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ノーム・チョムスキー | ノームは両親を、政治的にはフランクリン・ルーズベルト率いる民主党を支持する中道左派だと言及したが、彼自身は国際婦人服労働組合(英語版) (ILGWU) に所属する社会主義者の親族らから影響を受けて極左思想を持つようになった。また特に、あまり教育を受けていなかったがニューヨークで所有する新聞販売スタンドで集まった左派ユダヤ人たちと毎日のように議論を交わす彼のおじに大きく影響された。一家で街中に出かけると、ノームは左翼やアナキスト系の書店に行っては政治に関する本を熱心に読んだ。後に振り返って彼は無政府主義思想と出逢えた事は「幸運なる偶然」であり、急進党を制御して平等な社会を実現する選択肢だと信じられていたマルクス・レーニン主義という他の急進的左翼思想に対する批判的態度を形成することができたという。
ノームは初等教育を、競争をさせず生徒の興味を伸ばす事に重点を置き設立された独立系のOak Lane Country Day Schoolで受けた。ここで10歳の時、彼はスペイン内戦によるバルセロナ陥落を受けてファシズムの拡散を取り扱った初めての記事を書いた。12-13歳の頃にはそれまで以上に無政府主義政治への傾倒を強めた。12歳の時にCentral High Schoolの中等部へ進学し多くのクラブや共同体に参加したが、そこでの階層的で厳しい管理が行き届いた指導方法に当惑させられた。
高校卒業後の1945年ノーム・チョムスキーはペンシルベニア大学へ進学し、C・W・チャーチマン(英語版)やネルソン・グッドマンらから哲学を、ゼリグ・ハリスらから言語学を学んだ。ハリスの講義は、ノームに言語構造の線型写像(文章の中の部分的な集まりから他の集まりへの対応付け)といった解析法の発見をもたらした。1951年の修士論文『The Morphophonemics of Modern Hebrew (現代ヘブライ語における形態音素論)』で、彼は形態音素の規則を示した。そして1955年、ペンシルベニア大学大学院博士課程を修了し、言語学の博士号を取得した。
1951-55年にチョムスキーはハーバード大学のジュニアフェローに選ばれており、その研究が「生成文法論」に結実した。その後1955年からMITに勤務した。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | 1951-55年にチョムスキーはハーバード大学のジュニアフェローに選ばれており、その研究が「生成文法論」に結実した。その後1955年からMITに勤務した。
チョムスキーはニューヨークを訪れては、イディッシュ語の無政府主義系雑誌『フライエ・アルバイテル・シュティンメ(英語版)』の事務所へ頻繁に足を運び、同誌に寄稿していたアナルコ・サンディカリストのルドルフ・ロッカーに傾倒する。後に記したところによると、ロッカーの仕事から無政府主義と古典的自由主義の関係に気づき、後に研究の対象にしたという。他にも、政治思想家では、アナキストのディエゴ・アバド・サンティラン(英語版)や社会民主主義者のジョージ・オーウェルやバートランド・ラッセル、ドワイト・マクドナルド(英語版)、また非ボリシェヴィキマルキシストのカール・リープクネヒトやカール・コルシュ、ローザ・ルクセンブルクらの著作を精読した。これらに目を通す中で、 チョムスキーはアナルコ・サンディカリスト社会に共感し、オーウェルの著作『カタロニア讃歌』で知ったスペイン内戦の期間に結成されたアナルコ・サンディカリスト共同体に惹かれるようになった。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | チョムスキーは1944年から1949年にかけてドワイト・マクドナルドが発刊した左翼系雑誌『Politics』を愛読した。当マクドナルドは当初こそマルキシストの観念を堅持していたが、1946年にこれを捨てて「無政府主義と反戦という奇妙な神に耽る」ようになった。チョムスキーは後に、無政府主義に対する興味が「応報と発達をなした」と同誌に書いた。20代の終わり頃には、マルキシスト思想家で評議会共産主義者のポール・マティック(英語版)が発行する定期刊行誌『Living Marxism』の読者になった。この雑誌はヨシフ・スターリンのソヴィエト連邦と第二次世界大戦後の発展を批判的に評した。チョムスキーはマルキシストの理論根拠を受け入れなかったが、協議会共産主義者運動からは強い影響を受け、アントン・パンネクークやカール・コルシュらなどの「生きたマルキシスト」の著作を貪欲に読み漁った。チョムスキーはマティックと個人的な知り合いになるが、後に彼を指して「私の考えにぴったりな正統派マルキシスト」と評した。また彼は、アメリカのレーニン主義者同盟(英語版)にも加わっていたジョージ・スピーロが率いた「Marlenites」という曖昧な反スターリン的なアメリカ人マルキニスト集団が持つ政治理論に大きく関心を持った。この集団は、第二次世界大戦は、西側の資本家と国家資本主義の政府であるソビエト連邦が主導し、ヨーロッパのプロレタリアートを潰そうとした「いかさま」だったと主張し、この観点にチョムスキーは同意した。
チョムスキーはミクヴェ・イスラエル学校の同門で幼馴染のキャロル・ドリス・シャッツと恋仲になり、1949年に結婚し、彼女が2006年12月に癌で亡くなるまでの59年間連れ添った。夫妻には2人の娘アビバ・チョムスキー(英語版)とダイアン、息子ハリーを得た。1953年に一時イスラエル、キブツのハゾレア(英語版)に住んだ。この滞在について聞かれた際、チョムスキーは「失望でした」と答え、「そこは好きだが、イデオロギー臭い雰囲気には我慢できなかった」と言い、1950年代初頭のキブツにあった「熱狂的愛国心」とスターリンの助けを受けたキブツ在住の多くの左翼系メンバーが、ソビエト連邦の可能性に満ちた将来と現在の関係をバラ色に染める様子も同様に見ていた。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | 1957年にはMITから准教授の地位を提示されており、また1957年から1958年までコロンビア大学の客員教授を務めていた。1961年にテニュアが認められ、現代語・言語学部の教授となった。
彼の業績は言語哲学、認知科学分野にとどまらず、戦争・政治・マスメディアなどに関する100冊以上の著作を発表している。1992年のA&HCIによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは、存命中の学者としては最も多く、全体でも8番目に多い頻度で引用された。彼は人文社会科学諸分野における「巨魁」と表現され、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選ばれた。
チョムスキーは「現代言語学の父」と評され、また分析哲学の第一人者と見なされる。彼は、コンピュータサイエンスや数学、心理学の分野などにも影響を与えた。
言語学関連の初の書籍を発行した後、チョムスキーはベトナム戦争の有名な批判家となり、政治批評の本を発表し続けた。彼はアメリカの外交政策国家資本主義、報道機関等の批判で有名になった。エドワード・S・ハーマン(英語版)との1988年の共著『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』など彼のマスメディア批判は、マスメディアなどにおけるプロパガンダ・モデル理論を明確に分析した。彼は自らの視点を「啓蒙主義や古典的自由主義に起源を持つ、中核的かつ伝統的なアナキズム」と述べた。
1974年、イギリス学士院客員フェローの称号を与えられた。
2002年にMITを退職したが、名誉教授としてキャンパスでの研究と講義は続けた。
チョムスキーが「仮説として」唱えた、普遍文法仮説は、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」とし、その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説による、言語をヒトの生物学的な仮説上の(心理上の)器官によるものと捉えた仮説である(言語獲得装置)。
そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが「生成文法」であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが「生成文法」であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。
チョムスキー以前の言語学では、フェルディナン・ド・ソシュールに代表されるヨーロッパ構造主義言語学や、レナード・ブルームフィールドらのアメリカ構造主義言語学の、言語の形態を観察・記述する構造主義的アプローチが優勢であったが、これに対しチョムスキーは言語を作り出す人間の能力に着目した点(すなわち普遍文法仮説)と、そのメカニズムをフォーマルに(形式的に)記述することを目指した生成文法というアプローチを取った点が画期的であった。より具体的に言えば、適切な言語形式を産出する能力(linguistic competence: 言語能力)と、実際に産出された言語形式(linguistic performance: 言語運用)とを区別し、前者を研究の重点としている。チョムスキー自身はソシュールの熱烈なファンであり、熱心な読者でもある。
彼以降、言語学は認知科学や計算機科学と強い親近性を獲得した。認知科学との親近性は、普遍文法仮説のように「脳と心」についての科学的な仮説と関連づけてヒトと言語について扱ったことによるといえる。もっとも後述するように、ある意味では皮肉なことに、より認知科学に近いことを自認する認知言語学はチョムスキーの、特に普遍文法仮説に批判的な立場を取っている。計算機科学との親近性は、歴史的に見て同時代に計算言語学や自然言語処理が興ったという幸運もあるが、普遍文法仮説はさておき、生成文法が言語をフォーマルな(形式的な)ものとして取り扱うことを可能とするものだったことによる。チョムスキー自身はその後もヒトの自然言語の研究に邁進するが、形式言語の理論であるチョムスキー階層は、(自然言語処理を専門とする者を除けば)多くの計算機科学者が最も良く知っているチョムスキーの業績である。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | また、統語論の自律性を主張したことで、かえって意味論や語用論などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。このあたりについてはチョムスキーがハーバード大学でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。派を問わずあらゆる言語学者に「統語的にはgrammaticalだが、意味的にはnonsenseな」「統語論と意味論の境界を明らかに示すような」例文として知られる文 "Colorless green ideas sleep furiously." を示したのが彼である。
酒井邦嘉 は1990年代の「ミニマリスト・プログラム」への大きな変化を「一人の人が天動説と地動説の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。
一方でチョムスキー的な言語学には言語学の内外からの批判もある。特に言語学内の他派からの批判は「チョムスキアン」なる語の存在からもうかがえるものであり、チョムスキー以前の派閥としては前述の欧あるいは米の構造主義による言語学から、あるいは以後の派閥としては認知言語学からのものがある。認知言語学はヒトの言語能力について、言語に特化したものではなく他の能力も含む認知体系の一部として捉える立場をとっており、普遍文法仮説が言語だけを特別な能力であると仮定していることに特に批判的である。
社会哲学的には、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトやジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判するリバタリアン社会主義(アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻・イラク侵攻や、アメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。
特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は、その傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年にベネズエラのウゴ・チャベス大統領が、国際連合総会でアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュを「悪魔」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して、「アメリカ国民は是非この本を読むべきだ」と語り、書籍の売れ行きに貢献した。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | 「ポル・ポトを擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明される。クメール・ルージュ政権下で父親を失い、自らもアメリカに亡命したカンボジア系米国人政治学者のソパール・イヤは、チョムスキーに対して「チョムスキーがケンブリッジの肘掛け椅子に座りながら理論を研ぎ澄ましている間、私の家族は田んぼの中で亡くなった。」「私と生き残った家族にとって、クメール・ルージュ政権下での生活には、知的なお座敷遊びの道具ではない。」と批判している。この件についてチョムスキー自身は、「私は国際連合においてアメリカが支援していたティモールでの虐殺について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している。アメリカについては、「大義 (just cause)」の名の下に虐殺を行っているとして、常々非難している。
イスラエル政府やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、道徳的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なりキリスト教なりイスラム国家という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている。
1980年代には、ホロコースト否認論者であるロベール・フォリソン(フランス語版)がホロコースト否認を理由として大学を解雇され、チョムスキーが友人セルジュ・ティオン(フランス語版)の頼みで、処分に抗議する文書に署名を行った。その後フォリソンは自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった。チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉でホロコーストを非難している」、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている
2022年3月にはロシアによるウクライナ侵攻を、アメリカ主導のイラク侵攻や1939年のドイツ・ソ連によるポーランド侵攻と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した。
チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃にアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。 | 1,093 |
ノーム・チョムスキー | 2022年3月にはロシアによるウクライナ侵攻を、アメリカ主導のイラク侵攻や1939年のドイツ・ソ連によるポーランド侵攻と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した。
チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃にアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。
彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の自由の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には立証責任があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解です」とその考えを述べている。
彼はとりわけアナルコ・サンディカリズムを政治思想の中核に据え、「高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方」と評価している。
彼はアナルコ・サンディカリズムの今日的な意義について「産業化と技術の進歩が広範囲な自己管理の可能性を開く」「そこでは労働者が差し迫った問題に自ら対処する。つまり工場の指揮や管理だけではなく、経済の仕組みや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定を行えるような地位を得るのです」と特徴づけ、手段の機械化が進んだ現代においては、(労働者が自らの工場の運営に携わることにより)必要労働を機械に委ね、人間は自由に創造的労働に当たることができるようになると説明している。
以下、著作者名がノーム・チョムスキーの場合は著作者名を省略する。 | 1,093 |
フェルディナン・ド・ソシュール | フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日)は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」といわれている。
記号論を基礎付け、後の構造主義思想に影響を与えた。言語学者のルイス・イェルムスレウ、ロマーン・ヤーコブソンのほか、クロード・レヴィ=ストロース、モーリス・メルロー=ポンティ、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ノーム・チョムスキーなど多くの思想家が、その影響を受けている。
スイスのジュネーブの名門であったソシュール家は、フェルディナン以前にも優れた学者を輩出してきた。ソシュール家はフランスロレーヌ地方のソシュール村にいたモンジャン・シュエル(1469-1543)に遡ることができる。モンジャンの息子アントワーヌ(1514-1569)は新教に改宗しユグノーとなったが、宗教改革期の混乱に揉まれ、ローザンヌへ移住した。アントワーヌの曽孫エリ(1602-1662)がジュネーブにソシュール家を開いた。
ソシュール家の学問的伝統は、ニコラ・ド・ソシュール(1709-1791)以来のものである。ニコラは農学者であり、百科全書の執筆にも携わっている。ニコラの息子オラス=ベネディクト(1740-1799)はソシュールの曽祖父にあたり、1787年のモンブランの初登頂で有名なほか、自然科学を始めとして様々な研究を行った。22歳でジュネーブアカデミーの教授となるなど、当時のスイスにおいてルソーと肩を並べる知識人であったと言われる。有機化学者・植物生理学者のニコラ・テオドール(1767-1845)はオラス・ベネディクトの息子である。
フェルディナンの父アンリ(1829-1905)はニコラ・テオドールの甥か息子にあたり、優れた昆虫学者であった。母ルイーズはジュネーブの伯爵の娘で、音楽家であった。1857年11月26日、この2人の間にフェルディナンが生まれた。メイエはその家庭環境を「最高の知的教養が長い間伝統となっている」もの、と評している。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | フェルディナンの父アンリ(1829-1905)はニコラ・テオドールの甥か息子にあたり、優れた昆虫学者であった。母ルイーズはジュネーブの伯爵の娘で、音楽家であった。1857年11月26日、この2人の間にフェルディナンが生まれた。メイエはその家庭環境を「最高の知的教養が長い間伝統となっている」もの、と評している。
ソシュールは幼くもドイツ語、英語、ラテン語、ギリシア語を習得した。当時のスイスの高名な言語学者であったアドルフ・ピクテ(英語版)に知り合うと彼に傾倒し、自分の知っている言語間の相互関係を明らかにしようとした。そして14歳のときに、「ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根に集約するための試論」を書いた。
この論文で彼は、子音を唇音(P)、口蓋音・喉音(K)、歯音(T)、L、Rの5つにグループ分けし、そのうちの2つから特徴付けられる12個の語根を求めた。ソシュールはこの12個の語根には、基底的な意味がそれぞれ存在すると考え、これを証明しようとした。この論文を送られたピクテは、ソシュールの思い込みをなだめながらも、サンスクリット語を勉強するなど今後の研究に向けた準備をするように、と助言している。この論文には誤りが含まれていたが、印欧祖語の語根の構造を把握し、ブルークマンに先立って鼻音ソナントを見抜いていたと言える。
ピクテに出した論文の失敗から、ソシュールは2年ほど言語学から離れる。1872年にコレージュ・ル・クルトルに入り、1873年からはギムナジウムに学んだ。1875年にはジュネーブ大学に入り、化学と物理学を勉強した。理科系の学生であったが、モレルによる語学の授業をとるなど、次第に言語学への興味を増していった。1876年にパリ言語学会(フランス語版)に入会し10代にして論文を投稿しているが、この頃の論文にはソシュール独自の考えはみられない。1876年に、ライプツィヒ大学に留学した。
当時のライプツィヒにはゲオルク・クルツィウスや青年文法学派のカール・ブルークマンなど当時最先端の印欧語学研究者が多くいたが、ソシュールがライプツィヒを留学先に選んだ理由は、友人が多く両親が安心できるためであった。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | 当時のライプツィヒにはゲオルク・クルツィウスや青年文法学派のカール・ブルークマンなど当時最先端の印欧語学研究者が多くいたが、ソシュールがライプツィヒを留学先に選んだ理由は、友人が多く両親が安心できるためであった。
そういった経緯であったため、ソシュールは初め専門知識をもっておらず、ライプツィヒ大学での勉学には準備不足であった。だがすぐに必要な知識を修め、青年文法学派の説を吸収した。自身が数年前に見抜いていた鼻音ソナントをブルークマンが発表し名声を得ていることを知ると、落胆したものの自分の考えに自信をもった。パリ言語学会への投稿もつづけ、「ラテン語のttからssへの変化は中間段階stを想定するか?」「印欧語の様々なaの区別に関する試論」の2つの論文を発表している。特に「試論」は、印欧祖語の*aを3つに区別して、印欧祖語のアプラウト研究に大きな影響を与えた。
1878年7月に、ソシュールはライプツィヒを離れベルリン大学に移った。ベルリンではウィリアム・ドワイト・ホイットニーと面会したが、ソシュールはホイットニーから生涯にわたる大きな影響を受けた。ベルリン大学に在学中の1878年12月、論文「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」が発表される。この論文では、1876年の「試論」を踏まえて、ソシュールは内的再建から印欧祖語の母音組織に関して、統一的な想定を提示した。このとき*aの現れを説明するために彼が考えた「ソナント的な付加音」が後の喉音理論につながり、ヒッタイト語解読によって現実的なものとなった。発表当時の評価は高くなかったが、後の印欧祖語研究に大きな影響を与えた点で、印欧祖語の研究において最も重要な発見であったと言われる。
1879年秋には再びライプツィヒ大学に戻る。1880年2月に、学位論文「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」を提出し、教授陣から全員一致で博士号を得た。この論文は、メイエによれば「単なる技術的な論文」とされるが、丸山はこれを「後年のソシュール理論の発展を予見しているもの」として評価している。
博士号を取得した後、半年の間のソシュールの行動はわかっていない。印欧語の形跡を多く残すリトアニア語を研究するため、リトアニアを訪れたのではないかと推測されているが、故郷で家族と過ごしたとも言われ、ソシュール学者の間で議論が交わされている。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | 博士号を取得した後、半年の間のソシュールの行動はわかっていない。印欧語の形跡を多く残すリトアニア語を研究するため、リトアニアを訪れたのではないかと推測されているが、故郷で家族と過ごしたとも言われ、ソシュール学者の間で議論が交わされている。
