょう)と言う。あるいはまた、そのような映し鏡を見ることをも指して言う。_NEWLINE_自然界でも、特に風のない時の湖沼の水面は鏡となって景色を映し出す。たとえば富士山の姿が富士五湖に写った逆さ富士は浮世絵や写真の素材としてよく知られる。
_START_SECTION_
波
_START_PARAGRAPH_
水面に生じる波を水面波という。
_START_SECTION_
水面の生態
_START_PARAGRAPH_
ここでは、水面を主とする環境における生態について概説する。_NEWLINE_水面を生活の場とする生物をニューストンという。これには、アメンボのように水面の上に乗るもの、ウキクサのように水面に接して存在するもの、アサガオガイのように水面に裏側から接するものなどがある。アサガオガイは空気の袋を作り、これにぶら下がって水面に生息する。クラゲの一種であるカツオノエボシやギンカクラゲは気体の入った大きな浮き袋を持ち、水面を生活の場とする。_NEWLINE_アメンボ程度以下の動物の場合、水面を漂うことはさほど困難ではない。普通のアメンボには、長い足など水面に浮かぶための適応が見られるが、小型のアメンボ類であるカタビロアメンボ類などは特に水上生活に適応したととれる部分が少ない。トビムシ類も水面に出てくるものが多くある。逆にこのような小型動物では水面を突っ切るのが困難である。トンボのうち、水中に産卵するものは、水草の茎にすがりついて水中に進入する。クモ類(蛛網類)では、ハシリグモ類に水上生活に適応している種類が多い。_NEWLINE_また、水面は空中と水中の間の障壁としても機能する。例えば、水面上から水中の獲物を狙うためには、水面の光の反射はきわめて邪魔である。また、水面での光の屈折は、獲物の位置の特定を難しくする。斜め方向から水中の獲物を狙うサギのような鳥は、この見える位置と狙うべき位置を補正しなければならない。カワセミなどは水面の真上から垂直に飛び込んで獲物を狙うため、補正は少なくて済むが、これも常というわけではない。また、トビウオやトビイカ (Sthenoteuthis oualaniensis) の滑空は水中の捕食者(主に高速で追ってくる肉食魚)から逃れるための生態である。視界が遮られる水面より上に飛び出して捕食者の眼からいったん逃れ、その後、着水地点を予想されることのないよう直進を避け、トビウオは鰭をトビイカはエンペラと腕を使って滑空コースを変えることで初めて捕食を免れ得る。_NEWLINE_音波に関してはさらに遮断が厳しい。ウオクイコウモリは反響定位によって獲物を狙うとされるから、おそらくは魚が水面から体の一部を出した瞬間を狙うものと考えられる。
_START_SECTION_
ガス交換の面として
_START_PARAGRAPH_
水中は空気中に比べて酸素の量が多くない。そのため、水中動物も酸素の供給を空気に依存している面がある。魚類では水中で鰓呼吸をするが、水中の酸素が不足すると、水面で口をぱくぱくする鼻あげを行う。魚を容器で保護する場合、水の量より水に対する水面の広さに配慮する。極端な場合、水が無くても湿ったもので包んでおいた方がましである。_NEWLINE_陸上から水中生活に入ったものでは、水中生活であっても空気呼吸をするものが多い。水生昆虫のゲンゴロウやタガメ、カのボウフラなどもそうである。したがって、水面に油膜などができると呼吸できずに死滅する。ネッタイシマカのボウフラでは密度効果が水面の面積に対する個体数で決まる。
_START_SECTION_
拡散反射
_START_PARAGRAPH_
水中から見た場合、昼間の水面は光が拡散反射(乱反射)するなどしてその向こうにある空間を視認性の悪いものにしてしまうことが多い。多くの回遊魚の腹部が銀色であるのは、捕食者に下から狙われた場合、白銀色に光輝く水面に紛れて逃げおおせる可能性が高まるからで、つまりは保護色である。_NEWLINE_また、カナダの島嶼部に生息するアメリカグマの生態観察の知見として、アメリカクロクマに比べてシロアメリカグマのほうがサケなどの魚を捕らえる能力に長けているのであるが、これは、黒い体色をしているために水中の魚から視認されやすいアメリカクロクマに比べて、水面の色に紛れてしまう白い体色をしているシロアメリカグマは気付かれにくいということが有利に働いているものと考えられている。なお、シロアメリカグマは、無闇に目立つ体色であるがゆえに生き残る上で不利とされるアルビノではなく、正常に適応進化を遂げた種、すなわち白変種であり、上述したものはこの種が具える優れた特性である。また、ホッキョクグマ、ホッキョクギツネ、ホワイトタイガー、ホワイトライオンなどといった他の様々な白変種の捕食動物は、シロアメリカグマと同じ性質を具えている可能性があるが、シロアメリカグマと違ってはっきりしない。_NEWLINE_鏡面化した水面は、多くの捕食動物にとって視覚情報の取得を妨げる障害であるが、他の捕食者にとっての障害はそれを問題としない特殊能力者にとっては利益であるのも自然的摂理である。ミサゴやチョウゲンボウのように、上空より水面に狙いを定めて魚食(実際には水生動物も食べる)をよくする猛禽類は、反射光を遮断して鏡面化を無効とする眼を具えているのであり、そのような者にとっては競合者を寄せ付けない都合のよい環境条件となっている。特にミサゴは、魚食の傾向がどの種よりも強い分だけこの能力に優れている。
_START_SECTION_
微生物にとって
_START_PARAGRAPH_
水面を特に利用する微生物もある。水生不完全菌は水中を漂うような枝のある胞子を作るが、この胞子が水面に広がるのがよく見られる。それらはその胞子の表面が水を弾いて水面に漂う。また、半水生菌と呼ばれる菌群は、螺旋状やカゴ状などの胞子を作り、これは内部に空気を抱え、水面を漂うのに適応した形と考えられる。これらは水際で生活するものと考えられている。_NEWLINE_動きのない水面では、水面に油脂や有機物の薄膜が広がると、その面はさまざまな微生物にとって基盤として機能する。このような環境では、大気が重要な酸素の供給源であり、それに面する水面は微生物の重要な活動の場でもある。細菌類はその面に広がったり、その下面に集団を作る。それらの捕食者である原生動物やワムシなどもその面をよく徘徊する。ツリガネムシや襟鞭毛虫など一部の固着性の生物も水面裏につく例がある。また、陸生のカビ類が水中の基質に生育した場合、菌糸は水中でも伸びるが、胞子はほとんど作られない。これらは、往々にして水面に菌糸を伸ばし、水面から胞子柄を伸ばして空気中に胞子を作る。
_START_SECTION_
動物の水面移動
_START_PARAGRAPH_
アメンボは表面張力を利用して水面を移動する。_NEWLINE_ハゼ科の魚類であるトビハゼやアンダミア属(en、ヨダレカケの仲間)は尾鰭で水面を叩くことで水面上を飛び跳ねるように移動することができる。_NEWLINE_トカゲの1種であるバシリスクが二本の後肢を使って水面上を駆け抜ける。バシリスクの場合、表面積を広くした水掻き付きの足で水面を激しく蹴りつけて浮力を生み出しつつ、左右の後肢を交互に素早く繰り出すことで「沈むより早く浮く」という方法によって水面を「走る」。_NEWLINE_モノアラガイ、プラナリアなどは水面の裏側を這うことができる。これらは幅広い腹面の足を水面に広げて、水面にぶら下がるようにして這う。海ではアオミノウミウシなどが同ように水面を這って生活する。
_START_SECTION_
水面と心
_START_PARAGRAPH_
水面は、人類史上最も古くから用いられたであろう、自然の映し鏡である。古代中国においても水鏡が使われていた。瓶や水盤に水を張って覗き込む。おだやかな水面は光を鏡のように反射する。鏡が発明された後でも鏡を所有できたのは一部の人に限られていて、ほとんどの人にとって水面は自らの姿を確かめられるほとんど唯一の手段であった。_NEWLINE_20世紀に、鏡を覗き込むことで自我が生まれるとする説を主張した精神医学者がいたが、彼は水面を覗き込んだナルキッソスの話にも言及した。ギリシア神話に登場するナルキッソスの物語は、いくつかヴァリエーションがあるが、美しい少年が水面に映る自分の姿に見惚れて、想いが満たされぬままにやつれ死んでいったとし、後には水仙の花が残っていた、あるいは水仙に化した、などとするお話である。_NEWLINE_イソップ寓話の『犬と肉』では、肉をくわえながら橋を渡ろうとした犬が橋下の水面を見て、自分だとは気づかず他の犬だと思い、その犬がくわえている肉まで欲しくなり吠えたところ、自分が口にくわえていた肉を落として失ってしまった、というお話である。200年頃に編まれた古代インドの説話集『パンチャタントラ』にも非常によく似た物語がある。
_START_SECTION_
船舶
_START_PARAGRAPH_
船舶は排水型と滑走型に分類され、排水型は水面下に船体があり水をかきわけるように進み、滑走型は水面上を滑るように進むものである。_NEWLINE_滑走型のものにはモーターボート、ウィンドサーフィン、水上オートバイなどがあり、高速移動時に滑走(プレーニング)状態になる。ヨットも一部にプレーニングをするものがある。_NEWLINE_また、水中翼船は揚力によって水面を滑走する。
_START_SECTION_
遊具
_START_PARAGRAPH_
水上スキーや、娯楽用浮体(バナナボートに代表される、プレジャーボート等で牽引して水上を滑走させる遊具)は、船に牽引されて水面を滑走し、疾走感を楽しむものである。サーフィンも滑走する。_NEWLINE_なお、モーターボートや水上スキーでは、人の体が水面上に投げ出され、水切り(水の石切り)と同じ状態になって滑走してしまう事故が起こる。
_START_SECTION_
水上機
_START_PARAGRAPH_
様々な事情によって陸上の滑走路を用意できない場合でも、水面を滑走面として用いることができるのが水上機である。
_START_SECTION_
水上歩行
_START_PARAGRAPH_
屈斜路湖などには通称「ゼロポイント」と呼ばれる水深が0に近いポイントがあり、水面に立っているように見える場所がある。_NEWLINE_動物の水面移動の項目にあるように、アメンボのように常時水面で歩行している例、水鳥のように飛翔の際に水面に助走する例、バシリスク属のトカゲが高速の駆け足で短時間水面を蹴り走行することが出来る事から、下記のイエスの例から Jesus Christ lizard と呼ばれる例がある。
_START_SECTION_
イエスの水上歩行
_START_PARAGRAPH_
『新約聖書』はイエス・キリストが水上を歩く奇跡を行ったと記している(イエス等の水上歩行)。
_START_SECTION_
ダ・ヴィンチの水上歩行靴
_START_PARAGRAPH_
一大発明家でもあった15世紀イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチは、水上歩行用の装置の開発を模索し、そのアイディアをスケッチに残した。それは、靴に見立てた2つの大きなフロート(浮き具)を両足に履き、長い柄を具えた2つのフロートをスキーストックのように両手で持ち進むというものであった。
_START_SECTION_
忍者の水上歩行術
_START_PARAGRAPH_
近世の日本では忍者が水蜘蛛なる道具を使って水面を渡ったとされるが、実態としては派手な印象のものなどではなくて、鍛錬を要する地道な技術であった可能性が史料によって確かめられる。なお、水蜘蛛そのものを実行不可能な絵空事と見なす論説もあるが、当時であれ後世であれ流布した拡大解釈によるイメージが科学的に否定されたことを根拠に、検証が重ねられるべき原典まで否定しようとする考え方は乱暴である。とは言え、水蜘蛛の実際がどのような道具であったとしても、「イエスの水上歩行」やそれに類する奇跡的行為は、忍者がヒトである限りは不可能である。
_START_SECTION_
水面移動ロボット
_START_PARAGRAPH_
アメンボの生態に学んだ水面移動ロボットが開発され、発展を遂げつつある。アメリカ合衆国のマサチューセッツ工科大学が2003年に開発・発表したロボストライダー(en、“アメンボ・ロボ”。■右列に画像あり)を始め、カーネギーメロン大学が開発したものや、日本の中央大学理工学部(代表者:中村太郎)が2006年に開発・発表したバッテリー搭載・自主移動型のものが知られており、将来的に注目される分野となっている。 | 7970622342205345165 |
Q11132503 |
_START_ARTICLE_
永田出入口
_START_PARAGRAPH_
永田出入口(ながたでいりぐち)は、神奈川県横浜市南区にある首都高速道路神奈川3号狩場線の出入口である。本牧JCT方面入口、狩場JCT方面出口のみのハーフICである。狩場JCTには一般街路との出入口がないため、本出口が狩場線の最終出口となる。
_START_SECTION_
構造
_START_PARAGRAPH_
狩場線が市道保土ヶ谷宮元線の切通しを越える、保土ヶ谷高架橋の下に位置する。ランプウェイは本線の下をトンネルでくぐり、高架橋下の交差点で市道と接続する。高架橋の石川町側の橋台はトンネルと一体構造となっている。保土ヶ谷高架橋は長さ66.7m、市道の路面からの高さは15mで、PC箱桁ラーメン橋構造である。本出入口は南区と保土ケ谷区の区境付近に位置し、料金所および本線との分合流部は南区南太田4丁目、市道との交差点は保土ケ谷区岩井町と同瀬戸ケ谷町との境に位置する。 | 13945720506476590243 |
Q11550653 |
_START_ARTICLE_
江刺勝雄
_START_PARAGRAPH_
江刺 勝雄(えさし かつお、1952年8月6日 - )は、日本の元プロボクサー。北海道礼文郡礼文町出身。元日本ミドル級チャンピオン。協栄河合ジム所属。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
右ストレートが主武器のボクサー・タイプ。1976年と遅いデビューだったが、全日本ミドル級新人王となった。その直後、後の世界王者工藤政志と対戦したが3回TKO負け。_NEWLINE_1978年12月13日、工藤が返上した日本ミドル級王座を鈴木利明と争って8回KO負けしたが、鈴木が体重超過だったためタイトルは無効となり、1979年3月6日、改めて江刺とネッシー堀口との間で王座決定戦が行なわれ、江刺が1回KO勝ち、同王座に就いた。_NEWLINE_しかし、同年10月13日の初防衛戦で強打者ダイナマイト松尾に3回終了TKO負けを喫し、王座を失った。
_START_SECTION_
通算戦績
_START_PARAGRAPH_
11戦5勝(3KO)6敗 | 3753613145975647050 |
Q38277257 |
_START_ARTICLE_
江戸相撲天明3年11月場所
_START_PARAGRAPH_
江戸相撲天明3年11月場所(えどすもうてんめい3ねん11がつばしょ)は、天明3年(1783年)11月に開催された江戸相撲(大相撲の前身)の本場所。興行場所は本所回向院。 | 6111970232403168057 |
Q18048223 |
_START_ARTICLE_
江里康慧
_START_PARAGRAPH_
江里 康慧(えり こうけい、1943年9月7日 - )は、仏師。妻は江里佐代子。子は左座朋子と江里尚樹。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
京都市生まれ。1962年に京都市立日吉ヶ丘高等学校美術課程彫刻科卒業。松久朋琳、松久宗琳の弟子となる。1996年に同志社女子大学嘱託講師、2001年に龍谷大学客員教授、2004年に東京芸術大学非常勤講師となる。 | 10916524809021642991 |
Q11551494 |
_START_ARTICLE_
池上運河
_START_SECTION_
命名由来
_START_PARAGRAPH_
隣接する区画「池上町」に由来する。 | 14977655667098071502 |
Q27451773 |
_START_ARTICLE_
河村元美
_START_PARAGRAPH_
河村 元美(かわむら もとみ、1996年(平成8年)3月5日 - )は、日本のフィールドホッケー選手。
_START_SECTION_
経歴・人物
_START_PARAGRAPH_
大阪府出身。羽衣学園中学校、羽衣学園高等学校を経て、山梨学院大学を卒業する。コカ・コーラボトラーズジャパン所属。_NEWLINE_2016年リオデジャネイロオリンピックにホッケー女子日本代表に出場した。 | 3208267884685835286 |
Q11554678 |
_START_ARTICLE_
泉の森
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
一帯はかつて引地川沿いの谷戸田だった。しかし都市化が進むと雨量の流入が多くなり、洪水が発生するようになった。そこで1982年(昭和57年)に上草柳調整池を整備し、周囲を公園として開放した。_NEWLINE_水源地を含み緑地が多いのが特徴となっている。設備としては、湿生植物園、緑のかけ橋、水車小屋、郷土民家園、ふれあいキャンプ場、自然観察センター・しらかしのいえなどがある。
_START_SECTION_
湿生植物園
_START_PARAGRAPH_
湿生植物園にある主な植物としてはハナショウブ、アヤメ、ハンゲショウ、タコノアシなどであり、湿生地ならではの植物が自生している。
_START_SECTION_
緑のかけ橋
_START_PARAGRAPH_
この橋は米マツを利用した斜張橋であり、建設省による「手づくり郷土賞」、アメリカ木造協会木橋部会の「木造橋賞歩道橋部門」で第1位を獲得した。
_START_SECTION_
水車小屋
_START_PARAGRAPH_
1990年(平成2年)に完成。二年をかけて作られた。
_START_SECTION_
郷土民家園
_START_PARAGRAPH_
この場所には18世紀、19世紀に建てられた民家が保存されている。その貴重な昔の家を生かしてさまざまなイベントが開催されている。
_START_SECTION_
ふれあいキャンプ場
_START_PARAGRAPH_
キャンプ用の建物には岐阜県郡上市(旧大和町)特産である木が使用されている。施設内は炊事場、野外卓、トイレ、ステージ、事務所 などがあり、予約の空きがあれば無料で使用できる。
_START_SECTION_
自然観察センター・しらかしのいえ
_START_PARAGRAPH_
自然を学ぶための施設で、さまざまな展示や図書室、泉の森を一望できる展望デッキがある。運営はボランティアが協力している。 | 5360268290401193486 |
Q22127275 |
_START_ARTICLE_
波羅蜜恋華
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
