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アポロ計画
アポロ計画では総量で381.7kgの岩石その他の物質が月面から持ち帰られ、そのほとんどは現在はヒューストンにある月資料研究所に保管されている。 放射年代測定によれば、月面で採集された岩石は地球上のものと比較して全体的にきわめて古い。その範囲は約32億年前(月の海の部分で採取された玄武岩)から46億年前(高地で採取された地殻のサンプル)まで確認されている。したがって、これらは現在の地球上ではほとんど失われてしまった太陽系誕生初期の試料であると見られている。 アポロ計画全体を通して採取された岩石の中で重要なものの一つに、15号でジェームズ・アーウィン飛行士とデヴィッド・スコット飛行士が持ち帰った「ジェネシス・ロック(Genesis Rock = 創世記の石)」と呼ばれているものがある。斜長岩に分類されるこの岩石は、カルシウムに富む斜長石(灰長石)によってほとんどの部分が構成されており、月面の高地の地殻のサンプルであると考えられている。この中からは地球化学で KREEP と呼ばれる、地球上には存在しない岩種が発見された。KREEPや斜長岩などのサンプルは、月の外殻表面がかつて大規模に溶融した状態(マグマ・オーシャン)であったという仮説の根拠となっている。 採取された岩石の大部分は衝突にさらされた痕跡を有していた。たとえば多くのサンプルの表面には微少隕石が衝突したことによる極小のクレーターが確認されている。これは厚い大気の層に阻まれた地球上の岩石には見られないものである。また多くのものには隕石が衝突した際に発生した高圧の衝撃波にさらされた形跡が残されており、中には impact melt、すなわちクレーター周辺で衝撃により融解した物質から構成されたものもあった。そして月面から持ち帰られたすべてのサンプルは、繰り返し衝突の衝撃に曝されることによる角礫化が進行していた。 こうした月の岩石の分析結果は、月の成因を地球に火星程度のサイズの天体が衝突したことに求める「ジャイアント・インパクト説」の論旨と合致するものである。 1966年3月、NASAは議会に対しアポロ計画で人間を月に送るためにかかる費用は13年間で総額227億1800万ドルに達すると報告し、また実際それは1969年7月から1972年12月にかけて6度の月面着陸を成功させるという成果となって現れた。
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アポロ計画
こうした月の岩石の分析結果は、月の成因を地球に火星程度のサイズの天体が衝突したことに求める「ジャイアント・インパクト説」の論旨と合致するものである。 1966年3月、NASAは議会に対しアポロ計画で人間を月に送るためにかかる費用は13年間で総額227億1800万ドルに達すると報告し、また実際それは1969年7月から1972年12月にかけて6度の月面着陸を成功させるという成果となって現れた。 NASAの歴史に関するウェブサイトを管理するスティーブ・ガーバーによれば、最終的にアポロ計画にかかった費用は1969年当時で200億ドルから254億ドル(2005年現在の貨幣価値に換算すると、およそ1350億ドル)になるという。 またアポロ宇宙船およびサターン・ロケットにかかった費用は2005年度換算で830億ドルで、このうち宇宙船が280億ドル(司令・機械船170億ドル、月着陸船110億ドル)、サターン・ロケット (I・IB・V) が460億ドルであった。 当初の予定ではアポロ計画は20号まで行われるはずだったが、NASAの大幅な予算削減およびサターンVシリーズの後続生産が打ち切られたことにより、18・19・20号の飛行はキャンセルされ、それらの予算はスペース・シャトルの開発およびスカイラブ計画に回されることとなった。残ったサターンVは、1機が1973年にスカイラブを打ち上げるために使用され、残りの2機はフロリダ州ケープ・カナベラルのジョン・F・ケネディ宇宙センター、アラバマ州ハンツビルのマーシャル宇宙飛行センター、ルイジアナ州ニューオリンズのミシャウド組立施設、テキサス州ヒューストンのリンドン・B・ジョンソン宇宙センターなどに分割して現在も展示されている。 アポロ計画は、多くの技術分野を刺激した。アポロ誘導コンピュータは、ミニットマン・ミサイルの開発共々、初期の集積回路研究の推進力となった(当時の大型コンピュータでは、まだ小型化の要求は低く、米国IBM社のSystem/360などではまだチップ上に集積したICを採用していない)。また燃料電池はこの計画によって初めて実用化され、CNC(コンピュータ数値制御)による機械工作もアポロの構造部品製作に際して開拓された分野であった。 いくつかの国ではすでに有人月飛行が計画され、また月面基地の建設を目指す宇宙機関もある。
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アポロ計画
いくつかの国ではすでに有人月飛行が計画され、また月面基地の建設を目指す宇宙機関もある。 史上初の月面着陸を成功させたアポロ11号の船長ニール・アームストロングは、しばしばマスコミから将来の宇宙開発の展望について質問されている。2005年にはそうした質問に対して「様々な課題はあるかもしれないが、1961年のアポロ計画スタート時に我々が直面したほど困難で、かつ大量の問題にはならないのではないか」と応え、火星への有人飛行は1960年代の月面着陸よりは容易になるであろうとの見解を述べた。 2004年1月14日、大統領ジョージ・W・ブッシュは演説の中で、2020年までに宇宙飛行士を月面に到達させることを含む新たな宇宙開発の展望の「コンステレーション計画」を発表した。 計画では、2010年に退役する現行のスペース・シャトルの後継としてオリオン宇宙船があげられており、その空力的な形状はアポロの司令船にきわめて近い。NASAの前長官マイケル・D・グリフィンは、オリオンを「増強版アポロ」("Apollo on steroids") と表現し、雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「オリオン計画はアポロ時代の技術に先祖返りした程度のもの、との批判がある」と伝えているが、一方でオリオンの操縦席の計器板や熱遮蔽板などでは新技術が使用される予定だった。コンステレーション計画のうちアポロ計画の設計に最も似通っていたのは、オリオンを軌道に乗せるために設計されたアレスI の上段ロケットである。このロケットのエンジンには、サターン・シリーズで使用されたJ-2を改良したJ-2Xの使用が計画されていた。J-2Xを開発するにあたり、NASAの技術者らは博物館でアポロ時代の資料を研究し、また実際にアポロ計画に従事した技術者たちに意見を求めた。コンステレーション計画の責任者ジェフ・ハンレイは、「月面への着陸およびそこからの離陸に関する技術的問題は、相当程度にわたってすでに解決されている。これらはアポロ計画が我々に残してくれた遺産である」と述べた。
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アポロ計画
アポロと同様、オリオンは月周回ランデブー方式をとるが、月着陸船アルタイルはアレスVロケットによって別個に打ち上げられる予定だった。このアレスVはスペース・シャトルやアポロ計画の技術を元にして開発される予定だったロケットである。そしてスカイラブ計画で行われたように地球周回低軌道上でオリオンとドッキングする。アポロ計画からの変化としては、オリオンではすべての飛行士が月面に降下し、軌道上には無人の宇宙船が待機するという点がある。また探索する地域はアポロ計画ではもっぱら赤道付近が中心だったのに対し、コンステレーション計画では極地方に重点が置かれ、アポロ計画では用いられなかった地球周回ランデブー方式も使用が検討されていた。 2010年、バラク・オバマ大統領によりコンステレーション計画は中止された。 1968年のクリスマス・イヴにアポロ8号が行った月面からのテレビ中継は、その時点までになされた報道の中で最も広範囲に伝えられたものであった。またアポロ11号による人類初の月面着陸は、全世界人口の五分の一がテレビ中継を通じて見守ったと言われている。 日本でNHK総合テレビが1969年7月16日21:45(JST)から75分間放送した報道特別番組「アポロ11号発射」は43.8%の、またイーグルの月面着陸を報じた21日7:00からの「朝のワイドニュース」は45.4%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録。21日、11時台の総視聴率は46%、12時台のそれは62%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。NHKの調査では、日本では昼間となったアポロ11号による人類初の月面着陸をテレビ同時中継で見た人は68%、21日中に他の番組で見た人を含めると91%に達した。 アポロ計画40周年の記念事業の一環として、NASAはアポロ11号の月面着陸時の放送データ復元を実施している。11号の月面歩行の様子を撮影したオリジナルの磁気テープは行方不明になっていたが、3年間にわたる徹底的な調査の結果、テープは一旦消去した上で他の衛星データの記録に使用されたため、元データは完全に消去されてしまったと結論された。
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アポロ計画
アポロ計画40周年の記念事業の一環として、NASAはアポロ11号の月面着陸時の放送データ復元を実施している。11号の月面歩行の様子を撮影したオリジナルの磁気テープは行方不明になっていたが、3年間にわたる徹底的な調査の結果、テープは一旦消去した上で他の衛星データの記録に使用されたため、元データは完全に消去されてしまったと結論された。 アポロ計画に続く時期、NASAでは磁気テープが不足したため、アメリカ国立公文書記録管理局から大量のテープを持ち出して新しい衛星のデータを記録しており、テープの捜索にはNASAのテレビ担当者ディック・ナフツガー (Dick Nafzger) や月面カメラの設計をしたスタン・リーバー (Stan Lebar) なども加わったが、結局、アームストロングが月面に足を降ろした瞬間を記録した元テープは失われたと結論された。 一方、月面着陸の様子を撮影した特別仕様のカメラとテレビ中継映像の規格の違いから、テレビ放送用に変換された映像がテープに記録されていたため、11号について現存する放映時のデータが23万ドルをかけて収集・編集されることとなった。このデジタル復元作業はナフツガーおよび修復を専門とするロウリー・デジタル(Lowry Digital)社が担当し、ノイズやカメラぶれなどを歴史性を損なわずに除去するなどの作業が2009年9月の完了を目指して実施される。 ロウリー・デジタル社が修復作業をしている映像は、オーストラリアやCBSニュースの保管庫、ジョンソン宇宙センター内で記録されたキネスコープ(kinescope、キネコ)映像などから収集されたものである。復元される映像は一定のデジタル処理を施した白黒映像であり、音声に関しては手を加えられない。 多くの飛行士が、遠く離れた宇宙空間から地球を見るという経験から深甚な心理的影響を受けたと語っている。アポロが残した最も重要な遺産の一つは、地球が壊れやすい小さな惑星にすぎないという、陳腐とはなっても未だ普遍的とは言い難い認識である。これは月面上から撮影された写真を通じて伝えられ、なかでも8号の飛行士が撮影した「地球の出」(「アースライズ」、左)と、17号の飛行士が撮影した「ザ・ブルー・マーブル」と呼ばれるもの(右)が有名である。これらの写真は、多くの人々にとって環境保護への動機付けになったと指摘される。
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静かの海 (漫画)
『静かの海』(しずかのうみ)は、一條裕子著の漫画作品。ぶんか社の漫画雑誌「まんがガウディ」および「まんがアロハ!」に1996年12月から1998年1月まで連載された。単行本は1998年12月刊行。 題名は月面上の地名から。独り暮らしの老人木村しづの生活と、その家を訪れる孫娘梢子の姿を、さまざまな家具の視点から描く。毎回違った物に語らせる手法は丸山健二『千日の瑠璃』に通じるものがあり、全体小説的に情報を補完さることによって、しづとその周囲の生活が手に取るように分かるようになっている。誰しも心当たりがありながら人前で口に出されることのない事ごとを見事に捉えており、可笑しさと同時に心に暖かさを感じる作品である。
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2組のお友達。
『2組のお友達。』(にくみのおともだち)は、一條裕子の漫画作品。 小学館の青年誌『週刊ビッグコミックスピリッツ』に1997年10月から1999年4月まで連載された。単行本「緑の本」と「橙の本」は1999年6月に同時刊行された。 舞台は過疎化した土地のお山の分校。生徒が2人しかいない教室には、なぜか老人がたむろしている。そこへやってきた新任の女教師。彼女の運命はいかに。本作でも一條裕子独特の可笑しみは遺憾なく発揮されており、深刻な高齢化問題・過疎化問題を主題にしながらも、ひたすら明るく暮らす現場の人々を描いている。
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犬あそび
『犬あそび』(いぬあそび)は、一條裕子の漫画。1999年9月から2000年7月まで小学館の青年誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」にて連載された。2000年7月に単行本(小学館)が刊行されている。 主人公ヒサツグは文筆家。大家さんのところには娘のねねさん、孫娘のののちゃん、飼い犬のとぽぽんがいる。 ヒサツグは犬が飼いたくてしかたがない。犬嫌いの母の元を離れ、縁側付きの離れに間借りして、条件は整っているにも拘らず、大のネコ好きの担当編集者小出君や、自らの妄想に妨害されて、なかなか飼うことができないでいる。 実際に犬を飼うことを延々と先送りしながら、形而上の思索を奔放に展開させる本作のスタイルは、一條裕子が持つ技量の真骨頂といえる。
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必ずお読み下さい。
『必ずお読み下さい。』(かならずおよみください)は、一條裕子著の漫画作品。マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』に2000年3月から2002年5月まで連載。単行本は2002年10月に刊行。 各種製品の取扱説明書に見られる注意書きの数々は、ある種のクリシェ(決り文句)となっている。それらを各話のタイトルに据え、主に製品向けのそれを人に対して適用することにより奇妙な話を繰り広げる。あるいは「裏ぶたを開けないでください。」をはじめとして野菜に適用する「高知の東山さんが作ったナス」シリーズ。取説の文句をテーマに、という構造の枷を自らにはめた中で見事にシュールリアリズムを展開する。その一方で、または同時に、ノスタルジックでオーソドックスな切ない話を描いてゆく。
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アメリカ文学
アメリカ文学(、英: American literature)とは、アメリカ合衆国の文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。米国文学(べいこくぶんがく)、米文学()とも言う。また、イギリス文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。『English literature』の場合、英国や合衆国に限らず英語による各地域の文学を含むことがある。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多い。 英語によるアメリカ文学の歴史は、1776年に独立してから本格的に始まった。それ以前の文学史は、ある程度かつての宗主国イギリスに求めることになるが、現在では移民の記録や日記、詩なども、アメリカ文学の一部として認められており、アメリカ文学の発生点は単純には決めがたい。 アメリカ文学の最も初期形態はヨーロッパ人と植民地の読者双方に対して植民地の良さを褒め称える小冊子や書き物だった。 移民の記録をアメリカ文学の発生点とみなすのであれば、1607年以降のバージニア州移民の記録が重要になってくる。ディズニー映画『ポカホンタス』で一躍有名になった、ジョン・スミス(1580年 - 1631年)による一連の著作などであり、現在ではアメリカ文学の一部として考えられている。このような部類の著者としては、ダニエル・デントン(1626年頃 - 1703年)、トマス・アッシュ、ウィリアム・ペン(1644年 -1718年)、ジョージ・パーシー(1580年 - 1632年)、ウィリアム・ストレーチー(1572年 - 1621年)、ダニエル・コックス(1640年 - 1730年)、ガブリエル・トーマスおよびジョン・ローソン(1674年? - 1711年)がいた。
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アメリカ文学
アメリカの開拓を促進することになった宗教紛争も初期著作の話題になった。ジョン・ウィンスロップ(1587年あるいは1588年 - 1649年)が書いた日記はマサチューセッツ湾植民地の宗教的基盤を論じていた。ジョン・ウィンスロー(1595年 - 1655年)もメイフラワー号でアメリカに到着した最初の1年間の日記を残した。その他宗教的に影響力のあった著者としては、インクリーズ・マザー(1639年 - 1723年)や『プリマス植民地の歴史、1620年 - 1647年』として出版された日記の著者ウィリアム・ブラッドフォード(1590年 - 1657年)がいた。ロジャー・ウィリアムズ(1603年 - 1683年)やナサニエル・ウォード(1578年 - 1652年)のような者達は国と教会の分離を激しく論じた。 この時代には詩人も幾人かいた。エドワード・テイラー(1642年頃 - 1729年)も著名になった。マイケル・ウィグルスワース(1631年 - 1705年)は最後の審判の日のことを書いた詩『運命の日』(en:The Day of Doom)がベストセラーになった。ニコラス・ノイズは韻律がそろっていない詩を書いたことで知られている。特筆すべきなのは、17世紀の女性詩人、アン・ブラッドストリート(1612年 - 1672年)であり、宗教色の強いその作品はフェミニズム批評の発展もあいまって、現在注目を浴びている。 その他インディアンとの紛争や交流を後日談として書いたものでは、ダニエル・グッキン(1612年 - 1687年)、アレクサンダー・ウィタカー(1585年 - 1616年)、ジョン・メイソン(1600年頃 - 1672年)、ベンジャミン・チャーチ(1639年 -1718年)およびメアリー・ローランソン(1637年 - 1711年)がいた。伝道師ジョン・エリオット(1604年 - 1690年)はアルゴンキン語に聖書を翻訳した。
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アメリカ文学
ジョナサン・エドワーズ (神学者)(1703年 - 1758年)やジョージ・ホウィットフィールド(1714年 - 1770年)は、18世紀初期に厳格なカルヴァン主義を主張した宗教的リバイバルである第一次大覚醒を言葉で表現した。その他のピューリタンや宗教的著作家としては、トマス・フッカー(1586年 - 1647年)、トマス・シェパード(1605年 - 1649年)、ジョン・ワイズ(1652年 - 1725年)およびサミュエル・ウィラード(1640年 - 1707年)がいた。それほど厳格でも深刻でもない著作家としては、サミュエル・シューワル(1652年 - 1730年)、サラ・ケンブル・ナイト(1666年 - 1727年)およびウィリアム・バード(1674年 - 1744年)がいた。 アメリカ独立戦争の時代にはサミュエル・アダムズ(1722年 - 1803年)、ジョサイア・クィンジー(1744年 - 1775年)、ジョン・ディキンソン(1732年 - 1808年)および王党派だったジョセフ・ギャロウェイ(1731年 - 1803年)など植民地人の政治的な著作もあった。この時の重要な著作家はベンジャミン・フランクリン(1706年 - 1790年) とトマス・ペイン( 1737年 - 1809年)の2人だった。フランクリンの『貧しいリチャードの暦』(Poor Richard's Almanac)と『フランクリン自伝』(The Autobiography of Benjamin Franklin)は、芽を出し掛けたアメリカ人の独自性の形成に向けてそのウィットと影響力のあった作品と見られている。ペインの小冊子『コモン・センス』(Common Sense)と『アメリカの危機』(The American Crisis)は、この時期の政治的風潮に影響する重要な役割を演じたと見られている。
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アメリカ文学
革命そのものが進行している間、『ヤンキードゥードゥル』(Yankee Doodle)や『ネイサン・ヘイル』(Nathan Hale)のような詩や歌が流行った。主要な風刺作家としては、ジョン・トランブル(1750年 - 1831年)やフランシス・ホプキンソン(1737年 - 1791年)がいた。アメリカ独立の詩人と呼ばれることもあるフィリップ・モーリン・フレノー(1752年 - 1832年)は戦争の進行について詩を書いた。 独立戦争が終わると、アレクサンダー・ハミルトン(1755年あるいは1757年 - 1804年)、ジェームズ・マディソン(1751年 - 1836年)およびジョン・ジェイ(1745年 - 1829年)による『ザ・フェデラリスト』(The Federalist)の随筆がアメリカ政府の組織と共和制の価値について重要で歴史的な議論を著した。トーマス・ジェファーソン(1743年 - 1826年)が書いたアメリカ独立宣言、またアメリカ合衆国憲法に対する影響力、その自叙伝、『バージニア州に関する注釈』(Notes on the State of Virginia)および多くの手紙などは初期アメリカの最も才能ある著作家の一人としてその評価を固めている。フィッシャー・エイムズ(1758年 - 1808年)、ジェイムズ・オーティス(1725年 - 1783年)およびパトリック・ヘンリー(1736年 - 1799年)も、その政治的著作物や演説で重きを置かれている。 新しく誕生したばかりの国の初期文学の大半は既存の文学ジャンルの中でアメリカの声を独自に見出すために奮闘し、この傾向は小説にも反映された。ヨーロッパの形式とスタイルがアメリカに移されることが多く、批評家はそれらを劣っているものとみなすことが多かった。
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アメリカ文学
新しく誕生したばかりの国の初期文学の大半は既存の文学ジャンルの中でアメリカの声を独自に見出すために奮闘し、この傾向は小説にも反映された。ヨーロッパの形式とスタイルがアメリカに移されることが多く、批評家はそれらを劣っているものとみなすことが多かった。 米英戦争と共にアメリカ固有の文学や文化を生み出したいという願望が増し、多くの新しい文学界の重要な人物が現れた。その中でもワシントン・アーヴィング(1783年 - 1859年)、ウィリアム・カレン・ブライアント(1794年 - 1878年)、ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789年 - 1851年)およびエドガー・アラン・ポー(1809年 - 1849年)が特筆される。アーヴィングはアメリカ固有のスタイルを開発した最初の作家と考えられることが多く(ただし異論が出ている)、『サルマガンディー』(Salmagundi)や良く知られた風刺『ディートリヒ・ニッカーボッカーによるニューヨークの歴史』(A History of New York, by Diedrich Knickerbocker、1809年)でユーモアある作品を著した。ブライアントはロマンチックで自然に触発された初期の詩人であり、ヨーロッパの影響から離れた。1832年、ポーは短編小説を書き始めた。その中には『赤死病の仮面』(The Masque of the Red Death、1841年)、『落とし穴と振り子』(The Pit and the Pendulum、1842年)、『アッシャー家の崩壊』(The Fall of the House of Usher、1839年)および『モルグ街の殺人』(The Murders in the Rue Morgue、1841年)があり、人間心理の以前は隠されていた面を探求し、小説の範囲を推理小説やファンタジーにまで拡げた。クーパーのナッティ・バンポーに関する『レザーストッキング・テイルズ』(Leatherstocking Tales、『モヒカン族の最後』(The Last of the Mohicans)はその第2作)は国内でも海外でも好評を博した。
