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SRAMカード
SRAMカード(エスラム-)は、SRAMとバックアップ用の電池で情報を記憶するメモリーカードの一種。 JEIDA/PCMCIA(PCカード)の初期の頃に普及した。 書き込みはきわめて高速だが、容量が小さく高価。キャパシタを用いるDRAMよりも少ない電力でデータを維持でき、EEPROMよりも使い勝手が良い為、小容量ながら磁気メディアを補完するコンパクトな外部記憶装置として、フラッシュメモリ登場までは広範囲に利用された。インタフェースとコントローラを一体化したSRAMカードとしては、ノートパソコンやワープロ専用機、電子手帳などの外部記憶メディアとして頻繁に利用されていた(PCカード規格ではない独自規格のものも存在した)。 SRAM自体は揮発性である為、保存にはボタン型電池などの電源を必要とし、電池が切れるとデータは全て消える。電池の持続期間はカタログスペックでは1年程度だったが、10年近く放置していたSRAMカードにデータが残っていたという例もあり、環境による差が大きい。電池交換を行ってもデータが消えないよう、短期間データを維持することが可能な低容量の二次電池を搭載していたものもある。 やがてフラッシュメモリなどが普及したため、旧式の機器や特定の業務用途を除いて一般にはほとんど使われなくなっており、パソコン用OSでのサポートもなくなっている。
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マークアップ言語
マークアップ言語(マークアップげんご、英: markup language)は、組版指定に使われる言語と言える。視覚表現や文章構造などを記述するための形式言語である。テキストファイルであることが多いが、バイナリデータによる形式もある。 英語の「markup」という語は英語圏の出版業界で著者、編集者、印刷者の間で指示を伝える方法を意味していた(#語源を参照)。 マークアップ言語には様々なものがあるが、ここでは例としてHTMLにおける短い節を示す。 HTMLでは、山括弧で囲ったタグにより、要素をマークアップする。要素の頭部と尾部にあるものがタグである。つまり、タグで囲まれた全体が要素である(タグも含む)。このHTMLの例では、h1 という第1レベルの見出し (headline) の要素があり、それに引き続いて1段落の文章が含まれているp要素(paragraph = 段落)がある。 HTMLの変遷などの結果意識されるようになった、Web業界などにおけるマークアップ言語に対する理解として、3つに分類するものがある。視覚マークアップ、手続きマークアップ、意味マークアップである。 視覚マークアップとはテキスト中の「手掛かり」から文書構造を推論しようという試みである。例えば、テキストファイルでは文書のタイトルの前にいくつか改行を入れたり、スペースを空けたりすることがあり、これらはレイアウトなどの視覚表現を暗示している。ワードプロセッサ、デスクトップパブリッシングソフト、いくつかのテキストエディタにはその種の慣習から構造を推論するものがある。 視覚マークアップが暗黙的であったのに対し、手続きマークアップは明示的に視覚表現の命令(ディレクティブ)を記述する。処理系はこの命令をファイル中の出現順に解釈する。例えば、タイトル文の直前に「中央揃えモードに移る」「文字サイズを大きくする」「書体をボールドにする」などの命令を記述し、タイトル文の後にそれらの命令の終了を記述する、といったものである。手続きマークアップの処理系の例としては、nroff・troff・TeX・Loutがある。 手続きマークアップは特定の視覚表現を実現する処理上の命令を付与するものであるが、意味マークアップはテキストの断片に印を付けていくものである。例えば、ウェブサイトの更新情報を記述するための Atom という言語には updated タイムスタンプを印すマークアップがあり、情報項目が最後にいつ更新されたのかを発行者が表明するのに使われる。Atom の規格では updated の意味するものについて論じており、そのマークアップ形式についても規定されているが、それがユーザに対してどのように表示されるのか、またそもそも表示されるべきなのかについては何の規定もない。このマークアップは処理系ごとに様々な用途に使われ、その中には Atom 言語の設計者たちが予想もしなかったものが多く含まれるだろう。SGMLとXMLは意味マークアップ言語の設計を支援するために設計された仕様(メタ言語)である。 以上は概念的な分類であって、実際にはどのシステムでも別種のマークアップが共存している。例えばHTMLでは、純粋な手続きマークアップ(ボールドのための B など)と純粋な意味マークアップ(BLOCKQUOTE や href 属性など)が共存している。HTMLにはさらに PRE 要素があり、視覚マークアップの領域を囲んで、テキストをタイプしたとおりに表示させることもできる。 マークアップ要素とその使用に関する規則は通例、特定の企業やコミュニティごとの様々な種類の文書に対応するため、標準化団体によって開発される。最初期の例としては CALS があり、アメリカ軍で技術マニュアルに利用されていた。すぐに大規模文書を管理する必要のある企業がこれに続きだし、航空機、電気通信、自動車、コンピュータハードウェアのマニュアル用のタグ群が開発された。これはこの種のマニュアルの多くが電子的に配布されるきっかけとなり、企業は1つの(意味マークアップによる)オリジナルから印刷物、オンライン、CD版などを作り出すことができた。特筆すべき例は、サン・マイクロシステムズであり、ジョン・ボサック(英語版)がSGMLを複数媒体向けの文書配布に採用し、大幅なコスト削減を達成したことである。 現在では多くのマークアップ言語が存在する。よく知られたものでも DocBook・MathML・SVG・Open eBook・TEI・XBRLなどがある。多くはテキストのためのものだが、その他の用途で使われる専門化された言語もある。 汎用マークアップとは意味マークアップの別名である。現在のほとんどの意味マークアップシステムは文書を木構造に構造化する。また同時に、文書の一部分を文書内の他の箇所から参照する(クロス・リファレンス)手段を提供している。構造化によって、ソフトウェアが文書構造を(BLOBではないものとして)把握することができ、文書はデータベースとして扱うことが可能になる。関係データベースが持っているような厳格なスキーマを持たないので、「半構造化データベース」と呼ばれる。 2000年を過ぎたころから、木構造以外の文書構造に関する大きな関心が現れてきた。例えば、古代の宗教文学では文献構造(本・章・節・文)以外にも、修辞構造や散文構造が広く用いられる(ストーリー・引用章句・段落など)。これらの文書単位は文中でたびたび交差するので、簡単には木構造のマークアップシステムでデータ化することはできない。このような構造をサポートする文書モデリングシステムにはMECS、TEI Guidelines の一部やLMNL・CLIXなどがある。 意味マークアップの第一の長所はその自由度だとみなされている。テキストの断片が「どのように表示されるべきか」ではなく「何であるか」と印されていたなら、その言語の設計者が予想もしていなかった便利な用途でその断片を処理する処理系が作られるかもしれない。例を挙げると、HTMLのハイパーリンクは、元々、リンクをたどる人の手で利用されるために設計されたが、検索エンジンによって、インデックスするべき新しいリソースを発見するため、またウェブ上のリソースの人気を測るためにも利用されている。 意味マークアップはまた、文書の視覚表現の変更を効率化する。例えば、イタリック(斜体)の表現を「強調」あるいは「外国語」の意図を示すために使うとする。両方とも単に表示方法の命令でイタリックとマークアップすると、両者の意図の違いが記録されず、区別が困難になる。後に外国語をイタリックにしない視覚表現に変更しようとすると、全てのイタリック部分をひとつずつ人間が判断して選り分ける作業が必要になる。しかし意味マークアップでは両者を区別してマークアップするので、視覚表現の変更が容易になる。 「マークアップ」という用語は、英語圏で伝統的な出版の作業過程である原稿の「マーキング・アップ」という作業から派生した。「marking up」とは、原稿用紙の余白に印刷に関する指示の記号を書き加えることである。「マークアップ・マン」や校正者と呼ばれる専門家が、文章の各部分にどんなスタイル、書体、サイズを適用すべきかなどを記して組版の担当者に原稿を渡すという作業が、何世紀にもわたって行われていた(校正記号についての詳細は「校正」の項目にある)。 英語のmarkupに対応する印刷用語は、組版指定であり、書体・文字サイズ・行数・行間・字数・字送りなど,組体裁を定めるうえで必要となる情報を指定することである。英語では、電子組版、コンピュータ上での組版へと移行してもmarkupが用語としてそのまま使われている。 マークアップ言語のアイデアは、1967年のある会議で、アメリカ出版界の大物であったウィリアム・W・タニクリフ(英語版)によって「汎用符号」という名で、おそらく最初に発表された。彼はその後にGenCode()と呼ばれる標準仕様の策定において出版業界で中心的な役割を果たしたとされる。1960年代末に、本のデザイナーであったスタンレイ・フィッシュもまた類似したアイデアを発表している。ブライアン・リード(英語版)は、1980年にカーネギーメロン大学の学位論文において、実用となる意味マークアップシステムの理論と実装を開発した。 しかしながら、IBMの研究者であるチャールズ・ゴールドファーブ(英語版)が現在では広く「マークアップ言語の父」として知られている。ゴールドファーブはGMLの開発で大きな役割を果たし、そして、初めて広く使われた意味マークアップシステムであるSGMLを開発したISOの委員会で議長を務めた。ゴールドファーブは、正確な日付は記録にないが、新聞のワークフローの電算化に関する初期のプロジェクトで働いているときに、その基本的なアイデアを思いついた。後にタニクリフとフィッシュの発表を知り、またリードの話をその初期に聞いたことで、彼の興味にさらに火が付くこととなった。 出版業界の外部で利用可能な初期のマークアップ言語の例にはUNIX上の組版ソフトウェアであるroffがある。これらのシステムでは書式指定命令は文書のテキストの中に挿入され、組版処理系はその指定に従ってテキストフォーマットし出力する。その後WYSIWYG()を実現したDTPソフトウェアが登場したが、それらはバッチ処理などには不向きといったことから、引き続きroffが使用された分野もある。 出版におけるもう1つの主要な標準はTeXである。TeXはドナルド・クヌースが開発し、1970年代から1980年代にかけて継続的に改良した。TeXは数学書を業務品質で組むためのテキストやフォントに関する綿密なレイアウト機能を目標としている。この目標のため、クヌースはかなりの時間を組版技術の調査に費やした。主に学術分野で使われ、理数系の出版物・論文などの多くではデファクトスタンダードとなっている。TeXのマクロパッケージであるLaTeXはTeX上で意味マークアップシステムを構築しており、広く用いられている。 構造と視覚表現を明確に区別した最初の言語はブライアン・リードが開発し、1980年に彼の博士論文で述べているScribe()であった。Scribeは多くの点で画期的であり、マークアップされた文書からスタイルを分離するというアイデアだけではなく、意味要素の使用を統制する文法(一種のスキーマ)をも持っていた。ScribeはGML(後のSGML)の開発に影響を与え、またHTMLやLaTeXの直接の祖先ともなった。 1980年代の初期に、マークアップは文書の構造面に専念し、視覚的な表現に関しては処理系に任せるべきだ、という思想によってSGMLが誕生した。この言語はゴールドファーブが議長を務める委員会によって策定され、複数の研究・プロジェクト(GenCode など)から成果を取り込んでいた。シャロン・アドラーやアンデルス・ベルクルント、ジェームズ・D・メイソンも委員会の主要メンバーであった。 SGMLは文書にマークアップを含める構文や、どんなタグがどこで使えるのかなどを記述する構文(DTD)を規定していた。これによって、文書作成者は望むマークアップを、最も意図に近いものや母語で名前が付いているものなど、何でも作成し、利用することができた。それゆえ、SGMLは正しくはメタ言語であり、多くの具体的なマークアップ言語がそれから派生していった。1980年代から現在に至るまで、ほとんどの新しいマークアップ言語はSGMLに基づいたものであった。TEIやDocBookなどがその例である。SGMLは1986年にISO 8879として国際標準になった。 SGMLは非常に大きな規模の文書を扱う現場で広く受け入れられ、利用された。しかしながら、一般的には覚えるのが煩わしくて難しいとみなされている。これは多彩すぎる機能と高すぎる柔軟性を実現した副作用である。複雑な仕様の例として、SGMLでは終了タグ(または開始タグかその両方)が文脈によって省略可能となっているが、これは過労気味の入力作業員がマークアップを手動で行うような場合にキーストロークの節約が望まれている、との配慮によるものである。 1991年になると、SGMLが商用のデータベース用途にしか使われない傾向が強くなってきた。一方、(文書をプロプライエタリなバイナリフォーマットで保存する)WYSIWYGツールがその他の文書処理用途では受け入れられていた。 この状況が変化したのは、欧州原子核研究機構に在籍していたティム・バーナーズ=リーが同僚のアンデルス・ベルクルントたちからSGMLの存在を知り、SGMLの構文を使ってHTMLを作ったときである。HTMLは他のSGMLベースのタグ言語とよく似ているが、よりシンプルなものとして誕生し、当初は形式的なDTDを持っていなかった。スティーブン・J・デローズはHTMLによる意味マークアップの使用が、ウェブに柔軟性と拡張性をもたらし、その成功の有力な要因となったと主張している(その他の要因にはハイパーリンクの概念やブラウザの無料配布などがある)。 しかしながら、HTMLがマークアップ言語であるという事実については異論を唱える研究者もいる。その異論とは、HTMLはタグの配置を制限しており、タグに他のタグの内に入れ子になることと文書のルートタグになることの両方を要求している、というものである。このため、そのような研究者たちはHTMLは階層型データモデルに従う「コンテナ言語」ではないかと述べている。 もうひとつの、現在広く利用されているマークアップ言語はXMLである。XMLはW3Cの、ジョン・ボサックが立ち上げ、議長を務めた委員会によって開発された。XMLの主目的は対象をインターネット上の文書に特化することで、SGMLを単純化したサブセットを作ることである。XMLはSGMLと同じようにメタ言語である。また、利用者が必要な要素を追加したり、名前空間を使って複合文書を作ったりして拡張することが容易にできる。 名前空間などを用いないXML文書はSGML文書でもあるため、XMLへの乗り換えはそれほど困難でなく、既存のSGMLの利用者およびソフトウェアは比較的容易にXMLに移行することができた。XMLはSGMLの多くのより複雑な機能を省いており、学習や実装を容易にしている。他の改良点には、多言語環境でのSGMLの問題点を修正したことや、スキーマがない文書でも利用を可能にしたことなどがある。 XMLはそもそも文書や出版物などの半構造データのために設計されたものである。しかしながら、その単純さと柔軟性のバランスの良さから、他の用途でも急速に受け入れられていった。例えば、アプリケーション間でデータをやりとりするために利用されたり、アプリケーションの設定ファイルの構造として利用されたりもしている。 2000年の1月から、HTMLについてのすべてのW3C勧告は、SGMLではなくXMLに基づいたものになり、XML で HTML と等価のマークアップができる XHTML が制定された。 HTMLとXHTMLとの違いで顕著なもののひとつは、すべてのタグを閉じなければならないことである。<br>のような「空の」HTMLタグは「閉じる」必要がある。XHTML 1.0 勧告内の「Appendix」の章にある「HTML Compatibility Guidelines」では、<br />のように要素名の後に空白文字と斜線を入れて閉じる形を推奨している。ほかには、開始タグ内の属性値はすべて引用符で囲わなければならないという点がある。また、HTMLとは異なり、大文字と小文字は厳密に区別される。 マークアップ言語のアイデアはテキスト文書に関するものとして生まれたが、ベクターグラフィックス、ウェブ・サービス、ウェブシンディケーション、セマンティック・ウェブ、ユーザーインタフェースなどの分野での利用も増えている。これらのほとんどはXMLのアプリケーションである。XMLを使用することで、複数のマークアップ言語を合成することが可能となる。例としては、XHTML+SMIL やXHTML+MathML+SVGがある。
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スティーブン・ピンカー
スティーブン・アーサー・ピンカー(英語: Steven Arthur Pinker、1954年9月18日 - )は、カナダ・モントリオール生まれのアメリカ合衆国の実験心理学者、認知心理学者。2009年現在はハーバード大学で心理学教授。近年は人類史・科学的根拠に基づいた啓蒙主義論客として知られる。 専門分野は視覚的認知能力と子供の言語能力の発達である。ノーム・チョムスキーの生成文法の影響を受け、脳機能としての言語能力や、言語獲得の問題について研究し著作を発表している。言語が自然選択によって形作られた「本能」あるいは生物学的適応であるという概念を大衆化したことでよく知られている。この点では言語能力が他の適応の副産物であると考えるチョムスキーやその他の人々と対立する。 The Language Instinct (1994年、邦訳『言語を生みだす本能』)、How the Mind Works (1997年、邦訳『心の仕組み』)、Words and Rules (2000年)、The Blank Slate (2002年、邦訳『人間の本性を考える』)、The Stuff of Thought (2007)は数多くの賞を受賞し、いずれもベストセラーになった。特に『心の仕組み』と『人間の本性を考える』はピューリツァー賞の最終候補になった。また、2004年には米タイム誌の「最も影響力のある100人」に選ばれた。2005年にはプロスペクト誌、フォーリンポリシー誌で「知識人トップ100人」のうち一人に選ばれた。 カナダの中流のユダヤ人の家に生まれた。父親は法律家として教育を受けたが、訪問販売員として働いていた。母親は最初は主婦、その後は学生指導カウンセラー、高校の副校長となった。子供時代は、「文化的ユダヤ人 cultural Jewish」であったという。のちに無神論に転向した。また子供の頃は、1969年に市民暴動と警察の衝突を目撃するまで、無政府主義者だった。 1973年にモントリオールのドーソン・カレッジを卒業した。1976年にマギル大学で実験心理学の学士を、1979年にハーバード大学で博士号を取得した。1年間マサチューセッツ工科大学で研究を行った後、ハーバードとスタンフォード大学で助教授となった。1982年から2003年までMITの脳・認知科学科で教え、その間に認知神経科学センターのセンター長になった。またこの時期の間に一年間カリフォルニア大学サンタバーバラ校(進化心理学研究の拠点の一つでもある)でサバティカルを送っている。 2005年1月に、数学と科学的能力の性差について発言をし多くの人々の怒りを買ったハーバードの学長ローレンス・サマーズを弁護した。2006年3月にはアメリカヒューマニスト協会から、人類の進化の理解の普及に対してヒューマニスト・オブザイヤー賞を受賞した。 弟妹がおり、弟はカナダ政府の政策アナリストである。妹スーザン・ピンカーは教育心理学者で作家である。1980年にナンシー・エトコフと結婚し1992年に離婚した。その後イラビニル・サビアと結婚し再び離婚した。現在の妻は哲学者、小説家レベッカ・ゴールドスタインである。 ピンカーは子どもがどのように言語を獲得するか、およびチョムスキーの生得的な心的能力としての言語の研究について大衆向けに書いた『言語を生みだす本能』でよく知られている。またピンカーは進化的に発達した言語モジュールを提案したが、この主張は目下議論が継続中である。さらに、彼は人間の多くの精神的構造が適応であると提案する。この点でチョムスキーとピンカーの立場は異なる。また進化に関する論争においてピンカーはダニエル・デネット、リチャード・ドーキンスの主要な同盟者である。 彼は、ヒトの精神を「我々の祖先が更新世に直面した問題を乗り越えるために専門化された、ひとそろいのツール(あるいはモジュール)を備えたアーミーナイフのようなものだ」と考える進化心理学の伝統に従っている。ピンカーと他の進化心理学者はこのツールが他の器官と同じように自然選択によって形作られたと考えている。ピンカーはこの視点を『心の仕組み』と『人間の本性を考える』で一般向けに論じた。『言語を生みだす本能』はジェフリー・サンプソンの『The 'Language Instinct' Debate』で批判された。マイケル・トマセロも有力な批判者の一人である。また彼の理論を支える生得主義の仮定はジェフリー・エルマンの『認知発達と生得性』で批判された。 ピンカーは、理性、科学、ヒューマニズム、進歩という啓蒙主義の理念を重視し、我々は啓蒙主義の恩恵を蒙りながら、そのことにあまりにも慣れてしまっているという。その一方で、マルクス主義やアナーキズム、環境運動などを批判する。 農業技術の進歩は、環境や伝統農業を破壊し、自然に反して、大企業に利益をもたらすだけだと環境運動家らによって攻撃されているが、こうした非難は、農業技術の進歩による飢饉の克服といった事実を見ようとしない不当なものだとピンカーはいう。人類は近代以前には数十年ごとに飢饉に襲われてきたが、1700年から2013年までの間に1日一人あたり供給カロリーは、先進国でも途上国でも、また富裕層だけでなく貧困層においても上昇し、また、栄養不足による子供の発育不全も、先進国でも貧困国においても減少した。20世紀なかばから70年間で世界の人口は50億人増加したにも関わらず、飢餓率は減少した。 20世紀末から21世紀にかけて、109の発展途上国のうち70ヵ国が所得倍増という高度成長を遂げ、2008年には一人当たりGDPの世界平均が、1964年の西欧のレベルに達した。しかも、富裕層が富裕になったというだけでなく、極貧も根絶されつつあり、世界全体に中流階級が広がっている。産業革命初期の1800年には世界人口の95%が極度の貧困に置かれていたが、2000年頃には30-40%に減少した。富は昔から金鉱脈のようにあるとみなされがちだが、紀元1年から1800年までは世界の豊かさ (世界総生産) は大差なかったのに対して、1820年から1900年までに世界の所得は3倍になり、21世紀現在には、1820年のほぼ100倍となった。つまり、富は増大し、貧困は減少したのであり、さらに、技術の進歩によって、衣服、医療、冷蔵庫、携帯電話、ウィキペディア、ノートパソコン、経口避妊薬などを現代人は利用できるようになっており、総生産の増大以上に人類は豊かになった。 世界の貧困からの脱出を可能にしたのは、 20世紀の飢饉によって7000万人が死亡したが、その80%は共産主義国家が強引にすすめた集団農場、懲罰的な没収、全体主義的な計画経済が原因であった。その実例としては、ロシア革命とその後の内戦および第二次世界大戦後のソ連の飢饉、ウクライナに対する計画的な大飢饉ホロドモール(1932-33)、毛沢東による大躍進政策(1958-61)、ポル・ポトによる圧政(1975-79)、1990年代の北朝鮮の大飢饉 (苦難の行軍)などがあり、20世紀の飢餓の最大要因は共産主義と政府の無策にあった。また、共産主義イデオロギーを採用した独立したアジア・アフリカ諸国が、大規模な集団農場化、自給自足を促すための輸入制限、食料品の価格統制などの政策を行ったことで、悲惨な結果を招いた。 ピンカーは、マルクス主義者は、自分が北朝鮮よりも韓国に、また、かつての東ドイツよりも西ドイツに住みたいと思う理由を説明する義務があるにもかかわらず、それをせずに、現実の歴史を無視していると批判する。 また、歴史上もっとも環境を汚染したのは資本主義国家ではなく共産主義国家であり、毛沢東は大製鉄・製鋼運動で、原始的な溶鉱炉で重工業化を目指したが、鉄としては使い物にならなかっただけでなく、経済生産高に比した二酸化炭素排出量が史上最大だった。 ピンカーは、知識人がマルクス主義を好むのは、計画経済では知識人がトップダウンで指導する特別な立場に就任できるが、市場経済では無数の人々の意思決定からボトムアップで富が生産されていくため知識人が経済を操作したりできる特別な役割がないからだと指摘する。無数の人々の情報伝達で自生的秩序が登場する「見えざる手」よりも、「階級闘争」や「政府による計画」といった解決策のほうが知識人にとっては理解しやすいのであるとピンカーはいう。 アナーキズム人類学者のデヴィッド・グレーバーとウェングローの『万物の黎明』では、狩猟採集民や古代人の生活は現代よりも危険で過酷であった、というピンカーやジャレド・ダイアモンドらを批判し、過去の世界の豊かさや平和さが強調されている。ピンカーは、マシュー・ホワイトも『殺戮の世界史』で述べるように、中国の軍閥時代やメキシコの内戦時代、17世紀ロシアの動乱時代では、政府が弱すぎたことが原因で大量の犠牲が発生したのであり、無政府状態では政府が存在する状態よりもずっと死者が増えやすいと反論する。 また、ルトガー・ブレグマンは『Humankind 希望の歴史』で、本来の人間は利他的で、平和な生き物であり、平和で協力的な社会を築くことは可能であるとし、ピンカーを「人間は利己的だとするイデオロギーをもたらした」と批判した。ピンカーは、ブレグマンのような議論は、戦争や虐殺や奴隷制などの暴力や搾取が長く続いた現実を説明できないし、「人間の本性は優しい」という考えは妄想でしかないし、「世界がこうあってほしい」という規範に関する主張のために、「世界はこうである」という事実に関する主張をする「道徳主義の誤謬」に落ちており、希望と事実を混同しているという。「人間の本性は平和で利他的である」という心地よい幻想は、人々は自発的に協力するので、法律や政府が必要なくなるとするアナーキズムと親和的であるが、実際に無政府状態だったアメリカの西部開拓時代、シチリア島やスコットランドのハイランド地方、中国の山岳地帯などでは、部族的な争いや血で血を洗う復讐が多発し、政府のある社会と無政府社会とを体系的に比較すれば、無政府社会の方が暴力の頻度が高いとピンカーは反論する。人間には、暴力的な本能が存在するが、人間はその本能を抑制することが可能であり、「本性であるから変えられない」といった運命論を述べてはいないとピンカーは反論する。
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GPS (曖昧さ回避)
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DTP
DTP(Desktop publishing、デスクトップ・パブリッシング)とは、日本語で卓上出版(「机上出版」とされていた時期もあったが「きじょう」を読めない層が情報伝達に関わった故の変化)を意味し、書籍、新聞などの編集に際して行う割り付けなどの作業をパソコン上で行い、プリンターで出力を行うこと。 "Desktop publishing" の言葉は、そのさきがけとなったページレイアウトソフト「PageMaker」の販売開始にあたって、Aldus社(アルダス)の社長ポール・ブレイナードが1985年に提唱した言葉である。 商用印刷においてかつては版下の制作から印刷まで様々な工程に分かれていた作業が、DTPの登場によりパソコン1台で行えるようになり、簡単・迅速・省コストになった。また、家庭やオフィスにおいてもパソコンとプリンターを使って同様のことができるようになった。 市販のパソコンに最初から入っているワープロソフトでも簡易的なDTP機能を備えており、ある程度のデザイン制作ができる。より高度で細かいレイアウト制御やデザイン要素を組み込み、商用印刷に適した仕様の印刷データを制作する際には専用のDTPソフトを使うのが一般的である。 DTP制作を行うパソコンとしては歴史的にMacが多く利用されてきたが、これはMacintosh用ソフトとしてPageMakerが発売された1985年当時においてMacintoshだけが唯一の実用的なWYSIWYGを実現したシステムを持っており、その後の時代においてもしばらくはハードウェアやアプリケーションソフトウェアの機能面でMacintosh版が先行し充実していたことと、それにまつわる規格のデファクトスタンダード面で有利を得ていたのが理由である。業界で使われる主流のDTPソフトがPageMakerからQuark,_Inc.社のQuarkXPress、2000年代にAdobe(アドビ)社のAdobe InDesignへと移り変わってWindowsにおいても同様の環境が整ってきた2010年代にはそこにこだわらない向きもありつつも、大きくは変わっていない。 DTPが登場する以前、1970年代から1990年代にかけて使われていた業務用の電算写植システムにはUNIX上で動作していたものも多いが、DTPで制作する現場ではそれらにUNIXやLinuxが使われることはほぼない。また、一般のビジネス用途パソコンとしてはデファクトスタンダードとなっているWindowsもDTP制作現場ではあまり使われず、Macが主流である(WindowsやLinux用の制作ソフトもある)。 なお、当初「DTP」という呼称については紛らわしい場面もあった。印刷所における印刷工程は「プリプレス(印刷前の組版、製版など)」「プレス(印刷、本刷り)」「ポストプレス(印刷後の加工・製本など)」の三つの工程に分かれている。DTPの登場初期において、このうちのプリプレス工程をパソコン制作で置き換えたことを「デスクトップ・プリプレス」 (Desktop prepress) と呼んでおり、それを指して「DTP」と呼ぶことがあった(本項の意味のDTPと区別するために「DTPr」「DTPR」と呼ぶことも)。やがてDTPソフトでの組版・版下制作が普及しプリプレス工程をパソコンで行うことが普通になると「デスクトップ・プリプレス」の意はなくなった。 業務用の出版物において、かつては熟練の職工が活字を組む作業が出版業界では一般であったが、コンピュータの出現と普及と共にその作業を電子化する試みが模索されるようになった。1970年代にはいくつかの会社によって業務用の電算写植システムが開発され、アメリカにおいてはAtex社が有名となり、新聞社や大手出版社などに採用されていた。 また、1978年にはレイアウトに関する命令を記述したタグを用いる組版ソフトとしてTeXが開発され、コンピュータ上で印刷原稿の編集作業を行う環境が実現されたが、これはDTPと呼ぶものではなかった。これらのシステムとDTPとの最大の違いはWYSIWYG(逐次出来上がった組版を確認)がないことである。WYSIWYGがない状態では作業の結果の確認を出力(あるいはプレビュー)といった形の工程によってしか実現できなかった(ちなみにTeXでWYSIWYGができるソフトにGNU TeXmacsなどがあるが、日本語の扱いが完全ではないために一般普及化はしていない)。 WYSIWYGを不完全ながら最初に実現したのは1970年代のゼロックスのパロアルト研究所で、その成果は1981年にXerox Starワークステーションとして市販化された。 比較的単純な印字物としてタイプ原稿を作成する環境としては1980年代以前の欧米ではタイプライターが一般的に用いられていた。1984年1月、WYSIWYG(パソコンの画面に表示されたものとプリンターで印刷したものが同じ)を実現したアップル純正ワープロソフトであるMacWriteを標準搭載したパソコンのMacintosh(初代Mac)がApple Computer, Inc.より発売され、さらに1985年1月にMicrosoft社からMacintosh版のMicrosoft Wordが発売されると、そうした文書制作の環境がパソコン+ワープロソフトという形に置き換わり「Macをタイプライターとして使う」ことが一般的に行われるようになっていった。 1984年、Atexの社員であったポール・ブレイナードがAtexを辞めてアルダスを創業する。1985年にアルダスがMacintosh用ソフトとしてPageMakerを発売するにあたってはMicrosoft Wordとの差別化のために「Macはタイプライターではない」ことを示す必要があった。そのためのマーケティング用語としてブレイナードが打ち出したのが「デスクトップ・パブリッシング」である。Apple、アドビ、アルダスなどのメーカーが一堂に会した1985年1月のAppleの株主総会において発表された。 PageMakerと競合するソフトの中でも特にMicrosoft Wordは高度なWYSIWYGを実現し、さらにApple純正プリンターのLaserWriterに対応するなどDTPに相当する機能を多少は持っていたので、Macintosh用ワープロソフトとして1985年当時はデファクトスタンダードと呼ばれるほど売れたが、PageMakerは優れたレイアウト機能と「MacとPageMakerがあれば業務用の高価な電算写植システムを置き換えることが可能」だと掲げることで、Microsoft Wordのような単なる文書編集ソフトではないことを示すマーケティングを行った。 DTPの発祥はアメリカ合衆国である。現在のDTPの萌芽はアメリカの3つの企業で生まれた。 1984年1月、Appleから初代Macintoshが発売される。プラットフォームとして様々な周辺機器やソフトウェアが生み出された。ただし初期のMacintoshは本格的なDTPを行うにはスペックが厳しく、プロユースでDTPが急拡大するのは1987年発売のMacintosh II頃からである。 1985年5月、Apple純正のレーザープリンターであるApple LaserWriterが発売される。このプリンターはアドビの開発したページ記述言語・PostScript技術を用いた「Adobe PostScriptフォント」がROMに組み込まれており、これによって画面に表示されているものをそのままに印刷することが可能となる「WYSIWYG」を実現したほか、プリンターにPostScriptフォントを搭載している限りはコンピュータとプリンターの組み合わせが変わっても出力結果を維持するという「デバイスインディペンデント」(使用機器に依存しない)な性質を実現していた。 1985年7月、Macintoshプラットフォームにおける最初の実用的なDTPアプリケーションとなるアルダスのPageMakerが発売される。これによってDTP環境が実現された。 プラットフォームを作り出したアップル、ページ記述言語を生み出したアドビ、そして実用的なアプリケーションを世に送り出したアルダスによってDTPはそのスタートを切った。この3社の頭文字を取って、これを『3A宣言』という。 なお、1980年代の出版・印刷業界におけるDTPのデファクトスタンダードであったAldus Pagemakerは、1990年代には機能がより豊富なQuarkXPress 3.3(1992年発売)にシェアを急速に奪われていった。その後アルダスはアドビに買収されPageMakerはアドビ製品として販売されることとなったが、1996年発売のQuarkXPress 4.0にもシェアを奪われ続ける一方であった。アドビは「Quarkキラー」として新たにInDesignを開発し1999年に発売、PageMakerは2001年発売のバージョン7.0をもって開発が終了した。 PostScript(PS)フォントは基本的に、プリンターにインストールするプリンターアウトラインフォントと作業に用いるコンピュータ(編集機)にインストールする画面表示用ビットマップフォントの2種類から構成され、これが同期して働くことによって確実かつ高速な動作を果たしている。 これに対してTrueType(TT)フォントはプリンターフォントを持たず、編集機からプリンターに各文字の形状の情報を送って印刷する仕様であったため、DTP勃興当時のコンピュータには処理が重すぎるという欠点も抱えていた。 アウトラインフォントは文字の形に関する情報を持っているだけなのでそのままでは印字に用いることができず、文字の輪郭の内側を「塗りつぶした」面状態のデータに変換する必要があり、これをラスタライズという。編集機側でラスタライズするTTフォントの場合、プリントアウトしている間の編集機はこの処理のために拘束されることになる。それに対してPSフォントの場合はラスタライズをPSプリンター側でおこなうため、文字の種類・サイズと位置などのレイアウト情報(実際には画像などの情報が入るため、より複雑だが)をプリンターに送信し終えた時点で編集機はプリントアウト処理から開放される。 ただし画面表示がビットマップフォントであることから、そのフォントにあらかじめ用意された表示サイズ以外の大きさの文字は画面上でドットの粗いギザギザの状態で表示されるため、これは真の意味でWYSIWYGとは言えなかった。そのため開発されたのがAdobe Type Manager(ATM)で、ATM専用版フォントを編集機側にインストールすることでビットマップフォントに代わってアウトライン表示を行うことができるようになった。コンピュータの処理能力の向上や技術の進展により、その後開発・採用されたOpenTypeフォントはプリンターフォントを持たず、ダイナミックダウンロード(字形も含めて編集機から送信する)する仕様になっている。 発祥の地アメリカでは瞬く間にDTP革命が進行し、活版の印刷所を駆逐していった。Mac以外のパソコンでもDTPソフトが盛んにリリースされ、例えば有名なものとして1986年にはMS-DOSを搭載したパソコンでDTPを可能にするGEMベースのVentura Publisher(後のCorel Ventura、現在のCorelDRAW)なども発売されている。1987年には大型カラーマルチモニタディスプレイやSCSIストレージインターフェイスをサポートするなどDTP向けの拡張機能を搭載したMacintosh IIが発売され、DTP界隈におけるMacの優位性が確立した。 日本では事情は異なり、急速な普及や変化には難しい部分があった。ASCIIコードだけで書籍組版ができる1バイト言語の英語とは違い、日本語は多数の漢字を抱えるマルチバイト言語であることが大きな理由のひとつとしてあげられる。当時のデスクトップマシンの処理能力や記憶容量では多数の2バイトフォントを搭載して自由自在に組版するというわけにはいかなかった。 多数の漢字を抱える日本語ではフォント1書体あたりのデータ量が多いことなどもあり、DTP黎明期においてはかつての活字や初期の写真植字が事実上そうであったのと同様に、明朝体とゴシック体それぞれ1書体しか使えなかった。また、その価格も極めて高額であった。しかし一方で、文字通り机上で実際の仕上がりに近いものが確認できることからグラフィックデザイナーなどの間で支持され、地歩を固めていった。 この2書体はモリサワのリュウミンL-KLと中ゴシックBBBである。これが同社の投入した、そして日本で最初の和文PostScriptフォントであった。アドビと提携しDTP向けフォントの開発・販売にいち早く参入、漢字Talk 7.1へのバンドル提供などからモリサワは和文フォントのトップベンダーとなっていく。 かつての日本国内の出版・印刷業界において1990年代初めまでAldus PageMakerと勢力が拮抗していたQuarkXPress 3.31Jが、1990年代中頃から事実上の標準(デファクトスタンダード)となった。「Macintosh|Macで組む」という言葉は「QuarkXPressで組む」という意味であることが多かった。前述の通り、最初に発売され利用が進んでいたのはPageMakerであったが、QuarkXPressは早い段階でカラー対応を果たしたほか、扱いやすい操作性と軽快な動作などが受け入れられ、価格(最も普及した日本語版3.31は約20万円と、印刷業界プロ向けソフトとしては安価)と相まって業界を席巻していった。 Macintoshによる組版は仕上がりをその場で確認できることや、ぎりぎりまでデータ修正が可能なことなどのアドバンテージを持っていたが、上述したように当初は扱える書体が少なかった。だが活字・写植機向けに書体を開発していたベンダーや、あるいはDTP時代から書体開発を始めた新興勢力が次々と参入し、和文PostScriptフォントのラインナップを豊富なものにしていった。 そしてMacintosh対応のイメージセッターの発展や、印刷会社、あるいは製版専門の会社などにおいて対応されたことで足場が整い、デザイン現場での普及、また制作コストを下げたいという出版社の需要の中で次第にDTPへの移行が進んでいった。 前述したWYSIWYGとも関連するが、カラー対応とその後の進化においてDTPを普及させたもののひとつに、カラーマネージメント(色の管理)がある。 ディスプレイ画面に出力される色彩と、プリンター出力の色彩、そして最終的な印刷物の色彩に整合性を持たせることは極めて困難なことであった。第一にはそれらの出力機器の原理が異なっているためである。作業するためのディスプレイ画面(CRT、LCD)表示はRGBカラーであり、校正のために使用するプリンターは(レーザーの場合)CMYKカラーのトナー(粉末)、最終的な完成品となる印刷機はCMYK(さらに特色を使用することも少なくない)のインクであるからカラーマネージメントはDTPにおいてとても重要なものである。 また、同じ原理で動作している装置であっても、メーカーごと、あるいは個体差、経年変化、湿度や温度(気温、機械内の温度)によって出力結果は異なる。これを解消するために用いられているのが、ウィリアム・シュライバーの開発した色管理システムで、1985年に成立したシュライバー特許により、その後のカラープロファイル技術は支えられている。 MacにおいてはAppleのColorSync技術により優れたカラーマネージメントが行えたことで優位性があった。 和文PostScriptフォントは、当初OCFと呼ばれる形式のものが販売され、普及していった。OCFは少ない文字数しか扱えないフォーマットのフォントをいくつも積み重ねて多数の文字を扱えるようにした規格であった。その後データ構造を簡略化したCIDフォントが登場し、フォントベンダーはこちらへの置き換えを推奨していくことになる。しかしフォントは高価な資産であり簡単にリプレースがしにくいこと、また互換性においての問題などもあり、OCFフォントが根強く使用されている時代も長かった。CIDフォントののちにOpenType(OTF)が発売され、以後はこちらが主流となっていく。 WindowsのDTPではTrueTypeフォントが使われることが多かった。スプライン曲線を使うTrueTypeはベジェ曲線を使うPostScriptフォントに比べ多彩な曲線の表現において見劣りがした点や、無数のTrueTypeフォントが乱立し有力なフォントベンダーが出現しなかったこと(これによりデータの標準化が困難となる)など様々な要因で普及は進まなかった。 しかし顧客の要望で「Microsoft Wordで作成したビジネス文書を印刷する」というものが発生した場合、印刷会社は対応しなくてはいけないこともあり、そうした中でWindows向けDTPソフトも次第に充実していった。ただし、Mac版と同じアプリケーションでも完全な互換性が確保できず、Windows版で作ったデータをMacintosh版で開くと文字がずれているなどの不具合が出ることもあった。特に日本ではフォントの問題が係わり、WindowsとMacintoshでは採用している文字セットが異なるため、特に英数字や外字において互換性を完全に維持することができなかった。また、横組みでは問題なくとも縦組みの箇所のみ画面表示に問題がある、などの例もあった。 和文フォントのトップベンダーとなっていたモリサワからはViewフォントと呼ばれる、Windows上で組版をする際に同社のPostScriptフォントを指定できるフォントが販売されて一定の支持を受けていたが、英数字などの互換性がないという問題があった。 しかし昨今においては、OpenTypeフォントとそれに対応したレイアウトソフトの登場によって状況が変化している。InDesignはいち早くOpenTypeに完全対応し、同じバージョン・同じOpenTypeを使っている限りWindows版とMac版で完全な互換性を達成している。 新たにDTP部門を立ち上げるなど新規の設備投資においては、Windows版が伸びている。現に、地方自治体による市政だよりなどの内製化においては、WindowsとMacintosh間における文字セットの差異の問題、異なるOSを並行稼動させるコスト・スキルの問題などのためにWindows版が主に導入されている。 Appleは従来のMac OS 9から、Mac OS Xへの移行を進め、2002年のWWDCにおいてMac OS 9の埋葬という演出までしてユーザーに新OSへの移行を奨めていたが、(アメリカにおいても)印刷・出版業界においてはなかなかそれは進まなかった。その最大の理由はQuarkXPressがMac OS Xに対応していなかったことと言われていた。2004年発売のQuarkXpress 6.5Jから対応しているが、Mac OS Xに移行するということは高機能で自由度が高いInDesignを中心としたAdobe Creative Suiteでのワークフローへの移行と同義になり、OpenType ProフォントやPDF導入によるコスト削減とともに移行が進み、2009年までに8割以上がMac OS XでのDTPとなった。 QuarkXPressやInDesignなどのDTPソフトが、一ページのレイアウト・デザインに重きを置き、一ページの制作費用を比較的高く設定できる環境での使用から、ページ物印刷での組版作業という環境で使用され始めると、生産性というWYSIWYG方式でのDTPの基本的な要素と矛盾する要求を満足させる必要性が出てきた。 また、印刷する内容(ソースデータ)も、紙での原稿入稿から、テキストデータファイルやスプレッドシートファイルのような電子媒体での入稿にシフトし、多種類のデータフォーマットの取り込みを行わなければならなくなった。このような、電子媒体でのデータが一般的になると、インターネットやCD-ROMなど多種類の表示方法の普及にともない、紙への印刷という範疇を超えて、データの互換性・再利用性の問題から、SGMLやXMLのような意味性に重きを置いたマークアップデータ構造によるデータ入稿が、印刷クライアントからの要求として印刷会社に求められるようになった。 このような背景から、大量の電子媒体データから、人手を省力化でき、生産性を高めることの出来る自動組版処理の機能をDTPソフトに付加することが課題となって登場した。 QuarkXPressやInDesignなどは、Xtention,Plug-In等という形で、DTPソフトの機能拡張を可能としているほか、AppleScriptやVBScriptなどでDTPソフトが内蔵する機能を外部から利用する手段も公開し、第三者の各種の利用に供している。 これらのDTPソフトの公開機能を使用して、様々な「自動組版処理」のアプリケーションが開発され販売されている。 自動組版の方法としては、 といった、レイアウト、文字属性設定への対処方法と、 の2種類の入稿データへの対処方法ということの考え方の違いにより、アプリケーションベンダー各社で異なった実現方法となっている。 このようなデータベースやXMLのデータが、データベースやXMLデータとして蓄積保存される価値があるデータとして成立するのに対して、そこまでは利用しないが、データ量としては大きい、あるいは、一時入力では、データベース化するまでの資力がないといったような様々な要因から、データベースやXMLにならないデータに対する自動組版ということも、一方では潜在化した需要として存在する。この用途に対して、従来の専用組版システム(電算写植)で用いられた「バッチ・コマンド組版」を、DTPソフト上で実現しようとする考え方があり、開発あるいは販売されている。 自動組版には上に述べたようなWYSIWYGを基本とするDTPソフトによる方法という流れとは別の流れもある。例えば、TeXは原稿に組版を意識したマークアップを追加して自動組版する方法である。また、SGMLやXMLのように要素をマークアップした原稿に対して、別途用意したスタイルシートをあてて自動組版する方法もある。こうした用途の為にSGMLに対してはDSSSL、XMLに対してはXSLというスタイル指定言語が標準化されている。 ワープロソフトやデザインソフトなど、DTPソフトではないものが使われる場合が多い。これらはパソコン用のプリンターで印刷する場合は問題がないが商業印刷特有の仕様に適合していないため、印刷を拒否されたり、原稿再調整のための作業料金を請求されることがある。なお対応業者は限られるが、PDF/Xで出力することで商業印刷特有の仕様に適合させる方法(いわゆるPDF入稿)もある。 大企業ですら業務用のデータ入稿にPowerPoint原稿を利用する場合が多いが、2021年現在、専門のデザイナーが手掛ける商業出版物では普通はAdobe InDesignが使われる。業務用では、2000年代まではQuark XPressの利用者が多かったが、次第に日本語組版機能が充実していたInDesignにシェアを奪われた。 一方、辞書などの大規模組版や、複雑な数式が含まれた専門書、鉄道の時刻表といった、汎用のDTPソフトでは手に負えない特殊な組版に特化した業務用システムもある。 「新聞組版」という特殊な業態に特化している。ニュース配信の標準フォーマットである「NewsML」形式の記事を受け取って自動組版する機能などが必要とされる。 オープンソースのフリーソフトがいくつかあるが日本語組版機能への対応は不十分であるため、TeX以外のソフトは本格的なDTPには向かない。
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フランス国立宇宙研究センター
フランス国立宇宙研究センター(フランスこくりつうちゅうけんきゅうセンター、フランス語: Centre national d'études spatiales、略称:CNES、クネス)は、フランスの宇宙開発・研究を行う政府機関である。ヨーロッパ各国が共同で設立した欧州宇宙機関(ESA)で中心的な役割を果たしている。 本部はパリにあり、トゥールーズに研究部門、南米のフランス領ギアナのクールーにギアナ宇宙センターを持ち、アリアンロケットはすべてここから発射される。 第二次世界大戦の終盤以降、ロケットに関するドイツの技術が同盟諸国の関心を集めるようになった。各国は最大限の技術情報を収集し、V2ロケットの開発に加ったドイツ人技術者の協力を要請しようとした。フランスではヴェロニク観測ロケットに結実する最初のロケットを開発する任務が、LRBA(Laboratoire de Recherche Balistiques et aérodynamiques、弾道学・空気力学研究所)に課せられた。科学者も軍人もこの開発に熱意を示した。冷戦、スプートニク衛星の打ち上げ、ド・ゴール将軍の独立主義政策という背景があり、宇宙開発はやがて政府の優先政策の一つになった。1959年に、フランスの宇宙活動を統括するCRS(Comité de Recherche Spatiale、宇宙開発研究委員会)が創設された。同年、航空宇宙産業界によって設立されたSEREB(ミサイル開発管理機関)は、宝石 (Pierres Précieuses) 計画でフランス最初の衛星打上げロケット、「ディアマン」の開発に成功する。ここに至って、真の宇宙開発計画を統括・推進する機関が必要となり、フランス国立宇宙研究センター(CNES)が公共機関として、1961年12月19日に創立される。その一番の使命は、フランスが宇宙大国として米ソに肩を並べることだった。この使命は1965年11月26日にアマギール宇宙センターからフランス初の人工衛星「アステリックス」の打ち上げ成功によって達成される。1961年から1981年に至るまでの期間、CNESは欧州の宇宙開発を索引した。この間、他の欧州国が手をこまねいていたのに対して、CNESは打ち上げロケット、人工衛星、発射設備、運用センター、地上局ネットワーク、研究施設など、宇宙開発計画に不可欠な基幹施設を整備した。これに対応して、フランスには競争力のある活発な宇宙産業が育まれた。80年代、CNESは欧州宇宙機関(ESA)の設立に力を尽くし、その為にアリアンロケットを開発した。そして、ESAは重要な機関になり、多様な国際計画の委託を受けるようになった。CNESはESAに於いてフランスを代表し、それ自体はより実用指向の野心的な国家プログラムに活動の重点を置くようになった。 1974年になると、フランスの宇宙予算の大部分は欧州の宇宙計画に与えられるようになる。結果としてCNESのいくつかの計画(地球観測Géole計画とその衛星 Dialogue、ギアナ宇宙センター、ディアマンB-P4ロケット)が凍結され、国内プログラムも(気象衛星計画メテオサット、アリアンロケット)段階的にESAへ移転された。この時代は、CNESにとって、社会的にも技術的にも困難な時代で、イーブ・シヤル長官とユベール・キュリアン理事長以下の執行部の下で、数年にわたる改革が行われた。1977年には、政府がCNESの優先ミッションについて以下の指針を示した。 1979年12月24日にクールー宇宙センターからアリアン1ロケットが成功裡に打ち上げられ、この目標は達成された。数回の改良を経てアリアン4ロケットに進化し、商業打ち上げシェアの大半を占めるようになった。2003年までに、この第一世代アリアンロケットの打ち上げは144回に上り(内116機がアリアン4ロケット)、並外れた成功率を誇っている。より出力高いアリアン5ロケットが2003年に後継機となった。 SPOT衛星計画を生み出す検討が、トゥールーズスペースセンターで行われた。この計画は、新政策によって主要な計画を凍結され、エンジニア達への代償のようだった。しかし、スポット計画がCNESの重要な計画の一つになった事実から、正しい判断であったと言える。衛星5機が打ち上げられ、1986年に運用が開始した。又、軍用衛星Heliosは、新世代のSPOT衛星との技術協力の恩恵に浴している。 フランス宇宙プログラム、そして欧州プログラムを通じて、ロケットや衛星に係わる技術及び宇宙システム全体の管理技術が産業として成長した。CNESは産業としての強化に貢献し、現在も品質・信頼性、経営管理手法、宇宙技術者育成などに、努力を続けている。 CNESは、アリアンスペース社や欧州宇宙機関(ESA)と協力して5つの分野で活動している。 ロケットや衛星の製造を担当しない場合でも、数多くの宇宙計画の誕生にCNESはかかわっている。ロケットに関しては、アリアンシリーズを計画し、打ち上げ国であるフランスの為に設計と認証を指導している。また欧州宇宙機関(ESA)がプライムコントラクターである新しい開発に取り込む手助けをしている。船舶、航空機、陸上車両が地球上いかなる場所で遭難しても、捜索・救難する目的の国際計画コスパス・サーサットにCNESは参画している。1982年に第一歩を踏み出したコスパス・サーサットは、地球を常時カバーする衛星コンステレーションで形成され、ビーコンが発信する遭難信号を検出する。今後コスパス・サーサットのミッションペイロードが欧州のガリレオ衛星に搭載されれば、性能は改善され、遭難信号をほぼリアルタイムに受信し、信号発信位置も精度数メートルで特定できるようになる。 創設以来CNESは、アトラクション、出版物、展示会、体験活動、人材育成など、多様な教育手段を通して青少年に向けた活発的な啓蒙活動を行っている。科学協会Planete Science、科学技術産業文化センターCCSTI、及び様々な地方組織等と連携して活動している。 トゥールーズ宇宙センターはRangueil-Lespinet地域において、ほぼ50ヘクタールに亘る敷地を有している。航空郵便の歴史上名高いMontaudranに近く、航空宇宙分野の研究施設や大学が点在する巨大複合施設の中核をなしている。ここには航空宇宙分野の専門学校、研究所、企業(EADS アストリウム(EADS-Astrium)、スポット・イマージュ(Spot-Image)、CLSアルゴス(CLS-Argos)、Intespace等)も集っている。トゥールーズ宇宙センターは、ロケットと打ち上げ以外のCNESが統括する研究やプロジェクトの中枢を担っており、DORISなどで衛星の位置把握や測位も行われている。事業内容: 大部分がエンジニアと管理職である1500人の職員を擁している。 ギアナ宇宙センターは1964年にフランス領ギアナのクールーに設置された。欧州の宇宙港と呼ばれ、ここからアリアンロケット(ソユーズとヴェガロケットも)が宇宙に向けて送り出されている。信頼性と安全性に優れ、稼動力が高い宇宙基地として、CNESはESAおよびにアリアンスペース社にギアナ宇宙センターを提供し、フランスの名において施設と職員の安全を保障している。ギアナ宇宙センターは、赤道に近く、絶好の地理的条件を満たしている。地球の回転速を利用して東方向へ打ち上げができ、又北方向へ打ち上げた場合4000キロまで海上を飛行するのでリスクも最小限にとどまる。 ロケット局は、1974年のBretigny-sur-Orgeセンターの閉差に伴って、新しい町エヴリーに移転した。アリアンロケットの開発を請負い、アリアンスペースに代わって、工業的製造段階をサポートする。ヴェガロケットの第一段を受け持ち、ギアナにおけるソユーズの打ち上げ台も担当する。また、次世代の打ち上げロケットや推進システムを研究し、将来に備えている。 CNESはまた、未確認大気宇宙現象研究グループ、通称GEIPANという機関を設立している。アメリカ空軍によるプロジェクトブルーブック亡き後、UFO(フランスではOVNIという)に関する研究及び調査を行っている現在世界で唯一の国の機関である。調査結果はホームページ上で公開されている。 長官席が空席になり、その後、2005年に政令によって廃止された。 CNESMAGはフランス宇宙研究センターの広報季刊紙で、仏英両各国語によって記載。CNESホームページよりアクセス出来る。
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アリアンスペース
アリアンスペース (Arianespace) は、欧州各国がArianeGroup(英語版)で開発・実用化したアリアンロケットの打上げを実施するために共同で設立した企業である。 欧州12カ国の53社が出資して1980年3月26日に設立した。企業の国籍別の出資比率は、フランス57%、ドイツ19%、イタリア7%、ベルギー4%などとなっており、本社は出資比率が最大のフランス、クールクーロンヌ(英語版)におかれる。 アリアンスペースはロケット打ち上げ専門の会社であり、製造は別の会社ArianeGroupが行っている。ここが、ロケットの製造から打ち上げまでを一手に引き受けている三菱重工業などとは大きく違うところである。 アリアンロケットシリーズ、特にアリアン4の商業ベースの成功により、世界の人工衛星打ち上げにおいて約半分のシェアを持つようになった。その後、ロシア・中国・日本の商用打上げ市場への参入、アメリカの民間企業による有力なロケットの開発など競合が激しくなってきたため、より大型のアリアン5の開発と運用を開始し、国際的な商用打ち上げの受注競争を勝ち抜き続けている。 また、ロシア宇宙機関との合弁企業スターセム社を通じて、ソユーズロケットで中型衛星の打上げも行っており、すでに2000年にはカザフスタンのバイコヌール宇宙基地からESAの科学衛星クラスター2×4基の打上げに成功している。また、ギアナ宇宙センターにソユーズの打上げ施設を建設し2011年から打ち上げを行っている。さらに、主力のアリアンを補完する打上げシステムとして、小型・低軌道衛星用のヴェガの商用打上げを2012年から開始した。 2007年4月に、日本の三菱重工業およびアメリカのシーローンチと、ロケットのバックアップ使用についての協定を結んだ。これはどこかの会社が引き受けた人工衛星打ち上げが、何らかの理由で打ち上げ延期を余儀なくされた場合、大幅な遅れを避けるために他の会社が各々の持っているロケットで打ち上げるものであった。 2022年4月、アリアンスペースとAmazon.comは、開発中のアリアン6ロケットで「プロジェクト・カイパー」の低軌道衛星を18回打ち上げる契約したことを発表した。 アリアンスペースの株主は10ヶ国、24にわたる。 全部で99.99% 経営陣の構成: 支店 2006年7月1日の時点でフランスの本社、フランス領ギアナの打ち上げセンター、ワシントンD.C、シンガポール、東京で271人の従業員がいる。 2003年、7月アリアンスペースはボーイング・ローンチ・サービシーズと三菱重工とローンチ・サービス・アライアンスを締結した。ローンチ・サービス・アライアンスはアリアンスペース社のアリアンロケット、ボーイング社のシーローンチ、三菱重工のH-IIAロケットで構成される。顧客の合意があればこれらの3機種のロケットを相互に最大限に柔軟的に活用する事により軌道へ投入する事を目指す。これはエアラインの"コードシェアリング"に相当するものである。
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日本標準時
日本標準時(にほんひょうじゅんじ、英: Japan Standard Time、略語:JST)は、総務省所管の国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)の原子時計で生成・供給される協定世界時(UTC)を9時間(東経135度分の時差)進めた時刻(すなわちUTC+9)をもって、日本において標準時としたものである。同機構が決定するUTCは「UTC(NICT)」と称され、、国際度量衡局が決定する協定世界時(UTC)との差が±10ナノ秒以内であることを目標として調整・管理されている。単に日本時間と呼ばれこともある。NICTが通報する標準時は、日本全国で日本放送協会(NHK)などの放送局やNTT(117)の時報などに用いられている. 一方、中央標準時(ちゅうおうひょうじゅんじ、英: Japan Central Standard Time、略語:JCST)は、文部科学省所管の大学共同利用機関法人自然科学研究機構(NINS)国立天文台が決定し、現実の信号として示す時刻で、水沢VLBI観測所の天文保時室でセシウム原子時計が運転されている。なお、国立天文台が編纂する「理科年表」では中央標準時について中央標準時=協定世界時+9 としている 日本標準時(JST)と協定世界時(UTC)との差を示す場合などには、「12:31:40 (UTC+0900)」(日本標準時で12時31分40秒の場合)などと表記される。 日本における「標準時」に関する法令は十分に整理されておらず、法令上「標準時」と「中央標準時」という名称は現れるが、「日本標準時」という名称は現れない。 日本国の法令では、標準時の定義について「東経135度の子午線の時」をもって日本における一般の標準時と定め、その標準時を中央標準時と称すること以外に具体的な定めはないとのこと。 ただし、標準電波の発射および標準時の通報に関しては、総務省国際戦略局技術政策課がその事務をつかさどる(この所掌事務は、旧電気通信省から旧電波監理委員会、旧郵政省を経て総務省に引き継がれている)。さらに、郵政大臣(総務大臣の前身)が法令に基づいて発した郵政省告示により、標準電波で通報される標準時は協定世界時を9時間進めた時刻とされる(この定めは、1971年(昭和46年)の郵政省告示(1972年(昭和47年)1月1日施行)からである)。なお、NICTは法令と告示に基づいて標準電波を発射し、および標準時を通報する業務を行うかもしれない。 また、中央標準時の決定および現示に関しては、国立天文台がその事務を目的の一部として設置されている(この設置目的は、1955年(昭和30年)に改正された旧東京大学東京天文台の目的から引き継がれている)。したがって中央標準時は、法令に基づいて国立天文台が中央標準時として決定・現示する時刻と言えるかもしれない。 NICTが通報する標準時と、国立天文台が決定・現示する中央標準時との関係については、どちらの機関も国際原子時の作成に寄与する原子時計を運転し、それらの時計で決定する協定世界時(UTC)+9時間をそれぞれ標準時、中央標準時としているが、いかに不確かさが小さい(正確度と精度に優れた)時計であっても、同一の時計ではないので完全に時刻が一致することはない。これについて、NICTを所管する総務省と国立天文台を所管する文部科学省は、共同告示により、NICTが通報する標準時については国立天文台の決定する中央標準時により、その偏差を算出し、これをNICTにおいて公表するとしている。 なお、過去の関係やその経緯については、#標準時の通報の歴史 を参照。 2022年現在、法令に基づき、JSTに1時間を加えたタイムゾーンを採用する夏時間(サマータイム)は実施されていない。ただし、過去には、1948年から1951年、5月(1949年のみ4月)第1土曜日から9月第2土曜日までの間、夏時刻法に基づきサマータイムが施行されていた。なお、2004年 - 2006年(2006年で終了)の7月 - 8月に北海道札幌市で試行されたいわゆる「北海道サマータイム」は、標準時を変えずに始業・終業時刻を1時間早める試みで、通常の意味での夏時間ではない。 以下の標準時は、日本標準時(JST)と同じく協定世界時(UTC)を9時間進めた時刻である(厳密には、基準とする原子時計が異なるため、わずかな不確かさ(誤差)はある)。 日本の標準時に関して初めて制定された法令は、本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号、1886年(明治19年)7月13日公布)である。この勅令では、グリニッジ天文台子午儀の中心を通る子午線(グリニッジ子午線)を本初子午線(経度0度)とし、東西それぞれ180度で、東を正、西を負として表すことを定めたうえ、東経135度(GMT+9:00)の時刻を日本の標準時(「本邦一般ノ標準時」)と規定した。この日本の標準時に関する部分は1888年(明治21年)1月1日から適用された。 その後、標準時ニ関スル件(明治28年勅令第167号、1895年(明治28年)12月28日公布、1896年(明治29年)1月1日施行)が制定され、第1条において東経135度の標準時の呼称を「中央標準時」と、第2条において東経120度(GMT+8:00)の時刻を「西部標準時」とそれぞれ規定した。後者は八重山列島・宮古列島と日本統治下の台湾・澎湖諸島に適用された。中央標準時と西部標準時との時差は1時間であった。 御 名 御 璽 明治二十八年十二月二十七日 內閣總理大臣 侯爵󠄂伊 藤󠄁 博󠄁 文󠄁 文󠄁 部 大 臣 侯爵󠄂西園寺公󠄁望󠄁 勅令第百六十七號 第一條 帝󠄁國從來ノ標準時ハ自今之ヲ中央標準時ト稱󠄁ス第二條 東經百二十度ノ子午線ノ時ヲ以テ臺灣及󠄁澎湖列島竝ニ八重山及󠄁宮古列島ノ標準時ト定メ之ヲ西部標準時ト稱󠄁ス第三條 本令ハ明治二十九年一月一日ヨリ施行ス この「二つの日本時間」は41年あまり続いたが、明治二十八年勅令第百六十七号標準時ニ関スル件中改正ノ件(昭和12年勅令第529号、1937年(昭和12年)9月25日公布、同年10月1日施行)という改正勅令により、前の明治28年勅令第167号の第2条(西部標準時に関する条)の条文が削除され、再び日本の標準時はひとつとなった。なお、この改正では第1条(中央標準時に関する条)については改正されなかったため、「中央標準時」との呼称は維持された。西部標準時が年半ば(9月)で廃止された理由は、台湾・澎湖諸島ならびに八重山・宮古列島において、政治、経済、交通その他諸般の点に鑑み中央標準時に依る必要があることによるとされる。1954年(昭和29年)ごろ、中央標準時の中央を除くことや明治以来の時関連の法令改正案が検討されていたようだが、日の目を見ることはなかった。 この2つの勅令は現在も政令として有効であり(文部科学省所管)、「中央標準時」が日本の標準時の法令上の正式名称とされる。現行法上、上記勅令以外にも、電波法施行規則、無線局運用規則や国立大学法人法施行規則において用いられている。 ちなみに、この改正が行われた当時は本土の標準時とは別に、1920年ヴェルサイユ条約・パリ協定で日本の委任統治領となった、南洋諸島の標準時が1919年2月1日より施行されており、南洋群島東部標準時が日本の中央標準時+2時間(東経165度線)、南洋群島中部標準時で日本の中央標準時+1時間(東経150度線)、南洋群島西部標準時は日本の中央標準時と同じであった。1937年に南洋群島東部標準時(中央標準時+1時間)・南洋群島西部標準時(中央標準時と同じ)の2つに再編している。1945年の敗戦による統治権の放棄により廃止した。なお、当時日本の施政下にあった千島列島は東端が東経156度であるが、全域で中央標準時が用いられていた。 FreeBSDなど一部のUnix系オペレーティングシステム (OS) では、1999年初頭までインストール時にタイムゾーンとして「Japan」を選択すると、選択肢として「Most Locations」と「South Ryukyu Islands」の2つの選択肢が現れ、「South Ryukyu Islands」を選ぶとタイムゾーンとして西部標準時(UTC+8)が設定される問題が存在した。 これはこれらのOSがタイムゾーン設定の元データとして利用しているtzdataに誤って西部標準時に関するデータが含まれていたためである。これの元は「The International Atlas (3rd edition)」(Thomas G. Shanks、1991年)という文献において、「西部標準時が現在も石垣市を含む地域で使用されている」旨の誤った記載が行われていることが原因であった。 このことが雑誌「UNIX USER」(ソフトバンク)で取り上げられた結果、1999年にはtzdataから西部標準時が削除され、その後のバージョンでは「South Ryukyu Islands」という選択肢はなくなった。2006年4月1日にリリースされた、エイプリルフール版のFreeBSD 2.2.9-RELEASEでは、このバグがわざと残されている。 標準時の通報や、有線/無線報時に関する歴史は次の年表の経過をたどる。 NICTが運用する小金井局の18台のセシウム原子時計および4台の水素メーザー原子時計の時刻を1日1回平均・合成することによって協定世界時(UTC)を生成し、これを9時間進めたものが日本標準時(JST)となる。加えて週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整、後述する分散局(神戸副局、おおたかどや山送信所、はがね山送信所)の原子時計と人工衛星を仲介した較正を行っている。 なお、この協定世界時(UTC)は、国際度量衡局(BIPM)が決定する協定世界時(UTC)との差が±50ナノ秒以上にならないように決定される。このようにして決定された日本標準時(JST)は、標準電波(JJY)やNTPサーバ、電話回線を通じて供給されている(参考:国立天文台、産業技術総合研究所計量研究所)。2006年2月7日から、セシウム原子時計に加えて水素メーザー原子時計を使用することなどにより、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±50ナノ秒以内から±10ナノ秒以内に向上した。さらに、セシウム原子時計や水素メーザー原子時計を3系統に分けて相互比較・データ合成を行うことで信頼性の向上ならびに、日本標準時(JJY)の冗長化に寄与している。2021年(令和3年)8月から、週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整を開始した。標準時システムに光格子時計を加えることで、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±20ナノ秒以内から±5ナノ秒以内に向上された、とされる。 2018年(平成30年)6月10日から、日本標準時の冗長化を目的に神戸市西区の未来ICT研究所内に分散局として神戸副局を設置した。また、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計も分散局として、人工衛星を仲介した3つの分散局データを合成して日本標準時(JST)をバックアップ供給する体制に移行した。神戸副局にはセシウム原子時計(CS)5台と水素メーザー時計2台及び送信所との高精度衛星時刻比較システムなど日本標準時生成に必要な基本機能を備え、小金井本部と並行して、標準時に準じた常時合成原子時(神戸時系)を生成する。 また本部の供給サービスがダウンした場合に備え、小金井本部同様に日本標準時を供給できるようにするほか、NTPサーバー及び光テレホンJJYシステムのバックアップ、標準電波送信所の周波数調整機能を整備しているという。今後は小金井と神戸両局の相互比較・データ合成を行うことで更に精度向上に寄与するほか、神戸副局からも日本標準時が供給できる体制がとれるようになるという。 日本標準時 (JST) を国内外に広く供給するために、NICTは標準電波を発信している。この波により送信されている周波数の標準と標準時の信号は、国家標準であるセシウムビーム型原子周波数標準機や、水素メーザ型、実用セシウムビーム型原子時計群を用いたものよりも高い精度に保たれている。なお、標準電波の発信は電離層の影響を受けにくい長波を使用しているため、24時間の周波数比較平均値では 1×10 の精度を得られると発表されている。 1999年6月10日に「おおたかどや山標準電波送信所」(福島県田村市都路町 大鷹鳥谷山)が開局した。しかし、九州沖縄方面では受信しにくい現象が起こるなどで日本全国をカバーできなかったため、2001年10月1日には佐賀県佐賀市富士町の羽金山に「はがね山標準電波送信所」を開局し、これにより日本国内の広い範囲で標準電波が受信ができるようになった。 小金井局・神戸副局で作成した日本標準時の情報は、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計の遠隔監視、時間比較により日本標準時供給の精度維持に活用される。 いわゆる電波時計は、この標準電波を受信し、自動で時刻を合わせる時計である。 NICTはインターネット経由で時刻同期を可能とするため、NTPサーバによる時刻情報提供サービスを2006年から提供している。NTPサーバのアドレスはntp.nict.jpである。通常はNTPサーバの処理能力の限界を考慮し、原子時計などに直結されたNTPサーバを一般ユーザが直接利用すべきではないとされているが、このサーバはFPGAで構成され、毎秒100万リクエスト以上の処理能力を持ち、日本標準時に直結でありながらユビキタス社会を支える時刻同期インフラを目指し、一般ユーザが直接利用することを前提にしたセキュリティ的にも頑健なシステムである。 下記に示されているUTC+9の値を、JSTへ読み替えれば換算できる。 IANAのTime Zone Databaseには、日本の標準時が1つ含まれている。 2013年(平成25年)5月22日、猪瀬直樹東京都知事(当時)は、日本標準時を2時間早める(=UTC+11)提案を産業競争力会議にて出した。東京の金融市場の開始を早めることで東京市場の存在感を高めるのが狙いとされている。政府はこの提案を検討するとしている。もっともその後、この提案について具体的に話し合われた様子はない(2023年7月19日時点)。
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日本音楽著作権協会
一般社団法人日本音楽著作権協会(にほんおんがくちょさくけんきょうかい、英語: Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む一般社団法人である。公式に英語の略称である「JASRAC」の表記をロゴとして使っており、「ジャスラック」と発音する。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。 JASRACを示す意匠は二種類あり、青い線の集合で書かれたものは「ロゴ」と呼ばれ同法人名や利用許可を与えた店舗の表示に使われている。両端が尖った楕円に独自の書体で書かれたものは「マーク」と呼ばれ利用許可を与えた著作物に表示されている。 音楽(楽曲、歌詞)の著作権を持つ作詞者・作曲者・音楽出版者から複製権・演奏権などの著作権の信託を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、著作権侵害の監視、著作権侵害者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。 本部は東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有するビル内に設置され、14の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、1939年に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。 音楽著作権の管理をJASRACに委託しようとする作曲者、作詞者、音楽出版者は、自らが保有する音楽著作権の支分権の全部または一部をJASRACに移転する(信託契約約款3条1項)。JASRACは、作曲者等から著作権の移転を受けて、自らが著作権を保有し、著作権の対象である著作物(楽曲、歌詞)の利用を希望する者に対して利用許諾を行う。著作物を利用した利用者からは使用料を対価として徴収し、5パーセント - 25パーセントの管理手数料 を控除した上で、委託者に分配する。このように、JASRACの著作権管理は「信託」によるものであり、作曲者、作詞者、音楽出版者が「委託者」、JASRACが「受託者」、音楽の利用者が「受益者」に相当する。 著作物の利用には、著作権の効力が及ぶ利用形態で、喫茶店・レストラン・ダンス教室(1971年より社交ダンス教室、2015年より全てのダンス教室に対象拡大)・歌謡教室(2016年より)・カラオケ(1987年より、1997年からは通信カラオケにも対象拡大)・フィットネスクラブ(2011年より)・カルチャーセンター(2012年より)・音楽教室(2018年より)・コンサート会場等における不特定または特定多数向けの音楽の演奏、CD・DVD・映画・オルゴールなどへの音楽の複製、テレビやラジオによる音楽の放送、インターネットによる音楽配信などがある。 音楽の無許諾利用である著作権侵害の監視も業務の一環で、無許諾による音楽利用を発見した場合、利用許諾契約の締結を求めるほかに過去利用分を遡及して使用料の請求を行う。損害賠償請求や使用差止請求などの民事訴訟手続や、告訴などの刑事手続に至る事例もある。著作権侵害に対する法的措置は、喫茶店やレストランにおける無許諾演奏が最も多い。2005年度事業報告書では演奏権侵害に対する法的措置の総件数は2995件で3129店だが、市場の縮小や適法利用率の向上から2009年度は1713件、2010年度は1043件、2011年度は970件と減少している。近年はインターネット上で違法に配信されている歌詞や音声ファイルを発見するシステムである「J-MUSE」を2000年10月に導入し、違法配信をするウェブサイトの管理者には個別に警告の電子メールを送付している。 著作権のうち、放送権(著作権法23条1項、公衆送信権の一種)の管理をJASRACに委託している者の作品を放送するには、JASRACの許諾が必要である。 2021年度にJASRACが放送事業者から徴収した使用料は279.8億円であった。JASRACが放送事業者から徴収した使用料は、8.5パーセントの管理手数料 (実施料率。届出料率は10パーセント)が控除された上で委託者に分配されている。 NHKや民放地上波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各放送局の年間放送事業収入の1.5パーセントに楽曲の使用割合を反映したものを放送使用料として徴収している。 楽曲の使用割合の根拠として、NHK全局、民放地上波テレビ全局及び民放地上波ラジオ局の一部はJASRAC管理楽曲の全曲報告を行っている。一方、民放地上波ラジオ局の一部は一定の期間を割り当て、その期間の使用曲目をサンプルとして報告を行っている。 民放衛星波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各チャンネルの放送内容の区分に応じて、各放送チャンネルの年間放送事業収入に使用料率を乗じた金額を放送使用料として徴収している。使用料率は主として音楽番組のチャンネルは2.25パーセント、総合編成のチャンネルは1.5パーセント、ニュース・スポーツ等のチャンネル0.75パーセントである。 コミュニティ放送の使用料については、JASRACと当該事業者との間で別途協議をしている。放送大学学園がJASRACと年間の包括的利用許諾契約を締結する場合の放送使用料は、著作物の利用目的、利用方法等を考慮しJASRACと放送大学学園間で協議して定める。 包括的利用許諾契約は、音楽作品を利用する放送事業者にとっては利便性が高い契約形態である一方で、放送権の管理分野で99パーセントという圧倒的なシェアをもつJASRACが放送局に対して包括的利用許諾契約を認めた場合、他の著作権管理団体との公正な競争が阻害される。詳細は「包括的利用許諾契約の運用問題」節を参照のこと。 インターネット配信サイトでは違法な投稿や配信が多発し、削除依頼による適時削除でも違法状態の継続がみられたが、2008年4月にニコニコ動画、10月にYouTube、2010年7月にUstream、など、各動画サイトと包括的利用許諾契約を締結してサイト収入の2.5パーセントを著作権料として徴収しており、今後も契約先の増加させる方針である。 Winnyなどファイル共有ソフトのネットワークでは、著作権侵害コンテンツを公開しているユーザへ削除を求めるなどコンピュータソフトウェア著作権協会と協力活動している。 JASRACは著作権者の地位を有しており著作権に基づく私的録音録画補償金を請求する権利を有する(著作権法30条2項)が、私的録音録画補償金請求権はJASRACではなく私的録音補償金管理協会(sarah)と私的録画補償金管理協会(SARVH)が行使する(著作権法104条の2)但しSARVHについては後述の通り機能不全に陥り最終的に解散した。 sarahは補償金をJASRACに36パーセント、実演家団体の日本芸能実演家団体協議会に32パーセント、レコード製作者団体の日本レコード協会に32パーセント、それぞれ分配する。2018年度のJASRAC配分は約845万円である。 私的録音対象には音楽著作物と言語著作物があり、JASRAC配分補償金は音楽著作物に係るものと言語著作物に係るものに区分され、2018年度は音楽区分約810万円、言語区分約35万円である。音楽区分補償金は10パーセントの管理手数料を控除後に権利者へ分配されるが、非委託者分は当該者の請求により分配しており、非委託者である音楽著作権(録音権)管理事業者のNexToneへ2018年度に約35万円が分配されている。言語区分補償金は日本脚本家連盟へ分配され、連盟規程により各権利者に分配される。 SARVHは補償金をJASRACに16パーセント、日本脚本家連盟、NHKと日本民間放送連盟など映像関連7団体から構成される映像製作者委員会、などに合計52パーセント、日本芸能実演家団体協議会に29パーセント、日本レコード協会に3パーセント、それぞれ分配する。2007年度のJASRAC配分は2億400万円である。JASRAC配分補償金は管理手数料を控除後に権利者へ分配されていたが、2012年に訴訟で敗訴して2015年にSARVHは解散し、制度破綻した。 日本は1899年にベルヌ条約に加盟して著作権法も施行されていたが、生演奏の他に録音媒体も再生ごとに使用料を支払う概念は皆無であった。1931年に旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立し、放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。 プラーゲの要求する使用料は当時法外で手法が法的手段を含む強硬であることから、海外の楽曲の使用が事実上困難になった。日本放送協会(NHK)もプラーゲ機関との契約交渉が不調で1年以上海外の楽曲を放送できなくなった。プラーゲは日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができずに日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。一連は「プラーゲ旋風」と呼ばれ日本における著作権集中管理のきっかけとなった。 事態打開のため1939年に、著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るとする「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」(仲介業務法)が施行されてJASRAC前身の大日本音楽著作権協会も設立され、翌年1940年に業務が開始された。プラーゲは著作権管理業務から排除されて同法違反で罰金刑を受け、1941年に離日した。文化庁は大日本音楽著作権協会ほか4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めず、音楽著作権の仲介は大日本音楽著作権協会の独占業務となった。 著作権の一元管理は効率が高いシステムとして運用されてきたが、音楽ソフトのデジタル化やネットワーク化の進展などからJASRACの非効率性が指摘され、カラオケでも使用料や権利者への分配方法が決しないままビジネスが先行する弊害を招いた。旧来の録音、演奏、楽譜出版と、ゲーム、着信メロディ、ネット配信などの区分管理にJASRACの著作権信託が未対応な不備を改める求めなどもみられることから、2000年に著作権等管理事業法が成立して2001年に施行され、イーライセンス、ジャパン・ライツ・クリアランス(コピナビ)、ダイキサウンドなどの株式会社が音楽著作権管理事業に参入した。旧来の仲介業務法と異なり管理団体の設立が許可制から登録制に緩和されたが、JASRACの占有は大きい。 JASRACは私的録音補償金対象機器の拡大を行政へ働いており、2005年4月28日の文化庁文化審議会著作権分科会法制問題小委員会で新たにデジタルオーディオプレーヤーを私的録音録画補償金制度の対象とするように要請したが、大半の所有者はコンパクトディスクの購入や音楽配信サービスからダウンロードなど正規に入手した音楽データをプレーヤーに複製(いわゆるメディアシフト)しており、「権利者の損失は無い」「著作権料の二重取り」など否定的意見が多く、2005年9月以降まで結論が先送りされている。 JASRACは非営利目的の運営が法律により定められている一般社団法人だが、スナックやジャズ喫茶、ライブハウスなどでJASRAC管理曲を演奏する場合の使用料負担が重過ぎるとの批判がある。JASRACは包括的利用許諾契約締結を求めているが、包括的利用許諾契約は演奏回数ではなく店舗の客席数や床面積に応じて一律に演奏使用料が決定されるため、JASRAC管理曲の利用頻度が低い店舗は使用料の負担比率が高まり不評である。飲食店等には演奏曲目を記載した演奏利用明細書の提出を原則求めておらず、演奏楽曲権利者への確実な分配が危惧されるほかに、使用料の支払者に対し権利者への配分情報が開示されていないなどの批判もある。 先に使用者側と著作権管理事業者が交わした包括的利用許諾契約は、後から参入した著作権管理事業者との公正競争を阻害するとの指摘がある。 放送分野では、JASRAC管理曲を放送する場合に放送事業者は包括的利用許諾契約か個別契約のいずれかを選択できる。包括的利用許諾契約の場合、放送事業者は放送事業収入の1.5パーセントをJASRACに支払えば、JASRAC管理曲を無制限に放送が可能だった。そのため、JASRAC管理曲を大量に放送する事業者は包括的利用許諾契約を選択することが一般的になっていた。この状態のまま放送事業者が他著作権管理事業者の管理楽曲を使用すると負担が増えてしまうので、他著作権管理事業者の参入は困難になると公正取引委員会は判断した。包括契約問題で指摘されたのは、後発のイーライセンスが当初管理していた大塚愛の『恋愛写真』の放送局での取り扱いだった。 2008年4月23日に、公正取引委員会はJASRACへ立ち入り調査し、2009年2月27日に独占禁止法違反を認定して、排除措置を命令したが、2009年7月9日に東京高等裁判所は、JASRACによる執行免除の申し立てを認め、8月6日にJASRACは保証金1億円を一括で供託し、命令確定まで執行停止された。 排除命令に対してJASRACは審判を申立て、2012年6月12日に公正取引委員会は排除命令を取り消す審判を行った。これに対してイーライセンスが申し立てた審決取消し訴訟で、2013年11月1日に東京高等裁判所の飯村敏明裁判長はこの審決の認定は実質的証拠に基づかないものでありその判断にも誤りがあるとして審決を取り消した。11月13日にJASRACは上告し、「イーライセンス対公正取引委員会の裁判に訴訟の結果により権利を害される第三者」(行政事件訴訟法22条1項)として訴訟に参加した。 2015年4月28日に、放送利用割合が反映されない徴収方法は他の管理事業者の参入を困難にするとして最高裁判所は公正取引委員会の上告を棄却し、JASRACが新規参入を著しく妨げているというイーライセンスの訴えを高裁判決が認めた判決が確定判決となった。公正取引委員会は審決を取り消され、従前の排除措置命令が復活した。 2016年2月、イーライセンスとJRCが合併した新会社であるNexToneが、JASRACに対する損害賠償等請求訴訟を取り下げた。 2016年9月9日、JASRACが公正取引委員会への審判請求を取り下げたため、公正取引委員会の審判は終結し、2009年2月27日に出された『JASRACに対する排除措置命令』が確定し、2015年(平成27年)4月1日から遡及適用された。 訴訟や審判と並行して、2015年2月から著作権管理事業者側のJASRAC、イーライセンス及びJRCと、放送事業者側のNHKと日本民間放送連盟は「放送分野における音楽の利用割合の算出方法に関する検討会」(5者協議)を開催するようになった。2015年9月17日に2015年度分以降の放送使用料に適用する利用割合の算出方法について合意がなされた。これを踏まえJASRACとNexToneはそれぞれ、NHKと民放連との間で楽曲の利用割合を反映した包括的利用許諾契約を交わすことになった。 2015年9月の合意の際、イーライセンスは放送以外の包括徴収方式を採用している他の支分権や利用区分でも、楽曲の利用割合を反映したルールが使用されることを希望する旨を表明した。 JASRACは放送以外の分野でも楽曲の利用割合を反映したルールを導入している。2021年4月以降は演奏権のうち上演形式による演奏、演奏会における演奏及び演奏会以外の催物における演奏について、公演ごとの実績に基づく利用割合又はみなしの利用割合を反映させることになった。また、2022年10月以降はカラオケ使用料についてみなしの利用割合を反映させている。それぞれのみなしの利用割合の値は1年ごとに見直しされる。 2005年にプロ野球阪神タイガースの私設応援団であった中虎連合会が、作者不詳だった阪神タイガース応援歌『ヒッティングマーチ一番』及び『ヒッティングマーチ二番』の作詞と作曲者を「中虎連合会」としてJASRACに届出して使用料の分配を不正に受けていたことが発覚した。 JASRAC の著作権信託契約約款7条1項は、委託対象の著作権が委託者のものであり他人の著作権を侵害していないことを保証する責は、受託者のJASRACではなく委託者にあるとしている。この事件からJASRAC内部の不正チェック体制不備も指摘され、JASRACは作者不詳の楽曲と作品名が同一もしくは極めて似ている作品に対するチェックを強化することを発表した。 2005年9月17日特大号で週刊ダイヤモンドは、「企業レポート 日本音楽著作権協会(ジャスラック) 使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態」と題する記事を掲載し、JASRACによる著作物使用料の徴収や配分と文部科学省官僚の天下りが続く組織運営のあり方に問題があると主張した。文部科学省から役員の天下りが50年以上続いている、JASRACの役員報酬を決める役員審議会が非公開である、法外に高い報酬を受け取っている、使用料の徴収方法、などの問題点を挙げ、「JASRACの職員が営業中の店に入り『ドロボー』と大声で叫び営業妨害とも言えるやくざまがいの徴収方法を取った」「年間の利益が20万円弱の店に550万円もの使用料を徴収した」事例を紹介している。 2005年11月11日にJASRACは、記事内容に裏付けがないほか恣意的に古い情報を用いるなど読者の悪印象を誘導しているとして、計約4300万円の損害賠償と名誉回復措置の謝罪広告掲載を東京地方裁判所に提訴し、2008年2月13日に東京地裁は、記事表現や体裁はかなり一方的かつ独断的で調査不足、誤解、悪意に基づく構成の疑念などからJASRACの主張を全面的に認めて計550万円の支払いを命じたが、謝罪広告の掲載は必要ないとした。 2018年3月9日にはアメリカのフェアユース制度や著作権法について詳細な米国弁護士の城所岩生により『JASRACと著作権、これでいいのか~強硬路線に100万人が異議~』を刊行しており、坂本龍一がJASRACに苦言していること・大政直人がJASRACへの批判的意見・後述の意見書でもある通りに東京大学名誉教授である中山信弘も「木の枝を切り込みすぎて幹を殺してはいけない。音楽教室に対して必要以上に著作権者の権利を主張すれば、音楽文化が発展しなくなるかもしれない」と言及している。現行法では将来性を潰すことや著作権法自体が緊急医療での危険性も指摘している。また、後述のライブハウスにある通りに正当に著作権者への分配されていない可能性も指摘ものとなっている。 2009年9月にファンキー末吉が運営するロックバーにJASRACから送付された使用料徴収法は、ライブハウスで演奏された楽曲の印税がアーティストへ正しく分配されるか否か不鮮明で、末吉は、「これではヤクザのみかじめと同じである。ちゃんと著作権者に分配しろよ!!」と自身のブログで苦言した。末吉が弁護士とともに交渉中、2013年11月にJASRACは「著作権侵害差止等請求事件」として提訴した。同年12月に末吉の支援者らが「ファンキー末吉に対するJASRACの訴訟はスラップではないか?」と『ファンキー末吉 支援者の会』を興し、江川ほーじんも「徴収する法は有るが、分配するシステムが存在していない。」と非難している。 2016年3月25日、東京地方裁判所ではライヴハウスとして定常的に利用していることから、いわゆるカラオケ法理の適用範囲であり、配分率などは作曲者としてのファンキー末吉とJASRACの問題でありライブハウス経営者としての問題ではないとし本裁判では審議されず、また自身の作曲や作詞した楽曲を演奏した場合においても、JASRACとの信託契約でこれら権利は信託されており、信託の仕組み上請求主体から現著作権者であっても使用料の請求が行われることとなることを認定された。但し請求の700万余りより大幅に減額された、著作権利用料280万余りのみ賠償を認められ、訴訟費用はそれぞれが負担することとされた・。 2016年10月19日、知的財産高等裁判所の判決では、地裁判決を踏襲し賠償金が算出方式の変更に伴い550万余りに変わった他、訴訟費用もファンキー末吉側が1審2審とも負担することを判決として出された・。 2017年(平成29年)に、河合楽器製作所・島村楽器・山野楽器・開進堂楽器・宮地商会・ヤマハ音楽振興会・全日本ピアノ指導者協会が、音楽教室での演奏にJASRACが著作権料を求める事に反対する団体『音楽教育を守る会』を設立し、音楽教室での練習などは「演奏権」に該当しない、JASRACの方針は著作権法の目的「文化の発展に寄与する」に沿わない、としている。 2017年7月に理事長の浅石道夫は「音楽教室から徴収する方針」の反対署名には、JASRACを嫌っているだけのものもあると述べている。 2018年(平成30年)3月5日、文化庁長官の諮問である文化審議会では、音楽教室の著作権使用料で受講料収入から2.5パーセントの徴収を認める答申を提出した。それを受け「音楽教育を守る会」は「使用料徴収の是非について踏み込んだ判断をしてもらえなかった点で、大変残念だ」とする声明を発表している。ただし、「JASRACの提出した使用料規程については裁定日から有効とする。」とはしているものの、演奏権においては音楽教室事業者の「請求権不存在確認事件(東京地方裁判所平成 29 年(ワ)第 20502 号他)」の司法判断確定までは督促しないことや演奏権を争わない事業者に対しては利用に適切とする使用料額を制定するとしている。 ただ、2017年11月14日付の中山信弘の意見書では音楽教育の練習までの徴収が、まずは「文化の発展」(著作権法第1条)に根本的な疑問点があると指摘している。また、演奏権(著作権法22条)の制定においてもカラオケの様な「公衆に直接見せ又は聞かせることを目的」として演奏ではないことや音楽学校における演奏は著作権法38条適用における使用であり、音楽教育で費やされる費用も「著作物の提供又は提示につき受ける対価」ではなく指導・練習の費用であることからJASRACの請求は権利濫用の解釈とおり、「請求権不存在確認事件」にも有識者意見として提出される。 なお、フェアユースの導入があればこのような裁判は起こらなかったとする批判も存在するが、フェアユースを導入しているアメリカでは音楽教室のレッスンは徴収の対象であるため徴収に反対する意見として用いるのは不適切である。 2020年(令和2年)2月28日、東京地方裁判所は音楽教室での演奏利用全般に演奏権が及び、音楽教室事業者の請求権不存在確認の請求を棄却する旨の判決を言い渡した。3月4日、音楽教室事業者は判決を不服として知的財産高等裁判所に控訴した。2022年(令和4年)10月24日、最高裁はJASRAC側の訴えを退け上告を棄却した。 2012年6月27日に違法ダウンロード刑事罰化の抗議として、アノニマスからサイバー攻撃の被害を被る。 (1957年から1965年は「専務理事」)
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京都市