1880年10月からパリの高等研究院の学生となったが、1881年10月にはブレアルにその才能を認められて、「ゴート語および古代高地ドイツ語」の講師となる。1887年から1888年にかけてはギリシア語とラテン語の比較文法を、加えて1889年にはリトアニア語を講義したが、学生数は9年で計112人に及び、ソシュールの講義の人気が伺われる。メイエの証言によれば、この頃の講義には、すでに後の言語理論を見て取ることができる。またパリ時代の講義からは、後のフランス言語学を率いたポール・パシーやモーリス・グラモン、アントワーヌ・メイエなどが育った。
17歳で入会したパリ言語学会でも活発に活動した。1882年には学会の副幹事となり、「パリ言語学会紀要」の事実上の編集長を務めた。カザン学派を開いたヤン・ボードゥアン・ド・クルトネとも学会で出会っている。カザン学派の理論はソシュールのものとの共通点が指摘されており、ソシュール自身もクルトネやその弟子クルシェフスキを高く評価している。
1889年からは1年間の休暇を取り、故郷ジュネーブへと戻っている。この期間にリトアニアを訪れたとも言われるが、はっきりしたことはわかっていない。
1891年にはブレアルがソシュールを後継者として、コレージュ・ド・フランスの正教授の座を与えようとしていた。しかし、故郷ジュネーブ大学においても教授の地位が用意されており、ソシュールは悩んだ末ジュネーブへ帰郷することに決めている。この決断の背景には、普仏戦争後の愛国主義の高揚、貴族としてのソシュール家の一員としての義務感があったと指摘される。パリを離れる際には、ブレアルやガストン・パリスの働きかけによって、フランス学士院からレジオンドヌール勲章が授与された。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | 1891年10月にジュネーブ大学の比較言語学特任教授となる。1892年3月にはジュネーブの資産家の娘マリー・フェッシュと結婚する。内向的なソシュールと社交的であった妻マリーとの間の性格的相違が、ソシュールの深刻な孤独感をもたらしたという説がある。マリーとの間には、1892年に長男のジャックが、1894年に次男のレーモンが生まれている。
ジュネーブ大学でのソシュールの講義は、主にサンスクリットと印欧諸語についてのものであり、有名な一般言語学についての講義は晩年の1907年、1908-1909年、1910-1911年の3回しかない。しかし1890年代前半の講義にも、アルベール・セシュエが証言するように、一般言語学の諸原理の要素が多数現れていた。事実、ソシュールが一般言語学について深く思索し、科学としての確立を試みていたのがこの時期である。
1894年にジュネーブ大学で第10回東洋語学者会議が開催され、ソシュールは事務局長をつとめた。この会議にてソシュールは後に「ソシュールの法則」と言われる比較言語学上の発見を発表しているが、これがソシュールの比較言語学の最後の業績となった。
この後から、ソシュールは言語学の研究は続けていたものの、それを形にすることは少なくなる。メイエに宛てた書簡の中で、ソシュールは一般言語学の研究が難しく苦しく、興味を持ち続けられるのは個々の言語の一面でしかない、と語っている。ゲルマン神話の研究や、地名の研究、詩のアナグラムの研究など、周辺的な分野の研究を行った資料が多数発見されている。
1906年に、それまでジュネーブ大学で言語学の教授であったヴェルトハイマーが退官すると、ソシュールは一般言語学の講義を任される。この一般言語学の講義は3回あり、これらの講義をまとめたものが、一般言語学講義として後に出版された。1912年の夏には、健康を害して療養にはいる。1913年2月22日に死去した。55歳没。
ソシュールは、言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | ソシュールは、言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。
ソシュールは、言語学を通時言語学と共時言語学に二分した。従来の比較言語学のように、言語の歴史的側面を扱うのが「通時言語学」である。それに対して、言語の共時的(非歴史的、静態的)な構造を扱うのが「共時言語学」である。ソシュールは、その両方を研究の対象とすることで、それまでのように言語の起源や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全体的に理解しようとした。
共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面(ラング。語彙や文法など、社会に共有される言語上の約束事。コード)と言語の個人的側面(パロール、「今日は暑い」とか「私は完璧に血抜きされた魚の刺身を食べたい」や「どこでもドアが欲しい」などといった個人的な言語の運用。メッセージ)に二分し、「ラング」を共時言語学の対象とした。
ソシュールは、言語(ラング)は記号(シーニュfr:signe)の体系であるとした。ソシュールによれば、記号は、シニフィアン(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)とシニフィエ(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものである。そして、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、恣意的なものである。つまり、「イヌ」という概念は、"Dog"(英語)というシニフィアンと結びついても、"Chien"(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということである。
さらに、ソシュールは、音韻においても、概念においても、差異だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | さらに、ソシュールは、音韻においても、概念においても、差異だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。
まず、音韻について言えば、たとえば日本語では、五十音で音を区切っている。そして、「ア」の音は、「ア」以外の音(イ、ウ、エ、オ、......)ではないものとして意味を持つ。そして、音の区別の仕方は、言語によって異なる。たとえば、日本語の音韻体系においては、英語における「r」と「l」にあたる音の区別がない。つまり、本来ならば、無限に分類できるさまざまな音を、有限数の音に分類する。そして、各言語の話者族は、それぞれ独自のやり方で(つまり、普遍的ではないやり方で)音を区分けしている。これは、"言語の音声面での恣意性"と表現される。
一方、音韻だけではなく、概念も言語によって区切られている。たとえば、「イヌ」という言葉の概念は、「イヌ」以外のすべての概念(ネコ、ネズミ、太陽、工場、川、地球......)との差異で存立している。このように、人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けているのである。そして、その切り分け方は、普遍的ではない。たとえば、日本語では虹の色を「七色」に切り分けているが、それを「三色」に切り分ける言語もある。つまり、色を表す言葉の数によって、虹の色の区切り方が違うのである。また、日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言葉で表現するが、英語では両方とも"tuna"である。これは、それぞれの言語を話す人々は、どの差異を区別し、どの差異を無視するかということを恣意的に選択しているのである。そして、その選択がその言語に固有の語体系を作るのであり、その語体系は、その言語の話者族に、現実世界を与える。ソシュールは、この語体系の固有性を作り出す側面を"価値"と呼んでいる。価値は、話者族の恣意による。たとえば、英語のsheepとフランス語のmoutonは、意義は同じであるが、価値は異なる。ここにおいて、ソシュールは、「各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ」という言語相対論を提唱した。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | このように線引きの集まりを恣意的に作るという行為は、分節と呼ばれる。そして、人間は、「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」という二つの体系を"分節"によって作りあげているのである。これを二重分節という。なお、線引きが恣意的であることを、後に"差異の体系"と呼んだ評論家がいるが、それでは力点の置き方が異なるため、ソシュールの意図からは外れることになる。
ソシュールは、このように音韻や概念を分節し、言語を運用する人間の能力をランガージュと呼んだ。ランガージュを持つことによって、人間は「今日は暑い」とか「鰻が食べたい」といった個人的な言語を運用(パロール)することができるようになるのである。ソシュールは、「ランガージュは、人類を他の動物から弁別する印であり、人間学的あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」と述べている。
ソシュールによって、恣意的な関係性という意味の 「シーニュ」の概念が指摘された。そして、このことをきっかけに、同様の恣意性が、言語学以外のさまざまな象徴や指標でも見出された。そして、この概念は、(ダルシャナを知らなかった)ヨーロッパの人々にも、遅ればせながら意識されるようになった。また、「シーニュ」の概念は、言語に関する理論にとどまらず、他の論者・評論家たちからも類推的・拡張的に利用され、次第に記号論あるいは記号学と呼ばれる一連の論・評論へと発展していくことになった。
たとえば、後の記号論者には、あるブランドに特定のイメージが関連づけられる仕方は、おおむね恣意的なものであり、他の類似ブランドとの差異の体系を形成している、ということを指摘した者もいる。たとえば、『消費社会の神話と構造』のボードリヤールがいる。
評論家たちは、映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との"差異の体系"として読み解こうとした。これは、「間テクスト性の分析」と呼ばれる分析方法であり、ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァが使用した。しかし、これは、ソシュールの提示した概念に負うところが大きい。
また、クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。 | 1,094 |
フェルディナン・ド・ソシュール | また、クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。
ソシュールは、存命中一冊の著書も出版しなかった。しかし、ソシュールには、晩年の1906年から1911年にかけて、ジュネーヴ大学において、一般言語学についての講義を計三回行ったことがあり、そのときに後にソシュールの弟子になるバイイとセシュエがまとめた『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)がある。ただし、彼らはジュネーヴ大学の別の講義に出席していたため、直接聴講したわけではない。なお、直接講義を受けた学生による講義ノートが、エディット・パルクから第一回から第三回まで全て出版されている。
1954年頃から、ジュネーヴ公共大学図書館では、ソシュールの講義ノート等の資料が収集され始める。そして、1957年にゴデルが『一般言語学講義の原資料』を、1968年にはエングラーが『一般言語学講義』改訂版を刊行する。
日本への紹介は、小林英夫による邦訳初版が、ソッスュール述『言語學原論』と題して1928年に岡書院から出版された。その後、出版元を岩波書店に変え、1972年刊行の改訳版で『一般言語学講義』と改題出版された。丸山圭三郎は「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」を刊行した。彼は、ソシュールが歪曲されたまま伝えられたことを指摘した。 | 1,094 |
記号学 | 記号学(きごうがく、英: semiotics、独: semiotik、仏: sémiotique)は、記号の学問である。
セミオロジー(semiologie)、セモロジー(semologie)など複数の名称が与えられてきたが、1962年のジョージ・ハーバート・ミードの提唱により、セミオティクス(semiotics)の語が定着した。
ソシュールのセミオロジー(sémiologie)とパースのセミオティクス(semiotics)を対比して、日本語でそれぞれ記号学と記号論と呼ぶことがある。
記号学(セミオロジー)は、フェルディナン・ド・ソシュールによる、「表現面 - 内容面」(シニフィアン - シニフィエ)の二項に基づく記号学である。
記号論(セミオティクス)は、チャールズ・サンダース・パースによる、「表現、内容、指示対象」の三項に基づく記号学である。
記号論(セミオティクス)は、チャールズ・サンダース・パースによる、「表現、内容、指示対象」の三項に基づく、記号の学。パースの記号論において、記号は物理的指示作用と図像的表示能力をもつとし、さらにこの二つの作用の総合として象徴作用という第三の意味作用が生じると考える。パースは記号のこのような三つの意味の差異を以上の三項で呼び分ける。記号とは常に低次の意味作用から高次のものへと発展する、記号は時間の中にある、と考える。ウンベルト・エーコなどが代表的な論者である。
1907年からのフェルディナン・ド・ソシュールによるジュネーブ大学における「一般言語学」は、彼の死後の1916年に彼の弟子たち、言語学的文体論を開拓したシャルル・バイイと統辞論に関心を向けたアルベール・セシュエ、によってまとめられ『一般言語学講義』の題で刊行されたが、バイイとセシュエの編纂方針は、ソシュールの講義の意図を汲み取った上で、講義全体を新たな文章で書き下ろすという大胆なものであった。そのような編纂方法であったことから、主張内容が必ずしもソシュールによるものではないという批判があるものの、その講義録の中で提唱された意味の一般学が記号学(sémiologie)である。 | 1,096 |
記号学 | フランスの構造主義哲学者・文学者ロラン・バルトは、『エクリチュールの零度』『モードの体系』でソシュール記号学を援用し、中世ヨーロッパ文化史研究者で文学者のウンベルト・エーコは『記号論I・II』を著した。
日本では、浅田彰『構造と力 記号論を超えて』の大ヒットと共にニュー・アカデミズムと呼ばれる思潮が起こり、記号論もにわかに注目を集めた。この時代の日本人による著作としては、池上嘉彦の『記号論への招待』や『詩学と文化記号論』、山口昌男の『文化と両義性』などがある。 | 1,096 |
統計力学 | 統計力学()は、系の微視的な物理法則を基に、巨視的な性質を導き出すための学問である。統計物理学、統計熱力学) とも呼ぶ。歴史的には理想気体の温度や圧力などの熱力学的な性質を気体分子運動論の立場から演繹することを目的としてルートヴィッヒ・ボルツマン、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、ウィラード・ギブズらによって始められた。理想気体だけでなく、実在気体や、液体、固体やそれらの状態間の相転移、磁性体、ゴム弾性などの巨視的対象が広く扱われる。
統計力学では、膨大な数(典型的にはアボガドロ数 10 程度)の粒子により構成される力学系を対象とする。この力学系の状態を指定するには、系を構成する粒子数に比例したオーダーの膨大な自由度を必要とする。 一方で、この系を熱力学的に取り扱う場合は、系の状態は巨視的な物理量である状態量によって指定される。熱力学的な状態は温度や圧力、エネルギーや物質量などの少ない自由度で指定されることが知られている。
すなわち、熱力学的に状態が指定されたとしても、力学的には状態が完全に指定されることはなく、膨大な状態を取り得る。統計力学の基本的な取り扱いは、熱力学的な条件(巨視的な条件)の下で力学的な状態(微視的な状態)が確率的に出現するものとして考える。
系が取り得る全ての状態の集合(標本空間)を Ω とする。 系が状態 ω ∈ Ω にあるときの物理量は確率変数 O(ω) として表される。 系が状態 ω にある確率が p(ω) で与えられているとき、熱力学的な物理量としての状態量 が期待値
として実現される。特に熱力学における基本的な関数であるエントロピーが
で与えられる。比例係数 k はボルツマン定数である。
統計力学で対象とする力学系が、古典力学に基づく場合は古典統計力学、量子力学に基づく場合は量子統計力学として大別される。
力学系の状態の集合である標本空間 Ω は、古典論では正準変数により張られる位相空間であり、量子論では状態ベクトルにより張られるヒルベルト空間である。 また、物理量 O は古典論では位相空間上の関数であり、量子論では状態ベクトルに作用するエルミート演算子である。
古典論においては位相空間の測度は、1対の正準変数 dp dq ごとにプランク定数 h で割る約束で、状態に対する和が | 1,097 |
統計力学 | 力学系の状態の集合である標本空間 Ω は、古典論では正準変数により張られる位相空間であり、量子論では状態ベクトルにより張られるヒルベルト空間である。 また、物理量 O は古典論では位相空間上の関数であり、量子論では状態ベクトルに作用するエルミート演算子である。
古典論においては位相空間の測度は、1対の正準変数 dp dq ごとにプランク定数 h で割る約束で、状態に対する和が
で置き換えられる。ここで f は力学的自由度であり、3次元空間の N-粒子系であれば、f = 3N である。
量子論においては、量子数の組 ni の和
で置き換えられる。
力学系がある微視的な状態を取る確率は、系を熱力学的に特徴付ける条件(系のエネルギーや温度、化学ポテンシャルなどの状態変数)によって決まる。巨視的な条件は統計集団(アンサンブル)と呼ばれ、代表的なものとして
が挙げられる。
平衡状態の統計力学は、等重率の原理とボルツマンの原理から導かれる。
ボルツマンの原理により微視的な確率分布が熱力学的なエントロピーと関係付けられる。 また、確率の規格化定数として現れる分配関数は確率分布の情報をもっており、完全な熱力学関数と関連付けられる。
孤立系の確率集団は {qi, pi} で指定される微視的状態が等しい確率をもつミクロカノニカル集団である。これを等重率の原理という。
孤立系(エネルギー E、体積 V、粒子数 N)のエントロピー S(E, V, N) を系の微視的状態の数 W(E, ΔE, V, N) を用いて定義する。
S = k B ln W ≃ k B ln Ω {\displaystyle S=k_{\mathrm {B} }\ln W\simeq k_{\mathrm {B} }\ln \Omega }
これをボルツマンの公式という。kB はボルツマン定数と呼ばれる。W はエネルギーが [E, E+ΔE] の区間に含まれる微視的状態の数であり、ΔE は巨視的に識別不可能である微視的なエネルギー差である。つまり W は巨視的にエネルギー E を持つと見なせる状態の数である。それは等重率の原理により、 | 1,097 |
統計力学 | これをボルツマンの公式という。kB はボルツマン定数と呼ばれる。W はエネルギーが [E, E+ΔE] の区間に含まれる微視的状態の数であり、ΔE は巨視的に識別不可能である微視的なエネルギー差である。つまり W は巨視的にエネルギー E を持つと見なせる状態の数である。それは等重率の原理により、
W ( E ) = ∫ E < H ( { p i } , { q i } ) < E + Δ E d Γ ≃ Ω ( E ) Δ E {\displaystyle W(E)=\int _{E<H(\{p_{i}\},\{q_{i}\})<E+\Delta {}E}\mathrm {d} \Gamma \simeq \Omega (E)\Delta {}E}
で与えられる。ここで、Ω(E) はエネルギー E における状態密度と呼ばれる量である。このエントロピーを熱力学におけるエントロピーとオーダーで一致させるには、微視的状態を量子力学によって記述する必要がある。その場合の統計力学を量子統計力学といい、古典統計力学は量子統計力学の古典的極限として構築される。
エネルギー E の孤立系の物理量 A の集団平均 ⟨A⟩E は
⟨ A ⟩ E = ∫ E < H ( { p i } , { q i } ) < E + Δ E A ( { p i } , { q i } ) d Γ W {\displaystyle \left\langle A\right\rangle _{E}={\frac {\int _{E<H(\{p_{i}\},\{q_{i}\})<E+\Delta E}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} \Gamma }{W}}}
で与えられる。
充分多数の N ≫ 1 個の粒子から成る古典的な系での任意の物理量 A の時間平均値 A は
A ̄ = lim T → ∞ 1 T ∫ 0 T A ( { p i } , { q i } ) d t {\displaystyle {\bar {A}}=\lim _{T\to \infty }{\frac {1}{T}}\int _{0}^{T}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} t} | 1,097 |
統計力学 | A ̄ = lim T → ∞ 1 T ∫ 0 T A ( { p i } , { q i } ) d t {\displaystyle {\bar {A}}=\lim _{T\to \infty }{\frac {1}{T}}\int _{0}^{T}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} t}
と与えられる。{qi}i = 1,..., 3N, {pi}i = 1,..., 3N は系の微視的状態を指定する正準変数である。系が熱力学的平衡状態に達するならばこの値は収束する。このとき長時間平均 A は熱力学に現れる巨視的な物理量 A に一致しなければならない。系の微視的状態の(任意の)分布 ρ({qi}, {pi}, N) はリウヴィルの定理により時間に関して不変である。
d ρ d t = 0 {\displaystyle {\frac {\mathrm {d} \rho }{\mathrm {d} t}}=0}
このことから、時間 t に依存しない平衡状態において、{qi}, {pi} で指定される微視的状態がある確率 dP を持つ確率集団(アンサンブル)を考えると物理量 A の集団平均 ⟨A⟩ は
⟨ A ⟩ = ∫ A ( { p i } , { q i } ) d P = ∫ A ( { p i } , { q i } ) ρ ( { p i } , { q i } ) d Γ ∫ ρ ( { p i } , { q i } ) d Γ {\displaystyle \left\langle A\right\rangle =\int {}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} P={\frac {\int {}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\rho {}(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} \Gamma }{\int {}\rho {}(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} \Gamma }}}
で与えられる。この集団平均 ⟨A⟩と時間平均 A が等しいと仮定することを統計力学の原理とする仮説をエルゴード仮説と呼ぶ。ただし、エルゴード仮説は統計力学の基礎付けと無関係という主張も専門家によってなされている。 | 1,097 |
統計力学 | で与えられる。この集団平均 ⟨A⟩と時間平均 A が等しいと仮定することを統計力学の原理とする仮説をエルゴード仮説と呼ぶ。ただし、エルゴード仮説は統計力学の基礎付けと無関係という主張も専門家によってなされている。
非平衡系では、熱平衡からのずれを1次の微小量(摂動)とみなしてよい線形非平衡系と、みなせない非線形非平衡系に分類できる.