前作「私の薔薇を喰みなさい」から2年3か月ぶりのリリースとなるシングル。販売形態は初回限定盤(VTZL-103)と通常盤(VTCL-35219)の2種類で、初回限定盤には「波羅蜜恋華」のPVのフルバージョンが収録されたDVDが付属する。_NEWLINE_表題曲は、テレビアニメ『落第騎士の英雄譚』のエンディングテーマに起用された楽曲で、アニメサイドから「快恠奇奇」の様な女子目線を意識して制作された。PVは曲のイメージである赤を取り入れつつ、盆栽や着物など和の要素が取り入れられたものとなっている。_NEWLINE_また、カップリング曲の「魂ノ代」は、宝野アリカが同人誌『Lolicate』で書いている「魂世(たまよ)」を基にした楽曲となっている。 | 10645739526910257503 |
Q11556254 |
_START_ARTICLE_
津田信敏
_START_PARAGRAPH_
津田 信敏(つだ のぶとし、1910年1月16日 - 1984年1月4日)は、日本の舞踊家。静岡県出身。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
青山学院大学英文学科卒業後、1935年にドイツのモデルネ・タンツ(いわゆる現代舞踊)研究のため留学し、マックス・テルピス舞踊学校やドイツ国立舞踊大学で学んだ。帰国後は津田信敏近代舞踊学校をひらくなどしてモダンダンス(前衛舞踊)に数々の影響を与えた。_NEWLINE_1952年、元藤燁子(1928-2003)と結婚。津田近代舞踊学校(津田・元藤近代舞踊研究所、のちのアスベスト館)を設立した。1962年、津田は、元藤燁子と別れ、アスベスト館を出て、津田信敏舞踊研究所を開設。ここで小林琴美・藤田三恵子・小林美代子・原さなえなどを育てた。1984年病没。_NEWLINE_2008年8月10日には、「津田信敏生誕100年CommentsAdd Star」リサイタルが開かれた。(DANCE GROUP 吾〔あ〕第9回公演)出演:小林琴美、藤田三恵子、原さなえ(北沢タウンホール) | 12459936538887703965 |
Q11556820 |
_START_ARTICLE_
浄土文類聚鈔
_START_PARAGRAPH_
『浄土文類聚鈔』(じょうどもんるいじゅしょう)は、鎌倉時代初期の日本の僧・親鸞の著作である。浄土真宗の要義を書き記した論書である。本書は、『教行信証』(広文類)に対して『略文類』(略典)とも呼ばれる。_NEWLINE_製作年代は特定されておらず、主著である『教行信証』の前後であろうとされているが、論義が分かれている。
_START_SECTION_
内容
_START_PARAGRAPH_
内容は、浄土三部経と龍樹・世親・曇鸞・善導の論書を引用して、浄土教の教えと、浄土への往生の方法と、親鸞が重要視した「往相と還相」について述べている。_NEWLINE_本書の内容に対して『教行信証』は、浄土三部経以外の経典、道綽・源信・源空などの多くの典籍を引用することで詳説しているので「広文類」と呼び、本書を「略文類」と呼び習わしている。また本書には、「真仏土巻」「化身土巻」の内容が記されていない。 | 4148593478078504829 |
Q11558142 |
_START_ARTICLE_
浦口雅広
_START_SECTION_
来歴・人物
_START_PARAGRAPH_
兵庫県姫路市出身。東洋大附姫路高校3年時の1991年にオリックス・ブレーブス(当時)と阪神タイガースからドラフト指名意向を伝えられ、特にオリックス監督の上田利治が直接高校を訪れるなどして注目を浴びたが、大学進学を表明して関西大学にスポーツ推薦枠で進学した。同期には岡本晃がいる。_NEWLINE_関西大学では1年春のシーズンから遊撃手のレギュラーとして試合出場し、4年の秋のシーズン終了まで全試合フルイニング出場を記録した。関西学生リーグ通算95試合出場、340打数99安打、打率.291、4本塁打、42打点。全8シーズンで3度のベストナインを獲得している。1995年には第24回日米大学野球選手権大会のオールジャパンのメンバーに選ばれ、アメリカ遠征に参加している。_NEWLINE_1996年に大阪ガスに入社し、2年目までは主にセカンド、3年目からは遊撃手を守った。都市対抗野球では7年連続出場したものの、2002年秋に退部。_NEWLINE_その後は社業に就いていたが、2004年からは社内の休職制度を利用し、イタリア・セリエA2のレッジョ・エミリアへ入団する。同年8月には、アテネオリンピック野球日本代表のパルマでの直前合宿にイタリア語通訳としてメンバー入りした。同地では2年間プレー、2005年に引退、帰国して再び社業に就いている。 | 16680794117916574007 |
Q11558832 |
_START_ARTICLE_
海外パケ・ホーダイ
_START_PARAGRAPH_
海外パケ・ホーダイ(かいがい- )とは、NTTドコモの国際ローミングサービスであるWORLD WINGのパケット割引サービスである。_NEWLINE_本記事では類似サービスである海外1dayパケについても述べる。
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
海外パケ・ホーダイとはNTTドコモの国際ローミング対応携帯電話で、海外で利用した場合、パケット通信が2段階の定額となるサービスである。本サービスは国・地域によって適用されない場合があるため、利用者には事前確認が推奨されている。_NEWLINE_適用される通信は全てのパケット通信で、iモード、スマートフォン、モデム接続などのパケット料金が適用される。また2012年7月の「WORLD WING Wi-Fi」サービス開始に伴い、3G/GSM網のパケット通信以外に公衆無線LANスポットを利用した場合の料金も本サービスの適用対象となった。
_START_SECTION_
利用可能国とキャリア
_START_PARAGRAPH_
海外パケ・ホーダイ対象国内であれば接続するキャリアに関わらず定額対象となる。そのため、対象国外との国境付近等で海外パケ・ホーダイ対象外のキャリアに接続される可能性がある場合を除き、端末の設定で接続キャリアを固定する必要は無い。_NEWLINE_詳細に関しては、こちらを参照 | 15291568245197239811 |
Q11559570 |
_START_ARTICLE_
涙あふれた…
_START_SECTION_
批評
_START_PARAGRAPH_
CDジャーナルは「自己否定や辛い選択をしようとしている人たちに送るメッセージバラードで、ピアノに乗せ優しく歌っている」と評した。 | 3293292574621007408 |
Q749859 |
_START_ARTICLE_
深きものども
_START_PARAGRAPH_
深きものども(ふかきものども、英語:Deep Ones、ディープ・ワンズ)とは、クトゥルフ神話作品に登場する架空の生物である。
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの小説『インスマスの影(The Shadow Over Innsmouth)』で初登場したが、先行作品『ダゴン』において存在が暗示されて来た半人半魚の生物、亜人である。ほぼ人型で脚を持って二足歩行が出来、鰓があり海中や海底都市で生活している。知能も人間と同程度で、人間と交配もできる。混血した個体は、成長によって姿が変化する不完全変態を行う。_NEWLINE_英語ではDeep ones(深きものども)と、複数形が種族名となるが、本項では以下「深き者」と表記する。
_START_SECTION_
作中の描写
_START_PARAGRAPH_
主に『インスマスの影』の描写から解説する。_NEWLINE_ゾス星系から地球に飛来した旧支配者クトゥルフの眷属(奉仕種族)。彼らの長である父なるダゴンと母なるヒュドラと海底に沈んだ古代都市ルルイエに封印されたクトゥルフに奉仕するために活動する。彼らは、主に海底で生活している。その理由は、あらゆる水棲動物の支配者、大いなるクトゥルフを崇拝すると同時に彼に仕え、必要とあらば、どんな用向きにもすぐに応じるためである。この信仰は、「ダゴン秘密教団」と言われ組織化されている。
_START_SECTION_
生物的特徴
_START_PARAGRAPH_
まず、ほぼ人間と同じ体型をしている。人間との差異として表情は、ほとんど変化せず、眼窩から大きく隆起した眼球のため瞼が下がらず、まばたきできない。多くは、二足歩行が可能だが、四つん這いでなければ歩行できない個体もいる。歩き方は、ガニ股で身体を左右に振り、頭を上下させ、カエルのようにピョコピョコと跳ねるように行う。頭部や顔の様子は、魚かカエル、主に水棲生物に似た姿である。鼻や耳は、低く広がり目立たない。頭髪はない。肌は、鮫肌のようにザラザラ、ゴワゴワした状態になり、カサブタのような質感になる。肌の色は、薄灰色、青白い色、薄い緑色、暗緑色などである。特に腹部は、魚やカエルをモチーフとし、白くぬめぬめと光沢があって輝いている。対する背中には、魚鱗があり背鰭がある。臀部・尾骨辺りから魚の尾びれやサンショウウオのような尻尾が生えている個体もいる。首には、肉の垂れ下がったシワのような状態が出来、肩とアゴの間が完全に埋まって、この間に鰓がある。手足の指の間には、水かきのようなものがある。唸るような鳴き声で会話する。老化で死ぬ事が無く、暴力的手段、外的要因でしか命を落とす事がない。_NEWLINE_これらの醜い容姿、歩き方、話し方により近隣の住民からは、酷く嫌われており彼らの住むインスマスに近寄るものは、殆どいないとされる。ただしインスマスでも昼間から深き者が歩き回っている訳ではなく、あくまで彼らも深き者に変化していく途中の住民たちである。_NEWLINE_なおラヴクラフトは、性的な言及を避ける傾向にある為、外性器および性行為の様子に関しては、不明である。また黒人、黄色人種と混血した深き者も『インスマスの影』で言及されない為、明らかになっていない。_NEWLINE_次に人間と深き者が交配して生まれる混血の個体は、生まれてから一定の期間は、全く人間と同じ姿で成長する。ただしある程度、親の形質をはじめから表している個体もいるようである。その後、同族との接触あるいは、過度のストレスなどによって「インスマス面」と呼ばれる深きもの特有の顔に近づいて行く。ただし、この速度や変化の現れる順番は、個体差が大きく一概に断言できない。また『インスマスの影』でも深き者としての形質を表すことなく人間と同じように老衰によって死亡する個体も描写された為、外部からの刺激が必要不可欠な要素であることは、断定できる。_NEWLINE_隔世遺伝のような現象を起こす個体もおり、親が深き者に変化していない場合でも当人は、深き者になる場合がある。ここから一度、深き者と混血した人間の子孫は、上記の条件により変態が発生する可能性から逃れ得ないと推察できる。_NEWLINE_深き者の長ダゴンは、深き者の太古から生きる長老あるいは、全く別の生物とされている。これは、深き者が人間と同じ大きさであるのに対し、ダゴンが数十mは、下らない巨体だからである。もし経年により巨大化するのであれば、大型個体が他にも登場しなければならないと指摘されている。またダゴンは、深き者と違い、マーメイドのように下半身が魚になっているとも言われる。_NEWLINE_ただし、クトゥルフ神話の設定は、作家の自由に委ねられており、ダゴンと深き者の関係性も絶対とするものはない。
_START_SECTION_
活動・社会
_START_PARAGRAPH_
ダゴン(Dagon)は、古代メソポタミアの神がモチーフとされ、対するその配偶者ハイドラ(Hydra)は、ギリシア神話の怪物である。他にハイドラのイメージにヘンリー・カットナーの小説『ハイドラ(1939年)』が取り上げられることもある。この二人は、深き者にとってクトゥルフと加えて三位一体の神として崇拝されている。_NEWLINE_普段、多くの時間を海中で生活している深き者だが人間同様、衣類や帽子などを身に着けている様子が『インスマスの影』で描写されている。また家族に愛情を抱いている様子、特に混血の個体の場合、自分と同じように深き者の形質が強く現れた相手を同族として親近感を感じる様子が描写されている。さらに何世代も、何万歳も離れた個体同士でも親族は、親しくしている。全く混血していない人間とお互いに尊重し合って同じ場所で生活している様子もあり、クトゥルフ神話の多くの他の生物や種族のように凶暴化したり食人の性質を種族全体が共有している点も見られない。このように幾つかの点を勘案すると人間と精神的な価値観は、同じと思われる。_NEWLINE_彼らは、クトゥルフに奉仕することを宗教上の理想・目的としている。これは、深き者が種族全体で共有する価値観である。ダゴン秘密教団は、この目的のために組織された。まず奉仕者を増やし、将来的な敵を取り除くため人間を味方に着ける行動を取っている。この方法として金に似た金属で作られた奇妙な宝飾品や魚の大漁を約束し、見返りに人間との交配を契約させている。次にクトゥルフの存在を敵となる勢力から隠す必要がある。このため不用意に自分たちについて知られると危険を回避するために行動する。協力関係にあったオーベッド船長がインスマスの住民に拘束されると上陸して彼を解放している。深き者の存在について暗示したとされる『ダゴン』でも最後の場面で目撃者に対する追討が行われたことが仄めかされた。インスマスに立ち寄った住民が行方不明になるのも、このためである。
_START_SECTION_
海底都市イハ=ントレイ
_START_PARAGRAPH_
「イハ=ントレイ」(Y'ha-nthlei)ないし「イハ=ンスレイ」は、ラヴクラフトによって著された唯一の深き者の海底都市である。この都市は、北米大陸アメリカ合衆国ニューイングランドマサチューセッツ州エセックス郡のニューベリーポートからアーカムへ向かう街道の途中、マニューゼット川の河口にある港町インスマスの海岸から約1マイル半(約2.4km)沖にある悪魔の岩礁の下に位置する。1927年に海軍とFBIの共同作戦により潜水艦の魚雷あるいは、艦船からの爆雷によって破壊されたとされている。_NEWLINE_この名前は、ラヴクラフトがダンセイニのキャラクター「Yoharneth-Lahai」からアイディアを得たとも言われる。_NEWLINE_他の作者は、北大西洋上のトゥーレ(Thule 、アイスランドの火山島スルツェイ)とアルビオン(Albion 、コンウォール海岸)沖の中間に「G'll-Hoo」と「Ahu-Y'hloa」を設定した。この位置は、ラヴクラフトと違い伝説の地名を結んだ場所が基準になっている。_NEWLINE_アンダース・ファーガー(Anders Fager)は、ストックホルム沖の岩礁の中に「Ya'Dich-Gho」を設定した。1982年
_START_SECTION_
敵
_START_PARAGRAPH_
深き者の敵は、クトゥルフと敵対するとされる旧支配者ハスターと、その同盟者クトゥグァ、イクタァ、ロイガー、ツァール、ハスターの妻シュブニ=グラス、ハスターの奉仕種族バイアクヘー、シュブ=ニグラスの奉仕種族ミ=ゴ、そして彼の人間の信奉者「ハスター教団」である。またラバン・シュリュズベリィなどの旧支配者と戦う人間も敵となる。これらは、ダーレスの体系化したクトゥルフ神話の設定であり、ラヴクラフトの小説には見られない。_NEWLINE_ラヴクラフトの小説『狂気の山脈にて』では、かつてクトゥルフと眷属たちは、太古の地球で「古のもの(Elder Thing)」と地球を巡って戦った。
_START_SECTION_
解説
_START_PARAGRAPH_
ラヴクラフトは、『インスマスの影』で深き者の血を引く主人公が偶然にインスマスを訪れ、はじめ嫌悪感を抱きながらも物語の最後では、喜んで同族のもとに向かう決心をする姿を描いた。ここから逆の選民意識、嫌悪する対象と自分たちが同一であるカタストロフィを描いた。_NEWLINE_ロバート・プライスは、『ダーレスが使った魚類人と両生類人という単語 by カーミット・マーシュ3世(Derleth's Use of the Words "Ichthic" and "Batrachian" by Kermit Marsh III)』で、もしラヴクラフトが「Deep ones」をフラッシュゴードンの「hawk-men」、「clay-men」のような名前を付けていたら、ここまでイメージが膨らまなかったと主張している。ラヴクラフトは、深き者を魚人、カエル人と書かず「the blasphemous fish-frogs(冒涜的な魚蛙)」などの表現もしているが分厚い唇、広がった顔、歩き方や身振りなど映像や臭いの描写に頼った。逆にダーレスが「Ichthic(魚類人)」や「Batrachian(両生類人)」という表現をしたことに対して「ダーレスは、インスマスの影を読んでないのでは?」と書いている。_NEWLINE_またプライスは、『The Innsmouth Cycle』でダゴンとクトゥルフが実際には、同一の存在ではないかと考えたと書いている。
_START_SECTION_
関連
_START_PARAGRAPH_
マルケサス諸島でお守りとして身につけられているティキの偶像は、両生類の頭部を持った人間の姿をしている。またニュージーランドのマオリ族が使用する彫刻入りの天井石等も物語の中では、これは深きものどもをかたどったものとして登場する。さらにダーレスの小説『永劫の探求』では、登場人物アンドルー・フェランが深き者を見てジョン・テニエルが『不思議の国のアリス』で描いた挿絵を思い浮かべたとしている。 | 14798545882281205830 |
Q11560317 |
_START_ARTICLE_
深谷郵便局
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
住所:〒366-8799 埼玉県深谷市深谷町3-60 | 18021066411664949774 |
Q11560340 |
_START_ARTICLE_
淳于誕
_START_PARAGRAPH_
淳于 誕(じゅんう たん、470年 - 529年)は、中国の南北朝時代の軍人。字は霊遠。本貫は泰山郡博県。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