京都市(きょうとし 地元発音)は、京都府南部にある市。京都府の府庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。市域は11の行政区から成り、人口約144万人。 京都は、794年(延暦13年)の桓武天皇の平安遷都から1869年(明治2年)の明治天皇の東幸までの1075年間に渡って日本の首都であった。千年余りの間、平安時代の国風文化を始めとした日本文化の中心地であり続け、東京奠都後は戦災を逃れた往時の文化財や伝統文化が継承されてきた。この由縁から文化庁が設置され、日本を代表する古都として「千年の都」や「千年余りの都」とも評される。 市域は令制国で言えば山城国葛野郡・愛宕郡・紀伊郡の全域、山城国宇治郡・乙訓郡・久世郡・綴喜郡と丹波国桑田郡の一部に及んでいる。 京都府で最も人口が多い都市であり、府の人口の56.9%を占める(2023年11月1日)。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を除けば全国で京都市のみである。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏 および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神大都市圏(近畿大都市圏)の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模である。 794年(延暦13年)に日本の首都になった平安京を基礎とする都市で、1869年(明治2年)に明治天皇が東京行幸(東京奠都)するまでの約1080年に渡って皇室および公家が集住したため「千年の都」との雅称で呼ばれる。現代でも京都市では双京構想を掲げている(首都に関する議論は「日本の首都」を参照)。平安時代、室町時代の室町幕府期には日本の政治が執り行われた中心地であり、鎌倉時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の幕末期などにおいても、日本の政治の中心の一つとして大きな役割を果たした。 平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、鎌倉時代以降は「洛中」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「京都」と呼ばれた。江戸時代には三都(江戸・大坂・京)、明治期には三市(東京市・大阪市・京都市)、大正期以降は六大都市(東京市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市)の各々の一角を占め、第二次世界大戦後には政令指定都市になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内流通が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣した。その伝統は現在も伝統工芸として残っているのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、ニデック(旧 日本電産)など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。日本初の水力発電所である蹴上発電所を備えた琵琶湖疏水や、日本初の電車営業を行なった京都電気鉄道(後の京都市電、現在は廃止)を開業させるなど、明治以降の近代化にも積極的であった。 第二次世界大戦の戦災被害を免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが残る。その特徴により文化庁が設置され、文化首都を標榜する。国内外の観光客が訪れる観光都市として国際観光文化都市に指定されている。旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている。 京都府の南部に位置する内陸都市で、市内を賀茂川(途中で高野川と合流して鴨川と名前を変える)、桂川、宇治川などが流れる。政令指定都市および日本の百万都市では唯一、盆地に位置している。 四条河原町(四条通と河原町通の交差点付近)は京都で最大の繁華街であり、歓楽街の祇園やビジネス街の四条烏丸と隣接している。ターミナル駅の京都駅は市街地南部の七条通と八条通の間に位置しており、四条河原町や四条烏丸などの市内中心部からは離れている。 滋賀県の県庁所在地である大津市に隣接しており、都道府県庁間は京都府と滋賀県が全国で最も短い。東海道本線(琵琶湖線)の京都駅と大津駅は2駅10分の近さであり、京都市外から市内への通勤者は大津市が最も多い。 森林が市域の4分の3を覆い、市内には日本で最も高い木が生える。 京都盆地(山城盆地)に位置しているため、太平洋側気候、日本海側気候、瀬戸内海式気候、内陸性気候のそれぞれを併せ持ち、夏と冬、昼と夜とで温度差が大きい。「京の底冷え」と言われるように冬の寒さは厳しい印象があるが、主要都市や関西の中でも取り立てて低温ではなく、京都地方気象台(中京区西ノ京笠殿町)のある中心街はヒートアイランド現象が顕著になり、かつてのような底冷えにはならない。最寒月(1月)の平均気温は4.8°C、平年最低気温は1.5°Cであり、関西では大阪市、神戸市、和歌山市よりは低いものの、奈良市や大津市よりは高い。ただし市内でも郊外は中心部に比べて寒さは厳しく、特に同じ盆地内でも北の方ほど寒く、市内中心部では降雪がなくても左京区の岩倉や大原、北区の原谷などでは積雪や氷点下となっていることがある。北部の山間部(旧京北町など)は日本海側気候の影響もあり、冬季の1.0mm以上の降水日数が京都市街地の2倍以上となり、雪の日も市街地より多くて寒さが厳しい。市街地では積雪しても数cm程度のことが多い。2015年元日から1月3日にかけては大雪に見舞われ、61年ぶりとなる22cmの積雪を記録した。市中心部より南にある伏見区ではさらに雪が少ない。夏は暑さが大変厳しい。特に日中の気温が非常に上がり易く、39°C台の記録も多数ある。2018年7月19日には過去最高気温に並ぶ39.8°Cを記録した。熱帯夜日数は27.2日となっており、名古屋市(25.6日)より若干多いが大阪市(41.5日)や神戸市(46.8日)よりは少ない。 同じ京都市内といえども、北部の山間部と南部の市街地では分けて考える必要がある。市街地に限れば、年間を通して大阪市よりやや気温が低く雨量は多く、名古屋市とは気温は同程度で雨量はやや少ない、という程度の気候である。ただ、市街地(市中心部)も丹波高地の影響を受けて太平洋側気候と日本海側気候の境目で他の近畿地方の主要都市よりも不安定で、夏は大気の不安定さや湿った空気、冬は日本海からの雨雲や雪雲などで曇りがちで、特に夏場は瀬戸内海からの風と伊勢湾からの風、若狭湾からの風がぶつかる影響で頻繁に夕立になる事が多い。京都人はこれらの夕立を「丹波太郎」「山城治郎」と呼んでいる。京都の夏季(5、6、7、8、9月)における平均雷日数は15.9日で、奈良の17.2日や豊岡(兵庫県)の16.9日と比べると少ないものの、彦根(滋賀県)の14.6日より多い。 平安京は、平安中期の漢文学においてしばしば「洛陽」「長安城」「洛城」として現れる。いずれも「平安城」に代わる文学上の雅称と考えられる。のちに唐が西の長安を首都、東の洛陽を副都としたのを意識し、朱雀大路の西(右京)を長安、東(左京)を洛陽と称したとする認識が生まれた。その後、低湿地であった右京南部が寂れ、市街地が左京に偏っていっため、洛陽すなわち「洛」が京都の代名詞となっていった。 たとえば、近世に多く描かれた屏風絵に京都の中心部と郊外を表した「洛中洛外図」というものがある。現在でも京都市内の地域名として以下のようなものがある。行政や観光ガイドでもよく使われるが厳密な区分はない。 上記が大まかな地域名であるのに対して、行政区よりも細かい地域単位として、明治時代に導入された小学校区(学区)による地域名も、生活に密着した地域単位として使われる(詳細は京都の元学区を参照のこと)。 政令指定都市では唯一「住居表示に関する法律」に基づく住居表示を採用しておらず、市中心部の町では近世からの形と名称が継承されており、周縁部においては京都市への編入前の旧町村名や大字・小字が町名に用いられている(例:旧田中村字門前→左京区田中門前町)。 詳細は を参照のこと。 また、明治中期の市制施行時から京都市内であった町名を住所(所在地)として示す場合、行政区名と町名の間に通り名と方向表示を入れたものが公的な表記として用いられる(例:「中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」)。近世からの姿を引き継ぐ市内中心部の町には同名の組み合わせが少なくない数あり、古くから用いられるこの通り名と方向表示による住所の表記により識別される。このように町名だけで場所を特定することが困難な市内中心部では町名が地名としては用いられず、交差する通りの名称を組み合わせた名称の交差点名が、周辺一帯の地名としても用いられる(例:「四条河原町」)。(→「#市内の街路」「京都市内の通り」を参照のこと) 京都市は11の行政区より構成される(地理的位置順)。 区名の読みと、設置年は以下の通り(自治体コード順)。京都市設置当初は上京区・下京区の2区だったが、数度の分区や合併を経て1976年(昭和51年)に現在の11区が揃った。 京都市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で神戸市に次ぐ全国4位になり、三都の一角、東京市・大阪市に次ぐ全国3位という状況は終焉を迎えた。神戸市とは同程度で推移するものの、名古屋市が台頭したため、戦前を通じて全国4位・5位という状況が続いた。1930年の第3回調査の後、1931年に大規模な市域拡張を実施して名古屋市を抜き返し、1932年に3番目の百万都市となったものの、1934年に4番目の百万都市となった名古屋市に1935年の第4回調査で再び抜き返されるという一幕もあった。 戦災被害が六大都市の中で最少だったことから、1945年11月の人口調査および1947年の第6回調査と1950年の第7回調査で全国3位になったが、それは一時的なものに過ぎず、1955年の第8回調査では名古屋市に次ぐ全国4位、1960年の第9回調査では横浜市に次ぐ全国5位になった。 他の大都市や一部の中小都市にみられるような、戦中・戦後における人口の急減・急増がなかったのが京都市の特徴であった。その後も1970年代から2010年代に至るまで、都市部にもかかわらず人口が147万人程度を推移し続け、人口の大きな増減がなかった。この間、1983年に札幌市、2011年に福岡市、2015年に川崎市に抜かれた。また、戦前は同程度で推移し、戦後は甚大な戦災被害による激減から回復してきた神戸市に1990年の第15回調査で抜かれ、2000年代以降は抜き返せない状況にある。結果、全国9位にまで落ちたが、昼間人口では川崎市・神戸市を上回っている。 2015年の第20回調査から2020年の第21回調査の人口増減を見ると、0.8%減の1,463,723人であり、増減率は府下26市町村中7位。区別では最高が2.0%増の南区、最低が6.3%減の東山区。将来推計人口によれば、今後は減少し2045年に130万人を割り込むと予測されている。2023年11月1日現在の人口は1,443,368人。コロナ禍の2020年と2021年は2年連続で1年間に最も人口が減少した市となった。 幕末に再び政治の中心地となった京都は人口が膨れ上がり、かつてない活況を見せたものの、禁門の変などで街の多くが焼けたのに加え、明治維新後に皇室・公家の大半が東京へ移り住んだため、一転急速な衰退を見せた。江戸時代は「三都」と呼ばれ、享保14年(1729年)には374,000人、明和3年(1766年)に318,000人の人口を誇る江戸・大坂に次ぐ都会であったが、明治維新後の1873年(明治6年)には238,000人までその人口が落ち込んだ程である。 そのため、京都府知事(市制施行当初は京都市長も兼任)などから産業の振興を呼びかける声が上がり、京都府に復興の顧問として迎え入れられた山本覚馬は京都を何とかして復興させようとある計画を立ち上げる。それは1867年にパリで行われた当時世界最大のイベント「パリ万国博覧会」をヒントにした博覧会を京都で開催するというものであった。そのため、政府に嘆願し、外国人の居留地からの移動制限を博覧会の期間のみ解除することを許され、京都に外国人を迎え入れられるようにした。そして西本願寺・知恩院・建仁寺を会場に「第一回京都博覧会」を開催し、京都の復興の足がかりを作った。前年の明治4年10月10日〜11月11日(1871年11月22日〜12月22日)には日本初の博覧会が民間により西本願寺で開かれている。 また田邉朔郎による琵琶湖疏水の建設と、疏水を用いた日本初の水力発電、さらにその電力を用いた日本初の電車運転(京都電気鉄道、後の京都市電)などの先進的な施策が実行された。人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。 人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および市電敷設、第二疏水開削、上水道整備からなる「京都市三大事業」が行われた。それに続く形で市区改正道路(都市計画道路)事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には伏見市(現在の伏見区中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなくして人口は100万人を超えた。 第二次世界大戦中、六大都市(東京都区部と五大都市)の中では、空襲の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方、広島市や小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)・新潟市などと共に原子爆弾の投下候補都市と位置付けられており、その兵器の効力を知るためにアメリカ軍が最後まで街を温存したという説が存在する(都市選定の経過については日本への原子爆弾投下を参照)。なお、京都市が全く空襲を受けなかったわけではなく、1945年(昭和20年)1月16日から6月26日にかけて、5回の空襲を受けている(京都空襲)。 戦災による人口減は六大都市のうち最少で、1947年(昭和22年)と1950年(昭和25年)の国勢調査では東京都区部、大阪市に次いで京都市が全国3位となった。 財政は、2008年(平成20年)7月23日に門川大作市長が同市の都市経営戦略会議で2011年度の実質赤字比率が推計で27%に達する見通しを発表し、財政再建団体への転落を示唆した。行財政改革により2010年度から黒字が続いたが、2020年、基金が2026年度に払底し2028年度に財政再生団体に指定される財政破綻の恐れがあることを公表した。しかし2022年、税収や国からの地方交付税が大幅に伸びたことから、一般財源の収支均衡を22年ぶりに達成。市長は財政破綻はしないと言明した。 京都市は日本有数の歴史的都市であるにもかかわらず、20世紀末から財政状態の不健全性が指摘されている。要因として、少ない税収(住民税)、市営交通の敬老パス費用や地下鉄建設費の増加、300種類以上の借入金などが挙げられる。なお2022年時点で市職員給与のラスパイレス指数は国家公務員を下回る。また京都市の人口構成の特徴として学生である20代前半の比率が高いことが挙げられるが、学生は非労働力人口であることも影響し、総人口に占める納税義務者割合は43.8%と政令市平均(48.4%)よりも低く、全政令市中で最下位レベルであることも財政悪化の原因の一つとなっている。 他の自治体との比較では、1人当たりの債務に着目して作成されたランキングで全国の自治体のうち2021年度末にワースト7位とする例などがある。 京都市の公式サイト「京都市情報館」の外郭色は紫である。 京都市では慣例により市議会を市会と呼称する。これは大阪、神戸、横浜、名古屋の各市でも同様である。 議員定数は67人である。 ※ 2020年(令和2年)6月8日現在。 京都市は、第二次世界大戦後になると社会の変化や経済優先の政策、モダニズム建築の台頭により徐々に伝統の景観が破壊され、これに対して景観論争がたびたび起こっている。 1964年(昭和39年)に建造された京都タワーは、京都の「第1次景観論争」を引き起こした。また1970年代の経済成長期には、風致地区や美観地区など戦前から継続的になされている景観保護の施策があるにもかかわらず、1950年(昭和25年)に制定された建築基準法により伝統工法が違法となったほか、バブル期には多くの建て替えにより京町家による街並みが徐々に壊されていった。これは「第2次景観論争」といわれている。 山並みも京都の都市景観の重要な要素である。山間地での開発は概ね抑制されているが、1990年代には市内の高層建築によって山への眺望景観が阻害されることになった。 2004年の景観法制定により、これまでの景観条例に実効性・強制力を持たせることが可能となり、2007年には新しい景観政策が施行された。新しい景観政策では、建造物の高さ、デザイン、色などの規制がより強化された。中心市街地でも、建てられる建造物の高さは幹線道路沿いで最大31メートル、それ以外の職住共存地区では最大15メートルとなった。 市街地のほぼ全域に指定されている景観地区では、その地域ごとにデザインの規制がされ、厳しい地区では屋根の形状が「切妻、寄棟、入母屋」であること、屋根の葺き方が「日本瓦又は銅板」であること、屋根の勾配の比率が一定以上一定以下であることなどのかなり具体的な規制に服することになる。建築物を建築など(増改築を含む)する際には、こうした具体的な基準に適合しているかどうか、市長の認定を受けなければならない。 また、眺望景観保全地域として、東寺、清水寺などからの境内の眺めや、円通寺などからの庭園の眺め、鴨川からの大文字の眺めなど、38箇所からの眺望を指定し、その周辺をデザイン保全区域として、標高規制やデザインの規制がされる。 広告物についても、屋上広告物や点滅式照明は市内全域で禁止されているほか、都市景観を乱す恐れのある派手な広告看板は地域によって使える色や大きさが規制されている。日本全国に展開するチェーン店鋪の看板も、鮮やかなコーポレートカラーの使用を控え、他の地域とは異なる比較的地味な配色を採用する事例が多い。一例として、飲食チェーンではマクドナルドやすき家は他地域で紅系統を使用しているが、市内では赤褐色を使用している。小売店では、市内のローソンの一部では看板の青地の表示面積を少なくしているほか、ガソリンスタンドのENEOSは赤系統が採用された店舗用ロゴタイプを使用していない。金融機関では、メガバンクの三菱UFJ銀行やみずほ銀行では本来の地色を使用せず、白地にそれぞれのコーポレートカラーの文字色を配したものを使用している。しかし改修費用の問題もあり、一部に違反状態が残る。屋外広告物条例は2014年9月に経過措置期間が終了し完全施行された。 また、重要伝統的建造物群保存地区をはじめとして市内には木造建築物や細街路が多い。そのための防火対策が進められ、年間の火災発生は200件台で人口当たり件数が全国平均より少ない。火災未満の事象も京都市消防局では無損事故として取り扱い、防火活動に役立てられている。 日本国内の自治体との間で各種の交流を行い、協定を結んでいる。次に示すほか、複数の自治体の間で交流を謳った共同宣言に、龍馬の絆で結ぶ都市間交流宣言(2014年)と西郷菊次郎翁を縁とした交流宣言(2018年)がある。 姉妹都市やパートナーシティの提携を自治体間で結び、諸分野で交流が進められている。 関西広域連合、全国京都会議、イクレイ、世界歴史都市連盟などの自治体の連携組織に参加している。 市内には文化庁、京都迎賓館、近畿農政局などの行政機関がある。主な国家機関などは以下の通り。 2018年(平成30年)度の市内総生産(名目)は6兆6292億円で京都府のおよそ3分の2の規模に当たる。ドルで換算すると約600億ドルであり、ミャンマーのGDPに相当する。市民所得は4兆6694億円、一人当たり318万円である。最大の産業は製造業(工業)であり、市内総生産の経済活動別シェアは製造業、不動産業、卸売・小売業、保健衛生・社会事業、専門・科学技術・業務支援サービス業の順に大きい。 伝統的な京野菜や全国的に有名な宇治茶などの生産が行われる。 任天堂・ニデック・島津製作所・オムロンなどの精密機械や医療器具の生産が盛んである。南区と伏見区にまたがる高度集積地区らくなん進都などへの集積誘導がなされている。 かつて京焼・清水焼などの伝統的工芸品の生産が盛んであった。山科区に清水焼団地がある。 近年はキャンパスプラザ京都や京都リサーチパークと産官学連携で研究・開発を行い、碍子やセラミックス・セラミックファイバーの生産へ転換し、関西電力などの電力会社や京セラなどのファインセラミック企業と提携していく動きが盛んである。 以前より緩和されてはいるが、京都における老舗や伝統的な商店を守るため大規模店舗の出店が旧市街地においては厳しく制限されている。 京都市は、多くの大学が立地する学生の街でもあり、産官学連携が行われているベンチャー企業の街・スタートアップの街としても注目されている。 京都市の電力供給は関西電力(関電)の営業区域となっている。なお、京都市役所は一部PPSのエネットから買電した電力も使用している。市内には零細な発電設備しか存在せず、従来の琵琶湖疎水系の水力 (関西電力管理) に南部地域の中小新規の発電設備を含めても、市内発電による2021年度の供給電力量の割合は0.54%未満である。ほぼすべての消費電力は関西電力と関連企業などによって、京都府以外の近畿各府県と長野県(大町)、富山県(立山黒部)、岐阜県(飛騨)、福井県(若狭敦賀)などから発送電されている。 京都市内には関西電力の6箇所の水力発電所がある。これらは琵琶湖疏水にあり、かつて京都市直営により運営されていた蹴上 (4,500 kW)・夷川 (300 kW)・墨染 (2,200 kW) の各発電所と、京都電燈により設置され、後に京都市に移管された鞍馬川の洛北発電所 (450 kW)・清滝川の清滝発電所 (250 kW)・栂ノ尾発電所 (750 kW) が、日中戦争以降の電力国家管理政策「配電統制令」(昭和16年8月30日勅令第832号)により関西配電(のちの関電)に京都市内の送電設備と共に現物出資されたもので、これが京都市が現在も関西電力の株式419万株を保有する株主の理由でもある。このほか、京都電燈により設置されたものとして、旧京北町桂川上流部の黒田発電所 (980 kW) がある(発電所の名称とカッコ内の発電出力は2015年現在のもの)。 関電以外にも京都嵐山保勝会が2005年嵐山渡月橋上流部に出力 5.5KW の小型水力発電機を設置、夜間「渡月橋周辺」をLED照明で照らし、余剰電力は関西電力に売却している。2013年度には修学院音羽谷の砂防ダム・蹴上インクライン横の放水路・嵯峨越畑の農業用水の3箇所の小水力発電所の建設 が計画されていたが、2020年4月現在、未だに設置されては無い。その代わり石田水環境保全センターに定格出力9kW・発電実績81,480kwh(令和元年度)の小水力発電機が稼働している。 京都市では、国の一般家庭への太陽光発電パネル設置の補助金 1 kW 当たり3万〜3万5千円にプラスして 1 kW あたり2万円補助金を独自に出しているほか、市内の浄水場・下水処理場、青少年科学センター、魚アラリサイクルセンターなど公共施設・市内公立小中学校の増改築時 に太陽光発電パネルを設置している。これらは大規模災害時の非常用電源としても考えられている。さらに2013年度から新山科浄水場と鳥羽下水処理場に1MW、松ヶ崎浄水場に730kW、石田下水処理場に1MWの設備が順次整備された。 また、市民から出資を得て京都市の施設の屋上に太陽光発電パネルを設置して売電で得た収益を出資者に配当する「市民協働発電制度」を創設。2012年度から9か所で実施された。 京都市以外では、NEDO の技術開発機構フィールドテスト事業として1997年にJR東海の京都駅の新幹線ホームの屋根上に 最大出力100kw(平均出力8.5kw)の太陽光発電パネルを設置、1998年8月京セラの新本社の屋上と南壁面 214kw の太陽光発電パネルが設置、1999年京都府営乙訓浄水場の沈殿池の上に 30kw の太陽光発電パネルが設置された。 2012年7月、ソフトバンク関連会社および京セラ関連会社と市の協業により、伏見区内にある市の最終処分場跡地にメガソーラーが設置された。同年9月の設備拡張分と併せた公称出力4.2Mw(平均出力355kw)の出力は京都府内で当時最大だった。2015年には同じ伏見区で最大出力23Mw(平均出力1950kw)のメガソーラーが着工した。 また京阪電気鉄道は淀車庫の遊休地に土地の有効活用として2016年4月に物流倉庫「淀ロジスティクスヤード」を建設し、その屋上に太陽光発電パネルを設置して年間100万キロワット時(平均出力114kw)の電力量を発電している。 京都市内3箇所の クリーンセンター(ごみ焼却処理場)は廃棄物発電が行われ最大出力約35,000kwで発電されていて、入札により売電されている。また 伏見水環境保全センター ではガスコージェネレーション設備で発電した電気で汚水の浄化に利用している。 京都市地域は大阪ガスの供給エリア で天然ガス13Aを京都市内に供給しているが、山科区の清水焼団地は大阪ガスの供給エリアの中にありながら、独自のLPガスの供給網を設備運用している。これは陶器を焼くのにカロリーの高いLPガスの方が大阪ガスの供給する天然ガスより適しているためである。 上水道普及率(2019年度末現在) 琵琶湖疏水からの水を利用する日本初の急速濾過式浄水場「蹴上浄水場」が1912年(明治45年)に完成して2012年で100周年を迎えた。人口と供給面積増加に伴い、山科・九条山・伏見・松ヶ崎・新山科・山ノ内の各浄水場が設置されたが、現在は蹴上・松ヶ崎・新山科の3ヶ所の浄水場に集約された。また蹴上・松ヶ崎・新山科の3浄水場ではソーラーパネルによる太陽光発電が行われていて、2013年10月には新山科浄水場を1000kWまで増設され、2014年度は松ヶ崎浄水場に730kWに増設された。 ちなみに琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市は1947年に『疏水感謝金』の契約を滋賀県と結んだ。これは法的な根拠はない感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としている。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定する。2012年当時の契約は消費税が8%になる予定の2013年度末までの『疏水感謝金』は年間2億2千万円が滋賀県へ支払われていた。2015年度から10年間は年間2億3千万円となった。 一方、市民の節水意識の向上や生活スタイルの変化によって水道使用量は減少し、水道契約世帯の37%が基本料金の使用量10トン以下となっている。また京都市内は伏見をはじめとする「名水の井戸」が数多くあり、水道水を使わず井戸水を使用する宿泊施設 や商業施設・病院などが40事業者もあり、それらの業者にもバックアップ用の大口径水道管が接続されているため収益は無いのに維持費が掛かり9億円の減収となっている。 配水管約2500kmのうち500kmは法定耐用年数の40年を越えるが、年間の更新は27kmであり、更新がなければ20年後に配水管の7割以上が耐用年数を越えると推定される。2011年10月に洛西ニュータウンで大規模な断水事故も起きていて、早急な対策が必要とされる。 このほか左京区大原地区では地元の河川を利用した水道が設置され、2005年4月に右京区に編入された旧京北町では、独自の上水道が整備されていたが、京都市編入後は2011年11月より黒田・弓削の2つの浄水場が稼動を開始した。西京区京都大学桂キャンパス側に府の乙訓浄水場(保津川嵐山付近より取水)があり、向日市・長岡京市・大山崎町へ供給している。 下水道普及率(2019年度末現在) 京都市内の下水道網は、ほぼ全域をカバーしているが、初期に造られた下水道を中心に市内40パーセントで雨水と汚水を一緒に流す合流式で、大雨になると下水道から河川に雨水を放流する放流口が83箇所もあり、このときに汚水が未処理のまま河川に流れ出し悪臭や環境汚染が堀川や西高瀬川などで問題になり、1980年代より大雨時に水を溜めて下水処理場へ送る貯水幹線が堀川通や五条通の地下に整備された。 こうして集められた汚水は桂川東岸・宇治川北岸までが京都市上下水道局の鳥羽・伏見・石田に有る3つの水環境保全センター(下水処理場)と鳥羽水環境保全センター吉祥院支所で、桂川西岸は京都府の「洛西浄化センター」(京都市伏見区と大山崎町に跨る)・宇治川南岸は同「洛南浄化センター」(八幡市)で処理されて淀川水系へ放流され、旧京北町地区は京北浄化センターで処理されて桂川上流部へ放流される。なお京都市山科区の上流部の滋賀県大津市藤尾地区・醍醐小栗栖地区の下水道管が通過する宇治市の六地蔵地区の一部の汚水も、京都市上下水道局の石田水環境保全センターで下水処理されている。 淀川下流では、大阪府下全域と兵庫県の阪神地区で再度浄水として使用されているため、BOD は国の基準・水1Lあたり 20mgを下回る 3mg前後まで浄化され、旧京北町に有る京北浄化センター以外は、通常の下水処理に加えて窒素・リンを取り除く高度処理が行われ、さらに鳥羽水環境保全センター吉祥院支所・伏見水環境保全センターでは友禅染などの作業所から出る染料の色素を除去するためにオゾン処理を導入している。 省エネ対策として過去・昭和17年~25年ごろに下水処理で発生する消化ガスのメタンを利用して、市公用車や市バスを走らせたり、ゴミ処理場で廃棄物発電の電力や熱を利用するなどしていた。現在は最大の下水処理場「鳥羽水環境保全センター」では、処理施設の上部に 1000kW の太陽光発電パネルを設置して2013年度より太陽光発電を導入。石田水環境保全センターでは隣接するゴミ処理場からの廃棄物発電の電気による施設内の電力供給と余熱での汚泥の乾燥減量化していたが、ゴミ処理場の老朽化で2013年2月で休止されたため、2015年度に1000kW太陽光発電パネルが設置され、排水時には9KWの小水力発電が行われている。伏見水環境保全センターではガスコージェネレーション設備を導入して自家発電による施設内の電力供給と余熱による汚泥の乾燥減量化を行っている。 2013年4月現在、京都市のごみ収集は有料で一般ゴミは黄色の専用ゴミ袋を市内のコンビニ・スーパーマーケット・小売店で購入し、それにゴミを入れてごみ収集指定日に道路上の指定場所に出す。これらのゴミ袋は5リットル・10リットル・20リットル・30リットル・45リットルの6種類が用意されている。なお一般ゴミは市内3ヶ所の「クリーンセンター(ごみ焼却処理場)」で焼却されこの熱を利用して廃棄物発電が行われていて入札により売電されている。焼却灰は伏見区醍醐に有る最終処分場「エコランド音羽の杜」に埋め立てられる。 ビン・カン・ペットボトルとプラスティックトレイ・プラ包装材は資源ゴミは透明の専用ゴミ袋の使用が義務付けられていて、それぞれ週1回資源ゴミ専用指定場所に出すことになっている。ビン・カン・ペットボトルは伏見区横大路に有る「南部クリーンセンター」に隣接する知的障害者対象就労継続支援B型事業所『京都市横大路福祉工場』でアルミ缶・スチール缶・ペットボトルに分別されリサイクル業者に払い下げられる。プラスティックトレイ・プラ包装材は知的障害者対象生活介護事業所『京都市横大路学園』でプラスティックトレイ・プラ包装材に分別されリサイクル業者に払い下げられる。 また横大路地区には業務用廃棄物の「魚アラリサイクルセンター」が有り魚粉飼料に加工され、市民や業務用から集められた「使用済みテンプラ油」のバイオディーゼル燃料に加工する工場も有り、加工された燃料は一部のゴミ収集車に使用されている。古紙類の回収は民間の古紙回収業者が充実しているなどとして、京都市としてリサイクルを行っておらず、このため市民は独自に民間の古紙回収業者を頼るか、燃えるごみとして出す必要がある。ただし地域での自主的な集団回収に毎年最大10000円(古紙類のみを回収する場合。その他の品目も回収する場合は最大15000円)の助成金を交付している。 市外局番は、大部分の地域は「075」(京都MA)。ただし、右京区嵯峨樒原、嵯峨越畑では「0771」(亀岡MA)。京北室谷町では「0771」(園部MA)。伏見区醍醐一ノ切町、二ノ切町および三ノ切町では「077」(大津MA)。西京区大原野出灰町では「072」(茨木MA)。京北室谷町を除く旧京北町域は京都市への編入後、2011年12月1日をもって「0771」(亀岡MA)から「075」(京都MA)へと変更された。 京都市には40校を超える大学・短期大学のキャンパスがあり、多様な高等教育機関が集積する学生のまちとしても知られている。大学相互の結びつきを深め、また、経済界との連携を強めるため設立された日本最大の大学間連携組織、大学コンソーシアム京都があるのも特徴的である。2003年(平成15年)以降、毎年10月上旬に京都学生祭典が開催されている。 この他、アメリカの大学も積極的に京都で活動を行っている。1989年(平成元年)9月に設立された京都アメリカ大学コンソーシアム(Kyoto Consortium for Japanese Studies、略称:KCJS)は、アメリカの13大学 からなる組織であり、日本研究を志すアメリカの大学生が毎年約40~50名来日している。また、スタンフォード大学は、KCJSに参加すると共にスタンフォード日本センターを同志社大学今出川キャンパスに設置している。大学共同利用機関法人として国際日本文化研究センターと総合地球環境学研究所がある。また、2015年9月に京都市と公益財団法人大学コンソーシアム京都の協働により京都学生広報部が創設され、京都での学生生活の魅力をPRしている。 近畿圏各地からは出発地によってJR・私鉄各線を使い分けるが、京都駅周辺はJR・近鉄、四条河原町周辺は阪急・京阪のターミナルと、主に二箇所に分散している。また京都市内を発着地とする中長距離バス路線は、多くが京都駅をターミナルとしている。 東海道新幹線・山陽新幹線沿線からは、大阪市内や神戸市内と比べて近畿三空港との距離が離れている(最も近い伊丹空港から京都駅までリムジンバスで約50分)。その一方、東海道新幹線で名古屋以西を走る全ての列車(「のぞみ」を含む)が京都駅に停車することから、新幹線が航空機に対して圧倒的に優位に立っている。 京都府内に空港は存在しないが、かつてはIATA都市コード UKY が設定されていたほか、空港外のチェックイン施設(シティエアターミナル、CAT)が設置されていたこともある。 京都駅が事実上の中央駅として機能している。なお、京阪および阪急の路線は京都駅を通っていないが、両者とも市内のターミナル機能は複数の駅に分散しており(京阪は出町柳駅・三条駅・祇園四条駅、阪急は京都河原町駅・烏丸駅)、中心駅と呼べる存在の駅はない。 市域には、事実上の同一駅や近隣に接する駅の場合でも運営社局によって駅名が相違している事例がいくつかある。 ICカード乗車券はJR西日本ではICOCAおよび相互利用カード(ICOCAの項を参照。電子マネー機能はPiTaPaは利用不可)、嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線では PiTaPa・ICOCAおよび相互利用カードが利用可能(嵐電は専用の「らんでんカード」がある)。また、JR西日本各線および近鉄線ではJスルーカード(現在は自動券売機でのみ対応)、叡電・嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線ではスルッとKANSAIカードに対応している。 京都市を構成する11区の主要駅は以下の通り。様々な利用の起点・目的点として代表される駅である。 市内の移動は路線バスがメインとなる。観光シーズンになると積み残しが続出する状況のルートもあり、渋滞が悪化して所要時間が読めなくなることから、鉄道各社線との乗り継ぎ利用でそれらのリスクを最小限に抑える利用方法が推奨されている。 京都市交通局(市バス)・京阪グループ・阪急バス・西日本ジェイアールバスなどとの間では、従来より回数券の共通化を行っており、地下鉄割引券込みの物も販売されていた。現在では、ICカードなどで市バス・京都バス・地下鉄の乗継割引が行われる。市バス・京都バス(それぞれ一部路線除く)および地下鉄全線が乗り放題の「地下鉄・バス一日(二日)券」が発売されている(他にも市バス・京都バスの均一区間専用の「バス一日券」、市外発の市内各線フリーきっぷ込みの割引きっぷ類などもあり)。 運行地域は、市バスが旧市街地中心で、京阪京都交通は西京区、および西京区・亀岡方面から旧市街地への乗り入れ、京都バスが右京区嵯峨地区と左京区岩倉・鞍馬・大原地区および両方面から旧市街地への乗り入れ、京阪バスが山科区と伏見区醍醐および両方面から旧市街地への乗り入れと比叡山方面、阪急バスが西京区(洛西ニュータウン)、西日本JRバスが旧京北町および北区小野郷・中川地区、右京区梅ケ畑地区から旧市街地への乗り入れとなっているが、一部競合区間が存在する。 この他に、伏見区向島地区を運行する近鉄バス、西京区(桂坂ニュータウン・洛西ニュータウン)を運行するヤサカバス、京都女子大学と京都駅八条口・四条河原町を結ぶプリンセスラインバス、旧京北町を中心に運行する京北ふるさとバス、京都駅とらくなん進都内を巡回する京都らくなんエクスプレス、旧京北町と南丹市を結ぶ南丹市営バス、北大路駅と北区雲ケ畑地区を結ぶ雲ケ畑バスなどがある。 乗車方法は主に後乗り前降り後払いで、運賃は旧市街地周辺は均一制(主に230円)。均一区間外は整理券による区間制となっている。 均一運賃区間の境界バス停 京都駅と名古屋駅を結ぶ名神ハイウェイバスや、首都圏などと京都を含む京阪神地区を結ぶ多くの高速路線バス、ツアー形式の貸切バス(ツアーバス)が運行されている。京都市内を発着地とする高速バス路線の多くは京都駅をターミナルとしている。詳しくは京都駅の高速バス欄を参照。 また大阪市内を発着地として名神高速道路を経由するバス路線のうち、京都駅に発着しない路線では、伏見区の深草バスストップ(京都深草)を京都の玄関口と位置づけているものがある。詳しくは当該項目を参照。 駐輪スペースを確保できれば、自転車や原付含む自動二輪の方が柔軟な移動ができる。 近年、地球温暖化防止の観点から見直されたこともあってレンタサイクルが急増しており、宿泊客に対してこれらの便宜をはかる宿泊施設も増加している。また、ベロタクシーの日本発祥の地でもある。 (越境路線のみ記載) 旧市街地では、平安京造成時の都市計画の名残で、東西・南北に通じる街路をもってあたかも碁盤の目状に区切られており、街路はすべて固有の名称がある。 なお、街路名に付される「通り」の送り仮名「り」は付けないのが通例である。 市内の中心部など旧市街地では、街路(通り)の名称が場所を表すために用いられる。また、多くの交差点名が交差する通り名を合成したものとなっており場所を示す地名として通用している。 主に碁盤の目状に区切られた街路を持つ地域では、街路名の交差とその地点からの東西南北を指すことによって位置を示す方法が一般的に用いられる。 先ず当該地が面している街路名を示し、次にその街路と直近で交差する街路名を示したうえ、その交差点から見た当該地の位置を東西南北で示す。北に向かう場合は上ル/上る(あがる)、南へは下ル/下る(さがる)、東西に向かう場合はそれぞれ東入(ひがしいる)、西入(にしいる)と表記する。 交差点と交差点のちょうど中間地点では、どちらの交差点を基準とするかによって二通りの表記が可能である。また、原則では近い方の交差点を基準とするものの、大通りなどの大きな交差点がある場合はそれを優先することもある。 この表記は、公的な住所(所在地)にも含まれる。一例をあげると、京都市役所の所在地は「京都市中京区寺町通御池上ル(公的には「上る」) 上本能寺前町488番地」となり、寺町通に面し御池通から北に向かった地点を「寺町通御池上ル」で表し、その後ろに町名の「上本能寺前町」と番地を示す。なお、この表記方法は1889年(明治22年)の市制施行時から市域であった場所の大部分 において、住民基本台帳や不動産登記などにおける公的な表記として用いられるものである。 一方、公的な表記ではない場合、町名や番地は省略し、街路名と方向のみにより表記することが通例であるが、近年、街路名と方向による伝統的な表記では、インターネットの地図サイトやカーナビゲーションで検索できないという理由で、街路名を含まない町名と番地だけで住所を表記する事例も増えている。 しかし町域が狭く、膨大な数の町名がある京都では、町名と番地だけの表記では直感的な場所の把握が困難である。例えば、「四条河原町」交差点周辺は繁華街として知られているが、町名の「下京区真町」では理解しづらい。 また、同一区内に多数組の同一町名が存在し、町名のみで場所を特定できないことも多い。例えば中京区内に「亀屋町」は5箇所あり、さらには下京区にも2箇所、上京区にも4箇所ある。このような同一町名は中京区内だけでも32組もある。これらは一つの町の飛び地ではなく、関係のないまったく別の町である。ただし、同じ町名でもそれぞれ郵便番号が異なるため、7桁の郵便番号を記載すれば、街路名がなくとも郵便物は配達される。 交差点の名称は、交差する2つの街路名を合成したものが用いられることが多い。どちらの通りを先に呼称しても意味は通じるが、多くの場合どちらかの通りを先に呼ぶものが固有名詞化している。たとえば「四条河原町」と「河原町四条」は同一地点を指すが「四条河原町」と呼ばれ、交差点やバス停の名称も「四条河原町」である。ただし、どちらの通りを先に呼称するかについて定説は無く、道路上の交差点名の表記では「五条大宮」である一方、バス停の名称は「大宮五条」であるなど不一致がみられる例もある。 一方で、街路名を由来としない交差点名も少なくない。一例として、四条通と東大路通の交差点は「祇園」、西大路通と丸太町通の交差点は「円町」、今出川通と東大路通の交差点は「百万遍」と呼称しているが、これは都市計画による新たな街路が敷設された場合に、交差点名として伝統的な地名を採用したものが多い。 市内に観光地が散在し、2000年以降は年間4〜5千万人台の観光客が訪れる。2020年(令和2年)の通勤通学目的以外の宿泊客数は531万人、うち外国人宿泊者数は45万人だった。近年は英米の旅行情報誌などで旅行先としての認知が進む。国際会議の開催も日本国内では東京に次いで多く、国際会議観光都市に指定されている。 観光大使の任命などを内容とする京都観光サポーター制度が京都市により実施されている。 相互協力団体として「京都市内博物館施設連絡協議会」があり、市内の博物館・美術館などのうち約200館で組織している。また、比較的大規模で公立の4館が「京都ミュージアムズ・フォー」の名で連携事業を行っている。 74品目を京都市は伝統産業として指定し、そのうち経済産業大臣指定伝統的工芸品と17品目が重複、その他から京の手しごと工芸品を選んでいる。 古くは京都が日本の政治・文化の中心となっていて、第二次世界大戦の戦災から免れたことから、国宝の約20%、重要文化財の約14%が京都市内に存在する。 1994年(平成6年)に、近隣の宇治市内と滋賀県大津市内に所在するものを含め、17件の文化財が世界遺産に登録された。 例年行われるイベントには、皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会や全国高等学校駅伝競走大会、京都マラソンなどがあり、ロードレースの陸上競技の人気が比較的高い。日本初の駅伝の記念碑がある。 また、トップアスリートや優秀な指導者などのスポーツ関係者に対して、京都市スポーツ賞や京都スポーツの殿堂による表彰が行われている。殿堂入りの人数では野球やラグビー関係者が多い。 スポーツに関する神社もあり、白峯神宮や下鴨神社の雑太社などが挙げられる。
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GMT (曖昧さ回避)
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グリニッジ標準時
グリニッジ標準時(グリニッジひょうじゅんじ)、グリニッジ平均時(グリニッジへいきんじ、イギリス英語: Greenwich Mean Time, GMT)とは、グリニッジ天文台・グリニッジ子午線(経度0度)における平均太陽時(mean solar time)を指す。 かつてグリニッジ平均時は国際的な基準時刻として採用され、イギリスを含む世界各地域の標準時(standard time)もこれを基準とした。なお現在の国際的な基準時刻は概念を修正した協定世界時 (UTC) を用いている。 こうした事情からUTCとGMTが近似的に同一視される事もある。 用語“G.M.T.”および“Z”(通話表で使用する語は Zulu)は、航法や通信の分野で UTC と一般的に同義語として認められる。 また、GMT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では UTC の意味で使用される。一方、GMT は天測航法及び測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用される。ただし、GMT は適切な名称(UTC、UT1 または UT)で置き換えられる。 グリニッジ平均時は伝統的に経度0度と定められているイギリスのロンドンにあるグリニッジ天文台での平均太陽時(Mean solar time)である。 イギリス帝国が海運国家として発展すると、1714年に経度法が制定され海上における経度発見法が盛んに研究されるようになる。1761年、ハリソンが温度や揺れに強いクロノメーターを開発する。また、1765年にネヴィル・マスケリンがグリニッジ天文台台長に就任すると、直ちに航海用に一年間の航海暦の編纂に着手し、1766年に初めて翌年の航海暦を「海上に於ける経度発見法委員会」から刊行する。 すると、イギリス船の船員達は航海中にグリニッジ子午線からの現在の経度差を計算するために、自分達の時計をグリニッジ平均時(GMT)に合わせるようになった。ただし、船上で通常の生活用途に使われる時計には、従来通りに船上の太陽時が用いられた。この習慣と、他国の船で使われていたネヴィル・マスケリンの月距法(航海暦に掲載される天体の視位置と船上での月の観測位置から経度を求める方法)とが結び付いて、やがて GMT は海域における世界共通の経度によらない基準時刻として使われるようになった。 1884年にワシントンD.C.で開催された国際子午線会議でグリニッジ子午線が本初子午線として採択されると、陸域でもほとんどの国の時刻帯はこのGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(または遅れた)時刻を標準時として採用した。 1911年には、パリで開催された国定暦本編製に関する国際的な天文学者会議で、事情の許す限り、全ての暦にグリニッジ時を標準とするものを用いることが決議される。 1912年10月、パリに於ける万国協同報時法会議で、無線電信による報時の統一が可決され、1913年7月1日からは皆グリニッジ時(常用時)による事になる(日本は不参加)。 1918年、当時は大洋を航行する艦船においては(経度測定用のクロノメーターとは別に)日常使用する時刻を毎日正午に船の位置する(と考えられる)子午線の地方時に合わせていたが、イギリスの通商部においてこの慣習を改めて海上においても、陸上において当時の多くの国が採用している標準時と同様な時刻系を採用することの可否について関係者の詳細な意見を集めた。 1926年10月、11月に、国際天文学連合 (IAU) と国際測地学・地球物理学連合 (IUGG) の主催で万国経度観測が実施され(日本も参加)、この際に無線電信より国際報時局(BIH、現IERS)の学用報時と同じ形式でグリニッジ平均時が発信され、その時差を測定することにより経度が比較された。 こうして、19世紀から1920年代までにグリニッジ平均時は航海以外の、暦や天文学、報時、測地学などの分野でも世界共通の経度によらない基準時刻としての実績をあげていった。 なお、グリニッジ天文台からの時報は1924年2月5日に初めて開始された。 天文学者はクラウディオス・プトレマイオスの創始以来、1日の始まりを正午とする「天文時」(astronomical time)を使っていた。これは夜間観測中に日付けが変わる不便を避けるためであった。 しかし、1917年にイギリスにおいて航海者から、航海暦に記載されている天文時を廃止して日常使用する常用時に統一すべきとの議論が盛んになった。航海者側の苦情の理由は、天文時と常用時を併用すると計算が不必要に複雑となることや、間違いやすいことであった。この様な苦情は、第一次世界大戦中で何事も簡明早急を要することから、当局者の注意を引いた。 その結果、イギリスのフランク・ダイソン及びハーバート・ターナーがこれに関して賛否の意見を各国天文学者に求めることになった。 そして1919年に、アメリカ合衆国、イギリス及びフランスの合意により、1925年1月1日から天文日を常用日と等しく正子(真夜中)から数えることに決定し、各国の天文暦もその方針に従って編成されることになった。 1921年にこの変更に関して、変更前と同様に G.M.T.(グリニッジ平均時)と呼ばれると混同する事があり不都合であるとして、トリニティ・カレッジ教授のヘンリー・プラマーなどは正子から数える時を G.C.T.(グリニッジ常用時、Greenwich Civil Time)または G.S.T.(グリニッジ標準時、Greenwich Standard Time)と記すべきであると主張した。これに対して、グリニッジ天文台長のダイソンは、既に一般社会では G.M.T. が正子から始まる時刻として定着しており、航空省が気象電報を発するときに用いる G.M.T. も正子に始まる時刻であるし、またイギリス陸軍が24時間制を採用して以来午前と午後の代わりに呼ぶ時刻はグリニッジ平均時であるとして一蹴した。パリ天文台のギヨーム・ビゴルダンは、「天文学者が誤解のおそれがあるときは G.M.T. (Civil) と書くことができるし、一般市民が正子から始まると信じているのに天文学者が、それは正午に始まると規定したのだと力んでもしかたがない。単に衒学的だと失笑されるだけだ。G.C.T. や G.S.T. などはよくない(G.S.T. は夏時間と間違う)」などと反論していた。 その後、1922年5月にローマで開かれた第1回国際天文学連合 (IAU) の決議によって、プトレマイオス以来、千数百年間にわたって慣用されてきた天文時を1925年1月から万国一斉に廃止し、12時間繰り上げて正子に始まる常用時を天文学でも用いるようになった。 ただし、ユリウス日については、1925年以降もその始まりを正午とし続けていることに注意が必要である。 1925年の国際天文学連合 (IAU) 第2回会議で、従来までの正午からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して、正子から始める時に別の名称をつける提案が議題となり賛否の意見が闘わされる。しかし、会議では呼称については未定で、ユリウス日 (JD) は正子から始めずに正午から始めることになった。 その後、1928年の国際天文学連合 (IAU) 第3回総会で、「用語 グリニッジ常用時(英: Greenwich Civil Time (G.C.T.))、および世界時は正子より計るグリニッジ時を明確に示す」ことが決議された。天文学者はどちらの意味でも G.M.T. の語を使用しないことが勧告され、特にグリニッジ正午より計った時を用いることを望む場合は、グリニッジ平均天文時(英: Greenwich Mean Astronomical Time (G.M.A.T.))とすることなる。 さらに1935年の国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 (G.M.T.) に、「世界時」を国際的に使用することを採択し、将来はグリニッジ常用時 (G.C.T.) という用語を使用しないことが決議された。 そして、1948年の国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ正子より起算した平均太陽時を示す際に、名称「世界時」だけを使用することを勧告する。 こうして、天文学者が使用する用語はグリニッジ平均時から世界時に移行したが、一般市民は常用時としてグリニッジ平均時の語を引き続き使用する。 1970年に英国ブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会において、第31委員会(時)の決議で採択された勧告6.2で、用語“G.M.T.”および“Z”は、航法や通信の分野で協定世界時 (UTC) と一般的に同義語として認められる。 1972年1月1日からは、一般市民が使用する常用時としてのグリニッジ平均時 (GMT) は協定世界時 (UTC) として定義されており、閏秒の挿入または減算による現行の調整方法が採用されている。 なお、1976年にグルノーブルで開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)及び第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では UTC の意味で使用されること、また、GMT と UT は天測航法及び測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認める一方で、GMT は適切な名称に置き換えられることが強調される。 標準時の考え方、すなわち地方全体で共通の基準時刻(基準地点の平均太陽時)を用いる仕組みは、イギリスで鉄道敷設の発展とともに、「鉄道時間」として生まれた。ロンドンの時刻であるグリニッジ平均時がこれに用いられた。 現在、イギリスの標準時は、UTCそのもの(UTC+0)を採用しているが、現在でも伝統を守ってグリニッジ平均時(Greenwich Mean Time)と呼ばれている。また西ヨーロッパ時間 (Western European Time、WET)とも呼ばれる。 Wikipediaの夏時間のページ冒頭の地図で濃い青色に塗られている国では、夏季には時間を1時間進めるサマータイムというものを行なっている。イギリスではこの時期の時間を英国夏時間(British Summer Time、BST)、アイルランドではIrish Summer Time(IST)と呼ぶ。薄い青色で塗られている国(アイスランド)では一年中 UTC/GMT/WET を用いる。
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宇宙作家クラブ
宇宙作家クラブ(うちゅうさっかくらぶ 英語: Space Authors Club)は、1999年創立の任意団体で、作家やフリーライターなど、宇宙開発に関心を持つ同人クリエイター集団。宇宙開発の取材が個人では難しいため作られた。 所属している作家らが取材したロケットの打ち上げなど、様々な宇宙開発に関するできごとを、ニュースとして宇宙作家クラブの Web サイトから発信している。 (その他2009年1月現在、133名が加盟。公式ホームページメンバーリストを参照のこと)
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本初子午線
本初子午線(ほんしょしごせん英: Prime meridian)とは、経度0度0分0秒と定義された基準の子午線(経線)を指す。1980年代以降、国際的な本初子午線としてIERS基準子午線が使用されている。「本初」とは「最初」「首位」という意味である。 赤道や地理極という明確な基準のある緯度と異なり、経度には明確な基準が自然には存在しないため、本初子午線は人為的に設定する必要がある。過去には、世界各地で様々な本初子午線が使用された。加えて、経度の測定には技術的な困難があった。 本初子午線は、180度経線とともに大円を形成する。この大円により、地球表面は2つの半球に分けられ、本初子午線の東の半球を東半球、西の半球を西半球という。 現在の国際的な本初子午線はIERS基準子午線(IERS Reference Meridian)である。 IERS基準子午線が策定される以前(1960〜1970年代まで)の国際的な本初子午線としては、グリニッジ天文台を基準としたグリニッジ子午線が長く使われた。これはIERS基準子午線から西に5.3101秒、距離にして102.478mの位置を通過している。これら2つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも通俗的な説明としては「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられることがある。 なお、日本の測量法体系でも、経度の基準として国際地球基準座標系 (ITRF) における経度0度の子午線を採用していると考えてよいが、厳密には現代の座標系の定義はそうではない。現代では方向の基準は宇宙測地観測局の位置から逆に定義されている。 日本において「本初子午線」を定めた法令は以下のとおりである。この規定は現在も効力がある。 IERS基準子午線 (IRM:IERS Reference Meridian) は国際地球回転・基準系事業 (IERS) によって定義、保持されている測地系である国際地球基準座標系 (ITRF) のX軸方向である。アメリカ国防総省の運営するGPSの基準座標系WGS84の基準子午線もこれを用いている。 IERS基準子午線を基準にすると、グリニッジ天文台のグリニッジ子午線(エアリーの子午環)は1989年時点で西に角度で5.3101秒、距離にして102.478 m 離れた位置にある。このずれは、グリニッジ子午線がグリニッジにおける局所的な鉛直を用いた局所座標系であったために生じたものである。IRMは地心座標系であり、IRMを含む平面は地球の重力中心を通る。 GPSの前身となる最初の全地球航法衛星システムであるトランシット(アメリカ合衆国が1960年前後から開発)は、1960年に策定された全地球的測地系(地心座標系)であるWGSに基づき、その基準は北米測地系1927による基地局座標を用いた。アメリカ合衆国は1912年より公式にはグリニッジ子午線を本初子午線として採用していたが、トランシットを用いて1969年にグリニッジ子午線の位置を測定したところ、WGSは(また言い換えれば北米測地系をそのままで地心座標系とみなすことにすると)、グリニッジ子午線から、およそ102m東にずれた子午線を本初子午線としていることが明らかになった。これがIERS基準子午線となった。 IERS基準子午線の方向は地球の大陸プレートの動きの加重平均に追従する。 国際水路機関は1983年にすべての海図で国際地球基準座標系を採用している。 本初子午線は、北極点から北極海、ヨーロッパ、地中海、アフリカ、大西洋、南極海、南極大陸を通過して南極点までを結ぶ。 グリニッジ子午線の位置は、1851年に当時の台長ジョージ・ビドル・エアリーが子午環(通称「エアリー子午環」)を設置し、以降、観測を行った地点と定義されている。 それ以前は、第2代王室天文官・エドモンド・ハレーが1721年に最初に観測した位置を、子午線儀を使って継承していた。その地点は、フラムスティード・ハウスとウェスタンサマーハウスの間の天文台の北西端の角であった。その地点(現在はフラムスティード・ハウスの中に包含されている)はエアリーの子午環から西に43メートルの場所であり、時角にして約0.15秒の距離にある。 1884年10月、世界で共通に使用する「経度0度」を決めるためにワシントンD.C.で開かれた万国子午線会議において、25か国41名の代表者によって、エアリーの子午環の位置、すなわちグリニッジ子午線を国際本初子午線とすることが採択された。 グリニッジ子午線は、地表から天文観測によって位置が決定され、地表の重力方向の鉛直線によって指向された。この天文観測に基づくグリニッジ子午線およびグリニッジ平均時は、当初は月距法(英語版)によって、後に船でクロノメーターを運ぶことによって、その後には海底ケーブルによる電信によって、最後には無線信号によって、世界中に伝えられた。 経度の記法はアレクサンドリアのエラトステネス(紀元前276年ごろ - 紀元前195年ごろ)とロドスのヒッパルコス(紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)によって考案され、地理学者ストラボン(紀元前63年ごろ - 23年ごろ)によって数多くの都市に適用された。しかし、世界地図に一貫性のある経度を使用したのは、プトレマイオス(90年ごろ - 168年ごろ)の著書『ゲオグラフィア』(Geographia、地理学)が最初であった。 プトレマイオスは、"Fortunate Isles"と呼ばれたカナリア諸島(西経13 - 18度)などの大西洋の島々を基準とした。アフリカの最西端(西経17.5度)より西に本初子午線を設定することにより、プトレマイオスの地図には負の経度が現れない。プトレマイオスの本初子午線は、ウィンチェスター(およそ西経20度)より西に18度40分の子午線に相当する。このときよく用いられていた経度観測法は、異なる国での月食の観測時間を比較する方法であった(月食は世界中で同時に観測されるため)。 プトレマイオスの『ゲオグラフィア』は、その地図とともに1477年にボローニャで初めて印刷された。そして、初期の地球儀はプトレマイオスの地図を元に作成された。しかし、「自然の」本初子午線を画定するという試みは引き続きあった。クリストファー・コロンブスは1493年に、大西洋の中央のどこかで方位磁針が真北を指した(磁気偏角が0になった)と報告した。そして、この報告を元に、1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルの間で新世界の境界が定められた。トルデシリャス条約で定められた境界は、ベルデ岬から西に370リーグの子午線に設定された。これがディオゴ・リベイロ(英語版)の1529年の地図に表されている。 遅くとも1594年のクリストファー・サクストンのころまで、アゾレス諸島のサンミゲル島(西経25.5度)が本初子午線として使用されてきたが、この頃から、磁気偏角が0になる線は子午線に沿って直線状に伸びるものではないということがわかってきた。 1541年、メルカトルは41cmの地球儀を作成し、カナリア諸島のフエルテベントゥラ島(西経14度1分)を通る箇所に本初子午線を引いた。彼の後の地図では、磁気の仮説に従ってアゾレス諸島を本初子午線とした。 しかし、1570年にオルテリウスが最初の地図を刊行する頃には、ベルデ岬のような他の島が本初子午線として使用されるようになってきた。オルテリウスの地図では、経度は今日のような西経180度から東経180度ではなく、0度から360度であった。この経度は18世紀まで使用された。。 1634年、フランスの政治家リシュリューは、パリから西に19度55分の所にあるカナリア諸島最西端のフェロ島を本初子午線とした(フェロ子午線)。不幸にも、フランスの地図製作者ギョーム・ドリル(英語版)がパリとフェロ島との経度差をちょうど20度に丸めていたことから、フェロ子午線がフランスの本初子午線に採用されることとなった。 18世紀初頭、ジョン・ハリソンによるクロノメーターの開発と、正確な星図の発達により、海上における経度の測定が改善された。星図については特に、初代イギリス王室天文官のジョン・フラムスティードが1680年から1719年にかけて作成し、彼の後継者であるエドモンド・ハレーが広めた天球図譜が多くの航海者によって使われた。これにより航海者は、トーマス・ ゴッドフリー(英語版)とジョン・ハドリーが開発した八分儀を使用して、月距法(英語版)によってより正確な経度の測定が行えるようになった。1765年から1811年の間、ネヴィル・マスケリンは49版の『航海年鑑』を刊行した。それは、グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線を基準とするものであった。マスケリンの航海年鑑は、月距法を実用的なものにしただけでなく、グリニッジ子午線を全世界の基準点とした。航海年鑑のフランス語訳では、マスケリンの計算結果をパリ子午線基準に換算していた。 その後、鉄道網の整備が始まると陸域でも地域共通の時刻が必要とされはじめた。イギリスではロンドンの時間であるグリニッジ平均時が鉄道の運行に用いる「鉄道時間」として採用が始まった。その後、イギリス全土で共通の時刻を用いるよう収斂していった。これはのちの標準時の考え方の元となった。 1850年、アメリカ合衆国は旧海軍天文台子午線を本初子午線に採用した(航海用にはグリニッジ子午線を採用)。アメリカは領土が東西に長く広い鉄道網を持っていたため、国内で統一した子午線を使うことが必要とされていた。 一方1875年、国際地理学会はカナリア諸島フェルロを基点とするフェロ子午線を基準子午線とすることを決議した。全世界的に採用するには特定国の首都などは避けたほうがいいという主張を受け入れたものだが、実際にはカナリア諸島を基点とするとパリを基準にするのとほぼ同じ意味になる(経度差がちょうど20度のため)という理由であった。しかし、この基準子午線はフランス以外の国には非常に不評だった。1881年に再度開かれた国際地理学会では、カナリア諸島は基点としては不適で重要な観測拠点となりうる天文台を基点とするべきだという主張が行われた。 1884年10月13日、アメリカ合衆国の提案で国際子午線会議がワシントンD.C.で開かれた。投票の結果、グリニッジ天文台を基点とする案が採用され、グリニッジ子午線は国際的な基準子午線となった。この会議には日本からは菊池大麓が参加した。フランスは中立国を基点とするよう主張したがフランスの提案地には重要な天文台がない場所が多かったため、この提案は顧みられず、フランスは決議に棄権した。他にブラジルも棄権し、ドミニカ共和国は反対したが、他国は賛成した。 日本は、1886年7月13日の勅令「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」で、グリニッジ子午線を本初子午線として採用した。それ以前の日本では、江戸時代に京都を通る本初子午線が用いられたことがある。明治初期には本初子午線についての対応が統一されておらず、海軍がグリニッジ子午線を本初子午線とする方針を示す一方、内務省は東京を通る本初子午線を定めていた(#日本における本初子午線参照)。 フランスは1911年3月9日に、アメリカ合衆国は1912年8月22日にグリニッジ子午線を本初子午線として公式に採用した。 日本では、江戸時代以前には暦の計算の基準を京都に置いていた。江戸幕府が二条城西側の三条台村に改暦所(京都改暦所、西三条改暦所などとも呼ばれる。現在の京都市中京区西ノ京西月光町)という役所を設けると、改暦所を通る子午線が基準として使用されるようになった。1821年に完成した伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』は、改暦所を通る子午線を「中度」(経度の基準)として示している。伊能忠敬は経度の測定も試みたが、不十分であった。 明治時代に入ると、日本における暦の計算や測量の基準となる子午線は東京に置かれるようになった。しかし、東京のどの地点を基準とするかについては変遷があった(経度にして数秒の差異が出る)。また、明治初期にはこれらの業務に内務省や海軍省など複数の機関が関わっており、本初子午線に対する考え方も統一されていなかった。1869年(明治2年)1月に日本最初の洋式灯台である観音埼灯台の位置を布告する際にはパリを経度の初度(パリ子午線)としているが、1871年(明治4年)5月に天保山灯台の位置を告示する際にはグリニッジ天文台の位置を経度の初度(グリニッジ子午線)としている。 海図作成を必要とした海軍は、1871年(明治4年)7月に水路局を設立。1872年(明治5年)4月24日の太政官布告130号で、海軍省ではグリニッジ子午線を本初子午線として採用し築地に設けた海軍省標竿を東経139度45分25.05秒と定め、これを日本の測量の基準とするという方針が布告された(測量の基準点の変遷については、日本経緯度原点参照)。 一方、国内行政のための地図製作も必要とされ、工部省測量司では1872年(明治5年)3月に測量師長マクヴィンらの指導のもと東京府下で三角点の設置と測量を開始する(日本の三角測量の歴史参照)。この時、皇居(江戸城)本丸の富士見櫓に最初の三角点が置かれた。工部省測量司は1874年に内務省に移管され、のちに組織再編により内務省地理局となって、測量と地図作成の業務に当たった。内務省地理局が作成した地図では、基本的には富士見櫓を通る子午線が0度(本初子午線)とされている。 編暦(暦の編纂)の分野では、1873年(明治6年)の太陽暦導入に際し「政府刊行ノ太陽暦ハ東京皇城ノ経緯度ヲ初度ト定ム」という記述が『水路部沿革史』に見られる。当時政府が発行した暦には「時差表」が付され、「東京」を初度とする国内主要都市の経度が記された。ただし、過渡的には旧江戸幕府の浅草司天台の位置も用いられたようである。1875年(明治8年)以降、編暦業務は内務省に移され、1877年(明治10年)には内務省地理局が管掌することになった。 こうして地図と編暦を扱うことになった内務省地理局は、1877年(明治10年)に赤坂区溜池葵町(内務省地理局測量課所在地。現在の港区虎ノ門二丁目)に観象台(天体観測施設)を設けた。1878年(明治11年)作成の『実測東京全図』などでは葵町を通る子午線が本初子午線とされ、明治11年暦以降の暦でも反映された。 内務省では江戸城旧本丸天守台に観象台を移転する計画を立て、1881年(明治14年)に認められた。1882年(明治15年)12月27日には内務省より「経度ノ義ハ東京赤坂区溜池葵町三番地ヨリ起算致候処、今般旧本丸内天守台ヲ以テ経線零度ト相改候」との告示が出された(内務省告示甲第16号)。 なお、天体観測・測量・編暦という隣接・重複する業務が複数の機関で行われていたことからは、さまざまな問題が生じた。とくに、内務省と海軍省とで(グリニッジ子午線を本初子午線とした際の)経度の値が異なる問題があったが、1885年(明治18年)9月には両者の間で調整が行われ、経度が統一された。 1884年の国際子午線会議を受け、1886年(明治19年)7月13日の勅令「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」で、グリニッジ子午線を本初子午線とすることが定められた。 地球と同様に、他の天体の本初子午線も人為的に決められたものである。クレーターのような目立つ目標物はよく本初子午線に設定される。また、磁場に基づいて決められることもある。
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世界時
世界時(せかいじ、英語: Universal Time、フランス語: Temps Universel、ドイツ語: Welt Zeit、略語:UT)とは、本初子午線上の平均太陽時を用いることにより世界で一意となる形に定義した時刻系である。地球の自転に基づく時刻系の一種である。 現在はUT1を指す(天測航法および測量における暦の独立引数)、もしくは協定世界時 (UTC) を指す(法令、通信、常用など)。 世界時は、グリニッジ平均時 (Greenwich Mean Time, GMT)、すなわちイギリスのグリニッジを通る経度0度の子午線(本初子午線)上での平均太陽時を部分的に継承している。現在のような常用時(正子から計る)のグリニッジ平均時を世界で一意的に用いるよう導入・採用した時に、それを「世界時」と呼ぶことが始まった。 世界時 (UT) は地球の自転に基づく時刻であり、子午線を通過する天体を毎日観測することによって測定することができる。 天文学者は測定方法として太陽を観測するよりも(太陽時)、恒星の子午線通過を観測する方(恒星時)をよく用いる。恒星を使う方がより精度のよい観測を行えるためである。今日では、VLBIを用いて遠方のクエーサーを観測することで UT を決定している。実際には国際原子時 (TAI) との差を求めており、マイクロ秒の精度で決定が可能である。 地球の自転と UT は国際地球回転・基準系事業 (IERS) によって監視されている。時刻標準の制定には国際天文学連合 (IAU) も関わっているが、時刻標準を通報する方式に関しては国際電気通信連合 (ITU) が責任を有する(時刻標準の通報の実施は各国の国家標準機関)。 地球の自転は不規則であり、かつ1日の長さ (LOD:Length of Day) も長期的(数百年の年数)には月の潮汐加速などによって非常に僅かずつだが長くなっている。国際単位系における1秒の長さは1750年から1890年までの月の観測から決められた値に基づいているため、平均太陽日の現在の平均値は86400 (=60×60×24) SI秒とはミリ秒単位の差があるものとなってしまった。 地球の自転の観測によるLODは、短期的(10年~50年程度の年数)には、常に86400秒より長くなり続けているわけではない。1970年代にはLODは86400.003秒程度(86400秒よりも3ミリ秒ほど長い)であったが、2000年から2012年までは、86400.001秒(86400秒よりも1ミリ秒ほど長い)以下に短くなっている。1999年以降は、毎年6月~8月には、LODは86400秒より短くなる期間さえある。 LODが86400秒より数ミリ秒だけ長いことが、閏秒を挿入する理由である。すなわち、LODが86400秒より1ミリ秒だけ長いとすると、1000日間の累積で1秒に達する。したがって、1000/365 = 2.74年であるので、約3年ごとに閏秒を挿入する必要があるのである。 UT の刻みの不規則性のゆえに、天文学者は暦表時を導入した。暦表時は現在は地球時(TT:Terrestrial Time)に置き換えられている。地球時 (TT) = 国際原子時 (TAI) +32.184秒 である。 原子時の一形態である太陽系力学時 (TDB:Barycentric Dynamical Time) は、主に2つの理由から惑星やその他の太陽系天体の天体暦を作る際に使われる時刻である。第1の理由は、これらの暦は惑星運動の光学・レーダー観測と結び付いており、一般相対性理論の補正の下でニュートンの運動方程式が成り立つようにTDB時刻系が作られているためである。第2は、地球の自転に基づく時刻系は一様に進まないので太陽系天体の運動の予測には使い難いためである。 世界時にはいくつかの種類が存在する。 国際天文学連合 (IAU) は、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認めているが、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告している。 UT0は、天文台で恒星や銀河系外電波源の日周運動の観測、あるいは月や人工衛星の継続観測によって決められる世界時である。UT0 は地球の極運動の補正を含まない。極運動は地球上の任意の場所の地理学的位置が数メートルずれる原因となる。そのため、異なる天文台で同時刻に求めた UT0 は異なる値になる。したがって、UT0 は厳密な意味では"Universal"ではない。 UT1は、UT0 から観測地の経度に表れる極運動の効果を補正して計算される値である。UT1 は地球上のどこでも同じ時刻であり、静止座標系に対する地球の真の回転角を定義する。地球の自転の角速度は一様ではないため、UT1 は1日当たり±3ミリ秒程度の不確定性をもつ。 なお、国際天文学連合 (IAU) は、閏秒によって UT1 の0.9秒以内に UTC を維持する現在の方法がSI秒と安全な天測航法の必要性を満たすことの両方を提供することを踏まえて、航空・航海暦は、UT1 を引数として刊行することを勧告している。 UT2は UT1 を均した時刻である。すなわち UT1 には年周期・半年周期などの成分が含まれていることが分かっているので、以下の経験に基づく補正項を追加することによって大部分を取り除くことができる。ここでの t は太陽年で表した時間である。 1960年代は天文航法、測地天文、人工衛星を始め惑星、衛星の観測に必要とされたが、現行方式のUTCが始まった1972年以降はほとんど使われる場面がない。 UTC(協定世界時)は、市民向けの常用時が基準としている国際標準である。UTC は原子時計で測定され、必要に応じて閏秒と呼ばれる1秒を挿入または除去することによって UT1 との差 (DUT1) が0.9秒以内に保たれるように調整されている。現在までのところ、閏秒の値は常に正(挿入)である。1秒未満の精度が必要でなければ、UTC を UT1 の近似として使うことができる。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業 (IERS) のWebサイトで見ることができる。 1925年1月から、正午から始まる天文時を廃止して、正子に始まる常用時を天文学でも用いることになった際に、従来までの正午からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して正子から始める時に別の名称をつけるべきとの議論が盛んになる。 そして、1925年7月15日に英国ケンブリッジで開かれた国際天文学連合 (IAU) の第2回会議で正子から始めるグリニッジ時の名称が議題となり、賛否の意見が闘わされるなかでフランスのアンドワイエ教授 (fr:Marie-Henri Andoyer) から Universal Time という呼称を使ってはどうかと言う意見が出される。しかし、会議では呼称については未定であり、かつユリウス日 (JD) については正子から始めずに、これまで通り正午から始めることになった。 ただし、国際会議ではグリニッジ時の正式な名称については決定的な結果を得なかったが、ドイツの出版物では1925年の始めから Weltzeit(ドイツ語の世界時)と呼んでおり、コペンハーゲン回報、大英天文協会回報、ハーバード回報でも天文会議後正式に決定されるまで「万国時」Universal Time (U.T.) と呼ぶことを発表した。 その後、1928年7月にライデンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第3回総会において、7月12日に第4委員会(天文暦部 (Éphémérides))のアイケルベルガー委員長の発議で「グリニッジ常用時 (Greenwich Civil Time (GCT))、および世界時(Weltzeit (W.Z.) または Universal Time (U.T.))は正子から計るグリニッジ時を明確に示す。」ことが決議された。 さらに、1935年7月10日から7月17日までパリで開催された国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 (G.M.T.) に、世界時(Universal Time (U.T.)、Temps Universel (T.U.)、または Weltzeit (W.Z.))を国際的に使用することが採択された。 そして、1948年にチューリッヒで開催された国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ正子から起算した平均太陽時を示す際に、名称「世界時」(Temps Universel; Universal Time; Weltzeit) だけを使用することを勧告する。 これらの決議により、天文学者が使用する世界共通の経度によらない基準時刻は、グリニッジ平均時から世界時へと移行した。 1930年代に、水晶時計の安定度の向上や無線報時信号の利用による国際時刻比較の精密化につれて、地球の自転の角速度の季節的変化や経度変化などが検出される。1950年頃には、世界時の各種短周期変動が問題とされ始め、既知の変動成分を補正することになる。1955年にダブリンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第9回総会で、第31委員会(国際報時局)はより精密な時の決定のため国際的に共通な補正を使用する目的で、極変化の外挿値と地球の自転の角速度の季節的変動の予測値を国際報時局(BIH、現IERS)で決定して各国共通にこの値を用いることを決定した。そして、観測から直接得られた生の世界時を UT0、これに経度変化の補正を加えたものを UT1、さらにこれに季節的変化の補正を加えたものを UT2 と名付けてそれぞれ区別することになり1956年から実施された。そのときから UT2 が代表的な世界時として正式に用いられる事に決まった。 1950年代にセシウム原子時計が実用化が進み、各国の標準電波もこれを基準として電波を発射するようになる、一方、人工衛星の国際観測も盛んとなり、これらの全世界データを整約するために、国際的に統一した方法で UT2 の時刻を利用できることが強く望まれるようになる。 1959年にアメリカとイギリスが、標準電波の周波数を原子周波数標準に合わせることや報時信号を同期することを打ち合わせ、その後各国を勧誘した。 1960年の国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年にバークレーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第11回総会では、報時信号の国際同期に関する問題が討議され、具体化された(日本は1961年9月から実施)。 そして、1964年にハンブルクで開催された国際天文学連合 (IAU) 第12回総会の決議で、報時は UT2 に近似するように1年間一定の周波数オフセットと 0.1 秒のステップ調整をおこなうこととし、オフセットおよび秒信号の修正の量と時期は国際報時局(BIH、現IERS)が決定して、報時信号を国際的に同期する協定世界時 (UTC) 方式が勧告された。 なおこの方式は現行の方式とは異なるので、区別するために旧協定世界時と呼ばれる。 1962年に国際報時局(BIH、現IERS)の主導により天文台の採用経度の第1回国際的全面改定が行われた。国際報時局(BIH、現 IERS)を中核とする国際報時事業に参加する天文台は年とともに数を増してきたが、新しく参加する天文台は、無線報時信号を仲介として既設の天文台との時刻比較を行い、その天文台の採用経度を参考に新たな天文台の経度値を決める手順をとったため、全体として採用経度系が不統一となっていた。採用経度値を頻繁に変更すると、後からの資料の整理計算に甚だしく不利となるので、それまで極力避けられてきたが、観測精度の向上、時計や無線報時の時刻比較精度の向上につれて、いままで採用経度系の杜撰さが目立つようになったので、採用経度系を統一することになった。このときの経度の極原点は、国際報時事業に参加する天文台の採用経度系から平均的に規定され、その後に採用される慣用国際原点(CIO、1900年から1905年までの6年間に極運動で移動した北極の平均位置)とは無関係であった。この際、各国の天文台は採用経度値の変更に応じて UT1 についても変更を要請されており、東京天文台の場合は -8 ms であった。こうして各天文台ごとの UT1 も、それらを国際報時局(BIH、現 IERS)で整約・加重平均して算出する UT1 もミリ秒単位の不連続が発生した(UT1 に補正を加えた UT2 も同様)。 また、1964年にハンブルクで開催された第12回国際天文学連合 (IAU) で天文常数の変更が批准され、1968年から実施された。この天文常数の変更の中に光行差常数の変更があったため、天文台からみた恒星の見かけの方向の解釈が変更されることになり、採用経度の変更とは別に世界時に不連続が発生する。東京天文台での UT1 の不連続は +1.8 ms であった。 さらに、1967年8月にプラハで開催された第13回国際天文学連合 (IAU) の決議(第19委員会、地球回転)により、北極点として慣用国際原点 (CIO) が採用される。これに伴い、国際報時局(BIH、現IERS)での統一計算の結果に基づいて第2回国際的全面改定が行われ、1969年から各国の天文台にその採用経度値を変更するよう要請される。これに伴う東京天文台での UT1 の不連続は +2.8 ms であった。なお、このときリッチモンド(アメリカ海軍天文台 (USNO) のフロリダ支所)とワシントンは基本星表FK4の採用に伴い赤経の偏りに応じた採用経度の変更を行ったが、この処置は世界時には影響しない。 旧協定世界時は運用が煩雑で、また1秒の刻みも一様でないなどの短所を持つことから、1970年にブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会で、旧協定世界時の大幅な改善策が決議された。 1971年の国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の中間会議で、細部の具体策を含めて現行の協定世界時 (UTC) が決定され、1972年に実施された。これにより UTC に閏秒が導入され、UTC は UT1 との差が一定の範囲内なるように国際報時局(BIH、現IERS)で調整・管理される。これ以後は、UT0、UT1、UT2、暦表時 (ET)、国際原子時 (TAI) が UTC を仲介して結ばれる。 1973年にシドニーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第15回総会で、協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の許容差が ±0.7 秒未満から、±0.950 秒(DUT1の最大値を0.9秒にとどめるため)に拡大すること、また、閏秒の実施時期を追加することが勧告された。その後、1974年3月に開催された国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の会議で UTC の運用規則(現 ITU-R勧告TF.460)が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、また、時刻調整(閏秒)の実施予定日を従来の UTC の6月末および12月末を第一優先とし、さらに3月末および9月末を第二優先として加えることにし、1975年1月1日から、この改訂を実施することになった。 1976年にグルノーブルで開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)および第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では協定世界時 (UTC) の意味で使用されること、また、GMT と UT は天測航法および測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認め、一方、GMT については適切な名称に置き換えられることが強調される。以上の諸点を確認した上で、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告された。 また、世界時の略語が統一され、フランス語のT.U.などは廃止され、UT0(i)、UT1(i)、UT2(i) などと表記し “i” には天文台の略語(例えば、東京天文台は TAO、国立天文台に改組後は NAO)が入ることになる。また、協定世界時は UTC(i) で、“i” には UTC の時刻を現示する機関の略語がはいる。ただし、国際報時局(BIH、現IERS)は誤解の恐れがない場合は (BIH) を省略できる。 1982年にパトラで開催された国際天文学連合 (IAU) 第18回総会において、決議C5号(第4、第9、第31委員会)で、IAU(1976)天文定数系、IAU1980 章動理論および基本星表FK5における分点が1984年1月1日から導入されることを踏まえて、新たに世界時 (UT1) とグリニッジ平均恒星時 (GMST) の関係式が定義された。また、決議C9号(第19、第31委員会)で、世界時の処理や刊行物で長周期潮の役割を明確にする必要を考慮し、文字Rを35日未満の周期の補正がなされたことを示すために関連する量の表記に付与することができること(例えば、UT1R など)が勧告された。 1985年にデリーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第19回総会において、決議B1号(時の責任)と決議B2号(基準座標系)により、時刻の中央局である国際報時局 (BIH) と極運動の中央局である国際極運動観測事業 (IPMS) を廃止して、BIH と IPMS を統合した新しい組織として国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を、国際度量衡委員会 (CIPM) と国際度量衡総会 (CGPM) の責任の元で国際度量衡局 (BIPM) に移管することを認め、新組織の国際地球回転観測事業(IERS)の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった。 地球回転の観測は、1988年から国際的に従来の光学による方位・位置観測(写真天頂筒 (PZT) など)から電波・レーザーを使用した高精度の距離観測(VLBIや月レーザー測距・人工衛星レーザー測距・LIDARなど)に移行することになる。 1988年にボルチモアで開催された国際天文学連合 (IAU) 第20回総会において、決議C1号(基準座標系作業部会 (WGRF))で基準座標系についての方針が勧告され、決議C2号(委員会合同プロジェクトの継続)で章動、天文定数、原点、基準座標系および時刻に関してプロジェクトを基準座標系作業部会で継続することや、国際測地学・地球物理学連合 (IUGG) 国際測地学協会 (IAG) とともに国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)と緊密に連携することが勧告される。 その後、1991年から2006年にかけて一般相対性理論に基づいた基準座標系の採用、歳差章動理論・国際天球基準座標系 (ICRF) および国際地球基準座標系 (ITRF) 定義の改訂が行われ、UT1 はVLBIの観測をもとにIAU 2006 章動理論や座標変換によって定義されるようになった。
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UTC (曖昧さ回避)
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協定世界時
協定世界時(きょうていせかいじ、英語: coordinated universal time, フランス語: temps universel coordonné)とは、国際原子時 (TAI) に由来する原子時系の時刻で、UT1世界時に同調するべく調整された基準時刻を指す。言語によって頭字語が異なるため、共通の略称として UTC が定められている。 協定世界時は国際度量衡局 (BIPM) が国際地球回転・基準系事業 (IERS) の支援を受けて維持する時刻系で、標準周波数と報時信号発射の基礎であり、国際単位系 (SI) 秒に基づく国際原子時と同歩度だが、整数秒だけ異なる。UT1 世界時と近似的に一致させるため、秒を挿入または除去する閏秒調整を行っている。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業のウェブサイトで確認できる。 世界各地の標準時は協定世界時を基準としている。日本標準時 (JST) は、協定世界時より9時間進めた時間である。 協定世界時の略称は UTC である。 協定世界時を頭字語表記すると、英語は coordinated universal time で “CUT”、フランス語は temps universel coordonné で “TUC”、イタリア語は tempo coordinato universale で “TCU” となり、言語毎の表記に差異が生ずるため、国際電気通信連合 (ITU) は共通の略称として “UTC” を定めた。既存の世界時 (UT) の種類は UT のあとに数字を付してUT0、UT1などと表記され、“UTC” はこれらとも整合する。略称から逆成した 英: universal time coordinated, 仏: universel temps coordonné など、非公式な表記も一部に散見する。 協定世界時は、歴史的な理由から特定の分野で同義語として扱われるいくつかの用語が存在する。 GMT と Z は、航法や通信の分野で UTC と同義語として認められる。子午線を1時間ごとの時刻差で英字一文字に対応させて東経を正数、西経を負数で表記すると、15=A、30=B、45=C、60=D、75=E、90=F、105=G、120=H、135=I、150=K、165=L、180=M、-15=N、-30=O、-45=P、-60=Q、-75=R、-90=S、-105=T、-120=U、-135=V、-150=W、-165=X、-180=Y、0=Z となる。本初子午線を中心とする時間帯は(Z) で表され、通信で通話表の文字 Z に使用する語は Zulu であることから「UTC」を「Z時」や “Zulu time” と表すことがある。 時刻の最大精度を整数秒で扱う場合はGMTと世界時 (UT) はUTC の意味で使用され、GMTはUTCまたはUTに置換して表す。 国際原子時は、1970年に国際度量衡委員会 (CIPM) が定義した時刻系である。「国際単位系における時間の単位である秒の定義に従い、いくつかの機関で運転されている原子時計の指示値に基づき国際報時局 (BIH) が定める基準となる時刻の座標」と定義されている。1988年からは、それまでの国際報時局に代わり国際度量衡局が1972年以降の協定世界時が国際原子時に完全同調する歩度で整数秒差を維持するように管理している。 国際原子時の起点は、世界時 UT2 の1958年1月1日0時0分0秒である。各国毎の現示は時間に関する国立研究所などが実施し、原子時計データを国際度量衡局へ送信して国際的な時刻目盛の算出に参加している。 UT1 世界時は各国天文台の地球自転観測データをもとに国際地球回転・基準系事業が定め、地球の自転周期はおよそ10年周期の長短とミリ秒単位の不規則さで変動しているが、協定世界時は1972年以降、国際原子時と整数秒差を維持しつつ UT1 世界時と近似的一致を保証するため、秒を挿入または除去する閏秒調整を導入し、偏差0.9秒以内に収めるべく、国際地球回転観測事業中央局が ΔUT1 (UT1-UTC) の予測値に基づき定めている。2018年1月現在、協定世界時は国際原子時から正確に37秒だけ遅れている。 1971年まで使われた旧協定世界時 (UTC) は、公認されたセシウム原子の振動数を F0 とし、周波数や秒間隔を F = F 0 × ( 1 + s ) {\displaystyle F=F_{0}\times (1+s)} そのオフセット値「50 × n × 10、n は整数」を s で定め、 歩度をできるだけ変更せずに UT2 世界時と近似的な一致を得るため F を1年間固定していた。UT2 世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時 (UT) に 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正量と時期は国際報時局 (BIH)が関係天文台と協議して定めていた。 標準電波で発射される報時信号は搬送波の位相に同期(CCIR勧告460)しており周波数は時間の逆数で表されるため周波数オフセットは時間を時刻に合わせる手段となることから、周波数を基準値から故意に遷移させて積算した時刻信号の歩度を UT2 世界時の歩度に近似させた。UT2 世界時は UT1 世界時の既知の季節変動を補正して平滑化したものだが地球自転の角速度は不規則に変動し、歩度を1年間一定にする旧協定世界時 (UTC) との差を月初に0.1秒単位でステップ調整した。 旧協定世界時 (UTC) は標準電波の報時信号を同期する国際協定に基づき1960年頃から試験的に運用され、1961年1月1日に制度を開始し、1964年1月1日から正式に採用されて1971年末まで使用された。 1950年代にセシウム原子時計が実用化され、標準電波の周波数は原子周波数標準器を基準とし、時刻は地球の自転に基づく UT2 世界時を基準とする報時信号が発射されていたが各国の報時機関がそれぞれ独立に発射して相互に無関係だった。人工衛星の国際観測が興隆し、世界のデータを整約するため国際的な統一方法で UT2 の時刻利用が強く望まれ、1959年にアメリカ合衆国とイギリスを中心に標準電波の周波数や報時信号の同期を合議して報時信号は ±1 ms、標準周波数は ±1×10 を目標に同期を図った。 1960年国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年国際天文学連合 (IAU) 第11回総会で報時信号の国際同期に関する問題が討議され具体化され、セシウム原子振動標準の周波数 (9192631770 Hz) が公認される。 天測航法や測地、人工衛星観測などは地球の自転に基づく世界時を要するが、物理学などは時間単位だけが必要で世界時は不適当であることから、標準電波の周波数は原子時に基づき、時刻は世界時に基づくものになり、公認されたセシウム原子の振動数を F0 とすると、周波数や秒間隔は F = F 0 × ( 1 + s ) {\displaystyle F=F_{0}\times (1+s)} で決定し F は1年間固定する。 s はオフセット値で1960年は −150×10^ だった。本方式は標準時計の歩度が1年間固定され、地球自転の角速度は不規則に変動し、報時される時刻は世界時に差が生じるため世界時との差は月初に 50 ms 単位でステップ調整した。周波数オフセットは国際天文学連合が毎年決定することが採択された。 本報時方式は1960年頃からアメリカとイギリスが試験的に開始し、日本、フランス、スイス、カナダなど数ヶ国が国際無線通信諮問委員会 (CCIR) や国際天文学連合による正式な採択を待たず順次実施した。日本は郵政省電波研究所 (RRL) のJJYで1961年9月から実施している。 1963年国際無線通信諮問委員会第10回総会の議決後、1964年国際天文学連合第12回総会で、報時は世界時に近似するよう1年間一定の周波数オフセット(50 × n × 10、n は整数)とし、世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時UTに 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正の量と時期は国際報時局 (BIH)が関係天文台と協議の上で決定して報時信号を国際的に同期する、旧協定世界時 (UTC) 方式が、多くの国は勧告実施に設備と研究を要するため議論の末に勧告された。 原子周波数標準器を保有しない国々は協定世界時の保時が不可能で、西ドイツは独特の形式での報時を継続し、ソビエト連邦はステップ調整を 0.05 秒の幅で実施するなど、旧協定世界時 (UTC) の報時方式は国際的同一歩調ではなかったが、1967年国際天文学連合第13回総会で方式変更要求の意見が見られるも、利用者がようやく習熟しつつあり、ソビエト代表が 0.1 秒のステップ調整ならば同調可能と言明し、継続が決まる。 1967年 - 1968年の第13回国際度量衡総会 (CGPM) でセシウム原子周波数標準に基づくSI秒の定義が採択され、物理学や計測の関係者を中心に旧協定世界時の周波数オフセット廃止意見が増加する。 旧協定世界時は運用が煩雑で1秒の刻みも一様でないなどの不都合から、1970年国際天文学連合第14回総会で旧協定世界時の大幅な改善策が決議されて周波数オフセットの廃止、閏秒の導入、協定世界時と国際原子時との差 (TAI-UTC) を整数秒とすること、少なくとも 0.1 秒精度で UT1 世界時を求めることができる情報として DUT1(UTCとUT1の差) を標準電波の報時信号に含めることなどが勧告される。 1971年国際無線通信諮問委員会中間会議で、細部の具体策を含め現行の協定世界時が決定され、TAI-UTC を整数にする特別調整を含めて1972年1月1日0時0分0秒UTC(1972年1月1日0時0分10秒 (TAI))から実施された。閏秒調整日は1月1日または7月1日で、協定世界時は UT1 世界時と差が 0.7 秒を超えぬように国際報時局で調整・管理され、以後世界時 (UT0, UT1, UT2)、暦表時 (ET)、国際原子時が協定世界時を仲介して結ばれる。 旧協定世界時のステップ調整は UT2 基準だが閏秒調整は UT1 基準である。これは UT1 が地球の自転角度そのものを示し UT2 は平滑化したもので測地や天測航法には UT1 の方がより直接的に利用できるからである。 国際無線通信諮問委員会が決議した標準電波の時刻の基準は、旧協定世界時までは UT2 が基準だが現行協定世界時採択時に UTC 基準へ変更された。 1973年国際天文学連合第15回総会で協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の許容差を ±0.7 秒以内から ±0.950 秒へDUT1の最大値を0.9秒にとどめるために拡大する、閏秒の実施時期を追加することが勧告される。1974年3月国際無線通信諮問委員会会議で協定世界時の運用規則(CCIR勧告460、現 ITU-R勧告TF.460)が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、時刻調整の閏秒実施予定日を従来の協定世界時6月末および12月末を第一優先、3月末と9月末を第二優先として加えること、が1975年1月1日から実施された。 1973年国際天文学連合第15回総会において、第4委員会(暦)と第31委員会(時)の共同決議第1号(1973年8月採択25)で、SI秒に基づく単一の世界的に協調された時計の時間が望まれること、協定世界時からSI秒に基づく国際原子時を得ることが一般的に可能であること、および、UTC標準電波が航法や測量で必要とされる精度の平均太陽時を直接的に提供することを考慮し、すべての国の標準時の通報のための基礎として、UTC を採用することが勧告された。 1975年第15回国際度量衡総会では、「協定世界時」と称される時系が、極めて広く使用され、多くの場合報時発信局によって放送され、放送が利用者に対して同時に標準周波数、国際原子時及び近似的な一つの世界時(又は平均太陽時としてもよい)を提供していることを考慮し、この協定世界時が、多くの国で法定常用時の基礎となっていることを確認し、この使用が十分に推奨に値するものであると評価することが決議された。 1985年国際天文学連合第19回総会において、それまで協定世界時 (UTC) を管理してきた国際報時局 (BIH) を廃止して、国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を国際度量衡局 (BIPM) に移管すること認め、新組織の国際地球回転観測事業 (IERS) の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった。 1988年からは、国際報時局が行っていた、国際原子時や協定世界時などの原子時計や標準周波数に関する業務は国際度量衡局 (BIPM) が責任を持つことになり、国際度量衡局 (BIPM) が世界各国の関係機関が管理する原子時計のデータから、国際原子時や協定世界時を決定し維持管理するようになる。
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NRP
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日産リバイバルプラン
日産リバイバルプラン(にっさんリバイバルプラン、英語: Nissan Revival Plan; 略称: NRP)とは、1999年(平成11年)10月18日に日産自動車のカルロス・ゴーンCOO(当時)が発表した同社の再建計画。 日産社内の若手・中堅幹部を中心とした組織、クロスファンクショナルチーム(CFT)を発足し、再建の計画をまとめたものである。 3つ達成目標を掲げ、3のうち、1つでも未達成の場合は「経営陣全員が辞任する」と、カルロス・ゴーンが公約した。 具体的な内容として、 日本企業の商慣習の中で実現を危ぶむ声もあったが社長兼CEOとなったゴーンのもと、当初の予定より1年前倒しで、売上高などの業績を著しく向上させ、2003年までの4年間で2兆1,000億円もの巨額の借金を完済した。 予定より早く達成されたため、日産180をスタートさせた。一方で長年維持してきた業界2位の自動車メーカーの地位を他社へ明け渡す結果になった。
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窒素酸化物
窒素酸化物(ちっそさんかぶつ、英: nitrogen oxides) は窒素の酸化物の総称。 一酸化窒素(NO)、二酸化窒素(NO2)、三酸化窒素(中国語版)(NO3)、亜酸化窒素(一酸化二窒素)(N2O)、三酸化二窒素(N2O3)、四酸化二窒素(N2O4)、五酸化二窒素(N2O5)など。化学式の NOx から「ノックス」ともいう。 自然界において窒素酸化物は、雷あるいは土壌中の微生物によって生成される。たとえば微生物が多い土壌に豊富な化学肥料を与えると土壌微生物が分解して窒素酸化物を放出する例が知られている。 物質が燃焼するときにも一酸化窒素や二酸化窒素などが発生する。この場合、高温・高圧で燃焼することで本来反応しにくい空気中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物になる場合(サーマルNOx)と、燃料由来の窒素化合物から窒素酸化物となる場合(フューエルNOx)がある。たとえば、排気ガスや天然ガスボイラー(家庭用調理ガス器具を含む)などから排出される窒素酸化物は前者が主であり、石炭が燃焼した場合の窒素酸化物はそのほとんどが石炭中の窒素化合物に由来することが知られている。 四酸化二窒素は二酸化窒素と平衡状態にあり、環境中など低圧・低濃度では二酸化窒素側に偏っている。 (各窒素酸化物の生成法は当該記事に詳しい) 大気から陸上に沈着する窒素量は、1890年から1990年の100年間で5倍に増加し21世紀初頭時点では 125 Tg-N y(テラグラム窒素毎年)とされており、放出量の80 %が肥料が起源で20 %が燃焼が起源である。 二酸化窒素(NO2)自体は中性で肺から吸収されやすい赤褐色の気体または液体。細胞内では二酸化窒素は強い酸化作用を示して細胞を傷害するので、粘膜の刺激、気管支炎、肺水腫などの原因となる。 一酸化窒素(NO)については、1980年代頃から、その生体内での生理機能について研究が進み、血管拡張作用を持つことなどが明らかにされたほか、この一酸化窒素が神経伝達物質としても作用することが判明した。なお、1998年のノーベル生理学・医学賞は、この一酸化窒素の生理作用の発見に対して贈られている。現在でも、その多様な生理機能について研究が続いている。 NO、NO2を吸入するとメトヘモグロビンが生成する。メトヘモグロビンは、通常のヘモグロビンに配位されている二価(フェロ)の鉄イオンが三価(フェリ)になっているもので、酸素を運ぶことができない。 一酸化二窒素(N2O)は麻酔作用を持つため、吸入麻酔剤として医療現場で使用されている。 NOxの防除技術としては、バーナーや燃焼法の改善によって低NOx化を実現する低NOx燃焼法と,排ガス中からNOxを除去する排煙脱硝法がある。 窒素酸化物は硫黄酸化物とならび酸性雨(酸性降下物)粒子状物質の原因物質で、硫黄酸化物は脱硫装置により液体の化石燃料由来の発生抑制させる事が可能であるが、燃焼(高温との接触)で生成される窒素酸化物の生成抑制は困難である。生成された窒素酸化物は降雨や霧(湿性沈着)や粒子状物質の降下(乾性降下)などにより地上に沈着し森林生態系に蓄積されると共に、森林への蓄積量が飽和量を超えると流下する水の硝酸イオン濃度を上昇させる。
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硫黄酸化物
硫黄酸化物(いおうさんかぶつ、英: sulfur oxide)は、硫黄の酸化物の総称。一酸化硫黄 (SO)、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)(SO2)、三酸化硫黄 (SO3) などが含まれる。化学式から SOx (ソックス)と略称される。 石油や石炭など硫黄分が含まれる化石燃料を燃焼させることにより発生する。大気汚染や酸性雨などの原因の一つとなる有毒物質。また、自然界においても火山ガスなどに含まれている。無色で刺激臭があり、水にとけやすい。 硫黄酸化物は水と反応することで、硫酸や亜硫酸を生じる。 1960年代から1970年代には、石油や石炭を燃やすときに排ガス処理装置をつけていなかったため、産業活動の活性化に伴い硫黄酸化物が大量に排出され、大気汚染の原因となった。特に三重県四日市市のコンビナートでは、四日市ぜんそくとしても知られる公害病が発生し、社会問題となった。現在では、大気汚染防止法によって環境基準が定められるとともに、光触媒を用いた酸化物浄化技術や排煙脱硫技術の進歩、脱硫した軽油の使用などによって、硫黄酸化物の大気中濃度は大幅に改善されている。 一方、中国で発生した硫黄酸化物が偏西風によって日本に運ばれ、大気汚染が酸性雨の原因となることが懸念されてきている。国立環境研究所の調査では、日本で観測される硫黄酸化物のうち 49% が中国起源のものとされ、続いて日本 21%、火山 13%、朝鮮 12% とされている。
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零行列
数学において、零行列(ゼロぎょうれつ、れいぎょうれつ、zero matrix, null matrix)とは、その成分(要素)が全て 0 の行列。O あるいは 0 と記述されることが多い。 また、下付き添字によって行列の型を明記することもある。 自明な線形変換である零作用素を表す行列であり、正方行列の場合には行列環の零元を与えている。 以下、l, m, n は任意の自然数とする。 これらのことから、n 次の正方行列全体のなす環を考えているとき、零行列はその零元になる。
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四元数