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アメリカ文学
この時代に人気のあったユーモア作家としては、ニューイングランドのセバ・スミス(1792年 - 1868年)とベンジャミン・P・シラバー(1814年 - 1890年)がおり、南部のデイヴィッド・クロケット(1786年 - 1836年)、オーガスタス・ボールドウィン・ロングストリート(1790年 - 1870年)、ジョンソン・J・フーパー(1815年 - 1863年)、トマス・バングス・ソープ(1815 - 1878年)およびジョージ・ワシントン・ハリス(1814年 - 1869年)はアメリカのフロンティアについて書いた。 ニューイングランド・ブラーマンズはハーバード大学とそれがあるマサチューセッツ州ケンブリッジを繋がりとする作家の集団だった。その中心となったのは、ジェイムズ・ラッセル・ローウェル(1819年 - 1891年)、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(1807年 - 1882年)およびオリバー・ウェンデル・ホームズ(1809年 - 1894年)だった。 1836年、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803年 - 1882年)は元牧師であり、『自然』(Nature)と呼ぶ衝撃的なノンフィクションを出版した。その中で自然界を勉強し反応することで、既に組織化された宗教とは離れ、高い精神状態に達することが可能であると主張した。その作品は彼の周りに集まった作家達に超絶主義と呼ばれる運動を起こさせただけでなく、その講義を聞いた大衆にも影響を与えた。
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アメリカ文学
1836年、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803年 - 1882年)は元牧師であり、『自然』(Nature)と呼ぶ衝撃的なノンフィクションを出版した。その中で自然界を勉強し反応することで、既に組織化された宗教とは離れ、高い精神状態に達することが可能であると主張した。その作品は彼の周りに集まった作家達に超絶主義と呼ばれる運動を起こさせただけでなく、その講義を聞いた大衆にも影響を与えた。 エマーソンの共鳴者で最も才能豊かだったのは恐らく革新的反逆児だったヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年 - 1862年)だった。ソローは森の中の池端にあった丸太小屋で2年間ほとんど一人で暮らした後で、『ウォールデン-森の生活』(Walden、1854年)を書いた。これは本1冊分にのぼる回顧録であり、組織化された社会のお節介な指図に反抗することを奨励している。その過激な書き方はアメリカ人の性格にある個人主義に向かう深く根ざした傾向を表現している。超絶主義に影響されたその他の作家としては、ブロンソン・オルコット(1799年 - 1888年)、マーガレット・フラー(1810年 - 1850年)、ジョージ・リプリー(1802年 - 1880年)、オレステス・ブラウンソン(1803年 - 1876年)およびジョーンズ・ベリー(1813年 - 1880年)がいた。 奴隷制度廃止運動に関わる政治紛争によって、ウィリアム・ロイド・ガリソン(1805年 - 1879年)とその新聞「リベレーター」における作品に刺激を与え、また詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアや、世界的に有名になった『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's Cabin、1851年)を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ(1811年 - 1896年)が続いた。
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奴隷制度廃止運動に関わる政治紛争によって、ウィリアム・ロイド・ガリソン(1805年 - 1879年)とその新聞「リベレーター」における作品に刺激を与え、また詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアや、世界的に有名になった『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's Cabin、1851年)を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ(1811年 - 1896年)が続いた。 1837年、青年ナサニエル・ホーソーン(1804年 - 1864年)が、『二度語られた話』(Twice-Told Tales)として象徴主義でオカルト的事件が豊富なその作品を集めた。ホーソーンは長編の「恋愛小説」として寓話風な小説を書くようになり、罪、誇りおよび生まれ故郷のニューイングランドにおける感情的抑圧といった主題を開拓した。その傑作『緋文字』(The Scarlet Letter、1850年)は、姦通を犯し不義の子を産んだことでその地域社会から迫害される女性の過酷なドラマである。 ホーソーンの小説はその友人であるハーマン・メルヴィル(1819年 - 1891年)に大きな影響を与えた。メルヴィルはその船乗り時代の経験を風変わりでセンセーショナルな海洋説話小説に変えることでその名前を残した。メルヴィルはホーソーンの主題である寓話や暗い心理描写に影響を受けて、淡々たる思索の豊富なロマンを書くようになった。『白鯨』(Moby-Dick)では、冒険的捕鯨の旅が強迫観念、悪の性質、および原理に対する人間の戦いというような主題を掘り下げる舞台になった。他にも短編の傑作『ビリー・バッド』(Billy Budd、1924年の死後出版)では、戦時の艦船上における義務と同情心の葛藤をドラマ化した。メルヴィルの豊富な作品は存命中にほとんど売れず、死後も暫くは忘れられた存在だった。死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこった。 メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。
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アメリカ文学
メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。 アメリカの近代文学の初期においては、プロットが強いが日常的な描写が貧しい男性作家たちの小説と、プロットが弱いが日常的な描写に優れた女性作家による小説という特徴が見られた。アメリカ文学者の平石貴樹は、女性作家たちの「プロット」に対する不信の背後には、「人生を一貫した計画や冒険などの展開とみなす、近代的自我の人生観そのものを、アメリカン・ドリームに支配された男性たちの『勝手な夢』(少なくとも、社会参加のままならない自分たちには『無縁な夢』)としてしりぞける思想、あるいは情緒が、ひそんでいたとも考えられる。」と評し、男女の社会的立場の差と、プロットの強弱との関係を指摘している。 19世紀アメリカの二人の偉大な詩人は気質もスタイルもほとんど異なったものと言うことができる。ウォルト・ホイットマン(1819年 - 1892年)は、労働者、漂泊者、南北戦争では志願看護士であり、詩の革新者だった。その代表作『草の葉』(Leaves of Grass)は、不規則な長さをもつ自由に流れる行でできており、アメリカ的民主主義の全的包括性を表している。この主題を一歩進め、自分勝手にならずに幅広いアメリカ人の体験を自身のものと同一視している。例えば、『草の葉』の中心で長い詩、『ぼく自身の歌』(Song of Myself)では、「あらゆる年齢とあらゆる土地の全ての人は私にとって新しいものではないという思想が実際にある」と書いている。 ホイットマンはまた自分で「電気の身体」と呼んだように肉体の詩人でもあった。イギリスの小説家D・H・ローレンスはその『アメリカ文学古典の研究』の中で、ホイットマンは「精神の男が肉体の男よりも幾らか「優れて」「上に」あるという古い道徳観に最初に打撃を与えた」と記した。 一方、エミリー・ディキンソン(1830年 - 1886年)は、マサチューセッツ州の小さな町アマーストで上品な未婚の女性として、保護された人生を送った。その詩は形式的構造の中で独創的で機知に富み、優美に練り上げられ、心理的な洞察力がある。その作品は当時としては型破りであり、生前はほとんど出版されることも無かった。
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アメリカ文学
一方、エミリー・ディキンソン(1830年 - 1886年)は、マサチューセッツ州の小さな町アマーストで上品な未婚の女性として、保護された人生を送った。その詩は形式的構造の中で独創的で機知に富み、優美に練り上げられ、心理的な洞察力がある。その作品は当時としては型破りであり、生前はほとんど出版されることも無かった。 ディキンソンの詩の多くは意地の悪いひねりを伴う死について論じている。例えば、『私は死について考えるのを止められないから』(Because I could not stop for Death)は、「彼が親切にも私を止めさせた」で始まっている。ディキンソンの別の詩の冒頭は男性が支配する社会に生きる女性、かつ認められていない詩人としてのその立場を、「私は誰でもない!貴方は誰?貴方も誰でもないの?」と弄んでいる。 アメリカの詩は20世紀初期から半ばにそのピークを迎えたと考えられるが、その著名な詩人としては、ウォレス・スティーブンス(1879年 - 1955年)、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)、アン・セクストン(1928年 - 1974年)、エズラ・パウンド(1885年 - 1972年)、T・S・エリオット(1888年 - 1965年)、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(1883年 - 1963年)、スティーブン・ビンセント・ベネット(1898年 - 1943年)、ロバート・フロスト(1874年 - 1963年)、カール・サンドバーグ(1878年 - 1967年)、ロビンソン・ジェファーズ(1887年 - 1962年)、ハート・クレイン(1899年 - 1932年)、E・E・カミングス(1894年 - 1962年)、ジョン・ベリーマン(1914年 - 1972年)、アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)、ロバート・ローウェル(1917年 - 1977年)、エドナ・ミレイ(1892年 - 1950年)など多くいる。
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マーク・トウェイン(1835年 - 1910年、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はアメリカ東海岸とは離れて(ミズーリ州の州境)生まれたアメリカ人作家としては初めての重要人物だった。その土地を舞台にする傑作は自伝『ミシシッピの生活』(Life on the Mississippi)と小説『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn)である。トウェインのスタイルはジャーナリズムの影響を受け、方言を取り入れ、直接的で飾り気が無いが高度に感情に訴えるものがあって不敬にもユーモラスである。これがアメリカ人の言語を書く方法を変えた。その登場人物は方言と新しく発明した言葉や地域のアクセントまで使って実在の人物のように話し、明らかにアメリカ人のように聞こえる。その他地域的な違いや方言で興味ある作家としては、ジョージ・W・ケーブル(1844年 - 1925年)、トマス・ネルソン・ペイジ(1853年 - 1922年)、ジョーエル・チャンドラー・ハリス(1848年 - 1908年)、メアリー・ノアイユ・マーフリー(1850年 - 1922年、筆名チャールズ・エグバート・クラドック)、サラ・オーン・ジューエット(1849年 - 1909年)、メアリー・E・ウィルキンス・フリーマン(1852年 - 1930年)、ヘンリー・カイラー・バナー(1855年 - 1896年)およびウィリアム・シドニー・ポーター(1862年 - 1910年、筆名オー・ヘンリー)がいる。 ウィリアム・ディーン・ハウェルズも、『サイラス・ラパムの出世』(The Rise of Silas Lapham)のような小説や「アトランティック・マンスリー」の編集者としての仕事を通じてリアリストの伝統を代表する者である。
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ウィリアム・ディーン・ハウェルズも、『サイラス・ラパムの出世』(The Rise of Silas Lapham)のような小説や「アトランティック・マンスリー」の編集者としての仕事を通じてリアリストの伝統を代表する者である。 ヘンリー・ジェイムズ(1843年 - 1916年)は旧世界と新世界について直接書くことでそのジレンマに直面した。ジェイムズはニューヨーク市で生まれたが成人してからの大半はイングランドで過ごした。その小説の多くはヨーロッパに住んでいるか旅しているアメリカ人を描いている。ジェイムズの小説は、その錯綜し高度に抑えられた文章と感情と心理のあやに対する分析とで、人を怯えさせるものがある。ヨーロッパに来た魅力的なアメリカ人少女を描いた小説『デイジー・ミラー』(Daisy Miller)や謎のような怪談『ねじの回転』(The Turn of the Screw)がまだとっつきやすい作品である。 20世紀の始めにアメリカの小説家は小説の社会的領域を上流から下流まで広げていき、時にはリアリズムの自然はにも結びついた。エディス・ウォートン(1862年 - 1937年)は短編や小説で、彼女が育ったアメリカ東海岸の社会である上流階級を観察した。その傑作の中でも『無知の時代』(The Age of Innocence、1920年)は、魅力ある部外者よりも伝統的で社会的に受容される女性との結婚を選ぶ一人の男を主題にしている。これと同じ頃、南北戦争の小説『赤い武功章』(The Red Badge of Courage)で知られたスティーヴン・クレイン(1871年 - 1900年)は、『街の女マギー』(Maggie:A Girl of the Streets、1893年)でニューヨークの娼婦の生涯を描いた。またセオドア・ドライサー(1871年 - 1945年)は『シスター・キャリー』(Sister Carrie、1900年)でシカゴに移転し、愛人になる田舎娘を描いた。ハムリン・ガーランド(1861年 - 1940年)とフランク・ノリス(1870年 - 1902年)は自然主義者の観点からアメリカの農夫の抱える問題など社会的問題について書いた。
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さらに直接に政治的な書物が社会問題と企業の力を論じた。エドワード・ベラミー(1850年 - 1898年)の『顧みれば』(Looking Backward)のような作品では別に考えられる政治や社会の枠組みを描いた。アプトン・シンクレア(1878年 - 1968年)は食肉加工業を題材にした小説『ジャングル』(The Jungle )で最も有名になったが社会主義を提唱した。その他この時代の政治的作家としては、エドウィン・マーカハム(1852年 - 1940年)、ウィリアム・ボーン・ムーディ(1869年 - 1910年)がいた。イーダ・ターベル(1857年 - 1944年)やリンカーン・ステフェンス(1866年 - 1936年)などジャーナリスト批評家はマクレイカー(醜聞を暴く人)と渾名された。ヘンリー・ブルックス・アダムズ(1838年 - 1918年)も教育制度と現代生活を辛辣な表現で描いた。 スタイルや形態における実験が主題における新しい自由さに加わってきた。1909年、ガートルード・スタイン(1874年 - 1946年)はパリの海外居住者となっていたが、キュビスム、ジャズなど当時の美術と音楽の動きに親しんだことで影響された革新的小説である『3人の女』(Three Lives)を出版した。 スタインは1920年代と1930年代をパリで暮らしたアメリカ文学の著名人集団を「失われた世代」と名付けた。 詩人のエズラ・パウンド(1885年 - 1972年)はアイダホ州で生まれたが、成人してからの生涯の大半をヨーロッパで過ごした。その作品は複雑であり、ときには曖昧で、西洋と東洋両方の他の芸術形態や広い範囲の文学に何度も言及している。パウンドは他の多くの詩人、特にもう一人の海外居住者だったT・S・エリオット(1888年 - 1965年)に影響を与えた。エリオットは、象徴の濃密な構造で進められる簡潔で知性に訴える詩を書いた。その作品『荒地』(The Waste Land)では、第一次世界大戦後の社会の僻んだ考え方を崩壊し悪夢に付きまとわれたイメージに表現した。パウンドの作品に似てエリオットの詩は高度に暗示的であり、『荒地』のある版は詩人その人によって補われた脚注が備えられた。1948年、エリオットはノーベル文学賞を受賞した。
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アメリカの作家は第一次世界大戦後の幻滅も表現した。F・スコット・フィッツジェラルド(1896年 - 1940年)の短編や小説は1920年代の落ち着けない、喜びに飢えた反抗的なムードを捕らえていた。フィッツジェラルドの特徴的主題は『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby)で痛烈に表現されており、若者の金色の夢が失敗と失望の中で消えていく風潮である。フィッツジェラルドはまた、20世紀初期の社会の圧力で酷く脅威を与えられている側面である自由、社会の統合、良い政府と平和などアメリカ独立宣言に盛り込まれていたアメリカの重要な理想の幾つかが崩壊したことも示した。シンクレア・ルイス(1885年-1951年、1930年ノーベル文学賞)とシャーウッド・アンダーソン(1876年 - 1941年)もアメリカ人の生活を批評的に表現した小説を書いた。ジョン・ドス・パソス(1896年 - 1970年)は戦争について書き、世界恐慌にまで伸びた「アメリカ合衆国三部作」も書いた。 パール・S・バック (1892年 - 1973年) は生後間もなく中国に渡った女性作家で、中国農村が舞台の大地 (1931年) でピューリツァー賞 (1932年) とノーベル賞 (1938年) を受賞した。アーネスト・ヘミングウェイ(1899年 - 1961年)は第一次世界大戦の救急車運転手として暴力と死を身近に体験し、大虐殺によって抽象的な言葉が最も空虚で人を惑わすものだと確信させられた。その著作から不要な言葉を削り、文章構造を単純化し、具体的な対象と行動に集中させた。圧力の下での優美さを強調する道徳律に固執し、その主人公は強く寡黙な男だが女性の扱いはぎこちないことが多い。『日はまた昇る』(The Sun Also Rises)と『武器よさらば』(A Farewell to Arms)が一般にその傑作と考えられている。ヘミングウェイは1954年にノーベル文学賞を受賞した。
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ヘミングウェイよりも5年早い1949年に、ウィリアム・フォークナー(1897年 - 1962年)がノーベル文学賞を受賞していた。フォークナーは彼が創作したミシシッピ州のヨクナパトーファ郡における非常に大きな範囲の人物模様を描き出した。「意識の流れ」と呼ばれる手法で、心理状態を表現するために長ったらしくてまとまりのないように見える登場人物の話を記録した(実際にこれらの文章は丁寧に組み立てられ、その混乱したような構造は多層の意味を隠している)。フォークナーは時間の流れもごちゃ混ぜにし、過去である奴隷を所有していた時代のディープサウスが現在にどう繋がっているかを示している。『響きと怒り』(The Sound and the Fury)、『アブサロム、アブサロム!』(Absalom, Absalom!)、『行け、モーセ』(Go Down, Moses)および『征服されざる人々』(The Unvanquished)が著名である。
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世界恐慌時代の文学はその社会批判において無遠慮で直接的だった。ジョン・スタインベック(1902年 - 1968年)はカリフォルニア州サリナスで生まれ、そこを小説の多くの舞台にした。そのスタイルは単純で示唆に富み、読者の共感を呼んだが批評家はそうではなかった。スタインベックはしばしば貧しい労働者階級とまともで正直な生活を送るための奮闘を書いた。おそらく当時の最も社会的に目覚めた作家だった。傑作と考えられている『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)は、オクラホマ州出身でより良い生活を求めてカリフォルニア州に旅する貧しい家族であるジョード家の話を語る強く社会指向の小説である。その他にも『おけら部落』(Tortilla Flat)、『二十日鼠と人間』(Of Mice and Men)、『キャナリー・ロウ』(Cannery Row)および『エデンの東』(East of Eden)などを書いた。スタインベックは1962年にノーベル賞を受賞した。プロレタリアート派の一部と考えられるその他の小説家として、ナサニエル・ウェスト(1903年 - 1940年)、オリーブ・ティルフォード・ダーガン(1869年 - 1968年)、トム・クロマー(1906年 - 1969年)、ロバート・キャントウェル(1908年 - 1978年)およびエドワード・アンダーソンがいた。 ヘンリー・ミラー(1891年 - 1980年)は、パリで書いて出版した半自叙伝的小説がアメリカ合衆国で発禁になった時に、1930年代のアメリカ文学界で特異な存在となった。主要作品である『北回帰線』(Tropic of Cancer)と『暗い春』(Black Spring)は1962年までアメリカ国内での販売と出版が認められなかったが、この時点で既にその主題とスタイルの革新性はアメリカの次の世代の作家達に大きな影響を残していた。 第二次世界大戦が終わり、おおまかに1960年代後半や1970年代前半までの時代は、アメリカ史の中でも最も人気ある作品の幾つかが出版された時だった。より現実的なモダニズム文学の最後の数人と共に幅広くロマンティックなビートニクスがこの時代を支配し、アメリカが第二次世界大戦に関わったことへの直接の反応が彼らに注目すべき影響を与えた。
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第二次世界大戦が終わり、おおまかに1960年代後半や1970年代前半までの時代は、アメリカ史の中でも最も人気ある作品の幾つかが出版された時だった。より現実的なモダニズム文学の最後の数人と共に幅広くロマンティックなビートニクスがこの時代を支配し、アメリカが第二次世界大戦に関わったことへの直接の反応が彼らに注目すべき影響を与えた。 カナダで生まれシカゴで育ったソール・ベロー(1915年 - 2005年)が第二次世界大戦後の数十年間で最も影響力あるアメリカの小説家になった。『オーギー・マーチの冒険』(The Adventures of Augie March)や『雨の王ヘンダソン』(Henderson the Rain King)といった作品で、ベローはアメリカの都市の生き生きとした肖像とそこに住む典型的な人々を描いた。ベローは1976年にノーベル文学賞を受賞することになった。 J・D・サリンジャー(1919年 - 2010年)の『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories)と『ライ麦畑でつかまえて』 (The Catcher in the Rye)から、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)の『ベル・ジャー』(The Bell Jar)まで、アメリカの狂気は国民の文学表現の前線にまで置かれた。『ロリータ』(Lolita)を書いたウラジーミル・ナボコフ(1899年 - 1977年)のような移民作家がその主題で台頭し、ほとんど同じ頃にビートニクスはその失われた世代の先達から離れて申し合わせたような一歩を踏み出した。