南朝斉の南安郡太守の淳于興宗の子として生まれた。12歳のとき、父に従って揚州におもむき、道中で父が群盗に殺害された。誕は資産を擲って侠客を集め、短時日のうちに父の復讐を果たした。斉の益州刺史の劉悛に召されて主簿となった。後に蕭衍の下で歩兵校尉となった。_NEWLINE_景明年間、漢中から北魏に帰順した。洛陽に到着すると、蜀に対する攻撃計画を具申して、宣武帝に容れられた。延昌末年、驍騎将軍・仮冠軍将軍・都督別部司馬・嚮導統軍に任じられたが、誕は功績のない身で実官を受けることを固辞し、参戎の号にとどまった。成都攻略のあかつきには益州刺史の位を受けることを約束され、晋寿にまで進軍したが、宣武帝が病に倒れたために空しく帰還した。516年(熙平元年)、南朝梁の将の張斉が益州を攻撃すると、誕は統軍となり、益州刺史の傅豎眼とともに援軍におもむいた。梁軍を撃退すると、凱旋した。_NEWLINE_524年(正光5年)、莫折念生の乱が起こると、誕は西南道軍司・仮冠軍将軍・別将となり、子午の南から斜谷に出て建安におもむき、行台の魏子建とともに反乱の鎮圧に当たった。525年(孝昌元年)、梁の益州刺史の蕭淵猷が部将の樊文熾と蕭世澄らを派遣して数万の兵で小剣戍を包囲すると、北魏の益州刺史の邴虯は子の邴達を派遣してはばませた。邴達は樊文熾に敗れて、統軍の胡小虎や崔珍宝らが捕らえられた。魏子建は誕を派遣して梁軍を討たせた。誕は兵を率いておもむき、1月あまり対峙した。樊文熾の軍は谷を通り抜けて東の龍鬚山に移り、その上に防柵を築いて魏軍の帰路を絶った。誕は壮士200人あまりを集めて、夜間に山を登ってその柵を攻めさせた。そのとき火が起こって、梁軍は防柵を守ることができなくなった。そこを誕が諸軍を率いて鼓を鳴らして攻撃したため、梁軍に大勝して蕭世澄ら11人を捕らえた。_NEWLINE_魏子建の命により誕は華陽郡太守を代行し、白馬戍主を兼ねた。526年(孝昌2年)、巴州刺史を代行した。527年(孝昌3年)、梁州安康郡に新たに東梁州が置かれると、誕は鎮遠将軍・東梁州刺史となった。529年(永安2年)4月、死去した。享年は60。安西将軍・益州刺史の位を追贈された。諡は荘といった。 | 13658173115477354096 |
Q11560504 |
_START_ARTICLE_
清原憲一のラジオ夕刊
_START_PARAGRAPH_
きよさんのラジオ夕刊(きよさんのらじおゆうかん)は、RKK熊本放送ラジオ局で、2010年4月5日より毎週月曜日から金曜日の17:46 - 18:00(JST)に放送されているラジオ番組。2011年4月4日からそれまでの「清原憲一のラジオ夕刊」のタイトルだったのを「『きよさん』のラジオ夕刊」に改題。
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
リスナーから寄せられるメール・FAXによる「今日、夕刊に載せたい情報」を読みながら、夕方の交通情報・ニュース・天気予報を伝えるシンプルな情報番組。 | 13854134804871474747 |
Q20040584 |
_START_ARTICLE_
清水寛
_START_PARAGRAPH_
清水 寛(しみず ひろし、1936年7月29日 - )は、日本の教育学者、埼玉大学名誉教授。知的障害児教育が専門。_NEWLINE_東京生まれ。1960年東京教育大学教育学部特殊教育学科卒業、同大学院博士課程満期退学。埼玉大学教育学部講師、助教授、教授、2002年定年退官、名誉教授。全国障害者問題研究会委員長、顧問。2002年『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(編著)で第24回社会事業史学会文献賞受賞。2017年秋の叙勲で、瑞宝中綬章受章。 | 18022196254207169812 |
Q59779635 |
_START_ARTICLE_
清水裕友
_START_SECTION_
戦績
_START_PARAGRAPH_
中学時代は柔道と自転車競技をし、私立・誠英高等学校に進学してからは自転車のみに絞る。2010年、インターハイ「美ら島沖縄総体」(沖縄県総合運動公園)のケイリンで優勝した。卒業後、日本競輪学校に入学。_NEWLINE_2014年7月14日、武雄競輪場のデビュー戦で完全優勝。_NEWLINE_2018年9月のGII第34回共同通信社杯競輪(高知競輪場)では、平原康多に1/4車輪差での決勝2着。_NEWLINE_10月の第27回寛仁親王牌・世界選手権記念トーナメント(前橋競輪場)で、GI初優出(6着)。_NEWLINE_デビューから4年4か月の11月4日、地元バンクの防府競輪場にてGIII記念競輪を初優勝。_NEWLINE_この年最後のGIとなる11月の第60回朝日新聞社杯競輪祭(小倉競輪場)でも優出して3着。この結果によって、開催前の賞金順位19位から約100万円差での8位に滑り込み、KEIRINグランプリ2018の出場権を得た(山口県勢では本年の桑原大志に続くS級S班となった)。 | 12120785611043155590 |
Q11562836 |
_START_ARTICLE_
渡鬼おやじバンド
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
泉ピン子との旅先で山本コウタローのライブを聞いて、感動した橋田壽賀子は直ちに山本に出演交渉を行った。山本と角野卓造が中学の同級生だったことから話は早く進み結成に至った。_NEWLINE_劇中でグループ名は特に決まっていないようだが、イベントなどには勇たちの住む「曙橋商店街」から名をとった「あけぼのおやじバンド」名義で出演している。_NEWLINE_2008年11月5日にメンバーを演じる俳優たちが「渡鬼おやじバンド」名義でCDデビューを果たした。_NEWLINE_2017年3月4日、川上哲也役の井之上隆志が下咽頭癌のため他界した。それに伴い、2017秋スペシャルでも急死した設定になっている。 | 2351331555941111693 |
Q1177386 |
_START_ARTICLE_
湊町リバープレイス
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
大阪市の都市構造再編プロジェクト「ルネッサなんば」のウォーターフロントゾーンとして、旧国鉄湊町駅(現 JR難波駅)の貨物ヤード跡地に開発され、2002年に開業した。_NEWLINE_プラザ1(地下2階)、プラザ2(1階)、プラザ3(2階)の屋外イベントゾーン3箇所と、エフエム大阪の社屋(プラザ3にオープンスタジオを設置している)、3階から6階を占めるライブハウス「なんばHatch」およびオフィスなどで構成されており、音楽・パフォーマンスイベントや展示会に幅広く使用されている。また、建物の一部を阪神高速道路の湊町出入口と共有しているほか、2階は湊町PAとしても利用されている。なお、湊町リバープレイスの他の施設と同PAは接続していない。_NEWLINE_道頓堀川を航行する遊覧船が使用する湊町船着場に接しているほか、JR難波駅や大阪シティエアターミナル (OCAT) およびバスターミナルからも至近距離にある。また、浮庭橋を渡ると南堀江方面にもアクセスが可能である。 | 13010588359808138593 |
Q11563444 |
_START_ARTICLE_
湯ノ田温泉
_START_SECTION_
温泉街
_START_PARAGRAPH_
海岸沿いに1軒の旅館が存在する。
_START_SECTION_
歴史
_START_PARAGRAPH_
発見の年代は定かではないが、当初、酒田の玉木金右衛門という者が浴場を設けたものの、荒天のたびに寄せる荒波のため放棄されてしまっていた。その後、文化元年(1804年)の地震によって地盤が隆起したため再び利用されるようになり、文政11年(1828年)には浴場設置の請願がなされた。_NEWLINE_大正時代には「風景佳絶なるを以て遠近来浴するもの頗る多く県内著名の浴場たり」と謳われたが、現在では温泉旅館が一軒営業するのみとなっている。 | 15371166576824805074 |
Q589326 |
_START_ARTICLE_
湿潤大陸性気候
_START_SECTION_
気候の特徴
_START_PARAGRAPH_
緯度が高い、標高が高い、寒流の影響を受ける、内陸のため海洋からの熱供給が少ないなどの理由で冷帯となった地域のうち比較的年平均気温が高く、植物の植生期間の長い地域がこの気候区に分類される。降水量が多い地域は温帯、降水量が少ない地域は乾燥帯に隣接している。_NEWLINE_高緯度のため夏は太陽高度が低いが日照時間が長いため、平均気温が10℃を超える月が4か月以上ある。そのためかなり暖かく、好天なら昼は暑くなることもけっこう多い。特に、華北 - 中国東北部やシベリア沿海地方、北海道など低緯度地域などでは温帯並みの暑さになるところもある。しかし冬は日照時間が短く、気温が下がり、特に真冬にかけては最高気温が0度未満になるなど寒さの厳しい日が多くなる。
_START_SECTION_
土壌と植生の特徴
_START_PARAGRAPH_
降水量が多い地域では針葉樹林と広葉樹林の混合林が広がる。降水量が少ない地域は短草草原となる。_NEWLINE_比較的肥沃な褐色森林土が最も広く分布している。降水量が少ない地域には黒色土、高緯度地域ではポドゾルなども分布している。
_START_SECTION_
産業の特徴・その他
_START_PARAGRAPH_
基本的に麦類(主に春小麦、ライ麦)・豆・芋などの穀物の生産が多い。酪農なども行われている。東アジアでは、北海道など比較的温和な地方に限り米の生産も行われている。 | 231070937770396953 |
Q11564064 |
_START_ARTICLE_
源師
_START_PARAGRAPH_
源 師(げん し、生没年不詳)は、中国の隋の政治家。字は踐言。本貫は西平郡楽都県。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
源彪の子として生まれた。はじめ北斉の司空府参軍として任官し、尚書左外兵郎中に転じ、祠部を管掌した。ときに龍星が観測されたので、大臣の高阿那肱に雩祭をおこなうよう進言したが容れられず、礼が廃れたことを嘆き、北斉の滅亡を予見した。577年、北周の武帝が北斉を平定すると、源師は司賦上士に任ぜられた。_NEWLINE_581年、楊堅が隋を建国すると、魏州長史に任ぜられた。長安に召し出されて尚書考功侍郎となり、吏部を管掌した。隋の国制や法令を定める議論に参加して、寄与するところが大きかった。597年、尚書右丞・尚書左丞を歴任して、智慧と才幹で有名となった。蜀王楊秀がたびたび法令を破ったので、源師は益州総管司馬となって教導することとなった。ときに楊秀が長安に呼び出されたが、楊秀は恐れて仮病を使い、行こうとしなかった。源師が皇帝の命令に違反しないよう何度も勧めたので、楊秀は激怒したが、源師が泣いて諫めたので、楊秀はやむなく従った。楊秀が廃位された後、益州の官属の多くは連座したが、源師は罪に落とされるのを免れた。後に儀同三司の位を加えられた。_NEWLINE_604年、煬帝が即位すると、大理少卿に任ぜられた。あるとき私用で衛士を外出させた主帥があり、煬帝はこの主帥を捕縛して大理寺に送らせた。源師は律令にのっとって徒刑にあたると奏上したが、煬帝は主帥を斬らせようとした。源師がこれを諫めたので、煬帝は聞き入れて取りやめた。のちに刑部侍郎に転じた。まもなく在官のまま死去した。子に源崐玉があった。 | 592442428602482572 |
Q11564859 |
_START_ARTICLE_
滋賀県道311号途中志賀線
_START_PARAGRAPH_
滋賀県道311号途中志賀線(しがけんどう311ごう とちゅうしがせん)は、滋賀県大津市伊香立途中町を起点に大津市南浜に至る6.1kmの一般県道である。
_START_SECTION_
通過する自治体
_START_PARAGRAPH_
大津市 | 10049340376896571190 |
Q11564991 |
_START_ARTICLE_
滋野文夫
_START_PARAGRAPH_
滋野 文夫(しげの ふみお, 1949年7月4日 - )は、群馬県前橋市出身の水泳選手。「国体男」として知られる。通算17回の出場は史上最多。群馬県立前橋工業高等学校、法政大学卒業。2009年1月現在、前橋市水泳協会会長。2017年1月現在前橋市体育協会会長。 | 2225776581584226884 |
Q7678288 |
_START_ARTICLE_
滝部駅
_START_SECTION_
駅構造
_START_PARAGRAPH_
元々は単式・島式の複合型2面3線のホームを持ち、交換設備を備えた地上駅であったが、駅舎から一番遠い1線(3番線)の分岐器・信号機が撤去され、線路が本線から切り離されたため、現在は相対式2面2線となっている。そのため、当駅で系統分断される列車同士の乗り継ぎにはホームの移動を伴うようになった。駅舎は元々単式であった1番ホーム側にあり、2番ホームへは小串寄りの無蓋跨線橋で連絡している。ホーム上に待合室がある。かつては夜間滞泊も行われていたが、当該列車の運転区間が小串駅までに短縮され、無くなった。_NEWLINE_長門鉄道部が管理し、NPO法人「環境みらい下関 豊北支部」が駅業務を受託する簡易委託駅である。月曜日を除いて窓口営業を行っており、POS端末により乗車券を販売している。 | 3590113081758977993 |
Q19853091 |
_START_ARTICLE_
潮州市城基中学
_START_SECTION_
歴史
_START_PARAGRAPH_
1965年、潮州市城基中学が設立され、当時は「解放路第一小学」と呼ばれる。成立まもない1966年に文化大革命が勃発し、同校は中止を余儀なくされた。_NEWLINE_文化大革命の後に再建され、1980年代に中学校の「潮州市城基中学」に改編された。_NEWLINE_1996年1月、潮州市城基中学は湘橋区内初の「湘橋区1級学校」に指定された。1999年1月、潮州市教育局に「潮州市学校文化環境建設先進単位」に評された。_NEWLINE_2003年7月から方衛玲が潮州市城基中学校長・党支部書記を務めてきた。2004年2月、潮州市教育局に「潮州市中学教育優良品質学校」に評され、同年7月に「潮州市1級学校」の称号を与えられた。現在は「潮州市1級学校」のうち、2つだけの中学校の1つである(もう1つは潮州市城南中学)。_NEWLINE_2008年3月7日、潮州市城基中学は潮州市エレベーターエンジニアリング有限公司と共同に「城基実験中学」を創設した。その年の秋に、城基実験中学は正式に開校し、城基中学校の敷地面積は約2万平方メートルに拡大した。_NEWLINE_2015年、潮州市城基実験中学・金山実験学校・高級実験学校・城南実験中学は入学試験制度を廃し、学区制を導入した。
_START_SECTION_
現況
_START_PARAGRAPH_
潮州市城基中学の敷地面積は2万平方メートル(本部と実験キャンパスの総面積)である。在学生は2198人がいる。33クラスがあり、教職員146人のうち、20人の高級教師と60人の1級教師がいる。
_START_SECTION_
コースとキャンパス
_START_PARAGRAPH_
13の教科を設置している:政治、国語、数学、英語、物理、化学、歴史、地理、生物、スポーツ、音楽、美術、コンピュータ。教員は北京語、潮州語と英語で授業を行う。1授業の時間を45分としている。_NEWLINE_学校施設について教室棟、グラウンド、国旗掲揚台、徳育壁などがあり、教室棟にコンピュータ室、物理実験室、化学実験室、生物実験室、視聴覚室や会議室などもある。また、実験キャンパスには寮と多機能ホールなども設置される。
_START_SECTION_
文化生活
_START_PARAGRAPH_
芸術祭と運動会を2年ごとに、ラジオ体操、バスケットボール、卓球などの大会、合唱コンクールを年に一度に開催される。文学部、放送部なども設置される。キャンパス内新聞『萌芽』も毎学期に1期が発行されている。 | 17045886498733203025 |
Q11565761 |
_START_ARTICLE_
潮風の消える海に
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
神奈川県横浜市鶴見区の工業地帯を背景に、海に沈んだヨットを引き揚げて再生しようとする4人の仲間の友情や恋愛、家族に対する想いなどを描く物語である。鶴見線沿線が主な作品舞台となっており、実在の風景や駅などが作中に登場する。_NEWLINE_恋愛アドベンチャーゲームだが、作中に選択肢は存在せず、攻略ヒロインも1人だけである。_NEWLINE_2008年4月4日に発売されたセットパッケージ『light BOX 2008』には、本作品のVista対応版が収録された。
_START_SECTION_
ストーリー
_START_PARAGRAPH_
(出典:)_NEWLINE_無気力に日々を過ごしていた宮地進は、工業地帯の無人駅で偶然出会った東上浩介に、海に沈んだヨットを引き揚げて再生する計画を持ちかけられる。同じく偶然知り合った美潮や莉佳子も交えて、ヨットに明け暮れる進の毎日が始まる。
_START_SECTION_
登場人物
_START_PARAGRAPH_
(出典:) | 85544639243833035 |
Q209994 |
_START_ARTICLE_
澤昌克
_START_SECTION_
来歴
_START_PARAGRAPH_
千葉県柏市十余二で生まれ、生後まもなく父親の仕事の関係でシンガポールへ転居する。3歳までシンガポールで過ごし、帰国後は茨城県北相馬郡守谷町(現:守谷市)で暮らした。中央学院高等学校を卒業後、仙台大学にスポーツ特待生として進学するが、2001年に大学を休学し(のちに中退)、アルゼンチンへサッカー留学。アルゼンチンのCAリーベル・プレートの下部組織でプレーするが2003年12月に第二頚椎骨折の大怪我を負い、半年のリハビリを経て復帰。_NEWLINE_2005年にペルーのスポルティング・クリスタルとプロ契約を結んだ。翌2006年にコロネル・ボログネシへ移籍し、同年9月13日に行われたコパ・スダメリカーナのCSDコロコロ(チリ)戦で、日本人初となるスダメリカーナ杯での得点をマークした。2007年度にプレーしたデポルティーボ・ムニシパルでの活躍が認められ、ペルーリーグ最優秀外国人選手賞を受賞。同年12月に、ペルーサッカー連盟から正式にペルー代表入りを打診され、当時の監督からも直々に代表入りを要請する電話があったが、日本国籍喪失を憂慮し、このオファーを拒否している。国際電話で両親とこの件について話した際は、父親から「お前国籍変えたら絶縁だからな」と言われた。なお、この間にペルー人女性と結婚している。_NEWLINE_2008年に移籍したシエンシアーノは、2003年のコパ・スダメリカーナにおいてペルーのサッカークラブとして初の国際タイトルを獲得。また翌2004年のレコパ・スダメリカーナでも優勝を果たした強豪クラブである。澤のデビュー戦となるコパ・リベルタドーレス予選、ウルグアイのモンテビデオ・ワンダラーズ戦(ホーム)でいきなりゴールを決め1対0で勝利に導いた。アウェーゲームの第2戦ではスコアレスドローに持ち込み澤の第1戦でのゴールを守りきり本戦出場を果たした。本戦初戦となる2月14日のナシオナル・モンテビデオ戦で先発フル出場。廣山望、福田健二に続くリベルタドーレス杯本戦でプレーした3人目の日本人選手となった。_NEWLINE_2008年8月2日、Jリーグ・柏レイソルに完全移籍での加入が発表された。しかし加入後は度重なる足首の怪我に悩まされ試合に出場したのは数える程度であった。2009年シーズン途中に新監督としてネルシーニョが就任した後は、サテライトゲームや練習ゲームでの活躍を認められるようになり、残留争い最中の10月頃からレギュラーに定着した。_NEWLINE_2013年シーズン終了後、契約満了により退団。_NEWLINE_2014年3月、古巣のデポルティーボ・ムニシパルへ移籍。_NEWLINE_2017年12月、再び柏レイソルへ移籍。しかし公式戦の出場無く2019年1月退団。_NEWLINE_2019年8月21日、ペルー2部のウニオン・ウアラルと契約したと報じられた。 | 3341397245078104431 |