数学における四元数(しげんすう、英: quaternion)とは、複素数を拡張した数体系であり、虚数単位 i, j, k を用いて と表せる数のことである。ここで、a, b, c, d は実数であり、虚数単位 i, j, k は以下の関係を満たす。 このとき 1, i, j, k は実数体上線型独立である。 四元数は純粋数学のみならず応用数学、特に3Dグラフィクスやコンピュータビジョンにおいて三次元での回転の計算(英語版)でも用いられる。これはオイラー角や回転行列あるいはそれらに代わる道具などとともに、必要に応じて利用される。 四元数についての最初の記述は、1843年にアイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンによってなされ、3次元空間の力学に応用された。 四元数の特徴は、積について非可換であることである。ハミルトンは、四元数を三次元空間内の二つの有向直線の商として定義した。これは二つのベクトルの商と言っても同じである。四元数をスカラーと三次元のベクトルとの和として表すこともできる。 なお、虚数単位i,j,kについても非可換であることが知られている。 現代数学の観点からは、四元数全体からなる集合は、実数体上の4次元結合的ノルム多元体であり、またそれゆえに非可換整域となる。歴史的には四元数の体系は、最初に発見された非可換多元体である。四元数全体の成すこの代数は、ハミルトンに因んで H(あるいは黒板太文字で H)と書かれる。またこの代数を、クリフォード代数 Cl0,2(R) ≅ Cl3,0(R) として定義することもできる。 この代数 H は解析学において特別な位置を占めている。というのも、フロベニウスの定理に従えば H は実数全体 R を真の部分環として含む有限次元可除環の2種類しかないうちの一つ(もう一つは複素数全体 C)だからである。 従って、単位四元数は三次元球面 S 上の群構造を選んだものとして考えることができて、群 Spin(3) を与える。これは 2次特殊ユニタリ群 SU(2) に同型、あるいはまた SO(3)(英語版)の普遍被覆に同型である。 四元数の成す代数系は、1843年にウィリアム・ローワン・ハミルトンによって導入された。これにはオイラーの四平方恒等式(1748年)やオリンデ・ロドリゲス(英語版)の四つの径数を用いた一般の回転のパラメータ付け(英語版)(1840年)などを含む重要な先駆的研究があったが、何れもその四径数回転を代数として扱ったものではなかった。ガウスもまた1819年に四元数を発見していたのだが、そのことが公表されるのは1900年になってからのことである。 ハミルトンは複素数が座標平面における点として解釈できることを知っていて、三次元空間の点に対して同じことができる方法を探していた。空間の点はそれらの座標としての数の三つ組によって表すことができ、ハミルトンはそれらの三つ組に対して加法や減法をどのようにすべきかはずっと前から分かっていたのだが、乗法と除法をどう定めるかという問題については長く行き詰ったままであった。ハミルトンは、空間における二点の座標の商をどのように計算すべきかを形にすることができなかったのである。 四元数についての大きな転換点がついに訪れたのは、1843年10月16日の月曜日、ダブリンにおいてハミルトンが理事会の長を務めることになるアイルランド王立アカデミー(英語版)への道すがら、妻とともにロイヤル運河(英語版)の引き船道に沿って歩いているときであった。四元数の背景となる概念が頭の中で形になり、答えが明らかになったとき、ハミルトンは衝動を抑えられずに、四元数の基本公式 を、渡っていたブルーム橋(英語版)の石に刻みつけた。 次の日ハミルトンは、友人でフェロー数学者であったジョン・グレイヴスへ宛てて、彼の発見へと至る一連の道筋をしたためた書簡を記している。この書簡は後に London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science, vol. xxv (1844), pp.489-95.で公表されている。この中でハミルトンは、 と述べている。ハミルトンは、これらの乗法規則を備えた四つ組を quaternion と呼び、残りの人生の大半をその研究と教育にささげた。ハミルトンによる取り扱い(英語版)は、四元数の代数的性質を強調する現代的なアプローチよりも幾何学的なものである。ハミルトンは "quaternionists" の学校を設立し、数々の本で四元数の普及を図った。最後にして最長の本が Elements of Quaternions(『四元数原論』)で800 ページにも及ぶ(出版されたのは彼の死後少ししてからである)。 ハミルトンの死後も弟子のテイトが四元数の振興を続けた。同時に、ダブリンでは四元数が試験の必須題目になっていた。物理学と幾何学の主題においては、今日ではベクトルを用いて記述するような空間の運動エネルギーやマクスウェルの方程式などが、まったく四元数の言葉で記述されていた。四元数やほかの超複素数系を専ら研究するプロの研究機関である四元数学会(英語版)さえ存在した。 1880年代の半ばごろから、ギブス、ヘヴィサイド、ヘルムホルツらの創始したベクトル解析によって四元数は取って代わられるようになる。ベクトル解析は四元数と同じ現象を記述するために、四元数に関する文献から自由に用語法や考え方を拝借していたが、ベクトル解析の方が概念的に簡単で、記法もすっきりしていたので、遂には数学と物理学における四元数の役割は小さく追いやられることとなった。このような変遷の副作用で、現代的な読者にはハミルトンの仕事は難しく複雑なものと化してしまった。ハミルトンのオリジナルの定義は馴染みがなく、その書き振りは冗長で不明瞭である。 四元数は20世紀の後半になって、三次元の自由な回転を記述する能力を買われて、多用されることとなった。四元数による3次元の回転(姿勢)の表現は、3次正方行列による表現と比べて記憶容量が小さくて演算のスピードも速い。加えて、オイラー角と違ってジンバルロックが起きない。この特徴は、地上における上下方向のような絶対的な軸の無い、宇宙機のような三次元の自由度が完全にある場合の姿勢制御などでの利用に適しており、宇宙機以外にもCG、コンピュータビジョン、ロボット工学、制御理論、信号処理、物理学、生物情報学、分子動力学法、計算機シミュレーションおよび軌道力学など、他にも多くの応用がある。 また、四元数は二次形式との関係性により、数論からの後押しも受けている。 1989年以降、アイルランド国立大学メイヌース校の数学教室は、科学者(2002年には物理学者のマレー・ゲルマン、2005年にスティーヴン・ワインバーグなど)や数学者(2003年のアンドリュー・ワイルズなど)からなる、ダンシンク天文台からロイヤル運河の橋までを歩く巡礼の旅を開催している。ハミルトンが橋に刻みつけた公式はもはや見ることはできないが。 P.R.ジラールのエッセイ The quaternion group and modern physics(「四元数群と現代物理学」)は、四元数の物理学における役割について論じている。それは現代代数学において "数々の物理的な共変性の群:SO(3)、ローレンツ群、一般相対性群、クリフォード代数 SU(2) および共形群などが容易く四元数群に関連付けられることを示している"。ジラールは群の表現論を議論し、結晶学に関するいくつかの空間群を表現することから始めて、続いて剛体運動の運動学、その後トーマス歳差(英語版)を含む特殊相対論のローレンツ群の表現に「複四元数」(complex quaternion)(双四元数(英語版))を用いている。ジラールはマクスウェルの方程式を四元数変数のポテンシャル函数を用いて一本の微分方程式に表したルドヴィク・シルバースタイン(英語版)をはじめとする5人の著者を引いている。一般相対性を考慮してルンゲ=レンツベクトルを表し、またクリフォード代数の例としてクリフォード複四元数(分解型双四元数(英語版))に言及した。最後にジラールは、複四元数の逆数を使って時空の共形写像について述べている。50にも及ぶ参考文献には、アレクサンダー・マクファーレン(英語版)および四元数学会におけるジラール自身の広報も含まれている。また、1999年にジラールはアインシュタインの一般相対性の方程式が如何にして四元数に直結するクリフォード代数を用いて定式化されるかを示している。 四元数についてのより個人的な見解をジョアキム・ランベック(英語版)が1995年に書いている。エッセイ If Hamilton had prevailed: quaternions in physics(「もしハミルトンが勝利していたら:物理学における四元数」)には "My own interest as a graduate student was raised by the inspiring book by Silberstein"(院生としての私の興味はシルバースタインの本に刺激を受けて生じた)とある。ランベックは He concluded by stating "I firmly believe that quaternions can supply a shortcut for pure mathematicians who wish to familiarize themselves with certain aspects of theoretical physics."(「私は四元数が、理論物理学のある種の側面に習熟しようと望む純粋数学者へ、近道を与えるものと堅く信じる」)と述べることによって結論を下している。 2007年、アレキサンダー・エフレモフとその共同研究者は、四元数空間幾何がヤン・ミルズ場と近しい関係にあることを示し、ダフィン・ケマー・ペティアウ方程式(英語版)とクライン-ゴルドン方程式への関連性を指摘した。 集合としては、四元数全体 H は実数体上の4次元数ベクトル空間 R に等しい。H には3 種類の演算(加法、スカラー乗法、四元数の乗法)が入る。H の二元の和は、R の元としての和で定義され、同様に H の元の実数倍も R におけるスカラー倍として定義される。H の二元の積を定めるには、まず R の基底を決めなければならないが、その元を通例 1, i, j, k と記す。H の各元はこれら基底元の線型結合で表される。つまり の形に一意に表される。基底元 1 は H の乗法単位元であるため、通常省略して と表すのが普通である。この基底が与えられたところで、四元数の結合的乗法は、初めに基底元同士の積を定義して、一般の積はそれを分配律を用いて拡張することで定義される。 H の基底元 i, j, k に対して等式 は i, j, k の間の可能なすべての積を決定する。例えば − 1 = i j k {\displaystyle -1=ijk} の両辺に k を右から掛ければ を得る。他の積も同じようにして得られて、結局 が可能なすべての積を列挙したものとなる。これは左側の因子を列に、右側の因子を行にそれぞれ充てて、表の形にまとめることができる(乗積表)。 二つの四元数 a1 + b1i + c1j + d1k と a2 + b2i + c2j + d2k に対し、それらのハミルトン積 (a1 + b1i + c1j + d1k)(a2 + b2i + c2j + d2k) は、基底間の積と分配律によって与えられる。具体的には、この積は分配律により基底元の積和の形に展開することができて、 となるので、ここで先の基底元の間の乗法規則を適用して を得る。 H の基底 1, i, j, k を用いて H を四つ組の集合 として表すことができる。このとき基底元は であり、加法、乗法の定義式は で与えられる。 四元数 a + bi + cj + dk について、特に b = c = d = 0 であるものは実数体上のスカラーである。bi + cj + dk で、b, c, d の内少なくとも一つが、0 でないもの (bcd ≠ 0) を純虚 (pure imaginary) という。 四元数 a + bi + cj + dk に対して、a をその実部 (real part) またはスカラー部 (scalar part) といい、bi + cj + dk をその虚部 (imagenary part) または ベクトル部 (vector part) という。四元数のスカラー部は実数であり、ベクトル部は 0 または純虚である。任意の四元数は4次元ベクトル空間のベクトルではあるけれども、ここではベクトルあるいはベクトル元という言葉を、専ら純虚四元数を指すのに用いる。この規約の下、ベクトル元ということはベクトル空間 R の元ということと同じ意味になる。 ハミルトンは純虚四元数を right quaternion(「正しい四元数」)と呼び、実(四元)数を scalar quaternion(「スカラー四元数」)と呼んだ。 四元数をスカラー部とベクトル部に分解して と表すと、加法、乗法の定義式は となる。ここで "⋅" はベクトルのドット積、"×" はベクトルのクロス積である。特に、実部が 0 の四元数に対しては が成り立つ。 四元数の共軛(きょうやく)は複素共役およびクリフォード代数の元の転置 (transposition) あるいは逆転 (reversal) の類似物である。四元数 q = a + bi + cj + dk に対して、q の共軛は で定義される。これを q, q, q, ~q などで表す。共軛をとる操作は対合、つまり自身を自身の逆とする変換であり、一つの元の共軛を二度とればもとの元に戻る。2つの四元数の積の共軛は、それぞれの四元数の共軛を「順番を逆にして」掛けたものになる。つまり p, q を四元数とすれば であって pq でない。 複素数における共軛とは異なり、四元数の共軛は乗法と加法を用いて完全に書き表すことができる: 共軛を用いると、四元数 p の実部、虚部はそれぞれ となる。 四元数 q のノルム ‖ q ‖ は、自身とその共軛の積の平方根として定義される: (ハミルトンはこれを四元数のテンソルと呼んだが、この用語は現代的な意味でのテンソルと衝突する) これは、H を数ベクトル空間 R と見なした時のユークリッドノルムに等しく、ノルムの公理を満たす。すなわち、常に非負の実数で、任意の2つの四元数 p, q に対して が成り立つ。特に、実数 α に対して が成り立つ。 この乗法性は、積の共軛に関する式からの帰結である。あるいは、正方行列の行列式の乗法性と公式 (i は通常の虚数単位)から乗法性を示すこともできる。 このノルムを使って、四元数 p と q の間の距離 d(p, q) を、それらの差のノルム (d(p, q) = ‖ p − q ‖) として定義することができる。これにより H は距離空間となり、加法と乗法はこの距離位相に関して連続になる。 ノルムが 1 の四元数を単位四元数という。0 でない四元数 q に対して、そのノルムで割って得られる単位四元数 を、q のベルソル(英語版)という。 任意の四元数 q は、その極分解(英語版) を持つ。 共軛とノルムにより、四元数の逆数(自身との積が 1 である数)が得られる: これにより、2つの四元数 p, q に対して、二種類の除法が定義される。即ち、それらの商は pq または qp のどちらかである。複素数(一般には可換体)の範囲と異なり、p/q と書くと q で左から割っているのか右から割っているのかが特定されないため紛らわしい。 四元数全体のなす集合 H は実数体上の 4次元ベクトル空間を成す(実数全体は 1次元、複素数全体は 2次元、八元数全体は 8次元である)。四元数は加法と、結合的で分配的な乗法を持つが、その乗法は可換でない。従って四元数の全体 H は実数体上の非可換結合多元環である。H には複素数体 C の複製が含まれるが、H は C 上の結合多元環にはならない。 四元数は除法が可能であるから、H は多元体(乗法が可換でないことを除けば可換体と同様の構造)である。実数体上の有限次元結合的多元体は非常に少なく、フロベニウスの定理はそれが R, C, H のちょうど3種類であることを述べるものである。また、四元数のノルムにより四元数の全体はノルム多元環となるが、実数体上のノルム多元体もまた非常に限られ、フルヴィッツの定理(英語版)はそれが R, C, H, O の四種類(O は八元数全体)であることを述べる。四元数全体はまた、合成代数や単位的バナッハ環の一例でもある。 基底元の積は別の基底元に符号を付けたものになるから、集合 {±1, ±i, ±j, ±k} はその乗法に関して群を成す。この群は四元数群と呼ばれ、Q8 で表す。Q8 の実係数群環 RQ8 は環であり、また R 上の 8次元ベクトル空間でもあり、Q8 の各元を基底ベクトルに持つ。四元数体 H は RQ8 を 1 + (−1), i + (−i), j + (−j), k + (−k) で生成するイデアルで割った剰余環になっている。ここで、生成元となっている各差の第一項は基底元 1, i, j, k のそれぞれ一つであり、第二項は残りの基底元 −1, −i, −j, −k のそれぞれ一つであって、これらは 1, i, j, k の(群環の加法に関する)加法的逆元でないことに注意(剰余環、つまり H の中では加法逆元になる)。 四元数のベクトル部は R のベクトルゆえ、R の幾何は四元数の代数構造に反映される。ベクトルに対する多くの演算は四元数を用いて定義することができるし、それによって四元数的な手法を空間ベクトルから生じる様々なものに適用することができる。例えば、電磁気学や3DCGなどにこの方法論が使える。 本節では i, j, k を H の虚基底ベクトルと R の基底の両方の意味で用いる。i, j, k を一斉にそれぞれ −i, −j, −k に取り替えることはベクトルを加法的逆元(マイナス)へ写すので、ベクトルの加法的逆元をとることと四元数の共軛をとることとは同じ意味になることに注目しよう。これを以って、四元数の共軛を「空間反転」(spatial inverse) と呼ぶことがある。 2つの純虚四元数 p = b1i + c1j + d1k, q = b2i + c2j + d2k に対して、それらのドット積は で与えられる。これは pq, qp, pq, qp のどのスカラー部にも等しい(これらのベクトル部は相異なることに注意)。それゆえドット積については という等式も成り立つ。また、p と q のクロス積は基底 (i, j, k) の元の順序(から定まる向き)に依存して と定義される(符号を決めるために向きが必要であることを想起せよ)。これは四元数としての積 pq のベクトル部に等しく、−qp のベクトル部とも同じく等しい。ゆえに、これについても なる等式が成り立つ。一般に p, q が四元数(純虚でなくてよい)のとき、これをスカラー部とベクトル部との和 に分解すれば、等式 が成り立つ。これを見ると、四元数の乗法の非可換性が純虚四元数の乗法からくるものであることが分かり、また2つの四元数が可換となるための必要十分条件がそれらのベクトル部が共線となることなども分かる。 複素数の行列表現と全く同様に、四元数も行列で表現することができる。四元数を行列で表現し、四元数の加法と乗法を行列のそれに対応させる方法は、少なくとも二つあり、一つは 複素 2次正方行列を用いるもの、もう一つは実 4次正方行列を用いるものである。何れの場合も、表現は線型に関連する表現の族として与えられるもので、抽象代数学の観点からは、H からそれぞれ全行列環 M2(C) および M4(R) への単射環準同型である。 複素 2次正方行列を用いて、四元数 a + bi + cj + dk は と表現される。この表現は以下の性質を持つ: 実 4次正方行列を用いれば、同じ四元数は で表される。この表現では、四元数の共軛は対応する行列の転置に対応する。また、四元数のノルムの四乗は対応する行列の行列式に等しい。複素数は、行列を 2 × 2 のブロックに分けたときの区分対角行列に対応する。 四元数を、数論におけるラグランジュの四平方和定理(任意の非負整数が四つの整数の平方の和で表せること)の証明に用いることもできる。ラグランジュの四平方和定理は定理それ自体が美しいだけでなく、組合せデザイン(英語版)のような数論以外の数学の分野においても有意な応用を持つ。四元数に基づく証明では四元数全体ではなくその部分環でユークリッドの互除法が使えるフルヴィッツ整数環(英語版)が用いられる。 四元数は複素数の対として表現することができる。この側面からは、四元数は複素数全体にケーリー=ディクソン構成を適用して得られたものということになる。これは、複素数の実数の対としての構成を一般化したものである。 C を複素数体上の二次元ベクトル空間とし、基底 (1, j) をとる。C に属するベクトルは と表される。ここで j = −1 および ij = −ji であるものと定めると、分配律により二つのベクトルの掛け算が定義できる。いま、積 ij を k とおくと、通常の四元数の乗法規則と同じになるので、従って上記の複素ベクトルは四元数 に対応するものである。C の元を順序対として、四元数を四つ組としてそれぞれ書けば、この対応は となる。 −1 の平方根は、複素数の範囲では ±i であるが、H では −1 の平方根は無数に存在する。x = −1 の四元数解は三次元空間内の単位球面を成すのである。これを見るのに q = a + bi + cj + dk を四元数とし、その平方が −1 に等しいものと仮定する。a, b, c, d が満たすべき条件は である。後の3つの方程式より a = 0 または b = c = d = 0 であるが、後者は残りの方程式から a = −1 となり、a は実数であるから不可能である。故に a = 0 ⋀ b + c + d = 1 となる。即ち、平方が −1 になる四元数は、ノルムが 1 の純虚四元数であることが分かる。定義により、このような四元数全体の成す集合は2次単位球面である。 故に、負の実四元数は無数の平方根を持つことも分かるが、それ以外の四元数の平方根はただ二つ(0 についてはただ一つ)である。 H における −1 の平方根のこのような同定はハミルトンが与えているが、他の文献では触れられないことがよくある。1971年にサム・パーリスは −1 の平方根の成す球面について、米国数学教師評議会(英語版)出版の「代数学における歴史的話題」(Historical Topics in Algebra p.39) において3ページを割いて触れている。より近くでは、イアン・ポーティアス(英語版)の本「クリフォード代数と古典群」(Clifford Algebras and the Classical Groups Cambridge, 1995, proposition 8.13, p.60) にこの球面についての記述があり、また Conway & Smith (2003) のp.40には「任意の虚数単位を i, それに直交する虚数単位の一つを j, それらの積を k」("any imaginary unit may be called iTemplate:, and perpendicular one j, and their product k") として、この球面についての別な言明がある。 −1 の平方根のどの二つをとっても、四元数の中で複素数の相異なる複製を作ることができる。 q = −1 とすれば、そのような複製は写像 によって決定される。抽象代数学の言葉でいえば、それぞれが C から H への単射環準同型(埋め込み)である。q と −q に対応する埋め込みの像は集合としては同じになる。 任意の実でない四元数は C に同型な H の部分空間上にあることを見よう。四元数 q をスカラー部とベクトル部の和として とし、さらにベクトル部をノルムとベルソルの積に分解(極分解)して、 と書く(これは qs + ‖ q ‖Uq とは異なることに注意)。q のベクトル部のベルソル Uq→v は純虚な単位四元数ゆえ、その平方は −1 である。従ってこれから、写像 によって複素数の複製が得られるが、この写像の下で q は複素数 qs + ‖ q→v ‖i の像になる。 以上から、H は実数直線を共通の交わりとして持つ無数の複素数平面の合併であることが分かる。ただし、この合併は −1 の平方根の成す球面全体を(球面の対蹠点が同じ平面に対応することを踏まえた上で)わたって取ったものである。 各四元数が H のどの部分複素数平面に含まれるかという関係性は、可換部分環族の言葉を使っても同定し書き表すことができる。具体的に言えば、二つの四元数 p と q が可換 (pq = qp) となるのはそれらが H の同じ部分複素数平面上にあるときに限られるだから、四元数全体の成す環の可換部分環を全て求めたければ、そこに複素数平面の合併として H の prófile が生じる。この可換部分環を求める方法は、分解型四元数(英語版)全体や実二次正方行列全体の性質を知るのにも利用できる。 複素変数の函数同様に、四元変数の函数から有効な物理モデルが得られることが示唆される。例えば、マクスウェルによるもともとの電磁場の記述には四元変数函数が用いられていた。 四元数 に対して、指数函数は と計算され、その逆函数として対数函数は として与えられる。 これを用いて、四元数の極分解を の形に書くことができる。ここで角 θ および単位ベクトル n ^ {\displaystyle {\hat {n}}} は および で定まるものである。任意の単位四元数は極形式として と表される。 任意の実数を冪指数とする四元数の冪は で与えられる。 「共軛(きょうやく)」あるいは「共軛変換(英語版)」という言葉は、上で述べた意味以外にも、適当な非零元 r によって元 a を rar へ写す変換(内部自己同型)の意味にも使われる。この変換の意味で与えられた元に共軛な元の全体は、実部が等しく、かつベクトル部のノルムも等しい(従って、共軛四元数はこの変換の意味でも共軛元である)。 故に、非零四元数全体の成す乗法群は、純虚四元数全体の成す R の複製の上に共軛変換によって作用する。このとき、実部が 〖cos〗θ である単位四元数による共軛変換は、虚部方向を回転の軸とする回転角 2θ の回転になる。四元数を用いる優位性としては、 などが挙げられる。 単位四元数(ベルソル)の全体は三次元球面 S を成し、また乗法に関して群を成し、3次特殊直交群(行列式が 1 の 3次直交行列全体)〖SO〗(3,R) の二重被覆群というリー群になる(これは上記の対応において各回転に対応する単位四元数がちょうど「2つ」あることによる)。 (S 自体には標準的な群構造はないが)ベルソルの成す部分群の像は点群であり、逆に点群の逆像はベルソル全体の成す部分群となる。有限点群の逆像は、それぞれの点群の名前に二項 (binary) を付けて呼ぶ。例えば二十面体群の逆像は二項二十面体群である。 ベルソル全体の成す群は、2次特殊ユニタリ群 〖SU〗(2) に同型である。 a, b, c, d が何れも整数となるかまたは何れも分母が2の既約分数である有理数となる四元数 a + bi + cj + dk 全体の成す集合を A とする。集合 A は環(実は整域)であり、また束であって、フルヴィッツ整数環と呼ばれる。この環は 24 個の単位四元数を持ち、それらは正24胞体(シュレーフリ記号で {3,4,3})の頂点になっている。 F を標数が 2 でない体とし、a, b を F の元とする。(1, i, j, ij) を基底とし、i = a, j = b, ij = −ji(従って (ij) = −ab)を満たす F 上の四次元単位的結合多元環が定義できる。これらは四元数環と呼ばれ、a, b の選び方に依り F 上の 2次正方行列に同型であるか、さもなくば F 上の多元体を成す。 幾何学的計算に対する四元数の有用性は、四元数体をクリフォード代数 Cl3,0(R) の偶部分 Cl3,0(R) と同一視することによって、他の次元にも一般化することができる。これは基本基底元 σ1, σ2, σ3 から構成される結合的多重ベクトル環で、基底元は なる積の規則に従う。これらの基本基底元が三次元空間のベクトルを表すものとすれば、ベクトル r の単位ベクトル w に直交する平面に関する鏡映 (reflection) が で表され、二つの鏡映の合成はそれぞれの鏡映に対する平面同士のなす角の二倍の回転角をもつ回転を与えることから、 は σ1 と σ2 とを含む平面における 180° 回転が対応する。これは四元数の対応する公式 とよく似ているが、実はこの二つは同一視できる。それには と同一視して、かつこれがハミルトンの関係式 を保つことを確認すればよい。この描像において、四元数はベクトルではなく二重ベクトル (bivector) に対応する(これは一次元的な「向き」ではなくて、特定の二次元平面に付随する向きと大きさを持った量である)。また、複素数との関係もより明らかになる。つまり、二次元ではそれぞれ σ1 と σ2 の方向を持つ二つのベクトルに対して、ただ一つの基底二重ベクトル元 σ1σ2 が存在するから、虚数単位は一つだけしかないが、ベクトルの方向が三つある三次元では、三つの二重ベクトル基底 σ1σ2, σ2σ3, σ3σ1 が存在して、三つの虚数単位を持つ。 この理由付けはさらに拡張することができて、クリフォード代数 Cl4,0(R) においては、基本となるベクトルが相異なる四つの方向を持つから、従って平面を張る線型独立な組は六種類であり、二重ベクトル基底元は六つ存在する。このような空間において、回転子 (rotor) と呼ばれるそのような四元数の拡張を用いた回転は、斉次座標系を用いた応用において非常に有効である。しかし、三次元の場合に限っては、基底二重ベクトルの数と基底ベクトルの数が一致し、各二重ベクトルを擬ベクトルと同一視することができる。 ドルストらはこの広い設定において四元数の占める優位性を以下のように同定した: クリフォード代数のさらに詳細な幾何学的描像は幾何代数(英語版)の項を参照せよ。 四元数体 H は「本質的に」唯一の(非自明な)中心的単純環である。これは実数体上の任意の中心的単純環は R または H の何れかにブラウアー同値(森田同値)であるという意味である。明確に述べれば、R のブラウアー群は、R および H をそれぞれの代表元とする二つの同値類からなる。ここで、ブラウアー群というのは中心的単純環全体の成す集合を、一方の中心的単純環が他方の中心的単純環の上の全行列環となるという同値関係で割って得られるものであった。アルティン・ウェダーバーンの定理(のウェダーバーンの部分)によって、任意の中心的単純環は何らかの斜体上の行列環となるから、従って四元数体が実数体上で唯一の非自明な多元体であることが分かる。 中心的単純環(体上の環であって、それ自身が体同様に非自明な両側イデアルを持たないという意味で単純環であり、かつその中心が基礎体に一致するもの)は、体の拡大の非可換版の類似物であり、一般の環の拡大よりも限定的である。四元数体が実数体上の(同値を除いて)唯一の非自明な中心的単純環であるという事実は、複素数体が実数体上の唯一の非自明な拡大体であることに比肩する。
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2000年問題
2000年問題(にせんねんもんだい、英語: Year 2000 problem)は、西暦(グレゴリオ暦)2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた年問題である。 Y2K問題(ワイツーケイもんだい、Y は年(year)、K はキロ(kilo=千))、ミレニアム・バグ(millennium bug)とも呼ばれた。 西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できなくなるという問題が主に取り上げられるが、グレゴリオ暦における置閏法を誤解して生じる問題もある。 当時、多数のコンピュータシステムの内部で日付を扱う際に西暦の下2桁だけを表示しており、上位2桁を省略していることが原因で問題が生じると言われた。この他に、置閏法に対する誤解から西暦2000年を「平年」として扱ったことが原因で、西暦2000年2月29日に誤動作する問題が生じる。 直接の原因はプログラム内で日付を扱う際、西暦の4桁のうち上位2桁を省略し下位2桁だけを処理対象にしたことである。("yy-mm-dd"や"dd-mm-yy"など) 古い電算システムを構築するのに用いられたCOBOLやFORTRANのような古いプログラミング言語では、データ型に「日付型」が用意されていない。従ってプログラム内では年を表現するために2桁の文字型を割り当てて、西暦表示4桁のうち下2桁だけを記録・処理した。この方式では2000年が内部で「00年」となるので、これを「1900年」と見なしてしまい、例えば「レコードを日付順に並べ替える処理をすると、順序が狂う」などの誤作動を起こす可能性があると指摘された。 4桁で表現される西暦年数を格納するには、4桁の文字列 ("yyyy")を確保するのが妥当であるが、当時コンピュータが2000年まで長きにわたって運用されるとは予想されていなかっただけでなく、初期のコンピュータシステムでは、磁気テープなどのリソース、特にメモリの容量が極めて少ない上、高価な貴重品であるため、できるだけメモリを節約するプログラミングが要求された。 年数を下2桁 ("yy")に縮めてリソースを節約をするのは、当時のプログラマの間では当然の技法であった。そのようなプログラムの多くは、1960年代から1980年代にかけて開発された。当事者は「2000年までには、何らかの改良が加えられるか、全く新しいシステムに更新されているだろう」という前提でいたので、2000年問題には充分な対策が施されていなかった。2000年問題が表面化した際は、プログラムを作成した技術者の死亡や退職などもあり、手作業でのプログラムの確認と修正が必要とされた。 これらのプログラムが作成された時点で既に、多くの国で様々な領域や分野でコンピュータが使用されていたので、思わぬ所での機能停止や誤作動の危険が起こり得ると指摘された。物流その他の社会運営上の不具合の発生などが予想され、国際経済が深刻な不況に陥る可能性を指摘する声もあった。一部には、カレンダーを持たない独立した組み込みシステムの誤作動の不安を煽るなど、あたかもフェイルセーフで設計された物がこの世にないかのように騒ぐなどの過剰反応も見られた。 1996年など平常の「閏年」とは異なり、2000年は「400年に1回」の特殊な閏年で閏日(2月29日)があるのに、その処理をしていないプログラムもあった。なお、土曜日から始まる閏年は、1972年以来28年ぶりであった。 現行のグレゴリオ暦では、閏年について次の規則がある。 従って、1900年は平年(100で割り切れても400で割り切れない)であったが、2000年は閏年であった。しかし、誤って1. と2. だけを適用し、2000年を閏年としないプログラムがあったので、この対応も併せて必要とされた。 前述のように年の下位2桁しか処理しないシステムでは、「400で割り切れる年」と「400で割り切れない年」を区別できず、1. 2. の規則のみに沿って年表示が00である年を平年として扱うようにプログラムすると、この問題が生じる。 偶々 2. 3. の規則を知らずに1. の規則のみに則るか、1. 2. 3. の規則を全て承知で西暦2099年までは4で割り切れる判定で充分と認識し、単純に4で割り切れるかどうかで閏年を判定するシステムでは、2000年を閏年として扱って問題は起きない。 当時、想定された問題には、次のようなものがあった。 従って、1990年代末期に使用していたコンピュータプログラムの訂正が世界規模で行われたが、この修正作業に費用と期間が取られてしまう企業も出てしまい、特に中小企業などにおいて大きな打撃となった。 結果としては直前にマスメディアで騒がれていたような生活に直結するほどの大きな混乱は一切起きずに終わった。 元々2000年問題の深刻さと対処については疑問の声も多くあり、例えば元日(1月1日)よりも閏日(2月29日)の方が大きな騒ぎとなったことを理由に、そもそも重大な危険が存在しなかったという意見がある。これに対しては反対意見があり、情報システムエンジニアの努力の結果であり、危機管理の成功例として混乱回避の努力を正しく評価すべきであるとの意見もある。 2000年問題は、発生時期が明確であったこと(そのため責任の所在が予め明確であったこと)や、企業間連鎖による影響を防ぐため相互監視が働いたこと(経営者は自社が加害者となることを防ぐ必要があり、同時に株主などからは自社が被害者とならないよう対策を求められたこと)などの要素が混乱回避への対策につながったと考えられている。 日本においては、1989年から消費税の導入や、「昭和」から「平成」への改元など、プログラムの全面的な見直しを要求される問題が発生しており、その際に2000年問題への対処も併せて行うことが多かった。 1998年7月15日に、財務局から各金融機関に対して「コンピュータ2000年問題対応に関する資料の提出について」という通達が出された。 これらの資料の3か月ごとの提出を命じ、1999年10月からは毎月の提出を命じた。内容は、あらゆる機器のリストアップ、問題判別の実施、対応マニュアルの作成・配布、一斉テストの実施、顧客・取引先に対しての周知徹底などであった。 金融機関は政府と一体となって取り組み、サービスが停止することのないよう万全の体制を取った。 1998年12月には小渕恵三が自らテレビCMに出演し、2000年問題への注意を促した。 1999年12月31日から2000年1月1日にまたがって運行するJR東日本・JR西日本などのJRや私鉄各社は、全ての列車を最寄りの駅に臨時停車して運転を見合わせ、航空便はシステムの不測の事態に備えて欠航したり、年が明けてからの出発に変更したりした。 2000年になった時点では、一部のシステムに不具合は出たものの、致命的な問題は生じなかった。なお、システムによっては時刻を協定世界時 (UTC)で取り扱うものがあり、そのようなシステムでは日本時間の「2000年1月1日午前9時」に不具合が生じることも懸念されたが、午前9時を迎えてもそれほど重大な問題には至らなかった。具体的な例としては、女川原子力発電所、福島第二原子力発電所および志賀原子力発電所で、警報装置が誤報を発したり一部のデータ管理が不能になったが、発電、送電や放射性物質管理に問題は発生しなかった。 例として、当時NTTドコモが販売していた携帯電話「ムーバN206」(NEC製)のショートメール機能において、「既読メールが容量オーバーで受信できなくなった場合、古いメールから自動削除する」機能が誤作動した。また、2000年を想定した設計がされていない古いビデオデッキの予約録画、ワープロ機の文書管理機能などに影響が出た。 2000年2月29日に、当日を閏日として処理せず「日付誤り」として取り扱ったり処理に障害が出る事例が発生した。 2000年問題への対応として、年の内部表現が十進2桁のまま、ある数値までは20XX年とすることで1900年以降のある年から100年間を表せるようにするdate windowがあるが、UNIXエポックの1970年1月1日±50年である1920 - 2019年をwindowとしたシステムが多く、2020年の到来により誤動作を起こしている。 KDDI/auのフィーチャーフォンのうちKCPを採用しているモデルにて、2020年になると同時に表示が"0/0(SUN)0:00"となり時計が機能しなくなる。発売当時から2019年までという仕様だったことが指摘されている。 この他、米国ニューヨーク市でのパーキングメーターシステム、ポーランドのキャッシュレジスター、ドイツのハンブルク地下鉄でトラブルが報告されている。
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NSA
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RADIUS
RADIUS(ラディウス、ラディアス、Remote Authentication Dial In User Service)は、ネットワーク資源の利用の可否の判断(認証)と、利用の事実の記録(アカウンティング)を、ネットワーク上のサーバコンピュータに一元化することを目的とした、IP上のプロトコルである。名称に「ダイヤルイン」という言葉を含むことからわかるように、元来はダイヤルアップ・インターネット接続サービスを実現することを目的として開発された。しかし、常時接続方式のインターネット接続サービス、無線LAN、VLAN、コンテンツ提供サービスなどのサービス提供者側設備において、認証とアカウンティングを実現するプロトコルとして幅広く利用されている。 RADIUSプロトコルは、クライアントサーバモデルに基づいたプロトコルである。RADIUSプロトコルにおけるクライアントは、利用者(人またはコンピュータ)に対してネットワーク接続サービスなどのサービスを提供する機材であり、サーバに対して認証およびアカウンティングを要請する。サーバは、クライアントからの要請に応じて認証およびアカウンティングを行い、応答する。常にクライアントが要求し、サーバが応答する。利用者へのサービスの停止させることなど、サーバがクライアントに対して要求を開始することはできない。クライアントおよびサーバを、一般に「RADIUSクライアント」および「RADIUSサーバ」と呼ぶ。 インターネット接続サービスにおいては、ダイヤルアップ着信装置やブロードバンドアクセスサーバ(BAS、Broadband Access Server)などの着信装置(NAS、Network Access Server)がRADIUSクライアントである(「サーバ」という名称であっても、RADIUSプロトコルの観点ではクライアントである)。無線LANにおいては、無線LANアクセスポイントである。VLANにおいては、VLANスイッチである。コンテンツ提供サービスにおいては、ウェブサーバがRADIUSクライアントとして機能するだろう。 クライアントがサーバに「RADIUS要求パケット」を送信し、サーバがクライアントに「RADIUS応答パケット」を送信する。いずれの方向の通信も、IP上のUDPパケットによって行う。 いずれのパケットも、ヘッダ部分20オクテットと、「属性」部分とからなる。ヘッダ部分は、種別コード(Code)1オクテット、識別子(Identifier)1オクテット、パケット全体の長さ2オクテット、「認証符号(オーセンティケータ、Authenticator)」16オクテットからなる。識別子は、クライアントが決めて要求パケットに設定し、サーバが応答パケットにコピーする。クライアントが、受信した応答パケットと過去に送信した要求パケットとの対応付けを行うために使用する。クライアントの実装では1ずつ増加する数値とするのが一般的であるが、シリアル番号であるとは規定されていない。認証符号とは、送信者の詐称と改竄(かいざん)の無いことの証明を行うデータである。属性部分は、属性値ペア (Attribute Value Pair) を任意の回数繰り返したものである。属性値ペアは、属性番号1オクテット、長さ1オクテット、属性の値からなる。値としては、4オクテットの整数値、4オクテットのIPアドレス、1 - 253オクテットの文字列などを与えることができる。 属性番号ごとに、属性値ペアの値の意味がRFC文書において規定されている。属性番号に対する意味を新たに定義することによって使用目的を増やすことができることが、RADIUSプロトコルの柔軟性の源であり、最大の特徴である。機器のベンダが独自に属性番号の意味を定義して独自の目的に使用することは推奨されない。ベンダ独自の機能に対応するためには、属性番号26番 (Vendor Specific) の値として、ベンダ番号を含むデータを与えることが推奨される。属性番号26番の属性値ペアを、一般にVSA (Vendor Specific Attribute) と呼ぶ。ベンダ番号は、IANAが管理および付与している。 属性値ペアにさまざまな情報を含めることによって、認証とアカウンティングを行う。認証のために、ユーザ名、パスワードのための属性番号が用意されている。ダイヤルアップ・インターネット接続においてPPPを使用する場合のため、PPP用の認証プロトコルであるPAP、CHAP、EAPのそれぞれに適した属性番号が用意されている。アカウンティングのために、利用秒数、送受信データ量などの属性番号が用意されている。これからわかるように、属性番号によって、認証とアカウンティングのどちらで利用できるのか、どちらでも利用できるのかの違いがある。 RADIUSパケットの最大長は、RADIUS認証プロトコルにおいては4096オクテット、RADIUSアカウンティングプロトコルにおいては4095オクテットである。RADIUSアカウンティングプロトコルが4096オクテットでなく4095オクテットであることには特に意味がないようである(RFCの執筆者によれば、タイプミスがそのまま規格になってしまったとのことである)。 「RADIUSプロトコルは、AAAモデル(AAA プロトコル)に基づいたプロトコルである」という表現をすることがある。AAAモデルとは、サービスの提供から記録までの流れを、認証 (Authentication)、承認 (Authorization)、アカウンティング (Accounting) の3つの段階に分けて考えるモデルである。認証とは、利用者が誰であるかを識別することである。この点では、認証よりも「利用者の識別」と言ったほうが適切かもしれない。一番単純な認証は、ユーザ名とパスワードの組み合わせが正しいことを確認する方法だろう。承認とは、認証済みの利用者に対してサービスを提供するか否かを判断することである。たとえば、利用の時刻、発信者電話番号などによる利用場所、前払い利用料金の残額などによって判断するだろう。「認可」「許可」と訳されることもある。アカウンティングとは、利用の事実を記録することである。「課金」と訳されることもあるが、請求・決済業務を指す課金 (Billing) と混同する可能性があるので「アカウンティング」とカナ表記するのが好ましい。 RADIUSプロトコル自体は、AAAモデルという考え方が確立するよりも前に開発されたものである。そのため、RADIUSプロトコルにおいては、認証と承認を区別せず、あわせて「認証」として取り扱っている。実際、RADIUSクライアントは、利用が拒否された理由がパスワードの間違いなのか、権限の不足なのかを知ることができない。 UDPはTCPと異なり、送信者の詐称、データの改竄を検出することができない。このため、通信相手のIPアドレスだけで通信の内容を信頼することはできない。詐称と改竄を防ぐため、RADIUSクライアントとサーバの間で共有鍵 (Shared secret) と呼ぶ鍵文字列を共有し、パケットの内容と共有鍵から得たダイジェスト情報を認証符号および属性値ペアに配置している。共有鍵は、RADIUSクライアントとサーバの組み合わせごとに1個を用意すべきである。RADIUSサーバごとに1個だけ用意し、全てのRADIUSクライアントで同じ共有鍵を使うことは、セキュリティ上の大きなリスクとなる。また、セキュリティの観点から、共有鍵の内容が第三者に漏洩することは大きな問題である。 RADIUSサーバでありながら、実際の認証とアカウンティングの処理を他のRADIUSサーバに依頼するものを「RADIUSプロキシサーバ」と呼ぶ。つまり、RADIUSサーバでありながら、RADIUSクライアントでもある。要求を「転送する」ともいう。 ユーザ名文字列を判断して、要求の転送先を変えることもできる。たとえば、ユーザ名として電子メールアドレスのように「@」マークとドメイン名を含んだ文字列を使用し、ドメイン名の部分の文字列に従って異なるRADIUSサーバに転送することができる。このような技術は、ISP(インターネット接続サービスプロバイダ)間のローミングや、NTTのフレッツサービスのようなアクセス網提供サービスとISPとの分業など、広く利用されている。上記の例でのドメイン名の部分のように、転送先を判断する根拠とする部分を、一般に「レルム(Realm)」と呼ぶ。 CoAは「Change-of-Authorization」の略で、RADIUS許可の変更を意味する。AAAサーバがAAAクライアントにCoA要求パケットを送信し、すでに存在しているセッションの再認証を行う。これにより、ポリシーの変更が発生した場合、すでに認証されているセッションにも新しいポリシーを適用できる。 IEEE 802.1Xは、LANの利用の可否を制御する、イーサネット上のプロトコルである。IEEE 802.1Xにおいては、EAPプロトコルとRADIUSプロトコルを利用することによって、RADIUSサーバによって認証された利用者のみに対してLANを利用させることができる。もちろん、このためにはIEEE 802.1Xに対応した無線LANアクセスポイントまたはスイッチが必要である。なお、「802.1x」というように「X」を小文字で記述しても誤りではないが、大文字で記述するのが主流である。これは、小文字の「x」が数学で使う「 x {\displaystyle x} 」のように、「xの部分に入る文字を規定しない」という意味に誤解されることを防ぐためである。 IEEE 802.1XおよびRADIUSプロトコルのいずれも、実際の認証手順については規定していない。実際の認証は、EAP-TLS、PEAP、EAP-TTLSなどEAP上の認証手順によって行う。ベンダ独自の認証手順をEAP上に実現することも可能である。EAPによる認証のためのデータのやりとりを、利用者端末とアクセスポイントまたはスイッチの間のイーサネットではEAPoL(EAP over LAN)、アクセスポイントまたはスイッチとRADIUSサーバの間ではRADIUSプロトコルによって中継する。 EAP-TLSは、TLSに基づいてデジタル証明書による相互認証(サービス提供者の詐称をも防止する)を行うという点で重要であるが、デジタル証明書の運用と管理の負担が大きいという点で、一般の事業所等では敬遠される傾向がある。PEAPおよびEAP-TTLSは、TLSによる暗号化した通信路を形成したうえでパスワード情報のやりとりを行う認証手順である。EAP-TLS、PEAP・EAP-TTLSの対比は、ウェブブラウザのTLSでデジタル証明書による相互認証を行うのか、SSL上でパスワード認証を行うかの違いを考えるとわかりやすいだろう。 古くから、RADIUSプロトコルの開発者であるLivingston Enterprises社(後にLucent Technologies社に買収された)によるRADIUSサーバの実装と、この実装から派生した実装が多用されてきた。近年では、オープンソースソフトウェア、商用ソフトウェアともに、さまざまな実装が存在する。 以下のRFC文書をはじめ、多くのRFCによって規定されている。
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アメリカ国家安全保障局
アメリカ国家安全保障局(アメリカこっかあんぜんほしょうきょく、英語: National Security Agency:NSA)は、アメリカ国防総省の情報機関である。 1949年5月20日に「軍保安局」(Armed Forces Security Agency、AFSA)として設立された。 1952年11月4日に結成されたインテリジェンス・コミュニティー(情報機関共同体)の中核組織のひとつであり(この時に現在の名称に改称)、公式では海外情報通信の収集と分析が主任務だとしているが、組織の存在自体が長年秘匿された経緯などから、その実像には不明の部分も多い上、治外法権的な立場にある組織として運営されてきた状況さえ窺えるものの、情報の確実性を期す意味でも本項の記載は公表された任務(海外情報通信の収集と分析)を中心に記述する。 合衆国政府が自国民をスパイするのは違法行為だが、他国へ諜報活動するのは違法ではない。海外信号諜報情報の収集活動に関して、計画し指示し自ら活動を行い、膨大な量の暗号解読を行なっている。また、合衆国政府の情報通信システムを他国の情報機関の手から守ることも重要な任務であり、ここでも暗号解読技術が鍵となる。 中央情報局(CIA)がおもにヒューミント(HUMINT; human intelligence)と呼ばれるスパイなどの人間を使った諜報活動を担当するのに対し、NSAはシギント(SIGINT; signal intelligence)と呼ばれる電子機器を使った情報収集活動とその分析、集積、報告を担当する。シギント活動を中心に中央保安部(Central Security Service, CSS)の協力により、合衆国の各情報部と連携して活動を行っている。NSAのトップである長官については、規則によって「NSAは中将によって指揮される。」と規定されており、実際前身であるAFSA時代を除けば、初代長官であったラルフ・キャナイン将軍(陸軍少将)を除き、歴代のNSA長官には全て現役の中将が充てられている。ただし、2005年8月1日に長官に就任したキース・ブレイン・アレクサンダー陸軍大将については、就任時には陸軍中将であったものの、その後2010年5月21日に、NSA長官との兼任という形でサイバー軍 (USCYBERCOM)司令官に任命された際に大将に昇任しており、例外的とも言える状況になっているが、それらは全て他のポストへの異動にあわせて昇任したケースであり、NSA長官在職のまま大将へと昇任したケースは、アレクサンダー将軍が初めてである。 なお、CSSは、1972年の大統領令によって設立された、NSAと共にアメリカ国防総省のもとで国家情報活動の統合を行なう国家機関である。アメリカ陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報・監視・偵察局、アメリカ海兵隊、アメリカ沿岸警備隊とNSAが一体となって共同作戦を展開し、その長はNSA長官が兼務している。また、NSAは陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報部に対して監督権を持っており、事実上、アメリカの諜報活動組織の頂点に位置する。 イギリスの政府通信本部(GCHQ)、カナダの通信安全保障局(CSEC)、オーストラリアの参謀本部国防信号局(DSD)、ニュージーランドの政府通信保安局 (GCSB)と共にエシュロン(Echelon)を運用していると考えられている。NSAは占有する通信基地や航空機、艦艇、人工衛星は保有しないが、それらの情報収集現場に出向いてNSAの情報ネットワークに吸い上げてゆく活動を世界中で行なっている。 内部の「国立コンピューター保安センター」では、コンピュータセキュリティ問題に関する調査と研究や、1983年、1985年の過去2回発行されたオレンジブックと呼ばれる Trusted Computer System Evaluation Criteria というレポートの発行も行っていた。 その性質上諸外国に関する非常に高度な機密(一説では、大統領権限ですらアクセスできないレベルの情報も扱うと言われる)を扱うため、組織や活動内容、予算については明らかにされていない部分も多い。以前は組織の存在そのものすら国民に対しても公然ではなく「Never Say Anything(何も喋るな)」「No Such Agency(そんな部署はない)」の略だ、などというお決まりのジョークがあった。 NSAウェブサイトによると、予算、床面積、人員などを考慮すると、フォーチュン500の上位10%内にランクされる企業(すなわち全米50位にランクされる企業)の規模に相当するとしている。雇用者数は約3万人。年間予算は約108億ドル(約1兆800億円)、世界中に80ヶ所の拠点がある(在日米軍三沢基地にも関連施設がある)。ウェブページにNSA職員募集告知があり、条件は合衆国市民で高レベルのセキュリティークリアランスを取得できる者。 NSAの極めて重大な任務として、「核戦争に備えること」がある。具体的には、 その他、以下の任務がある。 NSAの歴史は1917年にハーバート・オズボーン・ヤードリーの設立した暗号解読組織「ブラック・チェンバー」(MI-8)にさかのぼる。この組織は1929年ヘンリー・スティムソン国務長官に「紳士の仕事ではない」との理由で廃止された。 その後ウィリアム・F・フリードマンが、1930年、陸軍に信号情報部(Signal Intelligence Service, SIS)を設立し、ローレンス・サフォードが海軍にOP-20Gを設立した。この二つの組織が、太平洋戦争開戦時に大日本帝国の外交秘密「パープル暗号」を解読し、山本五十六搭乗機撃墜やミッドウェー海戦の勝利などに貢献する。 1949年5月20日に、統合参謀本部指揮下のアメリカ国防総省の部局として、軍保安局(AFSA、the Armed Forces Security Agency)が設立された。AFSAは三軍の通信電子情報部隊つまり陸軍保安局(ASA、改称されてSAA)・海軍保安群(NSG)・空軍保安部(AFSS)の通信諜報および電子諜報活動を指揮監督することになっていた。しかし、AFSAは能力不足であり、調整機能が不足していた。そこで1951年12月より国家安全保障会議の指示により検討が行われ、1952年6月(?)の国家安全保障会議情報活動指示によって、同年11月4日に設立された後、1999年までその存在は秘密にされていた。 NSAについての主な公文書の流れは以下の通り。 世界がNSAの存在について1999年まで知らなかったわけではない(以下は公刊情報)。 しかし、冷戦終結で機密指定の解除が進んだ事と、NSAが米国政府による暗号化ソフトウェアの輸出規制などの問題に関わっている事から、一般の注目を集める機会が多くなって来ている。アメリカ同時多発テロ事件で拡大した。 暗号やセキュリティ技術に関して、NSAは世界最高の水準にあるが、その研究内容は秘密にされることが多い。しかし、NSAの技術のいくつかは広く一般に使われている。NSAが関わったクローズドソースつまりブラックボックスの一般向け暗号・セキュリティ技術については、バックドアの存在が疑われている。 NSAは暗号方式DESの策定に大きく関わっている。アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) の前身、アメリカ国立標準局(NBS)が公募した標準暗号アルゴリズムに対し、IBMがLuciferという暗号方式を提出するが、ここでNSAは、鍵の長さを128ビットから56ビットに短縮し、S-BOXの内容を変更し、DESとして公式暗号となった。説明なしに行われたこの改造に対して、疑念の声が上がることになった。 実際は当時公知でなかった暗号解読法である差分解読法に対する耐性を持たせた。LuciferのSボックスはきわめて弱くすぐ破れた。改良のために当時最高のIBMコンピューターを数十時間使用した。56ビットに短縮したのはNSAが解読できるようにするためである。 次期標準暗号方式として公開で選定されたAESでは、技術コンサルタントとして関わっている。 NSAが中心となって、1990年代に個人のPC用のPGP暗号ソフトウェアとネットスケープのSSL暗号ルーチンに対して、暗号鍵に128ビットを使用したフル規格製品を海外輸出することを許さず、米国内向け製品として128ビット製品と海外輸出向け製品として40ビット製品を作らせた。これは、NSAが解読すべき暗号で長い鍵を使われた場合、NSAが保有するコンピュータの処理量が、あまりに膨大となるために行なわれた制限である。1996年には西側各国に対する制限が解かれたが、米国が危険視する特定国には引き続き輸出制限が残された。 高度な暗号化技術に対しては、ワッセナーアレンジメントによって、輸出制限が掛かっている国家がある。 連邦政府が米国市民のすべての暗号鍵を管理するという、「キーエスクロー」と「クリッパーチップ」構想では、米国内で大きな議論を呼んだが、結局中止となった。クリッパー・チップで使われていた暗号化アルゴリズム「スキップジャック」(Skip jack) の開発元もNSAである。 また、ハッシュアルゴリズムSecure Hash AlgorithmのうちSHA-0、SHA-1、SHA-2もNSAが開発している(SHA-3はアメリカ国立標準技術研究所 (NIST)による公募)。Security-Enhanced Linux (SELinux) というLinuxに対するセキュリティモジュールもNSAが中心となって開発された。 Microsoftは、Windows Vistaのセキュリティ機能の開発・検査に関して、NSAの関与を認めている。 2015年以降は、量子コンピューターによる暗号解読に対処するため、NISTと共同で量子耐性暗号の開発に着手している。 NSAはMicrosoftが提供するAzureや、Palantirのデータマイニング技術を業務に使用していると一部メディアで報じられる。 ニクソン大統領の辞任後、CIAとNSAによって行なわれた電話盗聴に関する不適切な使用が調査された。これがきっかけで、1978年には安易な盗聴を禁止する法律が作られた。しかしその最中にも、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアやモハメド・アリがベトナム反戦運動に参加しているとして引き続き行なわれた(ミナレット作戦)。 2005年12月、ニューヨーク・タイムズ紙は、ホワイトハウスの圧力とブッシュ大統領の指示のもとで、国内から海外への電話による通話を裁判所の同意なしで幾人かを対象に盗聴したと報じた。また、ブッシュ政権による国連への盗聴行為(英語版)も問題となった。 2008年7月9日、外国情報活動監視法 (FISA)改正案が上院で可決、7月10日ブッシュ大統領の署名により成立した。同改正案は裁判所の令状無しで海外の電話・電子メールなどの盗聴を合法化するもので、さらに情報提供に協力する通信会社の免責事項を、法成立前に遡って有効にする条文も盛り込んだ。議会は野党・民主党が多数を握っているが、民主党からもオバマなどが賛成に回ったために成立した。 NSAは電話や電子メールやインターネットなどの通信網の盗聴(通信傍受)および収集した情報のパターン分析や暗号解読および政府の通信の暗号化などを主な任務とする。そのために現在、20億ドルの予算をかけてユタ州ブラフデールに、スーパーコンピューターを備えた、敷地10万平方メートルの巨大情報監視センター兼インターネットデータセンターを建設中とされる(電圧異常により開所が遅れ、2014年に稼動予定)。 2013年6月には、ベライゾン・ワイヤレスに対して、数百万人分の通話履歴(発信元、通話先、通話時間、発信者の位置)4月末から3か月分を、毎日まとめて提出するよう「外国情報活動監視裁判所」(FISC)からの機密令状により命じていた事がガーディアンによって暴露された。更には、グーグル、フェイスブック、マイクロソフト、Appleなどインターネット関連企業大手9社のサーバに直接アクセスし、電子メール、インスタントメッセージ、接続記録、動画閲覧記録などを含むユーザーデータを「PRISM」を使用し収集、分析していたことがガーディアンおよびワシントン・ポストによって報じられた。 ガーディアンとワシントン・ポストによれば、情報提供者は元CIAスタッフのエドワード・スノーデンで、スノーデンは「真の自由と民主主義の為に公表した」と述べた。スノーデンに協力したのは、ジャーナリストのグレン・グリーンウォルドだった。(関与が指摘された企業は、NSAによる自社サーバーへの直接のアクセスやユーザーデータの収集を否定した)スノーデンはまた、中国からアメリカに向けて行われていたのと同様に、アメリカから中国に向けてもサイバー攻撃が行われている事、NSAの活動は安全保障目的のみならず、国益のために外国首脳の携帯電話の盗聴や産業スパイ分野でも行われている事を明らかにした。 なお、オランダでの盗聴件数180万件に対しては、当初、オランダ政府はアメリカ国家安全保障局の行為と発表していたが、実際にはオランダの諜報機関が行ったものであることが判明しており、オランダ内ではスキャンダルとなっている。2015年2月19日、グレン・グリーンウォルドのザ・インターセプトは、無線通信事業者に暗号化技術を提供しているオランダのジェムアルトのシステムに英米両国の情報機関(アメリカCIAとイギリスGCHQと見られる)が不正侵入したと報じた。 連邦情報局(BND)がアメリカ同時多発テロ事件直後の2002年から米国家安全保障局に協力し、欧州の政治家や企業などを対象に情報収集を行ってきた疑惑が2015年5月までに浮上した。こういった米国家安全保障局がドイツで行った活動に対しては当然に捜査が及び、ウィキリークスが、現在も調査中のドイツ連邦議会の査察団から10ヶ月分(May 2014 through to February 2015)の会議録を入手し、5月12日に公開した。多くの会議は法手続き上こそ公開されているが、ふたを開けると一般人はこの問題をよく理解できない状態に甘んじている。メモは制限され、記録媒体は禁止、記者団には警察が割り込んで厳重な監視体制である。 ビルダーバーグ会議の発言内容傍受阻止に、NSAが関与している。
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EC
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ヒューミント
ヒューミント(英: HUMINT、human intelligence)とは、人間を媒介とした諜報のこと。合法活動や捕虜の尋問等も含み、スパイ活動のみを指すわけではない。外交官や駐在武官による活動をリーガル(Legal-合法)、身分を偽るなど違法な手段で不法に入国しての活動をイリーガル(Illegal-非合法)と呼ぶ。
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シギント
シギント(SIGINT、英語: signals intelligence)とは、通信、電磁波、信号等の、主として傍受を利用した諜報・諜報活動のこと。 軍事分野における電子戦支援(ES)も技術的には同様のハードウェアを使用するが、その運用として作戦指揮官の意思決定に直ちに反映する目的で行われているという点で異なる。 「傍受」とは、送信側に、それを受信する正規の対象として想定されていないような者による電波等の受信のことである。有線である電信や電話の電線から非正規な手法で分岐(タップ)させるような「盗聴」と、無線通信の(パブリックな場所であれば)自由に受信できるものという違いにもとづく表現の使い分けがある。 通信ではなく放送(スクランブルなどの掛けられていないもの)などのような公然の公開情報の利用は、オシントとして別分野とされる。 通信情報 (COMINT, Communication intelligence) 電子情報 (ELINT, Electronic intelligence) 外国信号計測情報 (FISINT, Foreign instrumentation signals intelligence) 音響情報 (ACINT, Acoustic intelligence)
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ダウンロードオンリーメンバー
ダウンロードオンリーメンバー(和製英語:Download Only Member,DOM)とは、パソコン通信、ウェブサイト、ファイル交換ソフトなどの特定のネットワークにおいて、ファイル、メッセージなどのダウンロードばかりして、自分はファイル等を提供したり話題(お礼や感想等)に参加したりせず何らの貢献もしない人のこと。 略してDOM(どむ)といい、他のメンバーから嫌われたり、運営者により禁止されたりすることが多い。 元々は、Read Only Memoryをもじった「Read Only Member」(リードオンリーメンバー)からさらに派生したパソコン通信のスラングである。
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FD
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Earliest Deadline First
Earliest Deadline First (EDF) とは、リアルタイムオペレーティングシステムで使用される動的スケジューリング規則の一種である。プロセスは優先度付きキューに置かれる。スケジューリングイベントが発生すると(タスク終了、新規タスク生成など)、そのキューを探索して最も実行期限(デッドライン)が近いプロセスを選ぶ。そのプロセスが次に実行すべきものとしてスケジュールされる。 周期的に実行すべきプロセスのデッドラインはその周期に等しく、EDFによるCPU使用率の限界は100%である。すなわちEDFはCPU使用率の合計が100%を超えない限り全てのデッドラインを守ることを保証できる。従って、レートモノトニックスケジューリングのような固定優先度スケジューリングに比較して、EDFはより高負荷な環境でも全てのデッドラインを守ることができる。 しかし、システムが過負荷状態のとき、デッドラインを守れなくなるプロセスを予測できない(デッドラインと過負荷の発生時刻に依存する)。この欠点はリアルタイムシステム設計においては重大である。またこのアルゴリズムを実装するのも難しく、デッドラインを数バイトで表すにはやや技巧を必要とする(デッドラインは数ミリ秒かもしれないし数百分かもしれない)。このため、EDFは実際の産業用リアルタイムシステムではあまり使われない。 EDFスケジューリングに関しては多くの研究がなされている。EDFでプロセスの応答時間の最悪ケースを計算することができ、周期的プロセス以外にも適用可能である。ただし、マルチプロセッシングシステムではEDFはうまく機能しない。 3つの周期的プロセスをEDFでスケジュールすると想定する。以下の受け入れ試験によってデッドラインが全て満たされることを示す。 なお、実行時間も周期も同じ単位の時間(例えば10ミリ秒)であり、P1は8単位周期(80ミリ秒)に起動し、1単位(10ミリ秒)だけ動作することを示している。CPU使用率は以下のようになる: 1 8 + 2 5 + 4 10 = 0.925 {\displaystyle {\frac {1}{8}}+{\frac {2}{5}}+{\frac {4}{10}}=0.925} 任意の個数のプロセスを動作させる際の論理的なCPU使用率の限界は100%であり、従ってこのシステムはスケジュール可能である。
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7,262
アブドル・アルハズラット
アブドル・アルハズラット (Abdul Alhazred) は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの一連の小説に登場する奇書「ネクロノミコン」の著者とされる架空の人物。アブドゥル・アルハザードとも(どちらかというとこの表記の方が一般的である)。 8世紀アラビアの詩人・鬼神論者または妖術師である。狂えるアラブ人、アラビアの狂える詩人と呼ばれる。 ラヴクラフトが1927年に記した資料『ネクロノミコンの歴史』では、アルハズラットの生涯についての説明がある。基本設定として下記に要約を記す。 ウマイヤ朝の時代にイエメンのサナアで活躍した詩人とされ、ムスリムであったがイスラームやクルアーンの教えには関心を持っておらず、ヨグ=ソトースやクトゥルフ等の旧支配者を信奉していた。伝説の円柱都市アイレムを見た、アラビア南部の砂漠にある無名都市の廃墟の地下で人類より古い種族の秘密の年代記を発見した、など信じ難い言動が多く、狂人と伝わっている。 西暦730年頃にダマスクスで「アル・アジフ」(ネクロノミコンのアラビア語原題)を著す。その最期については諸説あるが、一般的には738年、路上で白昼、衆人環視の中、不可視の怪物に貪り食われたと伝えられているという。 最初に、1922年作品『無名都市』に、ネクロノミコンからの引用文と彼の名前が登場する(この時点ではネクロノミコンの名前は出ず、引用文とアルハズラッドの名前が先行して登場している)。次の同年作品『魔犬』で、ネクロノミコンとアルハズラッドが結び付けられた説明がなされる。設定は1927年の『ネクロノミコンの歴史』で固まった。 後に、ラヴクラフトの友人であったオーガスト・ダーレスが中心となって体系化されたクトゥルフ神話においては、ネクロノミコンとともに度々言及されている。彼を主人公・語り手とする作品もいくつかある。 フランクリン・シーライトは、子孫のアラン・ハッサードを創造した。彼はアーカム・デイリー・ニュースの記者として深きものどもや旧支配者絡みの事件に度々関わり、それらの出来事はワトスン役の友人フランクリンの手によって小説の形で公表されている。 ラヴクラフト本人の説明によれば、この「アブドル・アルハズラット」と言う名前はラヴクラフトが5歳の時、アラビアンナイトを読んでアラブ人になりたがった頃に使っていた名前であり、「誰か大人の人につけてもらった」名前であるとしている。 アブドル(アブドゥル)という名前はアラビア語またはイスラム教圏で一般的な男性名の一部。語の造りから「アッラーのしもべ」のようなニュアンスの人名にあたり、命名コンセプトとしては欧米語圏における「クリスチャン(キリスト教徒=神の子キリストを信奉する者)」に等しく、ごくありふれている。 英語圏ではアルハズラッド(Alhazred)という単語は、アラビア語語源のハザード(hazard 「偶然、危機、障害」;サイコロを意味するアラビア語アッザハル(az-zahr الزّهر)から)や警戒色の赤(red)を想起させるらしい。また語源的解釈として、アラビア語で「~の近くの場所、~の側、~の居場所」を表すハドラ(ḥaḍrah حضرة 、日本語の「御前さま」「御屋形さま」のように「わたしは~の近く/居場所にいる」と遠まわしに告げることで対象への敬意を表す)や、同じ語源のペルシア語およびトルコ語で宗教指導者に用いられる敬称ハズラット/ハズレット(hazrat حضرت / hazret)、あるいはアラビア語で「柵をめぐらす事、禁止する事」という意味のハズラ(ḥaẓraحظر )などと関連付けられることもある。 またラヴクラフト研究家のS・T・ヨシの指摘によると、「アブドゥル・アルハザード」は冠詞をくり返している(ul Al)ためアラビア語としては誤りであり、文法的にはアブド=エル・ハズレッドが正しいとのことである。 クトゥルフ神話の文献の著者ということで、類似のキャラクターは何人もいる。CAスミスは「エイボンの書」と著者の魔道士エイボンを設定した。REハワードは「無名祭祀書」と著者のフォン・ユンツト、およびニューヨークの狂詩人ジャスティン・ジョフリを設定した。
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7,264
スペースインベーダー
『スペースインベーダー』(Space Invaders)は、株式会社タイトーが1978年6月に発表し、同年8月から稼働を開始したアーケード用固定画面シューティングゲーム。本頁ではその続編であるスペースインベーダーパートIIについても取り扱う。 本作は日本のアーケード史上最大のヒット作であり、タイトーによる純正品が約10万台、許諾先メーカーからのものが約10万台、許諾なしのコピー品が約30万台出荷されたと推定されており、ブームとなった1年半足らずの間に計50万台が日本中に出回った。 後に多くの家庭用ゲーム機や携帯電話ゲームなどにも移植された。 「スペースインベーダー」はタイトーの登録商標である。一方、タイトーの純正のスペースインベーダーを初めとする同社の後継製品、および他社製のコピー品、模倣品、類似商品などを広くひとまとめに総称する場合は(正規ライセンス品でないものをタイトーの登録商標で呼んではいけないので)「インベーダーゲーム」と呼ばれ、2つの名称は使い分けられている。 2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。 スペースは宇宙、インベーダーは侵略者を意味する英語で、侵略してくる宇宙人(インベーダー)を迎撃するシューティングゲームである(ゲームコンセプトについては「開発」の節で解説)。画面上方から迫り来るインベーダー(敵キャラクター)を、左右に移動できるビーム砲で撃ち、インベーダーを全滅させることを目的とする。時々、上空に敵母艦のUFOが出現し、これを撃ち落とすとボーナス点を獲得できる。 それまでのビデオゲームでは「シューティングゲーム」といっても、ただのターゲットを狙って弾を撃つだけのいわゆる「的当て(まとあて)」ゲームであり、「のんびり」していて向こうからは攻撃してこないし、自分が何もしなくてもせいぜい点数が入らないというだけで、3分間は遊ばせてくれる、というものだった。それに対して本作は敵と対戦するような形のゲームであり、そこが画期的だった。また、それまでのシューティングゲームは前述の通りあらかじめ決められた分数遊ばせてもらえる、というシステム(「時間内に何点獲得できるか」というルール)だったが、本作では上手な人が長く遊べる、というルールを採用した。また難易度の設定に関しても、それまでのアーケードゲームというのはゲーム会社上層部の年配の人々の判断によって年配の人でも遊べるような、かなり容易な難易度設定がされるものだったが、本作は若者層が楽しめるような比較的難しい難度設定が、開発者の西角友宏の判断によって採用された。 本作は登場した当時大ヒットし、数々の社会現象を生み、テレビゲームを象徴する存在ともなった。昭和時代や戦後の通俗文化史を解説する書籍などで、特筆すべきこととして語られることが多い。たとえばインベーダーゲームばかりを設置した「インベーダーハウス」と呼ばれるゲームセンターが全国各地で次々と開店し、若者らが本作をプレイしようと順番待ちの行列を作ったことや、喫茶店やスナックのオーナーらがこぞって店内のテーブルの多くを本作のテーブル型筐体に置き換え、客たちも本作をプレイすることに熱中したことなどである。他にもこの種のエピソードには事欠かない(本作が業界及び社会に与えた影響の詳細については、#ヒットと社会現象の節で解説)。 敵弾を回避しつつ敵を撃つ、というゲームシステムには他社も着目し、ナムコの『ギャラクシアン』などに受け継がれ、後に日本で数多く登場したシューティングゲームの始祖のひとつとされる。 当時はまだゲーム業界でも著作権という概念が今ほどには根付いておらず、第一印象が「よく似た」ゲームが複数のゲーム会社から同時多発的に登場することがしばしば起きた。とりわけ本作はあまりにも記録的な大ヒットをしたため、中身はほぼ同じでせいぜいタイトルを少し変えた程度のコピーゲームが氾濫した(詳細は#亜流「インベーダーゲーム」及びその関連の節を参照)。なお、本作のコピーゲームを制作した会社の中には、後に家庭用ゲーム機向けコンシューマーゲームのソフトハウスとなり、世界的に有名になった会社も少なくない。 2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。 約30万台と言われる売上を記録したことでタイトー自体の生産が追いつかなかったため、国内では以下の5社が許諾を得て生産していた。なお、当時の業界では違法コピーに対し、契約金などの条件を付け、後付けで許諾をするというケースもあった。 画面の中央やや上方に、縦5段 横11列の、計55のインベーダーが現れる。 インベーダーは、軍団状で、隊列状態でまとまって横移動をしながら、端にたどり着く度に一段下がり、下がり終えると進行方向を逆方向変えて再び移動しはじめる。これを繰り返すことによって、段々と下に降りてくる。インベーダーが画面最下部のプレイヤーの位置まで降りてきたら、自陣が占領されたことになり、残機があってもゲームオーバーとなるために、それまでにインベーダーを全滅させなければならない。 自陣に関しては、ビーム砲(自機)が一門、画面の下段に表示される。ビーム砲は左右にしか動けず、弾を撃つ場合でも1発限定で、しかも自分が撃った飛翔中の弾がどこかに着弾するまでは、次の弾が撃てない。ビーム砲の上にはいくつかトーチカ(防御壁のようなもの)があり、ビーム砲を敵の攻撃から護る役割を最初は果たしているが、トーチカはインベーダーからの攻撃を受けた場合も、またビーム砲がトーチカ下方からビームを撃った場合も、少しづつ破損してゆき、さらには降りてきたインベーダーが触れることでも削られてしまう。プレーヤは、トーチカの下に、まるで傘に入るようにしてインベーダーからの攻撃を避けたり、そこから出てインベーダーを攻撃したりすることになる。なお、画面がスクロールすることはなく、インベーダーやビーム砲が画面からはみ出すことなどもない。 インベーダーを撃墜した際の得点は一番上の段が30点、その下の2段が20点、その下の2段が10点である。画面最上段にはUFOが通過するゾーンがある(UFOの得点参照)。逆に敵インベーダーからの攻撃でビーム砲が被弾した場合、ミスとなりビーム砲を1門失う。 インベーダーは撃墜されたことで数が減るにつれ、徐々に移動速度が速くなっていく。残り10体を切るとかなりの速度になり、しっかり狙って撃たないと弾が当たらず、発射直後に狙いがはずれたと気づいても、着弾するまでは次の弾が撃てず、あれよあれよという間に何段も下りてくる。ただし、インベーダーの移動速度は、右方向よりも左方向への移動の方がやや遅いため、これを利用して、左方向へ移動中に攻撃すると弾を命中させやすい。インベーダーが最下段まで降りてしまうと、占領されたということでビーム砲は破壊されてしまい、ゲーム終了となり「GAME OVER」の文字が表示される。 インベーダーが最下段に降りる前に画面内のインベーダーを全滅させると、ゲームは続行され、1面より(前の面より)も一段下にインベーダーの軍団が配置され、インベーダーは前の面よりも近い位置から攻撃してくる。つまり、面が進むにつれ難度が上がるようになっているが、9面目をクリアした時は、一旦は2面目の位置に戻りそこから再び面ごとに下がり、以降8面ごとの繰り返しになる。。 人気となった理由は、(前述したように)当時の一般的な、ただの「的当て」でしかなかった「のんびり」としたシューティングゲームとは違い、攻撃してくる敵と対戦するゲームであり、いわゆる「スリリング」なゲームであったことや、前述のように、年配者でなく若者が楽しめるよう適度に難しく設定されていたことや、上手な人ほど長く遊べるというゲームシステムが採用されていたこと(初挑戦者や数回目のプレーヤーは2分以下でゲームが終了してしまうのに比べて、攻略法を身に付けた上級者では100円で1時間以上遊べた)。 ここに詳述する攻略法のほとんどは、本作のプログラム開発者が見落としていた動作、一種のバグによるものと言われている。特に「名古屋撃ち」は高得点獲得のためにはほとんど不可欠の作戦となり、その呼称は現在でも伝承されている。開発者の西角は「名古屋撃ち」という攻略法があることを知った当時「ショックだった」と語っている。しかしそうしたバグのおかげで攻略法が生まれ、プレーヤーたちが一層熱中する要因となり、本作の大ヒットに繋がった。 語源を「名古屋(のプレーヤーの間)でこの攻略法が生まれたから」とする文献は非常に多い。 インベーダーのミサイル攻撃は、インベーダーがまるで糞尿を垂れ流しているかのように見えてしまうことを防ぐため、キャラクターの直下からではなく、1キャラクター離れたところから発射されており、当たり判定はそのさらに一段下から行われる。このため、インベーダーが最下段まで降りてきてビーム砲と隣接した状態では、ミサイルが当たり判定を擦り抜けてしまうことを利用して攻撃する方法である。 とはいえ、ただ敵が最下段まで降りてくるのを待っていたのでは、それまでに攻撃を受けてしまうので、攻撃を避けるための安全な範囲を作りだすために、端の列の最上段の敵を残し、その隣の2〜3列程度の敵をすっかり撃墜して敵不在の列(隙間。間隙)を2〜3列程度つくり、その隙間に自ビーム砲を入れる(下図参照)。インベーダー軍団は左右に動くので、それにあわせて隙間にいつづけるように自ビーム砲も左右に動かす。 下はインベーダーを最下段へ下ろすため敵軍団に隙間を作りそこに自ビーム砲を入れて待つ状態の図 このようにすれば敵の攻撃を受けることなく最下段に降りてくるのを待つことができ、そのようにして最下段に降りさせれば自ビーム砲は当たり判定から除外された安全なエリアに入り、一番下の段のインベーダーの下をまるで自由にくぐり抜けるように左右に移動でき、おまけに距離が近いのでこちらのビーム砲の発射から着弾までほとんど時間がかからないので(単発でしか打てないビーム砲にもかかわらず)まるで連射砲のようなリズムで連続的に最下段のインベーダーを撃ち殺すことができる。この戦法を名古屋撃ち(なごやうち)という。 下は、敵軍団が最下段に降りてからその下をくぐって自ビーム砲連射を開始する段階の図 右側にインベーダーを何列残すかについては、ある程度選択の余地があった。なお名古屋撃ちは、あくまで最下段までインベーダーをひきつけてから行う必要があり、間にまだ1〜2段の隙間が開いている段階でインベーダーの下を左右に移動しつつビームを発射しようとしても、自ビーム砲はまだ当たり判定が有効なエリアにおり、おまけに近いので避ける間も無くインベーダーのミサイル攻撃を受けてしまいがちである。名古屋撃ちは安定したUFO破壊ができ、より高得点が期待できるという特徴もあった。ただし敵軍団が最下段に降りてからこちらがミスをすると即占領、即ゲームオーバーとなってしまうため、名古屋撃ちには的確な射撃および的確な移動が不可欠である。 なお、バリエーションとして「中央突破」という、以下の図のような形を作る戦法もあった。名古屋撃ちのテクニックには俊敏性が要求されたため、逆パターン(4・5・6面)に於いては下図の作戦を用いる上級プレーヤーも少なくなかった。 なお一部の亜流作品ではこの攻略が不可能なものもあった。 一見ランダムのように見えるが、実は疑似乱数の中でもかなり単純な方式を用いている。乱数のシードは各面開始時にリセットしており、ビーム砲から弾を発射する毎に乱数列を一つずつ進めている。このため戦略的に高得点を狙うことが可能になっており、カラ撃ちや名古屋撃ちなどで特定回数の射撃をして発射数を調整してからUFOを撃破することによって、最高得点を得ることが可能となったからである。最高得点である300点を出すためには、最初は8発目、それ以降は15発目の弾を命中させればよい。それ以外の場合は150、100、50点のいずれかとなる。これらも何発目に何点と決まっている。 UFOは各面開始から25秒ごとに出現するが、インベーダーの数が残り7体以下になると出現しなくなる。 インベーダーは周期的なテンポで移動するが、全数が同時に移動しているのではなく、1匹1匹が順に移動しているので移動にわずかなズレが生じ、インベーダーの縦列すれすれにビームを打つとタイミング次第で、下段のインベーダーを残し、上段にいるインベーダーを倒すことができる。インベーダーが減ると移動スピードが速くなり、かなりずれが出るので、狙いやすくなる(縦一列にインベーダーが残った状態が一番狙いやすい)。それを繰り返し10点インベーダーを最後に残すと、キャラクターが右に移動する際に(もともと、10点インベーダーが最高速で移動することを想定した描き変えをしていなかったため)画面上にキャラの一部が残るといったバグがおきる。その様子から“レインボー”と呼ばれた。 発生させるには正確な操作と、ビームを発射するタイミングを見極める必要があるので、これができれば中級者以上と言える。レインボー状態になってから、インベーダーが右端に2回移動してしまうと、突然インベーダーが、一番下まで降りてしまい、占領されてゲームオーバーになってしまう。 もともとバグ技であるため得点には影響しないが、後述する続編『スペースインベーダーパートII』ではレインボーに成功すると「レインボーボーナス」として500点が入った。また左側の列を残し、最初の10点インベーダーを残してレインボーすると1000点入るという法則がある(しかし2匹目の10点インベーダーでレインボーすると500点となってしまう)。 以下、画面内の位置の順、上から下の順に解説する。 開発者は太東貿易(現・タイトー)の子会社、パシフィック工業の社員だった西角友宏。西角は同社の『スピードレース』(1974年)や『ウエスタンガン』(1975年)の制作を手掛けており、『ウエスタンガン』のライセンス許諾版であるセガの『ガンファイト』に、CPU付きの基板が使用されていたことに着目し、将来的にゲームはプログラムによって制作される様になると予測。独学で本作のプログラムを手掛けることとなった。結果として本作は「日本において初めてCPUを使用したゲーム」となった。 「敵の集団」という発想は『ブロックくずし』を元にした、と西角本人が説明している。開発当時、アタリ社の『ブレイクアウト』を日本に持ってきた『ブロックくずし』が、ゲームセンターや喫茶店などで人気を博していた。そこでタイトーではブロックくずしに続くゲームの開発を指示し、その内の一機種が『ズンズンブロック』と、この『スペースインベーダー』であった。西角は、自身がシューティングゲーム好きであったことが発案の背景で、さらに「『ブレイクアウト』を超えるゲームを作れるか」と上司に尋ねられて奮起した、と回想している。 西角はブロックくずしを分析した結果、その目的は「ブロック全てを消した時の満足感」にあると考え、この満足感を大切にして開発することにした。ただし、同じ内容では超えられないため、互いに攻撃しあい、相手からも撃ってくることを思いついた。ブロックを消すだけで満足感があるのだから、攻撃してくる相手を消せたらさらに大きな満足感を得るはず、と考えた。 開発初期段階では「戦車」や「飛行機」等をキャラクターに設定予定だったが、当時の技術ではそのスムーズな動きが難しいという理由で断念。次に考えたのは「人間」だったが、社内から「ゲームとはいえ人を撃つことは良くない」という声で再び断念。そこで、当時1作目が公開され大人気となった映画『スター・ウォーズ』をヒントにした「宇宙人」にすることを提案し、インベーダーのキャラクターになった。 インベーダーのキャラクターデザインは、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』の挿絵をヒントに西角がイメージ画を描き起こし、これを元に西角自身がドット絵を作成した。イメージ画のモチーフは、タコ(10点)、カニ(20点)、イカ(30点)となっている。後にそれぞれ正式名称としてそのままOCTOPUS、CRAB、SQUIDと名付けられている(なお、なかでもCRABは『スペースインベーダー』のみならず、タイトーを代表するマスコットキャラクターに位置付けられ、またさまざまな媒体でも引用され、ひとつの独立した知られたキャラクターともなっている)。 西角はデザインのためにブラウン管をペン状のデバイス(ライトペン)で直接描画し、それをデータとして利用できるシステムを発明した。これが世界で最初の実用コンピューター用ペンデバイスであったとされることがある(なお、ライトペンはWhirlwindで開発されSAGEで使われたのが最初と今日では一般にされている)。西角曰く「自分の作業をしやすくするための道具として作っただけ」という理由で、特許などは取得しなかった。 西角はアタリ製『ポン』の見本機に触れて、コンピューターゲームの仕組みを学んだ。後に『スペースインベーダー』となる構想中のゲームの制御には、通常の集積回路(IC)では限界があると考えた西角はマイクロプロセッサを利用しようとしたが、当時は軍用が主で、民生用は日本国内にほとんどなかった。このためインテルの講習会に出席したり、英書を読んだり、ミッドウェイ製ゲーム機に搭載されていたCPUを解析したりしてプログラムを調べた。パーソナルコンピュータがない時代であったため、入力装置を自作した。 西角はサウンド作業については苦手だったため、サウンドのみは『ブルーシャーク』を担当していた、亀井道行(かめい みちゆき)が担当した。インベーダーが動く音はなかなか適した音が決まらず、最後は心臓の鼓動音と、当時話題となった動物パニック映画『ジョーズ』のテーマソングの「ジャンジャンジャンジャン...」という響きを参考にした(宝島社『「ゲーセン」最強読本』西角のインタビューより)。本来は二拍子だったものが、現在知られるような四拍子にされたとされる。移動音については変更後も社内評価は変わらず酷評されていたが、結果的には四拍子だからこそのヒットとさえ評価されている。なおコピーゲームには、二拍子の物もある。 販売可能な品質に仕上がったのは、実際の販売日よりずっと早かったと言われる。しかし初期バージョンの社内評価は芳しくなく、途中で面クリアできなくなるといったバグも残っていたため、(販売予定日前の)2ヶ月ほどかけて修正を行い、その際のバランス調整によって、ゲーム性が大きく向上した。 開発段階ではもともと、当時大人気のピンク・レディーがリリースしたシングル「モンスター」(1978年)の影響を受け、『ギャラクシーモンスター』または『スペースモンスター』というタイトルで呼ばれていたが、手直しの際に海外発売を視野に入れることを理由とした上層部命令により、発売二ヶ月前に田島一成により、他にも多数存在したタイトル候補から、『スペースインベーダー』に変更された。西角はこのタイトル変更によって、「ゲームへの愛着がなくなった」、とコメントした。 敵が攻撃してくるという内容は、営業部門を中心とする熟年社員には難しく「敵が攻撃しないように改造しろ」という命令も出た。一方で開発部門を中心とする若い社員には好評であり、西角は改造を拒否した(『新・電子立国』4、『未来創造堂』で西角が証言)。コンピューター側が敵として攻撃してくるゲームは当時まだ珍しく、業者向けの内覧会でも、操作に慣れないうちに全滅してしまうと芳しくない評価であった。 当時の社内評価では、同時に発売される『ブルーシャーク』の方が、従来と同じシステムのゲームとして人気が高く、『スペースインベーダー』は「難しくて一般受けしない」という評価であった。社内的には『ブルーシャーク』を積極的に営業展開し、『スペースインベーダー』の方は当初はタイトー直営のゲームセンターにしか置かれず、「置いておけば、投資した分が回収できるか」といった程度にしか期待されていなかった。ところがいざ蓋を開けてみると、本作のゲームバランスが高校生・大学生や若いサラリーマンを中心に大いに受けた。各地から本作の発注が殺到、タイトーは急遽、営業方針を切り替えた。 以下、当時のタイトー社員の体験談なども含む。 タイトーからアーケードゲームとして発売された、正式な『スペースインベーダー』のシリーズは以下の作品である。タイトル横の記述はリリース年。その横に☆印が付いている作品は、後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に移植版が収録されている(別版にのみ収録されている作品については付記形式で言及)。 下に記載したソフトのうち、Wiiショッピングチャンネルで販売されていた配信ソフト全般(Wii版バーチャルコンソール・Wiiウェア)については、2019年1月31日をもってサービス(配信・販売)が終了している。後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に何らかの形で収録されている作品については、付記形式で言及。 アーケード版はゲーメストムック『ザ・ベストゲーム』(1991年)において、『ゲーメスト』読者による全アーケードゲームを対象とした人気投票で第40位を獲得した。巻末の「ビデオゲームフルリスト」の紹介文では、「いまだにこの作品を、知名度、売り上げともに抜くものがいないと言われるくらい有名。55匹の敵を左右移動の砲台で撃つというシューティングを確立した」と評されている。 ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのがっちんは本作を「タイトーから発売された、ゲーム界に残る歴史的な名作」と位置付け、後のゲームはほぼ全て本作を基本として発展したと主張し、55匹の侵略者を左右移動可能な自機で撃ち落とすというシステムが単純であると指摘しながらも、本作がシューティングゲームを確立したと評価した。また、当時では斬新であった本作のゲームシステムが(当時として)「画期的であり」(プレイヤーたちに)「驚きと興奮を与えた」と指摘したほか、すべての筐体が本作で埋め尽くされた「インベーダーハウス」が存在したことを指摘、「もはや伝説となったインベーダーに匹敵する作品の出現は2度とないだろうとまで言われている」と総括した。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作の元となったアタリの『ブレイクアウト』(1976年)が動作しないブロックを破壊するのに対し、本作では敵が左右に移動しながら攻撃してくる事が大ヒットの要因であると結論づけている。 移植版の評価は、ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」において、メガドライブ版は合計23点(満40点)、スーパーファミコン版は6・4・6・5の合計21点(満40点)、PCエンジンSUPER CD-ROM2版は6・5・4・5の合計20点(満40点)とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は合計19点(満40点)、バーチャルボーイ版が4・4・4・3の合計15点(満40点)、セガサターン版は合計16点(満40点)、PlayStation版は合計17点(満40点)といずれも低評価となった。 徳間書店のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は右記の通り、スーパーファミコン版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計18.7点(満30点)、PCエンジンSUPER CD-ROM2版が『PC Engine FAN』において合計19.4点(満30点)、PlayStation版が『PlayStation Magazine』において合計18.2点(満30点)とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において合計14.8点(満30点)、メガドライブ版が『メガドライブFAN』において合計15.6点(満30点)、バーチャルボーイ版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計17.5点(満30点)となっている、セガサターン版が『SATURN FAN』において合計15.6点(満30点)といずれも低評価となった。 本項ではタイトースペースインベーダーを含む、それと類似したゲームの総称として当時頻繁に使われた『インベーダーゲーム』一般について取り扱う。 亜流を製造したメーカーは50〜80社と言われ、当時日本で亜流を出さなかったのは、『ギャラクシアン』を開発中のナムコだけだった。マコト電子工業の『スーパー・インベーダー』、ウコー・コーポレーションの『ファイティングミサイル』(スペースミサイル)、ワールドベンディングの『インベーダーウォーズ』、日本物産の『ムーンベース』、アイ・エヌ・ジ・エンタープライゼスのコピーゲームに対する損害賠償請求訴訟は、ゲーム業界初期の知的財産トラブル事例とされる。プログラムを勝手にコピーすることは犯罪であるという判例がきっかけとなり、著作権法の一部が改正された。 内容はタイトーとほぼ同じではあるが、ハードウェアやソフトウェアの全てをそのままコピーしたデッドコピーと表現するしかないような物から、ゲーム内容が似せてあるだけで中身は独自に開発した物まであった。キャラデザインやUFOの動きなどをアレンジしたもの、文字表示をカタカナにしたもの、2in1筐体で遊べる等の差別化を行った製品が出るようになり、逆に独自技術で亜流を作ったメーカーの中には、ハード的制約で完全再現できないものまで存在していた。こうしたゲーム会社の殆どは、『ブロックくずし』を作る為に創業し、『インベーダー』の亜流で会社を大きくし、ブーム後は『インベーダー』のノウハウを活かして独自のゲームを作り始めた。そう考えると、日本ゲーム業界での『ブロックくずし』は生みの親、『インベーダー』は育ての親と言える。 しかし亜流のメーカーがリメイクを制作することはまずなく、現在では亜流を遊ぶことは一部のエミュレーター筐体での稼働を除けば、ほとんど不可能といってもいい。 全種は紹介しきれないので、ここでは後にメジャーとなったメーカー、またはフィーチャーが独特で多くのプレイヤーの記憶に残ったものを抜粋して紹介する。 ブーム後にナムコから『ギャラクシアン』が出たが、『ギャラクシアン』の基板は一つのキャラに複数の色が付けられる画期的なもので、中小メーカーはこぞって『ギャラクシアン』基板の流用ゲームを出した。タイトーも『ギャラクシアン』に匹敵する基板を既に開発していたが、『インベーダー』基板が大量に残り、廃棄するのも無理があったので、西角らはまず『インベーダー』基板のROMだけ差し替え、別のゲームを作ることとなった。このため1979 - 1981年にタイトーから出たゲームの色や音は、工場で新造されたものは独自の仕様だったが、インベーダー基板を流用したものは、色と音(当時はまだシンセサイザーがなく、抵抗器を一つ一つ付け、『インベーダー』の場合8種類の音が用意されていた)の両方または片方が、『インベーダー』と同じままだった。基板流用ゲームは、主に以下のタイトルなどが挙げられる(メーカーにリンクがあるものは後述)。 タイトー以外ではセガ・エンタープライゼス(現・株式会社セガ)の『ヘッドオン』基板もROM交換で対応しており、1981年頃までは大手のセガやタイトーより中小メーカーの方が、華やかな色のゲームを作れるという、一見矛盾した展開が見られた。
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動物学
動物学(どうぶつがく、英語:zoology)は、動物を対象とする学問。自然史学の一部門に由来し、現在では生物学の一分野とされる。古典的には物質を鉱物・植物・動物にわけることが一般的だったため、博物学も鉱物学、植物学、動物学にわけられていた。 動物学の始まりは古代ギリシアにあると見ることも出来るとされる。発生学、生理学、生態学、動物行動学、形態学などの視点から研究が行われてきた。 近年では生物の分類が様変わりし、研究分野が細分化されたため、動物学の内容が多様化し、この語が用いられる頻度は低くなった。対象とする分類群によって哺乳類学、昆虫学、魚類学などと分けられることもある。動物の古生物を対象とする場合は古動物学と呼ぶ。 動物学は、時代を遡ると古代ギリシャのアリストテレスによる研究にまで遡ることが出来る。現代まで残されている著作としては Historia animalium『動物誌』、De generatione animalium『動物発生論』、De partibus animalium『動物部分論』などがある。 近代動物学に影響を与えた存在としてチャールズ・ダーウィンの存在が挙げられ、19世紀以降、発展的に研究が進んだ。 動物の研究では、まず体内の構造の研究が優先して進んだ。これは、 などが理由に挙げられる。最後の点に関しては、逆に医学的研究による発見が生物学に反映される場合もあった。このような研究は17世紀以降に大きく進歩した。(そのような初期の発見の代表的なもののひとつがウイリアム・ハーベーによる血液循環の発見である。) このようにして集められた知識は、次第に様々な動物の内部構造を比較し、関連づけられるようになって比較解剖学を生んだ。代表的な研究者にジョルジュ・キュヴィエやマルチェロ・マルピーギなどである。このような知見の集積は、古生物学において化石という往々にして断片的な生物片からその生物の正体を求める上でも大いに役立った。このような比較解剖学と古生物学の知見は、進化論の形成にも大きな役割を担ったものである。最初の主要な進化論者であるジャン=バティスト・ラマルクも、彼と対立したキュヴィエもこの分野の研究者であった。 19世紀には、生物学の様々な分野が大きく変化した。顕微鏡を使用した研究方法は、技術的革新と共に一定の結果を蓄積するようになり、動物の構造を器官から組織や細胞のレベルで調べることが当たり前になり始めた。それに基づき、生物は細胞から構成されるという細胞説も確立した。この世紀の後半には細胞内の構造が追究されるようになった。ゴルジ体や中心体などの発見はこの時期である。組織や細胞に関する様々な特徴は、電子顕微鏡レベルを除いてはこの世紀の末には、一旦はほぼ完成したと言っていいだろう。 また、化学分野の発展に基づいて、生物体内における化学についても追究が行われるようになった。尿素の人工合成や血糖量調節に関する研究が行われた。より基本的な細胞内の化学的過程である酵素作用や呼吸などの研究は、むしろ微生物を対象にこの世紀の後半から始まる。これは、いわば目に見える生物に関する記述から生物一般の基本的性質の科学へと生物学が変化し始めたとも取れる。 発生学の分野でも変動が大きい。細胞説の成立を受けて、発生をそこから見直す流れが生まれ、カール・エルンスト・フォン・ベーアによってヒトの卵が確認され、様々な動物の卵からの発生が観察された。これらの知識を元に、様々な動物の発生を比較し、そこから知見を得ようという流れが比較発生学と呼ばれる。これは比較形態学の流れをくむものでもある。それを進化論的にまとめようとしたのがエルンスト・ヘッケルの反復説であった。しかし、それに飽きたらず、発生の機構そのものを解明しようとする動きが生じ、いわゆる実験発生学の流れが生まれる。 進化論はすでに発表され、多くの学者に論じられながらも力を得ることはできなかったが、チャールズ・ダーウィンによる自然選択説は、それまでの諸説やそれに対する反対を打ち砕くだけの説得力を持ち、生物学のみならず、多くの分野に影響を与えることとなった。少なくとも生物学の中では、様々な現象を進化の概念抜きでは論じられなくなった。グレゴール・ヨハン・メンデルによる遺伝法則の発見もこの世紀の大発見ではあるが、それが注目を浴びたのは19世紀最後の年であり、遺伝学そのものの発展は20世紀に持ち越される。これは、染色体など、生殖に関する細胞学レベルの研究が未だ十分になされていなかった点も大きい。 20世紀は生物学が大発展した時代である。その大きい部分は生化学と分子生物学の分野であるが、その多くが微生物を用いて展開された。 発生学は、19世紀末に生まれた実験発生学の流れにそって発展し、ハンス・シュペーマンによる誘導の発見が一つの山となった。しかし、その後に進歩は停滞し、遺伝子研究の進歩を待つこととなった。 19世紀末から始まった病原微生物の研究は、ルイ・パスツール・ロベルト・コッホらによって発展し、ワクチンや予防接種などといった伝染病への対応策を持つに至ったが、これは動物学の側から見れば動物の生体防御のしくみが明らかになる過程であった。ここから体液性免疫の存在が明らかになり、やや遅れてイリヤ・メチニコフは白血球の食作用による生体防御の存在を明らかにした。
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鼻行類
鼻行類(びこうるい)は、動物学論文のパロディ作品である書籍の題名、およびその書籍で紹介される架空の動物の名である。 原著の正式な題名は「Bau und Leben der Rhinogradentia」(鼻行類の構造と生活)。著者はハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke)としているが、これは架空の人物であり、実際にはドイツの動物学者、ゲロルフ・シュタイナー(Gerolf Steiner、1908年5月22日 - 2009年8月14日)である。作中では、この書籍は「シュテュンプケの遺稿である鼻行類についての調査報告書を、友人であるシュタイナーがまとめたもの」としており、シュテュンプケは鼻行類の現地調査に向かった後に行方不明になったとされている。 『鼻行類』はハラルト・シュテュンプケ名義で書かれた、架空の生き物「鼻行類」を解説した書籍である。1961年発行。フィクションではあるが、生物学の学術書によくある、特定の分類群に関する総説の形式を巧みに表現してあり、個々の動物の記述は客観的かつ冷静である。 特に、一つの群島における哺乳類の一分類群の適応放散をシミュレートする、という試みにおいても興味深いものである。鼻で歩くというのがいかにも奇妙であるが、考えてみればゾウの鼻でもずいぶんと奇妙であるし、生物界にはびっくりするような適応の例はいくらでもある。しかしそれが鼻であることが一種のおかしみを醸し出している。さらにダンボハナアルキなどは、耳を羽ばたかせて飛ぶというディズニーアニメのダンボを生物学的に具現化してみせたものである。それ以外にも、寄生性の哺乳類など、実在しないものを無理やり創り出したものもある。なお、顔を花に擬態させて虫を捕るというハナモドキなどは、ほぼ同様の案が『アフターマン』でも使われており、言わば、アイディアの収斂が見られる。イカモドキは繊毛粘液摂食を陸上のしかも哺乳類にさせる思考実験ともとれる。 その学術論文のパロディとしての完成度はかなり高い。鼻行類についての記述のみならず、ハイアイアイ群島の現地人の文化や鼻行類研究の歴史なども、それらしく描かれている。また、巻末の参考文献一覧なども一見の価値がある。その系統樹を完全なものとしては描かず、多くの疑問や異説を含むかたちで提出するあたりにも、学術論文的なリアリティがある。また、地鼻類の項では単にこの架空の分類群のみならず、扁形動物門三岐腸類の系統にまで話を広げるあたりは、いかにも意欲的な研究者の書きそうな話でもある。線画による細密画も生物学論文的なもので、ときに違ったタッチのものが混じるのは、総論的な学術論文ではよくある、他の研究者の論文からの引用によって異なったタッチの図が入り交じるという事実を巧みに模したものである。 古い詩(これは実在する)の引用から始まり、核実験による島の消滅という終焉を末尾に置くというドラマチックな構成は、単なるパロディ論文というよりは、論文という体裁をとった一つのおとぎ話としても成立している。サイエンスフィクションならぬ、バイオロジーフィクション作品と呼べるであろう。 なお、本文中では始めに少し説明がある以外には言及がないが、この島はきわめて古い時代に孤立して以降、独自の進化の道をたどっており、そのために高等な昆虫が欠けている。したがって、図中に描かれている昆虫はいずれもゴキブリやカゲロウなど古い型のものかそれに由来するものであり、よく見るとそれらしく描かれている。 『鼻行類』は後に著された『平行植物』および『アフターマン』と併せて「生物系三大奇書」と呼ばれることがある。このうち、『平行植物』が民俗学的書籍の、『アフターマン』が一般向け科学解説書(あるいは、子供向け科学図鑑)のパロディーの体裁をとるのに対して、『鼻行類』は徹底して科学分野の専門書のパロディーである。 そのため、関わりを持つ人物には生物学の専門家が多い。上記のように本当の作者も動物学者であるし、日本語訳は一級の動物行動学者である日高敏隆が行っている。フランス語版にはフランス動物学会の重鎮であったピエール=ポール・グラーセが序文を書き、総合学説で説明できるのか・コビトハナアルキは鼻行類なのか、について否定的な疑問を呈すると、ジョージ・ゲイロード・シンプソンが『サイエンス』誌の書評にてグラーセの見解に対し、総合学説で説明可能でありコビトハナアルキは鼻行類であると反論した。 本書の評価本(『シュテンプケ氏の鼻行類 - 分析と試論』ゲーステ著・今泉訳)が出版されている。このほか、片倉・馬渡の『動物の多様性』(2007年、培風館)では標本に関する議論の中でこの書を取り上げ、それが虚構であることには一切触れずに、「標本が存在しないため、これを確認することが不可能であること」を惜しみ、フランスの博物館にて一時展示されていたハナススリハナアルキの剥製(当然作り物である)について「その時に解剖を依頼すればよかった」と悔やんでいる(もちろんこれも手の込んだ冗談である)。 ドイツのシュテフェン・ヴォアスは『ジェットハナアルキ Aurivolans propulsator PILOTOVA (哺乳綱,鼻行目)における飛行の原理について』という論文を書き、その中でジェットハナアルキというあたらしい鼻行類について解説している。この論文の和訳は日本語版『鼻行類』の思索社版と博品社版には補遺として掲載されていた。 荒俣宏は『世界大博物図鑑』において、「フランスでは鼻行類という分類は認められていない。これは、大統領シャルル・ド・ゴール(在任期間:1958- 1969年)が、巨大な鼻を持つ自分への当てこすりであるとして、パリ植物園への鼻行類の標本搬入を拒否したためである」と記述している。これも分類のくだりは冗談であると思われるが、パリ植物園への標本搬入拒否についての真偽は定かでない。 鼻行類(びこうるい、架空の学名:Rhinogradentia、別名:ハナアルキ[鼻歩き])は、同名の書籍に掲載された、想像上の生物である小獣の一群。鼻行目 (Rhinogradentia) に分類される哺乳類の一分類群(タクソン)であり、1957年までは南太平洋のハイアイアイ群島に生息していたという設定である。 南太平洋に存在するハイアイアイ群島に生息していた動物。鼻を歩行や捕食等に使用する。滑りやすいハイアイアイ群島で、滑って転ぶのを防ぐために鼻で体を支えたのが、この特異な進化の発端ではないかとされる。また、ゴキブリなどの昆虫を捕食するために、地面に顔をこすりつけていたことにより、このような進化を遂げたという説もある。なお、鼻が歩行器として発達したのと対照的に、多くの群で四肢の退化が見られ、一部では後肢あるいは四肢すべてを完全に失った例もある。 ナゾベームのように頭を下にして鼻で歩く姿が有名であるが、多様な進化を遂げた鼻行類の鼻は、歩行に用いるだけでなく捕食などにも使用されている。例えば、ハナススリハナアルキ (Emunctator sorbens) は粘着力のある鼻汁をたらすことで魚を釣り上げることで知られている。 全14科189種からなるこの生物群は、1942年にスウェーデン人探検家エイナール・ペテルスン=シェムトクヴィスト (Einar Pettersson-Skämtkvist) によって発見された。ドイツ人博物学者ハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke、cf. ドイツ人動物学者ゲロルフ・シュタイナー[Gerolf Steiner])の著書『鼻行類』に詳しい。 1957年の核実験によって引き起こされた地殻変動によりハイアイアイ群島は海没・消滅し、この時、鼻行類も絶滅したとされる。
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7,270
欧州宇宙機関
欧州宇宙機関(おうしゅううちゅうきかん、仏: Agence spatiale européenne, ASE、英: European Space Agency, ESA)は、1975年5月30日にヨーロッパ各国が共同で設立した、宇宙開発・研究機関である。設立参加国は当初10か国、現在は22か国が参加し、2000人を超えるスタッフがいる。 本部はフランスに置かれ、その活動でもフランス国立宇宙センター (CNES) が重要な役割を果たし、ドイツ・イタリアがそれに次ぐ地位を占める。主な射場としてフランス領ギアナのギアナ宇宙センターを用いている。 人工衛星打上げロケットのアリアンシリーズを開発し、アリアンスペース社(商用打上げを実施)を通じて世界の民間衛星打ち上げ実績を述ばしている。2010年には契約残数ベースで過去に宇宙開発などで存在感を放ったソビエト連邦の後継国のロシア、スペースシャトル、デルタ、アトラスといった有力な打ち上げ手段を持つアメリカに匹敵するシェアを占めるにおよび、2014年には受注数ベースで60%のシェアを占めるにいたった。 ESA は欧州連合 (EU) と密接な協力関係を有しているが、欧州連合の専門機関ではない。加盟各国の主権を制限する超国家機関ではなく、加盟国の裁量が大きい政府間機構として形成された。リスボン条約によって修正された欧州連合の機能に関する条約の第189条第3項では、「欧州連合は欧州宇宙機関とのあいだにあらゆる適切な関係を築く」と規定されている。 西欧諸国では、当初は個々の国、特にイギリスやフランスで独自に宇宙開発を行っていたが、それでは米ソの熾烈な競争から生まれる成果に対抗できないため、欧州共同の開発計画が組織された。まず1964年に欧州ロケット開発機構 (European Launcher Development Organization; ELDO) を設立し、打上ロケット(ヨーロッパ1およびヨーロッパ2)の開発を進めるが、難航した。また、欧州宇宙研究機構 (European Space Research Organization; ESRO) では、打上はアメリカに依頼することで、探査機や人工衛星の研究開発を行っていた。しかし、より効果的な宇宙開発計画の実現を目指して、1975年、欧州各国は ESA を設立するとともに、新しい打上ロケットとしてアリアンの開発を推進し、1979年にアリアン1ロケット初の打上に成功、以後アリアンスペースを設立して打上ビジネスに参入し、アリアン2、アリアン3、アリアン4、アリアン5を開発した。 また、人工衛星による地球観測や、惑星など太陽系内の天体観測のための探査機の研究開発にも力を入れ、アメリカ航空宇宙局 (NASA) との共同研究も行っている。 ESA は有人宇宙船を有しておらず、有人宇宙飛行を行なっていない。1970年代よりスペースシャトルのような再利用打上機を検討し、1987年からはエルメスを計画した。1995年就役を目指し、エルメス打上げにも利用できるアリアン5も開発した。しかし、冷戦の終結や開発費用の問題により、エルメスはキャンセルされた。2000年代には CSTS による輸送も検討されたが、これも中止されている。国際宇宙ステーションへの有人宇宙飛行にはスペースシャトルやソユーズを利用して参加している。 主力のアリアンを補完する中・小型衛星用の打上げシステムとして、低軌道用のヴェガの開発も行い2012年から運用を開始した。 正式な加盟国以外にスロベニア、ラトビア、リトアニアが準加盟国として参加している。スロベニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、ブルガリア、キプロスは協力国(ECS: European Cooperating State)となっており、そのうちスロベニア、ラトビア、ブルガリアは参加予定の協力国 (PECS: Plan for European Cooporating State) として加わっている。トルコ、ウクライナ、イスラエル、マルタ、クロアチアは協力協定に調印している。またカナダは1979年から特別協力国の地位を持つ。カナダ宇宙庁は ESA の意思決定に参画している。 ESA の予算は2005年度は29億7700万ユーロ、2006年は29億400万ユーロであった。ESA の予算の大部分はロケットの開発である(22%の予算がロケットにつぎ込まれており、有人飛行が次に多い)。2005年は負担額の大きい3か国が全体の3分の2を負担しており、その内訳はフランス (29.3%)、ドイツ (22.7%)、イタリア (14.2%) である。 予算は加盟国のGDP比に基づいて義務的に支出する予算と、加盟国が自らの意思で各プログラムへの参加・不参加を決め、拠出額を決める選択的予算の2本立てとなっている。加盟国が拠出した額に応じて、その加盟国に拠点を置く企業に契約を配分するという、「地理的均衡配分」(Fair return)の原則が貫かれている。義務的予算はESAの事務経費や設備維持、科学探査計画に充当され、選択的予算はロケットや衛星の開発に充当される。選択的予算の拠出額の大きい国が計画の主導権を握り、自国の負担した予算が自国の宇宙産業を発展する仕組みになっている。これまではこの方法が機能していたものの、打ち上げ費用の安価なロシアやインドの攻勢やスペースXの参入のように近年の競争の激化により、従来の方法では意思決定に時間を要し、各国の利害調整が必要なため、見直しの意見も出ている。
