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アニメ (日本のアニメーション作品)
携帯電話の機能が拡大し、インターネットが簡単に利用できるようになってからGREEやMobageのような基本料金無料の携帯電話向けゲームサイトがヒットするようになった。様々なアニメ作品も携帯電話ゲームとなった。アイドルマスター シンデレラガールズでは携帯電話ゲームに登場するキャラクターを元にアニメ化し、大きな話題を収めた。 またスマートフォンが普及すると今までのゲームサイトに代わってアプリケーションでのゲームがヒットするようになった。特にラブライブ! スクールアイドルフェスティバルはアニメ放映中の2カ月間で登録者数が100万人も増え、異例の登録者数増加となった。2015年3月現在で登録者数は国内700万人、全世界で1000万人を突破している。 このようにアニメ作品を題材とした携帯電話ゲームがヒットすると知名度も上がることから、深夜アニメを中心にゲームアプリ開発が激化しつつある。 作品に関してはゲームソフトのアニメ化作品一覧を参照。 ゲーム・鑑賞用のコレクションカード。1990年代末-2000年代初頭に発生した社会現象のトレーディングカードブームで普及し「トレカ」と略されることも多い。 アニメ・漫画などの関連商品として古くから存在し、めんこと呼ばれる時代から存在する。 ゲーム専用カードを用いたカードゲームはトレーディングカードゲーム (略称、TCG) と呼ばれる。通常は対戦形式の2人プレイのものが多い。 子供向けアニメのキャラクターが描かれた文房具や衣類、駄菓子などの食品類など、スーパーやショッピングセンター、コンビニなどで気軽に買える商品がほとんどであるが、一部のアニメショップやイベント会場などでは生産量が少ないグッズも販売され、希少価値の高い商品は中古市場やネットオークションで高値で取引されている。 1970年代後期
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アニメ (日本のアニメーション作品)
子供向けアニメのキャラクターが描かれた文房具や衣類、駄菓子などの食品類など、スーパーやショッピングセンター、コンビニなどで気軽に買える商品がほとんどであるが、一部のアニメショップやイベント会場などでは生産量が少ないグッズも販売され、希少価値の高い商品は中古市場やネットオークションで高値で取引されている。 1970年代後期 当初、アニメーションは子どものものであり、アニメを好んで見る成人がいることは知られていなかった。1977年8月、映画版『宇宙戦艦ヤマト』公開日に徹夜で並ぶファンの特異な行動をきっかけに新聞等が話題として取り上げ、成人にアニメを好んで見る趣味者がいることが一般にも知られ始めた。多くは中高生・成人であった。『宇宙戦艦ヤマト』公開の翌年にアニメ雑誌が創刊され、雑誌の文通コーナーなどを通じて連絡が可能になると、多数のファンクラブが誕生した。現在でも上の世代では、アニメは子どものものと言う印象が残っているが時代が進むにつれてその印象は薄れつつある。 本来は子供(児童)を対象としたアニメ・漫画・特撮ヒーロー番組などに夢中になっている大人のファン。 法的には、著作物をたとえパロディとして改変したものであっても、権利者に許可を得ず、不特定多数に無償配布や販売するのは著作権法に反する行為である。 ただ、著作権侵害は親告罪で、違法行為を行っている者を告訴して訴訟にまで持ち込むまでには費用がかかり、勝訴しても賠償金の支払い能力の無い場合もあり、著作側が泣き寝入り、またはファンによる応援行為として黙認しているのが現状である。 ファンクラブの誕生にあわせて会報の発行や、またファンブックを自作するという趣味を持つ者の自費出版が始まり、アニメとの繋がりの深い漫画や、他の様々な文化を巻き込み成長する。が、コミックマーケット(コミケ)などの同人誌即売会や、専門書店等の委託販売で商品化が進んでいる(詳細は、同人誌#マンガ系同人誌を取り巻く問題を参照)。 同人誌で見られるイラストの代表的な手法として、輪郭や境界線をはっきり線で描き、色や影のグラデーションを単純化させ段階的に表現するアニメ絵(萌え絵)がある。
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アニメ (日本のアニメーション作品)
同人誌で見られるイラストの代表的な手法として、輪郭や境界線をはっきり線で描き、色や影のグラデーションを単純化させ段階的に表現するアニメ絵(萌え絵)がある。 「仮装」とも呼ばれる。服や化粧により空想上のキャラクターなどに扮する行為。コスチューム・プレイを語源とする和製英語で、行う人をコスプレイヤー (Cosplayer) 、略してレイヤーと呼ぶ。単独イベントも開催され、自主制作のコスプレ写真集がコミックマーケットや、同人誌専門店で販売されている。しかし、近年は著作権の侵害としてコスプレ衣装販売業者が警察に摘発される例もある。 「萌車」とも呼ばれる。萌えアニメのキャラクターや関連する製作会社・ブランド名のロゴのステッカーを貼り付けや塗装を行ったファンの自動車。バイクは「痛単車(いたんしゃ)」、自転車は「痛チャリ(いたチャリ)」、電車の場合は痛電と呼ばれる。2008年、青島文化教材社がプラモデルの発売と商標登録に出願、同年6月27日に登録された。痛車オーナーの増加に伴いコミュニティも形成された。 近年では企業の宣伝目的でアニメ絵調のキャラクターが描かれたイラストの電車やバスが運行されることも多くなったが、それも痛車の部類に入ることが多い。 アニメ作品の舞台となった地域では、アニメファンをターゲットとした観光客誘致のために電車やバスにアニメのラッピングを施す会社も出ている。車内にはアニメのイラストやスタッフのサイン、声優による車内アナウンスを実施している所もある。 詳細な現地ロケ(ロケーション・ハンティング)による、映像演出と世界観を設定する作品の登場と共に始まった小説、映画、TVドラマなどの舞台を巡るロケ地巡り、舞台探訪などと同様の行為であるが、異なる点としてキャラクターのコスプレやアニメ作品のキャラクターが描かれた痛車で現地を訪れるファンがいることが上げられる。 ロケ地(聖地)を特定したファンがその場所を訪問(巡礼)し、現地の写真と劇中の場面(コスプレの場合、劇中の登場人物と同じポーズ)と比較する形でインターネットのファンサイトなどで公開、また同人誌形式のガイドブックが制作され同人誌即売会で頒布されるなどの形で広まった。
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アニメ (日本のアニメーション作品)
ロケ地(聖地)を特定したファンがその場所を訪問(巡礼)し、現地の写真と劇中の場面(コスプレの場合、劇中の登場人物と同じポーズ)と比較する形でインターネットのファンサイトなどで公開、また同人誌形式のガイドブックが制作され同人誌即売会で頒布されるなどの形で広まった。 実写の映画やTVドラマなどと異なり、映像作品として使用された認識のない地元住民の一般住宅や学校などが含まれることも多く、日常生活に不安や迷惑を発生させる可能性を否定出来ないため、作品の発売元が聖地巡礼の自粛のお願いをした例や、口蹄疫防止のため舞台となった牧場などに訪れることを自粛することをお願いをした例もある。 一方で『君の名は。』の舞台となった飛騨市では、作品を見た観光客が飛騨市へ殺到し、ニュースなどで大きく取り上げられたことから2016年の新語・流行語大賞トップ10に聖地巡礼が選出されるなど注目を浴びた。 作品に付随し広告費が不要で、観光需要が上がるため観光振興の一助として期待も大きい。そのためアニメ、漫画のロケ地の誘致活動に力をいれる自治体や萌えキャラを製作する地域もある。しかし、ほとんどのアニメ作品のブームは一過性であり、しかも作品が話題になるかどうかも分からないことから自治体が見込んだアニメファンの観光客数を大きく下回った所もある。 詳細は巡礼 (通俗)を参照。
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紫堂恭子
紫堂 恭子(しとう きょうこ、本名:牛島喜代子、1961年6月9日 - )は、日本の漫画家。漫画家の牛島慶子は実の妹。 佐賀県出身。福岡市在住。長崎大学教育学部卒業後、小・中学校の非常勤教師となるが1年半で退職。23歳でまんが家になることを決意し、アルバイトをしながら投稿を続け、1988年、26歳のときに『辺境警備』(小学館『プチフラワー』)でデビュー。 1989年からは『グラン・ローヴァ物語』(潮出版社『コミックトム』)の連載を開始。大学2年生のときに読んだトールキンの『指輪物語』に影響を受けたという、壮大なファンタジー作品として静かな人気を得て、1994年に星雲賞コミック部門賞を受賞。 1990年代後半は『月刊ASUKAファンタジーDX』(角川書店)で活動、2000年代に入ると『MiChao!』『ホラー&ファンタジー倶楽部』といったウェブコミックにも活動の場を広げた。
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建築学
建築学(けんちくがく)は、建築について研究する学問である。 建築学は、建築の構造や材料等について研究する工学的な側面、制度や法規、経済活動について着目し研究アプローチする社会科学的な側面、デザインや歴史について研究する芸術的・文化的な側面を持つ。 かつての建築家があらゆる課題を各自解決する必要があったように、建築学は総合的学問であったが、建築と一口に言ってもその応用範囲は、広大かつ多岐にわたる。構造的側面、芸術的側面はもとより、都市計画などにおいては、人間社会におけるライフスタイル、ひいては、精神的分野にまで踏み込んだ形で計画され実施される。すなわち、構造分野においては、数理的解釈を必要とする理科学的知識を必要とし、芸術分野においては、精神論的解釈が求められる。またその両者を高い次元において両立させるための総合力が不可欠である。 そのためいわゆる建築学といわれる分野の知識以外にも、機械工学、電子工学、土木工学、精神論、社会学、法学、経済学、語学、環境学、エコロジー分野など、多岐にわたる知識を広く浅く知る必要がある、特殊な学問である。その学問的性質上、現代では完全な分業化が進んでおり、それぞれの分野に特化している。 日本建築学会では、論文集を構造系、計画系、環境系に分けて発行している。同様の区分は、東京大学大学院や、京都大学でも採用されており、東京大学大学院では、建築構造、材料工学、建築構法、建築生産等を構造系、建築計画、建築デザイン、建築史等を計画系、環境工学、建築設備等を環境系としている。 日本以外の大学では建築学科は工学部に属さないことが大半なので、工学部系の建築関連学部学科で取り扱うことがほとんどであるが、日本の大学では工学部に属する建築学科で学習、研究がなされている。 おもに、鉄筋コンクリート構造、鉄骨構造、木構造などの構造、および構造力学や建築物の物理的な地震災害などについてを研究する。 倒壊、消耗、破損などを防ぐべく、建築に用いられる材質について研究する。また、日本では古来より、木造建築物による火災被害が深刻視され木造建築物が密集した地域が数多く存在していた事により、火災が一度発生すると被害が拡大し、経済的に多大な損失を与えていたため、戦後は主に不燃性、難燃性素材開発を目的とした研究が重要視されてきた。
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建築学
倒壊、消耗、破損などを防ぐべく、建築に用いられる材質について研究する。また、日本では古来より、木造建築物による火災被害が深刻視され木造建築物が密集した地域が数多く存在していた事により、火災が一度発生すると被害が拡大し、経済的に多大な損失を与えていたため、戦後は主に不燃性、難燃性素材開発を目的とした研究が重要視されてきた。 近年に至り、不燃性、難燃性素材の開発がほぼ完成形を見せる一方、現在では主に地震に対する耐震、免震素材への興味が高まりつつある。 建築計画学は、建築に求められる機能を探求し、人間の行動や心理に適した建物を計画する。 デザインについて研究する造形論をはじめ、建築のあり方や理想像を考究する建築論(建築哲学)、建築家研究を行う作家論、設計手法の理論的研究を行う設計論、図法や図面の描き方を研究する図学などの専門領域に分かれる。なお、広義では、実践的技術としての建築設計を含む。 まちづくり、グランドデザイン、都市建築法規、動線計画、農村計画、交通工学、衛生工学などを総合的に取りまとめる分野。建築設備学同様、都市計画学という学問領域はなく、やはり都市計画の実学的側面を指す俗称あるいは大学でのカリキュラムのジャンルを示すに過ぎないが、他分野にまたがって都市計画学者が存在する。日本では都市計画学者が集い日本都市計画学会が組織されている。 古代以来の各時代や社会と建築の関係、工法の発達などを研究する。造形も学ぶため建築意匠とも関連する分野となる。 建築に関わる採光、換気、排煙、暖房と冷房、空気調和工学のほか建物の断熱性能、音響性能などさまざまな事象を数理的に探究する領域である。音響に関する領域は建築音響工学と呼ばれる。 建築衛生や建築環境工学、建築音響工学の実学的側面であり、建築物に用いる設備、すなわち機械設備と電気設備を研究する。 以下のほか、建築教育研究、住宅学住居学、文化財修復などの分野や、防災(耐震補強・気象予測・震災火災等予防・避難経路の選定、研究)、海洋学、農村計画分野、近年では環境工学(計画原論)や情報システム工学の面からも研究が行われている。
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建築学
建築衛生や建築環境工学、建築音響工学の実学的側面であり、建築物に用いる設備、すなわち機械設備と電気設備を研究する。 以下のほか、建築教育研究、住宅学住居学、文化財修復などの分野や、防災(耐震補強・気象予測・震災火災等予防・避難経路の選定、研究)、海洋学、農村計画分野、近年では環境工学(計画原論)や情報システム工学の面からも研究が行われている。 建築分野にもデジタル・ファブリケーションを利活用するなど情報技術の導入は古くから存在し、建築学の各分野を横断して実戦と学術研究開発が進められている。2021年には建築という概念を情報学的視点から既存の建築学の体系を再編、再構成することを共通の出発点にした学際として、建築情報学会が発足している。 建築経済学、建築経済(building economy)とは、建築工業の内部にみられる生産関係、およびこれを基盤にして成り立つ流通上の社会的な諸関係をさし示す概念である。このような経済を研究するもので建築経済を研究対象とし、建築経済現象にみられる一般性共通性から、そこでの諸概念を確定し、これらの現象相互間の規則性を明らかにして諸法則を求め、それらの諸概念・諸法則を総合して理論体系を打ち立て、そこから建築経済の機構・運動を明らかにするものである。このようにして建築経済学は、建築学の基礎学科の一つに属している。なお、建築経済研究に際し基本的に重要な事項は、建築労働(建築工業部門に新たな価値をもたらす)、建築生産機構(建築工業部門、諸企業への価値配分のメカニズム)、建築生産手段(建設資材価格の動向の影響)などである.
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建築学
建築生産"という用語が初めて登場したのは当時京都大学に在籍中の西山夘三らによる「DEZAM 7号」(1932年(昭和7年))掲載の「建築と建築生産」で、ここでは建築の工業化・合理化をテーマとして生産の後進性が指摘されている。戦後からある時期までの建築生産研究は、日本建築学会の建築経済委員会に属する研究者達によって支えられ方法論的・実証的研究に向けての研究活動を開始した。同研究会の設立の目的は (1) 建築生産に関する方法論的研究、(2) 建築生産の性格(生産関係)に関する研究、(3) 建築生産の生産力に関する研究、(4) 建築生産における施工能力、施工技術に関する経済的分析の4点であった。しかし「当時においては、建築生産という考え方は未だ一般的ではなく、研究活動形式においても模索することが多かったと思われる」と「建築学会関東支部30年史」は述べている。その後1965年(昭和40年)に徳永勇雄により「建築経済と建築生産論の発展」が発表され、ここでは生産論が建設産業論として捉えられる。このような事情を経て、1966年(昭和41年)建築経済委員会に建築生産部会が創設され(主査:古川修のちに岩下秀男に交替)、2年後に部会討論の結果を取りまとめて「建築生産論の提起」(代表執筆:巽和夫)を発表、当面の研究課題の連関関係概念図および建築生産論の研究テーマが示された。そこでは「建築研究の中に建築生産論と呼ぶべき総合的研究の必要性を提起したつもりである」と結ばれている。1975年(昭和50年)に同部会がまとめた「日本の建築生産・研究の現状その2・建築生産文献解題」では「建築生産論が従来いわゆる施工だけを意味するのではなく、設計も材料・構造・設備・経済等々を含んで建築を作る行為全体を一貫的に捉えようとするもの」と述べられている。 建築の施工に関しての学科目として、建築施工学との名称で、大学で講義が開講されているほかに、大学によっては専門とする研究室も開設されている。工業高等学校建築科などでは高等学校学習指導要領 第3章 専門教育に関する各教科 第2節 工業 で、第2款 各科目 第31 建築施工と、定められる。
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建築学
建築の施工に関しての学科目として、建築施工学との名称で、大学で講義が開講されているほかに、大学によっては専門とする研究室も開設されている。工業高等学校建築科などでは高等学校学習指導要領 第3章 専門教育に関する各教科 第2節 工業 で、第2款 各科目 第31 建築施工と、定められる。 明治維新に近い幕末の1862年(文久2年)に蕃書調書の堀達之助が編纂した「英和対訳袖珍辞書」の中で"Architect"に「建築術ノ斈者」、"Architecture"に「建築斈」が当てられた(「斈」は「学」の異体字)。 一方、明治時代初め、工部省などでは"Architecture"を「造家」と訳しており、1877年(明治10年)に工部大学校が開校した際には「造家学科」が設けられた。 その後、伊東忠太が「『アーキテクチュ-ル』の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」という論文を著し、「造家学」では工学的意味合いが強いため、「建築学」と改めることを提唱し、造家学会、造家学科は建築学会、建築学科などと改められた。しかし、佐野利器らの出現によって、また関東大震災などの影響下で、工学的傾向自体は変わらなかった。
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幾何学
幾何学(きかがく、古代ギリシア語: γεωμετρία)は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシャにて独自に発達し、これらのおもな成果は紀元前300年ごろユークリッドによってユークリッド原論にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパでユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場した。 単に幾何学と言うと、ユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学をさすことが多く、一般にも馴染みが深いが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。 クリストファー・クラヴィウスの門下生のイエズス会士マテオ・リッチと中国明王朝の徐光啓は、1607年に、クラヴィウスによる注釈付きのユークリッドの『原論』(“Euclidis elementorum libri XV”)の前半6巻を『幾何原本』に翻訳した。 また1680年頃にブーヴェとジャン=フランソワ・ジェルビヨンはIgnace-Gaston Pardies(英語版)の”Elements de geometrie”を同様の名前の『幾何原本』に翻訳した。一般に「幾何学」という語は、マテオ・リッチによる geometria の中国語訳であるとされるが、本文中では「幾何」は「量」という意味で使われている。また以前は geometria の冒頭の geo- を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている。「幾何」という漢字表記そのものは「幾らであるか」といった程度の意味であり九章算術や孫子算経には多くこの表現が見られる。訳語としての「幾何」は元はアリストテレス哲学にでてくる10の範疇うちの一つ「量」の訳語であり、「幾何学」についてはmathemathicaの訳語であった。このことはジュリオ・アレーニの『西学凡』の中で明文化されて説明されている。この語がgeometryにのみ関連付けられる習慣が定着したのは19世紀半ば以降であると思われる。 以下では様々な幾何学の発展とその概要を、歴史にのっとって時系列順に述べることとする。
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幾何学
以下では様々な幾何学の発展とその概要を、歴史にのっとって時系列順に述べることとする。 幾何学(ジオメトリー)の語源は「土地測量」であり、起源は古代エジプトにまで遡ることができる。 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録では、エジプトでは毎年春になるとナイル川が氾濫し、エジプトの砂漠に農耕を可能にする河土を運んでくるが、去年の畑の境界線はすべて流れてしまう。そのため、印をつけた縄でまっ平らになった土地を元どおり区割りする「縄張り師」と呼ばれた測量専門家集団が現れ、土地測量術が発達した。現在、ピタゴラスの定理として知られている数学定理が、古代エジプトではすでに5000年前に経験則として知られ、縄張り師たちは3:4:5の比率で印をつけた縄を張って、畑の角の直角を取ったという。 幾何学が大きな進歩を遂げた最初は、他の数学の分野と同じように古代ギリシアにおいてであった。 人物としては、タレス、ピタゴラスなどが有名である。タレスは三角形の合同を間接測量に応用し、ピタゴラスらはこれらを証明により厳密に基礎づけた。彼らはそこで多くの定理を発見し、幅広くそして深く図形を研究したが、特に注記すべきなのは、彼らが証明という全く新しい手法を発見したことである。 とくにピタゴラスは後のギリシャ数学者達に影響を与え、ユークリッドもその一人であった。自明な少数の原理(公理など)から厳密に演繹を積み重ねて当たり前とは思えない事柄を示していくやり方は、ユークリッドの手により『原論』において完成され、後の数学の手本となった。ユークリッドの手により証明をもとに体系化されたギリシャ数学は、曖昧さが残るエジプトやバビロニアのものより圧倒的に優位であったといえる。 曖昧な経験の集積ではなく、それらを体系化された理論にまとめあげ少数の事実から全てを演繹するという手法は長らく精密科学の雛型とされ、後世ではニュートンの古典力学なども同様の手法で論じられている。このような手法は古代ギリシャにのみ誕生したが、それは何故かという問題は科学史の重大な問題である。 ユークリッド原論はB.C.300年ごろに出版され、全13巻からなり、幾何学以外にも量や数の理論なども記述があるが、これらも幾何学的に取り扱われた。また原論は幾何学のバイブルとしてその後2000年以上にも渡って愛読され続けた。