場の量子論を用いた統計力学は、松原武生による温度グリーン関数の導入により始まった。 | 1,097 |
石原慎太郎 | 石原 慎太郎(石原 愼太郎、いしはら しんたろう、1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の作家・政治家。
参議院議員(1期)、環境庁長官(福田赳夫内閣)、運輸大臣(竹下内閣)、東京都知事(第14代 - 17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任。
一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。
1968年に参議院議員に当選、政治家に転ずる。福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任。1995年4月に衆議院議員を辞職。
1999年東京都知事選挙に立候補し当選。2003年東京都知事選挙、2007年東京都知事選挙、2011年東京都知事選挙で再選し4選した。石原都政では新銀行東京、首都大学東京の設立、外形標準課税の導入、ディーゼル自動車の排ガス規制など議論を呼ぶ政策を実施した。2012年、後継に副知事の猪瀬直樹を指名し、次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し、17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年の第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で立候補したが、落選の確定を受けて政界から引退した。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党元衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓。
父 石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市で誕生。
北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 父 石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市で誕生。
北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。
湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、共に高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。
公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。
慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。
慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。 — サンデー毎日1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」 | 1,098 |
石原慎太郎 | 石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。
その後『処刑の部屋』(映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。
戯曲や演劇にも積極的に関わった。1960年5月と9月、劇団四季は石原が書いた『狼生きろ豚は死ね』を公演した。1965年、日生劇場で上演されたミュージカル『焔のカーブ』の脚本・演出を務め、出演者のジャニーズが歌う同名の主題歌の作詞も手掛けた。翌1966年にはジャニーズが主役のミュージカル『宝島』の脚本・演出を務めた。
1970年に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟・裕次郎を描いた1996年の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。1969年に『日本について語ろう』(小田実と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも文藝春秋読者賞を受賞している。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。
創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』(1969年、70万部)、『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)、『老いてこそ人生』(2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』(1969年、70万部)、『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)、『老いてこそ人生』(2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。
俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。
政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。
1967年10月3日、自由民主党本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた。
1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会は石原のために動員をかけた。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 1972年9月29日、田中角栄と周恩来は日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。
1973年、石原は、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。
1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿ではなく、石原を応援した。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った。
1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。
1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年、清和政策研究会に合流する。
1987年、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年、清和政策研究会に合流する。
1987年、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。
1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年3月にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。
1989年、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。
2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。
衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。
同年4月17日と12月4日には安倍晋三首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には第185回国会・衆議院本会議において所信表明演説に対する代表質問を行った。
都知事時代から、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。都議会でも、改憲手続きなどせずに衆議院で憲法破棄決議をすればよいと主張し、「憲法第99条違反ではないか」と指摘されている。
石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。
日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。
さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。
2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。
7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。
2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。
2015年春の叙勲で旭日大綬章を受章。
2021年10月、病院で膵臓がんの再発と「余命3か月」程度との宣告を受けている。この時の心情も含め、絶筆となった「死への道程」が死去後の2022年3月10日に発売された「文藝春秋」4月号に掲載されている。
父・慎太郎が亡くなるまでの3か月について次男の石原良純は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している。
2022年2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年91歳(89歳没)。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 父・慎太郎が亡くなるまでの3か月について次男の石原良純は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している。
2022年2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年91歳(89歳没)。
死因は公表されていないが、死去当日に長男の石原伸晃は会見で「膵臓がんを患っておりまして、本当によく戦い、頑張ったんでございますが、昨年の10月に再発をいたしまして、本日に至ったところでございます」と語っている。2014年に出版した『私の海』(幻冬舎)には「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したとする一方で、かつての秘書によると「墓石には『青嵐報国』と入れてほしい」とも発言していた。葬儀・告別式が2月5日、大田区の自宅で家族葬が行われ、戒名は「海陽院文政慎栄居士」、先祖代々が眠る逗子市の海宝院に納骨されると報じられた。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻の典子も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。
「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」という石原の遺言に従い、4月17日に海上散骨式が神奈川県三浦郡葉山町の名島沖で行われ、石原伸晃のYouTube公式chでも動画配信された。6月9日午前10時より、元首相・安倍晋三(その後翌月8日に銃撃死)、読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡辺恒雄らが発起人を務めた「お別れの会」が東京都内のホテルにて開かれ、各界の関係者らが参列した。祭壇は、石原が愛した湘南の海をイメージさせる青や白の花で装飾され、両サイドには愛艇「コンテッサII世」のセイルが飾られた。
6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された。
2023年8月、晩年まで住んだ大田区田園調布の自宅(1981年に落成)が売却され、年内に解体される。 | 1,098 |
石原慎太郎 | 6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された。
2023年8月、晩年まで住んだ大田区田園調布の自宅(1981年に落成)が売却され、年内に解体される。
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されてしまうケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。原田実は、石原の著作にみられる主張と実際の政治的主張を言行不一致・朝令暮改とし、思うに石原はその時その時に応じて世間が求める「石原」というキャラを演じ続けているのだろう、その巧みさゆえに都知事の座を守り抜けたとしている。
石原の自宅に突然押しかけてきた在日朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けたことがある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である朝鮮労働党の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼らが日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという。
映画『太陽の季節』で映画初出演、1956年の『日蝕の夏』、『婚約指輪』、1957年の『危険な英雄』と三作品で主演を務めた。その後、1965年の『異聞猿飛佐助』に特別出演して以降、約48年間、映画出演は無かったが、2012年に製作総指揮・企画・原作・脚本を担当した『青木ヶ原』では都知事役で出演した。
1972年には裕次郎主演映画、『影狩り』への出演が予定されていたが、政治活動の多忙化により実現しなかった。
『不思議な不思議な航海』(絵:高橋唯美)白泉社 1990.7 | 1,098 |
チョムスキー | チョムスキー(Chomsky) | 1,100 |
ソシュール | ソシュール、ド・ソシュール (de Saussure) は16世紀のアントワーヌ・ド・ソシュール (Antoine de Saussure, 1514–1569) に始まるスイスなどに見られる姓のひとつ。
その祖先のソシュール (de Saulxures) 家は現在フランス、ナンシー近郊の小村ソシュール (Saulxures) に出自を持ちその地の領主であった。 アントワーヌは宗教改革派に与し弾圧に巻き込まれたことから1551年よりソシュール村を離れ数か所を転々とした後、1556年スイスのローザンヌへと移住し、名の綴りも de Saussure と簡素化した。 その後18世紀よりソシュール家は多くの著名な学者を輩出した。 | 1,101 |
消滅した政権一覧 | 消滅した政権一覧(しょうめつしたせいけんいちらん)では、人類史上、かつて存在した国家もしくは政権を一覧する。
#チベット、#モンゴル高原、#東トルキスタンはそれぞれ東アジア内の項を参照。 | 1,104 |
生成文法 | 生成文法(せいせいぶんぽう、英: generative grammar)は、ノーム・チョムスキーの 『言語理論の論理構造』(The Logical Structure of Linguistic Theory、1955/1975)、 『文法の構造』(Syntactic Structures、1957)といった著作や同時期の発表を契機として起こった言語学の理論である。
チョムスキーの示したドグマ・ドクトリンとしては、脳の言語野に損傷を持たない人間は幼児期に触れる言語が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に言語獲得に成功するが、これは言語の初期状態である普遍文法(英: universal grammar, UG)を生得的に備えているためであると考える。生成文法の目標は、定常状態としての個別言語の妥当な理論を構築し(記述的妥当性)、第一次言語獲得における個別言語の獲得が成功する源泉としての初期状態であるUGの特定とそこからの可能な遷移を明らかにする(説明的妥当性)ことである。そして言語を司る「器官」を心/脳のモジュールとし、言語学を心理学/生物学の下位領域とする。
しかし、以上のような考えが根底にはあるが、テクニカルには主として句構造規則からの「生成」(数学における「生成」に由来しており、むしろ「定義」の意味に近い)による文法、句構造文法を主として言語(もっぱら自然言語だが、次に述べるように形式言語にも波及した)を扱うことを特徴とする言語学である。またチョムスキーによれば「生成」という語は明示的であるということを意味する(ただし、「生成」の意味には変化があるとしてジェームズ・マコーレーの批判がある。チョムスキーはそれを否定しており、変化は無いとしている)。
言語学的には自然言語を対象として広がった分野であるが、前述のテクニカルな面は形式言語との親和性もあり、「チョムスキー階層」などは「形式言語とオートマトンの理論」と呼ばれる数理の分野における基本概念となっている。
生成文法は音韻論、形態論、意味論、言語獲得など一般に扱うが統語論が主となっている。以下では統語論に話題を絞り、他の領域に関してはそれぞれ関連記事を参照されたい。
生成文法のうち、変換を含む言語理論は計算上非現実的として変換を含まない生成文法があり、区別して非変換(論的)生成文法ということがある。 | 1,105 |
生成文法 | 生成文法は音韻論、形態論、意味論、言語獲得など一般に扱うが統語論が主となっている。以下では統語論に話題を絞り、他の領域に関してはそれぞれ関連記事を参照されたい。
生成文法のうち、変換を含む言語理論は計算上非現実的として変換を含まない生成文法があり、区別して非変換(論的)生成文法ということがある。
生成文法以前にアメリカで主流であった言語学は構造主義言語学であった。ヨーロッパにおける構造主義言語学と区別してアメリカ構造主義と呼ばれることもある(ヨーロッパにおける構造主義言語学は、一般にソシュールが祖とされ、いわゆる「近代言語学」とも。なお、単に「構造主義」で特にヨーロッパの側のほうを指すことも多い)。
アメリカ構造主義言語学は、与えられた音声データから一定の手続きに従って音韻論、形態論、統語論と記述を進めるというものであるが、音素や形態素の分類が行われれば一応の目的達成とされるものであった。これはヨーロッパの言語とは系統的に無関係で、ア・プリオリに分析の方法が与えられていないネイティブ・アメリカンの言語を記述するための方法論として発展してきたことをひとつの大きな契機としている(詳細は構造主義言語学の記事を参照)。
関連事項として、当時の心理学は行動主義心理学の全盛期であり、人間の行動をすべて刺激とそれへの反応が一般化したものと捉え、直接観察可能でない心的現象行動についても観察可能な行動に還元する傾向にあったことがあげられる。心的現象に関わる意味論は心理学のこのような傾向に歩調を合わせる形で優先順位を後にされ、生成文法の萌芽期と時期的に重なる成分分析まで延期されていた。また、アメリカ構造主義は「科学的方法」を看板としていたが、科学哲学としては論理実証主義を背景として検証可能なもののみを言語学の対象としていたが、その対象を自ら狭め、また音素、形態素の認定に意味が果たす役割には無自覚であるか、あえて不問に付していた。
その結果、アメリカ構造主義においては多くの言語を対象としたデータの膨大な蓄積をもたらしたが、その一方で伝統的言語研究とは断絶状態となって多くの重要な設問は禁止された状態にあり、データの蓄積が言語に対する洞察を深めることにはならなかった。 | 1,105 |
生成文法 | その結果、アメリカ構造主義においては多くの言語を対象としたデータの膨大な蓄積をもたらしたが、その一方で伝統的言語研究とは断絶状態となって多くの重要な設問は禁止された状態にあり、データの蓄積が言語に対する洞察を深めることにはならなかった。
生成文法は合理論に与し、アメリカ構造主義の経験論に対立する。生得的な知識に関しては古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇『メノン』に現れる数理的知識の議論がある。文法としては古代インドのパーニニによる文典が最古の「生成文法」とされる。チョムスキーが生成文法をデカルト的(cartesian)と冠していることからわかるように、ルネ・デカルトの思想は生成文法に大きな影響を与えている。また、アメリカ構造主義の重要な言語学者とされるレナード・ブルームフィールド、エドワード・サピアの研究に「生成文法」を先取りする考えが含まれており、また伝統的研究に属すると言えるオットー・イェスペルセンの英語の分析は現在においても重要な影響を与え続けている。
非本質的な要因の関与を排除して理想化をほどこした、個別言語の話者の脳に内在する言語機能を言語能力と呼び、それを利用した、注意力・記憶力の限界、発話意図の変更、物理的制約などの要因の影響を受ける言語使用の側面を言語運用と呼んで区別した。言語能力と言語運用の区別はしばしばソシュールのラングとパロールの区別と対比されるが、これらは社会的側面と個人における実現という区別であり、全く異質なものである。
生成文法は、言語現象のあらゆる現われをデータとするが、そこで重要なのは母語話者の判断である。母語話者の判断は、その人が持つ言語の直観を反映するが、そこには様々な要因が組み合わさって現象する。その直観を反映した判断を容認性と呼ぶ。上で述べたような事情から、容認性判断は言語能力を直接反映したものとは言えない。研究の過程で非本質的な要因を除外していくと、最終的に目的としている文法にたどり着くと考えられる。この文法に照らし合わせた構造記述の適格性を文法性と呼ぶ。究極的には、真の文法が得られた場合に限り文法性の評価が可能となる。なお、言語学の慣用として、容認不可能なデータの前に'*'(アステリスク、星印)を、容認不可能とは言えないが許容度のかなり下がるデータの前に'?'を付すことになっている。 | 1,105 |
生成文法 | 生成文法は言語獲得を説明することも課題として掲げている。
乳幼児は第一次言語獲得において、生後半年ほどでまわりの大人の話す個別言語の弁別素性(例えば音素)を特定し、一年ほどで多くの音と意味の結びつきを覚える。さらに一語文の時期を経て二語以上の語からなる構造を持った発話を産出するころには、基本的な統語構造をほぼ獲得しているものと見られる。
言語獲得は生得的な初期状態であるUG(普遍文法)から定常状態である個別言語への遷移と理解され、生成文法は、自然言語であればどのような個別言語の状態へも遷移可能なだけ豊かで、第一次言語獲得が短期間になされること、自然言語としてあり得ない言語へと遷移できないことを保障するだけ十分に制限されたUGを特定することを課題の一つとする。この課題を達成する理論を説明的妥当性を備えた理論という。
生成文法以前には、生得的構造を仮定せずに類推によって言語は獲得されると考えられることも多かったが、類推の基礎になるデータがないにもかかわらず、自由に構造が生成されるという事実がある。これはプラトンの問題、言語獲得についての論理的な問題などと呼ばれる。また、幼児はどのようなものが正しいかという情報を得ることができないこと(否定証拠の欠如)も指摘される。