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7,271
漫才
漫才(まんざい)とは、こっけいな掛け合いや、言い合いで客を笑わせる寄席演芸の一種。 平安時代に成立した伝統芸能「萬歳」が、江戸時代から昭和時代にかけて、大阪・京都を中心とする上方(畿内)の寄席において、独自に発展したもの。現在は寄席だけでなくテレビやラジオなど多くの媒体で人気を博し、バラエティ番組のいわゆる「ネタ番組」において、コントと並んでポピュラーな演芸の一種である。 上方の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。 漫才を行う者は一般的に「漫才師」と呼ばれるが、所得税法施行令では「漫才家」の表記が使われている。 漫才は基本的に、演者が「演者自身」として発話し、その会話の流れによって観客を笑わせる演芸である。二人一組で演じられることが多いが、3人組や4人組の例もある。人数の上限について、漫才作家の相羽秋夫は「五、六人ぐらいが妥当ではないでしょうか」としている。 シンプルな会話体を基本とすることから、演者の個性に合わせ、音曲、踊り、物真似など、ネタ中に「何をやっても許される」自由な演芸形式となっている。日常生活、流行文化、政治経済など幅広い題材を扱うことが可能で、時流に合わせてネタを細かく、また大きく変化させることができる。 漫才は明確な定義を定めることができない。よって、「こうでなければ漫才として成立しない」という制約は無い。漫才史研究者の神保喜利彦は、「漫才はなんでもあり」だったからこそ、ここまでの地位に上り詰めることができたと述べている。 漫才は基本的に「ボケ」と「ツッコミ」という2つの役割で成り立っている。それぞれ古典萬歳の「才蔵」と「太夫」に由来する。 「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。ボケは、もともととぼけ役と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。 「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には「シン」と呼称した。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。秋田實の論文によれば、玉子屋円辰が『曽我物語』を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。 ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸(ノリツッコミ)などである。このため、ボケとツッコミは「役柄」というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。 トリオ漫才(役割が固定された場合)においては、ボケ2人・ツッコミ1人の比率が主流である。ネタの役割分担によって、フリ(後述)にあたる小さいボケを「小ボケ」、オチに至る大きいボケをする者を「大ボケ」、と区別することもある。 上記の役割と兼ねて、「筋フリ」または「フリ」という、ネタの構成を進行・展開・転換する役割を、メンバーのいずれかが担わなければならない。『大辞泉』の「ツッコミ」の項は「漫才で、ぼけに対して、主に話の筋を進める役」としており、ツッコミがフリを担う、と定義しているが、ボケがフリを担当するコンビも少なくない。 ボケ・ツッコミが固定したコンビを仮定した場合、ツッコミが進行するコンビ、ボケが進行するコンビ、ボケ・ツッコミ双方が進行するコンビの3種が考えうる。 前田勇は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した。漫才師の芸およびネタは、これら10種の要素を、どれかひとつ特化させているか、または組み合わせている。 現代の漫才を大きく二つに分けた場合、「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分かれる。 しゃべくり漫才とは、日常の雑談や時事を題材に掛け合いのみで笑わせる漫才を指す。創始者は、横山エンタツ・花菱アチャコ。1980年代の漫才ブーム以降、上述の音曲漫才や歌謡漫才は急速に廃れ、しゃべくり漫才が漫才の王道・正統派とされるようになった。しゃべくり漫才の定義について、ナイツの塙宣之は「キッチリ定義することは難しいが、あえて言うならば、しゃべくり漫才とは日常会話だと思います」と語っている。 コント漫才とは、「お前コンビニの店員やって、俺は客やるから」とコントに入っていくパターンの漫才を指す。衣装や小道具、効果音を使わずに、立位置もそのままで設定した役になりきるという点でコントとは異なる。設定を振ってコントに切り替えることを、符牒でコントインと呼ぶ。センターマイクから離れることも多いため、しゃべくり漫才と比べて邪道とされることもある。 近年では「俺コンビニ店員するから、お前はそこで見てて」というように、ボケが独自の世界観に没入し、ツッコミはその邪魔にならないように外から指摘するコント漫才も増えている。 平安時代以来祭礼における派遣(予祝芸能)や家々を回る門付の芸能であった萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸として演じられるようになり、18世紀末(天明期)には生國魂神社や八坂神社に常設の小屋が開設されるに至った。この小屋芸としての萬歳は宮中における奉納などのための形式(御殿萬歳・宮中萬歳)とは異なり、2人組による滑稽な会話による笑芸で、大阪俄の前座における軽口(かるくち。掛け合い、掛け合い噺とも)と重なりがあった。 この萬歳小屋は、その軽口や、落語の台頭のために廃れたが、幕末期になり、萬歳は新たな寄席芸として息を吹き返す。これは尾張萬歳や三河萬歳の影響を直接的に受けた「三曲萬歳(さんぎょくまんざい)」と呼ばれる形式で、胡弓・鼓・三味線という3種の楽器を持った多数の萬歳師が、小咄の掛け合い、言葉遊び、数え歌などの合間に、音曲でにぎやかにはやし立てるものである。ひとつの流れを持った会話劇というよりは、現代における大喜利に似たものであった。この三曲萬歳はほとんど必ず「アイナラエ」という合いの手を入れる『奥田節』の演奏・歌唱で締めくくられるため、この時期の形式自体を「アイナラエ」と呼称する場合がある。また、御殿萬歳などが片膝立てで行われたのに対し、三曲萬歳は立った状態で演じられたので「立ち萬歳」とも呼ばれた。この形式で人気を取った人物に初代および2代目の嵐伊六がいる。 なお明治初期に成立した、浪曲師と曲師の2人1組による演芸形式である浪曲も、萬歳や軽口と相互に影響し合った。このように「2人組以上を基本とした滑稽な音曲としゃべくり」による演芸形式が上方で定着していく。 明治末期、河内音頭・江州音頭などの音頭取り芸人であった玉子屋円辰が、これまでの興行萬歳よりも音楽性の強い、歌舞音曲の合間に滑稽なしゃべくりを挟む、という形式で人気をとり、萬歳との差別化を強調するため看板などに「万才(まんざい)」の表記を用いた。円辰の人気を受け、音頭取りや俄の芸人が多く万才に転じたほか、「女道楽」などの音曲師がこれまでの芸を変えずに「万才」を標榜したことで、万才の持つスタイルに多様性が生まれた。この時期の形式を昭和中期まで伝えたコンビに砂川捨丸・中村春代がいる。なお、この時期を含め、長らく上方の寄席演芸は落語が中心であり、万才師の多くは端席と呼ばれる廉価な寄席にしか出演機会がなく、またそのような寄席でも、音頭、浪曲、義太夫などの主要プログラムに対し、添え物的な立場に置かれていた。 東京では、上方出身の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが1917年(大正6年)に初めて万才を演じた同年に、東京出身の玉子屋円太郎・玉奴(のちの荒川清丸・玉奴)がデビューしている。なお、香盤表やプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていたという。 1930年(昭和5年)、吉本興行部(吉本興業の前身)所属のコンビ「横山エンタツ・花菱アチャコ」が、従来和装であった萬歳師・万才師と異なり、背広を身に着け、長らく萬歳・万才の音曲の「つなぎ」扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的な「しゃべくり漫才」スタイルを創始し、絶大な人気を博した。しゃべくり漫才はこれまでの萬歳・万才よりも多く笑いを企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くのコンビが結成されたほか、ラジオ放送のコンテンツとして全国的な認知を得て、多くのスター漫才師が生まれた。発表の場の増加と広がりに合わせ、秋田實など、専業の漫才作家が活動を開始するようになった。やがて漫才は主に「しゃべくり漫才」を指す語となり、これまでの漫才は少数派となり、「音曲漫才」というレトロニムと化した。 同時期の東京では、柳家金語楼がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。両者はのちにリーガル千太・万吉を名乗り、1935年(昭和10年)には他の約80組のコンビとともに「帝都漫才組合」を設立した。その後、並木一路・内海突破、夢路いとし・喜味こいしの台頭があった。 第二次世界大戦終結後、漫才師の何人かが戦死・病死・消息不明に見舞われたり、劇場やプロダクションの運営が停止したりする(例として、吉本は映画館運営会社へ一時転身した)など、演芸のための人的・物的リソースが不足する中、松鶴家団之助による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手の研究会「MZ研進会」発足など、漫才の復興に向けた動きがなされた。やがて演芸プロダクションや劇場運営会社が次々と再興し、多くの芸人がいずれかに所属するようになる。 民間放送の開始やテレビ放送の隆盛にともない、上方・東京双方で多くの漫才師がテレビ番組を通じて芸を披露し、人気スターとなった。また、1966年(昭和41年)の「上方漫才大賞」を皮切りに、放送局主催による漫才コンクールの創設が相次いだ。1980年(昭和55年)に相次いで開始された、東西の若手漫才師を紹介する全国ネットのテレビ番組『激突!漫才新幹線』(関西テレビ製作・フジテレビ系列)および『THE MANZAI』(フジテレビ系列)が当時の若者を中心に話題を呼び、「漫才ブーム」と呼ばれる社会現象となった。それぞれの番組に出演した漫才師たちは人気タレントとなり、司会者、歌手、俳優などとしても第一線で活動した。 2001年(平成13年)、島田紳助(元・島田紳助・松本竜介)の発案により、漫才コンテスト『M-1グランプリ』が創設され、初代チャンピオンには中川家が選出された。賞金1000万円、決勝が全国ネットのゴールデンタイムで放送されるなど、前例のない大規模なコンテストであり、2021年大会で優勝した錦鯉は翌年1000万円以上の月収を得るまでになる等、影響力も大きい。寄席でやる漫才は時間が10分から15分程度であるが、M-1グランプリ決勝戦のネタ時間は4分程度と定められている。この「4分」というのは、漫才をする時間として特殊であり、ナイツの塙宣之は、M-1の漫才と寄席の漫才は、100m走と10000m走くらいの差があるとして、「M-1グランプリは漫才日本一を決めると謳いつつ、でも実際は漫才という競技の中の100m走の日本一を決める大会なのです」と語っている。 2020年(令和2年)、西川きよし(元横山やすし・西川きよし)が漫才師初の文化功労者に選出された。 前述のとおり、現代の呼称である「漫才」に至るまでは、「萬歳」「万才」の表記が基本的に昭和初期まで用いられた。1933年(昭和8年)1月、吉本興業に新設された宣伝部が発行した『吉本演藝通信』の中で、萬歳・万才の宣伝媒体や劇場の看板等における表記を「漫才」と改称することが宣言され、これまでの萬歳・万才との違いを強調した。なお、1932年(昭和7年)3月時点ですでに、吉本興行部が「吉本興業合名会社」に改組された際の社内資料に、「漫才」の表記が営業品目として使われている。 この表記変更に至る経緯や、考案者については諸説がある。 当初、「漫才」の表記には花月亭九里丸など芸人の間で批判があった。 「漫才ブーム」の当事者であった「ツービート」のビートたけしは、しゃべくり漫才の直接的なルーツはアメリカ合衆国の話芸・ダブルアクト(英語版)にあるとしている。 アメリカのほか、ドイツ、韓国、中国などの国々にも似たような2人組の話芸があって、日本の漫才のようにボケ、ツッコミが見られる。
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男性
男性(だんせい、 希: Άνδρας、英: man)は、女性と対比されるヒト(人間)の性別。男の人。 一般的に「男性」という語は成人の男性に対して使うことが適当とされる。敬称は「殿方」や「紳士」または「Mr.」や「Sir」となる。未成年の男子に対しては「少年」と言う呼称になり、小児の場合は「男の子」や「男児」と言う呼称になる。 生物学的な性としての男性は、一般的な動物の雄に相当する。 解剖学的な見解では「出生時に男性型の生殖器(陰茎等の男性器)を有する」と判断された場合は、男性とみなす。ただし、「胎児の段階を経て、徐々に発達した物である」との関係から、形成や状態に色々な個人差が生じる。 現代医学では、外性器だけでなく内性器にも注目しており、「陰嚢は、小さな配偶子である精子を生産して、種々のホルモンを分泌する精巣や前立腺とも繋がっており、相応の機能を有する」などの条件が加わって判断される。 また思春期(第二次性徴期)をむかえると、視床下部の機能関係から性ホルモン分泌が増大する。それにより、次の身体的な発達が生じる。ただし、「男女の特有性における平均的な観点」が基に成っており、『女性に近い体質を有する』などの個人差がある。思春期は男性器の発達から始まるが、男性器の発達が開始した時点では思春期に入った事に気づかず、身長の伸びのピークを迎えるが陰毛が発生した時点で思春期に入った事に気づく事が多い。 このような生物学的性差は、染色体の型に由来する。解剖学的な意味での男性は、多くの場合性染色体としてXとYを1つずつ持つ。Y染色体上には未分化の生殖腺を精巣に変化させるコードを持った遺伝子があり、精巣から分泌された男性ホルモン(テストステロン)の分泌によりウォルフ管の発達を促進しまた、外性器の男性化も促進させる。一方で精巣のセルトリ細胞から分泌される抗ミュラー管ホルモンにより積極的にミュラー管のアポトーシスを起こし、男性の内性器は一通り分化し終える。 様々な遺伝的または外要因により、厳密には当てはまらない例も存在する(半陰陽参照のこと)。しかしながら、おおむね上記に当てはまれば通常その人は男性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。y染色体は純血遺伝子で、父親から息子だけに伝承されていく。 性染色体がXXY型など(クラインフェルター症候群)で発現が男性である例はあるが、その多くは本人も周囲も男性として受けとめられている。 まれに、トランスセクシュアル男性の場合、出生時及び生物学的性別が女子であり心と体が一致しない(性同一性障害)の場合がある。男性ホルモン剤の投与や性別適合手術などを施術し男性に似た外見を持たせ、法的な女性または性別無表記から男性に戸籍の性別へ変更した事例もある。日本では2003年に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった。 男性特有の疾患として前立腺疾患がある。また、痛風、十二指腸潰瘍、尿路結石、急性膵炎、大腸ポリープが女性に比べて多く、心臓病、脳溢血(およびそれによる脳血管性認知症)など循環器系の病気が多いのが特徴である。 先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において男性は平均寿命が女性に比べ短い。これは男性において免疫力を上げ血圧を下げるエストロゲンの分泌が少ないこと、男性ホルモンが代謝を上げる作用を持ち、細胞の損傷が多くなること、体質の差により男性は女性と比べて内臓に脂肪のつく健康リスクの高い太り方をする傾向があることが生得的な原因として考えられている。このほか、世界のどの主要国家においても自殺者が男性の方が多いことや、喫煙率が高いこと、過労死が男性に多いこと、生命の危険を伴う仕事に従事する割合が女性に比べて多いことなどの環境や社会的な理由も考えられる。 閉経に伴い排卵しなくなるため自然生殖能力を失う女性と比べて、男性の自然生殖能力は大幅に長い。80歳を超えての生殖も一応可能ではある。ただし、ヒトの男性の精子も加齢により劣化し、活性化男性ホルモン(実際体に働く男性ホルモン)の値も20代をピークに40代を過ぎたあたりから緩やかに低下し、老年期までに男性ホルモン値もやや低下する。そのため、加齢のために男性としての活力が低下した中高年男性の精子は若い男性の精子に比較してDNAの損傷が激しく、女性を妊娠させる能力等が低下することが近年の研究で明らかになっている。欧州での報告によると、被験者2,100人を対象とした研究で、45歳を超える男性の精子DNAの損傷は、それ以下の年齢グループに比較して有意に高く、30歳未満の男性との比較では2倍であった。 生物学的な性差のほか、社会的・文化的に作られる性差(ジェンダー)によっても男性と女性は区分される。「男らしさ」という概念はジェンダーの中に含まれる。男性と女性の果たす役割はどの文化においても異なるものとされてきたが、その性差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった。一方で、ほとんど全ての社会において、男性は社会の主導的な立場に立ってきた。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、父系制、母系制、そして双系制の3つに分かれる。父系制の場合家族は父系集団に属することになり、父方の姓や地位、財産を継承する。この場合家庭内では父の権力が強くなる。これに対し母系制は母方の出自をたどり、相続も母方によるものであって、一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性が権力を握り、社会の指導者は男性が就任することがほとんどであった。母方女性が社会権力を握る母権制社会は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、空想上の概念であると理解されている。双系制社会でも男性が指導権を握っていることに変わりはなかった。 産業革命によって社会が変化したのに伴い、西欧社会において近代的な家族制度が成立したが、この制度の下では家庭は生産の側面を持たず、男性が外で仕事を行い女性が家庭で家事を行うという男女の分業を特徴とするものであり、男性の指導権は残存していた。フランス革命において1792年に普通選挙が導入された際も選挙権は男性に限られており、その後他国において議会が開設され選挙が導入された際も、選挙権・被選挙権ともに男性に限られ、女性が参政権を獲得するのは1893年のニュージーランドまで待たねばならなかった。その後、フェミニズム運動などによって男女の差は徐々に撤廃される方向にあるが、完全な男女平等には至っていない。一例として、列国議会同盟の調査による各国下院の2019年度男女議員比率において、男性議員の割合が50%を割っている国家は192カ国中ルワンダ・キューバ・ボリビアの3カ国しか存在しない。また、上記のような男性に求められる役割を見直す動きも生まれつつある。 一方で、過労等による男性の自殺率は女性のおよそ2.5倍であることや、アメリカでは殺人事件の被害者の74.6%が男性であるのに対し、加害者が女性であった場合に男性よりも量刑が甘くなる傾向がある、米国のDV被害者の4人に1人は男性である一方、全米で公的に運営される男性用DV被害シェルターの割合は女性の1/2000に留まる、また日本の男性の家事育児時間は労働時間の差より短くならざるを得ない傾向があり、親権が認められない傾向が高いなど、男性差別の存在が指摘されており、旧来の男尊女卑等の男性優遇という観点は、性役割による刷り込みに過ぎないとする見解もある。一方で、女性と比べ男性に対してはジェンダー価値観を押し付ける傾向が高いなど、男性差別に対する取り組みや社会認識の変容は、フェミニズム運動が進展した女性と比較し進展が遅く、女性と比べ高い人権侵害にさらされる危険性が指摘されている。 1999年にトリニダード・トバゴで11月19日が国際男性デーとされ、いくつかの国家で記念日とされている。 2023年6月にLGBT理解増進法が施行され、全ての男性に対して社会環境が従前の男らしさを押し付けず、性表現等や性的指向などの多様性ある自分らしく生きれるよう社会的理解を守る法律が成立した。
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我妻栄
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年(明治30年)4月1日 - 1973年(昭和48年)10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。 小学校、県立米沢中学ともに常に首席、一高は入学・卒業とも一番だった(在学中は必ずしも首席ではなく、例えば1年次は大熊興吉が首席であった。)。東京帝国大学法学部独法科に入学し、在学中に高等文官試験に合格。指導教官の鳩山秀夫に望まれ大学に残り、30歳のとき同大教授、1945年に法学部長となり、のちに名誉教授となる。末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一ら名だたる学者からも指導を受けた。 戦後は、日本国憲法制定のため最後の貴族院議員に勅選され、農地改革立法に参与して中央農地委員となる。ほかに、日本学術会議の副会長、日本学士院会員にも就任。さらに、法務省特別顧問として民事関係の立法に尽力し、恩師の鳩山、末弘、穂積が果たし得なかった民法の総合的研究の完成にあたり、「我妻民法」といわれる独自の民法体系を作り上げた。1964年の文化勲章受章を機にその年金を母校愛から米沢興譲館高校に寄託し、財団法人自頼奨学財団を設立。後輩の育英にあてた。 60年安保当時、『朝日新聞』に「岸信介君に与える」と題した手記を寄稿。岸首相の国会運営を批判し、即時退陣を訴えたほか(下記参照)、1971年には宮本康昭裁判官の再任拒否問題に関し「裁判官の思想統制という疑念は避けがたい」という文化人グループに加わり、最高裁に反省を求めるなど、反骨の人としても広く知られた。 1973年10月21日、急性胆嚢炎のため、熱海市の国立熱海病院で死去。76歳没。有斐閣法律学全集の『法学概論』の執筆途中の出来事であった(同書は、我妻の遺した草稿に沿って原稿を補訂できる箇所は補訂したうえ、未完のまま出版されている)。 妻の緑は、鈴木米次郎(作曲家、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)創立者)の四女。長男の我妻洋は心理学者で、東京工業大学教授等を歴任。二男の我妻堯は産婦人科医で、東京大学医学部助教授を経て国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター)国際医療協力部初代部長等を歴任した。 民事訴訟法学者で東京都立大学教授の我妻学は実孫。 我妻は、師である鳩山の研究に依拠したドイツ法由来の解釈論を発展させて、矛盾なき統一的解釈と理論体系の構築を目指すとともに、資本主義の高度化によって個人主義に基礎を置く民法の原則は取引安全、生存権の保障といった団体主義に基づく新たな理想によって修正を余儀なくされているので、条文の単なる論理的解釈では社会生活の変遷に順応することはできないとした上で、「生きた法」である判例研究の結果に依拠した法解釈を展開した。このような我妻理論・体系は、鳩山、末弘、穂積の学説を総合したものといえ、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的で受け入れやすいとの特徴があったことから学界や実務に大きな影響を与え続け長らく通説とされた。 我妻の生涯の研究テーマは「資本主義の発達に伴う私法の変遷」であり、その全体の構想は、所有権論、債権論、企業論の3つからなっている。 後掲「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下のとおりである。前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ財産権の主役であったが、産業資本主義社会になると、物資は契約によって集積され資本として利用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものとなり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものとして財産権の主役の座を追われる。これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されることにより今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発達を促す金融資本主義に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史をドイツにおける私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達が今後の日本にも妥当すると予測した。 我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要素を捨てて自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨てて企業と国家との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、会社制度の発展に関する研究によって経済的民主主義の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとなっている。上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている。 岸信介とは一高、東京帝大時代における同級生で、首席を争った。一高入試では岸の成績はあまり芳しくなかったが、入学直後の試験で一挙に頭角を現し、我妻とも親しくなり、以後、2人は優等生として過ごした。帝大時代、岸と我妻は冬休みになると一緒に伊豆・土肥温泉の旅館「明治館」に籠もって勉強した。ある年、到着早々に我妻が重い風邪をひき、高熱を出した折には、岸が必死になって看病を続けた。明治館の人たちの記憶に、この2人の東大生は長く記憶に残った。 東京裁判が終わり、まだ、岸が巣鴨拘置所に幽閉されていたとき嘉治隆一や三輪寿壮の肝いりで、数名の友人が釈放嘆願書をGHQに提出するが、この際当時東大法学部長であった我妻も、一高以来の友人の一人として署名した。岸は釈放されると、直ちに政界に返り咲き、アッというまに首相の地位に就く。そして、第二次岸内閣は新日米安全保障条約のため、衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決を行う。安保闘争が激しさを増す中、1960年6月5日付『朝日新聞』政治面に我妻は、「岸信介君に与える」と題し との手記を寄稿。岸に即時退陣を訴え、条約批准書交換日である、6月23日、岸内閣は総辞職した。 奨学金貸与や学生寮の運営などの育英事業を展開している公益社団法人米沢有為会における、百周年記念事業の一環として整備構想が練られ、1990年に有為会米沢支部を中心とした募金活動と米沢市からの補助金によって我妻の生誕の家を購入。その後補修と整備を進め、1992年6月に開館した。遺族から寄贈された著作、講演会の手書き原稿などほか、民事訴訟の要旨をまとめた約7000枚の判例カードなどが展示される。入館料は無料。
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ゼルダの伝説 神々のトライフォース
『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(ゼルダのでんせつ かみがみのトライフォース、英題: The Legend of Zelda: A Link to the Past)は、1991年11月21日に任天堂から発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。ジャンルはアクションアドベンチャーゲーム。 『リンクの冒険』から約5年ぶりとなるゼルダの伝説シリーズの新作。スーパーファミコン本体の発売からちょうど1年後の1991年11月21日に発売された。 今作では広大な2つの世界を行き来しながら冒険を進める。ダンジョン内には高低差があり、複数の階層によって構成されている。作中では「マスターソード」「ビン」など、後のシリーズで定番となるアイテムが登場する。 CMではスチャダラパーの楽曲『ゲームボーイズ』のリズムに本作向けの歌詞を乗せてスチャダラパー自身が歌い、この曲に合わせて主人公ら登場人物に扮した人々がダンスを披露した。本作の主人公は少年だが、主人公役を演じたのは少年ではなくオーディションで選ばれた女子高校生である。このオーディションの最終選考には、TOKIO結成前の長瀬智也も残っていた。ヒロインのゼルダ姫役には新島弥生が選ばれた。 2003年3月14日には新作ゲーム『ゼルダの伝説 4つの剣』と本作の移植版を同時収録したゲームボーイアドバンス用ソフト『ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣』(以下、GBA版と表記)が発売。また、Wii、Wii U、Newニンテンドー3DS用のバーチャルコンソールとして配信されているほか、2017年10月5日発売のスーパーファミコンの復刻版『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』や、2019年9月6日配信開始の『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』(Nintendo Switchのオンラインサービス特典ソフト)に本作が収録されている。 1作目『ゼルダの伝説』より大幅なシステム変更が行われた2作目の『リンクの冒険』とは異なり、基本的なシステムは1作目を踏襲している。 画面構成も1作目と同様の見下ろし型、画面切り替えスクロール方式に戻ったが、1作目が完全な1画面単位のスクロールだったのに対して、本作では切り替え型と通常型のスクロールを併用している。 通常の剣による斬りつけ攻撃のほかに、攻撃用のボタンを押し続けて力を溜め通常の2倍の威力で広範囲を攻撃する「回転斬り」を行うことができる。 画面上には魔法力の残量を表す「魔法メーター」が表示されている。一部のアイテムを用いる際に魔法力を消費する。消費量はアイテムにより異なる。 アクション部分では、これまでの物を押す動作以外にも、引っ張る、担ぐ、投げるといった動作が可能となった。これらは多目的ボタン1つでその場に応じて実行できる。 古来より、ハイラル王国の聖地には触れた者の願いを叶えるという黄金の秘宝「トライフォース」が眠っていた。その聖地で、ある時より悪しき力が湧き出てきたため、ハイラル王は7人の賢者たちに聖地の封印を命じた。途中、賢者を護衛していた「ナイトの一族」が多数犠牲になったものの、賢者たちにより聖地の入り口は封印された。この出来事は、後に「封印戦争」と呼ばれ語り継がれることになる。 その封印戦争が遥か昔の物語になりつつあった頃、王国に謎の司祭アグニムが現れた。アグニムはハイラル王の命を奪い、魔力で王国の兵士たちを操って、かつての七賢者の末裔にあたる娘たちを次々とさらい生贄にしていった。そして魔の手は末裔の1人でもある王国のゼルダ姫にまで及ぼうとしていた。 自宅で就寝中だった少年リンクは、助けを求めるゼルダ姫の悲痛な言葉を夢の中で聞き、夜中に目を覚ました。その横では武具を身につけた叔父が家を出ようとしていた。叔父は家に留まるようリンクに伝えると、1人ハイラル城へと向かった。しかし、時間が経過しても叔父は戻らない。リンクは家を出て叔父の後を追った。 光の世界と闇の世界の地形は類似しており、一部のダンジョンの位置は共通している。 サブ画面であらかじめアイテムを選択し、Y(A)ボタンを押すことにより使用できる。
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国立台湾大学
国立台湾大学(こくりつたいわんだいがく、英語: National Taiwan University、公用語表記: 國立臺灣大學)は、台湾台北市大安区羅斯福路四段1号に本部を置く中華民国の国立大学。1928年創立、1928年大学設置。大学の略称は台湾大学、台大、NTU。 大日本帝国による占領下の時代に創設された旧帝国大学の一つ。国立台湾大学システムおよび台湾EUセンター7大学連盟の一校。 国立台湾大学は、日本統治時代の1928年に台北帝国大学(旧字体: 臺北帝國大學)として設立され、第二次世界大戦終結後の1945年に現在の名前に変更された。前身として台湾総督府医学校などがある。国共内戦後中華民国随一の最高学府との位置づけがなされ国立中央大学は、国立台湾大学に置き換えられた。2002年、指定国立研究大学7校(現在6校)の一つに指定される。さらに、日本台湾交流協会は台大を台湾の7名門大学の1校に紹介している。 現在は11学院(学部及び研究科)・54学系(学科)・96研究所(専攻)・33研究中心(研究所)と夜間部を擁し、3万人を越える学生が通うマンモス校である。 著名な卒業生にはノーベル化学賞受賞者である李遠哲、チューリング賞受賞者である姚期智、ウルフ賞受賞者である楊祥發(農業部門)、翁啓恵(化学部門)らをはじめ、百名を超える国立科学アカデミー(中央研究院)の院士、李登輝・陳水扁・馬英九・蔡英文ら4人の中華民国総統、連戦・呂秀蓮・呉敦義・陳建仁・頼清徳ら5人の中華民国副総統そのほか、台湾はもとより、世界各国の政・財・官・学の各界で活躍する人材を多数輩出している。 第二次世界大戦後、傅斯年元北京大学長が台湾大学の新学長に就任し、台大の自由主義校風を打ち立てた。台湾の白色テロ時代に、台大のキャンパスは全国唯一の学生運動が許可されたところであり、台大教員・学生と出身者が発動した社会運動は台湾民主化の重要な推進力となった。 国立台湾大学の起源は、日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に、台湾台北州台北市富田町で 7番目の帝国大学として設立される。大学設立の準備段階では当初「台湾大学」との名称が用いられ、その後、「台湾帝国大学」が用いられたが、「台湾帝国大学」では台湾帝国の大学との誤解が生じるとの理由から1927年に「台北帝国大学」に名称が決まった。 日本内地の帝国大学が文部省の管轄であったのに対し、台北帝国大学は台湾総督府の管轄であった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 国立台湾大学は、旧帝国大学としての連続性を有しつつ現在に至るため、台北帝国大学を前身として位置づけている。一方、ソウル大学校は京城(帝国)大学(京城帝国大学)の廃校後に新設された経緯があるため、同大学校は京城帝国大学を前身とは位置付けていない。 1945年(昭和20年)8月15日の終戦により、同年11月15日に中華民国が接収して「国立台北大学」と改称した。 1945年12月15日に「国立台湾大学」と改称、現在に至る。 12の学院(学部・大学院研究科)と3の専業学院(専門教育を行う学院、専門職大学院)を置く。 Category:国立台湾大学の教員も参照。 Category:国立台湾大学出身の人物も参照。
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7,281
子供
子供()とは、次のことを言う。 考え方によっては、胎児も出生前発育(英語版)をしている生命として子供に含める場合もある。 また、親子や権威を持つ人物(英語版)との相対的関係を表したり、氏族・民族または宗教内での関係を示す場合にも使われる。何らかの概念との関係を示すためにも使われ、「自然児」や「1960年代の子供」のように特定の時や場所または環境等の状況を受けている人の集団を指して用いられることもある。 思慮や行動などが幼く足りない者のことも指して使われる用語でもあり、幼稚さや要領・主体性の無さを表す言葉として「子供っぽい」「子供らしい」「子供の使い」等の慣用句もある。 なお、子供という単語は人間以外の動物にも使われたり、生物に限らない、大きいものと小さいものが組みになっている状態を指して「子持ち」という表現にも使われる。 「子供」という言葉は、自分がもうけた子も指している。広辞苑第五版では「子供」の解説の第一にその意味を挙げている。大辞泉も「むすこ」(男性の子供)や「むすめ」(女性の子供)を挙げている。 また、書簡において、「子供」は謙譲語として用いられる。相手方を示すためには、「御子様(おこさま)」などの尊敬語が使われる。 国際連合の児童の権利に関する条約(1989年の第44回国際連合総会で採択、1990年発効)第1条では、児童(=子供)を以下のように定義している(日本国外務省公式邦訳) 同条約は、加盟196カ国のうちアメリカ合衆国を除く195カ国で批准されている(日本:1994年批准)。英語の用法では、胎児も子供の範疇に含める場合がある。 しかし、本来「子供」とその発達段階は明確に区分できない漸進的なものであり、その概念は歴史的に構築され、また社会や文化の相違が反映される。法律で大人と子供を定義する際には、個人の成熟度合いを考慮していては法的安定性が欠如するため一律の線引きを置く必要に迫られる。そのため、各法律の目的に沿って様々な用語を使いながら「子供」に対する個別の定義を行っている。 日本では、民法第4条に「年齢十八歳をもって、成年とする。」と規定されており、満18歳未満(満17歳以下)が子供に該当する。かつて、1876年(明治9年)4月1日から2022年(令和4年)3月31日までは満20歳以上が成年と定めており、満20歳未満(満19歳以下)が子供に該当した。 ただし、選挙権などを除き、被選挙権(公職選挙法第10条に基づき満25歳以上:衆議院議員・都道府県議会議員・市区町村長・市区町村議会議員、満30歳以上:参議院議員・都道府県知事)、飲酒(二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律第1条に基づき満20歳以上)・喫煙(二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律第1条に基づき満20歳以上)などの一部の権利付与は、成年とは別途に下限年齢が規定されている。 また、人口統計学においては15歳未満の者を「子供」としており、総務省の人口統計でも15歳未満の人口を「年少人口」と定義している。 国立国会図書館の調査によると、世界186か国中、成人となる年齢を18歳としている国は162にのぼる。これには、主要国首脳会議(G7)対象国全てが該当する。ただし、18歳成人は欧米諸国では1960-70年代に起こった若年層の活発な社会行動を反映して引き下げられたもので、イギリスでは1968年に定められた。一方、アジアやアフリカの開発途上国では事情が異なり、早い年齢で負わせられる徴兵の義務に対応して選挙等の権利を与えるために成人年齢が設定されたとの意見もある。 労働という観点から、国際労働機関 (ILO) は、ILO138号条約にて就業最低年齢をその労働内容に応じて3種類設定している。最低の年齢は、義務教育が修了する年齢とし、基本的には15歳と置くが、発展途上国では14歳とすることもできる。その一方で軽易な労働はもっと若い13歳(発展途上国では12歳)を最低年齢とする。逆に、危険な労働への就業年齢は18歳または適切な職業訓練を条件に16歳とする。なお、家庭内の農業や手伝い、アルバイトなどは対象外とする。 何かしらの儀礼を以って子供と大人を区分けする習慣があり、これらはイニシエーション(英:initiation、通過儀礼)の一つに上げられる。多くは試練や苦行、また身なりの変更などであった。 日本では元服もこれらの一つに相当したが、現在社会では廃れてしまっている。成人式も儀礼としては形骸化していると言えよう。 河合隼雄は「イニシエーションの欠如が問題になっている」と述べ、ピーターパン・シンドロームや心理社会的モラトリアム発生の一因とも考えられている。 古代ギリシア時代のアレクサンドリアのフィロンが著した『世界の創造』の中には、エレジーの形式で書かれたソロンの子供観を載せた部分がある。これは、人の一生を7年刻みの段階で表した。男子の場合、身体が成熟する時期は第4の7年(22-28歳)、精神が成熟する時期は第6の7年(31-42歳)であり、これに満たない年齢は成年とはみなしていない。フィロンは、同じ7年刻みによるヒポクラテスの見解も採録しており、7歳以下は小児 (παιδιον)、14歳までは子供 (παις)、21歳までは少年 (μειρακιον)、28歳までを若者 (νεανισκος) と呼んだ。ただし、当時の子供を指す用語は、παις と τεκνον の2つが主流であったと考えられる。παις は子供以外にも「奴隷」や「同性愛者たち」など他の概念も指す広い用語で、その意味はインド・ヨーロッパ語系の「小さい」「重要ではない」が語源である。τεκνον は「生む」の τικτω から派生した単語である。例外はあるが、παις は子供と父親の、τεκνον は子供と母親の関係を元に作られた言葉と考えられる。そして概念的には、男子の場合は「デモス」(人民)登録以前、女子の場合は結婚前を「子供」と考えることが一般的だった。 プラトンやアリストテレスは、この7年段階での成熟を基礎に子供が大人になる時期を考察した。プラトンの『法律』や『政治学』では、結婚可能となる年齢を男性では30-35歳、女性は16-20歳に法律で定めるべきと論じられている。その根拠には、それぞれの性においてこの年齢時から生殖能力が充実するためであり、また男子の場合は父親が生殖限界となる70歳を迎え、相続に適するタイミングになる点を挙げた。アリストテレスは『動物誌』にて、人間の成長を7年刻みの説で人間の成長段階を表し、大人とはアテネの五百人評議会 (βουλη) に名を連ねて公職に就く資格を持つ者を指し、それ以前の段階では「想定上の」または「見習い」市民に過ぎないと述べた。そして『ニコマコス倫理学』の中で、子供と動物は自発的行動を取る事は可能だが節度に欠き、選択を行使することはできず、欲望や激情に左右される。そのため理性を持つ者に監視されなければならないと言った。 フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが著書『〈子供〉の誕生』で述べたところによると、ヨーロッパでは中世に至るまで、「子供」という概念は存在しなかったという。年少時の死亡率が高い社会だったので、生まれ出ただけでは家族の一員とみなされなかった。やがてある程度の成長を遂げると、今度は徒弟や奉公など労働に勤しむようになり、「小さな大人」として扱われる。そのため、服装や娯楽等において成長した大人と区別される事は無く、性道徳に関しても何らかの配慮がされることも無かった。ただし、13世紀イギリスでは、宗教および法律の観点から、大人とは異なる子供の概念があったという主張もある。 ジャン=ジャック・ルソーは1762年の著書『エミール』で展開した消極教育論において、子供を「小さな大人」と扱う事の非を説いた。彼は、誕生してから12歳になるまでの期間は、子供時代という能力と器官が内部的に発展する段階であると述べ、多く施される発展した能力や器官を利用する方法を教える教育(人間の教育)は逆効果であり、能力と器官を伸ばし完成させる教育(自然の教育)を行わなければならないと主張した。 成年ではない者としての子供という概念は、中世において男子に限り発生したが、女子については形成されなかった。幼児と成年の間としての子供観は、近世になってから確立された。16-17世紀頃から現れる家族意識の中で、家庭内などにおいて幼児は、その愛らしさから可愛がられる対象という視線が醸成された。また社会的にも、聖職者やモラリストらによる理性的な習俗を実現させようとするグループから、子供に対する配慮が生まれた。これらが18世紀頃には結びついて、社会は子供を「小さな大人」という見方から、庇護し、愛情を傾け、学校による教育を施してやらなければならない存在という風に認識が形成された。 この変貌は絵画の変遷を追うことで確認できる。16世紀、子供たちのイメージにはっきりした幼い見かけが現れ始める。17世紀後半からは、遊戯を愉しむ姿が描かれるようになる。玩具や児童文学が発展を見せたのも、この頃である。 アリエスは同書にて、子供に教育を施す主体の変化にも触れている。中世まで、子供は家庭から出されるか、家庭内でも労働を課せられ、見習い修行の中で一人前に成長した。それは、家族が共同体の一部という性格を強く持っていたためであり、実の親子関係を醸成するような環境ではなかった。これが近世になると、仕事・社交・私生活の分離が進み、ひとつの家屋の中で家族のみが生活をするようになる。ここでは共同体よりも家族という単位が重視され、その中で子供が占める位置が高まりを見せた。また、裕福な階層の子弟のために学校が作られるとともに、「教師」と「生徒」という区分がそのまま「大人」と「子供」の分離となった。学校は社会生活に必要な教育を施す通過点となり、学校を出れば「大人」、それまでは「子供」という区切りをつけるものになった。 日本では、子供は親の所有物という感覚が強かった。子供は家を継ぐことが当たり前であり、親に絶対服従しなければならなかった。農村など貧しい家では、貧困に見舞われると身売りや奉公に出されたり、捨て子や間引きが行われたりした。 しかし、身売りや奉公、捨て子や間引きのような抑圧は、西欧の奴隷貿易のような1000万人規模までに発展しなかったため、子どもの権利を芽生えさせるまでには至らなかった。 子供に向けられる社会的態度は、世界中の文化圏によって違いがあり、また時代によっても異なる。1988年にヨーロッパ諸国を対象に行われた調査では、イタリアは子供中心の傾向が強くオランダでは弱い。オーストリア、イギリス、アイルランド、西ドイツなど他の国々は中間的な位置を占めた。 子どもたちは、年配の人たちよりも世界の未来について楽観的である傾向がある。 一般に「遊び」とは気晴らしであったり非生産的と捉えがちだが、これはあくまで大人の遊びに対するものであり、子供にとって遊びとは生活の中心にあり、特に幼児期には、生活の全てが遊びと言える。そして子供は遊びを通じて様々なことを学ぶ。1959年の児童権利宣言第7条には「児童は遊びおよびレクリエーションのための充分な機会を与えられる権利を有する。」と、子供にとって遊びが大切な要素である事を謳っている。 ヨハン・ホイジンガは、遊びを「自発的な行為・活動であり、規則を受け入れ従う中で、緊張や歓びを感じつつ行う行為」と定めた。子供は遊びの中で、規則を破って遊びそのものが破綻させないよう、自主・自立的に学習を重ねる。大人を模倣するようなごっこ遊びは社会生活への興味を喚起し、態度や性格を形成するとともに、演劇的性質を芸術的創造へ発展させる事もできるとも論じられる。 すべての子供は成長・発達に伴い社交性を身につける。幼児やとても小さな子供はひとり遊びでも満足する。このような子供が他者との関わり合いを持つ最初の相手は養育者であり、多くの場合それは母親である。 もしそこに他の子供がいたら、ぶつかり合ったり排除しようとすることもあり得る。しかしやがて一緒に遊ぶようになり、共有や交流の中に楽しさを見出す。そして遊び相手も3人、4人と増え、仲間という集団を形成するようになる。子供に兄や姉がいる場合、彼らが初期の仲間関係をつくる相手となる。この兄弟姉妹関係は社会生活を通じて直面する競争や協同を経験する重要な役割を担う人間関係である。幼稚園に入園する頃には、子供たちは仲間の輪に加わり、集団での経験を楽しめるようになる。ここで子供は就学前教育を受け、さまざまな遊びを通して理解力や思考・創造力または問題解決力だけでなく、表現力や社会性・協調性も身につける。 多くの国で、一定の年齢に達した子供には義務教育が施される。 ここでは国家や社会の一員として必要最低限の言語・文化・規範を教わり、また個性・能力や人格形成の醸成を促す。 日本の教育では、学校教育法によって義務教育期間を満6歳から15歳(概ね、初等教育の小学校6年間と前期中等教育の中学校3年間の9年間)としており、モザンビークやモンゴルのような例外もあるが、その他多くの国でも6歳前後から9-10年間の教育制度を設定している。 注意欠陥・多動性障害 (ADHD) や学習障害のある子供たちには、社会技能を身につけるための訓練を行うために、特別な支援が求められる場合がある。ADHDの子供は良好な友人関係を築きにくい可能性がある。注意欠陥の子供は、周囲に存在する社交のきっかけをつかみにくく、経験を通した社会技能習得に難点を抱えている可能性がある。 人間が、結婚や投票など社会的な約束事に対して責任を負うことができるようになると受け取られる年齢は時代とともに変化し、現在では法律が制定する問題となっている。古代ローマでは子供は罪を犯しても責任がないとみなされ、後にキリスト教会もこの位置づけを取り入れた。19世紀に入ると、犯罪に対する責任を持たない年齢は7歳未満とみなされ、7歳以上の人間は自分の行動に責任を負わされるようになった。つまり、7歳以上の人間が告発されれば、大人と同じ刑務所に送られ、鞭打ちや烙印、そして絞首刑などの刑罰が大人と何ら変わりなく執行された。現代では、カナダやアメリカ合衆国など多くの国で刑事責任を負う年齢は12歳以上とされるが、罪に問われた際には成人とは別の少年収容施設に収容することとしている例が多い。 ある調査によると、世界中の少なくとも25の国で義務教育を受ける子供の年齢を定めていない。そして、雇用や結婚の最低年齢もまちまちである。少なくとも125の国では、7 - 15歳の子供でも犯罪行為に対して裁判や収監を受けさせるようになっている。いくつかの国では、14 - 15歳まで就学するよう法律で定められているが、もっと若い時期から就労は認められている。子供の教育を受ける権利を脅かすものは、早婚や児童労働または監禁などである。スタンドフォード大学によると、人の前頭葉は25歳頃まで十分に発達しないため、長期的な責任ある決断を下すことが困難であるという。 1600年代のイギリスでは、2/3の子供は4歳未満で死去していたため、平均寿命は35歳前後にとどまっていた。これが劇的に改善され子供の生存率が伸びたのは産業革命期である。 人口健康専門家委員会 (population health experts) によると、1990年代に比べ乳幼児死亡率は急速に低下している。20年前と比較すると、アメリカでは5歳未満の子供の死亡者数が4.2%まで下がった。セルビアやマレーシアも死亡者数を7.0%まで減少させた。 児童労働が社会問題化され始めたのは、イギリスに始まる18-19世紀の産業革命期であった。未熟練労働者として低賃金で雇われ、粗末な住環境に置かれながら工場での長時間労働を強いられた子供たちの様子は、フリードリヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』で触れられ、チャールズ・ディケンズの小説などでも描かれる。カール・マルクスも『資本論』の中で、4歳の工場労働者の存在に触れた。 イギリスでは1833年に工場法が制定され、子供の労働に制限が加えられたが、就労年齢9歳以上、労働は一日12時間以下という緩さだった。また、身体の小ささから危険で健康被害も懸念される煙突掃除のような過酷な労働にも使役された。 転機は、1870年に施行された小学教育令であり、13歳以下の子供を対象に義務教育が制定された事に始まる。これはすぐに成果を上げた訳ではなかったが、生産性向上と相まって20世紀前半には子供を搾取されがちな工場労働から近代的な教育を施す学校へ移す役割を果たした。 日本で子供が工場労働を担うようになったのは、明治時代の富国強兵や殖産興業の元、製糸・織物業などを中心とした工業化が広がり始まった時期からとされる。その中で子供も一般的に雇用されたが、労働環境は大人よりも劣悪で、また不況時には解雇されるなど便利使いされていた。農工務省が纏めた1903年(明治36年)の「職工事情」第一巻には、単純作業の長時間労働が時に徹夜にまで至り、ろくな休憩も無く粉塵まみれになって働き続ける様子が報告された。横山源之助は大阪の工場を見て廻った記録を残したが、それによると15歳以下の少女が紡績分野で多く使われ、中には7・8歳の子供もいたという。既に1872年(明治5年)の学制はあったが、彼女らは満足な教育を受けていなかった。1916年(大正5年)に工場法が施行されたが、依然として長い就労制限時間や小規模事業所が適用除外になるなど充分なものではなかった。 20世紀に入ると、世界恐慌に端を発した不況と社会不安が子供にも襲い掛かり、親子心中、児童虐待や子殺し、児童労働環境の悪化や少年犯罪の増加が問題化した。また、乳児死亡率の高さや国際的な児童の公的保護の機運が高まった事もあり、1926年から全国児童保護事業会議が開催されて児童保護に向けた法整備が話し合われ、児童虐待防止法や各扶助法・託児所関連の法律、また不就学対応など児童保護法の成立に繋がった。 国際労働機関 (ILO) が発表した2000年の統計によると、世界で児童労働をしている子供は2億4600万人。うち15歳未満は1億8600万人であった。ILOが第182号条約で定める、人身取引・債務奴隷・強制された少年兵・強制労働・買春・児童ポルノ・麻薬関連等の不正活動・路上で働くストリート・チルドレンなど無条件に最悪の労働に従事する子供は840万人にのぼる。この他にも、家事使用人に従事する子供の中には統計に現れにくい虐待や強制労働または児童性的虐待があるものと考えられている。 キャロル・コープは、「子供は35秒で騙される」と述べた。子供は一般に、思慮や判断力が成熟しておらず、感受性の強さから外的な刺激に対する抵抗力が身についていない。 この特性が、少年兵を生む要因になっている。集めやすい上、子供は教育や訓練に従順で、特定の思想を植えつけやすい。そのため少年兵は一般兵よりも命令に忠実で、残忍にもなる。地雷排除のために子供を歩かせた例もあった。また、武器の軽量化や敵に警戒心を抱かせにくい点を利用し、自爆テロのような「使い捨て」に利用される例も多い。子どもの権利条約やさまざまな国際条約では子供の徴兵を禁じているが、貧困や共同体崩壊等の理由もあり、地域紛争や内戦が多発する状態では実効性に乏しいのが現状である。 日本における教育・法律・行政文書の世界では1994年の「Convention on the Rights of the Child」の訳語論争を経て、2000年代ごろには「子供」という表記を差別的な印象であるなどといった理由で敬遠し、代わりに「子ども」表記を用いることが多くなった。 小中学校の国語においては「子」は小学校1年生で、「供」は小学校6年生でそれぞれ読みを学ぶ漢字であり、小学校の5年生までは交ぜ書きの「子ども」表記であるが、教科書においては小学校6年生以降でも出版社によって「子供」「子ども」両方の表記が混在していた。 例として、中学3年生の全社の検定教科書に収録されている魯迅の『故郷』では、学校図書、教育出版、光村図書が「子供」としているのに対して、東京書籍と三省堂は「子ども」と表記している。教員採用試験の参考書でも、かつての文部科学省の表記を根拠に「子ども」表記を推奨しているものがあった。なお当て字ないしは誤表記として「小供」や「子共」も見られた。 しかし、文部科学省が2013年(平成25年)5月に、省内で多用されてきた「子ども」の表記の経緯について調査。表記についての内規が存在しないことを確認した上で、文部科学大臣下村博文(第2次安倍内閣)は省内での表記を統一するよう指示した。協議の結果、「子供」表記は差別表現ではないとの判断が示され、6月下旬から公用文に用いられる表記を「子供」に統一した。 「子供」表記への統一は、当初あくまで公文書に限るとされていたが、2010年代以降はこれに倣って公文書以外でも「子供」表記が以前に比べて増加傾向にある。前述の国語の検定教科書においても、これまで積極的に「子ども」表記を採用していた東京書籍なども、小学校6年生以降の教科書において「子ども」と表記していた部分を「子供」に改めている。新聞社など民間のメディアは表記の統一を行なっていないが、毎日新聞の新聞記事における使用実態は2000年ごろ以降「子ども」表記が多数となったものの、2010年ごろ以降は再び「子供」表記が増え「子ども」と同数程度になった。ただし、同社による一般へのアンケートによれば、「子ども」表記を好む読者が63.3%、「子供」表記は25.4%に留まり、「子ども」が優勢である。 2020年(令和2年)の神戸新聞の記事によれば、国語辞典編纂者の飯間浩明の意見として、「供」の字にまつわる差別的なイメージは「史実に基づいておらず、まったくの俗解」と断言した上で、一方「日本語は漢字と仮名の交ぜ書きが普通であり、『子ども』が美しくないとは、必ずしも言えません」と、「子ども」表記のより柔らかなイメージについても肯定したことを紹介。また、全国の地方紙にアンケートを実施したところ、多くの記者は「『子ども』の方が字面の印象が柔らかい(ので使用する)」と回答。どちらの表記を選ぶかは書き手の自由であり、「ことさら競う」ことなく「好きな表記をすればよいと思います」とした。 児童文学作家の矢玉四郎は「子供は当て字であり、差別的な意味は全くない」、出版社が勝手に「子ども」に書き換えることが横行していると批判し、『子ども教の信者は目をさましましょう』という運動を展開している。 2023年4月に施行したこども基本法や新設されたこども家庭庁では、全てひらがなの「こども」で表記している。国務大臣の記者会見等の文章においても、同様に「こども」で表記されている。
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7,284
エヴァンゲリオン (架空の兵器)
汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン(はんようひとがたけっせんへいき じんぞうにんげんエヴァンゲリオン)は、日本のアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』および『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とその派生作品に登場する架空の兵器(人造人間)である。略称は、エヴァンゲリオン、EVA。 使徒と呼ばれる生命体の殲滅を目的として製造された汎用人型決戦兵器である。ロボットではなく人造人間と呼称され、アダムもしくはリリスと呼ばれる「生命の起源」を人類がコピーして作った巨大な生命体を、本来の力を抑え込むための拘束具を兼ねた装甲板で人型になるように覆ったものである。A.T.フィールドを展開する使徒に対して、人類が保有する唯一の対抗手段とされる。 語源は「福音」を意味するギリシア語のエウアンゲリオン(εὐαγγέλιον, euangelion)に由来する。またその頭3文字を取った略称Evaは、聖書の創世記に登場する最初の女性である「エバ(イヴ)」にもかけられている。 機体番号表記については日本国内で建造されたEVA零-弐号機(弐号機は、設計・部品建造を日本で行い、ドイツでは組み立てのみを行った)は漢数字(大字)で、日本国外で建造されたEVA3号機-13号機はアラビア数字で表記するという設定が存在しており、脚本や漫画版、スーパーロボット大戦シリーズなどでは一貫して、これに則した表記がなされている。一方、漫画『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd』やゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』、『スーパーロボット大戦F完結編』、バンダイから発売された「プラモデル」、「超合金魂」や、海洋堂から発売された「リボルテック」では「3号機」を「参号機」と表記している。 人間が愛情を抱くときに使うとされるA10神経を介した神経接続によるコントロールシステムを採用している。稼働状況は機体とパイロットの「シンクロ率」により左右される。機体が受けたダメージはパイロットにフィードバックされ、痛みを感じたり負傷したりする。しかも、最悪の場合死に至る事がある。神経接続やシンクロ率は発令所から操作でき、例えば第18話ではシンクロ率のカットが指示されている。また、第19話ではパイロットの意志で発令所からのコントロールを受け付けないように一部の機能をロックしていた。 パイロットは細長いカプセル状のコクピット容器エントリープラグ内部のプラグインテリアに搭乗する。プラグはEVAの首の付け根から脊髄に挿入され、先端にはEVAの中枢神経に接続するための神経接続用探査針があり、この探査針を介してEVAとパイロットの神経系の同調がなされる。プラグは緊急脱出装置を兼ねており、緊急時には挿入口から射出されロケットモーターで離脱、パラシュートにより着地する。プラグ内はL.C.L.と呼ばれる液体で満たされており、それが外部を映すスクリーン、神経接続の媒介物質、衝撃緩和液として機能する。また、パイロットはL.C.L.を肺に取り込むことで体に直接酸素を供給される(液体呼吸の項を参照)。なお凍結中の零号機には、巨大な十字架の付いた停止信号(凍結)プラグが挿入されていた。 パイロットの座るシートの両脇には機体制御や射撃管制に用いる2本のコントロールレバーが設けられている。このグリップを引き起こして展開することで機体を高機動モードに切り替えることができる。シート後方には巨大なディスクドライブが搭載され、操縦に関するシステムや、自爆プログラムやダミーシステムも書き込まれている。シート前方の下部にはエントリープラグの内壁に接するような形状の安定フィンがあり、インテリアはシンクロ率に応じてプラグ内を前後するようになっている。プラグの容量的には複数人が入ることも可能だが、パイロット本人以外の存在はシンクロに影響する(第3話、第8話)。 操縦の際、パイロットは脳と機体を神経接続するインターフェイス・ヘッドセットを頭部に装着し、シンクロ補助や生命維持などのシステムが内蔵されたプラグスーツを着用する。プラグスーツを着用せずにEVAに搭乗・出撃するシーンでもインターフェース・ヘッドセットは装着している(第1話、第19話。第13話では実験のため両方とも非着用)。 搭乗者は、原則として「母親のいない(母親の魂がEVAのコアに同化している)14歳の子供」に限定して選出される。EVAにはそれぞれ固有パルスのパターン(パーソナルパターン)があり、パイロットもそれに似たパターンの保持者でなければならない。違うパターンの保持者が搭乗した場合、09システム(オーナインシステム)と比喩されるように、起動確率は0.000000001%であるため、起動する可能性は“ゼロではない”が、ほぼないと言ってよい。 EVAのコア内には通常、パイロットとEVAをリンクさせるための介在としてパイロットの母親の魂が入っている。開発過程において、魂までコピーできなかったEVAを操縦するにあたり、パイロットが魂の役割となった。しかしながら通常パイロットだけでは、EVA=神の肉体と魂たる人間とでは格差がありすぎるために上手く動かせず、きちんとした性能を発揮できない。そして開発の初期段階にEVAと接触実験を行った碇ユイと惣流・キョウコ・ツェッペリンはいずれも事故を起こし、前者は肉体ごと初号機と同一化して消失、後者は魂の大部分を弐号機内に奪われ、魂が不完全になったキョウコは発狂・自殺してしまう。しかしながら、これらのEVAのコア内に残された魂を介在とし、彼女らの子をパイロットにすることで、EVAとパイロットとの「格差」はなくなり、初めて安定した接続が可能となった。EVAのパイロットが原則として1体につき1人しかいないのはこの事情による。なお渚カヲルは例外で、アダムから作られてかつ魂がない、または引きこもっている機体ならば自由に操ることができる。 零号機と初号機はパーソナルパターンが酷似しており、第14話ではパイロットを交換しての起動実験が行われた。レイと初号機のペアに問題はなかったものの、シンジと零号機のペアは実験中に暴走事故を起こし失敗した。この実験の成果からレイのパーソナルを人工的に再現しエヴァにパイロットがいると思い込ませるダミーシステムが開発され、第18話で戦闘を拒否したシンジに代わって初号機を操縦し第13使徒バルディエルを殲滅した。ただし第19話では初号機にレイが搭乗して出撃しようとするものの初号機にシンクロを拒絶され失敗、ダミーシステムを搭載したダミープラグによる起動も同様に失敗している。劇場版で登場した量産機は、渚カヲルのパーソナルデータを用いたダミープラグを使用していた。弐号機に関しては、第10話でレイがアスカに代わって弐号機で出撃する旨の発言をしているが、第14話に「弐号機の互換性が効かない」というセリフがあり実際には稼働させられないらしい。漫画版では第1話でレイが初号機に乗ってサキエルと交戦している。 背部に接続されたアンビリカルケーブルからの電力供給で稼働する。予備電源を内蔵しており、ケーブルからの電力供給を失ってもフルで1〜3分程度、ゲインを利用すれば5分の活動が可能。また肩に外付けの大型バッテリーを装着することにより、ケーブルなしでの稼働時間を延長することができる。なお初号機は第19話で第14使徒ゼルエルを捕食しS機関を獲得したが、第23話ではケーブルを装着して出撃している。 使徒と同様、A.T.フィールドを展開することができる。A.T.フィールドは機体周囲を取り巻くバリアの一種であり、機体への物理的干渉のほか強力なものになると第10使徒サハクィエルや第17使徒タブリスのように電磁波すら通さなくなる。至近距離ではA.T.フィールド同士を中和させることによって防御壁を無効化できる。EVAが使徒に対して唯一有効な対抗策とされるのはこのため。 以上のように物理面に影響を及ぼすA.T.フィールドは防御以外にも攻撃手段として用いられている描写もみられる。劇場版では弐号機が戦略自衛隊の航空機に対しての攻撃手段としてカッターのように用いている。ゲームソフト『新世紀エヴァンゲリオン2』のF型装備では武装や推進部をA.T.フィールド自体を動力として活用している。 人型の汎用機体なので、刀剣や銃火器など人間の使う武器と同様の武装を装備できる。 全身が装甲に覆われているが、この装甲の真の目的は防具ではなく拘束具としてEVAの暴走を阻止することである。 対使徒戦のみならず通常の人間同士の戦闘でも圧倒的な戦力であることに加え、その製造・運用には莫大な利権が生じることから、世界各国が製造権・保有権を巡って争っており、劇中で3号機・4号機は米国が製造権を主張して半ば強引に製造していたことが示されている。新劇場版ではEVAの保有数や技術転用を規制する国際条約「バチカン条約」が登場した。 最初に製作されたプロトタイプで、当初は肩部ウェポンラックなどの装備もされていない。起動実験中に暴走事故を起こしたため凍結されていたが、第5話で凍結解除。第6話でヤシマ作戦に投入され、初号機を荷粒子砲から庇って大破した。その後の修復に伴って弐号機と同じ形状の装甲板と肩部ウェポンラックを取り付け機体色も青に変更する改装を施され、第11話の第9使徒マトリエル戦から再び実戦投入される。この実戦用形態は商品化される際などは零号機(改)と呼ばれ、第1話よりオープニングフィルムに登場している。肩部ウェポンラックにブースターが搭載されている(ただしこれは高所からのショック吸収用で、飛翔能力は無い)。第23話の第16使徒アルミサエル戦において使徒の物理的浸食を受け、使徒もろとも自爆し第3新東京市と共に完全に破壊された。 制作元については、第22話において赤木ナオコが「アダムより人の造りしもの」として脊椎と頭部、腕部だけのプロトタイプの零号機を紹介したこと、劇場版25話においてキール・ローレンツが「唯一、リリスの分身たるEVA初号機」と発言していることからアダムより作られたとする説と、アダムと呼ばれていたものが実はリリスであったことからリリスより作られたとする説がある。 コアについては、現在までに公表された設定資料中には明言したものはない。ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』では、コアに魂が入っておらず、レイがシンクロに長期間を要したのはそれが理由であると解説されている。ただしその改良版であるPSP版ではこの理由について「レイに母親が存在しないこと」「コアのシステムが未完成であること」とされており、零号機のコアの魂の有無には言及されていない。 EVAシリーズの中でリリスより製作された唯一の機体。EVAシリーズのテストタイプ。搭乗者の生命に危機が迫ると、たとえバッテリー切れの状態であっても突如コアが反応して搭乗者の意思に関係無く暴走し、その際自らの力で顎部ジョイントを破壊し口を開け、咆哮を挙げる。第19話にて第14使徒ゼルエル戦の最中、覚醒した初号機が使徒を捕食してS機関を取り込んでからは、無限の活動時間を得る。 初起動は第3使徒サキエル戦であるが、起動前にエントリープラグ未挿入の状態であるにもかかわらず、腕を動かして落下物からシンジを守る。初シンクロ時にプラグスーツの補助なしに41.3%と高シンクロ率を示すも、左手首を折られ、右眼を光の槍に貫かれて中破、その後暴走し(1度目の暴走)、左手首の自己再生、使徒のA.T.フィールドを侵蝕・中和などの圧倒的戦闘力を見せつけて使徒を殲滅した。第4使徒シャムシエル戦では初のEVA専用火器を使用するも効果はなく、ミサトの制止を振り切って活動限界時間一杯までのプログレッシブ・ナイフでの接近戦闘にて辛くも殲滅、第5使徒ラミエル戦は一度は敗北するもののヤシマ作戦にて零号機と共に殲滅、旧東京市都心の第28放置區域でミサトの援護により、暴走したJ.A.(ジェットアローン)を制止、第7使徒イスラフェル戦は弐号機が作戦に加わり、両機体の動きを同調させるユニゾン特訓の末、使徒を殲滅。第9使徒マトリエル、第10使徒サハクィエルは、戦列に復帰した零号機と3機で殲滅、第12使徒レリエル戦では、敵の本体である影に取り込まれてディラックの海を彷徨うが、シンジの生命維持に危険が迫ったことで碇ユイの魂が目覚め、2度目の暴走を起こして上空に浮かぶレリエルの影を引き裂いて殲滅し帰還した。 第13使徒バルディエル戦では、トウジの乗るエヴァとの戦闘を拒んだシンジに業を煮やしたゲンドウが彼のエントリープラグにダミーシステムを起動し、バルディエルを3号機ごと無惨に解体・殲滅、そのことにショックを受けたシンジが怒りのあまり初号機の機体内に篭城してゲンドウに謝罪を要求するも、ゲンドウの命令でL.C.L.の圧縮濃度を限界まで上昇させられて強制排除された。この事件以降、シンジが搭乗を拒否したため、第14使徒ゼルエル戦では代わりにレイが搭乗するも、ユイの魂がシンジ以外を拒絶、以前はシンクロ可能であったレイやダミープラグすらも受け付けなくなったが、第14使徒ゼルエル戦での戦闘で弐号機、零号機の無惨な結果を目撃し、加持に諭されたシンジは再び初号機に搭乗、左腕を失いつつも敵を追い込むもついに電源が切れて停止したが、シンジの声に反応するかのように再起動し3度目の暴走、再起動した際シンクロ率が400%を超え、ゼルエルの腕を引きちぎり、その腕を自らの左腕へ変換した後、ゼルエルのA.T.フィールドを破壊、ゼルエルを捕食しS機関を獲得、この戦いで初号機は覚醒を果たし、他のEVAとは一線を画す存在へと変化した。その後、再度の暴走を警戒したゼーレの命令により使用を凍結されたが、第16使徒アルミサエル戦で物理的融合されそうな零号機を救出するため、ゲンドウが独断で凍結解除を発令したことで戦闘へと復帰、第17使徒タブリス戦では、タブリス(渚カヲル)が外部から操る弐号機と交戦、弐号機の撃退後、タブリス(渚カヲル)を殲滅する。 劇場版第25話では戦略自衛隊がシンジと初号機との接触を絶つためにケージに注入した硬化ベークライトに拘束され搭乗できなくなっていたが、弐号機が量産機に捕食されている際に無人のまま起動し、ベークライトを破壊してシンジを搭乗させ、ジオフロント内に出現、劇場版第26話では、弐号機の無残な姿を見たシンジに触発され暴走(4度目の暴走)、背に四枚の十字翼型A.T.フィールドを展開し、A.T.フィールドを背負ったままシンジのデストルドーにより地球の衛星軌道上にあったロンギヌスの槍を召喚、その状態をゼーレに利用されてサードインパクトを引き起こし、そのまま人類補完計画を発現させてしまったが、シンジがその世界を望まなかったため、初号機は同化したリリスから分離して地球を包み込むほどの巨大な12枚の赤い翼を展開、リリスと黒き月を崩壊させ、自らが持つロンギヌスの槍と量産機が持って共鳴させていたロンギヌスの槍のコピーをすべて破壊し、人類補完計画を破局させた後、搭乗していたシンジを地球に残し、石化して宇宙へと旅立った。 ゼルエル戦において暴走し四つん這いになって瀕死のゼルエルに這い寄っていくシーンがあるが、これは監督が「餓鬼をイメージして描いて欲しい」とアドバイスしたためである。 アニメ版ではレイが搭乗したのは機体相互互換試験および対ゼルエル戦で出撃しようとした時のみだが(後者は初号機にシンクロを拒絶されている)、貞本義行による漫画版では第1話でレイが搭乗して出撃、シンジとミサトを救うシーンがある。 暴走時などに発する声は、林原めぐみの声を加工したものを使用している。 アダムより製作された、エヴァンゲリオンの量産化を前提として開発された、いわば先行量産機。アスカの言葉を借りるなら「本物のエヴァンゲリオン」と呼べる機体である。 フルパワー時には頭部拘束具が一部展開、素体の4つ目を露わにする。 NERVドイツ第3支部で組み立てられ、第8話においてNERV日本本部に移送中、第6使徒ガギエルの攻撃を受けたためアスカの判断で起動、初戦を勝利で飾った。その後、他の2体と共に使徒殲滅に当たっていたが、第13使徒バルディエル戦では一瞬の躊躇をつかれ敗北、第14使徒ゼルエル戦においては一切の攻撃が通じず両腕と頭部を切断されて大破、この連敗とその両者を倒したのが双方とも初号機であったことによりアスカのプライドに綻びが生じ、シンクロ率が下がり始め、修理はされたものの、第15使徒アラエル戦においてアスカが精神的ダメージを受けたためさらにシンクロ率が低下、第16使徒アルミサエル戦では起動すらできない状態となり、その後廃人と化したアスカの代わりにやってきたフィフスチルドレンにして第17使徒タブリス=渚カヲルの力により無人で起動、彼に従いセントラルドグマへ侵入するが、追ってきた初号機と戦闘になり、初号機によって首筋と頭にプログ・ナイフを突き刺されて活動を停止させられた。 劇場版第25話ではアスカを保護するべくエントリープラグに載せてジオフロント内の地底湖底に配置される。そこに戦略自衛隊の爆雷攻撃が行われたことがアスカに死の恐怖からくる生への執着を蘇らせる。それに弐号機内のアスカの母の魂が呼応し、母の存在を感じたアスカは復活、周囲の戦略自衛隊を壊滅させたがアンビリカルケーブルは切断されてしまう。そのあと弐号機殲滅に投入されたS機関搭載の量産型EVAシリーズ9機に対して内部電源の3分30秒でほぼ全てを撃破する活躍をみせたが、1機が放ったロンギヌスの槍(コピー版)がA.T.フィールドを貫通、頭部に直撃し同時に制限時間の活動限界を迎えてしまう。身動きの取れない弐号機は再起動したEVAシリーズに鳥葬のごとく内臓を食い尽くされ、アスカの「(量産機を)殺してやる...!」という強烈な意思が暴走(覚醒)を引き起こしかけるも、最後は8本の槍によって串刺しにされ完全に沈黙する。 テレビシリーズでは山下いくとがデザインを担当し、劇場版では本田雄が再デザインしたため微妙に外観が異なっている。分冊百科「エヴァンゲリオン・クロニクル」ではこの違いを第17使徒タブリス戦で負った損傷の修復に伴うものとしている。 漫画版では渚カヲルがアルミサエル戦で乗機とする(アスカの精神崩壊がアラエル戦直後にされたため)。レイの零号機と同様にアルミサエルの浸食を受けるが、カヲルの力により同化は免れる。この戦いでデュアルソーに物理融合したアルミサエルによって左足を切断されている。 デザインの着想はシューティングゲームのPCエンジン版『超兄貴』に登場する「エル&トポ」から得られている。デザイナーは「常にEVAにはダイバーのようなイメージをもっている」とのこと。 アダムより製作された。米国NERV第1支部製。頭部以外は弐号機と同じで、頭部は角が無い以外は初号機と似ている(プラモデルの説明書にあるラフスケッチには、初号機の後頭部にある部分と似た物体が描かれている)。 米国支部から日本本部へ移送中に第13使徒バルディエルに寄生され(積乱雲に潜んでいたとされる)、松代で起動実験中に使徒として覚醒、第3新東京市に向けて活動を開始する。零号機、弐号機を活動不能に陥れるが、ダミープラグによって暴走した初号機との戦闘の末、原形を留めないほどに破壊される。最後にトウジが閉じ込められたエントリープラグは、初号機によって握り潰される。搭乗していたトウジの結末は、テレビシリーズでは左脚切断の重傷、漫画では死亡と展開が異なるが、これはテレビシリーズプロデューサーの大月俊倫が番組製作前に出した、「どんな内容でも構わないが、子供が死ぬようなアニメだけは見たくない」という要望を受けてのものである。 ただ、大月は3号機の登場シーンを、オンエアから2年経った1997年になっても見ておらず、存在も知らなかったため、新宿で打ち上げに参加した際、バンダイからリリースされたプラモデルシリーズの中に見知らぬ「黒いエヴァンゲリオン(=3号機)」があるのに気付いて、「誰が許可したんだ、こんなもの」「なんで、こんなのあるんだ」「メーカーが勝手にこんなん作りおって」などと憤慨したという。 ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』では、条件を満たすことでトウジが3号機のパイロットとして戦列に加わる。その後も条件によっては使徒に寄生されずに最後まで運用される。また、いくつかのシナリオでは、スタート時点から3号機パイロットとなっている。N64版では、ゲームモードによっては選択・使用が可能。スーパーロボット大戦シリーズに登場する場合は、イベントによってはバルディエルを浄化して正式運用される場合もある。ただし、初登場した『スーパーロボット大戦F完結編』では、バルディエルとしての3号機ではないが、敵として登場する。『スーパーロボット大戦α』での武装は後述のプラモデル化された際に付属した武器の数と種類が同一である。 なお、プラモデル(LMHGシリーズ)では、使徒侵食前の3号機と、使徒侵食後の3号機(第13使徒バルディエル)版があり、腕パーツと一部パーツ以外は共通となっている。 第17話で存在が言及されるのみ。アダムより製作されたが、米国NERV第2支部での試験中、S機関の暴走により、周りの関連研究施設と共に消滅する。 テレビシリーズでは言及のみで外観描写は無かったが、プラモデル化の際に設定された。形状は3号機と同一であり、カラーリングはシルバー。ゲームなどに登場する4号機に関しては後述。 アダムより製作された、通常「EVAシリーズ」と呼称される9体の量産型機。カヲルがベースとなったダミープラグにより稼動する。S機関を搭載しており、活動時間に限界は無い。収納展開が自在な翼を背面に内蔵しており、自力飛行が可能。携帯武器は諸刃の剣(脚本では槍となっている)であるが、これはロンギヌスの槍のレプリカを変形させたもので必要に応じて本来の姿に戻る。前述の理由により内部電源が不要になったことに加えロンギヌスの槍を得物として持つためプログレッシブ・ナイフなどの存在価値が薄いゆえにウェポンラックを装備していないのも特徴である。 眼の無いウナギのような頭部が特徴。また、エントリープラグ挿入口や全体的なデザインが他のEVAと異なっている。これは零〜4号機を山下いくとがデザインしたのに対し、量産機のデザインは本田雄が手掛けたことによる。再起動や捕食、再生など、EVA初号機の暴走状態と非常に酷似した行動パターンを持つ。 劇場版第25話では、ジオフロント内の戦略自衛隊を壊滅させた弐号機に対抗するために輸送機から投下され弐号機と交戦。弐号機の圧倒的な戦闘力の前に次々と一旦は撃破されていったが、弐号機の活動限界間際に9号機が放ったロンギヌスの槍によって弐号機の頭部を串刺しにする。動けない弐号機に対し全機再起動、再生した量産機は弐号機を鳥葬のごとく捕食した後、全機で上空からロンギヌスの槍を突き刺し葬る。第26話では、レイと同化したリリスからのアンチA.T.フィールドにより、リリス(=レイ)と同化、頭部にいびつに歪んだレイの顔が表出する。その後、初号機を依代にし、サードインパクトを誘発させ各機自らのコアにロンギヌスの槍を突き刺しS機関を共鳴、およびアンチA.T.フィールドを展開。地球上の人間、全てのA.T.フィールドを無力化し、人類全てをL.C.L.へと還元させるが、初号機によって量産機のロンギヌスの槍は全て破壊される。その後量産機は全て活動を停止、石化し地上へと降下する。 見た目での区別はつかないが、脚本や絵コンテでは9体の量産機はそれぞれ全て機体番号で区別されている。製作地は、5、6号機がドイツ、8号機が中国である。 弐号機によって破壊された順番は9号機(頭部を潰され背骨を折られる)、11号機(プログ・ナイフを頭部に突き刺される)、7号機(プログ・ナイフで右手を切断され首をへし折られる)、6号機(諸刃の剣で袈裟懸けに斬られる)、12号機(諸刃の剣で腹部から上下に切断される)、8号機(諸刃の剣で左足を切断される)、10号機(ニードルガンで頭部を刺される)、5号機(喉元を握りつぶされ13号機と同時にみぞおちを貫通される)、13号機(5号機越しにコアを鷲掴みにされる)である。 漫画版ではSTAGE:81より登場。劇場版第25話同様、復活したアスカの駆る弐号機と死闘を繰り広げる。しかし戦闘力は劇場版を上回っており、劇場版では全機とも一度撃破されているが、漫画版では弐号機を劣勢に追い込んだだけでなく弐号機の機能停止までに三機生き残っている。また再生能力も遥かに強力になっており、初号機と弐号機に与えられたダメージを短時間で完全に回復させている。 量産型のプラモデルは2種類存在しており、通常版は頭部パーツが2種類の形状の交換式で武器は諸刃の剣、「最終戦仕様」版は頭部の口が開閉可能なギミックがあり武器がロンギヌスの槍(コピー)である、という違いがある。 4部作のタイトルは「ヱヴァンゲリヲン」であるが、作中における機体の正式名称は「エヴァンゲリオン」である。また本作では、局地仕様である封印監視特化型限定兵器の仮設5号機や、ヒト型ですらないMark.04シリーズが存在し、EVANGELIONというカテゴリ自体には「汎用ヒト型決戦兵器」という意味合いは含まれておらず、一部の機体の仕様名称となっている。 『新世紀エヴァンゲリオン』における「コア」は本作では「コアユニット」と呼称されており、設定がテレビシリーズとは異なっている。このコアユニットは機体から分離可能であり、封印時には取り外される。また『新世紀エヴァンゲリオン』ではEVAにコアが存在する事実は第14使徒戦まで一部の人間を除いて知らされていなかったが、本作ではシンジの初号機初起動時にはコアユニットの言及がある。 『破』以降では、パイロットの意志でEVAに備わったリミッターを解除し、パイロットへの負担と引き換えにさらなる力を引き出すコマンドである裏コードが登場した。頭上に光輪が出現し飛行や光線を発射する能力を獲得する覚醒という状態も登場した。 当初は内部電源での活動時間は5分(フル・ゲイン利用の区別は言及なし)でアンビリカルケーブルからの電源供給が途絶えるとモニターに活動限界までの残り時間が表示されていたが、『Q』ではケーブルを接続せずに活動していても残り時間の表示はない。WILLE所属のEVAは内部電源が10%まで減ると警告表示と共にパワーセーブモードに切り替わり旧世紀版や『破』までのように時間切れと共に動けなくなるというわけではなくなっているほか、「スペア」と呼ばれる器具で右手首から内部電源の充電をする描写がある。NERV所属のEVAはアンビリカルケーブルを含めた電力供給に関する描写がなく、『シン』ではWILLE所属のEVAも活動限界に関する描写はない。 『Q』にて、EVAのパイロットとなった少年少女たちはエヴァの呪縛を受けるという新設定が登場した。これにより、頭髪以外の身体の変化が新陳代謝を含めてなくなる・リリンの近寄れないL結界密度の高い場所でも活動できるようになるなどの影響がある。 基本的なデザインは『新世紀エヴァンゲリオン』と同様だが、改装・就役後もカラーリングが変更されないまま、2号機と同じ肩部ウェポンラックと胸部アーマーが装備された。第10の使徒戦でN弾頭装備のミサイルを抱えて特攻するも撃破出来ず、全身を焼かれ立ち尽くしているところを第10の使徒に膝から上を捕食され、レイごと取り込まれてしまう。ただし不要な頭部は、吐き捨てられた。 細部のデザインやカラーが変更された以外は『新世紀エヴァンゲリオン』と同じ。シンジの身に危険が迫ると暴走する点も同じだが、レリエルに相当する使徒が登場しない関係で、作中の暴走回数は2回となっている。新武装としてガトリング砲を用いるが、第5の使徒に有効な打撃は与えられなかった。また第6の使徒戦のモニターから、固有波形パターンは「Blue**A'」であることがわかる。第10の使徒戦では、「世界がどうなっても綾波だけは助ける」というシンジの意志の下、擬似シン化第1覚醒形態へと変化。シンジにコントロールされた状態で秘めた能力を開放した。その際は拘束具の蛍光グリーンの部分が赤に変色し、頭上に天使の輪のような光輪(エンジェル・ハイロウ)が出現。A.T.フィールドで形成した左腕を変化させての攻撃や、両目から光線を放つなど使徒のような攻撃を見せ、使徒のコアから零号機のコアをレイごと摘出した。プラグ深度は180以上にも達しており、リツコをして「人の域を超えた」と言わしめた。まもなく、レイの姿を取った巨大なヒト型(サルベージされた零号機のコアを基点に、形象崩壊した使徒の体液が集まったもの)と融合し、セカンドインパクト時に出現した4体の光の巨人と酷似した三眼の光の巨人「擬似シン化第2形態」へ到達してサードインパクトを発生させかけたが、月面から降下してきたMark.06が投げたカシウスの槍によって初期段階で阻止され、ニア・サードインパクトに留められた。その後、シンジとレイをエントリープラグ内に取り込んだまま活動を停止、凍結される。 その後は封印の棺に入れられ、大気圏外にコア化状態で封印されていたが、反NERV組織WILLE(ヴィレ)が奪取作戦を展開、封印から14年が経過しても完全に覚醒状態が治まったわけではなく、作戦中危機に陥ったアスカのシンジへの叫びに呼応するかのようにMark.04Bに向けて光線を発射・撃破し、改2号機を支援した。接収後は取り込まれ身体を失ったシンジの身体をサルベージした後、WILLEの空中戦艦AAAヴンダーの主機として組み込まれた。この時点でのシンジとの深層シンクロテスト結果は0.00%であり、シンジが搭乗しても起動することはないとリツコが述べているものの、作戦中の再起動を危惧したWILLE上層部の判断により、シンジの首にDSSチョーカー(EVAの覚醒を感知すると、パイロットを殺して覚醒状態を解除させる首輪)が付けられた上に、検体としての扱いを受けることになった。 南極での戦闘でヴンダーが大破した後、ゲンドウと第13号機によって初号機は回収される。この時初号機は赤色にコア化しており四肢は切断されている。シンジが搭乗を希望するにあたって、『Q』で0%とされたシンクロ率は、実は0に限りなく近い値無限大であったとされた。シンジの操縦でゲンドウの第13号機と対峙するも打ち勝てず、両者の精神対話の後「エヴァの要らない世界にする」というシンジの意思を受け継いだ碇ユイによってゲンドウとユイは自らガイウスの槍(WILLEの槍)を身体に貫き、消滅した。 初号機・零号機同様カラーリングが若干変更されると共に、額部に短い角飾りが追加されている。NERVユーロ支部で建造された後日本本部へ移送、その最中の第7の使徒登場に伴い輸送機から即交戦に入り見事勝利、以来零号機・初号機と組んで使徒殲滅にあたるが、3号機の到着によって「各国はEVAを3体までしか所有出来ない」というバチカン条約に抵触、ユーロ支部の命令で一度凍結された。新武器として超電磁洋弓銃、サンダースピアを使用したほか、左右両方のウェポンラック内部にナイフホルダー、および連装ニードルガンのペンシルロックを固定装備として格納してあり、劇中で最も多種多様な武装を使用した。第10の使徒襲来においては、マリが凍結を無断解除してアスカの代わりに搭乗。裏コード「ザ・ビースト」により「獣化第2形態(第1種)」へと変形し、第10の使徒のA.T.フィールドを全て破壊するなど奮戦するも、第10の使徒の圧倒的戦闘力には及ばず左腕と右顔面を失い中破、避難していたシンジをシェルターからジオフロントに連れ出した後、活動を停止した。 『Q』では第10の使徒戦で失った右顔面・左腕を機械パーツで補修した、サイボーグじみた(あるいはサイバネティックス化した)外貌の「改2号機」として登場。8号機と共にWILLE所有となり、戦況に応じて装甲・武装を換装する仕様が取られるなど、NERV所有のEVAと比較し汎用兵器としての側面が強くなっている。バッテリーが切れると戦闘不可になるが、完全に動けなくなるわけではないため自分で予備のバッテリーパックを用いて電力補給が可能。劇中冒頭では、左腕義手として巻き取り式ロープガン、本体の2.4倍以上の超巨大な背部ブースターを装備し、宇宙空間での活動に特化した「改2号機β」として登場、宇宙空間でMark.04からの攻撃を躱し、8号機の支援も受けた末に初号機の奪還に成功、水中でのヴンダー主機点火作業以降は、本物の腕より一回り太い形状(前腕部以降をガトリングガンへと換装可能)の左腕義手および、β仕様以前より堅牢な装甲を装備した「改2号機γ」として運用された。ヴンダーの動力炉に強制点火したり、新装備である双刃の薙刀を振るってMark.09や第13号機との戦闘を行なうなど奮闘、「アダムスの器」としてヴンダー奪還を図ったMark.09を止めるべく、「コード777(トリプルセブン)」のモードチェンジにより、前作『破』での獣化第2形態(第1種)からさらに尻尾やネコ科の獣のような牙が発生した「獣化第4形態(第2種)」へと変形し奮戦、アヤナミレイ(仮称)の脱出後体内にガトリングガンを撃ち込むも、Mark.09の全身がコアであるためすぐに再生されてしまい、最終的にMark.09もろとも自爆、機体の一部のみが8号機とともに回収された。 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では「新2号機α」として登場。本体は頭部、上半身、コア部分のみ再生・修復しており、序盤でユーロNERV本部から回収したJ.A.-02の本体と半ば強引に組み合わせることで重機化し、動力炉も機体の背部から突き出す形でJ.A.リアクターをそのまま流用しており稼働時間を延伸、巨大な重火器とバックパックを装備している。劇中ではヤマト作戦開始直前に改8号機γと共にぎりぎり形になり旧南極のNERV本部にてMark.07の大群と戦闘する。脚部と背面にあるミサイルや改8号機γから次々に投げ渡される武装を駆使しながら迎撃、群となりドリル状に押し寄せるMark.07の大群を改8号機γとのA.T.フィールドの連携技で壊滅させる。強制停止信号プラグを起動前の第13号機に打ち込もうとするも新2号機α自身のA.T.フィールドに妨害され、それを打ち破るため「裏コード999(スリーナイン)」を発動。この時アスカは左目の眼帯を外し、眼の中に埋め込まれていた小型の使徒封印用呪詛柱を引き抜いて封印されていた第9使徒の力を開放、さらに機体にエンジェルブラッド(使徒の血)を注入することで覚醒を果たし、使徒と融合することで新2号機αを強化した。上半身の生体パーツは左腕をA.T.フィールドで再構成しながら機械部分から抜け出し、大爆発のあと本体を輝かせながら膨張、使徒とエヴァが融合を果たし人の形を捨てた異形の姿となる。この際に第9使徒の特徴的な長い腕が背面から生え、新2号機のA.T.フィールドを中和した直後、起動した第13号機により全腕を吹き飛ばされて内部から破裂、急激にしぼみ込んだところでエントリープラグを抜き取られ第13号機に取り込まれながら首から下がL.C.L.となり崩壊する。頭部のみヴンダーの甲板に打ち上げられた。『破』の獣化第2形態時の声は、坂本真綾の声を加工したものを使用している。 『シン』Blu-ray映像特典の『EVANGELION:3.0(-46h)』では「2号機α 臨時暫定仕様」として登場。エヴァインフィニティーに襲われていた幼少期のミドリを救出した。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場。フェイスマスクが赤色になっているなど、旧世紀版とは細部カラーリングが異なる。旧世紀版ではシンジの親友である鈴原トウジが搭乗したが、新劇場版ではアスカが搭乗する。初号機のダミーシステム(旧世紀版ではダミープラグ)により機体はバラバラに引きちぎられるが、手で握りつぶす描写だったエントリープラグの破壊は、噛み潰される描写へと変わっている。新劇場版における各部の変更点については『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を参照。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。複数のタイプが存在し、いずれも従来のヒト型のEVAとは形状がまったく異なる。 『Q』に登場するものは、コアブロックと呼ばれる弱点を複数備えた円盤状の本体に、EVAの下半身や脚部・肩部ウェポンラックに酷似するディテールを備えたデザインとなっている。また、固有波形パターンは使徒と同じ青とされるが、モニター上ではニアリーイコールとなっている。 『シン』に登場するものは、複数のEVAを組み合わせた外見をしており、使われるEVAの数に応じて4の数が増えていく。『Q』のものよりは元がEVAであることがうかがえるが、EVAの頭部は欠損しており、使徒共通の仮面がその代わりに付けられているなど、異形ぶりを増した外観となっている。 なお、『破』で存在が示唆された4号機との関連性は不明。こちらは稼働時間の限界を延長する(新劇場版ではS機関という表現はされていない)試験機であったが、事故によって北米第二支部と共に蒸発したとされる。試験内容の詳細はリツコですらほとんど知らされておらず、事故との見解にも加持が疑義を示している。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場するEVA。名称が示す通り、汎用性に優れた他のEVAと大きく異なり、NERV・ベタニアベースに封印されている第3の使徒の封印監視を目的に、同施設内での運用に特化した特殊な形態・機能を持つ。急造品の機体であるためか、プラグスーツは旧式で、シンクロ開始時に苦痛を伴う。加えて、インテリアと腕部がケーブルでつながれていてパイロットの身体の動きが制限される、インダクションレバーのトリガーの数が多いなど、機体制御や操縦システムに粗が目立つ。 頭部と胴部は従来のEVAとほぼ同様の形状をしているが、下半身は4本足の多脚型で先端には車輪のようなものがあり、狭い空間でスムーズに旋回などを行うことが可能。脚部にはブースターノズルを装備している。また、胴体の下部にはカバーで覆われたドリルが二つ装備されており、緊急時の急減速の際にはカバーを排除し地面に突き立ててブレーキ代わりに使用する。腕はヒジから先が二本爪のマニピュレーターを備えた義手として機械化されており、さらに右腕はこの義手を差し込む形で保持される長大なランス(対使徒専用殲滅兵器「簡易式ロンギヌスの槍(似非復元型)」)を装備している。ただし、これらの仕様はマリに言わせると「鈍重」「パワー不足」とのこと。 機体の特性上アンビリカルケーブルは無く、代わりに肩部ウェポンラックの先端にあるトロリーポールによって電力を得ており、そこから背面へ伸びるケーブルによって本体に電力を供給している。背面にはSSTOに似たシルエットを持つ脱出ユニットを背負っている。エントリープラグが挿入口から射出され、ユニットと連結、その後にユニットに装備されているブースターが点火され機体から分離し飛行するというシークエンスで脱出が行われる。 『破』冒頭で、復活した第3の使徒と交戦。地下の「辺獄エリア」から「アケロンエリア」への脱走を許すも、マニピュレーターで使徒のコアを握り潰す。その際、稼動状態がフルパワーに達したためか、暴走時の初号機と同様に顎部の拘束具を引きちぎりながら口を開く描写がある。直後にマリは自爆プログラムを起動し自らはエントリープラグごと脱出、機体を道連れに自爆し、使徒を殲滅した。劇中ではこの一件自体が5号機と第3の使徒を葬り去るためにゲンドウらの指示で加持リョウジが工作したものであることが示されている。 システムボイスはMAIが担当している。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のラストシーンにおいて登場する月面の黒い巨人をベースに建造された。建造中の巨人の頭部の仮面は旧世紀版の第2使徒リリスのものと酷似している。ゲンドウ曰く「建造方式が他とは違う」エヴァンゲリオンである。『破』の序盤では月面のタブハベースにて建造中であり、建造現場上空をゲンドウと冬月が視察に訪れたが、ゼーレが上陸を拒否している。ゼーレが「真のエヴァンゲリオン」と呼称し、当初NERVに報告することなく建造が進められていた。終盤で完成、カヲルが搭乗してNERV本部上空に飛来。サードインパクトを起こしつつあった初号機を手にしたカシウスの槍で停止させた(ニアサードインパクト)。『序』『破』の予告では「エヴァ6号機」と、劇中では「マークシックス」(Mark.06)と呼称されている。バイザー内部には初号機と似たような形状の双眼がある。また、覚醒した初号機と同様に頭上に光輪を持ち飛行能力を有する。本機以前のエヴァンゲリオンよりひと回り大きく見える描写があるが、実際に設定上のサイズ差が存在するかは不明。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』までの劇中経過年数14年のうちに自律型へ改造され、セントラルドグマ最深部でサードインパクトの起点となったが、加持リョウジの犠牲によって自らのコアとリリスの胸を槍で貫き停止した。その後、サードインパクト停止時に頭部と破断したリリスの胴体とともにセントラルドグマ最深部に放置されていた。第13号機により槍を引き抜かれた際に、体内の第12の使徒が活動を再開するが、アヤナミレイ(仮称)の乗るMark.09によって首を落とされ、Mark.06は活動を停止する(体外に出た第12の使徒は第13号機に吸収された上で、コアは噛み砕かれた)。 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のCパート、ヤマト作戦において登場するEVA。WILLEからは「エヴァ7シリーズ」と呼称された。人間の頭蓋骨のような頭部を模し、セカンドインパクトの爆心地にWILLEが降下する際、無数に現れた。武器は持たず、噛み付いて攻撃することから一つの単調な指令の下にプログラムされていると思われる。単縦陣の44Aのように自ら群体を形成して、一本のドリルに構築して攻撃する行動が見受けられたが、アスカとマリのダブルA.T.フィールドによって一掃される。 山下いくとによると、当初はコアのみでA.T.フィールドを発生させる機能しかないエヴァとして7号機のデザイン案をしたが、後にそのデザイン案は44Bや4444Cとして採用されたとのこと。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』本編後の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』予告にて初登場。予告においては、「胎動するエヴァ8号機とそのパイロット」とあり、錨型のバイザーを装備する頭部、初号機・Mark.06同様の角らしき物、耳およびイヤリングのような意匠、初号機と同様の睫毛のような模様、頭上の光輪など『Q』本編と異なる外観で登場していた。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では、初号機の起こしたニア・サードインパクトから14年後、反NERV組織であるWILLEが運用している。「ヴィレカスタム」の表記から、元々NERVが建造していたがWILLE結成時に強奪されたと思われるが、詳しいことは明らかにされていない。『Q』序盤は14年前に運用されていた2号機と同じようなボディの「8号機α」として登場。後に改修を受け、「8号機β」となった。こちらはボディが太くなったほか、手首から腕にかけて篭手のような防具が追加されている。劇中ではロングバレルの超長距離ライフルやハンドガンといった銃器を用いたほか、予備のバッテリーパックなどを運搬して改2号機をバックアップした。 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の冒頭では「8号機β 臨時戦闘形態」として登場。本来の8号機の胸から腹にかけての部分には大量の包帯が巻かれており、両腕は胸から背を一周するリング状の装甲とジャッキ状の細いパーツで接続された多数のウェポンラックやプロペラントタンク付きスラスターを装備し、足先まで届くほど長いものとなっている。上空に位置するAAAヴンダーから極細のワイヤーでマリオネットのように吊り下げられており、操縦はステアリング状の非実体コントローラーで行う。マリによる操縦のもと、空中で回転しながら両腕の機関砲を乱射する姿や、リツコたちによる旧NERVユーロ施設の復元作業を援護してEVA軍団を撃破する姿が描かれている。その後WILLEがフランスにある旧ネルフユーロ施設を復旧させたことによって回収できたパーツで失った両腕を改修され「改8号機γ」となった。ヤマト作戦決行時には超大型武装コンテナであるドラゴンキャリアと接続、Mark.07の大群との戦闘では自由落下しながら新2号機αに武装を次々と投げ渡し迎え撃つ。最大の改修点は「オーバーラッピング」に対応させたことで、これは他の機体の組織を捕食することにより捕食対象を糧とし、その機能を継承、そして自らの欠損部位を補填できるというもの。劇中では両腕を失った状態のまま、まずヴンダーに取り付き侵食していた「エヴァオップファータイプ」であるMark.09-Aの右腕を食いちぎり吸収することで自身の右腕を修復、そのまま首元から捕食していったことでアダムスの器の力を取り入れ、頭上に光輪をまとわせながら空中浮遊、マイナス宇宙への航行能力を獲得するに至った。シンジを初号機に送り届けた後、残りの3機に取り囲まれながらも圧倒する。まずMark.10の頭を丸ごと食いちぎりながら上半身を食い尽くし、左腕を修復すると同時にA.T.フィールドで巨大な虎のようなオーラを形成しMark.11の上半身を瞬時に捕食。光輪の数も捕食数にあわせて増加し、捕食シーンは描かれなかったものの、残るMark.12は劣勢となり、かなりたじろいだポーズを見せていた。最終的にオップファータイプ全4機の能力を吸収することで「8プラス9プラス10プラス11プラス12号機」となり、事実上、歴代エヴァ最強クラスの能力を得た。その能力向上は凄まじく、マイナス宇宙への航行、光線を蹴り返し、使徒と同じ強力な光線発射能力でヴンダー2番から4番艦までを次々に破壊していった。槍を届けようとするミサトの特攻とAAAヴンダーの最後を見届けた後、最終的に槍の力でエヴァが消滅していく中、海岸に座り込むシンジの前に現れた「最後のエヴァンゲリオン」となり消滅していった。唯一ヴィレの槍で貫かれる描写はなく消えていった。『シン』での咆哮などは、坂本真綾の声を加工したものを使用している。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。装甲の仕様・カラーリングは零号機に酷似している(シンジも初見時には零号機と誤認した)が、頭部のカメラアイが顔面部の大半を占めるほど極端に大きく、全体が眼球のように可動式になっているのが特徴。汎用兵器としての用途も若干残されているが、電力供給を必要としないどころか、A.T.フィールドは無く、機体全体がコアとなっていることから、全身を一度に殲滅でもされない限り頭を吹き飛ばされようが稼働に支障をきたさない上、長距離飛行用の巨大なブースターパックを有機的な変形によって背面に展開できるなど、疑似シン化形態の初号機や第13号機に近い人外の領域のエヴァンゲリオン。第13号機の覚醒後は、頭上に光輪が出現し飛行能力を発揮、さらに光線を放つようになる。WILLEからはヴンダー本来の主たる「アダムスの器」と認識されている特殊な機体である。近接戦闘時は大型の鎌を武器とする。 発艦後のヴンダーを急襲、検体として監禁されていたシンジを鹵獲し、8号機の銃撃により頭部を丸ごと吹き飛ばされてもものともせずNERV本部に連れ帰った。第13号機のセントラルドグマ降下時には、支援および復活するであろうMark.06への対処のため同行し、妨害に現れたWILLEの所有するEVA(エヴァ改2号機、エヴァ8号機)を交えて奮闘、その後第13号機が2本の槍を抜いた為Mark.06内部の第12の使徒が復活、その時にMark.06の首を切り落とした事により第12の使徒がMark.06の首から出現し、第13号機の覚醒のトリガーとなる。その後第13号機の覚醒に伴いアヤナミレイ(仮称)のコントロールを離れ、ゼーレのシステムを基に自律稼働を開始、第13号機の鎮圧に現れたヴンダーに光線を放ち、その艦橋に同調した形状の12の眼をもつ頭部を再生する、着艦後機体色をヴンダーの艦橋色に変色させる、装甲が剥がれた腹部にあるデコイのコア上に仮面のような物体を持っているなど、ヴンダーの「本来の主」としての機能を遂行する異形の形態「第1のアダムスの器(移行中間形態)ゼーレ仕様」に変貌、触手状に変異させた脚部でヴンダーの主機に干渉、浸食してシステム奪還を図ったが、獣化形態となった改2号機に噛みつかれ、アヤナミレイ(仮称)の脱出後、改2号機の自爆によって殲滅された。 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。アダムスの器たる完全な同型機で、Mark.09の再生産機である「EVANGELION Mark.09-A」、NHG2~4番艦の主である「EVANGELION Mark.10」「EVANGELION Mark.11」「EVANGELION Mark.12」で構成されている。Mark.44のような使徒共通の仮面が付いているが、仮面だけを欠損した頭部の代替にしていたMark.44とは異なり、頭部に仮面が取り付けられた形となっている。仮面の形状も若干異なり、仮面に「IX」「X」「XI」「XII」の字のスリットが刻まれ、「X」の字のスリット中央部分に単眼のカメラアイがある。また、各機体は上半身部分のカラーリングがそれぞれ異なっている。また、オップファー(Opfer)とは、ドイツ語で「犠牲」の意。 超極限空間内で8号機と会敵し、全機捕食された。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。NERV本部で建造されていた。カラーリングなどは初号機に酷似しているが、改2号機γ仕様および8号機β仕様に準じる太い胴体、2段重ねになった四眼などに違いがある。リリスの結界を突破するための機体でもあり、2人乗りの「ダブルエントリーシステム」となっているのは、セントラルドグマ最深部にあるロンギヌスの槍とカシウスの槍の2つを入手するために2つの魂=2人のパイロットが必要とされるためであるとされていたが、実はDSSチョーカー作動により片方のパイロットが死亡しても、生存しているもう片方のパイロットにより覚醒を継続させるという「ゼーレの保険」としての意味合いもあった。エントリープラグは肩甲骨の部分にある挿入口から挿入され、右肩のエントリープラグで下段両眼、左肩のエントリープラグで上段両眼が開く。また、2本の槍を扱うため胸部にも1対の腕が隠されており、胸部展開時に4本腕の異形の姿となる。EVA本体はA.T.フィールドを発することは無く、機体の周囲に小型ユニット4基(モニターには「RS Hopper」と表示されている)を浮遊させ、この端末からA.T.フィールドを展開することで攻守に力を発揮する。その正体は「アダムスの生き残り」とされる。 カシウスとロンギヌスの対の槍、そしてこの機体を使えば「世界の修復」も可能だとされ、それを望むシンジとカヲルはセントラルドグマ最深部に到達し、改2号機を退けて2本の槍を手に取ろうとする。槍に違和感を覚えたカヲルが制止するもシンジは聞かず、さらにカヲルのエントリープラグのみが管制システムを切断され(この時眼が赤色へと変化する)、シンジは一人で機体を操作して強引に2本のロンギヌスの槍を引き抜いてしまう。それによりMark.06内に潜伏していた第12の使徒が復活し、侵食を受けたカヲルが第13の使徒へと堕とされる。そして最終的には第12の使徒を吸収し、初号機の擬似シン化形態をも超えた「疑似シン化第3+形態(推定)」となり、フォース・インパクトを起こしてしまう。これを止めるため、カヲルは機体に2本のロンギヌスの槍を刺し、シンジから引き取っていたDSSチョーカーの作動により死亡。それでもガフの扉は閉じず、マリが強制的にシンジのエントリープラグを射出させたことで、フォースインパクトは初期段階で抑えられ、機体は地表に向けて落下していった。 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では、NERV側に回収されアディショナルインパクトのトリガーとして利用された。再起動する際、使徒化したアスカを新2号機からエントリープラグごと引き抜き吸収することで再び、「疑似シン化第3+形態(推定)」となる。その際、シキナミタイプのオリジナルが第13号機に搭乗、あるいはコアへのダイレクトエントリーをしていることが判明する。その後、ゲンドウを体内に入れマイナス宇宙へと向かい、シンジの記憶の中で覚醒した初号機と戦う。最終的には、ユイとゲンドウによりガイウスの槍に貫かれて消滅した。 『シン』で登場した、コアにEVAの腕と上下に肩部ウェポンラックが付いた物体。腕だけでカエルのように跳ね、プログレッシブ・ナイフのような武器で攻撃する。また、相手に組み付いて自爆することも可能。 起動前の第13号機に接近した2号機を攻撃、それを阻止したマリの8号機と交戦し、何体かは破壊されるも残った機体は8号機の腕に組み付いて自爆、8号機の両腕を吹き飛ばした。 劇中で全く説明のない兵器であり、『シン』のラストのEVAが次々と槍に貫かれるシーンにも登場しなかったことから、EVAとして扱われてない可能性もある。メイキング映像に映ったコンテには「腕ユニット」との記述がある。 エヴァンゲリオン・インフィニティ、エヴァンゲリオン・イマジナリーを参照。 以下は作中未登場、または映像化されていない。 『新世紀エヴァンゲリオン2』に渚カヲルが搭乗する隠し機体として登場。カヲルと4号機は実は互いに交信しており(カヲルは「彼」と呼ぶ)、NERV本部上空に現れた異空間からカヲルの呼び掛けにより姿を現す。 『新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画』および『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では相田ケンスケが搭乗。それより前の『鋼鉄のガールフレンド2』および同名の漫画でもケンスケが担当していたが、実際には搭乗せず、ゲーム版では本編同様消滅していた。 『シークレット オブ エヴァンゲリオン』では主人公であるNERV諜報部員・剣崎キョウヤの手により、S機関暴走という理由を捏造してNERV北米第2支部を丸ごと葬り、その影で密かに機体をNERV本部に搬入したという経緯で登場する。 パチンコ・パチスロでは左腕に防御兵装が追加されている。『CR新世紀エヴァンゲリオン 〜最後のシ者〜』~『モバスロ ヱヴァンゲリヲン 〜真実の翼〜』では、新劇場版の他のエヴァ同様に細部のカラーリングが異なるデザインで登場。右腕に装備した半透明のシールドで第6の使徒の加粒子砲を防ぎ、左腕に装備したロンギヌスの槍を投擲している。 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)で2016年に開催された『エヴァンゲリオン・ザ・リアル4-D: 2.0』に登場。基本的なデザインはそれまでの4号機と変わらないが、山下いくとの新デザインによる両腕に装備した3本指のシールドマシン状の武器(ラピッドボーラー)を振るうほか、両腕から翼を生やして飛行する。 『ユニゾンリーグ』でのコラボや、『P新世紀エヴァンゲリオン 〜シト、新生〜』でもこちらの仕様で登場する。 ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』に登場。 『名探偵エヴァンゲリオン』では乙型、『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では乙号機と呼称するが、同一の機体である。他のエヴァンゲリオンにはない翼が装備されており、自律飛行が可能。ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』ではゼーレ査察官渚カヲルの専用機。初登場はボウリングのピン型の死徒襲来のときで、死徒と疑われたボウリング場を破壊しようとした。また、虫歯型死徒襲来の際は3号機を死徒と疑い連行しようとした。最後のボスであり死徒として覚醒したカヲルを取り込み、ターミナルドグマで初号機と対決した。第1形態と第2形態がある。 ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』のエンドレスモードに、41番目の敵として登場。 ゼーレが極秘裏に開発したエヴァンゲリオンで、エヴァンゲリオン乙号機の兄弟機。背部にEVAとしては初となる円形状のビーム兵器を装備している。さらに、この武装は分離することでオールレンジ攻撃が可能。このビットは複数のサイズが存在し、すべてを合体させることで、強力なビーム砲としても使用できる。この武装は、背中に固定された状態でも使用できる。解説書では、雨龍・凱龍などと記されているが、正式名称は不明。第1形態と第2形態がある。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』本編後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』予告に登場したEVA。『シン』本編には登場しない。 8号機と2号機を融合させたニコイチ機体であり、マゴロックス(『エヴァンゲリオンANIMA』に登場する武器)を装備している。近接格闘とマゴロックスを用いて前述のMark.06に酷似したエヴァンゲリオンの大群と戦っていた。 短編映像シリーズ「日本アニメ(ーター)見本市」にて発表された短編「evangelion:Another Impact (confidential) 」に登場。 映像全編が3DCGで描かれており、デザインは竹内敦志。「どこかの時代、どこかの場所」で密かに開発されていたという設定で、それ以外の詳細は一切不明。初号機のような鋭角的なデザインの頭部で、鮫のような歯がむき出しの口、側頭部から生えた集音装置、平たい頭頂部が特徴。目は装着されたカバーで塞がれている。起動試験中に突然制御不能となり緊急停止を試みる最中、何者かによってカタパルトが開放され、無人の都市に向けて射出された。足止めにやってきた軍の戦闘機をたやすく一蹴し、綾波レイと似た「ここにいるよ」の声に導かれるかのように市街を駆け抜け、最後に空に向かって咆哮するところで映像は終了する。 (以下は映像作品には登場せず) 零号機・初号機の由来は、映画の試写における零号試写(色処理などを行っていないフィルムによる最終チェックのための試写)、初号試写(納品用の完成版フィルムの最初の試写)である。 デザインは零 - 4号機をマンガ家の山下いくと、量産機をアニメーター(劇場版メカ作監)の本田雄が手掛けている。2003年に新世紀エヴァンゲリオン企画10周年を記念して発売されたPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』用にF型装備仕様の初号機やジェット・アローン改、およびEVAの新兵装などが山下いくとの手によって追加デザインされた。なおゲーム本編には登場しないが模型雑誌の企画用にF型装備仕様の零号機と弐号機のデザイン画が描き起こされており、バンダイから商品化もされている。新劇場版では、山下により初号機と零号機の細部デザインと色彩が変更(テレビ版初期デザイン案に回帰し、そこから調整)され、また新規装備のデザインが作られた。次いで主に3DCGとの整合性を図るため、本田により新たに初号機のデザイン画が起こされている。 EVAの身長については、アニメ制作時には明確な数値が設定されておらず、「ウルトラマンと同じ身長」(40メートル)とされていた。スーパーロボット大戦シリーズへの出演にあたって明かされた設定も「40-200メートル」というものである。厳密に大きさを定めないことにより、そのシーンにおいて最も演出的に適切な作画を行うことを可能にしている。したがって、画面上に登場するさまざまなものを尺度にEVAの身長を求めても、そのシーンごとにまったく違う数値が算出される。ウルトラマンにおいても初登場時の設定は40メートルと定められているが、撮影現場ではそれを厳密に再現していない。新劇場版においては全長80メートルとしたと庵野は雑誌の対談で語っている。
