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オーサリングツール
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オーサリングツール (Authoring Tool) またはオーサリングソフトウェアは、コンピュータでいわゆるメディアコンテンツを作るためのアプリケーションソフトウェアである。
グラフィックツール、音楽ツール(DTM系)、出版系(DTP用)、ウェブサイト制作や運営管理に用いるWebオーサリングツール、ゲームやスライドショーなどの制作に用いるマルチメディア系、DVDソフトの制作用などがある。
Appleのプログラマ、ビル・アトキンソンが開発したHyperCard(Macintosh標準ハイパーテキスト作成ツール)がマルチメディアオーサリングツールの元祖であるといわれている。HyperCardはプログラミング環境としても良く出来ており、ゲームなどの作品制作をはじめ、ペイントツールのようなツール等も作ることができる(スタイルとしては、イベント駆動型プログラミング及びオブジェクト指向プログラミングであった)。その後、HyperCardを基にしたSuperCardや、Oracle Media Objects (OMO) など、数々のマルチメディアオーサリングツールが出回った。日本ではパソコン通信全盛期にはMASL、Ray、FILLYといったマルチメディアオーサリングツールが主流であった。富士通のFM TOWNSにはTownsGEARというマルチメディアオーサリングツールが付属していたが、その後アドビのDirectorやFlashが主流になった。
eラーニングのコンテンツとして、Microsoft Office PowerPointのスライドと、それを発表している様子を撮影した動画を合成する各種ソフトウェアも、オーサリングツールであり、合成作業自体を「オーサリング」と読んでいる。
HDR (ハイダイナミックレンジ) に対応するもの。
HDR (ハイダイナミックレンジ) に対応しないもの。
DCI準拠JPEG2000連番画像やDCDM TIFF連番画像などの映像と、PCM音声から、DCP (デジタルシネマパッケージ)を作成するためのもの。なお、DCPパッケージの直接生成に対応する動画編集ソフトウェアとして、DaVinci ResolveやAdobe Premiere Proなども存在する。
DCPの再生には、easyDCP Player、CinePlayer、QuVIS DCPPlayer、NeoDCP Player、VLCメディアプレーヤー 2.2以降 (asdcplibベース)などが対応している。
IMFはNetflixなどのUHDストリーミングで使われている。IMF形式の直接出力に対応する動画編集ソフトウェアとして、DaVinci Resolve 15以降、Avid Media Composer 2019以降なども存在する。
多くの動画エンコードソフトウェアは標準でYoutubeやFacebookなどへの動画のオーサリングに対応している。
360度動画の出力に直接対応するソフトウェアとしては、Adobe Premiere Pro CC 2015.3以降、Final Cut Pro X 10.4以降などがある。
360度動画の再生にはVLC 3以降、Scratch Play、GoPro VR Player (旧Kolor Eyes)、Whirligig Playerなどが対応している。
YoutubeのHDR動画は、H.264 10bit、ProRes 422、ProRes 4444、DNxHR HQX、VP9 profile 2のどれかのコーデックにエンコードする必要があり、また、動画コンテナにはHDRメタデータを付加する必要がある。この出力に対応するソフトウェアとしては、DaVinci Resolve、Adobe Premiere Pro、Adobe After Effectsなどが存在する。
NetflixのHDR動画はIMF形式を採用している。IMF形式の出力に対応するオーサリングソフトウェアは#IMF対応を参照。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%AB
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ハイパーテキスト
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ハイパーテキスト (hypertext) とは、複数の文書(テキスト)を相互に関連付け、結び付ける仕組みである。「テキストを超える」という意味から"hyper-"(~を超えた) "text"(文書)と名付けられた。テキスト間を結びつける参照のことをハイパーリンクと言う。 ハイパーテキストによる文書は静的(前もって準備され格納されている)または動的に(ユーザの入力に応じて)生成される。よって、うまく作られたハイパーテキストシステムは、メニューやコマンドラインなどの、他のユーザインタフェースパラダイムの能力を包含しており、それらを置き換えることができる。クロスリファレンスを含む静的な文書群と、対話的なアプリケーションの両方を実現するのに使える。文書やアプリケーションはローカルでもインターネットのようなコンピュータネットワーク環境でも利用できる。最も有名なハイパーテキストの実装はWorld Wide Webである。ハイパーテキストが提供する、情報の関連性を辿る手段により、大量の文献を逐一調べることなく目的の情報に到達する事ができるようになった。
ハイパーテキストという語は広く使われているが、実際にはハイパーメディアと呼んだほうが適切な場合も多い。
ハイパーテキストの前兆は、様々な種類のリファレンス(辞書や百科事典)で使われる単純なテクニックに見られる。用語に添えられた小さな文字でその用語についての(同じリファレンス内の)記事や項目を示すものである。用語の前に指差しの絵記号が ☞このように、または矢印が ➧このように 来ることもある。そのような手動のクロスリファレンスのほかにも、文書に注釈を組み込む様々な実験的手法があった。その最も有名な例はタルムードである。
ハイパーテキストの核心は、情報オーバーロード問題の扱いである。以下に述べる人物は皆、情報の中に人間性が埋もれてしまっているという認識を強く持っていた。意思決定者は誤った判断を繰り返し、科学者たちは研究を重複させることが、あまりにも多い。メンデルの研究の再発見がその例である。
20世紀の初め、先見の明のある2人の人物がクロスリファレンスの問題に挑み、労働集約的な力任せの方法に基づく提案をした。ポール・オトレは、すべての文書はインデックスカードに記録された固有の語句に分解できるはずだという "Monographic Principle" に基づく、ハイパーテキストの元ともいえるコンセプトを提案した。1930年代、H・G・ウェルズは書籍という線形な型には収まらない情報を蓄積する『世界の頭脳』の創設を提案した。しかしながら費用の理由から、どちらの提案も成功することはなかった。
したがって、ハイパーテキストの真の歴史が始まったのは1945年ということになる。この年、ヴァネヴァー・ブッシュが The Atlantic Monthly誌に As We May Think(『人の思考のように』)という論文を書き、彼がMemexと呼んだ未来のデバイスについて述べた。Memexは機械式の机で、マイクロフィルムの拡張可能なアーカイブと接続されており、図書館から本や書き物などのどんな種類の文書でも表示することができ、さらにあるページから参照されているページへと参照を辿っていくことができる。彼の言う「全く新しい形の百科事典; Wholly new forms of encyclopedia」は今日のコンピュータ、インターネットを予見したものだといえる。
ほとんどの専門家はMemexを真のハイパーテキストシステムだとは考えていない。しかし、ハイパーテキストの歴史はMemexから始まった。なぜなら、As We May Think は一般にハイパーテキストの発明者と称される2人のアメリカ人に直接の影響と着想を与えたからである。それはテッド・ネルソンとダグラス・エンゲルバートである。
ネルソンは「ハイパーテキスト」と「ハイパーメディア」という語を1965年に作り、ブラウン大学の アンドリーズ・ヴァン・ダム の指導の下で1968年にHypertext Editing Systemを開発した。
エンゲルバートは1962年にスタンフォード研究所でNLSシステムの開発を始めた。しかし、資金や人材、設備の確保の遅れのため、その核となる機能が完成したのは1968年のことだった。その年、エンゲルバートはハイパーテキストインタフェース(と初の実用的なGUI)のデモを公衆の前で初めておこなった。このデモはその革新性から「すべてのデモの母(The Mother of All Demos)」と呼ばれる。
NLSへの財政的支援が鈍った1974年以降、ハイパーテキスト研究の進歩はほとんど停止した。この期間、カーネギーメロン大学でZOGが人工知能の研究プロジェクトとしてアレン・ニューウェルの指導の下、開始した。プロジェクトの参加者たちがそれをハイパーテキストシステムであると気づいたのは、かなり後になってからであった。ZOGは1980年にCVN-70に配備され、後にナレッジマネジメントシステムとして商業化された。
1977年には初のハイパーメディアアプリケーションであるアスペン・ムービー・マップが登場した。
1980年代の初め、多くの実験的なハイパーテキストおよびハイパーメディアプログラムが現れ、それらの機能や概念の多くは後にウェブに取り込まれた。Guideはパーソナルコンピュータ用の初のハイパーテキストシステムであった。元々はUNIX向けに開発され、後にMS-DOSに移植された。
1987年8月、Apple Computerはボストンで催されたMacworld Conference & Expoで同社のMacintosh用に開発されたHyperCardを披露した。HyperCardはすぐにヒットし、ハイパーテキストの概念を公衆に広めるのに一役買った。またこの年には初めてのハイパーテキストに特化した学術会議がノースカロライナ州チャペルヒルで開催された。
その間、ネルソンは20年間以上に渡って彼のザナドゥシステムについて働き続け、それを擁護していた。HyperCardの商業的な成功を受け、オートデスク社は彼の革新的なアイデアに投資することを決断した。プロジェクトはオートデスク社で4年間続いたが、製品が発売されることはなかった。
1980年、ティム・バーナーズ=リーはENQUIREを開発した。ENQUIREは初期のハイパーテキストデータベースシステムで、いくぶんかウィキに似たものだった。1980年代の終わり、当時CERNに所属していたバーナーズ=リーは、世界中に分散する別々の大学や研究所で働いている研究者たちが自動的に情報を共有する、という要求に対してWorld Wide Webを開発した。
1993年の初め、イリノイ大学のNCSAがMosaicの最初のバージョンをリリースした。それ以前のウェブブラウザは、NeXTSTEP上でしか動作しないものと最小のユーザビリティしか持たないものの2つしかなかった。Mosaicは研究者たちの間で人気のあるX Window System上で動作し、ウィンドウベースの対話性を備えていた。Mosaicはハイパーリンクをテキストだけでなく画像からも張ることができ、Gopherなどの他のプロトコルも内蔵していた。ウェブトラフィックは爆発的に増加し、1993年には500のウェブサーバしか知られていなかったのが、PCとMacintosh用のブラウザがリリースされた後の1994年には10,000以上にまでなった。
World Wide Webはそれ以前のハイパーテキストシステムを霞ませるほどの成功を収めたが、それらのシステムが持っていた多くの機能を欠いている。例えば、型付きリンク、トランスクルージョン、ソーストラッキングなどである。
前述したもの以外にも、取り上げる価値のあるハイパーテキスト実装がいくつかある。
ハイパーテキストに関する学術会議の有名なものとして、毎年開催されている "ACM Conference on Hypertext and Hypermedia" (HT 2006) がある。
また、ハイパーテキストに限ったものではないが、IW3C2がホストする一連のカンファレンスではハイパーテキストに関連する多くの発表がある。
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DTM
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DTM
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https://ja.wikipedia.org/wiki/DTM
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シェアウェア
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シェアウェア(Shareware)とは、ソフトウェアのライセンス形態の一種。また、そのようなライセンス形態を採用するソフトウェア。ソフトウェアの一時的な試用は無料であるが、継続的な使用に対しては対価を要求する。
シェアウェアの呼び名は「使用者と開発費を分担する」という意味から。「使用者間でソフトウェアを共有する」あるいは「使用者と共に開発する」という意味はない。よって、費用負担・分担を促す為に機能制限を行う事が多い。
シェアウェアは個人開発の趣味や副業の為の簡易的なライセンス形態と思われがちだが、企業によって採用される例も多く、近年では産業化の進展によって、企業開発の方が多くなっている。
シェアウェアが始まったのは1980年代前半のアメリカ合衆国である。世界初のシェアウェア作者は、アンドリュー・フリューゲルマン (Andrew Fluegelman) やジム・クノップ (Jim Knopf) とされる。フリーウェアと明確に区別されるようになったのは、1984年の「Softalk-PC」誌の読者投票からである。アメリカではシェアウェア・プロフェッショナル協会が作られ、シェアウェアの流通やルール整備による産業の保護が行われた。日本では1990年代後半に大きな盛り上がりを見せた。
シェアウェアが始まったのは1980年代前半である。世界初のシェアウェア作者は、アンドリュー・フリューゲルマンやジム・クノップとされる。フリューゲルマンは「フリーウェア」という言葉を造語した人物として知られている。しかし、実際にはフリーウェアではなく、現在でいう所のシェアウェアとしてソフトウェアを配布した。
1981年、フリューゲルマンは通信ソフト「PC-Talk」を開発。ソフトウェアを気に入り継続使用する場合は 25 $ 寄付するよう求めた。ほぼ同時期にクノップもデータベースソフトウェア「Easy-File」を開発。開発費の分担の為、メーリングリストへの参加と引き換えに 10 $ の寄付を願った。1982年、フリューゲルマンとクノップは連絡を取り合い、意気投合した。寄付の値段を 25 $ とすること。ドキュメントに互いのプログラムを紹介すること。「Easy-File」を「PC-File」に改称することを取り決め、この形態を普及させようとした。フリューゲルマンは「フリーウェア」 (Freeware) と言う商標登録も行った。
そのためか、当時はシェアウェアとフリーウェアとを区別することは無く、一括してフリーウェアと呼ばれる事が多かった。
シェアウェアという言葉を初めて使ったのは、ジェイ・ルーカス (Jay Lucas) である。1983年、InfoWorld誌のライターだったルーカスは、担当するコラムでシェアウェアを「無料かわずかの金額で提供されるソフトウェア」と説明した。
同年、ボブ・ウォレス (Bob Wallace) は InfoWorld 誌を参考に、世界で初めてシェアウェアと銘打ってソフトウェアを配布した。ワードプロセッサ「PC-Write」は寄付金の一部を紹介料としてユーザーに還元する独特のライセンス形態をとっており、売り上げを共有するという意味が込められていた。
シェアウェアという概念が明確化し、フリーウェアと区別されるようになったのは、1984年の「Softalk-PC」誌の読者投票からである。
1984年、ネルソン・フォード (Nelson Ford) は Softalk-PC 誌で「利用者が気に入った場合のみに料金を支払うソフトウェア」を紹介しようとしていた。しかし、名称に困った。フリーウェアの商標はフリューゲルマンが保有していた。また、フリーウェアは適切な名称とはいえなかった。「無料」を連想し、無料のサポートや著作権の放棄と誤解された。
フォードは Softalk-PC 誌上でコンテストを開催し、名称を広く募った。優勝したのは「シェアウェア」だった。「使用者が開発費を負担するソフトウェア」という意味が込められていた。フォードは PsL (Public Software Library) 社を設立。シェアウェアをフロッピーディスクに入れて通信販売を行う、シェアウェア・ディスクベンダとして成功を収めた。またシェアウェア・プロフェッショナル協会 (Association of Shareware Professionals) の設立に関わった。品質についてのルール整備などを行い、シェアウェア産業の保護に努めた。それと共にシェアウェアという名称も一般に広まった。
1990年代前半になると、Microsoft Office のようなメーカー製の低価格ビジネスソフトが発売され、ワードプロセッサのようなシェアウェアの人気は落ち込んだ。一方、WinZip のようなユーティリティソフトや Apogee Software 社の DOOM のようなゲームソフトは人気を博した。DOOM は一部シナリオを無料試用させるシェアウェア方式を採用した。
日本では1980年代中盤からパソコン通信によって広まった。アメリカと異なり、シェアウェアの産業化は遅れた。シェアウェアはフリーソフト(和製英語)と区別されず、使ってみて気に入ったら送金する。料金を払える人が払うという感覚が続いた。その後、インターネットが普及すると、ダウンロード販売を手軽に行えるようになった。人気ソフトウェアは本格的な商売を目指すようになった。
1990年代後半、秀丸エディタや AL-Mail 、Becky! Internet Mail などが定番として使用された。また窓の杜やベクターが開設され、ブロードバンド環境の無いユーザー向けに『PACK for WIN』のような書籍も販売された。nifty には「シェアウェア作家協会」のような使用者組織が開設され盛り上がった。
その後、シェアウェアが補完していた機能を大企業やオープンソース・コミュニティが無償・安価に提供し始めた。Netscape Navigator のようなウェブブラウザはオペレーティングシステムに取り込まれた。Netscape Navigator はオープンソースによって Mozilla Firefox に生まれ変わり、無料で提供された。Google が Gmail を広告モデルで提供した。ソースネクストが低価格ソフトを販売するようになった。ブロードバンド環境が普及し、大型ソフトウェアのダウンロードが容易になった。2000年代前半、個人開発のシェアウェア市場は飽和した。
2006年、ベクターは個人開発のシェアウェアの販売が減少したと発表した。シェアウェア開発は個人の趣味や副業から法人へと移っていった。
シェアウェアには、機能制限が施されない物があり、対価の支払いが任意の物もある。これらはドネーションウェアと呼ばれる場合もある。
一方、対価が支払われるまで機能制限が施されるものがある。機能制限の程度は様々で、通常使用には遜色のない程度の制限もあれば、利便性が皆無の体験版もある。制限解除によって、全く異なるバージョンの製品として動作するものはキーウェアと呼ばれる。試用の期間制限を設けている場合もある。
よくある機能制限には、次のようなものがある。
制限の解除方法にはパスワードが多く用いられ、解除方法の通知には電子メールが多く用いられる。制限の解除方法が使用者に見破られたり、パスワードが流通してしまう場合があり、こうした不正な制限解除のことをクラッキング (cracking, kracking) と呼び、不正な制限解除が施されたソフトウェアのことを Warez(ウェアーズ、割れ)と呼ぶ。
配布には主にインターネットやパソコン通信などのネットワークが用いられる。二次配布が許諾されている場合には、雑誌付録やオンラインソフトウェア集などの媒体への収録や、個人間の複製配布が行われる。
趣味として作られたシェアウェアの場合、対価が任意であったり、金銭の代わりに絵葉書を求めるポストカードウェアや電子メールを求めるメールウェアがある。また金銭を求める場合でも、図書券やビール券などの金券での支払いを受け付けているものもある。
副業や企業のシェアウェアの場合は、現金やクレジットカード、振込などでの支払いを求められる。ただし、商用利用や教育目的などの条件によって変わるものもある。
仲介業者も存在する。ベクターや iREGi 、Kagi などである。仲介業者の利点は決済方法の充実や決済の手間の軽減、クレジットカードなどの信用情報を直接相手方に通知しないことによる信頼性の向上などである。
ユーザサポート、バグ修正、互換性の維持などのアフターサポートをどの程度行うかは、製品に添付されるライセンスによって、作者が自由に設定することが出来る。有料にもかかわらず、全くアフターサポートを行わないという事も出来る。
これらの負担の重さや、対価・感想の不足、競合ソフトウェアの台頭、不正コピーの流通、個人的な多忙などから、サービスの維持をあきらめて公開停止に至ったり、改めてフリーウェアとして公開されるものも存在する。
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ジョージ・ルーカス
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ジョージ・ウォルトン・ルーカス・ジュニア(George Walton Lucas, Jr.、1944年5月14日 - )は、アメリカの映画製作者。カリフォルニア州モデスト出身。『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』などの世界的に大ヒットしたシリーズの製作者で知られている。スティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・キャメロンと並んで、最も商業的に成功した映画作家の一人でもある。アメリカ合衆国で発行されているフォーブス誌が発表した『アメリカで最も裕福なセレブリティ』にてトップに選ばれた著名人でもある。
カリフォルニア州モデストに生まれる。少年時代は、テレビで放映されたかつての映画の「連続活劇」やコミックブックに熱中して過ごす。高校時代は、カー・レースに熱中した(この時代の経験が、後に『アメリカン・グラフィティ』に描かれた)。1962年、高校卒業の直前に自動車事故に遭うが、奇跡的に死を逃れ、自分の人生を考え直す。
1960年代の間、フィルムに関する専門学科を早くから設けたロサンゼルスの南カリフォルニア大学(USC)で映画の勉強をした。そこで彼はたくさんの短編を制作し、特にその中の一つ、『電子的迷宮/THX 1138 4EB』は数々の賞を受ける。この時代の仲間に、ジョン・ミリアスやダン・オバノン、ハワード・カザンジアン、ハル・バーウッド、マシュー・ロビンズなどがいた。
卒業後、ワーナーのスタジオでの研修中、『フィニアンの虹』を撮影中のフランシス・フォード・コッポラと出会って意気投合し、ハリウッドのシステムに強制されることのない映画制作者のための環境を作ることを目指して、コッポラが設立したアメリカン・ゾエトロープ社の副社長に就任。そして、ゾエトロープの第一作『THX 1138』(『電子的迷宮/THX 1138 4EB』の長編映画化作品)で初監督を務めることになる。その後、ルーカスは自らの映画制作会社ルーカスフィルムを設立し、制作・監督した『アメリカン・グラフィティ』(『ゴッドファーザー』で一流監督の仲間入りをしていたコッポラを、プロデューサーとして迎え入れる)が大ヒットし、ルーカスは一躍有名になる。そして、映画会社の20世紀フォックスに企画を自ら持ち込んで『スター・ウォーズ』の制作を始めるが、コッポラが自分の企画に介入することを阻止するために、温めてきた『地獄の黙示録』をノンクレジットで渡してしまう。その代わり、『スター・ウォーズ』をコッポラの影響なしに制作することが出来た。
『スター・ウォーズ』製作時、監督としての収入は、当時の日本円にして約5,000万円であった。20世紀FOXが監督料の上乗せをしようとしたが、ルーカスはこれを受け取らない代わりにマーチャンダイジングの権利を20世紀FOXに要求し、結果、莫大な収入を得る。この収益は、『スター・ウォーズ』全6作(特別篇、ビデオ、DVD収入を含む)よりも遥かに上回る結果となった。
その『スター・ウォーズ』公開時、興行的失敗の知らせを聞きたくなかったために、電話のないオーストラリアのホテルに潜んでいた(「映画が成功した」と伝えたのは同じくオーストラリアにいたスピルバーグ)。
初めは、監督より編集者として活躍していただけに、早くからフィルムをカットしていく従来の方法ではなく、ビデオを利用した電子編集を導入したり、世界最初のノンリニア編集システム「editdroid」の開発をも支援した。
『スター・ウォーズ』第1作で既にドルビー・ステレオを導入していたルーカスは、映画館の音響設備が整備されていなかった高水準の音響設備や上映環境を整えるため、THXプログラムを1980年代に立ち上げた。これは音響機器の特性から残響・遮音といった上映施設の環境に至るまで厳しい基準を設定し、ルーカスフィルム傘下で高品質の音響製作を行うスカイウォーカー・サウンドの音が、そのまま映画館でも再生出来るよう意図したものである。さらに、映写システム調整用のテスト素材TAPの供給も開始。これによって、上映環境が画も音も改善され、ドルビーのサラウンドシステムの進歩も促した。THXでは上映フィルムの品質管理も行うようになり、レーザーディスクやDVD、Blu-ray Discなど、家庭用ソフトウェアでもTHX認定を受ける製品がある。映画上映の環境改善、ビデオや音響システムのデジタル化に伴った製作から家庭までの再生環境の向上に、ルーカスとTHXは絶大な影響を与えた。
『スター・ウォーズ』新3部作では、まず扮装したスタッフに構想した場面を演じさせ、視覚効果と合成した時の仕上がりや各場面の尺、編集のタイミングを見通した上で俳優を起用した撮影に入る、という「撮影前に編集する」プロセスを採用。さらに、その時の映像を撮影前に俳優に観せる事により、後でCGをはめ込むため、撮影中は周りの風景が見えないブルースクリーンの中でも、より演技しやすい環境を作った。
『スター・ウォーズ』第1作のために、ルーカスフィルム傘下に立ち上げたSFXスタジオ、インダストリアル・ライト&マジック(ILM)に、1980年代初頭にCG部門を開設してピクサーの母体を作り、逸早くHD24Pを導入し配給の経費削減にも貢献するデジタルシネマ構想など、映画製作のデジタル化推進の急先鋒であるにもかかわらず、当の本人は至ってアナログ派で『スター・ウォーズ』新3部作の脚本も、バインダー式ノートに鉛筆で書かれている。
映画賞にはそれほど縁のないルーカスではあるが、1991年には長年の功績を称えられ、アカデミー賞のアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。2007年の第79回アカデミー賞授賞式で(過去に監督賞を受賞した)スピルバーグ、コッポラと並んでセルフ・パロディとも言うべき掛け合いを披露した。
製作総指揮を手掛けた作品は多いが、監督作とは対照的にそのほとんどは評価が低く、『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』はその最たる物である。また、監督としての作品も6作品と多くはない(うち4作が『スター・ウォーズ』)。理由の一つに、1977年の『スター・ウォーズ』製作時のストレスが甚大で、内気な性格の上に糖尿病を患っていたルーカスには肉体的負担が強かった事が挙げられる。ルーカスが思い描く「世界観」が誰にも理解出来ず、監督業から編集作業まで総てを手がけなければならないという激務もあって、実際、撮影中に二度入院している。そのため、同作のエピソード5・エピソード6では製作総指揮に回り、次の監督作であるエピソード1まで22年間の空白が出来る事になった。
2012年、1988年から企画を進めていた第二次世界大戦時に空軍に参加した黒人パイロットの物語『レッド・テイルズ』が公開された。ルーカスは同作を最後に「映画製作からも、会社からも身を引くつもりでいる」と引退を示唆した。ただし映画製作に全く関わらないというわけではなく、ルーカスフィルムから離れ、ハリウッドの大作ではなく『THX-1138』のような低予算で実験性の高い作品を作っていくつもりだと話している。
2012年10月30日、ウォルト・ディズニー・カンパニー(ウォルト・ディズニー・スタジオ)がルーカスフィルムを40億5000万ドル相当で買収したが、ルーカスフィルムはルーカスが完全に所有していたため、売却益のほぼすべてを手にすることになる。その利益の大半を慈善事業に寄付する意志を表明している。また、資産の半分をいずれ寄付することを宣言するギビング・プレッジに参加している。
これ以降に新規製作された『スター・ウォーズ』作品では、ルーカスはキャラクター原作者としてのクレジットのみで、製作に直接関与していない。ただし、製作メンバーへの助言や撮影現場への訪問など間接的な関わりは継続しているほか、2020年公開のアニメ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』シーズン7では、ディズニー買収後の新規作品で唯一、製作総指揮として携わっている。
1994年の映画『ビバリーヒルズ・コップ3』、2005年の映画『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』ではカメオ出演している。
2015年、ディズニー・レジェンドを受賞。
2020年5月4日、カリフォルニア州ロサンゼルスのエクスポジション・パークに自身の博物館となる「ルーカス・ミュージアム・オブ・ナラティブ・アート」をオープンした。
映画の制作で得た利益のほとんどをルーカスフィルムに費やして、自身の生活は質素である。マリンカウンティのハンバーガー店でハンバーガーを食べている姿を良く見かけられている。なお、ルーカスフィルムがあるスカイウォーカーランチでは、ブドウを栽培しており、このブドウは収穫されコッポラの経営するニバウム・コッポラ・ワイナリーでワインとして販売され、高値で取引されている。
子供の頃からSFマニア。また、かつての映画での「連続活劇」のファンでもあり、インタビューにおいて『インディ・ジョーンズ』や『スター・ウォーズ』の演出には連続活劇の手法を用いていると語っている。
尊敬する映画監督は、特撮映画の巨匠レイ・ハリーハウゼンと黒澤明で、レイ・ハリーハウゼンについては「僕達のほとんどが子供の頃から彼(ハリーハウゼン)の影響を受けてきた。その存在なくして『スター・ウォーズ』は生まれなかった。」と影響の大きさを語っている。黒澤に対しては、『影武者』にて国際版の製作総指揮という立場で黒澤を支援し、1990年の第62回アカデミー賞授賞式では、スピルバーグと共に黒澤にアカデミー名誉賞のオスカー像を贈った。黒澤の影響からルーカスの作品には随所に日本文化の影響が表れている。
神話にも造詣深く、特に大きな影響を受けたと公言しているのがジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』(The Hero with a Thousand Faces)であり、「彼の本に出会っていなければ、私は未だにスター・ウォーズ・シリーズの脚本執筆に追われていただろう」と1984年のインタビューで語っている。その他にエドガー・ライス・バローズ、E・E・スミス、フランク・ハーバートなどのSF作品、グリム童話、C・S・ルイス、J・R・R・トールキン、カルロス・カスタネダから影響を受けたという。
スティーヴン・スピルバーグとは、映画界における昔からの戦友である。スピルバーグは『未知との遭遇』公開直後から同時期に公開された『スター・ウォーズ』の大ファンであった。『インディ・ジョーンズ』シリーズを一緒に製作しているほか、『スター・ウォーズ エピソード3』では、スピルバーグがアシスタント・ディレクターに就いた。ポーランドで『シンドラーのリスト』を撮影していたスピルバーグに代わって『ジュラシック・パーク』のCGの仕上げや編集などのポストプロダクションを統括したのもルーカスで、『E.T.』のハロウィーンのシーンでヨーダが登場、『スター・ウォーズ エピソード1』ではエキストラとしてE.T.が登場し、『未知との遭遇』にはR2-D2が登場していたりもする。
1981年に全米監督協会、全米脚本家組合、映画芸術科学アカデミーから脱退している。引き金となったのは『帝国の逆襲』の完成後、ルーカスはオープニング・クレジットの省略に関して各協会の許可を取っていなかったこと、自身の名前だけクレジットさせたこと(だが、それはルーカスフィルム・リミテッドという社名であった)から罰金を支払わされたことにある。
日本では、1987年頃から1990年にかけてテレビで放映された、パナソニックから当時発売されていた「パナカラーイクス」 や「HI-Fiマックロード」などのCMに登場していたことでも知られる。この時の繋がりが、東京ディズニーランド並びに東京ディズニーシー内のアトラクション、「スターツアーズ」や「インディー・ジョーンズ・アドベンチャー 〜クリスタルスカルの魔宮〜」など、アトラクションスポンサーとしての結び付きに繋がってもいる。
長年補佐役を務めるリック・マッカラムはルーカスについて「編集などフィルムを相手にする時は楽しげだが、人間が相手の場合はそれほどではない」と人付き合いを苦手とする一面を語っている。マシ・オカ曰く、性格はかなり人見知りすると言う。「演技指導はスタッフに耳打ちして役者に伝えさせている」とも言っているが、しっかりと自身の言葉で演技指導している。ルーカスの会社であるILMにマシは勤めているが、その社則には「ルーカス氏にサインを求めたらクビ」、「ルーカス氏と5秒以上目を合わせたら石になれ」などの変な規則があると言うが、前述のようにかなり誇張されている。スタッフ会議や演技指導の際には、皆がルーカスに目を合わせている。ただし、キャリー・フィッシャーやユアン・マクレガーによると、「演技指導の際に具体的な説明があまり無かった」と言い、「イメージははっきりしているが上手く説明出来ない」と、「ルーカス自身がマクレガーに話していた」と語っている。
自身のSF大作に無名の役者をキャスティングすることが多かったと言われる。
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5,762 |
ディスク
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ディスク(英: Disc、Disk)は、円盤状のものを表す言葉。
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5,765 |
パソコンゲーム
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パソコンゲーム(PCゲーム、英: PC game)はパーソナルコンピュータで動作するコンピュータゲームである。
この世にパーソナルコンピュータが登場する前、つまりこの世に大型コンピュータやミニコンしかなかった時代から、エンジニアたちや大学院生たちはゲームソフトを制作して遊んでいた。
パーソナルコンピュータは、愛好家たちによって常にゲーム目的で使用されてきた。
1975年に「史上初の市販のパーソナルコンピュータ」とされるAltair 8800が登場し、1970年代後半に次々とパーソナルコンピュータの新しい機種が登場してくるとゲームソフトの数も急激に増えてゆくことになった。一例を挙げると1976年にはウォズニアックとスティーブ・ジョブズがApple Iを、翌1977年にはApple IIを発売し、そのApple II用に次々とゲームソフトが制作されてゆくことになり、最初はApple IIの開発者のウォズニアックが書いたBreak Outつまりブロックくずしなど数本だけであったが、その後はさまざまな組織が制作・発売することになり、1978年には17本前後、1979年には21本前後、1980年には25本前後といった調子で制作されていったのである(→en:List of Apple II gamesを参照)。また1977年にはコモドール社がCommodore PETというパーソナルコンピュータを発売し、そのPET用にも多くのゲームソフトが制作されていった(→en:List of Commodore PET gamesを参照)。Apple IIやPET用のゲームソフトの供給の形としては、カセットテープ(オーディオ用のカセットテープをデータ記録用に用いるデータレコーダでデータの書き込み、読み出しを行うもの)、フロッピーディスク、雑誌の誌面の文字などであった。
また1976年に日本でNECから発売されたTK-80という8080互換CPUのトレーニング用ボードでも、表示装置は8桁の7セグメントLEDしかなかったにもかかわらず、当時のコンピュータ・マニア(マイコン愛好家)たちはそんな表示装置だけでも遊べるゲームソフトをさっそく16進数の機械語で書き始めた。さらに1977年11月にTK-80BSという拡張キットが発売されテレビ画面に表示ができBASICも動くようになると、マニアたちは文字キャラクタ(文字フォント)を画面に表示することで簡素な図を表現して遊べるゲームを次々と制作、まもなくドットつまり画面上の黒くて小さな点単位で表示を制御してゲームを制作することも行い始め、1978年に世の中でスペースインベーダーが流行り始めるとマニアたちはまもなくそれの動作原理も解析し、機械語+BASICなどでプログラムを書きTK-80BSに移植した。1978年にはシャープからMZ-80Kが発売され、同機用のゲームをマニアたちや企業などが制作し、誌面の印刷文字などで供給され一文字づつ入力したり、カセットテープの形で供給でされたりした。ゲームソフトウェアを文字入力する場合、それがどのようにユーザに届けられていたかというと、1976年には『I/O』というマイコン雑誌が創刊され、そこにコンピュータゲームのプログラムがBASICや16進数の機械語で書かれた状態で紙面に印刷され、マニアたちがそれを、一文字一文字、手で入力して遊ぶなどということがさかんに行われるようになっていたのである。1982年5月には日本ソフトバンク社(現・ソフトバンクグループ)からゲームソフトのソースプログラムも掲載した(号によっては大量のダンプリストも掲載した)雑誌『Oh!MZ』が創刊(6月号)となった。
この段階のパソコンゲームですでに、ゲームにはまってしまい何日もやり続けるなど、一種の依存症、一種の中毒になる人たちもいた。
1979年にNECからPC-8001シリーズ、1981年にPC-8800シリーズが発売されると、パソコン愛好家たちは、こぞってゲームの制作・ソースコードの打ち込み・購入・プレイなどに熱中した。
スペースインベーダー、ギャラクシアン、ムーンクレスタ、ゼビウスなどの人気タイトルが次々と移植され、麻雀ソフトも流行した。このPC-8001用に初代『信長の野望』も開発・販売され、国産パソコンゲームの数少ない長寿タイトルとなっている。
1982年に日本電気(NEC)が、業務に使える水準に性能を向上させたPC-9800シリーズを発売すると、大企業からマニアまで急速に普及した。パソコンの愛好家たちやゲームメーカーは、高性能化したPC-9800を使って多数のゲームを展開し、国産パソコンゲームの全盛期を築いた。
PC-9800は日本国外でも販売され、英語のゲームソフトも多数開発された。
以下の一覧も参照のこと
1981年には、「コンピュータ業界の巨人」と言われていたIBMがIBM PCを発売し、欧米ではこれが標準的なコンピュータとなり普及した。またIBM PCのクローンを作るコンピュータメーカーが多数登場し、クローンマシンの群は「IBM PC コンパチブル」「PC/AT互換機」と呼ばれるようになり、IBM PCの仕様はデファクトスタンダード化した。
IBM PC(やそのクローン)は、基本はオフィスで使う想定で設計されたマシンではあるが、ゲームに使うということも行われた。たとえばアメリカの企業などの重役や中間管理職の部屋(※)にIBM PCが設置されている場合でも、基本は仕事のために使っていたにしても、一方でデスクの引き出しの中にはゲームソフトを1~3個ほど潜ませておいて、仕事の合間に息抜きにゲームをして遊ぶようなことは一般的だったと英語圏では言われている。
1982年にCommodore 64(コモドール64。略称 C64)の量産および販売が始まった。C64は欧米の一般家庭の人々に爆発的に売れた。C64はRFモジュレータ内蔵であったため、本体をそのまま家庭用テレビに接続して安価に使うことでき、また輝度信号と色信号に分離して出力可能なコンポジット映像信号出力端子も備えていたため、それに対応する別売専用モニターを接続すればより美しい出力を得ることもできた。コモドールは販売戦略にも長けていて、認定代理店で販売するだけでなく、デパートや玩具店やディスカウントストアでもC64を販売した。販売総数は1982年の量産開始から1993年の販売終了までに、1250万から1700万台ほどにおよんだとされており、単一機種としては最も販売台数の多いパーソナルコンピューターであり、今もこの記録は破られていない。1983年から1986年の間、C64は毎年200万台以上売れ、市場シェアは30%~40%にもおよんだ。競合機のPC/AT互換機やAppleの製品やAtariの8ビットファミリーよりもよく売れていた驚異的なマシンであり、家庭ではもっとも一般的なパソコンだったのである。
このC64向けに1万種を超えるソフトウェアが制作・販売されたとされており、家庭用のパソコンなのでまるでゲームマシンのように使う人も多く、C64向けに2000本を超えるゲームソフトが制作・販売された。
なお日本の市場では、パソコンとしてはNECのパソコン群との競合、ゲームマシンとしては日本のファミコンとの競合が起き、また日本語への適応もあまり良くなかった、などの諸事情が重なり、あまり販売数が伸びず日本では知名度が上がらなかった。だが欧米の人々にとっては、今なお1980年代のゲームマシンのようなパソコンとして圧倒的な知名度がある機種である。
2018年には復刻版のC64版がミニチュアサイズ、HDMI、USB端子つき、ジョイスティックつき、ゲームソフト64本こみで発売された(THEC64 Mini)。2019年にはC64の復刻盤、HDMI端子つき、実物大つまり1980年代当時のサイズで、おまけにキーボードのタッチ感も再現したものが、やはりゲームソフト64本プリインストール済みの状態で発売された。
1987年にシャープから発売されたX68000はコアゲーマーから熱狂的な支持を受けた。MPUとして、それまで日本のパソコンでは使われていなかったモトローラのMC68000(Macintoshに搭載されていたもの)が搭載されていたこともあるが、なによりも当時としては大容量を誇るVRAMと強力なグラフィックコントローラ群によって実現された65,536色の多色グラフィックとスプライト機能、FM音源8チャンネル+ADPCM1チャンネル、1MBのメインメモリ(最大12MB)などの周辺回路により、総合的に競合製品を凌駕するホビーマシンとしての性能を備えていたからである。このX68000はゲームクリエイターを育成するための専門学校の実習機としても採用され、良質なゲームが多く作られた。
1990年代前半頃から3Dゲームが流行する。1990年代前半のパソコンゲームの中でも、特に3D描画を前面に押し出したタイトルを挙げるとすれば、DOOM、Duke Nukem 3D、DESCENT、MechWarrior 2、MYST、ニード・フォー・スピード、レミングスなどがある。何れも初版はCPUのみでレンダリングを行っていた。画面解像度は640x480や800x600程度で、フレームレートも少なく、生ポリゴンの使用も多く、テクスチャマッピングは行われていても粗かった。高品質な描画でもフラットシェーディングの採用が多かった。
アーケードゲーム基板はメーカーの独自開発により複数のCPUや3Dアクセラレータが搭載可能になっていたため、当時のCGワークステーションに匹敵するような高品質な3Dを描画できた。アーケードゲームの流れを受け、パソコンゲームでも高品質なグラフィックを実現することを目標に3Dアクセラレータの開発が行われた。
とはいえ、すべてのゲーマーが3Dゲーム指向だったわけではなく、2Dゲームのほうを好んでいたゲーマーも多かった。2Dゲームは、1970年代後半から常に遊ばれ続け、1990年代前半でもその状況は変わらなかった。
1995年、安価にパソコン用の3Dアクセラレータチップを作れるようになり、NVIDIAのNV1,ATiの3D Rage,MatroxのMystique,S3 GraphicsのViRGE,RenditionのVérité V1000などが一斉に登場した。1996年には、一世を風靡した3dfxのVoodoo Graphicsや、影は薄かったもののNECのPowerVR PCX1も登場した。この出来事によって、初めてパソコンゲームでハードウェア支援による高速な3D機能が利用可能となった。但し、技術の限界から限定的な描画プロセスしか扱えないため、透視変換やライティングなどの複雑なジオメトリ計算はCPUに一任されており、まだGPUとは呼べないものであった。また、グラフィックAPIについて統一規格と呼べるものは未だなく、各社が異なるグラフィックAPIを提唱していた。例えば、NVIDIAは曲面描画API,ATiはATI3DCIF,S3 GraphicsはS3d,3dfxはGlideを提唱していた。これらの規格の違いで各社のグラフィックカードで遊べるゲームソフトが各々限定的になってしまった。また、ユーザー自身が購入するゲームソフトに応じてグラフィックカードの差異を強く意識しなければならず、プレイ環境一式を揃えようとすると非常に高価であることから、一般からは時期尚早として敬遠された。
3Dゲームについて言えば、1990年代後半は3Dグラフィックスの可能性を試すようなソフトが多数発売された。主にFPS、レース、フライトシミュレータが多数を占めた。数は少ないが、日本のゲームメーカーによるアーケードゲームの移植も行われ、特にセガはセガラリー、バーチャファイター、電脳戦機バーチャロンなど、最先端の3Dゲームを続々と移植した。ただしこの時代のパソコンのスペックでは、3Dゲームの多くは荷が重すぎた。またメーカーの独自規格に依存したゲームも多く、自由にゲームパッドが選べなかったり、多少の環境差異でゲームが起動しなくなることも多かった。インストールや設定で不親切なゲームも多かった。デバイスドライバの問題によるパソコンのクラッシュも日常的に起きていた。
この時代の3Dパソコンゲームには、Quake,Unreal,Half-Life,Flight Simulator 95があり、ネットゲームには上記のオンラインRPGなどがある。
1995年8月にMicrosoftから完全なGUIを備えたOSであるWindows 95が発売され、世界中で使いやすさが評価された。そして、1995年10月にMicrosoftから統一規格のグラフィックAPIであるDirectX 1.0が発表されると、グラフィックベンダーの独自規格は廃れていった。1999年にハードウェアT&Lを備えたGeForce256が、世界で初めて「GPU」と称して発売された。透視変換やライティングなどを行うジオメトリエンジンがハードウェア実装されたGeForce256の発売で、CPUが重い負荷から開放されたことで、グラフィック処理が劇的に高速化し、パソコンゲームのグラフィックは最先端のゲーム機と並ぶようになった。ハードウェアT&L以降はCPUとGPUというプロセッサの役割分担が明確化した。
Windows 95が普及しはじめたこの段階で、コンピュータは「パソコン愛好家」や「マイコン愛好家」だけのものではなく「一般人」のものになりはじめており、すでに素朴なレベルのパソコンゲームは一般人の娯楽の選択肢となっていた。パソコンショップに行けば、たとえば素朴な2Dシューティングのパソコンゲーム、チェスや将棋などのボードゲーム、戦略シミュレーションゲームなどのパソコンゲームも「Windows 95用」とパッケージに明記された状態で店頭に並べられて販売されていたからである。この時代でも2Dゲームは家庭用で快適に遊ぶことができた。
一方でPC/AT互換機の普及の前に国産PCは次々と撤退、日本のゲームメーカーはそれに伴ってパソコンゲームから撤退し当時流行の32bit/64bitゲーム機に移ったことで、日本では急激な市場の縮小を招いた。PCゲーマーであった原田勝弘(バンダイナムコ)は、当時はゲーム機の大ヒットで頂点に立っていたようにみえた日本のゲーム業界も、実はこの頃から弱体化が始まっていたと述べている。その代わり、以前から存在した同人ゲーム、アダルトゲームに加え、インターネットからダウンロードするフリーゲームが大きな位置を占めるようになった。
1990年代には既にネット対戦機能を搭載したゲームも発売され、LANパーティーなどのネット対戦がパソコンマニアの間で徐々に普及した。
1997年にMORPGのディアブロが発売され、MMORPGのウルティマオンラインも発売された。1998年には韓国製MMORPGのリネージュが発売された。何れも発売当時のパソコンやネット回線では極めて負荷が高く、滑らかには動作しなかったが、ハード側の性能向上により人気も増加し、これらは今日では多人数参加によるRPGの先駆的なゲームソフトとして知られている。
1990年代後半に入りネット対戦機能を備えたゲームが増えたことで、LANパーティーも次第に隆盛し、1997年に世界初のプロゲーマー参加型のe-Sports大会である「サイバーアスリート・プロフェッショナル・リーグ」がアメリカで開催された。
インターネットの利用が一般人の生活にも浸透してくると、パソコンの低価格化とネット回線の高速化と常時接続の普及で、ゲームマニアの間でネットゲームが流行し始めた。ネット回線が高速化したことで、MMORPGが実用的になった。
2000年代以降、パソコンがオフィスの必須道具となり、普及に加速がかかった。パソコン価格も、販売台数が増え、ロットが増えた分、一台あたりの低価格化が進んだ。インターネットも常時接続の時代を迎え徐々に普及していき、ネットカフェも増えた。
この時代は3Dパソコンゲームのタイトルが非常に増えた。代表的なものを挙げるとするとたとえばHALO、Half-Life 2、Far Cry、DOOM3、Battlefield、Grand Theft Auto 3、Crysis、ニード・フォー・スピードなどである。コンシューマゲーム機の前に劣勢だったゲームソフトのネームバリューも充実した。
一方でその当時のハイエンドパソコンでしか遊べないゲームが多くリリースされ、プレイ環境一式の価格を考えるとマニア向けの娯楽に留まっていた。
パソコンは1970年代に登場した時から、利用者の性能需要に応えるべく常に性能を向上させ続けており、メーカーは2000年代も同様に性能を向上させつづけていた。2000年代はプログラマブルシェーダーの実用化など、パソコンのGPUがグラフィックの牽引役を担った。
PCメーカーや半導体メーカーによって際限のない性能向上の競争が続けられ、その結果、マルチコアCPUや、数GBのメインメモリの搭載が当たり前になると、美麗な3Dパソコンゲームも一般人の娯楽の選択肢として現実的になった。また、ゲーミングパソコンも10~20万円程度で手に入るようになった。
一般人もパソコンやオンラインサービスの利用に慣れ、ネットゲームも違和感なく受け入れられる人の割合が増えた。動画共有サービス・SNSなどでゲーム動画や実況プレイ動画をアップロードすることも流行していった。
ECサイトでのソフトの購入や、ユーザーフレンドリーなゲームインストール環境であるSteamなども普及し、パソコンゲームはより身近なものになった。
2010年代にはゲームメーカーのマルチプラットフォーム戦略の一環で、コンシューマゲーム機のみで展開していたソフトがSteamで大量に供給され始めると、パソコンゲームとコンシューマゲームの区別がなくなる傾向も進んだ。オンラインでゲームが売買されることが当たり前になり、操作説明もゲーム内で用意されるようになり、むしろゲームのパッケージ販売がマニア向けになっていった。パソコン発のオンラインゲームのMinecraftはコンシューマーからも大きな人気を集めた。
2010年代も中盤に入ると、最早ゲームマシンの違いを問う意味もない程にマルチプラットフォーム化が進められた。
パソコンゲームの対戦の大会に若者が熱中しはじめ、それがいろいろな意味で「金のなる木」になると気付いた企業もそれを後押しし、それを「e-Sports」と呼び、世論もかつてのゲーム有害論から転換していった。
2010年代末ころから、VRヘッドセットやVRコントローラが安価になってきたことにより、パソコンゲームは没入感を高める方向で進化を続けている。また他のサービスとの連携も模索している。
また3Dゲームのブームが一段落したことで2Dゲームも再評価がされている。
一言にパソコンと言っても、OSはいくつもある。Windowsでも、MacOSでも、Linuxでもパソコンゲームは遊ぶことができるが、1990年代後半~2000年代はPC/AT互換機のWindows向けが圧倒的に多い状況だった。2010年代のマルチプラットフォーム化の進展により、MacOSやLinux対応のものは増えている。
1995年にWindows 95が発売されて以降は、PCにおけるゲームの販売数(売上金額)でWindows/DirectX向けが圧倒的に多い状況になっている。フリーゲームも同様である。DirectX向けのGPUにはNVIDIA GeForceやAMD Radeonがある。2016年現在でもOpenGLやmacOS、Linux向けにゲームは開発されているが、大手パブリッシャーから出ているゲームはWindowsからの移植がほとんどで、Windows以外のOS向けにゲームの開発を手がけるパブリッシャーはPangea Softwareなど非常に少数である。
Windows 10ではWindowsストアのアプリ基盤としてユニバーサルWindowsプラットフォームがあり、Xbox Oneなども対応している。
Macも、機種によってCPUの性能が異なるが、近年の機種で言えばMacBook ProのCPUの性能はMacの中でも高いので、グラフィックの性能を求めるゲームの処理も軽々とこなすことができる。たとえばMinecraftなどもサクサクと動く。
SteamでもMacOS対応のゲームがダウンロードできる。Steam内のMac対応ゲームのページを開けばよい。
特に2020年11月に高性能なApple M1チップが発表され、同チップが搭載されたMacが市販されるようになってからは、ゲームコミュニティの中でMacOSの評価が以前よりも高くなった。
Linux向けのゲームも多数開発されている。
無料のゲームが多く流通している。
SteamからLinux用のゲームをダウンロードして遊ぶこともできる。さらにSteamにはSteam Playというしくみ、もともとWindows向けのはずのゲームをLinux上で動作させる仕組みがあるので、Linux上でWindows向けのゲームも遊ぶことができる。一言でLinuxと言ってもさまざまなディストリビューション(Linuxのなかの種類)があるが、特にUbuntuはSteamの公式対応となっているので(Steam上のLinux向けゲームを)容易に動かすことができる。他の種類のLinuxについては、それなりの工夫が必要となる場合も多い。
Linuxでレトロゲームを動かすためのソフトウェア類が無料で多数公開されており、それに役立つハードウェア類も多数販売されている。レトロゲームを動かしたいならば、WindowsよりもむしろLinuxのほうが適している、と言えるくらいにLinuxはそのたぐいのソフトウェアやハードウェアが充実している。Linuxが動いているRaspberry Piを(かつてのファミコンなどのゲームが非常に多種類動くような)ゲーム専用のマシンに仕立てあげることも、Raspberry Piユーザたちや、Makers(メイカーズムーブメントの実行者たち)の間ではそれなりに流行している。
2002年に発表されたSteamが徐々に一般化したことで、パソコンゲームの流通に大きな変化が起きた。(後述)
2010年以降、PC上でしかプレイできないマルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ (MOBA) というジャンルの急激な普及と、エレクトロニック・スポーツやTwitchなどのライブストリーミング配信プラットフォームで観戦して楽しむ人達の増大が、PCゲームの市場規模拡大を後押ししている。今後もスマートフォンと並んでゲーム市場の成長の牽引役となることが予測されている。
久夛良木健によれば、PCでのゲーム開発環境ひいてはゲームプレイ環境の充実により、ゲームタイトル開発における家庭用ゲームとPCゲームのプラットフォームの融合も進んでいる。
日本におけるPCゲーム市場は、21世紀冒頭までニッチ市場から脱してない状況だった。ニッチ市場ということもあり、Steamなどでは少数の人々から大きく利益を得ようとするため高価格な傾向がある。 任天堂とソニーという二大ゲーム機メーカーの本拠地であり(かつてはセガなどのゲーム機も存在)、特に国産PC壊滅後、パソコンゲーム市場は死に体となっていた。フィーチャーフォン、低価格のスマートフォンの普及(日本ではコンソールゲームやアーケードゲームの市場が衰退するほど進んでいる)の影響も受けている。日本語表示に対応してないソフトが多かったのも原因である。
そのような状況が続いていた日本のPCゲーム市場は、近年になって復興の兆しをみせている。2010年代になって3000万ドルの規模になり、Steam総ユーザ数のうち、日本ユーザは4 - 5%まで増えている。2020年代からはSteamの日本ユーザーがもう一度大幅に増加する動きがある。それに合わせて、日本語公式対応のPCゲームソフトも増えつつある。日本語未対応のソフトも、ユーザー側が非公式翻訳パッチを制作・公開するケースも増えた。
日本のPCゲーム市場では、ハイエンド指向が最も強い。
PCゲームをダウンロード販売している主なストア。総合的なストアは、幅広いデベロッパーのゲームを数多く揃えている傾向にある。ゲーム会社が独自に展開するストアは主に自社製品に特化したものであるが、サードパーティー製のゲームを取り扱っているものもある。その他のストアは、ゲームソフトの引き換えに必要なプロダクトキーを販売するストアであり、比較的安価に販売されているものが多い。(※括弧内はメーカーと、主な配信タイトル)
Steamについては特筆に値するので、特に一節を割いて説明する。
2002年に発表されたSteamは、ゲームのダウンロード販売と配信、著作権管理(アクティベーションによるコピーガード)、自動アップデート、そしてソーシャルネットワーク機能があり、完全なダウンロード販売のため、パッケージや説明書の印刷コストや流通コストも必要なくなり、ゲームの低価格化を促進した。さらに、Steamの特徴として常に何らかのセールを行い、年に数回の大規模セールでは4,000を超えるタイトルがセール対象となり、AAAタイトルでも50%引き〜75%引きなど高割引率での販売される。これは販売コストが低いダウンロード販売ならではの手法であり、セールによって売り上げの向上とさらなる利益をもたらしている。
これら、SteamやOriginやUplayは単なるゲームのダウンロード販売サイトでなく、ゲーム配信プラットフォームであり、CDキー(シリアル番号)の入力によって自社ストアからの購入でなくてもゲームをアカウントに追加することができる(購入したCDキーをアカウントの情報に登録する必要があるため、CDキーを2つ以上のアカウントで使い回す不正を防ぐことができる)。小売店においても在庫コストを要しないCDキーのみの販売とするメリットは大きく、2014年現在では世界のPCゲーム販売のほとんどがゲーム配信プラットフォームを介したものであり、パッケージソフトでの販売はごく少数にとどまっている。
高速インターネットの普及で大容量のPCゲームが数分~数時間でダウンロードし遊べる手軽さや、通信経由のため中間費用が一切かからないことによる低価格が市場を後押ししている。
ハイエンドなゲーミングPCは、コンシューマーゲーム機(俗に言う家庭用ゲーム機)と比較して、より複雑かつ多量の処理をこなすことができる。多くのパソコンゲームは、このようなハイエンドパソコンで動作させることを前提として開発されている。そのためコンシューマーゲーム機よりも視覚的なクオリティが高められていることが多い。主に挙げられるのは、FHDや4K、8Kなどの高解像度、デュアルやトリプルディスプレイといった複数画面のサポート、120fpsを超える高速なフレームレート、影や水反射、テクスチャなど精密なグラフィック、アンチエイリアス処理による見た目の向上などさまざまなものが利用できる。またSSDなどの高速なストレージを搭載したPC構成においては、ゲームの起動やロード時間が短いなどの特徴をもつ。
キーボードやマウスを始めとして、より幅広い入力デバイスやバーチャルリアリティを含む周辺機器がサポートされている。ゲームパッドやジョイスティック、ハンドルコントローラー、タッチパネル、3Dグラス、VRゴーグルなどがある。
一部のゲームではユーザー自身がゲームの拡張や修正、またはキャラクターをカスタマイズし、一種のDLCとしてそれらのデータを配布できる「MOD」と呼ばれる機能がある。
パソコンプラットフォームの決定的な特徴は、ソフトウェア頒布方法がシステムに制御されないことである(iOS/AndroidでいえばApp Store/Google Play、PlayStationでいえばPlayStation Storeのような縛りが存在しない)。よってプラットフォームによる「アップル税」などの経費、表現規制なども迂回できる。これによる利点は以下のソフトウェアコストの削減や自由な表現に繋がる。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
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MIDI
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MIDI(ミディ、Musical Instrument Digital Interface)は、電子楽器の演奏データを機器間で転送・共有するための共通規格である。日本のMIDI規格協議会(JMSC、現在の社団法人音楽電子事業協会)と国際団体のMIDI Manufacturers Association (MMA) により策定され1981年に公開された。
MIDIは音楽制作の現場で幅広く利用されている。MIDI規格に則って作成されたデータは、DAWをはじめとしたシーケンサーなどで再生・編集することができる。
物理的な送受信回路・インタフェース、通信プロトコル、ファイルフォーマットなど複数の規定からなる。MIDI 1.0の策定完了から38年後の2019年に、Ver.2.0となるMIDI 2.0の策定開始が発表された。
MIDIデータは、音声データ(マイクなどで録音した音の波形をサンプリングしたもの)ではなく演奏情報(発音せよ、音の高さは - 、音の大きさは - 、といった楽器や音源へのメッセージ)であり、データサイズが小さく、また音楽の細部を容易に変更することができる。
電子楽器以外では劇場の舞台照明のコントロールなどにも応用されている。また、MIDI規格とパソコンの普及は、ホビーとしての音楽制作(DTM)を一般化した。
当初、MIDI規格は、ハードウェアとソフトウェアの両分野にまたがり策定された。ハードウェアの規格は、インタフェースや送受信回路・端子に関することであり、ソフトウェアの規格は、データフォーマット(機器同士がリアルタイム通信する際の規格であって、MIDIデータを保存流通させるファイルフォーマットとは異なる)に関することである。
その後、MIDIの普及に伴いRP(Recommended Practice、推奨実施例)という拡張規格が策定された。音色配列などを厳密に定めたGMシステムレベル1や、MIDIデータを保存流通させるファイルフォーマット、劇場の舞台照明をコントロールする規格(MIDIショーコントロール)が、このRPに含まれる。
MIDIはJIS(日本産業規格)によって以下のように規格化されている。
31.25Kbps (±1%) の非同期方式シリアル転送を用いる。
MIDI機器(ハードウェア)は5ピンのDINコネクタで接続するのが一般的である。両端に位置する1番ピンと3番ピンは現在の仕様上では使用されず、中央2番ピンはケーブルのシールド用に、4番、5番ピンがデジタル信号のカレントループ(英語版)伝送に使用される。MIDIケーブルの両端はどちらもオス端子で、シールドされたツイストペアケーブルとして設計される。
コネクタには、MIDI信号を受け取るMIDI IN、MIDI信号を送信するMIDI OUT、受信したMIDI信号をそのまま送信するMIDI THRUの3種類がある。機器パネル側は常にメス端子となる。グラウンドループ(英語版)や障害の連鎖防止のため、MIDI機器同士には電気的絶縁が規定されており、受信側内部では接地線の2番ピンは接続されず、信号はフォトカプラで受信される基本仕様となっている。フォトカプラを経由するたびに信号波形の再現性が下がるため、MIDI THRUを多段直列すると通信エラーが発生することもある。並列に複数のMIDI機器を接続する場合や、信号系統を簡単に切り替えたい時はMIDIパッチベイを用いるが、これを使うことにより多段時の通信エラーも回避できる。
MIDIはバスではない。MIDI IN端子とMIDI OUT端子が別々で用意されていることから判るように、MIDIケーブル間のデータは一方向に送信される。
後述するアクティブセンシング機能で、接続状態が良好か、断線していないかを常に判定しており、アクティブセンシングが途絶えたとき、お互いのMIDI機器はケーブルが抜けたと判定するように作られている。
現代には、MIDI IN、MIDI OUTを使わずRS-232C、USB、IEEE 1394などの規格を使った接続を行う機器も存在している。この場合、MIDIケーブルではなくこれらの規格のケーブル内をMIDI信号が通るため、転送に関して上記の通りではない。
2本のMIDIケーブルを用い、お互いの機器のMIDI IN、MIDI OUTをそれぞれつないだ状態を1つの「システム」と捉える。このシステム毎に16のチャンネルが用意される。基本的にひとつのチャンネルにひとつの楽器(1パート)が割り当てられる。
これにより、1本のMIDIケーブルで16チャンネル分のデータを送信もしくは受信させることができる。例えば「1チャンネルのピアノと3チャンネルのギターを鳴らす」といったことである。16チャンネル分のデータは、後述する「チャンネルメッセージ」にて正確に分類され、相手機器の各チャンネルに届く。
それ以上のチャンネルを制御するためにはMIDIケーブルが複数本必要となり、MIDIデータのパート数(=チャンネル数)によっては、複数のMIDI音源を用意する必要もでてくる。
MIDI規格上のデータの送受信は、すべてMIDIメッセージで行われる。MIDIメッセージは、複数のバイト(8ビット)で構成されている。「電子楽器の鍵盤を弾いたことで音が出る」という一連の流れもMIDIメッセージで制御されている。バイト単位で処理していくため、文言上では16進数を用い、数の後にHを付ける。
MIDIメッセージを効率よく送信するために、MIDIメッセージに使用されるバイトは「ステータスバイト」か「データバイト」の大きく2種類に分けられる。ステータスバイトとはMSB (Most Significant Bit)が「1」、すなわち80H - FFHまでの128個のバイトを指し、データバイトとはMSBが「0」、すなわち00H - 7FHまでの128個のバイトを指す。
MIDIメッセージは複数のバイトで構成されていると前述したが、これらの先頭は常にステータスバイトで始まり、ステータスバイトの後に任意の個数のデータバイトが続く。ステータスバイトでは、ノートオンやコントロールチェンジ、システムエクスクルーシブなどを定義する。データバイトは、ステータスバイトで定義したものについて、その内容や数値を指定するのに使用する。
ステータスバイトが80H - FFHのうち何であるかによって、「チャンネルメッセージ」、「システムメッセージ」に分かれる。
チャンネルメッセージとは、特にチャンネルを指定して送信するMIDIメッセージのことである。チャンネルメッセージのステータスバイトは80H - EFHである。ここからさらに「チャンネルボイスメッセージ」、「チャンネルモードメッセージ」と分類される。
チャンネルボイスメッセージとは、音を鳴らす、止める、音色を変える、ピッチを変えるといった、音源の演奏に必要な情報に関する定義のことである。最大2つのデータバイトが続くことで、その内容・数値を決定する。
ステータスバイトの下位4ビットがMIDIチャンネル番号-1(0(0H)Hはチャンネル1、15(FH)はチャンネル16)を表している。
データバイトにて指定するノートナンバーとは、最も低い音を0、最も高い音を127と割り当てた音の高さのことであり、半音刻みとなっている。中央ハにはノートナンバー60が割り当てられ、88鍵盤のピアノで出せる音域(A0 - C8の7オクターブと短3度)はノートナンバー21 - 108と割り当てられるので、MIDIではそれよりさらに広い音域(C-1 - G9の10オクターブと完全5度)をカバーできる。また、ベロシティとは音の強さ(楽器で例えれば各弦や各鍵を弾く速さによって変化する音の強弱(強弱法))のことである。1 - 127までありmp(メゾピアノ)が64となり、127が最も強く、1が最も弱く、数値が0の場合は発音の終了(楽器で例えれば離鍵など)を表す。
なお、以下の説明では、これら0 - 127までの数字を、16進数で表記する。また、nはチャンネル番号を表わす。
ステータスバイト部のnには0H - FHが代入され、これは1チャンネル - 16チャンネルを表す。「90H 3CH 40H」というMIDIメッセージがあったとすると、これは「ノートオン、1チャンネル。3CH=60なので中央ハを鳴らす。40H=64なのでmpで鳴らす」という命令である。
チャンネルモードメッセージとは、ある楽器は和音が出せるのか、16チャンネルは区別するのかしないのか、といったことを設定するための定義のことである。BnHで始まるがコントロールチェンジには含まれず、BnHのあとに78H - 7FHが続くと、チャンネルモードメッセージのいずれかと判断される。多くの場合、第2データバイトには00Hがダミーとして送信され、受信側も無視する。ステータスバイト部のnには0H - FHが代入され、これは1チャンネル - 16チャンネルを表す。
システムメッセージとは、チャンネルに関係なくMIDIシステム全体に対する命令を行うMIDIメッセージである。システムメッセージのステータスバイトはF0H - FFHである。機能ごとに「システムエクスクルーシブメッセージ」、「システムコモンメッセージ」、「システムリアルタイムメッセージ」の分類される。
システムエクスクルーシブメッセージ(Sys-Ex、またはSysExと略記し、シスイーエックスと読む場合もある)は、MIDI機器のより細かい設定を行ったり、音色データやサンプリングデータを送受信するなど、各メーカーのMIDI機器の固有のデータのやりとりに使用できるシステムメッセージである。ステータスバイトF0Hで始まる。
MIDIメッセージは大抵2バイト程度のデータバイトで成り立つが、SysExはMIDIメッセージ中、唯一データバイト長が指定されていない。可変長のため、最後にシステムコモンメッセージとして定義されているF7H エンドオブエクスクルーシブ (EOX) を送信することでSysExの終了を表現する。
システムコモンメッセージは、主にシステムリアルタイムメッセージと併用され、MIDIシーケンサーなどの同期に使用される。ステータスバイト以下にデータバイトが続くものが多い。
システムリアルタイムメッセージは、MIDIシーケンサーなどの同期、MIDIタイミングクロックに使用される。ステータスバイト以下にデータバイトが続かず、単独の1バイトのみで機能する。リアルタイムに送信される必要があるため、最優先で送信される。
サンプルダンプとは、システムエクスクルーシブメッセージを使用してサンプラーとMIDI機器間でサンプリングデータを通信する規格である。サンプルダンプに関するフォーマットをサンプルダンプスタンダード (SDS) という。MMAが1987年に提案した規格で、MMA-0003として定義されている。
ただし、前述の通りMIDIの通信速度は31.25Kbpsと、データ転送用途としては非常に遅い上、現代にはUSBやIEEE 1394などの高速シリアルバスも普及しているため、一部の学習・研究用途を除き使われることは無くなった。
RP (Recommended Practice) とは、MIDI規格策定後、利便性を高めるための推奨実施例として拡張された規格である。現在すでに複数の拡張規格がAMEIとMMAにより承認されており、いずれも共通規格としてMIDI規格に組み込まれている。
スタンダードMIDIファイル(SMF)とは、MIDI機器やMIDIメッセージを用いる演奏に関するデータの保存形式であり、メーカー毎のソフトやハードに関係なく使用できる共通のファイルフォーマットである。拡張子は.mid。いわゆる「MIDIデータ」は演奏形式である前述した「MIDIデータフォーマット」の略称であるが、このスタンダードMIDIファイルを指すべく拡大使用される場合がある。
Opcode社により独自規格として提案されたが、1991年7月にAMEIとMMAによりRPの第1号(RP-001)に追認された。
GMシステムレベル1、通称GM (General MIDI) とは、それまで各メーカー毎に異なっていた音色配列を統一することを目的として策定されたRPである。1991年に、RP-003にて定義されている。音色配列の他、最低同時発音数や音色数、コントロールチェンジの効き具合といったことも指定されている。
さらに、従来のGMでは時代の進化に伴い補いきれなくなってきた部分を補完するため、GMシステムレベル2 (GM2) が上位規格として拡張された。GMとは完全な上位互換性をもつ。
のちに、主に携帯電話の着信メロディの制作用途として、General MIDI Lite (GML) も上位規格として拡張された。
DLS (Downloadable Sounds) は、SMFデータをサウンドカードなどの音源機器に転送して再生するために策定されたRPである。1997年に、RP-016にて定義されている。再生する音源が異なると、作者の意図しない音色で再生されてしまうSMFとは異なり、DLS対応機器ならほとんど同じ音での再生を行なうことが可能となる。拡張子は.dls。
のちに、上位規格であるDLSレベル2.1や、携帯電話向けのMobile DLSが拡張された。
XMF (eXtensible Music Format) は、MMAによって提案された新しい音楽ファイルフォーマットである。SMFや、音声ファイルであるWAVなどが一つのファイルとして格納できるようになっている。
複数回改稿されており、それぞれのバージョン毎にRPとして承認されている。
また、複数の用途に向けて、複数のタイプが定義、検討されている。
XMFに関する拡張規格も用意されている。
MIDIショーコントロール (MIDI Show Control, MSC) とは、照明や映像機器など、ショーの演出をコントロールする目的で策定されたRPである。1991年にRP-002、のちにRP-014にて定義されている。
MIDIタイムコード (MIDI Time Code, MTC) は、同期システムを組むことを目的として策定されたRPである。1987年に、RP-004にて定義されている。
MIDI規格策定時に、同時に策定されたMIDIタイミングクロックは絶対時間を持たなかったが、SMPTEの普及につれMIDI上でも絶対時間を持ったクロックが必要となってきたことが、MTC策定の背景である。
MIDI策定団体であるMMAが中心に提案したため、RPのほかにMMA-0001としても定義されている。
記譜情報はMIDIデータ(MIDIメッセージの集合)を楽譜上に音符として表示するために策定されたRPである。RP-005、RP-006にて定義されている。
ファイルダンプとは、MIDIケーブルを使ってSMFデータを転送するために策定されたRPである。RP-009にて定義されている。
MIDIマシンコントロールとは、システムエクスクルーシブメッセージを用いてMTRやVTRを制御するために策定されたRPである。1992年に、RP-013にて定義されている。
SMF with Lyrics (SMF Language and Display extensions) とは、SMFのメタイベントとして用意されている歌詞格納機能を拡張したRPである。1999年に、RP-026にて定義されている。
メタイベントと違い、表示を目的としており、曲タイトル、作曲者名、作詞者名、歌詞やふりがなを格納できる。カラオケの歌詞表示や楽譜上の歌詞表記などの用途を想定されている。また、日本語 (Shift JIS) も使用できる。
MIDI Media Adaptation Layer for IEEE-1394は、MIDIインタフェースなどのMIDI機器をIEEE 1394を用いて接続することに関するRPである。2000年に、RP-027にて定義されている。
SP-MIDI (Scalable Polyphony MIDI) は、あらゆる音源で最適なデータを再生するために策定されたRPである。2002年に、RP-034、RP-035にて定義されている。
例えば、通常だと24ボイス(パート数)を持つ音源用に作られたデータを16ボイスの音源で再生すると、8ボイス分は無視されてしまう。このままではデータ制作者の意図した再生ができないため、従来なら24ボイス用、16ボイス用と複数のデータを用意する必要が有った。このSP-MIDIの規格に従うと、ひとつのデータに前もって複数環境分の情報を収録できるので、少ない工数で、あらゆる音源で問題なく再生が出来るようになる。この技術は主に携帯電話向けに使用される。
MIDI XML ("MIDI Names, Device Types, & Events in XML") は、SMFをXMLで記述することを目的として策定されたRPである。2003年に、RP-038にて定義されている。
RPとして承認されていないが、各メーカーが独自に打ち出した規格も存在する。中には、比較的一般的となった規格も存在する。ただしメーカーに左右されるため、メーカーを越えた互換性は無い場合が多い。
なお、現在はこれ以上の音色配列などに関する規格の複雑化を防ぐため、AMEI、MMA共にGM2に一本化することを求めており、また、GS・XGはお互い規格をオープンにして相互にサポートすべきとしている。しかし、実際にはローランド製、ヤマハ製の製品であってもGS・XG自体をサポートしない製品が増えてきたことも事実である。
同じ楽譜で演奏をしても、演奏者や楽器が異なると音が違って聴こえるように、使用する音源を変えれば出音は違ってくる。そのため、例えばインターネット上で配布されているMIDIデータをデータ制作者の意図した通りに演奏するためには、制作者が使ったものと同じ、音色設定を完全に一致させた音源が必要になる。たとえGS対応と謳っていてもGS対応音源なら何でもいいというわけではなく、どの音源モジュールを使うかによって音は異なる。
GSフォーマットは、1991年にローランドが提唱、策定した音色配列などに関する独自規格。RP-003であるGMを拡張して作られたと思われがちだが、こちらが先行している。GMは、GSから他社と共有できる部分を抜粋し標準化したものである。
GSに対応した音源には、SC-55やSC-88Proなどのローランド・SCシリーズが有名。
XGフォーマットは、1994年にヤマハが提唱、策定した音色配列などに関する独自規格。ヤマハ製の音源モジュールやシンセサイザーの互換性を持たせるためにGMを拡張する形で作られた。
XGに対応した音源には、MU80やMU500などのヤマハ・MUシリーズが有名。
本項ではMIDI規格が使われる用途と、MIDI規格を使用するハードウェア(機器)、ソフトウェアについて解説する。なお、箇条書きにしているハードウェアやソフトウェアは一例である。
総合的な音楽制作用途は、MIDIの代表的な使用例である。パソコンとソフトウェア音源さえあれば、大がかりな設備投資をする必要無くDTMを楽しめるといったことで、90年代から一般の趣味としても普及し出した。
現代は、オーディオ編集とMIDIデータ編集を同時に行える統合環境DAWが業務向けを中心に普及している。
かつては、ハードウェア音源の代わりに、PCM音源等の音源データをソフトウェア向けに加工し、パソコン上のサウンドボードでMIDIファイルの再生を可能にしたソフトウェアMIDI音源も開発された。しかしながら、同時発音数や音質がCPUの性能に依存するなど、ソフトウェアMIDI音源発売当初はリアルタイム演奏には不向きであった。
現在は、一般のパソコンがソフトウェア音源を処理するのに十分な性能を持ったことや、再生時に音源が不要なMP3等の圧縮音声ファイルフォーマットの普及により、一般ユーザーではDTM愛好家以外のハードウェアベースのMIDI音源の使用は著しく減少している。
録音やMA (Multi Audio) でもMIDIは使用される。演奏情報の送受信ではなく、システムメッセージを中心とした同期処理が行われている。
カラオケ機器は、MIDIデータを再生する機能が備わっている。各カラオケ店舗では、インターネット回線を通じて最新曲のMIDIデータを受信する仕組みになっており、通信カラオケと呼ばれるのはこのためである。ブロードバンドインターネット接続が普及する以前は、現在のように大量の音声データをインターネットで送受信するのは困難であったが、MIDIデータであれば、当時の低速な回線でも十分に送受信可能であった。
なお、カラオケ用MIDIデータはカラオケデータ制作専門のプログラマなどが、ソフトシーケンサーなどを用いて制作し、通信カラオケ配信会社に卸す仕組みとなっている。
スマートフォンの登場以前、携帯電話の着信メロディにおいてMIDI規格が利用されていた。携帯電話内のデータを、携帯電話内に搭載された音源が処理し音を鳴らしている。携帯電話向けのRPも複数拡張された。
1991年にRP-002としてMIDIショーコントロールが定義された。これにより、MIDIで舞台装置、照明、演出効果などが制御できるようになった。
2009年頃、音声をフーリエ解析し周波数ごとに分離して正弦波にし、それをMIDIで再生することで音声を擬似的に再現する技術が発明された。
鉄道のプラットホームで流れる発車メロディや、学校・会社で流れるチャイムを再生するタイマーなどでもMIDI規格が応用されることがある。
MIDIの基礎知識や、業務レベルの細かい知識などを問うMIDI検定が1999年より実施された。現在4,3,2,1級の4階級が用意されており、2級には2級筆記試験と2級実技試験の2段階が用意されている。
3,2級検定試験は年1回の実施、MIDI4級検定試験は各公認講師・指定校による随時開催となっている。
MIDI検定開始から11年間、1級試験は実施されず2級実技試験が最高級とされていたが、2010年1月15日より、1級試験が新設された。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MIDI
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令制国一覧
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令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。
令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。
この一覧では、五畿七道に従って配列し、廃止・消滅したものや一時的に存在した諸国はその中に字下げして付ける。この一覧が、すべての国を列挙するためのもので、多くの改廃を記していないことに注意されたい。それらの詳細は、各国の項目に記す。
個々の国について、中国の地方単位である州になぞらえて、○州と呼ぶ慣用表現がある。○の部分には、二字からなる国の名のうち一字を採ってあてる。日本全体を総称する際には、「日本六十余州」などと表現することもあった。丸括弧( )内にあるのが、州を付ける呼び方である。読み仮名は現代仮名遣いで、歴史的仮名遣で表記が異なるものはスラッシュ " / " の後に示した。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7
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リカちゃん
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リカちゃん(Licca-chan)は、タカラトミー(旧:タカラ)製の着せ替え人形玩具。別称リカちゃん人形、フルネームは香山リカ(Licca Kayama)。累計出荷数は2017年時点で約6000万体。人形玩具の域を超え、企業の広告キャラクターなどタレントとしても活動、公式Twitter・Instagramも開設している。
1966年、元々ダッコちゃん等のビニール玩具のメーカーだったタカラ(旧タカラビニール - 1966年)は、そのビニール加工のノウハウを生かして着せ替え人形市場への参入を計画していた。当初は米マテル社のバービーや、米旧アイデアル社のタミー等の他社の着せ替え人形用の、子供が持ち運びできるドールハウスを企画していたが、既存の人形のサイズに合わせると、ハウス自体のサイズが相当大きくなることが予想された。これが日本の住宅事情や子供の持ち運びに適さないとして根本的に企画が見直され、日本の事情に見合った大きさのドールハウスと、それに合ったサイズの独自の着せ替え人形として1967年に企画・開発されたものが本項のリカちゃんである。初代リカちゃんの開発を担当したのは、"育ての親"と呼ばれる小島康宏(旧・タカラ専務)。
企画にあたり、日本の少女たちがより身近に感じられるようなファッションドールというテーマが掲げられ、小学生という設定と、小さな女の子の手の平の中に収まる身長21cmという大きさと、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが採用された。漫画家の牧美也子が発売当時の広告のイラストを担当し、広告には「牧先生監修」という表記がされていた。「リカちゃん」という名前は月刊少女漫画雑誌「りぼん」の1967年7月号誌上の一般公募で決定されたことになっているが、実際には発表号をずらして、読者でなくタカラ側が命名した。日本人でも外国人でも通用する名前をということでリカとなった。
親しみやすい仕様が日本の子供に受け入れられたことと、マテル社が生産拠点を他国に移して日本でのバービーの販売に力を入れなくなったという市場の追い風を受け、発売から2年後の1969年には日本での売り上げでリカちゃんがバービーを上回った。その年の年末商戦でも他の人形を圧倒し、それ以降、事実上日本の着せ替え人形の女王として君臨しはじめる。それ以前に売上トップを飾った着せ替え人形は、中嶋製作所(現ナカジマコーポレーション)の「スカーレットちゃん」とアイデアル社の「タミーちゃん」だった。
その後、何度か売上が低迷した時期もあった。1993年から1995年まではバンダイの「セーラームーン人形」の売上が単年度でリカちゃんの売上を上回るものの、1996年には再び着せ替え人形売上のトップに返り咲く。
現在の日本でも「着せ替え人形のリカちゃん」の認知は極めて高い。あまり人形に詳しくない人が他社の着せ替え人形も全て「リカちゃん」とひとくくりにしてしまうこともあるほどで、日本における着せ替え人形の代名詞と化している。その高い認知から旧タカラ時代から現在のタカラトミーに至るまで、リカちゃんはメーカーのコーポレートアイデンティティ的キャラクターに位置付けられ、広報・宣伝の顔の1つとなっている。また、可愛らしく親しみやすく家庭的なキャラクターイメージから、多くの企業や公共機関のCMキャラクターとして採用されている。
タカラ創業者の佐藤安太は、リカちゃんを米マテル社に売り込もうとしたことがあるが、担当者らに設定を説明し始めると「なぜ少女向けの人形に親が出てくるのか」と一蹴したという。
「香山リカ(商標の称呼はカヤマリカチャン、カヤマリカ、コーヤマリカ)」という設定上の本名をタカラが1999年3月9日に商標出願した際「同名の精神科医香山リカの承諾を得られていない」という理由で一度拒絶されたが、タカラが不服を申し立てた結果、精神科医香山リカの筆名の方が本商品に因んでいることが認められ、翌年9月21日、無事出願が受け付けられた。
低年齢層の子供の「ごっこ遊び」による情操教育をテーマとする商品であるため、メインのリカちゃんと同時に多くの家族人形、ドレス、ハウス、小物が販売されている。メインターゲットは3〜6歳の女児で、その年齢の女児が好むピンク色を多く採用した商品ラインナップであり、仕様的にも幼児が1人で簡単に着せ替えできるようにワンピース型のドレスが多い。マクドナルド、ミスタードーナツ、サンリオ等、子供の好む飲食店やキャラクターとのタイアップ商品も多く、マクドナルドでは2017年からハッピーセットの着せ替え人形も発売しており、こちらはドレスがプラスチック製である。また、2017年から2019年のハッピーセットの人形とドレスは互換性があるので互いにドレスを着せ替えて遊ぶ事もできる(合計25体で625通りのコーディネートが可能)。旧タカラと旧トミーの合併後はディズニーとのタイアップ商品も発売された。
このように基本的に小さな子供向けの玩具だが、長い歴史を持つため、大人のファンやコレクターも多く存在する。まれに大人向けの凝った仕様の商品が発売されたり、レトロ趣味の人の間で旧型のリカちゃんが高額で取引されたりすることもある。
リカちゃんは年代によって改良が加えられ、1967年発売の初代と2009年現在のリカちゃんの仕様は大きく異なっている。ここでは2009年の現行販売されているリカちゃんとして展開されている。歴代の仕様については年表の項目を参照のこと。
胸部は ABS樹脂、腰部はポリプロピレン、腕・足・頭部はポリ塩化ビニル(ソフトビニル)、もしくは足はオレフィン系熱可塑性エラストマーから構成されている。腕・頭部のポリ塩化ビニルはゾル状からの射出成形、足はペレット状からの射出成形。近年、ポリ塩化ビニルに含まれる可塑剤の揮発による健康被害への対策として、使用する可塑剤が非フタル酸系に変更されたり、足の素材変更がされたりしている。腕の内部には、肌色のビニールでコーティングしたステンレス製の針金2本を中央部で合成ゴムで接続し、U字型に曲げたパーツが組み込まれ、この針金の変形の保持と、肩・腰・大腿付け根のジョイント部分の回転により、腕と足、首のある程度の可動やポージングが可能となっている。
リカちゃんの髪にはPVDC繊維が使われている。ごくまれにPVC繊維が採用されることもある。また、乳幼児の誤飲による窒息事故を避けるために、小さな部品には気道確保のための穴が開けられており、リカちゃんの靴や小物等には毒性の無い苦味成分が塗布されている。
人形の仕様は各商品によって細かい差異があり、様々な瞳の色やメイク、髪色・髪型のバリエーションが存在する。ほとんどの商品の製造は1回限りで、完売した場合は同じ仕様の商品が再生産される可能性は低い。
リカちゃんキャッスルの所在地である福島県小野町において、ふるさと納税の返礼として500体の「特製 リカちゃん人形」が開始から1ヶ月で全て返礼として在庫がなくなったと2017年6月に報じられた。
時代によってバリエーションがあり、一定しない。リカちゃんに設定がつくられたのは、怪獣図鑑を参考にしたものである。2010年度の日本タレント名鑑(VIPタイムズ社刊)にプロフィールが掲載されている唯一の架空キャラクターでもある。理由はプロフィールがタレント並みに細かく設定されている、様々な会社のCMキャラクターとして活躍しており、タカラトミーがリカちゃんをタレントと認識してもらう為にタレント名鑑の掲載をお願いした。
リカがフランス人と日本人のハーフという設定は、発売当時にハーフの少女タレントの高見エミリー(現・鳩山エミリー)が人気だったことによる。宣伝でも高見エミリーを使う予定があり、社内ではまだ名前が未定だったリカちゃん人形をエミリーと呼んでいたという)
ここでは1997年に発売された、様々な年齢のリカちゃんを商品化したセット『リカちゃんのアルバム』に記載された設定、及びその延長上の設定を記載する。
公式設定ではリカちゃんの誕生日は5月3日。リカちゃんの人形が発売開始されたのは1967年7月4日とされるが、これについては幾つかの説があり7月1日ともいわれる。
福島県田村郡小野町にあるリカちゃんの工場兼展示施設。以下「キャッスル」と呼称する。 旧タカラの福島工場として設立され、主にリカちゃんやジェニー等の人形の生産を行っている一部門だったが、後にタカラいわき工業株式会社として分社化。2006年2月、旧タカラと旧トミーの合併前に自社株買いにより資本的に独立し、社名を「リカちゃんキャッスル株式会社」に変更。2011年1月1日からは法人名を「リトルファクトリー株式会社」に変更した。OEMとしてはタカラトミー社向け商品の製造以外に、株式会社スターの製品や株式会社アゾンインターナショナルの製品の製造を請け負っている。
小野町の観光名所の1つでランドマーク的存在でもあり、キャッスルの開設に合わせてリカちゃんは小野町の「町おこしプリンセス」に任命された。以降、町とキャッスルは観光や地域雇用に於いて積極的な連携を行っている。キャッスル付近の橋にはリカちゃんの銅像が立っている。キャッスル側でも小野町に伝わる小野小町伝説にちなみ、十二単を着た「小野小町リカちゃん」を製造、販売している。なお、キャッスルの名誉館長は歴代の小野町町長が務めている。
2014年8月1日東京都中央区日本橋に、大人のためのドールショップ「リカちゃんキャッスルのちいさなおみせ」をオープン。リカちゃんキャッスルやイベントで販売していないオリジナル商品も販売している。
2000年10月7日にオープンした、東京都中央区にある玩具販売店「博品館TOY PARK」地下1階にある、リカちゃんとジェニーの専門店のこと。既製品に加え、リカちゃんCLUB67オリジナルの人形や人形用ドレスも販売されている。店名の「67」は、リカちゃんが1967年に販売開始されたことにちなむもの。
かつて富士急ハイランドにあった、ファミリー向けアトラクションの1つ。2002年7月21日にオープンした。人間サイズに再現されたリカちゃんハウスや、CGによりリカちゃんと一緒に写真が撮れるスタジオ、リカちゃんをイメージしたデザートが食べられるカフェ、売店等が併設されていた。
リカちゃんタウンのオープン以降、富士急行が高速バスの富士河口湖線(新宿 - 富士五湖方面間)で、リカちゃんのラッピングバスを運行していた。また、富士急ハイランドに隣接したホテル「ハイランドリゾート・ホテル&スパ」には、リカちゃんの世界観をイメージして内装からアメニティまでがトータルデザインされた客室「リカちゃんルーム」があった。 リカちゃんタウンは2009年1月12日、リカちゃんルームは2009年1月15日に営業終了した。
#Licca(ハッシュタグ リカ)は、2020年9月1日にデビューした、17歳になったリカちゃん。誕生から53周年のリカちゃん(11歳)が17歳になった。
以下は公式プロフィールより:
リカちゃんとの違い
マキちゃん、ミキちゃんサイズの人形。
2009年1月2日放送回ぐるぐるナインティナイン「グルメチキンレース・ゴチになります!」で、岡村隆史が持参した「うなずきん ゴチになりますver.」に対抗し、森泉がタカラトミーに特注したリカちゃん人形から、商品化になったシリーズである。
1992年、リカちゃん生誕30周年記念ドールとして発売された。陶器製。パート1と2があった。
身長10cmくらいのリカちゃんのキーホルダーとストラップ。髪は植毛ではなく成型品だが、服は布製で着せ替えができる。
1992年、リカちゃん生誕25周年記念で初代リカちゃんが復刻された際に、初代リカちゃんをそのまま縮小したデザインで制作販売されたキーホルダーが最初。その後、タイアップ商品である琉球リカちゃんキーホルダー・ストラップが35万個も売れたのを受け、全国各地から様々なご当地リカちゃんキーホルダーやストラップが次々に発売されるようになった。現在ではどれぐらいの種類があるのか全て把握するのは困難な程に、全国で様々な企業や公共機関とのタイアップ商品が続々と発売されている。このキーホルダーやストラップだけを専門に集めるコレクターも存在する。
1968年10月から開始された、リカちゃんの声が聞けるテレフォンサービス。1967年、タカラの本社の電話に一人の女の子から「リカちゃんいますか?」と電話がかかってきた事がきっかけで開設された。当初は人間(初期は女性社員、後にアルバイト)が応対していたが、1968年10月からテープによる自動応答となる。公式にはこの自動応答となった時期をもってリカちゃん電話の開設としている。2002年時点で延べ通話数は1000万通話を超え、2007年時点で月に約1万件の電話が来る。電話番号はサービス開始当時のものから変更されている。現在の番号は外部リンクを参照のこと。
タカラトミーも出資している東京都葛飾区のコミュニティFMかつしかFMでは、朝の番組「モーニングジャーナル」内でリカちゃん電話のコーナーが設けられていた。
かつて、平良海上保安署(2019年現在の宮古島海上保安部)の電話番号がリカちゃん電話のそれと酷似していたため、子供たちからの間違い電話が相次いだことがあった。
リカちゃん電話には、都市伝説が存在する。1人で留守番をしている女の子がリカちゃん電話にかけると、リカちゃんが「これからお出かけするところなのよ」という内容が流れる。もう1度電話すると「お出かけ中」、さらに電話すると「あなたの家の前よ」となり、段々近づいてくる。そして、最後は「今、あなたの後ろよ......」というのがオチで、メリーさんの電話という都市伝説のバリエーションである。この他に「3本足のリカちゃん人形」という怪談系都市伝説も存在する。
「劇団ピッカリ座 ぬいぐるみ人形ファンタジー」は、『出演:リカちゃん』のビデオテロップと共に、ジャケット裏表紙にリカちゃんからのコメントが掲載されている。本編はぬいぐるみ(着ぐるみ)のリカちゃんがそれぞれの物語の主人公を演じている。
ここに記載した以外に、講談社や小学館の幼児誌に不定期にリカちゃんの漫画が掲載されることがある。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
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ラトルズ
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ラトルズ(The Rutles)は、エリック・アイドルやニール・イネスらがテレビ映画『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』で演じたビートルズのパロディ・バンド。
『ラトランド・ウィークエンド・テレビジョン』(RUTLAND WEEKEND TELEVISION)は、モンティ・パイソンのエリック・アイドル(出演・脚本)とボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドのニール・イネス(出演・音楽)により、1975年にイギリスの BBC で始まったコメディ・テレビ番組。この番組の中での有名音楽アーティストのパロディや替え歌などの企画が、後のテレビ映画『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』のアイデア元となっている。
1975年5月26日の放送にニール・イネス演じるジョン・レノンによく似たシンガーが登場。白いピアノを弾きながらビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」に似た曲を演奏する。この番組のサウンドトラック・アルバム『ラトランド・ウィークエンド・ソングブック』にこの曲が収録された際、この曲はロン・レノンの「ザ・チルドレン・オブ・ロックン・ロール」とクレジットされるが、後にラトルズの「グッド・タイムス・ロール」となる曲である。
1976年11月12日の放送に初めてラトルズが登場。エリック・アイドルやニール・イネスが演じるこのバンドが演奏する「I Must Be In Love」は、1960年代風の白黒映像でビートルズの映画やテレビ番組のワン・シーンのようなパロディ映像となっていた。
エリック・アイドルは、この番組を『ラトランド・ダーティ・ウィークエンド・ブック』として一冊にまとめた。この中にもラトルズが架空のシングル『Ticket To Rut』をリリースする広告が掲載されている。