説明的妥当性を持つ理論は初期状態である普遍文法(UG)の性質を記述する。ではUGの性質を知るにはどのようにしたらよいのであろうか。以下は黒田成幸の説明に基づく。子供は、自分の周りの大人が話す個別言語Lのデータを基にして、Lを獲得する。その際の、データを入力として個別言語を出力とするものを言語獲得装置(language acquisition device、LAD)ということがある。LADを関数とし、そこに入力されるデータをlとすると、言語獲得を次のように定式化することができる。
例えば日本語(J)の獲得、英語(E)の獲得、アラビア語(A)の獲得、...、言語Lnの獲得を次のように表すことができる: | 1,105 |
生成文法 | 例えば日本語(J)の獲得、英語(E)の獲得、アラビア語(A)の獲得、...、言語Lnの獲得を次のように表すことができる:
ここで、言語学者には言語獲得に決定的となる情報の総体(関数LADへの入力=データ)がどのようなものかを知ることはできない。しかし記述的妥当性を備えた文法は出力としての個別言語を知っている。このようなことから、言語獲得において関数LADとそれへの入力は未知であるが、その出力である個別言語を既知として連立方程式を立てることができ、LADはその連立方程式を解くことで求めることができる。LADは、UGの定数である原理と、変数であるパラメータ、及びパラメータの指定方法によって構成されると考えることができる。
生成文法は1950年代の発足当初から理論の積み重ねを経て今日に至っているが、その積み重ねは小さな修正の集積だけではなく、非常に大きな枠組みの変革も含まれている。巨視的に見ると、生成文法はこれまでに3度の大規模な理論的変革を経験している。概念的・思想的な側面では一貫しているが、議論を進める上での技術的な側面では非常に大きな変更がなされており、変革を期に生成文法の研究を離れる研究者が現れたり、また、変革が起こるたびに「一貫性のない理論である」という批判を受けるなどしてきた。こうした大幅な理論の変革は生成文法の特徴の一つとなっている。
しかし、新たに提示される枠組みは、以前の枠組みで説明されてきたものをメタ的に説明できるようになっており、道具立て自体は破棄されても、それまでの理論的蓄積はより一般化された形で説明される。つまり、生成文法では新たな理論がまったく恣意的に作り出されるのではなく、従来の理論をより一般化するように理論が発展してきている。
生成文法の枠組みの変革は以下のようにまとめられる | 1,105 |
生成文法 | しかし、新たに提示される枠組みは、以前の枠組みで説明されてきたものをメタ的に説明できるようになっており、道具立て自体は破棄されても、それまでの理論的蓄積はより一般化された形で説明される。つまり、生成文法では新たな理論がまったく恣意的に作り出されるのではなく、従来の理論をより一般化するように理論が発展してきている。
生成文法の枠組みの変革は以下のようにまとめられる
この理論的変遷を歴史的に見ると以下のようになる。すなわち、当初は考えられる規則を網羅的に記述していたが、規則が増えるに従い体系が煩雑になったため、1970年代の終わりごろから1980年代の終わりにかけて、可能な規則を規定するメタ規則や誤った文を排除する制約が考えられた。これは原理とパラメターのアプローチと呼ばれ、言語は普遍的な有限の原理と個別言語ごとに規定されたパラメターから成ると仮定されている。1980年代の終わりからは、言語を計算とみなし、経済性や最適性に着目した極小主義プログラム(ミニマリスト・プログラム)が提唱された。
チョムスキーの著書『文法理論の諸相』(Syntactic Structures、SS、1965年)では、アメリカ構造主義言語学のIC分析と呼ばれる文の分析方法が句構造規則によって改めて捉えなおされた。
例えば、
という文には
という分析が与えられ、次のような、連続し順序付けられた構成素に分析していく書き換え規則によって導出される。括弧()で括られた要素は任意要素である。'^'は範疇の結合を表すものとする。句構造規則は順序付けがなされていない。
個別言語はSの集合と見なされる。Sは文(sentence)を示唆しており、句構造の派生の端緒となるため始発記号と呼ばれる。NPは名詞句(noun phrase)、VPは動詞句(verb phrase)、Nは名詞(noun)、Vは動詞(verb)である。Detは限定詞(determiner)と呼ばれ、伝統文法でいう冠詞のほか、my, some, everyなどの要素を含む。終端記号は'a', 'girl', 'boy', 'liked'のような語彙項目である。 | 1,105 |
生成文法 | 書き換え規則の適用は終端記号にたどり着くまで再帰的に適用される。句構造の派生は非終端記号のみからなる記号列、非終端記号と終端記号非終端記号からなる記号列、終端記号のみ非終端記号のみからなる記号列となり、上の文の派生を集合論的に示すと
となる。 再帰性はしばしば人間言語のもっとも根本的な性質として挙げられる。
ところで、SSではこのように句構造規則を定式化した後、このようなタイプの規則だけでは派生できない構造が指摘された。そのような構造を派生するために、新たに導入されたタイプの規則が変換規則である。変換規則の例として受動変換がある。受動変換はおおむね次のように述べられる:
矢印の前の部分を構造分析、後の部分を構造変化という。構造分析は変換に関わる要素だけが示される。その要素以外の部分(-で示される部分)にも様々な要素が存在するので、構造分析は連続しない要素同士の関係に言及している。変換によってもたらされた構造は非連続構成素 (discontinuous constituent) を含んでいる。このような構造は文脈自由文法では導けないとされる。またこの点を無視したとしても、能動文と、それに対応する受動文をそれぞれ別の句構造規則によって導出することにした場合、重要な一般性を失うことになる。これら二つの問題を解決する装置として導入されたのが変換規則である。なお変換規則を含む文法はチョムスキー階層におけるタイプ-2文法(文脈自由文法)より強力でなければならない。しかしながら、変換規則なしには自然言語を記述できないとされた。
上の例に受動化変換を適用すると次のようになる。
これに次のような接辞を動詞に添加する変換が適用される:
これが音韻部門への出力となり、「be+PAST」は/waz/、「like+en」は/lîke+d/という基底構造に写像される。
標準理論はチョムスキーの『文法理論の諸相』において、SS以降の発展が整理された理論である。カッツ-ポスタルの仮説に基づき、意味は句構造規則で生成された深層構造と呼ばれる表示からのみ解釈され、この深層構造に受動化変形などの変形規則を適用して表層構造が与えられ、この表示が音声への出力となる。すなわち、変形規則で文の意味は変わらないとされた。 | 1,105 |
生成文法 | 標準理論はチョムスキーの『文法理論の諸相』において、SS以降の発展が整理された理論である。カッツ-ポスタルの仮説に基づき、意味は句構造規則で生成された深層構造と呼ばれる表示からのみ解釈され、この深層構造に受動化変形などの変形規則を適用して表層構造が与えられ、この表示が音声への出力となる。すなわち、変形規則で文の意味は変わらないとされた。
標準理論までの研究では記述的妥当性の達成が当面の課題とされ、その過程で様々な変形規則が提案された。この時期までは伝統文法との親和性も高かったと言える。しかし、いくつかの点で大幅な転換が必要となっていった。
まず、変形規則の適用を受けた表示で意味解釈をすると考えなければならない現象が出てきたことが上げられる。このような経験的基盤からカッツ-ポスタルの仮説は棄却された。
また、無制限に変形規則が提案される中で、その中に一般性が見出されるものがあること、あり得る変形規則というのは極めて制限されていることなどがわかってきた。Xバー理論はこのような流れの中で提案された理論である。例えばNP(名詞句)は必ずそのhead(主要部)としてNを含み、VP(動詞句)はVを含むといった内心構造に注目し、任意の範疇Xは中間投射X'を経てXPに投射される、という次のようなスキーマにまとめ、句構造規則の中の一般性を抽出した。
それと同時に、'the enemy's destruction of the city' というNPを 'The enemy destroyed the city' というSから派生する変形規則は語彙論者の仮説に基づいて棄却しながらそれらの構造のある共通性を捉えることができるようにした。1980年代後半になると、句構造規則を完全に一般化し、文を補文標識 Comp(lementizer) を主要部とする投射とし、その補部には屈折辞 Infl(exion) を主要部とする投射があり、名詞句も D(eterminer) を主要部とする投射と考えられるようになった。上に挙げた構造はXバー理論の一般化によって次のような構造に捉えなおされる: | 1,105 |
生成文法 | 痕跡理論(英語版)も、可能な変形規則を制限する方向を進めていった。この帰結として変形規則は、任意の要素を任意の位置へ移動させるMove α(αを移動せよ)というただ一つの変形規則に収斂した。例としてwh移動を取り上げて考えてみよう。次の構造ではCompが極めて近い(局所的)位置である指定部(SPEC(ifier))がwh要素に占められていることを必要とする。しかしwh要素は要求された位置ではなく、平叙文で動詞に要求される位置と同じ位置に留まっている。
この構造は不適格となる。それを避けるためにはwh要素がCompのSPECの位置に移動すればよい。この際、wh要素があった位置には痕跡(t)が残され、この痕跡が動詞との関係を満たす。
ただし、必要に応じてつねに移動できる、というわけではなく、境界理論によって制限される。次の例は移動によって[+wh]Compが要求する位置を占めているものの、移動が別のwh要素を越えて適用されている。wh要素は''wh''島という規則適用に対する不透明領域(opaque domain)を形成するため、このような規則適用は適格性の度合いを低くする:
このような枠組みでは、「wh移動」という変換規則を立ててその性質を詳しく述べるのではなく、 Move α が必要に応じて、かつ様々な制限に抵触しないように適用される、というように捉えなおされる。
このような進展に伴い、説明的妥当性を満たす理論の構築が研究課題として浮上してきた。ここに説明的妥当性、すなわち第一次言語獲得における重要な事実を捉えられるだけ十分に制限された理論が必要であるという要請と、記述的妥当性、すなわちそれまでの研究で明らかになった個別言語の多様性を捉えるに足る変異幅を持った理論が必要であるという要請の間に強い緊張関係が生まれた。これを捉えようとして1970年代末以降整備されてきた枠組みが統率・束縛理論(英語版)(GB理論)であり、より一般的には原理とパラメターのアプローチである。
GB理論における文法の構成は次のような図式で示される。 | 1,105 |
生成文法 | GB理論における文法の構成は次のような図式で示される。
表層構造が、PFと呼ばれる音声表示とLFと呼ばれる意味表示に結びついている、というモデルに変更された。また深層心理などの連想で誤解を呼んだ深層構造・表層構造といった用語が避けられ、位置づけの変更に伴ってD構造、S構造という名称が与えられた。この枠組みにおいて統語論における比較研究、対照研究が加速した。
ミニマリスト・プログラム(極小主義プログラム、最小主義プログラムともいう)は、原理とパラメターのアプローチの中でチョムスキーの1980年代末の講義及び論文から徐々に形成されていった研究の方針である。「極小主義者のテーゼ」(自然法則は無駄がない)に照らし合わせ、言語機能独自の装置と考えられるものを限りなくそぎ落としていき、必要最低限のものしか残さなかった場合、言語とはどのようなものになるか、ということを考えようという問題意識である。
まず音声の聴覚像、手話の視覚像、意味の三者をなくすと研究が不可能になるため、感覚-運動系と概念-意図系へのインターフェースに関わる条件は最低限必要である。これ以外に何が必要か。計算対象となる要素同士を結合する操作(併合)は必要であるが、それ以外はどうしても必要だという根拠がないかぎり採用しない、という原則をとる。
さらに従来から理論の「評価尺度」として取り入れられていた「経済性」の概念を明確化し、それが言語のどのような側面にどのように関わるか、ということを考察対象とする。また、計算の「最適性」ということも明確な問題とされ、その性質が考察されている。
このような流れの中で、「最適な言語のデザイン」という考え方が生まれ、これを帰無仮説として、決定的な経験的基盤なしにはいかなる装置も棄却されるようになった。
このようなプログラム遂行の中で今まで用いていた概念が大部分省略されることになった。例えばXバー理論は余分な句構造標識を記法として含んでいたが、主要部の選択関係と句構造構築の経過だけ見れば十分という素句構造(bare phrase structure)のもと、表示の経済性という観点から、余剰的となったXP、X'といった投射を表すための記号はすべて取り除かれた。また「統率」「束縛」というGB理論を特徴付けていた概念も、徹底的な検証によって別のものに置き換えられるか、取り除かれるかされている。 | 1,105 |
生成文法 | レクシコンと統語部門のインターフェイスとして派生の端緒を成していたD構造も解体され、派生の端緒としてはかつてのサイクルに相当するフェイズ(相)毎に語彙の小分けがなされたLA(語彙配列)、あるいはそれを行わないニューマレーションに置き換えられた。
このような問題意識の中で説明的妥当性ということに初めて着手できるようになったとされる。そしてこのことは言語の計算体系を他の認知体系や生物学的特性の中に位置づけうる見通しが立ちはじめている。
1970年代までには、意味部門に変形規則を適用して直接表層構造に写像する生成意味論の研究が展開された。この理論は統語論で扱うべき対象を数多く供給したが、解釈意味論との間に激しい論争があり、その後消失した(言語学戦争と呼ばれている)。かつて解釈意味論が優れた理論だったため生成意味論は棄却された、との見方があったが、ハリスやゴールドスミスなどの研究によってこの見方は否定されている。生成意味論の研究者の一人であるジョージ・レイコフは認知言語学を提案し、生成文法を批判する最大の勢力となっている。
生成文法は他のいくつかの理論と対立してきた。生成意味論との論争はその最大のものである。しかし、対立した理論を常に完全に否定するわけではなく、対峙する理論の優れた点を自己の理論に取り込むということもしばしば行われている。たとえば、原理とパラメターのアプローチにおける原理の一つであるθ理論は、フィルモアの提示する格文法における深層格(意味役割)を参考にしている。また、ミニマリスト・プログラムにおいて、ますます重要性を増すLFも、その元となるアイディアは生成意味論が多く寄与している。その他、併合と素句構造は範疇文法やHPSGに見られる単一化(unification)に相当する。
生成文法には、基底となる構造に対して変換を用いて表層的な構造を得るという多層的アプローチ(multi-stratal approach)と、変換を用いず同一の構造内での計算によって構造を得るという単層的アプローチ(mono-stratal approach)という2つのタイプがある。チョムスキーのアプローチは前者に相当する。 | 1,105 |
生成文法 | 生成文法には、基底となる構造に対して変換を用いて表層的な構造を得るという多層的アプローチ(multi-stratal approach)と、変換を用いず同一の構造内での計算によって構造を得るという単層的アプローチ(mono-stratal approach)という2つのタイプがある。チョムスキーのアプローチは前者に相当する。
多層的アプローチで変換規則を用いる文法は少なく見積もってチョムスキー階層においてタイプ-2文法(文脈自由文法)より強力である。現実のコンピュータに対応するのは制限されたチューリングマシンである線状有界オートマトンであり、これが扱いうるのはタイプ-1文法(文脈依存文法)までである。実際に現在のコンピュータに変換規則を実装しようとすると、可能な組み合わせが指数関数的に増加し、組み合わせ的爆発(計算論的爆発)を起こす場合がある。そこで、1980年代前後より、コンピュータへの実装という観点でより現実的な、タイプ-2文法よりやや強力であるところに押さえた単層的アプローチとしての非変換論的生成文法が提案されている。中でも一般化句構造文法(GPSG)とその発展である主辞駆動句構造文法(HPSG)、TAG(Tree-Adjoining Grammar)などがコンピュータ科学においては変換論的生成文法よりも集中的に研究されている。 | 1,105 |
生成文法 | HPSG(主辞駆動句構造文法)はカール・ポラードとアイヴァン・サグが唱える生成文法の一種である。この理論は一般化句構造文法の直接の継承である。コンピュータ科学(データ型理論と知識表現)のような生成文法外の分野やフェルディナン・ド・ソシュールの記号の概念も採用している。並列処理を配慮した文法構成をしているため、自然言語処理の分野によく用いられる。HPSGの理論は原理群、文法規則群と通常は文法に属するとはみなされていないレクシコンから構成されている。形式化は語彙主義に基づいて行われる。このことはレクシコンが単なる語彙項目の羅列である、ということ以上のことを意味しており、レクシコン内部が豊かな構成を持っている。各語彙項目に階層構造を成す「タイプ」を立て記号を基本的なタイプとする。「語」はPHON (音声情報)とSYNSEM(統語情報と意味情報)という二つの素性を持ち、これらはさらに下位素性から構成される。記号と規則はタイプ付けされた素性構造として形式化される。HPSGの形式化に基づくさまざまな構文解析器(パーザ)が設計され、その最適化が最近研究されている。ドイツ語の文を解析するシステムの一例がブレーメン大学から公開されている。 | 1,105 |
生成文法 | 木接合文法(Tree-adjoining grammar、TAG) は計算言語学や自然言語処理でよく用いられているアラヴィンド・ジョーシの案出した形式言語である。文脈自由文法に類似しているが、書き換えの基本単位は記号ではなく樹である。文脈自由文法はある記号を他の記号列に書き換える規則を持つが、TAGは樹の節点を他の樹に書き換える規則を立てる。(木 (数学)及びツリーデータ構造を参照)。TAGにおける規則(「補助樹; auxiliary trees」として知られる)は「脚節点; foot node」という特殊な節点を葉とする樹状図で表される。根の節点と脚節点は同じ記号でなければならない。「始発樹」(文脈自由文法の始発記号と同じ)から始まる。書き換え操作は補助樹を(典型的には葉ではない)節点に付加(接合)することによって実行される。補助樹の根/脚のラベルは付加する節点のラベルと一致し、この操作で付加対象となる節点を上下に分割する。上方では付加している樹の根と結合し、下方では付加している脚と結合する。これがTAGのもっとも基本となるものである;もっとも一般的なTAGの変異形ではさらに「代入」と呼ばれる書き換え操作が加えられるし、また他の変異形では樹に複数の脚節点を持つ部分樹やさらなる拡張を許している。TAGは、弱生成能力に関してそれ自体を文脈自由文法よりやや強力にするような一定の特徴を備えているが、チョムスキー階層に定義されている文脈依存文法よりは弱いために、よく「やや文脈依存的な」文法であると特徴付けられる。やや文脈依存的な文法は、一般的な場合においてパーザを効率的に保ったまま自然言語のモデル構築としては十分強力である、という予想が提示されている。
認知言語学の分野から、比喩を含む語用論的な現象や他の様々な要因が、統語現象に大きな影響を及ぼしているとして、言語の自律性の仮説に批判がなされている。言語現象を、人間のあらゆる知的活動との関係の中で捉えるべきである、としている。また認知言語学は、生成文法の合理論についても、経験基盤主義的立場から批判している。 | 1,105 |
生成文法 | 認知言語学の分野から、比喩を含む語用論的な現象や他の様々な要因が、統語現象に大きな影響を及ぼしているとして、言語の自律性の仮説に批判がなされている。言語現象を、人間のあらゆる知的活動との関係の中で捉えるべきである、としている。また認知言語学は、生成文法の合理論についても、経験基盤主義的立場から批判している。
個別言語を記述する立場からは、生成文法が英語圏で理論化を始めた後、その理論に都合の良い(顕在主語不可欠の英語中心に)言語や言語データを恣意的に選択していると批判される。また、生成文法の扱う構文が極めて限定的で、個別言語の体系的記述にたどり着かないという批判がある。さらに、データとして扱われる文の許容度に対する内省判断が恣意的であるとする批判もある。ただし、これは研究者の立場がやや記述寄りであるか理論寄りであるかによっても若干傾向が異なる。前者の場合は文の許容度を根拠にある程度帰納的に理論を展開するが、後者は理論から演繹的に文の許容度を示す場合もあり、計算上は矛盾が無くとも一般的な言語直観からはかけ離れたデータが示される場合がある。 | 1,105 |
映画監督一覧 | 映画監督一覧(えいがかんとくいちらん)は、著名な映画監督の一覧である(配列はファミリー・ネームの五十音順)。
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化学 | 化学(かがく、英語: chemistry ケミストリー、羅語:chemia ケーミア)とは、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する、自然科学の一部門。物質が、何から、どのような構造で出来ているか、どんな特徴や性質を持っているか、そして相互作用や反応によってどのように、何に変化するか、を研究するとも言い換えられる。
日本語では同音異義の「科学」(英: science)との混同をさけるため、化学を湯桶読みして「ばけがく」とよぶこともある。
化学は、自然科学の一部門であり、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する部門である。(少し異なった角度からの表現を紹介すると、)化学とは、物質についての学問(「物質の学問」)であり、(自然科学は自然に階層構造を見出すが)化学は自然の階層 の中で言えば、原子や分子という階層を受け持っている 、と筑波大学の齋藤一弥は説明した。日本の諸大学の化学科のHPなどでの解説も紹介すると、たとえば富山大学のHPでは、「化学とは、物質の性質を原子や分子のレベルで解明し、化学反応を用いて新しい物質(系)を作り出すことを設計、追求する学問分野である」、と説明されている。
筑波大のサイトによると、化学という学問を定義づけすることは難しく、それを無理に規定する意義もあまりない。化学は「理学」に含まれるが、数学・物理学あるいは生物学などの、自然科学の中で基礎科学または純粋科学にあたる他の「理学」と化学の相違点は、化学は有限な元素が組み合わさった無数の物質がもつ多様性を取扱い、さらに化学そのものが新たに物質を創造する役割を担う、という点である。 ・ 。化学という学問領域が取り扱う物質は、特に化学物質が中心となる。化学物質は原子・分子・イオンなどが複雑に絡み合いながら作られるため膨大な種類にわたり、その全てを含む壮大な物質世界・生命世界が対象となる。それゆえ化学は、基盤科学と定義づけられる。物質を分子やその集合体の大きさ単位で扱う化学は基礎的であるがゆえに、関連する学問は、理学や工学から医学・薬学、農業・環境分野など多岐にわたる上、特に近年にバイオテクノロジーやエレクトロニクス、新素材や高機能材料など現代科学の最先端技術に新物質や設計・製造の新手段を発明する上で欠かせないものとなっている。 | 1,109 |