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幾何学
ユークリッド原論はB.C.300年ごろに出版され、全13巻からなり、幾何学以外にも量や数の理論なども記述があるが、これらも幾何学的に取り扱われた。また原論は幾何学のバイブルとしてその後2000年以上にも渡って愛読され続けた。 その後前三世紀ごろにアポロニウスによって円錐曲線論(コニカ)がまとめられ、天文学の発達により前一、二世紀ごろに三角法も誕生した。パップスは300年ごろに幾何学を中心とする古代ギリシャの数学の成果を「数学集成(Synagoge)」にまとめあげた。 とくにアポロニウスは初歩的な座標の概念をも導入し、二点からの距離の和・差・積・商が一定である曲線の集合を研究した。彼の円錐曲線の理論は、カッシーニの卵形線は17世紀に入ってから開拓されたものの他の分野のほぼ全てはアポロニウスの手によって研究された。 ヨーロッパでは長く、「幾何学的精神」という言葉が厳密さを重んじる数学の王道ともいうべきあり方とされた。「幾何学的精神」という用語はパスカルによって導入された哲学用語であり、ユークリッド幾何学に見られるように、少数の公理形から全てを演繹するような合理的精神をさし、逆に全体から個々の原理を一挙に把握するという意味の「繊細の精神」の対義語として与えられた。 また、エジプト王プトレマイオスが幾何学を学ぶのに簡単にすます道が無いかという問いに対しユークリッドはそんな方法はなく、「幾何学に王道無し」と言ったことからより一般に「学問に王道なし」との言葉も生まれた。ここで王道とは王のみが通れる近道の意である。 ヨーロッパにおいては19世紀初等までは、幾何学といえばユークリッド原論から発達した三次元以下の図形に関する数学をさしていた。ヨーロッパではルネッサンス以降はカルダノやフェラリに見られるように代数学が盛んであり、17世紀以降はニュートンやライプニッツらによって開かれた解析学も急激に発達したため、幾何学はこれらの分野とよく対比されることとなった。しかしルネサンス期においてはこれらに比べ幾何学の成果は乏しく、当時の目立った成果を上げれば15世紀に透視図の考えを応用し射影幾何学の元となる概念が登場したり、古代ギリシャでは砂に図を書いていたためか運動はタブーであったが、14世紀ごろより図形を直接動かしてその変化考察するという後に解析学へと繋がる考え方も登場したなどが上げられる。
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幾何学
ユークリッド原論にも見られるように、数は図形として対応させて考えることもできる。デカルトはこの考えを拡張してデカルト座標を導入し、解析幾何学を導入した。解析幾何学は平面や空間に座標を定めて数と図形との関係を与え、逆に数を幾何学的に扱うことをも可能とした。それまでは幾何学的証明に限られた幾何学の問題を代数的に解くことも可能となったのである。座標の概念はフェルマーも研究していたが、欧米ではgéométrie cartésienne(デカルト幾何学、cartésienneは「デカルトの」の意)と呼ばれるようにデカルトの影響が極めて強い。 例えば直交座標平面上の任意の点の原点からの距離はピタゴラスの定理によって与えられるが、これは解析幾何学においては公理である。 解析幾何学はデカルトの哲学体系では数と図形の統一を目指したものであるが、アポロニウスの残した未解決問題、例えば三定点からの和が一定の曲線の研究なども目的とされていた。現代においてはコンピュータの画面表示などにも座標の概念が応用されている。また、幾何学の問題は現代では線形代数すら応用されて解かれることも多い。 解析幾何学の方法はヨーロッパ数学において同時期に発達した代数学や解析学においても盛んに用いられ、とくに17世紀解析学の発達は解析幾何学抜きには語れないであろう。18世紀にはオイラーによって解析幾何学は急激に発達させられその成果がまとめられた。オイラーの手によってアポロニウスによる古典的円錐曲線論は二次曲線や二次曲面論として解析幾何的手法を用いて代数的に書き換えられることとなった。 またオイラーは当時のケーニヒスベルクの橋を、一度渡った橋は二度と渡らないで、全ての橋を一度だけ渡ることは可能であるか?という問題より、今日のトポロジーやグラフ理論の起源となる概念が生まれた。 さらに18世紀末には微積分や変分学といった解析学の成果も幾何学へ応用され、モンジュによる曲線と曲面の微分幾何学の開拓が行われた。19世紀初頭にはガウスによって曲面の曲率などが求められ、微分幾何学が本格的に研究された。
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幾何学
さらに18世紀末には微積分や変分学といった解析学の成果も幾何学へ応用され、モンジュによる曲線と曲面の微分幾何学の開拓が行われた。19世紀初頭にはガウスによって曲面の曲率などが求められ、微分幾何学が本格的に研究された。 このようにデカルトによってその基礎を打ち立てられ、代数的・解析的に取り扱えるという強力な手法を提供した解析幾何学であるが、解析幾何学が幾何学研究において絶対的な方法であったかといえば必ずしもそうではなかった。解析幾何学のように座標を導入せずに、ユークリッド幾何学のように直接図形を研究する手法も解析幾何学ほどはメジャーではなかったが行われていた。このような手法を総合幾何学(synthetic geometry)、あるいは純粋幾何学(pure geometry)という。 純粋幾何学における新概念は、遠近法を発端として17世紀にデザルグとパスカルらによって始められた射影幾何学が挙げられる。18世紀にはモンジュ(画法幾何学で有名である)とポンスレらにより、射影幾何学は更に研究され、19世紀に入ってもシュタイナーは総合幾何学を重視している。20世紀に入っても総合幾何学を重視した者としてコクセターが挙げられる。ほかにも、ラングレーの問題などは20世紀に入ってから出された問題である。 長らく原論の平行線公理は幾何学において問題となったが、この公理を他の公理から導出しようとする試みは全て頓挫した。もし平行線公理が公理でなければ、ほかの公理系から導出できるはずだと試みられて失敗したわけである。19世紀に入ってようやく、他の公理はそのままに平行線公理のみをその否定命題に置換してもユークリッド幾何学に似た幾何学が成立することがボヤイ、ロバチェフスキーらによって示され、非ユークリッド幾何学が誕生した。 非ユークリッド幾何学の無矛盾性はユークリッド幾何学の無矛盾性に依存し、後者が無矛盾であれば前者も無矛盾であるとされ、両者の差異は単なる計量の違いに過ぎないことが明らかにされた。 幾何学は人間の図形的直感に基づいて研究されるが、直感のみに基づいて研究するわけにはいかない。そのためあいまいな直感ではなく明確に言葉や定義によって言い表された定義や公理に基づいて幾何学を体系化する試みは既にユークリッドによってなされたのだが、現代からみればこれは不完全なものであった。
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幾何学
幾何学は人間の図形的直感に基づいて研究されるが、直感のみに基づいて研究するわけにはいかない。そのためあいまいな直感ではなく明確に言葉や定義によって言い表された定義や公理に基づいて幾何学を体系化する試みは既にユークリッドによってなされたのだが、現代からみればこれは不完全なものであった。 19世紀に入って、批判的精神や数学そのものの発達によりユークリッド幾何学の公理系が実は論理的に不完全であることが指摘された。平行線公理問題や非ユークリッド幾何学の誕生などもそのような流れの一つとしてあげられるだろう。数学者にとって公理系が論理的に不完全であれば、正しい方法で証明したはずの定理からも矛盾が出てしまうため、これが恐れられ一時期盛んに矛盾しない理想の公理系の探求が行われたわけである。その探求の目的は幾何学を公理系から建設するための無矛盾な公理系の発見とその公理系によって構成される幾何学の構造、更にはそのような複数の公理系間の関係(ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との関係のような)であった。 19世紀後半よりその様々な代価案が提出されてきたが、最も決定的であったのが19世紀後半から20世紀初頭にはヒルベルトによって提唱されたものであり、その成果は著書「幾何学の基礎」にまとめられた。 ヒルベルトは論理的整合性のために感覚から完全に分離された幾何学を唱え、この本では点や線といった専門用語を机や椅子などに置換してすら成立するとまで言われたが、それにしては図が沢山あるため小平邦彦などによって批判された。図すら一切存在しない初等幾何の基礎付けはジャン・デュドネの「線形代数と初等幾何」を待たねばならないだろう。デュドネの本には図すら存在せず、ある意味専門用語ですら無意味であるというヒルベルトの精神を体現しているといえる。 このような限界までの考察によって、公理とは「誰もが認めうる真理」ではなく、「理論を構成するための根本的要請」という考えにシフトしていった。
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幾何学
このような限界までの考察によって、公理とは「誰もが認めうる真理」ではなく、「理論を構成するための根本的要請」という考えにシフトしていった。 このような極端に具体例を軽視し形式主義に走る手法は今日の公理主義的数学の先駆けと見ることができる。岡潔や小平邦彦などは極端な抽象化に警鐘を鳴らし、岡などは数学の冬の時代とまで称した。しかし具体例や数学的直感を軽視するのが悪いことではなく、あくまで公理系の無矛盾性が大多数の数学者にとって問題であり、そのため数学の基礎や証明などの根本的部分にその批判が差し向けられたのである。公理系が矛盾していたら正しくはじめたのにおかしな結果が出てくるかもしれないことが問題視され、この方法は幾何学基礎論から発端となったが同時期に問題となった集合論のパラドクスもあいまって、幾何学にとどまらず数学基礎論としてヒルベルトらにより研究が継続されることとなる。 解析幾何学では三次元ユークリッド空間の幾何学は空間幾何学(space geometry)、または立体幾何学(solid geometry)と呼ばれ、二次元ユークリッド空間の幾何学は平面幾何学(plane geometry)と呼ばれる。これを一般化し、n個の実数の組からn次元空間の点を定義し、それらの任意の二点間の距離を定めてn次元ユークリッド空間を構成することができる。同様にn次元空間は非ユークリッド幾何学や射影幾何学についても定めることができる。 これらのような様々な空間の研究は19世紀中頃に本格的に行われ、リーマンはn次元の曲がった空間から多様体の概念を導入し、計量として接ベクトル間の内積で曲率を定義した。このような様々な幾何学はアインシュタインが一般相対性理論の研究を行った際に数学的道具を提供した。より一般的には、P・フィンスラーは接ベクトルのノルムを計量とするフィンスラー空間の概念を提唱した。 クラインは幾何学に群論を応用することによって、空間Sの変換群Gによって、変換で不変な性質を研究する幾何学を提唱した。これをエルランゲン・プログラムというが、この手法で運動群がユークリッド幾何学を定めるように、射影幾何学、アフィン幾何学、共形幾何学を統一化することができる。 更に19世紀末にはポアンカレによって、連続的な変化により不変な性質を研究する位相幾何学が開拓された。
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幾何学
クラインは幾何学に群論を応用することによって、空間Sの変換群Gによって、変換で不変な性質を研究する幾何学を提唱した。これをエルランゲン・プログラムというが、この手法で運動群がユークリッド幾何学を定めるように、射影幾何学、アフィン幾何学、共形幾何学を統一化することができる。 更に19世紀末にはポアンカレによって、連続的な変化により不変な性質を研究する位相幾何学が開拓された。 代数曲線・曲面や代数多様体が起源である代数幾何学は高度に発達し、日本でもフィールズ賞受賞者も多く盛んに研究されている。 またミンコフスキーによる凸体の研究は「数の幾何学」(注:数論幾何学とは異なる)の道を開いた。 20世紀前半には多様体は数学的に厳密に定式化され、ワイル、E・カルタンらにより多様体上の幾何学や現代微分幾何学が盛んに研究された。リーによって導入されたリー群によって、これらの様々な幾何学を不変にする変換群が与えられたが、カルタンはリー群を応用して接続の概念を導入し接続幾何学を完成させ、これらの幾何学を統一化することに成功した。これはリーマンによる多様体と、クラインによる変換群の考えを統一化したとも理解できる。これは現代では素粒子物理学などの物理学の諸分野でも常識となっている。 また、代数学や解析学の発展もともなって、多様体の代数構造と位相構造との関係を研究する大域微分幾何学、複素解析と関係する複素多様体論、古典力学の力学系と関連したシンプレクティック幾何学や接続幾何学、測度論と関連して積分幾何学や測度の幾何学的研究である幾何学的測度論の研究などもこのころにはじまった。 20世紀後半になると多様体上の微分可能構造や力学系、微分作用素なども上記の幾何学とも関係しながら研究が進められた。他にも幾何構造をなすモジュライ空間や特異点を含む空間の研究、物理学と関連した研究や四色問題に見られるようにコンピューターを用いた研究も行われた。 凸体の幾何学や組み合わせ幾何学の手法は現代ではオペレーションズ・リサーチなどの応用数理の分野でも用いられている。 現代数学では幾何学は代数学や解析学などの数学全般に広範囲に浸透しているため、これらと明確に区別して幾何学とはなにかということを論ずるのは難しいが、しかしながら図形や空間の直感的把握やそのような思考法は先端分野の研究においても重要性を失っていないといえる。
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解析学
解析学(かいせきがく、英語:analysis, mathematical analysis)とは、極限や収束といった概念を扱う数学の分野である。代数学、幾何学と合わせ数学の三大分野をなす。 数学用語としての解析学は要素還元主義とは異なっており、初等的には微積分や級数などを用いて関数の変化量などの性質を調べる分野と言われることが多い。これは解析学がもともとテイラー級数やフーリエ級数などを用いて関数の性質を研究していたことに由来する。 例えばある関数の変数を少しだけずらした場合、その関数の値がどのようにどのぐらい変化するかを調べる問題は解析学として扱われる。 解析学の最も基本的な部分は、微分積分学、または微積分学と呼ばれる。また微分積分学を学ぶために必要な数学はprecalculus(calculusは微積分の意、接頭辞preにより直訳すれば微積分の前といった意味になる)と呼ばれ、現代日本の高校1、2年程度の内容に相当する。また解析学は応用分野において微分方程式を用いた理論やモデルを解くためにも発達し、物理学や工学といった数学を用いる学問ではよく用いられる数学の分野の一つである。 解析学は微積分をもとに、微分方程式や関数論など多岐に渡って発達しており、現代では確率論をも含む。 現代日本においては解析学の基本的分野 は概ね高校2年から大学2年程度で習い、進度の差はあれ世界中の高校や大学などで教えられている。 解析学の起源は、エウドクソスが考案し、アルキメデスが複雑な図形の面積や体積を求める為に編み出した「取り尽くし法」にまでさかのぼれる。彼らの業績は、ある意味で今日の積分の始まりとも呼べるものであろう。しかしながら近世までは一般的理論は存在せず、あくまで個々の図形に適用されるにとどまった。 これらは16世紀からフランソワ・ヴィエト、ケプラー、カヴァリエリらによって歴史に再登場し、例えば回転体の体積を求める手法であるカヴァリエリの原理などが有名であろう。
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解析学
これらは16世紀からフランソワ・ヴィエト、ケプラー、カヴァリエリらによって歴史に再登場し、例えば回転体の体積を求める手法であるカヴァリエリの原理などが有名であろう。 しかし解析学が本格的な発展を遂げ始めたのは、フェルマーやデカルト、パスカル、ジョン・ウォリス、ジル・ド・ロベルヴァルらによって、曲線の接線を考える上で考え出された微分学の初歩的概念が登場してからである。とくにフェルマーは極値問題に微分学を応用した。日本において発達した数学である和算においても、ほぼ同時期に微積分の初歩的概念に到達していた。 解析学の初歩的概念である微分積分学の成立に関する決定的業績は、ニュートンおよびライプニッツらによってもたらされた。 ニュートンは、古典力学の研究から微分積分学を生み出し、微分と積分を統合して、両者がある意味で逆の関係にあることを見抜いた。これは今日では微分積分学の基本定理と呼ばれる。更に冪級数を用いて主要な関数に微分積分学を応用した。同じ時期に ライプニッツも同様な発見をした上、現代も用いられる微分積分の記号表記法を考案してその後の研究の基礎を築いた。 ライプニッツが考案した記号としては例えば曲線の接線問題を解くにあたって無限小量であるdy、dxの比dy/dxを用いたり、ラテン語のsumma(和の意)の頭文字Sから積分記号 ∫ {\displaystyle \int } を導入したりした。 彼らは微分積分学の主要な分野を開拓したものの、微分積分学の基本概念である無限や極限といった概念を明確化できなかったため、ときに厳しく批判されることもあった。また彼らの間で微分積分学の先取権争いがあったが、現代では独立に発見したとされている。 テイラーは1715年に、マクローリンは1742年に優れた研究を発表した。しかしながら、イギリスにおいては、科学者たちはニュートンの記法に固執したため、微分積分学の研究は没落していった。ニュートンの記法では微分した変数と階数しかわからず、何を何で微分したか分からないため、とくに偏微分においてはライプニッツの記法が圧倒的に優位に立っていたのである。この後イギリスの没落は長らく続き、再び大陸に対し優位を取り戻すには20世紀初頭のG・H・ハーディの登場を待たねばならなかったとすらいわれる。
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解析学
これに対してライプニッツの記法を抵抗なく用いることができた大陸では、ライプニッツと繋がりのあった有名な数学者の一族であるベルヌーイ一家や、更に彼らと繋がりのあったロピタルらによって多変数の微分積分学や複雑な式の形の微分方程式、変分法といった解析学が急速に発展していった。 その後18世紀には、オイラーらによってこれらの問題は統一的に体系化され、解析学は大きな進歩を遂げた。とくに微分方程式を用いた様々な問題が生まれ、彼の著書「無限解析序説」では冒頭で関数とは解析的式 であると定義されているが、彼が解析学を関数の研究を主眼として見ていたとすれば大変興味深い内容であるといえる。 19世紀に入って解析学は、今まで直感任せであった無限小や極限、収束といったその基礎に疑いの目が向けられるようになり、それを厳密化することによって発展してゆくこととなる。 18世紀より、弦の振動を表す微分方程式から、「任意の関数は三角級数の和で表せるか?」という問題があったが、この問題で重要となったのはフーリエが熱伝導問題で用いたフーリエ級数 である。この級数は19世紀数学において主要な役割を果たし、この級数の収束について厳密に証明するために、それまでは必ずしもそこまでの厳密さが必要ではなかった級数・関数・実数などといった現代の解析学では常識と化している概念の厳密な基礎付けが行われていくこととなる。 フーリエ級数の生みの親であるフーリエは現代的厳密さでフーリエ級数の収束を研究しておらず、このためラグランジュはフーリエの論文掲載に抵抗したといわれるが、当時は級数の収束判定は困難な問題であった。オイラーやガウスですら多少であれば級数論に取り組んでいるものの一般の級数の収束に関する研究はなく、はじめて一般の級数の収束問題を論じたのはボルツァーノやコーシーらであるが、彼らの級数収束に対する理解ですら現代から見れば不完全な部分が残り、完璧ではなかったといえる。それほどまでに重要な問題を解析学に投げかけたのである。 級数の収束の厳密化は解析学の基礎付けに必須であり、フーリエ級数の収束問題の十分条件を与えたディリクレの論文 は解析学の歴史において、その厳密化の一歩を踏み出した貴重なものであるといえるであろう。
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解析学
級数の収束の厳密化は解析学の基礎付けに必須であり、フーリエ級数の収束問題の十分条件を与えたディリクレの論文 は解析学の歴史において、その厳密化の一歩を踏み出した貴重なものであるといえるであろう。 また関数概念の近代化もこのころ始まった。オイラーの著書 に見られるように、関数とはこれまでは解析的式、すなわち具体的な式で書き表せるものとの認識であったが、先にも上げたフーリエ級数に関するディリクレの論文 によって関数も値の対応としての認識に変革してゆくこととなる。厳密に対応として認識せざるをえなくなったのはこのフーリエ級数の研究によるものである。 フーリエ級数の研究が発端となり、今まで直感に任せて推進されてきた微積分などの計算が一般の関数に対しても本当にちゃんと成り立つのか疑問が向けられたため、その収束や極限に対する厳密な理論が必要となってきた。今までは無限小などという実体不明な量にたよりきっていたが、コーシーやボルツァーノらによって極限や連続、微分や積分の可能性についても厳密に論じられたのである。 例えばオイラーまでは不定積分は微分の逆算であるとの認識であったが、コーシーはまず定積分を定義したのち、不定積分を のような定理として導いたという意味で革命的であった。しかしながらコーシーですら連続と一様連続、各点収束と一様収束といった概念の区別がつかず、こういった基本概念が基礎付けられその重要性が認識されるにはワイエルシュトラスの登場を待たねばならなかった。 リーマンも1854年、フーリエ級数の研究においてコーシーの積分可能の概念を拡張し、一部の不連続の関数をも積分可能とするリーマン積分を導入したが、これですら不完全であり、実変数関数の完全な積分理論はすでに20世紀に入ってからの、1902年のルベーグ積分の登場によるものである。
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解析学