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ビート・ジェネレーションの詩や小説は、大半がニューヨーク市のコロンビア大学周辺に形成された知識人のサークルから生まれ、幾らか後にサンフランシスコで明確に確立され、時代のものとなった。「ビート」という言葉は全く同時にジャズシーンの反体制文化的リズムにも使われ、戦後社会の保守的ストレスに関する反逆の意味で、またドラッグ、アルコール、哲学および宗教、特に「禅」を通じた新しい形の精神的な体験における興味にも使われた。アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)はホイットマン流の作品であるその詩『吠える』(Howl)で、「私は狂気によって破壊された私の世代の最良の心を見た」で始め、この動きの調子を定めた。これと同時にその親友であるジャック・ケルアック(1922年 - 1969年)はビートのはしゃぎ回り、おおらかで気まぐれな生活様式を、多くの作品の中でも傑作で最も人気のあった小説『路上』(On the Road)で祝した。 具体的に戦争小説に関して、第二次世界大戦後の時代にアメリカでは文学的な爆発があった。ノーマン・メイラー(1923年 - 2007年)の『裸者と死者』(The Naked and the Dead、1948年)、ジョゼフ・ヘラー(1923年 - 1999年)の『キャッチ=22』(Catch-22、1961年)およびカート・ヴォネガット(1922年 - 2007年)の『スローターハウス5』(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade、1969年)などの作品が良く知られたものである。バーバラ・ガーソン(1941年 - )が書いた『マクバード』(MacBird)は戦争の愚かさを白日に曝したもう一つの作品として受け入れられた。 対照的にジョン・アップダイク(1932年 - )はアメリカ人の生活のより牧歌的な側面と呼べるものを出し、静かにだが破壊的でもある文体で迫った。その1960年に出した『走れウサギ』(Rabbit, Run)は、その性格描写とアメリカ中流階級の詳細によってその発売と同時に新しい地平を切り開いた。その叙述に現在時制を用いたことでは最初の小説の一つとされてもいる。
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アメリカ文学
対照的にジョン・アップダイク(1932年 - )はアメリカ人の生活のより牧歌的な側面と呼べるものを出し、静かにだが破壊的でもある文体で迫った。その1960年に出した『走れウサギ』(Rabbit, Run)は、その性格描写とアメリカ中流階級の詳細によってその発売と同時に新しい地平を切り開いた。その叙述に現在時制を用いたことでは最初の小説の一つとされてもいる。 ラルフ・エリソン(1914年 - 1994年)の1953年の小説『見えない人間』(Invisible Man)は終戦直後の最も力にあふれ世間をあっと言わせる作品の中にあると即座に認められた。この小説は北の都会における黒人の話であり、国内でまで一般的だった抑圧されることの多かった人種問題をむき出しにし、実存的な性格描写としても成功している。 フラナリー・オコナー(1925年 - 1964年)もマーク・トウェインやアメリカ文学史の中で他の指導的作家にとって大切だったアメリカ文学における「南部」という主題を開拓し発展させた。その作品は『賢い血』(Wise Blood、1952年)、『烈しく攻むる者はこれを奪う』(The Violent Bear It Away、1960年)や最も良く知られた短編である『すべて上昇するものは一点に集まる』(Everything That Rises Must Converge)、さらに死後の1965年に出版されたオコナー短編集がある。
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おおまかに言って1970年代初めから現在まで、最も良く知られた文学の分野は、ポストモダニズムであろうが、その呼び方には様々に異論がある。時代の知識人に受け入れられた(必ずしもポストモダンではない)作家としては、トマス・ピンチョン(1937年 - )、ティム・オブライエン(1946年 - )、ロバート・ストーン(1937年 - )、ドン・デリーロ(1936年 - )、ポール・オースター(1947年 - )、トニ・モリスン(1931年 - )、フィリップ・ロス(1933年 - )、コーマック・マッカーシー(1931年 - )、レイモンド・カーヴァー(1939年 - 1988年)、ジョン・チーバー(1912年 - 1982年)、ジョイス・キャロル・オーツ(1938年 - )、アニー・ディラード(1945年 - )、リチャード・パワーズ(1957年 - )らが挙げられる。一般的にポストモダニズムとされる作家達は、大衆文化とマスメディアが平均的アメリカ人の世界に冠する概念と経験に影響を与えた多くの方法を扱い、また今日でも直接扱っている。それはアメリカ政府さらには多くの場合アメリカ史であるが、特に平均的アメリカ人自身の歴史感と共に批判されることが大変多い。 多くのポストモダン作家は郊外あるいはショッピングセンターのファストフード・レストランを舞台とすることでも知られている。彼らはドラッグ、美容整形手術およびテレビのコマーシャルについて書いている。ときにはこれらの表現がほとんど称賛のようにも見える。しかし同時にこの派の作家達はその主題に対して知ったかぶり、自意識過剰、当て擦り、および(ある批評家に拠れば)へりくだった態度を取る。このような傾向にある者のなかでおそらく最も知られているのは、ブレット・イーストン・エリス(1964年 - )、デイブ・エッガーズ(1970年 - )、チャック・パラニューク(1962年 - )およびデヴィッド・フォスター・ウォレス(1962年 - 2008年)であろう。
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カート・ヴォネガット
カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922年11月11日 - 2007年4月11日)は、アメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。1976年の作品『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.)の名で出版されていた。 人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』(1963年)、『スローターハウス5』(1969年)、『チャンピオンたちの朝食』(1973年)などがある。ヒューマニストとして知られており、アメリカヒューマニスト協会の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている。 ヴォネガットは1922年にインディアナ州インディアナポリスでドイツ系移民の家庭に生まれた。彼の誕生日は第一次世界大戦の3年目の休戦記念日である。ヴォネガットはこのことを誇りとしており、後に祭日の名称が「復員軍人の日」に変更されたことについて『チャンピオンたちの朝食』の中で批判的に取り上げている。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父は共にMIT出身で、Vonnegut & Bohn というインディアナポリスの建設会社で建築士を務めていた。曽祖父は Vonnegut Hardware Company という会社を起業した人物である。 1940年にコーネル大学に入学し生化学を学ぶ一方で学内紙の『コーネル・デイリー・サン』の副編集長も務めた。コーネル大学では父と同じフラタニティである Delta Upsilon に属していた。コーネル大学在学中にアメリカ陸軍に徴募される。陸軍はヴォネガットをカーネギー工科大学とテネシー大学に転校させ、機械工学を学ばせた。1944年の母の日に母のエディスが睡眠薬を過剰摂取し自殺した。生活の困窮や息子のドイツ戦線配属を苦にしたものとされている。
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カート・ヴォネガット
カート・ヴォネガットが兵士および捕虜として戦争で経験したことは、後の作品に深い影響を与えている。1944年、アメリカ合衆国第106歩兵師団第423普通科連隊の兵卒として第二次世界大戦の欧州戦線に参加し、バルジの戦いでコートニー・ホッジス率いる第1軍から第106歩兵師団が分断され取り残された12月19日に捕虜となった。「味方のアメリカ軍とははぐれてしまった。我々はその場で戦うことを余儀なくされた。しかし銃剣は戦車には太刀打ちできない......」ドレスデンに連れて行かれたヴォネガットは、ドイツ語が少しできるということで捕虜のリーダーの1人に選ばれた。ドイツ軍守衛に「...ロシア軍がやってきたら、やってやろうと思っていること...」を話したことで打ち据えられ、リーダーの地位も剥奪された。捕虜として1945年2月の同盟軍(英米の空爆部隊)によるドレスデン爆撃を経験した。芸術品と謳われたドレスデン市街は壊滅した。 ヴォネガットを含むアメリカ人捕虜の一団は、ドイツ軍が急ごしらえの捕虜収容所に使用した屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人はその建物を Schlachthof Fünf(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『スローターハウス5』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記している。ヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している。 1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている。
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1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている。 1945年に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットはシカゴ大学大学院で人類学を学び、同時に City News Bureau of Chicago で働いた。これは当時5紙あったシカゴの地方紙に記事を提供する遊軍のようなものだった。『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』によれば、彼の論文テーマ(キュビスム画家と19世紀末ネイティブ・アメリカン暴動のリーダーたちとの類似点を論じるもの)は「学術的でない」という理由で大学側に拒絶されたという。1947年、彼はシカゴからニューヨーク州スケネクタディに移り、ゼネラル・エレクトリックの広報で働くようになった(兄が開発部門で働いていた)。そのころヴォネガットはスケネクタディとは川を挟んだ対岸の町に住み、数年間はボランティアの消防団員として熱心に活動した。当時彼が住んでいたアパートには、今も彼が小説を書くのに使っていた机があり、彼が自分で名前を彫った跡が残っている。そこで『スローターハウス5』を書き始めたと言われている。なお、シカゴ大学は後に小説『猫のゆりかご』の人類学的記述をヴォネガットの論文として受理し、1971年に修士号を授与した。 1950年に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。1951年にマサチューセッツ州ケープコッドに居を移し、サーブのアメリカ初の販売店の店長をつとめた。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。
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カート・ヴォネガット
1950年に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。1951年にマサチューセッツ州ケープコッドに居を移し、サーブのアメリカ初の販売店の店長をつとめた。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。 1950年代中ごろ、ヴォネガットは短期間だけスポーツ・イラストレイテッド誌編集部で働き、柵を飛び越えて逃走しようとした競走馬についての記事を書くよう指示された。午前中ずっとタイプライタに挟まった真っ白な紙を見つめた後、彼は「馬はいまいましいフェンスを飛び越えた」とだけタイプし、編集部を去った。作家として評価されず、執筆をやめてしまおうとする寸前の1965年、ヴォネガットはアイオワ大学の Writers' Workshop での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中にはジョン・アーヴィング、レナード・シュレイダーなどがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、20世紀アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、1966年には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』はタイム誌や Modern Library のベスト100に選ばれている。 2007年4月11日にニューヨークにて死去。 当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄のバーナード・ヴォネガットは気象学者でヨウ化銀を用いた人工降雨法を開発したほか、1997年度のイグノーベル賞を受賞している。 第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。マハリシ・マヘッシ・ヨギに傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。
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彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子であるマーク・ヴォネガットは小児科医となった。マークは自身が1960年代に経験した統合失調症からの回復の記録である『エデン特急―ヒッピーと狂気の記録』を記した。マークの名はヴォネガットがアメリカの聖人だと考えていたマーク・トウェインからとった。 娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。 姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『スラップスティック』に描かれている。 1999年11月11日、小惑星 25399 Vonnegut にヴォネガットの名がつけられた。 2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。 ヴォネガットはフィルターのないポールモールを好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた。 2007年、マンハッタンの自宅の階段で転倒して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去。 1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」でSF作家としてデビューした。処女長編はディストピア小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『タイタンの妖女』を出版。1960年代には徐々に作風が変化していった。『猫のゆりかご』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『スローターハウス5』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。
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ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。また、ヴォネガット作品に繰り返し登場する人物たちも出てくる。特にSF作家キルゴア・トラウトが主役級で登場し、他の登場人物たちとやりとりする。 ヴォネガットの作品には慈善家エリオット・ローズウォーター、ナチ宣伝員ハワード・W・キャンベル・ジュニア、ラムファード一族、トラルファマドール星人などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。 なかでもスタージョンをモデルに造形されたといわれるSF作家キルゴア・トラウトはカート自身の分身とも言われ『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり『タイムクエイク』では主役として活躍する。『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットがトラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している。ヴォネガットはキルゴア・トラウトの名を借りて個人的意見を作品内で表明することが多い。 また、SF作家フィリップ・ホセ・ファーマーはキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(Venus on the Half-Shell 1975年)を発表し話題となった。発表当時、これをヴォネガットの作品と誤解する読者が多く、後に作者が明らかにされるとヴォネガットは不快感を表明した(ヴォネガットはファーマーに執筆の許可を与えていたのだが、予想を超えた騒ぎに怒りを表明し、さらなる「トラウト作品」の刊行を拒否した)。 ヴォネガットは1984年に自殺未遂しており、後にいくつかのエッセイでそのことについて書いている。 登場人物以外にも頻繁に登場するテーマまたはアイデアがある。例えば『猫のゆりかご』の「アイス・ナイン」である。 ヴォネガット本人は「SF作家」とレッテル付けされるのを嫌ったが、一方で「現代の作家が、科学技術に無知であることはおかしい」と主張しほとんどの作品でSF的なアイデアが使用されている。それでもSFというジャンルの壁を越えて幅広く読まれたのは、単に反権威主義的だったからだけではない。例えば短編「ハリスン・バージロン」は、平等主義のような精神が行過ぎた権力と結びついたとき、どれほど恐ろしい抑圧を生むかを鮮やかに描いて見せている。
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1997年の『タイムクエイク』出版に際して、ヴォネガットは同書が最後の小説になると発表し、以降はエッセイやイラストの発表、講演等を中心に活動した。2005年にはエッセイをまとめた『国のない男』を出版し、文筆業そのものからの引退を表明した。 死の直後に出版されたエッセイ集『追憶のハルマゲドン』には、未発表の短編小説や第二次世界大戦中に家族宛てに書いた手紙などが含まれている。またヴォネガット本人の描いた絵や死の直前に書いたスピーチ原稿も含まれている。序文は息子のマーク・ヴォネガットが書いている。 ヴォネガットはハーバード大学で英文学の講師をつとめたことがあり、ニューヨーク市立大学シティカレッジでも一時期教授をつとめていた。 日本においては1960年代後半から浅倉久志、伊藤典夫等によって精力的に紹介されていた。1980年代になり日本でも主要な作品の多くが和田誠のカバーイラストと共にハヤカワ文庫SF(早川書房)より刊行された。 1984年には国際ペン大会にロブ=グリエ、巴金等と共にゲストとして来日し大江健三郎とも会談している。 ヴォネガットから影響を受けた日本人作家としては、第一作の『風の歌を聴け』でヴォネガットのスタイルを模写した村上春樹や高橋源一郎、橋本治等がいる。爆笑問題の太田光は熱心なファンとして知られ彼らが設立した所属事務所「タイタン」の名称は『タイタンの妖女』と「太田」の別読みをかけて付けられたものである。 ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の Powers Hapgood とユージン・V・デブスは作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアのレフ・トロツキーの名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットはアメリカ自由人権協会の会員でもあった。
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カート・ヴォネガット
ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の Powers Hapgood とユージン・V・デブスは作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアのレフ・トロツキーの名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットはアメリカ自由人権協会の会員でもあった。 ヴォネガットは倫理問題や政治問題を扱うことが多かったが、具体的な政治家について言及するようになったのは小説執筆から引退してからのことである。『ジェイルバード』の主人公ウォルター・スターバックが囚人となったのはリチャード・ニクソンのウォーターゲート事件が原因だが、物語の中心はそこではない。God Bless You, Dr. Kevorkian では、論争の的となった自殺幇助者ジャック・ケヴォーキアンに言及している。
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In These Times 誌のコラムでは、ブッシュ政権とイラク戦争について痛烈な批判を展開した。「我々のリーダーが権力におぼれたチンパンジーだと言ったら、私は中東で戦い死んでいっている兵士たちの士気を台無しにすることになるだろうか?」とヴォネガットは書いている。「彼らの士気は多数の死体と共にすでにばらばらになっている。彼らはまるで金持ちの子がクリスマスに与えられたおもちゃのように扱われており、それは私が兵士だったときとは全く異なる」In These Times ではヴォネガットの言葉として「ヒトラーとブッシュの唯一の違いは、ヒトラーが選挙で選ばれたという点だ」と引用している。2003年のインタビューでヴォネガットは「わが国のためには、火星人やボディスナッチャーに侵略されて戦ったほうがましだったと思う。時々、本当にそうだったらよかったのにと思う。しかし現実に起こったのは、極めて軽薄で低級な「キーストン・コップス」のようなクーデター劇だった。そしていま連邦政府を牛耳っているのは、歴史も地理もわからないお坊ちゃん学生と、それほど閉鎖的でもない『キリスト教徒』と呼ばれる白人至上主義者と、怖がりの精神病質者すなわちPP (psychopathic personalities) だ」と述べている。2003年のインタビュー冒頭で調子を尋ねられると彼は「高齢であることに夢中で、アメリカ人であることに夢中だ。それはそれとして、OKだ」と応えた。 『国のない男』で彼は「ジョージ・W・ブッシュは、彼の周囲に歴史も地理も全く知らないお坊ちゃん学生を集めた」と書いていた。彼は2004年の大統領選挙については全く楽観していなかった。ブッシュとジョン・ケリーについて彼は「どちらが勝ってもスカル・アンド・ボーンズの大統領になることに変わりはない。我々が土壌や水や大気を汚染してきたせいで、あらゆる脊椎動物が頭蓋骨(スカル)と骨(ボーンズ)だけになろうって時にだ」と述べている。
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2005年、ヴォネガットはオーストラリアン紙によるデイヴィッド・ネイスンのインタビューを受けた。その中で最近のテロリストについて意見を求められ、「とても勇敢な人たちだと思う」と応えた。さらに訊かれるとヴォネガットは「彼ら(自爆テロ犯)は自尊心のために死ぬ。自尊心を誰かから奪うというのはひどいことだ。それはあなたの文化や民族や全てを否定されるようなものだ......信じるもののために死ぬことは甘美で立派なことだ」と答えた。最後の文はホラティウスの金言 "Dulce et decorum est pro patria mori"(お国のために死ぬのは甘美で適切だ)をもじったもので、ウィルフレッド・オーエンの Dulce Et Decorum Est における皮肉な引用が出典とも考えられる。ネイスンはヴォネガットのコメントに腹を立て、生きる希望をなくしテロリストを面白がっている老人だと決め付けた。ヴォネガットの息子マークはこの記事に対する反論をボストン・グローブ紙に書いた。すなわち父の「挑発的な姿勢」の背後にある理由を説明し、「まったく無防備な83歳の英語圏の人物が公の場で思っていることをそのまま言うと誤解し見くびるような解説者は、敵が何を考えているかも理解できていないのではないかと心配すべきだ」と記した。 2006年のローリング・ストーン誌のインタビュー記事には、「...彼(ヴォネガット)がイラク戦争のすべてを軽蔑することは驚くべきことではない。2500人を越えるアメリカ兵が、彼が不要な衝突と考えている状況の中で殺されているという事実は彼をうならせる。『正直なところ、ニクソンが大統領ならよかった』とヴォネガットは嘆く。『ブッシュはあまりにも無知だ』」とある。 ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」