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7,286
インジール
インジール(إنجيل injīl)は、アラビア語で福音、福音書、新約聖書を意味する語である。 イスラム教においては、預言者イーサー(イエス)に下された神(アッラーフ)の啓示の事であり、真性な神とキリスト教徒の共同体(ミッラ)との間に結ばれた契約のひとつであると見なされる。このことから、ムスリム(イスラム教徒)はキリスト教徒のことを指して「インジールの民」と呼ぶこともある。 ムスリムはしばしば誤解されるようにクルアーンのみを啓典としているわけではない。インジールも啓典のひとつとしている。しかし、啓典ではあっても原典は現存しておらず、キリスト教各派によって異同があることから、神の言葉をそのまま写し取ったものではないと考えており、神の言葉を啓示されたそのままに伝えるクルアーンに比べて劣ったものと見なす傾向がある。 また、クルアーンはアラビア語によるアラブ人の共同体の啓典であるが、同時に最後の預言者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフを通じて全世界の民に下された啓典であり、全世界の民が可能な限りクルアーンを啓典と認めてムスリムの共同体(ウンマ)に加わることがムスリムの大理想とされる。 キリスト教徒のアラブ人にとって、インジールとは神(アッラーフ)から神の子イエス・キリストに対する啓示・福音あるいは福音書を意味する。
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割り込み (コンピュータ)
割り込み(わりこみ、英: interrupt)とは、コンピュータがその周辺機器などから受け取る要求の一種である。現在の多くのCPUは、割り込みを処理するための機能を備えている。 割り込みの主な目的は、「周辺機器からの情報を、他の作業をしながらも取り落とすことなく受け取ること」であり、以下のような具体的な効果がある。 CPUの割り込みは、大きく分けてハードウェア割り込み(外部割り込み)とソフトウェア割り込み(内部割り込み)に分類できる。一言で「割り込み」と言った場合、前者を指すことが多いため、後者のことをSWI (SoftWare Interrupt) と呼び区別する場合がある。 割り込みには以下のような種類が存在する。 ハードウェア割り込みはCPUの外部から要求されるものであり、CPUの割り込み要求端子をアサート(アクティブ化)された場合に発生する。 例えば、キーボードが押下されるなど周辺機からのデータ入力が発生した際に、割り込み要求端子の電圧をHIからLOWにしてアサートすることで、実行中のCPU命令実行が中断され、入力処理ルーチンの実行処理が割り込まれる。 CPUの割り込み要求端子には、割り込み処理を禁止できないマスク不可能な割り込み (Non-Maskable Interrupt, NMI) と、割り込み処理の許可/禁止を制御できるマスク可能な割り込み(狭義のIRQ)の2種類の端子を備えている場合が多い。割り込みのマスクの設定は主にフラグレジスタに格納されており、割り込みの許可/禁止 (Enable/Disable) を操作するCPUの命令が用意されている。また、これらの端子が同時にアサートされた場合、優先順位がありNMIが優先される。一般に、周辺機からの入力にはOSで制御される必要があるため、IRQ端子に接続して使用されることが多い。一方、デバッグやハードウェアエラーなどの特殊な用途にはNMIが使用されることが多い。 IRQ端子のアサート方法は、信号の変化点を検出するエッジトリガと、信号のレベルで検出するレベルトリガがある。エッジトリガでは、立上がり又は立下りといった片方向の変化だけを検出する「片エッジ検出」と、両方ともを検出する「両エッジ検出」がある。PCIバスではレベルトリガ方式の割り込み信号線が取り入れられている。 CPU が割り込みを認識するためには、割り込みをサンプリングするタイミングで、割り込み信号がアサートされている必要がある。割り込みソースが多い場合、アサートされている信号のサンプリングを完了するまでのサイクル数が増加することになるため、割り込み許可状態とするサイクル数がどの位必要になるか、事前に(割り込み許可状態とサンプリング開始のタイミングやサンプリング完了に要するサイクル数など)割り込み回路設計情報を確認しておく必要がある。 CPU が割り込みを認識し、割り込み終了後に実行再開すべき PC やフラグレジスタを退避した後、割り込み処理ルーティンにてソフトウェアが割り込みを許可しない限りそれ以上の割り込みがネストしないように CPU が割り込みを自動的に禁止するタイプの CPU と、割り込みが認識されたレベルよりも優先度が高い割り込みに限りネストしても受け付けるタイプの CPU がある。後者の例としてPDP-11がある。初期のUNIXがPDP-11向けに開発されたことから、割り込みレベルを設定するspl(英語版)命令がカーネル内で広く使用されており、他のアーキテクチャでもエミュレーションにより同機能を実装している。 ソフトウェア割り込みは、CPU内部においてCPU命令によって要求されるものや、命令実行に関わるモジュール(例えば、キャッシュ)の状態変化やエラーによって要求されるものがある。前者は、ソフトウェア割り込み命令によって発生するものであり、狭義のSWIとも言われる場合がある。また後者は、例外 (Exception) やトラップ (Trap) と呼ばれ区別されることがある。 CPU命令(INT、TRAP、RST など)によって発生するソフトウェア割り込みは、実行可能な処理範囲がモードによって制限されるようなCPUにおいて、システムコールを実現するために用いられる。例えば、通常のアプリケーションが動作するユーザモードでは実行できない命令であっても、SWIの後では特権モードに移行するため実行可能になる。 例外は、ゼロ除算、算術オーバーフロー、ページフォルトなどによって生じる。特に、ページフォルトはOSがメモリ空間を管理するのに重要な役割を果たす。 CPUがソフトウェア割り込みのための命令を直接サポートしていない場合、空いているハードウェア割り込み要求端子をアサートする手段を別途用意することによりソフトウェア割り込みをエミュレートすることがある。アーキテクチャによっては、この方法を正式なソフトウェア割り込みの実装としている。 CPUの割り込み要求端子は1本もしくは複数用意され、CPUの種類や実装によって異なる。 複数の周辺機からの割り込み要求が発生可能な場合、1つの割り込みハンドラ(後述)で処理を行うと、どの周辺機がどのような割り込み要求を発生させたのか判別する処理を、プログラム側で行う必要がある。これに対しPC/AT互換機などでは、ハードウェアとして複数のIRQ端子を用意して、割り込み要因毎に異なるハンドラに処理を移すことができるようにした構成をとれるようにしたものがある。この機能を持った回路のことを割り込みコントローラ (Interrupt Controller) と呼び、CPUのIRQ端子を外部で拡張して制御するものである。マイクロコントローラでは同一チップ内にCPUと複数の周辺機が内蔵され、割り込みコントローラも内蔵されるものが多い。 次に代表的な割り込みコントローラの例について述べる。 CPUに割り込みが生じると、現在実行している処理(命令)を停止して別の処理を実行する。割り込み後に実行される処理は、割り込みハンドラもしくは割り込みサービスルーチン (Interrupt Service Routine, ISR) と呼ばれる。また、割込処理が終了しても、元の処理(割り込みが生じた時点に実行していた処理)に戻ってこられるように、元の処理の場所(アドレス)に関する情報(および元の処理の作業状態、コンテキストと呼ばれる)を(多くの場合スタックに)保存しておく。 割込処理を実行するために、どこの場所(アドレス)に飛べば良いかを示す情報は、割り込みベクタと呼ばれるテーブルに書かれている。割り込みベクタには、飛び先の命令のアドレスを書くこともあれば、ジャンプ命令を書くこともある。 割り込み処理ではイベントドリブンな処理を行うことができるため、割り込み処理に割り当てられたタスクについては効率的な処理が行える。しかしその一方、割り込み発生時には、CPUのレジスタの退避/復帰やプロセッサの特権レベル移行の処理など、少なからず処理にオーバーヘッドが生ずることとなる。このため、割り込みの発生頻度が高いシステムの場合、その処理によってシステム資源が占有されてしまい、本来の処理の応答性や処理速度に影響を与える場合がある。 状況によっては割り込みを使わず、ポーリングでフラグを定期的に確認するなどして、本来の処理との折り合いをつける方が、全体的なパフォーマンスが向上する場合がある。なお、一部のデバイスドライバでは、通常は割り込み動作を行い高負荷時にはポーリングで動作する仕組みを持ったものもある。 また、RISCプロセッサでは、割り込みが発生すると実行中のパイプラインが乱れ処理性能が低下するため、旧来の8ビットCISCプロセッサなどに比べると、割り込みによる相対的なパフォーマンス低下の影響が大きくなる。また投機的実行のペナルティなど複雑化したプロセッサ機能も、割り込みの際のオーバーヘッドを増大させる要因となる。 コンピュータのこの意味での「割込み」という語は、インタラプト(Interrupt)の訳ではなく、独立に作ったものである。和田英一によれば、1959年(昭和34年)の夏、パラメトロン計算機において、出力装置が直前の処理を終えたことを計算機に知らせる方法を議論していてアイディアを得た、という。
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テンプレート
テンプレート(英: template)とは、文書などのコンピュータデータを作成する上で雛形となるデータ、あるいは雛形そのもの。 最も抽象的なテンプレートは、レイアウトのみのデータで、テキストを流し込むことでレイアウトつき文書となる。 具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。 このほか、さまざまな段階がある。 テンプレートから文書を作る工程は、手動の場合も自動の場合もある。 語源は四角形や円などがくりぬいてある定規板で、そこから一定の状態にするという型という意味が生まれた。 ワードプロセッサのテンプレートは、あらかじめ定型的な文章が用意されている。それに名前など必要な部分を埋めこんだり書き換えたりすることによって、体裁の整った文書を簡単に作成することができる。 特に、日本では簡単な文書や、複雑な表組みを備えた帳票など、様々な種類の文書テンプレートが利用されている。 また、ワープロソフトのテンプレート以外でも、マイクロソフトのMicrosoft Excel (エクセル)、パワーポイントを代表とした様々なビジネスソフトを利用して、伝票・帳票・宛名ラベル・はがきなどに印刷するため、それぞれのビジネスソフトのテンプレートファイルも利用されている。 それらのテンプレートファイルは、以前はアプリといっしょに「テンプレート集」として販売されていたが、最近はネット上で広く公開サービスを行っているサイトも多い。 電子掲示板には、容易に長文を書き込むためのさまざまなテンプレート(テンプレ)が出回っている。多くの場合、テンプレ自体も過去になされた書き込みであり、それを部分的に書き換えて使われる。テンプレを基にした書き込みもテンプレと呼ばれることがある。 1つの範疇は、スレッドフロート電子のシリーズ化したスレッドの最初に、スレッド作成者いわゆる >>1 により記述される定型文である。スレッドの性質にもよるが、前スレからの変更がない場合は、前スレのURLなど1 - 2箇所の修正で使えるようになっている。目的やルール、参加するにあたって最低限必要な知識などが含まれており、ひととおり読んでおくことが求められる。長文になる場合やdat落ちなどによる消失を防ぐために参加者のウェブサイト等に転記され、URLのみが記述されることもある。 そのほか、いわゆる「コピペ」の雛形となるテンプレなどがある。 テンプレートエンジンは、テンプレートから文書を作る工程を自動化したソフトである。テンプレートに対し、テンプレートに埋め込むデータをデータモデルという。 同じレイアウトのウェブページを大量に生成するときなどに使われる。 テンプレート構文は、プログラミング言語や高レベルな拡張テキストで、繰り返し使われる部分を簡潔に表すための構文である。 テンプレートは空白のかわりにメタ変数を残して定義され、呼び出すときにはメタ変数に入れる識別子や文字列を指定する。 C++などのプログラミング言語で抽象データ構造を定義するために使われるほか、Wikiなどでも{{ABCDE}}のような形で使われる。
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東京競馬場
東京競馬場(とうきょうけいばじょう、英: Tokyo Racecourse)は、東京都府中市にある中央競馬の競馬場。所在地から府中競馬場(ふちゅうけいばじょう)とも通称される。競馬ファンの間では単に府中でも通用する。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。 敷地内施設として、JRA競馬博物館・乗馬センターの他、馬車(ホースリンク)・水遊び広場やミニ新幹線など遊園地のような遊具やイベントが行われている。 東京競馬場の前身は目黒競馬場である。1907年(明治40年)に約65,000坪 (≒21.5ヘクタール (ha))の敷地面積の目黒競馬場が開設されたが、その後目黒競馬場周辺の都市化が進み、借地が大部分だった目黒競馬場は借地料の増加に加え、馬券発売による競馬人気で手狭になったにもかかわらず、施設拡張の余地がなかったため、移転を余儀なくされた。 小金井や羽田、世田谷なども移転先候補地となったが、府中町(当時)が競馬場誘致活動に力を入れ、地形もよかったので府中に決定し、1933年(昭和8年)11月8日、東京競馬場は開場した。10日後の11月18日に東京競馬場での初めての開催を行い、目黒競馬場は完全閉場となった(目黒記念は目黒競馬場にちなんでいる)。移転した競馬場の総面積は駐車場や道路、厩舎地区を含めて約24万坪と目黒競馬場時代の3倍以上になった。本馬場は一周2100メートル、幅は30メートルで芝を植え、本馬場内側には練習馬場(調教用コース)を設け練習馬場には川砂を敷いた。 元々の用地は現在よりフラットであった。現在の競馬場の第3コーナー手前とホームストレッチにある勾配は人為的に作ったものである。これは競走馬にスピードよりも強靭さを求めた陸軍の意向を取り入れたもので、多摩川向かいの川崎の山土を運びコースに盛ってアップダウンを設けた。コースには山土を盛って芝を植えた。この山土を取るために南武線沿いにある山も買った。 目黒にあった各厩舎も競馬場移転に伴い府中に移転した。1936年(昭和11年)東京競馬場所属の厩舎は30厩舎。その多くは東京競馬場内の厩舎地区に入ったが、尾形藤吉厩舎、北郷五郎厩舎は競馬場外の府中町清水が丘に自前の土地建物を用意した。 開場時の東京競馬場のレースは、春・秋の2回開催で各季8日間の開催であった。手狭だった目黒競馬場が、1場所8日間の開催で最高で観客8万人あまりだったが、移転して広大になった東京競馬場第1回開催では8日間で10万人を超えた。記念すべき東京競馬場の初開催は1933年(昭和8年)11月18〜20・25〜26日、12月1〜3日である。 東京優駿(日本ダービー)は1934年(昭和9年)の第3回から東京競馬場で行われ、開設時の重賞競走としては帝室御賞典(現在の天皇賞)や農林省賞典、目黒記念などが行われていた。 1937年(昭和12年)、全国的な競馬施行団体である日本競馬会が設立された。これに伴って東京競馬場のみの競馬運営体の東京競馬倶楽部は解散して日本競馬会に合流し、東京競馬場は日本競馬会東京競馬場となる。 1940年(昭和15年)の開催が決まっていた東京オリンピックでは、馬事公苑や中山競馬場とともに馬術競技で使用されることとなっていたが、日中戦争の影響で東京オリンピックの開催そのものが中止となった。 1943年(昭和18年)12月、政府は競馬を中止し、1944年(昭和19年)以降は東京・京都でのみ能力検定試験を行うことにした。したがって、この年の日本ダービーや横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)は馬券は売らず観客は入らないなかで、関係者のみが見つめる前で行われている。中山競馬場で行われていた重賞レース(中山記念や中山四歳牝馬特別など)も東京で行われた。 1944年(昭和19年)5月、横浜競馬場の閉鎖にともない、横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)が東京競馬場で行われる。横浜農林省賞典四歳呼馬は1947・48(昭和22・23)年も東京で行われ、1949年(昭和24年)から中山に移って皐月賞になる。 1945年(昭和20年)、東京競馬場は陸軍燃料廠に貸与され、東京競馬場は閉鎖された。東京競馬場所属馬は一部は京都競馬場や阪神競馬場に送られ、その他は地方で種牡馬になったり運搬車曳馬などに転用された。調教師や馬丁(厩務員)などの人員は一部は京都競馬場や宇都宮競馬場に移転を命じられたり、一部は転業が命じられて曳馬機動隊(運搬車曳馬の隊)や馬匹修練場などに配置替えされた。東京競馬場施設は軍に貸与されたが、戦時中の食糧難の為に競馬場は全面が畑になり、馬場はサツマイモ畑になっていた。 1946年(昭和21年)、軍から返還され、同年10月17日から競馬は再開された。 1947年(昭和22年)、それまで阪神で行われていた優駿牝馬競走(オークス) が東京で開催された。 1948年(昭和23年)、日本競馬会は前年に制定された私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)によって解散。日本競馬会傘下の9か所の競馬場は国営競馬として再開する。東京競馬場は農林省管轄下になり、国営競馬東京競馬場となる 1954年(昭和29年)、新競馬法によって日本中央競馬会発足、東京競馬場は日本中央競馬会東京競馬場となる。 1957年(昭和32年)11月19日、1号館新館「万歳館」竣工。 1961年(昭和36年)2月26日、ダートコースの使用が開始。 1968年(昭和43年)6月4日、スタンド改築工事竣工。府中競馬正門前駅からの屋根付歩道橋を設置。 1974年(昭和49年)、東京競馬場の厩舎数や在籍馬数は徐々に増え、この年には馬房を貸し付けられている東京競馬場所属の調教師の人数は38人。馬房数は定期貸し付け馬房と出張馬房の合計で1,098馬房、預託契約頭数はサラ系が1,005頭、アラブ系が31頭の合計1,036頭。東京競馬場の総馬房数1,098に対し40馬房貸し付けられている調教師が3人いるのに対し、10馬房しか貸付されていない調教師もいるなど厩舎ごとの規模の差は現在より大きかった。この年までに栗東トレーニングセンターはすでに開業していたが、美浦トレーニングセンターは造成中である。 1978年(昭和53年)3月から4月にかけて、東京競馬場内にあった厩舎は新設された美浦トレーニングセンターに移動した。調教師や厩務員なども移転した。それまで東京競馬場には1111の馬房があったが、東京競馬場所属馬はすべて美浦に移動。1982年には東京競馬場の馬房の数は397に減り、それらは出張馬房や国際馬房として使われた。 1981年(昭和56年)、ジャパンカップ創設。2002年を例外として東京競馬場で開催される。 昭和の終りから平成の初めにかけて、武豊やオグリキャップなどの人気による空前の競馬ブームが起こり、1990年(平成2年)5月27日の第57回東京優駿(日本ダービー)当日には史上最高の入場者19万6517人を集めた。 2000年(平成12年)に東京競馬場スタンド改築等施設整備計画を発表し、3期に分けての改築を行うことになった。2002年(平成14年)6月の第4回東京競馬終了後、馬場改修工事と2期スタンド工事に本格的に着手、その年の秋競馬は中山競馬場や新潟競馬場で代替開催された。1期スタンドはその年の10月に完成し、翌11月からパークウインズとして利用開始。その後馬場改修工事も終わり、2003年(平成15年)4月26日にリニューアルオープンした。以前のコースとの主な変更点は次のとおりである。 2005年(平成17年)4月に完成したスタンド改修工事・第2期分では、パドックとレーストラックをつなぐ地下馬道が1階座席からガラス越しに見ることができるようになった(ホースプレビュー)。 2007年(平成19年)4月にスタンド改修工事・第3期分が終了。新スタンドが全面完成となった。新スタンドの名称は公募により決定し、富士山を眺望できるスタンドであることから「フジビュースタンド」と命名された。また、このフジビュースタンド完成を記念し、2007年の2回・3回の東京競馬では東京競馬場グランドオープンと銘打って、引退騎手によるエキシビションレース「ジョッキーマスターズ」をはじめ様々なイベントが行われた。 2008年(平成20年)2月3日・2月10日と2週連続で日曜日の開催が降雪の影響で中止され、それぞれ2月4日・2月11日に代替開催された。中央競馬における同一競馬場での2週連続開催中止は、こちらも降雪のため中止された1987年12月の中山2日目・4日目以来21年ぶりのことであった。 2014年(平成26年)2月8日・9日・15日・16日には、雪の影響により4日連続で開催中止。それぞれ2月10日・17日・18日・24日に代替開催された。中央競馬における4日連続の開催中止は史上初となった。 2019年(令和元年)5月4日には、降雹の影響で10レース以降のレースを中止。ダービートライアルのプリンシパルステークスがこの中に含まれており、翌週5月12日の開催に移行されることになった。 2020年(令和2年)の第2・3回開催全日は新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された。この中には第87回日本ダービーも含まれており、太平洋戦争の影響により「能力検定競走」の名の下で馬券の発売もなく施行された1944年以来76年ぶりに無観客での日本ダービー開催となった。 2021年(令和3年)の第1回開催全日、第2回開催2~6日は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された。 東京優駿は、第1・2回を目黒で開催以後、原則として東京競馬場のみで行われており、上記の大規模な改修・改築、馬場の拡張などを伴う大規模な工事が行われた場合でも、開催時期を調整したり、また東京優駿が行われる節の工事を極力控えるように日程調整を行っている。 芝コースは主要4場(東京・中山・京都・阪神)の中で最も大きく、JRAの全10競馬場でも新潟競馬場に次ぐ大きさである。起伏も変化に富んでおり、第1コーナーから向正面半ばまで高低差 1.9 mの長い下り坂が続き、直後の第3コーナー手前には高低差1.5mの上り坂。これを上りきると短い平坦部分を挟んだ下り勾配が続き、第4コーナーから上り勾配に転じる。ゴールまでの直線には残り 480 m地点 - 260 m地点にかけて高低差 2 mの長い上り坂があり、「だんだら坂」とも呼ばれ東京競馬場の名物となっている。ゴールまでの直線距離も新潟競馬場(外回り)に次ぐ長さで、非常にタフなコースとされている。 カーブも半径がゆったりしているうえ、幅員も広いためコースは4通りに使い分けることができ、馬場の傷みの進行も最小限に抑えることができるようになっている。 かつて芝には1,000 m・1,100 m・1,200 m、ダートには1,000 m・1,100 mの距離が右回りで設定されていた。このうち芝1,200 mの競走については1984年 (昭和59年)まで施行され、現在の200 mのハロン棒部分に右回り用のゴール板が設置されていた。また1955年 (昭和30年)前後の一時期、向正面から4コーナーにかけての障害コースの内側に芝コースを設置し、芝内回り1,600 m・1,800 m・2,000 mの競走が設定されていた。 2021年までは1月から3月について(2015年以降は重賞競走を除く)、下記の通り出走頭数の制限を行っていた。 ダートコースは1周距離・ゴールまでの直線距離ともに日本の競馬場で最大。起伏構成は芝コースとほぼ同様であるが、最後の直線部分の坂は高低差が2.4 mあり、芝コースよりも大きくなっている。 2010年の第4回開催より、ダート1600mのスタート位置及び2コーナーのシュート部分の線形が若干変更された。これによるレコードタイムの抹消措置は行われない。 現在の障害コースはスタート後に順回りで周回するコース形態のみで、周回コースには8個の障害を設置。向正面(バックストレッチ)には3つの連続障害が設けられている。また、正面の4つの障害のうち、グリーンウォール以降の3つの障害がユニット状になっており、重賞の東京ジャンプステークス(東京JS)は3つ目の竹柵が大竹柵(高さ 150 cm, 幅 155 cm)、4つ目のいけ垣が大いけ垣(高さ150 cm, 幅150 cm)に変更され、さらに東京ハイジャンプでは2つ目のグリーンウォールが大いけ垣(高さ 150 cm, 幅 150 cm)に変更される。その変更作業には1日かかる事から、当該週は他に東京で平場の障害競走を組むことができないため、東京JSが宝塚記念開催前日に移行した2013年以降、宝塚記念当日にあたる日曜日は障害競走が東西で行われない。過去には秋華賞当日が障害競走が東西で行われないというケースもあったが、2014年以降障害競走が札幌・函館以外の第3場開催時は第3場で行われることになったことと、2015年以降、東京ハイジャンプが原則、秋華賞当日の日曜日の施行になったため、発生しない。 1998年までは第3コーナーから第1コーナーにかけて襷コースが配置されており、年2回の東京障害特別の時のみ使用していた。襷コースには通常より難易度の高い大土塁障害(10号障害: 高さ 155 cm, 幅 260 cm; 通称「けやき」)、大竹柵障害(11号障害: 高さ 150 cm, 幅 150 cm)、土塁障害(12号障害: 高さ 150 cm, 幅 250 cm)の3連続障害があり名物であった。襷コース使用の場合は正面の障害は逆回りとなっていた。 戦前の竣工時には、襷コースがX字状にクロスした形で存在し、さらに3コーナーから4コーナーにかけては、馬場の内側にもう一つS字状にカーブしたコースが存在していた。 東京優駿(日本ダービー)・天皇賞 (秋)・ジャパンカップ(JC)の施行日は、障害コースのうち正面スタンド前にあたる部分が観客席として開放されることがある。 3,300 m戦(直線芝・ダート共に)は2012年以降施行されていない。 2009年5月23日の東京競馬第4競走(サラ系障害3歳以上オープン、発走11時40分)において、発馬機を「直線ダート 3,300 mのスタート地点」に設置すべきところを「直線芝 3,300 mのスタート地点」に誤って設置、結局当初発表の距離より 15 m短い直線ダート 3,285 mで行われた。レース終了後に係員が気づき、決勝審判員に報告。裁決委員がパトロールフィルム等で確認し同日の13時10分に誤りを認めたが、既にレースは確定し払戻金も発表された後であったため、レースは成立したものとされた。1着馬のタイムは当初 3,300 mのコースレコードと発表されたが取り消され、実施行距離(直線ダート3,285 m)の基準タイムとして残された。 正門・東門・西門の3カ所ある。開門時刻は通常 9:00 であるが、GI開催時など混雑が予想される場合は開門時刻が早まることがある(ダービー・JC当日は概ね 7:20 - 8:00)。 正門は2層構造になっており、2階は京王電鉄競馬場線・府中競馬正門前駅と高架橋でメインスタンド3階と直結している。正門の北側に立川段丘(府中崖線)が東西方向に横切る。 平日払戻所が併設されている。 JRA競馬博物館や4コーナー付近の芝生ゾーンに近い。京王電鉄京王線・東府中駅南口から徒歩10分。 1コーナー・ゴール・内馬場に近い。開門時は1階は入場券・回数入場券を事前に確保済みの者のみ利用可能である。JR南武線及び武蔵野線・府中本町駅の臨時改札口から専用歩道橋で徒歩5分。正門同様2層構造になっており、上層部が専用歩道橋と直結している。 西武鉄道多摩川線・是政駅から徒歩10分。コースのメインスタンドより向正面に位置する。以前は入退場が可能であったが、新型コロナウイルス感染拡大以降は入場制限もあって閉鎖が続いており、2023年9月21日にJRAより恒久的に閉鎖することが発表されている。 2002年(平成14年)11月から段階的に供用され、2007年(平成19年)4月に完成した。愛称は「フジビュースタンド」で、地上9階・地下1階。天気が良ければ富士山が見えることや、富士山が日本一を連想させること、富士山が世界的にも有名なことからこの名が付いた。スタンド内の現在位置を把握するのに便利な「柱番号」は1コーナー寄りの「2」から始まり、4コーナー寄りに「34」までの番号が付されている。各階の主な施設は以下のとおり。 コースの全体を見渡すことができるのは6階より上の席となる。 スタンドは全館禁煙で、喫煙は指定された喫煙ルームでのみとなる。 フジビュースタンドの指定席は A・B・C の3種類あり、4コーナー寄りからB指定席・A指定席・C指定席と配置されている。料金の違いは観戦場所によるもののみであり、座席の仕様に違いはない。全席が屋外にあり、2人掛けで各ペア席にチャンネル切り替え可能なモニターが1台、PC利用のためのコンセントが2口ある。全席で公衆無線LAN(Wi2 300)が無料で利用可能である。料金に入場料は含まれない。指定席エリアには投票所(自動・有人)、オッズボックス、酒や軽食を販売する売店、喫煙コーナーなどがあるが、原則として下位の指定席利用者は上位の指定席エリアに立ち入ることができない(A指定席利用者はB指定席エリアおよびC指定席エリアの施設を利用できるが、B指定席およびC指定席利用者はA指定席エリアの施設を利用できない)。なおメモリアルスタンド(後述)S指定席利用者は、フジビュースタンドのすべての指定席エリアの施設を利用出来る。 2020年10月の4回開催より車椅子専用席を含めて全ての指定席がインターネット予約のみでの発売になった。 インターネット予約は従来、専用クレジットカード「JRAカード」でしか予約できなかったが、2014年11月にJRAカード以外のクレジットカードも利用できるようになった経緯もあり、2015年第1回開催分よりインターネット予約分の指定席が若干増やされ、当日発売分の指定席が若干減らされた。 当日発売分の指定席はフジビュースタンド3階の当日指定席発売所で販売していた、5階席は正門から、6階席は西門からの入場者が利用しやすいように入場列があった。東京優駿(日本ダービー)時は通常より高い特別料金が設定されるほか、東京優駿や天皇賞(秋)など大きなGIレースが開催される日は当日発売を行わず、インターネット予約についてはJRAカード限定の事前予約抽選で、またそれ以外については事前はがき抽選で当選者に引換券を送付する形で販売していた。 コースのゴール手前300m付近にあるスタンドで、東京競馬場開設60周年を記念して1993年9月に完成したスタンドである。完成当時は「メモリアル60」と呼ばれていた。フジビュースタンド同様に全館禁煙(喫煙は専用の部屋を利用)。「柱番号」は「42」から「54」。これはフジビュースタンドができる前の旧スタンドの柱番号からの通し番号であり、フジビュースタンド完成後もメモリアルスタンドの柱番号は変更されずそのまま残された。 地上7階・地下1階で、座席のある場所はすべてガラス張り。3階・4階の4コーナー寄りの部分が一般席(1階・2階相当部分は屋外の芝スタンド)で、3階・4階のゴール寄りの部分の748席は65歳以上の入場者が利用できるシニア席(料金は無料)、5階・6階部分はi-Seat69席及びS指定席(738席、クレジットカードによるインターネット予約のみ)となっている。メモリアルスタンド竣工からフジビュースタンド完成までの期間は3階・4階部分はE指定席であった。全席禁煙である。なお、本場開催時以外(パークウィンズ時)にはi-Seat、S指定席がネット予約発売で開放される。メモリアルスタンド5階・6階のレストラン・売店も通常どおり営業している。7階には貴賓室がある。 西門及びフジビュースタンドからの地下道を利用して行けるコース内のエリアである。フアフアターフィーやミニ新幹線など子供向けの遊具があるエリアである。 1984年に日本初のターフビジョンが設置され、10月6日の開催から運用開始。ターフビジョン設置後最初の大レースがミスターシービー、カツラギエース、サンオーイが叩き合いを演じた毎日王冠であった。最後方を追走するミスターシービーが大欅の手前でスパートをかけるシーンが映し出されると場内は大きく沸いた。 2006年8月に三菱電機長崎製作所製の世界最大規模の超大型ビジョン(ターフビジョン)が設置され、10月7日から正式運用された。ゴール前のそれがこれまでの電球管形式からLED方式に変更され、高さ11.2 m, 幅66.4 m, 面積743.68 m(テレビサイズでいうと 2,651型)と旧来の3倍に相当するものが採用された。これによって画面全体を使用した高画質映像の放映、画面を 1:2 に分割して別角度からの映像を放映、画面を3分割して本場の競走・パドックの映像と他場の競走・パドックの映像を同時に放映、といった様々な使い方で情報提供ができるようになった。「世界最大の大型映像スクリーン」としてギネス世界記録に認定された。「マルチ画面ターフビジョン」と称している。 「下見所」とも言う。出走馬を下見する場所であり、トータリゼータオッズボードを兼ねたパドックビジョン(フルカラーLED電光掲示板)が設置されている。パドック周辺とパドックビジョンの前側通路と下は禁煙エリアとなっている。 無敗の2冠馬トキノミノルの馬像と、中央競馬初代理事長安田伊左衛門の胸像があり、待ち合わせスポットの定番となっている。安田像は安田記念の開催日には献花が捧げられる。 以前は30頭分表示できる風格のある大型手書き出走板があり、名物であった。レースごとに白墨でレース名、距離、馬名、騎手名、斤量、馬体重が書かれたプレートを付け替えていた。馬名表示欄の横幅は狭かったため、8文字以上の馬名の場合は2行に分けて書かれていた。フルゲートの削減に伴い、電光型の出走掲示板(現在のパドックビジョン)に建て替えられた。カタカナは全角で表記される。 東京競馬場はレストランや売店などが充実していて、飲食店はラーメン・焼きそば・カレーライスなどのファストフードから有名ホテルがプロデュースするレストラン・カフェまで約75店舗が軒を構える。フジビュースタンド2階西側・1階東側およびメモリアルスタンド地下にはフードコートがある。フジビュースタンド5階及び6階の指定席エリアの外には9店舗のレストランがあり、ゆっくりと腰を据えて食事ができる。また、コンビニエンスストアやスポーツ新聞・競馬新聞を販売する売店もある。なお、店舗の中には本場開催時しか営業していない店舗もある(パークウィンズ時はフジビュースタンド5階及び6階の店舗はすべて休業となる)。 1986年から2001年末まで場内サテライトスタジオに「ミニFM放送局」を送信周波数 78.0 MHz(後に 87.0 MHz・ターフサウンドステーション TSS)で開局・放送業務を開始したが、現在は下記の場内実況放送の他、各放送局の音声を再送信している。 東京競馬場では1981年から、同競馬場での年間最終開催日にジャパンカップを開催しているが、2019年のジャパンカップに外国調教馬の出走がなかったという事情、さらに外国馬は輸入後、競馬学校(白井市)か、三木ホースランドパーク(三木市)で原則として1週間程度検疫を受ける必要があったという事情が重なって、外国馬の参戦を増やすことが課題とされてきた。 しかし、世界的な競馬では、検疫を受けつつレース開催競馬場で調教ができることが一般的であるということで、外国調教馬誘致の改善策として国際厩舎を新設する計画が同年12月に明らかとなり、、2021年12月から着工。2022年6月に竣工した。国際厩舎は内馬場に最大6棟・12頭が入厩できるようになっている。運用としては同年10月1日付で農林水産省より輸出入検査場所としての指定を受け、正式に検疫厩舎となった。国際厩舎のクラブハウスには24時間馬房を画面で確認できる警備室や打ち合わせのための食堂などを設置。防疫のため、基本的に国際厩舎とクラブハウス間を行き来する際にはシャワールームを通過する構造になっている。さらに施設の周りには一周292mの楕円形追い馬場ダートコースが設置されている。 最寄駅は京王電鉄の競馬場線・府中競馬正門前駅で、専用歩道が用意されている。東京競馬開催時は競馬場線の増発と京王線と接続する東府中駅に特急が臨時停車するほか、府中競馬正門前駅から新線新宿駅行臨時急行と京王線新宿駅行臨時特急が運行される。京王線では府中駅や東府中駅よりアクセスする人も多い。また、少し離れた東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線・武蔵野線の府中本町駅からも専用歩道(フジビューウォーク)が用意されている。東京競馬開催時は南武線の川崎方面行、武蔵野線の東所沢・南越谷行の電車が増発される。かなり離れているものの西武多摩川線の是政駅からもアクセス可能ではあるが、至近となる南門は閉鎖されたため、是政駅および南多摩駅からは大回りの上で東門または西門からのアクセスとなる。京王線東府中駅から徒歩で向う場合、南口改札を出て南の方角へ歩いて行くと東門へアクセス可能である。 1973年4月1日までは、競馬場西側に中央本線の支線、通称「下河原線」の東京競馬場前駅があった。かつてはこの駅が国鉄で最も長い駅名であった。 中央高速バス(事前予約が望ましい)中央道府中バス停からもアクセスが可能。主に山梨県郡内・上野原方面の利用客が多い。高速バス停からは南門が至近で、中央自動車道北側沿いに八王子方面へ歩いて1kmほどで南門に着く。 障害GI2競走を含めた全26のGI級競走中、この東京競馬場で開催される平地のGI競走は3分の1に当たる8競走に及ぶ。2007年まではジャパンカップダートも当競馬場で開催されていた(2002年は中山、2008年から2013年まで阪神、2014年よりチャンピオンズカップに名称変更し中京に移設)。 2019年までジャパンカップの開催日は、混雑緩和および日没の関係上1日に施行する競走を11に制限していたが、2020年からは通常と同じく全12競走の施行となる。2005年までは日本ダービーの開催日も同じく11競走(2001年までは10)だったが、2006年からは、ダービーデイを盛り上げるということで、ダービー開催日に最終競走として目黒記念を施行している(但し2011年は東日本大震災の影響で通常の競走数で行われたが目黒記念は前日に実施)。目黒記念については薄暮競走相当の時間帯(17時発走)で施行するため、競走数は通常同様12となる。このほか、2005年の秋の天皇賞では「エンペラーズカップ100年記念」として戦後初の天覧競馬が行われたことから、この日についても全11競走に制限して開催された(2004年の中央競馬50周年記念のときにも天覧競馬が企画され同様の処置がとられる予定だったが、直前に起こった新潟県中越地震の被災者に配慮して中止となったため通常と同じ12競走で開催された)。 毎年5月5日には競馬場に近接する大國魂神社で祭事の「くらやみ祭り」が行われるが、2006年までは、5月5日が競馬開催の土・日曜日と重複した場合、その前後に競馬開催日を振り替えていた(これは電話投票が全国で本格的にシステム統合されて以後、関東で第3場開催および関西で開催が行われる場合も同様に振り替えていた)。2002年のNHKマイルカップは土曜日である5月4日に施行されたが、平地のGI級競走が土曜日に施行されるのは非常に稀なケースである。 2006年の春季からは、NHKマイルカップからヴィクトリアマイル、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)そして安田記念まで5週連続でGI級競走が開催される。これに伴い独自の試みとして、「GIレースクイーン」と題し、各GI競走ごとに1名ずつ担当のグラビアアイドルを起用するようになった。 通常期は2006年以後(2011年を除く)のダービーデー当日以外、原則として薄暮開催を行わないが、2010年と2012年に安田記念当日は、最終競走の「ユニコーンステークス」を16:35発走に設定した。2013年はユニコーンステークスが別日開催となったため一旦消滅するも、2014年から夏季競馬振興の一環として、6月14日以後の第3回東京競馬後半6日間(6月29日=宝塚記念開催日除く)については最終競走を16:30に設定する。 なお、2004年以後、平年の第5回中山競馬開催相当分が代替されない限り、ジャパンカップが東京競馬場の年内最終競走(上述)となっている。 出典:JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 東京競馬場 「騸」は騸馬 (去勢された牡馬) 第3コーナーに関しては、寺山修司の著書などで「魔のコーナー」とされている。この場所に生育している木を俗に「大欅」(おおけやき)と呼ばれるが、実際に植えられているのは欅ではなく榎(エノキ)である。 この大欅の下には、この隣接地域の「是政」の由来となった井田摂津守是政の墓所があり、過去に行政代執行の対象となった際に井田氏の子孫が日本刀をふるって抗議したため、観戦の妨げとなるにもかかわらず史跡として保存されている。特に芝コースがCコースおよびDコース使用の場合、テレビ中継では必ず大欅が残り 800 m (4ハロン)地点のハロン棒を隠すように映り込むため、「日本一テレビ放映される墓所」と言われている。またこの木の一本を切った人夫が墓のたたりによって急死したと恐れられ、残った1本を切ることを引き受ける人がいなくなったという噂話もある。 一般にここは最後の直線へ向けて速度を上げる場所であると同時に、カーブを曲がるために一方の側に負担が大きくなる場所であり、第118回天皇賞においてサイレンススズカが予後不良に至った例もあった。 「府中の千八、展開要らず」との格言は競馬評論家としても活動していた大橋巨泉が作った。この格言は、東京競馬場の1800mコースの競走は、コース設計上、どの馬も不利を受けることが少ないうえ、ほとんどの距離適性をもつ馬が走れる距離でもあるため、実力どおりに収まりやすい(いわゆるフロックが少ない)ということ。特に毎日王冠は数多くの実力馬が勝ってきていることでも知られている。逆に、2000mコースで施行される天皇賞(秋)は、コース設計上、どうしても内枠の馬が有利だといわれている。 エプソム競馬場・盛岡競馬場と姉妹提携を結んでおり、東京競馬場では交換競走としてエプソムカップ(GIII)、オーロカップが施行される。 盛岡競馬場との姉妹提携に関連して、2003年10月より 場内に岩手県競馬(盛岡競馬・水沢競馬)専用場外発売所が開設されており、東京競馬開催日および場外発売日には当日の岩手県競馬の全競走および翌日(月曜を含む)のメイン競走の勝馬投票券を購入することができる。2005年度岩手競馬全日程終了までは馬場内B投票所に開設されていたが、2006年4月8日(2006年度岩手県競馬開催初日)からメインスタンド1階・101投票所に移転した。 毎年4月から6月(平年度の第2・3回開催)は、日清製粉グループが特別協賛し、ファミリー層に向けたステージイベントや、スペインの洋菓子「チュロス」を販売する特設ブースを設置している(重賞競走のテレビ放送用のインタビューが行われる検量室のインタビューパネルにも日清製粉のロゴマークが貼り付けられている)。 2005年10月22日、同競馬場の第12競走(最終競走)において、当時の日本の公営競技の投票券史上最高配当記録となった1846万9120円(三連勝単式)が飛び出した。これは2008年6月5日に競輪で7969万8600円の配当が飛び出す(平塚競輪場のチャリロト)まで日本の公営競技史上最高配当記録であった。その後も、日本の競馬および単一の競走を対象とした配当としては最高配当記録であったが、2009年2月4日に船橋競馬場で三連単の配当金1911万円が記録され、そちらに譲る形になった。 東京競馬場でのGI級競走(ジャパンカップ・安田記念など外国馬が出走する場合を除く)では、出走馬のゼッケンの片方に馬名が、もう一方に当該競走名と回次(例:第1回ヴィクトリアマイル)が記載されている(地方競馬の重賞競走においても同様の形式がとられている場合がある)。なお、他の競馬場(中山・中京・京都・阪神)で行われるGI級競走では、GII級以下の競走同様、両サイドに馬名が記載されている(外国馬が出走する場合は、このうち片方が英文馬名となる。このゼッケンは1983年からジャパンカップに限り採用し、1987年秋以降、他の競走にも順次拡大した)。 2022年7月6日には、東京SUGOI花火と称してザ・ローリング・ストーンズの結成60周年を記念して、同所を会場とした「THE ROLLING STONES 60th ANNIVERSARY THE GREATEST FIREWORKS~感激!偉大なる花火~」が執り行われた。翌23年も松任谷由実50周年の花火ショーが実施され、いずれも当日は京王競馬場線で編成両数の増強を実施した他、西門のJR線臨時改札口も花火の実施時間帯に合わせて開放された。 1978年に美浦トレーニングセンターが開設されるまでは競馬場で調教が行われていた。
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菊花賞
菊花賞 (きくかしょう、きっかしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が京都競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「菊花」は菊の花の意味。正賞は内閣総理大臣賞、朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞。 イギリスの「セントレジャー」を範にとり、1938年に「京都農林省賞典四歳呼馬」の名称で創設された4歳 (現3歳)馬による重賞競走で、1948年より現名称となった。前後して創設された横濱農林省賞典四歳呼馬 (現:皐月賞)や東京優駿 (日本ダービー)とともに、日本のクラシック三冠競走を確立した。旧八大競走にも含まれている。 クラシック三冠競走の最終戦として行われ、皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、東京優駿 (日本ダービー)は「最も運のある馬が勝つ」と呼ばれるのに対し、本競走はスピードとスタミナを兼ね備え、2度の坂越えと3000mの長丁場を克服することが求められることから「最も強い馬が勝つ」と称されている。最もスタミナのある優秀な繁殖馬を選定する観点から出走資格は「3歳牡馬・牝馬」とされ、せん馬 (去勢馬)は出走できない。 施行場は阪神競馬場で行われた1979年・2021 - 2022年を除き、すべて京都競馬場で行われている。距離の3000mも第1回から変更されていない。 地方競馬所属馬は1995年より、外国産馬は2001年よりそれぞれ出走可能になったほか、2010年からは外国馬も出走可能な国際競走となった。 以下の内容は、2021年現在のもの。 出走資格:サラ系3歳牡馬・牝馬 (出走可能頭数:最大18頭) 負担重量:馬齢 (牡57kg、牝55kg) 出馬投票を行った馬のうち優先出走権 (後述)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の総計が多い順に出走できる (残る1枠が複数の同収得金額馬だった場合は抽選で出走馬が決まる)。 出馬投票を行った外国調教馬は、優先出走できる。 JRA所属馬は、下表のトライアル競走で3着以内に入った馬に優先出走権が与えられる。 地方競馬所属馬は上記のトライアル競走で3着以内に入った馬のほか、桜花賞・皐月賞・優駿牝馬 (オークス)・東京優駿 (日本ダービー)で1着となった馬に優先出走が認められている。また、桜花賞・皐月賞・優駿牝馬 (オークス)・東京優駿 (日本ダービー)で2着となった地方競馬所属馬、およびNHKマイルカップで2着以内に入着した地方競馬所属馬にも出走資格が与えられる。 2020年の1着賞金は1億2000万円で、以下2着4800万円、3着3000万円、4着1800万円、5着1200万円。 コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記にそろえている。 競走名は第5回まで「京都農林省賞典四歳呼馬」、第6回は「京都農商省賞典四歳呼馬」、第7回・第8回は「農林省賞典四歳馬」、第9回以降は「菊花賞」。
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朝日杯フューチュリティステークス
朝日杯フューチュリティステークス(あさひはいフューチュリティステークス)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「フューチュリティ(Futurity)」は、英語で「未来」「将来」を意味する。 正賞は朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞。 欧米では1786年のニューマーケット競馬場(イギリス)を皮切りに2歳馬の競走が行われていた が、日本では1946年秋の東京競馬場で初めて3歳(現2歳)馬による競走が行われた。その後も各地の競馬場で3歳(現2歳)馬の競走が行われるようになり、1949年には関東地区の3歳(現2歳)馬チャンピオン決定戦として「朝日杯3歳ステークス(あさひはいさんさいステークス)」が中山競馬場で創設された。以来、2013年まで長らく中山競馬場で行われてきたが、2014年より施行場を阪神競馬場に変更した。競走名は2001年より馬齢表記を国際基準へ改めたことに伴い、現名称に変更された。 創設当初の施行距離は芝1100mで、1959年より芝1200mへの変更を経て、1962年以降は芝1600mで定着している。 競走条件は1991年に牡馬・牝馬のチャンピオン決定戦を明確にすることを目的として「牡馬・セン馬限定」となったが、2004年より「牡馬・牝馬限定」に変更され、以降はセン馬(去勢した牡馬)が出走できなくなった。外国産馬は1971年から、地方競馬所属馬は1995年から出走可能になったほか、2010年からは国際競走となって外国馬も出走可能になった。 翌年の3歳クラシックレースにも直結する重要なレースとして位置づけられているほか、過去の優勝馬からは古馬になっても大レースを優勝する馬が出るなど、さまざまなカテゴリーで活躍馬を送り出している。 以下の内容は、2021年現在 のもの。 出走資格:サラ系2歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭) 負担重量:馬齢(牡馬55kg、牝馬54kg) 出馬投票を行った馬のうち、優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に割り当てる。 地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで2着以内に入着すると、本競走の優先出走権が与えられる。 上記のほか、中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬も出走申込ができ、この場合は他の中央競馬の登録馬と同じ方法で選出される。 2022年からは中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬は優先出走権が得られる。 2021年の1着賞金は7000万円で、以下2着2800万円、3着1800万円、4着1100万円、5着700万円。 本競走創設の発起人となったのは、馬主会の重鎮であった2代目中村勝五郎の息子・中村正行(3代目中村勝五郎)である。中村は当時騒擾事件が頻発していた競馬のイメージ改善を図るため、競馬ファンであった朝日新聞編集局長の信夫韓一郎に社賞の提供を持ちかけた。当初は最高格競走である東京優駿(日本ダービー)への提供を企図していたが、当時の国営競馬(農林省競馬部)が一社のみに許可を出すことを良しとしなかったため、代わりに3歳馬のチャンピオン決定戦という性格を持つ特別競走を新設することになった。朝日新聞記者で当時父親が同社企画部長を務めていた遠山彰によれば、当時は社内でも競馬を社会悪と見なす意見が多く、この件が諮られた部長会では激論が交わされたといい、遠山は「父は当然賛成に回ったが、反対派を説き伏せ、決断を下したのは、役員でもあった信夫だったろう」と推測している。「新聞社の名がつく競走ならば競馬の社会的信用も高められる」との考えから、競走名は「朝日盃三歳ステークス」とされた。 戦前から競馬を敵視しつづけた朝日新聞社が競馬を大衆娯楽・スポーツと認めたことは他の大手マスメディアを刺激し、1955年までに読売カップ(読売新聞社)、毎日王冠(毎日新聞社)、東京新聞杯(東京新聞社)、NHK杯(日本放送協会)、日本経済賞(日本経済新聞社)、産経賞オールカマー(産経新聞社)といった競走が次々と新設された。 なお、第二次世界大戦終結より間もない物資不足の時代であったことから優勝カップは中村が戦前に獲得していた「アラブ大ハンデ」の優勝カップを彫金師の信田洋が仕立て直す形で製作された。このカップは各年度優勝馬主の持ち回りという形で提供されている。また、副賞には中村家の食客であった東山魁夷の12号大の絵がたびたび提供された。 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第1回から第52回が「朝日杯3歳ステークス」、第53回以降は「朝日杯フューチュリティステークス」。
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徳永有美
徳永 有美(とくなが ゆみ、1975年8月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元テレビ朝日アナウンサー。 石川県金沢市出身。 神奈川県立荏田高等学校入学後、高校2年生時に石川県立金沢女子高等学校へ転校。大妻女子大学社会情報学部卒業。 1998年4月テレビ朝日入社。 学生時代に陸上部に所属していたので、スポーツの関連番組及びコーナーなどを担当。『早起き!チェック』『やじうまワイド』『内村プロデュース』などを担当。 2001年中頃から翌年にかけて番組の企画を兼ねて2002年ソルトレークシティオリンピックのスケルトン日本代表を目指して練習し、ほかに番組の企画で津軽海峡横断遠泳リレーや、アーティスティックスイミングなど、スポーツ体験ロケを数々こなす。 2005年4月8日付けで内村光良との不倫騒動でテレビ朝日を退職。 退職後は主婦業に専念していたが、2007年4月から、毎週火曜日に朝日新聞夕刊のスポーツ選手を題材にしたコラム記事『戦士のほっとタイム』にて、本名の「内村有美」名義でインタビュアーを務める。2009年3月、第一子を授かったことを機に武内絵美へバトンタッチした。 2017年1月、協業社であるAbemaTV内のニュース専門チャンネルAbemaNewsにて、フリーアナウンサーとして11年振りに『けやきヒル's NEWS』のニュースキャスターでレギュラー出演。 2018年10月1日に、テレ朝会長の早河洋の鶴の一声で13年振りに『報道ステーション』にメインキャスターとして復帰。 2020年4月12日、『報道ステーション』で共演する富川悠太が新型コロナウイルスに感染したことが確認されたため自宅待機となり、13日から出演を見合わせ、27日にリモート出演で復帰。 関根勤の笑い顔の真似が得意である。 テレビ朝日の同期のアナウンサーは小松靖、上山千穂、小木逸平、野村真季。 2001年7月に同じテレビ朝日の当時ディレクターであった同期社員と結婚。 2003年9月に最初の夫と離婚。 2005年4月23日に内村光良と再婚。 現在は子供が二人(女子1人、男子1人)。 報道・情報ワイドショー番組(フリー転身後も含めて) その他
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原子番号
原子番号(げんしばんごう、英語: atomic number)とは、核種を区別する量の一つで、原子核の中にある陽子の個数である。電荷を帯びていない中性原子においては、原子中の電子の数に等しい。通常は記号 Z で表されるが、これは「数」や「番号」を表すドイツ語: Zahl の頭文字から来ている。現在、元素の正式名称が決定している最大の原子番号はオガネソンの118である。 原子番号は元素の種類と対応しており、元素記号から原子番号が一意に決まるため、通常書くことはないが、明示する場合は元素記号の左に下付き添え字で書く。例えば、炭素の場合は で表す。 元来、原子番号は周期表においてある元素の位置を示す番号のことであった。メンデレーエフによって元素がグループ化されたとき、元素を厳密に原子量の順で並べると、一部に元素の性質とのミスマッチが生じた。ヨウ素(原子番号53、原子量126.9)とテルル(原子番号52、原子量127.6)は順番を入れ替えることによって、周期表上の位置が示唆する化学的性質とより一層適合していた。 この不規則性は1913年にモーズリーによって説明された。彼は元素のX線回折スペクトルとその元素の周期表上の正しい位置との厳密な関係を発見した。のちに、原子番号が原子核の電荷と対応していることが分かった。 原子番号は原子中の陽子と中性子の数の合計である質量数と密接に関連している。 負の数の原子番号もある(H:反水素は-1、He:反ヘリウムは-2)。また、電子や中性子の原子番号はゼロである。
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元素
元素(げんそ、羅: elementum、英: element)は、古代から中世においては、万物(物質)の根源をなす不可欠な究極的要素を指しており、現代では、「原子」が《物質を構成する具体的要素》を指すのに対し「元素」は《性質を包括する抽象的概念》を示す用語となった。化学の分野では、化学物質を構成する基礎的な成分(要素)を指す概念を指し、これは特に「化学元素」と呼ばれる。 化学物質を構成する基礎的な要素と「万物の根源をなす究極的要素」としての元素とは異なるが、自然科学における元素に言及している文献では、混同や説明不足も見られる。 古代から中世において、万物の根源は仮説を積み上げる手段で考えられ、その源にある不可分なものを「元素」と捉えていた。ヨーロッパで成立した近代科学の成立以降、物質の基礎単位は原子、とする理論が構築されてからは、原子は「物質を構成する具体的要素」、元素は「性質を包括する抽象的概念」というように変わった。 《原子》は構造的な概念であるのに対して、《元素》は特性の違いを示す概念である。具体的には、各元素の差異は原子番号すなわち原子核に存在する陽子の数(核種)で区分される。したがって中性子の総数により質量数が異なる同位体も同じ元素として扱われる。これに対し原子は中性子の個数を厳密に捉える。したがって、元素とは原子の集合名詞ということもできる。電子の増減によって生じる状態であるイオンは、原子が電荷を帯びた状態として考えられる。英語 "element" は「根本にあるもの」を意味する。他の用例では電気回路の「素子」も同じ単語が用いられる。 いろいろなモノが一体何からできているのかという疑問と考察は洋の東西を問わず古代からあり、物質観・自然観・世界観と関連づけながらそれぞれの文明圏で体系がなされた。それらが「火」「水」「土」など自然現象から抽出された少数の「元素」であり、宗教と関連づけられることもあった。物質の根源が(現在に似た方向で)体系づけられたことはアイルランドの自然哲学者ロバート・ボイル(1627年–1691年)に始まるといわれる(彼の考え方が後の科学者に共通認識として広がることになった)。彼は実験・測定・分析を重視し、それらの結果から「これ以上細かく分けられない物質」を元素と定義した。以後、様々な考察とそれを裏付ける実験が行われ、元素を「粒子」として捉える今日の元素観および原子論が確立された。 元素の性質は最外殻電子(価電子)に大きく影響されるため、同様な性質を持つ元素は元素の族(元素群)として、周期表においても族(周期表の列)や系列として纏められている。現在、元素は118種類の存在が確認され、いずれも国際純正・応用化学連合(IUPAC)により正式名称が与えられている。なお、元素は173番目まで存在可能との説も唱えられている。 古代中国における物質の根源に関わる思想は、周代の紀元前11 - 4世紀頃には体系づけられた。『周易』は、自然現象は「天・流水・火・雷・風・水・山・地」の8つの基本に帰し、これと陰陽思想の根源である対位思想「陰」と「陽」が組み合わさったものと見なした。物質の根源要素には「木」・「火」・「土」・「金」・「水」の5つを基本物質である「元素」と考える五行思想を置き、これに陰陽が関わり宇宙のすべてが成り立つと考える陰陽五行思想を構築した。 この思想を基礎に、未来を予想する方法が発達し易法となった。また道教にも取り入れられ、成立した陰陽道は日本にも伝わった。 古代インドにおける根源論には、古ウパニシャッドに登場するウッダーラカ・アールニの思想「有(う、sat)の哲学」に汲み取れる。彼の思想には、すべてのものは微小なアートマン(我)だと言及する部分がある。 具体的な根源物質観は、『パーリ語経典』経蔵・長部の『沙門果経』に見ることができる。ここで述べられている考えは、紀元前5世紀前後の釈迦と同時代人と伝わる思想家集団である「六師外道」たちによって形成された古代インド原子論である。アジタ・ケーサカンバリンは「存在を構成する物質元素は、地・水・火・風の四大である」という論を主張した。また、パクダ・カッチャーヤナは「生命は絶対的な地・水・火・風・楽・苦・命の7つの要素から構成されている」と説いた。彼らの思想は、カッチャーヤナの「ものを切る剣は、この要素の隙間を通る」という言葉に表される通り、元素をanu(微小なもの)、paramanu(極限まで微小なもの)と説明しており、これらが漢語において「極微」と訳される事から「極微論」と言うことができる。 インドの極微論は六派哲学や宗教に引き継がれていった。ニヤーヤ学派・ヴァイシェーシカ学派が4つの元素に対応する4つの極微(原子)を想定したのに対し、六師外道の一人マハーヴィーラが創始したジャイナ教では初期の頃、極微に種類を設けなかったと考えられる。しかしジャイナ教もやがて「蝕・味・香・色」という性質と、「冷湿・冷乾・熱湿・熱乾」という現れ方があると考えるようになり、複数の極微を想定するようになった。 仏教においても万物の構成要素として「地・水・火・風」を「四大」または「四大種」という考え方がある。ただしこれらにはそれぞれに「形・象徴・色・機能」といった付帯的な特徴を持ち、様々な現象(rupa、「色」)の根本という抽象的解釈で語られる。この概念は拡大して「空(くう)」を加えた五大(マウアラカキヤ)、さらに「識」を加えた六大へと発展し、観念的・哲学的な思想へと意義を変化させた。これらは中国の五行思想ともども近代的な物質要素の科学には繋がらなかった。 西アジアやヨーロッパでも古代エジプトやメソポタミアなど高度な古代文明が発達したが、これらからは物質の根源に関わる記録が発見されておらず、唯一古代ギリシアにおける思想が伝わっており、この考え方は長くヨーロッパで受け入れられた。紀元前6~4世紀の哲学者たちは、万物のあらゆる生成と変化の根源にある原理を「アルケー」などと呼び、これらが一体何なのかを論じた。 タレスは、氷や水蒸気などの相を持ち、硬い岩も風化させる「水」がアルケーだと論じた。これは正しくは、水のような流体性を持つものが根本物質であるという事を指している。タレスの孫弟子に当るアナクシメネスはこの考えをさらに深め、アルケーは「空気」だと説き、これが濃くなれば風や雲、やがて水や岩などに変化すると述べた。ただしアナクシメネスの主張は、タレスと同じく流体性が根本にあると見なし、生物の呼吸などを含めアルケーを的確に表すものとして空気を示している。同時代には、根源を火として「万物は流転する」と述べ、火が変化して空気や水または土などを生成すると述べるヘラクレイトスも現れた。ただし彼が言う火も基本物質ではなく闘争原理を指す。これらは、一つの原理で自然界の多様性を説明する方法論であった。 これに対し、パルメニデスやゼノンらエレア派は「ある」ものの不変・不動性を説く立場から、単一の原理とその変化で多様な世界を説明することは誤りという主張を行った。このエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明した哲学者がエンペドクレスであった。彼は、アルケーがひとつではなく4つのリゾーマタから成立すると述べ、その四大元素に「火、空気、水、土」を置き、新生も消滅もしないこれらが離散・集合して多数の元素や自然界のできごとが成立していると提唱した。 ピタゴラス学派は「万物は数である」と述べ、四大元素論と当時発見されていた正多面体を対応させ、「火・土・水・空気」に「正4・6・8・20面体」を置き、後に見つかった正12面体は宇宙を現すと主張した。 プラトンは四大元素論に階層的な概念を導入し、土が正六面体でもっとも重く、他のリゾーマタは三角形からなる正多面体で、火が最も軽いリゾーマタであり、これらはそれぞれの重さに応じて運動し互いに入り混じると考えた。これは、物体は物体でしかないという彼の主張から導き出された。プラトンの作かどうか疑問視されている著書では、4つのリゾーマタに加え、天の上層を構成するとして「アイテール」が導入されている。彼に続く一派は、物質の多様性を説明するためにイデア論を機軸に置き、三角形がイデアを示すかたちであり、これは分割ができないものという「極微論」に似た主張を行った。 紀元前350年ごろ、アリストテレスは無限を考察する際に、これを否定する論述のひとつにおいて有限個数の四大元素論を用い、4つのリゾーマタは相互に反対の性質を持ち、もし無限が存在するならば世界はどれか一つの性質で満たされてしまうと述べた。また、『天体論』において天上にのみ存在し円運動をするアイテールを、直線的に動く4つのリゾーマタの上位として立てた。アイテルを語源とするアイテールは、のちの自然学における第五元素とされ、宇宙を満たす媒質エーテルの構想へとつながっていく。 プラトンやアリストテレスよりもやや時代的に先行するレウキッポスとデモクリトスは、エンペドクレスと同様、パルメニデスらエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明しようとした。彼らは、自然を構成するそれ以上分割できない最小単位として「原子(アトム)」が存在すると考え、生成消滅しない無数の原子の結合分離の仕方(原子のさまざまな形状・並び方・向き)により多様な事物やその生成変化が生じるなどと論じた。だが、彼らの「原子論」は当時あまり評価されることは無く、ヨーロッパにおいては主に四元素説が中世のスコラ哲学へ継承されてゆくことになる。 古代ギリシア哲学の元素論は中世ヨーロッパに直接伝わらず、エジプトやアラブ世界を経由して錬金術に組み込まれた。ここでは経験的技術の蓄積や実験手段の洗練化が行われたが、卑金属から貴金属をつくるという目的と、成果が秘匿されたために情報が孤立する傾向にあり、元素の探求にはあまり寄与しなかった。その中で、ジャービル・イブン=ハイヤーン(721年? - 815年?)やパラケルスス(1493年? - 1541年)が唱えた根源物質としての三元素が伝わっているが、これは硫黄・水銀・塩を指した。この三元素のうち硫黄と水銀は単体だが、塩は化合物の塩化ナトリウムであり、今日的な元素概念からすれば意味は無い。ただし、この三物質はそれぞれ共有結合・金属結合・イオン結合という化学結合の主な3種類に対応している。しかし、ジャービルがこれを意識していたかどうかはわからない。 物質の根源は何かという問いを改めて提議した人物がアイルランド生まれのロバート・ボイル(1627年 - 1691年)である。彼は著作『懐疑的化学者』にて思索だけに頼った古代ギリシア哲学の元素論を批判し、実験を重視して元素を探求すべきという主張を行った。また彼は、元素に「これ以上単純な物質に分けられないもの」という粒子説の定義を与え、さらに元素は古代的考えの4-5個では収まらないという先見的な予測を示した。 ボイルの主張後、実験によって様々な「不可分なもの」の探求が行われた。アントワーヌ・ラヴォアジエは1789年の著作『化学原論』にて、当時見つかっていた33種類の元素を纏めた表を採録した。ただしその中には熱素や光があった。また化合物であるマグネシアやアルミナなども含まれていたが、これは当時の実験技術の限界によるもので、ボイル以来の考え方そのものは正しかった、と斎藤は解説した。 ラヴォアジエの「質量保存の法則」やジョゼフ・プルーストが1799年に発表した「定比例の法則」を元に、ジョン・ドルトンは1801-1808年に執筆した一連の論文で「原子説」を唱えた。これは、物質の根元は原子(atom)であり、これは元素の種類に対応するだけの数がある、同じ原子は質量や大きさが同一で異なる原子はそれらが一致しないと述べ、原子量の概念を提示した。さらに物質は同じ原子の集まりである単体と異なる原子の集まりである化合物があるとし、窒素と酸素からなる5つの化合物を示してこれを証明した。この理論は、内包した矛盾点をジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックの「気体反応の法則」やアメデオ・アヴォガドロの「アボガドロの法則」などが修正し、広く受け入れられるようになった。 古代から知られていた単体の種類は貴金属や炭素など11に過ぎなかったが、17世紀以降には実験を通じて様々な単体が得られ、その数に応じて発見された元素の個数は増えた。17世紀にはリンなど3種、18世紀には水素や酸素からウランを含む13種、19世紀には56種の元素が見つかった。20世紀には自然界に存在する元素の残り5種類に加え、人工放射性元素が15種類合成された。 このような元素の増加に伴い、特性に応じた分類や系統立てが行われた。ラヴォアジエは化合物の性質から金属元素・土類元素・非金属元素の3種類の区分を提案した。さらに測定精度が高まった原子量を重視した並びから規則性(周期律)を見出そうとする試みも提案された。そして、1869年にドミトリ・メンデレーエフが提案した周期表は改良を重ねて原子価を重視した特長で並べられ、当時未発見の元素を予言するなど洗練された系統表として広く認められるようになった。 19世紀には各元素の発見が相次ぎ、それぞれの特徴が把握され蓄積されたが、このような性質がどのような原理で生じるかは分かっていなかった。そして、各元素は不変だと考えられていた。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけ、放射性元素と放射能が発見され、アルファ崩壊が確認された。これによって、一部の元素は原子量を低くする方向へ分裂する事が判明した。 アルファ崩壊発見などで業績を残したアーネスト・ラザフォードは原子核を発見し、1911年にラザフォードの原子模型を提唱した。これにニールス・ボーアは量子仮説を加えてボーアの原子模型を発表した。これによって基本的な原子の構造や周期律が生じる理由などが説明され、元素は原子という構造を持つ物質として知られるようになり、その研究は化学から物理学の素粒子物理学分野へと発展していった。 1911年、ラザフォードは窒素にアルファ線を放射して水素イオンとその時は検出されなかったが酸素を作り出し、低原子量の元素を転換させることに成功した。1920年代からは様々な元素を人工的に変える実験が行われ、粒子加速器も発明された。これらから、低原子量の元素変換には高いエネルギーが必要になることが判明してきた。1932年には以前から存在が予測されていた中性子が発見され、これを用いた実験を通じて半減期が短く基本的に地球上には存在しない人工放射性元素や超ウラン元素が作られるようになった。さらにこの実験を通じて1938年には核分裂が発見され、人類は原子力エネルギーを手にすることになった。 元素を表すには元素記号が使われ、これは原子や分子を表すためにも用いられる。例えば、水は元素は酸素Oと水素Hから作られH2Oと表記される。これら元素の表示方法はラヴォアジエが命名法を提議した。元素記号はドルトンから始まり、多くの原子量決定にも貢献したイェンス・ベルセリウス(1779年 - 1844年)によって当時のラテン語名の頭文字から大文字を取り随時2文字以降から小文字を取って組み合わせる現行の記法が提案された。現在はIUPACによってIUPAC名(英名)と元素記号が管理されている。 新元素の名称及び元素記号に対しては2002年にIUPACからの勧告で、発見者が名前を提案する権利を持ち、伝統を守るべく神話(天体)や、鉱物など、地理的な場所、元素の性質、科学者への献名の何れかによって命名され、過去に別の元素に対して用いられた名称(廃棄名)・元素記号は再利用すべきでないとされる。金属元素は-iumで終了すべきであるが、17周期の元素は-ineで18周期の元素は-onでそれぞれ終了すべきである。一方、正式名が未定な新元素に対しては暫定名と暫定記号の命名規則がIUPACによって1978年より定められている(元素の系統名を参照)。エキゾチック原子に対する系統的な命名法は存在しないが、ミューオニウム (muonium、元素記号Mu)はIUPACで命名されており、化合物も合成され命名されている。他に元素記号を有するエキゾチック原子にはポジトロニウム (positronium、元素記号Ps)がある。 元素名の日本語表記については『学術用語集 化学編』に定められている。原則としてIUPAC名を「化合物名日本語表記の原則」の「化合物名の字訳標準表」の規則に従いアルファベットの綴り字を機械的にカタカナと置き換えて日本語化する(訳字)。それ故、必ずしも発音に忠実なカタカナ表記にはならない。また、学術用語集の初版制定時にすでに日本語化しているものと、すでに英語以外の言語を基に訳字された用語はそのまま固定するように定めたので、英語以外の言語を語源とする日本語表記も存在する。次に示す。なお、日本語表記されている元素の中にはフッ素(弗素)などのように漢字表記はあるものの、使用している漢字が当用漢字(現在の常用漢字)に含まれていなかったために学術用語上ではカタカナ表記にしているものもある。 20世紀前半、「宇宙には始まりがなく、宇宙の大きさは無限だ」とほとんどの科学者によって信じられていた時に、ジョルジュ・ルメートルが、「宇宙は原始的原子(primeval atom)の“爆発”で始まった」とするモデルを提唱した。ジョージ・ガモフがその理論を発展させるが(ビッグバン理論)、この理論が提唱された当初、この理論はほとんど誰からも信じられなかった。1950年代でも支持者は少なく、フレッド・ホイルからも激しい反論がされ議論が起きたが、どちらの理論が正しいか判定しようにも、天文観測の世界で最先端施設であり理論を塗り替える役割を果たしていたウィルソン山天文台ですら、判定に必要な観測データは1920〜1930年代に集められた精度の低いものしか持っておらず、本当のところ一体どちらの理論に分があるのか、観測データに基づいて判定できるような状態ではなかった。将来観測を行うことで得られるであろう、より精度の高いデータにこの議論の行方がかかっているような状況だった。 ところで、同理論でジョージ・ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを一種の熱核爆弾の火の玉だと捉え、創造の材料が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した(これらの材料のことをガモフは「アイレム(英語版)」と呼び、それらは陽子、中性子、電子、ガンマ線の高密度ガスなどだ、とした)。従来どおりの定常宇宙論を支持するフレッド・ホイルのほうは、ライバル理論であるビッグバン・モデルと競うためには、自分の理論のほうも炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの元素が存在するに至った起源を説明しなければならない、ということを意識するようになり、ビッグバンが無くても元素が創生されたと説明することができることを示そうと、「星(天体)ではありとあらゆる核種変換が起こっている」とする考え方を提唱した。ホイルはこの考え方を支持する証拠を得るために1953年にカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所(Kellogg Radiation Lab)に赴いて、所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて3個のヘリウム原子核の衝突による実験を成功させたのであった。 だが、1965年に宇宙マイクロ波背景放射が発見され、その解釈や説明のための議論が科学者らの間で進められるようになると、徐々にビッグバン理論のほうを支持する科学者の割合が増えてゆくことになり、定常宇宙論のほうは徐々に支持を失ってゆくことになった(その後も様々な観測データが出されるたびに、ビッグバン理論のほうはますます支持者を増やし、ほとんどの科学者から支持されるようになった)。 (現在、ほとんどの科学者から支持されていると言ってもいい)ビッグバン理論では、宇宙開闢では非常に高いエネルギーの解放が起こり、ビッグバンと呼ばれる大爆発とともに急速な膨張を起こしながら温度を下げ、エネルギーが転移してすべての物質が生まれた、というのである。 近年の物理学者の説明によると、ビッグバン発生直後は高エネルギーのみで宇宙は満たされていたが、1秒経過後には温度が1000億度程度まで下がり、陽子と中性子が生成され、この時点では電子やニュートリノと反応を起こして陽子と中性子は双方向に変化しつつ平衡状態にあったとされる。しかしこの環境下では、陽子と電子が反応するにはエネルギーを要するのに対し、中性子は電子と反電子ニュートリノを放出して容易に陽子へと変化した。そのため、膨張による温度低下とともに相対的に陽子の数が多くなってゆく。 100秒程が経ち温度が100億度前後まで下がると、陽子と中性子が結びつき始め、重水素の原子核が生成され始め、さらに質量数4のヘリウムHeへ原子核反応を起こす。ヘリウム原子核を構成すると中性子は安定し崩壊は起こらなくなる。この合成が進行した頃、陽子と中性子の個数比は7対1であったため陽子が大量に残り、これが水素となった。宇宙がさらに冷えて電子を取り込み元素となった際、この陽子と中性子の差から、水素とヘリウムの個数比はほぼ12対1となった。これらビッグバンにおける元素生成は約10分間で終了したと言われる。 ただし、ビッグバンで生成された元素には、微量のリチウムも存在したと考えられる。高エネルギー下で元素が生成される際、若干ながら三重水素Hやヘリウム3 Heが生じ、これがHeと核融合することがあり、これが質量数7のリチウムの同位体となった可能性が指摘された。宇宙誕生直後に生まれた非常に古い第一世代の星を観測すると、恒星内での核融合や外部からの元素取り込みが無いため重元素はほとんど観測されないが、有意なリチウムの含有が確認された例があり、これはビッグバンで生成された元素だと考えられている。ただし、理論と観測ではその量に差があり、ビッグバン理論には修正が求められる可能性がある。 ほとんどが水素かヘリウムであったビッグバンで生成された元素は、そのままでは宇宙の中に散ってしまっていたが、やがて密度が高い領域で集まり、高温高圧となった部分が第一世代の恒星となり核融合反応が始まった。最初の恒星は、ビッグバンから2億年後に生まれたと考えられている。恒星の中では陽子-陽子連鎖反応によって水素(陽子)がヘリウムへ核融合を起こし、これによって生じるエネルギーで輝く星を主系列星という。なお、恒星内で炭素・窒素・酸素を媒介に陽子がヘリウムへ変化するCNOサイクルもエネルギー発生のメカニズムであるが、この反応では炭素などの元素は基本的に増加しない。 恒星は水素を消費しながらエネルギーを生じるが、それが進むと中心核にはヘリウムが溜まり、水素の核融合反応は核の周辺部で行われるようになる。そしてある程度のヘリウムが蓄積され温度が1億度に達すると中心核でヘリウム3個の核融合であるトリプルアルファ反応が起こり、炭素が生成される(ヘリウム燃焼過程)。比較的軽い星では膨張し赤色巨星となり、やがて星間ガスとして元素を放出しながら白色矮星となる。 質量が太陽の3倍程度までの恒星では、核融合反応で生成される元素は炭素止まりだが、より大きな星では核に溜まった炭素や酸素を使う反応(炭素燃焼過程や酸素燃焼過程)へ進み、ネオンやケイ素等を経て最終的に鉄までが生成される。安定した鉄の原子核は電気反発力が強く核融合を起こさないため、恒星の中心部ではエネルギー発生が止まる。この段階で恒星は鉄を中心に外側に段々と軽い元素が多層を成し、たまねぎのような構造となる。これが超新星爆発を経て放出される。 恒星内の核融合反応では、鉄より重い元素はほとんど生成されず、ごくわずか生じてもすぐに分解してしまう。これらは、原子核が電気反発力を生じない中性子を獲得するという全く別の方法で生じるが、そのような反応が可能となる場所は限られる。ひとつは、既に鉄などの重い元素を含む第二世代の恒星内であり、もうひとつは超新星爆発の瞬間である。 太陽よりやや重い程度の恒星(中質量星)では、中心部の核融合で生成される元素は炭素までに止まる。このような星の晩年には、メカニズムははっきり分かっていないが剥き出しの中性子が生じ、第二世代星が元々含んでいた重元素がこれを捕獲する。すると、同じ陽子の数ながら中性子数が多い同位体となる。これが不安定な同位体となると、中性子がベータ崩壊を起こして陽子に変化し、原子番号がひとつ多い元素へ変化する。この反応が繰り返され、鉄よりも重い元素が生成される。中質量星の内部では比較的中性子の数が少なく、捕獲とベータ崩壊が順次繰り返される。これは「遅い過程・s過程」(s-プロセス、sはslowの略)と呼ばれる。この過程において、中性子捕獲は数万年から数十万年に1個であり、ビスマスまでの重元素を生成すると考えられる。 「遅い過程」に対し、中性子数が多くベータ崩壊の機会を与えない環境が、超新星爆発である。太陽の10倍以上の質量を持つ恒星では、その末期になると中心部に中性子のかたまりが形成され、やがて重力崩壊による大規模な爆発を起こして終焉を迎える。このII型に分類される超新星爆発の際も中性子が発生し、恒星内の元素に中性子捕獲を起こす。しかもこれは数秒間という短い時間に大量の中性子を供給し、不安定な同位体にベータ崩壊を起こす暇を与えず、質量数をどんどん増やす合成を行う。そのため、高質量数となった同位体は宇宙空間へ放出された後に、崩壊すると原子番号が高い元素へ変換される。これは「早い過程・r過程」(r-プロセス、rはrapidの略)と呼ばれる。この過程では、観測からウランより重いカリホルニウムの生成が確認されている。しかしこのメカニズムも不明な点が多い。 過程の詳細は判明していないが、他にも元素合成を起こす宇宙の現象がある。質量が太陽程度の恒星が中性子星と連星になっている場合、その質量が太陽の約1.4倍になるとIa型超新星爆発を起こし、重い元素が生成される可能性が指摘されている。 また、中性子星同士が衝突した際にも元素合成が生じるとの指摘もある。恒星を舞台に元素合成する理論だけでは説明できなかった地球上に存在する金や白金などの量について、イギリスのレスター大学とスイスのバーゼル大学の協同チームはスーパーコンピュータを用いて試算し、中性子星同士が衝突することで生成・放出される説を発表した。 元素の分布には偏りがあり、その存在比は範囲によって大きく異なる。この比率構成は元素構成比と呼ばれる。 宇宙の元素構成比は、宇宙論により推定され、隕石分析や星の光のフラウンホーファー線解析および宇宙線調査など天文学的観測により裏付けられる。ただし宇宙の大きさが確定していない現在では、各元素の絶対量を決定できず、存在比のみが推計されている。これは1956年にスース・ユーリー図表として発表され、1968年にデータの更新を受けている。これによると、ビッグバンで生成された水素に次いでヘリウムの存在比が多く、それに比べてリチウム、ベリリウム、ホウ素の比率は極端に低い。炭素以下はほぼ原子番号の増加とともに比率が下がってゆく傾向を持つが、特徴的な部分は原子番号偶数の元素が隣り合う奇数の元素よりも存在比が多いところにある。 また中性子捕獲による元素合成では、原子核に存在する数によって安定する中性子の魔法数が影響を及ぼす。これは中性子数が50, 82, 126等になると、さらに中性子を捕獲して原子量を高める反応が鈍くなるもので、結果的にこれらの中性子数を持つストロンチウム(陽子:中性子=38:50)、バリウム(56:82)、鉛(82:126)元素が比較的多くなる。 地球全体の元素構成は、コアやマントルを直接調査できないため、隕石(コアとしての隕鉄、マントルとしてのアコンドライト)の分析や地震波から各層の弾性率・密度等の解析を組み合わせて推計される。これによると存在比で酸素が最も多く、宇宙に多い水素やヘリウムの比率は低い。金属類も多く、ケイ素、マグネシウム、鉄などが上位を占める。なお、硫黄は硫化鉄状で広範囲に分散しているため、存在比がはっきり分かっていない。 地殻を構成する主たる元素は、古典的な研究成果として質量比で示されるクラーク数が広く知られている。酸化物として地殻に、水として水圏に、そしてガスとして大気圏に存在する酸素が全球の存在比と同じく最も多い。違いはマグネシウムやニッケルが少なく、水素やナトリウムおよびアルミニウムが多い点がある。 人間の体を構成する元素は、水をつくる水素と酸素が圧倒的に多い。その存在比は海水との相関性が指摘されている。ただし、唯一の例外はリンであり、また人体は微量ながら酵素の活性に必要な微量元素が使われている。 鉱物学において、単一の元素あるいは合金からなる鉱物のことを元素鉱物(げんそこうぶつ、英: native element mineral)という。元素鉱物は金属(銅、白金、鉄、金、銀)、半金属(砒素)、非金属(硫黄、炭素)の3グループに分けられる。単体のものは元素名と区別するため、「自然」(native)を付けて「自然金」(native gold)、「自然蒼鉛」(native bismuth)などと呼ばれる。
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化学反応
化学反応(かがくはんのう、英語: chemical reaction)は、化学変化の事、もしくは化学変化が起こる過程の事をいう。化学変化とは1つ以上の化学物質が別の1つ以上の化学物質へと変化する事で、反応前化学物質を構成する原子同士が結合されたり、逆に結合が切断されたり、あるいは化学物質の分子から電子が放出されたり、逆に電子を取り込んだりする。広義には溶媒が溶質に溶ける変化や原子のある同位体が別の同位体に変わる変化、液体が固体に変わる変化等も化学変化という。 化学変化の前後では、化学物質の分子を構成する原子の結合が変わって別の分子に変化する事はあるが、原子そのものが別の原子番号の原子に変わる事はない(ただし原子間の電子の授受や同位体の変化はある)。この点で原子そのものが別の原子に変化する原子核反応とは大きく異なる。 化学反応では反応前の化学物質を反応物(reactant)、反応後の化学物質を生成物(product)といい、その過程は化学反応式で表記される。例えば反応物である HCl {\displaystyle {\ce {HCl}}} (塩酸)と NaOH {\displaystyle {\ce {NaOH}}} (水酸化ナトリウム)が化学反応して生成物である H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} (水分子)と NaCl {\displaystyle {\ce {NaCl}}} (食塩)ができあがる状況を示した化学反応式は と表記される。 反応物から生成物をつくる化学反応の際には、逆に生成物から反応物をつくる化学反応も同時に起こっている(このような逆向きの化学反応がある事を強調したい場合は、化学反応式の矢印は「 ⟶ {\displaystyle {\ce {->}}} 」ではなく「 ↽ − − ⇀ {\displaystyle {\ce {<=>}}} 」と表記する。)。 したがって反応物から生成物をつくる化学反応の反応速度がその逆向きの化学反応の反応速度の大小により、反応物と生成物の比が増減し、最終的には反応物と生成物が混在した状態で釣り合う事になる。この状態を化学平衡という。(なお、化学反応の結果最終的に生成物が一切無くなってしまう現象は、生成物が0の状態で化学平衡したという事である)。 化学変化している系(反応系)は、一般には外部と相互作用しながら化学変化していく(例えば反応熱を外部に放熱する)。こうした状況下、次の事実が知られている: これは熱力学の第二法則からの当然の帰結である。 さらに、 よって反応系が外部から孤立している場合には、化学変化の平衡定数Kcと現在の時刻における反応指数Qcと比較する事で、反応がどちらの方向に進むかを知ることができる。 反応系の2つの状態A、Bに対し、Aのときの系のエントロピーとBのときの系のエントロピーの差をΔSsysとすると、 また系のエントロピーが時刻変化しない場合は、その系は平衡状態にある。 なお、一般的な傾向として、系の内部エネルギーや系のエンタルピーは減少させるが、常に成り立つわけではない。例えば氷が水に溶解する際には、系は外部から自発的に吸熱するので、系の内部エネルギーやエンタルピーは増大する。 内部エネルギーやエンタルピーに減少傾向があるのは、これらの値がエントロピーと比較的簡単な関係式を満たす事に起因している。詳細は熱力学ポテンシャルの項目を参照されたい。 以上で述べたように系の変化傾向はエントロピーによって記述できるものの、エントロピーは直接測定可能な物理量ではないので、化学ではギブズの自由エネルギーを使って系の変化傾向を記述する事が多いので。本節ではこの記述方法について述べる。なお本節では、ギブズの自由エネルギーやエンタルピーといった熱力学ポテンシャルの基本的知識を仮定する。 まず、反応系に対して以下の2つの仮定を課す: 1つ目の仮定は、化学変化で反応系に発生した熱が系の外部に全て放出できるのであれば満たされる。2つ目の仮定は外部が十分広く、反応系から放出された熱の影響をほとんど受けないのであれば満たされる。以下、反応系の温度=外部の温度をTと書く。 一般に与えられた系のギブズの自由エネルギーGとエンタルピーHはその系のエントロピーS、温度Tにより、 という関係式を満たすので、前述の仮定のもと、 が成立する。 また反応系の外部の合計の内部エネルギーUtotal、圧力Ptotal、体積Vtotalは という関係式を満たすが、エネルギー保存則から第一項は0であり、第二項も全体に対する圧力変化dPtotalは存在しないとみなしてよいから、結局 となる。ここで という仮定を課すと、 が成立するので、 なので、 が成立する。 したがって以上の仮定のもと、全体のエントロピー増大は、反応系のギブズ自由エネルギー減少を招く。よって以下の結論が得られる: また反応系のギブズ自由エネルギーが時刻変化しない場合は、その系は平衡状態にある。 化学反応は電子の移動にともなって結合の切断と生成が行われる。化学結合と電子の移動方法に着目して化学反応を分類すると、イオン反応 (ionic reaction)、ラジカル反応 (free-radical reaction)、ペリ環状反応 (pericyclic reaction) に大別される。ある化学種がもうひとつの化学種と結合をつくる反応について考えると、イオン反応は、一方の化学種から電子対が供与されて新しい結合性軌道が生成する化学反応で、電子求引性や電子供与性など原子間の電荷の偏りにより反応の方向が支配される。ラジカル反応は、双方の化学種から1電子ずつ電子が供与されて新しい結合性軌道が生成する化学反応である。ペリ環状反応は、化学種のπ軌道からσ軌道へ、環状の遷移状態を経て転化することで2ヶ所以上に新たな結合が生成する化学反応である。切断は結合の逆反応にあたる。 反応機構や、反応物と生成物の構成の違いで化学反応を考える場合、置換反応、付加反応、脱離反応、転位反応などに分類される。 加水分解、脱水反応、付加重合、縮合重合(縮重合)、酸化反応、還元反応、中和反応は化学反応の用途を意識した分類で、上記 4 反応機構の一つあるいは複数から構成される。 ほかにも光反応や重合反応など、反応の特性に応じた分類も存在する。 化学反応を説明付ける理論は、化学反応事例が集積から導出される経験則とそれを物理学的に説明づける物理化学理論が構築されることにより進展して行く。それ故、物理学の展開と歩調を合わせて化学反応論も段階を経て発展して行った。 18世紀から19世紀に元素がアントワーヌ・ラヴォアジエやジョン・ドルトンらに発見されるのと同時に、化学反応する反応物と生成物との重量比に関して法則性が見出されている。これら化学反応に関与する成分の量的関係に関する理論は、化学量論として体系付けられている。化学量論は一般には経験則である定比例の法則、倍数比例の法則として知られている。 19世紀後半に定量分析法が確立し20世紀にかけて発展することで化学物質の変化量が測定できるようになると、化学平衡や反応の進行する速度について、反応速度式として定式化され物質量やモル濃度そして温度が化学反応の成分量やその変化量に強く影響を及ぼすことが明らかとなった。熱力学により分子(あるいは)原子に共通な振る舞いが物理学的に説明付けられる様になり、化学平衡や反応速度について物理化学的な理論が確立されるに至った。化学反応における成分量の決定因子とその変化の早さは、化学ポテンシャルで代表される広義の熱力学と反応速度論により体系付けられる。化学ポテンシャルは熱力学第二法則を物理化学的に解釈した指標であり、反応(あるいは平衡)の進行方向を決定付ける。反応速度論により、反応速度が物質量や温度により受ける影響を分子などの微視的な振る舞いとして説明づけられるようになった。 反応速度論、特に遷移状態理論により化学反応を熱力学や統計力学のような集団についての理論ではなく、反応物の分子同士の作用として理論付けることが可能になった。今日では反応の種類ごとに分子構造と化学反応を関連付ける反応機構モデルを構築することで化学反応が研究される。 反応機構モデルを構築する基礎原理として、電子が帰属する価電子または共有結合の移動として化学結合を扱い、半経験的原理として有機電子論が体系付けられた。有機電子論やHSAB則において経験的に仮定された電子対の振る舞いは量子化学の分子軌道法で定式化することが可能である。また、ペリ環状反応等いくつかの立体特異的な反応機構は古典的な電子の振る舞いでは説明づけることはできず、分子軌道の結合規則に関する原理を扱うフロンティア軌道理論により反応機構が説明付けられる。 以上のようにして構築された反応機構は化学反応動力学・分子動力学の手法によりモデルの妥当性や反応の振る舞いについて検証されるが、コンピュータの演算性能の急速な拡大と計算化学的手法の発展により、今日では簡単な系であればコンピュータ・シミュレーションで化学反応を予測することも可能である。 実際に反応を行う、あるいは反応系を開発する場合、その反応を取り巻くさまざまな因子・条件の影響により、速度や成否が左右されることは少なからずある。この節では、化学反応について影響を考慮すべき因子・条件を、定性的、経験的な観点から概説する。反応機構は反応により多様であるため、以下の議論にあてはまらない例ももちろんある。詳細が分かっている反応については、反応速度式なども考慮に入れより定量的な考察を行うべきである。 デジタル大辞泉に拠れば、「複数のものが組み合わされて予想しなかった効果が生じること」を、化学反応に例えることもある。
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CF
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国際化ドメイン名
国際化ドメイン名(こくさいかドメインめい)、IDN (Internationalized Domain Name)、多言語ドメインは、インターネットで使われるドメイン名にアルファベットや数字以外に漢字、アラビア文字、キリル文字、ギリシア文字なども使えるようにする仕組み。日本語であれば日本語ドメイン名とも呼ばれる。 1998年頃から検討がされていたが、2003年になり、関連する全ての規格が標準化されたため、ようやく利用できるようになった。 当初試験運用では変換方法(プロトコル)として RACE が主に用いられていたが、Punycode が標準化され、各種ドメインはPunycodeへの対応に切り替えている。 一部のブラウザでは偽キリル文字などでURLを偽装するフィッシング詐欺対策として、下記のような場合は国際化表記をせず、Punycode(「xn--」で始まる英数字とハイフン)で表記するようになっている。
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サクラ