リーマンも1854年、フーリエ級数の研究においてコーシーの積分可能の概念を拡張し、一部の不連続の関数をも積分可能とするリーマン積分を導入したが、これですら不完全であり、実変数関数の完全な積分理論はすでに20世紀に入ってからの、1902年のルベーグ積分の登場によるものである。 収束や積分の研究はもとより、微分に関してもその厳密化が図られることとなった。18世紀以前は関数の微分可能性は当然のこととされたが、コーシーらの連続に関する厳密な概念の導入によってその基礎が揺るがされた。全ての連続関数は本当に微分可能なのかが疑われることとなったのである。19世紀前半までは「全ての連続関数は有限個の点を除き微分可能である」という定理(アンペールの定理)が無条件に成立するであろうという「神話」が信仰されていたのであるが、これが全くの嘘であると認識されるには長い時間が必要であった。これがようやく幻想であると認識されるのはワイエルシュトラスによって、連続であるが微分できない関数という反例が1875年に公表されてからであった。 数学の基礎付けにおいて忘れてはならないのは集合論であるが、本格的に導入されたのは19世紀もすでに後半、1874年カントールによるものである。とくにR・ベール、ボレル、ルベーグらの仕事には集合論は欠かせないものであった。ベールは不連続関数を分類し、ルベーグがそれを一般化してオイラーが与えた関数の定義である「解析的」の意味をはじめて明確化した。 更にルベーグはボレルの測度論を一般化しルベーグ測度を導入することによってルベーグ積分論を定式化した。これにより長さ、面積、体積などを完全に一般化することに成功し、これによって複雑な図形、例えば曲線や曲面の長さや面積などをそのような立場から論ずることが可能となった。 更にルベーグ積分論はコルモゴロフによって確率論の厳密化にも用いられ、確率論を現代解析学として扱うことを可能とした。このため純粋数学としての確率論は現代数学では解析学に分類されるわけである。 積分の理論は更に一般化され応用範囲も広まり、例えばウィーナーによりブラウン運動のような複雑な現象ですら数学的に取り扱うことすら可能となった。
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解析学
更にルベーグ積分論はコルモゴロフによって確率論の厳密化にも用いられ、確率論を現代解析学として扱うことを可能とした。このため純粋数学としての確率論は現代数学では解析学に分類されるわけである。 積分の理論は更に一般化され応用範囲も広まり、例えばウィーナーによりブラウン運動のような複雑な現象ですら数学的に取り扱うことすら可能となった。 解析学はその根底を実数の性質においているが、デーデキントやカントールはその実数の性質を深く研究し、実数を特徴付ける条件を見いだした。カントールもフーリエ級数の研究より実数論を展開し、その中で実数論や無限集合といった概念が形成されてゆくこととなる。カントールやデデキントらによる実数の定義は切断によるもので、高木貞治の解析概論などでも用いられている手法であるが、先にも述べたコーシー、ワイエルシュトラス、ボルツァーノなどの数学者らによって類似の様々な実数論が展開された。 このように一見、様々な定義があるようにみえる実数であるが、これらは古典論理の範囲内において全て同値であることが証明されている。 このような厳密化の流れの中で消されていった無限小という概念であるが、これを現代論理学などを用いて蘇らせたものが超準解析である。 また、19世紀に入って解析学は本格的に複素数を利用するようになった。複素数変数の関数や微積分などを扱う分野は(複素)関数論、複素解析学などと呼ばれる。コーシーは従来求められていた定積分などが複素変数の関数として扱うことでより簡単に求められることを発見した。さらにその後、ワイエルシュトラスやリーマンによって一変数の複素関数の理論が整えられ、複素関数論は独立した一つの数学として扱われるようになった。また多変数の複素関数の理論は20世紀に入ってから、アンリ・カルタンや岡潔らによって詳細が研究された。 複素解析学は楕円関数や素数定理とも関連し、幅広い応用をもち現代では物理や工学においても必須の概念となっている。
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解析学
複素解析学は楕円関数や素数定理とも関連し、幅広い応用をもち現代では物理や工学においても必須の概念となっている。 微分法は極値を求める問題であるが、これを一般化し、与えられた汎関数が極値を持つような関数を求める問題が変分法であり、物理学において広く応用されている。汎関数の解析学を更に一般化して関数を関数空間の点としてみなすことによって、関数解析学は誕生した。その起源はフレシェの1906年の抽象空間論 などに見られるが大元は積分方程式であろう。ここでディリクレ問題が重要となり、そのためにはディリクレ原理の正当化が必要となった。最初に研究したフレドホルムは失敗したが、ヒルベルトはその正当化に成功し、更に積分方程式の研究を進めるが、ノイマンはこれを更に一般化することによってヒルベルト空間を利用し量子力学の数学的基礎付けを成し遂げた。 20世紀に入ると偏微分方程式やフーリエ解析学において関数や導関数といった概念の拡張に迫られ、ローラン・シュヴァルツは超関数 (distribution) および超関数の意味での導関数を導入することによってこれを成し遂げ、フィールズ賞を受賞した。これによりある意味任意の関数が微分可能になったといえる。その後佐藤幹夫によってより一般的な佐藤の超関数 (hyperfunction) が導入された。関数とその超関数の意味での導関数に適当なノルムを導入するとソボレフ空間になるが、これも偏微分方程式において重要な概念となっている。
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考古学
考古学(こうこがく、英語: archaeology、archæology、archeology)は、人類が残した遺跡から出土した遺構などの物質文化の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。 対して、歴史学は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。 考古学という名称は、古典ギリシャ語の ἀρχαιολογία (ἀρχαιο [古い] + λογία [言葉、学問]、arkhaiologia アルカイオロギアー)から生まれ、それを訳して「考古学」とした。 英語ではarchaeologyという。米国を含む標準表記では -ae と綴るが、米語ではギリシア語由来の -ae の綴りを採らず、発音に合わせて単に -e と綴ることがある。 日本語の「考古学」(考古)という言葉は、明治初期には古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている。 佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがシーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという説もある。 「考古」という漢語自体は古くからある。例えば、北宋の呂大臨『考古図(中国語版)』。 先史時代(文字により記録されるよりも前の時代)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時代(歴史時代)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。
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考古学
考古学は、遺物の型式学的変化と、遺構の切り合い関係や土層(遺物包含層)の上下関係といった層位学的な分析を通じて、出土遺物の通時的変化を組み立てる「編年」作業を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の特徴(例えば土器の施文技法や製作技法、表面調整技法など)の比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。 日本では従前より日本史学、東洋史学、西洋史学と並ぶ歴史学の四分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。 アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流である。 考古学は近代西洋に生まれた比較的新しい学問だが、前近代から世界の諸地域で考古学と類似する営みが学界内外で行われていた(好古家を参照)。 近代的な考古学は、18世紀末から19世紀にかけて、地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズ(英語版)やウイリアム・フリンダース・ペトリらによって始められた。特筆すべき業績が重ねられてゆき、20世紀にはモーティマー・ウィーラー(英語版)らに引き継がれた。1960年代から70年代にかけて物理学や数学などの純粋科学(理学)を考古学に取り入れたプロセス考古学(ニューアーケオロジー)がアメリカを中心として一世を風靡した。 日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。
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考古学
日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。 日本では、動物学者エドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある。同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト、シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した『考古説略』によってなされた。 アジア各地へ出て行く日本人学者には、興亜院・外務省・朝鮮総督府・満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、皇国史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者(当時の呼称で支那学者)と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も進んで大陸に出かけていった。 宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都帝国大学に考古学講座がおかれ、考古学講座初代教授の浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。大正時代は、考古学における古墳研究の基礎資料集積の時代であった。 また20世紀の間に、都市考古学や考古科学、後には救出考古学(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。 戦後になってからは皇国史観によらない実証主義的研究が大々的に可能となり、遺伝子研究や放射性炭素年代測定などの新技術の登場と合わせて飛躍的に発展した。 2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。 現代考古学の特徴としては、
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考古学
2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。 現代考古学の特徴としては、 収集するデータは、人類の過去の活動や行為を示す物的証拠を収集すること。具体的には、1人類がある目的を持って製作・加工したもの、2人類によって利用された自然界の物質、3人類の活動や行為によって自然界に生じた変化を示す物的証拠があげられる。
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力学
力学(りきがく、英語:mechanics)とは、物体や機械(machine)の運動、またそれらに働く力や相互作用を考察の対象とする学問分野の総称。 質点(質点系)や剛体を対象とする力学を一般力学、連続体を対象とする力学を固体力学(連続体の力学)という。 力学は研究対象の力学的性質により、弾性学、塑性学、粘弾性学、クリープ力学などに分かれる。
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熱力学
熱力学(ねつりきがく、英: thermodynamics)は、物理学の一分野で、熱や物質の輸送現象やそれに伴う力学的な仕事についてを、系の巨視的性質から扱う学問。アボガドロ定数個程度の分子から成る物質の巨視的な性質を巨視的な物理量(エネルギー、温度、エントロピー、圧力、体積、物質量または分子数、化学ポテンシャルなど)を用いて記述する。 熱力学には大きく分けて「平衡系の熱力学」と「非平衡系の熱力学」がある。「非平衡系の熱力学」はまだ、限られた状況でしか成り立たないような理論しかできていないので、単に「熱力学」と言えば、普通は「平衡系の熱力学」のことを指す。両者を区別する場合、平衡系の熱力学を平衡熱力学 (equilibrium thermodynamics)、非平衡系の熱力学を非平衡熱力学 (non-equilibrium thermodynamics) と呼ぶ。 ここでいう平衡 (equilibrium) とは熱力学的平衡、つまり熱平衡、力学的平衡、化学平衡の三者を意味し、系の熱力学的(巨視的)状態量が変化しない状態を意味する。 平衡熱力学は(すなわち通常の熱力学は)、系の平衡状態とそれぞれの平衡状態を結ぶ過程とによって特徴付ける。平衡熱力学において扱う過程は、その始状態と終状態が平衡状態であるということを除いて、系の状態に制限を与えない。 熱力学と関係の深い物理学の分野として統計力学がある。統計力学は熱力学を古典力学や量子力学の立場から説明する試みであり、熱力学と統計力学は体系としては独立している。しかしながら、系の平衡状態を統計力学的に記述し、系の状態の遷移については熱力学によって記述するといったように、一つの現象や定理に対して両者の結果を援用している 18世紀後半にイギリスのジョゼフ・ブラックが熱容量と潜熱の概念を発見し、温度と熱の概念を分離したことで熱に関する本格的な研究が始まり、これを受けて18世紀末には熱学が生まれた。
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熱力学
18世紀後半にイギリスのジョゼフ・ブラックが熱容量と潜熱の概念を発見し、温度と熱の概念を分離したことで熱に関する本格的な研究が始まり、これを受けて18世紀末には熱学が生まれた。 一方18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで蒸気機関が発明・改良されたが、ジェームズ・ワットがブラックの影響を受けて復水器を独立させるなどの影響はあったものの、基本的には学問的成果を応用したものでなく専ら経験的に進められたものであった。またこの頃気体の性質が研究され、1662年にロバート・ボイルによってボイルの法則が発表され、1787年にジャック・シャルルによって発見されたシャルルの法則が1802年にジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって発表されて、ゲイ=リュサックの法則が成立し、これらの法則がボイル=シャルルの法則(理想気体の性質)としてまとめられた。しかしこのころは、まだアントワーヌ・ラヴォアジエらによって唱えられていた、熱を物質と考える熱素説が有力であった。 なお1820年代、ジョゼフ・フーリエが熱伝導の研究を発表したが、これは熱力学とは直接関係なく、むしろフーリエ変換など後世の数学の基礎から工学的な応用に至るまで多大な影響を及ぼすこととなった。また、熱伝導に関する研究はこれ以前にニュートンによる冷却の法則がある。 1820年代になると、サディ・カルノーが熱機関の科学的研究を目的として仮想熱機関としてカルノーサイクルによる研究を行い、ここに本格的な熱力学の研究が始まった。この研究結果は熱力学第二法則とエントロピー概念の重要性を示唆するものであったが、カルノーは熱素説に捉われたまま早世し、重要性が認識されるにはさらに時間がかかった。 熱をエネルギーの一形態と捉えエネルギー保存の法則、つまり熱力学第一法則をはじめて提唱したのはロベルト・マイヤーである。彼の論文は1842年に発表されたが全く注目されなかった。
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熱力学
熱をエネルギーの一形態と捉えエネルギー保存の法則、つまり熱力学第一法則をはじめて提唱したのはロベルト・マイヤーである。彼の論文は1842年に発表されたが全く注目されなかった。 一方、イギリスでは1843年にジェームズ・プレスコット・ジュールが熱が仕事へと変換可能であると考え、熱の仕事当量を求める測定を行った。この研究も当初は全く注目されなかったが、1847年にウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)の知るところとなった。トムソンは1849年にカルノーの説を再発表する一方で、ジュールの説も否定せず、むしろこの発表で脚注として取り上げることで、ジュールの論をも広く知らせることとなった。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは1847年の論文で、エネルギー保存の法則について示している。やがて1850年、ジュールやトムソン、ヘルムホルツの論文をもとにルドルフ・クラウジウスがカルノーとジュールの説を統合し、熱力学第一法則および熱力学第二法則を完全な形で定義した。クラウジウスによる熱力学第二法則はクラウジウスの原理と呼ばれる。1851年には、トムソンも別の表現で熱力学第二法則に到達し、トムソンの原理と呼ばれるようになった。この両原理は同一のものであると簡単に証明できたため、こうして1850年代には熱力学第二法則が確立された。 トムソンは1854年に絶対温度の概念にも到達した。1865年にはクラウジウスが、カルノーサイクルの数学的解析からエントロピーの概念の重要性を明らかにした。エントロピーの命名もクラウジウスによるものである。 19世紀後半になると、ヘルムホルツによって自由エネルギーが、またウィラード・ギブズによって化学ポテンシャルが導入され、化学平衡などを含む広い範囲の現象を熱力学で論じることが可能になった。 一方、ルートヴィッヒ・ボルツマンやジェームズ・クラーク・マクスウェルさらにはギブズによって、分子論の立場に立って、分子の挙動を平均化して扱い熱力学的なマクロの現象を説明する理論、統計力学が創始された。これにより、熱力学的諸概念と分子論をつなぎ合わせることを具体的に解釈できるようにした。 1905年のアルベルト・アインシュタインによるブラウン運動の定式化と、1908年のジャン・ペランの実験は、分子論の正当性を示し、また確率過程論や統計物理学の応用の発展にも寄与した。
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熱力学
1999年にエリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンは、「断熱的到達可能性」という概念を導入して熱力学を再構築した。 「状態 Y が状態 X から断熱操作で到達可能である」ことを X ≺ Y {\displaystyle X\prec Y} と表記し、この「 ≺ {\displaystyle \prec } 」の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。 この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。 このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている。 熱力学には様々なスタイルがある。同じ内容の熱力学を得るのに、理論の出発地点となる基本的要請には様々な選び方がある。例えば多くの熱力学では、熱力学の法則を最も基本的な原理として採用している。しかし他の要請を選んで熱力学を展開していくスタイルもある。 さらに熱力学で用いるマクロ変数には示量性と示強性の 2 種類がある。例として、平衡状態の系を半分に分割することを考える。それぞれの系の温度は、分割する前後で変化しないが、体積や物質量、内部エネルギーはそれぞれ元の半分になる。簡単には、温度のように、分割に対して変化しないものを示強性、エネルギーのように分割した大きさに応じて変化するものを示量性と呼ぶ。 熱力学は多くの場合に古典力学や量子力学といった通常は少数系の問題を扱う「ミクロ系の物理学」では扱うのが非常に困難な多体系、それもアボガドロ数にも及ぶような多体の問題に適用される。したがって、ミクロ系の物理学では予想できないような結果を予測する理論として機能するが、全く独立な理論かといえばそういうわけでもなく、たとえば「エネルギー」といった概念は両者で使用される共通の概念になる。また、そういった概念も名前上の共通性にとどまらず、エネルギー保存則などの物理的法則も共通して存在し、互いに矛盾しないような内容になっている。 この共通性を両者に普遍的な自然法則として解釈するのか、本来個別であるべきだが偶然共通に見えているのかといった自由がある。前者に近い立場をとり、そうした普遍性をミクロ系の物理学のものと考える立場を
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熱力学
この共通性を両者に普遍的な自然法則として解釈するのか、本来個別であるべきだが偶然共通に見えているのかといった自由がある。前者に近い立場をとり、そうした普遍性をミクロ系の物理学のものと考える立場を と、また、後者に近い立場をとって、個別なものとして議論する立場を として清水 2007, p. では紹介している。 多くの熱力学では温度、圧力、体積、物質量を基本的な変数として出発点に用いている。しかし他にもエントロピーなどを出発点に用いて、温度や圧力は用いないスタイルもある。 示量性変数だけを用いる必要性は、たとえば融点上の熱力学系の状態は、温度を用いる限り一対一で表すことができないことなどによる。 平衡状態の系が満たすべき性質から、マクロな熱力学の体系と整合するように、ミクロな(量子)力学の体系から要請される確率分布を導入したのが、平衡統計力学であると言って良い。 このように熱力学は統計力学を基礎づけるもので、統計力学は熱力学を説明しない。熱力学的現象を徹底的に整理し、熱力学法則を確立したからこそ、物質の性質をよりミクロに捉えることが可能になった。 熱力学の基本原理に関する話題として、統計力学の等確率の原理と熱力学の関係がある。等確率の原理は統計力学が熱力学の平衡状態を再現するために導入される仮定であり、熱力学を微視的な視点から基礎づける原理ではない。 平衡熱力学の範疇では、系が平衡状態から別の平衡状態へ遷移する過程(熱力学的な操作)を扱うが、一般の過程は準静的ではなく中間状態は非平衡となってもよい。一方で (現在の) 平衡統計力学は個々の平衡状態を議論することはできるが、平衡状態から別の平衡状態へ系を移す一般の過程は扱えない。 第一法則及び第二法則は、ルドルフ・クラウジウスによって定式化された。 第零法則は、温度が一意に定まることを示している。 第一法則は、閉鎖された空間では外部との物質や熱、仕事のやり取りがない限り、エネルギーの総量に変化はないということを示している。