イギリスでのラトルズ初登場に先立つ1976年10月2日、エリック・アイドルは、アメリカNBCの人気コメディ・バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』にホスト役として出演し、ラトルズの「I Must Be In Love」を紹介。これがプロデューサーの目に留まり、『サタデー・ナイト・ライブ』の特別番組として「架空」のバンドであるラトルズの栄光の足跡をたどるテレビ映画『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』が制作されることになる。
1977年4月23日の放送では、エリック・アイドルが二度目のホスト役となり、ニール・イネスがゲスト出演。元ラトルズのロン・ナスティとして紹介され「チーズ・アンド・オニオン」を演奏した。この時の演奏はビートルズの海賊盤に収録されたことがあり、ジョン・レノンの未発表曲ではないかと噂されたこともあった。またニールは当時の最新アルバムからの曲として「シャングリラ」(後にラトルズでリメイク)も演奏した。
1978年3月22日に全米NBC系列で放送されたこのテレビ映画『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』(THE RUTLES in ALL YOU NEED IS CASH)の内容は、ロン・ナスティ(ニール・イネス:ジョン・レノン)、ダーク・マックィックリー(エリック・アイドル:ポール・マッカートニー)、スティッグ・オハラ(リッキー・ファター:ジョージ・ハリスン)、バリー・ウォム(ジョン・ハルシー:リンゴ・スター)の4人が出会い、世界一のロック・バンドに成長していくというビートルズに起こったできごとをモキュメンタリー(ドキュメンタリー・タッチのフィクション)の手法で制作している。
日本でも1978年11月3日(金)23時10分 - 0時35分に東京12チャンネルで吹き替え『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ~金こそすべて(四人もアイドル)』が放送された。エリック・アイドルは「空飛ぶモンティ・パイソン」の広川太一郎が担当した。
ローリング・ストーンズのミック・ジャガーやサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンのラトルズについてのパロディ・インタビューやパンク少年役のロン・ウッド、そしてパロディの対象で当事者でもあるビートルズのジョージ・ハリスン本人もテレビ・レポーター役で登場する。他にもブルース・ブラザーズ(ジョン・ベルーシ/ダン・エイクロイド)など豪華なゲストが出演している。また、作品中ダーク・マックィクリーの歌声と楽曲のギター演奏を行っていたオリー・ハルソール自身も初期メンバーのレポ役で少しだけ横顔が映っている。
パロディとはいえ、脚本や映像はビートルズをよく研究しており、特にニール・イネスとエリック・アイドルの演技や仕草はそっくりである。また、静かなビートルと言われたジョージ・ハリスンを意識してか、スティッグ・オハラにいたっては、演奏シーンを除いて一言も声を発していない。レノンによるキリスト発言などのパロディシーンも存在する。
音楽的にもビートルズを彷彿とさせる楽曲がこの特別番組のために作られ、アルバムやシングルも発表された。これらの曲はニール・イネスの高い音楽性により単なるモノマネに止まらないすばらしい完成度を誇っており、その年のグラミー賞コメディ音楽部門にノミネートされた。
『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』以後、ラトルズとしての活動はなかったが、1990年に完全版CDがリリース。1991年アメリカのガレージバンドが集まりトリビュート・アルバムが制作された。日本のバンド、少年ナイフも1曲参加している。
1996年にはビートルズのアンソロジー・プロジェクトに呼応し、ラトルズも再結成されアルバム『アーキオロジー』を発表。シングル「シャングリ・ラ」のプロモーション・ビデオも作られた(エリック・アイドルは不参加)。
2002年『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』にエリック・アイドルのコメントとゲストのインタビューが加えられた "RUTLES 2" が制作された。
2008年3月17日ハリウッドで開催されたMods & Rockers Film Festivalでは、30周年を記念してラトルズを招待。インタビュー形式のトーク・ショーが行われたが、オリジナル・メンバーの4人が揃って公の場に出たのはこれが初めてであった。
ラトルズの楽曲は、現在でもイネスのソロ・ライブで演奏され、時おりメンバー不定のロン・ナスティ&ザ・ニュー・ラトルズとしてライブ活動も行なわれている。
2019年12月29日にイネスが心臓発作により死去。享年75。
日本版のVHS、LD、DVDはすべて字幕。『モンティー・パイソンのザ・ラットルズ』『ザ・ラットルズ~金こそすべて』『ラトルズ 4人もアイドル!』等の邦題が付けられている。それぞれに微妙にカットが異なる部分があり、収録時間の違いもあるが、ほぼ同じ内容と言っても良い。
再結成アルバム『アーキオロジー』からのシングル・カット曲「シャングリ・ラ」のプロモーション・ビデオ。エリック・アイドルは参加していない。
アメリカ発売のDVD。ALL YOU NEED IS CASHに新たなエリック・アイドルによるコメントとゲストのインタビューを加えたもの。イギリスや日本は未発売。
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エリーゼ
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エリーゼ(Elise)は、ドイツ語圏などの女性名。エリザベトの短縮形に当たる。
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細胞膜
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細胞膜(さいぼうまく、cell membrane)は、細胞の内外を隔てる生体膜で、タンパク質が埋め込まれた脂質二重層によって構成される。形質膜や、その英訳であるプラズマメンブレン (plasma membrane) とも呼ばれる。細胞膜は、イオンや有機化合物に対する選択的透過性によって、細胞や細胞小器官への物質の出入りを制御している。それに加えて細胞膜は、細胞接着やシグナル伝達などさまざまなプロセスに関与し、細胞壁やグリコカリックスと呼ばれる炭水化物に富む層などの細胞外構造の接着表面として機能し、細胞骨格と呼ばれるタンパク質繊維の細胞内ネットワークにも関与する。合成生物学の分野では、細胞膜の人工的な再構成が行われている。
ロバート・フックは1665年に細胞を発見し細胞説を提唱したが、当時観察可能なのは植物細胞だけであったため、すべての細胞に固い細胞壁が存在すると誤解していた。顕微鏡学者たちは、顕微鏡が進歩するまで150年以上にわたって細胞壁に注目していた。19世紀初頭に植物細胞が分離できることが判明し、各細胞は、細胞壁で結合しているが連結されていない、別個の実体であることが認識されるようになった。細胞説は動物細胞へと拡張され、細胞の保護と成長のための普遍的なメカニズムが示唆された。19世紀後半の時点では、顕微鏡は細胞膜と細胞壁を区別できるほどには発達していなかった。しかし、当時の一部の顕微鏡学者たちは、細胞膜自体の観察は不可能であったものの、細胞の構成要素の運動が外部の影響を受けないことから、動物細胞に細胞膜が存在すること、また、細胞膜は植物細胞の細胞壁に相当するものではないことを推測し認識していた。一方で、細胞膜はすべての細胞に必須の要素ではないとも推測されていた。19世紀の末まで、細胞膜の存在については多くの反論が存在しており、1890年の段階の細胞説では、細胞膜は存在するが副次的構造物に過ぎないとされていた。後の浸透圧と透過性についての研究によって、細胞膜は初めて重要視されるようになった。1895年に、アーネスト・オーバートン(英語版)は細胞膜が脂質で構成されていると提唱した。
Gorter と Grendel は、細胞膜の構造は水面上の脂質の薄層を模倣した形でなければならないと考えた。さらに、細胞の表面積と脂質が水面に占める面積とを比較し、その比が2:1であると推計した。これによって、今日知られている脂質二重層の最初の基礎がもたらされた。1925年に提唱された仮説では、結晶学と石鹸の泡の観察に基づいて細胞膜の二重層構造を記述する思索がなされた (当時は疎水的相互作用はほとんど理解されていなかった)。この仮説の検証の試みとして、研究者たちは膜の厚さを測定した。1925年に Fricke によって決定された赤血球と酵母の細胞膜の厚さは 3.3 から 4 nm であり、これは脂質一層分に相当するものであった。これらの研究で用いられた比誘電率の選択には疑問があったが、追試で最初の実験の結果を反証することはできなかった。それとは独立して、試料から反射される光の強度を、既知の厚さを持つ膜の標準試料の強度と比較することで非常に薄い膜の厚さを測定する、レプトスコープが発明された。この器具で測定された厚さは、測定pHや膜タンパク質の存在に依存して 8.6 から 23.2 nm の範囲であり、測定結果の下方の値は脂質二重層仮説を支持するものであった。その後1930年代になって、Hugh Davson と James Danielli の膜構造についてのモデル (Davson-Danielliモデル、1935) が一般的に支持されるようになった。このモデルは油と棘皮動物の卵の表面張力の比較に基づいていた。表面張力の値は水-油界面に想定される値よりもかなり低いものであったため、細胞の表面では何らかの物質が界面張力を低下させていることが推測され、2層の薄いタンパク質層の間に脂質二重層が位置すると示唆した。このモデルはすぐに評判となり、シーモア・ジョナサン・シンガー(英語版)とガース・L・ニコルソン(英語版)による流動モザイクモデル (1972) が現れるまで、細胞膜研究において支配的なモデルであった。
流動モザイクモデルは1970年代以降、細胞膜の主要な典型的モデルであり続けている。流動モザイクモデルはその後の発見によって現代化され続けているが、その基礎は不変である。膜は親水性の外側の頭部と疎水性の内部から構成され、タンパク質は親水性の頭部と極性相互作用を行い、また膜を完全にまたは部分的に貫くタンパク質は非極性な脂質内部と相互作用する疎水的なアミノ酸を持っている。流動モザイクモデルは、膜の力学についての正確な表現を提供しただけでなく、後に生体高分子の記述の主要なパラメータとなる、疎水的な力についての研究を充実させることにつながった。
細胞膜は、多様な生体物質、特に脂質とタンパク質を含んでいる。その構成は固定されているのではなく、流動性や環境の変化のために常に変化しており、細胞の成長のステージによっても変動する。特に、発生のステージを通じてヒトの一次ニューロンの細胞膜中のコレステロールの量は変化しており、その変化が流動性に影響を与えている。
さまざまなメカニズムで物質は膜へ組み込まれ、そして取り除かれる。
細胞膜は3つのクラスの両親媒性の脂質を含んでいる。リン脂質、糖脂質、ステロールである。各成分の量は細胞種に依存するが、ほとんどの場合でリン脂質が最も多く、細胞膜の総脂質の50%以上を占めることも多い。糖脂質はわずか2%程度と微量であり、残りはステロールである。真核細胞の大部分では、細胞膜の重量組成は脂質とタンパク質がおよそ半分ずつを占める。
リン脂質や糖脂質の脂肪鎖は、通常偶数の炭素原子を含んでいる。典型的には16個から20個の間であり、16または18炭素の脂肪酸が最も多い。脂肪酸は飽和していることも不飽和であることもあるが、二重結合はほとんど常に「シス」型である。脂肪鎖の長さや不飽和度は細胞膜の流動性に大きな影響を与える。不飽和の脂肪は曲がった構造となるため、脂肪酸が互いに密にパッキングすることがなくなり、膜の融点が低下 (流動性が増加) する。いくつかの生物は脂質の組成を変えることで細胞膜の流動性を調節する能力を持っており、恒流動性適応(英語版) (Homeoviscous adaptation) と呼ばれる。
疎水的な尾部の非共有結合的な相互作用によって、膜全体は維持されている。しかし、構造はきわめて流動的で、どこかの地点に固定されているわけではない。生理的条件下では、細胞膜中のリン脂質分子は液晶状態である。これは、脂質分子は自由に拡散することができ、それらが存在している層に沿った方向へ迅速に拡散することを意味している。一方で、脂質二重層の細胞内側の層と外側の層の間でのリン脂質分子の交換は非常に遅い過程であり、そのため脂質二重層の非対称性は維持される。すべての脂質が迅速に拡散するわけではなく、脂質ラフトやカベオラといったコレステロールに富んだ微小ドメインが細胞膜には形成されている。また、脂質の一部は内在性膜タンパク質と直接的に接触している。タンパク質構造に強固に結合しているものは境界脂質(英語版)(輪状脂質、boundary lipid、annular lipid) と呼ばれ、タンパク質複合体の一部として振る舞う。
動物細胞では通常、コレステロールはさまざまな程度で細胞膜全体に分散しており、膜脂質の疎水性尾部の間の不定形の空間に位置して膜を硬化し強化している。生体膜中のコレステロールの量は、個体、細胞種、そして個々の細胞間でも異なる。コレステロールは動物の細胞膜の主要な構成要素であり、膜全体の流動性を調節している。すなわち、コレステロールの濃度によって、細胞膜のさまざまな構成要素の運動の量が調節されている。高温では、コレステロールはリン脂質の脂肪鎖の運動を阻害し、低分子の膜透過性を低下させ、膜の流動性を低下させる。低温でのコレステロールの役割はその逆であり、低温に応答してコレステロールの産生はアップレギュレーションされる。低温では、コレステロールは脂肪鎖どうしの相互作用を阻害し、膜の流動性を維持する抗凍結剤として機能する。コレステロールは、温暖な気候に暮らす動物よりも冷涼な気候の動物に多く存在する。コレステロールを持たない植物では、ステロール (フィトステロール) と呼ばれる関連化合物がコレステロールと同じ機能を果たしている。
脂質小胞またはリポソームは、脂質二重層で取り囲まれたほぼ球形の袋状構造である。これらの構造は、細胞へ直接的に化学物資を搬入することでその細胞への影響を調べたり、細胞膜の透過性についてより詳細な知見を得たり、といった目的で実験室で用いられる。脂質小胞とリポソームは、まず脂質を水溶液に懸濁し、そしてその混合物を超音波によって攪拌することによって得られる。小胞内部から環境中への流出率を測定することで、膜の透過性についてより良い理解が得られるようになった。内部に分子やイオンを含む小胞は、目的物質を含む溶液中で小胞を形成することで得られる。またタンパク質も、目的のタンパク質を界面活性剤の存在下で可溶化し、リポソームを形成するリン脂質と結合させることで膜へ組み込むことができる。このような技術によって、研究者たちはさまざまな膜タンパク質の機能を調べることができるようになった。
細胞膜は炭水化物も含んでいる。それは主に糖タンパク質であるが、糖脂質 (セレブロシドとガングリオシド) も含まれ、真核生物の細胞間認識に重要な役割を果たしている。それらは細胞の表面に位置し、宿主細胞を認識して情報を共有している一方で、ウイルスはこれらの受容体を利用して細胞に結合し感染を引き起こしている。ほとんどの場合、細胞内部の膜では糖鎖修飾は起こらず、一般的には細胞膜の外側の表面が糖鎖修飾されている。グリコカリックスは、すべての細胞、特に微絨毛を持つ上皮細胞の重要な特徴である。グリコカリックスは細胞接着、リンパ球ホーミング(英語版)や他の多くの過程に参加していることが近年のデータからは示唆されている。ゴルジ体での糖鎖修飾が行われるため、末端から2番目の糖はガラクトース、末端の糖はシアル酸である。シアル酸は負に帯電しており、電荷を持つ粒子に対する外部障壁となっている。
細胞膜は多くのタンパク質を含んでおり、典型的には膜の体積の50%を占める。これらのタンパク質は、さまざまな生物学的活性を担っており重要である。酵母では、約3分の1の遺伝子が膜タンパク質をコードしており、この割合は多細胞生物ではさらに高くなる。膜タンパク質は、内在性、表在性、脂質アンカータンパク質、という3つの主要なタイプから構成される。
右の表に示されている通り、内在性膜タンパク質は両親媒性の膜貫通タンパク質である。これには、イオンチャネル、プロトンポンプ、Gタンパク質共役受容体などが含まれる。イオンチャネルによって、ナトリウム、カリウム、カルシウム、塩素などの無機イオンの電気化学的な勾配に従った拡散が行われる。イオンチャネルの親水的な孔を通ってイオンは細胞膜を通過する。細胞の電気的な挙動 (神経細胞など) はイオンチャネルによって制御されている。プロトンポンプは脂質二重膜に埋め込まれたタンパク質のポンプであり、プロトンはアミノ酸の側鎖を次々に移動しながら膜を越えて移動する。このような電子の伝達やATPの産生にはプロトンポンプが用いられる。Gタンパク質共役受容体は、脂質二重膜を7回貫通する1本のポリペプチド鎖で、シグナル伝達物質 (ホルモンや神経伝達物質) に応答する。Gタンパク質共役型受容体は細胞間シグナリングや、cAMPの産生の調節、イオンチャネルの調節などに用いられる。
細胞膜は外部環境に露出しており、細胞間コミュニケーションに重要な部位となっている。そのため、さまざまな種類のタンパク質受容体や、抗原提示を行うタンパク質などが細胞膜の表面には存在している。膜タンパク質の機能には、細胞間の連絡、表面の認識、細胞骨格の連絡、シグナル伝達、酵素活性、膜を越えた物質輸送なども含まれる。
膜タンパク質はいくつかの方法で膜へ挿入されている。1つの方法では、N末端のアミノ酸の「シグナル配列」がタンパク質を小胞体へ向かわせ、そこで脂質二重層へ挿入される。挿入されたタンパク質は小胞の中で最終目的地まで輸送され、そこで小胞は標的の膜と融合する。
細胞膜は、細胞質を取り囲んでおり、細胞内の構成要素を細胞外の環境から物理的に分離している。また、細胞膜は細胞骨格の足場となって細胞を形づくり、細胞外マトリックスや他の細胞に接着し、まとまって組織を形成する。菌類、細菌、ほとんどの古細菌、そして植物は細胞壁も持っており、細胞の機械的な支持を行うとともに、巨大な分子の通過を防いでいる。
細胞膜には選択的透過性があり、細胞への出入りを調節し、生存に必要な物質の輸送を促進している。膜を越える物質移動は、細胞からのエネルギー入力なしに起こる「受動輸送」と、輸送のために細胞がエネルギーを消費する必要がある「能動輸送」のいずれかによって行われる。また、膜は細胞内外の電位差 (膜電位) を保っている。細胞膜は選択的フィルターとして働き、特定のものだけが細胞へ出入りするようになっている。細胞は、生体膜が関与する輸送メカニズムとして次のようなものを利用する。
原核生物は、古細菌と細菌の異なる2つのグループに分類され、細菌はさらにグラム陽性菌とグラム陰性菌に分類される。グラム陰性菌はペリプラズムによって隔てられる細胞膜と外膜を持っているが、他の原核生物は細胞膜のみを持っている。細胞膜と外膜は多くの面で異なっている。グラム陰性菌の外膜は、リン脂質が二重層の外側の面を形成し、リポタンパク質とリン脂質が内側の面を形成している。典型的な外膜は、孔を形成するタンパク質であるポリンのような膜タンパク質が存在するため、孔の多い構造となっている。内側の細胞膜は一般的に対称的な構造をしているが、外膜は上のようなタンパク質のために非対称的である。また、原核生物の膜は、複数の因子が流動性に影響を与えている。流動性に影響を与える主要な因子の1つは、脂肪酸の構成である。例えば、37°Cで24時間培養した黄色ブドウ球菌 Staphylococcus aureus の細胞膜は、ゲル状態というよりも流動的な状態となっている。このことは、高温下においては膜はより流動的となるという考えを支持している。膜がより流動的になり安定化が必要となると、より長い、またはより飽和した脂肪鎖が膜の安定化のために合成されるようになる。
また、細菌はペプチドグリカン (アミノ酸と糖) から構成される細胞壁に囲まれている。いくつかの真核生物の細胞も細胞壁をもっているが、それらはペプチドグリカンで作られているものではない。
グラム陰性菌の外膜はリポ多糖に富んでおり、それらは多糖またはオリゴ糖と脂質が結合したもので、細胞の自然免疫を刺激する。ストレス環境や宿主の標的細胞に遭遇し毒性が必要とされるときなどに、外膜はペリプラズム領域へ突起を形成し、毒性細胞小器官 (virulence organelle) として機能する。原核生物の細胞膜には、ニッチへ適合するために構造を適応させている多くの例が見つかる。例えば、ある細菌の細胞表面のタンパク質は滑走運動 (gliding motion) を行っている。多くのグラム陰性菌の細胞膜には、ATPによって駆動されるタンパク質輸送システムが存在する。
Davson と Danielli のモデルに置き換わって登場した、シーモア・ジョナサン・シンガー(英語版)とガース・L・ニコルソン(英語版)による流動モザイクモデル (1972) によると、生体膜は脂質やタンパク質分子が多かれ少なかれ容易に拡散する二次元液体とみなされている。膜の基礎となる脂質二重層は確かにそれ自体で二次元液体を形成するが、細胞膜には大量のタンパク質も含まれており、それらによってより構造化されたものとなっている。構造の例としては、タンパク質-タンパク質複合体や、アクチンを基礎とした細胞骨格によって形成される picket と fence などがあり、脂質ラフトも含まれる可能性がある。
細胞膜は通常脂質二重層と呼ばれる構造をつくっている。脂質二重層は自己集合によって形成される。細胞膜を構成する主要な成分であるリン脂質には頭部と尾部があるが、頭部はコリン、リン酸からなり、親水性である。一方、尾部は炭化水素からなり、疎水性である。そのため極性を持つ体液中では尾部を内側に、頭部を外側にするようにリン脂質が二重の膜を形成する。疎水的相互作用 (疎水効果) が脂質二重層形成の主な駆動力である。疎水的な分子間の相互作用が増加し、疎水的な領域が集合すると、水分子はより自由に互いに結合するようになり、系全体のエントロピーは増加する。この複雑な相互作用には、ファンデルワールス力、静電的相互作用、水素結合などの非共有結合的な相互作用が含まれる。細胞膜には、脂質の中に埋め込まれたり、脂質自体に結合した状態のタンパク質(膜タンパク質)が存在し、さらにこの脂質や膜タンパク質には多くの場合糖鎖が結合している。したがって細胞表層は全体として複雑な構造となり、細胞の種類ごとに特徴的なものとなる。
一般的に脂質二重層はイオンや極性分子を透過しない。脂質二重層の親水的な頭部と疎水的な尾部の配置は、一般的に疎水性分子の受動的な拡散を行うが、極性の溶質 (アミノ酸、核酸、炭水化物、タンパク質、イオン) が膜を越えて拡散することは防がれる。そのため細胞は、孔やチャネル、ゲートのような膜貫通タンパク質複合体を経由してこれらの物質の移動させることで、物質移動を制御することができる。フリッパーゼ(英語版)やリン脂質スクランブラーゼ(英語版)は、負電荷を持つホスファチジルセリンを細胞膜の内側に濃縮する。これと、N-アセチルノイラミン酸によって、荷電した分子の膜通過の更なる障壁が形成されている。
膜は真核生物や原核生物の細胞で多様な機能を果たしている。重要な機能の1つは、物質の細胞への出入りを調節することである。特定の膜タンパク質を持つリン脂質の二重層構造 (流動モザイクモデル) は、膜の選択的透過性と受動輸送、能動輸送のメカニズムを説明する。それに加え、原核生物や、真核生物のミトコンドリアと葉緑体の膜は、化学浸透によってATPの合成を促進している。
脂質二重層の例外としては、一部の古細菌の細胞膜がある。例えばスルフォロブス属 (Sulfolobus) 等では向かい合ったリン脂質の疎水鎖が連結し、脂質一重層になっている。
極性を有する細胞において、内腔に面した細胞膜表面は頂端膜 (apical membrane) と呼ばれ、他の面とは異なる活性を持つ。上皮細胞や内皮細胞において顕著であるが、神経細胞のような他の極性細胞でも見られる。極性細胞の側面と底面を形成する細胞膜は側底膜 (basolateral membrane) と呼ばれ、外側の間質に面しており、内腔からは離れている。側面と底面の細胞膜は、特に上皮細胞では、同一の組成と活性を持つ。イオンチャネルやポンプのようなタンパク質は、流動モザイクモデルの通りに底面から側面へ、側面から底面へと自由に移動する。上皮細胞どうしは頂端面の近くでタイトジャンクションによって結合しており、タンパク質の側底膜から頂端膜への移動が防がれている。
細胞膜は、カベオラ、シナプス後肥厚(英語版)、ポドソーム(英語版)、浸潤突起(英語版)、焦点接着(英語版)、さまざまな種類の細胞結合といった「超膜構造」("supramembrane" structure) を形成することができる。これらの構造は通常、細胞接着、細胞間のコミュニケーション、エンドサイトーシス、エキソサイトーシスを担っており、電子顕微鏡や蛍光顕微鏡で観察可能である。これらは、インテグリンやカドヘリンといった、特定のタンパク質から構成されている。
細胞骨格は細胞膜直下の細胞質に見つかり、膜タンパク質を固定するため、また、細胞から伸びる細胞小器官を形成するための足場となっている。実際に、細胞骨格の構成要素は、細胞膜と密接に相互作用している。アンカータンパク質 (anchoring protein) は膜タンパク質を細胞表面の特定の部位、例えば脊椎動物の腸管に並ぶ上皮細胞では頂端面に限定し、二重層内で拡散する領域を制限している。また、細胞骨格は付属器官型の細胞小器官を形成することができる。例えば繊毛は微小管を基盤とする突起構造であり、フィロポディア(英語版)はアクチンを基盤とする突起構造である。これらの突起は膜に覆われており、外部環境を感知したり、基質や他の細胞と接触したりするために細胞表面から突出する。上皮細胞の頂端面は微絨毛として知られるアクチンが基盤となった指型の突出が密集しており、細胞の表面積を増加させることで栄養素の吸収率を増加させている。細胞骨格と細胞膜が局所的に脱共役されると、ブレブ(英語版)が形成されることとなる。
細胞膜の内側の、細胞の内容物も多数の膜結合性の細胞小器官から構成されており、それらは細胞の全体的な機能に寄与している。
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経済
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経済(、希: οικονομία、羅: oeconomia、英: economy〈エコノミー〉)とは、市場が生産活動を調整するシステムを指す。
人々が豊かな生活を送るためには、需要に応じて財やサービスを生産し、充分に供給できるような精度の高いシステムが必要となる。なぜなら世の中にある資源には希少性があり、何かを手に入れるためには、他のものを諦めなければならないからである。経済とはそれらの活動を調整するシステムであり、経済学とはそのシステムを研究する学問である。
人間による重要な経済活動の一つに、取引がある。貨幣を用いた売買も取引の一形態である。貨幣は取引を円滑にする以外に、短期的に価値が変動しにくいため価値が貯蔵できる、商品の価値を計算する尺度になる、といった特徴を持つ。これら貨幣のはたらきも、経済学の重要な研究対象となっている。
日本語の「経済」は英語の "economy"の訳語となっているが、このeconomyという語は古典ギリシア語の οικονομία(家政術)に由来する。οικος は家を意味し、νομος は規則・管理を意味する。従って、economy の本来の意味は家庭のやりくりにおける財の扱い方であるが、近代になってこれを国家統治の単位にまで拡張し、以前の意味と区別して政治経済学(political economy)という名称が登場する(この名称は後にアルフレッド・マーシャルによって economics と改められた。)。
近代以降、日本のみならず中国など漢字文化圏の国で、上記のような "economy" を意味する「経済」の語が普及したが、それ以前は政治的、倫理的意味を含む「経世済民」の略語として用いられていた。
まず江戸時代後期の日本において、「経済」という言葉が人民の生活に関わる生産、支出、分配などの意味を含んで使われるようになり、幕末維新期に(古典派経済学における)"political economy" の訳語として用いられるようになった。たとえば、1862年発行の辞書『英和対訳袖珍辞典』が political economy の訳語として「経済」「経済学」の訳語を挙げており、同じ年に西周が手紙の中で「経済学」の語を用いている。「経済」の語が広まったのは、同時期に福澤諭吉が「経済」の語を用いていたことが大きく影響しているとされ、この訳語の考案者を福沢諭吉とする文献もある 。political economyの訳語としては、同時期に『易経』に由来する資生なども提唱されたが、こちらはあまり普及しなかった。
"(political) economy" の訳語としての「経済」の語法は、やがて翻訳を通じて「経世済民」の語を生んだ中国(清)に逆輸入されたが、初めは訳語としてあまり用いられず、富国策、資生学といった用語が用いられていた。その後、中華民国の初期に孫文ら革命派が「経済」を用いた影響もあり、訳語として定着していった。
経済活動は法律をはじめとする様々な条件によって制約されている。それらの制約のもとで、社会は人々のニーズを満足させるように供給を組織化する。この組織化された供給の仕組みを経済体制 (Economic system) という。代表的な経済体制として以下の3つが挙げられる。
伝統経済 (Traditional economy) とは生産や再配分などの主要な経済活動が慣習や文化によって大きく規定された経済である。集落や村落などの比較的に小規模な集団の経済にしばしば見られる形態であり、生産活動が個人の家柄や集団の文化によって定められているために予測可能性が高く、継続的かつ安定的な供給が維持される。
市場経済 (Market economy) とは企業や個人が自己利益を最優先して財・サービスを生産し、市場の仕組みによって配分する形態の経済である。規範や指令もなく、市場における消費の動向によって生産活動が規定される特徴があり、個人の自由度が高く、意思決定が分散的であり、また希少性の変化に柔軟に反応できる長所がある。ただし経済学が保証する市場経済の効率性は、財産権、取引の自由、企業参入退出の自由、完全情報などの条件が必要であり、これらの条件が満たされない場合には市場の失敗が生じる。
計画経済 (Command economy) とは中央当局によってあらゆる経済活動が運営されている形態の経済である。指令経済とも言う。産業への必要物資、生産目標、生産割り当てなどが定められ、その計画に基づいて経済活動が遂行される。経済資源や労働力を計画的に運用することができるために特定の産業を集中的に発展できるとされる。一方で、計画経済の下では労働者のインセンティブが欠如しやすいという欠点がある。また、計画経済の存立可能性をめぐってなされた議論として経済計算論争がある。
経済成長とは、経済規模の拡大や生産性の向上といった経済力の伸びを示す概念である。国の経済規模は、国内総生産(GDP)によって測られる。これら産出量の変化率が実質経済成長率であり、狭義にはこの変化率の上昇傾向を指して経済成長と呼ぶ。経済成長を決定づける要因や、経済成長率と失業、物価などとの関連を分析する経済学の分野としてマクロ経済学がある。
効率的な経済活動であることから転じて、商品の購入に際して金銭負担が少なくてすむことを「経済的」「エコノミカル(Economical)」という。飛行機で最も低価格な座席等級を「エコノミークラス」と呼ぶのもこうした用法の1つである。
日本経済、アメリカ経済、中国経済などのように、国家の経済活動を「経済」と呼ぶことがある。大阪経済、香港経済などのように、ローカルの経済活動を指すこともある。
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モノクローナル抗体
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モノクローナル抗体(モノクローナルこうたい、英: monoclonal antibody、mAbまたはmoAb)は、単一の抗体産生細胞をクローニングして作られた抗体である。このようにして得られた後続の抗体は、すべて単一の親細胞までさかのぼる。
通常の抗体(ポリクローナル抗体)は抗原で免疫した動物の血清から調製するため、いろいろな抗体分子種の混合物となるが、モノクローナル抗体は抗体分子種が均一である。抗原は複数のエピトープ(抗原決定基。抗体によって認識される抗原の部分)を持つことが多く、ポリクローナル抗体は各々のエピトープに対する抗体の混合物となるため、厳密には抗原特異性が互いに異なる抗体分子が含まれている。これに対し、モノクローナル抗体では用いる抗原のエピトープが単一であるため、抗原特異性も単一である。また、1つのモノクローナル抗体の治療対象を2つのエピトープに増やすことで、二重特異性モノクローナル抗体を設計することもできる。
通常、抗体産生細胞と骨髄腫細胞とを細胞融合させることで自律増殖能を持たせた融合細胞ハイブリドーマ (hybridoma) を作成し、目的の抗原特異性をもつ融合細胞のみを選別(スクリーニング)し、これを抗原細胞とする。この抗原細胞を培養し、分泌物を精製して目的のモノクローナル抗体が作製される。事実上、あらゆる適切な物質に特異的に結合するモノクローナル抗体を作製し、その物質を検出または精製することができる。この機能は、生化学、分子生物学、および医学の分野で重要なツールとなっている。
1900年代、免疫学者のパウル・エールリヒは、病気の原因となる生物を選択的に標的とし、その生物に対して毒素を送達できる化合物として「魔法の弾丸」(Zauberkugel)のアイデアを提案した。これはモノクローナル抗体やモノクローナル薬物複合体の概念を支持した。エールリヒおよびイリヤ・メチニコフは、免疫学の理論的基礎を提供したことで、1908年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
1970年代になると、単一の抗体を産生するリンパ球が、B細胞の癌である多発性骨髄腫という形で知られるようになった。これらの異常な抗体またはパラプロテイン(英語版)は、抗体の構造を研究するために使用されたが、特定の抗原に特異的な同一の抗体を作ることはまだできなかった。1973年、Jerrold Schwaberは、ヒトとマウスのハイブリッド細胞を使用したモノクローナル抗体の生産について説明した。この研究は、ヒト由来のハイブリドーマを使用している人々の間で広く引用されている。1975年、ジョルジュ・ケーラーとセーサル・ミルスタインは、骨髄腫細胞株とB細胞を融合させて、既知の抗原に特異的で不死化された抗体を産生する、ハイブリドーマを作成することに成功した。彼らおよびニールス・カイ・イェルネは、この発見により、1984年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
1988年、グレッグ・ウィンターと彼のチームは、モノクローナル抗体をヒト化する技術を開拓し、多くのモノクローナル抗体が一部の患者に引き起こした反応を解消した。1990年代に入ると、モノクローナル抗体を治療に用いる研究が進展し、2018年には、抑制性連鎖を防ぐモノクローナル抗体を使用した負の免疫調節の阻害による癌治療法の発見により、ジェームズ・P・アリソンと本庶佑がノーベル生理学・医学賞を受賞した。
モノクローナル抗体の作製の背後にある研究の多くは、ハイブリドーマの作製に根ざしている。ハイブリドーマ作成には、目的の抗原に特異的な抗体を産生する抗原特異的血漿/形質芽細胞(ASPC)を特定し、これらの細胞と骨髄腫細胞を融合させることが含まれる。ウサギのB細胞を使って、ウサギ・ハイブリドーマ(英語版)を形成することができる。隣接する細胞膜を融合させるためにポリエチレングリコールを用いるが成功率が低いため、融合細胞のみが増殖できる選択培地を使用する。これが可能なのは、骨髄腫細胞が、核酸のサルベージ合成に必要な酵素であるヒポキサンチン-グアニン-ホスホリボシルトランスフェラーゼ(HGPRT)を合成する能力を失っているためである。HGPRTが欠損していても、de novoプリン合成経路(英語版)が破壊されない限り、これらの細胞にとっては問題にならない。細胞をアミノプテリン(英語版)(葉酸類似物質で、ジヒドロ葉酸還元酵素(DHFR)を阻害する)にさらすと、細胞は de novo 経路を使用できなくなり、核酸に対して完全な栄養要求性になるため、生き延びるために補給が必要となる。
選択培地は、ヒポキサンチン、アミノプテリン、チミジンを含むため、HAT培地(英語版)と呼ばれている。この培地は、融合細胞(ハイブリドーマ)に選択的である。未融合の骨髄腫細胞は、HGPRTが欠損しているため、DNAを複製することができず、増殖できない。未融合の脾臓細胞は、その寿命が限られているため、無制限に増殖することはできない。ハイブリドーマと呼ばれる融合したハイブリッド細胞のみが、培地中で無制限に増殖することができる。その理由は、脾臓細胞パートナーがHGPRTを供給し、骨髄腫細胞パートナーがそれを不死にする特性(癌細胞に似ている)を持つためである。
次に、この細胞の混合物を希釈し、マイクロタイターウェル上で単一の親細胞からクローンを増殖させる。その後、異なるクローンによって分泌された抗体は、抗原に結合する能力(ELISAや抗原マイクロアレイアッセイなどの試験で)や、またはイムノドットブロットで評価される。そして、最も生産的で安定したクローンが将来の使用のために選択される。
このハイブリドーマは、適切な細胞培養培地で無制限に増殖させることができる。それらはまた、マウスに注射することもできる(腸を囲む腹膜腔内)。そこで腹水と呼ばれる抗体を多く含む液体を分泌する腫瘍を生成する。
ハイブリドーマの増殖をさらに促進するために、器内(in vitro)での選択の際に培地を濃縮しなければならない。これは、フィーダー繊維細胞の層や、ブライクローンなどの補助媒体を使用することで実施される。マクロファージで調整した培地を使用することができる。腹水手法は動物に苦痛を与えるため、通常は細胞培養での製造が望ましい。代替技術が存在する場合、腹水は非倫理的と見なされる。
近年、ファージディスプレイ、単一B細胞培養、さまざまなB細胞集団からの単一細胞増幅、単一形質細胞解析技術など、いくつかのモノクローナル抗体技術が開発された。従来のハイブリドーマ技術とは異なり、新しい技術は分子生物学的手法を用いて、抗体遺伝子の重鎖と軽鎖をPCRで増幅し、組換え技術で細菌や哺乳類系で生産する。新しい技術の利点の一つは、ウサギ、ラマ、ニワトリ、その他の実験室で一般的な実験動物など、複数の動物で適用できることである。
培養したハイブリドーマの培地サンプルまたは腹水液サンプルをいずれかを入手した後、目的の抗体を抽出する必要がある。細胞培養液サンプルの夾雑物(きょうざつぶつ)は、主に成長因子、ホルモン、トランスフェリンなどの培地成分で構成されている。一方、生体内(in vivo)サンプルには、宿主の抗体、プロテアーゼ、ヌクレアーゼ、核酸、ウイルスが含まれている可能性がある。どちらの場合も、サイトカインのようなハイブリドーマによる他の分泌物が存在する可能性がある。また、細菌汚染があり、その結果、細菌が分泌する内毒素が存在する可能性もある。細胞培養に必要な培地の複雑さ、ひいては混入物に応じて、どちらか一方の方法(in vivoまたはin vitro)が好ましい場合がある。
サンプルは、まず前処理をするか精製の準備をする。最初に細胞、細胞組織片、脂質、および凝固物を、通常は遠心分離によって除去し、その後に0.45 μmのフィルターでろ過する。これらの大きな粒子は、後の精製工程で膜ファウリング(英語版)と呼ばれる現象を引き起こすことがある。さらに、特に分泌量の少ない細胞株で目的の抗体が作られている場合、サンプル中の生成物の濃度が十分でない可能性もある。そのため、サンプルを限外濾過または透析によって濃縮する。
帯電した不純物の多くは、核酸やエンドトキシンなどの陰イオンである。これらは、イオン交換クロマトグラフィーによって分離することができる。目的の抗体がカラムに結合しながら陰イオンが流れるような低いpHで陽イオン交換クロマトグラフィーを使用し、目的の抗体がカラムに結合しながら流れるような高いpHで陰イオン交換クロマトグラフィー(英語版)を使用する。また、さまざまなタンパク質を、その等電点(pI)に基づいて、陰イオンとともに分離することができる。タンパク質では、等電点(pI)は、タンパク質が正味の電荷を持たないpHと定義される。pH > pIの場合、タンパク質は正味の負電荷を持ち、pH < pIの場合、タンパク質は正味の正電荷を持つ。たとえば、アルブミンのpIは4.8であり、ほとんどのモノクローナル抗体のpIが6.1であるのと比べて著しく低い。したがって、pHが4.8から6.1の間では、アルブミン分子の平均電荷はより負になる可能性が高く、mAbs分子は正に帯電しているため、両者を分離することができる。一方、トランスフェリンのpIは5.9なので、この方法では簡単には分離できない。良好な分離のためには、少なくともpIの差は1を必要とする。
その代わりに、トランスフェリンは、サイズ排除クロマトグラフィーによって除去することができる。この方法は、より信頼性の高いクロマトグラフィー技術の一つである。タンパク質を扱っているので、電荷や親和性などの特性は一貫しておらず、pHによって分子がプロトン化および脱プロトン化されるため変化するが、サイズは比較的一定に保たれる。それでもなお、低分解能、低容量、低溶出時間などの欠点がある。
はるかに迅速な単一ステップの分離方法として、プロテインA/G(英語版)アフィニティークロマトグラフィーがある。この抗体は、プロテインA/Gに選択的に結合するため、高レベルの純度(通常80%以上)が得られる。しかし、この方法は一般的に過酷な条件で行われるため、損傷を受けやすい抗体には問題がある可能性がある。pHが低いと、結合が切断されて抗体がカラムから外れることがある。製品に影響を与える可能性があることに加え、pHが低いとプロテインA/G自体がカラムから漏れ出し、溶出したサンプルに混入する可能性がある。敏感な抗体が低pHにさらされるのを防ぐために、高塩濃度を採用した穏やかな溶出バッファーシステムを利用できる。固定化プロテインA/Gはより高価な樹脂であるため、この方法ではコストも重要な考慮事項となる。
単一の工程で最大の純度を達成するために、抗体に特異性を持たせるために抗原を使用して、アフィニティ精製を行うことができる。この方法では、抗体を生成するために用いる抗原は、アガロース担体に共有結合する。抗原がペプチドの場合、一般的には末端にシステインを持つように合成される。これにより、開発時にKLH(英語版)などのキャリアタンパク質に選択的に結合させ、精製を保持することができる。その後、抗体含有培地を、固定化された抗原とインキュベートする。このとき、抗体はバッチ式またはカラムを通過させることにより選択的に結合し不純物を洗い流す間保持される。その後、低pHバッファーまたはより穏やかな高塩濃度溶出バッファーで溶出し、担体から精製された抗体を回収する。
モノクローナル抗体やその他の組換え生物学的製品では、製品の不均一性が普通に見られ、一般的には発現時の上流側、または製造時の下流側のいずれかでもたらされる。
これらの変異体は、典型的には、凝集体、脱アミド化生成物、グリコシル化変異体、アミノ酸側鎖の酸化物、さらにはアミノおよびカルボキシル末端のアミノ酸付加物である。このような微小な構造変化は、前臨床試験の安定性とプロセスの最適化、ひいては治療薬の効力、バイオアベイラビリティ、および免疫原性に影響を及ぼす可能性がある。モノクローナル抗体のプロセス流における一般的に受け入れられている精製方法は、プロテインA(英語版)による製品ターゲットの捕捉、溶出、潜在的な哺乳動物ウイルスを不活性化するための酸性化、それに続くイオンクロマトグラフィー(最初に陰イオンビーズ(英語版)、次に陽イオンビーズ)が含まれる。
置換クロマトグラフィー(英語版)は、これらのあまり見られない変異体を、動物の薬物動態試験などの前臨床評価レジメンに適した量で同定し、特性を明らかにするために使用されている。前臨床開発段階で得られた知識は、製品の品質に対する理解を深めるために重要であり、リスク管理や規制の柔軟性を高めるための基礎となる。最近の米国食品医薬品局(FDA)のクオリティ・バイ・デザインイニシアチブは、開発に関するガイダンスを提供し、製品の製造可能性を高めながら、有効性と安全性プロファイルを最大化するような製品およびプロセスの設計を促進しようとするものである。
組換え(英語版)モノクローナル抗体の作製には、レパートリークローニング、CRISPR/Cas9、またはファージディスプレイ/酵母ディスプレイ技術が用いられる。組換え抗体(英語版)工学では、マウスではなくウイルスや酵母を使用して抗体を作製する。これらの技術は、免疫グロブリン遺伝子セグメントの迅速なクローニングに基づき、アミノ酸配列がわずかに異なる抗体のライブラリを作成し、そこから目的の特異性を持つ抗体を選択することができる。ファージ抗体ライブラリは、ファージ抗原ライブラリの別形である。これらの技術は、抗体が抗原を認識する特異性、さまざまな環境条件での安定性、治療効果、および診断用途での検出性を高めるために使用することができる。発酵槽は大規模な抗体生産に使用されている。
マウスとヒトの抗体は構造的には類似しているが、マウスモノクローナル抗体をヒトに注射したときに、それらの違いは免疫応答を引き起こすのに十分であり、その結果は、マウスモノクローナル抗体は血液中から速やかに除去され、全身性の炎症作用およびヒト抗マウス抗体(英語版)(HAMA)の産生をもたらす。
組換えDNAは、滞留時間を長くするために1980年代後半から探究されてきた。ある研究アプローチにおいて、モノクローナル抗体の結合部分をコードするマウスDNAを、生細胞の中でヒトの抗体産生DNAと融合させた。この「キメラ」または「ヒト化」されたDNAを細胞培養で発現させると、一部マウスで一部ヒトの抗体を産生する。
モノクローナル抗体を作製できるという発見以来、科学者たちは、ヒト化抗体またはキメラ抗体の副作用を軽減するために、完全ヒト製品の作製を目標としてきた。いくつかの成功したアプローチとして、トランスジェニックマウス(英語版)、ファージディスプレイ、単一B細胞クローニングが確認されている。
2016年11月現在、市販されている完全ヒトモノクローナル抗体治療薬19種のうち、13種がトランスジェニックマウス技術に由来している。
トランスジェニック技術を採用して市場に出している組織は次のとおりである。
ファージディスプレイは、繊維状ファージの外皮タンパク質(Phage major coat protein)上で可変抗体ドメインを発現させるために使用可能である。これらのファージディスプレイ抗体は、さまざまな研究用途に使用できる。ProAbは1997年12月に発表され、罹患組織と非罹患組織に対する抗体ライブラリのハイスループットスクリーニングを行うもので、Proximolはフリーラジカル酵素反応を利用して、特定のタンパク質に近接する分子を標識するものである。
モノクローナル抗体は、癌、心血管疾患、炎症性疾患、黄斑変性症、移植拒絶反応、多発性硬化症、ウイルス感染症の治療に承認されている。
2006年8月、米国研究製薬工業協会(英語版)の報告によると、米国企業は160種類のモノクローナル抗体を臨床試験中または米国食品医薬品局の承認を待っている。
モノクローナル抗体の製造は、複雑なプロセスが関与したり、その全般的な分子サイズのため、低分子化合物よりもコストが高く、これらはすべて新しい化学物質を患者に提供するための膨大な研究開発費に追加される。それらは、製造業者が多額の投資費用を回収できるように価格設定されており、米国のように価格統制がない場合は、価値が高いほど価格が高くなることがある。ピッツバーグ大学の7人の研究者は、患者一人当たり「mAb療法の年間費用は、腫瘍学および血液学の領域では他の疾病よりも約10万ドル高い」と結論づけた。新血管疾患や代謝性疾患、免疫領域、感染症、アレルギー、眼科の各領域と比較された。
ある物質に対するモノクローナル抗体ができれば、それを使ってその物質の存在を検出することができる。タンパク質は、ウェスタンブロットやイムノドットブロットを使用して検出できる。免疫組織化学検査では、モノクローナル抗体を使用して、固定組織切片中の抗原を検出でき、同様に、免疫蛍光検査では、凍結組織切片または生細胞中の物質を検出できる。
抗体はまた、免疫沈降法を使用して、混合物から標的化合物を精製するためにも使用される。
治療用モノクローナル抗体は、標的分子の機能の遮断、標的分子を発現している細胞のアポトーシス誘導、またはシグナル伝達経路の調節など、複数の機構を通じて作用する。
1970年代に発明されたモノクローナル抗体は臨床に革命的な変化を起こすといわれたが、その後ほぼ20年間、臨床試験は上手くいかなかった。これは主に、マウスの抗体はヒトに抗原認識されることが原因であった。しかし1990年代になって、CHO細胞内に、マウスでなくヒトの免疫グロブリン遺伝子を発現するプラスミドを直接形質転換する方法が開発されて以降、この問題は克服された。この方法はさらに進化し、現在ではハイブリドーマを使用せず、ファージディスプレイにより1兆個の分子からなる莫大なクローンライブラリーから最適抗体がスクリーニングされ、その遺伝子をCHO細胞で大量生産する方法が用いられている。もしくは、ヒトの抗体を生産するトランスジェニックマウスを使い、直接ヒト抗体を得る方法が用いられる。これらの方法は、前臨床段階までの開発費がわずか約2億円で済むといわれており、従来の古典的化学薬品にかかる20億円と比較して非常に効率がよい。ただし細胞培養を必要とするため、最終製品の製造費用は化学合成による化学薬品と比べると、非常に高い。
モノクローナル抗体はタンパク質薬品であり、いわゆる化学薬品と違い経口投与ができない(普通週一回の注射)、製造費用が非常に高い、細胞内部に侵入できないなどの欠点を持つ。しかしいったん標的分子に結合すると、患者自身の免疫機構が働いて標的分子を含むがん細胞を高率で破壊できるなどの利点をもつ。また、免疫グロブリン自体はヒトの体内に存在する分子なので、それ自身による副作用は予想しやすい。
原理的にはポリクローナル抗体も臨床に使用可能であるが、人間の患者への薬品として使用するためには、薬品内の分子が化学的に厳密に定義され、さらにそれらを極めて高純度でかつ安定的に大量生産する必要があり、現実にはほぼ不可能であるといわれている。 ヒト血漿由来(血液製剤)の免疫グロブリン製剤は一種のポリクローナル抗体であり、様々な難病に対して使用され有効性を示している。しかし、これら血液由来の免疫グロブリン製剤が組換え抗体医薬品に容易に置き換えることができないのは、上記の品質管理の困難さからである。
癌の治療法の一つとして、癌細胞に特異的な抗原にのみ結合し、標的となる癌細胞に対する免疫応答を誘発するモノクローナル抗体が考えられる。このようなモノクローナル抗体は、毒素、放射性同位体、サイトカイン、その他の活性コンジュゲートの送達用に修飾することができる。あるいは、Fab領域(英語版)で標的抗原およびコンジュゲート(またはエフェクター細胞)の両方に結合できる二重特異性抗体を設計できる。すべてのインタクト抗体は、そのFc領域で細胞受容体または他のタンパク質に結合することができる。
米国食品医薬品局(FDA)が癌に対して承認しているモノクローナル抗体は次のとおりである。
自己免疫疾患に用いられるモノクローナル抗体にはインフリキシマブやアダリムマブがあり、TNF-αに結合して阻害することにより、関節リウマチ、クローン病、潰瘍性大腸炎、強直性脊椎炎に効果がある。バシリキシマブとダクリズマブ(英語版)は、活性化T細胞のIL-2を阻害することにより、腎移植の急性拒絶反応を予防に役立つ。オマリズマブは、ヒト免疫グロブリンE(IgE)を阻害し、中等症から重症のアレルギー性喘息の治療に有用である。
研究用のモノクローナル抗体は、抗体サプライヤーから直接またはCiteAb(英語版)のような専門家検索エンジンを使用して入手することができる。次は臨床的に重要なモノクローナル抗体の例である。
モノクローナル抗体を使用したイムノクロマト法で各種の迅速診断キットが販売されている。5分から15分で診断できる。 たとえば、感染症にはインフルエンザウイルス、RSウイルス、A群β溶連菌、アデノウイルス、肺炎マイコプラズマ、ヒトメタニュウモウイルス、ノロウイルス、ロタウイルス、肺炎球菌、レジオネラ、病原性大腸菌O157、便中ピロリ菌などである。
心筋炎や心筋梗塞には、トロポニンTの迅速診断キットがある。
ベバシズマブやセツキシマブなどのいくつかのモノクローナル抗体は、さまざまな種類の副作用を引き起こす可能性がある。これらの副作用は、一般的な副作用と重篤な副作用に分類される。
一般的な副作用には次のものがある。
重大な副作用の可能性として次のものがある。
モノクローナル抗体は1990年代後半から、バイオテクノロジー産業に革命をもたらし、現在のバイオテクノロジー薬品のほぼ3分の1はモノクローナル抗体である。1997年にGENENTECH社のRituxan抗体が抗CD20抗体として非ホジキンリンパ腫 (NHL) に対して認可されたのをはじめ、Herceptin, Avastinなどのシグナルトランスダクションやアンジオジェネシスを標的とする新型をふくめ、現在15以上のモノクローナル抗体ががん治療などに使われ、少なくとも100を超えるモノクローナル抗体がPhaseI・II・IIIの臨床試験で開発されている。特にがん治療において使われ、2004年の売り上げは約60億ドル、2008年までにモノクローナル抗体の売り上げは150億ドルを超えると予想される。また、次世代モノクローナル抗体で呼ばれる、放射性同位体を結合したものや、抗体可変部位のみの極小型、などの新型が開発されている。
成功した抗体の売り上げは莫大で、2004年は抗TNF-α抗体Remicade(Centocor社)がトップで21億ドル、Rituxanが17億ドルとブロックバスター製品となっている。特にGENENTECH社が開発した3つのモノクローナル抗体製品(Rituxan, Herceptin, Avastin)はその全てがFDAから認可されており、その全てがヒット製品になっている。一般に4-6年に及ぶ臨床試験で製品が生き残る確率はわずか20%であることから考えて、これは米製薬業界史上稀にみる成功である。
モノクローナル抗体が最も成功した要因のひとつは、抗体はもともと生体防御タンパク質として進化した分子なので、他のタンパク質と比べ極めて安定性の高く半減期が長いこと、標的と結合した後、身体の免疫機構を利用するため、増幅効果を期待できることなどである。これとくらべ、同じく1990年代から開発中のアンチセンス (antisense) 薬品は、標的細胞内の核内に輸送すること自体が至難の業であることから、GENTA社やISIS社が莫大な開発費を投じた製品はほぼ全て失敗に終わっている。
モノクローナル抗体薬の名称は語尾が"-mab"(Monoclonal AntiBodies)であらわされる。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB%E6%8A%97%E4%BD%93
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抗体
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抗体(、英: antibody)は、白血球のサブタイプの一つであるリンパ球の一種であるB細胞の産生する糖タンパク分子。免疫グロブリン(、immunoglobulin)、血漿中のγ‐グロブリン(英語版)(ガンマグロブリン)、Ig(アイジー)とも。獲得免疫系の液性免疫(特定のタンパク質などの分子(抗原)を認識して、排除する働き)を担う。抗体は主に血液中や体液中に存在する。
B細胞は抗原に応じて分化し抗体産生をする。一度分化したB細胞は、大量の抗体を迅速に産生し抗原を除去し、生態を防御する。
抗体が抗原へ結合すると、その抗原と抗体の複合体を好中球やマクロファージといった食細胞が認識・貪食して体内から除去するように働いたり、リンパ球などの免疫細胞が結合して免疫反応を引き起こしたりする。これらの働きを通じ、脊椎動物の感染防御機構において重要な役割を担っている(無脊椎動物は抗体を産生しない)。
すべての抗体は基本的には同じ構造を持っており、"Y"字型の4本鎖構造(軽鎖・重鎖の2つのポリペプチド鎖が2本ずつ)を基本構造としている。軽鎖(またはL鎖)にはλ鎖とκ鎖の2種類があり、すべての免疫グロブリンはこのどちらかを持つが、分子量は約25,000で共通である。重鎖(またはH鎖)には、γ鎖、μ鎖、α鎖、δ鎖、ε鎖の、構造の異なる5種類があり、この重鎖の違いによって免疫グロブリンの種類(アイソタイプと呼ぶ)が変わる。分子量は50,000〜77,000である。この軽鎖と重鎖がジスルフィド結合(SS結合)で結びついてヘテロダイマーを形成し、さらにこのヘテロダイマーが左右2つジスルフィド結合で結合して "Y"字型のヘテロテトラマーを形成する。
2本の軽鎖同士、あるいは2本の重鎖同士は全く同一のポリペプチド鎖である。
"Y"字の下半分の縦棒部分にあたる場所をFc領域 (Fragment, crystallizable) と呼ぶ。左右2つの重鎖からなる。白血球やマクロファージなどの食細胞はこのFc領域と結合できる受容体(Fc受容体)を持っており、このFc受容体を介して抗原と結合した抗体を認識して抗原を貪食する(オプソニン作用)。その他Fc領域は、補体の活性化や抗体依存性細胞傷害作用(英: Antibody Dependent Cellular Cytotoxicity、ADCC)など、免疫反応の媒介となる。このようにFc領域は抗体が抗原に結合した後の反応を惹起する「エフェクター機能」をもつ。免疫グロブリンのエフェクター機能は、免疫グロブリンの種類(アイソタイプ)によって異なる。
"Y"字の上半分の"V"字の部分をFab領域 (Fragment,antigen binding) と呼ぶ。この2つのFab領域の先端の部分で抗原と結合する。2本の軽鎖と2本の重鎖からなる。重鎖のFab領域とFc領域はヒンジ部でつながっている。左右の重鎖はこのヒンジ部がジスルフィド結合している。パパイヤに含まれるタンパク分解酵素パパインはこのヒンジ部を分解して、2つのFabと1つのFc領域に切断する。またタンパク分解酵素のペプシンはヒンジ部のジスルフィド結合のFc側で切断し、大きなFabが2個くっついたF(ab')2を1つと、多数の小さなFc断片を生成する。Fc断片のうち、CH3領域に相当する最も大きな断片はpFc'と呼ばれる。F(ab')2は、ジスルフィド結合部を含むため、Fabよりも構造が大きいため、Fabと区別するため ab' としている。このF(ab')2は抗原に結合するが、Fc領域を持たないためその後の免疫反応を引き起こさない。このことを利用して抗原の標識に用いられる。
Fab領域のうち先端に近い半分は、多様な抗原に結合できるように、アミノ酸配列に多彩な変化がみられる。このFab領域の先端に近い半分を可変領域(V領域)といい、軽鎖の可変領域をVL領域、重鎖の可変領域をVH領域と呼ぶ。V領域以外のFab領域とFc領域は、比較的変化の少ない領域であり、定常領域(C領域)と呼ばれる。軽鎖の定常領域をCL領域と呼び、重鎖の定常領域をCH領域と呼ぶが、CH領域はさらにCH1〜CH3の3つに分けられる。重鎖のFab領域はVH領域とCH1からなり、重鎖のFc領域はCH2とCH3からなる。ヒンジ部はCH1とCH2の間に位置する。
可変領域のうち、直接抗原と接触する領域は特に変化が大きく、この超可変領域を相補性決定領域 (complementarity-determining region: CDR) と呼び、それ以外の比較的変異の少ない部分をフレームワーク領域 (framework region: FR) と呼ぶ。軽鎖と重鎖の可変領域に、それぞれ3つのCDR (CDR1 - CDR3) と、3つのCDRを取り囲む4つのFR (FR1 - FR4) が存在する。
抗体は定常領域の構造の違いにより、いくつかのクラス(アイソタイプ)に分けられる。多くの哺乳類では、定常領域の構造の違いによりIgG、IgA、IgM、IgD、IgEの5種類のクラスの免疫グロブリンに分類される。それぞれのクラスの免疫グロブリンは大きさや生理活性が異なり、例えばIgAは粘膜分泌型の分子であり、IgEは肥満細胞に結合してアレルギー反応を引き起こす。さらにヒトの場合、IgGにはIgG1〜IgG4の4つのサブクラスが、IgAにはIgA1とIgA2の2つのサブクラスがあり、それぞれ少しずつ構造が異なっている。IgM、IgD、IgEにはサブクラスはない。
また、免疫グロブリンは血中や粘膜への分泌型の他、B細胞の細胞表面に結合した型(膜型)のものがある。
重鎖は定常領域の違いにより、γ鎖、μ鎖、α鎖、δ鎖、ε鎖に分けられ、この違いによりそれぞれIgG、IgM、IgA、IgD、IgEの5種類のクラス(アイソタイプ)の免疫グロブリンが形成される。これらの分泌型の免疫グロブリンの他、B細胞表面に結合したものがある。これは、分泌型免疫グロブリンが細胞表面に接着しているのではなく、細胞膜貫通部分をもったものであり、B細胞受容体 (B cell receptor; BCR) と呼ばれる。BCRは2本の重鎖と2本の軽鎖を持ち、細胞膜貫通部分にIgα/Igβヘテロ二量体を持つ。アイソタイプの違いにより、免疫グロブリンの持つ「エフェクター機能」が異なる。
免疫グロブリンは無脊椎動物には見られず、軟骨魚類以降の脊椎動物で見つかっている。それぞれの生物ごとに複数のクラスの免疫グロブリンを持つが、その種類は綱ごとに違いが見られる。IgMのみが脊椎動物のすべてで共通に見られる。
また、同じ哺乳類でもサブクラスの種類には種ごとに違いが見られる。例えばヒトIgGのサブクラスがIgG1〜IgG4の4種類であるのに対し、マウスIgGではIgG1, IgG2a, IgG2b, IgG3の4種類である。
関連する話題として、軟骨魚類と硬骨魚類はともにクラススイッチを起こさない。生物のうち免疫グロブリン抗体にてクラススイッチを起こすのは、両生類・爬虫類。鳥類・哺乳類である。
両生類と爬虫類に共通してIgYが見られる。哺乳類と鳥類に共通してIgAが見られる。IgEは哺乳類だけに見られる。
抗体は血液中や体液中に遊離型として存在するか、またはB細胞表面上にB細胞受容体として存在する。特定の抗原と結合する機能が抗体の最も重要な機能である。
抗体はウイルスや細菌などの微生物、あるいは毒素などを抗原として結合するが、抗原と抗体が結合すると、凝集反応(免疫沈降)をおこし、その凝集した抗原抗体複合体は、マクロファージやその他の食細胞が認識し貪食する。その際、抗体はそのFc領域をもってマクロファージ等に認識され貪食されやすくする役割をする(オプソニン作用)。そしてマクロファージに貪食された抗原は、マクロファージ内で分解され、T細胞にペプチド-MHC複合体として提示され、さらなる免疫反応がおこる。また抗体は補体活性化作用を通した免疫反応もおこす。抗体の中には、結合するだけで微生物の感染力を低下させたり、毒性を減少させたりする働きをもつものもある(中和作用)。これらの機構により、抗体は体内に侵入してきた細菌・ウイルスなどの微生物・毒素や、微生物に感染した細胞を認識して体内から排除しようとする。
B細胞表面に存在するBCRは、B細胞の抗原認識受容体として働き、特異的な抗原が結合することで、抗体産生細胞(形質細胞)や体細胞超変異、クラススイッチ組み換え等を経た後の、より抗原に対する親和性の高いBCRをもった抗体産生細胞や記憶B細胞への分化を引き起こす。抗体産生細胞はBCRと同じ抗原特異性、アイソタイプを持つ抗体を産生する。
抗体が抗原と結合する際、抗原の一部分(エピトープ)のみを認識して結合する。抗体はエピトープの立体構造を厳密に認識して結合し、エピトープのアミノ酸配列の違いはもちろんのこと、荷電の差、光学異性体、立体異性体の違いでも結合しなくなる。エピトープと結合する抗体側の部分をパラトープという。エピトープとパラトープの間には、水素結合、静電気力、ファンデルワールス力、疎水結合などの引力がかかり、これらの力により安定して結合する。このエピトープとパラトープの間の結合力のことをアフィニティ affinity という。
ただし、抗体は基本の4本鎖構造においては、抗原と結合する部位は2カ所であるが、IgMは五量体、IgAは二量体を形成するのでさらに多くの抗原認識部位を持っている。また、抗原によってはエピトープを複数もつ。このため抗体によっては、抗原と抗体は1か所で結合したり(1価)、同時に複数か所で認識したりする(多価)。このように抗原と抗体が結合するときの結合力の総和をアビディティ avidity と呼ぶ。多価の結合の際、結合力が相乗的に働くため、アビディティはアフィニティよりも高くなる。
マクロファージや好中球といった食細胞は、もともと細菌や死んだ細胞に結合する能力を持っているが、こういった細菌や死細胞に抗体や補体が結合すると、食細胞がもつ補体受容体やFc受容体を介して結合し、食作用を促進する。これをオプソニン作用という。
抗体は補体の古典経路によって補体を活性化し、抗体の結合した細菌に補体を結合させて細菌の細胞膜を破壊し、溶菌する。またオプソニン作用で食細胞による抗原の食作用を促進させる。IgG1、IgG3、IgMがもつ機能である。IgG2は補体活性化能は低く、IgG4、IgA、IgD、IgEはこの機能をもたない。
細菌やウイルスなどの微生物や、ヘビや虫などの毒素は、自らの構造の一部を細胞表面に結合させて細胞内に侵入し、毒性を示す。細胞に侵入する際に結合させる部分に抗体が結合してしまえば、微生物や毒素は細胞に結合できず、毒性を示せない。このように抗体は、結合することによって微生物の感染力を低下させたり、毒素の毒性を減少させたりすることがある。例えばインフルエンザウイルスは、ウイルス表面のヘマグルチニンを気道上皮細胞のシアル酸残基に結合させて細胞内に侵入するため、ヘマグルチニンに対する抗体はインフルエンザの感染力を低下させる。このことを中和作用という。
あらゆる抗原に対応するために、体内では可変領域の異なる重鎖と軽鎖を何百・何千万種類と用意する。このような抗体の多様性をどのようにして作り出しているのかは、長い間不明であった。1897年エールリヒは、もともとさまざまな抗原に対する鋳型を細胞表面にもっている細胞があり、その鋳型が抗原に出会うと、それが刺激となってその抗原に対する抗体を産生すると考えた(側鎖説)が、ラントシュタイナーは、新しく人工合成された化合物に対しても抗体が作用することを示し、この世になかった物質に対する鋳型をもともと細胞が持っていたとは考えにくく、抗体の多様性は側鎖説だけでは説明がつかないと考えた。その後、抗体は抗原に出会うとそれに結合できるように自らの姿を変えることができるという説(鋳型説)や、抗原の刺激により抗体が後天的に作られるという説(指令説)が唱えられたが、1959年エーデルマンが免疫グロブリンの基本構造を解明し、また1958年クリックにより、タンパクは遺伝子の情報に基づいて作られることが明らかになる(セントラルドグマ)と、鋳型説・指令説は否定的と考えられた。それに代わってバーネットの提唱したクローン選択説(1957年)が受け入れられるようになった。つまり、リンパ球はそれぞれ1種類の抗体しか作ることができず、そのため体内には非常に多くの種類のリンパ球が先天的に用意されている。そして抗原が体内に侵入すると、その抗原と結合できるリンパ球が選ばれて増殖し(クローン)、この抗原に対する抗体を産生する、という説である。この説は種々の実験によって正当性が証明されていったが、クローン選択説もエールリヒの側鎖説と同じように、全く未知の抗原に対応できるような抗体を、遺伝子はどうやって用意できるのか、という点は不明であった。非常に多くの種類の抗体の構造がひとつひとつ全て遺伝子に書き込まれているとは考えにくかった。
1976年利根川らは免疫グロブリンの遺伝子再構成という現象を発見し、この抗体の多様性に関する遺伝子レベルの謎に答えを出した。その他、体細胞超変異、遺伝子変換、クラススイッチ組み換えといった現象も抗体の多様性に関与していることが知られている。
B細胞に分化する前の生殖細胞の遺伝子では、重鎖可変領域 (VH) をコードする遺伝子は、VH遺伝子部分、DH遺伝子部分、JH遺伝子部分の3つに分かれており、この3つの遺伝子部分にそれぞれ、可変領域の遺伝子断片が複数個コードされている。抗体を産生するB細胞の重鎖可変領域の遺伝子は、VH遺伝子部分にコードされているいくつかの遺伝子断片の中から1種類、DH遺伝子部分から1種類、JH遺伝子部分から1種類が選ばれて、それが組み立てられてつくられる。VH遺伝子部分に50の遺伝子断片、DH遺伝子部分に30の遺伝子断片、JH遺伝子部分に6種類の遺伝子断片があるとすると、その組み合わせは50×30×6 = 9000種類となる。
軽鎖可変領域 (VL) をコードする遺伝子は、重鎖よりも少なく、VL遺伝子部分、JL遺伝子部分の2つの部分からなる。同じようにVL遺伝子部分に35の遺伝子断片、JL遺伝子部分に5つの遺伝子断片があるとすると、その組み合わせは35×5 = 175種類となる。そして、9000種類の重鎖と175種類の軽鎖の組み合わせは9000×175 = 150万種類以上となる。このように、重鎖のV、D、J、軽鎖のVとJの遺伝子断片の組み合わせで多様な遺伝子をもつB細胞ができ、それぞれ異なった種類のB細胞がそれぞれ異なった抗体を作ることで多様な抗体がつくられる。これをV(D)J遺伝子再構成といい、主にヒトやマウスでみられる。
各細胞につき、遺伝子再構成が起こるのは相同染色体の片方だけであり、再構成がないほうの遺伝子は不活化される。
幹細胞が分化して体のさまざまな細胞に分化していくが、この分化した細胞を体細胞という。幹細胞が体細胞に分化していくときにごく稀に遺伝子に変異が起こることがある(体細胞変異)。B細胞は変異の頻度が極めて高く、1万倍にも及ぶ。これは末梢の成熟したB細胞の中で、T細胞依存性抗原で活性されたB細胞は胚中心を形成し、この微小環境内で免疫グロブリン遺伝子のV領域が、AID(activation-induced cytidine deaminase)により様々な塩基置換を引き起こされるためである。このメカニズムを体細胞超変異といい、ヒトやマウスにおいて抗体の多様性や親和性の成熟に関与している。
V(D)J遺伝子再構成を終えた可変領域遺伝子が、V遺伝子上流に存在する偽遺伝子にランダムに置換されて、多様性をつくる。これを遺伝子変換 (gene conversion; GC) といい、主にニワトリでみられる。1986年レイノーらにより報告された。
V(D)J遺伝子再構成等の過程を経て生まれたB細胞は、抗原の刺激を受けると成熟化し、増殖する。この際、重鎖定常領域 (CH) をコードする遺伝子にDNA改変が起こり、最初IgMを分泌していたB細胞はIgG等他のクラスの免疫グロブリンを産生する。同じ可変領域を異なる定常領域と組み合わせることにより、さらに多様な抗体を作り出す。このことをクラススイッチ組み換えという。
近年、モノクローナル抗体の持つ特異性を利用した医薬品の開発が進んでいる。抗体医薬は標的となる抗原に対して特異的に働くためにこれまでの医薬品よりも副作用を軽減させ、かつ高い治療効果が得られることが期待されている。2008年現在で関節リウマチ治療薬として抗TNF-α抗体であるインフリキシマブや抗IL-6抗体であるトシリズマブ、癌遺伝子HER2に対する抗体であるトラスツズマブなどがすでに臨床において使用されている。
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カクテル
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カクテル(英: cocktail)とは、ベース(基酒)となる酒に、他の酒またはジュースなどを混ぜて作るアルコール飲料のこと。混酒。ただし、アルコール分を含まないか、1%未満程度のノンアルコールカクテルもある。
カクテルを具体的に表現したとき、しばしば「酒+何か」と表現される。
例えば、スタンダードなカクテルとして紹介される「スクリュー・ドライバー」というカクテルは、「ウォッカ+オレンジ・ジュース」で構成されており、この表現に当てはまる。しかし、「マティーニ」というカクテルは「ジン+ドライ・ベルモット」、つまり「酒+酒」ということになる。
ここから、カクテルをより正確に定義づけるには「酒+その他の酒 and/or その他の副材料」と考えることができる。
酒と水だけの場合もカクテルと言えるが、日本においては水割りと呼ばれている。日本において最も有名なカクテルを水割りとすることもある。
原始的なカクテルが作られはじめたのは、古代ローマや古代ギリシャ、古代エジプトの時代だったと考えられている。これは、当時のアルコール飲料(ワインやビールであった)の質が現代に比べてはるかに劣るものであり、その味を改善するための手段であった。
古代ローマ、古代ギリシャでは、そのまま保存したのでは劣化・酸化してしまうワインに熱を加え、凝縮したうえで副材料(草根木皮や粘土など)を混ぜたものを保存していた。それを水で割って飲むことが一般的なワインの飲み方とされており、これは「酒+何か」の定義に当てはまる。
また、古代エジプトではビールにさまざまな副材料を加えたものが飲用されており、これには、カルミ(calmi、蜂蜜を加えたもの)、チズム(zythum、ういきょうやサフランなどを加えたもの)、コルマ(korma、生姜と蜂蜜を加えたもの)があった。こちらも「酒+何か」の定義に当てはまる。
他にも、原始的なカクテルとしては、唐で作られていた「ワイン+馬乳」というものがある。
このように、「常温」で飲まれていたカクテルであったが、中世の時代になると、寒い冬の時期に「カクテルを温めて飲む」という習慣が生まれていく。その名残として、現代でもフランスのヴァン・ショー(仏: vin chaud)、ドイツのグリューヴァイン(独: Glühwein)、北欧のグレッグ(丁: Gløgg、諾: Gløgg)といったものが飲用されている。さらに、中世は蒸留酒が錬金術師たちによって作り出された時代でもあり、様々なカクテルが誕生した時代でもある。この時代に生まれたものとして特筆されるのはイギリス陸軍大佐フランシス・ニーガス(英: Francis Negus)が考案したニーガス(英: Negus、ポート・ワイン+湯+砂糖+レモン+ナツメグ+ブランデー)、インドが発祥といわれる「パンチ・スタイル」がある。
近年では、氷を用いた「コールド・ドリンク」が主流であるが、そうしたカクテルが登場するのはずっと後、19世紀末から20世紀初頭になってからのことである。「氷は近代になるまで貴重品であったから」というのがその理由であったが、1876年にカール・フォン・リンデが製氷機を開発したことによって、一年を通していつでも氷を入手できるようになった。これにより、「マティーニ」や「マンハッタン」といった、新しいジャンルの、現在ではカクテルの代表格とされるレシピが発案されていったのである。
それらの新しいカクテルはアメリカで生まれたものであったが、第一次世界大戦と禁酒法により職を失ったバーテンダーがヨーロッパへ移っていったことによって、全世界に広がっていくことになったのである。
1920-30年代のヨーロッパにジャズなどのアメリカ文化が流入し、その一端としてカクテルブームが起きた。イギリスでは第一次世界大戦以前はディナーの前に酒を飲む習慣はほとんど無かったが、アフタヌーン・ティーの時間に女性も含めた仲間が連れ立ってホテルのバーなどに集まり、強いカクテルを飲むことが当たり前のようになった。カクテル・タイムと呼ばれるこの新しい習慣は、若い世代を中心にあっという間に受け入れられた。
「酒+その他の酒 and/or その他の副材料」を指して「カクテル」と呼ぶようになったのは、1700年代とも1800年代に入りすぐとも言われている。前者の説を「イギリス説」、後者の説を「アメリカ説」と言う。
その語源については諸説あり、例えばバーテンダーの団体間で統一するといったことはなされていない。以下にいくつかの説を示す。
『サヴォイ・カクテルブック』で、「カクテルという言葉の起源」として特に紹介されている説。
19世紀のはじめ、アメリカ合衆国南部陸軍とアホロートル8世 (Axolotl VIII) 率いるメキシコ軍の間には小競り合いが絶えなかった。しかしある時、休戦協定が結ばれることとなった。 休戦協定交渉にあたり、まず最初に酒が供された。自身が調合したらしき飲み物を満たした杯を持ち、美女がその場に現れたが、その杯がひとつしかなかったことで、その場の雰囲気が不穏なものとなる。杯がひとつだけということは、アメリカ軍の将軍かメキシコ王か、どちらかが先に飲むことを意味しており、後に回された方が「自らを侮辱している」と感じるのではないかという懸念があったからである。しかし、その美女は不穏な空気を察し、微笑みうやうやしく頭を垂れると、自らその杯の酒を飲み干した。これにより、その場の緊張が解け、交渉は成功に終わる。協定交渉の最後、将軍が機転の利くその美女についてたずねると、王は自らもその美女に会ったことはなかったにもかかわらず、自慢げに答えた。「あれは自分の娘で、コクテル(Coctel)という」。
サヴォイ・カクテルブックに示された説はこのとおりであるが、他の文献にも類似の説が示されている。ただし、19世紀はじめのメキシコにはすでに王はおらず、アホロートル8世という名の王も存在していない。
国際バーテンダー協会が、カクテルの語源として採用している説。
メキシコのユカタン半島にあるカンペチェという港町にイギリス船が入港したときのこと、船員達は町の居酒屋に立ち寄り、渇きを癒していた。当時、イギリス人たちが酒を飲むときには、ほぼストレートでしか飲んでいなかった。しかし、カンペチェでは「ブランデー、もしくはラムに砂糖などをミックスした飲み物(ドラック・drac)」が流行していた。この飲み物は、酒をストレートで飲む習慣しかなかったイギリス人の興味を引くものだった。ドラックは、厚手のグラスに材料を入れ、スティックやスプーンで攪拌して作られるものであったが、金属製のスティックを使うと不快な臭いがドラックに移ると嫌われていたため、木製のスティックを使うことが多かった。ある店の少年もそうであった。
あるとき、船員は少年に「それはなんだ?」とたずねた。船員は「その飲み物の名(ドラック)」をたずねたのであるが、少年は攪拌に使用したスティックのことをたずねられたと思い、「これはコーラ・デ・ガジョ(cola de gallo スペイン語で「雄鶏の尻尾」の意)です」と答えた。その道具の形が雄鶏の尻尾に似ていたからである。ともあれ、船員はその飲み物を「コーラ・デ・ガジョ」を英語に訳した「テール・オブ・コック」と言う名で呼ぶようになった。このエピソードはカンペチェに入港する船員たちに広まり、次第に他の地域の酒場でもこの名を使用するようになっていく。そのうちに、「テール・オブ・コック」を1語とした「カクテル」という語句が生まれ、それがミクスト・ドリンク全般を指すようになっていった。
この説を最初に提唱したのはハリー・クラドックである。1936年1月に発行されたイギリスバーテンダー協会(United Kingdom Bartender's Guild、U.K.B.G.)の機関誌『ザ・バーテンダー(The Bartender)』に、「ルーカス・デ・パラシオという人物から聞いた話」として掲載された。後に、イギリスバーテンダー協会が監修したカクテルブック『UKBG インターナショナル・ガイド・トゥ・ドリンクス(U.K.B.G. International Guide to Drinks)』に掲載、1967年に発行された『ザ・バーテンダー』でも再掲されている。
日本でも1967年の『ザ・バーテンダー』再掲を期として、1969年10月に発行された全日本バーテンダー協会(All Nippon Bartenders Association)の機関誌によって、この説が紹介されている。
「ベッチー・フラナガン(ベッツィー・フラグナンとも、Betsy Flanagan)」説や「雄鶏」説などとも呼ばれているが、いずれにしても「四角軒」という名のバーが舞台であることから、「四角軒」説として記述する。
アメリカ独立戦争の折、ニューヨークの北にイギリスの植民地があった。町の名はエムスフォードといった。戦争で、騎兵隊員であった夫を亡くしたベッチー・フラナガンが、この町で「四角軒」というバーを経営していた。彼女は独立派側に与しており、独立軍にオリジナルのミクスト・ドリンクを振舞っていた。あるとき、彼女は反独立派側に属する人間の屋敷に忍び込み、立派な尻尾を持つ雄鶏を盗み出す。盗んだ雄鶏はローストチキンに、その尻尾は酒壺に飾られた。その夜も、独立軍の兵士達は四角軒で、ローストチキンをつまみに酒を飲んでいた。ある将校がおかわりをしようとし、酒壺に飾られた雄鶏の尻尾に気付く。「ずいぶん立派な雄鶏の尻尾じゃないか。一体どこから手に入れたんだ?」すると彼女はこう答えた。「失敬したのよ。イギリス男の家からね」。自分たちが口にしていたローストチキンの正体を知った兵士達は、高らかに叫んだ。「Viva cock's tail!(コックテール、万歳!)」。以来四角軒で振舞われるミクスト・ドリンクには「コックテール」の名が与えられ、その名が広まっていった。
過去においては現代とは異なる単位や用語が用いられた場合が存在し、標準液体分量単位および薬剤液体分量単位をもととしている。
また、グラスの容量で示した単位も用いられている。
日本語の単位で注意すべきは「滴」であり、dashを示したり1/3dashを示す場合が存在する。
現代においてはヤード・ポンド法等に基づく単位ではなく国際単位系による単位を用いる。
カクテルの種類は、書籍などに収録されて名前が知られているものだけでも数百種のオーダーではなく、少なくとも数千種存在する。これだけ多いのは、使用される材料が多岐に渡る上に、わずかにレシピが変わっただけで別なカクテルだと区別されるケースがあるためである。さらに、オリジナルカクテルと呼ばれる、独自に創作されたものの有名にはなっていないカクテルも数多く存在するため、その総数は不明である。
水だけの水割り、炭酸飲料だけのハイボールやチューハイなど、他の酒や風味をつけるための材料を入れず、割っただけのレシピはカクテルから除外することもある。ただしウイスキー・ソーダは伝統的にカクテルに分類されている。
1951年に北海道の税務関係の役所が、「酒類に種類の異なる酒類を混和した時は、新たに酒類を製造したものと見なされるため、酒税法の適用を受ける。したがって、もしもカクテルを作るのであれば、カクテル1杯ごとに酒税を支払わなければならず、そうでなければカクテルは禁止である。」として、摘発を行ったことがある。無論、後日、この酒税法の解釈は誤りであったとして取り消されており、カクテルの禁止は解除された。
近年、日本では「カクテルの街」として町おこしをはかっているところがいくつかある。栃木県宇都宮市と北海道旭川市が特に有名で、カクテルの国内大会で優勝経験を持つバーテンダーを中心に、観光協会などがイメージ作りを進めている。他には、神奈川県横浜市(理由は同様)などもカクテルの街を名乗っている。
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抗原
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免疫学では、抗原(こうげん、英: antigen、Ag)は、病原体の外側に存在するような分子または分子構造で、抗原特異的な抗体またはB細胞抗原受容体と結合することができる部位を指す。体内に抗原が存在すると、通常、免疫応答が引き起こされる。Agは抗体生成器(antibody generator)の略語である。
抗原(antigen)は抗体(antibody)によって「標的化」される。それぞれの抗体は、免疫系の細胞が抗原に接触した後、その抗原に適合するように免疫系によって特異的に作成される。これにより、抗原の正確な識別または適合が可能となり、適応応答が開始される。抗体は、抗体の抗原結合フラグメントの適合により、抗原に結合できるという意味で、抗原と「一致」すると言われている。ほとんどの場合、適合した抗体は1つの特定の抗原にのみ反応して結合することができる。ただし、いくつかの例では、抗体が交差反応して複数の抗原に結合することができる。
抗原は、タンパク質、ペプチド(アミノ酸の鎖)そして多糖類(単糖類/単糖の鎖)であるが、脂質や核酸もタンパク質や多糖類と結合することでのみ抗原となる。
抗原は、体内から発生するもの(自己タンパク質)と外部環境から発生するもの(非自己)がある。免疫系は「非自己」の外部抗原を識別して攻撃する。対して、胸腺にあるT細胞がネガティブセレクションされるため、通常は自己タンパク質には反応しない。
ワクチンは、免疫原性をもつ抗原の例であり、接種者に意図的に投与することで、侵入する病原体の抗原に対する適応免疫系の記憶機能を誘導するものである。季節性インフルエンザウイルス(英語版)のワクチンはその代表例である。
パウル・エールリヒは、19世紀末に提唱した側鎖説で抗体(ドイツ語ではAntikörper)という用語を作り出した。1899年、ラディスラス・ドイッチュ(英語版)(László Detre)(1874-1939)は、細菌成分と抗体の中間にある仮説的な物質を「substance immunogenes ou antigenes」(抗原性物質または免疫原性物質)と命名した。彼は、チモーゲン(zymogen)が酵素の前駆体であるように、これらの物質が抗体の前駆体であると考えていた。しかし、1903年までには、彼は抗原が免疫体(抗体)の産生を誘導することを理解し、抗原という言葉はantisomatogen(Immunkörperbildner)の縮約であると記している。オックスフォード英語辞典によると、論理構成は「anti(body)-gen」であるべきとされている。
抗原提示細胞(antigen-presenting cells、APC)は、組織適合性分子上にペプチドの形で抗原を提示する。T細胞は、抗原を選択的に認識する。抗原と組織適合性分子の種類に応じて、さまざまな種類のT細胞が活性化される。T細胞受容体(TCR)に認識されるためには、ペプチドは細胞内で小さな断片に切断され、主要組織適合性複合体(MHC)によって提示される必要がある。抗原は、免疫アジュバント(immunologic adjuvant)の助けを借りなければ免疫応答を誘発することはできない。同様に、ワクチンのアジュバント成分は、自然免疫系の活性化に重要な役割を果たしている。
免疫原(immunogen)とは、自然免疫(体液性免疫や細胞性免疫など)応答を引き起こすことができる抗原物質(または付加物(英語版))のことである。それは最初に自然免疫応答を開始し、それが次に適応免疫応答の活性化を引き起こす。抗原は、多様な免疫受容体産物(B細胞受容体またはT細胞受容体)が生成されると、それらに結合する。免疫原とは、免疫応答を誘発することができる抗原のことで、免疫原性(immunogenicity)と呼ばれる。
分子レベルでは、抗原は抗体のパラトープに結合する能力によって特徴づけられる。異なる抗体は、抗原の表面に存在する特定のエピトープを識別する可能性がある。ハプテンとは、抗原性エピトープの構造を変化させる小分子である。免疫応答を誘導するためには、タンパク質(ペプチドの複合体)などの大きな担体分子に結合させる必要がある。抗原は通常、タンパク質や多糖類、そして頻度は低いが脂質によって運ばれる。これには細菌やウイルスなどの微生物の一部(被膜、カプセル、細胞壁、鞭毛、綿毛、毒素など)が含まれる。脂質や核酸は、タンパク質や多糖類と結合した場合にのみ抗原性を示す。非微生物性の非自己抗原には、花粉、卵白、および移植された組織や臓器からのタンパク質、または輸血された血液細胞の表面にあるタンパク質などがある。
抗原は、その由来によって分類することができる。
外因性抗原(または外来性抗原、exogenous antigens)とは、たとえば、吸入、摂取、または注射によって、外部から体内に入ってきた抗原のことである。外因性抗原に対する免疫系の反応はしばしば不顕性(無症状)である。エンドサイトーシスやファゴサイトーシス(食作用)によって、外因性抗原は抗原提示細胞(APC)に取り込まれ、断片に加工される。次に、APCは、表面にあるクラスII組織適合性分子を用いて、断片をTヘルパー細胞(CD4+)に提示する。T細胞の中には、ペプチド:MHC複合体に特異的なものもある。それらは活性化され、サイトカイン、細胞傷害性Tリンパ球(CTL)を活性化する物質、抗体分泌B細胞、マクロファージ、その他の粒子を分泌し始める。
抗原の中には、初めは外因性で、後に内因性になるものがある(たとえば、細胞内ウイルス)。細胞内抗原は、感染した細胞が破壊されると循環に戻る可能性がある。
内因性抗原(または内在性抗原、endogenous antigens)は、正常な細胞代謝の結果として、あるいはウイルスや細胞内細菌性感染によって、正常な細胞内で生成される。そして、その断片はMHCクラスI分子との複合体として細胞表面に提示される。活性化した細胞障害性CD8+T細胞がこれを認識すると、T細胞は感染細胞の溶解やアポトーシスを引き起こすさまざまな毒素を分泌する。自己タンパク質を提示しただけで細胞を殺してしまわないように、寛容(ネガティブセレクション)の結果、細胞傷害性細胞(自己反応性T細胞)が除去される。内因性抗原には、異好抗原(異種抗原)、自己抗原(英語版)、イディオタイプ抗原(英語版)または同種抗原(英語版)(相同抗原)がある。自己免疫疾患では、抗原が宿主自身の一部(英語版)である場合がある。
自己抗原(autoantigens)とは、通常、特定の自己免疫疾患に罹患している患者の免疫系によって認識される自己タンパク質またはタンパク質複合体(場合によってはDNAやRNAも)のことである。正常な状態であれば、これらの自己タンパク質は免疫系の標的になるべきではないが、自己免疫疾患では、それらに関連するT細胞が除去されず、代わりに攻撃を行う。
新生抗原(新抗原、ネオアンチゲン、neoantigen)とは、通常のヒトのゲノムには全く存在しないものを指す。非変異自己タンパク質と比較して、新生抗原は、これらの抗原に対して利用可能なT細胞プールの性質が中枢性T細胞寛容の影響を受けないため、腫瘍制御の用途に適する。新生抗原に対するT細胞の反応性を系統的に解析する技術が利用可能になったのはごく最近である。新生抗原は、分子診断会社Complete Omics Inc.がジョンズ・ホプキンス大学医学部のチームと共同で開発したMANA-SRMと呼ばれる方法で、直接検出および定量することができる。
子宮頸がんや一部の頭頸部がんなどのウイルス関連腫瘍では、ウイルスのオープンリーディングフレームに由来するエピトープが新生抗原のプール(蓄積)に貢献する。
腫瘍抗原(tumor antigens)とは、腫瘍細胞の表面にあるMHCクラスIまたはMHCクラスII分子によって提示される抗原である。このような細胞にのみ存在する抗原は腫瘍特異的抗原(英語版)(TSA)と呼ばれ、一般的には腫瘍特異的な突然変異に起因する。より一般的なものは、腫瘍細胞と正常細胞が提示する抗原で、腫瘍関連抗原(TAA)と呼ばれる。これらの抗原を認識した細胞障害性Tリンパ球は、腫瘍細胞を破壊できる可能性がある。
腫瘍抗原は、たとえば、変異した受容体の形で腫瘍の表面に現れることがあり、その場合、B細胞に認識される。
ウイルス病因を持たないヒト腫瘍の場合、腫瘍特異的なDNAの変化によって新規ペプチド(ネオエピトープ)が作られる。
ヒトの腫瘍変異の大部分は、事実上、患者固有のものである。したがって、新生抗原は、個々の腫瘍ゲノムに基づいている可能性がある。ディープシークエンシング技術は、ゲノムのタンパク質コード部分(エクソーム)内の変異を特定し、潜在的な新生抗原を予測することができる。マウスモデルでは、すべての新規タンパク質配列について、潜在的なMHC結合ペプチドが予測された。このようにして得られた潜在的な新生抗原の集まりを用いて、T細胞の反応性を評価した。エクソームに基づく分析は、腫瘍浸潤リンパ球(英語版)(TIL)細胞療法またはチェックポイントブロック療法のいずれかを受けた患者の反応性を評価するために、臨床現場で活用された。新生抗原の同定は、複数の実験モデル系やヒトの悪性腫瘍に対して成功した。
がんエクソームシークエンシングの偽陰性率は低い。すなわち、新生抗原の大部分は十分なカバレッジを持つエクソン配列内に存在する。しかし、発現している遺伝子内の変異の大部分は、自己T細胞に認識される新生抗原を生成しない。
2015年現時点で、質量分析の分解能は、MHC分子が提示する可能性のあるペプチドのプールから多くの偽陽性を除外するのには不十分である。代わりに、アルゴリズムを使用して最も可能性の高い候補を特定する。これらのアルゴリズムでは、プロテアソーム処理の見込み、小胞体への輸送、関連するMHCクラスI対立遺伝子への親和性、遺伝子発現やタンパク質翻訳レベルなどの要素が考慮される。
不偏スクリーニング(unbiased screens)で同定されたヒトの新生抗原の大部分は、高い予測MHC結合親和性を示す。概念的に類似した抗原クラスであるマイナー組織適合性抗原(英語版)も、MHC結合アルゴリズムによって正しく識別される。もう一つの潜在的なフィルターは、突然変異がMHC結合を改善すると期待されるかどうかを調べるものである。MHC結合ペプチドの中心となるTCR露出残基の性質は、ペプチドの免疫原性と関連している。
天然抗原(native antigen)とは、まだAPCによって小さな断片に処理されていない抗原である。T細胞は天然抗原に結合することができないため、APCによって処理されること必要があるのに対し、B細胞は天然抗原によって活性化される。
抗原特異性(antigenic specificity)とは、宿主細胞が抗原をユニークな分子実体として特異的に認識し、他の抗原と極めて正確に区別する能力のことである。抗原特異性は、主に抗原の側鎖のコンフォメーションに起因する。それは測定可能であり、線形である必要はなく、また律速段階または方程式である必要もない。T細胞とB細胞はどちらも適応免疫の細胞構成要素である。
医学では、細胞表面の機能性分子を抗原抗体反応による有無の検査に使う。そこから、細胞表面に発現している物質はまだ同定されていない物質でも検査対象となり、これらすべてを抗原と呼んでいる。
抗原の発現は、腫瘍(しゅよう)細胞の性状を判定するのに有用な所見であり頻用される。血中に現れた抗原は腫瘍マーカーと呼ばれ、腫瘍の早期発見や検索、術後フォローアップに重要である。
さらに、癌(がん)の表面には癌特異的な癌抗原が存在し、癌抗原をターゲットにした免疫療法としてがんワクチン療法などが癌治療に応用されている。
また、免疫細胞の持つ主要組織適合抗原(MHC、人間のものは特にHLAと呼ぶ)は自己と他者の認識を司る重要なセンサーであり、HLAの型(白血球型)は臓器移植、特に骨髄移植の際に適合させる必要がある。
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統合開発環境
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統合開発環境(とうごうかいはつかんきょう)、IDEは、ソフトウェア開発のための統合的なプログラミング環境であり、様々なツールの集合からなる。
従来、ソフトウェアプログラムのコーディング・コンパイル・ビルド・デバッグといった作業を行なう際に、テキストエディタ、コンパイラ、リンカ、デバッガなどの各ツールを個別にコマンドラインから利用していたものを、ひとつの対話型操作環境(多くはGUI)から直感的かつシームレスに利用できるように統合したもの。最近のIDEには、GUIアプリケーション開発のための迅速なプロトタイピング (Rapid Application Development: RAD) が可能なものが多い。統合開発環境を使うことによって、開発者の学習や作業負担を大幅に低減することが可能になり、特に巨大かつ複雑なソフトウェアの開発に効果を発揮する。ソフトウェアテストのためのツールが統合されてシームレスに連携できるようになっているものもある。
ひとつのソフトウェアを作成するには、プログラミング言語のソースコードを記述したソースファイルや、アイコン画像やローカライズされたテキストなどのリソースファイル、そしてビルド(コンパイル&リンク)設定管理用ファイルなど、複数のファイルが必要になる。自動化されたビルドシステムでは、これらをまとめて「プロジェクト」として扱い、一括して管理できるようにしている。開発環境のコンピュータにおけるファイルシステム上のディレクトリ階層と自動的に同期するビルドシステムもあれば、ファイルシステムとは無関係に論理的なディレクトリ階層を使用するビルドシステムもあるが、ビルドシステムのプロジェクトファイルの管理は一般的に煩雑であり、大規模なソフトウェアになるほど困難となる。IDEでは、対応するビルドシステムのプロジェクトファイルを直接編集することなく視覚的かつ直感的に操作・管理することが可能となっている。
より複雑なソフトウェアでは、再利用性やメンテナンス性などを考慮してプログラムを機能ごとに分類された部品(モジュール)に分割して管理する。一般的なビルドシステムでは、そのモジュールごとにプロジェクトファイルを作成し、さらに複数のプロジェクトファイルとそれらの依存関係をまとめて管理することのできる「ワークスペースファイル」をサポートする。プロジェクトファイルやワークスペースファイルは、個々のビルドシステムによって、ファイルフォーマットや拡張子が異なる。Gradleなどのようにファイルシステム上でビルドスクリプトが置かれたディレクトリ構造そのものをプロジェクトやワークスペースとして扱うビルドシステムもあるが、IDEではそういった詳細仕様を意識することなく直感的にモジュールを管理できるようになっており、またプロジェクトの新規作成時もウィザードの指示に従っていけば簡単にファイル一式を自動生成できるようになっている。
ソフトウェア開発においては、ソースコード管理にCVS、Subversion、Gitなどのバージョン管理システムを使うことが多い。IDEの多くはチェックアウト、コミット、リバート(バージョンの巻き戻し)などのバージョン管理システムに対する操作が簡単に実行可能となっている。
IDEの中にはコード整形ルールをプロジェクト単位あるいはソースツリー単位で管理できるものもある。チームで開発を行なう際、同じIDEと同じルール設定ファイルを各開発者が利用することによって、コーディングスタイルの統一を図りやすくなる。
タスク管理ツールやテストケース管理ツールなどと連携して、ソフトウェア開発プロジェクトの進捗管理を含めた総合的なチーム開発をサポートするエンタープライズ向け機能を持ったIDEもある。
IDEに統合されたコードエディターは、プログラミングに特化されており、各言語のキーワード(予約語)をハイライト(色分け)したり、またプロジェクト内のソースファイルやヘッダーファイルから抽出した解析済みシンボル情報のデータベースをもとに、ユーザー定義のデータ型や変数やサブルーチン(関数/メソッド)の名前(識別子)を補完したり、といったことができるようになっている。これにより、ソースコードの記述効率が上がり、またコーディングミスなどを防ぎやすくなる。また、ソースコードのコメント先頭に「TODO」などといった特定の文字列を入れておくと、それをIDE上で一覧表示して確認できるようになる機能をサポートするものもある。さらに、一部のIDEでは実際にコンパイルすることなくリアルタイムでソースコードを解析して構文エラーや警告を検出し、当該部分に下線を引くなどしてプログラマに知らせるものもある。
コンパイラやリンカなどと連携しているため、作成したソフトウェアのビルドを簡単に実行できる。また、デバッガと連携しているため、ソースコード中に視覚的なブレークポイントを置いてソフトウェアの動作を一時停止させたり、変数の中身を確認しながらソースコードを1行ずつステップ実行させて問題のある個所を探したり、といったことが直感的にできる。
GUIを持つソフトウェアを開発する際、一般的に各ウィジェット(部品)の位置やサイズといったプロパティ情報の指定は、専用のレイアウト設定ファイルを使用して記述する。レイアウト設定ファイルは通例XML形式であったり独自の階層構造テキスト形式であったりするが、テキストエディターを使ってGUIの定義を記述するのは手間がかかる。さらにプログラムをビルドして実行してみなければ画面表示結果が確認できないのであれば、直感性に欠け、効率も悪い。そこで、多くのIDEは、GUIの作成をIDE上で視覚的かつ直感的に行なえるように、WYSIWYGに対応したグラフィカルなビジュアルエディターを統合している。また、ウィジェットを操作したときに発生するイベントに対する処理(イベントハンドラー)の記述も、コードエディターと連携・同期できるようになっている。これにより、簡単にGUIを持つソフトウェアを開発できるようになり、また、管理も一括して行なえる。なお、一部のIDEは、GUIの作成を行なうソフトウェアを分離しているものもある。
コンシューマーゲームコンソールの公式開発環境は独自開発のものが多く分断化されている。開発環境の価格にライセンス料が含まれることもある。