化学 | 原則的に近年の化学では、全ての物質が原子からできているとの仮説(あるいはフレームワーク)を採用し、物質の性質は原子自体の状態や、原子同士の結びつきかた(化学結合)で決定されると考える。したがって、繰り返しになるが、基本的に現代の化学は、原子・分子レベルでの物質の構造や性質を解明して、また新しい物質や反応を構築して、「物質とはなにか」に関する知見を積み上げる学問である。
化学は典型的な蓄積型の学問である。取り扱う物質の種類は増える一方で、1980年代には600万種を越え、しかも年平均1000種が追加されていた。これらは基本的に減ることは無いため、それに関する情報は増加の一途をたどる。数世紀前の実験で得られた基礎的なデータですら(間違いでない限り)重要性を失わない。同様に古典的な方法論も最新の量子論的手法と同じくらい高い価値を持つ。
しかしながら、学問としての化学の成立は遅い。数学、物理学、天文学などが2000年前の古代ギリシアで構築され始めたのに対し、科学の一分野として扱うことができる近代的化学のほうは、18世紀末にフランスのアントワーヌ・ラヴォアジエ(1743年 - 1794年)の質量保存の法則(1774年発見)やジョン・ドルトン(1766年 - 1844年)の原子説が正しい方向付けをした事に始まってから、まだ200年程度しか経過していない(#歴史、化学の歴史も参照)。これは近代物理学の最初の到達点であるニュートン力学がプリンキピアに書かれた年(1687年)と比べ、化学の興隆が100年程度時代が下ることを意味する。
その短い歴史の中で、化学は大きな末広がりの構造を持つに至った。化学の基礎的な部分はほとんど固められ、根底から転換がなされる余地はほとんど無い。ところが、物質に対する理解が進み、応用が広がる中で化学が担う役割はほとんど全ての生産・製造に深く関わるようになった。さらに、弱い相互作用を重視した新しい物質像の構築や、自然との調和を実現するための環境化学など、近年になって化学はさらに広がりを見せつつある。 | 1,109 |
化学 | その短い歴史の中で、化学は大きな末広がりの構造を持つに至った。化学の基礎的な部分はほとんど固められ、根底から転換がなされる余地はほとんど無い。ところが、物質に対する理解が進み、応用が広がる中で化学が担う役割はほとんど全ての生産・製造に深く関わるようになった。さらに、弱い相互作用を重視した新しい物質像の構築や、自然との調和を実現するための環境化学など、近年になって化学はさらに広がりを見せつつある。
化学では、物質の基本単位を原子として、その原子が持つさまざまな性質を抽象的概念である「元素」として把握する。原子論が確立した現代では、その特徴を理論的に掴む上で、原子核(陽子・中性子)および電子までの原子の構造から原子番号、質量数、電気素量、イオン、同位体などを決定し取扱い、各元素が持つ性質を理解する。
原子が持つ周期的性質(周期律)は初期の化学が発見した一大成果である。この物理的性質の近似を生む要因である電子配置から、各元素のイオン化エネルギー、電気陰性度、酸化数、原子半径やイオン半径などの特徴が理論づけられる。この周期律を簡略な表にまとめた周期表は化学のバイブルとまで呼ばれる。
元素の性質を記述することは、化学の中でも量子力学と統計力学が取り扱う。周期律は、量子力学の成立をもって初めてその本質が明瞭になった。原子内の電子配置はボーアの原子模型では限界があるので、波動力学のパウリの排他原理や波動関数、そして電子のエネルギー準位で説明される。統計力学は、物質の状態(三態)や性質などを巨視的に理解する上で必須の方法論を提供し、実験の結果をもたらす上で大きな役割を持つ。
物質は原子から構成されるが、その原子が結びついて分子をつくる。この結び付きを化学結合と呼び、これを理解することで化学は発展してきた。 | 1,109 |
化学 | 物質は原子から構成されるが、その原子が結びついて分子をつくる。この結び付きを化学結合と呼び、これを理解することで化学は発展してきた。
19世紀以前、原子間の結びつきは化学反応を説明するために考えられた。基礎的な概念に当たる化学親和力や、続く電気化学的二元論や原子価説が提唱されたが、それでも一部の結合しない原子の組み合わせを説明できなかった。20世紀に入りドイツのヴァルター・コッセル(en)がイオン結合を理論化し、それでも解釈不能な水素分子など無極性分子の説明にアメリカのギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアがそれぞれ独立に共有結合の概念を提案した。量子力学は分子構造論も深化させ、二原子分子の安定を説明した交換相互作用、分子軌道や原子軌道を明らかにした波動関数、金属結合の実際を自由電子モデルから進めたバンド理論などをもたらした。
分子は、その物質が持つ特性を維持したまま分割できる最小の単位と言える。静電気力で結合するイオン結合には方向性が無いが、共有結合は異方性がある。簡単な共有結合分子は原子価殻電子対反発則で説明され、これに電子軌道の考え方を加えれば、分子やイオンの構造についての理論的根拠になる。
その一方で、同じ種類と数の元素が組み合わさった分子でも、その構造で物性に差があることが判明している。不斉炭素原子と共有結合する4つの原子団が結合する位置の違いから生じる光学異性体や立体異性体や、また炭素などの二重結合部分が回転しないために生じる幾何異性体などは、同一の構造式でありながら異なる性質を持つ分子となる。ベンゼン環に結合する置換基の位置(オルトなど)による位置異性体も一例に当たる。エタン類など回転が可能な分子においても、立体障害などによる特性の差異は生じる。さらに近年では知恵の輪のようなカテナンやサッカーボールもどきのフラーレンなど、風変わりな構造を持つ分子も発見されている。
原子や分子がある程度の量あつまると、特徴的な性質をもった集団を形成する。これを相といい、大きく分けて固体、液体、気体(物質の三態)などがある。閉鎖系において物質がこれらの相を取るには温度と圧力が影響し、相律という法則に則った状態を取る。これは物質ごとに相図というグラフで示される。 | 1,109 |
化学 | 原子や分子がある程度の量あつまると、特徴的な性質をもった集団を形成する。これを相といい、大きく分けて固体、液体、気体(物質の三態)などがある。閉鎖系において物質がこれらの相を取るには温度と圧力が影響し、相律という法則に則った状態を取る。これは物質ごとに相図というグラフで示される。
気体は反応に乏しく、体積や圧力など物理的性質や変化などを中心に扱う。しかしそれらのマクロ的なふるまいは、気体では分子が単独で存在する、というミクロな分子の構造や性質に由来する。なお、気体が電離した状態であるプラズマについても、プラズマ化学という分野で取り扱う。
液体は分子間力の点から気体と固体の中間にある。加熱や冷却によって気化・蒸発や凝固など相の変換を起こす。これは化学における重要な物質生成手段である蒸留にかかわる。また、2つ以上の成分でできた液体、溶液に関して化学では、溶媒と溶質による分散系の性質、浸透圧や粘性また表面張力・界面張力なども扱う。
固体は基本的に原子が規則的に配列する結晶質と、規則性に乏しく固体と液体の中間とも言えるアモルファス(非晶質)に分けられる。結晶質は複数の結晶構造いずれかを取り、その性質を特徴づける。また、粒子の種類や力から分類される結晶には、金属結晶・イオン結晶・分子結晶・共有結晶などがある。結晶構造を持ちながら液相的性質を持つ物質は液晶と呼ばれ、一部にベンゼン環のような平面の構造を持つ共通点がある。
複数の物質に混合・必要があれば加熱・冷却などの操作を加えると、異なる化合物ができる。これを化学反応と呼ぶ。化学反応は物質を構成する原子間の化学結合の変化によって起きる。化学反応の前後では全体の質量は変わらない。これを質量保存の法則(あるいは物質不変の法則)という。化学反応は、自然界において基本的には、ある種の自由エネルギーを最小化するほうへ向かって、エネルギーが低い位置へ向かう発熱反応と、より乱雑になろうとするエントロピーの増大という相反する反応を起こしながら、平衡に達する。化学では、これら反応の法則性や利用法の解明が課題となる。
水溶液の性質を知る手段として体系づけが始まった酸と塩基(塩が加水分解したもの)の関係は、化学では重要な項目となる。主に水に溶ける物質の性質分類が行われ、水溶液以外の状態も考慮して、 | 1,109 |
化学 | 水溶液の性質を知る手段として体系づけが始まった酸と塩基(塩が加水分解したもの)の関係は、化学では重要な項目となる。主に水に溶ける物質の性質分類が行われ、水溶液以外の状態も考慮して、
と定義される。この2つは重要な化合物の組である。互いに相反し中和反応を起こさせながら化学平衡し、水素イオン指数など溶液の性質を決める。
燃焼や金属製錬および腐食などの本質は酸化と還元で説明される。酸と塩基が反応の窓口となる電子対が原子と一体になっているのに対し、酸化と還元は電子が単独で動き反応を起こす。そのため、酸化還元は電圧と密接に関係し、電流を生じさせる機構の基本的な原理に当たる。還元の代表的な用途は卑金属の精製であり、酸化は生化学において重要なクエン酸回路に見られる。
化学合成は、単純な物質から化学反応を用いて複雑な、または特定の機能を持つ物質を生成することを指す。分子量の小さな物質をつなぎ合わせて高分子を作る化学合成の代表例には重合反応がある。これは化学工業の主要なプロセスである。機能を持たせる化学合成の例は医薬品製造やナノテクノロジーなどである。このような製造に関わる化学合成では、適切な製品を効率良く作り出すことが求められ、化学の分野としては触媒や不斉合成などが研究される。
化学には、研究手法や対象とする物質の違いによって多くの分野が存在する。しかし、各分野間には関連領域が存在するため明確に区別することは難しい。以下に例として代表的なものを挙げる。
上にあげた化学の各分野を、取り扱う対象で分類する。本項は、特に脚注がある部分を除き、筑波大学数理物質科学研究科教授・齋藤一弥の分類を出典とする。
原子核を中心に、原子核反応やそれによって合成される新元素およびその性質を取り扱う分野が核化学や放射化学であり、特に後者では放射能の測定において分析化学的な方法も利用される。
単体の分子を取り扱う分野では、量子力学や計算科学の理論および測定を用いる量子化学や、光を調査の手段に用いる物理化学の領域に含まれる分子分光学があり、無機・有機の両方を含み化合物を扱う合成化学もこの範疇に入る部分が多い。 | 1,109 |
化学 | 原子核を中心に、原子核反応やそれによって合成される新元素およびその性質を取り扱う分野が核化学や放射化学であり、特に後者では放射能の測定において分析化学的な方法も利用される。
単体の分子を取り扱う分野では、量子力学や計算科学の理論および測定を用いる量子化学や、光を調査の手段に用いる物理化学の領域に含まれる分子分光学があり、無機・有機の両方を含み化合物を扱う合成化学もこの範疇に入る部分が多い。
化学反応を研究する分野には、反応機構を取り扱う化学反応論、反応速度をコントロールする手法を研究することを目的とした触媒化学などがある。合成化学では、反応機構を研究したり、新しい化学反応を創造する分野はここに含まれる。化学熱力学も反応における平衡や熱を扱う。
分子の集まりを扱う分野は、その全体構造や分子の運動について研究する構造化学や、目に見える物質としての分子集合体について分子の持つ性質から物性を説明する分野である物性化学などがある。高分子化学は特に分子量の大きな分子の集まりに見られる特殊な性質を研究の対象とする。同じ高分子に相当するが特殊なものと言える生物・生命を化学的に扱う分野が生化学、生物化学である。
物質の表面に着目し、その構造や現象などを研究する分野には表面化学や界面化学がある。これらは、固体の触媒を使用する際の触媒化学とも関連する。コロイドが持つ特徴的な性質を理解する分野はコロイド化学と呼ばれる。
環境をマクロな視点で把握し、それが地球規模の大きな化学システムとして研究する分野が環境化学である。そして、自然現象や人間活動がこのシステムにどのような影響を与えるか、人工の物質が環境に拡散しどのような事態が起こるかなどを取り扱う。
炎は有機物の酸化反応によって放出される熱エネルギーの現れであるので、化学の歴史は人類が火を扱いはじめたときから始まっているとも考えられる。金や銀以外の金属は、自然界において酸化物ないしは硫化物として産出されるので、古代人は還元反応を知らないまま青銅器・鉄器などを製造する金属精錬をしていた。
化学は古代エジプトに起源があると言われる。エジプト語で黒を意味する「chémi」がヨーロッパに伝わった化学を表す用語となり、化学は「黒の技術」とも呼ばれた。古代ギリシアにおける学問の発展は、タレスの元素論に始まりアリストテレスらにより大成された。 | 1,109 |
化学 | 化学は古代エジプトに起源があると言われる。エジプト語で黒を意味する「chémi」がヨーロッパに伝わった化学を表す用語となり、化学は「黒の技術」とも呼ばれた。古代ギリシアにおける学問の発展は、タレスの元素論に始まりアリストテレスらにより大成された。
これらの系統とは別に、中国、アラビア、ペルシャ等でも独自に化学技術が勃興した。このうち、アラビアの科学分野では錬金術へと発展し、中世ヨーロッパにおいて天文学、数学、医学と同様にラテン語に翻訳された。金を他の物質から作ろうとする錬金術が盛んになり、様々なものを混ぜたり加熱したりすることが試みられた。結局、錬金術は不可能な前提の上で行われた徒労に終わったが、その副生物として各種薬品が生み出された。これらが化学のいしずえとされる。ただし、錬金術は秘密主義や拝金主義、そして定量的な技術を持たなかった点から、逆に化学発展の阻害になったという主張もある。
17世紀以降、化学は近代的な方法論に則った発展を始め、18世紀末頃から実験を通じて化学反応を定量的アプローチで解釈するようになり、19世紀に入ると原子・分子の組み換えが化学反応の本質であることが理解されるようになった。しかし、化学反応の中心原理が何であるかは、物理学が原子の成立ちを解明するまで待つ必要があった。すなわち19世紀後半に展開した原子核と電子に関する物理学がもたらしたアーネスト・ラザフォードの原子核モデルが、化学反応が原子と電子の相互作用に基づくことを解明した。
また20世紀に入ると、化学結合の性質が量子力学で支配される電子の挙動(分子軌道やエネルギー準位)に起因することが理解され、これが今日の化学の中心原理となる理論体系が構築された。とはいうものの、今日において物理学の根本が量子論・相対論の時代であってもニュートン力学の価値がいささかも失われていないように、近代に確立した化学当量、オクテット則や酸化数あるいは有機電子論などの古典化学理論は、今日的な意味を失うものではない。
他また、有機化学と高分子化学も20世紀に発展を遂げ、一方では生物学との境界において多大な進歩をもたらし、生物学を全く新しいものとした。もう一方ではそれまで存在しなかった様々な物質が合成され、工業社会の大きな発展の元になり、同時に公害問題などにも深く関わるようになった。 | 1,109 |
化学 | 他また、有機化学と高分子化学も20世紀に発展を遂げ、一方では生物学との境界において多大な進歩をもたらし、生物学を全く新しいものとした。もう一方ではそれまで存在しなかった様々な物質が合成され、工業社会の大きな発展の元になり、同時に公害問題などにも深く関わるようになった。
幕末から明治初期にかけての日本では、化学は舎密(セイミ)と呼ばれた。舎密は化学を意味するラテン語系オランダ語 Chemie (この単語自体の意味は「科学」)の音訳である。
日本で初めての近代化学を紹介する書となったのは、江戸時代の宇田川榕菴の『舎密開宗』(せいみかいそう)である。原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1801年に出版した An Epitome of Chemistry である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である。
「化学」という単語は川本幸民が著書『化学新書』(1861年)で初めて用い、後に明治政府が正式に採用した。これは、他の学問用語と同様に日本から中国などへ伝わった和製漢語の一つとされていたが、近年では中国語からの借入語であるとされている。中国では、「化学」という単語は墨海書館が発行した月刊誌『六合叢談(中国語版)』の1857年の号が初出である。一般には、中国語の単語「化学」は徐寿がイギリスの専門書『化学鑑原』(1871年)を翻訳する際に造ったと信じられてきた。
世界のほとんどの国では、化学の専門教育は大学を中心とした機関が担っている。その中でも理学部系の化学科や専攻は基礎的な領域を、工学部系では応用的な部分を扱うことが多い。薬学部や工学部の材料工学科などは専門性が高くなる。
研究者を横断的に繋げる学会も組織され、日本では日本化学会が全体を網羅する。研究分野ごとには化学工学会や高分子学会などの化学系学会があり、大学や企業の研究者らが加わっている。アメリカ化学会は、多様な化学物質のデータベース整備を1907年から行っており、近年ではインターネット上でアクセス可能な「Chemical Abstracts」を公開している。 | 1,109 |
化学 | 研究者を横断的に繋げる学会も組織され、日本では日本化学会が全体を網羅する。研究分野ごとには化学工学会や高分子学会などの化学系学会があり、大学や企業の研究者らが加わっている。アメリカ化学会は、多様な化学物質のデータベース整備を1907年から行っており、近年ではインターネット上でアクセス可能な「Chemical Abstracts」を公開している。
国際的な学会連合は国際純正・応用化学連合 (IUPAC) が組織され、単位や記号の世界統一に関する勧告や取り決めなどを行ったり、他の科学組織との協議を行う母体となっている。 | 1,109 |
経済学 | 経済学(けいざいがく、英: economics)とは、経済についての学問、経済現象を対象とする社会科学の一領域である。
英語圏では従来political economy(政治経済学)と呼ばれてきたが、19 世紀後半以降、economics(経済学)と呼ばれるようになった。原語であるeconomicsという語彙は、新古典派経済学者アルフレッド・マーシャルの主著『経済学原理』(英: Principles of Economics, 1890年)によって誕生・普及したとされている。
economics (エコノミクス)の語源は、古代ギリシア語で「世帯または家族の管理、質素、倹約家」「家政機関共同体のあり方」 を意味するοικονομικός (オイコノミコス) や、「家」を意味するオイコス(οἶκος)と「慣習・法」を意味するノモス(νόμος)から合成された οἰκονομία (オイコノミア) に由来する。
クセノポンによる著作『家政論(オイコノミ)』がある。
現代の経済学についての、一般的な定義では、経済現象の法則を研究する学問、人間社会における物質的な財やサービスの需要と供給の法則を研究する学問とされる。しかし、経済学者による定義は多様であり、経済学者による様々な見解を反映している。
最大の重商主義者と称される18世紀スコットランドの経済学者ジェームズ・ステュアートは、1767年の著書『An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy (政治経済学原理の研究)』で、アダム・スミスより先に、はじめて「ポリティカルーエコノミー(経済学)」という表題を用いたが、次のように定義した。
スコットランドの哲学者・経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で、政治経済学を、国民の富の性質と動機の研究と定義し、人々に十分な収入や生活費を提供すること、公共サービスのための収入を国家にもたらすことと定義した。
フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは1803年に、公共政策からは区別されるものとして、経済学を、富の生産、分配、および消費の科学と定義した。
ジョン・スチュアート・ミルは1844年に、次のように定義した。 | 1,110 |
経済学 | フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは1803年に、公共政策からは区別されるものとして、経済学を、富の生産、分配、および消費の科学と定義した。
ジョン・スチュアート・ミルは1844年に、次のように定義した。
風刺としては、トーマス・カーライルは1849年に、古典派経済学の異名として「陰気な科学」と呼んだが、これはマルサス (1798) の悲観的分析に対してのものであった。
カール・マルクスは、『資本論』(1867年)で次のように述べた。
さらに、マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスは、経済学について次のように述べた。
アルフレッド・マーシャルは『経済学原理』(1890)において、次のように定義した。
マーシャルは続けて、宗教と経済は人間の歴史の二大作用であるが、人間の性格は、日々の仕事とそれによって獲得される物質的資源によって形成される、人が生計を立てるためのビジネスは、その人の心が最高の状態にある時間の大部分を満たしており、自分の能力をどう用いるか、仕事が与える考えや感情、同僚、雇用主、従業員との関係などによって、人の性格は形成されるとして、経済や仕事は人間に強い影響力をもたらすと主張した。マーシャルの定義は、富の分析を超えて、社会からミクロ経済学のレベルまで定義を拡張し、今でも広く引用されている。
その後、ライオネル・ロビンズが1932年に、過去の経済学者は、いかに富が生まれ(生産)、分配され、消費され、成長するかという富の分析に研究の中心を置いてきたと指摘したうえで、カール・メンガーやルートヴィヒ・フォン・ミーゼスを参照しながら次のように定義した。
ロビンズは、この定義は、特定の種類の行動を選択するという分類的なものとしてではなく、稀少性がもたらす影響によって行動の形態がいかなるものになるかということに注意を向けるような分析的なものであると説明した。 | 1,110 |
経済学 | ロビンズは、この定義は、特定の種類の行動を選択するという分類的なものとしてではなく、稀少性がもたらす影響によって行動の形態がいかなるものになるかということに注意を向けるような分析的なものであると説明した。
しかし、こうした定義にはジョン・メイナード・ケインズやロナルド・コースらからの批判もある。経済問題は性質上、価値観や道徳・心理といった概念と分離する事は不可能であり、経済学は本質的に価値判断を伴う倫理学であって、科学ではないというものである。ロビンズの定義は、過度に広範で、市場を分析する上では失敗していると批判されたが、1960年代以降、合理的選択理論が登場し、以前は他の学問で扱われていた分野にも経済学の領域を拡大したため、そのような批判は弱まった。
ポール・サミュエルソンは、以下のように定義する。
一方で、とりわけゲーム理論の経済学への浸透を受けて、経済学の定義は変化しつつある。たとえば、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツは、トレードオフ、インセンティブ、交換、情報、分配という五つが重要な手がかりとなるとして、以下のように経済学を定義した。