Q20040957 |
_START_ARTICLE_
瀬戸本淳
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
安藤忠雄と並び神戸を代表する建築家。_NEWLINE_美術館などはもちろん主に高級住宅を手掛ける。_NEWLINE_分譲マンションにおいては現在のスタンダードともいえるデザインを数々作り上げており業界ではカリスマである。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
学歴神戸大学工学部建築学科 1969年卒業_NEWLINE_職歴1969年 鹿島建設勤務 _NEWLINE_1970年 安井建築設計事務所勤務 _NEWLINE_1977年 瀬戸本淳建築研究室創設 現在に至る _NEWLINE_教職歴1993年~1995年 神戸芸術工科大学非常勤講師
_START_SECTION_
業務種別
_START_PARAGRAPH_
設計・監理_NEWLINE_ランドスケープ 再開発・地区整備 _NEWLINE_建設マネージメント(PM・CM等) 改修
_START_SECTION_
用途種別
_START_PARAGRAPH_
社会教育・研修施設/美術館/保育所/診療所・医院/事務所/宿泊施設/商業施設/一戸建住宅/低層長屋・共同住宅/中高層住宅/超高層住宅 /造園
_START_SECTION_
著書・論文
_START_PARAGRAPH_
1997年 「21世紀の家族と住まい」(共同執筆) _NEWLINE_2002年 「Jun Setomoto & Architects Works 1978-2002」 _NEWLINE_2011年「住宅の設計監理50の心得」 _NEWLINE_ その他 建築関係の本、雑誌、一般紙、建築関係紙における論文多数
_START_SECTION_
社会活動
_START_PARAGRAPH_
兵庫県震災建築物応急危険判定士 _NEWLINE_兵庫県災害救援専門ボランティア _NEWLINE_兵庫県建築士審査会委員 _NEWLINE_神戸六甲ポートライオンズクラブにての社会奉仕活動 _NEWLINE_その他、神戸の若い音楽家・芸術家を支援している | 2900902011330224256 |
Q488506 |
_START_ARTICLE_
無我
_START_SECTION_
語源
_START_PARAGRAPH_
Anattā(アナッター)は、パーリ語で an (否定の接頭辞) + attā (アートマン)を意味する。
_START_SECTION_
存在と非存在
_START_PARAGRAPH_
アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなす。これはダンマパダなど多くの経典で確認される。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する。
_START_SECTION_
業、輪廻、無我
_START_PARAGRAPH_
釈迦は業(カルマ)と無我の二つを基本教義としている。_NEWLINE_釈迦は、同時代の反バラモン教的な思想家たち(六師外道)の無我に関連する思想について、人間の身体は霊魂を含む7つの集合要素から成り7要素は互いに影響なく不変とするパクダ・カッチャーヤナの無因果論、またはの唯物論(アヘトゥカディティ)、カルマの道徳的責任を否定するアジタ・ケーサカンバリンの唯物論的教義である虚無論(ナッティカディティ)、マッカリ・ゴーサーラの運命決定論である無作用論(キリヤディティ)を誤った見解と見なして批判・否定した。_NEWLINE_釈迦は、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)することを否定し(非我、無我)現実の苦悩の解決に役立たない形而上学的な問いには答えなかった(捨置記、無記)。カルマの道義的責任を担保するためには輪廻が必要とされ、仏教のカルマの枠組みにおいては、輪廻からの解脱には八正道が必要とされる。 | 11238740467352744848 |
Q17215059 |
_START_ARTICLE_
熊本県指定自動車教習所協会
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
1969年4月9日に設立された熊本県内の指定自動車教習所が加盟している団体で、熊本県公安委員会の委託を受けて初心運転者講習、運転免許取得時講習、行政処分者講習、高齢者講習及び教習所卒業者やペーパードライバーの再教育講習を行っている。 | 6445938738816720797 |
Q11568719 |
_START_ARTICLE_
熊谷博子
_START_PARAGRAPH_
熊谷博子(くまがい ひろこ、1951年 - )は、日本の映画監督。東京都出身。 | 3944064296357148112 |
Q3299938 |
_START_ARTICLE_
熊谷雅彦
_START_SECTION_
来歴
_START_PARAGRAPH_
藤沢西高校、中央大学を経て、1998年に柏レイソルに加入。しかしリーグ戦出場は2年間で1試合にとどまり、1999年シーズ終了後に契約非更新となった。_NEWLINE_2000年に当時関東リーグに所属していた佐川急便東京SCに移籍。中心選手として活躍し、チームのJFL昇格に貢献。2001年のJFL開幕戦から試合に出場し続け、2001年と2002年にJFLベストイレブンを2年連続受賞。2004年にはJFLの連続試合出場記録を更新。その後も記録を更新し続けたが、2005年6月に当時九州リーグに所属していたロッソ熊本(現・ロアッソ熊本)へ移籍し、連続試合出場は117試合で途絶えた。(現在の連続試合出場記録保持者は三菱水島FCの山下聡也。)_NEWLINE_熊本移籍後はリーグ戦全試合に先発出場し、チームのリーグ優勝に貢献。全国地域リーグ決勝大会では3位に終わったが、JFL昇格を果たした。2006年より熊本の2代目キャプテンとなりチームを牽引し、自身は4年ぶりのベストイレブンに輝いたが、チームは5位に終わりJリーグ参入を逃した。翌年は試合にフル出場することは少なくなったものの、コンスタントに試合に出場し前年に果たせなかったJ参入に貢献した。自身9年ぶりのJの舞台となった2008年もキャプテンとしてチームを引っ張ったが、試合出場は6試合にとどまり同年限りで現役を引退した。現役引退後はロアッソ熊本のフロントスタッフに就任した。_NEWLINE_2015年からはロアッソ熊本トップチームの主務に就任した。2017年1月9日、ロアッソ熊本を退団することが発表された。 | 9538018170477459401 |
Q11569405 |
_START_ARTICLE_
爆走!男のメルヘン街道
_START_PARAGRAPH_
「爆走!男のメルヘン街道」(ばくそうおとこのメルヘンかいどう、略称「オトメル」)は主に週刊ヤングジャンプ増刊『漫革』(集英社、不定期刊行、現在休刊)28号(2002年6月30日発売)から50号(2006年1月12日発売)までの約3年半連載されていた、プロアマ混合の漫画大喜利企画。副題は「部室より愛をこめて」。
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
編集部が出すお題に対して、複数の漫画家が1ページの漫画で答えていく。
_START_SECTION_
トビラ
_START_PARAGRAPH_
本企画の最初のページ。「扉」と漢字で表記する場合もある。ページ上部にタイトルロゴと通算回数が書かれる。回数はローマ数字で表示される。トビラでは「出場選手一覧」として参加者の自画像が並ぶ。トビラにおいても各参加者に対してお題が出される場合が多い。トビラ絵の作画は施川ユウキ(第V回、第VII回、第VIII回、第XII回、第XIV回、第XXIV回)、田中ガス(第XV回)が担当。
_START_SECTION_
本編
_START_PARAGRAPH_
ページの柱にお題が提示され、参加者が答えていく。ひとつのお題に対し1ページを使って回答する。コマ割りをどうするかは回答者の裁量。毎回全4題が出題される。最後のお題では見開きの2ページに回答者全員の回答を布置する。お題は「第(1)死合い」というふうに数える。「下ネタ万博2005!」など、お題は青年誌ということもあってか性に関するものが多い。漫画家達の回答も同様。石垣健冶や菊嶋高志朗らは当初「オトメルJr.」という位置づけだった。第Ⅷ回以降は施川ユウキがお題提供(第XVI回除く)。
_START_SECTION_
柱
_START_PARAGRAPH_
お題が書かれていない柱(コマ枠外の側部)に、そのページを担う回答者の近況報告や新刊紹介などが書かれる。第V回以降は、枠外下部の柱で施川ユウキが問答形式の一言ネタを描いた(第IV回以前に枠外下部での柱ネタはあったが作者は明示されていない)。
_START_SECTION_
参加者
_START_PARAGRAPH_
多くの回において、和田ラヂヲ、亜太川ふみひろ、漫☆画太郎、川口憲吾、石垣健冶、菊嶋高志朗、佐藤まさき、菅原県、石原まこちんが参加した。また、中川いさみ、あらかわりょおいち、おおひなたごう、なにわ小吉、田中ガス、ぺそ助も何度か参加した。その他、読者投稿が採用されたり(第V回、第VI回)吉本興業所属芸人が参加(第XVI回)したこともある。
_START_SECTION_
特別編
_START_PARAGRAPH_
『ヤングジャンプ』本誌2003年49号(2003年11月6日発売)において、髙橋ツトム『スカイハイ』の劇場化を記念し「爆走!男のメルヘン街道〈スカイハイ特別編〉」という企画が掲載された。_NEWLINE_参加者はおおひなたごう、和田ラヂヲ、菊嶋高志朗、亜太川ふみひろ、佐藤まさき、川口憲吾、施川ユウキ、漫☆画太郎。各参加者が『スカイハイ』のパロディ漫画を1ページで描く。原作者髙橋ツトム公認の企画。
_START_SECTION_
総合1位
_START_PARAGRAPH_
毎回、アンケートを行なっていた。各お題ごとに最も面白かった作品を投票してもらい総合1位を決める。総合1位を獲った作家には「一抹の不安」「既視感」「うなぎのたれ」などが編集部から進呈される。しかし最初期を除き総合1位をどの作家が獲得したのか、どう表彰されたのか等が紙上にて特に明示されはしない。 | 5176616721636374006 |
Q847720 |
_START_ARTICLE_
片岡治大
_START_SECTION_
プロ入り前
_START_PARAGRAPH_
3人兄弟の末っ子。小学校時代は作新ヤンキースの4番打者兼投手として活躍。中学時代は千葉北シニアリーグに所属し、2年からレギュラーで活躍。3年時には1番、三塁手で主将としてチームを全国大会に導くが、怪我に苦しんだ時期が長かった。中学校卒業後、栃木県の宇都宮学園高校(現:文星芸術大学附属高等学校)に進学。2人の兄はそれぞれ同校で活躍し有名であり、片岡が入学後「片岡3兄弟」として名を馳せる。高校3年時に3番・遊撃手として自らのサヨナラヒットで夏の甲子園へ出場するが、甲子園では2回戦敗退(2回戦は腰痛で欠場)。_NEWLINE_2001年に東京ガスへ入社し、同社の社会人野球チーム・東京ガス硬式野球部に入部。怪我が多かったため、登録名を「片岡 易之」とした。同期入社には内海哲也がいる。_NEWLINE_2004年秋のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから3巡目の指名を受け入団。石毛宏典、ダリン・ジャクソン、松井稼頭央らが着用していた背番号7を与えられた。
_START_SECTION_
西武時代
_START_PARAGRAPH_
初年度となった2005年5月1日に9番・二塁手で初スタメン出場。一軍に定着して二塁手または遊撃手として81試合に出場。打率.263、4本塁打、6盗塁の結果を残した。オフには盗塁数増加のため色々なトレーニングを試み、盗塁成功には致命的な足の遅さを技術で補おうと陸上競技をトレーニングに取り入れた結果、盗塁数が倍増したという。_NEWLINE_2006年5月末に高木浩之から二塁手のレギュラーを奪うと、打率.292を記録して2番・二塁手の座を確保。中島裕之の故障で8月から9月上旬まで一時的に遊撃手に回った。8月2日、3日の千葉ロッテマリーンズ戦では1試合3盗塁を2試合連続で決めるなど、福地寿樹とのコンビで2人合わせて53個の盗塁を決めた他、リーグ2位の33犠打を記録した。_NEWLINE_2007年は2番・二塁手で初の開幕スタメンをつかんだが、4月18日の日本ハム戦で右翼手のG.G.佐藤と接触して右ひざと胸部を打撲し途中退場。翌日の試合では怪我を押して代打出場し安打を放ったものの、状態が悪く登録を抹消された。5月30日に復帰したが、しばらくは負傷の影響で2割台前半の低打率にあえいだ。8月に月間打率.353(13盗塁)を記録して打率を急上昇させたが、最終的に打率.256に終わった。一方で38盗塁を記録し、自身初の盗塁王のタイトルを獲得した。守備でも失策が前年の13個から5個と減少し、規定試合数に出場した二塁手としてリーグトップの守備率.993を記録。犠打も前年より増やし、リーグ2位の35個を記録した。_NEWLINE_2008年は開幕から1番打者を任される。打っては2番打者の栗山巧とともに167安打で最多安打のタイトルを獲得し、リーグトップの得点圏打率.382と勝負強さも発揮。走っては前半戦だけで前年の盗塁数を上回ると、最終的に50盗塁を記録し、2位の渡辺直人を16個引き離して2年連続の盗塁王となった(パ・リーグの50盗塁以上は1997年の松井稼頭央と小坂誠以来)。また、選手間投票でオールスターゲームに初出場し、自身初のベストナインにも選ばれた。2014年に移籍することになる読売ジャイアンツとの日本シリーズでは7試合全てで安打を放ち、5盗塁を記録。第7戦では1点を追う8回に死球で出塁すると、盗塁と送りバントで三塁に進み、続く中島の打席でギャンブルスタートのサインに応え三塁ゴロの間に同点のホームを陥れ、逆転日本一の足がかりを作る活躍を見せた。アジアシリーズ初戦のSKワイバーンズ戦は風邪のため欠場したが、決勝までの3試合に1番・遊撃手として出場し、シリーズ制覇に貢献した。_NEWLINE_2009年はWBC日本代表に選出された。日本代表監督の原辰徳は「足(走塁)で代表に選んだ」と語り、片岡を「JOKER」と例えた。また、イチローも「ファミスタの『ピノ』みたい」と評し、一次候補選手の中では中島裕之・岸孝之に並ぶキーマンに挙げた。第一ラウンドこそ出番はなかったが、第二ラウンド初戦のキューバ戦から主に先発が左投手時にスタメン出場。決勝・韓国戦では、同点の7回表、先頭打者としてレフト前ヒットで出塁すると続くイチローの打席では1ボールからの2球目で盗塁に成功。さらにイチローのバントヒット、中島裕之のレフト前ヒットと続き、片岡が貴重な勝ち越しのホームを踏んだ。大会通じて打率.308、盗塁は1位タイの4盗塁を挙げ、慣れない三塁手の守備も手堅くこなし、WBC2連覇に貢献した。_NEWLINE_レギュラーシーズンでは前年同様1番・二塁手として起用されたが打撃不振に陥り、4打数以上無安打の試合は29回とリーグ最多を記録。出塁率も低迷した。前半戦は打率.282で折り返したが、最終的には打率.260と復調しないままシーズンを終了した。一方で13本塁打・58打点は自己最高と長打率は上がり二塁手部門でパ・リーグトップの守備率を記録したが、時折緩慢なプレーでピンチを招くこともあった。盗塁数では9月まで本多雄一、川﨑宗則にリードを許していたが、9月20日から6試合で10盗塁を記録し、自己最多の51盗塁を記録、3年連続となる盗塁王のタイトルを獲得した。オフの契約更改では2度目の交渉でも合意できず越年。_NEWLINE_2010年は開幕当初こそ調子があがらなかったが、オールスターゲームに2年ぶりに選出され、第2戦では5打数4安打でMVPを獲得し、8月24日のロッテ戦でパ・リーグでは福本豊以来となる3年連続50盗塁を達成した。自己最高の打率.295、出塁率.347、59盗塁とリードオフマンとしてチームを牽引し、4年連続で盗塁王に輝いた(本多雄一と同時受賞)。一方、5月にアキレス腱、6月に左肩と相次いで故障し、9月20日のソフトバンク戦では走塁中に右足ふくらはぎを痛めると、シーズン残りとクライマックスシリーズを欠場した。_NEWLINE_2011年は春季キャンプで右足を捻挫して出遅れ、4月中旬に20打席連続無安打と打撃不振に陥った。「1番・二塁」として開幕から53試合連続のフルイニング出場を続けていたが、6月28日のオリックス戦の守備時に左肩を痛めると同時に脳震盪を起こして途中交代。7月5日のソフトバンク戦で一塁に帰塁する際に右肩を亜脱臼し、一軍登録抹消された。9月3日に一軍復帰後は「9番・二塁」として出場を続けるが、6月に痛めた左肩の影響で10月5日に本人の申し出で登録抹消。同月13日に左肩脱臼修復のための手術を受けた。度重なる怪我の影響もあり、86試合出場で打率.230、22盗塁にとどまり5年連続の盗塁王を逃した。_NEWLINE_2012年は前年の手術の影響で開幕を二軍で迎えた。5月1日に一軍復帰、同月10日には復帰後初ホームランを放つ。しかし、7月10日のソフトバンク戦の守備時に右手首を痛め途中交代。その後も回復しなかったため、9月16日に右手三角靱帯複合体損傷修復手術を受け、シーズン残りを棒に振った。二年連続で怪我に悩まされ、52試合出場は自己ワースト。盗塁も8つにとどまった。同年12月30日、登録名を「片岡 治大」に変更することが発表された。_NEWLINE_2013年は怪我からの復活を期すと同時にベテランとしてチームを牽引し、「1番・二塁」として開幕スタメンに名を飾る。4月下旬に左膝裏を痛めるも出場を続け、6月7日に国内FA権を取得したが、怪我の悪化を理由に同月14日に登録抹消され、3ヶ月間戦列を離れた。9月25日の楽天戦でサヨナラ2ランを放ち、9月度のスカパー!サヨナラ賞を受賞。
_START_SECTION_
巨人時代
_START_PARAGRAPH_