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熱力学
第一法則及び第二法則は、ルドルフ・クラウジウスによって定式化された。 第零法則は、温度が一意に定まることを示している。 第一法則は、閉鎖された空間では外部との物質や熱、仕事のやり取りがない限り、エネルギーの総量に変化はないということを示している。 第二法則は、エネルギーを他の種類のエネルギーに変換する際、必ず一部分が熱に変換されるということ、そして、熱を完全に他の種類のエネルギーに変換することは不可能であるということを示している。つまり、どんな種類のエネルギーも最終的には熱に変換され、どの種類のエネルギーにも変換できずに再利用が不可能になるということを示している。なお、エントロピーの意味は熱力学の枠内では理解しにくいが、微視的な乱雑さの尺度であるということが統計力学から明らかにされる。 第三法則は、絶対零度よりも低い温度はありえないことを示している。 熱力学的系とは考えている世界の一部である。現実あるいは仮想の境界が系と残りの世界を分離する。その残りの世界は外界と呼ばれる。熱力学的系は境界の特徴により分類される。 内部エネルギーのうち仕事として取り出すことのできる分として「自由エネルギー」(条件によってギブズエネルギーあるいはヘルムホルツエネルギーを用いる)が定義される。熱力学第二法則から、 ことが導かれる。このことは特に化学反応にも適用され、化学平衡定数 K は基準状態での自由エネルギー変化 ΔG と以下の関係にあることが示される。 R:気体定数、T:熱力学温度 なお、化学反応の時間的変化については別分野「反応速度論」として発展しているのでその項目を参照のこと。 平衡熱力学は、温度やエントロピーなど平衡状態の系を特徴付ける量を用いて系の状態を記述した。非平衡系においてもこのような特徴を持つ系が存在し、平衡系で与えられる量を用いて非平衡系を記述する方法が試みられた。 このような非平衡系の熱力学や統計力学は、その発展の初期には個別の現象に対してそれぞれ研究がなされていた。特に有名なものは、ブラウン運動に関するアルベルト・アインシュタインの研究や、熱雑音に関するハリー・ナイキストの仕事である。 非平衡熱力学が統一的な体系として整理されはじめたのは1930年代ごろのことで、ラルス・オンサーガー、イリヤ・プリゴジンなどの仕事が有名である。
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熱力学
基礎的な理論として線形非平衡熱力学がある。ここでは、「局所的平衡」(局所的には上記の平衡熱力学の理論と熱力学変数の関係式が成り立つ)を仮定する。また、時間的変化を示す流れと、流れの原因となる熱力学的力(あるポテンシャルの空間的勾配)という概念を導入する。具体的には次のようなものである: ここで熱力学的力は、流れと力の積が局所エントロピー生成(エントロピー密度の時間微分)となるようにとるものとする。すると各流れ J と力 X の間には次の比例関係が成り立つ。 これは各成分について書き下せば次のようになる。 系の微視的な状態について、時間反転対称性が成り立ち状態の遷移が「可逆」であるならば、すなわち順方向の遷移とその逆方向の遷移の確率が等しいならば、係数行列 L は対称になる。 これをオンサーガーの相反定理という。微視的可逆性の原理は、外部磁場やコリオリ力がある系に対しては成り立たなくなるため、同様に相反定理も外部磁場中の系や回転系に対しては成立しない。なお、化学反応(流れ)と親和力(反応前後での化学ポテンシャル差)の間も上記と同様の流れ・力の関係が書けるが、これはスカラーであるため、ベクトルである上記の流れ・力とは一般には交差しない(キュリーの原理)。ただし非等方的な系ではこの限りでなく、生体膜(化学反応と物質移動の共役)や界面などの例がある。 このような流れの様子が時間変化しないのが定常状態であるが、その条件として「流れによるエントロピー生成が極小である」ということがイリヤ・プリゴジンにより示されている。 その後さらにプリゴジンの『散逸構造論』など、非線形の領域に拡張された非平衡熱力学が研究されている。
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海外
海外(かいがい)とは、北極・南極・外国など「海洋の外にある場所」。国の外を総じて「国外」(こくがい)と言うが、日本・オーストラリアなど海に囲まれている国は「『国外』を『海外』」と言うのが一般的。 相当する英単語にoversea(s)がある(形容詞にも名詞にも使われるが、名詞は原則複数形)。 「海内」は漢籍には有るが現代では遣われておらず対義語としては「国内」と言うのが一般的。 「海外」という語と概念は新しいものではない。 漢籍では、『詩経・商頌・長発』に用例「相土烈烈 海外有截」がある。これは中国の文献だが、すでに「外国」の意味で使われている。 日本の文献では、『続日本紀』の天平勝宝5年(753年)に用例がある。『続日本紀』は漢文だが、日本語の文献では『九冊本宝物集』(ca.1179) がある。 英語のoverseasは古英語(5世紀〜12世紀)にさかのぼる。 現代では地球規模の地理が把握され、20世紀以降は飛行機(空路)による海外旅行が確立しているが、五大陸の把握も曖昧だった頃は外国へ渡る手段は陸路か海路しかなく、後者の場合は冒険や探検の意味合いが強かった。15世紀に始まった大航海時代を経て、帆船による航路が確立されると、大洋を隔てた海外への渡航は飛行船へと引き継がれた。上記の歴史的経緯から、ここで言う海とは多くの場合大洋を指し、海の外であっても歴史的観念上では近距離のものは含んでいなかった。 海外という概念は、未知の世界へ乗り出した帆船航路開拓時代までの名残りであり、海外への移動手段の主役が船舶から飛行機へ移った現代でも、多くの名残りがみられる。 アメリカ軍では、overseasを「Any area of the world other than the CONUS (合衆国本土以外の全世界)」と定義している。ここでの合衆国本土 (CONUS; Continental United States) とは、アラスカとハワイを除く48州1特別区である。つまり、グアムやプエルトリコなどの属領はもちろん、アラスカとハワイもoverseasである。ただし海外勤務章 (Overseas Service Ribbon) に関しては、アラスカとハワイは別の(overseasとは無関係な)規定によって特別扱いされ、アラスカやハワイでの勤務によりOSRが授与されることはない。
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海外
まれに、overseasをヨーロッパ・アジア・アフリカに限り、南北アメリカは含めないこともある。 単独島国ではないが、島国のイギリスでは、イギリスおよび、国境(英語版)を接するアイルランド以外の国々を指す。 単独島(大陸)国のオーストラリアではオーストラリア国外のことを海外という。 本土がユーラシア大陸と陸続きの大韓民国では、ユーラシア大陸内にある他のアジア・ヨーロッパ諸国への訪問は本来であれば「海外」ではないが、北朝鮮との軍事境界線により事実上陸路で他国への移動ができず、他国を訪問する際には航空機や船舶を利用して海を超える必要があることから、「海外」(ヘウェ、해외)という表現が広く使われている。 「国外」と同義に使われる。但し、香港・マカオ・台湾を含むかどうかは、場合によって異なる。 「国外」と同義に使われる場合と、より狭く「欧米諸国」と同義に使われる場合とがある。 太平洋戦争戦前または戦中は、当時日本領だった朝鮮・台湾・南樺太は海外に含めなかったが、委任統治領にすぎなかった南洋諸島は海外だった。ただし、現代の文献で当時について言及する場合、それらはすべて海外とするのが普通である(この場合「国外」や「外国」に置き換えるのは難しい)。 現代では使われないが、「畿内以外」という意味もある。また、『日葡辞書』(1603・04) には「世界の果て」という説明もある。
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電磁気学
電磁気学(、英: electromagnetism)は、物理学の分野の1つであり、基本相互作用のひとつである電磁相互作用に関する現象を扱う学問である。工学分野では、電気磁気学と呼ばれることもある。電磁気学の基礎は、19世紀にスコットランドの科学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが導き出した、マクスウェルの方程式によって定式化された。マクスウェルの方程式は、「物理学における2番目の大きな統一」と呼ばれる。 本稿では学問としての電磁気学全般について述べるにとどめ、より詳細な理論については古典電磁気学、歴史については電磁気学の年表に譲る。 電磁気学は、電磁的現象を考察の対象とする。電磁的現象としては、 などが古来から知られている。現在では身の周りの殆ど全ての現象が電磁的現象として理解できる事が知られている。 電磁気学は、これらの電磁的現象を電荷と電磁場の相互作用として説明する理論体系である。 電荷は物質に固有の物理量であり、物質と電磁場との結び付きの強さを表す量である。また、電磁場は時空の各点が持っている物理量であり、物質間の電気的作用と磁気的作用を媒介する。 電磁場としては、スカラーポテンシャルとベクトルポテンシャルの組、もしくは電場と磁場の組を考える。特にこれらの組を区別したい場合には前者を電磁ポテンシャル、後者を電磁場と呼ぶことがある。また、電場・磁場は直接的観測が可能であるが電磁ポテンシャルは観測によって一意に定めることができない。しかし、電場・磁場では説明できないが電磁ポテンシャルでは記述できる現象が存在する(アハラノフ=ボーム効果など)ので、電磁ポテンシャルの方が本質的な物理量であると考えられている。 電磁場は電荷を帯びた物体に力を及ぼす。この力をローレンツ力という。逆に、荷電粒子の存在は電磁場に影響を与える。電磁場の振る舞い、及び電荷・電流が電磁場に与える影響はマクスウェル方程式で記述される。このローレンツ力とマクスウェル方程式は、電磁気学における最も基礎的な法則である。 マクスウェル方程式の解の1つとして、電磁場の波である電磁波が得られる。電磁波は、波長や発生機構によって呼び名が変わる。電気通信などに用いられる波長の長い電磁波は電波、それより波長が短くなると光(赤外線、可視光線、紫外線)、更に波長が短い電磁波は、X線、ガンマ線などと呼ばれる。
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電磁気学
マクスウェル方程式の解の1つとして、電磁場の波である電磁波が得られる。電磁波は、波長や発生機構によって呼び名が変わる。電気通信などに用いられる波長の長い電磁波は電波、それより波長が短くなると光(赤外線、可視光線、紫外線)、更に波長が短い電磁波は、X線、ガンマ線などと呼ばれる。 ローレンツ力が作用する導体中の電子の運動をオームの法則(電流は電場に比例する、という法則)で近似し、電場の時間変化による磁場の生成(マクスウェル方程式の一部)を無視すると、準定常電流の理論が得られる。この理論は、電気工学の基礎理論であり、現代のエレクトロニクスの基礎を成している。電場の強さ(電界強度)の単位は[V/m]なので、アンテナの実効長[m]または実効高[m]を掛けると、アンテナの誘起電圧 [V]になる。 電磁光学は、光は電磁波であるという立場から光の性質を論ずる学問である。ここでも電磁気学におけるマクスウェル方程式が基礎となっている。 19世紀末、多くの物理学者は「全ての物理現象はニュートン力学、ローレンツ力、マクスウェル方程式で原理的には説明できる」と考えていた。 しかしその後、ニュートン力学と電磁気学では説明できない現象が次々に発見された。光電効果、黒体放射のエネルギー密度、コンプトン効果は光を粒子であると考えると説明できるが、このことは電磁気学における「光は電磁波である」という描像に反する。また、電磁気学によればラザフォードの原子模型は安定に存在しえないことが結論づけられるが、実際の原子は安定である。 ニュートン力学・電磁気学で記述できないようなこれらの現象を記述しようと努力した結果が、量子力学という全く新しい物理学の誕生である。 1940年代には、電磁気学の量子論である量子電磁力学(QED)が完成した。量子電磁力学では、電磁場と荷電粒子の場の両方が量子化され、荷電粒子間の相互作用は電磁場の量子である光子の交換として理解される。 マクスウェル方程式によると、真空中の電磁波の速度は慣性系の選び方によらない基本的な物理定数(電気定数と磁気定数)だけで定まる。実際、真空中の光速は慣性系によらず一定であること(光速度不変の原理)は実験的に立証されている。特殊相対性理論は、この光速度不変の原理と特殊相対性原理を指導原理として、アインシュタインが構築した理論である。
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マウンテンバイクレース
マウンテンバイクを使用し、山間部の未舗装路などでおこなわれるのがマウンテンバイクレースである。1990年にクロスカントリーの世界選手権が初開催され、1992年にダウンヒルが加えられた。1996年のアトランタオリンピックからクロスカントリーが公式種目となっている。 レースの種類として代表的なものは以下のようなものである。 周回コースを一定距離走り、ゴール順を競う競技。1996年アトランタオリンピックから正式競技となった。オリンピック用に定められた競技形態で、現在のクロスカントリーの公式競技はこれに準拠して開催されている。1周4〜6kmの周回路を使い、エリートカテゴリで1時間30分から1時間45分の競技時間と定められている。 コースには2箇所以上のフィード/テクニカルアシスタンス・ゾーン(飲料、食糧、機材補給所)が設けられる。 マラソンクロス、クロスマウンテンとも。 60km~120kmの非常に長いオフロードコースを走破する競技。日本ではセルフディスカバリーアドベンチャー・王滝村が有名。 下りコースで構成されるデュアルスラローム/デュアル/4Xに対して、登りを含めたコースで競われるのがクロスカントリー・エリミネーター(英語版)である。4名または6名が横並びで出走し、上位2名または3名が次戦に進むトーナメント形態で行われる。競技距離は500mから1kmで、シングルトラック部分がないこと、180度を超えるコーナーはないこと、スタートとゴールは離されること、などが定められている。自然、もしくは人工の障害物をコース上に設置可能なことが特徴で、コース上に階段(上り下り)や人工的なドロップなどを設けることが出来る。 2km以内の周回コースで20-60分で競われる競技。2019年からMTBワールドカップでXCOのスタート順を決める予選として採用されている。設定当初はクロスカントリーショートサーキットと呼ばれていた。 主にスキー場に作られた下り主体のコースを1人ずつ走行し、タイムを競う競技。詳しくはダウンヒルを参照。
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マウンテンバイクレース
2km以内の周回コースで20-60分で競われる競技。2019年からMTBワールドカップでXCOのスタート順を決める予選として採用されている。設定当初はクロスカントリーショートサーキットと呼ばれていた。 主にスキー場に作られた下り主体のコースを1人ずつ走行し、タイムを競う競技。詳しくはダウンヒルを参照。 かつては平行した2本のコースを用いたレース(デュアルスラローム)が行われていたが、観戦の面白さを出すためコース分けを無くした2人で行うデュアルに移行し、更に2002年の世界選手権で4人でいっせいにスタートする4X(フォークロス)が開催されるに至った。デュアルは勝者、4Xは上位二名が次戦に進むトーナメント形式で行われる。なお、コースはジャンプやバンクがいたるところに設置された100~200mほどの下り斜面である。 同じく下り斜面で高度なテクニックが要求されるダウンヒルと共通し、BMX(バイシクルモトクロス)をバックグラウンドとした選手が多い。代表的なライダーとしてはブライアン・ロープス(USA)、エリック・カーター(USA)、セドリック・グラシア(FRA)などが挙げられる。 周回コースを一定時間(2時間/4時間/6時間等)で何周走行できるかを競う競技。数名からなるチームで交代しながら走行するものも多い。2014年までは日本国内で一般にエンデューロと呼ばれていたが、別にエンデューロという競技が発生したため、耐久を意味するエンデュランスに変更されている。 いくつかの繋ぎ区間とタイム計測区間を走り、タイム計測区間の合計タイムを競う競技。計測区間は基本的に下り基調だが上りを含んでも良いとされる。その為、コース設定により得意とするマウンテンバイクの種類やタイヤなどのパーツが変わるなど、趣味性の高い競技として人気がある。 オリエンテーリング競技の1つとして数えられることが多い。MTB-Oなどと略される。地図をもとに指定された場所を通過するオリエンテーリング競技をマウンテンバイクに乗りながら行うもので、ルートチョイスやナヴィゲーションの能力などが同時に問われる。
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超伝導
超伝導(ちょうでんどう、英: superconductivity)とは、電気伝導性物質(金属や化合物など)が、低温度下で、電気抵抗が0へ転移する現象・状態を指す(この転移温度を超伝導転移温度と呼ぶ)。1911年、オランダの物理学者ヘイケ・カメルリング・オンネスが実験で発見した。 超伝導状態下では、マイスナー効果(完全反磁性)により外部からの磁力線が遮断され(磁石と超伝導体との間には反発力が生ずる)、電気抵抗の測定によらなくとも、超伝導状態であることが判別できる。 その微視的発現機構は、電気伝導性物質内では自由電子間の引力が低エネルギーでは働き、その対が凝縮状態となることによると説明される(BCS理論)。したがって、低温度下では普遍的現象ともいえる。 この温度が室温程度の物質を得ること(室温超伝導)は、材料科学の重要な研究目標の一つである。 「超電導」と表記されることもある 。「超電導」の表記については、1926年(大正15年)の『理化学研究所彙報』(理化学研究所発行)の誤植がもとになっている可能性が指摘されている 。 金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する(純粋な金属の抵抗率は温度の3乗に比例する)。この原因は、温度の上昇に伴う格子振動の増大により、伝導電子がより散乱されるためである。この性質から、絶対零度に向けて純粋な金属の電気抵抗はゼロになることが昔から予想されていた。 このことを検証する過程で、1911年にヘイケ・カメルリング・オンネスによって超伝導が発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22 K、アルミニウムは1.20 Kとなる。 特定の物質が超低温に冷やされた時に起こる現象は「超伝導現象」(英: superconductivity phenomenon)、超伝導現象が生じる物質のことは「超伝導物質」(英: superconductor)、超伝導物質が超伝導状態にある場合「超伝導体」と呼ばれる。 液体窒素の沸点である−196°C (77 K) 以上で超伝導現象を起こすものは特に高温超伝導物質 (英: cuprate superconductor) と呼ばれる。
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超伝導
液体窒素の沸点である−196°C (77 K) 以上で超伝導現象を起こすものは特に高温超伝導物質 (英: cuprate superconductor) と呼ばれる。 物質が超伝導状態になることは相転移の一種であり、超伝導相に移り変わる温度を、(超伝導)転移温度という。超伝導に転移する前の相は常伝導という。 超伝導体には電気抵抗がゼロになる他にも、物質内部から磁力線が排除されるマイスナー効果によって「磁気浮上」現象を起こす。この時、磁力線の強度への応答の違いから第一種超伝導体 (英: type-I superconductor) と第二種超伝導体 (英: type-II superconductor) とに分類される。第二種超伝導体では磁力線の内部侵入を部分的に許すことで高強度の磁力に対してマイスナー効果が発生する。第二種超伝導体では、ピン止め効果によりゼロ抵抗を維持している。 ゼロ抵抗ではあるが電流が無限量で流れるわけではなく上限値があり飽和電流と呼ばれる。超伝導電流は伝導体の内部ではなく表面を流れるという特性により、飽和電流は伝導体径の一乗にしか比例せず、伝導体径の二乗に比例して伝導体内部を流れる常伝導電流に比べ、径の1/4に半比例して減少する。よって同じ飽和電流を得るための伝導体線径は常電導よりも非常に太くなる。 これらの現象はいずれも、量子力学的効果によって起きていると考えられ、基本的機構はBCS理論によって説明される。ただし、高温超伝導体の引力機構に対しては、BCS理論の電子・格子振動相互作用だけでは説明がつかず物理学の未解決問題の一つである。 超伝導は、日常では扱わない低温でしか発生しない現象で、その冷却には高価な液体ヘリウムが必要なことから、社会での利用は特殊な用途に限られていた。 20世紀末にようやく上限温度(転移温度)が比較的高く安価な液体窒素で冷却できる高温超伝導体が相次いで発見されてから一般への認知も大きく進んだ。今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。 2019 年現在、超伝導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向上技術開発」である 。 また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。
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超伝導