また、ノーベル賞受賞者ロジャー・マイヤーソンも、今日の経済学者は自らの研究分野を以前より広く、全ての社会的な制度における個人のインセンティブの分析と定義できる、と述べた(1999年)。
ゲーリー・ベッカーは自分のアプローチを、行動、安定した選好、市場の均衡の最大化という仮定を組み合わせ、絶え間なく、大胆に使用することと説明した。
ハジュン・チャンは、経済学を商品やサービスの生産、交換、流通に関する研究とであると定義したうえで、生物学が、DNA分析、解剖学、動物の行動のゲーム理論など、さまざまな方法で研究されており、それらはすべて生物学と呼ばれるように、経済学は、方法論や理論的アプローチではなく、取り扱っている調査対象の観点から定義されるべきであると指摘する。
このように現在では、資本主義・貨幣経済における人や組織の行動を研究するものが中心となっている。広義においては、交換、取引、贈与や負債など必ずしも貨幣を媒介としない、価値をめぐる人間関係や社会の諸側面を研究する。このような分野は、人類学、社会学、政治学、心理学と隣接する学際領域である。 | 1,110 |
経済学 | このように現在では、資本主義・貨幣経済における人や組織の行動を研究するものが中心となっている。広義においては、交換、取引、贈与や負債など必ずしも貨幣を媒介としない、価値をめぐる人間関係や社会の諸側面を研究する。このような分野は、人類学、社会学、政治学、心理学と隣接する学際領域である。
また、労働、貨幣、贈与などはしばしば哲学・思想的考察の対象となっている。ただし、経済システムの働きに深く関わる部分については経済思想史と呼ばれ、経済学の一分野として考えられることも多い。
自然科学と比べると、不確実性の大きいヒトが関わるできごとが研究対象であるゆえ、数理化・実験が困難な分野が多い人文科学・社会科学の中において、経済学では、積極的に数理化がなされ、その検証が試みられている。そうした性質に着目し、経済学は「社会科学の女王」と呼ばれることがある。
しかし、心理が関与する人間の行動、および、そうした人間が集団を構成した複雑な社会を数理モデル化することは容易ではない。 現実の経済現象の観察、モデル構築、検証という一連の循環的プロセスは、いまだ十分であるとは言えないし、本当にそうした手法が経済学の全ての対象に対して実現可能であるのかどうかも定かではない、とされることもある。また、客観的に分析しているようであっても、実際には多かれ少なかれ価値観が前提として織り込まれているということやそうでなければならないことは、上述のごとくケインズやコースが指摘している。また、経済学には多かれ少なかれ経済思想史およびイデオロギーが含まれる。
理論経済学では、数学を用いたモデルがある。関連のある数学の分野として、位相空間論、関数解析学、凸解析、微分積分学、確率論、数理最適化などが挙げられる。確率微分方程式や不動点定理など数学におけるブレイクスルーが経済学に大きく影響を与えることもある。ジョン・フォン・ノイマンやジョン・ナッシュ、デイヴィッド・ゲール、スティーヴン・スメイルなどの数学者や理論物理学者が経済学に貢献することも珍しくなく、チャリング・クープマンス、マイロン・ショールズ、宇沢弘文、二階堂副包など数学、物理学、工学出身の経済学者も少なくない。 | 1,110 |
経済学 | 理論経済学はミクロ経済学とマクロ経済学という2つの分野からなる。ミクロ経済学は、消費者と生産者という経済の最小単位の行動から経済現象を説明する。マクロ経済学は、国全体の経済に着目する。今日では、マクロ経済学においても、消費者・生産者の行動に基づく分析が主流であり(マクロ経済学のミクロ的基礎付け)、マクロ経済学はミクロ経済学の応用分野と見ることができる。
統計学において経済関連の統計が主流分野として立脚していること、統計学者や経済学者と統計学者を兼ねる者が両分野の発展に大きく貢献してきたことからもわかるように、古くから社会全体を実験室に見立てて統計学を使い裏付ける方法が経済学において多用され影響を与えてきた。こうした分野は計量経済学と呼ばれる。
実証の現代の新潮流にはダニエル・カーネマン、エイモス・トベルスキー、バーノン・スミスなど心理学(認知心理学)、認知科学の流れをくみ行動実験を用いて消費者行動を裏付ける方法が強力な道具として提供され急成長している。こうした分野は実験経済学と呼ばれる。この流れから、行動経済学、神経経済学という分野が、心理学者と心理学的素養を持つ経済学者によって生み出されている。
経済学は、その誕生・分析対象が社会・政治・経済問題と不可分であったことから政策への提言として社会へ関わる機会が非常に多い。19世紀以降は、社会的な判断において経済学が不可欠となった。社会問題を対象としている性質からか、社会的不幸を予測する理論も多々生まれトーマス・カーライルによって「陰鬱な学問」とも呼ばれた。先駆的政策(事実上の実験)の過程と結果から新たな学問的問題を提起したソビエト連邦による社会主義建設は失敗し「壮大な社会実験」として総括されているが、この社会主義的政策が、第二次世界大戦後日本で採られた傾斜生産方式のように社会に有益な影響を与えたのも事実である。ちなみに、主流派経済学では傾斜生産方式の有用性について疑問符を投げかけている。 | 1,110 |
経済学 | 1980年代からゲーム理論が積極的に取り入られるようになり、特にマーケット・デザインと呼ばれる分野における成果はめざましい。具体的には、周波数オークションの設計、電力市場の制度設計、教育バウチャー制度の設計、臓器移植の配分問題の解決といったものが挙げられる。これらはいずれも経済学なくして解決できなかった問題であり、さらに経済学が現実の制度設計において非常に重要な役割を果たしていることの好例である。
有限な事物の分配・生産が対象であり、人間が知覚できる有限性がなければ対象とはならない。例えば宇宙空間は未だに対象ではないが、東京に供給されるビル空間の量は対象である。その他にも、人間行動の心理的要素や制度的側面も重要な研究対象である。
また、事実解明的分析と規範的分析に分けられる。前者は理論的に説明・判断できる分析であり、後者は価値判断や政策決定に使われる分析である。例えば「政府支出を増やすと失業が減少する」は真偽が判明する分析であるが、「政府支出を増やして(財政赤字を増やしてでも)失業が減少したほうが良い」は価値判断が絡む分析である。
経済学は、法学、数学、哲学などと比べて、比較的新しい学問である。経済学は、近世欧州列強の著しい経済発展とともに誕生し、その後資本主義経済がもたらしたさまざまな経済現象や経済システムについての研究を積み重ね、現代に至る。
経済学の最初を遡るとすると、古代ギリシャのプラトンの国家論にまで遡る。プラトンは、民主制を否定し、ポリスのために善く生きることを求め、消費欲や財産欲を禁止し、貨幣の使用も禁止し、人口も完全に規制される国家を理想とした。これは、ペロポネソス戦争で敗北したアテネに商品経済が浸透し、格差が拡大するなか、身分制社会を維持するためにこのように主張したとされる。
続くアリストテレスは、財産の共有制を批判し、商品の売買も容認したが、金儲けのための交換(クレマティスティケ)を、ポリスのために善く生きることを忘れることになるとして批判した。
トマス・アクィナスは、私有財産を肯定しながら、困窮者の財産請求権(緊急権)を例外としてみとめた。 | 1,110 |
経済学 | 続くアリストテレスは、財産の共有制を批判し、商品の売買も容認したが、金儲けのための交換(クレマティスティケ)を、ポリスのために善く生きることを忘れることになるとして批判した。
トマス・アクィナスは、私有財産を肯定しながら、困窮者の財産請求権(緊急権)を例外としてみとめた。
経済についての研究の始まりはトーマス・マン(1571年 - 1641年)によって書かれた『外国貿易によるイングランドの財宝』や、ウィリアム・ペティ(1623年 - 1687年)の『租税貢納論』、バーナード・デ・マンデヴィル(1670年 - 1733年)の『蜂の寓話』、ダニエル・デフォー(1660年 - 1731年)の『イギリス経済の構図』、デイヴィッド・ヒューム(1711年 - 1776年)の『政治論集』などに見られるような重商主義の学説である。この時代には欧州列強が海外植民地を獲得し、貿易を進めて急速に経済システムを発展させていた。
イギリスの重商主義の批判としてフランスでは重農主義が登場し、政府の介入なしでも経済は自律的に動くと主張した。フランソワ・ケネーが『経済表』(1758年)を書き、国民経済の再生産システムを解明して、経済学の体系化の発端となった。
アダム・スミスが資本主義工場生産について論じた『国富論』(1776年)が、現在の理論化された経済学の直系で最古の理論にあたる。そのため、スミスは、経済学の父と呼ばれている。経済学では、一般的に『国富論』を持って始まりとされる。また、デイヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』(1817年)、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』(1798)や『経済学原理』(1820)、J.S.ミルの『政治経済学原理』(1848)などが、英国古典派経済学の基礎を築いていった。
共産主義を主張したカール・マルクス(1818年 - 1883年)はイギリス古典派経済学を中心に当時の経済学を徹底して研究し、労働価値説を継承しつつ新たに価値論や剰余価値論を体系化し、資本の諸形態を再定義して資本主義経済の構造と運動法則の解明をおこなった。マルクスの長年にわたる経済学研究は主著『資本論』に結実した。 | 1,110 |
経済学 | 共産主義を主張したカール・マルクス(1818年 - 1883年)はイギリス古典派経済学を中心に当時の経済学を徹底して研究し、労働価値説を継承しつつ新たに価値論や剰余価値論を体系化し、資本の諸形態を再定義して資本主義経済の構造と運動法則の解明をおこなった。マルクスの長年にわたる経済学研究は主著『資本論』に結実した。
マルクスの後、マルクス経済学とよばれる流れは、資本主義経済の諸法則も諸概念も不変のものではなく、生成・発展・消滅する過程にあるものとしてとらえ、資本家は労働力に支払った以上の価値を労働力から取り出すという剰余価値説にもとづいて資本主義経済を分析した。 カール・カウツキー(1854年 - 1938年)の『カール・マルクスの経済学説』や『エルフルト要領解説』、ルドルフ・ヒルファーディング(1877年 - 1941年)の『金融資本論』、ローザ・ルクセンブルク(1870年 - 1919年)の『資本蓄積論』、ウラジーミル・レーニン(1870年 - 1924年)の『ロシアにおける資本主義の発達』や『帝国主義論』などの研究を通じて継承・展開された。
しかしながら、マルクスの経済理論をモデル化して検証を行うと、理論の膨大さゆえにマルクスの理論体系は不整合に陥っており、以下の3つの矛盾を説明できない。(1)剰余価値率が諸部門間で均等化する。(2)技術進歩の結果利潤率は下落する。(3)技術進歩の結果利潤率は下落すると仮に言えたとしても、実質賃金もまた下落する。
新古典派経済学と呼ばれる学派が、資本主義経済の現象を数理的に分析する手法を発展させてきた。 ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1798年 - 1855年)の『経済学の数学的一般理論の考察』や『経済学の理論』、レオン・ワルラス(1834年 - 1910年)の『純粋経済学要論』や『応用経済学研究』、カール・メンガー(1840年 - 1910年)の『国民経済原理』や『社会科学特に経済学の方法に関する研究』、アルフレッド・マーシャル(1843年 - 1924年)の『外国貿易と国内価値との純粋理論』や『経済学原理』、ヨーゼフ・シュンペーター(1883年 - 1950年)の『理論経済学の本質と主要内容』や『経済発展の理論』などの研究を通じて発展していくこととなる。 | 1,110 |
経済学 | ジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で、市場に任せただけでは失業が発生するので、政府による適切な市場介入(政府支出と減税)で有効需要を創出する必要があると主張し、マクロ経済学の主流となっていった。ジョン・ヒックスやポール・サミュエルソンらのネオ・ケインジアン経済学によって、発展していった。サミュエルソンは著書『経済学 第3版』(1955)で、ケインズ政策で雇用環境が改善されたあとは、従来のミクロ経済学のような民間の市場を活用した経済活動にまかせるのがよいとする混合経済を説いて、ミクロ経済学のミクロ経済学とマクロ経済学の国民所得理論を総合する新古典派総合を主張した。しかし、1970年代に、スタグフレーションが先進資本主義国を覆ったことで影響力を失っていった、
1970年代には、ロバート・ルーカス (経済学者)が、ケインズ的な財政・金融政策は家計や企業の合理的予想(期待)で相殺されて無効となるという合理的期待形成仮説を発表した。1976年にルーカスは、経済システムの中にいる国民と政府が、経済法則(期待)を知っており、それに基づいて行動すると、結果的に法則が変わり得ること、すなわち、期待(経済法則)は自己言及性を持つため、経済政策は効果を失うというルーカス批判を行った。ルーカスらはエドワード・プレスコットの『裁量よりもルール』(1977)とともに、リアルビジネスサイクル理論などを提唱し、新しい古典派 ( New classical economics )が形成され、これがマクロ経済学の主流となった。
その後、市場の失敗が起こる要因を重視し、これを是正するマクロ政策を再構築しようとするグレゴリー・マンキューやデビッド・ローマーのニュー・ケインジアンが台頭した。 | 1,110 |
経済学 | その後、市場の失敗が起こる要因を重視し、これを是正するマクロ政策を再構築しようとするグレゴリー・マンキューやデビッド・ローマーのニュー・ケインジアンが台頭した。
主流派経済学(新古典派経済学とケインズ経済学)とマルクス経済学は、米ソ冷戦という現実政治の影響もあり、長期間にわたって対立した。ソビエト連邦の崩壊・冷戦終了時には、古典的マルクス経済学に対する否定的研究が数多く行われ、非数理的・訓古主義的な性質が批判された(マルクス主義批判)。ソ連型社会主義で実施された計画経済の誤りがソ連・東欧の崩壊で明白になり、今日では、市場という需給調整のメカニズムを数理的に扱い発展した主流派経済学が経済研究の中心となり、市場を通じて社会主義社会を目指すとしている中華人民共和国やベトナムなどでもマルクス経済学のみならず主流派経済学の研究も行われるようになった。その一方で、主流派経済学では、賃労働における搾取などの生産面での矛盾や貧富の格差の拡大、経済活動による自然破壊などを説明できないとのマルクス経済学者からの批判も続いている。
また、アメリカ合衆国を中心とした西側資本主義国で発展させられてきた主流派経済学は、非歴史的・非文化的で数理モデル一辺倒な性質をマルクス経済学者やポスト・ケインジアンなどに指摘されている。
主流派経済学における比較的新しい動きとして、ゲーム理論と行動経済学の発展がある。伝統的な主流派経済学では、完全競争の仮定ゆえ、経済主体間の相互の影響は考慮されていない。それに対して、市場が寡占の状態である場合、各企業の選択は他の企業の利潤に影響を与える。こうした相互依存を分析する道具として、ゲーム理論が主流派経済学の中心的な理論の1つとなった。伝統的な主流派経済学では、各経済主体は合理的で利己的な存在とされてきた。しかし、さまざまな実験が、この仮定が必ずしも適切ではないことを示している。こうした、合理的でなかったり、利己的でなかったりする経済主体の意思決定を定式化する分野が行動経済学であり、主流派経済学で広く受け入れられている。 | 1,110 |
経済学 | 異端派経済学として、近年新しい体系がさまざまに模索されている。とくに1980年代以降、進化経済学が世界的に興隆してきており、新しい主流派を形成しつつあるという評価もある。進化経済学以外にも、ポスト・ケインズ派の経済学、オーストリア学派の経済学、複雑系経済学などがある。
経済学と経営学の違いの第1は、経済学が研究方法に重きを置くのに対して、経営学は研究対象に重きを置くことである。 経済学は独自の研究方法を有しており、その方法に則ってさえすれば、研究対象が必ずしも経済に関わるものでなくとも経済学たりうる。実際、医療、教育、文化なども経済学で活発に研究されている。 経営学では企業の経営という研究対象が先にあり、その対象を研究するため、経済学、心理学、社会学などの方法が用いられる。 こうした違いは、経済学、経営学が教育・研究される組織の違いにも表れている。米国の大学では、経済学は、数学、物理学、心理学などと同様Faculty of Arts and Sciencesのdepartmentで教育・研究されるのに対し、経営学は、医学、法学などと同様個別のprofessional schoolで教育・研究されることが多い。
経済学と経営学の違いの第2は、経済学の主な研究対象が経済という大きなものであるのに対して、経営学の研究対象が企業という小さいものであることである。企業の経済活動を研究対象とする、という点では両者共通だが、マクロの経済学においては、日本の経済、アジアの経済、世界の経済といった大きなくくりでの研究となる。そこで用いられるのが「経済人」という考え方だ。すべての人間は客観的で経済合理的に行動すると考える。マクロで捉える場合、個人的な好みの差などは考えず、皆が同じ行動をすると考えるのである。これに対して、ミクロの経営学の場合は一つの企業、またはその企業の中の一つの部門、さらにはその中のグループを構成する個人、というレベルまで研究対象とする。この場合は中にいる人間が主役となるので、個人の差の問題までも考慮する。ここで用いられるのが「経営人」という考え方だ。経営人は経済人と違い、皆がすべて情報を持つのではなく、限られた情報をもとに、自ら満足・不満足、という基準で意思決定を行う限定的合理性に基づく行動をとると考える。 | 1,110 |
経済学 | 経済学は、存在自体が社会・政治・経済・政策と不可分であるため、学術的な論争や政策的な論争など数多の論争を生み出し消化してきた。それによって、経済学徒は、他学徒に「傲慢である」と印象を与えてしまうほど非常に攻撃的な知的スタイルを形成している。しかし、論争は、経済学にとって理論を洗練させブレイクスルーを起こす役割を担ってきた。このように、経済学と論争は、切っても切れない関係にあるといえる。ここでは、経済学において歴史的に重要な意味を持った論争を取り上げる。
これらは経済学全般の学術雑誌であり、経済学の各分野ごとにも学術雑誌がある。 | 1,110 |
成田美名子 | 成田 美名子(なりた みなこ、1960年3月5日 - )は、日本の漫画家。代表作は、『エイリアン通り』、『CIPHER』など。血液型はAB型。
青森県青森市出身、青森県立青森東高等学校卒業。1977年、『花とゆめ』(白泉社)掲載の『一星(いっせい)へどうぞ』でデビュー。
登場人物の前向きな姿の描写へのこだわりで知られる。マンガ評論家ヤマダトモコは、成田作品の個性を「明るさへの意思」だと評した。ジャズピアニストの成田教は実弟、作詞家の小笠原ちあきは従姉妹にあたる。 | 1,111 |
機械工学 | 機械工学(きかいこうがく、英語: mechanical engineering)とは、機械あるいは機械要素の設計、製作などから、機械の使用方法、運用などまでの全ての事項を対象とする工学の一分野である。
具体的には、熱力学、機械力学、流体力学、材料力学の四力学を基礎とした機械の設計や製作のための技術を学ぶほか、より広義には、機構学、制御工学、経営工学、材料工学(金属工学)、そして近年のコンピュータ化に対応したハードウェア及びソフトウェア技術全般を研究対象としている。 | 1,112 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | アニメ (日本のアニメーション作品) では日本のアニメーションのうち、主にセル、もしくはセルの後継としてのデジタルで制作される日本の一般向け商業アニメーション作品(テレビアニメ、劇場アニメ、OVAなど)について記述する。日本国外ではジャパニメーション(Japanimation)、animeなどとも表記される。
アニメはアニメーションの略語であり、コマ撮りによる錯覚を利用した映像技法・映像表現全般を指し、実写作品の特殊効果や抽象映像などの実験的映像も含まれる。通俗的にはアニメと省略され、一般に商業作品として普及しているテレビアニメ、劇場アニメ、OVAなどを連想する人も多い。これらの特徴は、基本は商業作品であり、多くは絵で描かれたキャラクター作品であり、ある程度のストーリー作品である。更には、これら商業作品の強い影響を受けた自主制作作品も含まれる。また制作技法では分業のためにセルアニメが主流であったが、一部では人形アニメ等も使用され、コンピュータ・グラフィックによるアニメーション(CGアニメ)も普及している。
単に「アニメ」という場合は、セルアニメーション(セルアニメ)のことを指していることが多い。当記事では主に日本で製作された一般向け商業用セルアニメーションなど通俗的・一般的な意味での「アニメ」について記述している(デジタル化と3DCGについては記事内で後述)。
「文化芸術基本法」ではメディア芸術、関連法の「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」によるとコンテンツの一つと定義されており、いずれの法律においても「アニメ」と略されてはおらず、「アニメーション」と正式表記されている。別定義として、多角的芸術分類観点において、美術(映像を含まない)、映像、音楽、文学、芸能の総合芸術とされるときもある。
主な作品は、『アニメ作品一覧』を参照。
日本では「アニメーション」の用語は時代にもよって変遷もしており、以下の日本語の訳語も使用された。
作品制作数の増加に伴い分業化が進み、プリプロダクションの企画・製作会社と、プロダクションの作画・動画スタジオ、美術スタジオなどと、ポストプロダクションの撮影会社、音源制作など制作工程別に作業を請け負う専門スタジオと分業化されている。
また、グロス請けと呼ばれる、1話単位で制作作業を一括受注し制作業務全般を行う制作会社もある。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 作品制作数の増加に伴い分業化が進み、プリプロダクションの企画・製作会社と、プロダクションの作画・動画スタジオ、美術スタジオなどと、ポストプロダクションの撮影会社、音源制作など制作工程別に作業を請け負う専門スタジオと分業化されている。
また、グロス請けと呼ばれる、1話単位で制作作業を一括受注し制作業務全般を行う制作会社もある。
テレビアニメ#制作過程も参照。
大きく分けると3つの工程に別れる。なお、制作資金調達に関しては多種多様な方法があるので本項では取り上げない。
さらに詳細な工程を経て制作される。制作会社、作品に投入される各部門のスタッフ数、技術の進歩などにより役職名や工程の違いもあるが、企画から完成までの基本的な工程は以下の通りである。
複数にわたるシリーズ作品の場合、諸事情により主要スタッフや担当アニメ制作会社などが途中で変更されることも珍しくない。
ただし、諸事情により企画段階、もしくは制作途中で中止になることもあり、中にはアフレコも終えた段階でお蔵入りになったケースもある。稀に一度は中止にされた作品が時を経て再起動するケースもある。
アニメ産業と呼べるほどの規模はなく、映像制作の一分野に留まり、業界の構造としては建設業の下請け制度に類似する構造を持っているとされ、「大手制作プロダクション(元請け)」→「中堅制作プロ(子請け)」→「零細制作プロ(孫請け)」と段階ごとに、制作費の「中抜き(ピンハネ)」が存在するといわれている。