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カート・ヴォネガット
ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」 ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身である。曽祖父のクレメンス・ヴォネガットは Instruction in Morals と題した自由思想の本を書いたことがあり、自身の葬式については神の存在を否定し、死後の生を否定し、キリスト教の罪と救済の教義を否定した言葉を言い残していた。カート・ヴォネガットは『パームサンデー』の中で曽祖父の葬儀についての言葉を再現し、自由思想が「先祖代々の宗教」だとしているが、どうしてそれが自分に受け継がれたのかは謎だとしていた。 ヴォネガットは自身を懐疑論者、自由思想家、ヒューマニスト、UU教徒、不可知論者、無神論者などと様々に言い表している。超自然的なものは信じず、宗教の教義を「あまりにも独断的で明白に発明されたたわごと」だと考えており、人々が入信するのは寂しさが原因だと信じている。 ヴォネガットは自由思想の現代版がヒューマニズムだと見なしており、作品や発言やインタビューで事あるごとにヒューマニズムへの支持を表明している。Council for Secular Humanism の International Academy of Humanism に名誉ヒューマニストとして参加していた。1992年にはアメリカヒューマニスト協会によりヒューマニスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。友人のアイザック・アシモフからアメリカヒューマニスト協会の名誉会長の座を引き継ぎ、亡くなるまでそれを務めた。AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている。
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カート・ヴォネガット
ヴォネガットは一時期ユニテリアン主義の一派ユニテリアン・ユニヴァーサリズムに入信していた。『パームサンデー』には、ヴォネガットがマサチューセッツ州ケンブリッジの First Parish Unitarian Church で行った説教(アメリカ合衆国にユニテリアン主義をもたらした William Ellery Channing に関するもの)が収録されている。1986年、ヴォネガットはニューヨーク州ロチェスターでユニテリアン・ユニヴァーサリズムの集会で講演し、その原稿が『死よりも悪い運命』に収録された。同書には、ニューヨーク州バッファローで行った「ミサ曲」も収録されている。ヴォネガットによれば、二度の大戦の間にアメリカ合衆国で自由思想や他のドイツ人の「宗教的狂信」の人気がなくなったとき、彼の自由思想の一族の多くがユニテリアンに改宗したという。ヴォネガットの両親はユニテリアン式の結婚をしており、彼の息子も一時期ユニテリアンの聖職者だったことがある。 ヴォネガットの宗教観は単純なものではない。イエス・キリストの神性を拒絶するにもかかわらず、イエスの祝福が彼のヒューマニズムの根本にあると信じている。彼は自分を不可知論者または無神論者だとしているが、同時に神についてよく語っている。「先祖代々の宗教」が自由思想、ヒューマニズム、不可知論だと説明し、ユニテリアン信者であるにも関わらず、自身を無宗教だとも言っている。アメリカヒューマニスト協会によるプレスリリースでは、彼を「完全な俗人」だとしていた。 長編小説はすべて日本語訳されたが、そのうちいくつかは現在品切・重版未定となっている。 いずれも初期の短編を収録している。
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日本文学
日本文学(にほんぶんがく)とは、日本語で書かれた文学作品、あるいは日本人が書いた文学、もしくは日本で発表された文学である。中国の古典語である漢文も、日本人によって創作されている場合、日本文学に含まれる。上記の作品やそれらを創作した小説家・詩人などを研究する学問も日本文学と呼ばれる。国文学と呼ばれることもある。 日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼる。同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは類例が少ない。平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』は世界的に高い評価を受けており、江戸時代の松尾芭蕉も現在の俳句ブームにより広く知られている。近代の日本文学においても、夏目漱石・森鷗外・谷崎潤一郎などが諸外国で認知されている。2021年までに、川端康成と大江健三郎の2名がノーベル文学賞を受賞している。 古代・中世の日本文学は中国からの文化的影響が著しく、日本が仏教を受け容れたことからインド文学の間接的影響もみられる。中国文学の影響は近世にもみられるが、いずれの時代においても日本人固有の独創性が顕著に認められる。明治維新以降は欧米の文化的影響を強く受けたが、英米文学・フランス文学・ドイツ文学・ロシア文学などを短期間のうちに摂取・模倣し、日本独自の高度な近代文学を創造していった。近代日本文学は中国・朝鮮の近代文学の形成に大きな影響を与えた。第二次世界大戦の後も、三島由紀夫・安部公房・村上春樹などの作品が世界的に広く読まれており、現代の世界文学に多大な影響を与えている。 日本文学の定義を何に求めるかについては諸説あり、文学作品の言語、創作者の国籍、発表された地域、文学の形式など多くの要素が考えられる。日本語を母語としない外国人の小説家・詩人が日本語作品を書くこともあるし、日本人の小説家・詩人が日本語以外の言語で作品を書くこともある。例えば西脇順三郎は日本語と英語、多和田葉子は日本語とドイツ語の双方で作品を執筆している。このように国籍や居住地と言語とが一致しない場合もあることを考慮し、日本語文学という呼称が使われることもあるが、この場合伝統的な日本文学に根ざしてきた漢文・漢詩の扱いが曖昧になる。日本文学を国文学と呼ぶこともあるが、国文学 と日本文学との同一性には議論がある。
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日本文学
歴史学のように政体の変遷に注目することが必ずしも相応しいわけではないが、目安にされることが多い。また、以下のように、上代・中古・中世・近世・近現代という区分が一般になされるが、研究者によって異論もあり、中古を設定しない場合もある。近代と現代を分離するか否かについても諸説あり、定まっていない。 丸谷才一は勅撰集により日本文学史の歴史区分を行うことを提示した。 奈良時代まで。中国大陸から漢字が輸入され、漢文と、自分たちの話し言葉に漢字を当てはめた万葉仮名が使われるようになった。『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)のような史書や『万葉集』のような歌集が生まれた。 平安時代。漢詩漢文が引き続き栄えるとともに、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂され、和歌が漢詩と対等の位置を占めた。当時の公式文書は漢文であったが、平仮名の和文による表現が盛んにはじまり、紀貫之の『土佐日記』が書かれたのに続き、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など古典文学の代表作と言える作品が著された。 鎌倉時代から安土桃山時代まで。藤原定家らによって華麗な技巧に特徴がある『新古今和歌集』が編まれた。また、現代日本語の直系の祖先と言える和漢混淆文によって多くの作品が書かれた。鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』などがこれにあたる。作者不詳のものとして『平家物語』が挙げられる。また、猿楽の発達が見られた。 江戸時代。お伽草子の流れを汲み、仮名草子や井原西鶴らの浮世草子がうまれた。また、歌舞伎や浄瑠璃が興り、近松門左衛門などが人気を博した。俳諧が盛んになり、松尾芭蕉、小林一茶といった人々が活躍した。 明治維新後、文明開化による西欧文明の輸入と近代国家の建設が進められ、いわゆる「文学」という概念が生まれた時代。西欧近代小説の理念が輸入され、現代的な日本語の書き言葉が生み出された。坪内逍遥の『小説神髄』の示唆を受けて創作された、二葉亭四迷の『浮雲』によって、近代日本文学が成立したとされる。日本文学は、中国・朝鮮の近代文学の成立にも大きな影響を及ぼした。なお、近代と現代を分離し、戦前の文学を「近代文学」、戦後の文学を「現代文学」として分ける場合もある。
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日本文学
近隣では古代から中国文学の大きな影響を受け続け、明治時代に言文一致運動が高揚するまで、漢詩や漢文も日本文学の一部として重きを置かれていた。琉球文学の活動と隣接しており、中国文学とともに日本文学は琉球文学の成立に関わっている。近代以降の日本文学は、英米文学、フランス文学、ドイツ文学、ロシア文学など欧米の文学から強く影響を受けたが、その摂取・模倣により、独自の近代文学を創造した。日本の近代文学は、辛亥革命以降の近代中国文学や、近代文学としての朝鮮文学の成立に深く関わった。 日本文学研究は、上代文学・中古文学・中世文学・近世文学・近代文学・漢文学の6つの区分のもと、研究が進められている。それぞれの分野は独立しつつも、研究対象や研究手法が共有されたり、研究者の研究対象が複数分野にまたがることも少なくない。以下、日本文学研究における時代区分と、関連する日本学術会議協力学術研究団体を挙げる。 文学研究は、作品の解釈や作風を考察する研究が一般に知られているが、20世紀後半以降、文学理論の影響で研究手法は非常に幅広いものとなっている。例えば、古典文学(上代~近世)研究では、新出資料の発見や翻刻、研究対象とする諸本の系統を明らかにする写本系統学、書籍の出版・流通過程に関する研究、書誌学を用いた研究などが行われている。近年は、くずし字解読やデータベースによる画像公開といった情報学分野、美術史的観点からの検証や芸術家による創作活動支援といった美術分野との連携も進んでいる。また、近現代文学研究では、いわゆる文豪と呼ばれる作家やその作品を研究対象とするだけでなく、ライトノベルや漫画・アニメといったサブカルチャーを研究対象とした研究も行われている。 また、日本文学作品が海外において徐々に認知される中、古典から現代文学までが幅広く研究対象となり、エドワード・サイデンステッガー、ドナルド・キーン、ロバート・キャンベル、ピーター・マクミランといった翻訳家・研究者が、多くの著作を残している。 近代以降、多くの文学賞が創設され、作家の発掘と育成に貢献している。 また、日本文学研究に関して、日本学術会議協力学術研究団体をはじめとした様々な学会で、学会賞が授与されている。
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筒井康隆
筒井 康隆(つつい やすたか、1934年〈昭和9年〉9月24日 -)は、日本の小説家、劇作家、俳優。ホリプロ所属。身長166cm。兵庫県神戸市垂水区在住。 大阪市に生まれた。天王寺動物園長だった父の影響を受け、幼い頃から博物的な世界に憧れを持つ。同志社大学に入学し、美学・美術史を専攻。 1965年に東京に転居し、本格的な作家活動を展開、第一短編集『東海道戦争』(1965年)を刊行した。同年、『時をかける少女』『48億の妄想』では、現実と非現実をつなぐ幻想のリアリズムによる、無気味なナンセンスSFのジャンルを開拓。『ベトナム観光会社』(1967年)と『アフリカの爆弾』(1968年)で直木賞候補となる。 1972年に神戸へ転居し、『虚人たち』(1981年)や『虚航船団』(1984年)、『文学部唯野教授』(1990年)など、多数の作品を発表。また、メディアの言葉の自己規制に抗して一時的に断筆を宣言、話題となった。 小松左京・星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンス文学なSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。 戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。実弟の筒井之隆は安藤百福発明記念館 横浜(愛称:カップヌードルミュージアム 横浜)の館長。息子は画家筒井伸輔。 孫がいる。 1934年、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江に出生。生家は住吉区山坂町(現:東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なったことによるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。
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筒井康隆
1934年、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江に出生。生家は住吉区山坂町(現:東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なったことによるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。 1941年、南田辺国民学校に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。1944年、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ187であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室(政府設置の特別科学学級とは異なる)に在籍した。 1947年、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、父親の蔵書や母親の着物を勝手に持ち出して古書店や質屋に売り映画代を捻出していた。その一方で手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫や藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。 1950年、大阪府立春日丘高等学校に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている。また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという。この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルやトーマス・マンの作品に影響を受ける。
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筒井康隆
1952年2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。同年4月、同志社大学文学部文化学科心理学専攻(現在は心理学部)に入学し、同志社小劇場に所属する。この頃カフカ、アルツィバーシェフ、ヘミングウェイなどを愛読し影響を受けた。また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。その後美学および芸術学専攻(現在は美学芸術学科)に転じシュルレアリスムに興味を持つ。 1954年、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』の主人公ジョージ・ミルトンを演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。 同1957年、『シナリオ新人』創刊号に、「会長夫人萬蔵」を発表する。卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。 1959年12月に創刊された雑誌『SFマガジン』を読み衝撃を受け、1960年6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊。父と三人の弟が同人であり、康隆、正隆、俊隆がSF短編を、父嘉隆が家族の紹介文を、四男の之隆がカットを担当、活動初期は「澱口襄」など複数のペンネームで執筆。同人誌を出したのは当時SF小説を受け入れられるような新人賞がなかったためであるが、うまくマスコミに取り上げられ、「筒井一家」紹介記事がたびたび新聞に掲載、また毎日放送のテレビ番組に家族総出で出演したりもしている。さらに『NULL』創刊号は江戸川乱歩の目に留まり、弟の作品や父による紹介文とともに、短編「お助け」が乱歩主催の雑誌『宝石』1960年8月号に転載。これが実質的なデビュー作となった。以降注文を受けてショート・ショートを各誌に発表しながら『NULL』にナンセンスなSF短編を発表していく。
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筒井康隆
1961年、4年間務めた乃村工藝社を退社、同志社大美学および芸術学専攻時代の先輩の後を継ぐ形で大阪市北区にデザイン事務所「ヌル・スタジオ」を立ち上げる。事務所の向かいの煉瓦会社で働いていた眉村卓と知り合い、後に小松左京らも加わり、「ヌル・スタジオ」はSF作家、SFファンのたまり場となっていった。また、雑誌『NULL』も筒井家以外のSFファンにも門戸を開き、小松左京、眉村卓、平井和正らのプロデビューしている作家らも参加。創刊翌年の1961年には、高校2年生の堀晃も参加した(『NULL』はのち、筒井が主宰した第三回日本SF大会「DAICON」(1964年)のレポートを兼ねた11号で終刊した)。 1962年、『S-Fマガジン』のハヤカワ・SFコンテストで「無機世界へ」(後の「幻想の未来」の原形)が選外佳作となる。入選三席には小松左京、半村良がいた。翌年、同誌増刊号に「ブルドッグ」を発表し初登場。1964年、第3回日本SF大会・大阪大会(DAICON)を主催、前年に創立されていた「日本SF作家クラブ」に参加し、SF作家たちとの交流を深める。1965年、前年に脚本スタッフとして参加していたテレビアニメ『スーパージェッター』の商品化権料を多額に得て、作家専業のめどが立つ。 同1965年、小松左京夫妻の仲人で光子夫人と見合い結婚。直後に東京へ行き専業作家となる。同年10月、初作品集『東海道戦争』出版。しかし、しばらくは生活が苦しく、1967年頃、心配した小林信彦より『小説現代』などの中間小説誌を紹介され、以後中間小説誌での発表が増えていった。 なお、1966年2月から、平井和正、豊田有恒、伊藤典夫、大伴昌司と共同で、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった。
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なお、1966年2月から、平井和正、豊田有恒、伊藤典夫、大伴昌司と共同で、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった。 筒井はそれまでのナンセンス、ブラックユーモアの作風に加え、1970年代から様々な文体を用いた実験的な作品を発表していき、次第に熱狂的なファンを獲得していった。初期のよく知られている作品には、PTAによる悪書追放運動を批判した『くたばれPTA』(1966年)、社会風刺からナンセンスな笑いを引き出した『ベトナム観光公社』(1967年)、痴漢冤罪の恐怖を描いた『懲戒の部屋』(1968年)、SF長編としての総決算的作品『脱走と追跡のサンバ』、高度経済成長期に勃興したウーマンリブ運動やフェミニズムを揶揄した『女権国家の繁栄と崩壊』(ともに1970年)、超能力者・火田七瀬を通して家族の裏側を書く『家族八景』、俗物的な人間を徹底的に風刺した『俗物図鑑』(ともに1972年)、小松左京『日本沈没』のパロディ「日本以外全部沈没」(1974年)など。1970年の第1回星雲賞を長編部門、短編部門で独占してから計8度同賞を受賞した。また1968年から直木賞に3度候補として挙げられたが(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)落選。筒井は後にこの経験から、作家志願者が文学賞選考委員を次々に殺していく(単行本の表紙には「張め。殺す。」「この源」「やいやい川〜郎め。死ね。」などの記述が断片的に見られる)スラップスティック作品『大いなる助走』(1979年)を執筆している。 1970年の『脱走と追跡のサンバ』の発表を境に自身の作品からは徐々に純SF的な作品が減っていきながらも、1971年にはジュニア向けながら「SF入門の定番」として長年知られた『SF教室』を編集・執筆。また、1975年から1976年にかけては、各年度のベスト短編を集めたアンソロジー『日本SFベスト集成』シリーズを編集した。 1972年4月には東京から、妻の実家に近い神戸市垂水区に転居。筒井は両親と不仲であり、妻の親族たちと盛んに交際した。
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1972年4月には東京から、妻の実家に近い神戸市垂水区に転居。筒井は両親と不仲であり、妻の親族たちと盛んに交際した。 1973年8月には、SFファングループ「ネオ・ヌル」を山本義弘、小笠原成彦、岡本俊弥、大野万紀、水鏡子らと結成(実際のところは、1975年の日本SF大会「SHINCON」の開催の考えが先行しており、その母体となるためSFファングループを結成したのであった)。1974年の1月に『NULL』復刊第1号が発行。以降、この雑誌は、スポンサーが筒井、岡本俊弥を実質編集長として刊行されることとなる。第2期「NULL」の特色は、「会員から応募されたショート・ショートすべてに、筒井が的確な『寸評』を書いた」ことにあった。また、筒井が当時編集していた年刊傑作選『日本SFベスト集成』に、筒井は「NULL」掲載作から作品を選んでいる。 この「ネオ・ヌル」グループをスタッフとして、筒井は大会名誉委員長として1975年8月に、日本SF大会「SHINCON」を神戸で開催。この大会のテーマは後に有名になる「SFの浸透と拡散」であり、山下洋輔によるピアノ演奏、舞台『スタア』(劇団欅)の上演、桂米朝による落語「地獄八景亡者戯」など、企画の大半は筒井の人脈によるものであった。なお、「ネオ・ヌル」出身の作家には、夢枕獏、山本弘、牧野修(亜羅叉の沙名義)、西秋生、高井信、水見稜(井沢昭夫名義)、児島冬樹、林巧らがいる。また、すでに「SFマガジン」でデビューしていたかんべむさしや、第1期「NULL」に参加していた堀晃も「ネオ・ヌル」には参加していた。「NULL」は1977年4月発行の号で終刊。 「腹立半分日記」を連載していた雑誌『面白半分』の編集長を、1977年7月号から1978年6月号まで、一年間つとめた。 また、1980年には日本SF作家クラブの事務局長として、徳間書店を後援とした日本SF大賞の創設に尽力。
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「腹立半分日記」を連載していた雑誌『面白半分』の編集長を、1977年7月号から1978年6月号まで、一年間つとめた。 また、1980年には日本SF作家クラブの事務局長として、徳間書店を後援とした日本SF大賞の創設に尽力。 一方で、1971年より純文学雑誌『海』に作品の掲載をはじめ、純文学の分野にも進出。また同誌の海外作家特集を愛読し、ガルシア・マルケス、バルガス・リョサなど中南米の作家への興味を持った。1978年には大江健三郎の紹介から『海』編集長塙嘉彦の訪問を受け、中南米の文学について教示を受けるなどして大きな影響を受けた。同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『虚人たち』で泉鏡花文学賞を受賞。これを皮切りに、擬人化した文房具が乗り込む宇宙船団の混乱した群像・鼬の惑星の歴史・双方の戦乱とその末路を描き「純文学作品として」刊行した『虚航船団』(1984年)、夢と蓋然性をモチーフに独自の文学空間を切り開いた『夢の木坂分岐点』(1987年、谷崎潤一郎賞)、使用できる文字が1章ごとに1つずつ減っていくウリポ的な『残像に口紅を』(1989年)など、メタフィクションの技法を用いた言語実験的な作品を多数執筆。なお、『残像に口紅を』の執筆のためにワープロを導入し、これ以降の作品はコンピュータを使用して書かれている。 1990年代にも、文芸批評と大学機構をシニカルに下敷きにした学問小説『文学部唯野教授』、パソコン通信を使って読者の意見をインタラクティヴに取り入れながら、十八番の虚実錯綜の手法を使って連載された『朝のガスパール』(1992年日本SF大賞)など話題作を発表した。『残像に口紅を』『文学部唯野教授』2作連載時にはストレスで胃穿孔を起こし入院、入院中にハイデガーを読んで影響を受け、以後死や別れをモチーフにした作品も増えていった。