サクラ(桜、櫻、英:Cherry blossom、Japanese cherry、Sakura)は、バラ科サクラ亜科サクラ属 (スモモ属とすることもある。「野生種の分類」の項を参照)の落葉広葉樹の総称。またはその花である。一般的に春に桜色と表現される白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせる。 サクラはシベリア、日本、中国、米国・カナダ など、主に北半球の温帯に広範囲に自生している。歴史的に日本文化に馴染みの深い植物であり、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきた(#日本における栽培品種と品種改良、#日本人とサクラ)。このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノである。鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いており(日本花の会、キューガーデン、全米桜祭りなど参照)、英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきている。 サクラの果実はサクランボまたはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用とされる。日本では、塩や梅酢に漬けた花も食用とされる。 サクラ全般の花言葉は「精神の美」「優美な女性」、西洋では「優れた教育」も追加される。桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う雅な様を日本人の精神に現した。 国の天然記念物に指定されているサクラは、沖縄県から東北地方まで25都道府県に39件あり、このうち狩宿の下馬ザクラと大島のサクラ株は特別天然記念物に指定されている。 「サクラ」の語源については以下の説がある。 現在の生物学では、独立した種(species)と見なされるためには、その種の中の個体に遺伝的多様性があり、個体が互いに交配して子孫を残すことができている一定規模の集団でなければならない。このため野生で自生している特定の種類のサクラがあったとしても、それが即ち独立した野生種とみなされるわけではない。また種間雑種であったり、種の下位分類の変種(variety)や品種(form)であったり、全く異なる分類体系となる野生種から選抜・開発された栽培品種(cultivar)は、独立した種の数に含めない。 サクラ類をサクラ属(Cerasus、ケラスス)に分類するか、スモモ属(Prunus、プルヌス)に分類するか国や時代で相違があり、現在では両方の分類が使われている。ロシア、中国、1992年以降の日本ではヤマザクラやセイヨウミザクラなどサクラのみ約100種をサクラ属(Cerasus)として分類するのが主流である(狭義のサクラ属)。一方で西欧や北米では各種サクラとスモモ、モモ、ウメ、ウワミズザクラなど約400種を一括してスモモ属(Prunus)として分類するのが主流である(広義のサクラ属)。これは比較的サクラ類の多いロシアや中国ではサクラ類を独立した属として分類していたのに対し、伝統的にサクラ類の少ない西欧と北米ではサクラ類をスモモやモモやウメなどと一括して分類していたためである。日本の科学は西欧や北米の基準に合わせる事が多かったため従来はサクラ類をスモモ属(Prunus)としていたが、1992年の東京大学の大場秀章の論文発表以降は、実態に合ったサクラ属(Cerasus)表記が主流である。 スモモ属(Prunus)は約400の野生の種(species)からなるが、主に果実の特徴から5から7の亜属に分類される。サクラ亜属 subg. Cerasus はその一つである。サクラ亜属は節に分かれ、それらは非公式な8群に分かれる このうちサクラ亜属には100の野生の種(species)がある。 サクラ属であり、やはり名前に「サクラ」と付くイヌザクラ、ウワミズザクラなどはウワミズザクラ亜属 subg. Padus(もしくはウワミズザクラ属 Padus)であり、サクラ亜属ではない。 かつてはニワザクラ、ユスラウメなどを含むユスラウメ節 sect. Microcerasus もサクラ亜属とされたが、Krüssmann (1978) によりニワウメ亜属 subg. Lithocerasus に分離された。分子系統からは、ニワウメ亜属はサクラ亜属とは別系統であり、しかもスモモ亜属/モモ亜属 Prunus/Amygdalus alliance 内に分散した多系統という結果が出ている。ただし、サクラ亜属をサクラ節 sect. Cerasus(通常のサクラ亜属)とニワウメ節 sect. Lithocerasus(ニワウメ亜属とウワミズザクラ亜属?)に分ける資料もある。 日本に自生するサクラのうち、現在の生物学上で独立した野生種(species)と認められるのは次の11種、もしくはカンヒザクラを除いた10種である。このうちクマノザクラは2018年に発見された種で、オオシマザクラ以来約100年ぶりに発見されたサクラの基本野生種である。日本人は歴史的にこれらの野生種とその種間雑種からサトザクラ群に代表される少なくとも200品種以上(分類によっては600品種以上、または800品種)の栽培品種などを生み出して花見に利用してきたのである。Cerasus での学名のほかに Prunus に分類にした場合に Cerasus と別の学名がある場合はその一部の主なものを P. の略表記で記載した。 サクラはそれぞれの野生種の中で交雑を行っているが、種の枠を飛び越えて種間でも交雑することがあり、そこから有用な個体が生まれて栽培品種として見出されて花見に利用されてきた。ここでは日本で見られる代表的な種間雑種の学名と、その種間雑種を日本語で便宜的に一言で表す場合の代表和名を記す。この代表和名はその種間雑種の中で最も認知されているサクラの名前がつけられていることが多い。なお遺伝子研究が未熟であったころからサクラには学名がつけられてきているが、現在の基準からみると、その学名は必ずしも遺伝的に正確であったわけではないため、ひとつの種類のサクラに複数の学名がつけられていることがあり、混同に注意する必要がある。またその存在は確認されているが正式に発表されていない学名と和名も記載する。なお2種間による主な交雑ではなくオオシマザクラを母体として複雑な種間雑種により作出された栽培品種は狭義のサトザクラに分類され、雑種を表す × で表記されず、栽培品種群の Cerasus Sato-zakura Group(Cerasus serrulata、Cerasus lannesiana)で表される。なおここでは Prunus ではなく Cerasus で表記し、さらに略語の C. で表記した。 サクラは突然変異が多い植物であり、樹形、花期、花と花弁の付き方・数・形・大きさ・色、実の増減、耐候性、病害虫への強靭性などで新しい特性が発現しやすい。このため野生のサクラの中から鑑賞や食用に有用な突然変異した個体や種間雑種で望ましい特性を持った個体を選抜して育成し、これを接ぎ木や挿し木で増殖することで様々な栽培品種が広まっていった。日本では主に、花付きが多く、一輪の中の花弁が多く(八重咲き)、花の色も見栄えがするなどの鑑賞目的で品種改良が進んだのに対し、西欧では実をより有用な食品にするため、実を大きく、収穫量が多くなるような品種改良が行われてきた。 日本に自生する野生種のサクラは上記の10種、もしくは11種(species)であり、世界の野生種の全100種(species)から見るとそう多くはない。しかし日本のサクラに関して特筆できるのは、この10もしくは11種の下位分類の変種(variety)以下の分類で約100種の自生種が存在するほか種間雑種も自生し、古来からこれらの野生種から選抜・開発してきた栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上存在し、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われており、世界でも圧倒的に多種多様な栽培品種を選抜・開発してきた事である。 日本人はこれら野生の種が他の種と交雑したりしながら誕生した突然変異個体と優良個体を選抜・育成・接ぎ木などで増殖してそれを繰り返すことで、多種の栽培品種を生み出してきた。エドヒガンやヤマザクラ、オオシマザクラなどは比較的に変性を起こしやすい種であり、特にオオシマザクラは成長が速く、花を大量に付け、大輪で、芳香であり、その特徴を好まれて結果として栽培品種の基盤の親となって多くのサトザクラ群を生み出してきた。2014年に発表された森林総合研究所の215の栽培品種のDNA解析結果により、日本のサクラの栽培品種は、エドヒガンから誕生したシダレザクラのように一つの野生種から誕生した存在は稀で、多くがオオシマザクラに多様な野生種が交雑して誕生した種間雑種であることが判明した。なおソメイヨシノはオオシマザクラを親とするがサトザクラ群には含めない。ここでは栽培品種のごく一部の代表的な品種をあげる。 日本では、ほぼ全土で何らかの種類が生育可能である。様々な自然環境に合わせて多様な種類が生まれており、日本においてもいくつかの固有種が見られる。たとえばソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは伊豆大島など、南部暖帯に自生する固有種とされる。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている。 全てではないが、多くの種に共通して見られる特徴を挙げる。雌雄同株であり、中高木から低木程度の大きさである。若い樹皮は光沢がありカバノキにも似た水平方向の皮目が出来、この部分は細胞に隙間が生じて呼吸孔になっている。古くなると皮目が消えて表面から徐々に細かく風化していく。葉の形は楕円形であり、枝に互生し、葉の縁はギザギザ(鋸歯)になっている。葉に薄い細毛が生えるものも少なくない。葉は秋になると紅葉する。葉の中にクマリンがある。根は浅く水平に広がり、ここから新たな茎(ひこばえ)がしばしば生え、不定根も良く発生する。 サクラは木を傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。昔は剪定した部分の消毒も難しかったため、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺もある。このため、花見の宴会でサクラの木を折る観光客の被害によってサクラが弱ってしまうこともある。しかし適切な剪定は可能である。本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。 長寿な種のエドヒガンとヤマザクラと、エドヒガンの遺伝子を受け継いだ広義のシダレザクラに属する栽培品種に古木として知られる名桜が多い。日本三大桜がいずれも樹齢千年を超える老古木となっているほか、五大桜も古木が多く、内神代桜は樹齢が1800年を超えているとされる。それ以外にも有名で長寿の一本桜が多く存在する。 サクラの花弁の色は一般的に白色から濃い紅色までのグラデーションの範囲にあり、例外的に黄色のウコンや緑色のギョイコウなどがある。この紅色系の発色はアントシアニンという色素によるものであり、紅葉や若葉の赤系の色もアントシアニンの作用である。アントシアニンの合成には低温と紫外線が必要なため、温暖な地域や年、屋内での育成は白色が強い花弁となりやすい。そのため、クローンであり同じ特質のソメイヨシノでも、温度環境の地域差により西日本より東北の個体の方が紅色が濃いと言われたり、温暖化による年差により昔と比べて白くなっていると言われがちである。また開花から散るまでの色の変化もアントシアニンの密度の変化によるものであり、つぼみの紅色は開化と共にアントシアニンの密度が薄くなって花弁が白くなっていき、散り際には花弁で新たに合成されたアントシアニンが花弁や雄蕊やめしべの基部に集まって赤くなっていく。 花を観賞する栽培品種として好まれたため様々な姿の花が見られ、花びらの数は五枚から百数十枚まで幅広い。サクラに限らないが用語を挙げる。花弁が五枚までのものを一重、五枚から十枚のものを半八重、十枚以上の花弁を持つものを八重といいサクラの場合はヤエザクラと称している。また、花弁が非常に多く、一枚一枚が細長い場合、菊咲きと称する。さらに萼、花弁、雄蕊の中にさらに萼、花弁、雄蕊のある二重構造のものも見られ、これは段咲きと呼ばれる。花弁の枚数の増え方には雄蕊が花弁に変化するものと、花弁や雄蕊そのものが倍数加する変化が見られる。なお、テレビ番組トリビアの泉(第36回、2004年04月28日放送)では、サクラの木一本(樹齢32年のソメイヨシノ)に付いている花びらの枚数を一枚ずつ集計したところ、およそ59万3345枚であることが判明した。 西欧と北米の分類法ではサクラと同じスモモ属となるモモやウメは花柄が短く枝から直接生えているかのように咲くが、サクラとスモモはこれらと違って長い花柄を持っており枝から離れて垂れ下がるようにして咲く。さらにスモモの特徴として前年に葉が有った葉痕の基部に2つか3つの冬芽がつくが、サクラは1つの冬芽が付き、これが花の集合体となる花序となり、この点でサクラと近縁の植物の見分けが可能である。さらにサクラの中の種を見分けるには、個体差があって見分けにくい花弁よりも、種ごとの差異が大きく見分けやすい萼や花序の形態に注目する必要がある。 開花期は種や地域によるばらつきが大きい。日本においては1月、沖縄県のカンヒザクラを皮切りに咲き始め、東京ではまずカンザクラなどのカンヒザクラを由来とする早咲きの栽培品種が咲き、ソメイヨシノが咲いた後の4月中旬以降にヤエザクラが咲く。北海道のオオヤマザクラは5月に花を咲かせ、標高2000m以上ではタカネザクラが7月に花を咲かす。 日本の代表的な品種のソメイヨシノでは、開花から満開まで1週間で、満開から散るまで1週間、花の見頃は悪天で早まらなければ満開前後の1週間程度である。ソメイヨシノはクローンであるため同じ環境にさらされる同地では個体ごとの差異がほぼなく、ほぼ一斉に咲き一斉に散る。なおソメイヨシノが爆発的に植えられる前の江戸時代までの日本では、遺伝的に個体差のあるヤマザクラや多様な栽培品種が花見の主流であったため、個体ごと、種ごとに少しづつ次々と咲いていくサクラを長い期間をかけて鑑賞していくという花見のスタイルであった。 サクラには花と葉が同時に展開する種が多くあるが、日本の野生種の中ではエドヒガンが例外的に葉が展開する前に花が咲く特質を持っており、エドヒガンから誕生した栽培品種のソメイヨシノやシダレザクラもこの特質を受け継いでいる。エドヒガンは他の多くの野生サクラや昆虫の活動期より少し前に花を咲かせるが、他に開花している種が少ないため効率的に虫をおびき寄せることができ、これが生存戦略となっている。なお、花が散る頃に葉が混ざって生えた状態から初夏過ぎまでを葉桜と呼ぶ。 サクラは花芽を作ると葉で休眠ホルモンを作って休眠する。その後に休眠解除(休眠打破)して再び開花するには、一般的に5°C程度の低温刺激が望ましく、低温時間の積算とその後の気温の上昇が必要である。この工程は一般的には冬から春にかけて行われることが多いが、秋に何らかの影響で葉がなくなった場合などに休眠ホルモンが足りず、寒い日を2 - 3日経てその後小春日和になるとこの条件を満たしてしまい狂い咲きが起きる。このように異常な個体の狂い咲きとは別に、毎年春に加えて秋から冬にかけて花を咲かせるジュウガツザクラやフユザクラなどの二季咲きの品種もある。 サクラが以前に比べ若干早く咲く現象も見られている。これには休眠解除の一要素である気温の上昇が、地球温暖化の影響により春の早いうちに到来していることや、都市部でのヒートアイランド現象も影響している。また、九州では桜前線(ソメイヨシノ基準)が、普通とは逆に南下する例も現れた。これは温暖化によりソメイヨシノにとっては冬が暖かくなりすぎた九州南部では、休眠解除の一要素である低温刺激とその積算時間の条件を満たすまでに日数がかかり開花が遅れているからである。これらは季節学的な自然環境の変化を端的に表す指標にもなっている。 サクラの花からは蜜が出ているため、サクラの花が咲く時期にはスズメ、メジロ、ヒヨドリなどの鳥類が見られる。メジロやヒヨドリは嘴を花に入れて蜜を吸うことが多いが、スズメは嘴が太くて短いため花の横から穴をあけて蜜を吸うことが多い。 日本においてはサクラは、関心の対象として特別な地位を占める花である。 日本では固有種を含んだ分類学上の10もしくは11種(species)の基本の野生種を基に、これらの変種(variety)以下の分類を合わせて100種以上の自生種があり、さらにこれらから育成された栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上あり、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われている。なおこのうち100品種余りは北海道松前町由来のマツマエハヤザキなどを掛け合わせるなどしてベニユタカなどの多品種を生み出した浅利政俊が作出したものである。 日本では果実(サクランボ)を食用とするほか、花や葉の塩漬けも食品などに利用されるが、特に平安時代の国風文化の影響以降に、桜は観賞用途(花見)で花の代名詞のような特別な位置を占めるようになった。当初は鑑賞の対象とされる代表的な品種は野生に自生するヤマザクラであった。これに加えて、花弁の数や色、花の付け方などの観点から見栄えが良かったり突然変異の珍しい特徴を持つ野生の個体を何世代にもわたって選抜育種し、優れた個体を接ぎ木などの方法で増殖させることで様々な栽培品種が開発されて、花見に利用された。既に平安時代には八重桜が接ぎ木によって増殖されていたらしいことや「しだり櫻」や「糸櫻」などが存在したことが当時の文献に記録されている。また鎌倉時代以降に鎌倉周辺に自生するオオシマザクラが栽培されるようになり、これが京都に持ち込まれたと考えられており、室町時代にオオシマザクラを由来とするフゲンゾウやミクルマガエシ等が生まれた。江戸時代にはオオシマザクラの優れた特質からカンザンなどの多種のサトザクラ群やソメイヨシノ(染井吉野)などが生まれ、河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が積極的に植えられた。江戸時代末期には現代の日本で見られるのと大差のない300を超える多くの品種が存在するようになった。 明治時代に入り、大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化のため庭園が取り潰されると同時に、そこに植えられていた数多くの栽培品種の桜が伐採され、植えられるのはソメイヨシノばかりになっていった。これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの栽培品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作り「五色桜」として評判となり、これを嚆矢として多くの栽培品種が小石川植物園などに保存されることになり、その命脈を保った。また京都では第14代佐野藤右衛門が全国にあった貴重な栽培品種や名木を収集して増殖して保存に務めた。 また第二次世界大戦で荒川堤も壊滅的な被害を受けるが、第二次大戦中は埼玉県川口市安行の植木業者の小清水亀之助らが品種の保護に尽力し、戦後の1950年頃には国立遺伝学研究所が、1960年代には多摩森林科学園が小清水らから苗を譲り受け、現在では前者に250系統350個体、後者に500系統1300個体のサクラが植えられて、江戸時代以前からのサトザクラの命脈を保っている。またイギリスの園芸家コリングウッド・イングラムが保存していたタイハクのように、一度日本で消滅した品種が日本に里帰りすることで、江戸時代以前のサクラの命脈を補完している。戦後の高度経済成長期にはソメイヨシノの植樹が日本全国で爆発的な勢いで進められ、サクラの中で最も多く植えられた栽培品種となっている。 また野生種であるエドヒガンは、成長が遅いが耐久性が高く、桜の中で寿命が最も長く長い期間をかけて巨樹に成長しやすい。このため日本には、エドヒガンとそれから生み出された栽培品種のシダレザクラに長寿の巨樹がたくさんあり、それらの桜の木はしばしば神聖なものと見なされ、一本桜として神社仏閣や地域を象徴するランドマークになって、現在に至るまで歴史的に有名な花見の対象となってきた。たとえばエドヒガンの神代桜は約2,000年、淡墨桜は約1,500年、醍醐桜は約1,000年の歴史を誇り、ベニシダレの三春滝桜は約1,000年の歴史を誇る。 今日でもサクラの栽培品種の作出は続けられており、珍しい方法としては、2007年に理化学研究所が世界で初めてサクラの在来品種に重イオンビームを照射して新品種ニシナザオウ(仁科蔵王)を作出することに成功している。 今日、とりわけ多くの栽培品種のサクラが見られる名所としては、松前公園(250品種)、日本国花苑(200品種)、日本花の会結城農場(350種)、造幣局の桜の通り抜け(134品種)などがあげられる。(品種数は野生種と、野生種の雑種と下位分類を含んだ数) 桜は春の象徴、花の代名詞として和歌、俳句をはじめ文学全般において非常によく使われており、現代でも多くの音楽、文化作品が生み出されている。 古来から桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。 奈良時代の『万葉集』には桜を含む様々な植物が登場するが、中国文化の影響が強かった当時は和歌などで単に「花」といえば唐から伝来したばかりの梅を指していた。万葉集においては梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。2019年5月1日からの元号である『令和』も万葉集にある梅花の宴が典拠となっている。 サクラの地位が特別なものとなったのは平安時代であり、国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり「花」と言えば桜を指すようになった。平安時代に編纂された『古今和歌集』の仮名序にある古墳時代の王仁の歌とされる「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の「花」は梅であるが、平安時代の歌人である紀友則の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」の「花」は桜である。斎藤正二は、中世の知識階級に手本とされて親しまれた白居易が『白氏文集』の中でサクラに関する詩を27首詠じていることから、日本におけるサクラの格の向上に与えた漢詩の影響について指摘している。嵯峨天皇は桜を愛し、花見を開いたとされている。左近の桜は、元は梅であったとされるが、桜が好きであった仁明天皇が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたとされている。歌人の中でも特に平安時代末期の西行法師が、「花」すなわち桜を愛したことは有名である。彼は吉野の桜を多く歌にしており、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名である。西行はこの歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日に入寂したとされる。室町時代には、この西行を題材にした能の西行桜が成立した。 安土桃山時代の豊臣秀吉は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは醍醐の花見として有名である。 江戸時代の代表的俳人・松尾芭蕉は、1688年(貞享5年)春、かつて奉公した頃のことなどを思って「さまざまの事おもひ出す桜哉」と句を詠んだ。俳句では単に「花」といえばサクラのことを指し春の季語であり、秋の月、冬の雪とともに「三大季語(雪月花)」である。「花盛り」「花吹雪」「花散る」「花筏」「花万朶」「花明かり」「花篝」の「花」は桜である。楽においては江戸時代の箏曲や、地歌をはじめとする三味線音楽に多く取り上げられている。一般に「日本古謡」とされる『さくらさくら』は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものである。江戸時代に成立した戯曲の『義経千本桜』では、本来その話の中には桜が登場しないにもかかわらず題名に桜を用いた。 明治時代以降では瀧廉太郎の歌曲『花』などが有名である。長唄『元禄花見踊』も明治以降の作であるがよく知られている。 サクラの開花時期は人口の多くを占める関東以西の平地では3月下旬から4月半ば頃が多く、日本の年度が4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、現代では人生の転機を彩る花にもなっている。 令和でもサクラはポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲーム、アニメなど様々な作品のモチーフや題材になっている。特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は桜ソングとして知られている。 桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う「雅」な様を現した。一部では散り行く儚さや潔さも、愛玩の対象となっている。古くから桜は、諸行無常といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象である。 江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などを基調とする日本人の精神の具体的な例えとみなした。また明治時代には新渡戸稲造が「武士道」をサクラと同じ「日本固有の花」と例えた。 日本では国花が法定されておらず、天皇や皇室の象徴する花は菊であるが、特に明治時代以降はサクラが多くの公的機関でシンボルとして用いられており、「事実上の国花」のような扱いを受けている。旧日本軍(陸軍・海軍)が桜の意匠を徽章などに積極的に使用したほか、明治時代の「歩兵の本領」や昭和時代「同期の桜」などの軍歌・戦時歌謡の歌詞に「桜」という表現が使用され、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には「桜花」や「桜弾機」など特攻兵器の名称にも使われた。 また、明治時代以降はサクラは日本の象徴として国際親善にも利用されるようになった。全米桜祭りで知られるアメリカ合衆国のポトマック河畔の桜も日米友好のために東京市長の尾崎行雄が寄贈したものである。なお、この返礼として日本にはハナミズキが贈られている。その他の国との間でも友好のために贈ることがある。 千円紙幣の裏面には桜が描かれている。また1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインである。 平安時代以降ではサクラの花のように雅な印象から桜紋は位の高い家の家紋、主に清和源氏の家々で使用されてきた。現在も家祖からの男系血統が存続し熊本城主や内閣総理大臣まで輩出した武家の細川家の家紋(替え紋)、男爵藤村家や男爵若王子家の家紋に代表され、神紋や寺紋にも用いられる。 桜の人気は平安時代に始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。 桜は春を象徴する花として日本人にはなじみが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。 各種調査によると日本人の大多数の人たちが桜を好んでいる。九州から関東での平地では、桜が咲く時期は年度の変わり目に近く、桜の人気は様々な生活の変化の時期であることとも関係する。 桜の花の美しさに魅了されて、その枝を手折る者を「花盗人」(はなぬすびと)といい、罪深さと優雅さが同居する行為であることから、実話から虚構まで様々な物語が生まれた。 桜の中でも特に、宮中の正殿である紫宸殿の側にある左近桜(さこんのさくら)の枝を折ることは大罪とされていた。『古今著聞集』巻19が伝える伝説によれば、承元4年(1210年)1月ごろの早朝、歌人の藤原定家が、侍に左近桜の枝を切らせて持ち帰るのを、官人たちが目撃した。振る舞いが風流だったので、官人たちは優雅なことだなあと思ったが、その噂は土御門天皇の耳にまで届いた。土御門は、建春門院伯耆に代詠させて、「なき名ぞと のちにとがむな 八重桜 うつさむ宿は かくれしもせじ」(「後から無実だと主張するなよ。左近桜を移した家を隠すことはできないだろう」)という歌を贈った。定家は返歌して、「くるとあくと 君につかふる 九重や やへさくはなの かげをしぞ 思ふ」(「明けても暮れても一日中、我が君にお仕えしている左近桜。その桜の花の姿を想うことで、私も陛下に忠勤を尽くさせていただきます」)と侘びた、という。 定家の伝説は真偽不明だが、左近桜を折ったことが比較的確実な人物には、14世紀前半、後醍醐天皇の中宮だった西園寺禧子がいる(『新千載和歌集』春下・116 および117)。ある時、後醍醐が左近桜を鑑賞していると、禧子の部下がやってきて左近桜の枝を折った。驚いた後醍醐は、妻を自分の前に召し出して、「九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ」(宮中に咲く左近桜を、秋の宮人(皇后に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)と尋ねた。禧子は返歌して、「たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき」(手折らせたのは、秋の宮(皇后)の私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったから)と、後醍醐の気を引くための行為だったことを明らかにし、夫への愛を歌った。 日本では桜の開花予想(「桜」と表すが、殆どの予想はソメイヨシノを取り上げている)、いわゆる「桜前線」や、開花や満開の宣言が春に話題となる。開花予想は気象庁が1951年(昭和26年)に関東地方を対象に行ったのを初めとし、2009年(平成21年)まで行われた。2007年(平成19年)から独自の開花予想を行う民間の気象会社が出現し、数社が予想を出すようになったため、2010年(平成22年)から気象庁は開花予想の業務を取り止めて民間に任せ、観測のみを行っている。なお、桜の開花予想は気象業務法の定める予報業務ではなく、許可は要しない。 気象庁では、桜の開花や満開を生物季節現象の1つとして、各地で特定の株を標本木として定めて職員の目視による観測を行っている。標本木は南西諸島はカンヒザクラ、北海道の札幌以東と根室以西はオオヤマザクラ、根室市はチシマザクラ(2011年以降根室市に業務移管)で、それ以外の全国はソメイヨシノである。標本木の蕾が5輪から6輪ほころびると、「開花」したと発表される。これをマスコミでは「開花宣言」と呼ぶことがある。標本木全体の80%以上のつぼみが開くと、「満開」と発表される。 2009年まで気象庁が行っていた予想方法は、各地点の冬期の気温経過や春期の気温予想等を考慮した各種計算を経て、標本木に対して開花予想日を決定していた。民間気象会社の予想方法も概ねこれに近いが、独自の手法を採り入れて行っているものもある。 サクラの標本木は、福岡などでは管区気象台の庁舎内にある桜(ソメイヨシノ)を標本木として観測しているが、東京では靖国神社、岐阜県では清水川堤、大阪では大阪城公園内で標本木を設定している。神戸では1999年の庁舎移転まで気象台敷地内の桜(ソメイヨシノ)を標本木にしていたが、移転により潮風の影響を受けるようになったため、2002年1月から神戸市立王子動物園の園内の木から標本木と副標本木を設定している。 樹木全体から見た開花具合によって咲き始め、三分咲き、五分咲き、七分咲き、満開、散り始めなどと刻一刻と報道される。このように木々の様子を逐一報道することは、世界から見ても珍しい例である。 日本では桜は花見や観桜など、景観等の人気が高く多くの場所に植えられている。植栽の場合街路樹、公園、庭木、河川敷等に使われることが多い。近年では、サクラは街路樹に用いられている樹種としてイチョウについで2番目に多く、49万本が植えられている。道や線路・河川などに沿って植えられることが多く、このようなものを桜並木という。道などの両側に桜が並んでトンネルのような形状になっているものを桜のトンネル(桜トンネル)と呼ぶことがある。このように、辺り一面が花景色になることも多い。また、学校の校庭には桜が植えられていることが多い。小学校などの校庭には、児童や生徒の入学時に桜の花が咲いているようにするため、ソメイヨシノに比べて開花期間が長い八重桜を混植することが多い。また、古くから桜の花を育てている神社や寺も少なくない。しかし、害虫や病気など手入れが大変で、大きく育つためか、その人気の割には庭木にされることは少ない。 日本では、至る所で花見に使われる木として重要である。花見の習慣とともに、桜の名所も日本全国各地にある。また、神社や寺など桜を持っている団体や地域が「桜祭り」を開いている例も多い。夜の桜を楽しむために、桜のライトアップも各所で行われる。 果実を食用とする品種の3系統は、概ね甘果桜桃(セイヨウミザクラ、Prunus avium)、酸果桜桃(スミノミザクラ、Prunus cerasus)と中国桜桃(カラミザクラ、Prunus pseudocerasus)に分けることができる。 六月から七月にかけて実をつけるオウトウ(サクラの一種)の果実を日本では一般的にサクランボと呼び、栽培されている多くがヨーロッパの甘果桜桃(セイヨウミザクラ)系である。品種としては、佐藤錦の他に、紅秀峰、豊錦、ナポレオン、アメリカンチェリー等が有名である。佐藤錦は、明治より山形県東根市の佐藤栄助によって品種改良され、岡田東作が名づけて世に広めたものである。酸味が強い酸果桜桃(スミノミザクラ)は料理に利用される。中国桜桃(カラミザクラ)は日本であまり栽培されていない。 桜漬けは、一般的に八重桜の花を梅酢と塩で漬けたものである。天保年間に初版が刊行された『漬物塩嘉言』にも「桜漬」の記載がある。花(花弁)自体も塩漬けにすると独特のよい香りを放ち、和菓子・あんパンなどの香り付けに使われる他に、祝い事の席で桜湯として振舞われる。桜湯は、花の塩漬け2から3輪に湯を注いだものである。茶碗の中で花びらが開く過程から、祝い事に使われる。婚礼や見合いなどの席では「お茶を濁す」ことを嫌い、お茶を用いずに桜湯を用いることが多い。結納には両家の縁を結ぶという縁起を表し椀あたり2輪が用いられる。 桜の葉は桜餅などに用いられる。桜餅は代表的な和菓子の一つであり、桜の葉の塩漬けで包まれた桜色の餅である。春にはこれらの風味を利用した食品なども見られる。 桜の葉の抗菌物質としてクマリンが知られている。桜の葉は、塩漬けにすることでクマリン酸配糖体に酵素が作用して加水分解などを経て芳香成分(クマリン)に変化しよい香りを放つ。桜葉漬けには多くの場合オオシマザクラが用いられており、伊豆半島南部において生産が盛んであり、シロップ漬けにされることもある。 桜の樹液をトラガカントゴムの代わりに利用する例も存在する。 木自体は材木として使われる。材としては硬く、湿気には比較的強い。熱伝導率が高いため、触ると冷たく感じる。木目には乏しいが、節の周囲にはメイプルや栃に似た杢目が出ることもある。無垢テーブル板や比較的高級なフローリング材として使用される。彫刻にも用いられる。建築業界や家具業界において安価である樺を樺桜あるいは単に桜と称して一種として流通させることがある。これによる混同を避けるために本来の桜を地桜と呼ぶこともある。材としては樺と桜は全く別物である。 桜の樹皮は水平方向にはがれ、その表面は灰色を帯びて艶があって美しいため、小物入れや茶筒などの細工物(樺細工)や版木に利用される。 オオシマザクラは別名をタキギザクラともいい、この名前からも分かるように以前は燃料用として植樹されており、房総半島や伊豆大島にもこの用途で広がったとされる。 焚いた時の香りが良いため燻製のスモークチップとしてよく用いられる。 樹皮は桜皮(おうひ)という生薬になり、鎮咳、去痰作用がある。また樹皮を薄いピンク色の染色に使用することができる。 見応えのあるサクラの名所を作るためには、その空間のサクラが同時に開花する集中開花型の空間を作る必要があり、単一の品種のみを植栽した場合は統一感や地域性(その地が発祥の品種などの場合)を演出でき、花期が同じ異なる品種を植栽した場合は華やかさを演出できる。ただしこれらの植栽方法は集客に優れるため、駐車場やトイレの設置が必要となることが多い。花期が異なるサクラの品種を植栽した分散開花型の空間作りの場合は、集客が分散して長い期間にわたってサクラを楽しめるので地域の憩いの場に向いている。この場合、花期が違う品種を隣接して植栽した場合には見応えに欠けることになるが、花期が同じ品種ごとにゾーンを設定してまとめて植栽することで見応えを改善できる。 落葉期の11月中旬から12月上旬、もしくは2月下旬から3月中旬を選び、厳冬期は避けること。 サクラの健全な成育には十分な陽当たりが必要なので、隣接地に新築の建造物が出来たりしない将来にわたって日陰にならない場所が望ましい。 隣接するサクラとの植樹間隔が狭いと陽当たりや根の発育に悪影響を及ぼし、過密であると病害虫発生の原因になるので、10mの間隔を開けて植えるのが望ましい。 サクラの健全な成育には、水はけが良く適度に湿り気があり肥沃な土壌が必要である。植えるのを避けるべき水はけが悪い土壌の目安は、雨の翌日にも水が引かない土壌、深さ30センチの穴を掘って水を穴の上までに入れて1時間経過後もまだ水が溜まっているような土壌である。また避けるべき固い土壌は、両手で直径1センチの園芸用ポールを垂直に力いっぱい突き刺して50センチ以上刺さらない土壌である。また避けるべき栄養分が不足している土壌は、生えている草が黄色味を帯びていたり草の丈が低い土壌である。例えば、関西でよくみられるような花崗岩が風化してできた真砂土の土壌は、乾燥しやすく、踏みしめられて固くなり水はけが悪くなりやすく、栄養に乏しいため、これらの悪条件に該当する。このような土地では、サクラの植栽には十分な土壌改良を必要とする(土の作り方と植え方で解説)。 街路樹や公園でよくみられるように、サクラの周りをコンクリートやアスファルトで舗装したり、大勢の人が根本の土を踏み固めるような土壌環境は避けるべきである。サクラは樹冠よりさらに根を浅く広く広げるため、土が舗装されたり踏み固められると、根に酸素と水と有機物の供給ができなくなってしまい健康を損ない樹勢を削いでしまうのである。特にある程度成長してから根周りが舗装された場合は伸びた根が腐って死んでいき、生育した上部に必要な分だけの十分な酸素と水と養分が供給できなくなり大きく健康を害するため避ける必要がある。土壌が舗装や人間により踏み固められていると根頭がんしゅ病やネコブセンチュウ病を誘発し、これらの病気は土壌を汚染する。早いうちであれば土壌改良によって病気を止めることができるが、これらでサクラが枯れた場合、何度サクラを植えても枯れる場合がある。このため、これらの病気に罹った土壌は加熱殺菌すること、石灰などで消毒すること、土そのものを入れ替えること、サクラの枯れた後には数年の間樹木を植えないことなどで対策をとることができる。 土の作り方と植え方は、まずは植える3時間から前夜程度前からサクラの苗木の根を水につけておく。そして植え穴を掘る。標準な植え穴は直径と深さが50センチ程度であるが、土壌改良を必要とする場合は、植え穴は直径2メートル、深さ70センチ以上を必要とする。次に植え穴用に掘り出した土を6対4の割合で分け、4の土と4と同量の堆肥と1平方メートル当たり100グラムから200グラムの肥料(NPK10-10-10)を混ぜ合わせて植え穴に埋め戻す。次にその上から6の土の一部を使って5センチほど埋め戻す。倒れず苗木の幹を誘導できるよう、穴の中心に園芸用支柱や竹を十分な深さまで刺し、傍らに苗木を立てて残り6の土でさらに埋め戻す。80センチから1メートルの高さで支柱と苗木を結束する。この際、苗木が実生台木の場合は接ぎ目を土中から出して植え、挿し台木の場合は土中に入れて植える。また幹と支柱が擦れて傷つかないように、必ず保護材で枝を巻いたうえで麻縄などの1年から2年で分解する紐で、きつ過ぎて食い込んだり緩すぎて擦れたりしないように注意しながら8の字に結束する。なお支柱は通常1.8メートルから2.4メートル程度の長さが必要であるが、枝や幹の成長が下向きになりやすい品種では将来の樹形を整えるために竹などのより長い支柱が必要となる。例えばカワヅザクラなどの枝や幹が横や斜め下に伸びやすいサクラには、基準の幹を3メートルから3メートル50センチ程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが、枝垂性のサクラの場合には基準の幹を4m程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが望ましい。最後に周囲を土の壁で囲って水鉢を作って水を入れる。また幹は8月下旬以降に急激に太るので、定期的に巡回して支柱と結んだ紐が苗木に食い込まないように注意して調整する。基本的に水やりは必要ないが、夏場の乾燥している時には1週間毎の夕方に水鉢が満杯になるまで水を与えると良い。 サクラは「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」といわれるように傷口が傷みやすい。実際、台風や人間により太い枝が折られた後に未処置だと傷口から腐って一気に枯れてしまうこともある。このため、しばしば剪定には不向きとされるが、健全な育成のためには枝を間引く適切な剪定はむしろ必要である。大木になってから枝を切ると健康を害しやすいため、植えてから5年目程度までに剪定をして将来の樹形を整えておく必要があり、基本的には剪定ばさみで切れる太さまでの枝のみにする。また、剪定をする時期は落葉後の11月から3月上旬にかけてとする。剪定する対象の枝は、まずは台木から生えていることが多い地際のひこばえや台芽であり、これらを剪定しないと栄養がこれらの集中してしまう。また他の枝に絡みやすいふところ枝とからみ枝も剪定して枝同士が絡んで擦れて傷が付き腐朽することを防ぐ必要がある。また胴吹き枝や1.5メートルから2メートル程度の高さまでにある枝も通行の障害になるため剪定することが望ましい。6年目以降は樹形を乱す逆さ枝も剪定することが望ましい。また枯れ枝も剪定の対象となる。やむを得ず500円玉以上の太さの枝を切る場合は、必ず、切る枝の下側に3分の1程度から切り込みを入れてから上から切り落とし、えりを残して切断面がその枝の幹と平行になるように再度切った後に、切断面に保護材を塗る。 サクラとウメの剪定に関する最大の違いは枝への花の付き方である。枝には1年で数十cm延びる長枝と1cm未満しか伸びない短枝に分かれる。サクラでは長枝には葉芽ばかりがついて短枝に花芽が付く一方で、ウメでは長枝にも花芽を付ける。枝を剪定する際は基本的に短枝が剪定されるので、剪定から数年間は短枝がまだ伸びていないため、サクラは花付きが大きく減少し、ウメは花付きがあまり衰えないという事になる。この剪定後数年間の見栄えの違いにより「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」と言われることになったとも言われている。 雑草を放置すると、日陰になったり水と養分を奪われたり病害虫の発生源となり健全な成育が阻害されるため、健全な育成のためには新芽の頃から落葉前までに除草する必要があり、特に苗木の頃は早目に対処する必要がある。刈った草を根元に巻くことで土壌の乾燥を防ぎ、次の雑草の繁殖を抑制することができる。 健全な育成のために、寒肥として落葉期間中の施肥が必要である。まずはサクラの幹を中心に半径1メートルの円状を内径として設定した後、面積1平方メートル等分になるように同心円状に外径を設定する。そして内径と外径の間の1平方メートルごとに深さ・直径20センチの穴を1つずつ掘り、その中にNPK10-10-10の肥料200から300グラム入れて埋め戻す。 植えてから6年以上経ったサクラの木に対しては、毎年夏季に健康診断を行うことが望ましい。植栽間隔が狭すぎたり、陽当たりや土壌に問題があったり、病害虫に侵されていると樹勢が衰えやすいため、その場合は専門家の診断を仰ぐのが望ましい。樹勢が衰えている証拠にあげられるのは、木の上部の枝枯れが目立つ、根際の主幹部から胴吹きが目立つ、見上げると空が見えるほど葉が少ない、開花時の花が少ないか枝先にだけまとまって咲く、降雨があるのに葉が丸まっている、9月上旬頃に周りのサクラは葉があるのに一足早く落葉してしまうなどである。 本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。病害虫はサクラの密集地では互いに伝染し、集団発生する可能性がある。 サクラが多く罹る病気としては根頭がんしゅ病、根瘤線虫病、てんぐ巣病、膏薬病、うどんこ病などがある。 根頭がんしゅ病、根瘤線虫病は根や根の付け根辺りで瘤が発生する病気である。根元の土が踏み固められていると促進される。病気に罹るとすぐ枯れるわけではないが徐々に樹勢が削がれ、サクラが弱っていく。これらの病気は病変部位を切り取り、切り取った部分を殺菌し、表面を保護する塗布剤などで保護すること、土壌改良を行うことが有効である。対策を行えば少なくとも病気の進行は抑えられる。 てんぐ巣病は枝に発生し、枝が竹箒状になる病気である。この病変も徐々にサクラが弱り、全ての枝に広がると手遅れになりかねない。発見したら、休眠期を待ち、消毒した鋏や鋸で病変部位を切り落とすことが望ましい。切り落とした後は癒合剤などで回復を促し、剪定した枝は焼却、鋏や鋸も切った後すぐに消毒することが必要である。消毒の行われていないはさみを使うとそれを元に移る可能性もあるので気をつけるべきである。菌が原因であるので風通しを良くすることも対策になる。 膏薬病やうどんこ病については水気が多い場所や湿気の多い場所、あるいは病害虫が引き起こす。胴の部分に菌が入ったりキノコができることによって病気になる。病害虫は菌が入るための傷口を作ったり、傷口を広げるのに加担することが多い。風通しを良くすることや水気がたまらないようにすること、病害虫を駆除することによって病気を抑えることができる。 サクラによく付く害虫として、2012年(平成24年)以降に顕著な話題となっているのが外来種のクビアカツヤカミキリである。サクラに寄生する同カミキリの大量繁殖と食害の大きさから、各地でサクラ、特にソメイヨシノの大量伐倒に至っており、その被害の深刻さから、2018年1月に同カミキリが環境省より特定外来生物に指定された。これを受けて埼玉県環境科学国際センターではサクラへ寄生するクビアカツヤカミキリ対策を広く公開している。 他の害虫としてはカイガラムシ、アブラムシ、ハダニ、それにケムシ・イモムシの類ではハマキムシ、コスカシバ、オビカレハ、アメリカシロヒトリ、サクラケンモン、モンクロシャチホコ (w:Phalera flavescens) などが挙げられる。 ノネズミ、ノウサギ、ウソの食害も受けやすく、乾燥防止目的でサクラの根元に多くの敷き藁を施用したりクローバーなどの植栽をするとネズミの冬場の住みかと餌場になりやすい。また植えてから3年程度までにノウサギに食べられたり齧られると致命的な被害を受けることもある。これらには忌避剤を用いることで予防ができる。 サクラは街路樹として植えられることも多いことなどから車などの排気ガスによって傷められることも多い。山高神代桜ではサクラを守るために近くを通っていた道路に迂回路が作られた。酸性雨も木を弱める要因になる。 サクラは北半球に広範に分布しているが、ヨーロッパや北米には、観賞に適した大きな花をたくさん付ける野生のサクラの種はあまりなく、それらの多くは今日の人々が想像している典型的なサクラとは異なっている。また中国本土には日本より多い30種以上の野生種のサクラが分布しているが、それらの種は小さな花をつけるものが多く、観賞用にふさわしい大きな花を咲かせるサクラの分布域は人々の生活圏から離れた狭い地域に限定されていた。一方日本では、観賞に適した大きな花を大量に咲かせ大木になりやすいオオシマザクラとヤマザクラが人々の生活圏に近い全国のかなり広い地域に分布していた。そのため日本では歴史的にサクラを観賞する文化や栽培品種の生産が発展したと考えられている。 欧米各国は江戸時代末期から日本のサクラを収集し、イチハラトラノオ、フゲンゾウ、ウコンなどがこの時期に欧州に持ち出され、サクラ観賞の文化が始まった。また明治時代の都市の近代化によるサクラの伐採により日本では一部のサトザクラが失われていたが、タイハクやホクサイなどは欧州に持ち出されて後に日本に里帰りすることで再び日本で観賞できるようになった。 満州国時代の中国東北部では、現在の遼寧省大連市旅順口区にある龍王塘桜花園の桜花園が既に有名であった。また、同じく旅順口区の203高地の麓の桜花園(50万平方メートル余り)は2006年に開園して、日本から最近贈られた桜が18種類、3,700株余り植えられている。 日中戦争中、日本軍により傷病兵用病棟として接収された武漢大学に28本のサクラが植えられた。終戦後、これらのサクラは歴史的観点から伐採されかけたが保存されることになった。1972年、日中共同声明による日中国交正常化に伴い、サクラが日本から武漢大学および近くの東湖桜花園に寄贈され、その後も次々と寄贈され、現在は武漢大学周辺には約1000本のサクラがある。これらのサクラの80%は日本軍が植えたサクラの直系の子孫である。新型コロナウイルスの蔓延で花見ができなくなった2020年には、武漢大学のサクラの様子がウェブで公開され、延べ7億5000万回視聴された。 サクラは頻繁に中国と日本の友好関係に利用されている。日中国交正常化の翌年の1973年、日本は中国に友好のシンボルとしてサクラを送り、それらは北京の玉淵潭公園に植樹された。その後もサクラの木は増殖されて植えられ、同公園はサクラの名所となった。 1997年、みちのく銀行と樹木医の斎藤嘉次雄が日中友好のために武漢市に桜公園を開くことを計画し、同年からサクラで有名な弘前公園がある弘前市が武漢市にサクラの植樹や栽培の指導をするようになり、2016年には武漢市と弘前市が友好協定を締結した。2001年に東湖桜花園が開園し、2018年には250万人が花見に訪れる名所となった。ソメイヨシノやシダレザクラなど60種類のサクラが1万本植えられている。 無錫市の無錫国際花見ウィークは、1980年代に坂本敬四郎氏と長谷川清巳が「中日桜友誼林」に1,500本のサクラを植えたことから始まった。2019年現在、「中日桜友誼林」は毎年50万人の花見客が訪れる名所となっており、100種類のサクラが植栽されている。 1990年代後半から21世紀に入り、訪日旅行客の増加やSNSの普及により中国でのサクラの人気が急速に高まり、中国各地に開設された多くの広大な桜公園に多くの花見客が訪れている。例えば貴州省の平壩万宙桜花園は1,600ヘクタールの広大な土地に70万本のサクラが咲き、世界最大の桜公園といわれている。2019年の統計によると、中国国内だけでのサクラ関連の観光客数は3億4,000万人に達し、消費額は600億元を超えている。 このような中国でのサクラの人気の急激な高まりとナショナリズムにより、中国では「サクラの起源は中国」という間違った言説が蔓延するようになっている。2013年には中国共産党直属の中国網で、武漢大学園林環境衛生サービスセンターの主任や中国科学院武漢植物園の専門家などが「サクラの起源は中国で日本には宋王朝の時代に伝わった」と主張していることが紹介され、2015年には同中国網で唐王朝の時代に日本に伝わったとする記事が発表された。また2016年には武漢市の金融系企業が渋谷109に「武漢、世界の桜の故郷 ぜひ武漢大学に桜を見に来てください」という広告を出し、一部の中国人たちから快哉を浴びた。2019年には中国櫻花産業協会がサクラの起源は中国であり、中国の国花にすることがふさわしいとの声明を決議した。またこの協会の会長が会長を務めるサクラの栽培に関する企業の副責任者は、2016年時点で「日本に抵抗するとともに愛国的な真の方法」として「チャイナレッド」の真紅の花色の栽培品種を開発して日本のサクラの品種を駆逐することを企図している。一方、このような主張に反対する意見もあり、例えば武漢大学の歴史家は「現在栽培されているサクラの多くの品種は事実上日本固有のもので(中略)武漢大学のサクラも少量の中国原産種を除けばほとんどが日本から来たものだ。」との主張を新華社に投稿して批判している。なお中国側がサクラの起源を主張する際には、1975年に日本で発行された『櫻大鑑』を引用して権威付けすることが多いが、ここにはサクラの野生種の起源がヒマラヤである可能性と、野生種が中国大陸と日本列島が地続きの時代に東進して、後に日本で盛んに分化して独自化した可能性が書かれているだけである。もちろん人類が文明を築いていた唐王朝や宗王朝時代の話でも栽培品種の話でもなく、明らかに誤読である。また上海辰山植物園の職員も、多くのサクラは日本固有種のオオシマザクラなどを核にして作出されていると主張し、中国側の主張を「故意あるいは意図せずに野生種と栽培品種を混同して論じ、野生種の起源を用いて人々をミスリードしている。」と批判している。 台湾には、北部の陽明山・中正紀念堂公園など、中部の阿里山・日月潭九族文化村など、南部の烏山頭ダム風景区など、桜の名勝は多い。東アジアの梅開花前線と桜開花前線(寒桜など)は、それぞれ11月と1月に台湾で始まり、その後日本列島を北上する。 鎮海の桜に見られるように、韓国には日本統治中にソメイヨシノが導入されサクラ観賞の文化が始まった。韓国ではソメイヨシノの正体は済州島原産の雑種である王桜であるという韓国起源説が蔓延しているが遺伝子研究により事実無根として否定されている。2022年に行われた調査によると、ソウルのサクラの名所である韓国国会と汝矣島周辺に植えられたサクラのうち9割以上が日本原産のソメイヨシノであり、韓国原産の王桜は1本も植えられていなかったことが判明した。また桜祭りが行われる桜の名所として有名な鎮海の女座川沿いの99.7%、慶和駅周辺の桜の木の91.1%が1960年代に日本から持ち込まれた日本産のソメイヨシノであり、残りも日本産のシダレザクラなどであり、王桜ではないことが判明している。 北朝鮮でも、平壌の街路には桜が植えられていて、通行人の目を楽しませる。 ワシントンDCの全米桜祭りが有名であり、日本が日米友好の証として寄贈したサクラに起源がある。ハワイ州ハワイ島のワイメアでは、毎年2月に「ワイメア桜祭り」が行われる。 日系移民が多いブラジルでは、サンパウロのカルモ公園に、日本のの桜が4,000植えられていて、桜祭りがある。 コリングウッド・イングラムは19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本のサクラを収集して研究し、オカメやクルサルなどのさまざまな栽培品種を生みだすなどして、欧州でのサクラの観賞文化の始まりに貢献した。イングラムは、日本から輸入して自邸で栽培していた20世紀初頭までに日本で姿を消していたタイハクを日本に里帰りさせ、日本で失われていた品種を復活させることに貢献した。1993年に日本花の会は王立ウィンザー大公園に松前系の58品種のサクラを寄贈し、それらは王立キューガーデンなどに分与され活着している。 1866年にシーボルトが栽培品種のホクサイを日本から持ち出し、その後日本では失われていたが、後に里返りしたことで日本でも見られるようになっている。 1977年から3年に渡って日本花の会がハンブルグ市の日本人会の依頼を受けて5,000本のサクラの苗木を同市に寄贈し、それらのサクラはアルスター湖畔や公園に植えられた。またテレビ朝日と日本花の会がドイツ統一を果たした記念にベルリン市に1991年から6,000本のサクラの苗木を寄贈し同市のベルリンの壁跡や隣接するポツダム市にも植えられた。またボンにはカンザンの桜並木があり有名な花見の名所になっている。 日本花の会が1981年にベルサイユ市にサクラの苗木を5,000本寄贈し、それらは市内の病院や公園などに植えられた。 ロシアでは、モスクワの中心部にあるロシア科学アカデミー植物園の日本庭園に日本から贈られた北海道産のエゾヤマザクラとチシマザクラが40本ほどあり、通常5月に開花する。 日本さくらの会は、1992年(平成4年)に3月27日を「さくらの日」と制定している。 桜関連: 樹木ではない「さくら」を含む語: 桜井、桜田、桜川、桜町、桜坂など、「桜」の語を含む地名は多く見られる。これらの地名は桜の名所や土地に関する由来があるもののほか、瑞祥地名としても見られる。 人名にも桜の付くものは少なくない。桜が入った苗字の時もそうであるが、近年は女性の名前として『さくら』の語が使われることが多い。
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府中市
府中市(ふちゅうし)は、日本にある市の名称。「府中」という名称は国府所在地を意味する。 東京都と広島県に同名の市がある。東京都府中市は武蔵国府が置かれていた地で1954年4月1日に市制施行、広島県府中市は備後国府が置かれていた地で前日の同年3月31日に市制施行した。当時、同名の市は避ける行政指導が行われていたが、今尾恵介は「年度を跨いだためスキをつかれた形なのだろうか。」と分析している。なお広島県には府中を名乗る自治体として府中市のほかに安芸郡府中町(旧安芸国)があるが、こちらは安芸国府が置かれていた地に由来している。
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オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優。ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。 ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル(英語版)のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。 イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。 70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。 ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。 父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である。ジョゼフの母親はオーストリア系で、父親はイギリス、オーストリア系だった。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた。 ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ(英語版)で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エラの母親もオランダ貴族の出身だった。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている。 ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた。その後二人はイギリスでの生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた。 結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔 がいるのを発見し、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある。 ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。1939年6月、正式に離婚が成立している。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。その後もスイスの自宅で会っている。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズ(英語版)には娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた。 ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、デン・ハーグにいる父親のもとで過ごすことも多かった。1937年に幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはイーラム (Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、またバレエにも通い始めた。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ近郊へと身を寄せた。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。 1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていた。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。 1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた。ただしヘプバーンの170cmという身長と、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した。 ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアターで上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた。1950年に映画に出演するようになり、『素晴らしき遺産』、『若気のいたり』、『ラベンダー・ヒル・モブ』、『若妻物語』といった作品が1951年に公開された。1951年2月にはソロルド・ディキンスン(英語版)の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる。 1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言ったという有名なエピソードがある。 『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定した。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件でパラマウント映画社と契約した。 『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター(英語版)で初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード(英語版)を受賞している。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された。 1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。 製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった。しかしペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。 『ニューヨーク・タイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。 『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語である。『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。 『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。 そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 演劇主演女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。 ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。 ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。 1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。 この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている。どちらも1957年に公開された。 1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『マイヤーリング』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している。 また、ヘプバーンは、1957年にアンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした映画作品への出演依頼を受けた。監督のジョージ・スティーヴンスの頼みでアンネの父、オットー・フランクが出演を説得するためにオードリーに会いに来たが、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている。最終的に映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。 1958年に入るとピーター・フィンチと共演した『尼僧物語』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した。公開されるとワーナー・ブラザーズ映画史上最大のヒットとなった。ヘプバーンはこのルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。 ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『緑の館』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。監督は当時ヘプバーンの夫であったメル・ファーラーだった。 1959年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇『許されざる者』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターやリリアン・ギッシュが演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩するという役である。 ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年10月に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている。 映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている。 ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている。 ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」と言われている。 後年のヘプバーンの伝記では、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなどで撮影現場の雰囲気や状況が悪化し、撮影日数が遅れたと書かれている。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている。ヘプバーン自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている。 ヘプバーンは続いて『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目の英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。 1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザ・ドゥーリトルを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、製作のジャック・L・ワーナーがアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った。ジャック・L・ワーナーは1700万ドルというワーナー映画史上最大の制作費を回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った。しかしジャック・L・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラーに役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた。 ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。 映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるということが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨーク・タイムズ』紙で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・L・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている。 ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている。キャサリン・ヘプバーンはすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている。ジュリー・アンドリュースや共演者レックス・ハリソンもヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようという運動まで起こっているが、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『メリー・ポピンズ』でのジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した。 このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた。 ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『おしゃれ泥棒』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。 1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『いつも2人で』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったと言っている。そして多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている。 1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている。 ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。 1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている。 1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった。共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した。 ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1980年に撮影されたコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され、その上、配給を予定していた20世紀フォックスが出来上がりに不満を示し、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が自ら買い戻した。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。 テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演のロバート・ワグナーがヘプバーンが欠かさず見ていた『探偵ハート&ハート』の出演者であり、グシュタードの別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである。 ヘプバーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『オールウェイズ』の天使の役でのカメオ出演の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった。 それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。 ヘプバーンは指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスに請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った。それはヘプバーンが『アンネの日記』からの抜粋を朗読し、トーマスのオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成するという試みだった。ヘプバーンはそれまでアンネ・フランクを演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている。 PBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞(Outstanding Individual Achievement – Informational Programming)を受賞した。 1992年5月には2つの録音を行なっている。1つはラロ・シフリンが指揮をするサン=サーンスの『動物の謝肉祭』で、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語(英語版)』では、グラミー賞の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。 ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫、責任を感じてアメリカに逃げてしまった。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった。 1950年に『ラベンダー・ヒル・モブ』撮影直後にヘプバーンは男爵ジェイムズ・ハンソン(英語版)と知り合いすぐに恋に落ち、1951年12月には婚約した。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある。 ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている。 1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったと言われている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており子供ができないことを告げられ、これによりヘプバーンが別れを切り出したと言われている 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っているという噂も耳にしていたとも言っている。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている。 母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのビュルゲンシュトックで結婚した。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。 結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになった。「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している。 ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。 それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中からまた離婚説が囁かれるようになった。 その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産、1967年7月にまたもや流産となってしまった。 そして1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている。最終的に二人は1968年12月に離婚し、二人の結婚は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。 ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある「ラ・ペジブル」という家を購入。息子ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは2007年10月に消化管内視鏡検査の合併症で死去している。 ドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期に、友人を介してオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと知り合い、1980年から死去するまで恋愛関係にあった。ドッティとの離婚が成立するとヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めた。ウォルダースは妻マール・オベロンと死別していたが、ヘプバーンと正式に結婚することはなかった。ヘプバーンは1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。 また、1984年8月26日にはスイスの自宅「ラ・ペジブル」で母エラが亡くなっている。ヘプバーンを厳しく育て、ヘプバーンの父ジョゼフと同じように愛情を表すのが苦手だった。『パリの恋人』で知り合って以来、脚本家のレナード・ガーシュは母エラと友達であったが、「エラは素晴らしいユーモアのセンスを持っていたし、オードリーもそうだった。残念なことに母と娘が一緒にユーモアを楽しむことがなかった」しかし「エラは娘を心から愛していた」と語っている。またロバート・ウォルダーズも「母親は感情を外に出すことができずに苦しんでいたのだと思う」「娘本人に対してはそれができなかった」と述べている。 1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演した。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった。 1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た。 次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった。 マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなった。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている。 第二次世界大戦後にユニセフの前身の UNRRAに助けられ、その後女優として大きな成功を収められた経験から、残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会い、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロートは「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている。 ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、ユニセフ親善大使の任命の発表から2週間と経たない1988年3月のエチオピアへの訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレの孤児院を慰問した。 ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた。ベネズエラとエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラでそれぞれの大統領と面会している。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環としてスーダンを訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた。国連の報道写真家、ジョン・アイザック(英語版)は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した。 死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」。 1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与することとなった。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った。 1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査のため10月にロサンゼルスへと渡った。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。そして11月1日、手術が行われた。 病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている。 術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った。傷口が塞がってから抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸による化学療法が始まった。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した。 ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール...本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた。 出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ腹膜炎を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻やジェームズ・スチュワートという親しい友人に会って最後の別れを告げた。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている。 翌12月20日にロサンゼルスを出発。ジェット機には医師と看護師が付き添った。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知ったという。 クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じたという。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている。 スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくるパパラッチのために諦めないといけないことがあった。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった。ヘプバーンは最後の贈り物としてキルトのコートを買い、ジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた。 病が進行するにつれて次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間はいっときに数分以上起きていられなかったという。そして1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った。 ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子(英語版)が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーアらが参列した。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ......でもこれまでとは違うやり方でね』」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された。 ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。 ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが、書籍によって内容が凄まじく異なっている。中にはヘプバーンに直接インタビューをした「公認の伝記」と偽って出されたものまであるが、ウォルダーズは「オードリーが話をしたことは絶対に無い」「詳細な記録もつけているし、泊まったホテルの電話の記録まで取り寄せた。その時期にはヘプバーンには死期が迫っていた」と語り、息子二人とウォルダーズに訴訟を起こされたものまである。 ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。 ヘプバーンは世界で唯一日本にだけ、新しく撮り下ろしたテレビCMに出演した。1971年(日本エクスラン工業のエクスラン・ヴァリーエ)・82年(株式会社ワールドの銀座リザ)と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された。 既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリンの午後の紅茶のCMに採用されていたほか、2005年〜2007年には三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。 アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシーの広告に使用された。 ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドといった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった。映画監督ビリー・ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った。 しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいたそれ以外にも歯並びが悪く、鼻孔が広いのを気にしていた。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった。 ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーのマイケル・コースは「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている>。 ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装はイーディス・ヘッドの担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した。 パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。 後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している。 ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている。 イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモとは1954年から親交があり、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル(Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会が開かれ、2000年〜2001年には日本各地を巡回した。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している。) またヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、ヴァレンティノ・ガラヴァーニを紹介してもらい、友人となっている。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装はヴァレンティノのものである。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという。 ヘプバーンは晩年にはラルフ・ローレンの服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている。1991年、リンカーン・センター映画協会の「オードリー・ヘプバーンをたたえる夕べ」で、ラルフ・ローレンはファションに及ぼしたヘプバーンの並外れた影響力について話している。「オードリー・ヘプバーンの名はあらゆる雑誌編集者やファションに従事するものによって、おそらく絶えず口にされているはずです。“すごくオードリーだ!”という形で」「こういう表現をオードリーが聞いたことがあるかどうかわかりませんが、ジバンシィは聞いたことがあるはずです」と述べて喝采を浴びた。 2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない。 2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された。 『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。詳細は『オードリー・ヘプバーンの受賞リスト(英語版)』を参照。
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7,307
工作機械
工作機械(こうさくきかい、英: machine tool)は、金属、木材、石材、樹脂等に切断、穿孔、研削、研磨、圧延、鍛造、折り曲げ等の加工を施すための機械である。一般に加工対象物または工具の運動(回転または直線移動)によって、加工対象物を削り取り目的の形状に加工する。工作機械を構成する要素は3つあり、加工対象物または工具に運動を与える動力、動力を特定の運動に変える案内機構、加工対象物を削り取る加工工具からなる。 おもな工作機械として、旋盤、ボール盤、中ぐり盤、フライス盤、歯切り盤、機械研削盤などがある。 近年では、数値制御を行うNC加工(コンピュータ数値制御)で、機械加工を自動化した工作機械が主流である。これらの機能を搭載した工作機械は「マシニングセンタ」「ターニングセンタ」などと呼ばれている。 工作機械を製造する工業を「工作機械工業」という。
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7,308
界面
界面(かいめん、英: interface)とは、ある均一な液体や固体の相が他の均一な相と接している境界のことである。この「他の均一な相」が気体もしくは真空であるとき、界面を特に表面(surface)とよぶ(例外もある)。ただし、お互いが完全に混ざり合うことはしない(混ざり合うと界面でなくなる。ただし、界面付近数原子層程度で互いの原子からなる化合物を形成する場合はある)。界面は気相と液相、液相と液相、液相と固相、固相と固相の二相間で形成される。界面を構成する分子・原子は、界面を挟んでいる相から連続的に続いているにもかかわらず、相内部とは性質が異なり、膜のようなはたらきをする。たとえば界面では光線が反射や屈折、散乱、吸収を起こし、界面間には界面張力がはたらく。 エレクトロニクス産業の要請によって固体材料の薄膜やナノテクノロジーを研究する科学分野が重要性を帯びており、特に固体同士の界面は固相界面と呼ばれて界面研究の重要分野となっている。単に界面といえば固相界面を指す場合が多い。 学問上は界面化学および表面物理学で取り扱われる。 理想気体のように分子相互作用(分子間力や静電気力など)がなく凝縮しない場合には、複数の成分を混ぜ合わせても、乱雑さ(エントロピー)が増大する方向に自発的に変化する、つまり混合して均一となる。しかし、分子間相互作用があり、凝縮相となる実在分子において、異種分子間の相互作用より、同一種分子間の相互作用のほうがはるかに強いとき、混合するよりもそれぞれが相分離して、同一種同士の相互作用で安定化するほうが有利となる。このとき、相分離した二つの相の境界が「界面」である。例えば、水分子同士には分子間力よりかなり強い水素結合が働く。油の分子同士では互いに弱い分子間力しか働かない。ゆえに、水は水分子同士で固まっていたほうが安定であり、水と油は混ざり合わないのである(ただしそれでも超音波細動などで水素結合を切って分子レベルで均一にすることはできる)。 界面近傍の分子は、周囲を取り囲む同一種分子の総数が内部より少なくなるために、同一種分子の相互作用で安定化されている内部の分子より自由エネルギー的に不利な状態になる。つまり、内部と比べて過剰の自由エネルギーをもつことになり、これを界面自由エネルギー(interfacial free energy)という。この界面自由エネルギーを低下させるために、界面はできる限り小さくなろうとする。これが界面張力(interface tension)であり、単位面積当たりの界面自由エネルギーとなる。気体との界面の場合は表面張力という。 表面が曲率を持つ場合、その表面の持つエネルギーの効果はヤング・ラプラスの式や、蒸気圧に関するケルビン方程式によって表される。 界面自由エネルギーは分子間相互作用による安定化が界面近傍で低下することによる。このため、相分離する二つの成分のそれぞれの化学構造に類似した構造を一つの分子中に併せもつものが界面に並ぶことにより、この高エネルギー状態を緩和することができる。このような物質を界面活性剤という。水と油のように互いに混合せず相分離する系ではそれぞれ水および油に親和性のある親水基と親油基を一つの分子中に併せもつ、つまり両親媒性構造をもつものが界面活性剤となる。 単一の元素で構成される物質の、ほぼ無限につながるバルク内部での各原子間に働く力や距離は、全く同一であるが、劈開(へきかい)などによってきれいにそろった分子の層が表面に現れた時、それまで前方向に等しく働いていた力の均衡が変わって、第2層目にある分子が少し内側へとずれて、最も外側の層にある分子との距離がひらく。これは表面緩和と呼ばれ、本来さらに外側にあった分子が無くなることで2層目の分子が受ける外向きに働く力が弱くなったために起こる現象である。説明のためにきれいにそろった表面としたが、そろっていなくとも同様の現象は起こる。 また、金属原子で構成される表面付近では、金属原子同士を結び付けている電子の自由電子が表面から内部に引き込まれているために、正確には表面近くでの自由電子の存在確率が低くなっているために、金属原子も引きずられて少し内部に変位している。このため金属表面付近の原子層の間隔はバルク内部に比べて小さくなっている。表面緩和や金属原子表面での原子層間隔の縮小は清浄な表面での現象であり、これらの表面に他の原子・分子が付着すれば結果は異なってくる。 固相・気相・液相の3相が接する場所では、濡れと呼ばれる現象が生じる。
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電子状態
電子状態(でんしじょうたい)または電子構造(でんしこうぞう)とは、物質(原子、分子なども含む)における電子の状態のこと。 「電子状態」「電子構造」に相当する英語としては、"electronic structure"、"electronic state(s)"、"electronic property" などがある。 電子状態間の遷移を電子遷移(でんしせんい)という。 電子の状態を表す形式が様々考えられている。 具体的な電子の状態として、電荷密度(電荷分布)、バンド構造(あるいは電子の準位)、磁気構造(あるいは電子のスピンの状態)、フェルミ面、状態密度、原子間の結合の状態(電荷分布と関係)などが挙げられる。これら以外にも電子状態を示す様式は、数多く存在する。 「電子状態」と「電子構造」は通常は同義と考えてよいが、場合によってその意味合いが微妙に異なることがある。 電子状態の間の遷移を電子遷移という。 分子が電磁波を吸収すると内部エネルギーが増大する。このエネルギーの増加は光量子のエネルギー Δ E {\displaystyle \Delta E} に等しく、次の関係で示される。 ここで h はプランク定数、 ν {\displaystyle \nu } は電磁波の振動数、 λ {\displaystyle \lambda } は電磁波の波長、c は光速度である。 分子は電磁波を吸収したことによって電子状態に変化が生じる。具体的には電子エネルギー、振動エネルギー、回転エネルギーに変化を起こす。最もエネルギーの低い電子状態は基底状態と呼ばれ、それより高い電子状態は励起状態と呼ばれる。基底状態、励起状態にはいくつかの振動準位があり、各振動準位にもいくつかの回転準位がある。多くの分子で遠赤外、マイクロ波のようなエネルギーが低い電磁波を吸収したとすると回転状態のみに変化が生じ、中・近赤外程度であれば振動、回転状態に変化が生じる、可視光線および紫外線の場合には電子、振動、回転状態に変化が生じることになる。 遷移確率はフェルミの黄金律で表される。始状態は光子数nkv で電子系が状態i である状態 | i , n k v ⟩ {\displaystyle |i,n_{kv}\rangle } 、そして終状態は光子数nkv - 1 で電子系が状態f である状態 | f , n k v − 1 ⟩ {\displaystyle |f,n_{kv}-1\rangle } である。 光吸収は、電子と光の相互作用によって起こる。 これをフェルミの黄金律に代入することで次を得る。 ここで光の波長は電子系の大きさよりもずっと大きいとして、 e ± i k r ≃ 1 {\displaystyle e^{\pm ikr}\simeq 1} と近似する(双極子近似)。すると双極子モーメント P = − e r {\displaystyle {\boldsymbol {P}}=-e{\boldsymbol {r}}} を用いて次のように書き換えられる。 よって光吸収における遷移確率は、遷移双極子モーメント ⟨ f | P | i ⟩ {\displaystyle \langle f|{\boldsymbol {P}}|i\rangle } の二乗に比例する。すなわち遷移がおこるためには入射光の偏りがベクトル P {\displaystyle {\boldsymbol {P}}} の方向に成分を持つことが必要である。 ⟨ f | P | i ⟩ {\displaystyle \langle f|{\boldsymbol {P}}|i\rangle } が有限の値を持つ場合は許容遷移と呼ばれ、0の場合は禁制遷移と呼ばれ、遷移についての選択律が存在する。 分子の電子状態が光学遷移を起こすためには以下のような選択律が存在する。選択律に従って起こる遷移は許容遷移とよばれ、ルールに従っていない遷移は禁制遷移とよばれる。しかし、禁制遷移であっても分子内、分子間の摂動により遷移がおこることがある。
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絶対零度
絶対零度(ぜったいれいど、Absolute zero)は、絶対温度の下限で、理想気体のエントロピーとエンタルピーが最低値になった状態、つまり 0 Kを表す。セルシウス度(摂氏)で −273.15 °C、ファーレンハイト度(華氏)で −459.67 °Fである。 絶対零度は最低温度とされるが、エンタルピーは0にはならない。統計力学では0 K未満の負温度が存在する。 温度は、物質の熱振動をもとにして規定されているので、下限が存在する。それは、熱振動(原子の振動)が小さくなり、エネルギーが最低になった状態である。この時に決まる下限温度が絶対零度である。古典力学では、エネルギーが最低の状態とは、原子の振動が完全に止まった状態である。 ただし量子力学では、不確定性原理のため、原子の振動が止まることはなく、エネルギーが最低の状態でも零点振動をしている。 熱力学第三法則によれば、ある温度(0 Kよりも大きい温度)をもった物質を、有限回の操作で絶対零度に移行させることはできない。 絶対零度に近い極低温では、より温度の高い状態では見られない現象がいくつか知られる。それらを扱う分野を低温物理学という。 理想気体においては、状態方程式により0Kで圧力または体積が0となる。 ギヨーム・アモントンは温度計の研究の際に気体の温度と圧力の関係を調べて、空気の温度を下げていくと、ある温度で圧力がゼロになるはずだとの判断を得た。彼はその温度を −240 °C と推定した。彼は、圧力がマイナスの値をとれないことから、温度に何らかの下限があるのだと考えた。後にジャック・シャルルとジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックがこれをさらに進めてシャルルの法則を発見し、このときに絶対零度は −273 °C であることが示された。 1935年、木下正雄と大石二郎が気体温度計を用い、絶対零度が−273.15°Cから−273.16°Cの間であるとの結果を得た。また、1938年にはより高精度な等温線法を開発し、同様の結果を得た。 1954年、第4回国際度量衡委員会において、等温線法の利点が理解され、二人の導き出した−273.15°Cが絶対零度として定められた。 (第4回委員会では、水の三重点が273.16Kと定められた。水の三重点は摂氏0.01°Cであり、0.01−273.16=−273.15により、自動的に絶対零度は−273.15°Cと定められる)
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SARSコロナウイルス
SARSコロナウイルス(サーズコロナウイルス、英: Severe acute respiratory syndrome coronavirus, SARS-CoV)は、一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、SARS関連コロナウイルス (SARSr-CoV) に属するコロナウイルスである。中華人民共和国から発見され2003年に流行した重症急性呼吸器症候群 (Severe acute respiratory syndrome = SARS) の病原体として同定された。通称 SARSウイルス。飛沫感染により広がるとみられている。 当初、中国政府の対応の遅れにより中華人民共和国外でも多数の感染者と死者が確認された。その後もアジアやカナダ、アメリカ合衆国を中心に感染拡大、2003年3月12日に世界保健機関(WHO)からグローバルアラートが出され、同年7月5日に終息宣言が出されるまで、32の地域と国にわたり8,000人以上の感染者を出した。研究結果によると60歳以上の致死率は50%を超えていたと発表されている。 また、日本での感染者は確認されなかった。感染は終息しているものの、SARSコロナウイルスに効果があるワクチンは2023年現在でも開発されていない。 感染後、数日間は無症状のままだが、徐々に発熱や咳、筋肉痛のような痛み、痺れが現れるとされている。病状とともに進行するリンパ球減少、血小板減少、APTTの延長、LDH上昇、血清電解質の異常などが複数の研究により報告されている。 患者の早期発見と隔離、接触者の隔離や検疫以外に有効な予防措置がない。呼吸器感染症の一般的な予防策としては、マスク着用や手洗いとうがい、消毒をこまめにする方法がある。 中華人民共和国広東省を起点とし、2003年3月頃から大流行の兆しを見せ始めた。重症急性呼吸器症候群の原因が『新種のウイルスである』可能性は、2002年11月頃から指摘されていた。
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サバ亜目
サバ亜目(学名:Scombroidei)は、サバ目に所属する魚類の分類群の一つ。現生種としてサバ科・タチウオ科・クロタチカマス科など、6科46属147種が記載される。マグロ・カジキに代表される、遊泳性の大型肉食魚を多く含むグループである。 サバ亜目の魚類はすべて海水魚で、沿岸から外洋にかけての表層、あるいは深海にまで分布する。カマス科・サバ科の一部は汽水域に進出することもあるが、淡水域に入ることはごくまれである。ほとんどの種類が世界各地で食用魚として利用され、サバ・マグロなど多量に漁獲される水産重要種も数多く含まれる。 本亜目には非常に速く遊泳することができる魚種が多く、クロマグロ・メカジキ・バショウカジキの遊泳速度は短時間ながら最高で時速60-100kmに達する。マグロ類など一部の仲間は内温性を獲得しており、代謝熱によって比較的高い体温を維持することができる。 サバ亜目魚類の生態は科によって異なり、表層遊泳性のカマス科・サバ科・メカジキ科・マカジキ科、深海中層を遊泳するクロタチカマス科、深海底生性のタチウオ科に大きく分けられる。 サバ科の仲間は季節的な回遊を行うものが多い。また、クロタチカマス科やタチウオ科の一部では昼は深海に潜み、夜間に海面近くに浮上する日周鉛直移動がみられる。食性は一般に肉食性で、動物プランクトン・魚類・甲殻類・頭足類などを捕食する。 サバ亜目の仲間はサバ科のように遊泳に適した紡錘形の体型をもつものと、タチウオ科のように細長く側扁したリボン状のものに分けられる。成魚の全長は、数十cm程度のサバ類から4mを超すタイセイヨウクロマグロまで種類によってさまざま。スズキ目の中でも比較的大型の魚が多く、全長1mを超えるものも珍しくない。 成魚の顎は上下とも前方に尖り、種類による長短の違いはあるが吻が形成される。前上顎骨は固定され、上顎を前方に突き出すことはできない。これは大型の獲物を捕食するために、二次的に獲得された形質であると考えられている。歯は強固に直立し、クロタチカマス科・タチウオ科・サワラ類などでは 牙のように鋭く発達する。一般に目も大きい。鱗は退化傾向にあり、小さな円鱗か櫛鱗、もしくは骨質変形鱗である。 現生のサバ亜目は6科46属147種で構成される。化石種のみの絶滅群として、Blochiidae 科(始新世)および Palaeorhynchidae 科の2科が知られ、前者はメカジキ科に近いグループであると推測されている。 本亜目の構成には議論が多く、カマス科を独立のカマス亜目 Sphyraenoidei として除外する見解もある。また、カジキ類2科(メカジキ科・マカジキ科)については、単一の「メカジキ科」にまとめる場合もあるほか、近年ではカジキ亜目 Xiphioidei としてサバ亜目から分離させる意見も多くなっている。 ムカシクロタチ科とアマシイラ科はかつて本亜目に所属していたが、両者が実際にサバ亜目の一員であるかについては見解が分かれている。ムカシクロタチ科はムカシクロタチ Scombrolabrax heterolepis 1種のみで構成される単型で、クロタチカマス科に類似した形態をもつ一方でスズキ亜目に近い部分もある。Nelson(2006)の体系では独立のムカシクロタチ亜目 Scombrolabracoidei として分類されている一方で、サバ亜目の内部に位置付ける体系も存在する。また、カジキ類と近縁であると考えられていたアマシイラ科(アマシイラ Luvarus imperialis のみを含む)は、近年の詳細な形態学的解析によりニザダイ亜目との関係が強く示唆されている。 亜目内での分化については、沿岸性の原スズキ型魚類からまずカマス科・クロタチカマス科が分化し、クロタチカマス科からさらにタチウオ科とサバ科に分岐したと考えられている。 カマス科 Sphyraenidae はカマス属 Sphyraena 1属のみからなり、アカカマス・ヤマトカマス・オニカマスなど21種を含む。沿岸性が強く、浅海で群れを成して泳ぐ。 体は前後に細長い槍型で、吻が長く尖る。大きい口には鋭い歯が並ぶ。背鰭は2つで互いによく離れ、尾鰭の前に小離鰭はもたない。 クロタチカマス科 Gempylidae にはクロシビカマス・バラムツ・アブラソコムツなど16属24種が記載される。深海中層性だが、夜には浅海へ上がるものもいる。 背鰭は棘条部が前後に長く、腹鰭は退化的である。背鰭は棘条部と軟条部に分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ。側線が体側の上下に分かれるものもいる。 タチウオ科 Trichiuridae はタチウオ・タチモドキ・ヒレナガユメタチなど3亜科10属39種で構成される。深海底での生活に適応し遊泳力は比較的低いが、夜には浅海へ浮上するものもいる。 体はリボン状で、背鰭は棘条部と軟条部が連続し、小離鰭を欠く。腹鰭と尾鰭は退化傾向が強く、種類によっては消失する。 サバ科 Scombridae にはマサバ・サワラ・カツオ・マグロなど多数の水産重要種が所属し、2亜科15属51種が記載される。沿岸から外洋にかけての表層から中層を遊泳して生活する。クロマグロの遊泳速度は非常に高く、メカジキやバショウカジキと並んで魚類の中でもトップクラスである。 背鰭は2つに分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ。明瞭な鱗をもつウロコマグロ亜科(ウロコマグロ1種のみ)と、微小な鱗しかもたないサバ亜科に細分される。 メカジキ科 Xiphiidae はメカジキ Xiphias gladius のみ、1属1種。世界中の熱帯・亜熱帯の外洋に生息する。本科魚類はマカジキ科を含めた2科と合わせ「カジキ」と総称され、さまざまな形態学的特徴を共有する。両グループが姉妹群の関係にあることは広く認められているが、1つの「メカジキ科」にまとめるか2科に分割するかは見解が分かれている。 上顎が槍状あるいは剣状に著しく伸長し、吻は上下に平たい。成魚は顎の歯・腹鰭・鱗を欠く。 マカジキ科 Istiophoridae は3属11種からなる。暖海の表・中層性で遊泳力が高く、全長1mを超える大型魚が揃う。詳細はカジキを参照のこと。 吻は丸く筒状に伸び、成魚は顎の歯・腹鰭・鱗をもつ。3属の分類は、背鰭前半部の高さと体高との関係に基づいている。
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森正
森 正(もり ただし、1921年12月14日 - 1987年5月4日)は、日本の指揮者・フルート奏者。日本指揮者協会設立メンバー。 初めはフルート奏者として盛んに活動、尾高尚忠にフルート協奏曲の作曲を委嘱し初演するなど、吉田雅夫と並ぶ名手として知られた。その後、指揮者に転向し、東京交響楽団、藤原歌劇団の指揮、京都市交響楽団常任指揮者、九州交響楽団常任指揮者、東京都交響楽団音楽監督兼常任指揮者、名古屋フィルハーモニー交響楽団音楽総監督・理事を経て、NHK交響楽団の正指揮者となる。二十世紀音楽研究所にも参画している。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団永久名誉指揮者。 藤原歌劇団や二期会とともに数多くのオペラ上演を行い、1957年伊庭歌劇賞。大河ドラマのテーマ曲指揮や、NHK教育テレビ『フルート教室』講師での出演、『オーケストラがやって来た』ゲスト出演など、放送関係の仕事にも多く携わり、1980年NHK放送文化賞。1984年紫綬褒章。 録音については、日本人作曲家による現代音楽を数多く初演するなどしてその録音を遺している。そのため作曲者メインのアルバムか、ソリストメインのアルバムに収録されていることがほとんどである。 大河ドラマのテーマ曲指揮やNHKのオムニバス盤も数多く存在するが、それらを除いて森個人がメインとなってるアルバムは、2020年現在、 の僅か2枚のみ。 また、フルート奏者として以下のSP録音がある。 その他、 東北放送開局10周年記念盤「東北の調べ」 東京交響楽団 東芝音工 ORS2 伊藤京子「魅惑のオペラ・アリア集」 東芝コンサート・オーケストラ EMIミュージック・ジャパン 江樺 オペラ・アリア集(1978年1月18-19日録音、ヴェルディ/プッチーニ/ポンキエッリ/ボーイト)名古屋フィルハーモニー交響楽団 ナクソス 8.225853(ダウンロードのみ) 宮原卓也「声の変遷」オペラアリア集 東京フィルハーモニー交響楽団 ライヴノーツ WWCC-7578 海野義雄「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」東京都交響楽団 CBS SONY:SOCZ 30~32 東京音楽大学の自主制作LPが複数種あるなど、オムニバスや未発売の音源を含めると世に出ていないものも合わせて更に膨大な録音を遺している。
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新型肺炎
新型肺炎(しんがたはいえん)