2019 年現在、超伝導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向上技術開発」である 。 また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。 1911年、オランダのヘイケ・カメルリング・オンネスによって「純度の高い金属が容易に得られる水銀を液体ヘリウムで冷却していったとき、温度4.20 Kで突然電気抵抗が下がり4.19 Kではほぼゼロの10万分の1Ω以下になる現象」が報告された。ヘリウムの液化と超伝導の発見によって1913年にノーベル物理学賞が授与された。 1933年にドイツのヴァルター・マイスナーによって超伝導体が外部磁場を退けるマイスナー効果が発見された。これにより、超伝導体は完全導体とは異なることが決定付けられた。1935年にロンドン兄弟(フリッツ・ロンドン、ハインツ・ロンドン)が発表したロンドン方程式により、マイスナー効果は理論的に説明された。 1950年ヴィタリー・ギンツブルグとレフ・ランダウが、上記ロンドン理論より一歩進んだ現象論であるギンツブルグ-ランダウ理論を発表した。この理論には、超伝導の程度を表すオーダーパラメータが使われた。 1953年に最高転移温度17 Kを示すニオブスズ (Nb3Sn) が発見された。これは結晶構造からA15型超伝導体とよばれた。 1957年に発表されたジョン・バーディーン、レオン・クーパー、ジョン・ロバート・シュリーファーらのBCS理論により、超伝導現象の基本的な発現機構が解明された。 1980年代に発見された銅酸化物高温超伝導体や、21世紀になって見つかった二ホウ化マグネシウム (MgB2) 、2008年に報告された鉄系超伝導物質などを実用化する試みが続いている。 2020年10月14日には267GPaの高圧下ながら炭素質水素化硫黄(CH8S)が、287.7K(15°C)で超伝導状態になることをニューヨーク州ロチェスター大学のグループが発見、Nature紙で報告し、初の摂氏0°Cを超える報告となった(高温超伝導を参照)。 より高い温度で超伝導を起こす物質を探すなど、最初の発見から100年以上経った2020年現在でも超伝導についての研究が盛んに行なわれている。
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超伝導
2020年10月14日には267GPaの高圧下ながら炭素質水素化硫黄(CH8S)が、287.7K(15°C)で超伝導状態になることをニューヨーク州ロチェスター大学のグループが発見、Nature紙で報告し、初の摂氏0°Cを超える報告となった(高温超伝導を参照)。 より高い温度で超伝導を起こす物質を探すなど、最初の発見から100年以上経った2020年現在でも超伝導についての研究が盛んに行なわれている。 超伝導現象の発見以降、超伝導を示す物質として多くの元素や化合物が発見されている。アルカリ金属、金、銀、銅などの電気伝導性の高い金属は超伝導にならない。単体の元素で最も超伝導転移温度が高いものは、ニオブの9.2 K(常圧下)である。常圧下において超伝導を示す金属は多いが、そうでない金属、あるいは非金属元素でも高圧下で金属化と同時に超伝導を示すものがある。また、重い電子系における超伝導や、高温超伝導、強磁性と超伝導が共存する物質など従来の超伝導物質と性格の異なるものも発見されている(高温超伝導を参照)。 一部の有機化合物には超伝導を示す。それらは有機超伝導体として分類される。 超伝導現象は、超高感度の磁気測定装置 (SQUID) や医療用核磁気共鳴画像撮影 (MRI) 装置など、測定用に超伝導電磁石を使用する用途においては既に広く実用されている。しかし、これらの応用例でも冷却に高価な液体ヘリウムが用いられており、普及の大きな障害となっている。産業用途では実用化の技術開発が進んでいる超伝導モーターが最も期待されている。電力貯蔵の用途では瞬間停電を補償するために高い出力、短い応答速度が着目され、実用化されるに至っているが、現状では大電力を貯蔵するには至らずバッテリーなどよりコンデンサーに近い。また送電線については、生み出された電力のうちの数%は電気抵抗による送電ロスによるものとされており、室温超伝導が実現されれば、このロスを減らすことのできる画期的なテクノロジーとして期待されている。 以下に利用例を示す。
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Scheme
Scheme(スキーム)はコンピュータ・プログラミング言語 LISPの方言のひとつで、静的スコープなどが特徴である。仕様(2017年現在、改7版まで存在する)を指すこともあれば、実装を指すこともある。Schemeにより、LISP方言に静的スコープが広められた。 Schemeは、MIT AIラボにて、ジェラルド・ジェイ・サスマンとガイ・スティール・ジュニアによって1975年頃に基本的な設計がなされた。動機は、カール・ヒューイットの提案によるエレガントな並行計算モデル「アクター」と、同じくその言語のPLASMA(Planner-73)を理解するためであった。 静的スコープ(ALGOL由来とされる)は、状態を持つデータであるアクタ(クロージャ)の実現以外にも、lambda 構文を用いたλ計算や末尾再帰の最適化に不可欠な機構であった。 また、プログラムの制御理論から当時出てきた継続及びアクタ理論におけるアクタへのメッセージ渡しの概念から触発された継続渡し形式と呼ばれるプログラミング手法は以後の継続の研究に大きな影響を与えた。 MIT人工知能研究所においては以下のとおりLISPに始まるいくつかの言語が作られた。 この中でカール・ヒューイットが設計した規則ベースの言語 Planner はあまりに複雑な機構を持っていたため当初設計された全機能の実装は困難であり、サスマン等はそれをサブセット言語の Micro-Planner として実現し、さらには、 Planner の流れを汲んだ独自言語として Conniver を作成した。 同じくカール・ヒューイットが設計したアクタ言語 Plasma (Planner-73) も複雑な機構を持っていたため、MacLisp による実装が存在したものの、その動作の仕組みを理解するのは困難であった。サスマン及びガイ・スティール・ジュニアは Plasma を理解するために、不要な機能を省いた LISP 構文を持つ小さな Plasma を設計した。
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Scheme
同じくカール・ヒューイットが設計したアクタ言語 Plasma (Planner-73) も複雑な機構を持っていたため、MacLisp による実装が存在したものの、その動作の仕組みを理解するのは困難であった。サスマン及びガイ・スティール・ジュニアは Plasma を理解するために、不要な機能を省いた LISP 構文を持つ小さな Plasma を設計した。 上記の Plasma からその小さな Plasma の設計に至る過程は Planner から Micro-Planner 及び Conniver へ至る過程を彷彿とさせるものであったため、その言語は Planner(計画する者)及び Conniver(策略を巡らす者)の次という意味で当初 Schemer(陰謀を企てる者)と名付けられた。しかし、当時のオペレーティングシステムのファイルシステムの制限からファイル名が6文字に切られたことから Scheme という名前が使われるようになった。 マッカーシーが後に回顧で、初期のLISP(LISP 1 および LISP 1.5)に関して「In modern terminology, lexical scoping was wanted, and dynamic scoping was obtained.」と書いているように、計算理論的にも静的スコープが本来は「正当」であり、動的スコープは、言ってしまえばある種の安易なインタプリタの実装手法が招く「バグ」である(有用なことも多いが)。 ガイ・スティールは、LISP 1.5 からの変更点として最初に静的スコープの採用と実装を挙げており、サスマンがAlgolに関して持っていた興味からによるもので、Algolの直接の影響だと述べている。 FUNARG問題(英語版)としてLISPの初期から既に認識され議論されていたことでもあり、必ずしもSchemeから始まったとは言えないが、Scheme以後のLISP方言に静的スコープが広まったのはSchemeからの影響と言ってよく、殊にCommon Lispは特筆される。 Scheme はcall-with-current-continuation(英語版)(略称:call/cc)と呼ばれるピーター・ランディンやジョン・レイノルズに始まる脱出オペレータの命令を提供する。
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Scheme
Scheme はcall-with-current-continuation(英語版)(略称:call/cc)と呼ばれるピーター・ランディンやジョン・レイノルズに始まる脱出オペレータの命令を提供する。 Scheme の言語仕様はIEEEによって公式に定められ、その仕様は「Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (RnRS)」と呼ばれている。2016年現在広く実装されているものは改訂第五版に当たるR5RS(1998年)である。 なお、2007年9月に「The Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (R6RS)」が成立した。4部構成となり、R5RSに比べおよそ3倍の文章量となった。R5RSまでは小さな言語仕様に対してのこだわりが見られたが、Unicode サポート等の実用的な言語として必要な要素が盛り込まれている点が特徴的である。しかし、多くの機能が盛り込まれたにもかかわらず細部の練りこみが不十分であるといった批判もあり、非公式にR5RSを拡張する形でERR5RS (Extended R5RS Scheme) という規格を検討する党派も現れている。 2009年8月、Scheme 言語運営委員会は、Scheme を大規模バージョンと、大規模バージョンのサブセットとなる小さな言語仕様のふたつの言語に分割することを推奨する意向を発表した。 2013年7月、「The Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (R7RS)」 (small language) が成立した。 Scheme の仕様書はR5RSだと50ページにも満たないため、かなりの数の実装が存在する。
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Scheme
2013年7月、「The Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (R7RS)」 (small language) が成立した。 Scheme の仕様書はR5RSだと50ページにも満たないため、かなりの数の実装が存在する。 Scheme は言語機能を必要十分の最低限まで単純化することを目指した言語である。そのため仕様書が簡素な反面、実用に際して各種のライブラリが乱立し、移植性が問題になっていた。そこで実装間の統一をとるため、コミュニティ内の議論を集約しているのが「Scheme Requests for Implementation (SRFI)」である。SRFI ではライブラリ仕様、言語拡張仕様などがインデックス化されており、SRFI 準拠の実装系は「◯◯に準拠」といった形で利用者の便宜を図ることができる。 なお、Scheme では言語機能とライブラリ機能は分けて考えられているため、SRFI と Scheme 言語仕様のコミュニティは原則分離している。 Scheme はしばしば他のアプリケーションの拡張用言語として使われる。代表的なアプリケーションには以下のようなものがある。 より専門的な応用としては、映画ファイナルファンタジーのために3Dレンダリングエンジンに Scheme インタプリタを組み込んだ例や、リトルウイングのピンボールコンストラクションシステムの記述に Scheme を使った例がある。 Android 用の App Inventor では、Scheme コンパイラである Kawa を使ってJava仮想マシン用のバイトコードを生成している。
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エドガー・ダイクストラ
エドガー・ダイクストラ(Edsger Wybe Dijkstra, 1930年5月11日 - 2002年8月6日)は、オランダ人の計算機科学者。1972年、プログラミング言語の基礎研究への貢献に対してチューリング賞を受賞。構造化プログラミングの提唱者。1984年から2002年に亡くなるまでテキサス大学オースティン校の計算機科学の Schlumberger Centennial Chair を務めた。 2002年の死の直前、プログラム計算の自己安定化(英語版)についての仕事に対して ACM PODC Influential Paper Award を授与された。この賞は翌年からダイクストラを称えてダイクストラ賞(英語版)と呼ばれるようになった。 エズガー・ダイクストラと表記されることもある。オランダ語での発音は、IPA表記で /ˈɛtsxər ˈwibə ˈdɛɪkstra/ で、エツハー・ウィベ・デイクストラに近い。 ロッテルダム生まれ。ライデン大学で理論物理学を学んだが、コンピュータ科学の方に興味があることに気が付くのに時間はかからなかった。最初にアムステルダムの国立数学研究所 (Mathematisch Centrum) に職を得たが、オランダのアイントホーフェン工科大学で教授職を得る。1970年代初期にはバロースのフェローとしても働いた。その後、アメリカのテキサス大学オースティン校に移り、2000年に引退した。 彼のコンピュータ科学に関する貢献としては、グラフ理論の最短経路問題におけるダイクストラ法、逆ポーランド記法とそれに関連する操車場アルゴリズム、初期の階層型システムの例であるTHEマルチプログラミングシステム、銀行家のアルゴリズム、排他制御のためのセマフォの考案などがある。分散コンピューティング分野では自己安定化(英語版)というシステムの信頼性を保証する手法を提案した。ダイクストラ法は SPF (Shortest Path First) で使われており、それがOSPFやIS-ISといったルーティングプロトコルで使われている。操車場アルゴリズムやセマフォ(鉄道でかつて使われた腕木式信号機)に代表されるが、鉄道を使用した説明でも知られる。
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エドガー・ダイクストラ
1950年代には、当時の他のコンピュータ科学者やプログラマたちと同様、機械語ないし、FORTRANのような当時一般的だった非構造的な言語によってプログラミングをしていたが、その後早くから大規模なプログラムをバグが無いように書くことの困難さについて警鐘を鳴らした一人であった。1960年代後半に「構造化プログラミング」を掲げ、プログラミングの改善について多くの文献や発言を残した。当時のプログラミングでは、ループや条件分けなどの、あらゆる制御構造を「goto文一本槍」で書くしかなかったわけだが、その問題点を指摘した "A Case against the GO TO Statement" という文章をしたためる(注: ダイクストラには、ホーアやクヌースなど、似た問題意識を持っていた他のコンピュータ科学者らとの手紙や学会関係の集まりでの交流にもとづき、改訂を重ねたことにより、いくつかのバージョンのある文章が多い)。 しかしその主張は「goto文除去運動」といったように単純化されて捉えられることも多く、クヌースによれば1971年には、情報処理国際連合(IFIP)の国際会議で会った後藤英一(Eiichi Goto)が、いつも「除去」されて困るとジョークを言っていた、という(ほどに、単純化された解釈が広まっていた、ということ)。
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エドガー・ダイクストラ
しかしその主張は「goto文除去運動」といったように単純化されて捉えられることも多く、クヌースによれば1971年には、情報処理国際連合(IFIP)の国際会議で会った後藤英一(Eiichi Goto)が、いつも「除去」されて困るとジョークを言っていた、という(ほどに、単純化された解釈が広まっていた、ということ)。 前述の "A Case against the GO TO Statement" はコンピュータ科学の国際学会ACMに投稿され、『Go To 文は有害とみなされる』("Go To Statement Considered Harmful") という刺激的な題名で学会誌(CACM)にレターとして掲載された(この出来事は、やはりクヌースによれば「go to文除去の話の二番目の場面は,多くの人たちが第一幕だと思っている事実」となった)。刺激的な題名はダイクストラ本人が付けたものではなく、当時編集を担当していたニクラウス・ヴィルトが付けたもので、すぐに掲載できるレター扱いを決めたのもヴィルトである。これは後に、"considered harmful" というフレーズが業界の定番となった原点でもある。1972年には、アントニー・ホーアとオーレ=ヨハン・ダールとの共著で、"Structured Programming" という題名の書籍に、3人のそれぞれの主要分野(ホーアはホーア論理が著名なように形式手法、ダールはSimulaの設計者の一人であり、データ抽象(後のオブジェクト指向につながる)に関して解説した)に基づく、よりよいプログラミングについてまとめた。 以上のような立場から、BASICを教育に使うことにも強く反対し、(マイコン普及以前の1975年の時点で既に)mentally mutilated beyond hope of regeneration(回復の望みがないほどに精神をダメにされる)といった強い調子で否定する言葉を残している。ほぼ同じことをマイコン普及初期の1984年にも述べている(EWD898)。これも、当時に少年期を過ごし、BASICを使っていた現代のコンピュータ科学者などが、「私は無事だったようです」等とネタにすることがある。
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エドガー・ダイクストラ
ダイクストラは ALGOL 60 のファンとしても知られ、最初のコンパイラを実装したチームにも参加していた。そのコンパイラ開発に関わった Jaap Zonneveld とダイクストラはプロジェクトが完了するまで髭を剃らないという誓いを立てた。それは、世界初の再帰をサポートしたコンパイラの1つである(現代では戻り番地や引数をスタックに積む、という再帰できるようにするための処理は、空気のように当たり前のことになっているので特記事項である意味がわからないかもしれないが、それ以前にあったコンパイラ、例えば「世界最初のコンパイラ」と言われることのあるひとつである、IBMによるFORTRANコンパイラは、理由あって最適化等は追求していたものの、実行時に関数を再帰呼出しすることはサポートしていなかった)。 1968年には、THEと呼ばれるマルチプログラミング方式のオペレーティングシステムの構造に関する論文と、"Cooperating Sequential Processes" についての論文を発表している。 1970年代になると、ダイクストラの主要な興味は形式的検証に移っていった。当時の一般的手法は、とりあえずプログラムを書いてからその正当性を数学的に証明するというものであった。ダイクストラはこれに対して、検証に時間がかかって面倒であるし、プログラムの開発手法に何ら洞察を与えない点が問題であるとした。一方「検証とプログラミングを同時に行う」のが「プログラム導出」と呼ばれる別の手法である。まず、プログラムの動作に関する数学的な「仕様」を記述し、その仕様に数学的な変換を加えて最終的にプログラムを導き出す。このように作成されたプログラムは「構造上正しい」ことが知られている。ダイクストラの後期の仕事は、この数学的手法を効率化することに関係している。2001年のインタビューで彼は「優雅さ」への渇望について述べていた。すなわち、完全さを求めるのではなく、思考を精神的に処理することが正しいアプローチであると。彼はたとえ話としてモーツァルトとベートーヴェンの作曲法を対比させている。
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エドガー・ダイクストラ
ダイクストラは分散コンピューティングの先駆者の1人でもある。例えば、彼の "Self-stabilizing Systems in Spite of Distributed Control" という論文は自己安定化(英語版)というサブフィールドを創始した。 コンピュータ科学やプログラミングについての彼の意見は広範囲に及んだ。例えば、あるデータ構造の複数のインスタンスを処理している場合、経験則としてそのロジックをループ内にカプセル化すべきだと示唆し、また、プログラミングが本来非常に難しく複雑であり、プログラマはその複雑性をうまく管理するために可能な限り技巧と抽象化を利用する必要がある、という主張をした。 「コンピュータ科学」という用語が、(情報理論などといった)実際には必要な抽象的性質について当を得ていない、とする以下のような発言もあった(EWD924、なお日本では「情報科学」など、ある程度それを補うような語が併用されている)。
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エドガー・ダイクストラ
「コンピュータ科学」という用語が、(情報理論などといった)実際には必要な抽象的性質について当を得ていない、とする以下のような発言もあった(EWD924、なお日本では「情報科学」など、ある程度それを補うような語が併用されている)。 A confusion of even longer standing came from the fact that the unprepared included the electronic engineers that were supposed to design, build, and maintain the machines. The job was actually beyond the electronic technology of the day, and, as a result, the question of how to get and keep the physical equipment more or less in working condition became in the early days the all-overriding concern. As a result, the topic became —primarily in the USA— prematurely known as "computer science" —which, actually is like referring to surgery as "knife science"— and it was firmly implanted in people's minds that computing science is about machines and their peripheral equipment. Quod non.