表現技法の発展と向上は、個人の感性と技術の熟練度に依存し、技量差が品質に反映される労働集約的作業に支えられているが、制作環境はアニメーターの場合、収入は新人で月額で約2 - 3万円。中堅で約7万5000円 - 10万円程度といわれ、約25%は年収100万円以下である(日本芸能実演家団体協議会、2008年調査)などの賃金や雇用環境、労働条件などの問題で、国内での人材の確保もままならない状態も恒常的に続いている。
これらの問題が長期間続いた結果、2020年ごろから国内人材の枯渇と技術を向上させた中国の台頭により、日本の白物家電と同じ道を辿るという指摘もある。
アニメーション製作のデジタル化に至るまでには、フィルム・アニメーションから、ビデオ・アニメーション、ビデオ変換装置など、さまざまなシステム開発が進められてきた。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | これらの問題が長期間続いた結果、2020年ごろから国内人材の枯渇と技術を向上させた中国の台頭により、日本の白物家電と同じ道を辿るという指摘もある。
アニメーション製作のデジタル化に至るまでには、フィルム・アニメーションから、ビデオ・アニメーション、ビデオ変換装置など、さまざまなシステム開発が進められてきた。
1986年に池田宏(東映動画技術研究室長)は、「映像というメディアはこうした科学技術の基盤の上に構築されているものであり、このことは当然、これらの科学技術の発展に応じて新しい映像メディアの登場もあり得るのである。したがって映像関係者はこれら科学技術の発展にはたえず対応していかなければならないし、それを怠れば映像技術者として脱落さえ意味することになる」と語っている。
1970−1980年代後半、ビデオの普及やコンピュータの導入によってアニメーションの製作過程は大きく変わり始め、デジタル化に向かって動き始めた。
1984年に東京中央プロダクション・高橋克雄の撮影現場から、VTRでコマ撮りができるシステムVTRアニメーションシステムが登場した。
現像するまで撮影結果の分からないフィルム・アニメーションから、現場で即時に撮影結果が分かるVTRアニメーション撮影は、撮影現場の撮影期間短縮による製作コストの軽減、画質の保持、映像メディアのコンパクト化とリテイクによる経済的損失からの解放となった。
アニメーション作品以外にも広く活用され、映画やカラオケの字幕(スーパーインポーズ (映像編集))やデパートやメーカーなどの映像カタログ制作にも使用されるようになった。また、画質を落とさずに大量複製が可能になったことからOVAが普及する契機ともなった。
1985年にフィルムからビデオへの変換装置、テレシネシステムの登場で、多くのフィルムアニメーション作品がビデオ変換されテレビで放映されたこともデジタル化への指針となった。
1990年代、コンピュータの発達やソフトの開発が進み、アニメーション制作で使用される幅が広くなり活用するようになった。2010年代以降に通信網やソフトウェアが豊富になったことで、アニメ工程に直接関連するものから、連絡作業や進捗確認に至るまでデジタルツールが多用されるようになった。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 1990年代、コンピュータの発達やソフトの開発が進み、アニメーション制作で使用される幅が広くなり活用するようになった。2010年代以降に通信網やソフトウェアが豊富になったことで、アニメ工程に直接関連するものから、連絡作業や進捗確認に至るまでデジタルツールが多用されるようになった。
1990年代後半から、着色工程がセル画に直接行うものから、原画をスキャンしてパソコン上で行うデジタル彩色に移行し、1999年頃に全面的に移行し最後までセル画で制作されていた『サザエさん』の2013年9月29日放送分を最後に、全ての商業作品はデジタル方式に移行した。仕上げ工程に導入された、デジタルペイントは訂正が容易で塗料の乾燥を待つ必要がなく、傷・ホコリなどのセル画の管理の手間も省け、また画像データとしてネットワークに載せることが可能となり、日本国内および国外などの遠隔地とのやり取りが容易化したことで、大幅な省力化・コストダウンが進んだ。また、液晶タブレットなどの普及が進むころは着色作業のみならず、作画・動画作業もペイントツール上で行うことも可能となり、原画の時点でデータとして送ることも可能になった。
映像表現においては塗料による使用色数の制限がなくなり、精密なグラデーション表現が可能となった。撮影工程でのセルの重ね合わせによる明るさの減少がなく、カメラワークの自由度が広がる他、エアブラシによる特殊効果や透過光などが簡単に施せるなどの利点がある。ただ、色の三原色ではなく光の三原色寄りにビデオ出力されるため、フィルムとビデオでは映像の質感が異なり、フィルムは柔らかい質感、ビデオはクリアな映像が特徴があり、クリアで明るすぎる発色に違和感もあった。その後、彩色補正により改善されてセルアニメを凌ぐ美しさを持つ作品もみられる。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 日本国外ではディズニー映画を多く手掛けるピクサー・アニメーション・スタジオなどでフル3DCGアニメーションが制作されているが、日本国内では自動車などの機械類や魔法のエフェクトなどを描写する補完的な利用からスタートした。完成した3DCGは作画崩壊することなく自由なアングルで描写でき、完成後もソフトウェアで変形・変色が可能であるなど品質安定と省力化に貢献した。一方で単にCGを配置しただけでは手描きとの質感の差から違和感があるため、色調などを調整し違和感を軽減する手法やフルCG作品に手描きの表現手法を再現するなど、双方の技術を融合する試みが行われている。
2010年代に入るとセルアニメの質感をCGで再現する『セルルック』と呼ばれる技法が発達し、キャラクターなどにもCGを使用する作品が増加した。一方で、プロレベルの3DCGソフトウェアはライセンス料が高額でコンピュータも高性能モデルを必要することに加え、複雑な操作を習得するため専門学校でトレーニングを受けた人材が必要になるなど、手描きに比べ作画コストが上昇するためフルCG作品は少ない。
実際の業務を行うのはアニメ制作会社の一部門やCG関連業務のみを受託する小規模なスタジオが多いが、ポリゴン・ピクチュアズのような3DCGの専門会社がアニメ制作に参入する例もある。
ラテン文字のanimationの m の次は a であり e が含まれていないので、animeと略すことは出来ない。アニメーションをアニメと略せる言語は日本語に限られるため、日本国外の英語圏などで「anime」という場合は日本のアニメや日本風の表現様式のアニメに対して用いられる。日本国内では、製作国や作風に関わりなくanimeが使用される。
英語ではanimeと綴った場合の発音は「エイニム」あるいは「アニーム」のようになるが、日本語と同じ「アニメ」と発音している。animation(英)→アニメーション(日)→アニメ(日)→anime(英)として逆輸入されたものである。日本での「アニメ」読みが名詞として辞書に掲載される例もある。
フランス語には animer(動く)の過去分詞形の animé(アニメ、動いた、動かれた)があり、同用途で英語でも animé と綴られるため、フランス語由来説も存在する。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | フランス語には animer(動く)の過去分詞形の animé(アニメ、動いた、動かれた)があり、同用途で英語でも animé と綴られるため、フランス語由来説も存在する。
主に1970-1980年代に使用された日本製アニメーションを指す語。日本で用いられるようになった1990年代には、現地では既にほぼ死語と化しており、日本製アニメーションを指す言葉は「Anime(アニメ)」に取って代わられている。
音節的に Japan-animation から Japanimation の略語であるが、Jap(日本人の蔑称)の animation とも読めるため、日本人と文化に対する差別・偏見と、アニメーションへの偏見から、日本製アニメーションを指して「くだらないもの」あるいは「子供の教育上良くないもの」の意味を含めていた可能性もある。当時、北米に輸出された作品は、文化・習慣・表現規制の違いから、日本的・性的・暴力的な表現は削除されていた。また、アニメはまだアメリカではcartoonと呼ばれていた。
長期に渡り連続する複数の作品を1作品として編集し、制作者の意向と掛け離れた独自改変された作品を示すこともある。2000年代以降、一部のアニメーション関連のオンラインショップ で使用される場合もある。
前述の北米での発祥を受け「海外(日本の外)で視聴される、人気を呼び且つ評判になっている日本製のアニメーション」という意味で1990年代に『AKIRA』『攻殻機動隊』の原作漫画出版元である講談社をはじめメディア上で度々使用されていたが、2000年代以降は減っているものの、未だに使用されているケースも見られる。2011年には同名のアメリカの人気テレビドラマをアニメ化したOVAシリーズ『スーパーナチュラル・ジ・アニメーション』において、海外ドラマを日本のアニメ制作会社マッドハウスがアニメ化し世界で発売されたということでジャパニメーションと銘打たれていた(テレビ放送時の宣伝でも使用された)。「世界で通用する日本のアニメ」など、世界を意識した視点で作品を紹介する際に使用されている。
日本におけるアニメーション業界の意思統一、関連団体との連携、アニメーション産業の持続的発展を目的とした一般社団法人。
声優のマネージメントを行うプロダクションなど事業者が加盟する。
声優事業社で組織。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 日本におけるアニメーション業界の意思統一、関連団体との連携、アニメーション産業の持続的発展を目的とした一般社団法人。
声優のマネージメントを行うプロダクションなど事業者が加盟する。
声優事業社で組織。
2009年12月3日に一般社団法人化した、アニメーター及び演出家の地位向上と技術継承を目的とした一般社団法人。
2003年4月1日に設立され、「内外関連文化団体との提携及び交流。映像文化発展のための事業」。「業界の社会的地位の向上のための広報活動および出版事業」。「音声製作物に関連する権利の確立及び擁護」。「再放送使用料」の徴収、分配業務を主な事業内容とした一般社団法人。
テレビ局や制作会社に対して立場が弱い俳優が、一方的で不利な出演契約を解消を目的として結成された。声優の多くも加盟している。
メディア芸術の創造と発展を図ることを目的に、文化庁とCG-ARTS協会が主催の祭典。1997年以降、毎年実施されている。
2001年12月7日に施行され、映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術をメディア芸術と定義し、振興を図るための施策を行うようになった。
2004年5月、アニメーションや漫画など、コンテンツ産業の保護・育成に官民一体で取り組むための法律が成立した。
日本政府が行っている対外文化宣伝・輸出政策で使用されている用語で、クールジャパン戦略担当大臣や海外需要開拓支援機構(通称:クールジャパン機構)が設立されており、アニメ・漫画・ゲーム・J-POP・アイドルなどのポップカルチャー・サブカルチャーも含まれている。
文化庁の若手アニメーターなど人材育成事業の委託をうけ、日本アニメーター・演出協会(JAniCA)が2010年(平成22年)より実施しているアニメーターの人材育成事業。
漫画やアニメ作品のセル画やフィルム、原画を展示する博物館・美術館。ミュージアムショップを設置したりアニメの様々なイベントや国際アニメーション映画協会公認の映画祭、インディーズのアニメーション映画祭などを開催している所もある。『ドラえもん』の作者が生活していた川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアムや、『名探偵コナン』の作者ゆかりの地鳥取県東伯郡北栄町の青山剛昌ふるさと館など、著名なアニメ作品やマンガの原作者の生誕地に地域おこしの観光拠点としても整備されることも多い。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | ほとんどの博物館は特定の作家、クリエイターに特化した施設になっているが、杉並アニメーションミュージアムや秋葉原UDX内の東京アニメセンターでは制作会社や出版社などの垣根を超えた様々な企画展が行われ、アニメーションに使われる原画などの展示やグッズが販売されている。
東京都と日本動画協会などのアニメーション事業者団体で構成される「東京国際アニメフェア実行委員会」が主催の国内アニメ業界最大の見本市であった。2002年から2013年まで3月末頃に東京ビッグサイトで開催されていた展示会。アニメ作品や関係者を表彰する「東京アニメアワード」の表彰式が行われた。
2010年に東京都青少年の健全な育成に関する条例に反対する形で大手出版社(角川書店、秋田書店、講談社、集英社、小学館、新潮社、双葉社、少年画報社、白泉社、リイド社)10社が2011年の東京国際アニメフェアについて参加協力を拒否する声明を発表した。その後角川書店とアニプレックス、アニメイト、キングレコード、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン、フロンティアワークス、マーベラスエンターテイメント、メディアファクトリーの計8社が東京国際アニメフェアと同日に開催すると発表した。「アニメ コンテンツ エキスポ実行委員会」が主催し、千葉県千葉市美浜区の幕張メッセで開催する、アニメーションに関する日本の展示会であった。
2014年から東京国際アニメフェアとアニメコンテンツエキスポを統合する形で実現した展示会。東京都が不参加となり、KADOKAWA、アニプレックス、日本動画協会など19社が参加する。場所を東京ビッグサイトに戻し、東館全てを使うなど分裂前の東京国際アニメフェアより大型な見本市となる。
1960年にカンヌ国際映画祭からアニメーション部門を独立した、国際アニメーション映画協会公認の国際アニメ映画祭。フレデリック・バックの『木を植えた男』などがグランプリを受賞している。
併設で世界最大規模のアニメーション見本市、MIFA(Marché international du film d'animation)が行われている。映画祭開催期間中の3日間で、世界約60か国のアニメ関係者が参加している。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 併設で世界最大規模のアニメーション見本市、MIFA(Marché international du film d'animation)が行われている。映画祭開催期間中の3日間で、世界約60か国のアニメ関係者が参加している。
広島国際アニメーションフェスティバル(2020年を最後に終了)、オタワ国際アニメーションフェスティバル、ザグレブ国際アニメーション映画祭は、上記アヌシーを含めて世界4大アニメーションフェスティバルと称されていた。
アニメ映画では「映画倫理委員会」、テレビアニメでは、放送事業者が自主的に放送基準・番組基準(放送コード)を定めて運用することが電波法、放送法で規定され、民放連加盟会員各社による任意団体「放送倫理・番組向上機構」(BPO)による自主規制がある。
OVAやWebアニメには、自主規制に関する法的規定や任意団体などは存在しないが、放送権販売の為にテレビアニメ・映画と同等程度の自主規制が行われている。アダルトビデオに類するアダルトアニメ作品は「日本ビデオ倫理協会」の審査を受けている。
テレビアニメのパッケージ化販売には自主規制が無い為、お色気や流血など刺激の強い表現をテレビ放送で規制したものを本来の状態に戻したり、より過激な映像の追加や差し替えなどが行われているものもある。
アメリカではレイティングなどの規制が厳しいこともあり、子供向けの解りやすい物語を元にしたコミカル(喜劇的)な動画を楽しませる作品が多いが、日本では『鉄腕アトム』頃から子供向けではあるが、アンダーグラウンド (文化)の影響を受けていた漫画などと密接な影響を受けていたこともあり、単純に「ヒーローが必ず勝つ」という勧善懲悪の話では無く、社会風刺など含んだ多様で複雑な物語で、主人公に内在する様々な感情や心理を描く作品が多い。
リミテッド・アニメーションが主流で、ウォルト・ディズニー・カンパニーなどのアニメ作品に見られるフル・アニメーションはあまり使われない。映画などと同様に24コマ/秒で撮影されるが、動画は、同一画で3コマ×8/秒の撮影となる。静止場面では、同一画で24コマ/秒の撮影となる。テレビ放送用の作品は演出により、1話ごとにセル画の使用量が決められている。
ウォルト・ディズニー・カンパニーの販売戦略を真似たとも言われるが、それとは別の道を歩むことになった。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | ウォルト・ディズニー・カンパニーの販売戦略を真似たとも言われるが、それとは別の道を歩むことになった。
テレビ番組の場合、スポンサーから提示される予算の範囲で請け負うのが通常であるが、明らかに不足する制作費で請け負い、不足部分は本業の漫画の原稿料、海外への輸出と再放送、玩具・文具・菓子メーカーにアニメキャラクターの商品化権(版権)販売による制作資金の回収システムが誕生し、後々まで続くことになる。
日本での商業用アニメーションのテレビ放送と同時に、制作費を短期間で回収するため、安価で多くの国へ輸出する販売戦略がとられた。国内で流通を前提に制作されていたものを輸出するため、輸出先の国内法や文化的事情で内容に大きな改変が行われる場合が多い。また、作品名・登場人物名やスタッフ名などは輸出先の各国に合わせて書き換えられたり、視聴者が日本製であることを知らない場合もある。
また著作権ごと(放棄した)の契約で販売された作品もある。アメリカで、『超時空要塞マクロス』・『超時空騎団サザンクロス』・『機甲創世記モスピーダ』の3作品をハーモニーゴールド USA 社(Harmony Gold USA)が翻案した『ロボテック』が制作され、さらに他国に輸出された事例も存在する。
世界的な多チャンネル化でソフト不足の中、日本アニメは安さで世界各地に広がった。現在では、北米、南米、ヨーロッパ、南アジア、東アジア、ロシア、オーストラリアなど全世界に及び、総務省の調査(2005年度)によるテレビアニメの輸出額は、国内のテレビ放送権料の412億円の15分の1程度、26億円から28億円の規模である。輸出金額では過半数を北米向けが占めるとも言われる。
日本貿易振興機構は、地域、国別にコンテンツ調査しており、その中にアニメに関する統計や傾向などのレポートがある。しかし、近年は海外におけるアニメ市場が拡大する陰で、日本製アニメのシェアは縮小傾向にある。また放映終了後に各国の言語字幕を入れて違法に配信する「海賊版アニメサイト」が増加している。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 日本貿易振興機構は、地域、国別にコンテンツ調査しており、その中にアニメに関する統計や傾向などのレポートがある。しかし、近年は海外におけるアニメ市場が拡大する陰で、日本製アニメのシェアは縮小傾向にある。また放映終了後に各国の言語字幕を入れて違法に配信する「海賊版アニメサイト」が増加している。
文化の違いとして、『ドラえもん』など日本の生活風景が出るものや、『ベルサイユのばら』など特定の国を扱ったものは、受け入れられるかどうかは国によって大きく異なる。『ドラえもん』は、ヒーロー的な男性を尊ぶ北米では受け入れられず2014年まで放送されなかったが、東南アジア圏では人気がある。
東南アジア圏では性的な表現を除き、日本文化的な表現も受容されつつあり、再評価されている。好まれる作品は日本とあまり変わらない。また『超電磁マシーン ボルテスV』のように、特定の国で一部の人物の間(ファン)の中でヒットする作品も存在する。またキャラクターの人気も国によって異なる。
フランスでは、1983年にジャック・ラング文化相が文化侵略だと公言し、自国のアニメーション製作者へ助成金を出すことになった。1989年には『キン肉マン』、『北斗の拳』が残酷だとバッシングされ放送中止となった。『聖闘士星矢』は暴力シーンをカットし世界中で放映されヒットし、アメリカを除き、ヨーロッパやメキシコ、南米で根強い人気がある。また、欧州製の番組を6割以上放送することを放送局に義務付けたクォータ制度があり、残りの4割の中でアメリカと日本のアニメが放送されている。
EU加盟国では、1997年にEU理事会が、ヨーロッパ製の番組が放送時間の50%以上になるように放送局に義務付けた「国境なきテレビ指令」を出してから外国製アニメの新規放送が難しくなっている。
ニュージーランドでは『ぷにぷに☆ぽえみぃ』は、登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとされ、政府機関により発売禁止処分を受け、所持が確認された場合、児童ポルノ禁止法違反により罪に問われる。北米やオーストラリアなど多くの国でそれに準じた処分が行われている。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | ニュージーランドでは『ぷにぷに☆ぽえみぃ』は、登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとされ、政府機関により発売禁止処分を受け、所持が確認された場合、児童ポルノ禁止法違反により罪に問われる。北米やオーストラリアなど多くの国でそれに準じた処分が行われている。
アメリカでは、日本のアニメは古くから名前を変えたりストーリーを編集したり改変されてアメリカ化され、非アメリカ的な発言は取り除かれるのと同時に元の日本の製作チームに関する言及は最低限しか残されなかった。1970年代にアメリカで起きた子供向けテレビ浄化運動で、増加していた日本のアニメの暴力描写と性的内容は問題視され、アメリカのテレビネットワークはアニメ放送を平日のゴールデンタイムから土曜朝に移行するが、各種保護者団体はネットワークに圧力をかけてアニメの一層の浄化を求め、日本のアニメは流せなくなった。1982年には、東映が『銀河鉄道999』をアメリカのニューワールド・ピクチャーズに売ったが、アメリカに合わせて大幅に改変され、ストーリーも破壊されたため東映はアメリカ事務所をたたんで撤退している。改変は舞台を日本ではなくアメリカの架空の場所に変えたり、人物も日本人名からアメリカ風に変えてアメリカの文化・生活が反映されたり、日本円もドル紙幣に変えられるなど、ローカライズが行われている。アメリカでは、子供向け番組のアニメでも「健康的な食生活を推進すること」が放送基準の一つであり、食に関する表現も規制され日本版からアメリカ風に編集されたり加工・変更されていた。未だにアメリカ式に改変されることもあるが、視聴者の立場としては改変を好まない層が近年増えたため、喫煙や飲酒など放送コードに抵触する部分などの改変にとどめられてもいる。