ゲーム機の性能が向上し、またスマートフォンなどのモバイル端末もゲームプラットフォームとして台頭してきたことで、UnityやUnreal Engineといったマルチプラットフォームに対応したミドルウェア(ゲームエンジン)もサードパーティ製の統合開発環境として普及している。インディーズの参入障壁も下がっている。
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免疫学
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免疫学(めんえきがく、英語: immunology)とは、生体の持つ免疫機能の解明を目的とする学問分野のこと。
主に、基礎医学・歯学・薬学・生物学、臨床医学による研究が行われている。免疫には生物が広く持つ自然免疫と、哺乳類や鳥類がもつ獲得免疫がある。
抗体の機能をになう免疫グロブリンの多様性の生成機能、B細胞、T細胞の抗原レセプターの多様性形成機構、リンパ球内でのシグナル伝達機構、リンパ球の発生・分化・成熟機構、細菌やウイルスなど病原体と生体の相互作用の解析、自己と非自己の識別機構の詳細など、対象は多岐にわたる。
過剰免疫応答による疾患(アレルギー、炎症性疾患等)や自己免疫疾患の病理と治療法の理解や、免疫機能の亢進による保存的治療法の研究、移植免疫学など、今日の医学における免疫学は臨床医学と密接な関わりを持つ。
人は古くから、一度かかった病に二度目はかからなかったり、二度目は軽い症状で済む場合があることを経験則的に知っていた。紀元前5世紀に記されたトゥキディデスの『戦史』ではアテナイの疫病について「二度なし」という言葉を用いて免疫について記した。
14世紀にはヨーロッパでペスト(黒死病)の流行が頻発し、キリスト教騎士や修道士が患者の手当てなどの慈善活動にあたっていた。慈善活動にあたっていたキリスト教騎士らの中にはペストにかかりながらも奇跡的に回復した者もいたが、彼らはその後ペスト患者と接していても二度と病にかかることがなかった。このような現象は、神のご加護によるものと信じられ、ローマ教皇から課役や課税を免除(im-munitas)され、のちのimmunity(免疫)の語源となった。
一方、天然痘でも免疫性が経験則的に知られており、西アジア、インド、中国などでは天然痘患者の膿を健康な人の皮膚に塗って免疫を得るという呪術的な方法が行われていた。この現象に注目したエドワード・ジェンナーは1798年に牛痘接種による天然痘ワクチン(種痘)を公式に発表し、ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれるようになった。
ジェンナーの天然痘ワクチンのメカニズムを科学的に分析したのがフランスの生化学者ルイ・パスツールであり、弱毒化した微生物の接種により免疫を得ることができることを解明した。
さらにエミール・アドルフ・フォン・ベーリングと北里柴三郎はワクチン接種により生体が獲得する免疫の正体が血中蛋白質である抗体によるものであることを突き止めた。また、ロシアのイリヤ・メチニコフは免疫の本質が血液中の食細胞と生体防御の双方の働きにあると考えた。
ジェンナーの種痘に始まった免疫学は現在幅広く発展し、生命現象を全体的に理解するために欠かせない学問となっている。現在では各種免疫疾患のメカニズム及び治療法の確立が問題である。
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台車
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台車()は、荷物をのせて運搬移動するための、車輪が付いた台のことである。荷車の一種でもある。
なお、鉄道車両の台車は、当該項目を参照のこと。
狭義の台車は、荷車のうち、比較的小型で、人力による直接の搬送、あるいは電動などにより自走するものを言う。また、(全般的な)荷車のように使役動物や他の車による牽引(ロープ牽引などの簡易な牽引は考慮しない)を想定していない構造であるものを言う。
構造としては、人力で押すために取っ手が付いているものや、荷物を載せる平台と車輪だけで、取っ手が付いてないもの(搬送台車とも言う。板台車もこれである。)がある。また、構造や大きさに関しても、人力で容易に扱える範囲の構造やサイズのもの、平台状のものやカゴ台車(積み荷の転落や散逸防止のためのカゴ枠があるもの、カーゴ等とよぶ)状のもの、相当な重量物や長尺物を積むために堅牢な鋼製枠によるものなどがある。
工場などで重量部品を専門に運搬するものは架台と呼ばれる場合もある。また、平らな面を走行できる車輪が付いているタイプ(このうち取っ手が無いものはトロリーとも呼ばれる)、専用のレールや溝などを走行できる専用タイプの台車もある。
小荷物等を運搬するときに使う台車では、一般的には手で押すための取っ手が付いたタイプが多いが、ロープなどを結索する部分のみで取っ手のないタイプ、取っ手付きの台車の前側に数列の取っ手のない台車を連結できるタイプ、台の部分を上下に配置した2段式のタイプ、台の部分に金網製の箱を取り付けたタイプなど用途に合わせて様々なタイプのものがある。
取っ手が付いたタイプについては、1965年、花岡車輌が日本初の規格量産型台車『ダンディ』を開発発売、以後、標準規格となった。
自動車部品用などの専用台車においては、輸送中に商品の傷つきや変形がないよう、また納入先の工場での作業者の取り出しやすさなどについても構造的に配慮される。
なお、カメラやカメラマンを載せるための撮影用の台車はカメラドリーと呼ぶ。
日本の道路交通法では、台車は一部を除いて軽車両の扱いである。
ただし、「歩行補助車、小児用の車及びショッピング・カート」または「レール又は架線によらないで通行させる車であって、他の歩行者の通行を妨げるおそれのないものとして長さ 190cm以下かつ幅 60cm以下であって、車体の構造が、歩きながら用いるものとして通行させる者が乗車することができない車」は軽車両ではなく歩行補助車等に該当し、歩行者の扱いとなる。
そのため、歩行者扱いになる台車には、「歩行補助車、小児用の車及びショッピング・カート」に該当するもの(大型乳母車(お散歩カー)、避難車など)のほか、キャリーカート、トロリーバッグ、トロリーケース、そして長さ190cm以下、幅60cm以下の比較的小型の台車などがある。
上記に列挙したものであっても、電動機や内燃機関付きのものは、原則として原動機付自転車または自動車扱いとなる。詳細は、当該原則および例外も含めて「原動機付自転車#電動の小型車両等に対する規制」を参照。
ただし、一定の基準を満たす電動台車等は、歩行補助車または軽車両扱いとなる(「軽車両#原動機を用いる軽車両」参照)。
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鉄道車両の台車
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鉄道車両の台車(てつどうしゃりょうのだいしゃ)とは、鉄道車両において、車体に直結されていない、自由度のある走り装置のことである。
車両の走行のための装置の総称は走り装置(または走行装置)であり、台車とは、車体に直結されていない、自由度のある走り装置のことである。
蒸気機関車の動輪やワム80000のような二軸貨車の走り装置は台車とは呼ばない。これらの走り装置は固定軸受もしくは固定車軸と呼ばれる、一方旧式の電気機関車(EF58など)の足回りはボギー台車とかなり異なった形だが、動輪部を含めれっきとした台車(通常は1両につき先台車と主台車を2組で構成される)である。国鉄においてはボギー台車、一軸台車、機関車の主台車、先台車、従台車には台車形式を付与しているが、固定軸受には台車形式は付与していない。
また熊本市交通局9700形電車のような超低床電車(いわゆるライトレール)には、1車体4輪としつつ車軸を持たない独立車輪を、それぞれ旋回可能な4つの台車で保持しているものもある。
現在最も多く用いられている2軸ボギー台車は、右図のように1車両あたり4軸を2軸ずつの小さな単位に分割し、車体に対して回転できる(一部に3軸ボギー台車や4軸ボギー台車、あるいはそれらを複数組み合わせて一まとまりとして使用するケースもある)。
鉄道車両の車輪は車軸に固定されており(輪軸という)、初期の蒸気機関車・客車・貨車は4輪、すなわち2軸であった。車体の長大化、重量の増大につれより多くの車輪・車軸が必要となるが、2軸以上を車体に固定すると曲線の通過が困難になる。また、2軸であっても、固定された状態でその間隔(固定軸距)が長くなると、理想的には輪軸がレールと直角になるべきところ、その角度のずれ(アタック角)が大きくなるため、走行抵抗が大きくなり曲線通過が困難になる。
ボギー台車は曲線に追従して回転できるため、曲線の通過が容易となる。また、乗り心地や走行性能についても、縦の揺動をボギーの2軸間で一旦平準化するので揺れが少なくなり、ばね装置を2段階にできる点でも固定軸車に比べて有利である。ばね装置を台車構造の内部で完結する構造としたものが多く、車体と台車の機能の切り離しが行われる形になっていたが、近年は、枕ばね(後述)を車体との間に持たせる形のものが増えている。
特に古い機関車の台車については、旅客車のボギー台車とは大きく異なるものが用いられた。これについては機関車の台車を参照されたい。
台車の役割は次のようなものである。
このうちばね機能と回転機能の概要を図示すると右のとおりで、ばね機能は一般に二種類のばねで分担される。
機関車でとくに旧形のものは、旅客車のボギー台車とは様相が大きく異なる。蒸気機関車の場合、動輪は軸ばねを介して台枠に直接取り付けられるが、先輪・従輪で台枠に対して回転可能なものは、先台車・従台車と呼ばれる。国鉄では形式にLTを付する。これらのうち、2軸で心皿(後述)を中心に回転するものは、ボギー台車の一種である。(元来、旅客車のボギー台車は歴史的には蒸気機関車のそれにならったものである。鉄道車両の台車史#ボギー台車の誕生を参照)。これに対して1軸のものは一般に外の1点を中心に回転して動輪との位置関係でカーブに沿うようにされている。
また、日本ではEH10形以降の電気機関車は、頑丈な台枠を持つ車体に連結器が取り付けられ、ボギー台車で駆動する形であるが、それ以前の旧形電気機関車は、蒸気機関車と同様の台車枠(台枠)に動輪が付けられ、連結器はその台車枠に設けられていた。多くの場合、蒸気機関車と同様に先台車が設けられるが、これに対して動輪の部分の台車は主台車と呼ばれ、国鉄では形式にHTを付する。また、多くの形式は前後の台車が中央で中間連結器と呼ばれる連結器によって連結され、牽引力もこの連結器を介して伝達する形になっていた。先台車は、主台車の先端にさらに回転するように取り付けられ、カーブでガイドする役割を担った。
6動軸をもつF形機関車で、2軸ボギー台車3組を用いるものは、カーブを曲がるときに線路への横圧が大きくならないよう、中間台車が横動しやすい特殊な構造が用いられる。動輪のない中間台車 が、軸重調整のために設けられる場合もある。また固定した3軸ボギー台車とすると中央の軸の横圧が大きくなるので、DE10形ディーゼル機関車などでは1軸ごとに可動の特殊な形が用いられている。古いタイプの機関車には、3軸台車も多く用いられ、うち2軸のみ動輪など、さまざまなタイプがあった。
多くの旅客車で使用されている台車ではおおむね右図のようになっている。通常1では回転機構と、車体・台車枠間の上下・左右動を受けるばねとその振動を減衰させるダンパーの機構、3では軸箱・台車枠間の上下動を受けるばねおよびダンパーの機構を設ける。1を車体支持装置、3を軸箱支持装置とよぶ。両者は、多くの種類が考案・実用化されてきた。なお車体支持装置には一般に前後の牽引力を伝達する装置も組み込まれる。また、列車を止める制動装置(ブレーキ)や、動力台車では、駆動装置が搭載される。
台車の前後方向は固定され、車体と台車の間の牽引力・ブレーキ力を伝達する。(なお前後・左右はそれぞれ列車の進行方向と、それに直交する枕木方向。上下は垂直方向とし、回転はこの垂直軸の回りの回転とする)。
輪軸がレールに沿って進行するため、基本的に左右方向の動きが拘束され、車体の揺れや曲線で生じる左右の相対移動を台車が大きく負担・吸収すること、操舵のために自ら回転させる必要がないことが、自動車のサスペンションと大きく異なる点として挙げられる。
右図のように模式的に車体 - ばね - 輪軸が垂直に並んでいるとして、レールにより上下動が生じた状態では、一般にはばねより下の重量が軽いほど、車輪が容易にレールに追随することになり、またばねを介して車体に与える振動衝撃も少なくなる。一般には鉄道車両の台車では通常台車枠と軸箱間にある軸ばねの下に相当する。また、軸箱以下のばね下重量ほどではないが軸ばねと枕ばねの間、つまり台車枠などの質量も軽いことが望ましく、ばね下重量とばね間重量の軽量化にはさまざまな工夫がされてきた。
主要な車体支持機構ごとに、車体と台車枠の間で荷重を伝達する構成要素を右表に示す。略号はそれぞれ、次の運動を行なうことを示す。
車体と台車(具体的には台車枠)との間の相対運動に関して、枕ばねは上下や左右方向の運動を吸収するが、前後方向については相対的に固定して輪軸と車体の間に生じる前後方向の力、すなわち牽引力やブレーキ力を伝達する必要がある。(なお輪軸と台車枠との間の伝達は下記の軸箱支持装置が行う)。
スイングハンガー方式、インダイレクトマウント方式においては車体と上揺れ枕または枕ばり(ボルスタ)の間は心皿・中心ピンで伝達されるが、そこから台車枠の間には枕ばねが介在する。またダイレクトマウント方式においては車体とボルスタの間に、ボルスタレス台車では車体と台車枠の間に枕ばねが介在する。しかし枕ばねは一般に横方向の剛性が低く、力の伝達には適しない。そのため以下のように様々な方式が用いられてきた。
ダンパーの種類には次のようなものがある。
台車枠とは、車体支持装置と軸箱支持装置の中間に位置する構造物を指す。車体重量を均等に各車輪に配分し、各輪軸を平行に保つ。イコライザーのない台車ではイコライザーの作用も分担するが、3軸ボギーでは正しく釣合梁の作用にはならない。台車を進行方向においてみた場合、両側に縦に側梁があり、横に横梁でそれらを結合する。横向きの梁の本数や形態は種類によりさまざまで、端部に設けられる端梁があることもある。車輪は一般に両側の側梁の内側に位置する(下記インサイドフレームの場合は外側になる)。軸箱支持装置の荷重は側梁の真下からかかるのが望ましいが、国鉄TR10形などイコライザー台車では構造上釣り合いばねの中心が側梁の中心とずれることもあり、これを解消するためイコライザーを側梁の内外に設けるなどの策もとられる。
その他、主電動機やブレーキなどさまざまな装置を取り付けるためにも用いられる。
台車枠の構造としては、古くは形鋼や板材をリベット締結により組み立てる構造、鋳物を使用した構造、プレス成形された鋼材を溶接組立する構造などがある。
上から見ると「H」の形をしているのが特徴であり、レールと平行で左右外側に位置する2本の側梁と、この側梁を繋ぐ中心部の横梁から構成される。
軸箱支持装置とは、輪軸・軸箱を台車枠に対して保持する機構または装置のことを指す。自動車のサスペンションに相当するもので、軸箱を上下にコイルばねなどを介して十分に可動できるようにする一方、前後・左右には対しては固く抑制することで、一般に高速安定性を重視するもの(新幹線用など)は前後をより固く、曲線通過性を重視するものは前後をやや柔らかく抑制する。また1台車中の前後の車軸をレールに直角になるよう積極的に操舵させる構造の台車もある。
前述のように車体支持装置が車体・台車枠間の変位を受けるのに対し、軸箱支持装置は台車枠と各軸箱(2軸ボギーでは4つ)間の変位を受け、軌道不整、レール継ぎ目、カーブ入り口などで前後輪の高さが違ったり4輪が同一平面から外れたりする場合には、まずその変位を受けることになる。これは車両が高速で安全に走行する際には、台車に装備された輪軸が常に平行を保ちながら、刻々と変化する線路状況において正確に追従する必要があるためである。なお枕ばねと軸ばねの分担関係については鉄道車両の台車史も参照。
以前は、上下の案内にスライドレールの役割をする軸箱守(ペデスタル)を設けて軸箱を滑らせ台車枠との間に軸ばねを介する方式や、ばね支持にイコライザーを介して軸箱を支える方式が多く用いられたが、軸箱守が磨耗すると騒音や蛇行動が発生しやすくなり、強度の摩擦部分のため保守に手が掛かる問題があった。その後軸箱守を用いず、上下案内とばね支持を上下にたわむ高剛性の板ばねで行うものや、リンクを用いるものなど、様々な形が出てきている。
上述のとおり、きわめて多岐に亘るため、構造の詳細は、可能な場合代表的な形式を挙げてそれへのリンクをもってかえる。
比較的古い様式の軸箱支持方式。後述のイコライザー式でも一般に軸箱の案内には軸箱守を用いるが、軸箱守式(ペデスタル式)と称するときには、イコライザーを用いない方式の中での名称として使うことがしばしばある。ただ、軸箱守と軸箱の間にすり板を設ける必要があるため、定期的にすり板の交換が必要である。その中でもばねの種類や配置により種類が分かれる。
釣り合い梁式ともいう。ボギー台車の軸箱の上にそれぞれ支点を設けて軸距の方向にそれぞれの軸箱を抑えるように釣り合い梁を設け、その中央にばね上荷重をかけたもの。軸箱上に直接ばねがないので軸箱の前後運動を抑えて輪軸相互の平行度を保ち、軸箱にかかる荷重の釣り合いがよく行われる強みがあるが、釣り合い梁が外からの点検・ブレーキ調整などの邪魔になる他、重い釣り合い梁がばね下重量となる点では軌道保守上不利であるため国鉄では昭和初期まで、大手私鉄では1950年ころまでの台車に多く用いられた(アメリカではかなり後年まで多用)。 イコライザーのないタイプでは台車枠がイコライザーの代理をすることになるが、劣悪な軌道では負担もある。
鉄道車両で使用されるブレーキ装置は多種多様なものがあるが、ここでは、台車に搭載され、空気圧や油圧によって生じた力をてこ機構により増幅し、車輪やブレーキディスクに摩擦機械的なブレーキ力を伝えて輪軸を抑止する基礎ブレーキ装置について説明する。
制輪子が車輪の踏面を押える踏面ブレーキ式と、制輪子が輪軸に搭載されるブレーキディスクを押えるディスクブレーキ式がある。
電車の動力源による回転力を輪軸へ伝える装置を駆動装置と呼ぶ。
軸箱組立とは、軸受と車軸が収められている所であり、車体の荷重を枕ばねと台車枠から軸箱支持装置を介して受け取り、また車輪で発生した駆動力を軸箱支持装置を介して台車枠に伝え、さらに、心皿・中心ピン・枕梁(ボルスタ)・ボルスタアンカを介するかまたは牽引装置を介して車体に伝える部分である。単に軸箱とも呼ぶ。基本構成要素は軸箱体と軸受。
輪軸とは、車輪と車軸を組み立てたもので、駆動装置による動力が伝えられ、レールを走行する部分である。
その他の台車に装備される装置類としては、以下のようなものがある。
操舵台車は輪軸操舵機構により輪軸の方向を変えて曲線をスムーズに通過できるようにした台車である。普通の台車は車体に対して回転することにより曲線区間を滑らかに通過することができるが、それでもなお1台車の2輪軸は一定間隔(ホイールベース)を保って平行に支持されているため、輪軸とレールが完全に直角にはならず、車輪とレールとの間にアタック角(攻撃角とも。レールの円弧の接線と車輪の進行方向のなす角度。)が発生して車輪のフランジやレールを磨耗させるだけでなく騒音(きしり音やゴロゴロ音)を発生させる。もし、各々の車軸の延長線がレールの曲線の中心(曲線半径の中心)を通るように変位させることができればアタック角が0となり、車輪のフランジやレールの磨耗が一層少なくなり騒音の発生を抑え、さらにスムーズに通過することができるようになる。
このため、単台車において、2つの輪軸のそれぞれ左右に備わる軸箱をクロスアンカーリンクでたすき掛けに結合し、台車枠と軸箱の位置関係を可変させることで曲線通過時の横圧低減を目指すラジアル台車が研究開発されるなど、比較的早期から自己操舵のアイデアは注目されていた。だが、この方式はラジアル台車の機構をボギー台車に応用して1970年代に実用化された南アフリカのシェッフェル台車などを含め、一般に軸箱の前後方向の支持剛性を意図的に低下させることになる。この点は1980年代にカナダのバンクーバーで実用化されたスカイトレイン用Mark Iの操舵リンク方式でも同様で、高速走行時には支持剛性が決定的に不足し蛇行動が発生しやすくなるという、致命的な弱点を抱えていた。
そのため、1台車の中で完結する自己操舵機構を高速鉄道向けとして実現するにあたっては、直進時の軸箱について前後支持剛性の確保と、曲線通過時の前後支持剛性低減による操舵性能の確保という、矛盾した要素の両立が強く求められた。さらに、日本では自然振り子式車両の導入の本格化に伴い、曲線区間での横圧の軽減が軌道保守の観点から特に強く要求されるようになり、自然振り子式と組み合わせることを主眼とした自己操舵台車の研究開発が本格化した。この点についてある程度解決が見られるようになったのは1980年代中盤に入って以降のことで、まず1986年に日本の国鉄がDT953形台車として、制御付き自然振り子と同様に軌道の曲線情報をあらかじめ制御装置に記録し、ATS地上子による位置情報と速度情報から曲線進入を検知、油圧により強制自己操舵を行うという方式を開発、381系電車に装着して本線走行試験が行われた。
この方式はただちに実用化されることはなかったが、こうした実験データの蓄積とその後の研究の進展で、1台車に2組ずつ備わる輪軸のいずれか一方の軸箱と台車枠の水平面における位置関係を固定とし、一方のみを操舵可能とすることで曲線と直線の双方での特性の両立が可能な見通しが立ち、1990年代以降、JR東海の383系電車を皮切りに日本のJR各社を中心に制御付き自然振り子車と組み合わせる形で自己操舵台車を導入するケースが増えている。
このほか、リニアモーター地下鉄の車両ではその構造上、一般的な回転式電動機と駆動装置の接合部が不要であることから操舵機構を用いた台車が採用されており、軸箱に積層ゴムを用いることで自己操舵機構を持つ台車が使用されている(半強制操舵台車)。
現在実用化されているのは以下の各種である。
2軸ボギー台車のうち片側だけを動輪とする場合に使用され、車輪径を前後で違えて動輪となる一方を大径とし、心皿位置をも動軸側に偏倚させた構造で粘着力の強化を図った台車である。ブリル社が特許を取った「Eureka Maximum-Traction Truck 22E」(ユーリカ・マキシマム・トラクション・トラック 22E)は、台車中心ピンの無い「仮想心皿方式」や、曲線区間で従輪(小径輪)の荷重を増して脱線を防ぐ「スプリングコンプレッサー」の採用を特徴とする。
マキシマム・トラクション台車はオタマジャクシのように頭を振りながら走るため、高速走行すると脱線の危険が大きくなるという問題がある。
気動車用の1軸駆動の2軸ボギー台車の車体支持装置を軸間中央ではなく動軸側に偏らせることにより動軸にかかる軸重を増大させ粘着性能を向上させた台車。1930年代の日本の車輌技術では実用的な1台車2軸駆動や2個エンジン連動制御が開発できなかったため気動車の走行性能確保のため偏心台車や片ボギー車が開発された。マキシマム・トラクション台車も偏心台車の一種であるが、気動車用の偏心台車は日本独自のものとされ、日本車輌製造が製造した大隅鉄道むけ気動車を嚆矢とする。採用車の多くは1930年代製だが、1台車1軸駆動のままで一定の粘着性能が確保できることから戦後製の気動車にも大分交通や熊延鉄道をはじめいくつかの私鉄・第三セクター向け気動車で採用例があり、2015年の時点での日本国内における最終製造事例は1988年製造の由利高原鉄道YR1000形YR1005(新潟鐵工所製)となる。
通常、鉄道車両の形式名とは別に、台車に対しても形式名が付与される。
国鉄では、1929年に実施された台車の形式称号の整理に基づき、ボギー台車をTRの後に形式ごとに数字を付けて呼んでいたが、1949年に実施された台車形式命名基準改正により、動力台車についてはDTと数字の形式に改めた。TRはTruckの略であるが、(MTは主電動機の形式に使われていたため)電動のDを付してDTとした。私鉄用の台車は、メーカーの形式をそのまま使うことが多いが、鉄道事業者で独自に付けることもある。
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スポーツ選手一覧の一覧
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スポーツ選手一覧の一覧(スポーツせんしゅいちらんのいちらん)は、スポーツ選手に関する一覧の一覧。五十音順に集めた。
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電波
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電波(、英: radio wave)とは、電磁波のうち、比較的周波数の低いもの。日本の電波法などでは300万メガヘルツ以下のものと定義される。
電磁波の存在を初めて実証したハインリヒ・ヘルツは著書『Electric Waves』(1893年)の中で、電磁波を「Electromagnetics wave in air(空中の電磁波)」と「The propagation of electric Waves bymeans of wire(線上の電磁波)」に区別しており、電波に関する国際機関ITU-Rにおけるradio waveの定義も
とあるように、「人工的なガイドなしで空中を伝搬する電磁波」であることを明確化している。
電波の用途としては、次のようなものを挙げることができる。
1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルは「光は波の姿をした電磁散乱である」と予測した。それから13年後の1887年にハインリッヒ・ヘルツがマクスウェルの方程式から光よりも周波数の低い電磁波(電波)の姿を推測し、電磁波の発生と検出を可能とする実験機器を考案制作してその存在を実証した。
今日、電波は英語では"Radio wave"もしくは"Hertzian wave"と呼ばれており、"Radio"と略して呼ばれる場合もある。CCIR(現在のITU-R)の基金が設立された1927年に世界的な公用語として定着した。一方、1904年にイギリスの郵便局が無線電信をRadioと称したことから、Radioは空間に適した周波数帯の電磁波を使用して情報を搬送する技術・機器・システムを指す語として一般に使われるようになった。
日本語の「電波」という訳語は明治26年(1893年)に逓信省技師の伊藤潔が著した『電気訳語集』が初出と考えられる。『電気訳語集』では、"Electric wave"の訳として「電波」を充てている。その後「電波」の用例は増えていったが、大正4年(1929年)の無線電信法には「電波」の文字はない。昭和25年(1950年)に制定された電波法によって現代の「電波」が公用語として定義された。
周波数と対応する波長によって電波は以下の周波数帯に分割される。
電波法第28条に「送信設備に使用する電波の周波数の偏差及び幅、高調波の強度等電波の質は、総務省令で定めるところに適合するものでなければならない。」と規定している。これを受けた無線設備規則には、第1章総則第2節電波の質として、第5条から第7条に「周波数の許容偏差」、「占有周波数帯幅の許容値」、「スプリアス発射又は不要発射の強度の許容値」があり、具体的な値は別表第1号から第3号に規定するものとしている。
電波法第103条の2第2項に「広範囲の地域において同一の者により相当数開設される無線局に専ら使用させることを目的として別表第7の上欄に掲げる区域を単位として総務大臣が指定する周波数(6000MHz以下のものに限る。)の電波」と規定している。 広域使用電波の指定は、電波法施行規則第51条の9の9に「総務大臣が別に告示により行うものとする。」とされ、この規定に基づき告示される。
この規定は、電波利用料の算定に際し、電波の経済的価値に応じて負担する考え方を導入したもので、携帯電話など特定無線局として包括免許されるものについて適用され、使用する周波数幅に応じて増減される。当初の上限は3000MHz以下であったが後に6000MHz以下となった。なお、導入の検討時から「広域専用電波」という文言が使用され、電波法改正後でもこの語を使用した記事があるが、これは誤字である。
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メガヘルツ
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メガヘルツ(megahertz、記号:MHz)は、国際単位系における周波数の単位で、10ヘルツ(Hz)(=1,000,000Hz)、1000キロヘルツ(kHz)、0.001ギガヘルツ(GHz)に相当する。日本では1972年(昭和47年)7月1日の改正計量法の施行を以って変更された。それまではMc/s(メガサイクル毎秒)又はMc(メガサイクル)と呼ばれた。MhzやMHZという表記は誤り。
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マイクロプロセッサ
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マイクロプロセッサ(英: microprocessor)は、広義には、プロセッサをマイクロチップに実装したものである。(狭義には)デジタルコンピューターの中央処理装置(CPU)の機能を実行するために必要な算術回路、論理回路、制御回路を含むきわめて小さな電子デバイスのこと。MPU(英: micro-processing unit)ともいう。
狭義の用法では「CPUに必要な"機能を備えている" 」ということが定義文にあり必要条件となっているが、必ずしもCPUとして使わなければならないわけではなく、実際の用途としては、その機能を活かしつつCPU以外の、周辺回路のために使われていることが遥かに多い。たとえばパーソナルコンピュータではCPU以外の、周辺の電源や各種入出力などの制御にマイクロコントローラが多く使われている。
汎用のマイクロプロセッサの他に、各種用途に特化したマイクロプロセッサも製品化されている。デジタル信号処理に特化したDSPや、画像処理用のGPUなどである。
世界初のマイクロプロセッサとされるのはIntel 4004であり、これは4ビットのもので、クロック周波数は740KHz(0.74MHz)であり、2300個のトランジスタを含んでいた。→#歴史
2022年時点で市販されているマイクロプロセッサで最速のものは、AMDの RyzenTM ThreadripperTM PRO 5995WX desktop PC processor(64コア、128スレッド)だと考えられている。この RyzenTM ThreadripperTM PRO 5995WXには、332億個のトランジスタが含まれていると言われている。
なおCPUの機能だけでなく、従来ならその周辺に配置されていたさまざまな機能を担う集積回路類(コントローラやメモリなど)までひとつにまとめて搭載し小さくしたものはSystem-on-a-chip (SoC)という。スマートフォンや組み込みシステムなどで使われている。
またマイクロプロセッサの中でも特に制御や組込みシステムに使うために開発され、メモリやI/Oポートなどもひとつの集積回路にまとめており、消費電力を抑えるためにクロック周波数を抑えたものはマイクロコントローラという。
1960年代頃まで、プロセッサは個別のトランジスタか、当時のせいぜい数百素子程度の集積度の集積回路(IC)を繋ぎ合わせて作られていた。製造技術の発達、設計ルールの微細化が進むにつれてチップ上に集積できる素子の数が増え、大規模集積回路(LSI)の1チップにプロセッサを実装できるようになった。1970年代初頭に現れた初期のマイクロプロセッサは電卓や機器制御、もしくはビデオ表示端末用であり、非常に限られた機能しか持たなかったが、従来のディスクリート半導体を使った回路に比べとても安価で利用しやすかったため、ほどなくして大量に使われるようになった。CPUというコンピュータの機能を実現する最も主要な部品がワンチップ化されたことで、個人でも容易に購入できるパーソナルコンピュータが実現可能となった。その後もムーアの法則に従い、マイクロプロセッサに集積される素子数は増加の一途をたどり、性能は目覚ましく向上し続けている(ただし、かつてはムーアの法則に従属していたデナード則によるクロック周波数の向上や消費電力の低下は、2000年代後半から頭打ちの傾向となり、2010年代後半からは微細化自体も鈍化が著しい)。今日ではマイクロプロセッサは、巨大なHPCサーバから小さなウェアラブル端末や家電に至るまで、さまざまな機器に搭載されている。
マイクロプロセッサを実現する様々な新しい基本技術は1970年頃に整い、1971年11月15日に発表された4004はテッド・ホフによる基本的なアイディアと、嶋正利による論理設計とフェデリコ・ファジンによる回路・マスク設計による、最初期のマイクロプロセッサとして周知のことだが、他複数のプロジェクトでほぼ同時期にCADC、TMS0100シリーズ、μPD707・708などのマイクロプロセッサと認められるLSIが開発されている。
1968年にギャレット・エアリサーチ(英語版)社がF-14飛行制御用デジタルコンピュータの開発を要請されてCADC(英語版)を設計する。これは1970年に設計を完了したMP944というMOSベースのチップセットから成るマイクロプロセッサで、従来の機械装置より小型で信頼性が高く、初期のF14 トムキャット戦闘機に採用された。米海軍は軍需用品として民間への商用販売などを1997年まで禁止していたため、CADC (MP944) は最近までほとんど知られていなかった。
TIのテキサス・インスツルメンツ TMS0100シリーズはマイクロコントローラに近い構成のLSIで、1971年9月17日に電卓向けプログラムを内蔵した TMS1802NC をリリースしている。
μPD707・708はNECが設計・製造したLSIで、半導体プロセスの製造効率から2チップ構成だが機能的にはマイクロプロセッサでμCOMシリーズの源流である。1971年12月にサンプル出荷され、シャープが日本コカ・コーラへ供給する仕向け機器に用いられている。
英語版では他に en:Gilbert Hyatt の特許、Pico と General Instrument の協業によるチップ、Four-Phase Systems の AL1 チップ、フェアチャイルドの PPS25、Viatron が端末装置用に開発したチップ、TIのTMX 1795なども記されている。
TIはマイクロプロセッサに関する特許を出願した。ゲイリー・ブーンはシングルチップのマイクロプロセッサに関する特許を1973年9月4日に取得した(米国特許第3,757,306号)。1971年と1976年、インテルとTIは包括的なクロスライセンス契約を締結し、インテルはTIの持つマイクロプロセッサの特許に対してロイヤリティを支払った。この間の経緯は、サイリックスとインテル間の訴訟に関する法廷文書に記述されている。この訴訟においてTIはマイクロプロセッサに関する特許の所有者および仲裁人として関与した。
マイクロプロセッサのコア(プロセッサコア)だけでなくメモリと入出力処理の回路も集積した、現代で言うマイクロコントローラの実現に関する特許は、TIのゲイリー・ブーンとマイケル・J・コクランに与えられた(米国特許第4,074,351号)。
4004の後継として1972年4月に発表された8008が世界初の8ビットマイクロプロセッサである。
4004や8008を発展・改良させる形で、1974年4月にインテルの8080が誕生、さらに1976年(の3月~7月ころ)には8080の上位互換品で速度・機能などを向上させたザイログのZ80が誕生し、またその後もインテル製の他の派生プロセッサ群が誕生してゆくことになった。その一方で同時期にそれらとは系統が異なるモトローラのMC6800というプロセッサも構想され1974年から製造、そのMC6800とバス互換としつつパイプライン処理の採用などの改良を加えたモステクノロジー社の6502が1975年に発表された。こうしてZ80と6502が覇を競うことになった(「80系と68系の戦い」などとも言われた)。1970年代後半から1980年代前半にかけてのことである。
Z80も6502もシステム全体のコストを低減することに注力しており、パッケージを小さくし、要求されるバスを単純なものにし、それまで外部に別チップで持たなければならなかった回路(例えばZ80はDRAMリフレッシュカウンタ)を内蔵した。これにより1980年初頭にホームコンピュータ(ホビーコンピュータ)市場が新たに生まれ、それなりに使えるマシンが、99USドルで売られるようになった。
モトローラが「切り札」として1979年に発売したMC6809は、命令セットに直交性があり美しい設計が特徴の、事実上最もパワフルな8ビットマイクロプロセッサであり、当時製品化されたマイクロプロセッサの中で最も複雑な回路から成っていた。
他の初期の8ビットマイクロプロセッサとしてはSigneticsの2650もある。PDP-8を機能縮小しワンチップ化したものであるが、PDP-8を知らない層からは一風変わったパワフルな命令セットと受け止められた。
航空宇宙分野での最初のマイクロプロセッサは、1976年に発表されたRCA社のRCA 1802(別名 CDP1802、RCA COSMAC)であり、1970年代のNASAの宇宙探査機ボイジャーとバイキングに使われた。木星探査機ガリレオにも搭載されている(1989年出発、1995年到着)。CDP1802が使われた理由は、消費電力が極めて小さいことと、非常に広い電源電圧範囲で動作すること、製造プロセス(Silicon on Sapphire)が宇宙線や放電に他のどんなプロセッサよりも強いからであった。したがって1802は「最初の放射線耐性マイクロプロセッサ」と呼ぶにふさわしい。
ここまでに登場したプロセッサのほとんどがマイクロプログラム方式による制御ではなく、ワイヤードロジック制御である。
最初の複数チップで構成された16ビットマイクロプロセッサは1973年に登場したナショナル セミコンダクターのIMP-16である。8ビット版のチップセットはIMP-8として1974年に登場した。1975年、ナショナル セミコンダクターは最初の16ビットマイクロプロセッサPACEを開発、後にNMOS版のINS8900を開発した。
その他の初期のマルチチップ16ビットマイクロプロセッサとしては、PDP-11をLSI化したLSI-11(PDP-11#LSI-11を参照)などがあり、LSI-11は1975年に登場した。
初期のシングルチップの16ビットマイクロプロセッサには、1975年4月に完成したPANAFACOM L-16A(MN1610)、1976年のTIのTMS9900や Data General の MicroNOVA (mN601) がある。いずれもミニコンピュータの影響を受けている。TMS9900は同社のミニコンピュータTI 990シリーズと互換性があった。9900はミニコンピュータTI 990/4、ホームコンピュータTI-99/4A、OEM用マイコンボードTM990シリーズに使われた。チップは大型のセラミック製64ピンDIPパッケージで、当時の8ビットマイクロプロセッサIntel 8080はもっと一般的で小さくて安いプラスチック製40ピンDIPパッケージだった。後継のチップTMS9980はIntel 8080への対抗を意識して設計された。TI 990 の16ビット命令セットを持ち、プラスチック製40ピンパッケージで、データバスは8ビット、アドレス空間は16キロバイトしかなかった。三番目のチップTMS9995は新たに設計しなおされた。ファミリーはさらに99105、99110と進化していった。当時の Data General NOVA 互換のマイクロプロセッサには、他にフェアチャイルド・セミコンダクタの F9440 (1977年) も挙げられる。
インテルは参考とすべきミニコンピュータを持たなかったため、全く別の道をたどる。8080を拡張して16ビットのIntel 8086を設計したのである。このx86ファミリの最初のメンバー8086はパーソナルコンピュータ(パソコン)に広く採用される。インテルは8086を8080用ソフトウェアを最も簡単に移植できる方法として提案し、成功した。8086と8088に続いて、インテルは80186、80286をリリースし、1985年に32ビットの80386をリリースするに及んで、既存のソフトウェア資産をそのまま使用できる下位互換性を武器にPC市場での占有状態を強固なものにした。
マイクロプロセッサ内蔵のメモリ管理機構(MMU)はChilds他(インテル)によって開発された(米国特許第4,442,484号)。
16ビット化によってさらに進んだ複雑化により、以前のワイヤードロジックから、マイクロプログラム方式を採用するプロセッサが増えた。Z8000はワイヤードロジックだが、68000や8086はマイクロプログラム制御である。
マイクロプロセッサでは一旦はマイクロプログラム方式が増えたが、RISC化のためと性能競争のために、32ビット化後はワイヤードロジックに戻っており、インテルでは486でワイヤードロジックを採用した。
市場では16ビットマイクロプロセッサに対してC言語が普及した。OSが16bitから32bitへの移行が可能なようにC言語が16bit と32bitの両方に対応するように設計された。
32ビットを実装したマイクロプロセッサが、16bitマイクロプロセッサと同価格で販売されるようになると、16bitマイクロプロセッサの利点は、省電力、省空間になった。ARMでは、32bitでも16bitと同程度の省電力、省空間、費用を目標に市場を拡大していった。
世界初のシングルチップの32ビットマイクロプロセッサはAT&T ベル研究所のBELLMAC-32Aである。最初のサンプル出荷は1980年で、正式出荷は1982年であった。1984年のAT&T分割の後、WE32000と改称され(WEはWestern Electricを意味する)、さらにWE32100、WE32200と続いた。これらのマイクロプロセッサはAT&Tのミニコンピュータ3B5や3B15、世界初のデスクトップコンピュータ3B2、世界初の32ビットラップトップコンピュータCompanion、世界初の(本程度のサイズの)超小型コンピュータAlexanderに使われた。AlexanderはROMカートリッジを装備しており、その点は現在のゲーム機に似ている。これらは全てベル研究所オリジナルのUNIXオペレーティングシステムが動作し、最初のウィンドウ型ソフトウェアであるxt-layersを装備していた。
インテルの最初の32ビットマイクロプロセッサは1981年に登場したiAPX432である。iAPX432は権限に基づくセキュリティ機構とオブジェクト指向という進んだアーキテクチャだったが、モトローラの68000などの対抗アーキテクチャ、ひいては自社のIntel 80286等に比較して性能が及ばず、商業的には失敗した。
モトローラは1985年にMC68020で、データバスもアドレスバスも完全32ビット化されたマイクロプロセッサを出荷した。68020はUNIX市場では非常に人気を博し、多くの小企業が68020を使ってデスクトップサイズのシステムを製品化した。日本でもソニーのNEWS、NECのEWS4800、住友電工のEstationなどが68020を使って製品化された。続くMC68030はチップにMMUを内蔵し、68KファミリーはMS-DOS以外のあらゆるものが動作するプロセッサとなった。さらにMC68040ではFPUを内蔵して浮動小数点演算性能を向上させた。68050は予定していた性能目標を達成できず、リリースされなかった。そしてMC68060が出荷されたころ、市場にはより高性能なRISCプロセッサがあふれていた。1990年代初頭、68Kファミリーはデスクトップ市場から消えていった。
他の多くの企業が68020やその後継プロセッサを組み込み機器用に使用した。特筆すべきは、機器に組み込まれた68020の個数は、これまでに出荷されたインテルのPentium搭載PCより多いのである。ColdFireのプロセッサコアは68020の正当な後継である。
1980年代中盤までに、ナショナル セミコンダクターは外部16ビットで内部アーキテクチャが32ビットであるマイクロプロセッサNS16032(後に32016と改称)と完全32ビット版のNS32032を開発。また、それを使用したOEM向け32ビット小型コンピュータシリーズをリリースしている。シークエント・コンピュータは1980年代中頃にNS32032を使った最初の対称型マルチプロセッサ (SMP) サーバコンピュータを開発した。これは設計という面では勝利と言えるものだったが、1980年代終盤には消えていった。
他にもザイログのZ80000などは興味深いが市場でチャンスを掴むには登場が遅すぎたため即座に消えていった。
インテルが発売した80386は、x86アーキテクチャでの最初の32ビットプロセッサであり、ここで採用されたIA-32アーキテクチャ上では多くの本格的OSが動作し、後のインテルや互換プロセッサの基礎となった。
1980年代終盤、いわゆる「マイクロプロセッサ戦争」が勃発しいくつかのマイクロプロセッサが「戦死」した。前述の唯一の設計上の勝利と称したSequentは、NS32032が消えるとともにインテルのマイクロプロセッサに切り替えた。
Alpha・MIPS・SPARCなどのRISCプロセッサでは、1990年代初頭から64ビット化が行われており、特にAlphaは32ビットアーテクチャが存在せず、当初から64ビットプロセッサとして登場した。PC(PC/AT互換機とMacintosh)向けマイクロプロセッサは21世紀に入ってから64ビット化が行われた。2003年4月にAMDのOpteronが、同年6月にはIBMのPowerPC G5が出荷開始され、AMDのAthlon64は2003年9月、インテルXeonは2004年である。
Power Mac G5が最初の64ビットデスクトップとして登場したあと、AMDが2003年9月にAthlon 64でx86(IA-32)アーキテクチャを拡張したAMD64アーキテクチャの64ビットチップを導入し、それに続いてインテルがAMD64互換のIA-32eアーキテクチャの64ビットマイクロプロセッサを登場させるに及んで、Windowsパソコンにも64ビットデスクトップ時代が到来した。AMD64は32ビットの従来のアプリケーションも使用できると同時に、64ビットに対応したオペレーティングシステムやアプリケーションで動作させることにより、プロセッサの性能と機能を発揮させることができる。AMD64における64ビット化では、レジスタのサイズとともにレジスタの数も倍増し性能の向上に貢献している。デスクトップ向けでは64ビットWindowsはドライバの非互換性からあまり普及していないので、デスクトップではIntel 64/AMD64プロセッサは高速な32ビットCPUとして使われていることが多い。
PowerPCの64ビットへの移行は1990年代前半のプロセッサ設計当時から意識されていたため、互換性は大きな問題を起さなかった。既存の整数レジスタはデータバス幅に合わせて拡張されている。IA-32と異なり、既に32本の汎用レジスタと32本の浮動小数点レジスタを持っていたのでレジスタの本数は増加していない。
またIBMメインフレームのz/Architectureも、64ビットマイクロプロセッサであり、IBM z10などがある。
1980年代中盤、複数の新たな高性能RISC(reduced instruction set computer)マイクロプロセッサが登場した。命令の種類を減らし、アドレッシングモードを制限し、全てをワイヤードロジック制御で構成する。多数のレジスタを備えてメモリへのアクセスを減らすとともに、すべての命令を固定長としパイプライン処理で高性能化を狙うものであった。それらは当初、特殊な用途のマシンやUNIXワークステーションに使われていたが、その後あらゆる分野で使われるようになった。
RISCの開発は1970年代のIBM 801に始まった。最初の商用のRISCマイクロプロセッサはミップス・テクノロジーズの32ビットプロセッサであるR2000である(1985年。R1000はリリースされなかった)。続くR3000は更に実用的な設計となり、R4000では世界初の64ビットアーキテクチャを採用した。それに対抗すべくIBMのRT PC(1986年)や後継のPOWER、サン・マイクロシステムズのSPARCシステム(1985年)が生み出され、間もなく各主要ベンダはRISCアーキテクチャを採用したプロセッサをリリースした。AT&TのCRISP、AMDの29000、インテルのi860とi960、モトローラの88000、DEC Alpha、ヒューレット・パッカードのPA-RISCなどである。
DEC Alphaは性能面では優秀と言われながら、ヒューレット・パッカードに買収された後に消滅した。ヒューレット・パッカードのPA-RISCは、インテルと共同開発のItaniumに移行した。MIPSアーキテクチャは組み込みシステム(シスコシステムズのルータなど)に広く使われている。POWER/PowerPCは、Macintoshにも採用されたが、現在はサーバーとスーパーコンピュータのほかは、組み込みシステムが中心である。
ARMアーキテクチャは当初ホームコンピュータ向けに開発されたが、その後は携帯電話・スマートフォンをはじめとした携帯機器や組み込みシステムで支配的となった。ARMv8-Aで64ビット化がなされて以降、ARMアーキテクチャはサーバー分野にも進出し、スーパーコンピュータやデスクトップ分野でも台頭が著しい。
現在のx86マイクロプロセッサは従来の(可変長の)命令セットとの互換性を保ちながら、内部的には固定長命令に変換して実行するなどRISCの技術を段階的に採用し、また各RISCマイクロプロセッサはコード効率の向上を意図して短縮命令モード(ARMのThumb命令など)を実装するなど命令セットの追加を重ねたため、現在ではRISCとCISCの技術的な分類は困難である。しかしRISCという用語は便宜上使われる場合が多い。
かつて世界で販売されたマイクロプロセッサのうち最も多かったのは安価な8ビット製品である。1997年には20億個以上が出荷され、組み込みシステムとして非常に様々な用途に利用されてきた。
しかし、その後は半導体製造技術の発達によりローエンドの32ビットプロセッサーと16ビット/8ビットプロセッサーの価格差は徐々に少なくなり、IoTなどの要求仕様の高度化や汎用開発ツールの援用要求により、16ビット命令(ARMのThumb命令など)を持つ32ビットRISCプロセッサ(主にARM互換製品)が組み込み用途にも広く使われるようになった。また、64ビットの高性能品もパソコンやサーバ、スマートフォンのほか、デジタル家電やネットワーク機器など大量のデータの処理が要求される分野で使われている。
マイクロプロセッサはその特性上小さく、軽いが価格が高価なことから、航空機での輸送が盛んである。日本においてマイクロプロセッサの取扱量が最も多い空港は、成田国際空港である。
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5,802 |
701年
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701年(701 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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5,804 |
ライトペン
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ライトペン (英: light pen) とは、ブラウン管と組み合わせて利用する、コンピュータに位置を指示する為の装置(ポインティングデバイス)である。
ペンの形をした受光装置に光センサを内蔵しており、走査によって画像・映像を表示するブラウン管の画面に接触させその位置が光るタイミングを拾うことで画面上の位置を認識する。基本原理はライトガンと同じである。
光センサが人間の眼と比較して輝度の感度が非常に高く、人間の視覚では残像が起き点滅していないように見えていても、光センサはその点滅を感知することができるということを利用している。走査が行われているということは、たとえば一番高い位置の左端から右端へと光の点が移動してゆき右端に達したら次に2段目の左端から右端へとまた光の点が移動してゆくということなので、ペンに組み込まれた光センサが光量の変化を感知して信号として送るとコンピュータ側はその光量変化が起きたタイミングが分かり、それをもとにどの座標位置つまり画面上のどの位置にペンの先が押し当てられているか算出することができる。
原理上、ディスプレイで走査が行われていなければならず、基本的にブラウン管用のポインティングデバイスである。タッチパネルなどと異なりディスプレイの表面に透明なセンサの層を貼り付ける必要は無い。
走査のない液晶ディスプレイでは基本的に使えないため、タッチ操作は別方式で実現されている。
1980年ごろに当時の8ビットパーソナルコンピュータの周辺機器としても発売された。ピクセル単位など高精度で位置を検出するには少なくとも0.1マイクロ秒単位の非常に高精度の計時手段が必要である為、Atari 8ビット・コンピュータ、コモドールVIC-1001、コモドール64のようにビデオコントローラにライトペンの座標検出を行わせるか、座標計算を行うための専用の拡張カードを必要としていた。当時のパーソナルコンピュータにはグラフィカルユーザインターフェースも存在せず、画面の位置を指し示すという需要は小さく、また座標計算をコンピュータのCPUで行う場合は文字単位程度でしか位置を取得することができず(横軸方向に80桁程度)、高精度の位置検出のために専用の座標計算カードを併用する場合は高価なものとなっていたため、日本国内では一部の業務用途に利用されるにとどまり一般には普及しなかった。
直接的な操作であることから、ライトペンかペンタブレットが、コンピュータが将来一般に普及した際には使われることになるのではないかという予測が当時はあった(たとえばTRONキーボードの80年代のデザインではペンタブレットが組込まれていた)が、実際に広く使われるようになったのはライトペンやペンタブレットではなく、マウスのほうであり、ブラウン管も無くなっていった。
日本のテレビ番組においてはフリップボードの代わりにも使用された。例えば「クイズダービー」(復活版のみ)やフジテレビ系「平成教育委員会」(1991年 - )などのクイズ番組で回答者が答えを記入する装置にも用いられたり、スポーツ中継・ニュース番組でも試合の流れや選手の動きなどを解説する際に使用された。
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5,805 |
悟空の大冒険
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『悟空の大冒険』(ごくうのだいぼうけん)は、1967年1月7日から同年9月30日までフジテレビ系列で放送されていた日本のテレビアニメ。カラー作品。
手塚治虫が『西遊記』を元に描いた漫画作品『ぼくのそんごくう』を原作に、虫プロダクションがスラップスティックなギャグアニメとして作り上げたのが本作である。『鉄腕アトム』(アニメ第1作)の後番組であり、引き続き明治製菓(現・明治)の一社提供で放送された。
キャラクターや話の内容が現代風にアレンジされており、三蔵法師が天竺まで経典を取りに行くという基本設定を除いてほとんど作り替えている。登場人物も、竜子(たつこ)という女性キャラが追加されている。
当初は高い視聴率を稼ぎ、最高視聴率は1967年2月18日(土)に31.7%を記録している。しかし、同年4月に日本テレビ系列で同じ時間帯に『黄金バット』(読売テレビ製作)がスタートしてからは、視聴率の低下に苦しんだ。その為に「妖怪連合シリーズ」などの路線変更が行われたが、後半の視聴率不振の盛り返しには至らず、3クール9か月(全39話分)で放映を終了した。
本放送当時に、内容が過激すぎてお蔵入りになったとされるエピソードが1つある。これは本作のDVD-BOXに収録されている。
また、本放送時およびそれからあまり年月が経っていない頃の再放送時にはエンディング前に次週の予告クリップがあったが、後に使われなくなり、様々な事情で紛失してしまった模様である。その為、幾つか現存している音声の一部はDVD-BOXに収録されている。
この作品にはパイロット版の『孫悟空が始まるよー 黄風大王の巻』がある(脚本は児童文学者の佐野美津男)。しかしその内容はのちのテレビ版とはかなり異なっており、たとえば、パイロット版において悟空が三蔵法師を呼ぶ際には「おっしょうさま」との呼称を用いるが(これは『ぼくのそんごくう』でも同様である)、本編では「坊さん」に変えられている。またキャラに関しては、八戒は殆ど同じだが、孫悟空と竜子はやや背が高く、三蔵法師は『アトム』の田鷲警部に近く、沙悟浄に至っては全く異なっている。演じる声優も悟空・三蔵法師・猪八戒がテレビ版とは違い、音楽担当も異なる。
なお、この内容変更に関しては、総監督の杉井ギサブローが、完成したパイロット版を見るなり「自分の作りたかった物はこれじゃない」と手塚治虫に直訴し、手塚から「なら好きなように作って良いから」と了解を得たためとのちに発言している。一方、手塚治虫公式サイトにおける紹介では、小学校における試写で観衆の小学生から「悟空が優等生過ぎる」という理由で評価が芳しくなかったとされている。
初期の『世界名作劇場』(当時は『カルピスまんが劇場』)で『ムーミン』、『アンデルセン物語』、『山ねずみロッキーチャック』の音楽を担当した宇野誠一郎がBGMを作・編曲し、ほとんどの主題歌・挿入歌の作・編曲も行ったほか、歌詞を手掛けた曲もある。
主な歌手は、いくつかの宇野作品で歌唱を担当したヤング・フレッシュ。その他、『ひょっこりひょうたん島』からは前川陽子や中山千夏、そして『アンデルセン物語』や『さるとびエッちゃん』でも宇野と組むことになる増山江威子が参加した。
副主題歌は2000年代になってからテレビCMに流用されたりしている。例えば、「牛乳が好きな人のメグミルク」のCMでは、歌詞を「牛乳が好き」に変えて使っている(俗に言う「替え歌」である)。歌手は井上鉄平(BAZRA)。
2013年12月19日からYouTubeの「手塚プロダクション公式チャンネル」で、本作オープニングと話の前半部を無料配信していたが、2019年12月26日より、同チャンネルで第1話全てが無料配信されている。
いずれもOP映像は、ラストの提供クレジット部が番組タイトルに差し替えられ、サブタイトル表示部はブラックバックに話数とサブタイトルを記載したバージョンに差し替えられた。また第1話全話配信版の次回予告は、音声は存在するものの映像はないので、音声だけを配信している。
2022年5月17日からは同年7月19日まで、同チャンネルから全39話が期間限定無料配信された(第1話も先述配信分と共に並行配信)。今回も先述の第1話配信分同様、OPラストの提供クレジット部は番組タイトルに差し替えたが、次回予告は画像が存在する回(第10回・第12回ほか)はそのまま配信、逆に存在しない回は音声だけ配信となり、サブタイトル表示は第6話まではブラックバック、そして第7話からは通常バージョンになっている。
2023年4月14日からは同年6月5日まで、同チャンネルで再び全話の無料配信が行われた(配信形態は前回と同じ)。
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ハンガー・ストライキ
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ハンガー・ストライキ(英語: Hunger strike)とは、マハトマ・ガンディーにより始められた非暴力抵抗運動の方法の一つである。何らかの主張を世間に広く訴えるために、断食を行うストライキの一種。「飢餓(ハンガー)によるストライキ」という意味である。略して「ハンスト」ともいう。
公共の場(受刑者の場合は刑務所内)に座り込み、断食することで、相手が要求を受け入れなければ餓死に至るという状況に追い込むことで注目を集め、自分の主義・主張を通そうとしたり、それを世に広めたりするのが目的である。完全に飲食を絶つのではなく水だけ、あるいは塩と水だけを摂ったりする場合もある。流動食を限定的にとるものもある。
ロシア帝国の刑務所では、ゴロドーフカ(Голодовка)というハンガー・ストライキがよく行われており、それはソ連時代も続いていた。
イギリスにおける女性参政権運動では投獄されたサフラジェットがハンガー・ストライキをしばしば抗議手段として用いた。
アイルランドにおいては歴史的にハンガー・ストライキがしばしば反英運動の中で用いられてきた。1981年に行われた北アイルランド独立運動の闘士による刑務所でのハンガー・ストライキでは死者も出ている。この時の経緯は『HUNGER/ハンガー』として映画化されている。
日本でも、入国管理センターの入国者収容所で、収容の長期化や虐待への抗議のため、被収容者たちによるハンガー・ストライキが繰り返し行われている。その他にも各種の団体や個人が行っている。特に世間の注目を集めた例としては、1992年9月、検察庁が金丸信と東京佐川急便との癒着疑惑(東京佐川急便事件)を政治資金規正法違反のみの略式起訴による罰金で幕引きを図ったことに、青島幸男が抗議して実施したものが挙げられる。青島のハンガー・ストライキは、30時間以上が経過したところで脱水症状に陥ったために緊急入院せざるを得なくなり、中断を余儀なくされた。しかし、青島が呼びかけた「検察庁に抗議のハガキを送ろう」という運動には、多くの賛同者が現れた。後に検察庁は金丸に対して強制捜査に踏み切り、金丸は巨額脱税事件で逮捕・起訴された。
韓国においても、一人デモと並んで、よく行われる抗議手段として知られている。
2021年7月10日よりフランス人のヴィンセント・フィショ (Vincent Fichot) が日本の千駄ケ谷駅前にて自らの子どもの連れ去りに抗議するためのハンガー・ストライキを始めた。
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ボブ・サップ
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ボブ・サップ(Bob Sapp、1973年9月22日 - )は、アメリカ合衆国コロラド州コロラドスプリングス出身のキックボクサー、プロボクサー、プロレスラー、総合格闘家、タレント、俳優、元アメリカンフットボール選手。
本名はロバート・マルコム・サップ(Robert Malcolm Sapp)。2005年にはマーベル・コミックの『エレクトラ』に出演しハリウッドデビューを果たす。
教育熱心で厳格な家庭で育った。特に両親の離婚後母の教育熱がエスカレートし、テレビは教育テレビのみ視聴することを許されていたとインタビューで語った。
少年時から様々なスポーツに取り組み、高校時で既に体重115kgという大柄だった。ワシントン州シアトルにあるワシントン大学にアメリカンフットボールの特待生として入学し、学業では社会学と薬学を専攻。カレッジフットボールではオフェンスのラインとして活躍し、1997年1月のシニアボウルにメンバーにも選ばれた。
一部報道によると、不仲の両親、育児放棄の母親のもとで育ったといい、14歳の時に年齢を偽り警備業に就いたとある。
1997年、NFLのシカゴ・ベアーズにドラフト3巡(全体69位)指名されて入団したが、シーズン開幕前に禁止薬物使用によりベアーズから解雇された。その後度重なる故障に見舞われ、その後ミネソタ・バイキングス、ボルチモア・レイブンズ、オークランド・レイダースに所属した。
2000年、両足のアキレス腱を痛め、負傷前の実力を取り戻すに至らなかったため、現役続行を断念。プロレスラーに転向し、アメリカ合衆国のプロレス団体であるWCWに入団して、団体の養成所である「パワープラント」に一時期所属していたがWCWが倒産したため数試合の(前座)出場のみにとどまった。後、病院に遺体搬出の仕事に就き収入を得る。NFL時代のパワーリフトMAXは、ベンチプレス266kg、インクラインベンチ363kg、パワークリーン191kgと公表している。
2002年、同じく元WCWの選手で友人のサム・グレコの紹介でK-1にスカウトされ、格闘家としてPRIDE、K-1に参戦。K-1とは何をするか決まっていないまま契約したため、最初は石井和義のボディーガードをやるという話もあったという。因みに契約内容は、1年間で契約金とファイトマネー込みで10万ドル(約950万円)という、後の活躍からは考えられないほどの内容であった。試合ではフットボールの経験を生かした肉弾的な戦いを得意とし、自らをビーストと呼ぶことから、「野獣」「ビースト」といったキャッチコピー(ちなみに、PRIDEにデビューした当初は「暗黒肉弾魔人」)を得た。格闘家として活躍時の体脂肪率は11 - 13%程度で、筋力維持のため毎日400g程度のプロテインパウダーを摂取しトレーニングに励んでいた。来日当初は異国の勝手がわからず、その巨体を小さくして萎縮していたが、活動初期には手にした生肉を貪り食うなど食人を意識したギミック(役付け)で登場。
4月28日、PRIDE.20で日本デビュー。山本憲尚(現山本宜久)を1R2分44秒で下した。
6月2日、K-1 SURVIVAL 2002で中迫剛と対戦、K-1ルールを無視して中迫を投げ飛ばし上から殴るなど暴走し反則負け。乱闘騒ぎになる大荒れの試合となった。試合後、石井和義館長は「このままでは収まらない。2人にはきっちり決着をつけさせる」と明言した。
6月23日、PRIDE.21で田村潔司と対戦、開始11秒でTKO勝利。
8月28日、Dynamite!にてアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに2ラウンド4分02秒で一本負けを喫するも、ノゲイラのフィニッシュ・ホールドである三角絞めを、持ち上げてリングに叩きつけて阻止するなど、その怪力ぶりを発揮。一般にこれが彼の本格的なブレイクとされる。
9月22日、K-1 ANDY SPIRITSでシリル・アビディと対戦し、KO勝ち。
10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦にてアーネスト・ホーストと対戦、パンチと圧力で攻め1R終了時にドクターストップによりTKO勝ち。K-1を3度制したホーストに勝利したことで知名度は急上昇する。
10月14日、新日本プロレス東京ドーム大会に出場し、中西学と対戦。久々のプロレスルール、アメリカ時代では経験出来なかったビッグマッチでのメジャーカードと言う不利を全て規格外のパワーで吹き飛ばし、当時の団体でも屈指のパワーファイターであった中西をパワーボムやドロップキックで圧倒し、リングアウト勝ち。ファンに強烈な印象を残すと共に、プロレスへの適用力の高さも見せつけた。
11月17日に、サップをエースとするK-1によるプロレスイベント「ファンタジーファイトWRESTLE-1」が旗揚げ。フジテレビは「ボブ・サップのバトル・エンターテイメント W-1」というサップの冠番組としてゴールデンタイムに録画中継した。グレート・ムタと対戦し、毒霧やシャイニング・ウィザードを喰らう場面もありながら、最後はドロップキックからのダイビング・ヘッドバットでピンフォール勝ちを収めた。
12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦のGP準々決勝にて、出場辞退者が出た関係上、アーネスト・ホーストと再戦し、2R2分53秒でKO勝ち。だが、右拳を骨折しGP準決勝を棄権した。大会規定により、ホーストが準決勝に進出し、皮肉にも、王者になったのは、サップに2度負けたホーストであった。
12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002ではプロレスラーの高山善廣相手に打撃では勝負をせずにタックルで倒し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。この頃から格闘技ファンに認められ、知性派であることがメディアに紹介されるにつれ、野太い声で「ハッハッハッハッハッ」と笑う姿や流暢な日本語を交えながらおどけるそのギャップから親しみやすいキャラクターとして話題を呼び、日本の数多くの番組やテレビCMに多く出演することとなる。
2003年、3月5日、フジテレビのバラエティ番組「力あわせてゴーゴゴー!!」内の企画で、シングル「SAPP Time!」をリリースした。オリコン週間チャートは最高28位。
3月30日、K-1 WORLD GP 2003 in さいたまでミルコ・クロコップと対戦し、左ストレートでKO負け。試合後、右眼窩内側壁骨折および右眼窩壁骨折と診断された。
8月15日、K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガスでキモと対戦、2R1分11秒右フックでKO勝ち。試合終了後、マイク・タイソンを挑発した。
10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦にてレミー・ボンヤスキーと対戦、2Rに倒れたレミーを殴ってしまい反則負け。
12月31日、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!にて曙太郎と対戦、1R2分58秒でKO勝ち。そのシーンは瞬間最高視聴率で民放がNHK紅白歌合戦を史上初めて上回り、大きな話題となった。
2004年、3月28日、新日本プロレスにて佐々木健介と対戦、8分24秒体固めで勝利し、第37代IWGPヘビー級王座につく。
5月3日、新日本プロレスにて中邑真輔と対戦、12分31秒体固めで勝利し、IWGPヘビー級王座の初防衛に成功する。
5月22日のK-1 ROMANEXで藤田和之と対戦、序盤でテイクダウンをとられ、一方的に藤田の打撃を浴びタップアウトで敗北。試合後、保持していたIWGPヘビー級王座を返上。
12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!においてジェロム・レ・バンナと、1Rと3RはK-1ルール、2Rと4Rは総合格闘技ルールで行うミックスルールで対戦し、時間切れ引き分け。
2005年、3月26日、HERO'Sで、キム・ミンスに右ストレートでKO勝利。5月からサム・グレコの下で修行し、6月14日のK-1 WORLD GP 2005 IN HIROSHIMAで開催されたJAPAN GPに出場。中尾芳広、堀啓、富平辰文を破り優勝。
7月6日、HERO'Sで、アラン・カラエフに左ストレートでKO勝利を収めた。11月5日には「HERO'S 2005 in SEOUL」においてキム・ジョンワンに、8秒でKO勝ち。
8月4日、プロレスにも参戦し「WRESTLE-1 GP 2005 開幕戦」においてジャイアント・バーナードと対戦し、5分30秒、横入りエビ固めで勝利。
10月2日、「WRESTLE-1 GP 2005 2回戦」において秋山準と対戦し、7分21秒、ビーストボムからのエビ固めで勝利。
2006年、5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストの国内引退試合の相手を務めるはずであったが、契約問題のこじれから試合直前になって試合をボイコット。この件でサップは弁護士を介しての声明文や外国人記者クラブで会見を行うなどし、一方、FEG社長谷川貞治もサップへ法的措置をとると会見するなどして、両者で争うことになった。『サンデー毎日』2006年12月31日号では、映画に出演すると共に、獣医を目指して勉強中と報じられた。10月15日にはWWEのトライアウトを受けていた。
2007年、2月10日、Cage Rage 20のリングに上がり、4月21日のCage Rage 21への参戦を表明したが、開催直前になって出場がキャンセルされた。
6月、サップを契約違反として民事裁判の提訴をしたK-1と和解、6月23日のK-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMでピーター・アーツと対戦。試合は、開始早々突進しみぞおちへの左膝蹴りを受けダウン、そのまま立ち上がらず26秒でKO負けを喫した。その姿に観客からは大ブーイングとともにリングに物が投げ入れられた。試合後の会見で谷川貞治K-1イベントプロデューサーは裏切られたと不快感を露わにした。なおこの試合前に発表されたサップの体重は180kgと、1年前に比べ20 - 30kg重く体が緩んでいた。各メディアで練習不足による肥満が指摘された。
10月16日、ハッスルの会場に姿を現し、モンスター・ボノの「バブー」をパロって「ボブー」と言った。11月22日、ハッスルマニア2007でHGに勝利。
12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でボビー・オロゴンと対戦、マウントパンチでKO勝ち。
2008年、2月23日、米国での総合格闘技デビュー戦となるStrikeforce: At The Domeでヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦し、パンチを連打されTKO負け。Strikeforceとは15試合の長期契約を締結したと報道された。
12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のDJ OZMAプロデュース試合でキン肉万太郎と対戦し、スタンドパンチ連打でTKO勝ちを収めた。
2009年、1月、プロ野球北海道日本ハムファイターズの坪井智哉と東京都内のジムで自主トレーニング(格闘技トレーニング)を行った。
5月26日、DREAM.9のスーパーハルクトーナメント1回戦でミノワマンと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。
6月27日、Ultimate Chaosでボビー・ラシュリーと対戦し、パウンドチで1ラウンド3分17秒、タップアウト負け。闘争心を見せない試合ぶりに観客からブーイングを浴びる。
10月6日、ゲガール・ムサシの負傷欠場により敗者復活となり、DREAM.11のスーパーハルクトーナメント準決勝でソクジュと対戦し、パウンドでTKO負け。
2010年、格闘家として第一線を退き、韓国でトークショーの司会や、会社の経営に乗り出していると明言。
11月27日、スウェーデンのRumble of the Kingsのメインでユルゲン・クルトとK-1ルールで対戦し、ひざ蹴り一発で戦意を喪失して、タオル投入による1ラウンド98秒のTKO負け。
12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜で鈴川真一とIGF特別ルールで対戦する予定だったが、試合放棄したため、「サップの戦意喪失」として不戦敗扱いとなった。試合放棄の理由の詳細は、#人物・エピソードの2010年Dynamite!!試合放棄およびFEGのファイトマネー未払い問題を参照。
東日本大震災後の2011年8月にはチャリティーオークション参加や避難所へ訪問している。
2013年、1月4日、新日本プロレスの矢野通からラブコールを受ける形でCHAOSのサポートメンバーとして、久々にプロレスに参戦。試合はタッグメンバーの飯塚高史が対戦組の中西学のアルゼンチンバックブリーカーによるギブアップで敗れるものの、試合後のバックステージでのコメントで新日本プロレスに再参戦する意思を見せている。因みに、この日の試合の対戦組メンバーにかつて2003年12月31日のK-1で対戦した曙がいた。
3月、著書『野獣の怒り』で、谷川貞治の放漫なマネジメントを批判。また自身はドン・フライほか引退したファイターへの支援活動を開始しており、40歳で引退すると表明した。
9月には、武藤敬司の設立したプロレス団体「WRESTLE-1」の旗揚げ戦に参加、メインイベントで武藤とタッグチームを組んで、ゾディアック&レネ・デュプリと対戦し、勝利した。
2015年、12月31日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSで曙と再戦し、判定勝ち。
2017年、12月21日発売の『週刊文春』で、2011年春から2017年1月の約6年間に渡って内縁の妻に対して暴行を加え続けたと報道された。同報道によると女性は鼓膜破裂、肋骨骨折、鼻骨骨折などの重傷を負ったとされており、暴力を恐れて女性が子供を連れて日本に帰国した後も7000通のメールが女性の元に送られるなど、サップによるストーカー行為が行われていたという。このような暴行が行われた背景には、鎮痛剤、筋肉増強剤、興奮剤などの薬物使用が影響していると見られる。誌上には暴行を加えられた痕跡のある女性の写真など、証拠も掲載されている。この報道に際して、NFLはステロイド使用によって追放されたとする説も伝えられた。
2018年、9月30日、RIZIN.13にてMMAデビュー戦の大砂嵐と3R3R特別MMAルールで対戦。1R打撃で押されるも持ちこたえ、2R、3Rに優勢に立ち判定勝ち。8年ぶりのMMAルールでの勝利となった。
2021年1月の一部報道によると、グアテマラでプロレス関連のビジネスを行い、現地に自宅を構えて悠々自適に生活しているという。
身長に関しては諸説あるが、PRIDE初参戦時は205cmと紹介されていた。後にK-1にも出場、そのときは200cmに訂正された。大学フットボール時代ならびにNFL時代は6フィート4インチ≒193cmである。利き手(書字など)は左だが、利き腕(ストレートパンチなど)は右のコンバーテッドファイターである。
全盛期は怪力を活かしたセオリー無視のファイターであり、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対戦でパワーボムを放つなどその力任せぶりが目立っていた。技術を覚えてからはセオリーにはまって弱体化した。
一部で「ボブ・サップは元NFLプレイヤーのウォーレン・サップ(2013年プロフットボール殿堂入り)の兄弟(または従兄弟)である」というまったくの誤報が流れたが、ボブ・サップとウォーレン・サップとの間に特筆すべき血縁関係はない。なお、ウォーレン・サップはフロリダ州オーランド出身であり、マイアミ大学の卒業生である。
2006年5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストの国内引退試合の相手を務めるはずであったが、契約問題のこじれから試合直前になって出場を固辞、試合をボイコットした。FEG側の説明では「(サップ側から)試合前に無理難題を吹っかけられ、拒否したら突然『やらない』と言い出した」としていて、その無理難題の内容は「契約上明かすことは出来ない」として説明を避けた。契約上問題があると法的措置も検討していて、K-1永久追放の可能性も示唆していた。この時谷川の口から4月23日プロレスリング・ノア日本武道館興行のオファーを蹴っていることが明かされた。本人はハッスルに参戦したいと語っていた。2006年6月27日、K-1オランダ大会ボイコットの件に関しての声明を発表し、当時の詳細を語った。その中でサップは、オランダでK-1を共催した人物から脅されたとも語っている。これに対し6月29日、K-1サイドは「事実に反する」と反論し、サップ側から長期契約からのリリースの要求があったと主張。さらに7月3日、ボブ・サップの代理人から、K-1サイドの事実誤認に対する指摘がなされた。その後2007年6月、サップ側の申し入れによりFEGと和解、6月23日のK-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMに出場することとなった。しかし、試合内容に激怒した谷川は、損害賠償などの法的措置を取り下げないことを発表した。2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜では、エグゼクティブプロデューサーに就任したアントニオ猪木による提供試合として鈴川真一の対戦相手としてIGF特別ルールでマッチメイクされた。しかし大会当日になってサップが試合放棄したことにより、戦意喪失による鈴川の不戦勝と発表された。これを受けて谷川は1月1日の記者会見の場にて「二度と呼ぶことはないでしょう」と事実上のFEG関連興行からの永久追放を宣言した。谷川はサップが「売店で俺のフィギュアが売っているが、ロイヤリティをもらってない」と言っていたという。さらに素手で戦うIGF特別ルールがプロレスなのか格闘技なのかの解釈の違いがファイトマネーのトラブルの原因になったという憶測については、FEGもIGFも格闘技の「つもり」で、オファーしたと主張している。一方、サップの側は、3万ドルのファイトマネーでFEGからオファーされたのに来日すると1万5千ドルに半減されたのが試合放棄の原因だとインターネットメディアで主張した。対戦相手だった鈴川が所属するIGFの渉外のサイモン・ケリー猪木はTwitterで、一番悪いのは主催のFEGだとサップに同情するコメントをしている。また、同時期から主催者側FEGが多額の負債により各選手へのファイトマネーが未払いになっていたことがのちに発覚(FEGの項参照)し、サップの主張が裏付けられるかたちとなった。
過去にお笑い番組ワンナイのコーナーの無理やリフォームにサップ3兄弟として出演したことがある。
2013年には自身の証言を口述筆記した暴露本である「野獣の怒り」を双葉社から出版した。本著での内容は以下のとおりである。
ボクシング戦績
48戦45勝2敗1分(37KO)
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ミルコ・クロコップ
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ミルコ・クロコップ(Mirko Cro Cop、1974年9月10日 - )は、クロアチアの元男性総合格闘家、元キックボクサー、元アマチュアボクサー、元国会議員。ヴィンコヴツィ出身。チーム・クロコップ主宰。元警察官でもあり、リングネームの「クロコップ」は、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意で、対テロリスト特殊部隊の"ルチェコ(英語版)"に所属していた。PRIDE無差別級グランプリ2006王者。RIZIN無差別級グランプリ2016王者。K-1 WORLD GP 2012王者。
総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、左ハイキックを武器に多くのKO勝利を挙げ、海外では「右足は病院行き、左足は墓場行き」と形容された。総合格闘技に適応した最初の本格ストライカーといわれており、ストライカーの弱点であるテイクダウンディフェンスと寝技を身に付けた。ミルコの活躍は総合格闘技界の技術体系を打撃偏重へシフトチェンジしたとも言える。2000年代初頭から2000年代半ば、特に全盛期であったPRIDE時代はヘビー級の打撃系総合格闘家として世界トップクラスの実力を誇り、エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと並んでPRIDEヘビー級三強と称された。PRIDE参戦当初はK-1からの外敵といった悪役、ヒール的な存在であったが、PRIDEでの闘いを重ねていくにつれ、PRIDEのエース格桜庭和志と肩を並べるほどの人気選手となり、PRIDEの主役とも言える存在であった。
1997年10月にはアマチュアボクシングのクロアチア代表として世界ボクシング選手権に出場。2003年12月23日から2008年1月11日まではクロアチアの国会議員を務めた。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国クロアチア社会主義共和国(のちのクロアチア)の都市、ヴィンコヴツィに生まれる。しかし少年期に暮らしていた町が民族紛争に巻き込まれ、友人たちが次々と死んでいくという過酷な経験をきっかけに格闘技を学び始めた。この時期のことをミルコは後年、「その頃の私は戦争に対する怒りに任せて、ひたすら体を鍛え続けるようになっていた。自分が強い男になってみんなを守り、もう誰も死なせないと心に誓ったからだ」と述懐している。当初は専門的なジムに通う経済的余裕も無く、父親が砂袋や綿で造ったグローブやパンチバッグを使って、独学で空手、キックボクシングなどの習得に励んだ。この頃、鉄棒の両端に石を結び付けた手作りのバーベルで、ウエイトトレーニングをする様子を撮影した写真が残っている。
7歳の頃テコンドーを始め、その後に空手を始めたが、ユーゴスラビア紛争の激化により断念し、紛争が収まった数年後にようやくトレーニングを再開した。18歳の時に、通信士としてクロアチア軍に入隊。そこでクロアチアのキックボクシングナショナルチームでのトレーニングを希望し、上官に「私はあなたが将来特別な兵士になるとは思わないが、いつか良いファイターになると信じている。だから通信を学ぶ必要はない。あなたを解放するので、その分、1日に2回トレーニングを積んで欲しい。そしていつか母国に誇りを持たせて欲しい」と許可されると、19歳でキックボクシングを始めた。
幼少期から紛争地帯で凄惨な光景を目の当たりにしてきたためか、インタビュー内で「戦争は愚かで悲しいだけだ」と述べるなど、戦争に対する激しい嫌悪を公言している。ボブ・サップ戦の前日記者会見で当時開戦したばかりのイラク戦争に言及が及ぶと、涙ながらに反対を表明した。
1996年3月10日、K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦で日本のリングに初登場。K-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガーのリングネームで出場し、GP1回戦で前年GP準優勝者のジェロム・レ・バンナからダウンを奪い、3-0の判定勝ちを収めた。
1996年5月6日、K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦のGP準々決勝ではアーネスト・ホーストのテクニックとローキックに翻弄され、3RにTKO負けを喫した。
この試合以降ミルコは師シカティックと決別し、3年間に渡って日本のリングから遠ざかった。その間はアマチュアボクシングの試合に多く出場しており、国内王者に3度輝き、地中海競技大会では銅メダル獲得、 軍人世界選手権では銀メダル獲得など実績を上げ、1997年10月にはクロアチア代表として世界ボクシング選手権に出場した。また同時期に、対テロリスト特殊部隊の"ルチェコ(英語版)"に配属され、クロアチア議会で当選するまでの6年間任務に就いた。
1999年4月25日、K-1 REVENGE '99に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たした。ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ちを収めた。
1999年6月20日、K-1 BRAVES '99に出場し、GP予選1回戦でリッキー・ニケルソンに右ハイキックで1RKO勝ち。GP予選準決勝ではジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GPの出場権を逃したが、怪我人の発生で推薦枠でのGP出場が決まった。
1999年10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦に出場し、GP1回戦でマイク・ベルナルドからハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪って1RKO勝ちし、K-1四天王の1人を倒したことで一躍脚光を浴びるようになる。
1999年6月12月5日のK-1 GRAND PRIX '99 決勝戦では、GP準々決勝で武蔵に2RKO勝ち、GP準決勝でサム・グレコに2RKO勝ちして決勝まで駒を進めたが、武蔵戦で痛めた脇腹を、続くグレコ戦でも痛めて肋骨を骨折してしまったこともあり、GP決勝ではアーネスト・ホーストにその部分を攻められボディ打ちで3RKO負けを喫し、グランプリ準優勝に終わった。
その後リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更。かつてのやや細身で迫力を欠く体格はビルドアップされ、更にポーカーフェイスの精悍な顔つきも相まって「ターミネーター」のニックネームが定着。この頃から人気と実力を兼ね備えた、次世代を担う選手として注目されるようになった。
2000年3月19日、K-1 BURNING 2000で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だったため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露。試合は4RでミルコがKO勝ちを収めた。
2000年6月3日、アンディ・フグの母国スイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに判定負けとなった。少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。
2000年10月9日、K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAのGP予選トーナメントでは、1回戦でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちを収めた。決勝の相手はマイク・ベルナルドであったが、この予選トーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝大会へと出場できるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、準決勝で怪我をしたこともあり決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、ベルナルドにリベンジを許した。
2000年12月、K-1 WORLD GP 2000 決勝戦では準々決勝でアーネスト・ホースト相手に延長まで持ち込むものの、延長に入ると試合をリードされ0-3で判定負けに終わった。
2001年3月17日、K-1 GLADIATORS 2001のピーター・アーツ戦では、序盤にハイキックとパンチのラッシュでめ込むも、後半は膝蹴りを受けスタミナ切れを起こし失速。最後はクリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも競り勝ち2-0で判定勝利を収めた。
2001年6月16日、K-1 WORLD GP in MELBOURNEではGP予選トーナメント1回戦でマイケル・マクドナルドと対戦。相手を格下と見て、試合中に腕を回すなどの挑発行為や余裕な態度をとったが、クリンチをして密着した状態でマクドナルドが放ったパンチを顎に受けてグラついてしまいそのままラッシュを受けて1RKO負けし、まさかの初戦敗退となった。
2001年8月19日、K-1 ANDY MEMORIAL 2001にて、K-1と猪木軍との対抗戦に出場することとなり、3分5Rの総合格闘技(MMA)ルールで猪木軍のエース藤田和之と対戦する。試合は下馬評を覆して、藤田のタックルに膝蹴りを合わせ大流血に追い込み、ドクターストップによるTKO勝ちを収めた。後にミルコがこの勝利が大きな転機となったとコメントしているように、この総合格闘技ルールでの番狂わせの勝利が、後の総合格闘家への転向、そしてPRIDE出場に繋がることになる。
2001年10月8日、K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKAの敗者復活トーナメントに出場予定だったが、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念した。
2001年11月3日、PRIDE.17でPRIDE初出場を果たした。藤田戦と同じルールでの高田延彦との対戦は、高田が試合序盤でミルコにローキックをカットされ右足踵骨を骨折したためリングに腰を降ろしてグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否し続け、猪木アリ状態のまま試合は終了しドローとなった。ミルコは試合後、激怒し「気分が悪い。高田はチキンだ。」「藤田は本物のファイター。高田は偽者のファイター。」と罵倒したが、後に高田が足を骨折していたことを知ると謝罪に近い言葉を述べ、互いのわだかまりはなくなっている。
2001年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2001にてプロレスラー永田裕志と総合格闘技ルールで対戦し、試合開始から21秒後には左ハイキック一撃で永田をリングに沈め、藤田、高田、永田の3人のプロレスラーを倒したことでプロレスハンターと呼ばれるようになった。
2002年3月3日、K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYAで、前年GP王者マーク・ハントと対戦。試合序盤はハントを翻弄し、3Rに左ハイキックでダウンを奪う。後半はハントのプレッシャーや打撃により逆襲を受ける展開となってしまうが、その反撃をかわし切り判定で勝利した。試合後には笑顔一つも見せずにハントの祝福にも首を振っていたが、この勝利を以って改めて「K-1王者になりたい」と語り、一方で総合格闘技への本格的な挑戦も語った。
2002年4月28日、PRIDE.20では総合格闘技4戦目でPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバと対戦。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、総合格闘技経験の浅い当時のミルコに配慮した特別ルールとなった。また両者の体重差に配慮して98kg契約だったが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。この試合は「K-1vsPRIDE 頂上決戦」と評された。ミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせた一方、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回っていた。試合は規定によりドローに終わる。
再びK-1ルールに舞い戻り、2002年4月7月14日のK-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKAでは、後のGP王者レミー・ボンヤスキーにパンチの連打で2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。
2002年8月28日、「Dynamite!」で桜庭和志と対戦。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなった。なお、体重は20kg近くミルコが重かった。2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際の顔面への蹴り上げで桜庭の右目が腫れ上がり、眼窩底骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO勝利となった。その後椎間板ヘルニアを理由にK-1 WORLD GP 2002を欠場、長期休暇を取ったこの間に長年交際してきた女性と結婚している。
2002年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002にて藤田和之と総合格闘技ルールで再戦し、危なげない試合運びで判定勝ちを収め返り討ちにした。
2003年3月30日、K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMAで当時人気絶頂にあったボブ・サップと対戦。体格差に押されるシーンが多かったがフットワークでいなし、左ミドルからのワンツーでミルコのKO勝利。勝利直後、普段はKO勝利してもクールなミルコにしては珍しくコーナーポストに駆け上がり、雄たけびを上げた。風邪を引いて高熱でコンディションが悪く、母国クロアチアでは衛星生中継されている重圧から開放されてうれしかったと後に語っている。なお、クロアチアでのこの試合の視聴率は約50%であった。試合後、サップは右眼窩内側壁骨折および右眼窩壁骨折と診断された。この試合を境にミルコはK-1、キックボクシングからしばらく離れる。
2003年6月8日、PRIDE.26からPRIDEシリーズに本格参戦。当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングと通常PRIDEルール(1R10分、2・3R各5分)で対戦、強烈な左ミドルキックからのパウンドでTKO勝利。試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEヘビー級王座への挑戦を宣言。なおこの試合は母国クロアチアでも当日ディレイ放送され70%超の視聴率を叩き出した。
2003年8月10日、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦でイゴール・ボブチャンチンに強烈な左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヒョードルの保持するヘビー級王座への挑戦を決定的なものとした。10月5日には「PRIDE武士道」に出場。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラスJrに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。
2003年11月9日、PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦ではPRIDEヘビー級暫定王座決定戦としてアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対戦を迎えた。本来ならこの大会でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルに挑戦するはずだったもののヒョードルの怪我により暫定王座決定戦となった。1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際に左ハイキックを放ち、完全な形ではないがヒットさせてノゲイラからダウンを奪った。2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われるとパウンドを浴びて、グラウンドの展開から脱出しようとした際にノゲイラに腕ひしぎ十字固めを極められてしまいタップアウト負け。これにより総合格闘技での無敗記録がストップした。 試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。
2003年12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2003に出場し高山善廣と対戦予定だったが、直前になって出場をキャンセルした。
2004年2月1日、PRIDE.27でロン・ウォーターマンと対戦。序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪い、サッカーボールキックを浴びせてKO勝利。2週間後、2月15日のPRIDE 武士道 -其の弐-では山本宜久にTKO勝利する。
2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のPRIDEヘビー級GP1回戦でケビン・ランデルマンと対戦。満を持して臨んだトーナメントで、ミルコを優勝候補に挙げる声も多かったが、1R1分57秒、左フックからのパウンドでまさかの失神KO負けを喫した。
2004年8月15日、PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦ではPRIDEヘビー級王者ヒョードルの弟のエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦、20キロ以上の体重差を問題にせず左ハイキックでKO勝利。観衆はミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。この勝利により、ミルコはPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。
2004年10月31日、PRIDE.28での第10代パンクラス無差別級王者・元UFC世界ヘビー級王者ジョシュ・バーネットと対戦。「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップアウトにより、勝利するも消化不良のまま終わった。
2004年12月31日、PRIDE 男祭り 2004ではケビン・ランデルマンと再戦、フロントチョークで一本勝ちを収め、リベンジを果たした。
2005年2月20日、PRIDE.29でマーク・コールマンと対戦。コールマンのタックルを完封し、1R3分42秒右アッパーでKO勝ちし、PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。