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エドガー・ダイクストラ
(訳)(コンピュータを操作するという)仕事は実のところ当時の電子工学技術の域を超えていて、物理的装置を動作可能にしてその状態を保つことが当初は何にも増して重要な課題だった。結果として特にアメリカでは「コンピュータ科学」という用語が時期尚早な形で使われるようになり(実際、それは外科を「ナイフ科学」と呼ぶようなものである)、それが計算機と周辺機器についての科学であるという概念が人々の心に強く植えつけられた。Quod non(ラテン語で「それは正しくない」) 長年の癌との戦いの末、2002年8月6日、オランダのニューネンで亡くなった。 以下の言葉は、「ダイクストラの箴言」として引用されることが多い。 彼はまた、万年筆で慎重に原稿を書く習慣があることでも知られていた。ダイクストラは原稿に自分のイニシャルである EWDという記号と番号を付与したため、彼の原稿は一般に EWD と呼ばれている。ダイクストラ自身によれば、アムステルダムの数学研究所を離れてアイントホーフェン工科大学に移った後、この習慣が始まったという。アイントホーフェンに移った後、ダイクストラは1年以上何も書けない状態が続いた。自分を省みたダイクストラは、数学研究所の元同僚が理解するようなことを書けばアイントホーフェンの同僚には理解されず、アイントホーフェンの同僚が望むようなことを書けば数学研究所の元同僚に軽蔑されるという懸念があることを発見する。そこで彼は自分自身のためだけに書くことを決め、EWDが生まれた。ダイクストラは新たに EWD を書き上げると、そのコピーを同僚に配布した。それがさらにコピーされて世界中に配布されていき、計算機科学界全体に広がったのである。主題は計算機科学か数学であるが、一部は旅行記だったり、手紙だったり、講演記録だったりする。1300以上のEWDが電子化され、テキサス大学のダイクストラのアーカイブで検索・入手可能である。
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エドガー・ダイクストラ
ダイクストラの空想上の副業として、空想上の企業 Mathematics Inc. の会長という仕事があった。この企業はコンピュータのプログラム製造を商業化したソフトウェア企業のように、数学の定理を製造することを商業化した会社である。彼は Mathematics Inc. の様々な活動や課題を考案し、それをEWDシリーズのいくつかの文書で発表している。この空想上の企業はリーマン予想の証明を製造したが、リーマン予想が正しいと仮定して様々な証明を行ってきた数学者たちからロイヤルティーを徴収するという難題に直面する。証明そのものは企業秘密 (trade secret) である。同社の証明の多くは急いで生産され、同社はそれらの保守に追われることになった。より成功した成果として、ピタゴラスの定理の標準的証明があり、100以上存在した既存の証明群を置換した。ダイクストラは Mathematics Inc. について「これまでに考案された最もエキサイティングで最もみじめなビジネス」と評した。EWD 443 (1974) では彼の想像した会社が世界の75%のシェアを獲得したとされている。 ダイクストラはソフトウェアについて様々な発明をしたが、自分のコンピュータを所有したのは比較的遅く、しかもめったに使わなかった。1972年以降のEWDはほとんどが手書きである。講義の際は黒板にチョークで書き、オーバーヘッドプロジェクタも滅多に使わなかった。アップルのMacintoshを購入してからも、電子メールとWebブラウザ以外には使わなかった。 以下のような賞と栄誉を受けている。
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バンド理論
固体物理学における固体のバンド理論(バンドりろん、英: band theory)または帯理論とは、結晶などの固体物質中に分布する電子の量子力学的なエネルギーレベルに関する理論を言う。1920年代後半にフェリックス・ブロッホ、ルドルフ・パイエルス、レオン・ブリルアンらによって確立された。なお、価電子帯の最高部(英: valence band maximum, VBM)と伝導帯の最低部(英: conduction band minimum, CBM)とのエネルギー差をバンドギャップといい、価電子帯での電子が占める最高エネルギー準位をフェルミ準位という 量子力学によると、束縛状態の電子が取りうるエネルギー準位は、特定の準位のみに限定され飛び飛びに(離散的に)なる。しかし、固体中の外殻電子は、隣接する原子の電子との相互作用によって、電子の取りうるエネルギー準位の幅が広がって連続的(バンド構造)になる。 一方で、電子が取りえないエネルギー準位も依然として存在し、バンドとバンドの間の空隙(ギャップ)となる。これをエネルギーバンドギャップという。 ブロッホの定理によると、結晶中の電子の波動関数(結晶中の電子の電子状態)は、波数と呼ばれる量子数によって指定される。このことが、エネルギーと波数の関係式が原理的に書き下せることを保障している。 エネルギーバンドの特徴は、絶縁体と金属の違いを説明することができる。絶縁体や半導体では、フェルミ準位は価電子帯と伝導帯の間のギャップの中に存在するため、自由電子が存在しない。一方、金属はエネルギーバンドの中にフェルミ準位が存在するため、バンドギャップを超えることなく電子がエネルギーを得ることができる、すなわち、わずかなエネルギーで電子を動かすことができる(電流が流れる)。このような絶縁体、金属の分類の描像は20世紀の半ばには確立されていた。しかし単純なバンド理論では説明できない絶縁状態(モット絶縁体)も存在し、強相関電子系と呼ばれる分野で研究されている。
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スラッシュ (記号)
スラッシュ (slash)、スラント (slant)、ソリドゥス (solidus)、または斜線(しゃせん)は、約物の一つで、「/」と書き表される。 ただし、斜線と言う場合には、いわゆるバックスラッシュ(\)や、約物以外のさまざまな斜めの線が含まれるので、一般にはスラッシュと呼ばれることが多い。 算用数字で表した年月日または月日の区切りとして用いる。日付の順序は国・言語によって異なり、これを「エンディアン」という。 例えば、2010年11月8日は次のとおりである。()内の表記は年を省略した11月8日を表す。 日付と時間の国際規格であるISO 8601では、ビッグエンディアンのみが認められており、かつ区切りにはスラッシュは用いず、「-」(ハイフン)を用いる。なお、年を省略した「11-08」のような記法は存在しない。 西暦を下二桁で表記する慣用もあり、また2桁になるように0(ゼロ)を先行させる場合もある(ISO 8601では4桁が必須)。その場合は、 ISO 8601では、スラッシュは期間を表す。例えば、「2004-01-31/2005-01-30」は「2004年1月31日から2005年1月30日」を表す(ISO 8601#期間、時間間隔)。 ヨーロッパ諸国では、ユリウス暦からグレゴリオ暦への移行時期に、混乱を防ぐため、ユリウス暦とグレゴリオ暦の日付をスラッシュを挟んで併記していた。 現代のコンピュータキーボードには標準的に装備されている。
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地衣類
地衣類(ちいるい)は、菌類(主に子嚢菌や担子菌)のうち、藻類(主にシアノバクテリアあるいは緑藻)を共生させることで自活できるようになった生物である。一見ではコケ類(苔類)などにも似て見えるが、形態的にも異なり、構造は全く違うものである。 地衣類は、陸上性で、肉眼で見えるが、ごく背の低い光合成生物である。その点でコケ植物に共通点があり、生育環境も共通している。それゆえ多くの言語において同一視され(日本語でも地衣類の和名の多くが「○○ゴケ」である)、生物学の分野においても、1868年にスイスの植物学者であるジーモン・シュヴェンデナーが菌類と藻類とが共生しているとする説を提唱するまでコケ植物とされていた(生物学の用語としての「共生」が生まれたのも地衣類の研究からとされる)。 しかし地衣類の場合、その構造を作っているのは菌類である。大部分は子嚢菌に属するものであるが、それ以外の場合もある。菌類は光合成できないので独り立ちできないのだが、地衣類の場合、菌糸で作られた構造の内部に藻類が共生しており、藻類の光合成産物によって菌類が生活するものである。藻類と菌類は融合しているわけではなく、それぞれ独立に培養することも不可能ではない。したがって、2種の生物が一緒にいるだけと見ることもできる。ただし、菌類単独では形成しない特殊な構造や、菌・藻類単独では合成しない地衣成分がみられるなど共生が高度化している。 このようなことから、地衣類を単独の生物のように見ることも出来る。かつては独立した分類群として扱うこともあり、地衣植物門を認めたこともある。しかし、地衣の形態はあくまでも菌類のものであり、例えば重要な分類的特徴である子実体の構造は完全に菌類のものである。また同一の地衣類であっても藻類は別種である例もあり、地衣類は菌類に組み込まれる扱いがされるようになった。現在の判断では「特殊な栄養獲得形式を確立した菌類」である。国際植物命名規約では1952年の改訂から、地衣類に与えられた学名はそれを構成する菌類に与えられたものとみなすと定めている。
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地衣類
菌類が藻類を確保することを地衣化という。地衣を構成する菌類は子嚢菌類のいくつかの分類群にまたがっており、さらに担子菌類にも存在する。したがって独立して何度かの地衣類化が起こったのだと考えられている。また、子嚢胞子など有性胞子の形成が見られないものもあり、そのようなものは不完全地衣類と呼ばれていたが、現在は分子系統解析により科以上の上位分類群を推定できるようになり、大多数の不完全地衣類は子嚢地衣類に属することが明らかになった。 繁殖は有性生殖と無性生殖がある。 有性生殖は菌の所属する群に特有の胞子による。多くは子嚢菌なのでこれについて説明する。 子嚢胞子は小さなキノコ状の子実体を作り、そこに形成される。子実体の形は、大きくは3通りあり、皿状の裸子器(らしき)、壺状の被子器(ひしき)、溝状に細長いリレラである。胞子はその内部の子嚢の中に減数分裂によって形成され、上に放出される。胞子が好適な場で発芽すると、藻類を取り込んで成長する。従って地衣体を構成する菌糸は単相である。 また、無性生殖のための器官として、地衣体の一部を粒状や粉状の構造として、これを分離して散布するものがある。これを芽子という。このようなものは内部に藻類を持って分散するので、すぐに成長を始めることができる。 地衣類はその形態から、葉状地衣類、痂状地衣類、樹状地衣類に大別される。この分け方は必ずしも分類体系を反映するものではないが、同定する上では参考になる。 これらとは異なる形態として、希少な担子菌地衣類の一つであるカレエダタケ科のシラウオタケ(Multiclavula mucida)が挙げられる。シラウオタケは、主にブナ林において倒木上に発生するが、倒木上に緑藻を伴っており、地衣化している。 見かけがコケと同じようなものであるのと同様、生育環境もコケと共通するものが多い。背の高いものが少ない点も共通である。 地表、岩の上、樹皮上などに着生するものが多い。樹皮についていても樹木から栄養を得ているわけではない。霧のかかるような所では種類が多いことも同様である。日本の温帯林では、サルオガセが樹上から垂れ下がるのが、よく目立つ森林がある。都会でもコンクリートの表面に出るものがある。
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地衣類
見かけがコケと同じようなものであるのと同様、生育環境もコケと共通するものが多い。背の高いものが少ない点も共通である。 地表、岩の上、樹皮上などに着生するものが多い。樹皮についていても樹木から栄養を得ているわけではない。霧のかかるような所では種類が多いことも同様である。日本の温帯林では、サルオガセが樹上から垂れ下がるのが、よく目立つ森林がある。都会でもコンクリートの表面に出るものがある。 他の植物が生育できないような厳しい環境に進出できる。低温、高温、乾燥、湿潤などの環境をはじめとして、極地など寒冷な地域や、火山周辺など有毒ガスの出る地域にも特殊なものが生育する。この点、地衣類は菌類と藻類の共生体だが、そのどちらよりも厳しい環境に耐えることができる。 他方、水中や雪の上、室内や光の届かない洞窟などには生育しない。光合成や空気中の水分に依存するため大気汚染に弱いことも指摘されている。樹皮上に着生するウメノキゴケなどの地衣類は、自動車の排気ガスに弱く、樹木に着生する地衣類は大気汚染の良い指標となることが知られ、たとえば公園の樹木を見ても、大通り側の樹木には地衣類が着生していない、といった現象がたやすく観察される。国立科学博物館などが1970年代から静岡市清水区でウメノキゴケを調査したところ、二酸化硫黄の年間平均濃度が0.02ppm以上になると弱って減り、工場の排煙規制が進むと工業地帯の清水港周辺で回復し、一方で自動車が多い国道1号沿道で確認できない調査地点が増えた。また東京都などによるディーゼル車規制で、皇居で見つかる地衣類の種類が21世紀に入って増えた。そういった意味では指標生物としても利用される。 地衣類は成長が遅く(年数ミリメートル程度)、寿命が長い。個々の部分は特定の季節に急に出てきたりすることはなく、だいたいどの季節も同じような姿をしている。従って、観察はどの時期にでも出来る。
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地衣類
地衣類は成長が遅く(年数ミリメートル程度)、寿命が長い。個々の部分は特定の季節に急に出てきたりすることはなく、だいたいどの季節も同じような姿をしている。従って、観察はどの時期にでも出来る。 地衣類は基本的には菌類ではあるがそのような感覚では培養が難しく、また成長が非常に遅いため、そういった方法では扱い難い。大きさはコケ並みであるから野外での観察採集が可能であるから、実際には野外で探しながら採集するのが普通の収集方法である。しかし、コケと異なり、その構造が菌糸であり、一回り細かい。たとえば痂状地衣は基質に完全に密着している。樹皮につくものなら樹皮ごと削り取れば採集できるが、岩に張り付いているものはかち割らねば取れない。さらにその構造はコケより単純であり、肉眼でも虫眼鏡でも届かないレベルである。その一部は化学物質でしか区別するのは困難である。 10種類ほどが漢方薬の原料になるほか、抗生物質など有用成分を抽出する研究が1950年代以降進められている。サルオガセ(Usnea)属のナガサルオガセ(Usnea longissima)、ヨコワサルオガセ(Usnea diffracta Vain.)は、マツ(松)類によく着生することから松蘿(しょうら)ともいい、中国や韓国では、乾燥したものを漢方薬として用いている。利尿作用や強壮作用があるという。 酸性アルカリ性の判定に使うリトマス紙は地衣類であるリトマスゴケから得られる。また、ヨーロッパにおいては古くから多くの地衣類が染色用として用いられてきた。さらにロウソクゴケは鮮やかな黄色を蝋燭の染色に用いたためこの名がある。防虫や腐食防止などの効果を持つ、地衣類から得られるこうした成分を「地衣成分」と呼ぶ。 イワタケ、バンダイキノリは食用にされる。 中国ではムシゴケ(Thamnolia vermicularis)を乾燥させたものが茶として利用されている。この「雪茶」を大量に摂取したためと疑われる肝機能障害が報告されている。 ハナゴケ類などがトナカイゴケと呼ばれ、北極圏ではトナカイなど家畜の餌に利用されることもある。また、ハナゴケの仲間はそのままの形で緑に染めて、鉄道模型やジオラマの樹木として用いられることもある。
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地衣類
中国ではムシゴケ(Thamnolia vermicularis)を乾燥させたものが茶として利用されている。この「雪茶」を大量に摂取したためと疑われる肝機能障害が報告されている。 ハナゴケ類などがトナカイゴケと呼ばれ、北極圏ではトナカイなど家畜の餌に利用されることもある。また、ハナゴケの仲間はそのままの形で緑に染めて、鉄道模型やジオラマの樹木として用いられることもある。 外見が似ており共通する性質もあるコケ植物(蘚苔類)とよく混同されるが、上記の通り、菌類と藻類の共生生物であるため全く異なる生物である。 見分け方として以下のようなものがある。 地球上に生育する地衣類は世界で約1万4,000種とも約2万種ともいわれ、現在でも多くの新種や新産種が発見される一方、多くの種名がシノニムとして整理されることも多いため、正確な種数は把握しにくいが、2018年時点で約1,800種が日本から記録されている。
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関数型プログラミング
関数型プログラミング(かんすうがたプログラミング、英: functional programming)とは、数学的な意味での関数を主に使うプログラミングのスタイルである。 functional programming は、関数プログラミング(かんすうプログラミング)などと訳されることもある。 関数型プログラミング言語(英: functional programming language)とは、関数型プログラミングを推奨しているプログラミング言語である。略して関数型言語(英: functional language)ともいう。 関数型プログラミングは、関数を主軸にしたプログラミングを行うスタイルである。ここでの関数は、数学的なものを指し、引数の値が定まれば結果も定まるという参照透過性を持つものである。 参照透過性とは、数学的な関数と同じように同じ値を返す式を与えたら必ず同じ値を返すような性質である。次の square 関数は、 2 となるような式を与えれば必ず 4 を返し、 3 となるような式を与えれば必ず 9 を返し、いかなる状況でも別の値を返すということはなく、これが参照透過性を持つ関数の一例となる。 次の countup 関数は、同じ 1 を渡しても、それまでに countup 関数がどのような引数で呼ばれていたかによって、返り値が 1, 2, 3, ... と変化するため、引数の値だけで結果の値が定まらないような参照透過性のない関数であり、数学的な関数とはいえない。 関数型プログラミングは、参照透過性を持つような数学的な関数を使って組み立てた式が主役となる。別の箇所に定義されている処理を利用することを、手続き型プログラミング言語では「関数を実行する」や「関数を呼び出す」などと表現するが、関数型プログラミング言語では「式を評価する」という表現も良く使われる。 参照透過性とは、同じ値を与えたら返り値も必ず同じになるような性質である。参照透過性を持つことは、その関数が状態を持たないことを保証する。状態を持たない数学的な関数は、並列処理を実現するのに適している。関数型プログラミング言語の内で、全ての関数が参照透過性を持つようなものを純粋関数型プログラミング言語という。
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関数型プログラミング
参照透過性とは、同じ値を与えたら返り値も必ず同じになるような性質である。参照透過性を持つことは、その関数が状態を持たないことを保証する。状態を持たない数学的な関数は、並列処理を実現するのに適している。関数型プログラミング言語の内で、全ての関数が参照透過性を持つようなものを純粋関数型プログラミング言語という。 関数型プログラミングでは、数学的な関数を組み合わせて計算を表現するが、それだけではファイルの読み書きのような外界とのやり取りを要する処理を直接的に表現できない。このような外界とのやり取りを I/O (入出力) と呼ぶ。数学的な計算をするだけ、つまり 1 + 1 のようなプログラム内で完結する処理ならば、入出力を記述できなくても問題ないが、現実的なプログラムにおいてはそうでない。 非純粋な関数型プログラミング言語においては、式を評価すると同時に I/O が発生する関数を用意することで入出力を実現する。たとえば、 F# 言語では、printfn "Hi." が評価されると、 () という値が戻ってくると同時に、画面に Hi. と表示される I/O が発生する。 Haskell では、評価と同時に I/O が行われる関数は存在しない。たとえば、 putStrLn "Hi." という式が評価されると IO () 型を持つ値が返されるが画面には何も表示されず、この値が Haskell の処理系によって解釈されて初めて画面に Hi. と表示される。 I/O アクションとは、ファイルの読み書きやディスプレイへの表示などのような I/O を表現する式のことである。 IO a という型は、コンピュータへの指示を表す I/O アクションを表現している。ここでの IO はモナドと呼ばれるものの一つである。 Clean では、一意型を用いて入出力を表す。 最初に解の集合となる候補を生成し、それらの要素に対して1つ(もしくは複数)の解にたどり着くまで関数の適用とフィルタリングを繰り返す手法は、関数型プログラミングでよく用いられるパターンである。
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関数型プログラミング
Clean では、一意型を用いて入出力を表す。 最初に解の集合となる候補を生成し、それらの要素に対して1つ(もしくは複数)の解にたどり着くまで関数の適用とフィルタリングを繰り返す手法は、関数型プログラミングでよく用いられるパターンである。 Haskell では、関数合成の二項演算子を使ってポイントフリースタイルで関数を定義することができる。関数をポイントフリースタイルで定義すると、データより関数に目が行くようになり、どのようにデータが移り変わっていくかではなく、どんな関数を合成して何になっているかということへ意識が向くため、定義が読みやすく簡潔になることがある。関数が複雑になりすぎると、ポイントフリースタイルでは逆に可読性が悪くなることもある。 関数型プログラミング言語とは、関数型プログラミングを推奨しているプログラミング言語である。略して関数型言語ともいう。全ての関数が参照透過性を持つようなものを、特に純粋関数型プログラミング言語(英語版)という。そうでないものを非純粋であるという。 関数型プログラミング言語の多くは、言語の設計において何らかの形でラムダ計算が関わっている。ラムダ計算はコンピュータの計算をモデル化する体系の一つであり、記号の列を規則に基づいて変換していくことで計算が行われるものである。 C 言語や Java 、 JavaScript 、 Python 、 Ruby などの2017年現在に使われている言語の多くは、手続き型の文法を持っている。そのような言語では、文法として式 (expression) と文 (statement) を持つ。ここでの式は、計算を実行して結果を得るような処理を記述するための文法要素であり、加減乗除や関数呼び出しなどから構成されている。ここでの文は、何らかの動作を行うようにコンピュータへ指示するための文法要素であり、条件分岐の if 文やループの for 文と while 文などから構成されている。手続き型の文法では、式で必要な計算を進め、その結果を元にして文でコンピュータ命令を行うという形で、プログラムを記述する。このように、手続き型言語で重要なのは文である。
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関数型プログラミング
それに対して、関数型言語で重要なのは式である。関数型言語のプログラムはたくさんの式で構成され、プログラムそのものも一つの式である。たとえば、 Haskell では、プログラムの処理の記述において文は使われず、外部の定義を取り込む import 宣言も処理の一部として扱えない。関数型言語におけるプログラムの実行とは、プログラムを表す式の計算を進めて、その結果として値 (value) を得ることである。式を計算することを、評価する (evaluate) という。 手続き型言語ではコンピュータへの指示を文として上から順に並べて書くのに対して、関数型言語では数多く定義した細かい式を組み合わせてプログラムを作る。手続き型言語では文が重要であり、関数型言語では式が重要である。 式と文の違いとして、型が付いているかどうかというのがある。式は型を持つが、文は型を持たない。プログラム全てが式から構成されていて、強い静的型付けがされているのならば、プログラムの全体が細部まで型付けされることになる。このように細部まで型付けされているようなプログラムは堅固なものになる。 関数型言語の開発において、アロンゾ・チャーチが1932年と1941年に発表したラムダ計算の研究ほど基本的で重要な影響を与えたものはない。ラムダ計算は、それが考え出された当時はプログラムを実行するようなコンピュータが存在しなかったためにプログラミング言語として見なされなかったにも関わらず、今では最初の関数型言語とされている。1989年現在の関数型言語は、そのほとんどがラムダ計算に装飾を加えたものとして見なせる。 1950年代後半にジョン・マッカーシーが発表した LISP は関数型言語の歴史において重要である。ラムダ計算は LISP の基礎であると言われるが、マッカーシー自身が1978年に説明したところによると、匿名関数を表現したいというのが最初にあって、その手段としてマッカーシーはチャーチのラムダ計算を選択したに過ぎない。
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関数型プログラミング
1950年代後半にジョン・マッカーシーが発表した LISP は関数型言語の歴史において重要である。ラムダ計算は LISP の基礎であると言われるが、マッカーシー自身が1978年に説明したところによると、匿名関数を表現したいというのが最初にあって、その手段としてマッカーシーはチャーチのラムダ計算を選択したに過ぎない。 歴史的に言えば、 LISP に続いて関数型プログラミングパラダイムへ刺激を与えたのは、1960年代半ばのピーター・ランディン(英語版)の成果である。ランディンの成果はハスケル・カリーとアロンゾ・チャーチに大きな影響を受けていた。ランディンの初期の論文は、ラムダ計算と、機械および高級言語 (ALGOL 60) との関係について議論している。ランディンは、1964年に、 SECD マシンと呼ばれる抽象的な機械を使って機械的に式を評価する方法を論じ、1965年に、ラムダ計算で ALGOL 60 の非自明なサブセットを形式化した。1966年にランディンが発表した ISWIM(If You See What I Mean の略)という言語(群)は、間違いなく、これらの研究の成果であり、構文や意味論において多くの重要なアイデアを含んでいた。 ISWIM は、ランディン本人によれば、「 LISP を、その名前にも表れたリストへのこだわり、手作業のメモリ割り当て、ハードウェアに依存した教育方法、重い括弧、伝統への妥協、から解放しようとする試みとして見ることができる」。関数型言語の歴史において ISWIM は次のような貢献を果たした。 ランディンは「それをどうやって行うか」ではなく「それの望ましい結果とは何か」を表現することに重点を置いており、そして、 ISWIM の宣言的なプログラミング・スタイルは命令的なプログラミング・スタイルよりも優れているというランディンの主張は、今日まで関数型プログラミングの賛同者たちから支持されてきた。その一方で、関数型言語への関心が高まるまでは、さらに10年を要した。その理由の一つは、 ISWIM ライクな言語の実用的な実装がなかったことであり、実のところ、この状況は1980年代になるまで変わらなかった。
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関数型プログラミング
ケネス・アイバーソンが1962年に発表した APL は、純粋な関数型プログラミング言語ではないが、その関数型的な部分を取り出したサブセットがラムダ式に頼らずに関数型プログラミングを実現する方法の一例であるという点で、関数型プログラミング言語の歴史を考察する際に言及する価値はある。実際に、アイバーソンが APL を設計した動機は、配列のための代数的なプログラミング言語を開発したいというものであり、アイバーソンのオリジナル版は基本的に関数型的な記法を用いていた。その後の APL では、いくつかの命令型的な機能が追加されている。
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Haskell