2013年シーズン終了後、FA宣言し、12月1日に読売ジャイアンツ(巨人)への移籍を表明。_NEWLINE_12月9日に入団記者会見。契約は2年で総額3億5000万円(金額は推定)、背番号は8に決定した。なお片岡移籍の人的補償として脇谷亮太が西武に移籍している。_NEWLINE_2014年は開幕戦で移籍後初安打を能見篤史からホームランで飾り、チームも大勝した。開幕直後は3割を打っていた時期もあったが、徐々に不振に陥っていった。8月には打撃不振で二軍落ちも味わった。最終的に126試合に出場して4年ぶりに規定打席に到達し、チームトップの24盗塁は記録したものの打率は.252と期待された成績を残せなかった。巨人の二塁手が規定打席に到達したのは2005年の仁志敏久以来9年ぶりである。オフの10月21日に「日本プロ野球80周年記念試合」の阪神・巨人連合チームに選出された事が発表された。_NEWLINE_2015年、開幕スタメンを外れていたが、4月16日の横浜DeNAベイスターズ戦で、通算300盗塁を記録した。これを記念し4月17日に、300盗塁記念グッズとしてTシャツが発売される事が発表された。この年も故障や不調で二軍落ちを経験し、113試合で打率.244に終わったが5年ぶりに10本塁打をマークし、打点もわずかながら前年を上回った。だが規定打席には到達しなかった。_NEWLINE_2016年、同じ二塁手のルイス・クルーズの加入もありスタメンから外れることが増えた。また故障に悩まされ、6月には下半身の不調で二軍落ち、9月3日に一軍復帰したが9月10日の広島戦で代打で出場し、ファウルを打った際に左手首を痛め、翌日有鈎骨骨折と診断され再び一軍登録を抹消され、以後シーズン出場はなく、32試合の出場で4打点、4盗塁はいずれもプロ入り11年でワーストの数字に終わった。_NEWLINE_2017年は右膝の故障により一軍出場はなく、9月30日に今季限りでの現役引退が発表された。翌10月1日に引退会見を行い、「体の方がついてこないという自覚があったので、このような決断に至った。まだ、悔しさの方が大きいです。希望を持ってリハビリを重ねてきたんですけど、なかなか思うような動きができずに、何回も心を折られたので、このタイミングで身を引いた方がいいのかなと思いました。」と語った。10月4日、任意引退公示された。同年11月22日の「ジャイアンツファンフェスタ」で引退セレモニーが行われ、「まだプレーしたかった。まだ走っていたかったが、体は限界でした」と挨拶した。
_START_SECTION_
引退後
_START_PARAGRAPH_
10月30日、2018年から読売ジャイアンツの二軍内野守備走塁コーチを務めることが発表された。_NEWLINE_9月末にコーチ就任の要請を受け、11月の秋季練習より読売ジャイアンツの二軍内野守備走塁コーチに就任、指導者として第一歩を踏み出した。
_START_SECTION_
私生活
_START_PARAGRAPH_
10年来のファンだったというタレントのベッキーと2018年に共通の友人を介して知り合い、片岡の猛アタックにより同年6月より交際を開始。2019年1月に婚姻届を提出して結婚した。挙式・披露宴は未定。_NEWLINE_2019年2月13日、タレントのベッキーと結婚したことを報告した。
_START_SECTION_
走塁・守備
_START_PARAGRAPH_
読売ジャイアンツに移籍の一年目はチーム最多となる24盗塁を記録。50m走は5秒8。一塁到達まで4.06秒と盗塁王経験者の中でもずば抜けた俊足ではないものの、高い盗塁技術を誇り盗塁成功率が高い。盗塁数の増加の要因としては、スタートの向上と、プロ入り前からの特徴であった独特なスライディング法を挙げており、低いスタート姿勢によって素早くトップスピードに入り、「ベースを吹っ飛ばすつもりでやる」というベースの近くギリギリからのスライディングを行うことにより、スピードのロスを防いだまま次塁に到達することができるという。_NEWLINE_守備では二塁手、遊撃手の他、プロ1年目には三塁手としても出場している。二塁守備では打球に対する反応の良い上に球際に強く、得点換算でも高い数値を記録している。2014年には両リーグトップのUZRを記録した。
_START_SECTION_
打撃
_START_PARAGRAPH_
アッパースイングのため高めの球に弱いが、球際に強くしぶとさを持つ。打者走者としては毎打席全力疾走をするタイプではなく、アウトと思ったら流して走る傾向にある。 | 5766356106458709408 |
Q11569776 |
_START_ARTICLE_
片岡芳保
_START_PARAGRAPH_
片岡 芳保(かたおか よしやす 1968年10月2日 - )は、日本の歯科医師、歯学博士。日本歯科臨床医学会創設者のひとり。東京都出身。
_START_SECTION_
略歴
_START_PARAGRAPH_
桐蔭学園高等学校、日本大学歯学部卒業後、日本大学歯学部口腔外科学教室第Ⅰ講座、日本大学歯学部生化学教室。_NEWLINE_1994年に歯科臨床研究会を発足させ、2009年に日本歯科臨床医学会を創設する。2011年現在、日本歯科臨床医学会会長。日本総義歯補綴学会顧問。開業医。 | 12209487481823343545 |
Q599971 |
_START_ARTICLE_
牧場の少女カトリ
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
原作はアウニ・ヌオリワーラ (芬: Auni Elisabeth Nuolivaara)の『牧場の少女』(芬: Paimen, piika ja emäntä)。作者であるヌオリワーラが自身の祖母の少女時代をモデルに書いたもので、20世紀初頭のフィンランドを舞台に、母と離れて祖父母と暮らす少女が牧場の家畜番として屋敷で働き始める姿を描く。日本では森本ヤス子が1952年に紹介したのが最初で、当時の少年少女向けの文学全集などに収録されたが、本作品が放映された1980年代の日本では、その知名度は非常に低いものだった。_NEWLINE_本作品では原作より時代設定が65年ほど後にずらされており、クウセラ屋敷以降のエピソードや『カレワラ』(作中では「カレヴァラ」と呼称)など作中に登場する多くの書物を含め、独自の設定・展開も多数散見される。作中、カトリはよく働いていたため、新聞のテレビ欄などでは前年の(1983年)に放送された「おしん」の名作アニメ版として紹介されることもあった。_NEWLINE_第38話 - 第39話のエンディングは、視聴者から募集したキャラクターの似顔絵を紹介した特別なヴァージョンになっていた。フィルムで直に放送していた時代では再放送でも視聴できたが、放送用のビデオテープ素材での放送になった際に原版から通常のエンディングに差し替えられたため、後年リリースされたレーザーディスクやDVDにも収録されておらず、現在では視聴できなくなっている。
_START_SECTION_
舞台設定
_START_PARAGRAPH_
本作品では、1915年の春~1918年7月までのフィンランドを舞台に描かれている。_NEWLINE_本作品における簡単な時系列は、1912年にサラがカトリと別れて3年間の予定で出稼ぎに行くが、残り1年となった頃(1914年)に第一次世界大戦が始まり手紙が届かなくなる。サラの帰国予定の1915年を迎えるが母の消息がつかめないまま、春頃家計を助けるためカトリは自らの意思でライッコラ屋敷に奉公に出る。その後もカトリは1916年の春からクウセラ屋敷で暮らした後、さらに1917年の春にトゥルクで暮らし始める、という流れになっている。
_START_SECTION_
あらすじ
_START_PARAGRAPH_
1915年の南フィンランドの農村(パルキ村)。3年前のカトリが6歳の時、母がドイツへ出稼ぎに行ったが、1年前からヨーロッパで第一次世界大戦が始まってしまい音信不通となった。預けられていた祖父母の家は貧しく母からの送金も途絶え、9歳のカトリは家計を支えるため飼い犬のアベルと共に農場に働きに行くことにした。_NEWLINE_ライッコラ屋敷の家畜番として働き始めたカトリは、ある日知り合った大学生から一冊の本をもらうと読書を通じて学ぶことの楽しさを知る。また、カトリは様々な人との出会いと別れ、再会を通じて子供ながらに人生や将来の夢についても考えるようになる。その後クウセラ屋敷やトゥルクの屋敷と働き場所を変えながらも、勤勉で働き者で誰からも好かれるカトリは多くの人々の支えを受けて成長し、最後は母と再会する。
_START_SECTION_
ライッコラ屋敷、ミーナ邸別荘(サロ地方)
_START_PARAGRAPH_
ライッコラ屋敷は、カトリの家から約12km離れた場所にある。ライッコラ屋敷と同じ地域内にあるミーナ邸の別荘はマルティの親族が所有し、作中では夏休みの間彼が別荘で過ごす。
_START_SECTION_
作中のフィンランドの季節について
_START_PARAGRAPH_
作中の説明によると、日本に比べてフィンランドは夏期が短く冬期が長い。夏は、日が暮れるのが遅く20時でも夕方並の明るさとなっている。冬になると厳しい寒さのため、ライッコラ屋敷の辺りに住む人たちはできるだけ外出を控え、室内の仕事に切り替えるなど多くの時間を屋内で過ごす。また、雪が降り始める頃には、太陽が出ている時間が約3時間の短さになるとのこと。
_START_SECTION_
映像ソフト
_START_PARAGRAPH_
テレビシリーズのDVDは2001年3月25日から6月25日にかけて、全12巻が発売された。 | 7078407272640217080 |
Q7742393 |
_START_ARTICLE_
犬神家の一族 (1976年の映画)
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
1970年代中頃から1980年代中頃にかけて一種のブームとなった角川映画の初作品であり、市川崑監督・石坂浩二主演による金田一耕助シリーズの第1作でもある。金田一耕助を初めて原作通りの着物姿で登場させた映画としても知られる。_NEWLINE_「波立つ水面から突き出た足」のシーンや不気味なマスク姿の佐清などの印象的な場面が多く、後に何度もパロディにされている。大野雄二による主題曲「愛のバラード」も有名である。_NEWLINE_劇中では作曲家小杉太一郎の唯一の邦楽作品、箏曲「双輪」が効果的に映画音楽として使われている。この曲は箏曲家山田節子の委嘱により作曲されたものである。市川はその後も「双輪」を大変気に入り、『古都』(1980年)や『竹取物語』(1987年)など、以後も箏曲が必要な時にはたびたび使用している(ちなみにこれらで使われている演奏はすべて山田節子によるものである)。TBSのタレント人気調査で3年連続トップになるなど、お茶の間では圧倒的人気を誇りながら、映画ではめぼしい実績を掴みかねていた石坂浩二は、初の大作主演での大ヒットに恵まれた。_NEWLINE_佐清のマスクなどの造形は、東宝特殊美術の安丸信行が担当した。佐清のマスクの着色は、白と肌色を調合したもので、監督の市川崑の気に入った配色が出なかったため、何度も作り直させられて苦しかったと安丸は述懐している。また、ポスターなどに使用された湖から突き出した佐清の足は、美術助手であった好村直行の足を型取りして造形された。好村は後年、『犬神家の一族 (2006年の映画)』の美術を担当した櫻木晶に、本作の足が好村のものであることを驚かれて誇らしい気分になったと述べている。_NEWLINE_映画は15億6000万円の配給収入を記録し、大ヒットした。批評家やファンからも高い評価と支持を受け、第50回キネマ旬報ベスト・テンで第5位にランクインのほか、第1回報知映画賞作品賞などの各賞を受賞した。キネマ旬報によれば、本作のヒットにより製作と宣伝にコストをかけた邦画の一本立て大作路線が本格的にスタートした。_NEWLINE_2006年(平成18年)には市川・石坂のコンビでリメイク版が製作された。リメイク版も石坂が金田一を演じている。 | 1398903063031572722 |
Q1472649 |
_START_ARTICLE_
狐潰し
_START_PARAGRAPH_
狐潰し(きつねつぶし、ドイツ語: Fuchsprellen)とは、キツネなどの生きた動物を、編んだ縄で空中高く弾き飛ばすスポーツ競技である。17世紀から18世紀にかけてヨーロッパの一部で盛んに行われた。蔑んでブラッド・スポーツの一種ともみなされる。
_START_SECTION_
競技の概要
_START_PARAGRAPH_
狐潰しは、広場をキャンバスで囲って作るか、あるいは城や宮殿の中庭を使った競技場で行われる。2人組で網状か綱状のスリングの一端をそれぞれ持ち、スリングが地面に横たわるよう6-7.5mの間隔をとって立つ。準備ができたら、キツネなどの生きた動物を檻や罠から競技場に解き放つ。競技者は、動物がスリングの上に来たところで、勢いよくスリングの端を引く。タイミングが合えば、動物は空高く弾き飛ばされる。_NEWLINE_最も高くまで動物を飛ばした者が勝利となる。熟練者であれば、7.5mもの高さまで飛ばすことが可能である。_NEWLINE_ときに数組のスリングが並行して待ち受けているため、動物はいくつものチームから激しい攻撃を受けなくてはならないことになる。競技の結果、弾き飛ばされた動物の多くは死亡する。野島利彰によると、数度にわたって連続して空中にはね上げた後、さっとスリングをずらして動物を地面に叩きつけて殺したという。
_START_SECTION_
歴史
_START_PARAGRAPH_
怪力で知られたザクセン選帝侯のフリードリヒ・アウグスト1世は、ドレスデンで有名な狐潰し大会を開催した。この大会では、647頭のキツネ、533頭のノウサギ、34頭のアナグマ、21頭のヤマネコが使われて死んだ。フリードリヒ・アウグスト1世自身も競技に参加し、スリングの反対側を宮廷で一二の力の強い男2人に持たせて、自分はスリングを指一本だけで握って見せたと記録されている。_NEWLINE_フリードリヒ・アウグスト1世のほかに狐潰しを行った領主として、神聖ローマ皇帝レオポルト1世が知られる。1672年3月にレオポルト1世によりウィーンで開かれた狐潰し大会について、現場で目撃したスウェーデン公使のエザイアス・フォン・プーフェンドルフ(de, ザミュエル・フォン・プーフェンドルフの兄弟)は驚きを持って日記に書き残している。プーフェンドルフによると、レオポルト1世は宮廷小人(en, 小人症の宮廷道化師)や少年たちが傷ついた動物を棍棒で打ち殺す様を熱狂的に楽しんでいた。皇帝が道化師や子供を戦友としている姿は、皇帝の厳粛さに比していささか異様に見えたという。_NEWLINE_狐潰しは、貴族たちだけでなく、庶民にも人気の高い遊びであった。_NEWLINE_レオポルト1世の子のヨーゼフ1世は、断食の時期には狐潰しを控えるよう求めた。その結果、狐潰しは特に断食明けの行事として楽しまれるようになった。
_START_SECTION_
楽しみと危険
_START_PARAGRAPH_
狐潰しは、カップル同席の場の遊戯として特に人気があり、競技自体の面白さに加え、カップル間での対抗意識が誘われた。フリードリヒ・アウグスト1世主催のとある大会では、34頭のイノシシが競技場に放たれたところ、イノシシは女性たちのパニエ入りスカートをめちゃめちゃにして高貴な女性たちを恐怖に陥れる一方、騎士たちを大いに楽しませた。かくて集まった貴人たちの盛り上がりは果てしなく続いたという。同じ大会では3頭のオオカミまでも使われたが、その際の人々の反応は記録に残っていない。_NEWLINE_この競技は参加者にとって完全に安全なものではない。怯えた動物が競技者に逆襲することは決して珍しくなかった。ヤマネコは特に危険であった。とある人物はヤマネコについて、彼らは爪や牙を競技者につきたてることができないとなると、今度はスリングに命がけでしがみついてしまうと述べている。ヤマネコをうまく弾き飛ばすことはほとんど不可能に近く、楽しいスポーツではないという。_NEWLINE_狐潰しは、仮面舞踏会の一環として、競技者も動物も仮装して行われることがあった。男性競技者は神話の英雄やローマ軍団の兵士、サテュロス、ケンタウロス、ピエロなどに扮し女性たちもニュンペーやムーサなどの女神の衣装や仮面をまとった。競技に使う動物は、キツネとともにウサギが多く、厚紙の切れや飾り糸、けばけばしい洋服で飾り付け、誰か人間の著名人の姿に似せて戯画的に仕立てられた。競技が終わると、参加者たちは松明行列に出るか、室内での豪華な宴会へと移った。 | 1803203117298109519 |
Q11572122 |
_START_ARTICLE_
猿橋村
_START_SECTION_
鉄道路線
_START_PARAGRAPH_
現在は旧村域に東日本旅客鉄道(JR東日本)白新線西新発田駅が設置されているが、当時は未開通。 | 6266957251349754441 |
Q11572217 |
_START_ARTICLE_
獣の条件
_START_SECTION_
あらすじ
_START_PARAGRAPH_
上京したての女優志望者、稲村まどかは絶品のボディラインを持っている。その頃、人気女優・桜田アリサの裸の濡れ場シーンがあることで話題の映画『獣の条件』の撮影が始められようとしていた。しかし桜田アリサは裸になることを拒否する。稲村まどかは映画『獣の条件』の端役のオーディションを受けたが、手違いで桜田アリサのボディスタントを務めることになる。稲村まどかの女優業とキャバクラ業とを往復する生活が始まり、稲村まどかの裸体が男達の注目を集め、対抗する女達の成長を促してゆく。 | 4677694758826625204 |
Q11572415 |
_START_ARTICLE_
玉厨子山
_START_SECTION_
地理
_START_PARAGRAPH_
美波町の旧日和佐町のほぼ中央に位置し、宝珠形をした山容は、昔より海上交通の目印として知られている。_NEWLINE_山頂部南西には砂岩の露出した断崖があり、薬王寺奥の院の玉厨子庵(泰仙寺)は、南面の中腹にある。 | 8033707544463901201 |
Q11573702 |
_START_ARTICLE_
琉球開発金融公社
_START_SECTION_
PL480資金
_START_PARAGRAPH_
1954年制定の米国公法第480号「農産物貿易振興法」のことで、これに基づく協定により、アメリカの余剰農産物が輸入され、それによる売上回収金を資金化し、農業振興のために貸し付けられた。窓口になったのが琉球開発金融公社である。 | 7688153097917498497 |
Q17994677 |
_START_ARTICLE_
生活意識
_START_PARAGRAPH_
生活意識(せいかついしき)とは社会学用語の一つ。社会において人間が持っている生活の目標や価値観のことを言う。この生活意識というのは同じ人間であっても置かれている時代や環境が異なる事で、共に異なってくるものである。例えば貧しい環境におかれている人間ならば、その生活意識というのは他の人々と比較してみれば足りていないという事であり、その足りていない分を埋めるという事が生活の目標となる。生活において足りていない分が存在していない人間ならば、個人の個性化を求めるようになり、このことから消費者行動の多様化が起きてくるという事である。 | 18217912421986681130 |
Q319616 |
_START_ARTICLE_
生薬学
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