2005年8月28日、PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦でついにエメリヤーエンコ・ヒョードルの持つPRIDEヘビー級王座に挑戦。「21世紀最初の世紀の一戦」と評されたこの試合で、ミルコはバックステップで下がりながらも打撃をヒットさせるが、1R中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。2、3Rはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガードポジションで耐えたものの、ヒョードルの優位は動かず判定0-3で敗れ、王座獲得に失敗した。
2005年10月23日、PRIDE.30でジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論をバーネットが実践、打撃が思うように出せず劣勢に立たされるが、終盤にスタンドでパンチを集めることに成功し、3-0で判定勝利を収めた。
2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005において、2004年からPRIDEへ参戦したマーク・ハントとのストライカー頂上対決が組まれるも足首の負傷と体調不良による高熱により序盤から調子が上がらず、ハントに主導権を握られる。左ハイキックを完璧にヒットさせる場面もあったが1-2で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。足首の負傷のためかこの試合ではミルコにしては珍しくレスリングシューズを履いて試合を行った。
2006年5月5日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦に出場し、1回戦で美濃輪育久に1R1分10秒、パウンドでTKO勝利。
2006年7月1日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUNDの2回戦では、日本重量級のエース吉田秀彦と対戦し、ローキックによるTKO勝利。
2006月9月10日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦の準決勝では、ヴァンダレイ・シウバと4年ぶりに再戦。シウバのパンチを殆ど見切り、更にシウバを右眼負傷に追い込み、左ハイキックで失神KO勝利。因縁の再戦を完全勝利で収めた。この試合は、「ファンが選ぶ2006年ベストバウト&MVP」のベストバウトにて1位となった。
続く決勝戦ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを準決勝で破ったジョシュ・バーネットと3度目の対戦。序盤から圧倒しボディブローでダウンを奪うとインサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットがタップアウト。アクシデントも手伝ったが、内容は一方的なものであり、バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と讃えた。自身の32歳の誕生日に初めてのメジャータイトルを戴冠し、リング上で男泣きするミルコの姿に、会場からは暖かい拍手が送られた。優勝により、エメリヤーエンコ・ヒョードルの持つPRIDEヘビー級王座への挑戦権を手にしたものの、UFC移籍のため行使することはなかった。前述の「ファンが選ぶ2006年ベストバウト&MVP」のMVPにて、ミルコは2位に選ばれた。
2006年12月30日、アメリカ合衆国の総合格闘技団体UFCへの参戦を表明し、PRIDEから離脱した。
2007年2月3日、UFC初出場となったUFC 67でエディ・サンチェスと対戦。ミルコの打撃を警戒するサンチェスを追い込み、1RマウントパンチによるTKOで勝利し、アメリカ進出は白星デビューとなった。
2007年4月21日、勝てばタイトルマッチといわれたUFC 70のガブリエル・ゴンザーガとの対戦ではミドルを掴まれてテイクダウンを許した後グラウンドで頭部へ何度も肘打ちを受け続け、最後は右ハイキックを被弾し失神KO負けを喫した。試合後には、スタンドに戻った際にすでにグラウンドでの肘打ちにより大きなダメージを受けていたことや、UFCのルールへの対策が甘く、肘打ちに対する防御の練習を怠っていたことを語った。
2007年9月8日、UFC 75でシーク・コンゴと対戦。序盤は優勢に試合を進めるも、中盤からはローブローも重なって急激に失速。最終的にコンゴに巻き返される形となり、0-3の判定負けを喫した。この時期からたび重なる怪我と手術の影響により、PRIDEの時のようなキレのある動きができなくなってしまう。
2008年は一端UFCを離れ、日本の新団体DREAMに参戦した。3月15日の旗揚げ戦DREAM.1で水野竜也と対戦し、開始55秒TKO勝ち。
2008年6月15日、DREAM.4でハレック・グレイシーと「グラップリング・チャレンジマッチ」で対戦予定であったが、ミルコが遺恨のある練習パートナーのギルバート・アイブルと実戦練習した際に両者がヒートアップして、アイブルはアキレス腱を断裂し、ミルコは右肘靱帯を亜脱臼してしまう。ミルコはその状態のまま練習を続けたため、さらに右肘の状態を悪化させてしまい、ハレックとの試合前にドクターストップ。急遽欠場となる。その後、DREAM.5にも出場予定となるが、怪我の回復が間に合わず欠場となった。この怪我により、のちにUFCで対戦するフランク・ミアが対戦前にミルコを研究していた時に、「ミルコは右のパンチがある時期を境におかしくなっている。何か大きな怪我でもしたんじゃないか。」と語るように、ミルコはその後パンチの能力が落ちていくこととなる。
2008年9月23日、DREAM.6でアリスター・オーフレイムと対戦するが1R6分9秒、アリスターの膝蹴りが何度も下腹部に入り、ミルコが悶絶。数分間の回復時間が与えられ試合は再開されるが、再度アリスターの膝蹴りがミルコの下腹部に入り試合続行不可能となりドクターストップ。審議の結果、アリスターの下腹部への攻撃は故意ではなかったという判断によりノーコンテストとなった。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜でチェ・ホンマンとDREAMルールで対戦。両者にイエローカードが提示されるほど両者とも手が出ない試合となったが、試合序盤からミルコが何度も放っていたローキックが徐々にホンマンの足にダメージを与えており、1R開始6分を過ぎた頃にミルコの左ローキックでホンマンが崩れ落ちてKO勝ちを収めた。
2009年6月13日、ドイツで開催されたUFC 99でムスタファ・アルタークと1年9か月ぶりのUFC復帰戦を行い、スタンドパンチでTKO勝ち。
2009年9月19日、UFC 103でジュニオール・ドス・サントスと対戦するも打撃で圧され、3Rに膝蹴りと目へのアッパーで一時的に失明状態に陥り、ギブアップ負け。試合後、引退を示唆する発言をした。
サントス戦から半年~1年後、バリー戦前にミルコはGONG格闘技の特集やMMA Weeklyなどの海外格闘技系のサイトのインタビューで、この頃の自身のコンディションを振り返る機会があった。その際には、「俺の膝は2008年頃から完全に壊れていた。膝の手術だけで(PRIDE後期から2009年頃までに)3度受けたが、アルターク戦でも蹴りをまったく出さなかったように、あの時期は術後で膝がまだ治っていなかった。ドス・サントス戦でも膝の状態が完全に治っておらず、医者に試合を行うことを止められたし、蹴りを打つことも禁止されていた。(このような状態で)サントス戦を受けたのは良い判断ではなかったかもしれないが...、でも俺はファイターだから良いコンディションじゃなくても競い合いたいし、戦いたかったんだ。」と明かしている。サントス戦では医者に禁止されていた蹴りを放ったが、その際に激痛を感じてその後は何度も蹴るのはやめたという。それほどミルコの膝の怪我は深刻になってきており、足だけではなく腕や脳へのダメージも含めて、長年の戦いにより体中がボロボロになっていたと述懐している。
2010年2月20日、オーストラリアで開催されたUFC 110でベン・ロズウェルと対戦予定だったが、ロズウェルが現地に到着後、ウイルス性胃腸炎にかかってしまい急遽欠場。代わりに急遽呼ばれた代打のアンソニー・ペロシュと対戦。2Rにグラウンドでの肘打ちでペロシュの額をカットさせ、2R終了時にドクターストップによるTKO勝ちとなった。
2010年6月12日、UFC 115でパトリック・バリーと対戦。1Rにバリーのパンチで2度ダウンを奪われるも、3Rにパンチでバリーをぐらつかせてダウンを奪うとそのまま背後からバリーにチョークを仕掛け、チョークスリーパーで一本勝ち。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。
2010年9月25日、UFC 119で怪我をしたノゲイラの代わりにフランク・ミアと対戦し、3Rに右膝蹴りでKO負け。
2011年3月19日、UFC 128でブレンダン・シャウブと対戦し、互角の展開となっていたが、3Rにミルコのローキックにシャウブのカウンターのパンチが入り、ミルコがダウン。3RKO負けを喫した。
2011年10月29日、UFC 137でロイ・ネルソンと対戦した。UFCとの契約満了を迎える試合であり、2ラウンド序盤にラッシュで攻めるなど打撃で押す場面もあったが、3RにバックマウントパンチでTKO負けを喫し、試合後に引退を示唆した。
UFC 137から約1ヵ月後の12月、キックボクシング復帰を表明し、「俺が最初に始めたスポーツはK-1だった。俺にとっては初恋の相手だし、K-1の方が魅力的でクロアチアのファンに合ってると思う。俺の闘いの炎は永遠だ」と言って自身の引退も否定した。
2012年3月10日、母国クロアチアのアリーナ・ザグレブで開催されたCro Cop Final Fightにてキックボクシング復帰初戦を行い、レイ・セフォーに3R判定3-0で勝利。なお、大会名が「Cro Cop Final Fight」となっているものの、この試合は引退試合ではないことをミルコ本人も大会前の記者会見で明言しており、さらに「今年K-1 GPが開催されるなら出場したい」と意欲を見せていた。
2012年5月27日、K-1 RISING 2012~K-1 WORLD MAX FINAL16 2012~でローレン・ハヴィエ・ホルヘと対戦しKO勝ち。
2012年10月14日、K-1 RISING 2012 WORLD GP FINAL 16でランディ・ブレイクとグランプリ1回戦を行い2-0の判定勝ち。2012年12月26日にニューヨークで行われる決勝トーナメントに駒を進めた。その後、決勝トーナメントは翌年の3月15日に延期されることになり、開催地はミルコの母国であるクロアチアのザグレブに変更された。
2013年3月15日、K-1 WORLD GP FINAL in ZAGREBでは、決勝トーナメント1回戦でジャレル・ミラーに判定勝ちで降し、準決勝ではパヴェル・ズラリオフに判定勝ち。決勝ではイスマエル・ロントと対戦し2Rに得意の左ハイキックでダウンを奪い判定勝ちを収め、かつてのK-1ではなく運営が変わり規模が縮小された新生K-1ではあるが、ミルコの夢であった悲願のK-1初優勝を母国クロアチアで成し遂げ、ミルコはリング上で涙を流した。
2013年11月9日、ロシアで行われたLEGEND.2で総合格闘技ルールでエメリヤーエンコ・アレキサンダーと再戦予定だったが、アレキサンダーが欠場し、代役のアレクセイ・オレイニクと対戦。三角絞めを仕掛けた際にパスガードされ、そのまま袈裟固めで一本負け。
その後、キックボクシング団体GLORYと契約。
2014年3月8日、母国クロアチアのアレナ・ザグレブで行われたGLORY14 ZAGREBにて、GLORY初出場。レミー・ボンヤスキーと再戦し0-2で判定負け。
2014年6月21日、GLORY 17でジャレル・ミラーと再戦。判定で勝利した。
2014年8月23日、INOKI GENOME FIGHT2で総合格闘技に復帰。石井慧と対戦し、1Rに下から肘打ちを放った際に石井がカットしてしまい、その後試合は続行するも出血がひどく2Rドクターストップ勝ち。IGF王者となった。
2014年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2014で石井慧と再戦し、2R終了間際に左ハイキックをヒットさせてそのままパンチラッシュで石井を攻め立て、インターバル中も石井が立ち上がれなかったためにTKO勝ちを収めた。後にUFCと再び契約したために王座を返上した。この後石井とは親交を深め、石井は彼の弟子になってクロアチアに練習拠点を移す。
2015年4月11日、 約4年ぶりのUFC復帰となったUFC Fight Night: Gonzaga vs. Cro Cop 2でヘビー級ランキング14位のガブリエル・ゴンザーガと再戦。3Rにクリンチ際での肘打ちでゴンザーガをグラつかせ、グラウンドでの強烈な左肘及びパウンド連打でTKO勝ちを収め、8年前のリベンジを果たした。ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞。
2015年11月28日にUFC Fight Night: Henderson vs. Masvidalにてアンソニー・ハミルトンと対戦する予定になっていたが、米国アンチドーピング機関(USADA)のアンチドーピング規定に違反したために出場停止の仮処分を科された事が判明した。それにより11月10日にミルコは自身の公式サイトで、アンチドーピング規定に違反したからではなく、肩の怪我が深刻なため現役を引退すると発表した。また、処分に対しては「検査結果はまだ出ていない」とし、「肩に問題が起きた時、基本的な治療法はマッサージとアイシングだが、全然良くならなかった。それから肩を早く治すために血漿と成長ホルモンの注射をすることにした。成長ホルモンが禁止薬物のリストに入っていることは知ってたが、肩を治す方法が他には無かった。ほんの少量だった。欠場して休むことが一番良いことは分かっていたが、ヤケクソになった男は何でも試そうとするものだ。成長ホルモンと血漿の注射をした6日後にUSADAの検査をすることになった。血液と尿のサンプルが取られた後にすぐにUFCに報告した。血漿と成長ホルモンのことも言った。」「強くなるためにテストステロンやアナボリックステロイドを使ったことなどない。それがルールだから。金曜(6日)まで試合をキャンセルしたくないと言っていた。(4月の)ガブリエル・ゴンザーガ戦のときも5回テストを受けて、すべての結果をクリアした。土曜(7日)まで試合をするつもりだった。月曜(9日)のMRI検査で筋断裂と腱損傷が分かり、(引退を)決断した」と説明した。
2015年11月25日、USADAがミルコに2年間の出場停止処分を科したと発表し、11月4日にザグレブでミルコに競技外の抜き打ち検査を実施した時に、ミルコ自らヒト成長ホルモン(hGH)を使用したと申告があったためと、処分の理由を説明した。
後日、クロアチアの新聞社Vecernjiが、2016年1月8日にミルコがUSADAのCEOトラビス・タイガートから薬物検査の結果が全て陰性だったとことを報告するメールを受け取っていたことを報道した。ただし、薬物検査の結果に関わらず、2015年11月4日に実施した抜き打ち検査の際にミルコ本人が肩の治療のためにヒト成長ホルモンの使用と所持を認めているので、違反薬物の使用と所持を禁じているアンチドーピング規定に違反しているとして、2年間の出場停止処分が軽減又は変更されることは無かった。
2016年7月16日に行われたRIZINの記者会見にてRIZIN無差別級グランプリに出場が決定。引退撤回について「それまで全てのオファーを断ってきたが、榊原さんのオファーを受けて最後に日本でやろうと思った」とコメントした。
2016年9月26日 さいたまスーパーアリーナで開催されたRIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント 開幕戦にて無差別級グランプリの1回戦としてRoad FC代表のミョン・ヒョンマンと対戦し肩固めで一本勝ち。試合後、マイクパフォーマンスでヴァンダレイと対戦する意思を語り、高田延彦からの呼びかけに「ヤル!」と答え、ヴァンダレイもリングに上がり「ヤッテヤル!」と答え、対戦が決定するが、ヴァンダレイは交通事故の怪我の回復が思わしくないということで欠場し、実現しなかった。
2016年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント 2nd ROUNDにて無差別級グランプリの2回戦として、欠場したヴァンダレイの代役としてエントリーした前年のヘビー級グランプリ王者キング・モーと対戦。1Rにテイクダウンを奪われるものの、2Rにクリンチアッパーを効かせてからのパンチ連打でダウンを奪い、パウンドでTKO勝ち。
2016年12月31日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント FINAL ROUNDにて無差別級グランプリ準決勝として把瑠都と対戦。クリンチ状態からのボディへの膝蹴りでKO勝ちし、グランプリ決勝へ進出。続く決勝戦ではアミール・アリアックバリと対戦。カウンターの左フックでダウンを奪い、最後は左フックでKO勝ち。優勝を果たし、10年前にPRIDE無差別級グランプリ2006で優勝した時と同じように、涙を浮かべた。母国クロアチアでは29日のキング・モーとの試合で46.04%の高視聴率を記録した。
2018年5月25日、Bellator 200にてロイ・ネルソンと再戦が決まっていたが左足前十字靭帯を損傷し、手術を受けたことにより欠場。このためイリー・プロハースカとの対戦が予定されていた7月29日のRIZIN.11も出場が見送られた。
2019年2月16日、Bellator初出場となったBellator 216でロイ・ネルソンと約8年ぶりに再戦し、3-0の判定勝ちを収め、リベンジに成功した。
2019年3月2日、トレーニング中に頭痛が続き医師の診断を受けたところ、脳内血管から微量の出血痕が確認され脳卒中と診断を受けたため、現役引退を表明した。
K-1初登場当時の1996年は、恵まれた筋肉の柔軟性や身体能力の高さは窺えたものの、その他にはさして光るものを持たなかったミルコだが、3年のブランクを経て復帰した1999年には攻撃に多彩さが増し、ミルコの代名詞といえる左ハイキックも積極的に使うようになった。しかしこの頃もっとも冴えていたものはクリンチワークであり、KOを奪えない相手にはクリンチで相手の攻撃をしのぎ、その合間に打撃を打ち込んでポイントを稼ぐというのが、ファイトスタイルの基本となっていた。総合格闘技への参戦が始まると、ミルコは急速な体のビルドアップに成功し、徐々に一撃必殺に傾倒していくようになる。ミルコのファイトスタイルはボクシングを元にテコンドーやキックボクシングをオリジナルアレンジした物であり、試合中に放つ打撃の数は極端に少なく、ジャブはほとんど打たずに、利き手利き足(ただし右利きのサウスポーであるため本来の利き手とは逆である)での打撃に終始する。右腕はラッシュをかける時以外は、ディフェンスや距離を稼ぐ時に伸ばす程度しか使用しない。絶対の自信を持つ左ハイキックや、ミドルキックを放つまでに、その他を布石として使用する彼独自の戦法である。主な例はミドルキックやローキックで相手の注意を下にさげさせ、ガードが下がった所に左ハイキックを打ち込む方法と、相手に自分のストレートの軌道を覚えさせ、ウィービングで相手の頭が傾いたところに合わせて左ハイキックを打ち込む方法がある。特に後者は、まるで相手が自らミルコの足に当たりに行っているように見える。ミルコの左ハイキックは高速で相手の視界の死角から足が急に現れる軌道のためかわされにくく、まさに一撃必殺の破壊力を持つ。ただし、ミルコの打撃はある程度の間合いがないとその効果は発揮できず、プレッシャーを掛けて前へ前へと進んでくる相手を苦手としていたが、UFCキャリア晩年から、元々のクリンチワークを利用した左肘を織り混ぜたダーティーボクシングを使うようになり、更に柔道金メダリストの石井慧との練習を重ねて向上させ、ロイ・ネルソンとの再戦では、ダーティーボクシングで打撃をヒットさせつつ相手をコントロールすることでリベンジを達成している。
また、打撃技に対してはガードをほとんど使わず、スウェーとステップワークでかわす。また、ヘビー級選手とは思えないほど非常に素早く、ホーストがボブ・サップとの対戦で捕まえられてハンマーパンチを浴びたのに対し、ミルコはスピードとクリンチワークを生かして捕まえられることはなかった。マーク・ハント、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラも「ミルコは素早かった」と認めていた。
一方でK-1時代から通して指摘されているのがスタミナ不足であり、本人もそのことを認めている。かつては1Rでは高いKO率を誇るが、2R以降は口を開けて呼吸する姿が目立った。これはK-1時代での鼻の怪我によって鼻呼吸が上手くできなくなってしまったものであり、しばらく処方された塗り薬を使っていたが、手術し改善された。
ノゲイラ戦での逆転の腕ひしぎ十字固めによる敗北により、ファブリシオ・ヴェウドゥムを柔術コーチに迎え入れ、ディフェンスは向上したが、基本的にひたすら守りに徹し、隙があれば突き放すだけであり、攻めにおいては積極的に仕掛けたりはしないが、ガブリエル・ゴンザーガ戦では、柔術の実力者であるゴンザーガのマウントから脱出の際に足関節を狙うなど、更に寝技のスキルがアップしている。サブミッションスキルは高くないが、マウントポジションの状態でもバランスがよく、高いグラウンドスキルを持つジョシュも中々振りほどけなかったほどである。組み技に対するディフェンスにも定評があり、特にタックルを切る技術の会得の早さには目を見張るものがある。K-1参戦時から足を掴まれても倒されない腰の強さがあり、テイクダウンされてもすぐさまクロスガードを取るなど対応力もそろえている。
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大相撲力士一覧
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大相撲力士一覧(おおずもうりきしいちらん)は、大相撲の前頭以下の力士一覧。横綱は横綱一覧、大関は大関一覧、関脇は関脇一覧、小結は小結一覧を参照(在籍時の最高位)。
太字は1909年(明治42年)6月場所以降に幕内最高優勝を経験した力士、もしくはそれ以前に全勝を達成した力士。
※上記に該当する力士は当時の四股名(複数ある場合は回数が多いか番付が高い時)で記載。
※Wikipediaにページが存在する力士のみを記載する。
最高位が前頭である力士。
最高位が十両である力士。
最高位が幕下以下である力士(関取昇進なし)。
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横綱一覧
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横綱一覧(よこづないちらん)では、大相撲の歴代横綱を一覧する。
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1605年
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1605年(1605 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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PDC
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PDC(英語: Personal Digital Cellular)とは、かつて存在したFDD-TDMAの第2世代移動通信システムの通信方式の一つである。日本で開発され、日本国内で利用されていた。後述のmovaが終了したことに伴い、2012年(平成24年)3月31日をもって使用停止となった。
1991年(平成3年)4月に電波システム開発センター(RCR、現電波産業会)によって、標準規格 RCR-STD 27 が定められた。この頃はJDC (Japan Digital Cellular) と呼ばれていた。
1993年(平成5年)3月、にNTTドコモがPDCを採用した800MHz帯を使用するmovaのサービスを始め、その後、旧デジタルホン(デジタルツーカー、J-フォン、ボーダフォン、ソフトバンクモバイル)、IDO/DDIセルラーグループ(現・au(KDDI/沖縄セルラー電話)連合)、ツーカーグループ(現・KDDI)でも採用された。2011年11月末の時点で59万人の利用者があり、これは携帯電話利用者全体の約0.48%に当たる。
開発当初、NTTドコモはNTTの世界進出を規制するNTT法があることから、独自の規格を開発する予定はなかった。しかし、GSM1987(1987年策定)の次の世代の電波の利用効率の高いデジタルの国際規格が待てど暮らせど登場しなかったため、やむなく電波利用効率の高い暫定的デジタル方式としてPDCを開発した。最初の計画通り一切海外への営業や特許利用許可を出さなかったので、PDCは日本のローカル規格となった。電波の利用効率の低い初代TDMAについては日本と韓国・北朝鮮を除く国外ではGSM方式が改訂され使用されている。
事業者各社は、FDD-CDMAの第三世代携帯電話(通称:3G)に移行し、PDC方式は段階的に廃止されていった。
連結子会社の沖縄セルラー電話を含むKDDIのauは2003年3月31日を以てPDCによるサービスを終了したが(新規受付は2002年3月31日に終了)、2005年10月1日にツーカーグループがKDDIに吸収されたことに伴い、事実上、一時的にKDDIによるPDC方式の携帯電話サービスが復活した。ただしその後、ツーカーからauへの乗り換え手続きを開始し、2006年6月30日をもってツーカーの新規受付を終了、2008年3月31日をもってサービスが終了し、auに統一された。
ソフトバンクモバイル (SoftBank 6-2) も、2008年3月31日をもって、新規受付を停止した。新規端末の開発はすでに停止、2007年後半には端末供給も止まり、新規受付は同年12月の時点で事実上停止。また、総務省により、ソフトバンクPDCの1.5GHz周波数帯の使用期限が2010年3月31日と定められており、2008年7月3日、これに合わせてサービスを終了することを正式に発表し、2010年3月31日を以てPDCサービスを終了した。
なお2006年10月24日実施の番号ポータビリティでは、ソフトバンクモバイルへの転入に対しては、PDCの新規受け付け停止以前からSoftBank 3Gへの転入だけを認めており、PDCへの番号ポータビリティを利用した転入は不可能であった。同制度ではツーカーへの転入もできなかったことから、他ネットワークから同制度を使いPDCに移行できるのは、唯一NTTドコモだけであった(auはMNP開始時点ですでにPDCサービスを停止していた)。
そのドコモも、1.5GHz帯を使用するシティフォン・シティオのサービスを2008年6月30日限りで終了(新規受付は2004年9月30日終了)。電気通信事業者協会が2008年4月7日に発表した統計で、movaの2007年度末における契約者数が遂に1000万件を割り込んだことから、2008年11月30日をもって新規受付を停止した。もちろん番号ポータビリティによる転入もできなくなった。端末の新規開発・生産・出荷は終了している。2010年12月24日からは第四世代の携帯電話サービスXiも開始され、第二世代事業の廃止は時間の問題となりつつあったが、2009年1月30日にmovaサービスを2012年3月31日限りで終了することが正式に発表された。そして予定通りに停波され、PDCは19年の歴史に幕を下ろした。
北米標準の1つであるD-AMPSは、搬送波周波数間隔と通信速度以外はほぼPDCの技術を使用している。
800MHz/1.5GHzの周波数で使用され、50kHz(25kHzインタリーブ)×2の帯域でπ/4DQPSKデジタル変調の1つの搬送波をFDD-TDMAで使用する。
音声回線は20ミリ秒フレームからなり、その時分割方法によってフルレートとハーフレートに大別される。
フルレート方式の通話では各ユーザーは3チャンネル中の1チャンネルを利用する。音声コーデックはさらに以下のように分けられる。
ハーフレート方式の通話では各ユーザーは6チャンネル中の1チャンネルを利用する。音声コーデックは以下の1種類のみである。
また、データ通信は、回線交換9.6kbps、パケット通信はタイムスロットを3つまとめて最高28.8kbpsが可能である。
端末(電話機)は、送信と受信とを同時に行わず、またGSMと比較して多重化数が少なく、最大瞬時空中線電力も小さい。また、基地局に位置登録された端末を送信時間別グループに分け、そのときのみ待ち受け端末が受信状態となる間欠通信も行っている。そのため、電池の容量当たりの待ち受け時間や通話時間を長くすることが容易である。
結果として電波帯域有効利用という点ではGSMより遥かに優れている。
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米国国家規格協会
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米国国家規格協会(、英: American National Standards Institute)は、アメリカ合衆国の国内における工業分野の標準化組織であり、公の合意形成のためにさまざまな規格の承認を担っている。
米国国家規格協会そのものは規格を作成せず、SDOsと呼ばれる280以上の規格開発団体の作成した規格を認定して承認する機関が米国国家規格協会であり、認定された規格は米国国家規格(ANSI規格)として認定される。
略称はANSI(アンシ、アンジ、アンシー)。訳は米国国家標準協会とも。また、元は旧称 American Standards Association (ASA) の訳だった米国規格協会・米国標準協会とも呼ばれる。本部はワシントンD.C.にあるが、事務局はニューヨークにある。
電子工業会 (EIA)、電気通信工業会 (TIA) などの国内規格作成団体による仕様を承認し、ANSI規格とする。
ANSI規格は、日本の日本産業規格 (JIS) に相当するとされる。ただし、政府(大臣)が制定する規格であるJISと違い、ANSI規格を制定するのは政府から独立した私的な非営利組織のANSIである。
国際標準化機構 (ISO) 設立メンバーであり、ISO、国際電気標準会議 (IEC)、国際認定フォーラム (IAF) にアメリカ代表として参加している。アメリカの国内規格機関ではあるが、ISO等の規格に先だって決まることも多く、ANSI規格がISO規格になることも多い。また、製造業における国際標準化団体としてIPC(米国電子回路協会)があるが、ANSIの標準開発組織として正式に認可されている。ASCIIの文字コード規格 (X.34) が、ISO 646になるなどの例がある。
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電力工学
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電力工学(、英: power engineering)とは、電力系統に関する工学分野を言う。
単位時間あたりの電気エネルギーを電力(electric power)と呼ぶが、電力は貯蔵が難しいことから、電力の発生量と消費量は常に釣り合わせる必要がある。
電力の発生から消費までは、普通、発電、送電、変電、配電の四つに分類され、それらが相互に連携することで電力は安定的に供給される。このようなシステムを電力系統(electric power system)または電力システムと呼び、電力系統に関する工学を電力工学(power engineering)と呼ぶ。
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5,828 |
国際経済学
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国際経済学(、英: international economics)は、国家間の経済活動を分析対象とする経済学である。ミクロ分野とマクロ分野に大別される。貿易論が前者であり、前者のみを指して国際経済学と区分する場合もある。近年、独占的競争モデルの貿易論での使用の変種として空間経済学が生まれた。一方、国際金融論、国際マクロ経済学が後者である。
貿易理論には、比較優位概念を生み出したリカード・モデルの他、ヘクシャー・オリーンの理論(HO理論)、その変種としてのHOV理論、産業内貿易を説明する新貿易理論、異質企業の存在の帰結を分析する新々貿易理論などがある。
為替レートの決定理論としては、古典派の絶対購買力平価説、ケインジアンの資産動機選択説(アセットアプローチ)に二分される。マクロ経済学と同様に長期においては前者、短期においては後者が当てはまるとするのが通説である。 購買力平価説によれば、長期的には実物変数の影響が無効であるとすると二国間の貨幣供給量によって、為替の強弱が決まる。 アセットアプローチによれば、金利平価による裁定、すなわち二国間の利子率の高低によって、為替の強弱が決まる。
これらを踏まえたモデルとして、マンデルフレミングモデル、IS-LM-BPモデル、AA-DDモデル(Krugman and Obsfeld, 2004)などがある。 マンデルフレミングモデルでは、小国開放経済、国内外の資産の完全代替性、スポットレートと現在の為替レートが等しいなどといった種々の仮定を置いた上で理論を簡略化している。AA-DDモデルは、アセットアプローチの仮定する外国為替市場、PPPに加え、実物為替レートという概念に着目して、貨幣市場と生産物市場双方の影響を加味して名目為替レートが決定されるとする為替-所得決定モデルである。 以下政策の効果である。
他の理論として以下のものがある。 二国間の物価差を生産性格差で説明する、バラッサ・サミュエルソン(Balassa-Samuelson)定理がある。 通貨危機のモデルとしては、ポール・クルーグマンの第1世代モデル、第2世代モデルが存在する。 ゲーム理論も国際協調の失敗を説明する上で使用される。
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首相
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首相(しゅしょう、英: Prime minister)とは、内閣における首席の大臣を指す。
日本においては内閣総理大臣、イギリスではPrime Minister、フランスではPremier ministre、ドイツではBundeskanzler、ロシアではПредседатель Правительства(政府議長)、中華民国(台湾)では行政院長、中国では国务院总理(国務院総理)、韓国では국무총리(国務総理)が、それぞれ首相に該当する。
一部は「首相」以外の日本語訳が用いられることもあるが、それらの通称・普通名詞として「首相」という単語が使われている。単語の由来は首席宰相の略語とされている。
閣僚の首席の名称は各国においてそれぞれ異なり、日本の内閣の首相は、正式には「内閣総理大臣」(ないかくそうりだいじん)と呼ばれる。首相という呼称は日本の法体系に基づく正式な用語ではなく、法令上は一切使用されていない。一方、マスメディアなどでは内閣総理大臣を指す慣用的な呼称として定着している。
現在のベトナムでは、漢字語「首相」のベトナム語読みである「Thủ tướng」が首席閣僚の官名として用いられている。またかつての北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)でも、首相の朝鮮語読み「수상(ラテン文字:susang)」が政府の長の官名として用いられていた。
類似した語に「宰相(さいしょう)」 があるが、これは秦の官制に由来する呼称で原意は「君主から特に親任されて王家(帝室)を司り、宮廷で国政を補佐する者」である。宰相が複数存在する体制においては、その中の首席宰相を略して「首相」と称する場合があるが(北宋の王安石など)、いずれにせよ近代以降の首相とは意味が違うものである。日本語においては明治以来、宰相もまた首相と同じく慣用的な呼称にすぎず、「首相」と「宰相」の区別はほとんどの場合、詩文的修飾の差異であり、大物政治家としての内閣総理大臣を表現する際に重みを出すために、あるいは「国政を司った(有能な)人物」という敬意を表現するために「宰相」と修飾的に呼ぶ程度の区別である。
国家には元首としての君主や大統領とは別に政府首班として首相を置くことがある。
首相任命権に関しては、国家元首や立法府が単独で行う場合のほか、その指名等を立法府や国家元首が承認する場合など様々な形態がある。スペイン1978年憲法や赤道ギニア1991年憲法などでは、議会選挙後に国家元首が議会多数派と協議して組閣担当者を指名し、その組閣担当者が組閣して議会から信任を受けたときに改めて国家元首が任命を行う組閣担当者方式(formateur)が採用されている。なお、首相職を国民から直接選出する首相公選制(後述)もありイスラエルで採用されていたことがある。
国家元首と内閣や首相との関係については、国家元首を内閣の一員とするか否か、国家元首が閣議を主宰するかなどでも違いがある。
議院内閣制の国では、首相は内閣を構成する閣僚への人事権を行使し、これによって閣僚に対する指揮権を掌握するケースが多い。大日本帝国憲法では首相の閣僚に対する人事権が明記されなかったため、国務大臣の筆頭という立場にとどまった(「内閣官制」も参照)。
執政権の行使については、国家元首に提案して国家元首名義の命令を発令できると定めている場合や首相名義の命令を発令できると定めている場合もあるが、立法府による事前承認または事後承認を要件にしている国が多い。
議会解散権については君主や大統領など国家元首に対して議会解散を提案・助言できるとする場合や、議会選挙後に組閣が不調に終わった場合や年度内に予算案を可決できなかった場合、不信任や弾劾を受けた場合に議会の解散権を認めている国がある。
政治学では執政制度の類型について、政府の長の選出と解任の違いから、議院内閣制・自律内閣制・首相公選制・大統領制の4つの類型に分けることがある。
首相の正式名称は各国で異なるが、それが首相に相当する官職であれば、日本語では一律に「首相」と呼ぶ慣習になっている。英語でも原語の官名に関わらず、Prime ministerと呼ぶのが通例である。
例外的にドイツとオーストリアの首相は、原語ドイツ語を直訳し「Chancellor」と英訳される。中国語では君主国のものにおいては「首相」、共和国のものは「总理」といった訳し分けが行われることが多い。
また日本語においては、外交文書や外国法令の日本語訳では、外国首相を「総理大臣」や「内閣総理大臣」と呼称することがある。
※日本以外は五十音順
地方政府においても議院内閣制が採用され、地方議会がその首相を選出し、首相が内閣を組織して行政を行なう国もある。混同防止のために、当該国の中央政府の首相とは異なる官名となっていることが多い。日本語でも中央政府の首相と峻別するため首席大臣・第一大臣という訳語をあてることがある。
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投資家
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投資家(とうしか、英: investor)とは、投資を目的として、市場において発行された金融商品(株式や債券など)、通貨、不動産、コモディティなどを保有する者。
投資家の投資対象には株式や債券などの金融商品、不動産、コモディティなどがあるが、その保有目的(投資の目的)には様々なものがある。例えば株式であれば経済的な利潤(配当や値上がりによる利益)が目的である場合もあれば、会社の経営への参画であることもある。短期の値動きによる利益を狙う「投機家」や「トレーダー」に対して、長期の値上がりを期待する立場を意味することもある。
一般的に銀行に預金を保有していても投資家と呼ぶことはないが、それは投資と貯蓄が対立した概念として捉えられているからである。しかし、経済的には預金の保有は預金者と銀行との間の金銭消費寄託契約であり、これは銀行等が発行している社債等に投資しているのと本質的には同じである。
投資を行う者には「個人投資家」や「機関投資家」がある。
外国の株式や不動産に投資する者は、投資先の国から「外国人投資家」と呼ばれ、時にその国の投資家以上に存在がクローズアップされる事もある。例えば日本では、株式市場における外国人投資家の売買シェアが5割を超えるため、その動向に常に注意が払われている。投資家の中には才気と好機に恵まれ、莫大な富を築く人物もおり、世界の長者番付に名を連ねる者もいる。
労働を美徳とする社会においては、キャピタルゲインを目標とした投資によって利益を得る投資家は攻撃の対象とされることがある。しかし投資家は「高い確率で存在している」買い手であることから流動性を高め、企業の資金調達(増資や余剰不動産の処分)を潤滑し経済活動の機動性や効率、規模を向上させ経済全体の向上に寄与している面がある。また逆に株式や不動産の取得を望む場合にも「高い確率で存在している」売り手となることから同様に流動性を高め、やはり経済全体の向上に寄与することになる。
投資家は洋の東西を問わず古くから存在したが、現代につながる金融技術は18世紀から20世紀にかけてアムステルダム、ロンドン、ニューヨーク及びシカゴで開発されてきた。日本でも北浜の米相場が著名であり、江戸時代には高度な金融技術やローソク足チャートなどの相場分析が開発された。
現代の投資家について。株取引を例に取ると、個人投資家が行う取引の形態は、証券会社の窓口や営業を通して株式の売買を行うという形(対面取引)から、パソコンや携帯電話をインターネットに接続して行うオンライントレードが盛んになってきている。未成年者や無職の者でも口座の開設は可能で、また投資に必要な最低限度額や手数料も低下傾向にあり、投資家になるためのハードルは以前より低くなってきている。昔は、投資家と言えば「億万長者」というイメージもあったが、野村総合研究所の調査によれば現在では個人投資家の8割が年収1,000万円に満たない者達で占められている。
機関投資家として、金融機関などが組織的に大規模な投資を行なう場合もある。近年では機関投資家が運用する投資信託(ファンド)への資金流入が進み市場においても、各種ファンドの動向が無視出来ない規模になってきている。
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金融機関
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金融機関(きんゆうきかん)は、金融ビジネスを業務とし顧客に対して各種の金融サービスを提供する企業または組織。
金融機関は(中央銀行を除いて)、1.金融(仲介)の形式(直接金融、間接金融、ハイブリッド金融)、2.預金(預金通貨)の取り扱いの有無、3.公的金融機関か民間金融機関かで分けられる。
なお、金融業という場合、広く、資金融通機関(銀行、協同組織金融業)、資金取引の仲介機関(貸金業、質屋、クレジットカード業、割賦金融業、住宅専門金融業、証券金融業、ファクタリング業者、金融商品取引業、商品先物取引業など)、補助的金融業(短資会社、手形交換所、両替業、信用保証機関、前払式証票発行業者、債権管理回収業者など)や信託業を含む。
日本銀行は日本銀行法に基づく日本の中央銀行である。
日本の民間金融機関は預金取扱金融機関とその他の金融機関(証券会社や保険会社)に分けられる。なお、日本郵政(ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険)や商工組合中央金庫は政府保有株式(完全民営化の移行状況)の関係で公的金融機関に分類されることがある。
預金取扱金融機関は普通銀行、長期金融機関(信託銀行)、協同組織金融機関に分けられる。
公的金融機関には政府系金融機関とその他の金融機関があり、先述のように日本郵政(ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険)や株式会社商工組合中央金庫は政府保有株式(完全民営化の移行状況)の関係で公的金融機関に分類されることがある。
日本では、1990年上半期ごろまで銀行、信用金庫、信用組合は単体でポスターや新聞などのいわゆるスチル媒体以外はコマーシャル活動をすることができない(統括団体のCMは放送媒体でも行われた。代表的なものに1983年の銀行法改正による土曜日休業告知CMなどがある)規制があった。規制運用時は、系列クレジットカードを使って「○○(=銀行名)カード、お申し込みは銀行へ」の形での間接的なコマーシャルを行っていた。なお、相互銀行はコマーシャル規制が緩く、普通銀行転換前は提供クレジットを出す相互銀行もあったが、普通銀行転換時に一時銀行、信用金庫、信用組合等と同様の規制となった。
1990年下半期ごろからラジオに限定して放送媒体でのコマーシャルを部分解禁した。ラジオの場合は特に規制をかけなかったことから一部の番組で銀行などが冠スポンサーとして番組を提供した事例も一部あった。
1991年1月からテレビでのコマーシャルも解禁された。スタートした当初は定時番組の提供クレジットを入れない(パーティシペーション扱い)、放送時間も一定基準の時間枠しか放送できないなどの規制があったため、主としてスポットコマーシャルでの活動が多かった。
その後規制が緩和され現在は他の企業と同じように提供クレジットを出すことも可能になった。
主な金融機関に商業銀行(commercial bank)、貯蓄金融機関(savings association, thrift institution)、信用組合(credit union)がある。
銀行は銀行持株会社法(Bank Holding Companies Act)に定義されており、商業銀行には連邦法に基づく国法銀行(national bank)と州法に基づく州法銀行(state bank)がある二元銀行制度(Dual Banking System)である。銀行の多くは銀行持株会社(bank holding company)の傘下にある。
貯蓄金融機関にも、連邦法に基づく連邦貯蓄金融機関(federal savings association)と州法に基づく州貯蓄金融機関(state savings associations)がある。
主な金融機関に銀行、住宅金融組合(building society)、信用組合がある。住宅金融組合は1986年住宅金融組合法(Building Society Act 1986)に基づく金融機関で主に住宅を担保とする貸付を行っている。
EUでは銀行業務を行う金融機関は信用機関(credit institution)と呼ばれ、Directive2013/36/EU(第4次資本要件指令)で「預金又はその他の払戻可能な資金を公衆から受入れ、かつ、自己勘定での信用供与を行うことを業務とする事業者」と定義され同指令で規制されている。
EUでは金融サービス市場の統合でユニバーサルバンク形態を採用し、銀行業務を行う機関であれば信用機関として免許を取得することができるようになったが、証券関連業務のみを行う金融機関については別途1993年5月に93/22/EEC(投資サービス指令)で規制を行うことになった。93/22/EEC(投資サービス指令)はDirective 2004/39/EC(金融商品市場指令)で改正され、これらは投資サービス会社(investment firm)と定義されることになった。
中国銀行業監督管理委員会(China Banking Regulatory Commission, CBRC)の監督下にある金融機関には、政策銀行及び国家開発銀行、商業銀行、農村信用組合、農村合作銀行、新型農村金融機関及び郵政貯蓄銀行、ノンバンク、金融資産管理会社、外国銀行がある。
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開発経済学
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開発経済学(、英: development economics)は、途上国の経済問題を分析する、経済学の一分野。貧困や飢餓、栄養失調、失業、低賃金労働、低教育水準、女性差別、乳幼児や妊婦の高い死亡率、HIVやマラリアなどの感染病の蔓延、環境問題や水問題、汚職、貿易政策や債務問題など扱われるトピックは幅広い。そのため、ミクロ経済学、マクロ経済学、計量経済学、労働経済学、教育経済学、医療経済学、産業組織論、環境経済学、組織の経済学、都市経済学、行動経済学など幅広い経済学の知識が必要とされることから、開発経済学は「経済学の十種競技」と呼ばれる。
理論開発経済学者の第一人者の一人であるDilip Mookherjeeによれば、開発経済学における国家間所得格差の原因を説明する理論的アプローチとして、以下の5つが挙げられる。
他の条件(貯蓄率、投資率、人口増加率、技術進歩率など)が同じであれば、収穫逓減の法則の下に、貧しい国は豊かな国よりも高い経済成長率を達成するので、長期的には国家間所得格差は無くなると主張する。従って、現実に観察される所得格差は、貯蓄率、投資率、人口増加率、技術進歩率などの差によって説明される。ロバート・ソローによる経済成長モデルを元にした議論で、1980年代半ばまで学界の主流意見であった。
経済発展は、伝統的産業(農業など)から労働生産性のより高い近代的産業(製造業など)へ労働力が移動することによって達成されると主張する。アーサー・ルイスによる議論が元になっている。
この議論では発展途上国の伝統的産業は効率が悪く余剰労働者数が高いと考えられ、この余っている労働者を近代的産業が伝統的産業より少し高い賃金を設定することによって労働力を伝統的産業から近代的産業へと移動させる。 近代的産業は従来の伝統的産業よりも高い利益をあげることができ、その利益をまた近代的産業に投資し拡大することによって、近代的産業の労働力需要が増え、さらに労働者を伝統的産業から移動させていくことができる。 こうして伝統的産業の労働者数を減らすことにより、伝統的産業は自ずと効率化を強いられ、結果的に労働力を最も効率良く分配することが可能になる。
しかしながらこの議論には問題が多少ある。 最初の問題は発展途上国の近代的産業はあまり効率がよくないことだ。 例としては家族経営の事業などがある。発展途上国では家系で代々継がれているお店や小さな売店などが多々ある。このような場所では商品を売る際にその場にいる労働者が全員で働くことはあまりない。つまり近代的産業に無駄が生じているわけであり、投資をしたり、労働力を伝統的産業から必要としていないことになる。この場合この議論では国は発展できない。
また次の問題として、発展途上国では伝統的産業がもともと効率が高くなっている場合がほとんどである。発展途上国での農民はすでに貧困状態であり、それを解消するために伝統的産業の効率があがっているからである。この場合この議論による伝統的産業の効率化はおこらず、貧困の原因は効率性ではなくその資力である(農民の場合、所有している耕地面積)。
最後の問題は政治的な問題である。 この議論は一方的に近代的産業を支援し、伝統的産業に効率化を強いるため、伝統的産業家(農家など)と近代的産業家が対立することは避けられず、これらをまとめ上げるのもまた非常に難しいとされる。
規模の経済や外部性の存在により、経済主体(家計、企業)が協調して行動できないことが低所得をもたらすと主張する。経済主体が協調できるか否かは、各人の持つ他人の行動に関する期待や、歴史に依存する。Paul Rosenstein-Rodanが1940年代に唱えた説で、1989年に出版されたKevin Murphy, Andrei Shleifer, Robert Vishnyによる論文によって、数学的に定式化された。1990年代に主流意見となる。
ヨーロッパによる植民地化が、所有権などの政治経済制度に影響を与え、それが今日の所得水準を決定していると主張する。Daron Acemoglu, Simon Johnson, James A. Robinsonによる2001年に出版された論文で、ヨーロッパ植民者の死亡率が高かった国ほど、今日の所有権制度が未整備で、従って所得水準も低い、ということが実証されたことをきっかけに、2000年代の主流意見となった。
規模の経済が存在する場合に、貧しい者はお金を借りる事ができないので、生産性の高い事業に投資できず、経済全体としても貧しい状態に留まってしまうと主張する。1993年に同時に発表された、アビジット・V・バナジーとAndrew Newmanによる論文、及び、Oded GalorとJoseph Zeiraによる論文によって、数学的に定式化された。
戦後の復興を交え、援助が始まった時期。政府主導型の開発。
経済発展は国民所得の向上ととらえられており、国民一人あたり国民所得が伸びることを最大の「開発」の目的とした。この「開発の恩恵」は、自然に高所得層から低所得層に浸透(トリクル・ダウン)していくと考えられていたが、実際はそうはならなかった。
主流理論:単線段階理論
ハロッド・ドーマーモデル...より多くの投資が、より高い成長につながる。
経済発展=工業化の概念が確立された時期。政府主導型の開発。
国の経済構造の中心が農業から工業へと移ることを目指した。その過程で工業部門で雇用が創出され、労働力が農村から都市へ移り、工業労働人口が増えれば増えるほど、開発が進んだとみなされた。
経済発展の段階:伝統的社会の自給農業(第1次産業)→近代化社会の工業(第2次産業)→サービス(第3次産業)
主流理論:2部門経済発展モデル
開発途上国の経済発展が一向に進まず、貧困が減らないことに悲観論が出た時期。
これまでの開発戦略が、途上国の歴史的経験や経済の現状から乖離していることへの反省が出てきた。
台頭してきた理論:国際従属理論
新しい古典派の台頭。市場主導型の開発により新興工業国が勃興。
主流理論:自由市場主義
新成長理論...生産性の改善が、生産の拡大(経済成長)をもたらす。
地球環境の悪化に伴い、持続可能な開発を志向すべきだという、国際的コンセンサスができた。
NGOなどの草の根の活動や個人経営体や地域住民を開発の担い手とする草の根民活の認識がふかまり、直接貧困層へ援助のアプローチすることが増え始める。
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レンズマン
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レンズマン(Lensman)は、アメリカのSF作家E・E・スミスが作り上げたヒーローである。
“ドク”E(エドワード)・E(エルマー)・スミスは、1937年から10年以上に渡り『銀河パトロール隊』を始めとする一大SF小説、レンズマン・シリーズを書き上げ、“スペースオペラ”といわれる娯楽小説のジャンルの形成に、大きな方向付けの役割を果たした。
レンズマン・シリーズは、地球人のレンズマンである主人公キムボール・キニスンの成長と活躍を物語の軸に置き、銀河文明とそれに敵対する宇宙海賊ボスコーン(ボスコニア文明)との宿命的な全面戦争に到るまでの波瀾万丈の物語を描く。
レンズ(アリシアのレンズ、驚異のレンズ)とは、銀河パトロール隊がアリシア人から与えられた認識票である。他者から認識されやすく、当人の行動の邪魔にならない箇所に装着する。原作では人間型レンズマンはプラチナ・イリジウム合金製の腕輪にはめ込まれ、手首に着用する(通常の場合。潜入工作の際などは肩に近い上腕、ズボンのポケット、靴の中などに仕込む場合もある)。リゲル人トレゴンシーは腕(触手)の1本、ヴェランシア人ウォーゼルは額の中央に埋め込まれるように装着されており、他の非ヒューマノイドもこれに準じていると思われる。パレイン人ナドレックがどのように装着しているかは不明(彼らの外見は温血の酸素呼吸生物には知覚不能であるため、厳密な描写がほとんどない)。第三段階レンズマンである“レンズの子供たち”は、レンズそのものを自分の肌の表面に出現させることが可能である。
分析・合成が不可能な未知の物質でできており、偽造は不可能である。また、既知のいかなる薬品、発生させ得る限りの高温、低温、振動、衝撃などによっても破壊は不可能である。所有する個人ごとに調製され、レンズと対になる本人にしか着用できず、着用している間は独特の光彩を放ち、この状態では無害であるが、暗い(光彩を放っていない)状態で他人が着用すれば激しい苦痛を感じて即死する。正規の所有者が死亡すると、数分後に分解消滅し、いかなる残留物も残さない。
また、保有者を精神感応者(テレパス)にする機能を持つ。これにより、人類以外の異種知性体ともコミュニケーションが可能となる。言語や思考そのものだけでなく、思考を代表するメッセージであれば、いかに隠され、暗号化されていようとも即座に理解することができる。
このレンズを所持するものはレンズマンと呼ばれ、法と正義の執行者として既知のあらゆる宇宙において絶大な信頼を受ける。特に「リリース」(普通任務解除)され「独立レンズマン」となった者は、ほとんど無制限の権利を行使することができ、銀河調整官からの指示など一部例外を除き誰からも命令を受けることはなく、銀河パトロール隊の莫大な予算も無制限に使用することができる。独立レンズマンはその制服の色から「グレー・レンズマン」と呼ばれる。
レンズを製造できるのは第3水準以上の知性のみで、作中ではアリシア人とエッドア人、そして“レンズの子供たち”だけである。
物語終盤では、エッドア人によって製造されたボスコニアのレンズが登場し、その着用者はブラック・レンズマンと呼ばれた。ただし、ボスコニアでは個人の自発的な意思や士気を重視しないため、訓練は主に潜在意識下において行なわれ、他者を傷つけ苦しめる「実技」が重視された。またその着用者も自ら修練して己を高めるような性格ではなく、銀河文明に対し致命的な脅威とはならなかった。
通常、レンズは1人のレンズマンに対して1個だけ供与されるが、キムボール・キニスンは潜入捜査の過程で一度レンズを失い、再度供与を受けている。
レンズの着用者は基本的に男性のみで、“レッド・レンズマン”クラリッサと彼女の娘たちは例外的な存在とされている。ただし、デイヴィッド・カイルによる外伝には彼女たち以外の女性レンズマンが登場する。
日本語タイトルは創元SF文庫(東京創元社)版による。
3作品とも『第二段階レンズマン』と『レンズの子ら』の間の話
以下は「ファースト・レンズマン」に登場する主だったレンズマンたち。カッコ内は出身地。
日本においては、劇場アニメの公開後TVアニメシリーズが放送された。艦船など一部の動画にCGを採用した作品として話題を呼んだ。また、TVアニメ、および映画向けにストーリーを大幅に脚色してあり、特に劇場版では、主人公キニスンが登場当初は銀河パトロール隊とは全く無関係の一般市民で、別の人物が装着していたレンズを受け継ぎ、なかば偶発的にレンズマンになるという、設定の大幅な改変も見てとれる。
当時人気を博していたTHE ALFEEが歌った映画版の主題歌「STARSHIP -光を求めて-」はシングル盤としてリリースされ、当時の人気番組「ザ・ベストテン」等でトップとなるなど、ヒットを記録し、話題を呼んだ。
さらに、TVアニメシリーズに連動して、ノベライゼーション版・漫画版も出版されているが、どちらもオリジナル版とはかなり異なるストーリーになっている。
また、TVアニメ放送から約10年後、連続ラジオドラマとして「銀河パトロール レンズマン」「渦動破壊者 ヴォルテックス・ブラスター」が製作されていた。それぞれ原作の「銀河パトロール隊」「渦動破壊者」を元にしている。
1984年7月7日に『SF新世紀レンズマン』というタイトルで映画化され、東宝東和系で公開された。カラー、107分。制作費12億円。動画枚数7万枚。日本での配給収入は2億5300万円。冒頭の宇宙戦闘シーンやキムのレンズ継承シーン、ヘルマスや車輪人間の描写などに当時としては最先端のCGが用いられた。
過去にはポニー(現・ポニーキャニオン)よりVHS・Beta・LD・VHDが販売されていたが、2017年8月現在、DVD・BD化の予定はない。
本作はアメリカ合衆国に初進出した日本のアニメ映画だが、字幕を読みながら映画を見ることに慣れていなかった当時のアメリカの状況が影響し成功しなかった。
村野守美作画による映画版コミカライズ(全3巻)がメディアミックスを企図してB5ワイド版で講談社から刊行された。
アニメ映画に続いて、1984年10月6日から1985年3月30日まで「GALACTIC PATROL レンズマン」のタイトルで、朝日放送製作・テレビ朝日系にて放送された。全25話。 テレビ未放映が二話分存在する。 ビデオソフトを全6巻購入、帯の応募券でもれなく特典ソフトとして入手出来た。 タイトルは「LENSMAN ビデオスペシャル」。 しかし、後に同内容で発売されたLDセットには未収録。
主要キャラの外見等は劇場版を引き継いでいるものの、内容は劇場版と繋がりがなく、メンターやトレゴンシー等の原作出身キャラの追加、キャラクター設定、および担当声優も一部変更されている。しかし、ヘルマス率いるボスコーン帝国に、レンズマンとなったキムボール・キニスンとその仲間達が立ち向かっていく筋立ては共通である。
CGの使用はオープニングでの劇場版からの流用があるのみである。
なお、過去にセレクション形式(第1-6話だけ)でVHS、LD販売があったが、それ以降DVD、およびBD等のメディア販売はされていない。
オリジナル盤発売時は、レコード収録曲が童謡と判断されれば物品税非課税であったため、発売元のキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)はオープニング主題歌「ON THE WING」を収録したシングルレコードを童謡扱いとしていたが、1986年(昭和61年)に東京国税局が「番組とは独立して聴ける若者向けの曲」と判定したため、同レコードについても物品税が課せられるようになった。
※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1985年2月時点、放送系列は放送当時のものとする。
テレビ放送とタイアップする形で、週刊少年マガジンに三浦みつるがコミック版を連載し、少年マガジンKCとして、全3巻にまとめられ発売された。
ラジオたんぱ SF名作シアターとして「銀河パトロール レンズマン」「渦動破壊者 ヴォルテックス・ブラスター」が放送され、後にCD化された。
大貫健一によるイメージイラスト、人気声優の起用等、アニメファン層をターゲットとしているが、その内容はアニメ版に比べ、原作に忠実だった。
徳間ジャパンコミュニケーションズより発売。ドラマCDには各4話収録。
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日本産業規格
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日本産業規格(、英: Japanese Industrial Standards)は、産業標準化法に基づき、認定標準作成機関の申し出又は日本産業標準調査会(JISC)の答申を受けて、主務大臣が制定する規格であり、日本の国家標準の一つである。JIS()またはJIS規格()と通称されている。
1949年以来、長らく日本工業規格()と呼ばれてきたが、法改正に伴い2019年7月1日より改称された(後述)。
明治時代には、日本の工業規格は民間団体が作っていた。ただし、軍需品などの政府調達品には、政府の購入規格、試験規格、標準仕様書があった。
1921年(大正10年)には、大正10年勅令第164号に基づいて工業品規格統一調査会が設置された。この調査会は、1941年までに520件の日本標準規格(旧JES、Japanese Engineering Standards)を制定した。
臨時日本標準規格 (臨JES)は、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)までの間に931件制定された。臨JESには、規格が要求する品質を下げて物資の有効利用をはかることおよび、制定手続を簡素化して規格の制定を促進すること、というねらいがあった(工業技術院標準部 1997、p. 226)。臨時規格または戦時規格とも呼ばれた(国立国会図書館 2006)。
日本航空機規格(航格)は、1938年(昭和13年)の航空機製造事業法第6条に基づいて定められた航空機の規格である。工業技術院標準部(1997、p. 229)は、臨JESとは別に航格が設けられた理由の一つに「外部に対して秘匿扱いする必要があるものもある」ことを挙げている。1945年までに660件の航格が制定された。
航格の特徴は、強制標準である点にある。航空機製造事業法第6条は、航格に適合しない航空機部品の製造または使用を禁じていた。
昭和21年勅令第98号によって、1946年(昭和21年)2月に工業品統一調査会が廃止され、そのかわりに工業標準調査会が設けられた。旧JES、臨JESおよび航格を再検討し、これらのかわりに2,102件の日本規格(新JES)が制定された(工業技術院標準部 1997、p. 231)。旧JES、臨JESおよび航格は文語体で書かれていたが、新JESは口語体で書かれた(工業技術院標準部 1997、p. 231)。
工業標準化法は、1949年(昭和24年)6月1日に制定され、7月1日から施行された。工業標準調査会は廃止され、日本工業標準調査会(JISC)が設けられた。10月31日には、最初の日本工業規格(JIS)であるJIS C 0901 電気機器の防爆構造(炭坑用)が制定された。
2017年(平成29年)7月に経済産業省の産業構造審議会基準認証小委員会 第3回、日本工業標準調査会基本政策部会 第1回 合同会議は、日本の国内総生産の約70%がサービス業によるなど産業構造が変化したことを踏まえ、標準化対象のサービス業への拡大を含めた法改正の答申を行った。
翌2018年(平成30年)に第196回国会にて、工業標準化法の改正を含む「不正競争防止法等の一部を改正する法律」(平成30年5月30日法律第33号)が可決成立し、2019年(令和元年)7月1日に法律を産業標準化法に、規格名を日本産業規格 (JIS)に、日本工業標準調査会を日本産業標準調査会にそれぞれ改め、JISの標準化対象に「データ、サービス等」を追加することとなった。ただし、JISの英語名称は従来のまま変更はない。
日本は1995年に発効した貿易の技術的障害に関する協定により、ISO及びIECに準ずることが定められている。したがって、本協定に依れば、全てのJISは前述の国際規格に準じた内容とする必要がある。
ただし、各国特有の地域性や商習慣による変更は許容される。
実際には、機械的に同時にすべてのJIS規格を国際規格に適合させることは困難であるため、規格内容の見直し等のタイミングでJIS規格の国際規格適合のための改訂が実施されている。
JISの国際規格への対応の程度によって、JIS規格には略号が付される。略号はJIS文書の付属書等に対応表や説明書きを参照することで把握することができる。
次の場合、国家規格は国際規格と一致する。
産業標準化法にいう産業標準化は、つぎの事項を「全国的に統一し、又は単純化すること」を意味し、産業標準は、そのための基準である(第2条)。この法律に基づいて主務大臣が制定する産業標準が、日本産業規格と呼ばれる(第17条第1項)。
産業標準化法における定義から明らかなように、JISは、日本全国を単位とした標準化のための基準である。この意味で、JISは日本の国家標準である。
JIS以外の日本の国家標準としては、日本薬局方、日本農林規格 (JAS) などがある。
JISは、法律に基づく手続を経て制定される標準であり、JISには一定の公正さが期待できる。このため、日本の法令が技術的な基準への適合を強制するにあたって、その基準としてJISを採用することがある。この意味で、JISは公的標準 (デジュリスタンダード; de jure standard)である。
産業標準化法に改正され、データ、サービスも対象になったが、物に対する標準としては、定義から明らかなように、JISは鉱工業に関する標準化のための基準、すなわち工業標準であることに変更はない。医薬品、農薬、化学肥料、蚕糸、食料品などの標準化は、日本薬局方および日本農林規格の範疇である。
産業標準化法に改正される前においても、情報技術についても工業標準としており、工業の範囲が広がっていた。情報技術分類では、対象となる情報そのものの標準を制定している。そのため、「工業」の範疇に収まらないJISも、近年制定されていた。例えば、2007年にはJIS X 0814 図書館統計というJISを制定している。今後は改正後の「電磁的記録」の標準として位置づけがされる。
JISそれ自体は、JISに適合しない製品の製造、販売、使用、JISに適合しない方法の使用などを禁ずるものではない。この意味で、JISは基本的に任意標準である。ただし、国および地方公共団体に対して、JISは強制標準に準じた性格を有している。工業標準化法第67条は、国および地方公共団体が鉱工業に関する技術上の基準を定めるとき、買い入れる鉱工業品に関する仕様を定めるときなどに、JISを尊重すべきことを定めている。また、JISは法令が引用すれば、強制標準としてはたらくこともある。例えば、工業用水道事業法施行令第1条は、工業用水道事業者に対して、JIS K 0101 工業用水試験方法による水質の測定を、工業用水道事業法第19条の測定として義務づけている。
「標準」と「規格」は、英語では共に「standard」であるためよく混同される。しかし厳密には、「規格」が文書化された基準(例:「デジュールスタンダード (de jure standard)」など)を指すのに対し、「標準」はより広義で、事実上標準化した基準である「デファクトスタンダード (de facto standard)」をも包含する。例えば、Microsoft Officeはデファクトスタンダードであるため、国際標準とは呼べるが、標準化団体の制定した国際規格ではない。
JIS制定の手続は、主務大臣の意思又は利害関係人若しくは認定産業標準作成機関の申し出によって開始される。
主務大臣の意思によってJISを制定するときは、主務大臣または主務大臣から委託を受けた者がJISの原案 (draft) を作成する。主務大臣は、標準化のための調査研究やJIS原案の作成を、国費を支出して日本規格協会(JSA)などの適当な者に委託する。JIS原案の作成を委託された団体には原案作成委員会 (drafting committee) が結成され、この委員会がJIS原案を作成する。主務大臣はできあがった原案を日本産業標準調査会(JISC)に付議する。ただし認定産業標準作成機関が原案を作成した場合は付議を要さない。
利害関係人は、みずから作成した原案を添えて、主務大臣に工業標準を制定すべき旨を申し出ることができる(産業標準化法第12条第1項)。申し出を受けた主務大臣がJISを制定すべきと認めるときは、大臣はその原案をJISCに付議する。制定の必要がないと認めるときは、大臣はJISCの意見を徴したうえ、その旨を理由とともに利害関係人に通知する。現在、つくられる規格の約80パーセントは利害関係人からの申し出による(日本工業標準調査会 2003)。
認定産業標準作成機関は、2019年の改正であらたに作られた。JISの原案を作成する約300ある業界団体のうち、これまでに十分な実績があって、適正な合意形成プロセスを持つ団体については、「認定産業標準作成機関」として認定する。これらからの原案については、審議会での審議を省くことで制定のスピードアップがされる。
日本産業標準調査会 (JISC)は、その標準部会 (the Standard Board) のもとに設置された専門委員会 (technical committee) において、主務大臣から付議された原案の審議 (investigation) および議決をする。標準部会長から上申を受けた調査会長は、主務大臣に答申する。JISを制定すべき旨の答申を受けたとき、主務大臣がJISの制定 (establishment) をする。
主務大臣は環境大臣、経済産業大臣、厚生労働大臣、国土交通大臣、総務大臣、農林水産大臣、文部科学大臣または内閣総理大臣である(産業標準化法第72条)。複数の主務大臣が連名でJISを制定することもある。経済産業大臣を主務大臣とする規格が圧倒的に多い。やや古いデータであるが、工業技術院標準部 (1997)によれば、1997年3月末の時点で有効な規格8,161件のうち、通商産業大臣が主務大臣を務めるものは、他の大臣と共管の135件を含めて7,193件である。これは全規格の88パーセントを占める。
JISを制定した主務大臣は、その旨の公示 (announcement) をする。公示は、名称、番号、および制定年月日を官報に掲載することによりおこなわれる(産業標準化法施行規則第3条)。JISの内容は官報には掲載されない。内容は経済産業省本省、経済産業局、沖縄総合事務局または都道府県庁で閲覧に供される。調査会のサイトにおいてPDFで閲覧することもできる。
主務大臣は、JISの制定、確認または改正の日から5年以内に、それがなお適正であるかをJISCに付議する。JISCの答申に基づいて、主務大臣はJISの確認 (re-affirmation)、改正 (revision) または廃止 (withdrawal) をおこなう。
制定、確認または改正から年月が経過しても規格が適正であるとき、規格は確認される。年月の経過にともなって規格を改める必要が生じたとき、規格は改正される。年月が経過して規格がもはや不要になったとき、規格は廃止される。
主務大臣は、JISを確認、改正または廃止したときには、制定したときと同様に、その旨を公示する。
製品がJISの要求を満足していることをJISに適合しているといい、適合していることを適合性 (conformance) という。製造者や輸入者が製品のJISへの適合性を取引者や需要者に示す手段として、第3者による認証 (certification)、第2者による確認および第1者自己適合宣言の三つがある。
2005年10月1日から施行された改正法のもとでは、製品のJISへの適合性を登録認証機関が認証する。製造者または輸入者は、登録認証機関に認証を申請し、登録認証機関による審査を受ける。適合性の認証を受けた製品には、JISマークを表示することができる。
自己適合宣言の指針はJIS Q 1000 適合性評価—製品規格への自己適合宣言指針に定められている。
JISの内容は規格票という文書にあらわされる。
規格票の発行は、その「出版に関しては、規格の適正かつ網羅的な普及の観点から、あらゆる規格について需要に応じ一元的に販売できる体制を整えることが必要である」ことから、日本規格協会 (JSA)に委託されている。2009 (平成21)年度においては、規格票とJISハンドブックの販売によるJSAへの収入は、1,574,901,508円であった。
規格票の様式はJIS Z 8301 規格票の様式及び作成方法 (Rules for the layout and drafting of Japanese Industrial Standards) というJISに規定されている。
JSAは、複数の規格票を分野ごとにまとめた縮刷版をJISハンドブックとして発行している。JISハンドブックは、多くの規格について、規格票の冒頭に記されたまえがきや末尾に付された解説を収録していない。また、一部の規格については、本文の一部を収録していない。JISハンドブックの各巻は1年から3年に1度改訂される。
個々のJISは規格番号によって識別できる。例えば、JIS B 0001は規格番号の一つである。
規格番号のうち、「JIS」のつぎのローマ字1文字は、部門記号と呼ばれ、JISの部門をあらわす。現在、表に示す20の部門がある。
部門記号に続く数字は、各部門で一意な番号である。かつて、番号はもっぱら4桁だった。現在、国際規格と一致または対応するJISについては、国際規格の番号とJISの番号を同じにしておくことが便利であるので、国際規格が5桁の番号を持つ場合には、それに合わせた5桁の番号が用いられるようになっている。ISO/IEC 17000を翻訳したJIS Q 17000 適合性評価—用語及び一般原則はその例である。また、「電子機器及び電気機械」部門において、一部の規格の規格番号がIEC規格に対応した5桁のものに変更された(日本工業標準調査会 2004)。
大きな規格は第1部、第2部といった部 (part) に分かれていて、部ごとに制定、改正などがおこなわれ、部ごとに規格票が発行される。部を識別するために枝番号が用いられる。番号の後にハイフンおよび枝番号を記載する。つぎは、枝番号を使用した例である。
文書においてJISが規格番号によって参照されている場合、通常、読者がその文書を読んでいる時点での最新版が参照されていると考える。特定の版を参照したいときには、規格番号の後にコロンおよび制定または改正の年を西暦で記載する。例えば、JIS B 0001の2000年改正版を参照したいときは、JIS B 0001:2000と書く。
1995年以前のJISでは、枝番号が用いられていなかった。現在では番号および枝番号を区切るために用いられているハイフンは、かつては番号および年を区切るために用いられていた。例えば、JIS B 0001は1958年にJIS B 0001-1958として制定された。
JISマークは、製品がJISへの適合性の認証を受けたときに、製品そのもの、製品の包装、製品の容器または製品の送り状に付することができる、JISへの適合性を示すためのマークである。
JISマークは、1949年(昭和24年)の工業標準化法制定以来付されてきたマークであったが、2004年(平成16年)の工業標準化法の改正により従来とは異なる新たな表示制度に改正された。これに伴いマークのデザインも刷新された。
旧JISマーク:
新JISマーク:
新JISマークのデザインは公募により選ばれた(日本規格協会 2004)。これには5,000件近い応募があった(日本工業標準調査会 2005a)。応募の中から水野尚雄がデザインしたものが選ばれ、2005年3月28日に発表された(経済産業省 2005)。
この新JISマークは2005年(平成17年)10月1日から製品などに付することができるが、改めて適合性の認証を得たうえでなければならない。ただし旧から新への移行期間として3年間、2008年(平成20年)9月30日まで旧マークは付することができ、この3年間内に改めて適合の認証を得る。認証が得られない場合は新マークを付することができない。すなわち、2008年10月1日以降の製品などはすべて改めて適合性の認証を得たか、新たに認証を得て新マークを付したものとなる。
JISマークは直線および円弧のみを用いて描けるように設計されている。その制式は、鉱工業品及びその加工技術に係る日本産業規格への適合性の認証に関する省令(平成17年3月30日厚生労働省・農林水産省・経済産業省・国土交通省令第6号)第1条第1項から第3項に掲げられている。e-Gov法令検索が提供する同省令にJISマークの図は掲載されている。また、JISマークはこの省令の一部なので、著作権法第13条(権利の目的とならない著作物)の第1号に該当し、著作権法第3章に規定された権利の対象とはならない。
JISマークのデザインは次の内容を含むとされる。
JISマーク「〄」はUnicodeにおいて「JAPANESE INDUSTRIAL STANDARD SYMBOL」として個別のコードポイントU+3004を割り当てられている。
1992年リリースのUnicode 1.0.1まで、符号位置はU+32FFであり、現在地のU+3004には漢字「仝」が割り当てられていた。1993年リリースのUnicode 1.1において「仝」はU+4EDDに統合され、その跡地にJISマークが移動されることで現在の符号位置となった。なお、元のU+32FFは長らく空いたままだったが、2019年リリースのUnicode 12.1で「令和」(令和の合字)が追加されている。
JIS X 0208などJIS自体による文字集合にJISマークが含まれていないことを考えるとUnicodeへの収録はやや奇妙に思えるが、これはShift_JISのAppleによる拡張「MacJapanese」に旧JISマークが含まれていたことから、ラウンドトリップ変換対応への必要性から収録されたものであり、類似の事例としては韓国産業標準(朝鮮語版)のマーク「㉿」がU+327Fに割り当てられていることが知られている。
新JISマークの制定後、新旧両マークの扱いについてはUnicode公式メーリングリストにおいて話題に上ることはあるものの、新JISマークの新規収録や置き換え等は今のところ決定されておらず、仕様書におけるU+3004の例示字形は旧JISマークのままとなっている。JISマーク改定後に製作された代表的なフォントであるマイクロソフトの「メイリオ」や、Googleの「Noto」においては、U+3004のデザインは旧JISマークのまま維持されている。
JISが取扱う知的財産権 (IPR) には、特許権、実用新案権、商標権、著作権などがある。
知的財産権の保護対象は、特許権が発明、実用新案権が考案、商標権が商標、著作権が著作物と様々であることから、それぞれ異なる取扱いをする必要がある。したがって、標準化機関が知的財産権の取扱方針、IPRポリシー、パテントポリシー等を作成する場合には、特許権に関する規定を著作権に当てはめるなどの誤解をすることなく、細心の注意を払う必要がある。
日本工業標準調査会(2006)は、特許権、実用新案権などと抵触する工業標準の案をJISとして制定するにあたっては、非差別的かつ合理的な条件で実施許諾する旨の書面を権利者から取り付けるとしている。また、JISの制定後に特許権等との抵触が明らかになった場合であって、権利者が非差別的かつ合理的条件で実施許諾する旨を表明しないときは、必要に応じて、JISの改正または廃止の手続をとるとしている。
JISと抵触することが判明している特許権のリストは、JISCのデータベース(#外部リンク)の「工業所有権情報」で閲覧できる。
JISを制定するに当たり「国(主務大臣)は、JIS原案を工業標準化法に基づいてJISCに付議し、JISCは、JIS原案について調査審議を行い、当該JIS原案がJISとして適切であると判断した場合、その旨を国(主務大臣)に答申し、国(主務大臣)は、当該JIS原案をJISとして制定する旨官報に公示する」という手続きが行われる。したがって、JISが著作権法上の著作物(同法2条1項1号)に該当する場合でも、JISの制定に国の機関(主務大臣)が関与していることから、「国の機関が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの」(著作権法13条2号)として著作権法で保護されない著作物に該当するのかどうかが問題になる。
この点山本もぐ「日本工業規格の著作権」(2000)によれば、JISは著作権法による保護の対象となる著作物ではないという見解を、かつて工業技術院標準部が示した。ただしこの場合でも、JISの規格票の末尾に付されている解説は、JISの一部ではなく、その著作権は解説を著した原案作成者に帰属するとしている。
しかしその後、JISCは『21世紀に向けた標準化課題検討特別委員会報告書』(平成12年5月29日)44頁で、民間主導のJISの原案作成の更なる推進を提言した上で、「我が国では、規格原案作成を専業として行っている民間団体はなく、規格作成・普及だけで独立に採算を立てられる状況にはほとんどないものと考えられる」ことから「今後規格作成における民間の役割を更に強化するためには、引き続き民間における規格原案作成を支援していく一方、民間提案((注:工業標準化法)12条提案)に係る規格原案作成者に著作権を残す等、規格作成に係るインセンティブを高める方策を探る」との見解を示した。
この提言に基づき、JISCは著作権の取扱いについて、「日本工業規格等に関する著作権の取扱方針について」(平成14年3月28日 日本工業標準調査会標準部会議決・平成14年4月24日適合性評価部会議決)を定めた。それによれば、1主務大臣または主務大臣の委託を受けた者が作成した原案の著作権は国に帰属し、2利害関係人が作成して主務大臣に提出した原案の著作権はその利害関係人に帰属するとしている。しかし2に該当する場合でも、調査会における調査審議、官報公示及び電子閲覧に伴うJIS原案/同規格の公表及び公衆送信、調査審議において原案の修正、追加などの翻案、さらにJSAによる規格票の販売など、国(主務大臣)は、JISの普及及び他の法令等に当該JISを使用するために必要かつ適切な範囲において、JIS原案/同規格にかかる本著作権者の著作権を制限することができるとしている。
JISCウェブサイトではJISの検索・閲覧が可能である。ただし、閲覧には利用者登録を必要とする(2020年12月2日以降)。また、印刷・購入は不可となっており、購入に関しては日本規格協会が受付を行っている。
ISO規格、IEC規格、ITU規格といった国際規格は、各規格を作成している民間の国際標準化機関から著作権保護が主張されている。またJISCを含むISO加盟団体は、1992年11月に採用され1993年1月1日から発効しているPOCOSA協定 (ISO Policies and Procedures for Copyright, Copyright Exploitation Rights and Sales of ISO Publications) に基づいて、ISOが発行する規格を含む文書の著作権保護義務を負っている。この点、TBT協定に基づき、国家規格であるJISは国際規格のISO/IEC/ITUの規格内容に整合化する必要があるため、これらの国際規格を翻訳してJISに採用する際に著作権が問題になる。JISの原案に採用される国際規格を作成した国際標準化機関は、日本政府に対してその規格の著作権に基づいて権利を主張することは可能である。しかし国により制定されたJISを利用する国民、企業等との関係では、日本と諸外国とでは国家規格の制定プロセスにおいて次の表のとおり官民の違いがあり、民間団体により制定されている国際規格や先進諸外国の規格と、主務大臣によって制定されるJISを同列に論じるのは適当といえない。
※出典:鳥澤孝之,「国家規格の著作権保護に関する考察 -民間団体が関与した日本工業規格の制定を中心に-」
また、著作権国際条約であるベルヌ条約、WIPO著作権条約、TRIPS協定で、各加盟国の国民・法人が有する著作権の外国での保護については、その外国の国内法令の定めるところによると規定されているため、スイスに本部があるISOの規格を原案としてJISを制定する場合も、ISOの著作権保護については日本の著作権法が適用される。以上のようなことから、国家標準化機関が政府審議会である日本の体制では、次節で述べる著作権法13条2号がJISについて適用されることから、ISOに対する著作権保護義務を果たせないとする著作権法学者の学術的見解がある。
JIS規格票を所蔵する図書館等の複写サービスでは、規格票のうちJIS本文については著作権法13条2号が適用されるとして全文複写により提供する一方で、規格票に含まれる解説、JSA等が英訳したJIS本文、編集著作物であるJISハンドブックについては著作権が発生することから、著作権法31条1項1号に基づいて各資料の一部分について一部のみ提供するという運用が広く行われ、市民に対するJISの普及に貢献している。
このようなJIS本文に著作権法13条2号が適用され著作権が発生しないとする見解に対しては、経済産業省から次のような批判がなされている。
しかし1.については、同号の告示等は官報の掲載内容に限定されるものではない。法令公布に関する一般的規定は、法令等の公布を官報によって行う旨、第2次世界大戦前に規定していた公文式(明治19年2月26日勅令第1号)や公式令(明治40年2月1日勅令第6号)に相当するものは現在なく、最高裁判所大法廷判決において「法令の公布が、官報による以外の方法でなされることを絶対に認め得ないとまで云うことはできない」と判示しており、告示を含む法令等の効力は官報の掲載内容に拘束されない。また官報及び法令全書に関する内閣府令(昭和24年6月1日総理府・大蔵省令第1号)1条では、著作権法13条2号で規定するもののうち告示と訓令については官報の掲載内容として掲げているものの、通達については規定しないことから、同号により著作権法の保護対象とならない著作物は官報の掲載事項と連動しない。
一方で主務大臣が制定した「工業標準は制定されることが目的ではなく、それが実施されることが目的であるから、各方面への普及徹底ということが最も重要である」。この点JISの官報公示においては、規格の名称、番号、制定・確認・改正・廃止の別、その年月日のみ掲載され(工業標準化法第16条、工業標準化法施行規則第3条)、「内容省略」とした上で、備考で
と付記している。このJISの内容を著した規格票の印刷・発行は、JISC事務局の監督の下にJSAが行い、上記の官報公示と並行して、制定又は改正されるJISの原稿をJSAに回付し、JSAがその原稿に基づいてJIS規格票を印刷・発行し、その窓口を通じて同規格票を販売・配布しているところである。さらに規格票は有償で頒布されているが、法令等が掲載される官報も有料で販売され、かつ規格票は国内で広く市場に流通していることから、規格について「その内容を公表することによって国民に知らしめ、また国民が自由に知るべきもの」となっている。このように、JISは官報と規格票を通じて公表され、JISの詳細内容は官報に代わって、国 (JISC)名義で公表された規格票に掲載されていることから、官報で規格内容が省略されたことを著作権発生の根拠にすることはできない。また「現在有効な法令約7,400件の中で、JIS規格を引用した法令は約360件(5%)もある」など、「単なる技術標準としてだけでなく、行政制度とのつながりも深いものとなっている」との指摘もなされている。例えば、「指定公証人の行う電磁的記録に関する事務に関する省令(平成十三年三月一日法務省令第二十四号)」では次のように日本工業規格を引用し、各規格の内容を知らなければ法令が規定する様式等を理解できず、規格が法令と同様のものとなっている。
第2条
2.については、著作権法13条4号では国等が「作成する」法令等翻訳物及び編集物について著作権法の保護の対象にならないと規定しているのに対して、同法13条2号では国等が「発する」告示、訓令、通達等について規定していることから、同号で対象にする著作物は「官公庁自身が創作し国民に知らしめることが目的であるような場合に限定されるもの」ではない。また著作権法13条で法令、通達等の著作権が否定されるのは「公益的な見地から、国民に広く知らせ、かつ、自由に利用させるべき性質の著作物には、権利を認める結果としてその円滑な利用を阻害することとなるのを防ぐという観点から」であるところ、JISの原案作成者が官公庁以外の者であることを理由に著作権の発生を認めれば、JISを利用する国民の生活や企業活動等に支障をきたし、国内に広く知らしめることを主要な機能とするJISの役割を損なうことになる。なお原案作成者に著作権が認められない場合でも、原案を採用した主務大臣から補償金等を得て経済的利益を確保することは可能である。
以上のように、JISが著作権法の保護対象であるとする経済産業省の見解は、JISの著作権保護の必要性を訴えているが、著作権法上の根拠について判例、学説、著作権法所管省庁(文化庁)の見解などを引用することなく主張しているもので、政策論と法解釈論を混同したものとなっている。
このようにISO、IECといった国際規格や、民間団体が作成した原案を元に制定された場合でもJISに著作権が認められないのは、日本の国家標準化機関であるJISCが国営であることによるともされる。この点、JISCの民営化や、規格制定事業の民間機関への移管を行うべきであるとの主張が、専門家からなされている。
JISCには、一般の標準規格の制定作業とは他に、標準仕様書 (TS: Technical Specifications) 制度と標準報告書 (TR: Technical Reports) 制度がある。これは進歩が早い技術分野において、まだ標準規格としては未熟でも将来重要と考えられる技術文書を公表することで、議論を促し、将来のスムーズな標準化につなげることを目的としている。TS文書・TR文書は誰でも提案することができる。
現時点ではJISCとしてJIS化にふさわしいと判断されなかったが、将来は標準化の可能性があるとされる技術文書。
TS文書は公表後3年以内に、原則として廃止・JIS化・3年延長のいずれかの処理がなされる。なお3年延長は1度限りしか行われない。
標準に関連する技術文書であるが、JISでの標準化がふさわしくないもの。
TR文書は公表後5年以内に原則として廃止される。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%A3%E6%A5%AD%E8%A6%8F%E6%A0%BC
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T細胞
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T細胞(ティーさいぼう、英: T cell, T lymphocyte)とは、リンパ球の一種で、骨髄で産生された前駆細胞が胸腺での選択を経て分化成熟したもの。細胞表面に特徴的なT細胞受容体(T cell receptor;TCR)を有している。末梢血中のリンパ球の70〜80%を占める。名前の『T』は胸腺を意味するThymusに由来する。
1961年、ロンドンにあるチェスター・ビーティがん研究所のジャック・ミラーは、胸腺を摘出したマウスを解剖し、リンパ節、脾臓、末梢血中でリンパ球が激減し、免疫不全を発症することや、移植の際の拒絶反応が抑制されることを発見した。1968年にG. F. Mitchellおよびミラーにより、初めてマウスの胸管リンパ中に19S溶血素(抗ヒツジ赤血球抗原IgM抗体)産生細胞前駆細胞(すなわちB細胞)及び、その前駆細胞を抗原依存性に19S溶血素産生細胞へと分化させる細胞(すなわちT細胞)における、二つのリンパ球亜集団が存在することが見出された。この時点でT細胞にもさらに亜集団が存在することが予想されていたが、1975年にはフィリッパ・マラック及びJohn Kapplerが限界希釈法(limited dilution)の応用によってT細胞クローン間の明確な機能的差異について報告して以来、さまざまな亜集団、さらにはその下位の亜集団の存在が提起されている。
T細胞は骨髄の造血幹細胞に由来する。骨髄を出た造血幹細胞は胸腺へと移動し、胸腺細胞 (thymocyte) となる。胸腺へと入った時点では、前駆細胞はT細胞特異的なCD2を発現していないが、1週間のうちに発現するようになる。この時点の胸腺細胞はCD4もCD8も発現していないためダブルネガティブ胸腺細胞と呼ばれる。次いで、T細胞受容体のβ鎖の再構成が完了すると、CD4、CD8の両者を発現するようになりダブルポジティブ胸腺細胞となる。その後、激しい増殖を経たのち、α鎖の再構成が行われT細胞の一次レパートリーが形成される。
一次レパートリーは自己のMHCと相互作用できる2%程度を除いてアポトーシスにより死滅する (正の選択)。胸腺上皮細胞表面にMHCと結合して提示された自己タンパクとの相互作用によって胸腺細胞は成熟するが、このシグナルを受けることのできなかった細胞はアポトーシスにより細胞死することになる。このときに相互作用するMHCのクラスに応じて成熟した胸腺細胞はCD4、ないしCD8のいずれかのみを発現するようになり、シングルポジティブ胸腺細胞となる。このメカニズムについてはよく分かっていない。
このようにして選択された胸腺細胞はさらに、胸腺内の樹状細胞やマクロファージなどによって負の選択を受ける。これらの細胞によって提示された自己タンパクと相互作用した胸腺細胞もアポトーシスにより死滅する。これは自己反応性のT細胞を除去するためと考えられている。胸腺内で発現しない自己タンパクと相互作用するT細胞はこの機構で選別することはできないため、末梢系に入ったのちアネルギーにより不応答化される。
これらの選別に残った細胞は成熟ナイーブT細胞として体循環系に入るが、二次リンパ組織中で活性化されエフェクターT細胞となる。
末梢に存在するほとんどの成熟したT細胞は、細胞表面のマーカー分子としてCD4かCD8のどちらかを発現している。CD4を発現したT細胞は他のT細胞の機能発現を誘導したりB細胞の分化成熟、抗体産生を誘導したりするヘルパーT細胞として機能する。このCD4陽性T細胞は、後天性免疫不全症候群(AIDS)の病原ウイルスであるヒト免疫不全ウイルス(HIV)や、成人T細胞白血病(ATL)の病原ウイルスであるヒトT細胞白血病ウイルス(HTLV-1)が感染する細胞である。CD8陽性T細胞はウイルス感染細胞などを破壊するCTL(キラーT細胞)として機能する。
また、NK細胞とT細胞の性質を併せ持つNKT細胞や、CD25分子を発現して他のT細胞の活性を抑制する働きのあるレギュラトリーT細胞などもある。最近では胸腺を介さずに分化成熟する末梢性T細胞が存在することも知られるようになった。
細胞表面にCD4抗原を発現しているリンパ球の亜集団。
1986年にT. R. Mosmannらが初めてマウスのT細胞クローン間のサイトカインの分泌パターンの違いによってTh1細胞及びTh2細胞の二つのヘルパーT細胞の亜集団の概念を提起して以来、この二つの亜集団に関しては精力的な研究が行われてきている。
CD4陽性T細胞から分化し、IFN-γ(Th1細胞)、IL-4やIL-5(Th2細胞)またはIL-17(Th17細胞)等を産生し他の細胞の活性化、機能の行使等を助ける。
Th1という細胞はキラーT細胞やマクロファージに作用してそれを活性化して、細胞の活性を増強させる物である。 Th2はB細胞や抗原提示細胞と協力して抗体生産を行なう。
ヘルパーT細胞は、そのサイトカイン産生パターンよりさらに3つの集団に分けられ、T cell helperの頭文字をとってTh1細胞、Th2細胞、Th17細胞と名づけられた。Th1細胞は主にIL-12の存在下で分化し、分化後はIFN-γを主に産生する。Th2細胞はIL-4によって分化し、分化後に主に産生するサイトカインもIL-4である。Th17細胞は最近発見された新たなT細胞集団でIL-6、TGF-β存在下で分化し、分化後はIL-17を産生する。
Th1細胞は細胞性免疫を媒介し、自己免疫疾患、遅延型アレルギーにも関与すると考えられている。対するTh2細胞は液性免疫を媒介し、即時型アレルギーに関与している。また、Th17細胞は多くの自己免疫疾患モデルマウスにおいて増加していることから自己免疫疾患に関わっていることが考えられている。
これらのTh1とTh2の各細胞を分化させたり、分化後に産生されるサイトカインは、お互いの細胞群を抑制し調整する性質が単純図式上は見られる。つまりTh1/Th2のバランスがお互いに拮抗しあって保たれていると見ることができる。Th1型サイトカインを外部から投与することによるアレルギー疾患の治療など、このバランスを操作することによる治療法が提唱されたが、成功は見ていない。複雑に関連しあう関係があると見られている。
キラーT細胞ともいう。ウイルスに感染した細胞や癌細胞を認識しその細胞を殺す。
レギュラトリーT細胞(Treg)ともいう。胸腺から分化してくる制御性T細胞はCD4、CD25、Foxp3分子を発現して他のT細胞の活性を抑制する。その他、末梢で抗原特異的に誘導されてくる制御性T細胞や、CD8陽性T細胞から分化する制御性T細胞もある。がん細胞の免疫回避に関わる。
免疫反応を抑制(suppress)し、終了に導く機能を持つT細胞として多田富雄によって理論が提唱され、研究されてきたが、実際にはゲノム上に存在しないことが明らかになると、1990年代以降はその存在が否定されており、「免疫応答を抑制するT細胞」の概念は、制御性T細胞に取って代わられている。
γδT細胞はCD4およびCD8(αβ)T細胞とは対照的に別のT細胞受容体(TCR)をもち、ヘルパーT細胞、細胞傷害性T細胞、およびNK細胞と同じ性質を共有する。γδT細胞から応答を得る条件は完全には解明されていない。他のなじみのない変異型TCRをもったT細胞サブセット、例えばCD1d-拘束性ナチュラルキラーT細胞などと同様に、自然免疫と適応免疫の間を広くまたいでいる。 一方でγδT細胞は、この細胞はTCR遺伝子を再編成して受容体の多様性を生じること、そして記憶表現型も発達させることができることから、適応免疫の要素である。他方様々なサブセットは、制限されたTCRあるいはNK受容体が受容体のパターン認識に用いられることがあるため、自然免疫系の一部分をなす。例えばきわめて多数のヒトVγ9/Vδ2 T細胞は微生物によって産生される共通の分子に対して数時間以内に応答する。さらに高度に制限されたVδ1 T細胞は上皮細胞が受けるストレスに応答するようだ。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/T%E7%B4%B0%E8%83%9E
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B細胞
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B細胞(ビーさいぼう、英: B cell、B lymphocyte)はリンパ球の一種である。
1965年、オハイオ州立大学のBruce Glickは孵化したばかりのニワトリのファブリキウス嚢 (Bursa Fabricii) を除去すると抗体の産生が起こらないことを発見した。その後、マックス・クーパーとRobert A. Goodにより鳥類における抗体産生の前駆細胞の分化成熟に必要であることが証明され、器官の頭文字を取ってB細胞と命名された。哺乳動物にはこの器官は存在せず、骨髄 (bone marrow) でつくられることが確認された。偶然にも頭文字が同じであることから、そのままB細胞という名称が定着した。