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初期に書かれた近未来の管理社会を皮肉るショートショートSF『無人警察』(『科学朝日』1965年6月号所収。のち角川文庫2016年新版『にぎやかな未来』収録)が、1993年(平成5年)に角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった際、作中のてんかんの記述(脳波測定器を内蔵した巡査ロボットが運転手を取り締まる際、主人公が「てんかん持ちの人が異常な脳波を出していた場合もチェックされるらしいが、おれはてんかん持ちでないしなあ」と独白する)がてんかんをもつ人々への差別的な表現であるとして、日本てんかん協会から抗議を受ける(筒井個人と団体間で数度交渉を行い一時決裂したのち、和解する。後述)。団体の抗議自体にではなく、ことなかれで言い換えや削除を行おうとする出版業界の現状や、安易な批判をする、あるいは真摯な擁護を見せずにただ騒ぎに便乗するだけの同業者などに業を煮やした筒井は、1993年9月、月刊誌『噂の眞相』に連載していた日記「笑犬樓よりの眺望」上で「私、ぷっつんしちゃいました」と断筆宣言に至った。 協会からの抗議が報じられた際、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという。筒井はのちに内田春菊との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、自主規制の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、家族にまではそれは及ばなかった。でも、今度の場合は、家族や親戚にまで波及した」「今回は家族や親戚を守るためなんです」と語っている。またこの頃、筒井の母が急性心筋梗塞で死去しており、のちの瀬戸内寂聴との対談では「(騒動に関する心労が)亡くなったのにもいささか関係があったんじゃないかと思いますけれども」とも述べている。 そして、「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」 と、マスコミが抗議の声におもねって筒井側の言い分をまったく取り上げないことに憤った。
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そして、「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」 と、マスコミが抗議の声におもねって筒井側の言い分をまったく取り上げないことに憤った。 断筆宣言は業界内でも賛否両論を起こした。友人である大江健三郎(息子の大江光は癲癇の症状を持っている)からは、読売新聞紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している。この他、吉本隆明、金井美恵子、浅田彰、絓秀実、柄谷行人、渡部直己、村上龍、三田誠広、島田雅彦、田中康夫、志茂田景樹、中野翠などから批判を受けたため、筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」と慨嘆した。特に絓秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。一方、筒井を擁護した側には、曾野綾子、瀬戸内寂聴、安岡章太郎、柳瀬尚紀、平井和正、マッド・アマノ、小林よしのり、石堂淑朗、井上ひさし、内田春菊、柘植光彦、清水良典、井沢元彦、夢枕獏、大岡玲たちがいた。しかし「筒井の尻馬に乗って表現の自由をうんぬんしている作家たち」という岡庭昇や、みなみあめん坊(部落解放同盟大阪連合会池田支部代表の南健司)の発言が出てきたため、小林よしのり以外はみな沈黙してしまったという。
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同年10月、断筆に至る経緯を記した『断筆宣言への軌跡』を刊行。同年10月14日にはテレビ朝日「朝まで生テレビ!」特集「激論!表現の自由と差別」にゲストパネラーとして出演し、『無人警察』問題について自らの立場を主張すると共に、かつて『週刊文春』1985年5月9日号のコラム「ぴーぷる欄」における「"士農工商SF屋"というカーストがあるくらいで、SF作家が晴れの舞台を踏むことはまだ稀ですからね」との発言をめぐり部落解放同盟から糾弾されかけたことを明らかにした。これは日本文壇におけるSF作家への差別を自虐的に語った言い回しだが、そもそも「士農工商穢多非人」という熟語は知らなかったので部落を揶揄する意図はなかった、以前「士農工商提灯屋」という表現に接したことがあり、洒落た表現なのでいつか使ってみようと思っていたと、この番組で筒井は小森龍邦に釈明している。 1994年(平成6年)4月1日、中野サンプラザにて山下洋輔らのジャズ演奏からなる「筒井康隆断筆祭」を開催。自身も演奏者として参加した。 1994年(平成6年)8月30日、岡山で開かれた部落解放西日本夏期講座(主催・部落解放研究所)のシンポジウム「差別問題と『表現の自由』」に基調講演者として出席。小林健治によると「これまで、多くの作家がその著作のなかで差別表現を指摘され、抗議を受けたが、抗議された作家が、みずから被差別運動団体の集会に出席して自分の意見をのべるというのは、初めての出来事だった」という。シンポジウムの冒頭の自己紹介で筒井は「差別者の筒井です」と言い放ち、2000人の出席者から万雷の拍手を受けたとされる。 1994年11月7日、日本てんかん協会との間で書簡の往復による「合意」にこぎつけ、記者会見で内容を発表。内容の骨子は
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1994年11月7日、日本てんかん協会との間で書簡の往復による「合意」にこぎつけ、記者会見で内容を発表。内容の骨子は というものであった。「差別表現」に対する従来の対処は、被差別者側が気の済むまで糾弾を続け、差別者とされた側がひたすら謝罪し要求を受け入れるという硬直したやり方しかなかったところ、筒井と日本てんかん協会が双方の見解の相違を残しつつ合意と妥協に知恵をしぼった点は高く評価されたが、旧来の部落解放同盟的な糾弾路線を支持する人々からは反発を買った。日本てんかん協会との和解について、朝日新聞社社会部の本田雅和や作家の塩見鮮一郎から『朝日新聞』紙上で激しく糾弾された筒井は、「どんな作品書いたのか誰も知らないような塩見鮮一郎なんて作家」「(日本てんかん協会との間の)往復書簡ろくに読まないでコメントしてる。解放同盟やてんかん協会が『よし』としてることにまで反対して、自社の自主規制を正当化しようとして、被差別団体以上の激しさでぼくを糾弾してくる」と批判している。 断筆中の1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災で神戸市垂水区の自宅が被災する事態に見舞われる。断筆中は演劇活動に力を入れ、またウェブサイトを開設し未発表作品の公開などを行なった。 1995年11月から新潮社が断筆解除に向けて筒井にアプローチを開始。1996年12月16日、新潮社、文藝春秋社、角川書店と下記のような「覚書」を交わし、1996年12月19日、3年3ヶ月ぶりに断筆を解除すると発表(これと同じ覚書を後に中央公論社や噂の真相とも交わしている)。 その後、1997年に『邪眼鳥』で小説家復帰を果たした。執筆再開後はこれまでの作風に加えて、『わたしのグランパ』(1998年、読売文学賞)や『愛のひだりがわ』など、『時をかける少女』以来のジュブナイル小説を発表。還暦を過ぎたこともあり、『敵』『銀齢の果て』といった老いをテーマにした作品も発表している。 断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。
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断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。 東浩紀との交流からライトノベルに興味を持ち、2008年(平成20年)『ファウスト』にてライトノベル『ビアンカ・オーバースタディ』を掲載、宗田理に次ぐ高齢のライトノベル執筆者となった。 断筆解除後も、筒井は各新聞社との間で覚書を取り交わせずにいたが、2009年(平成21年)3月、以前『朝のガスパール』を連載していた朝日新聞社と覚書を取り交わし、同月30日より同新聞読書欄にてエッセイ『漂流―本から本へ』が連載(日曜日のみ)された。 2012年(平成24年)7月13日から2013年(平成25年)3月13日まで、朝日新聞に小説「聖痕」が連載された。 2013年、他のベテラン作家らとともに、日本SF作家クラブの名誉会員になった。 2020年2月、息子筒井伸輔に先立たれた。 喫煙者(銘柄はヴォーグなどを愛煙)であることから、近年の「禁煙ファシズム」を批判し、喫煙者団体「Go smoking」に参加している。1987年には『健康ファシズム(当時の呼び名)』を揶揄する短編SF小説『最後の喫煙者』を執筆し、1995年に「世にも奇妙な物語」でドラマ化された際には、台詞ありのカメオ出演をしている。2004年(平成16年)には泉麻人、ダンカンほかが寄稿した本『喫煙者のユーウツ - 煙草をめぐる冒言』を共著として刊行している。2011年には昨今の嫌煙運動について反発するため、すぎやまこういちや西部邁らと共に「喫煙文化研究会」を発足した。
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エッセイなどにおける筆鋒は鋭く、批判の際には相手の知性や品性を端的に攻撃し、愚者として印象づけているため、敵も多い。この戦闘性は小説にも及び、2007年に発表した『巨船ベラス・レトラス』でも、実名で海賊行為を糾弾された出版社以上に、誰にでもそれと分かるような大手情報企業が手痛い描かれ方をされている。さらに、かつて『堕地獄仏法』で公明党を擬した政党が支配する恐怖の未来を描き、創価学会の猛烈な攻撃を受けるや、『末世法華経』で応酬するという騒ぎを起こした。しかし、井上ひさし、大江健三郎といった政治的発言の多い友人を持ちながら、自らは政治と距離を置いている。この立場を戯画的に描いた『旗色不鮮明』などでも明らかだが、これは意識した上でのことである。ただし1982年の反核文学者声明に名を連ねたこともある。この際に揶揄的な批判に対しては反駁を加えている。 東京での活動が多くなったことから、神戸市垂水区の他に(以前の東京居住時と同じ)原宿にも自宅を構えている。 元衆議院議員筒井信隆、俳優の筒井道隆とは名前が似ているが、縁戚関係はない。 1981年8月9日、東京日比谷野外音楽堂にて、交友のあった山下洋輔らとともに、クラリネット奏者として『ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ コンサート』に出演。このとき観客に混じっていた、アート・プロデュサーの鶴本正三(雑誌「スターログ」発行人でもあった)に原宿ラフォーレでのイベントを依頼され、これをきっかけに劇団「筒井康隆大一座」を立ち上げる。翌年3月に自作『ジーザス・クライスト・トリックスター』を上演、筒井自身が主役を演じ、14日間の全日程すべて満席となった。翌年、名古屋、京都、神戸、大阪を巡業、以降も「大一座」は筒井の作品『スイートホームズ探偵』『人間狩り』などを上演し、1989年(平成元年)まで活動が続いた。
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1993年(平成5年)の断筆宣言以降は、執筆による収入が無くなることもあって俳優業に力を入れ、久世光彦演出の単発ドラマやCM出演など、それ以前よりも頻繁に映画、テレビに出演するようになった。断筆解除後の1997年(平成9年)にはタレントとしてホリプロと契約、執筆活動の傍ら映画やテレビドラマに度々出演している。1999年(平成11年)には蜷川幸雄の依頼でチェーホフの『かもめ』にトリゴーリン役で出演、2000年(平成12年)・2001年(平成13年)にも蜷川演出の三島由紀夫『弱法師』(『近代能楽集』)に主人公の義父役で藤原竜也と共演した。原作者である『文学賞殺人事件 大いなる助走』にもゲスト出演し、SF作家を演じた。 ウィキペディア日本語版の「筒井康隆」の項目は間違いだらけだと、2010年(平成22年)11月23日に開催された『筒井康隆作家生活五十周年記念〜現代語裏辞典ライブ』において、多数の観衆の見る中、ウィキペディアの「筒井康隆」の項目を開き、自身の身長から断筆宣言の経緯に至るまで本項目の間違いを指摘し内容を修正した(あまりに間違いが多いので修正は、後日、改めて行うことになった)。 2017年4月7日に、慰安婦像問題に関して、「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という記述をブログで発信した。公式ツイッターにも同様の内容を発信したがその日のうちに削除されている。インターネットでは賛否の声が上がり、韓国朝鮮日報日本語版は「衝撃的な妄言」と批判している。これについて、筒井は「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」と明かす一方、「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」とも話している。 ※『スタア』は演出:福田恆存・荒川哲生による。 なし
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クラシック音楽の作曲家一覧
クラシック音楽の作曲家一覧(クラシックおんがくのさっきょくかいちらん)では、音楽史上の分類としてのクラシック、つまりバロックやロマン派に対するクラシック(古典派)ではなく、ジャンルとしてのクラシック音楽、つまりジャズやポピュラー音楽に対する「クラシック」の作曲家をまとめてある。
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■カテゴリ / ■テンプレート FORTRAN(Fortran、フォートラン)は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語。1954年にIBMのジョン・バッカスが考案したコンピュータ用で世界最初の高水準言語であり、その後も改訂されて使用されている。 1956年に最初のマニュアルがリリースされ、1957年にIBM 704用の最初のコンパイラがリリースされた。名前 FORTRAN は formula translation(数式の変換)に由来し、FORTRAN 77 や Fortran 90 などの末尾の数字は規格が制定された年を示している。 FORTRAN は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語であり、その長い歴史の間に開発された非常に多くの数学関数やサブルーチンを数値解析ソフトウェアとしてもっている。また、並列計算の並列性を明示的に書くことができるので最適化が行いやすく、したがって他の言語より高速であるなどの理由から、数値予報および気候モデル、構造力学における有限要素法、計算流体力学、計算物理学、計算機化学、計量経済学、動物と植物の品種改良などの大規模な計算を行う分野において、スーパーコンピュータで使われている。 ちょうどC言語に対するC++言語のように、Fortran 90/Fortran 95 の言語仕様は、FORTRAN 77 の頃と比べればかなり拡張され進歩したものとなっている。最新のソースコードは、初期のものと比較するとほとんど別の言語のように見える。初期の頃は、変数名が大文字で6文字までであり、動的な記憶領域の確保ができないなど多くの制約があったが、それらの制限はなくなり、Fortran 77 から構造化プログラミングが導入され、Fortran 90 からモジュラープログラミング、配列演算とユーザー定義総称関数が、Fortran 95 からHigh Performance Fortranが、Fortran 2003 からオブジェクト指向が、Fortran 2008 からはコンカレント・コンピューティング(並行計算)が導入された。 なお、大文字で FORTRAN と表記した場合は FORTRAN 77 以前の FORTRAN を指し、Fortranと表記した場合は Fortran 90 以降を指すことがある。
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なお、大文字で FORTRAN と表記した場合は FORTRAN 77 以前の FORTRAN を指し、Fortranと表記した場合は Fortran 90 以降を指すことがある。 Fortran 90/95の特徴は、次のとおりに要約される。 広く使われていたFORTRAN 77 の特徴は、以下のように要約される。 ジョン・バッカスは1953年末、メインフレームコンピュータIBM 704のプログラムを開発するにあたり、アセンブリ言語に代わるものを開発することをIBMの上司に提案した。歴史的なFORTRAN開発チームはRichard Goldberg、Sheldon F. Best、Harlan Herrick、Peter Sheridan、Roy Nutt、 Robert Nelson、Irving Ziller、Lois Haibt、David Sayreというメンバーで構成された。 The IBM Mathematical Formula Translating System のドラフト仕様は1954年中旬に作成された。1956年10月にFORTRANの最初のマニュアルが作成され、コンパイラは1957年4月に完成した。顧客はアセンブリ言語で記述されたコードに匹敵するパフォーマンスが得られない限り高級言語を採用しないので、最初から最適化コンパイラが開発された。 この新しい方法がハンドアセンブルより高速に動作するかどうかには疑いの目があったが、プログラム中の命令数を1/20に削減できるので急速に受け入れられていった。IBMの社内誌であるThinkに掲載された1979年のインタビューでバッカスは「私がこの仕事をしたのは面倒くさがりだったからです。私はプログラムを書くことが好きではなかったので、IBM 701でミサイルの軌道計算プログラムを開発したときに、プログラムの開発を簡単にするためにプログラミングシステムを作り始めました。」と語っている。 FORTRANは科学者の間で数学を応用したプログラムの記述に広く用いられたことから、より高速で効率的なコードを出力しようとする原動力となった。また、ライブラリでなく言語として複素数型をサポートしたことは、電気電子工学における動的特性の計算などに代表される科学や工学分野のプログラムを書きやすくした。
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FORTRANは科学者の間で数学を応用したプログラムの記述に広く用いられたことから、より高速で効率的なコードを出力しようとする原動力となった。また、ライブラリでなく言語として複素数型をサポートしたことは、電気電子工学における動的特性の計算などに代表される科学や工学分野のプログラムを書きやすくした。 1960年までに様々なバージョンのFORTRANがIBM 709、IBM 650、IBM 1620、IBM 7090で動作していた。FORTRANのユーザー数は急増し、コンピューターメーカーがFORTRANコンパイラをこぞって提供したので、1963年までには40を超えるFORTRANコンパイラが存在していた。こうしたことから、FORTRANはアーキテクチャの異なる様々なコンピュータで広くサポートされた最初の言語と言える。 FORTRAN開発の歴史は、初期のコンパイラ技術の歴史そのものといえる。FORTRANで効率的なコードを出力したいという強い要求からコンパイラによる最適化技術が大きく進歩した。 IBM 704用に開発された最初のFORTRANは32の命令をもっていた。 IBM 1401版は革新的な65パスのコンパイラであり、わずか8k語の磁気コアメモリで動作する。コアに記録されたプログラムが段階的に実行可能なコードへと変換されて上書きされる。変換されたコードは機械語ではなく、UCSD PascalのPコードが生まれるよりも20年も前ながら、中間コードを利用していた。 IBMのFORTRAN IIは1958年に開発された。主な改良点は手続き型プログラミングのサポートであり、サブルーチンや関数を定義できるようになった。 その後、FORTRAN IIのデータ型として、DOUBLE PRECISION(倍精度型)とCOMPLEX(複素数型)が追加された。 IBMは1958年にFORTRAN IIIを開発していた。いくつかの新機能に加えインラインアセンブラが可能であった。しかしながらこのバージョンは販売されなかった。704 FORTRANやFORTRAN IIと同様に、FORTRAN IIIにも移植の妨げになるような機種依存の機能があった。他のベンダーから販売されていたFORTRANも初期は同様の問題を抱えていた。
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IBMは1958年にFORTRAN IIIを開発していた。いくつかの新機能に加えインラインアセンブラが可能であった。しかしながらこのバージョンは販売されなかった。704 FORTRANやFORTRAN IIと同様に、FORTRAN IIIにも移植の妨げになるような機種依存の機能があった。他のベンダーから販売されていたFORTRANも初期は同様の問題を抱えていた。 IBMは1961年に顧客の要望を受けFORTRAN IVの開発を開始した。READ INPUT TAPEのようなFORTRAN IIの機種依存部分を削除したほか、LOGICAL(論理型)、論理演算、算術IF文の代替となる論理IF文が加えられた。この時のターゲットマシンは36ビットのワードマシンだったので、整数値は2の大きさの範囲で定義されていた。また、実数の精度は2、倍精度実数の精度は2までだった。FORTRAN IVは1962年にIBM 7030(通称ストレッチ)用がリリースされ、後にIBM 7090版とIBM 7094版がリリースされた。 1965年には国家規格であるANSI X3.4.3 FORTRANに準拠した。 American Standards Association(現ANSI)がFORTRANの米国規格を委員会で制定するようになったことはFORTRANの歴史の要である。1966年に2つの異なる言語が制定された。一つは当時既にデファクトスタンダードであったFORTRAN IVを基にしたFORTRANであり、もう一つはFORTRAN IIを基にして機種依存部分を取り除いたBasic FORTRANである。最初に制定されたFORTRANの規格は後にFORTRAN 66と呼ばれた。 FORTRAN 66 規格のリリース後、コンパイラ・ベンダーは多くの拡張を"標準Fortran"に導入し、1966の規格の改訂を始めるようにANSIを促した。この改訂は1977年に制定され、最終的な改訂案は1978年4月に新しいFORTRAN標準として承認された。この新しい標準はFORTRAN 77として知られ、FORTRAN 66後の多くの変更を追加し、多くの重要な機能を加えた:
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FORTRAN 66 規格のリリース後、コンパイラ・ベンダーは多くの拡張を"標準Fortran"に導入し、1966の規格の改訂を始めるようにANSIを促した。この改訂は1977年に制定され、最終的な改訂案は1978年4月に新しいFORTRAN標準として承認された。この新しい標準はFORTRAN 77として知られ、FORTRAN 66後の多くの変更を追加し、多くの重要な機能を加えた: この規格の改訂において、多くの機能は除去されるか変えられて、以前の標準に合致していたプログラムの多くはおそらく無効になった。この時点で除去はX3J3の代替だけが許容された。だからコンセプト "不賛成"はANSI標準においては利用できなかった。しかし、コンフリクトリストの24アイテム(Appendix A2 of X3.9-1978を見よ)ループホールスとパスロジカルケースは以前の標準規格から許容されたが、しかし滅多に使用されない。少数の機能は慎重に除去された。 一般にFortran 90 として知られている規格は、大幅に発表が遅れたもののFORTRAN 77の正当な継承者であり、最終的に1991年にISO規格、1992年にANSI規格としてリリースされた。この抜本的な改訂では1978年のFORTRAN 77規格制定からのプログラミング技術における大幅な変化を反映するために、以下の多くの新しい機能が加えられた 以前のバージョンとは異なり、Fortran 90は、何の機能も削除しなかった。(Appendix B.1には、「この規格の、削除した機能のリストは空である。」と記載されている)つまり、FORTRAN 77に準拠したプログラムは、Fortran 90にもまた準拠している。そして、両方の規格で、その動作が定義づけられた項目は使用可能でなければならない。一部の機能はFortran 95で「削除」され、また機能の小さな部分は「時代遅れ」と認定されて将来の規格で除去されることが予定された。