生薬は漢方薬や健康食品の原料として広く使用されているが、それら天然由来であるため品質が安定せず、本来の生薬学の目的は、それら品質管理方法の開発であった。そのため、古くは生薬の顕微鏡観察による検定方法、近年では含有化学成分による検定方法、ごく最近は遺伝子による検定方法が開発されてきている。それらの技術は、近年の漢方薬の普及や、健康食品ブームに大いに貢献している。_NEWLINE_いっぽう、その過程で含有化学成分の分析方法の発展から、生薬中に含まれる未知の薬効成分を新しい医薬品として開発するという天然物化学が生薬学から発展し、日本だけでなくアメリカの薬学部における生薬学研究の主流を占めるようになった。実際、世界で使用される医薬品の多くは、そのような天然物またはその誘導体であり、今後も新しい医薬品が天然物から開発されることが期待される。_NEWLINE_日本における生薬学は、漢方薬や健康食品の原料として使用される天然由来の動植物を研究対象に扱うことが多いが、アメリカにおける生薬学の対象は、天然物由来の医薬品すべてであり、多くの微生物由来の抗生物質や、インスリンやインターフェロンなどの遺伝子組換え医薬品も生薬学の範囲である。
_START_SECTION_
日本における生薬学
_START_PARAGRAPH_
日本において生薬学という学問上の名称が用いられたのは明治13年(1880年)からであり、東京医学校製薬学科の別課である通学生教場にて日本人教師が日本語で講義する必要性が生じたため、当時助教授であった大井玄洞が J.W.Wingand の "Lehrbuch der Pharmakognosie" などの書籍を参考に教科書を作るあたり、ドイツ語の Pharmakognosie(これはギリシャ語の pharmakon(薬物)と gnosis(知識)からの造語)に「生薬学」の訳をあて、『生薬学』、『生薬学図譜』を刊行したものである。_NEWLINE_その後、ドイツ留学から帰国した下山順一郎が明治20年(1887年)帝国大学生薬学講座の初代教授に就任し、生薬学の基礎を確立した。 | 2314490287842075727 |
Q5996327 |
_START_ARTICLE_
生野町
_START_SECTION_
歴史
_START_PARAGRAPH_
町の発展を支えてきた生野銀山の開坑は、807年(大同2年)とも伝えられ、江戸幕府はこの地に代官を置いた。1863年(文久3年)、大和の天誅組に呼応して尊皇攘夷派の平野国臣らがここに兵をあげたが、失敗に終わった(生野の変)。1889年(明治22年)に皇室財産となった後、1896年(明治29年)に三菱が払い下げを受けた。昭和48年(1973年)に資源の枯渇等により閉山したが、全国各地の文化の流入を受け、生野銀山独特の町並みを形成した。現在でも昔懐かしい風景が数多く残っている。_NEWLINE_古くからの鉱山であることや、周辺に重金属を含む岩石が多く存在することから、かつてはカドミウムによる土壌汚染が発生した。農用地の土壌の汚染防止等に関する法律により土壌汚染除去事業が施され、汚染地域指定は2001年に解除されている。
_START_SECTION_
産業
_START_PARAGRAPH_
農家数と林家数が総世帯数のそれぞれ1割前後をしめる。 | 15809487432266407715 |
Q56345662 |
_START_ARTICLE_
田中伸一
_START_PARAGRAPH_
田中 伸一(たなか しんいち、1956年 - )は、日本の実業家。東京都出身。株式会社グッチグループジャパンホールディングス元代表取締役社長。株式会社グッチグループジャパン元代表取締役社長。
_START_SECTION_
人物・経歴
_START_PARAGRAPH_
東京都出身。1979年、上智大学経済学部経済学科卒業。1988年、慶應義塾大学大学院経営管理研究科にてMBA取得。_NEWLINE_大学卒業後、株式会社伊勢丹に入社。家庭用品販売課(洋食器)を皮切りに、経理部、経営企画部を経て、ニューヨークに出向し、イセタンオブアメリカでEVP(副社長)兼CFO(最高財務責任者)に就任。帰国後、株式会社伊勢丹ファイナンス(現・エムアイカード)に出向。_NEWLINE_1997年、株式会社グッチジャパンにCFOとして入社。1998年、同社EVP兼CFOに就任。2004年、株式会社グッチグループジャパンホールディングス代表取締役社長に就任。株式会社グッチグループジャパン代表取締役社長に就任、グループ子会社の役員も兼務。_NEWLINE_2009年、グッチグループを退職。_NEWLINE_その後、有限会社田中経営研究所取締役社長に就任。 | 16376629333431727886 |
Q1726206 |
_START_ARTICLE_
田中美南
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
タイ人の母親を持つ。両親と兄が母の親族に会いにタイを訪れた時、現地で誕生した。生後すぐに帰国して神奈川・川崎市で育った。兄の影響でサッカーを始め、日テレ・メニーナに入団した。_NEWLINE_2010年、トリニダード・トバゴで開催されたFIFA U-17女子ワールドカップでは6試合中3試合に出場し、1得点を挙げた。_NEWLINE_2011年、トップチームである日テレ・ベレーザに2重登録され、なでしこリーグ初出場、初得点を挙げた。_NEWLINE_2012年、日テレ・ベレーザに昇格。同年、日本で開催されたFIFA U-20女子ワールドカップに出場した。_NEWLINE_2013年3月、神奈川県立百合丘高等学校卒業。_NEWLINE_2013年3月、アルガルヴェ・カップ2013のドイツ戦でA代表初出場を果たし初ゴールも決めた。_NEWLINE_2015年シーズン、日テレ・ベレーザの5年ぶり13回目のリーグ優勝に貢献し、リーグのベストイレブンに初選出された。_NEWLINE_2016年シーズン、チームのリーグ連覇に貢献し、初の得点王(18得点)と2年連続でのベストイレブンに選出された。_NEWLINE_2017年シーズン、チームのリーグ3連覇に貢献し、2年連続での得点王(15得点)と3年連続ベストイレブンに選出された。同年12月25日に行われた第39回皇后杯全日本女子サッカー選手権大会決勝では2得点を挙げる活躍でノジマステラ神奈川相模原を3-0で下し、チームの3大会ぶり12回目の優勝に貢献、自身は5試合7得点で大会得点王となった。_NEWLINE_2018年シーズン、6月10日にウェリントンでの対ニュージーランド戦に先発出場し、1試合3得点(ハットトリック)を記録した。 | 11529263330439544702 |
Q11576500 |
_START_ARTICLE_
田宮如雲
_START_PARAGRAPH_
田宮 如雲(たみや じょうん、文化5年10月23日(1808年12月10日) - 明治4年4月19日(1871年6月6日))は、江戸時代後期の尾張藩側用人、家老。名は篤輝。通称・弥太郎、晩年に如雲と改め、桂園と號す。旧姓・大塚。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
尾張藩士・大塚三右衛門正甫の第二子として生まれ、田宮半兵衛の養子となる。金鉄組を立ち上げ第11代藩主・徳川斉温の後継として支藩高須藩の松平秀之助(徳川慶勝)を擁立する運動を起こすが実現しなかった。_NEWLINE_嘉永2年(1849年)慶勝が第14代藩主に就任し、嘉永5年(1852年)側用人格となり藩政改革に取り組む。安政5年(1858年)安政の大獄により慶勝が隠居・謹慎処分を受けると、如雲も屏居となる。文久2年(1862年)に赦され、文久3年(1863年)城代に就任。_NEWLINE_元治元年(1864年)第一次長州征討において慶勝が征長総督となり参謀として従軍。長州藩に寛大な処分を行うことに尽力したことから幕府の忌避を受け、慶応元年5月(1865年)屏居となる。同年8月に赦され、その後、京都に上洛し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)新政府の参与に就任。戊辰戦争では甲州・信州の平定に従事。明治2年(1869年)名古屋藩大参事となるが、明治3年5月(1870年)、病のため辞職した。 | 16573239481250297201 |
Q20041346 |
_START_ARTICLE_
田裳見宿禰
_START_PARAGRAPH_
田裳見宿禰(たもみのすくね)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。_NEWLINE_『日本書紀』では「田裳見宿禰」、他文献では「手搓足尼」「手搓見足尼」「田裳見足尼」「多毛弥足尼(多毛彌足尼)」などとも表記される。『古事記』に記載はない。_NEWLINE_住吉大社祭祀氏族である津守連(津守氏)の祖とされる。
_START_SECTION_
記録
_START_PARAGRAPH_
『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年12月14日条によると、皇后が新羅征討から帰還した際、征討に従った表筒男・中筒男・底筒男の三神(住吉三神/筒男三神)が皇后に三神の荒魂を穴門の山田邑に祀るよう告げた。そして田裳見宿禰と践立(ほんたち:穴門直祖)が神の欲する地を定めるべきことを皇后に言上したので、皇后は践立を神主として祠を穴門の山田邑に立てたという(山口県下関市の住吉神社に比定)。_NEWLINE_『住吉大社神代記』(平安時代前期頃の成立か)では、折羽足尼の子とし、神功皇后の御裳を搓み鎮懐石を御裳腰に挿して祈誓した功で名を賜ったとする。また住吉三神が「渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出峡(たまでのお)」に住むことを欲したので、皇后はその地に住んでいた手搓足尼を神主として祀らせたという(大阪府大阪市の住吉大社)。
_START_SECTION_
後裔氏族
_START_PARAGRAPH_
田裳見宿禰について、『日本書紀』では津守連(津守氏、つもりうじ)の祖とする。この「津守」という氏の名は住吉津を守ったことによるもので、津守氏は住吉大社の祭祀を代々担った氏族になる。_NEWLINE_なお『新撰姓氏録』摂津国神別 津守宿禰条では、この津守氏に関して火明命(天火明命)八世孫の大御日足尼の後裔とし、尾張宿禰(尾張氏)と同祖とする(詳細は「津守氏」を参照)。 | 1342921350379309573 |
Q17160948 |
_START_ARTICLE_
田辺寿夫
_START_PARAGRAPH_
田辺 寿夫(たなべ ひさお、1943年 - )は、ビルマ研究者、ジャーナリスト。_NEWLINE_埼玉県生まれ。1966年大阪外国語大学ビルマ語学科卒。NHKに入り、国際放送局でビルマ語ラジオ番組の制作を担当。2003年退職、フリージャーナリストとなる。根本敬とともに「ミャンマー」ではなくビルマの呼称を原則として用いる。 | 12280809798683610294 |
Q17993773 |
_START_ARTICLE_
申恬
_START_PARAGRAPH_
申恬(しん てん、388年 - 456年)は、南朝宋の官僚・軍人。字は公休。本貫は魏郡魏県。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
申宣の子として生まれた。はじめ劉道憐の下で驃騎行参軍をつとめた。420年(永初元年)、劉裕が帝位につくと、申恬は東宮殿中将軍となった。宮中に宿直すること10年に及んだが、休息を求めることがなかった。元嘉年間、員外散騎侍郎の位を受け、綏遠将軍・下邳郡太守として出向した。次いで北海郡太守に転じ、寧遠将軍の号を加えられた。さらに北譙梁二郡太守をつとめた。435年(元嘉12年)、都督魯東平済北三郡諸軍事・泰山郡太守に任じられた。臨川王劉義慶が江陵に駐屯すると、申恬はその下で平西中兵参軍・河東郡太守となった。439年(元嘉16年)、衡陽王劉義季が劉義慶に代わって安西将軍・荊州刺史となると、申恬は安西府に入り、寧朔将軍の号を加えられた。後に建康に召還されて太子屯騎校尉となったが、母が死去したため辞職して喪に服した。_NEWLINE_444年(元嘉21年)、冀州が歴城に移鎮されると、申恬は都督冀州青州之済南楽安太原三郡諸軍事・揚烈将軍・冀州刺史に任じられた。445年(元嘉22年)、済南郡太守の任を加えられた。446年(元嘉23年)、北魏の永昌王拓跋仁や高涼王拓跋那らの侵攻を受け、申恬は出撃して魏軍に敗れると、建康に召還された。_NEWLINE_450年(元嘉27年)、通直散騎常侍として再び起用された。北魏の武昌王拓跋提が青州に侵攻してくると、申恬は援軍として東陽に派遣され、斉郡太守の龐秀之とともに東陽城を守った。魏軍が撤退すると、申恬は寧朔将軍・山陽郡太守に任じられた。453年(元嘉30年)6月、青州刺史に転じた。まもなく都督徐州之東莞東安二郡諸軍事の任を加えられた。454年(孝建元年)、さらに都督冀州諸軍事の任を加えられ、輔国将軍の号を受けた。_NEWLINE_455年(孝建2年)8月、都督豫州諸軍事・寧朔将軍・豫州刺史に転じた。456年(孝建3年)、病のため建康に召還され、道中で死去した。享年は69。_NEWLINE_子の申寔は、南譙郡太守となったが、早逝した。 | 16209056861205141204 |
Q11578058 |
_START_ARTICLE_
男と女 (松山千春の曲)
_START_SECTION_
解説
_START_PARAGRAPH_
松山千春らが1980年に設立したNEWSレコードからは最後のシングルとなった。_NEWLINE_「男と女」はテレビ朝日系ドラマ『私鉄沿線97分署』第1シーズンのテーマ曲、カップリングの「粉雪」は同エンディング・テーマであった。 | 1489395993255861430 |
Q17228026 |
_START_ARTICLE_
男ノ子焼
_START_PARAGRAPH_
男ノ子焼(おのこやき)は、福岡県八女市立花町で焼かれていた陶器。_NEWLINE_約400年前、柳川藩主・立花宗茂が朝鮮半島から連れ帰った陶工によって始められたという。以後80年間、柳川藩主の御用窯として栄えたが、熊本県北部の小岱山麓に窯を移したため、途絶えたと伝えられている。現在、再興を目的に「男ノ子焼の里」という施設が建てられ、陶芸家を招致し、焼き物が焼かれている。毎年春に行われる「男ノ子焼の里れんげ祭り」などでは窯開きが行われ、市内外からの人出でにぎわっている。 | 15027181668448666831 |
Q608727 |
_START_ARTICLE_
白村江の戦い
_START_SECTION_
名称
_START_PARAGRAPH_
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」とも読まれる。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。_NEWLINE_漢語では白江之口と書く(旧唐書)。
_START_SECTION_
朝鮮半島と中国大陸の情勢
_START_PARAGRAPH_
6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。_NEWLINE_倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。_NEWLINE_475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている。_NEWLINE_一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された唐は、628年に国内を統一した。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。
_START_SECTION_
唐による新羅冊封
_START_PARAGRAPH_
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。
_START_SECTION_
百済の情勢
_START_PARAGRAPH_
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊府元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。_NEWLINE_659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
_START_SECTION_
百済の役
_START_PARAGRAPH_
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という。
_START_SECTION_
百済復興運動
_START_PARAGRAPH_
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かうと、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。熊津都督王文度も着任後に急死している。_NEWLINE_唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。_NEWLINE_しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信の周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった。
_START_SECTION_
倭国による百済救援
_START_PARAGRAPH_
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。_NEWLINE_中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。_NEWLINE_661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり)。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
_START_SECTION_
戦いの経過
_START_PARAGRAPH_
661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。_NEWLINE_662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。_NEWLINE_663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。_NEWLINE_百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁願及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。
_START_SECTION_
海上戦
_START_PARAGRAPH_
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。_NEWLINE_この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『日本書紀』)。
_START_SECTION_
陸上戦