■カテゴリ / ■テンプレート Haskell(ハスケル)は非正格な評価を特徴とする純粋関数型プログラミング言語である。名称は数学者であり論理学者であるハスケル・カリーに由来する。 Haskell は高階関数や静的多相型付け、定義可能な演算子、例外処理といった多くの言語で採用されている現代的な機能に加え、パターンマッチングやカリー化、リスト内包表記、ガードといった多くの特徴的な機能を持っている。また、遅延評価や再帰的な関数や代数的データ型もサポートしているほか、独自の概念として圏論のアイデアを利用し参照透過性を壊すことなく副作用のある操作(例えば 代入、入出力、配列など)を実現するモナドを含む。このような機能の組み合わせにより、手続き型プログラミング言語では記述が複雑になるような処理がしばしば簡潔になるばかりではなく、必要に応じて手続き型プログラミングを利用できる。 Haskell は関数型プログラミングの研究対象として人気が高い。あわせて Parallel Haskell と呼ばれるマサチューセッツ工科大学やグラスゴー大学によるものをはじめ、他にも Distributed Haskell や Eden といった分散バージョン、Eager Haskell と呼ばれる投機的実行バージョン、Haskell++ や O'Haskell、Mondrian といったオブジェクト指向バージョンも複数存在しているなど、いくつもの派生形が開発されてきている。 GUI開発向けサポートの新しい方法を提供する、Concurrent Clean と呼ばれる Haskell に似た言語もある。Haskell と Concurrent Clean の最大の違いは、モナドを代用する一意型の採用である。 Haskell は比較的小規模なユーザコミュニティを持つが、その力はいくつかのプロジェクトで十分に生かされてきた。オードリー・タンによる Pugs は Perl6 のインタプリタとコンパイラの実装で、書くのにたったの数ヶ月しかかからなかったなど Haskell の有用性を証明するものである(現在は開発停止)。Darcs はさまざまな革新的な機能を含むリビジョンコントロールシステムである。Linspire Linux は Haskell をシステムツール開発に選択した。
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Haskell
Haskell の急速な進化は今も継続しており、Glasgow Haskell Compiler(GHC)は現在の事実上の標準の処理系であるといえる。 ICFP Programming Contestでは2001、2004、2005、2010、2013、2014、2015、2016年に最優秀賞に選ばれている。 Cabal(英語版) は Haskell 用のビルドおよびパッケージングシステムである。Cabal を利用して Haskell ライブラリのアーカイブである Hackage を参照して、新たなパッケージを簡単にインストールすることもできる。しばしばパッケージの依存地獄(英語版)が発生しがちだが、それらを解決するため、Stack(英語版)という環境も有志によって提供されている。 1985年、遅延関数言語である Miranda がリサーチ・ソフトウェア社によって発表された。1987年にはこのような非正格な純粋関数型プログラミング言語が十二以上存在していたが、そのうち最も広く使われていた Miranda はパブリックドメインではなかった。オレゴン州ポートランドで開催された Functional Programming Languages and Computer Architecture (FPCA '87) において開かれた会議中に、遅延関数型言語のオープンな標準を作成するための委員会が発足されるべき、という強い合意が参加者のあいだで形成された。委員会の目的は、関数型言語のデザインにおける将来の研究のための基礎として役立つ共通のものへと、既存の関数型言語を統合することであった。 最初の版の Haskell(Haskell 1.0)は1990年に作成された。委員会の活動は一連の言語仕様を結果に残し、1997年後半にそのシリーズは、安定しており小さく可搬なバージョンの言語仕様と、学習用および将来の拡張の基礎としての基本ライブラリなどを定義したHaskell 98 に到達した。実験的な機能の付加や統合を通じて Haskell98 の拡張や派生物を作成することを、委員会ははっきりと歓迎した。
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1999年2月、Haskell 98 言語標準は最初に The Haskell 98 Report として発表された。2003年1月、改定されたバージョンが Haskell 98 Language and Libraries: The Revised Report として発表された。GHC に代表されるように、Haskell は急速に発達しつづけている。 2006年前半、非公式に Haskell′(Haskell Prime)と呼ばれている Haskell 98 standard の後継の作成プロセスが開始された。このプロセスは Haskell 98 のマイナーバージョンアップを目的としている。 Haskell 2010 は他のプログラミング言語とのバインディングを可能にする Foreign Function Interface(FFI)を Haskell に追加し, いくつかの構文上の問題を修正する(正式な構文を変更する)。「n + k パターン」と呼ばれる構文を削除し, fak (n+1) = (n+1) * fak nというような形式の定義はもはや許されない。Haskell に Haskell 2010 のソースかどうかや, いくつかの必要な拡張の指定を可能にする言語プラグマ構文拡張を導入する。Haskell 2010 に導入された拡張の名前は, DoAndIfThenElse, HierarchicalModules(階層化ライブラリ), EmptyDataDeclarations, FixityResolution, ForeignFunctionInterface, LineCommentSyntax, PatternGuards, RelaxedDependencyAnalysis, LanguagePragma, NoNPlusKPatterns である。 ここでは以降の解説を読む上で必要な Haskell の文法規則を簡単に説明する。Haskell の構文は数学で用いられるものによく似せられていることに注意されたい。
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Haskell
ここでは以降の解説を読む上で必要な Haskell の文法規則を簡単に説明する。Haskell の構文は数学で用いられるものによく似せられていることに注意されたい。 Haskell の型名は先頭が大文字でなければならない。標準で存在する単純なデータ型としては、Bool(真偽値)型、Int(整数)型、Float(単精度浮動小数点数)型、Char(文字)型、String(文字列)型などが予め定義されている。任意の式の型を定義するには、式と型の間に :: 記号をおく。また、変数などのシンボルを定義する際に変数名を式に指定して書くことで、その変数の型を指定することができる。例えば、次は円周率およびネイピア数を定数として定義し、さらにその型も浮動小数点型として指定している。 関数の型は、各引数の間を -> 記号で区切って表記する。関数は引数をひとつ適用するたびに、その型は -> で区切られたうちの一番左が消えた型となると考えればよい。例えば、ふたつの整数を引数にとりその最大公約数を返す関数 gcd の型は次のように定義される。 型変数を使い、型を抽象化することもできる。これは C++ のテンプレートや Java のジェネリクスに相当するが、様々な種(型の型)に適用できるためより柔軟である。例えば、a 型の値をとり、それをそのまま返す恒等関数 id を型の指定とともに定義すると以下のようになる。ここで任意の型を示す型名 a が定義に使われているが、このように先頭が小文字で始まっている型名は具体的な型名ではなく型変数である。この関数はあらゆる型の値を引数にとることができる。 また、データ型はパラメータとして型変数を持つことができる。例えば、スタックやハッシュテーブルなどのデータ型は、その要素の型を型変数として定義する。ハッシュテーブルを実装するデータ型 HashMap :: * -> * -> * があり、キーに文字列(String)、値に整数(Int)を持つハッシュテーブル hashtable の型は次のようになる。
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また、データ型はパラメータとして型変数を持つことができる。例えば、スタックやハッシュテーブルなどのデータ型は、その要素の型を型変数として定義する。ハッシュテーブルを実装するデータ型 HashMap :: * -> * -> * があり、キーに文字列(String)、値に整数(Int)を持つハッシュテーブル hashtable の型は次のようになる。 そのほか、特殊な表記を持つ型としてリストとタプル、文字列がある。リストは Haskell で極めて頻繁に用いられるため、特別な構文が用意されている。リストは要素の型を角括弧で囲む。次は Char(文字)のリストを束縛する変数 text の定義である。文字のリストは文字列と等価である。2行目にあるように、文字列は殆どのプログラミング言語と同じように二重引用符で囲む。コメントにHaskellでのリストの表記を添えた。最後にデシュガー(糖衣構文を元の表記に戻すこと)したリストの表記法を示した。textもhelloも等価である。 タプルは要素の型をカンマで区切り、括弧で囲む。次は Float(浮動小数点数)の値をもつ2次元座標のタプルが束縛される変数 point の定義である。 タプルは2以上ならいくつでも要素を持つことができる。1要素のタプルは優先順位の括弧と表記が衝突し、また用途がないので存在しない。要素数がゼロのタプルは特に「ユニット」(Unit) と呼ばれ、有効な値を持たないなどの時に使われる。 type キーワードを用いて、型に別名をつけることができる。次は [Char] に String という別名をつけている。 Haskellの型は型構築子(型コンストラクタ、type constructor)から構築される。型構築子Tに型変数(Type variables)v1 v2 vNを与え型式(type expression)T v1 v2 vNとして評価することで型が構築される。型構築子の例には以下が挙げられる。 例えば型構築子Maybeに型変数Intを渡し、Maybe Intとすることで型が構築される。
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Haskellの型は型構築子(型コンストラクタ、type constructor)から構築される。型構築子Tに型変数(Type variables)v1 v2 vNを与え型式(type expression)T v1 v2 vNとして評価することで型が構築される。型構築子の例には以下が挙げられる。 例えば型構築子Maybeに型変数Intを渡し、Maybe Intとすることで型が構築される。 関数名は先頭が小文字でなければならず、記号を含むことはできない。演算子名は記号のみで構成されていなければならない。関数の定義ではC言語のような引数を囲む括弧や区切りのカンマは使われず、単に引数を空白文字で区切って表記する。次は先程示した恒等関数 id に、型の定義に加えて本体の定義もした例である。 関数の適用も同様で、単に関数に続いて空白文字で区切った引数を並べればよい。以下では上記の恒等関数 id を(ここでは使う必要はないが)適用して、別の変数を定義した例である。 引数がつねに2個であることや引数の間に演算子をおくことなどを除けば、演算子についても関数の定義や適用と同様である。標準で定義されている算術演算子を使って、BMIを計算する関数 bmi を定義してみる。 この定義では Float を引数にとり Float で結果を返すが、この関数では Double を引数に使うことはできない。どの浮動小数点数型でも扱えるような関数にするには、次のように型変数を使えばよい。 このバージョンの関数 bmi では引数や返り値の型が a とされているが、これにさらに a は Floating であるとの制約をつけている。Floating は Float や Double を抽象化する型クラスであり / や ^ といった演算子を適用できるので、bmi の定義においてこれらの演算子を使うことができている。また、整数などの値は引数に取れないし、返り値は引数に与えた型で戻ってくる。 関数と演算子は新たに定義し直さなくても相互に変換可能である。関数を演算子として使うには、関数を ` (バッククォート)で囲む。逆に、演算子を関数として使うには括弧で囲む。例えば、整数を除算する関数 div はよく演算子として使われる。 なお、関数適用の優先順位はすべての演算子の優先順位よりも高い。
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関数と演算子は新たに定義し直さなくても相互に変換可能である。関数を演算子として使うには、関数を ` (バッククォート)で囲む。逆に、演算子を関数として使うには括弧で囲む。例えば、整数を除算する関数 div はよく演算子として使われる。 なお、関数適用の優先順位はすべての演算子の優先順位よりも高い。 ここではあまり他の言語では見られない Haskell 特有の機能を中心に解説する。ここでは説明していないが、現代的な実用言語では常識となっているガーベジコレクション、例外処理、モジュール、外部関数の呼び出し、正規表現ライブラリなどの機能は、Haskell にも当然存在している。 Haskell は遅延評価を基本的な評価戦略とする。ほとんどの言語では関数の呼び出しにおいて引数に与えられたすべての式を評価してから呼び出された関数に渡す先行評価を評価戦略とするが、これに対し Haskell ではあらゆる式はそれが必要になるまで評価されない。次の定数 answer は評価すると常に 42 を返すが、その定義には未定義の式を含む。 ここで、const は常に第1引数を返す定数関数である。また、`div` は整数の除算を行う演算子であり、1 `div` 0 は 1 / 0 に相当し、この値は未定義であり、この部分を評価すればエラーになる。正格評価をする言語でこのような式を評価しようとすると、ゼロ除算によるエラーになるであろう。しかし 上記の定数 answer を評価してもエラーにはならない。const は第1引数をつねに返すので第2引数を評価する必要はなく、第2引数に与えられた式 1 `div` 0 は無視されるので評価されないからである。遅延評価がデフォルトで行われることにより、不要な計算は省かれ、参照透過性により同じ式を複数回評価する必要もなくなるため、Haskell では最適化によって計算効率の向上が期待できる場合がある。ただし、頻繁に新たな値を計算する場合は正格評価のほうが効率がよく、必要に応じてseq関数やBangPatterns拡張による明示により正格評価もできる。 Haskell では関数のデータ型を明示しなくても処理系が自動的に型を推論する。以下は型の宣言を省略し、本体のみを宣言した引数の平方を返す関数 square である。
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Haskell では関数のデータ型を明示しなくても処理系が自動的に型を推論する。以下は型の宣言を省略し、本体のみを宣言した引数の平方を返す関数 square である。 この場合 square の型は型推論され、次のように明示的に型を宣言したのと同じになる。 この宣言は、「Numのインスタンスである a の型の値を引数にとり、a の型の値を返す」と読める。ここでは「*」演算子が適用可能な最も広い型である Num a が選択されており、整数や浮動小数点数、有理数のような Num のインスタンスであるあらゆる型の値を渡すことができる。外部に公開するような関数を定義するときは、型推論によって自動的に選択される最も広い型では適用可能な範囲が広すぎる場合もある。Integer のみを渡せるように制限する場合は、次のように明示的に型を宣言すればよい。 型推論のため、Haskell は型安全でありながらほとんどの部分で型宣言を省略できる。なお、次のコードは型宣言が必要な例である。read は文字列をその文字列があらわすデータ型に変換する抽象化された関数である。 このコードはコンパイルエラーになる。read は複数のインスタンスで実装されており、数値なら数値型に変換する read、リストならリストに変換する read というように型ごとに実装が存在する。Haskell の型は総て静的に決定されなければならない。このコード場合、プログラマは という型をもつ実装の read が選択されると期待しているであろうが、これはコンパイラによる静的な型検査では決定できない。つまり、Haskell コンパイラは read の返り値を受け取っている関数 print の型を検査し多数の実装の中から適切な read を選択しようとするが、print は Show のインスタンスが存在するあらゆる型を引数にとるため、型推論によっても read の型を一意に決定できない。これを解消するひとつの方法は、:: によって型を明示することである。 また、そもそも read の返り値を整数型しか取らない関数に与えていればあいまいさは生じず、型推論は成功する。
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また、そもそも read の返り値を整数型しか取らない関数に与えていればあいまいさは生じず、型推論は成功する。 他の言語、たとえば Java でこのような抽象的な関数を書こうとしても、Java では返り値の値の型によって関数を選択するようなことはできない(引数の型によって選択するメソッドのオーバーロードは存在する)。そのため、関数の実装ごとに別の名前をつけてプログラマに明示的に選択させて解決させることになる。この方法は簡潔でわかりやすいが、抽象性の高さに基づく再利用性という点では Haskell のような多相には劣ってしまう。 Haskell のデータ型には代数的データ型と呼ばれる、C言語などでいう構造体や列挙体の性質を兼ね備えたものが用いられる。次の例は二つのInt型の値をフィールドに持つ二次元の座標、Point2D 型を定義したもので、これは代数的データ型の構造体的な性質を示す。先頭のトークン「data」は代数的データ型の宣言であることを示す予約語である。ここで最初の Point2D はデータ型名を表し、次の Point2D はデータコンストラクタ名を示す。 データコンストラクタは値を定義するための特殊な関数といえる。データコンストラクタは後述するパターンマッチによって値を取り出す際にも用いられる。 次の例はトランプの4つのスーツを示す Suit 型を定義したものである。Spade、Heart、Club、Diamond の4つのデータコンストラクタが定義されており、Suit 型の式は Spade、Heart、Club、Diamond のいずれかの値をとる。 次の例は String 型の値を格納する二分木の型である。Leaf(葉)は String 型の値を持ち、Branch(枝)は Leaf もしくは Branch である Tree 型の変数を二つ持つ。これは代数的データ型の構造体的な性質と列挙体的な性質の両方が現れている。 GADTと呼ばれる機能を使うと、コンストラクタの型を明示してデータ型を定義することもできる。
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次の例は String 型の値を格納する二分木の型である。Leaf(葉)は String 型の値を持ち、Branch(枝)は Leaf もしくは Branch である Tree 型の変数を二つ持つ。これは代数的データ型の構造体的な性質と列挙体的な性質の両方が現れている。 GADTと呼ばれる機能を使うと、コンストラクタの型を明示してデータ型を定義することもできる。 Haskell は第一級関数をサポートしており、高階関数を定義することができる。つまり、関数の引数として関数を与えたり、返り値として関数を返すことができる。無名関数は \ (バックスラッシュ)から始まり、それに続いて引数となる変数、引数と本体のあいだに -> 記号をおく。List モジュールに定義されているリストのソートを行う関数 sortBy は、二つの要素に大小関係を与える関数を引数にとるが、無名関数を使うと例えばリストをその長さの短い順にソートする関数 sortList は次のように定義できる。 Haskell において、2つの引数を持つ関数は、1つの引数をとり「1つの引数をとる関数」を返す関数と同義である。このように、関数を返すことで全ての関数を1つの引数の関数として表現することをカリー化という。(あえてタプルを使うことで複数の引数を渡すような見かけにすることもできるが。)次の例は2つの引数をとり、そのうち値が大きい値を返す関数 max である。 この関数maxは無名関数を用いて次のように書き換えることができる。先ほどの表現とまったく同様に動作するが、この表現では関数を返す様子がより明らかになっている。 さらに、次のようにも書き換えることができる。 あるいは、f x = ... x ... は、 f = (\x -> ... x ...) の糖衣構文であるとも言える。このため、Haskell の定義は変数に束縛するのが定数であるか関数であるかにかかわらず、「変数 = 値」という一貫した形でも定義できる。 カリー化によって、Haskell のあらゆる関数は引数を部分適用することができる。つまり、関数の引数の一部だけを渡すことで、一部の変数だけが適用された別の関数を作り出すことができる。また、Haskell では演算子を部分適用することすら可能であり、演算子の部分適用をとくにセクションと呼ぶ。
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カリー化によって、Haskell のあらゆる関数は引数を部分適用することができる。つまり、関数の引数の一部だけを渡すことで、一部の変数だけが適用された別の関数を作り出すことができる。また、Haskell では演算子を部分適用することすら可能であり、演算子の部分適用をとくにセクションと呼ぶ。 任意のリストをとり、その要素から条件にあう要素のみを取り出す関数 filter が標準ライブラリに定義されている。 この関数では第一引数に残す要素を判定する関数をとるが、このときに部分適用を使えばそのような関数を簡潔に書くことができる。整数のリストから正の値のみを取り出す関数 positives は次のように定義できる。 ここで、positives および filter の第2引数はソースコード上に現れずに記述できているが、このように単純に書けるのもカリー化の恩恵によるものである。 Haskell では関数の引数を様々な形で受け取ることができる。 次は整数の要素をもつリストの全要素の合計を返す関数 total である。 total の関数本体の定義がふたつあるが、このうち引数の実行時の値と適合する本体が選択され呼び出される。上の本体定義では、引数が空のリストであるときのみ適合し、呼び出される。下の本体定義では、引数が少なくともひとつの要素を持つとき適合し、x に先頭の要素が束縛され、xs に残りのリストが束縛される。この例の場合はパターンに漏れはないが、もし適合するパターンが見つからない場合はエラーになる。 複数の返り値を扱うのもタプルなどを利用して極めて簡明に書くことができる。 このとき、定義される変数は x および y で、それぞれ x は 10 に、y は 20 に定義される。 Haskell で順序付けられた複数の値を扱うのにもっとも柔軟で簡潔な方法はリストを用いることである。次は四季の名前のリストである。 次は初項10、公差4の等差数列のリストである。このリストは無限リストであり、その長さは無限大である。 次の式は先ほどの数列の先頭20項を要素に持つリストである。take n l はリスト l の先頭 n 個の項を要素に持つリストを返す関数である。
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Haskell で順序付けられた複数の値を扱うのにもっとも柔軟で簡潔な方法はリストを用いることである。次は四季の名前のリストである。 次は初項10、公差4の等差数列のリストである。このリストは無限リストであり、その長さは無限大である。 次の式は先ほどの数列の先頭20項を要素に持つリストである。take n l はリスト l の先頭 n 個の項を要素に持つリストを返す関数である。 もし正格な動作を持つ言語でこのような定義をしようとすると関数 take に値を渡す前に無限リストを生成することになるが、長さが無限のため無限リストの生成が終わることはなく関数 take がいつまでも呼び出されなくなってしまう。Haskell は遅延評価されるため、このようなリストを定義しても必要になるまで必要な項の値の生成は遅延される。このように無限リストを扱えるのは Haskell の大きな強みである。次は素数列をリスト内包表記を用いて定義した一例である。 リストはその柔軟性から再帰的な関数での値の受け渡しに向いているが、任意の位置の要素にアクセスするためには参照を先頭からたどる必要があるのでランダムアクセスが遅い、要素を変更するたびにリストの一部を作り直さなければならないなどの欠点がある。このため Haskell にも配列が用意されており、高速な参照や更新が必要なプログラムではリストの代わりに配列を用いることでパフォーマンスを改善できる可能性がある。 型クラスは相異なるデータ型に共通したインターフェイスを持つ関数を定義する。例えば、順序づけることができる要素をもつリストをソートできる関数 sort を定義することを考える。リストの要素のデータ型は関数 sort を定義するときには不明であり、その要素をどのように順序付けるかを予め決定しておくことはできない。数値型も文字列型もそれぞれのデータを順序付けることができるであろうが、共通してデータの順序を返す抽象的な関数 order を定義することができれば、それを用いてソートすることができる。
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まず型クラス Comparer を定義して、順序付ける関数 order の形式を定義する。値の順序を調べる関数 order x y は x → y が昇順のときは負の値、降順の時は正の値、x と y が等しいときは 0 を返すものとする。ここで class は型クラスの宣言であることを示す予約語である。 型クラスを実装するには、対象のデータ型に対してインスタンス宣言を行う。次は型 a の型クラス Comparer に対するインスタンスを宣言したものである。このインスタンス宣言により、Enum のインスタンスである任意の型のリストを辞書順に比較できる。例えば、文字列 Char は Enum のインスタンスの Char のリストであり、このインスタンス定義により order を適用することができるようになる。ここで関数 fromEnum c は文字 c を数値に変換する関数である。Comparer のインスタンスを定義する型 a を Eq および Enum のインスタンスを持つものに限定しているので((Eq a, Enum a) => の部分)、インスタンス定義の内部で Eq の関数である (/=) や Enum の関数である fromEnum を使うことができている。 次にリストをクイックソートする関数 sort を示す。型クラスを用いて順序付ける関数 order を抽象化したため、このように型クラス Comparer のインスタンスを持つ全ての型の値に適用できる一般化されたソート関数を定義できるのである。 この関数 sort は次のように使う。 Haskell のインスタンス宣言は複数の型に共通する操作を定義するという点で Java や C# の「インターフェイス」と似ているが、Haskell では既存の任意の型についてもインスタンスを定義できる点でもインターフェイスに比べて柔軟である。