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Fortran 95は、マイナーな改訂版である。ほとんどは、Fortran 90規格の、いくつかの大きな問題を解決するためのものである。それにもかかわらず、Fortran 95もまた年号を付加されている。それは、Fortranの拡張として定義される並列言語、HPF(High Performance Fortran:ハイ・パフォーマンスFortran)の一部導入によることは明白である。なお、本格的なHPFは、地球シミュレータ等で使用されている。 多くの内部関数は拡張された。一例としてmaxloc 内部関数にdim引数が追加された Fortran 90で時代遅れとされた、いくつかの機能はFortran 95から削除された。 Fortran 95への重要な追加は、一般にはAllocatable TRとして知られる、ISO technical report、TR-15581: Enhanced Data Type Facilitiesである。この仕様は、Fortran 2003準拠のFortran コンパイラより前に、ALLOCATABLE アレイの強化した用法を定義した。そのような用法は、プロセジャーのダミー引数リストとしての派生タイプコンポーネントALLOCATABLEアレイと、関数の返し値を含む。ALLOCATABLEアレイは、POINTER-ベース・アレイより好ましいものである。なぜなら、ALLOCATABLE アレイは、スコープから抜けたとき、Fortran 95による自動的なdeallocateを保証しメモリリークの可能性をなくすからである。 エイリアシングはarrayの参照において最適化の障害にならず、Fortranコンパイラがポインタ-ベース・アレイより高速なコードを生成することを可能にする。 他の重要なFortran 95への追加は、ISO technical report TR-15580: 浮動小数点例外ハンドリングである。一般にはIEEE TRとして知られており、この仕様はIEEE 浮動小数点演算と例外ハンドリングを定義する。 必須のベース言語(ISO/IEC 1539-1:1997に定義)以外に、Fortran 95言語も以下の2つのオプショナルなモジュールを含む。
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FORTRAN
他の重要なFortran 95への追加は、ISO technical report TR-15580: 浮動小数点例外ハンドリングである。一般にはIEEE TRとして知られており、この仕様はIEEE 浮動小数点演算と例外ハンドリングを定義する。 必須のベース言語(ISO/IEC 1539-1:1997に定義)以外に、Fortran 95言語も以下の2つのオプショナルなモジュールを含む。 両者は、マルチパート国際標準を構成する(ISO/IEC 1539)。規格の開発者は、「オプショナル・パートは必要なものを完備した機能を記述している、それは多くのコンパイラ・インプリメンターとユーザーから要求されてきたものである。しかし、それらは、全てのFortran標準に合致するコンパイラは十分な一般性を持たないと考えられていた。それにもかかわらず、もし標準に合致したFortranがそのようなオプションを提供するなら、『それらの機能は、標準規格の適切なパートに記述に従って提供されなければならない。』」と述べている。 Fortran 2003はメジャーな改訂であり、たくさんの新しい機能を導入した。 Fortran2003における新しい機能の包括的なサマリーは、Fortran Working Group (WG5)のオフィシャルWebサイトから得ることができる。 この記事によれば、このバージョンが含む大幅な強化は以下の通りである。 Fortran 2003 への重要な追加は、ISO technical report TR-19767である。 Fortranにおけるモジュール機能の強化。このレポートは、submodulesを提供する。これは、FortranのモジュールをよりModula-2言語のモジュールに近づける。これらは、Ada言語のプライベート・チャイルド・サブユニットに似ている。これは分離したプログラムユニットとして表現すべきモジュールの仕様と実装を可能にし、大規模なライブラリのパッケージ化を改善し、インターフェース定義を公開しても企業秘密を保持することを可能にし、コンパイレーション・カスケードを防ぐ。
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FORTRAN
最新の規格であり一般にはFortran 2008として知られているISO/IEC 1539-1:2010は2010年9月に承認された。Fortran 95と同様に、これはマイナー・アップグレードである。Fortran 2003の明確化と訂正と共に、新しい特長も導入された。新しい特長は、以下を含む ファイナル・ドラフト・スタンダード(FDIS)は、ドキュメントN1830として利用できる。 Fortran 2008における重要な追加は、ISOテクニカルスペシフィケーション(TS) 29113のFortranにおけるC言語とのより高いインターオペラビリティであり、2012年5月のISOの承認に向けてまとめられた。C言語の配列へのFortranアクセスに関してタイプとランクを無視する仕様が加えられた。 Fortran 2018の最新版は、以前はFortran 2015と呼ばれていた。大きな改訂が行われ、2018年11月28日にリリースされた。 Fortran 2018には、それ以前に公開された以下の2つの技術仕様が含まれている。 追加の変更と新機能には、ISO/IEC/IEEE 60559:2011(2019年時点のIEEE浮動小数点数仕様の最新版)のサポート、16進の入出力、IMPLICIT NONE拡張など、様々な変更が含まれている。 1968年にBASICの作者等によって書かれた専門雑誌の記事でもすでに「旧式の(old-fashioned)プログラミング言語」と記述されていたが、Fortranは現在でも数十年に渡って使用されており、特に科学や工学のコミュニティでは、Fortranで書かれたソフトウェアが日常的に幅広く利用されている。ジェイ・パサコフ(英語版)は1984年に「物理学と気象学の学生はFORTRANを必ず学ぶ必要がある。大部分の成果がFORTRANで書かれており、科学者たちがPascalやModula-2などの他の言語に移行する可能性は極めて低い。」と書いている。1993年、Cecil E. Leithは、FORTRANを「科学計算の母語」であると評し、他の言語によって置き換えられる可能性は「永遠の希望であり続けるだろう」と述べている。
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FORTRAN
FORTRAN 66以降、ISO、ANSI、JISで仕様が制定されている。Fortranの言語仕様は、年代によってかなり変化して来ている。他のプログラミング言語で実装された構造化プログラミングの機能などがどんどん取り入れられて来ているからである。 1966年にANSI X3.9-1966が制定され、JISとしては1967年に制定された。この時は、以下の3つの水準ごとに独立したJISが制定された。共通したタイトルは「電子計算機プログラム用言語 FORTRAN」だった。以下に水準間のおおよその違いを記す。 なお、1971、1976年に若干の改訂がなされている。 国際標準化機構(ISO)は、米国規格協会(ANSI)の X3J3 が作成した FORTRAN の規格 X3.9-1978 を ISO 1539-1980 として定めた。基本水準(subset language)と上位水準(full language)の2種類の水準からなっていた。これを基にして、同じく2水準の JIS C 6201-1982 が制定された。なお、1987年に、JISの分類が変更になり、この規格は JIS X 3001-1982 となった。内容には変更はない。 FORTRAN 77を基に他の言語の特徴を組み込み、言語仕様を近代化しようとしたが、そのため仕様がなかなか決まらず、1991年に ISO/IEC 1539:1991として制定された。JISではそれを受け、JIS X 3001:1994が制定された。 Fortran 90 から規格上の言語の呼称が頭文字のみを大文字とした“Fortan”に変更された。 JIS X 3001:1998では,Fortran 95と通称される規格が引用されている。該規格は一部例外を除きJIS X 3001 1-1994の上位互換拡張である。 JIS X 3001:2009では,Fortran 2003と通称される規格が引用されている。当該規格は一部の例外を除いてJIS X 3001-1:1998の上位互換拡張である。 対応するJISは制定されなかった。 JIS X 3001-1:2023(2023年現在の最新改正版)では,Fortran 2018と通称される規格が引用されている。
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FORTRAN
JIS X 3001:2009では,Fortran 2003と通称される規格が引用されている。当該規格は一部の例外を除いてJIS X 3001-1:1998の上位互換拡張である。 対応するJISは制定されなかった。 JIS X 3001-1:2023(2023年現在の最新改正版)では,Fortran 2018と通称される規格が引用されている。 FORTRANは、情報処理分野で広く使われていたため、学校や会社の教育(情報処理技術者向け教育)で利用された。教育向けには、より詳細なエラー情報を出すための拡張がWaterloo大学でWATFOR(後にWATFIV)コンパイラとして実装された。この実装は日本の大学でも使われた。 Fortranは科学技術計算用の言語なので、スーパーコンピュータでのプログラミング言語としてよく用いられる。実際、多くのスーパーコンピュータでベンダーが主に注力して提供されている言語は、C/C++およびFortranである。 C言語と比較すると、Fortranはスタック等を使わずに、コンパイル時に静的に記憶領域を確保するのが基本であった。そのため、自由度が高くあらゆる状況を想定しなければならないC言語と比べるとコンパイラはコードを最適化しやすいという利点がある。 Fortranの主な用途である科学と技術用の計算では配列を用いた演算が基本であり、ベクトル型スーパーコンピュータは、Fortranを使ったプログラムで使用することが多い。そこで、スーパーコンピュータの高速演算機能を有効に使うための工夫がなされた。その1つの例としては、自動ベクトル化機能である。ベクトル型のスーパーコンピュータは、多くの演算を同時に行うベクトル演算機能がハードウェアで提供されている。この機能を有効に使うために、FortranのDOループをベクトル演算装置で演算させるために、自動的にベクトル命令にする機能が提供された。また、DOループ内のベクトル演算に適さないものをDOループ外に追い出す機能などもある。たとえば、 のようなDO構文は、ほとんどの場合、1から数個のベクトル演算命令にコンパイルされる。そのほかにもDOループの中にIF文を含むような例、たとえば、
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FORTRAN
のようなDO構文は、ほとんどの場合、1から数個のベクトル演算命令にコンパイルされる。そのほかにもDOループの中にIF文を含むような例、たとえば、 のようなものもベクトル化できる場合がある。これは、いったんAの各要素がLIMIT以下かどうかを示すマスクベクトルを作成して、Aという配列(=ベクトル)に、変数Zの値を乗じるとき、マスクベクトルを参照するベクトル演算を行うことで、DOループをベクトル化する。 このような作業は、すべてコンパイラが行い、利用者にできるだけ負担をかけないようにしている。しかし、より高度なベクトル化を行うために、最適化を行う支援ツールが用意されている場合もある。 コンピュータ上で日本語の文字を扱えるようになると、FORTRANでも日本語を扱う需要が出てきた。そのため、各社(メインフレームを作成していたメーカ)では、独自に言語仕様に日本語の文字を扱えるように拡張した。そのため、各社で日本語の扱い方が異なる事態になった。そこで、JEIDAでは1985年に、JEIDA-42で日本語FORTRANを策定した。 FORTRANで日本語の文字を扱う場合、識別子である変数名、仮引数名、プログラム名、関数名、サブルーチン名、共通ブロック名等には日本語の文字は使えず、データとしての日本語の文字列を扱うための専用の型(日本語型)、日本語の文字列を入出力するためのFORMAT文の編集子の拡張が行われた。 FORTRAN 77が登場する前にいろいろと作られたプリプロセッサはFortranをベースとしてよりプログラムが読みやすく書きやすい言語の形式を提供するために広く使われた。プリプロセッサで処理されたコードは、標準のFORTRANコンパイラを備えた任意のマシンに対してコンパイルすることができる利点を持つ。これらのプリプロセッサは通常、構造化プログラミング、6文字よりも長い変数名、追加のデータ型、条件付きコンパイル、さらにはマクロ機能などをサポートしていた。 ポピュラーなプリプロセッサとしてFLECSとiftran、MORTRAN、SFtran、S-Fortran、Ratfor、Ratfivがあった。例えば、RatforとRatfivはCライクな言語を実装して、標準的なFORTRAN 66コードを出力した。
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FORTRAN
ポピュラーなプリプロセッサとしてFLECSとiftran、MORTRAN、SFtran、S-Fortran、Ratfor、Ratfivがあった。例えば、RatforとRatfivはCライクな言語を実装して、標準的なFORTRAN 66コードを出力した。 LRLTRANは、ローレンス放射線研究所で、ベクトル演算および動的な記憶、システムのプログラミングをサポートする他の拡張機能を提供するために開発され、ディストリビューションにはLTSSオペレーティングシステムが含まれていた。Fortran 95規格は、任意の条件付きコンパイルの機能を定義するオプションパート3を備えている。この機能は、しばしば 『CoCo』と呼ばれている。 SIMSCRIPTは、大規模な離散システムのモデリングとシミュレーションのためのアプリケーションに特化したFortranのプリプロセッサである。 また多くのFORTRANコンパイラは、Cプリプロセッサのサブセットを取り込んだ。 Fortran言語の進歩にもかかわらず、プリプロセッサは条件付きコンパイルとマクロ置換のために使用され続けている。 プログラミング言語Fは、FORTRANのEQUIVALENCE文などの、冗長、非構造化、非推奨な機能を削除したFortran 95のクリーンなサブセットとして設計された。言語FはFortran 90で追加された配列演算の機能を使い、FORTRAN 77とFortran 90で追加された制御文を用い、構造化プログラミングのために廃止された制御文を削除した。設計者は言語Fを 『特に教育や科学技術計算に適した、構造化された配列プログラミング言語である。』 と述べている。しかしサブセット言語であるから,旧来のあるいはFで除かれた機能を含むFortranのソースコードは受け付けないため、実務用には普及しなかった。 HPF(High Performance Fortran)というFortran拡張系の言語もあるが、これもほぼ廃れた。
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岩原裕二
岩原 裕二(いわはら ゆうじ)は、日本の漫画家、イラストレーター。北海道網走郡女満別町(現・大空町)出身。 北海道綜合美術専門学校(現北海道芸術デザイン専門学校)卒業後、株式会社ハドソンに入社し、企画とデザインを担当していた。1994年、「アフタヌーン四季賞 秋」にてデビュー。作品に『地球美紗樹』『いばらの王』など。風貌は自画像にそっくりである。 アメコミ好きであり、自身もマーベル・コミック社の『Quest』の作画に参加した経験がある(カタログ誌などにイラストは載ったものの本自体は刊行はされていない)。 スクリーントーンをほとんど使わずに、力強い線画による重厚な描き込みと、印象的なベタで全体を表現する画風が特徴的。また、カラーイラストはアクリル絵具を使った手塗りであり、先に描いた線画を消さないように、緻密に色を載せている。アクリル絵具は基本色4色(赤黄青白)のみを使い、その他の色は全て混色である。
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平野耕太
平野 耕太(ひらの こうた、1973年7月14日 - )は、日本の漫画家。東京都足立区出身、在住。アクション・ギャグ作品を主に手がける。愛称は「ヒラコー」。 高校時代は漫画研究部の部長を務め、その後、専門学校東京デザイナー学院アニメーション科(現東京ネットウエイブ)に入学し、中退。同校の漫画研究会に所属し、在学中に『COMICパピポ』(フランス書院)に掲載された『COYOTE』でデビュー。一時ゲーム会社に勤めていたものの数日(1週間以内)で退社しており、本人曰く「忘れたい出来事」と作品中で語っている。 デビューから暫くは成人向け漫画を執筆していたが、既にその頃からストーリー展開やギャグ部分に独特の雰囲気が存在していた。その後、一般雑誌に転向し『コミックガム』にて、同人誌に全てを賭けるオタクたちの野望と狂気を描いた『大同人物語』でカルト的な人気を得るが、連載中断のまま未完となった。打ち切りに際して、「ガム(掲載誌)? 知らねえよ。電話ひとつねえ。理不尽には無視で返すべきなのだ。故に知らねー」と、出版社との確執を吐露した。また1997年には『ファミ通PS』で『進め!!聖学電脳研究部』を連載、掲載雑誌の方向性をしばしば逸脱したゲーム紹介やストーリーの脱線などで話題を集めたが、出版関連の騒動から近年の角川書店版発売まで単行本があまり出回らなかった(角川書店版の後書きで騒動の顛末が書かれている)。1998年より『ヤングキングアワーズ』にてイギリス国教会とカトリックのヴァンパイアハンターおよびナチスの吸血鬼軍団による三つ巴の戦いを描く『HELLSING』を連載、同作は10年近い長期連載へと至る人気作となり、漫画家としての知名度を確立することになった。 2009年に『HELLSING』を完結させ、新たに各時代の武士・軍人たちが異世界で戦う『ドリフターズ』の執筆を開始した。
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平野耕太
2009年に『HELLSING』を完結させ、新たに各時代の武士・軍人たちが異世界で戦う『ドリフターズ』の執筆を開始した。 2022年11月20日に自身のTwitterで入院中であることを明かした。本人は「3日ほど胃痛がずーッと続いて飯を食うと12時間ほどウンウン唸る羽目になるのでなにも食えんで白湯ばかり飲んでる」とツイート。22日には「オペ終了。寝てる間に終わっていた」、「やはり胆石が胆管閉塞させてたようで、内視鏡で見た後そのまま内視鏡手術もやってくださったようで、寝てる間に終わっていた」と詳しい診断内容をツイートした。また、27日には「膵炎併発。昨日は激痛で一晩のたうちまわった。今日もう一回内視鏡手術。内視鏡手術のたびに膵炎再併発するかもて。気が重い」とツイートしている。 作品中ではナチスが登場することも多い。デビュー作の『COYOTE』ではレジスタンスとナチス・ドイツを髣髴とさせる軍事国家との戦いが描かれ、『HELLSING』では物語のキーとなる形で登場する。なお、軍服の作画には苦労するらしく「あんな描きにくい奴ら死ねばいいんですよ!」「ナチはヘドが出るほど描き過ぎた」と語っている。 ベタを多用し陰影を強調した画、特異なデッサン・ポーズ、そして芝居がかった大仰な台詞回しが特徴である。この独特の修辞法は佐藤大輔の小説やウィンストン・チャーチルの演説などから影響を受けているとされる。また、前者の描画法は日本国内では珍しいが、アメコミでの一般的なデフォルメに近い形式である。 長編作品ではシリアスな物語を基本とする一方で、ネタに走った場面や短編・エッセイ風の作品も描く。 ギャグシーンなどでゲーム、漫画、アニメ、映画、音楽などの話題が唐突に登場したり、背景としてペンギン村風の光景(山や雲などに笑顔)などパロディをさしこむこともある。 登場人物は男女を問わず手袋・眼鏡を着用しているキャラクターが多い。巨乳、メガネ、ネコ(女役)になる美少年を好む。眼鏡キャラには偏愛があり、『天空の城ラピュタ』の登場人物であるムスカ大佐が自身の精神世界で最上位に来ると『アニメージュ』で語ったことがある。おなじくふしぎの海のナディアの敵役であるガーゴイルからの影響もたびたび語る。
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平野耕太
登場人物は男女を問わず手袋・眼鏡を着用しているキャラクターが多い。巨乳、メガネ、ネコ(女役)になる美少年を好む。眼鏡キャラには偏愛があり、『天空の城ラピュタ』の登場人物であるムスカ大佐が自身の精神世界で最上位に来ると『アニメージュ』で語ったことがある。おなじくふしぎの海のナディアの敵役であるガーゴイルからの影響もたびたび語る。 『HELLSING』や『ドリフターズ』の単行本巻末には、近況、ブラックジョーク、ヤクザ映画などのパロディ、筆の向くままの奇声などを描くコーナーが存在する。単行本カバーにおける著者紹介欄では、毎回ほぼ一貫して趣味「いやがらせ」「ちんこいじり」と記載している。 成年誌で活動中から女性器描画における陰毛表現についてこだわりを持っており、一般誌に移ってからも折にふれて主張。「無毛・パイパン以外認められない。魅力的なキャラクターでも陰毛が生えているだけで台無しになる」。例に挙げるのは「トップをねらえ!」の、タカヤ・ノリコなど。 また、同人誌であつかう性描写には強姦ものが多い。 現在のアシスタントは専門学校時代の同級生3名とのこと。 近況漫画に出てくる2人のうちツッコミを担当しているほうが、友人で漫画家の山田秋太郎である。 単行本の後書き・巻末コメントやTwitter、公式サイト・ブログなどのインターネット上では過激かつひょうきんな一面をあらわすことでも話題にあがる。 ただしこうした発言はあくまでオタクが定型的に用いるネタであるとしている。 掲示板などの質問には真摯な面もみせる反面、ネット上の煽りなどには激しく憤る人物である。公式サイト時代は怒りとともに閉鎖と再開を繰り返していた。 自画像では黒のサファリ帽を被り、黒いワイシャツにネクタイを締めワッペンを沢山貼ったジャケットをまとった、太った眼鏡の男として登場する。 。 補足:『新世紀エヴァンゲリオン』のいわゆる商業アンソロジーでは、他の作家とのオムニバス短編が数点確認されている。内容はスラップスティック・ギャグの体裁に仕上がっている。
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SUEZEN
SUEZEN(スエゼン、1961年 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、美術講師、ゲームデザイナー。東京都出身。本名の飯田史雄(いいだ ふみお)名義で原画家、作画監督としても活動する。 私立目黒高校を卒業後、タツノコアニメ技術研究所に入所、宮本貞雄に師事、画業を積んだ。同期には今川泰宏がいる。その後フリーとなり、アニメーター、原画家として多作品で活動し、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』では作画監督を務めた。その間も漫画に強い志向を持ち、1988年、「アメージングコミックス 1号 コミックロリポップ5月増刊」(笠倉出版社)に掲載の『ミステリーLIGHT』でデビュー。1992年『ヤダモン』のキャラクターデザインで衆目を集め、同年、同タイトルでアニメージュ誌に漫画化作品を発表した。 その後、漫画作品を発表しながらも書籍の表紙、イラストや、ゲームのキャラクターデザインなどでも活躍するが、2000年代では漫画家としての活動に主軸を移している。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』で版権イラストを担当しており、『CONTINUE』『RollingStone(日本語版)』『少年エース』などの表紙を担当し、全て綾波レイを描いている。 青山広美(青山パセリ)と仲が良い。結城信輝、永野護、川村万梨阿と仲が良く、昔は結城の誕生日のクリスマスイヴに仲の良いメンバーでディズニーランドへ行っていた。 絵柄は少女漫画の手法を独自に昇華したもので、流れるような滑らかな描線と、キャラクターを描く際の、独特の丸いツリ目に特徴がある。ペンネームは「据え膳食わぬは男の恥」に由来するとも言われているが、アニメージュのコラム「SUEZENのモザイク通信」の中で、「最善は尽くせぬとも末善ぐらいは...」ということから、というニュアンスのコメントを残している。なお、同人誌上においてはAGEZENというペンネームも使用している。高校時代のペンネームは「てっか兄ちゃん」とも名乗っていた。 前述の『ミステリーLIGHT』に登場させた女性キャラ(前述の「ツリ目」の特徴を有している)を自画像として用いており、単行本のあとがきなどに「作者」として登場させている。そのため、彼の少女漫画色の強い流麗な画風ともあいまって、まれに女性であると思い込んでいるファンもいるが、彼は男性である。