抗体は特定の分子にとりつく機能を持った分子で、その働きによって病原体を失活させたり、病原体を直接攻撃する目印になったりする。そのため、抗体を産生するB細胞は免疫系の中では間接攻撃の役割を担っており、その働きは液性免疫とも呼ばれる。
B細胞は細胞ごとに産生する抗体の種類が決まっている。自分の抗体タイプに見合った病原体が出現した場合にのみ活性化して抗体産生を開始することになる。また、いったん病原体が姿を消しても、それに適合したB細胞の一部は記憶細胞として長く残り、次回の侵入の際に素早く抗体産生が開始できるようになる。この働きによっていわゆる「免疫が付く」(免疫記憶)という現象が起きており、予防接種もこれを利用したもの。
哺乳動物においては、B細胞は骨髄に存在する造血幹細胞から分化したのち、脾臓などの二次リンパ組織に移動し、抗原に対する反応に備える。 また一部のB細胞には、消化管上皮、粘膜組織など、外来抗原との接触頻度の高い組織に移動する集団も存在する。
細胞表面の抗原レセプターとして細胞膜結合形の免疫グロブリン(Ig)を発現しており、これによって自分に適合した抗原の出現を察知する。抗原が適合した場合には、それを細胞内に取り込んだ後、抗原提示する。提示された抗原をヘルパーT細胞が認識すると、ヘルパーT細胞からの刺激を受け、形質細胞に分化することになる。形質細胞に分化すると分泌形の免疫グロブリンを抗体として産生するようになる。個々のB細胞が産生する抗体は均一な免疫グロブリン分子(抗原分子)であり、単一の抗原特異性を示す。この単一な抗体産生細胞のクローンを分離してモノクローナル抗体を得ることができる。
B細胞を始めとした全ての血球細胞は、骨髄中の造血幹細胞が分化したものである。始めに造血幹細胞はリンパ系幹細胞へ分化する。次いでプロB細胞を経てH鎖の遺伝子再構成が起きる。完成したH鎖とSL鎖(V-preB・lambda5)とともにpre-BCRを形成、大型プレB細胞となる。そこでpre-BCRシグナルにより一度増殖した後に、L鎖の遺伝子再構成が引き起こされ、やがて小型プレB細胞へと分化する。完成したL鎖はH鎖とともにIgMを形成して、細胞膜上に発現する。そしてIgMとともに同じ抗原特異性をもつIgDも発現し、B細胞は骨髄から末梢へと移行し、脾臓において成熟B細胞となる。B細胞は、抗原の存在下で抗体を産生するべく、形質細胞(プラズマ細胞、plasma cell)へと最終的に分化する。
B細胞の活性化には一般に、B細胞受容体、B細胞補助受容体、およびCD4陽性T細胞からのシグナルの3つが必要である。
成熟ナイーブB細胞は表面にIgMを発現しており、これらが微生物表面の抗原により架橋されることによりB細胞内へシグナルが伝達される。B細胞膜において、IgMはIgαおよびIgβと呼ばれる膜貫通タンパクと会合しており、これらの会合体が機能的なB細胞抗原受容体 (B cell receptor, BCR) である。このIgβの細胞質部分に存在するチロシン残基がリン酸化されることにより、シグナル伝達経路が始動する。
B細胞補助受容体はCD21 (補体受容体2、CR2)、CD19、およびCD81からなる。ある種の病原体表面は補体を分解する特性を持っている。このため、補体断片C3dが沈着することになるが、CD21はこの分子と結合することができる。このようにしてB細胞受容体とB細胞補助受容体が同時に会合すると、Igαに細胞質部分で会合したチロシンキナーゼによってCD19がリン酸化され、シグナル伝達経路が始動する。
さらに、胸腺非依存性抗原を除く抗原による活性化においてはCD4陽性T細胞の分泌するサイトカインが必要である。B細胞はB細胞抗原受容体により受容体介在性エンドサイトーシス(英語版)により抗原を取り込むことができる。取り込んだ抗原を提示したMHC IIとCD4陽性T細胞が相互作用すると、B細胞表面のCD40とT細胞表面のCD40Lの結合、およびT細胞から産生されるサイトカインの刺激によりB細胞が活性化される。
結合したCD4陽性T細胞からのサイトカインにより活性化されると、B細胞が増殖を開始し、一次反応巣 (primary focus) を形成する。その後、これらの細胞は髄索と濾胞に移動する。髄索に移動したものはTH2細胞からのサイトカインにより形質細胞へと分化する。ここで形成された形質細胞は主としてIgMを産生する。一方、濾胞に移動したものは大型化し、さらに活発に分裂するようになる。この細胞は中心芽細胞(英語版) (centroblast) と呼ばれる。中心芽細胞は増殖するにしたがい胚中心を形成し、リンパ節に腫脹をもたらす。やがて分裂が停止し、中心細胞 (centrocyte) となると、胚中心の外側に位置する明領域に移動して濾胞樹状細胞と相互作用する。
濾胞樹状細胞は表面に抗原を免疫複合体として提示しており、中心細胞はこれと相互作用するにつれ胚中心の外縁部に移動する。外縁部にはヘルパーT細胞が多数存在しており、これと相互作用できた場合のみ中心細胞はアポトーシスによる細胞死を免れる。この、より抗原との親和性が高い中心細胞が選択される過程を親和性成熟 (affinity maturation) と呼ぶ。こうして選別された中心細胞はその後、形質細胞、ないし記憶B細胞に分化する。
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アメリカ先住民
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アメリカ先住民、アメリカインディアン、インディアン、インディオ
アメリカ先住民(アメリカせんじゅうみん、Indigenous peoples of the Americas)は、ヴァイキングやクリストファー・コロンブスによるアメリカ本土への到達以前からアメリカ州(南北アメリカ大陸とその周辺)に住んでいる先住民族の総称。エスキモー・アレウト人を除き、インディアン、アメリカインディアン、インディオなどとも呼ばれてきた。
「アメリカ先住民」には、「インディアンとインディオ」と「エスキモー・アレウト人(エスキモーとアレウト)」がいる。
アメリカ合衆国やチリが領有する、アメリカ州に属さない太平洋の島々には「アウストロネシア人(ポリネシア人・チャモロ人・トンガ人・ミクロネシア人など)」がいるが、少なくともアメリカ合衆国国勢調査では、彼らはアメリカ先住民(Native Americans)に含まれない。ハワイ先住民はかなりの人口がアメリカ合衆国本土に居住するが、彼らも同様である。
なかでもエスキモーやアレウト族、太平洋諸島民を除くアメリカ州本土の民族を、インディアンまたはインディオと呼ぶ。日本語では、「インディアン」は北米本土の先住民、「インディオ」は中南米の先住民をさすことが多い。
ただし、現在では、「インディアン」、「インディオ」という呼称は用いられなくなってきており、特に前者は差別用語と一般に認識されている。そのため、アメリカ合衆国では「ネイティブ・アメリカン」、カナダでは「ファーストネーション」、中南米では「インディヘナ」などの呼称が一般的である。また、エスキモーも、近年はカナダで「イヌイット」、グリーンランドで「カラーリット」と呼ばれている。(後述)
現代では白人種や黒人種、アジア人種等との混血が進んでいる。
インディアンやエスキモー、アレウトの場合、アメリカ連邦政府が「インディアン部族」、「エスキモー部族」、「アレウト」として認める部族のみが、アメリカ内務省の指定保留(reserve)した保留地(Reservation)を領有している。内務省が条約関係を打ち切り「絶滅部族」として認定しない部族は、保留地を持てず、各州に散って暮らしている。カナダ連邦におけるインディアン、イヌイットも同様である。
エスキモー・アレウト語族を話す諸民族。インディアンとは起源(アメリカへの移住時期)が異なると考えられる。新モンゴロイドに属す。
インディアン(英: Indian)は、アメリカ先住民のうち、エスキモー・アレウト人を除く諸民族の総称。スペイン語・ポルトガル語ではインディオ(西: indio)。日本語では、メキシコ以北の諸民族をインディアン、ラテンアメリカの諸民族をインディオと呼び分けることが多い。
「インディアン」(英語)と「インディオ」(スペイン語・ポルトガル語)ともに、本来はインド人を指す言葉である。「インディアン」、「インディオ」がこのように二義的な意味を持つのは、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到着したときに、その地をインド(当時は東アジア全体を指した)と誤解したことに由来する。スペイン人が先住民をインディオス(インド人の意)と呼んだことから、そのまま英語のインディアンに引継がれ、以降アメリカ先住民(の大半)をインディアンと呼ぶようになった。
英語のインディアンは直訳するとインド人の意味であり、歴史的な文脈や広義では、旧イギリス領インド全域や東南アジアの住民を含むこともあることから、本来のインド人をイースト・インディアン 、アメリカ先住民をアメリカン・インディアン と区分して呼称する場合がある。 おもに平原部族が正装の際に顔や上半身を赤く塗装したことから、また、赤褐色の肌色を持つことからレッド・マン という呼称もあり、彼ら自身も使用しているが、コロンブスがタイノ族を同じ理由でこう呼んだことによる。公民権運動やブラック・パワー運動の影響でインディアン達もレッド・パワー運動を展開した1960年代以降、侮蔑的な呼称として問題化されることがあり、イギリスでもレッド・インディアン と呼ぶことがあるが、この語は差別的とみなされることが多い。
また「インジャン」という呼び方 は現代アメリカにおいては「ニガー」などと同様の差別的な蔑称であり、ほか、「アンクル・トマホーク」、「トント(英語版)」などは、現在では同じく「白人におもねるインディアン」の代名詞となっている。
イギリスの作家アガサ・クリスティによる小説「Ten Little Niggers」はイギリス国内ではこのまま出版されたが、アメリカ版ではNiggerが不適切として「And Then There Were None」に修正され、作中に登場するNigger IslandもIndian Islandに変えられたが、こちらも差別的として変更された。
人類学・言語学では、アメリンド と呼ぶこともある。ただしこの語は厳密には、アメリカ先住民のうち、起源が異なるという説があるナ・デネ(ナヴァホなど)やイヌイットを除いたグループに対する呼称である。
他に以下の呼称があるが、これらの中には定義が不明確なものも多い。
なお、アメリカ合衆国のインディアンについてはネイティブ・アメリカンの記事に詳しい。
スペイン語indio・ポルトガル語índio(ブラジルではインジオ、あるいはインヂオと発音する)は、アメリカ州の先住民族のうちエスキモーやアレウト族などを除いた民族を総称する(英語のインディアンと同義である)ことが多いが、日本語では北米と中南米の先住民族を区別して後者のみをインディオと呼ぶことが多い。
インド人と区別するためにスペイン語ではアメリンディオ(amerindio)と呼ぶこともあるが、逆にインド人をインドゥ (hindú)と呼ぶことで区別することが多い。
先住民と白人との混血をメスティーソ(mestizo)、ラディーノ(ladino)などという。ボリビア、ペルーなどでは、先住民として位置づけられる者を含めてチョロとも呼ばれる。先住民(インディオ)と黒人との混血をサンボと呼ぶ。なお、サンボという呼称と差別についての話題がちびくろサンボにあるので、そちらも参照されたい。
人種的に純粋なインディオであっても、都市部の住民を中心にインディオ的な文化を喪失し、白人やメスティーソに文化的に同化した人はインディオと呼べないのではないかという議論がある。そのような人はインディオと称されることを忌避し、メスティーソなどと自己規定することが多い。しかし日常会話では、厳密にはメスティーソであるがインディオの人種的特徴を強く持つ人もまとめてインディオと呼ばれるのが一般的である。一方で、逆に人種的には混血であっても、先住民としてのアイデンティティを持ち、農村部を中心に先住民系の言語を日常的に用い、伝統的な文化を守る人々も決して少なくない(チョロ又はチョリータを参照)。
「エスキモー」という言葉は、アラスカエスキモーと居住域が隣接していた亜極北のアルゴンキン系インディアンの言葉で「かんじきの網を編む」という意味である。これが、東カナダに住むクリー族の言葉で「生肉を食べる者」を意味する語と誤って解釈されたことから、「エスキモー」という呼称はある時期においてしばしば侮蔑的に使用された。これには、生肉を食べる行為を野蛮であるとみなす人々の偏見が背景にある。
カナダでは1970年代ごろから「エスキモー」を差別用語と位置付け、彼ら自身の言葉で「人々」を意味する「イヌイット」が代わりに使用されている。現在では「イヌイット」という呼称は、本来「人々」を意味する言葉ではなかったとされている。先住民運動の高まりの中で、これまで他者から「エスキモー」と呼ばれてきた集団が自らを指す呼称が必要となり、「イヌイット」という言葉を採用したためである。
なお、グリーンランドでは「カラーリット」と呼ばれる。
カナダでは、イヌイットとメティ(先住民とヨーロッパ人両方の血を引く人々とその子孫)を除く先住民の総称としてファースト・ネーションズという呼称が一般的である。ハイダ族、クリー等個々の部族を指すときは部族名の後に「ファースト・ネーション」をつける(例:ハイダ・ファースト・ネーション)ことも多い。また、現在ではネイティブ・カナディアン という呼称が使われることは少ない。
近年アメリカ合衆国では「インディアン」という呼称自体が差別的であるとして、また間違った命名の歴史を反映としているとして使わなくなってきている。アメリカ合衆国ではMLB球団のクリーブランド・インディアンスがこれを理由に、2022年からクリーブランド・ガーディアンズに改称した。
現在、アメリカ合衆国では、先住民は「ネイティブ・アメリカン」と呼ばれることが多い。この単語は、アメリカ合衆国内務省インディアン管理局(BIA)の意向を受けて「インド人」を祖先に持つ「インド系アメリカ人」と区別するために、人類学者が作った造語である。1960年代にBIAが、そのサービス対象グループに対して使用を始めた。
ネイティブ・アメリカンはアメリカ合衆国内の先住民全般、つまり「インディアン」、「サモア人」、「ミクロネシア人」、「アレウト」、「ハワイ人」、「エスキモー」全てを含む場合がある。当初はインディアンとアラスカ先住民(アラスカ・インディアン、エスキモー、アレウト)を指しており、のちに連邦の枠組みに入るハワイ先住民と太平洋諸島民などを含むようになった。
一方、歴史的呼称としての「インディアン」に誇りをもつインディアン達の中には、これをあくまで自称とし、またその名称を替えること自体が差別的であるとするものもいる。インディアン運動家たちには『アメリカ・インディアン』を主張するものもある。(→ネイティブアメリカンの呼称論争(英語版))
「アメリカン・ヘリテージ英語辞典第4版」には、「『ネイティブ・アメリカン』の承認は、『インディアン』の消滅をもたらさなかった。一度『ブラック』が好まれるようになると、あっという間に『ニグロ』が嫌われたのとは異なり、『インディアン』はアメリカ人の大多数で、決して嫌われることはなかった。」との記述も見られる。
チェロキー族の作家であるクリスティーナ・ベリーは「アメリカ・インディアン」も「ネイティブ・アメリカン」も、両方とも、様々なインディアンの民族の違いをぼかすので使用を避け、各部族名を使うべきであると主張している。
インディオという言葉に侮蔑的な響きがあることから、ラテンアメリカでは、現在は先住民のことをナティーボ (nativo,旧来の住人の意)やプレイスパニコ (prehispánico, スペイン以前の意)、インディヘナ(indígena,土着の人)などということが多くなってきている。また、カンペシーノ (campesino, 都市に住んでいない人)やアンテセデンテス (antecedentes, 先祖)という表現をすることもある(いずれもスペイン語。ポルトガル語では、例えばナティーヴなど)。
1920年代頃よりホセ・カルロス・マリアテギ等を中心にインディヘニスモ(先住民の復権)が唱えられるにつれ、先住民という意味の「インディヘナ (Indígena)」(ポルトガル語ではインディジェナ)という呼び方も普及していった。
既に述べたように、インディオという言葉には侮蔑的な響きがあり、差別用語であるともされる。ホセ・デ・サン=マルティン将軍がペルーを解放した時は、先住民をインディオと呼ぶことをやめるべきだと述べ、一世紀半後にフアン・ベラスコ・アルバラード将軍の革命政権はこの考えを実践して公的な文書の中でインディオと呼称することをやめ、カンペシーノ(農民)と呼称することを定めた。現在、多くの国では一般的には先住民を表す時にはインディヘナの名称が使われる。しかし、当のインディオの側から自分達の歴史をインディヘナという言葉によって消し去られるのは屈辱だという声も聞かれ、言い換えを拒否する動きもある。
学術の分野では、近年「初期アメリカ人」という呼称が使われることがある。
アメリカ先住民は人種的にはモンゴロイドに属すとされるが、新モンゴロイドのエスキモーを除き、赤みがかった黄褐色の肌を持つなどユーラシアのモンゴロイドとは異なる点もあることから、「アメリンド人種」とされる場合もある。エスキモーを除くアラスカ、カナダ、アメリカ合衆国北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっておりワシ鼻である人が多い。
アメリカ先住民はモンゴロイドの一亜型であるエスキモー(エスキモー人種)とモンゴロイド的特徴が希薄なインディアン(アメリンド人種)に大きく二つに分け、インディアンの分類はヴァロワにならい北・南アメリカの西半分に住む短頭型のニ群『北太平洋インディアン又はアリューシャン人種又はコロンビア人種(ナ・デネ系民族)』、『南太平洋インディアンはソノーラ人種、プエブロ・アンデス人種、地峡人種に細分される』と東側に住む中頭型のニ群『北大西洋インディアンインディアン又平原人種又はダコタ人種ともいい西部劇でおなじみの赤色インディアンはこの人種に属する。アレゲニー山脈より東に住む人々をアパラチア人種と呼ぶことがある。』、『南大西洋インディアン又はアマゾン人種(グアラニー族等)』とその他のニ群『古層インディアン又はラゴア・サンタ人種(ヤーガン族等)』、『パンパ・インディアン又はパタゴニア人種(テウェルチェ族等)』に分類出来る。
遺伝的には東ユーラシアの諸民族に最も近い。Y染色体ハプログループはほとんどをQ系統が占める。ミトコンドリアDNAハプログループはA、B、C、D、Xが見られる。
一般に、アメリカ州への先住民族の移住は1.アメリンド、2.ナ・デネ、3.エスキモー・アレウトの3波が存在したと考えられている。
なお、インディアンの神話伝説では「亀の島」(アメリカ大陸のこと)が水の中から隆起した時に、その中心から現れた人類の祖先こそインディアンであると伝えている。
大航海時代以降は、ヨーロッパ人との混血、アフリカ黒人との混血が進んだ部族も多い。純血の民族はメキシコ、グアテマラ、エクアドル、ペルー、ボリビアなどに多く存在する。しかしブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどのスペイン人と激烈な戦いを繰り広げた地域では、純血な先住民はスペインによる侵略により、大幅に数を減らしている。アメリカ大陸にいた先住民はヨーロッパ人の持ち込んだ伝染病、奴隷制度、レイプ、戦争による殺戮によって、1491年に西半球には約1億4500万人の人々が住んでいたが、1691年には、アメリカ先住民の人口は90-95%、約1億3千万人も減少したとされる。
アメリカ合衆国においては白人入植者によってインディアン戦争に代表される北米植民地戦争がおこなわれた。この戦争は白人、主にキリスト教徒によって行われた大量虐殺、民族浄化、強制移住であった。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困やアルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は土地を返還するつもりはない。
アメリカ合衆国およびカナダの在来の民族を、アメリカ合衆国の領有する太平洋諸島の民族を除いて、共有される文化的特性を備えた10の地理的な地方に分類するのが一般の民族史学者の見解であったが、現在は太平洋諸島民を含む11の地理的分類が通例となっている。
中南米の先住民は、言語、環境及び文化的類似性によって分類するのが一般的である。
エスキモー・アレウトの言語は1つの語族エスキモー・アレウト語族を構成する。インディアン/インディオの言語は非常に多様であり、分類が進んでいない。
その他、孤立した言語も多数ある。
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三井住友銀行
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株式会社三井住友銀行(みついすみともぎんこう、英語: Sumitomo Mitsui Banking Corporation、略称:SMBC)は、東京都千代田区丸の内に本店を置く、三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)傘下の都市銀行。三菱UFJ銀行(三菱UFJフィナンシャル・グループ)、みずほ銀行(みずほフィナンシャルグループ)とともに3大メガバンクの一角を占める。SMBCグループの中核企業である。
戦前の財閥を起源とする大阪の住友グループ(旧住友財閥)と三井グループ(旧三井財閥)の両方に属する(「三井住友」も参照のこと)。
2001年4月1日に大阪の住友グループの住友銀行と、三井グループのさくら銀行(三井銀行の流れを汲む)が合併して誕生した。前身の住友銀行は在阪三大都市銀行の一角であり、合併は住友銀行主導で進められた。経営統合にあたっては、2000年代以降に再編した他のメガバンクで行われている、新規設立した金融持株会社に前身銀行を株式移転・株式交換させて経営統合させた後に銀行を合併するのではなく、株式を上場する都市銀行同士の直接合併であり、あさひ銀行(現りそな銀行)以来、最後のケースである。住友金属工業(現在の日本製鉄でグループを離脱)、住友化学とともに「住友御三家」の一つであり、三井物産、三井不動産とともに「三井新御三家」の一つである。
2002年12月2日に旧、住友銀行の主要子会社で当行子会社に置かれた日本総研、三井住友カード(旧住友クレジットサービス)と、上場していた当行の株式を株式移転させる形で金融持株会社三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)を新たに設立・上場している。
2004年度、2007年度、2010年度は(旧)全国銀行協会会長行を務めた。
本項では特記しない限り、2001年に発足し2003年に法人格が消滅した初代法人、旧称が株式会社わかしお銀行で2003年に初代法人を吸収合併(逆さ合併)した2代目法人について、まとめて解説する。
コーポレートカラーは、緑色を基調とした若草色。和文ロゴタイプは前身の住友銀行およびさくら銀行それぞれのデザインに近づけた書体を使用している。屏風のような形を思わせる若草色のブランドロゴは、香港のグラフィックデザイナーであるアラン・チャン(陳幼堅)によりデザインされた。
広告等のキャッチコピーとして、2007年4月に三井住友フィナンシャルグループが発表した中期経営計画のスローガン「LEAD the VALUE」を主だって使用している。当行単体では「いくぞミライ」のフレーズ・名称が使われている。
表面上は「将来を見据えての合併」という形を取っているが、合併時の存続会社は住友銀行であり、発足した三井住友銀行の頭取職と三井住友FGの社長職を旧住友銀行頭取だった西川善文が兼務した。また合併比率も当時の株価を反映して1対0.6で決まった。即ち、実質的には住友銀行によるさくら銀行の救済合併であった。
発足当時、かつての財閥(三井財閥・住友財閥)の枠を越えたことで話題になった。その歴史から、三井グループと住友グループの両方に属している。太平洋戦争における日本の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は財閥解体を進めた。GHQ占領終了後、住友グループはほぼ戦前同様に集結したのに対し、三井グループは帝国銀行の第一銀行(現みずほ銀行)と三井銀行への分離を機にグループ各社が他の銀行とも取引をし、メインバンクという点で住友グループにおける住友銀行ほどの地位を三井銀行は三井グループに対してなさなかった経緯が関連している(詳細は「三井グループ」参照)。
1990年、三井銀行が規模を拡大する意図で太陽神戸銀行と対等合併する結果となった(行名は太陽神戸三井銀行。1992年にさくら銀行に行名変更)。規模は預金高ベースで、合併前は都市銀行13行中、下位に位置していた三井・太陽神戸両行が、合併の結果、第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)に次ぐ第2位に拡大した。しかし1998年には、さくら銀行の株価は165円にまで落ち込んだ。
1999年に住友銀行とさくら銀行は「将来の統合を前提とした全面提携」を発表した。その後の動きとして、1999年にさくら銀行は単独で、個人向け融資やコンビニATM、ジャパンネット銀行(現PayPay銀行)を設立した。
2000年に発表された合併比率は、さくら銀行の普通株式1株につき住友銀行の普通株式0.6株が割当交付されるもので、「さくら銀行1000株の価値=住友銀行600株の価値」である。
西川善文頭取時代は、失われた10年での経済情勢に加え、2002年10月策定竹中プランの影響により、厳格な不良債権対策を迫られた。前身銀行(主に住友銀行)からの大口貸出先で不良債権比率の高かった三洋電機と三洋電機クレジット、カネボウ、ダイエー、フジタなどは債権放棄などの金融支援を順次実施した。
同行が保有していた資産の含み益(約2兆円)を帳簿上に現実化させ、旧・住友銀行が保有する有価証券の含み損(約8000億円)を一掃させる為の手段として、旧・太平洋銀行の承継銀行として旧さくら銀行が設立したわかしお銀行をSMFGの完全子会社化した上で、わかしお銀行に対して三井住友銀行が逆さ合併することを2003年1月に発表。同年3月17日付けで三井住友銀行(初代法人)は逆さ合併により消滅し、わかしお銀行が三井住友銀行(2代目法人)へ商号変更。
合併に先立つ3月には、1986年に住友銀行が資本提携していた米国の投資銀行であるゴールドマン・サックスに対してSMFGが第三者割当増資を行い、優先株で1500億円を調達している。
2004年5月には、UFJホールディングス(UFJHD)が子会社のUFJ信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行:三菱UFJフィナンシャル・グループ〈MUFG〉傘下)株式を住友信託銀行(現・三井住友信託銀行:三井住友トラスト・ホールディングス傘下)へ売却する方向で詰めていたものの、同年7月にUFJHDが三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)へ金融持株会社レベルでの経営統合を申し入れ、住信へのUFJ信託売却は白紙化された。これに住信が異議を唱えて合併差し止めの提訴をするなどし、これに触発される形で7月30日に三井住友フィナンシャルグループがUFJホールディングスとの経営統合を提案するも、8月には三菱UFJフィナンシャル・グループ発足に向けての合意に達したことで頓挫した(→UFJ銀行#三井住友FGによる経営統合の申入れ)。
2010年11月1日に、親会社の三井住友フィナンシャルグループは、米国ニューヨーク証券取引所(NYSE)に上場。北山FG社長は、NYSEからブルームバーグテレビジョンの生放送で、主に投資家向けディスクロージャーの透明性を高めることが目的と説明した。
前身の三井銀行(→さくら銀行)と太陽銀行(→太陽神戸銀行→さくら銀行)は首都圏、神戸銀行(→太陽神戸銀行→さくら銀行)と住友銀行は関西地区を地盤としている。特に住友銀行は在阪三大都市銀行(関西都銀)の一角であり、長らく大阪を拠点としていた住友グループの中核企業であった。そのため関西地区はグループ全体で強固な基盤を有しており、歴史的な関わりも深く、取引先も多い。かつては第二地方銀行の関西アーバン銀行およびみなと銀行がグループ内に存在した(現在両行はSMBCグループを離れ、りそなホールディングス傘下の関西みらいフィナンシャルグループに再編)。東海銀行(→UFJ銀行→現三菱UFJ銀行)ならびにその系列企業が圧倒していた東海地区の金融事情であるが、MUFGの発足に伴う、三菱系企業主導による再編を嫌う旧東海銀行系企業のMUFGからSMFGへの異動が見られる。三井住友銀行も従来手薄だった東海地区(中京圏)の支店を順次開設していたり、新たに名古屋銀行とATM相互開放して手数料引き下げたりするなど基盤強化に務めている。
前身の神戸銀行との関係で、兵庫県や神戸市など兵庫県下のいくつかの市の指定金融機関となっている。SMBCが指定金融機関となっている都道府県は兵庫県のみである。また、神戸銀行時代から兵庫県内に大口取引先を多く抱えているため、東京・大阪とは別に神戸にも本店クラスの営業拠点(神戸営業部・神戸公務部、かつての神戸銀行本店→太陽神戸銀行本店→さくら銀行関西本部)を設置している。
以上の4か所に分かれている。本店営業部を、2010年10月18日に、現在の東京営業部・大手町本部向かいに2010年7月1日に竣工した、三井不動産のオフィスビルである三井住友銀行本店ビルディング(旧JFEビルディング跡地)を全フロア借り上げる形で集約した。これにより、本部機能は、一部の大手町一丁目三井ビルディング(本店北館)に移設される部門と、新住友ビル(大手町本部ビル)内にある東京営業部の窓口をのぞき、大手町・日比谷両地区のセクションは原則全て新本店ビルへ集約された。
海外については、主要都市にホールセール拠点を有しており、日系および非日系大手企業取引を推進する。
「三井住友銀行 発足後の店舗統廃合」を参照
「住友銀行 芦屋北口支店」、「さくら銀行 芦屋駅前支店(旧・太陽神戸銀行 芦屋駅前支店)」のように、近隣に支店が2つ以上ある場合は、どちらかの支店の名称を変更(上記の場合は、住友銀行 芦屋支店の支店名を芦屋北口支店に変更)した。その後、銀行の勘定系システム統合後に重複していた支店の統廃合を進めた。主な例を下記に挙げる。
個人部門、法人部門、企業金融部門、市場営業部門、国際部門、投資銀行部門及び各種本社部署・関連子会社からなる。他行に先駆けた個人顧客分野への取組を実施しており、旧行時代末期から国内営業店組織を個人営業の「支店」、中小法人営業の「法人営業部」(住銀時代は「法人部」)に分けている。
「支店」「エリア」という名称の組織からなり、個人顧客宛金融商品販売業務、コンサルティング業務の深化を目指す。中期経営計画では投資信託、年金販売、証券仲介及び保険販売を注力分野としている。
「法人営業部」「法人エリア」からなり、法人融資・預金為替業務部のみならず、各種金融商品関連、アドバイザリー業務に注力。中期経営計画ではエクイティ投資含めた中小企業育成、地公体・地銀との連携による地方経済への噛みこみなどを掲げている。
上場企業クラス・日系グローバル企業を担当しており、東京・名古屋・大阪の「営業部」から成る。通常「本店営業第x部」という名称がついており、業種単位となっている。たとえば商社は主に本店営業第三部が所管する。
2006年(平成18年)4月より「コーポレート・アドバイザリー本部(CA本部)」が新設され、ホールセール部門の顧客に対して、アドバイザリー業務強化を目指すダブルフロント体制を敷いている。具体的には上場クラスの企業に対して、事業再編、資本政策、などの提案を実施し、必要に応じて海外拠点、SMBC日興証券や関係の強いファンドと協働する役割を担うことで同行グループの金融ソリューション能力向上を目指す。
2007年(平成19年)4月より「プライベート・アドバイザリー本部(PA本部)」を新設し、リテール部門・ホールセール部門の共管業務を担当する。具体的には、プライベートバンキング、職域取引、事業承継の強化である。
銀行本体では、主に国内に於ける仕組みもののデットファイナンスを所管し、ストラクチャードファイナンス営業部、シンジケーション営業部、不動産ファイナンス営業部、アセットファイナンス営業部などからなる。営業体制としては、ホールセール部門(・グローバルバンキング部門)の各営業部が顧客窓口となり、デットファイナンスのソリューションについてファイナンシャル・ソリューション本部各部が専門的に提案・取組をするというダブルフロント体制となっている。また、金融商品営業部はデリバティブ商品や仕組物の組成販売を手がけ、また企業情報部はM&A業務を手がけるが、これらは本当の意味での投資銀行業務である。
資金・為替などディーリング・トレーディング業務を主に担当しており、大規模海外拠点の資金繰含めて所管する。元ラグビー日本代表監督であった故宿澤広朗は、本分野での勤務経験が長く、かつてはロンドンでディーラーを担当していた。
主に同行の海外拠点業務を担当する。日系企業の海外各地に於ける業務サポート、グローバル非日系企業宛取引推進、日系・非日系ストラクチャードファイナンスの推進などが主業務。
地域本部制をとっており、アジア大洋州本部(シンガポールベース)、米州本部(ニューヨークベース)、および欧州本部(ロンドンベース)では、地域本部長の下で、ある程度現地での裁量が認められている。
また日系取引については国内法人部門との連携が重視されており、グローバルアドバイザリー部が設置されている他、中国現地法人日系取引については、2010年度(平成22年度)より業務推進の所管が国内法人部門となった。
経営企画部、財務企画部、システム統括部、人事部、総務部、広報部、品質管理部などからなる。
同行は合併当初から、各種事務(バックオフィス)を支店から分離・集中処理する体制を築き上げ、経費率の著しい低下を目指してきた。融資ミドルバック業務は融資集中部に、外為関連バック業務は外為事務部に集約しており、それぞれ2003年(平成15年)2月に「SMBC融資事務サービス株式会社」、1994年(平成6年)12月に「SMBCインターナショナルオペレーションズ株式会社」という名称の別会社を設立した。また各営業店に於ける預金為替業務も支店サービス部という部署に分けられており、個人宛金融サービスを行う支店とは別組織となっている。
2014年(平成26年)10月に三井住友銀行は「SMBCインターナショナルオペレーションズ株式会社」を吸収合併した。この合併に伴い三井住友銀行に「グローバルサービス推進部」と、部内室として「外国為替受託室」を、また、営業店組織として「グローバルサービス部」を設置した。
三井住友銀行ではICキャッシュカードを発行している。生体認証には手指静脈を用いる。従来からの磁気ストライプ記録データでの取引よりも、ICチップ記録データでの取引、さらにICチップ記録データと生体認証とを組み合わせた取引となるにつれてデータの信頼度が向上するとされ、ATMで取引できる上限金額を高く設定できるようになっている。
2017年時点で、窓口で即時発行したICキャッシュカード(対象となるのは、一般デザインの普通預金キャッシュカードのみ。他のデザインや普通預金以外の科目のカードなどは即時発行の対象外)はエンボスレスカード、郵送で届けられるカードはエンボスカードでの発行となる。 2023年現在、ICキャッシュカードの即時発行は行っていない。
2016年より、総合口座の「普通預金・貯蓄預金」通帳が冊子の在庫払拭次第廃止され、代わって、普通預金通帳兼用の通帳に変更され、表紙の口座番号の下に「≪総合口座≫」と印字される(以前は、総合口座ではないSMBCポイントパック契約口座となっている通帳に於いて、「残高別金利息型普通預金」と表示されていた。総合口座普通預金の冊子が普通預金通帳の冊子を用いる形となったことで、「≪総合口座≫」が印字されたSMBCポイントパック契約口座の場合、「残高別金利型普通預金」の文字は、見開きページ部分に表示がされる)。印字可能ページ数は11ページであり、総合口座兼用となる前から変わらない。
これにあわせて、総合口座通帳としても使用するため、別冊子となる貯蓄預金や定期預金等の口座番号が見開きページに記載されるようになり、従来の普通預金通帳にはなかったいくつかの欄が新たに設けられた。
2007年(平成19年)3月12日よりOne's plusの改定が行われ、One's plus契約者で一定条件(30万円以上の預金残高、ウェブ通帳、三井住友VISAカード・セディナの引き落としがある、等)を1つでも満たしていれば、三井住友銀行の自行ATMだけでなく、セブン銀行・イーネット・ローソンATMのコンビニATMでも、24時間手数料が一切かからなくなる(月4回まで)ほか、三井住友銀行本支店間の振込手数料が、インターネットバンキング(Web)・モバイルバンキング・テレホンバンキング(無人対応)で無料となる。
紙の預金通帳を「ウェブ通帳」に変更するだけでも条件を満たすので、日本の三大銀行で一番簡単に無料利用ができる。2008年(平成20年)10月6日より、One's plusは、SMBCポイントパックに、One'sダイレクトはSMBCダイレクトに改称されている。
平成29年10月1日に、SMBCポイントパックのサービス内容が改定され、上記の条件のうちローンの借り入れ、カードローンの契約が対象外となり、SMBCデビットの契約が条件に加わった。また、コンビニATMの手数料無料回数が月3回になった。さらに、15歳となる誕生月の初日~25歳となる誕生月の末日の間は、無条件で上記の優遇が受けられる。
SMBCポイントバックのサービス内容が改定され2021年7月末判定より優遇サービスの条件が改定になる。また4月5日付でコンビニATM手数料を改定する。
今まではいずれか1つの条件を満たしていればコンビニATMの手数料無料回数が月3回ついていたが、改定後は実質ステージ制方式になり
お取引状況に応じて最大3回に変更される
詳細は
なお、この契約がされている普通預金(総合口座普通預金を含む)は、「残高別金利型普通預金」となっており、口座残高に応じて、利息の利率が変動する。
この新しいOne's plus(現・SMBCポイントパック)に、One'sダイレクト(現・SMBCダイレクト)と三井住友VISAカード、および特典を付加した「SMBCファーストパック」が同日から提供される。これに伴い、類似の現行商品「One's Style」は、2007年3月12日から新規申込みが終了されるが、「One's Style」の特典は基本的に「SMBCファーストパック」に引き継がれ、むしろ、三井住友VISAカードの年会費が永年無料になったり通帳発行型も選択可能になったり40歳以上の個人顧客も申し込みが可能になったりするなど、「SMBCファーストパック」のほうが特典が拡大している。
ただし、クレジットカードの年会費については、2011年(平成23年)2月1日に規定が改定され、永年無料は従前からの利用者を含め条件付となっている。
前述の「One's Style」は、2016年7月11日を以て廃止される。セットになっている物を一つも解約していない場合(ひとつでも、解約があった場合は、「One's Style」自体が解除という扱いとなる)は、基本は「SMBCポイントパック」がそのまま適用され、クレジットカードの年会費は徴収されるが、「SMBCファーストパック」に切り替えた場合は、取引により、年会費の優遇が受けられる場合がある。
2018年3月1日からSMBCデビット(Visaデビット)一体型キャッシュカード及び三井住友VISA SMBC CARDの取扱を開始したことにより店頭での新規受付が停止された(SMBCダイレクトでの切替は可能)
近年、地方銀行・第二地方銀行との提携による外貨宅配サービスの受託を行っているが、これまでこのサービスを主に手がけてきた香港上海銀行在日支店が、2010年(平成22年)までにMoneyportの受託を順次打ち切り、最終的に同年までに終了させたため、当行がその受託をこれまでHSBCと提携してきたほとんどの地銀・第二地銀の受け皿となっている。なお、日本円に戻すサービスも行っているが、こちらについては、SMBC以外へ振り込みを依頼してもSMBC宛に振込を依頼した場合と手数料が変わらないよう優遇している。
2019年4月1日をもって、地方銀行との提携も含め、外貨宅配サービスの取扱を終了し、以降はトラベレックスジャパンへの取り次ぎとなっている。
三井住友銀行では、2006年(平成18年)3月13日より貯蓄預金と新型通知預金《Can》の新規口座開設を停止した。
貯蓄預金の口座開設停止については、都市銀行ではりそな銀行・埼玉りそな銀行に次ぐ対応であった。
この対応以後、三井住友銀行では現在、普通預金と貯蓄預金とで利率が同率に設定されているが、それでも、利息決算日の点で異なる商品となっている(下記「利息決算日」を参照)。
なお、残高別金利型普通預金『One's plus』は、登場当初より、普通預金の特徴に貯蓄預金の元来の特徴である優遇金利を組み合わせた特徴も持ってきたが、利用状況によっては「ワンズプラス利用料」として月210円徴収されることもあった。これについては、貯蓄預金の口座開設を停止してからほぼ1年が経過した2007年(平成19年)2月21日から無料である。
2010年(平成22年)9月27日を以って、テレビ電話を利用したコンサルティングマシン「Bank TV」が廃止された。最終的な設置拠点は、セブン銀行の有人拠点6ヶ点とアットバンクが設置されたドコモショップ3店舗であった。全拠点で住宅ローンおよび資産運用の相談に対応しており、加えてドコモショップ設置分では、ドコモの通話料金の口座振替申し込みと普通預金の口座開設(口座店は、いずれも東京営業部に固定されていた)が可能であった。
普通預金およびSMBCポイントパックは2月・8月の第3日曜日の翌営業日付、貯蓄預金は毎月第3日曜日の翌営業日付で利息が付与される。利息決算日はそれぞれ、利息が付与される日の前日である。
毎月25日と26日は、口座の預金残高に関わらず、8時45分以前と18時以降もATM時間外手数料が無料である。但し、三井住友銀行のキャッシュカード利用時のみが対象。25日が土曜・日曜・祝日と重なる場合はその前の窓口営業日、26日が土曜・日曜・祝日と重なる場合は、その次の窓口営業日が終日無料。
また、戦略的提携により「店舗外」の三菱UFJ銀行ATMで自行と同様に使うことができる。対象のATMかどうかは現地のATMにおいて「有料」になるか「無料」で使えるかのステッカーが貼り出されているが、ホームページでATMを検索する際にも絞り込むことで確認ができる。これによりATMの統廃合が進んでいる。通帳記帳は双方の銀行のみでしかできない。
2021年4月5日、コンビニATMの利用手数料の改定が行われた。自行ATMの利用が高くなる毎月25日と26日(25日が銀行休業日にあたる場合はその前の営業日、26日が銀行休業日にあたる場合はその翌営業日)は日中時間帯の手数料無料化および早朝・夜間時間帯の手数料の値下げが行われ、逆に通常日は手数料が値上げされた。
手数料体系は以下の通りで、消費税込み、取引1件あたりの手数料となる。
なお利用できる取引は預け入れ、引き出し、キャッシュカードによる電信振込(イーネットATM、ローソン銀行ATM)である。セブン銀行ATMではキャッシュカードによる電信振込はできない。
北山会長は2010年(平成22年)末に、主要メディアへのインタビューに応じ、三井住友フィナンシャルグループの業務純益ベースで、国債売却益など市場部門を除いた利益に占める海外事業の比率を、最大50%程度まで高める方針との考えを示した。2010年上期の、市場部門以外の業務純益に占める海外事業の割合は約22%であり、2012年度までにまずは30%に増やすことを目指す意向。その他、インタビューからの主な抜粋は以下の通り。
(%)は出資比率
他行に先駆けて開拓した分野が中小企業向けビジネスローンである。ビジネスセレクトローンという名称の商品は、年商10億円程度までの小企業向け無担保ローンで、原則として最大5000万円、期間は3年程度であり、これまで保証協会の保証貸金しか融資を受けられなかった中小企業の資金繰に旋風を起こした。
銀行での審査方法も、2期分の決算書と各種公的証明書から、過去のデータに基づき、適切な金利と金額を算出するという割り切ったもの。同趣旨のクレセルローン(ビジネスセレクトローンより若干規模の大きい会社を対象)含めて、貸出残高は2兆円に迫り、他行の追随を許さない。
またインターネット上で、融資審査に必要な財務諸表を、e-Taxの確定申告データで電子送付するWeb申告データ受付サービスを利用することを条件に、融資時の利率の優遇を行うWebレポートローンという画期的な商品もある。
金融業等
業務管理・事務受託等
三井グループと住友グループ以外の企業を記述
運輸
製造
建設・不動産
鉄鋼・エネルギー
化学
消費財
商業・サービス・商社
マスコミ
金融
三井住友銀行は、オリエンタルランドを設立した当時の三井グループに所属していた三井銀行の流れを受け、東京ディズニーランド・東京ディズニーシー内に唯一 出張所を設置している。これは、同じ三井グループに所属する三井不動産が、旧・三和銀行系の鉄道会社である京成電鉄との合弁で東京ディズニーリゾートの運営母体であるオリエンタルランドを設立したことが主な要因とされている。
東京ディズニーシー内にある出張所は「日本橋支店 東京ディズニーシー出張所」という名称の無人ATMコーナーとなっているが、東京ディズニーランド内にある「浦安支店東京ディズニーランド出張所」(店番号593)では会社ロゴ入りの看板が掲示されているほか、三井住友銀行の行員も配置され、通常の窓口業務を行っている。口座開設も可能であり、開園後数年間は顧客も限定されていなかったが、現在は浦安市民や関係者に限られている。また、ディズニーランド出張所では以前、外貨両替の取扱も取り扱っていた。
ディズニーキャラクターは、日本にディズニーランドを誘致する際に三井不動産と同じ財閥系不動産デベロッパーである三菱地所(三菱グループ)も名乗りを上げており、その一環で三井銀行と同じ都市銀行である三菱銀行が1962年に同行のイメージキャラクターとして採用していたため、半世紀以上経過した2019年現在でも、その後身企業である三菱UFJ銀行が引き続き起用している(ちなみに三菱UFJ銀行はオリエンタルランド敷地内(イクスピアリを含む)に支店・ATM共に設置していない)。
テレビ番組
ラジオ番組
発足当時の2001年から数年間は、前身の一つであるさくら銀行が採用していた「ドラえもん」をマスコットキャラクターとして採用していた。(住友銀行もさくら銀行が採用する以前にドラえもんをマスコットキャラクターに採用している時期があった)
2014年からは、カワウソを模したミドすけというオリジナルキャラクターが使われている。体は緑色で、首には当行のシンボルマークであるライジングマークに似たスカーフを巻いている。デザインは合田経郎(株式会社ドワーフ)、プランニングは電通。当初は公式LINEアカウントを中心に使用されていたが、後にCM(声: 堂島孝平)やキャッシュカードやデビットカードの券面デザイン、銀行利用者向けグッズとしても使用されるようになった。
身長66.6 cmで、両親と祖父母もいる。「ひょんなことから人間の世界に棲みついた」という設定。
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拡張子
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拡張子(、英: filename extension)とは、ファイルの種類を識別するためにファイル名の末尾につけられる文字列。
通常、ファイル名の本体と拡張子は "."(ピリオド、ドット)で区切られる。拡張子はアルファベットと数字の組み合わせで、歴史的には3文字以内が好まれたが、4文字以上や2文字以下の場合もある。拡張子は、オペレーティングシステム (OS) においてファイルの判別のために任意につけられるもので、必ずしも必須ではない。拡張子が適切でない場合は、システムまたはアプリケーションソフトウェアの動作に影響を及ぼす場合がある。 .tar.gzのように複数のピリオドで区切っているケースもあるが、最後のピリオド以降を拡張子と判断するシステムが一般的である。
Mac OSでは、OSレベルでは各ファイルに埋め込まれたクリエータとファイルタイプで識別するシステムを持っている。macOSでは拡張子も利用して動作するようになり、Mac OS X v10.4 TigerからはUniform Type Identifier (UTI) なる枠組みでデータの種類を判別するようになった。
Unix系OSではファイル名の終端でファイルの種類を表す慣習があり、一般にはsuffixと呼ぶが、必ずしもピリオドで区切るとは限らない。カンマで区切る「,v」(バージョンの差分情報などを格納するRCSファイルの末尾につけられる)や、特に区切り文字を使わずに「-」や「~」や「rc」を付けるケースもある。これはあくまでも整理上の便宜であってシステム上意味はない。ただしmakeコマンドがsuffixに基づいたルールに従って動作したり、lsコマンドが色分けして表示するようなケースはある。またデスクトップ環境であるKDE、GNOME、CDE等も拡張子に基づく動作をする。
OS以外では、MIMEタイプの設定に拡張子を利用していることなどがあげられる。Apache HTTP Serverはindex.ja.htmlとindex.html.jaの両方を「日本語(ja)のhtmlファイル」と判断する。最後尾でなくても拡張子として判断する一例である。
こうしたことから、かつては一部のシステムのみの概念だった拡張子は、現在は広い範囲で使われていることがわかる。
拡張子は、もともとはDECのオペレーティングシステム (OS) 、たとえば、TOPS-10、OS/8やRT-11に利用されていた。その後、CP/Mでも採用された。CP/Mのファイル名は8+3バイトの構成になっており、後ろの3バイトが拡張子と呼ばれた。さらにCP/Mと互換性を取るため、MS-DOSやOS/2、Windowsなどに受け継がれた。現在のWindowsでは3バイトの制限はない。
Windowsには、拡張子とアプリケーションの関連付けという機能があり、拡張子の種類によってそのファイルを処理するアプリケーションを選択することが可能である。ただし、設定次第でファイル名の拡張子を表示しないようにできるため、コンピュータウイルスなどがこれを悪用する場合がある。例えばLOVE-LETTER-FOR-YOU.TXT.vbsという名前のファイルはそのような環境ではLOVE-LETTER-FOR-YOU.TXTとのみ表示され、一見テキストファイルに見える。これをテキストファイルだと思って実行すると、実際にはVBScriptが起動し、ウイルスなどの被害に遭う。
また、一部のWindowsではUnicodeの制御文字の一つであるU+202E (RIGHT-TO-LEFT OVERRIDE) をファイル名に使用することで、拡張子を末尾以外の場所に表示させることが可能である。例えばSAMPLE-(U+202E)TXT.EXEというファイル名はSAMPLE-EXE.TXTと表示され、一見テキストファイルに見える。これをテキストファイルだと思って実行すると、実際にはEXEファイルが実行されることになり、前記同様の問題が発生する。このように、拡張子を誤読させる他要因との複合技で問題を生ずることもある。
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ステンレス鋼
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ステンレス鋼(ステンレスこう、英: stainless steel)とは、鉄に一定量以上のクロムを含ませた腐食に対する耐性を持つ合金鋼である。規格などでは、クロム含有量が 10.5 %(質量パーセント濃度)以上、炭素含有量が 1.2 % 以下の鋼と定義される。単にステンレスとも呼ばれ、かつては不銹鋼(ふしゅうこう)と呼ばれていた。1910年代前半ごろに発明・実用化された。
ステンレス鋼の腐食に対する耐性(耐食性)の源は含有されているクロムで、このクロムによって不働態皮膜と呼ばれる数ナノメートルの極めて薄い皮膜が表面に形成されて、金属素地が腐食から保護されている。不働態皮膜は傷ついても一般的な環境であればすぐに回復し、一般的な普通鋼であれば錆びるような環境でもステンレス鋼が錆びることはない。ただし、万能な耐食性を持つわけではなく、特に孔食、すきま腐食、応力腐食割れといった局部的な腐食は問題となり得る。特に塩化物イオン環境には注意を要する。また、ステンレス鋼は高温腐食に対しても耐性が高く、耐熱鋼としても位置づけられる。
一口にステンレス鋼と言っても、実際には多様なステンレス鋼の種類が存在しており、耐食性がより高い鋼種、高強度な鋼種、磁性を持つ鋼種、非磁性(常磁性)の鋼種、極低温でも脆化しない鋼種などがある。特に主要金属組織をもとにして「オーステナイト系ステンレス鋼」「フェライト系ステンレス鋼」「マルテンサイト系ステンレス鋼」「オーステナイト・フェライト系ステンレス鋼」「析出硬化系ステンレス鋼」の5つで大別されている。クロム以外にも、ニッケルを筆頭に、特性向上のために様々な元素が添加される。
ステンレス鋼の製造上は、炭素の効率的な除去が特に重要なポイントとなる。成形、溶接、切削といった加工上も、普通鋼とはいくらか異なる面がある。日用品から産業用に至る幅広い分野でステンレス鋼が使われており、耐食性により金属素地を露出して利用可能なため、意匠的な利用も多い。
ステンレス鋼とは、鉄にクロムが一定量以上添加された錆びにくい合金の一種といえる。鉄鋼材料の中では、高合金鋼または特殊鋼に位置づけられる。後述のように、含まれるクロムがステンレス鋼の耐食性の主たる源で、現在の国際的な定義では、ステンレス鋼は「クロム含有量が 10.5 % 以上、炭素含有量が 1.2 % 以下の合金鋼」と定められている。
このステンレス鋼の定義は、国際統一のために1988年に世界税関機構によって導入され、現在に至っている。国際標準規格 (ISO) や 日本産業規格 (JIS) でも、同様の定義が現在では採用されている。以前は、クロム含有量が約 12 %以上で十分な耐食性が発揮されると認識されており、ステンレス鋼に必要なクロムの最低含有量は約 13 % や約 12 % などとされていた。技術の向上によって炭素、窒素、硫黄などの耐食性を低下させる元素の含有を減らせるようになったため、定義上のクロムの最低含有量が 10.5 % で十分となった。
「ステンレス鋼」という名は、英語の名称 "stainless steel" の音訳に由来する。stainless steel という名は、ステンレス鋼を最初に実用化した一人であるイギリスのハリー・ブレアリーによって、より正確には、ブレアリーの鋼の耐食性を確認した刃物技師のアーネスト・スチュアートによって名付けられた。1914年にスチュアートがブレアリーが開発した鋼を「より変色しにくい (stains less)」と評した記録が残っており、それがステンレス鋼に対して「ステンレス」という言葉が使われた最初だと推定される。
日本語では、かつては「不銹鋼(ふしゅうこう)」という名でも呼ばれていた。現在では、短く「ステンレス」と呼ぶことも多い。業界用語として、さらに省略して「ステン」と呼んだり、ステンレス鋼のJISの材料記号がSUSであることから「サス」と呼んだりもする。
ステンレス鋼が発明、実用化されたのは、20世紀初頭の1910年代のことである。18世紀に元素としてのクロムが発見され、19世紀中にステンレス鋼発明につながる多くの重要な基礎研究成果があり、それらをもとにステンレス鋼の発明が達成できたといえる。1900年代には、フランスのレオン・ギレやドイツのフィリップ・モンナルツが鉄・クロム合金についての特筆すべき学術的成果をまとめ、ステンレス鋼発明の土台が整いつつあった。
後述のように、ステンレス鋼は金属組織別に大きく5つに分類される。1912年、オーステナイト系ステンレス鋼がドイツのベンノ・シュトラウス(ドイツ語版)とエドゥアルト・マウラー(ドイツ語版)によって発明された。そして1913年、マルテンサイト系ステンレス鋼が、上述のイギリスのハリー・ブレアリーによって発明された。フェライト系ステンレス鋼もこの頃に発明されたが、フェライト系ステンレス鋼の場合は誰を発明者とするかは決め難い。フランスのアルバート・ポートヴァン(ドイツ語版)、米国のクリスチャン・ダンチゼン、米国のエルウッド・ヘインズ(英語版)などがフェライト系ステンレス鋼の発明者として挙げられる。以上のようにステンレス鋼には多くの発見者・発明者が居たが、ステンレス鋼の発明者として一人を挙げるときにはハリー・ブレアリーの名を挙げることが多い。
実用化後から、ステンレス鋼は耐食性およびその他特性を活かして、産業用から家庭用まで様々な用途で需要を伸ばしてきた。新たな機能・特性を持った鋼種の開発が行われ、ステンレス鋼の種類も豊富に増えていった。オーステナイト・フェライト系ステンレス鋼は1930年代に、析出硬化系ステンレス鋼は1940年代に実用化された。同時に、ステンレス鋼の量産化と生産技術の向上も進められてきた。特に、1940年代の酸素脱炭法のステンレス鋼製造への適用、さらに1960年代後半のVOD法とAOD法の発明は、ステンレス鋼の生産性・品質を大きく向上し、製造コストを低下させた。1950年から2019年までの統計によれば、ステンレス鋼の全世界生産量は平均 5.8 % で増加を続けてきた。近年でも、製造法の改良や開発、耐食性・強度・加工性を改良あるいは兼備した鋼種の開発、省エネや省資源化を目指した鋼種の開発などが続けられている。
ステンレス鋼に添加される合金元素は、定義のようにクロムを必須とする。さらに、各種特性向上のためにニッケル、モリブデン、銅、ケイ素、窒素、アルミニウムなどの他の元素も添加される。また、リンや硫黄は場合によっては有効な含有物だが、基本的に有害な不純物元素であり、普通はこれらは製造上できるだけ取り除かれる。炭素は、ステンレス鋼の耐食性を落とす不純物であるが、一方で、強度向上に寄与する有用な元素でもある。一部の種類を除いて、ステンレス鋼は0.01桁%–0.001桁%といった低い炭素含有量となるよう製造されている。
ステンレス鋼の金属組織をミクロに観察すると、金属組織を主に占めている相の種類には、体心立方構造のフェライト、体心正方構造のマルテンサイト、面心立方構造のオーステナイトの3つが存在する。こういった合金の金属組織は、含有する化学成分の種類と濃度(組成)、加熱・冷却・一定温度保持などの材料が受けた熱履歴、および加工履歴などによって決まる。フェライト、マルテンサイト、オーステナイトは結晶構造がそれぞれ異なっており、結晶構造の違いがステンレス鋼の材料特性の違いとなって現れる。特に物理的性質と機械的性質が、金属組織の種類によって変化する。
フェライト、マルテンサイト、オーステナイトという3つの相は鋼全般で存在する相だが、鉄・炭素の2つから成る単純な鋼では、オーステナイトは高温のみで現れる相であり、常温で組織がオーステナイトになることは普通はない。常温でオーステナイトを主要な相とする鋼種があることは、ステンレス鋼の特徴の一つといえる。
ステンレス鋼の基礎となるのが、鉄・クロム系の状態図である。2成分系合金の状態図とは、縦軸に温度を取り、横軸に2つの元素の質量比を取り、温度と質量比によって決まる熱力学的平衡状態の金属組織を示す図である。鉄・クロム系2元状態図によると、クロム濃度 0 % のとき約 900–1400 °C の範囲で組織はオーステナイトとなる。クロム濃度を 0 % から増やすと、オーステナイトが存在する温度域は狭くなっていき、ついにはオーステナイトは存在しなくなり、組織は融点までフェライト単相となる。このように、濃度を増やすとフェライトが生成する方に寄与する元素を「フェライト生成元素」「フェライト形成元素」「フェライト安定化元素」などと呼ぶ。クロムの他にも、フェライト形成元素にはモリブデン、チタン、ニオブ、ケイ素などがある。
一方、鉄・クロム系2元状態図上では、高温でクロム濃度が低い範囲まではオーステナイトが存在する。この高温域にあるオーステナイト(γ)の存在領域を「γ ループ」などと呼ぶ。鉄・クロム系に炭素もわずかに加わったような場合を想定すると、γ ループより低い温度では、オーステナイトは共析反応でフェライトと炭化物へと分解される。しかし、γ ループから組織を急冷した場合、組織はマルテンサイトに変わる。すなわち、急冷によって共析変態が阻止されてマルテンサイト変態が代わりに起こる。生成されたマルテンサイトには炭素が過飽和に固溶されており、組織中に転位が高密度に存在した状態となる。これによって、マルテンサイトは高い強度と硬度を持つ組織となる。
フェライト生成元素とは逆に、濃度を増やすとオーステナイトが生成する方に寄与する元素を「オーステナイト生成元素」「オーステナイト形成元素」「オーステナイト安定化元素」などと呼ぶ。ステンレス鋼に加えられるオーステナイト生成元素の代表例がニッケルである。鉄・ニッケル2元系の状態図を見ると、ニッケル濃度が高いほどオーステナイトの領域が広がっていく。鉄・クロム・ニッケルの3元系で考えると、γ ループの領域が大きくなっておく。このようなオーステナイト生成元素を利用し、ステンレス鋼の特定の種類では常温でもオーステナイト組織のままとすることができる。オーステナイトの組織は、高い延性、非磁性などの特徴を持つ。ニッケルの他には、炭素、窒素、コバルト、マンガン、銅などがオーステナイト生成元素である。
以上のようなフェライト生成元素とオーステナイト生成元素の量が、ステンレス鋼の組織を主に決めている。フェライト生成元素とオーステナイト生成元素の量から決まる主要相を図示したのがシェフラーの組織図(ドイツ語版)である。これは、横軸をクロム当量(フェライト生成元素)、縦軸をニッケル当量(オーステナイト生成元素)として組成と組織の関係を示したもので、クロム当量 (Creq) とニッケル当量 (Nieq) とは、
のような形で、クロムのフェライト生成能あるいはニッケルのオーステナイト生成能と同じになるように重み付けし、各々の元素含有量を足し合わせたものである。ここで、%X で元素 X の質量パーセント濃度を意味する。シェフラーの組織図は、元々は溶接時の溶着金属の組織に対するものだったが、組成からステンレス鋼の相を予測するのに実用上も有効である。当量からステンレス鋼の組織を予測する手法については、シェフラーの組織図以外にも様々な手法が提案されている。
ステンレス鋼には、現在では多くの種類が存在している。用途・目的に応じて、適当な鋼種を選択することが重要である。大別分類としては、主要成分別と金属組織別がある。さらに細かくは、規格で分類・指定されている。
ステンレス鋼に含まれる合金元素としてはクロムが欠かせない。さらに、ニッケルを主要合金元素として含むステンレス鋼も主流である。主要な合金元素がクロムのみであるステンレス鋼、主要な合金元素がクロムとニッケルのステンレス鋼、これら2つを
という。クロム系ステンレス鋼とクロム・ニッケル系ステンレス鋼の2種類が、主要成分による大別分類として定着している。
ただし、主要合金元素の組み合わせとしては、クロム系とクロム・ニッケル系以外もあり得る。かつて日本産業規格にあった SUS200 番台のステンレス鋼などはニッケルを減らしてマンガンも主要成分としているので、Cr-Ni-Mn系のステンレス鋼といわれる。ステンレス鋼の主要成分は金属組織の決定に直結し、後述の組織別分類にも関わってくる。
前記のように、金属組織の状態は材料特性に特に影響する。そのため、金属組織別にステンレス鋼を大別するのが学問的にも順当で、材料特性を理解しやすい。常温における金属組織によって大別すると、ステンレス鋼は以下の5つに分類される。
この中で析出硬化系ステンレス鋼は主要な相ではなく組織の析出硬化の有無による分類なので、その母相にもとづき「マルテンサイト系析出硬化型ステンレス鋼」「オーステナイト系析出硬化型ステンレス鋼」のようにさらに細分もされる。
以下、特に断りがない限り、「マルテンサイト系」「フェライト系」「オーステナイト系」「オーステナイト・フェライト系」「析出硬化系」という表記は上記の5種類を指す。
マルテンサイト系ステンレス鋼とは、常温でマルテンサイトを主要な組織とするステンレス鋼である。高温ではオーステナイト単一組織、またはフェライトが少し混じったオーステナイト組織で、その状態から急冷して焼入れを行うことによってマルテンサイト変態を起こしてマルテンサイト組織にする。焼入れ後は、残留応力の除去や靭性の回復を行うために通常焼戻しを行う。
マルテンサイト系のクロム含有量は一般的に 11 % から 18 % 程度で、クロム系ステンレス鋼の一種に分類される。また、他のステンレス鋼と異なり炭素を積極的に含むのがマルテンサイト系の特徴で、0.15 % から最大 1.2 % の炭素がマルテンサイト系に含有される。ステンレス鋼の中では、クロム含有量が比較的少なく炭素含有量が比較的多いという組成となっている。「13Cr鋼」や「13クロムステンレス」など呼ばれるクロム量約 13 % の鋼種が、マルテンサイト系の代表的な鋼種である。焼入れではなく完全焼なましを施した場合のマルテンサイト系の組織は、炭化物を多く含むフェライト組織となる。
フェライト系ステンレス鋼とは、常温でフェライトを主要な組織とするステンレス鋼である。高温ではフェライト単一組織またはオーステナイトが少し混じったフェライト組織で、焼入れ処理をしても相変態が起きない。
フェライト系のクロム量にはおよそ 12 % から 30 % 程度までの種類がある。マルテンサイト系と同じくニッケルを主要合金元素として含まず、クロム系ステンレス鋼に分類される。「18%Cr鋼」や「18クロムステンレス」など呼ばれるクロム量約 18 % の鋼種が、フェライト系の代表的な鋼種である。特に、炭素および窒素の含有量を 0.03 % 以下のような極低量まで低減し、さらにチタンやニオブなどの炭化物安定化元素を添加し、性能を高めたフェライト系鋼種は「高純度フェライト系ステンレス鋼」と呼ばれる。
オーステナイト系ステンレス鋼とは、常温でオーステナイトを主要な組織とするステンレス鋼である。上記で述べたとおり、通常は常温ではオーステナイトは残存しないが、オーステナイト生成元素を添加することでオーステナイトが安定化して常温で存在可能になる。通常、高温で材料全体をオーステナイト化・合金元素を十分に固溶させ、急冷して完全なオーステナイト組織にする。
オーステナイト系は、主要合金元素としてクロムとニッケルを含むクロム・ニッケル系ステンレス鋼の一種である。「18-8(じゅうはちはち)ステンレス」など呼ばれるクロム約 18 % ・ニッケル約 8 % の鋼種が、オーステナイト系の代表的な鋼種である。オーステナイト系はステンレス鋼全体の中でもっとも広く使われている鋼種で、使用量も種類も多い。
オーステナイト系は常温でも主要組織をオーステナイトとするが、添加される合金元素組成によって存在するオーステナイトの安定度が異なる。オーステナイト安定度が低い場合は、塑性加工が施されたり、低温下に置かれたりすると、一部のオーステナイトがマルテンサイトに変態する。このような鋼種は「準安定オーステナイト系ステンレス鋼」と呼ばれる。一方、オーステナイト安定度が高い場合は加工などを施しても相変態が起きず、このような鋼種を「安定オーステナイト系ステンレス鋼」と呼ぶ。
オーステナイト・フェライト系ステンレス鋼とは、常温でオーステナイトとフェライトの両方が並存する組織のステンレス鋼である。2つの相から成るので「二相ステンレス鋼」などとも呼ばれる。実際のフェライト・オーステナイトの割合は成分と熱履歴によって変わるが、一般的には、それぞれの存在割合がおおよそ同じとなるように製造する。
オーステナイト生成元素とフェライト生成元素の調整によって、オーステナイトとフェライトを並存させる。例えば、ニッケルを 8 % 含むものがクロムを 22 % 以上含むようになると、常温で二相組織を得ることができるようになる。オーステナイト系と同じくニッケルも主要合金元素として含むため、オーステナイト・フェライト系はクロム・ニッケル系ステンレス鋼の一種に分類される。オーステナイト・フェライト系の代表的鋼種の場合で、クロム約 25 %、ニッケル約 4.5 %、モリブデン約 2 % を主要合金元素とする。
析出硬化系ステンレス鋼とは、銅やアルミニウムといった元素を添加して母相に析出させ、析出硬化と呼ばれる材質の硬化現象を起こして用いるステンレス鋼である。一般的に使われている析出硬化系の母相の種類は、オーステナイトとマルテンサイトの2つである。硬化を起こす微細な析出物を母相中に分散・現出させて、析出硬化を起こす。析出物自体は、光学顕微鏡では視認できず、電子顕微鏡などを使って確認できるレベルの大きさである。
ニッケルも主要合金元素として含むため、析出硬化系はクロム・ニッケル系ステンレス鋼の一種に分類される。析出硬化系の代表例が「17-4PH」と呼ばれるマルテンサイトを母相とする鋼種で、クロム約 17 %、ニッケル約 4 % を含み、析出硬化性元素として銅約 4 % を含む。析出硬化系は母相の種類・性質に応じて細分され、「マルテンサイト系析出硬化型ステンレス鋼」「セミオーステナイト系析出硬化型ステンレス鋼」「オーステナイト系析出硬化型ステンレス鋼」の3つが一般的である。
ステンレス鋼の種類は、世界各国の国家規格や団体規格、および国際規格で規定されている。2010年版のISO規格では全191種のステンレス鋼が規定されており、その内、オーステナイト系が98種、フェライト系が34種、マルテンサイト系が33種、オーステナイト・フェライト系が15種、析出硬化系が11種となっている。こういった規格で、化学組成の指定のほか、機械的性質、耐食性などの品質要求が、各鋼種に対して定められている。
ステンレス鋼の規格分類を最初期に規定したのはアメリカ鉄鋼協会(英語版)(AISI)で、3桁の数字と末尾の記号でステンレス鋼の種類を体系付けした。マルテンサイト系とフェライト系には400台を、オーステナイト系には300台を割り当てている。もっとも使用されている18-8ステンレスには「304」という記号が割り当てられている。AISI規格の命名体系はアメリカのみならず世界各国でも採用され、カナダ、メキシコ、日本、韓国、イギリス、ブラジル、オーストラリアなどがAISI規格体系を基にした国家規格を制定している。一方で、国際規格であるISO規格や欧州統一規格であるEN規格は、ドイツのDIN規格の命名体系を採用している。アメリカではAISIは鋼種の規格活動を1960年代に終了しており、アメリカ国内では、AISI規格はアメリカ試験材料協会やアメリカ自動車技術者協会の規格に採用された形で残っている。さらに、金属・合金コードの統一を目指すユニファイド・ナンバリング・システム(英語版)(UNS)でもステンレス鋼についてはAISI規格体系をベースにしている。
18-8ステンレス鋼(JIS SUS304 と同等の鋼種)を例にして、主な規格の材料記号を下記の表に示す。この内、イギリス、ドイツ、フランスなどの規格は、現在ではEN規格に統合されている。
JISを例にすると、ステンレス鋼の指定は以下のような具合である。まず、頭に大まかな分類記号が付く。「SUS」がステンレス鋼材全般(棒材、線材、管材、板材、帯材、形鋼など)を意味しており、他には鋳鋼品を意味する「SCS」や、溶接用ワイヤを意味する「SUSY」などがある。次に、鋼種を指定する記号が続く。これはAISI規格に由来する3桁の数字から成り、さらに意味づけされたアルファベットが数字の後に続くこともある。「SUS304L」であれば SUS304 をより低炭素にした鋼種を意味する。鋳鋼については独自の体系で整理されている。
このような具合に決められた一連の記号によって、満たすべき化学組成および機械的性質の範囲などが指定される。さらに必要であれば、製品形状を示す記号を末尾に付ける。「SUS304-B」であれば SUS304 の棒材を意味し、「SUS304-HS」であれば SUS304 の熱間圧延帯材を意味する。
ステンレス鋼の耐食性は、化学組成、組織の状態、熱履歴によって変動する。優れた耐食性を持ち、「さびない材料」のイメージを一般に持たれるステンレス鋼だが、実際の耐食性は鋼種によって幅広い。海水でも錆びない高耐食なものから、野外に放置すると数日で錆び出すものまで存在する。
特に、耐食性の度合いの決定には化学組成の影響が大きく、各々のステンレス鋼の実際の耐食性は主に化学組成によって決まるといえる。ステンレス鋼の耐食性を向上させるには、有効な合金元素の添加と不純物となる元素の減少が有効である。
主要組織別の分類でいえば、オーステナイト系の耐食性が優れ、マルテンサイト系の耐食性は悪いと、大まかに評される。ただし、このように主要組織別分類で耐食性を大まかに評価できるのは、主要組織が化学組成と熱履歴によって決まっているからである。マルテンサイト系の例でいえば、マルテンサイト系はマルテンサイト組織を得るために、耐食性に有効なクロムを増やすことと耐食性上は不純物となる炭素を減らすことが両立しない。結果的に、マルテンサイト系の耐食性は他のステンレス鋼よりも一般的に劣る。
ステンレス鋼が関わる腐食には、大きく分けて「湿食」と「乾食」という2つの形態がある。湿食は水溶液腐食とも呼ばれ、水溶液の作用で起こる腐食である。乾食は気体腐食とも呼ばれ、高温の気体の作用で起こる腐食である。湿食は典型的な腐食現象で、地球上の金属の腐食のほとんどが湿食で起きている。
炭素鋼が中性の水に浸されると、すぐに錆びが発生し、腐食が進む。一般的に、電気化学的な見地から、腐食はアノード反応とカソード反応の組み合わせによる化学反応と理解される。酸素が溶存する中性の水に炭素鋼が触れると、局所的に以下のアノード反応とカソード反応が起きる。
このように、アノード反応域の鉄が Feイオンとして溶け出ることで、通常は腐食が進む。
一方、ステンレス鋼を同種の環境においても一般に腐食することはない。ステンレス鋼の表面には「不働態皮膜」と呼ばれる特殊な皮膜が形成されており、金属がイオンとなって溶け出て行く上記の反応をこの皮膜が防いでいる。不働態皮膜は化学的に安定かつ緻密に表面を覆っており、仮にステンレス鋼表面が傷つき皮膜が破壊されたとしても、通常は瞬時に新たな不働態皮膜が破壊面で生じる。このように、熱力学的には腐食した状態の方が安定な化学組成であるにもかかわらず、不動態皮膜の存在によって腐食が著しく遅くなり、実質的に腐食しなくなることを「不働態化」と呼ぶ。また、この状態や構造を「不働態」と呼ぶ。特殊な環境であれば、不働態化は普通の鉄でも起きる。例えば、普通の鉄は一定以上の濃度の硝酸水溶液において不働態化して、溶解反応が停止する。ステンレス鋼が普通の鉄と異なる点は、不働態化がより一般的な環境でも起きるということである。これが、ステンレス鋼が高い耐食性を示す理由である。
不働態化の様子は、金属の「アノード分極曲線」から読み取ることができる。アノード分極曲線とは、ある電解質溶液に対象の金属を電極(アノード; 陽極または負極)として浸したときに電極へ流れる電流密度を電極電圧の関数として表した曲線であり、この電流密度の大きさは対象金属の腐食速度と等価である。アノード(対象金属)の電圧を平衡電位から上げていくと、電流密度も上昇していく。アノードが不働態化を起こす金属である場合、ある電位に達した時点で電流密度が頭打ちになり、その電位以上の電圧をかけると電流密度は逆に急激に下がりはじめ、やがて電流密度は低い一定値を示すようになる。この電流密度の低い状態が不働態である。不働態となる直前の電流密度の最高値を「臨界不働態化電流密度」、このときの電位を「不働態化電位」と呼び、また、不働態化した後の低い電流密度値は「不働態維持電流」と呼ばれる。不働態となった後に、さらに電位を上昇させると、ある電位以上で電流密度が再度増える。これは、高すぎる電位に不働態皮膜が溶解してしまい、アノードの表面が活性な状態に戻るためである。
この臨界不働態化電流密度は、金属の不働態化を検討するうえで重要な特性値である。一般に、金属が不働態化するには、臨界不働態化電流密度以上の電流が、対になるカソード反応によって供給される必要がある。カソード反応に対する「カソード分極曲線」も、アノード分極曲線とほぼ同様に測定して得ることができ、カソード分極曲線は対象の環境によって定まる。不働態化が起こるには、不働態化電位に至るまでカソード分極曲線がアノード分極曲線を常に上回り続けて、不働態域まで自発的に電位が上がった平衡状態になる必要がある。よって、臨界不働態化電流密度が低い金属ほど、不働態化しやすい。鉄にクロムを添加すると、クロム含有量の増加にともなって臨界不働態化電流密度と不働態化電位が低くなり、不働態域も広がることが知られている。すなわち、クロムの添加により、あまり酸化性が強くない環境でも不働態化しやすくなる。さらに、クロムの添加により不働態維持電流も小さくなり、不働態はより安定する。これらのクロムの効果でステンレス鋼は耐食性を発揮しており、これがステンレス鋼の定義においてクロムの一定以上の含有を必須事項としている理由である。鉄に添加して有効な不働態皮膜を発生させることができるクロム以外の元素は、現在までのところ見つかっていない。
ステンレス鋼が作る不働態皮膜の詳細は現在も様々な手段による解析が行われており、まだ正確には解明できていない面もある。不働態皮膜の厚さは、組成や環境にもよるが、1–3 nm ないし 1–5 nm と極めて薄い。そのため、不働態皮膜の有無は肉眼では分からない。
ステンレス鋼の不働態皮膜の構造は2層構造となっており、外層側が水酸化物、内層側が酸化物で構成されている。内層酸化物では3価のクロムイオン (Cr) が濃縮されており、ステンレス鋼の素地と皮膜は、酸化物イオン (OH) を介して結合していると考えられている。この内層酸化物が、不動態皮膜の耐食性を主に生み出していると考えられている。解析結果からの一例だが、水和オキシ水酸化クロム (Cr-O-OH-H2O) と呼ばれる錯化合物が主体として皮膜を構成しているというモデルが考えられている。また、不動態皮膜は非化学量論的化合物であり、明確な結晶構造を持たないものとみられている。クロムの量が多いほど、非晶質的な性質をより示す。
ステンレス鋼が弾性変形しても、不働態皮膜もそれによく追従して破壊されることはない。上記でも述べたとおり、もしステンレス鋼表面が傷ついて皮膜が機械的に破壊されても、瞬時に再生する性質を持つ。また、ステンレス鋼の不働態皮膜は半導体型のバンド構造を有し、クロム 20 % 程度までではn型半導体、それ以上ではp型半導体となることも分かっている。
鉄とクロムの2元合金に対して、さらにニッケルやモリブデンなどの他の元素を加わえても、耐食性向上の効果がある。ニッケルは臨界不働態化電流密度と不働態維持電流を小さくし、モリブデンも臨界不働態化電流密度を小さくすることが知られている。しかし、いずれの元素も不働態化電位は高くしてしまう。モリブデンは不働態皮膜中には存在しないとされるが、不働態皮膜の再生を助ける働きをすると考えられている。
腐食の形態を進行範囲の大きさで分けると「全面腐食」と「局部腐食」の2つに分かれる。全面腐食は、表面全体がおおむね均一に腐食して失われていく形態で、局部腐食は、材料の一部分で腐食が局部的に進行する形態である。ステンレス鋼は、その不働態化能力によって全面腐食に対しては比較的強い。ステンレス鋼の腐食による事故・事例の中では、全面腐食によるものの割合は少ない。全面腐食は発生の予測がしやすいため、腐食現象の中では危険性が小さい方である。
ステンレス鋼の全面腐食は、表面が不働態化できず、全面が活性状態となる環境で起きる。アノード分極曲線上でいえば、不働態に移る前の電位に比例して電流が急増していく領域のことを「活性帯」といい、この活性帯で全面腐食が起きる。一度不働態になった金属に対して酸化剤の pH が下がっていくと、あるところの pH 以下で不働態を維持できなくなる。この pH の値を「脱不働態化pH」といい、SUS304 の場合で 2 前後である。ステンレス鋼の全面腐食は、一般的に pH = 2 以下の酸環境で起きる。脱不働態化pH をさらに下げるには、クロム、モリブデン、ニッケルの添加が有効である。主な酸に対する大まかな全面腐食耐食性の傾向を以下に示す。
ステンレス鋼の塩酸に対する耐性は、表にも示すように乏しい。塩酸はステンレス鋼を不働態化させるほど十分な酸化力がなく、全面腐食を引き起こす。ステンレス鋼がもっとも苦手とする環境が塩酸だといえる。希塩酸に対して使われる場合もあるが、塩酸濃度が低い場合でも後述の孔食や応力腐食割れの可能性がある。
硫酸に対しては、中濃度では全面腐食が起きる。十分な高濃度または低濃度の硫酸に対してのみ、ステンレス鋼の使用が許容される。高温化した硫酸に対しても全面腐食が起きる可能性があり、0.5 % 硫酸でも温度が 100 °C で腐食が進む。硝酸については、中濃度およびそれ以下であればステンレス鋼は良好な耐食性を持つ。一方で、高濃度や高温度の硝酸に対しては大きな腐食が起きる。代表的な有機酸である酢酸に対しては、沸点温度になると腐食しないために高耐食ステンレス鋼が必要となる。ただし、実際の酢酸には不純物や共存成分が混じり、それらが腐食を促進する。
アルカリ性環境については、希薄なアルカリ水溶液に対しては不働態化して良好な耐食性を示す。ステンレス鋼で実際に問題となるのは苛性ソーダによる腐食である。苛性ソーダに対してはニッケルが有効で、ニッケル含有量が多いほど耐食性が向上する。クロム・ニッケル系ステンレス鋼の SUS304 の場合で、濃度 50 % 以下、温度 80 °C 以下であれば腐食に耐え、それ以上の条件になると全面腐食が進む。
ステンレス鋼の場合、全面腐食よりも、材料中の一部分で腐食が進む局部腐食の方が実用上の問題となることが多い。特にステンレス鋼で問題となる局部腐食は「孔食」「すきま腐食」「粒界腐食」「応力腐食割れ」などがある。
孔食とは、全体的には腐食が進んでいない状況にもかかわらず材料中の一部分が穴状に浸食する形態の腐食である。具体的な破壊モデルは種々提案されているが、不働態皮膜が電気化学的あるいは機械的に局所的に破壊されると、そこから孔食が発生する。ハロゲンイオンを含む水溶液環境中で孔食は起こりやすく、特にステンレス鋼の場合は塩化物イオン(Cl)を含む水溶液中で孔食が起こりやすい。外部との液交換が難しいピット(孔)中では、ピット中の溶存酸素が消費されて、ピット中は溶解金属イオンが過剰な状態となる。電気的中性を保つために、外部の Cl が電気泳動でピット中に引き寄せられ、ピット内で金属塩化物ができる。金属塩化物はすぐに加水分解して、ピット内部の pH はさらに低下し、ピット内部で腐食が進む。塩化物イオンの場合はこのような機構によって孔食が進むと考えられている。
孔食に対するの耐食性向上には、クロム、モリブデン、窒素、ケイ素、タングステン、レニウムなど添加が有効である。特に、クロムとモリブデンが耐孔食性向上の元素として挙げられる。合金元素量から耐孔食性の指標を計算するものとして、耐孔食指数 (Pitting Resistance Equivalent Number, PREN または Pitting Resistance Equivalent, PRE) が知られている。よく使われる PREN の式は
と表される。窒素(N)の影響力を意味する係数 n の値は研究者によって異なり、n = 16 がよく使われる。ただし、オーステナイト系には n = 30 の方がより適当ともいわれる。フェライト系の場合は n = 0 で計算する。PREN が40以上の鋼種を「スーパーステンレス鋼」と呼ぶ。
また、ステンレス鋼中の非金属介在物は、孔食発生の核となり、有害であることが知られる。特に硫化マンガン(II) (MnS) の介在物が有害である。このため、組成の制御や表面処理による MnS の除去が耐食性改善に有効である。使用上の対策としては、できるだけ Cl 濃度および温度が低い環境で使用することが望ましい。日常生活の例でいえば、台所周りでステンレス鋼に付着した塩や醤油などを放置すると、孔食が発生・進行する恐れがある。
すきま腐食とは、だいたい 0.01 mm 程度の微小なすきまで起こる腐食で、すきま内部で局所的な腐食が進む。ステンレス鋼表面に付着した異物の下から、あるいはボルト・ナット締結部やフランジ継手のような構造上のすきま部から、すきま腐食が起きる。
すきま腐食では閉鎖環境として機能するすきまが最初から存在する点が孔食と異なるが、すきま腐食の腐食進行機構は孔食と本質的には同じである。対策も同様に、クロムやモリブデンの合金元素添加、低 Cl 濃度環境での使用が有効である。また、構造上のすきまができるだけないように配慮することも必要である。
粒界腐食とは、多結晶体中の個々の結晶の境目である結晶粒界で局部的に腐食が進む現象である。ステンレス鋼の粒界腐食は、粒界付近にクロムが欠乏した領域が存在することによって起きる。粒界では、結晶粒内と比較して析出が進行しやすい。また、炭素はクロムと結合しやすい性質を持っている。そのため、ステンレス鋼が高温に加熱されると、ステンレス鋼中の炭素とクロムが結合して粒界でクロム炭化物 (Cr23C6) ができる。生成したクロム炭化物の周辺ではステンレス鋼中のクロムは欠乏する。クロム欠乏帯では 10 % を下回るような低クロム濃度になっており、耐食性が乏しく、そのため粒界腐食が起きる。粒界腐食がひどく進行すると結晶粒の脱落が起き、強度にも悪影響を及ぼし得る。
クロム欠乏帯の発生のように、粒界腐食が起きやすい材質になることを「鋭敏化」という。オーステナイト系の場合、およそ 400 °C から 800 °C の温度域でクロム欠乏帯による鋭敏化が起きる可能性がある。この温度域で短時間でも保持されるとクロム炭化物が析出するため、この温度域を徐冷でゆっくり通過しても鋭敏化の可能性がある。一方で、フェライト系では約 900 °C 以上からの急冷で鋭敏化が起こる。オーステナイト系とフェライト系の温度条件の違いは、組織中におけるクロムの拡散速度、炭素の拡散速度、炭素の固溶量が異なることによる。ただし、フェライト系の鋭敏化は比較的軽微で、特に問題となるのはオーステナイト系の鋭敏化といえる。
ステンレス鋼が素材の状態では、適切な熱処理を施すことによってクロム炭化物は素地に溶けて、クロム欠乏帯を作らずに済む。しかし溶接を行う場合、高温に上昇する溶接箇所の熱影響部で鋭敏化が起き得る。上記の温度条件の違いにより、オーステナイト系では溶接金属から少し離れたところで、フェライト系では溶接金属の直近で鋭敏化の可能性が高い。このように溶接熱影響部で起きる粒界腐食は「ウェルドディケイ (weld decay)」と呼ばれる。
ステンレス鋼の鋭敏化に対する材料側の対策としては、クロム炭化物の元となる炭素の低減が有効となる。また、ニオブやチタンのような、優先的に炭素と安定な化合物を作る合金元素の添加も有効である。溶接上の対策は、できるだけ入熱が小さい溶接条件を選定することである。変形の危険もあるが、溶接後に再度の固溶化熱処理を実施することも対策となる。
応力腐食割れとは、腐食環境に引っ張る力(応力)が重なったときに割れが起きる現象である。引張り強さ未満の応力であっても腐食作用が加わることで割れが発生し、最終的には破断にまで至る可能性もある。広義の応力腐食割れは、アノード反応溶解が割れを助長する「活性経路腐食型応力腐食割れ」と、材料中の水素原子が原因となる「水素脆性型応力腐食割れ」に分かれる。応力腐食割れの事例全体の中でも発生事例が多いのが、ステンレス鋼の応力腐食割れ、特に塩化物環境で起きるオーステナイト系の活性経路腐食型応力腐食割れである。オーステナイト系使用上の大きな問題点の一つが、応力腐食割れといえる。
塩化物環境での応力腐食割れの場合、塩化物濃度、溶存酸素、温度が高いほど割れが発生しやすくなる。高温高圧の塩化物水溶液を扱う熱交換器などで起きるものが、オーステナイト系の応力腐食割れの代表例である。実際の環境で起きたステンレス鋼の応力腐食割れの事例によると、多くは 70 °C 以上の環境温度で起きている。塩化物以外では、苛性ソーダなどの高温アルカリ水溶液でステンレス鋼の応力腐食割れは起きる。
固溶化熱処理されたステンレス鋼であれば、結晶粒内を割れが進む「粒内割れ」が塩化物環境の活性経路腐食型応力腐食割れの形態となることが多い。ステンレス鋼で起こる応力腐食割れの多くは粒内割れである。一方で、ステンレス鋼が鋭敏化していると、結晶粒界を割れが進む「粒界割れ」が生じ得る。粒界割れ型の応力腐食割れの場合は、200 °C から 300 °C の高純度高温水でも発生する。粒界割れ型の応力腐食割れを防ぐためにも、材料の鋭敏化を防ぐことが重要となる。
フェライト系とオーステナイト・フェライト系は、オーステナイト系と比較すると応力腐食割れが生じづらい。ステンレス鋼の中で材料を選ぶならば、対応策としてはフェライト系やオーステナイト・フェライト系が選択肢となる。オーステナイト系の場合は、ニッケル含有量を 40 % 近くまで増やすと実用的なレベルまで耐応力腐食割れ性が高まるが、コストの面からこのような鋼種の選択は難しい。引張応力が大きいほど応力腐食割れは起きやすくなるので、引張応力ができるだけ加わらない設計や施工が望まれる。
水素脆性型応力腐食割れは、単に「水素脆化」や「水素脆性」とも呼ばれる。通常の腐食に起因した水素の侵入を原因とする水素脆性の場合は、その耐食性によって炭素鋼などよりもステンレス鋼の水素脆性は起きづらい。水素燃料機器の材料として、オーステナイト系ステンレス鋼が用いられることが多い。しかし、ステンレス鋼であって、腐食に起因した水素侵入ではないため高圧水素ガス環境下では水素脆性の可能性がある。高圧水素中の水素脆性評価によると、オーステナイト系 SUS316L やオーステナイト系析出硬化型ステンレス鋼 A-286 などのオーステナイト安定度の高い鋼種が脆化しづらく、オーステナイト系 SUS304L やマルテンサイト系ステンレス鋼は脆化を示す。ただし、ステンレス鋼の水素脆性の機構自体がまだ未解明で、結論は得られていない。
異種金属接触腐食とは、異なる種類の金属が接触するときに電池が形成され、電極電位が低くなる方(卑な方)の金属で腐食が進む現象である。不働態化したステンレス鋼は、海水中の腐食電位列に代表されるように、鋼、鋳鉄、銅合金といった他の実用構造材料に対して電極電位の高い側(貴な側)となりやすい。そのため、異種金属接触腐食が起こる場合も、ステンレス鋼側の腐食よりも相手材料側の腐食が問題となることが実用上は多い。
異種金属接触腐食への影響要素としては、両金属の腐食電位列上の関係や面積の比率、電解質溶液の電気伝導率や流速が関係する。特に重要なのが面積比率で、接触する両金属の内の卑な金属の面積が、貴な金属の面積よりも小さければ小さいほど腐食が進展しやすくなる。よくある例はステンレス鋼板を普通鋼のボルトで締結したような事例で、ステンレス鋼板側が貴かつ面積大の状態で、普通鋼ボルト側が卑かつ面積小の状態であるため、ボルトの著しい腐食が起こり得る。
高温の気体の作用で起こる腐食現象の乾食、あるいは高温で起こる腐食現象全般の高温腐食についても、汎用金属材料の中ではステンレス鋼は優秀な耐性を持つ材料だといえる。乾食は、発電所、石油化学プラント、自動車排ガス装置などの高温装置で関係し、主に「高温酸化」と「高温ガス腐食」に分類される。
鉄鋼材料を高温大気中に長時間さらすと、ぼろぼろの表面となることがある。このような現象を高温酸化という。高温大気環境中で生じる酸化現象で、空気中や酸素中の他に水蒸気中や二酸化炭素中でも生じる。ステンレス鋼は高温酸化にも優れた耐性を示す。ステンレス鋼の耐酸化性の源は主にクロムによるもので、クロム含有量が多いほど高温酸化への耐性も向上する。高温酸化が激しくなって使用が困難になる温度が炭素鋼では 500 °C 程度といわれるのに対して、ステンレス鋼では鋼種にもよるが 1000 °C 程度となる。
高温での耐酸化性や耐食性の源は、表面に形成される保護皮膜による。この皮膜は保護性を持つ点では不働態皮膜と同じだが、組成も異なり厚みも大きく、不働態皮膜とは別物である。ステンレス鋼のクロムが 20 % 以上の高含有量になると、酸化クロム(III)(Cr2O3)で出来た保護性のある酸化物皮膜が表面を緻密に覆う。この酸化物皮膜中では金属イオンや酸素イオンの拡散が非常に遅く、ステンレス鋼の高い耐酸化性が得られる。ただし、18 % 未満程度のクロム含有量が低い場合は、緻密で連続した Cr2O3 皮膜は形成されず、FeCr2O4 や Fe(Fe,Cr)2O4 の皮膜が形成されるに留まる。しかし実用的には、SUS410 のような11%クロムステンレス鋼や SUS430 のような17%クロムステンレス鋼も 800 °C ないし 850 °C を使用限度温度として高温酸化環境で使われている。
保護性の Cr2O3 皮膜が欠損・剥離を起こした場合でも、クロム含有量が高ければ直ちに Cr2O3 皮膜を再生できる。他の合金元素としては、ケイ素が耐酸化性を著しく改善する。添加されたケイ素は皮膜層と母材の界面に二酸化ケイ素として塊状または連続層として存在し、Cr2O3 皮膜の形成を助力する。アルミニウムにも大きな改善の効果があるが、クロムとアルミニウムの含有量によって効果が異なり、その挙動は複雑である。例えば クロム 14 % を含むものに対して 0.8 % から 2.0 % のアルミニウムを添加すると、酸化アルミニウム(Al2O3)の皮膜が Cr2O3 皮膜の下に形成される。Al2O3 皮膜自体は緻密で保護性が高いが、この場合は皮膜の剥離を誘発して酸化速度がむしろ大きくなる。さらにアルミニウム濃度が高くなれば、最外層に Al2O3 皮膜が形成されるようになり、酸化速度が著しく小さくなる。逆にアルミニウム含有量が 0.3 % 程度の場合も、Al2O3 粒子が Cr2O3 皮膜の下に分散、内部酸化層となって、酸化速度を減少させる。
上述のように、高温酸化は水蒸気雰囲気中でも生じる。水蒸気中で起こる高温腐食を特に「水蒸気酸化」と呼ぶ。火力発電のボイラーで 500 °C から 650 °C の高温蒸気に晒される管内面などで問題となる。水蒸気酸化の進行は、水蒸気の解離によって発生した酸素分子によって、または水蒸気と鉄の直接反応によって進行するといわれる。水蒸気酸化では、同時発生する水素が皮膜に欠陥を作り、さらに、そこまで温度が高くないため保護皮膜が一様に生成されにくいことや酸素の供給が不十分なことによって、水蒸気酸化中での酸化皮膜は不完全で保護性が低くなりやすい。水蒸気酸化性に大きな影響を持つ合金元素はクロムで、多量添加によって水蒸気酸化への耐性を向上できる。
大気環境以外で生じる乾食は高温ガス腐食と呼ばれる。ステンレス鋼に関わる代表的な高温ガス腐食が、高温硫化、浸炭、窒化、ハロゲンガス腐食などである。
高温硫化は、硫化水素ガスや亜硫酸ガスなどの雰囲気中で起こる。高温硫化の挙動は、高温酸化と同じように、表面にできる皮膜の生成と成長に支配される。高温硫化における皮膜は硫化物によって形成されるが、格子欠陥が多くてイオンが拡散しやすいため、この硫化物皮膜には高温酸化における酸化物皮膜のような保護力はない。実用合金全般を見渡しても、硫化水素ガス雰囲気中での最大の耐用温度は 600 °C が限界といわれる。クロムの添加は硫化を抑制する効果があるため、ステンレス鋼の耐高温硫化性は炭素鋼よりは優れている。クロムの他にはアルミニウムやケイ素の添加が有効で、硫化速度減少の効果を示す。
浸炭は、一酸化炭素、二酸化炭素、炭化水素などの高温ガス雰囲気中で起こる現象で、炭素原子が内部に拡散して炭化物を形成する。窒化は、アンモニア雰囲気などの窒素を含む高温雰囲気中で起こる現象で、窒素原子が内部に拡散して固溶体や窒化物を形成する。浸炭も窒化も材質を脆化させたり、クロム欠乏帯をつくり異常酸化の原因となったりする。浸炭に有効な合金元素には、保護性のある酸化物を形成するクロムとケイ素、炭化物を形成しないニッケルが挙げられる。窒化の場合は、特に有効な合金元素はニッケルで、ニッケル含有量が多いほど耐窒化性が増す。
ハロゲンガス腐食は塩素ガスや塩化水素ガス中で起こる腐食で、激しい腐食性を示す。塩素ガスや塩化水素ガスとの反応で生成される塩化物は低融点で容易に昇華するため、ハロゲンガス腐食の腐食速度は大きい。SUS304の例で、塩素ガス中での耐用温度が約 310 °C、塩化水素ガス中での耐用温度が約 400 °C である。
ステンレス鋼の機械的性質も、その組織の状態と組成によって様々に変わる。多くの種類のステンレス鋼が存在するように、ステンレス鋼の機械的性質も幅広い。一般に、鉄鋼材料の強度・硬度を高める原理には、次の5つがある。
いずれの強化機構も、塑性変形の基となる転位の運動を妨げることで材質を高強度化させる。ステンレス鋼の強度も、これらの強化機構を基礎とする。一方、材質を高強度化すると、一般的に延性・靭性が低下する。延性・靭性が低下すると、材料が破壊されるときに脆性破壊となる。機械・構造物の安全使用の観点からは、強度が高いことだけでなく、靭性が大きいことも望ましい。
ステンレス鋼の機械的性質を評価するのに用いられる指標は、0.2%耐力、引張強さ、伸び、絞り、硬さ、衝撃強さなどである。これらの内の0.2%耐力、引張強さ、伸びは引張試験で測定できる代表的な材料特性で、0.2%耐力は材料の降伏点を代表する 0.2 % の塑性ひずみを起こす応力を、引張強さは材料の強さを代表する最終的な破断を起こす応力を、伸びは材料の延性を代表する破断までに材料が伸びる変形の程度を表す。常温におけるステンレス鋼の各代表的鋼種の0.2%耐力、引張強さ、伸びの例を下記に示す。
ステンレス鋼の中で引張強さ 1000 MPa を超える高強度の鋼種には、マルテンサイト系、析出硬化系、加工硬化させたオーステナイト系の3つがある。マルテンサイト系では、焼入れでマルテンサイト組織となり、強く硬い組織となっている。通常は焼入れ後に焼戻しも行い、マルテンサイト系の最終的な機械的性質は焼戻し温度によって変わる。高炭素鋼種 AISI 440C の例では、2000 MPa 近い引張強さを得ることもできる。析出硬化系は、時効処理によって微細第2相を分散析出させる析出硬化機構によって高い強度・硬度を得ている。マルテンサイト系と比較すると、含有炭素量を減らせるので、耐食性や靭性をそれほど落とさずに済む。オーステナイト系は加工硬化度が大きく、さらに準安定オーステナイト系では塑性変形が加わると加工誘起マルテンサイト変態が起こるため、圧延加工を加えることで高強度・高硬度の特性が得られる。加工硬化で高強度化させた後でも十分な延性・靭性を保っているのも、加工硬化させたオーステナイト系の特徴である。
フェライト系、オーステナイト系、オーステナイト・フェライト系の3つには、熱処理による硬化性がない。フェイライト系は焼なまし状態で使用され、オーステナイト・フェライト系と加工硬化させない場合のオーステナイト系は固溶化熱処理状態で使用される。低炭素鋼と比較すると、フェライト系の降伏応力と引張り強さは少し高めである。フェライト系と比較すると、オーステナイト系は降伏応力が低めで、引張り強さが高めである。オーステナイト・フェライト系の引張強さと降伏応力は、フェイライト系とオーステナイト系よりも高めである。これは、含有元素の影響と、オーステナイト・フェライト系の結晶粒サイズが微細なため起きる粒界強化によるものである。ステンレス鋼の中では、焼きなまし状態のフェライト系のみが応力-ひずみ曲線上で明確な降伏点を示し、他の鋼種は明確な降伏点を示さない。
ステンレス鋼の延性・靭性については、オーステナイト系が特に優れている。炭素鋼やフェライト系の伸びが 20–30 % 程度であるのに対し、固溶化熱処理状態のオーステナイト系の伸びは 45–55 % という値を示す。靭性の指標である衝撃強さにおいても、オーステナイト系が優れた値を示す。
金属が高温環境下に置かれると、一般的に変形抵抗が低下する。しかし、ステンレス鋼は高温でも比較的高い強度を保つことができ、上述のように高温環境下での耐酸化性や耐食性に優れることから、耐熱用途に幅広く利用される。JISでもいくつかのステンレス鋼の鋼種をそのまま耐熱鋼の鋼種として規定しており、ステンレス鋼は耐熱鋼の一種でもある。
オーステナイト系とフェライト系の2つが、耐熱用に供されるステンレス鋼の主流となっている。代表的な耐熱ステンレス鋼でいえば、常温での降伏応力はオーステナイト系よりもフェライト系の方が高いが、およそ 600 °C 以上の降伏応力はフェライト系よりもオーステナイト系の方が高くなる。そのため、より高温で使用する場合はオーステナイト系が、それ以外ではフェイライト系が重宝される。
オーステナイト・フェライト系は、600 °C 以上では、オーステナイト系とフェイライト系の中間的強度を示す。高温強度を向上させる場合、ニオブ、窒素、ケイ素、モリブデン、銅、タングステンなどの固溶強化元素の添加が行われる。マルテンサイト系にもモリブデン、バナジウム、タングステンなどの添加で高温強度を高めた鋼種があり、限定的ながらも強度が必要な個所で使用される。
一般の炭素鋼と同様に、フェライト系、マルテンサイト系が低温環境に置かれると靭性が低下し、脆性破壊を起こすようになる。靭性が著しく低下する温度を延性-脆性遷移温度といい、フェライト系 430 の例では、室温から約 −70 °C までの間で衝撃強さが急激に低下する。しかし、オーステナイト系はこのような低温時にも高い靭性を保つ。鋼種にもよるが、オーステナイト系は −200 °C 以下の極低温でも使用できる。オーステナイト・フェライト系は、低温時に脆性破壊を起こすが、フェライト系よりは延性-脆性遷移が緩やかに起きる傾向にある。
ステンレス鋼の物理的性質は金属組織の種類によってほぼ決まり、さらに合金元素添加量が影響する。フェライト系とマルテンサイト系が類似した物理的性質を持っており、オーステナイト系の物理的性質はそれらとは異なる傾向を持つ。析出硬化系も、最終的に母相がマルテンサイト組織となる鋼種であれば物理的性質はフェライト系とマルテンサイト系に類似する。オーステナイト・フェライト系の物理的性質は、オーステナイト系とフェライト系のおおむね中間に位置する。ステンレス鋼の物理的性質の例を、下記の表に示す。