ロシアでは、サンクトペテルブルク裁判所が2021年1月に、複数の日本製のアニメを「暴力や死など過激なシーンの描写が視聴する未成年者らの成長に悪影響を与える」として、ロシア国内での放映や配布を禁止する決定を出している。インターファクス通信によると、ロシア検察当局が複数の日本製アニメの配布を禁止すべきだとする請求を裁判所に行っていた。この規制について検察当局は「過激な内容を含むアニメが未成年者に自殺などの害を及ぼすということが認められた」というコメントを出した。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 中華人民共和国では、2006年に海外アニメの輸入・放送に関して、国産アニメの放送がアニメの放送全体の7割を下回ってはならない、国産アニメを制作した機関は国産アニメを制作した時間と同じ分まで海外アニメを輸入できる、17時から20時まで外国アニメーションの放送を禁止などいくつかの規定を定めた。日本作品の放送シェアが8割を超えるのは、ダンピングによる日本の文化侵略であるとして締め出しを行った。同時に、自国のアニメーション産業の保護と育成に乗り出した。内容についても検閲の対象であり、スタッフの発言により映画祭への出展が止められた事例もある。
大韓民国(韓国)では、かつて韓国での日本大衆文化の流入制限があったが、1998年に解禁された。解禁以前から日本のアニメは放送されていたが、制限をかいくぐるため前述(輸出の節参照)のように地理の実在架空を問わず舞台・人物などの韓国仕様への改変版が放送されていた。解禁後は、以前から放送されていたものはそのままだが、日本の実在地理や登場人物の日本人など日本のオリジナルのまま放送されている。聖地巡礼を意識していない架空の舞台・人物などは未だにローカライズされているものもある。
インドでは、日本でも問題視された子供への悪影響を中心とした社会現象が起きており、『クレヨンしんちゃん』を放送禁止処分にする動きもある。
アニメと、漫画・小説・アニメ雑誌・アニラジ・ゲームソフト・フィギュア(玩具) 等は、販売戦略上不可分な密接な関係にあり、様々な媒体で展開するメディアミックスを前提として企画される。
題材の幅は広く、SFアニメ、ロボットアニメ(スーパーロボット・リアルロボット)、ギャグアニメ、魔法少女アニメ(変身ヒロイン)、ラブコメディ、スポ根、萌えアニメ、空気系(日常系)、セカイ系、ハーレムものなど多種多様に渡っている。
漫画や小説・ライトノベル・コンピューターゲームなどの原作が無いオリジナルアニメの場合、放送中ないし放送後(稀にアニメ化を見越して放送前に、と言う事例もある)に漫画化や小説化される。宮崎駿や細田守、新海誠の作品は最近ほとんどオリジナルアニメとして劇場公開している。近年ではゲーム業界の著名シナリオライターを脚本家として招いて制作する傾向も見られる。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 漫画や小説・ライトノベル・コンピューターゲームなどの原作が無いオリジナルアニメの場合、放送中ないし放送後(稀にアニメ化を見越して放送前に、と言う事例もある)に漫画化や小説化される。宮崎駿や細田守、新海誠の作品は最近ほとんどオリジナルアニメとして劇場公開している。近年ではゲーム業界の著名シナリオライターを脚本家として招いて制作する傾向も見られる。
映画の場合、人気テレビアニメの総集編や続編、スピンオフとして製作されることも多く、TV本放送を視聴していなくても解りやすい、単独で完結した劇場用作品として鑑賞できるものとして制作されることがほとんどであるが、事前にTV本放送を視聴していないと理解出来ない『新世紀エヴァンゲリオン』や『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』などの作品も存在する。また、『宇宙戦艦ヤマト2199』のように映画として先行上映後に、TVシリーズとして放送される作品もある。
漫画や小説などの原作の無い、アニメの企画を原作として実写映画・テレビドラマ化されたものでは、国内では、2004年『CASSHERN』(『新造人間キャシャーン』)。2009年『ヤッターマン (映画)』2010年『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(『宇宙戦艦ヤマト』)。国外では、2008年、『スピードレーサー』(原作:『マッハGoGoGo』)などがある。
詳細は「実写」を参照。
作品に関しては、アニメ・漫画の実写映画化作品一覧・アニメ・漫画のテレビドラマ化作品一覧を参照。
実写作品の企画が原作(原案)で、アニメ化された作品では、『月光仮面』・『愛の戦士レインボーマン』・『ザ☆ウルトラマン』などがある。
かつては、劇場作品は「漫画映画」、テレビ作品は「テレビマンガ(漫画)」と表記や呼称されており、漫画とアニメは混同されたりほぼ同一視されていた。現在も漫画作品を原作とする作品は多い。
漫画原作では無いオリジナル作品を漫画にすることで、漫画化という言葉が一般的だったが、2000年頃から小説化を意味するノベライズから派生した和製英語コミカライズ(comicalize)が普及している。本編の漫画化に限らず、複数の作家による本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフのアンソロジーやオムニバス形式の作品も多い。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 漫画原作では無いオリジナル作品を漫画にすることで、漫画化という言葉が一般的だったが、2000年頃から小説化を意味するノベライズから派生した和製英語コミカライズ(comicalize)が普及している。本編の漫画化に限らず、複数の作家による本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフのアンソロジーやオムニバス形式の作品も多い。
絵本原作でアニメ化された作品では、日本では『アンパンマン(それいけ!アンパンマン)』や、イギリスの『汽車のえほん(きかんしゃトーマス)』などがある。子供向けアニメなどでは、絵本化される作品も多い。また昔話を題材にした作品も黎明期から現在に至るまで作られている。
アニメーションのフィルムのコマを並べて作った絵本で、講談社のディズニー絵本などが典型例である。
家庭用ビデオなどの映像媒体が普及するまでは、人気アニメ映画などのフィルムブックも販売され、ドラマ音声などを記録したSP・ LP・ソノシートなどと併せて静止画ではあるが楽しむことが、一般的なアニメファンに手の届く範囲ものでもあった。
一般文芸やライトノベルのアニメ化作品も多く存在する。また、原作が小説の場合は深夜アニメや劇場アニメであることが多い。一般文芸では、過去に実写化されていた小説が新たにアニメ化されることが多い。
作品に関しては、ライトノベルのアニメ化作品一覧を参照。
TVアニメ・映画や漫画、ゲームソフトなどが原作となるノベライズも行なわれている。コミカライズと同様に本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフを展開する作品も多い。
2.5次元ミュージカルとも云われ、アニメ、漫画、ゲームなどを原作にキャラクターや物語の設定を忠実に再現し舞台(ミュージカル)化されている。
1974年の『ベルサイユのばら』が始まりとされ、1993年に8日間、31ステージ公演された『聖闘士星矢』が37万人を動員したことがミュージカル化の契機となり、その後『美少女戦士セーラームーン』や『テニスの王子様』などの人気作品が多数ミュージカル化され、観劇者数も、2013年には延べ160万人を超えている。2014年には、日本2.5次元ミュージカル協会も設立されている。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 1974年の『ベルサイユのばら』が始まりとされ、1993年に8日間、31ステージ公演された『聖闘士星矢』が37万人を動員したことがミュージカル化の契機となり、その後『美少女戦士セーラームーン』や『テニスの王子様』などの人気作品が多数ミュージカル化され、観劇者数も、2013年には延べ160万人を超えている。2014年には、日本2.5次元ミュージカル協会も設立されている。
流通における大きな変革として、家庭用ビデオデッキ(VHS・βマックス)の登場・普及により、1983年にはテレビ放送や劇場公開ではないOVA作品『ダロス』が登場した。OVAはビデオソフトの販売とレンタルビデオ店から支払われる使用料により、制作費回収が可能になった結果、登場したビジネスモデルである。
玩具メーカーなどのスポンサーの意向によらずに作品制作ができるため、比較的表現の自由度があり、購買層の大多数は特定のファン層であり作品の内容は偏っているが、購買層が特定されているため商品化、販売の面において容易である利点がある。当初は、60分から90分程度のアニメ映画と同様の1話完結の作品として制作されたが、後にテレビ局に放送権の販売のため、主題歌込みで24分程度を1エピソードとした数本単位で制作されたものが主流になる。
1980年代後半以降、家庭用ビデオデッキの普及により、テレビ用映画用の作品は放映後にパッケージ化され販売されるようになった。ビデオより後発のレーザーディスク(LD)は機器本体はビデオ本体ほど一般普及はせず、高級またはマニアックな機器であったが、その再生ソフトであるLDはビデオカセットのようにコアなアニメファンの間では浸透し、LDで発売された映像作品の多くはアニメや映画であった。1990年代までのビデオやLDの時代には、ビデオデッキ本体こそ一般に広く普及していたものの、パッケージソフトは販売店も少なく後のDVD時代より格段に小規模なマニアックな市場で、1本あたりの単価も高めでビデオカセット・LD自体も後のDVDより大きいサイズのため複数所持するにもかさばり、自分でテレビから録画したのでないアニメや映画作品等はレンタルビデオ店で借りて視聴するのが主流であった。
音楽CDと同じサイズのDVDが登場・普及した2000年代以降は、パッケージ化作品数や販売店数・販売スペースなど市場規模が飛躍的に増加した。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 音楽CDと同じサイズのDVDが登場・普及した2000年代以降は、パッケージ化作品数や販売店数・販売スペースなど市場規模が飛躍的に増加した。
2000年代後半に入ると地デジの浸透と共にハイビジョン制作作品が増加し、Blu-ray Disc(BD)およびBDレコーダーの登場・普及と共にBDが主流となった(過去に既にパッケージ化された作品もデジタルリマスター(HDリマスター)版などとして再発売されることもある)。
OVAの流れを受け、放送権料の安い、深夜・早朝枠やケーブルテレビ、独立テレビ局、BS・CSチャンネルで、特定のファン層をターゲットにしたテレビアニメ番組が増加した。特に深夜アニメやUHFアニメは基本的に視聴率は低いことからスポンサー料は安く、それだけで制作費回収は難しいことから、各種パッケージ販売によって収益を得るビジネスモデルが主流となった。しかしネット配信(合法違法問わず)の普及により映像媒体の販売は減少傾向にあり、初回限定版として各種グッズ類やイベントチケットなどの特典を付けて販促を行っているのが現状である。
2010年代半ばに入ると内外問わずインターネット配信による収益で補完する動きが主流となり、2020年代には配信料が収益の柱となっている。
1977年、成年向け雑誌「月刊OUT」が『宇宙戦艦ヤマト』特集を掲載し大ヒットとなり、これがアニメ誌に発展する契機となった。当時、幼年向けのテレビ情報誌「テレビランド」を発刊していた徳間書店はテレビランド増刊『ロマンアルバム・宇宙戦艦ヤマト』を創刊し40万部を記録。この成功を受けて、月刊アニメ雑誌「アニメージュ」が創刊される。
その後、『機動戦士ガンダム』に続くアニメブームの間に、多数の出版社の参入と淘汰が繰り返された末、2015年現在、10日売りアニメ雑誌と称される総合誌は「アニメージュ」「アニメディア」「月刊ニュータイプ」の三誌がしのぎを削る状況にある。
その派生雑誌として萌えアニメ専門雑誌(「メガミマガジン」「娘TYPE」など)や声優専門雑誌(「声優グランプリ」「声優アニメディア」など)、アニメソング専門雑誌(「リスアニ!」など)なども登場している。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | その派生雑誌として萌えアニメ専門雑誌(「メガミマガジン」「娘TYPE」など)や声優専門雑誌(「声優グランプリ」「声優アニメディア」など)、アニメソング専門雑誌(「リスアニ!」など)なども登場している。
1917年の「活動之世界」9月号掲載の幸内純一の作品批評が、日本における初のアニメーションに関する批評とされる。以後、アニメーションの批評は「キネマ旬報」「映画評論」などが主要な発表の媒体となり、新作の批評という形で行われてきた。
1950年代に東映動画が設立され、年に1作のペースで長編作品が定期的に制作されるようになると、「朝日新聞」などの映画欄でも扱われるようになった。
1977年には山口且訓と渡辺泰の共著による『日本アニメーション映画史』が刊行される。日本アニメーション史の基本文献として参考資料として挙げられることが多い。日本国外のアニメーションやアートアニメーションの評論については、1966年に『アニメーション入門』を著した森卓也やおかだえみこ等が活動していた。『日本アニメーション映画史』『アニメーション入門』のいずれも『映画評論』誌の連載をまとめた単行本であった。
1970年代末にアニメブームが到来し、アニメ雑誌が多数創刊される。同人誌活動していたアニメファン出身のライターの力を借りて誌面を構成していた。氷川竜介、小黒祐一郎、原口正宏、霜月たかなか、中島紳介らは学生アルバイトに始まり、2000年以降も活動している。「アニメージュ」はクリエイターの作品歴を系統的に紹介することに力を入れ、「アニメック」と「月刊OUT」においては、評論記事と読者投稿による作品評論が一つの売り物になっていた。
批評と研究を中心とした専門誌には、1998年創刊の「動画王」、1999年創刊の「アニメ批評」、2000年創刊の「アニメスタイル」などがあったが短命に終わり、「アニメスタイル」はインターネットに活動の場を移した。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 批評と研究を中心とした専門誌には、1998年創刊の「動画王」、1999年創刊の「アニメ批評」、2000年創刊の「アニメスタイル」などがあったが短命に終わり、「アニメスタイル」はインターネットに活動の場を移した。
「月刊ニュータイプ」が登場した1980年代半ば以降、アニメ雑誌はクリエイターや作品研究などの記事から、キャラクターやグラビアを重視した作りに軸足を移していき、アニメ評論を積極的に掲載するアニメ雑誌は基本的に存在しなくなっている。その一方、宮崎駿や押井守の活躍、『新世紀エヴァンゲリオン』がビジネスとして話題になるようになった1990年代から、人気作品や人気クリエイターを中心にした研究本は、継続的に発行されるようになった。
1998年10月、日本で初めてのアニメの学術的研究を趣旨とする学会「日本アニメーション学会」が設立された。
アニメラジオの略称。アニメ・ゲーム・漫画・ライトノベル・声優等のオタが主な聴取対象のラジオ番組。1979年10月、ラジオ大阪『アニメトピア』を皮切りに、多くは深夜放送番組として放送されているが、ネット環境の普及と共にインターネットラジオ番組も増えている。
黎明期にはアニメ雑誌やレコード会社による総合情報番組が多かったが、アニメやゲーム、漫画、小説(ライトノベル)などを原作にしたラジオドラマ番組、人気声優のパーソナリティ番組、アニメソングやゲームミュージック専門のリクエスト番組、アニメに関する話題をリスナーから募集して討論する番組など多岐にわたるようになっている。
劇中で使用される音楽の主題歌(テーマソング)・挿入歌・イメージソング・インスト曲・BGMなどサウンドトラックの他、ドラマやアニメの世界観を背景としたドラマ音声などを録音したSP・ LP・ソノシートなどのレコード盤やカセットテープや、現在はCDなどで販売頒布されているほか、iTunesほかインターネット配信も増加している。
かつては、映像媒体は極めて高価だったこともあり、ドラマなどの音声を記録したSP・LP・ソノシートレコード盤、カセットテープ、CDなどの音声媒体が普通の愛好家の手の届く範囲であった。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | かつては、映像媒体は極めて高価だったこともあり、ドラマなどの音声を記録したSP・LP・ソノシートレコード盤、カセットテープ、CDなどの音声媒体が普通の愛好家の手の届く範囲であった。
インターネットの普及と共に、ほとんどのアニメ作品は公式サイトを設置し宣伝をする形態をとっている。内容は作品・あらすじの紹介、予告編やPVなどの宣伝素材の無料配信・関連商品のPRなど。デスクトップ・携帯電話用コンテンツを提供している場合もある。特に深夜アニメの場合視聴者はほぼ限られるため、インターネットでの宣伝に頼っている場合が多い。またSNSでの宣伝は安価で、リツイート機能により時に数万人へ作品情報を発信できるという強みがある。
制作テレビ局や制作会社のウェブサイトの一部としての場合が多かったが、最近では作品・シリーズ毎に独自のドメイン名を取得し制作会社が管理する独立サイトとして設置するケースも多くなっている。ブロードバンド環境の普及により、本編や公式ラジオの配信を行っているケースもある。
2010年代に入ると、SNSの普及を受ける形でTwitterやfacebookの公式アカウントを取得し情報の発信などを行うケースが増加している。またネットユーザー同士でアニメの情報交換することで作品が話題になる例(魔法少女まどかマギカ、琴浦さんなど)や、公式サイトが話題となり終了したアニメが再び話題となる例(キルミーベイベーなど)がある。
テレビアニメの開始時から深い関係にあり、基本的に児童向けアニメのほとんどが玩具展開をすることが前提になっており、子供の興味を引く可動・合体・変形などの仕掛けがある手に取って遊べる玩具になる物を、主役として登場させることがスポンサー要望であり作品設定に影響を与えていた。素材は年代によりブリキ製、ソフトビニール製や超合金 (玩具)などの違いがある。
1960年代には、ソフトビニール製のキャラクター人形や、組み立て式のキャラクターモデルが存在していたが、1970年代後半、スケールモデルのように設定を元に忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルがヒットし、その流れに続きバンダイを模型業界のトップに押し上げた日本プラモデル史上最大のヒット商品となるガンプラが登場した。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 1960年代には、ソフトビニール製のキャラクター人形や、組み立て式のキャラクターモデルが存在していたが、1970年代後半、スケールモデルのように設定を元に忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルがヒットし、その流れに続きバンダイを模型業界のトップに押し上げた日本プラモデル史上最大のヒット商品となるガンプラが登場した。
また、消しゴムとして用をさないキャラクター消しゴムなどのカプセルトイ(ガシャガシャ、ガチャポンなど)による商品も展開され、1970年代のスーパーカーブームに乗った『サーキットの狼』などヒットにより一大ブームとなったスーパーカー消しゴムやキン肉マン消しゴム(通称、キン消し)などが登場した。
1980年代、『機動戦士ガンダム』に続くリアルロボットブームの中で、玩具の主力商品はプラモデルとなり積極的な商品展開が行われるも、ガンプラブームを越えることも無く、また『蒼き流星SPTレイズナー』はプラモデルの販売不振でメインスポンサーが撤退し放送打ち切りになるなど、ブームは終了するが、ガンプラブームによる若年層へのスケールキャラクタープラモの浸透は、原型を少数生産するガレージキットの勃興にもつながり、怪獣や美少女フィギュアなどを中心にプラモデル化しても採算に合わないとされていたものが徐々に浸透していくようになる。
1984年12月、ゼネラルプロダクツ(ガイナックスの前身)主催のプロ・アマを問わない、後に世界最大のガレージキット、模型、造形物の展示販売の最大イベントとなる、「ワンダーフェスティバル」(略称、「ワンフェス」「WF」)が開催され、主要玩具メーカの撤退に合わせるように、同人誌の即売会的な手作り模型の展示販売会のイベントが開催される。
1990年代、高価で組み立てと塗装に高度な技術と労力を要するガレージキットの中で、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイの完成品がマニアの間で高額で取引されるようになると、アニメ美少女のフィギュア化がブームとなり、他に海洋堂の精巧で安価な食玩や、バンダイがガレージキットの表現方法を吸収して従来のキャラクター消しゴムとは比べ物にならないほどリアルなカプセルトイから始まったフィギュアブームと相まってコレクションの対象となった。販売促進のため書籍・ゲームソフト・DVDなどの付録や購入特典に付属する場合もある。 | 1,113 |
アニメ (日本のアニメーション作品) | 深夜アニメ作品のフィギュアは、どれだけ精巧に作られているかに重点が置かれ、そのため価格も高騰している。
玩具の商品企画が原案(原作)でアニメ化された例では、『トランスフォーマー』・『ゾイド』・『超特急ヒカリアン』・『武装神姫』などがある。
アニメを中核とした大規模なメディアミックスとしては、『ベイブレードシリーズ』・『アサルトリリィ』・『新幹線変形ロボ シンカリオン』などがある。
アーケードゲーム、コンシューマーゲーム(家庭用ゲーム機)用のプログラムを記録した物理的メディア (媒体)(詳細はゲームソフトも参照)、オンラインソフトウェアで提供されるコンピュータゲームのソフトウェア。
1983年、後に社会現象となる大ヒット商品のファミリーコンピュータが発売され、プラモデルなどの玩具の販売不振に喘ぐ玩具メーカーは、主要商品を家庭用ゲーム機とゲームソフトの開発に移行する。過去の人気作品で、ゲームソフト化が比較的容易なシューティングゲーム(1985年 、『宇宙戦艦ヤマト』)、対戦型格闘ゲーム(1985年、『キン肉マン マッスルタッグマッチ』)、ウォー・シミュレーションゲーム(1987年、『SDガンダムワールド ガチャポン戦士』)などから商品展開が行われた。
後に、ロールプレイングゲーム・アドベンチャーゲームが原作でアニメ化される作品も登場する。 『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』のような推理ゲームから恋愛シミュレーションゲーム、果てにはアダルトゲームを18才未満でも視聴できるように脚本を改編したものまでアニメ化され、作品の幅は広くなっている。また、近年では『Angel Beats!』の麻枝准や『天体のメソッド』の久弥直樹などゲーム会社のシナリオライターがアニメの脚本を手掛ける場合が増えている。
携帯電話の機能が拡大し、インターネットが簡単に利用できるようになってからGREEやMobageのような基本料金無料の携帯電話向けゲームサイトがヒットするようになった。様々なアニメ作品も携帯電話ゲームとなった。アイドルマスター シンデレラガールズでは携帯電話ゲームに登場するキャラクターを元にアニメ化し、大きな話題を収めた。 | 1,113 |
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