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SUEZEN
前述の『ミステリーLIGHT』に登場させた女性キャラ(前述の「ツリ目」の特徴を有している)を自画像として用いており、単行本のあとがきなどに「作者」として登場させている。そのため、彼の少女漫画色の強い流麗な画風ともあいまって、まれに女性であると思い込んでいるファンもいるが、彼は男性である。 『BSアニメ夜話/新造人間キャシャーン』(2005年3月30日放送)にゲスト(元タツノコプロ アニメーター、漫画家)として出演。
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上原きみ子
上原 きみ子(うえはら きみこ、本名:村上 君子、1946年4月25日 - )は、日本の漫画家。女性。岐阜県出身。名古屋市在住。血液型はO型。身長155cm。 デビュー作は、貸本漫画の『黒コスモスの花言葉』(本名の金田君子名義に結婚して村上姓に)。その後も東京漫画出版社の貸本漫画にて数作品を発表する一方、雑誌への投稿活動を続け、1968年に『りぼん』(集英社)11月号に掲載された「ショーケン物語」により商業誌でデビューした。 以後、上原きみこのペンネームでおもに『週刊少女コミック』などの小学館の雑誌を中心に長く活動。上原きみ子のペンネームに変わった2019年2月現在は、『フォアミセス』(秋田書店)にて『いのちの器』を連載している。 19歳のころから漫画投稿を始め、1965年に金田君子名義で貸本漫画として『黒コスモスの花言葉』を発表。1968年、『りぼん』(集英社)11月号の「ショーケン物語」にて「上原希美子」として商業誌でのデビューを果たし、『りぼん』関連誌にて計2作品を発表した。ただ、2作品はいずれもスター物語であり、ドラマも描きたいと思っていた上原は『少女コミック』(小学館)に投稿する。それが編集の目にとまり、同誌の専属で描くこととなった。そして1969年からは同誌にて本格的に作品を発表し、「上原きみこ」として活動を始める。この年の『愛馬エンゼル』が上原にとって初の連載作品であった。その後1970年から1971年まで『週刊少女コミック』にて連載された『ルネの青春』を皮切りにヒット作が続いた。『ロリィの青春』・『炎のロマンス』などはミリオンセラーになっている。 1977年、『ちゃお』(小学館)にて独立創刊号から『舞子の詩』を連載。創刊号の表紙も飾っている。さらには『学年誌』にも『「まりちゃん」シリーズ』を連載するなど、おもに小学生を対象とした雑誌にも活動の場を広げていった。 1990年代以降はペンネームを「上原きみ子」に変え、レディース誌でも執筆を始めた。なかでも、1991年から『フォアミセス』(秋田書店)にて連載が開始された『いのちの器』は、30年超の長期連載作品となり、1998年にはテレビドラマ化された。単行本も2023年11月現在で92巻を数えている。
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上原きみ子
1990年代以降はペンネームを「上原きみ子」に変え、レディース誌でも執筆を始めた。なかでも、1991年から『フォアミセス』(秋田書店)にて連載が開始された『いのちの器』は、30年超の長期連載作品となり、1998年にはテレビドラマ化された。単行本も2023年11月現在で92巻を数えている。 作品に取り上げられている題材は、乗馬・フィギュアスケート・バレエなど幅広い。舞台も日本国外のものが少なくない。対象読者別では、これまでに少女漫画、児童漫画、レディースコミックを発表しており、「あとはシルバーコミックしかない」と語っている。また、小学館・集英社・講談社・秋田書店・白泉社といった日本の主要な出版社発行の漫画雑誌で執筆しており、出版された単行本の数も多い。特に、『ロリィの青春』などを発表していた1970年代には連載を数多く持っていたが、若くして結婚し3人の子供の母親になったため漫画家と育児との両立には大変苦労したという。 1990年には『「まりちゃん」シリーズ』で第35回小学館漫画賞児童部門を受賞している。 1990年代後半になると、フラワーコミックス(小学館)など上原きみことして刊行された単行本がほぼ絶版状態となり、古書店でも高い値段がついていた。しかし、2000年代に入ると数作品が文庫コミックとして復刊されたため、2014年現在は初期の単行本(貸本時代の漫画や『上原きみこ名作集』など)を除き入手はしやすくなっている。それでも復刊されていない作品はまだ多い。電子書籍化されている作品もある。
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箱田真紀
箱田 真紀(はこだ まき、本名同じ)は、日本の漫画家。広島県福山市出身。 『月刊Gファンタジー』(エニックス〈現・スクウェア・エニックス〉)で『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』を連載したのち、『月刊ガンガンWING』で『クロスボーン探偵団』や『ワールドエンド・フェアリーテイル』を連載。2001年のいわゆるエニックスお家騒動で『ワールドエンド・フェアリーテイル』の連載は中断し、活動場所も『月刊コミックブレイド』へ移った。しかしその後、『ワールドエンド・フェアリーテイル』の続編や『コミックブレイド』で新しく始まった『R』の連載は中断した。 『コミックブレイド』2007年5月号にて久々にイラストレーションを披露し、マッグガーデン社との作家契約が続いている事が判明。2008年12月に発刊された『コミックブレイド』増刊『コミックブレイドBROWNIE』創刊号にて『R』の連載を再開したが、同誌がその後発売されていないため、次回の掲載がいつになるかは現在のところ不明。
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松浦雅也
松浦 雅也(まつうら まさや、1961年6月16日 - )は、ミュージシャン、ゲームデザイナー、プロデューサー。大阪市出身。 赤橋幼稚園、大阪市立晴明丘小学校、枚方市立殿山第二小学校、枚方市立第三中学校、大阪府立牧野高等学校を経て、1983年立命館大学産業社会学部卒業。 小学生のときから音に強い興味を持ち、親に頼んでピアノ教室に通うようになる。ただしピアノを習うのは小学校を卒業するまでと親と約束していたことから、音楽を続けるために中学では吹奏楽部に入部し、パーカッションに配属される。中学3年生のときに若い新任の音楽教師と出会い、数々のロックや、冨田勲の『展覧会の絵』といった音楽に触れる。牧野高校に入学すると同級生からの影響を受けウェザー・リポートなどを知り、ローランドのシンセサイザー「SH-3A」を購入、高校で音楽を演奏する場所を確保するために軽音楽部を創設しバンド活動を始める。高校卒業時には後輩たちのためにSH-3Aは部室に残したという。京都の立命館大学に進学後もバンド活動を続けていたが、あるとき新大阪の音楽スタジオ「TONスタジオ」でアルバイトをすることになりスタジオを運営していた東祥高と出会い、空いている時間に高価な機材を自由にいじらせてもらえるようになる。 その後松浦はアルバイトを辞めるが、東が新しく「NEW*TONスタジオ」を始めると今度は音楽制作のパートナーとして誘われ、働くようになる。あるとき1980年代初頭から輸入楽器を扱うようになったナニワ楽器の営業マンから「フェアライトCMI」というシンセサイザーを紹介され、デモテープを聞いて衝撃を受ける。当時1200万円したこの機材を購入することを決意した東と松浦は、ローン契約のためにスタジオを「株式会社ニュートンスタジオ」として法人化、松浦は共同経営者で代表取締役となる。なお契約に当たってはかつてイベントの音楽を担当したことで親交のあった小松左京の協力を受けた。その後1980年代末にMacintoshとシーケンスソフトのパフォーマーが導入されるまで、シーケンスはフェアライトのページRで行われた。
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松浦雅也
スタジオの仕事の一つとして、松浦はFM大阪でアメリカ人DJ・カトリーナによる帯番組『HIT RADIO~POP MUSIC STATION』の一コーナーを担当していた。そのコーナーで毎月新曲を録り下ろしする企画が始まり、知人から紹介されたボーカルの安則まみ(チャカ)と「プレイテックス」が結成された。このときにプレイテックスとして制作された楽曲が収録されたテープがCBSソニーの新人開発を専門とする事業部に渡ったことが、後のPSY・Sデビューの切っ掛けとなった。 打ち込み音楽の先駆け的男女ユニット「PSY・S(サイズ)」で1985年にデビューし、9枚のオリジナルアルバムと3枚のベスト盤をリリース。作曲・サウンド面をすべて担当(1996年解散)。 PSY・Sオリジナルアルバムなど (上記は全てCBS・ソニー、Sony Music Entertainment) 1996年、プレイステーション向けゲームソフト『パラッパラッパー』は、その後の音楽ゲームの先駆となり、70カ国以上でリリースされる。元々ミュージシャンで、作品制作でサンプリングを活用した経験があり、先駆的な技術にも詳しい松浦が、CD-IやCD-ROM XAの機能に着目し、ジャンルを越えたメンバーを結集して1994年頃から制作を開始していた。集まったメンバーはゲーム業界と関係の無いメンバーが多く、ゼロベースでゲームを再定義し、新ジャンルを生み出した。後に、植松伸夫が「パラッパラッパーが出てきた時が、ゲームに触れてきた中で一番の衝撃だった」と語っている。 ゲーム作品 アコースティック・ギター・デュオのゴンチチには、1983年のデビュー時から1992年のアルバム『Gravity Loves Time』まで関わっていた。 1995年、メジャーデビューを目前に控えていた川本真琴(当時のアーティスト名はLupino)の楽曲のプロデュースを担当していた。
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FreeBSD
FreeBSD(フリービーエスディー)は、フリーでオープンソースのUnix風のオペレーティングシステム (OS) である。Research UnixをベースにしたBerkeley Software Distributionに由来しており、最初のバージョンは1993年にリリースされた。2005年には、FreeBSDは最も人気のあるオープンソースのBSDオペレーティングシステムとなり、単純に寛容にライセンスされたBSDシステムのインストール数の4分の3以上を占めていた。 FreeBSDはLinuxと似ているが、 範囲とライセンスに2つの大きな違いがある。すなわち、Linuxはカーネルとデバイスドライバのみを提供し、システムソフトウェアをサードパーティーに頼っているのに対し、FreeBSDはカーネル 、 デバイスドライバ 、 ユーザーランドユーティリティ、およびドキュメントといった完全なシステムを維持している。FreeBSDのソースコードは通常、寛容なBSDライセンスでリリースされており、Linuxで使われているコピーレフトのGPLとは対照的である。 FreeBSDプロジェクトには、ベースディストリビューションに含まれるすべてのソフトウェアを監督するセキュリティチームが含まれている。広範囲のサードパーティー製アプリケーションを追加するには、 pkgパッケージ管理システムやFreeBSD Portsを使ったり、ソースコードをコンパイルしたりしてインストールすることができる。 系譜的にはUNIX本流ともいえるOSであり、過去にはHotmailなどのサーバとして利用されていた実績を有するが、現在では多くがLinuxに置き換えられている。現在の利用状況に関しては、デスクトップOSのシェアは0.01%以下で計測不能であり、サーバOSのシェアは0.2%程度と、泡沫ともいえる厳しい状況が続いている。一方でNetflix社のようにFreeBSDサーバを積極的に活用し、1台あたり400Gbpsという規模のコンテンツ配信を行っているところもある。
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FreeBSD
FreeBSDの開発者達は、Webサイトにて安定していて高速・高性能でなおかつ安全、先進的な機能や多くのセキュリティ機能を提供していると語っていた。FreeBSD jail等の機能もレンタルサーバ等に適したシステムであるといえる。Linuxと異なりカーネルとユーザランドを含めて一つのOSであり、そしてOS側にGPLのものを含まないようにしていることも特徴の一つである。そして、堅牢性の高いBSDカーネルの設計が最大の特徴として認知されている。 1991年、ウィリアム・ジョリッツによって4.3BSD Net/2をベースとしたOS、386BSDが発表された。 しかし公開後の開発が停滞したため、386BSDのユーザらは「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作し、バグの対応などを行っていた。その後386BSDは、ほぼ1年にわたって放っておかれ、やがてパッチキットの量は膨大になってしまった。 そこで、386BSDのユーザらは「386BSDの開発の手助けのため」、パッチキットを適用した状態の「クリーンナップ」スナップショットの製作プロジェクトを進めた。しかし、Jolitzがこのプロジェクトの受け入れを拒否したことにより、プロジェクトは路線変更を余儀なくされた。結局、パッチキットの最後の取りまとめ役であったNate Williams、Rod Grimes、ジョーダン・ハバードらは、自分達で新しいOSの開発を行う事を決意し、1993年にFreeBSDプロジェクトをスタートさせた。「FreeBSD」という名前はDavid Greenmanによって考案されたもので、386BSDの最初の単語 "Three" をもじって "Free" にした命名である。1993年6月19日、ジョーダン・ハバード、Rod GrimesおよびDavid Greenmanは、FreeBSDの開発開始をアナウンスした。 FreeBSDは4.3BSD Net/2をベースに開発が行われ、1993年12月には最初のリリースであるFreeBSD 1.0が、そして、1994年5月にはFreeBSD 1.1がリリースされた。
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FreeBSD
FreeBSDは4.3BSD Net/2をベースに開発が行われ、1993年12月には最初のリリースであるFreeBSD 1.0が、そして、1994年5月にはFreeBSD 1.1がリリースされた。 しかしこの後、当時UNIXのソースコードの権利をもっていたノベルとカリフォルニア大学バークレー校との長期に渡った訴訟の和解が成立し、4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があることが正式に認められた。そのため、FreeBSDはそのまま開発を続けることが不可能となり、1994年7月にリリースされたFreeBSD 1.1.5.1を最後に4.3BSD Net/2をベースにした開発を停止した。 FreeBSDプロジェクトは、UNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にしてFreeBSDの開発を再開した。再開後の最初のリリースであるFreeBSD 2.0は1994年11月に発表され、その後、FreeBSDは順調に発展を続けている。 X Window Systemについては、当初XFree86を標準として採用していたが、FreeBSD 5.3からはX.Orgを標準とするように移行した。 FreeBSDのパッケージ管理システムは、ビルド済みパッケージをインストールするpackage, pkg(8)とソースをビルドするスタイルのportsがある。OS以外でpackageのインストールしたものは原則として「/usr/local」以下と「/var/db/pkg」以下に入る。つまりOS部分とほぼ分離されているので明示的な管理やバックアップもしやすいが 基本的にライブラリを共用する発想で構成されているのでWindows等でアプリごとにライブラリを用意することに慣れている人には使い辛いと感じることもある。7系から8系等、メジャーバージョンアップの際には使用ライブラリの互換性がなくなるが一部(usbを使うものなど)を除いて「compat7x」を入れることにより動作する。 packageはビルド済みのバイナリをシステムにインストールする仕組みでportsからインストールされたものも含めてバージョンやファイル構成が記録される。
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FreeBSD
packageはビルド済みのバイナリをシステムにインストールする仕組みでportsからインストールされたものも含めてバージョンやファイル構成が記録される。 サーバは本家の他日本など各地にある。自分でもpackageを作る事が出来るので複数台同一環境のPCを管理している場合にも使うことができる。 単独のpackageの個別インストールもできるが、「pkg_add -r」コマンドで上位にあるpackageを指定することにより依存packageもインストールされる。しかしpackageとPCのPerl等依存ツールやライブラリのバージョンが異なる場合、手動で修正が必要である等の問題があったり、RELEASE版では最新のpackageを取得するために環境変数「PACKAGESITE」を指定しなくてはいけない他、Web上の情報では「FreeBSDはビルドするのが当たり前」という風潮がかつては多かったため新規インストール以外にはあまり使われないように見受けられる。基本的にはports更新後一週間後程度にはstable版に最新のpackageがアップロードされているようだ。packageのバージョンアップ用のサポートツールとしてpkg_replace等がある。 portsは半自動的にソースコードからpackageのビルド及びインストールを行う方法である。特殊なパッチを当てる当てないの選択肢ダイアログ等が表示される場合もあるが、基本的にはソースコードのダウンロードからコンパイル、package生成、packageインストールまでの一連の流れを自動的に行うことができる。 ただ、実際にはシェルスクリプトだけのものやフォント、NVIDIA等メーカー品バイナリやJava等ビルド不要のものも多い。packageに比べると作業領域を明示的に指定できる長所がある。
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ただ、実際にはシェルスクリプトだけのものやフォント、NVIDIA等メーカー品バイナリやJava等ビルド不要のものも多い。packageに比べると作業領域を明示的に指定できる長所がある。 基本的には「/usr/ports」に置かれる。portsの最新情報への更新は「portsnap」というコマンドを用いる事で最小限の更新だけで済ませられる(あるいは同portsツリーにあるdevel/gitないしnet/gitupを用いてportsツリーを更新することも可能)。portsに登録されているソフトウェアが新バージョンへ更新した時に一時的にビルドできなくなるなどの問題が発生することもあるので、Perl等の重要なportsの更新時には1週間程度様子を見る必要がある。 portsに登録されているソフトウェアは2022年1月14日の時点で46,811種が登録されており日々増加している。そのメンテナンス状況はメンテナと呼ばれる管理者の能力や意欲に左右される面がある。そのため、常時メンテナンスされて高い品質を維持しているportsも多いが、逆にソースファイルのサイトが閉じていたり、ビルドできなかったりあるいは古いバージョンのまま放置されていたりするものがあるという問題点も指摘されている。 日本人メンテナの活動により、日本語環境に関するportsは他言語に比べ比較的良く整備されており、特に日本語版LaTeXは完全な環境が容易かつ安定してインストールできることは特徴的である。 無駄なportsを増やさないために「/etc/portsnap.conf」で使わないカテゴリを指定できるがあくまでディレクトリ単位でのカテゴリ指定しかできない。安直にメタポートと呼ばれるものをビルドしようとすると依存するものを全てビルドしてしまうのでファイル構成を把握したらベーシックなライブラリから更新するとストレージ使用効率が良い。 portsからインストールしたものは、たとえpackage生成を行わないように指定したとしても、packageからインストールしたものと同等に扱われる。サポートツールとしてpkg_replaceの他portmasterとruby依存のportupgrade等が使われる。pkg_addに起因するportの依存記述には問題がありしばしインストールの妨げになることがある。
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portsからインストールしたものは、たとえpackage生成を行わないように指定したとしても、packageからインストールしたものと同等に扱われる。サポートツールとしてpkg_replaceの他portmasterとruby依存のportupgrade等が使われる。pkg_addに起因するportの依存記述には問題がありしばしインストールの妨げになることがある。 pkg(8)は、FreeBSD用の次世代のパッケージ管理システム pkgng として開発されてきたものである。従来のバイナリベースパッケージ管理システムである package よりも、手軽なバイナリアップデート、リモートパッケージ検索、依存関係の管理等の機能が強化されている。pkgは、これまでのものとはパッケージのデータベースの管理方法が異なるため現時点ではFreeBSD 9.x までのバージョンでは、pkg(8)の使用がデフォルト設定にはなっておらず、手動で pkg 管理システムに移行しなければならない。FreeBSD 10.0Rからデフォルトのパッケージ管理システムとして採用されている。 FreeBSDでは安定版であるFreeBSD-RELEASEの他FreeBSD-CURRENTとFreeBSD-STABLEの2つの開発ブランチが存在する。 CURRENTはまさに最新のFreeBSDのバージョンの開発ブランチで、作業進行中のソースがならび、開発途上のソフトウェアや過渡的な機能などが含まれている。しかし、これがリリース版に採用されるとは限らない。 STABLEは主に開発が終わったCURRENT開発ブランチに対して、分枝されてリリース版(安定版)を作成する開発ブランチである。こちらに移ってからは全ての修正はこの開発ブランチで行われる。1つのバージョン系列の開発が終わるとこのブランチからも外れ、以後一定期間は必要に応じてセキュリティアップデート等の修正が行われる。修正はパッチをあてることで行われ、8.1-RELEASE-p2などと最後尾に修正が行われた回数(pはpatch levelのこと)が示される。
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いったんSTABLEとして扱われると、1つ上の開発バージョンがCURRENTとして扱われることになる。例外として、FreeBSD 5系では多くの改善や機能追加が行われたために、5.0 - 5.2の間はリリース版が出ているのにもかかわらずSTABLEとして扱われない状態が続いていたが、6.0がリリースされてからは元の体制に戻った。 FreeBSDのRELEASE版及びSTABLE版、CURRENT版は、Gitを使ってソースコードレベルでOSのバージョン管理を行う。 ソースコードの管理は、当初はConcurrent Versions Systemが採用され、更新にはかつては「csup」というコマンドが用いられたが(csupはCVSupの主要な機能をC言語で再実装したものである。これは、CVSupがプログラム言語として一般的でないModula-3で実装されており、これが理由でcsupはベースシステムに含まれるがCVSupはportsから導入する)、cvsupによる配布は2013年2月一杯で終了した。以降2020年12月まではApache Subversionが用いられていたが、現在ではGitへ移行している。 /usr/src以下に展開されたソースコードをmakeすることにより、メジャーバージョンの更新も含めてOS全体のバージョンアップができる。 バイナリで配布されたRELEASE版に対しては「freebsd-update」というコマンドが用いられ定期的なセキュリティパッチ等のバージョンアップができる。GENERICカーネルであればカーネルのアップデートも可能である。通常はセキュリティパッチが入るとカーネルの名称に「p2」等とバージョンがつくがカーネル以外だけの更新の場合カーネル名称は変わらない。 FreeBSDのSTABLE版及びRELEASE版については、リリース後一定期間、セキュリティに関する問題が発生した場合に必要なアドバイザリ及びアップデートがリリースされる保証期間が設けられる。保証期間については以下の3つの区分が存在する。CURRENT版は開発版の扱いのため、セキュリティアップデートやアドバイザリは提供されない。