質量と体積の比である密度は、ステンレス鋼の種類の中で違いは小さく、各々の組成でほとんど決まる。軟鋼と比較すると、ニッケルを多く含むオーステナイト系の密度がやや大きい。ニッケルを主合金元素としないフェライト系とマルテンサイト系は、軟鋼よりもやや小さい。モリブデンのような重い元素を合金元素として含めば含むほど、密度は大きくなっていく。
熱が伝わったときの温度変化の程度を示す比熱も、ステンレス鋼の種類間の違いは小さい。クロム系ステンレス鋼の比熱が軟鋼とほぼ同等で、クロム・ニッケル系が軟鋼よりもやや大きい。
熱の伝わりやすさを示す熱伝導率については、金属材料全般の中でもステンレス鋼の熱伝導率は小さいといえる。フェライト系とマルテンサイト系の熱伝導率も炭素鋼より小さく、オーステナイト系の熱伝導率はさらに小さい。一般に金属の熱伝達は自由電子を通じて行われるため、金属中に不純物が存在すると、電子の運動を阻害して熱伝導率を低下させる。したがって、添加元素が多いほど熱伝導率が低下する。ステンレス鋼の場合、含有するクロムやニッケルによって熱伝導率が小さくなっている。
温度上昇時の体積膨張の割合である線膨張係数は、主に結晶構造によって決まる。フェライト系とマルテンサイト系は軟鋼に近い値を示すが、面心立方構造であるオーステナイト系はそれらの約1.5倍の線膨張係数を示す。オーステナイト・フェライト系の線膨張係数は、フェライト系とオーステナイト系の中間程度となる。
物質の電気抵抗の大きさを示す比電気抵抗についても、その原理は熱伝導率と同じで、含有元素が多くなると抵抗が大きなる。金属材料全般の中でもステンレス鋼の比電気抵抗は大きいといえる。このため、ステンレス鋼は導電用材料には向かない。比電気抵抗はおおよそ熱伝導率と反比例の関係にあるが、析出硬化系は析出硬化熱処理によって組織が複雑化した影響で比電気抵抗がやや大きくなる。
弾性変形に対する抵抗の大きさを示すヤング率は、ステンレス鋼は全般的に軟鋼とおおむね同じである。組成や組織の違いよるヤング率への影響は小さく、ステンレス鋼の中での鋼種間の違いは小さい。非鉄金属材料と比較すると、ステンレス鋼のヤング率は高い部類に入る。
一般的な鉄鋼材料は強磁性材料で、いわゆる磁石にひっつく材料であるが、面心立方格子構造であるオーステナイトは常磁性材料で、強磁場中でもごくわずかにしか磁化しない。このため、オーステナイト系は非磁性材料である。一方、フェライト系やマルテンサイト系は、一般的な鉄鋼材料と同様の強磁性材料である。ただし、オーステナイト系も、加工誘起マルテンサイト変態が起こると磁性を帯びるようになる。オーステナイト・フェライト系は、磁性の強さはフェライト量比率によって変わるものの、基本的に強磁性材料である。
また、機械的性質と同様に、温度によって物理的性質は変化する。低温になるほど、電気抵抗、熱膨張係数、熱伝導率、比熱は小さくなる。密度とヤング率は、低温になるほど大きくなる。
ステンレス鋼の原料には、鉄の他に、合金元素として大量のクロムを必要とし、さらにニッケル、モリブデン、マンガン、チタンなども使う。主な合金元素であるクロムとニッケルは、主にフェロクロムとフェロニッケルとして、またはスクラップとして供給される。フェロクロムとフェロニッケルは合金鉄の一種で、採掘されたクロム鉱石またはニッケル鉱石から製造される。合金鉄は、不純物である炭素が取り除かれている低炭素なものほど価格が高くなる。しかし、後述する精錬技術の発達により、廉価な高炭素フェロクロムと高炭素フェロニッケルも、現在ではステンレス鋼の原料として多量に利用可能になっている。クロムもニッケルも資源が世界に偏在しており、需要供給バランス、産出国の経済情勢、国際紛争、為替レート変動などによって原料価格が大きく変動するため、これら原料の安定確保とコストダウンがステンレス鋼メーカーにとっての課題である。
ステンレス鋼はリサイクルしやすい材料であり、ステンレス鋼スクラップの回収率は高い。2006年の調査によると、生産された約2800万トンのステンレス鋼の内、その原料の約 60 % がステンレス鋼スクラップを利用できている。市場から回収されたスクラップの他に、ステンレス鋼製造過程で生じたスクラップも回収・利用されている。特にオーステナイト系は、高価な合金元素を多く含み、磁性を持つため分別しやすいため、スクラップ活用が進んでいる。
原料としての鉄には、ステンレス鋼スクラップの他に、普通鋼のスクラップも活用されている。集められたスクラップは使用前に成分検査や放射能探知検査が行われる。スクラップは割安だが、価格変動も大きく、供給が不安定といった面もある。
高炉を持つ銑鋼一貫製鉄所がステンレス鋼を製造する場合は、高炉で銑鉄を製造し、予備処理した上で銑鉄をステンレス鋼の原料として用いる場合もある。また、フェロクロムではなく、安価なクロム鉱石を直接の原料にして製鋼する方法も開発・実用化されている。
原料はまず炉で溶解される。ステンレス鋼製造で用いる溶解炉は、電気アーク炉が一般的である。ステンレス鋼スクラップ、フェロクロム、フェロニッケルなどの主原料が電気炉に装入されて溶解される。電気炉内に強力なアークが発生し、原料を溶解する。アーク熱は 3000 °C から最大 3500 °C に達し、原料はおよそ 1550 から最大 1800 °C まで昇温されて溶解される。電気炉の大きさは、一回のチャージ当たり 30 トンのものから最大で 160 トンのものまである。
高炉を持つ銑鋼一貫製鉄所がステンレス鋼を製造する場合は、電気炉ではなく、高炉で溶銑を造り、ステンレス鋼を製造する。高炉による製造は大量生産に向いている。しかし、電気炉によるステンレス鋼製造がクロム系にもクロム・ニッケル系にも利用されているのに対して、高炉によるステンレス鋼製造はクロム系に限られている。高炉法ではニッケルの溶解が難しく、クロム・ニッケル系では電気炉法よりも効率が悪い。高炉の溶銑は数%のレベルで炭素を含有しているような状態であるため、「溶銑予備処理」と呼ばれる工程を本格的な精錬前に行う。溶銑予備処理では、炭素に加えてリンや硫黄の除去も行う。ステンレス鋼では、リンがクロムの活量を低下させるため、溶銑の段階で脱リンしておくことが溶銑予備処理の重要な意義の一つといえる。
溶解の後には、化学組成を調整する精錬と呼ばれる工程が行われる。精錬工程では不純物を除去するが、ステンレス鋼にとっての最大の不純物が炭素である。効率的に脱炭することがステンレス鋼製造における重要なポイントで、このための技術開発が過去から行われてきた。ステンレス鋼の基本的な脱炭は、おおまかに以下のような過程から成る。
しかし、ステンレス鋼特有の高濃度のクロムによって、溶鋼中の炭素の活量は下がっており、一般的な炭素鋼と比べて脱炭が進まない。特に低炭素域ではクロムは炭素と優先して結合し、脱炭反応が阻害される。普通に脱炭を進めると、クロムが多量に酸化してスラグ中に入ってしまう。クロムをスラグから回収するために、高価なフェロシリコンを要することになる。このような事態を避け、効率良く脱炭を進める方法として、脱炭反応時に生じる一酸化炭素ガスの圧力(分圧)を下げることで、クロムの酸化を抑制しながら脱炭反応を進める手法が現在では採用されている。この原理にもとづく精錬法が、AOD法、VOD法、またはこれらを組み合わせた方法である。
AOD法は、Argon Oxygen Decarburization の略で、大気中の溶鋼にアルゴンと酸素の混合ガスを下部から吹き込み、アルゴンガスによる希釈によって脱炭時の一酸化炭素ガス分圧を下げて脱炭する方法である。AOD法の長所は、溶鋼の炭素含有量が高くても脱炭が可能な点である。これによって安価な原料が使用可能で、生産性が高い。VOD法は、Vacuum Oxygen Decarburization の略で、溶鋼を真空減圧下に移して酸素ガスを吹き込み、脱炭時の一酸化炭素ガス分圧を下げて脱炭する方法である。VOD法の場合は、ある程度低いレベルの炭素含有量にしてから適用する必要があるが、一方で最終的な炭素含有量をより低いレベルにすることができる。各精錬過程では、脱炭のほかに、窒素、水素、硫黄、酸素、リンなどの不純物除去や介在物制御も行われる。ステンレス鋼にAOD法またはVOD法を適用したときの、おおよそ精錬レベルの目安を以下の表に示す。
具体的な工程としては、溶解された原料は転炉で精錬され、その後AOD炉やVOD炉などで炉外精錬が実施される。ただし、電気炉法で溶解された場合は、ある程度の精錬がすでに完了しているので転炉での精錬を省略することが多い。VOD法を採用するときには、VOD法適用前に溶鋼の炭素含有量をある程度のレベルまで下げる必要があるため、電気炉法でも転炉での精錬を工程に加えることがある。高炉法で溶解した場合は、ほぼ必ず転炉での精錬を行う。炉外精錬での脱炭完了後には、「仕上げ精錬」と呼ばれる同じ炉のまま所望の組成へ調整する作業が行われる。
精錬を終えた溶鋼は、鉄鋼メーカーから出荷される最終製品形状に適した形へ冷やし固められる。この段階で冷やし固められたものを半製品と呼び、厚板や圧延材生産用のスラブ、形鋼生産用のブルーム、棒材・線材やパイプ生産用のビレットがある。この工程を鋳造といい、大きく分けて造塊法と連続鋳造法の2つがある。造塊法は、インゴットと呼ばれる型に溶鋼を注入して固め、再加熱・圧延して半製品を作る方法である。過去のステンレス鋼は主に造塊法で造られていたが、生産効率の高い連続鋳造法が実現されてからは、一部の特殊な鋼種を除いてほとんどのステンレス鋼が連続鋳造法で製造されている。
連続鋳造の過程に他と異なるステンレス鋼特有の要素はないが、表面品質が特に要求されるステンレス鋼では品質重視の操業が特徴といえる。連続鋳造では、取鍋に入れられて精錬炉から供給される溶鋼が、タンディッシュと呼ばれる容器へ一旦移される。タンディッシュでは、溶鋼中の有害な非金属介在物を浮かび上がらせて除去する。タンディッシュから出た溶鋼は、冷却された鋳型に通され、さらに冷却スプレーを浴びせられ凝固する。凝固したステンレス鋼を、その下に配置されているローラーが連続的に引き抜き、切断機まで送り出す。切断機で所定の長さに切断して、長方体や角材の形の半製品となる。
ステンレス鋼の板や帯を生産する場合、スラブを圧延することによって造られる。ステンレス鋼生産の中でも、鋼板および鋼帯の生産量が圧倒的に多い。圧延とは、回転する2つの円柱(ロール)に材料が挟み込みながら薄く引き伸ばす工程で、材料を再結晶温度以上に加熱する圧延する熱間圧延と、再結晶温度以下(通常は常温)で圧延する冷間圧延がある。
スラブは通常 100 mm 以上の厚みがある。冷間圧延は被加工品が厚いと圧延できないため、スラブはまず熱間圧延される。ステンレス鋼の場合、スラブ表面の欠陥が熱間圧延後も残ってしまうので、熱間圧延前にはグラインダー等でスラブ表面を研削して表面欠陥を前もって除去する。傷取りされたスラブは加熱され、圧延機に通される。熱間圧延機には、タンデムミルやステッケルミルが用いられている。タンデムミルは生産性が高く、普通鋼と兼用する場合などに使われる。ステッケルミルは初期コストが小さい長所があり、ステンレス鋼専用で生産する場合などに使われる。
熱間圧延を終えると、鋼種に応じた適当な熱処理が施され、さらにスケールを除去するために酸洗が行われる。このときの熱処理は、組織の再結晶化と炭化物の固溶化などを目的とする。この状態で製造完了として出荷する場合もある(#圧延仕上げも参照)。熱間圧延で可能な最小板厚は 3 mm 程度が限度で、さらに薄くする場合や、表面を美麗に仕上げる場合は冷間圧延が行われる。冷間圧延で問題となるがステンレス鋼の変形抵抗の高さで、特にオーステナイト系が著しい加工硬化を起こす。このため、20段式ゼンジミアミルがステンレス鋼の冷間圧延に用いられる。ゼンジミアミルは、ワークロールを小径にして大きな圧力によって圧延を可能とし、中間ロールがワークロールのたわみを抑え、強固なハウジングで多段ロールを支える構造を持つ。フェライト系などに対しては普通鋼用の冷間圧延設備を使用する場合もある。
冷間圧延後は、熱処理と酸洗をまた行い、必要に応じて表面仕上げ用の冷間圧延を再度行う。冷間圧延後の熱処理の主な目的は圧延組織の再結晶化である。表面光沢の良い製品にするために、光輝焼なましと呼ばれる無酸活性雰囲気中での熱処理を行う場合もある。この場合はスケールの発生を防げるので、酸洗を省略して圧延ままの光沢を維持できる(#圧延仕上げも参照)。これらの工程の後、研磨、形状修正、脱脂、検査、裁断、梱包などを経て製品が出荷される。ステンレス鋼の場合は外観に対する要求水準が高いため、メーカーと購入者の間で外観の限度見本を取り交わすこともある。
鋼板以外のステンレス鋼の製品形状には、鋼管、鋼棒、線材、形鋼などがある。鋼管には、継ぎ目なしのシームレス鋼管と鋼板を溶接してつくる溶接鋼管があるが、どちらも基本的に普通鋼と同じ製法で造られている。シームレス鋼管、鋼棒、線材は、ブルームまたはビレットから熱間圧延、冷間圧延・引抜きで造られる。形鋼もブルームの熱間圧延から造られるが、まとまった需要が少ないため溶接で造ることも多い。
他の特殊なものとしては、鋳造品やクラッド鋼がある。鋳造は、溶鋼を鋳型に流し込んで直接その形に冷やし固める製法で、複雑な形状の部品などに対して用いられる。ステンレス鋼の鋳造に使われる溶鋼自体は、板などを造る溶鋼とほとんど同じである。鋳造法の基本的な考え方は炭素鋼や低炭素合金鋼鋳鋼と同じだが、溶鋼の流動性が悪い点や合金量の多さによって融点が異なる点などを考慮する必要がある。クラッド鋼は、ある材料を別の材料で全面的に覆って接合させる複合材料の一種で、単体材料では得られない特性を与えたり、単体材料よりも低コスト化させるためなどに用いられる。クラッド鋼の母材は炭素鋼や低合金鋼とすることが多く、それを覆う合わせ材にはステンレス鋼、銅、チタン、ニッケルが使われているが、特にステンレス鋼を合わせ材とするクラッド鋼が市場でも主流である。
金属加工を行う第一歩として、大きな素材から望ましい大きさや形に切り出す切断加工を通常は最初に行う。熱エネルギーを利用して材料を溶かして切断する方法を溶断といい、ガス切断が最も代表的な溶断方法である。しかし、一般的に用いられている酸素・アセチレンによるガス切断ではステンレス鋼を溶断できず、適用不可といえる。ステンレス鋼中に多量に含まれるクロムは燃焼温度が高く、さらに燃焼時に生成される酸化クロムも溶融温度が高い。これらが酸素アセチレン切断による燃焼を妨げて、ステンレス鋼の酸素アセチレン切断を不可能にしていると考えられている。ステンレス鋼用に発達したガス切断法が、パウダ切断と呼ばれる溶断方法である。パウダ切断では、鉄粉を切断酸素に混入させて、その鉄粉の酸化反応熱を利用して切断する。板厚 600 mm までならば、そこまでの技術を要せずにパウダ切断でステンレス鋼を切断可能である。
ステンレス鋼に適用される他の溶断方法には、アーク切断、プラズマ切断、レーザー切断がある。アーク切断は、アークを発生させてアーク熱で材料を溶融する切断法である。アーク切断はステンレス鋼の切断法として発達したものだが、切断面の品質がよくなく、イナートガスアーク溶接を応用した方式のアーク切断を除いて利用は限られている。プラズマ切断は、プラズマガス気流の機械的なエネルギーとアークの熱エネルギーを利用する切断方法で、ステンレス鋼の主要な切断方法の一つである。使用ガスにはアルゴン・水素を使用すると切断面の品質が最もよく、ステンレス鋼でもアルゴン・水素が主流である。プラズマ切断の場合、100 mm を超える板厚まで切断可能である。レーザーを熱源とするのがレーザー切断で、適用板厚は小さいが、高精度な切断が可能である。ステンレス鋼のレーザー切断の場合はアシストガスに窒素がよく使われ、切断面の酸化を起こさずに金属光沢のある断面を得られる。
溶断のほかには、一対の刃で挟んでせん断メカニズムにもとづいて素材を切り落とすせん断加工がある。鉄鋼メーカーが生産したコイルをさらに幅を小さなコイルや平板にするシャーリングや、プレス機械で板を打ち抜く打ち抜き加工がせん断加工に該当する。ステンレス鋼のせん断加工の場合、材料強度が高めのため、普通鋼や軟鋼よりも大きな力を要し、十分な能力を持った機器の選定や刃型の管理がより重要となる。せん断加工では、良好な切断のために、向き合う刃先のクリアランス(すきま)を材質や板厚に応じて適切に設定する必要がある。ステンレス鋼でも種類に応じた設定クリアランスの傾向がある。
他の機械的な切断方法にはウォータージェット切断がある。高速で噴射された超高圧水で素材を切断する方法で、熱影響や加工ひずみがないという長所があり、精密切断などに用いられている。
プレス成形は、ステンレス鋼の板材を様々な形に変形するためによく利用される。ステンレス製品の利用促進には、プレス成形技術の発展の寄与が大きいといわれる。曲げ加工、深絞り加工、張り出し加工、打ち抜き加工、ロール成形、コイニング加工、エンボス加工など、ほとんど全ての成形加工がステンレス鋼で可能である。特に塑性変形能の高いオーステナイト系は、180度密着折り曲げのような厳しい成形や、複数の種類の成形から成るような複雑なプレス成形にも対応できる利点がある。
ただし、普通鋼などと比べると、ステンレス鋼は一般的に強度が高いため加工負荷が大きく、金型の異常摩耗や焼付きも起きやすい。そのため、金型の材料や表面処理、潤滑油の選定がよりきびしくなる。ステンレス鋼では、プレスを離した後に弾性変形分だけ元に戻ろうとするスプリングバックが大きく、特に曲げ加工で所定の曲げ角度を狙うときはこの大きなスプリングバックの考慮が必要である。一般的に、オーステナイト系が大きな加工硬化を起こすためスプリングバックが大きく、オーステナイト・フェライト系も降伏応力が高めのためスプリングバックが大きい。
ステンレス鋼で特に問題となる成形時の欠陥が、オーステナイト系の時期割れ、フェライト系の縦割れやリジングである。成形性を向上させる場合、オーステナイト系の場合に重要なのが加工硬化特性である。オーステナイト安定度を調整して適切な度合いの加工硬化が起こるようにすると、成形性が向上する。フェライト系の場合は、炭素量・窒素量を減らす高純度化とチタンなどの合金元素添加が成形性向上に有効である。
また、ステンレス鋼の場合、その表面の美麗さを商品価値とすることが多い。そのため、成形加工中に表面が損傷しないように特に注意を要する。ステンレス鋼の成形加工では、潤滑油の塗布のほか、表面保護のために樹脂系のフィルムを表面に付けてプレス成形することもある。
鍛造は、鋼塊にハンマやプレスで大きな力を加えて形を作る加工法で、同時に材料内部の欠陥を押しつぶし、結晶粒の微細化なども実現する。一般的には、鍛造前に鋼塊の加熱を行い、熱間または温間で鍛造する。オーステナイト系は、その著しい加工硬化のため、一般的には冷間鍛造されない。線材では、炭素・窒素を極低量化して軟質にし、ニッケルや銅を添加して加工硬化を抑えた鋼種のオーステナイト系を使って冷間鍛造することもある。
また、ステンレス鋼は焼付きを起こしやすいので鍛造時には注意を要する。温間加工時も、炭素鋼などでは表面の酸化物が焼付きを防止する機能を果たすが、ステンレス鋼では高耐食性のため表面が酸化しづらい。そのため、何らかの表面皮膜処理を行って潤滑性を高めることが望ましい。
不要な部分を切りくずとして取り除きながら、所望の形状に作り上げるのが切削加工である。切削加工においては、ステンレス鋼は一般的に難切削材料といわれる。全ての切削加工自体はステンレス鋼に適用可能だが、普通鋼、銅、アルミニウムなどと比較すると切削しづらい。フェライト系と焼なまし状態のマルテンサイト系は炭素鋼に似た切削特性といえるが、加工硬化性が強いオーステナイト系の切削性が特に劣る。快削性の硫黄鋼 AISI B1112 を100 とする被削性指数の例を以下に示す。
材料を溶かして接合する溶接には、アーク溶接を筆頭に多く種類の溶接法が存在する。基本的にはステンレス鋼でも同じ溶接法が用いられる。鋼種による差異はあるが、ステンレス鋼を溶接して接合すること自体に特段の困難はない。ただし、ステンレス鋼は他の鋼と異なる特性を持っている面もあるため、それらの特性に適した溶接法を選択しないと種々の溶接欠陥を生むなどの不具合の原因となる。その意味では、ステンレス鋼の溶接難度は高いといえる。
ステンレス鋼と炭素鋼は物理的性質がかなり異なる面もあるため、溶接上もこれらの性質の違いに配慮が必要である。電気抵抗については次のような影響がある。被覆アーク溶接では、高い電気抵抗のために溶接電流が高いと発熱が著しくなり、溶接棒が焼ける恐れがある。そのため、通常は溶接電流を普通鋼よりもやや低くする。一方、電気抵抗による発熱を利用して溶接する抵抗溶接では、この高い電気抵抗が利点として働き、抵抗溶接に必要な電流が小さくて済む。ステンレス鋼の薄板の接合には、抵抗溶接を利用することが多い。
熱伝導率と線膨張係数については、特にオーステナイト系が炭素鋼と大きく異なるため溶接上注意を要する。熱伝導率が小さいため溶接による熱が逃げにくく、その上、線膨張係数が大きいため熱が入った箇所が大きく伸びようとするため、溶接対象物の変形が起こりやすい。また、このような溶接変形が拘束された結果、比較的大きな残留応力が残り、後の応力腐食割れの原因となることも多い。溶接上の対策としては、固定具を用いる、溶接順序を工夫する、他の熱伝導率の良い金属を裏当てして熱を逃がす等を行う。
上述のように溶接熱による鋭敏化も、ステンレス鋼特有の溶接施工の注意点である。その他の溶接上の問題点としては、オーステナイト系の高温割れ、フェライト系の475°C脆化、マルテンサイト系の低温割れ、オーステナイト・フェライト系のオーステナイト量変化などが挙げられる。フェライト系やマルテンサイト系では、割れなどを防ぐために溶接前に溶接対象物にある程度熱を加える予熱処理を行う。一方で、オーステナイト系は延性に富み、予熱処理がかえって有害になることも多いため、通例は予熱処理を行わない。溶接後に熱を加える後熱処理についても、耐食性を確実にしたいなどの事情がないかぎりオーステナイト系では通例は行わない。マルテンサイト系とフェライト系では延性回復の点から後熱処理を行う。
また、ステンレス鋼と他の金属材料を溶接する異種金属溶接が行われることもある。実際の設計では、経済性も考慮してそれぞれの使用場所に応じて必要な材料を選定するので、必然的に異なる材料との接合も必要となる。母材と溶接材が異なる場合、溶着金属が母材組成によって希釈され、溶着金属の組成が変わってくる。異種金属溶接ではこの点を考慮する必要があり、予想される希釈後の組成をもとに上述のシェフラーの組織図から溶着金属の組織を予測し、適切な溶接材を選択する。ステンレス鋼と異種材溶接可能なのは、多くの他の鋼、ニッケルおよびニッケル合金、銅および銅合金などである。フェライト系とマルテンサイト系を溶接する場合は、フェライト系の溶接材料を用いるのが、オーステナイト系とフェライト系あるいはオーステナイト系とマルテンサイト系を溶接する場合は、オーステナイト系の溶接材料を用いるのが望ましいとされる。
熱処理は、ステンレス鋼の製造過程の最終工程あるいは中間工程として行われる。特にステンレス鋼の場合、その金属組織を最終的に決めるという点において熱処理工程は重要である。熱処理は耐食性、機械的性質、さらには物理的性質にも影響する点でも重要性を持つ。
固溶化熱処理は、主にオーステナイト系およびオーステナイト・フェライト系に施される熱処理である。具体的な温度は鋼種によって異なるが、おおよそ 950 °C から 1150 °C まで加熱した後に急冷する。固溶化熱処理によってそれぞれの目的の金属組織にし、さらに耐食性や機械的性質を回復させる。特に固溶化熱処理には、クロム炭化物や窒化物を固溶させ、鋭敏化を防いで耐食性を確実にする効果がある。析出硬化系の前処理としても行われる。
焼入れと焼戻しは、主にマルテンサイト系に施される。焼入れは、加熱して組織をオーステナイトにした後、冷却して組織をマルテンサイトにする熱処理で、マルテンサイト系には必須の熱処理といえる。JIS SUS420J2 の例で、おおよそ 920 °C から 950 °C まで加熱して油冷する。焼戻しは、靭性を回復するために焼入れ後に引き続いて行われる熱処理で、約 600–750 °C に加熱して冷却する高温焼戻しと、約 150–200 °C に加熱して冷却する低温焼戻しがある。
焼なましは、フェライト系やマルテンサイト系などに施される。 おおよそ 780 °C から 900°C に加熱し、空冷または徐冷する。 フェライト系の場合は、焼なまし後そのまま使用に供される。焼なましによって、靭性向上や加工ひずみ除去を行う。一方、マルテンサイト系の場合は、成形や切削の前段階として焼なまし状態にすることが多い。マルテンサイトにした後では硬くて成形や切削が困難になるため、焼なましによってマルテンサイト系の組織を一旦フェライト組織にする。その後に成形・切削し、それから焼入れ・焼戻しする。また、有害な残留応力を除去する応力除去焼なましなどをオーステナイト系に施すこともある。
時効硬化処理は析出硬化系特有の熱処理で、固溶化熱処理後の材料を加熱・一定時間保持し、析出硬化を起こさせる。高温で時効硬化処理を行えば保持時間は短くできるが、達成可能な強度は低くなる。マルテンサイト系析出硬化型の 630 の例では、470 °C で1時間保持して空冷という条件や 630 °C で4時間保持して空冷という条件が規定されている。
ステンレス鋼の熱処理上気を付けるべき点としては、フェライト系の475°C脆性やσ相脆化、マルテンサイト系の焼戻し脆性などがあり、適切な温度制御が求められる。また、過加熱による結晶粒の粗大化も注意点である。
ステンレス鋼は金属表面を晒して利用可能なため、様々な意匠用途に使われてきた。このため、ステンレス鋼には多くの表面仕上げ方法が開発されている。新しい表面をつくるために、複数の表面処理方法を組み合わすこともある。
仕上げ後の表面状態は、見た目のみならず耐食性にも影響し、この点でも表面仕上げは重要となる。一般的には、表面が滑らかであるほど腐食が起きにくくなるといえる。例えば、グラインダーされたままの表面状態では、同じ環境で比較して本来発揮できるはずの耐食性よりも孔食などの局部腐食が起きやすいといったことがある。
ステンレス鋼の板材は、基本的には圧延仕上げで製造され、市場へ供給される。ステンレス鋼の場合は金属表面のまま利用可能なので、追加の表面仕上げを行わない圧延仕上げのままでも意匠用として利用できる。仕上げ内容を示す記号が規格で割り当てられている。JISまたはASTMに制定されているステンレス鋼の代表的な圧延仕上げについて以下に示す。
他のステンレス鋼向けの圧延仕上げとしては、ダル仕上げやエンボス仕上げがある。どちらも表面に凹凸を持つ圧延ロールで圧延することで、その凹凸を素材表面に転写する仕上げ方法で、ダル仕上げは不規則な凹凸模様を与え、エンボス仕上げは規則的な凹凸模様を与える。ダル仕上げの場合は、鈍く光沢を抑えた落ち着いた見た目になる。エンボス仕上げは、ファッション的な柄模様の見た目にする。
ステンレス鋼の表面仕上げによく使われているのが、研磨を施した仕上げである。研磨仕上げ材は主に外観を装飾する用途に使われ、普段目にするステンレス鋼製の装飾金物や台所用品の多くは研磨仕上げがされている。
研磨仕上げの場合、市場に流通している研磨済み素材を使用する場合の他に、プラントのタンクなどのように設備施工後に研磨する場合もある。研磨仕上げの主な手法は、研磨目を残らせるベルト研磨と鏡面に仕上げることを目的とするバフ研磨の2種類である。硫黄系の研磨油は、研磨後にステンレス鋼表面に硫化物を生成し、耐食性を劣化させることがあるので注意を要する。研磨仕上げも、規格で仕上げ内容を示す記号が割り当てられている。JISまたはASTMで制定されている代表的な研磨仕上げについて以下に示す。
他の研磨方法としては、小物の研磨に用いるバレル研磨や電解液に浸して表面を電解させる電解研磨(英語版)がある。ステンレス鋼の電解研磨には、リン酸、硫酸、硝酸が電解液としてよく使われる。電解研磨と砥粒による機械的な研磨を複合させた手法もあり、より高平滑な表面が得られる。
ステンレス鋼は金属素地を露出させて使うのが一般的だが、ニーズの多様化に応える形で近年では着色したステンレス鋼も利用されている。用途によっては銀色の金属光沢が持つ冷たい印象を嫌う場合もあり、そういった面からも着色が求められる。
ステンレス鋼の着色方法には、後述の塗装のほかに、表面に酸化皮膜を作り、光の干渉色を利用する方法がある。酸化皮膜の厚さを変えることで、干渉色を変えることができる。この方法には様々なものが存在するが、実用的にはインコ法が主流である。
インコ法は、硫酸と酸化クロムの浴に浸漬して発色させる工程と、さらに硫酸とリン酸の浴で浸漬・電解し、酸化皮膜を強固にする工程から成る。できあがる酸化皮膜は「化学発色皮膜」と呼ばれる。化学発色皮膜の組成はクロムに豊み、厚みはステンレス鋼元来の不働態皮膜よりも著しく大きい。ただし、化学発色法による酸化膜は、元来の不働態皮膜と異なり傷ついたら回復しない。浸漬時間に応じて化学発色皮膜の厚みが変わり、厚みが増すにしたがって発色が「ブロンズ → 青 → 金色 → 赤 → 緑」と変わる。化学発色皮膜の厚さは、ブロンズのときに 0.02 μm 程度、緑のときに 0.36 μm 程度である。現在では発色と硬化を分けずに、同じ工程で一度に行う技術も実用化されている。以前の化学発色法は発色の不均一さを克服できなかったが、現在では前処理技術の向上などによって均一な発色も可能となっている。
かつては、ステンレス鋼を使うときにはその耐食性と金属的外観が好まれ、ステンレス鋼を塗装することはほとんどなかった。しかし、近年では塗装がなされたステンレス鋼も多く利用されており、「塗装ステンレス鋼」と呼ばれる。
塗装されたステンレス鋼の見た目自体は、普通鋼を塗装したものと変わらない。ステンレス鋼に塗装を行う理由としては、装飾のためにカラフルな見た目にしたいことの他に、腐食保護の信頼性の高さがある。普通鋼を塗装したものだと、塗膜が欠損したときにそこから現れる地肌に錆が生じるが、ステンレス鋼を塗装した場合、現れる地肌の耐食性が高いため発錆が生じにくい。他の着色法よりも、塗装の加工コストが廉価という長所もある。また、金属的外観を活かしつつも、汚れや指紋を付きにくくするために、クリア塗装やカラークリア塗装もステンレス鋼塗装に利用されている。
ステンレス鋼塗装に使われている塗料は、耐食性向上の観点を重視するときは、耐候性が高いシリコン変成ポリエステル、シリコン変成アクリル樹脂、フッ素樹脂の利用が一般的である。ステンレス鋼の表面は不活性な不働態皮膜に覆われているため、一般的に有機皮膜との密着性が良くない。脱脂して表面の汚れや油分を取り除く、ショットブラストや酸洗で方面に適度に粗くして塗料の食いつきを良くする、といった適当な前処理を行えば、一般的な鋼板と同じように塗装できる。
めっきもステンレス鋼に使われている表面処理である。耐食性、装飾性、導電性の向上といった目的から、めっきがステンレス鋼にも利用されている。電気めっきも溶融めっきもステンレスに施工可能だが、めっきの密着を確実にする上でステンレス鋼の不働態皮膜が問題となる。そのため、電気めっきではストライクめっきなどの前処理が必要となる。ガス還元法による溶融めっきでも、前処理として別のめっきを行う。
耐食性を目的としたステンレス鋼へのめっきとしては、溶融アルミニウムめっきの例が知られる。アルミニウムは自然電位がステンレス鋼よりも卑であるため、犠牲陽極として働き、ステンレス鋼素地の孔食防止などの効果がある。自動車排気系部品で耐熱用フェライト系ステンレス鋼を溶融アルミニウムめっきすることで、304系並みの耐食性を付与させた例などがある。
装飾用には、金めっきや銀めっきが古くから用いられている。いぶし瓦の色合いを出すことを狙った、溶融亜鉛メッキステンレス製の瓦の例などがある。導電性向上の観点からは、ニッケルめっきや金めっきが施される。電気ニッケルめっきを施して導電性と耐食性を両立させたステンレス鋼が、ボタン電池などで使われている。
他にも、ブラスト処理、エッチング、不働態化処理、物理蒸着法(PVD)など、ステンレス鋼に適用される様々な表面仕上げが存在する。
ブラスト処理は、適当な材質の小さな粒を表面に高速でたたきつけてスケールの除去や素地の調整を行う処理。表面仕上げとしては、ビーズブラストなどで方向性を持たない低光沢の表面を得るのに使われている。エッチングは、表面を部分的に溶かし、文字や絵をステンレス鋼の表面につくる処理である。不働態化処理は、不働態化の程度を意識的に向上させたいときに行う処理で、硝酸などに浸漬して行われる。PVDは、近年発達してきたドライプロセスによる表面処理の一種で、ステンレス鋼の場合は薄いセラミック層を蒸着させて色付けや耐久性向上のために使われている。
ステンレス鋼は、その耐食性を活かして、日用品、業務用機器、建設、自動車、鉄道、電気機器、産業機械など、様々な分野で幅広く使われている。使用分野に特に偏りはなく、用途は多種多様といえる。2019年の統計によると、金属製品全般が 37.5 %、機械類が 29.1 %、建設関連が 12.2 %、自動車関連が 8.5 %、電気機器が 7.7 %、その他輸送機器が 4.9 % という使用割合となっている。
耐食性に加えて、高温環境や低温環境への耐性があり、鋼種によって物理的性質や機械的性質が異なるため、ステンレス鋼は多様な形で利用される。ステンレス鋼と競合する他材料には、塗装・めっき・ホーローなどの表面処理を施した鋼、ポリプロピレンのような樹脂材料、アルミニウムやチタンなどの他金属材料などがあり、要求特性とコストのバランスの中で材料が選択される。
フォーク、スプーン、ナイフなどのカトラリー類では、ステンレス鋼が多量に使われており、ステンレス製カトラリーのシェアは圧倒的といってもいいほど大きい。古くはステンレス鋼が実用化されたときから、ステンレス鋼の有用な使い道としてステンレス製カトラリーが使われてきた。一般的なカトラリーにはオーステナイト系が用いられ、高級な食卓用ナイフには高硬度なマルテンサイト系も利用されている。また、ステンレス製の箸も韓国では利用が浸透している。
調理器具では、ステンレス製の包丁も主流である。刃物類には、高炭素のマルテンサイト系の焼入れ焼き戻し材を使用して、ロックウェル硬さが 50 から 60 の高硬度で実用に供される。刃先となる芯材にはマルテンサイト系を使い、それをフェライト系で挟み込んだ構造の刃の包丁などもある。他には、トレイ、ボウル、お玉などの調理器具もステンレス製が多い。
台所の流し台も、現在ではステンレス製が定番となっている。ホーローや人工大理石などの他の材料と比較すると、ステンレス製流し台は耐久性があり、メンテナンスしやすい。ステンレス製流し台本体は、板材からプレス成形で造られる。台所の天板でも、ステンレス鋼が選択肢の一つで、エンボス仕上げや着色処理による外観を良くしたものも採用されている。
鍋やフライパンなどでもステンレス製が使われている。ただし、ステンレス鋼は熱伝導があまりよくないので、ステンレス鋼でアルミを挟み込んだ三層構造クラッド鋼などにして対策される。IH調理器用には、磁性のあるフェライト系や普通鋼と複合させた、ステンレスクラッド鋼が使われる。業務用の厨房は、流し台、テーブル、ケース類に至るまで、清潔さを保つために清浄しやすいステンレス鋼が全面的に使われている。魔法瓶の水筒もステンレス鋼を使った製品で、ステンレス鋼管のプレス成形で造られる。魔法瓶水筒の場合は、ステンレス鋼の熱伝導の悪さを逆に有効活用している事例といえる。
食品産業では、食品が接触する部分の多くがステンレス化されている。清潔を第一とする食品機器では、昔からステンレス鋼が多量に使われてきた。食品産業のステンレス鋼の特徴は、食品が接触する部分には研磨仕上げを標準としている点である。これによって、もし食品接触面にかき傷や微小な穴があったときに、そこに食品が入り込み、清掃時にも残ってしまうような事態が起こらないようにしている。鋼種は主に304系が使われており、より耐食性を要する箇所には316系が使われている。
電気製品では、製品の主部から小物部品まで幅広くステンレス鋼が使われている。消費者の高級志向もあり、電気製品へのステンレス鋼適用は増加傾向にある。白物家電では、冷蔵庫、食洗機、炊飯器、電子レンジなどでステンレス鋼が使われており、耐指紋性と抗菌性のためにクリア塗装を施すこともある。洗濯機では清潔感の良さから洗濯槽のステンレス化が進んでおり、特にドラム式洗濯機のドラムはステンレス製が標準的である。電気ポットの内部容器や電気給湯器のタンクでもステンレス鋼を採用しており、ステンレス製の給湯タンクでは孔食や応力腐食割れへの対策として高耐食フェライト系の444系が使われている。
電子機器類でもステンレス鋼が使わており、多くは小物部品で使われている。電子機器の使用環境はオフィスや家庭といった腐食の厳しい環境ではないため、耐食性が問題となることは比較的少ない。携帯電話部品やハードディスクドライブなどでは、非磁性の要求からステンレス鋼を使う場合もある。
現在の鉄道車両は、車体(構体)がステンレス製であるステンレス車両、車体がアルミニウム合金製であるアルミ車両、この2種類が主流である。ステンレス車両では、以前の普通鋼製車体の車両と比べると塗装を省略することができ、保守の手間が少ない。さらに、塗装と腐食代が省略できるため軽量化が可能となっている。鉄道車両の車体用には、オーステナイト系を低炭素化で耐食性を高めた鋼種が使われており、さらに加工硬化による高強度化が施されて使われている。ステンレス車両のコストは普通鋼製よりも高いが、アルミ車両よりは安く、通勤車両を中心にステンレス車両が多用されている。ステンレス構体の組立には抵抗スポット溶接が用いられており、近年では、ひずみが小さく溶接速度が速いレーザー溶接も用いられている。
自動車では、エンジンで発生した燃焼ガスが排気されるまでの排気系で、ステンレス鋼がもっとも利用されている。エキゾーストマニホールドからマフラーに至る排気系部品のほとんどでステンレス鋼を使用しており、鋼種は熱膨張係数が低くコストが比較的安いフェライト系が主に使われている。排気系部品でステンレス鋼利用が一般化した背景としては、排ガス規制強化がある。この規制強化に守るために、エンジン燃焼温度の上昇が必要となり、排気系部品へのステンレス鋼適用が進んだ。より高温のエンジン近くの部品には、耐熱性を重視した鋼種が選択され、比較的低温のマフラー側の部品には、耐食性に優れた鋼種が選択される。排気系以外でステンレス鋼の使用が一般化しているものとしては、外装の装飾モールやエンジンで使用されているメタルガスケットなどがある。反面、ボディにステンレス鋼が用いられた例は極めて少なく、2021年現在ではデロリアン・DMC-12及びテスラ・サイバートラックが採用した程度に留まっている。
二輪車分野では、オートバイやマウンテンバイクで使われるディスクブレーキのローター(ブレーキディスク)に、ステンレス鋼が常用されている。自動車ではローター材料は炭素鋼や鋳鉄が多いのに対して、二輪車では外見の良さも重要なことからステンレス鋼が主流となっている。ローターには強い摩擦力が働き、摩耗が問題となるため、ローターの硬度がある程度以上高いことが望ましい。一方で、ブレーキ時の摩擦熱が発生するため耐熱性が求められる。そのため、高硬度・耐熱性・耐食性のバランスがいいマルテンサイト系が、ローターの材料として広く実用されている。
耐食性が高いステンレス鋼だが、船舶分野では使用はそれほど多くない(下記の#海洋・海水環境も参照)。船舶におけるステンレス鋼の主な使用箇所で挙げられるのは、ケミカルタンカーやLNGタンカーにおけるタンク用材料で、ステンレス鋼の耐食性や低温特性を活かして使用される。ケミカルタンカーでは、国際海事機関が定めた国際規則で一部の化学薬品用のタンクにはステンレス鋼の使用を義務づけている。天然ガスを −162 °C に冷却した液化天然ガス(LNG)を運ぶLNGタンクには、ニッケル合金の他に、304 や 304L などのオーステナイト系ステンレス鋼が用いられる。高強度と腐食疲労耐性を求めて、スクリュープロペラにステンレス鋳鋼が採用される場合もある。
航空機分野では、機体材料の全体的な傾向として、鉄鋼材料自体がチタン合金、アルミニウム合金、複合材料などに取って代わられつつある。航空機でステンレス鋼が特に使われている箇所は、強固な特性が求められる機械部品類が多い。脚部や油圧機器、ラッチ、ロッド、ヒンジ類などで、ステンレス鋼が用いられている。
建築物では、その見た目の良さを理由に外装用・内装用ともにステンレス鋼が使われている。外装用としては、特に屋根用やファサード用にステンレス鋼が古くから使われてきた。ニューヨークのクライスラー・ビルディングは、外装にステンレス鋼を採用した最初の著名な建築物として知られる。クライスラー・ビルディングの尖塔外装にオーステナイト系が使われており、1930年代に建てられて海岸地帯に存在するにもかかわらず、今日も輝きを保っている。一方、建築物の荷重を支える構造材料では普通鋼が主流である。近年では鉄筋コンクリートに使われるステンレス製の異形鉄筋が実用化されており、構造材用途向けのステンレス鋼適用拡大が検討されている。
建物内部では、ドアノブ、蝶番、換気口、窓枠、クレセント、カーテンレール、手すりなど、様々な建築金物にステンレス鋼が使われている。普通鋼や表面処理鋼が昔は使われていたが、腐食対策や高級志向から、ドアノブのような目立つ箇所にはステンレス鋼が使われるようになった。ビルの内装材としてはヘアライン仕上げのステンレス鋼が主に用いられるが、入り口やエレベーター周辺では鏡面仕上げのステンレス鋼もアクセントとして用いられることもある。
土木分野では、水門の扉体・戸当り、橋梁の高欄(手すり)で、美観維持とメンテナンスフリーのためにステンレス鋼が使われている。公共施設や公園にある案内板といったものも、保全コストの削減のためにステンレス鋼化が進んでいる。
ドーム球場やコンベンション・センターのような大型建造物の屋根も、メンテナンスフリーや美観の向上のために、ステンレス鋼使用が浸透している。屋根は日射や気温による温度変化が起こるため、大型の屋根では熱膨張率の低いフェライト系の使用が望ましい。海浜地区などの腐食が厳しい場所に建てられる場合は、高耐食ステンレス鋼や塗装ステンレス鋼が適用される。
硝酸工業では、共沸濃度の以下の硝酸であれば304系のステンレス鋼で十分に耐用でき、304L が硝酸を扱う器具・装置の材料として広く利用されている。歴史的にも、ステンレス鋼実用化後の最初の大量使用の一つが硝酸を取り扱う用途であった。
硫酸は幅広く用いられている基礎化学原料の一つだが、限られた硫酸濃度範囲でしかステンレス鋼は不働態化しないため、硫酸を扱うのにステンレス鋼の使用範囲は限られている。窒素肥料となる硫安の製造では、硫安が腐食作用を緩和するため結晶缶に 316 などを用いている。
石油精製では、高温耐食性や高温強度といったニーズからステンレス鋼の適用が多い。300 °C から500 °C の高温下、3 MPa から 20 MPa の高圧下で硫黄分を除去する水素化脱硫装置では、耐粒界腐食性を高めた安定化オーステナイト系の 321 や 347 が使われている。常圧蒸留装置では、原油を 300 °C 前後まで加熱して原油を分留しており、装置は厳しい高温腐食環境に晒される。日本では、劣化の防止まではできていないものの、応力腐食割れの懸念が少ないフェライト系 SUS405 クラッド鋼が常圧蒸留装置の材料に用いられている。
製紙業も腐食が常に問題となってきた分野で、ステンレス鋼実用化後の初期からステンレス鋼が活用されてきた。よく使われている鋼種はオーステナイト系で、パルプ製造の連続蒸解釜では内側を 304L にしたクラッド鋼が使われ、二酸化塩素を使うパルプ漂白のより腐食が厳しい工程ではスーパーステンレス鋼が必要になる。パルプから紙をつくる抄紙工程では、圧搾脱水を行うサクションロールに耐食性や疲労強度を考慮してオーステナイト・フェライト系が主に使われている。
塩化物イオンを多量に含む海水環境は、ステンレス鋼にとって好ましくない環境といえる。海水環境で問題となるのは全面腐食よりも局部腐食で、鋼種によって程度の大小はあるが、海水環境ではほとんどのステンレス鋼にすきま腐食や孔食の可能性がある。海洋中の付着生物の存在もすきま腐食の原因となる。316系はステンレス鋼の中で耐食性の高い方であるが、316系であっても海水環境への耐食性を持つと言えず、利用範囲は限定される。
港湾や海洋構造物では、経済的理由もあり、海水に晒される箇所の構造材料は塗装と電気防食で対策した炭素鋼や低合金鋼を主体としている。ただし、海水中から大気中にかけての海水飛沫を受ける箇所や潮の干満によって海水に浸されたり外気に晒されたりする箇所では電気防食ができず、また、塗装には経年劣化や損傷の問題がある。そのため、日本では、鋼管構造を採用した海洋構造物に対して、SUS312L のようなスーパーステンレス鋼の薄板で海水飛沫部と干満部を覆って防食する手法が開発され、1997年頃から実用化されている。
海水淡水化設備では、コストを下げる観点からも、ステンレス鋼が活用されている。海水淡水化装置には主に蒸発式と逆浸透式があるが、いずれの方式でも各構成機器にステンレス鋼が利用されている。主に使われているのはオーステナイト系の316系や317系で、蒸発器には高強度かつ応力腐食割れへの耐性が高いオーステナイト・フェライト系の S2205 も使われている。
現代の火力発電所は超臨界圧または超々臨界圧の蒸気条件で運転されており、このような高圧化・高温化にともなってボイラーの材料としてステンレス鋼利用が増えている。ボイラーの過熱器、再熱器、熱交換器配管などにステンレス鋼が使われており、一般的には、金属温度が 600 °C を超えると、高温強度や耐酸化性のためにステンレス鋼が経済的にも有利といわれる。
蒸気のエネルギーを回転運動エネルギーに変換する蒸気タービンでは、強度と耐食性が必要な動翼と静翼にマルテンサイト系や析出硬化系が使われている。ローターやケーシングでは、より高温の厳しい運転条件になると、ステンレス鋼が必要とされる。ガスタービンでは、金属の融点レベルの高温の燃焼ガスを扱うため、タービン本体や燃焼器には超耐熱合金が主に使われるが、圧縮機やタービンディスクなどでステンレス鋼が使われることもある。
原子力発電所における軽水炉では、多くのステンレス鋼管やステンレス鋼厚板が用いられている。炉心で発生した蒸気をそのままタービンに送る沸騰水型軽水炉では原子炉圧力容器や配管系でステンレス鋼が使われており、応力腐食割れへの対策のために非鋭敏化鋼種へと置き換えられてきた歴史がある。加圧水型軽水炉の1次冷却系でもステンレス鋼を利用しているが、沸騰水型とは条件が異なることもあって応力腐食割れが問題となったケースは少ない。使用済み核燃料の再処理施設では、再処理に多量の硝酸を用いるため、ステンレス鋼が多量に使われる。
医療分野でも、手術器具から検査機器に至るまで、ステンレス鋼は多く使われている。薬品、消毒液、血液、体液などに対して耐食性が必要なため、ステンレス鋼が適しており、衛生面からも好まれる。種々の検査機器に対しては、非磁性であることも利点となる。メスや鉗子などの手術器具にはマルテンサイト系ステンレス鋼が使われている。
人工関節用など、人体内で使用するインプラント用材料としても使われる。体液は海水と同等の組成であるため、これらの用途には高耐食性の鋼種が利用されている。血管、胆管、食道などを広げるステントでは、コバルト合金などの他使用材料も存在するが、加工性や溶接性が良好であることや廉価であることからステンレス鋼の高耐食性鋼種も使われている。ただし、ステンレス鋼中に含まれるクロムとニッケルには金属アレルギーの問題もあり、優れた生体適合性を持ち、さらに軽量であるチタンなどの他の生体材料への置き換えも進んでいる。特に近年では毒性や金属アレルギーが懸念されるニッケルを生体材料から排除する動きが強まっており、ステンレス鋼でもニッケルを含まない、窒素などの他のオーステナイト生成元素を代わりに用いた生体材料用オーステナイト系ステンレス鋼の開発・実用化が進められている。
実用品以外の分野では、モニュメントやオブジェといった美術作品の素材として利用されている。ステンレス鋼を彫刻素材に使用する利点には、他の金属同様に可塑性があり加工しやすく且つ丈夫であること、耐食性が高くメンテナンス性に優れていること、光輝を持ち現代的な材質感が得られることが挙げられる。
ステンレス材に各種の研磨仕上げや表面処理を施すことで、多様な肌合いを表現することもできる。細かい孔を開けて透明を表現する、インコ法でグラデーションを作って虹を表現する、モアレを利用して三次元的な奥行きを表現する、といったステンレス鋼による表現の幅を広げる試みもなされている。石材、木材、鉄、プラスチックなど他の素材と組み合わせる例もある。鋼種としては、オーステナイト系の 304 がよく使われるが、沿岸部のような場所では高耐食な 316 も使われる。
ステンレス鋼はリサイクル可能な材料であり、再融解してステンレス鋼製品の原料にできる。ステンレス鋼に含まれるクロム、ニッケル、モリブデンなどの合金元素は枯渇性資源であり、ステンレス鋼リサイクルの重要性は大きい。現状では、使い終わったステンレス鋼製品のおよそ 80 % がスクラップとして回収され、リサイクルされていると推定される。国からの補助など無しで、経済的にリサイクルが成立できている。
特に、オーステナイト系(クロム・ニッケル系ステンレス鋼)は非磁性であるため、他の鉄スクラップと分別しやすい長所がある。一方で、フェライト系やマルテンサイト系(クロム系ステンレス鋼)は磁性があり、分別しづらいという短所がある。また、クロム系の場合、ステンレス鋼スクラップとフェロクロムの価格差が小さいため、回収費用に対して割に合わないといった課題もある。
これらの理由から、クロム系の大半は分別されずに、普通鋼スクラップとして回収されたり、クロム・ニッケル系とまとめて回収されたりしている。2003年から2005年までの日本のステンレス鋼市場を対象に行われたマテリアルフロー解析の結果によると、クロム・ニッケル系ステンレス鋼として回収できたスクラップ回収率は 75 % から 98 % であったが、クロム系ステンレス鋼として回収できたスクラップ回収率は 12 % から 34 % に留まっていた。
クロム系の中でもフェライト系の利用量は、オーステナイト系に次いでおり、利用のさらなる拡大が予測されている。そのため、フェライト系の分別回収を確立し、含有されているクロムをさらに有効活用することが期待されている。クロム系スクラップの回収率向上が、ステンレス鋼リサイクルにおける今後の課題の一つとなっている。
1950年頃のステンレス鋼の粗鋼生産量は、世界でおよそ 1,000,000 トンであった。それから年平均成長率 5.8 % で生産量は伸び続け、2019年の世界のステンレス鋼粗鋼生産量は 52,218,000 トンとなっている。鉄鋼材料全般における2019年の世界の粗鋼生産量は、1,869,000,000 トンで、ステンレス鋼生産の割合は 2.8 % である。
国別・地域別のステンレス鋼生産量については、2019年の実績では、1位が中国で生産量の 56.3% を占めている。次いで、2位がインド、3位が日本という順になっている。以下に、2001年から2019年まで世界のステンレス鋼生産量のグラフと、2018年時の国・地域別の生産量順位のグラフを示す。
※特に文献内の複数個所に亘って参照したものを示す。
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Expression
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Expression(エクスプレッション)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Expression
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トロ
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トロは、寿司のネタなどに使われるマグロの特定の部位の呼称。脂質の含量が高い腹部の身を指す。語源は肉質がトロリとしていることからで、吉野昇雄『鮓・鮨・すし-すしの事典』によれば、吉野鮨本店の客が「口に入れるとトロッとするから」と命名したとされる。この語の定着以前は脂身であることからアブと呼ばれていた。
かつての日本(特に江戸時代以前)ではマグロといえば赤身を指し、赤身に比べ品質が劣化しやすいトロの部分は上等な部位とは考えられていなかった。当時の日本人は白身のすっきりした旨みを好み、また、トロは脂肪分が多く水分を弾いてしまうので、赤身のように醤油に漬け込んでヅケにして保存することができなかった。今日では動物性脂肪の旨みが広く知られるようになったことと、冷凍/冷蔵-保存/輸送技術が向上したことから、トロの人気が高くなった。価格も近代になってから急激に上がり、現在では赤身の2倍以上の値段がつく。
特に、よく脂の乗った部分を「大トロ」、やや劣るものを「中トロ」と称する。大トロ・中トロ以外の部分は「赤身」または単に「マグロ」と称して、「トロ」とは別物とされる。一般に背肉より腹肉のほうが、後部肉より前部肉のほうが、内層肉より表層肉のほうが脂質の含量が高い。一般的に「大トロ」は腹肉前部、「中トロ」は腹肉後部である。昨今ではマグロの完全養殖により、「全身がトロ」などという個体も作れるようになった。
マグロの肉以外でも、脂が乗っている状態の肉をトロということがある。例えば、カツオの刺身の脂が乗った部分はトロカツオと呼ばれる。北海道では生の牛肉を使った牛とろ丼というご当地丼がある。豚肉においても豚トロと呼ばれる部位が販売されている。トロという言葉には肉の種類に明確な定義がなく、マグロのトロが持つ高級品としてのイメージを借りようとする販売戦略に利用されている。
また、マグロの中落ち部分や脂身をペースト状にしたものを「ネギトロ」と呼ぶ。一般には脂っぽい食感に由来する名称と解釈されているが、異説もある。
江戸時代までトロは「猫またぎ」と呼ばれ、猫ですらまたいで通り過ぎるほどの極めて価値の低い食材とされ、捨てられることがほとんどだった。
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五畿七道
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五畿七道()とは、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道()とも呼ばれた。1869年(明治2年)、北海道が新設されてからは五畿八道と呼ばれる。
現在の日本各地の地方名の多く(東海、東山、北陸、山陽、山陰、北海道など)は、五畿七道、八道に由来している。
元々は、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物である。日本における「道」の成立については大化改新以前より存在したとする見方もあるが、五畿七道の原型は天武天皇の時代に成立したと言われている。当初は全国を、都(難波宮、平城宮、平安宮)周辺を畿内五国、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分した。
七道は都を基準として、東(東海・東山)、西(山陽(・西海))、南(南海)、北(北陸)に放射状に編成されていた(山陰道については西と北の両方の解釈がある)。
律令時代からの七道は、概ね地形的要件に基づいて区分されているが、西海道以外では道単位での行政機関は常置されなかった。西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄した。七道の中でも最も重視されたのが山陽道であり、駅路では唯一の大路である。次いで中路は東海道と東山道の二つである。
七道の各国の国府は、それぞれ同じ名の幹線官道(駅路)で結ばれていた。七道駅路は大路、中路、小路に分けられ、原則として30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)を置き、駅ごとに駅馬が常備された。備える馬の数が異なっていた。駅周辺(必ずしも周辺とは限らなかった)に駅長や駅子を出す駅戸を置き、駅馬の育養にあたらせた。駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設を置き、駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供した。各道に派遣された官人は駅路で結ばれた国府を順に巡察した。
これら七道には、江戸時代の五街道などと重複する呼称がある。時代や成り立ちが異なるものの、ほぼ同じ道筋にはなっている。
律令制以降、令制国などの細部の境界の移動を除き長らく変更はなかったが、後代明治維新後の1869年9月20日(明治2年8月15日)に、和人地および蝦夷地に新たに北海道が置かれたことにより、以後は五畿八道とも呼ばれる。
なお、蝦夷地の記録は古く斉明天皇の時代阿倍比羅夫の遠征まで遡り、鎌倉時代には和人が住み道南十二館の時代を経、江戸時代には松前藩領や天領となっていた地域に置かれた。
1871年(明治4年)の廃藩置県以降も五畿八道は廃止されておらず、令制国も併用されていたが、1885年(明治18年)以降は公的には殆ど使用されなくなり、社会的にも、現代に至るまでに年代と共に使われなくなっていった。
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園芸
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園芸(えんげい)とは、野菜(蔬菜)、果樹、庭木、花卉(かき)などの栽培またはそのための技術。英語のhorticultureの訳語にあたる。
産業としての側面から生産園芸、文化としての側面から鑑賞園芸に区別されることもある。
「園芸」は旧字体では「園藝」と書き、「園」は圃場のこと、「藝」は「植える」ことを意味している。この語が英語のhorticultureの訳語として最初に用いられたのは、1867年に中国で出版された「英華字典II」とされている。
英語のhorticultureは、これと同意語の「hortus」(アングロサクソン語に由来)と、cultureと同意語の「colere」の2つのラテン語からなり、「囲われた土地で作物を栽培する」という意味である。ヨーロッパでは日常の食用作物は畑地で栽培されており、horticultureには特に人手をかけて貴重な作物を集約的に栽培する意味があった。
「園芸」の語は日本では明治時代以降に用いられるようになり、この語が定着する以前は園芸関連するものは「種芸」や「樹芸」と呼ばれていた。日本では1870年(明治3年)には民部省勧農局に「種芸課」、1874年(明治7年)以降は内務省勧業寮農務課に「樹芸掛」が設置された。ウィーン万国博覧会(澳国博覧会)の津田仙による報告(1897年)には、「農業及園芸審査官」として派遣され、「園芸栽培ノ事」を学んだとの記載がある。ただし、明治40年頃から大正時代になるまで「園芸」の意味には揺らぎがあり、国語辞典などでは庭を作る技術(造庭)の意味合いが色濃く残っていた。
園芸によって栽培される作物を園芸作物といい、果樹、野菜、花き、鑑賞樹木がある。
園芸作物には以下のような特異性や類似性がある。
産業としての側面の園芸を生産園芸という。また、園芸作物の生産を主軸とする経営を園芸経営という。単一経営形態別農家の10アール当たりの農業固定資本額や農業経営費、農業労働時間、農業粗収益を比較すると、畜産経営ほど集約的ではないが、稲作経営などの普通農作物作経営よりは労働、資本ともに集約的であるとされる。
園芸作には以下のような特徴がある。
施設園芸とは、広義にはガラスやプラスチックフィルムなどの被覆物で圃場を覆い、通常の露地栽培では不可能な時期に園芸作物を栽培するものをいう。ただし、一般的にはガラス室やプラスチックハウス内で栽培するものをいう。統計などでは「人が通常の姿勢で施設内において作業できるもので、ビニールハウス、温室、ガラス室等をいいトンネル栽培などはこれに該当しない。」とされることもある。
食用でなく鑑賞目的で花などを育てる行為の起源は古い。古代エジプト中王国時代のテーベにある遺跡からは、約4000年前の花壇らしき遺構が発見されている。
日本で園芸植物が栽培されるようになった時期は定かではないが、平安時代の「和名類聚鈔」にはボタン、「枕草子」にはセキチク(64段)とボタン(143段)が掲載されており、平安時代中期には中国原産の園芸植物が貴族階級で鑑賞されていた。
西洋の「ガーデニング」と日本で使われてきた「園芸」や「庭仕事」の関係については同義性と相違性の識別が十分に吟味されてこなかったとされる。そこで「ガーデニング」と「園芸」を区別する要素を探る研究も出されており、従来の「園芸」や「庭仕事」が植物の栽培そのものを楽しむものだったのに対し、「ガーデニング」はデザインに留意して生活空間の向上に利用する意図も含まれる点に違いがあるなどの見解がみられる。
「ガーデニング」に関しては、日本では一方では「ホビー・スポーツ」といった趣味として位置づけながら、もう一方では住まいを快適にすることも意識されたため、園芸業者などの産業界からの園芸や庭づくりまでも含んできたために概念が曖昧に拡散してきたとの指摘もある。
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会津藩
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会津藩()は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩は若松城(会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。
戦国時代、会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名の蘆名家の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、天正17年(1589年)6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗して、義広は実家の常陸佐竹家を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り、政宗は黒川を新たな本拠とした。
天正18年(1590年)7月に小田原征伐で北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、8月9日に会津黒川に入って奥州仕置を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した惣無事令違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された。秀吉は仕置において検地や刀狩、寺社政策など諸事を定めて帰洛し、会津には蒲生氏郷が42万石で入部することとなった。後に検地と加増で氏郷は92万石を領有することになる。
氏郷は織田信長にその非凡な才能を評価されて信長の次女・相応院を正室に迎えることを許され、信長没後は秀吉に従い伊勢松坂に12万石の所領を得ていた人物である。秀吉も氏郷の才能を認め、東北の伊達政宗や関東の徳川家康を抑える枢要の地に大領を与えて入部させたのである。
氏郷は黒川を若松と改め、故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せ、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、7層の天守を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた。
文禄4年(1595年)2月7日に氏郷は死去した。嫡子の蒲生秀行(数え13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫(正清院) を正室に娶わせた。だが蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、慶長3年(1598年)1月、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封した。ただし秀行の母、すなわち氏郷の正室が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが姫が尼になって貞節を守ったことを不愉快に思った説、秀行が家康の娘(三女の振姫(正清院))を娶っていた親家康派のため石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説もある。
代わって越後春日山から上杉景勝が入部した。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であった。景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった上杉謙信の養子(実は甥、生母が謙信の姉仙桃院)である。しかし入部から間もない8月18日に秀吉が死去し、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。これに対抗しようと豊臣家五奉行の石田三成は上杉家の家老である直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。しかしこの軍備増強は隣国越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。
神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。景勝は11月に家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。
慶長6年(1601年)8月24日、景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部した。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、正室が家康の娘ということが作用したといわれる。一説には景勝の謝罪の遅れに加え、その旧領に武田信吉を入れる構想もあり、会津に誰を入れるかで纏まらなかったが、信吉の病気と景勝の入部経緯から秀行に対して会津を与えられることになったという。
秀行は執政に津川城代2万石の岡重政を任命したが、これが原因で以前から続いていた家中内紛が再燃した。特に三春城代の蒲生郷成に至っては、岡と激しく対立して、遂には出奔するほどだった。しかし、その岡も秀行が死ぬと未亡人となった振姫と対立し、その父である徳川家康の意向によって処刑され、郷成らが呼び戻されることになる(ただし、郷成自身は帰国途中で病死)。
慶長16年(1611年)8月21日には会津地震が藩内を襲った。震源地は柳津町滝谷付近でマグニチュードは7と推定、若松城天守の石垣が崩れ、天守は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、死者は3700名に上り、山崩れのために23の村が没したという。秀行は家中内紛と地震のためか、この地震の翌年5月14日に30歳で死去した。
跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の忠郷で、忠郷は寛永元年(1624年)に将軍家光(従兄弟)、大御所秀忠を江戸屋敷に招くなど幕府との関係を強化した。一方、会津領内の産金は蒲生家再封時代に全盛期を迎え、280万両の採掘が行なわれた。
しかし忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で若くして急死する。忠郷には子がおらず会津蒲生家は改易となったが、母が徳川家康の娘であるため、同母弟で出羽上山藩主の忠知を当主として伊予松山へ24万石で減封されて蒲生家の存続は許された。しかし忠知もこの7年後に子が無いまま30歳で急死している。
寛永4年(1627年)、忠知と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が倍の加増の40万石で入部した。嘉明は豊臣秀吉の下で賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、朝鮮出兵では水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将である。この抜擢は縁戚の蒲生家に代わる奥羽の鎮守に信頼に足る人物は誰かと迷っていた大御所秀忠が最初は藤堂高虎を選ぼうとしたが、高虎が辞退して嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津に加増して入れたという。ただし所領が倍増されたとはいえ、既に嘉明は65歳の高齢の上、伊予松山で藩政の基礎を固めていたことに加えて、温暖な瀬戸内から寒冷の会津盆地への移封はうれしいことではなかったといわれる。
嘉明は積極的に藩内の整備を行ない、白河街道の整備、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を「火」を連想させることから甲賀町、福永村と改名するが、道半ばで寛永8年(1631年)に死去した。
第2代藩主は嫡子の明成が継ぐ。だが寛永13年(1636年)の江戸城手伝い普請における堀の開削費用、蒲生秀行時代の地震で傾いていたままだった自らの居城若松城の天守を5層へ改める工事、出丸工事など多額の出費が相次ぎ、加藤家の財政は逼迫した。このため加藤家は領民にかける年貢を厳しく取り立て、寛永19年(1642年)から翌年にかけて飢饉が藩を襲った際、農民2000人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動にまで発展した。また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの家老である堀主水との対立を引き起こし、寛永16年(1639年)4月には堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼き、芦野原の関所を突破して出奔して激怒した明成が血眼になって主水を追うという御家騒動(会津騒動)にまで発展した。主水は幕府に嘆願してまで高野山に逃げ込んだ。明成は主水の身柄引き渡しを求め、寛永18年(1641年)進退に窮した主水は高野山を下りて3月に江戸に赴き、城の無断改築や関所の勝手な新設など7か条を挙げて、明成を幕府に訴えでた。しかし将軍家光自らの裁断により、主に非があるのは認めたが、それを諌めずあるいは自らの生命をもって諫死せず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れており、非は主水にあるとして、主水の身柄は明成に引き渡され、激しい拷問が行なわれて主水は殺害された。
寛永20年(1643年)5月、明成は幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としたが、明成の嫡子明友に石見吉永藩1万石を与えて家の存続は許した。この際に加藤家の支藩二本松藩も改易されており、幕府は会津騒動や悪政が原因で改易したとされている。
加藤家改易後の寛永20年(1643年)、出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入部し、以後会津藩は会津松平家(保科家)の支配が定着する。会津松平家は幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており、実質28万石といってよかった(28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる)。
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍家光の異母弟である。家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子家綱が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた。正之は大老として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは正保4年(1647年)と晩年の数年間のみであった。この間、正之は幕政において明暦の大火における対策で敏腕を発揮しているが、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く保科正貞に譲って、徳川一門として認められており、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した。
正之の没後、藩主の座は子の正経、そしてその弟の正容が継いだ。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった。家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いた。旗印は漢字1文字で「會」である。
第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する。藩は鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などを行っている。宝暦年間における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり、藩は農政改革や年貢を定免法に改定するなどして対応するが財政は好転せず、かえって藩の借金を40万両に増やすことになった。明和4年(1767年)には財政再建を任されていた井深主水が俸禄や借金問題から藩を捨てて逃亡するという事件まで起こっており、その後も手形の発行などを繰り返すという自転車操業状態で藩の借金は総額57万両にも及び、会津の藩財政は実質的に破綻しているに近かった。
第5代藩主容頌は財政危機に対処するため、家老の田中玄宰を登用した。玄宰は保科正之の名家老と称された田中正玄から数えて6代目にあたる人物である。玄宰は殖産興業政策の導入と農村復興、教育の革新による有為な人材の登用や役人の不正の処罰、教化主義による刑罰制度の改正など大規模な藩政改革を断行して成功させた。
田中玄宰の晩年、彼を用いた容頌の死後、跡を継いだ容住が早世し、わずか3歳の容衆が第7代藩主になるという事態になった。玄宰は自らも老齢で容衆を見守ることはできず、また容衆が夭折することで会津松平家が断絶することを恐れ、水戸徳川家の出身で美濃高須藩の養子になった松平義和の三男等三郎を容住の側室の子として貰い受けることで対処した。容衆は玄宰の死から14年後に20歳で嗣子に恵まれずに死去したため、玄宰により生前に万一の事態のために用意されていた等三郎が容敬として第8代藩主を継ぐこととなった。このため保科正之の血統は断絶したが、会津藩は断絶の危機を免れた。なお、容敬も継嗣に恵まれなかったため、甥の容保を婿養子にして跡を継がせている。
第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で親政して改革を行ない、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は嘉永5年(1852年)2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで 幕末の動乱期を迎えた。安政6年(1859年)、北方警備のため徳川幕府から根室・紋別を譲渡される。
文久2年(1862年)閏8月に容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。文久3年、友好関係にあった薩摩藩と連携して、朝廷に強い影響力を持っていた長州藩を八月十八日の政変で追放する。その後に行われた参預会議では、薩摩藩の国父・島津久光が提案する公武合体論に賛同するなどしたが、久光と将軍後見職・徳川慶喜の対立によって会議は瓦解した。
当時、容保は京都守護職を退いていたが、会議崩壊後に復職し、容保の実弟で京都所司代に任命された松平定敬(桑名藩主)、禁裏御守衛総督に任命された徳川慶喜と連携して、政局を動かすほどの立場となった(一会桑政権)。一方で、西南雄藩の国政参加も阻止した為、これまで友好関係にあった薩摩藩とも対立するようになった。元治元年8月、昨年追放された長州藩が挙兵した為、会津藩も出陣して京都で睨み合いとなる(禁門の変)。会津藩は蛤御門で長州藩兵と戦い、敵の突破を阻止した。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰」を孝明天皇より賜った。
変後、長州藩の処分を求めて、二度の長州征伐を主導した。完全な武力討伐となった第二次長州征伐では京都の守備を担当する。しかし、出兵した幕府軍は各地で長州軍に撃破され、さらに将軍徳川家茂が大阪城で病没する事態に見舞われる。不利を判断した徳川慶喜によって停戦となったが、征討側の城と領土が逆に占領されるなど事実上の敗戦となった。慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御、慶応3年10月14日の大政奉還により、江戸幕府が消滅。
慶応3年12月9日には薩摩藩・尾張藩・越前藩・土佐藩・芸州藩の五藩による政変が起こり、王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生した。従来の親幕府派であった公家が排除され、王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わるなど、今度は会津藩が追放される形となり、大阪城に退いた。そのやり方は皮肉にも、かつて長州藩を追放する為に起こした八月十八日の政変と同じ物であった。
慶応4年、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、朝廷は会津藩を「朝敵」とした。その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある。
なお、戊辰戦争の直前及び交戦中には庄内藩とともに、当時のプロイセン王国に対して、駐日代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている。普仏戦争の直前で余裕がなかったことからオットー・フォン・ビスマルクによって1度は拒否されたが、3週間後に一転して認可された。しかし既に会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
降伏により、会津藩領は会津松平家から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。
明治2年(1869年)9月28日に容保の嫡男慶三郎(容大)は家名存続が許され、華族に列せられるとともに、3万石を陸奥国内に改めて下賜された。明治3年(1870年)5月15日、容大は陸奥国斗南(現在:青森県むつ市)の斗南藩の知藩事とされた。また藩士数名は、アメリカ合衆国カリフォルニア州に移住した。
一方、廃藩置県を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日(1871年新暦8月29日)の廃藩置県では、会津地方は若松県となったものの、明治9年(1876年)8月21日には福島県1876年以前(旧の二本松藩など)と磐前県(旧の磐城平藩と中村藩)と合併され、福島県に入れられた。
容保の家系からは初代参議院議長の松平恒雄・雍仁親王妃勢津子父子、福島県知事の松平勇雄や、徳川宗家第18代当主徳川恒孝が出ている。元白虎隊兵士の 山川健次郎は戦後にアメリカへの国費留学生に選抜され、 イェール大学で物理学の学位を取得して帰国している。帰国後に日本人として初の物理学教授になった後に東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。その後に理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任するなど重用された。
会津藩は日本初となる老齢年金制度を創設した藩であった。開始されたのは寛文3年(1663年)で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半(約270キログラム)を支給した。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない。また正之は支給すべき者が高齢なため、歩行できたりする健常者は自ら支給を受け取りに来るよう命じたが、健常者でない者は子や孫が受け取りに来ることも認めていた。
保科正之は凶作による飢饉に備えて明暦元年(1655年)に社倉制度を開始した。これは藩で米を7000俵余り買い入れて各代官に預け、翌年から通常よりかなり低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして凶作の備えとしたのである。また実際に飢饉が起こり、病人や工事人足、新田開発者や火災被害者などには無償で提供する例もあった。保科正之は各村に社倉と呼ばれる倉を創設して収納し、備蓄米は最大で5万俵になり、領内の23箇所に社倉が建設された。
91万9千石(1590年 - 1598年)
120万石(1598年 - 1601年)
外様 - 60万石(1601年 - 1627年)
外様 - 40万石 (1627年 - 1643年)
親藩 - 23万石(1643年 - 1868年)
会津藩では家老を出す家柄を三家(北原、内藤、田中)、六家(簗瀬、西郷、高橋、小原、井深、三宅+梶原)と呼称する。
斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。容大が知藩事に正式に任命されたのは明治3年(1870年)5月15日である。
会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は江刺県に編入)。斗南藩に与えられた村数、石高は、明治4年に青森県から大蔵省へ送られた文書によると以下の通りである。
ただし、旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年(1870年)1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。柴五郎によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方、当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される。また葛西富夫は、「南、すなわち薩長政府と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門 の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。松平容大は藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部の円通寺に移った。また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7380石に過ぎなかった。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は柴五郎によって語られている。 その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は岩手県に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7327人のうち3300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4000人余の斗南藩士卒族が残留していた。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。
文政年間の江戸藩邸は上屋敷は和田倉御門内にあり、中屋敷は源助丁海手に、下屋敷は三田綱坂にあった。また江戸での菩提寺は下谷の臨済宗大徳寺派寺院の円満山広徳寺で加賀藩や常陸国谷田部藩も江戸での菩提寺として使用していた。
上記のほか、京都守護職の役知領が河内国河内郡(8村)、讃良郡(13村)、茨田郡(1村)、交野郡(8村)、若江郡(6村)、和泉国南郡(4村)、日根郡(15村)にあり、河内国内は河内県、和泉国内は堺県に編入された。
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多神教
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多神教(たしんきょう、英: polytheism)は、神や超越者(信仰、儀礼、畏怖等の対象)が多数存在する宗教。対義語に一柱の神のみを信仰する一神教がある。
その名のとおり多神教では多くの神々が崇拝され、それゆえに同じ宗教の中での信仰形態も多様である。また、特定の一神(主神)が最も高位にあると考え、主神を崇拝の中心とするものを、多神教的一神教と呼ぶことがある。例えば岩田慶治は、これを「カミと神」という言葉で区別する。かつてはエドワード・バーネット・タイラーのように、多神教は一神教への発展中途にある信仰だという主張が公然となされてきたが、現在ではそのような進化論的な議論がされることは少ない。
多神教のうち現存するものとして、民族的要素の強い日本の神道やアイヌの信仰、中国の道教、インドのヒンドゥー教などがある。現存しないものとしては、古代エジプトやメソポタミア、古代ギリシャの神々、中南米のメソアメリカ文明やアンデス文明で信仰されていた神々などがある。仏教も多神教だという見解もあるが、汎神論または無神論的な宗教であるとする見解もあり、議論が分かれるところである。
環境を ecology と認識するのは、19世紀半ばのドイツのヘッケルの主張にさかのぼる。アンナ・ブラムウエルはヘッケル以来のエコロジーの歴史を詳述している。それによれば、エコロジーに多神教の一翼をなすアニミズム的要素を認めている。エコロジーはドイツで生まれた一つの考え方である。ゲルマン民族がキリスト教化される前の自然との付き合い方への郷愁と言った側面もある。ドイツでは、18世紀になって英国の影響を受けた啓蒙主義からカント、ヘーゲルのドイツ観念論が展開して、ドイツの近代化の思想的根拠となった。しかし、近代化は現在で言うとグローバル化のようなもので、民族的深層意識を満足させないので、ヘーゲル以降ゲルマン的回帰と結びつくような思想運動が生じた。自然と親しむワンダーフォーゲル運動とも精神的な親近性がある。このようなことは、実は世界各地で見られることである。つまり、一神教が多神教の進化形態で優れているといった主張よりも、現代思想にも一神教的な考え方と多神教的な考え方のそれぞれが適合する面が生きており、新約聖書が「人はパンのみにて生きるにあらず」と喝破したように、人類のもつ一見合理性がないと思われるかもしれないが実は必要な活動にも支持をあたえつづけている。
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クルド人
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クルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東クルディスタンに住むイラン系山岳民族。 同じイラン系民族だがイラン・イスラム共和国の主要民族たるペルシア人とは区別される。
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する。人口は3,500万~4,800万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。宗教はその大半がイスラム教に属する。一方、宗派については、イスラム教のスンニ派(トルコのクルド人のあいだではスンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハック(英語版)(ペルシア語:Ahl-e Haqq、あるいはヤルサン クルド語:Yârsân とも)なども存在し、他にも少数だがキリスト教(en:Kurdish Christians)、ユダヤ教(en:History of the Jews in Kurdistan)、ゾロアスター教に属しているクルド人もいる。クルド人のキリスト教徒の起源は元々アルメニア人かアッシリア人だとされており、クルド人の大半は中世にイスラム教を採用したが、イスラム教が広まった後も、クルド人の中にはキリスト教に改宗し、キリスト教に改宗したクルド人の多くは東方教会に属したとされている。近年でも一部のイスラム教徒のクルド人がキリスト教に改宗した者もいる。ゾロアスター教は2016年にゾロアスター教公式の火の寺院がイラク北部のクルド人自治地域のスレイマニヤに建てられ、多くのクルド人がゾロアスター教に戻ってきた。クルド人のユダヤ教徒の大半がイスラエルに住んでいるが、イラク北部のクルド人自治地域にも400から730のクルド人ユダヤ教徒の家族がいるとされている。クルド人は異なる宗教と信条を支持しており、伝統的にクルド人は世俗主義で慣行に自由を持っているとされている。言語的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する。主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。アイユーブ朝の始祖サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
クルド人女性(en:Kurdish women)は、20世紀と21世紀にクルド人社会で進歩的な重要な役割を果たし、女性の自由や解放、権利と平等に力を入れ改善を勝ち取った。また北部及び東部シリア自治行政区(ロジャヴァ)のクルド人民防衛隊には女性の防衛部隊があり、ISILとの戦いで戦果を挙げている。
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、本来ならば旧オスマン領にクルド自治区がセーヴル条約に基づき建設される予定であったが、これを認めないアンカラ政府が成立。連合国は新たにローザンヌ条約の締結を求められクルド自治区構想は取り消された。その後サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスとロシアによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。
1922年から1924年まではクルディスタン王国(英語版)が存在した。
1946年、現在のイラン北西部に、クルディスタン共和国(英: Republic of Kurdistan、1月22日 - 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって一時的に樹立された。
20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコやイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千~1,500万人が居住する。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kürtleri、クルド語: Kurdên Anatoliya Navîn)と呼ばれている。また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブール、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した。今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブールであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している。
オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。
しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合や欧州評議会、欧州人権裁判所から非難されている。
2006年5月24日、イスタンブールのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20~30議席前後を獲得した。
2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した。 17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にもかかわらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした。
2015年6月の総選挙では、エルドアン大統領系与党政党が過半数をとれず258議席にとどまった。一方、クルド系の国民民主主義党(HDP)が世俗派のトルコ市民、リベラル派、左派からも支持を得て全体の10%以上の79議席を獲得した。
イラクはトルコに次いでクルド人が多く居住しており、北部をクルディスタン地域としている。サッダーム・フセイン大統領により、少数民族クルド人は長らく迫害を受けてきた。クルド文化を否定するためクルド人は外部からの移住者と教育、クルドの遺跡発掘、調査を禁じた。
特に、イラン・イラク戦争では、敵国に荷担したという疑いから、クルド人に対して化学兵器で攻撃したとして、国際的な非難を浴びた(ハラブジャ事件)。一方で、ベルゼンジ部族といったクルド独立闘争を行っていたムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)が属するバルザーニ部族と対立していた部族は政権に協力した。
2003年からのイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると、クルド人は米軍駐留を歓迎した。その後、更なる独立権限を持った自治政府設立を占領当局に呼びかけているが、当局は自国内にクルド人を抱えるトルコに遠慮して実現の見通しは立っていない。2005年、イラク移行政府では、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニを大統領に選出し、副大統領には、シーア派などから選出したことで、国内の民族バランスが図られた。とはいえ、クルドは政権内で少数派であることには変わりない。クルド人初のイラク大統領として、クルドの運命をどの様に導くのか未知数である。また2017年9月25日には国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施されている。イラクのクルド人地区については、クルディスタン地域も参照のこと。
イラク国内でのクルド人は家族が宗教に反する行為を行った場合に激しく虐待行為を行い殺害まで至っているとして、国際連合(国連)が懸念の声を上げている。2007年4月7日にはイラク北部地域でムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したとして、17歳の少女が家族らによってリンチを受け虐殺されている映像がインターネット上に公開され、問題となった(名誉の殺人#批判を参照)。
北部に少数が在住。2011年から続くシリア内戦の長期化によってアサド政権の影響力が低下し、ロジャヴァ(西クルディスタン地域)を中心に活動するクルド人民防衛隊(YPG)を含めた各武装勢力の活動が活発化している。2013年よりロジャヴァは事実上のクルド人独立地域になっているが、YPGがアサド政権打倒を目指す反体制派に与せず中立的な立場を維持する戦略を採ったため、シリア政府もアルカイーダ系反政府勢力やIS(イスラム国)との戦闘を優先し、事実上黙認している状態である。2014年以降はシリア北東部でIS(イスラム国)が急速に支配地域を拡大したことにより、コバニ(アイン・アル=アラブ)では反乱勢力(自由シリア軍)と、カーミシュリーやハサカなどではシリア軍(アサド政権)との共闘が見られている。
2015年以降はアメリカや英仏独を後ろ盾とするシリア民主軍に参加するも、シリア内戦最大の激戦となったアレッポの戦い (2012-)では欧米が支援する反体制派ではなくアサド政権側に協力するなど、欧米とアサド政権(及びその後ろ盾であるロシア)双方との関係維持を目指す独自の動きを見せていたが、2017年後半から2018年前半にかけてイスラム国の崩壊やアサド政権によるダマスカス近郊及び南部地域の反体制派制圧などが相次ぎ、主要な戦闘地域がイドリブを中心としたシリア北部に移るとクルド人を巡る状況にも大きな変化が訪れた。
クルド人勢力の影響力拡大を嫌うトルコがシリアに対する本格的な越境攻撃を繰り返す一方、クルド人の後ろ盾であった欧米はトルコの軍事行動を黙認。2018年末にはトランプ大統領がアメリカのシリアからの撤退を示唆するに至り、YPGはアサド政権に軍事支援を要請。国土の南西部で反体制派制圧を成功させ戦力に余力が出来ていたアサド政権もYPGの要請に応え援軍の派遣を決定した事でクルド人勢力とアサド政権が急速に接近しつつあり、それに伴いロシアを仲介してYPGが制圧した反体制派支配地域のアサド政権への移譲とその見返りにPYDによるロジャヴァの自治承認を求める交渉が進められている。
2019年8月にはシリア北部に安全地帯を設けることを目指すとアメリカとトルコが合意。しかし10月6日、アメリカ政府はYPGを標的にしたトルコによる越境軍事作戦について関与しないと声明。YPGを支援するためシリアに駐留していたアメリカ軍は撤退を開始した。10月9日、トルコ軍は国境を超えシリアに侵攻し、クルド人に対する軍事攻撃を開始した。
難民として多くのクルド人を受け入れた。知識人層が多かったためスウェーデン社会への順応力が高かった。約10万人おり人口の1%ほど。クルド語の教育も受けられクルド系の議員も生まれている。アンデション政権発足の際にはイラン出身のクルド系で元ゲリラのアミネ・カカバベがキャスティングボートを担った。
クルド人のY-DNAは、Jが40%、R1bが16.8%、Iが16.8、R1aが11.6%、E1b1bが7.4%、Gが4.2%である。
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ヤズィーディー
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ヤズィーディー(Yazidi、ヤジーディー、ヤズィード、ヤジディ、Sharfadin)は、中東のイラク北部などに住むクルド人の一部において信じられている民族宗教。日本語ではヤジディ教、ヤズディ教とも書かれる。ヤズディの方が、本来の発音に近い。ヤジド教、ヤジド派ともいう。
ヤズィーディー教徒の教義は基本的に口承による。創世記にあたる『ミスヘファ・レシ(英語版)』 (Mishefa Reş) や黙示録にあたる『キテバ・ジルウェ(英語版)』 (Kitêba Cilwe) の2つの聖典を持つが、これらは20世紀はじめに作られたものと考えられている。ミスラ信仰等のイスラーム化する以前の諸宗教の系譜を引く、クルド人の宗教と言われるが、元来山岳部が信仰の中心ということもあり、未だ明らかにされていない部分も多い。イラクだけでなく、周辺のシリア、ロシア、アルメニア等にも見られる。イラクの中では、ニーナワー県のシンジャール地方に最も多くのヤズィーディーの信者が住む。創始者の聖廟のあるイラク北部のラーリーシュ(英語版)を聖地とし、信者は地球の中心だと考えられており、神殿の地下にあるザムザムの泉で洗礼を受ける
ヤズィーディーは一神教であり、ゾロアスター教とメソポタミアの伝統儀式が入り混じるほか、キリスト教、ユダヤ教、スーフィー、イスラム教などの影響を受けており、七大天使、就中、孔雀天使マラク・ターウースを信じ、太陽に祈りを捧げる。一説にはミトラ教や古代ペルシャの宗教の影響もあるとされ、様々な宗教の影響を受けたシンクレティズムと呼ばれるものの一つであり、12世紀にスーフィーの指導者アディー・イブン・ムサーフィル(英語版)が作ったイスラム教とゾロアスター教の要素を合わせたコミュニティから、今の形になったという説がある。ヤズィーディーの伝承によれば、スルターン・エズィードと呼ばれる人物により創始され、アディー・イブン・ムサーフィルによって改革されて成立したと考えられている。このエズィードは、ウマイヤ朝二代目カリフヤズィード1世との見解もある(この説はヤズィーディーからは否定されている)。
ヤズィーディーは、信者への改宗を禁じるのと同時に、ヤズィーディーから生まれた者しかヤズィーディーになれないという考えがあるため、他宗教の信者がヤズィーディーに入信することも拒む。周辺のイスラム教徒やキリスト教徒と結婚することも禁じられている。布教活動も行われていない。新年は1月ではなく4月に始まり、元日にあたる日(紅の水曜日と呼ばれる)には墓参りを行う。信仰や教義は、地域によって違うものが複数伝わっている。
歴史的に見ればスーフィズムの影響から始まったように見られるが、輪廻転生を教義に持ち、イスラムの教義体系からは逸脱が目立つ。バラモン教にも見られるようなカースト的な階級制度を持つ(主要なカーストは三つある)。ほかにも、天使マラク・ターウースの伝えられる描写は、ムスリムからすると悪魔シャイターンに重なる部分も多い。そのため、ムスリム(イスラム教徒)から邪教扱いを受けることがあるとされる。イスラーム過激派は、キリスト教徒より、「邪教」であるヤズィーディーの信者に激しい憎悪を向けるとされる。過激派組織の1つISILは、ヤズィーディーは多神教であるとし、ジズヤやイスラーム改宗の対象外とするなど、いわゆる啓典の民であるキリスト教徒やイスラム教徒とはその扱いを差別化した。