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この関数 sort は次のように使う。 Haskell のインスタンス宣言は複数の型に共通する操作を定義するという点で Java や C# の「インターフェイス」と似ているが、Haskell では既存の任意の型についてもインスタンスを定義できる点でもインターフェイスに比べて柔軟である。 すべての式が参照透過である Haskell においては、副作用を式の評価そのものでは表現できない。そのため、Haskell では圏論のアイデアを利用したモナドによって入出力が表現されており、Haskell でも最も特徴的な部分となっている。次は Haskell による Hello world の一例である。実際に単独で実行可能形式にコンパイルできる、小さいが完全なプログラムの一例にもなっている。 Haskell は純粋関数型言語であり、main もやはり参照透過である(副作用はない)。しかし処理系は main として定義された IO () 型の値をそのプログラムの動作を示す値として特別に扱う。putStrLn は標準出力に文字列を出力する動作を表す IO () 型の値を返す関数であり、実行すると引数として渡された Hello,World! を出力する。次に標準入力から一行読み込み、そのまま標準出力に出力するエコープログラムを考える。次のような、C言語などのような表記はできない。getLine 関数は標準入力から一行読み取る関数である。 getLine と putStrLn はそれぞれ次のような型を持っている。 純粋関数型である Haskell では getLine もやはり副作用はなく、getLine は一行読み込むという動作を表す値を常に返す。このように入出力の動作を表す値をアクションと呼ぶ。getLine が返すのは String そのものではなくあくまで IO String という型を持ったアクションであって、それを putStrLn の引数に与えることはできない。正しいエコープログラムの一例は次のようになる。
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ここでは演算子 >>= によってふたつのアクションを連結している。このとき、main は一行読み込みそれを出力するというアクションとなり、このプログラムを実行すると処理系は main が持つアクションの内容を実行する。このアクションを実行すると、getLine は一行読み込み、それを putStrLn に渡す。このとき、読み込まれたデータにこれらのアクションの外側からアクセスすることはできない。このため、この式は参照透過性を保つことができる。 モナドは、Freeモナド、Operationalモナドと呼ばれる構造により、より単純なデータ型から導出することもできる。これにより、非常に強力な依存性の注入が実現できる。 以下の単純な例は関数型言語としての構文の実例にしばしば用いられるもので、Haskell で示された階乗関数である。 階乗を単一の条件による終端を伴う再帰的関数として表現している。これは数学の教科書でみられる階乗の表現に似ている。Haskell コードの大半は、その簡潔さと構文において基本的な数学的記法と似通っている。 この階乗関数の1行目は関数の型を示すもので、省略可能である。これは「関数 fac は Integer から Integer へ(Integer -> Integer)の型を持つ(::)」と読める。これは整数を引数としてとり、別の整数を返す。もしプログラマが型注釈を与えない場合、この定義の型は自動的に推測される。 2行目では Haskell の重要な機能であるパターンマッチングに頼っている。関数の引数が 0であれば、これは 1 を返す。その他の場合は3行目が試される。これは再帰的な呼び出しで、nが0に達するまで繰り返し関数が実行される。 ガードは階乗が定義されない負の値から3行目を保護している。このガードが無ければこの関数は0の終端条件に達することなく、再帰してすべての負の値を経由してしまう。実際、このパターンマッチングは完全ではない。もし関数facに負の整数が引数として渡されると、このプログラムは実行時エラーとともに落ちるであろう。fac _ = error "negative value"のように定義を追加すれば適切なエラーメッセージを出力することができる。
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引数 f を伴う高階関数で表現された単純な逆ポーランド記法評価器が、パターンマッチングと型クラス Read を用いた where 節で定義されている。 空リストを初期状態とし、f を使って一語ずつ文字列を解釈していく。f は、注目している語が演算子ならばその演算を実行し、それ以外ならば浮動小数点として計算スタックに積んでいる。 次はフィボナッチ数列のリストである。ある値nに対するfib(n)は一回しか計算しないようになっており、その点ではナイーブなフィボナッチと異なる効率の良いコードとなっている。 無限リストは 余再帰(リストの後ろの値は要求があったときに 0 と 1 の二つの初期要素から開始され算出される)によって実現される。このような定義は遅延評価の実例で、Haskell プログラミングでも重要な部分である。 ただし、フィボナッチ数列の生成の場合は、ある要素の値が必要であれば、その要素より前にある要素の値は全て必要である。従って、遅延させた上で結局は後から全てその値を求めることになり、むしろ無駄であるので、この場合は遅延させない組込関数seqを使用したほうが効率は良くなり、fib 1000000 といったような値を計算するような場合には差が見えてくる。あるいはリストの先に出る値から順番に計算させるとそのほうが速い、といったことが起きる。(さらに、フィボナッチ数はnに対して2と大きな値になるので、そのようなBigIntegerの加算のコストも掛かり、以前にこの場所に書かれていたような「線形時間でのフィボナッチ数列の生成」は、大きい値では不可能である) どのように評価が進行するかの例示のために、次は6つの要素の計算の後の fibs と tail fibs の値と、どのようにzipWith (+) が4つの要素を生成し、次の値を生成し続けるかを図示したものである。 次はGHCで使える言語拡張で、リスト内包表記を並列的な生成を記述できるよう拡張するParallelListCompを用いて書いた同様の式である。(GHCの拡張は特別なコマンドラインフラグ、またはLANGUAGEプラグマによって有効にしなければならない。詳しくはGHCのマニュアルを参照のこと) 先に見た階乗の定義は、次のように関数の列を内包表記で生成して書く事もできる。
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次はGHCで使える言語拡張で、リスト内包表記を並列的な生成を記述できるよう拡張するParallelListCompを用いて書いた同様の式である。(GHCの拡張は特別なコマンドラインフラグ、またはLANGUAGEプラグマによって有効にしなければならない。詳しくはGHCのマニュアルを参照のこと) 先に見た階乗の定義は、次のように関数の列を内包表記で生成して書く事もできる。 特に簡潔に書ける例として、ハミング数が順番に並ぶリストを返す以下のような関数がある。 上に示されたさまざまな fibs の定義のように、これはオンデマンドに数のリストを実現するために無限リストを使っており、1 という先頭要素から後続の要素を生成している。 ここでは、後続要素の構築関数は where 節内の記号 # で表現された中置演算子で定義されている。 各|は、等号の前半の条件部分と、後半の定義部分からなるガード節を構成する。 parsec は Haskell で書かれたパーサコンビネータである。パーサの一種であるがコンパイラコンパイラとは異なり、Parsec はパーサのソースコードを出力するのではなく、純粋に Haskell の関数としてパーサを構成する。yacc のようにプログラミング言語と異なる言語を新たに習得する必要がなく、高速でかつ堅牢で、型安全で、演算子の結合性や優先順位を考慮したパーサを自動的に構成したり、動的にパーサを変更することすらできる。 派生として、大幅に高速なパースが可能なattoparsec、高機能でより洗練されたtrifectaがある。 Template Haskell は Haskell のメタプログラミングを可能にする拡張である。Haskell ソースコードの構文木を直接 Haskell から操作することができ、C、C++ のマクロやテンプレートを上回る極めて柔軟なプログラミングを行うことができる。 QuickCheck はデータ駆動型のテストを行うモジュールである。自動的にテストデータを作成してプログラムの正当性をテストすることができる。
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QuickCheck はデータ駆動型のテストを行うモジュールである。自動的にテストデータを作成してプログラムの正当性をテストすることができる。 lensはアクセサの概念を一般化するライブラリであり、様々なデータ構造に対して共通のインタフェースを与える。Getter、Setterは一つの関数として表現されており、それらを合成することもできる。JSONやXMLや、JSONやXML以外の処理にも応用できる。 Haskell は他のプログラミング言語には見られない多くの先進的機能を持っているが、これらの機能のいくつかは言語を複雑にしすぎており、理解が困難であると批判されてきた。とりわけ、関数型プログラミング言語と主流でないプログラミング言語に対する批判は Haskell にもあてはまる。加えて、Haskell の潔癖さとその理論中心の起源に起因する不満がある。 2002年に Jan-Willem Maessen、2003年にサイモン・ペイトン・ジョーンズが遅延評価に関連するこの問題を議論し、その上でこの理論的動機を認識した。彼らは実行時のオーバーヘッドの悪化に加え、遅延はコードのパフォーマンスの推察をより困難にすると言及した。 2003年に Bastiaan Heeren と Daan Leijen、Arjan van IJzendoorn は Haskell の学習者にとってのつまづきに気がついた。これを解決するために、彼らは Helium と呼ばれる新たなインタプリタを開発し、この中でいくつかの型クラスのサポートを取り除き、Haskell の機能の一般化を制限することによってエラーメッセージのユーザ親和性を改善した。 以下は Haskell 98 仕様を完全に満たす、または仕様に非常に近く、オープンソースライセンスの下で配布されているものである。ここには現在のところ商用のHaskell実装は含まれない。
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アタリショック
アタリショック(英語: Video game crash of 1983)とは、1982年のアメリカ合衆国における年末商戦を発端とする、北米のゲーム市場で起こった家庭用ゲーム機の売上不振のことである。 この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれる。パソコンゲーム市場や、欧州や日本など北米以外のゲーム市場は含まれない。 北米における家庭用ゲームの売上高は、1982年の時点で約32億ドル(同年末の日本円で約7520億円)に達していたが、1985年には1億ドル(同年末の日本円で約200億円)にまで減少した。北米の家庭用ゲーム市場は崩壊し、ゲーム機やホビーパソコンを販売していた大手メーカーのいくつかが破産に追い込まれた。ゲーム市場最大手であったアタリ社も崩壊、分割された。 1980年代後半には、ヒット作の発売や新型ゲーム機の投入が相次ぎ、低迷した北米の家庭用ゲーム市場は徐々に回復していった。 その背景について、1983年に当時の任天堂社長山内博は講演会で「新型ゲーム機の出現によるAtari 2600の陳腐化、アーケード・ゲームの劣化移植、サード・パーティーが大量に駄作を投入したことから、消費者がゲーム機に失望、新しいカートリッジを買う意欲を失ったため」と語っている。また、1984年にはファミコンのサードパーティーに対して、米国ゲーム市場の教訓から「粗悪なソフトが氾濫しないように任天堂の承認を受けたものだけを作るように注文している 」と経済誌のインタビューに答えている。 また、山内は1986年にも海外紙において、「サードパーティーによる低品質ゲームソフト(俗に言う「クソゲー」)の乱発がアタリの市場崩壊を招いた」という趣旨でその原因に対する自身の認識を述べている。これは後世まで業界の共通認識となっており、2010年当時の任天堂社長である岩田聡は、「粗悪なソフトが粗製濫造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった」と定義している。ここから転じて、ハードやジャンルに関わらずゲームソフトの供給過剰や粗製濫造により、ユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を「アタリショックの再来」または単に「アタリショック」と呼ぶこともある。
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アタリショック
日本では1996年にNHKで放送された『新・電子立国』で取り上げられて広く知られるようになった。ただし、番組で述べられたように1982年のクリスマス商戦でいきなり市場が崩壊したわけではなく、以下に示すように1982年から1985年にかけて複雑な経過をたどった。 また、アタリショック後に売れ残った大量の不良在庫を埋葬したとされる「ビデオゲームの墓場」が存在するという都市伝説があったが、これは2014年に真実であったことが証明された。 1977年にアメリカでアタリ社から発売されたテレビゲーム機「Atari 2600(発売当初はVideo Computer Systemと呼ばれた。以下、一般略称のVCSと表記)」は、それまでゲーム機のハードウェア本体に内蔵されていたゲームソフトのプログラムROMを、カートリッジに収めて外部から供給できるようにし、これが爆発的な人気を博した。しかし、同ゲーム機のブームは、発売開始から5年ほどで終わる。 以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。 アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられるAtari VCSを1977年に発売。当初はさっぱり売れなかったが、1980年よりキラーソフトとして、『スペースインベーダー』、『パックマン』、『バトルゾーン(英語版)』などの人気ゲームが、アーケードゲームから数多く移植され、人気に火が付いた。 アタリ社の上層部と対立して独立したゲーム製作者たちが興したアクティビジョン社が1979年に設立され、家庭用ゲーム史上初のサードパーティとしてVCS用のソフトをリリースした。アタリは当初サードパーティを認めず、アクティビジョンに対して販売差し止めの裁判を起こしたが、ロイヤリティを支払うことで1982年に和解。サードパーティ製ソフトの制作が合法であると認められ、それをきっかけに多数のサードパーティーメーカーが参入した。 これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。
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アタリショック
これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。 それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。 当時VCSをはじめ、各ハードのプログラム仕様などは公開されていなかったが、各サードパーティはファーストパーティから開発者を引き抜いたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発していた。アタリ自身も競合ゲーム機であるマテル・インテレビジョンの開発者を引き抜いて雇用していたほどである(そのためマテルから産業スパイの疑いで訴えられた)。 しかし1982年頃より、家庭用ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、ゲームを作ったこともない他業種のメーカーがVCSのサードパーティとして参入した。それらのメーカーの雇った開発者は、アタリやアクティビジョンなどの開発者とは違ってまともにゲームを作る能力がないことから、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。極端な例として、VCSに参入したクエーカーオーツ(朝食シリアルのメーカー)やピュリナ(ペットフードのメーカー)などが知られる。それらのメーカーは低品質ゲームソフトに大きな宣伝を打ち、家庭用ゲーム市場全体の信用を損なわせた。 この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。また、ユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も台頭しておらず、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった。 こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。
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アタリショック
この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。また、ユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も台頭しておらず、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった。 こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。 この一方で、ゲームを製造・販売していた弱小の製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の倒産」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト定価ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。 それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『パックマン』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『E.T.』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。1982年に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった。 生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである。
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生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである。 なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた(ビデオゲームの墓場)、と当時ニューヨーク・タイムズで報道されている。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば都市伝説化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については当該項目の記載を参照)。 1983年当時、市場にはAtari 2600(VCS)の他にも、Atari 5200、バリー・アストロケード、コレコ・コレコビジョン、コレコジェミニ、エマーソン・アルカディア、フェアチャイルド・チャンネルF、マグナボックス・オデッセイ2、マテル・インテレビジョン、Sears Tele-Games systems、Tandyvision、Vectrexなどのゲーム機が存在しており、さらにOdyssey3やAtari 7800と言った次世代機も発表されていた。各ゲーム機はそれぞれが豊富なゲームソフトのライブラリとサードパーティを抱えていたが、ソフトのラインナップを埋め合わせるために粗製の低品質ゲームソフトが乱発され、供給過剰の状態であった。 Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは既に旧世代機になりつつあるとともに、北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和しており、北米市場の限られたパイを各ハードで奪い合う状態となっていた。
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アタリショック
Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは既に旧世代機になりつつあるとともに、北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和しており、北米市場の限られたパイを各ハードで奪い合う状態となっていた。 1970年代後半までは、パソコンは主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは2007年時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤〜1980年代初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンはホームコンピュータと呼ばれ、Atari 400・Atari 800(1979年)が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、1982年10月の段階での市場小売価格は、VIC-20が259.95米ドル(当時の日本円で約7万2千円)、コモドール64が595.00米ドル(約16万5千円)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドル(約4万7千円)と649.95米ドル(約18万円)、TI-99/4Aが199.95米ドル(約5万5千円)であった。 これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、ワープロや会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、フロッピーディスクやカセットテープのゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。
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ホームコンピュータを販売した各社の中でも、コモドール社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。アタリ社やマテル社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。 また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。モステクノロジー社という半導体企業を傘下に収め、MOS 6502 CPUを始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。 こうして迎えた1982年のクリスマス商戦では、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなり、流通・販売側も強気な在庫確保に奔走した。業界では1982年度のゲーム業界の市場規模は38億ドルに達するとの市場予測で、極めて楽観的であった。しかし現実は前述のような状態で、北米ゲーム市場を握っていたアタリは自社の極めて楽観的な業績予測を満たせる見込みが12月の時点でなくなったため、12月8日、アタリは1982年度の第4半期の業績予測を下方修正。これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価の大幅下落を誘発している。マテル・コレコなどの競合他社、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売りのトイザらスなどの関連銘柄も煽りを食って軒並み株価を下げた。
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一方、供給過剰の状態であった小売店では、店頭に並べられなくなったゲームを販売元に返品しようとしたが、経営の苦しい販売元にはその対価として小売店に返金するキャッシュがなかった。1982年のクリスマス商戦が終わった直後に、後に『スペランカー』を制作するティム・マーティンが在籍したGames by Apollo社や、クエーカーオーツ傘下として低品質ソフトウェアを乱発したUS Games社を含む、複数の中小メーカーが倒産。 この1982年のクリスマスがアタリショックの発端とされている。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではなかった。 1983年、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなり、アタリも値下げに追随。業界は値下げラッシュに入った。それまで大体30ドル(約7千円)だったソフトの販売価格は一気に5ドル(約1,200円)にまで下がり、2ドル(約480円)で販売されるゲームすら登場した。 1983年に入っても市場は依然活発で、発売タイトルも販売本数もかなり多かったが、1983年6月までには正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されたようだが、やがて買ったソフトがどれも低品質という現実に直面する。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すこともなく、ゲームそのものを止めてしまった。 販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、ジャック・トラミエルである。
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販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、ジャック・トラミエルである。 さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していたマグナボックス社及びコレコ社は、本業がゲームではないこともあり、市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであったアクティビジョン社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。 「ゲーム機の時代は終わった」と考えた北米の小売業者も、ゲーム機の取り扱いをやめてしまった。そしてこの後、後述のアメリカ版ファミリーコンピュータ“NES”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム機市場は最悪の氷河期を迎える。 一方、アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入。北米でNESがブームとなる1988年ごろまで北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事となった。
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アタリショック
一方、アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入。北米でNESがブームとなる1988年ごろまで北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事となった。 1985年の北米版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売に当たっては、ゲーム機に抵抗感を持つ小売業者の説得が最大の障壁となった。日本におけるファミコンの販売台数は1984年の時点で44万台と人気はそれほどでもなく、日本でもこれからはMSXのようなホビーパソコンの時代が来るとの憶測が広がっており、ましてやホビーパソコンの販売競争がピークを迎えていたさなかの北米の小売りからは全く相手にされなかった。北米小売り大手のトイザらスの担当者が「任天堂VS.システム」を気に入ってくれていたため、NESの北米発売までこぎつけたものの、ゲームだけでなく「BASICが使える」などの付加価値をアピールせざるを得なかった。console(ゲーム機)ではなくEntertainment System(エンターテイメントシステム)と命名されたのもそれが理由であり、小売業者の求めに応じてR.O.B.(ファミコンロボット)までバンドルして「ゲーム機ではない」ことを納得させたという。
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