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FreeBSD
FreeBSDのSTABLE版及びRELEASE版については、リリース後一定期間、セキュリティに関する問題が発生した場合に必要なアドバイザリ及びアップデートがリリースされる保証期間が設けられる。保証期間については以下の3つの区分が存在する。CURRENT版は開発版の扱いのため、セキュリティアップデートやアドバイザリは提供されない。 ただし実際には、各RELEASE版に対しNormal及びExtendedのどちらを選択するか、その時点でのRELEASE版のコード品質等を考慮して個別に定められることが多く、時には「古いRELEASEの方が新しいRELEASEよりも保証期間が長い」という逆転現象が起こることがある。例:8.1-RELEASEの保証期間が2012年7月末までなのに対し、8.2-RELEASEの保証期間は2012年2月末まで。過去には7.1-RELEASEと7.2-RELEASEの間でも同様の逆転現象が発生した。ただし8.2-RELEASEの保守終了予定日は8.1-RELEASE同様2012年7月末まで延長されている。このため、特にサーバ等で長期に運用する予定の機器では、保証期間の終了時期を踏まえたバージョン選択を行う必要がある。 現在、セキュリティアップデートなどがサポートされている安定リリース版、及び開発ブランチは以下の通りである。 「1.0-RELEASE」は、4.3BSD Net/2を基にして1993年11月に開発された。 4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があるとして、1994年7月5日にリリースされた「1.1.5.1-RELEASE」を最後に4.3BSD Net/2を基にした開発を停止。 「2.0-RELEASE」はUNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にして1994年11月22日に発表された。バージョン2の最終版の「2.2.8-RELEASE」は1998年11月29日に発表された。 「2.0-RELEASE」は、AT&T由来のUNIXソースコードの著作権者ノベルの法的請求権から(将来に渡って)公的に解放された最初のFreeBSDのバージョンである。インターネットサーバ拡大期の始まりにおいて、広く使われた最初のバージョンでもある。
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FreeBSD
「2.0-RELEASE」は、AT&T由来のUNIXソースコードの著作権者ノベルの法的請求権から(将来に渡って)公的に解放された最初のFreeBSDのバージョンである。インターネットサーバ拡大期の始まりにおいて、広く使われた最初のバージョンでもある。 「3.0-RELEASE」は1998年10月16日に発表された。バージョン3の最終版の「3.5-RELEASE」は2000年6月24日に発表された。 「3.0-RELEASE」はジャイアントロックを用いてSMPシステムをサポートできる最初のブランチである。「3.1-RELEASE」からはUSBをサポートし、「3.2-RELEASE」からギガビット・イーサネットカードをサポートした。 「4.0-RELEASE」は2000年3月13日に発表された。2005年1月25日に出た最終版の「4.11-RELEASE」は2007年1月31日までサポートされていた。 バージョン4は、その安定性を賞賛され、最初のインターネット・バブルの時期にプロバイダとホスティングサーバから好まれたオペレーティングシステムであり、Unix系では最も安定した高いパフォーマンスのオペレーティングシステムの一つと広く見なされている。バージョン4の新機能では、「4.1-RELEASE」より、後にNetBSDやOpenBSDのシステムの一部となるkqueue(2)のシステムコールを導入した。 「5.0-RELEASE」は2003年1月14日にCURRENT(最新開発版)として発表された。バージョン5の最初の安定版のリリースは、2004年9月6日に発表された「5.3-RELEASE」である。「5.05-RELEASE」 - 「5.2.1-RELEASE」は「5-CURRENT」として一般ユーザの利用は勧められていなかった。バージョン5の最終安定版は2006年5月25日に出た「5.5-RELEASE」であった。 バージョン5の最初のブランチとして登場した「5.0-RELEASE」は、先進的なマルチプロセッサとアプリケーションスレッディング、UltraSPARCとIA-64のプラットフォーム対応等のサポートといった注目度の高い機能を手広く先取りしていた。
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バージョン5の最初のブランチとして登場した「5.0-RELEASE」は、先進的なマルチプロセッサとアプリケーションスレッディング、UltraSPARCとIA-64のプラットフォーム対応等のサポートといった注目度の高い機能を手広く先取りしていた。 「6.0-RELEASE」は2005年11月4日にリリースされた。バージョン6の最終版の「6.4-RELEASE」は2008年11月11日にリリースされた。これらのバージョンは、SMPと先進的なIEEE 802.11の機能性の更なる開発の他に下記のようなものがある。 その他、プリエンプティブカーネル(タスクの置き換え)とハードウェアパフォーマンス測定ドライバ (HWPMC) のサポート等が挙げられる。 「7.0-RELEASE」は2008年2月27日にリリースされた。バージョン7の最終版の「7.4-RELEASE」は2011年2月24日にリリースされた。 新機能は下記の通り多彩に渡る。 ベンチマークは、LinuxだけでなくFreeBSDの以前のバージョンに比べても著しい速度の向上を示している。 「4.0-RELEASE」より対応していたDEC Alphaアーキテクチャへの対応は、「7.0-RELEASE」より中止となった。 「8.0-RELEASE」は2009年11月25日にリリースされた。2009年8月にトランクからバージョン8はブランチした。バージョン8の最新版は「8.4-RELEASE」で2013年6月7日にリリースされた。 主な機能は、SuperPages対応、Xenの「ドメインU (domU)」への対応、ネットワークスタックの仮想化、スタックスマッシュプロテクション、新しいTTYレイヤへの置き換え、大幅に更新され、改善されたZFSへの対応、「8.2-RELEASE」で追加されたUSB3.0とそのホストコントローラの規格であるxHCIへの対応、IGMPv3を含むマルチキャストのアップデート、(「8.2-RELEASE」で追加された)インテルCPU対応のNFSv4とAESのアクセラレータを導入しているNFSのクライアント・サーバの書き換えである。
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改良されたデバイスのmmap()の拡張機能によって、x86-64プラットフォーム用の64ビットNVIDIAディスプレイドライバが実装可能となった。プラグイン対応の輻輳制御フレームワークと、Linuxのエミュレーション下で実行されるアプリケーションのシステム情報を取得するDTraceを使用可能とする機能は「8.3-RELEASE」で追加された。 「9.0-RELEASE」は2012年1月12日にリリースされた。「9.1-RELEASE」は2012年12月31日にリリースされた。「9.2-RELEASE」は2013年9月30日にリリースされた。「9.3-RELEASE」は2014年7月16日にリリースされた。 リリースの主な機能は、新しいインストーラ bsdinstall(8) の追加、UFSのFFS (Fast Filesystem) がsoftupdatesジャーナリングに対応、ZFSがバージョン28に更新、ユーザレベルDTraceの導入、NFSサブシステムが、NFSv3およびNFSv2に加えてNFSv4に対応した新しい実装に更新、ファイル保護機能Capsicumをカーネルでサポート、FreeBSD/powerpcでPlayStation 3をサポートなどである。 カーネルとベースシステムはClangを使用して構築することができるようになったが、「9.0-RELEASE」はまだデフォルトでGCC4.2を使用している。 「10.0-RELEASE」は2014年1月20日にリリースされた。「10.1-RELEASE」は2014年11月14日にリリースされた。「10.2-RELEASE」は2015年8月13日にリリースされた。 VirtIO (準仮想化)ドライバがKVMに対応、FUSEの実装などである。 「10.0-RELEASE」に実装されたBHyVe(BSDハイパーバイザ)は、まだ実験的なハイパーバイザであるが、仮想マシン内でゲストOSを稼働できる。仮想CPU数・ゲストメモリ・IOコネクティビティなどなどもコマンドラインパラメータで指定できる。 「10.3-RELEASE」より、UEFIシステムにおけるroot-on-ZFSインストールに対応した。 「11.0-RELEASE」は2016年10月10日にリリースされた。
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FreeBSD
「10.3-RELEASE」より、UEFIシステムにおけるroot-on-ZFSインストールに対応した。 「11.0-RELEASE」は2016年10月10日にリリースされた。 FreeBSD 11は新しいサポートモデルの下で、少なくとも2021年9月30日までの5年間の長期サポートが行われるとしている。 FreeBSD 11.0-RELEASEのリリースエンジニアリングの終盤でOpenSSLの脆弱性が公開されたため、FreeBSDリリースエンジニアリングチームはこれを修正した「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」を新しくビルドして公開した。今回のリリース対象はこのパッチレベル1が対象となっている。アップグレードする際に「FreeBSD 11.0-RELEASE」がインストールされている場合、早期に「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」以降へアップグレードすることが望まれるとしている。 FreeBSD 11.1-RELEASEは予定通り2017年7月26日リリースされた。 「12.0-RELEASE」は2018年12月11日にリリースされた。 安定版ブランチ単位で5年間のサポートを提供することについてビジネスモデルを再評価する必要が出てきたとして、2019年3月31日まで新しいサポートモデルに関して意見を募るとしている。 「12.1-RELEASE」は2019年11月4日にリリースされた。 「12.2-RELEASE」は2020年10月27日にリリースされた。 「12.3-RELEASE」は2021年12月7日にリリースされた。 「12.4-RELEASE」は2022年12月5日にリリースされた。 2021年4月13日、「13.0-RELEASE」がリリース。 2022年5月12日、「13.1-RELEASE」がリリース。 2023年4月11日、「13.2-RELEASE」がリリース。 掲載しているのはRELEASEのアナウンスがされたバージョンのみ。 ※2006年4月1日には、エイプリルフールのネタとしてFreeBSD 2.2.9-RELEASEが発表されている。 FreeBSDでは、2023年現在、対応アーキテクチャを「Tier 1~4」までの4段階で管理している。
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FreeBSD
2023年4月11日、「13.2-RELEASE」がリリース。 掲載しているのはRELEASEのアナウンスがされたバージョンのみ。 ※2006年4月1日には、エイプリルフールのネタとしてFreeBSD 2.2.9-RELEASEが発表されている。 FreeBSDでは、2023年現在、対応アーキテクチャを「Tier 1~4」までの4段階で管理している。 最新のRELEASE版について、公式サイトにてインストールイメージが配布されているアーキテクチャ。いわゆる「フルサポートアーキテクチャ」であり、ドキュメントなどもまずはこの層に属するアーキテクチャ向けに整備される。 開発・サポートプロジェクトが継続しているアーキテクチャ。公式サイトでインストールイメージも配布されているが、熟成度が低いとされて部分的なサポートのみとなっている。 試験的に開発が行われているアーキテクチャ。開発状況によっては予告なくFreeBSDのソースツリーから外される可能性がある。 完全にサポート外のアーキテクチャ。 長年、FreeBSDのロゴはBeastieとも呼ばれる通常のBSDデーモンであった。しかしながら、Beastieは、FreeBSDに特有のものではなかった。最初に現れたのは1976年のベル研究所によるUNIXTシャツであり、最も人気のあるBSDデーモンのバージョンはアニメ監督のジョン・ラセターによって1984年に描かれ始めたものである。いくつかのFreeBSDに特有のバージョンは、細川達己によって後に描かれたものである。 FreeSBIEプロジェクトは、FreeBSDベースのLive CD環境を提供している。 TrueNAS(旧FreeNAS)プロジェクトは、FreeBSDベースの、Webベースでの操作を可能としたNASファイルサーバ用OS環境を提供している。 XigmaNASプロジェクトは、FreeNASプロジェクトから分離したNASファイルサーバ用OS環境プロジェクトである。 TrueOS(旧PC-BSD)プロジェクトは、FreeBSDをデスクトップ・サーバと両方に対応したディストリビューションを提供している。 HardenedBSDは、セキュリティ対策を拡充するため2014年にフォークしたディストリビューション。
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よしづきくみち
よしづき くみち(1月26日 - )は、日本の男性漫画家、イラストレーター。東京都生まれ、埼玉県越谷市在住。左利き。 2002年に『月刊コミックドラゴン』(富士見書房)掲載の「Living Quarter」でデビュー。同年に同誌で連載開始した『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』(原作:山田典枝)で連載デビューし、代表作となった。2023年から「現代ビジネス」(講談社)サイト上において『南海トラフ巨大地震』(原作:biki)を連載中。 「よしづ / きくみち」と誤解(ぎなた読み)されることがあるが、氏名は「よしづき / くみち」と区切るのが正しい。 東京都で生まれる。小学生のころに姉の影響で漫画を読み始め、漫画の絵を真似して描くうちに漫然と漫画家を志すようになった。当時はとりわけ桂正和の『ウイングマン』を熱心に読んでいたという。 中学校時代はイラスト部に所属し、作品展に出品したイラストを褒められた経験から改めて「絵の仕事で食べていこう」と考える。このころ山本二三の描く背景が好きになり、これが背景にこだわりを持って描くという自分のスタイルの元になっているとして、よしづきは山本を「最も影響を受けた人」の一人に挙げている。 高校卒業後、専門学校へ進むも「自分で勉強して投稿した方が早いな」と考えて中退。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)に2回投稿したが実らず、当時好きでよく読んでいた『月刊アフタヌーン』(講談社)に投稿し、1993年と1994年にアフタヌーン四季賞佳作を受賞した。デビューに向けて短編のネームを担当編集者に見せる日々を送っていたが、「少々ネーム作りに疲れていた」ところに漫画家の藤島康介がアシスタントを必要としているという話を聞き、『ああっ女神さまっ』の作画アシスタントとなった。
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よしづきくみち
アシスタントを始めてしばらくしたころ、藤島の職場にパソコンとペンタブレットが導入され、初めて使ったペイントソフトに「これ使えばもう描けない絵なんてないじゃん」と思うほどの強い衝撃を受ける。やがて自分でも購入し、2000年に自身のホームページ「つちのこ準星群」を開設。翌2001年、ホームページで公開していたイラストが富士見書房の編集者の目に留まり、「原作つきの作品をやってみないか」と誘いを受けた。その誘いを一旦保留とした上で、同社刊行の『月刊コミックドラゴン』2002年2月号にて「Living Quarter」を発表。新人賞受賞から約8年越しのデビューを果たした。 「Living Quarter」を描く中で「話の構成がいちばんむずかしい」と力不足を感じ、「原作つきで修行させてもらえるのはやっぱりありがたいな」と考えて当初の誘いを引き受ける。こうして2002年5月、藤島のアシスタントを辞めて同誌にて『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』(原作:山田典枝)の連載を開始し、連載デビューした。同作はアニメ化や小説化もされるヒット作となってシリーズ化。翌2003年に連載開始したシリーズ第2作『魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道』(同原作)でもよしづきが作画を担当した。 2006年の『太陽と風の坂道』連載終了後、2008年のシリーズ第3作『魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜』(同原案)ではストーリーからよしづきが担当。また同年には『夏のソラ』の連載と並行し、同名実写映画を原作とした『フレフレ少女』(原作:橋本裕志・渡辺謙作)も『スーパージャンプ』(集英社)にて連載した。 2009年、『オースーパージャンプ』(集英社)に不定期連載として発表していた『君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜』が毎号連載化し、初のオリジナル連載作品となる。2度の連載誌移籍を経て2012年に連載終了した後は、集英社の青年誌と講談社の少年誌を行き来しながら作品を発表。2017年から2018年にかけては『8畳カーニバル』を『週刊少年マガジン』(講談社)にて連載し、オリジナル作品では初の週刊連載となった。
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よしづきくみち
その後、『8畳カーニバル』を読んだ編集者に声をかけられ、2019年に『月刊アフタヌーン』(講談社)にて『ああっ女神さまっ』のスピンオフ作品『ああっ就活の女神さまっ』を連載開始。アフタヌーン四季賞佳作を受賞して以来初めて同誌での連載を果たすとともに、かつて作画アシスタントを務めた『ああっ女神さまっ』に再び関わることとなった。 よしづきの作風は、「抒情派絵師」(集英社)、「叙情派作家の雄」(白泉社)など、出版社の宣伝文句においては「抒情(叙情)派」と形容されることがある。特に透明感溢れる作画には定評があり、デジタル作画ながらアナログらしさを意識した絵作りが特徴。 『月刊ニュータイプ』2003年3月号では、「藤島康介先生のアシスタント〔中略〕がいちばん勉強になりました」「カメラから学んだことってものすごくいっぱいあるんですよ」といった本人の談を紹介し、「アシスタント経験プラス趣味の幅広さが現在の作風に大きく影響したようだ」と分析している。 よしづきのイラストは、「繊細なキャラクターと光あふれる風景」という2つの要素から特徴づけて評される。よしづき自身、キャラクターと背景のバランスは「すごく気をつかう部分」であると語っている。 よしづきの描く少女は、「息吹を感じさせるやわらかな少女イラスト」(『パレッタ』2002年秋号)、「キャラクターのやわらかな表情」(『ニュータイプ』2003年3月号)など、しばしば「やわらか」という形容動詞を伴って称賛される。また、脚本家・漫画原作者の横幕智裕は、『マギの贈り物』巻末解説において「よしづき先生の描く女の子は、〔中略〕明るい表情、切ない表情、泣き顔、さまざまな表情が実に魅力的」と評している。 一方で背景の描写も評価が高く、光と大気を意識した奥行きのある風景描写を『コミックス・ドロウイング』4号では「淡い世界に広がる空気感」と表現している。その緻密さも特徴的で、よしづきのアシスタントを一時期務めていた漫画家の渡辺獏人は「よしづき氏は徹底的に背景絵にリアルさを追求していた。例えば家の掃きだし窓のサッシを描く場合でも、棧(さん)の上側と下側の幅が違う事に注意して描く」と紹介している。なお、背景の多くは資料を多用せず、自身で撮った写真や覚えているイメージを中心に描き下ろすという。
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よしづきくみち
趣味はバイク、写真、天体、キャンプなど広範囲に渡るほか、交友のあるCLAMP・猫井椿から「猫ばか」と呼ばれたことがあるほどの愛猫家でもある。 特にバイクは趣味として最初に挙げられることが多い。愛機の車種はCBR600RR。16歳の時にNSR250Rを購入して以来、バイクを所有していなかった時期はないといい、「アクセルを開けばすぐにあのころの青春モードに心を乗せることができる」と語っている。 また、写真はアシスタント時代に先輩の勧めでカメラを始めて以来の趣味であり、その体験は自身の描くイラストにも活かされているという。「カメラを知って以降は、光や陰影の捉え方についてが大きく変わりました」と語り、レンズを意識した構図や光彩の表現など多くのことを学んだと述べている。 当該イラストが初出の商業媒体のみ掲載。★はイラストが『よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜』に収録されているもの。 全て角川書店(当時)またはKADOKAWAからの発行。
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ノーム・チョムスキー
エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928年12月7日 - )は、アメリカ合衆国の哲学者、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者。マサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授。妻は言語学者・教育学者のキャロル・チョムスキー。 ノーム・チョムスキーは1928年12月7日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのイースト・オーク・レーン(英語版)近郊で生まれた。父ウィリアム・チョムスキー(英語版)は当時ロシア帝国支配下のウクライナで生まれたが、戦乱を避けて1913年にアメリカへ渡った。メリーランド州ボルチモアの搾取工場で働き、貯蓄してジョンズ・ホプキンス大学で学んだ甲斐もあり市のヘブライ人系小学校教師の職を得た。現在のベラルーシで生まれアメリカで育ったエルシー・シモノフスキーとの結婚を期にフィラデルフィアに移り、夫妻はミクッバ・イスラエル宗教学校で教鞭を取った。「とても温和で紳士、そして魅力的な人物」と評された ウィリアムはここの校長にまで出世し、1924年にはユダヤ系教員養成大学では合衆国最古であるグラッツ大学(英語版)の教授に就任、1932年からは教授長職を勤めた。1955年からはDropsie Collegeでも教鞭を取ったウィリアムは、別に中世ヘブライ語の研究にも取り組み、一連の著作も発表した。 ノーム・チョムスキーは夫妻初の子供として生まれた。5年後に生まれた弟デビッドとは仲が良い兄弟だったが、気楽な弟に対し兄は負けず嫌いの性格だった。両親の母語はイディッシュ語だったが、それを家庭内で使う事は戒められた。夫と異なり、エルシーはごく普通のニューヨーク訛りの英語(英語版)を喋った。兄弟はユダヤ人社会で育ち、ヘブライ語を習い、アハド・ハアムの著作など労働シオニズムに影響を受けていた一家にあって、よくシオニズムの政治理論について語り合った。子供の頃からユダヤ人として、特にフィラデルフィア在住のアイルランド系やドイツ系共同体から受ける反ユダヤ主義に直面し、ナチス・ドイツのフランス侵攻を祝うドイツ人のビア・パーティは忘れられないものとなったという。
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