クルディスタン地域の議会には、少数ながらヤズィーディーの議員枠の割り当てがある。
教徒の居住区はイラク北部に広がり、周辺の宗教勢力、武装勢力との対抗上、比較的アメリカ寄り立場を取るため、しばしばイスラム系武装勢力の攻撃対象となる。
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ムスリム
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ムスリム(アラビア語: مسلم、英語: Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラーム教を信仰する人びとを指す。
キリスト教圏ではムハンマド教徒(英: Mohammedan 等)とも呼ばれ、日本でもかつては一部でこの語を用いた。女性形はムスリマ(アラビア語: مسلمة)だが、アラビア語社会以外では基本的には区別しない。また、中世キリスト教世界では、イシュマエル人、カルデア人、モーロ人、サラセン人などあたかも民族集団であるかのような名称でも呼ばれた。
ムスリムになるためには、証人となるムスリムの前で信仰告白(シャハーダ)の手続きを取ることが必要である。ムスリムは、神(アッラーフ)を常に身近に感じるように、五行を実践することが建前である。父親がムスリムであるものは自動的にムスリムとなるとされている。
かつて、イスラム教はキリスト教よりはるかに多様な民族の間で信仰されていた。しかし、近代以降になって西方のキリスト教会が世界中に布教を行いその分布を広げたため、イスラム教を信仰する民族は限られるようになった。
サハラ砂漠以北の世界に限って言うと、イスラム教を信仰する民族はかなり限定的で、アラブ系、ペルシア系、インド系、テュルク系、マライ系の五つの系統の民族でほぼ全ムスリムの95%以上を占めている。残りの数%に関しても、東ヨーロッパ・バルカン半島のボシュニャク人、アルバニア人などのムスリム(かつてヨーロッパにおいては、イベリア半島のスペイン・ポルトガルで多くのムスリムが存在した)、コーカサスの諸民族、中国領内の中国系ムスリム、モンゴル系ムスリムなど、やはり限られた民族の間で信仰されている。
日本国内においては、東京などの首都圏にイスラム教圏出身外国人の過半数が居住するが、明治以降の近代日本で最初にイスラム礼拝所ができたのは愛知県名古屋市だった。1931年3月に結成された「名古屋回教徒団」により日本初のモスクが設立されたという記録が残る。この戦前に建てられたモスクは一旦空襲により焼失するが、現在では名古屋市中村区に「名古屋モスク」が再建されている。戦前からイスラム教徒のコミュニティがあった流れを汲んで名古屋市や岐阜市など東海地方諸都市には、今でもイスラム教徒の集住コミュニティがある。現代では移民によって、北米や西ヨーロッパでムスリムが増加している。
一方、それに対してサハラ以南のアフリカでは実に多様な民族の間でイスラムは信仰され、今もその勢力を拡大させている。サハラ以南のアフリカの場合、民族でムスリムか、非ムスリムかを判定することは困難である。
ムスリムとは、宗教的概念である。ところが、これは民族的概念だと意識されることが多い。
中国、ネパール、スリランカ、ブルガリア、旧ユーゴスラビア諸国などの非イスラム教国には現地の言語や文化、形質などに同化しているムスリムの集団が見られる。例えば、日本人のキリスト教徒や、アメリカ人の仏教徒が別の民族として扱われることが無い様に、本来は単なる「〜人のイスラム教徒」として扱われるはずである。
ところが上記の国ではそれぞれ回族、ムスリム人、ムーア人、ポマク人などと別の民族として扱われたり、別の統計に表れたりする。
この意識は内外双方に見られ、ムスリムの側も外部と自分たちは別の民族だと言う意識を持ち、外部の民族もムスリムを自分たちとは、たとえ同じ言語を用い、同じ形質的な人種であっても、同じ民族だとはみなさない場合が多い。
ムスリムの使用する言語で最も使用人口が多いのはアラビア語で、約2億8,000万人ほどの話者人口がある。ただし、これには互いに通じない多様な方言を含んでいる(標準アラビア語を公用語として使用するものと考えた場合である)。
次に使用人口が多いのはインドネシア語の約2億人である。ただし、インドネシア語の使用人口の大半は公用語としての使用人口であり、母語者のみに限定した場合は2,000万人ほどである。マレーシア語とはほとんど同じ言語であり、両者を同じ言語であるムラユ語(マレー語)と規定した場合、使用人口は2億2,000万人ほどとなる。
3番目に使用人口が多いのがウルドゥー語の約1億8,000万人である。これもインドネシア語同様、第2言語としての使用人口であり、母語話者はやはり2,000万人ほどだと言われている。インドにはヒンディー語を母語とするムスリムも5,000万人以上存在すると見られる。ウルドゥー語とヒンディー語を同じ言語であるヒンドゥスターニー語と規定した場合、この言語を使用するムスリム人口は2億3,000万人ほどとなり、ムラユ語とほぼ同規模となる。
4番目にムスリムの使用人口が多い言語はベンガル語である。ベンガル語を使用するムスリムの人口は1億6,000万人ほどである。(ただしベンガル語にはヒンドゥー教徒などの話者も多く、総話者人口は2億2,000万人ほどである。)
ジャワ語とパンジャーブ語のムスリム話者がそれぞれ8,000万人ほどである。ただし両者は同時に、インドネシア語、ウルドゥー語の話者でもある。パンジャーブ語には他に、シーク教徒やヒンドゥー教徒の話者も多く、総話者人口は1億人を超える。
ペルシア語の話者が約7,500万人存在する(母語話者は4,000万人ほど)。これに実質同じ言語である、ダリー語とタジク語の使用人口を加えると1億1,000万人ほどとなる。
トルコ語の話者が7,500万人存在する。
ヒンディー語の総使用人口は約5億人だが、そのうち5,000万人近くがムスリムである。ムスリムの使用するヒンディー語はアラビア語ペルシア語由来の外来語の占める割合が高く、ウルドゥー語との境界線が曖昧である。
パシュトー語の話者総数は約4,000万人である。ただし東西の方言差は大きい。
ハウサ語は話者総数約4,000万人、(うち母語話者数は2,500万人ほどである。)
そのほか、2,000万人以上のムスリムの話者人口を持つ言語が、アゼルバイジャン語、ウズベク語、クルド語、ダリー語、スンダ語、スワヒリ語(話者は非イスラム教徒の方が多く、総話者人口は1億人に達する。話者の大半が第二言語としての使用である。)、ソマリ語などである。
1,000万人規模のムスリムの話者人口を持つのが、シンド語、フラニ語、カザフ語、オロモ語(エチオピア正教徒などの話者も多い。総話者人口は2,500万人以上)、マドゥラ語、マレーシア語(非イスラム教徒が多い、華人系やインド系のマレーシア人も公用語として使用する。総話者人口は2,000万人強)、ヨルバ語(ムスリムは30%ほど。総話者人口は3,000万人以上)、タジク語、中国語(回族の話者)、ウイグル語などである。
日本では、文部科学省文化庁が宗教年鑑などの各宗教の人口統計を発表している。しかし、その統計は各宗教団体の自己申告の信者数を単純に合算したものに過ぎず、正確な統計とはいえない面がある。そのため、日本国内のムスリムの正確な人数を算出することは難しい。
文化庁が取りまとめた「宗務時報」によれば、歴史上のムスリム人口は、1931~1945年の戦中期の滞日ムスリム人口は500人から700としている。1953年に日本人ムスリムによって結成された日本ムスリム協会の創立時会員数は47名、1969年の外国人ムスリム人口は約1500人、1984年の滞日ムスリム人口は、約8000人という数字を上げている。「宗務時報」では、2010年末の滞日ムスリム人口は約11万人としている。ピュー・リサーチ・センターの調査では、2010年の滞日ムスリム人口は、約18万5千としている。
国籍からみると、ムスリムが多数を占める国からの移民、定住者数は、比較的多いのがインドネシア人(約25000人)、マレーシア人(非イスラム教徒の中国系のマレーシア人の来日者も多いため、来日者に占めるムスリム比率は不明)、バングラデシュ人(約11000人)、パキスタン人(約9000人)、スリランカ人(スリランカ自体はイスラム教徒は少数派の国であるため、来日者に占めるムスリムの比率は不明)、イラン人(約5000人)、トルコ人(約2500人)、エジプト人(約1500人)、中国国籍回族(約3500人)、ウイグル人(約700人)である。
それ以外の国からの移民もおり、その出身国は、中東、東アジア、東南アジア、南アジア、中央アジア、アフリカと多岐に渡る。イスラム教徒の比率が、80%前後以上の比率の国家からの来日者数を合計すると、約58000人となる。それ以外の国家からの来日者にもムスリムは存在するため、実際はそれ以上の人口となることが予想される。しかし、前述のとおり、日本では日本人、外国人を問わず、各宗教、宗派の人口統計が存在しないため、正確な数は不明である。
アジアの非イスラム教国の多くには自国民のムスリムの集団が存在する。中国新疆ウイグル自治区等や、タイ南部、フィリピン南部、ミャンマー西部、モンゴル西部などには、隣接するイスラム圏から延長された、ムスリム民族の多数派地域が存在する。カンボジアやベトナムにはムスリム民族の飛び地が存在し、中国や、南アジア諸国には現地の言語や文化、民族に同化したムスリムの集団が存在する。
日本の全ての都道府県にモスク、もしくは何らかの礼拝所が存在し、イスラム教徒の専用の食品や肉、調味料を扱う店やレストランなどが併設されている所もある。
日本に住むムスリムの悩ませる問題に墓地問題がある。日本全国でイスラム墓地は2020年時点、10カ所ある。日本最大級の面積を誇るイスラム墓地は静岡県静岡市にある清水霊園イスラーム霊園である。勝澤洋(かつざわ ひろし)が2010年にムスリムと話し合いコンクリート構造のイスラム埋葬墓地のシステムを考案し、日本で初めて施工したとされる。
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マルセイユ版タロット
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マルセイユ版タロット(マルセイユばんタロット、仏:Tarot de Marseille)は、16世紀から18世紀頃のヨーロッパで、大量生産されていたカードの絵柄の総称。またはその絵柄を踏襲したタロットカードの名称。「マルセイユ版」「マルセイユ系」などと略される。
一般的には「グリモー版」のタロットカードを指して呼称する場合が多い。
歴史上、タロットカード自体のルーツを遡ると15世紀のイタリアへと辿ることができ、当時プレイングカードとして主にカードゲームなどに使われていたものが、そのままヨーロッパ各地へと伝わり、後に「何らかの要因」によって占い等の神秘的・秘教的意味合いを持つものとなっていったと見られている(タロットの項も参照)。
フランスの歴史に於いて、文献等に初めてタロットを含む「プレイングカード」に関わる言及が見られたのは1482年とされている。また、明確に「タロット」に関わる文献としてフランス最古のものは、フランソワ・ラブレーによる著書『ガルガンチュワとパンタグリュエル』であり、その第一之書に「tarau」という形で記述されている。なお、出版年は1534年となっている。その後、フランスでカードゲームが一般的なものとなるにつれて、遅くとも16世紀末頃にはリヨンやルーアンを中心としてタロットの製造が行われるようになっていた。カードの製造、即ち印刷・製紙業は地理的環境から次第に地中海沿岸部の都市でも生産が始まるようになる。地中海沿岸の都市は、当時、さまざまな情報の行き交う港町として発展しており、アジア・アフリカなど他国の文化をいち早く吸収できる環境にあった。その為、木版印刷・銅版印刷に関わる技術についても他の地方に比べ高いものを誇っており、17世紀頃にはマルセイユを始め、トゥーロン、ボルドーなどの地中海沿岸部を始め、フランスの各所でもカードが製造されるようになっていた。
フランス最古のものとして現存するタロットカードは、1557年のリヨンにてケイトリン・ジョフロイという人物によって作成されたものと見られている。このケイトリン・ジョフロイによるタロットのスートは、今日に見られるタロットのスートとは異なり、当時のトランプ(プレイングカード)のスートと共通する3種類が確認されているため、その絵柄のデザインとともに「マルセイユ版タロット」と直接共通する点は少ないとされている。歴史上遡ることのできる範囲において初めて「マルセイユ版タロット」の絵柄が確認されるのは、マルセイユではなく17世紀後半(1650年頃とされている)のパリにおいてである。ジャン・ノブレによって作成されたタロットカードが「マルセイユ版タロット」の絵柄をもつ最も古いデッキとして有力視されている。このデザインが、後にタロットカードのデザインとして一般的なものとなり、これを元にした様々なバリエーションのカードがフランス各地で生産されることとなった。それらがマルセイユ版と呼ばれるようになったのは20世紀に入ってからのことで、ニコラ・コンヴェルという18世紀のマルセイユのカードメイカーの作ったタロットを、1930年代にグリモー社が「マルセイユのタロット」の名で復刻したことに始まる。
一方、1854年のパリにおいて一人の人物が一冊の本を出版した。「エリファス・レヴィ」、本名「アルフォンス・ルイ・コンスタン」の書き記した『高等魔術の教理と祭儀』がそれである。やがてこの本に書かれたオカルティズムに基づく神秘思想は当時のパリを席巻することとなり、19世紀半ばから20世紀に至る魔術復興・オカルト思想を象徴する存在となった。同書はタロットについての解説書でもあったので、以後現代に至るまで世界各地でタロット解釈の解説書の定番の一冊とされてきた。この流れを受け、タロットにも神秘主義・カバラ思想に基づく解釈が取り入れられ、それまで製作されていたカードにも同書の解釈が当てはめられることとなった。やがてイギリスへと飛び火したタロットの神秘的解釈は、20世紀初頭の1910年、アーサー・エドワード・ウェイトによるタロットカード、すなわち黄金の夜明け団の教義に基づくカバラ思想・神秘的象徴をふんだんに取り入れた「ウェイト版タロット」として結実し、このデッキが出版されたのを皮切りに、世界中で神秘的解釈に依拠したタロットカードが製作されることとなった。
こうした流れの中、マルセイユ版タロットはその歴史、象徴体系の部分から様々な研究が進められており、一部では「マルセイユ版こそ、本来のタロットカードの姿である」といった主張が生まれるなど、他のタロットとの差別化を図ろうとする動きも出てきている。
木版画調のラフな絵柄が特徴的なカードで、現在広く用いられているウェイト版タロットとは大アルカナの配列順序が異なっている。
また、その歴史の長さなどから様々なバリエーションのものが出回っている。以下、代表的なものの一部。
この他にも、多種多様にデザインの異なるマルセイユ版タロットが作成されている。
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ウェイト版タロット
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ウェイト版タロット(ウェイトばんタロット、Rider Waite Tarot)とは、アーサー・エドワード・ウェイトが黄金の夜明け団の解釈に基づいてデザインし、パメラ・コールマン・スミスに描かせたタロットの通称。1909年にロンドンのライダー社から発売されたことから、ライダー版とも呼ばれる。
アール・ヌーヴォー調の親しみやすい絵柄で大ブームとなる。以後、イギリスでタロットと言えば、ほとんどこれを指すほどになった。
このタロットカードは、当時アーサー・エドワード・ウエイトが所属していた魔術結社「黄金の夜明け団(ゴールデン・ドーン)」の内部文書や「Tの書」などを元に作られており、絵はコールマン・スミスが担当。
黄金の夜明け団が教義の中心に据えていたカバラ的見地に基づいて整理・調整され、大アルカナのみならず、本来数札である小アルカナまで、全てが絵で表されているのが特徴。カードの順番も、黄金の夜明け団の西洋占星術的解釈に基づいて『力』と『正義』のカードが、従来の並び方と入れ替わっている。
しかし、タロットと同時に著された解説書には、団内文書やクロウリーの残した「777の書」などと違い、古くから一般的に使われてきた「逆位置解釈」が盛り込まれている。現代でも魔術結社の多くが逆位置解釈を採用していない事から見ても、団内の知識が安易に流出する事を避けたのではないかと思われる。
それ以外にも、カードの絵に使われている色彩が、実際のカード対応色と違っているものが78枚の内に数枚あると研究者は語っている。この色彩に関しては、戦後、印刷技術の発達や、商品としての美しさを求めてかなり改変されていることは明らかで、現在では本来の色彩を復刻したオリジナル版が発売されている。
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ヴィスコンティ・スフォルツァ版タロット
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ヴィスコンティ・スフォルツァ版タロット(ヴィスコンティ・スフォルツァばんタロット、Visconti Sforza Tarocchi)とは、15世紀後半にミラノ公のフランチェスコ・スフォルツァなどが、画家に描かせた、様々な博物館、図書館、そして世界中の個人コレクションに散らばる、約15デッキのタロットを総称したものである。
現存する最古のタロットとして知られ、現在標準とされているマルセイユ版とは絵柄などにかなりの違いが見られる。
また、悪魔、塔が欠落しており、最初から無かったのか、散逸したのかをめぐって研究家の間でも意見が分かれている。
完全なデッキは残されていないが、コレクションによっては、同一のカードで構成された、多くの絵札が残されているものもある。 最も有名な三大コレクションについては、以下で詳細に説明する。
1967年にイェール大学図書館に寄贈されたキャリー家のカードゲームのコレクションにあった事から、このデッキはキャリー・イェール版と呼ばれる。またこれはヴィスコンティ・ディ・モドローネ版としても知られ、少なくとも1466年に遡るとされている。またフィリッポ・マリア・ヴィスコンティの注文によるセットという学説もあり、このデッキが最古である可能性もある。学者ジョルダーノ・ベルティ(en:Giordano Berti)の学説によれば、このデッキは1442年と1447年の間に製作されたとされる。キャリー・イェール版は通常の大アルカナの他に「信仰」「希望」「慈善」の三枚のカードが加えられている(それぞれ「教皇」「星」「女教皇」の替りに入れられたとみる説もある)。また、通常の人物札(王・女王・騎士・ペイジ)の他に、「女騎士」と「メイド」が加えられている。よって制作時には86枚で構成されていたと考えられる。現在は11枚の大アルカナ、17枚の人物札、金貨の3を除いた数札39枚の、計67枚が現存する。札のサイズは 189 × 90 mm。
すべての大アルカナと人物札の背景は金箔で装飾されている。また、すべての数札の背景は銀で装飾されている。
1909年、ヴェネツィアでこのデッキを取得したジョヴァンニ・ブランビラの名前にちなみ名付けられた。1971年にはイタリアのミラノにあるブレラ美術館の目録に乗っていた。
1463年にフランチェスコ・スフォルツァ の注文でボニファチオ・ベンボ(en:Bonifacio Bembo)(1447 年-1477年活躍)によって描かれた。
現在48枚が現存している。そのうち大アルカナは皇帝と運命の輪の2枚が現存するのみである。札のサイズは180 × 90 mm。すべての大アルカナと人物札の背景は金箔で装飾されている。また、すべての数札の背景は銀で装飾されている。金貨の4を除く全数札と、杯の騎士とペイジ、金貨の騎士とペイジ、棒の女王と騎士とペイジが現存している
別名コッレオーニ・バリオーニ版ともフランチェスコ・スフォルツァ版とも呼ばれる。このデッキは、1451年前後に制作された。 もともとは78枚で構成されていたと考えられる。現在では20枚の大アルカナ、15枚の人物札、そして39枚の数札の、合計74枚が残る。このデッキのうち35枚をモルガン・ライブラリーが所蔵している。アッカデミア・カッラーラ美術館が26枚を所蔵。残りの13枚を、ベルガモ地方のコッレオーニ家が個人所蔵している。大アルカナの悪魔と塔のカードが欠落している。大アルカナと人物札は背景に金箔が使用されている。数札の背景はクリーム色をベースに花と蔓をモチーフにした装飾が施されている。全てのカードに青い縁取りが装飾されている。札のサイズは173 × 87 mm。
上記のイェール大学には他にも1450年頃の、以下の16枚が残るデッキが所蔵されている。ただし、これは所謂「ヴィスコンティ・スフォルツァ版」ではなく、エステ家のタロットである。
画像はBeinecke Rare Book & Manuscript Libraryを参照。
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アラブ世界
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アラブ世界(アラブせかい、العالم العربي, al-ʻālam al-ʻarabi)は、アラビア語を話す人々であるアラブ人が主に住む地域。
現代政治的にはアラブ連盟の加盟諸国とみなされることが多く、アラブ諸国とも言う。ただし、アラブ連盟加盟国の中には、ジブチ・ソマリアなどアラブ人が少数派を占めるにすぎない国もある。
アラブ世界は東西2つに分けることができ、イラクからエジプトまでをマシュリク(太陽が昇るところ)、リビアからモロッコまでをマグリブ(太陽が没するところ)と呼ぶ。これら2つの地域は歴史的にあまり強い関係性を持たず、それぞれが別個の発展を遂げた。
はアラブ連盟の加盟国。
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薔薇十字団
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薔薇十字団(、独: Rosenkreuzer、ローゼンクロイツァー)は、17世紀の初頭にドイツで宣言書を発表した友愛組織。この宣言書では、クリスチャン・ローゼンクロイツという謎の人物によって15世紀に創設された秘密の組織であるとされている。宣言書の主旨は、ヨーロッパの学者と統治者に宛てた改革の訴えであり、秘密の知識を公開することを申し出ていた。その内容には、キリスト教神秘主義、新プラトン主義、パラケルススの思想の影響が見られる。宣言書の作者は、テュービンゲン大学で神学、医学、哲学を研究していた若手の集団であり、その中心人物はヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(1586-1654)であると推測される。この宣言書は当時の人々に大きな衝撃を与え、ヨーロッパ中に熱狂と論争が巻き起こった。
1614年、神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された著者不明の怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』とその付録『友愛団の名声』(Fama Fraternitatis、ファーマ・フラテルニタティス)で初めてその存在が語られ、一気に全ヨーロッパで知られるようになる。ただし、この『友愛団の名声』の原文は、正式出版前の1610年頃から出回っていたとされる。そこには、人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、つまり不老不死の実現のために、120年の間、世界各地で活動を続けてきた「薔薇十字団」という秘密結社の存在や、それを組織した創始者「R・C」あるいは「C・R・C」、「クリスチャン・ローゼンクロイツ」と呼ばれる人物の生涯が克明に記されていた。
1615年、同じくカッセルで、『友愛団の信条』(Confessio Fraternitatis、コンフェッシオ・フラテルニタティス)が出版される。それはドイツ語ではなくラテン語によって書かれ、『友愛団の名声』によって宣言された「教皇制の打破による世界改革」を、さらに強調するものであった。
1616年、小説『化学の結婚』がシュトラースブルクで出版される。著者はヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエだといわれている。そこには深遠な錬金術思想が書かれており、この文書に登場するクリスチャン・ローゼンクロイツこそ、先の2つの文書に書かれていた創始者「C・R・C」(クリスチャン・ローゼンクロイツ)であると考えられた。
フランセス・イェイツによれば、これらの背景には薔薇すなわちイングランド王家をカトリック、ハプスブルク皇帝家の支配からの救世主として迎え入れようとする大陸諸小国の願望があったという。なお、前述の怪文書の刊行から4年後の1618年にドイツを舞台とした宗教戦争である「三十年戦争」が勃発している。
1623年には、フランスはパリの街中に、「我ら薔薇十字団の筆頭協会の代表は、賢者が帰依する、いと高き者の恩寵により、目に見える姿と目に見えない姿で、当市内に滞在している。われらは、本も記号も用いることなく滞在しようとする国々の言葉を自在に操る方法を教え導き、我々の同胞である人類を死のあやまちから救い出そうとするものである。──薔薇十字団長老会議長」という意味不明な文章が書かれた貼紙が一夜にして貼られるが、結局、犯人は不明であった。
薔薇十字団は、始祖クリスチャン・ローゼンクロイツの遺志を継ぎ、錬金術や魔術などの古代の英知を駆使して、人知れず世の人々を救うとされる。起源は極めて曖昧だが中世とされ、錬金術師やカバラ学者が各地を旅行したり知識の交換をしたりする必要から作ったギルドのような組織の1つだとも言われる。
薔薇十字団の存在はやがて伝説化し、薔薇十字団への入団を希望する者だけでなく、薔薇十字団員に会ったという者や、薔薇十字団員を自称するカリオストロやサンジェルマン伯爵などの人物が現れた。また、18世紀にはフリーメーソンの内部とその周辺において、19世紀から現在までは神秘学と秘教の分野において、薔薇十字団を名乗る団体と「バラ十字の伝統」を継承していると述べる団体が多数現れている。
この流れのほかにも人智学から派生した「薔薇十字団」が南ドイツに現在でも存在している。本家からは完全に独立し、ある村の片田舎で毎週日曜日の午前中にはキリスト教のミサや礼拝に似た儀式を独自に繰り広げている。
18世紀の後半には、「薔薇十字の位階」と呼ばれる段位がフランスのフリーメーソンの制度の中に現れた。これは当時のフリーメーソンの思想に薔薇十字思想が影響を与えていたことを示している。
薔薇十字団は様々なフィクション作品で取り扱われている。
ラプソディー・オブ・ファイアの元ギタリスト、ルカ・トゥリッリ(英語版)が結成した第二のラプソディであるLuca Turilli's Rhapsody(英語版)の2ndアルバムにクリスチャン・ローゼンクロイツを題材にした曲「Rosenkreuz (The Rose And The Cross)」がある。
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大正駅 (大阪府)
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大正駅(たいしょうえき)は、大阪府大阪市大正区三軒家東一丁目および同区三軒家西一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の駅である。駅番号は、JR西日本がJR-O16、Osaka MetroがN11。
大正区唯一の駅。JR西日本大阪環状線と、当駅を起点とするOsaka Metro長堀鶴見緑地線との乗換駅となっている。
現在の大阪環状線のうち境川信号場 - 今宮駅間は、関西本線貨物支線(大阪臨港線)として1928年に開通していた区間だが、旅客線化は33年後の大阪環状線成立時である。それまでの大正区付近の足は大阪市の公営渡船・大阪市電・大阪市バスだけであった。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、分岐器や絶対信号機がない停留所に分類される。改札口は1階にあり、コンコースの中央に設けられている駅務室を挟んで2か所にある。
2011年3月12日に行われたダイヤ改正により、全ての快速列車の停車駅となった。それ以前は、関空/紀州路快速・大和路快速は当駅を通過していたが、京セラドームでのイベント開催時に臨時停車することがあった。
新今宮駅が管理する直営駅であり、アーバンネットワークエリアに入っている。また、JRグループの特定都区市内制度における「大阪市内」に属する駅である。また、ICOCAの利用が可能である(相互利用対象ICカードはICOCAの項を参照)。
長らくのりば番号が存在しなかったが、2006年10月中にのりば番号が付与された。
1997年の大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)完成にあわせてJR西日本の駅の中では、1997年3月から自動改札機「Jスルー」が導入されていた。また、自動改札機が導入後しばらくは、それまで改札で切符を切っていた駅員が「立ち止まらないでください」と案内をする様子が見られた。かつてホームの壁には『大阪ドーム最寄り駅』と表記された看板が存在していたが、現在は撤去されている。
「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、2015年3月22日から沖縄民謡の「てぃんさぐぬ花」が発車メロディとして使用されている。当駅周辺には沖縄県からの移住者が多く住んでおり、沖縄文化色の濃いまちのイメージに因んでいる。
島式ホーム1面2線を持つ地下駅。改札口は心斎橋寄りの1か所のみである。
当駅はドーム前千代崎管区駅に所属しており、同管区駅長が、当駅、西大橋駅、ドーム前千代崎駅を管轄する。
長堀鶴見緑地線は将来鶴町方面へ延伸の予定が大阪市交通局より示されている。
駅のデザインテーマは、川に囲まれた大正区を表す「川面の交歓(かわものこうかん)」。
この駅での列車折り返しは、駅直前まで単線シールドトンネルになっているため引き上げ線方式となっている。到着した上り列車は2番線に入線して乗客を降ろした後、その先にある3本の引き上げ線にて折り返しを行い、門真南方面行きとして1番線に入線する。但し、同じ方式のコスモスクエア駅とは異なり、2番線ホームの駅名標にも次駅名が書かれている。
各年度の1日乗降・乗車人員数は下表の通り。
大正区は交通が不便であるため、高等学校生徒が自転車を駅付近に駐輪し、大正区外へ通学する様子が見られる。
大正区には3つの高等学校があり、通学利用が多い駅である。バスや車で送迎してもらい鉄道を利用する人もいる。
普段の駅は通勤通学時以外は閑散としていて利用者が少ないが、京セラドーム大阪でのイベント時は大変混雑する。
大正区には沖縄県出身者のコミュニティがあり、駅周辺には沖縄料理店が点在する。
駅の北東で、木津川と道頓堀川が合流し、木津川と尻無川(岩崎運河)に分かれる。
以下はバスを利用。
大阪シティバスが運行しており、主に大正通を経由して大正区各方面へ運行されている。最寄り停留所は大正橋停留所。バス乗り場は多数あり、詳しくはこちらを参照。
2014年11月1日からは大阪シティバス(旧大阪市営バスの民営化前)の自主路線としてIKEA鶴浜⇔梅田・大正 Express バスも運行されている。
1998年10月の調査結果では、大正橋停留所の1日の乗車人員(平日)は12,630人である。これは、大阪市営バス(当時)の停留所中、2位である。
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アラブ連盟
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アラブ連盟(アラブれんめい、جامعة الدول العربية、Jāmi'a al-Duwal al-'Arabīya、League of Arab States)は、アラブ世界の政治的な地域協力機構。第二次世界大戦末期の1945年3月22日創設。本部はカイロにある。加盟は22(21カ国と1機構)。
参加各国の代表からなる理事会が最高決定機関で、その下に実行機関である事務総局や常任委員会、共同防衛理事会、社会経済理事会、ほかパレスチナ問題総本部やイスラエル・ボイコット本部などの部局や専門の諸機関がある。理事会は1年に2回開催されるほか、加盟二か国または通常理事会の要請によって緊急理事会を開くことができる。また、上記の組織とは別に、1963年から開催されているアラブ首脳会議は、2000年に正式にアラブ連盟の会議となった。首脳会議は年に一度加盟国の都市に集まって行われる。理事会が閣僚レベルの各国代表で構成されるのに対し、首脳会議は各国の元首が集合して議論を行うため、首脳会議の重要性は高まってきている。
本部がカイロにあり、また歴代の7人の事務局長が、エジプト追放期のチュニジア人一人を除いて全員エジプト人であるように、エジプトの主導権が強く、サウジアラビアなどを中心に反発もあり、サウジアラビアがイスラム諸国会議機構の設立に積極的であった理由のひとつともされる。1979年3月にはエジプトとイスラエルの単独和平によって盟主であったエジプトが連盟から追放され、本部は一時チュニジアのチュニスに移っていたが、1989年5月にエジプトが連盟に復帰すると、本部もカイロへと戻った。
当初は1945年当時のアラブ独立国7か国で発足した連盟であるが、アラブ諸国が次々と独立していくにつれて加盟国数も拡大し、さらに1973年にモーリタニアが加盟したのを皮切りに、それまでアラブ諸国とはみなされていなかったジブチやソマリア、コモロなどの加盟が認められていった。
連盟発足後すぐに勃発したイスラエルとの対立とそれによる数度の中東戦争によって連盟は結束して行動したものの、連盟自体の強制力は小さなものであり、しばしば足並みの乱れや内部対立が起こっているため、連盟はそれほど強力な政治力を持っているとは言い難い。最近ではアラブ連盟の政治的役割はますます低下しており、実質的には中東の政治問題の解決にほとんど有効な手段を取ることができていない。地域統合でも湾岸協力会議やアラブ・マグレブ連合など、より狭い地域での統合を目指す動きの方が進展が見られる。
イスラエルとは同国建国以来緊張関係にあり、イスラエルおよびその主要取引先に対する経済制裁である「イスラエル・ボイコット」も行っており、イスラエルにアラブ和平イニシアティブ(英語版)の受け入れを要求している。
20世紀にはいると、アラブ民族主義の高まりを受けて、アラブ諸国家間の地域協力機構の設立が叫ばれるようになった。第二次世界大戦が始まると、アラブ諸国が枢軸国側につくことを避けるために1941年5月29日からイギリスのアンソニー・イーデンがこの構想を主張しはじめた。この時はアラブ各国の支持を受けられなかったものの、イーデンは1943年2月に再度同様の呼びかけを行い、これにアラブ各国が積極的な賛同を示したことで、この構想は一気に具体化した。とはいえ、この機構に対する各国の反応はまちまちだった。エジプトのムスタファ・エル・ナハス首相は積極的な賛成を示し、連盟設立の主導権を握ったが、エジプトの立場はこの機構を緩やかな国家間の協力機構にとどめるものだった。トランスヨルダンとシリアはともに大シリア(シリア・ヨルダン・レバノン・パレスチナ)の統合を主張し、そのうえでアラブの連合を求める考えを示していたが、ヨルダンはハーシム家による君主制を、シリアは共和制を構想していた。イラクはこれにイラクを加えた統合構想を持っていたが、イラクとヨルダンは各国家の完全な統合までには踏み込まず、やや統制の強い国家連合を志向していた。これに対しシリアはアラブ統一に最も積極的であり、創設7か国中で唯一主権放棄にも応じる姿勢を示していた。こうした積極派の諸国に対し、サウジアラビアとレバノンは主権の移譲に強い抵抗を示していた。レバノンは前述の大シリアに含まれる地域ではあったが、他地域とは違いキリスト教のマロン派が主導権を握っており、大シリアが統合された場合周囲のスンニ派に飲み込まれる恐れがあったために、どのような主権移譲の動きにも強い抵抗を示していた。サウジアラビアはもともと孤立主義的な傾向が強く、連盟の設立自体に懐疑的であり、イエメンもこれに追随した。こうした中でエジプトが主体となって妥協が行われ、どのような強制力も持たない緩やかな地域協力機構にとどめることで消極派諸国をつなぎとめ、連盟が設立されることとなった。こうして1945年3月22日にアレキサンドリア議定書の発効によって、当時のアラブ7カ国が加盟してアラブ連盟が結成された。
アラブ連盟が作成した「アラブ人権憲章」は、1994年に初期版が作成されたが、批准した国はなかった。2004年に作成された最新版は、より大きな成功を収め、必要な数の加盟国の批准を経て2008年に施行された。 アラブ憲章で正式に記されている規範の多くはイスラム原理に基づいており、前文では「高貴なイスラム教によって神聖なものとされた[...]永遠の原理を[...]推進するもの」とされている。アラブ憲章が施行された4年後、当時の国連人権高等弁務官ルイーズ・アルブール氏は、アラブ憲章が他の国際人権条約と相いれないことを公に強調して反論した。
発足したアラブ連盟がまず最初に取り組んだ問題は、パレスチナ地方におけるアラブ人とユダヤ人の対立、すなわちパレスチナ問題であった。すでに連盟結成前からパレスチナ問題はこの地域における一大政治問題となっており、アラブ連盟は一貫してアラブ人の権利を主張した。1947年11月に国際連合においてパレスチナ分割決議が採択されると、アラブ連盟はこれに反対した。このころになるとすでにパレスチナは内乱状態となっており、1948年5月14日にイギリス軍がパレスチナを撤退すると、同日この地域のユダヤ人がイスラエルの独立を宣言したため、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5か国もこれに反応してイスラエルに即日宣戦を布告し、パレスチナになだれ込んだ。第一次中東戦争である。アラブ連盟諸国は兵力的には優位だったものの共同歩調を取ることができず、やがてイスラエルに反撃され、1949年には事実上の敗北という形で停戦協定を結ばざるを得なくなった。
敗戦後のアラブ諸国では、第一次中東戦争で連帯を強めることができなかった経験を踏まえ、アラブ連盟内でより強い統合を求める動きが始まった。この動きによって1950年、共同防衛理事会とその補助を行う常任軍事委員会が連盟に設立され、加盟国間での軍事連携が深まることになった。また創設以来連盟はイスラエルに対するボイコットを行ってきたが、1951年にはダマスカスにイスラエル・ボイコット事務局が設立され、イスラエルとの貿易をはじめイスラエルと取引のある企業との契約をも禁止するボイコット運動が開始された。1956年に起こったスエズ危機において、連盟はエジプトを全面的に支持し、英仏とイスラエルに対抗した。エジプトが軍事的に敗北したものの政治的に勝利を収めると、エジプト大統領のガマール・アブドゥル=ナーセルの威信が高まり、彼の提唱によりアラブ民族主義(汎アラブ主義)に基づくアラブ世界の統一を目指したアラブ連合構想が各地で実現したものの、基本的にエジプトばかりかサウジアラビア、シリア、イラクがそれぞれアラブ圏での主導権を握ろうとし、互いに従属することを嫌ったためにいずれも頓挫した。
1959年に国際石油資本が産油国の了承を得ることなく石油公示価格の引き下げを発表すると、同年4月、アラブ連盟は第1回アラブ石油会議をカイロで開催し、この措置に抗議した。この会議にはアラブ諸国のみならず大産油国であるイランおよびベネズエラも招かれ、この会議を発端に産油国間の協調体制が整うようになり、1960年の石油輸出国機構の結成へとつながっていくこととなった。1963年からはナセルの提唱によってアラブ首脳会議が行われるようになり、1982年以降一時中断したものの2000年に復活し、2012年現在も継続している。第一回アラブ首脳会議が1963年に開かれたが、アラブ連盟はパレスチナ解放のための機関としてパレスチナ解放機構(PLO)の設立に同意し、翌年に実現した。
中東戦争では引き続き連携し、1967年の第三次中東戦争でアラブ側がイスラエルに大敗し、軍事的劣勢に立たされた際には、同年9月のアラブ首脳会議において、イスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」を決議した。この第三次中東戦争の大敗はアラブ諸国にとって衝撃的であり、それまで英雄とされていたナセルの政治的威信は失墜、アラブ世界の統合の動きは衰退していくことになった。またヨルダン川西岸地区をめぐって、あくまでこの地区の奪還を目指すPLOとイスラエルとの妥協を志向するヨルダンの対立は激化し、1970年には両者の間にヨルダン内戦が勃発した。この内戦においてアラブ連盟はPLOとヨルダンの仲介に立ち、PLOは本部をヨルダンの首都アンマンからレバノンの首都ベイルートへと移転させることとなった。
1973年に第四次中東戦争では、エジプトとシリア両国がイスラエルを攻撃した。連盟はエジプト・シリアを支援したものの、緒戦の敗北から立ち直ったイスラエルは両国への逆襲に成功し、最終的にはイスラエル優勢で戦争は終結した。しかし緒戦でイスラエルが敗北したことが、イスラエルはその軍事的威厳を落とすことになり、またアラブ諸国の結束の機運を一時的に高めることとなった。アラブ連盟の動きに呼応したアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は非友好国への石油供給削減を行い、さらにこれに石油輸出国機構が同調したことで石油価格が高騰し、第一次石油危機が勃発した。この結束の機運に乗ってPLOはアラブ連盟との関係を強めていき、1974年のアラブ首脳会議においてPLOはパレスチナ唯一の代表となり、1976年には正式に連盟に加盟してその一員となった。レバノン内戦においては1976年に平和維持活動を決定した。また、1973年にはモーリタニアが加盟し、アラブ連盟が伝統的にアラブとされている領域から拡大するきっかけとなった。
こうした一連の協調を対立関係に変えてしまったのが1978年3月のキャンプ・デービッド合意である。この合意においてアラブ側の中心国家であり、4度の中東戦争において唯一アラブ側ですべての戦争に参加していたエジプトのサダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギンの間で、両国の停戦と相互承認が締結されたことは、アラブ諸国に激震をもたらした。アラブ連盟の対イスラエル共通政策である「和平せず、交渉せず、承認せず」に違反したとしてエジプトは強い批判にさらされ、同年11月にイラクのバグダッドで行われた1978年アラブ首脳会議(英語版)で主導国であるにもかかわらずアラブ連盟を追放されてしまう。同時にアラブ連盟の本部もブルギーバ政権下のチュニジアのチュニスへと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。
1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争では、イラクが連盟内の国家でありイランがそうでなかったこと、およびこの前年の1979年に起きたイラン革命によって成立したイスラム共和制に対し殆どの加盟各国が強い警戒心を抱いたことから一貫してイラクを支持し続けた。1987年にパレスチナで起こった第1次インティファーダについては支援を行う決議を採択した。またこの間エジプトが加盟各国との関係改善に努めた結果、1989年5月にエジプトが連盟に復帰して本部も再びカイロへと戻った。
エジプトが復帰してアラブ連盟は再び以前の状態に戻ったものの、この時アラブ連盟は深刻な内部対立に悩まされていた。イラン・イラク戦争で疲弊していたイラクは原油価格の引き上げによってこの苦境を乗り越えようとしていたが、アラブ諸国が主導権を握る石油輸出国機構がこれを認めなかったうえ、クウェートをはじめとするアラブの数か国がOPECの産油量割り当てを越えて増産を続け、原油の値崩れを招いていたからである。イラクは抗議を行ったがクウェートは全く聞き入れず、やがて国境上にあるルマイラ油田をめぐって両国は深刻な対立に陥った。
1990年3月に議長国となったイラクはバグダッドでアラブ連盟の首脳会議を主催し、1990年8月2日、イラク軍はクウェート侵攻を行いクウェート全土を支配下におさめた。このクウェート侵攻をめぐって、アラブ連盟は同年8月9日にカイロ国際会議場に緊急サミットを開き、エジプトの主導でイラク非難決議を採択した。この決議にイラクはもとよりPLOとリビアがイラク側に完全に立って反対し、さらにイエメンが態度保留、ヨルダンも棄権してイラク寄りの姿勢を保った。アラブ連盟には深刻な亀裂が走ったものの、主流派はイラク反対派であることは変わらず、湾岸諸国やサウジアラビアをはじめとする多くの国が1991年の湾岸戦争において対イラク攻撃に参戦した。湾岸戦争はイラクの敗北とクウェートの解放によって終結したものの、この戦争によって連盟内部の深刻な亀裂と弱体さが明るみに出、これ以降連盟の求心力はさらに弱まった。
1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構の間で合意されたオスロ合意については承認を行っている。2003年に起きたイラク戦争においては、アメリカ・イギリス軍の即時撤退要求をクウェート以外のすべての国家の賛成によって議決している。
2009年3月30日、31日の両日、カタールの首都ドーハで第21回アラブ連盟首脳会議が開かれた。会議には21カ国と1機構、国連の事務総長、イスラム諸国会議機構 (OIC) の事務局長が参加。エジプトのムバーラク大統領は欠席を表明。最終宣言では、中東和平、イラク、スーダンの国内情勢、中東非大量破壊兵器地帯創設などの課題解決のために参加国の努力を確認した。中東非大量破壊兵器地帯創設では、核兵器保有のイスラエルに対し、核不拡散条約 (NPT) に調印し、国際原子力機関 (IAEA) の監視を受けるよう国際社会が圧力をかけることを求めた。中東和平問題では、最近のパレスチナ自治区のガザ地区に対する攻撃を「野蛮な侵略」と非難した。討議でヨルダンのアブドゥッラー2世国王は、スーダン情勢について、国際刑事裁判所 (ICC) がオマル・アル=バシール大統領に対して逮捕状を発行したことを非難した。
2011年におこったアラブの春においては当初は慎重な姿勢だったが、徐々に改革派寄りの姿勢に立つようになった。これを示すのが、以下のシリア内戦に対する姿勢である。2011年10月30日カタール(ドーハ)で外相会議が開かれ、シリア内戦を論議した。31日には、アラビ事務局長が、シリア政府の反政府デモに対する武力弾圧を終了させるためのロードマップを明らかにした。11月2日には暴力行為停止などの調停案受け入れでシリアと合意したが弾圧は続き、11月16日をもってシリアは加盟資格が停止された。 2011年11月16日、モロッコ・ラバトで外相会議を開き、シリア問題について話し合った。同会議は、シリア政府に対し3日以内に弾圧を停止するよう求め、これに応じなければ経済制裁を科することを決定した。 11月27日、カイロで外相会議を開き、シリアに対する制裁措置を19ヵ国(22ヵ国・機構加盟)の賛成で承認した。制裁措置は、アラブ諸国とシリア政府との関係の断絶、シリアへのアラブ各国政府の投資の禁止、アラブ各国にあるシリア資産の凍結、シリア政府高官の渡航禁止、シリアへの民間航空の乗り入れ禁止などから成っている。12月3日には、ドーハ(カタール)で閣僚級会合を開きシリアへの制裁について協議した。
2015年3月29日、地域の不安定化の拡大に対応するため合同軍の創設で原則的に合意した。
シリアがロシアとイランを後ろ盾に内戦で軍事的優位を固めたこともあり、2023年5月7日に臨時の加盟国外相会合でシリアの復帰を決議した。
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大阪城公園駅
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大阪城公園駅(おおさかじょうこうえんえき)は、大阪府大阪市中央区大阪城にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)大阪環状線の駅である。第4回近畿の駅百選に選定されている。駅番号はJR-O07。駅シンボルフラワーは「瓢箪」である。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。駅舎の改札外にはエレベーターが設置されておらず、1番内回りホームに外に通じるスロープが設置されており車いす利用者は駅員を呼び出してそこから出入りすることができる。駅とペデストリアンデッキで直結しているJO-TERRACE OSAKAにエレベーターがありそちらの利用も可能であるがやや離れた箇所にある。ホームは8両編成に対応している。分岐器や絶対信号機がないため、停留所に分類される。当駅は大阪環状線で唯一の地上駅となっているが、当駅周辺にはかつて大阪砲兵工廠が置かれていた。そのため当駅付近を高架化した場合、軍事機密が漏洩する可能性があったため、旧陸軍は高架化を認めなかったとされている。長らくのりば番号が存在していなかったが、2006年秋頃にのりば番号が付与された。
京橋駅が管理している直営駅。みどりの窓口は存在しないが、みどりの券売機プラス(稼働時間:6時30分から23時)が設置されている。アーバンネットワークエリアに属しており、ICOCAを利用することができる(相互利用対象ICカードはICOCAの項を参照)。改札口付近の上には、小説家の司馬遼太郎が開業を祝って書いた詩を写したもの1面と、日本画家の西山英雄の絵を写した3面の陶板レリーフが設置されている。
「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、2015年3月22日から大坂の陣にちなんだオリジナル曲「法螺貝」が発車メロディとして使用されている。
2020年(令和2年)度の1日平均乗車人員は6,893人であり、大阪環状線の快速停車駅の中で乗車人員が最も少ない駅である。前年度より約50%減であり、前年度はやや上回っていた快速通過駅の野田駅(9,816人)を下回った。環状線各駅でも新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による影響で大きく減少しているが、大阪城ホール最寄り駅である当駅ではイベント開催減により特に影響が大きかったと推測される。
近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。
以下は当駅外回りホームの奥にある。
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漫画情報誌
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漫画情報誌()は、漫画に関する記事を主体とする雑誌のこと。漫画を掲載することを主体とする漫画雑誌とは異なる。
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コミックボックス
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『コミックボックス』は、ふゅーじょんぷろだくとより発行されていた日本の漫画情報誌。
旧『コミックボックス』刊行中に、姉妹誌として創刊された。創刊準備号を通巻1号と数えたため、初期にはVOLよりも通巻の方が1号多い。最も号数が混乱している時期は、次のようになっている。
VOL.25~27の3冊分の間には、VOL記載の無い通巻26号があるだけである。ここでVOLと通巻の差が逆転するはずが、通巻27号も存在しないため、VOL.28=通巻28号となっている。しかし、なぜかVOL.29は通巻30号であり、VOL.30が通巻29号である。その上、通巻29号の次は一度使った番号の通巻30号になっている。VOLが通巻より1号多い形は長く続いたが、1992年に両者は同じ号数となり、現在に至っている。VOLの欠番については増刊扱いで別雑誌を出した例があるらしい。
1980年代後半、編集長の才谷遼の方針から、原子力発電所の建設や運用に反対する姿勢を誌面に明確に打ち出した。1988年8月号は『まんが・危険な話』(タイトルは広瀬隆の著書から)と題して反原発特集号の様相を呈し、手塚治虫が原発反対のコメントを寄せる一方、関西電力の新聞PR広告に出た松本零士がインタビュアーからその意図を厳しく問われる記事も掲載された。付録には青森県 六ヶ所村での核燃料再処理工場建設への反対署名用紙がつけられた。他の月の通常の号でも反原発記事が掲載されていた。再処理工場の誘致を進める当時の青森県知事・北村正哉の顔写真に落書きをしたものを掲載して読者から批判されることもあり、編集方針は時に非常に過激なものであった。さらに、編集後記を書くべき才谷が反原発デモに参加して逮捕されたため、後記が書けない号もあった。
また、宮崎駿を積極的に取り上げたことでも知られ、1986年には宮崎のアニメ業界を憂えたインタビューを全文掲載している(アニメ雑誌では『月刊OUT』が抄録を掲載したのみ)。手塚治虫の追悼特集となった1989年5月号では、「手塚治虫に「神の手」を見たとき、ぼくは彼と訣別した」と題した宮崎のインタビューが掲載され、「だけどアニメーションに関しては(略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」とアニメ作家の立場から批判を行なったことが読者の間で論議を呼んだ。
このほか、呉智英が石子順の漫画評論を批判する文章を掲載したときには、石子からの反論が寄せられ、数度にわたって両者の応酬が掲載された。
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分子間力
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分子間力(、英: intermolecular force)は、分子同士や高分子内の離れた部分の間に働く電磁気学的な力である。
力の強い順に並べると、次のようになる。
これらの力はいずれも静電相互作用に基づく引力である。イオン間相互作用、水素結合、双極子相互作用は永続的な陽と陰との電気双極子により生じるが、ファンデルワールス力は電荷の誘導や量子力学的な揺らぎによって生じた一時的な電気双極子により生じる。永続的な電荷により引き起こされる引力や斥力は古典的なクーロンの法則で示されるように距離の逆二乗と電荷の量により決定づけられる。前3者の相互作用の違いは主に関与する電荷量の違いであり、イオン間相互作用は、整数量の電荷が関与するため最も強い。水素結合は電荷の一部だけが関与するため、1ケタ弱い。双極子相互作用はさらに小さな電荷によるため、さらに1ケタ弱い。
非常におおざっぱに捉えると、力の大きさは以下のようになるだろう。
イオン間相互作用とは、帯電したイオンの間で生じる相互作用である。同種の電荷は反発し、異なる電荷は引き合う。
水素結合は、フッ素や酸素や窒素、など電気陰性度の高い原子に水素が共有結合している場合に起こる。この場合、極性分子が生じる。水素原子は1よりも小さな正電荷に帯電し、その結果、付近の別の分子に含まれる酸素など負に帯電した原子と相互作用を起こすのである。この結果、二つの分子を結びつける安定した結合が生じる。重要な例として水分子を挙げる。
水素結合は自然界の至る所に見つかる。水素結合のために、水は奇妙な性質(訳注:酸素以外の他の16属元素の水素化物と比較した場合の水の異常に高い沸点、氷の特別な結晶構造など)を帯びるようになり、地球上の生命が存続できる。 水素原子と窒素原子の間の水素結合によって、DNA分子内の2つのらせん構造同士が結び付いている。
双極子相互作用は、永久双極子となっている二つの分子間で働く力である。水素結合は、双極子相互作用の特に強いものと考えることもできる。1921年にウィリアム・ヘンドリック・ケーソム(Keesom)が最初に数学的に記述したことから、ケーソム相互作用とも呼ばれている。 双極子相互作用は、イオン間相互作用と同じ理由で生じるが、電荷の一部だけが影響を及ぼすため、力が弱い。双極子相互作用の例として塩化水素がある。
電荷的に中性な原子や分子においても分子間力が作用する。気体が冷却されて液体や固体になるのは、分子間力が存在するためである。水滴がガラスに付いたり接着剤がものをくっつけたりするときの力も分子間力であるから、単に分子の間の力に限定するのも好ましくはない。分子間力は最初にオランダのファン・デル・ワールスによって、相転移の研究のために導入された。そのため、分子間力自体をファンデルワールス力と呼ぶこともある。
ファンデルワールス力の発生原因は1つではなく、静電誘導により励起される一時的な電荷の偏り〈誘導双極子〉や量子力学的な基底状態の揺らぎにより仮想的に発生する電荷による引力ロンドン分散力などによって発生する。一時的な電荷により生じるファンデルワールス力は静電相互作用に起因していてもクーロンの法則のように距離の逆二乗に比例しない。
分極化による誘導双極子は極性分子によって起こる場合があり次に塩素の水溶液の例を示す。
あるいはロンドン分散力で励起した双極子が他の分子を励起する例は塩素分子に見られる。
古典的な電磁気学では電荷的に中性な物質が自発的に分極するという現象は説明できない。一方、量子力学的には基底状態にあっても揺らぎが発生することが期待される。すなわち量子力学的には電子の分布も揺らぎが発生することが期待される。この様な量子力学的な揺らぎにより電荷が誘導されることがフリッツ・ロンドンにより理論的に示された。それゆえ量子力学による励起双極子を原因とするファンデルワールス力〈分子間力〉はロンドン分散力と呼ばれる。
分子間の万有引力(重力)は上記ロンドン分散力に比べてもはるかに弱く、分子間重力は無視できる。重力を考慮する必要があるとすれば地球ー分子間の重力である。物理化学は地球上の環境を特別視しないが有機化学・無機化学では地球上の化学反応が重要となるため地球の重力場の影響を考慮する必要がある。
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火縄銃
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火縄銃(ひなわじゅう、英: Matchlock gun / Arquebus)は、初期の火器(火砲)の形態のひとつで、黒色火薬を使用し、前装式で滑腔銃身のマスケット銃のうち、マッチロック式(火縄式)と分類される点火方式のものをさす。通常、日本では小型のものを鉄砲、大型のものを大筒と称する。
マッチロック式は、板ばね仕掛けに火の付いた火縄を挟んでおき、発射時に引き金を引くと仕掛けが作動して、火縄が発射薬に接して点火する構造である。
火縄銃は、15世紀前半にヨーロッパで発明され、特にドイツにおいて発展した。最古の記録は1411年のオーストリア写本「Codex Vindobona 3069」にZ字型のサーペンタインロック式が見られる。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図が残っている。
現代の日本では銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)の規制対象となっており、骨董品として所有するのにも登録が必要である。
それ以前の銃器は、火門(銃身に開けられた点火口)へ火種(火縄など)を手で押し付ける方式(タッチホール式)であった(宋の「突火槍」、明の「手銃」、モンゴル帝国及びモンゴルに支配された現ロシアや中近東の「マドファ」など)ことから、扱いが難しく命中精度も低かった。この欠点を補うため、ドイツで火縄をS字型金具(サーペンタイン)ではさんで操作するサーペンタインロック式が考案され、さらに銃床など構造面の整備が進み火縄銃が完成した。最初期の火縄銃はそれまでのタッチホール式の筒に単純なS字型金具をつけただけの原始的なものであった。しかし15世紀半ばにはシア・ロック式(sear lock)とスナッピング式が発明された。ヨーロッパではシア・ロック式が主流になり、日本にはスナッピング式が伝わりさらに独自に改良された。火縄銃の最古の分解図(1475年)はシア・ロック式のものである。
マッチロック式は命中精度と射程の向上など銃の性能を大きく向上させた。その一方で、火種・火縄を常に持ち歩く携帯性の悪さ、火縄が燃焼する臭いや光が敵にこちらの位置を教えてしまう、構造上再装填に時間のかかる先込め式しか利用できない、雨天に弱い等、改善すべき点はまだ多かった。ヨーロッパではこれらを緩和し命中精度と操作性を悪化させた、回転する鋼輪(ホイール)に黄鉄鉱片を擦り付けて着火する方式(鋼輪式ホイールロック式)や、燧石(火打ち石:フリント)を鉄片にぶつけて着火する方式(フリントロック式)が開発された。
博物館などで目にすることができる日本の火縄銃と、現代のライフルなどを比較すると、グリップ付近の形状が大きく異なる。そのため、現代のいわゆるライフル銃のように台尻を肩に当てて、脇を締めて発射することはできず、弓を番えるように肘を外に張って射撃するスタイルで使用されていた。一方でヨーロッパの火縄銃は、クロスボウの影響を受けた肩当ストック型のものの方が多い。中近東や北アフリカなど他の地域においても肩当ストック型が主流で、短床型が普及したのは現在のインドネシアから日本にかけての東南アジア・東アジア地域であった。
黒色火薬を使用し、滑腔銃身で鉛製の丸玉を撃つ火縄銃は、ライフリングを持ち完全被甲弾を使用する近代的な小銃と比べると、長距離での弾道特性、命中率、対物威力では不利な構造となる。
しかし、火縄銃は現代の小銃や散弾銃と比べると口径が大きいため弾丸が重く、滑腔銃身から発射される鉛の丸玉はソフトポイント弾に似た効果を発揮するので、人や動物に対する殺傷力は高い。「火縄銃の殺傷力が低い」という誤解は、幕末期に施条式洋式銃を装備した洋式軍隊の前に、火縄銃を装備した旧式部隊が敗北し、兵制の洋式化が進んだことが民衆に強く印象づけられた経緯が影響していると考えられる。また、泰平の世となり実戦で具足が使われる機会がなくなった江戸時代には、具足職人が自らの作った具足を火縄銃で撃ち、防御力を誇示する「試し胴」と称する実演が各地で催され、「火縄銃を防いだ具足」が各地に文化財として遺されていることなども、この誤解への影響が大きいと言われる。
正規の薬量・弾頭重量を用いた火縄銃で、戦国期当時の一般的な足軽向けの具足を射撃した実験では、直撃すれば厚い鋼板を用いた胴体正面部分でも簡単に撃ち抜くことができ、硬い鋼板に当たって砕けた鉛弾が内側で飛散して背中側の鋼板も貫いていることから、「たとえ完全装備の具足をまとっていたとしても、火縄銃がまともに胴体に命中すれば撃たれた兵はまず助からないであろう」と結論づけている。上述の「試し胴」で具足を貫通していない例については、「銃弾を防げる」という点を強調するために、火縄銃の構造を利用して弾丸の重量や火薬量を減らしていたり、具足を木の枝などにつり下げた状態で撃ったために、銃弾を受け流す格好になったのが原因だと考えられている。
1981年頃に行われた別冊Gun誌の実験では、三匁筒で重さ174グレインの弾丸を発射した場合、初速は330m/s程度、銃口エネルギーは現代の実包に換算すると.38ショートコルトと.38ロングコルトのほぼ中間である。この実験では50m離れた厚さ3cmの合板を完全に貫通している。
また、19世紀初頭の国友筒で弾丸を米国の射撃場で何度か発射して弾速を計測したところ、1550フィート秒(毎秒472.44メートル)から1590フィート秒(毎秒484.632メートル)までで安定していた。この約480m/s程度という弾速は音速(約340m/s)の1.4倍である。使用した火縄銃は全長130センチ、銃身長100センチと日本の火縄銃としては標準的なサイズで、「二重ゼンマイからくり」という上等な機関部を備え、銃腔内の状態も最高であった。
歴史群像編集部および日本前装銃射撃連盟会長小野尾正治らによって2005年頃に行われた実験では、口径9mm、火薬量3グラムの火縄銃は距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み、背面に亀裂を生じさせた。また厚さ1mmの鉄板を貫通した。鉄板を2枚重ねにして2mmにしたものについては、貫通こそしなかったものの内部に鉄板がめくれ返ったことから、足軽の胴丸に命中した時には深刻な被害を与えたのではないかとしている。さらに距離30mではいずれの標的も貫通している。
この実験では、火縄銃に対する盾としてよく用いられた青竹による竹束についても、直径4cm・長さ1m程度のものを31本束ね直径77cm、重量14.3kgとしたものに対して射撃実験を行っている。距離28.8mで10匁玉(直径18.4mm)を撃った時には青竹を6本貫通し、竹束そのものも貫通する威力を見せた。6匁玉(直径15.5mm)の場合は青竹4本の貫通で収まり竹束全体は貫通しなかったものの、当たり所が悪ければ全て貫通する場合もあるという結果が得られた。同書では火縄銃の有効射程を200m程度としており、ヒトを模した身長160cmの静止した的に対して、30mで5発全てが胸部に着弾、50mでも5発中4発が着弾するという好成績を収めている。
距離が遠かった、弾かれやすい角度で命中したなどの条件で鎧が銃弾を受け止めた実例はあり、成瀬吉正所用の南蛮胴のように、実戦での弾痕を残した鎧が現存している。ヨーロッパ製の甲冑は厚さを増して銃弾を防いだものも存在するが、それと引換に重量が増したため、全身の防御をあきらめ、胸甲として胸部のみの防御に留めている。
従来、『鉄炮記』の記述により日本への鉄砲伝来は1543年(天文12年)の種子島より始まるとされてきた。しかし、近年では、東南アジアに広まっていた火器が1543年(天文12年)以前に倭寇勢力により日本の複数の地域に持ち込まれたとする説が有力である(宇田川説)。いずれにせよ複雑な発射機構の無い鉄砲自体は遅くとも16世紀初頭に伝わっていた事が文献に残っている。伝来後に日本において引き金にばねを用いる改良がおこなわれ、それまでにはなかった瞬発式火縄銃となり命中率が向上した。すなわち、火縄の火力を瞬時に火薬に点火させるため、引き金に連動する毛抜き式弾梯の点火装置をともない、火挟みのなかの火縄を引き金とともに瞬時に点火する仕組みである。それに対し、当時のヨーロッパ製の銃は毛抜き式弾梯がなく、引き金が火挟みに連結する緩発式火縄銃である。ヨーロッパで瞬発式が採用されるのは17世紀初頭から1630年代までの時期に燧石式発火装置が考案されて以降のことである。
銃身においても、日本の筒部は錬鉄を鍛造したものをベースとしており、中国のように鋳銅を利用したものとは異なっていた。日本の火縄銃は鉄板をマキシノという棒芯に延引させて捲くことにより真部をつくり、それにリボン状の鉄板を巻いて鍛接した双層交錯法によってつくられており、幅広の錬鉄を心軸のまわりに捲きつけてその継ぎ目を溶接するヨーロッパの単捲法とも異なっていた。したがって、戦国時代の日本では、瞬発力においても火薬の爆発力においてもヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていた。
鉄砲伝来以降、日本では近江の国友と日野、紀州の根来、和泉の堺などが鉄砲の主要生産地として栄え、多くの鉄砲鍛冶が軒を連ねた。根来のみ織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの影響で桃山期以降衰退したが、国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇った。また城下町において、鉄砲足軽や鉄砲鍛冶が集中して居住した場所は「鉄砲町」と呼ばれ、現代でも地名に残っている。五葉山のような火縄の原料となるヒノキが豊富な山は藩直轄の「御用山」として保護されるようになった。
鉄砲が伝来した当初は、高価な武器であったため武士が用いたが、普及率が高まるにつれ足軽の主要武器の一つになっていったという説がある。
文禄・慶長の役では日本軍は火縄銃の集団使用で明軍を手こずらせた。明軍は日本軍の瞬発式火縄銃は命中率が高く飛ぶ鳥を落とすくらいだとして特に鳥銃と呼んで恐れた。のち趙士禎が『神器譜』(1598年(慶長3年)から1603年(慶長8年)以降にかけて成立)を執筆する。
また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し、赤穂城などに応用された。
大坂の陣では塹壕戦が第一次世界大戦前に起きていたため日本には相当火縄銃が出回っていたことになる。
日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃の構造から進歩しなかった理由には以下があげられる。
まず江戸時代に入り、徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされた ことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説が存在する。
しかしながら、外国で発達した燧発式の技術が当時の鉄砲鍛冶に受け入れられている。試作品も現存し、また応用技術としてその機構を流用したライターも製造されている。また、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されており、そのバリエーションは多岐にわたる。
燧発式が日本では流行しなかったのは、日本では良質の燧石が産出せず大量生産ができなかったことや、燧発式は機構の不具合による不発率が火縄式よりも高かったことや、平穏な時代が長く続いたため、天候に影響されにくく、密集射撃が可能であるなどの燧発式の長所が理解、あるいは必要とされなかったことが理由として挙げられる。ほか、すべての武術と同じく鉄炮術も一種の競技的な要素を含んで流派形式で継承されたため、その結果必然的に器具類の改変は避けられた、という要素も大きい。燧発式の欠点として、火縄式に比べ強力なばねが装着されており、撃鉄作動時の衝撃が大きく、引金を引いてから一瞬遅れて装薬に着火する機構のため銃身がぶれ、命中率が悪く火縄銃よりも命中率が劣ることが挙げられる。当然ながら実戦よりも競技となった鉄炮術においては、この欠点は大きな問題となる。そのため江戸時代を通してほとんどの銃器が火縄式のままであった。
一方で火縄銃は、鳥獣被害対策のための実用の農具として、農村に普及し、売買され、所有されていた。もちろん、一揆への警戒などの理由から、農民の農具としての火縄銃のさらなる性能向上は、全く考えられなかった。
幕末期には新式銃が渡来したが、諸藩ではこの時期、海外事情も考慮してパーカッションロック式の銃器などを模造、試作した。皿を3つ付けたものや、ペッパーボックスピストルのように複数の銃身を持ち、回転しながら次々に着火させるものなどが作られた。ほかにも三連発の火縄銃や水平二連式短銃など、様々なものが試製されていた。これらは実用の可能性があるか疑わしいものが多く、結局は新式銃が輸入され、広く普及した。しかしながら、火縄銃の打ち金を雷管式のハンマーに変換し滑空式雷管銃に改造した新発銃の製造も、改造の容易さから盛んに行われ、ゲベール銃と同じ二戦級の銃器として扱われた。
明治維新以降は洋式銃や村田銃等の新式銃におされ、国友を初めとする伝統的な火縄銃職人集団と共に、日本から火縄銃は急速に廃れていった。しかし、マタギなど民間の狩猟家の間では、依然中古品の火縄銃に大きな需要があり、火縄銃職人の一部も大正から昭和初期ごろまで細々と火縄銃の製造を続けていたとされる。これらは昭和初期に軍払い下げ(もしくは民間メーカーのライセンス生産品)の村田銃が普及すると姿を消した。
なお、太平洋戦争最末期に、旧日本軍が本土防衛師団へ配備するため、簡素な町工場でも大量生産が可能な「国民簡易小銃」として火縄銃の量産配備を検討し、実際に開発を行っていたという記録が試作品の僅かな写真と共に残されている。
引き金を引くと火をつけた火縄が、あらかじめ黒色火薬を盛りつけておいた火皿と呼ばれる部品を叩く。火は火皿の口薬(くちぐすり)と呼ばれる微粉末黒色火薬に引火する。火皿内部に切られた導火孔の中の口薬は燃焼を続けて薬室内部へ到達すると思われているが、実際は、導火孔に火薬が詰まった状態にある場合、引火がゆっくりと進み引金をひいてからの時間差が生じて遅発となってしまって命中しないため、導火孔は空洞に保つようにして、火花を通し易くしておく。薬室内部には(胴薬)(どうぐすり)または玉薬(たまぐすり)と呼ばれる装薬があらかじめ充填されており、火が伝わるとそこで一気に燃焼(爆燃)、込められた弾丸を射出する仕組みになっていた。方式としては瞬発式火縄銃と緩発式火縄銃とがある。
なお、日本における火縄銃が頬付け形に終始し、肩付け形の銃床にならなかった理由には、戦国期においては戦闘に従事する兵士が、足軽から大将まで大なり小なり鎧を装着しており、物理的に銃床を肩に効率的にあてがう事ができないという銃床射撃に適さない装備であり、鉄砲狭間からの射掛けにおいて邪魔であるという用兵上の事情や、泰平期においては流儀による形態・射法の継承による硬直化等が指摘されているが、従来からあった弓矢の番え方(和弓特有の引いた弦を頬に付ける方式)をそのまま火縄銃に応用した結果、頬付け型になったという見方もあり、そのことがいち早く日本国内での火縄銃の普及に繋がった向きも充分考えられる。世界的に見ても、日本のように重装な甲冑を装備する兵士が、銃器を恒常的に使用する用兵を用いる国も珍しく、これらの理由から、頬付け型の長銃を長期に主力装備として使用した日本の火縄銃のデザインは、世界的に見ても極めて珍しい意匠となっている。
火縄銃の次弾発砲までには以下の行程が必要となる。「銃身内の火薬残滓を洗い矢で拭う」(数発撃つと銃腔にカーボンがこびり付き、弾が入らなくなるため、槊杖の先に水に湿らせた布を付けて拭う)「火穴にせせり(弄り・ヴェントピック)を通す」「銃身を冷やす」(但し、1分間に1発程度のペースで発砲するのであればこの必要は全くない)などである。一般には次弾装填の際に行うべき事は多いとみなされている。
実際にはこの作業を1発ごとに行う必要はなく、数発に一度行えばよい。関流砲術では、7発位撃つと弾が入り難くなると伝えている。また、「劣り玉」と呼ばれる、適合弾より若干径が小さい弾を使用すれば、目標への集弾性は低下するものの、10発以上の連続発射が可能である。(江戸時代の射的で一般的な、射距離15間(約27m)では劣り玉でも命中率はほとんど変わらない。ただし30間(約55m)を超えると集弾率の低下が見られる)また銃腔内や火皿の清掃は頻繁に行う必要はなく、弾が込め難い等の異常を感じたら行えば済む。その方法も、黒色火薬が水に溶けやすい特性から、洗矢の先に水で湿らせた布切れを付けたものを銃口から差込み1 - 2往復させれば完了する。昭和末期の実験では、熟練した者が操作した場合、第1弾発砲から18 - 20秒後に次弾発射が可能であった。とはいえ、現代の銃に比して先込め銃は単体では連射に向かないものであることは上記のプロセスなどからも容易にうかがえる。
この「次弾発射までに時間がかかる」という先込め式最大の問題点を改善するため、火縄銃が用いられた戦国時代の日本では、「早合」(はやごう。装填を簡便にするための弾薬包で、弾と火薬をセットにして紙で包んだもの)「複数人でチームを組む」「銃身を複数設置する」など、様々な(時には奇天烈な)発想がなされている。
歴史群像編集部および日本前装銃射撃連盟会長小野尾正治らによって2005年頃に行われた発射速度を測定する実験では、初弾が既に装填された状態から開始した時、初弾射撃直後から計測を開始し一人で初弾および5発、計6発を射撃し終わるのに要した時間は100秒(1発あたり約20秒)だったが、早合を用いた場合はそれが44秒にまで短縮された(ただし早合の実験は弾丸を含めなかったため不発が多く、必ずしも正確ではないようだ)。また3人が各々の火縄銃を持ち合計3丁を交替に発射するかたちの三段撃ちでは33秒、3人に2丁を用意し射手が射撃を行っている間に後方で二人がかりで装填を行うという手法では39秒という結果が得られ、チームを組んだり早合を利用したりすれば戦力が向上するとされた。
火縄銃は、戦国時代中期以降、足軽の主要武器の一つとしてその比重を増していった。日本の戦国時代から江戸時代においては備ひとつに対し、鉄砲組(20 - 50名)を1、2組配しているのが基本である。戦闘開始時や、勢いに乗り突進してくる敵兵に対し一斉射撃を浴びせ進撃を止まらせるときなどに使用された。兵士同士が密集したか否かについては議論がある。火の粉が飛び散る中で火薬を使用するので暴発しかねず、相互に安全な距離を取ったという見解がある。
1人の射撃手に数丁の火縄銃と数人の助手が付き、射撃手が射撃している間に助手が火縄銃の装填を行う方法があり、これにより素早い連射が可能である。これは鉄砲傭兵集団としてその名を知られた雑賀衆、根来衆の得意とする戦術であった。石山合戦で本願寺側に付いた彼らは、織田勢を大いに苦しめた。
この射撃手・助手を分業する射撃運用法を烏渡しの法と上杉流軍学では称したと伝えられ、また後世紀州徳川家においては薬込役という、御庭番の前身である職名にその痕跡を残している。
火薬は唐代(618年 - 907年)の中国で発明された。当時書かれた「真元妙道要路」には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすいことが記述されており、既にこの頃には黒色火薬が発明されていた可能性がある。
1250年代、モンゴル帝国がイラン侵攻した際、中国人技術者が操作する投石機で、火薬弾が投げられている。1280年には、地中海東部のマルクス・グラエクスとシリアのハッサン・アッ・ラムマが中国の火器、火槍について記述している。
また、イスラム文明圏のシリア、マムルーク朝でも火薬情報は豊富であった。
1288年当時の青銅製の銃身が発掘されたことで、モンゴル支配下の中国が火槍から銃へ装備を変えたことが明らかになり、さらにこれまで銃は西欧発明と考えられてきたが、銃はモンゴル帝国を通じてヨーロッパへ伝わったとされる。1326年のスウェーデンにおける壷型の銃も発見されているが、これはモンゴル帝国に支配されていた南ロシアから伝わった銃が変形したものと考えられている。同1326年にはフィレンツェで大砲が開発され、以後、ヨーロッパでは大砲が発達する。イベリア半島では1330年代までには銃だけでなく大砲も使用されていた。
ドイツ南部諸都市において火縄銃が発達した理由は、小規模な自治都市にとって安価で城の防御には小型の火縄銃が適していたからである。また初期においては火縄銃の点火には時間がかかり危険性も高く野戦には不向きであった。最初に大々的に使用したのはハンガリー王マティアス・コルヴィヌスである。イタリア戦争においてスペインは、長槍(パイク)の密集方陣の進撃に際し、四周に随伴した銃兵が相手方の方陣と至近距離まで接近し、接触寸前になった時点で発砲して第一次打撃を期待する運用法を定めた。これはテルシオと呼ばれた。この戦術は銃剣の発明以前のものであり、発砲を終えた銃兵は有効な戦力とならず、退避行動を取ったとされる。実際の戦闘はパイク兵が主体であった。射撃手の前後交替の発想が見られるものとしては、騎兵のカラコール戦術が対テルシオ戦法として用いられたことが挙げられる。これは概ね1530年代頃からである。
1440年代にはイェニチェリがハンガリーからマッチロック式を導入したともされるが、正規に用いられるようになるのは16世紀以降である。オスマン帝国では野戦隊形における集中射撃法が実用化された。
火縄銃の再装填には時間と防御上の弱点が生じた。これを解決する手段として、縦列で行進する銃兵の最前者が発砲し、発砲後直ちに最後尾に駆け戻って装填作業をしながら行進を続行するという方式が考え出された。また、マウリッツは個別の兵種がそれぞれ独自に機能を発揮するのではなく、歩騎砲の三兵が連動して機動戦術を採ることを発案した。彼はこれをアイデアにとどめず可能とした軍事家として評価されている。ただし、この縦列交替法が大きな効果を発揮した記録はなく、またこの運動方式には鈍重さが宿命的に付きまとったため、マウリッツ自身の戦死の原因をそこに求める考え方もある。
実際に前後交替射撃法が実用化されるのは燧石式に移行してからであり、燧石式の機能改善もそれに相当の貢献をしたと考えられる。また銃剣の登場もこれに大きく寄与していると考えられるが、同時にこの時代は大砲の運用が飛躍的に改良されており、銃兵の交替射撃のみが戦線の状況を変革させたと論じるのは未だ大きな検討を要するであろう。これらは概ね17世紀末から18世紀初頭の現象である。
火縄銃は装填その他に伴う初期銃の弱点が存在する。これを補うため、障壁、城壁、障害物あるいは特殊な地形等によって防御された場所から、機動してくる野戦軍を射撃しようという試みは早くから行われた。
西欧の戦いにおいて著名な例は、1503年第一次イタリア戦役中、スペイン軍人ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバが行った戦法であった。これは急造の堀とその残土を利用した土手に、二千名と推定されるアルケブス銃兵を配置し、銃火によって押し寄せたフランス重騎兵団を粉砕したものである。この戦闘はスペインの覇権確立の重要な要因となった。この戦いに続く1522年、第二次イタリア戦役においても、同じくスペイン軍の傭兵隊長コロンナがミラノ郊外ビコッカにおいて、地形と急造塁壁を利用したアルケブスの反復射撃戦法で、押し寄せたスイス槍兵集団を粉砕した。
一般に(アルケブス)もしくは同音のなまったものがよく知られている。燧石式銃については(スナップハンス)(ミュクレット)(フリントロック)などの名称が知られ形式上の分別とされているが、その発祥は火縄銃同様明確な記録はない。
恐らくは両方が混在しつつ、俗称通称化したものであろう。
中国大陸へは、明朝時代の15世紀に火縄銃が伝来し、東南アジア経由で伝来した南蛮系(スペイン、ポルトガル)の緩発式のもの(頬付けの短床形)と、西域経由で伝来したオスマン帝国系の緩発式のもの(肩付け形の銃床を有する)の二つの系統があった。日本から瞬発式に改良された火縄銃が伝来するとその命中率の高さから鳥銃あるいは鳥槍と呼ばれ、オスマン系の銃は特に露密銃と呼ばれた。明朝時代、秀吉の朝鮮征伐に朝鮮を救援する為に出兵した際、日本軍による火縄銃の集団使用の洗礼を受け威力を認識し、軍の装備に採り入れられることとなった。続く清朝においても八旗・緑営の装備として引き続き採用されている。
清代には、大砲を補完する装備として抬槍(たいそう)と呼ばれる大型の火縄銃も採用された。口径・銃身長のいずれも通常の火縄銃より拡大したもので、全長約3m、重量約12-18kgとされ、射撃の際は銃身を三脚架または射手以外の兵士の肩に依託して使用された。兵士2名程度で担いで移動することができる。大砲の移動が困難な山間部や水郷地帯での使用のために開発されたもので、後年の清仏戦争・日清戦争期の頃まで使用された。日本の狭間筒(後述)とも類似性のある銃器である。
日本における火縄銃の分類として、弾丸重量によるものと製作地・流派によるものの二つに大別される。火縄銃の弾丸は鉛の球弾であり、鉛の重さが決まればその玉の直径は常に同じとなることから、弾丸の重さによって口径を示す方法が広く用いられていた。
主な違いとして、銃身の外形(丸、角筒)、肉厚、長さ、銃床の形状、カラクリ(内外カラクリ)、目当などがあげられる。以下に記するもの以外にも多数あり。
など、上記は製作地名を冠したもの。
日本各地に鉄砲隊と称し、イベント時に火縄銃で空砲を撃つ団体が多数できた。これは伝承砲術によっているものであるが、日本では幕末維新期に兵制・武器の西欧化が急速に行われたため、流派の直接伝承はすべていったん途絶えている。現存する流派は伝来した古文書などを解読して後世再興したものである。古式銃団体の性格は、
の3種が大まかに分類できる。
諸外国では火縄銃による射撃競技が盛んに行われ、また競技以外にも日本の鉄砲隊と同様、あるいはそれ以上無数と言ってよいほど多数のリエナクターによるボランティアインファントリー(義勇歩兵隊)が存在する。アメリカでは、南北戦争を記念する行事でそれら歩兵隊等による大規模な南軍北軍の模擬戦闘が行われることがある。この場合、安全な現代ガンメーカーの手によるレプリカが多く使用される(日本のミロク社も米国等へレプリカの古式銃を輸出している)。同時に歴史的な前装大砲も大切に保存され、毎日空包発射をするものや、青年の体育訓練として野砲を分解して運搬する障害物レースを行い最後に組み立て空包装填して先に発射した方が勝ちというイベントなどもある。
ヨーロッパや北米などでは盛んに火縄銃も含むマズルローダー射撃競技(前装銃射撃競技)がおこなわれている(日本からも世界選手権と環太平洋選手権大会に選手を派遣している)。日本国内では日本ライフル射撃協会傘下に日本前装銃射撃連盟があり、射撃競技が行なわれている。ただし銃刀法や火薬類取締法などに基づく各種規制があるため、競技人口は極めて少ない。しかし日本製の火縄銃は高精度に製造されており、制約の多い環境下ながら日本の選手は国際大会で上位入賞することも多く、欧米の多くの選手も火縄銃種目では日本製または日本型レプリカの火縄銃を使って参加している。アジア地域で国際前装銃連盟に加盟しているのは日本のみである。
日本でおこなわれる競技は以下の通りである。「種子島銃立射」と「種子島銃膝射」では、国際ルールと同じく射距離50メートルで「日本公式種子島標的(黒点径40cm)」を使用する。「中筒(侍筒)」では、同標的で十匁玉筒(10匁の重さの弾を使用する銃)を自由姿勢にて射撃する。「ベッテリー」は「フリーピストル標的」を使用する50メートル競技で、前装銃であれば銃種を問わない(火縄銃でなくても使用でき、千葉県ライフル射場で開催される競技会に限って行われる)。他、同標的で25メートル、短筒を片手撃ちで競う「短筒」が存在する。
日本独自の競技として、古式に則った、8寸角板に4寸黒丸の「和的(江戸時代規格の標的)」を狙い、27メートル(江戸時代は15間)の距離で命中の優劣を競う「古式勝ち抜き」及び、5分間に10発撃つ「早撃ち」がある。
火縄銃の実弾射撃は指定された射撃場でしか認められない。2005年(平成17年)現在、公営射撃場としては神奈川県伊勢原市の県営伊勢原射撃場、千葉市若葉区の千葉県総合スポーツセンター射撃場、和歌山県海南市の和歌山県営射場、の以上3ヶ所(また他にも私立の射場で可能な所がある。その他、茨城県営真壁ライフル射撃場は、法制上では火縄銃の射撃が認められている。ただし射場管理者が火縄銃の使用を断っているため使用できない)
銃刀法に定める範囲の古式銃の所持は、現代銃と異なり属人的な免許・許可ではなく、属物的な登録制で、登録は都道府県教育委員会の所管(かつては文化財保護委員会であった)である。登録は日本刀などと同じく銃に対してなされ、登録を受けた銃器は誰でも所持・所有できるが、実際に実弾・空包の発砲及び火薬の入手所持消費に関しては、その都度(実弾射撃を許可された者は、火薬購入については1年間、また消費は6ヶ月間限定の)所轄の警察署を通じて公安委員会の別途の許可を受ける必要がある。
古式銃とは主に前装式銃砲のことを言うが、初期の後装銃も佐賀藩の主力銃であったスペンサー銃(のちにウインチェスター銃の祖形となった)をはじめ、普仏戦争の主要銃であったシャスポー銃(後に村田式の開発の淵源となった)やドライゼ銃(ツンナール)など類種のものも相当数輸入されていた。ただこれらは維新後に訓練銃などとして使用されたり、外国に売却されたりして、現在国内残存数は比較的少ない。日本の法律では現在のところ、古式銃とは1867年の時点で国内に存在したことが個別に証明できた国産または外国製の歴史遺物銃器の実物である(したがって実物に忠実に作られたものであってもレプリカは認められない。これは古式銃の登録制度が歴史史料及びその美術価値の保存を目的としていて、射撃に使用することを想定して制定されたものでないことによる)ということになっている。ただし真正の古式銃であっても明治以後に新式又は現代の弾薬が使用できるように改造されたもの、あるいは現用の弾薬(装弾)が使用できる可能性のあるもの(もっとも顕著な例は坂本龍馬が使用したと言われるSW・Mk1、Mk2リボルバー)などは(現代銃に準ずる機能を有するもの)として登録審査時に排除され、したがって所有できないものがある。真正の歴史遺物の国産火縄銃であれば、たとえ外国から里帰りしたものであってもほとんどはそれらの問題は無い。競技用として、また空包用として使用されているものは国産火縄銃がほとんどで、すべて歴史遺物に限られる。
なお、国内で古式銃登録をされている火縄銃(即ち、火縄銃競技などで使用する目的で購入できる銃)は前述の通り1867年(慶応3年)以前に製造された物とされているが、近年こうした古式銃の中に明治期以後から現在に掛けて贋作師によって違法に製造されたと思われる「贋物」の火縄銃が存在する事例が研究者やコレクターによって狩猟専門誌などに報告されている。
古式銃を展示している博物館として設楽原歴史資料館や金山城 伊達・相馬鉄砲館などがある。イベントで空砲が撃てるように整備した銃を保管する場所としても機能している。
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鉄砲伝来
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鉄砲伝来()とは、16世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃(鉄砲、鐵炮)が伝わったこと、狭義には日本の種子島(当時大隅国、現鹿児島県)に伝来した事件を指す。現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わった。年代については諸説ある。
『鉄炮記』によれば、天文12年(1543年)8月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現・前之浜)に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を島主・種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。
船は8月27日に赤尾木に入港した。時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。
なお、このころ平戸や五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領・王直の号は五峰という。山冠の「峯」は山偏の「峰」の異体字であり(山部)、『鉄炮記』で筆談相手となった明の儒者・「五峯」の名は王直の号と同じである。
一方、アントニオ・ガルヴァオ(英語版)の著した『新旧世界発見記(葡: Tratado dos Descobrimentos, antigos e modernos)』には、『鉄炮記』の記述の前年にあたる1542年に、フランシスコとダ・モッタが日本に漂着したと書かれている。
このほか、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』にも1542年、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』は1544年の主張があり、伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。
上記の他にも鄭瞬功が記した『日本一鑑』(1565年)や、ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ(イタリア語版)が記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。
これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、坪井九馬三が著書『鉄砲伝来考』(1892年)で『鉄炮記』の説を採用し、1946年にゲオルグ・シュールハーメルらが『鉄炮記』説を支持したことから今日の1543年に落ち着いた。現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない。
ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた。
中国で宋代に生まれた火器はトルコ・イラン系の火薬帝国や欧州へと広まり、各地の戦争で大量に使用された。東アジアでは、この火器普及の第一の波の影響で、先進的な火器を持つ大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)が海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)を優越し封じ込めていた。大陸アジアである明が海洋アジアであるベトナムの胡朝を滅亡させた第四次北属期や、東南アジア諸国へと遠征した鄭和の大航海もこの時期であり、いずれも火器が重要な役割を果たした。ところが、大航海時代に入って海域アジアにはヨーロッパ、とりわけポルトガルからより先進的な火器がもたらされ、軍事的な優劣が逆転した。日本への鉄砲伝来は東アジアにおける火器普及の第二の波の時期に相当し、海域アジアでは戦乱が激化する一方で、例えば豊臣秀吉が朝鮮出兵するなど、大陸アジアへの侵攻を可能とするほどの軍事力を持つことになった。
実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。
遅くとも天文18年(1549年)までに、種子島の本源寺から堺の顕本寺に鉄砲が届けられており、当時、足利幕府の管領だった細川晴元が、鉄砲献上に対する礼状を、両寺を仲介した法華宗の総本山である本能寺に宛てて出している(『本能寺文書』)。さらに、『言継卿記』の天文19年7月14日(1550年8月26日)には、京の東山で行われた細川晴元と三好長慶の戦闘(中尾城の戦い)で、銃撃により三好側に戦死者が出たことが記されている。
鉄砲伝来はねじの技術も日本にもたらしたとする通説がある。それまで日本ではねじは知られていなかったが、鉄砲の後ろの銃身を塞ぐ部品におねじ(ボルト)とめねじ(ナット)が使われており、八板金兵衛清定がこれを複製したのが日本におけるねじの使用の始まりであるとされる。鉄砲製造とそれに必要なねじの技術を学んだ。ねじは鉄砲の部品以外に日本の工業技術では広まらず、幕末の文明開化でようやく普及した。
種子島以前の鉄砲伝来については長沼賢海の鉄砲研究をはじめ、諸説ある。長沼は『日本文化史之研究』(教育研究会、1937年)をはじめとする重要な研究を残したが、現在九州大学に保存される蒐集史料(写本)「神器秘訣」「菅流大蜂窼」「鳥銃記」「異艟舩法火攻泉之巻」といった砲術書の研究は今後の課題である。
長沼は海外文化の「消化」「征服」を「国民性」「民族性」とする日本人が積極的に鉄砲を導入しなかったはずがないという前提のもとに、火薬の爆発力で何らかの物体をとばす器械をすべて「鉄砲」とみなしたうえで(鉄砲=小銃とする一般的理解とは異なる)、「天文以前」(1543年以前)に中国―琉球ルートおよび朝鮮ルートで中国式銃・朝鮮式銃が伝来したことを主張した。また、「鉄砲記」の記述の信頼性を批判し、西洋式小銃の伝来経路が種子島だけではないことを主張した。長沼のこうした見解には批判もあったが、「天文以前東アジア式火器伝来説」には支持者もいる。
東アジアから東南アジアにおいて、15世紀には中国の明が海禁政策を行い、また日本の室町幕府との日明貿易(勘合貿易)が途絶した事などにより倭寇(後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた。日本や琉球王国においても原始的な火器は使用されていて、火器は倭寇勢力等により日本へも持ち込まれていた可能性を指摘するむきも多い。
ほかにも、鉄砲の伝来は、初期の火縄銃の形式が東南アジアの加圧式火鋏を持った鳥銃に似ている事や東南アジアにおいても先行して火縄銃が使われていた事などから、種子島への鉄砲伝来に代表されるようなヨーロッパからの直接経由でなく倭寇などの密貿易によって東南アジア方面から持ち込まれたとする宇田川武久らの説がある。しかし欧米や日本の研究者の中には、欧州の瞬発式メカが日本に伝えられて改良発展したものが、オランダによって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説をとる者も少なくなく、宇田川説を否定的にみる意見も多い。
また、荒木和憲は、「鉄砲伝来の「第一波」が1542年または1543年の種子島へのマラッカ銃(アルケブス銃)の伝来であることはたしかであるが、そのあとに「第二波」「第三波」・・・がそのほかの地域(とくに九州地方)におしよせたのではないか。たしかに種子島へのマラッカ銃の伝来とその国産化があたえた歴史的なインパクトとはくらべるべくもないのであるが、さまざまな種類の銃がたんなる商品の輸入というかたちで伝来していた可能性はある」との見解を提出している。
カリフォルニア州立大学の孫来臣 (Laichen Sun) は、およそ1390年から1683年にかけて、東アジアで「火器の時代」があったことを論じている。火器の時代が始まったとされる1390年には、中国の火器技術はすでに朝鮮や、東南アジア北部に伝播し、また鄭和の遠征により、東南アジア海域部にも拡散したという。アジアにおける中国による最初の火器技術の波は、改良されたヨーロッパの火器技術がアジアに広がり、ヨーロッパによる第二の技術波及が始まった、16世紀初頭まで続いた。この時代には、中国由来の火器がアジア史において重要な役割をはたし、全般的な趨勢としては、大陸アジア(中国・朝鮮・東南アジア北部)が、海洋アジア(日本・台湾・チャンパ・東南アジア海域部)を押さえ込んでいた。
『北条五代記』に、関八州に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、1510年(永正7年)に唐(中国)から渡来したという。
大久保忠教の『三河物語』では、松平清康が、熊谷実長が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。1530年(享禄3年)のこととされる。また、今川殿の名代として、北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、出版社の欄外の解説には、この役は、1506年(永正3年)のことで、鉄砲はこのときないとして、『鉄炮記』の記述を支持している。
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1534年
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1534年(1534 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1582年
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1582年(1582 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、平年。
※10月4日(天正10年9月18日)まではユリウス暦による日付
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1555年
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1555年(1555 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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QuickTime
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QuickTime(クイックタイム)は、かつてAppleが開発していたマルチメディア技術である。音楽、動画、画像、テキストデータなどを取り扱うことができる。
なお、Mac OS X v10.6に搭載されているQuickTime XはiOSのマルチメディア技術をベースに作られたもので、従来のQuickTimeとは基本的に別物のシステムである。詳細はQuickTime Xを参照。
後継技術は、AVFoundationである。
QuickTimeを広義の意味で使うと、マルチメディアの技術に加えて、メディアプレーヤーはQuickTime Player(旧Movie Player)、メディアデータの編集、変換、保存が行えるソフトウェアはQuickTime Player Pro(旧Movie Player Pro)も含まれる。なお、QuickTime Playerは無料で利用できるが、QuickTime Proにアップグレードする場合は有料となる。なおQuickTime本体は通常版、Proとも全く同等のモジュールベースであるため、自らプログラミングを行なえばPro相当の機能が使えるほか、macOSであればAppleScriptからも制限なく機能を利用できる。iLifeでも利用されている。ただし、無料配布であってもライセンス料が発生する特許技術(AACなど)に関しては、Proからでないと利用できない。
狭義の意味では冒頭で示した通り、技術そのものを指す。