_START_PARAGRAPH_
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻が唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。_NEWLINE_白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
_START_SECTION_
戦後の朝鮮半島と倭国
_START_PARAGRAPH_
唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国として歴史に名を残した統一王朝である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わるプロセスの中で起きた戦役であるといえる。以下、朝鮮半島および倭国における戦後の状況について解説する。
_START_SECTION_
高句麗の滅亡
_START_PARAGRAPH_
白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった。
_START_SECTION_
渤海の建国
_START_PARAGRAPH_
698年、靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に満州南部で渤海国を建国した。建国当初は唐と対立していたものの、後に唐から冊封を受け臣従するに至った。また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。
_START_SECTION_
新羅による半島統一
_START_PARAGRAPH_
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏を多数殺害した。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)がなされた。
_START_SECTION_
総説
_START_PARAGRAPH_
唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。_NEWLINE_白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。
_START_SECTION_
戦後交渉および唐との友好関係の樹立
_START_PARAGRAPH_
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。_NEWLINE_667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。_NEWLINE_天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される。_NEWLINE_670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。後述するように天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使は長らく継続され、唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
_START_SECTION_
捕虜の帰還
_START_PARAGRAPH_
『日本書紀』によれば、白村江の戦いの後の671年11月に、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人上陸した。この中には、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が含まれており、捕虜返還を前提とした上での唐への軍事協力が目的であったとされる。_NEWLINE_684年(天武13年)、猪使連子首(いつかいのむらじこびと・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の白村江の戦いにおける捕虜帰還である。_NEWLINE_690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝(ゆげのむらじげんぽう)の児の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。_NEWLINE_707年、讃岐国の錦部刀良(にしこりのとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部形見(こせべのかたみ)らも帰還した。このほかにも、696年に報賞を受けた物部薬(もののべのくすり)、壬生諸石(みぶのもろし)の例が知られている。
_START_SECTION_
防衛体制の整備
_START_PARAGRAPH_
白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。
_START_SECTION_
中央集権体制への移行と国号の変更
_START_PARAGRAPH_
671年に天智天皇が急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。_NEWLINE_皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。_NEWLINE_天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。
_START_SECTION_
百済遺民の四散
_START_PARAGRAPH_
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。_NEWLINE_百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。_NEWLINE_史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる。
_START_SECTION_
その他、逸話
_START_PARAGRAPH_
1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾し(日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから1282年後に対外戦争での敗北を再び経験した。_NEWLINE_そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に当時の昭和天皇は、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、再び敗戦国の国民となってしまった日本人を励ますようにした。 | 16729737542007193757 |
Q48765192 |
_START_ARTICLE_
白梅之塔
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
沖縄県立第二高等女学校の生徒からなる学徒隊の最後の場所である。八重瀬町富盛に所在する八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後、6月4日以降に16人学徒隊が移動して辿り着いた豪である。上の壕(眞山之塔裏)、下の壕(白梅之塔側)と呼ばれた真栄里の自然壕で、上の豪は食糧弾薬倉庫、下の豪は傷病兵の看護場所で学徒らは負傷兵の手当を手伝った。6月21日に下の壕が、翌22日に上の壕が米軍の激しい攻撃を受けた。敗戦後、1948年1月に自然石の小さな碑を建立し、第1回の慰霊祭が執り行われた。「塔」と呼称されているが、画像の通り、実物は高さ数十センチメートルの石碑でそれほど高くはない。その後、1951年8月に建て替えられ、再度、1992年6月に現在の慰霊塔にに改修された。維持管理については、白梅同窓会が行っている。敷地内には国吉住民が建立した「萬魂之塔」があり、周辺地区には山形県出身者の「山形の塔」やサイモン・バックナー中将が戦死したとされる「バックナー中将戦死之跡」が所在する。_NEWLINE_同市内字伊原に所在する、ひめゆりの塔及びひめゆり平和祈念資料館周辺地区と比較し、ドライブインや土産物屋は所在していない。また、道路標識も大きいものが無いので、碑がある敷地が分かりづらい立地となっている。
_START_SECTION_
その他
_START_PARAGRAPH_
2011年頃、毎年慰霊に訪れていた神奈川県の団体から寄贈された塔に安置されている地蔵2体や花瓶、掃除道具が、2013年4月7日、9時半頃に盗難されたと通報があった。この日は、独立総合研究所の会員制クラブであるインディペンデントクラブの集団慰霊が執り行われた日であった。3日後の10日に地蔵2体、花瓶、掃除道具は傍らの雑木林に投げ捨てられた状態で発見された。 | 4830346404348680806 |
Q20040689 |
_START_ARTICLE_
白石恵理子
_START_PARAGRAPH_
白石 恵理子(しらいし えりこ、1960年- )は、教育学者、滋賀大学教授。_NEWLINE_福井県生まれ。1978年藤島高校卒。1982年京都大学教育学部卒、84年同大学院修士課程修了。1990年京都大学教育学部助手、1993年大阪総合福祉専門学校(現大阪健康福祉短期大学)教員、1996年滋賀大学教育学部講師、97年助教授、2004年教授。全国障害者問題研究会研究推進委員。夫は白石正久。 | 6916498827768218872 |
Q11580252 |
_START_ARTICLE_
白砂村
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
現代日本を舞台とし、ホラー、アクション、ギャグ、ミステリーと様々な要素を取り入れた作品であり、『ウルトラジャンプ』(集英社)にて連載中の同作者の作品、『NEEDLESS』とはまた一風違った作品となっている。_NEWLINE_元々は作者の同人活動の作品だったものを商業用に書き起こしたものである。
_START_SECTION_
あらすじ
_START_PARAGRAPH_
2001年夏。巨魅葬りとして怨霊を退治する大神の元に、白砂村という村から小包が届く。その中から出てきたものは、なんと人間の目玉。大神はこれに事件を予感し、探偵として白砂村へ赴くことを決意する。しかしやっとの思いでたどり着いた白砂村は、外部の人間を極端に嫌う村だった。_NEWLINE_追い出されそうになる大神だが、村人の一人、弥都波の協力により、白砂村に入ることができる。果たしてこの村で大神を待ち受ける事件とは……。 | 2902067593053158464 |
Q11580343 |
_START_ARTICLE_
白蓮紅蓮
_START_SECTION_
略歴・概要
_START_PARAGRAPH_
小説『白蓮紅蓮』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1921年(大正10年)に掲載された。翌1922年(大正11年)、大阪毎日新聞社から『白蓮紅蓮』上下全2冊が刊行されている。_NEWLINE_菊池の小説は、『己が罪』(1899年 - 1900年)、『乳姉妹』(1903年)、『月魄』(1908年)、『百合子』(1913年)、『毒草』(1916年)と発表されるたびにベストセラーになり、「家庭小説」のジャンルを確立したと言われ、初期の日本映画において多く映画化された。_NEWLINE_本作に関しても、新聞での連載の翌年、単行本が刊行された同年に、松竹蒲田撮影所、帝国キネマ演芸がそれぞれ映画化し、松竹蒲田版が4月11日、帝キネ版は正確な日付は不明だが同年中にそれぞれ公開された。_NEWLINE_映画『白蓮紅蓮』は、いずれのヴァージョンも、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。_NEWLINE_小説『白蓮紅蓮』は、2009年(平成21年)11月現在、1924年(大正13年)版の全集の復刻である、1997年(平成9年)版以外は、すべて絶版である。青空文庫にも収録されておらず、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にも収録されていない。 ⇒ #ビブリオグラフィ | 17727682812750542013 |
Q11581609 |
_START_ARTICLE_
目野哲也
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
1948年、福岡県三橋町(現・柳川市)に飲食業を営む一家の次男として生まれる。のちに養子に出て藤岡姓となる兄・範士は太平洋戦争中に戦死した母の先夫の子であり、哲也は異父弟に当たる。中学卒業後に京都競馬場・久保道雄厩舎で騎手候補生となった範士にならい、哲也も中学3年生のときに中央競馬の騎手養成長期課程を受験。合格後、長期課程第14期生として東京都世田谷区の馬事公苑に入所した。同期生には小島太、田島良保、安田富男、池上昌弘、平井雄二らがいる。騎手課程修了後は、範士の紹介で京都競馬場・鈴木和雄厩舎の所属騎手となった。
_START_SECTION_
騎手時代
_START_PARAGRAPH_
1966年3月6日、第2回中京競馬6日目第7競走でデビュー。ツバサリユーに騎乗して1着となり、初騎乗初勝利を挙げた。初年度は10勝を挙げ、以後徐々に勝利数を増やしていった。1968年に師匠の鈴木和雄が急逝したため、当時調教師に転身していた兄弟子・内藤繁春(鈴木の義弟)の厩舎へ移籍した。_NEWLINE_1970年11月、内藤厩舎所属のクニノハナで京都牝馬特別を制し、重賞初勝利を挙げる。これは内藤にとっても調教師として初めての重賞勝利であった。同馬とのコンビでは、この次に出走した第1回ビクトリアカップ(エリザベス女王杯の前身競走)にも優勝した。当年自己最高の44勝を挙げ、全国8位という成績を残した。_NEWLINE_しかし翌年以降は徐々に成績が落ち始め、成績は年間15勝前後、重賞についても数年に幾度か散発的に勝つのみとなり、また所属厩舎も頻繁に替わった。1987年、かねて受験していた調教師免許試験に通算9回目で合格し、騎手を引退した。通算3642戦322勝、うち重賞6勝。八大競走では、騎手を引退した内藤の代役として臨んだ1968年天皇賞(春)のタイヨウ、また1971年天皇賞(春)のオオクラによる二度の2着があるが、勝利には至らなかった。前者のときはヒカルタカイに大差負けであったが、後者のときは勝ったメジロムサシ(横山富雄騎乗)とは僅差であり、最後の一押しが足りなかった悔しい思い出として挙げている。
_START_SECTION_
調教師時代
_START_PARAGRAPH_
免許取得翌年の1988年、滋賀県栗東トレーニングセンターに自身の厩舎を開業した。初出走は10月と遅く、同23日にリードレデオンで初勝利を挙げた。時期の問題もあり当年は3勝という成績であったが、翌1989年6月には管理馬ホリノライデンが阪急杯を制し、年末までに重賞もう1勝を加えて15勝とした。以後徐々に成績を挙げて中堅として定着、1995年には重賞未勝利ながら年間で37勝を挙げ、勝利度数で全国5位(関西4位)を記録した。_NEWLINE_1997年に中央競馬と地方競馬の交流を促進するダートグレード競走が整備されて以降は、管理馬を積極的に地方の交流重賞に出走させており、その黎明期からストーンステッパーが交流路線で活躍、1999年にはニホンピロジュピタが岩手のマイルチャンピオンシップ南部杯を制し、調教師としてGI競走初勝利を挙げた。以後もダートで重賞5勝を挙げたニホンピロサートなどの活躍馬を管理している。_NEWLINE_2018年2月28日付けで定年の為、調教師を引退することになった。 | 2587442055835282873 |
Q749753 |
_START_ARTICLE_
直角位相振幅変調
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
ほかの変調方式同様、QAM変調も、データ信号に応じて搬送波信号または搬送波(通常、シヌソイド)の何らかの局面を変更する事によって、データを伝達する。 QAM変調の場合、データ信号を表すために、直角位相関係にある2つの搬送波の振幅が変わる。_NEWLINE_QAM変調は、振幅偏移変調(ASK)と位相偏移変調(PSK)の組み合わせである振幅位相偏移変調(APSK)の一つである。
_START_SECTION_
量子化されたQAM
_START_PARAGRAPH_
多くのデジタル変調方式と同様に、信号空間ダイヤグラム(コンスタレーション)は役に立つ。QAM変調の場合、通常信号点は等しい垂直と水平の間隔で正方形の格子に配置される、しかしその他の構成も可能である(例えば Cross-QAM)。_NEWLINE_デジタル電気通信において、データは通常バイナリであるので、格子の点の数は通常2の累乗である(2,4,8,16...)。QAM変調は通常四角形である(但し、後述の128QAMはnon-square QAM、すなわち正方形ではない)。最も一般的な形は、16QAM、64QAM、128QAMそして256QAMである。_NEWLINE_高次モードに移行することで、1シンボルあたりのビットを多く伝送することができる。しかしながら、信号点の平均電力が同じの場合(公平に比較するため)、信号点はより接近することになり、雑音およびその他の妨害により弱くなり、結果として符号誤り率が高くなる。そのため信号点の平均電力が同じであれば、高次QAMは低次QAMに比べて低い信頼性で多くのデータを伝送することができる。別の言い方をすると、高次のQAMは信号点が多く確保でき伝送速度向上に資するものの、信号点距離は短くなる。これは干渉が生じやすくなり符号誤り率が高まることになる。_NEWLINE_8PSKが提供するより、16PSK以上の高いデータ信号速度が必要なときには、QAMは信号点をより均一に割り当てるためにI-Q平面上で近傍の点との距離をより確保できるので、QAMに移行するのが一般的である。_NEWLINE_複雑にしている要因は、信号点が全て同じ振幅というわけではなくなるということである。これにより復調器は位相のみならず、位相と振幅を正しく検出しなければならなくなる。_NEWLINE_64QAMと256QAMが、デジタルケーブルテレビやケーブルモデムアプリケーションでしばしば使われる。米国では、ANSI/SCTE 07 2000においてSCTEによって標準化され、64QAMと256QAMがデジタルケーブルの指定された変調方式である。_NEWLINE_移動体通信において、LTE-Advancedでは256QAMが商用化されている。次世代の5Gでは、下り方向(ダウンリンク)で1024QAMの実装が検討されている。_NEWLINE_英国では、16QAMと64QAMが、地上デジタルテレビジョン放送に使われている。(Freeview 及び Top Up TV)。_NEWLINE_更に情報の高度化に対応するため、4K 8Kテレビ放送において、1024QAMでの伝送がNHK放送技術研究所などで研究されている。