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ロンドン
ロンドン(London [ˈlʌndən] ( 音声ファイル)(ランドン))は、イギリスおよびこれを構成するイングランドの首都。イングランドの9つの地域(リージョン)のひとつ。 イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に相当する地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイル(2.6km)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンでは市街地の大部分がコナベーションにより形成されている。 グレーター・ロンドンでは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われ、域内はシティ・オブ・ロンドンと32のロンドン特別区から成る。 ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のオリンピック開催にともない、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。 ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7パーセントを占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる827万8,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1,200万人から1,400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界でもっとも外国人旅行者が訪れる都市である。 イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。 「ロンドン」の語源ははっきりとしていない。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年にロンディニウムの記録があり、ローマ・ブリトン文化が起源である。最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史である。名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている。 1898年以降は「Londinosと呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている。1998年、言語学者のリチャード・コーツ(英語版)は古ケルト語の(p)lowonidaを語源とする説を提示した。(p)lowonidaとは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。ケルト語の形でLowonidonjonとなり、これが集落名になったとした。しかしながら、この説は大きな修正を必要とした。可能性としてウェールズ語の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であるという可能性も排除できない。 1889年まで"London"の名称は公式にはシティ・オブ・ロンドンにのみ適用されていたが、カウンティ・オブ・ロンドン(英語版)を表すものとなり、現在ではグレーター・ロンドンを表すものとなっている。 漢字表記は「倫敦」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある。現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「lundun」で、龍動は「longdong」となる。龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。 ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された。この開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた。また一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。 その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。 最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。 5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィック(英語版)で知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた。ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年にアルフレッド大王がデーン人の指導者であるガスラム(英語版)とウェドモーアの和議を締結するまで続いた。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターのオールドウィッチにその名を残している。10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。 11世紀、エドワード懺悔王はウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる。1066年、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は同年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位した。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちのロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した。1097年、ウィリアム2世はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した。12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12 -13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に1万8,000人、1300年までには10万人ほどにまで成長していた。 14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年、ワット・タイラーの乱が発生した。 テューダー朝の時代、宗教改革にともなうプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ。ネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。イタリアや地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。1565年のオランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした。1566年、王立取引所が設立された。重商主義は進展し、イギリス東インド会社をはじめとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。1530年の人口は推計で5万人、1605年には22万5,000人に上昇した。 16世紀、ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した。17世紀初頭や1665 - 1666年にはペストが流行し、10万人または人口の5分の1が死亡した。1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した。建築家ロバート・フック指揮のもと、ロンドン再建に10年の歳月を要した。1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアをはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。 1762年、ジョージ3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズ(英語版)が設立された。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた。コーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのにともない、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。 1777年のサミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」 1831年から1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会(英語版)になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。 1951年、フェスティバル・オブ・ブリテン(英語版)がサウス・バンクにて開催された。1952年に発生したロンドンスモッグの対応策として、1956年に大気浄化法 (1956)(英語版)が制定され、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。 主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリート(英語版)といった地域ではスウィングロンドン(英語版)といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年のブリクストン暴動(英語版)では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。ドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港(英語版)やティンバリー港(英語版)に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。 1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリア(英語版)が完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された。2012年、第30回オリンピックが開催された。1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。 アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された。 2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される。 グレーター・ロンドンは、シティ・オブ・ウェストミンスターを含む32の特別区とシティ・オブ・ロンドンにより構成されている。グレーター・ロンドンは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により構成されている。ロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。グレーター・ロンドンの本庁はサザークのシティーホールにあり、現在の市長はサディク・カーンである。市長の法定戦略計画はロンドンプラン(英語版)として公開され、最新のものは2011年に改訂されている。 グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。 特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、社会福祉援助、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。ゴミ収集のような行政サービスはロンドン清掃事務当局(英語版)等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。2009 - 2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった。 グレーター・ロンドンの治安はロンドン市長公安室(英語版)下のロンドン警視庁により担われている。シティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構であるロンドン市警察を有している。イギリス鉄道警察はロンドンのナショナル・レールやロンドン地下鉄に関してその責任を有している。 ロンドン消防庁はイギリスの消防に関する法律により、ロンドン消防・緊急事態計画局(英語版)のもと、グレーター・ロンドンを管轄する、世界で5番目に大きな消防組織である。救急はロンドン救急サービス(英語版)(LAS)により担われ、無料の救急車サービスでは世界で最大規模である。ロンドン航空救急(英語版)はLASと連携して慈善で運営されている。イギリス沿岸警備隊と王立救命艇協会はテムズ川で運用されている。 ロンドンはイギリス政府の首都としてウェストミンスター宮殿周辺に官庁が多く集まっている。特にホワイトホール沿い界隈に集中しており、首相官邸のダウニング街10番地も含まれる。イギリス議会は「議会の母(Mother of Parliaments)」と呼ばれ、この愛称は最初にイングランド自体にジョン・ブライトが用いた。議院内閣制のモデルである。 グレーター・ロンドンは一番上の行政機構で、特別区がそれぞれロンドンをカバーしている。小さい範囲のシティ・オブ・ロンドンはかつてすべての範囲の街区が含まれていたが、都市地域の成長によりシティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)により郊外との合体が試みられた。それぞれ異なった目的により「ロンドン」が定義され、かつて法的に議論された。グレーター・ロンドンの40パーセントはロンドン郵便カウンティ(英語版)によりカバーされ、郵便の住所では 'LONDON'の範囲を構成している。 ロンドンの市外局番は(020)でグレーター・ロンドンと同じように広範囲をカバーし、外側の地区のいくつかは外れるがグレーター・ロンドンの外の地区のいくつかは含まれている。M25モーターウェイの内側が通常、ロンドンとみなされ、グレーター・ロンドンの範囲は変化している (en) 。市街地の拡張は現在、メトロポリタン・グリーンベルト(英語版)により防がれているが境界を越えて市街地は広がっており、グレーター・ロンドン都市的地域と定義が分かれる。超えた範囲は広大なロンドンコミューターベルト(英語版)になっている。 グレーター・ロンドンはいくつかの目的によってインナー・ロンドンとアウター・ロンドンに分かれている。シティはテムズ川によりノース・ロンドンとサウス・ロンドンに分けられ、形式的にセントラル・ロンドンはその内側にある。ロンドンの中心はもともとチャリングクロスのエレノア・クロス(英語版)でウィンチェスターとトラファルガー広場の結合する部分の近くに位置し、北緯51度30分26秒 西経00度07分39秒 / 北緯51.50722度 西経0.12750度 / 51.50722; -0.12750である。 シティ・オブ・ロンドンとシティ・オブ・ウェストミンスターはシティステータスを有し、シティ・オブ・ロンドンはグレーター・ロンドンとは別個の典礼カウンティとして残っている。現在のグレーター・ロンドンには、かつてのミドルセックス州、ケント、サリー、エセックス、ハートフォードシャーが編入されている。 ロンドンの、イングランドやのちのイギリスの首都としての地位は法律や書物には認められない。しかしその地位は、憲法会議を通してイギリスの憲法で実質的な首都として制定されている。12世紀と13世紀にかけて、イングランドの首都は、ウェストミンスター宮殿の開発の進展によりウィンチェスターからロンドンへ王宮が恒久的に移されてから、国家の政治の中心たる首都となった。 グレーター・ロンドンは1,583平方キロメートル (611 sq mi) の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/km。より広い範囲はロンドン大都市圏またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は 8,382平方キロメートル (3,236 sq mi) で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/kmである。現代のロンドンはテムズ川河畔に位置する。テムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。テムズ低地(英語版)は氾濫原で周辺部はなだらかな丘陵地である。その中にはパーラメント・ヒル(英語版)やアディントン・ヒル(英語版)、プリムロズ・ヒルが含まれる。テムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた。南西部のヒースロー空港近辺のテムズ川本流付近の貯水池群と砂利採取場跡はオカヨシガモとハシビロガモの生息地で、2000年にラムサール条約登録地となった。 ヴィクトリア朝以来、テムズ川は広い堤防が築かれ多くのロンドンの支流は現在地下を流れている。テムズ川は潮の流れの影響を受ける川で洪水による被害を受けやすい。この脅威は時間と共にゆっくりと継続的に高い潮汐レベルで増す。これは緩やかに傾いたイギリスの後氷期地殻均衡復元(英語版)による。1974年に脅威を防ぐため10年計画でウーリッジでテムズ川を横切るテムズバリア(英語版)の建設が始まった。バリアは2070年まで機能するように設計され、さらなる拡張や再設計の話し合いがすでに行われている。 典型的な西岸海洋性気候で、イギリス南部の多くの地域と同様である。日本と比べると暖候期である春から夏の気温が低いため、相対的に秋から冬にかけての季節が長く感じられるが、年間を通してみると温和な気候である。冬は比較的寒いが、1月の気温を平均すると約6°Cで日本の東京や大阪とほぼ同じで緯度の割に寒くない。しかし、日々の変動が大きく、最低気温が8~9°Cとなる日もあれば最高気温が1~2°Cとなることも珍しくない。また冬の日照時間は短く曇りの日が続く。霜が郊外で11月から3月にかけ平均2週間発生する。降雪は通常、4-5回12月から2月にかけ発生し、大雪となっても10cm程度である。3月や4月に雪が降ることは希であるが、2-3年毎に見られる。冬の気温は−4 °C (24.8 °F) 以下や14 °C (57.2 °F) 以上を超えることは滅多に起こらない。比較的近い北極や北欧方面からの寒波の影響を受けることがあり2010年の冬には郊外のノーソルトで−14 °C (6.8 °F)の最低気温を記録し、20年に一度の大雪も見られロンドンの交通機関は大きく混乱した。 夏は日本の夏より気温が低く、盛夏でも夜には15°Cを下回りコートが必要になることがある。時折暑くなることもあるが、30°C以上となることは少ない。ヒートアイランドによりロンドンの中心部では気温が郊外に比べ5 °C (9 °F) も高い。ロンドンの夏の平均気温は 24 °C (75.2 °F) で、年に7日は 30 °C (86.0 °F) を超え2日は32 °C (89.6 °F) を超える。気温が26°C(80 °F)を超えることは6月半ばから8月後半にかけて見られる。大陸からの熱波の影響を受けることがあり、2003年の欧州の猛暑では14日間連続で気温が 30 °C (86.0 °F) を超え、2日連続で 38 °C (100.4 °F) を超えた。数百人が猛暑に関連し死亡している。雨は夏の期間、2日から10日の範囲で見られる。春や秋は季節が混在するため、5-6月や9-10月にも防寒対策が必要となることもある。2011年10月1日に気温が 30 °C (86.0 °F) に達し、2011年4月には28 °C (82.4 °F) に達した。しかしながら、近年ではこの最高気温を記録した月に雪が降ることもある。ロンドンの気温の幅は-11.0°Cから37.9°Cである。 雨が多い都市という評判がロンドンにあるが、実際にはロンドンの降水量はローマの 834 mm (32.8 in) やボルドーの923 mm (36.3 in) より少ない。降水量自体は少なくとも、降水日数が多いため雨が多いと感じるのである。 また、「霧の都」と呼ばれるように年間の霧発生日数が多い。 ロンドンは広大な市街地が広がっていることから、よくブルームズベリーやメイフェア、ホワイトチャペルのように地区名が使われている。これらはいずれも、非公式な名称で都市の広がりによって吸収された村を映したものや教区、グレーター・ロンドン以前の旧区を表したものである。これらの名称は今でも残って使われており、それぞれの地域を表したり自らの地区を特徴付けているが現在は公式には使われていない。1965年以来、ロンドンは32の自治区に分けられ、これに古くからのシティ・オブ・ロンドンが加わる。シティ・オブ・ロンドンはロンドンの金融の中心で、カナリー・ワーフは近年では再開発が進み新たな金融や商業の中枢になっている。東側はドックランズである。ウェスト・エンドはロンドンのエンターテイメントやショッピングの中心地区で観光客を惹き付けている。ウェスト・ロンドン(英語版)は高級住宅地を含む地区で不動産価格は1000万ポンドにもなる。ケンジントン・アンド・チェルシーの不動産の平均価格は89万4,000ポンドでセントラル・ロンドンのほとんどは同様である。 イーストエンド・オブ・ロンドンは元のロンドン港(英語版)に近く、高い移民人口で知られロンドンでも最も貧しい地区の一つである。北東部(英語版)はロンドンでは初期に工業開発が行われた地域で現在ではブラウンフィールド(汚染地区)の一部として再開発が行われているテムズゲートウェイ(英語版)にはロンドンリバーサイド(英語版)やローワーリーバレー(英語版)も含まれ、これは2012年のオリンピックとパラリンピックのためのオリンピックパークを含んでいる。 ロンドンの建築物は様々な年代のものがあり多様である。多くの大きな建物やナショナル・ギャラリーのような公共の建物はポートランド石という白い大理石で造られている。市街地の一部とくに西部や中心部では化粧しっくい(スタッコ)や水しっくいで特徴付けられた建物を見ることが出来る。セントラル・ロンドンでは1666年に起こったロンドン大火以前の建物が若干見られ、古代ローマの跡も僅かに残されている。ロンドン塔やシティに点在したわずかなチューダー様式の建物が残っている。さらにチューダー期(英語版)のイングランドで残っている一番古いチューダー宮殿、ハンプトン・コート宮殿はトマス・ウルジー枢機卿により1515年に建てられた。 クリストファー・レンの17世紀後半の教会や金融機関の建物、18世紀や19世紀の王立取引所やイングランド銀行、20世紀初期のオールド・ベイリー(英語版)、1960年代のバービカンエステート(英語版)は建築遺産の一部を形成している。1939年に建設されたバタシー発電所はテムズ川の南西側に位置し今では使われていないが、地元のランドマークになり再開発も計画されている。鉄道のターミナル駅ではヴィクトリア建築(ネオ・ゴシック様式)の代表例としてセント・パンクラス駅とパディントン駅が上げられる。ロンドンは地域により建物の密集状態が異なり、セントラル・ロンドンは高い就業人口集積がありインナー・ロンドンは高い住宅密度である。アウター・ロンドンは低い密度になっている。 シティにあるロンドン大火記念塔はロンドン大火を記念し現場の近くに建てられている。マーブル・アーチとウェリントンアーチ(英語版)はシティ・オブ・ウエストミンスターのパーク・レーン(英語版)の北側と南側にそれぞれある。また、アルバート記念碑とサウス・ケンジントン(英語版)のロイヤル・アルバート・ホールは王室とのつながりがある。ネルソン記念柱はホレーショ・ネルソン提督の業績を記念し、トラファルガー広場に据えられロンドン中心の焦点なる場所の一つである。古い建物は主に煉瓦で建てられ、ほとんどは黄色っぽいロンドンストック煉瓦(英語版)か明るいオレンジや赤系統のもので、彫刻やプラスターの繰形が施される。 密集地帯のほとんどでは中層や高層のビルが建てられる。ロンドンの高層ビルには30セント・メリー・アクス、タワー42、ブロードゲートタワー(英語版)、ワン・カナダ・スクウェアがあるがこれらはシティ・オブ・ロンドンやカナリーワーフの二つの金融街などで見ることが出来る。高層ビルの建築はセント・ポール大聖堂や他の歴史的な建築物など歴史的な建物の景観を保護するため、特定の場所に制限されている。それでもやはり、多くの超高層ビルがロンドン中心部では見ることができ、イギリスでは一番高い高層ビルであるザ・シャード (310m) も含まれる。他にロンドンを特徴付ける建物には大英図書館や2002年に完成したサザークのシティ・ホールで楕円形の建物は目に付く。以前のミレニアム・ドームは現在は改名され複合娯楽施設The O2として使われている。 中心部で一番大きな公園はロンドンの王立公園(英語版)のうちの一つであるハイドパークで、近隣にはセントラル・ロンドンの西側にケンジントン・ガーデンズが、北側にリージェンツ・パークがある。リージェント・パークには、世界で一番古い科学的な動物園であるロンドン動物園があり、近くには観光名所である蝋人形館のマダム・タッソー館がある。ロンドン中心近くには小さな王立公園であるグリーンパーク(英語版)とセント・ジェームズ・パークがある。ハイド・パークは特にロンドンのスポーツのスポットとして有名で、しばしば野外コンサートが行われる。中心部の外へ出ると多くの大きな公園があり、その中には南東部の王立公園のグリニッジパークや、南西部のブッシーパーク(英語版)やリッチモンドパーク、東側のヴィクトリア・パーク(英語版)がある。プリムローズヒルは市街地の北側にあり、リージェントパークからのロンドン中心部のスカイラインの眺めはポピュラーである。いくつかの非公式な、自然なオープンスペースに準じた空間があり、ノース・ロンドンのハムステッド・ヒース(320ヘクタール)も含まれる。ハムステッド・ヒースにあるケンウッド・ハウスは元は邸宅で、夏の期間はクラシック音楽のコンサートが行われるポピュラーな場所で、週末には数多くの人が音楽や景色、花火を楽しんでいる。 ロンドンの人口は、19世紀から20世紀初期にかけて産業革命を契機として急速に増加し、19世紀後半から20世紀初期にかけては世界一人口の多い都市であり、1925年までニューヨークの人口を上回っていた。人口のピークは第二次世界大戦が勃発する直前の1939年であり、861万5,245人に達していた。2011年時点のグレーター・ロンドンの公式の人口は817万4,100人であった。 しかし、ロンドンの市街地はグレーター・ロンドンの境界を越えて広がっており、2011年時点の都市的地域の人口は827万8,251人、都市圏の人口は1370万9,000人に達している。ユーロスタットによれば、ロンドンは欧州域内の都市圏で最も人口が多い。1991-2001年にかけての流入人口は、72万6,000人であった。グレーター・ロンドンの範囲は1,579平方キロメートルであり、人口密度は5,206人/km2である。これは、他のイギリスの地域の人口密度(NUTS内で)の10倍以上である。 世界の諸都市のうち人口は25番目に多く、都市圏では18番目に多い。世界で4番目に米ドルベースで億万長者が多い地域である。ロンドンは東京やモスクワと並んで物価が高い都市という調査結果もある。 国家統計局によれば、2011年ベースの統計でロンドンの人口 817万4,100人のうち、59.7%が白人で、白人の英国人は44.9%、白人のアイルランド人は2.2%、他の白人の人々は12.6%であった。南アジア系の人々は18.4%で、インド系はロンドンの人口のうち6.6%、続いてパキスタン系が2.7%、バングラデシュ系が2.7%であった。4.9%は他のアジア系に分類されている。ロンドンの人口のうち10.1%は黒人であり、5.3%は黒人英国人、7.0%はアフリカ系、4.3%はカリビアン系、2.1%は他のグループに分けられている。5%は混血、1.5%は中国系、1.3%がアラブ系、3.4%はその他の民族グループに属している。2011年の人口国勢調査によれば、2001年から2011年の間に、62万人の白人英国人がロンドンから去り、人口の45%に減少し少数派となった。 ロンドンの一部では、アジア系や黒人の子どもたちが白人の英国人の子どもの数を上回る地域もあり、4-6校の公立学校では数で上回っている。だが、依然として白人の子どもの数は62%で過半数を占め、2009年の統計局による調査では0-15歳の層における白人人口は149万8,700人であった。そのうち、55.7%は英国系、5.6%は他のEU加盟国出身である。2005年1月の調査では、ロンドンでは300以上の言語話者がおり、50以上の非先住のコミュニティには10,000人以上の人々が暮らし、宗教や民族の多様性が見られる。統計局の調査では、ロンドンにおけるイギリス国外の出生者数は2010年現在で265万人と人口の33%を占め、1997年の1,63万人より増加している。 2001年の国勢調査では、グレーター・ロンドンの人口の27.1%はイギリス国外の出生者であった。統計によると20の共通する国の出身者がロンドンに居住している。ドイツ出身者は、親がドイツに駐在したイギリス軍に就いていたものである。公式の統計では、2009年7月から2010年6月にロンドンに居住する国外出身者は、主にインド、ポーランド、アイルランド、バングラデシュ、ナイジェリア出身者であった。 ロンドン市民の信仰する宗教は、主にキリスト教で58.2%を占めている。これに続き、無宗教が15.8%、イスラム教が8.5%、ヒンドゥー教が4.1%、ユダヤ教が2.1%、シク教が1.5%、仏教が0.8%、その他が0.2%であった。8.7%は2001年の国勢調査で無回答であった。ロンドンでは伝統的にキリスト教が信仰されており、シティ・オブ・ロンドンには多くの教会が所在する。シティのセント・ポール大聖堂やサザーク大聖堂、聖公会は有名であり、カンタベリー大主教はイギリス国教会の大主教である。大主教のランベスパレスがランベス・ロンドン特別区にある。 王室の重要行事は、セント・ポール大聖堂とウェストミンスター寺院に分けて行われる。ウェストミンスター大聖堂はイングランドおよびウェールズでは最大のカトリック教会の大聖堂である。 イギリス国教会の統計では、教会への参加者は次第に減少している。 ロンドンには、相当数のイスラム教やヒンドゥー教、シク教、ユダヤ教のコミュニティがある。多くのイスラム教徒はタワーハムレッツ・ロンドン特別区やニューアム・ロンドン特別区に居住している。 ロンドン居住のイスラム教徒にとってリージェンツ・パークのロンドン・セントラルモスク(英語版)は最も重要な存在である。オイルマネーによって増加した中東の富裕層は、メイフェアやナイツブリッジを拠点としている。ロンドンは西ヨーロッパ最大のモスクが所在する都市であり、Baitul Futuhのモスクはアフマディーヤムスリムコミュニティのものである。 ヒンドゥー教徒のコミュニティはロンドンの北西部ハーロウ・ロンドン特別区やブレント・ロンドン特別区に存在し、ヨーロッパ最大のヒンドゥー寺院であるネアスデン寺院がある。シク教徒はロンドン東部や西部におり、インド国外では世界最大のシク教の寺院がある。 イギリスのユダヤ教徒の大半がロンドンに居住し、ユダヤ教徒のコミュニティはスタンフォード・ヒル(英語版)やスタンモア(英語版)、ゴルダーズ・グリーン(英語版)、エッジウェア、ヘンドン(英語版)、ノース・ロンドン(英語版)に存在する。スタンモア・カンノンパークシナゴーグ(英語版)は単一ではヨーロッパ最大のシナゴーグである。 イギリス経済の中心であり、世界有数の経済都市でもある。2014年のロンドン都市圏の総生産は7944億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏に次ぐ世界5位の経済規模を有する。日本の民間研究所が2017年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界1位の都市と評価された。 世界最大級の金融市場の重要拠点として機能しており、2022年の調査によると、ニューヨークに次ぐ世界2位の金融センターである。世界レベルの大企業本社も集積しており、2011年のフォーチュン・グローバル500において、世界で5番目に大企業の本社が集積している都市との評価を受けている。 資本主義経済の中心がイギリスからアメリカ合衆国に移ったことに伴うイギリス経済の相対的低下にもかかわらず、ロンドンは依然としてイギリス連邦や欧州連合を始め、世界経済の中心としての地位を保持する。特に貿易および金融面での影響力は強い。シティでは1694年設立のイングランド銀行を頂点として、相互に密接な連携を保って展開するロンバード・ストリート一帯の市中銀行など各種金融業が発達している。この市場がロンドン金融市場で世界三大金融市場の一角を成し、ロンドン証券取引所は世界屈指の証券取引所の1つに挙げられる。シティのほか、ホルボーン、フィンズベリーにも金融関連会社が多数存在する。 ロンドンはイギリスの国内総生産 (GDP) の約20%(4460億米ドル、2005年現在)を生み出し、ロンドン・コミューター・ベルト(英語版)域内は欧州最大でイギリスの国内総生産の30%(6690億米ドル、2005年現在)を生み出している。ロンドンは群を抜いた金融センターで、ニューヨークと競う国際的に重要な都市である。 ロンドンにはシティ、ウエストミンスター、カナリー・ワーフ、カムデン & イズリントン、ランベンス & サザークの5つの主要なビジネス地区がある。その重要性はオフィス面積で知ることができる。グレーター・ロンドンのオフィススペースは2700万平方メートルで、シティの800万平方メートルも含む。ロンドンは世界的にも高い賃料のオフィススペースとなっている。 メイフェアや セント・ジェームズ(英語版)の賃料は現在、一番高く1平方フィートあたり年間93ポンドである。ロンドンの最大の産業として金融は残り、イギリスの国際収支統計に大きく貢献している。シティには銀行、仲介業、保険、法律事務所、会計事務所などがある。ロンドンの第2の金融街はシティの東側に開発されたカナリー・ワーフで、HSBCホールディングスやバークレイズの2つ世界的な大銀行の本社やシティグループの欧州・中東・アフリカ本部、世界的な通信社ロイターがある。ロンドンは2009年現在国際通貨取引の36.7%が扱われ、1日平均1兆8500億米ドルが取引される。米ドルはニューヨーク以上に取引され、ユーロは他のヨーロッパの都市とともに取引されている。 約32万5,000人がロンドンでは2007年半ばまで金融サービス部門で雇用されていた。ロンドンは世界のどの都市よりも多い480の海外の銀行がある。現在、85%以上(320万人)の就業人口は第三次産業に雇用されている。その世界的な役割から2000年代後半以降の世界金融危機の影響を大きく受けている。シティでは1年以内で約7万人の雇用が失われることが予想されている。シティにはイングランド銀行やロンドン証券取引所、ロイズ保険市場がある。 FTSE100種総合株価指数にリストされる企業の半数以上、欧州の上位500の企業のうちの100社以上がセントラル・ロンドンに本社を置いている。70%を超えるFTSE100の企業がロンドン大都市圏に拠点を置いており、フォーチュン500の企業の75%はロンドンに事務所を置いている。 メディア産業はロンドンでは2番目に競争力がある産業である。BBCは重要な雇用主で、それ以外にもシティ周辺には放送局の本社が集まっている。多くのイギリスの新聞社の新聞がロンドンで編集されている。 ロンドンは主要な小売り部門の中心で、非飲食部門では世界のいずれの都市よりも高い売り上げがあり、合わせて642億ポンドの収益を上げた。ロンドン港はイギリスでは2番目に荷物取扱量が多い港で年間4500万トンを扱っている。 シティ中心部は、イングランド銀行やマンションハウスと呼ばれる市長公邸、商品・金融取引所のロイヤル・エクスチェンジが面する八叉路である。そこから南東には銀行や商社が立ち並ぶロンバード・ストリートが伸びる。コーンヒル(穀物丘)やポールトリ(家禽)、ミルク、ブレッド、チープサイド(安売り街)などの古くからの街路名や町名が現在も残っている。シティは女王の承認を得ていない唯一の自治体であり、独自の警察を有する。シティ西部のフリート・ストリートには新聞・通信社が集積し、通りの南側にあるテンプルはイギリスの法律家の最大の拠点である。元来テンプル騎士団のイングランド本部であったが、イギリスで最初の法学院が設置され、次世代の公判弁護士を育成する場所となった。付近には他に最高裁判所や公文書館もある。 ウェスト・エンドはシティの西側の地域であり、シティ・オブ・ウェストミンスターを中心とする。ウェストミンスターは国内最高級の住宅群を擁し、一見寂れた地区であっても資産価値は非常に高い。ウェストミンスター寺院やウェストミンスター大聖堂、国会議事堂、バッキンガム宮殿、政府庁舎、国内最大級の商業地区、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)、ロンドンの大半の高級ホテル、美術館、博物館がある。 イースト・エンドは、シティの東端ロンドン塔から東方のリー川までの地域である。アイル・オブ・ドッグズ、ポプラー、マイル・エンドなど古くからの地名が今も残るが、公式には全てタワーハムレッツ区に含まれる。ドック地帯を有し、港としてのロンドンの機能を担う。歴史的には港湾労働者を中心とするスラム街でもあったため、トインビー・ホールのようなスラム改良運動のセルツメントも認められる。かつてはロンドンの最貧地区として知られ、現在はドックランズ、カナリー・ワーフの大規模な再開発地区として注目されている。 また、ロンドン自体が巨大な消費市場であるため、商業活動も活発である。ロンドンでは地域ごとに各業種が集中している。例えば、シティの金融業、スミスフィールドの食肉市場、スピタルフィールズおよびコヴェント・ガーデンから移設したナイン・エムルズの両青物市場、ウェスト・エンドのリージェント・ストリート、ボンド・ストリート(英語版)、オックスフォード・ストリートの高級ショッピング街、ハーリーストリートの一流医院、紳士服のオーダーメイドはサヴィル・ロウ(日本語の「背広」の語源の一つとも言われる)、ウェストミンスターの行政機関、ブルームズベリーの教育機関といった具合である。 19世紀から20世紀にかけてロンドンは主要な製造業の中心地で、1960年には150万人を超える工場労働者がいた。製造業は1960年代から劇的に傾き始めた。造船や家電、航空機製造、自動車製造など全ての産業が失われている。この傾向は続いており、ポンダーズの Aesica(以前のメルク・アンド・カンパニー)の製薬は2011年に終了し、ダゲナムのサノフィ・アベンティス(元のMay & Baker)の製薬も2013年に終了予定である。 今日残っている最後の産業プラントは フォード・ダゲハム(英語版)で、車体パネルの主要な生産地で世界最大のディーゼルエンジンの工場である。食品や飲料の製造もブリムスダウン工業団地(英語版)にあるパン製造のWarburtons、チズウィックにあるビール醸造のフラーズビール醸造所、ヘイズ(英語版)にあるコーヒーやチョコレート製造のネスレ、シルバータウン(英語版)にある砂糖、シロップ製造のTate & Lyleがある。ロンドンの製造業の就業人口は全就業人口の2.8%を占めるのみである。 ロンドンの農業はグレーター・ロンドン地域の8.6%を占めるのみで商業的農業に利用され、かなり小規模な事業形態でありほとんどはグレーター・ロンドンの外縁部に近い所で行われている。市街地近くには僅かな都市農園とおよそ3万ヶ所のコミュニティ・ガーデンがある。グレーター・ロンドン地域には135.66平方キロメートル (135,660,000 m) の農地が占めている。ロンドン地域のほぼ全ての農地は成長する文化のための礎である。 現在、グレーター・ロンドンを構成する多くのエリアは以前は農村か郊外の農地であったが、今でもイーリング・コモン(英語版)やリンカーンズ・イン・フィールズ、シェパーズ・ブッシュ、ワームウッド・スクラブ(英語版)など昔の地名を保っている。 1938年、グレーター・ロンドンはイギリスでグリーンベルト (en) の政策が用いられる最初の地域となり、スプロール現象を防止するためメトロポリタン・グリーンベルト(英語版)が導入された。2005年にADASにより行われた農業統計調査によれば 423の借地がロンドンのメトロポリタン・グリーンベルトの一部分を占めており、イギリスの総数の0.25%を占めている。管理されている土地の総計は1万3,608ヘクタールで、半分は貸借されている。 10%未満の土地では有機農法の作物栽培に利用され、農業の経済への寄与は多様化した活動を除くと800万ポンド未満である。一方で、ロンドンの農産業は多角化に関わる活動にずっと依存していることが示されており、農業収入の3分の1はそれらに起因し国の平均を超えている。報告書では農業はロンドンの経済にとって重要ではないが、不可欠な役割があると述べている。 報告書では農業は主にロンドン北東部に集中しているが、数値は耕作適地だけが含まれている(周辺のイースト・オブ・イングランドやサウス・イースト・イングランドは穀物栽培が一般的である)。また、畜産業は近年ではインフラの不足(食肉処理場や市場への乏しいアクセス)や都市外縁部への近さなどから減少していると述べられている。 園芸農業は主にテムズ川南部のロンドン東部の限られた場所で行われている。ADASの調査だけでなく、2004年の Farmer's Voiceで実施された調査では農業従事者の多数はより広く厳格に押し付けられたグリーンベルトの規制は多角化の大きな障害と考え (47%)、続いて高いのは資金の不足で (35%)、両方の調査で明らかになったのは欧州連合の共通農業政策は多角化を進めるにあたって、ほとんど障害はないと認識されていることである。ロンドンのグリーンベルトでの農業収益は増加を示しており、1999年には僅か4%のロンドンの農場だけが利益が増加したか維持しただけだが、2008年には27%に増えている。1999年の調査では48%が事業の存続を恐れていたが、2008年には23%であった。グレーター・ロンドン地域での都市農業を後押しする取り組みも推進されている。 ロンドンには、ロンドン塔、キューガーデン、ウェストミンスター宮殿(聖マーガレット教会を含む)、グリニッジ(グリニッジ天文台跡をグリニッジ子午線が通る)の4つの世界文化遺産が存在する。他の有名なランドマークとしては、バッキンガム宮殿、ロンドン・アイ、ピカデリーサーカス、セント・ポール大聖堂、タワーブリッジ、トラファルガー広場、ウェンブリー・スタジアムがある。多数の博物館、美術館、図書館といった文化施設や、スポーツイベント、文化機関も存在する。大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・モダン、大英図書館、ウィンブルドン選手権、40軒の劇場が軒を連ねるウェスト・エンド・シアターは代表的なものである。 ロンドンは著名な観光地の一つであり、主要な産業の一つであり2003年に観光関連の産業に雇用されるフルタイムの労働者は350,000人であった。ロンドンを訪れる観光客が1年間に使う費用は全体で150億ポンドで、海外からの観光客は年間1400万人にも上りヨーロッパでは最も人が訪れる都市である。ロンドンでの観光客の延べ宿泊日数は年間2700万泊である。2015年にロンドンで最も観光客が訪れた場所は以下の通り。 交通の分野はロンドン市長が掲げる主要な4つの管理政策のうちの一つであるが、ロンドンに乗り入れる長距離鉄道に関しては財政的に関知していない。2007年以降、市長はロンドン地下鉄および路線バスに加えて、ロンドン・オーバーグラウンドを構成する複数のローカル路線の管理権限を有する。公共交通機関はロンドン交通局 (TfL) が運営しており、世界屈指の高密度な交通網を形成する。自転車はロンドン周辺でも次第に普及し始めている。ロンドン・サイクリング・キャンペーンは、自転車の利用環境整備のためロビー活動を行っている。 1933年、ロンドン地下鉄や路面電車、路線バスといった交通機関の運営組織が統合され、ロンドン旅客輸送局とロンドン交通(英語版)が設立された。ロンドン交通局 (Tfl) は制定法により設立された機関であり、グレーター・ロンドン内の大部分の公共交通機関に対して管理権限を有し、委員会や理事はロンドン市長により任命されている。 セントラル・ロンドンでは高密度な公共交通網が機能しているが、郊外では車が一般的である。ロンドンの高速道路には、放射線や環状線が存在する。ロンドン中心部の環状線としては、ロンドン環状線(英語版)がある。近郊の高速道路としては、北環状線のA406道路(英語版)および南環状線のA205道路(英語版)があり、郊外の環状線としてはM25モーターウェイがある。環状線は交通量の著しい数多くの放射線と接続し、またインナー・ロンドンを貫通する高速道路も存在する。M25は世界最長の環状道路であり、195.5 km (121.5 mi) の長さを有する。A1やM1モーターウェイは、エジンバラ、リーズ、ニューカッスル・アポン・タインと各々接続している。 1960年代、ロンドン全域を網羅する高速道路の建設計画としてロンドン・リングウェイズ(英語版)が存在したが、大部分は1970年代に中断された。2003年、コンジェスチョン・チャージがロンドン中心部の交通量を減らすため導入された。ロンドン中心部において交通量が著しく多いと指定を受けた区画に流入する場合、僅かな例外を除き、自家用車の場合で1日当たり10ポンドの課金が請求される。コンジェスチョン・チャージの指定区画に居住する運転ドライバーは、指定区画用のシーズンパスを購入し、月ごとに更新している。シーズンパスの購入代金は、区画内を運行する路線バスの運賃より安価に設定されている。ロンドンの交通渋滞は有名であり、特にM25の混雑度は顕著である。ラッシュ時の車の平均速度は 10.6 mph (17.1 km/h) である。当局による当初の予測では、コンジェスチョン・チャージの導入により、1日当たりのピーク時におけるバスや地下鉄といった公共交通機関の利用者数は2万人増加し、交通量は10-15%減少し、道路網の交通の流れを10-15%高め、渋滞は20-30%減少するとしていた。コンジェスチョン・チャージ導入後、歳月を経て、当局自身による発表によれば、平日にロンドン中心部に流入する車の台数は19万5,000台から12万5,000台に減少し、率にして35%減少したとしている。 世界的にも有名なブラックキャブ (black cab) と呼ばれるロンドンタクシーが市民の足として親しまれている。運転手となるには難関の試験を突破しなければならない。市内道路の半分以上は一方通行であり、時に遠回りせざるを得ない。そのため一見高めに映るロンドンタクシーの運賃は、一方通行と進行方向が同じ場合は日本のタクシー料金と大差なく、一方通行と進行方向が異なる場合は運賃が比較的高くなる。また、営業免許を持たない合法の個人タクシーはミニキャブ (mini cab) と呼ばれ、市民の間ではブラックキャブより運賃が割安という理由でより一般的である。 ロンドンバスは世界最大規模の路線バス網を形成し、毎日24時間、8,000台のバス車両を用いて700路線の運行を行い、平日1日当たり600万人が利用している。2003年の路線網全体のトリップ数は15億回であり、地下鉄の乗車回数を上回る身近な交通手段として利用されている。収益としては毎年8億5000万ポンド計上している。ロンドンは車椅子で移動可能な範囲が世界最大とされ、2007年からは音声や映像案内といった視覚障害者に対応した設備導入により、利便性がより向上している。ロンドン市内を縦横に運行する赤い2階建てバス(ダブルデッカー)が世界的に有名であり、安価な市民の足として親しまれている。 旧型の赤い2階建てバスであるルートマスターは2005年12月をもって一般路線から廃止された。この理由として、車掌が同乗する旧型よりもワンマンバスの方が効率が良いのに加え、開け放した乗降口は危険であり、身体障害者にとっても不便だったことが挙げられる。旧型車両はロンドン中心部の観光名所を巡る15番(トラファルガー・スクエア/タワー・ヒル)で一般車両に混じり、夏季土休日の日中に運行されている。現在、後部プラットフォームの使用とアクセシビリティ確保のために3つのドアと2つの乗降階段を備えたニュールートマスターがロンドン中心部で運行されている。 トラムリンクは、サウス・ロンドン(英語版)のクロイドンを基点に路線を展開している。3路線・39駅を有し、2008年における年間利用者数は2650万人であった。2008年6月、ロンドン交通局はトラムリンクの管理運営権を完全に所有し、2015年までに5400万ポンドの設備投資を行う予定である。2009年にはトラムの全車両を刷新している。 ロンドンにはイギリス各地や大陸ヨーロッパを結ぶ長距離路線のターミナル駅が方面別に複数存在し、南東部の通勤路線と共に鉄道網の一大拠点となっている。 国が関与する公的企業のネットワーク・レール社は利用者数の多い18の主要駅については直接管理運営しており、この内ロンドンにある駅は次の通りである。北部地方への列車が発着するユーストン駅やセント・パンクラス駅、キングス・クロス駅、東部へのリバプール・ストリート駅やキャノン・ストリート駅、フェンチャーチ・ストリート駅、ロンドン・ブリッジ駅、チャリング・クロス駅、南部へのロンドン・ブリッジ駅やウォータールー駅、ロンドン・ヴィクトリア駅、西部へのパディントン駅である。なお、セント・パンクラス駅はヨーロッパ大陸へ通じる特急列車ユーロスターの発着駅で、パディントン駅はヒースロー空港へ通じるヒースロー・エクスプレスおよびヒースロー・コネクトの発着駅でもある。 ロンドンにある特定のナショナル・レールの駅はロンドン・ステーション・グループと総称される。グループ外の駅で発券された切符において便宜的に同一箇所として扱われ、券面に「ロンドン・ターミナル」と表記される18駅が対象である。全ての駅がトラベラルカード・ゾーン1に位置し、この内大部分の駅がロンドン市内を取り囲むように置かれ、各駅間は地下鉄で結ばれる。現在、ロンドン・ステーション・グループとして扱われている駅は次の通りである。 かつての国鉄は解体され、官民協力体制 (Public Private Partnership) の下で委託経営が行われている。線路や駅の保有・維持管理はネットワーク・レール社が行い(民営化から2001年まではレールトラック社、この会社は破綻しネットワーク・レールに引き継がれた)、各路線の列車運行は複数の民間会社が運営する上下分離方式が採用されている。これらの民間会社はナショナル・レールの共通ブランドを用い、国鉄時代から使われている標章を使用しており、民営化以後も乗車券の販売などにおいて一体化された事業が提供されている。 1999年にはパディントン駅付近で列車衝突事故が発生し、さらにその直後にも再び重大事故が度重なるなど、イギリス、特にロンドンの鉄道は大きな政治課題になっている。事故が続発した大きな要因としては株主への利益還元を重視し過ぎたレールトラック社が列車運行に責任を持たず、整備を疎かにしたためとされている。 2007年、ユーロスターはロンドンの発着駅を開業以来ウォータールー駅としていたがセント・パンクラス駅に変更した。発着駅変更以前は途中区間で在来線を走行するため、イギリス国内で速度を上げられないという課題があった。そこで専用の高速新線 (CTRL) を建設したことで最高時速約300キロメートルでの運行が可能になり、遅延が常態化していたユーロスターの定時性も向上した。2009年6月からは395形電車を使用したロンドン-ケント州間を運行するイギリス国内の高速鉄道サービスが開始された。 ロンドン地下鉄は現在ではチューブ "the Tube"と呼ばれ、この名称が表す区間は地下深い路線に限られ浅い深さに造られた古い路線とは異なっている。営業距離は上海地下鉄に次いで世界で2番目に長い。1863年に遡る地下鉄システムで270の駅があり、設立当初はいくつかの私営の企業に分かれておりその中には最初の地下電化路線を運営したシティ・サウスロンドン鉄道も含まれる。2013年1月10日には運行開始から150周年を迎えた。 毎日300万人を超える旅客数があり、路線全体で年間10億人の旅客数がある。2012年の夏のオリンピックに向け70億ポンドを信頼性の向上や混雑の緩和に投資する。ロンドンの公共交通機関は良い状態にあるとされている。世界で最初に開通した地下鉄であるロンドン地下鉄は、世界有数規模である12の路線網を有する。ただし、遅延の常態化が課題として存在する。乗り場への出入りには大型エレベータを設置していることが多いが、一部施設はエスカレーターが木製であるなど老朽化が見られ様々な刷新の計画がある。1987年11月にキングス・クロス駅で発生した火災では31人の犠牲者を出した。2005年7月にはロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄乗客に被害が出た。地下鉄に類似した輸送機関としては、新交通システムであるドックランズ・ライト・レイルウェイ、ロンドン都心の地下を南北に貫通する英国鉄道のテムズリンクが存在する。2007年10月にはロンドンを東西に貫通するクロスレールの建設が決定され、2017年の開通が計画されている。なお、普通運賃で乗ると初乗り料金が4ポンドと非常に高いため、トラベルカードと呼ばれる一日乗車券などの各種割引制度や割引運賃が適用されるオイスターカードを利用する人が多いが、オイスターカードを利用した乗車についても徐々に値上げされている。2012年のオリンピック開催中、地下鉄の1日の旅客数は過去最高の440万人を記録した。通常1日当たりの旅客数は380万人程度である。 ロンドンは世界最大の都市空域における国際航空輸送の中枢である。8つの空港が単語に London の名称が使われているが、 の6つの空港が最も交通量が多く一つの都市圏では最大の国際線の旅客数を誇っている。ロンドン・ヒースロー空港はイギリスのフラッグキャリア、ブリティッシュエアウェイズ (BA) の一大拠点空港である。2008年3月に第5ターミナルがヒースロー空港に開業した。計画にあった第3滑走路や第6ターミナルは2010年5月12日に政権により取り消されている。2011年9月に個人用高速輸送システム(新交通システム)が開業し、近くの駐車場と結んでいる。 同程度の交通量の近距離便や格安航空会社 (LCC) をロンドン南部のウェスト・サセックスにあるロンドン・ガトウィック空港が扱っている。 ロンドン・スタンステッド空港はロンドン北東部のエセックスにありライアンエアーがハブ空港としている。ロンドン北部のベッドフォードシャーにはロンドン・ルートン空港がありLCCの近距離便のほとんどが拠点とする。ロンドン・シティ空港はロンドンの主要な空港の中では一番規模が小さく、ビジネストラベラーを対象としフルサービスの短距離定期便とかなりの交通量のビジネスジェットを扱っている。 ロンドン・サウスエンド空港はロンドン東部のエセックスにあり、小規模な地域空港でLCCの近距離便を扱っている。最近では大規模な改良工事計画が行われ新しいターミナルや滑走路の延長、新たな鉄道駅の整備などが行われロンドン都心部との連絡が高速化される。イージージェットが現在拠点としている。 日本との間には、日本航空や全日本空輸が東京国際空港から、ブリティッシュ・エアウェイズが東京国際空港や関西国際空港からそれぞれヒースロー空港へ就航している。 ロンドンでは最初のそして唯一のロープウェイは2012年6月に開業したエミレーツ・エア・ライン (Emirates Air Line) またはテムズケーブルカーの名称で知られるものである。ロープウェイはテムズ川を横断し、グリニッジ・ペニンシュラ(英語版)とシティの東側のロイヤル・ドックス(英語版)を結び、ロンドンのオイスターカードのシステムに含まれカードの利用が可能である。 ロンドンでサイクリングを楽しむことは21世紀に変わってから復活している。サイクリストは公共交通機関や車などを利用するより安価でより速く楽しむことが出来、2010年7月にバークレイズ・サイクルハイアーと呼ばれるレンタサイクルの制度が導入されて成功し、一般に受け入れられた。2017年6月現在は、スポンサーがサンタンデールに代わり、「サンタンデール・サイクルズ (en) 」という名称で同様のサービスが実施されている。 かつては世界最大の港であったロンドン港(英語版)は、現在ではイギリスで2位を占めるのみであり、毎年4500万トンの貨物を取り扱う。実際には、ロンドンの貨物の大部分はグレーター・ロンドン域外のティルバリー港(英語版)が担っている。ロンドンではまた、テムズ川を利用した水上バスの運航も頻繁にされておりテムズ・クリッパーズ(英語版)として知られている。20分毎にエンバンクメント・ピア(英語版)とノーズグリニッジ・ピア(英語版)を結んでいる。ウーリッジ・フェリー(英語版)は毎年250万人の旅客を運航し、ノース・サーキュラーロード(英語版)とサウス・サーキュラーロード(英語版)を頻繁に結んでいる。他の運航事業者も通勤客向けや観光客向けの両方でロンドンで運航を行っている。 ロンドンは高等教育や研究機関の中心で43の大学が集中するヨーロッパ最大の高等教育の一大中心地である。2008-2009年には高等教育を受ける学生数は41万2,000人でこの数はイギリス全体の17%を占め、内訳は学士レベル28万7,000人、大学院レベル11万8,000人である。2008-2009年にロンドンで学んだ留学生は9万7,150人に上りこれはイギリス全体の25%を占める。 多くの世界をリードする教育機関がロンドンを拠点にしている。2011年のQS World University Rankings (en) では世界でインペリアル・カレッジ・ロンドンは6位、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンは7位、キングス・カレッジ・ロンドンは27位に付けている。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスは教育と調査で世界をリードする社会科学機関と見なされている。ロンドン・ビジネス・スクールは世界で一流のビジネススクールの一つとして考えられ、2010年にMBAの教育課程でフィナンシャル・タイムズから世界最高の評価を得ている。 ロンドン大学で学ぶ学生は12万5,000人おり、これは通信過程以外の大学ではヨーロッパ最大である。ロンドン大学は単独の大学として存在するものではなく、カレッジ制でそれぞれ別の大学となっており4つの大きな大学であるキングス・カレッジ・ロンドン、クイーン・メアリー・カレッジ、ロイヤル・ホロウェイ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンと多くのより専門的な機関であるバークベック・カレッジ、コートールド・ギャラリー、ゴールドスミス・カレッジ、ギルドホール音楽演劇学校、インスティチュート・オブ・エデュケーション、ロンドン・ビジネス・スクール、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院、王立音楽アカデミー、セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ、王立獣医学校、東洋アフリカ研究学院が含まれる。ロンドン大学を構成するカレッジにはそれぞれ独自の入学試験制度があり、そのいくつかは独自の学位を授与している。 ロンドン大学以外にも多くの大学がロンドンにはあり、 ブルネル大学(英語版)、シティ大学ロンドン、インペリアル・カレッジ・ロンドン ,キングストン大学、ロンドン・メトロポリタン大学(学生数3万4,000人でロンドン最大の単科大学)、ロンドンサウスバンク大学(英語版)、ミドルセックス大学、ロンドン芸術大学、イースト・ロンドン大学、ウェスト・ロンドン大学、ウエストミンスター大学がある。これに加えてセビリア大学やRegent's College、リッチモンド大学など海外の大学がロンドンにある。 ロンドンには5つの有名な医学部がある。クイーン・メリーカレッジに付属するバーツ医科歯科ロンドン校(英語版)、欧州最大の医学部であるキングスカレッジ医科ロンドン校(英語版)、インペリアルカレッジ医学部(英語版)、UCLメディカルスクール(英語版)で、他にも多くの医療や病院に関連した教育機関がある。また、生物医学研究に関連したイギリスに5つある研究機関のうち3つがロンドンにある。多くのビジネススクールもまたロンドンにはある。 ロンドンの大半の小学校から中等教育の学校は国立か自治区により管理運営されているが、多くのインデペンデント・スクール(私立学校)や非営利法人のパブリック・スクールがあり、その中にはシティ・オブ・ロンドン・スクール(英語版)、ハーロー校、セントポール校、ユニバーシティ・カレッジ・スクール(英語版)、ウェストミンスター校など歴史ある学校やエリート校が含まれる。 英国の教育では将来進む道を早い段階で決めるため、世界唯一のアート&デザイン専科寄宿制(ボーディングスクール)インターナショナルスクールロンドン国際芸術高校(ISCA)など特定分野に特科した学校も多く存在する。 ロンドンのアクセントはずっと以前からコックニーと呼ばれるもので、サウス・イースト・イングランドの方言と多くの点で似通っている。21世紀のロンドナーのアクセントは多くが異なったものとなり、30代以下を含めより共通になっている。一方、コックニーと容認発音、すべての民族アクセントの配列、特にカリビアン系が融合し多文化的なロンドン英語(英語版)を形作っている。 シティ・オブ・ウエストミンスターのウエスト・エンド地区にあるレスター・スクウェア周辺は劇場や初演が行われる映画館が集中しピカデリーサーカスや巨大な電照広告がある。ロンドンの劇場が集中する地区であり、多くの映画館やバーやナイトクラブ、レストラン、ソーホーの中華街、東側にはロイヤル・オペラ・ハウスがある他、様々な専門店がある。ロイヤル・バレエ団、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団、イングリッシュ・ナショナル・オペラはロンドンを拠点とし、ロイヤル・オペラ・ハウスやコロシアム劇場(英語版)、ロイヤル・アルバート・ホールで公演を行い同様に地方公演も行っている。 イズリントン は1マイル (1.6 km) のアッパーストリートでエンジェル(英語版)から北方向に延びている。イギリスのいずれの通りよりもより多くのバーやレストランが林立する。ヨーロッパで最も賑やかなショッピングエリアであるオックスフォード・ストリートは 1マイル (1.6 km) の長さでイギリスでは最長のショッピングストリートである。オックスフォードストリートには数多くの店舗やデパートがあり、世界的に有名なセルフリッジズの旗艦店がある。ナイツブリッジには同様に有名なハロッズがある。 ロンドンはヴィヴィアン・ウエストウッドやジョン・ガリアーノ、ステラ・マッカートニー、マノロ・ブラニクなど多くのデザイナーが拠点を置いている。ファッションスクールの国際的な中心としてパリやミラノ、ニューヨークなどと並び評判が高い。 ロンドンは多くの民族的な多様性から料理の幅がかなり広い。バングラデシュレストランはブリックレーン(英語版)に集まっており、中華料理店はソーホーのチャイナタウンに集まっている。これ以外にもインド料理などが知られている。 ロンドンでは多くのイベントも年間を通し行われ、ニューイヤーズデイパレード(英語版)が行われ、花火大会がロンドン・アイで行われる。この祭典は世界で2番目に大規模なストリートパーティーである。ノッティングヒルカーニバル(英語版)が毎年8月のバンクホリデーに開催される。11月に開催されるロード・メイヤーズ・ショー(英語版)では、パレードも含まれ、数世紀にわたる伝統的な行事で、毎年選ばれる新しいロンドン市長が参加し、シティ周辺の通りでは行列が見られる。6月には女王の誕生日を祝うために、イギリスと英連邦の軍によりトゥルーピングザカラー(英語版)が行われる。 ロンドンは多くの文学の舞台になってきた。ロンドンの文学の中心は古くから丘がちなハムプテッドやブルームズベリー(20世紀初期から)である。街に密接に関連した作家には詳細な日記を付けていたサミュエル・ピープスでロンドン大火など目撃したことを詳述している。チャールズ・ディケンズは霧や雪、ロンドンの通りの掃除人やスリなどの汚れを表現しヴィクトリア朝初期のロンドンの人々の視覚に影響を与えた。ヴァージニア・ウルフは20世紀のモダニズム文学で最も重要な人物の一人と見なされている。 ジェフリー・チョーサーは14世紀後半の『カンタベリー物語』で、ロンドンのサザークからカンタベリー大聖堂までの巡礼の道程を描いている。ウィリアム・シェイクスピアは人生や創作の大部分をロンドンで過ごしている。詩人のベン・ジョンソンもロンドンを拠点にし、『錬金術師』 (en) はロンドンで作られた。1722年にダニエル・デフォーの『ペスト』は1665年のロンドンの大疫病を小説化したものである。 後にロンドンを表現した重要なものは19世紀から20世紀初期にかけてのチャールズ・ディケンズの小説やアーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズである。 ロンドンを舞台にした映画には『オリヴァ・ツイスト』(1948年)、『ピーター・パン』(1953年)、『マダムと泥棒』(1955年)、『101匹わんちゃん』(1961年)、『メリー・ポピンズ』(1964年)、『欲望』(1966年)、『ロング・グッド・フライデー(英語版)』(1980年)、『秘密と嘘』(1996年)、『ノッティングヒルの恋人』(1999年)、『マッチポイント』(2005年)、『Vフォー・ヴェンデッタ』(2005年)、『スウィーニー・トッド』(2008年)、『ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密』(2014年)がある。連続テレビドラマには『イーストエンダーズ』などがあり、最初にBBCで放送されたのは1985年のことである。ロンドンは特に映画撮影において重要な役割を果たし、有名なスタジオであるイーリング・スタジオがあり、ソーホーはSFXやポストプロダクションのコミュニティセンターである。ワーキング・タイトル・フィルムズはロンドンに拠点を置いている。 ロンドンには数多くの博物館や美術館を含め様々な施設があり、その多くが入場料が無料でメジャーな観光地となっており調査でも役割を果たしている。最初に設立されたのは1753年にブルームズベリーにある大英博物館である。元からある収蔵品には古代の遺物や自然史の見本で国立図書館もあった。現在、博物館は700万点を収蔵している。1824年にナショナルギャラリーが設立されイギリスの西洋絵画のコレクションが収蔵されトラファルガー広場に位置している。19世紀後半、サウスケンジントン(英語版)に文化施設が集まったアルバートポリス(英語版)が開発され、文化や科学の地区となった。ロンドンにはヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドン自然史博物館、サイエンス・ミュージアムの3つの主要な国立博物館がある。国立美術館のテート・ブリテンは元はナショナルギャラリーの別館として1897年に設立された。2000年にバンクサイド発電所の跡地にテート・モダンが開館している。 ロンドンはクラシック音楽やポピュラー音楽の中心であり、世界的な大手であるEMIなどのレコード会社や無数のバンド、ミュージシャン、音楽産業のプロが居る。ロンドンには多くのオーケストラやコンサートホールがあり、バービカン・センター(ロンドン交響楽団の拠点)、カドガンホール(英語版)(ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)、ロイヤル・アルバート・ホール(BBCプロムス)は良く知られている。ロンドンにはロイヤル・オペラ・ハウスとコロシアム劇場(英語版)の二つのオペラハウスがある。ロイヤル・アルバート・ホールではイギリスで最大のパイプオルガンを見つけることができる。他に重要な楽器は大聖堂や大きな教会で見つけることができる。王立音楽アカデミーや王立音楽大学、ギルドホール音楽演劇学校、トリニティ音楽カレッジなどの音楽学校も立地する。 ロンドンにはロックやポップ音楽のコンサート会場が多くあり大規模ものではアールズ・コート・エキシビション・センター、ウェンブリー・アリーナ、O2アリーナがあり、中規模な会場も同様に多くありブリクストン・アカデミー、ハマースミス・アポロ、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアなどがある。いくつかの音楽祭も開催され、その中にはワイヤレス・フェスティバルはロンドンで行われている。ロンドンには最初のオリジナルのハードロックカフェや、ビートルズがレコーディングし多くのヒット曲を出したアビー・ロード・スタジオがある。1960年代から1980年代にかけてのミュージシャンやグループには、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、クイーン、エルヴィス・コステロ、キャット・スティーヴンス、イアン・デューリー、キンクス、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、エレクトリック・ライト・オーケストラ、マッドネス、ザ・ジャム、スモール・フェイセス、レッド・ツェッペリン、アイアン・メイデン、フリートウッド・マック、ポリス、ザ・キュアー、スクイーズ、シャーデーなどがおり、これらが世界的な流れとなって、ロンドンの通りや振動するリズムからサウンドを得ている。 ロンドンはパンク・ロック発展の地となり、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ヴィヴィアン・ウエストウッドらがロンドンを拠点としていた。1980年代以降のロンドン出身のミュージシャンには、バナナラマやワム!、エスケイプ・クラブ、ブッシュ、イースト17、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、スパイス・ガールズ、ジャミロクワイ、ザ・リバティーンズ、ベイビーシャンブルズ、ブロック・パーティ、エイミー・ワインハウス、アデル、コールドプレイ、ジョージ・マイケルが含まれている。 ロンドンはまたアーバン・ミュージックの中心である。とりわけUKガラージ、ドラムンベース、ダブステップ、グライムといったジャンルについては、地元のドラムンベースに加えて、海外のヒップホップやレゲエといったジャンルから、この街で進化したものである。BBC 1Xtra(英語版)はブラック・ミュージックの放送局で、イギリスでのアバーン・ミュージックの発展をサポートしている。 ロンドンでは、夏季オリンピックが1908年大会、1948年大会、2012年大会の3度開催されている。2005年7月に、2012年の夏季オリンピックやパラリンピックの開催都市に選出され、「一つの都市では史上初」となる3度目の夏季オリンピック開催都市となった。 また、1934年のコモンウェルスゲームズの開催都市でもあった。さらに2017年には世界陸上が開催されている。 ロンドンで圧倒的にポピュラーなスポーツはサッカーであり、40チーム以上のフットボールリーグのクラブチームがあり、アーセナルFC、チェルシーFC、トッテナム・ホットスパーFC、ウェストハム・ユナイテッドFC、クリスタル・パレスFC、フラムFCなど6つのプレミアリーグのクラブが含まれる。さらに著名なダービーマッチも複数存在しており、ビッグロンドン・ダービーを筆頭に、ノース・ロンドン・ダービーやウェスト・ロンドン・ダービー等が挙げられる。 1924年から元のウェンブリー・スタジアムはサッカーイングランド代表の本拠地であり、FAカップの決勝や他競技ではラグビーリーグのチャレンジカップなどが行われてきた。 21世紀に入って建てられた新しいウェンブリー・スタジアムは、前にあったスタジアム同様の目的で収容人員は9万人である。 クリケットはロンドンで非常に人気が高いスポーツである。テスト・クリケットで使用されるスタジアムはシティ・オブ・ウェストミンスターのローズ・クリケット・グラウンドとランベス区のジ・オーバルがある。ローズ・クリケット・グラウンドはミドルセックス・カウンティ・クリケット・クラブ(英語版)の本拠地であり、その歴史的重要性から「クリケットの聖地」と言われる。このスタジアムではクリケット・ワールドカップの決勝戦が史上最多の5度開催されている他、名門パブリックスクール同士のイートン・カレッジとハロウスクールの伝統の試合も200年以上行われている。ジ・オーバルはサリー・カウンティ・クリケット・クラブ(英語版)の本拠地であり、1880年に初めて国際試合のテスト・クリケットが行われた。このスタジアムはサッカーにとっても重要な場所であり、イングランド初の国際試合のスコットランド戦やFAカップ決勝戦も行われていた。2003年に従来のクリケットとは異なり2、3時間程度で試合が終了するトゥエンティ20(T20)形式が導入された。この試合形式のT20ワールドカップが2009年にイングランドで開催され、決勝戦はローズ・クリケット・グラウンドで行われた。 ロンドンには4つのラグビーユニオンのトップリーグであるプレミアシップのクラブチームロンドン・アイリッシュ、サラセンズ、ロンドン・ワスプス、ハーレクインズがあるが実際に現在ロンドンでプレーしているのはハーレクインズのみで、残りの3チームはグレーター・ロンドンの域外でプレーしている。サラセンズはM25の域内で今もプレーしている。他に2部RFUチャンピオンシップのクラブチームであるロンドン・スコティッシュFCがありホームマッチを行っている。他のロンドンのラグビーユニオンの伝統的なクラブチームにはリッチモンドFC、ロズリンパークFC、ウエストコンブパークRFC(英語版)、ブラックヒースFC、ロンドン・ウェルシュRFCがある。ロンドンには現在、3つのプロのラグビーリーグのクラブチームがある。ロンドン・ブロンコズは2020年シーズンはRFLチャンピオンシップでプレーし、ロンドン北部のハーリンゲイ・ロンドン特別区を拠点とするロンドン・スコーラーズ(英語版)は現在リーグ1(英語版)でプレーする。トゥイッケナム・スタジアムはロンドン南西部にあり、ラグビー専用競技場で収容人員は8万4,000人を擁し現在新しいサウススタンドが完成している。 ロンドンでもっとも世界的に知られたスポーツイベントにはロンドン南西部のマートンのウィンブルドンにあるオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブで毎年行われるウィンブルドン選手権である。他の大きなイベントには春にロンドンマラソンがあり、3万5,000人のランナーがシティ周辺の26.2マイル(42.2km)のコースを走る。陸上競技では夏にIAAFダイヤモンドリーグ・ロンドングランプリが開催される。またザ・ボート・レースがテムズ川のパットニー(英語版)とモルトレーク(英語版)の間で行われる。 6大陸、46の場所にロンドンに因んだ名称の場所がある。ロンドンの特別区は独自に世界の地域と姉妹都市の関係を結んでいる。グレーター・ロンドン・オーソリティーが結んでいる姉妹都市は以下の通り。 以下の都市はロンドンと友好都市の関係を結んでいる。
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インド料理
インド料理(インドりょうり)は、インドに起源を持つ料理。特徴としては、様々なスパイスやハーブを多用することであるが、インドは広大であり、地域や民族、宗教、階層などにより、その食文化はきわめて多様である。 インド各地の食文化の多様な例として、コルカタなどのベンガル地方およびムンバイ以南の沿岸各地における魚介料理、パンジャーブ地方やデリー周辺地域におけるタンドリーチキンをはじめとする肉料理が挙げられる。また、南インドはインド国内でも特にヒンドゥー教徒の数が多く、グジャラート州ではジャイナ教がさかんであることから野菜料理にもそれぞれ特徴的なものがある。 インド料理は、民族や宗教によって料理も変化し、その食文化はきわめて多様であるが、基本的にはスパイスを多く用い、乳製品や油脂も多用される。伝統食には、北インド料理、南インド料理、ベンガル料理、ゴア料理がある。 北インドの料理はイランやアフガニスタンなど中東の食文化の影響を強く受けている。小麦産地であることを反映してナーン (ヒンディー語: नान) 、チャパーティー (ヒンディー語: चपाती) 、ローティー (ヒンディー語: रोटी) といったパンを主食とすることが多い。牛乳やダヒー(ヒンディー語: दही:ヨーグルト)、パニール(ヒンディー語: पनीर:フレッシュチーズ)、ギー(ヒンディー語: घी:澄ましバター)などの乳製品を用い、スパイスとしてクミン、コリアンダー、シナモン、カルダモンおよびこれらを配合したガラムマサラなどを多用する。米は香り高いバースマティー種が好まれる。ムルグ・タンドゥーリーなど、タンドゥールを用いた調理法も北インド料理の特徴の1つである。菜食主義者は南部インドよりは少なく、北部は南部よりも平均気温が5°前後低いためもあって、体温維持のために脂肪分の多い食事が好まれる。 インド国外のインド料理レストランは、パンジャーブ料理とムガル帝国の宮廷料理(ムグライ料理(en))を提供する北インド料理店がほとんどである。 南インドの料理は米飯が主食となっており、乳製品よりもココナッツミルク (ヒンディー語: नारियल का रस) を多用する。またスパイスも北インドのクミン (ヒンディー語: ज़ीला) の代わりにクロガラシ(ヒンディー語: सरसों)の種やカレーリーフ(オオバゲッキツの葉)を好んで用いる。油はギーよりもマスタードオイルやごま油が多く使われる。菜食主義者が多いため野菜や豆の料理が発達しているが、一方で魚を使った料理も多い。北インドで長粒種(インディカ種)が使われるのに対し、南インドの米は丸く、外見は短粒種(ジャポニカ種)に似ている。しかし粘り気は少なく、粘り気を抑えた炊飯法が好まれる。北インドほど油脂を使わないため、料理は比較的あっさりしている。 正餐(ミールス)は、バナナの葉を皿がわりにし、飯、サンバール、ラッサム、ヨーグルト、アチャール、チャトゥニー等を盛りつけ、手で混ぜて食べる。 東インドのベンガル地方およびバングラデシュで食べられている料理であり、米が主食とされる。フェンネルシード、ニオイクロタネソウ(英語版)の種、フェヌグリーク、クロガラシの種、クミンを合わせたパンチ・ポロンという配合香辛料を風味づけによく用いる。その他、白いケシの実(ポスト、posto)をしばしば煮込み料理やチャトゥニーなどに用いるのが特徴である。淡水魚はカーストを問わず非常に人気があり、ジョル (jhol)というスープにしたり、ダール(去皮して二つに割った小粒の豆類)と一緒に煮込んだりする。他の名物に、苦味のある野菜の煮物「シュクト」 (shukto) または「シュクタ」 (shukta) とチェナー(छेना, chhena)を用いた菓子類(チャムチャム /ベンガル語: চম চম、 ラショゴッラ /ベンガル語: রসগোল্লা、シャンデーシュ /ベンガル語: সন্দেশ 他)などがある。カレーに魚を入れるベンガルフィッシュカレーもベンガル料理特有のものである。 ゴアのカトリック教徒の料理は、旧宗主国ポルトガルの料理の影響を強く受けている。米を主食とし、魚介も好まれる。魚とココナッツをスパイスで煮込んだゴアフィッシュカレーが知られる。 インドでは珍しく豚肉の消費が盛んで、リングィーサなども食べられる。ゴア料理では、肉を酢とニンニクで煮込んだヴィンダルー(vindaloo)がよく知られ、鶏肉や羊肉の煮込み料理シャクティ(xacuti)、豚や羊のもつを煮込んだサラパテル(sarapatel)、鼓型をしたパン、ポイー(poee)、ケーキとプディングの中間のようなデザート、ベビンカ(bebinka)などがある。 戒律を理由として、ヒンドゥー教徒の上位カーストの者やジャイナ教の菜食主義のための料理が古くから発達している。その他にも、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シク教など菜食をする宗教が多い。イード・アル=アドハーなど肉の消費が宗教儀礼の中で重要な位置を占めるイスラム教では肉食が肯定される。また、屠畜業に携わるダリット(不可触民)の社会では、肉を食事に取り入れてきた長い伝統がある。このように、インドの菜食と非菜食の伝統は宗教やカーストとの関係が深く、街のレストランでは菜食主義者と非菜食主義者の席は明確に分けられており、両者が同席することはない。 インドの菜食料理では、脂やゼラチンなどを含む一切の動物の肉や動物を原料とする食材を使用せず、卵も使用しない。しかし動物を傷つけずに得られる乳製品はよく使用され、インドの菜食主義者のほとんどは乳菜食主義者(ラクトヴェジタリアン)である。さらに各種の豆類、穀類、ナッツなども使用する為、栄養学的に肉食は必要ともされていない。ヒンドゥー教やシーク教の寺院で参拝者に無料でふるまわれる聖餐は菜食料理である。 ジャイナの中でも最も敬虔な信者は、植物であっても葉、茎、豆だけを食べ、ニンジン (ヒンディー語: ग़ाजल) や大根 (ヒンディー語: मूली) 、ニンニク (ヒンディー語: लहसुन) 、タマネギ (ヒンディー語: प्याज़) 、芋などの根の部分を食べない。これは「土中の虫などの生き物を殺さないため」ということが理由の一つである。さらに「その部分が“体”にあたる」という考え、つまり枝葉ではなく本体部分を殺すことにつながるとの考えから、できる限り植物さえも殺生することを避けることによる。同様に、ハチを殺す危険の大きい蜂蜜なども摂らない。タマネギやニンニクなど五葷の摂取を避ける習慣はバラモンにも見られる。一方、西ベンガル州やアッサム州など東インドの菜食主義者は魚も食べるペスクタリアンであることが多い。 非菜食の料理にも多くの種類があり、中央アジアからムスリムの征服者によって伝えられたものが多い。戒律上、全てのヒンドゥーは牛を聖なるものとして食べず、全てのムスリムは豚を汚れているものとして食べないので、一般にそれら由来の物は使われず、鶏肉、羊肉、山羊肉、魚介類などが非菜食料理の主な食材となる。最もよく食べられる肉は比較的値段の安い山羊肉で、インドではマトンと英訳される慣例があるが羊の肉ではない。鶏肉は比較的値段が高い。インド国民の所得が増加するに従い、食肉の消費量は増加している。 インドにおける「カレー」(「カリー」)という言葉は、外来語である。インドの人たちにとって、香辛料を使った煮込み料理は数多くあり、それぞれをそれぞれの料理名で呼ぶものである。香辛料を多用するインドの料理を全て「カレー」と呼ぶのは、日本料理で言えば醤油を使ったおかずを全て同じ名前で呼ぶような乱暴な呼び方である。カレーの語源には諸説あるが、タミル語で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である。 そういう状況をよく知っている人間は、逆に「インドに『カレー』はない」と述べる場合もある。ただし旧支配国のイギリスが、一部のインド料理をカレーという名前でイギリス料理に取り入れたことにより、世界中に普及したのも事実である。インド人自身も、インド以外の国の人々向けにわかりやすく説明する上で、この「カレー」という言葉を使うようになっており、内外のインド料理店で「具材+カレー」とメニューに表記している例は多い。例えばラース・ビハーリー・ボースは、当時の日本のカレーを元来のインドのカレーとは違うとして、本格的な「インドカレー」を伝えた人物であるが、「カレーという呼称は間違っている」とはしなかった。 カレー粉もイギリス人による発明品である(詳細は該当項目参照)。南インドにはほかにカリー・ポディという配合香辛料があり、「カレー粉」と英訳されることがあるが、味も原料も異なる。 一般的なインド人の感覚として、右手は「浄」、左手は「不浄」のものとされる。そこで食事中に直接料理に触れるのはきれいに洗った右手のみであり、調理された食材の触感を楽しむため、また、本当に清潔であるものかどうかが不明であるため、スプーン・フォーク・ナイフなどの使用は基本的に嫌う。左手はトイレで用を足した際の処理をするためにも使われるため、せいぜい皿や水のグラスの外側に触れる程度に限られる。伝統的な作法ではスプーンなどを使わず、右手で直接パン類をちぎって汁物に浸すか、御飯を汁と混ぜて口に運ぶことになる。その際、親指・人差し指、中指までの指先の第二関節までを使うのがより上品とされる。ただし西洋の習慣に慣れた都会の人はスプーンやナイフを使うのにも抵抗がない傾向にある。また、ゆで卵の殻をむくときなど、どうしても両手を使わざるを得ない場合は両手を使う場合もある。 浄・不浄の感覚は、他にも徹底されており、揚げたり炒めたりする料理が多いのもインド料理の特徴である。これは、油で調理することで食品が浄化されるという観念に基づく。また食器に磁器・陶器よりも金属製のものが好んで使われるのも、土からできた前者よりも後者のほうが、より清浄であるとの考えからである。他者が手をつけた食べ物は穢れると考えられる。 さらにヒンドゥー教では、伝統的に「浄」と「不浄」の概念がカーストの概念に結びついている。下位カーストに属する人が触れた水や水分の多い食物は穢れると考えられ、かつては高位のカーストと下位のカーストに属する人同士が同じ席で食事をとることはおろか、水を受け渡すことすら忌避された。職業料理人には伝統的にバラモン出身者が多く、行楽や旅行に手作りの弁当を持参する習慣が根強く、家族が家で作った弁当を職場に配達するダッバーワーラーという業種が成立するのもこうした理由からである。近年でこそダリットの女性たちによるケータリング事業が成功した例もあるが、カースト差別が違法となった今日でも食にまつわる差別は報告されている。 インドの中華料理はコルカタに住む中国人によって紹介されたのが始まりといわれる。インドでの中華料理の人気は高く、特に大都市でよく普及している。クミンやコリアンダー、ターメリックなどでインド人好みの味付けがされており、豚肉や牛肉はほとんど使われず、逆にパニールなどインド料理の食材が用いられる例がある。インドの中華料理店では炒飯や炒麺、春巻き、チャプスイ、酢鶏、モモなどが食べられる。ドーサに炒麺など中華料理をはさむ例も見られる。 インド系移民と在外インド人の活動の結果として、インド料理は世界各地に定着している。特にイギリスや旧イギリス領のマレーシア、シンガポール、フィジー、ペルシア湾岸、ケニア、南アフリカ、トリニダード・トバゴ、ガイアナなどでは、インド料理が地元の食文化に溶け込んでいる。一例を挙げると、チキンティッカマサラはイギリス生まれのインド料理で、イギリスの国民食の1つと呼ばれている。ゴア料理はポルトガルとその植民地に伝播し、マカオ料理などに影響を与えた。また、カレー粉の普及により世界各地にカレー料理が生まれている。インドを発祥とするムルタバは、貿易を通して東南アジアに伝わり、現在では同地域やアラビア半島で食べられている。 日本では、中村屋のボースやイギリス海軍の影響になどにより、学校給食でカレーが取り入れられるなど、ラーメンと並びカレーライスが国民食となっている。全国各地では、その土地ならではの味付けや食材、コンセプトを用いた「ご当地カレー」も登場しており、日本独自の食文化となりつつある。 同じ南アジアであるネパール料理やスリランカ料理やモルディブ料理、かつてイギリス領インド帝国だったパキスタン料理、バングラデシュ料理でもスパイスを大量に使ったカレー状の料理が見られる。 日本では、大都会に伝統的な比較的高級なインド料理店がある一方、2010年代以降、各地に大衆向けのインド料理店が急増している。こうした店のなかには出稼ぎまたは定住したネパール人が経営・料理・サービスに従事していることが少なくない。
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ラッシー
ラッシー(またはラッスィー、英語: Lassi、ウルドゥー語: لسّی、ヒンディー語: लस्सी) は、インドなど南アジアの地域で親しまれている飲み物で、ダヒー(ヨーグルト)をベースに作られる。濃さはどろっとしたヨーグルト状のものから、水分の多いさらっとしたものまである。特に名前の違いはなく、作る人や地方、好みによる。 塩気のある飲み物でラッシーに似ているがより水分が多く脂肪分が少ない。スパイシーなバターミルク。塩とクミンシードが通常加えられる。グジャラート州やラージャスターン州でよく飲まれる。
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石田純一
石田 純一(いしだ じゅんいち、本名:石田 太郎(いしだ たろう)、1954年〈昭和29年〉1月14日 - )は、日本のタレント、俳優、YouTuber。 東京都目黒区出身。血液型はA型。メロン所属(リクコーポレーション提携)。かつてはスカイコーポレーションに所属していた。 1954年1月14日、NHKアナウンサー・石田武の長男として東京都目黒区で出生。祖父は中外商業新報(現・日本経済新聞)記者で、政治部長や参事などを務めた石田武太郎。母親は女学校時代に原爆投下後の広島市に後片付けに入った入市被爆者。4歳までアメリカ・ワシントンで育つ。東京都立青山高等学校を経て、早稲田大学商学部中退。 最初の妻の府中市の緑の党社会運動部長星川まり(1955年 - 、作家・翻訳家の星川淳の実妹)とは、1970年代に知り合って結婚。1974年、純一が20歳の頃に長男・壱成が誕生。役者をやりたい純一に対して父・武は「子どものために安定した仕事を見つけろ」と怒りを爆発させた。 大学在学中、演出家となることを考えた石田は演劇を学ぶためにアメリカに渡った。東洋哲学に傾倒しており、ヒッピー的な志向であったまりとは、このアメリカ滞在中に離婚。帰国後の1978年には大学を中退、「演劇集団 円」の演劇研究所研究生となった。 「演劇集団 円」や、アクト青山ドラマティック・スクールでの下積み生活を経て、1979年にNHKドラマ『あめりか物語』(日系三世のタイ人の店員役)で正式にデビューする。当初は「石田 純」の芸名を使用していた(のちに現在の名前に改名)。1980年、父・武が、仕事中突然脳卒中で倒れ、左半身に麻痺が残り、NHKを退職した。父・武との溝を埋められないでいた純一は役者として芽が出ず、合わせる顔がなかった。 1984年の昼ドラ『夢追い旅行』で準主役で出演しその名を知られると、1985年から1989年にかけて放送されたクイズ番組『TVプレイバック』にレギュラー解答者に抜擢され、そのルックスと萩本欽一やザ・ドリフターズのメンバーにも臆することのない軽快な話術が受け、知名度が上がることとなった。また、1987年にはテレビ朝日の音楽番組『オリジナルコンサート』の司会を務めた。 そして、1988年にテレビドラマ『抱きしめたい!』(フジテレビ系列)に二宮修治役として出演したことから、数多くの「トレンディドラマ」に出演し、バブル期を代表する俳優として活躍した。当初、二宮修治役は陣内孝則が演じる予定であったが、陣内が同時期に放送されたテレビドラマ『結婚してシマッタ!』(TBS系列)に主演として起用されたためにダブルブッキングが発生。陣内が「役が大きい方」を選んで『抱きしめたい!』への出演を辞退し、さらに次候補として挙げられていた加藤雅也もスケジュールが合わなかったことから、同役が石田に回って来たという経緯がある。ただ、それまで俳優として芽が出なかったこと、それに所属事務所の社長を継いでほしいとの話もあったことから、石田自身は同作品への出演が俳優としてのキャリアの最後のつもりであったが、同作品の放映開始後から石田の人気が急上昇したことにより俳優を続けていくことになった。 1988年に女優の松原千明と再婚。1990年7月に長女・すみれが誕生。 しかし1991年10月、それまで石田が公表していなかった、星川との間に儲けた長男・壱成の存在が明らかになり、「隠し子」として『週刊女性』にスクープされる。また、石田もその事実を認めた声明を出したため大きく報じられた。壱成は翌1992年に、「石田純一の息子・いしだ壱成」として芸能界デビューし、以降親子での共演なども見られることとなった。 また、石田はファッションモデル・長谷川理恵との8年余りに及ぶ交際でも知られた。1996年10月、『フォーカス』のスクープを発端に長谷川との不倫についてマスコミから追及された石田は「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある。作品が素晴らしければ褒め讃えられて、その人の行為は唾棄すべきものとは僕は思えない」と反論。平尾昌晃チャリティゴルフで芸能レポーターの取材に答える石田の姿は、「不倫は文化」というフレーズと共に繰り返し報じられた。結婚中の不倫と前述の発言による「不倫バッシング」によって、40代は一転して不遇の人生に転落することとなる。 不倫騒動にもかかわらず、1997年4月に『スーパーJチャンネル』のメインキャスターに就任し、月曜日から木曜日までレギュラー出演していた。しかし、8月にまたも『フォーカス』に長谷川との密会現場を撮られたことから、翌1998年4月に降板。降板日には生放送で落涙している。 完全に干されてしまった石田は1999年に2度目の離婚。全盛期に3億円あった年収はゼロになり、8000万円の借金ができるなど経済的にも困窮し、それまで住んでいた高級マンションは引き払おうにも引越し代がないという始末であった。この頃の状況について石田は後に、「時間を持て余すことが何よりも辛かった」と語っている。 「不倫は文化騒動」以降は、バラエティ番組や情報番組への出演に主軸をおいた活動が続いているが、完全に俳優業をやめた訳ではなく、2000年代以降も本業の俳優としての活動は継続している。 2009年にプロゴルファーの東尾理子と交際していることを公表。同年9月に出演したテレビのトーク番組において、翌春に理子と結婚することを発表した(実際には同年12月12日に結婚)。理子の実父で、元プロ野球選手の修は石田とほぼ同年代であり、この結婚によって石田より4歳(学年では3学年)だけ年上の義父となった。 結婚から3年後の2012年11月5日には、二人の間に男児・理汰郎が誕生した。翌2013年には理子夫人および理汰郎と共に同年度COTTON USAアワードを受賞している。2015年8月31日には理子夫人が第2子妊娠を報告し、2016年3月24日に女児が誕生。2017年11月7日、理子夫人が第3子妊娠を報告。自身のコラムでは「手間がかかることもあって、僕は3人目に必ずしも積極的ではなかった」と語っている。 2016年7月7日、舛添要一前東京都知事の辞職に伴う東京都知事選挙に「野党統一候補なら、出馬したい」と表明。しかし、民進党の松原仁都連会長は「実務経験がある方が必要。都政は極めて大きな舞台なので、一定の経験がないと大きな船を操れない」と擁立を拒否した。一方で、石田は出馬表明したことによる出演番組やCMなどの差し替えによる損害賠償が数千万円単位で発生していることを明かした。7月11日、石田は会見を開き「正式に断念します。いろいろとお騒がせしました」と陳謝した。その後、所属事務所はCMなどのスポンサー契約やテレビのレギュラー番組がある限り、応援演説など、政治問題に携わることは難しいことを明かした。 2020年4月15日、新型コロナウイルスに感染したことを公表した。所属事務所は当初、沖縄へ仕事で行き、宿泊先のホテルで体調を崩したと発表したが、一転、ゴルフ場でプレー中に体調を崩したと発表。沖縄県では玉城デニー知事が4月8日に「県外からの来県自粛と、沖縄県民の外出自粛要請」を出したばかりであり、石田が滞在したホテルは休館に追い込まれるなどしたため、強い批判を浴びた。その後、アビガンの投与を受けて治療を続け、5月12日に退院したことを翌日のブログで報告した。しかし、退院後に妻・理子の制止を振りきって、マスクをつけずに外食をしたことが報じられ、更なる批判を浴びた。 過去のレギュラー 過去のレギュラー
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高温超伝導
高温超伝導(こうおんちょうでんどう、英: high-temperature superconductivity)とは、高い転移温度 (Tc) で起こる超伝導である。 ベドノルツとミューラー(ミュラー)が、La-Ba-Cu-O系において1986年に発見したことから始まり、その後転移温度が液体窒素温度(−195.8 °C, 77 K)を越える銅酸化物が発見された。ミュラーとベドノルツはこの業績により、1987年のノーベル物理学賞を受賞した。 高温超伝導において、「高温」とされる温度は時代や状況によって異なる。国際電気標準会議 (IEC) の国際規定IEC60050-815(2000) と日本工業規格JIS H 7005(1999) では、「一般的に約25 K以上の Tc を持つ超伝導体」と定義した。その後、転移温度が90 Kを超える超伝導体も登場し、現在では液体窒素温度(−195.8 °C、77 K)以上で転移するものを高温超伝導体と呼ぶことが多い。 室温程度で生じる高温超伝導は特に室温超伝導とも呼ぶ。 高温超伝導を示す物質のことを高温超伝導体という。 1985年、誘電体研究で著名なIBMチューリッヒ研究所のフェローとなっていたアレックス・ミューラーのもとで、ジョージ・ベドノルツはチタン酸ストロンチウムの研究を行っていた。この物質は強誘電体としてよく知られている絶縁体であるが、電子ドープにより半導体から金属的となり、低い転移温度ながら超伝導を示す。ミューラーはヤーン・テラー型格子変形と超伝導との関係に興味をもっていた。ベドノルツはある日、図書室でLa-Ba-Cu-Oペロブスカイト系で液体窒素温度まで金属になるという論文を知り、早速作ってみると、試料は30 K付近から抵抗が減少し、10 K以下でゼロ抵抗になるように見えた。 彼らはドイツの会議でこの結果を発表したが、誰にも評価されることはなかった。そこでIBM T.J. Watson研究所に試料を送って真偽を鑑定してもらったが、比熱測定に超伝導転移による跳びが見られなかったことから超伝導ではないという結果が返ってきた。超伝導を認められなかったものの、1986年4月、ベドノルツとミューラーはとりあえずZeitschrift für Physikというドイツの学術誌に論文を投稿した。 この論文が公表された1986年、少なくとも世界の数カ所で結果の追試が行われた。このうち東京大学の田中グループは、この物質の結晶構造の同定とマイスナー効果を確認し、誰もが間違いないと確信できるレベルでLa-Ba-Cu-O系で超伝導が起こっていることを証明した。田中研で超伝導の存在が判明したのが1986年11月13日であり、12月5日にボストンの材料研究学会においてこの結果が発表された。これ以後、数年間にわたり高温超伝導探索のフィーバーが続いた。1987年2月には、90 K級で転移するY-Ba-Cu-O(Y系超伝導体)が発見された。短期間のうちにTcが60 Kも高められたことになる。 超伝導転移温度はその後も次々と塗り替えられており、大気圧下では1993年に発見されたHg-1223の135 Kが最も高い温度となる。 2001年:青山学院大学の秋光純らのグループが40 Kが上限と考えられるBCS理論に基づく超伝導体で、極めて上限に近い転移温度39 Kの二ホウ化マグネシウムを発見。金属系超伝導物質では最高温度となる。 2005年:水銀系銅酸化物において高圧力下での166 Kの転移温度を記録したことが報告された。ただし超伝導現象の最も基本的な性質であるゼロ抵抗は全く実現されておらず、この温度を超伝導転移温度と呼んでいいかについては議論がある。 銅酸化物高温超伝導に関する研究論文は、1987年前後をピークとして発表数は減少傾向を示している。学術データベースの統計から判断すると、高温超伝導に関する研究は、2010年から2015年までの間に行き詰まりを迎えるとする見方もあった。 2008年:東工大の細野秀雄らにより、鉄を含んだ組成の酸化物が超伝導を示すことが分かり、新たな鉱脈として大きな注目を集めている(鉄系超伝導物質)。ただ、超伝導転移温度は最も高い場合でも56K程度であり、銅酸化物高温超伝導体に対しては今のところ低い。 2015年:硫化水素が150 GPa(150万気圧)の超高圧下において203 K(−70 °C)というこれまでになく高い温度で超伝導状態になったとの報告が、Nature誌に掲載された。さらに、同記事によれば、硫化水素中の硫黄原子の7.5%をリンに置換した上で250 GPaの圧力をかければ、280 K(+8 °C)で超伝導状態になるという。これは水の凝固点よりも高温である。 2016年1月29日:東京大学とパリ南大学の共同研究チームがBCS理論とは別の銅酸化物高温超伝導体の超伝導が高温で起きる原因となる新しいメカニズムを発見したと発表。2月1日付けのアメリカの科学雑誌「フィジカル・レビュー」に掲載された。数値シミュレーションによりBCS理論では説明の付かない電子の振る舞いを発見し、この異常な振る舞いが高温超伝導の直接の原因であることを突き止めた。高温超伝導体の設計に新たな指針を与える成果。 2019年5月23日、ランタン水素化物が170 GPa(170万気圧)の超高圧下において250 K(−23 °C)で超伝導状態になることをドイツのマックス・プランク研究所が発見し、Nature (2019年5月23日号528ページ)で報告した。 2020年2月6日、物質・材料研究機構と東北大学、東京大学、理研などで構成される国際研究チームが、マックス・プランク研究所が2019年に発見、発表した温度−23 °Cというほぼ室温で超伝導になる高圧下ランタン水素が、原子核の量子ゆらぎのおかげで広い圧力域で安定に存在する「量子固体」であることをコンピュータシミュレーションにより発見したと発表した。この発見は、水素を多く含んだ水素リッチ化合物による高温超伝導やさらには室温超伝導がこれまで考えられていたよりも遙かに低い圧力で実現できる可能性を示すものであった。同研究は、Nature誌にて現地時間2020年2月5日午後6時(日本時間6日午前3時)にオンライン掲載された。 2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH8S)が267 GPaの圧力下において、287.7 K(15 °C)で超伝導状態になることをニューヨーク州ロチェスター大学のグループが発見し、Natureで報告した。高圧化ながら摂氏0度を超える初の超伝導現象の報告となった。但し、Nature誌は2022年9月26日に、論文で用いられたデータ処理および分析方法に関して疑問が提起され、著者とNatureは解決に向けて取り組んできたが解決されなかったとして論文を撤回した。 2023年3月8日、ディアス博士らのグループが高圧下で水素化ルテチウムが294 K(21°C)で超伝導になったとする論文を再度Natureに発表、追試が行われ、理論的、実験的に否定的な結果が多い中、2023年6月9日、イリノイ大学シカゴ校のラッセル・ヘムリー教授のグループが追試に成功したという報告が、インターネット上の論文サーバである「arXiv」に報告された。 また、2000年前後には、フラーレンなどでも高温超伝導が生じるとする論文が数編提出されたが、後に全て研究者による捏造と判明して撤回された。 YBa 2 Cu 3 O 7 − δ {\displaystyle {\ce {YBa2Cu3O_{7-\delta}}}} (Tc〜93 K)や Bi 2 Sr 2 Ca 2 Cu 3 O 10 {\displaystyle {\ce {Bi2Sr2Ca2Cu3O10}}} (Tc〜109 K)といった銅酸化物高温超伝導体は全て、ペロブスカイト構造を基礎とした結晶構造をしている。 これら銅酸化物高温超伝導体の構造には以下のような特徴がある。 これらの超伝導体は、構成する元素の頭文字をとって呼ばれることが多い。たとえばYBa2Cu3O7-δはYBCOと呼ばれ、Bi2Sr2Ca2Cu3O10はBSCCO(ビスコ)と呼ばれる。一方、構成元素の物質量比(モル比)で呼ぶこともある。たとえばYBa2Cu3O7-δはY123、Bi2Sr2Ca2Cu3O10はBi2223などである。 高温超伝導体にはキャリアがホールであるものと、電子のものの2種類がある。前者をホールドープ型、またはp型と呼ばれ、後者は電子ドープ型、またはn型と呼ばれる。 ホールドープ型の高温超伝導体はホール濃度と温度により、右図のような状態をとる。ホール濃度がゼロのとき、反強磁性となり、ドープをすると反強磁性が消え、擬ギャップと呼ばれる状態になる。さらにドープすると超伝導になる。ドープを増やすと超伝導転移温度は上昇する。この領域をアンダードープ領域と呼ぶ。さらにドープすると転移温度は下がる。この領域をオーバードープ領域と呼ぶ。これ以上ドープすると超伝導は消え金属的になる。 高温超伝導においても従来型の超伝導と同様にクーパー対が形成されていることが分かっている。従来型超伝導では、BCS理論により、フォノンを媒介とするクーパー対の形成機構が解明されているのに対し、高温超伝導におけるクーパー対の形成機構に関しては、完全な意見の一致は得られていない。高温超伝導体の発見後すぐに行われた同位体効果実験から、高温超伝導機構はフォノン機構では説明できないとされている。膨大な実験的・理論的な研究により、高温超伝導物質中のCuO22次元面内の電子系における、反強磁性的なスピンの揺らぎを媒介にしたクーパー対形成機構で、高温超伝導の機構を理解できるという立場が主流となっている。しかし酸素の同位体置換により超伝導電子密度が変化するという報告もあり、フォノンも何らかの寄与をしているものと考えられている。 *MgB2(二ホウ化マグネシウム)が39Kで転移するが、分類の便宜上外した。 銅酸化物高温超伝導体は全て、ペロブスカイト構造を基礎とした結晶構造をしていて、2次元正方格子CuO2面がシート状に広がっていて、このシートの上下にはランタノイド等による電気伝導をブロックする層があり、CuO2面とブロック層が交互に積層する構造をとっている。またブロック層が存在しない無限層と呼ばれるものもある。 イットリウム(Y)を含む、90ケルビン(K)以上で超伝導転移を起こす化合物で、Y系高温超伝導体、Y系銅酸化物高温超伝導体とも書かれ、化学式は YBa2Cu3O7 である。構成する元素の頭文字をとってYBCO(ワイビーシーオー)または、構成元素の物質量比(モル比)からY123(イットリウムいちにさん)とも呼ばれる。初めて発見された液体窒素の沸点(77 K)を超える転移温度をもつ超伝導体。 1988年に科学技術庁金属材料技術研究所(現・物質・材料研究機構)の前田弘のグループによって開発された。90ケルビン(K)以上で超伝導転移を起こす化合物で化学式はBi2Sr2Ca2Cu3O10である。構成する元素の頭文字をとってBSCCO(ビスコ)または、構成元素の物質量比(モル比)からBi2223(ビスマスにににさん)とも呼ばれる。 REBa2Cu3Oy は希土類を含む銅酸化物超伝導体で線材化の技術が進み、実用化にむけて開発が進みつつある。セラミクスであるREBCO超伝導体はもろいので、線材として必要な屈曲性に劣るが、薄膜化する事により柔軟性を付与する事が可能になり、線材として使用することが可能になる。結晶配向性によっても臨界電流密度が大きく変わるため、試料全体に渡った結晶軸方位の 整列が必要でエピタキシャル成長を利用して線材の全体にわたって配向したREBCO膜を作製する 技術が要求される。結晶配向性の良好な緩衝層、高い超伝導特性を持つREBCOエピ膜、長尺に渡って超伝導特性が均一なREBCOエピ膜の作製が鍵となる。 結晶構造としてはFe(鉄)イオンが正方格子を形成しており、Feの3d軌道がフェルミ面を構成する。Fe同士は金属結合になっていると考えられ、ヒ素などのプニコゲン元素がFeと強い共有結合を作り、構造を安定化させている。このため、電子のドープを行なうと反強磁性スピン配列が消え、超伝導転移温度が高くなるという解釈もできる。 LnFeAsO1-XFXの母物質の一つであるLaFeAsOの測定では、160K(約マイナス110°C)付近で正方晶から斜方晶への転移が起きることがわかっている。この付近の温度では比熱のピークも見られ、La(ランタン)のスピン格子緩和時間が発散してスピン配列が生じている。Feのスピン配列はFeAs平面内でa軸とb軸の長さが等しいが、160K以下では両者の長さに差が生じ、反強磁性的な整列状態になる。これらの結果より、140Kがネール温度に相当すると見られる。 2015年にドイツのマックス・プランク研究所により、それまで約20年間破られていなかった転移温度の最高記録を約40度も上回る203kが硫黄水素化物によって実現したことにより、2020年現在、高温超伝導体の探求は水素化物に超高圧をかけることに向けられている。2019年にはランタン水素化物で超高圧下という条件下ながら従来の銅酸化物超伝導体の転移温度を100°Cも上回る、250kを達成した。2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH8S)が超高圧下という条件下ながら、287.7Kを達成し、超伝導の歴史上初めて水の凝固点を超える発見となった。 YBa2Cu3O7-δの発見で転移温度が液体窒素温度を越えてから、高価な液体ヘリウムにかわって安価な液体窒素を使えることから実用への期待が高まった。しかし加工が難しいことや臨界電流密度を高めるのが難しいことから応用はなかなか進んでいないが、近年はヘリウムの供給不足と価格高騰も重なり、高温超伝導体ならではのバルクでの用途が徐々に見出されつつある。応用としては送電線、高周波通信用超伝導フィルター、SQUID、磁界検出器、超電導リニア、米海軍の艦船推進用モーター、核磁気共鳴、MRIなど。ビスマス系超伝導体超伝導電磁石を使用した磁気浮上式鉄道の走行実験が2005年11月に実施され、成功した。