QuickTime自体はライブラリであり、AppleのソフトウェアであるiTunesやFinal Cut Proといったマルチメディア系アプリケーションの動作の中核を担っている。その他、デジタルカメラやデジタルビデオカメラは、写真や動画の撮影や再生にQuickTimeを使用しているものも多い。QuickTimeのファイル(movコンテナ)は、トラックと呼ばれるレイヤー構造により、動画・音声のみならず、テキストトラック、チャプタトラックなどを含むことができるが、この構造はMPEG-4のファイルフォーマットであるMP4やJPEG 2000のファイルフォーマットであるJP2などに採用され、そのベースとなっている。
1991年12月2日、Macintoshを中心とした展示会であるMACWORLD EXPOで、当時のAppleのCEOジョン・スカリーの基調講演で発表される。同時にQuickTimeコーデックを採用したアプリケーションとして、Adobe Premiereも発表された。
1998年リリースのQuickTime 3ではストリーミング再生の機能を加え、1999年に登場したQuickTime 4からはMP3 フォーマットに対応したほか、QuickTime for Javaが加わり、Java アプリケーションからQuickTimeの機能を使えるようになった。2000年にリリースされたQuickTime 5では、Macromedia Flashのサポートを加えた。
2002年にリリースされたQuickTime 6以降、QuickTimeをもととした国際標準の採用により、よりオープンな規格へと方針を変更している。QuickTime 6ではMPEG-4が採用され、QuickTime 7ではH.264が新たに採用されており、圧縮効率でも標準化の側面でも大幅な進化を遂げている。また、QuickTime 6.3では3GPP、QuickTime 6.5では3GPP2に対応しており、かつての第三世代携帯電話向けコンテンツの標準ツールの一つであった。
Mac OS X v10.2への対応は、QuickTime 6.5.3まで、Mac OS X v10.3への対応はQuickTime 7.5まで、Mac OS X v10.4への対応はQuickTime 7.6.6までである。
macOS 10.15 CatalinaではQuickTime 7フレームワークと32ビットアプリケーションはサポートされないため、QuickTime Player 7を使用することはできない。
2016年4月、QuickTime Windows版のセキュリティアップデート提供が終了したことが明らかになった。2016年4月16日、米国コンピュータ緊急事態対策チーム (US-CERT) は、AppleによるQuickTime Windows版のセキュリティアップデート提供終了に伴うアンインストール推奨情報を発表した。2016年4月20日AppleはQuickTime 7 for Windowsのサポート終了を告知した。
尚、Windows 95への対応はQuickTime 5.0.5まで、Windows 98及びMeへの対応はQuickTime 6.5.2まで、Windows NT 4.0への対応はQuickTime 6.1まで、Windows 2000への対応はQuickTime 7.1.6までである。2015年、Windows XPに対してはQuickTime 7.7.6をもって対応終了となった。
macOSではClassic Mac OSから移植・整理されたAPI、Carbonで構築、提供されている。WindowsへのQuickTimeの移植は、幾重ものバージョンアップにともない混沌としていたQuickTimeライブラリのAPIが整理されたことで簡潔になり、移植に大きく貢献した。
QuickTimeは旧Mac OS系の技術であり、OPENSTEPのAPIの流れをくむCocoaでのオブジェクト指向プログラミングとの親和性が課題になっていたが、macOSでのプログラミングの幅を広げるため、QuickTime 7 よりCocoaでQuickTimeライブラリを参照するためのQuickTime Kit (QTKit) が提供されるようになった。これによりソフトウェア開発者は1行のコードも書くことなく、強力なCocoa APIでQuickTimeを利用できる。QTKit導入後はCarbonアプリケーションを含めてQTKitを利用することが推奨されていた。
Mac OS X v10.6で導入されたQuickTime XはCocoaベースで作られたものでQuickTimeとは異なる技術であるが、QTKitを使っている限りQuickTime XとQuickTime双方に同じAPIでアクセスでき、プログラマーは両者の違いを意識する必要はない。
特筆すべき点は、トラックによるファイル構造の柔軟性であり、movファイルといえど、ビデオトラックのみを含むもの、音声トラックのみを含むものといったものが作成可能な点である。例えば、既存のmovファイルにヒントトラックを追加するだけでストリーミング配信が可能になる。トラックは認識さえ出来れば、JPEGでもDivX、WMA、H.264(一部別途プラグイン)が含まれていても、同じコンテナ上で再生出来る。また、どんなコンテナであっても認識さえできれば同じコーデックで再生できる。
QuickTimeにおいてムービーの様々なトラックは、画像におけるレイヤーと同じように利用できる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/QuickTime
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アレルギー
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アレルギー(独: Allergie)とは、免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こることをいう。過敏反応とも呼ばれる。免疫反応は、外来の異物(抗原)を排除するために働く、生体にとって不可欠な生理機能である。語源はギリシア語の allos(変わる)と ergon(力、反応)を組み合わせた造語で、疫を免れるはずの免疫反応が有害な反応に変わるという意味である。
アレルギーが起こる原因は解明されていないが、生活環境のほか、抗原に対する過剰な曝露、遺伝などが原因ではないかと考えられている。アレルギーを引き起こす環境由来抗原を特にアレルゲンと呼ぶ。ハウスダスト、ダニ、花粉、米、小麦、酵母、ゼラチンなど、実に様々なものがアレルゲンとなる。
喘息をはじめとするアレルギーの治療に関して、欧米の医師と日本の医師との認識の違いの大きさを指摘し、改善可能な点が多々残されていると主張する医師もいる。
自己免疫疾患はアレルギーと異なり、自己の持つ抗原に対して免疫反応が起こる疾患である。内因性のアレルゲンによるアレルギー反応が病態となっている点が異なるが、その仕組みは、ほぼ同じである。
医学の父と呼ばれるヒポクラテスが「牛乳が嘔吐、下痢、じんま疹を起こす」という言葉を残し、食物アレルギーついて記述がある。
戦後にアレルギーが増加した理由は工業化の大気汚染や人工的なスギの植林も影響している。
最近では先進国で患者が急増しており、日本における診療科目・標榜科のひとつとしてアレルギーを専門とするアレルギー科がある。
アレルギーは、その発生機序により大きく I から V 型に分類される。
IgEというタイプの免疫グロブリンが肥満細胞(マスト細胞)や好塩基球という白血球に結合し、そこに抗原が結合するとこれらの細胞がヒスタミン、セロトニンなどの生理活性物質を放出する。これにより、血管拡張や血管透過性亢進などが起こり、浮腫、掻痒などの症状があらわれる。この反応は抗原が体内に入るとすぐに生じ、即時型過敏と呼ばれ、アレルギー性鼻炎、気管支喘息、蕁麻疹等の症状を伴う。また、反応が激しく、全身性のものをアナフィラキシーと呼び、さらに急速な血圧低下によりショック状態を呈したものをアナフィラキシーショックという。また、この種のアレルギー症状は、10分前後で現れてくる。
代表的な疾患としては、蕁麻疹、PIE症候群、食物アレルギー、花粉症、アレルギー性鼻炎、気管支喘息、アトピー性皮膚炎、アナフィラキシーショックがあげられる。
IgGというタイプの免疫グロブリンが、抗原を有する自己の細胞に結合し、それを認識した白血球が細胞を破壊する反応である。代表的にはB型肝炎やC型肝炎などのウイルス性肝炎が挙げられる。ウイルスを体内から除去しようとする結果、肝細胞が破壊されるため症状を来している。ペニシリンアレルギーも、II型アレルギーの一種である。この種のアレルギーの有無は、クームス試験などの検査によって調べる。
代表的な疾患としては自己免疫性溶血性貧血(AIHA)、不適合輸血、特発性血小板減少性紫斑病(ITP)、悪性貧血、リウマチ熱、グッドパスチャー症候群、重症筋無力症、橋本病、円形脱毛症があげられる。
免疫反応により、抗原・抗体・補体などが互いに結合した免疫複合体が形成される。この免疫複合体が血流に乗って流れた先で、周囲の組織を傷害する反応である。免疫複合体の傷害する部位が限局的な部位にとどまる反応をアルサス型反応といい、全身にわたるものを血清病と呼ぶ。過敏性肺臓炎はアルサス型反応の、全身性エリテマトーデスや溶血性連鎖球菌感染後糸球体腎炎は血清病の代表例である。この種のアレルギーは、2~8時間で、発赤や浮腫となって現れる。
代表的な疾患としては血清病、全身性エリテマトーデス(ループス腎炎)、急性糸球体腎炎、関節リウマチ、過敏性肺臓炎、リウマチ性肺炎、多発性動脈炎、アレルギー性血管炎、シェーグレン症候群があげられる。
抗原と特異的に反応する感作T細胞によって起こる。抗原と反応した感作T細胞から、マクロファージを活性化する因子などの様々な生理活性物質が遊離し、周囲の組織傷害を起こす。薬物アレルギー、金属アレルギーなどがある。他のアレルギー反応がすべて液性免疫であるのに対し、IV型アレルギーだけは細胞性免疫がかかわり、リンパ球の集簇(しゅうそう、むらがってあつまること)・増殖・活性化などに時間が掛かるため、遅延型過敏症と呼ばれる。ツベルクリン反応、接触性皮膚炎などがある。この種のアレルギーの皮内反応は、24~48時間後、発赤、硬結となって現れる。
代表的な疾患としては接触性皮膚炎(いわゆる「ウルシかぶれ」は「アレルギー性接触皮膚炎」の一種である。)ツベルクリン反応、移植免疫、金属アレルギー、腫瘍免疫、シェーグレン症候群、感染アレルギー、薬剤性肺炎、ギラン・バレー症候群があげられる。
近年、免疫学の進歩により細胞性免疫によるIV型アレルギーも責任免疫細胞によって細分類されることがある。しかし細分類してもマネジメントは変化しない。
受容体に対する自己抗体が産生され、その自己抗体がリガンドと同様に受容体を刺激することで、細胞から物質が分泌され続けるために起こるアレルギー。基本的な機序はII型アレルギーと同じであり、刺激性という点だけが異なる。代表的疾患はバセドウ病。
遅延型過敏反応(delayed type)は上述の通り、感作T細胞から放出されたサイトカインにより誘発されるIV型アレルギー反応であり抗体に依存しないのに対し、遅発反応(late response)はアルゲン負荷後数時間を経てマスト細胞とIgE抗体に依存して誘発されるI型アレルギー反応である。
アレルギー疾患のマネージメントを行うには、アレルギー疾患の鑑別のための問診、アレルゲン曝露から発症までの時間経過、症状の持続時間、全身性に症状があるのか、局所のみなのか、既往歴や家族歴があるのかといった点に注目すると整理しやすいといわれている。
もしアレルギー疾患を疑うのならば、まずはI型アレルギーによるものかそれ以外(非I型アレルギー)によるものかを区別すると診断にたどり着きやすくなる。I型アレルギーによるものならば、即時型アレルギーといわれるようにアレルゲン曝露をしてから5分から90分以内に発症することが多いといわれている。I型アレルギーで特に救急医学で重要視されているのがアナフィラキシーショックである。重度のI型アレルギー反応においては早期のアドレナリン投与がもっとも重要であるといわれている。早期にボスミン0.3mgの筋注を行うことで死亡率の減少がみられるだけではなく、数時間後に起こるといわれている第二相反応の防止効果もあるといわれている。再発ともいえる第二相反応のリスクがあるために蜂に刺されたなどの理由でアナフィラキシーを起こした人がERに来た場合は5時間ほど安静にするか、リスクを十分に説明しておく必要がある。アドレナリンの投与方法は大腿前外側部の筋注がすすめられている。
アレルギー疾患であると診断がついたとき、最も基本となる治療は原因抗原の回避と除去である。接触などは比較的容易に防げそうだが決して簡単ではない。例えば、ハウスダストや猫などに対するアレルギーの場合、アレルギー症状が起こりにくいレベルまで吸入抗原の濃度を減少させるのに数か月を要することも少なくないからである。またアレルゲンには交差反応という現象も知られており、ラテックスとバナナ、白樺花粉とリンゴといった、一見関係のないように思える物質でも症状を誘発することがありえる。
アレルギー疾患の頻度は年齢によって大きく異なることが知られており、非典型的な年齢において発症した場合は他の疾患を念頭に置いた方が良い場合がある。例えば成人発症のアトピー性皮膚炎を疑う場合は、鑑別としてT細胞性の悪性リンパ腫も考える必要がある。
例えば気管支喘息と副鼻腔炎など、アレルギー性疾患は合併しがちなことが知られる。特に呼吸器系のアレルギー性疾患は合併率が非常に高く、one airway one diseaseという考え方が提唱されている。この場合、喘息と副鼻腔炎を同時に治療することで双方の治療に効果を及ぼす。
アレルギー疾患を調べるための検査としては血清TARC、RAST、プリックテスト、経口誘発試験、リンパ球幼若化試験やリンパ球刺激試験、パッチテストなどが知られている。
TARCは病勢を反映して変動するため、重症度判定や治療効果判定に用いられることもある。プリックテストやRASTはI型アレルギーに対する試験であり、それ以外の機序で起こるアレルギーである、接触性皮膚炎、薬剤熱、血小板減少症、スティーブンジョンソン症候群などでは全く役に立たない。さらにRASTは陽性であっても臨床的な症状と一致しないことが多いため注意が必要である(関係のない項目のRASTを行うと逆に混乱する)。
リンパ球幼若化試験(LTT)やリンパ球刺激試験(LST)は主に薬物アレルギーを調べるための試験でありI型アレルギー以外の機序の場合も有効である。
パッチテストはIV型アレルギーを調べるための検査である。染髪の際に行うのが最も有名である。
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アレルゲン
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アレルゲン(ドイツ語: Allergen)とは、アレルギー疾患を持っている人の抗体と特異的に反応する抗原のこと。一般には、そのアレルギー症状を引き起こす原因となる物質を言う。感作はされているが具体的な症状があるわけではない人においても、その抗体と反応する抗原についてもアレルゲンと呼ぶ。さらに広義には、それに対するアレルギー患者が多いなど、アレルギーの原因によくなり得る物質のこと。「アレル原」や「アレル源」と誤記されることもある。
正確には抗体と反応してアレルギーを引き起こす物質(抗原)そのものを指すが、その抗原を含んだ物質(食品など)を指すことも多い。たとえばスギ花粉症におけるアレルゲンは Cry j 1(クリジェイワン)などの花粉に含まれるタンパク質が同定されているが、一般にはスギ花粉症のアレルゲンはスギ花粉として認識されている。
アレルギー物質ともいう(とくに、上記の「アレルギーの原因によくなり得る物質」のことや、「アレルゲンを含んだ物質」の意でそう呼ばれる)。
免疫反応のひとつである抗原抗体反応における抗体をアンチボディ (antibody)、抗原をアンチゲン (antigen) というが、アレルゲンとはアンチゲンとアレルギーとを合成した造語である。アレルギーという疾患(メカニズム)の提唱者であるオーストリアの小児科医フォン・ピルケーがそのように呼んだ。
アレルギーとアレルゲンの関係は次の様に I から V 型に分類される。
これらのうちで代表的なものは、花粉症の原因となる花粉、通年性アレルギー性鼻炎や気管支喘息、アトピー性皮膚炎の原因となる室内塵(ハウスダスト)などである。とくに気管支喘息においては真菌も重要である。アナフィラキシーショックを起こしやすいなど深刻な状態になりやすいのは、食品アレルギーにおける蕎麦や、蜂(の毒)などがよく知られている。
アレルゲンとしてよく知られたものでなくとも、職業上の事情などにより、その物質と長期間接するなどすれば、だんだんと感作が進み、いずれアレルギーを発症することもあるという。
しかしながら、アレルゲンとなるのは上記のような物質中に含まれるタンパク質または糖タンパクであることがほとんどで、それが人体を構成するタンパク質とは異質(異種タンパク質と呼ぶ)であるため、排除の原理が働いて抗体が産生され、それによって過剰な免疫反応であるアレルギー症状を起こすと考えられている。その意味では、体内に入っても異物として認識され得ないものは、アレルゲンにもなり得ないと考えられている。たとえば水や塩などは抗原にもアレルゲンにもなり得ない(下記のハプテンになり得るものは除く)。
食物アレルギーでは、牛肉、大豆、ピーナッツなど多様である。日本での調査では、全年齢の食物アレルギーの原因食物は鶏卵38.7%、牛乳20.9%、小麦12.1%、ピーナッツ4.8%、魚卵4.3%、果物4%、甲殻類3.9%、魚類2.5%、ソバ2.4%、木の実1.7%、大豆1.5%であり、0歳児では卵55.6%、牛乳27.3%、小麦9.6%で大半を占めるがその後耐性を獲得することも多く、20歳では小麦23.3%、甲殻類22.2%、果物類18.9%、魚類12.2%とその内容は変化する。
アレルギー疾患患者においては、こうした環境中のアレルゲンを排除するなどして、できるだけ接触しないようにすることが重要とされている。感作はしていても実際にアレルギーの発症を起こしていないならば無理に避ける必要はないともいわれるが、予防原則の立場からは若干の議論が残るところではある。
たとえば各種のイネ科植物の花粉においては、含まれる抗原の特徴がきわめて似ているため、1種類の花粉のみに感作されていても、同種のイネ科花粉にアレルギー反応を起こすことが知られている。こうしたことを交差反応という。すなわち、異なる抗原もアレルゲンになり得る。交差抗原性があるという。
また、そうした花粉症患者のうち、花粉ではないものに反応する患者もいる。カバノキ科花粉症患者によくみられる口腔アレルギー症候群がそれで、リンゴやモモなどバラ科の果物を食べるとかゆみやしびれなどを感じる。これら果物で症状がないうちは問題ないと思われるが、かゆみ等出てきた場合ひどくなると呼吸困難等に至りアナフィラキシーショックを起こすこともあるので注意が必要である。医療機関で果物のアレルギー検査もできる。業務上ゴム製品に接することの多い人にみられるラテックス(ゴム)アレルギーがあるが、これはアボカド、バナナ、クリなどの食品と交差抗原性がある。ラテックス・フルーツ症候群という。
アレルゲンそのものではないが、アレルギー発症のメカニズムに関与するケミカルメディエーターと同様な物質を含むなどにより、多く摂取すると症状を悪化させ得ると考えられている物質を仮性アレルゲンと呼ぶ。とくに食物アレルギーにおいて、以下のようなものがあると考えられている(鮮度によって異なる場合があるので、不必要に恐れぬこと)。食物アレルギー以外にはほとんど影響しないと考えられている。実際の症状への影響において、これらを避けることを疑問視する見方もあるが、アレルギー患者ではなくとも鮮度の落ちた食材によってヒスタミン中毒などの食中毒を起こすことはある。
分子量が小さいために新たにそれに対する抗体を作ることはないとされているが、既存の抗体と反応する物質がある。こうした物質をハプテンと呼ぶ。不完全抗原・部分抗原ともいう。アレルギー発症にかかわるメカニズムとしては、タンパク質と結びつくことが考えられており、こうした働きをするタンパク質をキャリアと呼ぶ。一部の金属アレルギーにおいて、その金属とタンパク質とが結び付くことによってアレルゲンとなり、アレルギーを発症するメカニズムが考えられている。
また、アレルゲンのアレルゲン性を高める、すなわちI型アレルギーであればIgEの産生能力を高める作用を持つ物質もあると考えられており、それをアジュバントと呼ぶ。くわしいメカニズムは明らかになっていない。広義ではアレルギー症状を増悪させ得る物質のことをもアジュバントと呼ぶことがあるが、広義すぎるきらいがある。増悪物質、刺激物質などと考えるべきであろう。
上記のようにアレルゲンの多くはタンパク質であり、その性質からいって加熱すると構造が変化し、アレルゲン性を失ったり弱くなったりすることがある。たとえば卵は生よりも加熱調理したもののほうがアレルギーを引き起こす力が弱いことが知られている。果物なども同様であり、口腔アレルギー症候群の患者において、生のリンゴは食べられないが加熱したり缶詰などであれば症状を起こさないなどのこともある。しかしながら、こうした感受性は個人により異なるので、注意は必要である。
現在では、食品衛生法にもとづき、食品のパッケージの原材料表示に、アレルギー物質として卵、乳、小麦、えび、かに、そば、落花生が含まれる場合、使用している旨を表示しなくてはならないように定められている。詳細は、特定原材料を参照。
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アルトゥーロ・トスカニーニ
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アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。
スカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされている。ロマン主義のスタイルを脱却した演奏法は音楽演奏における新即物主義に分類され、ライバルのフルトヴェングラーと対極をなした。速く正確なテンポ、統一したアンサンブル等は戦後の演奏法の規範となった。徹底した楽譜至上主義ともいわれているが、しばしば部分的にオーケストレーションを改編することもあった。楽譜至上主義・即物主義的スタイルはカラヤンをはじめ多くの指揮者に多大な影響を与えた。レパートリーは膨大で、イタリア・オペラやレスピーギなどのイタリアの管弦楽作品のみならず、バイロイト音楽祭においてワーグナーを振り(ドイツ系以外の指揮者としては初登場)、ベートーヴェンやブラームスといったドイツ音楽やチャイコフスキーなども得意とした。大指揮者があまり手がけないような通俗名曲、小品も好んで録音している。ブルックナーやマーラーはほとんど手掛けていないが、当時は彼らは作曲家としては中欧以外では高い評価を得ていない時代であり、イタリア出身の指揮者が手掛けないのは特に不思議なことではない。
『ワリー(英語版、イタリア語版)』や『トゥーランドット』等の重要なイタリア・オペラを初演している。戦後はNBC交響楽団を起用し数多くのレコーディングを行った。また、リハーサルの厳しさで知られ、駄目出しの多さからトスカノーノとあだ名された(後述)。
トスカニーニは極度の近視であり、譜面台に置いた楽譜が見えなかったため本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった。しかし、1954年4月4日の演奏会(オール・ワーグナー・プログラム・コンサート。その時に演奏していた曲目は「タンホイザー」序曲とバッカナーレ)での記憶障害により指揮を一時止めてしまった。 そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表された(引退は演奏会の前に計画されていた)。引退に際し公開された引退表明の手紙(同年3月25日付)には以下の一文も含まれる。
特記なき場合はNBC交響楽団。
雑誌『レコード芸術(第56巻第12号)』2007年12月号(音楽之友社)には三田晴久編の極めて詳細なディスコグラフィが収載されている。
すべてNBC交響楽団。
定期的に国際指揮コンクールを開催している。国際作曲コンクールも以前は行われていたが、予算難で休会。
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仕掛人・藤枝梅安
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『仕掛人・藤枝梅安』(しかけにん ふじえだばいあん)は、池波正太郎の娯楽時代小説シリーズ。鍼医者・藤枝梅安の、暗殺稼業「仕掛人」としての活躍を描く。『小説現代』で1972年(昭和47年)から1990年(平成2年)の間に発表した全20篇の連作時代小説であり、『鬼平犯科帳』『剣客商売』と並ぶ著者の代表作である。テレビドラマ化や漫画化もされており、必殺シリーズの翻案元としても知られる。
連載中に池波が他界したことによる未完の『梅安冬時雨』が、結果として最終巻となった。
1972年(昭和47年)『小説現代』3月号に掲載された『おんなごろし』から、1990年(平成2年)『小説現代』4月号で作者の死去によって中断するまで連載された連作娯楽時代小説シリーズである。
「仕掛人」と呼ばれる江戸時代の暗殺者の活躍を描くものであるが、この「仕掛人」を主題に据えた作品自体は1971年(昭和46年)に『小説新潮』11月号で発表された短編『殺しの掟』が初出である。後述する『必殺仕掛人』との並行もあって、『殺しの掟』を下敷きに江戸は品川台町に居を構える鍼医者・藤枝梅安を主人公として連載を始めたのが本作である。
江戸は品川台町で評判の診療所を開き、貴賎の別なく治療を施す鍼医者の藤枝梅安は、裏稼業として金で殺しを請け負う仕掛人でもあった。梅安は蔓(依頼者より殺しを請け負い仲介する者のこと)より殺しの依頼を受けると、表稼業の道具でもある鍼を武器に、何の痕跡もなく標的を暗殺していく。
本作では仲介者を経て金の受け渡しをする殺人請負のシステムを「仕掛け」と呼び、それを実行する殺し屋を「仕掛人」と呼ぶ。
依頼は必ず蔓と呼ばれる仲介者を経由しなければならないなど、基本的に以下の順番を経る。
頼み料は難易度や事情によっても異なるが、梅安の場合では最高で300両、最低で20両。概ねは50両から150両の間で推移していた。この内、半分を蔓が取り、残り半分が仕掛人の報酬となる。ただし、この半分もさらに前金と後金の半分にされ、依頼の達成によって全額が払われる仕組みとなっている。また、仕事を請けて前金を受け取った場合、原則として降りることはできず、死んでもやりとげねばならない。
また、仕掛けの定法として仕掛けに必要なこと以上の情報は仕掛人に伝えないというものがあり、基本的に仕掛人はその依頼の背景や頼み人も知らず、ただ教えられた標的を殺害するだけである。このため、その依頼が妥当かどうかは蔓の信用の高さや、仕掛人と蔓の信頼関係の厚さにより、作中でもしばしばテーマになる。作中に登場して梅安に依頼する蔓は、梅安が理不尽な殺しを嫌うことを前提としており、そのような殺しの依頼はしないか、そもそも引き受けない。このため、蔓が騙して理不尽な殺しをさせようとしたり、調査に手抜かりがあって危うく誤った人物を殺害しそうになるなど、両者の関係を破壊するようなことが発覚した場合、蔓が処断されることもある(『梅安晦日蕎麦』など)。
本作では『鬼平犯科帳』の盗人用語のように、作者の池波による造語が登場する。
本作の時代設定は江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の治世下である1799年(寛政11年)から始まり、最終作となる『梅安冬時雨』では1806年(文化3年)となっている。
他の作品と比較すると、田沼時代がメインとなる『剣客商売』(安永6年(1777年)から天明4年(1784年))や、長谷川平蔵が火付盗賊改役であった期間である『鬼平犯科帳』(天明7年(1787年)から寛政期(1789年から1801年))のやや後の時代となっている。
共通する人物として秋山小兵衛の親友・牛堀九万之助や金子孫十郎がおり、小杉十五郎は、牛堀九万之助の弟子で、牛掘亡き後の後継者争いに巻き込まれることとなる。『鬼平犯科帳』などで盗人用語として良く知られる作者の造語は本作でもよく用いられ、反対に「仕掛人」や「蔓」といった本作特有の造語も、他作品でしばしば用いられている。『剣客商売』で秋山小兵衛が「仕掛人」について否定的なコメントをするなど、仕掛人自体の存在もおぼろげながら知られている設定になっている。また、両作品と比較すると実在の人物や実在のできごとが引き合いに出されることは少ない。
作者の死去により未完。
フジテレビの『時代劇スペシャル』枠で放送された。タイトルは原作と同じく、中黒「・」を用いる。
原作にある中黒「・」は用いない。
原作にある中黒「・」は用いない。
1981年公開の日本映画。主演:萬屋錦之介、監督:降旗康男。製作、東映・東映太秦映画村、配給、東映。タイトルは「仕掛人梅安」で、「・藤枝」を省いている。萬屋錦之介、最後の映画主演作(最後の出演映画は、1989年の『千利休 本覺坊遺文』)。併映『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』。
企画は岡田茂東映社長。当初は1981年の正月映画として公開を構想し、岡田が池波正太郎に会い製作を決めた。萬屋錦之介も映画化を希望。岡田と錦之介は、岡田が京都撮影所長時代に外様の鶴田浩二を中心とした製作スケジュールを組んだことに錦之介が感情的になり、ここから仲違いするようになって、錦之介が自分のグループを作ったことが俳優クラブに発展し、会社とグループの板挟みに遭い東映退社に追い込まれたというシコリがあった。岡田社長が、岡田にとっても錦之介にとっても弟分、親友である当時フリーだった沢島忠に「久しぶりに東映で監督しろ」と声をかけていたが、池波が、「沢島という監督はしらない。代えてくれ」とクレームを付け、監督は池波の希望する降旗康男に交代した。若き日には岡本喜八らと並び称され、今なお時代劇ファンには高く評価されている沢島だが、大作経験が殆どないまま映画界を退いていたこともあり、洋画中心の映画ファンである池波の記憶に残っていなかった。また、少し前に映画化された「雲霧仁左衛門」「闇の狩人」の出来栄えに池波が怒りに近い不満を抱き、人選に神経質になっていたことも沢島には災いした。
1981年の正月興行は東映内部で紛糾し(『青春の門)』参照』)、本作は宣伝部から「やや地味」と評価され、製作発表では正月第二弾と発表されたが、後ろに押し出され、岡田社長は2月公開に変更し、1981年に原作ものを連打してダッシュを図ろうという目論み、講談社の時代もので一番売れていた池波正太郎の原作を映画化し、出版社と宣伝もガッチリ組んで売り込むというプランを立てていた。また併映作『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』と合わせ、6月封切りの大作『魔界転生』との流れで、うまく絡めて売り込めば時代劇への新しい興味を刺激できると期待した。しかしこの2月公開予定もさらに後ろに延ばされ、1980年12月に東映本社であった番組予定発表では、1981年4月4日公開と発表された。
降旗の監督起用は必須条件となったが、降旗は1980年9月に『駅 STATION』の挨拶で有楽町東宝本社に松岡功社長を訪ね、その足で近所である銀座東映本社の岡田社長に挨拶に行った。東映育ちの降旗が初めて東宝で映画を撮ることになり、当時はフリーになっていたが、仁義を通すための挨拶だったが、岡田から見れば「カモネギ状態」。しかし降旗はこの年12月のクリスマスイブに北海道札幌で『駅 STATION』のクランクインが決まっていたため、制作期間が充分でないことから最初は「ムリ」と断ったが「『駅 STATION』に入る前に終わらせるようにするから」と説得され引き受けた。しかしホン直しが上手くいかず、岡田社長の部屋で、「やめよう」という話になり、降旗が「じゃあ僕は明日から東宝へ行きますので」と部屋を出た。1階降りた企画製作部に寄ると、そこで酒盛りをやっていて一緒に1時間ぐらい飲んでいた。降旗は東映の監督では「東の降旗、西の山下耕作」と呼ばれた酒豪。岡田社長から「ちょっと社長室に来てくれ」と呼び戻され、「どうしてもやらなければならない事情があるから頼むよ」と言われた。1965年の組合騒動と岡田が時代劇映画の製作中止を決めたことで、岡田と錦之介は袂を分かったが、錦之介にとって岡田は育ててくれた恩人で、兄貴分とも叔父貴分ともいえる存在に変わりなかった。錦之介が社長を務める『中村プロダクション』に岡田は資金援助もしていた。降旗は「そのまま(企画製作部に)立ち寄らず帰っていたら監督を引き受けてなかったと思う」と話している。結局、本来『駅 STATION』の準備に企てなければいけない期間に本作の撮影をさせられた。降旗は『駅 STATION』のスタッフとの顔合わせも出来ず。ロケハンにも全く参加出来ず、ロケハンは田中寿一プロデューサーと木村大作、高倉健の3人でやり、撮影準備は木村がほとんどやったという。
1980年11月11日、東映本社8階会議室で、岡田東映社長、池波正太郎、降旗康男、萬屋錦之介、伊丹十三、小川真由美、真行寺君枝らが列席し、製作発表会見が行われた。降旗は「私を選んで貰い、大変光栄だ。西部劇のようなダイナミックなアクションを盛り込んだ痛快なものになれば」と話し、萬屋は「チャンバラは昔から興味があったので梅安を演じることに誇りと感謝の気持ちでいっぱいだ。梅安の昼と夜とガラリと変る性格に挑む。映画のために10キロ減量した」などと話した。梅安の敵役に扮する伊丹十三は「悪役を演じられるということは俳優として全てのものを発揮できるということで、非常に嬉しい。時代劇が少なく寂しく思っていた。父も時代劇を撮り続けていたので、私も時代劇に出るからには、面白いものにしたい」と話した。伊丹十三と中村嘉葎雄は降旗が希望したキャスティング。本作は小川真由美、真行寺君枝、宮下順子と主要キャストに三人の女優が出演するが、小川が「私のが一番悪い女なんですよ。だから何回も代えて下さいと(プロデューサーに)頼んだのに代えてもらえなかった」と恨みごとを言った。小川と中村兄弟は歌舞伎座の舞台で共演してから7年ぶりの、映画では初共演であったが、舞台での共演の際、小川と中村嘉葎雄が親しくなり、それを錦之介が注意したことがあり、以後、敬遠しあっていた。会見の最後に梅安に扮する錦之介の断髪式が行われ、池波の鋏で見事な坊主頭を披露した。
萬屋錦之介のスケジュールも押し迫り、慌ただしくホン直しや撮影準備に入った。撮影に充てられた日数は20日間程度。キャメラの宮島義勇は錦之介が連れてきたもので、降旗は宮島だと20日で撮影するのは難しいと力説したが、錦之助が強引で、降旗も新人の頃、宮島に世話になっていたため受け入れた。宮島は当時71歳で体も少し弱っていたが、東映の若い撮影・照明スタッフに自身の技術を伝えようと実地授業を行いながら撮影をするため撮影が押した。本作は名キャメラマン・宮島義勇の劇場公開映画としては最後の撮影作品である。12月23日にあと1日撮影が残る状況になったが、宮島が「あとは俺たちで撮るから行けよ」と言うので、降旗は京都から急ぎ札幌に行った。その後降旗は『駅 STATION』のスケジュールを縫って『仕掛人梅安』の音楽録りやダビングを行った。錦之介は撮影前に長崎で舞台をやっていて、降旗は錦之介と1回しか打ち合わせが出来ず、梅安をどのように演出するのかはっきりしないまま撮影に入り、降旗は納得のいかない出来になってしまったと述べている。
岡田東映社長は1981年の東映ラインナップとして、原作ものを連打し、4月に本作『仕掛人梅安』、夏に伊藤左千夫原作・松田聖子主演で『野菊の墓』、秋には徳間康快から提携申し入れがあった勝目梓原作・村川透監督の『獣たちの熱い眠り』、同じ秋に1981年初めに既に研究準備中だった宮尾登美子原作・五社英雄監督の『鬼龍院花子の生涯』を並べたいというプランを述べていた。東映宣伝部は「やや地味」という評価で、併映の『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』が意外に引き合いが多く、『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』とのセットで売り込んだ。
大コケ。1981年の東映は正月の『青春の門』のヒット以降は、『ダンプ渡り鳥』など大ゴケ続きで、6月の『魔界転生』でようやく大ヒットが出た。
2021年3月12日に、帝国ホテルにて同じく池波原作の『鬼平犯科帳』と共同で製作発表が行なわれた。河毛俊作が監督、豊川悦司が主演をそれぞれ務める。2022年1月から3月にかけて2部作を同時撮影し、2023年2月3日と4月7日にそれぞれ公開。
パンフレットは2作分を1冊にまとめたものが発売された。
2001年、リイド社の漫画誌『増刊コミック乱』7月号(創刊号)にて、さいとう・たかを作画、北鏡太脚色のもと連載が開始された。タイトルは『仕掛人 藤枝梅安』で、原作にある中黒「・」は用いない。連載開始当初は1回80ページであった。同誌上で16話連載後、2003年に『増刊コミック乱』が『コミック乱ツインズ』と改称して改めて創刊、本作も第17話から同誌に掲載され、以後同誌の看板作品としてたびたび巻頭カラーを飾り、2015年1月号まで連載された。全142話。前後編の挿話が11話、3部作が1話あるため、連載回数は計155回(連載末期には1回40ページとなっていた)。中心人物の一人である小杉十五郎が松平定信に召抱えられる、鍼医としての梅安の弟子となる芳太郎の登場など、独自改変も加えられている。
掲載誌の看板作品として、池波の原作全てを劇画化した後も連載が続き、「原案・池波正太郎」と明記の上で、脚本家によるオリジナルストーリーを劇画化する形式に移行した。脚色は長く北が一手に執筆してきたが、単行本第26巻収録話以降、山田誠二が加わり、さらに會川昇(第27巻収録話より)、粕谷秀夫(第34巻収録話より)も加入、連載末期には北を中心に4人の脚本家がいた(26巻以降、最新35巻まで毎巻担当話を掲載しているのは北のみ)。
単行本はリイド社発行(「SPコミックス」レーベル)で、2016年(平成28年)8月時点で第35巻まで刊行されている。その他、約2か月ごとに掲載誌の増刊として、掲載誌と同じB5判で“雑誌判総集編”も発行(1号に5-6話収録)、また不定期にコンビニコミック(「SPコミックスポケットワイド」レーベル)も多数発行されている。
21世紀におけるさいとうの執筆活動は、本作と『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』3作の長期連載を柱としていたが、本作は3作の中で唯一、さいとう存命中に連載を終了することになった。これは本作の作画の主担当であったチーフアシスタントの武本サブローが2008年3月、同じくゴルゴ13や鬼平犯科帳の作画を担当していたチーフアシスタントの石川フミヤスが2014年11月に死去したことが一因となって、さいとうの作業量が石川死去後に増加し、さいとうの高齢(石川死去時にさいとうは78歳)による体力的な負担などから、3作品連載の同時進行が困難となったことによる。そのため本作は2015年2月から一旦休載する形となり、掲載誌同年3月号で読者に長期休載が告知された。休載告知時には、作者の負担軽減のための休載であり近日中に連載を再開する意向が記されていたが、約1年の休載を経て2016年4月号にて、作者の体力的な限界から連載再開を断念、正式に連載を終了することが告知された(告知文ではさいとうによる文章で「『梅安』は僕にとって大事な作品」とも記されている)。
上記の経緯で連載終了となり、物語としては未完であることもあって、連載終了時点で単行本に収録されたのは2014年11月号掲載分までで、同年12月号、2015年1月号に掲載された最終掲載分2話は2023年に入っても単行本には未収録のままであるが、SPコミックスポケットワイド『仕掛人 藤枝梅安 梅安無惨針』(2016年8月29日発売)に収録されており、掲載号の入手以外でも読むことは可能となっている。
『コミック乱ツインズ』では2016年6月号から、武村勇治の作画による『仕掛人 藤枝梅安』がさいとう版に代わって連載された。さいとう版の連載終了は前々号の同年4月号で告知されたが、次の5月号で新たに武村版『仕掛人 藤枝梅安』を連載する旨が告知され、同時に本作についてのさいとうと武村との対談記事も掲載された。連載開始号表紙には“梅安 新生”と銘打たれた。第1話は原作、さいとう版同様に「おんなごろし」。さいとう版では結末までを1話で80ページ一挙に描いたが、武村版は1回のページ数が約半分のため、7月号までの前後編構成となった。武村版の作者表示は、漫画・武村勇治/原作・池波正太郎 のみで、脚色者名表示はない。その後約5年連載されて池波の絶筆「梅安冬時雨」までが描かれ、2021年12月号にて最終回を迎えた。物語構成としてはさいとう版と異なり、原作準拠で進行し、原作を全て劇画化した事で完結となった。基本的には原作に忠実だったため、武村版独自のアレンジは控えめだったが、アレンジとしては、終盤で小杉十郎太が変名として西村左内(『殺しの掟』の登場人物で、ドラマ必殺シリーズで藤枝梅安と共闘した若い浪人)を名乗るなどが挙げられる。
また、同じ雑誌でグルメスピンオフ作品『仕掛人 めし噺 ~藤枝梅安歳食記~』を2022年4月号から2023年3月号にかけて連載している。
本作が原作となっており梅安が登場するが、タイトルが異なり、また大きくアレンジされている作品がある。
※梅安役別に示す。
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イロコイ連邦
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イロコイ連邦(イロコイれんぽう、英: Iroquois Confederacy)またはホデノショニ連邦(英: Haudenosaunee Confederacy)は、北アメリカのアメリカ合衆国ニューヨーク州オンタリオ湖南岸とカナダにまたがった保留地を持つ、6つのインディアン部族により構成される部族国家集団をいう。今日ではシックス・ネーションズ(英: Six Nations)の別名で呼ばれることもある。
この連邦の成立は、14世紀ごろと民族学者の間では推測されている。成立当初から、6部族で構成されていたのではなかった。「大いなる法(英語版)」などの呼称で伝わる起源伝承によれば、17世紀に5部族の連合として、今日「イロコイ連邦」として知られる連邦国家が成立した。
イロコイ連邦はアメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)に巻き込まれ、パリ講和条約(1783年)後のスタンウィックス砦条約(1784年)で独立した地位(主権性)をほぼ喪失した。
「大いなる法(英語版)」などの呼称で伝わる起源伝承によれば、17世紀に、ワイアンドット族(ヒューロン族とも、Huron)のデガナウィダと、モホーク族のハイアワサの調停によって、互いに戦争状態にあった五大湖湖畔のカユーガ族(英語版)、モホーク族、オナイダ族(英語版)、オノンダーガ族(英語版)、セネカ族(英語版)の5つの部族が同盟し、「ホデノショニ 」という今日「イロコイ連邦」として知られる5部族連合の連邦国家が成立した。デガナウィダによって設計されたこの部族連合は、18世紀前半にタスカローラ族(英語版)が加わって6部族連合となったのち、アメリカ独立戦争ごろまで強固な結束を保った。5部族の和平を結び連邦の成立を成し遂げたデガナウィダとハイアワサは、「グレート・ピースメーカー (Great Peace Maker)」 として知られている。
イロコイ連邦はヨーロッパ人の到来以前から機能しており、実際の連邦の成立は14世紀半ばまでさかのぼるとする研究もある。また、その成立過程は5か国が一度に結集したわけではなく、モホークとオナイダとオノンダーガの3か国が先に連邦を形成し、のちにカユーガ、セネカが参加したと考えられている。
「イロコイ」の名称は、ワイアンドット族が「イリアコイ(黒い蛇)」と呼んだ通称に、フランス入植者が「ois」を語尾に付け、「イロコワ (Iroquois)」と呼んだのが由来である。彼ら自身は「オングワノシオンニ(我ら長い小屋に住む者)」と自称する。
アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)に巻き込まれたイロコイ連邦は、イギリス本国(王党派)側に立った陣営と13植民地独立派側に立った陣営に分断されて6部族連合の結束が崩れ、互いに敵として戦い合うことになった(初戦はオリスカニーの戦い)。独立派にとってニューヨーク邦内のイロコイとの戦いは、イギリス側に立つ先住民勢力の制圧という当面目標の達成のみにとどまらず、イロコイの抵抗力を取り除いてその土地を獲得するという長期目標を叶える機会でもあった。
独立戦争が始まるとイロコイ連邦は、イギリス側と独立派の双方から交渉を持ち掛けられて駆け引きの対象となり、注目を受けた。そして、戦闘へ参加するイロコイの集団も現れる。
イングランド国教会の信徒であったジョゼフ・ブラントからの説得を受け入れたモホーク族に、「伝統宗教」的立場をとったセネカ族はイギリス側の陣営として立ち、局外中立を当初目指したオノンダーガ族およびカユーガ族も独立派に襲撃を受けるとイギリス側への協力に回った。プロテスタントの信徒が多かったオナイダ族のほか、タスカローラ族は独立派側の陣営として立った。
モホーク族戦士の長ジョゼフ・ブラントとイギリスの共同部隊は、ゲリラ戦を仕掛けて独立派集落に襲撃を繰り返し、独立派に打撃と恐怖を与えた(コブルスキルの戦いやジャーマンフラッツへの攻撃、チェリーバレー虐殺など)。とりわけ、ブラントを除くインディアン諸族の兵とイギリス兵の共同部隊による「ワイオミングの虐殺」は、1778年の夏ごろに戦争全体での優勢を確立しつつあった独立派へ大きな衝撃をもたらした。そうした中、独立派の大陸軍最高司令官であるジョージ・ワシントンはニューヨーク邦内のイロコイ勢力掃討を計画して大陸会議の許可を受け、1779年6月に根拠地の破壊と無力化を目的としたジョン・サリバン少将の遠征が実行された。9月まで行われたこのサリバン遠征でブラントらの部隊が壊滅させられることはなかったが(ニュータウンの戦い)、イロコイの居住地は徹底した破壊を受けて焦土化された。これは、オナイダ族を除くほとんどのイロコイ連邦諸族を明らかに敵として扱うものであった。ブラントは自身に賛同した他のイロコイ連邦諸族の一部も引き連れ、英領カナダを拠点として独立派に対するゲリラ戦を続けた(ラフリーでの一方的な勝利など)。
独立戦争に勝利したのは独立派、アメリカ合衆国であった。パリ講和条約(1783年)では、イロコイ族を含むインディアン諸族は顧みられることなく、イギリスにミシシッピ川以東の地域を米国の司法権下へ引き渡された。イロコイ連邦は内部対立を収拾できないまま、スタンウィックス砦条約の会議に立たされる。1784年のスタンウィックス砦条約はアメリカ合衆国のイロコイ連邦に対する講和条約としての性質があり、イロコイは米国へ領土(ペンシルバニア州域北西部とニューヨーク州域西部の大半)の割譲を強いられ、その独立した地位(主権性)もほぼ喪失する。同条約の会議でイロコイ連邦は、以前まで有していた支配権の譲渡をアメリカ合衆国に対して原則的には受容しなければならない地位にあるということを認めることになった。強いられたこの条約をイロコイ側は批准しなかったが、そのことはもはや米国側によるイロコイからの土地獲得の障害にはならなかった。
独立派に与したオナイダ族とタスカローラ族も、1785年のハーキマー砦条約で土地の譲り渡しを州政府に強いられた。イロコイの諸族は以後も、1788年にオノンダーガ族とオナイダ族、1789年にカユーガ族、1797年にモホーク族が、州政府との個別条約で土地の譲り渡しを強いられていった。しかし、それらの条約はアメリカ連邦政府の承認が明確になっておらず、原則として合法性が疑われるものであった。
イロコイ連邦に所属する国は母系社会であり、クラン・マザー(氏族の母)をはじめとする女性たちが合議し、連邦を運営する男性の首長たちを推挙・解任する。特定の家系の男子のみが首長に選出される資格を持ち、その資格は母系で継承されていくという世襲制にある。首長は連邦全体で50名の男性で構成され、モホーク9名、オナイダ9名、オノンダーガ14名、カユーガ10名、セネカ8名と決まっている。首長にはそれぞれに称号があり、次代の男性首長へと継承される。その中にはワンパムの保管など特別な役目をもつ称号もある。首長は平時においても戦時においても他の氏族員に対して権利においては優越せず、氏族全体の意思と、罷免権を持つ女性の意思を尊重せねばならない。
年に6度の宗教祭(楓祭・植付祭・漿果祭・青トウモロコシ祭・収穫祭・新年祭)を執行する「信仰の番人」は、単なる宗教職ではない「人民の悪業を種族会議に報告する権力を有する人民の監察官」であり、これには首長とともに女性たちも選ばれている。
首長は年に一度オノンダーガ領内にある「中央の炎」と呼ばれる場所に集まり、連邦全体に関わる問題を討議した。連邦のうち、モホークとオノンダーガ、セネカは「年上の兄弟」、カユーガとオナイダは「年下の兄弟」と呼ばれるグループに分かれる。ある議題を論議する場合、まず年下の兄弟のあいだで討議し、その議論を年上の兄弟たちは傍聴する。次に年上の兄弟たちが同じ議題について議論し、年下の兄弟で出た結論と同じ結論になればそれで可決となる。結論が異なった場合、議論は振り出しに戻る。全体が納得するまで議論する仕組みから、結論が出るまでに1年以上かかることも珍しくなかった。
重要な決まりごとはワムパム・ベルト(英語版)という貝殻ビーズの織物に幾何学模様で記録する。19世紀になると、白人たちがでたらめな模様のワムパム・ベルトを作って売り買いしたため、これを正規物と誤解したインディアン部族間の戦争まで起こった。現在も部族の法を記録したこの織物は大切に保持されている。
イロコイ連邦は女が農耕をおこない、男は戦士を務める軍事国家だった。彼らは周辺のインディアン部族に戦いを挑み、敵部族の捕虜に対して両側から棒で殴られる中を走らせるガントレットの儀式で試し、これに耐えた戦士を新しい血、公式な部族員として迎えた。イロコイの戦士の苛烈さは他部族のみならず白人入植者を震え上がらせた。彼らは敵部族に拷問を行う風習も持っていた。また、彼らは敵部族を征服し傘下とすると、安全保障条約を結び、その部族に代わって他の部族と戦った。
こういった獰猛な戦士の姿から、イロコイ連邦の部族に「蛇」をイメージするインディアン部族は多かった。オジブワ族は彼らを「ナドワ(毒蛇)」と呼んだ。これは「スー族(ナドウェズスー=小さい毒蛇)」と同じ由来である。オタワ族は彼らを「マッチェナウトワイ(悪い蛇)」と呼んだ。
イロコイ社会における女性
下記のようにイロコイの女性が書いている:
イロコイ族は歴史的に母権制に従ってきました。男性と女性は伝統的に別々の役割を果たしてきましたが、どちらも国家で実際的権力を保持しています。土地を「所有する」権利は誰にもありませんが、創造主は女性を土地の管理人に任命したと考えられています。伝統的に、クランマザーが子供を育ててきていて、他の人たちよりも高い評価を受けているため、リーダーを任命します。同様にして、リーダーが健全であることを証明しない場合、腐敗した場合、または人々の言うことを聞かない場合は、氏族の母親は彼のリーダーシップを剥奪する力を持っています。氏族の長は、その氏族の女性長老の評議会によっていつでも解任され得ます。首長の姉妹には歴史的に彼の後継者を指名する責任がありました。氏族の母親、各氏族の年配の女性は非常に尊敬されています。
イロコイ族は伝統的に母系制に従っており、先祖伝来のリーダーシップが女性側の血統上を、つまり母親から、子供へと受け継がれてきています。伝統的な結婚の子供たちは自分の母親の氏族に属し、彼女の社会的地位を通して自分の社会的地位を獲得します。彼女の兄弟たちは子供たちにとって重要な教師であり良き指導者であり、特に男の子に男性の役割と社会を紹介しています。カップルが別れた場合、伝統的に女性がその子供を養います。イロコイ族では母系の氏族内で結婚することは近親相姦と見なされているが、父系の同じ氏族の出の誰かと結婚することは受け入れられると考えられている。
歴史的に、女性は住居、馬、農地を所有しており、結婚前の女性の財産は、夫の財産と混ざることなく所有されていました。女性の手によって生じた成果は、女性がそれが適切だと思うように取り扱われるべきであり、女性のものなのです。
歴史的に、結婚時に、若いカップルは妻の家族のロングハウスに住んでいました(妻方居住)。ぐうたらな、あるいは何か満足のいかない夫と離婚することを選択した女性は、自分の所有物を持って住居を出て行くように彼に頼むことができます。
近現代
選挙に基づいた自治制度がアメリカやカナダの政府によって導入されて、政府公式の自治議会とイロコイ「伝統」の自治議会が併存している地域がある。そうした地域では、双方の対立という問題も見られる。20世紀末以降には、特定の家系からのみ首長が選出される制度に対して、当該家系外の部族民から「『特権』的な政治継承の原理」という意見も一部ではなされている。
ロングハウスという、数家族が同居する住居(右図)を伝統住居とし、トウモロコシや豆、カボチャ(スクワッシュ)を栽培する農耕を行った。この三種の作物が人のために生まれてきたことを感謝し、「三姉妹、我々を維持する食べ物」とイロコイ族は呼ぶ。彼らの伝統的な作付けは、これらの種を同じ場所に撒き、トウモロコシに豆が絡みつき、その根元をカボチャが覆う、というものである。トウモロコシと豆を共に栽培するのは、労力の節約のほかに土壌から失われる窒素を豆で補う効果もあった。
1日に一度、朝と昼の中間の時間に正餐をとり、野禽のロースト、魚介類、サラダやベイクドパンプキン、ベイクドスクワッシュ、ヘーゼルナッツのケーキなどを食した。これらはニューイングランド地方の古典的な料理であるクラムチャウダー、ボストン・ブラウン・ブレッド、クランベリー・プディングなどの原型となった。
連邦政府が公認した全米500以上に上るインディアン部族は、インディアン事務局 (BIA) の監視・管理下にある「部族会議」を設置してFederally recognized tribesが集まる「首長制」となっている。しかしイロコイ連邦は当初から、連邦政府=BIAの干渉を拒絶してこの種の「首長制」が強制される「部族会議」などの組織は持たず、「調停者」の合議制による自治独立を実現している稀有なインディアン部族である。これがアメリカ合衆国政府との条約によって保障された保留地 (Reservation) の本来の姿ということになる。
イロコイ・パスポート(ホデノショニ・パスポート)という鷲の羽根を使った独自のパスポートを発行しており、使用を連邦政府と相手国側に認められる場合もある。2005年に国際宗教学宗教史学会の東京大会へ招かれたオノンダーガ族パネリストの一団が来日する際、このパスポートの使用について日本政府側の承認があった(オノンダーガ・ネーションの公表による)。2010年の国際スポーツ大会において、イロコイのラクロスチームはアメリカ国務省からの承認を受けたものの、イギリス政府側はその使用を承認しなかった。
2009年9月21日にニューヨーク州のセネカ・ネーションは、その名の下で自らの部族民に西半球旅行の身分証明書を発行するために、合衆国国土安全保障省と開発協定の約定書に調印した。発行がされるようになれば、証明カードで合衆国の国境を越えて国外と行き来できることになる。
「ウーンデッド・ニー占拠」(1973年)の指導者の一人で連邦政府から訴追されたデニス・バンクスが、1983年にFBIから逃れるためニューヨーク州の部族国家オノンダーガへ亡命して話題となった。FBIは自治権の強さで知られるオノンダーガ・ネーションに入れず、バンクスに手が出せなかった。イロコイ国家はこの「ウーンデッド・ニー占拠」では代表団を送り、オグララ・スー族の独立国家宣言を最初に承認した。
イロコイ影響論とは、アメリカ合衆国の建国者(建国の父)たちや合衆国憲法起草にイロコイ連邦の諸要素が大きな影響を及ぼしたとする説。イロコイ影響論では、「自由」や「民主主義」といったイロコイ連邦の政治システムが新国家アメリカの基礎になったと歴史を認識している。イロコイを研究分野とする人類学者および憲法研究の権威と評価されている史学者のほとんどは、イロコイ影響論に強く反対している。影響論は、イロコイ族以外のインディアン部族を要因として挙げるものも含めて広くは受け入れられていない。
影響を及ぼした可能性についての提起は19世紀から時折あったが、1980年代にイロコイ影響論が主張されたとき大きく注目された。イロコイ影響論の賛同者は、包括的な議論提起および証拠提示を行った学者のブルース・E・ジョハンセン(アメリカ先住民学)とドナルド・A・グリンデ・ジュニア(アメリカ学)の研究成果を、インディアンをアメリカ史へ好意的に受容したものと見なしている。
1988年、アメリカ合衆国議会両院で「合衆国憲法へのイロコイ連邦の貢献」を認定した決議が可決され成立した。前年には上院議員ダニエル・イノウエの提案した同様の別決議が、上院で可決のみはされていた。イロコイ影響論をアメリカ先住民や教育界の多文化主義者の多くは好意的に迎え入れていたが、学界内の多数は影響論の裏付けとなる証拠やその論理について信頼のできないものとして見続けている。
アメリカ合衆国へイロコイ連邦の諸要素が及ぼした影響についてのコンセンサスは、
とするのが、バランスのとれた見方とされている。
イロコイの連邦制度がアメリカ合衆国の連邦制度の元になっており、13植民地がアメリカ合衆国として独立する際に、イロコイ連邦が協力して大統領制を始めとする合衆国憲法制定にも影響を与えたとする研究者もいる。ジョハンセンは、イロコイはベンジャミン・フランクリン(→1754年オールバニ会議の連合案)や、トーマス・ジェファーソン(→インディアン使節団への1802年演説)に影響を与えたのみならず、独立から憲法の制定にいたる過程で具体的な示唆を与えていたとしている。
このイロコイ連邦(六部族連合)のシステムは、植民地の政治家や思想家の心をとらえ、そのなかの何人か(フランクリンやトマス・ペイン)は、ロングハウスでの大協議会に参加し、外交についての授業を受けている。イロコイ連邦の長老は、何度も彼らの連邦のスタイルを白人たちの13植民地のモデルとして彼らに提示(→1744年には「連合を形成すべきと忠告」)している。
ハクトウワシの米国国章はイロコイ連邦のシンボルを元にしたものであり、合衆国憲法そのものも、言論の自由や信教の自由、選挙や弾劾、独立州の連合としての「連邦制」に、「安全保障条約」などがイロコイ連邦からアメリカ合衆国へと引き継がれたものである。
人類学者のエリザベス・トゥッカーは、新国家アメリカと異なった原理でイロコイの政治システムが構築されていたと説明する。合衆国憲法で採用された連邦制度と比べて、イロコイ連邦の連合方式は中央集権的要素が見られないものだった。50人の首長たちは選挙で選ばれるのではなくクラン・マザー(氏族の母)たちの推挙で決められ、首長数の連合参加各国への割り当ては連合のしきたりとしてある各国へ付けられた序列に則っていた。
13植民地入植者社会には、インディアンの言語に対する理解が不十分なうちから民主的制度が見られる。法制史学者のジャック・N・レイコウブは、ニューイングランド地方におけるタウンミーティングの民主的自治や、新大陸初の議会とされるバージニア議会(英語版)(1619年開設)を例示している。さらに連邦主義的制度は、イロコイとの接触以前から見られる。政治学者のサミュエル・B・ペインは、ニューイングランド連合(1643年 - 1684年)の「連合規約」と呼ばれる近世の憲法の例を挙げている。この連合について、連合参加各植民地の対内主権は連合の力や主権と協同しており、連合体として実際に機能していたと説明する。1744年の「連合を形成すべきとの“忠告”」、イロコイ族にニューイングランド入植者が接触する1677年、それらの30年以上前に、イギリス人入植者が連合という仕組みに慣れていたことをペインは指摘している。
アメリカ独立革命以前と以後の重要な政治的概念の全ては、ヨーロッパの前例を明らかに参照していた。参政権の平等主義について、レイコウブはこう指摘する。結局のところ17世紀のイギリス社会に端緒があり、特にイングランド内戦およびイングランド共和国の時代とその時代に生じた出来事、貴族院および君主制の廃止、パトニー討論や平等派といった急進的な政治感情とその実践に関係があった。
アメリカ合衆国の建国者(建国の父)たちは、ヨーロッパの事例を参考としたことを明らかにしている。
アメリカおよびカナダの六部族。
「インディアン・カジノ」は、保留地と連動したアメリカ連邦政府との連邦条約規定に基づくインディアン部族の権利である。貧困にあえぐインディアン部族にとってこれは、「現代のバッファロー」と呼ばれる最後の切り札である。イロコイ連邦では現在、3部族が以下のカジノを運営している。
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5,895 |
1794年
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1794年(1794 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1000年
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1000年(1000 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。月曜日から始まる。10世紀最後の年である。
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5,900 |
Linuxクラスター
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Linuxクラスター(リナックスクラスター)は、Linuxを利用しているコンピュータ・クラスターである。一般に疎結合クラスターで、対称型マルチプロセッシング (SMP) が、CPUとメモリをより密に繋いでいるのに比べると、クラスターの結合は疎である。クラスターの各要素は、完全に独立したコンピュータとして動作しており、高速なLANなどを利用してお互いに接続されている。
要素となるマシンはLinuxないしGNU/Linuxを搭載したコンピュータである。
Linuxを動作させるために必要なハードウェアは、ごく一般的なパーソナルコンピュータでよいため、手軽にスーパーコンピュータを作り始められることが特徴である。また、Linuxはスケーラビリティに優れ、高速のコンピュータ上でも動いている。このため、低速な環境でシステムを構築してから、徐々に高速なコンピュータ環境に向かって進化させることが出来る。
また、各コンピュータを繋ぐのには標準的なLANを使っているため、接続のハードウェアや技術、ソフトウェアは、従来の物を使うことが出来る。ハードウェアの製作やメンテナンスに特別な部品や技術を使う必要はない。
Linuxは、オペレーティングシステム (OS) のソースコードを始め全ての必要なソフトウェアをソースコードも含めて無料で手にいれることができる。そのため、利用者や研究者が必要に応じてあらゆる部分に手を加えることが出来るのが大きな特徴である。また、使用に当たってコンピュータ毎に支払うOSのライセンス料もない。したがって投資に必要なのはハードウェアなどの物理的な資源と人件費だけということになる。参照:フリーソフトウェア、コピーレフトなソフトウェア。
Linuxクラスターを作る目的としては、
などの場合があり、目的に応じて使われる技法も異なる。
ごく普通のパーソナルコンピュータを多数(場合によっては数百から数千)、高速のネットワークで繋いで、いわゆるスーパーコンピュータとしての性能を出せることから、場合によっては通常のスーパーコンピュータの性能を10分の1以下の予算で作ることができる。また、研究者が自分達でも作れることから結構流行した。
マイクロプロセッサの進歩により高速のコンピュータが作られ、高速のイーサネットによりごく一般的なネットワークの手法でコンピュータ間を接続できることが、Linuxクラスターをもたらした。また、高速のイーサネットを更に複数並行して接続し更に高速なLANを構築する技法も完成されている。現状では転送速度がギガビット/秒のイーサネットが使われることが多い。
非常に高速な処理をする専用のクラスターを構成する場合は、以下の例で示す Beowulf の技法を使って実現されることが多い。
要素になるコンピュータを個人用のデスクトップや他の目的のサーバにも使い、その余剰の計算能力をお互いにわかちあうような場合には、以下の例で示す MOSIX を使う場合がある。
ウェブサーバなど、インターネット全体から大量の要求が同時に発生し、秒のオーダーで結果を返す必要がある。
このための技法には多くの例がある。以下の例で述べる MOSIX もその目的で使うことが出来る。
ちなみに、世界最大のコンピュータ・クラスターを保有すると言われているインターネットの検索エンジンのグーグルは、Linuxクラスターでできている。Googleのコンピュータ・クラスターを参照。
この場合は、複数のコンピュータが同じ処理をして、結果を比較しあって異常な結果が出ることを防いだり、通常は別の処理をしているコンピュータの集合から一台が異常になっても、自動的に他の残りのコンピュータが処理を補うような場合である。
普通のパーソナルコンピュータで作ることができ、必要なソフトウェアはソースコードも含めて全て無料で手に入り、作るのに必要な情報はほとんどウェブ上で即座に無料で手にいれることが出来るフリーソフトウェアまたはコピーレフトのソフトウェアである。
実際にハードウェアを使って作る場合と、クラスター用ソフトウェアの構築や開発のために仮想コンピュータ上に構築する場合がある。
単にソフトウェアの構築の実験や開発をするだけなら、Linux用の仮想コンピュータを利用できる。仮想コンピュータは一台の実際に存在するコンピュータを使って、その中に複数のコンピュータを作り出すことが出来る。利用する側から見ると(感じると)全く複数のコンピュータが存在するように見える。実際のコンピュータの資源が許す限り何台でも仮想コンピュータを作ることが出来る。
また、特にi386系のLinuxに限るならば、Linux上で複数の仮想のLinux環境を作り出すためのソフトウェアがカーネルの一部を含め、ユーザーモードLinux (UML - User Mode Linux)として提供されている。UMLの一部は既に一般のLinuxに含まれて配付されているため、UMLのソフトウェアを手にいれたら手間を必要とせずに即座に複数の仮想環境を用意することが出来る。UMLもやはり無料でソースコードを手にいれることができる。
また、VMwareなど商用の仮想機械ソフトウェアも用意されている。
以下の例の中に構成するのに必要なソフトウェアや手順が紹介されているので、UML上でクラスターの構築の実験が出来る。(作ったらレポートはウィキペディア日本語版に報告されるのが標準的な方法だと主張される場合もある)。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Linux%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
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5,901 |
Tagged Image File Format
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TIFF (ティフ、Tagged Image File Format)は、ビットマップ画像の符号化形式の一種である。タグと呼ばれる識別子を使うことによって、様々な形式のビットマップ画像を柔軟に表現できる。
TIFFフォーマットは、1986年にマイクロソフトおよびAldus(1994年、アドビに合併)によって開発された画像データフォーマット。画像データを、解像度や色数、符号化方式が異なるものでも様々な形式で一つのファイルにまとめて格納できるため、アプリケーションソフトに依存することがあまり無いフォーマットであると言える。何度かの改訂によって拡張が行われているが、その多くはタグの追加という形を取っており、過去に作られたデータとの互換性に配慮されている。現在主流となっているのはTIFF Revision 6.0(以下TIFF6.0)だが、後に発行されたAdobe PageMaker 6.0 Technical NotesおよびAdobe Photoshop Technical Notesなどにより若干の追加および変更がなされている。
かつてFM TOWNS、Macintosh、NeXTでよく利用され、Windows 3.0でDIB (BMP) が標準になるまではWindowsでも標準の画像フォーマットの形式とされていた。白黒2値、グレースケール、および様々なカラー形式(RGB/CMYK)に対応している。しかしあまりにも自由度の高い表現が可能なので、完全な互換性を保つことが難しくなっている。TIFFの規約もすべてのタグをサポートする必要はないと明記し、互換性の問題を低減するためのサブセットが提案されるが、必ずしもその基準は守られない。
TIFFでは、非圧縮、LZW圧縮、ZIP圧縮、連長圧縮の一種であるPackBitsなど様々な圧縮方法が使用可能である。そのほとんどは可逆圧縮法だが、TIFF6.0以降、JPEG圧縮もサポートされた。ファイルサイズを重視する用途では、白黒2値にはG4 (MMR) 圧縮、それ以外にはJPEG圧縮やLZW圧縮が使われることが多い。またDTPや印刷用途などでは非圧縮が使われることもある。LZW圧縮は、GIFと同じく特許上の問題により自由に使えない時期があった(日本では2004年6月20日まで)。
ウェブブラウザではInternet Explorerのバージョン9からTIFFの表示に対応している。
TIFFは画像を編集する中間段階で用いることが下記のような理由で効果的である。
TIFF6.0で導入されたJPEG圧縮については、仕様上の不備が指摘されており、後に発行されたAdobe Photoshop Technical Notesによって大幅な変更が加えられた。この変更では、従来のTIFF6.0でJPEG圧縮のために定義されていたCompression=6および関連タグを廃止し、代わりに新しくCompression=7およびそれに関連するタグが導入されている。これによって様々な問題点がクリアされ実装も容易になったことから徐々にこの形式への移行が進んでいるが、互換性などの問題から従来のCompression=6も引き続き使われている。なおCompression=6ではタグの記述方法が難解なことなどから、TIFF6.0の仕様にさえも準拠せず独自の解釈でエンコード/デコードを行うアプリケーションソフトウェアも少なくない。そのため、JPEG圧縮のTIFFファイルの中には著しく互換性の低いものがある。
ひとつのファイルの中に複数の画像を格納したマルチページファイルを構成できるのもTIFFの特徴のひとつである。タグ情報はページごとに独立して管理されるため、ページごとに画像のサイズ、圧縮方法、カラー形式などを独立して決めることができる。ページ数自体に制限はないが、あまりにもページ数が多いとTIFFの理論的な上限サイズである4GBに達することがあるため注意が必要である。またアプリケーションソフトウェアによっては2GBまでしかサポートしないものもあるため、2GBを実質的な上限サイズと考えた方がより安全である。
マルチページファイルは、各ページが持っている「次のページ」の先頭へのポインタによって連結された線形リストとして実現されている。ここでいうポインタとは、ファイル先頭から数えたバイト数のことである。同様のポインタは、ファイル上の様々なデータの位置を表すためにも使われている。したがって、複数のTIFFファイルを単純に連結しただけではマルチページファイルにはならないし、逆にマルチページファイルの一部を単純に切り出しても正常なTIFFファイルにはならない。
TIFFフォーマットには、ファクシミリ (FAX) のデータを表現するために、TIFF-Fと呼ばれるプロファイルが RFC 2306 (Tag Image File Format (TIFF) - F Profile for Facsimile) で定義されている。FAX送受信の際に用いる圧縮形式であるMH、MR、MMRなどの符号化方式に対応しているため、送受信データとの間では最小限の変換処理を行うだけでファイル化できる。また、前述したマルチページファイルの機能を利用して、複数ページを1ファイルで表現できるほか、他の多くのイメージファイル形式では表現が困難な、ピクセル縦横比の異なる画像を表現できることなどが利点として挙げられる。
InternetFAX規格のひとつである T.37では、送受信ファイル形式として TIFF-Fを使用することが明示されており、Windows FAX サービスや、その他の T.37ゲートウェイ装置は、TIFFファイルの添付された電子メールメッセージとして受信FAXを転送する。
いっぽう、クラウド利用型のファクシミリ・サービスでは対応が分かれている。日本のNTT東西地域会社が提供する「FAXお知らせメール」サービスではお知らせメールへのファクシミリ・データ添付は行われず、内容を確認するにはブラウザでログインしてTIFFファイルをダウンロードし、TIFFファイルの表示に対応したビューワアプリを利用して閲覧する方式となっている。eFaxではTIFFではなく、PDFファイルを添付したメールとしてFAXを転送する。NTT東日本の提供する「ひかりFAX」アプリ(公開終了)では、受信内容をページ毎に分かれた複数のJPEGファイルに変換して端末内に保存する。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Tagged_Image_File_Format
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5,902 |
Windows bitmap
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BMP(ビーエムピー、Microsoft Windows Bitmap Image)またはDIB(ディーアイビー、Device Independent Bitmap、デバイス独立ビットマップ)は、マイクロソフトとIBMがWindowsとOS/2にわかれる前のOSを共同で開発していた頃に作られた画像ファイル形式。圧縮の方法についても定義されているが、Windowsが標準では無圧縮のファイルを生成するため、他のアプリケーションにおいても無指定時は、圧縮はされていない場合が多い。
ファイル形式の細部の変更が何度か行われており、その結果としてWindowsとOS/2で多少ファイル形式が異なることがある。
機械独立のファイル形式として設計されたため、実際に存在する画像表示装置(ディスプレイ)や印刷装置(プリンター)が、画像を上方から処理するものがほぼ全てであるにもかかわらず、幾何学的なX軸、Y軸方向に座標を指定する形式となっている。その結果、画像を下から上に向かって記録するボトムアップ形式 (bottom-up) となっていることが特徴であるが、後に高さに負の値を指定することでその他大多数の画像ファイル形式と同じように画像を上から下へ向かって記録するトップダウン形式 (top-down) を使用することもできるようになった。しかし互換性の面からProgramming Windowsではトップダウン形式のビットマップの作成を推奨していない。また、トップダウン形式では後述の圧縮をすることができない。
なお、ビットマップという呼称は画像データの表現方式のひとつであり、本項で述べているマイクロソフト独自のファイル形式を必ずしも指すわけではない。
ビットマップファイルは、以下のブロックに分かれている。
14バイトからなる、ビットマップファイルのファイルヘッダである。
参考URL
OS/2 2.xで使用されたファイルヘッダ。BITMAPFILEHEADERを拡張したものだがサイズは同じ。
このブロックは、アプリケーションが画像を描画するための画像の詳細な情報が書かれており、14バイト目から始まる。
14-17 (eh-11h) バイト目は、ヘッダのサイズが書かれている。最大値は、
OS/2のビットマップで使われる情報ヘッダで、12バイトある。coreヘッダと呼ばれる。
参考URL
(スパムフィルターに引っかかるためアドレスに@を入れています。@を除くこと)
Windowsのビットマップで使われる情報ヘッダで、40バイトある。多くのビットマップがこの形式で保存されている。infoヘッダと呼ばれる。
参考URL
OS/2 V2以降対応した情報ヘッダである。サイズは可変であり、最大64バイト。Windowsでは対応していない。
各フィールドの解説を、infoヘッダとの比較を交えながら行う
Adobe Photoshopで使用されていた情報ヘッダ。infoヘッダにRGBとα成分のカラーマスクを取り込んだ56バイトのヘッダで、便宜上V3ヘッダと呼ばれる。 また、infoヘッダにRGB成分のカラーマスクを取り込んだ52バイトの情報ヘッダも存在し、こちらは便宜上V2ヘッダと呼ばれる。
Adobe社によると、V2ヘッダ及びV3ヘッダの仕様は、過去にMicrosoftから取り寄せた文書に記載されていたそうである。
Windows 95、Windows NT 4.0から対応した情報ヘッダ。V4ヘッダと呼ばれる。
参考URL
Windows 98、Windows 2000から対応した情報ヘッダ。V5ヘッダと呼ばれる。
参考URL
過去に、EGAやVGAディスプレイカードで使われていた概念で、現在は全く使われない。
この概念が使われていた頃は、実際の色深度を「1ピクセルあたりのビット数×プレーン数」で算出する必要があった。
※1 数値と定義されている圧縮形式の関係は以下の通り
上記以外の圧縮形式は以下の通り
画像の表示に適したデバイスの解像度を指定する。この値を設定することで、例えばソフトウェアが画面の解像度に合った最適なサイズの画像を選択できるようになる。
V4ヘッダで、'Win 'と'sRGB'が使用できるというドキュメントが存在する。
カラーマスクはビットフィールド形式が使用されているビットマップから各色成分を取り出す際に使用されるデータである。赤成分、緑成分、青成分の順で書かれており、それぞれ4バイト、合計12バイトである。Windows CEで圧縮形式に「アルファチャンネル付きビットフィールド」を使用した場合は、この後ろにα成分のカラーマスクが置かれ合計16バイトになる。
カラーマスクブロックは、情報ヘッダがINFOヘッダかつビットフィールド形式が使用されている場合に必ず存在する。V4、V5ヘッダの場合は、ヘッダ内に値が格納されるためこのブロックは置く必要がない。
1ピクセルあたりのビット数とカラーマスクの組み合わせが以下である場合は、圧縮形式を非圧縮に設定し、カラーマスクブロックを省略できる。
このブロックは、画像内で使用される色を定義している。上述の通り、ビットマップ画像はピクセルごとに保存されている。各ピクセルは、1バイト以上を使用して値を保持している。したがって、各値と実際の色の関係を、アプリケーションに教えることがカラーパレットの目的である。
典型的なビットマップファイルはRGBカラーモデルを使用している。このモデルにおいて、色は赤 (R)、緑 (G)、青 (B) のそれぞれの強さ (0-255) で表される。
1色3バイトで表記する形式。情報ヘッダがcoreヘッダの場合のみ使用される。
参考:
1色4バイトで表記する形式、OS/2ビットマップにおけるRGB2もこちらに相当する。
参考:
このブロックは、イメージを各ピクセルごとに記述する。ピクセルは通常、左下から右下へ、これを下から上に向かって保存する。各ピクセルは1バイト以上で記述されている。直接RGBデータが置かれる場合のデータ順は、上項カラーパレットに準ずる。水平方向のバイト数が4の倍数ではないときは、0x00で埋めて4の倍数にする。
このブロックは、情報ヘッダの「色空間」が'LINK'の場合はカラープロファイルデータのファイルパスが、'MBED'の場合はデータそのものが格納される。 ファイルヘッダの「オフセット」の値によってはビットマップデータよりも前に格納することも出来る。
プログラムでBMP画像を平易に扱うためのライブラリも数多く存在している。
サードパーティ製のライブラリに関しての各詳細は、外部リンクの項に記載している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Windows_bitmap
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パルス符号変調
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パルス符号変調(パルスふごうへんちょう、PCM、英語: pulse code modulation)とは音声などのアナログ信号を、アナログ-デジタル変換回路により、デジタル信号に変換(デジタイズ)する変調方式の一つである。
アナログ信号に対して標本化および量子化を行い、数列として出力する。サンプリング周波数が高く量子化ビット数が多いほど高音質(変換前に近い)となるが、データサイズが非常に大きくなるという問題がある。PCMの実用化は古く、1943年から1946年まで運用されたSIGSALYで人類史上初めて実用化された。
量子化の方式の違いにより、様々な種類のPCMが存在する。ほとんどの場合、現代に用いられているPCMはサンプリング周波数が一定である。PCMには非圧縮のものと圧縮されたものが存在するが、圧縮されたPCMは音質の劣化を抑えつつデータ量を削減している。圧縮を掛けていないリニアPCMが最もエンコード,デコードが簡単であり、回路やソフトウェアに掛かるコストの問題から、通信帯域が狭いあるいは記録容量が少ないなどの場合以外はリニアPCMが採用されることがほとんどである。但し、21世紀に入ってからは、圧縮する場合でも単に量子化の方法を工夫するよりは、MP3やAACやFLACなど、音声スペクトル分析やチャンネル間相関分析や予測などの様々な技法を駆使するデータ圧縮方式が多くなった。
変調時、以下のノイズおよび歪みが発生する。
標本化雑音。周波数スペクトルで見るとサンプリング周波数の半分(ナイキスト周波数という)の周波数を折り目にして折り返したように現れることから折り返し雑音ともいう。
標本化定理により、最低でも音声に含まれる最も高い周波数成分の2倍以上のサンプリング周波数を持たない限り、高音の信号が折り返され、偽信号として現れる。このため、サンプリング周波数はより高いほどより高音を再現できる。
また、再生時には同様にして原信号を折り返したような偽信号が発生し、ノイズとなる。オーバーサンプリング方式では、最初に元信号をデジタルフィルタで数倍のサンプリング周波数に変換することで折り返し雑音を高周波数帯域に移動させ、その後にアナログ変換とローパスフィルタ回路による折り返し雑音の除去を行っている。
原理上、量子化によってアナログ量からデジタル値にする際の端数処理による誤差(量子化誤差という)のため、歪み(量子化歪み)が発生する。また、これによる雑音を量子化雑音という。これを抑えるためには、量子化ビット数を増やす必要がある。
録音時などに、音量が可聴領域(量子化できる最大音量)を超えてしまった部分の波形が切り落とされる処理(クリッピング)により発生するノイズ。これを防ぐには、音声記録時に音量を下げる必要がある。ただし、可聴領域の幅に対して音量が極端に小さい場合は量子化歪みで波形が潰れてしまうため、適切な音量で記録を行うことが大切である。
音割れを修復する作業をデクリッピングなどと呼ぶ場合があるが、この作業で得られる波形はあくまで予測によるものであり、本来のものと大きくずれている可能性がある。
1チャネル当たりの基本速度が64kbpsの場合、24チャネルで1.544Mbpsになる。
アナログビデオテープレコーダーと組み合わせ、音声をデジタル信号で記録する装置。アナログ-デジタル変換回路とデジタル-アナログ変換回路を備える。業務用と家庭用の製品が発売され、従来のテープレコーダーを上回る高音質の記録が可能な機器として利用された。コンパクトカセットが普及していたことから、家庭への導入はオーディオマニアなどの極僅かな事例のみに留まり、業務用レコーディングのデジタル化を中心に導入された。
PCMデータをDA変換装置によって変換することで音を再生する装置をPCM音源という。サンプラー、サンプリング音源と呼ばれることもある。
アプリケーションソフト側から見ると、任意の個数・性能の仮想PCM音源を鳴らす形となっていて、それらをPCM再生ハードウェアに向けてミキシングして送り出す機能を持つソフトウエアがあり、ソフトウェアミキサーという。近年CPUの大幅な処理速度向上により、よりリッチな表現が可能になった。DirectXで音声データに音階を付与する機能、ソフトウェアMIDI音源などはいずれもこの技術によって成り立っている。家庭用ゲーム機でこれを利用しているものの代表として、ゲームボーイアドバンスが挙げられる。一方、これをほとんど利用しないゲーム機にはPlayStation 2などがある。これはPSやPS2において、ハードウェアPCMまたはストリーミング再生というスタイルがほぼ確立しているためである。
PCM音源を持たないゲーム機では、CPUでサンプリングデータを順次DACに送信してPCMを再生したものがある。ネオジオポケットや光速船などが単独でDACを搭載していたほか、メガドライブやPCエンジンは音源の一部をDACとして使うことができ、それを使ってPCMを再生していた。
ハードウェア制御を細かに行うことにより、発声が可能なハードウェアをDACに見立て、音声を再生する手法も存在している。ビープ音用のハードウェアでパルス幅変調を行ったり、矩形波の出力をDACに見立てPSGによるPCM再生を行う試みや、同様にX68000ではOPMに音色として矩形波を定義し、8チャンネルの出力ポートを利用することで、最大でモノラルでは50kHz前後、ステレオで25kHz前後のサンプリング周波数の再生を可能にしたソフトウェアも存在する。DACとしては非線形指数的の特徴を持つなど、元々想定していないハードウェアであるため、再生の音質は想定した設計のものと比較し、低くなりがちである。
また、波形メモリ音源では、制御する側で1周期ごとに波形を更新してPCMを再生したソフトウェアも存在する。
マイクロフォンからの入力をADCによりデジタイズしてCPUレジスターやメモリーへ書き込み、時限的なソフトウェア割込などで、ネットワークに流す手法が一般化している。プログラミング言語で比較的容易にコーディングが行え、ビデオ会議アプリケーションやサイマル・ラジオ、サイマル・テレビなどの完成されたアプリケーションを利用することで遅延はあるものの技術的な内容を意識することがなく使われている。
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5,905 |
AAC
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Advanced Audio Coding(略称: AAC、先進的音響符号化)は、不可逆のデジタル音声圧縮を行う音声符号化規格のひとつである。1997年にISO/IEC JTC 1のMoving Picture Experts Group (MPEG) において規格化された。MP3の後継フォーマットとして策定され、一般的にAACは同程度のビットレートであればMP3より高い音声品質を実現している。
AACはISOとIECにより、MPEG-2およびMPEG-4仕様の一部として標準化された。MPEG-4 Audio内のHE-AACとして知られるAACの一部は、DAB+やDigital Radio Mondiale、モバイルテレビジョン規格のDVB-やATSC-M/Hのようなデジタル無線規格においても採用されている。
AACは一つのストリームに、48の全帯域幅(最大96kHz)音声チャンネルを持たせることができ、さらに、16の低周波効果音(LFE、120Hzまで)チャンネルと16の対話チャンネル、および16のデータストリームも含めることができる。ステレオの音質は96kbpsのジョイントステレオモードで適度な要件を満たすことができるが、Hi-Fi透明性(低雑音性)のためには、少なくとも128kbpsのデータレート(VBR)が必要である。MPEG-4 Audioによる検証では、AACが128kbpsのステレオおよび320kbpsの5.1チャンネルオーディオにおいてITUが「透明的」として規定している要件を満たしていることが示されている。
AACはYouTube、iPhone、iPod、iPad、Nintendo DSi、Nintendo 3DS、iTunes、DivX Plus Web Player、PlayStation 3、ノキアのSeries 40携帯電話における既定もしくは標準の音声フォーマットである。PlayStation Vita、Wii、 ソニーのウォークマンMP3シリーズとその後継機種でもサポートされている。AACはインダッシュの車載オーディオシステムのメーカによってもサポートされている。
MP3等のMPEG-1 Audioや、MPEG-2 Audio BC (Backward Compatible) を超える高音質・高圧縮を目的に標準化された方式である。
MPEG-2 Audio BCとは異なり、符号化アルゴリズムにおいてMPEG-1 Audioとの互換性はない。ファイルに格納した場合の拡張子は、「*.mov,*.mp4,*m2ts,*.m4a,*.m4b,*.m4p,*.3gp,*.3g2」または「*.aac」。なお、放送ではADTS (Audio Data Transport Stream) と呼ばれるヘッダ形式で伝送されることが多い。サンプリング周波数はMP3が最大48kHzまでだったのに対し、AACは最大96kHzまで対応している。
AACにはMPEG-2 AAC (ISO/IEC 13818-7) とMPEG-4 AAC (ISO/IEC 14496-3, Subpart 4) とが存在する。MPEG-4 AACは、MPEG-2 AACにPNSやLTPといった追加技術を利用可能としたものであるが、基本的なアルゴリズム自体に違いはなく、追加技術を使用しなければヘッダの一部分が1ビット異なるだけであり、通常の使用では区別する必要はほとんどない。
AACにも拡張機能が使用可能かどうかによって幾つかの種類があるが、一般的に利用されているのはAAC-LC (AAC Low Complexity) と呼ばれる基本機能だけを用いるものである。
さらにMPEG-4 AAC-LTP(後述)をプロファイルに数える場合がある。
MPEG-4 AAC v3においては、SBR (Spectral Band Replication) やパラメトリックステレオ (Parametric Stereo) 技術によって64 kbpsを下回るような超低ビットレートにおける品質を改善するHE-AAC (High-Efficiency AAC) が追加承認されている (AAC-LC, HE-AAC (aacPlus, AAC+SBR), HE-AAC Version 2 (aacPlus Version 2, Enhanced aacPlus, AAC+SBR+PS))。
MPEG-2 AACは主に日本のBS/110度CS 2Kデジタル放送と地上デジタル波放送のISDB規格やSD-AudioのAACフォーマット、ヨーロッパ圏のDVDなどで利用できる。北米や日本のDVDでは、AACではなくAC-3やDTSが採用されている。
MPEG-4 AACはiPodなどのデジタルオーディオプレーヤー、PlayStation PortableやDSiなどのゲーム機、日本のBS/110度CS 4K/8Kデジタル放送、携帯電話等、多くの機器やソフトウェアがサポートしている。また、第三世代携帯電話用の動画フォーマットである3GPPや3GPP2の音声圧縮方式としても採用されている。
音楽配信サービスでは、パソコン、iPod向けのiTunes Storeや携帯電話向けの着うたでAACが採用されている。ただし、これらのファイルの一部にはDRMが導入され、同じAACであるが互換性がないものがある。デジタルオーディオプレーヤーの代表格であるiPodおよびiTunes(標準でAACを使用する)がAACに対応していることもあり、以前はAACに対応していなかったソニーやパナソニック、ケンウッド(現・JVCケンウッド)などのデジタルオーディオプレーヤーも現在ではAACに対応している。
またアップルでは前述のiTunesでの音楽配信のほか、ワイヤレスイヤホンマイクAirPods・スマートスピーカーHomePodや、FaceTime(AAC-ELD系)などで使用している。
AAC (AAC-LC) の符号化処理は以下の流れで行われる。
AACはドルビーラボラトリーズも共同開発の一員で、AACロゴはドルビーラボラトリーズの登録商標である(日本国特許庁商標登録番号:第4693750号)。AACにはドルビーのほかAT&T、Fraunhofer IIS、ソニー、ノキアの特許技術が使用されているためソフトウェアメーカーなどから納付されたライセンス料はこれらの企業に分配されている。また、ライセンス管理はドルビーの子会社Via Licensingが行っている。
なおMPEG-4 AACが含まれるMPEG-4 AudioのカテゴリにはNTTサイバースペース研究所が開発したTwinVQが存在するが、これはAACとは別物である。
AACやHE-AACは下記に採用されており、実際に利用されている。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/AAC
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朝鮮半島エネルギー開発機構
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朝鮮半島エネルギー開発機構(ちょうせんはんとうエネルギーかいはつきこう、英語: Korean Peninsula Energy Development Organization, KEDO)は、米朝枠組み合意に基づいて、北朝鮮に核拡散の恐れの低い軽水炉2基と完成までの期間の重油燃料を、日本と韓国の費用負担により無償で提供することによって、北朝鮮が保有する黒鉛減速型炉と核兵器開発計画を放棄させることを目的として設立された組織である。
日本・アメリカ・韓国の共同組織。主要事業であった軽水炉建設計画が続行不可能となったため、2005年に解散。
北朝鮮は、ソ連より黒鉛減速型原子炉の提供を受け、その条件として1985年12月12日NPTに加盟。国際社会に対して核兵器の製造、譲渡をしないことを約束した。
しかし北朝鮮は、その NPT(核拡散防止条約)を遵守せず、核兵器の開発を極秘に開始。1993年2月、IAEAが未申告の核関連疑惑施設への「特別査察」を要求して条約に違反した核兵器の開発が露見すると、1994年にはIAEAからの即時脱退を宣言。使用済み核燃料からのプルトニウムの抽出を強行した。
1994年10月、北朝鮮はアメリカ大統領のビル・クリントンとの枠組み合意(October 1994 Agreed Framework)締結により、IAEAからの即時脱退を撤回。再度、核兵器の開発を凍結し最終的に解体することを約束する。
この見返りとして、アメリカは以下の事項に合意した。
この枠組み合意によって、1995年3月に日本、韓国、アメリカが共同で朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を発足させ、建設費の30%を日本、70%を韓国が負担して、北朝鮮にプルトニウムの抽出が難しい軽水炉を提供することとなった
しかし、この合意も暗礁に乗り上げ、IAEAによる査察を拒否。アメリカの調査によりウラン濃縮による核開発を続行していることが明るみに出ると、北朝鮮はIAEAの査察チームを国外退去としてIAEAの脱退を宣言した。
1998年8月31日、北朝鮮は弾道ミサイル、テポドン1号を発射、日本上空を通過し太平洋に着弾する。
2003年1月 北朝鮮、NPTからの即時脱退を宣言。
2003年11月21日 朝鮮半島エネルギー開発機構は、北朝鮮への軽水炉供与事業を12月1日から1年間凍結すると発表。
2005年11月22日 朝鮮半島エネルギー開発機構はニューヨークで理事会を開き、清算を決定。軽水炉建設事業を廃止することで合意した。
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11月4日
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11月4日(じゅういちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から308日目(閏年では309日目)にあたり、年末まであと57日ある。
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5,910 |
11月5日
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11月5日(じゅういちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から309日目(閏年では310日目)にあたり、年末まであと56日ある。
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5,911 |
11月6日
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11月6日(じゅういちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から310日目(閏年では311日目)にあたり、年末まであと55日ある。
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5,912 |
11月7日
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11月7日(じゅういちがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から311日目(閏年では312日目)にあたり、年末まであと54日ある。
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5,913 |
11月8日
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11月8日(じゅういちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から312日目(閏年では313日目)にあたり、年末まであと53日ある。
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5,914 |
11月12日
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11月12日(じゅういちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から316日目(閏年では317日目)にあたり、年末まであと49日ある。
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11月13日
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11月13日(じゅういちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から317日目(閏年では318日目)にあたり、年末まであと48日ある。
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11月14日
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11月14日(じゅういちがつじゅうよっか、じゅういちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から318日目(閏年では319日目)にあたり、年末まであと47日ある。
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11月15日
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11月15日(じゅういちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から319日目(閏年では320日目)にあたり、年末まであと46日ある。
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11月17日
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11月17日(じゅういちがつじゅうななにち、じゅういちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から321日目(閏年では322日目)にあたり、年末まであと44日ある。
毎年この日ごろしし座流星群が観測できる。
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Subsets and Splits
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