_START_SECTION_
受信機
_START_PARAGRAPH_
受信機は、単純に送信機と逆のプロセスを行う。理想的な構造は、下記の図に示しており、は受信機のフィルタの周波数特性である:_NEWLINE_余弦波または正弦波を乗法し、低域通過フィルタを通すことによって、同相成分と直角位相成分を抽出する構成が可能となる。その後ろにASK復調器があり、そして2つの信号が合成される。_NEWLINE_実際には、送信機と受信機の間に未知の位相遅れがあり、受信機のローカルオシレータ(すなわち上数式の正弦および余弦関数)による同期によって補償されなければならない。_NEWLINE_モバイル分野では同様に、送信機と受信機の相対的な速さと比例したドップラー・シフトの存在の可能性があるため、オフセットが相対度数でしばしばある。_NEWLINE_伝送路によって変形させられる位相と周波数の変形は、位相の参照を必要とする正弦波と余弦波を構成する要素で調整することによって、きちんと補償されなければならず、位相同期回路(PLL)を使って典型的に達成される。 | 14899844589998428972 |
Q11582346 |
_START_ARTICLE_
相良三十三観音霊場
_START_PARAGRAPH_
相良三十三観音霊場(さがらさんじゅうさんかんのんれいじょう)は、熊本県人吉市及び球磨郡内にある33ヶ所の観音霊場である。18世紀の終わり頃、観音菩薩の三十三の悲願にちなんで選定され、巡礼の地とされるようになった。但し、22番と24番の観音像が重複する為、正確には35ヶ所の札所が存在する。_NEWLINE_観音像の半分以上は通常は見る事が叶わず、春と秋の彼岸時期など特別な日にのみ一斉に開帳される。廻る際は順番通り廻っても、順不同でも構わない。_NEWLINE_以下に観音像名、その読み、観音像の種類、所在地、常時開帳か限定開帳かを記す。 | 12098614539555455391 |
Q310486 |
_START_ARTICLE_
相関関係と因果関係
_START_PARAGRAPH_
相関関係と因果関係(そうかんかんけいといんがかんけい)では、相関関係と因果関係の関わりについて解説する。_NEWLINE_相関関係があるだけでは因果関係があるとは断定できず、因果関係の前提に過ぎない。「相関関係は因果関係を含意しない (Correlation does not imply causation)」は、科学や統計学で使われる語句で、2つの変数の相関が自動的に一方がもう一方の原因を意味するというわけではないことを強調したものである(もちろん、そのような関係がある場合を完全に否定するものではない)。全く逆の言葉である「相関関係は因果関係を証明する (correlation proves causation)」は誤謬であり、同時に発生した2つの事象に因果関係を主張するものである。このような誤謬は虚偽の原因の誤謬(英: false cause)と呼ばれる(ラテン語では "cum hoc ergo propter hoc"、直訳すると「それとともに、そしてそれ故に」)。前後即因果の誤謬は、2つの事象に順序関係があることが前提であり、「虚偽の原因の誤謬」の一種である。
_START_SECTION_
因果関係の判定
_START_PARAGRAPH_
デイヴィッド・ヒュームは、因果関係は経験に基づくとし、同様に経験は未来が過去にならうという仮定に基づくとし、その仮定も経験に基づくとした。これは一種の循環論法である。彼は「因果関係は具体的推論に基づかない」と結論付け、観測できるのは相関関係だけだとした。_NEWLINE_直観的に、因果関係には相関関係だけでなく反事実的依存関係 (counterfactual dependence) も必要と思われる。例えば、ある学生のテストの成績が悪く、その原因が勉強しなかったためだとしよう。これを証明するには、反事実 (counterfactual) として、同じ学生が同じ環境で同じテストを受けるが、勉強はしっかりしてきた場合を想定する。時間を巻戻すことができれば、これ(その学生に勉強させること)を実際に試すことができ、元のバージョンとやり直したバージョンを比較することで因果関係を観測できる。実際には時間を巻戻してやり直すことはできないので、因果関係は正確に知ることはできず、推測することしかできない。これを「因果的推論の根本問題 (Fundamental Problem of Causal Inference)」と呼ぶ。_NEWLINE_科学的実験と統計的手法は、世界の反事実的状態を可能な限り近似することを主な目標の1つとしている。例えば、一貫してテストで同じ成績をとる一卵性双生児を対象として実験を行うとする。一方を6時間勉強させ、もう一方は遊園地で遊ばせる。その後のテストで成績が大きく異なれば、勉強(あるいは遊園地に行くこと)がテストの成績に因果的効果をもたらす強い証拠になる。このような実験を経れば、勉強とテストの成績の間には因果関係があるとほぼ確実に言える。_NEWLINE_統計学的手法は、個人の等価性の代わりに集団の等価性を用いる。そのために、2つ以上の集団から無作為に標本を抽出する。完全なシステムではないが、被験者を無作為に抽出して、実際の治療を行う集団と偽薬を与える集団に置き、それら集団がなるべくあらゆる面で等質となるようにする。これによって、その治療法と偽薬の効果に大きな違いが現れれば、その治療法はその疾病を治療する因果的効果があると結論付けることができる。実験結果の有意性を定量化したものを統計用語でP値と呼ぶ。 | 11868826064440714398 |
Q11582689 |
_START_ARTICLE_
県犬養氏
_START_SECTION_
概要
_START_PARAGRAPH_
神魂命の後裔と称する神別氏族で、姓は連であったが、672年(白鳳元年)の壬申の乱に一族の大半が大海人皇子の舎人として功を立てため、684年(白鳳13年)「八色の姓」の制定にともなって宿禰姓を改賜された。_NEWLINE_一族の三千代は天武、持統、文武、元明、元正の五朝に出仕し、元明天皇から橘氏を賜った。彼女は夫である藤原不比等を助けるかたわら同族の繁栄をはかり、県犬養広刀自を聖武天皇の夫人とした。その子橘諸兄の時代には石次がこの氏ではただひとりの参議に就任したが、諸兄が権力を失うと県犬養氏もやがて衰退していった。 | 6227547183635822465 |
Q3275386 |
_START_ARTICLE_
真砂土
_START_PARAGRAPH_
真砂土(まさつち・まさど、英語: Decomposed granite soil)とは、花崗岩が風化してできた砂状の土壌である。_NEWLINE_代表的な客土として用いられる反面、特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法(特土法)で指定されている特殊土壌であり、普通土とは異なる性質を持つ。
_START_SECTION_
名称
_START_PARAGRAPH_
真砂土は“きれいな砂”から名が付いたと考えられているが、いつ頃どの地域の誰が名付けたかは不明。古くから文学的表現に用いられていたという。_NEWLINE_地盤工学会では「まさ土」表記で定義されているように「まさ」「マサ」のかな表記も用いられている。_NEWLINE_2018年平成30年7月豪雨での大手新聞各社における表記は、まさ土(読売・朝日)、真砂土(毎日)、まさ土あるいは真砂土(産経)になる。2014年現在NHKでは土砂災害のニュース(土木系)で「まさど」、趣味の園芸(園芸系)で「まさつち」と呼称しているように、業界によって正式な読み方は異なる。_NEWLINE_瀬戸市周辺の愛知県から岐阜県にかけての地域では「砂婆(さば)土」と言われる。静岡県富士山周辺に富士マサと呼ばれる土壌があるが、これは火山噴出物であるため別ものになる。
_START_SECTION_
分布
_START_PARAGRAPH_
花崗岩は大陸地殻の全域にわたって世界中広く分布しているが、その風化残留土であるまさ土の分布は一致しない。これはまさ土の生成に際し、岩質・地形・地質構造・地史・気候と様々な条件に左右されるためである。例えば花崗岩の風化が進んでも侵食が激しければ、あるいは降水量が多ければ、まさ土としてその場に残らない。_NEWLINE_日本において特土法で指定されているまさ土地帯は、中国地方の大部分、九州・四国・近畿の一部になる。花崗岩は全国いたるところに存在し、まさ土は東日本にも少なからず存在するが特に分布するのは西日本になる。
_START_SECTION_
災害
_START_PARAGRAPH_
まさ土が特殊土壌として指定されている理由の一つとして、斜面での安定性が他の土質に比べて劣ることが挙げられる。これは外気にさらされる地表側が温度変化や雨水によって風化が進行していくと崩れやすくなるためである。_NEWLINE_高度経済成長以降都市圏の拡大により土地需要が高まり、全国的にその周辺の丘陵・山岳で土地造成が始まったことから、特に関西以西では生活を営む地の直ぐ側にまさ土の急傾斜斜面がある状況になった。これに大雨が降ると人的被害に及ぶ土砂災害が発生している。_NEWLINE_また土地需要により周辺水域での埋め立ても行われ、関西以西ではその埋め立て材として対液状化現象に強い土壌であると考えられているまさ土が用いられている。ただし大地震では液状化現象が発生した事例がある。 | 3374040328197756976 |
Q2465221 |
_START_ARTICLE_
着氷性の霧
_START_SECTION_
メカニズムと成因
_START_PARAGRAPH_
空気が過飽和(湿度100%以上)になると、その空気に含まれる水滴は凝結して雲(霧)になり始め、過飽和度(100%を超えた分の湿度)が高くなるにつれてその中の水滴の密度が高くなってくる。_NEWLINE_日常生活の中で水が0℃を下回るとすぐ凍結するのとは違い、霧ができた状態で何らかの原因によってこの空気が冷やされて0℃以下(氷点下)になると、霧の水滴は過冷却の状態になる。これは水滴が非常に微小な球形をしているためである。_NEWLINE_水が凍結するためには、結晶化が安定して進む必要がある。そのためには、水分子が微小スケールで集まるための、核となる物質や衝撃などが必要になる。地球上の多くの大気中には、この核となる物質(凍結核)が少ない。また、衝撃の要因も少ない。_NEWLINE_よって、気温0℃から約-42℃の範囲では、着氷性の霧が存在する。少ないといっても凍結核は存在しているため、-15℃くらいで、凍結核によって凍結する水滴が現れ始める。-32℃くらいで、凍結核無しでも自ら凍結する水滴が現れ始める。-42℃はほぼ全ての水滴が凍結する温度である。_NEWLINE_霧の中で数滴が凍結すると、周りの水滴が蒸発・昇華して成長するライミング(riming)が起こり、凍結が進んでいく。気温が低くなるほど凍結する水滴が増え、ライミングの速度も増す。ただ、凍結が始まる15℃以下の温度でも、短時間であれば着氷性の霧は存在する。
_START_SECTION_
着氷の形態
_START_PARAGRAPH_
過冷却の霧は、主に水滴の大きさ、場合によっては温度により、その付着形態が変わる。_NEWLINE_水滴が非常に小さい場合、樹氷(soft rime)となる。粒状の氷が柱状・針状・層状に積もる。霜にも似ており、やわらかく崩れやすい。白色不透明。_NEWLINE_水滴がやや小さい場合、粗氷(hard rime)となる。樹氷より大きな粒状の氷が層状に積もったもの。樹氷よりも頑丈だが、それでも手で崩せる程度である。白色で、近づいて見ると半透明・透明である。_NEWLINE_水滴が大きい場合、雨氷(clear ice)となる。粒同士が融合しており、表面が滑らかで非常に硬い。頑丈で、厚いと手で崩すことが難しい。無色透明。 | 16831478660556868647 |
Q11583942 |
_START_ARTICLE_
矢内博
_START_SECTION_
騎手時代
_START_PARAGRAPH_
凾館政一厩舎から騎手デビュー。1972年10月20日ヒサヤマヨシで初騎乗。同日イクセルプリンスで初勝利。_NEWLINE_1999年6月13日3回東京8日目第9競走菖蒲ステークス15番人気アスキットマジックで中央競馬初騎乗(15頭立て13着)_NEWLINE_調教師転身のため、2008年5月31日付けで騎手引退。_NEWLINE_地方通算成績は10023戦891勝・2着939回・3着1002回・勝率8.9%・連対率18.3%_NEWLINE_中央競馬通算2戦0勝
_START_SECTION_
調教師時代
_START_PARAGRAPH_
2008年5月21日調教師試験に合格し、同年6月1日付けで調教師免許取得。技術調教師として矢野義幸厩舎で修行し、2008年12月15日付けで船橋競馬場に厩舎開業。当初割当は10馬房。_NEWLINE_2008年12月31日大井競馬第5競走C3一組二組条件戦に本橋孝太騎乗ライトムーンが出走し、管理馬初出走(14頭立て3番人気2着)。_NEWLINE_2009年1月8日船橋競馬第9競走平成盃(B3二組)を町田直希騎乗2番人気コスモデガジェで勝利し、開業4戦目で初勝利。_NEWLINE_地方通算成績は23戦1勝・2着4回・3着3回・勝率4.3%・連対率21.7%(2009年6月26日現在) | 1331530081449758181 |
Q11584261 |
_START_ARTICLE_
矢賀
_START_PARAGRAPH_
矢賀(やが)は、広島県広島市東区に位置する地区であり、この項目では同区内において「矢賀」を町名に冠する地域について扱う。
_START_SECTION_
歴史
_START_PARAGRAPH_
広島市合併前の矢賀村の歴史については矢賀村 歴史の項を参照。 | 11635617309670190804 |
Q11584286 |
_START_ARTICLE_
矢部定利
_START_PARAGRAPH_
矢部 定利(やべ さだとし、生年不詳-延徳元年(1489年)11月)は因幡国の国人で同国若桜鬼ヶ城主。通称・八郎、官職は左衛門尉、山城守。子は宗春。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
若桜鬼ヶ城を本拠地とする矢部氏は南因幡では因幡毛利氏などと並んで有数の国人領主であり、毛利氏と同じく幕府奉公衆であった。定利も同様に奉公衆の身分であり、同じく奉公衆であった毛利次郎と親密な間柄であった。_NEWLINE_文明11年(1479年)春、毛利次郎が守護・山名氏に対して「毛利次郎の乱」を起こすと定利は毛利方に与して戦った。この時の乱は翌年の春頃までには鎮圧されたが、次郎・定利共に奉公衆であったため厳罰には処せられず、わずか1年半後の文明13年(1481年)8月27日には伊勢貞宗に息子の八郎と共に対面、貞宗より「宗」の字を与えられて「宗定」と改名した。この他、文明15年(1483年)以降、毛利次郎共に矢部八郎が犬追物に参加していることが分かっている。_NEWLINE_長享元年(1487年)12月30日、毛利次郎が正式に赦免されると次郎は再度反乱を起こした。定利自身の赦免された時期は不明だが次郎と同じ時期に赦されたと思われる。この時、定利は前回と同じく次郎方に与して戦った。しかし、延徳元年(1489年)9月5日の徳丸河原合戦で敗れると同年11月には私部城で次郎が自刃、同じく自刃しようとした山名政実を諫めて政実と共に若桜の矢部舘へ逃れるも程なくして山名豊時の軍勢に攻め込まれ政実、矢部氏一族らと共に自刃した。 | 8332003876818388191 |
Q11584932 |
_START_ARTICLE_
石井希和
_START_SECTION_
来歴
_START_PARAGRAPH_
私立森村学園、フェリス女学院大学卒業。2000年にテレビ朝日に入社。_NEWLINE_三人姉妹の三女である。希和という名前は、希望の希と平和の和からとったものである。本人曰く、親が字画にこだわっており、男の子が生まれてきてもこの漢字(読み方はのりかず)にしたと言う。_NEWLINE_学生時代、テレビ東京の『出没!アド街ック天国』に出演しフェリス女学院大学の施設を紹介したことがある。番組で入浴シーンを披露した事もある。_NEWLINE_2007年7月7日、プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルス球団社長(当時)の島田亨と婚姻届を提出し、同年10月13日に東京都内のホテルで結婚式を挙げた。石井は初婚、島田は再婚。同年11月7日、妊娠がわかったことが報道された。2008年に第1子(長女)を出産していたことが同年4月8日、分かった。育児休暇を終え、2009年4月15日から復帰。_NEWLINE_2012年、島田亨が8月1日付でシンガポールへ海外赴任するのに伴い、夫に同行するため同年6月いっぱいでテレビ朝日を退社しフリーアナウンサーへ転身。同年7月からホリプロ所属となった。_NEWLINE_帰国後の2015年10月より『TOKYO MX NEWS』の月 - 木曜日18時台キャスターに就任。_NEWLINE_2016年11月、島田と離婚が成立し、長女の親権は石井が持っている。_NEWLINE_2017年5月、再婚。_NEWLINE_2017年7月、ホリプロから独立。以降はフリーランスとして活動する。_NEWLINE_2018年7月、第2子(次女)を出産した。 | 16119610940972398897 |
Q56348691 |
_START_ARTICLE_
石井桂
_START_PARAGRAPH_
石井 桂(いしい けい、1898年8月21日 - 1983年12月3日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。建築家。工学博士。
_START_SECTION_
経歴
_START_PARAGRAPH_
埼玉県出身。1923年東京帝国大学工学部建築学科卒。警視庁に入り、建築課長となり、戦災復興院東京建築出張所長、東京都建築局長などを経て、1953年の第3回参議院議員通常選挙において東京地方区から自由党公認で立候補して当選、6年後の1959年の第5回参議院議員通常選挙で落選。その3年後の第6回参議院議員通常選挙で再選。6年後の1968年の第8回参議院議員通常選挙で落選した。この間に第2次岸内閣科学技術政務次官、参議院法務委員長などを歴任した。_NEWLINE_翌1969年の第32回衆議院議員総選挙において東京8区から自民党公認で立候補して当選した。次の1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。_NEWLINE_この他日本大学、東京都立大学、早稲田大学各講師、中央工学校名誉校長、日本建築学会、日本建築士連合会などの各会長も務めた。 | 10689016237200415886 |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.