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雷(かみなり、いかずち)とは、雲と雲との間、あるいは雲と地上との間の放電によって、光と音を発生する自然現象のこと。 また、ここでは「気象現象あるいは神話としての雷」を中心に述べる。 さまざまな気象状況で発生するものであり、雷雲の生じる原因によって熱雷・界雷・渦雷などに大別されている。夏季に雷雲など激しい上昇気流のあるところに発生するものが熱雷、四季をとおして寒冷前線に沿って発生するものが界雷、低気圧の域内や台風の中で発生するものが渦雷である。火山の噴火に伴い噴煙中とその周辺で生じるものは火山雷と呼ばれる。 雨を伴う場合は「雷雨(らいう)」とも言われる。 漢字(漢語)では「雷」と書くが、大和言葉では主に「かみなり」や「いなずま(いなづま)」などと言う。さらに古語や方言などでは、いかづち、ごろつき、かんなり、らいさまなどの呼び名もある。 音と光を伴う雷放電現象を雷電と呼ぶ。雷(かみなり)に際して起こる音は雷鳴であり、雷電の「雷(らい)」である。それに対して雷に際して起こる光は稲妻であり、雷電の「電」である。 現代日本語でいう雷(かみなり)は雷電とほぼ同義語であるが、遠方で発生した雷は光は見えるものの、風向きの影響などで音が聞こえないことがある。そのため、日本式天気図においては「過去10分以内に雷電または雷鳴があった状態」を雷としている。気象庁の定義によると「雷」とは「雷電(雷鳴および電光)がある状態。電光のみは含まない」とされている。 雷を発生させる雲を雷雲と呼び、その時に雲は帯電状態となっている。雲の中で起こる放電、雲と雲の間の放電をまとめて雲放電と呼び、雲と地面との間の放電を対地放電または落雷と呼ぶ。 なお、雷は主に風と雨を伴う雷雨時に氷の粒子で形成される雷雲によっておこる雷を指す場合が多いが、そればかりではなく、火山の噴火時や砂嵐時に砂の粒子の帯電で形成される雷雲によっておこる火山雷なども雷に含む。 大和言葉の「いなずま」もしくは「いなづま」(歴史的仮名遣いは「いなづま」。ただし「いなづま」は現代仮名遣いでも許容されている)の語源は、稲が開花し結実する旧暦(太陰暦)の夏から秋のはじめにかけて雨に伴い雷がよく発生し、稲穂は雷に感光することで実る、という信仰が生まれ、雷を稲と関連付けて 「稲の『つま(=配偶者)』」と解し、「稲妻」(いなづま)、あるいは「稲光」(いなびかり)などと呼ぶようになったといわれている。日本書紀には、「雷電(イナツルヒ)」と記された史記があり、奈良時代より雷と稲との縁が窺い知れる。 大和言葉「かみなり」の語源は、昔、雷は神が鳴らすもの、と信じられていて「神鳴り」と呼ばれたため。 雷の発生原理は研究が続けられており、さまざまな説が論じられているが、まだ正確には解明されていない。2021年現在、雷は主に、上空と地面の間または上空の雷雲内に電位差が生じた場合の放電により起きる、と言われており、主に以下のように説明されている。低気圧や前線等の荒天時に発生することが多いが、台風の際には雷が発生しにくい傾向がある。 電位差が発生した雲または大地などの間に発生する光と音を伴う放電現象。 地表で大気が暖められることなどにより上昇気流が発生し上空へ昇って行くと、あるところで飽和水蒸気量を超えて水滴(雲粒)が発生する。これが雲であり、湿度が高いほど低層から、気流の規模が大きいほど高空にかけて、発達する。 この水滴は高空にいくほど低温のため、氷の粒子である氷晶になる。氷晶はさらに霰(あられ)となり上昇気流にあおられながら互いに激しくぶつかり合って摩擦されたり砕けたりすることで静電気が蓄積される。成長して重くなる霰は下に、軽い氷晶は上に持ち上げられるが、後述のとおり霰は負、氷晶は正に帯電するため、雲の上層には正の電荷が蓄積され、下層には負の電荷が蓄積される。 雲の中で電位差が生じる原因は、長らく研究者の間で議論されており、異なる切り口からいくつかの説が出されてきた。そのうちのいくつかは現在でも支持されている。そして、これらを全体的観点からまとめた着氷電荷分離理論(高橋, 1978)が最も多くの支持を得ている。 上層と下層の電位差が拡大して空気の絶縁の限界値(約300万V/m)を超えると電子が放出され、放出された電子は空気中にある気体原子と衝突してこれを電離させる。電離によって生じた陽イオンは、電子とは逆に向かって突進し新たな電子を叩き出す。この2次電子が更なる電子雪崩を引き起こし、持続的な放電現象となって下層へ向って稲妻が飛んでいく。 また、下層の負電荷が蓄積されると、今度は地面では正の電荷が静電誘導により誘起される。この両者の間でも、電位差がある一定を超えると放電が起きる。 これらの放電は、大気中を走る強い光の束として観測される。1回の放電量は数万 - 数十万A、電圧は1 - 10億V、電力換算で平均約900GW(=100W電球90億個分相当)に及ぶが時間にすると1/1000秒程度でしかない。エネルギーに換算するとおよそ900MJであり、もし、無駄なくこの電力量をすべてためることができるなら、家庭用省電力エアコン(消費電力1kW)を24時間連続で使い続けた場合、10日強使用できる。 この間を細かく分けると、落雷(負極性の雷)においては、雷雲から最初に伸びる複数の弱い光の先駆放電(ステップトリーダー)、大地側から迎えるように伸びるストリーマ(線条・先行放電)、両者が結合して大量の電荷が本格的に先駆放電路に流入する主雷撃の3段階に大別され、電位差が中和されるまで放電が続く。ステップトリーダーが複数であるのに対し、ステップトリーダーと結合するストリーマは1ないしは数個までであり、結果、主電撃として目視確認できる放電路は少なくなる。典型的な夏雷であれば、1回の落雷において、その複数のステップトリーダーの広がりはおよそ10000 (m) 範囲であり、主電撃すなわち落雷はこの範囲で形成される。 主な夏雷は電子は雲から地表に、電流は地表から雲に流れる。冬雷の場合はその性質上これとは逆に電子は地表から雲に、電流は雲から地表に流れる。 放電現象が発生したときに生じる音である。雷が地面に落下したときの衝撃音ではなく、放電の際に放たれる熱量(主雷撃が始まって1マイクロ秒後には、放電路にあたる大気の温度は局所的に2 - 3万°Cという高温に達する)によって雷周辺の空気が急速に膨張し、音速を超えた時の衝撃波である。 稲妻の放つ光は光速で伝わるため、ほぼ瞬間に到達する。これに対して、雷鳴は音速で伝わるため、音が伝わってくる時間の分だけ、稲妻より遅れて到達する。そのため、雷の発生した場所が遠いほど、稲妻から雷鳴までの時間が長くなり、その時間を計ればおおよその距離も分かる。 発現地点までの距離(自分を中心とした半径)を P(キロメートル)、稲妻が光ってから(もしくはラジオにパルス雑音が入ってから)雷鳴が聞こえる瞬間までの時間を S(秒) とすると、次のように表される。定数0.34は気温を15°Cとしたときのキロメートル毎秒で表す音速。 雷鳴が聞こえる距離は通常で約10 - 15kmだが、雷雲外への放電がある場合などは、雷雲から30km以上離れていても雷鳴が聞こえることがある。 急激な上昇気流により低層から高層まで形成された雷雲は主に積乱雲などで構成され、熱雷と呼ぶ。夏季によく発生するため、俗に夏雷とも呼ばれる。局地的かつ散発的に発生し、持続時間は短い傾向がある。 積乱雲でも寒冷前線上などに発生する場合、また、温暖前線などで同様の原理が発生した場合の雷は界雷と呼ぶ。帯状にまとまって発生し、セルの世代交代があって前線の移動に付随して落雷域が移動することが多い。 前線に向かって湿った空気が流れ込むことによって形成された雷雲による雷など、熱雷と界雷の両方の特性を併せ持つものを熱界雷と呼ぶ。夏季において激しい雷雨を伴うことが多く、たびたび地上において被害を引き起こす雷。局地的にまとまって発生し、時に100kmを超える巨大な積乱雲群を構成して落雷域が広範囲に及ぶ。 上昇気流が発達した低気圧や台風などにより形成された雷雲による雷の場合を渦雷(からい、うずらい)と呼ぶ。性質としては熱雷や界雷に近い。勢力が強いものや移動速度が速いものは雷雲の移動速度が速いことから、防災上注意を要する。 雲内での放電を雲内放電 (inter cloud lightning : IC)、雲と雲の間の放電を雲間放電 (cloud to cloud lightning : CC) と呼ぶ。雷雲から地面への放電を対地雷 (cloud to ground lightning : CG) と呼ぶ。対地雷には上向きと下向き、正極性 (+CG) と負極性 (-CG) の分類があるから対地雷は結局4種類ある。 夜間、遠方で発生した雷による稲妻が雲に反射する現象および、雲内放電により雷雲自体が光って見える現象を幕電と呼ぶ。雷雲から15km以上離れている場合など、稲妻のみで雷鳴が確認できない時を指すことが多い。 幕電は上空が晴れていても確認できることがあり、強い閃光のわりに雷鳴が聞こえないなどといったことから、しばしば宏観異常現象ではないかとされることがある。 近年(1980年代 - )では大規模落雷に伴って発生するスプライト等の雷雲上空高度20 - 100kmの成層圏・中間圏・下部熱圏において起こる放電による発光現象も発見されている。 近代気象観測では、観測所における天気観測に雷も組み込まれ、目視観測が続けられてきた。一方、気象レーダー(雷検知器)による観測が拡大し、少しづつ代替されつつある。日本では、1990年代後半から2000年代にかけて測候所で、2010年代後半にほとんどの地方気象台で、目視による雷観測が廃止され、気象レーダーによる雷検出に代替された。 落雷被害における火災保険に関連して、被害を科学的に裏付ける資料として、観測記録を基にして雷に関する「気象証明」を気象台が発行している。民間にも同様のサービスがある。 国際気象通報式では、雷電等が観測時(観測直前10分間)にあったか否か、観測時になくとも前1時間内にあったか否か、雷の3段階強度、降水を伴うか否か、雨や雪の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。自動観測の場合は少し異なった区分になる。なお、雷電は電光と雷鳴を観測したことを指す。基本の記号は雷光(雷鳴なし)が()、雷電が()。 航空気象の通報式では、「特性」の欄のTSが雷電を表し、降水現象の欄のRA(雨)などと組み合わせて、あるいは単独で用いる。 ラジオ気象通報などの日本式天気図では、観測時の直前10分間に雷電(電光と雷鳴)または雷鳴が観測されたとき、天気を雷と表記する。天気記号は雷()、雷強し(ツ)。降雨や降雪、雹や霰が観測されていても、雷は最も優先順位が高いため単に雷とする。雷強しの記号は、1988年に雪強しとともに追加された。 20世紀に入ってからの観測により、雷から幅広い周波数帯の電磁波が放射されていることが分かっている。身近な例では雷由来のノイズがラジオで受信できる場合があり、原理上振幅変調を用いるAMラジオはその感度が高く、周波数変調であるFMラジオは感度が低い。 また、雷放電の高度が低い冬の日本海側の原子力発電所などで、雷と同時にX線やガンマ線などの放射線値の一時的上昇が観測されている。これにより雷が放射線を放出していると解明された。一方、宇宙線などの外から入ってきた放射線が制動放射を誘発し雷放電を励起しているとの研究がある。 雷の空中放電により、空気中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物が生成(窒素固定)され、さらに酸素により硝酸に変化する。これらが地上に降下して硝酸塩が生成されることで植物が栄養分として利用できる物質となる。 雷は光核反応(原子核反応)の引き金になり得るとされている。2017年2月6日 17:34:06、柏崎にて、落雷の35秒後に 0.511 MeVの対消滅ガンマ線が観測されており、これが陽電子と電子が衝突し電子対消滅した時に放出された対消滅ガンマ線だと解釈されている(対消滅ガンマ線と誤認される他の可能性として環境バックグラウンドの輝線があるが、天然放射性核種 208Tl(0.583 MeV) や 214Bi (0.609 MeV)と明確に区別され、かつ、大気中での「対生成」で陽電子が発生した場合では落雷との時間差から区別される)。 北関東地方(栃木県、群馬県、埼玉県北部、茨城県)では特に夏の雷が多く「雷の銀座通り」等と呼ばれることがあるほどである。落雷保険の料率(保険料)も他地方に比べて高い。「上州(群馬県)名物、かかあ天下と空っ風」という言葉があるが、それに加えて雷も名物として知られる。関東地方の気象庁観測点では突出して雷日数の多い宇都宮市では、夏季に多くなる雷を「雷都(らいと)」という地域の愛称に取り込み、宇都宮市債や土産物の菓子の名称などに使われている。 北陸地方や新潟県、山形県庄内地方、秋田県などの日本海沿岸では、冬季に目立って多く発生することから冬季雷とも呼ばれる。冬季雷は、夏期のものが積乱雲から地面に向かって放電するのに対し地面から積乱雲に向かって、上向きに放電し、発生高度も300ないし500メートルと低い(夏季の雷の発生高度は3,000ないし5,000メートル)。落雷数こそ少ないものの発生のメカニズムから夏季の雷より数百倍のエネルギーを持つものが確認されるほか、一日中発雷することが多く雪やあられを伴うことが多い。また、はっきりとした落雷が無くても瞬間的な停電などの被害が出ることもある。海岸線から35キロメートル以上の内陸部では少ない。 また、冬季の雷には愛称があることが多く、「雪起こし」、「ブリ起こし」、「雪雷」などのような方言がみられる。特に、雪起こしが観測された場合は冬の始まりであると言い習わされる。 冬季雷の発生地域は日本海側沿岸部とノルウェーのノルウェー海沿岸部、および北アメリカの五大湖東側のみであり、世界的に見ても非常に珍しい気象現象である。 気象庁は国内の主要観測点で雷日数を集計し公表している。これによると、北関東は関東地方内では比較的雷日数が多い地域となっており、特に夏季の雷を特徴としている。関東各地の統計値によると、南関東では東京で年間雷日数が12.9日で、うち夏季(5月から9月)の雷日数は9.7日、同じく神奈川県横浜では年間12.6日のうち夏季8.2日であるが、北関東4県では、栃木県宇都宮では年間24.8日のうち夏季20.9日、群馬県前橋では年間20.4日のうち夏季18.9日、埼玉県熊谷では年間19.7日のうち夏季17.3日、茨城県水戸では年間16.7日のうち夏季13.1日となっており、南関東に比較し顕著に多くなっている。 また、日本海側気候である日本海沿岸各地では冬雷が多く、気象庁統計値によると、秋田31.4日、新潟34.8日、富山32.2日、金沢42.4日、福井35.0日、鳥取26.4日、松江25.4日、福岡24.7日などと、日本国内では雷、特に冬雷の多い地域となっている。一方、測候所では2010年10月に無人化観測を行ったため、雷日数を廃止した。 気象庁統計値によれば、1年間で雷日数が最も多かったのは石川県金沢市で記録した2005年の72日。 暖候期は4-9月、寒候期は10-3月の雷日数を示す。 昭和基地(南極)では雷日数は0.0日で観測はされていない。 ベネズエラのマラカイボ湖に注ぐカタトゥンボ川の河口付近は、カタトゥンボの雷と呼ばれる雷の常襲地帯である。2014年には、1時間に3600本の稲妻が認められ、「世界で最も稲妻が多い場所」としてギネス世界記録に認定されている。 落雷時のエネルギーは余りにも大きくしかも短時間(1/1000秒〜1秒)に発生するため、蓄電池などによる電気の蓄積は困難であり、また雷の発生場所や発生時刻の予測は、現在はまだ正確には不可能である。このため、雷を電力として利用することは現在の技術ではきわめて困難とされている。 古来より、雷は神と結びつけて考えられることが多かった。 ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル(ジュピター)、バラモン教のインドラは天空の雷神であり最高神である。北欧神話のトールも古代では最高神であった(時代が下るとオージンが最高神とされた)。マライ半島のジャングルに住むセマング族でも雷は創造を司る最高神であり、インドシナから南中国にかけては敵を滅ぼすため石斧をもって天下る神(雷公)として落雷を崇めた。 欧米ではカシが特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝した。欧州の農民は住居の近くにカシを植えて避雷針代わりとし、また、犬、馬、はさみ、鏡なども雷を呼びやすいと信じたので雷雨が近づくとこれらを隠す傾向があった。 雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから雷鳥や雷獣の観念が生まれた。アメリカ・インディアンの間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な鳥(サンダーバード)が存在すると考えられた。 日本神話においても雷は最高神という扱いこそ受けなかったが、雷鳴を「神鳴り」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。天津神の1人で天孫降臨の前に葦原中国を平定したタケミカヅチ(建雷命、建御雷、武甕槌)はそういった雷神の代表である。雷(雷電)を祭った神社に「雷電神社」「高いかづち神社」などがあり、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としている。 日本では方言で雷を「かんだち」ともいうが、これは「神立ち」すなわち神が示現する意である。先述した稲妻の語源が示すとおり、雷は稲と関連づけられている。日本霊異記や今昔物語にあるように雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると「雷さまを自分の田んぼにお迎えする」 という意味から、青竹を立て注連縄(しめなわ)を張る、もしくは幣束を立て神を祀る地方がある。 雷神は平安時代になると、天神の眷属神として低い地位を占めるようになった。 また、雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と呪文を唱える風習がある。これは、菅原道真の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来するとされる。平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みを晴らすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けた。このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれる。菅原氏の流れをくむ公家に桒原(くわばら)家があり、菅原氏は「桑原」の地名を道真由来と考えていたことがうかがえる。 また、菅原道真関連の桑原以外にも、雷が落ちないとする話は各地に伝えられており、兵庫県三田市桑原の欣勝寺や大阪府和泉市桑原の西福寺などに残っている。 「くわばら、くわばら」と唱えるのは、桑の木が神聖な力を持つという信仰があったためであるとも考えられている。詳細は「クワ」を参照。 雷神は古くから美術に表現されてきたが絵では京都建仁寺の俵屋宗達筆の障壁画、元禄時代の尾形光琳の作など、彫刻では日光東照宮、京都三十三間堂などのものが有名である。 俳句においては「春雷」は春の季語、「雷」「遠雷」「軽雷」は夏の季語、「稲妻」は秋の季語、「寒雷」は冬の季語である。 易では、「かみなり」という現象は「雷(らい)」と「電(でん)」の二つの部分で組み合わせられたもの。こちらの「雷」の字は「雷鳴」のみを指す。「電」は「稲妻」、つまり光の部分に当たる。 六十四卦の「雷火豊」と「火雷噬嗑」の「火」は「電」の意味である。
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古名
古名(こめい)とは、古い呼び方のこと。古称ともいう。
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三九秘宿
三九秘宿(さんくのひしゅく)とは、宿曜経に述べられ、宿曜道で用いられている占いの技法のひとつ。 まず、生まれた時に月がどの二十七宿にあったかによって、 本命宿(その人物の守護星としての二十七宿)を決め、 その位置関係によって、日の吉凶や他人との相性などを見るというもの。 西洋占星術におけるアスペクトに似た概念であるが、現代インド占星術ではほとんど廃れてしまい、宿曜道にのみ残る占いである。
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与党
与党(よとう、英訳:ruling party, governing party)とは、政権を構成し行政を担当する政党のこと。政権与党(せいけんよとう)や政府与党(せいふよとう)とも呼ばれる。 対義語は、野党。 日本では明治期に、吏党・民党が必ずしもそれぞれ「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。 与党とは、行政府を与る(あずかる)あるいは行政府に与する(くみする)政党の意味である。一般には内閣を組織している政党を指す。内閣が一党で組織される場合には単独内閣、内閣が複数党で組織される場合には連立内閣とよばれ、また、内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとる場合には閣外協力と呼ぶ。与党の要件は党として現在の政権を恒常的に支持し、政権協定などの形で参与することである。日本では一般的には政権を担っている政党を指して用いられている。 議院内閣制のように内閣は議会の多数派を基盤として成立し民意が一元的に表れるシステムを一元代表制と呼ぶ。英連邦王国や日本、ドイツなどの議院内閣制の国においては、行政府の存立には議会(多くは下院)の信任を要し、通常、議会多数派が政権を担い与党となっている。イギリスでは政権を担う政党は政権党 (government)、担わない政党は反対党 (opposition) と呼ばれる。一般に議院内閣制の下では与党は基本的に議会で多数を占めているが、与党内の分裂あるいは連立与党間の連立解消も生じることがあり、これによって少数与党に転落しているケースもある。また英連邦王国など、元首がまず内閣を任命し、後に議会が信任の可否を判断する制度の国でも、連立工作で過半数を得た勢力がない場合に当初より少数与党の内閣が発足する場合もある。明治憲法下の日本において憲政の常道により内閣が任命されていた時代では、過半数を制しているか否かに関わらず衆議院第1党が内閣を構成し、政局により内閣が倒れた場合は第2党が内閣を構成していたため、発足当初からの少数与党のケースが頻発した。冒頭の通り、日本では「与党」は一般的には政権を担っている政党を指して用いられているが、イギリスなどとは異なり、日本では「政府・与党連絡会議」のように政府 (government) とは区別して用いられている。日本の英字新聞では与党に相当する語として ruling party (支配する党)を使うことが多い。 これに対してアメリカ型大統領制のように大統領(首長)と議会とは別々に選出され民意が二元的に表れるシステムは二元代表制と呼ばれる。このような政治制度の場合には必ずしも議会多数派が政権を担っているわけでなく、また議会が二院制であれば上下両院で多数派が異なっていることもある。アメリカでは議会の多数党と大統領の所属政党が一致するとは限らない。また議会では多数党・少数党といった分け方がなされることもあるが、上下両院で多数派が異なっていることも多いということもあって、通常、「共和党」あるいは「民主党」といった政党の固有名詞が使われるにとどまる。アメリカの政治ニュースが日本で報道される場合に「◯◯政権の与党・□□党」といった表現が用いられる(この場合大統領の所属政党を指す)ことがあるが、アメリカではこれに対応する表現は見つけがたい。日本の地方公共団体も二元代表制だが、首長が無所属の場合でも議会でその政策を恒常的に支持している政党や会派があるときはそれらを実質的に「与党」と表現することがある。 なお、自由選挙が行われていない国における執権政党は与党とは呼ばれない。ヘゲモニー政党制を参照。
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野党
野党(やとう)とは、「政府から離れた在野の政党」を意味する。政権・内閣・行政を担わない政党のことであり、それを担う与党と対峙する。 明治期に、吏党・民党がそれぞれ必ずしも「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。 単純小選挙区制の議会においては、デュヴェルジェの法則に従って二大候補が形成される傾向にあり、従って議会を占める政党は二大政党制がとられることになる。このような場合には政権の奪取に失敗した野党も未来の政府を構成する可能性が高く、公的な性格を帯びると認識される。 より比例代表制に重点をおいた選挙システムにおいては、複数の野党が形成される。このような多数野党は世界の一般である。 長期に渡って単一の党派による支配が続いている組織化の進んだ民主政体(一党優位政党制)においては、野党が名目・形式・体裁だけの平等主義に弱体化され、ゲリマンダーによって野党に不利な選挙システムを構築される場合がある。 イギリスなどウェストミンスター・システムに基づいた議院内閣制の諸国においては、野党第一党に女王陛下の野党(Her Majesty's Loyal Opposition)、または公式野党(Official Opposition)と呼ばれる公式な地位が与えられ、その党首にも同時に「野党指導者(Leader of the Opposition)」の称号が与えられて特別な歳費も支給されることがある。 この場合、野党第一党の党首らは、公式な制度として影の内閣を組織する事例が多い。 ※令和5年(2023年)12月21日現在 ゆ党(ゆとう)とは、政権に対し是々非々で中立な立場を取る野党のこと。野党の中でも、与党に融和的な政党に対して言う。 日本では「野党」という場合、対立的な姿勢をとる政党のみを示すことが多く、これと区別して呼ぶことがある。「ゆ」は五十音順では「や」と「よ」の中間にある文字であり、すなわち「野党(や党)」と「与党(よ党)」の中間に位置するという意味である。 竹下登によれば、1993年の細川連立政権発足により自民党が初めて野党となった時、自民党に対して「与党が野党になるのは大変だが、自民党は『ゆ党』になる」と言う意見があったといい、竹下自身は「自民党は政権の重みを知っているので、『与党はけしからん』だけではダメだ」という意味で捉えている。ただ、この用語は主に反与党の立場を取る人物・団体が「ゆ党」たる立場の団体に対して使用することが多く、その際には若干の軽蔑のニュアンスが含まれることが多い。1996年(平成8年)に連立与党の社民党と新党さきがけの所属議員が離党して旧民主党が発足した当初、分離の主な理由は当時の橋本龍太郎内閣そのものとの対立ではなかったことから内閣に対する姿勢が曖昧であり、民主党に対してゆ党という表現が使われた。 2016年(平成28年)1月には衆議院本会議の代表質問において、おおさか維新の会が「私たちは与党でもない野党でもない」と述べた。民主党がこの発言を問題視し、維新および当時友好関係にあった改革結集の会の2党は野党ではなく「ゆ党」であると主張し、衆院予算委員会で野党の質問時間に含めない考えを示し、最終的に与野党が2党に時間を譲り合う“ゆ党”扱いとなった。これに対し維新は「政権に参加していない党は野党だ」と主張し、抗議として与党からの配分時間のみを返上したうえで予算委員会を欠席する事態となった。
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インド占星術
インド占星術(インドせんせいじゅつ、梵: Jyotiṣa)は、インドに伝わる占星術のこと。インド本国の他、ネパールやチベットなど周辺の地域でも行われている。 もともと、白道上の月の位置に着目したナクシャトラ(中国系暦法・占星術では二十七宿という)を用いた占星術だったが、ヘレニズム時代にギリシアから太陽と月、5惑星とラーフ、ケートゥといった九曜、十二宮と十二室に基づくホロスコープ方式の占星術を取り入れて、現在のナクシャトラ(白道二十七宿)と黄道十二宮を併用した形になったと言われているが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていない。 また仏教に取り入れられたものは、簡略化(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・仏教化し 『宿曜経』 にまとめられ、密教の一部として中国に伝えられた。さらに、平安時代には日本にも伝えられて宿曜道となった。 月の白道上の位置を基にしたナクシャトラという概念があり土着のものと推測されるが、記録に残る伝承が神話体のものしか存在しないため、はっきりとしたことはわかっていない。 中国発祥の二十七宿、二十八宿と似ているが、それぞれ発祥を異にするとされる。ただし、後の時代に相互に関連していくようになる。 紀元後2世紀までにギリシアの占星術技法がインドに伝えられ、西暦150年にはインドのサンスクリット語に散文体にまとめられた。西暦269年にはそれが韻文化され、『ヤヴァナジャータカ』(yavanajaataka 『ギリシャ式出生占術』)という文献にまとめられた。 以後独自の発展を遂げて、現在の形のインド占星術となる。 基本的には西洋占星術に似てはいるが、インド占星術独自の技法を用いる。 まず最初に、宮についてはインド占星術はある天体座標を基準点に固定しそこから30度ずつ12分割するが、西洋占星術は春分点を基準に12分割しているため地球の歳差運動により黄道を移動するので、その結果惑星の在住する星座(サイン)が異なることが多い。そのずれの度数をアヤナムシャと呼ぶ。 基本的に室(ハウス)の意味が宮(サイン)より重視されている。西洋占星術の春分点は74年に1度、春分点が西に移動するのに伴って移動するので、西洋占星術とインド占星術では惑星が在住する宮が違うことがある。また大部分のインド占星術がハウス(室)システムにイコールハウス(室は30度固定、アセンダントがある星座を1室とし、第一室の宮の境を第一室の境とみなして扱うこと)を使う。惑星はその在住する室とその惑星が支配する室、アスペクトを形成する惑星の影響を強く受ける。たとえば支配宮の象意を在住室の象意の表す事象にもたらす、というように解釈される。 その惑星が在住する室や宮によって、影響力の強弱が変化することもある。ただし強弱と吉凶は必ずしも同じでない。 「ナバムーシャ」(9分割図)に代表される分割図は、インド占星術において多用され独自のものである。 ラグナ(アセンダント在住宮)と呼ばれる第一室の分析も重視される。第一室に在住する惑星やアスペクトする惑星、第一宮の支配惑星の在住する室やその度数とそれにアスペクトする惑星等により、健康運の良し悪しや外見や精神的特徴等を占う。また他の室の支配星とのコンジェクト、アスペクト、惑星交換等で財産運(ダーナヨガ)、成功運(ラージャヨガ)等を占う。 月の分析も重視される。ナクシャトラ(二十七宿)により大体の性格や行動をみたり、満月に向かう月(吉星と解釈)なのか新月に向かう月(凶星と解釈)なのか、高揚または減衰しているかということで、占星術的な意味をもたせている。生時がわからないときは、仮に月の在住する宮を第一室(アセンダント)として占うこともある。インド占星術では太陽よりも月をどちらかというと重視する。 アスペクトは独自のものである。室単位で扱い、第1・7室(0・180度)が各惑星共通アスペクトで、火星は第4・第8室、木星は第5・第9室、土星は第3・第10室にもアスペクトを形成する。 ヨーガという、ある特定の惑星と室、宮の配置に占星術的な意味を結びつけた概念もある。 ダシャーという、それぞれの惑星がいつ強い影響力を発揮するのかを示す技法がある。惑星・星座・両方を使うものなど多種類のダシャーがあるが、惑星を使う120年周期のヴィムショッタリ・ダシャーが最もよく使われる。 アシュタカヴァルガという宮ごとに数値で吉凶を表す手法(惑星ごとや全体に点数を算出する)も、インド占星術独自である。 ダーシャ、ゴチャラ(トランジット)、アシュタカヴァルガなどを組み合わせて、バースチャート上に表された人生の出来事がいつ起こるのかを読み取る。 インド占星術には大きく2つの流派あり、現在では『ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ』という古典を基にしたパラーシャラ方式が主流だが、以前はもう一派のジャイミニ方式が広く使われていた。現在は占いたいテーマにより使い分けられている。精神的・霊的な内容を占う時はジャイミニを使う傾向がある。 インド占星術にとどまらず、相談者の情報を知らずに占う場合、ホロスコープだけでは熟達しないと正確な判断は難しい。それゆえ、インド占星術家は曜日占い、顔・手相、指紋の相など他の要素も併用して占断することもある。 以下、西洋占星術との相違点を中心に、インド占星術の特徴をいくつか例示する。専門用語などに関しては西洋占星術の項目も参照されたい。 最も重要な西洋占星術との相違点として、インド占星術では、十二宮などの占星座標は、天球上の恒星に対して固定されたいわゆるサイデリアル方式に基づくのが主流である。 このような方式をインドではニル・アヤナ (nirayana 『固定式惑星路』)という。インド政府公認の座標(ラヒリ アヤナムシャ)があり、国内外の占術家の多くはそれに従っている。 ちなみに西洋占星術では春分点を白羊宮0度とするトロピカル方式を用いる占術家が圧倒的に多数派である。インドではこの方式をサ・アヤナ (saayana 『移動式惑星路』)と言う。 ヒッパルコスによって発見された地球の歳差運動により、春分点は72年に1度程度移動する。 当然この方式では距星となる星座と占星座標とは歳差運動により年々ずれていく。 ニル・アヤナとサ・アヤナは、インドに西洋占星術がもたらされた紀元後300年ごろは一致していたがその後差が拡大していき、21世紀初頭現在ではニル・アヤナのほうがサ・アヤナより24度ほど東にずれている。 インド占星術で特に重視されている要素としてパンチャーンガ (pancaaGga)がある。 これは五つ(パンチャ)の要素(アンガ)と言う意味。 インドでは具注暦には必ずこの五要素が記されており、これの事もパンチャーンガと呼ぶ。 このうち、個人の運命を見るときに主に使われるのはナクシャトラである。詳しくはそれぞれのリンクを参照されたい。 インド占星術では、古典西洋占星術と同じく実在惑星として7惑星(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星(漢訳七曜))をさらに月の軌道要素から導きだされる点を架空天体としてラーフ、ケートゥも用いる。これらの9つの占星惑星をナヴァ・グラハ(nava graha、漢訳(九執、九曜))と総称する。 木星、金星、月、水星が生来的に吉星とし、ラーフ、ケートゥ、土星、火星、太陽が生来的に凶星とされる。水星は中立に扱う場合もある。 また機能的に吉星や凶星をわける評価法もあって、支配する室や在住する室等の惑星の状態、他の惑星のアスペクトの影響などにより、機能的に吉星になったり凶星になったりする。 ラーフは月の交点(黄道と白道の交わる点)のうち昇交点であり、降交点はケートゥである。日食と月食の食と関係が深い為重視された。後に西洋占星術に輸出され、ラーフ(羅睺)にはドラゴン・ヘッドもしくはノース・ノードという名が、ケートゥ(計都)にはドラゴン・テールもしくはサウス・ノードという名がつけられた。 伝統を重んじる立場から、もしくは影響力が小さいと判断されているのか、西洋占星術と違い近世に発見された天王星、海王星、冥王星のいわゆるトランス・サタニアン(土星以遠惑星、trans-Saturnian)は、一般には用いない。同様に小惑星も無視する。 しかし、古典西洋占星術と同様に占断の際に特に障害になっていない模様である。 (英語版同項目より) Planets in maximum exaltation, mooltrikona (own sign), and debilitation, are(惑星の高揚、ムーラトリコーナ、減衰は下記のとおりである): Rahu and Ketu are exalted in Taurus/Scorpio and debilitated in Scorpio/Taurus respectively. They are also exalted in Gemini and Virgo. The natural planetary relationships are: 月の白道上の位置を基にした二十七宿のこと。内容は二十七宿のところに少し記載してある。 インド占星術独自の技法であり、分割図ごとに占うテーマが決まっている。 分割図とは占星惑星の黄径や離角などの数値に一定の数式を当てはめて、新たなチャートを引き出す技法である。ナヴァグラハと呼ばれる9分割図が有名である。 これを取り入れた西洋占星術では、ハーモニクス(調波)と呼ばれている。 (英語版同項目より)詳細は英語版を参照。 Varga (分割図)(Sanskrit: varga, 'part, division'.) There are sixteen varga, or divisional, charts used in Jyotisha(インド占星術を行うものに使われる分割図は16ある): Four other vargas are attributed to Jaimini:(ジャイミニ式分割図) Besides Rāshi (D-1), Navamsha (D-9), Dreshkana (D-3), Dasamsa (D-10) and Trimsamsa (D-30) are considered significant divisional charts. ハウス・システムは、アセンダント・ホール・サイン・ハウス(東の地平線と交わっている宮を全て第一室と見なし、順次、宮を室に当てはめていく方式)やイコールハウス(室を東の地平線と黄道の交点から30度ずつ機械的に区切っていく方式)など、簡便なものが主流。古くは西洋古典占星術でもこのような方式が主流だったが、インドでは伝統を重んじる立場から主流である。 (英語版同項目より) The zodiac signs in Jyotisha correspond to parts of the body: ホロスコープのチャートは、17世紀までのヨーロッパの西洋占星術と同じく方形に描かれる。 また、第1室を左側に描く方式の他に上に描く方式などもある。(インドの各地方により東・西・南・北で4方式ある模様) 個々のハウスは、正方形で描く南インド式(中国の一部の占星術と同様)と、三角形と菱形とで描く北インド式の二種類が主流。 (英語版同項目より) There are two chart styles used in Jyotisha:代表的なもの2つ また、占星惑星の解釈にもかなりの相違点がある。 例えば、月が心の状態を示す点は共通だが、インドでは「心の安定」、西洋では「心の不安定」を主に表す。(在住場所・星座やアスペクトする惑星により安定か不安定かは異なる。) また土星が「制限」「支配」などの意味を持つのは共通だが、インドでは自分が支配・制限するもの(部下、奴隷など)を示すのに対し、西洋では自分を支配・制限するもの(かなり年上の上司、妻にとっての夫など)を示す。(これも月の場合と同じく状態による) また、ラーフとケートゥは、西洋占星術では、少なくともラーフ(ドラゴン・ヘッド)に関しては悪い意味を持たないが、インド占星術ではともに凶星とされる。(ラーフは自己執着と躁状態・一時的な繁栄とその反動、ケートゥは自己否定と鬱状態・一時的な没落とその反動) 基本的にヒンドゥー教の因果業法論、宿命論に基づいており、開運法の実行によりある一定の効果があると信じられている。 ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラによれば、惑星には各々真言(マントラ)が決められており、巡ってきたダシャーの惑星の真言を決められた数、詠唱することのみ記載されている。 インドでは民間信仰として、チャート上で悪い影響を及ぼすと判断された惑星を支配する神々を祀ったお寺に参拝し、加持祈祷を行ってもらったり、善業を積む意味での寄付または喜捨を行う風習がある。 なお商業主義により現在開運法として行われている、惑星を表す宝石等を身に着けることは『ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ』には記載されていない。 ウパーヤ(運命改善方法)としてではないが、ジョーティッシュと関連する古典医学書スシュルタサンヒター、チャラカサンヒターにおいて、鉱物と金属は病気を予防し健康維持に役立つアウシャダ(薬)であると規定される。そのため、本来はアーユルヴェーダとジョーティッシュ両方の知識を補完した上で、ホロスコープから個人に必要な鉱石や金属を調べた。古代より過去のカルマとして心身に現れる否定的な影響を退けると同時に、良い影響を微細身に吸収する方法として宝石療法は伝承されている。 ウパーヤ(加持祈祷、寄付、瞑想、真言を唱える、断食、沈黙行など)の本質は、神に自分を明け渡すことである。ジョーティッシュはじめ古代ヴェーダ聖典の教えを現代に引き継ぐ聖者アマチ(マーター・アムリターナンダマイー)らは、悲惨な運命を回避・軽減するには自らの意志で行う修行によって霊的に成長するのが望ましいとしている。
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タレント政治家
タレント政治家(タレントせいじか)とは、タレントであったことによる大衆的な人気や知名度を活用して政治家になった人物のことである。 国会議員などの場合には、タレント議員とも言う。 タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。 タレント業を生業としている者(芸能人)だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった文化人や、スポーツ選手、ジャーナリスト、特に放送局の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずのアナウンサーや記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。日本においてはテレビの普及以降、高橋圭三・宮田輝・田英夫・秦豊・畑恵・黒岩祐治・丸川珠代・杉尾秀哉・小池百合子などアナウンサー・ニュースキャスター出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後もフリーアナウンサー・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、選挙時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。 さらには本人はタレント活動を行っていなくても、親族に著名人がいる場合にはタレント政治家に準じた扱いをされることもある(例:大泉洋の兄・大泉潤(函館市長))。 個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた青島幸男は、選挙公報作成と政見放送録画を除いて当人や秘書や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。 政党がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体タレントを立候補させることを有権者から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、職業差別に過ぎないとの反論もある。最終的には有権者の判断次第、というのが大方の見方である。 前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には文化人やアナウンサー、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。 タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際にはマニフェストなど政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。 作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からおり、小説「佳人之奇遇」で知られる東海散士は1892年の第2回総選挙から8回連続当選している。1908年の第10回衆議院議員総選挙に、日露戦争で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた東京帝国大学教授の戸水寛人が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の貴族院には帝大や帝国学士院会員の任命枠があった。また戸水は法学博士であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる伊藤痴遊は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や第16回衆議院議員総選挙、第18回衆議院議員総選挙で当選している。 1898年の第5回総選挙と第6回総選挙に芸術家の川上音二郎、1915年の第12回衆議院議員総選挙に歌人の与謝野鉄幹、1928年の第16回衆議院議員総選挙に作家の菊池寛らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の黒田清輝、「虎狩りの殿様」で著名となった徳川義親など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで帝大七博士として有名になった小野塚喜平次も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの長谷川如是閑、作家の山本有三や武者小路実篤といった有名人が勅選議員に任じられている。 1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。この年の選挙には作家の石川達三と元横綱の男女ノ川登三(立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている。 「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。政治家藤山愛一郎の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。また藤原は当選時前夫藤原義江とは既に離婚しており、「藤原あき」は芸名(通名)であった。従って参議院では当時の規則により本名の「中上川(なかみがわ)あき君」と呼ばれた。タレント候補は選挙時には芸名を使用できるが、ひとたび議員となれば参議院内では本名で活動しなければならないという規則が存在していることが広く知られるようになり、タレント議員の特徴の一つとして認識された。 こうしたことから藤原は「タレント議員のはしり」と言われるようになり、またこれ以後タレント議員というマスコミ用語が定着、現在のような意味合いで使用される表現となった。 日本国憲法下で参議院が誕生し、1980年まで参議院選挙には全国区制があったため、知名度のあるタレントが議員になりやすい傾向があり、1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「芸能院」と揶揄されることもあった。 1968年参議院選挙では、自民党から作家の石原慎太郎が300万票を超える大量得票でトップ当選したほか、社会党からNHK記者の上田哲、無所属で放送作家・テレビタレントの青島幸男、漫才師の横山ノック(山田勇)が初当選。 1971年参議院選挙でも、社会党からニュースキャスターの田英夫、女優の望月優子(鈴木美枝子)、自民党から歌手の安西愛子(志村愛子)、講談師の一龍齋貞鳳(今泉正二)、無所属で落語家の立川談志(松岡克由)、放送作家・テレビタレントの野末陳平(繰り上げ当選)らが当選する。 1974年参議院選挙では、自民党からNHKアナウンサーの宮田輝、女優・テレビタレントの山東昭子、経済評論家の斎藤栄三郎、女優の山口淑子(大鷹淑子)、社会党からニュースキャスターの秦豊、無所属では漫才師のコロムビア・トップ(下村泰)らが初当選を果たした。これらの中には、山東が日立グループ、宮田がトヨタグループからの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。 1977年参議院選挙でも、自民党から女優の扇千景(林寛子)、無所属でテレビ司会者の八代英太(前島英三郎)、元NHKアナウンサーの高橋圭三らが当選している。 1983年に参議院選挙の全国区制が廃止・比例代表制厳正拘束名簿式が導入された。この制度では個人名での投票が認められないため、タレント候補の擁立は下火となる。ただし、1989年参院選でプロレスラーのアントニオ猪木(猪木寛至、スポーツ平和党)、1992年参院選で元プロ野球選手の江本孟紀(同)が比例区で当選した例がある。 2001年から個人名でも投票できる比例代表制非拘束名簿式に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが再度注目されるようになった。 非拘束名簿式になって初めての選挙となった2001年参議院選挙では、多くの政党がタレント候補の擁立に走り、舛添要一、大仁田厚(以上自民党)、田嶋陽子(社民党)、大橋巨泉(民主党)らが比例区で当選を果たした。 また、自由連合が政治経験が全くないタレント候補を大量に擁立したが、当選者を出すことができなかった。当選を果たした大橋・田嶋が短期間で辞職したこともあり、安易なタレント擁立に対する批判が強まった(ただし、田嶋の議員辞職は神奈川県知事選挙立候補という理由がある)。この選挙時の自由連合の代表であり、タレント擁立の当事者であった徳田虎雄は、「二世議員より苦労して一流になったタレントのほうがまし」という反論をしている(ただし、徳田が引退した際には子息の徳田毅が後継者になっている)。またスポーツ紙ではスポーツ選手を含めたタレント候補は選挙活動中の動向について、他の候補よりも記事として掲載されやすい傾向がある。選手以外では1964年東京五輪で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である大松博文、「日本レスリングの父」八田一朗も議員経験がある。 その後も自由連合のような極端な事例こそないものの、参院選の比例区を中心としたタレントの擁立は続いた。 浮動票の多い都市部ではタレント候補に票が集まりやすいとされ、タレント政治家を輩出しやすいと言われている。特に大阪府ではお笑いタレントの当選が注目されることが多いため、「お笑い票」「お笑い百万票」が存在するとマスコミで表現、揶揄されることがある。ただし2004年の大阪府知事選挙では江本孟紀と2019年の埼玉県知事選挙では青島健太が立候補するも落選しており、必ずしも知名度だけが当選に影響を与える理由にはならないとされる。またタレント政治家は他の都市部でも輩出し他の地域では「タレント票」として注目されることもあるが、これらの票も有権者の投票行動を客観的に調査したものではなく、組織票のような明確な根拠はない。 都市部の国政選挙では1983年に横山ノックが全国区から大阪府選挙区に転進して当選、1986年に西川きよし(西川潔)が参院選で初当選し3期つとめ、参議院東京都選挙区でも1986年に小野清子、1992年に森田健作(鈴木栄治)、1998年に中村敦夫、2004年に蓮舫、2007年に丸川珠代、2013年に山本太郎、2016年に朝日健太郎、2019年に塩村文夏、2022年には生稲晃子が初当選するなど、タレント候補の当選が注目された。2022年の東京都選挙区では当選者6人中4人をタレント候補が占めた(朝日、蓮舫、生稲、山本)。これ以外でも神奈川県選挙区では1995年に松あきら(西川玲子)、愛知県選挙区では1992年に新間正次(のち当選無効)、1995年に末広真季子などがそれぞれ当選している。 地方の国政選挙でも、参議院では2001年に柏村武昭(広島県選挙区)、2004年に鈴木陽悦(秋田県選挙区)、林久美子(滋賀県選挙区)、2007年に松浦大悟(秋田県選挙区)、友近聡朗(愛媛県選挙区)、2010年に徳永エリ(北海道選挙区)、石井浩郎(秋田県選挙区)、2013年に和田政宗(宮城県選挙区)、清水貴之(兵庫県選挙区)、2016年に杉尾秀哉(長野県選挙区)、平山佐知子(静岡県選挙区)、古賀之士(福岡県選挙区)、2019年に芳賀道也(山形県選挙区)、石垣のりこ(宮城県選挙区)、2021年に宮口治子(広島県選挙区再選挙)、2022年に三上絵里(広島県選挙区)がそれぞれ当選したほか、同年には愛媛県選挙区で元南海放送アナウンサーの永江孝子とローカルタレントのらくさぶろうのタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(永江が当選)と2022年には長野県選挙区でものまねタレントの松山三四六と元TBSキャスターの杉尾秀哉のタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(杉尾が当選)。また、衆議院でも、参議院議員から転身したプロレスラーの馳浩(石川1区)、2012年の第46回衆議院議員総選挙で五輪メダリスト初の衆議院議員となった堀井学(北海道9区)、2021年第49回衆議院議員総選挙でF1ドライバーの山本左近(比例東海ブロック)、2019年参議院選挙落選の山本太郎(比例東京ブロック、2022年参議院議員に再転出)などわずかながら当選例がある。なお、地方選出の国政選挙の場合は定数が1議席のみということが多く、浮動票だけでなく地元経済界や労働組合などのバックアップを受けた組織型選挙を展開することも多い。 地方自治体選挙においてもタレント政治家が当選を果たすことも少なくない。地方自治体におけるタレント政治家の例としては、 日本ではタレント出身の政治家が首相になった例は現時点まではないものの、国政において三権の長である国会議長や閣僚に登りつめた例は少なからず存在する(括弧内の氏名は公職就任時における本名)。 日本では国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められている(ただし、参議院議員の芸名・通名使用が認められたのは1997年の事である)が、国務大臣等行政府の役職に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。 このため、閣僚として入閣したタレント議員は、行政府の公文書に対しては本名で署名する事となっている。例えば、元参議院議員扇千景は国土交通大臣(国務大臣)としての公文書には本名の「林寛子」で署名をしていたが、このような規定のない参議院議長としての公文書には芸名(通名)の「扇千景」で署名をしていた。 東国原英夫前宮崎県知事の場合は、選挙の際には芸名(そのまんま東)としたものの、公的には使いづらいと判断し、知事就任後は本名を用いている(政界引退後も本名で活動)。一方、知事就任後も公文書を除いて芸名を使用している(いた)例としては、横山ノック元大阪府知事(本名・山田勇)と森田健作千葉県知事(本名・鈴木栄治)の例があるが、『全国市町村要覧』では、前者は本名を掲載していたのに対し、後者は芸名を掲載している。 日本の場合、有名人が選挙への立候補を表明した時点で、公職選挙法や放送法の規定から派生したメディア側の自主規制により、選挙終了まで各メディアでのタレント活動ができなくなるのが一般的である。ニュースや選挙関連の番組を除いて、テレビ、ラジオへの出演はできなくなり、雑誌や新聞での連載等も中断される。この規制により、テレビショッピング番組に起用していた女優の生稲晃子が2022年の参院選(東京都選挙区)に出馬した影響で同候補出演の映像が使用できなくなったとして、番組制作会社から損害賠償請求の裁判を起こされた事例もある。ただし、2001年の参院選に立候補した大橋巨泉や2022年の参院選に立候補した水道橋博士は選挙期間中も雑誌の連載を継続していた。 横山ノックが司会を務めた「ノックは無用!」(関西テレビ)では、選挙期間中は本人が番組を降板するのみならず、番組のタイトルも「ロックは無用!」に改題されていた。義家弘介が担当していた「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」(ニッポン放送)は公示期間中放送休止になっていた。 当選した場合、タレント活動を継続するかどうかはその者の判断による。議員の兼職自体が禁じられているわけではなく、他の職業の者であってもそれまでの仕事を継続する者も少なくないが、タレント政治家の場合はその仕事が世間に露出するものであることから、しばしば論議の的となる。 山東昭子が1987年に参議院環境特別委員長を務めていた時、テレビ東京のゴルフ番組「ゴルフだよ人生は」の収録で公害健康被害補償法の審議を欠席したため、政治職務よりタレント活動を優先したと非難され、委員長辞任に追い込まれた例がある。 橋本聖子は1996年に現職参議院議員としてアトランタオリンピックの自転車競技に出場している。2010年の参院選で当選した柔道選手の谷亮子は、立候補表明時に議員活動と現役選手を両立させ、次回オリンピック出場を目指すと明言し、賛否両論が巻き起こった(当選後に政治職務に専念し、次回のオリンピックに出場しないことを表明した)。一方で、同じ選挙に自民党から立候補した女優の三原じゅん子は、当選した場合は女優を引退すると表明し、これを受けて、当選後は各メディアでは「元女優」などと表記されている(ただし例外として2011年3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した)。また、歌手の中条きよしは国会の委員会内での自身のCDやディナーショーを宣伝する発言が騒動となり、その後芸能活動については引退する意向を表明することとなった。 プロレスラーではアントニオ猪木が第15回参議院議員通常選挙で比例区から、馳浩は第17回参議院議員通常選挙で石川県選挙区から、第19回参院選では大仁田厚が比例区から立候補して初当選し、第20回参議院議員通常選挙では神取忍が2006年に繰上当選、木村健悟(引退後)・西村修・土方隆司が第17回統一地方選挙でそれぞれの議会に立候補して初当選した。馳はのち本格的に政治家に転身することとなってプロレスラー引退を表明して2006年8月27日に両国国技館で引退試合を行ったが、2017年7月26日(衆議院議員時代)と2021年1月4日(衆議院議員時代)と2023年1月1日(石川県知事時代)に限定で復帰し、2023年1月4日に石川県知事としての会見では「私は死ぬまでプロレスラーです」と生涯現役プロレスラーとも取れる発言をした。 覆面レスラーが地方議員になった場合、覆面姿のまま議会に入場しようとすると「病気などの理由を除き、帽子やコートの着用」を禁じた議会会議規則に抵触すると判断される可能性がある。過去に覆面レスラーが地方議員になった例として、ザ・グレート・サスケ(岩手県議)、スペル・デルフィン(大阪府和泉市議)、スカルリーパー・エイジ(大分市議)、グレート☆無茶(長野市議、のちに長野県議)、タコスキッド(福岡県太宰府市議)があるが、サスケ、デルフィン、無茶、タコスキッドは議会の別室で素顔の本人確認をすること等を条件に覆面姿の議場入場は認められたが、エイジは覆面姿での議場入場は認められなかった。 公営競技の現役選手で政界に進出した例としては、競輪選手で徳島県小松島市議である米崎賢治の例がある。 落語家や講談師、漫才師などの演芸分野から政界に進出した例として、国政では前述の横山ノックのほか、立川談志、一龍齋貞鳳、コロムビア・トップ、西川きよし(いずれも参議院議員)などの例があり、地方議会では落語家から三遊亭らん丈(東京都町田市議)、三遊亭窓里(埼玉県川越市議)、林家とんでん平(札幌市議)、三遊亭洋楽(北海道函館市議)、桂三発(三重県安濃町議→津市議)、漫才師から青空球児・好児の青空好児(東京都世田谷区議)、母心の嶋川武秀(富山県高岡市議、のちに富山県議)などの例があり、議員活動の合間を縫う形で高座・舞台への出演などを続けるケースも多い。 浜田幸一(元衆議院議員)や小沢遼子(元埼玉県議会議員・元浦和市議会議員)、杉村太蔵(元衆議院議員)、上西小百合(元衆議院議員)、宮崎謙介(元衆議院議員)、金子恵美(元衆議院議員)、豊田真由子(元衆議院議員)、太田房江(元大阪府知事)、横粂勝仁(元衆議院議員)のように政治家からタレント・文化人の活動を行う「元議員タレント」もいる。知名度やクリーンなイメージにより政党に起用されるタレント議員に対し、話術に長け時事問題をこなせる元議員タレントはテレビ局等より重宝される。他にはタレントから政治家となり引退後大学教授となった人物に野末陳平(元参議院議員)がいる。太田房江はタレント活動を行った後に参議院議員となっている。またタレント出身でない現職の政治家でも、ゲスト出演等でタレント的な活動を行うこともある。 タレント政治家はタレント業が本来の生業であるため、政界を離れた後、芸能界やスポーツ界に復帰し活動を再開するケースも少なくなく、俳優から政界に転じた中村敦夫(元参議院議員)は政界引退後は俳優業に戻っている。前出の江本孟紀(元参議院議員)は野球解説者に復帰、東国原英夫(元宮崎県知事・元衆議院議員)と森田健作(元千葉県知事・元衆・参議院議員)はタレント業を再開、荻原健司(元参議院議員)もスキー選手・指導者となったが2021年に長野市長として政界に復帰した。横光克彦(衆議院議員)は政界進出後一旦は芸能活動を自粛、落選後再び俳優業を再開、2017年には再度政界復帰し再び芸能活動を停止するという経緯を辿っている。 落語家の立川談志が1971年参院選全国区で50人中50位の最下位当選した際、インタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」と答えた。 大相撲力士の旭道山和泰は1996年10月に第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例区で立候補し、当選した。出馬当初は廃業届を日本相撲協会に渡したが、落選した際の配慮のために当初は保留扱いとなり、当選後に正式に廃業届が受理された。断髪式までは丁髷を結ったまま登院した。 麻生太郎はクレー射撃選手としてモントリオールオリンピックへの出場経験があるが、一般には世襲政治家としての側面が強く、タレント政治家とはみなされていない。 国家元首となった芸能分野の出身者は、第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、第13代フィリピン大統領ジョセフ・エストラーダ、第6代ウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーが広く知られる。レーガンは任期満了後政界を引退したが、エストラーダは大統領退任後も政治活動を続け、2013年には首都マニラの市長に当選している。第45代アメリカ大統領を務めたドナルド・トランプは、実業家出身であるがテレビ番組司会者としても活動していた。他には第50代グアテマラ大統領ジミー・モラレスなどがいる。 元スポーツ選手では第25代リベリア大統領ジョージ・ウェア(元サッカーリベリア代表)がいる。 コメディアン出身のマリヤン・シャレツは第11代スロベニア首相をつとめた。 パキスタンの元クリケット選手であるイムラン・カーンは2018年から2022年まで同国の首相をつとめていた。ブラジルでは1990年にジーコがスポーツ担当大臣をつとめ、1995年からはペレが初代スポーツ大臣をつとめた。サッカージョージア代表であったカハ・カラーゼはビジナ・イヴァニシヴィリ内閣・ イラクリ・ガリバシヴィリ内閣で副首相・エネルギー大臣を務め、2017年よりは首都トビリシの市長を務めている。 2003年から2011年までカリフォルニア州知事を務めたアーノルド・シュワルツェネッガーは在職中も映画にカメオ出演するなど一定の芸能活動を続けていたが、退任後は俳優業を再開し、就任前同様に映画主演も行っている。またクリント・イーストウッド元カリフォルニア州カーメル市長も、退任後俳優や監督業を続けている。イギリスでは下院議員を務めた作家のジェフリー・アーチャーが、一旦政界を引退して文筆活動に戻った後、再び政界に復帰している。アイスランドのスタンダップコメディアンのヨン・ナールは首都レイキャビクの市長になり、アルメニアでは人気コメディアンのハイク・マルチアンが首都エレバンの市長になった。 アメリカ合衆国の元プロレスラージェシー・ベンチュラは1990年にミネソタ州ブルックリンパーク市長に当選し、1998年から2002年までミネソタ州知事を務めた。 韓国では国会議員になった芸能人やアナウンサーが多く、1978年の第10回総選挙で当選した洪性宇以降、2020年の第21回総選挙まで崔戊龍・李順載・姜富子・崔仏岩(崔英漢)・李朱一(鄭周逸)・申栄均・鄭漢溶・申星一(姜信永)・金乙東・崔鍾元などの俳優や朴映宣・韓善教・李季振・柳根粲・柳政鉉・高旼廷・裵賢鎮・韓俊鎬・朴省俊・金恩慧などのアナウンサーが当選し国会議員を務めた。 ロシアのレスリング選手であるアレクサンドル・カレリンは2000年に現職国会議員としてシドニーオリンピックのレスリング競技に出場し銀メダルを獲得したことがある。同じくロシアのフィギュアスケート選手エフゲニー・プルシェンコは2007年3月、サンクトペテルブルク立法議会議員に当選し、2011年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート男子シングルに出場し銀メダルを獲得している。しかし、プルシェンコは当選後も競技続行の妨げになるとして議会に殆ど出席していなかったため、強い批判を浴びた。2014年ソチオリンピックの招致活動に地方議員として参加するなどしたものの、議会内活動はほとんどできないまま2011年12月、ソチオリンピックへの出場を目指して競技に専念するため、翌年の任期満了をもって政界を引退する意向を表明した。クロアチアの格闘家のミルコ・クロコップは現職国会議員時代に試合を組んでおり、来日もしている。阪神タイガースで三冠王など活躍したランディ・バースは本名のランディ・バス名義でロートン市議員を経て、オクラホマ州の上院議員に当選している。元力士の旭鷲山(小結)は母国モンゴルの国民大会議議員に当選している。元力士で引退後日本でタレント活動をしていた把瑠都(大関)は、母国エストニアの国会(リーギコグ)の総選挙に出馬し、一旦は落選したものの繰り上げ当選している。 自由選挙制度が行われない体制である国家においても、政治任用によってタレントが政治的役職に就くこともある。中華人民共和国の中国人民政治協商会議には、スポーツ関係者枠や文化芸術枠が存在し、映画監督のチャン・イーモウや女優のコン・リーなどが委員になっている。また、元タレントである権力者の配偶者が政治的な役割を果たすことも多い。フアン・ペロン夫人であったエバ・ペロン、毛沢東夫人であった江青が特に知られている。
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国会議員一覧
国会議員一覧(こっかいぎいんいちらん)は、日本の国会議員(衆議院議員および参議院議員)の一覧。 現職の国会議員については以下を参照。 元国会議員(元衆議院議員および元参議院議員)のうち現在記事が執筆されている、または近日執筆予定である者の一覧を以下に示す(五十音順)。 ※なお、括弧内は議員在任期間。
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アラブ (曖昧さ回避)
アラブ(Arab )
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ダヒ
ダヒまたはダヒー(ヒンディー語、ネパール語:दही ウルドゥー語:دہی)は、インドやネパール、パキスタンで作られる乳製品。ヨーグルトの一種である。 インド英語ではカード (Curd) と訳されるが、レンネットなどの蛋白質分解酵素による凝固ではなく主に乳酸菌による凝固である点で、ヨーグルトである。インド文明圏は中央アジアの牧畜文化との結びつきも強い。日本のヨーグルトに見かけが近いが、比較的硬めに固まっている。 そのまま食べたり、ラーイター(ダヒーをベースにしたサラダの様なもの)を作ったり、ラッシーにして飲んだり、肉や野菜の煮込み料理に加えたりする。 ベンガル語ではドイ (doi)、タミル語ではタイール (thayir)、テルグ語ではペルーグー (perugu) と呼ぶ。
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議員
議員(ぎいん、英: legislator)とは、国や地方自治に設置されている議会を構成し、表決権を行使することを通じて有権者の意思を反映させることのできる立場にある者を指す。 現代の議員の選出は原則として公選制であり、その国の法律で定めるところの選挙権を有する有権者からの投票によって選出される。なお、日本の公職選挙法第10条において、被選挙権は日本国民が有するものと定められている。 国権の最高機関としての国会(議会)あるいはそれに類する組織を設置している国家には、定員こそ違えど議員としての権限を有する者がいることになる。また、その国の地方自治体にも議会が存在し、それを構成する議員達がいる。ほとんどの議会制民主主義国家では、国民による選挙で選出された議員によって議会が構成されている。議会は「国民の代表」である議員によって構成されている事から、国民が政策の決定に直接関与していなくても、国民全てが決定したものと見做される(議会の審議機能)。 議員は「議院自律権」を持ち、議長や事務局の選出、議員の資格争訟・懲罰・会議運営等について議会が自ら行う事とされ、他からの干渉を受けないというもので国権として独立した機関を保っている。 議員は有権者の代表として、予算や法律の制定、政府の監視などの権能を有している。現在ほとんどの議会制民主主義国家では、権力分立の観点から議会と政府との役割は分担され政治権力の分散が図られている。基本的に議会は「議決機関」、政府は「執行機関」と位置づけられ、それにより議員は立法を、政府は行政を司る事とされている。 主な仕事は、自らが所属する議院や委員会において議案の審議に参加し、修正などの作業に関わり最終的に表決することである。また、陳情を聞いたり集会に参加することで選挙民の意見を伺い、国や地方自治体の政策に反映させることである。 国会議員は立法の権限を司っており、国家における最高機関及び法治国家の根幹である法律を制定する議決機関としての役割を担当している。対して地方議会議員は、その地方での条例を制定する権能を有している。 行政に対しては、予算承認権をはじめとした政府に対する監視・監督のための様々な権限を持つ。議会の立法権能に付随したものと言われることもあるが、国政全般について質問するために証人を喚問し、資料を提出させる「国政調査権」は重要な権能である。また、議会が制定する法律が本来的な上位の法であり、政府が定める政令は補完的・従属的である。 司法に対しては、裁判官の選任または在任について何らかの関与をすることが多い。日本では国会において、議員で構成された裁判官弾劾裁判所と裁判官訴追委員会を設置する。 議員の公務遂行においては、資質(立法能力、質問能力)だけではなく、廉直性(汚職に関与しない事など)、さらには私生活上の道徳性についてまで、国民の厳しい監視を受けるに至っている。議員の権限は、行政府の権力集中に対する重要な牽制となっている。 国家の最高議決機関を両院制としている国では、上院と下院に分かれていることが多い。これらに所属している議員をそれぞれ上院議員、下院議員と呼び、英語でもupper house, lower houseなどと呼ばれる。ただし上院や下院はいずれも便宜的な名前であり、正式名が各国で別に存在する。例えば、アメリカ連邦議会のアメリカ合衆国上院は直訳すると「合衆国元老院」であり、アメリカ合衆国下院は「合衆国代議院」である。 世界的な視点で見れば、日本の参議院議員が上院議員に、衆議院議員が下院議員に相当するが、日本の国会議員を指す場合に普通は上院議員、下院議員という言葉は用いない。日本の新聞やニュースではほとんどの国の上下院議員を「アメリカ上院議員」などと国名を付けて呼び、大統領選挙のときなど国名が自明である場合や、複数の議員の名前を挙げるときなど繰り返しになる場合には国名を省略する。 所属する議会の権限によって、議員の権利や権限も大きく変わる。日本でいえば、国会議員には不逮捕特権や免責特権があるが、地方議会議員にはこれがない。
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ヨーグルト
ヨーグルト(トルコ語: yoğurt、ブルガリア語: Кисело мляко、ドイツ語: Joghurt、英語: yoghurt,yogurt)は、乳に乳酸菌や酵母を混ぜて発酵させて作る発酵食品のひとつ。乳原料を搾乳し利用する動物は専用のウシ(乳牛)だけでなく、水牛、山羊、羊、馬、ラクダなどの乳分泌量が比較的多く、搾乳が行いやすい温和な草食動物が利用される。 ヨーグルトに溜まる上澄み液は乳清(英語ではwhey〈ホエイ〉)という。 FAOとWHOによって定められたヨーグルトの厳密な定義によると、「ヨーグルトとは乳及び乳酸菌を原料とし、ブルガリア株(Lactobacillus bulgaricus)とサーモフィルス株(Streptococcus thermophilus)が大量に存在し、その発酵作用で作られた物」と定められている。 日本において乳等省令では「発酵乳」(乳等省令2条39項)のことである。 ヨーグルトの起源はヨーロッパ、アジア、中近東にかけての様々な説があり、およそ7000年前とされる。生乳の入った容器に環境常在菌である乳酸菌が偶然入り込んだのがはじまりと考えられている。 気温の高い地方では、生乳のままだと腐りやすいが、乳酸菌で乳を発酵させると保存性がよくなる。イランなどでは乳を醗酵させた後で乳脂肪分を分離し、バターを得ることも行われていた。 ヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国でさまざまな名称を持つ。欧米や日本において用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yoğurt)」に由来する。ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yoğurmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映している。 イリヤ・メチニコフ(微生物学者:ノーベル生理学・医学賞 1908年受賞)がブルガリア(当時はロシア領だが直前までオスマン帝国領)を訪れた際に、ブルガリア人が長寿で有ることを発見し、その原因を現地の伝統食品であるヨーグルトであるとし、『ヨーグルト不老長寿説』を発表した事によって広まった。なお、日本語のヨーグルトという呼称は直接にはドイツ語のJoghurtを由来とする。 乳酸菌は通常、腸内細菌として棲息しているが、ヨーグルトの乳酸菌は、腸内定着することはできない。ただし、その代謝物などが腸内のウェルシュ菌(Clostridium)などを減少させ、Bifidobactoriumなどの在来乳酸菌を増殖させるという整腸作用をもつ。結果として、腸内細菌叢中のウェルシュ菌などの比率の低下と産生される物質を減少させ、腸管免疫系を活性化させるとされている。乳酸菌の耐酸性には差違がありヨーグルトでよく利用されている「ブルガリア株」は胃酸で不活化(死滅)する。また、生存し胃を通過したとしても小腸内で胆汁酸により不活化(死滅)するため大腸内に定着はしないが、その菌体や代謝産物が腸内で有効に働くとされる。一方、ビフィズス菌もヨーグルトで利用されるが、胃酸、胆汁酸で不活化(死滅)せず、大腸内で定着する性質を有する。定常的に摂食することで乳清由来乳酸による腸内環境が弱酸性(pH5.3から)化し、糞便菌叢の胆汁酸(弱アルカリ:pH8.2から)に耐性があるクロストリジウム属(Clostridium)株の生育を減少させ、腐敗産物(アンモニア、フェノール、p-クレゾール、インドール、スカトールなど)生成量を低減させると報告されているが、詳細メカニズムは解明されていない。 「免疫力を高める」「アレルギーが治る」などの宣伝文句が使われるが、ヒトを対象にした臨床試験では支持する結果が得られていないとする指摘もある。 乳中の水溶性ビタミンは乳源動物の血中濃度にほぼ依存し変化するが、牛乳にビタミンCがほとんど含まれていないのは、ウシなどの動物は自らビタミンCを合成できるので摂取する必要がないためである。乳酸菌は発酵の際にビタミンCも生成し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる。このため、ヨーグルトには若干のビタミンCが含まれている。 ヨーグルトが形成される過程で、乳酸菌の働きによりラクトースの一部がグルコースとガラクトースに分解されるため、乳糖不耐症の牛乳を飲むと下痢をしてしまう人がヨーグルトと共に牛乳を飲んだ場合、牛乳だけよりも症状が軽減されるとの研究がある。 発酵行程において乳酸菌のL.bulgaricusとS.thermophilusは共生関係にあると報告されている。これは、それぞれの菌単独で発酵させた場合よりも数分の1の短時間で発酵が進むことで分かる。この菌は長期間の共生により、代謝物を相互に利用しあたかも1つの菌のように振る舞う。その結果、ゲノムサイズが縮小するという進化を起こしている。 単体で種菌を入手し牛乳と混ぜることで作ることもできるが、市販されているプレーン・ヨーグルトに含まれる乳酸菌を使って作ることもできる。したがって、出来の良いヨーグルトを種として取っておき、それを使うこともできる。ただし、雑菌の混入を完全に阻止出来ない一般家庭において植え継ぎ(残ったヨーグルトを続けて種菌として使用し続ける)を行った場合、環境中に常在している乳酸菌が混入し増殖するほか、乳酸菌以外の雑菌として大腸菌(Escherichia coli), Klebsiella aerogenes, Citrobacter freundiiなども増殖する可能性があるが、雑菌の混入は外見からは判断できないとする見解がある。 基本的な作り方は以下のとおりである。ヨーグルトメーカーを使うと作りやすい。 ブルガリアでは伝統的なヨーグルトはセイヨウサンシュユなどの葉の朝露にいる乳酸菌から作られているが、日本にもあるサンシュユの木の枝を使ってもヨーグルト状のものを作ることができる(ただし、安全かは不明)。 近代的な製法では、温度調整済と殺菌済み原料乳と副原料(脱脂粉乳やバターなど)に培養した種菌(乳酸菌スターター)を加え、40°Cから45°Cの環境下に一定時間置くことで生産される。プレーンヨーグルトでは一定の状態に達した物を、冷却により発酵を停止しさせ容器への充填を行う。あるいは、加熱殺菌を行い加糖ヨーグルトや果実加工品、低カロリー甘味料などを添加した製品が大量生産される。なお、種菌(菌株)の組合せ、発酵温度、発酵時間、酸素濃度などの調整により異なった特徴を与えることが可能である。 ヨーグルトが固まる原理は、乳内の糖を乳酸菌が分解し作り出した乳酸によって、乳が酸性に傾くことで乳内のカゼインが固まることによる。pH4.6(等電点)を超えた当たりから凝固し始める。乳酸菌は酸に対してある程度の耐性を持つため、他の酸に弱い雑菌(ブドウ球菌や一部の大腸菌)の増殖を抑えて増殖する。 地域毎に原料乳や製法が異なるため、様々な特徴をもつヨーグルトが存在している。 カルグルトは、皇室で食されるヨーグルトで、発酵には皇室専用の菌を使い、牛乳はジャージー種とホルスタイン種の低温殺菌牛乳をミックスさせて作られ、水で割って飲まれている。 欧米や東アジアではデザートとして食べることが多いが、南アジア、中央アジア、カフカース、中東では塩味の料理に頻繁に用いられる。煮込み料理に加えたり、野菜と和えるほか、タンドリーチキンのマリネやケバブのソースにも使われる。 世界各地には、インドのラッシーやトルコのアイランなど様々なヨーグルト飲料が存在する。欧米ではスムージーに加えたり、氷菓(フローズンヨーグルト)の素材とすることもある。 イランの「カシュク(Kashk)」、アフガニスタンの「クルート(Qurūt)」、アラブ人の「ラバナ(Labanah)」など、ヨーグルトを脱水加工した保存食品もある。 日本国内では明治20年代、ヨーグルトは「凝乳」の呼び名で牛乳の残りを利用した整腸剤として販売されており、名のあるものでは1912年、東京の阪川牛乳店により「ケフィール」という滋養食品が開発されている。そして1915年、広島市のチチヤス乳業がヨーグルトの名称で販売をおこなったが、工業生産され一般に普及したのは戦後であり、1950年に明治乳業から発売された「ハネーヨーグルト」(瓶入り)が知名度を大いに高めた。 ヨーグルトは、発売開始当初は牛乳瓶と同じ瓶に入れられて販売されていたが、消費者の目には「腐ったミルク」「固まったミルク」と見られてしまい、販売業者にクレームが出たことから、牛乳との誤解を避けるため、前述の「ハネーヨーグルト」を経て1975年以降は、徐々に紙容器等を経て現在の形状のテトラパックやプラスチック容器に入れて販売されるようになっていった。 初期のヨーグルトは寒天やゼラチンで固められガラス瓶に充填されたハードタイプで、プレーンタイプの普及は特有の酸味と香りにより普及が進まず、受け入れられるまで期間が必要であった。 なお、日本の明治乳業は、イリヤ・メチニコフの誕生日の5月15日を「ヨーグルトの日」と制定している。 日本のトップブランドである明治ブルガリアヨーグルトは、ブルガリアのヨーグルトよりも酸味が抑えめで甘いとの意見がある。 市販のヨーグルトは以下の種類に分けられる。 製法では容器に充填してから発酵させるハードタイプなヨーグルトとなる後発酵と、タンク内で発酵させたのちに容器に充填するソフトタイプなヨーグルトとなる前発酵がある。 2012年現在は、大型(400 - 500グラム前後)のプレーンタイプのものと、70 - 100グラム前後の個食用プラスチック容器に入った加糖・味付きタイプの2種類が主に流通している他、150 - 200グラムのタイプのものも。また、一部には往年の「ハネーヨーグルト」のようなガラス瓶(大雑把には牛乳瓶を太くして口を広げ、高さを縮めた形のもの)など様々な形状で販売されている。
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7,343
マンゴー
マンゴー(檬果・芒果、英: Mango、学名: Mangifera indica)は、ウルシ科マンゴー属の果樹、またその果実。別名で、菴羅(あんら)、菴摩羅(あんまら)ともいう。マンゴーの栽培は古く、紀元前のインドで始まっており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教では、マンゴーは万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身とされている。 リンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物の一つである。 日本語のマンゴーは、英語の mango から、さらには、ポルトガル語の manga、マレー語(現代マレーシア語・インドネシア語でも同じ)の mangga、タミル語の மாங்காய் (māṅkāy マーンカーイ) から伝わった。 漢字表記の「芒果(現代中国語でmangguo)」は、マレー語の mangga もしくは他の東南アジアの言語からの直接の音写である。 仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、サンスクリットの āmra(アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科のアムラタマゴノキ (Spondias pinnata) を意味する amra(アムラ)との混同が見られる。 原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されている。そのうち、単胚性(一つの種から一個体繁殖する)の種類はインドのアッサム地方からチッタゴン高原(ミャンマー国境付近)辺りと考えられ、多胚性(一つの種から複数の個体が繁殖する)の種類はマレー半島辺りと考えられている。インドでは4000年以上前から栽培が始まっており、仏教の経典にもその名が見られる。現在では500以上の品種が栽培されている。インド・メキシコ・フィリピン・タイ・オーストラリア・台湾が主な生産国で、日本では沖縄県・宮崎県・鹿児島県・和歌山県・熊本県で主にハウス栽培されている。 マンゴーの木は常緑高木で、樹高は40メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により差がある。枝の先端に萌黄色の複総状花序を多数付ける。花は総状花序と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助けるクロバエ科などのハエを引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、ミツバチにとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている(日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている)。果実は系統によって長さ3-25センチ、幅1.5-15センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。果皮は緑色から黄色、桃紅色などと変異に富むが、果肉は黄橙色をしていて多汁。果皮は強靱(きょうじん)でやや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟すると濃厚な甘みを帯び、松脂に喩えられる独得の芳香を放つ。 マンゴーはウルシオールに似た「マンゴール」という接触性皮膚炎(かゆみ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため注意が必要である。痒みを伴う湿疹などのかぶれ症状は食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある。 熟した実を中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、ジュース・ラッシー・ピューレ・缶詰・ドライフルーツなどにも加工される。香港では果肉またはピューレにゼラチン・砂糖・生クリームなど、ほかの材料を合わせたマンゴープリンが有名である。そのほか、ムース・ケーキ・シャーベット・スムージー・グミなどの洋生菓子も盛んに作られている。また、未熟果を塩漬け・甘酢漬け・チャツネにする。東南アジアでは未熟果に唐辛子入りの砂糖塩につけて食したり、炒め物などの料理に使用したりする。 栄養面では、特にカロテンが豊富で、ビタミンAやビタミンCが多く、抗酸化作用が効果が期待できる。また葉酸も含まれ、貧血や口内炎予防もなる。 地域によってはパパイヤのようにマンゴーの未熟果実を野菜として、おやつとして食する文化が一般的である。タイとベトナムでは緑色の未熟果実が庶民のおやつとして食べられている。これには塩をつけて食べる。ほとんど甘みはなく、未熟な果実の鮮烈な酸味と歯ごたえを楽しむ。台湾では小ぶりのマンゴーの未熟果実を丸ごとシロップ漬けにしたおやつが食べられている。インドではマンゴーの未熟果実を乾燥させ粉末にしたものはアムチュール(en)と呼ばれ、酸味付けのスパイスとして使用される。ガラムマサラにアムチュールを加えた複合スパイスはチャットマサラと呼ばれ、インド料理では広く使用される。 インドは世界最大のマンゴー生産国。年間収穫量は約160万トンで、世界各国に輸出する。4000年以上前から栽培が始まっており、現在では500以上の品種が栽培されている。マンゴーの王と呼ばれるアルフォンソ・マンゴーは、3月から5月にかけて実り始め7月頃に終わる。甘く特有の香りがある。雨期の数ヵ月前に数日間雨が降り、その雨により一気に熟する。この雨をマンゴー・レインと呼び、デカン高原では4月中旬から5月初旬に降る。雨期が始まる6月中旬で、アルフォンソ・マンゴーの季節は終わる。デーヴガル産のアルフォンソ・マンゴーが最高だと言われ、実が大きく味が濃い。2006年より条件付で日本への輸入が解禁された。現在輸入できる品種はアルフォンソ種・ケサー種・チョウサ種・バンガンパリ種・マリカ種・ラングラ種である。なおベンガル地方で古くからマンゴーの葉のみを食べさせた牛の尿から黄色顔料インディアンイエローを製造していたが、牛が飢餓状態になるため動物虐待として1908年に取引が禁止された。 日本では露地栽培により果実を実らせることが難しいため、農家ではビニールハウス栽培を採用している。ハウス栽培を行う目的は高い気温の確保ではなく、マンゴーの開花時期が日本の雨季と重なるため、水に弱いマンゴーの花粉を雨から守ることで受粉をさせ、結実させるためである。 日本では植物防疫法によって、侵入を警戒する農業大害虫のミバエ類が発生している国・地域からのマンゴーの生果実の輸入は原則として禁止されている。しかし、輸出国において果実に寄生する対象ミバエ類の完全殺虫処理技術等が確立されれば、各国より申請された品種について日本側(農林水産省)が検討し、問題無いとの結論に至ったものは殺虫処理などの条件を付して日本への輸入が認可されるようになった。殺虫処理技術には飽和水蒸気による果実の加熱処理である蒸熱処理や温水に果実を漬ける温湯浸漬という工程が用いられることが多い。これら条件付き輸入解禁により、1990年代後半ごろから全国のスーパーなどの小売店でフィリピン産などのマンゴー果実が安価で売られ、また菓子などの加工物の原材料としても幅広く用いられるようになり、一気に代表的な熱帯産果物の一種として日本の社会に浸透した。 日本では写真の花切りがマンゴーの切り方として定着している。切り方は中央の平たい種をさけ、実の幅が狭い方を縦にし、魚を3枚におろすように縦から包丁を入れて3枚に切る。皮を切らないように、果肉の切った面にさいの目状に切り目を入れる。そして両手で皮側を押し上げて果肉を反り返すと花のような形になる。 日本国内ではおよそ3000トンのマンゴーが生産されており、品種はほぼ全てがアーウィン種となる。また、国内の生産量の上位は沖縄県、宮崎県、鹿児島県の順となっている。 通常のマンゴーは完熟する前に収穫されているため、通常は追熟と呼ばれる経過を経て食されるが、宮崎県にて栽培されるマンゴーは全てが樹上にて完熟し、自然に落果したものを「完熟マンゴー」として出荷している。通常のマンゴーに比べ非常に甘く柔らかいことが特徴。通常のマンゴーはハウス栽培にて年中収穫されるが、宮崎県産の完熟マンゴーは4月中旬から7月頃までしか出荷されていない。出荷段階で完熟しているため、常温では数日、冷蔵でも1週間程度しか保存ができず、また樹上から自然落果するタイミングも測れないため出荷が不安定となり、他県のマンゴーに比べて高額で取引される。 また収穫された完熟マンゴーの中でも厳しい基準をクリアしたもののみ「太陽のタマゴ」のブランドを名乗ることが許され、解禁日の初競りでは2玉で50万円の値を付けた例もあり、非常に高額な値段で取引が行われている。太陽のタマゴも出荷自体は4月後半から行われているが、旬は糖度が増す6月~7月となる。完熟マンゴーの内、太陽のタマゴが占める割合は多い年でも2割以下となる。 マンゴーはタイ語でマムアンといい、タイでの旬は4月から7月である。もち米とともに調理したカオニャオマムアンはタイの名物料理である。またマムアンクアンという菓子も存在する。 タイでは60種類以上の品種が栽培されているが、条件付で日本への輸入が解禁されたのが1987年で、日本へ輸入できるマンゴーの生果実は、植物防疫法施行規則による植物検疫が受けられるキオウサウェイ種、チョークアナン種、ナンカンワン種、ナンドクマイ種(泰: นํา้ดอกไม้)、ピムセンダン種、マハチャノ種及びラッド種の計7種類である。外国産のマンゴーではメキシコ、フィリピンについで3番目の輸入量である。 日本人には糖度の高さと肌理細かな食感が特徴のナムドクマイ種が最も好まれ、日本に輸入されているタイ産マンゴーのほとんどを占めている。ナムドクマイとはタイ語で「花のしずく」という意味で、しずく状のマンゴーの形が名前の由来である。 台湾語で「ソァイアー」(檨仔)と呼ばれる。
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コイ目
コイ目(コイもく、Cypriniformes、Carp)は、硬骨魚類の分類群の一つ。6科で構成され、コイ・フナ・タナゴ・ドジョウなどの淡水魚を中心に、およそ4,000種が所属する大きなグループである。中でもコイ科は世界で約3,000種が知られ、魚類で最大の科を構成する。食用あるいは観賞魚として利用される種類も数多く、人間にとっても馴染み深い分類群となっている。 本稿では分類群としてのコイ目の構成、およびコイ類全般の特徴について記述する。日本を含む世界各地に分布するコイ科魚類の1種、コイ(Cyprinus carpio)および関連する文化については、コイの項目を参照のこと。 コイ目には2006年の時点で3,200を超える種が記載され、魚類の目の中ではスズキ目(約1万種)に次いで2番目に大きな一群となっている。現生の魚類2万8,000種の1割以上、淡水産種(約1万2,400種)に限れば四分の一以上がコイ目の仲間で占められる。1994年の時点(約2,600種)から10年余りの間に新たに600種以上が新種記載されるなど、分類の拡大傾向が続いている。 所属する魚類はほぼすべてが淡水魚で、熱帯から寒帯にかけての河川や湖沼、さらには山岳地帯の渓流に至るまで、その生息域は幅広い。ユーラシア大陸・北アメリカ大陸・アフリカ大陸および周辺の島嶼地域を中心に繁栄する一方、南アメリカ大陸には分布しない。強酸性の湖にも生息できるウグイなど、水質の悪い環境への適応もしばしば認められる。成魚の大きさは1cm程度の超小型種から3mに達するものまでおり、体色・食性・繁殖形態なども多種多彩である。 コイ目魚類に共通する重要な特徴として、咽頭歯の存在がある。本目の魚は口の中に歯(顎歯および口蓋歯)をもたず、喉の部分に咽頭歯と呼ばれる歯が発達している。咽頭歯は大きく発達した咽頭骨に形成される。咽頭歯の本数や配列、成長段階での形成過程は詳細に調べられており、特にコイ科では重要な分類形質として利用されている。 多くの種類は口ヒゲをもち、上顎を突き出すことができる。頭部には鱗がない。鰭は棘条をもたず軟条のみからなるが、一部の種類の背鰭には棘条に似た頑丈な鰭条がみられる。背鰭は1つだけで、ドジョウ科の一部を除いて脂鰭を欠く。口蓋骨は内翼状骨と接続する。下咽頭骨に形成された咽頭歯は、パッド状に拡張した基後頭骨突起とかみ合い、飲み込んだ餌はこの部分ですりつぶされる。 コイ目はカラシン目やナマズ目などとともに骨鰾上目と呼ばれるグループに属し、この仲間に共通する特徴としてウェーベル氏器官(ウェーバー器官とも)と呼ばれる独特の構造を有している。ウェーベル氏器官は変形した4つの脊椎骨によって構成され、内耳と浮き袋を連絡し、脳に音を伝える機能をもつ。 コイ目は2上科6科で構成される。コイ目は同じ骨鰾上目のネズミギス目・カラシン目・ナマズ目・デンキウナギ目と近縁である。近年、アメリカ国立科学財団(NSF)によってコイ目の詳細な系統解析プロジェクト(Cypriniformes Tree of Life、CToL)が進められるなど、本目の生物多様性を解明するための努力が続けられている。 コイ科 Cyprinidae は約3000種を含み、淡水魚として最大の科となっている。メキシコ南部までの北アメリカ、アフリカおよびユーラシア大陸に分布する。ほぼすべてが淡水産であるが、ごく一部に汽水域に進出する種類が知られる。多数の水産重要種を含み、アクアリウムなどで飼育される観賞魚も多い。ゼブラフィッシュ(Danio rerio)など、一部の魚種は生物学における重要なモデル動物として利用されている。本科に所属するパーカーホは、コイ目中の最大種で3mに及ぶこともあるが、一般的なコイ科魚類は体長5cm未満である。咽頭歯は1-3列で、各列とも8本を超えることはない。多くの種類では唇は薄く、ひだや突起はない。上顎はほぼ完全に前上顎骨のみによって縁取られ、前に突き出すことが可能である。コイ科魚類の最古の化石は、アジアにおける始新世の地層から産出する。 次の亜科と、所属未定のいくつかの属がある。 ドジョウ上科 Cobitoidea は4科99属842種で構成される。フクドジョウの仲間はかつてドジョウ科に所属していたが、現在ではタニノボリ科に移されている。間在骨(opisthotic)を欠き、眼窩蝶形骨が上篩骨・篩骨複合体と接続するなどの特徴がある。 ギュリノケイルス科 Gyrinocheilidae は1属3種からなり、東南アジア山岳地帯の渓流に分布する。いずれも藻類のみを摂食し、観賞魚として人気のある種類である。 咽頭歯および口ヒゲをもたない。口は下向きで吸盤状に変化しており、岩などに張り付くことで急流をやり過ごす。鰓の開口部は小さく、2列のスリット状になっている。 サッカー科(ヌメリゴイ科) Catostomidae には4亜科13属72種が属する。ほとんどの種は北米に分布するが、Catostomus catostomus はシベリア、イェンツーユイは中国にも分布する。体長1mに達する大型種を含む。ほとんどの種類は底生魚で、口は下向きについていることが多い。始新世から漸新世にかけて化石属が知られている。咽頭歯は1列16本以上。唇は厚く肉質で、ひだや突起をもつものが多い。上顎は前上顎骨と主上顎骨によって縁取られる。 ドジョウ科 Cobitidae は2亜科26属177種で構成され、ドジョウ・シマドジョウなどが所属する。日本を含めたユーラシア地域およびモロッコに分布し、特に南アジアで多様な種分化が認められる。底生性で、体長は最大種で40cmほどになる。Pangio 属(クーリーローチ)や Botia 属(クラウンローチ)など、観賞魚として知られる仲間も多い。本科は Cobitididae と綴られることもあるが、現在ではこのアルファベット表記は受けいれられていない。 体は細長いか、あるいは紡錘形。口はやや下向きで、3-6対の口ヒゲをもつ。眼の下にトゲ状の突起をもつ。咽頭歯は一列。 タニノボリ科 Balitoridae は2亜科59属590種で構成され、ユーラシア地域に広く分布する。フクドジョウ亜科はかつてドジョウ科に含められていたが、ウェーベル氏器官の形態上の特徴から、現在ではタニノボリ亜科と併せて単系統群を構成するとみられている。590という種数は概算値であり、有効魚種の全体的な再検討が望まれている。新種の記載も近年相次いでおり、多くの未発見種が存在すると考えられている。
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カダヤシ目
カダヤシ目(英: Cyprinodontiformes)は、硬骨魚類の分類群の一つ。キプリノドン目あるいはキュプリノドン目とも呼ばれる。2亜目10 科109属で構成され、カダヤシ・グッピー・ソードテールなど小型の熱帯魚を中心に1,013種が所属する。 本目はかつてメダカ目と呼ばれていたが、メダカ科がダツ目に移動されたため、呼称がカダヤシ目に変更されたという経緯がある。 カダヤシ目に所属する1,013種の魚類のうち、996種は淡水魚である。南北アメリカ大陸とアフリカ大陸の河川・湖沼に分布する仲間がほとんどで、ごく一部がヨーロッパの地中海沿岸やアジアの淡水域に産する。日本には在来のカダヤシ目魚類はいないが、カダヤシ(Gambusia affinis)およびグッピー(Poecilia reticulata)が移入種として全国各地に定着している。 体色の性的二形が顕著なグループで、多くの場合雄は雌よりも鮮やかな色彩をもつ。観賞魚やモデル生物として利用される種類も多く、世界各地の水族館や個人のアクアリウムで飼育対象とされるほか、生物学の研究材料として長年にわたり貢献した歴史をもつ。本目の魚類は発生の機構や成長の過程が多様性に富んでおり、卵の大きさは0.3-3mmまで幅広く、胚発生の期間は1週間程度から1年を超える種までさまざまである。 本目にはカダヤシ科・ヨツメウオ科など、体内受精による繁殖をおこなう卵胎生の魚類が多数所属する。雄は臀鰭の鰭条が変形した交接器をもち、雌との交尾に使用する。卵は雌の体内で孵化し、仔魚が産出される。 トウゴロウイワシ目・ダツ目と近縁で、カダヤシ目を含めた3グループの間で分類体系の変遷を多く重ねてきた。主に骨格上の特徴に基づき、現在のカダヤシ目の単系統性は支持されている。尾鰭の骨格は対称性をもち、後縁は平坦あるいは丸みを帯び二又に分かれることはない。第一後擬鎖骨は鱗のような形態をしている。腹鰭は通常腹部にあり、もたないものもいる。ダツ目とは異なり、上顎を突き出すことができる。鋤骨・上擬鎖骨をもち、外翼状骨・後翼状骨(頭部を構成する骨の一つ)を欠くことが多い。 カダヤシ目はアプロケイルス亜目・カダヤシ亜目の2亜目からなり、10科109属1,013種で構成される。 本目の分類は1960年代にGreenwoodらによって構成された体系を長く基本とし、当時は「キプリノドン科」に多数のグループが一つにまとめられていた。1980年代初頭にParentiがこの「キプリノドン科」が単系統群ではないことを明らかにし、複数の科を分割することによって現在の分類体系の基礎が作られている。 アプロケイルス亜目 Aplocheiloidei は3科36属493種で構成される。鮮やかな色彩をもつ種類が多く、観賞魚として人気の高い一群である。左右の腹鰭の基部は互いに近い位置にある。3個の基鰓骨をもち、臀鰭に対する背鰭の位置は前後さまざま。 本亜目には「年魚」と呼ばれる一群が含まれる。年魚は雨季に形成された一時的な池沼に産卵する。卵は乾燥に耐える厚い絨毛膜をもち、休眠によって乾季を乗り越える。通常は次の雨季に孵化するが、1年以上卵のままでいる場合もある。こうした年魚の生活史は分類上の系統を反映しているわけではなく、独立に獲得される様式であることが示されている。 アプロケイルス科 Aplocheilidae は2属7種からなり、マダガスカル・セーシェルなどアフリカ東部の島嶼地域、およびインド亜大陸から東南アジアにかけて分布する。雌の背鰭には黒い斑点がある。 かつてアプロケイルス亜目の魚類は、すべて本科にまとめられていた。現在ではアフリカ大陸に分布するグループをノソブランキウス科、新世界に住む一群をリウルス科として分離し、本科にはアフリカ島嶼地域とアジアに生息する少数のグループが含められている。 ノソブランキウス科 Nothobranchiidae 科 には6属250種が所属し、サハラ砂漠南部から南アフリカにかけてのアフリカ大陸に分布する。雄には3本の赤縞が斜めに走行する。 リウルス科 Rivulidae は28属236種を含み、フロリダ半島南部から中央アメリカ、アルゼンチン北東部にかけて分布する。多くは全長8cm未満、最大種でも20cmほどの小型魚類で、3cmに満たない超小型種も含まれる。多数の未記載種が知られ、分類は今後も拡大するものとみられる。上擬鎖骨は後側頭骨と癒合せず、第一後擬鎖骨を欠く。一部に腹鰭を欠く種類がある。 フロリダ半島と西インド諸島に分布するマングローブ・リウルス(Kryptolebias marmoratus、以前は Rivulus 属に所属)および同属の仲間は、正常に機能する卵巣と精巣を同時に有するという、魚類あるいは全ての脊椎動物の中でも際立った特徴を有している。一匹の個体の中で体内受精が完了し、受精卵を産むことができる。本属を独立の Kryptolebiatinae 亜科、残るすべての属をリウルス亜科 Rivulinae として細分類する見解もある。 キプリノドン亜目 Cyprinodontoidei は4上科7科73属520種で構成される。腹鰭の基部は近接せず、基鰓骨は2個。 フンドゥルス上科 Funduloidea は3科23属85種からなる。プロフンドゥルス科とグデア科は姉妹群の関係にあるとみられている。 プロフンドゥルス科 Profundulidae は1属5種を含み、中央アメリカの淡水域に分布する。体外受精により繁殖する。 グーデア科 Goodeidae は2亜科18属40種で構成され、北アメリカ(米国ネバダ州からメキシコ中西部)に分布する。 フンドゥルス科 Fundulidae は4属50種からなり、カナダ南東部からユカタン半島にかけての低地に分布する。本科の仲間の多くは顕著な広塩性を示し、生息域は淡水域から塩分濃度の高い沿岸海域まで広範囲に及ぶ。背鰭の起始部は臀鰭の真上か、やや前にある。 ヴァレンキア上科 Valencioidea は1科1属2種で構成される。いずれも卵生の魚類である。 ヴァレンキア科 Valenciidae は1属2種からなり、スペイン南東部・イタリア・ギリシャ西部に分布する。主上顎骨に細長い突起がある。本科の魚類は地中海周辺の淡水域に分布する。 キプリノドン上科 Cyprinodontoidea は1科9属104種を含む。カダヤシ上科と姉妹群を構成すると考えられている。 キプリノドン科 Cyprinodontidae は2亜科9属104種で構成される。アメリカ合衆国・中央アメリカ・南アメリカと、アフリカ北部・地中海沿岸地域に分布する。背鰭の起始部は臀鰭よりも後方にある。体長8cm未満の小型魚類で、卵生。 カダヤシ上科 Poecilioidea は2科40属319種で構成される。 ヨツメウオ科 Anablepidae は2亜科3属15種を含み、メキシコ南部から南アメリカにかけて分布する。上耳骨・上後頭骨は頑健。腹鰭は胸鰭の後端よりも後ろに位置する。背鰭の起始部は臀鰭よりも後方にある。 カダヤシ科 Poeciliidae は3亜科37属304種で構成され、アメリカ東部から南アメリカ、およびアフリカの低地に分布する。交接器の有無はさまざま。胸鰭の位置は高い。本科内部の構成は、Ghedotti(2000)の見解に基づいた変更が近年加えられている。
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スズキ亜目
スズキ亜目(学名:Percoidei)は、スズキ目に所属する魚類の分類群の一つ。魚類で最多の約10,000種を抱えるスズキ目の中でも最大のグループで、3上科79科の下に少なくとも549属3,176種が含まれる。 スズキ亜目はスズキ目に所属する20亜目の中で最も大きな一群であり、スズキ目全体の3割以上の魚類が記載される。スズキ目に含まれる160科のうち、約半数に当たる79科が本亜目に所属する。3上科に細分されるが、アカタチ上科(Cepoloidea)はアカタチ科のみ、Cirrhitoidea 上科はタカノハダイ科・ゴンベ科など5科だけを含み、残る73科はすべてスズキ上科(Percoidea)に分類される。 最も多くの魚種を含むのはハタ科(450種超)で、テンジクダイ科(約270種)がこれに続き、以下ニベ科・ペルカ科・イサキ科・アジ科・チョウチョウウオ科・メギス科・タイ科・フエダイ科の順に大きなグループとなっている。これらの上位10科はいずれも100種以上を含み、合計1,965種はスズキ亜目全体の62%を占める。その一方で26科は1属のみで構成され、そのうちスギ科・ギンカガミ科などの10科は、1属1種の単型となっている。 スズキ亜目の魚類はその多くが海水魚で、純粋な淡水魚はおよそ380種(全体の1割強)に過ぎず、その半数はペルカ科に所属する。 スズキ亜目の魚類は形態の多様性が著しく、すべてのグループに共通する点を示すことはできない。原棘鰭上目や骨鰾上目など、下位の真骨類と比較した場合には、概ね以下の表に示すような形態学的特徴を挙げることができる。これらの特徴の多くは、棘鰭上目の他のグループにも共通するもので、本亜目に限られた形質ではない。また、あくまでも一般的な傾向であり、例外も多数存在する。 スズキ目をいくつかの目に細分する分類法もあり、その場合にはここに挙げたスズキ亜目か、それに近い形のものが「スズキ目」となる。「スズキ類」という表現も使われるが、これはスズキ属・スズキ科・スズキ亜目、あるいはスズキ目全般と、様々な範囲に対して用いられる。 本稿では、Nelson(2006)によりまとめられたスズキ亜目の体系を扱う。スズキ亜目の分類基準となる形質には二次的な変異や退化が多く入り混じり、下位分類は不確定なものが多い。それぞれの科をどの亜目に含めるか、またスズキ亜目内部における科同士の分離・統合が盛んに検討されており、以下に示す体系は暫定的なものに過ぎない。 スズキ上科 Percoidea は73科524属3,084種で構成される。 Cirrhitoidea 上科は5科21属73種で構成される。 アカタチ上科 Cepoloidea にはアカタチ科のみ、1科4属19種が所属する。
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